萬葉集總釋 第二、樂浪書院、290頁、1935.11.5
                   同卷後半卷四は石井庄司担当、著作権有り
 
(3)卷第三概説      吉澤義則
 
 此の卷は、雜歌、譬喩歌、挽歌の三部にわかたれ、其の部立に於いては、後の七の卷のそれに似てゐる。卷一が雜歌のみで、卷二が相聞及び挽歌から成つてゐるのに比較すると此の卷は兩卷の部立を一の卷に併せ有してゐる譯である。譬喩歌は文字の如く物に譬へて思を述べるものであるが、此の卷の二十餘首の歌は凡て戀情を託したものであり、相聞の一種と見る事が出來る。
 雜歌は國歌大觀の番號で云へば、二三五から三八九までの百五十五首、内長歌十四首、短歌百四十四首であるが、或本歌云「天降就く神の香山打靡く春去り來れば……」(二六〇)とある長歌は、其の前の鴨君足人香具山歌一首「天降付く天の芳來山霞立つ春に至れば……」(二五七)とあるものゝ異傳と見られ、或本歌一首「三吉野の御舟の山に立つ雲の常に在らむと我が思はなくに」(二四四)の短歌は、其の前一つ隔てゝ、弓削皇子遊吉野時御歌一首とある「瀧の上の三船の山に居る雲の常に在らむと我が念はなくに」(二四二)の異傳と見られ、「雎鳩ゐる荒磯に生ふる名乘藻の名のりは告らせ(4)親は知るとも」(三六三)はその前の「雎鳩ゐる磯回に生ふる名乘藻の名は告らしてよ親は知るとも」(三六二)の異傳と見られる。其の他に「皇は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも」(二三五)「王は神にしませば雲がくる雷山に宮敷きいます」と「飼飯の海のにはよくあらし苅薦の亂れ出づ見ゆ海人の釣船」(二五六)「武庫の海のにはよくあらし漁する海人の釣船浪の上ゆ見ゆ」の異傳があるから、結局長歌は十三首、短歌は百四十首收められてゐることになる。一體、短歌は可成り多くの異傳を持つてゐる。即ち二三五左、二五〇下、二五二下、二五六左、三五六下等には數句の異傳を註し、二五三下、二五五下、三〇七下等には夫々結句の異傳を擧げてゐる。其の中、二五〇下註は十五の卷の三六〇六に、二五二下註は三六〇七に、二五五下註は三六〇八に、二五六左註は三六〇九に一致するもので、此の事は卷三・卷十五兩卷の編纂事情に關係を持つが、多分十五の卷の底本となつた本は三の卷の參考本であつた事に因るのであらう。二八五下、四五〇下にも一句を註記してゐる。これらを結句の異傳とせず、寧ろ此の句を第六句として、一首全體を佛足石歌體のものと見ようとする人もある。譬喩歌は三九〇から四一四までの二十五首、凡て短歌であつて、異傳と見るべきものはない。挽歌は四一五から四八三即ち最後の歌までの六十九首、其の中長歌九首、短歌六十首。長歌では四二三の所々に、或は四三四、四五〇の下に異傳と見るべき句を擧げてゐるが、右のうち(5)四五〇の「見毛左可受伎濃」を、上五句と合して佛足石歌體のものと見る人もある。以上雜歌、譬喩歌、挽歌を合して長歌二十二首、短歌二百二十五首、合計二百四十七首となる。
 作者の明かなもの七十余名、他に人麿歌集、虫麿歌集、金村歌集から採録したものが一首づゝ、作者未詳の歌は十首にも足りない。卷一、卷二兩卷に比して皇族の作が少くなり、今迄名の見えなかつた山部赤人、大伴旅人、大伴家持其の他大伴家關係の人々の名が多く見えてゐるが、全體から云へば第二期、第三期に屬する作家の作が八割を占め、人麿の長歌二首、短歌二十首、(或云人麿作と註した長歌一首)、高市連黒人の短歌十二首、旅人の長歌一首、短歌二十八首、家持の長歌三首、短歌十八首等が多い方で、其の中旅人の歌が最も多く採られてゐる。女流作家としては、持統天皇を始め奉つて十名ばかり數へる事が出來るが、其の作は尠く大伴坂上郎女の長歌二首、短歌四首、手持女王の短歌三首等を多しとするに過ぎない。歌の時代から云へば雜歌は持統天皇の御作と見られる「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも」(二三五)に始まり、若宮年魚麻呂の誦する所と註した「島傳ひ敏馬の埼を榜ぎ廻めば大和戀しく鶴さはに鳴く」(三八九)の反歌に終つてゐるが、其の少し前に坂上郎女の天平五年十一月の歌があり、その後に同年頃の作と見られる赤人の歌があるので、此の反歌は長歌と共に、略々其れと同じ頃に採録せられたと思はれる。さうすれば持統天(6)皇の御代から天平初期に亙つてゐる譯で、其の間に百五十餘首の歌が略々年月のとぎれなく時代を追うて配列せられてゐるのである。然し曾つて澤瀉久孝氏が指摘せられたやうに、幾分の時代の先後はあるやうである。例へば「ここにして家やも何處白雲の棚引く山を越えて來にけり」(二八七)は、一説に云ふやうに大寶二年參河行幸の折のものでなく、養老元年美濃行幸の際の歌であるが、田口益人大夫任2上野國司1時至2駿河淨見埼1作歌、「庵原の清見が崎の三保の浦のゆたけき見つゝ物思ひもなし」(二九六)「晝見れど飽かぬ田兒の浦大君の命かしこみ夜見つるかも」(二九七)の二首は、田口益人が上野國司に任ぜられたのが續紀に依れば和銅元年の事であるから、二八七の歌よりは却て古い譯である。又式部卿藤原宇合卿被v使v改2造難波堵1之時作歌「昔こそ難波田舍と云はれけめ今は京ひき都びにけり」(三一二)は、作者藤原宇合が改造難波宮事に任ぜられたのが神龜三年十月であるから、如何に古くても神龜三年以前には遡れないが、二つ隔てゝ次の暮春之月幸2芳野離宮1時中納言大伴卿奉v勅作歌一首、「み吉野の芳野の宮は山からし貴かるらし…」(三一五)并に短歌「昔見し象の小河を今見ればいよゝ清けく成りにけるかも」(三一六)は續紀に依つて神龜元年吉野行幸の折の歌と推定せられ、こゝにも時代の錯誤が見られるのである。譬喩歌の方は、最初の紀皇女御歌「輕の池の浦みゆきめぐる鴨すらに玉藻の上に獨りねなくに」(三九○)の歌が藤原朝のもので、これが古(7)い他には殆ど凡て天平初期のものと考へられる。最後に挽歌は、上宮聖徳皇子出2遊竹原井1之時見2龍田山死人1悲傷御作歌「家にあらば妹が手纏かむ草枕旅にこやせる此の旅人あはれ」(四一三)の歌に始まり、天平十六年七月廿日の左註ある悲2傷死妻1高橋朝臣作歌の反歌「朝鳥の音のみし泣かむ吾妹子に今また更に逢ふよしをなみ」(四八三)の歌に終つてゐる。この聖徳太子の御歌は推古記二十一年片岡で飯に飢ゑて伏した旅人を哀む長歌によつて、後の人が作つたものと思はれるから、其のまゝ信ずる事は出來ない。次に大津皇子の辭世の歌があるが、これは左註に示すやうに藤原宮朱鳥元年の詠と見られ、其の後はとび/”\ながらも時代を追うて配列せられ、天平に入ると、急に作品の數が多くなつて十六年に至つてゐる。以上要約すれば雜歌は藤原朝に始まつて天平初期に終り、譬喩歌は最初の藤原朝の一首を除けば、後の大部分は天平初期から始まつて十年頃に終り、挽歌は最初の傳聖徳太子御歌を除き、藤原朝から奈良朝初期までは疎らで、天平初期から多くなつて十六年に終つてゐる。そこで此の三部類の作品の時代が、著しく相違してゐる事象に基き、此の卷の成立事情を察する事は、必ずしも困難ではないやうである。即ち一、二兩卷の續撰とも見るべき雜歌挽歌を集めたものが、天平の初期までに既に編纂せられてゐて、それに天平初期の歌を増補し、新に譬喩歌の部類を立て、更に前半のものにも整理の手を加へ、かくして今日の如き一卷が纏(8)め上げられたのであらう。第二次の編纂着は家持と考へられる。
 次に左註を見るに雜歌、挽歌の部には可成り豐富に註記せられてゐるが、譬喩歌の部には全く見られない。卷一、卷二の場合のやうに、「一書曰」のやうな書式は無く、「或本」「右何首」「右〔今)案」「右或云」「右歌者」「右」等と書き出し、内容から云へば、歌の出所を示すもの、作歌事情及び作歌年月を述べるもの、作者に關するもの等である。もつとも長忌寸意吉麻呂應v詔歌「大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び聲」(二三八)及び仙柘枝歌三首の中の「此の夕柘のさ枝の流れ來ば梁は打たずて取らずかもあらむ」(三八六)の左註には、唯「右一首」とあるのみで、何も記されてゐない。二三八は持統天皇の行幸とする説と、續日本紀に文武天皇三年二月難波行幸の記事があるのによつて文武天皇の行幸とする説との兩説があるのであるが、諸註に云つてゐるやうに、「右一首」とある下には、もと其れに關する何等かの註が施されてゐたに違ひない。又三八六も、其の前の歌には「右一首或云吉野人味稻與2柘枝仙媛1歌也云々」の註があり、其の後の歌にも「右一首若宮年魚麻呂作」と註してゐるのから察すれば、右一首の下には、作者なり傳來なりに關する註が必ずあつた筈であるが、それが何かの事情で佚脱してしまつたものと考へられる。然し又却つて誤つた註を附したと思はれるものも二三ある。例へば二六〇の左註に「右今案遷2都寧樂1之(9)後怜v舊作2此歌1歟」とあるが、此の歌の前後は凡て藤原朝のものと考へられるのに、寧樂遷都は和銅三年の事であるから、此の註は恐らく誤りで、舊誌に云ふやうに高市皇子の香具山の宮が、皇子薨去の後荒廢したのを悲んだ歌と見るべきであるらう。又二六八の左註に「右今案從2明日香1遷2藤原宮1之後作2此歌1歟」とあるが、それでは作者の長屋王が、餘りに御幼少に過ぎる。これは寧樂遷都後のものと見なければならない。又二八八の左註に「右今案不v審2幸行年月1」とあるのは、其の歌を、二八七の「幸2志賀1時石上卿作歌」と同時の作と考へての事であらうが、「吾命の眞幸くあらば又も見む志賀の大津によする白浪」(二八八)の内容からすれば、作者穗積朝臣老が養老六年佐渡島に配流せられる折の歌と解すべきで、これは確かに編者の誤解と思はれる。
 
(3)雜歌
 
天皇|雷岳《いかづちのをか》に遊びましゝ時柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
 
235 皇《おほぎみ》は 神にしませば 天雲《あまぐも》の 雷《いかづち》の上に 廬《いほり》せるかも
 
【題意】 卷一、卷二にあつては、凡て何々宮御宇天皇代と先づ記されて後に天皇何々とあるのが普通で、このやうに始から天皇雷岳に云々と云ふ樣な書き方は見られない。こゝの天皇は持統天皇であらせられると思はれる。雷岳はカミヲカ・イカヅチヤマ等と訓む説もあるが一般にはイカヅチノヲカと訓んでゐる。大和國高市郡飛鳥村大字雷村に在り、飛鳥の神奈備の三諸山のことである。三諸山を雷岳と呼ぶやうになつたのは雄略天皇の御代に始まる由の傳説が雄略紀七年の條に見えてゐる。三二四參照。
【口譯】 大君は神樣であらせられるから、雷の上に廬りしていらつしやることだ。
【語釋】 ○雷の上に 雷岳といふ名より天雲翔る雷を感じ、神なればこそと驚嘆したところ、一首の重點は(4)此の一句に置かれてゐる。雷〔傍点〕は集中イカヅチの他に神とも鳴神《ナルカミ》とも呼ばれてゐる。○廬せるかも 舊本「廬爲流鴨《イホリスルカモ》」とあるが、槻落葉に記・紀・萬葉の例を引いてイホリセルカモと訓んだのに從ふ。いほり〔三字傍点〕は常陸風土記筑波都「都久波尼爾伊保利弖《ツクハネニイホリテ》……」とある如く「いほる」と云ふ動詞の連用形、それに左變動詞が複合し、更に完了助動詞り〔傍点〕が、接續した形で、卷十の「家居爲流君《イヘヰセルキミ》」(一八四二)と同じ語遣ひである。もつともこゝでは天皇の御事を申上げてゐるのであるから、敬語を用ひるべきであるとして、流〔傍点〕を須〔傍点〕の誤と見、イホリセスカモと訓む説(略解引用)があるが、諸本|流〔傍点〕を須〔傍点〕に作つたものもなく、又次に.我が大王は盖爾爲有《キスガサニセリ》」(二四〇)、「大君は神にしませば……海成可聞《ウミヲナスカモ》」(二四一)等の例もあることであるから、こゝもイホリセルカモで差支ない(5)であらう。
 
右、或本に云ふ、忍壁皇子《おさかべのみこ》に獻れるなり。その歌に曰く
 
王《おほぎみ》は 神にしませば 雲隱《くもがく》る 雷山《いかづらやま》に 宮敷《みやし》きいます
 
【題意】 忍壁親王は天武天皇第九皇子、御母は完人臣大麻呂の女|※[木+穀]媛娘《かちひめのいらつめ》。慶雲二年五月丙戊薨去。
【口譯】 大君は神樣であらせられるから、雷山に宮造していらつしやる。
【後記】 卷十三「月も日もかはりぬれども久にふる三諸の山の離宮地《とつみやどころ》」(三二三一)の歌よりすれば、此の雷岳には離宮があつたと思はれるから、前の歌の廬とは即ち其れを指したものであらう。或本の歌とは、前の歌の異傳で、歌の樣よりしても「忍壁皇子に獻れるなり」とあるのには從はれない。
 
天皇|志斐嫗《しひのおみな》に賜へる御歌一首
 
236 不聽《いな》と言へど 強ふる志斐のが 強語《しひがたり》 このごろ聞かずて 朕《あれ》戀ひにけり
 
【題意】 天皇は同じく持統天皇であらせられると考へられる。嫗〔傍点〕新撰字鏡に「※[女+長]」を「於彌奈」と訓んでゐ(6)るから、同じやうにオミナと訓む。靈異記に「嫗」を「於于那」に、和名抄に「嫗」を「於無奈」と訓んでゐるのは、オミナのミが次第に變つていつた事によるものである。さて志斐嫗の志斐は氏であると代匠記に云ひ、一般にそれに從つてゐるが、新撰姓氏録卷二に阿部名代が楊花を強ひて辛夷花なりと奏上したによつて志斐の氏を賜つた由が見えてゐるので、攷證には、この嫗|強《シヒ》言を強《シヒ》て申すによりて字《アザナ》して志斐《シヒ》の嫗とはのたまへるにて志斐は氏にはあらざるべし」と云つてゐる。此の歌の場合、君臣の親しさを一層よく表すものとして字名とみる方が、よくはあるまいか。
【口譯】 いやだ、聞き度くないと云つても、無理に語つて聞かせる志斐が強語を、此の頃しばらく聞かないで戀しくなつて來たことだ。
【語釋】 ○不聽 卷二「不欲と言はむかも」(九六・舊本「言」、今金澤本による)、卷八「神さぶと不許にはあらず」(一六一二)等の不欲・不許〔四字傍点〕と共に、義によつてイナと訓む。○志斐のが 代匠記に「しひのおうながといふことなり」と云つてゐるのも、萬葉考に「志斐女之《シヒナガ》也」とあるのも臆斷である。此の「の」に似た例が卷十八「しなざかる故之能吉美能等《コシノキミノト》」(四〇七一)、卷十四「勢奈能我素低毛《セナノガソデモ》さやにふらしつ」(三四〇二)、同「伊母能良爾《イモノラニ》ものいはず來にて」(三五二八)等に見られる。四〇七一の「能」は殆ど凡ての諸本に「良」とあるから、こゝの例にはならない。次の二例は孰れも東歌であるが、同じ東歌の「伊母奈呂我《イモナロガ》つかふ河津のさゝら荻」(三四四六)、「勢奈那《セナナ》と二人さ寢て悔しも」(三五四四)等の妹ナロ・背ナナに同じ語と考へられるので、ナ・ノ共に特に相手(7)を親んで云ふ場合に用ひると思はれる。此の歌の「志斐のが」の|の〔傍点〕も亦それに類した親愛を表す接辭とみるべきものであらう。○強語 玉の小琴に從つてシヒガタリと訓む。強ひて聞かせる話。
【後記】 強《シフ》る・志斐《シヒ》・強《シヒ》語と同音を巧に繰り返してゐる。
 
志斐嫗の和へまつれる歌一首 嫗の名未だ詳ならず
 
237 不聽《いな》と言へど 語れ語れと のらせこそ 志斐いは奏《まを》せ 強語《しひがたり》とのる
 
【口譯】 いや申上げますまいと云つても、大君が話せ話せと仰しやいますればこそ志斐はお話致しましたものを――強語と仰しやる。
【語釋】 ○のらせこそ 舊本「詔許曾《ノレバコソ》」とあるを、玉小琴にノラセコソと訓んだのに從ふ。のらせばこその意で、のらせ〔三字傍点〕は動詞「のる」の敬語のらす〔三字傍点〕の已然形。上代にはこの形のものが多い。多くは四段活用の未然形に敬語を示す助動詞|す〔傍点〕が接續して、四段に活用する敬語を構成した。下出「立たせ」(二三九)、「聞かし」(四六〇)、「立たし」「知らし」(四七五)、「知らさ」(四七六)など。○志斐いは い〔傍点〕は一般に主格に立つ語に接して其れを指示する助詞。繼體紀「※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》笛吹きのぼる」、萬葉卷四「木乃關守伊《キノセキモリイ》留めなむかも」(五四五)、續紀神龜六年八月詔詞「藤原朝臣麻呂等伊……」などがある。此の|い〔傍点〕は語源的に云へば、古事記・中卷「伊《イ》賀所2仕奉1於2(8)大殿内1者意禮先入」の代名詞い〔傍点〕より轉成したものであらうかといふ説がある。
 
長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》詔《みことのり》に應ふる歌一首
 
238 大宮の 内まで聞こゆ 網引《あびき》すと 網子《あご》とゝのふる 海人《あま》の呼び聲《ごゑ》
 
右一首
 
【題意】 意吉麻呂の傳未詳。持統天皇の行幸とする説があるが、續紀文武天皇三年二月難波行幸の記事あり、從駕詔に應じて作つたものであらうか。
【口譯】 御所の中までこんなによく聞こえて參ります、網を引き上げると云つて網子を整へる漁人の叫び聲が――。
【語釋】 ○大宮 難波の長柄豐崎の宮のこと。孝徳天皇の皇居であつたが、其の後歴代の離宮となつてゐた。今の大阪市の北端豐崎町長柄の地に在つたのである。○網子 網の綱を引く者。集中網子の詠まれてゐるのはこゝの歌だけである。○とゝのふる 卷二「齊流鼓之音《トトノフルツヾミノオト》」(一九九)を註して玉の小琴に「とゝのふるは三卷十二丁に網子調流海人之呼聲とも有て軍士を呼起し調ふるを云り」とあり、一般に呼び集める意に解釋されてゐるが、とゝのふる〔五字傍点〕と云ふ語に本來其のやうな意味があるのでなく、古辭書の註を見ても、此の語の集中(9)に於ける用例を見ても今に云ふ整へるに同じ意味に用ひられてゐる。こゝの歌でも、網子の人數を揃へたり、それ/”\の場所につかせたりして網子を整へる事で、必ずしも呼び集めるのみではない。(萬菓集講義、卷二・一九九參照)
【後記】 海遠い山國の大和に生活してゐる人達にとつて、海近い宮の中に聞えて來る漁人の叫聲は、いかにも珍らしく奇しく感ぜられたことであらう。
【左註】 代匠記に「下ニ右一首ト云下ニ注有ケムカ落タルナルベシ」と云つてゐるが、可成り豐富に左註を施してゐるこの卷の全體から推せば、下の三八六の右一首と同樣に、もとあつた註が何かの理由で佚脱してしまつたのであらう。
 
長皇子《ながのみこ》獵路《かりぢ》の池に遊び給へる時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌
 
239 やすみしゝ 吾|大王《おほぎみ》 高光る わが日の皇子《みこ》の 馬|並《な》めて み獵《かり》立たせる 弱薦《わかごも》を 獵路《かりぢ》の小野《をぬ》に 猪鹿《しし》こそは い匐《は》ひ拜《をろが》め 鶉《うづら》こそ い匐《は》ひもとほれ 猪鹿《しし》じもの い匐《は》ひ拜《をろが》み 鶉なす い匐《は》ひもとほり かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの 天見るごとく 眞十鏡《まそかゞみ》 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき わが大王かも
 
(10)【題意】 長皇子は天武天皇第四皇子、御母は天智天皇々女大江皇女〔卷一(六〇)・卷二(一三〇)參照〕。獵路は今の磯城郡多武峯東南の山地なる鹿路のことであらうと云はれてゐる。歌詞には獵路小野とあり、「池」の語が見えないので、獵路野の誤であらうと云ふ説もあるが、獵路に池のあつた由は、卷十二に「遠つ人獵路の池に」(三〇八九)とあるのでも知られるから、池を野に改める必要はあるまい。人麻呂も當日の遊獵に供奉して作つたと思はれる。
【口譯】 私のお仕へしてゐる長皇子が馬を並べて御獵遊ばす獵路の野には、猪鹿こそは這ひ拜み鶉こそは這ひ廻るのであるが、其の猪鹿のやうにわれわれは皇子樣の前に這ひ伏して拜し奉り、またその鶉のやうに這ひ廻つて畏まつてお仕へ申上げ、天を見るやうに仰いで見るが、見る毎にいよ/\立派にお見えになる皇子でいらつしやることだ。
【語釋】 ○やすみしゝ 大王〔二字傍点〕の枕詞。○大王 天皇を申し上げるのが原義であるが、轉じては皇子や王にも用ひる。○高光る ひ〔傍点〕の枕詞。天高く光る日の意。○日の皇子 天照大神の御子孫といふ意で一般に天皇又は高貴の皇子を申し上げる場合に用ひる。こゝでは「やすみしゝ吾大王」と「高光るわが日の皇子」とは同格である。下出に「なゆ竹のとをよる皇子、さ丹づらふ吾が大王」(四二〇)、「わが大王、皇子の命」(四七八)とあるのも同じである。○み獵立たせる 立たせ〔三字傍点〕は「立つ」の敬語「立たす」の已然形でる〔傍点〕は完了の助動詞。御獵をなさる意。卷一「馬なめて御獵立師斯《ミカリタタシシ》時は來向ふ」(一四九)、卷六「馬並めて御獵曾立爲《ミカリゾタタス》春の茂野に」(九二六)。(11)○弱薦を 和名抄に薦〔傍点〕を古毛《コモ》と訓み蓆也と註し、又「菰一名蒋和名古毛」とある。薦は元來敷物の事であるが、訓が同じために菰の意に借りたのであらう。わかごもを〔五字傍点〕は刈《かり》にかゝる枕詞。○い匐ひ拜め、い匐ひもとほれ い〔傍点〕は共に接頭辭。「もとほる」に接頭語た〔傍点〕がつくのもある。(下出四五八・四六〇參照)。○猪鹿じもの 猪鹿の如くの意。じ〔傍点〕は名詞の下につきて此を形容詞化する辭、即ち猪鹿じもの〔五字傍点〕とは猪鹿じ〔三字傍点〕と云ふ形容詞の語根に名詞もの〔二字傍点〕が複合して一つの語になつたものである。(下出二六一・三七九・四八一參照)。○鶉なす 鶉の如くの意。卷二「鹿自物《シシジモノ》いはひ伏しつゝ……鶉成《ウヅラナス》いはひ廻り侍候へど」(一九九)。○かしこみと と〔傍点〕は卷二「不知等《シラニト》」(二三三)、卷四「不知跡《シラニト》」(五四三)のと〔傍点〕と同じく、輕くうち添へた助詞、畏つての意。(下出三四一・三八五・四一四・四八一參照)。○眞十鏡 「仰ぎて」を隔てゝ見〔傍点〕にかゝる枕詞。○春草の めづらし〔四字傍点〕の枕詞、春野に萠出る草はみづ/\しく愛らしいものである故に愛《めづ》らしにかける。
 
反歌一首
 
240 久方の 天行《あまゆ》く月を 綱《つな》に刺し わが大王《おほぎみ》は 蓋《きぬがさ》にせり
 
【口譯】 (天の如く仰ぎ見る)皇子は、天ゆく月を綱で刺して御上にかざす蓋にしていらつしやる。
(12)【語釋】 ○天行く 一般にアメユクと訓まれてゐるが、こゝではアマユクと訓んだ方がよい。其の理由は「天」より直ちに動詞に接續した場合は、普通にアマ何々と云はれてゐるからである。例へば卷五「天のみ空ゆ阿麻賀氣利《アマガケリ》」(八九四)、卷十五「久方の安麻弖流月は」(三六五〇)、卷五「阿麻等夫《アマトブ》や鳥にもがもや」(八七六)等。○綱に刺し 舊本「網」とあるを萬葉考に綱〔傍点〕に改めてより一般にそれに從つてゐる。月を綱で刺す意である。綱の事は伊勢大神宮式・踐祚大嘗祭式・江家次第等に見え、蓋に取り付けてひかへるものである。○蓋 新撰字鏡「傘蓋也支奴加佐」。皇太子、親王、及臣下位階によつて樣式を異にする由儀制令に詳しい。外出の際上にかざすものである。
【後記】 獵路野の遊獵に一日を過して御歸路に向はれる皇子の上には、早綺麗に澄んだ宵の月が照り出した、丁度皇子の盖のやうに。お供してゐた人麻呂は、甞て持統天皇に從つて雷岳に登り「大君は神にしませば天雲の……」と詠じたと同じ驚嘆を以て皇子を讃へ申したのである。
 
或本反歌一首
 
241 大君は 神にしませば 眞木の立つ 荒山中に 海をなすかも
 
【口譯】 大君は神樣であらせられるから、檜の生ひ茂る荒山中に海をお作りになつたことだ。
(13)【語釋】 ○荒山中 前の歌との關係で獵路野の事と思はれる。
【後記】 此の歌には三つの解釋が行はれてゐる。一は此の反歌をあくまで前の長歌の反歌と見る立場から、「大君」と云ふのは長皇子の事であり、「海をなす」とは獵路池を見て皇子を讃へた誇張であると見るもの、二は長歌とは全く別の歌で、この御代に池を掘らせられ、其所に行幸の有つた折の作であるとみるもの、三は皇子に從つて獵路野から歸る時、其の池を見て、天皇の聖徳を讃へた歌とみるものである。一はやゝ妄想の嫌があり、二は或本反歌として此の長歌の後に配したのを全く別のものに見てゐてやゝ獨斷の嫌があり、三の解釋に從ふのが穩當のやうに思はれる。
 
弓削皇子《ゆげのみこ》吉野に遊び給へる時の御歌一首
 
242 瀧《たぎ》の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと わが思はなくに
 
【題意】 弓削皇子は長皇子の同母弟、文武天皇三年七月薨去。天武天皇第六皇子也と續紀に見えてゐる。この御歌は持統か、文武の御代のはじめの作と思はれる。集中の御作すべて八首。
【口譯】 瀧の邊の三船山に居る雲は何時も動かずにゐるが、あのやうにいつまでも生きられよう(14)とは思はれないことだ。
【語釋】 ○瀧の上の 瀧〔傍点〕はタギと訓む。今の宮瀧の東南にその瀧の跡かと思はれるところがある、その南に三船山がある。○三船の山 森口奈良吉氏は丹生上中社の東なる馬瀬の東に聳える山をこれにあてゝ居られる。○居る雲の 「立つ雲の」・「棚引く雲の」等に比べると用例は少く感じも違つてゐる。ぢつと動かずに居る雲である。卷七「連庫《なみくら》山に雲居れば雨ぞ降るちふ」(一一七〇)、同「秋津野に朝居る雲の失せ去けば」(一四〇六)、其の他卷十(二三一四)、卷十一(二六七五)、卷十二(三二〇九)、卷十三(三二九四)等。雲の〔三字傍点〕は雲の如くの意。○思はなくに このなく〔二字傍点〕は從來「ぬ」の延言だなどといはれてきたがこれは誤りである。く〔傍点〕に「ず」の未然形な〔傍点〕が接續したものと考ふべきである。「思はぬに」とあるのと同じであつて、口語譯すれば、「ないものを」「ないのに」に當る。に〔傍点〕は詠嘆の助辞である。けれども、すべてこの口語譯であてはまるとは限らない。どうもおちつかないわりきれないものがあるのは事實である、例へは下出二七八の如き。これなどは餘情を含めた言葉で詠嘆の助詞で終つてゐるのと同じと見てよい。右の二四二の歌も二七八と同じに見たい。序にこの卷に用ひられてゐる「なくに」の例をあげておかう、−二四二・二四四・二六三・二六五・二七八・三二五・三九〇・四二二・四三一・四六九。
 
春日王《かすがのおほぎみ》和へ奉れる歌一首
 
(15)243 王《おほぎみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや
 
【題意】 春日王とは續紀に「文武天皇三年六月庚戊淨大肆春日王卒」とある方で、志貴皇子の御子の春日王とは別人であらう。(藝文第十五年第一號澤瀉久孝氏參照)
【口譯】 貴方は千年までも生きていらつしやることでございませう。白雲も三船の山に絶えることがございませうか、(あの白雲と同じことでございますよ)。
【後記】 三船の山に居る雲に己が身をひき比べて無常を感じられた前の歌に對し、いや其の雲の如く千歳までも御壽命は絶えますまいとお慰めしたもの。巧といふべし。
 
或本の歌一首
 
244 み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに     右の一首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
【後記】 二四二の歌の第一句と第三句とが異なるのみで、語詞も構想も全く等しい。恐らくは別の歌ではなくて、同一歌の異傳に過ぎぬであらう。
 
(16)長田王《ながたのおほぎみ》筑紫に遣され水島《みづしま》に渡る時の歌二首
 
245 聞きし如《ごと》 まこと貴く 奇《くす》しくも 神さび居るか これの水島
 
【題意】 長田王は卷一「山邊御井歌」(八一)に出てゐるが、長田王は當時二人をられたやうであるから混同してはいけない。萬葉に見えるのは、天平九年六月卒の方で、從つて長皇子の御子或は孫とする説はあたらないのである(藝文第十五年二號澤瀉久孝氏參照)。水島は景行紀十八年夏四月壬朔壬申の條に「自2海路1泊2於葦北小島1而進食。時召2山部阿弭古之祖小左1、令v進2冷水1。適此時島中無v水。不v知2所爲1。則仰之祈2于天神地祇1。忽寒泉從2崖傍1涌出。乃酌以獻焉。故號2其島1曰2水島1。其泉猶今在2水島崖1也。」と記されてゐる所で、仙覺所引の風土記にも枕草子にも見えてゐる。熊本縣八代郡植柳村に在り、今は海岸から十間とへだたらないところにある小島となつてゐる。
【口譯】 かねて聞いてゐた通り、まことに貴く珍らしく神々しい姿をしてゐることだ、この水島は。
【語釋】 ○神さび居るか か〔傍点〕は詠嘆の助詞。神さぶ〔三字傍点〕は下出(四二〇)參照。○これの水島 餘り多く用ひられてゐないが、卷二十「あが手とつけろ許禮乃《コレノ》針もし」(四四二〇)、佛足石歌「己禮乃《コレノ》よはうつりさるとも」、又「己禮乃《コレノ》みは」等の例が見えてゐる。「この」と云ふに意味は近いが、それよりもつと強く指示する語である。「この」に對して「これの」といふ言ひ方があるに反し、「その」に對する「それの」と云つた例は集中に求め(17)られない。
【後記】 聞きし如云々の言葉より察するならば、長田王は前に引いた書紀の景行天皇御遊奉の際寒泉の涌出した傳説等お聞きになつてゐてこの歌を作られたものであらう。
 
246 葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ
 
【口譯】 葦北の野坂の浦から船出して水島にゆかうと思つてゐるところだ、浪よゆめ/\立つてくれるな。
【語釋】 ○浪立つなゆめ 從來ゆめ〔二字傍点〕の語源については忌む・齋む等の命令形と考へられてゐたが、上代特殊假名遣の上から此の事は否定されねばならなくなつた。語源に關しては未だ明かにし難いが、集中に用ひられた例を見ると、殆ど凡て禁止の「な」に伴つて「――な・ゆめ」の形にはたらいてゐる。「な」の表す禁止の意義を強めてゐるのである。後世はゆめ/\と繰返す形が寧ろ普通であるが、上代に於いてはゆめ〔二字傍点〕の單形のみで、ゆめ/\の形は平安時代に入つて後の發達と思はれる。○葦北の野坂 葦北〔二字傍点〕は肥後の南部薩摩に接する郡で野坂〔二字傍点〕は其の何處かの海岸にあつたのであらう。或は佐敷か、田の浦の邊ではないかと思ふ。
 
(18)石川大夫《いしかはのおほまへつきみ》和ふる歌一首 名闕く
 
247 奥つ浪 邊波《へなみ》立つとも わがせこが み船の泊《とまり》 波たためやも
 
右、今案ずるに從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中大貳に任ぜらる。又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中少貳に任ぜらる、知らず兩人誰かこの歌を作れるかを。
 
【題意】 左註に石川宮麻呂、石川吉美侯兩人の中誰か明かでないと云つてゐるが、こゝは宮麻呂の事である。宮麻呂は慶雲二年十一月太宰大貳、和銅元年三月右大弁、和銅六年正月從三位、十二月に薨じてゐる。
【口譯】沖波や磯波がどのやうに立たうとも、貴方の乘つていらつしやる御船の泊る處に浪が立ちませうか。(御心配なさいますな。)
【語釋】 ○わがせこ 女より男に對して「せ」とも「せこ」とも云ふのは普通の事であるが、男同志でも特に親しい間では、わがせ・わがせことも云つた事は、卷二「長皇子與2皇弟1御歌」の「戀ひたき吾弟《ワガセ》」(一三〇)、卷十七、介内藏忌寸繩麻呂と家持との間に交された歌の「和我勢古《ワガセコ》が國へましなば」(三九九六)、又「吾れなしとなわび和我勢故《ワガセコ》」(三九九七)等の例によつても知られる。○泊 假名書で「等萬里」(一七三三)、「登麻里」(一二二)、「登麻利」(三六一二)等と書かれてゐる。船の場合にしか用ひないやうである。
【左註】 石川大夫と云ふのが誰であるか古くから明かでなかつたらしい。此の左註の示す石川宮麻呂・石川吉(19)美侯(卷九・石川君子)兩説共に諸註釋書により或は支持せられ、説は斥けられて來たのであるが、この歌が和銅以前の作と見られる點からして、慶雲以前宮麻呂が未だ少貳であつた頃の作とするのが最も穩かであらう。(國語國文の研究第三十九號澤瀉久孝氏參照)
 
又|長田王《ながたのおほきみ》の作れる歌一首
 
248 隼人《はやひと》の 薩摩の追門《せと》を、雲居なす 遠くもわれは 今日見つるかも
 
【口譯】 隼人の薩摩の海峽を遙かに私は今日見たことである。
【語釋】 ○隼人の薩摩 隼人の〔三字傍点〕を冠辭考には枕詞と見てゐるが、卷六「隼人の湍門の盤も」(九六〇)の例をみてもさうは考へられない。古事記傳十六に續紀を引いて國名なるべきを論じてゐる。薩摩〔二字傍点〕も和銅年間には未だ國名ではなくて隼人の國の中の一地名に過ぎぬものであつたらしい。續紀大寶二年の條には唱更《ハヤビトノ》國とあり、養老元年に始めて大隅薩摩二國(ノ)隼人とみえてゐる。從つて隼人の〔三字傍点〕は薩摩の總名と見るべきものゝやうに思ふ。○薩摩の迫門 和名抄に薩摩國出水郡勢度郷とある所、即ち今の出水郡下出水村の西、長嶋と相對する黒瀬戸の海峽をさしたのでもあらう。○雲居なす 雲居〔二字傍点〕は雲のこと。なす〔二字傍点〕は如くにの意。こゝでは次の「遠く」にかゝる枕詞となる。
 
(20)柿本朝臣人麻呂羈旅の歌八首
 
249 三津の崎 浪を恐《かしこ》み 隱江《こもりえ》の 舟公宣奴島爾
 
【語釋】 此の歌は第四、第五句の訓が確定しないために萬葉集難解歌の一つとして、古來幾多の説が行はれ、近くは生田耕一氏の攷證(國學院雜誌昭和七年三・四月號所載、萬葉集難語難訓攷再録)も存するのであるが、遺憾ながら未だ定説と稱すべきもの無く、今後の研究に俟つの他ないのである。
 
250 玉藻苅る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に 舟近づきぬ 【一本 處女を過ぎて夏草の野島が崎にいほりす我は】
 
【口譯】 美しい藻を苅る敏馬を過ぎて野島が崎に船は近づいた。
【語釋】 ○玉藻苅る 卷六「玉藻苅る辛荷の島に」(九四三)といひ、又この歌の一本云に從へば「玉藻苅る處女を過ぎて」ともあつて、固定した枕詞とも思はれない。敏馬で玉藻をよく苅る故「玉藻刈る敏馬」と云つたのであらう。○敏馬 卷六「三犬女の浦は」(一〇六五)、同「見宿女の浦は」(一〇六六)の歌の題詞に過2敏馬浦1時作歌とあるに依つて、敏馬〔二字傍点〕をミヌメと云つた事が知られる。敏馬は今の神戸の東に接した西灘村の邊であらう。○夏草の 枕詞。夏草は萎伏するものであるから夏草の「なゆ」と云ふを約めて「ぬ」とし、野島《ぬじま》のぬ〔傍点〕に冠(21)したのであるといはれてある。〇一本に云ふ、處女 代匠記に「第九に葦屋處女墓ヲヨメル歌アリ、彼由縁ニヨリテ兎原郡葦屋浦ヲ處女トノミモイヘルナリ」とある。
【後記】 三津から舟出したのであらうか。敏馬は三津と野島との略々中程に在る。其の敏馬も過ぎて今宵の泊りである野島に舟が次第に近づいて來た事を云つたのである。
 此の「一本云」の歌は卷十五「多麻藻可流乎等女乎須疑※[氏/一]奈都久住能野島我左吉爾伊保里須和禮波《タマモカルヲトメヲスギテナツクサノヌシマガサキニイホリスワレハ》」(頁臭)とある歌の第一句を缺いたのに同じい。又其の左に柿本朝臣人麿歌曰として「敏馬乎須疑※[氏/一]《ミヌメヲスギテ》」又「布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》」の二句は、二五〇の歌の第二句、第五句に相當するものである。つまり卷三の參考本となつた一本を卷十五では底本とし、逆に卷三の底本を參考に資したものであらう。但し表記状態の異なるのは、編纂者或は他の誰かの意志に依つて十五の卷が書改められた事に起因するのであらうか。次の二五二と三六〇七、二五五と三六〇八、二五六と三六〇九の歌も皆同じ樣な關係に置かれてゐる。
 
251 淡路の 野島が崎の 濱風に 妹が結びし 紐吹きかへす
 
【口譯】 淡路の野島の崎の濱風が、あゝ、妻が結んでくれた衣の紐を吹き返してゐる。
(22)【語釋】 ○濱風に 結句「吹き返す」とうけてゐるので此の歌は古來色々と論ぜられて來たのであるが、語法的にいへば異常な言ひ方であることに違ひはない。歌の表現といふ點よりみるならば、古義に「もし、濱風のといひたらむにはかひなでの歌よみの詞なるべし、爾といひたるに深き味はあり、濱風に吹れてもの心ぼそきだにあるを、その濱風が妹が結べる紐返すといへる深き情をもたせたるにあらずや、その深き情をもたせたるは爾の言にありてあはれ深く味かぎりなし」と云つてゐる如く、人麻呂獨特の句法とみるべきものである。(下出三〇三參照)。
 
252 あらたへの 藤江の浦に 鱸《すずき》釣る 白水郎《あま》とか見らむ 旅行く吾を【一本に云ふ 白栲の「藤江の浦にいさりする】
 
【口譯】 かうして船旅を續けて行くのを見た人達は、藤江の浦で鱸を釣つてゐる漁人と思ふであらうか。旅をしてゐる私であるのに。
【語釋】 ○あらたへの 「藤」の枕詞、あらたへ〔四字傍点〕は麁《アラ》き布の意。藤布の意で藤〔傍点〕にかゝる。○藤江の浦 和名抄郷名に播磨國明石郡葛江【布知衣】とある所、明石の西に接す。○鱸 古事記上卷「訓v鱸云2須受岐1」。○見らむ 後世終止形より續けて「見るらむ」「見るべし」等と云ふ處を「見らむ」「見べし」と云ふのが普通であつた。卷五「人皆の美良武《ミラム》まつらの玉島を」(八六二)、同「妹らを美良武《ミラム》人のともしさ」(八六三)。○白水郎 和名抄に阿萬《アマ》(23)と訓む。○一本に云ふ 卷十五・三六〇七の第一、二、三句で、其の左なる柿本朝臣人麻呂歌として擧げられた「安良多倍乃《アラタヘノ》」及び「須受吉都流安麻登香見良武《スズキツルアマトカミラム》」は二五二の第一、第三、第四句に相當する。白栲の〔三字傍点〕は普通にはころも・たすき・そで等にかゝる枕詞であるが、こゝではあらたへ〔四字傍点〕と同じやうに藤〔傍点〕にかけて用ひられてゐる。
【後記】卷七「網引する海士とや見らむ飽浦《アクウラ》の清き荒磯を見に來し吾を」(二八七)、「濱清み磯に吾居れば見る人は白水郎とか見らむ釣もせなくに」(一二〇四)、「潮早み磯回に居ればあさりする海人とや見らむ旅行く吾を」(一二三四)等と同じい氣特を詠つてゐる。
 
253 稻日野《いなびぬ》も 去《ゆき》過ぎかてに 思へれば 心戀《こゝろこほ》しき 可古《かこ》の島見ゆ 【一に云ふ湖見ゆ】
 
【口譯】 稻見野もゆき過ぎ難く思つてゐると、あそこに日頃戀しく思つてゐた可古の島が見える。
【語釋】 ○稻日野 和名抄、「播磨國印南【伊奈美」、又卷一、伊奈美國波良」(一四)、卷三「稻見乃海之」(三〇三)、又卷四「稻日都麻」(五〇九)等の例によればイナビともイナミともいはれたやうである。此の如く兩樣に用ひられるビ・ミの發生の先後は國語音韻史上極めて興味ある問題であるが、孰れにしても此の場合イナビ、イナミ殆ど相似た音に發音されてゐたのであらうと考へられる。稻日野〔三字傍点〕は明石と加古川との中間に在る平野で(24)ある。○去過ぎかてに かて〔二字傍点〕は下二段活用の可能を表す動詞と考へられる。然し集中の例を見ると、獨立して用ひられる事は稀で、終止形の「かつ」は「ましゞ」と接續して「……かつましゞ」として、「かて」は「に」、ぬ」と結んで「……かてに」「かてぬ」として用ひられてゐる。いづれも打消の助動詞に接續してゐるわけである。假名書の例では、「可都」「可※[氏/一]」「可天」「可提」「加弖」等と記されるのが普通で、濁音の假名を用ひた例は尠いから、こゝも清音にカテニと訓むべきであらう。なほ「かつ」「かて」を難〔傍点〕義としてゐるのはあやまりである。下出三八八參照。○思へれば 後出二八四參照。○心戀しき 「コヒシキ」の假名書の例は、卷十五「古非思吉」(三六三四)、「胡悲之伎爾」(三六四一)、卷十八「古非之吉」(四一一九)、卷二十「故非之伎」(四四四三)、卷十七「孤悲思吉」(三九八七)等新しい時代の歌に多く、其れ以前のものにあつては、卷五「己惠能古保志枳」(八三四)同「故保斯苦阿利家武」(八七五)と、「コホシ」の形が用ひられてゐるから、こゝもココロコホシキとよむ。「戀し」と云ふ形容詞に「こゝろ」の結び付いたのは他に例が無いが、「こゝろ」と語原的に同義であるとみられる「うら」の接した「うら戀し」は、卷十七「宇良故非之わがせの君は」(四〇一〇)、同「其こをしも宇良故非之みと……」(三九九三)の如く、單に「戀し」といふよりは、感情の軟げられた情緒を表してゐるが、「心戀し」といへば、反對に感情の激しさを感じさせる語である。○可古の島 いま、この名の島はない。加古川の河口一帶を指したものであらう。陸地を島といつたことについては攷證に「島にはあらねど船にありて海上より望見て、島の如く見ゆれば島といへる事この下に大和國を倭島《ヤマトシマ》といへるにしるべし」と言つてゐる。○一に云ふ湖見ゆ 湖〔傍点〕はみなと。加古の湊である。
 
(25)254 ともしびの 明石大門《あかしおほと》に 入らむ日や 榜ぎ別れなむ 家のあたり見ず
 
【口譯】 今かうして海上にあつては故郷の方も遠く見られるが、明石の大門にいる日には、家のあたりも見ずに、榜ぎ別れて了ふことであらうか。
【語釋】 ○ともしびの 枕詞、冠辭考云「こは燈火の明《アカ》しとつゞけたり……此のともしびの明しとつゞけたるぞ、人麻呂ぬしの比の口つきなめり」。○明石大門 明石〔二字傍点〕は明石の浦。大門〔二字傍点〕はオトともオホトともよんでゐるが、オホトの方がよい。門《ト》は迫門《セト》の門《ト》と同じく、船の出入する所。水門《ミナト》の門《ト》である。其の廣い處を大門《オホト》と云ふ。○入らむ日や 入らむ日にやの意。○榜ぎ別れなむ家のあたりみず む〔傍点〕は上のや〔傍点〕を受ける連體形。第五句は第四句にかゝる。ず〔傍点〕は連用形で「見ずして」の義。これまで見えてゐた故郷の方がもはや見えなくなつてゆくことをいつたもので、下向のときの歌。
 
255 天ざかる 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 戀ひ來れば 明石の門《と》より 大和島見ゆ 【一本に云ふ 家門《やど》のあたり見ゆ】
 
【口譯】 田舍の長い道中を戀ひこがれて明石の門まで來ると、あゝなつかしい大和が見える。
【語釋】 ○天ざかる ひな〔二字傍点〕にかゝる枕詞、冠辭考曰「こは都がたよりひなの國をのぞめば、天とともに遠放《トホサカリ》て(26)見ゆるよしにて、天放るとは冠らせたり、さかるとは、こゝより避《サカ》り離れて遠きをいふ」。日本書紀神代卷「阿磨佐〔右○〕箇屡夷つ女の」、又、萬葉卷四「天佐〔右○〕我留夷の國邊に」(五〇九)のやうに佐〔右○〕を用ひた例もあるが、集中では一般に、「射」が用ひられてゐるから、濁音にアマザカルと訓む。○夷の長道ゆ ゆ〔傍点〕は「を」の意、下出四八一の「山の際ゆ」も同じ。卷十五の方には「天ざかる比奈乃奈我道乎〔右○〕」(三六〇八)となつてゐる。○大和島見ゆ 「可古の島見ゆ」(二五三)の條にいつたやうに海上遙かに浮んで見えるから、「島」といつたのである。
【後記】 苦しい長い船旅を唯一途に故郷へ/\と戀ひこがれて歸つて來た旅人の目に、明石の門から海上はるかに浮ぶ島山が映る。あれこそなつかしい故郷だ。旅の疲れも一時にけしとんで了ふかと思はれる。これを西航の途次來し方を振りかへつて別れを惜しむ歌と見るのは、此の覊旅の歌八首が西航の道順に略々配列されてゐる事から禍ひされたものであつてよくない。此の歌も卷十五(三六〇八)の異傳である。其の左に柿本人麿歌曰「夜麻等思麻見由」とあるのは此の歌の第五句である。一本に云ふ「家門《やど》のあたり見ゆ」とあるのも同じく第五句の相違であるが、歌としては「大和島見ゆ」といふのが最も人麿らしい雄大な感じを與へる。
 
256 飼飯《けひ》の海の には好《よ》くあらし 苅薦《かりごも》の 亂れ出づ見ゆ 海人《あま》の釣船《つりぶね》
 
(27)【口譯】 飼飯の海上は靜かなやうだ。海人の釣船があちらにもこちらにも出かけてゐるのが見える。
【語釋】 ○飼飯《けひ》の海 淡路國三原郡の西海岸に笥飯野といふ處がある由、其處の事であらう。越前の國敦賀郡笥飯ではあるまい。飼〔傍点〕は笥〔傍点〕の誤字と云ふ説もあるが、卷十二「飼飯乃浦爾」(三二〇〇)、卷四「得飼飯而《ウケヒテ》」(七六七)等の例によつてこのまゝでよいと思はれる。○にはよくあらし には〔二字傍点〕を海上に用ひた例、下出「いざ子どもあへて榜ぎ出む爾波もしづけし」(三八八)、卷十一「庭淨み奥へ榜ぎ出る海士舟の」(二七四六)。らし〔二字傍点〕は「む」「らむ」等推量を表すものとは違つて、大抵何か或る適確な根據のある場合、それに基いて、かうであるらしいと推定するのである。その根據が述べてない場合もある。此の歌でいへば「亂れ出づ見ゆ海人の釣舟」といふ事實を根據として、「庭よくあらし」と推定するのである。前者の場合下出、二七一・二九四・三六五・四一八參照。後者の場合は下出、三一五・三三六・三四〇・三四一・三四二・三五七・三八八參照。○苅薦の 「亂れ」にかゝる枕詞。冠辭考云「こは苅たる蒋《コモ》のまだあまぬは亂れやすければいふのみ」。○亂れいづみゆ 「……してゐるのが見える」といふ時には「見ゆ」の上の動詞助動詞は終止形で結ぶのが古格である。例へば卷十五「海人處女ども島|我久流見由《ガクルミユ》」(三五九七)、同「海人のいさりはともし安敝里見由《アヘリミユ》」(三六七二)など、從つて、考のミダレツルミユ、槻落葉のミダレイデミユ、略解のミダレイヅルミユ等はよくない。
 
(28)一本に云ふ
 
武庫《むこ》の海の にはよくあらし いざりする 海部《あま》の釣鹿 波の上ゆ見ゆ
 
【口譯】 武庫の海上は穩かのやうだ。漁師の釣舟が浪の上に見える。
【語釋】 ○武庫の海のにはよくあらし 舊本「武庫乃海舶爾波有之」とあり、フネニハナラシ・フナニハナラシ(玉の小琴)、フネニハアラシ(古義)等と訓まれてゐる。古義のフネニハアラシが文字面よりすれば最も穩かであるが、一首全體の意味が整はなくなつて來る。今神田本を檢するに「一本云 武庫乃《ムコノ》舟尓波有之伊射」又、一本云 武庫乃海能《ムコノウミノ》尓時好有之伊射里爲流」とあるが、後の一本の「尓時」の「時」の草體は「波」の草體によく似てゐるから「尓波」の誤りと見る事は餘り無理ではあるまい。扨其の「時」を「波」に改めて、「武庫乃海能尓波好有之《ムコノウミノニハヨクアラシ》」とすれば、卷十五の「武庫能宇美能爾波余久安良之《ムコノウミノニハヨクアラシ」(三六〇九)にも叶つて來る。從來の漠然とした誤字説に比すれば極めて根據ある見解であらう。
【後記】 右のやうに訓めば卷十五・三六〇九の歌と全く同じになつてくる。其の左に柿本朝臣人麿歌曰「氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》」、又「可里許毛能美太禮※[氏/一]出見由安麻能都里船《カリゴモノミダレテイヅミユアマノツリブネ》」とあるのは、二五六の第一句、第三、第四、第五句の事である。其の第四句「美太禮※[氏/一]出見由」とあるのはミダレテイヅミユと訓んだものであらう。これに從へば二五六の「亂出所見」も右のやうによめないこ(29)ともない。
 
鴨君足人《かものきみたりひと》、香具山の歌一首并に短歌
 
257 天降《あも》りつく 天《あめ》の香具山《かぐやま》 霞立つ 春に至れば 松風に 池浪立ちて 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しじ》に 奥邊《おきべ》には 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 邊《へ》つ方《べ》に あぢむら騷ぎ 百磯城《ももしき》の 大宮人の 退《まか》り出《で》て 遊ぶ船には 梶《かぢ》棹《さを》も 無くてさぶしも 漕ぐ人無しに
 
【題意】 鴨君足人の傳は未詳。續紀に「天平寶字三年冬十月辛丑天下諸姓著2君字1者、換以2公字1」とある。
【口譯】 香具山は春になれば松吹く風に池の小浪も立ち、櫻の花は木蔭も茂く咲き亂れ、沖邊には鴨が妻をよび、なぎさには味鳧が群をなして騷いでゐるが、そのかみ大宮人達が御所から退つて來ては遊んだことのあつた船には、今は櫂も棹も無くて、まことにつまらないことだ。漕ぐ人が無くて。
【語釋】 ○天降《あも》りつく天《あめ》の香具山 「天降《あもり》」は、卷二十「多可知保乃多氣に阿毛理之須賣呂伎能《アモリシスメロギノ》」(四四六五)とある如く、あまくだる意。「天降就《あもりつく》」 は集中他に例が無いが、冠辭考には伊豫風土記の「伊豫郡、自2郡家1以東(30)北、在2天山1。所v名2天山1由者、俵在2天加具山1自v天降時二分而以2片端者1天2降於倭國1以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山1本也」の傳説を擧げて、「思ふに神代紀に、美濃(ノ)國|喪《モ》山は天より墮たるてふ類ひに、是も上つ代よりしかいひ傳へしなるべし、しかればいづこはあれど香山は、初國《ハツクニ》しらしし御時より皇宮の鎭めともいはひ給ふからに、ことにたふとみて天降著てふ語をいひ冠らせしなるべし」とて、枕詞の中にいれてある。風土記の如き傳説の背景もあり、貴んで香具山をさう呼んだのであらう。○天《あめ》の香具山 古事記、倭建命「久方能阿米能迦具夜麻」とあるによつて、アメノと訓む。大和國十市郡にあり。○霞立《かすたみ》つ 春〔傍点〕の枕詞と見る。卷二十「霞立つ春のはじめを今日のごと」(四三〇〇)。○池浪立ちて 卷二「埴安の池の堤の隱沼の」(二〇一)、卷一、埴安の堤の上に在立たし見したまへば日本の青香具山は……」(五二)とある埴安の池は香具山の麓にあつたらしく、此の歌の池浪も、其の池を云つたものであらう。○木の闇茂に 木の闇〔三字傍点〕は木蔭の意。卷十八家持の歌、たごの崎|許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》ほとゝぎす來鳴きとよめばはた戀ひめやも」(四〇五一) の第二句に倣つて、ここもコノクレシゲニと訓んでは如何かと思はれるが、家特の歌では、「木の茂つた處で」の意味であつて、こゝの歌にはあてはまらない。故にコノクレシジニとよんで「木蔭も茂く」咲くの意にとるがよい。(下出三二四參照)。○あぢむら むら〔二字傍点〕は群の意。あぢ〔二字傍点〕は、味鳧《あぢかも》といふ游禽類の一で、鴨に似て小さく、頭は黒褐色、翼は灰色、背は藍灰色に暗赤色の羽根を混じ、胸部は黄赤色に小さい黒點があり、群棲を好む性質を持つてゐる。○百磯城《ももしき》の おほみや〔四字傍点〕にかゝる枕詞。冠辭考に「こは皇大城《スメラオホキ》の堅きを石にたとへて百の石城《イシキ》の宮といふ也、萬葉には借字の多かれど右の首磯城は正しく書し物也」と云つてゐる。○遊ぶ船には 「遊(31)びし船には」の意である。、過去を現在の形でよんだ例はすでに卷一「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」(五一)。○梶棹も 梶〔傍点〕は今の「かぢ」ではなくて欄のこと。下出、「大船に眞梶《まかぢ》しゞぬき」(三六八)とある。○さぶしも 原文「不樂毛」。次の「佐夫之」(二六〇)とあるによりてサブシモとよむべし。サビシといへる例は集中、卷十五「左必之佐」(三七三四・一云)とあるのみである。怏々として樂しまない氣持、も〔傍点〕は咏嘆、なほ下出、三四七・四三四參照。
【後記】 「天降りつく」から「あぢむら騷ぎ」まで、巧に春を讃へる香具山の樣を叙し昔に變らぬこの姿ながら其のかみ、共につれ立つて管絃にうちむれた大宮人は今やなく、徒らに朽ちた舟のつながれてゐ(32)る淋しい氣分を短い長歌の中に手際よくまとめ上げた點は佳作といふべきである。
 
萬葉集品物圖繪より〔たかべの繪あり〕
 
反歌二首
 
258 人榜がず 在《あ》らくも著《しる》し 潜《かづき》する 鴛鴦《をし》と※[爾+鳥]《たかべ》と 船の上に住む
 
【口譯】この頃は人の漕がないことがよくわかる。水に住む習ひの鴛鴦と※[爾+鳥]とが船の上に住んでゐるよ。
【語釋】 ○人榜がず在らくも 卷五「直に會はず阿良久毛《アラクモ》おほく」(八〇九)。く〔傍点〕は四段動詞及び良變動詞の未然形に接して此を體言の格に(33)定めると共に其の意義を強化する接辭。他の動詞にあつては終止形から「らく」の形で接する。(下出、三二六參照)。人の榜がずあることがよく分る意。○潜きする 水中にもぐる事、鴛鴦《をし》と※[爾+鳥]《たかべ》と兩方にかゝる。水の中に住む習ひの鴛鴦や※[爾+鳥]がの意。○ 新撰字鏡に「※[壇の旁+鳥]」又「鳧」を太加戸と訓み、又和名抄に※[爾+鳥]を多加閉と訓み、「一名沈鳧貌似v鴨而小背上有v文」とある。今普通に小鴨と云つてゐるものである。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も 神さびけるか 香山《かぐやま》の 鉾※[木+温の旁]《ほこすぎ》が本に 薛《こけ》生《む》すまでに
 
【口譯】 何時の間にやら神々しくなつたことである。香具山の鉾杉にこけが生えるまでに。
【語釋】 ○何時の間も神さびけるか 上のも〔傍点〕は咏嘆、下のか〔傍点〕は元來疑問を表すものであるが、上のも〔傍点〕に應じて詠嘆の氣特が強く響く。○鉾※[木+温の旁]が本 鉾の長さ程ある若杉とか、若杉は鉾の形をしてゐるからだともいはれてゐる。若杉と考へたのほ「本」を「末《うれ》」とする考の説によつたからであらうが、若杉であつては、次の句に「薛生す」とあるに合はない。すく/\とのびた杉の木があたかも鉾の如き形をしてゐる故にかくいつたのであらう。書紀顯宗紀二年十一月「石上振之神※[木+媼の旁]【※[木+温の旁]此云須擬】」。○香山 普通には「香具山」と書くが、香山〔二字傍点〕でもさう訓むことは、書紀神代の卷に「香山、此云2介遇夜縻1」とあることによつて知られる。○薛生すまでに 薛〔傍点〕はコケと訓まれてゐるが、元來は「まさきのかつら」の事で、蘿や苔とは別物である。然し薛蘿といふ語もあるので、こゝでは蘿(まつのこけ)と同樣に用ひられてゐるものと思はれる。
(34)【後記】 鴨君足人の傳は明かでないが、この集に收められた以上三首(或本云を加へれば四首)の歌からみるに、今日に傳はつた作品こそ少けれ、其の淡々たる歌ひぶりの中によく視點を掴んで巧に表現してゐる點では、彼も亦異色ある萬葉歌人であつたといへる。
 
或本の歌に云ふ
 
260 天降《あも》りつく 神の香具山《かぐやま》 うち靡く 春さりくれば 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しゞ》に 松風に 池浪騷ぎ 邊《へ》つへには あぢむら騷ぎ 奥邊《おきへ》には 鴨妻喚ばひ 百磯城の 大宮人の 退《まか》り出て 榜ぎける舟は 竿《さを》梶《かぢ》も 無くてさぶしも 榜がむと思へど
 
右今案ずるに、都を寧樂に遷しし後、舊きを怜《かな》しみて此の歌を作れるか。
【語釋】 ○神の香具山 神の〔二字傍点〕とは香具山を尊んでいつたものであらう。○うち靡く 春〔傍点〕の枕詞、冠辭考曰「髪にも草木にも靡く物に冠らせ、また春とつゞけたるは、春は草木の若くなよゝかに靡くを云也」。○あぢむら騷ぎ 卷十七「なぎさには安遲牟良佐和伎《アヂムラサワギ》」(三九九一)、又上の歌にも「味村左和伎《アヂムラサワギ》」とあり、又さわぐ〔三字傍点〕の枕詞的に用ひられた卷二十「あぢむらの佐和伎伎保比弖《サワギキホヒテ》」(四三六〇)等の例はあるが、略解のやうにトヨムと云つた例は(35)ないので、舊訓のまゝにサワギと訓む。
【後記】 前の歌の異傳であらうが、終りの方は前の歌の方がよい。
【左註】 此は正しく後人の誤れる註記である。寧樂遷都は和銅三年の事であり、此の歌はそれ以前の作と考へられるからである。(國語國文の研究第四十號澤瀉久孝氏參照)
 
柿本朝臣人麻呂|新田部皇子《にひたべのみこ》に獻《たてまつ》れる歌一首并に短歌
 
261 やすみしゝ 吾|大王《おほぎみ》 高輝《たかひか》る 日の皇子《みこ》 敷きいます 大殿《おほとの》の上に 久方の 天《あま》傳ひ來る 白雪《ゆき》じもの 往きかよひつゝ 彌《いや》常世《とこよ》まで
 
【題意】 新田部皇子は天武天皇第七皇子。御母は藤原五百重娘。神龜元年二月一品、天平三年十一月畿内大惣管。天平七年九月薨ず。集中歌無し。卷十六・三八三五の左註に御名が見えてゐる。
【口譯】 新田部の皇子が住んでいらつしやる御殿に、ちやうど空から降つてくる雪のやうに、いつまでもゆき通つてお仕へ致しませう。
【語釋】 ○高輝る 既出二三九參照。一般には「高光」と書かれ、輝〔傍点〕(神田本に依れば耀)を用ひたのは集中これだけである。○敷きいます 敷く〔二字傍点〕は治めるの意。こゝでは住む・構へるなどがあたらう。○大殿の上に (36)本文「大殿於」とある。於〔傍点〕をウヘと訓むは、續日本紀卷一、大方元年遣唐使任命の記中に「山於憶良」とあり、和名抄河内國志紀郡、井於【井乃倍】」。「うへ」「へ」共に「邊」の意。○天傳ひ來る 雪が空から降つて來る有樣をいふ。○白雪じもの 白雪〔二字傍点〕は義によつてユキと訓む。ゆきじもの〔五字傍点〕は雪の如く。「往《ユ》き」にかゝる。上掲二三九參照。
【後記】 人麿の長歌にしては珍らしく短いものである。次の反歌は雪の朝を歌つてゐるから、「天傳ひ來る白雪じもの」といふ句も、單なる序ではなくて、實景をとり入れてゐると思はれる。
 
反歌一首
 
262 矢釣山《やつりやま》 木立《こだち》も見えず 落《ふ》り舞《まが》ふ 雪に驪 朝《あした》樂《たぬ》しも
 
【語釋】 ○矢釣山 矢釣〔二字傍点〕は大和國高市郡、今の飛鳥村大字八釣。顯宗天皇の皇居のあつた處である。○第三句以下は舊本には「落亂雪驪朝樂毛《チリマカフユキモハタラニマヰテクラシモ》」とあり、集中難訓難解歌の一つとされてゐるが、こゝには生田耕一氏の新説を紹介しておく。それによれば驪〔傍点〕は類聚古集によつて驟〔傍点〕に改め、ウクツクと訓むのである。うくつく〔四字傍点〕は馳驟の意。從つて、三句は降りまがふ雪の中を馬を驅つて馳驟する朝の樂しさよ、といふ意味になる。但し生田氏は右の訓解の他に今一つ神田本の驢〔傍点〕をとつて「落《フ》リ亂れ雪驢《ユキハタラ》ナル朝《アシタ》樂シモ」しと訓み、「雪が降り亂(37)れて今は見る限り野も山も一面班らに雪が降り積つた、何と樂しい朝である事よ」といふ解釋む提出してをられるが、氏自らは前説に從ひ度いと言つてをられる。(日本文學論纂、又は萬葉集難語難訓攷)なほ今後の研究に俟ちたい。
 
近江國より上り來る時、刑部垂麿《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
 
263 馬ないたく 打ちてなゆきそ 日《け》並べて 見ても我がゆく 志賀にあらなくに
 
【題意】 刑部垂麿は傳未詳。「おさかべ」は和名抄三重郡「刑部【於佐加倍】」とあり。古事記傳三十九に詳しく述べられてゐる。
【口譯】 さうひどく馬に鞭うつなよ。幾日もかゝつて見てゆける志賀ではないのだから。
【語釋】 ○馬ないたくうちてな行きそ 本文「馬莫〔右○〕疾打莫〔右○〕行」とあり、「莫」が重複するところから、本來は「吾馬疾」とあつたのが「吾」の草が「莫」に誤られ、更に「馬莫」と轉倒したのであらう、よつてアガマイタクと訓むべしといふ古義の誤字説、或は新考のやうに「莫」は衍字でウマイタクと訓むべきであると云ふ衍字説等とり/”\に行はれたのであるが、諸本を檢しても更に誤字或は衍字らしい樣子がみられない。本文を此のまゝとすれば「馬ナ〔右○〕イタクウチテナ〔右○〕ユキソ」とよむより仕方がない。此の樣に禁止の詞が二重に用ひられた例は集中唯一つであり、又上代の文献にもをさ/\見られない特異な例である。此の點破格とい(38)つて斥けられても仕方がないが、然し平安時代以後のものになると、折々これに類する例がうかゞはれるのである。其れ故に、一概に文法上の破格として片付ける事も出來ない。二重に禁止の詞を用ひたのは、用ひる人の氣特にさうしなければならぬものが存在してゐたからであらう。此の歌などでは「馬いたくうちてゆく」といふ事を禁止するのに「な」一つでは物足りず、特に強く表現しようとしてこの樣な異例樣式をとる結果になつたのだと思はれる。「な……そね」の形は下出二九九參照。○日並べて 卷二十に「比奈良倍弖《ヒナラベテ》雨は降れども」(四四四二)のひならべて〔五字傍点〕に同じ。幾日もかゝつて。
【後記】 はやく馬を走らせようとする從者にでもいつたものであらうか。作者はこの志賀の風景をゆつくりと見乍ら行きたかつたのであらう、表現の樣式がひどく變つた歌である。
 
柿本朝臣人麻呂、近江國より上り來る時、宇治河の邊に至りて作れる歌一首
 
264 もののふの 八十氏河の 網代木《あじろき》に いさよふ浪の 行方《ゆくへ》知らずも
 
【口譯】 宇治河の網代木にうちよせる浪が、しばらくたゆたうては行方も知らずなつてしまふことだ。
【語釋】 ○もののふのやそうぢ河の もののふ〔四字傍点〕とは武人のみに限らず百官臣僚をもいふ。下にも「八十伴緒」(39)(四七八)とあり、其の數多きによつて「もののふのやそ」と枕詞に用ひたものであらう。やそ〔二字傍点〕が「八十氏」にのみかゝらぬ事は、卷十三「物部乃八十乃心呼《モノノフノヤソノココロヲ》」(三二七六)、卷十九「物部能八十※[女+感]嬬等之《モノノフノヤソヲトメラノ》」(四一四三)等の例によつて知られる。然しこゝでは「八十氏」の意でその「氏」を「宇治河」の宇治〔二字傍点〕にかけてある。從つて「もののふのやそ」は宇治〔二字傍点〕にかゝる序詞となつてゐるのである。○網代木 竹木を編んで列ね、これを川の瀬に網として魚を捕へるやうにしたものを網代といふ。網代を組んでゐる木が網代木である。内膳式に「山城國近江國、氷魚網代各一所、其氷魚始2九月1、迄2十二月三十日1、貢之」とあり、宇治河は其れにあたつてゐたのであらう。○いさよふ すゝみかねてたゆたうてゐる事、浪が流れようとして流れないでゐる樣、下出三七二・三九三・四二八參照。
【後記】 卷七「大伴の三津《みつ》の濱邊をうち曝しよせくる浪のゆくへ知らずも」(一一五一・作者不明)の歌によく似て、何か結句のあたりに、無常親のうかゞはれる歌である。單なる敍景の歌ではない。調子の上にも淀みのない感慨深い作である。
 
長忌寸奥麻呂の歌一首
 
265 苦しくも 零《ふ》り來る雨か みわが崎 狹野《さぬ》のわたりに 家もあらなくに
 
(40)【口譯】 どうも困つたことに降つて來る雨ではある。三輪崎の佐野の渡場には家もないのに。
【語釋】 ○苦しくも零り來る雨か か〔傍点〕は唯の詠嘆ではなくて、上にも〔傍点〕があるために感動の意が切實に迫る。むしろとがめるやうな感じを含んでゐる。下にも「時はしもいつもあらむをこころいたく伊去吾味可《イユクワギモカ》若子をおきて」(四六七)とあるか〔傍点〕に同じい。○みわがさき狹野のわたりに 三輪崎は紀伊國東牟婁郡の海岸にあり、狹野〔二字傍点〕(佐野)は其の西南海岸にある地。わたり〔三字傍点〕とは渡場の意。後世の「あたり」に用ひた例は萬葉にはないやうである。
【後記】 雨に悩んだ困惑の情を素直に歌つて、一入のあはれさが感じられる。此の歌について直ぐに思ひ出されるのは、新古今集定家の「駒とめて袖うち拂ふかげもなし佐野の渡の雪の夕ぐれ」の歌である。萬葉と新古今との相違が感じられる。
 
柿本朝臣人麻呂の歌一首
 
266 淡海《あふみ》の海《み》 夕波千鳥《ゆふなみちどり》 汝《な》が鳴けば 心もしぬに いにしへ思《おも》ほゆ
 
【口譯】 近江の湖、その夕浪にさわぐ千鳥よ、お前が鳴くと心もしほれるばかり昔のことがなつかしく思はれることだ。
(41)【語釋】 ○淡海の海 近江の湖、みづうみにも「海」の文字を用ひるのは集中普通の事である。日本紀神功皇后の條、武内宿禰の歌に「阿布彌能や《アフミノミ》潮田のわたりに潜く鳥」とあるによつてアフミノミとよむ。○夕浪千鳥 夕浪にさわぐ千鳥、人麿の新造語の一つである。千鳥〔二字傍点〕は澤山の鳥であるといふのと、所謂千鳥と云ふ特定の鳥であるといふのと二説あり、卷十六「百千鳥千鳥は來れど」(三八七二)、又同「吾が門に千鳥數鳴く」(三八七三)の如きは明かに後者の義であるが、こゝではやはり鳥の名であると考へる方が相應しいやうである。○心もしぬに 卷十七「許己呂母之努爾《ココロモシヌニ》おもほゆるかも」(三九七九)、卷十一「うち靡く心裳四怒爾《ココロモシヌニ》おもほゆるかも」(二七七九)等多く用ひられてゐる。卷十「秋の穗を之努爾《シヌニ》押靡べ置く露の」(二二五六)とあり、「しなふ」或は「しなえる」ことで、「こゝろもしぬに」と用ひれば、心もうれひしほれての意味になる。近來、上代特殊假名遣の方でこの「努」のよみ方が問題となり、すでにこの總釋でも、ノとよむのに從つてをられる方があるが、暫く舊來のまゝとしておく。以下これに倣ふ。
【後記】 人麿の歌の中で、いや萬葉集二十卷の中で最も勝れた歌の一つとして人口に膾炙せられてゐるものである。こゝに拙い鑑賞的な言辭をするには及ぶまい。
 
志貴皇子《しきのみこ》の御歌一首
 
267 ※[鼠+吾]鼠《むささび》は 木未《こぬれ》求むと あしひきの 山の獵夫《さつを》に あひにけるかも
 
(42)【題意】 志貴皇子は天智天皇第七皇子、光仁天皇の御父。本集には靈龜元年九月薨とあるが、續日本紀には靈龜二年八月とある。集中における御作凡て六首、五一・六四は既出。
【口譯】 ※[鼠+吾]鼠は、自分の住むべき梢を求めようとして、獵師に出會うた事であつた。
【語釋】 ○※[鼠+吾]鼠 和名抄に「※[鼠+吾]鼠【毛美俗云無佐々比】」と訓じ、兼名苑の註をひいて、状如v猿而肉翼似2蝙蝠1、能從v高而下、不v能2從v下而上1、常食2火烟1、聲如2小兒1者也」と言つてゐる。○木末《こぬれ》求むと 木末〔二字傍点〕は梢の事。卷七「三國山木末に住まふ武佐左妣の鳥待つが如」(一三六七)とあるをもつてみれば、※[鼠+吾]鼠は鳥を補へ食ふが爲に梢に住むものと思はれる。○山の獵夫 さつ〔二字傍点〕は「さつ矢」「さつ弓」等のさつ〔二字傍点〕でさつを〔三字傍点〕をは山で獵する男。
【後記】 何か寓せられた意味があるやうに思へるが、題詞無きため明かには知り難い。
 
長屋王《ながやのおほぎみ》の故郷の歌一首
 
268 吾が背子《せこ》が 古家《ふるへ》の里の 明日香《あすか》には 千鳥鳴くなり 君待ちかねて
 
右、今案ずるに、明日香より藤原宮に遷りましゝ後此の歌を作れる歟
 
【口譯】 貴方がもとお住ひになつてゐた家のある飛鳥の里には、貴方の御歸りを待つ事が出きないで千鳥が鳴いてをります。
(43)【語釋】 ○古家の里 皇子がもと住んでをられた宅地のある處。
【後記】 左の註にあるやうに、飛鳥から藤原宮に遷都のあつた後、長屋王が他の皇子と共に故郷を訪ねられ、千鳥の鳴いてゐるのを聞いてよまれたものであらう。
 
阿倍女郎《あべのいらつめ》の屋部坂《やべさか》の歌一首
269 人見ずば 我が袖もちて 隱さむを 燒けつゝかあらむ 着ずて來にけり
 
【題意】 阿倍女郎は傳未詳。集中凡て作五首あり。熱情的歌人。屋部坂を本居宣長は、三代實録三十八に、高市郡夜部村」とある地の事であらうと言ひ、大日本地名辭書には今の磯城郡多村大字矢部がさうではないかとされてゐるが、確かには分らない。
【口譯】 見る人が無いのなら、自分の袖で隱してやらうものを、此の屋部坂は、體が燒けてゐるのであらうか、これまで着物を着ないで來たことだ。
【後記】 第一句、第五句色々訓み方があり、其の全體の意味もとり難い歌であるが、右のやうに考へれば穩かに解けるやうに思はれる。
 
(44)高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の覊旅の歌八首
 
270 旅にして もの戀《こほ》しきに 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船 沖に榜ぐ見ゆ
 
【題意】 高市連黒人は卷一・三二題詞及び七〇題詞參照。集中作凡て十九首。孰れも旅中の歌である。
【口譯】 旅にあつて、なんとなく戀しい思がするときに、おゝ沖に朱塗の船が見える。あれは都に通ふ官船だ。
【語釋】 ○旅にして し〔傍点〕は「爲《ス》」(左變動詞)の連用形であるが、「あり」の代用をしてゐる。旅にありての義。下出二八七・三六七・三七五・三九六・四五六・四五八參照。○山下の 仙覺は地名であると云ひ、契沖は山の下を漕ぐ意に解した。宣長は玉の小琴に舊訓のヤマモトを斥けて「やましたと訓べし。こは赤の枕詞也。さる故は古事記に、春山乃霞をとこ、秋山のしたひ壯士と見え、十卷に秋山の舌日が下とも有て、冠辭考に、したひは紅葉の由いはれしが如し、然は山下ひ赤と續く意也云々」と言つてゐる。今はこれに從つて赤〔傍点〕の枕詞とみておく。○そほ船 そほ〔二字傍点〕は赤色の土、そほ船〔三字傍点〕はそほで赤く塗つた船。卷十六「沖行くや赤羅《あから》小船につとやればけだし人見て解きあけみむかも」(三八六八)とある赤羅小船〔四字傍点〕も赤のそほ船と同じものであるが、其の左註によつて、これが官船を指したものであることが知られる。即ち朱塗の船は官船を意味するものであつた。
 
(45)271 櫻田へ 鶴《たづ》鳴き渡る 年魚市潟《あゆちがた》 潮《しほ》干《ひ》にけらし 鶴《たづ》鳴きわたる
 
【口譯】 櫻田の方へ鶴が鳴いて行く、愛知潟は潮が干たのであらう。鶴が鳴いてゆく。
【語釋】 ○櫻田 和名抄に「尾張國愛智郡作良郷」とある作良《サクヲ》の郷の由である。但し櫻田が地名で田の事は歌の内容とは關係がないといふ説もある。作良は今熱田の東南櫻の事であらう。○年魚市潟 和名抄に「尾張國愛知【阿伊知】」とある處で、書紀神代紀上に「尾張國吾湯市村」とあるによつて古くはアユチといひ、後にアイチと云ふやうになつたと思はれる。年魚〔二字傍点〕をアユと訓む事は、和名抄に鮎魚を阿由と訓じ、更に「崔禹食輕云(中略)春生夏長、秋衰冬死、故名年魚也」とあるによつて明かである。
 
272 四極山《しはつやま》 うち越え見れば 笠縫《かさぬひ》の 島榜ぎかくる 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
 
【口譯】 四極山をうち越えて見渡すと、笠經の島蔭に舟棚の無い小舟が榜ぎ隱れて行くのが見える。
【語釋】 ○四極山 極〔傍点〕は卷十「昨日こそ年は極之賀《ハテシカ》」(一八四三)、卷九「吾が船|將極《ハテム》泊り知らずも」(一七一九)等「はつ」といふ動詞に用ひられてゐる。四極山〔三字傍点〕は代匠記に、和名抄に、參河國幡豆都磯泊【之波止】」とある地であらうといひ、又住吉にも磯齒津といふ地名のある事を附記してゐる。古事記傳(三十五)には後説を支持してを(46)り、全釋等この方に從つてゐるが、既に攷證に「考ふるにこの黒人は東國の官人にて、任國より都へのぼる道のほどの歌にて、まへに尾張の地名をよみ、後に近江の地名をよめれば、こゝもその近國にて參河ならん事明らけし」といつてゐるやうに、前後の歌から考へると、こゝに、攝津の歌が突然に入つて來るのが變であり、更に守部が檜嬬手に「思ふに攝津にも四八津ありて六卷に歌あれど其地には山もなく云々」といつてゐることなど考へ合せると、こゝは參河國の説に從ひ度くなるが、いづれともきめがたい。○笠縫の島 未詳。○棚無し小舟 和名抄舟具に、「※[木+世]」を不奈太那と訓じ、註に「大船旁板也」とある。小舟には此のたなが無いので、棚無し小舟といふのであらう。
【後記】 古今集大歌所の歌に「しはつ山ぶり」として「しはつ山うち出でて見れば笠ぬひの島こぎかくる棚なし小舟」とあるのは、此の歌が傳誦の間に誤まられたものであらう。
 
273 磯の埼 榜ぎたみ行けば 近江の海《み》 八十の湊に 鵠《たづ》多《さは》に鳴く 未だ詳ならず
 
【口譯】 磯の崎を榜ぎ廻つてゆくと、近江の湖の多くの湊ごとに、鶴が澤山鳴いてゐる。
【語釋】 ○磯の崎 地名ではない。湖に出はつた磯。○榜ぎたみ行けば 榜ぎめぐり行けば。○八十の湊に 八十〔二字傍点〕は多い事、多くの湊に。多くの湊の鵠を一度に聞けるものでないから、八十〔二字傍点〕は地名であるといふ説(檜(47)嬬手)もあるが、多くの湊の鵠を一度に聞くのではない、磯の崎をめぐつてゆく毎にどこの湊でも、の意である。○鵠 和名抄には久久比とあるが、こゝはさうでなくて鶴に通じて用ひたのである。
【後記】 歌の終りに「未詳」とあるが、類聚古集・古葉略類聚鈔・神田本三本には見えぬ。多分後人の書入れが混入したものであらう。
 
274 吾が船は 枚《ひら》の湊に 榜ぎ泊てむ 沖へなさかり さ夜ふけにけり
 
【口譯】 私の乘つてゐる此の船は、今夜は比良の津に泊らう。沖の方へ漕ぎ離れるなよ。夜も更けて了つたことだ。
【語釋】 ○枚の湊 和名抄に河内國讃良郡枚岡を比良乎加とも訓じてゐる。比良の湊は近江國滋賀郡にあり、今、木戸小松の二村に亘つてゐる。○沖へなさかり 禁止を表すのに「な……そ」といふ形が固定したのは、平安時代に入つてのちのことで、萬葉集の時代にあつては、「な……」のみで「そ」を略した例がある。沖へ離れるなの意。下出三七四參照。
【後記】 卷七「吾が船は明石のうみに榜ぎはてむ沖へなさかりさよふけにけり」(一二二九)とあるのは、此の歌の改作であらうか。作者の分つてゐる中で、かくも明瞭に三句切れになつてゐるの(48)は、この歌が最初であると言はれてゐる。
 
275 何處《いづく》にか 吾は宿らむ 高島の 勝野《かちぬ》の原に この日暮れなば
 
【口譯】 何處へ私は宿らうか。若し高島の勝野の原で今日の日が暮れて了つたなら。
【語釋】 ○高島の勝野の原 和名抄に「近江國高島郡三尾【美乎】」、又卷七「大御舟泊てゝさもらふ高島之三尾勝野《タカシマノミヲノカチヌノ》なぎさし思ほゆ」(一一七一)。勝野〔二字傍点〕は三尾の中にあるのであらう。今の大溝村である。
【後記】 廣い野原で、西に傾いた夕陽を仰ぎつゝ、よるの宿を思ひながら急ぎゆく姿を其のまゝ歌つたもの。
 
276 妹《いも》も我も 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる
 
【口譯】 自分も妹も一つ體であるからであらうか、三河の國の二見の道から別れかねたことである。
【語釋】 ○一つなれかも 一つなればかも〔七字傍点〕の「ば」の無い形。かも〔二字傍点〕は疑問。此のやうな場合に「ば」は必ずしもなくてよかつた。上掲二三七參照。○二見の道 三河國にある地名と考へられるが、何處を云ふのか明かで(49)ない。
【後記】 全釋に云つてゐるやうに、黒人が三河の任を終へて都に歸らうとする時、そこで親しくなつた女に、別れに臨んで、よんで與へたものであらう。一〔右○〕つなれかも三〔右○〕河なる二〔右○〕見の道と、一、三、二の數字を三句の頭に置いて詠んだのは遊戯的意識にもとづくものと思はれる。卷十三「二〔右○〕つ無き戀をしすれば常の帶を三〔右○〕重結ぶべくわが身はなりぬ」(三二七三)といふのも同樣な歌である。
 
一本に云ふ
 
三河の 二見の道ゆ 別れなば 吾が背も吾も 獨りかもゆかむ
 
【口譯】 三河の國の二見の道から別れて了つたならば、夫も私も、獨り/\ゆくことであらうか。
【後記】 二七六の歌を如上の通りに解すれば、此の歌も當然それに對して女が應へた歌と見なければならぬ。ゆく人もかへる自分もこれからは獨りでゆくことであらうと言つたのである。
 
(50)277 速《と》く來ても 見てましものを 山城の 高の槻|群《むら》 散りにけるかも
 
【口譯】 早く來て見ればよかつたものを、山城の多賀の槻の黄葉はもう散つて了つたことだ。
【語釋】 ○高の槻群 「高槻村」を以前にはタカツキムラノ・タカツキノムラ・タカキツキムラ等と訓んでたかつき〔四字傍点〕は地名であるとか、高き槻であるとかいはれてあたが、それは孰れも不十分で、たか〔二字傍点〕は和名抄に「綴喜郡多賀郷」とある處、即ち今の多賀村及び井手村附近の地であり、ツキムラは槻群の意であると、生田耕一氏が新しい説を立てられたのに從ふ事にする。(藝文第二十一年第一號又は萬葉集難語難訓攷)。○ましものを 「まし」に「ものを」がついたもの。この形は下出、四六六にもある。「まし」の事は、下出四〇四參照。「ものを」は同じく三二一參照。
 
石川少郎《いしかはのおとつこ》の歌一首
 
278 志可《しか》の海人《あま》は 藻《め》苅《か》り鹽燒き 暇無み 櫛笥《くしげ》の小櫛《をぐし》 取りもみなくに
 
右今案ずるに、石川朝臣君子、號を少郎と云へり。
 
【題意】 石川少郎は此の歌の左註に依れば石川君子の事で、少郎とは其の號である。又卷九・一七七六播磨娘子の歌の題詞に石河大夫とあるのも同一人の事であらう。君子は和銅六年正月正七位上より從五位下、靈龜(51)元年播磨守、養老五年六月侍從、神龜三年正月從四位となる。少郎は太郎・仲郎に對して末男の意。上掲二四七參照。
 
【口譯】 志可の海人は、藻を苅つたり鹽を燒いたりして暇が無いので、櫛箱の小櫛を手に取つても見ないことだ。
【語釋】 ○志可 和名抄「筑前國糟屋郡志珂」とある地。○無み 所謂形容詞の語幹に「み」がついたものといはれてゐるものである。一般に「……ので」「……さに」といふ理由を示す口語譯があてられてゐるが、一方理由を示さない場合もある。これに二種類あつて、中止形になる場合と(下出・三二四)、下の用言を修飾する場合とある(二三九・三四一)。この「み」については動詞語尾とする説、單に接尾語とみる説の兩説が行はれてゐるが、ずつと以前は兎に角、今日ではこの「−み」の形だけしか殘つてゐないのだから、形態を主とする文法の立場から云へば、これを動詞とみるのには賛成致しかねる。副詞の接辭と見るべきであらう。下出二九〇・二九四・二九七・三一〇・三二一・三六六・三六七・三六八・三八二・三八八・四一四・四四一・四四三・四五六・四六五・四八三參照。○櫛笥 本文「髪梳」とあり、舊訓にツゲノと訓んでゐるが、今は櫛匣の借字とみてクシゲと訓む説に從ふ。
【後記】 石川少郎が筑前國にゆき海人の身たしなみする暇も無い樣を見てよんだものと思はれる。此れを女が自分の事をいつたものと見て、石川少郎も女郎の誤りであらうとするのはいか(52)が。伊勢物語八十六段に「昔、男、津の國兎原都蘆屋の里にしるよししていきて住みけり、昔の歌に、あしの屋のなだの鹽燒きいとまなみ黄楊の小櫛もさゝず來にけり と詠みけるは、この里を詠みけるなりけり」とあるは、此の歌を改作して一篇の情話を構成する要素にしなしたものである。
【左註】 此の君子を守部が檜嬬手に、遊行女婦なりとして、君子は江口の君、神崎の君など中昔迄も專ら云り」と言つてゐるのは臆斷に失してゐる。後人の註記であるとしても一應は從ふべき詞とみられる。
 
高市連黒人の歌二首
 
279 吾妹子《わぎもこ》に 猪名野《ゐなぬ》は見せつ 名次山《なすぎやま》 角《つぬ》の松原 いつか示さむ
 
【口譯】 妻に猪名野はもう見せてやつた、名次山や角の松原は何時見せてやらうかしら。
【語釋】 ○猪名野 和名抄に「攝津河邊郡爲奈」とある處の野。猪名川の兩岸の平地である。○名次山 神名帳に、攝津國武庫郡名次神社」とある名次神社のある處、西宮の北にあたる。次〔傍点〕をスギと訓むのは、書紀天武紀五年「次此云須岐也」、又集中枕詞の「玉手次《タマダスキ》」等によつて明かである。○角の松原 和名抄に「武庫郡津門郷訓都止」とあるのが、この角《つぬ》の事ではないかといはれてゐる。津門は今、今津村の中に大字として名(53)が殘つてゐるさうである。
【後記】 妻を伴つて西に向ふ途中、かねて見せてやり度いと思つてゐた猪名野は既に見せたが、名次山や角の松原は何時になつたらみせてやれるだらうか、と心に待つ氣持である。
 
280 いざこども 大和へ早く 日菅《しらすげ》の 眞野の榛原《はりはら》 手折りてゆかむ
 
【口譯】 さあ、お前達よ、大和へ早く歸らうぞ、この眞野の榛を土産に手折つて行かう。
【語釋】 ○いざこども 古事記中卷「伊邪古杼母《イザコドモ》 怒毘流都美邇《ヌビルツミニ》 比流都美邇《ヒルツミニ》」、又卷二十「伊射子等《イザコドモ》たはわざなせそ」(四四八七)其の他、下出三八八、卷六・九五七、卷十・二一七三などに例がある。友人若しくは從者等をよんだものと思はれる。○白菅の 卷十一「白菅乃知爲等《シラスゲノシレニシタメト》」(二七六八)を除くと、次の二八一及び卷七・一三五四孰れも「眞野榛原」とあり、枕詞的な語であると思はれる。○眞野 攝津武庫郡にあり、今神戸市の眞野町と云ふのは、其の名を留めてゐるものであらう。下出三九六に「みちのくの眞野乃草原」とあるが、ここの眞野とは別である。○榛原 古くは萩と榛とを同一のものに考へ、契沖は、草のはぎは芽又は芽子と書き、榛は木のはぎにてはんの木の事であると言つてゐるが、既に古事記傳に詳細に論じてゐるやうに、榛は波理《ハリ》と訓むべきもので、花の萩とは全く別物であり、その樹皮及び實は染料に用ひたものであるといふ。(54)(上村六郎氏上代染色考參照)。しかしこの決定は、な桔今後に俟つべきものと思はれる。
【後記】 前の歌を西に下向の作とみれば、此の歌は都に歸る途中の歌である。第一、第二句、少しも餘分な語を用ひず、急ぐ心地をよく表現してゐる。卷一の、山上憶良の作「いざ子ども早もやまとへ大伴の御津の濱松待戀ひぬらむ」(六三)の句法によく似てゐる。
 
黒人の妻の答ふる歌一首
 
281 白菅の 眞野の榛原 往《ゆ》くさ來《く》さ 君こそ見らめ 眞野の榛原
 
【口譯】 貴方は眞野の榛原を往きにも歸りにも御覽になりませうが、女の私はねえ。
【語釋】 ○往くさ來さ 卷二十「由久左久佐《ユクサクサ》つゝむことなく舟は早けむ」(四五一四)、助詞が入ると卷九「往方毛來方毛《ユクサモクサモ》舟の早けむ」(一七六四)、共に名詞。行きに歸りにの意。「往くさ」は下に「去左爾波《ユクサニハ》二人吾が見し此の崎を」(四五〇)と用ひられてゐるが、「來さ」を單獨に用ひたものは無いやうである。○君こそ見らめ 後世ならば「見るらめ」といふべきところを、「見らめ」といふのが此の集の普通の語遣ひである。
【後記】 此の歌、二八〇の黒人の歌に答へたものである。二七九の歌から察すれば黒人は妻を伴うて西下してゐる事がわかる。しかして二八一のこの歌は黒人夫妻が西から大和へかへる時の(55)ものゝやうである。さうすると、これは黒人の妻が「殿御は何しろ出張や何かでこの美しい眞野の榛原を旅の往來に御覽になれませうけれど、女はさう輕々とはゆけませんからねえ」と、いさゝか男の自由を羨やんだ氣特のものとならう。
 
春日藏首老《かすがのくらびとおゆ》の歌一首
 
282  つぬさはふ 磐余《いはれ》も過ぎず 泊瀬山《はつせやま》 いつかも越えむ 夜は更《ふ》けにつゝ
 
【題意】 春日藏首老の傳については、卷一(五六・六二)參照。
【口譯】 未だ磐余も通らない、泊瀬山を越えるのは、何時の事であらうか。夜は次第に更けて行くことだ。
【語釋】 ○つぬさはふ 「いは」に係る枕詞。冠辭考は「奴磋《ヌサ》の反|奈《ナ》なれは菟奈《ツナ》の奈《ナ》を延《ノベ》て菟怒瑳《ツヌサ》といひ、破赴《ハフ》は蔓の這《ハフ》也、且その菟奈《ツナ》と蘿と同じき事右にいふが如くて蘿這《ツタハフ》岩てふこと也けり」といつてゐるが、どうも首肯出來ない説明である。全釋は「蔦多蔓《ツヌサハフ》の義」といひ、山田博士の講義には、「つぬ〔二字傍点〕はつた〔二字傍点〕(絡石)、さはふ〔三字傍点〕のさ〔傍点〕は接頭辭即ちつたはふ岩の意で、枕詞」とある。○磐余 舊本|石村《イハムラ》とあるのを、代匠記に從つてイハレと訓む。大和國磯城部。今安倍村に磐余《イハレ》川といふのがある。○泊瀬山 初瀬町大字初瀬にある山。○夜は(56)更けにつゝ 「つぬさはふ磐余も過ぎず」「泊瀬山いつかも越えむ」の兩方にかゝつてゐる。上の「ず」は連用形中止法であらう。につゝ〔三字傍点〕の「に」は完了助動詞、「つゝ」は完了助動詞の「つ」を重ねて用ひた助詞、につゝ〔三字傍点〕はそれを伴ふ動詞によつて示される動作が反復されてゐるにもかゝはらず、それが無効に歸してゐるといふやうな場合に用ひる。(奈良文化第二十四號安藤正次氏參照)
【後記】 藤原の都を出て、磐余から初瀬の山越えに遠く旅する時の歌でもあらうか。更けゆく旅路を辿る人の淋しさと焦躁とがうかゞはれる。
 
高市連黒人の歌一首
 
283 住吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立ちて 見渡せば 武庫《むこ》の泊ゆ《とまり》 出づる船人
 
【口譯】 住吉の得名津に立つて見渡すと、武庫の泊から舟人が漕ぎ出すのが見える。
【語釋】 ○住吉の得名津 和名抄に「攝津國榎津【以内豆】」とある處、今の住吉町のあたりか。○武庫の泊 和名抄に「攝津國武庫郡武庫【無古】」とある地であるといひ、或は今の兵庫であるともいふ。泊〔傍点〕は舟の泊る處。
【後記】 武庫の泊とさだかに分つてゐなくとも、武庫の邊から出かけてくるのを武庫の泊から出るとみてよんだ歌であらう。
 
(57)春日藏首老の歌一首
 
284 燒津邊《やきつべ》に わがゆきしかば 駿河なる 阿倍の市道《いちぢ》に あひし子らはも
 
【口譯】 燒津のほとりに私が行つた時、駿河の安倍の市へ通ふ道で逢つた乙女があつたが、あの乙女は……。
【語釋】 ○燒津邊 燒津〔二字傍点〕は記紀日本武尊の説話にも出て來る處、今の燒津港、靜岡の西、潮戸川の河口。邊〔傍点〕はほとりである。○ゆきしかば 二五三の「行き過ぎかてに思へれば」とあるば〔傍点〕と同じ遣ひ方で、理由を表すのでなく、「いつたら」「いくと」「いつた時に」等の意である。下出三八八參照。○阿倍の市道 和名抄「駿河國【國府在阿部郡行程上十八日下九日】」、即(58)ち阿倍〔二字傍点〕は阿倍川の東に在る今の靜岡、市道〔二字傍点〕は市へ通ふ道。○逢ひし子らはも ら〔傍点〕は單數の場合にも接尾辭として用ひる。此の下に「憶良等《オクララ》は今はまからむ」(三三七)とある「ら」も同樣である。子ら〔二字傍点〕は乙女。この意味に用ひた「子ら」は下出三〇二參照。はも〔二字傍点〕は助詞の「は」に詠嘆の助詞「も」の添加せるもの、口語の「何何はマア」に當るといはれてゐる。餘情を含めて追想するときに用ひられる。下出三五二・三八七・四五五參照。
【後記】 裏には、あの兒はいまどうしてゐるかしらといふ氣特が多分に含まれてゐる。
 
丹比眞人笠麻呂、紀伊國に往き勢の山を超ゆる時作れる歌一首
 
285 栲領巾《たくひれ》の 懸けまくほしき 妹が名を この勢の山に 懸けばいかにあらむ【一に云ふ代へばいかにあらむ】
 
【題意】 丹比眞人笠麻呂は傳未詳。人麿とほゞ同じ時代の人。勢山は書紀孝徳天皇二年「南自2紀伊兄山1以來【兄此云制(中略)】爲2畿内1」とあり、今紀伊國伊都郡笠田町背山の北に在る。
【口譯】 何時も言葉に出して言ひ度く思ふ「妹」と云ふ名を、此の勢の山につけて妹山としたらどうであらうか。
(59)【語釋】 ○栲領巾 栲〔傍点〕は木の名。栲領巾〔三字傍点〕とはこの栲の皮で織つた布の領巾《ひれ》、領巾〔二字傍点〕は和名抄に「領巾【日本紀私記云比禮】婦人頂上餝也」とある。肩にくゝり懸けるものであるから「栲領巾のかけ」と枕詞に用ひる。又栲は白いもの故、卷九「鷺坂山」(一六九四)、卷十一「白濱浪」(二八二二)等の枕詞ともなる。○懸けまくほしき こゝでは詞にかけていひ度い、即ち言葉に出していひ度いの意。下出三六六參照 ○味が名をこの勢の山に 勢の山〔三字傍点〕は夫の山の意である故に、夫に對する妹と云ふ名をこの山にといふ意。これに依つて旅愁を慰めようと思つたのである。
【後記】 此の歌につけて思はれる事は「妹山」の存在である。妹山を詠んだもの集中十八首。其の中イモセノヤマといふもの、卷四「木國乃妹背乃山爾あらましものを」(五四四)、卷七「木國之妹背之山に麻蒔く吾味」(一一九五)、「妹勢能山は見らくしよしも」(一二四七)。イモトセノヤマといふもの、卷七「木川邊の妹與背之山」(一二〇九)、「ともしくも並び居るかも妹與勢能山」(一二一〇)。又背山を對立して用ひたもの、卷七、「勢能山に直に向へる妹之山」(一一九三)、卷十三「妹乃山勢能山越えて」(三三一八)。單獨に用ひたものでは、卷七「木道にこそ妹山ありといへ」(一〇九八)等がある。これ等の歌をみると、紀國に妹山があつて、しかも一一九三の歌のやうであるならば、背山と妹山とは川を隔てゝ向ひ會つてゐたかのやうにうけとられるのであるが、今日の地勢から(60)いへば、背の山に對立して妹山と呼ぶ程の山は見當らない。思ふに「背山」の「背」に對して「妹」の名を與へた「妹山」なるものは、萬葉歌人の想像的所産であつたのではあるまいか。妹山なるものが實在してゐるのであつたら、丹比眞人笠麻呂の歌は成立しなかつたであらうから。背山があつて妹山が無かつたればこそ、妹の名をこの山にかけたらよからうのにといつたのである。即ち丹比眞人の氣特が一般の旅人の胸の中にもあつて、何時しか妹山を勝手に空想の世界に創造したのであらう。春日藏首老が次に答歌してゐるのをみると、同行の老にでもいひかけたのであらうか。
 一に云ふ「代へばいかにあらむ」については、略解に「佛足石のみ歌のごとく一句餘れるなるべし」、又槻落葉にも「かく終《はて》の一句をうたひかへたる例集中の歌にも處々見えたり、佛足石の歌は歌ことにみなしかり」といつてゐるが、佛足石の歌で言ひかへたと思はれる第六句は、第五句とは可成り言葉が違つてゐるのが普通で、こゝのやうに唯「かけ」と「かへ」が違つてゐると云ふ程度のものは少ない。その中に、「伊波爾惠利都久多麻爾惠利都久《イハニヱリツクタマニヱリツク》」と石と玉とかはれるもの、「多太爾阿布麻弖爾麻佐爾阿布麻弖爾《タダニアフマデニマサニアフマデニ》」とタダとマサとかへたもの、「我與波乎閇牟己乃與波乎閇牟《ワガヨハヲヘムコノヨハヲヘム》」とワガとコノとをかへたもの等があるから、この歌も同樣に考へられない(61)こともないが、やはりこの歌では、第五句の異傳即ち「かけ」と「かへ」のいづれかゞ傳へ誤まられたものとみる方が穩かであらう。集中に於て佛足石歌體のものと言ひ得る唯一の例、卷十六・三八八四においては第五・第六の兩句は全く別なものである。「かへばいかにあらむ」は妹といふ名を背にかへて、妹山と呼んだらどうであらうの意である。
 
春日藏首老即ち和ふる歌一首
 
286 宜《よろ》しなべ わが背《せ》の君が 負ひ來にし 此の勢の山を 妹とはよばじ
 
【口譯】 貴方が相應しくもこれまで持つていらつしやつた背《せ》といふ名の、この勢の山を妹(の山)などとはよびますまい。
【語釋】 ○宜しなべ よろし〔三字傍点〕は考別記に「物の足そなはれるをいふ、よろづ、よろこび、よろひなどいふ皆同じ言より別れたる也」といつてゐる。なべ〔二字傍点〕は並《ナベ》で、卷一「神ながら所念奈戸二《オモホスナベニ》」(五〇)、卷十「秋風の寒吹奈倍《サムクフクナベ》」(二一五八)等の動詞につゞいた「なべ」と本來は同一語であらうが、こゝでは「一の物に多くの事を兼ね備へたる如き意」(講義卷一)で「丁度よく」「相應しく」等に當る。なべ〔二字傍点〕は單獨にも、亦助詞「に」を伴つて「なべに」とも用ひられ、其の間に格別意味の相違も無ささうであるが、よろしなべ〔五字傍点〕はいつでも「なべ」(62)で、「なべに」といつた例は見當らない(卷一・五二、卷六・一〇〇五、卷十八・四一一一等)。○わがせの君が 男同志の間にも親しんでいふ。二四七參照。
 
志賀に幸せる時、石上卿《いそのかみのまへつきみ》の作れる歌一首 名闕く
 
287 此處《こゝ》にして 家やもいづく 白雲の たなびく山を 越えて來にけり
 
【題意】 石上卿は石上乙麻呂の事歟。乙麿は石上麻呂の子。神龜元年二月正六位下より從五位下、天平四年九月丹波守、天平十一年三月久米連若賣に※[(女/女)+干]け土佐國に配流、十六年九月西海道巡察使、十八年四月常陸守、天平勝寶二年九月從三位中納言中務卿として薨ず。(國語國文の研究第四十四號澤瀉久孝氏參照)
【口譯】 此處からは自分の家は何處に當るであらうか。白雲の棚引く山をはる/”\越えて來たことではある。
【語釋】 ○此處にして家やもいづく して〔二字傍点〕は上掲「客爲而《タビニシテ》」(二七〇)のして〔二字傍点〕に同じ。「此處にあつて」といふ意味になるが、「こゝからは」と輕くとつてよからう。家やも〔三字傍点〕のや〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は詠嘆。「いづく」で句の切れた例としては卷五、梅の花|知良久波伊豆久《チラクハイヅク》しかすがにこのきの山に雪は降りつゝ」(八二三)、卷四「此間在而筑紫也何處《ココニアリテツクシヤイヅク》白雲の棚引く山の方にしあるらし」(票田)、魅入「此間在而春日也何處《ココニアリテカスガヤイヅク》雨つゝみ出でて行かねば戀つ(63)つぞをる」(一五七〇)などがある。殊に後の二例、第一・第二句の行き方は全くこの歌と同じである。
【後記】 白雲の棚引く山がうつる。はる/”\も越えて來たことであるよ。それにしても自分の家は何處に當るであらうか。旅の長途にまづ思はるゝものは我が家である。平易な句を用ひてよく眞情を表してゐる。
 
穗積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》の歌一首
 
288 吾が命《いのち》し 眞幸《まさき》くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白浪
 
右今案ずるに、幸行の年月を審かにせず。
 
【題意】 穗積朝臣老は和銅二年正月從六位下より從五位下、養老六年九月式部大輔、六年正月乘輿を指斥したことによつて佐渡島に配流、天平十二年六月大赦によりて歸京、十六年二月大藏大輔として恭仁宮留守の官となる。
【口譯】 私の命が無事であつたならば、此の志賀の大津に寄する白波を再び見ることであらう。
【左註】 此の左註は、此の歌を前の石上卿の歌と同じく志賀幸行の折の作とみてのものであるが、卷十三の「天地を歎き乞ひ祷み幸くあらば又かへり見む志賀の唐崎」(三二四一)の左註に「右二首。但此短歌者、或書云、(64)穗積朝臣老配於佐渡之時、作歌者也」とあり、若し此の傳を信ずるならば、こゝの歌も、配流の途次の作とみる方が、歌の内容よりいつて相應しいやうである。
 
間人宿禰大浦《はしひとのすくねおほうら》の初月《みかづき》の歌二首
 
289 天《あま》の原 ふりさけ見れば 白眞弓《しらまゆみ》 張りて懸けたり 夜路《よみち》は吉《よ》けむ
 
【題意】 間人宿禰大浦は傳未詳。
【口譯】 天を振り仰いで見ると、三日月が白眞弓を張つてかけたやうに浮んでゐる。こんな夜に歩くのは、さぞ面白いことだらう。
【語釋】 ○白眞弓 檀の木で作り、白木のまゝに漆を塗らぬもの。檀は極めて柔軟強靱であるから弓の材として最もよかつた、其の爲に檀〔傍点〕をもまゆみといふやうになつたと云はれてゐる。槻で作つたのを槻弓、梓で作つたのを梓弓《アヅサユミ》と云ふのとは別である。白眞弓は「はる」「射《イ》」「引《ヒク》」等の枕詞として用ひられる。こゝでは枕詞としてみるよりは白眞弓其のものとみる方がよからう。
【後記】 三日月を、弓弦に喩へた事は支那にも本朝にも昔からある。夜どこかに行かうと家を出ると三日月が照つてゐる。道中がさぞかし面白からうと勇む姿である。
 
(65)290 倉橋の 山を高みか 夜隱《よごもり》に 出で來る月の 光|乏《とも》しき
 
【口譯】 倉橋山が高いからであらうか、夜更けて出て來る月の光が物足りないことだ。
【語釋】 ○倉橋の山を高みか 倉橋山〔三字傍点〕は古事記下卷にも出てゐるし集中にも屡々詠はれてゐる。大和磯城郡の南部多武峯の東に連り宇陀郡に界してゐる。俗に音羽山とも呼ばれて、相當に高い山である。倉橋の山が高いからであらうかといふ意。○夜隱《よごもり》に 攷證に「いまだ夜にこもりて明やらぬほどをいふ也」とあるのでよい。卷十九「木晩闇四月し立てば欲其母理爾《ヨゴモリニ》鳴く霍公鳥」(四一六六)にも用ひられてゐる。○光乏しき 集中で「ともし」は(イ)「美し」、(ロ)「心ひかれる」「珍らしい」、(ハ)少い等の意に用ひられてゐるが、こゝでは(ハ)の意。(イ)の意は下出三五八、(ロ)の意は下出三六七參照。
【後記】 此の歌は題詞に「初月歌二首」とあるのに合はない。夜更けて出て來るのは初月でなくて片破月である。此の矛盾を地名説によつて解決しようとしたものに童子問がある。「僻案は夜隱を地名とす。隱字典訓有べき歟、地名の證によりて訂正すべし。古本の一訓によがくれともあれど、よがくれといふ地名見えず、隱の字はなばりとも古訓にあればよなばりといふ地名有歟、猶考て決すべし」と云つてゐるが、よなばりは地名として卷十「吉名張乃《ヨナバリノ》野木に零り覆ふ(66)白雪の」(二三三九)、「吉魚張《ヨナバリ》の浪柴の野の」(二一九〇)、「吉魚張《ヨナバリ》の夏身の上に」(二二〇七)、卷二「吉隱《ヨナバリ》の猪養の岡の」(二〇三)等屡々詠まれてゐるから、こゝの歌も「夜隱《ヨナバリ》」と訓んで同じ地とみるならば問題は無くなる。然し上代特殊假名通の方から云ふと、右の歌に用ひられた「吉《ヨ》」の文字は「夜《ヨ》」とは異類の假名であるから、ヨナバリと詠んで「吉名張《ヨナバリ》」と同じ地に解釋する事は困難である。こゝはやはり「よごもり」とすべきであらう。もつとも卷九に沙彌女王の歌として「倉橋之山乎高歟夜※[穴/牛]爾出來月之片待難《クラハシノヤマヲタカミカヨゴモリニイデクルツキノカタマチガタキ》」(一七六三)とあるのは、この歌の異傳であらうが、それには結句「片待ち難き」とあるので、一首の意も叶ふのであるが、此の間人大浦の歌は、其れが誤り傳へられたものであらうか、さうすれば題詞も間違つてゐる譯である。
 
小田事《をだのつかふ》の勢の山の歌一首
 
291 眞木の葉の 撓《しな》ふ勢の山 忍《しぬ》ばずて 吾が越えゆけば 木《こ》の葉知りけむ
 
【題意】 小田事は傳未詳。集中作唯本歌一首あるのみ。
【口譯】 勢山の檜の葉がうなだれてゐる。戀しい思に堪へかねて山を越えてゆくので、木の葉も(67)私の心を知つたのであらう。
【語釋】 ○眞木 檜。○しぬばずて 戀しいといふ思に堪へかねて。しぬぶ〔三字傍点〕といふ意味には(イ)堪へる、(ロ)偲ぶ、(ハ)賞美するの三つがある。(イ)はこの歌の場合で、下出四七二にもある。(ロ)は下出三六七・四六五・四八一など。(ハ)は下出四六四參照。
【後記】 第二句で、はつきり切らねばならぬと言ふ人もあるが、寧ろ韻律的には「撓ふ勢の山忍ばずて」と續いてゐる。シナフセノヤマ、シヌバズテ、コノハシリケムといふさ〔傍点〕行音の繰返しがさうさせるのであらうか。家に殘して置いた妹を思ふ心に堪へられない苦しさを胸につゝみ乍ら、山を越えてゆくと其の心を知つてか、木の葉さへもしなだれてゐるとみた處、卷十一「我が背子にわが戀ひをれば吾が屋戸の草さへ思ひうらぶれにけり(二四六五)の歌によく似てゐる。但し二九一のは男の歌であり、卷十二のは家にある妹の歌である。
 
角麻呂《つぬのまろ》の歌四首
 
292 ひさかたの 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の 泊《は》てし高津は 淺《あ》せにけるかも
 
【題意】 角麻呂は傳未詳。
(68)【口譯】 天の探女の乘つた石舟が泊つたといふこの高津は、淺くなつて了つた事である。
【語釋】 ○天の探女が石船の 古事記「爾天(ノ)佐具女《サグメ》、聞2此鳥(ノ)言(ヲ)1而、語2天若日子(ニ)1言」、又書紀「天探女、此云2阿麻能左愚謎《アマノサグメ》1」等あり、記紀の傳説によれば、天の探女〔四字傍点〕は天若日子が出雲に降つて娶つた國の神の女である。但し攝津國風土記の傳へる處に依ると、「難波高津は天稚彦天降りし時、天稚彦に屬て下れる神天の探女。磐舟に乘て爰に至る、天ノ磐舟の泊る故を以て高津と號す。」(古典全集本・採輯諸國風土記)とあつて天若日子に從つた事になつてをり、磐舟の事も高津に泊つた事も此の歌に其のまゝ叶ふのであるから、此の作者は或はかうした傳説によつて此の歌を作つたのでもあらうか。石舟〔二字傍点〕(磐舟)は天から降る時に用ひたと傳へられるもの、磐〔傍点〕は堅固を表すものであらう。○高津 難波高津宮の高津。○淺《あ》せにけるかも 淺くなつてしまつた事だよの意、此の頃には高津までは最早潮が來なくなつてゐたのであらう。
 
293 鹽干《しほひ》の 三津の海女《あま》の くぐつ持ち 玉藻苅るらむ いざ行きで見む
 
【口譯】 鹽の干てゐる三津の海人處女等が、くぐつを持つて玉藻を苅つてゐるであらう、さあいつて見よう。
【語釋】 ○海女 舊本にアマメと訓んでゐるが、古義に言つてゐるやうに「あまめ」といふ詞があつた確實な(69)例がないから、このまゝでアマとよむ。「女」はそれが女のあまであることを示すのみである。○くぐつ 袖中抄「くぐつとはわらにてふくろのやうにあみたるものなり、それに藻などをもいるゝなり」、檜嬬手及び別記は、海邊に生ずる久具《クグ》と云ふ草を細繩によつて網袋に組み綴つたもので、即ち久具綴《クグツヾリ》の義であると言つてゐる。和名抄には「唐韻(ニ)云、傀儡(ハ)、樂人之所弄也、和名|久々豆《ククツ》」とあるが、これは人形の事である。このくぐつ〔三字傍点〕は時として人形師の意味に轉用されたが、これは言語の意義の轉用の結果であるから問題はない。これについて安藤正次氏は「傀儡子をクグツといふのは朝鮮語の Koangtai から出たもので、所謂わが國の人形遣ひのことである。其れが本邦に渡來して柳器を編んだので、袋をクグツといふやうになつたのである」と説明してをられる。(古代國語の研究・久具都名義考) ○いざ行きて見む 率〔傍点〕をイザと訓む。日本紀開化天皇「率川宮【此云伊社箇波宮】」、又靈異記にも率をイザと訓んでゐる。人を誘ふ語。
 
294 風をいたみ 沖つ白波 高からし 海人の釣船 濱に歸りぬ
 
【口譯】 風が激しいので白浪が高く立つてゐるらしい、海人の釣船が濱に歸つてきた。
 
295 住吉《すみのえ》の 岸の松原 遠つ神 わが王《おほぎみ》の 幸行處《いでましどころ》
 
(70)【口譯】 住吉の岸の松原−こゝはわが天皇の幸行處である。
【語釋】 ○遠つ神わが王の 遠つ神〔三字傍点〕は「わが王」の枕詞。冠辭考云「天皇は即|顯津御神《アキツミカミ》にましまして遙に人のたぐひならねば遠つ神とは申也。○岸の松原 舊本「木※[竹/矢]松原《キシノマツバラ》」。※[竹/矢]は卷十「足日木※[竹/矢]《アシヒキノ》山より來せば」(二一四八)、卷十三「葦原※[竹/矢]《アシハラノ》水穗の國に」(三二二七)等ノの假名に用ひられてゐるから「木※[竹/矢]」ではキシノとは訓めない、そこで木〔傍点〕の下「志」が脱ちたのであるまいかと略解は云つてゐるが、又攷證に「又考ふるに※[竹/矢]は和名抄に夜《ヤ》と訓て、矢の俗字にて、矢は皆篠を以て製する事本集七【卅四丁】に八橋乃小竹乎不造矢而《ヤハセノシノヲヤニハガデ》云々などあるが如くなればその意もて※[竹/矢]をしのゝ假名に用ひしにもあるべし」と云つてゐるやうに、考へられない事もない。然し又思ふに和名抄に「釋名云 ※[竹/矢]【音矢和名夜】」とあるが、矢は新撰字鏡に「※[竹/矢] 尸旨反」とあるによつて※[竹/矢]もシの音であり、集中に用例は見當らないが、シの假名に用ひられる事もある筈である。從つて木※[竹/矢]はキシと訓むことが出來る。又類聚古集には※[竹/矢]の下「野」の文字があるので、此れに從つて野を補へは「木※[竹/矢]《キシノ》野」となる。野〔傍点〕は卷十八・卷二十等では明かにノの假名に用ひられてあるが、其れより古く用ひられたとみる事も出來るので、ここではキシノとよむ。きし〔二字傍点〕は海岸の事でなく土地の名であつたかと思はれる。○幸行處 舊本ミユキシトコロとあるが、考の説に從つてイデマシドコロと訓む。
 
田口益人大夫《たぐちのますひとのまへつぎみ》、上野國司に任ぜられし時、駿河淨見埼に來りて作れる歌二首
 
(71)296 廬原《いほはら》の 清見が埼の 三保の浦の 寛《ゆた》けき見つゝ もの思ひもなし
 
【題意】 田口益人大夫は慶雲元年正月從五位下、和銅元年三月上野守、二年十一月右兵衛率、靈龜元年四月正五位上となる。集中歌凡て二首。
【口譯】 廬原の清見が崎、三保の浦かけて、長閑かな景色をみて、私は旅の憂い事も忘れて何の物思ひも無いことだ。
【語釋】 ○廬原の清見が崎の三保の浦の 和名抄に「駿河國廬原郡廬原【伊保波良】」とある處。全釋に、「清見が崎は今の興津町の西、大字清見寺の磯崎、三保の浦は清水港の海上で、清水、江尻、三保崎の間の灣」とある。
【後記】 新考に、「清見が崎の」のの〔傍点〕はゆ〔傍点〕の誤ではないかと疑つてゐる通りに、上三句やゝ明瞭を缺く。
 
297 晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大王の 命かしこみ 夜見つるかも
 
【口譯】 畫見てさへもこれで充分と滿足しないほどの田兒の浦の景色を、大王の命かしこさに夜見たことである。
【語釋】 ○晝見れど 晝見てもの意、見るけれどもではない。下出三〇七參照。
(72)【後記】 國司が任國に赴く時に矢馬を賜る事が政事要略に見えてゐる。限られた日數の中に是非目的地まで到達しなければならぬとすれば、夜道をゆかねばならない事もあつたであらう。明朝立てば田兒の浦をみることが出來るものを、夜道の暗さに眺望を樂しむことの出來ない嘆きを詠つたもの。
 
辨基の歌一首
 
298 亦打山《まつちやま》 夕越え行きて 廬前《いほぎき》の 角太《すみだ》川原に ひとりかも宿《ね》む
 
右、或は云ふ、辨基は春日藏首老が法師の名なりと。
 
【口譯】 夕ぐれにまつち山を越えていつて、今宵は廬前のすみだ河原で獨り寢る事であらうか。
【語釋】 ○亦打山 紀伊國伊都郵隅田村に眞土《まつち》といふ處があり、又そこに近い大和國宇智郡坂合部村|畑田《はたけだ》に待乳《まつち》峠がある。其の「まつち」が、眞土・待乳として大和紀伊兩國に跨つてゐる譯である。○角太川原 すみだ〔三字傍点〕は今の隅田。隅田驛の西北に今もイホサキの名がある。すみだ川〔四字傍点〕とは紀の川の事で、川原〔二字傍点〕は其の川原である。○ひとりかもねむ か〔傍点〕は疑問、も〔傍点〕は詠嘆、ひとりねることであらうか。
 
(73)大納言|大伴卿《おほとものまへつきみ》歌一首 未だ詳かならず
 
299 奥山の 菅葉《すがのは》凌ぎ 零る雪の 消なば惜しけむ 雨な零《ふ》りそね
 
【題意】 大伴旅人の父、安麿かと思はれる。安麿は卷二(一〇一)參照。
【口譯】 奥山の菅の葉を押し靡かして零つてゐる雪が、消えてしまつては惜しいだらう。雨よ、降らないでくれ。
【語釋】 ○菅葉凌ぎ 菅の葉を靡かして。○消なは惜しけむ 消えてしまつたら惜しいであらう。假名書でキエ、キユ等と云つた例は無く、寧ろケとして多く用ひられてゐる。然しこれも卷五「由吉波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》」(八四九)「朝露の既夜須伎我身《ケヤスキワガミ》」(八八五)のやうに連用形に用ひられたもの、又卷十七「降りおける雪の常夏に氣受底和多流波《ケズテワタルハ》神ながらとぞ」(四〇〇四)のやうに未然形に用ひられたものの他は、他の活用形がみられない。「け」は「きえ」の約であると昔から云はれてゐるが、ki-e の ki の音尾 i が脱落したものであらう。完了助動詞の「ぬ」に續いて「けぬ」「けなば」「けぬる」等と用ひられた例が最も多い。惜しけむ〔四字傍点〕は「惜しくあらむ」或は「惜しけらむ」の約といはれてゐるがいかゞ。「惜しけば」「惜しけど」等の形もあり、これらは、このまゝ「−け」の形と見たい。東語では、かゝる場合の「け」を「か」といつて、「無けば」を「奈加婆」(三四一〇)などと言つてゐる。此等の形は皆相互の關係において今後一層精密に考究されねばならぬ語遣ひである。○雨な零りそね 舊本「雨莫行年《アメナフリコソ》」とあるが、他の場合に行年〔二字傍点〕をコソと訓んだ例は無く、又禁止の「な−」の(74)場合に、「な−そ」「な−そね」等と言つても、「な−こそ」と用ひた例は、集中のみならず此の時代の他の文獻にも全く見られぬ處であるから、玉の緒(卷七・古風の辭)にソネと訓んだのに從ふ。但し行年〔二字傍点〕をソネと訓み得るか否かについては、未だに明確な典據が得られない。宜長は「行はもしは所《ソノ》字などの誤りにもやあらん」と云つてゐるが、攷證には宣長の説を擧げて、「まことにさることながら外にそねといふ所に行年を書る例もなく年をねと訓事はさる事なれど行をその假字に用ひん事あるべからず、こゝともに四所まで行年と書れば文字の誤りとも思はれず」と批評を下し、行年をコソと訓むは去年の義にして、「こそは願ふ意のこそにはあらでそのこ〔傍点〕は來《コ》、そ〔傍点〕は莫《ナ》をうけたる詞にて雨のふり來る事なかれといふ意ならんか」と獨自の見解を述べてゐる。しかしこの見解は、隨分無理であつて頗る窮した説明としかうけとれない。集中凡て五首いづれも「行年」とあるところに解決の困難が潜んでゐるのであるが、暫く宣長の誤字説に從つておくことにする。
 
長屋王《ながやのおほぎみ》馬を寧樂山《ならやま》に駐《とゞ》めて作れる歌二首
 
300 佐保過ぎて 寧洛《なら》のたむけに 置く幣《ぬさ》は 妹を目離《か》れず 相見しめとぞ
 
【題意】 長屋王は既出、二六八參照。
【口譯】 佐保を通つて寧樂のたむけで神に奉る幣は、何時も絶えずわが妹に會はして下さいとて(75)神に捧げるのである。
【語釋】 ○佐保 今の奈良市の北方から以西の地。○寧樂のたむけ 古事記傳二十五に此の歌を引いて「多牟氣《タムケ》とは越行《コエユク》山の坂路の登り極《ハテ》たる處を云、其所《ソコ》にては神に手向をする故に云なり、今(ノ)俗《ヨ》に此を峠と云は、手向《タムケ》を訛れるなり、那良の手向は手向ふと云これなり」と云つてゐる。要するにこゝでは手向をする場所を示してゐるのであるが、もとは旅人が旅中安全を祈つて道路の神を祭る事から出たものであらう。卷十五「み越路のたむけに立ちて妹が名|告《ノ》りつ」(三七三〇)も場所を示すものである。奈良山は昔の奈良の都の北に東西に連つてゐる山で、東は今の奈良市の北から西は西大寺邊までを廣く奈良山と云つたやうである。○幣 神に奉る物はすべてぬさといふ。「名義は祷布佐《ネギフサ》にて事を乞祷《コヒネ》ぐとて出すよしなり」と記傳に述べてゐる。○目離れず 妻の目を離れる事無くて常に始終の意である。○相見しめとぞ 「しめ」は使役助動詞「しむ」の命令形。
【後記】卷十一「玉久世の清き河原に身禊して齋ふ命も妹が爲こそ」(二四〇三)と同じ樣な思想の表れである。
 
301 磐《いは》が根の 凝《こゞ》しき山を 越えかねて 哭《ね》には泣くとも 色に出でめやも
 
【口譯】 岩の重なり合つた險阻な山を越え得ないで、たとへ聲立てゝ泣くことがあらうとも、私(76)のひそかな戀情は顔色に表れるやうなことがあらうか。
【語釋】 ○磐が根の凝しき 卷三「あしひきの石根許其思美《イハネコゴシミ》」(四一四)、卷七「磐根取己凝敷《イハネコゴシキ》三芳野の」(一一三〇、「石金之凝敷山爾《イハカネノコゴシキヤマニ》」(一三三二)、卷十三「石根乃《イハガネ/》 興凝敷道乎《コゴシキミチヲ》石床の棍延ふ門を」(三二七四)等、石の重り合つて險阻な事。下出三二二・四一四參照。イハネとも、又助詞が〔傍点〕を挾んでイハガネともいふ。○哭には泣くとも 聲に出して泣いても。餘りの辛さに家に殘しておいた妻が戀しくなつて泣くのである。下出三二四・四五六・四五八・四八一・四八三參照。○色に出でめやも や〔傍点〕は反語、も〔傍点〕は詠嘆、色に出づ〔四字傍点〕は顔に表れること。
【後記】 「ねにはなくとも色にいでめやも」は一見矛盾してゐるやうに思はれるが、「たとへ泣いてもあれは妹を戀うての涙といふ事を他人に覺られまい」といふほどの意味である。
 
中納言安倍廣庭卿の歌一首
 
302 兒らが家道《いへぢ》 やや間遠《まどほ》きを ぬば玉の 夜渡る月に 競《きほ》ひあへむかも
 
【題意】 安倍廣庭は右大臣御主人の子、和銅二年十一月伊豫守、靈龜元年五月宮内卿、養老五年六月左大辨、神龜四年十月中納言、天平四年二月薨ず、年七十四。集中歌凡て四首。
【口譯】 妹の家に行く道は大分遠いのに、あの空行く月と競爭しきれるであらうか。
(77)【語釋】 ○やゝ間遠きを 大分遠いのに。「を」は「あるものを」の義。○競ひあへむかも 競ひ〔二字傍点〕は、卷二十に、あぢ群の騷ぎ伎保比弖《キホヒテ》」(四三六〇)とある。あへ〔二字傍点〕は動詞の下につく時は、……し切れる」の意。
【後記】 「競ひあへむかも」といつたのは、月の入つて了はぬ間に行き着き度い、しかし果してそれまでに行きつく事が出來るか知らといふ不安を詠んだもの。月は何時の月であらうか。
 
柿本朝臣人麿、筑紫に下れる時、海路にて作れる歌二首
 
303 名細《ぐは》しき 稻見《いなみ》の海の 奥《おき》つ浪 千重に隱《かく》りぬ 大和島根は
 
【口譯】 名高い稻見の沖の千重に立つ浪に、大和の國はかくれてしまつた。
【語釋】 ○名|細《ぐは》しき 細〔傍点〕は精細の義に依つてクハシとよむ。古事記に「久波志賣」とあるのは麗しき女の意。名細《なぐはし》とは名の麗しくよしとほめた語で、今の言葉で名高いとでもいつたらよからう。○稻見の海 播磨國印南郡の海。○奥つ浪千重に隱りぬ 奥つ浪〔三字傍線〕は「千重」にかゝる。「奥つ浪」で切つて、其の沖の浪の千重にとつゞくのである。「隱る」は四段活用の自動詞である。これも普通ならば「千重にかくしぬ」といはなければならないところ。人麿の例の獨特の語法と見られる(二五一參照)。千重に立つてゐる浪の彼方に大和が隱れてしまつたの意。
 
(78)304 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と 在り通ふ 島門《しまと》を見れば 神代し念《おも》ほゆ
 
【口譯】 大王の遠の朝廷(太宰府)として、昔からあまたの人々が度々行き通ふ海峽を見ると、神代の事が思はれる。
【語釋】 ○遠の朝廷と在り通ふ 遠の朝廷〔四字傍点〕は國府の事、こゝでは太宰府を指すのであらう。在り通ふ〔四字傍点〕は引きつづき通ふ意。動詞の上に「あり」を接すると、其の事がひきつゞいて行はれる事を示す。下出四七九參照。と〔傍点〕は、例へば卷十「妹許跡《イモガリト》馬に鞍置きて射駒山うち越え來れば」(二二〇一)のと〔傍点〕と同樣に「……へと」の意に解けないこともないが、一般に「……として」の意に解かれてゐるのに從つておく。○島門 島と島との間の舟の通ふ處。
【後記】 此の歌の結句を久老が「この神代もはじめて太宰府を置かれたる神代をいふ也」といつてゐるのはいけない。美しい瀬戸内海の景色を眺めて、此の美しい島々が作られた神代の事が貴く思はれるといふ意味でなければならない。
 
高市連黒人が近江の舊都の歌一首
 
(79)305 かく故に 見じといふものを さゝなみの ふるき都を 見せつつもとな
 
右の謌、或本に曰く、小辨の作なりと。いまだこの小辨といぶ者を審にせず。
 
【題意】 高市連黒人は既出。二七〇參照。
【口譯】 かういふ事になるから見まいと云ふのに、近江の舊都をいたづらに見せて人を悲しませる事だ。
【語釋】 ○かく故に かく物悲しい思ひをする敬に。○見せつゝもとな 此の語は集中に多く用ひられてゐて註釋も種々あるが、山田博士が奈良文化第十二號の「母等奈考」に論ぜられてゐる説が最も精密である。其れに依れば、「もとな」は「もと」といふ名詞と「なし」といふ形容詞の語幹「な」との合成語で、「もと」は漢字でいへば、根元又は根據の義にあたる、從つて「もとな」は、「理由なく」「根據なく」などの精神によつて、「わけもなく」「よしなく」「みだりに」などその場合に適した語をあてゝ解すればよいのである。見せつゝもとな〔七字傍点〕は「もとな見せつゝ」の意。このやうに「もとな」を顛倒した例は、卷十に「春されば妻を求むと鶯の木末を傳ひ鳴乍本名《ナキツヽモトナ》」(一八二六)がある。
【後記】 無理に誘うていつた友人にでもいふのであらう。卷一に「高市古人、近江の舊都を感傷して作る歌」として、二首の短歌(三二・三三)があり、その題詞の下には「或る書にいふ高市連(80)黒人」とある。此の註が眞であるならば、此の歌と三首同時の作歌といふことになる。
【左註】 小辨は卷九小辨歌一首として、「高島の足利の湖を榜ぎ過ぎて鹽津菅浦今か榜ぐらむ」(一七三四)の歌があり、又同卷に春日藏歌一首としてあげた「照月を雲な隱しそ島陰に吾が船泊てむ留り知らずも」(一七一九)の歌の左註に「右一首、或書に云ふ、小辨の作なりと。云々」とある。小辨とは誰かの字名であるかも知れないが、よく分らない。
 
伊勢國に幸せる時、安貴王の作れる歌一首
 
306 伊勢の海の 奥つ白浪 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ
 
【題意】 伊勢國に幸せる時とは養老二年二月美濃行幸の時であらうか。續紀に「天平十二年冬十月壬午、行幸伊勢國」とあるので、此の時かと思はれるが、さうすれば此のあたりの他の作品に對して、時代が新し過ぎる。安貴王は春日王(二四三參照)の御子、天平元年三月從五位下、十七年正月從五位上に叙せらる。
【口譯】 伊勢の海の沖に白く碎けてゐる浪の花、それが本當に花であつてほしいものだ。そしたら包んで妹への土産にしよう。
【語釋】 ○花にもが 後になると「もがも」と更に下に感動の助詞を添へていふのが普通である。下出四一(81)九・四七八參照。しかし記や萬葉の古いところでは、「もが」とのみいつた例が多い。古事記中卷「迦母賀登《カモガト》わが見しこら迦久母賀登《カクモガト》吾が見し子に」、萬葉卷五「千尋爾母何等《チヒロニモガト》願ひ暮しつ」(九〇二)、「千年爾母何等意母保由留加母《チトセニモガトオモホユルカモ》」(九〇三)、奄八「君がみ舟の梶柄母我《カヂツカニモガ》」(四五五)等。願望の意味は「が」にあると思はれるが、常に「もが」とあつて、「が」が單獨に用ひられる事なく、又「も」が他の助詞によつて置き換へられる事もない。「花にもが」は、花であつてほしいといふ意。下出四〇八參照。○家づと 土産。
 
博通法師、紀伊國に往き、三穗の石室を見て作れる歌三首
 
307 はた薄《すゝき》 久米《くめ》の若子《わくご》が 坐《いま》しける【一に云ふけむ】 三穗の岩屋《いはや》は 見れど飽かぬかも【一に云ふけむあれにけるかも】
 
【題意】 博通法師は傳未詳。集中此の三首あるのみ。
【口譯】 久米の若子がいらつしやつた三穗の石屋は、いくら見ても飽かないことである。
【語釋】 ○はた薄 はたすすき〔五字傍点〕とは、薄が旗の如く靡く故にいふ。普通には「穗《ホ》」の枕詞となつてゐるので、此の第二句「久米」にかゝる理由が明かでない。冠辭考には「すゝきは穗のこもれるが見えて漸に開出る物なれば、古免《コメ》といひかけしにや」といつてゐるが、又「末に三穗のといへるへ隔てかゝるともいふべしや」(82)とも云つてゐる。三穗〔二字傍点〕は宜長のいつてゐるやうに御穂の意として穂〔傍点〕にかゝるのであらう。枕詞が他の語を隔てゝかゝる例は他にもある。例へば巻十二「波三寸八師《ハシキヤシ》しかる戀にも有しかも君《キミ》におくれて戀しきおもへば」(三一四〇)のはしきやし〔五字傍点〕は「君」にかゝるものであり、この歌の場合もこの例ではないかとも考へられる。しかし冠辭考が最初にあげた考も音韻の上から云つて一概にすて去るわけに行かないので、いづれとも決定しないでおく。○久米の若子 書紀顯宗紀に「弘計王、更名、來目稚子」とあるのによつて弘計王の事とする説もあるが、此の王が紀伊におはしたことは物にみえず、また次の歌の内容からいつても王に對するにしては餘りにうちとけた詠ひ方である。此所は別の人であらう。○三穂の石室 紀伊國日高郡日御崎の東方に在る。
【後記】 見ても飽かぬとは懷舊の念にふける故であらう。此の卷の生石村主眞人の「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代經にけむ」(三五五)とあるのと、よく似た題材を詠んでゐる。
 
308 常磐《ときは》なす 石屋《いはや》は今も 有りけれど 住みける人ぞ 常なかりける
 
【口譯】 何時までも變らずにゐる石室は今も殘つてゐるけれども、住んでゐた人は常住といふわけにはいかなかつた。
(83)【後記】 住みける人とは、前の歌の久米の若子を指すのであらう。
 
309 石室戸《いはやど》に 立てる松の樹 汝《な》を見れば 昔の人を 相見るごとし
 
【口譯】 石屋の門口に立つてゐる松の木よ、お前を見ると、この石屋に住んでゐた昔の人を見るやうな氣がする。
【語釋】 ○石室戸 石室の門。卷十二「今夜至らむ屋戸閉勿勤《ヤドサスナユメ》」(二九一二)とある屋戸〔二字傍点〕も門の意である。
 
門部王《かどべのおほぎみ》、東《ひむがし》の市の木を詠みて作れる歌一首
 
310 東の 市の植木の 木垂《こだ》るまで 逢はず久しみ うべ戀にけり
 
【題意】 門部王は紹運録に長皇子の孫で高安王の弟とある。高安王の弟かと思はれるが、長皇子の孫である事には疑がある。和銅三年正月無位から從五位下、養老三年七月按察使設置の時、伊勢國守として伊賀志摩を管してゐる。出雲守となつた事は、續紀にもれてゐるけれど、伊勢守より後かと思はれる。天平九年十二月右京大夫、其後大原眞人の姓を賜ひ、十七年四月大藏卿で卒。集中の作凡て短歌五首(國語・国文の研究第四號澤瀉久孝氏参照。)東の市の木とは、京の東西に市あり、其の東のを東市といつてゐたのである。市の(84)木は路傍に植ゑてある木。
【口譯】 東の市に植ゑてある木が、のびて枝葉の垂れるやうになるまで久しく逢はないので、妹が戀しくなつて來たのはもつともなことである。
【語釋】 ○木垂るまで 枝葉が茂つて垂れ下るまでといふので、「久し」の比喩に用ひてゐる。「木垂る」は卷十四「可麻久良夜麻能許太流木乎《カマクラヤマノコダルキヲ》」(三四三三)とある。
【後記】 東の市の木と妹と何か關係があるであらう。あの木の未だ若かつた頃其の木の邊において乙女に逢うたのであらうか。
 
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと]豐前國より京に上る時、作れる歌一首
 
311 梓弓 引豐國《ひきとよくに】の 鏡山 見ず久ならば 戀しけむかも
 
【題意】 ※[木+安]作村主益人は傳不詳。巻六・一〇〇四の左註に「右、内匠寮大屬※[木+安]作主益人、聊飲饌を設け、以て長官佐爲王を饗す」とある。
【口譯】 此の豐國の鏡山を、久しく見ないでゐたならば、さぞ戀しく思はれる事であらう。
【語釋】 ○梓弓引豐國 「梓弓引き」は「豐國」の序。冠辭考に梓弓引き豐《トヨ》國とつゞけたのは引たをむると云(85)ふ意味であるといつてゐるのはいかゞ。古義に引響《ヒキトヨム》の義としてゐるのがよい。弓を引く時に響む事は、集中の歌にもよく見えてゐる。豐國〔二字傍点〕は和名抄に「豐前【止與久邇乃美知乃久知】豐後【止與久邇乃美知乃之利】」とあるのに依つて、豐前豐後すべてを指してゐた事が分る。但しこの場合、豐前を指すものである事は此の題詞によつて、又此の卷の手持女王の歌の題詞に「豐前國鏡山」(四一七)とあることによつて明かである。
 
式部卿|藤原宇合《ふぢはらのうまかひ》卿、難波堵《なにはのみやこ》を改め造らしめらるゝ時、作れる歌一首
 
312 昔こそ 難波田舍《なにはゐなか》と 言はれけめ 今は京《みやこ》引《び》き 都《みやこ》びにけり
 
【題意】 藤原宇合は不比等の第三子。靈龜二年八月遣唐副使となる。養老三年七月按察使を置かれた時、常陸守として安房上總下總を管してゐる。神龜三年十月知造難波宮事、天平三年參議、四年西海道節度使、九年八月薨去。難波堵を改め造らしめらるゝ時とあるのは、聖武天皇神龜三年難波宮改造の事始まり、天平四年三月成就。宇合は、此の間造營の事に從つたのである。
【口譯】 昔は難波の田舍といはれたであらうが、今は都をこゝに移してすつかり都らしくなつたことだ。
【語釋】 ○京引き 熟しない語であるが、契沖の訓に從ふ。京をひく、即ち都が遷る事の意。○都びにけり (86)び〔傍点〕は造語的接尾辭「夷《ヒナ》ぶ」に對して、「都めく」こと。但し集中他に用例はない。
【後記】 用語に異色のある歌である。造營の主管者としての喜びのあふれた歌である。この歌のよまれた時は、まだ都は遷つてはゐないのであるが、都らしい體裁は具へてゐたのであらう。因みに遷都は天平十六年である。
 
土理宣令《とりのせんりやう》の歌一首
 
313 み吉野の 瀧の白浪 知らねども 語りし續げば いにしへ念ほゆ
 
【題意】 土理宣令、卷八に「刀理宣令の歌一首」(一四七〇)とあるのと同人であらう。續紀養老五年正月の條に、「從七位下刀利宣令等退朝之後令v侍2東宮1焉」とある。懷風藻には、「正六位上刀利宣令二首(年五十九)」とある。集中の作、一四七〇を加へて二首あるのみ。
【口譯】 吉野の事は知らないが、昔から語り傳へてゐるので、それを聞くと、何とはなしに古の事が懷しく思はれる。
【語釋】 ○み吉野の瀧の白浪知らねども 瀧の白浪〔四字傍点〕は「しら〔二字傍点〕浪しら〔二字傍点〕ねども」となつて序詞である。從つてしらねども〔五字傍点〕といふのは、瀧の白浪の事では無くて、吉野の昔の事を云つてゐるのである。○語りし繼げば し〔傍点〕は(87)強めの助詞。
 
波多朝臣少足《はたのあそみをたり》の歌一首
 
314 さゞれ波 磯巨勢道《いそこせぢ》なる 能登湍河《のとせがは》音のさやけさ たぎつ瀬ごとに
 
【題意】 作者傳未詳。
【口譯】 巨勢道に在る能登瀬河の念流の音が、實にさつぱりと氣持よく聞える。泡立ち流れる瀬毎に。
【語釋】 ○さゞれ波磯巨勢道 さゞれ波〔四字傍点〕は「磯」にかゝる枕詞であるが、「さゞれ波磯」は「磯越す」といふ意味と大和から紀州へ出る巨勢道とをかけて序詞の役をなしてゐる。上掲二六四參照。○巨勢道なる能登湍河 巨勢〔二字傍点〕は大和國高市部、能登湍河〔四字傍点〕は高市郡に在る。卷十二「高湍爾有《コセニアル》 能登瀬乃河之《ノトセノカハノ》」(三〇一八)とあるのも、能登湍河の河瀬の事であらう。
【後記】 第三句、第四句、第五句で、短く切つてあるのが、氣持よく力強く響く。
 
暮春の月芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首井に短歌(88)【いまだ奏上を經ざる歌】
 
315 み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴《たふと》くあらし 川からし 清《さや》けくあらし 天地と 長く久しく 萬代に 變らずあらむ いでましの宮
 
【題意】 續日本紀に「神龜元年三月庚申朔天皇幸2芳野宮1。甲子車駕還v宮」とある時であらう。勅とあるは聖武帝。芳野離宮は今の吉野郡中莊村字宮瀧の地に昔の址がある。吉野川の北岸、後は山で圍まれ、川を距てて喜佐谷と相對してゐる。大伴卿とは旅人。下の註が眞とすれば、此の歌は旅人が用意して行つたのであるが、歌を奉れよといふ詔もなく奏上するに至らなかつたものであらう。旅人の傳は下出三三一參照。
【口譯】 吉野の宮は山故に貴いやうだ。川故に清らかに思はれるやうだ。天地と共に長く久しく萬代に變らずにゐるであらう、離宮よ。
【語釋】 ○山からし貴くあらし川からし清けくあらし 卷二「讃岐國は 國柄加《クニガラカ》 雖見不飽《ミレドモアカヌ》 神柄加《カムガラカ》 幾許貴寸《コヽダタフトキ》」(二二〇)、卷六「蜻蛉の宮は 神柄香《カムガラカ》 貴將有《タフトカルラム》 國柄鹿《クニガラカ》 見欲將有《ミガホシカラム》」(九〇七)等と同じ句法で、吉野宮が貴く清けくある故は、山から川から〔六字傍点〕によるといふのであつて、「から」は本來「故《カラ》」の義であるが、この場合は今日用ひられてゐる「家がら」「人がら」と大體同じ意味のやうに思はれる。卷十七「立山にふりおける雪を常夏に見れどもあかず神がらならし」(四〇〇一)を參考のこと。なほ山から・川から〔六字傍点〕を清音でよんでおき乍ら、(89)神がら・國がら〔六字傍点〕を濁音でよむ事に對して疑問が起るかも知れないが、これはこの通りでいゝと思ふ。音韻上の問題に亙るので、こゝでは説明を略する。またこの「がら」は「な」といふ助詞を伴うて「ながら」といふ場合がある。卷一「いそはく見れば神ながらならし」(五〇)。いづれにしても殆んど同じ意味である。「らし」が「あり」と接續する場合には「る」の語尾を省略して「あらし」となることは、すでに二五六の歌にもあつた。
 
反歌
 
316 昔見し 象《きさ》の小川を 今見れば いよよ清けく なりにけるかも
 
【口譯】 昔見た象の小川を今日御幸に從つてみると、いよ/\清らかになつた事である。
【語釋】 ○象の小川 吉野宮瀧の對岸、喜佐谷から流れ出る小川である。
【後記】 下に同じく旅人の歌で「わが命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため」(三三二)といふのがある。これは帥として筑紫に居る折の作で、この御幸に從つてから數年か後のものであらう。
 
(90)山部宿禰赤人、不盡山を望める歌一首并に短歌
 
317 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貫き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふり放《さ》け見れば 渡る日の 影も隱ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡の高嶺は
 
【題意】 赤人の傳は未詳。集中に於ける作品、長歌十三、短歌三十七。其の中で年代の明記されてゐるものは卷六の作だけであつて、それによると、神龜元年十月の作が最も古く、天平八年のものが最も新しい。神龜から天平にかけて聖武天皇に供奉して吉野、紀伊、難波などに遊んでゐるが、卷三のものはそれ以前のものとみられる。其の官位は餘り高く無く、人麻呂等と同じく宮廷詩人として用ひられたものである。
【口譯】 天地の分れた時から、神々しく高く貴い姿をしてゐる駿河の富士の高嶺を、大空遙かに仰ぎ見ると、空行く日の光も山に隱れ、照る月の光も見えない。白雲も山を憚つて行きかねてをり、頂には時をわかたず雪が降つてゐる。後の世までも未だ見ぬ人に語り繼ぎ言ひ繼いで行かう。この富士の高嶺のことは。
【語釋】 ○影も隱ろひ ひ〔傍点〕は繼續を表す詞で四段に活用し、四段活用動詞の未然形に接するのが普通である。すでに「鴨妻喚ばひ」(二五七)といふ例があつた。其他「よばふ」(二六〇)、「語らひ」(四四三)、「住まひ」(四六〇)、「變(91)らふ」(四七八)など。かくろひ〔四字傍点〕は、隱る〔二字傍点〕といふ形の未然形にひ〔傍点〕が複合して音の變化を來したものである。空高く聳ええてゐる爲に、照る日の光も隱れるといふのである。○い行き憚り 書紀天智天皇十年冬十二月童謠に「赤駒の以喩企波々箇屡《イユキハヾカル》眞葛原……」とある。い〔傍点〕は接頭語。山を畏んで雲も行き憚る意。○時じくぞ 時じ〔二字傍点〕といふ形容詞の連用形で、書紀垂仁天皇の卷の「非時香菓」は記に「登岐士玖能迦玖能木實《トキジクノカグノコノミ》」とあり、本集にも「非時」「不時」などをトキジクと訓んでゐるが其の意味は記傳に「書紀の字の如く、其(ノ)時ならぬを何物《ナニ》にても云」とあるやうに、時ならぬこと、即ち終始といふことである。
 
318 田兒の浦ゆ 打出でゝ見れば 眞白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける
 
【口譯】 田子の浦に出てそこから富士山を見ると、夏ながら富士の高嶺には雪が眞白に降つてゐる。
【語釋】 ○田兒の浦ゆ打出でゝ見れば 眞淵の考に「打出て田兒の浦より見ればと心得べし、かく言を上下にしていふ事、集にも古今歌集にも多し。」と言ひ、古義には「田兒の浦より沖の方へといふ意なり。從《ユ》は……此處より彼處よりのよりにて重き詞なり」と言ひ、別に又久老は槻落葉で次の歌の「こちごちの國之三中從《クニノミナカユ》出でたてるも」又卷七の「湍瀬由渡之《セゼユワタシシ》石橋もなし」(一一二六)の「ユ」の用例を擧げて「この從《ユ》は常にいふよりといふ言には違ひて、輕く爾の手爾波に似たり」と言つてゐるが、守部が檜嬬手に擧げた「於2田兒之浦1の意(92)なり」といふのはこれに近い。成程「國之三中從」や「瀬瀬由」の「ゆ」は一見して「に」に似た用例のやうに見える。しかしこれらは、やはり「より」の義に解くべきもので、前者は甲斐と駿河との國境から空にむかつて聳え立つてゐるといふ意味であり、後者は石橋の通過路を示してゐて、石橋の渡してあつた場所を示してゐるのではない。とにかく萬葉時代に於ては「ゆ」を「に」の意味に解く確證はないのである。從つて「より」の意に解くべきである、しかして「田子の浦ゆ」は副詞的修飾語であるから、「見れば」を修飾するものと見なければなるまい。勿論「打出でゝ」をも修蝕してゐるわけであるが、それではこの場合意味をなさないから、意味の上から云つて「見れば」を修飾するものと見るべきである。(國語國文第四卷第五號拙稿參照)
 
不盡山を詠める歌一首并に短歌
 
319 なまよみの 甲斐の國 うちよする 駿河の國と こちごちの 國のみ中ゆ 出でたてる 不盡の高嶺は 天雲も いゆきはばかり 飛ぶ鳥も、とびものぼらず もゆる火を 雪もて消ち ふる雪を 火もて消ちつゝ いひもえず 名づけも知らず くすしくも います神かも 石花《せ》の海と 名づけてあるも その山の つつめる(93)海ぞ 不盡河と 人の渡るも 其の山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの國の 鎭《しづめ》とも います神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高峰は 見れど飽かぬかも
 
【口譯】 甲斐の園と駿河の國と、即ちあちの國とこちの國との眞中に聳え立つ富士の高嶺は、空行く雲も行くことを憚り、飛ぶ鳥も上までのぼらず、噴き出す火を雪で消し、降る雪を火で消して、言ひやうも名づけやうもないはど美妙な神樣であることだ。せの海と名づけてゐるのも、其の山のとり圍んでゐる海である。富士河と言つて人の渡るのも其の山から泡立ち流れ出る溪流である。此の日本の國の鎭めともなつてをられる神である、寶とも成つてをる山である、この駿河の富士の高嶺はいくら見ても見飽かぬことだ。
 
【語釋】 ○なまよみの 甲斐〔二字傍点〕の枕詞。他に用例がない。語源は分らない。冠辭考には「生弓《ナマユミ》の返《かへ》るといふを、かひにいひかけたるなるべし」といひ、代匠記には、生吉《ナマヨミノ》貝《カヒ》卜云心歟、鰒榮螺子《サヾエ》等ノ貝ノ羸皆ナマシキヲ賞スレバナリ」といひ、古義には、生善肉之《ナマヨミノ》なるべし。甲斐とかゝるは貝の意なり、貝とは白蛤《ウムギ》、蝮具《アハビ》などを主と云ふことにして、其は生《ナマ》の肉《ミ》を膾《ナマス》などにして食ふが殊更に味(ヒ)善きものなればかく云へり」といつてゐ(94)る。○うちよする 駿河〔二字傍点〕の枕詞、卷二十駿河國防人の「宇知江須流《ウチエスル》駿河のねらは」(四三四五)とある「うちえする」はうちよするの訛であらう。冠辭考に「打|※[さんずい+甘]《ユス》る※[さんずい+甘]《ス》る髪《ガ》てふ意につゞけなしけんかし、髪を櫛梳るとき用る水をゆまるといへば」といひ、古義は大神景井の説を引いて「打動《ウチユスル》動河《ユスリガハ》」(動河《ユスリガハノ》國−須留|河《ガノ》國)の義であるといつてゐるが、いづれもいかゞかと思はれる。○こちごちの 今の「あちこち」に同じ。萬葉時代には、遠稱の「あち」中稱の「そち」の語が未だ發達してゐなかつたゝめに、後世ならば「あちこち」といふべきを近稱代名詞「こち」を重ね「こちごち」といつて其の意を表したものとみられる。(アララギ第二十二卷・第十號山田孝雄氏參照)。○國のみ中ゆ み〔傍点〕は美稱接頭語、ゆ〔傍点〕は前歌參照。○雪もて消ち 「消つ」は(95)た〔傍点〕行四段に活用してゐる。「消す」の古言。○いひもえず 「不得」を從來義訓にしてカネとよんでゐたが、卷十九「立ちてゐて待てど待可禰《マチカネ》出でて來し」(四二五三)の例によつてもわかるやうに「かね」といふ語はすべて理由をいひ、状態をいふには用ひない。從つてこの場合はイヒモエズとよむのが適當である。(京大國文學會記念論文集佐伯梅友氏參照)。○名づけも知らず 從來知《シ》ラニとよまれてゐたが、これは知《シ》ラズとよむべきである。詳しくは、下出三四二參照。○くすしくもいます神 くすし〔三字傍点〕は不思議、珍らしい、靈妙などの意、上掲二四五、下出三八八參照。神〔傍点〕は山を尊んだ言ひ方。昔は國や山を神と尊んでゐたのである。○石花の海 「石花」をセと訓むのは借字。和名抄に「尨蹄子」を勢《セ》と訓み、兼名苑の註をひいて「石花【花或作華】二三月皆紫舒花附石而生故以名之」と記してある。せの海〔三字傍点〕は今の西湖《ニシノウミ》と精進湖《シヤウジコ》でもと一つであつたものが、貞觀六年の噴火の時二つに分れたと傳へられる。○日の本の やまと〔三字傍点〕の枕詞。因みに日本と云つたのは、孝徳天皇の御代にはじまる。
 
320 富士の嶺《ね》に ふりおける雪は 六月《みなづき》の 十五日《もち》に消《け》ぬれば その夜ふりけり
 
【口譯】 富士の嶺に降り積つてゐる雪は、六月の十五日に消えてしまふと直ぐに又其の夜降る事だ。
(96)【語釋】 ○もち もち〔二字傍点〕は滿月。「もちの日」といふのを略して「もち」と言つたのである。和名抄「釋名云望月【和名毛知都岐】云々」
【後記】 富士の雪も、さすがに暑い六月の十五日には消えてしまふが、その夜また積ることだといつて、山に常住雪のあることを驚嘆して詠んだものである。
 
321 富士の嶺を 高みかしこみ 天雲も いゆきはゞかり たなびくものを
 
右一首、高橋連蟲麻呂の歌の中に出づ、類を以て此に載す。
 
【口譯】 富士の嶺が高く畏いので、天雲も行くのをためらつて、棚引いてゐることだ。
【語釋】 ○ものを 咏嘆の語法。普通「ものを」と口譯されてゐるが、こゝは餘情を含めた言葉とみてよい。勿論「ものを」「であるのに」と譯して當る場合もある。上掲三〇五、或は下出三九二・三九六・四五五・四六〇・四七〇等はその例である。
【左註】 右一首とあるを以つて其の前の二首は赤人の作かと見られるが、佐々木博士の和歌史の研究には作風から見て共に蟲麻呂の歌とせられ、又澤瀉久孝氏は國語國文の研究第四十九號で別な方面から此の説を支持してをられる。即ち、卷五・九〇六の短歌の左註「右一首〔三字右○〕作者未だ詳かならず。但し裁歌の體、山上の操に(97)似たるを以て此の次に載す」とある「右一首」が、九〇六の短歌一首を指すものでなく其の前の長歌一首を意味し、反歌二首はその中に含まれると見るべきであるから、此の場合も其れに倣つて、右一首とは題詞の一首とみるべく、從つて、三一九・三二〇・三二一の三首は共に蟲麻呂作と考へられるといふのである。猶森本治吉氏は」水甕十八ノ五に、三一九・三二〇の二首は作者不明とみるべきであると論じてをられる。此の註は猶考ふべき問題であらう。
 
山部宿禰赤人、伊豫の温泉《ゆ》に至りて作れる歌一首并に短歌
 
322 皇神祖《すめろぎ》の 神の命の 敷きます 國のことごと 湯はしも 多《さは》にあれども 島山の 宜しき國と 凝《こゞ》しかも 伊豫の高嶺の 伊佐庭の 岡に立たして 歌思ひ 辭《こと》思はしし み湯の上の 樹群《こむら》を見れば 臣《おみ》の木も 生ひ繼ぎにけり 鳴く鳥の 聲も變らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸處《いでましどころ》
 
【題意】 伊豫の温泉の事は、書紀舒明天皇十一年天武天皇十三年の段等に見えてをり、古事記允恭の卷には「故其輕太子者流於伊余湯也」とある。和名抄に温泉を「和名由」と訓じてゐる。
(98)【口譯】 代々の天皇のお治めになつてゐる日本の國中に、温泉は澤山にあるけれども、其の中でも島山の景色の美しい國であるといふので、その昔聖徳太子が、險しい伊豫の高嶺の伊佐庭の岡にお立ちになつて歌を或は文を御考へ遊ばされたといふその温泉の邊の林を見ると、岡本天皇行幸の時にあつたといふ臣の木も若木が生ひ繼いでゐたことだ、鳴く鳥の聲も變らずにゐる。何時の代までも神々しくつゞいてゆくとおもはれる行幸處である。
【語釋】 ○國のことごと 國の盡く何處の國にも。○湯はしも しも〔二字傍点〕は意味を強める助詞。○島山の宜しき國と 島山の景色の美しい國として。○伊豫の高嶺の伊佐庭の岡に 伊豫の高嶺〔五字傍点〕は石槌山の事であらう。温泉より少し遠過ぎるので、今の三方森山の連嶺でもあらうかと言つてゐる人もある。伊佐庭〔三字傍点〕は仙覺所引の伊豫國風土記に「立2陽岡側碑文1、其立2碑文1處、曰2伊社邇波《イサニハ》之岡1也。所3以名2伊社邇波1者、當土諸人等其碑文欲v見、而|伊社那比《イサナヒ》来。因謂2伊社爾波《イサニハ》1本也」とある處で、全釋には「今道後公園となつてゐる湯月城趾と湯月八幡のある丘とが往古は連續してゐて伊佐爾波の岡と稱せられてゐたらしい」ことを記してゐる。○歌思ひ辭思はしし 代匠記に「これは風土記にいへる聖徳太子の湯の碑を立たまふとて文章の議を案じたまふをことおもひといひ、歌をもよませたまひけんなればうたおもひとはいへり」と言つてゐるのでよからう。こゝにいふ風土記とは伊豫國風土記の事である。内容は省略する。「歌偲ビ事偲ビセシ」とよんで「古の天皇陛下が、この伊佐爾波山にお立ちなされて昔からのこの温泉に関する歌を思ひ出し、古い云ひ傳へを(99)思ひ出しなされた温泉の邊の」と解する説もあるが、いまは前説に從つておく。○臣の木も生ひ繼ぎにけり 同じ風土記に「以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1于時於2大殿戸1有2椹與臣木1、於其上集2鵤與此米鳥1」とある。此の臣の木を考へたのであらう。生ひ繼ぐ〔四字傍点〕とは其の時の臣の木が其のまゝ殘つてゐるのではないが、後繼のものが生育して今日に至つた事をいふ。臣の木〔三字傍点〕とは今の樅である。○鳴く鳥の聲も變らず 此れも右の文中に鵤《イカルガ》と此米《シメ》とのことが見えてゐるから、其の鳥のことを想像したのであらう。○行幸處 右風土記の文によれば五度の行幸があつた。
【後記】赤人が伊豫に遊んだ時は未だ伊佐庭の岡には聖徳太子の建立と稱する碑も立つてゐたのであらう。又岡本宮の天皇の傳説を聞くことも出來たであらう。其の當時の事等思ひ浮べての作とみられる。赤人らしくあつさりした長歌である。
 
反歌
 
323 百磯城《ももしき》の 大宮人の 飽田津《にぎたづ》に 船乗りしけむ 年の知らなく
 
【口譯】 大宮人達が飽田津で船遊びをしたといふその年は、いまではもう何時のことかわからないことだ。
(100)【語釋】 ○飽田津 伊豫國温泉郡、今の古三津村・三津濱村等の地である。卷一「熟田津に船乘せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎでな」(八)。○知らなく なく〔二字傍点〕は上掲二四二參照。下出四一九にもある。
【後記】 すでに遠い昔となつて了つた懷古の情を歌つたもの。
 
神岳《かみをか》に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
324 三諸の 神名備《かむなび》山に 五百枝《いほえ》さし 繁《しゞ》に生ひたる 樛《つが》の木の いやつぎ/\に 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく 在りつゝも 止まず通はむ 明日香の 舊き京師《みやこ》は 山高み 河とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 河し清《さや》けし 朝雲に 鶴は亂れ 夕霧に 蝦《かはづ》はさわぐ 見るごとに ねのみし泣かゆ いにしへ思へば
 
【題意】 普通の書式に從へは、山部宿禰赤人神岳に登りて、とあるべきである。神岳は、歌の中に三諸の神名備山とある處。、二三五には雷岳ともある、飛鳥の京の西に當る。飛鳥川がこの岡の麓を南から西へゆるくめぐつてゐる。
【口譯】 三諸の神名備山に枝を出して繁つてゐる樛の木の其の名のやうに、つぎ/\に何時まで(101)も絶えることなく、ずつと絶えず通ひ度いと思ふ明日香の舊都は、山高く川は雄大である。春の日は山の姿がほれぼれとするほどで、秋の夜は河の音がさやかだ。朝雲には鶴が亂れとび、夕霧には河鹿が鳴き騷いでゐる。此の美しい飛鳥の舊都をみると、いつもわたしは聲に出して泣かれてくることだ。いにし昔のことを思つて。
【語釋】 ○三諸の神名備山 みもろ〔三字傍点〕は三輪山をもいひ、龍田山にもあるが、こゝは頼岳の事である。神名備〔三字傍点〕は出雲國造神賀詞に、大御和神奈備坐、己命……葛木神奈備坐車代主命……飛鳥神奈備坐……」とあるのによつて知られるやうに、元は神の森の意であつた。從つて神名備の名をもつ山はどこにでもあつたわけである。○五百枝さし 五百〔二字傍点〕は數多くの義。○樛の木 集中「都賀乃樹《ツガノキ》」、都我能奇《ツガノキ》」或は「刀我乃樹《トガノキ》」と書く。和漢三才圖會には、關東では「ツガ」關西では「トガ」と云ふと記してゐる。栂の事。「つぎつぎ」の枕詞としてはツガと訓むのがよからう。○玉葛 「絶ゆることなく」にかゝる枕詞。冠辭考云、「こは蔓《カツラ》の長くはひひろごる物なれば、たえぬとも長きともいへり」。玉〔傍点〕は美稱である。○在りつゝも このまゝに、ずつと引き續き、變りなく。あり〔二字傍点〕は「あり通ふ」等のあり〔二字傍点〕と共に、ある行動の繼續を示す詞。上掲三〇四參照。○山高み河とほしろし 山高み〔三字傍点〕といふのは、いはゆる形容詞の語幹にみ〔傍点〕がついた形であつて、多くの場合「……であるので」或は「……さに」と口語譯すればあたる言葉であることは上に述べた。上掲二七八參照。しかるにこの、……み」の形のものゝ中には、一概に右に述べたやうな口語譯では當らな(102)い場合がある。この歌のやうなのはその一例である。こゝでは「山高み」と「河とほしろし」とは相對關係になつてゐて、因果關係を持つものではない。かゝる場合は「山が高くて」と中止形に解釋せらるべきものである。次に、「とほしろし」には「雄大な」といふ説と、あざやかな」と解く説と二つある。いづれをいづれとも決しかねるのであるが、上代特殊假名遇の上からいふと、前者の説をとらなければならぬ事になるのである。理由は、「とほしろし」の「しろし」を、白又は顯著の意を有する「しろし」又は「いちじろし」と同語と認めると、假名遣の上で矛盾をきたすからである。その外、應永年間書寫の日本紀私記に「大小之【止乎之呂久知比左岐】」とあることや、石山寺所藏大唐西域記の訓點に、「人骸|偉大《とほしろし》」と見えること、其の他、歌論書の中に雄大といふ意味に「とほしろき」「とをしろき」とかいてある事など參考とならう。(奈良文化六號橋本進吉氏參照)○山し見が欲し し〔傍点〕は強助詞、見がほし〔四字傍点〕は代匠記に「見之欲にてみまくほしきなり」といつてゐる。山が美しくて何時も眺め度い意。櫻が咲くからであらう。○河し清けし し〔傍点〕は上に同じく強めの助詞。○蝦 今の河鹿の事。今も吉野宮瀧では河鹿をカハヅといつてカジカとはいはないさうである。○哭のみし泣かゆ 下出四五六參照。「哭に泣く」といふことは上掲三〇一參照。
【後記】山河、春秋、朝夕の對句に飛鳥の自然をよく表現してゐる。とほし〔右○〕ろし〔右○〕、やまし〔右○〕みがほし〔右○〕、かはし〔右○〕さやけし〔右○〕、と「し」の音の繰り返しに清新の感がある。敍景詩人としての赤人の特色をよく發輝した作である。
 
(103)反歌
 
325 明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひすぐべき 戀にあらなくに
【口譯】 明日香川の川淀に何時も立つてゐる霧のやうに、わたしの舊都への思慕の心は、容易に消え去りはしないことだ。
【語釋】 ○川淀さらず立つ霧の 川の淀みを去らず、何時も其處に立つてゐる霧のやうに。こゝまでは「思ひすぐ」の序。卷四「朝にけに色づく山の白雲之可思過《シラクモノオモヒスグベキ》君にあらなくに」(六六八)の歌によく似た序の使ひ方である。○思ひすぐべき 思ひすぐ〔四字傍点〕は「思が消える」「思はなくなる」の意。下出四二二參照。○戀にはあらなくに 戀〔傍点〕は飛鳥の舊都を戀ふる心。
 
門部王《かどべのおほきみ》、難波に至りて、漁父《あま》の燭光《いさりび》を見て作れる歌一首
 
326 見渡せば 明石の浦に ともす火の 秀《ほ》にぞ出でぬる 妹に戀ふらく
 
【題意】 門部王は三一〇參照。漁父《あま》の燭光《ともしび》といふ事は卷十九「鮪つくと海人之燭有伊射里火之《アマノトモセルイザリビノ》ほにか出でなむ吾が下思ひを」(四二一八)。
(104)【口譯】 見渡すと、明石の浦に漁人のともすいざり火が明るく見えてゐるが、あのやうに、あらはに外に現れて了つたことである。妹を思ふ心が。
【語釋】 ○ともす火の 舊本「燒火乃《タケルヒノ》」、卷十七「海未通女伊射里多久火能《アマヲトメイザリタクヒノ》おほゝしく」(三八九九)とあるのによつて、こゝもタケル火と訓んでよささうであるが、今一般に從つてトモス火とよむ。古義に「此句までば保《ホ》をいはむために、目に觸る所の物をもつて序とし給へるなり」といつてゐるのでよからう。火《ホ》と秀《ホ》とをかけたのである。○秀にぞ出でぬる ほ〔傍点〕は、稻でも薄でも其の穗をいふ。「秀に出づ」とは、こもつてゐたのが穗となつて顯れ出ることから戀ひなどの表面にあらはれることに用ひる。○妹に戀ふらく らく〔二字傍点〕はく〔傍点〕が四段の動詞の未然形に接するのに對して(上掲二五八參照)、其れ以外の動詞の終止形に接してこれを體言の格に定める接辭、これについては安藤正次氏の研究がある。「わたくしの考へるところによれば『いはく〔右○〕』『聞かく〔右○〕』の『く』は或動作をたしかにいひ定める、すなはち『いはく』は『たしかにさういふ』『聞かく』は『たしかにさう聞く』といふやうな確言的の表現に用ひられるものであるが、『らく』に至つては、『ら』によつて、さらに存在的の意義が加はつて來たのである。『老ゆらく』といへば老ゆると云ふ作用の存在を確言するのであり、『告ぐらく』といへば告ぐるといふ動的の存在を確言してゐるのである……或動詞には未然形に『く』がつき或動詞には終止形に『らく』がつくといふやうになつてゐるのは、動詞の發達分化と聯關して發生〔未然〜傍点〕の歴史的先後の相違によるものではあるまいかと考へてゐるのである。」(日本文學論纂安藤正次氏參(105)照。)なほこの「らく」については「戀ふ=らく」と分解しようとするのに對して「戀ふら=く」と見ようとする立場もある。(萬葉集講座言語研究篇佐伯梅友氏參照)
【後記】 第三句までを下の序に用ひたのは、赤人の「明日香河川よど去らず立つ霧の」(三二五)と同樣で、敍景を轉じて抒情に用ひたものである。なほ上掲二五四參照。
 
或|娘子《をとめ》等、裹《つつ》める乾鰒を贈りて戯れに通觀僧の咒願《かじり》を請ひし時、通觀の作れる歌一首
 
327 海若《わたつみ》の 奥《おき》に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ
 
【題意】 通觀の傳は未詳である。舊本「賜乾鰒」とあるが、目録には「以2H裹乾鰒1贈2通觀僧1」とあるから神田本に從つて、贈乾鰒〔三字傍点〕に改むべきである。咒願は神武紀に「亦爲嚴咒詛。如v此則虜自平伏。【嚴咒詛、此云怡途能伽辭離】」とあるやうにカジリと訓む。僧の行ふまじなひである。即ち、若き娘子達が乾鰒を裹んで通觀僧に贈り、咒詛の力によつていのり生かして欲しいとからかつた時に、通觀が應へたものである。
【口譯】 海の沖に持つて行つて放さうとも、この乾鰒がどうして生きかへるものでせうか。
【語釋】 ○海若の 和名抄神靈部に「文選海賦云海童即海神也日本紀云海神【和名和太豆美乃加美】」とあるやうに、本來は海神のことであるが、後には單に海の事にも用ひるやうになつた。○うれむぞ 代匠記に「いかむぞ、なむ(106)ぞ、など云詞か、外にみえず」とある。卷十一「平山の子松が末《ウレ》の有廉叙波《ウレムゾハ》我が思ふ妹にあはず止みなむ」(二四八七)の有廉叙波は「末《ウレ》」とかけてウレムゾハと訓むものと思はれるが、うれむぞ〔四字傍点〕の例は集中これら二つしか無いのである。意味は契沖の言つてゐるやうに反語であらう。○よみがへりなむ 舊本「將死還生《シニカヘリイカン》」とあるが、萬葉考にヨミカヘリナムと訓んだのに從ふ。玉の小琴に或人説としてヨミカヘラマシの訓をも擧げ、略解がこれに從つてゐるが、「將」の字をマシとよませた例が他になく、又、集中「まし」の例をみても、上に「うれむぞ」等といふ反語の意を表はす語の來た例が無いから、ヨミカヘリナムの方がよい。新撰字鏡「※[のぎへん+巣のような字]【束孤反又作甦更生也與彌加へ利】」。
 
太宰少貳|小野老朝臣《をぬのおゆあそみ》の歌一首
 
328 青丹よし 奈良の京師《みやこ》は 咲く花の 薫《にほ》ふがごとく 今さかりなり
 
【題意】 小野老は、養老四年十月右辨、天平元年三月從五位上、三年正月正五位下、五年三月正五位となる。その頃太宰少貳となり、後大貳と成る。續紀に天平九年六月卒すとあるが、正倉院文書によると天平十年周防國正税帳斷簡に養病の目的を以つて下野那須温泉に赴き、其の地で逝去した事がみえてゐるから、十年の誤りであらう。集中、歌凡て三首。いづれものどやかな歌である。(心の花第三十卷第三號橋本進吉氏參照)
(107)【口譯】 奈良の京師は、ちやうど花が美しく咲き映えてゐるやうに、今榮えに榮えてゐる。
【語釋】 ○咲く花のにほふが如く にほふ〔三字傍点〕は、卷十七「橘の爾保弊流香《ニホヘルカ》かも」(三九一六)のやうに、末期のものにあつては香りの事にも用ひられてゐるが、其れ以前にあつては專ら色彩の美しさを表す詞であつた。それは、全く香を伴はぬ黄葉や川等に用ひられてゐる事によつて知られる。例へば卷十「朝露に仁賓布黄葉《ニホフモミヂ》の」(二一八七)、卷七「白栲に爾保布信士之山川爾《ニホフマツチノヤマカハニ》」(一一九二)等。從つて此の歌の「にほふ」も、花の色彩美から都のはなやかさをたとへたのである、
【後記】 奈良の都を讃美したものとして最もよく人口に膾炙された歌である。特別の工夫もなく素直に歌ひ出されてをりながら然も人をひきつけるもののあるのは、作者自らの憧憬が深く歌ひこまれてゐるからであらう。
 
防人司佑《さきもりのつかさのすけ》大伴|四繩《よつな》の歌二首
 
329 やすみしゝ 吾が王《おほぎみ》の 敷きませる 國の中には 京師《みやこ》念ほゆ
 
【題意】 防人司は太宰府下の役所で、防人に關する事務を扱ふ。佑は次官。大伴四繩は傳記未詳。集中歌凡て五首。
(108)【口譯】 吾が王のお治めになつてゐる此の國では、まづ第一に京師が懷しく思はれる。
【語釋】 ○國の中には 國の中ではまづ第一にといふ意。
【後記】 右の小野老の歌に相和したものゝやうに感ぜられる。
 
330 藤浪の 花は盛に なりにけり 平城《なら》の京を 思ほすや君
【口譯】 藤の花は盛りになりました。平城の京を思ひ出しになりますか。貴方は。
【語釋】 ○藤狼の花 藤の花をよむのには、殆ど大部分|藤浪《フヂナミ》といひ、極く稀に藤《フヂ》といつた。藤花といふ語は題詞には用ひられるが、歌では唯一首卷十七「伊久理能母里乃藤花《イクリノモリノフヂノハナ》」(三九五二)とあるのみである。藤浪〔二字傍点〕とは當時の歌詞ではなかつたかと思はれる。藤が咲き連つて風にゆらぐのが浪のやうに見えるからいつたのである。○思ほすや君 思ほす〔三字傍点〕は「思ふ」の未然形「思は」に、敬語を表す四段に活用する助動詞「す」が連續して音變化を來した形である。「や」は疑問。
【後記】 遠く離れては都は戀しいもの。わけて藤の花咲くころともなれば、藤の花咲く寧樂の都が一入偲ばれたことであらう。卷六・太宰少貳石川朝臣足人の「刺竹の大宮人の家と住む佐保の山をぼ思哉毛君《オモフヤモキミ》」(九五五)とあるのも、同じやうな歌である。
 
(109)帥大伴卿の歌五首
 
331 吾が盛 またをちめやも ほと/\に 寧樂の京《みやこ》を 見ずかなりなむ
 
【題意】 太宰帥は大伴旅人で、大納言安麿の第一子。續紀に和銅三年正月、左將軍正五位上大伴宿禰旅人とある。四十六歳の時のことである。其後中務卿中納言をへて太宰帥になつた。その年月は、はつきりしないが、彼の六十二、三歳の頃、即ち神龜三、四年の頃である、天平二年十月一日大納言に任ぜられ、その年十二月上京。翌三年七月二十五日薨去。六十七歳。家持はその子。筑紫でよまれたものが多い。
【口譯】 わが身の盛が、もう一度歸つてくる事があるであらうか。奈良の京をこのまゝ見なくなつて了ふのではなからうか。
【語釋】 ○またをちめやも 舊本「復變八方《マタカヘレヤモ》」とあるが、宣長が王の小琴にマタヲチメヤモと訓んだのに從ふ。卷四「昔見しより變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(六五〇)、又卷六「石鋼のまた變若返《ヲチカヘリ》」(一〇四六)など參照。但、これらの歌には、變若〔二字傍点〕とあるのに、こゝの歌には「變」の一字しかないので、槻落葉は「若」の字の脱として補つてゐるが、普通には己凝敷《コゴシキ》・許凝敦《コゴシキ》と書くのを、凝敷《コゴシキ》(三〇一)と書く場合もあるから、變〔傍点〕のみで變若〔二字傍点〕と同樣にヲチとよんでよからう。「をつ」は下二段活用の動詞で、こゝの歌を始め大抵の場合「若《わか》がへる」意味に用ひら(110)れてゐるが、「をつ」といふ語に本來其の樣な意味があるのではない。「元へかへる」といふのがむしろ本來の意味であらう。卷二十「ゆめ花散るな伊也乎知爾左家《イヤヲチニサケ》」(四四四六)の乎知〔二字傍点〕は初めにかへる、もとにかへる意である。め〔傍点〕は推量助動詞「む」の已然形、や〔傍点〕は反語、も〔傍点〕は詠嘆。○ほと/\に ほとんど、大抵等に近い意味を表す。○見ずかなりなむ か〔傍点〕は疑問。見なくなつてしまふであらうか。
【後記】 筑紫の邊土にあつて齡既に傾いた旅人が、故郷の京を如何に憧憬したことであらうか。もう一度あのなつかしい山河に接し度い、然しこの頃になつて目に見えて衰へてきた我が身を眺める時彼の胸中は淋しかつたに違ひない。次の歌も同じ氣特でうたはれたものである。
 
332 わが命も 常にあらぬか 昔見し 象《きさ》の小河を 行きて見むため
 
【口譯】 わが命はいつまでもあつてほしいものだ。昔見た吉野の象の小川へもう一度行つて見ようために。
【語釋】 ○わが命も常にあらぬか 古義には「抑々この奴《ヌ》は名告佐禰《ナノラサネ》などいふ禰《ネ》の言を轉じたるにて、(中略)有奴可《アラヌカ》は有禰《アラネ》とねがふ言なるを、下の可《カ》に續く故に第四位の言を第三位の言に轉じいへるものぞ云々」と言つてゐるが、これは無理な解釋で、一般にはやはり「ぬ」は打消助動詞の連體形、「か」は疑問の助詞と考へ(111)られ、これが常に連續して用ひられる故に、實際の例では轉じて願望を表すやうになつてゐる。攷證に「もよりうくる格也」と言つてゐるのは注意すべきである。「ほしいものだ」といふ意。○象の小川 既出三一六參照。
【後記】同じ卷の「昔みし象の小川を今みればいよゝさやけぐ成りにけるかも」(三一六)とあるのは、吉野に從駕して離宮に遊んだ折の事であるが、その時のこと等なつかしく思ひ浮べられたのであらう。
 
333 淺茅原《あさぢはら》 つばら/\に もの思《も》へば 故《ふ》りにし郷《さと》し 思ほゆるかも
 
【口譯】 つく/”\と物思ひに耽つてゐると、すみなれた故郷がなつかしく思はれることである。
【語釋】 ○淺茅原 茅〔傍点〕は和名抄草類に智と訓む。淺茅原とは茅《ち》疎に生えた野原。茅原《ちはら》、曲《つばら》、音が似通つてゐるので「あさちはらつばら/\」と枕詞に用ひる。○つばら/\に 舊本「曲曲二《トサマカクサマニ》」。代匠記にツハラ/\ニと訓み「ツマヒラカニ同ジ」と解釋したのに從ふ。つくづくとである。卷十八「朝びらき入江漕ぐなる※[楫+戈]の音の都波良都婆良爾《ツバラツバラニ》吾家し思ほゆ」(四〇六五)とあるのに同じい。○ふりにしさと ふるさとの意は卷六「古郷之《ふるさとの》飛鳥はあれど青丹よし奈良の飛鳥を見らくしよしも」(九九二)、又卷十「藤原の古郷之《ふりにしさとの》秋萩は咲きて散りにき君(112)待ちかねて」(三八九)のやうに、もと榮えてゐて今はさびれた里の意に用ひたものと、卷四、心ゆも我は思はざりき又更にわが故郷《ふるさと》にかへり來むとは」(六〇九)のやうに、もと自分が住んでゐた里、或は行通うた事のある里等の意に用ひる場合とある。この歌は後者の場合で旅人がもと住んでゐた里をさすものである。
 
334 萱草《わすれぐさ》 わが紐につく 香具山の 故りにし里を 忘れぬがため
 
【口譯】 私は忘れ草を着物の下紐に附ける。香具山の故郷を忘れようとしても忘れられないから。
【語釋】 ○萱草 和名抄草類「萱草兼名苑云萱草一名忘憂【漢語抄云和須禮久佐俗云如環藻二音】」とある。後世は音でクワンゾウとよんだ。百合科植物、黄赤色の百合の花を生じ山間に自生するが、庭園にも栽培せられる。當時此の草をつけてゐると物思ひを忘れると信ぜられてゐたらしく、卷十二「萱草《ワスレグサ》 吾紐爾著《ワガヒモニツク》時と無く念ひわたれば生けりともなし」(三〇六〇)も此の歌と同じ思想である。○忘れぬがため 玉の小琴に「忘れぬ故にと云はむが如し、然ば忘れぬ故にいかにしても忘れむとて萱草を紐に付ける也」とあるのでよからう。
【後記】 忘れ草とか忘れ貝とかは、其の中に上代人の思想傾向が織込まれてゐて面白い。忘れ貝は卷一(六八)に既に出てゐるが、忘れ草は此の歌が始めてゞある。
 
(113)335 吾が行《ゆき》は 久《ひさ》にはあらじ 夢《いめ》のわだ 瀬にはならずて 淵にあらなも
 
【口譯】 私の旅は餘り長いものではあるまい。夢の和太は瀬にならないで、昔のまゝの淵であつて欲しいものだ。
【語釋】 ○吾が行は 行《ユキ》は名詞。卷五「枳美可由伎《キミガユキ》けながくなりぬ」(八六七)を參照。旅行の意。○久《ひさ》にはあらじ 卷十七「君が目を見ず比佐奈良婆《ヒサナラバ》すべなかるべし」(三九三四)とある。長くはあるまいの意。○夢のわだ 夢〔傍点〕はイメと訓む。集中假名書の例を見てもすべてイメであつて、ユメと書かれた例は無い。イメノワダは、大和國吉野郡丹生川上神社の東、丹生の瀧に近く碧潭がある、こゝを指してゐるのではないかと思はれる。卷七「夢《イメ》の和大《ワダ》言にしありけりうつゝにも見てこしものを念ひしもへば」(一一三二)。○淵にあらなも 舊本「淵有毛《フチトアリトモ》とあるのを、童蒙抄と考とにはフチニテアルモと斷定的な意味に訓み、略解にフチニアルカモ攷證にフチニテアルカモと疑問的に、代匠記にフチニアレヤモ槻落葉にフチニテアレモ古義・新考にフチニアリコソと希望の意に、新訓にフチニシアラモと推量の意に訓んでゐる。最近、上代國文二ノ一に森本治吉氏が此等の諸説を檢討して其の據るべからざるを駁し、フチニアラムモと推量的に訓む説を發表せられたが、契沖、宣長、久老、雅澄等が等しく希望の意に訓まうと試みたのは注目すべき點で、此の立場を支持すれば、フチニアラナモと訓む事が出來るやうである。「なも」なる希望の助動詞は萬葉集において存在したことは卷(114)一・一八の歌によつて明かであるし、ナモのやうな二音の助動詞の役の音に一字音の文字を以てするといふ表記法も、卷十「春去|來之《クラシ》」(一八二四)、卷十二「更深利《クダチケリ》(又フケニケリ)」(三一二四)等の例に見られるから、ナモに毛〔傍点〕をあてる事もあり得ることである。試訓として提出する。即ち淵であつてほしいといふ意に解する事が出來る。
 
沙彌滿誓、綿《わた》を詠める歌一首
 
336 しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて いまだは着ねど 暖けく見ゆ
 
【題意】 滿誓沙彌は俗に笠朝臣麻呂。慶雲三年七月美濃守、靈龜二年六月兼尾張守、養老四年十月右大辨、五年五月出家、七年二月勅によつて筑紫觀世音寺を造らしめらる。
【口譯】 筑紫の綿は未だ身に付けて着ては見ないが、いかにも暖かさうにみえる。
【語釋】 ○しらぬひ 舊本「白縫《シラヌヒノ》」とあるが、卷五「斯良農比《シラヌヒ》筑紫國」(七九四)、又卷二十「之良奴日《シラヌヒ》筑紫國」(四三三一)等「シラヌヒ」と用ひられて「ノ」は添へてないから、四文字にシラヌヒと訓む。しらぬひ〔四字傍点〕を「筑紫」の枕辭とする由は古事記上卷に「筑紫國謂2白日別1、豐國謂2豐日別1、肥國謂2速日別1」とある「白日《シラヒ》」によるとするものと、書紀景行天皇十八年五月の條に、筑紫八代縣豐村に行幸の際主無き火の燃えたのを御覽に(115)なつて「故名2其國1曰2火國1」とある記事によるとするものとの兩説がある。○筑紫の綿 續日本紀に「神護景雲三年三月乙未、始毎v年運2太宰府綿二十萬屯1輸2京庫1。」とあり、延喜式にも又太宰府の綿進上に對する規定が見えてゐるので、當時、太宰府から京師に向けて多量の綿が輸送せられた事が知られる。
【後記】 筑紫から輸送せられた錦がうづ高く積まれてゐるのをみて、老人らしく感じた暖かさである。
 
山上憶良臣《やまのうへのおくらのおみ》、宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首
 
337 憶良らは 今は罷らむ 子|哭《な》くらむ 其の子の母も 吾を待つらむぞ
 
【題意】 憶良の渡唐に關する事は卷一(六三)參照。其の後靈龜二年四月伯嘗守となり、神龜三年頃筑前國司となつて下向。天平三年冬歸京したらしい。天平五年の作(卷五・八九七)に年七十四とある。その後の作で、年月の記したものはない。此の歌は彼が筑前守時代、酒宴の歸りに戯れによんだものである。
【口譯】 憶良はもうお暇しませう。家では子供が泣いてをりませう、又其の子の母も私の歸りを待つてゐるでありませうよ。
【語釋】 ○憶良らは ら〔傍点〕は複數を表すのではない。上掲二八四參照。○其の子の母も 舊本「其彼母毛《ソノカノハヽモ》」、今(116)古葉略類聚鈔「其子母」とあるに從ひ、ソノコノとよむ。
【後記】 此の歌戯れのやうであるが、憶良の眞の風貌であつたと思はれる。後々の卷に出て來る妻を慕ふ歌、子供を愛し又其の死を嘆く歌等と思ひあはせるとよい。
 
太宰帥大伴卿酒を讃《ほ》むる歌十三首
 
338 驗《しるし》なき 物を思はずは一坏《ひとつき》の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
 
【口譯】 甲斐のない物思ひをせずに、寧ろ一杯の濁酒を呑んだ方がましのやうだ。
【語釋】 ○驗なき物を思はずは いくら考へても甲斐のないやうな物思ひせず、寧ろの意。下出三四三參照。此の「ずは」は、詞の玉緒(卷七・古風辭)にズバと濁音に訓んで(但し、記傳卷三十一、仲哀天皇の條の布流玖麻賀伊多弖淤波受波《フルクマダイタデオハズハ》では清音に扱つてゐる)「んよりは」の意に解して以來、殆ど定説の觀を呈してゐたが、黒澤翁滿が「言靈のしるべ」(中篇下四十八丁以下)に「ずは」は「ず」に輕く「は」を添へただけであつて、「ず」と云ふと同じ意味であると論じた説は、國語と國文學第二卷第一號、橋本進吉氏の「奈良朝語法研究の中から」と題する論考によつて、動かすべからざる定説となり、それ以後公にせられた註釋書は何れも其の説を採用してゐる。その中講義は、意妹としては宣長の「んよりは」をとり、全釋は「……で(117)なくして、むしろ」といふやうに解釋すべきものとしてゐる、集中に用ひられた「ずは」の用例廿八、其の中大半は「まし」と相應じてゐる。○一坏の 坏《ツキ》は飲食を盛る器。こゝは酒坏に一杯の意。○濁れる酒 清酒に對する濁酒。今にいふどぶろく〔四字傍点〕の事。○飲むべくあるらし 舊本「可飲有良師《ノムベクアラシ》」とある。卷十五「爾波余久安良之」(三六〇九)、「比左思久安良思」(三六六七)などの假名書から、上掲「船爾波有之」(二五六)、「貴有師」(三一五)、卷四「待常二師有四」(七九二)の有之・有師・有四はそれ/”\アラシと訓んでゐる。上掲三一五參照。こゝもアラシとよんでもいゝが、以下「有良師」(三四〇)、「有良之」(三四二)、等と書いた一聯の作品のものは、アルラシと訓んだ方がいゝやうに考へられる。
 
339 酒の名を 聖《ひじり》と負《おほ》せし 古《いにしへ》の 大き聖の 言《こと》のよろしさ
 
【口譯】 清酒の名を聖人と付けた、昔の大聖人の言葉の何とうまいことだ。
【語釋】 ○酒の名を聖と負せし 魏書に「大祖禁v酒、而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1爲2賢者1、以2清酒1爲2聖人1」とあるによつたものである。負せし〔三字傍点〕は舊本「負師《オヒシ》」、槻落葉にオフシシとあるが、卷十四「加米爾於保世牟《カメニオホセム》心知らずて」(三五五六)、又卷十八「片念ひをうまにふつまに於伴世母天《オホセモテ》」(四〇八一)等の例によつて知られるやうに下二段に活用する動詞であるからオホセシとよむ。酒に聖人といふ名を與へたの意。○大き聖 禁を破つて酒を聖人とよんで飲んだ愛酒家を戯れていふ。
 
(118)340 古《いにしへ》の 七《なゝ》の賢《さか》しき 人|等《ども》も 欲《ほ》りせしものは 酒にしあるらし
 
【口譯】 昔の竹林の七聖人達も、欲しがつた物は酒であるやうだ。
【語釋】 ○七の賢しき人等 ※[(禾+尤)/山]康、阮籍、山濤、劉伶、阮咸、向秀、王戎等晋の竹林の七賢人を指す。扨賢しき〔三字傍点〕は舊本「賢人等《カシコキヒトラ》」となるが、古義に言つてゐるやうに、「かしこし」といふ語は、集中では恐懼畏敬等の意を表すのが常で、賢・聰等の意味には用ひられてゐないからサカシキヒトとよむ。日本書紀仁徳天皇十二年秋七月「小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺【賢遺此云左河之能※[草冠/呂]里】」。○欲りせし 「欲る」といふ四段活用動詞に「爲《す》の複合した「欲りす」といふ語に更に過去助動詞「き」の連體形の接續したもの。「欲りす」は後世になつては、促音化してホツスといふやうになつた。
【後記】 以上二首、支那の故事を引き、聖賢と酒と對照せしめて、現世の享樂的思想を謳歌するものである。
 
341 賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 醉哭《ゑひなき》するし 益《まさ》りたるらし
 
【口譯】 賢人ぶつて口をきくよりは、酒を飲んで醉ひ泣きする方が勝つてゐるやうだ。
(119)【語釋】 ○賢しみと 舊本「賢跡《カシコシト》」。攷證に此の歌をカシコシトと訓まねばならぬ故、前の「賢人」もサカシキヒトとは訓み難いと言つてゐるが、サカシと訓んでよい。賢しくて、の意。
 
342 言はむすべ せむすべ知らず 極《きは》まりて 貴き物は 酒にしあるらし
 
【口譯】 何と言つてよいのか何うしたらよいのか分らぬ程に、此の上もなく貴い物は酒であるやうだ。
【語釋】 ○云はむすべせむすべ知らず 舊訓シラズとあるに從ふ。シラニとあるのは、下の述語に對して理由を示す場合である。例へば、卷十五「するすべの多度伎乎之良爾《タドキヲシラニ》音のみしぞ泣く」(三七七七)、「さ夜更けて行方を之良爾《シラニ》吾が心明石の浦に舟とめて」(三六二七)など參照。然し此の歌にあつては「不知」は極まりて貴きの理由を表してゐるのでなく、下の述語に對して副詞的修飾語の地位に立つてゐるのである。この場合はズとよむ。「ず」と「に」とにはこのやうな意味上の相違があるやうに思ふ。四六六・四八一も同樣。(松井博士古稀記念論文集佐伯梅友氏參照)
 
343 なか/\に 人とあらずは 酒壺に 成りてしかも 酒に染《し》みなむ
 
(120)【口譯】 なまなかに人間としてゐないで、酒壺に成り度いものだ。さうすればいつも酒につかつてをられよう。
【語釋】 ○なか/\に なまなかに。○酒壺に成りてしかも てしかも〔四字傍点〕のか〔傍点〕を濁音に訓み、上に述べたもが〔二字傍点〕のが〔傍点〕と同じ語と考へ、たゞ上に「も」ある時と「し」ある時の相違に過ぎぬと云ふ考へ方は、詞の玉緒・あゆひ抄以來一般にとられた處であつた。近くは奈良朝文法史も亦同樣である。然るに雅澄が古義総論乞望辭の條に「さて※[氏/一]之可とあるも※[氏/一]之可毛とあるも、可はみな清音なり、上の毛賀、母賀毛、之賀と連ねたるはみな濁音なり、混ふべからず」と述べた清音説を武田祐吉氏は國語と國文學第八卷第七號所載「『しか』『てしか』」考の中に祖述し、更に語源考に至つて「もが」の「が」と區別して「て」は完了の助動詞、又「見しか」の存在に依つて、「し」は時を表はす助動詞の一變化とみるべきで、「か」は疑問の辭から出發して感動の意に轉じたものと見るべきであらうか、希望の意になるのは、さうなってゐたらと歎ずる意であらうかと解釋せられたのである。其の語原説の是非は兎も角としても、「もが」と「しか」との間には何程かの相違があるやうに思はれる。猶詳しくは後考を俟つべき問題である。下出三九三参照。
 
344 あな醜《みにく》 賢《さか》しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る
(121)【口譯】 何といふ醜い事だ。賢人ぶらうとして酒を飲まぬ人をよく見たら、猿にでも似てゐるだらう。
【語釋】 ○あな醜 あな〔二字傍点〕は「痛」を訓んだものである。巻四「芦田鶴の痛多豆多頭思《アナタヅタヅシ》」(五七五)、巻十「里人し痛情無跡《アナココロナト》念ふらむ」(二三〇二)又、日本紀神武天皇「大醜【大醜、此云鞅奈瀰爾句】」とある「大」の意味で、「痛」を「アナ」に用ひたのであらう。○賢しらをすと ら〔傍点〕は形容詞の語幹に接して體言の格にする接尾辞、賢人ぶらうとして。
 
345 價無き 寶といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも
 
【口譯】 價の知れない程貴い寶といつても、一杯の濁酒にどうして勝らうか。
【語釋】 ○あにまさめやも 舊本「豈益目八《アニマサラメヤ》」とあるが、類聚古集・古葉略類聚鈔・神田本によつて「八」の下「方」を補ひ、槻落葉に從つてアニマサメヤモと訓む。卷十五「旅と言へば言にぞ易き術も無く苦しき旅も言に麻左米也母《マサメヤモ》」(三七六三)。やも〔二字傍点〕は、反語の助詞であるが、あに〔二字傍点〕があると一層其の意が強くなつて來る。○價無き寶 法華經五百弟子受記品に「無價寶珠」とあるのを借りたもので、價知る事の出來ぬ程貴い寶。
 
346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 情《こゝろ》を遣《や》るに あに若《し》かめやも
 
(122)【口譯】 夜光の玉といつても、酒を飲んで心のうさを晴らすのにどうして及ぼうか。
【語釋】 ○夜光る玉 戰國策・史記等に見えるもので、夜、明光を放つたと稱せられる實珠。
【後記】 前の無價寶珠に對して、今度は夜光の玉をもつて來たのである。
 
347 世の中の 遊びの道に 冷《さぶし》くば 醉哭《ゑひなき》するに ありぬべからし
 
【口譯】 世の中の遊びの道に欝々として樂しまないならば、酒飲んで醉泣きする方がましであらう。
【語釋】 ○さぶしくは 舊本「冷者《マシラハハ》」とあるが、其の意味が釋然としないので、オカシキハ(代匠記)、スサメルハ(童蒙抄)、サブシクハ(考)等と訓まれ、又冷〔傍点〕を洽〔傍点〕の誤としてアマネキハ(古義)とも訓まれてゐるが、宣長は玉の小琴に冷〔傍点〕を怜〔傍点〕の誤として「たぬしきはと訓べし。さぶしを不怜とも不樂とも通はして書ればたぬしきにも怜の字をも書べき也」といひ、又其の意味については、世の中の遊びの道の中にて第一に樂きことはと云意也」と述べてゐる。しかしこの説には、冷〔傍点〕を怜〔傍点〕の誤字と認むべき理由が諸寫本の中に求められぬ缺點があり、此の點から宣長の説を猶不十分として生田耕一氏が、冷〔傍点〕をスズシと訓み、すが/\しくこだはりなき義に解されたのは注意すべき説である(萬葉集難語難訓攷參照)。但氏が傍證に擧げられた例は殆ど(123)凡て平安朝時代の物語作品中の用法であつて、直接に其の證左とならぬ點で、賛成致しかねる。いまは考の訓に從つておいたが、研究の餘地がある。「さぶし」といふ語は二五七・二六〇・四三四にある。各歌參照。
 
348 今代《このよ》にし 樂《たぬ》しくあらば 來む生《よ》には 虫に鳥にも 吾は成りなむ
 
【口譯】 此の世でさへ樂しく暮せたら、來世には鳥にでも虫にでもなりませう。
【語釋】 ○今代にし 拾穗抄・槻落葉等にイマノヨニシと訓んでゐるが、佛足石歌に「和我與波乎閇牟己乃與波乎閇牟《ワガヨハヲヘムコノヨハヲヘム》」とあり、又卷四「現世爾波人事繁し來むよにも」(五四一)の現世〔二字傍点〕もコノヨと訓むべきものと思はれるから、舊訓のまゝにコノヨニシとよむ。
【後記】 旅人が現世享樂主義の思想を、最も鮮明に表してゐるものゝ一つとして注目せられる歌である。
 
349 生者《いけるもの》 遂にも死ぬる ものにあれば 今生《このよ》なる間は 樂しくをあらな
 
【口譯】 生きてゐる者は、いつか死んで了ふものであるから、この世に生きてゐる間は樂しくあり度いものだ。
(124)【語釋】 ○生者 舊本イケルヒトとあるが、童蒙抄にイケルモノと訓んだのに從ふ。○樂しくをあらな を〔傍点〕は感動の助詞。な〔傍点〕は未然形接屬の希望を表す助詞。樂しくおり度いものだの意。○今生なるまは 舊本「今生在間《コノヨナルマハ》」。新訓にイマアルホドハと訓んでゐるが、前の歌の語釋にも引いた卷四・五四一の歌「現世爾波《コノヨニハ》」に對して「來生爾毛」とあるのは、必ずコムヨニモと訓むであらうから、「生」を義によつて、ヨと訓むならば、「今生」をコノヨと訓んで差支へないわけである。
【後記】 後世ならば、生者必滅を知る事によつて現世の無常を感ずべきであるのに、無常なればこそ現世を樂しまうといふ處に旅人の面目がある。
 
350 黙然《もだ》居りて 賢《さか》しらするは 酒飲みて 醉ひ泣きするに なほ若かずけり
 
【口譯】 黙つて居て賢人ぶるのは、酒を飲んで醉ひ泣きするのにやはり及ばないね。
【語釋】 ○黙然居りて 舊本「黙然居而《タヾニヰテ》」とあるが、卷十七に「咲けりとも知らずしあらば母太毛安良牟《モダモアラム》」(三九七六)とあり、卷七「黙然不有跡」(一二五八)、卷十「黙然毛將有」(一九六四)等の黙然〔二字傍点〕もモダと訓むであらうから、ここもモダヲリテとよむ。黙つて居ての意。○若かずけり けり〔二字傍点〕は咏嘆。
【後記】 以上十三首旅人の思想性格を汲みとるべきものとして常に注目される處である。其の中(125)に流れる現世主義、享樂主義的要素を見遁す事は出來ないが、其れは極めて不徹底なものに過ぎない。讃酒歌十三首の中、三四八・三四九の二首は其の中に酒の語が見られぬばかりでなく、直接に酒を謳歌してもゐないのであるが、其の讃酒の精神の赴くところ自然に謌ひ出されたものであらう。
 
沙彌滿誓の歌一首
 
351 世の中を 何に譬へむ 朝びらき 漕ぎいにし船の あとなき如し
【題意】 沙彌滿誓は上掲三三六參照。
【口譯】 世の中を何に譬へよう。それはちやうど朝、港を出て漕いでいつた船の跡の少しも殘らぬのと同じだ。
【語釋】 ○朝びらき 朝港を船出すること。卷十五、安佐北良伎《アサビラキ》漕ぎ出てくれば」(三五九五)、卷十七「珠州の海に安佐比良伎之底《アサヒラキシテ》漕ぎ來れば」(四〇二九)など參照。○漕ぎいにし船の 漕いでいつた船の。
【後記】 出家でもする人に相應しい無常觀を詠つた歌である。拾遺集に第三句以下を改めて「あさぼらけ漕ぎ行く舟のあとの白浪」としたのは拙である。
 
(126)若湯座王《わかゆゑのおほぎみの》歌一首
 
352 葦邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》鳴きて 湖風《みなとかぜ》 寒く吹くらむ 津乎《つを》の埼はも
 
【題意】 若湯座大王は傳記未詳。集中にはこの歌一首あるのみ。
【口譯】 葦邊には鶴が鳴き、そして湖の風が寒く吹いてゐることであらう、あの津乎の崎は。
【語釋】 ○湖風 みなとを吹く風。卷十七「美奈刀可世《ミナトカゼ》寒く吹くらし奈呉の江に妻喚びかはし鶴さはに鳴く」(四〇一八)。○津乎の崎 津乎の崎〔四字傍点〕は「和名抄に近江國淺井郡に都宇郷ありこの處にや」と代匠記に述べてゐるが、大日本地名辭書には今の朝日村であるとしてゐる。
【後記】一度作者が體驗した津乎の崎の情景を思ひやつてよんだものである。
 
釋|通觀《つうくわん》の歌一首
 
353 み吉野の 高城の山に 白雲は 行きはゞかりて たなびけりみゆ
【題意】 通觀は上掲三二七歌既出。
【口譯】 み吉野の高城の山に、白雲が行きためらつて棚引いてゐるのが見える。
(127)【語釋】 ○吉野の高城の山 大和國吉野部金峯神社の北に在る。其の所在地が明瞭でないが、吉野名所誌には「城山又は鉢伏山ともいふ」とある。○たなびけりみゆ 舊本「棚引所見《タナヒキテミユ》」。考にタナビケルミユと改めてゐるが、「見ゆ」の上に來る動詞或は助動詞は既に「亂出所見《ミダレイヅミユ》」(二五六)の條下に述べたやうに終止形であるから、こゝもタナビクミユ又タナビケリミユとよむべきである。而して卷六「船出爲利見所《フナデセリミユ》」(一〇〇三)、卷十五「等毛之安弊里見由《トモシアヘリミユ》」(三六七二)等の例によつて後者の訓方をとる。
【後記】 高城の山といつて、白雲が行き憚るといふ處、赤人の不盡山の歌に「白雲もいゆきはゞかり」(三一七)とあるのに思ひそへられる。
 
日置少老《へきのをおゆ》の歌一首
 
354 繩の浦に 鹽燒くけぶり 夕されば 行き過ぎかねて 山に棚引く
【題意】 日置少老は傳不詳。
【口譯】 繩の浦で鹽燒く煙が、夕方になると、通り過ぎることが出來ないで山に棚引いてゐる。
【語釋】 ○繩の浦 所在不明である。古義には「和名抄に、土佐國安藝郡|那半《ナハ》とあり(中略)又は奈半利《ナハリ》といへり、南は海を帶、北東に山を負て、今の歌詞によく叶ひたれば其の地にや」といひ、地名辭典には今の大阪(128)市船場の西、津村の地をあてゝゐる。次の赤人の歌にも「繩の浦」(三五七)とあるが、同地であらうか。然し繩〔傍点〕を網〔傍点〕の誤としてアミノウラとする童蒙抄の説、綱〔傍点〕の誤とてツヌノウラと訓む槻落葉の説は猶速斷に過ぎるやうである。
 
生石村主眞人《おふしのすぐりまひと》の歌一首
 
355 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなひこな》の いましけむ 志都《しづ》の石室《いはや》は 幾代經ぬらむ
 
【題意】 生石村主眞人は續日本紀に「天平勝寶二年正月乙己正六位上大石村主眞人授2外從五位下1」とある。集中歌一首のみ。
【口譯】 大穴牟遲命、少名毘古那神の住んでをられたといふ、志都の石室はその後幾年たつたことであらう。
【語釋】 ○大汝少彦名 大汝〔二字傍点〕、古事記の大穴牟遲神、即ち大國主命。少彦名〔三字傍点〕は同記に、「自2波穗1乘2天之羅摩船1而内2剥鵝皮1剥爲2衣服1有2歸來神1」とある。この二神協力して國土を經營せられたと傳へてゐる。○志都の石室 宣長が玉勝間九の卷「石見國なるしづの岩屋」の中に、石見國邑知郡岩屋村にしづ岩屋と里人の呼ぶ高さ三十五六間ある石室があり、大汝神少彦名神が住み給うたと傳へられてゐる由をのべ、「萬葉三(129)の卷なる歌の志都の石室はこれならむかと思へどなほ思ふに萬葉なるはいかゞあらむ」と斷定を憚つてゐる。都人がこのやうな僻遠の地をよむのは意外に思はれるが、眞人が官人として任じてゐたのであるかも知れず、又旅にでも出てゐたのであるかも知れないのだから、一概にこの説をすて去るわけにはゆかない。又別に播磨國印南郡生石村の石室殿なりとする説もある。
 
上古麻呂《かみのふるまろ》の歌一首
 
356 今日もかも 明日香の河の 夕さらず 蛙《かはづ》鳴く瀬の さやけかるらむ 【或本歌發句にいふ、明日香川今もかもとな】
 
【題意】 上古麻呂は傳未詳。集中唯一首。
【口譯】 毎晩、河鹿の鳴く明日香の瀬は、今日もさやかに流れてゐることであらうか。
【語釋】 ○今日もかも か〔傍点〕は疑問の助詞。らむ〔二字傍点〕といふ連體形で結んでゐる。○明日香の河の 「瀬」にかゝる。其の瀬に夕さらず河津が鳴いてゐるのである。○夕さらず 夕毎にの意。卷七「三空ゆく月讀壯士|夕不去《ユフサラズ》目には見れどもよる縁もなし」(一三七二)、卷六「鹿背の山木立ちを繁み朝不去《アササラズ》來鳴き響もす※[(貝+貝)/鳥]の聲」(一〇五七)等もそれで、毎夕毎朝の意である。上掲三二五參照。○蛙 河鹿のこと。三二四參照。
(130)【後記】 他郷にあつて故郷の明日香川を懷しんでよんだ歌。註は第一・第二句の異傳。もとな〔三字傍点〕はよしなく、いはれなくの義。上掲三〇五參照。「もとな」は「鳴く」にかゝると思はれるが、意味のよく通らない歌である。
 
山部宿禰赤人の歌六首
 
357 繩の浦ゆ 背向《そがひ》に見ゆる 奥つ島 榜回《こぎた》む舟は 釣せすらしも
 
【口譯】 繩の浦から斜に見える、沖の島を漕ぎめぐつてゐる舟は、釣をしてゐなさるらしい。
【語釋】 ○繩の浦ゆ 繩の浦〔三字傍点〕は三五四參照。○背向に見ゆる 一般に後の方に見える意に云はれてゐる。然し全釋に「斜又は横向といふやうな意で正面でないことをいふらしい」とあるのは、注意すべきである。○奥つ島 地名でなく、唯奥にある島のこと。○釣せすらしも 舊本「釣爲良下《ツリヲスラシモ》」とあるのを、玉の小琴に「つりせすらしもと訓べし、つりをすらしもと訓ては文字拙し」と言つてからツリセスラシモと一般に訓まれてゐるが、既に古義に注意してゐるやうに集中「せす」といふ語は、敬つていふ場合にしか用ひられてゐないから、この歌でもツリセスと訓むべきでないやぅに思はれる。しかし新考が「案ずるに此格(ツリスをツリセスといひタツをタタスといふ類)は自の上にいはで他の上にのみいふ辭なれば多少の敬意はあれど打任せ(131)たる敬辭にあらず」といつてゐるやうに、この「せす」をさう嚴重に考へる必要はないとおもふ。「勞働者につける習慣の敬語」と迄はいふ必要はない。なほ下出四一五を見よ。
 
358 武庫の浦を 漕ぎ回《た》む小舟 粟島《あはしま》を 背向《そがひ》に見つつ ともしき小舟
 
【口譯】 武庫の浦を漕ぎめぐつてゐる小舟よ。粟島を斜横に見て、ほんとに羨しい小舟。
【語釋】 ○武庫の浦 武庫川の河口から西、今の神戸港までを指したやうである。○粟島 所在不明。卷九「粟小島」(一七一一)とあると同じ處か。○ともしき小舟 上掲二九〇參照。
【後記】 第三句「漕ぎたむ小舟」といひ、結句に「ともしき小舟」とうち返した處はよい。
 
359 阿倍《あべ》の島 鵜《う》の住む磯に 寄る浪の 間なくこの頃 大和し念《おも》ほゆ
 
【口譯】 阿倍島の鵜の住む磯に寄る浪のやうに、絶えずこの頃は大和の事が思はれる。
【語釋】 ○阿倍の島 和名抄に「攝津國東生郡餘部郷」とあり、地名辞書に「後世阿部野の名は是による歟、今の天王寺町なるべし」と言つてゐる。○間なく 少しの絶間もなく。第三句までは、「間なく」をいはむための序。このやうな手法は集中珍らしくない。卷十二「との曇り雨ふる河のさゞれ浪間なくも君はおもほ(132)ゆるかも」(三〇一二)。
【後記】 此の序は途中の實景を捉へたものとおもはれる。
 
360 潮干なば 玉藻苅りをさめ 家の妹が 濱づと乞はゞ 何を示さむ
【口譯】 潮が干てしまつたならば、玉藻を苅つて貯へておくがよい。家に待つてゐる妻が濱の土産をと乞うたら何をやらうに。
【語釋】 ○玉藻苅りをさめ 舊本「苅藏《カリツメ》」とあるを、童蒙抄にカリテン、考にカラサメ、槻落葉にカラサム、古義カリコメと改め、略解及び攷證は、宣長説として卷十六「倉爾|擧藏而《ツミテ》」(三八四八)の訓を擧げ、倉に物をつみおく義によつて、藏〔傍点〕をツムと訓むと云つてゐるが、全釋も云つてゐるやうに卷九「苅將藏《カリテヲサメム》」(一七一〇)、卷十六「藏而師《ヲサメテシ》」(三八一六)などの關係もあり、ヲサメといふ訓に暫く從つておく。をさめ〔三字傍点〕は其の命令形である。○濱づと 濱の土産。
【後記】 「ほかに何もないのだから」といふ意が「何を示さむ」の言外に含まれてゐる。上代人らしい素朴な感情である。
 
(133)361 秋風の 寒き朝けを 佐農の岡 越ゆらむ君に 衣《きぬ》借《か》さまじを
 
【口譯】 秋風の寒い夜明けを、佐農の岡を越えていらつしやるでせうが、貴方に衣を借して上げたらと存じます。
【語釋】 ○朝け 朝け〔二字傍点〕は卷十四、防人に立ちし安佐氣乃《アサケノ》かなとでに」(三五六九)、卷十七「今朝の安佐氣《アサケ》秋風寒し」(三九四七)等、すべて夜あけの事。語源については一般に朝開《アサアケ》の略といはれてゐるが、氣長《ケナガク》・氣並《ケナラベテ》等の「ケ」と關係のある時を表す接辭とも考へられる。○佐農の岡 「狹野乃渡」(二六七)とある狹野〔二字傍点〕に同じと諸註にあるが、確定的のものではない。假名遣の上からいつても、佐農と佐野を同一視するのは變でおる。○越ゆらむ君に コエナムともよむ事が出來る。但しさうよむと、一首全體の意が變つて來て、出立に際して贈る歌になる、なむ〔二字傍点〕は未來完了であるから。らむ〔二字傍点〕といへば現在の状態を推量するのである。即ち、出立してのち今頃越えてゐるであらう、といふ思ひやつた歌になつて來る。○衣借さましを を〔傍点〕は詠嘆の助詞、借してあげればよからうものを、それが出來ないのが殘念だの意。これから考へると、願望の助詞のやうに見えるが、根本は事實とは反對の假定をいふのである、なほ下出四〇四參照。
【後記】 題詞に「赤人歌六首」とありながら、此の歌が女性らしい感情を盛つた作であるために、赤人作とあることが問題になつてくる。しかしこれは、赤人の歌六首とはあるが、その中一首(134)は女のための代作であつたのかも知れない。さう考へて差支ないと思ふ。
 
362 雎鳩《みさご》ゐる 磯回《いそみ》に生ふる 名乘藻《なのりそ》の 名は告《の》らしてよ 親は知るとも
 
【口譯】 雎鳩の居る磯邊に生えてゐる名乘藻のナノリといふその名のやうに、名前を名乘つて了ひなさいよ。たとへ親が知らうとも。
【語釋】 ○雎鳩 和名抄羽族に、「爾雅集注云鵙鳩【和名美佐古(他註略)】※[周+鳥]屬也。好在2江邊山中1、亦食v魚者也」とある。集中其の他に例を求めると卷十一「水沙兒」(二七三九)、卷十二「三佐呉」(三〇七七)など。(135)○磯回に生ふる 槻落葉にイソミと訓むべきを主張し、「みは備《ビ》に通ふ言にて邊《ホトリ》をいふ」と解釋してゐる。「浦箕」と書いた例があるのによつて、ウラミなる語があり、從つて磯回をイソミと訓む事も出來る譯であるが、宇良末《ウラマ》と書いた例が多くあるやうに、伊蘇末《イソマ》の例も卷十七に二つ見えてゐる。(三九五四・三九六一)。久老が卷十七に「伊蘇未と假名書あり」といつたのは、勝手に末〔傍点〕を未〔傍点〕に改めて訓んだもので、古寫本を見ても寧ろ末〔傍点〕とあるべきものゝやうである。ウラミ・ウラマ、イソミ・イソマ兩方の言葉があつたやうに思はれる。(國語國文第二卷第一號澤瀉久孝氏參照)○名乘藻 允恭紀十一年、時人號2濱藻1謂2奈能利曾毛1」、和名抄海菜「莫鳴菜【奈々里曾、漢語抄云、神馬藻三字云奈能利曾今案本文未詳、但神馬莫騎之義也】」とある。ほんだわらの事。「なのり」のなのりと名告〔二字傍点〕とをかけて下につゞく。卷十二「住吉の敷津の浦の名告藻之名者告耐之乎《ナノリソノナハノリテシヲ》」(三〇七六)、「しかのあまの磯に苅干す名告藻之名者告手師乎《ナノリソノナハノリテシヲ》」(三一七七)など參照。
【後記】 眞淵が女の歌としたのはいけない。
 
或本の歌に曰ふ
 
363 雎鳩ゐる 荒磯《ありそ》に生ふる 名乘藻の 名のりは告げよ 親は知るとも
 
【後記】 卷十二「三佐呉集荒磯爾生流勿謂藻乃吉名者不告父母者知鞆《ミサゴヰルアリソニオフルナノリソノヨシナハノラジオヤハシルトモ》」(三〇七七)此の歌は右二首とそれ/”\第四句を異にしてゐるが、如何なる關係にあるものであらうか。
 
(136)笠朝臣金村《かさのあそみかなむら》、鹽津山にて作れる歌二首
 
364 丈夫《ますらを》の 弓ずゑふりおこし 射つる矢を 後見む人は 語りつぐがね
 
【題意】 金村の傳未詳。集中の作、短歌二十二首、長歌八首。神龜から天平初期の作品が多い。赤人と略々時代を等しうするものと考へられる。鹽津山は和名抄に「淺井郡鹽津【之保津】」とある處。近江伊香郡鹽津村永原村の山である。
【口譯】 丈夫たる私が、弓末を取り立てゝ射たこの矢を後に見る人は、この弓勢の強さを語り繼いでくれるやうに。
【語釋】 ○弓ずゑふりおこし 弓末〔二字傍点〕は弓の上端。「振起」はフリタテとよむ説もあるが、卷十九「梓弓|須惠布理於許之《スヱフリオコシ》」(四一六四)の例もあるから、フリオコシと訓む。○語りつぐがね がね〔二字傍点〕は屡々卷八「露毛|置奴我二《オキヌガニ》」(一五五六)、卷十四「於非波於布流我二《オヒハオフルガニ》」(三四五二)等のがに〔二字傍点〕と同樣に考へられ、詞の玉緒(卷七、古風の辭)には、がね〔二字傍点〕は「きさきがね、坊がね、むこがね、將士がねなどのがねと同じく、其の料にまうけて待つ意也」といひ、「がに」は「がねに」の約なりと解してゐるが、奈良朝文法史に、、又『がに』『がね』といへるあり、こは格助詞の『が』に『に』及終助詞の『ね』の添はりてなれるものなり。『がに』は『が』にて結體せしめ、これを『に』にて目的とせるものなり、即ち『が爲に』といふ意に適當せる語法なり。『がね』は然ら(137)ず、『が』にて之を指定し『ね』にて冀望をあらはすなり、『がに』と意頗る異なり」と述べてゐるのに、今は一般に從つてゐる。しかしまだ研究の餘地はある。
【後記】 金村が鹽津山を打ち越える時、山の樹に矢を射立てゝ其の弓勢の語り傳へられむことを願つたもの、其の調子にも強いひゞきがある。
 
365 鹽津山 うち越え行けば わが乘れる 馬ぞつまづく 家戀ふらしも
 
【口譯】 鹽津山をうち越えて行くと、私の乘つてゐる馬がけつまづく。家人がわたくしを戀しく思つてゐるらしい。
【語釋】 ○家戀ふらしも 下出の、草枕たびのやどりに誰が夫《つま》か國忘れたる家待眞國」(四二六)とある「家」と同樣家人のこと。家人が自分の事を戀ひしく思つてゐるらしいの意。
【後記】 卷七「妹が門出入りの河の瀬をはやみ吾が馬つまづく家思ふらしも」(一一九一)、同じく「しろたへににほふ信士の山川に吾が馬なづむ家戀ふらしも」(一一九二)等、皆この歌と同じ思想であるが、家人が戀ふれば馬がつまづくといふやうなことが、當時一般に考へられてゐたのであらう。
 
(138)角鹿津《つぬがのつ》にて船に乘る時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
366 越の海の 角鹿の濱ゆ 大船に 眞楫貫きおろし いさなとり 海路に出でて 喘ぎつゝ 我が榜《こ》ぎ行けば 丈夫《ますらを》の 手結が浦に 海未通女《あまをとめ》 鹽燒くけぶり 草枕 旅にし獨 あればして 見る驗《しるし》なみ 海神《わたつみ》の 手に卷かしたる 珠襷《たまだすキ》 懸けて偲びつ 大和島根を
 
【口譯】 越の海の敦賀の濱から、大舟に眞(139)楫取りかけて海にのり出し、喘ぎ喘ぎ漕いで行くと、手結が浦で海乙女が鹽を燒く煙が見える、しかし旅の事とてそれを獨りして見ることのつまらなさに、私は大和の事を心にかけてなつかしんだことだ。
【語釋】 ○越の海の角鹿 日本紀垂仁紀に「角鹿」、古事記に「都奴賀」とある處。和名抄には「越前國敦賀【都留賀】」とある。ツルガはツヌガの訛つたものであらうか。○眞楫貫きおろし 左右の櫂をとりかけて。上掲二五七參照。○いさなとり 海〔傍点〕の枕詞、冠辭考に云ふ「伊佐奈は鯨をほめたる辭にて、且海つ物の中に、かの魚の王たる鯨をとるをもて大海の稱言《タヽヘゴト》として冠らせしなるべし」。○喘ぎつゝ 和名抄「※[端の旁+欠]【字亦作喘阿倍岐(他註略)】」ますらをの〔五字傍点〕は枕詞、冠辭考云「こはますらをの手に著る手纏を此うらの名にいひかけたり」。手結が浦〔四字傍点〕は今東浦村といひ、金崎の北十餘町、敦賀灣の東岸である。○海神の手に卷かしたる珠襷 わたつみ〔四字傍点〕とは本來海神の事であることは既にのべた。上掲三二七參照。珠襷〔二字傍点〕は更に「懸けて」を修飾するので、結句上三句は懸けて〔三字傍点〕の序詞となる。○かけてしぬびつ 卷一「かけてしぬびつ」(六)、卷九「かけてしぬばせ」(一七八六)などある。「玉だすきかけてしぬびつ」と同形のものでは卷二に「玉だすきかけてしぬばむ」(一九九)といふのがあつた。心にかけて慕ふといふ意。上掲二八五と比較參照。○大和島根 こゝの大和島根〔四字傍点〕は大和の國をいつたものである。上掲三〇三と比較參照。
 
(140)反歌
 
367 越の海の 手結の浦を 旅にして 見ればともしみ 大和《やまと》偲びつ
 
【口譯】 越の海の手結の浦を、旅で眺めると、めづらしくて、大和をなつかしんだことだ。
【語釋】 ○見ればともしみ ともし〔三字傍点〕については上掲二九〇參照。
 
石上大夫の歌一首
 
368 大船に 眞梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ 磯廻《いそみ》するかも
 
右、今案ずるに、石上朝臣乙麻呂越前の國守に任けられき。蓋し此の大夫歟。
 
【題意】 石上大夫は左註に依つて石上朝臣乙麻呂のことと思はれる。乙麻呂については二八七及び一〇二二參照。
【口譯】 大王の仰せの畏さに、大船に櫂を數多くとりかけて、磯邊を漕いでゆくことだ。
【語釋】 ○眞梶繁貫き 左右の舷に櫂を澤山とりつけて。○磯廻《いそみ》するかも 舊本「礒廻《アサリ》」とあるが、童蒙抄にイソミと訓んだのがよい。磯廻〔二字傍点〕は既に三六二に於て述べたやうに、磯邊の意。それにす〔傍点〕といふ動詞を結び付けたもの。卷六「島回爲流《シマミスル》」(九四三)、卷十九「灣廻爲流《ウラミスル》」(四二〇二)等の造語法と同樣で、磯邊を漕ぎ廻る意に用(141)ひてゐる。かも〔二字傍点〕は詠嘆。
【後記】 卷六(一〇二二)に土佐國に配流せられた時の長歌并に短歌が出てゐて、この歌も其の折の作と見る説があるが、第一、第二句から第三句に移るあたりにも、其の氣はひが感じられないし、又次の和へ歌から考へて、左註にあるやうに越前守に任ぜられる時の歌とみるべきであらう。但し乙麻呂が越前守に任ぜられた事は、歴史には見えてゐない。前掲二九七の歌と比較參照。
 
和《こた》ふる歌一首
 
369 ものゝふの 臣《おみ》の壯士《をとこ》は 大王《おほきみ》の 任《まけ》のまにまに 聞くと云ふものぞ
 
右の作者未だ審かならず。但し笠朝臣金村の歌の中に出づ。
 
【口譯】 武人としてお仕へしてゐる男子たる者は、大王の御委任通りに從ふものであると言はれてゐるぞ。
【語釋】 ○もののふの ものゝふ〔四字傍点〕は上掲二六四參照。こゝでは武人の意に用ひられてゐる。○任《まけ》のまにまに 任《マケ》はマカセの約といふはいかゞ。集中の用例はすべて「まけのまにまに」であるが、卷二の「まつろはぬ國(142)を治めと皇子ながら任賜」(一九九)はマケタマヘバと動詞に訓んでゐる。任《マケ》のまにまに〔五字傍点〕は御差遣通りにの意。御委任のまゝにでもよい。○聞くと云ふものぞ 聞く〔二字傍点〕は諾ひ從ふ意。卷四「汝をと吾を人ぞ離《サ》くなるいで吾が君人の中言|聞起名湯日《キキコスナユメ》」(六六〇)、卷十二「人言の讒乎聞而《ヨコスヲキヽテ》玉梓の道にも逢はじと云へりし吾味」(二八七一)等の聞く〔二字傍点〕も同じ意である。
【後記】 天皇の命には絶對服從であることを説いた力強い口調。
【左註】 此の左註に依れば、この歌、多分笠金村の作ではないかと思はれる。三六四の歌と同じ強さを持つてゐる。
 
安倍廣庭《あべのひろには》卿の歌一首
 
370 雨零らで との曇《ぐも》る夜の 濡れ漬《ひ》でど 戀ひつゝ居りき 君待ちがてり
 
【題意】 安倍廣庭の事に就いては上掲三〇二參照。
【口譯】 雨は降らないで、いまにも降りさうに一杯に曇つてゐる夜、わたしはしつとりと夜露に濡れたがずつと貴方をお慕ひしてゐたことだ、あなたのお出を待つ傍で。
【語釋】 ○との曇る 第一句舊本「雨不零《アメフラデ》」とあるが、「雨降らで」では、次の「との曇る」「濡れ漬で」とあ(143)るのと合はない。大體との曇る〔四字傍点〕は卷十七「等乃具母利《トノグモリ》雨の降る日を」(四〇一一)、卷十八「等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》雨も賜はね」(四一二二)、卷十二「等能具毛理《トノグモリ》雨も降らぬか」(四一二三)、卷十二「登能雲入《トノグモリ》雨零る河の」(三〇一二)、卷十三「登能陰《トノグモリ》雨は降り來ぬ」(三二六八)等凡て雨の零る空の模樣を言つてゐるので、單に曇つてゐるだけには用ひない語である。宣長は玉の小琴に於て零〔傍点〕を霽〔傍点〕に改め、アメハレズと訓んで合理化したのであるが、なほ考ふべきであらう。との曇る〔四字傍点〕は卷十三「棚実利雪は零り來ぬ」(三三一〇)とある「たなぐもり」と同じ意。○君待ちがてり 集中ガテリ・ガテラとも用ひられてゐるが、ガテリは卷一「御井を見我※[氏/一]利《ミガテリ》」(八一)とあり、ガテラは、卷十八「君が使を可多麻知我底良《カタマチガテラ》」(四〇四一)、卷十九「吾妹子が可多見我※[氏/一]良《カタミガテラ》」(四一五六)等、後期の歌に至つて現れてゐるので同じ意味ではあるが、ガテリが古くガテラが新しい語形であると思はれる。從つて舊本「香光《ガテラ》」とあるがガテリに改む。がてり〔三字傍点〕は或る事を主としながらなほ他の事をする意。ついで。かたはら。
【後記】 試みに右のやうな解釋をしてみたが、この歌は誤字説によらないとはつきりしない。なほ今後の研究に俟つ。
 
出雲守門部王京を思ふ歌一首
 
371 ※[食+拔の旁]《おう》の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 吾が佐保河の 念《おも》ほゆらくに
 
(144)【題意】 門部王については上掲三一〇參照。
【口譯】 意宇の海の河原の千鳥よ、お前が鳴くと、わが故郷の佐保川が思ひ出されることだ。
【語釋】 ○※[食+拔の旁]の海 同じ門部王の歌に、飫宇能海《オウノウミ》」(五三六)とあるのも同所で、※[食+拔の旁]〔傍点〕は飫〔傍点〕と同字、從つて※[食+拔の旁]海〔二字傍点〕は※[食+拔の旁]宇海の誤かとも考へられる。出雲國意宇郡(和名抄)、今は八束郡で、中海の南岸である。河原とあるのは意宇川の河口であらう。○佐保川 大和國添上郡、春日山中の鶯谷から出て佐保村の南を流れ、大安寺を經、大和川の上流をなす、昔は水も豐かに千鳥も多かつたと思はれる。○念ほゆらくに 下出四六三參照。らく〔二字傍点〕は上掲三二六參照。らくに〔三字傍点〕のに〔傍点〕は詠嘆の助詞であるが、餘情を含んでゐる。普通に「なくに」の場合と同じやうに「……のに」と解釋せられてゐるが、これも二四二で述べたと同じに見ればよい。
【後記】 佐保川に千鳥は多かつた。卷八「佐保川の清き河原に鳴く千鳥河津と二つ忘れかねつも」(一一二三)遠い出雲の地で、其の鳴く聲を聞いて故郷の川をなつかしく思ひ出したのである。全體が、人麿の歌の「近江の海夕浪千鳥汝が鳴けばこころもしぬに古おもほゆ」(二六六)によく似てゐる。
 
山部宿禰赤人、春日野に登りて作れる歌一首并に短歌
 
(145)372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山の 高座《たかくら》の 三笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥《かほどり》の 間なく數《しば》鳴く 雲居なす 心いさよひ 其の鳥の 片戀のみに 晝はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと 立ちて居て 思ひぞ 吾がする 逢はぬ兒ゆゑに
 
【口譯】 春日の山の、三笠山には、朝毎に雲が棚曳き、容鳥が絶間なく鳴いてゐる、其の雲のやうに、心はたゆたひ、其の鳥のやうに、片思ひばかりして、晝は終日《ひねもす》、夜は夜すがら、立つたり坐つたりして物思ひをすることだ。會うてもくれぬ女ゆゑに。
(146)【語釋】 ○春日を 舊訓ハルノヒヲとあるがハルヒとよむ。かすが〔三字傍点〕の枕詞、書紀武烈紀「播屡比能箇須我鳴須擬《ハルヒノカスガヲスギ》」。○高座の みかさ〔三字傍点〕の枕詞。冠辭考云「大極殿に高御座を餝て天皇のおはします、その高座には蓋《ミカサ》のあれば、みかさの山に此語を冠らせたり。」 ○三笠山 春日山の一部。○朝さらず 毎朝。上掲三五六、下出四二三參照。○雲居たなびき 雲居〔二字傍点〕は唯雲〔傍点〕と云ふに同じ。古事記中卷「吾家の方に久毛韋《クモヰ》立ち來も」、集中又例多し。○容鳥の 此の鳥は集中屡々詠まれてゐるが、如何なる鳥か明かでない。○間なく數鳴く 絶えず鳴き續ける意。これまで八句は次の「雲居」をいふ爲の序。○雲居なす 雲居なす〔四字傍点〕は又比喩として「いさよひ」にかゝり、序中の容鳥を更に比喩に抽出して「其鳥の片戀のみに」と續けてゆく。○心いさよひ 心がたゆたうて靜かならぬ事。○其の鳥の片戀のみ 序中「容鳥の間なく屡鳴く」とあるを片戀に鳴く意に解して、自分が片戀ひするの譬喩とす。○逢はぬ兒ゆゑに ゆゑに〔三字傍点〕は從來「なるものを」と口語譯せられてきたが、今日用ひる「ゆゑに」と譯してよい。(萬葉集講義卷一山田孝雄氏參照。)
 
反歌
 
373 高※[木+安]《たかくら》の 三笠の山に 鳴く鳥の 止めば繼がるゝ 戀もするかも
 
【口譯】三笠山に鳴く鳥が絶間なく鳴き續けるやうに、思ひ止めば又思はずにゐられぬ切ない戀をすることだ。
(147)【語釋】 ○高※[木+安]の三笠の山に鳴く鳥の 「止めば繼がるゝ」に懸る序。高※[木+安]〔二字傍点〕は前の歌に高座〔二字傍点〕とあるのと同じである。○止めば繼がるゝ 繼がる〔三字傍点〕は「繼ぐ」といふ動詞の未然形にる〔傍点〕といふ助動詞を接續せしめたもの。ひとりでにさうなる、さうしないではゐられぬといふ意を表して居る。
 
石上乙麿朝臣の歌一首
 
374 雨零らば きむと念へる 笠の山 人になきしめ 霑《ぬ》れはひづとも
 
【題意】 乙麿の傳は上掲二八七參照。
【口譯】 雨が降つたら自分が被らうと思つてゐる三笠の山よ、他人に被らせてはいけないぞ。たとへ雨にぼとぼと濡れようとも。
【語釋】 ○霑れはひづとも 「霑れひづ」といふ四語の間に助詞は〔傍点〕の入つたもの。このやうに意味からいふとよく結び付いた連用語の間に助詞が屡々入つて來ることがあるが、この場合、意味にはさした變化を生じないのが普通である。
【後記】 此の歌、一般に女を山にたとへたやうに解してゐるが、古義に宮地春樹の説を引いて「唯三笠山の面白き景色なるを愛て此山は吾ひとりの物と見むと興じてよまれしなるべし」と(148)言つてゐる。唯、山の名の「笠」といふに戯れての作と考へても、結構面白い歌ではあるまいか。
 
湯原王《ゆはらのおほぎみ》、芳野にて作れる歌一首
 
375 吉野なる 夏實《なつみ》の河の 川淀に 鴨ぞなくなる 山かげにして
 
【題意】 湯原王は志貴皇子(二六七參照)の第二子。集中に收むる處十九首。赤人、旅人よりも稱々後期の人である。
【口譯】 吉野の夏實の河の川淀で鴨が鳴いてゐる、山蔭で。
【語釋】 ○夏實の川 大和國吉野郡宮瀧の東十町ばかりの地、今も菜摘の名が殘つてゐる。この邊で吉野川をなつみ川と呼んだものであらう。
 
湯原王《ゆはらのおほぎみ》、宴席の歌二首
 
376 蜻蛉羽《あきつは》の 袖振る妹を 珠くしげ 奥《おく》に念《おも》ふを 見たまへ吾君《わぎみ》
 
【口譯】 蜻蛉の羽のやうな羅の袖を振つて舞つてゐる女を、私は心底から思つて居るのですが、(149)御覽下さい、この女を、あなた。
【語釋】 ○蜻蛉羽の 蜻蛉の羽のやうな羅《ウスモノ》。○珠くしげ おく〔二字傍点〕の枕詞。珠〔傍点〕は美稱、くしげ〔三字傍点〕は櫛笥。其の底を奥《おく》といふから「奥《おく》」にかけたもの。○奥に念ふを 心の奥底から思つてゐるの意。
【後記】 代匠記に「宴席ノ歌ナレバ君ヲモテナサンガ爲ニ何ヲカナト秘藏ノ妓女ヲ出シテ舞シムレバ」とある。
 
377 青山の 嶺の白雲 朝に日《け》に 恒《つね》に見れども めづらし吾が君
 
【口譯】 青山の嶺の白雲のやうに、毎日始終見てゐても、貴方は見飽かない立派な方です。
【語釋】 ○めづらし 平安朝以後では、「めづらしき」と連體形にするところ、この時代には終止形で下を修飾する形があつた。意味は上掲二三九參照。
【後記】 前の歌と同樣に自分の女を自分で讃めた歌と見る説もあるが、やはり客人をさして言つたと見る方がよからう。
 
山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠める歌一首
 
(150)378 昔者《いにしへ》の 舊き堤は 年深み 池の渚《なぎさ》に 水草《みぐさ》生ひにけり
 
【題意】 故太政大臣藤原家とあるのは、故藤原不比等の邸宅を云ふ。不比等は養老四年八月薨じ、十月に太政大臣を贈られてゐる。
【口譯】 昔の古い堤は年が經つたので、池の渚には水草が生えた事である。
【語釋】 ○昔者の 舊本「昔者之《イニシヘノ》」とある者〔傍点〕を、見〔傍点〕(童蒙抄)・省〔傍点〕(玉の小琴道麻呂説)・看〔傍点〕(略解)の誤として、ムカシミシと訓む説があるが、卷七「昔者《イニシヘ》之事は知らぬを」(一〇九六)ともあるから、舊本の儘にしておく。○年深み 年が經つたので。深み〔二字傍点〕といつたのは池と關係があらう。
【後記】 卷二「み立ちせし島の荒磯を今みれば生ひざりし草生ひにけるかも」(一八一)とあるのに似た歌。
 
大伴坂上郎女《おほとものきかのうへのいらつめ》、祭神の歌一首并に短歌
 
379 ひさかたの 天の原より 生《あ》れ來《きた》る 神の命《みこと》 おく山の 賢木《さかぎ》の枝に 白香《しらが》つく 木綿とりつけて 齋瓮《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居《す》ゑ 竹|玉《たま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り 鹿猪《しし》じもの 膝(151)祈り伏せ 手弱女《たわやめ》の おすひ取り懸け かくだにも 吾は祈《こ》ひなむ 君に逢はじかも
 
【題意】 大伴坂上郎女は大伴郎女、坂上郎女、大伴宿禰坂上郎女、大伴氏坂上郎女等と書かれてゐる。大伴旅人の妹、母は石川内命婦。はじめ穗積皇子に愛せられてゐたが、皇子薨去の後は藤原麻呂と親交があつた。間もなく宿奈麻呂の妻となつて坂上大孃を生んだ。集中短歌約八十首、長歌五首。旅人に似て老巧な作品が多い。次の反謌の左註は、此の歌が天平五年十一月、大伴氏神を祭つた折のものである事を示してゐる。
【口譯】 高天原でお生れになつて天降りました神樣。奥山の榊の枝に白香をつけた木綿をとりつけ、齋瓮を清めて掘据ゑ、竹玉を澤山緒に貫いたものを垂れかけ、猪鹿の(152)やうに膝を折り伏せ、手弱女の着る被衣をとりかけて、此のやうにして私はおいのり致します。それでも貴方に御逢ひ出きないのでせうか。
【語釋】 ○久方の天の原より生れ來たる神の命 天の原で生れ、天孫降臨の時にお伴して降つた天忍日命をいふ。この神は大伴氏の祖である。○賢木 特種の木のみが獨占してゐた名稱であるか、又眞淵が言つてゐるやうに常緑樹の總稱であるか審かでないが、今日では眞淵の説が一般に行はれてゐる。○白香つく木綿取りつけて 「白香《しらが》」は何であるか明かでない。冠辭考には「白髪」の義として「この木綿は白髪に似たる物なればしらがづくと冠らせいひたり」といひ、本居太平は「白紙なるべし」とて「奈良の比より木々に取そへて白紙をも切かけて著たりけむ、されば白紙を添付くる木綿といふ意にて白香付木綿《シラガツクユフ》とは云なるべし」とあり、又守部が檜嬬手には、白き苧であるとし「木綿は必ず此苧以て取りつくるものなればいふ也(中略)また此白苧ばかりも祝ふ事には用ひけん」と言つてゐる。久老が槻落葉に擧げたのは又これと異なつて卷十二「白番付木綿者花物《シラガツクユフハハナモノ》」(二九九六)、卷十九「白香著朕裳裾爾《シラガツクアガモノスソニ》」(四二六五)の歌を引き、「たゞ白きをいふ言」と解釋してゐる。守部説が穩當かと思はれる。木綿《ユウ》は栲の皮で織つたもの。○齋瓮 齋瓮〔二字傍点〕は祭祀用の酒を入れる器。○忌ひ穿り居ゑ 不淨を祓ひ土を穿つて齋瓮をすゑること。○竹玉 竹を切つて糸に貫いたものといふ説、玉を緒に貫いて小竹に著けたのを、後に玉の代りに竹を管のやうに切つて、緒を貫いたのであらうといふ説、又管玉の事とする説などがあつで、未だ詳かにはし難い。○おすひとりかけ 記傳(十一)におすひは「意(153)曾比《オソヒ》と通ひて襲覆《オシオホヒ》を約めたるなり(中略)幅《ハタバリ》の隨《マヽ》にいと長き物なるを後世の婦人の被衣《カヅキギヌ》などの如く頭より被て衣の上を掩ひ下は襴《スソ》まで垂ると見ゆ(中略)然るを奈良の頃などになりては男の着ることは既に絶て女の古の禮服の如くなりて神を祭るときなどにのみ着けるなるべし」とある。○君に逢はじかも 君に逢はれまいであらうか、逢へさうなものだの意。○祈ひなむ 諸註すべてなむ〔二字傍点〕を祷《ノム》のことゝしてゐる。暫くこの説に從ふこととする。
【後記】 題詞に祭神歌とあり、左註によつても、大伴氏の祖神を祭つた歌でありながら、實は自分の戀情を訴へ其の成就せん事を祈つたものである。祭式の次第が精密に書かれてゐるので、その意味で興味がある。
 
反歌
 
380 木綿だゝみ 手に取り持ちて かくだにも 吾は乞ひなむ 君に會はじかも
 
右の歌は天平五年冬十一月、大伴氏神を供祭する時、聊この歌を作る。故に祭神歌といふ。
 
【口譯】 木綿をたゝんだのを手にとりもつて、このやうに私はお祈り致します。それでも貴方に(154)會はれないのでせうか。
【語釋】 ○木綿だゝみ 神に捧げるためにたゝんだ木綿。
 
筑紫の娘子《をとめ》、行旅《たびびと》に贈れる歌一首 娘子字を兒島といへり
 
381 家思ふと 情《こゝろ》進むな 風まもり 好くしていませ 荒し其の道
 
【題意】 下の註は舊本には無いが、神田本以下の諸本によつて補ふ。此の註を眞とすれば卷六・冬十二月太宰帥大伴卿の京に上る時娘子の作れる歌二首の左註に「(前略)時に卿を送る府吏の中に遊行女婦あり、其の字を兒島と曰ふ」とあるのと同一人と考へられる。歌の調子からいつても同一人の作と考へる事は無理ではない。右二首と同時の作であらうか。兒島の傳は詳かでないが、遊女にしては教養ある女であつたと察せられる。
【口譯】 家を思ふとていらだつてはいけません。風の見定めを十分にしておいでなさい、何しろその海路は荒うございます。
【語釋】 ○家思ふと 家を思ふとて。○情進むな 心はやるな。冒險をするな。○風まもり 舊本「風俟《カゼマチテ》」今神田本以下の諸本によつて俟〔傍点〕を候〔傍点〕に改め、カゼマモリと訓む。風をよく見定める意。○好くしていませ 風(155)まもりを十分にしておいでなさい。
 
筑波岳《つくばのたけ》に登りて、丹比眞人國人《たぢひまひとくにひと》の作れる歌一首并に短歌
 
382 鶏が鳴く 東《あづま》の國に 高山は 多《さは》にあれども 二神の 貴き山の 竝《な》み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひつぎ 國見する 筑波の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずていなば まして戀しみ 雪消《ゆきげ》せる 山道すらを なづみぞ吾が來し
 
【題意】 丹比眞人國人は、天平八年正月從五位下、十年閏七月民部少輔となる。集中作四首。筑波岳は常陸國筑波郡に在る。坂東平野に屹立し、古來海内の名山と稱せられてゐる。
【口譯】 東國に高山は澤山あるけれども、男女兩神の坐します貴い山であり、二山が並んで立つてゐるのがほんとに見ても見飽かぬ山であるといふので、神代から人が言ひ繼ぎ、登つては國見をするこの筑波の山を、(春が來たけれども白雪が)時をかまはず降つてゐる時だからとて見ないで歸つていつたなら、後になつて知らなかつたときより一層戀しく思はれるであらうから、私は雪解けの山道を難儀をしながらもやつて來たのである。
(156)【語釋】 ○鷄が鳴く 東〔傍点〕の枕詞。冠辭考に東〔傍点〕は吾妻《アガツマ》の意で「鷄は夜のあか時になく故に明《アカ》といひかけたるなり」とあり、鷄が鳴くよ吾が夫よと、夫を起こす妻の呼聲によつたのであるともいはれてある。○二神の貴き山の 風土記に「夫筑波岳、高秀2于雲1、最頂西峰※[山+爭]※[山+榮]、謂2之雄神1、不v令2登臨1、但東峰四方磐石、昇降決屹」とあり、女神の事はみえないが、右の文中、東峰に對して、西峰とあり、又集中筑波山を詠んだ歌には、男神女神とあるから、筑波山が二峰對峙して昔からそれ/”\男神女神と呼ばれてゐたことがわかる。○見が欲し 上掲三二四參照。○冬ごもり 冬ごもり〔四字傍点〕はすべて春〔傍点〕につゞく枕詞であるのに、「時じき時」とあるのは不審である。それ故に代匠記初稿本には冬木成〔三字傍点〕の下「ハルハクレドモシラユキノ」を脱とし、精撰本では「春去來跡白雪乃《ハルサリクレバシラユキノ》」の二句を補つてゐる。又槻落葉には「春爾波雖有零雪能《ハルニハアレドフルコキノ》」の脱ちたものと見てゐる。「時じき時」といふ語に對してもこ(157)のまゝでは解けないので、一般に脱字説に從つてある。こゝでは槻落葉の脱字説に從つた。但、佐伯梅友氏は「冬ごもり」を冬の末と解し、「冬の末でまだ登る時でもない時に」と解釋された。面白い説だから參考にあげておく。○時じき時と 舊本「時敷時跡《トコシクトキト》」、代匠記トキシクトキトと訓んで、「非時」に解してゐるが、トキジといふ形容詞を想定することが出來るので、其の連體形からトキジキトキトと訓む。ときじ〔三字傍点〕のことは上掲三一七參照。○なづみぞ吾が來し 難儀をしつゝやつて來た。
 
反歌
 
383 筑波嶺を 外《よそ》のみ見つゝ ありかねて 雪|消《げ》の道を なづみ來《け》るかも
 
【口譯】 筑波山を他所からばかり見てゐる事が出來ないで、雪解けの道を難儀しながらやつて來たことだ。
【後記】 傳説にも傳へられ、歌にも多く詠まれた筑波山は、やはり當時の人の一度は登つてみねばならぬ神秘な對象になつてゐたのであらう、其の氣持がよく表現せられてゐる。
 
山部宿禰赤人の歌一首
 
(158)384 吾が屋戸《やと》に 韓藍《からあゐ》蒔き生《おほ》し 枯れぬれど 懲りずて亦も 蒔かむとぞ思ふ
 
【口譯】 私の家の庭に、鷄頭花を蒔いて育てゝ枯らしてしまつたけれど、懲りないでもう一度蒔かうかと思ふ。
【語釋】 ○韓藍蒔き生し 韓藍〔二字傍点〕は卷十一に「三苑原之《ミソノフノ》鷄冠草花乃」(二七八四)と詠み、鷄冠軍は本草和名に「和名加良阿爲」とあるから、鷄頭花である事が知られる。呉藍《クレナイ》、鴨頭草《ツキクサ》等とする説はよくない。蒔き生し〔四字傍点〕は舊本「種生之《ツミハヤシ》」とあるが、卷十八に「奈泥之故乎屋戸爾末枳於保之《ナデシコヲヤドニマキオホシ》」(四一一三)とあるのによつて、マキオホシと訓む。
【後記】 代匠記に「此赤人の歌はたとふる處ありてよめる歟、しからば下の譬喩に入るべし」と言つてゐる通りである。女を韓藍に喩へたものとみるべきであらう。
 
仙柘枝《やまびとのつみのえの》歌三首
 
385 霰降り 吉志美《きしみ》が嶽を 嶮しみと 草取りかなわ 妹が手をとる
 
右一首、或は云ふ、吉野人|味稻《うましいね》の柘枝仙媛に與へし歌なりと。但し柘枝傳を見るに、此の歌ある事無し。
 
(159)【口譯】 吉志美が嶽が嶮しいので、草にとりつきかね、妻が手をとつたことだ。
【語釋】 ○霰降り 枕詞。霞の音がかしましいといふ意味から「かしま」に冠するのを、「かしまし」「きしむ」相似通ふので、きしみ〔三字傍点〕にかけたものであるといはれてゐる。○吉惠美が嶽 和名抄に「肥前國杵島都杵島【木之万】」とある地の高嶺。きしみ〔三字傍点〕はきしま〔三字傍点〕の訛つたものであらう。○嶮しみと と〔傍点〕は輕くうち添へた語。上掲二三九參照。嶮しさに。○草取りかなわ 玉の小琴に「四句の意は古事記の歌と同くて、可奈は不得の意也、哉には非ず、さて和は下に付たる辭にて、書紀にいさわ/\と有も、いさ/\とさそふ意なるに同じ、十三卷(三丁四丁)(【筆者註、三三四六少子等率和出將見】)にも率和いさわはある也」とある。久老ぼ可禰手の誤とみてゐる。なほ後考をまつ。
【後記】 古事記に速總別王の詠と傳へる「波斯多弖能久艮波斯夜麻袁佐賀斯美登伊波迦伎加泥弖和賀立登艮須母《ハシタテノクラハシヤマヲサガシミトイハカキカネテワガテトラスモ》」の歌、肥前風土記に杵島山舞躍の歌詞(杵島曲)と云ふ「阿羅禮符縷耆資麼加多※[立心偏+豈]塢嵯峨紫彌占區縒刀理我泥底伊謀我堤塢刀縷《アラレフルキシマガタケヲサガシミトクサトリカネテイモガテヲトル》」の歌、及びこゝに仙柘枝の歌と稱するもの、此の三者の關係を考察する事は極めて興味ある問題であらう。
【左註】 吉野の人で味稻といふ男が、仙女である柘枝に與へた歌と當時侍へられてゐたのであるが、柘枝の物語を書いた書物には、其の歌が載つてゐないと云ふのである。柘枝の話は懷風藻(美稻)にも、續紀日本後記に載せられた仁明天皇四十賀に眞福寺の僧が奉つたといふ長歌(但し熊志禰《クマシネ》)にも見えてゐる。其の頃民(160)問に流行した傳説なのであらう。
 
386 此の夕《ゆふべ》 柘《つみ》のさ技の 流れ來《こ》ば 梁《やな》は打たずて 取らずかもあらむ
 
右、一首
 
【口譯】 この夕、柘の枝が流れて來たならば、梁はかけないで、それを取らないでゐることになるだらうよ。
【語釋】 ○柘のさ枝 柘〔傍点〕は桑の事。和名抄に桑柘を豆美《ツミ》と訓じ「蠶所v食也」とある。さ枝〔二字傍点〕のさ〔傍点〕は接頭語。○梁は打たずて 日本書紀神武紀には「有2作v梁取v魚者1【梁此云椰奈】」、とあり和名抄漁釣具には、梁を「夜奈《ヤナ》」と訓じ「魚梁也」とある。川の瀬に杭を打ち並べ、水を堰き止め、一部分をあけておいてそこに梁簀と云ふ簀をかけて、上流から流れ下る魚をそれに受けて捕へるもの、杭を打つから梁をかけるのをうつ〔二字傍点〕といふのである。
【後記】 味稻といふ人は、むかしこの川の邊で柘の枝の流れてくるのを拾つて持つてかへつた。やがてその枝は化生して人間となつた。味稻はこの仙女と契つたのであるが、後、女は常世の國に飛び去つたといふ。この悲別の傳説があるために、作者は今柘の枝が流れてきても、取ら(161)ずにおかうと躊躇したのである。
 
387 古に 梁打つ人の なかりせぽ こゝもあらまし 柘の枝はも
 
右一首、若宮年魚麻呂の作
 
【口譯】 その昔、若し梁を打つた人が無かつたならば、或はいまこゝにでもあつたであらうものを。あの柘の枝は……。
【語釋】 ○梁打つ人のなかりせば 梁を打つて柘の枝を拾ひ、其の枝は化して仙媛になつたといふ傳説の主人公、美稻の事を指したもの。せ〔傍点〕は時の助動詞き〔傍点〕の未然形と稱せられるものであるが、研究の餘地がある。下出四〇五にもあるやうに、「まし」と結ぶのを原則としてゐる。「まし」のことは下出四〇四參照。すなはち、「若し…であつたら…であらうものを」と、現在とは反對の事を假定して、それについて述べるのである。
【左註】 此の註から考へると、前の左註「右一首」とある下には或は作者の名が記してあつたかと思はれる。柘枝傳説によつて後に作つた歌である。若宮年魚麻呂の傳は明かでない。
 
(162)覊旅の歌一首并に短歌
 
388 海若《わだつみ》は 靈《くす》しきものか 淡路島 中に立て置きて 白浪を 伊豫に回らし 座待月《ゐまちづき》 明石の門《と》ゆは 夕されば 汐を滿たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮騷《しほさゐ》の 浪を恐み 淡路島 磯隱りゐて 何時しかも この夜の明けむと 待從《まつから》に 寢《い》の宿《ね》かてねば 瀧の上の 淺野の雉《きじ》 明けぬとし 立ち響《とよ》むらし いざ兒等《こども》 敢て榜ぎ出む にはも靜けし
 
【口譯】 海の神は靈妙なものだ。淡路島を中に立てゝおいて、白浪を四國の方までめぐらし、明石海峽からは、夕べになると潮を滿たせ、明けて來ると潮を干させるのである。私はその立ち騷ぐ潮の浪の恐しさに淡路島の磯に隱れゐて、いつになつたら夜があけることか、早くこの夜が明ければよいと伺ひ待つてゐると、寢ようにも寢られない、その中に、瀧の邊の淺野の雉が、夜が明けたといつて飛立つて鳴き騷いでゐるらしい樣子だ。さあ者共、思ひ切つて漕ぎ出さう、海上も靜かだ。
【語釋】 ○海若 海神の事。上掲三二七參照。○伊豫 四國の總名。古事記「伊豫之二名島」とある。○座(163)待月 枕詞。冠辭考に「こは後の世にいふなる十八夜の月の事ならん、さて此旅人、けふぞ此明石に到れるに、月の明ければ、此ことばを冠らせしにや」とあるが、攷證には十八夜《ゐまち》なる語の奈良朝にあつた事を疑ひ「この枕詞は、座《ヰ》とは居《ヲル》といふと同じく、居《ヲル》とは(中略)不寢《イネズ》して夜を居明《ヰアカ》す意なればこゝの座待《ヰマチ》も不寢《イネズ》して居明《ヰアカ》し月を待意にて、さて夜を明《アカ》すを地名の明石《アカシ》にとりなして、つゞけたるにて、何日ともかぎらず、有明の月をいふなるべし」と説いてゐる。○潮騷の 潮水の騷ぐこと。○待つからに 舊本「待從爾《マツヨトニ》」とあるのを、代匠記初稿本にマツカラニと訓んでゐる。しかるに待〔傍点〕は、細井本イ本、無訓本イ本に侍〔傍点〕とあるので、玉小琴、槻落葉のサモラフニといふ訓も棄て難く思はれるが、前者に從つておく。○寢の宿かてねば かて〔二字傍点〕は上掲二五三參照。ね〔傍点〕は打消助動詞ず〔傍点〕の已然形である。寢られないのに。已然形にば〔傍点〕が接續した時、かういふ意味になる事は上掲二八四參照。○瀧の上の淺野 淡路國津名郡淺野村。そこに紅葉瀧と稱する瀧がある。○明けぬとし し〔傍点〕は強助詞。明けぬとて。ぬ〔傍点〕は完了の助動詞。○には 海、海面、海上のこと。上掲二五六參照。
 
反歌
 
389 島傳ひ 敏馬《みぬめ》の崎を 漕ぎためば やまと戀しく 鶴さはに鳴く
 
右の歌、若宮年魚麻呂之を誦せり。但し未だ作者を審かにせず。
 
(164)【口譯】 島傳ひに敏馬の崎を漕ぎ廻つてゆくと、大和が戀しく思はれるほどに、鶴が澤山に鳴くことだ。
【語釋】 ○敏馬 上掲二五〇參照。
 
譬喩歌
 
紀皇女《きのひめみこ》の御歌一首
 
390 輕の池の 浦回《うらみ》行きめぐる 鴨すらに 玉藻のうへに 獨り寢なくに
 
【題意】 紀皇女は穗積皇子(天武天皇第五皇子)の御妹。母は蘇我赤兄臣の女、大〓《おほぬ》娘。集中二首。
【口譯】 輕の池の岸邊を泳ぎ廻つてゐる鴨でさへ、藻の上に獨りでは寢ないといふのに。
【語釋】 ○輕の池 かる〔二字傍点〕は大和國高市郡久米村の東南にあつた。今の白橿村の東部、大字大輕・和田・石川・五條野の邊であらう。輕の市と稱して市のある處であつた。
【後記】 卷十二「おのれ故罵らえて居れば駿《あを》馬の面高ぶたに乘りて來べしや」(三〇九八)の左註に(165)「右の一首は、平群文屋朝臣益人傳へて云ふ、昔聞けり、紀皇女竊に高安王に嫁ぎて、責めらえし時にこの歌を作り給ふ。」とある。これによつて高安王との烈しい戀愛を想起すれば、この歌がよくわかるやうに思はれる。
 
造筑紫觀世音寺別當沙彌滿誓の歌一首
 
391 鳥總《とぶさ》立て 足柄山に 船木|伐《き》り 樹に伐り行きつ あたら船材《ふなぎ》を
 
【題意】 沙彌滿誓の事は上掲三三六參照。筑紫觀世音寺の造営を司つたのは養老四年七月の事である。
【口譯】 足柄山に、船木を伐り、船木として切つて行つた。惜しい船木だのに。
【語釋】 ○鳥總立て 「ふなぎきる」の枕詞。鳥總立〔三字傍点〕つとは、昔樵夫が木を伐り了つた時には、梢を其の木の本に立てゝ、山の神木の神等をまつる習慣があつたといふ。そこで「船木伐り」に續く。字鏡集に、朶【トフサエタ】とある。又久老の槻落葉別記にはトブサはツバサ、タテはタタセの意、即ち鳥總立ては翅立《つばさた》たせにて、足輕の意より足柄〔二字傍点〕の枕詞としたものであると言つてゐる。○足柄山 相模國風土記に「足輕山は此山の杉の木をとつて舟に造るに、あしの輕きこと他の材にて作れる舟にことなり、よつてあしから山と名づけたり」とある。卷十四「百つ島|安之我良乎夫禰《アシガラヲブネ》歩き多み」(三三六七)とあるのも、足柄山の木で作つた舟は舟足の輕い事を言つ(166)てゐる。○樹に伐り行きつ 樹〔傍点〕はフナキといふべきを略したるなりと宣長は云つてゐる。これに從へば舟木として伐りにいつたといふ意になるが、それにしても第四句は、はつきりしないいひ方である。
【後記】 自分の思うてゐた女に他人が通つたことをくやしがつてゐるのでもあらう。
 
太宰大監|大伴宿禰百代《おほとものすくねもゝよ》の梅の歌一首
 
392 ぬば玉の その夜の梅を た忘れて 折らず來にけり 思ひしものを
 
【題意】 大伴百代は天平十年閏七月兵部少輔、十三年八月美作守、十五年十二月鎭西府副將軍、十八年九月豐前守、十九年正月正五位下。集中作凡て七首、凡作。
【口譯】 其の夜見た梅を私はつひ忘れて折らないで來て了つた。心には欲しく思つてゐたのに。
【語釋】 ○た忘れて た〔傍点〕は接頭語。
【後記】 女を梅に譬ふ。
 
滿誓沙彌の月の歌一首
 
393 見えずとも 誰戀ひざらめ 山のはに いさよふ月を よそに見てしか
 
(167)【口譯】 月が見えないからといつて、誰が戀ひずにをられよう。山のはにたゆたうてゐる月を、せめてよそながら見たいものだ。
【語釋】 ○てしか 上掲三四三參照。
【後記】 女を月に譬ふ。會ひ難い女である。
 
金明軍の歌一首
 
394 標《しめ》結《ゆ》ひて 我が定めてし 住吉《すみのえ》の 濱の小松は 後も吾が松
 
【題意】 金明軍の傳未詳。集中歌八首、繊細な歌が多い。
【口譯】 標を結んで、私の物と決めておいた佐吉の濱の小松は、其の後とても私の松である。
【語釋】 ○定めてし 舊本「定義之《サタメマシ》」とあるが、「義之」をテシとよむのは手師《てし》である王羲之の戯書である。玉の小琴に詳しく論じてゐる。
【後記】 小松は少女。成人して後も吾が女であるとの譬喩。
 
笠郎女《かさのいらつめ》、大伴宿禰家持に贈る歌三首
 
(168)395 託馬野《つくまぬ》に 生ふる紫草《むらさき》 衣《きぬ》に染《し》め 未だ着ずして 色に出にけり
 
【題意】 笠郎女は傳未詳。集中短歌二九首、萬葉女流歌人中屈指の人。
【口譯】 託馬野に生えてゐる紫草で衣を染めて、未だ着もしないのに、人に見つけられて了つたことだ。
【語釋】 ○託馬野 託馬〔二字傍点〕は今「筑摩」と書く。近江國坂田郡入江村。今も字名に殘り、朝妻の西に接する漁村。○衣に染め 染《そ》めること。古くシムといつた事は、卷二「益目頼染《イヤメヅラシミ》」(一九六)の例でもわかる。○色に出にけり 顔色に出て人に悟られたのである。上掲三〇一參照。
【後記】 紫の衣を着ることは、契ることである。結句が常套文句になつてゐるのは惜しい。
 
396 陸奥《みちのく》の 眞野《まぬ》の草原《かやはら》遠けども 面影にして 見ゆとふものを
 
【口譯】 陸奥の眞野の草原は、あんなに遠いけれども、面影に見えるといひますのに。
【語釋】 ○眞野の草原 和名抄に「陸奥國行方郡眞野」とある處。今眞野は磐城國相馬郡に在り、今の眞野村・上眞野村・鹿島村に當る。草〔傍点〕とは、特殊な草《かや》の名ではなくて、茅、薄、葦等、屋根を葺くに用ひた草を指してゐる。
(169)【後記】 近くても會ひ難いのを嘆いた歌。上二句「遠けども」の序とみる説もあるが、結句「見ゆとふものを」からすれば、全體で譬喩になつてゐると見なければならない。
 
397 奥山の 磐本管《いはもとすげ》を 根深めて 結びし心 忘れかねつも
 
【口譯】 貴方と深く契つた心は、忘れられないことだ。
【語釋】 ○磐本管を 磐の根本に生えてゐる菅。菅〔傍点〕は和名抄草類に「唐韻云菅【和名須計(他註略)】草名也」とある。こゝまでは「根深」の序である。卷十一「奥山之|石本菅乃《イハモトスゲノ》根深くも思ほゆるかも吾が念ふ妻は」(二七六一)とあるによつて、この歌「菅乎」とあるのは「之」の誤りかと古義に言つてゐる。
【後記】 此の歌は右に引いた卷十一の歌に同じく、菅に寄せて思を述べた歌である。
 
藤原朝臣八束《ふぢはらのあそみやつか》の梅の歌
 
398 妹が家に 咲きたる梅の 何時も何時も なりなむ時に 事は定めむ
 
【題意】 藤原八束は房前の第三子、天平十二年正月從五位に、十三年十二月右衛門督、二十年三月參議兼式部大輔、天平寶字のはじめ名を眞楯といひ四年正月太宰帥、六年十二月中納言兼中務卿、神護二年正月大納言、(170)同三月薨ず、五十二。集中短歌八首。
【口譯】 妹の家に咲いてゐる梅が、何時なりとも實に成つた時に、事は定めよう。
【語釋】 ○何時も/\なりなむ時に 集中に用ひられた「いつも/\」といふ語は「終始」(古義の語を借りれば、常住不斷」)といふ意にとる場合と、「何時なりとも」といふやうに解してよい時とがある。卷四「河上の伊都藻の花の何時何時《イツモイツモ》來ませ我が背子時じけめやも」(四九一)、卷二十「わがかづのいつもと柳|以都母以都母《イツモイツモ》おもがこひすすなりましつしも」(四三八六)等は前者の例で、卷十一「道の邊の五柴原の何時毛何時毛《イツモイツモ》人のゆるさむことをし待たむ」(二七七〇)は後者の場合で、この歌も同じやうに、いつなりとも實に成る時」の意である。女が眞實に承諾した時のことをいふ。○事は定めむ 事の決着はつけることにしようといふので、夫婦の契を定めようの意。
【後記】 女が本氣に承諾したらいつなりとも夫婦の契を結ばうといふ氣長な戀。梅に心を寄せたもの。
 
399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花 實にし成りなば かもかくもせむ
【口譯】 妹の家に咲いてゐる梅の花が、實になつたならば其の時にどうともしよう。
(171)【語釋】 ○かもかくもせむ ともかくもしよう。前歌の「事は定めむ」に同じ。
【後記】 前の歌と全く同じことを言つてゐる。
 
大伴宿禰駿河麻呂《おほとものすくねすろがまろ》の梅の歌一首
 
400 梅の花 咲きて散りぬと 人は言へど 吾が標結ひし 枝ならめやも
 
【題意】 大伴駿河麻呂は大伴御行の孫、家持の又從兄、家持よりは少し年長かと思はれる。天平十五年五月正六位上から從五位下、十八年九月越前守、寶龜元年五月出雲守、四年七月陸奥國鎭守府將軍、六年九月參議、七年七月卒。贈從三位。集中歌十二首、其の大半は譬喩の歌。
【口譯】 梅の花は咲いて散つたと人は言ふけれども、それは私が標を結んで置いた枝であらうか。いやそんな筈はない。
【後記】 心變りがしたといふ噂のある女にあてつけの贈歌と思はれる。卷八に「瞿麥は咲きて散りぬと人は言へど吾が標し野の花ならめやも」(一五一〇)とあるのと、全く同じ譬喩の用ひ方である。
 
(172)大伴坂上郎女 親族《うから》と宴《うたげ》する日|吟《うた》へる歌一首
 
401 山守の ありける知らに その山に 標結ひ立てて 結《ゆひ》の辱《はぢ》しつ
 
【口譯】 山の番人が居たのを知らないで、其の山に標を結ひ立てゝ辱をかいたことだ。
【語釋】 ○山守 山の番人、こゝでは他の女を指す。山〔傍点〕は駿河麻呂。○標結ひ立て こゝでは娘の婿と定めたことをいふ。
【後記】 坂上郎女に二女あり、長女の坂上大孃は家持の妻、次女の坂上二孃は駿河麻呂に嫁したのであるが、駿河麻呂が他の女に通ふ噂があつたので、親族宴席の際皮肉を云つたものである。
 
大伴宿禰駿河麻呂即ち和ふる歌一首
 
402 山守は けだしありとも 吾妹子が 結《ゆ》ひけむ標《しめ》を 人解かめやも
 
【口譯】 萬一山の番人が居たにしても、貴女がお結びになつた標を誰が解きませうぞ。
【語釋】 ○けだし 若し。或は。萬一。○吾妹子 前の坂上娘女を指す。親しんで云つたのである。
【後記】 前の歌に和へ、萬一、他に女があらうとも、貴女が結んで下さつた此の契りは誰も解き(173)はしないのだから何時までも變ることはありますまいにと云つたのである。
 
大伴宿禰家持、同じき坂上家《さかのへのいへ》の大孃《おほいらつめ》に贈れる歌一首
 
403 朝に日《け》に 見まく欲《ほ》りする その玉を 如何にしてかも 手ゆ離れざらむ
 
【口譯】 毎朝毎日見度く思ふ其の玉を、どうしたら手から放さないでゐられるだらう。
【語釋】 ○朝にけに 毎朝毎日、いつも。上掲三七七參照。○見まく まく〔二字傍点〕のま〔傍点〕は推量の助動詞む〔傍点〕の未然形といはれるもの。下出四七五・四三五參照。く〔傍点〕のことは上掲三二六參照。
【後記】 坂上大孃を玉に譬へたもの。
 
娘子|佐伯宿禰赤麻呂《さへきのすくねあかまろ》の贈れる歌に報ふる一首
 
404 ちはやぶる 神の社し なかりせば 春日の野邊に 粟蒔かましを
【題意】 娘子とは誰の事かわからない。一つ隔てた次に「娘子復報ふる歌」とあるも同人であるが、卷四「娘子佐伯宿禰赤麻呂に報へ贈れる歌」(六二七)とあるのとは別人であるかも知れない。
【口譯】 神の社が無かつたならば、私は春日の野邊に粟を蒔くであらうものを。
(174)【語釋】 ○蒔かましを まし〔二字傍点〕は現在の事實と反對のものを推量するに用ひる。を〔傍点〕は咏嘆の助詞。上掲三六一、下出四〇五・四二〇・四三六・四五四・四六八にもこの形のものがある。この場合には大抵「それが出きなくて殘念」といふ語を補つてみるとよくわかる。上は假定條件となる。
【後記】 何しろ神社があつて恐しくて蒔けないといふので、若し貴方に親しくしてゐる女が無いのなら何時でも逢ひませうものをと報へたのである。「粟を蒔く」を逢ふ〔二字傍点〕にかけたのは他にも例が見られる。卷十四「足柄の箱根の山に粟蒔きて實とはなれるを逢はなくもあやし」(三三六四)。
 
佐伯宿禰赤麻呂|更《また》贈る歌一首
 
405 春日野に 粟蒔けりせば 鹿待《しゝま》ちに 繼ぎてゆかましを 社しとどむる
 
【題意】 佐伯赤麻呂の傳未詳、集中歌三首。
【口譯】 貴女が春日野に粟を蒔いたのなら、其の粟を食ひに來る猪鹿を待ちうけて、絶えずゆくであらうものを。なにしろ社があつて、行くのを阻むことだ。
【語釋】 ○鹿待ちに 舊本「待鹿爾《マタムカニ》」とあり、マタスカニ(槻落葉)とも訓まれてゐるが古義が、シシマチニと訓んで「粟喫(ミ)に來る猪鹿を待(チ)窺ひて繼て行む」と解したのに從ふ。卷七「鹿待君之《シシマツキミガ》いはひ妻かも」(一二六二)、(175)卷十三「十六待如《シシマツゴト》床敷きて吾が待つ君」(三二七八)。この言葉、なほ研究を要する。○社しとゞむる 舊本「社師留烏《ヤシロハシルヲ》」とあるのを、モリハシルカラ(童蒙抄)、又烏〔傍点〕を「戸母」の誤としてヤシロシルトキ(玉小琴)、留鳥〔二字傍点〕を「「怨焉」の誤としてヤシロシウラメシ(槻落葉)又ヤシロシトムルヲ(略解)、又留鳥〔二字傍点〕を「有侶」の誤としてヤシロシアリトモ等種々の訓が施されてゐるが、類聚古集・細井本に烏〔傍点〕が焉〔傍点〕となつてゐる故、攷證の訓に從つて、ヤシロシトヾムルと訓む。意味は攷證に「社ある故に、粟をまき給はぬなれば社のわれをとゞむるにことならずとなり」といつてゐるのでよからう。
【後記】 此の歌難解歌である。後考を俟つ。
 
娘子|復《また》報ふる歌一首
 
406 吾が祭る 神にはあらず 大夫《ますらを》に つきたる神ぞ よくまつるべき
 
【口譯】 其の社は私が祀つてゐる神ではございませぬ。丈夫たる貴方によりついた神です。よくお祭りなさいまし。
【語釋】 ○大夫につきたる神ぞ 大夫〔二字傍点〕は赤麻呂を指す。つきたる〔四字傍点〕は舊本「認有《トメタル》」とあり、ツナゲル(考)、シメタル(槻落葉)等とも訓まれてゐるが、それでは意味がよく通らないので、古義はツキタルと訓み「寄屬《ヨリツキ》たる神(176)ぞ」と解してゐる。意味の上からは、この訓が一番よいが、しかし別にこの訓には確とした證據があるわけではない。從つてこの「認」をいかによむかについては考究の餘地がある。なほ詳しい論證は奈良文化第十二號及び第十八號所載の春日政治氏のものを參照せられたい。
【後記】 前の歌の「社しとゞむる」をひつ捉へて、逆襲したもの。「貴方によりついた女、それが貴方は恐しいのでせう、まあ精々御大事になさいよ」と揶揄したもの。
 
大伴宿禰駿河麻呂、同じき坂上家の二孃《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌
 
407 春霞 春日の里の 殖子水葱《うゑこなぎ》 苗なりといひし 柄はさしにけむ
 
【口譯】 春日の里の小水葱は未だ苗であつたと云ふことでしたが、今はもう杖もぐつと延びたことでありませう。
【語釋】 ○春霞 春日〔二字傍点〕の枕詞。○春日の里の 春日の里〔四字傍点〕は寧樂の都の東、即ち今の奈良市の一部にあつた里。○殖子水葱 水葱〔二字傍点〕は水田や小川に自生する一年生の草で莖は短く葉は叢生し、心臓形又は細い卵形の葉柄の長い葉を持つてゐて食用になる。殖〔傍点〕とは特に植ゑ付けたものでなく、自然に生育してゐるのにも用ひると記傳は云つてゐる。子〔傍点〕は小の借字。○柄はさしにけむ 柄〔傍点〕は枝、さす〔二字傍点〕は延びること。上掲三二四參照。
(177)【後記】 題詞に依つても知られるやうに、二孃が未だごく若かつた頃、母坂上郎女の許に結婚を申込んだときの歌。二孃も一人前の女になつたことであらうといつたのである。
 
大伴宿禰家持、同じき坂上家の大孃に贈れる歌一首
 
408 石竹《なでしこ》の その花にもが あさなさな 手に取り持ちて 戀ひぬ日なけむ
 
【口譯】 貴女が石竹の花であつたらと思ふ。さうすれば朝毎に手に取り持つて、戀ひぬ日とてはないことであらう。
【語釋】 ○あさなさな 毎朝。卷二十「阿佐奈佐奈《アサナサナ》あがる雲雀になりてしか」(四四三三)參照、
【後記】 卷十七に大伴池主が家持を石竹であれと詠じた歌がある。「うら戀ひしわがせの君は石竹が花にもがな朝なさな見む」(四〇一〇)
 
大伴宿禰駿河麻呂の歌一首
 
409 一日には 千重浪しきに 思へども なぞその玉の 手にまき難き
 
(178)【口譯】 一日の中には、千重に立つ浪のやうに頻りに思うてゐるのだが、何故其の玉が私の手に纏き難いのであらう。
【語釋】 ○千重浪しきに 千重に立つ浪の如くしきりに。卷十三「百重波千重浪敷爾《モヽヘナミチヘナミシキニ》言擧げぞする吾は」(三二五二)。
【後記】 女を玉に譬へてゐる。その玉は海中から得るものである。そこで、「波」を、次にその「波」の關係で「千重」を、更にその「千」と「一日」の「一」を對照させたところ、技巧が目立つ。
 
大伴坂上郎女の橘の歌一首
 
410 橘を 宿に殖ゑ生《おほ》せ 立ちて居て 後に悔ゆとも、驗《しるし》あらめやも
 
【口譯】 私の家の橘を貴方の宿に植ゑて御育てなさい。後になつてから、立つたり坐つたりして悔やんでも甲斐がありませうか。
【語釋】 ○植ゑ生せ 舊本「殖生《ウヱオホシ》」とあるが、玉の小琴に「うゑおふせと訓べし」といつたのに從ふ。但し「おふせ」より「おほせ」の方がよい。命令形である。上掲三八四參照。○立ちて居て 立つたり坐つたりして。煩悶、おちつかぬ状態をいふ。上掲三七二にも出てゐる。
【後記】 此の歌の解釋については、種々の説が行はれてゐる。代匠記には「橘ヲ殖テ生シタツル(179)ヤウニ我娘ヲモヨクオフシクテタレト、來テ見ル人モナクハ徒ニ散過ル如ク、時過色衰ロヘテ後ハ、立テ悔居テ悔トモカヒナカラムト譬フルナリ」と言ひ、攷證には「わが娘なれば、謙退して、わが娘の如くふつゝかなるものを君のもとに呼とり給ひなば、後に立つ居つして悔給ふとも、後にはかひあらじかしといふ意也。」といひ、全釋には又橘を駿河麻呂に見立てゝ「貴方ヲ娘ノ聟ト定メテ……貴方ノ心ヲ見定メテカラニシヨウト思ヒマス」といふやうに解してゐる。以上は何れも舊本の「ウヱオホシ」に從ふ解釋であるが、宣長の改訓に從つて「早くそなたの屋前にうゑおふし玉へ」とする見方も棄て難く、槻落葉・古義等はこれに從つてゐる。次の歌との關係からみて、今は後者に從つておく。
 
和ふる歌一首
 
411 吾妹子が 宿の橘 いと近く 殖ゑてし故《ゆゑ》に ならずは止まじ
 
【題意】 右の歌に和ふるのである。家持とも駿河麻呂ともいはれてゐるが、どちらとも斷定は出來ない。
【口譯】 貴方の家の橘はごく近くに植ゑておきましたから、實を結ばないではおきますまい。
【語釋】 ○植ゑてし故に 玉の小琴に「うゑてし物を」であると言つてゐるが、かゝる意味の「ゆゑに」が動(180)詞助動詞に接續した例は見えないから、普通の「故に」の意にみるべきであらう。卷十六「眞珠は緒絶しにきと聞之故爾《キヽシユヱニ》其の緒また貫き吾が玉にせむ」(三八一四)と同じである。て〔傍点〕は完了、し〔傍点〕は過去の助動詞。○成らずは止まじ 實の成ると、婚を結ぶとをかけたもの。一緒にならないではおかない。
【後記】 既に深く契つてをりますから、一緒にならないではをきませぬ、御心配なさいますなと答へたもの。
 
市原王《いちはらのおほぎみ》の歌一首
 
412 いなだきに きすめる玉は 二つ無し こなたかなたも 君がまにまに
 
【題意】 市原王は安貴王の御子天平十五年五月從五位下、寶字七年正月攝津大夫、同四月造東大寺長官となる。集中歌八首。
【口譯】 頭の上につけておくきすめるの玉〔六字傍点〕といふのは、二つとない只一つのものである。其の樣に私は貴心に二方を持つてゐないのだ。どうにでもかうにでも御意の儘に致しませう。
【語釋】 ○いなだきに 和名抄頂※[寧+頁]、「陸詞曰、※[眞+頁]【天反、訓、伊太々岐】頂也、※[寧+頁]【音寧】頭上也」とある。○きすめる玉 代匠記、槻落葉に「令著」といひ、攷證に「令著《キス》める」といひ、考に「伎《キ》はくゝり〔三字傍点〕の約にて絞、須賣流《スメル》は統《スペル》」といひ、略解(181)には宣長云として、「伎《キ》は笠ヲキルなどのキルに同じく頂くを言ひ、すめるは統《スベル》にて」といひ、新考は播磨風土記を引用して藏《ヲサ》むといふ意味であると説くなど種々説があるが、わかり難い言葉である。暫く不明のまゝとしておく。○こなたかなたも どうにでもかうにでも。○君がまにまに まにまに〔四字傍点〕は上掲三六九參照。
【後記】 女を玉にたとへてゐる。
 
大網公人主《おほあみのきみひとぬし》、宴《うたげ》に吟《うた》へる歌一首
 
413 須磨の海人《あま》の 鹽燒衣《しほやきぎぬ》の 藤服《ふぢごろも》 ま遠《どほ》にしあれば 未だ著穢《きな》れず
 
【題意】 大網公人主、傳未詳。作歌唯一首。
【口譯】 須磨の海人の鹽燒衣の藤服は、目があらいのでまだ着馴れませぬ。
【語釋】 ○鹽燒衣の藤服 鹽燒衣〔三字傍点〕とは鹽燒く折に着る衣。藤服〔二字傍点〕とは、藤にかぎらず一般に葛で織つた衣。賤者の衣服。○間遠にしあれば 藤衣の布目のあらいことと、逢ふ事の稀であるのとをかけてゐる。○未だ着穢れず 上に着物の事をいつたから、着穢る〔三字傍点〕といふ語を用ひたので、まだ馴れ親しくはなつてゐないの意。
【後記】 逢ふことの稀で未だよくも馴れぬ中である事を譬へたもの。古今集戀四「須磨の海人の鹽燒衣をさを荒み間遠にあれや君がきまさぬ」の上三句はこの歌の譬喩を學んだものであらうか。
 
(182)大伴宿禰家持の歌一首
 
414 足引の 石根こごしみ 菅の根を 引かば難みと 標のみぞ結ふ
 
【口譯】 山の岩が險しいので、菅の根を引いたところで引き難いから、たゞ私のものだといふ標だけを結んでおくことだ。
【語釋】 ○足引の 山にかゝる枕詞であるが、こゝは其のまゝ山の意に用ひてゐる。卷八「足引之許之間立八十一《アシヒキノコノマタチクク》時鳥」(一四九五)、卷十一「足檜乃下風吹夜者《アシヒキノアラシフクヨハ》」(二六七九)等皆同じである。○岩根こごしみ 根〔傍点〕には意味はない。○引かば難みと 引いたところで引きにくいから。と〔傍点〕は例の輕く添へた言葉。
【後記】 支障多くして直ちに自分のものにし難い女を、他人の手には渡すまいと心に用意するのに譬へたもの。
 
挽歌
 
(183)上宮|聖徳皇子《しやうとくのみこ》、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しゝ時、龍田山《たつたやま》の死人を見て悲傷みて御作歌《つくりませるうた》一首
 
415 家にあらば 妹が手纏かむ 草枕 旅に臥《こや》せる この旅人《たびと》あはれ
 
【題意】 上宮聖徳皇子は聖徳太子の御事。竹原井は河内國中河内郡堅下村高井田。龍田山の西に當る。
【口譯】 家に居たならば妻の手を枕とするであらうに、旅で仆れて臥してゐなさる此の旅人は、あゝ可哀さうなことだ。
【語釋】 ○臥《こや》せる、臥《コヤ》る」といふ動詞の敬語こやす〔三字傍点〕の已然形に、完了助動詞る〔傍点〕がついた形とみられる。こゝでは死を意味する。なほこゝに敬語を用ひてゐるところは敢へて不思議とする必要はあるまい。上掲三五七參照。○この旅人あはれ あはれ〔三字傍点〕は嘆息の辭。あゝ可哀さうにの意。
【後記】 推古紀二十一年の條に、皇太子片岡にお出ましあり、道側に飢ゑ伏した者を御覽になつて、「斯那提流《シナテル》 箇多烏箇夜摩爾《カタヲカヤマニ》 伊比爾惠弖《イヒニエテ》 許夜勢屡《コヤセル》 諸能多比等阿波禮《ソノタヒトアハレ》」、又「於夜那斯爾那禮奈理鷄迷夜《オヤナシニナレナリケメヤ》 佐須陀氣能枳彌波夜那祇《サスタケノキミハヤナキ》 伊比爾惠弖《イヒニヱテ》 許夜勢留多比等阿波禮《コヤセルタヒトアハレ》」と歌はせられたと記してゐるが、其の縁起も其の歌詞もこゝの歌と極めてよく似てゐる。萬葉の歌は右の歌によつて後人が作りなしたのであらうか。
 
(184)大津皇子の被死《つみなは》れ給へる時、磐余《いはれ》の池の般《つゝみ》にて涕を流して御作《つくりませる》歌一首
 
416 百傳《ももつた》ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隱りなむ
 
【題意】 大津皇子のことは卷二・一〇五參照。皇子の薨去については持統紀に「朱雀元年十月己巳、皇子大津謀反發覺、逮2捕皇子大津1。庚午賜2死皇子大津於|譯語田《ヲサダ》舍1。時年二十四」と記してゐる。磐余池は、履中紀に「二年十山月、作2磐余地1」とある。池は今はないが、大和國磯城郡安倍村大字池内、香久村大字池尻等の地名が殘つてゐる。つゝみ〔三字傍点〕は舊笨般〔傍点〕の文字を用ひてゐるが、史紀孝武紀集解に漢書音義を引て「般水涯堆也」とあるから、般をさうよむ事が出來る。
【口譯】 磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日だけで、死んでゆくことであらうか。
【語釋】 ○百傳ふ 冠辭考に枕詞として、こは百にかぞへ傳ふる五十《イ》てふ意にて、いはれのい一《ヒト》ことに云かけたり」と言つてゐる。然し繼體紀をはじめ集中には「角障經《ツヌサハフ》磐余」とあり、百傳〔二字傍点〕といふ云ひ方は珍らしいので誤字説なども出てゐる。○雲隱りなむ 死ぬと天に上るといふ考から起つたものと思はれる。
【後記】 哀調をそゝる御歌、蓋し挽歌中の傑作である。懷風藻に、大津皇子臨終一絶として「金烏臨2西舍1。皷聲催2短命1。泉路無2賓主1。此夕離v家向」の詩を傳へてゐる。
 
(185)河内王《かふちのおほぎみ》を豐前國|鏡山《かゞみのやま》に葬《はふ》れる時、手持女王《たもちのおほぎみ》の作れる歌三首
 
417 王《おほきみ》の 親魄《むつたま》合《あ》へや 豐國《とよくに》の 鏡の山を 宮と定むる
 
【題意】 河内王は、持統天皇三年閏八月太宰帥となり、八年四月淨大肆の位を贈られ、賻物を賜ふ由書紀に見えてゐる。薨去の年月は分らない。集中には御歌なく、此の題詞に名が見えるのみである。鏡山は豐前國田川郡香春村の東北に在り。上掲三一一參照。手持女王の傳は未詳。歌は集中この歌以下三首。
【口譯】 王の御心に叶つたからであらうか、王は豐國の鏡山を宮とお定めになつたことである。
【語釋】 ○王 河内王のこと。○親魄合へや 親魄〔二字傍点〕は睦じい魂の意であるが、こゝでは河内王に對する親愛の情を示したものであらう。魄合ふ〔三字傍点〕は叶ふ、氣に入るの意。合へや〔三字傍点〕は合へばにやの意。や〔傍点〕は疑問の助詞。かゝるば〔傍点〕の省略は上掲二三七參照。
 
418 豐國の 鏡の山の 石戸立て 隱《かく》りにけらし 待てど來まさぬ
 
【口譯】 豐國の鏡の山の石戸を立てゝ、お隱れになつて了つたらしい。待つても待つてもおいでにならないことだ。
【語釋】 ○石戸立て 古墳の横穴式石槨は奥に石棺を安置する玄室があり、その室から外部への通路が羨道で(186)すべて石で疊んである。羨道の入口は羨門といつて、石で塞いである。石戸とはその入口に立つてゐる戸をいつたものであらう。
 
419 岩戸わる 手力もがも 手弱き 女《をみな》にしあれば すべの知らなく
 
【口譯】 岩戸を割る力が欲しいものだ。か弱い女の事故どうしてよいかわからないことだ。
【語釋】 ○もがも 上掲三〇六參照。
 
石田王《いはたのおほぎみ》の卒せし時、丹生王《にふのおほぎふ》の作れる歌一首并に短歌
 
420 なゆ竹の とをよる皇子《みこ》 さ丹《に》づらふ 吾が大王《おほきみ》は 隱國《こもりく》の 泊瀬の山に 神さびに 齋《いつ》きいますと 玉梓の 人ぞ言ひつる、妖言《およづれ》か 吾が聞きつる 枉《たは》言か 我が聞きつるも 天地に 悔《くや》しき事の 世間《よのなか》の 悔しき事は 天雲《あまぐも》の 遠隔《そくへ》の極《きはみ》 天地の 至れるまでに 杖《つゑ》策《つ》きも 衝《つ》かずも行きて 夕占《ゆふけ》問ひ 石占《いしうら》以《も》ちて 吾が屋戸《やど》に 御室《みもろ》を立てて 枕邊に 齋瓮《いはひべ》を据ゑ 竹玉《たかだま》を 間なく貫き重り 木綿襷《ゆふたすき》 肘《かひな》に(187)懸けて 天《あめ》なる 左佐羅《ささら》の小野の 七符菅《なゝふすげ》 手に取り持ちて ひさかたの 天の川原に 出で立ちで 禊《みそ》ぎてましを 高山の 巖《いはほ》の上に 坐《い》ませつるかも
 
【題意】 石田王の傳未詳。四二三の題詞、四二五の左註に其の名がみえるが集中に歌は無い。丹生王も傳未詳、集中此の長歌と反歌二首があるのみ。
【口譯】 若くて嫋やかにあかあかと美しい顔の持主であるわが大王は、使の者の言葉によれば、人々が泊瀬の山に神として齋きお祀り申し上げてゐると、言ふことだ。僞り言を私は聞いたのかしら。妄り言を私は聞いたのかしら。(とわが耳を疑つたことだ)。天地の中で最も悔しいことや、世の中で一番悔しい事は(若しさうと知つてゐたならば)、天雲の遠く隔たつたはて、天地の果までも、杖をついてでもつかないでもとにかく歩いて行つて、夕べの衢に立つて占をし、或は石をもつて占ひをし、或は私の家に御室を立てて、枕邊には齋瓮を据ゑ、竹玉を澤山に一つ緒に貫き垂らし、木綿の襷を肘にかけ、天上の左佐羅の小野に生えてゐるといふ七符菅を手に持つて天の川原に出ていつて、身を清めわが大王の御壽命を祈つたであらうものを。いまはすでに高い山の巖の上にお送り申してしまつたことだ。
(188)【語釋】 ○なゆ竹の とをよるの枕詞。なゆ竹〔三字傍点〕は女竹である。冠辭考に、こはたをやかなる女の姿をなよよかなる竹に譬へて冠らせたり」。と云つてゐる。卷二に「奈用竹乃騰遠依子等者《ナヨタケノトヲヨルコラハ》」(二一七)とある。○とをよる皇子 皇子の若くてなよよかなるを譬へていふ。○さ丹づらふ さ〔傍点〕は接頭語、顔のあかあかと美しいこと。○隱國の泊潮の山 「隱國《こもりく》の」ははつせ〔三字傍点〕の枕詞。冠辭考に「山ふところ弘くかこみたる所なれば籠《コモ》り國《クニ》の長谷《ハツセ》といふべきもの也。國を久《ク》といふは吉野の久孺《クス》を國栖と書がごとし。」とある。記允恭天皇の條「許母理久能《コモリクノ》 波都世能夜麻能《ハツセノヤマノ》」、「許母理久能 波都勢能賀波能《ハツセノカハノ》」、など參照。泊瀬〔二字傍点〕は、和名抄に大和國城上部長谷郷とある處、初瀬町を圍んでゐる山を泊瀬山といふのであらう。○神さびに齋きいます 神さび〔三字傍点〕のさび〔二字傍点〕は「……らしいことをする」といふ意味の接尾辭。そこで神としての性質を發揮すること、即ち神としての行ひをすることを「神さび」といふ。「神々しい」といふ口語譯もこゝから生れる。上掲二四五・二五九・三一七・三二二參照。○玉梓の 集中に見えた例は殆ど凡て便〔傍点〕の枕詞であるが、この歌及び下の「珠梓乃事太爾不告《コトダニツゲズ》」(四四五)は、轉じて玉梓の使の人、即ち使者の意味に用ひてゐる。珠梓〔二字傍点〕の義については、王の小琴に「上代には梓の木に玉を着たるを使の印に持てあるきしなるべし」とあるが、山田博士は玉〔傍点〕は美稱で梓〔傍点〕は梓で作つた杖の義で、使は常に梓の杖を携へてゐたから、玉梓の使と冠したのであらうと講義に述べてをられる。○妖言《およづれ》 本文は「於余頭禮」と假名書になつてゐるが、天武紀に妖言《オヨヅレゴト》とあるので妖言といふ字をあてたのである。怪しい言葉・僞言。○枉言 舊本「枉言《マカコト》」。御門祭祝詞に「惡事 爾 相麻自許利」の「惡事」を註して古語云2麻我許登1とあるが、妖言〔二字傍点〕に對しては卷十七「於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多婆許登等可毛《タハコトトカモ》」(三九五七)、又續日本紀寶龜二年二(189)月己酉、左大臣永手薨時の詔に「於與豆禮 可母 多波許止《オヨヅレカモタハコト》【乎加母】云《イフ》」のやうにタハゴトと云ふのが普通であるから、枉言〔二字傍点〕はタハゴトと訓む、枉〔傍点〕は邪の義。即ちよこしまな言。○天地に悔しき事の世間の悔しき事は 同じ意味の言葉を二つ重ねたもので、このやうに「――の――は」といふ形をとる時は「……で……は」といふ風に解釋すればよい。なほこの句の前に、「使の者の言葉はどうも事實とは思はれない。夢のやうだ」といふ句を補つてみるとよく分る。○天雲の遠隔《そくへ》の極 そくへ〔三字傍点〕はそきへ〔三字傍点〕ともいふ。卷十九「天雲能|曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》」(四二四七)參照。退く方、遠くの方。攷證には底方《ソキヘ》の義と云ふ。天雲のそくへの極み〔九字傍点〕とは、天雲の遠く隔つてゐる果ての意。○天地の至れるまでに 天地の果までも。○杖策きも衝かずも行きて 杖をついてでもつかないででも行つての意で、遠路を難澁しつゝ行くことを表す常套的文句。卷十三「杖衝毛不衝毛吾者行目友《ツヱツキモツカズモワレハユカメドモ》」(三三一九)參照。○夕占問ひ 顯昭拾遺抄註に「ユフケトハ、エフベニ辻ニ立、モシハ門ナドニ立テ、人ノ言事ヲ聞テトフラウ也」と云つてゐる。問ふ〔二字傍点〕は判斷すること。○石占 伴信友の正卜考に埃嚢抄の語をひいて、「然れば、埃嚢抄に道祖神に祈りて石の輕重につけて卜問《ウラトヒ》すといへるはすなはち石卜にて、夕卜を同神に因とてものすること著しく、また歌の趣の夕卜と同度に卜へたりときこゆるも、所のさまもなにもよくうちあひてきこゆるかし」といつてゐるが、「其の石につきて輕重をいかに定めて占へたりけむいまだ考へず」とその方法については知り難き由を述べてゐる。○御室《みもろ》 神を祀る處。「みもろの神名備山」の語はこゝから出てゐる。上掲三二四參照。○齋瓮を居ゑ 上掲三七九參照。○竹玉 上掲三七九參照。○左佐羅の小野 卷十六「天爾有哉神樂良能小野爾茅草苅《アメナルヤササラノヲヌニチカヤカリ》」(三八八七)ともあり、天上に在りと傳へられてゐる野のこと。月を(190)「ササラエ壯士」といふのにも關係があらうか。○七符菅《ななふすげ》 舊本「七相菅《ナナニスケ》」とある。誤字説をはじめとしていろいろ説があるが、要するに意義不明である。今後の研究に俟つ。○禊ぎてましを 「天地に悔しき事の、世間の悔しき事は」の次の「かゝらむとかねて知りせば」のやうな省略せられた假定の句に對する結びの句である。
 
反歌
 
421 逆言《およづれ》の 枉言《たはごと》とかも 高山の 巖の上に 君が臥《こや》せる
 
【口譯】 僞りのよこしま言であらうか。高山の巖の上に君が寢ていらつしやるといふのだ。
【語釋】 ○逆言の枉言 舊訓には逆言をサカゴトとよませてゐるが、前の歌で枉言をタハゴトとよんだ關係上こゝでもそれに倣つてオヨヅレノタハゴトと假りによんでおく。この句は下の四七五にも出てくる。およづれ・たはごと・まがこと・さかごと等の訓は、狂・枉・逆などの字と關聯してなほ考究すべき問題であらう。○臥せる 上掲四一五參照。
 
422 石《いそ》の上《かみ》 布留の山なる 杉|群《むら》の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに
 
(191)【口譯】 悲しい思を忘れて了ふことの出來るあなたではないことだ。
【語釋】 ○石上布留の山 石上〔二字傍点〕は和名抄に「大和國山邊郡石上郷」とある所、今の山邊村である。布留〔二字傍点〕は山邊村に其の名が殘つて、いま石上神宮がある。卷十「石上振乃神杉神備西《イソノカミフルノカムスギカムサビニシ》」(一九二七)とあるのも同じ石上神社の杉の事であらう。杉群〔二字傍点〕までは「思ひ過ぐ」の序である。
【後記】 卷十二の「神名備能三諸之山丹|隱藏杉思將過哉蘿生左右《イハフスギオモヒスギメヤコケムスマデニ》」(三二二八)と同じ序の用ひ方である。又第四・第五句は上掲三二五と殆んど同形である。
 
同じき石田王の卒《う》せし時、山前王《やまくまのおほぎみ》の哀傷《かなし》みて作れる歌一首
 
423 つぬさはふ 磐余《いはれ》の道を 朝|離《さ》らず 行きけむ人の 念ひつゝ 通ひけまくは 霍公鳥 鳴く五月には、菖蒲《あやめぐさ》 花橘を玉に貫《ぬ》き【一に云ふ、貫き交へ】 蔓《かづら》にせむと 九月《ながつき》の 時雨《しぐれ》の時は 黄葉《もみぢば》を 折り挿頭《かざ》さむと 延《は》ふ葛《くず》の いざ遠永く【一に云ふ、葛の根のいや遠長に】 萬世に 絶えじと念ひて 【一に云ふ、大船の思ひたのみて】 通ひけむ 君をば明日《あす》ゆ 【一に云ふ、君を明日ゆか】 外《よそ》にかも見む
 
(192)右、一首、或は云ふ柿本朝臣人麿の作なりと。
 
【題意】 山前王は忍壁皇子の御子、慶雲二年十二月從四位下、養老七年十二月卒。集中の歌次の三首。
【口譯】 磐余の道を毎朝毎朝通つていつた人が心に思ひ乍ら通つたであらう事は、即ち時鳥の鳴く五月には、菖蒲や花橘を玉のやうに糸に貫いて頭を飾る蔓にしよう、九月の時雨降る頃は、紅葉を折つてかざさう、さうして何時までも何時までも永遠に絶えまいとかう思つて通つたことであらう、その君を明日からは、よそながらみる事であらうか。
【語釋】 ○つぬさはふ磐余の道 上掲二八二參照。○通ひけまくは 「通ひけむ」の「む」の未然形に、接辭く〔傍点〕を添へたるもの。通つたであらう事はの意。○菖蒲《あやめぐさ》花橘を玉に貫き 菖蒲と橘の花とを玉のやうに糸で貫いて。橘と菖蒲とを貫き交へて、縵にする事は、集中に多く用例がある。卷十八「霍公鳥き鳴く五月のあやめ草花橘に貰き交へ」(四一〇一)。○延ふ葛《くず》の 枕詞。冠辭考云「こも遠くはふ物なるを遠長きたとへにしたり」。一云の「葛の棍」は遠長〔二字傍点〕の枕詞。○大船の 「たのむ」の枕詞。冠辭考云「あら海の上は、たゞ大船を憑もしものにて渡るを末をかねておもひたのまるるにたとへていひかけしなり」。○外にかも見む か〔傍点〕は疑問。「外に見る」は「よそながら見る」ので亡くなつたことをいふのである。
【左註】 此の註は、既に考に言つてゐるやうに、後人の誤つた註であらう。人麿の作風とは思はれない。
 
(193)或本の反歌二首
 
424 隱口《こもりく》の 泊瀬をとめが 手に纏ける 玉は亂れて ありといはずやも
 
【口譯】 初瀬の處女が手に纏いてゐる玉は亂れてゐるといふではないか。
【後記】 石田王を乙女の手に纏きつけてゐる玉に譬へたもの。亂れるとは王の薨去をいふ。
 
425 河風の 寒き長谷《はつせ》を 歎きつゝ 君が歩くに 似る人も逢へや
 
右の二首は、或は云ふ、紀皇女薨じ給ひし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりと。
 
【口譯】 河風の寒く吹く長谷を、ため息つきつゝ歩く貴方に似た人にでも逢ひ度いものだ。
【語釋】 ○似る人もあへや これは一般に願望の意にとつてゐる。さうとすれば此の解釋は「あへ」を命令形に「や」を終助詞とみなければならぬ。然し集中四段の動詞の命令形に、助詞「や」の接したはつきりした用例が見當らないので、勢ひ槻落葉・攷證等のとつてゐる反語説に從ひ度くなるのであるが、解釋としてはどうもそれでは落ちつかない。上に「も」があるし、こゝは願望にとりたいところである。それに本文「逢耶」とあるのであるから、命令形の「あへ」に「や」が接したものと考へても差支へなからう。次に「君」がこ(194)こで誰をさすかゞ問題である。泊瀬乙女とする説も多いが、集中の用例から考へると、この「君」はやはり男を指すものであらう。題詞に從へば石田王を指すことになる。「死んだ人には逢へない、だからせめて君に似た人にでも逢ひ度いのだが」といふのである。「嘆きつゝ」は石田王が乙女に通うて行く状態。
【左註】 此の註は長歌の註とも異なつてゐる。此の短歌を長歌から切離し、左註に據つて解釋すれば、紀皇女の薨去を石田王(實は山前王が代歌したもの)が傷んで作つたものとなり、解釋も自づと別のものになるのであるが、今は長歌と同樣、題詞に從ふ。
 
柿本朝臣人麿、香具山に屍を見、悲慟《かなし》みて作れる歌一首
 
426 草枕 旅のやどりに 誰が夫《つま》か 國忘れたる 家待たまくに
 
【口譯】 旅の宿に、一體誰の夫であらう、故郷を忘れてゐるのは。家の人が待つてゐるであらうに。
 
【語釋】 ○國忘れたる 國は故郷の事。○家待たまくに 舊本「待莫國《マタナクニ》」とあるが、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本、細井本イ本、無訓本イ本に「眞」と書いてあるのに從ひ、マタマクニと訓む。家〔傍点〕は家人をいふこと三六五に既述。家人が待つてゐる事であらうにの意。まく〔二字傍点〕は上掲四〇三參照。に〔傍点〕は「なくに」の「に」と同(195)じく詠嘆の助詞。
【後記】 上宮聖徳皇子が龍田山の屍をみてお詠みになつた歌(四一五)を合せ考へてみるに、交通も不便な人の往來も尠い田舍の地では、旅に病んで看る人もなく其のまゝ路傍に打ち倒れる人が屡々あつた事であらう。短い言葉の中に其の淋しくも哀しい一光景が思ひやられる。
 
田口廣麿《たぐちのひろまろ》の死せし時、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
 
427 百足《もゝた》らず 八十隈坂《やそくまさか》に 手向せば 過ぎにし人に 盖し逢はむかも
 
【題意】 田口廣麻呂は集中歌なく、此の題詞に其の名の見えるのみ。傳記不詳。刑部垂麻呂の歌は二六三にもある。
【口譯】 多くの坂の曲り角に手向をして祈つたならば、亡くなつた人に或は逢ふことが出來るであらうか。
【語釋】 ○百足らず 百傳《ももづたふ》と共に、百にたらぬ八十といふ意味で「八十《やそ》」の枕詞にする。○八十隈坂 舊本「八十隅坂《ヤソスミサカ》」とあるのを、考に隅〔傍点〕を隈〔傍点〕に、坂〔傍点〕を路〔傍点〕に改めて、ヤソノクマヂニとよみ、これに從ふものが多いが、攷證に廣雅釋邱に隅隈也とあるのを引き、クマサカと訓んでゐるのに從ふ。八十〔二字傍点〕は數多い意、隈〔傍点〕は道の隈(196)で曲り角、即ち多くの坂の曲り角の意である。○盖し逢はむかも 盖し〔二字傍点〕は上掲四〇二条照。○すぎにし人 「過ぐ」といふのは「消える」といふ意であることは上掲三一五・四二二參照。從つて、な「死ぬ」といふ意にる。下出四六三參照。
 
土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山に火葬《やきはふ》りし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首
 
428 隱口《こもりく》の 泊瀬の山の 山の際《ま》に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
 
【題意】 土形の娘子は傳未詳。集中歌無く、この題詞に其の名の見えるのみ。
【口譯】 初瀬の山の山の間にたゆたうてゐる雲は、煙となつた娘子であらうか。
【語釋】 ○山の際に 「山際」は舊本ヤマノハニとある。代匠記書入にはヤマキハニとあるが、何れもいけない。山際〔二字傍点〕は山の間の意である。
【後記】 卷七「隱口の泊瀬の山に霞立ち棚引く雲は妹にかもあらむ」(一四〇七)は此の歌の異傳歟。
 
溺死《おぼれし》にし出雲娘子《いぢものをとめ》を吉野に火葬りし時、柿木朝臣人麿の作れる歌二首
 
429 山の際《ま》ゆ 出雲の兒等《こら》は 霧なれや 吉野の山の 嶺に棚引く
 
(197)【題意】 出雲娘子のことは不明。集中歌なく、此の題詞に其の名の出でゐるのみ。
【口譯】 出雲の娘子は霧であるからであらうか、吉野の山の嶺に棚引いてゐる。
【語釋】 ○山の際ゆ 山間から出る雲の義で、出雲〔二字傍点〕の枕詞。○出雲の兒等 出雲娘子を指す。「等《ら》」は唯そへた辭で、複數を表すのではない。○霧なれや や〔傍点〕は「棚引く」にかゝる。霧なればにやの意。上掲四一七參照。
 
430 八雲|刺《さ》す 出雲の子等《こら》が 黒髪は 吉野の川の 奥《おき》になづさふ
 
【口譯】 出雲の娘子の黒々とした髪は、吉野の川の眞中に藻のやうに浮んでゐる。
【語釋】 ○八雲刺す 「八雲立つ」と同じく出雲〔二字傍点〕の枕詞。古事記倭建命の歌には「夜都米佐須伊豆毛多祁流賀《ヤツメサスイヅモクケルガ》」とある。物の立のぼるをさしのぼるともいふやうに、さす〔二字傍点〕は「立つ」に等しいが、夜都米佐須は古く、夜久毛多都は後の語らしいと冠辭考にいつてゐる。○なづさふ 水に浮ぶ意。記傳に言つてゐる通り此の語は常に水に關係があり、其の語源は詳かでないが、槻落葉にはな〔傍点〕は流《ナガレ》・浪《ナミ》・灘《ナダ》など水を表し、つ〔傍点〕は助辭、さふ〔二字傍点〕は從ふ意であるといひ、又古義には、浪漬傍《ナヅサフ》であるといつてゐる。難澁するといふ意もあるやうである。下出四四三參照。
(198)【後記】 未だ水中に浮いてゐる時の樣子である。人麿には死人を悲しむ歌が多いが、其の中でもこの歌は一入哀れである。
 
勝鹿《かつしか》の眞間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
481 古《いにしへ》に ありけむ人の 倭文《しづ》はたの 帶解きかへで ふせ屋立て 妻どひしけむ 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の手兒名《てこな》が 奥《おく》つ城《き》を こゝとは聞けど 眞木の葉や しげりたるらむ 松が根や 遠く久しき 言《こと》のみも 名のみもわれは 忘らえなくに
 
【題意】 勝鹿の眞間は、今千葉縣市川市字眞間。眞間川の岸、國府臺高地の岬崖に當り、手兒名堂と稱する日蓮宗の寺がある。其の石碑に赤人の歌が刻まれてゐる。眞間娘子の事は卷九の一八〇七・一八〇八に高橋蟲麻呂歌集のものとしてみえてをり、又卷十四の三三八四−三三八七まで四首、これに關する短歌があるが、全く傳説の佳人として其の素性は知られない。
【口譯】 昔男が妻を迎へるための新しい伏屋を立てて言ひ寄つたといふ、葛飾の眞間の手兒名の墓は此所であると聞いてはゐるが、木が欝蒼と繁つてゐるためであらうか、松が久しく生えてゐるやうに、年久しくなつた爲であらうか、(今はその場所がわからない。)私はこの話だけで(199)も、手兒名の名だけでも、忘れる事が出來ないことだ。
【語釋】 ○倭文はた 倭文〔二字傍点〕は文《あや》のある布で、はた〔二字傍点〕は機で織物の事。文の布は古代から我が國にあつたので、舶來の織物に對して倭文の文字を用ひたものと思はれる。○帶解きかへて 卷十に「狛錦|紐解易之《ヒモトキカハシ》天人の妻問ふ夕ぞ吾も偲ばむ」(二〇九〇)とあるのと同樣、帶解き交はす事。即ち男に會ふ事であるが、卷九に出てゐるのによれば、娘子は男に逢はないで眞間の入江に身を沈めた事になつてゐるので、こゝのところと内容が矛盾してくる。そこで誤字説が出て色々解釋が試みられたのであるが、これは帶解き交はして伏すといふ意味で次の「ふせ屋」にかゝる序とみる山田孝雄博士の説が最も穩當であらう。(200)○ふせ屋 大殿等に對して棟の低い家、即ち草屋の事。古は妻を娶る爲に家を設けたものであつた。○妻問ひしけむ 妻問ふ〔三字傍点〕は、右に引いた歌及び卷十八「安の河こむかひ立ちて年の戀けながきこらが都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨゾ》」(四一二七)のやうに、相逢ふ意味に用ひる場合と、卷十九「玉きはる命もすてゝあらそひに嬬問爲家留《ツマドヒシケル》」(四二一一)のやうに、求婚する意味に用ひる場合とある。こゝは後の場合とみる方がよい。古事記下卷「都麻杼比之物《ヅマドヒノモノ》」とあるのは納釆の義である。○眞間の手兒名 宣長は主の小琴に「手兒は妙兒たへこか、貴兒あてこかの意なるべし」といひ、久老は槻落葉に「父母の手にある處女を手兒といひ、名《ナ》は妹なね、世奈能《セナノ》などの名《ナ》で、したしむ意に添へる言《コトバ》で」あると云つてゐる。卷十四「はにしなの伊思井乃手兒我《イシヰノテコガ》言な絶えそね」(三三九八)、「哭をぞ泣きつる手兒にあらなくに」(三四八五)などの歌から考へるに、手兒〔二字傍点〕とは、父母の手に養はれてゐる愛子といふやうな意味で、な〔傍点〕は久老が言つてゐるやうに、親しみを表はす接辭であらう。處女の名前とみるのはよくあるまい。○奥つ城 奥〔傍点〕は奥深い意、つ〔傍点〕は助詞、城〔傍点〕は、一郭をなした場所の意。舊本「奥槨《オクツキ》」とある槨〔傍点〕は和名抄に於保士古と訓み、周v棺者也とある。即ち奥つ城〔三字傍点〕とは墓の事。○松が根や遠く久しき 舊説は多く松が根〔三字傍点〕を「遠く久しきしの序とみて、や〔傍点〕は「の」の誤りとしてゐる。しかし此の「松が根や遠く久しき」は、其の上の「眞木の葉やしげりたるらむ」の句に對するものでや〔傍点〕は同じく疑問のや〔傍点〕、葉〔傍点〕にむかへて根〔傍点〕といひ、しげる〔三字傍点〕に對して遠く久しき〔五字傍点〕といつたもので、「根」と「葉」は意味はないのである。
【後記】 「奥つきをこゝとはきけど云々」の句法は、人麻呂が近江の都を詠んだ卷一「大宮はこゝ(201)ときけども大殿はこゝといへども、はる草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧れる……」(二九)によく似てゐる。
 
反歌
 
432 われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 眞間の手兒名が 奥津城處《おくつきどころ》
 
【口譯】 私もみる事が出來た。まだ見知らぬ人にも告げよう。葛飾の眞間の手兒名の墓所を。
 
433 葛飾の 眞間の入江に うち靡く 玉藻苅りけむ 手兒名しおもほゆ
 
【口譯】 葛飾の眞間の入江にうち靡いてゐる玉藻を刈つた手兒名が偲ばれる。
 
和銅四年辛亥|河邊宮人《かはべのみやひと》、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟《かなし》みて作れる歌四首
 
434 風早《かざはや》の 美保の浦廻《うらみ》の 白躑躅《しらつつじ》 見れども不怜《さぶ》し 亡き人忠へば【或は云ふ、見れば悲しも亡き人思ふに】
 
【題意】 河邊宮人は傳未詳。姫島は攝津國西成郡、今の稗島村の事である。
(202)【口譯】 美保の海岸に咲いてゐる白躑躅を見ても、何んとなく心むすぼれて樂しまないことだ。いまは亡きむかしの人のことを想ふと。(或は云ふ、つゝじをみると悲しくなつて來る、亡き人を思ふと)
【語釋】 ○風早の美保 紀伊國日高郡日御埼の東北の三尾浦を指すのであらう。この邊は南支那海に發生する低氣壓の進路に當り、風速は常に大である。風早といふのも、昔から風が速かつたからなのであらう。上の「三穗の石室」(三〇七)といふのも同じ地か。
【後記】 契沖が云つてゐるやうに、この歌は前の博通法師の三穗の石室の歌(三〇七)と略同じ趣であるから、亡き人とは久米の若子を指してゐるものと思はれる。次の歌にも久米の若子とある。
 
435 みつみつし 久米の若子が い觸りけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも
 
【口譯】 久米の若子が觸れたと思はれる磯の草が、枯れて了ふことは惜しいことだ。
【語釋】 ○みつみつし 冠辭考に、ミヅミヅシと訓んでミヅは瑞籬《ミヅガキ》のミヅと等しく若く健《スコヤカ》なる人をほめていふとあるが、これは宣長がすでに記傳に言つてゐるやうに、記紀すべて都〔傍点〕の文字を書いてあるのでミヅミヅシと濁音に訓む事に難があり、といつて、滿々《ミツミツ》しくて久米の目の大きく久流久流《クルクル》としたるによつて久流目(久(203)米は其の後)に續けたといふ古事記傳の説も、餘りこぢつけのやうに思はれる。みつみつしは勢威のある義で、久米〔二字傍点〕は神代の天津久米命。神武天皇の御代の大久米命などが、勇武にまし/\たのによつて、「みつみつし久米」と續けるやうになつたと云ふ古義の説が穩かであらう。○久米の若子 上掲三〇七參照。○い觸りけむ い〔傍点〕は接頭語。舊本フレとあるが、フレとフリとでは意味に少し相違があるやうに思はれる。ふれ〔二字傍点〕は卷十四或本歌「馬柵越しに麥食む駒のはつはつに新膚|布禮思《フレシ》兒ろし愛しも」(三五三七)、卷十七「鶯の來鳴く山吹うたがたも君が手|燭禮受《フレズ》花散らめやも」(三九六八)、卷二十「我が門の片山椿眞なれ我が手|布禮奈奈《フレナナ》土に落ちもかも」(四四一八)のやうに、膚とか手とか、直接に觸れさせるものがある場合、即ち他動詞的性質が明瞭に表れる場合に用ひられ、ふり〔二字傍点〕の方は用例は少いが、卷二十「大君の命畏み磯に布理《フリ》海原《うのはら》渡る父母を置きて」(四三二八)のやうに、自分が觸れる、即ち自動詞的性質に用ひられる場合にフリといふやうである。此の歌の場合は、前者よりも寧ろ後者の方と思はれるから、古義にフリと訓んでゐるのに從つた方がよからう。○草根 根〔傍点〕は唯そへた詞、「岡の草根をいざ結びてな」(卷一・一〇)。
 
436 人言の 繁きこのごろ 玉ならば 手に卷き持ちて 戀ひずあらましを
 
【口譯】 人の噂のやかましいこの頃、若しあの女が玉であるならば、手に卷きつけて持つてゐて、このやうに焦れないでをられようものを。
 
(204)437 妹も吾も 清《きよみ》の河の 河岸の 妹が悔ゆべき 心は持たじ
 
右、案ずるに、年紀并に所處及び娘子の屍の作歌人名、已に上に見えたり。但歌辭相違し、是非別ち難し。因りて以て累ねてこの次に載す。
 
【口譯】 御互に心に濁りがないからといふ名の清の川ではないが、後になつて妹が後悔するやうな心は、私は持ちませぬ。
【語釋】 ○妹も吾も清の河の河岸の 清川〔二字傍点〕は所在不明。こゝまでは比喩の序で、川岸の崩《クユ》ることから「侮《クユ》る」にかけたものである。妹も吾〔四字傍点〕もは「清み」にかゝる枕詞のやうな役目をしてゐる。それで結局二重の序を形成してゐる事になるのであるが、しかもその上の方の枕詞、或は序詞が下の句の内容と意味の上で聯絡してゐる事は注意を要する。他に例を求めるならば、巻十二「戀衣著奈良の山に鳴く鳥の間無く時なし吾が戀ふらくは」(三〇八八)など。
【後記】 川岸の崩《クユ》と悔《クユ》とをかけた序は巻十四「鎌倉のみこしの崎の伊波久叡乃伎美我久由倍伎己許呂波母多自《イハクエノキミガクユベキココロハモタジ》」(三三六五)がある。
【左註】 「上に見えたり」とは、巻二に「和銅四年歳次辛亥、河邊宮人、姫島の松原に、孃子の屍を見て悲嘆み(205)て作れる歌二首」(二二八・二二九)として、短歌二首あげてあるのを指すのであるが、この二首は其の題詞に叶ふやうに處女の死を痛む歌であるが、こゝに列擧せられた四首は、初め二首は久米の若子の歌、次の二首は戀の歌で何れも題詞とは異なつた内容を持ち、初めの一首をのぞいては挽歌と稱すべきものではない。
 
神龜五年戊辰、太宰帥大伴卿、故人を思ひ戀ふる歌三首
 
438 愛《うつく》しき 人の纏《ま》きてし 敷細《しきたへ》の 吾が手枕を 纏く人あらめや
 
右一首は、別れ去りて数旬を經て作れる歌。
 
【題意】 故人とは其の妻大伴郎女をいふ。卷八に「神龜五年戊辰太宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉」(一四七二左註)とある。太宰府で歿したのである。大伴卿は上掲三三一參照。
【口譯】 愛する人が枕して寢た私の手枕を、又枕として寢る人があらうか。そんな人はありはしない。
 
439 還《かへ》るべき 時にはなり來《く》 京師《みやこ》にて 誰《た》が袂をか 吾が枕《まくら》かむ
 
【口譯】 次第に京に歸還すべき時になつて來るが、京に歸つて一體誰の袂を自分は枕として寢よ(206)うといふのだらう。
【語釋】 ○還るべき時にはなり來《く》 舊本「應還時者成來《カヘルヘキトキニハナリヌ》」とあるのを、カヘルヘクトキハナリキヌ又ナリケリ(代匠記初稿本書入)、カヘルヘキトキニハナリケリ(童蒙抄)、或は成〔傍点〕を來〔傍点〕に改めてトキハキニケリ(古義)等と訓まれてゐるが、左註に「臨近向京之時」とあるのも考へ合せて、考にカヘルヘキトキニハナリクと訓んだのに從ふ。段々と京に歸還すべき時になつて來るといふ意。○吾が枕かむ 名詞まくら〔三字傍点〕が動詞になつてまくらく〔四字傍点〕と活用したもの。
 
440 京師なる 荒れたる家に 獨り宿《ね》ば 旅に益りて 苦しかるべし
 
右の二首、京に向ふ時に臨み近づきて作れる歌。
 
【口譯】 京師にある荒れ果てた家に獨り寢たならば、旅の淋しさにも益つて辛いことであらう。
 
神龜六年己巳、右大臣長屋王に死を賜ひし後、倉橋部《くらはしべの》女王の作れる歌一首
 
441 大皇《おほきみ》の 命恐み 大嬪《おほあらき》の 時にはあらねど 雲がくります
 
【題意】 長屋王は天平元年二月死を賜ふ。上掲三〇〇参照。倉橋部女王の傳未詳。神龜六年は天平元年で二月(207)は改元以前。
【口譯】 大皇の命の畏さに、未だ薨去なさるべき時ではないが、おなくなりになつて了ふことだ。
【語釋】 ○大殯の時にあらねど 大〔傍点〕は美稱、あらき〔三字傍点〕は新に死んで未だ葬らぬ間、少時く收めて置く處。孝徳天皇の大化二年に「凡王以下乃至2庶民1不v得v營v殯」といふ制が出てゐるから、神龜六年の頃には既に殯殿は作られなかつたものと思はれる。けれども、葬送の時を「大あらき」と當時は言つてゐたのであらう。まだ死なれるべき時ではないけれどといふ意。○雲隱ります 貴人がなくなられる時に「雲隱る」といつた例は上掲四一六参照。
 
膳部王《かしはでのおほぎみ》を悲傷《かなし》める歌一首
 
442 世の中は 空しきものと あらむとぞ この照る月は 滿闕《みちかけ》しける
 
右の一首は、作者未だ詳かならず。
 
【題意】膳部王は長屋王の長子。神龜元年二月從四位下を授けられ、天平元年二月、長屋王と共に自害せられた。卷六(九五四)に御歌がある。
【口譯】 世の中は無常なものであらうといふので、この照る月は滿ちたり缺けたりすることだ。
(208)【後記】 卷七「隱口の泊瀕の山に照る月は盈※[日/仄]《ミチカケ》するも人の常無き」(一二七〇)、又卷十九「世の中は常無きものと語り續ぎながらへ來たれ天の原振りさけみれば照る月も盈※[日/仄]《ミチカケ》しけり」(四一六〇)等も右の歌と同様、月の盈※[日/仄]と人生の無常とをとりよせて歌つたものである。
 
天平元年己巳、攝津國班田史生|丈部龍麻呂《はせつかべのたつまろ》が自ら經死せし時、判官大伴宿禰|三中《みなか》の作れる歌一首并に短歌
 
443 天雲の 向伏《むかふ》す國の 武士《もののふ》と 云はれし人は 皇祖《すめらぎ》の 神の御門《みかど》に 外重《とのへ》に 立ち候《さもら》ひ 内重《うちのへ》に 仕へ奉りて 玉かづら いや遠長く 祖《おや》の名も 繼ぎ行くものと 母父《おもちち》に 妻に子等《こども》に 語らひて 立ちにし日より 垂乳根《たらちね》の 母の命《みこと》は 齋瓮《いはひべ》を 前に坐《す》ゑ置きて 一手《ひとて》には 木綿《ゆふ》取り持たし 一手には 和細布《にぎたへ》奉《まつ》り 平らけく ま幸《さき》く坐せと 天地の 神祇《かみ》に乞《こ》ひ祷《の》み 如何ならむ 歳月日《としつきひ》にか 茵花《つつじばな》 香《にほ》へる君が ひく網の なづさひ來むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 押光《おして》る 難波の國に あらたまの 年|經《ふ》るまでに 白栲の 衣手《ころもで》干(209)さず 朝夕《あさよひ》に 在りつる君は いかさまに 念《おも》ひ坐《ま》せか 現身《うつせみ》の 惜しきこの世を 露霜の 置きて往《い》にけむ 時ならずして
 
【題意】 丈部龍麻呂の傳未詳。集中歌もなくこの題詞に名が見える丈である。班田史生は班田のことを掌る史生。班田は公民に口分田及びその他の賜田を班ち授ける事で、諸國の國司が其の任に當つたが、特に五畿内には班田使を設けた。史生は其れに仕へる書記である。大伴三中は、天平八年遣新羅使副使となり翌年歸朝、十五年六月兵部少輔、十六年九月山陽道巡察使、十七年六月少貳、十八年四月長門守、十九年三月刑部大判事となる。集中歌四首。歌數は少いが、長歌短歌とも傑れたものである。
【口譯】 天雲が遠く地に向つて垂れ伏してゐる東の國で、勝れた武士と云はれた人(龍麻呂)は、天皇の朝廷において、或は外門の警衛に當り、或は禁中の奉公に任じて、何時迄も長く祖先の名迄も繼ぎ行かうものと、父母にも妻子にも語つて、故郷を出立したのであつた、その日以來、母上は齋瓮を前に据ゑ置き、片手には木綿をとり持ち、片手には和栲を持つて神に奉り、平穩無事でいらつしやいと(わが子の平安を)天地の神に祈り、何時の年何時の月日には、美しい龍麻呂の君がはる/”\歸つて來るであらうかと立つたり坐つたりして待つてゐたことと思はれる其の人(龍麻呂)は、天皇の命の畏さに難波の國で、長の年月濡れた衣の袖を干す暇もな(210)く忙しく朝夕を暮してゐたのであつた、その君はなんとを思ひになつたので、まだ死ぬには惜しいこの世を、うち捨てて去つてしまつたのであらうか。まだ死ぬべき時ではないのに。
【語釋】 ○天雲の向伏す國 代匠記に「一二ノ句ハ遠國ノ意ナリ、遠ク望メハ天雲モ地ニ落タルヤウニ向ヒ伏テ見ユルナリ」と言つてゐる通りである。丈部といふ地名は東國にいくらもあるので、龍麿も亦東國から京に上つて来たものと思はれる。東國は遠國であるから天雲の向伏す國と云つたのであらう。但し古義には天地の間に二つなき武士の意であると言つてゐる。○皇祖の神の御門 すめろぎ〔四字傍点〕とは遠祖の天皇から今の天皇をさしていふのであるが、こゝでは當代の天皇の事。即ち天皇の朝廷にの意。○外重に 宮城の外郭に、即ち外側の門に。○内重に 内郭に即ち禁中の事に。○玉葛 遠長〔二字傍点〕にかゝる枕詞。上掲三二四参照。○母父に 舊本ハハチヽニとあるが、卷二十「いはふ命は意毛知知我多米《オモチチガタメ》」(四四〇二)とあるのによつて、オモチヽと訓む。○垂乳根の 母〔傍点〕の枕詞。冠辭考に「日足根《ヒタラシネ》」の義で、日〔傍点〕を略き、志《シ》と知《チ》と通はせ、根《ネ》といふほめ語《コトバ》を添へたものとあるが、古義はそれに一部反對して「タラシは足日子《タラシヒコ》、足比賣《タラシヒメ》のタラシにて賛辭、ネは建忍山垂根《タケオシヤマタリネ》、島垂根《シマタリネ》等のネで尊稱、即ち母はことに親く尊きものなる所以に、足根之母《タラシネノハハ》と稱する」のであると言つてゐる。○母の命 命〔傍点〕は敬つていふ語。○瓮 上掲三七九參照。○和細布奉り 和栲を神に供へる事。和栲《ニギタヘ》は荒栲《アラタヘ》に對していふ。○ま幸く 上掲二八八參照。○茵花香へる君 和名抄に茵芋を和名仁豆々之と訓んでゐる。つゝじの花のやうに紅に匂ふといふ意味で、にほへる〔四字傍点〕の枕詞とする。卷十三「都追慈花爾太遙越賣《ツツジハナニホエヲトメ》」(三三(211)〇九)參照。「香」をニホフと訓むは「咲花乃薫如」(三二八)と、薫〔傍点〕をニホフと訓むのと同じである。「にほふ」は上掲三二八參照。○牛留鳥の 舊本「牛留鳥《ヒクアミノ》」とあり、これは牛〔傍点〕をヒク、留鳥〔二字傍点〕をアミと義訓にするのであるが、又字音辯證には、牛〔傍点〕はク、留〔傍点〕はロと訓み得る事を論證してクロトリノと訓んでゐる。しかし「ひくあみの」「くろとりの」何れも他に例の無い語で、次の「なづさふ」にかゝる理由も明かでない。そこで槻落葉は牛留〔二字傍点〕は爾富〔二字傍点〕の草字を誤まつたので「香へる君がにほ鳥の」と續くべしと言つてゐる。卷十二の柿本朝臣人麻呂歌集云「爾保鳥之奈津柴比來乎《ニホドリノナヅサヒコシヲ》」(二九四七)卷十五「柔保等里能奈豆左比由氣婆《ニホドリノナヅサヒユケベ》」(三六二七)などの例があるから誤字説に従へばこれがよいが、原文通りに從ふとすればヒクアミかクロトリかのいづれかであらう。○なづさふ 上掲四三〇參照。こゝは難澁する意味か。○立ちて居て 上掲四一〇參照。○白栲の衣手干さず 白栲の〔三字傍点〕は「衣」の枕詞。下出四六〇・四八一參照。朝夕に班田使の下役としてぬれた袖を干す暇もなく田圃に立ち働いたの意。○いかさまに念ひ坐せか 念ひ坐せか〔五字傍点〕は念ひませばか。○露霜の 置〔傍点〕にかゝる枕詞。○現身の 世〔傍点〕にかゝる枕詞。下出四六五參照。○押光る 難波〔二字傍点〕の枕詞。「おしてるや」ともいふ。其の語源については定かでない。神武紀に「方到2難波之埼1曾有奔潮太急、因以名爲2浪速國《ナミハハヤノクニ》1。亦曰2浪華《ナミハナ》1。今謂2難波《ナニハ》1訛。」とあるのによつて、冠辭考は龍立浪急《オソヒタテルナミハヤ》の義であるといひ、古義は押し並て光《テル》浪の華といふ意で難波〔二字傍点〕に續けると云つてゐる。○時ならずして 死ぬべき時ではなくて。題詞に「自經」とあるから自殺したのである。
【後記】 この歌には主語が三つある。即ち「武士といはれし人は」「立ちてゐて待ちけむ人は」「朝(212)夕にありつる君は」がそれである。いづれも龍麿のことである。
 
反歌
 
444 昨日こそ 君は在りしか 思はぬに 濱松の上に 雲と棚引く
 
【口譯】 昨日は貴方は生きてゐた。それだのに意外にも、今日は濱松の上に、烟となつて雲のやうに棚引いてゐる。
【語釋】 ○濱松の上に 舊本「濱松之上於《ハママツノウヘニ》」とあり、玉の小琴に「上於雲はうへのくもにと訓べしと道麻呂が云るさること也、上にといはむには、於の字を下には書べからねば也」と言つてゐるが、類聚古集、古葉略類聚鈔、神田本、細井本イ本、無訓本イ本諸本には、上の文字がないから、「濱松之於」でハママツノウヘニとよむべきである。
【後記】 上掲四二八・四二九の人麻呂の歌と同じやうに、火葬の烟を見てよんだもの。上二句に驚愕の感情がよく表れてゐる。
 
445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓《たまづさ》の 言《こと》だに告げず 往にし君かも
 
(213)【口譯】 何時かしらと歸りを待つてゐる妻に、傳言さへもしないで死んで了つた君である。
【語釋】 ○玉梓の言 玉梓〔二字傍点〕は元来は使〔傍点〕の枕詞であるが、こゝでは轉じて使ひ其のものをいつてゐる。玉梓の言〔四字傍点〕とは、使を遣はしてこれこれといつてくれといふ傳言の意であらう。上掲四二〇と比較參照。○何時しか し〔傍点〕は助詞。か〔傍点〕は疑問助詞。上掲三八八には「いつしかも」とあつた。
 
天平二年庚午冬十二月、太宰帥大伴卿、京に向ひて道に上りし時、作れる歌五首
 
446 吾妹子が 見し鞆《とも》の浦の 室《むろ》の木は 常《とこ》世にあれど 見し人ぞ亡《な》き
 
【口譯】 妻が見た鞆浦の室の木は、(214)其の時まで少しも變らないが、其れを見た妻は今は亡くなつたことだ。
【語釋】 ○鞆の浦 備後國沼隈郡に在り、今の鞆町である。○室の木 玉勝間三に田中道麿の言を引いて、萬葉のむろの木は、今美濃でひむろ・ひもろ杉、伊勢にてたちむろ・はひむろ、尾張にてねずむろ・べぼの木等といふもので小さくして地に這ふのと大きくして高く立つのと二種あり、柏子《ビヤクシン》によく似、又杉にも似、實の多くなる木であると言つてゐるが、今日では杜松《ねず》のことであらうといふ説が有力である。(萬葉学論纂新村出氏參照)○常世にあれど 永久に變らないけれどの意。
 
447 鞆の浦の 磯の室の木 見む毎に 相見し妹は 忘らえめやも
 
【口譯】 鞆の浦の磯の室の木を見る毎に、共に眺めた妻が忘れられようか。
【語釋】 ○相見し妹 萬葉集に用ひられた「あひ見る」といふ語には二つの意味がある。一つは互にみる、すなはち會ふ意味に用ひられたものである。例へば卷一「山の邊の御井を見がてり神風の伊勢處女ども相見鶴鴨《アヒミツルカモ》」(八一)、卷二十「たちごものたちの騷ぎに阿比美立之《アヒミテシ》、妹が心は忘れせぬかも」(四三五四)など。他の意味は「――と共に見る」といふ場合。例へば卷二「去年見てし秋の月夜は照らせれど相見之妹者《アヒミシイモハ》いや年放る」、(二一一)、卷八「鶉鳴く古りにし郷の秋芽子を思ふ人どち相見都流可聞《アヒミツルカモ》」(一五五八)等。この歌の「相見し」は勿論後者の場合である。
 
(215)448 磯の上に 根|延《は》ふ室の木 見し人を 何在《いづら》と問はゞ 語り告げむか
 
右の三首は、鞆の浦を過ぐる日作れる歌。
 
【口譯】 磯の邊に根をはつてゐる室の木は、其の木を見た人は、いまいづこときいたら、教へてくれるであらうか。
【語釋】 ○何在と問はゞ 舊本「何在登問者《イカナリトトハハ》」とあるのを、考にイツラトトハハと訓んでゐるのに從ふ。何處に居るかと問うたならばの意。
 
449 妹と來《こ》し 敏馬《みぬめ》の崎を 還るさに 獨《ひとり》し見れば 涕《なみだ》ぐましも
 
【口譯】 妻と一緒に下つて來た敏馬の崎を、還りに獨りで眺めると、涕ぐましくなつてくることだ。
【語釋】 ○敏馬 上掲二五〇参照。
 
450 往《ゆ》くさには 二人吾が見し この崎を ひとり過ぐれば こころ悲しも【一に云ふ、見もさかず來ぬ】
 
(216)右の二首は、敏馬の崎を過ぐる日作れる歌。
 
【口譯】 往く時には、二人で見た此の敏馬の崎を、獨りで通り過ぎると悲しく思はれる。
【語釋】 ○見もさかず來ぬ 見も放かず來ぬで、見さく〔三字傍点〕は望み見る事。即ち眺めもしないでやつて來たの意。
【後記】 「一に云ふ」を結句の異傳とすれば、歌としては此の方がよいが、佛足石歌體のものとみるならば、これは第六句に相當するものである。
 
故郷の家に還り入りて、即ち作れる歌三首
 
451 人もなき 空《むな》しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
【口譯】 妻もゐない此の空《から》の家は、旅にもまして辛いことである。
【後記】 京に出發する日が近づいて詠んだといふ 「京なる荒れたる家に獨り寢ば旅に益りて苦しかるべし」(四四〇)の歌が思ひ合せられて哀れである。
 
452 妹として 二人作りし 吾が山齋《しま》は 木高《こだか》く繁く なりにけるかも
 
(217)【口譯】 妻と二人で作つたわが家の庭は、幹も伸び葉も生ひ茂つたことだ。
【語釋】 ○山齋 舊本ヤマと訓んでゐるが、古義に云つてゐるやうに卷二十「鴛の住む君が此の之麻」(四五一一)の題詞には「山齋に囑目して作れる歌」とあるので、山齋〔二字傍点〕はシマと訓むべきである。しま〔二字傍点〕とは作り庭、築山の事である。
 
453 吾妹子《わぎもこ》が 植ゑし梅の木 見る毎に 心|咽《む》せつつ 涙し流る
 
【口譯】 妻が植ゑた梅の木を見る毎に、心はむせび返つて涙が流れる。
【後記】 此の歌は、前の歌と共に、土佐日記に貫之が任國から子を失つて京の家に歸り「見し人を松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや」と詠んだ一節を思はせるものである。
 
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿の薨ぜし時の歌六首
 
454 はしきやし 榮《さか》えし君の 坐《いま》しせば 昨日も今日も 吾を召さましを
 
【口譯】 生前お榮え遊ばされた敬愛するわが君が、若しこの世にいらつしやつたならば、昨日も今日も私をお呼びになるであらうものを。
(218)【語釋】 ○はしきやし はしき〔三字傍点〕は.愛《は》し」といふ形容詞の連體形、やし〔二字傍点〕は「よしゑやし」等のやし〔二字傍点〕と同じ助詞。即ち愛すべき君の意。下出四六六參照。
【後記】 卷二「東の瀧の御門に侍へど昨日毛今日毛召言毛無《キノフモケフモメスコトモナシ》」(一八四)と同じ悲みである。
 
455 かくのみに ありけるものを 萩が花 咲きでありやと 問ひし君はも
 
【口譯】 このやうにはかない命であつたものを、萩の花は咲いてゐるかなどゝお問ひ遊ばされた貴方でした。その貴方は……。
【語釋】 ○かくのみにありけるものを 此の下「如是耳有家留物乎《カクノミニアリケルモノヲ》妹も吾も千歳の如く憑みたりける」(四七〇)、卷十六「如是耳爾有家流物乎《カクノミニアリケルモノヲ》猪名川の奥を深めて吾が念へりける」(三八〇四)等參照。このやうにはかない命であつたものをの意。
【後記】 亡き妻が病床にあつたとき、萩の花は咲いてゐるか等問うた事があつたのであらう。
 
456 君に戀ひ いたもすべなみ 蘆鶴《あしたづ》の 哭《ね》のみし泣かゆ 朝夕《あさよひ》にして
【口譯】 貴方が戀ひしくてどうにも仕樣がないので、朝夕に聲を立てゝ泣くだけである。
(219)【語釋】 ○蘆鶴の 鶴のやうに、「哭になく」とつゞけて枕詞に用ひてゐるとみる方がよい。
 
457 遠長く 仕へむものと 念へりし 君し坐《ま》さねば 心神《こころど》もなし
 
【口譯】 長くいつまでもお仕へしようと思つてゐた貴方がいらつしやらないので、魂が拔けたやうだ。
【語釋】 ○心神もなし 舊本「心神毛奈思《タマシヒモナシ》」とあるのを、槻落葉にコヽロトモナシと訓んだのに從ふ。扨こころど〔四字傍点〕について槻落葉別記には「度《ト》は所の意にて、心臓といふにやあらん」とあるが、一般には、利心《トゴコロ》と同じ意に解せられてゐる。然し卷十九「妹を見ず越の國邊に年經れば吾|情度乃《ココロドノ》和ぐる日もなし」(四一七三)とある情度〔二字傍点〕は單に心といふのに近く、利心では解しかねるところである。尚考究の餘地があるが、「心神がない」といふのは、魂の拔けたやうな状態をいふのであらう。
 
458 みどり子の 匍匐徘徊《はひたもとほ》り 朝夕《あさよひ》に 哭のみぞ吾が泣く 君無しにして
 
右の五首は、資人金明軍が犬馬の慕心に勝《た》へず、感緒を申《の》べて作れる歌。
 
【口譯】 小さい子のやうに這廻つて朝夕に聲を立てゝ泣いてばかりゐることだ。貴方が亡くなら(220)れたので。
【語釋】 ○みどり子 書紀、齊明天皇四年の條に「うつくしきあが倭柯枳古弘飲岐底《ワカキコヲオキテ》」とある。原文にも「若子」とあるので、ワカキコとよみたいが、紀に見えてゐるワカキコは御年九歳の方であり、これは當時の戸箱帳によると「小子」にあたる。この小子は四歳から十六歳迄を指すものである。從つてこの歌の場合は第二句と照合してミドリコとよむ。ミドリコは一歳から三歳迄を含めていふ。
【左註】 金明軍の歌は三九四にもあり、又次の卷の五七九、五八〇は家持に與へる歌であるが、其の傳記は分らない。資人とは朝廷からつけられた仕人で、續紀養老五年三月の條に「勅給2右大臣從二位長屋王、帶刀資人十人、中納言從三位巨勢朝臣邑治、大伴宿禰旅人、藤原朝臣武智麻呂各四人1云々」とあるから、金明軍も其の四人の中の一人として旅人に日夜仕へてゐたものと思はれる。
 
459 見れど飽かず 坐《いま》しゝ君が 黄葉《もみぢば》の 移りい去《ぬ》れば 悲しくもあるか
 
右の一首は、内禮正|縣犬養宿禰人上《あがたのいぬかひのすくねひとかみ》に勅して、卿の病を※[手偏+僉]護せしむ。而も醫藥驗無く、逝く水留らず。斯に因りて悲慟して即ち此の歌を作れり。
 
【口譯】 いつ見ても見飽かないほどでいらつしやつた貴方が、お亡くなりになつたので悲しいこ(221)とだ。
【語釋】 ○黄葉の 枕詞。散り易いのにたとへていふ。
【左註】 内禮正とは内禮司の長官。職員令に「内禮司、正一人、掌2宮内禮儀1、禁2察非違1。」人上の傳は未詳。
 
七年乙亥、大伴坂上郎女、尼《あま》理願《りぐわん》の死去を悲嘆して作れる歌一首并に短歌
 
460 たくつぬの 新羅の國ゆ 人言を よしと聞かして 問ひ放《さ》くる 親族兄弟《うからはらから》 無き國に 渡り來まして 大皇の 敷《し》き坐《ま》す國に うち日さす 京《みやこ》しみみに 里家は 多《さは》にあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山邊に 哭く兒なす 慕ひ來まして 布細《しきたへ》の 宅《いへ》をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつゝ 坐《いま》しゝものを 生者《いけるもの》 死ぬちふことに 免《まぬが》れぬ ものにしあれば 憑《たの》めりし 人のことごと 草枕 旅なるほどに 佐保河を 朝川 わたり 春日野を 背向《そがひ》に見つゝ あしひきの 山邊をさして 晩闇《ゆふやみ》と 隱《かく》りましぬれ 言はむすべ 爲《せ》むすべしらに 徘徊《たもとほ》り たゞ獨して 白細の 衣手|干《ほ》さず 嘆きつゝ 吾(222)が泣く涙 有馬山 雲居棚引き 雨に零《ふ》りきや
 
【題意】 大伴坂上郎女は三七九參照。理願の事は左註に詳しい。
【口譯】 (尼理願は)人の噂をげにもと御聞きになつて、別段問うて心をはらすやうな身内も無いこの國に、新羅の國から渡つておいでになつて、天皇の治めていらつしやる國には、京一杯に里も家もあるにも拘らず、どう思はれたのであらうか、何のゆかりもない佐保山の邊に慕つておいでになつて、家も造り年長く住んでいらつしやつたものを。生きてゐる者は、遂に死ぬるといふ事に免れぬものであるから、平素頼りにしていらつしやつた人達が皆旅に出てゐる間に、佐保川を朝に渡り、春日野を斜横にみながら、山の邊をさして、ゆふやみに物のみえなくなるやうに隱れておしまひになつたのである、そこでどう言つていゝのかどうしてよいのか分らないので、あちこちと徘徊して唯一人衣の袖の干く間もなく嘆いて泣く私の涙は、貴女のおいでになる有間山に雲が棚引いて、雨となつて降つたでありませうか。
【語釋】 ○たくつぬの たくつぬ〔四字傍点〕は栲綱《タクツナ》の義。栲で作つた綱は白いから、白〔傍点〕にかけ又|新羅《シラギ》の枕詞とする。○人言をよしときかして 人の噂するのを、げにもと御聞きになつて。聞かす〔三字傍点〕は例の「聞く」の敬語。○問ひ放《さ》くる 放くる〔三字傍点〕は見放くる、語放くる等の故くる〔三字傍点〕で問ひ遣るの意。「問ひ遣る」は「問うて心を晴らす」の意。
(223)卷五「石木をも刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》」(七九四)。○うち日さす 宮〔傍点〕の枕詞。語源については、冠辭考にウチヒは麗《ウツクシ》き日(宇都久志《ウツクシ》の都志《ツシ》を反せば知《チ》となる)の意、即ち「麗しき日のさす宮」と續けたのであるといひ、古義には「ウツヒは現《ウツシ》日で、高き宮殿《ミヤ》は物の障なくて、現しく日光の指よしなるべし」といつてゐる。○京しみみに しみみ〔三字傍点〕は卷十「秋芽子は枝毛思美三荷《エダモシミミニ》花咲きにけり」(二一二四)。卷十一「家人は路毛四美三荷《ミチモシミミニ》かよへども」(二五二九)等のしみみ〔三字傍点〕と同じく、「京一杯」にといふ意。○思ひけめかも 「思ひけめばかも」の意。○つれもなき 「ゆかりもない」の意。卷二に「由縁母無《ツレモナキ》眞弓の岡に」(一六七)とある。○佐保の山 大和圀添上郡、今の奈良市法蓮町の北、聖武天皇并に光明皇后の陵がある。○哭く兒なす 慕ひ来る〔四字傍点〕の枕詞。みどり子が泣いて母をしたふことから譬へていつたもの。卷五「筑紫の國に泣子那須斯多比枳摩斯立《ナクコナスシタヒキマシテ》」(七九四)。○布細の 「いへ」の枕詞。冠辭考に云ふ「こは寢《ヨルノ》衣より一たびうつりて夜床につゞけ、二たび轉りて常に所宿家《ヌルイヘ》にもいひかけたる也」。○年の緒 年の連續をさす。長くつゞくから緒〔傍点〕と云つたのである。○憑めりし人のことごと 理願が平生頼みにしてゐた人達が皆の意。これは石川命婦をはじめ、召使はれる女房、從者までもみな有馬の温泉にいつた留守中であつたからである。○佐保川 三七一參照。○朝川わたり 朝に川を渡ること。卷一・三六參照。こゝは朝に川を渡つて葬送することをいふのである。○背向に見つゝ 上掲三五七參照。○晩闇と 夕闇のを暗くて物の見えぬやうにの意。○隱りましぬれ 隱りましぬればの意。○白細の衣手干さず 上掲四四三參照。但しこの歌の場合、衣を干す間が無いのは、下に嘆きつゝとあるから、涙のためである。○雲居棚引き 雲居〔二字傍点〕は雲といふのに同じい。上掲三七二參照。○雨に零りきや や〔傍点〕は疑問。有(224)間の温泉に滯在中の石川命婦にあてゝ、そなたのゐる有間山には、雨と降りましたかどうですかと問うたのである。
【後記】 萬葉女流歌人の長歌としては、珍しく長く又よく整つた作である。歸化人に過ぎぬ理願が此の人達から親身のやうに親しまれてゐた事がよくうかゞはれる。
 
反歌
 
461 とゞめ得ぬ 命にしあれば 敷細の 家ゆは出でて 雲隱りにき
 
右、新羅の國の尼、名を理願といへり。遠く王徳に感じて聖朝に歸化せり。時に大納言大將軍大伴卿の家に寄住し、既に數紀を經たり。ここに天平七年乙亥を以て、忽に運病に沈み、はやく泉界に赴く。ここに大家石川命婦、餌藥の事によりて有間の温泉に往きて、この喪に會はず。たゞ郎女獨り留まりて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。よつてこの歌を作りて温泉に贈り入る。
【口譯】 人間の命は遂に留める事は出來ないのであるから、家を出て雲に隱れて了はれたことだ。
【語釋】 ○雲隱る 上掲四一六參照。
 
(225)十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、亡妾を悲傷して作れる歌一首
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか獨り 長き夜を寢む
 
【題意】 十一年とは天平十一年の事である。亡妾とは誰の事か分らぬ。
【口譯】 今からは秋風が寒く吹くであらうに、どのやうにして獨りでこの長い夜を寢ようか。
 
弟|大伴《おほともの》宿禰|書持《ふÅもち》、即ち和ふる歌一首
 
463 長き夜を 獨りや寢むと、君が言へば 過ぎにし人の おもほゆらくに
 
【題意】 書持は家持の弟。天平十八年秋死んだやうであるが、傳記は知られない。集中卷八及び、卷十二などに短歌が十二首ある。
【口譯】 秋の長夜を獨り寢ることだらうかと貴方が仰しやると、亡くなつた人の事が思はれることだ。
 
又、家持、砌《みぎり》の上の瞿麥《なでしこ》の花を見て作れる歌一首
 
(226)464 秋さらば 見つゝ思《しぬ》べと 妹が植ゑし 宿の石竹 《なでしこ》 咲きにけるかも
 
【題意】 砌〔傍点〕は和名抄に兼名苑を引き砌は階砌也なりといひ、美岐利と訓んでゐる。上〔傍点〕はほとりの意。
【口譯】 秋になつたならば、みて賞美して下さいと妻が植ゑて置いた庭の石竹が咲いたことだ。、
【語釋】 ○しぬぶ 上掲二九一參照。
 
移朔《つきかは》りて後、秋風を悲嘆《かなし》みて家持の作れる歌一首
 
465 うつせみの 代《よ》は常なりし 知るものを 秋風寒み 思《しぬ》びつるかも
 
【口譯】 この世は無常なものであるとは知つてゐるが、秋風の寒さに亡くなつた妻の事をなつかしく思つたことだ。
 
また家持の作れる歌一首并に短歌
 
466 吾が宿に 花ぞ咲きたる 其《そ》を見れど 情《こころ》もゆかず 愛《は》しきやし 妹が在りせば み鴨なす 二人《ふたり》隻《なら》び居《ゐ》 手折《たを》りても 見せましものを うつせみの 借れる身(227)なれば 露霜の 消《け》ぬるが如く あしひきの 山道《やまぢ》を指《さ》して 入日なす 隱りにしかば 其《そこ》思《も》ふに 胸こそ痛め 言ひもえず 名づけも知らず 跡もなき 世間《よのなか》なれば 爲《せ》むすべもなし
 
【口譯】 私の庭に花が咲いたが、それを見ても心は慰まない。愛らしい妻が生きてゐたならば、二人並んでゐて、手折つても見せようものを。人間は現身の借りの命のこととて、露霜の消え去るやうに山道を指して隱れて了つたので、其の事を思ふと胸が痛むのだ。言ひやうもなく名づけやうもないほど何の跡形も殘らない。はかない世の中であるから、何うにもしやうのないことだ。
【語釋】 ○み鴨なす 二人雙び〔四字傍点〕の枕詞。鴨〔傍点〕は雌雄必ず並居るものである故に譬へて云ふ。み鴨〔二字傍点〕は水に住む鴨でなくて、眞鴨に等しいと攷證にいつてゐる。○うつせみの 現身の意。こゝは枕詞とみない方がよい。○露霜の 「消ぬる」の譬喩。枕詞ではない。○入日なす 入り日のやうに隱れる意で、隱り〔二字傍点〕の枕詞。○跡も無き世の中 亡くなつて跡形も殘らぬ世の中。
【後記】 「あしびきの山道を指して入日なす隱りにしかば」は、前の坂上郎女が理願の死を傷む長歌(四六〇)の句に、「其こ思ふに胸こそ痛め」は卷十三の長歌(三三一四)の句に、「跡もなき世間(228)なれば」は沙彌滿誓の歌(三五一)の下句に酷似してゐる。家持の模倣であらうか、此の歌全體に繁りが無く感情の生々さを缺いてゐる。
 
反歌
 
467 時はしも 何時もあらむを こころ哀《いた》く いにし吾妹か みどり子をおきて
 
【口譯】 時は何時でもあらうに、心悲しくも死んで了つた妻ではある。今頃小さい子をおき去りにして。
【語釋】 ○こころ哀《いた》く 心悲しくも。○いにし吾味か いにし〔三字傍点〕のい〔傍点〕は接頭語、か〔傍点〕は嘆息の辭。○みどり子 上掲四五八參照。
 
468 出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 關も置かましを
 
【口譯】 妻の出てゆく道を知つてゐたならば、前以て、妻を留める爲の關を作つて置いたであらうものを。
 
(229)469 妹が見し 屋前《やど》に花咲き 時は經ぬ 吾が泣く涙 未だ干《ひ》なくに
 
【口譯】 妻が見て樂んだ庭の花が咲き、かくも時は經つた。私の泣く涙は未だ乾かないのに。
【語釋】 ○屋前に花咲き時は經ぬ 舊訓にはハナサクとあるが、玉の小琴に「やどにはなさきと訓べし。花咲まで時を經ぬる也、花咲時には非ず、花咲時はへぬと訓ては花の時過ぬる意になれば、長歌に花ぞ咲たるとあるに叶はず、時はへぬは死てより月日の經たるを云也。」とあるのに從ふべきである。○吾が泣く涙未だ干なくに 卷五「和何那久那美多伊摩陀飛那久爾《ワガナクナミダイマダヒナクニ》」(七九八)參照。
 
悲緒未だ息まず、更に作れる歌五首
 
470 かくのみに ありけるものを 妹も吾も 千歳の如く 憑《たの》みたりける
 
【口譯】 これほどのはかない命であつたものを、妻も私も、千歳も變らずに生きてゐるもののやうに頼みにしてゐたことである。
【語釋】 ○かくのみにありけるものを 上掲四五五參照。
 
(230)471 家|離《さか》り 坐《いま》す吾妹を 停《とゞ》みかね 山|隱《がく》りつれ 情神《こころど》もなし
 
【口譯】 家を離れて出て行く妻を留める事が出來なくて、山に隱れて了つたので、まるで魂が拔けたやうだ。
【語釋】 ○山隱りつれ 山隱りつればの意。攷證に「上に、こそのかゝりなくして、れとうけくるは集中一つの格なれど、短歌にはこれのみにていとめづらし」と言つてゐるのは注目すべきである。葬られて了つたの意。○こゝろど 四五七參照。○家離りいます います〔三字傍点〕は行く意。三八一參照。
 
475 世間《よのなか》し 常《つね》斯《か》くのみと かつ知れど 痛き心は 忍《しぬ》びかねつも
 
【口譯】 世間といふものは、何時もかういふものだと一方では知つてをりながら、それでも悲しい心は、堪へることが出來ないことだ。
【後記】 四六五と同じ氣持を詠つてゐる。
 
473 佐保山に 棚引く霞 見る毎に 妹を思ひ出《いで》 泣かぬ日はなし
 
【口譯】 佐保山に棚引いてゐる霞を見る毎に、亡くなつた妻を思ひ出して、泣かぬ日とてはない。
(231)【語釋】 ○佐保山 上掲四六〇參照。
【後記】 霞をみて火葬の烟を思ふのである。四二八、四二九、四四四など參照。
 
474 昔こそ 外《よそ》にも見しか 吾妹子が 奥津城《おくつき》と思へば 愛《は》しき佐保山
 
【口譯】 昔は、佐保山を私には關係のない山として眺めてゐたことだつた。しかし今は妻の墓所と思へば、可愛く思はれる佐保山だ。
【後記】 卷二に「明日よりは二上山を弟《いろせ》と吾が見む」(一六五)とあるのが思ひ出される。
 
十六年甲申春二月、安積皇子《あさかのみこ》の薨じ給ひし時、内舍人大伴宿禰家持の作れる歌六首
 
475 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 吾が王《おほぎみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 萬代に 食《を》したまはまし 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は うち靡く 春さりぬれば 山|邊《べ》には 花咲き撓《をを》り 河瀬には 年魚子《あゆこ》さ走《はし》り いや日《ひ》けに 榮ゆる時に 逆言《およづれ》の 枉言《たはごと》とかも 白細《しろたへ》に 舍人《とねり》装《よそ》ひて 和豆香山《わづかやま》 御輿《みこし》立たして ひさかたの 天《あめ》(232)知らしぬれ 展轉《こいまろ》び 沾《ひづ》ち泣けども せむすべもなし
 
【題意】 安積皇子は聖武天皇皇子。天平十六年十七歳で薨去の由、續紀に見えてゐる。集中に歌はなく、こゝ及び卷六・一〇四〇の題詞に其の御名が見えるだけである。こゝに二月とあるのは作歌の時である。内舍人は職員令に「中務省、内舍人九十人、掌d帶v刀宿衛、供2奉雜使1、若駕行、分c衛前後u」とある。家持が内舍人であつたのは、天平十年から此の十六年までの事であるらしい。
【口譯】 口の端にかけるのもまことに畏く、口に出して云ふのも勿體ない事である。吾が安積の皇子が、萬代に知ろしめすはずであつた大日本の久邇の京は、春になつたので、山邊には枝もたわむばかりに花が咲き、河の瀬には小年魚が走り廻つて、日に益し榮えゆくこの時に、僞り言のよこしま言といはうか、白い衣に舍人等は着替へて、和豆香山に御葬送の御輿を留め、皇子は天に御上り遊ばされたといふ、そこで私は臥し轉び、涙に濡れて泣いたが、どうしてよいかわからないことだ。
【語釋】 ○かけまくもあやにかしこし かけまく〔四字傍点〕のかけ〔二字傍点〕は上掲二八五の場合と同じ。あやに畏し〔五字傍点〕はまことに畏多い。下出四七八參照。○食《を》したまはまし 舊訓メシタマハマシとあるが、代匠記によつてヲシタマハマシと訓む。古事記上、月讀命、汝命所2知夜之食國1【訓食云袁須】」とあり、をす〔二字傍点〕とは國を治めたまふ意。このまし〔二字傍点〕は卷(233)二「萬代に國所知麻之島宮婆母《クニシラサマシシマノミヤハモ》」(一七一)の「國しらさまし」と同じく、連體形で下に續くのである。萬代に天下をしろしめすであらうと思つてゐたのに、皇統に即き給ふ事無くして薨去せられたので、「まし」といふ非現實を假想する助動詞を用ひたのである。○大日本 大八州といふに同じく日本の總稱。○久邇の京 今の山城國相樂郡瓶原の地に、聖武天皇の天平十二年十二月、橘諸兄が勅令によつて經営に着手し、十三年正月天皇始めてこゝに御して朝を受け給ひ、十一月勅して大養徳恭仁宮《オホヤマトクニノミヤ》と號し給うた由が、續紀に記されてゐる。然し十六年二月には難波宮に遷御遊ばしたのであるから、恭仁京は僅か三年の間の都であつたわけである。○うち靡く 春〔傍点〕の枕詞。上掲二六〇參照。○花咲き撓り 枝もたわむばかり繁く花の咲くこと。○年魚子さ走り 年魚〔二字傍点〕については上掲二七一參照。小年魚を年魚子といふ。さ〔傍点〕は接頭語、卷十九の同じ人の長歌に「河瀬爾年魚兒狹走《カハノセニアユコサバシル》」(四一五六)とある。○いや日けに 彌日にけにの意。日益しに。下出四七八參照。○逆言の枉言とかも 舊本、逆言之枉言登加聞《サカコトノマカコトトカモ》」とある。暫くオヨヅレノタハゴトトカモとよむ。上掲四二〇參照。○白細に舍人装ひて 葬儀であるから、白衣を着るのである。○和豆香山 和豆香〔三字傍点〕は山城國相樂郡に在る。○御輿 柩を載せた葬送の御輿。○知らしぬれ 知らしぬればの意。
【後記】 此の長歌は四六六の挽歌に比較すればよい出來であるが、なほ其の句のゆき方は、卷二・一九九、卷三・四二〇、四二一、卷十三・三三二六等に獲た所がうかゞはれる。
 
(234)反歌
 
476 吾が王《おほぎみ》 天知らさむと 思はねば 凡《おほ》にぞ見ける 和豆香杣山《わづかそまやま》
 
【口譯】 吾が王がお亡くなりになつて、そこに葬られ遊ばさうとは思はなかつたものだから、今までいゝ加減に見てゐたことだつた。和豆香の杣山を。
【語釋】 ○凡にぞ見ける 疎かに見てゐた、いゝ加減に見てゐたの意。○和豆香杣山 和豆香といふ杣山。杣山〔二字傍点〕とは材木を切り出す山。○天知らさむと 天を治める、即ちこゝでは薨去遊ばされたのをいふ。「雲隱る」といふのと同じである。
【後記】 卷七「佐保山を凡に見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ」(一三三三)は右の歌より時代的には古い作である。
 
477 あしひきの 山さへ光り 吹く花の 散りぬる如き 吾が王《おほぎみ》かも
 
右の三首は二月三日に作れる歌
 
【口譯】 まるで、山が照り渡つて咲いてゐる花の散つて了ふやうに、亡くなつて了はれたわが王である。
(235)【後記】 華かなる青春をよそに早逝せられた皇子を傷む歌としては、相應しい歌である。
 
478 かけまくも あやにかしこし わが王《おほぎみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 武士《もののふ》の 八十伴《やそとも》の男《を》を 召《め》し集《つど》へ 率《あとも》ひ賜ひ 朝獵に 鹿猪《しし》踐《ふ》み起し 暮《ゆふ》獵に 鶉雉《とり》履《ふ》み立て 大御馬《おほみま》の 口《くち》抑《おさ》へ駐《と》め 御《み》心を 見《め》し明《あき》らめし 活道山《いくぢやま》 木立《こだち》の繁《しげ》に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は 斯《か》くのみならし 大夫《ますらを》の 心振り起し 釼刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き 梓弓 靱《ゆぎ》取り負《お》ひて 天地と いや遠長《とほなが》に 萬代《よろづよ》に 斯くしもがもと 憑めりし 皇子《みこ》の 御門《みかど》の 五月蠅《さばへ》なす 騷ぐ舍人《とねり》は 白栲《しろたへ》に 服《ころも》取《と》り着《き》て 常なりし 咲《ゑま》ひ振舞《ふるまひ》 いや日《ひ》日《け》に 變《かは》らふ見れば 悲しきろかも
 
【口譯】 口に出していふのも誠に畏多い事である。吾が皇子が多くの家來どもをお召し集めになり、お率ゐ遊ばされて、朝獵には鹿猪の類を追ひ出し、夕獵には鳥を追ひ立てて、御馬の口を抑へとゞめ、四方の景色を御覽になつて御心をお晴しになつた活道山、その活道山の木立の繋みに咲く花も散つて了つたことだ。世の中の事はこのやうなものばかりのやうだ。丈夫の雄々(236)しい心を振ひ起し、太刀を腰にとりつけ、梓弓を持ち、靱を背に負つて、天地と共にいよ/\遠長く、萬代にこのやうにあり度いと頼みにしてゐた皇子の御所の舍人等が、泣き騷いで白衣に着替へ、いつも絶えなかつた舍人どもの微笑や快活な振舞も、日にまし憂はしげに變つてゆくのをみると、悲しいことだ。
【語釋】 ○武士の 八十〔二字傍点〕の枕詞。二六四參照。○八十伴の男 八十〔二字傍点〕は數多い意。伴〔傍点〕は黨《トモガラ》。男〔傍点〕は長《ヲサ》で、即ち仕へ奉る多くの部族の長の意。○率ひ賜ひ 舊本「率比賜比《イサヨヒタマヒ》」とあるのを、考にアトモヒタマヒと訓んだのに從ふ。あともふ〔四字傍点〕は誘ひ率ゐる義。卷二「御軍士乎安騰毛比賜《ミイクサヲアトモヒタマヒ》」(一九九)參照。○御心を見《め》し明らめし「見《め》し」はしろしめす・きこしめす等のめす〔二字傍点〕と同じもので、「見る」を敬語とする爲に左行四段に活用せしめたもの。明らむ〔三字傍点〕は、明らかにすること、即ち心を晴らし給ふこと。卷十九「かくしこそ美母安吉良米々《ミモアキラメメ》」(九九三)、卷二十「物事に榮ゆる時と賣之多麻比安伎良米多麻比《メシタマヒアキラメタマヒ》」(四三六〇)など。○活道山 山城國相樂郡に在り、地名辞書に「西和束村大字白栖に聖武皇子安積親王の御墓地あり、活道岡はこの所なるべし」といつてゐる。○木立の繁に 舊本「木立之繁爾《コタチノシシニ》」とあり、古義に「木立繁く咲く花も」といひ攷證に「木のしげく立たる」と解してゐるが、木立が主語で繁爾《シジニ》が述語に置かれた場合、主語に「の」を用ひる事は、無理のやうに思ふ。從つて卷八「夏山の本末乃繁爾ほとぎす鳴響むなる」(一四九四)、卷十九「二上の峰於乃繁爾こもりにしそのほとゝぎす」(四二三九)等の繁〔傍点〕と共に名詞にみるべきで、さうすればシジニといふよりは家持の卷十八「多胡の崎|許能久禮之(237)氣爾《コノクレシケニ》時鳥來鳴き響めば」(四〇五一)によつて、シゲニと訓んだ方がよい。即ち木立の繋みに咲く花といふ意である。○靱取り負ひて 推古紀十二年「大楯及靱【靱此云由岐】」とあり、又和名抄にも靱〔傍点〕を由岐と訓じ、「歩人所v帶曰v靱以v箭入2其中1」と註をしてゐる。○五月蠅なす さわぐ〔三字傍点〕の枕詞。○悲しきろかも ろ〔傍点〕は音調を添へる爲の接辭。古事記「身の盛人|登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」、また卷五「多布刀伎呂可※[人偏+舞]《タフトキロカモ》」(八一三)等を參照。かも〔二字傍点〕は詠嘆の助詞。
 
479 愛《は》しきかも 皇子《みこ》の命の 在り通ひ 見《め》しし活道の 路は荒れにけり
 
【口譯】 わが敬愛する皇子が常に通つて御覽になつた活道山の路は、通ふものも無くて荒れて了つたことだ。
【語釋】 ○愛しきかも かも〔二字傍点〕は詠嘆の助詞。句はこゝで切れるが、意味は「愛しき皇子」とつゞく。
 
480 大伴の 名に負ふ靱《ゆぎ》帶びて 萬代に 憑みし心 何處《いづく》かよせむ
 
右の三首は、三月二十四日に作れる歌
 
【口譯】 靱を帶びる大伴氏と昔からいはれてゐる、その大伴に相應しい靱を負うて、萬代まで御(238)仕へしようと頼みにしてゐたこの心を、一體何處へ持つていつたらよいのであらう。
【語釋】 ○大伴の名に負ふ靱 大伴氏は代々朝廷の警護として、靱を負うて奉仕してゐたのである。
 
死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌一首并に短歌
 
481 白細《しろたへ》の 袖さし交《か》へて 靡き寢し わが黒髪の ま白髪に 成らむ極《きはみ》 新世《あらたよ》に 共に在らむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし 言《こと》は果《はた》さず 思へりし 心は遂げず 白妙の 袂を別れ にきびにし 家ゆも出でて 緑兒の 泣くをも置きて 朝霧の 髣髴《おほ》になりつつ 山城の 相樂山《さがらかやま》の 山の際《ま》を 往き過ぎぬれば 言はむすべ 爲むすべ知らに 吾妹子と さ寢《ね》し妻屋に 朝《あした》には 出で立ち偲び 夕《ゆふべ》には 入り居《ゐ》嘆かひ 腋挾《わきばさ》む 兒の泣く毎《ごと》に 男じもの 負ひみ抱きみ 朝鳥の 音《ね》のみ哭《な》きつゝ 戀ふれども 効《しるし》を無《な》みと 言問《ことと》はぬ ものにはあれど 吾妹子が 入りにし山を 所縁《よすが》とぞ念《おも》ふ
 
(239)【題意】 高橋朝臣は傳未詳。
【口譯】 袖を指し交して寄り添うて寢た私の黒髪が眞白髪になるまで、大御代に共に居よう、夫婦の契りは何時までも絶えまいと約束した言葉は果さず、思つてゐた心は遂げないで、妻は袂を別つて睦じく住み馴れた家から出で、みどり子の泣き慕ふのも置き去りにして、次第にぼんやりと幽かになり乍ら山城の相樂山の山の間を往つて了つたので、何う言つていゝのか、どうしていゝのか分らず、妻と寢た閨に朝には立ちいでて妻を思ひ、夕べにはそこに入つて偲び嘆き、腋に抱いてゐる兒が泣けば泣く毎に、男たる私が負うたり抱いたりして、聲を立てゝ泣いてばかりゐて妻を戀ひ慕つてゐるけれども、何の甲斐もないので、物言はぬものではあるけれども、妻が入つて了つた相樂山を、妻をなつかしむ由縁《ゆかり》と思ふのである。
【語釋】 ○袖さし交へて 袖かはしての意である。上掲四三一參照。○新世に 舊本アタラヨと訓んでゐるのを、槻落葉にアラタヨと訓んだのに從ふ。今の世を讃へていふ語である。卷一に「圖《ふみ》負へる神《くす》しき龜も新代登《アラタヨト》」(五〇)とある。○玉の緒の 絶ゆ〔二字傍点〕の枕詞。○絶えじい妹と い〔傍点〕は強めの間投助詞。○にきびにし 卷一「柔備爾之家乎擇《ニキビニシイヘヲオキテ》」(七九)とあるのと同じく、睦じく住み馴れたの意。○朝霧の髣髴になりつゝ 舊本「朝霧髣髴乍《アサキリノホノメカシツツ》」とあるのを、ホノカニナリツツ(童蒙抄)、ホノニナリツツ(考)等と訓んでゐるが、玉の小琴に卷(240)四「朝霧之欝相見之《アサギリノオホニアヒミシ》(五九九)とあるのを引いて、オホニナリツツと訓んだのに從ふ。おほに〔三字傍点〕の語は假名書の例も多く、卷二には「髣髴見之」(二一七)とあるのが、反歌に「於保爾見敷者《オホニミシカバ》」(二一九)と書いてある。朝霧の〔三字傍点〕は枕詞。おほに〔三字傍点〕はおぼつかなくなる事。○相樂山 山城國相樂郡の地、何處の山を指すか明かでない。○せむすべしらに こゝは理由を示すから「シラズ」でなくて、シラニとよむ。上掲三四二參照。○妻屋に 端屋《ツマヤ》の意で母屋の端に在る閨をいふ。○男じもの じ〔傍点〕鴨じもの・鹿猪じもの等のじ〔傍点〕に等しく名詞に接して之を形容詞にする詞。もの〔二字傍線〕は其の語根に接する。上掲二三九參照。但しこゝの意味は男じもの〔四字傍点〕とは男たるもののといふので前者とは違ふ。○朝鳥の 哭鳴く〔三字傍点〕にかゝる枕詞。下出四八三參照。○所縁とぞ念ふ 所縁〔二字傍点〕は槻落葉に「寄處《ヨスガ》也。こゝろよせ身をよせるをいふ言なれば常にはたよりといふ意なれどこゝは形見といふに近し」と言つてゐる。
【後記】 全體の構造は、卷二の人麿が妻の死を痛む長歌(二一〇)に酷似し、其の語句においても同一のものを多く用ひてゐる。殊に「吾妹子とさねし妻屋に」以下十餘句は殆ど同じである。人麿のそれには及ばないが、又佳作の一篇といふべきである。
 
482 うつせみの 世の事なれば 外《よそ》に見し 山をや今は 所縁《よすが》と思はむ
 
(241)【口譯】 はかないこの世の事故、昨日までは關係のないものと見てゐた相樂山を、今日は亡き妻を偲ぶ形見と思はう。
【語釋】 ○うつせみの 上掲四六六と同樣、枕詞とみない説もあるが、こゝは枕詞とみてもよい。
 
483 朝鳥の 音のみし泣かむ 吾妹子に 今また更に 逢ふよしをなみ
右の三首は、七月廿日、高橋朝臣の作れる歌なり。名字未だ審ならず、但奉膳の男子といへり。
 
【口譯】 聲を立てゝ泣いてばかりゐよう。妻に再び逢ふ方法がないから。
【左註】 七月廿日とは天平十六年の事であらう。奉膳とは官名で、職員令に「内膳司、奉膳二人、掌d惣2知御膳1、進食先嘗事u」とある。高橋氏が代々膳職に在つた事は、續日本記、高橋氏文、姓氏録等によつて知られる處である。
 
萬葉集 卷第三
          〔2010年2月7日(日)午後12時40分、入力終了〕