萬葉集總釋第三、1935.7.31、樂浪書院
萬葉集卷第六(卷第五は森本治吉担当)
 
(3)   卷第六概説
                 新村出
 
 此卷は全部雜歌であつて、長歌二十七首、短歌百三十二首、旋頭歌一首、合計百六十首を含んでゐる。
 組織は、
  養老七年癸亥夏五月幸2于芳野離宮1時筑朝臣金村作歌一首并短歌
  神龜元年甲子冬十月五日幸2于紀伊國1時山部宿禰赤人作歌一首并短歌
の如く、年號を標目として掲げ、その條下に其年の制作の歌を排列してゐる。かくて養老七年五月から天平十六年一月までの歌を、年代順に並べてゐる。これをもう少し精細に言へば、卷頭の養老七年の笠金村の作から神龜五年の車持千年、膳王の作までは、芳野、紀伊、播磨、難波等への行幸の際に從駕した歌である。但、中には年月が詳でないが、歌の類を以つて此の次に載すと註したものもある。例へば車持千年の作歌(九一三−九一六)の左註に
(4)  右年月不審、但以2歌類1載2於此次1焉、或本云、養老七年五月幸2干芳野宮1之時作
とあり、山部赤人の作歌(九一七−九一九)の左註に
  右年月不v記、但稱v從2駕玉津島1也、因今檢2注行幸年月1以載之焉
とあるが如きは其れである。又、
  四年(○神龜)丁卯春正月勅2諸主諸臣子等1、散2禁於授刀寮1時、作歌一首并短歌
の如き多少趣を異にしたものも無いではないが、大體に於て行幸の際の歌をここに集めてゐると見て差支へない。次に、神龜五年の
  太宰少貳石川足人作歌
から、天平二年の
  冬十二月太宰帥大伴卿上v京之時娘子作歌二音
  大納言大伴卿即和歌二首
までは、太宰府に於ける旅人中心の歌群である。旅人の太宰府關係の歌は、卷五の特殊なものは除いても猶、この外に卷三、四、八等に見えるが、しかし卷三は年代不明の雜歌及び譬喩歌挽歌、卷四は相聞歌、卷八は四季に關係のある歌であるのに對して、卷六は年月の明かな雜歌を收めてゐて(5)夫々かなり明瞭な區別がある。
 次には天平三年から年次を追うて排列してあるが、殊に天平五年の條下には月の歌が多く、又大伴坂上郎女の作歌が多く見える。次に天平六年の條には難波宮行幸の際の從駕の作、同八年には芳野宮行幸の際の從駕の作があつて、卷頭の體裁と多少似てゐるが、しかし次には
  冬十一月葛城王等賜2橘姓1之時、御製歌一首橘宿禰奈良居應詔歌一首
  冬十二月葛井連廣成家宴歌二首
の如き宴會の歌が並べられ、天平九年の條にもまた同樣な酒宴の際の詠が排列してある。次いで十年、十一年を經て十二年の條には藤原廣嗣の謀反によつて、伊勢御巡幸の事があり、共に從駕した大伴家持等の歌が見え、十五年の條には久邇の新京を讃へた家持の作も見える。そして卷末には天平十六年の歌を排列し、特に田邊福麿歌集の中の歌が多く採録され、嚀樂宮の荒墟を嘆く歌、久邇の新京を讃むる歌、さては久邇の京も荒廢に歸して、難波京に遷都されるのを詠んだ歌など、當時の遷都に關する歌が多く見える。
 此卷の編者に就いては明證はないが、右にあげた通り、大伴家の作者が多く、殊に旅人だけを尊んで大伴卿と記してあり、又此卷に見える作者と卷三、四に見えるものとが共通のものが少くない(6)ので、恐らくは家持の編ではあるまいかと思はれる。しかし家持以後の人の手も或は加つてゐるのではないかと思はれる點もある。例へば
   十二年(○天平)庚辰多十月依2太宰少貳藤原朝臣廣嗣、謀反發1v軍、幸2于伊勢1之時河口行宮内舍人大伴宿禰家持作歌一首
  河口の野べに廬して夜の歴れば妹が袂し思ほゆるかも
   天皇御製軟一首
  妹に戀ひ吾の松原見渡せば潮干の潟に鶴鳴き渡る
   右一首今案、吾松原在2三重郡1、相2去河口行宮1遠矣、若疑御2在朝明行宮1之時所v製御歌、傳者誤之歟
とあるのが其である。家持はこの行幸に從つてゐるのであるから、「吾松原」の事は知つてゐた筈である。然るにこの左註の筆者は其點を疑ひ、傳承者の誤であらうかと言つてゐるのだから、これは家持以後の人の筆である事は明かである。かやうに家持以後に多少手が加へられた事は否定し難いが、少くともその第一次編纂は、家持によつて爲されたと見る事は、さして不當ではあるまい。この卷は天平十六年の歌までを收めてあるから、編纂は勿論其年以後であり、或は十七、八年頃に一應の整理が家持によつて爲され、其後多少家持以外の人の手が加へられたもののやうに思はれ(7)る。
 此卷の作者の主なかものは、上は聖武天皇、湯原王、市原王から下は山部赤人、笠金村、高橋蟲麻呂、田邊福麻呂、大伴旅人、同家持、同坂上郎女等で、大抵奈良朝の人々である。歌の性質としては行幸と酒宴に關するものが多いが、聖武天皇の節度使等に酒を賜ふ時の御製の莊重さ、市原王の父の長壽を祝福する歌の尊さは共に金玉の光を放つものであり、行幸の際の作には赤人や金村の歌が見えるが、金村が動もすれば形式的に墮しようとするのに對して、赤人は清澄にして透徹せる自然美の歌境を開いた。高橋蟲麻呂は此卷では、西海道節度使の藤原宇合の壯途を祝福して、丈夫ぶりの眞面目を堂々と歌ひあげてゐる。旅人の太宰府に於ける作は、大略朗々誦すべき名吟であるが、次田温泉に於て鳴く鶴の聲を聞いては、亡妻の上を偲び、太宰府より京に上る時、娘子との名殘りを惜んで「水城の上に涙拭はむ」と詠じた歌どもは、永く滅びざる生命を有つてゐる。家持はまだ年齒若く從つて詠歌も圓熟の境には到つてゐないが、天平十二年伊勢巡幸の際、新婚の妻を偲ぶ情はあはれである。坂上郎女は此卷では多くの男性の歌人の間に伍して毫も遜色を見せず、甥の家持をいつくしむ歌、親族と宴する時の歌、とりどりに趣が深い。卷末に收められた田邊福麻呂歌集中の歌は、寧樂から久邇、久邇から難波へと、幾變轉の樣をつぶさに語り、寧樂の荒廢を嘆き、(8)久邇の新京を讃へ、さては久邇京もやがて荒廢に歸してゆく慘状に心を傷ましめ、また難波の新京を賞する歌を詠んでゐる。天皇の行幸に從駕して詠まれた歌が、動もすれば形式的な頌徳歌に墮する傾向があるやうに、この福麻呂の歌にも形整うて心これに伴はざるの弊が無いでもない。かの宴會の歌などにもそれと同じ弊が伴ひ易く、此卷の酒宴の歌を見ても、ごく少數を除いては大略凡作と評して差支へないのである。
 
〔目次省略〕
 
(3)     雜歌
 
   養老七年癸亥夏五月芳野|離宮《とつみや》に幸《いでま》せる時 笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
907 瀧《たぎ》の上の 三舟の山に 瑞枝《みづえ》さし しじに生ひたる 栂《とが》の樹の いや繼ぎ繼ぎに 萬代に かくし知らさむ み芳野の 蜻蛉《あきつ》の宮は 神からか 貴かるらむ 國からか 見が欲しからむ 山川を 清《きよ》み清《さや》けみ うべし神代ゆ 定めけらしも
【題意】 續紀に「養老七年五月癸酉行2幸芳野宮1、丁丑車駕還v宮」とある。
【口譯】 芳野川の激流のほとりの三舟の山に、みづみづしい枝を出して、繁く生えてゐる栂の樹のやうに、いよいよ繼ぎ繼ぎに、萬世までもこんなに御統治遊ばすであらう、この芳野の秋津の離宮は、神柄がすぐれてゐるので貴く見えるのであらうか。國柄がよいので見たく思はれる(4)のであらうか。山や川が清くすがすがしいために、ほんとに悠久の古代から離宮を此處にお定めになつたものらしい。
【語驛】 ○瀧《たぎ》の上の三舟の山 たぎ〔二字傍点〕は水の激して流れる所。ここは吉野川の激流で、その早瀬の側に三舟の山が聳えてゐるのである。うへ〔二字傍点〕はほとり、側の意である。○瑞枝《みづえ》さし みづえ〔三字傍点〕はみづみづしく生々《いき/\》と榮えた枝。さし〔二字傍点〕は枝の生ひ出づること。○しじに生ひたる 繁く、茂つて生えてゐる。○栂《とが》の樹の とが〔二字傍点〕はつが〔二字傍点〕と同じ。以上の瀧の上の〔四字傍点〕から此句までは、眼前の實景を描いて、次のいや繼ぎ繼ぎに〔七字傍点〕の序としたもの。「とがのきのいやつぎつぎに」と類似の音の繰返しによつて續くのである。○かくし知らさむ こんなに御統治遊ば(5)すであらう、の意で、知らさむ〔四字傍点〕は次の秋津の宮〔四字傍点〕に續く連體形である。かくし〔三字傍点〕のし〔傍点〕は意味を強める助詞であるが、原文には如是二二知三とあつて、二二〔二字傍点〕をシと訓ませてゐる。これは二五《トヲ》・十六《シシ》・八十一《クク》などと同じく、算數の九九から聯想した戯書である。知三〔二字傍点〕の三〔傍点〕は字音のサムを假借したものであるが、前の二二〔二字傍点〕と思ひ合はせると、この三〔傍点〕もさういふ數字の戯れの意識から記したのかも知れぬ。○秋津の宮 秋津〔二字傍点〕は吉野山中の河に臨んでゐる地の名であつて、ここに離宮が造営されてゐた。○神からか貴かるらむ 橘千蔭の萬葉集略解(以後「略解」の略稱を用ふ)に「からは故の意、神とは此山を敷座神をいふ」とあり鹿持雅澄の萬葉集古義(略して「古義」と稱す)に「神とは即山をさしていへるなるべし」とあるが、いづれも充分明かに理解できない。一體神から〔三字傍点〕のから〔二字傍点〕は神ながら〔四字傍点〕のから〔二字傍点〕と同じく、元來は故〔傍点〕の意であるが、ここの場合の如きは今日の家柄〔二字傍点〕・人柄〔二字傍点〕などの柄〔傍点〕と同樣に用ゐたものと見てよい。即ち、離宮のある土地そのものを神〔傍点〕と見たので,結局次の國から〔三字傍点〕とあるのと同じであつて、抽象的に言へば神〔傍点〕、具體的に言へば國〔傍点〕である。卷二の人麿の歌に「たまもよし讃岐の國は、國から〔三字傍点〕か見れども飽かぬ、神から〔三字傍点〕かここだ貴き」とあるのも、これと同じ思想に基いたものと思はれる。それで神からか貴かるらむ〔九字傍点〕は、神柄がすぐれてゐる爲に貴く見えるのであらうか、の意となる。神からか〔四字傍点〕のか〔傍点〕は疑問の助詞である。○國からか見が欲しからむ 國柄がよいので見たく思はれるのであらうか、の意。見が欲し〔四字傍点〕は見る事が欲しい、即ち見たく思はれる、といふ意で、有りが欲し〔五字傍点〕といふやうな言ひ方と同じである。ここで一段落がついて句切になつてゐる。○山川を 山と川とを、の意。ヤマカハと清音によむ。○清《きよ》み請《さや》けみ 原文に清清〔二字傍点〕とあるので、舊訓にサヤケクスメ(6)リ、契沖の萬葉代匠記(以下「代匠記」と略稱す)にサヤケクキヨシ、又はサヤニサヤケミ、又はスガスガシミ、荷田春滿の萬葉集童蒙抄(略稱「童蒙抄」を用ふ)にキヨクキヨシ又はキヨクサヤカニ、賀茂眞淵の萬葉考(略稱「考」)に唆清の誤としてタカクサヤケミ、略解にタカミサヤケミ、(その追加に※[山+青]清〔二字傍点〕の誤とした濱臣説に從ひ、訓はタカミサヤケミをよしとする)古義に淳清〔二字傍点〕の誤として、アツミサヤケミとし、この下に大宮等〔三字傍点〕或は常宮等〔三字傍点〕が脱したものといふ。かやうに諸説紛々としてゐるが、誤字説は論外として、清〔傍点〕の字は集中でキヨシともサヤケシとも訓んでゐるから、ここも文字通りに、キヨミサヤケミと訓むのが穩當であらう。上の句に山川乎とあるから、ここは意を迎へて、キヨミサヤケミと訓んで、山や川が見るからに清くすがすがしくある故に、の意と解すべきである。「…を…み」の形式は集中に極めて多く、卷一に「むらぎもの心を痛み」「山越の風を時じみ」などの例がある。○うべし神代ゆ うべ〔二字傍点〕のべ〔傍点〕は助動詞のべし〔二字傍点〕のべ〔傍点〕などと關係のある語で、成程〔二字傍点〕・本當に〔三字傍点〕の意の副詞である。卷三に「逢はず久しみうべ戀ひにけり」とある。し〔傍点〕は強意の助詞。神代ゆ〔三字傍点〕は神代以來であるが、芳野離宮が神代からあつた筈はないから、ここは單に悠久の昔から、といふ意味を現したものと見てよい。○定めけらしも 離宮を此地に定められたらしい、の意。定む〔二字傍点〕の客語は離宮〔二字傍点〕であるが、上に「み芳野の蜻蛉の宮」と詠んでゐるので、ここは煩を厭うて略してある。らし〔二字傍点〕は單に、らしい〔三字傍点〕と譯しては實は不充分であつて、これは根據のある推量の助動詞であつて、らしい〔三字傍点〕よりはもつと確實性がある。卷一に「春過ぎて夏來るらし白妙の衣ほしたり天の香具山」とあるのは、、白妙の衣服を乾してゐる眼前の實景を眺めて、其に基いて春が過ぎて夏が來たらしいと推定され(7)たのである。らし〔二字傍点〕といふ助動詞の本質が、ここによく現れてゐる。今の場合の定めけらしも〔六字傍線〕も亦それと同じである。
【後記】 從駕の作として平明な調べがあるが、句法上に類型的な感じを起させる點が多い。「瀧の上の御舟の山に」は卷三の弓削皇子の御歌にもあり、「瑞枝さし」以下の數句は同じく卷三の赤人の歌に「五百枝さし繁に生ひたる栂《つが》の樹のいや繼ぎ繼ぎに」と全く同じである。一體赤人と金村とは共に聖武天皇の行幸に從つて歌を詠んでゐるので、從駕の作などは互に影響しあつた點もあるかも知れぬ。
 
     反歌
 
908 年のはに かくも見てしか み芳野の 清き河内《かふち》の たぎつ白浪
 
【口譯】 芳野の清い河の廻つてゐる地點の、水の激して流れる白浪の絶景を、毎年こんなにして今日のやうに見たいものである。
【語釋】 ○年のはに 卷十九の家持の自註に「毎年謂2之等之乃波《トシノハ》1」とある通り、年毎にの意。○かくも見てしか かやうに(今日の樣に)見たいものである、の意。原文に如是裳見牡鹿〔二字傍点〕とある通り、テシカと(8)清音に訓むべきである。て〔傍点〕は助動詞つ〔傍点〕の連用形、し〔傍点〕は過去の助動詞き〔傍点〕の連體形、か〔傍点〕は感動の動詞と見るのが通説である。(山田孝雄博士「日本文法講義」・武田祐吉博士「しか〔二字傍点〕・てしか〔三字傍点〕考」等參照)。或はし〔傍点〕は「斯からむとかねて知りせ〔傍点〕ば越の海のありその浪も見せましものを」のせ〔傍点〕と關係のある語で、敬語の助動詞のす〔傍点〕とも同源であつて、強意の爲に用ゐられたのかも知れぬ。卷五に「龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來む爲」、卷十一に「ひさかたの天飛ぶ雲になりてしか君をあひ見む落つる日なしに」とある。○河内《かふち》 かふち〔三字傍点〕はかはうち〔四字傍点〕の約で、河の廻つてゐる流域。卷十四に「あしがりの土肥《とひ》のかふちに出づる湯の」卷十七に「落ちたぎつ清きかふちに」とある。芳野宮のあつた宮瀧の地は、吉野川が屈曲して三面を包んである地であるから、地勢上から見ても此語によく該當する。
 
909 山高み 白木綿花《しらゆふはな》に 落ちたぎつ 瀧の河内は 見れど 飽かぬかも
 
【口譯】 山が高いので、白い木綿で作つた花のやうに、激して流れる瀧の河内は、實に絶景であつて、いくら見ても飽かぬことである。
【語譯】 ○白木綿花に 白木綿〔三字傍点〕は穀《かぢ》即ち栲の皮で作つた白緒。その白木綿で作つた花のやうに、の意。白木綿花に〔五字傍点〕のに〔傍点〕は後世のと〔傍点〕と似た用法であつて、卷一に「栲《たへ》のほに夜の霜降り」卷二に「泣く涙ひさめに降れば」のに〔傍点〕と同じである。
 
(9)     或る本の反歌に曰く
 
910 神からか 見が欲しからむ み吉野の 瀧の河内は 見れど飽かぬかも
 
【口譯】 神柄が勝れてゐるので見たく思はれるのであらうか。芳野の瀧の河内の絶景は、いくら見ても見飽かぬことである。
 
911 み吉野の 秋津の川の 萬世《よろづよ》に 絶ゆることなく また還り見む
 
【口譯】 吉野の秋津の川の絶えぬやうに、萬世までも絶えることなく、又立ちかへつて幾度もこの好い景色を見よう。
 
912 泊瀬女《はつせめ》の 造る木綿花《ゆふはな》 み吉野の 瀧の水沫《みなわ》に さきにけらずや、
 
【口譯】 泊瀬の女達の造るあの木綿の花が、この吉野の瀧の水沫となつて咲いてゐるではないか。
【語譯】 ○泊瀬女の造る木綿花 この頃は木綿花は主として泊瀬の女が作つたのである。○瀧の水沫に 瀧(10)の水沫として。(前の「白木綿花に」の條を參照されたい。)○さきにけらずや 咲いてゐるではないかの意。水の泡立つ樣を木綿花の咲くのに譬へたもの。
【後記】 譬喩奇抜に似て、しかも實景を眼前に浮ばしむるものがある。佳作。泊瀬女の造る木綿花とは、文化史的にも興味がある。
 
     車持《くらもち》朝臣千年の作れる歌一首並に短歌
913 うまごり あやにともしく 鳴神《なるかみ》の 音のみ聞きし み芳野の 眞木《まき》立つ山ゆ 見おろせば 川の瀬毎に あけ來れば 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなべ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾のみして 清き河原を 見らくし惜しも
 
【津譯】妙になつかしく、噂にばかり聞いてゐた、吉野の檜の生えてゐる山から見下すと、川の瀬ごとに、夜が明けると朝霧が立ち、夕方になると河鹿が鳴くままに、着物の紐も解かないで寢る旅の事であるから、私ばかりでこのすがすがしい川原の景色を見るのは惜しいことである。
【語釋】 ○うまごり 味織〔二字傍点〕即ち立派な織物の意。綾〔傍点〕につづく枕詞。○鳴神の 雷のこと。音〔傍点〕につづく枕詞。(11)○眞木立つ山ゆ 眞木(檜の類)の生えてゐる山から。○かはづ鳴くなべ 河鹿が鳴くにつれて、鳴くまままに、の意。なべは二つの事柄が平行して起る場合に用ゐられる。卷七に「あしひきの山河の瀬のなるなべに弓月が嶽に雲立ち渡る」とある。
【後記】 吉野の山に登つて展望を喜ぶ氣特と、家郷を思ふ心とがあはれに詠まれてゐる。
 
     反歌一首
 
914 瀧の上の 三舟の山は かしこけど 思ひ忘るる 時も日もなし
 
【口譯】 瀧の上の三舟の山は物恐ろしく思はれるけれども、私は家郷の事を思ひ忘れる時もなく日もない。
 
     或本の反歌に曰く
 
915 千鳥鳴く み吉野川の 川音の 止む時なしに 思ほゆる君
 
【口譯】 千鳥が鳴く吉野川の川音のやうに、絶え間もなく思はれる君よ。
【語釋】 ○川音の 原文は流布本に音成〔二字傍点〕とあるが、金澤本、神田本に川〔傍点〕の字が音〔傍点〕の上にあり、成〔傍点〕の字がない(12)のに據つて、カハオトノとよむべきである。以上の三句は止む時なしに〔六字傍点〕の序である。
 
916 あかねさす 日並べなくに 吾が戀は 吉野の川の 霧に立ちつつ     右、年月審ならす。但、歌の類を以てこの次に載す。或本に云ふ、養老七年五月、芳野離宮に幸せる時の作。
 
【口譯】 旅に出て幾日も重ねたといふのでもないのに、私が家を戀うて嘆く息は、吉野の川のほとりの霧となつて立つてゐる。
【語釋】 ○あかねさす 日〔傍点〕につづく枕詞であるが、諸説紛々として一定しない。その中で山田孝雄博士の説が最も穩健である。即ちあかね〔三字傍点〕は茜〔傍点〕であつて、和名抄に染色具として擧げてあるやうに、草としても見られ、又染料としても見られる。そして染料を以て直ちにその色の名とすることは古今に通じた現象であつて、蘇芳・櫨・梔子・橡・紫草・紅藍・藍の如きその例である。集中でも卷五に「紅の面の上に」卷十に「紅の裳の裾ぬれて」などあり、又卷十二に「紫の色の※[草冠/縵]のはなやかに」、卷七に「紫の糸をぞ吾が搓る」などある。それで茜も染料であると共に、又その色の名に用ゐられたと思はれる。從つてあかねさす〔五字傍点〕は茜色(赤い色)の光の射すといふ意で、日〔傍点〕の枕詞となつたのであらう(萬葉集講義卷二)。○日並べなくに (13)なくに〔三字傍点〕はな〔傍点〕は打消の助動詞ぬ〔傍点〕の未然形、く〔傍点〕は上の動詞や助動詞を名詞的にするもので、こと〔二字傍点〕、もの〔二字傍点〕、の〔傍点〕といふやうな意味だから、日も重ねないのに、日數多く經たといふのでもないのに、の意。○霧に立ちつつ 霧として(霧となつて)立つてゐる。つつ〔二字傍点〕は助動詞のつ〔傍点〕を重ねたものから出た形であらうが、この歌の場合などは餘情を含めたもののやうに感せられる。
【左註】 右の車持朝臣千年の歌全體にかかる註であるが、或本の註記の如く、養老七年五月の作と見てよいかも知れぬ。
【後記】 芳野川の霧を見て、自分の切ない戀の嘆の息が、これ程までに河の上に漂つてゐるのかと驚いた歌である。卷五に「大野山霧立ち渡る吾が嘆く息嘯《おきそ》の風に霧立ち渡る」とあるのも、これと同じ着想の作である。これは必ずしも誇張とばかり言へないので、息、殊に嘆きの息には一種の靈的威力があるやうに感じ、神聖視した氣持が、この歌などにも籠つてゐる。古事記の天の安の河のほとりの神誓《うけひ》の條に見える、氣吹《いぶき》の狹霧の中に神々が生れ給うたといふ樣な思想が、やはり萬葉時代までも殘つてゐたものと見るべきであらう。
 
     神龜元年甲子冬十月五日紀伊國に幸せる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
  (14)917 やすみしし わご大王《おほきみ》の 常宮《とこみや》と 仕へまつれる 那賀野《さひがぬ》ゆ 背向《そがひ》に見ゆる 奧《おき》つ島 清き渚《なぎさ》に 風吹けば 白浪騷ぎ 潮干れば 玉藻苅りつつ 神代より 然《しか》ぞ尊き 玉津島山
 
【題意】 續紀に「神龜元年十月辛卯天皇幸2紀伊國1、癸己行至2紀伊國那賀郡玉垣勾頓宮1、甲午至2海部郡玉津島頓宮1、留十有餘日戊戌造2離宮於岡東1(中略)又詔曰、登v山望v海此間最好、不v勞2遠行1足2以遊覽1、故改2弱濱名1爲2明光浦1」とある。卷四にも笠金村の「神龜元年甲子冬十月、紀伊國に幸せる時、從駕の人に贈らむ爲、娘子に誂《あとへ》られて作れる歌」がある。
【口譯】 わが大君の永久の宮として、臣下の者が奉仕してゐる雜賀野の宮から、背面に見える沖の島の清い濱邊に、風が吹くと白浪が騷ぎ、潮が干ると人が美しい藻を苅りつつ、神代からこの通りに神々しく貴い景色である玉津島山よ。
【語釋】 ○やすみしし 大王〔二字傍点〕の枕詞。語義未詳。○常宮と とこ〔二字傍点〕は常盤《とこいは》、常處女《とこをとめ》、常代《とこよ》などの場合と同じく、常住不變の意。萬代に變らない離宮としての、の意である。○雜賀野 紀伊國海草郡、和歌山市の南方、和歌の浦の西方。○背向《そがひ》に見ゆる そがひ〔三字傍点〕はそむかひ〔四字傍点〕の略で、背面の義であつて、「わが背子を何處行かめとさき竹のそがひに宿《ね》しく今し悔しも」(卷七)の如き例もあるが、そがひに見ゆ〔六字傍点〕るの場合など(15)は、全然後方ではなくて、斜横ぐらゐを指してゐる。その例、「繩の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島榜ぎ廻《た》む舟は釣せすらしも」(卷三)、「朝日さしそがひに見ゆる神ながら御名に負はせる白雲の千重を押し別け天そそり高き立山」(卷十七)」「此間《ここ》にしてそがひに見ゆる我が背子が垣内《かきつ》の谿に」(卷十九)。○奧つ島 沖の島で、固有名詞ではない。ここでは玉津島〔三字傍点〕をさす。○然ぞ貴き玉津島山 上に述べて來た「風吹けば白浪騷ぎ、潮干れば玉藻苅りつつ」を受けて、かやうにして神代以來、今日まで貴くある玉津島山よ、と詠嘆したのである。王津島〔三字傍点〕は島の固有名詞であるが、元來は玉のやうな美しい島といふ美稱から出てゐる。
【後記】 玉津島の絶景を描いて、行幸の氣分をうるはしく詠じたもので、赤人の作らしい平明な調がよく現れてゐる。
 
     反歌
 
918 奥《おき》つ島 荒磯《ありそ》の玉藻 潮干滿ちて 隱ろひゆかば 念《おも》ほえむかも
 
【口譯】 沖の鳥の荒磯に生えてゐる玉藻をもつと苅りたいが、潮干が滿ちて來て、玉藻が隱れてしまふと、戀しく思はれることであらうなあ。
【語釋】 ○潮干滿ちて隱ろひゆかば 原文は流布本に潮干滿伊隱去者とあるが、元暦校本、金澤本、神田本(16)に伊〔傍点〕を※[人偏+弖]〔傍点〕に作つてゐるので、ここで句切とし、隱去者〔三字傍点〕をカクロヒユカバと訓む。但、卷一にも「道の隈い隱るまでに」とあるから、イカクリユカバと訓むのも、絶對に不當とは言へないが、一首の聲調の上からは、元暦校本等の本文によつて訓むのが適切である。○念ほえむかも 玉藻が戀しく思はれようよ。
【後記】 玉藻が滿潮のために苅り得なくなるのを、惜しみ戀しがつたものであるが、下句の調子に何處か戀愛的な氣特が感ぜられる。
 
919 若《わか》の浦に 潮滿ちくれば 潟《かた》をなみ 葦邊《あしべ》をさして 鶴《たづ》鳴き渡る
     右年月を記さず。但玉津島に從駕すと稱《い》へり。因りて今、行幸の年月を檢注して以て之に載す。
 
【口譯】 和歌の浦に潮が滿ちて來ると、干潟が無くなるので、葦の生えてゐる岸邊を指して、鶴が鳴きながら飛んで行く。
【語釋】 ○若の浦 もと弱濱《わかはま》と呼んでゐたが、聖武天皇の神龜元年の行幸の際、その風光明媚なるを賞して、明光の浦〔四字傍点〕と改められた由、續日本紀に記してある。中世以來、和歌の浦と記すやうになつた。和歌山市南方の海岸。○潟をなみ 「…を……み」といふ形式の表現は前にも見えてゐたが、を〔傍点〕のない場合もあ
(17)る。これは格助詞のを〔傍点〕ではなく、感動助詞のを〔傍点〕であつて、意味上からは有つても無くても同じである。なみ〔二字傍点〕は形容詞なし〔二字傍点〕の語根のな〔傍点〕にみ〔傍点〕の接したもので、「無いから・無いので」といふ理由、原因を示す。「思へどもしるしを無み」・「せむ術を無み」などの場合も、これと同樣である。それで潟をなみ〔四字傍点〕は潮の干潟が無いので、の意であつて、後唯の片男波〔三字傍点〕はこれの誤解に基いた俗説である。鶴は干潟に餌を拾ひに下りるので干潟が無くなると飛び去るのである。
【後記】 繪の如き光景を描き出して、神韻縹渺として盡きず。赤人の純客觀的な態度を代表する佳作である。
 
     神龜二年乙丑夏五月芳野離宮に幸せ(18)る時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
920  あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 芳野の河の 河の瀬の 淨《きよ》きを見れば 上《かみ》べには 千鳥しば鳴き 下《しも》べには かはづ妻|喚《よ》ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに しじにしあれば 見る毎に あやにともしみ 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく 萬代《よろづよ》に かくしもがもと、天地《あめつち》の 神をじ祷《いの》る 恐《かしこ》かれども
 
【題意】 續紀にはこの行幸に關する記事がない。
【口訳】 山も音騷しく鳴り響く程、落ちて泡立つて流れる吉野川の川瀬のすがすがしい景色を見ると、上流の方には千鳥が頻りに鳴いてゐるし、下流の方には河鹿が妻を喚んでゐる。御所に仕へてゐる人も、あちこちに澤山に往來してゐるので、私はこの景色を眺める毎に、不思議な程なつかしいから、絶える事なく、萬世の後までも、かうして離宮が榮えるやうにと、誠に畏多い事ではあるが、天地の神々にお祈りするのである。
【語釋】 ○あしひきの 山〔傍点〕の枕詞。語義未詳。○み山もさやに みやま〔三字傍点〕のみ〔傍点〕は美稱。さやに〔三字傍点〕はざわざわと騷ぐ意。卷二に「笹の葉はみ山もさやにさやげども」とある。○ももしきの 首磯城《ももしき》即ち多くの石で堅固に築いた城の意で、大宮〔二字傍点〕の枕詞となる。○をちこちに 遠近に、あちこちに。○玉葛 絶ゆ〔二字傍点〕の枕詞。
 
(19)     反歌二首
 
921 萬代に 見とも飽かめや み吉野の たぎつ河内の 大宮所
 
【口譯】 この吉野の水の泡立つて流れる、河の廻つてゐる所にある離宮は、實によい所で、萬代に見てゐても飽く事があらうか、見飽きはしない。
【語稱】 ○見とも飽かめや 見ても飽かうか、見飽きはしない、の意。とも〔二字傍点〕といふ助詞は、動詞及び助動詞の終止形につくのが普通であるが、見る〔二字傍点〕といふ動詞だけはその例によらない。
 
922 人皆の 壽《いのち》も我も み吉野の 瀧のとこはの 常ならぬかも
 
【口譯】 皆の人の命も私の命も、この吉野の瀧の不變の磐石のやうに、何時も變らないでゐればいいなあ。
【語釋】 ○とこは 常磐〔二字傍点〕即ち永久に變らぬ磐石。○常ならぬかも 常住不變でないかなあ、不變であれかし、の意。ぬかも〔三字傍点〕は願望を現すが、ぬ〔傍点〕は打消の助動詞、か〔傍点〕は疑問の助詞、も〔傍点〕は咏嘆の助詞であつて、常で(20)ないといふ事があらうかなあの意で、常にあれかしといふ願望となる。卷七に「西の山邊に關もあらぬかも」卷八に「瞿麥《なでしこ》の花にも君はありこせぬかも」などの用例がある。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌二首并に短歌
 
923 やすみしし わご大王《おはきみ》の 高知らす 芳野の宮は たたなつく 青墻《あをかき》こもり 河|並《なみ》の 清き河内《かふち》ぞ 春べは 花咲ををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いや益益に この河の 絶ゆることなく 百磯城《ももしき》の 大宮人は 常に通はむ
 
【口譯】 わが大君が高くお構へになつてゐる芳野の離宮は、疊み重なつてゐる、青々とした垣のやうな山に圍まれてゐて、河の流れ續いてゐる姿の美事な、清い河内であるよ。春の頃は花が枝もたわわに撓む程に咲き亂れ、秋になると霧が立ち渡る。あの山のやうにいよいよ益々榮え、この河のやうに絶える事がなく、大宮に仕へてゐる人は何時までも變る事なく通はう。
【語釋】 ○高知らす 宮殿を高く構へること。○たたなつく 疊《たたな》はりつく意。山の疊み重つてゐる有樣を述べたもので、枕詞として用ゐられた場合もあるが、ここは實景と見てよい。○河並 川の續いて流れてゐ(21)る樣をいふ。山並〔二字傍点〕に對する語。○花咲きををり 花が枝もたわわに曲る程咲き亂れること。卷三に「山邊には花咲きををり」、卷八に「春山の咲きのををりに」などの用例がある。○その山のいや益益に その山のいよいよ高いやうに益々榮えての意。
 
     反歌
 
429 み吉野の 象《きさ》山のまの 木末《こぬれ》には ここだも騷ぐ 鳥の聲かも
 
【口譯】 吉野の象山の中の木の梢では、澤山に鳥が鳴き騷いでゐるよ。
【語釋】 ○象山 吉野離宮址の前方に聳えた山。○木末《こぬれ》 こねれ〔三字傍点〕はこのうれ〔四字傍点〕の約。○ここだも騷ぐ 澤山に鳴き騷ぐ。ここだ〔三字傍点〕は非常に多くの意。卷二に「手火の光ぞここだ照りたる」卷十に「清き月夜にここだ散り來る」など見える。
【後記】 初二句に助詞のの〔傍点〕を疊用して、細《こま》かにしぼつて行き、第四句に騷然たる鳥の聲を點出してゐる。ここだも騷ぐといひながら、しかも一首を誦して感ぜられるのは、奧深い山間の靜寂であり寂寥である。
 
(22)925 ぬばたまの 夜の深《ふ》けぬれば 久木《ひさぎ》生《お》ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く
 
【口譯】 夜が更けたので、久木の生えてゐる清い河原に、千鳥が頻りに鳴いてゐる。
【語釋】 ○ぬばたまの ぬばたま〔四字傍点〕は射扇《ひあふぎ》(烏扇《からすあふぎ》)の實で、其色が黒いので夜〔傍点〕の枕用ゐられた。○夜の深《ふ》けぬれば 原文に夜乃深去者とあるから、舊訓ではヨノフケユケバと訓んでゐる。今、ヨノフケヌレバと訓む説に從ふ。○久木 今のあかめがしは〔六字傍点〕のこと。山野に自生する落葉喬木で、葉は大さ三四寸、先端が尖り、時には三尖五尖になつてゐるものもある。夏の頃緑黄色の花を開く。和名抄に「唐韻云、楸木名也、漢語抄云、比佐木」とある。
(23)【後記】 清澄にして寂寥な吉野河畔の夜景を描き出して絶妙。「久木生ふる」「清き」と直寫的に詠んでゐるのは、月明の夜ででもあつたらうか。晝間見た印象を想起してかう言つたといふ説は從ひ難い。
 
926 やすみしし わご大王《おほきみ》は み芳野の 蜻蛉《あきつ》の小野の 野の上《へ》には 跡見《とみ》すゑ置きて み山には 射部《いめ》立て渡し 朝獵に 鹿猪《しし》履《ふ》み起し 夕狩に 鳥|※[搨の手偏が足]《ふ》み立て 馬|竝《な》め 御獵《みかり》ぞ立たす 春の茂《しげ》野に
 
【口譯】 わが大君は吉野の蜻蛉の小野の、野の邊には鳥や獣の通つた跡を捜す人を配置し、山には弓を射る人をあちらこちらに一面に立たせて置いて、朝の獵には鹿猪を追ひ出し、夕方の狩には鳥を驅り立て、馬を並べて春草の繁つた野原に御狩にお出になることである。
【語釋】 ○蜻蛉の小野 吉野離宮附近の野原。今、宮瀧村の對岸の少し西に寄つた所に、御園村といふのがあり、その村に屬する吉野川岸を秋戸岸といふのは、蜻蛉の古名の名餞である。○跡見《とみ》すゑ置きて 跡見〔二字傍点〕は狩獵の時に、鳥獣の通つた跡を見て、その行方を尋ねる人。その人を配置しての意。○射部《いめ》立て渡し 射部〔二字傍点〕は弓を射る人。立て渡し〔四字傍点〕は、ずらりと一面に立たせること。
(24)【後記】 この歌も前作と同じく赤人の詠であるが、前の歌が吉野宮を祝福したのに對して、これは主として狩獵の壯快味を詠んでゐる。
 
     反歌一首
 
927 あしひきの 山にも野にも み獵人《かりびと》 さつ矢|手挾《たばさ》み とよみたり見ゆ
     右先後を審にせず。但、便を以ての故に此の次に載す。
 
【口譯】 山にも野にも獵をする人々が獵に用ゐる央を手に挾み持つて、どよめいてゐるのが見える。
【語釋】 ○さつ矢 獵に用ゐる矢。さつ〔二字傍点〕はさち〔二字傍点〕と同じで、古事記に見える海の幸《さち》、山の幸《さち》のさち〔二字傍点〕である。○とよみたり見ゆ 原文に散動而有所見とあるから、舊訓にミダレ、代匠記にトヨミ、岸本由豆流の萬葉集攷證(略稱「攷證」を用ふ)にサワギと訓んでゐるが、卷二に「白浪散動《シラナミトヨミ》」とあるのに據つてここもトヨミタリミユと訓んで置く。しかしサワギといふ訓も捨て難い。尚、動詞の見ゆ〔二字傍点〕は當時用言及び助動詞の終止形を受けるのが通則であつたから、而有〔二字傍点〕はタリと訓むべきである。
【後記】 前の長歌の意を要約して述べたもので、赤人には珍しい勤的な情景を引き締つた句法で(25)叙してゐる點、注意すべきである。
【左註】 右の二組の歌はいづれが先か後か審かでないが、同人の作であるから、その便を以てここに載せる、といふ意である。
 
     冬十月難波宮に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
928 押照《おして》る 難波の國は 葦垣《あしがき》の 古《ふ》りにし郷《さと》と 人皆の 念《おも》ひ息《やす》みて つれもなく ありし間に うみをなす 長柄《ながら》の宮に 眞木柱《まきばしら》 太高《ふとたか》しきて 食《を》す國を 治め給へば 沖つ鳥 味經《あずふ》の原に もののふの 八十件《やそとも》の雄《を》は 廬《いほり》して 都となれり 旅にはあれども
 
【題意】 續紀に「神龜二年冬十月庚申天皇幸2難波宮1」とある時の作である。
【口譯】 難波の國は古びた郷だとして、世間の人々が心を許して、一向構はないでゐた間に、大君が長柄の宮に檜の柱を太く立てて御殿をお構へになつて、御支配なさる國を治め遊ばすので、味生の原に從駕の百官達も假家を立てて、都となつたことである。旅やどりではあるけれども。
(26)【語釋】 ○押照る 難波〔二字傍点〕の枕詞。田安宗武の摘要冠辟考に「是はなにはは打ひらきたる所なれば日のおしてらす謂也」とあるのが比較的穩當であらう。○葦垣の 古りにし郷〔五字傍点〕の枕詞。葦垣〔二字傍点〕は淋しく古びた郷などに作られるからかく言ふ。○念ひ息《やす》みて 心をゆるして、安心して。息〔傍点〕の字を萬葉考にイコヒテと訓んでゐるが、いこふ〔三字傍点〕は苦惱から脱して休息する意であるから、ここの場合などには妥當でない。○つれもなく 冷淡にして、一向構はないで、の意。○うみをなす 績《う》んだ麻《を》のやうに、の意で、績麻《うみを》は長いから、長柄〔二字傍点〕の枕詞として用ゐてある。○長柄の宮 孝徳紀に「白雉二年十二月天皇從2於大郡1遷居2新宮1號曰2難波長柄豐碕宮1」とある所で、孝徳天皇の皇居の舊跡である。その位置を、高津宮の舊趾に近い大阪城の附近とするものと、大阪市の北端豐崎本庄の地とするものとの兩説に分れてゐるが、恐らくは後説が妥當であらうか。○眞木柱 檜の柱。○大高敷きて 太く高くお構へになつて。○沖つ鳥 枕詞。味經〔二字傍点〕の味〔傍点〕にかかる。味〔傍点〕は味鳧《あぢかも》で、海にゐる鳥。○味經の原 孝徳紀に「白雉元年正月辛丑朔、車駕幸2味經宮1、觀2賀正禮1味經此云2阿膩賦1是日車駕還v宮、二年十二月晦於2味經宮1請2二千一百餘僧尼1使v讀2一切經1」とあるところで、和名抄に攝津國東生郡味原とある。今、大阪市の東部に味原町がある。ここに豐埼宮の別宮があつたので、續日本紀に「天平勝寶八歳春二月、天皇至2難波宮1御2束南新宮1」とあるのも、この宮を改築せられたものであらう。近く喜田貞吉博士の、味生の宮は今の三島郡内の味生であらうとなす新説が現れたが、猶考ふべき問題である。○もののふの八十件の緒 朝廷に奉仕する澤山の部屬の長。文武百官達。○都となれり 舊訓にミヤコトナセリとあるのを、考にミヤコトナレリと改め、略解に(27)ミヤコナシタリと訓んだ。考、略解の説はどちらでもよいやうである。萬葉集新考(井上通泰著、以下「新考」と略稱す)に「アヂフノ原ハと無ければ、ミヤコトナレリとはよむべからず」とあるが、味生の原に〔五字傍点〕は庵して〔三字傍点〕で受けたのであつて、都となれり〔五字傍点〕は最初の難波の宮は〔五字傍点〕以下全體を受けたものと思はれるから新考の非難は當らない。略解の訓によれば、都のやうになつたの意になるが、この長歌の反歌に京となりぬ〔五字傍点〕とあるから、考の訓に從つて置く。
【後記】 從駕の一人として味經の原に庵したと思はれる金村が、皇威の輝くところ忽ち難波の舊都も、繁栄の相を見せて來たことを祝幅したものである。「都となれり」とあるが、實は本當の都となつたのではない。天皇の行幸によつて華かになつた光景を直截に表現したのである。
 
     反歌二首
 
929 荒野らに 里はあれども 大王《おほきみ》の しきます時は 都となりぬ
 
【口譯】 難波の里は荒れ果てた野邊であつたが、大君が行幸遊ばしたので都となつたことである。
【語釋】 ○荒野らに里はあれども 人里離れた、荒れ果てた野で、この里はあるけれども、の意。野ら〔二字傍点〕のら〔傍点〕は調子の爲に添へた、意味のない接尾辭、に〔傍点〕はにて〔二字傍点〕の意で、の中に〔三字傍点〕の意ではない。
(28)【後記】 荒廢の地が皇威によつて都となつた事を詠んだ歌は、卷十九に「皇は神にしませば赤駒のはらばふ田井を京師《みやこ》となしつ」「大王は神にしませば水鳥のすだく水沼《みぬま》を皇都《みやこ》となしつ」などがあり、又卷六に「をとめらが績苧《うみを》かくとふ鹿背《かせ》の山時し往ければ京師となりぬ」といふ歌もあるが、今の「荒野らに」の歌はこれらと比較して見ると類型的な感じが伴ふやうに思はれる。
 
930 あまをとめ 棚無《たななし》小舟 榜《こ》ぎ出《づ》らし 旅のやどりに 梶の音聞こゆ
 
【口譯】 海士の少女どもが船棚もない小舟を今漕ぎ出すやうである。天皇の行幸に從つて旅宿をしてゐると、櫓を漕ぐ首が聞える。
【語釋】 ○棚無小舟 たな〔二字傍点〕はふなたな〔四字傍点〕のこと。和名抄に「※[木+世]、和名不奈太那、大船(ノ)旁(ノ)板也」とある。※[木+世]の説明については山田博士の訓義考(アララギ第十四卷一號所載)最も詳密である。左にその主要なる點を引用する。「和船の構成に於いては最初の基礎となるものを敷といふ。敷とは船體の底をなして舳より艫へ通じて全體を支ふる縱の材にして最下部にあり。この敷は又かはら〔三字傍点〕とも云ひたり。このかはら〔三字傍点〕又しき〔二字傍点〕といふものを底として、その兩側につけて箱形になす側板をかしき〔三字傍点〕といふ。かしき〔三字傍点〕は側敷〔二字傍点〕の義なりといふ。(29)和船の側面の最下部の板にしてしき〔二字傍点〕の眞上に連れるもの、しき〔二字傍点〕と共に喫水線上にありて水の上壓力を受くる處にして一定の勾配を附す。普通の船にありてはこの上に側板を附く、即ちふなたななり。ふなたなは數層あることあり。よりて上※[木+世]《うはだな》、中※[木+世]《なかだな》などの名目あり。これらに對してこのかしき〔三字傍点〕をしたたな〔四字傍点〕・ねたな〔三字傍点〕といへり。(中略)以上にてふなたな〔四字傍点〕は大船(ノ)旁(ノ)板也といへる和名抄の説明も明に知らるべく、又このたな〔二字傍点〕のなき小舟即ち今の一枚棚(この棚は根※[木+世]即ちかしき〔三字傍点〕にしてそれ一枚のみにて舷をなせるよりいふ)といへるが棚無小舟なること明に知らるべし」。
【後記】 假寢の宿で櫓の音を聞いて、海に漕ぎ出す海女の釣舟を思ひやつて詠んだもので、海を珍らしがつて、屋内にゐながら櫓の音に耳を傾けてゐる都人士の心がよく現れてゐる。
 
     車持朝臣千年の作れる歌一首并に短歌
 
931 鯨魚《いさな》取り 濱邊を清み 打ち靡き 生《お》ふる玉藻に 朝なぎに 千重波《ちへなみ》より 夕なぎに 五百重《いほへ》浪よる 邊《へ》つ浪の いやしくしくに 月にけに 日日に見るとも 今のみに 飽き足らめやも 白浪の いさき回《めぐ》れる 住吉《すみのえ》の濱
 
【口譯】 濱邊が清いので、浪のまにまに靡いて生えてゐる玉藻に、朝凪には千重にも波が打ち寄(30)せて來る、夕凪には五百重にも浪が打ち寄せて來る、その岸に寄せる波のやうに、愈々しきりに、月に日に毎日毎日見ても、白浪の高く起ち廻つてゐる、住吉の濱の景色を、今度だけで飽き足りやうか、飽き足りはしない。
【語釋】 ○鯨魚《いさな》取り 海の枕詞。くぢらを取るといふ意によつて續く。○いやしくしくに いよいよしきりに。○いさき廻れる い〔傍点〕は接頭辭で意味はない。さき〔二字傍点〕は波の白く立つこと。卷二十に「海原のうへに浪なさきそね」とある。
 
     反歌一首
 
932 白浪の 千重に來寄する 住吉の 岸の埴生《はにふ》に にほひて行かな
 
【口譯】 白波が千重にも打ち寄せて來る住吉の岸の黄土で、旅の記念として着物を染めて行きたい。
【語釋】 ○埴生《はにふ》 はに〔二字傍点〕は黄又は赤の土で、衣を摺つて染める料とした。はにふ〔三字傍点〕のふ〔傍点〕は、蓬生、淺茅生、園生などの場合と同じく、唯添へていふ語で、強ひて言へば、それのある場所、土地といふやうな意味をもつてゐるやうである。○にほひて行かな 旅の記念として染めて行かうよ。行かな〔三字傍点〕のな〔傍点〕は、願望をあらはす(31)助詞。卷一に「家聞かな名告らさね」とあるのと同じ。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
933 天地《あめつち》の 遠きが如く 日月の 長きが如く 押照《おして》る 難波の宮に わご大王《おほきみ》 國知らすらし みけつ國 日の御調《みつぎ》と 淡路の 野島の海人《あま》の わたの底 沖ついくりに 鰒珠《あはびだま》 さはにかづき出《で》 船なめて 仕へまつるし 貴し見れば
 
【口譯】 天地が永遠に變らないやうに、日月が長久に續くやうに、難波の宮にあつてわが大君は國を御支配なさるらしい。大君の御膳の物を差上げる國の、日毎の貢として、淡路の國の野島の海人達が、沖にある暗礁に附いてゐる眞珠を澤山に潜つて取つて、船を並べて陛下に仕へ奉つてゐる樣子は、見ると貴いことである。
【語釋】 ○みけつ國 御食つ國〔四字傍点〕即ち天子樣の御膳の物を差上げる國の意で、淡路は天皇の御食料の魚介類を奉つた國であるから、かやうに言ふ。○日の御調と 日毎に奉る貢物として、の意。延喜内膳式に「凡諸國貢2進御厨御贄1結番者和泉國子己紀伊國丑午淡路國寅未戊近江國卯若狹國辰亥中毎v當2件日1依v次貢進、預計2行程1莫v致2闕怠1」とある。○野島 淡路の西北部海岸にある。○海《わた》の底 沖〔傍点〕の枕詞。わた〔二字傍点〕は海、(32)そこ〔二字傍点〕は至り極る所の意で、深さのみならず、水平線上にも遠く至り極る處を指す。それでわたのそこ〔五字傍点〕が沖〔傍点〕の枕詞となるのである。卷五に「わたのそこ沖つ深江の」卷七に「わたのそこ奧こぐ船を」など見える。○沖ついくりに いくり〔三字傍点〕は從來の説に、海中の石をいふとある。日本紀應神卷の歌「由羅《ゆら》のとなかのいくり」を釋紀に注して「句離《くり》謂v石也|異《い》助語也」とある。然らば海中の石はすべていくり〔三字傍点〕と言ふかといふに、決してさうではない。袖中抄には「船路には石をくりともいへり」と言ひ、仰覺抄には「山陰通の風俗石をばくりと云也」とあるが、日本地誌提要によると、長門から羽後まで廣く日本海沿岸の地方の用語に、暗礁を何繰《なにぐり》といつてゐる例が頗る多い。萬葉のいくりも即ちその意味であつて、い〔傍点〕は接頭辭、くり〔二字傍点〕は暗礁の事をいふ。袖中抄に「船路には」と特に言つてあるのは、暗礁は航海上殊に注意を惹くものだからであらう。(山田博士「伊久里考」參照)。○鰒珠 鰒の貝から出る珠即ち眞珠。○さはにかづき出 さはに〔三字傍点〕は澤山に、卷三に「湯はしもさはにあれども」とある。かづき出〔四字傍点〕は海中にもぐつて眞珠を取り出すこと。
 
     反歌一首
 
934 朝なぎに 梶《かじ》の音《と》聞ゆ みけつ國 野島の海人《あま》の 船にしあるらし
 
【口譯】 朝凪の海に舟を漕ぐ櫓の音が聞える。あれは大君に御膳の物を差上げる國の淡路の野島(33)の海人の船であるらしい。
 
     三年丙寅秋九月十五日播磨國印南野に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
 
935 名寸隅《なきすみ》の 船瀬《ふなせ》ゆ見ゆる 淡路島 松帆《まつほ》の浦に 朝なぎに 玉藻苅りつつ 夕なぎに 藻鹽《もしほ》燒きつつ あまをとめ ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ ますらをの 心は無しに 手弱女《たわやめ》の 思ひたわみて たもとほり 我はぞ戀ふる 船梶《ふねかぢ》を無み
 
【題意】 續日本紀には「神龜三年秋九月壬寅以2正四位上六人部王(中略)等二十七人1爲2装束司1、以2從四位下門部王(中略)等一十八人1爲2造頓宮司1、爲v將v幸2播磨國印南野1也○冬十月辛酉行幸○癸亥行還2難波宮1」とあり、日本紀略には「神龜三年冬十月辛亥行2幸播磨國印南野1○甲寅至2印南野邑美頓宮1○癸亥還至2難波宮1」とあつて、この題詞と符合しない。此點は猶考ふべきであらう。
【口譯】 名寸隅の船瀬といふ所から見える淡路の松帆の浦に、朝海の凪いだ時には美しい藻を刈り、夕方海の凪いだ時には藻鹽を燒いて、海人の少女がゐると噂には聞いたが、海を隔ててゐ(34)るので見に行く術もないから、大丈夫の猛き心もなくて、かよわい女のやうに思ひ屈して、あちこちとさ迷ひ歩いて私は松の帆の浦の景を戀ひ思ふよ、船も梶も無いので。
【語釋】 ○名寸隅 代匠記に「名寸隅は八雲御抄に播磨と注させ給へり。今按、本朝文粹第二に三善清行、延喜十四年四月上2意見1十二條終云、重請d修2復播磨國魚住泊1事u云々、この魚住泊は今の名寸隅にや」とあり、大日本地名辭書には「魚住、明石郡の舊泊所にして、上古は韓泊(印南郡)と輪田(兵庫)との間に此船瀬あり。西海の水驛とす。初め名寸隅と曰へるを又|魚住《ナスミ》に作り、何の世よりか其文字により宇袁須美と呼ぶことと爲る。今の魚住村の東なる江井島を船瀬の築島址とす」とある。貞觀九年の官符にも明石郡魚住船瀬とある(類聚三代格)から、魚住がナキスミである事は疑ない。魚住は明石と加古川との間で播磨灘を隔てて淡路島を望む所である。○船瀬 船舶が風波を避くる爲に碇泊する所で、それがやがて地名になつたのであらう。かの官符に「則知海路之有2船瀬1、猶3陸道之有2逆旅1」とある。○松帆の浦 淡路の北端の松尾崎の沿岸である。○たわやめの 手弱女の如く、の意であつて、枕詞ではない。○念ひたわみて 心が屈し挫けて、の意。上のたわやめ〔四字傍点〕と同じ語を重ねて用ゐてゐる。○たもとほり た〔傍点〕は接頭辭、もとほり〔四字傍点〕はさ迷ひ廻ること。卷三に「若き子のはひたもとほり朝夕に哭のみぞ吾が泣く」とある。○船梶をなみ 船と梶が無いので、の意。卷三に「百磯城《ももしき》の大宮人の退り出て遊ぶ船には楫棹も無くてさぶしも漕ぐ人無しに」とあるのと同じ。
 
(35)     反歌二首
 
936 玉藻苅る 海人少女《あまをとめ》ども 見に行かむ 船梶もがも 浪高くとも
 
【口譯】 美しい藻を刈る淡路の松帆の浦の海人の少女達を見に行かう、波は高くとも船や梶があればよいがなあ。
【語釋】 ○船梶もがも もがも〔三字傍点〕はもが〔二字傍点〕とも同じく願望を現す助詞で、船や梶があつて欲しい、あればよいがなあ、の意である。卷四に「石竹《なでしこ》のその花にもが朝なさな手に取り持ちて戀ひぬ日無けむ」卷五に「雪の色をうばひて咲ける梅の花 今盛なり見む人もがも」とある。
【後記】 第三句で切れ、第四句で切れ、結句は一首全體に響きかへしてゐる。歌詞は平明であるが、句法の上で注意される歌である。
 
937 往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅《なきずみ》の 船瀬の濱に しきる白浪
 
【口譯】 名寸隅の船瀬の濱に頻りに打寄せて來る白浪の景色を、私は行つたり還つたりして、見ても飽く事があらうか、決して見飽きはしない。
(36)【語釋】 ○往きめぐり 舊訓にユキカヘリとあるが、原文に往回〔二字傍点〕とあるから、ユキメグリがよい。行つたり還つたりして、の意。○しきる白浪 原文に四寸流〔三字傍点〕とあるので、ヨスルと訓んでゐる古寫本もあるが、集中の用字例から見ると、四〔傍点〕をヨ、寸〔傍点〕をスと訓むのは稀で、四〔傍点〕をシ、寸〔傍点〕をキと訓むのが普通であるから、シキルと訓む。「住吉の岸の浦囘にしく浪〔三字傍点〕の」(卷十一)のしく〔二字傍点〕と同じで、浪が頻りに打寄せて來る意。
 
     山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
938 やすみしし 吾が大王の 神ながら 高知らせる 印南野《いなみぬ》の 大海《おはみ》の原の 荒妙《あらたへ》の 藤井の浦に 鮪《しび》釣ると 海人《あま》船とよみ 鹽燒くと 人ぞさはなる 浦をよみ うべも釣はす 濱をよみ うべも鹽燒く 在り通ひ 見ますもしるし 清き白濱
 
【口譯】 わが大君が神樣として高く御殿をお構へ遊ばしてゐられる印南野の邑美の原の藤井の浦で、鮪を釣らうと思つて、漁夫の船が騷いでゐる。鹽を燒くとて人が澤山集つてゐる。ここはよい浦だから釣をするのも尤もである。よい濱だから鹽を燒くのも尤もである。昔からずつと引續いて行幸遊ばして、この清い、砂の白い濱邊を御亂になつた譯が、實に明かに知られるこ(37)とである。
【語釋】 ○高知らせる 行宮を高く構へ給うた、の意。續日本紀の神龜三年九月の條に、「以2一十人人1爲2造頓宮司1爲v將v幸2播磨國印南野1也」とある。○大海の原 日本紀略に「神龜三年冬十月辛亥行2幸播磨國印南野1、甲寅至2印南野邑美頓宮1」とある邑美であらう。邑美は和名抄に、「明石都邑美郷、訓於布美」(高山寺本、注於保見)とあつて、邑はオフの假字であるが、オホとも言つたのである。印南野の一部に邑美の原があつたのである。○荒妙の 延喜式踐祚大甞祭式に「麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】」と見え、古語拾遺に織布に注して「古語阿良多倍」とある。あらたへ〔四字傍点〕はにぎたへ〔四字傍点〕に對する語であつて、麁い布の總名である。藤葛の繊維を以て織つた布が即ち荒妙であるから、藤井〔二字傍点〕の藤〔傍点〕の枕詞として用ゐてゐる。○藤井の浦 反歌には藤江の浦とあり、卷三にも「あらたへの藤江の浦に鱸釣る白水郎《あま》とか見らむ旅行く吾を」とあるから、藤井は藤江の誤か、或は藤井とも呼んだものか。○在り通ひ かうしてずつと續いて行き通つて、の意。ありがよひ〔五字傍点〕のあり〔二字傍点〕は、「在りつつも君をば待たむ」の場合と同じく、繼續してゐる状態を示す。卷三に「愛《は》しきかも皇子の命《みこと》の在り通ひ見しし活道《いくぢ》の路は荒れにけり」、卷十七に「在り通ひ仕へまつらむ萬代までに」「可多加比の河の瀬清く行く水の絶ゆることなく在り通ひ見む」など見える。○見ますもしるし 原文に御覽〔二字傍点〕とあるので、古義・新考にメサクと訓んでゐるが、メサクといふ語例は集中他に所見がないので、これを義訓として、考・略解等にミマスと訓んだのに從ふ。しるし〔三字傍点〕は著明の義で、見給ふ理由も明かだ、の意である。卷三に「人榜がず在らくもしるし潜《かづき》する鴛鴦《をし》と〓《たかべ》と船の上に住む」卷十に「天漢《あまのかは》渡瀬(38)ごとに思ひつつ來しくもしるし逢へらく念へば」とある。
【後記】 淡々たる描寫の中に、よく海近き印南野の行幸の情景を寫し出してゐる。白砂清松の濱邊に、動的な釣船と鹽燒の樣を點出して、一層清澄の感じを添へてゐる。海を珍しく思ふ都人士の心が、ここにも現れてゐる。
 
     反歌三首
 
939 沖つ浪 邊浪《へなみ》しづけみ いざりすと 藤江の浦に 船ぞとよめる
 
【口譯】 沖に立つ浪や岸に立つ浪が靜かであるから、漁をするとて藤江の浦に船が騷いでゐる。
【語釋】 ○邊浪しづけみ しづけみ〔四字傍点〕は原文に安美〔二字傍点〕とあるので、新訓にヤスケミとあるが、卷七に「靜けくも岸には没はよせけるか」卷十一に「鴨川の後瀬靜けく後も逢はむ」卷十二に「佐保河の河浪立たず靜けくも君にたぐひて明日さへもがも」とあるやうに、浪にはシヅケシといふ方が妥當であるから、安美〔二字傍点〕はシヅケミと訓む舊訓に從ふ。卷二に「神ながら安定《しづまり》ましぬ」と訓んでゐる例があるから、安〔傍点〕の字をシヅケシと訓むのは不當ではない。
 
(39)940 印南野《いなみぬ》の 淺茅《あさぢ》おしなべ さ宿《ぬ》る夜の け長くあれば 家し偲《しぬ》なゆ
 
【口譯】 印南野のまばらに生えた茅を押し靡かせて寢る夜が、日數多くつもつて幾夜にもなるので、家の事が戀しく思はれる。
【語釋】 ○印南野の 原文に不欲見野とある。不欲〔二字傍点〕をイナと訓むのは義訓で、否《いな》の義である。○け長くあれば け〔傍点〕はか〔傍点〕(日)の轉で、けながし〔四字傍点〕は日數の多く經つこと。卷十に「戀ふる日のけ長くあれば」とある。
【後記】 廣漠たる印南野に文字通り草を枕として旅寐するわびしさに、家郷の事を偲ぶ情があはれ深く詠まれてゐる。シの音を疊用して、一首のしめやかな聲調を助けてゐる。
 
941 明石潟《あかしがた》 潮干の道を 明日よりは 下笑《したゑ》ましけむ 家近づけば
 
【口譯】明日からは愈々御還幸の事とて、家が段々近づいて來るので、明石潟の潮の干た海岸の道を通つて、心の中に頬笑ましく思ふだらう。
【語釋】 ○潮干の道を 潮の干た道を通つて、の意。○下笑ましけむ 行幸の際であるから、表立つて顔色には出さぬが、心中に嬉しく、頬笑ましく感ずるであらう、の意。
【後記】 愈々明日より遷幸と決定した日、嬉しさの餘り、明石潟の汐干の道を辿りゆく明日の吾(40)が姿を豫想して詠んだもので、下句につつましい中にも包み切れない歡喜の情が溢れてゐるのが見える。
 
     辛荷《からに》の島を過ぐる時山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
942 あぢさはふ 妹が目かれて 敷妙《しきたへ》の 枕もまかず かには纒《ま》き 作れる舟に 眞梶《まかぢ》貫《ぬ》き 吾がこぎ來れば 淡路の 野島も過ぎ 印南都麻《いなみつま》 辛荷《からに》の島の 島のまゆ 吾宅《わぎへ》を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり來ね 漕ぎたむる 浦のことごと 往き隱る 島の埼埼《さきざき》 隈も置かず 思ひぞ吾が來る 旅のけ長み
 
【題意】 辛荷の島は室津の沖にあつて、地辛荷・中辛荷・沖辛荷の三島から成る。播磨風土記に韓人が難破してその荷が此地に漂着したので辛荷の島と稱するといふ地名傳説がある。
【口譯】 妻の許を離れて、枕も交《かは》さずに、樺の皮を纒いて作つた舟に、梶を貫き通して私が漕いで來ると、淡路の野島も通り過ぎ、印南都麻や辛荷の島の間から、吾が故郷の家の方を見ると、青々と連つてゐる山の中の何處とも分らす、白雲も千重に隔つた遠くの方に離れて來てし(41)まつた。漕いで廻る浦々、漕いで行つてその陰に隱れる島の埼々、道の曲り角ごとに一つも洩らさず、私は家の事を思ひながら來ることである。餘り旅の日數が積つたので。
【語釋】 ○あぢさはふ 目〔傍点〕にかかる枕詞。味鳧《あぢかも》が澤山に群れて飛ぶ意を以て、むれ〔二字傍点〕の約め〔傍点〕につづいたものであらうか。○妹が目かれて 妻の目を離れての意で、つまり妻の許を離れてと言ふのと同じ。○かには纒き かには〔三字傍点〕は和名抄に「樺【迦邇波、今櫻皮有v之】木名、皮可2以爲1v炬者也」とあつて、白樺のことである。樺木科の落葉喬木で、樹皮は白色で剥げ易い。早春葉に先立つて帶黄褐色の花を開く。この樹皮は曲物のやうな器具を綴ぢるのに用ゐるもので、ここにかには〔三字傍点〕を卷いて皮を作るとあるのは、船縁などに樺の皮を用ゐたものであらうか。○印南都麻 今の加古川の河口、高砂の事であらう。○青山のそことも見えず 次の句の「白雲も千重になりきぬ」とあるのと對句になつたものと見ると、青山の〔三字傍点〕のの〔傍点〕は主格を示すやうに思はれるが、「青山がそことも見えない」では意味が少し曖昧である。ここは言葉が稍々不足してゐるので、新考に「遙ニ連リテ見ユル青山ノウチノイヅクトモ知ラレズとなり」とあるやうな意味であらうと思はれる。○漕ぎたむる 漕ぎめぐるの意で、連體形である。たむ〔二字傍点〕といふ動詞は卷三に「奥つ島漕ぎたむ舟は釣せすらしも」「武庫の浦を漕ぎたむ小舟」などいふ例もあるので、ここも「漕ぎたむ浦のことごと」とあつてもよい筈である。然るに原文に許伎多武流〔五字傍点〕と假字書にしてあるので、この動詞は當時四段にも上二段にも活用した事と推定される。
【後記】 淡路の海峽を通過して、辛荷の島まで來て、其までの長い旅路を顧み、無量の寂寥感に(42)打たれて詠んだ歌である。「かには纒き作れる舟」は古代造船研究の一資料となる。
 
     反歌三首
 
943 玉藻苅る 辛荷《からに》の島に 島みする 鵜にしもあれや 家思《も》はざらむ
 
【口譯】 玉藻を苅る辛荷の島で餌をあさつてゐる鵜で私があればよい。さうしたら家の事は思はないであらう。
【語釋】 ○しまみする 原文に島囘〔二字傍点〕とあり、舊訓にアサリと訓んでゐるが、古義に「シマミスルとよむべし。島めぐりして食を求るを云なり」とあるのに從ふべきである。○鵜にしもあれや この場合のあれや〔三字傍点〕は反語ではなく願望の意味に解すべきであらう。あれや〔三字傍点〕にはこの二つの場合があつて、例へば「打麻《うつそ》を麻續王《をみのおほきみ》あまなれや伊良虞《いらご》が島の珠藻苅りをす」「古の人に吾あれやささなみの舊き都を見れば悲しき」などの場合は、反語の意に見ねばならぬが、ここの「鵜にしもあれや」の場合は、「河風の寒き長谷を嘆きつつ君があろくに似る人も逢へや」「石倉の小野ゆ秋津に立ち獲る雲にしもあれや時をし待たむ」などの例と見合せて、あれかし・あつて欲しいといふ願望の意に解するのが隱當のやうである。即ち、物思ひもなささうに悠々と泳いでゐる鵜を羨んで、鵜ででもあればよいと詠んだものと思はれる。
【後記】 望郷の念切にして堪へ難い作者の心境からすれば、無心の鵜の身が却つて羨しいといふ(43)
 
944 島|隱《がく》り 吾が漕ぎ來れば ともしかも 大和へ上る ま熊野の船
 
【口譯】 島陰にかくれつつ私が漕いで來ると、羨しいなあ、大和の方に上つてゆく熊野の船が見える。
【語釋】 ○ともしかも 羨しいなあ。ともし〔三字傍点〕は乏しの意から轉じて、羨しいの意。○ま熊野の船 ま〔傍点〕は接頭語で意味はない。熊野の船〔四字傍点〕は神代紀下に「故以2熊野諸手船1【亦名天鳩船】載2使者稻背脛1」とあり、特異の形をなしてゐたのであらう。かやうに地名を船の名に冠した例は、松浦船、足柄小船、伊豆手船などある。
【後記】 懷しい故郷の大和を遠ざかつて行く作者の身に取つては、大和にのぼる熊野船は、堪へ難い羨望の目をもつて眺められたのである。第三句に「羨しかも」の詠嘆の語を投じて、一首に波動を與へ、結句に「眞熊野の船」といふ名詞を詠み据ゑてゐる聲調の微妙な點を看過してはならぬ。
 
945 風吹けば 浪か立たむと さもらひに 都多《つた》の細江に 浦|隱《がく》り居り
 
【口澤】 風が吹くので浪が立つだらうと思つて、樣子を伺ふ爲に、都多の細江に入つて浦に隱れ(44)てゐる。
【語釋】 ○さもらひに 樣手を伺ふ爲にの意。さもらひ〔四字傍点〕は動詞さもらふ〔四字傍点〕の連用形の轉じて名詞となつたもの。○都多の細江 今は津田・細江の二村に分れ、その中問を流れる飾磨川の海に注ぐあたりで、姫路市の西南方に當る。
 
     敏馬《みぬめ》浦を過ぐる時山部宿禰赤人の作れる歌一首并に短歌
 
946 御食《みけ》向ふ 淡路の島に ただ向ふ 敏馬《みぬめ》の浦の 沖邊には 深海松《ふかみる》とり 浦|回《み》には 名告藻《なのりそ》苅《か》る 深海松の 見まくほしけど 名告藻《なのりそ》の 己が名惜しみ 間使《まづかひ》も 遣らずて吾は 生けりともなし
 
【口譯】 淡路の島に眞向ひになつてゐる敏馬の浦の沖の方には、深い所に生える海松《るる》を採り、浦の廻りでは名告藻を苅る、その深|海松《みる》のやうに、見たくは思ふけれども、名告藻のやうに、名の立つのが口惜しいので、あちらとこちらとの間を通ふ使もやらないで、私は唯家の人の事を思うて、生きてゐるやうな心地もしない。
(45)【語釋】 ○御食向ふ 淡路〔二字傍点〕のあは〔二字傍点〕につづく枕詞。御饌《みけ》に向ふ粟《あは》といふ意で續けたものである。○深海松 海の深い所に生ずる海草。○名告藻 ほんだはらの古名。○深|海松《みる》の 前の深海松とり〔五字傍点〕を受けたので、み〔傍点〕の音を繰返して次の見まく欲しけど〔七字傍点〕に續けてゐる。○名告藻の これも前の名告藻苅り〔五字傍点〕を受けて、次の己が名惜しみ〔六字傍点〕に續けたのである。但、原文には莫〔右○〕告藻之《ノリソノ》とあるから、ここでは前の名告藻とは異つて、名を告るなかれとい壷味も含ませてゐるやうである。○間使 兩者の間を往復する使。○生けりともなし り〔傍点〕は時の助動詞、とも〔二字傍点〕は助詞。生きてゐるとも無い。生きてゐる心地もしない。
 
     反歌一首
 
947 須磨の海人《あま》の 鹽燒|衣《ぎぬ》の 馴れなばか 一日も君を 忘れて念《おも》はむ
     右作歌の年月未だ詳ならず。但、類を以ての故に此次に戟す。
 
【口譯】 須磨の海人の鹽燒衣がなえるやうに、馴れて親しく逢ふ事が出來たならば、一日でも私はお前を忘れるのでせうか。いつも離れてゐるので忘れかねるのです。
【語釋】 ○須磨の海人《あま》の鹽燒衣の 馴れ〔二字傍点〕にかかる序詞。須磨の海人が鹽燒く時に着る衣は、着古してなえてゐるから、馴れ〔二字傍点〕につづけるのである。○馴れなばか 「馴れて親しく女に逢ふ事が出來るならば……で(46)あらうか」の意である。なばか〔三字傍点〕のな〔傍点〕は助動詞ぬ〔傍点〕(完了の意)の未然形、ば〔傍点〕は接續助詞、か〔傍点〕は疑問の助詞で下の忘れて念はむ〔六字傍点〕にかかつてゐる。○忘れて念ふ〔五字傍点〕 忘るの意。
【後記】 長歌も反歌も旅中、敏馬の浦の風物を見て、それに託して戀情を詠んだもので、殊に反歌は、卷三に「須磨の海人の鹽燒衣の藤服《ふぢごろも》間遠くしあれば末だ著なれず」などの類歌もあり、氣魄に乏しい類型的な感じがある。
【左註】 作歌の年月は明かでないが、前の辛荷の島の歌と同類と見てここに載せたの意。
 
     四年丁卯春正月諸王諸臣等に勅して、授刀寮に散禁せしめらるる時作れる歌一首并に短歌
 
948 眞葛《まくず》はふ 春日《かすが》の山は うち靡く 春さりゆくと 山の上に 霞棚引き 高圓《たかまど》に 鶯鳴さぬ もののふの 八十伴《やそとも》のをは 雁がねの 來つぐ此の頃し かく繼ぎて 常にありせば 友なめて 遊ばむものを 馬なめて 往かまし里を 待ちがてに 吾がせし春を かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしからむと あらか(47)じめ かねて知りせば 千鳥鳴く その佐保川に いそに生ふる 菅の根取りて しぬぶ草 はらひてましを 往く水に みそぎてましを おほきみの 御命《みこと》かしこみ ももしきの 大宮人の 玉桙《たまほこ》の 道にも出でず 戀ふる此頃
     右、神龜四年正月、數王子及び諸臣子等、春日野に集ひて、打毬の樂を作す。その日忽に天陰り雨ふり雷電す。この時宮中に侍從及び侍衛無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁して妄に道路に出づることを得ざらしむ。時に悔恨して即ちこの歌を作る。作者未だ詳ならず。
 
【題意・左註】 諸王諸臣は授刀寮の長官以下の官人、舍人等のこと。授刀寮は授刀舍人寮の略で、天皇親衛の舍人を掌る所。績紀に「慶雲四年七月丙辰始置2控刀舍人寮1」とあり、更に「天平寶字三年十二月甲午置2授刀衛1」また「天平神護元年二月甲子改2授刀衛1爲2近衛府1」とあつて、その沿革を知る事が出來る。打毬の樂は、蹴鞠のことであらう。皇極紀三年春正月の條に、「中臣鎌子連(中略)便附2心於中大兄1疎然未v獲v展2其幽抱1偶預2中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶1而候2皮鞋隨v毬脱落1取2置掌中1前跪恭奉」とある。和名抄雜藝類には「打毬(中略)師説云萬利宇知」「蹴鞠(中略)世間云2末利古由1」と見えてゐるから、蹴鞠の外に杖を以て打つ打毬もあつた事が分る。散禁とは禁足のことである。
(48) 題詞は左註の意を要約して記したものであるが、要するに、神龜四年正月に授刀寮の長官人、舍人等が春日野に集つて、蹴鞠の遊に夢中になつてゐる中、天候が急に變つて雷電ひらめき降雨が激しくなつた。此時宮中には侍從も侍衛もなく、不謹愼であるといふので、禁足の罰を蒙り、授刀寮から外に出る事を禁ぜられたので、心むすぼれて作つた歌である。(【尚、左註は原文には反歌の後に記してあるが、説明の便宜上今こゝに載せた。】)
【口譯】 葛が這つてゐる春日の山は、春になつてゆくとて、山の上には霞が棚引き、高圓山では鶯が鳴いた。武士の多くの部屬の長官達は、歸雁の頻りに飛んで來る此頃、こんなに續いて常にあつたならば、友と打連れて遊ばうものを、馬を並べて彼處の里に行かうものを、早く春が來ればよいにと待ち兼ねてゐたのに、心に思ふのも不思議に畏多く、口に出して言ふのも恐ろしい、こんな散禁といふひどい目に逢ふだらうと、豫め前から知つてゐたならば、千鳥の鳴くあの佐保川で、石に生えてゐる菅の根を取つて、はやく罪を拂ひ清めてしまはうのに、流れる水に御祓をして穢を流してしまはうのに、それも出來ずに、勅命の恐れ多さに、御所に仕へてゐる人々が、道にも出ないで、外を戀しがつてゐる此頃よ。
【語釋】 ○眞葛はふ 山には葛が這つてゐるから、春山〔二字傍点〕にかかる修飾語として用ゐてある。○打靡く 春〔傍点〕の枕詞。春は草木が若々しく、しなひ靡くので、春〔傍点〕につづけて言ふ。○春さりゆくと ゆく〔二字傍点〕はくる〔二字傍点〕と同じ(49)で、春さりくれば、といふのと類似した言ひ方である。春になつてゆくとて、の意。○雁がね かりがねは雁のこと。原文には折木四哭とあるので、從來種々に解き惱んでゐたのであるが、喜多村節信の折木四考及び木村正辭のその補正によつて、それがかりがね〔四字傍点〕の戯書である事が明かになつた。其説を要約すると次の如くになる。和名抄雜藝部に「兼名苑云樗蒲一名丸采【内典樗蒲賀利宇智】又陸詞曰〓【〓〓、和名加利】〓〓樗采名也」とある。折木四〔三字傍点〕はこの樗蒲の事であつて、其は小木を薄く削て兩邊を尖らせ、其形は杏仁を削《そ》いだやうである。その半面は白く半面は黒く塗つて、白い方の二つに雉をかき、黒い方の二つに犢をかき、これを投げてその采色によつて勝負をする。但、西土では五木と言つて、其采が五つあるけれども、わが國では四つだつたので、折木四と記したのである。從つてこれをカリといふ音を現すのに用ゐたのである。尚、樗蒲を加利といふのは梵語であらう。飜譯名義集卷三帝王篇に「歌利、西域云羯利王、唐言2闘諍1、舊云2歌利1訛也」とある。○來繼ぐ此頃し 原文には來繼皆石とあるが、萬葉考に來繼比日石の誤としたのに從つて、キツグコノゴロシと訓んで置く。○かけまくも 心にかけて思ふのにも。下の言はまくも〔五字傍点〕に對す。○ゆゆしからむと こんなに忌はしい、恐ろしい目に逢はうと、の意。禁足を命ぜられた事を指す。○菅の根取りて 祓をする爲に菅の根のまま引き拔いたのである。○しぬぶ草拂ひてましを しぬぶ草〔四字傍点〕は祓に用ゐる草であらう。それを枕詞式に用ゐて、罪を拂ひ清める意を示す。拂ひてましを〔六字傍点〕は拂はうものを、の意。○玉桙の 道〔傍点〕の枕詞。古代の鉾には乳《ち》(小さい幡をつくる爲の孔を有す)が必ず附いてゐたので、そのチの語の縁で道〔傍点〕の枕詞となる。
 
(50)     反歌一首
 
949 梅柳 過ぐらく惜しみ 佐保の内に 遊びしことを 宮もとごろに
 
【口譯】 梅や柳の面白い盛が過ぎてしまふのが惜しさに、佐保の中で出て遊んだ事を宮中にやかましく言ひ騷いでゐる。
【語釋】 ○佐保の内に 左註には春日野に集つたとあるが、佐保は春日野の一部と見なされてゐたものであらうか。○宮もとどろに 宮中にやかましく騷いでゐるの意。卷十八に「鈴かけぬ早馬《はゆま》下れり里もとどろに」とある。
【後記】 事件が異常なものであるだけに、内容も表現も特色があつて面白い。打毬の興に乘じて遊び過ぎた爲 不謹愼の廉で禁足を蒙つたので、左註に悒憤して此歌を作るとあるが、大して不平怨恨の氣持はなく、ひたすら恐れ入つて謹愼してゐる樣が見える。
 
     五年戊辰難波宮に幸せる時作れる歌四首
 
(51)950 大君の 界《さかひ》賜《たま》ふと 山守《やまもり》すゑ 守《も》るとふ山に 入らずは止《や》まじ
 
【題意】 この行幸の事は續紀には見えてゐない。左の四首はいづれも戀の歌で、行幸に從つてゐる趣が見えない。元暦校本には、宮〔傍点〕の下に時〔傍点〕の字がある。目録にもあるから、元あつたものが落ちたのであらう。なほ目録に車持朝臣千年の作れる歌とあるのは、左註によつて書いたものである。
【口譯】 大君が境界をお立てになるとて、山の番人を据ゑて、番をなさるといふ神聖な山にも、私は入らないでは置くまい。(親がきびしく番をしてゐるあの女に逢はずに置くものか、といふ意を寓す)
【語釋】 ○界賜ふ 境界をお立てになる、の意。さかひ〔三字傍点〕はもとはさかふ〔三字傍点〕といふ動詞から出た語であるが、この場合は名詞であつて、動詞の賜ふ〔二字傍点〕の賓格に立つてゐる。○守るとふ山 原文には守云山とあるので、モルトイフヤマ、モルチフヤマとも訓めるが、聲調の上からモルトフヤマと訓んで置く。○入らずは止まじ 入らないでは止むまい、の意。ずは〔二字傍点〕のは〔傍点〕は清音によむ。ず〔傍点〕は打消の助動詞の連用形、は〔傍点〕助詞で輕く添へたもので、「……せずしては」、「……せずには」の意を示す。
【後記】 上句の「大王の云々」は少しおほけない氣がするが、親の監視の嚴重さはさもあらうか。
 
(52)951 見渡せば 近きものから いそがくり かがよふ珠を 取らずは止まじ
 
【口譯】 見渡すとすぐ近くにあるけれども、石の影に隱れて、光り輝いてゐるあの珠を、取らないでは置くまい。(目の前に見えてゐて、邪魔するものがある爲に逢へない美女に、どうかして逢ひたい、の意を寓す)
【語釋】 ○近きものから 近くはあるけれども。ものから〔四字傍点〕はものながら〔五字傍点〕で、否定の意を現す。卷十一に「あひ見ては面隱さるるものからに繼ぎて見ましの欲しき君かも」とある。○いそ隱り 海邊の巖に隱れてゐることで、邪魔があつて容易に逢へない意を寓す。○かがよふ珠 光り輝いてゐる珠。美女に譬へてある。
【後記】 比喩巧妙。卷七の寄v玉歌の「海の底しづく白玉風吹きて海は荒るとも取らずは止まじ」に多少似てゐる。
 
952 韓衣《からごろも》 著奈良《きなら》の里の しま松に 玉をしつけむ 好《よ》き人もがも
 
【口譯】 奈良の里の庭園の松の木に、珠をつけてくれる立派な人があればよいがなあ。(奈良の里の美女を愛してくれる紳士があればよい、の意を寓す)
(53)【語釋】 ○韓衣著奈良の里 韓衣を著なれるといふ意から、奈良〔二字傍点〕にかけて言ふ。枕詞は五言よりなるもののみに限るとすれば、これは序詞と見ねばならぬ。○しま松 しま〔二字傍点〕は山齋、庭園のこと。萬葉卷五に「君が行け長くなりぬ奈良路なるしまの木立も神さびにけり」とある。○好き人もがも 好き人は卷一に「淑《よき》人のよしとよく見て好しと言ひし吉野よく見よよき人よくみ」とあるのと同じく、君子紳士のこと。美女の好偶として君子が欲しいといふ意である。
【後記】 攷證の説の如く譬喩歌と見ないで、文字通りに解釋する事も出來るが、其にしては下句の表現が餘り仰山に過ぎる。やはり女を松に譬へて、それに配すべき好き人を望んだのであらう。同じく戀歌ではあるものの、自己の戀愛を詠んだものでない點に特徴がある。
 
953 さ男鹿《をじか》の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君に はた逢はざらむ
     右、笠朝臣金村の歌中に出づ。或は云ふ、車持朝臣千年作れり。
 
【口譯】 男鹿が妻を喚んで鳴く山を越えて別れて行く日だけでも、私は貴方にやはりまた逢へないのであらうか。(常には逢へないでも、出發の日だけでも逢ひたいものを。)
【語釋】 ○さ男鹿の さ〔傍点〕は接頭語で意味はない。さ夜〔二字傍点〕・さ衣〔二字傍点〕の類に同じ。○越え行かむ 次の日〔傍点〕に續く。行(54かむ〔三字傍点〕は連體形である。○日だにや君にはた逢はざらむ せめて出發の日だけでも、やはりまた貴君に逢へないのであらうかの意。常に逢へないのは諦めても、どうか出發の日だけは逢ひたいといふ餘意を示してゐる。はたや〔三字傍点〕のはた〔二字傍点〕は、また〔二字傍点〕に似て、しかも詠嘆の意を含ませたもの、や〔傍点〕は疑問の助詞である。卷十五に「吾が故にはたな思ひそ」、卷十六に「痩痩《やすやす》も生けらばあらむをはたやはた鰻《むなぎ》を取ると河に流るな」とある。
【後記】 これは戀の歌ながら譬喩歌でなく、旅中矚目した妻戀ふ鹿を捕へて、自己の心境を叙してゐる。
【左註】 歌〔傍点〕の下に集〔傍点〕の字を脱したのであらう。左註の意は、笠朝臣金村の歌集中に出てゐる歌であるが、作者を車持朝臣千年といふ傳へもあるといふのである。
 
     膳王《かしはでのおほきみ》の歌一首
 
954 朝《あしね》には 海邊にあさりし 夕されば 大和へ越ゆる 雁しともしも
     右、作歌の年審ならす。但、歌の類を以て便ち此の次に載す。
 
【口譯】 朝には海岸で餌をあさり、夕方になると故郷の大和の方へ越えて行く雁は羨しいなあ。
【左註】 右の歌は作歌の年が明かでないが、右の行幸の時の歌らしく思はれるから、ここに載せる、といふ意。
 
(55)     大宰少貳石川朝臣足人の歌一首
 
955 さすたけの 大宮人の 家と住む 佐保の山をば 思ふやも君
 
【口譯】 大宮人が家として住んでゐる奈良の佐保の山を思ひ出されますか、あなたは。
【語釋】 ○さすたけの さす〔二字傍点〕は瑞枝《ミヅエ》さす〔二字傍点〕などのさす〔二字傍点〕と同じく、丈のよく伸びた意で、さすたけ〔四字傍点〕は即ち脩竹のことであらう。これを君〔傍点〕、大宮〔二字傍点〕などに續けて言ふのは、竹の繁茂して盛なる姿によそへて、祝福する意味を含めたものであらうか。或は福井久藏氏の説の如く、萬葉歌人がてし〔二字傍点〕といふ假字に義之の字をあてたのと同じ心理から、晋の王之猷が竹をさしてこの君と言つた故事などを思ひあはせて、さす竹の君〔五字傍点〕と續くのが本で、其から轉じて君の居處即ち大宮にもかけて言ふやうになつたものであらうか。猶考ふべきである。
【後記】 佐保は大伴氏の邸宅のある所であるから、久しく筑紫の果に住んでゐる旅人には、都を戀ふる情もさぞかし深いであらうといふのである。作者の石川朝臣足人は卷四(五四九)に神龜五年に太宰府から遷任して都に上つたよしが見え、この歌もそれと同年であるから、内容上から推しても、その遷任の事が定つてから、旅人に贈つたものかも知れぬ。果して其時の作としても、皮肉のこもつた歌ではなくて、寧ろ同情のある慰問の語ではあるまいか。
 
(56)     帥大伴卿|和《こた》ふる歌一首
 
956 やすみしし わが大君の をす國は 大和もここも 同じとぞ思ふ
【口譯】 わが大君の御支配遊ばされる國は、大和でも此處(太宰府)でも同じことであると思ふ。
【語釋】 ○をす國は 流布本には原文御念國者とあるので、ミケツクニハとも訓めるが、元暦校本等に御〔傍点〕の字がないのに據つて、ヲスクニハと訓むのが穩當であらう。○大和もここも やまと〔三字傍点〕は原文に日本とあるが、畿内の大和のこと、ここ〔二字傍点〕は筑紫の太宰府。
【後記】 右の石川足人の歌に和へたもので、多少は瘠我慢の氣特もあつたかも知れぬが、厚き皇恩の下に生活する者の幸福は、都鄙の別なく到る處に於いて同じであるといふ、大君の赤子としての忠誠の言と見るのがよいと思はれる。表面的な意味のみでなく、一首を貫く聲調の上から見ると、これを單なる外交的辭令と解すべからざる事が分るのである。
 
     冬十一月、太宰官人等、香椎廟を拜み奉り訖《を》へて退《まか》り歸りし時、馬を香椎浦に駐《とど》めて各々懷を述べて作れる歌
 
(57)     帥大伴卿の歌一首
 
957 いざ兒ども 香椎の潟に 白妙の 袖さへ現れて 朝菜|採《つ》みてむ
 
【題意】 香椎は和名抄に「筑前國糟屋郡香椎加須比」とある所で、福岡市の東北二里の地、福岡灣に面してゐる。香椎廟は今の官幣大社香椎宮で、神功皇后を合祀してゐる。香椎宮に參拜の歸途、香椎浦の絶景を賞した歌である。
【口譯】 さあ、お前達よ、香椎の浦の潮の干潟で、袖までも沾らして朝食の海藻を採まうよ。
【語釋】 ○いざ兒ども いざ〔二字傍点〕は他を促す語で、さあといふのに當る。兒ども〔三字傍点〕は親しんで言ふ語で、ここは從者達をさす。卷一に「いざ兒ども早く大和へ大伴の御津の濱松待ち戀ひぬらむ」とある。○香椎の潟 香椎の浦は遠淺であるから、干潟となるので、香椎の潟と言つたのである。○白妙の 袖〔傍点〕の枕詞であるが、ここは從者達が白い着物を着てゐた爲、かう言つたのであらう。○朝菜 朝食の料として摘む海藻のこと。
【後記】 旅人らしい明朗な調の中に淡々たる風趣がある。「いざ兒ども」と呼びかけて「朝菜苅りてむ」と歌ひ收めてゐる所、長官らしい品格が見える。
 
     大貳小野老朝臣の歌一首
 
(58)958 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻苅りてな
 
【口譯】 潮時の風が吹くべき頃となつて來た。この香椎潟の潮の干た海岸で、潮のさして來ない中に玉藻を苅らうよ。
【語釋】 ○時つ風 潮時の風、即ち潮の滿ちて來る時に吹いて來る風。○玉藻苅りてな 玉藻を苅らうよ、の意。苅りてな〔四字傍点〕のな〔傍点〕は自己の希望を現す助詞である。卷一に「岡の草根をいざ結びてな」とある。て〔傍点〕は助動詞つ〔傍点〕の未然形である。希望の助詞のな〔傍点〕は助動詞及び動詞の未然形につく。
【後記】 旅人の作が長官らしい餘裕を備へてゐるのに對して、小野老のこの歌は自ら潮干の浦で玉藻を苅らうといふのである。平明な調の歌で、相當の作である。
 
     豐前守|宇努首男人《うぬのおびとをひと》の歌一首
 
959 往《ゆ》き還《かへ》り 常に吾が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし
 
【口譯】 任國の豐前から太宰府への往き還りに、何時も私が見た香椎潟を、これから任が解かれるので、明日からは見る術もない。
(59)【語釋】 ○往き還り 往きにも還りにも。任國の豐前から太宰府に通ふ路に、香椎潟が當つてゐたのである。○明日ゆ後には見むよしもなし 任を解かれるので、明日からは見たくとも、見よう術もない、といふのである。この歌は神龜五年の作であるが、政事要略に、養老四年に豐前守宇努首男人を將軍として、隼人征伐に遣した由が見えるから、養老四年から神龜五年まで九年間も、この任にあつたと思はれ、少し任期が永渦ざるやうであるが、ともかく、この歌は任を解かれた時の述懷であらうと考へられる。
 
     帥大伴卿遙に芳野離宮を思ひて作れる歌一首
 
960 隼人《はやひと》の 湍門《せと》の磐《いはほ》も 年魚《あゆ》走る 芳野《よしぬ》の瀧に なほしかずけり
 
【口譯】 隼人の國の薩摩の瀬戸の磐もよい景色ではあるが、しかし鮎の走つてゐる芳野の瀧の景色にはやはり及ばないことだ。
【語釋】 ○隼人の湍門の磐 卷三に「隼人の薩摩の迫門《せと》を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも」とあるやうに、隼人の薩摩の湍門とあるべきを略したのである。隼人〔二字傍点〕は國名。この湍門〔二字傍点〕は薩摩と長島の間の黒瀬戸である。磐〔傍点〕は流布本には盤〔傍点〕とあるが、元暦校本等に磐〔傍点〕となつてゐるのに從ふ。但、木村博士の説の如く、磐と盤は昔は通用したのかも知れぬ。○なほしかずけり やはり及ばないことだ、の意。後世ならば、若か(60)ざりけりと謂ふべき所を、當時は若かずけり〔五字傍点〕と打消の助動詞ず〔傍点〕の連用形からけり〔二字傍点〕に續けて言つたのである。
【後記】 旅人が太宰帥として、薩摩方面に巡視した折の作であらうが、薩摩の瀬戸の好景に接しながらも、猶故郷大和なる芳野の瀧を戀ふる情が、平明な調の中によく現れてゐる。旅人にはこの外にも「吾が命も常にあらぬか昔見し象の小河を行きて見む爲」といふ望郷の作がある。
 
     帥大伴卿、次田温泉《すぎたのゆ》に宿りて鶴の喧《な》くを聞きて作れる歌一首
 
961 湯の原に 鳴く蘆鶴《あしたづ》は 吾が如く 妹に戀ふれや 時わかず鳴く
 
【題意】 次田《すぎた》温泉は和名抄に「筑前國御笠郡次田」とある所で、後にすいだの湯といひ、今は武藏温泉と呼んでゐる。筑紫郡二日市村にある。天拜山の麓にあつて、太宰府からさして遠くはない。
【口譯】 湯の原で鳴く葦鶴は、私のやうに妻を戀ひ慕ふからであらうか、何時といふ區別もなく絶えず鳴くことである。
【語釋】 ○湯の原 湯泉の湧き出る平地で、それが固定して地名となつてゐるのであらう。葦などが茂つて鶴の鳴いてゐた所と思はれる。○妹に戀ふれや 妹に戀ふればにや、の意で、即ち、妻を戀しく思ふから(61)であらうか、といふ意である。戀ふれ〔三字傍点〕といふ已然形のみで、戀ふれば〔四字傍点〕といふ意味を現すのは、當時の一般の語法であつて、これをば〔傍点〕を省略したと説くのは當らない。猶、戀ふ〔二字傍点〕といふ動詞は今日はを〔傍点〕助詞を受けて、君を戀ふなど言ふが、萬葉時代にはすべてに〔傍点〕助詞を受けて「君に戀ふ」「妹に戀ふ」など言ふ。これは相手をどうするといふが如き能動的な意味でなく、寧ろ相手に對する自分の氣持を主にした言ひ方であつて、強ひて言へば「妻に對して自分が戀しく思ふ」といふやうな氣持を現してゐる。
【後記】 卷五の胃頭の歌によつて察すると、旅人はこの神龜五年五月頃に妻を失つてゐるから、この歌の「吾が如く妻に戀ふれや」といふ句は、單なる慣用語ではなく、死別した妻を戀ふる萬斛の涙が籠つてゐるもののやうに感ぜられる。平明な調の中に惻々として人の心に迫るものがあるのは、さうした實感に基いてゐる爲であらう。
 
     天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴|道足《ちたり》宿禰を遣はせる時の歌一首
 
962 奥山の 磐《いは》に蘿《こけ》むし 恐《かしこ》くも 問ひたまふかも 思ひ敢《あ》へなくに
     右、勅使大伴道足宿禰を師の家に饗す。此の日會集の衆諸|驛使葛井連《はゆまづかひふぢゐのむらじ》廣戚を相誘ひ、歌詞を作るべしといふ。登時《そのとき》廣成聲に應じて即ち此の歌を吟《うた》へりき。
 
(62)【題意・左註】 天平二年に大伴道足宿禰が勅命によつて擢駿馬使として、太宰府に來たので、大伴旅人の宅に於てこれを饗應したが、其際驛使の葛井連廣成に諸々の人が歌を作るやうに勸めたから、廣成が即座に詠んだ歌である。擢駿馬使とは駿馬を拔擢する勅使で、臨時に諸國に遣はされたものである。當時道足は右大辨で正四位下であつたから、大伴家一族では旅人に次ぐ高官だつたので、太宰府に於て大に歡迎されたものと思はれる。驛使とは令集解に「驛使謂d送2文書1使u也」とあつて、驛馬に乘つて文書を通達する急使である。廣成は當時六位の卑官ではあつたが、驛使の任は餘り卑いやうに思はれる。何か太宰府に急用があつて、派遣せられたものであらう。
【口譯】 奥山の巌に蘿《こけ》の一ぱいにはびこつてゐるのは、見るからに恐ろしげに思はれますが、そのやうに畏多くも歌を詠めと仰せらるゝことであるよ、私などは歌は思ひつく事も出來ませんのに……。
【語釋】 ○奥山の磐に蘿むし 恐くも〔三字傍点〕の序。深山の巌に苔の生えてゐるのは、如何にも恐ろしげに見えるからである。卷七に「奥山の石《いは》に蘿むし恐けど思ふ情を如何にかもせむ」とある。廣成はこの歌を踏まへて、即座に機智を働かして歌ひかへたのである。○問ひ賜ふかも 歌はいかが、歌を詠めと仰せられることよ、の意。かも〔二字傍点〕は詠嘆の助詞である。○思ひ敢へなくに 歌などはとても思ひつく事は出來ませんのに、の意で、謙遜の氣持と當惑の樣子とを餘情に含ませてゐる。あへなくに〔五字傍点〕のあへ〔二字傍点〕は動詞あふ〔二字傍点〕の未然形(63)で、出來る・能ふといふ意、な〔傍点〕は打消の助動詞ぬ〔傍点〕の未然形、く〔傍点〕は上の動詞や助動詞を受けて、名詞的になす作用を有する按尾辭で、「……すること」「……するの」といふやうな意味を現すもの、に〔傍点〕は副助詞であるから、あへなくに〔五字傍点〕で出來ないのにといふ意味になるのである。(參考語――言はなく〔傍点〕に、行かなくに)。
【後記】 晴の席での即興の作であつて、古歌を換骨奪胎して、其の場に適はしいやうに改めた手腕は認むべきかも知れぬが、歌として見ると決して傑れた作ではない。又、即興を喜ぶのも歌道から言へば邪道である。
 
     冬十一月大伴坂上郎女、帥の家を發し道に上りて、筑前國|宗形《むなかた》郡名兒山を超ゆる時作れる歌一首
 
963 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなひこな》の 神こそは 名づけ始《そ》めけめ 名のみを 名兒山《なごやま》と負ひて 吾が戀の 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も 慰めなくに
 
【題意】 坂上郁女が暫く旅人の任地太宰府に來てゐたが、今別れを告げて都に上る途すがら、筑前國宗形郡の名兒山を超ゆる時詠んだ歌である。筑前續風土記に「宗像部名兒山、田島の西の山なり。勝浦の方より田島へこす嶺なり。田島の方の東の麓を名兒浦といふ。昔は勝浦潟より名兒山を越え、田島より垂水越を(64)して、内浦を通り、蘆屋へゆきしなり。これ昔の上方へ行く大道なり」とある。
【口譯】 大己貴《おほなむち》神と少彦名神とが實にこの山を名兒山とお名付けになつたのであらうが、しかしこの山は名ばかり名兒山と言はれてゐて、ほんとは私の戀の思の千分の一も慰めはしないことよ。
【語釋】 ○大汝《おほなむち》 大己貴神、即ち大國主神のこと。○少彦名の神 神産巣譬神の御子で、其の指の股から漏れて行かれたといふ小さい神である。○名のみを名兒山と負ひて 名を負ふ〔四字傍点〕は「……といふ名を持つ」といふ意であるから、名ばかり名兒山といつてゐて、といふ意になる。名兒《ナゴ》といふ名から類似の和《な》ぐを聯想して、戀の思を慰めないから、名兒山はその名に背くと恨んだのである。○慰めなくに 流布本に奈具佐末〔右○〕七國とあるのは誤であつて、元暦校本に末〔傍点〕が米〔傍点〕になつてゐるのに從ふべきである。なくに〔三字傍点〕は前の歌の場合にも説明したが、ここの慰めなくにのやうな場合は、「慰めはしないのに、それだのに……」といふ風に譯すると、餘り語に囚はれ過ぎて歌の情趣が却つて失はれてしまふ。唯、戀の思も慰めないことよ、といふ程の意に解して置くがいいと思はれる。
【後記】 この歌の前半は卷三の「大汝少彦名のいましけむしづの石室《いあはや》は幾代へぬらむ」卷七の「大穴牟遲《おほなむち》少御神《すくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも」などから、又後半は卷七の「名草山言にしありけり吾が戀の千重の一重も慰めなくに」などから暗示を得て作つたものらしい。作(65)者の大伴坂上郎女は才氣煥發の歌人であるが、この歌の如きは稍々才氣に溺れた所があつて、實感よりも寧ろ言葉の綾を弄し過ぎてゐるやうに思はれる。
 
     同じき坂上郎女、京に向ふ海路に濱の貝を見て作れる歌一首
 
964 吾背子に 戀ふれば苦し 暇あらば 拾ひて行かむ 戀忘貝《こひわすれがひ》
 
【口譯】 私の兄上を戀ひ慕へば、心が苦しくて堪らない。それで暇があれば、戀を忘れさせるといふ忘貝を拾つて行かう。
【語釋】 ○吾背子 背《せ》は男子に對して親しんで言ふ語で、主として女子から男子に對して言ふのであるが、男子同志で背と呼び合ふ事もある。子《こ》は親愛の意を現す語である。吾背子〔三字傍点〕はこの歌では大伴坂上郎女が其の兄の旅人を指してよんだものと思はれる。○戀忘貝 戀を忘れさせるといふ忘貝(貝の名)。
【後記】 卷七に「暇あらば拾ひて行かむ住吉の岸に因るとふ戀忘貝」とある歌の模倣である。兄の旅人から離れてゆく淋しさに、濱邊の貝の名に打ち興じた作であるが、大して傑れた歌ではない。
 
(66)     冬十二月太宰帥大伴卿京に上る時娘子の作れる歌二首
 
965 凡《おほ》ならば かもかもせむを 恐《かしこ》みと 振りたき袖を 忍びてあるかも
 
【題意】 旅人が大納言になつて.太宰府から京に歸る時、娘子が名殘を惜んで詠んだ歌である。娘子は左註によると遊行女婦の兒島といふ女である。猶、左註参照。
【口譯】 貴方が普通の官位の低い方ならば、勝手にあゝもかうも致しませうものを、貴方は貴い方ですから恐れ多く思ひまして.振りたい袖を振らずに我慢してゐますのよ。
【語釋】 ○凡《おほ》ならば 貴人でない、普通の身分卑しい人であるならば、の意。卷十一に「凡ならば誰が見むとかもぬばたまの我が黒髪を靡けて居らむ」卷三に「わが大君天知らさむと思はねば凡にぞ見ける和豆香杣山」とある。○かもかもせむを 原文に左毛右毛將爲乎とある。ああもかうもしようものを、の意。卷七に「言痛《こちた》けばかもかも爲むを石代《いはしろ》の野邊の下草吾し苅りてば」卷八に「この岳に小鹿踏み起てうかねらひかもかもすらく君故にこそ」とある。かもかもせむを〔七字傍点〕のを〔傍点〕は感動の助詞である。○恐《かしこ》みと かしこし〔四字傍点〕といふ形容詞の語根にみ〔傍点〕といふ接尾辭がついたもので、と〔傍点〕はそれを受けて副詞的にする助詞であつて.この場合はさして深い意味はない。即ち、單にかしこみ〔四字傍点〕といふのと大差はない。卷三に「恐《かしこ》みと仕へまつりて」(67)卷十一に「皇祖《すめろぎ》の神の御門を懼《かしこ》みと侍從《さもら》ふ時に相《あ》へる公かも」とあるのもこれと同じい。恐れ多いから、かしこき極みであるから、の意であって、旅人が貴族である爲に、娘子が恐れ憚つた氣持である。○忍びたるかも 振りたい袖を振らずに我慢したことである、の意。しぬぶ〔三字傍点〕には多義があるが、ここは忍耐の意に用ゐてある。
 
966 大和|道《ぢ》は 雲隱りたり 然れども 我が振る袖を 無禮《なめし》と思《も》ふな
     右は太宰帥大伴卿、大納言に兼任して京に向ひて道に上る。此の日馬を水城《みづき》に駐めて府の家を顧み望む。時に卿を送る府吏の中に遊行女婦あり。其の字《な》を兒島と曰《い》ふ。ここに娘子、此の別れ易きを傷《いた》み、彼の會ひ難きを嘆き、涕を拭ひ自《みづか》ら袖を振る歌を吟《うた》ふ。
 
【口譯】 貴方の御故郷の大和へ行く道は、遙かの方に雲に隱れてゐます。併し貴方が見えなくなるまで、貴方を慕つて私が振ります袖を、失禮なことだと思つて下さいますな。
【語釋】 ○大和道《ぢ》 大和へ行く道。道《ぢ》はそこにある道の意味の場合もあるが、この歌の場合はそこに行く道の事を意味してゐる。○雲隱りたり かくる〔三字傍点〕は後世は下二段に變つたが、當時は四段活用であつた。ここ(68)で句切である。○然れども 大和道は雲に隱れて、遠く隔つてゐるが、しかし貴方がその道を通つて遙かに見えなくなるまで、袖を振つて名殘を惜しみたい、といふ餘意を含めてゐる。これを唯、「しかしながら」と譯しては、前後の意味の續き工合が明かでない。○無禮《なめし》と思ふな なめし〔三字傍点〕は原文に無禮とある通り、禮を失するといふ意味の形容詞であるが、他の活用形は傳つてゐない。卷十二にも「妹といふほ無禮《なめし》 かしこし」とある。思ふな〔三字傍点〕のな〔傍点〕は勿れの意。私が身分をも顧みずに袖を振るのを無禮だと思つて下さいますなの意である。
【後記】 右の二首は相俟つて作者の情意を言ひ盡してゐる。前の歌では、貴人に對して別離の悲しみを抱きながらも、猶遊女なる自分の身の卑賤を忘れかねて、振りたい袖を忍んでゐる、虔しい女らしい氣持が、あはれ深く汲み取られる。後の歌では、しかしさすがに遠く離れ去つて、又何時會ふとも知れぬ淋しさに、思ひ餘つて、袖を振らずには居られない。しかし其も失禮に當りはせぬかと、氣遣つてゐる、いぢらしい心が見える。この作者兒島は、旅人が在任中は宴席に侍して親しんだ者であらう。
【左註】 題詞の意を敷衍して精しく述べたのである。水城は水を湛へて敵を防ぐ城塞であつて、天智天皇の御代に、太宰府防禦の爲に築かれたのである。天智紀に「三年於2對馬島壹岐島筑紫國等1置2防與烽1、又於2筑紫1築屡々2大堤1貯v水、名曰2水城1」とある。府家は都督府の家。遊行女婦は和名抄に、「遊女、揚子漢(69)語抄云、遊行女兒和名宇加禮女又云2阿曾比1」とあつて、遊女のことである。
 
     大納言大伴卿の和《こた》ふる歌二首
 
967 大和道《やまとぢ》の 吉備《きび》の兒島を 過ぎて行かば 筑紫の兒島 思ほえむかも
 
【題意】 次の二首は右の兒島の歌に旅人の和へた歌である。
【口譯】 大和に行く道中にある吉備の國の兒島を過ぎて行くと、筑紫の國の兒島のことが思ひ出される事であらうなあ。
【語釋】 ○吉備の兒島 今の岡山縣の兒島で、今は半島になつてゐるが、當時は島であつた。○筑紫の兒島 筑紫にゐる兒島といふ女子のこと。○思ほえむかも 思ひ偲ばれることであらうなあ、の意。かも〔二字傍点〕は詠嘆の助詞である。
【後記】 兒島といふ遊女の名に因んで、吉備の兒島を持ち出したのであつて、語戯に墮してゐるやうに思はれる。
 
968 大夫《ますらを》と 思へる吾や みづくきの 水城《みづき》の上に 涙|拭《のご》はむ
 
(70)【口譯】 立派な男子と思つてゐる自分が、この水城の上で別れの、悲しさに涙を拭ふのであらうか。(どうしてこんなに女々しい涙が出るのだらうか。)
【語釋】 ○大夫と思へる吾や 大夫〔二字傍点〕は大丈夫〔三字傍点〕の略で、マスラヲとよむ。勇氣あり、教養ある、立派な男子の意で、萬葉時代の男子はますらを〔四字傍点〕を以て自ら任じてゐたのである。卷二に「大夫や片戀せむと嘆けども醜《しこ》の大夫なほ戀ひにけり」卷十二に「天地に少し至らぬ大夫と思ひし吾や雄心もなき」とある。や〔傍点〕は疑問の助詞で、この大丈夫にしてなほ未練の涙があるのかと、自ら疑つたのである。○みづくきの 水城〔二字傍点〕にかかる枕詞で、みづ〔二字傍点〕の音を繰返して修飾するものであらう。(恰もつがのきの〔五字傍点〕がいやつぎつぎに〔七字傍点〕にかかるやうな風の枕詞である。)但、語義は未詳である。宣長の玉勝間には、みづくき〔四字傍点〕は瑞々しい莖の意で、集中に他にみづくきの岡〔六字傍点〕とあるのも、地名ではなく、稚《ワカ》の意によつて續く枕詞であると説いてゐるが、猶考ふべき問題である。○水城の上に 略解や古義に「みづきの上は水城のほとりといふが如し」とあるが、水城は元來大きな堤であるから、その大堤の上でといふ意味に解して差支へない。前記の左註に「馬を水城に駐《とど》めて、守の家を顧み望む」とあるのも、水城の上から顧望した事を示してゐる。○涙拭はむ 思はず涙を流して、それを押し拭はうの意。上の、大夫と思へる吾や〔二字傍点〕のや〔傍点〕が、ここにかかつて來る。なみだ〔三字傍点〕の意を原文に泣〔傍点〕の字で現してゐる。
【後記】 大丈夫を以つて自任してゐる旅人も、別離に際して示された娘子のあはれさに、思はず(71)涙を垂れたのである。ますらをたる自分も猶泣くのであらうかと、自ら疑つてゐる。人情の機微を寫し出して餘蘊がない。前作にまさる事數段、旅人の歌中での一傑作である。
 
     三年辛未、大納言大伴卿寧樂の家に在りて故郷を思ふ歌二首
 
969 しましくも 行きて見てしか 神名火《かむなび》の 淵はあせにて 瀬にかなるらむ
 
【題意】 大伴旅人が寧樂の家にゐて、生れ故郷の神名備の里、即ち飛鳥を偲んで詠んだ歌である。
【口譯】 暇があつたら暫くでも行つて見たいものだ。故郷の飛鳥の神南備川の淵は、淺くなつて瀬になつたらうか。
【語釋】 ○しましくも 原文に須臾とあるが、卷十五に「思末志久母《しましくも》見ねば戀しき」「之末思久毛《しましくも》妹が目かれて」などあるのに據つて、シマシクモとよむ。暫くでも、ほんの一寸の間だけでもの意。○行きて見てしか 行つて見たいものである。(既出) ○神名火の淵 かむなび〔四字傍点〕は本來、眞淵の説のやうに、神の森の義であるから、到る處に有り得べき地名であるが、大和の國では古來、三輪と飛鳥と葛城とが、有名であつた。ここは飛鳥の神南備山の下を流れる飛鳥川を指して言つたものと思はれる。六人部是香の龍田考に「卷六大納言大伴卿在2寧樂家1思2故郷1歌に、しばらくも行きて見てしか神名火の淵はあせびて瀬にか(72)なるらむとあるを卷八に此旅人卿の孫なる大伴田村大孃が其妹坂上大孃に送れる歌に、ふるさとの奈良思の岳のほととぎすとあるに考へ合すれば旅人卿までの本居は龍田の南なる奈良思岡にありし事あきらかなり」とあるが、卷三の旅人作の「萱草吾が紐につく香具山の古にし里〔八字傍点〕を忘れぬが爲」を考へ合せると、今の歌の場合はなほ飛鳥方面の神名火であらう。○あせにて 淺《あせ》にてで、あす〔二字傍点〕といふ動詞の連用形に、助動詞ぬ〔傍点〕(完了の意)の連用形が接し、それに接續助詞のて〔傍点〕がついたもの。舊訓にあさびて〔四字傍点〕とあるが、卷三に「久方の天の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊てし高津は淺爾家留香裳《あせにけるかも》」とあるのに基き古義にあせにて〔四字傍点〕と訓んでゐるのに從ふ。淺くなつての意である。○瀬にかなるらむ 瀬になつたらうか、の意。か〔傍点〕は疑問の助詞である。
【後記】 久しく太宰府にゐて、故郷を戀うてゐた旅人は、年願が叶つて今や寧樂の里に歸つて來たが、故郷の飛鳥のほとりはどうなつてゐるのであらうか、暫くでも行つて眺めたいと思つたのである。飛鳥川の淵瀬の變異のはげしいのは、古來有名であるが、久し振りに故郷の地を踏んだ旅人には、殊にそれが心がかりであつたらう。彼が太宰府にあつて詠んだ「吾が行《ゆき》は久にはあらじ夢《いめ》の和太《わだ》湍《せ》にはならすて淵にてあれも」も、やはり同樣な氣持を現してゐる。
 
970 指進《さしずみ》の 栗栖《くるす》の小野の 萩が花 散らむ時にし 行きて手向《たむ》けむ
 
(73)【口譯】 故郷の栗栖の小野の萩の花を、盛りの時に土地の神に手向けようとは思ふが、暇がなくて行けないから、花が散りさうな時に、行つて手向ける事であらう。
【語釋】 ○指進の 栗栖〔二字傍点〕にかかる枕詞のやうであるが、語義未詳である。福井久藏氏の「枕詞の研究と釋義」に「さしずみとは大工のもてる墨斗《すみさし》なるべく、繰りて墨絲を出すものなれば、その類音なる栗栖といふ大和の地名にかけたり」とある。○栗栖の小野 和名抄に「大和國忍海郡栗栖」とある所であらう。それならば今、南葛城郡にあり、飛鳥から數里隔つた地であるから、前の歌の場所と餘かけ離れ過ぎてゐるやうである。或は飛鳥の附近にも、古く栗栖といふ地があつたのかも知れぬ。○萩が花 原文が流布本に茅花とあるのは誤で、元暦校本に芽花とあるのが正しい。はぎ〔二字傍点〕を集中に芽、芽子などと記してゐる。○散らむ時にし 最盛りの時は暇が無くて行けないから、せめて花の散りさうな頃に、といふ意である。時にし〔三字傍点〕のし〔傍点〕は強めの助詞。○行きて手向けむ 故郷の土地神に萩の花を手向けようといふ意。
【後記】 大納言の職務に忙殺されて、故郷の萩の花が空しく咲き散るのを惜しんだ歌である。旅人はこの年の七月に薨じてゐるが、其時に金明軍が詠んだ歌に、「かくのみしありけるものを萩が花咲て有りやと問ひし君はも」とある。病臥中も絶えず故郷の神名備川や栗栖の小野の事を偲びながら、遂にそこを訪づれる暇がなくて、淋しく此世を去つて行つた事であらう。
 
(74)     四年壬申、藤原宇合卿の西海遺節度使に遣はさるる時、高橋連蟲麻呂の作れる歌一首井に短歌
 
971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重《いほへ》山 い行きさくみ あた守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴《とも》のべを あがち遣はし 山彦の 答へむ極み 谷蟆《たにぐく》の さ渡る極み 國がたを 見《め》し給ひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く來まさね 龍田路《たつたぢ》の 岡邊の道に 丹躑躅《につつじ》の にほはむ時の 櫻花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ參出《まゐで》む 君が來まさば
 
【口譯】 龍田山が露や霜の爲に紅葉する時に、龍田山を打ち越えて旅に出てゆく貴方は、幾重にも登つてゐる山々を踏み破つて、外敵を守る筑紫に行つて、山の果、野の果までもよく防備が出來てゐるか見極めよと、部下の者共を分けて遣《つか》はされ、山彦の答へる山の果までも、蟇が這ひまはる地上の果までも、到る處國の形勢を御覽になつて、春になつたならば、空飛ぶ鳥のやうに早く、歸つてお出でなさい。龍田山の道の、岡のほとりの道に、赤い躑躅の花が咲きにほ(75)ふ時、櫻の花が咲く時に、貴方がお歸りになつたならば、迎へにまゐり出ませう。
【語釋】 ○白雲の 白雲が立つといふ意から、龍田山〔三字傍点〕の枕詞として用ゐられてゐる。卷九にも「白雲の龍田の山を夕暮に打越え行けば」とある。○龍田の山 大和から河内へ出る道に當る山。生駒那三郷村の西方にある。○露霜 宣長の説に、つゆじも〔四字傍点〕とあるのはしも〔二字傍点〕のやうなつゆ〔二字傍点〕の事であるとし、其に從ふものもあるが、ここの場合の如きは、必ずしもさう決し難くて、露や霜と解してよいやうである。○い行きさくみ い〔傍点〕は發語、さくみ〔三字傍点〕は動詞のさく(裂)と關係のある語で、み〔傍点〕は動詞の語尾をつくるむ〔傍点〕の活用であらう。ゆきさくむ〔五字傍点〕は山の石根木根などを踏み分け、押し開いて進む意。卷二に「石根さく(76)みてなづみ來し」祝詞式に「磐根木根|履《ふ》みさくみて」など見える。○あた守る 外敵に對して防ぎ守るのである。筑紫には外敵に備へる爲に、水城を築き、又防人などを据ゑ置かれたから、筑紫〔二字傍点〕に冠してかう言つたのである。卷二十の防人の悲別の心を追痛して家持の詠んだ歌に「しらぬひ筑紫の國はあた守る押への城ぞと」天武紀に「栗隈王承v符對曰、筑紫國者元戒2邊賊之難1也」とある。○山のそき そき〔二字傍点〕はそく〔二字傍点〕(退)の名詞形で、遠く隔つてゐる所の意であるから、やまのそき〔五字傍点〕は即ち山の果である。次のぬのそき〔四字傍点〕も野の果である。○伴の部 節度使に從つてゐる部下の者共。○あがち遣《つか》はし あちらこちらに手を分けて派遣すること。あがち〔三字傍点〕はわかち〔三字傍点〕(分)と同じで、この關係は吾〔傍点〕の意味のあれ〔二字傍点〕とわれ〔二字傍点〕、惡〔傍点〕の意味のあし〔二字傍点〕とわろし〔三字傍点〕の場合と等しい。○山彦の答へむ極み 山彦〔二字傍点〕は反響で、こだまと同じ。山の中などで反響するのは、山中に住む靈が答へるものであると、古代人は考へてゐたのである。やまひこ〔四字傍点〕のひこ〔二字傍点〕は日子で、男性的な靈格と見てゐたと思はれる。卷十にも「里人の聞き戀ふるまで山彦のあひとよむまで」とある。ここでは山彦の答へる所は何處までもの意で、山々の果までもといふ義になる。○谷蟆《たたぐく》のさ渡る極 たにぐく〔四字傍点〕はひきがへるの事で、蟇の這ひまはる所は何處までもの意で、地の果までもといふ義になる。卷五にも「たにぐくのさ渡る極《きはみ》」とある。○國形《くにがた》を 國の樣子を、の意。出雲國造神賀詞に「出雲臣等我遠祖天穗日命乎|國體《クニカタ》見爾遣時爾」とある「國體《クニカタ》」もこれと同じである。○見し給ひて 御覧になつて、の意。めし〔二字傍点〕は助詞のみる〔二字傍点〕に敬語の助動詞のす〔傍点〕が添はつて、音が轉じたもので、恰もきる〔二字傍点〕(着)にす〔傍点〕が添はつて、轉音してけす〔二字傍点〕となるが如き語法と同じである。たまふ〔三字傍点〕は更にこれに敬語の動詞を添へて、一層丁寧に言つたもの。○飛ぶ鳥(77)の 飛ぶ鳥のやうにの意で、次の早く來まさね〔六字傍点〕にかかる修飾語である。○早く來まさね 原文には早御來とあるので、御來〔二字傍点〕を義訓として、略解にキマサネと訓んでゐるのが正しい。この歌の結句にも公之來益者《キミガキマサバ》とあるから、それに照應したものとして、御來〔二字傍点〕をキマサネと訓む事の妥當なるを知るべきである。一時も早くお歸りなさいませ、の意。來まさね〔四字傍点〕のさ〔傍点〕は敬語の助動詞す〔傍点〕の未然形、ね〔傍点〕は願望をあらはす助詞である。卷一の冒頭の「名のらさね」と同じ語法である。○龍田路の 龍田山の道の、の意。卷四の「淡海路〔三字傍点〕のとこの山なる不知哉川けのこの頃は戀ひつつもあらむ」の淡海路〔三字傍点〕のやうに、そこにある道路の義であつて、そこに向つてゆく道筋の謂ではない。○丹躑躅のにほはむ時の櫻花咲きなむ時に 赤いつつじが咲きにほふ時、であつて、又櫻の花が咲き誇る時に、の意。即ち陽春の候をさす。かやうな場合のの〔傍点〕といふ助詞は、二つのものを並立させる働きを有するものであつて、「……にして又」といふやうな意味を示す。卷三の「兩神《ふたかみ》の尊き山の〔傍点〕並立《なみたち》の見がほし山と」卷五の「風まじり雨ふる夜の〔傍点〕雨まじり雪ふる夜は」と同じ。にほふ〔三字傍点〕は香ではなくて、色彩のあざやかな事を言ふのである。即ち當時のにほふ〔三字傍点〕は鼻よりも眼に訴へて、美しく見えることを指す。○山たづの やまたづ〔四字傍点〕は造木《にはつこぎ》即ち今の接骨木《にはとこ》のことであつて、この木の葉は向ひあはせに生えてゐるので、迎へ〔二字傍点〕の枕詞として用ゐられてゐる。古事記下卷に「君が行けながくなりぬ山たづの迎へを行かむ待ちには待たじ」とある。○迎へ參出《まゐで》む迎へにまかり出ませう、の意。
【後記】 高橋蟲麻呂はその歌集によつて、優秀なる傳説歌人として知られてゐるが、この作の如(78)きは西海道節度使を送る儀禮的な場合の歌であつて、この方面でも彼が相當の手腕を有してゐた事を示すものである。晩秋の頃に龍田山を打越えて、筑紫の國に到り、西陲の防禦の重任に就き、山の果野の果までも嚴重に警備して、その職責を盡し、さて陽春の候には任を終へて歸國されるであらうが、その折には能田山のほとりまでお出迎へ申さう、といふのであつて、巧妙な修辭法によつて、節度使の壯途を祝福したのである。唯、次の反歌に比して、この長歌の方は稍々儀禮的に失したやうな感じが無いでもないが、其はこの種の歌としては止むを得ない所であらう。
 
     反歌一首
 
972 千萬《ちよろづ》の 軍《いくさ》なりとも 言擧《ことあ》げせず 取りて來ぬべき 男とぞ思ふ
     右補任文を檢するに、八月十七日、東山、山陰、西海節度使に任ず。
 
【口譯】 貴方はたとへ千萬の大軍の敵でも、とかく言はないで討ち平げて、來べき頼もしい男だと、私は思ひます。
(79)【語釋】 ○千萬《ちよろづ》の 流布本に干萬乃〔三字傍点〕とあつて、ソコバクノと訓してゐるのは誤である。元暦校本に千萬乃とあるのに據つて、チヨロヅノと訓むべきである。○軍《いくさ》なりとも いくさ〔三字傍点〕は軍兵、兵士のこと。戰爭の義になるのは轉義である。前の句から續いて、たとへ千萬の大軍であらうとも、の意となる。○言擧げせず ことあげ〔四字傍点〕は言葉に出して、事々しく論ずることで、例へば大敵であつても全滅させて見せるなどと高言を吐くことである。それでことあげせず〔六字傍点〕とは、さういふ事をとかく揚言しないで、黙々として、の意である。神代記に興言となるのを、私記に古止安介とある。古事記の日本武尊伊吹山の條に、「白猪逢2于山邊1、真大如v牛、爾爲2言擧1而詔云々」とあり、本集卷十三にも「蜻蛉島倭の國は神柄と言擧せぬ國然れども吾は言擧す」とある。○取りて來ぬべき 討ち平げて來るべき、の意。とる〔二字傍点〕は捕へるといふ意ではなく、殺す、滅す、といふ義である。例へば古事記の景行天皇の條に、「詔之、西方有2熊曾建二人1、是|不v伏《まつろはず》無v禮、故取〔右○〕2其人等1而遣」「取〔右○〕2伊服岐能山之神1幸行」などある取〔傍点〕もその意味である。きぬべき〔四字傍点〕のぬ〔傍点〕は確定的に強めて言ふ助動詞であつて、必ず敵を全滅させて歸るべしといふ強い語氣を現してゐる。○男とぞ思ふ 大丈夫であると信ずる、といふ意。をとこ〔三字傍点〕は單に男子といふやうな一般的な意味ではなく、大丈夫といふ語感がある。ぞ〔傍点〕は強意の助詞であつて、今の場合は特にこの助詞を添へて、字餘りにして、一首の結びを強くしてゐる。
【後記】 長歌に詠み盡せなかつた所を、反歌として歌つたもので、心詞ともに雄渾無比、まこと(80)に節度使を送るに適はしい作である。これを當今の時世に照らして見ても、誠に意義の深い歌であると思ふ。所謂、萬葉の大丈夫《ますらを》ぶりは實にかゝる點に存する事を銘記すべきである。
【左註】 ここに補任とあるのは、當時かやうな書があつたのか、又は公卿補任のことを指すのか明かでない。八月十七日とあるのは、續日本紀に「天平四年八月丁亥(中略)從三位藤原朝臣宇含爲2西海道節度使1」とあるのと一致してゐる。東山の上に東海とあつたのが、脱落したのか、或は東海・東山二道を藤原房前が兼ねたので、かやうに東山・山陰・西海節度使と略記したものであらうか。ともかくこれは後人の註記である。
 
     天皇、酒を節度使の卿等に賜ふ御歌一首并に短歌
 
973 食國《をすくに》の 遠の御朝廷《みかど》に 汝等《いましら》が かく退《まか》りなば 平らけく 吾は遊ばむ 手抱《たむだ》きて 我はいまさむ 天皇《すめら》朕《わ》が うづの御手《みて》もち 掻撫《かきな》でぞ ねぎ給ふ 打撫でぞ ねぎ給ふ 還り來む日 相飲まむ酒《き》ぞ この豐御酒《とよみき》は
 
【題意】 天皇は聖武天皇で、節度使卿等とあるのは、續日本紀に「太平四年八月丁亥、正三位藤原朝臣房前爲2東海東山二道節度使1、從三位多治比眞人縣守爲2山陰道節度使1、從三位原朝原宇合爲2西海道節度使1」(81)とあるから、房前・縣守・宇合の三人である。聖武天皇が節度使派遣に際して、その壯途を祝福する爲に、酒肴を賜はり、且つ御歌を賜つたのである。
【口譯】 朕が支配する國の遠くの役所に、お前達がかうして節度使として行つたならば、安らかに朕は遊んでゐよう。手を拱《こまぬ》いて朕はいらつしやるであらう。天皇たる朕が、この立派な御手をもつて、お前達をかき撫でて勞《いたは》つて下さるぞ。うち撫でて勞つて下さるぞ。このよい御酒は、お前達が任を果して歸つて來る日に、朕と共に飲むべき酒であるぞよ。
【語釋】 ○食國の遠の朝廷《みかど》に 卷三に「大王の遠の御朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」とあるのと同じく、天皇の支配し給ふ國の遠くの役所で、太宰府、鎭守府の類をいふ。○いましらが 原文に汝等之とあるのでナムヂラガとも訓めるやうであり、集中には大汝《オホナムヂ》少彦名の如く、汝〔傍点〕をナムヂと訓んだ例もあるが、しかし其は實は珍しい例であつて、お前〔二字傍点〕といふ場合は「いましを頼み母に違ひぬ」(卷十四)、「いましも吾も事成るべしや」(卷十一)の如く、いまし〔三字傍点〕と言ふのが普通であるから、イマシラガと訓む説に從ふ。古義にはイマシラシと訓んでゐる。之〔傍点〕字はガともシとも訓み得る字であるから、一説として掲げて置く。○手抱《たむだ》きて 代匠記にはタムダキテと訓み、記傳には「抱は書紀などに伊陀久とも宇陀久とも牟陀久とも訓るが中に、萬葉十四に可伎武太伎とあれば、これに依て牟陀伎弖と訓べし」とある。古義には卷十四の東歌のムダキは訛であるとし、靈異記に「拘于由伎」とあるのに據り、ウダキと訓んでゐる。最近、春(82)日政治氏は古輕卷の訓點を調査して、ムダクが古い形であると推定し、「この語の變化過程に於いても、ムの子音が落ちて母音ウとなり、次に母音の位置を變じてイとなり、更に其のイが失はれたとすることが、此の場合極めて自然の順序のやぅに思ふ」(「萬葉集の訓義と古經卷の施點」〔萬葉學論纂〕)と論じた。今此説に從ふ。たむだきて〔五字傍点〕は手を拱いての意。○吾はいまさむ 次の「天皇朕がうづの御手もち」「ねぎ賜ふ」と共に、天皇御自ら敬語を御使用になつてゐるのは、外國に比類のない、いともかしこき我國の風習である。○天皇《すめら》朕《わ》が 天皇である朕がの意であつて、臣民が自ら「み民われ」と稱するのと相對する御言葉である。天皇御自ら「すめら朕」とのたまひ、臣民自ら「み民われ」と稱する、かくてこそ君臣の分明かにして、萬邦無比のわが國體が生れて來るのである。○うづの御手もち うづ〔二字傍点〕は神代紀一書に「吾欲v生2御宙之珍子1」とあつて、訓註に「珍此云2于圖《うづ》1」とあり、大殿祭祝詞に「皇我|宇都《うづ》御子皇御孫之命」とあり、又諸祝詞に「宇豆《うづ》乃幣帛」などあるやうに、高貴、尊嚴といふやうな意味である。今のうづ高し〔四字傍点〕などのうづ〔二字傍点〕もやはり同源である。うづのみてもち〔七字傍点〕は立派な御手をもつて、と天皇御自らの事を宣うたものである。以〔傍点〕字はモテと訓む説もあるが、萬葉時代の假名書の例を見ると、すべてモチであるから、今も其に從ふ。○掻き撫でぞねぎ給ふ かき〔二字傍点〕は接頭語で意味はない。次のうちなで〔四字傍点〕のうち〔二字傍点〕と同じ用法である。ねぐ〔二字傍点〕は懇にいたはることで、ねぎらふ〔四字傍点〕といふのと同じ。卷二十に「いさみたる健《たけ》き軍卒《いくさ》とねぎたまひ」古事記に「泥疑教覺《ネギオシヘサトシ》」など見える。○歸り來む日 重任を恙なく果して、歸つて來るであらう日。未來の事に屬するから、來む日〔三字傍点〕といふのであるが、今日の口語ではかやうな言ひ方は滅びてしまつたので、譯する場合(83)には、「歸つて來る日」といふのが、現代の口語としては自然な表現法である。○相飲まむ酒ぞ 新考に「アヒノマムの上にフタタビといふ語を加へて心得べし」とある通りで、ここに今壯途を祝福して酒肴を賜ふのであるが、これは歸京後再び一緒に飲むべき御酒であるぞよ、の意である。○この豐御酒は とよ〔二字傍点〕は美稱であつて、豐旗雲などの豐と同じ。古事記上卷の須勢理毘賣命の御歌に「豐御酒たてまつらせ」とある。
【後記】 歌調堂々として、悠容迫らず、臣下に對する御信愛の中に、王者の尊嚴を備へてゐる御製であつて、これを拜して感奮興起しない者はないであらう。當時、三卿も恐らく感泣して、恐懼措く所を知らなかつたであらうが、しかも其中の一人の宇合は「往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1」といふ詩を作つてゐるが、右の御製を拜受した一人として、實に慚死すべきである。
 
     反歌一首
 
974 丈夫《ますらを》の 行くとふ道ぞ おほろかに 思ひて行くな 丈夫の伴《とも》
     右御歌は或は云ふ、太上天皇の御製。
 
(84)【口譯】 この度の節度使の役目は、大丈夫たる者が任ぜられて行くといふ道であるぞ。それであだおろそかに思つて行くな。大丈夫たるお前達よ。
【語釋】 ○行くとふ道ぞ 古義に宣長の説を引いて「本居氏、道とは行(ク)事を云、凡て物を行く事を指て道と云ふこと、古事記上、葦原(ノ)中國言向に遣むとて、天尾羽張神をめし給ふ時に、答曰、恐之仕奉(ラム)、然(レドモ)於|此道者《コノミチハ》僕(ガ)子建御雷(ノ)神可遣、中昔までも古今集に人遣の道ならなくに、と云ふたぐひ、歌にも詞にも多かり。漢文に此行など云行(ノ)字にあたれりと云り」とある。即ち、道路といふ意味ではなく、任務を帶びて行くべき方面である。○おほろかに 原文に凡可爾とあるが、卷十九に「ちちのみの父の尊、ははそばの母の尊のおほろかに情盡して念ふらむ其子なれやも」卷二十に「おほろかに心思ひて空言も親の名絶つな」などあるのに據つて、オホロカニと訓むべきである。おほ〔二字傍点〕、おぼろ〔三字傍点〕などと類語で、おほよそに、おろそかに、通《とほり》一遍にといふやうな意味で、重大の反對語である。
【後記】 今度の節度使は、大丈夫にして初めて果し得べき重任がある、それで充分自重して、輕擧に陷らぬやうに注意すべきであるといふ、親が旅立つ兒に教へ諭すやうな、實にかたじけない御製である。歌格の上から見ても、二句、四句で切れ、結句に「丈夫の伴」といふ呼びかけの語を据ゑて、一首全體に響き返してゐるあたり、王者らしい崇嚴と力強さが溢れてゐる。
【左註】 太上天皇は元正天皇であるが、この注は元暦校本には行間に小字で記してゐる。右の敬の作者につ(85)いて異傳があつたので、注記したのである。
 
   中納言安部廣庭卿《あべのひろにはのまへつぎみ》の歌一首
 
975 かくしつつ 在《あ》らくをよみぞ たまきはる 短き命を 長く欲《ほ》りする
 
【口譯】 こんなにして居る事が幸福であるから、私はこの短い人生をもつと長くありたいと願ふのである。
【語釋】 ○かくしつつ 流布本に如是爲菅とあるが、菅〔傍点〕は元暦校本に管〔傍点〕とあるのが正しい。かくしつつ〔五字傍点〕はこんなにしつつ、の意であるが、作歌の事情が明かでないから、こんなにしつつが何を意味するのか分らない。○在らくをよみぞ あらく〔三字傍点〕はある〔二字傍点〕にく〔傍点〕の接したもので、在ることの意。あらくをよみ〔六字傍点〕は在ることがよいので、の意で、「…を……み」の形は集中に多く見える。○たまきはる 命〔傍点〕の枕詞。語義未詳。魂極《たまきはま》るの意か。○長く欲りする 上の在らくをよみぞ〔七字傍点〕のぞ〔傍点〕の結びで、欲りする〔四字傍点〕と連體形を用ゐてある。ほる〔二字傍点〕は欲するの意であるが、欲〔傍点〕といふ漢語の字音から生じたものでなく、ほる〔二字傍点〕といふ我が國古來の語である。このほる〔二字傍点〕の連體形に動詞のする〔二字傍点〕が接したもので、「嘆きす」「うら戀ひす」の類である。欲りす〔三字傍点〕ではまだ、ほり〔二字傍点〕とす〔傍点〕の結合といふ感じが殘つてゐるが、これが一つに熟合してしまふと、後世のほつす〔三字傍点〕といふ語になるの(86)である。
【後記】 現在の幸福感に浸つて、なほ人生を亨樂しようといふのであつて、何か喜のあつた折に詠んだものであらうが、作歌の事情が明かでない。
 
     五年癸酉、草鹿山を超ゆる時、神社忌寸老麻呂《かみこそいみきおゆまろ》の作れる歌二首
 
976 灘波潟《なにはがた》 潮干のなごり つばらに見 家なる妹が 待ち問はむ爲
 
【題意】 草鹿山は河内國日下の山で、生駒山の西に當り、奈良から闇峠を越えて、難波へ出る通路にある。そこからは難波の海がよく見渡されるので、この歌を詠んだのである。
【口譯】 難波潟の潮の干た後に、濱邊に打寄せられて殘つてゐる魚介や海藻の樣をよく見よう、家の妻が私の歸りを待受けて尋ねる時の爲に。
【語釋】 ○潮干のなごり なごり〔三字傍点〕は普通、餘波の意と見てゐるが、この場合などは當らない。中島廣足の「窓の小篠」に「萬六なにはがたしほひのなごりよく見てな家なる妹がまちとはむため、同四なにはがたしほひのなごりあくまでに人の見る兒を吾しともしも。かくしほひのなごりとつづけ、妹がためによく見てむなどいひ、又あくまでに見る兒の序としたるなどは、浪のたつことにはあるまじくおもはる。こは貝や石(87)や海松などのよりたるけしきのあかずおもしろきを、しほひのなごりといへるにやあらむ」とあり、新考に「さればナゴリはただ殘といふことにて餘波にも餘風にも別後の餘情にも今の歌の如く潮の干て魚介海藻の潟に殘れるにも云ふべきなり」とあるのに從ふべきである。○つばらに見 原文に委曲見とあるので、略解、攷證にヨクミテナ、古義、新考にヨクミテムとあるが、委曲〔二字傍点〕はヨクと訓むよりもツバラニと訓む方が妥當である。卷三に「淺茅原曲曲二」とある曲曲二〔三字傍点〕は、卷十八の「梶の音のつばらつばらに」などに據つて、ツバラツバラニと訓むのが定説となつてゐるから、委曲〔二字傍点〕もそれに準じてツハラニと訓むべき事明かである。次に、見〔傍点〕はミと訓むより外に訓法がないが、意味はここで句切になつて、見ようの義であらう。或は見一字でミムと訓ませるつもりであつたのかも知れぬが、それならば結句に待將問多米《マチトハムタメ》とあるやうに將〔傍点〕字を添へるべきであるから、少し言葉が不足のやうな感があるけれども、ツバラニミと訓む説に從つて置く。(鴻巣盛廣氏の萬葉集全釋の説)○待ち問はむ爲 私の歸りを待ち設けて、難波潟の景色など尋ねる時の爲に、の意であつて、所謂|土産話《みやげばなし》の爲にといふ程の意味である。
 
977 直超《ただごえ》の この道にして 押照るや 難波の海と 名づけけらしも
 
【口譯】 この草鹿の直通の路から見渡すと、難波の海は一面に照り輝いて美しく見えるから、この路で、「押照る難波の海」といふ名を附けたのであらう。
(88)【語釋】 ○直超のこの道にして ただごえ〔四字傍点〕は曲りくねらずに、眞直に超えることで、卷十二に「磐城山直越え來ませ」卷十七に「しを路からただ越え來れば」とあるのも同じ。殊にこの日下《くさか》は、古事記雄略帝の條に「大長谷若建命自2日下之直超道1幸2行河内1」とあつて、古くから有名であつた。宣長の記傳に「倭の平群郡より伊駒山の内(南方)を越え河内國に至り(若江郡を經て)難波に下る道にして(今の世に暗《クラガリ》峠と云是なり)(中略)さて今の日下村は此道には非ず。やや北方なれども久佐加と云名は此坂より出て古は此坂のあたりをも日下とぞ云りけむ(中略)此道近き故に直越とは云なり」とある。○押照るや 難波の枕詞で、や〔傍点〕は間投助詞で、調子の爲に添へたもの、單におしてるとのみも言ふ。難波〔二字傍点〕の枕詞として屡々用ゐられるので、(89)ここではその語義を説かうと試みたのである。○名附けけらしも 名づけたのであらう、の意。けらしのけ〔傍点〕は助動詞けり〔二字傍点〕のけ〔傍点〕であり、ら》〔二字傍点〕しは根據のある推量の助動詞である。も〔傍点〕は感動の助詞。
【後記】 難波と言へばすぐに「押照る」といふ語が聯想されるやうに、この兩者は深い關係を持つてゐる。作者は草鹿山の上から遙に、陽光に照り輝いてゐる難波の海を眺めて、殆ど直觀的に「押照る」といふ枕詞の意義が解決されるやうに思つたのである。固より即興の作であらうが、後世の學者のこちたき語源論よりも、却つてこの枕詞の眞義を道破してゐるのではあるまいか。
 
     山上臣憶良痾に沈める時の歌一首
 
978 士《をのこ・をとこ》やも 空《むな》しかるべき 萬代に 語り續《つ》ぐべき 名は立てずして
     右一首、山上憶良臣痾に沈める時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人をして、疾む所の状を問はしむ。ここに於て、憶良臣報語已に畢り、須《しまらく》ありて涕を拭ひ、悲しみ嘆きて此歌を口吟せり。
 
(90)【題意・左註】 卷五に見える憶良の沈痾自哀文は天平五年の作と思はれるが、この歌も亦天平五年の次に載つてゐるから、全く同時の作である。藤原八束は當時はまだ無位の青年であつたが、房前の第三子として尊敬されてゐたと思はれる。その八束が河邊東人を遣はして、憶良の病状を問はせたので、憶良が深く感激して、はふり落ちる涙を拭うて、この歌をくちずさんだといふ。
【口譯】 大丈夫たる者は、萬世の後までも語り傳へるやうな立派な名を立てずして、空しく終るべきであらうか、決してさうではない。
【語釋】 ○士《をのこ・をとこ》やも 士〔傍点〕はヲノコと訓む代匠記の説が普通に行はれてゐるが、攷證・古義の如くヲトコと訓んでもよい。卷五に「ますらをのをとこさびすと」卷二十に「をとこをみなの花にほひ見に」などあり、智奴壯士、宇奈比壯士の類は皆、ヲトコと訓んでゐるので、寧ろここもヲトコと訓む方がいいやうにも思はれるが、卷二十の大伴家持の追2痛防人悲別之心1作歌の長歌には「鳥が鳴く東をのこは」とよみ、その反歌には「鳥が鳴く東をとこの妻わかれ」とよんでゐるので、姑く兩訓を存して置く。をのこ(をとこ)やも〔八字傍点〕のやも〔二字傍点〕は、や〔傍点〕は反語の助詞で、下の空しかるべきにかかる。も〔傍点〕は感動の助詞。○空しかるべき 上のや〔傍点〕を受けて、空しく世を終るべきであらうか、決してさうではない、の意を示す。卷十一に「ますらをや片戀せむと嘆けども醜のますらを猶戀ひにけり」とあるや〔傍点〕も同じ。○名は立てずして 原文不立〔二字傍点〕は舊訓にタタズとよみ、古壷にタテズとよんでゐる。上に名者《ナハ》とあるから、タタズと自動詞に訓むのが穩かであるといふ(91)説もあるが、助詞のは〔傍点〕は元來係助詞であつて、主格を示すべきものではなく、殊更に或ものを強く言ふ場合に用ゐるのである。從つて名は〔二字傍点〕とあるから、不立〔二字傍点〕はタタズと自動詞に訓まねばならぬといふ論據は薄弱である。タテズと他動詞に訓んでも、必ずしも名ヲとヲ助詞を用ゐなくともよいので、名タテズとも言ひ得るのである。其を名といふ語を強調する爲に、ハ助詞を添へて名ハタテズシテと詠んだのであつて、これを名ハタタズシテとよめば、一首の勢を殺すものである事を考ふべきである。して〔二字傍点〕はこの場合深い意味はなく、古義に「之而《シテ》は其事をうけばりて云意のときに云詞なり」とあるのは當らない。卷三の「吉野なる夏身の河の河淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして」のして〔二字傍点〕と同じである。
【後記】 名を重んじ、萬代に語り傳へられる事を以て、無上の誇とした上代人の眞面目を遺憾なく發挿した傑作である。萬葉人が名を惜しんだことは集中にも多くの例證を見出す事が出來るが、篤き病の床にあつて、猶大丈夫の意氣を歌ひあげる所、悲壯にして嚴肅なる憶良の風貌躍如たるものがある。卷十九に家持作の慕v振2勇士之名1歌一首并短歌があつて、左注に右二首追2和山上憶良1作歌とある。
 
     大伴坂上郎女、姪家持が佐保より西宅に歸るに與ふる歌一首
 
(92)979 吾背子が 著《け》る衣《きぬ》薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで
 
【題意】 姪は古くは男女に通じて用ゐてゐた。ここは甥のことである。佐保は大伴家の邸宅のあつた所で、旅人の父安麻呂が佐保にゐて佐保大納言と呼ばれた點や、又坂上郎女の歌に佐保の地に關する作の多い點からも、これを知る事が出來る。西宅は明かでない。佐保から程遠からぬ西方に別宅があつたものか。
【口譯】 貴方が着てゐる着物は薄い。だから貴方が家に着くまでは佐保の風はひどく吹いてくれるな。
【語釋】 ○吾背子が 背子〔二字傍点〕は主として女から男を親しんで言ふ語であつて、必ずしも夫を意味しない。ここでは叔母が甥に對して用ゐてゐる。○著《け》る衣うすし ける〔二字傍点〕は動詞のきる〔二字傍点〕の連用形のき〔傍点〕が、時の助動詞のり〔傍点〕に接して、音を轉じたもので、後世の着たる〔三字傍点〕と同じ意味である。即ち、着てゐるの義である。卷十五に「この吾が著《け》る妹が衣の垢つく見れば」とある。○佐保風は 佐保の里を吹く風。明日香風、泊瀬風、伊香保風の類である。○いたくな吹きそ はげしく吹く事なかれ、の意。な吹きそ〔四字傍点〕は吹くなの意で、そ〔傍点〕は意味を強める爲に添へたので、有つても無くても全體の意味には大差はない。卷五に「殘りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも」とある。これから歸途につく家持の身をいたはつて、寒い目にあはせないやうにと、風よ激しく吹いてくれるなと願ふのである。○家に至るまで 原文にまで〔二字傍点〕を左右〔二字傍点〕と記してゐる。これは左右手〔三字傍点〕の略で、兩手揃つてゐるから、まで〔二字傍点〕(眞手)の意味であつて、これを助詞の意に假借し(93)たのである。
【後記】 所謂、母性愛の溢れた歌であつて、「吾が背子が着《け》る衣薄し」といひ、「佐保風はいたくな吹きそ」といふ所、如何にも女らしい優しい情が現れてゐる。やがては自分の娘、坂上大孃と結婚させようと思つてゐる愛甥に對して、女婿としての心づかひも自ら籠つてゐるであらう。
 
     安倍朝臣蟲麻吊の月の歌一首
 
980 雨隱《あまこも》り 三笠の山を 高みかも 月の出で來ぬ 夜はくだちつつ
 
【口譯】 三笠の山が高いからであらうか、月が出て來ない、徒に夜は更けつつ……。
【語釋】 ○雨隱《あまこも》り 雨のために隱れこもるといふ意で笠〔傍点〕の枕詞となる。○三笠の山を 新考に「三笠山は後世は春日山の手前なる小山をいへど(中略)當時三笠山といひしは連山の主峯なる今の春日山の事なり」とある。○高みかも 下の月の出で來ぬ〔六字傍点〕にかかり、そこで句切である。三笠山が高いために、月が出て來ないのであらうか、の意。高み〔二字傍点〕のみ〔傍点〕は前に述べた。か〔傍点〕は疑問の助詞で、それを受けて出で來ぬ〔四字傍点〕と連體形で結んでゐる。卷一に「吾妹子をいさみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも」の三、四句と同じ語法であ(94)る。○夜はくだちつつ 原文に夜者更降管とある。舊訓にヨハフケニツツとよみ、代匠記にヨハクダチツツとよんでゐる。フケニツツの例は、卷三に「つぬさはふ石村《いはれ》も過ぎず泊瀬山何時かも超えむ夜者深去通都《ヨハフケニツツ》」卷七に「山のはにいさよふ月を何時とかも吾が待ち居らむ夜者深去乍《ヨハフケニツツ》」とあり、クダチツツは卷十九に「夜具多知爾《ヨクダチニ》寢覺めて居れば」「夜降而《ヨタダチテ》鳴く河千鳥」とあつて、何れにも訓めるやうであるが、ここに更降管〔三字傍点〕とあるのは、なほクダチツツと訓ませるつもりであつたやうに思はれる。クダチは卷五にも「わが盛いたくくだちぬ」とあるが、夜はくだつ〔五字傍点〕といふのは、夜のふけることを示す。
【後記】 卷三にも間人宿禰大浦の「椋橋《くらはし》の山を高みか夜隱りに出で來る月の光ともしき」といふ歌があり、次の大伴坂上郎女の歌には類想が見えるので、當時の慣用的な表現であつたと思はれるが、歌としては餘り理に落ちて面白味がない。
 
     大伴坂上郎女の月の歌三首
 
981 ※[獣偏+葛]高《かりたか》の 高圓山《たかまとやま》を 高みかも 出で來る月の 遲くてるらむ
 
【口譯】 ※[獣偏+葛]高にある高圓山が高いためであらうか、出て來る月が遲く照るのであらう。
【語釋】 ○※[獣偏+葛]高の 代匠記に「※[獣偏+葛]高は第七に借高之野邊とよみて地の名なれば、石上布留と云如く※[獣偏+葛]高は總(95)名にて高圓は別名なるべし」とある。高圓山を東にした、今の奈良市の東南方、鹿野園あたりの古名であらう。○出て來る月の遲くてるらむ 新考に「古義に月の出でぬ前の歌として、出來をイデコムとよめるは非なり。出來は當夜の月のみについて云へるにあらず。されば舊訓の如くイデクルとよむべし。オソクテルラムは遲く出で來らむといへるにて、そのテルラムは當夜の月のみについて云へるなり」とある。從ふべし。
 
982 ぬばたまの 夜霧の立ちて おほほしく 照れる月夜の 見れば悲しさ
 
【口譯】 夜の霧が立つて、ぼんやりと照つてゐる月夜が、見ると悲しいことよ。
【語釋】 ○ぬばたまの 夜〔傍点〕の枕詞(既出)。○おほほしく 不清〔二字傍点〕をオホホシクと訓むのは義訓であつて、卷十に「不明《オホホシク》公を相見て」とあるのと同じ。集中に、不穢《キヨク》、不樂《サブシ》、不通《ヨドム》など書く類である。おほほしく〔五字傍点〕はおほ〔二字傍点〕、おぼろ〔三字傍点〕などと同語で、夜霧のために月光がぼんやり霞んで見える事をいふ。○照れる月夜の見れば悲しさ 月夜の〔三字傍点〕のの〔傍点〕は見れば〔三字傍点〕を隔てて悲しさ〔三字傍点〕に續くのであつて、月夜の〔三字傍点〕からすぐ見れば〔三字傍点〕に續くのではない。「月夜を〔傍点〕見れば悲しさ」とは語法的には相異がある。
【後記】 心も詞も有りの儘で、技巧的な點はないが、朧月夜の情景はよく寫されてゐる。
 
(96)983 山の端《は》の ささらえ壯士《をとこ》 天の原 と渡る光 見らくし好しも
     右一首の歌或は云ふ、月の別名を佐散良衣《ささらえ》壯士と曰《い》ふ、此の辭に縁《よ》りて此の歌を作れり。
 
【口譯】 山の端に出た月が天空を通つてゆく光を見るのは良いものである。
【語釋】 ○ささらえ壯士《をとこ》 月の異名。月は集中では月讀壯士、月人壯士の如く、いつも男性的に見てある。外國で多く女性的に見てゐるのと異つてゐる。ささら〔三字傍点〕は允恭紀に「ささらがた(細綾形)錦の紐を解き放《さ》けてあまたは寢ずにただ一夜のみ」卷十四に「妹なろがつかふ河津のささらをぎ(小萩)」の如く、細小にして愛すべきものをいふ。えをとこ〔四字傍点〕は美男・愛男の義で、古事記に「あなにやしえをとこ」書紀に「研哉可愛少男《アナニヤエヲトコ》」とあるのと同じ。そこでささらえをとこ〔七字傍点〕は愛すべき小さな美男の謂であつて、これを月の異名にした古人の心が懷しく思はれる。但、このささら〔三字傍点〕は卷三に「天なるささらの小野のななふ菅」卷十六に「天なるやささらの小野に茅草《ちがや》苅り草《かや》苅りばかに鶉を立つも」とあるささらの小野〔六字傍点〕と何か關係があるかも知れぬ。○と渡る光 とわたる〔四字傍点〕のと〔傍点〕は明石の門《ト》、薩摩の迫門《セト》などのと〔傍点〕であつて、船の通ふところである。それでとわたる〔四字傍点〕は古今集に「わが上に露ぞ置くなる天の川とわたる船のかいのしづくか」とあるやうに、船に(97)關して言ふ語である。それをこの歌では天を海、月を胎になぞらへて、あまの原とわたる〔八字傍点〕と言つたのである。卷七に「天の海〔三字傍点〕に雲の波立ち月の船〔三字傍点〕皇の林に榜ぎ隱る見ゆ」とあるのも、今の場合參考になる。○見らくしよしも 見らく〔三字傍点〕は見る事の意で、戀ふらく・寢《ぬ》らくの類である。よしも〔三字傍点〕のも〔傍点〕は感動の助詞。卷十九に「時ごとにいや珍しく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも」とあるのも同じ。
【後記】 内容はたゞ天空を渡る月光の美を詠んだものに過ぎないが、月の事をささらえをとこ〔七字傍点〕といひ、天の原と渡る光〔七字傍点〕と言つたりして、表現上に特異な趣があるので、注意される作である。
 
     豐前國娘子の月の歌一首 【娘子字を大宅といふ、姓氏いまだ詳ならず】
 
984 雲隱り 行方《ゆくへ》をなみと 吾が戀ふる 月をや君が 見まく欲《ほ》りする
 
【口譯】 雲に隱れて何處に行つたか分らないので、私が戀しがつてゐる月を、貴方は見たいと思はれますか。
【語釋】 ○雲隱り 雲に隱れて、の意。○行方をなみと なみと〔三字傍点〕はかしこみと〔五字傍点〕などの場合と同じくなみ〔二字傍点〕といふのと大差はない。古義に「往方しれずなりぬる故にといふ意なり」とある通りである。
【後記】 契沖は、拾遺集の源信明の歌「戀ひしさは同じ心にあらずとも今宵の月を君見ざらめ(98)や」と同じ心の歌であると言つてゐる。大體さう見てよいであらうが、さして傑れた作ではない。
 
     湯原王の月の歌一首
 
985 天《あめ》にます 月讀壯士《つくよみをとこ》 幣《まひ》はせむ 今宵《こよひ》の長さ 五百夜《いほよ》繼ぎこそ
 
【口譯】 今夜は實によい月だ。天にいらつしやるお月樣よ、捧げ物を致しませうから、どうか今夜の長さを、常の五百夜の長さに續けて下さい。
【語釋】 ○月讀壯士 月の異名。古事記に「次洗2左御目1時所成神名月讀命」、神代紀に「次生2月神1一書云|月弓《ツクユミノ》尊、月夜見《ツクヨミノ》尊、月讀《ツクヨミ》尊」とある。(前掲のささらえをとこ〔七字傍点〕の條參照。)○幣《まひ》はせむ まひ〔二字傍点〕はまひなひ〔四字傍点〕と同じく、人や神に獻ずる贈物であるが、後世の不正な賄賂《わいろ》ではない。卷五に「若ければ道ゆき知らじまひはせむしたべの使負ひて通らせ」卷十七に「玉桙の道の神たちまひはせむあが思ふ君をなつかしみせよ」とある。○今夜の長さ 原文に今夜乃長者とある。代匠記に「長者ノ者ハ音ヲ取レリ」とあるが、さうではなく、攷證に「すべて者をサの假字に用ひたる事なし。此卷に苦者《クルシサ》、八に遙者《ハルケサ》、九に樂者《タヌシサ》、十に吉者《ヨサ》などある者も、みな助字に置たるにて、集中、焉、矣、也、之、而などの字を助字に置る類なること、(99)七に昔者《イニシヘ》、四に比者《コロ》など、者もじをそへ書にてしるべし。また七に清也《サヤケサ》、八に悲也《カナシサ》、十三に不怜也《サブシサ》など、サといふ所へ也の字の助字を置たるを見てしるべし」とあるのに從ふべきである。○五百夜繼ぎこそ 五百夜の程も續けかしの意で、こそ〔二字傍点〕は願望の助詞である。卷五に「梅の花夢に語らくみやびたる花と吾思ふ酒に浮べこそ」卷十六に「奥つ鳥鴨とふ船の還り來ば也良《やら》の埼守早く告げこそ」などの例がある。
【後記】 氣品のこもつた作ではあるが、他に類想の歌が多く、卷九の蟲麻呂集の中の歌にも「終日《ひねもす》に鳴けど聞きよし幣《まひ》はせむ遠くな行きそ吾が屋戸《やど》の花橘に住み渡れ鳥」とある。
 
986 はしきやし ま近き里の 君來むと おほのぴにかも 月の照りたる
 
【口譯】 懷しい近所の里にゐる貴方が今夜お出になる爲に、大野の邊に月が照つてゐるのであらうか。
【語釋】 ○はしきやし はしき〔三字傍点〕は愛しきの意の形容詞の連體形である。や〔傍点〕もし〔傍点〕も感動の意をあらはす間投助詞である。それで意味ははしき〔三字傍点〕からすぐ下の體言に續いて行く。卷二に「はしきやし吾大王の形見かここを」卷十六に「はしきやし老夫《おきな》の歌におほほしき九《こゝ》の兒等や感《かま》けて居らむ」とある。それで今の場合もはしきやし〔五字傍点〕は君〔傍点〕に直接にかからず、ま近き里〔四字傍点〕に續くものと見るべきであらう。○ま近き里 原文に不遠里と(100)ある。不遠をマヂカキと訓むのは義訓である(前掲の不清《オホホシク》の條參照)。○おほのびにかも 此句は解し難い。袖中抄卷十六に「或書云、大のびにとは、ゆたかに、しづかなりといふ也、これ、江都督説也」とあるが、根據が明かでない。略解に「大のぴ、諸説從ひがたし。誤あらんか。もし大野方の意か。考ふべし」とあるのが比較的穩當であらうか。當時の假名遣上から見ると、原野の意味のノ〔傍点〕には努〔傍点〕・怒〔傍点〕などの字を用ゐて、今の歌のやうに大能備とは記さないのが通則ではあるが、しかし卷五の梅花の歌にも、「春の能《の》に霧立ちわたり」とあるから、今も原野の意に能〔傍点〕の字をあてたと見てもよいやうである。野邊〔二字傍点〕をノピと言ふのは、岡邊、濱邊、山邊、河邊をヲカビ(卷五) ハマビ(卷五)ヤマビ(卷十)カハビ(卷二十)とも言ふのと同例である。唯、かも〔二字傍点〕の解釋が困難である。新考に「カモは元來君コムトの下におくべきを言數に制せられて大ノビニの下におけるなり」とある。歌には音數の制約があるから、修辞上の要求から稍々變則的な用法もあるのであらうが、其にしても新考の説のやうに見るのは、少し無理のやうに思はれる。「君來むとかも……月の照りたる」といふ場合は、か〔傍点〕といふ疑問の助詞は、君來むといふ語にかかるので、月の照つてゐるのは眼前の事實であるが、君が來るか否かが疑はしいといふ意味である。ところが「大野邊《オホノビ》にかも月の照りたる」の場合は、大野邊に月が照つてゐるのであらうかどうかを疑つてゐるのであつて、か〔傍点〕といふ疑問の助詞は、月の照りたる〔六字傍点〕にかかるのである。とにかく原作の表現法が曖昧である爲に、君來む〔三字傍点〕と月の照りたる〔六字傍点〕とが如何なる關係にあるのか、充分理解し難い。今夜君がお出になる爲に、道を明るくしようとて、月が照るといふのであらうか。猶考ふべき間題である。
 
(101)     藤原八束朝臣の月の歌一首
 
987 待ちがてに 吾がする月は 妹が著る 三笠の山に 隱りてありけり
 
【口譯】 私が待ちかねてゐる月は三笠の山にまだ隱れてゐることだ。
【語釋】 ○待ちがてに がて〔二字傍点〕は本來清音のかて〔二字傍点〕で、堪ふ・敢ふ・得の意味を有する下二段活用の動詞である。に〔傍点〕は當時な〔傍点〕、に〔傍点〕、ぬ〔傍点〕、ね〔傍点〕と活用した打消の助動用の連用詞である。それでがてに〔三字傍点〕で、出來ぬ、能はぬの意味になる。そしてこれは次の吾がする〔四字傍点〕のする〔二字傍点〕に續いて、待ちがてにするとなるので、この場合のする〔二字傍点〕は思ふ〔二字傍点〕といふ意で、全體として「待つ事が出來ぬやうに思ふ」「待ち難く思ふ」といふ程の義である。原文に待難爾〔三字傍点〕とあるので、がて〔二字傍点〕に難〔傍点〕といふ意味があるやうに誤解され易いが、語法的に言へば右のやうに説くべきであつて、用字法上からすれば、この場合は難〔傍点〕だけではかたく〔三字傍点〕とかかたみ〔三字傍点〕とか讀まれる恐れがあるので、がてに〔三字傍点〕と確實に讀ませる爲に「爾」の字を添へたものと見るべきである。例へばしらに〔三字傍点〕といふ語を不知爾と記す類であつて、所謂具書の一種と説くのである。卷二に「吾はもや安見兒得たり常人の得がてにすとふ安見兒得たり」卷五に「麁妙の布衣をだに着せがてにかくや歎かむせむ術をなみ」とある。(橋本博士『がてぬ・がてまし考』)○妹が著る 三笠〔二字傍点〕の枕詞。笠を著るといふ意味によつて續く。
 
(102)     市原王|宴《うたげ》に父の安貴王《あきのおほきみ》を祷《ほ》ぐ歌一首
 
988 春草は 後は散り易し 巖《いはほ》なす 常磐《ときは》に坐《いま》せ 貴き吾君《あがきみ》
 
【口譯】 春草は後は散り易いものです。ですから巖のやうに、何時までも變らないでお出で遊ばしませ、貴い私の父上よ。
【語釋】 ○春草は後は散り易し 春草に散り易いといふのは、聊か適切でないやうであるから、原文の落易を舊訓にカレヤスシと訓んでゐる。しかし落〔傍点〕字は集中では、チルと訓むのが普通であるから、其に準じて讀んで置く。略解、新考に落易をウツウフと訓んでゐるが、その根據が明かでない。○巖なす 流布本には嚴成とあるが、西本願寺本に嚴〔傍点〕が巖〔傍点〕になつてゐるのに從つて、イハホナスと訓む。但、下のときは〔三字傍点〕といふのが元來恒久不變の磐石の義であるから、これに更にいはほなす〔五字傍点〕といふ語を添へるのは、重複の感が無いでもない。それで武田博士の新解には嚴成〔二字傍点〕を嚴來〔二字傍点〕の誤とし、類聚古集等の古訓によつて、イツクシクと訓んである。卷五に「倭國は皇神《すめがみ》のいつくしき國」とあるので、この訓も一説として注意すべきであらう。○常磐に坐せ 常住不變にお出で遊ばせ、の意。流布本に常盤とあり、磐と盤とは通用の字ではあるが、類聚古集に磐〔傍点〕とあるに從つた。○貴き吾君 わがきみ〔四字傍点〕は父君の安貴王をさす。
(103)【後記】 二句、四句で切れ、結句に「貴き吾君」と据ゑた點、堂々たる聲調をなしてゐて、一首の内容の根幹をなす孝心の流露と相伴つて、吾々の胸を打つものがある。
 
     湯原王酒を打つ歌一首
 
989 燒刀《やきだち》の 稜《かど》うち放《はな》ち 丈夫《ますらを》の 祷《ほ》ぐ豐|御酒《みき》に 吾|醉《ゑ》ひにけり
 
【題意】 打酒は古來色々に説き悩んでゐるが、文字通り酒を打つのである。これは一種の呪禁《マジツク》であつて、壽詞を喝へながら、酒に釼を切りつけて、惡靈を祓ふのである。
【口釋】 燒いて鍛へた鋭い刀の切尖を振つて、大丈夫の祝ふ、このよい酒に自分は醉うてしまつた。
【語釋】 ○燒刀の やきだち〔四字傍点〕は火を以て鍛へて作つた太刀で、鋭い刀をいふ。○稜《かど》うち放ち かど〔二字傍点〕は刀の角で、刃の稜角と見るべく、つまり切尖《きつさき》である。うちはなち〔五字傍点〕はうち〔二字傍点〕は接頭語で、意味を強めるもの、はなち〔三字傍点〕は切尖を鋭く振つて酒に切りつけることである。釼光一閃、酒の邪氣を清め祓ふのである。○丈夫の 丈夫〔二字傍点〕は釼を振つて酒を祝ふ勇士であつて、湯原王自身ではない。○祷《ほ》ぐ豐御酒に 當時の風習として、まづ祝詞をもつて酒を清め、其後に酒宴を開いたのである。即ちさかほがひの原義はここにある。とよみき〔四字傍点〕は(104)酒をほめる語で、豐旗雲、豐初瀬路の類である。
【後記】 酒に關する歌は古來少くないが、此歌は鋭い太刀を揮つて酒を打つといふ特殊な古代習慣を詠んでゐる點に興味がある。率直で力強い表現の中に、古代人の濶達な風貌がよく現れてゐる。
 
     紀朝臣|鹿人《かひと》の跡見《とみ》の茂崗《しげをか》の松樹の歌一首
 
990 茂岡に 神さび立ちて 榮えたる 千代松の樹の 歳の知らなく
 
【題意】 流布本「跡見」の「跡」を脱してゐる。今、神田本によつて補ふ。跡見は卷八に、典鑄正紀朝臣鹿人至2衛門大尉大伴宿禰稻公跡見庄1作歌に「射目立てて跡見の岡邊の瞿麥《なでしこ》の花、ふさ手折り我は持ち去《い》なむ寧樂人の爲」、大伴坂上郎女跡見田庄作歌に「妹が目を跡見の埼の秋萩はこの月頃は散りこすなゆめ」とある。神武紀にも「及3皇軍之得2鵄瑞1也時人仍號2鵄邑1今云2鳥見1是訛也」と見える。今の大和國磯城吟群|外山《トビ》村のことである。茂岡は其處にある岡で、卷八の「跡見の岡邊」とあるのが是であらう。もと樹木の茂つてゐる點から名づけたものであらう。
【口譯】 茂岡に神々しく古びて、茂り榮えてゐる、千代を待つといふ松の樹は、幾年經つたのか(105)年數も分らないことだ。
【語釋】 ○千代松の木 千年を待つといふ意を、松に言ひかけてゐる。下にも「吾か屋戸の君松の樹に零る雪の行きには行かじ待ちにし待たむ」とある。○神さび立ちて 神さび〔三字傍点〕のさび〔二字傍点〕は男さび、女さび、山さびなどと同じく、其に適はしい振舞をなし、その本性を發揮するといふ意味を示す接尾辭である。この接尾辭は主として名詞に接して、其を動詞に變ぜしめる職能を有するもので、ハ行上二段の活用形式による。それで神さび〔三字傍点〕の場合も、神らしい振舞をするといふのが原義で、この歌などでは其が稍々轉じて、神々しい、もの古りたといふやうな意味を現すに至つてゐる。卷十五に「我が命を長門の島の小松原幾代を經てか神さび渡る」とあるのも、今の場合と同じ例である。○年の知らなく 年が分らないことよ、の意。(前掲の念ひあへなくに〔七字傍点〕の條參照)
 
     同じき鹿人|泊瀬《はつせ》河邊に至りて作れる歌一首
 
991 石走《いはばし》り たぎち流るる 泊瀬《はつせ》川 絶ゆることなく またも來て見む
 
【口譯】 石の上を走つて、泡立つて流れる泊瀬河を、この河水の絶えないやうに、絶えず私はまた來て見よう。
(106)【語釋】 ○石走《いははし》り 契沖はイハバシルとして枕詞に解したが、雅澄はイハバシリと訓んで動詞と説いた。次のたぎちながるる〔七字傍点〕が動詞であるから、今の場合は雅澄説に從つて、イハバシリと訓むのが穩當である。卷八の「石ばしる垂水《たるみ》の上のさ蕨《わらび》の萌え出づる春になりにけるかも」の場合とは、自ら異るのである。いはばしり〔五字傍点〕は石の上を走つて、の意。○泊瀬川 泊灘地方を流れる川。大和川の上流。
【後記】 類想の多い歌であつて、卷一にも「見れど飽かぬ芳野の川の常滑《とこなめ》の絶ゆることなく又かへり見む」とあり、この卷にも前に「み芳野の秋津の川の萬代に絶ゆることなく又かへり見む」とあつた。
 
     大伴坂上郎女、元興寺の里を詠める歌一首
 
992 古郷《ふるさと》の 飛鳥《あすか》はあれど あをによし 平城《なら》の飛鳥《あすか》を 見らくしよしも
 
【題意】 この元興寺は所謂、新元興寺の事であつて、今の奈良市芝新屋町にその遺蹟がある。猶、語釋の條參照。
【口譯】 舊郡となつた飛鳥の飛鳥寺はよい所であるが、奈良の都の飛鳥寺の方が見るとよい所である。
(107)【語釋】 ○古郷《ふるさと》の飛鳥はあれど 元興寺《ぐわんごうじ》一名法興寺は高市郡飛鳥眞神原にあつたから、又飛鳥寺とも言つた。奈良遷都の後、新に奈良に一寺を建てて之を新元興寺と言ひ、高市郡にあるのを本《ほん》元興寺と稱した。古郷の飛鳥〔五字傍点〕とは即ちこの本元興寺のことである。崇神紀に「元年蘇我馬子宿禰攘2飛鳥(ノ)衣縫(ノ)造(ノ)祖|樹葉《コノハ》之家1始作2法興寺1。此地名2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原1。亦名飛鳥(ノ)苫田1、推古紀に「四年冬十一月法興寺造竟」、貞觀四年八月廿五日の太政官符に「應v令3本元興寺法華供得業僧預2維摩會竪義1事 右得2彼等傳燈住位僧金耀牒1※[人偏+稱の旁]。謹檢2案内1此寺佛法元興之場、聖教最初之地也。去和銅三年帝都遷2平城1之日諸寺隨移、件寺獨留。朝庭更造2新寺1備2其不v移之闕1。所v論元興寺是也」とある。續紀元正天皇靈龜二年五月の條に、「始v徒2建《ウツシタテハジム》元興寺于左京六條四坊1」同養老二年八月の條に「遷2法興寺於新京1」とあるから、靈龜二年から建始めて二年餘を經て養老二年に造り終つたのである。但、「遷2法興寺於新京1」とあるのを見ると、飛鳥にあつたのは廢せられたやうに思はれるが、實はさうではなく新舊ともに存せられた事は、右の太政官符によつて明かである。さて、故郷の飛鳥はあれど〔九字傍点〕はかの本元興寺(飛鳥寺)も成程よい所であるが、の意であつて、あれど〔三字傍点〕はよくあれどの略である。卷三の山部赤人の神岳に登つて作つた歌に、「飛鳥の舊都《ふるきみやこ》は山高み河とほじろし」とある通り、飛鳥のあたりは景色のよい所であつたと思はれる。○平城《なら》の飛鳥を 新元興寺の域内を其舊地の名を取つて、飛鳥と言つたので題詞に元興寺の里とあるのは、この平城《なら》の飛鳥の里の事である。
(108)【後記】 題詞には元興寺の里〔五字傍点〕を詠むとあるが、作歌の中心は奈良に出來た新元興寺を賛美するにあつた。飛鳥の本元興寺もその盛時には、東門に飛鳥寺、西門に法興寺、南門に元興寺、北門に法滿寺の額を掲げ、當時の高僧多く集り、天武天皇も屡々行幸遊ばされた。しかし奈良遷都の後、養老二年に功竣つて移された新元興寺は廣壯なる地域を占め、威觀人目を驚かしむるものがあつたらう。この坂上郎女の歌は即ち當時の人々の感嘆の聲を代表したものと見るべきであつて、文化史的に見て意義のある作である。
 
     同じき坂上郎女の初月《みかづき》の歌一首
 
993 月立ちで ただ三日月の 眉根掻き け長く戀ひし 君にあへるかも
 
【題意】 初月の歌とあるが、實は三日月に寄せた戀の歌である。
【口譯】 三日月のやうな眉を掻いて、私が長い間戀してゐた貴方に逢ふ事が出來たことよ。
【語釋】 ○月立ちて 月が改つて、新しい月になつての意。攷證に「朔をついたちといふも、月立《ツキタチ》の音便にて、古しへすべて月のはじめて天に登りて見ゆるを月立《ツキタチ》といへり。七に向山月立所見《ムカヒノヤマニツキタチテミユ》云々、十に雁鳴乃所聞空從月立度《カリガネノキコユルソラユツキタチワタル》、十一に三毛侶乃山爾立月之《ミモロノヤマニタツツキノ》云々などある、これ也、さて月のはじめになれば、(109)月の天にあらはれそむるものなれば、朔をつきたちとはいへるにて、ここの月立而もそれにて、俗にいはば月あらたまりてといはんが如し」とある。○ただ三日月の 上のつきたちてただ〔七字傍点〕は三日月〔三字傍点〕にかかる枕詞式の句である。(若し五言より成るもののみを枕詞といふと定めるなら、これは序句と言ふべきかも知れぬ。)即ち、月が改つてから唯わづかに三日の月といふ意味によつて續く。そして眉の細く美しいのを三日月に譬へて、「三日月の眉」と次の句に連つてゆくのである。圖示すると次の如し。
  月立ちてただ→三日月 の眉根かき〔三日月から眉根に→、入力者〕
猶、月を眉になぞらへたことは、支那の詩文にも見える。文選の鮑照玩v月詩に「未v映東北塀、〓々似2蛾眉1」、駱賓王詩に「蛾眉山上月如眉」とある。○眉根掻きけ長く戀ひし 眉根〔二字傍点〕はマユネ又はマヨネと訓み、眉の根本《ねもと》の意である。眉根を掻くのは戀人に逢はう爲の呪である。卷十一に「眉根かき鼻ひ紐解け待てりやも何時かも見むと念へる吾君」「めづらしき君を見むとぞ左手の弓執る方の眉根かきつれ」とある。卷四の「いとまなく人の眉根を徒に掻かしめつつも逢はぬ妹かも」とあるのは、眉根を掻いて呪をするけれども、その効のない嘆きである。この郎女の歌は眉根を掻いて長い間戀してゐた人に、遂に逢ふ事の出來た喜を語つてゐる。○君にあへるかも あへる〔三字傍点〕のる〔傍点〕は完了の助動詞り〔傍点〕の連體形、かも〔二字傍点〕は感動の助詞であ(110)る。
【後記】 萬葉の歌の特徴で、口語譯にはよく現しきれぬ序詞が、この歌では巧に使用されてゐる。「眉根掻き」といふ當時の俗信を詠んだ點も注意される。この歌の次に家持の同じく月の歌が並んでゐる點から察するに、郎女の作は當時少年であつた家持に、作歌の手本としてこれを示したのではあるまいか。猶、次の歌參照。
 
     大伴宿禰家持初月の歌一首
 
994 振《ふり》さけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引《まよび》き 念《おも》ほゆるかも
 
【口譯】 遙かに空の三日月を見やると、私は一目見た愛しい女の眉墨のさまが偲ばれることである。
【語釋】 ○振りさけて 原文に振仰而とあるが、フリサケテと訓むのは義訓である。正しくは振放而と記すべきある。新考に「フリサケテはここに振仰而と書きたれどそは意を得て書けるにてフリサケに仰ぐ意は無し。フリは添辞、サケは見サクルのサクルと同じ。さればふりさけみるは見遣ルといふことなり」とある。○眉引き まよびき〔四字傍点〕は眉墨を引いてゐること。黛《マユズミ》。卷五に「常なりし笑まひまよびき咲く花のうつろ(111)ひにけり」、仲哀紀に「譬2如美女之〓1有2向津國1」註に「〓此云2麻用弭枳《マヨビキ》1」とある。
【後記】 家持の作中、年代の明らかなものの最初で、彼の年齢は十六歳と推定される。歌の内容は美人の眉引のうるはしさを詠んでゐるので、彼の早熟さが偲ばれるとする人があるが、しかしこれは恐らく彼の實感よりも、寧ろ前掲の坂上郎女の歌を模倣したものであつて、郎女の歌が寄物陳思の手法によつたのに對して、家持はもつと端的に三日月と眉を結びつけて、正述心緒の技法によつたものと見るべきではあるまいか。
 
     大伴坂上郎女、親族と宴せる歌一首
 
995 かくしつつ 遊び飲みこそ 草木すら 春は生《お》ひつつ 秋は散りゆく
 
【題意】 卷三にも大伴坂上郎女宴2親族1之日吟歌がある。作者はかなり社交性に富んだ、男まさりの女性であつたと思はれる。
【口譯】 かうして遊んで酒を飲んで樂しみませうよ。草木でも春は生長して、秋は散つてしまふものです。(まして人間はなほ無常なものですから、生きてゐる中に樂しみませう。)
【語釋】 ○かくしつつ 酒宴の席で詠んだのであるから、こんなに集つて樂しみつつ、の意である。○遊び(112)飲みこそ こそ〔二字傍点〕は願望の助詞。(前掲の五百夜繼ぎこその條參照。)この歌では原文には遊飲與〔三字傍点〕と記してある。與〔傍点〕字をコソと訓むべき明證は、卷十一に「里遠みうらぶれにけりまそ鏡床の邊去らず夢所見與《イメニミエコソ》」「里遠み戀ひわびにけりまそ鏡面影きらず夢所見社《イメニミニコソ》」とある。これらを見合せるとよく諒解できるであらう。其他、卷七に「奧つ藻の花咲きたらば我告與《ワレニツゲコソ》」卷十に「思ふ子が衣摺らむに爾保比與《ニホヒコソ》島の榛原秋立たずとも」など見える。○春は生ひつつ 生〔傍点〕の家を舊訓にモエ、略解にオヒ、古義にサキとよんでゐる。殊に古義にはサキと訓むべき證として、卷十の「石走の間に生有《サケル》貌花の」卷十六の「七重花|佐久《サク》八重花|生《サク》と」卷七の「をみなへし生澤《サキサハ》の邊の」を擧げてゐる。舊訓のモエは論外として、古義のサキ説も必ずしも不可ではないが、「草木スラ」といふ語に對して、サキよりもオヒの方が妥當のやうに思はれる。草木でも春は生々と生ひ茂り榮える、といふ意味である。○秋は散りゆく 原文落去〔二字傍点〕は舊訓にチリユク、略解にカレユク、古義にチリヌルと訓んでゐるが、これは古義説のチリヌルでは一首の調が損はれてしまふし、略解のカレユクでは餘り原字を離れ過ぎるので、舊訓のチリユクが最も穩當である。
【後記】 男性に伍しても多く遜色を見ない程の朗々たる調を藏してゐる作であつて、さすがに讃酒歌を詠んだ旅人の妹であるといふ感じがする。單に享樂的と言ふよりも、更に力強い明朗な生活力とでも言ふべきものが波打つてゐる。この作者には又「酒杯《さかづき》に梅の花浮べ念ふどち飲みて後には散りぬともよし」(卷八)といふ歌もある。
 
(113)     六年甲戌|海犬養《あまのいぬがひ》宿禰岡麻呂詔に應《こた》ふる歌一首
 
996 御民《みたみ》吾《われ》 生《い》けるしるしあり 天地《あめつち》の 榮ゆる時に 逢《あ》へらく念《おも》へば
 
【口譯】 陛下の臣民たる私は實に生き甲斐があります。この天地の榮え、御稜威の輝く御時世に生れ逢つたことを思ひますれば。
【語釋】 ○御民吾 臣民は天皇の所有し給ふものであるから、自ら敬つてみ民〔二字傍点〕と言つたのである。臣民自ら御民を以て任じてゐるのであつて、天皇御自ら「天皇朕《すめらわれ》」と仰せられてゐるのと相對して考ふべき事である。○天地の榮ゆる時に 代匠記に「天地ノ榮時トハ、第一ニ藤原宮ノ役民ガ歌ニ、天地モ依テアレコソトヨメルガ如シ。天地祥瑞ヲ出シテ、覆載ノ道能ク和合セル時ナリ」とある。天地萬物の榮ゆる時とは、即ち天皇の御稜威輝き、國運隆盛を極める時である。○逢へらく念《おも》へば あへらく〔四字傍点〕は逢ふ事の意、原文の念者はもへば〔三字傍点〕とよまずに、おもへば〔四字傍点〕と字餘りに訓むのが、一首の雄大なる聲調を生かすと思ふ。
【後記】 皇威四方に輝き、文化燦然として前古に比類を見なかつた天平の聖代を讃美した古今の絶品である。同じく天平の大御代の榮えを謳歌したものに、小野老の「あをによし寧樂の都は咲く花の薫《にほ》ふが如く今盛なり」(卷三)があり、これまた極めて傑れた作であるが、この御民〔二字傍点〕(114)吾〔傍点〕の歌は、初二句に臣民としての自覺を歌ひあげ、御代の繁榮を現すのに、小細工を勞せずに、大きく天地の榮ゆる時と言ひ、結句に逢へらく念へばといふ重厚味のある語を据ゑ、一首全體に響きかへしてゐるあたり、心詞共に雄渾の趣を備へてゐる。
 
     春三月難波宮に幸せる時の歌六首
 
997 住吉《すみのえ》の 粉|濱《はま》のしじみ 開《あ》けも見ず 隱《こも》りてのみや 戀ひわたりなむ
     右の一首は作者いまだ詳ならず
 
【題意】 續紀の聖武紀に「天平六年春三月辛未行2幸難波宮1、戌寅車駕發v自2難波1、宿2竹原井頓宮1庚辰車駕還v宮」とある。
【口譯】 住吉の粉濱といふ地の蜆貝《しじみ》のやうに、打ち開けて思を述べないで、心の中にこめてばかり戀ひ續けて行かうか。(いや、もう堪へ切れないので、打開けよう。)
【語釋】 ○粉濱のしじみ 粉濱〔二字傍点〕は住吉にあつた地名。原文の四時美はこの字面に從つて訓めば、シジミ即ち蜆貝の事であらう。和名抄に「文字集略云蜆貝【音顯、字亦作〓、和名、之々美加比】似v蛤而小黒者也」、新撰字鏡に「蜆、小蛤、之自彌」とある。蜆は常に口を開かないで隱《こも》つてゐるので、下の開《あ》けもみず〔四字傍点〕にかかる序となる。以上が通説で(115)あるが、四時美が元暦校本には四時華とあり、八雲御抄にも「萬六とこなつは四時華とかけり」とあつて、古くはトコナツと訓んでゐたらしい。夫木集に「住よしのこすのとこなつさくも見すかくれてのみや戀わたるらむ」とあるのは、此歌の古訓であらう。しかし四時華をトコナツと訓む根據が薄弱であり、當時果して常夏の稱呼があつたか否かも疑はしい。一體、トコナツは夏から秋にかけて、又は冬の野原などにも美しく花を咲かせる爲に名付けられたのであるから、この歌のやうに春三月の頃に、トコナツを詠むといふのは聊か無理の感があり、たとへ「とこなつ咲くもみず」と言つてゐるとしても、季節はづれのやうに思はれる。ここでは異色のある古訓として指摘するに止めて置く。○隱《こも》りてのみや 代匠記はコモリテノミヤとよみ、略解、古義はコモリノミヤモとよみ、新考にはカクシテノミヤとよんでゐる。新考にカクシテノミヤと訓んだのは、上のアケモミズと同じく他動詞に訓むべきであるといふ立場からであるが、其は少し考へ過ぎではあるまいか。卷十に「こもりのみ戀ふれば苦し瞿麥の花に咲き出よ朝《あさ》な朝《さ》な見む」とある歌の初句も、心の中のみに秘めて戀ふる意味であつて、今の場合と全く同じである。
【後記】 住吉の風物に寄せて戀の思を陳《の》べたのであるが、その戀愛の對象に就いて諸説がある。古義には「本郷の家にある妹を色に顯はさずて心の裏《ウチ》に隱(シ)てのみ戀しく思ひて」と言ひ、略解には「從駕の女房を戀るなるべし」と言ひ、全釋には「旅中に住吉の女に戀して思を打ちあけかねて、煩悶してゐる時の作であらう」とある。旅にあつて家の妻を偲ぶといふ事決して不自(116)然ではないが、特に「粉浜のしじみ」を捕へて來た所、やはり住吉の女に對する戀ではあるまいかと思ふ。
 
998 眉の如《ごと》 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて榜《こ》ぐ舟 泊《とまり》知《し》らずも
     右一首は船王の作
 
【口譯】女の眉のやうな形に遙か空のかなたに見える阿波の國の山を目がけて、榜いでゆく舟の行き着く所はいづこであらうか、分らないことだ。
【語釋】 ○眉の如《ごと》 遠山を美人の眉に譬へた例は、玉京記に「卓文君眉色不v加v黛如v望2遠山1、時人效v之號2遠山眉1」とあるが、これは必ずしも支那の詩文の影響と見なくとも、住吉の海岸から海の彼方の阿波の山を望んだ實感をその儘詠んだものと解してよいであらう。○雲居に見ゆる くもゐ〔三字傍点〕は雲のゐる所、即ち遙かの天空の義である。卷三に「赤駒の足掻きを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける」とある。○かけて榜ぐ舟 かけて〔三字傍点〕は代匠記に「カケテトハ目ニ懸テ心アテニソナタニ行ナリ」とある通りである。必ずしも本當に阿波國に行くのを見極めたのではなく、ただ遙に見える阿波の山の方角を目指して榜いでゆく船を見て、かう言つたのである。それだから結句の泊知らずも〔五字傍点〕があはれ深く生きて感ぜられるのであ(117)る。
【後記】 渺々たる海上に遙か彼方の阿波の山を目指して榜いでゆく扁舟を眺めて、その行程を思ひやつた歌で、淡々たる描法の中に旅愁に滿ちた作者の心がよく現れてゐる。卷一に「何處にか船泊すらむ安禮の埼榜ぎたみ行きし棚無小舟」とあるのも、この歌の氣持と一脈の相通ずるものがある。
 
999 血沼回《ちぬみ》より 雨ぞ零《ふ》り來る 四極《しはつ》の白水郎《あま》 網手綱《あみたづな》乾せり 沾《ぬ》れあへむかも
     右の一首は住吉の濱に遊覽して宮に還る時、道の上《ほとり》にて守部王詔に應じて作れる歌
 
【口譯】 血沼の海の岸邊から雨が降つてくる。それに四極の浦の漁夫は網の綱を乾してゐる。沾れてよいのだらうかなあ。
【語釋】 ○血沼回《ちぬみ》より ちぬ〔二字傍点〕は原文には千沼とあるが、この外に血沼・茅渟・陳奴などと記してある。古事記に「於是與2登美※[田+比]古1戰之時、五瀬命於2御手1負2登美※[田+比]古之痛矢串1、故爾詔、吾者爲2日神之御子1、向v日而戰不v良、故負2賤奴之痛手1、自2今者1行廻而背負v日撃、期而自2南方1廻幸之時、到2血沼海〔三字傍点〕1、洗2其御手之血1、故謂2血沼海1也」、日本紀欽明天皇十四年の條に「河内國言、泉郡茅渟海〔三字傍点〕中有2梵音1」、卷七の攝津作(118)の歌に「妹が爲貝を拾ふと陳奴《ちぬ》の海に沾れにし袖は乾《ほ》せど干《かは》かず」とある。今の和泉國泉北郡地方の海岸で、和泉から攝津にかけてあの邊の海岸一帶を指したものである。ちぬみ〔三字傍点〕のみ〔傍点〕は浦回《ウラミ》、磯回《イソミ》、島回《シマミ》、裾回《スソミ》などと同じくそのまはり、めぐりの意。○四極《しはつ》の白水郎《あま》 四極〔二字傍点〕は住吉から喜連村にゆく間にある地名。卷三に「四極山打越え見ればかさぬひの島榜ぎかくる棚なし小舟」とある。白水郎〔三字傍点〕は和名抄に「辨色立成云白水郎和名阿萬」とあるのでアマと訓む事明かであるが、この字面は唐の元〓の詩に「黄家賊用2〓刀利1白水郎行2地1稀」とあるので、支那に基く事が分る。白水郎は又泉郎とも書いてゐる。この兩者の中、何れが本であるかに就き論あるも未詳である。○網手綱乾せり 網手綱〔三字傍点〕は舊訓アミテナハ、代匠記アミタツナ、略解に網〔傍点〕は綱〔傍点〕の誤としてツナデナハと訓んでゐる。攷證に綱〔傍点〕は繩〔傍点〕の誤としてアミテナハと訓み、古義に網〔傍点〕を綱〔傍点〕の誤とし、下の綱〔傍点〕を衍字としてツナデと訓んでゐる。かやうに諸説紛々として歸する所を知らないが、原文の儘にアミタヅナ(代匠記説)と訓んでよいであらう。○沾れあへむかも 原文沾將堪香聞とあり、舊訓、代匠記にヌレテタヘムカモ、略解にヌレバタヘムカモ、古義にヌレアヘムカモと訓んでゐる。古義に從ふべきである。あへむかも〔五字傍点〕のあへ〔二字傍点〕は堪ふ、耐へるの意の動詞、む〔傍点〕は未來の助動詞、か〔傍点〕は疑問の助詞、も〔傍点〕は感動の助詞であつて、沾れても堪へられるであらうか、沾れても差支へないであらうかの意である。
【後記】 血沼の海の方から雨氣を含んだ黒雲が襲うて來て、雨がパラ/\と降りかゝつて來るの(119)に、海人の網の綱は乾した儘になつてゐる、早く取入れないと沾れてしまふ、といふ海濱の俄雨の景を詠んだものである。二句、四句で切つて、結句に「沾れあへむかも」と作者の主觀語を投じてゐる。一首のリズムの上から見ても動的な場面を彷彿せしめる。
 
1000 兒らしあらば 二人聞かむを 沖《おき》つ渚《す》に 鳴くなる鶴《たづ》の 曉《あかとき》の聲
 
【口譯】 妻がここに居るならば、あの沖の洲で鳴いてゐる鶴の夜明けの聲を、私と二人で聞かうものを、なあ。
【語釋】 ○兒らしあらば こら〔二字傍点〕のら〔傍点〕は意味のない、調子の爲に添へた接尾辭、こ〔傍点〕は家の妻をさす。卷三に「兒らが家路ややま遠きをぬばたまの夜渡る月に競《きほ》ひあへむかも」とある。原文には「兒等之有者」とあるから、コラガガアラバとも訓める。○二人聞かむを 私と妻と二人で聞かうものを、の意。を〔傍点〕は感動の助詞で、前の「凡ならばかもかもせむを」の場合と同じ。
【後記】 曉に鳴く鶴の聲を聞いて、沁々と家に殘して來た妻の事を偲んだのである。しかも妻と二人で聞いたら、どんなに哀れさが勝るであらうといふ作者の感懷は、人の心を動かさずには置かぬ。卷八の光明皇后の御歌に「吾背子と二人見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しからま(120)し」とあるのは、男女の性を異にしてゐるが、一首に籠められた氣持は同じである。
 
1001 丈夫《ますらを》は 御※[獣偏+葛]《みかり》に立たし 未通女等《をとめら》は 赤裳《あかも》裾《すそ》引《ひ》く 清き濱びを
     右の一首は山部宿禰赤人の作
 
【口譯】 男達は天皇の御獵のお供に出立たれ、女達は清い濱邊に、赤い裳の裾を引いて遊んでゐる。
【語釋】 ○丈夫は ますらを〔四字傍点〕の意義は前にも説いたが、この歌では行幸のお供の文武百官をさす。○御※[獣偏+葛]に立たし 天皇の※[獣偏+葛]であるから、敬語のみ〔傍点〕を用ゐてゐる。たたし〔三字傍点〕はたつ〔二字傍点〕に敬語のす〔傍点〕が接したもので、これは供奉の丈夫に對して用ゐたのである。○未通女等は 未通女〔三字傍点〕をヲトメと訓むのは義訓であつて、未婚の婦人の意であるが、この歌では供奉の女官達を指す。ら〔傍点〕は前の歌のこら〔二字傍点〕の場合は、單なる接尾辞であつて意味はないと言つたが、ここの場合のら〔傍点〕は複數を示すものである。卷一の「安兒の浦に船乘りすらむ未通女等が玉藻の裾に潮滿つらむか」のをとめら〔四字傍点〕もこれに同じ。○清き濱びを、はまび〔三字傍点〕ははまべ〔三字傍点〕(濱邊)と同じ。
【後記】 契沖は「此歌は御供の男女、をの/\その所を得てたのしぶ君臣相あふ心なり」と評してゐる。マスラヲとヲトメと相對せしめた所に、多少さうした氣持もあつたのかも知れぬが、(121)作者の主眼は寧ろ目前の繪のやうな情景を直寫する點にあつたので、この作などは赤人の純客觀的な手法をよく示した歌である。
 
1002 馬の歩《あゆみ》 押《おさ》へ駐《とど》めよ 住吉《すみのえ》の 岸の黄土《はにふ》に にほひて行かむ
     右一首は安倍朝臣豐繼の作
 
【口譯】 私の馬の歩みを暫く押へ止めよ、從者よ。私はこの住吉の岸の赤土で着物を染めて行かう。
【譯釋】 ○馬の歩押へ止めよ 原文の押止駐余は舊訓にオシテトドメヨとあるが、代匠記にオサヘトドメヨと訓んだのに從ふべきである。卷三に「大御馬の口押へとめ」とある。この句は從者に命令する語である。卷十九にも「しぶたにを指して我が行くこの濱に月夜あきてむ馬しまし止め」とある。○岸の黄土《はにふ》ににほひて行かむ 上にも「白浪の千重に來縁《きよ》する住吉の岸の黄土生《はにふ》ににほひてゆかな」とあつた。この歌は黄土の下に脱字があるかも知れぬ。卷一の歌には「岸之埴布《ハニフ》爾」とあり、此卷の初の歌には「岸之|黄土粉《ハニフニ》」とあるので、黄土〔二字傍点〕は黄土粉〔三字傍点〕の粉〔傍点〕を脱したのか、或は略して記したのであらうか。
【後記】 前掲の「白浪の」の歌と類想の作であるが、一二句の「馬の歩押へ止めよ」といふ句が(122)官人の口調を其儘傳へて、一首に波動を與へてゐる點、前作よりも勝れてゐると思はれる。
 
     筑後守外從五位下|葛井連大成《ふじゐのむらじおほなり》、遙に海人の釣船を見て作れる歌一首
 
1003 海※[女+感]嬬《あまをとめ》 玉求むらし 沖つ浪 恐《かしこ》き海に 船出《ふなで》せり見ゆ
 
【口譯】海人の少女が鰒玉を取らうとするのだらう。沖の浪が恐しく立つてゐる海に、船出してゐるのが見える。
【語釋】 ○海※[女+感]嬬《あまをとめ》 海人の少女。海〔傍点〕は海部・海人など書くべきを略したのである。※[女+感]嬬〔二字傍点〕をヲトメと訓むべき事は集中の用例から察せられるが、その典據が明かでない。攷證は春心感動の意で感嬬と書くべき所を、連字偏傍を増す法によつて、感を※[女+感]として※[女+感]嬬と記したものと説いてゐる。しかし感嬬といふ熟字も、まだ管見に入らぬ所である。猶考ふべきである。○玉求むらし 玉〔傍点〕はここでは鰒玉即ち眞珠のこと。らし〔二字傍点〕は根據のある推量の助動詞。○船出せり見ゆ 見ゆ〔二字傍点〕は當時動詞及び助動詞の終止形に接するのが通則であつて、後世の如く連體形には接しない。武烈紀に「鮪《しび》がはたてに妻|陀※[氏/一]理《たてり》みゆ」、萬葉卷十五に「あまのいさりは點《とも》し安敞里《あへり》みゆ」とある。
【後記】 沖の荒浪の中に潜つて眞珠を取る海女の身を思ひやつて詠んだものである。必ずしも筑(123)後守として任地に於いて歌つたものとも限るまい。海を珍しく思ひ、驚嘆の目をみはつてゐる都人士の心が現れてゐる。
 
     ※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》の歌一首
 
1004 思ほえず 來ましし君を 佐保川の 河蝦《かはづ》聞かせず 還《かへ》しつるかも
     右、内匠寮大屬※[木+安]作村主益人、聊か飲饌を設け、以て長官|佐爲王《さゐのおほきみ》を饗す。いまだ日斜なるに及ばず、王既に還歸す。時に益人、厭かずして歸らるるを怜惜して、仍りてこの歌を作る。
 
【題意・左註】 内匠賓はウチノタクミノツカサと訓む。和名抄に「職員令云、内匠寮、宇知乃多久美乃豆加佐《ウチノタクミノツカサ》」とある。中務省に屬して、巧匠技巧の事を掌り、公事の鋪設等をも兼ね行ふもので、聖武天皇の神龜五年八月に始めて置かれた。頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大屬一人、少屬二人等の官があつた。※[木+安]作益人は大屬であつたから、佐官で位は從八位上の卑官である。長官佐爲王とあるのは、佐爲王が内匠寮の頭であつたからであらう。左註の大意は、内匠寮大屬の※[木+安]作村主益人が聊か御馳走を設けて長官の佐爲王をもてなした。ところが日がまだ傾かないのに、王は辭して歸られてしまつた。そこで益人が充(124)分滿足させずして歸すのを惜しんで、この歌を詠んだといふのである。
【口譯】 思ひ掛けなくもお出で下さいました貴方だのに、佐保川の面白い河鹿の聲を聞かせないで、お還ししたことだ。(誠にお名殘惜しい。)
【語釋】 ○思ほえず 思ひ掛けもなく、の意。長官佐爲王を尊敬し、その入來を喜ぶ餘り、私のやうな者の宅によくお出で下さいました、全く思ひ掛けない事でと、自ら卑下した語氣である。○來ましし君を 原文來座君〔三字傍点〕は代匠記、略解、古義にはキマセルキミと訓んでゐるが、新考に「キマシシとよまではカヘシツルカモと時相かなはず」とある通り、キマシシキミと訓むべきである。きませる〔四字傍点〕は今現に來てゐられるの意であるから、結句のかへしつるかも〔七字傍点〕(歸してしまつたことだ)と時の前後が矛盾するのである。きみを〔三字傍点〕のを〔傍点〕は「……なるに」、……なるものを」の意で、感動の助詞である。前の「凡ならばかもかもせむを」の場合と同じ。○河蝦《かはづ》聞かせず 河蝦〔二字傍点〕は今の河鹿。河鹿の面白い聲を聞かせないで、の意。ず〔傍点〕は打消の助動詞の連用形で、ずしての意である。
【後記】 佐保川のほとりに住んでゐた作者が、長官の訪問を喜びながらも、自慢の河鹿の聲を聞かせずに歸したのを飽かず口惜しく思つて詠んだ歌である。卷三の赤人の歌に「夕霧に河蝦《かはづ》はさわぐ」卷六の千年の歌に「夕されば河蝦鳴くなべ」とある通り、河蝦は夕暮に鳴く聲があはれ深く感ぜられる。佐爲王は日がまだ傾かない中に歸られたので、遂に佐保川の河蝦の聲のあ(125)はれさを聞かせる事が出來なかつたのである。
 
     八年丙子夏六月、芳野離宮に幸せる時、山部宿禰赤人、詔に應じて作れる歌一首并に短歌
 
1005 やすみしし 我|大王《おほきみ》の 見《め》し給ふ 芳野の宮は 山高み 雲ぞ棚引く 河はやみ 瀬の音《と》ぞ清き 神さびて 見れば貴く 宜《よろ》しなべ 見れば清《さや》けし この山の 盡きばのみこそ この河の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 止《や》む時もあらめ
 
【題意】 續紀に「天平八年六月乙亥幸2于芳野1、七月庚寅車駕還v宮」とある。
【口譯】 わが大君の御覽遊ばす芳野の離宮は、山が高いので雲が棚引いてゐる、河の流が早いので瀬の音がさやかに聞える。山は神々しくして、見ると貴く思はれ、河はこの形勝の地に適はしく、見るとすがすがしく思はれる。この山の無くなる事があるならば、この河の絶える事があるならば、この大宮所の無くなる事もあるだらう。」(この山河のあらん限りはこの御所も絶える事はない。)
(126)【語釋】 ○やすみしし 大君〔二字傍点〕の枕詞。語義未詳。○見《め》し給ふ めし〔二字傍点〕はみる〔二字傍点〕(見)に敬語の助動詞のす〔傍点〕が接して、音が轉じたもの。(既出)○神さびて見れば貴く この句は山に關して言ふ。卷三の赤人の歌に「天地の分れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる不盡《ふじ》の高嶺を天の原ふり放け見れば」とある。○宜しなべ見れば清《さや》けし この句は河に對して言ふ。よろしなべ〔五字傍点〕は川の樣子が、如何にもこの形勝の地に適してゐるといふ意である。卷一に「耳無の青すが山は背面《そとも》の大御門に宜しなべ神さび立てり」、卷三に「宜しなべ吾背の君が負ひきにしこの背の山を妹とは喚《よ》ばじ」、卷十八に「しかれこそ神の御代より宜しなべ此橘を時じくのかぐの木の實と名づけけらしも」とある。いづれもふさはしく〔五字傍点〕と譯して當るやうである。○此山の盡きばのみこそ 次の「この河の絶えばのみこそ」と同じく、のみ〔二字傍点〕は強意の助詞で、山や河の盡き絶えるといふやうな事が、萬一あつたなら、その時こそは、といふ意味である。○ももしきの 大宮〔二字傍点〕の枕詞。ももしき〔四字傍点〕は百磯城《モモシキ》で、當時の宮は多くの石を築いて作つたから、これを宮にかけて言ふ。
 
     反歌一首
 
1006 神代より 芳野の宮に 在《あ》り通《か上》ひ 高知《たかし》らせるは 山河をよみ
 
【口譯】 古い時代から芳野の宮に絶えずお通ひになつて、高く宮造りをなさつてゐられるのは、(127)山や河の景色がよいからである。
【語稱】 ○神代より 言葉通りに、神代から芳野の離宮があつたのではない。これは唯、芳野の離宮を祝福して、悠久の古代からと言つたのである。此卷の冒頭の笠金村の芳野離宮の歌に「山川を清《きよ》み清《さや》けみうべし神代ゆ定めけらしも」とあるのと同じ。○在り通ひ 昔からずつと行き通つて、の意。(既出)。○高知らせるは 宮殿を高くお構へになつたのは、の意。
【後記】 芳野の離宮の絶景を賞して、帝徳を讃美したのであるが、長歌も反歌も平板に失してゐて、特に言ふべき長所もない。唯、この歌については、契沖が「赤人ノ歌ニ年ヲ記セルハ此八年六月ヲ終トス。コレヨリ程ナク死去セラレケルニヤ」と言つてゐる通り、赤人の作歌の集中に見える最後の作として注意される。
 
     市原王、獨子《ひとりご》を悲める歌一首
 
1007 言問《ことと》はぬ 木すら妹《いも》と兄《せ》 ありとふを ただ獨子《ひとりご》に あるが苦しさ
 
【題意】 市原王は安貴王の御子で、市原王自身が兄弟のない孤獨の身である事を悲しまれたのである。猶語釋の條參照。
(128)【口譯】 物を言はない木でも、芽ばえなどが幾本も出て、兄弟姉妹があるといふのに、人間たる私が兄弟もない唯一人子であるのが苦しいことである。
【語釋】 ○言問はぬ こととふ〔四字傍点〕は物を言ふこと。卷十二に「夕されば物思ひまさる見し人の言問ふ姿面影にして」とある。記紀時代では草木みな能く言問ふと信じられてゐたが、萬葉時代に入ると、さういふ靈異感が薄れて、草木は言問はぬものの代表者になつたのである。卷五に「言問はぬ樹にはありとも麗《うるは》しき君が手慣《たなれ》の琴にしあるべし」「言問はぬ木にもありとも吾背子が手慣の御琴|地《つち》に置かめやも」とある。○木すら妹と兄ありとふを いもとせ〔四字傍点〕は後世の妹背の契などの場合の如く夫婦の意ではなく、兄弟姉妹をさす。木に兄弟姉妹があるといふのは、木の根元から生じた蘖《ヒコバエ》などの、幾本も立ち並んだ樣を言つたものであらう。有云乎〔三字傍点〕はアリチフヲとも訓める。當時トイフを約めて、トフともチフとも言つたのである。○ただ獨子にあるが苦しさ この獨子〔二字傍点〕を代匠記以來、市原王の御子がお一人であつたといふ見方をする者が多かつた。然るに續紀には「天應元年二月丙午三品能登内親王薨、内親王天皇之女也、適2正五位下市原王1、生2五百井女王、五百枝王1、薨時年四十九」とあつて、市原王と能登内親王との間には、御子が二人おはした事明かである。この市原王の歌は天平八年の作と思はれるから、其時能登内親王は幾歳であられたかと見ると、薨去の年から逆算して、天平五年の御誕生である事が分るから、天平八年には僅かに四歳であらせられたのである。飜つて市原王の年齡を考へると、天平十五年に始めて無位から從五位下に叙せら(129)れてゐるから、天平八年にはまだ弱年であられた事疑ない。たとへ代匠記の言つてゐるやうに、内親王をお迎へになる前に別の妻又は妾があつたとしても、天平八年頃に既に御子を持たれたとも思はれず、殊に「自分の子は唯一人の子であるのが苦しいことよ」といふ嘆きの聲を發せられるには、餘りに若きに失する嫌がある。自身の子の孤獨を嘆かれるのは、寧ろ晩年のもの淋しい氣特に基くのではあるまいか。さすればここにも市原王の御子の孤獨といふ説の破綻がある。かやうに何れの點から見ても、これは市原王自身が安貴王の獨子であつて、兄弟のないのを悲まれたと解するより外はない。特に「ただ獨子にあるが苦しさ」といふ切實な嘆きは、自身の御子又は他人の子の孤獨ではなく、自分自身の孤獨から自らにして吐き出されたものと解すべく、かくてこそ始めてこの語の眞意を掴む事が出來るのである。
【後記】 語釋の所で説いたやうに、市原王が安貴王の唯一人の子であつて、兄弟のない淋しさを詠まれたものであるが、無心の木にすら兄弟があるのに、といふ嘆聲は誠にあはれであつて、千載の下人の心を打つものがある。前にこの市原王が父の安貴王の長壽を祝はれた歌があつたが、彼此見合せると、作者の人格が奥ゆかしく偲ばれることである。
 
     忌部首《いみべのおびと》黒麿、友の※[貝+〓]《おそ》く來るを恨むる歌一首
 
1008 山の端《は》に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜は更《くだ》ちつつ
 
(130)【口譯】 山の端に出ようとして躊躇してゐる月が、もう出るかと待つやうに、まだかまだかと思つて、私が待つてゐる貴方は見えずに、徒に夜は更けてゆく。
【語釋】 ○山の端にいさよふ月の いさよふ〔四字傍点〕はためらひ、躊躇すること。所謂いさよひの月〔六字傍点〕もこれと同じ意である。卷三に「もののふの八十氏河の網代木《あじろぎ》にいさよふ浪の行方しらずも」とある。月の〔二字傍点〕のの〔傍点〕は主格を示す助詞であつて、次の出でむか〔四字傍点〕にかかる。○我が待つ君が 君が〔二字傍点〕のが〔傍点〕といふ助詞の使用が少し無理であつて、他の語を補つて解しないと、意味がよく分らない。即ち上の月の出でむかと〔七字傍点〕を受けて、もう月が出るかと待つやうに、自分が頻りに待ち設けてゐる君は、仲々お出にならぬ、といふ餘意を含めて見るべきである。原歌の表現は甚だ拙劣である。
【後記】 卷七に「山のはにいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞくだちける」「山のはにいさよふ月を何時とかも吾が待ち居らむ夜はふけにつつ」とある。黒麿の歌はこの二首の歌を本歌として詠んだもので、第四句の表現上の無理は、原歌を模してしかも之に及ばなかつた證である。
 
     冬十一月左大辨葛城王等に、姓|橘氏《たちばなのうぢ》を賜へる時の御製の歌一首
 
(131)1009 橘は 實《み》さへ花さへ その葉さへ 枝《え》に霜降れど いや常葉《とこは》の樹
     右、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、皇族の高名を辭し外家の橘姓を賜ふこと已に訖りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮にあり。以て肆宴を爲し、即ち橘を賀《ほ》ぐ歌を作り給ひ、并に御酒を宿禰等に賜ひき。或は云ふ、この歌一首は太上天皇の御歌なり。但、天皇皇后の御歌各一首ありといへり。その歌遺送落して未だ探り求むることを得ず。今案内を檢するに、八年十一月九日、葛城(132)王等、橘宿禰の姓を願ひて表を上る。十七日を以て表の乞に依りて、橘宿禰を賜ふ。
 
【題意・左註】 左大辨は職員令に「左大辨一人、掌d管2中學務・式部・治部・民部1、受2付庶事1、糺2判官内1、署2文案1、勾2稽失1、知c諸司宿直、諸國朝集u、若右辨官不v在、則併行v之」とある。葛城王は即ち橘諸兄で敏達天皇の玄孫である。佐爲王は諸兄の弟である。外家はこの二人の母なる三千代夫人のことである。此人はもと縣犬養宿禰東人の女で、美努王に嫁して葛城王と佐爲王を生んだ。元明天皇和銅元年十一月二十五日に、大甞祭の宴に侍してゐた際、三千代のかねての忠誠を賞し、杯に浮んだ橘に因んで、橘宿禰の姓を賜つたのである。外家の橘姓とはこれを指す。しかるに今、天平八年十一月、葛城王等が皇族の高名を拜辭して臣下に降り、母の姓の橘を繼ぐ事を乞ひ、勅許あつてこの御製を賜つたのであるが御製は聖武天皇の御歌の意、皇后は光明皇后、太上天皇は元正天皇である。契沖は「時に太上天皇、皇后、共に皇后宮にあり」の句に疑を存して、「太上天皇皇后は今按、皇后は天皇を誤れるなるべし。共在2于皇后宮1とあれば、上に皇后と云に及ばずして、申すべき天皇を申さねばなり」と言つてゐる。猶、左註によると十一月九日に葛城主等に橘の姓を賜はり、酒宴を催されて、この御製を賜つた(案内、即ち文書によると、十一月九日に葛城王等が橘宿禰の姓を賜る事を奏請し、同十七日に勅許あらせられた)といふのであるが、續紀には奏請したのは十一月内戌(十一日)となつてゐて、相異してゐるが、勅許のあつたのは壬辰(十七日」とあるから、これは左註の案内の記事と一致する。
(133)【口譯】 橘は實までも花までむ、その葉までも、冬になつて枝に霜が降つても、何時までも變らぬ緑色をしてゐる木である。(この橘の名にあやかつて何時までも榮えるやうに。)
【語釋】 ○實さへ花さへその葉さへ さへ〔二字傍点〕は前からある物に更に其上に添はる意味を現す助詞であつて、までも〔三字傍点〕といふ口語に當る。集中に副〔傍点〕や并〔傍点〕の字をサヘと訓ませてゐるのも、その意味である。この歌はさへ〔二字傍点〕を疊用して、意を強め調べを整へてゐる。○枝に霜降れど 古義に「枝爾霜雖降はエニシモフレドと本居氏のよめるぞよろしき。(枝をエダと訓むはここはわろし。)枝をエとのみ云る例は(上枝《ホツエ》下枝《シヅエ》など云類はさらなり。)三卷に春霞春日山之殖子水葱苗有跡三師柄者指爾家牟《カルカスミカスガノヤマノウヱコナギナヘアリトミシエハサシニケム》、かげろふ日記、卷末に載せたる歌に、かばかりもとひやはしつるほととぎす花橘のえにこそありければとあり」とあるが、卷三に「出で立ちの百枝槻《ももえつき》の木こちごちに枝《えだ》させる如春の葉の茂きが如」卷三に「梅の花咲きて散りぬと人は云へど吾が標結ひし枝《えだ》ならめやも」卷八に「秋萩の枝《えだ》もとををに降る露の消なば消ぬとも色に出でめやも」とあるから、エダニシモフレドと訓むのも不當ではない。唯、この歌の場合はエダと訓むと、字餘りとなり、一首の調子の上からダといふ濁音が少し重過ぎる感もあるので、エニシモフレドと訓んで置いた。○いや常葉《とこは》の樹 いよいよ益々、永久に變らぬ緑色の葉の樹の意であつて、常磐・常盤と記すトキハとは異つてゐる。續紀に「養老五年十月庚寅太上天皇又詔曰(中略)其地者皆殖2常葉之樹1」とあり、卷十四に「しらとほふを新田《にひた》山の守る山の末《うら》枯れせなな常葉《とこは》にもがも」とある。
(134)【後記】 元正天皇が三千代に橘の姓を賜つた時も、「橘者菓子(ノ)長、上人(ノ)所v好、柯凌2霜雪1而繁茂、葉經2寒暑1而不v彫、與2珠玉1共競v光、交2金銀1以逾美、是以汝姓者賜2橘宿禰1也云々」と仰せられてゐるが、この歌もやはり橘が實も花も葉も共に勝れて、永遠の榮光を示してゐるのを賞でて、この橘のやうに汝の家も何時までも隆盛を續けるやうにと祝福し給うたのであつて、誠に恐多い有難い御製である。
 
     橘宿禰奈良麻呂詔に應ずる歌一首
 
1010 奥山の 眞木《まき》の葉|凌《しぬ》ぎ 零《ふ》る雪の 零《ふ》りはますとも 地に落ちめやも
 
【題意】 奈良麻呂は諸兄の長男である。續紀によれば「天平十二年五月乙未、天皇右大臣相樂別業宴飲※[酉+斗]暢、授2大臣男、無位奈良麻呂從五位1」とあるから、この應詔の歌を詠じた時(天平八年)はまだ無位の弱冠であつたと思はれる。前の御製に對して諸兄や佐爲王も奉答したであらうが、今日傳つてゐない。或はこの年少の奈良麻呂をして、一同に代つて詔に應ずる歌を奉らせたのかも知れぬ。
【口譯】 奥山の眞木の葉を押し靡かせて降《ふ》りつもる雪のやうに、古《ふる》く年を經て行つても、橘は土に落ちる事がありませうか、決してそんな事はありません。(世々を重ねても橘の家名を墜す(135)事は斷じてありません。)
【語釋】 ○奥山の眞木の葉凌ぎ零《ふ》る雪の 奥山にある眞木の葉を押しふせて零る雪のやうにの意で、次の零りはますとも〔七字傍点〕の零り〔二字傍点〕にかかる序である。まき〔二字傍点〕は木をほめた語で、檜、杉の類をさす。流布本に眞〔傍点〕を直〔傍点〕に誤つてゐる。元暦校本によつて改めた。○零りはますとも ふり〔二字傍点〕は雪のふる意と、古《ふ》りの意を兼ねてゐる。古く年月が重なつて行つても、段々と時日が積つて行つてもの意。○地に落ちめやも 橘の家名を墜すやうな事はしないの意を、御製の橘の實によそへて、土には落ちないと言つたのである。落ちめやも〔五字傍点〕のめ〔傍点〕は未來の助動詞の已然形、や〔傍点〕は反語の助詞、も〔傍点〕は感動の助詞であつて、落ちるやうな事があらうか、決して落ちはしない、の意を示す。卷一に「紫草のにほへる妹を憎くあらば入嬬ゆゑに吾戀ひめやも」とある。
【後記】 卷三の大伴旅人の歌に「奥山の菅の葉凌ぎ零る雪の消《け》なば惜しけむ雨な零りそね」とあるのは、この奈良麻呂の歌の上句と似てゐるやうであるが、彼は雪解を惜しむ歌で、雪の〔二字傍点〕のの〔傍点〕は主格を示してゐるが、此は上句は序であつて、雪の〔二字傍点〕のの〔傍点〕はの如く〔三字傍点〕の意を現して居り、且つ下句に到つては兩者全く別個の境地を開いてゐる。零り〔二字傍点〕に雪のふりと古《ふ》りとを兼ね、又橘の實の縁語として、地に落ちめやも〔七字傍点〕と詠んでゐるが如きは、多少技巧的な點が目立つが、弱冠の頃の應詔の歌としては相當の作であらう。
 
(136)     冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等、葛井連《ふぢゐのむらじ》廣成の家に集《つど》ひて宴《うたけ》せる歌二首
   比來《このごろ》古※[人偏+舞]盛に興りて、古歳漸く晩《く》れぬ。理宜しく共に古情を盡して、同じく古歌を唱《とな》ふべし。故に此の趣に擬《なぞら》へて、輙《すなわ》ち古曲二節を獻《たてまつ》る。風流意氣の士、儻《も》し此の集の中に在らば、爭《あらそひ》て念を發し、心々に古體に和せよ。
 
1011 わが屋戸《やど》の 梅咲きたりと 告げやらば 來《こ》ちふに似たり 散りぬともよし
 
【題意】 歌※[人偏+舞]所は和名抄に「宇多末比乃豆加佐《ウタマヒノツカサ》」とある。雅樂寮のことで、文武雅典正※[人偏+舞]及び雜樂男女の樂人、音聲人の名帳、曲課を試練すること、其他節會・祭神・釋奠・饗宴・佛會等の事を掌る。文武天皇の大寶元年に定置せられ、聖武天皇の天平三年雅樂生員を改定し、唐樂生三十九人、百濟樂生二十六人、高麗樂生八人、新羅樂生四人、度羅樂生六十二人、諸縣舞生八人、筑紫舞生三十人となつた。諸王臣子等は、諸王臣の子でこの舞生をいふ。
【序】 序の大意は、近頃古い※[人偏+舞]が盛に興つて來たが、今年も漸く晩れようとしてゐる。(題詞に冬十二月十二日とあるのを指す。)道理上から言へは、皆共に古風の情を盡して、同じく古い歌を唱へるがよい。故にこの趣になぞらへて古い曲の歌二首を奉る。風流意氣の士が、この集會の中にあるならば、爭つて自分の(137)考を述べて、銘々この古風の歌に和しなさい、といふのである。流布本に盛與〔二字傍点〕とあるのは誤、元暦校本に盛興〔二字傍点〕とあるのに從ふべきである。此歌〔二字傍点〕も元暦校本に古歌〔二字傍点〕とあるのがよい。この小序中には古※[人偏+舞]・古歳・古情・古歌・古體と古〔傍点〕の字を重用して、文章の綾をなし、尚古趣味を鼓吹してゐる。これは葛井廣成の書いたものであらう。
【口譯】 私の家の梅の花が咲いたと告げてやつたならば、つまり見に來なさいと言ふのと同じである。(だから人も必ず訪ねて來るであらうから、)もう花は散つてしまつても構はない。
【語釋】 ○告げやらば來ちふに似たり 新考に「ツゲヤラバといはばコチフニ似タラムといふべく、コチフニ似タリと云はむとにはツゲヤレバといふべし。されば第三句の告遣者はツゲヤレバとよむべきかといふに旺歌をもととせりとおぼゆる古今集戀四の歌に「月夜よし夜よしと人につげやら〔右○〕ばこてふに似たりまたずしもあらず」とあればなほツゲヤラバとよむべく、さてそは結句のチリヌトモヨシ又かのカサネバウトシイザフタリネムなどの類にて未來を現在にて受くる變格又は古格なり」とある。從ふべし。○散りぬともよし この結句と上の「告げやらば來ちふに似たり」の間に、少し言葉を補つて解すべきである。梅の花が咲いたと告げてやると、それはつまり見に來なさいといふのと同じ樣な事であるから、先方でもそれを諒解して、訪ねて來るであらう。さて後には梅の花が散つてしまつても差支へないといふ意である。新考に「さて思ふにかく辭を略しておぼろげにいへるが適に古趣に擬したる所なるべし」とある。
(138)【後記】 前掲の古今集の歌は、この「吾屋戸の」の歌を本歌として詠んだもので、形式は類似した點があるが、しかしよく見るとかなりの相違した態度を示してゐることが分る。それは一は梅、一は月を主題としたといふやうな末梢的な問題ではなく、作歌の根本的な態度の相異である。萬葉集の歌は「告げやらば來ちふに似たり」と四句で切り、結句に「散りぬともよし」と斷じてゐる所、直線的にして強い信念を現してゐる。然るに古今集の歌は、「月夜よし夜よし」といふ一二句の滑り過ぎた調子、「待たずしもあらず」といふ曖昧な態度の中には、張りきつた氣持は何處にも現れてゐない。ここにも萬葉風と古今風との相異がある。
 
1012 春さらば ををりにををり 鶯の 鳴く吾が山齋《しま》ぞ 止まず通はせ
 
【口譯】 春になると花が枝もたわむ程、咲き亂れ、鶯がその枝に來て鳴く私の築山であるよ。今後絶えずお出で下さい。
【語釋】 ○春さらば 春去者はハルサレバと訓むよりも、ハルサラバと訓む方がよい。今は冬であるが、春になつてくると、の意である。○ををりにををり 卷三に「大日本久邇《おほやまとくに》の京はうち靡く春さりぬれば山邊には花咲きををり」とあるのと何じで、花が枝もたわむ程咲きにほふことを言ふ。即ち花が〔二字傍点〕といふ主格を(139)省略してゐる。古歌にはかやうな例があり、例へは卷一の「香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に來し印南國原」も、「立ちて見に來し」の主格を省略してゐる。そこで今の場合も、古調に擬して、主格を省いたのであらう。○鶯の鳴く吾が山齋《しま》ぞ 原文に島〔傍点〕とあるが、集中に山齋〔二字傍点〕と記してある例もある。しま〔二字傍点〕は庭に池島などを作つてあるのを言ふので、所謂、築山・山水《せんすゐ》の事である。卷二十に「屬2目山齋〔二字傍点〕1作歌三首」の中に「鴛鴦《をし》のすむ君がこの之麻《しま》今日見れば」とある。日本書紀推古天皇「二十四年蘇我馬子死去の條に「家2於飛鳥河之傍1庭中開2小池1仍興2小島於池中1故時人曰2島大臣1」とある。
【後記】 林泉の美を誇り、知己を待つといふ貴族趣味の見える歌である。卷一の長皇子の御歌に「秋さらば今も見るごと妻戀に鹿鳴かむ山ぞ高野原の上」とあるのと、多少似通つた點がある。
 
     九年丁丑春正月、橘少卿并に諸大夫等、彈正|尹《かみ》門部王の家に集ひて宴せる歌二首
 
1013 あらかじめ 君|來《き》まさむと 知らませは 門《かど》に屋戸《やど》にも 珠《たま》敷《し》かましを
     右の一首は主人門部王 【後姓大原眞人氏を賜へり】
 
【題意】 橘少卿は橘宿禰佐爲で、諸兄卿の弟であるから、少卿と言つたのであらう。弾正尹は弾正臺の長官。弾正臺は風俗を肅清し、内外の非違を糺弾する役所である。
(140)【口譯】 前以つて、貴方がお出でになると知つてゐたならば、門にも屋前にも玉を敷き並べませうものを。
【語釋】 ○知らませば ませ〔二字傍点〕は未然形所屬の助動詞まし〔二字傍点〕の未然形であつて、事實に反した假定の條件をいふ場合に用ゐられる。實際は知らなかつたのであるが、若しも知つてゐたならば、の意を示す。卷一に「草枕旅ゆく君と知らませば岸の埴生ににほはさましを」とある。ませば〔三字傍点〕の呼應として、下に多くまし〔二字傍点〕、ましを〔三字傍点〕といふ助動詞が用ゐられる。○門に屋戸《やど》にも 門にも屋戸にも、の意で、上のも〔傍点〕助詞を省略したのである。卷三に「今の代し樂しくあらば來む生《よ》には蟲に鳥にも吾はなりなむ」とあるのと同じ。屋戸《やど》は家内ではなく屋前の意。○珠數かましを 珠を敷き並べて置かうものを、の意、實際は並べて置かなかつたので、其が遺憾であつたといふ餘意を含めてゐる。珠はここは美しい小石のこと。
【後記】 人を歡迎するのに、「珠敷かましを」と言つた例は集中に多く、卷十一に「念ふ人來むと知りせば八重|葎《むぐら》おほへる庭に珠敷かましを」卷十八に「堀江には玉敷かましを天皇《おほきみ》を御船漕がむと豫《かね》て知りせば」卷十九に「葎はふ賤しき屋戸も大皇の坐さむと知らば玉敷かましを」など見える。多少は儀禮的な意味もあつたかも知れぬが、珠を敷くといふのが如何にも人に好感を與へるので、萬葉人に愛用されたものと思はれる。恰も「大君は神にしませば」といふ佳句(141)が疊用されたのと同じ心理に基くのであらう。
 
1014 前日《をとつひ》も 昨日も今日も 見つれども 明日さへ見まく 欲《ほ》しさ君かも
     右高橋宿禰|文成《あやなり》【即少卿之子也】
 
【口譯】 一昨日も咋日も今日もお目に掛りましたが、まだ見飽かないで、明日までも又貴方にお目に掛りたく思ひます。
【語釋】 ○前日《をとつひ》も 前日〔二字傍点〕は舊訓にサキツヒ、代匠記初稿本にヲトトヒとあるが、卷十七の「山の峽そことも見えず乎登都日毛昨日毛今日毛《をとつひもきのふもけふも》雪の降れれば」とあるのに據つて、精撰本にヲトツヒと訓んでゐるのが正しい。卷四に「前年」をヲトトシと訓んでゐるが、これも元來ヲトツトシであるが、餘りt音が重なるので、ツが脱落したのではないか。つ〔傍点〕は「沖つ浪」「海つ路」などの場合に見えるつ〔傍点〕と同じく、の〔傍点〕の意味の助詞である。○明日さへ見まく欲しき君かも 明日までも猶、見たく思はれる貴方であるよなあ、の意。見まく欲しき〔六字傍点〕は、見る事が欲しい、つまり見たく思ふの意。
 
     榎井王後に追和せる歌
 
(142)1015 玉敷きて 待たましよりは たけそかに 來たる今夜《こよひ》し 樂《たの》しく念《おも》ほゆ
 
【口譯】 前以つて玉を敷きつめて、私の來るのを待ち設けてゐられる時よりも、不意に訪ねて來た今宵の方が、私には愉快に思はれる。
【語釋】 ○待たましよりは 吉義に待益《マタマシ》は待衣四〔三字傍点〕の誤で、マタエシヨリハと訓み、新考にはマタエムヨリハの誤であらうとしてゐるが、何れも鑿説であつて從ひ難い。この句は前の主人側の門部王の歌に「門に屋戸にも珠敷かましを」とある結句を其儘借用したのである。即ち客側の一人の榎井王が、主人側の門部王に對して、「貴方は玉教きて待たましと言はれるが、それよりは……」と言つたのである。かやうに見ると待たまし〔四字傍点〕といふ語の意味がよく分ると思ふ。○たけそかに 他に用例の見えない語で、語義が未だ詳かでない。代匠記に「たけはたけきにて、そかはおろそか、おごそかなどいふにも添へたる詞にや」略解に「たけは集中たかたかといへる詞に同じ。そかはおろそかの意なるを合せいふ詞也」久老の信濃漫録に「たけは凌礫の意、七(ノ)卷に八船多氣《ヤフネタケ》とあるは、荒海の波を凌ぎて船を榜出すをいふ。(中略)そかはひそか、みそか、かすかなど云、そか、すか同言にて、そはひそけき、みそけき、かそけきと通ふ言なれば、たけそかは、たけしけきなり。然れば右の歌は玉敷きて待設ける所にいたらむよりは、おもひもかけぬところへ、おしかけて凌ぎ來れる今夜がかへりて樂しくおぼゆると云意なり」とあるが、何れも妥當とは思はれず、古義に(143)「不意の謂と見えたり」とあるのが、今の場合最も穩健な説のやうである。久老も「おもひもかけぬところへ」と言つてゐるが、たけを凌礫の意味に解してゐる立場からすれば、これは寧ろ言外の意を補つたものと見るべきであらう。さすればたけそかに〔五字傍点〕を不意にの意としたのは、古義の創見である。攷證に「たまさかにといふ詞にかよひて聞ゆ」とあるのは、稍々この意に近いが、上句の「玉敷きて待たましよりは」といふ語に對して、たまさかに〔五字傍点〕は少ししつくりせぬやうにも思はれる。しかしたけそかに〔五字傍点〕を不意に〔三字傍点〕の意味であるとしても、これはこの歌の前後の關係から推測した假説であるから、此語の語源については猶今後の研究に俟つべき點が多いと言はねばならぬ。
 
     春二月、諸大夫等、左少辨|巨勢宿奈麻呂《こせのすくなまろ》朝臣の家に集ひて宴せる歌一首
 
1016 海原の 遠き渡《わたり》を 遊士《みやびを》の 遊ぶを見むと なづさひぞ來し
     右の一首は白紙に書きて屋の壁に懸け著けたり。題していはく、蓬莱仙媛作る所の嚢蘰《かづら》、風流秀才の士の爲にす。これ凡客の望み見る所ならざらむか。
 
【題意・左註】 巨勢宿奈麻呂の家に風流の才人達が集つて酒宴を催した際に、座敷の壁に白紙に此歌を書いて懸けてあつたといふ。作者は誰か明かでないが、蓬莱の仙女になつて詠んだ歌である。流布本に所作〔二字傍点〕の(144)所〔傍点〕字が脱してゐたのを、古葉略類聚鈔によつて補ふ。題云〔二字傍点〕の中の嚢蘰〔二字傍点〕がよく分らない。契沖は嚢〔傍点〕は賚〔傍点〕の誤かと疑つてゐる。略解併載の春海説に「所の下一本作字あり。されば嚢は焉の誤、蘰は謾の誤にて、仙媛所作焉、謾爲2風流秀才之士1矣なるべし」とある。これに據ると容易に理解されるが、誤字説は文獻の支持が無いので俄に從ひ難い。實際、この場合に嚢謾〔二字傍点〕は不必要でもあり、又極めて唐突な感じがある。しかし他に適當な解釋がないので、姑く原形を重んじて、「仰媛作る所の嚢蘰《かづら》」と訓んで置いた。この白紙に書いた歌と共に、蘰のやうな物も壁に懸けてあつたのであらうか。「これ凡客の望み見る所ならざらむか」は、風流の士でない平凡な人には、これは見えないであらうといふ意。
【口譯】 海の上の遠い航路を、風流の士が遊ぶのを見ようと思つて、私は遙々と蓬莱から辛苦して渡つて來ました。
【語釋】 ○海原の遠き渡を 海上の遠い航路を、の意。海原〔二字傍点〕の原〔傍点〕はすべて廣く打開けた所を言ふので、野原、國原の類である。わたり〔三字傍点〕は海路、航路のこと。○遊士の みやび〔三字傍点〕は風流韻事の意。もとはひなび〔三字傍点〕、かみび〔三字傍点〕、おきなび〔四字傍点〕などと同じく、宮《みや》に接尾辭のび〔傍点〕がついたものであるが、それがみやび〔三字傍点〕といふ固定した名詞になつて、風雅・風流の意味を現すに至つたのである。みやびを〔四字傍点〕は風流を愛し、風雅を弄ぶ士のこと。卷二に「遊士《みやびを》と吾は聞けるを屋戸《やど》かさず吾を還せり鈍《おそ》の風流士《みやびを》」「遊士《みやびを》に吾はありけり屋戸かさず還へしし吾ぞ風流士《みやびを》にはある」とある。○なづさひぞ來し なづさふ〔四字傍点〕は卷三に「八雲さす出雲の子等は霧なれや吉野(145)の川の奥になづさふ」の場含などは、水に漬つてゐる意であるが、この歌の場合は、卷四に「浪の上をい行きさくみ磐の間をい行き廻《もとほ》り稻日都麻《いなびづま》浦囘を過ぎ鳥じものなづさひ行けば」とあるのと同じく、海路を辛苦して渡つて行く意味である。原文に「莫津左比曾來之」とあるのを、略解に莫〔傍点〕は魚〔傍点〕の誤かと言つてゐる。右の卷四の歌では「魚津左比去者」とあり、莫〔傍点〕と魚〔傍点〕は草書もよく似てゐるが、原文の儘でもナヅサヒと訓めるから、強ひて改める必要もないであらう。
【後記】 契沖が「あるじの方の女房などの……物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて時の興に蓬莱仙媛など書付て懸けるにや」と言つてゐるのは、少し考へ過ぎのやうである。酒宴の主人の女房と限定しなくともよいし、作は男であつて女の氣持になつて詠んだと見てもよい。要するに當時流行の神仙思想に着想し、風流土の好偶として仙媛を點出したまでである。集會の風流士の喝采を博したであらうが、歌としては勝れてはゐない。唯、當時の神仙思想に關する一資料を提供してゐる點と、歌を白紙に書いて壁間に懸けてこれを鑑賞する趣味が既に存してゐた事を示す點が、文化史的に兒て興味のある所である。
 
     夏四月大伴坂上郎女、賀茂神社を拜み奉れる時、便《すなは》ち相坂山《あふさかやま》を越え、近江の海を望み見て、晩頭還り來て作れる歌一首
 
(146)1017 木綿疊《ゆふだたみ》 手向《たむけ》の山を 今日|超《こ》えて いづれの野邊に 廬《いほり》せむ吾等《われ》
 
【題意】 大伴坂上郎女が賀茂神社參拜の序に、相坂山を越えて近江の湖水を望み見て、夕暮にまた立ち歸つて來て詠んだ歌である。賀茂神社は延喜式神名帳に「山城國愛宕郡賀茂別雷神社(亦若雷、名神大、月次相甞新甞)賀茂御祖神社二座(並名神大、月次相甞新甞)」とある。今の京都の上賀茂下賀茂の兩社である。便《すなは》ちはついでに、の意。流布本に便〔傍点〕を使〔傍点〕に誤つてゐる。元暦校本によつて改む。相坂山は日本書紀に「忍熊王知v被v欺、謂2倉見別五十狹茅宿禰1曰、吾既被v欺、今無2儲兵1、豈可v得v戰乎、曳v兵稍退、武内宿禰出2精兵1而追之、適遇2于逢坂1以破、故號2其處1曰2逢坂1也」また孝徳紀の大化二年の詔に「北(ハ)自2近江狹狹波合坂山1以來爲2畿内國1」とある。相坂山は音羽と比叡山の間にある山で、近江と山城との境界をなしてゐる。今は近江、滋賀縣に屬してゐる。この相坂山を打越えると、淡海の湖水が見える事は、卷十三に「相坂を打出て見れば淡海の海白木綿花に浪立ち渡る」とあるのに由つて明かである。晩頭は夕方、夕暮の意。
【口譯】 手向の山を今日越えて、私達は今夜は何處の野に庵を作つて旅寢をしようか。
【語釋】 ○木綿疊 幣として神に捧げる木綿は、疊んで手向けるので、手向の山〔四字傍点〕の枕詞となる。卷三の坂上郎女の祭神歌に「木綿疊手に取り持ちてかくだにも吾は戀なむ君に逢はぬかも」。○手向の山を 相坂山の峠をさす。當時旅人は旅路の平安を祈る爲に、山坂を越える時は、神に幣を手向けたので、その山をやが(147)て手向の山と稱するのである。從つて手向の山と言つても、何處と固定してゐる譯ではない。ここは相坂山の事を意味してゐる。卷三に「佐保過ぎて寧樂の手向に置く幣は妹を目|離《か》れず相見しめとぞ」卷十三に「近江路の相坂山に手向して吾が越えゆけば」卷十五に「畏《かしこ》みと告《の》らずありしをみ越路の手向に立ちて妹が名告りつ」卷十七に「礪波山手向の神に幣まつり」など見える。○廬せむ吾等《われ》 流布本吾等〔二字傍点〕を子等〔二字傍点〕に作つてゐる。其によると從者などに呼びかけた語となる。この歌の作者、坂上郎女は男勝りの點があつて、「從者の者共よ」と呼びかける事もあり得るやうにも思はれるが、なほ元暦校本に「吾等」とあるのに從つて、「吾々は」の意に解した方が、女性らしく自然ではあるまいか。原文に「吾等」とあるのは、文字通り吾々の意であつて、作者と從者達とを含めて言つたのである。卷七に「卷向の山邊とよみて行く水の水泡の如し世の人吾等《われ》は」とあるのも」吾々の意味であつて、ここの場合と同じく作者が細心の用意を以つて記してゐるのを看過してはならぬ。
【後記】 新考に「題詞に晩頭還來作歌とあると歌にイヅレノ野ベニイホリセム吾等とあると相副はず。案ずるに而晩頭還來の五字はもと註なりしを誤りて本行に入れたるなり。即ちイヅレノ野ベニイホリセム吾等とあらば途中にて一泊せし如く見ゆれど實は晩頭に還來りしなれば而晩頭還來と註したるなり」とあるが、「いづれの野邊に廬せむ吾等」は、必ずしも途中で一泊したものとは思はれないし、殊に而晩頭還來がもと左註であつたといふ推測は、文献の證徴が無いの(148)みならず、この卷の左註にもさういふ形式のものはない。當時の奈良からの順路を見ると、卷十三の「そらみつ倭國《やまとのくに》はあをによし寧《なら》山越えて」の歌にある通り、坂上郎女も宇治方面から山科を通つて相坂山を越えたので、山上から琵琶湖の眺望を恣にして、更に賀茂方面に赴く爲に、山科の方に歸り、恰も日没の頃となつたので、堪へ難い旅愁に襲はれて、この歌を詠んだものと思はれる。卷十五にも「大伴の御津に船乘り榜ぎ出てはいづれの島に廬せむ吾」とある。
 
     十年戊寅元興寺の僧の自ら嘆く歌一首
 
1018 白珠《しらたま》は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 吾し知れらば 知らずともよし
     右の一首は、或は云ふ、元興寺の僧、獨覺めて智多けれども、未だ顯聞するところあらず。衆諸狎侮す。これによりて、僧この歌を作りて、みづから身の才を嘆くなり。
 
【題意・左註】 元興寺の僧が智慧、才覺は勝れてゐるが、まだ世に廣く知られてゐないので、諸の人が狎れて侮つた。そこで其の僧がこの歌を作つて、自身の才を嘆いたものと言ふ。
(149)【口譯】 眞珠は人には容易に知られない。人は知らずともよい。人は知らなくとも、私自身がその價値を知つてゐさへすれば、人は知らなくてもよい。
【語釋】 ○白珠は 白珠〔二字傍点〕は鰒白珠で、即ち眞珠のこと。作者自身を白珠に譬へたので、卞和の故事などを聯想したのであらう。○人に知らえず 人には知られないの意。しらえず〔四字傍点〕のえ〔傍点〕は受身の助動詞、ず〔傍点〕は打消の助動詞である。原文に不所知とあるのも其の意味を示してゐる。○知らずともよし 人は知らなくてもよいの意。よし〔二字傍点〕を原文に縱〔傍点〕、任意〔二字傍点〕と書いてゐるのは、意を迎へて記した義訓で、其はどうなりとも人に任せて置いて構はぬ、といふ意を含めてゐる。○吾し知れらば 自分自身が知つてゐさへすれば、の意。吾し〔二字傍点〕のし〔傍点〕は強意の助詞で、ここでは極めて有効に響いてゐる。知れらば〔四字傍点〕は知れり〔三字傍点〕の未然形で、現に熟知してゐるならばの意を示す。
【後記】 卓絶した才幹を抱きながら、未だ世に認められずに、不遇を嘆ずる人の絶えない限り、この歌の生命は永久に續くであらう。代匠記に老子の「吾言甚易v知、甚易v行、天下莫2能知1、莫2能行1、言有v宗、事有v君、夫惟無v知、是以不2我知1、知v我者希則我貴、是以聖被v褐懷v玉」を引いて説いてゐる。世上の名聞を求めず、自ら知つてゐさへすれば、其でよいとした點にこの僧の心の尊さがある。歌格上から見ると、同音を多く繰返して調子を整へた旋頭歌であ(150)るが、しかも内に深く沁み入つて行く眞摯な氣特が滲んでゐて、浮薄の感を伴はない。
 
     石上乙麿卿の土佐國に配せられし時の歌三首并に短歌
 
1019 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の尊は 手弱女《たわやめ》の 惑《まどひ》によりて 馬じもの 繩取りつけ 鹿猪《しし》じもの 弓矢|圍《かく》みて 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 天離《あまざか》る 夷邊《ひなべ》に退《まか》る 古衣《ふるごろも》 又打《まつち》の山ゆ 還り來ぬかも
 
【題意】 聖武紀に「天平十一年三月庚申石上朝臣乙麻呂坐v姦2久米連若賣1、配2流土左國1、若賣配2下總國1焉」とある。萬葉には十年の條に收められてあるが、何れが正しいか今定め難い。尚語釋、後記の條參照。
【口譯】 石上の布留(乙麻呂)樣は、久米連若女といふ婦人に迷つた爲に、馬のやうに繩を縛りつけ、獣のやうに弓矢で圍んで、天皇の詔の畏多きに、田舍の方へ降つて行きます。あの紀州の眞土山あたりから歸つて來られればよいがなあ。
【語釋】 ○石上布留の尊は 乙麻呂の事を指す。代匠記に「石上はもと物部《モノノベ》氏にて、饒速日命の裔《スヱ》なり。物部氏、後に石上と朴《エ》井との兩氏にわかれけるは、ともに居地によりてなるべし。山邊郡石上にふるの社もあれば、重代の家なることをよせて、たふとびてふるのみこととはいへり。」とあり、新考に「もし布留を地名とせば布留の石上尊とこそ云ふべけれ。案ずるに乙麻呂の父麻呂の代までは物部連なりしに天武天皇の御(151)代に朝臣のカバネを賜はり更に氏を改めしなるが元來石上布留《イソノカミフル》といふ氏なるを常には略して石上と云ひしにあらざるか」とあるが、布留はやはり石の上といふ土地の中の小地名で、石の上布留〔五字傍点〕と呼び慣らされてゐたので、ここは乙麻呂の姓の石の上を縁として、乙麻呂その人を布留の尊と言つたのである。固より乙麻呂の別名ではなく、言葉の綾である。布留〔二字傍点〕は古《ふる》の意を聯想させるので、契沖はこれを善意に解して、「重代の家なることをよせて、たふとぴてふるのみこととはいへり」と説いてゐるが、それ程の意はないやうに思ふ。布留の尊〔四字傍点〕の尊〔傍点〕も、こんな勅勘の身の上の人を指して、みこと〔三字傍点〕といふのみならず、尊〔傍点〕の字さへ用ゐてゐるのは、稍々不穩當のやうに思はれるが、集中には父の命《みこと》、母の命、妹の命、嬬の命など用ゐて、みこと〔三字傍点〕は今の殿又は樣といふのと同じ敬稱であつたのである。日本紀には尊と命とを使ひ分けて、「至貴曰v尊、自餘曰v命、並訓2美擧等《ミコト》1也」とあるが、其は正史の上の事であつて、其後は私的には臣下の間でも尊の字を用ゐた事は、正倉院文書の中に、「謹上道守尊座下」又は「乙麻呂尊御從側」などあるのに由つて明かである。それで布留の尊も布留(乙麻呂)樣といふ程の意であるが、父の命、母の命といふ場合ほどの嚴肅な尊敬の念は無いやうに思ふ。○手弱女の惑《まどひ》によりて たわやめ〔四字傍点〕はたをやめ〔四字傍点〕と同じで、なよやかな女性、たをやかな婦人をいふ。ここは久米連|若賣《ワカメ》のこと。この女と通じて惑溺した罪によつて、の意。續紀には「天平十二年六月午勅曰(中略)宜v大2赦天下1其流人久米連若女等五人召令v入v京(中略)石上乙麿不v在2赦限1」と見え、乙麻呂と同時に下總に流された若女は、翌年の大赦に遭うてゐるが、乙麻呂は赦されないで、十三年九月に漸く京都新遷の大赦によつて歸京してゐる。久米連若女は當時權勢のあつた藤(152)原宇合の妻であつた爲、これに通じた乙麻呂はかやうな嚴罰に處せられたのであらうか。○馬じもの うまじもの〔五字傍点〕はうまじ〔三字傍点〕ともの〔二字傍点〕との合成語であつて、うまじ〔三字傍点〕のじ〔傍点〕は體言等について形容詞を構成する接尾語である。うまじく〔四字傍点〕、うまじき〔四字傍点〕と活用する語であるが、うまじはその語幹であつて、語幹から直接に物《モノ》といふ名詞に續いて熟語となつたので、馬のやうな物といふ程の意味である。(形容詞の語幹から直接に體言に續く例は、嬉し涙・口惜《くや》し涙・愛《かな》し妹・うつくし妻などある)。この馬じもの〔四字傍点〕の類は集中に鳥じもの〔四字傍点〕、鴨じもの〔四字傍点〕、鹿猪《シシ》じもの〔三字傍点〕など見えるが、これは枕詞として用ゐられた場合もあるが、この歌などでは單なる枕詞ではなく、馬のやうにといふ形容の意味が、かなり明瞭に現れてゐる。次の鹿猪《シシ》じもの〔三字傍点〕の場合もこれに同じ。○繩取りつけ 馬に繩を取付けるやうに、罪人を繩で縛つた樣をいふ。○弓矢|圍《かく》みて 狩獵の時などに、鹿猪を弓矢で取圍むのに譬へたのである。圍而〔二字傍点〕は卷二十に「をちこちにさはに可久美爲《カクミヰ》」とあるのに據つて、カクミテと訓む。○夷邊《ヒナベ》に退《まか》る ひなべ〔三字傍点〕は田舍の方、即ち土佐の國の方である。まかる〔三字傍点〕は都などから地方に降ることである。卷九に「今だにも國に退《まか》りて」卷十一に「かくばかり難き御門《みかど》を退《まか》り出めやも」とある。夷べに退る〔五字傍点〕で句切である。○古衣 又打山《まつちやま》の枕詞。古い衣を洗ひ張して、砧などにかけて打つので、又打《まつち》の意で續くのである。まつちやまは集中に眞土山、信土山などとも書いてゐるが、ここには特に枕詞の意味の續き方を明かにする爲に、又打山〔三字傍点〕と記してゐる。○又打の山 紀の川の右岸にあつて、大和から紀州に行くのに越える山。土佐に赴くには紀州に出て、其處から海路を取つたのである。○還り來ぬかも 還つて來ないかなあ、の意。(既出)
(153)【後記】 石上乙麿の配流に同情して時の人が詠んだもの。「馬じもの繩取り附け、鹿猪《しし》じもの弓矢かくみて」とあるのは、契沖の指摘してゐるやうに、多少は誇張して言つたのであらうが、勅勘を蒙つて配所に退る流人の痛ましい姿が、ここにまざまざと現れてゐる。「古衣又打の山ゆ還り來ぬかも」は、眞土山が恰度紀州に入る境にあつて、其を越えて行くと愈々大和を離れて、配所に赴くといふ感じが痛切である爲に、特にこの山を點出して、所詮叶はぬ願を歌つたのであらう。
 
1020.1021 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み さし並ぶ 國に出でますや 吾が背の公《きみ》を 懸《か》けまくも ゆゆしかしこし 住吉《すみのえ》の 現人神《あらひとがみ》 船の舳《へ》に うしはき賜ひ 附《つ》き給はむ島の埼埼《さきざき》 依《よ》り賜はむ 磯《いそ》の埼埼 荒き浪 風に遇《あ》はせず つつみなく 疾《やまひ》あらせず すむやけく 還し賜はね 本《もと》の國邊《くにべ》に
 
【口譯】 天皇の勅命の畏《かしこ》さに、この紀伊國と並んでゐる土佐の國に、流されていらつしやる吾が乙麻呂樣を、口にかけて申すのも忌むべく、恐多き住吉の現人神は、船の舳に鎭座遊ばして、(154)船のお着きになる島の埼ごとに、お寄りになる磯の埼ごとに、荒い波や風に逢はせずに、無事に病もなく、早速本國の方にお還し下さいませ。
【語釋】 ○さし並ぶ 原文は流布本に刺並之とあるので、從來多くサシナミノと訓んでゐたが、元暦校本、神田本などに之〔傍点〕の字が無いのに據つて、サシナラブと訓むのがよい。卷九に「指竝隣之君者」とあるのも、サシナラブと訓むべき例である。この歌は紀伊から土佐に向ふ時に詠まれたものと思はれるからこのさしならぶ國〔六字傍点〕は、紀伊と並んでゐる土佐の國の事である。さしならぶ〔五字傍点〕のさし〔二字傍点〕は意味を強める接頭辭である。攷證には「並《ナラプ》といふは、みな皆横に並居る事にて、向ふとは別なるをもて、阿波國などにてよめる歌なるをしるべし。」とある。紀伊と土佐とは海を隔てて相對してゐるので、並ぶ〔二字傍点〕よりも向ふ〔二字傍点〕と言ふ方が適當のやうにも思はれるが、しかし卷七の「背山」「妹山」の歌に、「背の山に直に向へる〔五字傍点〕妹の山|言《こと》聽《ゆる》せやも打橋渡す」とも「吾妹子に吾が戀ひ行けば羨《とも》しくも並び居る〔四字傍点〕かも妹と背の山」とも詠んでゐるのを見ると、並ぶ〔二字傍点〕といふのも向ふ〔二字傍点〕といふのも、結局作者の主觀に基く點が多いので、今の場合も紀伊と土佐とが相對してゐるのを、さしならぶ〔五字傍点〕と言つたと見てよいと思ふ。○國に出でますや吾背の公を 土佐國に出向はれる吾背の君(乙麻呂樣)を、の意。や〔傍点〕は調子を整へる爲に添へた間投助詞で、古事記に「をとめの鳴《な》すや板戸を」萬葉卷二に「かしこきや御墓仕ふる」卷十六に「さひづるや辛碓《からうす》につき」などあるや〔傍点〕と同じ。背《せ》は男同志に呼ぶ事もあるが、此歌のやうに非常に敬語を多く用ゐ、細かい心遣ひを詠んでゐるのを見ると、やはり婦(155)人の言葉として解したい。背の君を〔四字傍点〕のを〔傍点〕は下の還賜はね本の國邊に〔九字傍点〕に照應してある。○かけまくも 口にかけて言ふのも、の意。流布本繁〔傍点〕とあるのは誤、元暦校本に繋〔傍点〕とあるのに從ふ。○ゆゆしかしこし ゆゆし〔三字傍点〕は忌むべくあること、かしこし〔四字傍点〕は畏多いの意。ここは終止形ではなく、連體の古形である。愛《かな》し妹、現《うつ》し世の類である。○住吉の現人神 古事記に「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱神者、墨江之三前大神也」とある。住吉の神が專ら海路を守護し給ふ事は、神功紀にも見えて居て、遣唐使時奉幣祝詞にも、まづ此神に祈願をこめてゐるのに據つて明かである。現人神〔三字傍点〕は人として姿を現し給うた神の意。住吉の神が現形し給うた事は、攝津風土記に「昔息長足比賣天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1云々」とあるが如くである。○うしはき賜ひ うしはく〔四字傍点〕は主宰する、支配する、領知する、の意であつて、知らす〔三字傍点〕といふ語が主として天皇に關して用ゐられるのに對して、うしはく〔四字傍点〕は神に關してのみ用ゐる。卷五に「海原の邊《へ》にも奥《おき》にも神づまりうしはき坐《い》ます諸《もろもろ》の大御神達」卷九に「此山をうしはく神の昔よりいさめぬ行事《わざ》ぞ」とある。○つつみなく 流布本に草菅見〔三字傍点〕とあるが、元暦校本に菅〔傍点〕が管〔傍点〕とあるのに據つて、クサツツミと訓む説もあるが、其では意味が明かでない。宣長の玉勝間の説に、草〔傍点〕を莫〔傍点〕の誤として、ツツミナクと解したのが穩かであらう。草〔傍点〕を莫〔傍点〕に作つた古寫本はまだ管見に入らぬが、草と莫とは誤り易いから、姑く宣長説に從つて置く。つつみなく〔五字傍点〕は恙《つつが》なくで、無事安穩に、の意。卷五に「つつみなく幸《さき》くいまして」卷二十に「つつみなく妻は待たせと」とある。○すむやけく 急〔傍点〕は舊訓にスミヤカニとあるが、卷十五に「須牟也家久《すむやけく》はや歸りませ」とあるのに據つて、スムヤケクとよむ。○本の國邊《くにべ》に 本國部爾〔四字傍点〕をモトツクニベニ(156)と訓む説もあるが、卷十九に毛等乃國家爾《もとのくにべに》とあるのに基いて、モトノクニベニと訓むべきである。
【後記】 此歌は古くは冒頭の五句を短歌として、前の長歌の反歌と見られてゐた。(國歌大觀にも、其を一首として一〇二〇の番號を附し、以下を一〇二一としてゐる。)しかるに宣長に至つて、出座〔二字傍点〕の下に脱字があるとして、「出でますはしきやし吾が背の公をかけまくも」云々と續く句法であるとなした。ここには宣長の説に從つて併せて一首とし、唯字句を補はないで、原文の儘にして解する。歌中に五七調に適はぬ所もあるが、古調の歌としては變則的な句法もあつて差支へない。此歌は卷十九の天平五年贈2入唐使1歌一首竝短歌と著しく類似し、それを模倣したものなる事は疑ない。作者について、古義に「右二首は乙麻呂(ノ)妻のよめるならむ」とある。必ずしも乙麻呂の妻自身が詠んだものとは斷じ難いであらうが、少くともその妻の氣持になつて、時の人が詠んだ歌であらう。
 
1022 父君に 我はまな子ぞ 妣刀自《ははとじ》に 我はまな子ぞ 參《まゐ》のぼる 八十氏人《やそうぢひと》の 手向《たむけ》する 恐《かしこ》の坂に 幣《ぬさ》まつり 吾はぞ退《まか》る 遠き土佐路《とさぢ》を
 
【口譯】 父上に取つて私は愛兒であるぞ。母上に取つても私は愛兒であるぞ。上京して來る澤山(157)の氏の人が、道祖神に手向の祭をする恐《かしこ》の坂で、幣を捧げてお祈りして、其處から遠い土佐への路を私は退去するのである。
【語釋】 ○吾はまな子ぞ まなご〔三字傍点〕は下に「愛兒」とある通り、愛する子、可愛いい兒の意。卷七に「人ならば母の最愛子《まなご》ぞ」卷十三に「母父《おもちち》にまな子にかあらむ」とあり、催馬樂に「未名牟春女《まなむすめ》」と見える。此歌では上に眞名子〔三字傍点〕と記し、下に愛兒〔二字傍点〕とあるのは、前者は訓法を示し、後者は意義を明かにしたものと思はれる。また眞砂《マナゴ》の借字として、愛子〔二字傍点〕を用ゐてゐる(名高浦之愛子地、眞若之浦之愛子地の如き)のは、愛兒〔二字傍点〕をマナゴと訓む確證である。○妣刀自《ははとじ》に 卷二十に「眞木柱《まけばしら》ほめて作れる殿の如《ごと》いませ波波刀自《ははとじ》」とあるのに據りハハトジと訓む。但、母の事を卷廿に「いはふ命は意毛知知《おもちち》が爲」の如くオモと言ひ、其から轉訛してアモトジと言つた例が、卷二十に「阿由刀自《あもとじ》も玉にもがもや」とあるから、今の場合も其から類推してオモトジと訓む事も出來よう。とじ〔二字傍点〕は戸主《トヌシ》即ち一家の主婦の意で、幼老に拘らず言ふ。卷四に大伴坂上邸女はその娘に對して、「我が兒の刀自」とよんでゐるが、此歌では母に對して用ゐてゐる。○參《まゐ》のぼる 地方から京に上るの意で、次の八十氏人〔四字傍点〕を修飾してゐる。この語は下の「吾はぞ退《まか》る」に對して言つたもの。古事記仁徳天皇の條に「まゐ來《く》れ」卷十八に「まゐで來《こ》し非時《ときじく》の香《かぐ》の木の實を」とある。○手向する 流布本には手向爲等とあるけれども、元暦校本に等の字の無いのに從ふべきである。タムケストでは前後の續き方が順當でない。○恐《かしこ》の坂に 天武紀に「坂本(ノ)臣財等、自2高安城1降以渡2衛我河1、與2韓國1(158)戰2于河西1、財等衆少不v能v距、先v是遣2紀巨大音1令v守2懼坂道1、於是財等退2懼坂1而居2大音之營1」とある懼坂〔二字傍点〕は、大和國から河内へ越ゆる所の坂であるから、この歌に詠まれた眞土山を越えて紀伊にゆく所の坂とは異つてゐる。元來、恐の坂〔三字傍点〕とは道祖神の威力の恐ろしい坂の謂であるから、天武紀の懼坂のみに限定した譯ではあるまい。今何處であるか明示し難いが、紀伊國にあつた事は信じてよいであらう。○吾はぞ退《まか》る 原文に吾者叙追〔四字傍点〕とあるので、攷證に「土佐日記に、うら戸よりこぎ出て大湊をおふ云々とある、おふと同じ。風に舟をおはする也。風のよきを、追手のよきともいひ、追風ともいふ、これ也」とある。これは原文尊重の立場からすれば面白い解釋であるが、しかし宣長が追〔傍点〕を退〔傍点〕の誤として、マカルと訓んだ説は、上のマヰノボルと呼應してゐるものと見て、この場合妥當なやうに思はれる。誤字説は極力斥くべきであるが、追・退は紛れ易い字ゆゑ、今宣長説に從ふ。○遠き土佐路を 古義に「遠き土佐路なる物をの意なり」と解してゐるが、新考に「土左ヂヲのヲは東海道ヲ下ルなどのヲなり」とある説がよい。
【後記】 句法に簡古な點があり、詞藻に純朴な趣があつて、注意される作である。此時乙麻呂は相當の年齡に達してゐたと思はれるが、配所に赴くに際して、父母を戀ふる至情を吐露してゐるのはあはれである。尤もこれは佐佐木博士の言つてゐられるやうに、時の人が乙麻呂の氣特になつて詠んだものと見る事も出來ようが、いくらか調子に乘つた點はあるにしても、配所に向ふ流人の心はさこそと思はれるのである。
 
(159)     反歌一首
 
1023 大埼《おほさき》の 神《かみ》の小濱《をばま》は 狹《せば》けども 百船人《ももふなびと》も 過ぐといはなくに
 
【口譯】 大埼の神の小濱は狹い濱ではあるが、絶景の所だから、澤山の舟人達も此處を空しく行き過ぎてはしまはないといふのに。(私は流罪の身ゆゑ見てゆく事も叶はぬことである。)
【語釋】 ○大埼の神の小濱 大埼は紀伊國海草郡の南部の海岸にある小港である。神の小濱〔四字傍点〕は神の門、神の渡などと同じく神の鎭座まします小濱の意であらう。代匠記に「大埼ノ神ノ小濱ハ紀州ナルベシ。第十三ニモ大埼ノアリソノワタリハフ葛トヨミタレド、ソレハ考ル所ナシ。第七ニ鹽ミタバイカニセムトカ方便海《ワタツミ》ノ神ガ手渡ルアマノヲトメラ、トヨメル哥、紀州ノ名所ヲヨメル哥ノ間ニアリ。コレ唯、海神トモ云ベケレド、又所ノ名ヲ兼タラムモ知ベカラズ。又第九ニ、白神ノ礒トヨメルモ紀州ナレバ、コレラニヤ。又第七ニ、神前ト書テ、ミワノサキトヨメルモ紀州ナレパ、今モミワノ小濱トヨミテ、其所ナラムモ又知ベカラズ」とあるが、神之小濱はやはりカミノヲバマと訓むべく、今日何處とも決定し難いが、當時神のいます小濱として著名であつた所と思はれる。○狹けども 原文の雖小〔二字傍点〕を舊訓にセバケレドと訓んでゐるが、セマケドモ、又はセバケドモと訓む方がよいやうである。形容詞が助詞のド、ドモに接する場合は、遠ケ(160)ドモ、近ケドモ、恐ケドの如く、ケの形からする事が、集中の普通の例であるから、ここも其に從ふ。但、セバケレドが誤訓だと言ふのではない。小をセバシと訓むのは義訓である。○百船人《ももふなびと》も 原文に百船純〔三字傍点〕とある。純〔傍点〕をヒトと訓むのに就いて、略解に「純一の意にてひとのかなに借たるか」といひ、攷證に「國語、晋語注に、純壹也云々。漢書、梅福傳に、一色成v體、謂2之純1云々ともあれば、一の意をもて、ひととは借訓せる也」とある。從ふべし。此卷の下にも「百船純《ももふなびと》の定めてし」とある。又、一をヒトと訓んだ例は、卷九に「一可知美《ヒトシリヌベミ》」とある。○過ぐと云はなくに 古義に「莫v過《スギヌ》ことなるにの意なり。云《イフ》は思《オモフ》といふに同じく、例の輕く添たる辭なり」とある通りである。恰度、忘れて思ふ〔五字傍点〕が唯、忘れる〔三字傍点〕といふのと大差ないやうに、過ぐと云はなくに〔八字傍点〕も單に過ぎなくに〔五字傍点〕といふのと大略同じである。卷二に「磯の上に生ふる馬醉木《あしび》を手折らめど見すべき君が有りと云はなくに」の結句も、今の場合と等しい。
【後記】 此歌も乙麻呂自身の作でなければ、少くとも乙麻呂の氣持になつて詠んだものである。朝譴によつて配所への道を急ぐ今の身に取つては、名にし負ふ大埼の神の小濱も空しく過ぎて行かぬばならぬ。流人の心はいとど淋しくも又哀れである。
 
     秋八月二十日右大臣橘家に宴せる歌四首
 
1024 長門《ながと》なる 奧《おき》つ借島《かりしま》 奥《おく》まへて 吾が念《も》ふ君は 千歳にもがも
(161)     右一首長門守巨曾倍對馬朝臣
 
【題意】 右大臣橘家は諸兄の家のことである。績紀によれば、諸兄は天平十年正月に右大臣になつてゐる。
【口譯】 長門にある奥《おき》の借島のやうに、心の奥深くねんごろに私が思つてゐる貴方は、千年も生き永らへていらつしやるやうに。
【語釋】 ○長門なる奧《おき》つ借島 作者の任國長門にある名所を捉へて來て、奥〔傍点〕の同音の繰返《くりかへし》によつて、「奥まへて」の序としたのである。借島の所在は今明かでない。攷證に「地圖もて考ふるに、長府の奥にあたりて、かれ島といふあり。これなるべし。」とあり、大日本地名辭書には「一書に江崎の沖に加禮島あり。萬葉に見ゆる借島は此歌といひ、細川玄旨法師の筑紫紀行を引く」とあり、別に「鶴江臺の邊は、歌名所の借島なりと傳ふ。或曰く松本河原より千本松の邊を、今|雁島《ガンシマ》と呼ぶは即借島を訛りたる也と」とも記してゐる。全釋には以上の諸説いづれも疑はしいとし、「或は日本海中の孤島、見島の古名ではあるまいか。これならば奥津借島といふにふさはしい。」とある。○奥まへて 卷三に「蜻蛉羽《あきつは》の袖振る妹を珠くしげ奥に〔二字傍点〕念ふを見たまへ吾君」とあるのと同じく、心深く、大切に、の意である。奥まむ〔二字傍点〕、奧み〔傍点〕、奥む〔傍点〕、奧め〔傍点〕と活用する動詞があつて、それを更には〔傍点〕行四段に活用させて、奥まへて〔三字傍点〕といふ形が出來たものと思はれる。猶言はば奧む〔傍点〕と奥まへて〔三字傍点〕との關係は、踏む〔傍点〕と踏まへて〔三字傍点〕との關係と同じである。唯、奥む〔傍点〕といふ形は現在殘つてゐないのであるが、奥まへて〔三字傍点〕の形が出來る前に、奥むといふ形のあつた事は想像して(162)よい。、卷十一に「淡海の海おきつ島山おくまへて我が思ふ妹が言の繁けく」とあるのは、今の場合と同じ句法である。同卷の類歌に「淡海の海おきつ島山奧まけて吾が念ふ妹に言の繁けく」とあるのに據れば、奥まけて〔四字傍点〕も奥まへて〔四字傍点〕と同じ意味であつた事が知られる。○千歳にもがも 千年も長生してゐられて欲しいの意。もがも〔三字傍点〕は願望の助詞。(既出)
【後記】 卷十一の古歌の燒直しであつて、これに任國の長門の名所を當てはめただけの作である。
 
1025 奥まへて 吾を念《おも》へる 吾背子は 千年|五百歳《いほとせ》 在りこせぬかも
     右一首右大臣の和ふる歌
 
【口譯】 心深く私を思つてゐる親愛なる貴方は、千年も五百年も長生きなさつて欲しい。
【語釋】 ○吾背子は この背子は諸兄が巨曾倍對馬を親しんで言つたものである。かやうに男同志の間に背子の稱呼を用ゐる場合もある。○有りこせぬかも 山田博士の講義に「このこせ〔二字傍点〕は今もおこす〔三字傍点〕といふ語の上略にして、その未然形なり。ぬ〔傍点〕は打消の意をあらはし、未然形に屬する複語尾なり。ありこす〔四字傍点〕は有つてくれる〔六字傍点〕といふ意にして、ぬ〔傍点〕にてそれを打消したるなり。かも〔二字傍点〕は疑の助詞なるが、ここは反語にて希望の意をあらはせり。即ちありてくれぬのか〔八字傍点〕、何卒ありてくれよ〔八字傍点〕といふ意となる。」と説いてある。こせ〔二字傍点〕がおこす〔三字傍点〕の上略であるか否かは猶疑問であるが、希望の意味の動詞で、五百夜繼ぎこそ〔七字傍点〕などの希望の助詞こそ〔二字傍点〕(163)と同源であらうと思はれる。卷八に「朝毎にわが見る宿の瞿麥《なでしこ》の花にも君はありこせぬかも」とあるのも同意である。
 
1026 百磯城《ももしき》の 大宮人は 今日もかも 暇《いとま》を無《な》みと 里に出でざらむ
     右一首、右大臣傳へて云ふ、故豐島采女《もとのてしまのうねめ》の歌
 
【口譯】 大宮人は今日も亦暇が無いので、御所の外には出ないのでせう。
【語釋】 ○今日もかも かも〔二字傍点〕のか〔傍点〕は疑問の助詞で、結句の里に出でざらむ〔七字傍点〕にかかる。も〔傍点〕は感動の助詞。○暇を無みと 公事の爲に忙しくて、暇がないので、の意。なみと〔三字傍点〕のと〔傍点〕は例の輕く添へた助詞で、なみ〔二字傍点〕と同じ。○里に出でざらむ 流布本に出〔傍点〕を去〔傍点〕に作つてゐるのも不可ではないが、猶、類聚古集に出〔傍点〕とあるのが穩當のやうに思はれるので、其に從つて置いた。里〔傍点〕は宮中以外をさす。中世の物語類に、宮仕の人が暫く宮中を退出して、私宅にゐるのを、里住みと稱してゐるのも、この意味である。尤も卷二に天武天皇が藤原夫人に賜つた御製に「我が里に大雪ふれり大原の古りにし里に降らまくは後」と見えるが、しかしこれは諧謔の御歌であつて、ふる〔二字傍点〕の語を疊用して、一首の調を整へられたのと同じく、藤原夫人の住所の大原の里に對して、皇居のある飛鳥の里を我が里と仰せられたのである。それでこの場合は寧ろ一般の里〔傍点〕の用(164)法から離れたものと見るべきであらう。
【後記】 此歌を豐島采女の即席の詠とすれば、結句は公務の暇が無いので外出できず、この酒宴の席にもお見えにならぬ、といふ餘意を含めて解すべきであらうが、橘諸兄のやうな當時の權門勢家の宴會の席上で、大宮人の出席しない事を詠むのも少し變である。善意に解すればこの樂しい宴席に列しないのを惜しんだとも思はれるが、やはり席上、談偶々故豐島采女の事に及び、其歌を賓客等に紹介したものと見るのが穩當であらう。
【左註】 代匠記に「此は采女が此宴の時讀けるを釆女死して後右大臣の家持に語りたまへるなり」といひ、古義に「これは此宴席に誦けるを右大臣後に家持にかたられけるを記したるなり」と言つてゐるが、この八月二十日の宴席で豐島采女が詠んだものとして見ると、次の歌も亦この采女の作であるから、何故にこの作者の歌ばかり二首も並べたのか理解に苦しむ次第である。しかもこの「百磯城の」の歌はともかく、次の「橘の」の歌の如きは、殆ど酒宴の心とは關係がない。(猶、次の歌の解釋の條參照)。故に、ここは新考に「前の二首は席上の贈答なれど此歌と次の歌とは當日の作にあらず。談話の間に主人右大臣が故豐島采女の作なりといひて此歌を客に傳へ、それに次ぎて高橋安麻呂がこれも亦其采女の作なりといひて次の歌を誦せしなり」とあるのに從ふべきである。
(165)1027 橘の 本《もと》に道|履《ふ》み 八衢《やちまた》に ものをぞ思ふ 人に知らえず
     右の一首、右大辨高橋安麿卿語りて云ふ、故豐島采女の作なり。但或本に云ふ、三方沙彌、妻苑臣を戀ひて作れる歌なり。然らばすなはち、豐島采女、當時當所此歌を口吟《くちずさ》めるか。
 
【口譯】 街路樹の橘の下に路を踏んで立つと、路が四方八方に岐《わか》れてゐるのが見えるが、そのやうに色々に物思をしてゐます、人には知られないで。
【語釋】 ○橘の本に道履み 八衢に〔三字傍点〕の序。當時、都の大路、市の衢などには橘を街路樹として植ゑてあつた。この事は古く日本紀雄略天皇十三年の條に餌香市邊橘本《ヱカノイチベノタチバナノモト》と見え、類聚三代格卷七に載つてゐる天平寶字七年の乾政官符には、「右東大寺普照法師奉状※[人偏+稱の旁]、道路百姓來去不v絶、樹在2其傍1足v息2疲乏1、夏則就v蔭遊v熱、飢則※[手偏+適]v子※[口+敢]之、伏願城外通路兩邊裁2種菓子樹木1者奉v勅依v奏」とある。この歌の本歌と思はれる卷三の三方沙彌の作には「橘の蔭履む路の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずて」とあつて、初二句はやはり八衢〔二字傍点〕の序であるが、豐島采女の歌に比してさすがに序詞の使相用が巧である。采女の歌は本歌を詠み改めて、「橘の本に道履み」としたので、次の八衢〔二字傍点〕への續き万に無理を生じてゐる。口譯には假に語を補つて解釋して置いたが、ともかく采女の原歌の儘では表現が不充分である。○八衢《やちまた》に ちま(166)た〔三字傍点〕は道股《チマタ》の意であつて、道の岐れる所をいふ。や〔傍点〕は數の多い事をさす。古事記上卷に、「居2天之八衢1」とあるのも、この意味である。ここは岐路の多くして迷ひ易い事を現してゐるのであつて、次の句の物思ふ樣の比喩である。○人に知らえず 人には知られないで、知られずして、の意であつて、上の物をぞ念ふ〔五字傍点〕にかかる。即ち、知らえず〔四字傍点〕のず〔傍点〕は打消の助動詞ず〔傍点〕の連用形であつて、終止形ではない。
【後記】 左註にある通り、三方沙彌の歌を本歌として、時所に應じて口吟したものであらうが、「蔭履む路の」を「本に路履み」と改め、又、「妹に逢はずて」を「人に知らえず」と改めたのは、原作に及ばざる事遠き改惡である。此歌を高橋安麻呂が紹介したのは、唯單に前の諸兄の紹介を機縁として、更に同人の歌を出したといふのみでなく、歌中の「橘」が、諸兄の姓を思はせるので、其に因んで座興を添へようとしたのであらう。
【左註】 前の橘諸兄の紹介に因んで、高橋安麿がここにもかの豐島采女の生前の歌があると言つて、其座の人々に紹介したのである。「但、或本に云ふ」以下は此卷の編者の註記である。三方沙彌が妻の苑臣を戀慕つて詠んだ歌は、萬葉卷二に載つてゐて、詞句に小異がある。豐島采女はかの三方沙彌の歌を、時と所に適するやうに口吟したのであらうといふのが、編者の意見であるが、これは誠にその通りであらうと思はれる。
 
(167)     十一年己卯、天皇高圓野に遊※[獣偏+葛]し給へる時、小獣|堵里《さと》の中に泄走す。ここに適《たまたま》勇士に値《あ》ひて生きながら獲らえぬ。即ち此の獣を御在所に獻上《たてまつ》るに副へたる歌一首【獣の名、俗に牟射佐妣といふ】
 
1028 丈夫《ますらを》の 高圓山《たかまとやま》に 迫《せ》めたれば 里に下《お》りける ※[鼠+吾]鼠《むささび》ぞこれ
     右の一首は大伴坂上郎女作れり。但未だ奏を經ずして小獣死し斃れぬ。これに因りて獻る歌は之を停めぬ。
 
【題意・左註】 天平十一年に聖武天皇が高圓野に御|※[獣偏+葛]《かり》を催された時、※[鼠+吾]鼠《むささび》といふ小さな獣が、里の中に逃げ込んだところ、ちやうど勇士に出會つて、生捕りにされた。そこでこの獣を天皇の御座所に獻上するのに副《そ》へた歌である、といふのが題詞の大意である。俗に曰く〔四字傍点〕とあるのは、所謂俗語の謂ではなく、題詞が漢文であるから、漢語に對する邦語の意で記したもの。泄走〔二字傍点〕は洩れて逃げ出すこと。堵里〔二字傍点〕の堵〔傍点〕は都〔傍点〕の通用の字であるが、元暦本・神田本などは、都〔傍点〕の字に作つてゐる。さて、題詞では生捕りの※[鼠+吾]鼠と共に歌を獻上したやうに記してあるが、左註によると、その小獣が奏上の前に死んでしまつたので、歌も獻上しなかつた事が分る。作者の坂上郎女も御獵に供奉してゐたのであらう。
【口譯】 男子達が高圓山で追ひつめたから、里に降りて來て捕へられた※[鼠+吾]鼠《むささび》はこれで御座います。
【語釋】 ○迫《せ》めたれば 攻め立てたから、追ひつめたので、の意。迫〔傍点〕の字をセメと訓むのは、卷十一に「師(168)齒迫山《しはせやま》せめて問ふとも汝が名は告らじ」とあるのに據つても明かである。○里に下《お》りける 原文の里爾下來流を舊訓にはサトニオリクルと訓んであるが、攷證にオリケルと改めたのに從ふべきである。里に降りて來て捕へられた、といふやうな餘意も含まれてゐる。來〔傍点〕の字の儘でもケリ、ケルと訓み得るのであるが、語尾を明かにする爲に、原文に來流〔二字傍点〕と記してゐる。
【後記】 歌としてはさして勝れた作ではないが、狩獵の男子達に伍して、獲物に歌を添へて天皇に獻上しようとした事は、作者が婦人であるだけに珍しく、殊に下句の「里に下りける※[鼠+吾]鼠ぞこれ」といふ表現は、坂上郎女らしくて面白い。
 
     十二年庚辰冬十月、太宰少貳藤原朝臣|廣嗣《ひろつぐ》、反を謀り軍を發《おこ》せるによりて、伊勢國に幸せる時、河口の行宮にて内舍人《うどねり》大作宿禰家持の作れる歌一首
 
1029 河口《かはぐち》の 野邊に廬《いほり》して 夜の歴《ふ》れば 妹が袂し 念《おも》ほゆるかも
 
【題意】 藤原廣嗣は宇合の第一子であるが、彼の反亂は藤原氏同族の軋轢に基くものである。當時武智麻呂兄弟みな歿し、南家の豐成・仲麻呂や北家の永手などは、式家の嫡子であつた廣嗣を太宰府に遠ざけた。玄※[日+方]と眞備とは天皇の謀臣として、此事に參與する所が多かつたので、廣嗣はこれを恨んで、君側の姦を(169)除かん事を上表したが、容れられなかつたので、天平十二年九月遂に謀反を起したのである。同十月官軍が西に向つて出發した後、天皇は大和を出で、東に向つて巡幸の途に就かれた。十月壬午伊勢國に行幸、是日に山邊郡竹谿村掘起頓宮に到り、癸未に車駕伊勢國名張郡に到り、十一月甲申朔に伊賀郡安保頓宮に到り、乙酉に伊勢國壹志郡河口頓宮に到り、(この頓宮を關宮といふ)車駕御關宮に停り紛ふ事十日、乙未に河口を發して壹志郡に到り、其後各地を巡幸、十二月丁卯恭仁宮へ行幸された。河口は壹志郡の山村で、古昔はここに關があつて、大和への通路を監視してゐた。河口頓宮を一名、關宮と稱するのも其に基く。この歌は恰も河口頓宮で十日も御滯在遊ばした折、大伴家持の詠んだ歌である。ここに内舍人大伴宿禰家持とあるのは、彼が内舍人として記された最初であつて、當時家持は二十三歳であつた。(猶、藤原廣嗣の件に關しては續日本紀參照。)
【口譯】 河口の野に假屋を建てて宿つて、幾晩も經つので、私は家で枕して寢た妻の袂が偲ばれることである。
【語釋】 ○野邊に廬《いほり》して 原文の廬而〔二字傍点〕は攷證に「文字を餘して、いほりしてと訓べし。二に荒礒面爾廬作而見者《アリソモニイホリシテミレバ》云々ともあるにてしるべし。」とある。これをイホリテと訓む人は、右の廬作而〔三字傍点〕もイホリテと訓んで、今の場合の旁證とするのであるが、廬作とあるのは、猶イホリシテと訓むべき事を示してゐるやうである。依つて今も攷證の説に從つて、廬而〔二字傍点〕も字餘りにして、イホリシテと訓む。○夜の歴れば 幾夜も幾夜も重な(170)るので、の意。績紀に「車駕停2御關宮1十箇日」とあるのを指す。○妹が袂し念ほゆるかも 家持は天平十一年夏六月に妾を失つたよし、卷三の挽歌によつて察せられるので、ここに妹とあるのは、其後交渉を生じた坂上大孃の事であらう。
【後記】 平凡な歌であるが、藤原廣嗣の亂の爲、河口に十日も天皇の御滯在あらせられた折の家持の作として、歴史的背景のある歌である。
 
     天皇御製歌一首
 
1030 妹《いも》に戀ひ 吾の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴《たづ》鳴き渡る
     右の一首、今案ずるに、吾松原は三重郡にあり。河口の行宮を相去ること遠し。若し疑ふらくは朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りませる御歌にて、傳ふる者之を誤れる歟《か》。
 
【題詞・左註】 天皇は聖武天皇。上記の伊勢方面御巡幸の際の御製である。左註は歌中の「吾乃松原」の考證であるが、この問題は語釋の條參照。
【口譯】 吾の松原から見渡すと、潮の干た潟に向つて鶴が鳴きながら飛んでゐる。
(171)【語釋】 ○味に戀ひ吾の松原 妹に戀ひ〔四字傍点〕は枕詞であるが、吾乃松原〔四字傍点〕に闘する説が分れてゐるので、從つて意味の續き方に就いても異論がある。舊訓はワガノマツバラ、考はアゴノヤツバラとよみ志摩國英虞郡の松原とし、略解所載の宣長説には、乃〔傍点〕を自〔傍点〕の誤としてアガマツバラユとし、古義もこの誤字説に從つて、アガマツバラヨとよんでゐる。誤字説を唱へるものは、卷十七に「吾背子を吾《あ》が松原よ見渡せば」、とあるのに據つたので、吾が松原〔四字傍点〕は松〔傍点〕に待つ〔二字傍点〕の意を言懸けたものと見て、松原は普通名詞であると説くのである。これに從へば問題は簡單にすむが、誤字説は俄に信じ難く、殊に左註に「吾松原は三重郡にあり」と言つてゐるのは、猶、地名である事を示すものであらう。左註には更に三重郡の吾松原とすれば河口の行宮から遠く隔つてゐるから、其處まで行幸遊ばされたのか疑はしい。或は朝明行宮にお出での時の御歌で、傳承者が誤つたものかと言つてゐる。朝明行宮へは河口行宮から壹志郡、赤坂頓宮を經て、行幸遊ばしたのである。全釋には「或は左註の三重郡は誤で、吾乃松原は安濃《アノ》松原ではないかと思はれる。然らば今の安濃津附近で、河口行宮から壹志郡家に赴かれ、更に鈴鹿郡赤坂へ向つて北上の際、通過あらせられたものか、考ふべきである。」とある。吾の松原の所在については猶、今後の研究に俟つべき點が多い。
 
     丹比屋主眞人《たぢひのいへぬしまひと》の歌一首
 
1031 後《おく》れにし 人を思《しぬ》ばく 四泥《しで》の埼 木綿《ゆふ》取り垂《し》でて さきくとぞ念《おも》ふ
(172)     右、案ずるに、この歌はこの行の作にあらざるか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口行宮より京に還り、駕に從はしむることなし。何ぞ思泥埼を詠《なが》めて歌を作ることあらむや。
 
【題意・左註】 作者の丹比屋主眞人は古義に多治比家主の誤であらうといふ。其はこの天平十二年十月の伊勢行幸の際、赤坂頓宮で從駕の人々に叙位の事があつたのに、其中に從五位下多治比眞人家主に從五位上を授けるよしが見えるが、丹比屋主眞人の名は見えないからである。しかし左註によると丹比屋主は河口行宮から京に歸されてゐる。其後、車駕は壹志郡を經て鈴鹿郡赤坂頓宮に到つてゐるのだから、赤坂頓宮に於ける叙位の沙汰の場合に、丹比屋主の名が見えなくとも疑ふ必要はあるまい。屋主が河口行宮から京に歸された事は續紀には見えぬが、これを積極的に否定すべき根據もないから、大略信じてよからう。左註の筆者はこの事實に基いて、「後れにし」の歌が「此の行」即ち天平十二年の伊勢行幸の際の作ではないと言ふ。何となれば歌中の「四泥《しで》の埼」は朝明郡にあるので、車駕は河口行宮を出て、壹志、赤坂を經て朝明に到つてゐるから、河口行宮から京に歸つた筈の屋主が、「四泥の埼」を詠《なが》めて歌を作る道理はないといふのである。左註の記す所も一應の理があるので、必ずしも後人のさかしらとして一蹴する事は出來ぬ。猶可v考。(此の行〔三字傍点〕は流布本では此行宮〔三字傍点〕に誤つてゐる。元暦校本・神田本等に此行〔二字傍点〕とあるのに從ふ。)
【口譯】 私の後に殘つて都にゐる妻を、私は戀しく思ふことだ。だから四泥の埼で木綿を取り垂(173)らして神に捧げ、妻が無事であるやうにと念ずる。
【語釋】 ○後れにし人を思《しぬ》はく おくれにし人〔六字傍点〕は後に殘つて都に留つてゐる妻のこと。卷二に「後れゐて戀ひつつあらずは追ひ及《し》かむ道の隈囘《くまみ》に標結へ吾背」とあるおくれゐ〔四字傍点〕も同じ。思久〔二字傍点〕はオモハクとも訓めるが、この歌では「しでの崎」「取りしでて」の如く、し〔傍点〕の音を疊用してゐるので、シヌバクと訓む方が聲調の上から見てよいと思はれる。結句の念〔傍点〕の字はオモフとしか訓み得ないが、思〔傍点〕の字はシヌブとも訓み得るから、思・念と書き分けてゐるのは、やはりシヌブ、オモフと兩樣に訓ませる用意からであらう。思〔傍点〕の字をシヌブと訓む確證は、卷十一に「朝柏《あさかしは》閏八《うるや》河邊の小竹《しぬ》のめの思《しぬ》びて宿《ぬ》れば夢に見えけり」とある、小竹〔二字傍点〕・思〔傍点〕の同音の繰返しの例である。人を思《しぬ》ぱく〔二字傍点〕は妻を戀ひ偲ぶことよの意で、ここで句切である。しぬばく〔四字傍点〕で句切になつた例は、卷十九に「毎年《としのは》は來喧くものゆゑ霍公鳥《ほととぎす》聞けばしぬばく逢はぬ日を多み」とある。○四泥《しで》の埼 神名帳に「伊勢國朝明郡志※[氏/一]神社」とあるから、其處の海岸の埼であらう。即ち四日市の北方、羽津の濱である。○木綿取り垂《し》でて 木綿を取り垂らして神に手向る意である。卷九に「齋戸《いはひべ》に木綿取り垂《し》でて齋《いは》ひつつ」古事記上卷に「於2下枝1取2垂《トリシデテ》白丹寸手青丹寸手1而【訓v垂云2志殿1】」とある。しだり柳・しだり尾などのしだり〔三字傍点〕もしで〔二字傍点〕の類語である。○さきくとぞ念ふ 流布本には將住跡其念〔五字傍点〕とあつて、舊訓にスマムトゾオモフとあるが、これでは意味が明かでない。童蒙抄に住〔傍点〕を往〔傍点〕の誤として、ユカムトゾオモフと訓んでから、之に從ふものが多い。住と往とは字形も相似してゐるので、一説としては面白いが、將〔傍点〕の字は元暦校本・類聚古集・神田本・細井本等の古本に好〔傍点〕の字に作つてゐるので、將〔傍点〕よりも好〔傍点〕が原形であるらし(174)い。古義にはこれに據り、且つ住〔傍点〕を往〔傍点〕の誤として、好往〔二字傍点〕は好去〔二字傍点〕と同じで、サキクと訓むべきであると説いてゐる。住〔傍点〕を往〔傍点〕に作つた本はまだ管見に入らぬが、前述の如く字形が似てゐるので姑く古義説に從つて置く。さきくとぞ念ふ〔七字傍点〕は妻の平安ならん事を祈るのである。
 
     狹殘行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌二首
 
1032 天皇《おほきみ》の 行幸《いでまし》の隨《まに》 吾妹子が 手枕|纒《ま》かず 月ぞ經にける
 
【題意】 狹殘行宮の所在は明かでない。代匠記には「此行宮は聖武紀には不v載。紀云、乙未從2河口1發(テ)到(テ)2壹志郡(ニ)2宿(シタマフ)。河口の頓宮すでに壹志郡なるに、そこを立たまひて壹志郡に到て宿したまふとのみいはば紀の文誤れり。案ずるに、到1壹志郡狹殘行宮(ニ)1宿(シタマフ)。にて有けむを、今の印本の續日本紀、すべて誤脱の所おほければ、狹殘行宮の名を脱せるなるべし」とある。久老は狹殘〔二字傍点〕をササムと訓んで、神名帳の「伊勢國多氣郡佐佐夫江神社」や倭姫命世記の「佐佐牟江宮」の佐佐夫江・佐佐牟江と同處であるとしてゐるが、これは新考に「されど音訓を取合せたりとせむは快からざる上に殘の音はサンにてサムにあらねば此説は信じがたし。關|政方《マサミチ》の傭字例【十三丁】にも『殘は舌内聲なり。佐牟と脣内には呼べからず』といへり。」と評してある通り、從ひ難い説である。古義に狹〔傍点〕を獨〔傍点〕の誤として獨行宮ニ殘リテと訓んでゐるのも獨斷であ(175)る。猶今後の研究に俟つべきである。
【口譯】 大君の行幸のまゝに供奉して、私は妻の手枕もせずして月日が經つたことだ。
【語釋】 ○天皇《おほきみ》の 天皇〔二字傍点〕をオホキミと訓む事について、久老の槻乃落葉別記に「おほきみとは當代天皇より皇子諸王までを申稱なり。(中略)須米呂岐とは遠祖の天皇を申奉る稱なるを皇祖より受繼ませる大御位につきては當代をも申事のあるを天皇と書きて須賣呂岐ともよむ例のあるによりて後人ゆくりなく須米呂伎と申も於保伎美と申もひとつ言と心得て天皇と書るをも皇と書るをも須賣呂伎とよみ誤れるぞおほかりける」とある。大略この説の通りであらう。○行幸《いでまし》の隨《まに》 行幸〔二字傍点〕はミユキとも訓めさうであるが、集中の行幸の用字例を檢すると、卷三に「住吉《すみのえ》の岸の松原遠つ神わが王《おほきみ》の幸行處《いでましどころ》」「萬代に變らずあらむ行幸之宮《いでましのみや》」「遠き代に神さびゆかむ行幸處《いでましどころ》」とあるやうに、イデマシと訓むのが妥當のやうに思はれるから、ここも其に從ふ。「隨」はまた「隨意」とも記し、古義には續紀廿五の宣命に「己可欲末仁行止念《オノガホシキマニオコナハントオモヒテ》」新撰字鏡に「隨、保志支萬爾《ホシキマニ》」などあるのに據つて、マニと訓んでゐるが、萬葉ではマニの假名書はなく、卷十七に「かもかくも君が麻爾麻《まにま》と」卷十八に「大君の遠の朝庭《みかど》とまき給ふ官《つかさ》の末爾末《まにま》」卷二十に大王《おほきみ》のみことの麻爾末《まにま》」の如く、マニマの例のみ(其他マニマニの例は多い)であるから、此の歡の場合も字餘りにして、マニマと訓む方がよいかも知れぬ。行幸のまに〔五字傍点〕(或はまにま〔三字傍点〕)は、天皇の行幸のままにお供申上げる意である。
 
(176)1033 御食《みけ》つ國 志摩《しま》の海人《あま》ならし 眞《ま》熊野の 小船に乘りて 沖邊こぐ見ゆ
 
【口譯】 大君の御膳の物を差上げる國なる志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乘つて、沖のあたりを漕いでゐるのが見える。
【語釋】 ○御食《みけ》つ國志摩《しま》の海人ならし みけつくに〔五字傍点〕は前にも「御食つ國野島の海人」と見えてゐた。志摩の國は古事記にも島之速贄《シマノハヤニヘ》とあつて、神代から御食つ國たる由緒の深い國である。三代實録に「元慶六年十日廿五日志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄四百三十一荷」宮内式諸國例貢(ノ)御贄の條に「伊勢(推子蠣、礒蠣)志摩(深海松)」主税式に「凡志摩(ノ)國供2御贄1潜女卅人歩女一人仕丁八人」とある。この歌の「志摩の海人」も供御の贄を取る海人の事を指してゐるのであらう。
【後記】 海人に關する歌は前にも數首あつたが、此歌は行宮から遙かの海上に點在する海人の小船を眺めて詠んだもので、皇威を祝福する意味も含まれてゐるであらう。
 
     美濃《みぬ》國|多藝《たぎ》行宮にて大伴宿禰|東人《あづまひと》の作れる歌一首
 
1034 古《いにしへ》ゆ 人の言ひ來《く》る 老人《おいびと》の 變若《をつ》とふ水ぞ 名に負ふ瀧の瀬
 
(177)【題意】 多藝行宮は上にも引用した續紀に「天平十二年十一月己酉到2美濃國當伎郡1」とあつて、此處に五日間滯在されたのである。古事記中卷に「倭建命(中略)自2其處1發、到2當藝野上1之時、詔者吾心恒念2自v虚翔行1、然今吾足不v得v歩、成2當藝斯形1、故號2其地1謂2當藝1也」とあるのは、所謂地名傳説であつて、信ずる事は出來ぬ。やはり多度川の清瀬の激流《たぎち》から起つた名であらう。多藝行宮の所在は今明らかでないが、大日本地名辞書に「京華要誌に白石村に行在所といふ字ありて、此に行宮神社あり。元正帝を祭り、毎年例祭に元正帝行幸事の儀を模すと曰へり」とある。白石村は今養老村の一部をなしてゐる。
【口譯】 昔から人が言ひ傳へて來てゐる老人が若返るといふ水であるぞ、この名實相伴つた多藝といふ地にある瀧の瀬は。
【語釋】 ○人の言ひ來《く》る 來流〔二字傍点〕を古義にケルと訓んでゐるのは調《しらべ》がわるいから、猶舊訓の如くクルと訓むべきである。卷十九には「いや繼繼に所知來流《しらしくる》天の日嗣と」とある。○變若《をつ》とふ水ぞ 舊訓にはソカユテフミヅゾとあつたのを、攷證にヲツトフミヅゾと改め、古義にはヲツチフミヅゾと訓んである。云〔傍点〕はトフ、チフのいづれにも訓み得るが、變若〔二字傍点〕はヲツと訓むのが妥當である。卷五に「吾が盛いたくくだちぬ雲に飛ぶ藥はむともまた遠知《ヲチ》めやも」卷四に「吾妹子は常世の國に住みけらし昔見しより變若《をち》ましにけり」とある。若返ることをいふ。變若をヲチと訓むのは義訓である。○名に負ふ瀧の瀬 名に負ふ〔四字傍点〕はその名稱を有してゐるの意が原義であるが、多く名實一致してゐる場合に用ゐる。名高い、有名なといふ意味は、これ(178)から派生したものである。今の歌でも多藝〔二字傍点〕といふ地名に適はしい瀧の瀬といふ意であつて、單に有名なといふ義ではない。續紀の元正紀に「養老元年八月申戌、遣2從五位下多治比眞人廣足於美濃國1造2行宮1、九月丁未天皇行2幸美濃國1、甲寅至2美濃國1、丙辰幸2當耆郡多度山美泉1、(中略)十一月丁酉朔癸丑、天皇臨v軒詔曰、朕以2今年九月1到2美濃國不破行宮1、留連數日、因覽2當耆郡多度山美泉1、自盥2手面1、皮膚如v滑、亦洗2痛處1、無v不2除愈1、在2朕之身1其驗、又就而飲浴v之者、或白髪反黒、或頽髪更生、或闇目如v明、自餘痼疾、咸皆平愈、昔聞、後漢光武時、醴泉出、飲v之者痼疾平愈、符瑞書曰、醴泉者美泉、可2以養1v老、蓋水之精也、寔惟美泉、即合2大瑞1、朕雖v痛v虚、何違2天※[貝+兄]1、可3大2赦天下1、改2靈龜三年1爲2養老元年1、癸丑授2美濃守從四位下笠朝臣麻呂從四位(179)上1、十二月丁亥令d2美濃國1立春曉※[手偏+邑]2醴泉1而貢c於京都u」とある。即ち瀧ノ瀬は多度川の清流のたぎちで、所謂養老の瀧をさす。
【後記】 靈泉に關する歌として傳説研究に好個の資料を提供する作である。養老改元の詔勅には、支那の醴泉思想や神仙思想が濃厚に現れてゐるが、後世、元旦に汲む水を若水と稱するのも、これと同じ系統の思想に基いてゐる。後に養老の孝子の傳説を生じ、各種の文學作品の素材となつた養老の瀧を詠んだ最初の歌として注意すべき作である。
 
     大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
1035 田跡《たど》河の 瀧を清みか 古《いにしへ》ゆ 宮仕《みやづか》へけむ 多藝《たぎ》の野の上《へ》に
 
【口譯】 この多度川の瀧の流れが清いので、昔から多藝の野邊に宮殿を作つてお仕へ申したのであらうか。
【語釋】 ○田跡河の 田跡河〔三字傍点〕は今の養老川又は白石川のことで、多度山から流れ落ちて、其地方を潤してゐるので、かやうに名付けたのであらう。○古《いにしへ》ゆ 古〔傍点〕は養老の元正天皇の行幸の際をいふ。天平十二年から養老年間を古代と呼んでゐるのである。○宮仕へけむ 宮仕へしたのであらうかで、上の瀧を清みか〔五字傍点〕のか〔傍点〕(180)が、ここに懸つて來てゐる。宮仕へ〔三字傍点〕は宮殿を作つてお仕へすること。前掲の續紀に「養老元年八月甲戌、遣2從五位下多治比眞人廣足於美濃國1造2行宮1」とあるのを指す。卷十三に「つれもなき城上《きのへ》の宮に大殿を仕へまつりて」卷十九に「天地と相榮えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき」とあるのも、これに同じ。○多藝の野の上に 野の上は野邊の意。卷二に、「妻もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過ぎにけらずや」とある。
【後記】 この卷の冒頭の笠金村の芳野離宮の長歌の結句に「山川を清《きよ》み清《さやけ》みうべし神代ゆ定めけらしも」とあるのと似てゐるが、類型的な感じの件ふのを禁じ得ない。
 
     不破の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
1036 關無くば 還《かへ》りにだにも うち行きて 妹が手枕 まきで宿《ね》ましを
 
【題意】 續紀の聖武紀に「十二月癸朔到2不破郡不破頓宮1」とある。その所在は今詳かでない。
【口譯】 不破の關が無いならば、此處から歸つてでも行つて、妻の手枕をして寢ようものを。
【語釋】 ○關無くば 關〔傍点〕は不破の關で、三關の一である。軍防令義解に「三關者、謂3伊勢鈴鹿、美濃不破、越前愛發1是也」とある。卷二十の防人歌に「荒男《あらを》も立《たし》やはばかる不破の關越《く》えて吾《わ》はゆく」と見える。(181)○還りにだにもうち行きて 代匠記に「カヘリニダニモトハ、俗に立|歸《カヘ》リニ行テ來ムナド云詞ナリ。兼輔集ニ、方タカヘケル所ニ枕出シタリケルヲ返ストテ書ツク、シキタヘノ枕ニ塵ノヰマシカバ立カヘリニゾ人ノトハマシ。此集第十七ニ、同ジ家持ニ、近クアラバ還ニダニモ打行テ、妹ガ手枕指カヘテ寢テモコマシヲ、玉鉾ノ道ハシ遠ク、關サヘニヘナリテアレコソナドヨマレタル、今ト同ジ」とある。從ふべし。すぐ此處から立歸つてでも行つて、の意で、うちゆきて〔五字傍点〕のうち〔二字傍点〕は意味を強める爲の接頭語である。
【後記】 不破の關が作者と妻との間を隔てて、容易に相見る事の出來ないのを嘆いた歌であるが、契沖の指摘した如く、卷十七の同じ作者の述2戀緒1歌の中の句と全く同一である。この不破の關に於ける作歌が、後年越中在任中に想起されて、往時を懷しむ情も働いて、同じ詞句を重用したのであらう。
 
     十五年癸未秋八月十六日内舍人大伴宿禰家持、久邇京を讃めて作れる歌一首
 
1037 今造る 久邇《くに》の王都《みやこ》は 山河の 清《さやけ》き見れば うべ知らすらし
 
【題意】 續紀の聖武紀に「天平十二年十二月丁卯皇帝在v前幸2恭仁宮1始作2京都1矣、太上天皇皇后在v後而至、十三年正月癸未朔天皇始御2恭仁宮1受朝」と見えてゐる。其後十六年二月難波京に遷り給ひ、同年五(182)月また恭仁宮に遷らせ拾ひ、同年十二月寧樂に復歸された。
【口譯】 今度新しく御造營になる久邇の都は、山も河もこんなにすがすがしい所であるのを見ると、此處に都をお構へになるのも尤もであるらしい。
【語釋】 ○今造る久邇の王都は 遷都は天平十二年十二月に行はれた事、續紀の文によつて明かであるのに、今造る〔三字傍点〕とは事實に合はぬやうであるが、これは現在造るの謂ではなく、新に造るの意、即ち新築の義である。古義に「今造《イマツクル》は今新に造ると謂《イフ》なり。神代紀下に又|汝應住《ミマシガスムベキ》天(ノ)日隅宮者今當供造《ヒスノミヤハイマツクルベシ》、枕册子に小家などいふ物のおほかりける所を今作らせ給へれば木立などの見所あるはいまだなし、などあるに同じく、今は新字の意なり。新來《イマキ》、新參《イママヰリ》などの新《イマ》の如し」とある通りである。卷四に「今知らす久邇の京に妹に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な」とある。○山河の 山と川とがの意であるから、ヤマカハと清音によむ。○清《さやけ》き見れば 清見者〔三字傍点〕は舊訓にキヨクミユレバ、略解にキヨキヲミレバ、古義にサヤケキミレバと訓んでゐる。前の神龜二年五月の芳野行幸の際に於ける笠金村の歌に「河瀬乃淨乎見者」とあるのは、キヨキヲミレバと訓むべきであるから、其を旁證にする事も出來さうであるが、しかし今の場合は清〔傍点〕の下に乎〔傍点〕字がなく、且つ此の歌では助詞はすべて明記してあるので、ヲを讀み添へぬ方がよい。從つてサヤケキミレバと訓む説が妥當であると思はれる。卷二十に「山河の佐夜氣吉見都都《さやけきみつつ》道を尋ねな」とあるのは、同じく家持の作であるから、今の場合有力な旁證となるであらう。○うべ知らすらし しらす〔三字傍点〕は都を御造(183)營になること。前記の卷四の「今知らす久邇の宮に」も同じ。
 
     高丘河内《たかをかのかふち》連の歌二首
 
1038 故郷《ふるさと》は 遠くもあらず 一重山《ひとへやま》 越ゆるが故《から》に 念《おもひ》ぞ吾がせし
 
【口譯】 舊都の奈良は遠くもない。しかし唯、一重の山を越えて行く所だから、私は奈良を戀しく思つたことである。
【語釋】 ○故郷《ふるさと》は 故郷〔二字傍点〕は奈良のこと。恭仁の京から舊都の奈良を指して言つたもの。○一重山 奈良と久邇の間には、佐保・那羅・相樂の低い山脈が一列に連つてゐるので、其を一重の山と言つたのである。固有名詞ではなく、例の萬葉の巧妙な造語の一である。卷四の在2久邇京1思d留2寧樂宅1坂上大孃u大伴宿禰家持歌に「一隔《ひとへ》山|重《かさ》なるものを月夜好み門に出立ち妹か待つらむ」とあるのも同じ。○越ゆるが故《から》に 越ゆる爲に、越ゆるのによつて、の意。から〔二字傍点〕は故〔傍点〕の意であつて、卷四に「ただ一夜隔てしからにあらたまの月か經ぬると心まどひぬ」卷七に「花|笑《ゑ》みに笑まししからに妻と云ふべしや」とある。がからに〔四字傍点〕といふ語例は卷十四に「庭に立ち笑ますがからに駒《こま》にあふものを」とある。今日でも「……なるが故に」など言ふのと同じ語法である。○念ぞ吾がせし 故郷の奈良を戀しく思ふ情を私が起したの意。ぞ〔傍点〕の結として、助動詞き〔傍点〕(184)の連體形し〔傍点〕を用ゐてゐる。
【後記】 恭仁の新都に遷つても、猶、舊都奈良の事が懷しく偲ばれる。それも奈良が遠い譯ではなく、唯一重の山が隔つてゐるだけで、さう容易に行かれないと思へば、一しほ戀しい思が増さるのである。恭仁の新都に移り住んだ者の中には、この作者と感を同じうする人もあつたらう。
 
1039 吾背子と 二人し居《を》れば 山高み 里には月は 照らずともよし
 
【口譯】 吾が親愛なる友と二人で居さへすれば、山の高い爲に、この里には月が照らなくとも、其は少しも構はない。
【語釋】 ○吾背子 ここは友人をさす。男相互に背子といふ例は前にもあつた。○山高み 山が高いのでの意。恭仁京の附近には狛山・鹿背山・和束山などあるが、さして高いと思はれる山はない。この歌では何れの山を指したのか明かでない。○照らずともよし 原文には不曜〔二字傍点〕と記してあるが、曜〔傍点〕の字は集中でも珍しく、ここのみに用ゐられてゐる。本義は日の光のかがやく意であるから、てる〔二字傍点〕の意にも用ゐられるのである。よし〔二字傍点〕は、よしままよ、構はぬ、の意。
(185)【後記】 作歌の事情が明かでないが、月のまだ出ぬ恭仁の新都の宵に、心の合ふ友の來訪を喜んで詠んだものであらう。
 
     安積親王、左少辨藤原八束朝臣の家に宴せる日、内舍人大伴宿禰家持の作れる歌一首
 
1040 ひさかたの 雨は零《ふ》りしく 念《おも》ふ子が 宿に今宵《こよひ》は 明《あか》して行かむ
 
【口譯】 雨は頻りに降つてゐる。それで私は私の懷しく念ふ、八束朝臣の家に今夜は夜を明かして行かう。
【語釋】 ○ひさかたの 語義未詳であるが、久堅《ヒサカタ》(永久に堅固)の意か或は瓠形《ヒサカタ》(瓠の樣に圓く虚《うつろ》な形に譬ふ)の義か。もとひさかたの〔五字傍点〕天《アメ》と續く枕詞であつたが、後、天象一般に及び、雨・日・月などの枕詞としても用ゐられるに到つた。この歌では雨〔傍点〕の枕詞になつてゐる。○雨は零りしく しく〔二字傍点〕はしくしくに〔五字傍点〕・千重浪しきに〔六字傍点〕などと同じく、物のいやが上にも重り積ることをいふ。ここは雨の小止みなく頻りに零り續く意である。卷八に「沫雪のほどろほどろに零りしけば」卷十一に「ぬばたまの黒髪山の山草に小雨《こさめ》零りしきしくしく念ほゆ」とある。古義に零敷〔二字傍点〕をフリシケと訓んでゐるが、ここは現在雨の降らないのに、零りしけと命ずるやうに解するよりも、降りしきる雨を目に見て詠んだものとする方が、嫌味がなくて穩當であ(186)る。○念ふ子が 代匠記に「念子トハ八束朝臣ヲサセリ」といひ、攷證・古義等これに從つてゐる。殊に攷證には「子とは、人を親しみいふことにて、男女にわたれり。男どちも子といふ事、九【二十六丁】に、大神大夫、任2筑紫國1時、阿部大夫歌に、於久禮居而《オクレヰテ》、吾者哉將戀《ワレハヤコヒム》、稻見野乃《イナミヌノ》、秋芽予見都津《アキハギミツツ》、去奈武子故爾《イナムコユヱニ》とあるにてしるべし」と論じてゐる。今もこれに據つて解釋したのであるが、しかし集中の用例を見ると子〔傍点〕といふ場合は、女の事を意味する事が多いので、この歌もやはり男女の間の戀愛歌と見る事も出來るやうに思ふ。その意味で、新考に「接待に出でたる侍女を指して云へるにあらざるか」といふ説も、一説として注意すべきであらう。
【後記】 念ふ子〔三字傍点〕を藤原八束とすれば、單なる友情の歌、ある女性を指すとすれば、それに戀愛の氣持を含めてゐる事になる。略解には「又おもふに相聞の古歌なるを、其時誦したるならむか」とあるが、古歌を誦する事は宴席などでも多かつた事、集中の例によつて明かであるけれども、その場合は題詞に吟歌〔二字傍点〕と記すのが普通であつて、この歌のやうに作歌〔二字傍点〕とは記さないから、略解の説は當らないと思はれる。
 
     十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍蟲麻呂朝臣の家に集ひて宴せる歌一首【作者審ならず】
 
(187)1041 吾が屋戸《やど》の 君松の樹に 零《ふ》る雪の 行きには去《ゆ》かじ 待ちにし待たむ
 
【口譯】 私の家の松の樹には雪が降つてゐるが、その雪ではないが――行くのは止めよう。唯、貴方が來るのを待ちに待ちませう。
【語釋】 ○君松の樹に 君待つ〔三字傍点〕に松〔傍点〕を言ひ懸けたので、卷五の「君松浦山」卷六の「千代松の樹」卷九の「嬬《つま》松の樹」の類である。口譯では餘り煩はしくなるから、譯するのを省略した。○零る雪の この句までが「行きには行かじ」の序。ゆき〔二字傍点〕の同音を繰返して、下に續くのである。この歌ではこの序詞の使用法に特徴があり、且つ下句だけでは餘り平凡で面白味が無いから、假に右の如き口語譯を試みて見たのである。○行きには行かじ待ちにし待たむ 單に行かじ〔三字傍点〕・待たむ〔三字傍点〕といふのを、意味を強める爲に、に〔傍点〕・は〔傍点〕・し〔傍点〕といふ助詞を添へ、同語を繰返して言ふのである。待西將待〔四字傍点〕は元暦校本による。
【後記】 正月五日の歌であるから、上句は單なる序詞ではなく、當時の實景を詠みこんだものであらう。下句にゆき〔二字傍点〕とまち〔二字傍点〕を繰返して聲調を整へてゐるが、これは古事記の輕大郎女の「君が行け長くなりぬやまたづの迎へを行かむ待つには待たじ」の句法に倣つたのである。題詞には作者不審とあるが、新考には「ワガヤドノ君マツノキといひマチニシマタムといへるを見れば主人即安倍蟲麻呂の歌なる事明なり」とある。
 
(188)     同月十一日|活道岡《いくぢのをか》に登りて一株の松の木の下に集ひて飲せる歌二首
 
1042 一つ松 幾代か歴《へ》ぬる 吹く風の 聲の清《す》めるは 年深みかも
     右一首は市原王の作
 
【題意】 活道岡は卷三に「活道山木立の繁に」とあるのと同所で、恭仁京の東方、西和束村大字白柄にある。樹木の下で酒宴を催す事は、卷二十に「家持之莊門槻樹下宴飲」と見え、又古事記の雄略天皇の條に「天皇坐2長谷之枝槻下1爲豐樂之時」後紀に「弘仁四年七月丙寅宴2于後庭合歡樹下1」など見える。
【口譯】 この一本松は幾年經つたのだらうか。この松の木に吹く風の音が澄んで聞えるのは、此木が年久しく經てゐる爲であらうか。
【語釋】 ○一つ松 一本松。古事記の倭建命の御歌に「尾張にただに向へる尾津の埼なる一つ松あせを、一つ松人にありせば大刀佩けましを衣着せましを一つ松あせを」とある。○吹く風の聲の清《す》めるは 所謂、松風の音が颯々たる清韻を傳へる趣である。清〔傍点〕の字を新考にはキヨキと訓んでゐる。實際、清〔傍点〕の字をスメルと訓むのは、集中ここだけであり、一般にはキヨシと訓む例になつて居り、且つ卷十に「秋風の清夕《キヨキユフベ》に天の漢舟榜ぎ渡る月人壯子」の如き語例もあるから、キヨキと訓む方がよいかも知れぬ。○年深みかも (189)年深し〔三字傍点〕は年月久しく經つこと。卷三に「古昔《いにしへ》の舊き堤は年深み池の渚《なぎさ》に水草生ひにけり」卷十九に「磯の上の都萬麻《つまま》を見れば根を延《は》へて年深からし神さびにけり」とある。年深みかも〔五字傍点〕のか〔傍点〕は疑問の助詞、も〔傍点〕は詠嘆の助詞である。
【後記】 活道の岡の孤松の下に盃を傾けながら、作者の聞き入つた松風の音を千載の後さながらに聞く思がする。老松は若松と異つて、風に對する抵抗が強いので、風を受けて發する響も、著しく變つて聞える。作者はそれを「聲の清《す》める」と表現し、「年深みかも」と咏嘆してゐるのである。調の高い、清澄の氣に充ち滿ちた絶品である。
 
1043 たまきはる 壽《いのち》は知らず 松が技を 結ぶ心は 長くとぞ念《も》ふ
     右一首は大伴宿禰家持の作
 
【口譯】 私の壽命は何時までか分らない。しかしこの岡の松の枝を結ぶ心は、松にあやかつて長命であるやうにと思ふからである。
【語釋】 ○たまきはる 命〔傍点〕の枕詞。語義未詳。○松が枝を結ぶ心は 卷一の「君が世も吾が世も知らむ岩代(190)の岡の草根をいざ結びてな」卷二の「岩代の濱松が枝を引き結びまさきくあらば又歸り見む」などと同じく、當時草木を結んで、無事長命であるやうに祈る呪禁《マジツク》があつたのである。殊に松の長壽にあやかりたい氣特もあつたらう。卷二十にも「常磐《ときは》なる松の小枝を吾は結ばな」とある。
【後記】 平板な作であるが、當時の松が枝結びの俗信を詠んでゐるのが注意される。
 
     寧樂の京の荒墟を傷み惜みて作れる歌二首 作者審ならず
 
1044 紅《く九なゐ》に 深く染《し》みにし 心かも 寧樂《なら》の都に 年の歴《へ》ぬべき
 
【題意】 恭仁京に遷都された後、奈良京の荒れた跡を傷《いた》み惜んで作つた歌である。墟は王莽傳注に「墟(ハ)故居也」とあり、柳宗元(ノ)詩に「行盡關山萬里餘、到時閭里是荒墟」とある。
【口譯】 私の心は深くこの奈良の都にしみ込んでゐる故か、こんなに荒れ果てた奈良の都に猶年長く暮す事であらう。
【語釋】 ○紅に 深く染み〔四字傍点〕と言はん爲の枕詞。卷七に「紅に衣|染《し》めまく欲しけども」卷十六に「紅に染てし衣」などある如く、紅に染める〔五字傍点〕と一般によく言ふので、此歌では其を枕詞式に用ゐたもの。これが此の作者の創造であるか否かは疑問であるが、ともかく紅に〔二字傍点〕を染め〔二字傍点〕の枕詞に用ゐたのは、集中外に類例が見えぬ。(191)○深く染《し》みにし心かも 原文の染西〔二字傍点〕は舊訓にソミニシとあるが、卷二十に「之美爾之許己呂《シミニシココロ》」とあり、卷二に「益目頬染《イヤメツラシミ》」卷四に「和備染責跡《ワビシミセムト》」など染〔傍点〕をシミの假名に用ゐてゐる例もあるから、シミニシと訓むべきである。染にし心〔四字傍点〕は奈良の都に深くなじみ染んだ心、斷ち難い愛惜の心である。心かも〔三字傍点〕は心故かも〔四字傍点〕の意で、か〔傍点〕は疑問の助詞、も〔傍点〕は詠嘆の助詞。○年の經ぬべき 上の心かも〔三字傍点〕のか〔傍点〕の結として、經ぬべき〔四字傍点〕と連體形で止めてゐる。代匠記に「年ノヘヌベキトハ、カクテスマバイツマデモ飽ズシテ住ベキ處ノ意ナリ」とある。
 
1045 世間《よのなか》を 常無きものと 今ぞ知る 平城《なら》の京師《みやこ》の 移らふ見れば
 
【口譯】 世の中は無常なものだと今始めて分つた、あの全盛を極めた奈良の都が荒れ果てて變つて行くのを見ると。
【語釋】 ○世間《よのなか》を常無きものと今ぞ知る 世間を〔三字傍点〕のを〔傍点〕は卷十八の「大君を御船漕がむとかねて知りせば」の場合と同じく、感動の意を現す助詞で、客語を示す格助詞ではない。「世間ガ常無キモノ」「大君ガ御船漕ガム」の意であつて、世間・大君は主語である。を〔傍点〕はその下にあつて感動の意を添へたものと見るべきである。或は下の知ル〔二字傍点〕といふ動詞と呼應する爲に世間を〔三字傍点〕・大君を〔三字傍点〕とを〔傍点〕を用ゐたと解する事も出來るかも知れぬが、しかし卷三の「うつせみの世は常無しと知るものを」卷十九の「俗中《よのなか》は〔傍点〕常無きものと語り繼ぎ」(192)などと見合せると、世間〔二字傍点〕はやはり主格に立つものと解するのが穩當のやうに思はれる。○移らふ見れば 原文に移徒〔二字傍点〕とある。移徒をウツロフと訓むのは、卷十に「梅が枝に鳴きて移徒《うつろふ》※[(貝+貝)/鳥]の羽白妙に沫雪ぞ降る」とある。この歌では荒れ果てて移り變ること。うつろふ〔四字傍点〕はうつる〔三字傍点〕を更にハ行四段に活用させた語で、多く動作の繼續する場合に用ゐる。
【後記】 「咲く花の薫《にほ》ふが如く」と歌はれた奈良の都も、恭仁京への遷都の後は、一朝にして廢墟と化した。華かなものの滅びた後は、また一しほの寂しさがある。「世間を常無きものと今ぞ知る〔四字傍点〕」の感慨は、當時の人々の等しく抱いた所であらう。
 
1046 石綱《いはつな》の また變若《をち》かへり あをによし 奈良の都を また見なむかも
 
【口譯】 私はもう一度若返つて、奈良の都が再び榮える有樣を見る事が出來ようか。(最早年老いてしまつて、奈良の都の全盛を再び見る事は出來ない。)
【語釋】 ○石綱の 代匠記に「石綱ハ仙覺ノ云、蔦ナリト。今按、第十二ニハ石葛ヲイハツタトヨメリ。綱ノ如クハヘハ石綱トモ云カ。又太ト奈トハ通スレハ、ツタモヤカテツナニヤ。和名云。本草云、絡石一名領石【和名豆太】蘇敬曰、此草苞2右木1而生、故以名之。今按、絡石、又名石※[魚+陵の旁]、石龍藤、葉頭尖而赤者名石血」(193)とある。いはつな〔四字傍点〕は石に這つてゐる蔦葛で、葛の類は這ひ延びて、枝さし分れてもまた再びもとに返るものであるから、をち〔二字傍点〕(若返る)の枕詞に用ゐてある。○また變若《をち》かへり また再び若返つて、の意。卷十一に「朝露の消《け》易き吾が身老いぬとも又|若反《をちかへり》君をし待たむ」とある。舊訓にワカガヘリとあるのは後世の言葉遣ひによつて訓んだもので、從ひ難い所である。流布本に若反〔二字傍点〕の若〔傍点〕を著〔傍点〕に誤つてゐる。いま類聚古集によつて改む。○あをによし 奈良〔二字傍点〕の枕詞。あをに〔三字傍点〕は青い土即ち緑青の意か。よし〔二字傍点〕は玉藻よし〔四字傍点〕、眞菅よし〔四字傍点〕などと同じく、よ〔傍点〕は呼び掛けの助詞、し〔傍点〕は強意の助詞。古昔《いにしへ》奈良に良好な青土を出したのに基くのであらうか。○又見なむかも 原文の又將見鴨〔四字傍点〕を舊訓にマタモミムカモと訓んでゐるが、マタモのモがたるんで聞える。上の又變若反〔四字傍点〕も、單にマタと訓んでゐるので、ここもモを讀添へとせずに、古義の説に從つてマタミナムカモと訓む。將〔傍点〕の字をナムと訓んだ例は、卷八に「妹が見て後も將鳴《なかなむ》ほととぎす花橘を地に落《ちら》しつ」、卷十二に「ぬばたまの今夜は早も明けば將開《あけなむ》」、卷六に「吾妹子が來つつ潜《かづ》かば水は將涸《かれなむ》」など見える。
【後記】 卷三の大伴旅人の作に「吾が盛また變若《をち》めやもほとほとに寧樂の京師《みやこ》を見ずかなりなむ」とあるのは、今の歌と聊か似てゐるが、しかし旅人の作の場合は全盛の奈良の都を太宰府から戀しがつて詠んだものであるが、この作者未詳の歌は、今は淋しい廢墟と化してゐる奈良の都が、再び立ち榮える樣を見る事の出來ない嘆きを詠んでゐる。ここには舊都を惜しむ老境の作(194)者の萬斛の涙が籠つてゐる。
 
     寧樂の故郷を悲しみて作れる歌一首井に短歌
 
1047 やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 高敷《たかし》かす 大和の國は すめろぎの 神の御代より 敷きませる 國にしあれば あれまさむ み子のつぎつぎ 天の下 知らしいませと 八百萬《やほよろづ》 千年《ちとせ》を兼ねて 定めけむ 平城《なら》の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野邊に 櫻花 木のくれ隱り 貌鳥《かほどり》は 間《ま》なくしば鳴く 露霜《つゆじも》の 秋さり來《く》れば 生駒山《いこまやま》 飛火《とぶひ》が※[山/鬼]《をか》に 萩の技《え》を しがらみ散らし さを鹿は 妻よびとよむ 山見れば 山も見《み》が欲《ほ》し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴《やそとも》のをの うちはへて 里なみしけば 天地《あめつち》の 依《よ》りあひの限《かぎり》 萬代《よろづよ》に 榮え行かむと 思ひにし 大宮すらを 恃《たの》めりし 奈良の都を 新世《あらたよ》の 事にしあれば 皇《おほきみ》の 引《ひき》のまにまに 春花の うつろひ易《かは》り 群《むら》鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮(195)人の 踏みならし 通ひし道は 馬も行かず 人も往かねば 荒れにけるかも
 
【題意】 流布本には「悲寧樂故京〔傍点〕郷」とあるが、元暦校本・神田本等、京〔傍点〕字のないのに從ふべきである。寧樂の故りにし郷を悲しむ歌である。
【口譯】 わが大君がよく御統治遊ばす大和の國は、大君の御先祖の神武天皇と申上げる神の御代から、御支配になつた國であるから、御生誕遊ばす皇子が、次々に相續になつて、天下を御支配遊ばすやうにと、千年の後までも、豫想して都と定められたであらうと思はれる平城《なら》の都は、春になると、春日山の三笠の野のあたりに、櫻花は木の繁みに隱れて咲き、貌鳥は絶え間もなく頻りに鳴いてある。秋になると、生駒山の飛火が岡で、萩の枝を押したわませて花を散らして、男鹿は妻を呼ぶ聲を響かせる。山を見ると、山も景色がよくて、見たく思はれる。里を見ると、里もよくて住み心地がよい。朝廷に奉仕する文武百官が、すつと一面に家を並べ建てるので、天と地とが合するやうになるまで(天地の有らん限り)萬世の後までも榮えて行くだらうと思つてゐた御所であり、頼みにしてゐた奈良の都であつたのに、新しい御代であるから、今上陛下のお引連れ遊ばすのに從つて、遷りかはつて、平城の都を朝立つて去つて行くので、大宮人が踏みならして通つた道は、此頃は馬も通らず人も通らないので、荒れ果てたこと(196)である。
【語釋】 ○高敷かす 高敷く〔三字傍点〕は高く領知し給ふ意で、高〔傍点〕は太敷かす〔四字傍点〕・廣知り立て〔五字傍点〕などの太〔傍点〕・廣〔傍点〕と同じく、皇威の盛な事を尊んで言ふのである。卷一に「芳野川たぎつ河内に高殿を高知りまして」の高〔傍点〕もこれに同じ。續紀九卷の詔にも「四方食國天下乃政宇彌高彌廣爾天日嗣止高御座爾坐而大八島所知」とある。○すめろぎの 原文に皇祖〔二字傍点〕とある。ここは神武天皇が始めて大和國に都を定めさせ給うたことを申す。○あれまさむ あれ〔二字傍点〕は下二段活用の動詞で、現るるといふ義であるが、人に關しては出生、誕生をいふ。その子を母からは産《う》むといひ、子自體からはある〔二字傍点〕と言ふのである。ます〔二字傍点〕は四段活用の敬語の助動詞である。あれまさむ〔五字傍点〕はお生れ遊ばすであらう、の意であつて、次の御子《みこ》にかかる連體形である。○天の下知らしいませと 原文の所知座跡は舊訓にシラシメマセト、代匠記にシラシイマセト、考・略解・攷證にシラシマサムト、古義にシロシメサムト、新考にシロシイマスト、新訓にシロシイマセトと訓んでゐる。かやうに諸説があるが、まづ「所知」はシラシと訓むべきである。集中の用例は卷十八に「葦原の瑞穗の國を天降り之良之賣之家流《しらしめしける》すめろぎの神の命《みこと》の」卷二十に「難波の國に天の下|之良之賣之伎《しらしめしき》と」の如く、すべてシラシであつて、シロスの例はない。延喜式の祝詞に所知食〔三字傍点〕の注に古語云2志呂志女須1とあり、之を證據として萬葉の所知〔二字傍点〕も總て、シロシと訓まうとする説もあるが、延喜式時代に古語と謂つてゐたものが、必ずしも萬葉より古いとも思はれぬので、猶、萬葉の中の假名書の例によつてシラシとよむ方が穩當である。次に座(197)跡〔二字傍点〕はメサムトとは訓めないから、イマセト、マサムト、イマストの中の何れかであるが、下に八百萬千年ヲ兼ネテ定メケム〔四字傍点〕とあるのに照合すると、マサムとかイマスとか言ふよりも、天ノ下シラシイマセトと命令形に訓む方がよいと思はれる。○かぎろひの 春〔傍点〕の枕詞。炎《かぎろひ》の燃ゆる春とつづく。かぎろひ〔四字傍点〕は日光でも火氣でも、すべてその氣の立つのが大氣に寫つて、ゆらゆらと見える樣をいふ。漢語では遊絲・野馬・陽※[餡の旁+炎]など言ふ。さて炎の燃ゆる春と言ふべきを略して、炎の春〔三字傍点〕と言ふのは、恰も※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の鳴く春と言ふべきを略して、※[(貝+貝)/鳥]の春〔三字傍点〕と言ふが如き類である。○櫻花木のくれ隱り 櫻の花が木の小闇く茂つてゐる處に咲く、の意。流布本に本晩※[穴/干]〔三字傍点〕とあるが、※[穴/干]〔傍点〕は元暦校本・類聚古集・神田本等に※[穴/牛]〔傍点〕とあるのがよい。※[穴/牛]〔傍点〕は牢〔傍点〕の俗字で、圍む意があるから、隱〔傍点〕に通用したのであらう。卷三に「櫻花木のくれ茂《しじ》に」とあるのもここと同意である。○貌鳥の 貌鳥〔二字傍点〕は如何なる鳥か明かでない。眞淵は呼子鳥の事で、今のカツコ鳥を指すと言つてゐる。ともかく常に春の鳥として歌はれてゐて、卷三の赤人の歌にも「春日《はるび》を春日《かすが》の山の高座の御笠の山に朝さらず雲居棚引き容鳥の間なくしば鳴く」とある。○露霜の 秋〔傍点〕の枕詞。露霜の置く秋とつづく。卷十七に「露霜の秋に到れば」とある。○射駒山 流布本に射釣山〔三字傍点〕とあるが、釣〔傍点〕は元暦校本・類聚古集・西本願寺本等の古寫本の多くに、駒〔傍点〕に作つてゐるのが正しい。眞淵が流布本の字面に從つて、射釣山《ヤツリヤマ》とよみ、宣長が羽飼山《ハカヒヤマ》の誤としたのは、何れも從ひ難い。ここは春には東の春日山を歌ひ、秋には西の生駒山を詠んでゐるのである。平城宮は恰度その兩山の中間に位置してゐた。○飛火が※[山+鬼]《をか》に 流布本に塊〔傍点〕とあるのは誤で、元暦校本に※[山+鬼]〔傍点〕とあるのに從ふべきである。舊訓・童蒙抄・攷證は塊〔傍点〕字に據つて、クレと訓んでゐる(198)が、考・略解・新考等には※[山/鬼]・※[山+鬼]の誤として、ヲカと訓み、古義にはタケと訓んでゐる。クレの説は論外として、ヲカ・タケの兩訓の中何れが妥當か疑問であるが、高く峻しいといふ※[山+鬼]〔傍点〕の字義からは、これを決定する事は出來ぬ。今の場合は生駒山中の一丘陵の事を指すと思はれるから、ヲカと訓む説に從つて置く。飛火〔二字傍点〕は烽のこと。和名抄に「説文云、烽燧、邊有v警則擧v之、度布比《トブヒ》」とある。飛火が※[山+鬼]〔四字傍点〕は、續紀(元明紀)に「和銅五年正E月壬辰、廢2河内國高安烽1始置2高見烽及大倭國春日烽1以通2平城1也」とある高見烽の事をさす。高見は暗《くらがり》峠の北方にあつて、南に偏してゐるので、平城遷都と共に烽を生駒山の方に移したのである。○しがらみ散らし しがらみて散らすの意。しがらみ〔四字傍点〕はからませる意にて用ゐられるが、ここは萩の枝などを押したわませて花を散らす意に用ゐてある。古今集秋上に「秋萩をしがらみ伏せて鳴く鹿の目には見えずて音のさやけさ」とあるしがらみ〔四字傍点〕も同じ。○うちはへて うち〔二字傍点〕は接頭辭、はへ〔二字傍点〕は延《の》べるの意で、ずつと一面に打ち續いてゐる樣をいふ。卷十三にも「打|延《は》へて思ひし小野は」とある。○里なみしけば 流布本に思〔傍点〕とあるが、童蒙抄に里〔傍点〕の誤としたのに從ふ。里を並べて敷くの意で、人家を建て並べること。○天地のよりあひの限《かぎり》 卷二に「天地の依りあひの極《きはみ》」とあるのと同じで、永遠に、無窮に、の意。限〔傍点〕を萬葉考其他にキハミと訓んでゐるが、文字通りにカギリと訓んでよいであらう。○大宮すらを 次の奈良の都を〔五字傍点〕と對をなしてゐる。この二つのを〔傍点〕はなるものを〔五字傍点〕の意。すら〔二字傍点〕は一を擧げて他を類推せしめる助詞。○新世の 新世〔二字傍点〕は今上陛下の御代を讃へて言つたもの。考に「あらたよとはあらたにめづらしくふりせぬ代をいふ意にて、御代をほめていふ言なり」とある。○大君の引きのまにまに 天皇が率ゐさせ給(199)ふままに、の意。卷十九にも「うつせみの世の道理《ことわり》と丈夫《ますらを》の引きのまにまにしなざかる越路を指して」とある。○春花の うつろひ〔四字傍点〕の枕詞。○うつろひ易《かは》り 人が移り住むこと。春花の〔三字傍点〕は枕詞としては、色が褪せて變化する意でかかるが、本文のうつろひ〔四字傍点〕の意味は移轉の事をさす。○群鳥の 群鳥が朝、塒を立つ意から、朝立つ〔三字傍点〕の枕詞となる。○朝立ゆけば 都を遷されるので、奈良京から久邇京に、人々が打群れて移つてゆくので、の意。○踏みならし ならし〔三字傍点〕は道の高低を平均にする事で、道の往來が繁きことを現す。
【後記】 奈良の都の由緒久しきを叙べて、春の三笠の野邊や秋の生駒山の風景を描き、文武百官の家並が揃ひ、全盛を極め天地の悠久無限なるが如く永久に繁榮すると思はれてゐたのが、遷都と共に一朝にして荒廢に歸した樣を語つてゐる。卷一(二九)に柿本人麿が近江の舊都を過ぐる時の歌があるが、あれは最初に近江遷都の由來を叙し、終に荒廢に歸した舊都に立つた作者の切々たる哀感を高調して、盡きせぬ餘韻を籠めてゐる。其に比して、この奈良の故郷を悲しむ歌は、寧ろ奈良の全盛であつた樣を精叙して、かなり洗練された組織的な句法を用ゐてゐるが、一首の中に波打つて流れる哀感は、人麻呂の作程痛切でなく、其だけ時代の下つた事を思はしめるのである。
 
(200)     反歌
 
1048 立ち易《かは》り 古き都と なりぬれば 道の芝草 長く生ひにけり
 
【口譯】 都が恭仁京に變つてこの奈良京も舊い郡となつてしまつたから、往來の道の芝草も長く生ひ茂つたことである。
【語釋】 ○立ち易《かは》り たち〔二字傍点〕は接頭語で意味はない。かはり〔三字傍点〕は都が替ることを指す。攷證に「立かはるとは、是を彼と引かはることにて、ここは、今までは三日《ミカノ》原|布當《フタギノ》離宮にて(中略)ありし地の、都と【恭仁京】なりて、今まで都なりし奈良の京の、故都となりしをいへる事、此卷【四十六丁】悲2傷三香原荒墟1歌に、咲花乃《サクハナノ》、色者不易《イロハカハラズ》、百石城乃《モモシキノ》、大宮人叙《オホミヤビトゾ》、立易去流《ダチカハリヌル》とあるは、大宮人と里人とたちかはれるをいへるにてしるべし。九【三十一丁】に、立易《タチカハリ》、月重而《ツキカサナリテ》云々とあるも同じ。」とある。從ふべし。○古き都となりぬれば 奈良が最早舊い都となつてしまつたから、の意。○道の芝草 路傍の雜草をいふ。和名抄に「莱草、和名、之波《シバ》」とあり、禮記、王制註釋文に「草所v生曰v莱、毛詩、楚茨序、田莱多荒」釋文に「田廢生v草曰v莱」とある。道の芝草が長く生ひたとは、人も通はずして、道の荒れ果てた樣をいふ。卷十一に「疊薦《たたみこも》隔て編む數通はさば道の柴草生ひざらましを」とある。
【後記】 道の芝草の生ひはびこつてゐる様によつて、荒涼たる舊都の哀感を現してゐる。この歌と同じく古りにしものに回顧の情を詠んだものは集中でも卷二に「御立せし島の荒磯を今日見(201)れば生ひざりし草生ひにけるかも」、卷三に「古昔《いにしへ》の舊き堤は年深み池の渚《なぎさ》にみ草生ひにけり」などあるが、それらに比してこの「立ち易り」の歌は背景が廣大であるだけに、ひとしほ哀れさが深い。
 
1049 なつきにし 奈良の都の 荒れ行けば 出で立つごとに 嘆きし益《まさ》る
 
【口譯】 久しく馴れ親しんだ奈良の都が段々荒れて行くので、私は屋外に出て道の上に立ち、その荒れた樣を見る毎に、嘆きが増ることだ。
【語釋】 ○なつきにし なつき〔三字傍点〕はなれつき〔四字傍点〕(馴著)の略であらう。新撰字鏡に「馴、奈豆久、狎、奈豆久、〓獣馴也、介毛乃乃人爾奈豆久《ケモノノヒトニナツク》」とある。○出で立つ 屋外に出て道に立つこと。卷十九に「桃の花下照る道に出で立つ※[女+感]嬬《をとめ》」とあるのも同じ。
【後記】 「出で立つごとに」の句、屋外の荒涼たる状態を偲ばしめる。さして勝れた作ではないが、何人にも感受される内容を詠んでゐる。
 
(202)     久邇新宮を讃むる歌二首并に短歌
 
1050 現《あき》つ神 吾が皇《おほきみ》の 天の下 八島のうちに 國はしも 多くあれども 里はしも さはにあれども 山並《やまなみ》の 宜しき國と 川|次《なみ》の 立合ふ郷《さと》と 山城の 腱背山《かせやま》のまに 宮柱《みやはしら》 太敷《ふとしき》まつり 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は 河近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音《ね》とよむ 秋されば 山もとどろに さ男鹿は 妻よぴとよめ 春されば 岡邊《をかべ》もしじに 巖《いはほ》には 花咲きををり あな面白 布當《ふたぎ》の原 い(203)と貴《たふと》 大宮處《おはみやどころ》 うべしこそ 吾が大君は 君のまに 聞かし給ひて さすたけの 大宮|此處《ここ》と 定めけらしも
 
【口譯】 現世の生神様なる吾が大君が御支配遊ばす天の下の大八洲國の中には、國は澤山あるが里は澤山あるが、山の並びのよい國であるとて、川の流れが續いて兩方から流れ合つてゐるよい里であるとて、山城の國の鹿背山の間に、御殿の柱を堂々とお構へになつて、御支配遊ばす布當の宮は、河が近いので瀬の音がさやかに聞える。山が近いので鳥の鳴聲が響いて聞える。秋になると山も響き渡る程に、男鹿が妻を呼んで叫び、春になると岡のあたりも一面に繁く、岩の上には花が枝も撓む程咲き亂れてゐて、あゝ趣が深い、この布當の原は。實に貴い、この大宮處は。成程、わが大君が大君の御心のまゝに、よい處とお聞きになつて、大宮を此處とお定めになつたのも尤もである。
【語釋】 ○現《あき》つ神 あきつかみ〔五字傍点〕は現世に現れます神の意で、天皇を申し奉る。書紀、孝徳紀に「巨勢徳大臣詔2於高麗使1曰、明神御宇日本天皇詔旨云々」天武紀に「詔曰、明神御大八州日本根子天皇詔命云々」公式令詔書式に「明神御宇日本天皇詔旨、明神御宇天皇詔旨、明神御大八洲天皇詔命云々」耕雲國造神賀詞に「掛麻久宅畏岐明御神止大八島國所知食須天皇命乃」などあるのも、これに同じ。この歌では「吾が大(204)君」の同義語として並稱されたので、「現神たる大君」といふ義を示す。○八島のうちに 八島〔二字傍点〕は大八州の國。吾が國を大八島國と稱するのは、古事記上卷に、「伊邪那岐命、伊邪那美命、御合生子、淡道之穗之狹別島、次生2伊豫之二名島1、次生2意伎之三子島1、次生2筑紫島1、次生2伊伎島1、次生2津島1、次生2佐度島1、次生2大倭豐秋津島1、故因2此八島先所1v生、謂2大八島國1」とあるが、これは一種の地名傳説であつて、實は八島〔二字傍点〕の八〔傍点〕は數の多い事を指すので、八尺《ヤサカ》ノ嘆キ、紅《クレナヰ》ノ八鹽《ヤシホ》ノ衣、八峯《ヤツヲ》ノ※[矢+鳥]《キギシ》、八重雲《ヤヘグモ》などの八《ヤ》と同じ。○國はしもさはにあれども 國は澤山にあるが、の意。しも〔二字傍点〕は意味を強める助詞。下の里はしも〔四字傍点〕の場合も同じ。○川次の 上の山並〔二字傍点〕の類語で、山並〔二字傍点〕は山の立ち並んでゐる樣、川次〔二字傍点〕は川の續いて流れてゐる様をいふ。○立ち合ふ郷と たち〔二字傍点〕は接頭辭で意味はない。川の流れ合ふ里であるとて、の意。恭仁京は泉川と澤田川や和束川との合流點近くにある。流布本に郷〔傍点〕を卿〔傍点〕に誤つてゐる。元暦校本等によつて改む。○鹿背山のまに 鹿背山は泉川の南方、奈良山の北方に聳ゆる山。續紀に「十三年九月己未(中略)班2給京都【恭仁京也】百姓宅地1、從2賀世山西道1、以東爲2左京1、以西爲2右京1」とあるから、此山は恭仁京の中心になつてゐた。山のま〔三字傍点〕は山の間の意であつて、右の續紀の文を見ると、この歌の次下の條がよく分るのである。○宮柱大敷奉り 太敷奉〔三字傍点〕は舊訓にフトシキタテテとあり、其に從ふ者もある。實際、奉《マツリ》は下位の者が上位の者に對する敬意を含む語であるから、今の場合少し不穩當のやうだが、姑く原文を尊重して置く。○布當の宮は 恭仁京は布當の原にあるから、恭仁の宮をまた布當の宮ともいふ。その平地を布當野といひ、そこの山を布當山といひ、泉川に注ぐ川を布當川といふのである。當〔傍点〕をタギと訓むのは、當麻〔二字傍点〕をタギマと訓(205)むのと同じで、當〔傍点〕の字音tangの語尾のgが響いてギとなるのである。卷十に「落當知《オチタギチ》」卷十一に「當都心《タギツココロ》」とあるのも、當をタギと訓む確證である。○鳥が音とよむ 原文の慟〔傍点〕の字をトヨふと訓んだ例は集中外にはない。攷證に「漢書、肅望之傳集注に、慟動也とあるにて、働、動、通るをしるべし」とある。動〔傍点〕をトヨふと訓んだ例は、卷三に「淺野の雉|開《あ》けぬとし立動良之《たちとよむらし》」卷九に「白神の礒の浦廻を敢て榜動《こぎとよむ》」など見える。とよむ〔三字傍点〕は響《ひび》くこと。下の妻呼びとよめ〔六字傍点〕は響かす意。前者は四段活用の自動詞、後者は下二段活用の他動詞である。とよめ〔三字傍点〕を令響〔二字傍点〕と記してゐるのも其意を示す爲である。○あな面白 原文には痛※[立心偏+可]怜〔三字傍点〕とある。舊訓、童蒙抄にイトアハレ、考、略解の一説にアナニヤシ、略解の他の一説、新考にアナアハレ、攷證にアナタヌシ、古義、新訓にアナオモシロと訓んである。あな〔二字傍点〕は「あなたづたづし獨りさ寢れば」(卷十五)とある通り、アアといふのと同じ感動詞であつて、痛〔傍点〕をアナと訓むのは、卷四に「痛《あな》たづたづし友なしにして」とあるのを、前の卷十五の歌と見合せると、よく諒解出來るであらう。※[立心偏+可]怜〔二字傍点〕はニヤシと訓むのは餘り字面から遊離し過ぎ、タヌシと訓むのは集中に確證がなく(卷五の旅人の讃酒歌の中なる「世間之遊道爾冷〔傍点〕者」の冷〔傍点〕を怜〔傍点〕の誤として、タヌシと訓む説があるが、猶疑問とすべきである)、アハレと訓むのは、卷三に「客《たび》に臥《こや》せる此の旅人|※[立心偏+可]怜《あはれ》」卷九に「霍公鳥鳴きてゆくなり※[立心偏+可]怜《あはれ》其鳥」の如き實例もあるが、アハレの場合は、多くしめやかな哀感を含んでゐるので、今の場合の如く、新京を讃美する晴々しい氣特を現すのに適はしくない。やはりここはオモシロと訓むべく、卷四に「生ける世に吾は未だ見ず言絶えてかく※[立心偏+可]怜《おもしろ》く縫へる嚢《ふくろ》は」卷七に「ぬばたまの夜渡る月を※[立心偏+可]怜《おもしろ》み吾が居る袖に露ぞ置きにける」のごと(206)くに單なる面白味ではなく、風趣のある樣を示してあると思ふ。○いと貴 舊訓にイトタカキと訓んでゐるのを、略解にアナタフトと改め、古義にイトタフトと訓んだ。原文の甚〔傍点〕の字は、卷十二に「情し念へば甚《いと》もすべなし」とあるやうに、イトと訓むべきであるから、古義説に從ふ。○君のまに 君の御心のままに。大君は即ち神であるから、神ながら〔四字傍点〕といふのと同じ事になる。○きかし給ひて 布當の原が形勝の地であるとお聞きになつて、の意。○さすたけの 芽ざし出でたる竹の榮へ行くの意にて、君〔傍点〕・大宮〔二字傍点〕・宮〔傍点〕に仕へる舍人等にかけて用ひる枕詞。
【後記】 恭仁京の山川の美を賞し、これに春の花秋の鹿などを配して、此地が勝れた處である事を述べ、天皇がここに帝都を定め給ふた事の道理あるよしを歌つて、一首を結んでゐる。少し調子に乘り過ぎる程の明朗な筆致を以つて、恭仁京を讃美したもので、皇室中心の思想がよく現れてゐる。
 
     反歌二首
 
1051 三日《みか》の原 布當《ふたぎ》の野邊を 清みこそ 大宮處 定めけらしも【一に云ふ、こゝとしめさす】
 
【口譯】 三日の原の布當の野邊がすが/\しい景色の處であるから、御所を此處にお定めになつ(207)たのであらう。
【語釋】 ○三日の原 泉川沿岸地で今恭仁京趾がある。山城名勝志に「瓶原在2木津渡東一里半許1郷内廣、今有2九村1」とある。○一に云ふ、こことしめさす 此句、流布本にはない。元暦校本によつて補ふ。第五句の異傳であらう。しめさす〔四字傍点〕は標刺すで、標結ふと同じく、其處を自分の領地として占めること。本文の「定めけらしも」の方が勝つてゐる。
 
1052 山高く 川の瀬清し 百世《ももよ》まで 神しみ行かむ 大宮處《おほみやどころ》
 
【口譯】 山は高く、川の瀬は清い。百代までも神々しくなつて行くであらうと思はれる久邇の大宮處よ。
【語釋】 ○山高く 流布本に弓高來〔三字傍点〕とあつて、古寫本も總て此の通りであるが、今の場合弓〔傍点〕ではどうしても意味が取れぬ。舊訓にヤマとあるのに據つて、萬葉考に山〔傍点〕の誤としたのに從ふ。○神しみ行かむ 神しみ〔三字傍点〕の語例は集中、外に所見がないが、契沖が「神しみゆかんは神さびゆかんなり」と説いた通りであらう。原文の神之味〔三字傍点〕を木村正辭博士の字音辨證に、「之の呉(ノ)原音サイを省呼したるにてサビとよむべし」とあるのは、例の韻鏡の濫用による僻説であつて、從ふ事が出來ない。
 
(208)1053 吾が皇《おほきみ》 神の命《みこと》の 高知らす布當《ふたぎ》の宮は 百樹《ももき》もり 山は木高《こだか》し 落ちたぎつ 瀬の音も清し ※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の 來鳴く春べは 巖には 山下光り 錦なす 花嘆きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧《あまきら》ふ 時雨《しぐれ》を疾《いた》み さ丹《に》つらふ 黄葉《もみぢ》散りつつ 八千年《やちとせ》に あれつがしつつ 天《あめ》の下 知らしめさむと 百代《ももよ》にも 易《かは》るべからぬ 大宮處
 
【口譯】 わが大君、現神の尊の御支配遊ばす布當の宮は、山は木が高く生ひ、泡立つて流れる川の瀬音も清い。鶯の來て鳴く春の頃には、山も照り輝くやうに、錦の如き花が枝もたわわに咲き亂れ、男鹿が妻を呼ぶ秋には、空かき曇つて降る時雨が激しいので、赤く色づいた紅葉が散る、かうして八千年の後までも大君がお生まれ繼ぎ遊ばして、天下をお治めになるやうにと、百代の後までも變らない筈の大御所であるぞ。
【語釋】 ○百樹もり 原文百樹成〔三字傍点〕は舊訓にモモキナスとよみ、童蒙抄、略解、攷證等これに從ひ、略解の宣長説は、成〔傍点〕を盛〔傍点〕の誤として、モモキモルとよみ、古義は訓はこれに從ひ、ただ成〔傍点〕を盛〔傍点〕の省文といひ、新考は成〔傍点〕・盛〔傍点〕通用として、モモキモリと訓んでゐる。此句は山〔傍点〕の枕詞であるが、モモキナスと訓むのは、次の錦なす〔三字傍点〕と同じく、「如く」の意に見るのであらうが、此語だけの意味はそれで分るとしても、山〔傍点〕へのかか(209)り方が明かでない。成〔傍点〕の字は冬木成春《フユコモリハル》の如く、モリとも訓めるから、百樹成〔三字傍点〕もモモキモリとよみ、もり〔二字傍点〕は茂る意で、百木の茂る山といふ意を以て、山〔傍点〕の枕詞となつたと見るのが穩當のやうである。もり〔二字傍点〕は卷二に「水傳ふ礒の浦囘の石つつじもく咲く道をまた見なむかも」のもく〔二字傍点〕と同源である。尤も成〔傍点〕の字は、モルとも訓み得るのであるが、「鯨魚《いさな》とり海」「冬ごもり春」の例に倣ひ、ここもモモキモリと訓んで置く。○山下光り 花でも紅葉でも色の照り輝くことを、下照る〔三字傍点〕とも下光る〔三字傍点〕とも言ふので、山の麓が光る謂ではない。花に關して言つたのは卷十九に「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出立つ※[女+感]嬬《をとめ》」卷十八に「橘の下照る庭に殿たてて酒宴《さかみづき》いますわが大君かも」とあり、紅葉に關して言つたのは、卷十五に「あしひきの山下光る紅葉《もみぢば》の散りのまがひは今日にもあるかも」とある。今の場合は下に「錦なす花咲きををり」とあるから、春の花の照り輝く意を現してゐる事明かである。○天霧らふ 霧らふ〔三字傍点〕は四段活用の動詞の霧《キ》る〔傍点〕を再びハ行四段に活用させて、動作の繼續を示すもの。空のかき曇る意であつて、時雨〔二字傍点〕の枕詞と見る事も出來るが、この場合などは單なる枕詞ではなく、實景を現してゐる語である。○さ丹づらふ さ〔傍点〕は接頭辭、にづらふ〔四字傍点〕は色の紅く照り映えることである。これを枕詞と見る説もあるが、卷三に「なゆ竹のとをよる皇子、さ丹つらふ吾大王は」卷四に「さ丹つらふ紐解き離《さ》さず」とある語例に倣つて、枕詞と解せずに、形容の句と見るべきであらう。○あれつがしつつ あれつぐ〔四字傍点〕は生繼の意。卷一に「藤原の大宮仕へあれつぐや處女《をとめ》がともは乏しきろかも」とあるのも同じ。ここは天皇が代々お生まれ繼ぎ遊ばして、の意。原文に安禮衝之乍とある(卷一の例も安禮衝哉とある)ので、宣長は「此言を生繼と解したるはいみじきひがごと也。(中略)(210)繼と衝とはクの清濁も異なるをいかでか借用ひむ」と難じてゐるが、新考には「抑繼はもとツクと清みてとなへしにあらざるか。さて此集の出來し頃には既にツグと濁るやうになれるを、なほアレツグなどいふ古語の時にはもとのままにツクと清みて唱へしかば繼とは書かで衝の字を借り用ひたるにはあらざるか。又清音を濁音に借り用ひたるにてもあるべし。」とある。萬葉では假名の清濁を通はして記すこともあるから、清濁論のみによつて、生繼《アレツグ》の説を難ずることは出來まい。○百代にも更るべからぬ大宮處 契沖は文選枚乘諫2呉王1書に「臣願王熟計而身行v之、此百代不易之道也」とあるのを引用してゐるが、さういふ例があるにしても、その百代不易を直譯して、今の歌に詠み込んだと速斷する事は出來ぬ。百代にも更らぬといふ程度の表現は、何人にも容易に考へつくものだからである。橋本進吉博士は不可易〔三字傍点〕をカハルマシジキと訓まれてゐる。これも注意される訓である。ましじき〔四字傍点〕はまじき〔三字傍点〕の古形であつて、萬葉にも用例が多い。
【後記】 前の長歌の内容を短縮して歌つたやうな作であるが、結句に萬世無窮なるべき大宮處を祝福してゐる點が、聊か異つてゐる。
 
     反歌五首
 
1054 泉川 ゆく瀬の水の 絶えばこそ 大宮處 遷《うつ》ろひ往かめ
 
(211)【口譯】 泉川の流れる瀬の水が絶えたならばこそ、この御所は他へ變ることであらう。(この川の絶えぬ如く、御所も永久に變らないであらう。)
【後記】 卷七に「泊瀬川流る水沫《みなわ》の絶えばこそ吾が念ふ心|遂《と》げじと思はめ」とあるが、彼此の間に直接の影響や交渉は無いであらう。
 
1055 布當山《ふたぎやま》 山|並《なみ》見れば 百代にも 易《かは》るべからぬ 大宮處
 
【口譯】 布當山の山の並びが見事なのを見ると、百代の後でも變らぬ御所であると思はれる。
 
1056 ※[女+感]嬬《をとめ》らが 續麻《うみを》かくとふ 鹿背《かせ》の山 時しゆければ 京師《みやこ》となりぬ
 
【口譯】 少女達が績んだ麻糸をかけるといふ※[木+峠の旁]《かせ》――そのカセといふ名を負うた鹿背《かせ》の山も時節が到つて、今では都となつた。
【語釋】 ○※[女+感]嬬らが續麻かくとふ 少女達が績んだ麻糸を懸ける※[木+峠の旁]《かせ》といふ意から、同音の聯想により、鹿背山〔三字傍点〕につづけた序詞である。※[木+峠の旁]〔傍点〕は大神宮儀式帳に「金銅加世比二枚」延喜大神宮式に「金銅賀世比二枚、長各(212)九寸六分、手長五寸八分」とあるカセヒの事で、麻や糸を卷きかける具である。新撰字鏡に「※[木+峠の旁]、力棟反、加世比」とある。續日本後記(天長十年三月の條)に「山城國相樂部※[木+峠の旁]山」とある、※[木+峠の旁]山〔二字傍点〕は、この鹿背山の事であるから、これに據つてカセヒをカセと言つた事も明かであり、且つこの歌の序詞の用法も諒解出來るであらう。○時しゆければ ゆく〔二字傍点〕はくる〔二字傍点〕と同じで、春さりにけり〔六字傍点〕が、春來にけり〔五字傍点〕と同意であるのと趣を等しうしてゐる。時節が到來すればの意で、荒野も時勢の推移によつては、全盛の都にもなるといふ作者の感慨をこめてゐる。
【後記】 卷十九に「皇は神にしませば赤駒のはらばふ田井を京師《みやこ》となしつ」とあるのと同想の歌であつて、微々たる人の力では如何とも爲し難い、大きな時勢の潮流の變轉の相に、作者は驚嘆の目をみはつてゐる。
 
1057 鹿背《かせ》の山 木立《こだち》を繁み 朝去らず 來鳴きとよもす ※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の聲
 
【口譯】 鹿背の山は樹々が繁く生えてゐるので、毎朝來ては鳴き騷ぐ鶯の聲が聞える。
【語釋】 ○朝さらず 一朝も洩れず、毎朝の意。卷三に「御笠の山に朝さらず雲居棚引き」また「石村《いはれ》の道を朝さらずゆきけむ人の」など見える。よひさらず〔五字傍点〕、川淀さらず〔五字傍点〕なども同意である。
 
1058 狛山《こまやま》に 鳴く霍公鳥《ほととぎす》 泉川 渡《わたり》を遠み ここに通はず【一に云ふ、渡り遠みや通はざるらむ】
 
【口譯】 狛山で鳴く霍公鳥は、泉河の渡瀬が遠いので、此處までは來ない。
【語釋】 ○狛山 和名抄に「山城國相樂郡大狛小狛」とある。狛山〔二字傍点〕は泉川の北岸、恭仁京の西方にある。○渡を遠み 渡〔傍点〕は泉川の渡瀬である。
【後記】 泉川の南岸にあつて詠んだもので、霍公島の鳴聲が遠く聞えるのを、川の渡瀬が遠いので通つて來ないやうに、故ありげに、詠んだのである。略解に「反歌にほととぎすを詠めるはつきなし。此一首は別の歌なるべし」とあるが、長歌は一年中の事を言はうとして、代表的に、春と秋の事を歌つたのみであるから、反歌に霍公鳥を詠んだとしても不當ではない。唯、※[(貝+貝)/鳥]の歌と霍公島の歌とが並んでゐるのが、少し訝しく思はれるが、新考の説の如く或は晩春、初夏の候に作つた歌ではあるまいかと思はれる。
 
     春の日、三香原の荒墟を悲しみ傷みて作れる歌一首并に短歌
 
(214)1059 三香《みか》の原 久邇《くに》の京師《みやこ》は 山高み 河の瀬清み 住みよしと 人は云へども 在りよしと 吾は念《おも》へど 古《ふ》りにし 里にしあれば 國見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり 愛《は》しけやし 斯くありけるか 御室《みもろ》つく 鹿背《かせ》山のまに 咲く花の 色めづらしく 百鳥《ももとり》の 聲なつかしく 在《あ》りが欲《ほ》し 住みよき里の 荒るらく惜しも
 
【題意】 續紀に「天平十五年冬十二月己丑、始運2平城器伏1収2置於恭仁宮1、辛卯初壞2平城大極殿并歩廊1遷2造於恭仁宮1、四2年於茲1其功纔畢矣、用度所v費不v可2勝計1、至v是更造2紫香樂宮1仍停2恭仁宮造作1焉、十六年閏正月乙丑朔、詔喚2會百官於朝堂1問曰、恭仁難波二京、何定爲v都、各言2其志1、於是陳2恭仁京便宜1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳2難波京便宜1者、五位已上二十三人、六位已上一百三十人、二月甲寅運2恭仁宮高御座并大楯於難波宮1、庚申左大臣宜v勅云、今以2難波宮1定爲2皇都1」とあり、天平十二年十二月、橘諸兄が此地を經始して遷都に擬し、翌十三年正月天皇がここで朝賀を受けさせ給うてから、僅かに三年餘で難波宮に遷都される事になり、恭仁京のあつた三香原は荒廢に歸したのである。
(215)【口譯】 三香の原にある久邇の都は、山が高く河の瀬が清いので、住みよい處だと人は言ふけれど、居よい處だと私は思ふけれど、舊都となつた所だから、國を見ても人も通らない、里を見ると家も荒れ果ててゐる。惜しい事に、こんなに荒れてしまふのであつたか。神を齋き祭る鹿背の山の間に咲く花の色も珍しく、澤山の鳥の聲もなつかしく、かうして居たい、住みよい此里が荒れるのは惜しいことである。
【語釋】 ○山高み河の瀬清み 原文の山高河之瀬清は舊訓、童蒙抄にはヤマタカミ、カハノセキヨシとよみ、略解、攷證にはヤマタカク、カハノセキヨミとよみ、吉義、新考、新訓にはヤマ(216)タカミ、カハノセキヨミとよんである。下の住みよし・在りよしに對する語であるから、タカミ、キヨミの如く共にミと訓む説に從ふ。○住みよしと 流布本に在〔傍点〕吉迹とあるが、類聚古集に住〔傍点〕とあるのに據つて改む。次の在りよし〔四字傍点〕と對をなしてゐるので、末句に「在りがほし住みよき里」とあるのと呼應してゐる。○古りにし里にしあれば 古りにし里〔五字傍点〕は舊都、故郷。卷三に「萱草《わすれぐさ》わが紐につく香具山の故りにし郷《さと》を忘れぬが爲」とある。○はしけやし 原文に波之異耶とあるが、恐らく耶〔傍点〕の下に思・志などのし〔傍点〕の假字が落ちたのであらう。釋日本紀第二十四に「波之異耶思〔傍点〕如此在家留可」として出てゐる。はしけやし〔五字傍点〕ははしきやし〔五字傍点〕とも言つて、名詞に續く場合に用ゐられる事が多いので、この歌でも略解などは、はしけやし〔五字傍点〕の下に脱句があるであらうと述べてゐる。成程、ここは少し語が足らぬやうにも思はれるが、愛しき〔三字傍点〕の原義から離れて、代匠記に「ハシケヤシハ惜哉ノ意ナリ」とある通り、愛惜の意を感動詞的に表現したものと見るべきであらう。○御室《みもろ》つく みもろ〔三字傍点〕はみむろ〔三字傍点〕(御室)と同じで神座の義、つく〔二字傍点〕はいつく〔三字傍点〕(齋)の略であらう。卷七に「御室《みもろ》つく三輪山見れば隱口《こもりく》の初瀬の檜原念ほゆるかも」卷十九に「春日野にいつく御室の梅の花榮えて在り待て還り來むまで」とある。○在りがほし 在るのが欲しい、即ち在りたく思ふの意。原文に在杲石〔三字傍点〕とあるが、杲〔傍点〕は字音によつてカホの假名に用ゐたので、卷三に「見杲石山《ミガホシヤマ》」とあり、其他「杲鳥《カホドリ》」「朝杲《アサカホ》」「己蚊杲《オノガカホ》」などの用例がある。
【後記】 恭仁宮から難波宮に遷都される事は、當時一般に歡迎されなかつた所で、前掲の續紀の(217)記す通り、衆議に附して裁決しようとされたが、五位以上の者に於いては、恭仁京に賛するものと難波宮に賛するものと同數であつたけれども、六位以下の者の間では、恭仁京を慕ふものが多く、殊に一般庶民にあつては、恭仁京を以つて都と爲し給はん事を願ふものが大多數であつた。從つて三香原の荒廢を傷み、愛惜の涙を濺《そそ》いだ此の長歌の作者の心は、やがて一般庶民の心であつたと言はねばならぬ。
 
     反歌二首
 
1060 三番《みか》の原 久邇《くに》の京《みやこ》は 荒れにけり 大宮人の 遷《うつ》ろひぬれば
 
【題意】 流布本に三首〔二字傍点〕とあるのは誤。元暦校本によつて改む。
【口譯】 大宮人が難波の京に引き移つてしまつたので、三香の原の久邇の都は荒れ果てたことだ。
【語釋】 ○遷ろひぬれば 舊訓に遷去者〔三字傍点〕をウツリイヌレバと訓んでゐるが、考にウツロヒヌレバと訓んだのがよい。去〔傍点〕を助動詞ぬ〔傍点〕に用ゐた例は、卷七に「朝露に沾れて後には從去友《うつろひぬとも》」卷八に「念ふどち飲みて後には落去《ちりぬ》ともよし」など見える。
 
(218)1061 咲く花の 色はかはらず 百磯城《ももしき》の 大宮人ぞ 立ち易《かは》りぬる
 
【口譯】 咲く花の色は變らない。しかし大宮人は難波京に引き移つて變つてしまつた。
【語釋】 ○立ち易りぬる 第二句の「色はかはらず」に對をなして、大宮人の移り住んだことを言つたもの。たち〔二字傍点〕は接頭語で、意味はない。大宮人ぞ〔四字傍点〕のぞ〔傍点〕の結として、かはりぬる〔五字傍点〕と連體形を用ゐてゐる。
【後記】 年々歳々花は昔ながらに咲き匂ふけれど、大宮は難波京に往いて歸らず、三香原は淋しくも荒れ果ててゆくのを嘆いた歌である。人麻呂が近江の舊都を過ぎて詠んだ「さざなみの志賀の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ」と心相通ひ、奈良帝の「ふるさとゝなりにし奈良の京には色もかはらず花は咲きけり」平忠度の「さゝなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山櫻かな」と趣を同じうしてゐる。
 
     難波宮にて作れる歌一首并に短歌
 
1062 やすみしし 吾が大王《おほきみ》の 在《あ》り通《がよ》ふ 難波の宮は 鯨魚《いさな》とり 海|片附《かたつ》きて 玉拾ふ 濱邊を清み 朝羽振《あさはふ》る 浪の音《と》さわぎ 夕なぎに 櫂《かぢ》の聲《をと》聞ゆ あかときの 寢(219)覺《ねざめ》に聞けば 海若《わたつみ》の 潮干の共《むた》 浦|渚《す》には 千鳥妻呼び 葭邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》とよむ 視る人の 語《かたり》にすれば 聞く人の、見まく欲《ほ》りする 御食向《みけむか》ふ 味原《もぢふ》の宮は 見れど飽かぬかも
 
【題意】 難波宮は前記の續紀の文に「天平十六年二月庚申、以2難波宮1定爲2皇都1」とある所で、歌中に味經の宮とあるから、孝徳紀に見えた味經の宮の舊地である。
【口譯】 わが大君が常に行幸遊ばす難波の宮は、海に片寄り近づいてゐて、玉を拾ふ濱邊が近いので、朝風にあふり立てられて打寄せる浪の音が騷然と聞え、夕方浪の鎭つた時に、舟を漕ぐ櫂の音が聞えてくる。夜明け方の目覺めた時に聞くと、海の潮干につれて、濱邊の洲には千鳥が妻を呼んで鳴き、蘆の生えてゐる邊には、鶴の聲が鳴き騷いでゐる。此處を見る人が語草にすると、其を傳へ聞く人は實際に見ようと思ふ、この味經の宮は、いくら見ても飽かぬことである。
【語釋】 ○海片附きて 海に片寄りついて、海近くに寄つての意。卷十に「山片つきて家居する君」卷十九に「谷かたつきて家居れる君が聞きつつ告げなくも憂し」とあるのも同じ。○朝羽振る 代匠託に「和名に鳥の羽振に※[者/羽]の字を出せり。はふくとも同じ詞なり。風の海水をうちて吹來る音は鳥の羽を打て振ふ樣(220)なれば喩てかくいへり。」と言ひ、攷證には「羽振は風波の發りたつを鳥の羽を振にたとへたる也」とも「それを朝ふく風に浪の起にそへてあさはふるとはいへる也」とも言つてゐる。朝風にあふり立てられて打寄せる浪の樣をいふ。○浪の音さわぎ さわぎ〔三字傍点〕を原文に※[足+參]〔傍点〕と記してゐる。※[足+參]〔傍点〕の字は右の外にはこの長歌の反歌に、「潮干れば葦邊に※[足+參]《さわぐ》」卷十に「天漢川音清けし牽牛《ひこぼし》の速こぐ船の浪の※[足+參]〔傍点〕《さわぎ》か」とあるだけで珍しい字であるが、卷十一の「友の驂《さわぎ》などの驂〔傍点〕と同類であらうか。攷證には「※[足+參]は躁の俗字也。干禄字書に※[足+參]躁、上俗下正とあり」と見える。○櫂《かぢ》の聲開ゆ 流布本に擢合〔二字傍点〕とあつて、カガヒと訓んでゐる。代匠記には擢〔傍点〕を※[女+燿の旁]〔傍点〕に改め、考には合〔傍点〕を衍としてカヂと訓んでゐるが、攷證にはこれは例の義を以て添へて書いたので、櫂《かぢ》は幾つも立置いて、互に漕ぎ含ふものであるから、櫂合〔二字傍点〕と記したのであると言ふ。攷證の説に從ふべし。○海若《わたつみ》の 流布本に海石乏〔三字傍点〕とあるが、意味不明であるから、石〔傍点〕は若〔傍点〕の誤として、ワタツミと訓んだ略解の説に從ふ。卷三に、「海若《わたつみ》の沖に持ちゆきて」また「海若《わたつみ》は靈《くす》しきものか」など見える。○浦渚には 原文に納渚〔二字傍点〕とあるが、納〔傍点〕は※[さんずい+内]〔傍点〕の誤であらう。卷三の「輕池の納〔傍点〕回ゆきめぐる鴨すらに」の「納」も、西本願寺本には※[さんずい+内]〔傍点〕とある。※[さんずい+内]〔傍点〕をウラと訓んだ例は、卷十三にも「※[さんずい+内]浪《うらなみ》の來寄する濱に」とある。○御食向ふ 御食の味といふのから味經〔二字傍点〕にかゝる枕詞。
【後記】 難波の新都讃美の歌であつて、朝夕、浦渚葭邊、千鳥鶴などの對句が美しく用ゐられてゐて、海近き新京の状況をよく現してゐる。
 
(221)     反歌二首
 
1063 在り通ふ 難波の宮は 海近み 海士《あま》をとめらが 乘れる船見ゆ
 
【口譯】 大君が屡々行幸遊ばす難波の宮は、海が近いので、海人の少女達が乘つてゐる船が見える。
 
1064 潮干れば 葦邊《あしべ》にさわぐ 白鶴《あしたづ》の 妻よぶ聲は 宮もとどろに
 
【口譯】 潮が于ると、葦の生えてゐる邊で騷いで鳴いてゐる鶴が、妻を戀しがつて呼ぶ聲は、御殿までも響き渡つてゐる。
【語釋】 ○白鶴《あしたづ》の 考にシラツルノ、攷證にシラタヅノと訓んでゐるが舊訓にアシタヅノと訓んでゐるのが穩當である。シラタヅはこの字面に忠實な訓法であるが、集中の假名書の例がないので疑はしい。アシタヅの語例は此卷にも前に「湯の原に鳴く蘆多頭《あしたづ》は」と見えてゐたが、其外にも卷三に「君に戀ひいとも術なみ蘆鶴《あしたづ》の哭のみし泣かゆ朝夕にして」卷四に「草香江の入江にあさる蘆鶴《あしたづ》のあなたつたづし友なしにして」卷十一に「葦多頭《あしたづ》のさわぐ入江の白菅の知りぬる爲と言痛《こちた》かるかも」とあつて、當時の慣用語と思(222)はれる。それで今の場合も白鶴〔二字傍点〕の白〔傍点〕をアシの意にあてたと見るのではなくて、白鶴〔二字傍点〕といふ熟字でアシタヅの意を現した義訓と見たい。例へばタナビクを輕引〔二字傍点〕(卷四)と記してゐるのは、輕〔傍点〕にタナの義があるのではなく、輕引〔二字傍点〕といふ熟字でタナビクといふ意を示す義訓である。今の白鶴〔二字傍点〕をアシタヅと訓むのも亦それに類したことである。
【後記】 卷三の長忌寸意吉麻呂の「大宮の内まで聞ゆ綱引すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼聲」に比して、この歌の方が氣品を備へ、且つ縹渺たる神韻を藏してゐる。佳作。
 
     敏馬海を過ぐる時作れる歌一首并に短歌
 
1065 八千桙《やちほこ》の 神の御世より 百船の 泊《は》つる泊《とまり》と 八島國 百船人《ももふなびと》の 定めてし 敏馬《みぬめ》の浦は 朝風に 浦浪さわぎ 夕波に 玉藻は來寄《きよ》る 白沙《しらまなご》 清き濱邊は 往き還り 見れども飽かず 諾《うべ》しこそ 見る人ごとに 語り繼《つ》ぎ 偲《しぬ》びけらしき 百世經て 偲ばえゆかむ 清き白濱
 
【口譯】 八千桙の神の御代から多くの船の泊る港として、日本國の多くの船人が定めた敏馬の浦(223)は、朝風に浦の浪が騷ぎ、夕浪に美しい藻が打ち寄せて來る。白い眞砂の清い濱邊は、行つたり還つたりして見ても、見飽く事はない。見る人ごとにこの敏馬の浦を語り傳へては賞して來たのも尤もである。この清い白濱は百代の後までも、人に賞美されて行く事であらう。
【語釋】 ○八千桙の神の御世より 八千桙の神〔五字傍点〕は大已貴《オホナムチ》神の別名である。古事記によると、この神は、大國主神、大穴牟遲《オホナムチ》神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志國玉神の五つの御名があつたとある。八千桙は多くの桙で、この神名は多くの武器を有する、威力のある神の謂である。この神は初めて國土を經営された神であるから、八千桙の神の御世よりとは結局、國初よりの意である。○白沙《しらまなご》 沙〔傍点〕は新撰字鏡及び和名抄ではイサゴ又はスナゴと訓んでゐるが、萬葉では眞名子《マナゴ》、麻奈胡《マナゴ》と假名書にし、又は愛子の字を假借してゐる。今、集中の例に倣つて、マナゴと訓む。○偲びけらしき 上のうべしこそ〔五字傍点〕のこそ〔二字傍点〕の結として、けらしき〔四字傍点〕と連體形で受けてゐる。卷一に「古昔《いにしへ》もしかなれこそ現身《うつせみ》も妻を爭ふらしき」とあるのと同じ語法である。しぬぶ〔三字傍点〕は賞美する意。
 
     反歌二首
 
1066 まそ鏡 敏馬《みぬめ》の浦は 百船の 過ぎて行くべき 濱ならなくに
 
(224)【口譯】 敏馬の浦は多くの船が立ち寄らずに空しく過ぎてゆくやうな濱ではないことよ。
【語釋】 ○まそ鏡 眞澄鏡《マスミカガミ》の義であつて、鏡は見るものであるから、みぬめ〔三字傍点〕のみ〔傍点〕の意にかかる枕詞となる。卷四に「まそ鏡見飽かぬ君に」とある。
 
1067 濱清み 浦うるはしみ 神代より 千船のはつる 大和田《おほわだ》の濱
     右二十一首田邊福麻呂の歌集中に出づ。
 
【口譯】 濱が清く浦が美しいので、神代の昔から多くの船が泊る大和田の濱である。
【語釋】 ○千船のはつる 原文の千船湊〔三字傍点〕の湊〔傍点〕は、舊訓にトマル、代匠記にツドフ、考にハツルと訓んでゐる。集中の湊〔傍点〕字の他の用例はすべてミナトと訓んでゐるから、これを動詞的に訓めばトマル或はハツルと訓むべきであつて、ツドフは少し妥當でないやうに思はれる。卷二に「大船の泊流登萬里《はつるとまり》のたゆたひに物思ひ痩せぬ人の兒故に」とあるから、今の歌の場合もトマルかハツルか何れとも決し難いが、姑く考の説に從つて置く。○大和田の濱 兵庫の沿岸、兵庫の南の端を和田岬といふのも大和田の古名の殘つたものであらう、三善清行の意見封事に「臣伏見山陽西海南海三道舟船海行之程自2※[木+聖]生《ムロフ》泊1至2韓泊1一日行自2韓泊1至2魚住泊1一日行自2魚住泊1至2大輪田泊1一日行自2大輪田泊1至2河尻1一日行」とある。
(225)【左註】 右の歌二十一首(一〇四七−一〇六七)は田邊福麻呂の歌集に出てゐるのである。
 
萬葉集 卷第六         (通卷四百五十八頁)
 
               〔2018年3月1日(木)午後5時15分、入力終了〕