萬葉集總釋第五 樂浪書院 1936.3.5発行
(1)萬葉集 卷第九
(3) 卷第九概説 川田順
卷九の歌數は短歌(反歌共)百二十五首、長歌二十二首、旋頭歌一首、合計百四十八首である。
萬葉集二十卷中卷一、卷二は最古のものであり、相當嚴密に撰せられたとするのが定説であるが、卷九は卷三、卷七と共に卷一卷二の拾遺或は續拾遺と解すべきであらうと既に説かれて居り、題詞左註其の他の點から考へると私歌集等から輯録せられて未だ精選を經ないものと見なされる。
佐佐木信綱博士は其の著「萬葉讀本」に於いて各卷の性質を概説して居られるが、その中卷九に就いては次の如く述べられた。
卷九は、卷一・二と同じく、雜歌・相聞・挽歌に分類されてゐて、古い撰集の體裁をなしてをる。しかし精選されたものではないらしい。雜歌のはじめに、雄略天皇の御製といふ題詞のあるものが載つてゐるが、これは、卷八の舒明天皇の御製といふ作の異傳であるから、その次に擧げられた舒明天皇の時代のものを最古とすべきであらう。大體において雜歌が古く、藤原時代から奈良朝初期までで、相聞はやや新しく、天平五年に及び、挽歌は天平十五・六年頃まで下り得るかと思ふ。この卷は、他卷とは趣を異にしてゐて、(4)私歌集を切り入れて編纂したやうになつてをる。即ち、柿本人麻呂集、高橋蟲麻呂集、田邊福麻呂集、笠金村集、古歌集などの名が見え、この外にも、不明の原本から採録したと思はれるものがある。
萬葉集各卷には夫々の特色があつて、卷九も亦他の卷と趣を異にしたものを持つてゐる。之を種種の點から概觀して見よう。
先づ部類別を見ると、雜歌、相聞、挽歌に分れてゐる。此の部類は卷一卷二を一括した部類と同じでありその他の何れの卷にも無い分け方であるから、卷一及び卷二との特別の聞係を暗示してゐると見て、注意してよい點であらう。又卷九と同等或は夫れ以上の地位にある卷三及び卷七は雜歌譬喩歌挽歌となつてゐる事も卷九との關聯を思はせる。尚各部の歌の種類と數を示すと次の通りである。
雜歌――短歌七七 長歌一二 反歌一二 旋頭歌一
相聞――短歌一七 長歌 五 反歌 七
挽歌――短歌 五 長歌 五 反歌 七
作歌の年代は最も古いのは雄略天皇の御製であり萬葉集中最も初期の部の歌であつて、左註の如(5)く舒明天皇御製と見ても尚初期に屬する。年代の最も新しいのは明瞭にはわからないが、天平も半ば以後に及んでゐると思ふ。
作者に就いては、作者の明かな歌が非常に少く四十首位で、その明かな作者の中でも他の卷にも歌のある作者は十人二十首に滿たない有樣であり、他の卷にない作者が十五人以上約二十首もあることは、特に異色のある點である。本卷中人麻呂の作歌は左註に或云柿本朝臣人麻呂作と云ふのが四首(一七一〇、一七一一、一七六一、一七六二)あり、人麻呂歌集より録すと云ふ歌の中には人麻呂作であらうと、學者歌人等から推定を下された歌も幾つかあるが、之を然と斷定すべき根據もないので、此の卷には人麻呂作として明瞭なものは一つも無いと云つてよい。雄略天皇或は舒明天皇より天平の半ばに亘る歌を輯録してゐながら、其の間に最も旺盛な作歌をなし萬葉歌人の最高峰である人麻呂の歌の無いことは、確かに注目を要する點で、此の卷の編纂に就いての暗示となり、續拾遺説及び未精撰説と關係ある事柄であらう。雄略天皇(或は舒明天皇)、舍人皇子、長忌寸意吉麻呂、丹比眞人等は卷一卷二にもあり、「高市」「山上」「春日」「春日藏」も不完全な記載であるが「高市連黒人」「山上臣憶艮」「春日藏首老」とすれば他の卷にもある。斯く作者の記載が極めて簡略不完全であつて、之は卷九のみにある作者に就いても「元仁が歌」「島足が歌」「碁師が歌」「絹が歌」等同樣である。
(6) 次に私歌集より採録した歌の多いことも卷九研究上注意すべき點であらう。私歌集としては先づ「柿本朝臣人麻呂歌集」「高橋連蟲麻呂歌集」「笠朝臣金村歌集」「田邊福麻呂歌集」が指摘さるべきであり、古歌集、山上臣憶良類聚歌林も擧げることが出來る。尤も私歌集の歌が幾許あるかに就いては、左註の書法が歌數を明瞭に指示してゐるものもあるが、また中には
一七〇九の歌に
右柿本朝臣人麻呂之歌集所出
一七二五の歌に
右柿本朝臣人麻呂之歌集出
一七六〇の歌に
右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出
とあつて「右」とか「右件歌者」はどの範圍を指すか明かでなく、推測説が種々あつて定まらず、從つて私歌集より採録の歌數も決定し難い。尚挽歌の部のみは全部私歌集よりのものである。
題詞は初めの部分には「泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌」「崗本宮御宇天皇幸紀伊國時歌」などと卷一卷二の標目題詞に似た詳しい書き方をしたものがあるのは、前に述べた部類別と共に卷九が卷一(7)及卷二の拾遺或は續拾遺で精選されたものでないと云ふことを示してゐるのであるまいか。
題詞に關聯して「鷺坂作歌」「名木河作歌」「高島作歌」「紀伊國作歌」「泉河作歌」「宇治河作歌」等と、單に地名のみを記したことも一つの特色ある點で、之は此の卷の編纂が作歌後相當年數を經て居り、其の地方での傳誦歌となつてゐたものを輯録したのではあるまいか。是を主張する爲には相當研究を要するが、歌の格調内容の上に類想類形的なもの、調子の滑かなものの相當多いことから、斯うした想像が起るのである。
右の樣に地名を題詞とした歌は勿論のこと、歌の中に地名を入れて詠んだものも多くあつて、之等兩者を合計すると卷中の大部分を占めることになる。此の地名に國係ある歌は旅の歌或は旅に關聯した歌であつて、全卷通じて斯くも旅の色彩の濃い事は、卷九の特色の重要な一つである。
最後に卷九の持つ重要な特色として、傳説歌の多いことである。之は旅に關する歌の多いこととも密接な關係があると思ふ。傳説歌を纂めたのは他に卷十六があるが、夫れと之とはその趣に於いて明確に相違がある。卷十六は竹取翁の傳説の外は題詞に傳説を記して居て歌は短歌であるに反し卷九のものは歌に傳説を盛つて居り從つて長歌の形式を取つてゐる。諸處に旅行き其の他に傳はる物語を聞いて感傷し、或はその傳説を、或は物語の事件のあつた地に於いての感慨を、敍したので(8)あらう。尚此の傳説歌の出所は蟲麻呂、福麻呂の二歌集のみであることは、作者研究上興味ある點であらう。
因に本卷の訓詁解釋は概ね鹿持雅澄の萬葉集古義に基いたが、その他新訓萬葉集(岩波文庫本、佐佐木博士編)、口譯萬葉集(折口信夫博士著)、萬葉集新解(武田祐吉博士著)等を參照し、其の説に從つたものもある。而して後記〔二字傍点〕は歌に對する批評であり、私は之が主眼であると考へて筆を執つたことを、特に附記して置きたい。
〔目次省略〕
(1)萬葉集 卷第九 川田順
(3) 雜歌
泊瀬朝倉宮《はつせのあさくらのみや》に御宇天皇《あめのしたしろしめししすめらみこと》の御製歌《よみませるおほみうた》一首
1664 暮《ゆふ》されば 小椋《をぐら》の山に 臥《ふ》す鹿の 今夜《こよひ》は鳴かず 寐《い》ねにけらしも
》
右、或本に云ふ、崗本天皇の御製と。正指を審にせず。因りて以て累ね載す。
【題意・左註】 題詞の天皇は雄略天皇であらせられる。泊瀬朝倉宮に就いては卷一に既に出てゐる。尚舊本には御字の下に大泊瀬幼武《をほはつせわかたけ》天皇と註してある。
此の御製は卷八(一五一一)に第三句を「鳴く鹿は」とし、崗本天皇御製歌として載する所である。崗本天皇は舒明天皇であらせられる。
【口譯】 夕べになると小倉の山に寢る鹿がいつも鳴くのに、今夜はその鳴く聲が聞えない。もう寢てしまつたらしい。
【語釋】 ○暮されば 夕べになれば、の意。○小椋の山 大和龍田山のうちの小倉の嶺。○けらしも けら(4)し〔三字傍点〕は「ける(過去の意を云ふ助動詞)らし(輕く推量する助動詞)」の約《つづ》まつた詞。も〔傍点〕は感動詞である。
【後記】 第一句より第四句へ、來る宵も來る宵も鹿が鳴いて、今では夕べになると鹿の鳴くのを御心の中では、殆ど無意識に御期待あらせらるる位に愛着に似た御感情を持たせ給ふ、その鹿が今宵は鳴かない、と云ふ御心の滿たされない、哀れを含んだお心持を敍し、第四句で一旦句を切つて居られる。そして更に新に第五句を起して、「寐ねにけらしも」と鹿を想ふ御情を直截に述べ給うてゐる。此の第四句で切つて第五句を起して居られるところ、此のお歌の生命であつて、第五句が全體を生かして居る。各句の按配と穩かな調子に、微妙なる自己の御感情を遺憾なく流露し給うてゐるところに、短歌至上の妙味がある。
鹿の鳴くのは妻戀ひて鳴くのであり、「寐ねにけらしも」は妻に逢つて寢たと解する代匠記、古義等の説がある。妻戀ひに鳴く鹿は比較的後世風であるが、萬葉集にも「妻呼ぶ鹿」などの例もあつて、然う解する事が出來るが、もつと單純に考へても十分に味はひがある。今の吾々としては寧ろ單純に解釋する方が厭味がなく趣が深い。
このお歌と卷八崗本天皇(舒明天皇)御製との關係については、此のお歌の題詞に泊瀬朝倉宮御宇天皇(雄略天皇)御製とある事から見れば、雄略天皇は人皇第二十一代、舒明天皇は第(5)三十四代におはしますから、年代のみでは卷九の方が卷八の歌より古いことになる。しかし乍ら兩首をよく比較して觀ると、三四句の間に於いて、第一に、「鳴く〔二字傍点〕鹿は鳴かず〔三字傍点〕」は「臥す〔二字傍点〕鹿の鳴かず〔三字傍点〕」に比して遙かに稚拙である。「臥す鹿」には何處か頭の働きが感ぜられる。それだけに「鳴く鹿は鳴かず」よりも後に出來たものと思へる。第二に、「臥す鹿の」のの〔傍点〕は「鳴く鹿は」のは〔傍点〕に比して、調子が滑かで、は〔傍点〕によつて感ずる程の重さがない、は〔傍点〕の方が古風であることは首肯出來る。恐らく口誦を經てゐる間には〔傍点〕からの〔傍点〕に轉化したのであるまいか。尚崗本天皇は後岡本天皇(齊明天皇)の誤であらうと云ふ説もある。
崗本宮《をかもとのみや》に御宇天皇の紀伊國に幸《いでま》せる時の歌二首
1665 妹がため 吾《あが》玉|拾《ひり》ふ 沖|邊《へ》なる 玉寄せ持ち來《こ》 沖つ白浪
【題意】 崗本宮に就いては卷一に既に出て居る。舒明天皇であらせられる。契沖の説によると、日本紀舒明天皇の卷には紀伊國に行幸し給ひし事を記してないので、或は後岡本宮であるかも知れない。後岡本宮御宇天皇即ち齊明天皇が紀伊の温泉に行幸し給ひしことは、日本紀にも萬葉集卷二にも記載する所である。
此の歌は從駕の人が家にある妻を想つて詠んだものである。
(6)【口譯】 家なる妻のために吾は海邊で玉を拾ふ、沖の白浪よ沖の方にある玉を寄せて持ち來れよ。
【語釋】 ○妹がため 家に留つて居る妻のために、と云ふ意である。○玉寄せ持ち來《こ》 浪に命じて玉を持ち來れと云ふのである。○沖つ白浪 沖に起つ白浪の意。
【後記】 玉は古代装身の用に供したもので、婦人の飾りに用ゐたことが多い樣である。海邊に遊んで、愛人のために玉を拾ふ歌は、萬葉集に幾つかその例を求めることが出來る。
此の歌は如何にも平明で素朴で、古代人の順直な感情と自然の風物に呼びかける心持が窺はれる。奇なるところがないが、夫れだけに嫌味がなく倦きが來ない歌である。唯現代人は何の程度迄此の歌の鑑賞に堪へ得るか、作者の心境を物足らずと感ぜずに居り得るかは問題であらう。
因に「拾《ひり》ふ」は「ひろふ」の古言であると云ふのが古くからの通説であるが、最近松村利行氏は昭和十年九月刊雜誌「文學」第三卷第九號「支那古韻より見たる萬葉集の訓法」に於いて、ひりふ〔三字傍点〕はひろふ〔三字傍点〕の誤訓で、本來はひろふ〔三字傍点〕と訓んだとの説を、例を奉げて音韻學的研究を發表して居る。新説として參考の爲に記して置く。
(7)1666 朝霧に 沾《ぬ》れにし衣 干さずして ひとりや君が 山路越ゆらむ
右の二首、作者未だ詳ならず。
【題意】 行幸從駕の人の妻が都に留つてゐて、旅の夫を思ひ遣つた歌である。
【口譯】 朝霧に沾れた旅衣を乾かす妻も居らず又暇もないので、沾れたままで夫は唯一人山路を越え行き給ふことであらう。
【誤釋】 ○沾れにし にし〔二字傍点〕は過去の助動詞「ぬ」の變化「に」と「き」の變化「し」と合した辭。
【後記】 女性の歌らしい感じが現れて居る。沾れ衣、ひとり〔六字傍点〕(齊なし)と云ふ想は、今の吾々から考へると幾何か形式的な感じがあるが、この歌の詠まれた當時としては、決して然うでなかつたであらう。
第二句沾れたる〔四字傍点〕でなくて、「沾れにし」とした引き緊つた稍強い語調、そして第三句で小休止を置いて、「ひとりや君が」とやや屈曲あり疑問詞や〔傍点〕を挾んだ相當強い句となり、一首の調べを變化あらしめてゐる。佳調と稱すべきであらう。
尚初句「朝霧に」は實景であらうが、霧であるところに特種相がある。之が後世の風になると殆どすべて「朝露に」となる。短歌の時代相を考へる上に注意してよい點であらう。
(8) 此の歌に就いては、卷一に「吾背子はいづく行くらむ奧つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ」(四三)、卷九に「麻裳よし紀へ往く君が信土山《まつちやま》越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね」(一六八〇)・「後れ居て吾が戀ひ居れば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ」(一六八一)があり、既に一つの型になつてゐたと思はれる。そして此型は後にもうけ繼がれて卷十二に「草陰《くさかけ》の荒藺《あらゐ》の崎の笠島を見つつか君が山|道《ぢ》越ゆらむ」(三一九二)、「たまがつま島熊山の夕晩《ゆふぐれ》にひとりか君が山|道《ぢ》越ゆらむ」(三一九三)、「氣《いき》の緒に吾が思《も》ふ君は鷄《とり》が鳴く東方《あづま》の坂を今日か越ゆらむ」(三一九四)などとなつてゐる。
大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊國に幸《いでま》せる時の歌十三首
1667 妹がため 我《あが》玉求む 沖|邊《へ》なる 白玉寄せ來 《こ》 沖つ白浪
右の一首は、上に既に見え畢りぬ。但し歌の辭少しく換り、年代相違へり。因りて以て累ね載す。
【題意】 太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇である。卷一(五四)の歌の題詞に「大寶元年辛丑秋九月、太上天皇幸2于紀伊國1時歌」とあり、又續日本紀に「文武天皇大寶元年九月丁亥、天皇幸2紀伊國1冬十月丁未、車駕至2武漏温泉1、戊午、車駕自2紀伊1至」とある。契沖は、卷一(五四)の歌の題詞の秋九月とあるの(9)は紀伊國に御幸せられる道での歌であり、今茲に載せるのは既に紀伊に到着し給うてからの歌である、と云つて居る。
【口譯】 愛する妹のために吾は玉を探してゐる。沖の方にある白玉を寄せて來てお呉れ、沖の白波よ。
【左註】 此の歌は前々出の歌に出た。併し詞が少し違つて居り年代も異つてゐるから、此處に重ねて載せると、編者が附記したのである。
1668 白埼《しらさき》は 幸《さき》く在り待て 大船に 眞梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き また反《かへ》り見む
【口譯】 白埼よ、變ることなく平安に在つて又來る時を待つてゐて呉れよ、吾は大船(10)の楫を繁く漕いで再び訪ねて來るであらう。
【語釋】 ○白埼 いま紀伊國日高郡に白崎と云ふ處がある。白良《しらら》濱とは別である。古義には「日高郡|衣奈《えな》莊衣奈浦の東南の方に衣奈八幡といふある、其社の縁起に白崎といふとと見えたり」とあるが、今の白崎といふ處も衣奈浦の近くである。○幸く在り待て 變ることなく平安に在りて又來む時を待てと云ふ意。人に向つて云ふ樣に自然に對ひ呼びかける例は屡あり、卷一人麻呂の近江荒都を悲しむ有名な歌「ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」(三〇)も夫である。尚初句「白埼は」の埼は「幸く」に懸けたのである。○眞梶繁貫き 左右の楫を數々繁く貫くを云ふ。
【後記】 平明で率直で、嫌味がない。併しその調子は個性的特色に乏しい憾がある。
1669 三名部《みなべ》の浦 潮な滿ちそね 鹿島なる 釣する海人《あま》を 見て歸り來《こ》む
【口譯】 鹿島の海人の釣する景色を見て還り來ようと思ふ、南部の浦に潮が滿ち來て吾が船路を妨げないで呉れよ。
【語釋】 ○三名部浦 和名抄に紀伊國日高郡|南部《みなべ》とあり、岩代の南である。○な滿ちそね 「な……そ」は動作を禁ずる語、ね〔傍点〕は命令の過去分詞。○鹿島 南部浦から十町程の海中にある島であると云ふ。
【後記】 次の歌と一讀相似を感ぜしめるから、次歌の後記に於いて二首を比較して述べる事とする。
1670 朝びらき ※[手偏+旁]《こ》ぎ出て我《あれ》は 湯羅の埼 釣する海人《あま》を 見て歸り來む
【口譯】 朝に船を漕ぎ出して吾は由良の崎に海人の釣する景色を見て歸り來よう。
【語釋】 ○朝びらき 朝に湊を船出するを云ふ。○湯羅 紀伊國日高郡由良である。
【後記】 前歌と第四第五句が同じで、全體の構成も相似てゐる。乍併第一二句に於いて前歌の概敍的なのに比べて、此の歌は動作が活々と感ぜられるところが、高く評價される。第一句から第二句へ、第二句の「※[手偏+旁]ぎ出て我は」と我は〔二字傍点〕を強く置いた調子、更に夫れを受けて第三句名詞止で引き緊めた句法。溌剌として、晩秋初冬の曉の氣爽かにして肌を緊張せしむる快さを感ぜしめる。第五句「見てかへり來む」には、都人が清朗なる(12)濱邊で舟乘りする喜びをも感ずる事が出來る。
1671 湯羅の埼 潮干にけらし 白神《しらかみ》の 磯の浦囘《うらみ》を 敢《あ》へて※[手偏+旁]《こ》ぎ動《とよ》む
【口譯】 由良の埼はいま潮が于たのであらう。その干潟で玉を拾はうとして、白神の磯のめぐりを押し切つて騷がしく船を漕ぎ響かせてゆく。
【語釋】 ○浦回 浦のめぐりである。吉義の説ではみ〔傍点〕は「もとほり」の語がもり〔二字傍点〕と約まり、更にもり〔二字傍点〕がみ〔傍点〕と約まつたので、語原のもとほり〔四字傍点〕の意からめぐり〔三字傍点〕を云ふとある。島み、道の隈み〔六字傍点〕など皆同樣の例である。
【後記】 結句「敢へて※[手偏+旁]ぎ動む」は字餘りである上、「敢へて」「※[手偏+旁]ぎ」「動む」と極めて短いながら中間に休止が置かれる程に言葉に屈曲があり、せはしく櫓の音を響かせてゆくきまが、想像されて面白い。
1672 黒牛潟 潮干の浦を 紅《くれなゐ》の 玉裳裾びき 往くは誰が妻
【口譯】 黒牛の潮の干た浦を紅の美しい裳の裾を引いて歩みゆく麗しい女は誰の妻であらう。
【語釋】 ○黒牛潟 黒牛〔二字傍点〕は今の和歌山縣海南市黒江である。潟〔傍点〕は浦。○玉裳 玉〔傍点〕は美《うるは》しみ云ふ語。裳〔傍点〕は和名(13)抄に「釋名(ニ)云上(ヲ)曰v裾(ト)下(ヲ)曰(フ)v裳(ト)」とある。
【後記】 三四五句緊密な調子を成して快い響がある。「黒牛潟」の黒〔傍点〕と「紅の玉裳」の紅〔傍点〕と色の取合せ、對照が働いて居る。
結句「往くは誰が妻」の妻〔傍点〕は作者自身の妻ではあるまいか。作者が稍誇らしげに「あの女は一體誰の妻であらう」と云つて居るのであると思はれる。同樣の構想の歌として、有名な額田王の「あかねさす紫野行き標《しめ》野行き野守は見ずや君が袖振る」(二〇)が思ひ合はされる。此の歌は額田王が皇太子大海人皇子の御動作を氣づかひつつも、その男々しい御態度を好もしく思ひ給へることが一首の調子で知ることが出來る。
1673 風早の 濱の白波 いたづらに 皿處に寄せ來も 見る人無しに
右の一首は、山上巨憶良の類聚歌林に曰く、長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》、詔に應じて此の歌を作(14)ると。
【口譯】 風早の濱に白波の寄る面白い景色は家妻と共に來て眺めたら樂しいことであらうに、然うした人もなく白浪は唯いたづらに此處に寄せて来る。
【語釋】 ○風早の濱 卷三に「風早の三穗の浦|回《み》の白躑躅」(四三七)、卷七に「風早の三穗の浦回を※[手偏+旁]ぐ舟の」(一二二八)などがある。三穗は紀伊國日高郡に在りと云ふが、今日高郡に三尾と云ふ處がある。○いたづらに 空しく、無益にと云ふ意。
【後記】 旅情をこめた歌として平明であるが、「風早の」「いたづらに」「見る人無しに」と、餘りにも照應するものがあつて、作者の意圖が見え過ぎる。
1674 我背子が 使來むかと 出立《いでたち》の この松原を 今日か過ぎなむ
【口譯】 我が背《せ》の君の消息を齎す使が來るであらうかと出で立つて見る樣な體勢の、面白い景色のこの松原を今日われは過ぎゆくのであらう。そして.此處を過ぎたならば、また背の君の便りをきくこともないであらう。
【語釋】 ○我背子が使來むかと 第三句へかかる序である。夫の使が來るであらうかと迎へに門に出で立つ(15)との意を云ひ懸けたのである。○出立 地勢が海濱などに自ら出で立つた樣に面白いのを云つたのである。○松原 地名であらうか、紀伊國日高郡に松原と云ふ處がある。
【後記】 一二句は語釋の項で述べた樣に第三句へ懸るのであるが、之は單なる序ではなく、有心の序である。「我背子の使來むか」は作者の願望であり.それが下句に働いて、この松原を今日ゆき過ぎたならば、明日よりは所謂「彼此無消息」となる旅愁を、女らしい感慨をこめて歌つたのである。
1675 藤白《ふぢしろ》の 三坂を越ゆと 白栲《しろたへ》の 我が衣手は 沾《ぬ》れにけるかも
【題意】 契沖は、此の歌二つの意があり.一は藤白の坂を越えてしまふと故郷がいよいよ遙かになるので懷郷の意があり、二は有間皇子の御事を偲んで詠んだと云ふのである。有間皇子は、齊明天皇四年十月天皇紀伊温泉に行幸し給ひし御留守に蘇我赤兄に欺かれて謀叛を企てられ、其の事により十一月九日捕へられて紀伊に送られ給ひ、十一日に藤白で絞れ給うた。卷二に皇子が自ら傷みて詠ませ給へる「磐代の濱松が枝を引き結び眞幸《まさきく》あらば亦還り見む」(一四一)、「家にあれば笥《け》に盛る飯《いひ》を草枕旅にしあれば椎《しひ》の葉に盛る」(二一四)がある。
【口譯】 藤白の眞坂《みさか》を越えようとして、故郷が戀ひしく思はれるのに、まして有間皇子の御事さ(16)へ偲ばれて、涙が流れて吾が袖はしとどに沾れたことである。
【語釋】 ○藤白の三坂 三坂〔二字傍点〕は眞《み》坂の意である。宣長の説に「海部郡なり、名高の里をはなれて南ざますこしゆけば、その坂のふもとにて、ふぢしろ村といふ有てそこは藤白王子と申て御社も道のほとりに立給へり、さて十八町がほど藤白の御坂をのぼりてたむけに寺あり、そのすこし西の方に御所芝といふあり、いと見わたしのけしきよき所なり」と。今は藤白〔二字傍点〕は海草郡である。○白栲の 「衣」の枕詞。
【後記】 單純で、四五句など幾らか淡々しい感じもする位であるが、有間皇子の故事も「藤白のみ坂を越ゆ」に偲ばせて、くどくなつてゐないところが却つてよい。
1676 背の山に 黄葉《もみぢ》散り敷く 神岳《かみをか》の 山の黄葉は 今日か散るらむ
【口譯】 紀伊の國のこの背の山に黄葉がしきりに散り落ちる、吾が故郷の飛鳥の神南備山の黄葉も今日この頃散つて居るであらう。
【語釋】 ○背の山 紀伊の國にあり。卷一に「これやこの大和にしては我が戀ふる紀路にありとふ名に負ふ勢の山」(三五)がある。○神岳 飛鳥の神奈備山《かむなびやま》である。文武天皇の藤原の都からは、神岳は近い處にあるから、都の人は直ぐこの山を想ふのである。○散るらむ らむ〔二字傍点〕は動作を水量する助動詞。「であらう」の意。
(17)【後記】 順直な調子の中に懷郷旅愁の情をこめてゐるので、秀れた歌ではないがあはれさがある。
1677 大和には 聞えもゆくか 大我野《おほやぬ》の 小竹葉《ささば》刈り敷き 廬《いほり》せりとは
【口譯】 此の大屋の野に小竹葉を苅り敷いて廬を作り佗しい旅宿をして居ると云ふ事は、吾が故郷の大和には聞えゆくこともあらうか。
【語釋】 ○大我野 和名抄に紀伊國名草部大屋とある。今の海草郡に大屋がある。その野を云ふのであらう。因に「大我野」の我〔傍点〕は「家」の誤であらうとの宣長説に從つた訓である。
【後記】 之も旅情哀愁をうたつたので、「大我野の小竹葉苅り敷き」には作者の感慨がある。
萬葉集では「大和には聞えもゆくか」と筒單に直敍してゐるのであるが、平安朝になると「聞えもゆくか」だけでは滿足せず、古今集「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人には告げよ蜑のつり舟」(小野篁朝臣)の如く「人には告げよ」となり、更に後世になると新古今集「草枕ゆふべの空を人とはばなきても告げよ初鴈のこゑ」(藤原秀能)と「人とはば……告げよ」と複雜になつて居る。時代に伴ふ表現の相違を知ることが出來て面白いと思ふので、參考のために記して置く。
(18)1678 紀の國の 昔|弓雄《さつを》の 響矢《かぶら》用《も》ち 鹿《か》取《と》り靡けし 坂の上《へ》にぞある
【内譯】 むかし紀伊の國の幸雄が響箭で鹿を打ち取つた坂の上であるぞ此處は。
【語釋】 ○弓雄 獵する人。○響矢 袖中抄、拾穂抄、古葉略類聚捗ではナルヤと訓んでゐる。鏃《やじり》が蕪の形をして孔があり射ると空氣が孔に觸れて響を立てる仕掛になつて居る矢のことで、鏃の形からカブラヤと云ふ。
【後記】 一首全體が調子がよく張つて居て、堂々としてゐる。第五句「坂の上にぞある」は第一句より「紀の〔傍点〕國の〔傍点〕昔弓雄の〔傍点〕」と重ねて來て、更に「響矢用ち〔二字傍点〕」「取り靡けし〔三字傍点〕」と疊んで來た勢をうけて、大きく据つて居る。如何にも險しい山坂の上に今吾は居るぞと云ふ事を、讀者に感ぜしむる力を持つてゐる。古代人の氣息の強さを思ふことが出來る作である。
1679 紀の國に 止まず通はむ 妻の社《もり》 妻|依《よ》し來《こ》せね 妻と言ひながら【一に云ふ、妻賜はなも妻と云ひながら】
右の一首は、或は云ふ、坂上忌寸|人長《ひとをさ》の作。
【口譯】 この紀伊の國に常に通つて來よう。紀の國の都麻の神社の神樣、妻と云ふお名前の通り(19)私に妻を寄來させ給へ。
【語釋】 ○妻の社 神名式に「紀伊國名草郡|伊太祁曾《いだけそ》神社、大屋都比賣《おほやつひめ》神社、都麻都比賣《つまつひめ》神社」とあり。此の三社が都麻《つま》郷にあるから都麻《つま》の神社《もり》と云つたのであらうと云ふ。和名抄には「紀伊國名草郡|都麻《つま》」とある。○妻伏し來せね 妻を寄來させ給へと神に祈るのである。○妻と言ひながら ながら〔三字傍点〕は「神ながら」などのながら〔三字傍点〕と同じく妻の社と云ふ名のままにと云ふ意である。○妻賜はなも 妻を賜へとの意で之も神に祈るのである。
【左註】 人長の傳は評かでない。
後れたる人の歌二首
1680 麻裳《あさも》よし 紀へ往く君が 信士山《まつちやま》 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね
【題意】 從駕の人の都に殘つて居る妻の作であらう。
【口譯】 行幸に供奉して紀伊へ往く吾が夫が、丁度今日あたり眞土山を越え給ふであらう。雨よ降るな、その山みちに。
【語釋】 ○麻裳よし よし〔二字傍点〕は助辭。麻衣を着ると云ふ意から「紀」へかかる枕詞である。○信土山 眞土山で大和にある。紀伊に越える路にある山である。卷一に「麻裳よし紀人|羨《とも》しも亦打《まつち》山行き來と見らむ紀人(20)羨しも」(五五)がある。○雨な降りそね 「な……そね」に就いては既に釋いた。
1681 後れ居て 吾が戀ひ居れば 白雲の 棚引く山を 今日か越ゆらむ
【口譯】 遺されて居て君を戀ひしく思つて居るに、君は白雲の棚引く山を今日あたり越えゆくのであらう。
【語釋】 ○後れ居て 後に遺されて居て、の意。○棚引く 横に長く靡くさまを云ふ。
【後記】 前歌と共に、此の二首は類型類想的で、先人の影響が多い。
忍壁皇子《おさかべのみこ》に獻《たてまつ》れる歌一首【仙人の形を詠める】
1682 とこしへに 夏冬行けや 裘《かはころも》 扇放たぬ 山に住む人
【題意】 忍壁皇子の御家の屏風の繪或は唯繪に描いた仙人を見て、それにこと寄せて皇子を壽ぎ奉つて詠んだのであらう、と契沖は云つた。
【口譯】 山に住む仙人が冬の皮衣を着、夏の扇を持ちなどしたのは、彼の仙境には永久不變に夏冬が平素互に經行くからであらうか。
(21)【語釋】 ○夏冬行けや 夏と冬と互に經ゆくからであらうか、の意。○裘 皮の衣、多の服である。
舍人皇子《とねりのみこ》に獻れる歌二首
1683 妹が手を 取りて引き攀ぢ うち手折り 君が挿《さ》すべき 花咲けるかも
【口譯】 枝に引きすがり、折り取つて、君の御髪《みぐし》に挿すにふさはしい、美しい花が咲いてゐますよ。
【語釋】 ○妹が手を 「取る」に懸る枕詞。○引き攀ぢ 攀づ〔二字傍点〕は樹の枝などに取りつく意。○うち手折り うち〔二字傍点〕は云ひ起す辭で特に意味はない。
1684 春山は 散り過ぎぬれども 三輪山は いまだ含《ふふ》めり 君待ちがてに
【題意】 契沖は、此の歌を寓意あるものとして、三輪氏などの人の舍人皇子のお蔭を頼んでゐた者が、皇子に憂へを述べて推擧を仰ぐつもりで詠んだのであらう。さうでなくては三輪山と特に云はないであらう。と云ふ風に解釋してゐる。
【口譯】 春山は何處も花が散り過ぎてしまひましたけれど、三輪山は君が見給ふのを待ちかね(22)て、未だ蕾で待つてゐます。
【語釋】 ○散り過ぎぬれど いづこの山の花も散り過ぎてしまつたけれど、と云ふ意。○含めり 蕾である、との意。○君持ちがてに がてに〔三字傍点〕は爲し難き意を云ふ接尾語で動詞につけて副詞とす。君を待ちかねて、と云ふ意。卷三に「千鳥鳴くなり君待ちかねて」がある。
泉河の邊《ほとり》にて間人宿禰《はしひとのすくね》が作《よ》める歌二首
1685 河の瀬の 激《たぎ》つを見れば 玉もかも 散り亂れたる 此の河門《かはと》かも
【題意】 作者間人宿繭は傳不詳であるが、卷三にある間人宿禰大浦と同じ人かと云ふ。泉河は今(23)の木津川である。
【口譯】 河の瀬が逆卷き落ちるのを見ると、玉が散り亂れてあるのか、もしくはこの河門の水であるか、まぎらはしい。
【語釋】 ○激つ 川の瀬などの逆卷き沸き返るを云ふ。○玉もかも 玉かと云ふ意。「玉も」のも〔傍点〕、「かも」のも〔傍点〕、共に歎息の意を含む助詞。○河門 「門《と》」は水門《みなと》、海門《うなと》、迫門《せと》など云ふ門《と》と同じである。
【後記】 萬葉の古代人は、河瀬の激ちを玉が散り亂れてゐるのかと形容した。玉は特別の愛着を持つてゐた當時の人の實感として面白い。なほ、此の歌は、次の歌の粉飾的なのに比べて、單純でよい。
1686 彦星《ひこぼし》の 挿頭《かざし》の玉の 嬬戀《つまごひ》に 亂れにけらし この河の瀬に
【題意】 前の歌と同じく川の瀬の水の玉を詠んだものであるが、七夕の頃ででもあつたのであらうか、水の玉を彦星の挿頭の玉に奇しく譬へた。
【口譯】 天の彦星の髪飾の玉が妻戀ひの故に亂れ落ちて、この河の瀬に散つたのであらうか、と見える程うつくしい、此の瀬浪のさまは。
(24)【語釋】 ○彦星 牽牛星、七夕の夕に織女星と逢ふと云ふ星の名である。○挿頭 髪に挿す飾。
【後記】 七夕の傳説に對する關心が、現代の吾々の恐らく想像もつかぬ程強かつたであらう古代人は、彦星の挿頭の玉が嬬戀ひ故に亂れ散ると云ふことに、憧憬を感じたのであらう。今の吾吾の感覺からは可成り縁遠い形容で心に觸れるものに乏しい。空想的或は虚構的形容比喩が、時代の變遷と共に生命を失つて行くことを示してゐる。自然眞實に根源を置いた美と、空想に描いた美との、價値の差違を思ひ見るべきである。
鷺坂にて作《よ》める歌一首
1687 白鳥の 鷺坂山の 松蔭に 宿りて往かな 夜も深《ふ》け行くを
【題意】 鷺坂は山城國久世郡に在る。
【口譯】 鷺坂山の松蔭に一夜を旅宿して行かう、今は夜も更けわたつたものを。
【語釋】 ○白鳥の 枕詞。○往かな な〔傍点〕は願望の意をいふ助詞で、萬葉集中用法の多い言葉である。例へば卷一より一二の例を擧げると、「……この岳《をか》に菜摘ます兒家聞かな〔傍点〕名告らさね」(一)、「……潮もかなひぬ今は※[手偏+旁]《こ》ぎ出でな〔傍点〕」(八)、「……磐代《いはしろ》の岡の草根をいざ結びてな〔傍点〕」(一〇)、「……見つつ思ふな〔傍点〕巨勢《こせ》の春野を」(五四)があ(25)る。○深け行くを を〔傍点〕は感歎の辭。
【後記】 穩かな調子を持つた佳い歌である。冴え/\とした月のかかつてゐる夜更けの宿りででもあらう。四五句に旅人の哀愁が沁みてゐる。初句の枕詞も一首の上に好い響をもたらしてゐる。
名木河にて作《よ》める歌二首
1688 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す 人もあれやも 沾衣《ぬれぎぬ》を 家には遣《や》らな 旅のしるしに
【題意】 名木河は、和名抄に山城國久世郡那紀とある、其處の河であらう。
【口譯】 雨露に沾れた衣をあぶり乾かして呉れる人があればよいと思ふが、旅であるからさうした人もないから、苦しい旅のしるしにこの沾衣を家に送り遣さう。
【語釋】 ○※[火三つ]り干す 火で※[火三つ]り乾かすことを云ふ。○あれやも あれ〔二字傍点〕は「有る」の命令形、やも〔二字傍点〕は反語の助詞「や」と感歎の助詞「も」と重なつた語で兩方の意を兼ねてゐる。○沾衣 雨露などに沾れた衣である。千蔭の「略解」に名木河とあるから涙に沾れた衣と云つて居る説には賛し難い。
【後記】 初句「※[火三つ]り干す」は實感的で、働きのあるよい言葉である。
(26)1689 荒磯邊《ありそへ》に 著《つ》きて※[手偏+旁]《こ》がさね 杏人《みやこひと》 濱を過ぐれば 戀《こほ》しくあるなり
【口譯】 荒磯の方に沿うて船を漕いで呉れよ、都の人が濱を通り過ぎると相見たく戀ひしく思はれるから。
【語釋】 ○荒磯 荒波寄する磯。○杏人 宣長説の杏〔傍点〕は「京」の誤であらうと云ふに從つてミヤコヒトと訓んだのである。
【後記】 結句は注意すべき、ぶつ切ら棒の表現である。四五句の幾らかたど/”\しい樣な言ひまはしは、古代人の淳朴さを見せてゐると云つてよからう。
高島にて作《よ》める歌二首
1690 高島の 阿渡河波《あどかはなみ》は 騷《さわ》げども 吾《われ》は家|思《も》ふ 宿《やどり》悲しみ
【題意】 高島は近江國高島郡にある。卷七「高島の阿渡の白波《かはなみ》は動《さわ》げども吾《あれ》は家|思《も》ふ廬悲しみ」(一二三八)は此の歌と同じである。又卷二「小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂《さや》げども吾《あれ》は妹|思《も》ふ別れ來ぬれば」(一三三)の人麻呂の歌と似てゐる。
(27)【口譯】 高島の阿渡川の川波が立ち騷ぐけれども心まぎれず、吾は旅の宿《やどり》がもの悲しくて家をしきりに戀しく思ふ。
【語釋】 ○阿渡河 近江國高島郡に在り、いま安曇川と云ふのがそれであらうか。○騷げども 波が起ち音するけれども、と云ふ意。
【後記】 心持が純粹で、格調がよく張つてゐて秀れた歌である。「阿渡河波は騷げども」と川波が白く立つてゐる旅の宿りに眺める晩景を敍し、之を受ける四五句の調子に旅愁を湛へてゐる。川波に心遣ることが出來ぬのみか、却つて波の騷ぎを眺めてゐるにつれて一層佗びしさが募るのである。此の歌と同一である卷七の歌が、古歌集より採録されたとの左註と思ひあはせて、歌の姿の素樸古風であることが首肯出來る。
1691 旅なれば 三更《よなか》を指して 照る月の 高島山に 隱らく惜しも
【口譯】 旅であるから夜道に月の照つてゐるのは心慰めであるのに、夜中潟さして照りゆく月が高島山に隱れようとするのは惜しいよ。
【語釋】 ○三更 夜半の時刻と云ふ意と思へるが、古義の地名説に一應從つておく。古義は地名とする方が(28)下の「指して」に對して適ひ、又鷹島郡に夜中潟と云ふ地名がある由であると説いてゐる。
【後記】 前歌と同樣、素樸にして、高古、佳調をなしてゐる。
紀伊國にて作《よ》める歌二首
1692 吾《あ》が戀ふる 妹は逢はさず 玉の浦に 衣片敷き 一人かも寐む
【口譯】 吾が戀しく思ふ妻に逢つて共に寢ることもなく、この玉の浦に佗しく獨り寢をしよう。
【語釋】 ○妹は逢はさず 逢はさず〔四字傍点〕は「逢はず」の伸びた語で、妹の方より逢ひ給はずと云ふ意。○玉の浦 宣長説に那智山の下の粉白浦から十町程西南に在ると云ふことである。○衣片敷き 丸寢すること、偶《つれ》なくて獨り寢することに云ふ。
【後記】 新古今集に、後京極殿「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣片しきひとりかも寢む」があつて、下句は此の歌と同じである。歌としては新古今の方が秀れてゐる。
1693 玉匣《たまくしげ》 明けまく惜しき あたら夜を 袖《ころもで》離《か》れて 一人かも寐む
【口譯】 家に在つて妹と二人寢る夜は明けるのが惜しいと思ふその惜しむべき夜を、遠く離れて(29)妹の袖敷くこともなく獨り寢をすれば如何ばかりこの夜が長く思はれるであらう。
【語釋】 ○玉匣 枕詞。「明け」に懸ることが多い。玉〔傍点〕は美稱、匣〔傍点〕は櫛笥《くしげ》で櫛を入れる器である。○明けまく まく〔二字傍点〕は未來の意を云ふ助動詞「む」の延びた詞。○あたら夜 惜しむべき夜と云ふ意。○袖離れて 妻を離れての意。
鷺坂にて作《よ》める歌一首
1694 細領巾《ほそひれ》の 鷺坂山の 白躑躅《しらつつじ》 吾《あれ》ににほはね 妹に示さむ
【口譯】 鷺坂山の美しい白躑躅の花よ吾が衣に染み着け、家に歸つて夫れを妹に見せよう。
【語釋】 ○細領巾の 拾穂抄にはホソヒレノと訓み、舊本にはタクヒレノと訓んでゐる。契沖の説では、鷺の頭に細い毛が長く後へ向けて生えたのが、女が領巾をかけたのに似て居るからホソヒレノ鷺坂とつづけたのである。タクヒレと訓む時は白きと云ふ意であるから、ホソヒレと訓むのをよしとする、と云ふのである。領巾〔二字傍点〕は古へ女の項に掛けて飾とした布である。○白躑躅 「鷺城山」の鷺〔傍点〕の縁語である。○にほはね にほふ〔三字傍点〕は色の映えうつる意。ね〔傍点〕は希望を現はす辭である。
泉河にて作《よ》める歌一首
(30)1695 妹が門《かど》 入り泉河の 常滑《とこなめ》に み雪殘れり いまだ冬かも
【口譯】 泉河の底滑にはなは雪が消え殘つてゐる。それで見ると今なほ冬であらうか。
【語釋】 ○妹が門 枕詞。妹の家の門を入り出づ、とつづくのである。○常滑 底滑《そこなめ》の義である。水底の石などに生え著いてゐる水苔の類であらう。
【後記】 第一句から二句へ「妹《い〔右○〕も》が門|入《い〔右○〕》り|い〔右○〕づ」と頭韻をふんでゐるのは技巧的で、却つて素直に受け入れ難いが、「泉河の常滑に……」以下結句に至るまでは、觀察が確かでしつかりと物を掴んでゐる。素樸な調子におのづから河岸の冬の寂寥たる情景を想はせるものを含んでゐる。
名木河にて作《よ》める歌三首
1696 衣手の 名木の河邊を 春雨に 吾《あれ》立ち沾《ぬ》ると 家|念《も》ふらむか
【口譯】 名水河のほとりを春雨に衣も沾れながら吾が旅ゆくことを、家人は思ひ遣るであらうか。
【語釋】 ○衣手の 吉義では「名木」へは直ぐに續かず、第四句へ續いて、吾が衣手の沾れる意となる。と解してゐるが、夫れは甚しい無理な解釋であつて賛し難い。寧ろ衣手〔二字傍点〕は「名木」の枕詞であるといふ冠辭考の説に從ふ。○名木の河邊を 名木河のほとりを行きつつの意となる。○家念ふらむか 家〔傍点〕は妻などの家(31)人、念ふ〔二字傍点〕は吾を思ひ遣るのである。
【後記】 二三四句「名木の河邊を春雨に吾立ち沾ると」は句法が緊密で、佳調をなしてゐる。結句「家念ふらむか」は此の場合やや突然で、鑑賞の妨げをする。無くてもよい言葉であらう。
1097 家人《いへひと》の 使なるらし 春雨の 避《よ》くれど吾《あれ》を 沾らす念《おも》へば
【口譯】 春雨に沾れまいと避けるけれどもなほ吾を沾らすのを思ふと、この雨は家人が吾に遣はした使であらうか。
【語釋】 ○使なるらし春雨の 雨を家人の使と解したので、風や雲が使と考へられる例が多くある。
【後記】 説明があり理窟があつて感心し難い。
1698 ※[火三つ]《あぶ》り于す 人もあれやも 家人の 春雨すらを 間使《まつかひ》にする
【口譯】 家人が吾を思ふあまりに春雨をさへ使に遣はして吾を沾らすが、此の沾衣を※[火三つ]り乾かす人があつて欲しいものだ。
【後釋】 ○間使 契沖は、此方彼方の間を云ひ通はすものであるから間使と云ふと言つて居る。
(32)【後記】 「※[火三つ]り干す」の實感的であることは前に述べた。「人もあれやも」のあれやも〔四字傍点〕は普通は希望の辭とせられるのであるが、此處では反語と解する方が面白くなる。即ち「人もあらなくに」の意である。唯さへ露けく、衣を※[火三つ]り干して呉れる人もないのに、家人が雨を使に寄來して吾れを沾らすと云ふのである。
宇治河にて作《よ》める歌二首
1699 巨椋《おほくら》の 入江|響《とよ》むなり 射目人《いめひと》の 伏見が田井に 鴈《かり》渡るらし
【口譯】 巨椋の入江が響きわたつてゐる。今(33)しも伏見の田面を鴈が鳴き渡りゆくその聲の響であらう。
【後釋】 ○巨椋の入江 出城國久世郡にあつて、伏見と淀との間にある入江で、おぐらの池〔五字傍点〕とも云ふ。○響む とごろきひびく。○射目人の 枕詞。射目人〔三字傍点〕は射部人《いべひと》のことである。契沖の説では、射部人が伏して獲物を窺ひ見るとの意で「代見」につづけたと云ふのである。○田井 井〔傍点〕は接尾語、單に田のことである。雲を「雲井」と云ふのも同じ例である。
【後記】 第一二句は朗々たるひびきを持つてゐる。第二句「響むなり」と強く云ひ切つてゐるのは調子を高からしめてゐる。結句後世風の「鴈渡るらむ〔二字傍点〕」でなく、「鴈渡るらし〔二字傍点〕」と強く据ゑてゐるのは、二句切れの強さに相應じてゐるのである。一首の格律古勁で、恰も過鴈を聞くが如しである。
1700 秋風の 山吹の瀬の 響《とよ》むなべ 天雲《あまくも》翔《かけ》り 鴈《かり》渡るかも
【口譯】 山吹の瀬の響き鳴るにつれて、大空を翔り鴈が鳴き渡るよ。
【後釋】 ○秋風の 枕詞。秋風の山に吹くと云ふ意からつづくのである。○山吹の瀬 山城國宇治郡にあり宇治橋の下にあつたと云ふととであるが、はつきりしない樣である。○なべ と共に,の意で、事柄が同(34)時に竝び起るに云ふ。
【後記】 格調整美、吟唱に足る歌である。初句の枕詞も單なる添へ辭でなく、二三句に働きかけて秋風颯々と音する思ひあらしめ、さやかな瀬の湍《たぎ》ちをきく感がある。「響むなべ」と中止法を用ゐて、餘情あり、四五句少しの緩みもなく詠じた調子は活々として、雲を凌ぎゆく鴈の列を彷彿せしめる。初句から結句に至るまで、句法にいささかの無駄のないことも注意に値する。
弓削皇子《ゆげのみこ》に獻《たてまつ》れる歌三首
1701 さ夜中と 夜は深《ふ》けぬらし 鴈《かり》が音《ね》の 聞ゆる空に 月渡る見ゆ
【題意】 契沖は以下三首の歌を各々寓意あるものと解して、弓削皇子のお陰を頼みにして居る人々が多く登用せられたのに、吾が身はなほ不遇に在つて何の沙汰もないのを訴へる意であらうと言つて居る。尚此の歌と殆ど同じ歌が卷十にある。「此の夜らはさ夜深けぬらし鴈が音の聞ゆる空に月立ち渡る」(二二二四)。
【口譯】 夜は深けて今は夜半となつたであらう、鴈の鳴きゆく空に月澄み渡るのが見える。
【語釋】 ○さ夜中 さ〔傍点〕は發語で意味はない。
【後記】 整ひすぎる位よく整つてゐる。「さ夜中と夜は更けぬらし」と云ふ言葉は、斯う云ふ處(35)から系統を引いて現代歌人も屡々用ゐてゐるが、如何にも夜半深くなつた感じを巧に現した秀句である。此の歌二句切れになつてゐることも歌の調子を高くしてゐる。夜半の空高く澄んでゐることがわかるほどに月光さやかに照つて、鳴き渡る鴈の列が鮮かである。月は望の頃であらう。
一首の調子が清澄にして靜寂。古歌の風がある。或は傳誦の歌を夜宴の席上などで弓削皇子に獻つたのかも知れない。此歌と全く同一の歌が古今集秋上にも出てゐる。平安朝以降月前鴈を題とした歌の佳品を左に少々摘録する。それ等と萬葉集の歌とを比べて鑑賞するも無益でない。
白雲に羽根うちかはし飛ぶ雁の數さへ見ゆる秋の夜の月(古今集、讀人不知)
大江山かたぶく月の影冴えて鳥羽田のおもに落つる雁がね(慈鎭)
月清み羽根うちかはし飛ぶ雁の聲あはれなる秋風のそら(定家)
立ちそむる秋霧の上に鳴く雁の聲ほのかなる十六夜の月(家隆)
峯越ゆる雲に翼やしをるらむ月にほすてふ初雁の聲(通光)
天の原ふりさけみればます鏡きよき月夜に雁なきわたる(實朝)
(36) 月影に夜わたる雁の列《つら》見ても吾が數足らぬ友ぞ悲しき(長流)
秋の夜のほがらほがらと天の原てる月影に雁なきわたる(眞淵)
望月のくまなき空に三つ二つ亂れて渡る雁もめづらし(蒼生子)
月夜よし夜よしと今宵語りつぎ言ひつぎ渡る雁や幾つら(古道)
てる月に雁のまれびと鳴き渡る吾が待つ友は今宵來なくに(秋成)
天雲に尾羽うちふれて飛ぶ雁ぞ今宵の月の隈にはありける(久老)
ざつと斯う竝べて見ても、無名歌人の「さ夜中と夜はふけぬらし」が最も光つてゐる。萬葉は實に偉大な時代である。尚此の歌及び次の二首共に寓意ありとの解もあり、作者に事實さうした意圖があつたか否かは探索の術もないが、歌に現れただけでは無理な解釋である。之は漢文學風の解釋であると思ふ。吾々としてはその點を全然問題の外に置いて鑑賞したい。
1702 妹があたり 茂き雁がね 夕霧に 來鳴きて過ぎぬ 乏《とも》しきまでに
【口譯】 妹の家のあたりには聲しげく鳴いてゐる鴈が、夕霧の立つてゐる頃に、極《ご》く稀に吾が家のあたりに來て、鳴き過ぎてしまつた。
(37)【語釋】 ○茂き雁がね 舊訓「茂き雁がね」であり多く之に從つてゐるが、宣長は茂〔傍点〕は衣〔傍点〕の誤であるとの説を立て、古義は夫れを襲けてゐる。
1703 雲隱《くもがく》り 雁鳴く時に 秋山の 黄葉《もみぢ》片待つ 時は過ぐれど
【口譯】 雲にかくれて雁の鳴き渡る今日この頃、秋山の更に一層深く黄葉するを、吾は偏へに待つてゐる。實にもはや黄葉のさかりの季節は過ぎたのであるけれども。
【誤釋】 ○片待つ 偏へに待つの意。
舍人皇子《とねりのみこ》に獻れる歌二首
1704 うちたをり 多武《たむ》の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騷げる
【題意】 古義は以下二首も前三首と同樣の寓意あるものと解して居る。
【口譯】 多武峰に山霧がしげく降つてゐるが故か、細川に水が増して川瀬に波が立ち騷いでゐる。
【誤釋】 ○うちたをり 枕詞。うち〔二字傍点〕もた〔傍点〕も發語、をり〔二字傍点〕は折で道の折り曲るを云ふ、多武〔二字傍点〕は「たもとほる」であるから「折りたもとほる」と云ふ意である。○多武 大和國磯城郡に在る山で、現今藤原鎌足を祠る談(38)山神社のある多武の峯である。○しげみかも 茂きが故にの意。み〔傍点〕は形容詞の語根に添ひ「の故に」の意を現はす語。かも〔二字傍点〕は泳嘆。○細川 多武峯の麓を出て南淵川と合して飛鳥川となり飛鳥京の邊を流れる川である。
【後記】 寓意ある歌と云はれてゐるが、純粹に眼前矚目の情景を詠じたものと解したい。「山霧しげみかも」と咏嘆して、如何にも霧が深いことを思はせる。大和の地勢は奈良櫻井一帶の平地を山岳が取り卷いて聳えてゐて、秋冬の候霧が多いことは察せられるが、往時は今よりももつと樹木も繁つてゐたであらうし、細川も今の樣な見る影もない哀れな姿でなく、相當な川であつたに違ひない。欝々と茂り立つ多武の(39)峰桓濃い霧が流れて、山麓の細川に白波騷いで瀬の音が激つてゐる景觀を想ひ見るとき、この一首の音調は、山霧の動きと川波のさわぐのをまざ/\と感ぜしめる。
觀察が正しく、把握が確實純粹である。
卷七人麻呂の作「あしひきの山河《やまがは》の瀬の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に雲立ち渡る」(一〇八八)を聯想せしめる歌である。
1705 冬こもり 春邊を戀ひて 植ゑし人の 實になる時を 片待つ吾《あれ》ぞ
【口譯】 花咲く春を戀ひて植ゑた木が、その花も咲き散つて實を結ぶ時節を吾は偏へに待ち居るぞ。
【語釋】 ○冬こもり 「春」にかかる枕詞。生氣萠《ふゆけもり》の意で、生《ふゆ》は物の殖え生ずること、氣《け》は音が轉じてこ〔傍点〕となり、萠《もり》は物の初めて萠え出るを云ふので、季節が春になると萬物の生氣《ふゆけ》を萠《もら》すからふゆこもり〔五字傍点〕と云つて「春」の枕詞となるのである。○片待つ 既出。
【後記】 此の歌は戀の歌であらうと思ふ。女が稚き少女である時から戀ひつづけて、成育してふくよかに麗しい處女となる日を偏へに待つと云ふのである。卷三、藤原朝臣八束梅歌二首に、(40)「妹が家に咲きたる梅のいつもいつも成りなむ時に事は定めむ」(三九八)、「妹が家に咲きたる花の梅の花實にし成りなばかもかくもせむ」(三九九)とあるのと全く同樣の譬喩であると思ふ。
舍人皇子の御歌一首
1706 ぬばたまの 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に 棚引くまでに
【口譯】 高屋の土地のあたりに、夜霧がおびただしく立つてゐる。棚引くまでに。
【語釋】 ○ぬばたまの 「黒」と云ふ語の枕詞。轉じて「夜」「月」「夢」等の枕詞としても用ゐてゐる。○衣手の 枕詞。此の歌で衣手の〔三字傍点〕が何處にかかるか代匠記、考、古義等諸説分れてゐる。○高屋の上 高屋〔二字傍点〕は神名式にある大和國城上郡高屋の地名であらう。上は「ほとり」の意。○棚引く 既出。
【後記】 高屋は地名説に對して高殿を云ふとの説もある。一首は「高屋の上に棚引くまでに夜霧が立つてゐる」と云ふことを、倒置して「夜霧が立つてゐる、高屋の上に棚引くまでに」と云つたので、内容は單純平明であるが、この二つの句の間に枕詞を置いて音律を整へてゐる。又第一句にも枕詞を用ゐ、一首のうちに二つの枕詞があるが、少しも氣にならない程巧に用ゐられてゐる。かく極めて單純な事柄を敍して、實に清く寂かな、情景にぴつたりと合つた律動を(41)成してゐることが、短歌としての秀れたところである。
鷺坂にて作《よ》める歌一首
1707 山城《やましろ》の 久世《くせ》の鷺坂 神代より 春は張りつつ 秋は散りけり
【口譯】 山城の久世郡驚坂山は神代より今に至る迄變りなく、春は木の芽萌えて花咲き匂ひ、秋は木々みな紅葉して散り亂れる。
【語釋】 ○張りつつ 木の芽が張ると云ふ意。○散りけり 紅葉が散ると云ふ意。
【後記】 春は木の芽が張り、秋は木の葉が散るのであるが、木と云ふ字はなく、鷺坂で山でありその茂みを意味してゐるのであらう。第四句「春〔右○〕は張〔右○〕りつつ」は韻をふんで強く緊張した句になつてゐる。驚坂山は名所ででもあつて、一首としてはかく概敍的になつたのであらうか。併しさすがに此の時代の歌であるから、單純で佳い調子をもつてゐる。
泉河の邊《ほとり》にて作《よ》める歌一首
1708 春草を 馬昨《うまくひ》山よ 越え來《く》なる 雁《かり》が使は 宿《やどり》過ぐなり
(42)【口譯】 咋山の方より鳴き越えて來る雁は故郷からの使であると思つてゐたのに、吾が旅の宿をよそに見て飛び過ぎ行くことよ。
【語釋】 ○春草を 枕詞。春草を馬が咋《く》ふとつづけたのである。○馬咋山 山城國綴喜郡であらう。咋山と云ふ名であるのを上の續きから、馬咋山と云つたので「處女等《をとめら》が袖布留《そでふる》山」「辛衣《からころも》著奈良《きなら》の山」などと同じ用例である。○鴈が使 鳴き來る鴈を故郷の便りをもたらす使と見たのである。
【後記】 鴈の使と云ふ言葉は漢文學の影響であらう。鴈が消息を齎すことは蘇武の古事以來のことであらう。我が國で、「鴈の使」とか「玉章」とか云ふ言葉が用ゐられたのも、之に系統を引いて居ると思ふ。此の歌の詠まれたのは、唐との交通漸く繁く遣唐使派遣のことなどのあつた前後と思はれる。古今集以降、鴈を詠じた歌は屡々蘇武の古事を聯想して、「言傳て」とか「玉章」とか「如文字」とか云つてゐる。すなはち、
秋風に初雁がねぞきこゆなるたが玉章をかけて來つらむ(古今集)
秋の夜に雁かも鳴きて渡るなり吾が思ふ人の言傳てやせし(後撰集)
うす墨に書く玉章と見ゆるかな霞める空にかへる雁がね(後拾遺集)
玉章はかけて來つれど雁がねのうはの空にもきこゆなるかな(金葉集)
雁がねは風にきほひてすぐれども吾が待つ人の言づてもなし(新古今集)
(43) 歸るさは言擇《ことえ》りすらし玉章の文字少ななる春の雁がね(長流)
二つ三つ澤べに見ゆる雁がねは落ちたる文の心地こそすれ(有功)
ことづけてやる玉章を大空にひろげたりとも見ゆる雁かな(幸文)
人しれぬたが玉章をかけつらむ霧がくれにぞ雁は啼くなる(直好)
乍併、斯ういふ紋切型の無生命の譬喩をくり返してゐる歌には三文の値打もない。右等は愚作の見本として擧げたまでである。
弓削皇子に獻れる歌一首
1709 御食《みけ》向ふ 南淵《みなぶち》山の 巖《いはほ》には落《ふ》れるはだれか 消え殘りたる
右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づる所。
【題意】 古義には、前の弓削皇子に獻れる歌三首(一七〇一−一七〇二)と同じく寓意あるものと解してゐる。
【口譯】 南淵山の巖には降つた雪がなほ消え殘つてゐるやうに見える。
【語釋】 ○御食向ふ 枕詞。御饌《みけ》奉るの意で、「南淵」のみ〔傍点〕にかかる。み〔傍点〕は肉又は御魚菜《みな》と云ふ意である。「御食向ふ淡路」も淡《あは》即ち粟《あは》と云ふ意でかかるのである。○南淵山 大和國高市郡に在り。○はだれ 雪のこと。
(44)【後記】 第三句「巖には」と勁く据ゑたのは如何にも巨巖を思はしめる。そしてこの巨巖に斑雪の消え殘つたのを遠望する景觀は、何か清々しいものがある。四句「落りしはだれ」とせず「落れる」としたのは、音調をも意味をも強くしてゐるのみならず、四五句「落れる〔二字傍点〕」「はだれ〔傍点〕」「殘|り〔傍点〕た|る〔傍点〕」と良行音を重ねたのは、一首の調子を大きく豐かにして居り、結句「消え殘りたる」と、引き緊つた強い結びは、上句の雄勁を受けて効果を擧げてゐる。
此の歌は左註に人麻呂歌集中の歌となつてゐるが、格調の雄渾なことから見て、既に一部の人々の云ふ如く、人麻呂作であらう。
1710 吾妹兒《わぎもこ》が 赤裳《あかも》ひづちて 植ゑし田を 苅りて藏《をさ》めむ 倉無《くらなし》の濱
【題意】 古義は此の歌の前に題詞が落ちたのであらうと云つて居る。又、倉無の濱を面白く詠んで見せよと人が云つた時の興によんだのであらうとも云つて居る。
【口譯】 愛しき吾妹が赤い裳を泥に濡らして植ゑた田を苅つて藏める倉は無し。あはれ倉無の濱よ。
【語釋】 ○吾妹兒 女を親しみ云ふ語。○赤裳ひづちて 裳〔傍点〕は既出。ひづち〔三字傍点〕は泥に濡れ漬く意。○倉無の濱 (45)契沖は豐前國であらうと云ふ。
【後記】 倉無の濱の比喩として、四句までは相當の面白味もあり、順直であるが、技巧の巧さはあつても表面的な感がする。左註或は云ふとある人麻呂の作とは思へない。
1711 百傳《ももづた》ふ 八十《やそ》の島廻《しまみ》を ※[手偏+旁]《こ》ぎ來《き》けど 粟《あは》の小島は 見れど飽かぬかも
右の二首、或は云ふ、柿本朝臣人麻呂の作。
【口譯】 數々の島を經めぐり※[手偏+旁]ぎ來ておもしろい島山も多くあつたが、粟の小島の勝景は見れども見れども眺め飽かない。
【語釋】 ○百傳ふ 枕詞。○八十の島廻 數多の島々を云ふ。○※[手偏+旁]ぎ來けど ※[手偏+旁]いで來たけれども。○粟の小島 仙覺抄に「讃岐國屋島北去古歩許有v島、名曰2阿波島《アハシマト》1」とあり。
【後記】 一二三句の音調は、多くの島々を經めぐり來たことをよく表現して居る。「百傳ふ」の枕詞「八十」の形容が此の場合有効に働き、第三句の「來けど」は幾らかつまつた云ひ方でやや強い響を待ち、それが四五句までひびいて「飽かぬかも」の咏嘆を想像的概念的でなく具體的のものとし、一首透徹した快い音律となつてゐる。
(46) 筑波山に登りて月を詠める一首
1712 天《あま》の原 雲なき夕《よひ》に ぬばたまの 宵《よ》渡る月の 入らまく惜しも
【口譯】 大空に雲一つなく晴れた夜を渡りゆく月の、程なく山の端に入らうとするのはさても惜しい。
【語釋】 ○天の原 大空の意。○ぬばたま 既出。
【後記】 内容から云つて特に取立てる程のことはないが、調子がおほらかで快い。一二句月夜山上展望にふさはしい快調をひびかせ、三句の枕詞が一厨調子をゆたかならしめてゐるのであらう。
芳野の離宮に幸《いでま》せる時の歌二首
1713 瀧の上《へ》の 三船《みふね》の山よ 秋津邊に 來鳴きわたるは 誰喚兒鳥《たれよぶこどり》
【題意】 題詞「芳野の離宮に幸せる」のみで年月を明かにしない。
【口譯】 宮瀧の上の三船の山から秋津の野邊に飛び來て鳴き渡るのは、誰を呼ぶとてあのやうに(47)鳴く喚兒鳥であるか。
【語釋】 ○瀧の上 吉野川の瀧の上方。瀧はいまは宮瀧とて古の行宮の跡と云ふ。○三船の山 菜摘の里の東南に在り。○秋津邊 大和國吉野郡秋津野のあたり。○喚兒鳥 郭公鳥を云ふ。
【後記】 古風で單純で分りよく、嫌味のない調子を持つた歌である。此の歌と同じ行幸の時の作であらうと云はれる卷一の高市連黒人の歌「大和には鳴きてか來らむ呼子鳥|象《きさ》の中山呼びぞ越ゆなる」(七〇)と同じく呼子鳥を詠んだ歌として比較されるのであるが、黒人の作は一首に深みがあつて手法を心得た專門歌人と云ふ感がする。
1714 落ち激《たぎ》ち 流るる水の 磐《いは》に觸り 淀める淀に 月の影見ゆ
右の三首、作者未だ詳ならず。
【口譯】 さかまき落ちて流れる水が岩に觸れて飛び散り、靜かに湛へた淀みには月の影がさやかに映つてゐる。
【語釋】 ○淀 川水の湛へ滯る處を云ふ。淀める〔三字傍点〕は淀を動詞に働かせたものである。
【後記】 上句「落ち」「激ち」「流るる」「磐に觸り」と曲折ある音調が水の動態を巧に現し、下(48)句は夫れに對して水と月光の清澄を表現し得て佳調をなしてゐる。「淀める淀」も頗る巧者である。
槐本《ゑにすのもと》が歌一首
1715 樂浪《ささなみ》の 比良《ひら》山風の 海吹けば 釣する海人《あま》の 袂《そで》かへる見ゆ
【題意】 槐本は柿本と云ふ如く人名(姓)であらう。
【口譯】 比良の山風が湖に吹き下ろすと、湖に漕ぎ出て釣をしてゐる海人の袂が、ひるがへるのが見える。
【語釋】 ○樂浪の 近江國の大津、志賀、比良邊一帶の地名であつたらしい。尚之等の地名の枕(49)詞説もある。○海吹けば 海〔傍点〕は琵琶湖である。
【後記】 明快であつて分り易く、結句袖の飜へるのが目に見えるほど巧みな表現である。夫れは第三句「海吹けば」がよくきいてゐるからであらう。徳川末期の歌人原久胤の作に「夕されば沖つ汐風かよふらし磯菜つむ子の袖かへる見ゆ」とあるのは、萬葉の此の歌から系統を引いてゐる。
山上《やまのうへ》が歌一首
1716 白波の 濱松の木の 手向草《たむけぐさ》 幾代までにか 年は經ぬらむ
右の一首、或は云ふ、河島皇子の御作《つくりませる》歌。
【題意・左註】 題詞の山上《やまのうへ》は山上臣憶良である。此の歌卷一に「幸2于紀伊(ノ)國(ニ)1時、川島皇子御作歌、或(ハ)云(フ)山上臣憶良作」(三四)と題詞があり、「木の」が「枝の」となつて居る。
【口譯】 濱邊の松の木にかかつてゐる手向草は今は幾代といふまでの久しき年を經て在るのであらう。
【語釋】 ○白波の 「濱」の枕詞。白波の穗《ほ》と云ふことから懸る詞である。○濱松の木の 濱邊に生えた松(50)の木の。○手向草 旅行く人が平安を祈つて神に奉るものを云ふ。手向草〔三字傍点〕の「草」は借字で手向けする料何にでも云ふのである。手何草を木にかけて置いたから、「濱松の木の手向草」と詠んだのである。○幾代までにか年の經ぬらむ 手向草が幾代といふ久しき年を經て今なほ在るのであらう、と云ふ意。らむ〔二字傍点〕は動作を推量する助動詞。
【後記】 旅ゆく人が、幾年か前に同じ道を過ぎ行きし旅人の手向草に相對する感慨がこもつて居る。手向草は旅ゆく人生の象徴であり、なべてのものの過ぎてとどまらぬあはれさがある。
春日《かすが》が歌一首
1717 三河《みつがは》の 淵瀬もおちず 小網《さで》刺《さ》すに 衣手|濕《ぬ》れぬ 干《ほ》す兒は無しに
【題意】 春日は春日藏首老であらう。
【口譯】 三河の淵瀬を殘らず小網さしのべて魚を漁るとて衣がひたひたに濡れた、この濡れた衣を取つて乾かして呉れる愛しい女もないのに。
【語釋】 ○三河 近江國滋賀郡にあるといふ地名であらう。○淵瀬もおちず 淵瀬をも漏らさずの意。「一夜もおちず」「隈もおちず」等も同じ用法である。○小網 和名抄に、「※[糸+麗](ハ)(左天《サデ》)網如2箕形1、狹v後廣v前(ヲ)名也」とある。○干す兒は無しに に〔傍点〕は思ふに違つて意の反するのを云ふ辭。即ち此處では、乾す兒があ(51)ればよいあつて欲しいと言ふ意に反して、誰も乾して呉れる者がないのを云ふ。
高市《たけち》が歌一首
1718 率《あども》ひて ※[手偏+旁]《こ》ぎにし舟は 高島の 阿渡の港に 泊《は》でにけむかも
【題意】 作者高市は高市連黒人であらう。
【口譯】 友船を誘うて共に漕ぎ出た舟は、もはや高島の阿渡の港に無事に泊つたであらうか。
【語釋】 ○率ひて 誘《いざな》ふとか引伴れると云ふ意。後伴《アトトモナフ》の意から來たのであらう。○高島の阿渡の港 既出。○泊てにけむ 泊つ〔二字傍点〕は船が行き着きとまる、を云ふ。
【後記】 黒人の※[羈の馬が奇]旅の歌としては、卷三に、
旅にして物戀しきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に※[手偏+旁]ぐ見ゆ(二七〇)
四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫《かさぬひ》の島※[手偏+旁]ぎかくる棚無し小舟(二七二)
吾が船は比良の湊に※[手偏+旁]ぎ泊てむ沖へな放《さか》りさ夜ふけにけり(二七四)
何處《いづく》にか吾《あ》は宿らなむ高島の勝野《かちぬ》の原に此の日暮れなは(二七五)
などがあるが、之等に於けると同じく、此の歌にも、何か哀れさや心の深みが感ぜられる。結句「泊てにけむかも」にも好い咏嘆がある。
(52) 春日《かすが》藏が歌一首
1719 照る月を 雲な隱しそ 島|陰《かげ》に 吾《あ》が船|泊《は》てむ 泊《とまり》知らずも
右の一首は、或本に云ふ小辯の作なりと。或は姓氏を記し、名字を記すこと無く、或は名號を※[人偏+稱の旁]ひて、姓名を※[人偏+稱の旁]はず。然れども古記に依りて、便ち次を以て載す。凡そ此の如き類、下皆これに效《なら》へ。
【題意・左註】 春日藏は春日藏首老であらう。小辯は傳が詳かでない。古義は左註は後人の裏書であらう、としてゐる。
【口譯】 この照る月を心なき雲よ隱すな。島陰に舟泊りをしようと思ふが夜であるから港が知れず、月影を頼りに泊《とまこ》を探さうと思うて居るから。
元仁が歌三首
1720 馬|竝《な》めて うち群《む》れ越え來《き》 今日見つる 芳野《よしぬ》の川を いつ顧《かへり》みむ
【題意】 元仁は人名であらうが、傳不明である。
(53)【口譯】 數多く馬を竝《なら》べて共々に山坂を越えて來て今日挑めた吉野川を、又いつの日かへり來て眺め遊ぶことであらう。
【語釋】 ○馬竝めて 數々の馬を乘りならべる意。○うち群れ うち〔二字傍点〕は動詞の上に熟語として附き、うち〔二字傍点〕には意味がないか或は動詞の意を稍強くするに用ゐる。群れ〔二字傍点〕は共に集るの意。
【後記】 平明で單純であることは此の時代の他の歌に就いても何度か云つたことで、共通の風である。それだけに或る程度のもの足らなさもあるが嫌味がなく、平板に墮するものもあるが何か心に通ふものを持つてゐるのが幾つかある。此の元仁の三首も主觀味が乏しいなどの評もあるかも知れぬが、此の歌の一二句は、山越えて遠出をする、そして行く先が水清く名に負ふ芳野川である。その往路の樂しい心が音調に現れてゐる。
1721 苦しくも 晩《く》れぬる日かも 吉野《よしぬ》川 清き河原を 見れど飽かなくに
【口譯】 吉野の川の清き河原の佳い景色を見れど見れど眺め飽かないのに、心ならずも日は早暮れてしまつた。
【語釋】 ○苦しくも 悶えて心安らかならぬ意。「苦しくも零《ふ》り來《く》る雨か神《みわ》の埼」(卷三、二六五)の如き用例(54)がある。○飽かなくに なく〔二字傍点〕は助動詞「ぬ」の延びたものである。に〔傍点〕は思ふに違ひ意に反した意味を云ふ辭。見飽かずもつと眺めて居たいと思つてゐるのに、日が暮れてしまつたと云ふのである。
1722 吉野《よしぬ》川 河浪高み 瀧《たぎ》のうらを 見ずかなりなむ 戀《こほ》しけまくに
【口譯】 見ずに歸つたならば後に戀ひしく思ふことであらうに、吉野川の浪が高い故瀧の裏を行きて見ることが出來ぬ樣になるであらうか。
【語釋】 ○河浪高み 河浪が同い故に。○瀧のうら 大瀧の裏である。○戀しけまくに 戀しい(55)であらうにの意。まく〔二字傍点〕は未來の意を云ふ助動詞「む」の延びたもの。
絹《きぬ》が歌一首
1723 河蝦《かはづ》鳴く 六田《むつた》の河の 川楊《かはやぎ》の ねもころ見れど 飽かぬ君かも
【題意】 絹は女の名かとも思はれるが不明である。
【口譯】 蛙が鳴く六田の清き川の岸べの川楊の根のまつはる如く、ねんごろにかへすがへす見ても見飽かぬ麗しき君よ。
【語釋】 ○六田 吉野川の岸、宮瀧の下流に在り。○ねもころ 慇懃に。「根も凝」の義で情のまつはる意。上三句はねもころ〔四字傍点〕に懸る序である。
【後記】 上三句の序は眼前囑目の情景によつて詠まれたものであらう。それ故に序ではあるが、單なる概念比喩に終つてゐないところがよい。
絹と云ふのは吉野川に近い地方の女の名であつて、行幸供奉の舍人か何かに親しんで詠んだのではなからうか。
(56) 島足《しまたり》が歌一首
1724 見まく欲《ほ》り 來しくもしるく 吉野《よしぬ》川 音の清《さや》けさ 見るにともしき
【題意】 島足は人名であらうが不明である。
【口譯】 かねがね見たく戀ひ思つてゐて來たかひあつて、吉野川の川音清々しく見あかず美しい。
【語釋】 ○見まく欲り 見たいと願つて、の意。まく〔二字傍点〕は稍願望の意をこめた「まし」の副詞法、欲り〔二字傍点〕は願ひ望む意。○來しくもしるく 來たかひあつて、の意。○ともし 珍らしく飽き足らず思ふ意である。
【後記】 全體が少しごた/\してゐて、單純な内容でありながら、すつと徹つた感じがしない。四句「音の清けさ」と云ひ五句「見るにともしき」と重ねたことも感心出來ない。
麻呂が歌一首
1725 古《いにしへ》の賢《さか》しき人の 遊びけむ 吉野《よしぬ》の川原 見れど飽かぬかも
右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
【題意】 麻呂は人名であらうが傳不明である。
【口譯】 古の賢人が遊んで賞したと云ふこの吉野の川原の勝れた景色は、見れども見れども眺め(57)飽かず面白い。
【後記】 分り易い歌ではあるが、單に「吉野の川原見れど飽かぬかも」では形式的なものが目立つて、具象的情景としては感じ難い。その上「古の賢しき人の遊びけむ」が吉野の説明となつてゐて感慨に乏しいのではあるまいか。
此の歌から直ぐに、卷一「淑人《よきひと》のよしとよく見てよしと言ひし芳野《よしぬ》よく見よよき人よく見つ」(二七)の歌が聯想される。
丹比眞人《たぢひのまひと》が歌一首
1726 難波潟 潮干に出でて 玉藻苅る 海未通女《あまをとめ》ども 汝《な》が名|告《の》らさね
【題意】 丹比眞人に就いては、此の歌の外、卷二卷八にも氏姓のみを記し、卷四には大宰大貳丹比縣守卿云々とあり續紀には縣守の傳を記す。又卷三卷四に丹比眞人笠麻呂あり、卷三卷八卷二十に丹比眞人國人、卷六卷八に丹比屋主眞人、卷十九に多治比眞人土作、多治比眞人鷹主あり、更に卷八には屋主の子乙麻呂の歌を載せて居る。此の歌に就き、古義は屋主か乙麻呂かの作であらうと云つて居る。
【口譯】 難波潟の潮干に出て藻を苅る海少女よ、汝《なれ》の名を吾に告げ知らせて吾が妻となつてくれ(58)よ。
【語釋】 ○玉藻 も〔傍点〕は美稱で、藻を美しみ云ふ。○海未通女ども ども〔二字傍点〕は「等」で、人數の多いことに云ふのであるが、單に一人の時にも云ふ。茲は一人の場合である。○告らさね 告らさ〔三字傍点〕は「告れ」が伸びて「告らせ」となり、更に轉じて「告らさ」となりね〔傍点〕が添うたのである。「告れ」が伸びるのは尊んで云ふ意があり、れ〔傍点〕もらせ〔二字傍点〕も命令法である。ねは希望の辭である。尚古へは女が男に名を告げると男に從屬し其の妻となることを示すのである。萬葉集開卷第一の歌、雄略天皇の御製の中に「家聞かな名|告《の》らさね」と歌はせられたのも、同じ意味である。
【後記】 贈答歌は一般に即興的で興味中心のところが多く、特色はありながら表面的である場合が普通であるが、此の贈答歌はさして深みはないが單なる形式に墮してゐないのはよい。贈歌の「難波渇潮干に出でて、玉藻苅る」は情景に即してゐる。
和《こた》ふる歌
1727 漁《あさり》する 海人《あま》とを見ませ 草枕 旅《たび》行《ゆ》く人に 妻とは告らじ
【口譯】 魚を採る普通《なみ》の海人と見過ごしなさいませ、君は旅人でありますから、其の人の妻とな(59)り吾が名を告げ知らすことは致しませぬ。
【語釋】 ○海人とを見ませ 「海人とを」のを〔傍点〕は時に取立てて強く云ふ時の助辭。「見ませ」のせ〔傍点〕は他を使役して動作を爲させる意の助動詞「す」の變化した辭。○草枕 「旅」の枕詞。往昔は旅には野山に宿り草を枕として寢るからと云ふ。
石河卿の歌一首
1728 慰めて 今夜《こよひ》は寐《ね》なむ 明日よりは 戀ひかも行かむ 此間《こ》よ別れなば
【題意】 石河卿は石河朝臣年足であらう。
【口譯】 明日は別れであると思ふと悲しいが、ともかく今夜は心慰めて寢よう。しかし明日此處から別れてゆけば、其の後はひたすらに戀しく思ひつつ旅行くことであらう。
【語釋】 ○此間よ別れなば ここより別れてゆけば、の意。
【後記】 二句と四句とで切れてゐる。どの句も別に奇なることを云つてゐるのでなく、平凡な樣で見過ごされ易いが、一首としてのある心持がこめられてゐて哀れである。結句もよくきいてゐる。契沖の浸吟集に「心ある人に一夜の宿かりて馴るるもつらし明日の故郷」。
(60) 宇合《うまかひ》卿の歌三首
1729 曉《あかとき》の 夢《いめ》に見えつつ 梶島の 磯越す浪の 頻《し》きてし念《おも》ほゆ
【題意】 卷七に「夢《いめ》のみに繼《つ》ぎて見えつつ高島の磯越す波のしくしく念ほゆ」があり、古義は句が少々異なるが同じ歌とし、近江國高島で作つた歌であるのを誤つて梶島としたのであらうと言つて居る。
【口譯】 旅であるから夜毎に早く眠ることが出來ず、やうやう曉になつてうと/\と眠りを催すと、夢にさへ家人が見えて頻りに戀ひしく思はれる。
【語釋】 ○頻きてし念ほゆ 頻きて〔三字傍点〕は「切に」とか「數繁くしきりに」と云ふ意。「頻きてし」のし〔傍点〕は強めの助詞。尚三四句は此の第五句に懸る序である。乍併、單なる序ではなく、有心の序であつて、眼前矚目の情景を以て序としたのである。
【後記】 三四句の序は五句に對して働いて居り、結句は感慨のこもつた句である。尚「磯越す浪」と云ふのは面白い表現で萬葉集中にも澤山はない。題意の項に引いた卷七の歌の外には、
室の浦の湍門《せと》の埼なる鳴島の磯越す浪〔四字傍点〕にぬれにけるかも(卷十二)
があるのみであり、少し違ふが、
(61) さざれ波磯巨勢〔三字傍点〕路なる能登湍河《のとせがは》音のさやけさたぎつ瀬ごとに(卷三)
がある。
1730 山科《やましな》の 石田《いはた》の小野《をぬ》の 柞《ははそ》原 見つつや君が 山|道《ぢ》越ゆらむ
【口譯】 山科の石田の野の柞原の面白い景色を眺めながら、今日このごろ君は山道を越えるであらう。
【語釋】 ○山科 和名抄に山城國宇治郡とあり、今の京都市東山區山科である。○小野 を〔傍点〕は意味のない發語で、常に野〔傍点〕と云ふに同じ。○柞原 柞〔傍点〕は?《かしは》の古名と云ふ。
【後記】 此の程度の表現では感動を喚ぶ力に乏しい。それはかかる敍詠は既に類想類型的で、形式化しつつある事を示してゐると解してよい。
但し、作者の爲めに少しく私の空想を加へて解するならば、作者は戀人である女に代つて此の歌を詠んだのではあるまいか。女は石田の小野の柞原の邊に住んでゐるのである。そしてわが住む柞原を見つつ今日君は山道を越え給うであらうと、想ひ遣つて詠んだと考へたい。男が女に代つて歌を作ることは例のあることであり、かく解する方が次の歌とぴつたり合ふことに(62)なる。
1731 山科の 石田の社《もり》に 手向《たむけ》せば けだし吾妹《わぎも》に 直《ただ》に逢はむかも
【口譯】 山科の石田の神社に幣帛を奉つて祈つたならば、若しや戀しく思ふ妹に直ちに逢ふことが出來るであらうか。
【語釋】 ○手向 既出。○けだし 若し斯うもあらうかと推量して定め云ふ辭。
碁師《ごし》が歌二首
1732 大葉山《おほはやま》 霞棚引き さ夜|深《ふ》けて 吾《あ》が船泊てむ 泊《とまり》知らずも
【題意】 碁師は傳が詳かでない。圍碁をよくしたから附けた異名などであらうかと古義は云つて居る。尚此の歌は卷七(一二二四)と全く同じである。
【口譯】 大葉山に一面に霞が棚引きおほうて、その上夜も更けたから、吾が舟は何處に泊るべきか其の港も分らない。
【語釋】 ○大葉山 八雲御抄に紀伊に在る由記されてある。○棚引き 既出。○さ夜 既出。
(63)【後記】 此の歌と全く同じである卷七に古歌集にあることを記してゐるが、古樸で平明である。前に出た卷九春日藏の歌(一七一九)と四五句を同じくし、上三句春日藏のは調子のよさはあるが類想概念的なのに比しては、之は具象的であり、月が雲に隱れて泊を探すと云ふよりも、夜更けに霞がたちこめて泊を探すといふ方に、より多く自然な素直さがあつて面白い。
1733 思《しぬ》びつつ 來《く》れど來《き》かねて 水尾《みを》が崎 眞長《まなが》の浦を また還り見つ
【口譯】 三尾が崎眞長の浦の勝景を賞しながら其處を過ぎ去らうとしたが、なか/\に佳い眺めなので過ぎかねてまた漕ぎ還つて見た。
【語釋】 ○思ひつつ 愛で賞すること。○來れど來かねて 漕ぎつつ過ぎ來れど來得ずしての意。○水尾が崎 和名抄に「近江國高島郡三尾」があり、又繼體天皇紀にも記されてある由である。
【後記】 「思びつつ來れど來かねて水尾が崎」は後世の俗謠のやうで、萬葉には似合はしからぬ浮き/\した表現である。
小辯《すなきおほともひ》が歌一首
(64)1734 高島の 阿渡《あど》の湖《みなと》を ※[手偏+旁]《こ》ぎ過ぎて 鹽津《しほつ》菅浦《すがうら》 今は※[手偏+旁]がなむ
【題意】 小辯は傳未詳である。古義では、春日藏首老が僧であつた時の名を辨基と呼んだから、之はその辨基の男などでもあらうかと言つて居る。
【口譯】 高島の阿渡の湖を漕ぎ過ぎて、今はかねてから見たく思つてゐた鹽津菅浦を漕ぎ渡らう。
【語釋】 ○高島の阿渡 既出。○鹽津菅浦 近江國淺井郡に鹽津と云ふ處がある由で、菅浦も其處であらうと云ふ。尚鹽津は今は伊香郡に屬してゐる。
【後記】 單純な點に於いては前歌よりも更に單純であらう。「※[手偏+旁]ぎ過ぎて……今は※[手偏+旁]がなむ」と云ふ二句の間に、「鹽津菅浦」と云ふ語音に變化のある特種な地名を挾んだ調子も、何か活々としてゐる。何の粉飾も無くて却つて面白い。後世香川景樹が「朝凪ぎに網引やすらむ菅浦の霞をつたふ海人の呼びごゑ」と詠じたのは、萬葉の歌の地名を借用して、單に机上で作り上げたのである。
伊保麻呂《いほまろ》が歌一首
1735 吾《あ》が疊 三重の河原の 礒《いそ》の裏《うら》に 斯くしもがもと 鳴く河蝦《かはづ》かも
(65)【題意】 伊保麻呂は傳未詳である。
【口譯】 此の三重の河原の水邊の石に、いつまでもかく住んで居たいと處得がほに鳴く蛙よ。
【語釋】 ○吾が疊 枕詞。「重」にかかる。幾重にも物を重ねるのをタタムと云ふことから懸るのである。○三重の河原 和名抄に「伊勢國三重郡」とある、其處の河原であらう。○礒の裏 礒〔傍点〕は海のみならず川でも池でも小石のある水邊を云ふ。裏〔傍点〕は「うら」と云ふ意。○斯くしもがも 斯くありたいと希ふ意。し〔傍点〕は強めの語、も〔傍点〕は感動詞、がも〔二字傍点〕は希ふ意の感動詞で、かくの如くして住んで居たいと強く希ふのである。
【後記】 どこかユーモアがあつて佳い。おなじくユーモアでも、徳川時代の歌人や俳人の徒の如くあくどくなく、どこまでも單純で却つて上品な處は古代人のものである。參考品として、その徳川時代の蛙を一匹飛び出させて見よう。小山田與清作、「蛙おのれしたり顔して池の面の蓮の葉舟に乘りめぐるかな」。
式部大倭《のりのつかさおほやまと》が芳野《よしぬ》にて作《よ》める歌一首
1736 山高み 白木綿花《しらゆふはな》に 落ち激《たぎ》つ 夏身の河門《かはと》 見れど飽かぬかも
【題意】 式部大倭は式部省の役人で大倭といふ姓の人であらう。此の歌卷六「山高み白木綿花に落ち激つ瀧(66)の河内は見れど飽かぬかも」(九〇九)と少異あるのみである。
【口譯】 山が高いので、あたかも白木綿花を散らしたやうに落ちたぎる夏身の河門は、實に眺め飽かぬ勝れた景色である。
【語釋】 ○山高み み〔傍点〕に就いては既出。○白木綿花 木綿で作つた白い花、木綿〔二字傍点〕は楮《かうぞ》の繊維で製した布或は紙である。○激つ 既出。
【後記】 調子が古樸で素直で心を惹かれる。「白木綿花に」といふ句も嫌味はなく、激ち落つる情景を素樸に形容して居り、夏身〔二字傍点〕と云ふ固有名詞もよくきいてゐる。「白木綿花に」「夏身の河門」と云ふ特種なものがあり、しかも音律が快調をなしてゐるところがよいのである。
卷六の歌は養老七年五月元正天皇芳野に行幸の砌笠金村が詠んだのであり、此の歌は題詞芳野にて作めるとあつて年代を明かにしないが、卷九の歌が文武持統帝の年代に屬するものの多いことから見て、此の歌が先であり、恐らく傳誦されたものが金村の作となつたのであらうか。
兵部《つはもののつかさ》川原が歌一首
1737 大|瀧《たぎ》を 過ぎて真箕《なつみ》に 傍ひ居りて 淨《きよ》き河瀬を 見るが清《さや》けさ
(67)【題意】 兵部は兵部省の役人で、川原は姓であらう。
【口譯】 大瀧を過ぎ來て此の夏身の川に沿ひ行きつつ、水清き川瀬を見るがまことに清々しい。
【語釋】 ○大瀧 今日の吉野郡川上村字大瀧にあたる。
【後記】 やはり古風で淳朴である。單純にすつとよく徹つてゐて、稚拙な調子のうちに、清新の氣が溢れてゐる。前歌は此の歌に比するといくらか形式的なものがあるかも知れない。その點この歌の方が純粹でよい。尚「傍ひ居りて」は珍らしい句法で注意すべきであらう。いかにも土地(夏箕)に對する愛着のほどが見えてゐる。恰も土地を擬人視してゐるのである。此の歌を玩味する上に今一つ注意すべきは、作者は吉野川を溯らずに、上流地方から下流へと下りつつ觀照してゐる事である。
上總《かむつふさ》の末の珠名娘子《たまなをとめ》を詠める歌一首并に短歌
1738 水長《しなが》鳥 安房に繼ぎたる 梓弓《あづさゆみ》 末の珠名は 胸別《むなわけ》の 廣《ひろ》けき吾妹《わぎも》 腰細《こしほそ》の 須輕娘子《すがるをとめ》の その姿《かほ》の 端正《きらきら》しきに 花の如《ごと》 咲《ゑ》みて立てれば 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く人は (68)己《おの》が行く 道は行かずて 召《よ》ばなくに 門《かど》に至りぬ さし竝ぶ 隣の君は たちまちに 己妻《おのづま》離《か》れて 乞《こ》はなくに 鎰《かぎ》さへ奉《まつ》る 人の皆 かく迷《まど》へれば 容艶《うちしな》ひ 縁《よ》りでぞ妹は 戯《たは》れてありける
【題意】 末は「上總國|周淮《スヱ》郡|季《スヱ》」と和名抄にある處で、周淮郡は現今の君津郡である、珠名とは娘子の名である。
【口譯】 安房に續いた周淮の郡の末の珠名は、胸廣く腰の細い姿の麗しい娘子で、花のやうに笑を湛へて立つてゐると、道を通る人は自分の行くべき道も忘れて、呼びもしないのに娘子の家の門に寄つて來る。軒を並べてゐる隣の男は忽ちに自分の妻を離別して、求めもしないのに鎰さへ渡して家の内を委せようとする。人が皆こんなに娘子の美貌に迷つてしまふので、娘子はしなやかに男に縁り添うて戯れ遊んでゐる。
【語釋】 ○水長鳥 枕詞。古義には尻長《しなが》鳥の意であるとし、冠辭考には息長《しなが》鳥の義で鳰《にほ》のことであると云つて居る。○安房に繼ぎたる 安房都につづいた周淮郡といふ意。○梓弓 枕詞。○胸別の廣けき吾妹 胸別は駒間といふ意。古へは女は胸幅の廣いのを美麗としたのである。○腰細の須輕娘子 螺〓《スガル》はサソリの古名で蜂に似た腰の細い昆蟲である。娘子の腰の細いのを譬へて云つたのである。○その姿の 姿《かほ》は顔で(69)なく、容姿全體を指すのである。○端正しきに ウツクシケキニなどの訓もあるが、書紀にも日本靈異記にも端正〔二字傍点〕をキラキラシと訓んでゐる。端麗などと同じ意。○玉桙の 「道」の枕詞。○さし竝ぷ 對《むか》ひ並んでゐる近隣の意である。○隣の君は 隣〔傍点〕は戸並《となり》の義。隣の男は、と云ふ意である。○たちまちに 「預」と原文には書いてあり、カネテヨリとかアラカジメと訓む説もあるが、「頓」の誤字説に從つてタチマチニと訓んだ。誤字説は眞淵の説で古義も之に賛してゐる。○乞はなくに鎰さへ奉る 鎰〔傍点〕は家の大切なものであるが、娘子が求めもせねのにそれをさへ與へ渡して家の内の事を委せようとする、ことである。奉る〔二字傍点〕をマツルと訓むことは例が多くある。○容艶《うちしな》ひ縁りてぞ妹は うち〔二字傍点〕は動詞の上につく意味のない語。しなひ〔三字傍点〕はしなやかに曲ること。娘子が男にしなだれ縁りかかつて、と云ふ意である。
【後記】 「胸別の廣けき」とか「腰細の螺〓娘子」とかいふ言葉は、言葉としても面白味があり、「端正しき」「花の如咲みて立てれば」などと共に、珠名の姿態を描いていづれも印象的で、甘美艶麗の娘子を想像することが出來る。隣の男が妻を離縁して「乞はなくに鎰さへ奉る」と云ふのも、現代人の吾々をも失笑させる痴れ男振りを固白く敍してゐる。さうして、結句「容艶《うちしな》ひ縁りてぞ妹は戯れてありける」と云つて、珠名を蓮葉な少女にしてゐる處が、教訓的でなく、人間的で大いに面白い。詩經と萬葉集とを比較して、後者の方が遙かに文學的價値の高い事が、斯樣な片鱗にさへ善く現れてゐる。
(70) 反歌《かへしうた》
1739 金門《かなと》にし 人の來《き》立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてぞ逢ひける
【口譯】》 門に男が來て立つと、たとへ夜中でも身も打忘れて出て逢つたのである。
【語釋】 ○金門にし 金門〔二字傍点〕は宣長の古事記傳に、金物を繁く打つて堅くするから云ふのか或は又古へはすべて金を押したのであらうか、といふ意味のことを云つてゐる。し〔傍点〕は指し示す意のある助詞。○たな知らず すつかり打忘れて、の意。
【後記】 「容艶《うちしな》ひ縁《よ》りてぞ妹は戯れてありける」と長歌の終りに一般的に敍べたのであつたが、その珠名の情痴のさまを反歌に於いて具象的にしたので、「夜中にも身はたな知らず」の表現は面白く巧である。
水江浦島子《みづのえのうらしまのこ》を詠める一首并に短歌
1740 春の日の 霞める時に 墨吉《すみのえ》の 岸に出で居て 釣船の たゆたふ見れば 古《いにしへ》の 事ぞ念《おも》ほゆる 水江《みづのえ》の 浦島兒《うらしまのこ》が 堅魚《かつを》釣り 鯛釣り矜《ほこ》》り 七日まで 家にも來ず(71)て、海界《うなさか》を 過ぎて※[手偏+旁]ぎ行くに 海若《わたつみ》の 神の女《をとめ》に 邂《たまさか》に い※[手偏+旁]ぎ向ひ あひ語らひ こと成りしかば かき結《むす》び 常代《とこよ》に至り 海若《わたつみ》の 神の宮の 内《うち》の重《へ》の 妙《たへ》なる殿に 携《たづさ》はり 二人入り居て 老《おい》もせず 死《しに》もせずして 永世《とこしへ》に ありけるものを 世のなかの 愚人《かたくなひと》の 吾妹兒《わぎもこ》に 告《の》りて語らく 須臾《しましく》は 家に歸りて 父母に 事をも嗣《の》らひ 明日の如《ごと》 吾《あれ》は來《き》なむと 言ひければ 妹がいへらく 常世邊《とこよへ》に また歸り來て 今の如《ごと》 逢はむとならば この篋《くしげ》 開くな勤《めか》と 許多《そこらく》に 堅《かた》めし言を 墨吉《すみのえ》に 還《かへ》り來《きた》りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠《あやしみ》と そこに念《おも》はく 家よ出《で》て 三歳《みとせ》の間《ほど》に 墻《かき》も無く 家|滅《う》せめやも この筥《はこ》を 開きて見てば 舊《もと》の如《ごと》 家はあらむと 玉篋《たまくしげ》 少《すこ》し披《ひら》くに 白雲の 箱より出《い》でて 常世邊《とこよへ》に 棚引きぬれば 立ち走《わし》り 叫《さけ》び袖振り 反側《こいまろ》び 足ずりしつつ たちまちに 情《こころ》消失《けう》せぬ 若《わか》かりし 皮《はだ》も皺《しわ》みぬ 黒かりし 髪も白《しら》けぬ ゆりゆりは 氣《いき》さへ絶《た》えて 後つひに 壽《いのち》死にける 水江《みづのえ》の 浦島子《うらしまのこ》が 家地《いへところ》見ゆ
(72)【題意】 有名な浦島の傳説を歌つたものである。浦島の物語は古く日本書紀雄略天真卷を初め、續日本紀、俗本日本後紀、丹後風土記、浦島子傳等に見える。水江浦島子の水江は氏、浦島は名、子は男子の名に附ける稱呼である。
【口譯】 春の日の霞んでゐる時に、墨吉の海岸に出て釣船が波にゆら/\搖れて居るのを見ると、古い物語が思ひ出される。水江の浦島子が、堅魚釣りや鯛釣りの獲物が多いのに得意になつて、七日も家に歸つて來ないで、海の果てを漕いで行くうちに、海神の少女にゆくりなくも行き逢ひ、互に語り合うて事が成り立つたので夫婦の契を結び、常世の國に至り、海神の宮の奥の善美を盡した御殿に相連れ立ち入りて行きて二人居り、年も老いず死と云ふことも無くして、永久に住んで居られたのに、世にも愚か者の浦島子は、愛しい妻に向つて、ほんの暫くの間家に歸つて父母に事の次第をも語りきかせ、明日にも吾は立ち歸つて來よう、と云ふと女が、常世の國にまた歸つて來て今の樣に共々に暮らさうとお思ひならば、この筥を決してお開きなさるなと云つて、呉々も堅く約束した事であるのに、墨吉に歸つて來て自分の家を採したが家もわからず、里も見つからない。それで怪しいことだと、家を出て三年しか經たぬ間に、こんなに垣もなく家もなくなることがあらうか、そんな筈はない、この筥を開けて見たならば元の樣に(73)家もあるであらうと、筥を少し開けると白い雲が其の中から立ち昇つて常世の國の方へ棚引いたので、驚き走り廻り、叫んだり袖を打ち振つたり、伏しころがり足ずりをして歎いて、忽ちに意識を失つてしまつた。若々しかつた皮膚は皺が出來、黒かつた髪も白くなつて、その果てには息も絶えて遂に死んでしまつた。と云ひ傳へられるその浦島子の家の地だと云ふ處が見える。
【語釋】 ○墨吉 丹後國與謝部にある地名であらうと云ふ。今の竹野郡網野町附近の浦であると云ふ。○たゆたふ 搖れ定まらぬこと。○古の事ぞ念ほゆる 浦島の故事が思ひ出される、と云ふので次の句から傳説を述べてゐるのである。○堅魚釣り鯛釣り矜り 堅魚釣り矜り鯛釣り矜りの意。矜る〔二字傍点〕は得意になると云ふ意。○海界 海の果《は》ての意である。○海若 海神の名を綿津見神と云ふ。○邂に たまたまに、偶然に、の意。○い※[手偏+旁]ぎ向ひ い〔傍点〕は發語で意味はない。○こと成りしかば 事が成就したから、と云ふ意。○かき結び かき〔二字傍点〕は添へ云ふ辭で特に意味はない。結び〔二字傍点〕は夫婦の契を結ぶを云ふ。○常代 永劫不變、不老不死の世界。蓬莱山とも云ふ。○内の重 禁裡の御門の外を「外《と》の重」、内を「内《うち》の重」と云ふのに、なぞらへて云つたのである。○妙なる殿 善美を盡した御殿。○携はり 相連れ立つこと。○世のなかの愚人 世間にあらゆる第一の愚癡な人と云ふ意で、浦島子を指したのである。「愚《かたくな》」のかた〔二字傍点〕は「かたよる」意で、くな〔二字傍点〕は無智の意である。○吾妹兒 意味は既出、海神の少女を指す。○告りて 云ひ聞かすと云ふ(74)意。○明日の如 今日行きて明日歸る如く速に、の意。○篋 櫛笥で、櫛などの道具を入れる筥、轉じて單に筥をも云ふ。○開くな勤と ゆめ/\開くなかれと、の意。○そこらくに そこばくにと同じ。○堅めし言を 堅く約束した事であるのに、と云ふ意である。○家も見かねて 家も見ることが出來ないで、の意。かね〔二字傍点〕は心に欲する事が成就しないことを云ふ。○恠と 怪しいによつて、の意。○そこに念はく そこで思ふやう、と云ふ意である。○玉篋 玉〔傍点〕は美しみ云ふ辭で、單に篋のこと。○反側び ころび伏す、といふ意。○足ずりしつつ 怒る時歎く時などに足を踏み摩りあがくこと。○ゆりゆりは 後々は、の意である。○家地見ゆ 家の址と語り傳へる地が見えると云ふ意で、第六句の「たゆたふ見れば」に對して結びとなつて居る。
【後記】 萬葉集中稀に見る長篇の叙事詩である。
初句「春の日の」から「古の事ぞ念ほゆる」まで第一段で、うら/\と霞立つ長閑な春の日に海邊に居て春にふさはしい神秘的傳説を想ふ境地を敍し、第二段「水江の浦島兒が」から一篇の終りに近く「壽死にける」までに浦島の傳説を物語り、第三段「水江の浦島子が家地《いへところ》見ゆ」で結びとして第一段に照應せしめ、首尾を整へてゐる。而して第二段の物語は日本書紀、風土記が龜を點出してゐるのと異なり海神の女に逢つて夫婦の契を結ぶのであり、構成と筋の運びが神秘的物語であり乍らも自然であり、敍述が暢達である。
(75) 尚傳説は客觀的に敍述した中に「……ありけるものを世のなかの愚人の」と作者の主觀を一言加へてゐるのは、注意してよい點であらう。此の主觀は享樂的、樂天的、人間的であつて、我が民族のおのづからな心持である。支那人の詩經にはこれが缺如してゐるから面白くないのである。詩經は編纂の動機からして功利主義的である爲めに、篇中到處凡俗な處世訓が眼に障つて困らせられる。詩經には乙姫樣と浦島太郎さんとの戀物語と云ふやうな慾も得《とく》もない題材は見當らないのである。假りに有つたとしても、詩經の作者は「常世べに住むべきものを」とは批判せずして、龍宮の娘などと關係するのがてんで〔三字傍点〕間違ひであると教訓し度がるのである。話は少しく逸《そ》れるけれども、寒山詩にしたところで、私の嗅覺には屡々俗臭を感ぜしめる。あれは俗人の擬作した隱遁詩に相違ない。
古來浦島説話が文獻として乃至文學として現はれたのは、此の長歌以外にも、數多ある。傳説記録としては日本書紀雄略天皇の條、丹後風土記、日本後紀第十八、扶桑略記卷二、浦島子傳、續浦島子傳記等あり、文學的産物としては御伽草子浦島太郎、謠曲浦島、近松淨瑠璃浦島年代記、坪内逍遥新曲浦島、森鴎外玉篋兩浦嶼などある。それらの中で、萬葉集卷九の長歌及び反歌が白眉なること疑ない。他のものは皆、多少に拘らず、實録化し、複雜化し、乃至支那(76)文學の神仙譚を過度に取入れたり、或は又近代理論化したりして、我が民族説話としての素朴な神話味を殆ど破壞して了つてゐる。
此の長歌は省略し得る限り省略した内容に於いて浦島説話を歌ひ上げてゐる。禁止動因の玉手箱だけは必須條件として使つてゐるけれども、トーテムの龜も使つてゐないし、從つて動物報恩説も使つてゐないし、説話の舞臺である龍宮に就いても何等記述をしてゐないし、靈藥も使つてゐないし、最期の浦島を神仙に甦生せしめてもゐない。最も簡素な内容を以つて此の説話を詩化した所に大倭民族の原始的匂ひが漂ふ。此の長歌を遊仙窟等支那神仙譚の影響に因る所産と解釋する一派の説に私は賛同しかねる。不老不死の超人間的境涯を希求し、その象徴として美女を點出する神婚説話は、上古から印度にもギリシャにも南洋にも支那にも朝鮮にも播布された普遍的のものである。浦島傳説を日本民族みづからが所有してゐたとしても、何等不思議はないのである。
反歌
1741 常世邊に 住むべきものを 釼刀《つるぎたち》 己《し》が心から おそやこの君
(77)【口譯】 常世の國に永く住んで居られるのに、己《おの》が心からかくなつた愚鈍なこの君よ。
【語釋】 ○釼刀 枕詞。「心」につづくのである。○己が心から 汝のこころ故、との意。○おそやこの君 おそ〔二字傍点〕は心がおそいので、鈍きこと。や〔傍点〕は咏嘆。
【後記】 長歌の第二段である物語中に、一言を差挾んだ作者の主觀を反歌として強く詠じたので、物語の主人公に對して作者の加へた痛烈な批評である。
河内《かふち》の大橋を獨《ひとり》去《ゆ》く娘子《をとめ》を見る歌一首并に短歌
1742 級照《しなて》る 片足羽河《かたあすはがは》の さ丹塗《にぬり》の 大橋の上《へ》よ 紅《くれなゐ》の 赤裳|裾引《すそび》き 山藍《やまゐ》用《も》ち 摺《す》れる衣《きぬ》著て ただ獨《ひとり》 い渡らす兒は、若草の 夫《つま》かあるらむ 橿《かし》の實《み》の 獨か寢《ぬ》らむ 問はまくの 欲《ほ》しき我妹《わぎも》が 家の知らなく
【題意】 河内大橋は河内國片足羽河に架つてゐる大橋。
【口譯】 片足羽河の丹塗の大橋の上を、赤い裳の裾を引き山藍染めの着物を着てただ獨りで渡つてゆく少女は、夫があるのであらうか、それともまだ獨り寢の身であらうか。問ひたく思ふが(78)打ちつけに尋ねもならず、その少女の家も知らない。
【語釋】 ○級照る 枕詞。意義に就いては二三の説があるが、古義は嫋《しな》やかな樣を云ふ語で、「片」につづくのは肩の義であり、なよ/\と嫋《しな》やぐ肩と云ふ意に云ひかけたのであらうと言つて居る。○片足羽河 河内志に志紀郡と安宿との境の石川(大和川の支流)の舊名であるとしてゐるが、一説に片足羽〔三字傍点〕は今の中河内郡堅上村竪下村の舊名で、其處を流れる河を片足羽河と云つたと云ふ。大日本地名辭書に依ると、大和川の堅下地方での別名を片足羽川と云ひ、大橋〔二字傍点〕は大和川北岸竪下村安堂から南岸南河内郡道明寺村船橋に架けられた橋であらうと云ふ。○さ丹塗の さ〔傍点〕はま〔傍点〕などと同じく意味のない語、丹塗〔二字傍点〕は朱で美しく塗つたの意。○山藍用ち摺れる衣 山藍で染めた衣である。山藍〔二字傍点〕は山の麓、森の下、藪蔭等の陽の當らぬ地に生ずる一種の草で、汁を藍色の染料に用ゐた。○い渡らす兒は い〔傍点〕は意味のない發語、渡らす〔三字傍点〕は「渡る」を延べて言つた敬語、兒〔傍点〕は娘子を指す。○若草の 枕詞。○橿の實の 枕詞。栗などの實は一房の内に二個三個と包まれてゐるが、橿の實は一※[木+求]の内に一個づつであるから、「獨り」につづけたのであるといふ。○問はまくの 問はむことの、といふ意。○家の知らなく 少女の家を知らぬが、如何にもして知りたいとの意を含んでゐる。
【後記】 丹塗の橋、紅の赤裳、山藍染めの衣など、色彩を幾重にも重ねて音調と共に繪畫的美觀を敍し、一轉して作者の鯉情を述べてゐるが、前半の印象的な色彩感が強く殘つて、後半之に(79)相應ずる程に訴へるものがないのではあるまいか、と現代人の我等は批評したがるのである。乍併、それは批評者の頭腦が現代的にうるさく〔四字傍点〕成り過ぎてゐるからである。私などは此の長歌を口誦さむと、作者の綿々たる情緒に同感出來るやうに思ふ。若きダンテはフィレンツェのアルノ河に架けたヴエツキオ橋上で戀人ベアトリーチエと行きあつた。彼女は虔ましやかに目禮したのみで行き過ぎてしまつた。然かも彼女は「若草の夫《つま》かあるらむ」と問ふ間もなく、他家へ縁付いてしまつた。大詩人はそれを生涯忘れかねて、その苦痛が「新生」や「神曲」を創造せしめる勤横と成つたとさへ云はれてゐる。片足羽川の丹塗大橋で少女を瞥見した古代人は、此の長歌を序曲として、その後、人麿にも劣らぬ沈痛な戀歌を幾篇か作つた。唯それが湮滅して、萬葉集に傳へられて居ないのであらう。
反歌
1743 大橋の 頭《つめ》に家あらば 心悲《まがな》しく 獨|去《ゆ》く兒に 宿|貸《か》さましを
【口譯】 大橋の橋詰に吾が言えがあるなら、唯ひとりゆく少女に、眞心からいとほしんで宿を貸さうものを。
(80)【語釋】 ○頭 ホトリ(舊訓)、ベ(考)といふ訓もあるが、古義はツメと訓む。橋詰のことである。○心悲しく 心〔傍点〕は信實にの意、悲しく〔三字傍点〕は愛憐の意である。第五句につけて釋く。
武藏の小埼沼《をさきのぬま》の鴨を見て作《よ》める歌一首
1744 埼玉《ききたま》の 小埼の沼に 鴨ぞ翼《はね》きる 己《おの》が尾に 零《ふ》り置ける霜を 掃《はら》ふとならし
【題意】 旋頭歌である。
【口譯】 埼玉の小崎の沼で鴨がしきりに羽ばたきをする。尾に降つた霜を打ち拂はふとしてであらう。
【語釋】 ○翼きる 羽ばたきすること。
【後記】 「翼|振《き》る」といふ言葉は特色のある面白い言ひ方である。早曉冷氣透徹、寒々と湛へた沼、枯葦に置いた白霜に通ふ鋭いひびきがあつてよい。下句は「零り置ける」「掃ふとならし」など幾らかたど/\しい。
那賀郡|曝井《さらしゐ》の歌一首
(81)1745 三栗の 中に向《めぐ》れる 曝井《さらしゐ》の 絶えず通はむ 彼所《そこ》に妻もが
【題意】 那賀郡は常陸國那珂郡である。曝井は常陸風土記に、「那賀(ノ)郡、自v郡東北|挾《ナカニオキ》2栗河1而《テ》置2驛家(ヲ)1、當2其以南(ニ)1、泉出2坂中(ニ)、多流尤清(ケシ)、謂2之|曝井《サラシヰト》1、縁《ヒテ》v泉(ニ)居《ヲル》村落《ムラ》婦女、夏月會集浣(ヒテ)v布(ヲ)曝乾《サラセリ》、」と。
【口譯】 那珂郡に流れ廻《めぐ》つてあるこの曝井の水の絶えぬ樣に、いつまでも絶えず通うて來て水を掬ばうと思ふが、其處に愛しい妻もあつて欲しい。
【語釋】 ○三栗の 枕詞である。契沖の説に、「栗は多分栗毬の中に、三つづつあるものなり、たとひまろき栗の一つ有るにも、栗楔とて、間邊にそへたる物あり、其の栗楔は杓子に似たれば、俗に杓子と云ふなり、此の故に三つあるものには必ず中《なか》あれば、中といふこと葉まうけむとて、みつくりとはいへり、」と。○中に向れる 宣長は向れる〔三字傍点〕は「囘れる」の誤と云ふ。那珂郡を流れ廻ると云ふ意。
手網濱《たづなのはま》の歌一首
1746 遠妻し 高《たか》にありせば 知らずとも 手綱《たづな》の濱の 尋ね來なまし
【題意】 手綱濱は、八雲御抄に、紀伊と註されてある。此の歌は、旅の人が手綱濱で詠んだものである。
【口譯】 速く故郷に殘して來た妻が、せめてこの高の里の附近にでも居つたならば、道はよく知(82)らないでも、手綱の濱で尋ねて來ようものを。
【語釋】 ○遠妻し 遠妻〔二字傍点〕は古郷に殘し遠く別れて來た妻。し〔傍点〕は特に指し示し云ふ助詞。
春三月、諸卿大夫等、難波に下れる時の歌二首並に短歌
1747 白雲の 龍田《たつた》の山の 瀧《たぎ》の上《へ》の 小鞍《をくら》の嶺に 咲きををる 櫻の花は 山高み 風の息《や》まねば 春雨の 繼《つ》ぎて零《ふ》れれば 秀《ほ》つ枝《え》は 散り過ぎにけり 下枝《しづえ》に 殘れる花は 須臾《しましく》は 落《ち》りな亂《みだ》りそ 草枕 旅行く君が 還《かへ》り來《こ》むまで
【題意】 「慶雲三年九月丙寅行2幸難波1、十月壬午還v宮、」と續日本紀にある。此の年の春から行幸の用意のために三月に卿大夫等を難波に下された、その時に詠んだ歌であらう。
【口譯】 龍田山の瀧の上の小倉の嶺に咲き滿ちてゐる櫻の花は、山が高い故に風がやまず吹き、春雨が幾日も續いて降るので、上枝の花は散り過ぎてしまつた。下枝に殘つてゐる花は、旅行く君が還り來て見る日まで、しばらくの間散り果てずにあれよ。
【語釋】 ○白雲の 「立つ」とつづく枕詞である。○瀧の上 龍田川の瀧の上方の意。小倉山は瀧の上方の山である。○小鞍の嶺 龍田山の中の一つの嶺の名である。此の卷の初「暮《ゆふ》されば小椋の山に臥す鹿の」(83)とある小倉山も之である。○咲きををる たわ/\に咲きたわむこと。櫻の花が爛漫と咲いてゐるさまである。○秀つ枝 上枝のことである。○下枝 石著枝《しづえ》、下に垂れて石土に著く意である。○草枕 既出。
反歌
1748 吾が行《ゆき》は 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめ此の花を 風にな散らし
【口譯】 吾がゆく旅は長くも七日を過ぎることはあるまい、風神の龍田彦神よ、ゆめゆめこの花を散らし給ふな。歸つて再び眺めようものを。
【語釋】 ○龍田彦 神名式に、「大和國平群郡、龍田(ニ)坐天(ノ)御柱國(ノ)御柱神社、二座」とあり、又「龍田比古龍田比賣(ノ)神社二座」とある。龍田山麓の立野村の神社にある由。風神である。○ゆめ此の花を ゆめ〔二字傍点〕は既出。
【後記】 この長歌と反歌とは作者の人格が違ふのではあるまいか。反歌は旅行く人、長歌はその妻が詠んだものと解することが出來る。若しさうであるならば、極めて珍らしい行き方で大いに注意してよい點である。
(84)1749 白雲の 立田の山を 夕晩《ゆふぐれ》に うち越え行けば 瀧《たぎ》の上《へ》の 櫻の花は 吹きたるは 散り過ぎにけり 含《ふふ》めるは 咲き繼《つ》ぎぬべし こちごちの 花の盛に 見せずとも かにかくに 君の御幸《みゆき》は 今にしあるべし
【口譯】 立田山を夕暮に越えて行くと、瀧の上の櫻の花は咲いたのは既に散り過ぎてしまつた、蕾はやがて次々に咲くであらう。此方彼方の花の盛を一度に御覽になることは出來なくとも、ともかくも君の御幸は間もなく直ぐあるであらう。
【語釋】 ○うち越え行けば 馬に鞭うつて山を越えゆけば、の意。○含めるは 莟んでゐるのは、といふ意。○こちごちの 此方此方といふので、彼方此方の意。○見せずとも 一度に御覽にならずともと云ふ意である。古義には、此の句の次に、「落りな亂りそ」などの句が落ちたのであらうかと云つて居る。○かにかくに 兎にも角にもの義で、最早とにかく間もなくといふ意である。○今にしあるべし 今〔傍点〕は俗にいふ「追つつけ」の意である。にし〔二字傍点〕は確にさうであると強め云ふ辭。
【後記】 前の長歌と同巧異曲である。前の長歌が「小倉の嶺に咲きををる櫻の花は山高み……」と一般的なのに對して、之は「夕暮にうち越え行けば」と限定的に云つた點は、具象化されてゐてはつきりした印象を與へる。「咲きたるは散り過ぎにけり、含めるは咲き繼ぎぬべし」に(85)しても、前歌の觀念的であるに比してこの方が情景を眼前にしてゐる感が深い。そしてこの一篇を結ぶ結句「旅行く君が還り來むまで」は「君が御幸は今にしあるべし」の強く限定した言葉で据ゑた現實感があるのには及ばない。
反歌
1750 暇あらば なづさひ渡り 向つ峯《を》の 櫻の花も 折らましものを
【口譯】 暇があるならば水を渡つて向うの峯の櫻の花を折取つて見せようものを。
【語釋】 ○暇あらば 行幸の御用意に忙しいが、暇もあらばとの意。○なづさひ渡り なづさふ〔四字傍点〕は水に浮かぶ、沈む、渡る等に云ふ。○櫻の花も 自分が見るのみならず、折つて故郷の人に見せたいといふので、「櫻の花を〔傍点〕」とせずに「櫻の花も〔傍点〕」としたのであると古義に説いてゐる。
難波に經宿《やど》りて明日《あくるひ》還來《かへ》る時の歌一首并に短歌
1751 島山を い往き廻《もとほ》る 河副《かはそひ》の 岳邊《をかへ》の道よ 昨日こそ 吾《あ》が越え來《こ》しか 一夜のみ(86)宿《ね》たりしからに 岑《を》の上《うへ》の 櫻の花は 瀧《たぎ》の瀬よ 落《たぎ》ちて流る 君が見む その日までには 嵐の 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜《もり》に 風祭《かざまつり》せな
【口譯】 島山をめぐり流れる河に沿うた丘のほとりの道を、たつた昨日越え來て、一夜だけ宿つたばかりであるのに、峯の上に咲いてゐた櫻の花は、水の上に散つて瀧の瀬から激ち流れて居りる。行幸遊ばされて御覽になるその日までは、嵐の風が吹かぬやうにと、山越えて、風神の名を負ふ龍田の社に風祭をしよう。
【語釋】 ○島山 契沖は大和であるとし、古義では地名でなく立田川に臨んでゐる山を云ふのであらうと言つて居る。○い往き廻る い〔傍点〕は發語で意味はない。もとほる〔四字傍点〕は、「まはる」に同じ意。○宿《ね》たりしからに からに〔三字傍点〕は、「故に」の意。○落ちて流る 櫻の花が水の上に散り落ちて瀧と共にたぎち流れることを云つたのである。○君が見む 君〔傍点〕は天皇で、行幸せられて御覽になる、との意。○名に負へる杜 風神と名に負へる杜のことで、龍田の社である。前々の反歌に述べた。○夙祭せな 風祭〔二字傍点〕は延喜式によると、四月七月の兩度に行はれる五穀成就の祭典である由であるが、茲ではその式でなく、行幸の前に花のために祭を行はうと云ふのである。せな〔二字傍点〕はせむ〔二字傍点〕と略同じ意である。
【後記】 前の二つの歌は往路の作であり、之は歸路の作である。此の時代の短歌と同樣に平明で(87)分り易く、形式的なところが少くて好感が持てる。「河副の岳邊の道よ、昨日こそ吾が越え來しか」「岑の上の櫻の花は瀧の瀬より落ちて流る」など、掴むべきものを確かに把握し巧まずして好い表現をなしてゐる。
反歌
1752 い行相《ゆきあひ》の 坂の麓に 咲きををる 櫻の花を見せむ兒もがも
【口譯】 龍田山の坂の麓に咲き盛る埠の花を吾が見せてやるべき愛しき少女よあれかし。
【語釋】 ○い行相の坂 いは意味のない發語。之は坂の名ではなく、此方彼方から登る人が行き逢ふので、「行きあひの坂」と云つたのである。○咲きををる 既出。○兒もがも 兒〔傍点〕は男にでも女にでも親愛の情を以て云ふ時に用ゐるが、ここでは少女を云ふのである。がも〔二字傍点〕は希望の意を現はす感嘆詞。
【後記】 長歌は櫻の花の散るを見て行幸まで花の散つてしまはぬ事を希つてゐるのであるが、轉じて反歌には現實に花の爛漫たるを見て携はり遊ぶ愛人を想ふので、反歌として一つの變つた行き方である樣に思ふ。
(88) ※[手偏+僉]税使大伴卿の筑波山に登りたまへる時の歌一首并に短歌
1753 衣手《ころもて》 常陸の國 二竝ぶ 筑波の山を 見まく欲《ほ》り 君|來《き》ませりと 熱《あつ》けくに 汗かきなげき 木《こ》の根取り 嘯《うそむ》き登り 岑《を》の上《うへ》を 君に見すれば 男《を》の神も 許し賜ひ 女《め》の神も 幸《ちは》ひ給ひて 時となく 雲居《くもゐ》雨|零《ふ》る 筑波嶺を 清《さや》に照らして いふかりし 國のまほらを 委曲《つばらか》に 示し賜へば 歡《うれ》しみと 紐《ひも》の緒《を》解《と》きて 家の如《ごと》 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましよは 夏草の 茂くはあれど 今日の樂《たぬ》しさ
【題意】 ※[手偏+僉]税使は年貢の損益多少等を※[手偏+僉]へ校へる勅使である。大伴卿に就いて契沖は「大伴安麻呂であらうか、しかし安麻呂でも旅人でも日本紀續日本紀に※[手偏+僉]税使に遣はされたことが載つてゐない。卷九(一七八二)に『鹿島郡刈野橋、別2大伴卿1歌一首并短歌』、又其の左註に『右二首、高橋蟲麻呂之歌集中(ニ)出』、とあるから※[手偏+僉]税使の事了つて歸京の時、蟲麻呂が常陸に留つて詠んだのであらうか。」と云ふ説を立てて居る。歌中の「君」と云つたのは大伴卿を指してゐるのである。
【口譯】 常陸の國に二つの峯の並ぶ筑波山を、見たいと思つて君が來ましたので、熱いにも拘らず汗かき大息ついて木の根に取りすがり、又歌を吟じたりして坂を登り、峯の上を君に御覽に入れると、山の二つの社の男の神は山に登ることを許し給ひ、女の神も受納し給うて、時定ま(89)らず雲が居て雨の降る筑波嶺の雲を拂つて清《さや》かに日の光を照らして、欝陶しかつた國をつまびらかに示し見せ給へば、喜びうれしくて装束解いて、吾が家に在る樣に心うち解けて遊ぶのである。春の霞立つ時に見るよりは、夏草が生ひ茂つて煩はしいけれども、雲はれた今日の眺めの方が一段と勝れて心樂しい。
【語釋】 ○衣手 枕詞。細木瑞枝の説に、衣手端揚《コロモテハタタギ》の意であるのを、端〔傍点〕はヒタに通ひ、揚〔傍点〕はチと約つて、ヒタチに懸るのであらうと云ふ。尚端〔傍点〕は袖の端の方を云ひ、揚〔傍点〕はたぐり揚げるを云ふ。と宣長の古事記傳にある由である。○二並ぶ筑波の山 筑波山は峯が二つ並び、高きを男神と云ひ、低きを女神と云ふ。○熱けくに 熱くあるに、と云ふ意。○汗かきなげき 夏に坂を登つたので汗出で大息をつく、ことを云つたのである。「なげき」のき〔傍点〕は舊本にはないが、楫取魚彦の説に從つて之を補つた。○木の根取り 險しい山坂を登る時木の根につかまることを云つたのである。○嘯き登り 聲を出して歌ひつつ坂を登るのである。○男の神・女の神 筑波山の二つの神社で、大社を男神、小社を女神と云ふ。○許し拾ひ ※[手偏+僉]税伎の山に登ることを許し給ふ、ことである。○幸ひ給ひて 山に登るを受納し給うて、の意である。○時となく雲居雨零る いつと云ふ時の定まりもなく雨が降る、と云ふ意。○清に照らして 神が雨雲を吹き拂つて清かに日光を顔らして、と云ふ意。○いふかりし いぶせくあつた。との意で、鬱陶しかつたと云ふこと。し〔傍点〕は過去の意を現はす。○國のまほら まほら〔三字傍点〕は古事記倭建命御歌「大和は國のまほろば〔四字傍点〕疊なづく青(90)垣山籠れる大和しうるはし」に本づく言葉で、まほろば〔四字傍点〕のま〔傍点〕は眞〔傍点〕で美稱、ほ〔傍点〕は含まれ籠れるを云ひ、ろば〔二字傍点〕は助詞で、山々に包まれて籠れる地のことである。茲ではそれほどの深い意ではなく、ただ國〔傍点〕と云ふことを古語を借りて云つたまでである。○委曲に つまびらかに、の意。○示し賜へば 神が示し見せ給へば、の意。○歡しみと うれしさにと云ふ意。と〔傍点〕には特別の意味はない。○紐の緒解きて 装束を脱いで安らぐ意である。○家の如 吾が家の如く、と云ふ意。○解けてぞ遊ぶ うちとけて遊ぶこと。○うち靡く 枕詞。草木の若枝のしなやかに打靡く春と云ふ意から、「春」にかかる。○春見ましよは 春見るべきよりはの意。「見まし」の之〔傍点〕は「久」の誤で見まく〔三字傍点〕の方が理に適つてゐる。(91)春は花咲き鳥嘲りなどしておもしろい時であるが、霞がかかつてゐる、その時に眺めるよりはと云ふのである。○夏草の茂くはあれど 夏草が生ひ茂つて山坂を登るには煩はしいけれども、と云ふ意。
【後記】 「歡しみと紐の緒解きて家の如解けてぞ遊ぶ」は面白いと思ふが、長歌では春登るより夏の方がよいと云ひ、反歌では今日が昔の人が遊んだより遙に樂しいと力説してゐる。大伴卿を歡迎して御覽に入れるために歌つたのであらうが、きう云ふ意圖があらはに目立ち過ぎる。
反歌
1754 今日の日に いかで及《し》かめや 筑波|嶺《ね》に 昔の人の 來けむ其の日も
【口譯】 昔の人が筑波嶺に登つて遊んだ其の日も、興深かつたであらうけれども、今日のこの面白さにはとても及ぶべくもない。
霍公鳥《ほととぎす》を詠める謌《うた》一首并に短歌
1755 ※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の 生卵《かひこ》の中《なか》に 霍公鳥《ほととぎす》 ひとり生れて 己《し》が父に 似ては鳴かず 己《し》が母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野《ぬ》邊よ 飛び翻《かけ》り 來鳴き響《とよ》もし 橘の 花(92)を居《ゐ》散らし 終日《ひねもす》に 鳴けど聞きよし 幣《まひ》はせむ 遠くな行きそ 吾《わ》が屋戸《やど》の 花橘に 住み渡り鳴け
【口譯】 杜鵑が鶯の卵の中にまじつて、ひとり生れて、その父なる鶯に似ては鳴かず、その母なる鶯に似ても鳴かず、空木の花の咲いた野邊から飛び翔り來て鳴きしきり、橘の花をふみ散らし、終日鳴きつづけても聞いてゐてまことに面白い。贈物をするから遠くへ飛び去らずに、吾が家の庭の花柄に住んで鳴いてお呉れ。
【語釋】 ○生卵 卵のこと。杜鵑は自分の生んだ卵を鶯の巣の内に入れて置いて、鶯に孵され育てられる習性がある。○己が父に 己〔傍点〕は、それ〔二字傍点〕と(93)云ふ意で鶯をさしてゐる。○卯の花 空木《うつぎ》の花のこと。空木は高さ六七尺の灌木で幹の中がうつろである。夏の初めに五辨の白花が五六寸の穗をなして開く。○幣はせむ 進物を贈る意。卷五山上憶良の歌に「稚《わか》ければ道行き知らじ幣はせむ〔四字傍点〕黄泉《したべ》の使負ひて通らせ」(九〇五)、卷六湯原王の歌「天《あめ》に坐《ま》す月讀壯子《つくよみをとこ》幣はせむ〔四字傍点〕今夜《こよひ》の長さ五百夜《いほよ》繼《つ》ぎこそ」(九八五)、卷十七大伴宿禰池主の歌「玉ほこの道の神たち幣はせむ〔四字傍点〕我《あ》がおもふ君をなつかしみせよ」(四〇〇九)、卷二十丹比國人眞人の歌「我が宿に咲けるなでしこ幣はせむ〔四字傍点〕ゆめ花散るないやをちに咲け」(四四四六)の用例がある。
【後記】 ほととぎすが卵を鶯の巣の中に生んで育成させるといふ、興味ある鳥の習性をよみ込んだ珍らしく異色のある歌である。「橘の花を居散らし」も新鮮である。空木の花さく野べから飛び來て、やはり花咲く橘の庭に鳴き響むのも、照應が利いてゐる。契沖の歌「霧深き谷より出でし鶯の野べの霞に又や咽《むせ》ばむ」が思ひ出される。
ホトトギス、カツコウ、ツツドリ等杜鵑類に屬する羽族が總じて自分の巣を営まないで他鳥の巣に卵を生み落す狡猾な習性を持つ事實は、現代の動物學者が證言する迄もなく、一千餘年前の古代人が承知し切つてゐて、萬葉の此の長歌を成さしめてゐる。近松淨瑠璃の文句にも「鶯の巣に育てられ、子で子にならぬほととぎす」とあつて、此の鳥を不孝者の代名詞にしてゐ(94)る。シエークスピヤも、「リヤ王」序幕第四場に籠雀(カヤクグリ)が、巣の中にカツコウを餘り長い間養つておいたので自分がその鳥に喰ひ殺された事を敍してゐる。つまりカツコウの忘恩を云つてゐるのだ。ところで、素朴を萬葉歌人は此の鳥の習性を忘恩とか不孝とか責めずに、唯その父母に聲が似てゐないとだけ云つてゐる。古代人はすべて幼く自然に感じるだけであつて、教訓に墮ちない處が面白い。
反歌
1756 かき霧《きら》し 雨の零《ふ》る夜を 霍公鳥《ほととぎす》 鳴きてゆくなり.※[立心偏+可]怜《あはれ》その鳥
【口譯】 空を立ち覆うて雨の降る夜に杜鵑が鳴いて行く、ああその杜鵑よ。
【語釋】 ○かき霧らし かき〔二字傍点〕は添へ云ふ辭。霧らし〔三字傍点〕は「きり」の伸びたので、霧が立ち覆ふのを云ふ。○※[立心偏+可]怜 愛しみ賞めて云ふ辭。
【後記】 長歌に晝の間橘の花に來鳴くほととぎすを詠んだのに對して、反歌として雨夜のほととぎすをうたつたのである。「鳴きてゆくなり」は何かあはれな感慨がこめられてゐると思ふ。上田秋成の歌、雨後郭公「五月雨は夜中に晴れて月に鳴くあはれその鳥あはれその鳥」。
(95) 筑波山に登る歌一首并に短歌
1757 草枕 旅の憂《うけく》を 慰むる 事もあれやと 筑波|嶺《ね》に 登りて見れば 尾花|落《ち》る 師付《しづく》の田井に 鴈がねも 寒く來《き》鳴きぬ 新治《にひはり》の 鳥羽の淡海《あふみ》も 秋風に 白浪立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日《け》に 念《おも》ひ積《つ》み來《こ》し 憂《うけく》は息《や》みぬ
【口譯】 旅の憂さ佗しさを慰める事もあればよいと思つて、筑波山に登つて見ると.山の麓の尾花が散る志筑の田には鴈が來て寒々と鳴いてゐる。新治郡の騰波《とは》の湖も秋風吹いて白い浪が立つてゐる。この筑波山のおもしろい景色を見ると、長い月日の間に心に思ひ積つてゐた旅の憂愁は、すつかり消えてしまつた。
【語釋】 ○草枕 「旅」の枕詞。既出。○憂を 憂くあるをと云ふ意。○事もあれやと 事もあれかしの意。舊本、「事毛有武跡」とあつてコトモアラムトと訓む説もあるが、茲では古義の武〔傍点〕は「哉」の誤字説に從つた。○師付の田井 師付〔二字傍点〕は、筑披山の麓の志筑郷を云ふ。田井〔二字傍点〕はただ田と云ふこと。○新治 新治郡である。○鳥羽の淡海 常陸國風土記に「新治郡、郡(ノ)西一里有2騰波《トハノ》江1(長二千九百歩、廣一千九百歩)」とある.この騰波の湖を指すのである。この湖は後世は今日の霞ケ浦と解してゐる樣であるが、或は今では(96)無くなつてしまつてゐるとの説もある。○よけくを見れば よくあるを見ればと云ふ意である。○長き日に 長き月日に、の意。け〔傍点〕は「來經」の約つた語で「け並べ」「け長く」などの用例がある。○念ひ積み來し さま/”\の旅の憂苦を思ひ積んで來た、と云ふ意。
【後記】 「旅の憂を慰むる事もあれやと」と云ひ、「念ひ積み來し憂は息みぬ」と結構を整へてゐる。鴈の聲、白浪立つ湖など蕭々たる情景であり、尾花、雁がね、寒く、淡海、秋風、白波など材料は多いが、「鴈がねも〔傍点〕寒く……」「鳥羽の淡海も〔傍点〕……」とも〔傍点〕で對照せしめた調子も煩はしく.一首として逼つて來るものに乏しいのであるまいか。初と終を整へたのもつき過ぎてゐる。先づ普通程度の出來榮えである。
反歌
1758 筑波|嶺《ね》の 裾廻《すそみ》の田井に 秋田苅る 妹がり遣らむ 黄葉《もみぢ》手折《たを》らな
【口譯】 筑波山の麓のめぐりの田に稻を刈つてゐる娘に遣る爲に黄葉を手折らう。
【語釋】 ○裾廻の田井 山の裾をめぐつてゐる田である。○妹がり遣らむ がり〔二字傍点〕は、「の許に」の意で、他の語について副詞とする接尾語。妹の許へ遣さう爲の、と云ふのである。紀貫之の歌に「思ひかね妹がり(97)ゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥なくなり」がある。○手折らな 「手折らむ」をはやく云うた辭である。
筑波|嶺《ね》に登りて※[女+燿の旁]歌會《かがひ》する日《とき》作《よ》める歌一首并に短歌
1759 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津《もはきつ》の その津の上に 率《あとも》ひて 未通女《をとめ》壯士《をとこ》の 往《ゆ》き集《つど》ひ かがふ※[女+燿の旁]歌《かがひ》に 他妻《ひとつま》に 吾《あれ》も交《あは》む 吾《あ》が妻《つま》に 他《ひと》も言問《ことと》へ この山を 領《うしは》く神の いにしへよ 禁《いさ》めぬ行事《わざ》ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言《こと》も咎《とが》むな【※[女+燿の旁]歌は東の俗語にかがひと曰ふ。】
【題意】 ※[女+燿の旁]歌會は、常陸國風土記に、「香島(ノ)郡、輕野以南|童子女《ヲトメノ》松原(ニ)、古(ヘ)有2年少僮子1、男(ヲ)稱2那賀寒田之郎子(ト)1、女(ヲ)號2海上(ノ)安是之孃子(ト)1、竝形容端正、光2華《テリカガヤケリ》郷里(ニ)1、相2聞名聲(ヲ)1、同2存望念(ヲ)1、自愛心滅、經v月(ヲ)累v日(ヲ)、※[女+燿の旁]歌之會(ニ)(俗(ニ)云|宇多我岐《ウタガキ》、又云|加我毘《カガヒ》也)邂逅(ニ)相遇(ヌ)、于時郎子(ノ)歌曰云々、」あるによつて知られ、いはゆる歌垣と同じ事であるらしい。歌垣は古事記、日本書紀、攝津國風土記、續紀に記載がある。男女が山上等に多く集り、宴會し歌を唱和して樂しみ遊んだので、都の方では歌垣と云ひ、東國では※[女+燿の旁]歌會と云つたらしい。歌垣は時に行はれた一つの戯場であるに反し、※[女+燿の旁]歌會は毎年一定の月日に行はれたものであるらしい。
(98)【口譯】 鷲の住む筑波山の裳羽服津の、その津の上に男女相引き連れて集つて、歌を唱和する※[女+燿の旁]歌會に、他人の妻に吾も交り逢はう、吾が妻に他の男も逢へ。之はこの筑波山を統べ治め給ふ神が、昔から禁止し給はない行事であるぞ。今日ばかりは、吾れが他人の妻と逢つても、よそに見て可愛さうだとは見て呉れるな、言葉にも咎めて呉れるな。
【語釋】 ○裳羽服津 地名であらう。豐田八十代氏の萬葉地理探訪記「筑波山」より抄する。「山上に混々として清水の湧き出る泉があり、その水が落ちて女男《みなの》川となつてゐる。この女男川は筑波町の西を流れ、末は櫻川と合するのであるが、之とは別に筑波町の東北なる白瀧に發源し、女男川橋の北に至り女男川に合する溪流がある。土人はこれを酒勾川といつてゐる。この溪流に近く夫女《ふぢよ》が原といふ處があつて、これが昔の※[女+燿の旁]歌會の跡だと云ひ傳へて居る。當時この處に津即ち渡し場の樣なものがあつて裳萩が多く茂つてゐたのではあるまいか、裳萩は筑波に産する一首の萩で、その葉が小く淡紫色の小花をつける。」○率ひて 相引き連れて。○かがふ ※[女+燿の旁]歌を動詞に用ゐて云つたのである。○言問へ 妻問ひせよと云ふので、女に逢ふこと。○領く神 統治し給ふ神の意。○禁めぬ行事ぞ 神の咎め禁止し給はぬ行事であるぞ、の意。○めぐしもな見そ めぐし〔三字傍点〕はいとほしみ愛しむので、人妻に逢つてゐてもよそに見て愛しいとは見て呉れるな、と云ふのである。
【後記】 ※[女+燿の旁]歌會がどんなものであつたかは、常陸風土記と共に此の歌がそれを明かにしてゐるの(99)で、文化史的に意味がある。又「領く神の昔より禁めぬ行事」「今日のみはめぐしもな見そ」などは當時の倫理觀念をも窺ふことが出來る。後世の盆踊なども此の系統に屬する郷土風俗である。
一首の初め四句にの〔傍点〕を重ねて疊んで來た勢をうけて調子が順直である。「※[女+燿の旁]歌《かゞ》ふ※[女+燿の旁]歌《かゞひ》に」なども面白い用ゐ方で一種の調子をなしてゐる。
反歌
1760 男《を》の神に 雲立ち登り 時雨|零《ふ》り 沾《ぬ》れ通《とほ》るとも 吾《あれ》還《かへ》らめや
右の件の歌は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ
【口譯】 男體山に雲が立ち登つて、時雨が降つて來て衣の裏まで沾れ通つても、この面白い※[女+燿の旁]歌會を見捨てて還れようか。
【語釋】 ○男の神 筑波山の二蜂の中の男の神即ち男體山を指す。○吾還らめや 面白い※[女+燿の旁]歌會を見捨てて吾は還らうや、かへりはしない、と云ふ意。
【後記】 長歌を受けて※[女+燿の旁]歌會の興に執着する心持を強く現してゐる。二三句相當にきいてゐる。(100)「沾れ通るとも」と通る〔二字傍点〕とまで云ひつくしたのは體驗から出たのであらう。そして「吾還らめや」と強く云ひ据ゑてゐる點、恐らく單なる假定想像ではなく※[女+燿の旁]歌會の日に時雨に遭つた實感から出來た歌であらう。
【左註】 「右件の歌」はどの範圍を指すか、「珠名娘子の歌」(一七三八)以下を指すとの説があるが明瞭でない。蟲麻呂は當時常陸國守或は椽などで、在任中に詠んだものであらうか。下に「鹿島(ノ)郡苅野(ノ)橋別2大伴卿1歌」(一七八〇)がやはり蟲麻呂集に出づとある。
鳴鹿《しか》を詠める歌一首并に短歌
1761 三諸《みもろ》の 神奈備山《かむなびやま》に 立ち向ふ 三垣《みかき》の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜《あさづくよ》 明《あ》けまく惜しみ あしひきの 山饗《やまびこ》とよめ 喚《よ》び立て鳴くも
【口譯】 三輪の神を祀る神奈備山に向ひあふ三垣山には、雄鹿が秋萩の咲いてゐる原で妻鹿と共に寐ようとして、月も曉方となつて夜の明けるのを惜しんで、山彦の響くほどに聲喚び立てて鳴くよ。
【語釋】 ○三諸の 御室で三輪の神である。○神奈備山 大和國高市郡飛鳥にある。○三垣の山 契沖の説(101)に「神なび山に向へる山のありけるなるべし、それを神なび山は、神のます山なれば、いかきにたとへて名はおほせけるにこそ」とある。○秋萩の妻をまかむと 鹿は秋萩の原で相睦みてよく鳴くから秋萩の妻〔四字傍点〕とつづけたのである。まかむ〔三字傍点〕は鹿が妻と共に寢るを云つたのである。○朝月夜 曉方の月を云ふ。○明けまく惜しみ 夜が明けると妻と交り逢ふのに不都合なので、夜の明けるのを惜しむのである。○あしひきの 枕詞。○山響とよめ 山の中から木靈《こだま》が響き應《こた》へるほどに、の意。
反歌
1762 明日《あす》の夕《よひ》 逢はざらめやも あしひきの 山彦|響《とよ》め 呼び立て哭《な》くも
右の件の歌は、或は云ふ、柿本朝臣人麻呂の作と。
【口譯】 今夜は程なく明けても、明日の夕には逢はずしてあらうや。然るに、なほ飽かず、雄鹿は山彦が響くまで妻を呼び立てて鳴くよ。
【後記】 此の反歌には「鹿」といふ語がなく、一首としての獨立性を缺いてゐる。一つの例外的の例であらう。加之、人麻呂の作であるとは思へない。
(102) 沙彌女王《さみのおほきみ》の歌一首
1763 倉橋の 山を高みか 夜隱《よごもり》に 出で來《く》る月の 片待ち難《がた》さ
右の一首は、間人宿禰大浦《はしひとのすくねおほうら》の歌の中に既に見ゆ。但末の一句相換り、亦作歌の兩主、敢て正指せず。因りて以て累ね載す。
【題意・左註】 沙彌女王の傳は未詳である。此の歌は左註にもある樣に、卷三に「間人宿禰大浦の初月の歌二首」の中に「倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の光乏しき」(二九〇)と結句だけ異つて載つてゐる。
【口譯】 倉橋の山が高い故に、山にさへぎられてか、夜ふけになつて出て來る月が、ひたすらに待遠しい。
【語釋】 ○倉橋の山 大和國磯城郡にあり。古事記、續日本紀にも既に倉橋の名を載せてゐる。○山を高みか 山が高い故にか、と云ふ意である。○夜隱に 夜ふけに、といふ意。宣長の説に「夜隱とは、宵のかたよりもいひ、曉のかたよりもいふことばなり、いづかたよりも深きかたをこもるとは云ふなり、(中略)曉の方よりいふは、まだ夜の深きことを云ふ、宵の方よりいふは、夜ふかくなるをいふなり」云々。○片待つ 偏へに待つ意である。
(103) 七夕の歌一首并に短歌
1764 久堅《ひさかた》の 天《あま》の河原に 上《かみ》つ瀬に 珠橋《たまはし》渡し 下《しも》つ湍《せ》に 船|浮《う》け居《す》ゑ 雨|零《ふ》りて 風は吹くとも 風吹きで 雨は落《ふ》るとも 裳《も》濕《ぬ》らさず 息《や》まず來ませと 玉橋わたす
【口譯】 天の河原の上流の方の瀬に橋を架け渡し、下流の瀬には船を浮べて、雨が降つて風が吹いても、風が吹いて雨が降つても、裳を濡らさず常にやむことなく訪ね來ます樣にと、橋を架け渡す。
【語釋】 ○久堅の 「天《あめ》」の枕詞。轉じて雨、月、星、雲など天上の物の枕詞に用ふ。語義に就いては數説あるが定説と云ふ程のものがない。○天の河原 天の河の河原。古事記天孫降臨の記に「天(ノ)安(ノ)河原」と載せてゐる。○上つ瀬 川の上流の瀬。○珠橋 珠は美しみ云ふので、橋をほめて云つたまでである。○風は吹くとも雨は降るとも 原文は「風不吹登毛、雨不落等物」で何れも否定であるが、不〔傍点〕は者〔傍点〕の誤であると云ふ宣長の説に從つて訓んだのである。
反歌
1765 天漢《あまのがは》 霧立ち渡る 今日今日と 吾《あ》が待つ君が 船出すらしも
(104) 右の件の歌は、或は云ふ、中衛大將藤原北卿の宅にて作れるなりと。
【口譯】 天漢に水霧が立ちこめてゐる。今日は來まさんか、今日こそは來ますかと、待ちに待つ君が船出して漕ぎ來給ふらしい。
【語釋】 ○霧立ち渡る 船を漕ぐとき浪が騷いで水霧が立つから、斯く云ふのである。○今日今日と吾が待つ 今日か今日かと吾が佇み待つ、と云ふ意である。
相聞
振田向宿禰《ふるのたむけのすくね》が筑紫國《つくしのくに》に退《まか》る時の歌一首
1766 吾妹子《わぎもこ》は 釧《くしろ》にあらなむ 左手《ひだりて》の 吾《あ》が奥の手に 纒《ま》きて去《い》なましを
【題意】 振田向宿禰は傳未詳である。振は姓、田向は名であらうか。姓氏録に布留宿禰とある。
【口譯】 愛しい吾が妹は釧であればよい。然うすれば左手の臂に纒いて、大切にして離さず何處までも、持ち行かうものを。
(105)【語釋】 ○釧 往古の一種の装身具で、ひぢまきとも稱し、腕に卷きつけたものである。○奥の手 腕の袖にかくれる所。
【後記】 防人の歌
置きて行《い》かば妹はまがなし持ちて行く梓の弓の弓束《ゆづか》にもがも(卷十四、三五六七)
父母も花にもがもや草枕旅は行くとも※[敬/手]《ささ》ごて行かむ(卷二十、四三二五)
母刀自《あもとじ》も玉にもがもや頂《いただ》きて角髪《みづら》の中にあへ纒《ま》かまくも(卷二十、四三七七)
は、此の歌と同想の歌である。
拔氣大首《ぬきけのおほびと》が筑紫に任《まけ》らるる時、豐前國の娘子《をとめ》紐兒《ひものこ》に娶《あ》ひて作《よ》める歌三首
1767 豐國《とよくに》の 香春《かはる》は吾宅《わぎへ》 紐兒《ひものこ》に い交《つが》り居れば 香春は吾家《わぎへ》
【題意】 拔氣大首は傳未詳である。拔〔傍点〕は和〔傍点〕の誤であるかも知れないと、古義では一應疑問にしてゐる。大首は名である。
豐前は筑紫九國の内であるが、「筑紫へ任らるる時」とあつて、任地が豐前であると明瞭に云へない。恐らく筑前筑後あたりへの赴任の途中、豐前に宿つた時に詠んだものであらう。
【口譯】 紐兒の住む豐前の香春の里は即ち吾が家である。紐に物を着けた樣に娘子に朝夕つき添(106)うて居れば、香春は即ち吾が家である。
【語釋】 ○香春 和名抄に「豐前國田河郡香春」とある所である。○い交り居れば い〔傍点〕は發語。つがり〔三字傍点〕は契沖の説では、袋の口を※[金+巣]のやうに縫ふのを云ひ、紐兒の名からお互の思ひあふ心の緒でつがつたやうなのを云ふとあるが、古義もこの説を承けてゐる。
【後記】 「豐國の香春は吾宅」は親愛の情を現してゐる。二句で小休止を置いたのも効果がある。娘子の名が紐兒であり「いつがり居れば」と如何にも離れ難い氣持がこもつて居り、結句「香春は吾家」の繰り返しは愛憐の情を深めてゐる。筑紫への赴任の途中豐前で香春に深く親しんだのであらう。
女を得た歌としては直ぐに藤原鎌足の「吾はもや安見兒得たり」の歌が思ひ出されるが、鎌足のは欣喜雀躍してゐるさまがあり、之は戀情纒綿たるものがある。
1768 石上《いそのかみ》 布留《みふる》の早田《わさだ》の 穗には出でず 心のうちに 戀ふるこの頃
【口譯】 紐兒に戀ふる思ひを色に出せば人に笑はれるであらうから、面にはあらはさず、心の中に日頃切に戀しく思ひこがれてゐる。
(107)【語釋】 ○石上布留の早田の 「穗」にかかる序である。石上布留〔四字傍点〕は大和國山邊郡布留である。序として用ゐてゐるが、布留は作者の故郷であるからであらう。○穗には出でず 色にあらはさず、と云ふ意である。
【後記】 「石上布留」は作者の故郷の地名を取つたのであらうと解したが、特殊の働きをしてゐるとは思はれない。「穗には出でず」も類想の多い言葉であるまいか。そして「穗には出でず心のうちに戀ふる」も理窟がある樣で煩はしい。
1769 斯《か》くのみし 戀ひしわたれば たまきはる 命も吾《あれ》は 惜しけくもなし
【口譯】 この樣に明け暮れ一途に戀ひこがれて居れば、常には長かれと願ふ命さへも吾は惜しいとも思はない。
【語釋】 ○たまきはる 内、命、世の枕詞。語源に就いては諸説あつて定まつてゐない。宣長は古事記傳にアラタマ來經《キフル》の意でアヲが省け經《フ》がハに變じたので、月日の經行くこととし、荒木田久老は程來經《タマキフル》でやはり年月の移りゆくを云ふとしてゐる。古義はタマキは手纒で腕に卷く飾、ハルは佩《ハク》の意で、内は腕の義であるから内〔傍点〕にかかり、タマキハル現《ウチ》と云ふ現《ウチ》は現世《ウツシヨ》であるから世又は命にかかることとなると云ふ。その他|魂極《タマキハマル》と云ふ説が舊本にある。
(108)【後記】 單純率直によみ下してゐるが、極めて一般的で、内容も言葉も類想類型的であるから、感動を喚ぶに至らない。
大神大夫《おほみわのまへつぎみ》が長門守に任《まけ》らるる時、三輪河の邊《ほとり》に集《つど》ひて宴《うたげ》する歌二首
1770 三諸《みもろ》の 神の帶ばせる 泊瀬《はつせ》河 水脉《みを》し斷《た》えずは 吾《あれ》忘れめや・
【題意】 大神大夫は三輪朝臣高市麻呂である。續紀には、大寶二年正月乙酉長門守に任ぜられたとある。
【口譯】 三輪山の下を流れる泊瀬河の水脈の絶えることがあれば兎も角も、この流れの絶えぬ限り、今日の宴を吾は忘れない。
【語釋】 ○三諸の神 大和國城上郡の三輪山である。その山を神と云つたのである。尚城上郡は今の磯城郡である。○帶ばせる 帶び給へる、の意。泊瀬河の流が、穴師の南を廻つて三輪山の下へ流れるから、かく云つたのである。「まがねふく吉備の中山帶にせる細谷川の音のさやけさ」などある。
1771 後《おく》れ居て 吾《あれ》はや戀ひむ 春霞 たなびく山を 君し越えなば
右の二首は、古歌集の中に出づ。
(109)【題意】 大神大夫を送る人が餞に詠んだ歌である。
【口譯】 相別れて、春霞の棚引く山を君が越え行かせ給ふと、吾は後に遺つて居て君をひたすら戀しく思ひ居るであらう。
【語釋】 ○後れ居て 遺つて居て、の意。
大神大夫が筑紫國に任《まけ》らるる時、阿倍大夫《あべのまへつぎみ》が作《よ》める歌一首
1772 後れ居て 吾《あれ》はや戀ひむ 稻見野《いなみぬ》の 秋萩見つつ 去《い》なむ子ゆゑに
【題意】 大神大夫は前の歌と同じ高市麻呂であらう。高市麻呂が筑紫國に任ぜられたことは詳かでないが、前の長門守となつた時とは別であらう。阿倍大夫は卷三に歌のある安倍廣庭卿と同一人であらうと云ふ。尚大神大夫は陸路山陽道を經て下るので、此の歌に印南野と詠んだのであらう。
【口譯】 印南の野の秋萩の盛りを見ながら遠く去りゆく君故に、吾は後に殘つてゐて一途に君を戀しく思ひつつ居るであらう。
【語釋】 ○稻見野 播磨國印南郡の野。なほ印南野を詠んだ歌としては、※[覊の馬が奇]旅の歌として、卷三に人麻呂の歌「稻日野《いなびぬ》も行き過ぎがてに思へれば心|戀《こほ》しき可古《かこ》の島見ゆ」(二五三)、卷七人麻呂歌集中の歌「印南野《いなみぬ》は(110)往き過ぎぬらし天《あま》づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」(二七八)、「家にして吾は戀ひむな印南野の淺茅《あさぢ》が上に照りし月夜《つくよ》を」(一一七九)、卷六赤人の歌「印南野の淺茅おしなべさ宿《ぬ》る夜《よ》の日《け》長くあれば家し偲《しぬ》ばゆ」(九四〇)がある。○去なむ子ゆゑに 離れゆく子なるものを、と云ふ意。子〔傍点〕は男でも女でも呼ぶときの稱で、茲では大神大夫を指したのである。
【後記】 前歌と全く同想の歌であり、下に出て來る一七七八の歌を初め極めて類想の多い作である。廣く唱誦されてゐた詠風で、離別について誰にでもその時の情況に適合させて若干の變化を加へて歌はれたものであらう。此の歌の「稻見野の秋萩見つつ」は、前歌の「春霞たなびく山」の一般的なのに比しては具體的なだけよい。前歌の結句「君し越えなば」は調子に張りがあつて据つてゐると思ふ。
弓削《ゆげ》皇子に獻れる歌一首
1773 神南備《かむなび》の 神依板《かみよせいた》に 爲《す》る杉の 念《おもひ》も過ぎず 戀のしげきに
【口譯】 皇子を慕ひ奉る心がしきりで、吾が思ひがはれず慰むることもございません。
【語釋】 ○神南備 大和國高市郡飛鳥にある山。○神依板 神を招請するに叩く板。三句迄の意は、神依板(111)にする神奈備山の杉のと云ふので、神奈備の神を招請する神依板にする板のと云ふのではない。尚又、この歌第三句迄は、第四句「すき」を引き出す爲めの序である。○念も過ぎず 念のはれゆかぬを云ふ。
舍人《とねり》皇子に獻れる歌二首
1774 垂乳根《たらちね》の 母の命《みこと》の 言《こと》にあらば 年の緒長く 憑《たの》み過《す》ぎむや
【題意】 契沖は此の歌を「獻2舍人皇子1歌」(一六八四)などと同じく、皇子の推擧を待ち頼んでゐる人の寓意を以て詠んだものであるとしてゐる。
【口譯】 吾を慈愛し給ふ母君のみ言葉であるならば僞はないから、かく長い年月の間待ち頼んで空しく過ぎやうや。母君ならぬおん方のこと故頼み奉り難い。
【語釋】 ○乘乳根の 「母」の枕詞。語源に就いては二三の説があるが、古義ではタラチは足《タラシ》の意で賛辭、根〔傍点〕も尊稱で、母は殊に親しく尊いものであるから、タラシネノハハと稱するのであると云ふ。○母の命 母を尊んで云つたものである。○年の緒長く 年月の長く續くこと。
1775 泊瀬河《はつせがは》 夕渡り來《き》て 吾妹子《わぎもこ》が家の金門《かなど》に 近づきにけり
(112) 右の三首は.柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
【口譯】 泊瀬河を夕ぐれに渡つて來て、吾が愛しき妹の家の門に近づき寄つた。
【語釋】 ○金門 家の門であつて、既に釋いた。
【後記】 「夕渡り來て」「近づきにけり」は共に佳句である。作者の戀情と動作とを沁々と感ずることが出來るのは、此の二つの句のもつてゐる細かい味はひからである。思慕の情遣る方なくほの昏くなる頃ほひ、そつと戀人の門の邊に忍び近寄る可憐さが、一首の音律にこもつてゐる。人麻呂の歌と信じてもよささうである。
石河大夫が任《つかさ》を遷されて京《みやこ》に上《のぼ》る時、播磨娘子《はりまのをとめ》が贈れる歌二首
1776 絶等木《たゆらき》の 山の岑《を》の上《へ》の 櫻花 咲かむ春へは 君を思《しぬ》ばむ
【題意】 石河大夫は石河朝臣君子である。續紀に、靈龜元年五月壬寅播磨守となり、養老四年十月戊子兵部大輔となつたことが載つてゐる。
【口譯】 絶等木山の嶺の櫻の花が咲き滿つる春は、離れ住む君を思ひ偲びませう。
【語釋】 ○絶等木の 八雲御抄に、たゆらきの山播磨、と註されてゐる。
(113)1777 君なくば 何ぞ身|装餝《よそ》はむ 〓《くしけ》なる 黄楊《つげ》の小梳《をぐし》も 取らむとも念《も》はず
【口譯】 君が離れ行つてしまはれたならば、何の爲に私は身を装ひ飾りませう。櫛笥の中の黄楊の櫛さへも手に取らうとは思ひませぬ。
【語釋】 ○小梳 小〔傍点〕は美稱、單に櫛と云ふこと。
【後記】 去りゆく人に對する離れ難い女の熱情を強い言葉で直敍してゐる。激しい女の感情が黄楊の小梳といふ小道具であるが女が常に身近に用ゐてゐる物を通して、「何ぞ身装餝はむ」や「取らむとも念はず」の字餘りの結句によつて現されてゐる。末世にくだると、「誰に見せうとて紅かね付ける、みんなぬしへの心中立て」と云ふ風に成る。
藤井連《ふぢゐのむらじ》が任《つかさ》を遷されて京に上る時、娘子《をとめ》が贈れる歌一首
1778 明日よりは 吾《あれ》は戀ひむな 名欲山《なすきやま》 石《いは》蹈《ふ》み平《なら》し 君が越えなば
【題意】 藤井連は葛井《ふぢゐ》連廣成であらうと云ふ。葛井連廣成は、續紀に依ると天平十五年三月乙巳新羅の使節が來朝するに際し筑前國に遣され、同年六月丁酉備後守となり、勝寶元年八月辛未中務少輔となつてゐ(114)る。此の歌は何れの時に詠まれたか明かでないが、古義では娘子は前の歌と同じく播磨娘子であると解して居る。
【口譯】 君が主從人馬の數を列ねて京へと、攝津の名次山を越えゆき給うたならば、後に殘つた私は明日よりは君を唯々戀ひこがれるでありませう。
【語釋】 ○戀ひむな な〔傍点〕は咏嘆の辭。○名欲山 略解ではナホリ山と訓んで豐前國直入郡にありとしてゐるが、古義は名次《ナスキ》山の寫し誤といふ説を採つてある。名次山は攝津國武庫郡にあり、今の六甲連峯の中にある。○石蹈み平らし 石道の凸凹のあるのをふみ平かにすることであるが、茲では夫程の意でなく、主從人馬の數多くが列つて往くさまを云つたのである。
【後記】 此の歌の類想的なことは既に云つた、「暗み平し」の用例としては、卷六の長歌に「……大宮人の踏み平し通ひし道は……」(一〇四七)、卷十九「新《あら》たしき年のはじめは彌《いや》年に雪踏み平し常斯くにもが」(四二二九)がある。「立ち平し」の用例もある。「石蹈み平し」は此の歌と次の歌とのみである。此の句は動作が生彩に感ぜられて面白い。
藤井連が和《こた》ふる歌一首
(115)1779 命をし 幸《まさき》くもがも 名欲山《なすきやま》 石《いは》踐《ふ》み平《なら》し また還り來む
【口譯】 命長らへて平安でありたい、そして名次山をまた越えて此處に還つて來て相逢はう。
【語釋】 ○命をし いは強め云ふ辭。○幸《まさき》くもがも ま〔傍点〕は發語。がも〔二字傍点〕は願望の意を現す感動詞。平安であつて欲しい、の意。
【後記】 贈答歌に普通に行はれる贈歌の言葉を繰り返した、平凡な類想的な答歌である。
鹿島郡|苅野《かるぬの》橋にて大伴卿に別るる歌一首并に短歌
1780 牡牛《ことひうし》の 三宅《みやけ》の※[さんずい+内]《うら》に 指向《さしむか》ふ 鹿島《かしま》の崎に さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》を設《ま》け 玉纒《たままき》の 小梶《をかぢ》 繁貫《しじぬ》き 夕汐《ゆふしほ》の 滿《みち》のとどみに 御船子《みふなこ》を 率ひ《あども》ひ立てて 喚《よ》び立てて 御船《みふね》出《い》でなば 濱も狹《せ》に 後《おく》れ竝《な》み居て 反側《こいまろ》び 戀ひかも居らむむ 足《あし》ずりし 哭《ね》のみや泣かむ 海上《うなかみ》の その津を指《さ》して 君が※[手偏+旁]《こ》ぎ行かば
【題意】 苅野は和名抄に常陸國鹿島郡輕野郷とあり。此の歌は一七五三の歌と關係があつて、大伴卿が※[手偏+僉]税使として常陸國の※[手偏+僉]税を了へて、下總國海上津をさして渡る時の別離の歌である。
(116)【口譯】 印旛郡の三宅の浦に相對する鹿島の崎に、朱塗の色美しい船を準備して、玉纒の飾のある左右の楫を勇ましく漕いで、夕汐の滿ち湛へてゐる時に、船夫を引き率て懸聲勇ましく、君が乘り給ふ船が出ると、濱も狹い程に見送り別れを惜しむ人々が竝び立つて居る。御船がいよいよ下總國海上の津を指して※[手偏+旁]ぎゆくと、人々は伏し轉んで君を戀ひ偲び、足摩りして聲をあげて泣くであらう。
【語釋】 ○牡牛の 枕詞である。許多物負牛《ココダモノオヒウシ》から約つて成つたのであらうと云ふ。○三宅 下總國印旛郡三宅の浦である。○玉纒の小梶繁貫き 玉を纏いて飾つた楫。繁貫き〔三字傍点〕は既出。○滿ちのとどみ 滿ち湛へたのを云ふ。○御船子 船夫のことで、大伴卿の乘り給ふ船であるから敬つて御船子と云つた。○率ひ 既出。○濱も狹に 濱も狹いほどにの意で、別れを惜しむ人が濱に集つてゐるさまを云ふ。狹に〔二字傍点〕は「道も狹に」「庭も狹に」など用例が多い。○反側び 既出。○海上 下總國海上郡の湊である。
反歌
1781 海《うみ》つ路《ぢ》の 和《な》ぎなむ時も 渡らなむ 斯《か》く立つ波に 船出《ふなで》すべしや
右の二首は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ。
(117)【題詞・左註】 前の長歌及び左註によつて見ると、作者は高橋連蟲麻呂で、當時常陸國守或は椽として任に在つたのであらうと思ふ。
【口譯】 この樣に荒波が立つてゐる時に船出し給ふべきであらうか。今暫く海路の平に凪ぐのを待つて、海上の津へ渡り行き給へ。
【語釋】 ○海つ路 海路と云ふこと。つ〔傍点〕はの〔傍点〕と云ふ程の意で、「天つ日」、「速つ祖《おや》」など多くの用例がある。○和ぎなむ時も 時も〔二字傍点〕のも〔傍点〕はに〔傍点〕の誤であらうと云ふ。に〔傍点〕の方が意味がよく徹る。
妻《め》に與《おく》れる歌一首
1782 雪こそは 春日《はるひ》消《き》ゆらめ 心さへ 消え失《う》せたれや 言《こと》も通はぬ
【口譯】 雪こそは春の日の光にあつて消えるものであらう。堅く契つた人の心さへも、その雪の樣にはかなく消え失せたものであらうか。この頃は絶えて音づれもない。
妻が和《こた》ふる歌一首
1783 松反《まつかへ》り しひにてあれやも 三栗《みつぐり》の 中《なか》すぎて來ず 待つと云はめやも
(118)【口譯】 私が君を待つと云ふのは強ひ言でありませうか。月の半ば過ぎるまでも、君は訪ね來まさぬから、私が待つと云ふのは當然でありませんか。もう待つとは申しますまい。
【語釋】 ○松反り 「強ひ」の枕詞であらう。○しひにてあれやも 強ひてのことであらうか、強ひたことではないとの意。○三栗の 「中」の枕詞。○中すぎて來ず 中〔傍点〕は月の半ばを云つたのである。○待つと云はめやも 此の句原文「麻呂等言八子」の訓は諸説あるが、眞淵の「萬葉考」の説に從ひ「呂」は「追」の誤字、「子」は「毛」の誤字であるとし其の訓に從つた。
入唐使に贈れる歌
1784 海若《わたつみ》の いづれの神を 齋祈《いのら》ばか ゆくへも來《く》へも 船の早けむ
右の一首は、渡海の年紀未だ詳ならず
【題意・左註】 左註にある樣に年次は詳かでないが、一七九〇の歌に天平五年癸酉多治比眞人廣成を遣唐大使として遣はしたことがある。此の歌も恐らくその時に詠んだものであらう。
【口譯】 海を統べ給ふ神のいづれの神に、幣奉つて祈つたならば、唐に渡りゆくにも、日本に歸り來るにも、障りなく船脚が速いであらうか。
(119)【語釋】 ○海若 海神であることは既に云つた。底筒之男(ノ)命、中筒之男(ノ)命、上筒之男(ノ)命の三柱の神を墨江の三?の大神と云ひ、又別に底津綿津見(ノ)神、中津綿津見(ノ)神、上津棉津見(ノ)神の三柱の神を祭るのがあつて、海神は?柱在すので、何の神を祈らうかと云つたのである。
【後記】 一首の調べが順直で、眞情のこもつた佳い歌である。「ゆくへも來へも」は何でもない樣で見過ごされ易いが、巧な句であり、之を受ける結句「船の早けむ」と共に、如何にも思ひ遣りのある感情を流露してゐる。
當時の遣唐使等は決して易々として往復したのではなく、不完全な船を以て萬死を冒して渡航するのであり、途中或は難破して海底の藻屑と消え、或は異郷に漂流して艱難したことも屡屡である。それ故に往く者も送る者もすべて、ひたすらに神に祈願し、心からその加護を乞ふたのである。
此の事を念頭に置いて、この歌は味ふべきであり、「ゆくへも來へも船の早けむ」に籠る作者の眞率の情を見るべきである。
神龜五年戊辰秋八月に作《よ》める歌一首并に短歌
(120)1785 人と成る 事は難《かた》きを 邂逅《わくらば》に 成れる吾《あ》が身は 死《しに》も生《いき》も 君がまにまと 念《おも》ひつつ ありし間《あひだ》に うつせみの 世の人なれば 大王《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ 天離《あまざか》る 夷《ひな》治《をさ》めにと 朝鳥の 朝立たしつつ 群鳥《むらとり》の 群《む》れ立《だ》ち行けば 留《とま》り居て 吾《あれ》は戀ひむな 見ず久ならば
【題意】 越の國の國守に任ぜられて赴く人に、京の友が詠んで贈つた歌である。
【口譯】 人に生れて來ることは仲々難しいと云はれるのに、たまさかに人と生れた吾は、死ぬるも生きるも相思ふ君の心のままにと思つて暮してゐた間に、この世の人であるから、此の度君は、大王の御命令を畏み受けて、越の國を治めにと朝夙に起きて、從者どもを多く具して行くが、その後に京に留る吾は、君を久しく見ることが出來なかつたならば、ひたすらに思ひ偲ぶことであらう。
【語釋】 ○人と成る事は難きを 佛教の思想で、人身を受けて此の世に生れて來ることは難しい、と云ふのである。○邂逅に 稀に、たまさかにの意。○死も生も君がまにまと 心を許し相思ふ念が深く、生死は君が心のままに任せて、と云ふ意。○うつせみの 命、世、人等の枕詞である。顯身即ちこの世に現在してある身と云ふことから轉用したものである。○天離る 「夷」の枕詞。天に離る日といふ意で、ひ〔傍点〕の一(121)字に云ひかけたのである。○夷治めにと 夷〔傍点〕は越の國を指す。○朝鳥の 枕詞。○群鳥の 之も枕詞である。○群れ立ち行けば 從者等を數多く引伴れ從へてゆくさまを云つたのである。
【後記】 「人と成る事は難きを邂逅に成れる吾が身」は、佛教思想を取り入れたことの特色はあるが、初め八句は少しく大がかりな云ひ方であらう。また第四句「吾が身は」と主格を置いて詠み下してゐるので、「夷《ひな》治めに」は作者自身の事のやうに思つてゐると、「留り居て吾は戀ひむな」とあるので、初めて「うつせみの……群れ立ち行けば」は君の事であるのがわかる。此の點は表現が不十分であらう。「朝鳥の朝立たしつつ群鳥の群れ立ち行けば」は調子をなしてゐて佳い。
反歌
1786 み越路《こしぢ》の 雪|零《ふ》る山を 越えむ日は 留《とま》れる吾《あれ》を 懸《か》けて偲《しぬ》ばせ
【口譯】 越の國に赴いて雪深く零る山を艱難して越えゆくであらう日には、都に留つて君のその苦難を思ひ遣つてゐる吾の在ることを、心にかけて忘れずに偲び給はれよ。
【語釋】 ○み越絡 み〔傍点〕は眞《マ》の意で美しみ云ふ語、「み吉野」、「み熊野」などと同じ用法である。○雪零る山(122)を 歌を詠んだのは八月であるから、當時既に越路には雪が零ると云ふのではなくして、彼の地は雪の深い國であるから一般にかく云つたのである。○留れる吾を 都に殘つてゐる吾を、との意。○懸けて偲はせ 心にかけて思ひ偲び給へよ、と云ふ意である。
天平元年己巳冬十二月に作《よ》める歌一首并に短歌
1787 うつせみの 世の人なれば 大王《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 礒城島《しきしま》の 大和の國の 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の里に 紐《ひも》解《と》かず 九寐《まろね》をすれば 吾《あ》が著《け》せる 衣《ころも》は穢《な》れぬ 見るごとに 戀はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の あけもかねつつ 寐《い》も寢《ね》ずに 吾《あれ》はぞ戀ふる 妹が直香《ただか》に
【題意】 續紀に天平元年十一月癸巳任2京及畿内(ノ)班田司(ヲ)1云々とあるから、この歌は班田使に出てゐる人の詠んだものであらう。
【口譯】 この世の人であるから、大王の御命令を恐み受けて、大和の國に出で立つて石上の布留の里に、衣の紐も解かずして獨り寐をすると、吾が著てゐる衣はいたく垢づきよごれた。それを見るごとに妹を戀ふる心はまさるけれども、顔の色にあらはせば人が知つてしまふであらう(123)から、色にも出さず冬の夜毎夜毎を夜の明けるまで寐もやらずに、妹の有樣を想ひつつ慕つてゐる。
【語釋】 ○礒城島の 「大和」の枕詞。欽明天皇の都の地名より初まつて、後に大和一國の名となつたのである。現今ではしき島〔三字傍点〕と云ふと日本全體を指す意に用ゐてゐるが、之はずつと後世の事で古へはかかる用例はない。○丸寐 獨り寢のこと。現今、衾も着ず衣のままで臥すのを云ふのとは意味が異なる。○衣は穢れぬ 衣服が塵垢によごれたと云ふので、衣を洗ふのは女の仕事であるから、それにつけても妻を思ひ出すと云ふのである。○人知りぬべみ 人が知るべきによつて、の意。○妹が直香に 妹を直に指して言つたので、妹の身の上とか有樣とか云ふ意である。集中の例としては、卷十三「み吉野の御金《みかね》の嶽《たけ》に、間なくぞ雨は降るとふ時じくぞ雪は降るとふ、その雨の間無きが如《ごと》、その雪の時じきが如《ごと》、間も闕《お》ちず吾はぞ戀ふる妹が直香に〔五字傍点〕」(三二九三)、「聞かずして黙然《もだ》あらましを何しかも公《きみ》が正香〔二字傍点〕を人の告げつる」(三三〇四)、「……わが心筑紫の山の黄葉の散り過ぎにきと君が正香〔二字傍点〕を」(三三三三)、卷十七「……愛《は》しけやし君がただか〔三字傍点〕を眞幸《まさき》くも在り徘徊《たもとほ》り……」(四〇〇八)がある。
反歌
1788 布留の山よ 直《ただ》に見渡す 京《みやこ》にぞ 寐《い》を宿《ね》ず戀ふる 遠からなくに
(124)【口譯】 布留の山から直ぐさま見渡すことが出來る、程近い都であるのに立ち歸ることも叶はず、夜も寢ずに妹を戀しく思ふ。
【語釋】 ○直に見渡す すぐさまに見渡す意。○京にぞ 京をぞ戀ふると云ふので、を〔傍点〕をに〔傍点〕に云ふ例は「君をぞ戀ふる」を「君にぞ戀ふる」と云ふ樣に多くある。
【後記】 長歌は特殊な句法もなく、素直に心持を敍してゐる。反歌は長歌の心持を更に強めてゐるので、結句「遠からなくに」は「直に兒渡す」につき過ぎてゐるとの非難があるかも知れぬが、作者の感情がこめられてゐて割合きいてゐる。
1789 吾妹子《わぎもこ》が 結《ゆ》ひてし紐を 解《と》かめやも 絶えは絶ゆとも 直《ただ》に逢ふまでに
右の件の五首は、笠朝臣金村の歌集に出づ
【口譯】 吾が愛しき妻が結んで呉れた衣の紐を解かうや、よし紐の緒が破り切れるとも、妹にまさしく逢ふまでは、他の女のために紐を解くことはしまい。
【後記】 思慕の情を具象的に云つたのはよいが、言葉も表現も少しうるさくなつてゐる。
(125) 天平五年癸酉遣唐使の船、難波より入海《いづ》る時、親母《はは》が子に贈れる歌一首并に短歌
1790 秋萩を 妻問ふ鹿《か》こそ一子《ひとりこ》を 持たりと云へ 鹿兒《かこ》じもの 吾《あ》が獨子《ひとりこ》の 草枕 旅にし往けば 竹珠《たかたま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り 齋戸《いはひべ》に 木綿《ゆふ》取り垂《し》でて 齋《いは》ひつつ 吾《あ》が思ふ吾子《あご》 眞幸《まさき》くありこそ
【題意】 遣唐使のことは、續紀に、「天平四年八月、以2從四位上多治比(ノ)眞人廣成(ヲ)1爲2遣唐大使(ト)1、從五位下中臣(ノ)朝臣名代(ヲ)爲2副使(ト)1、判官四人録事四人云々、同五年閏三月授2筋刀1、夏四月遣唐四船自2難波津1進發、」と記してゐる、此の歌はこの人々の内の母が、子を見送つて詠んだ歌である。尚此の時の歌は卷五、卷八、卷十九等にも出て居る。
【口譯】 秋萩を妻として睦む鹿は一人子を持つてゐると云ふが、その鹿の樣に私のたつた獨子が、旅に出て行くので、竹の玉を澤山貫いて垂らし、淨い神酒の器に木綿を垂れて飾り、神を祭り清め愼んで、吾が愛し子が無事である樣にお祈りをします。
【語釋】 ○秋萩を妻問ふ鹿 鹿はよく萩原で睦み鳴くので、萩を妻としてかく云ふこと集中に例がある。後世には「萩が花妻」などと歌つてゐる。○一子を 原文「一子二子」であつて訓は數説あるが、古義が今村樂の説「二子」は「乎」の誤とするのに從つた。○鹿兒じもの 鹿の兒のやうにと云ふ程の意。じもの〔三字傍点〕(126)は集中に「鴨じもの」、「猪じもの」、「男じもの」等用例は多いが、語義は詳かでない。代匠記「と云ふものの如く」、冠辭考「と云ふもの」の意とし、古義は特別の意味はなく輕く添へ云ふ辭と考へ、山田孝雄博士は「名詞を形容詞に變ずる一種の接尾語」としてゐるが、其の他にも種々の説がある。○竹珠を繁に貫き垂り 竹をつぶ/\と切つて糸に貫いて神を齋ひ奉るものである。元は玉を以てしたもので、後に玉の代りに竹を以てしたので竹珠〔二字傍点〕と云つたのであらう。○齋戸に 齋忌瓮で、祭祀に用ゐる清淨な酒器を云ふ。○木綿取り垂でて 木綿を垂れて飾ること。○齋ひつつ 忌み清め愼むを云ふ。○眞幸くありこそ こそ〔二字傍点〕は願望の意をあらはす助詞。
反歌
1791 旅人の 宿《やど》りせむ野《ぬ》に 霜降らば 吾《あ》が子羽ぐくめ 天《あめ》の鶴群《たづむら》
【口譯】 旅の一行が宿りする野に霜が降つて寒い夜は、その内に居る吾が子を翼で覆ひかばつて遣つてお呉れよ、空飛ぶ鶴の群よ。
【語釋】 ○旅人 遣唐使一行の人々を云ふので、第四句の吾が子はその中にまじつてゐるのである。○吾が子羽ぐくめ 羽ぐくむ〔四字傍点〕は鳥の羽の下に雛をはさみ包むことで、後にはひろく育てることを云ふ樣になつた。鶴は子をよく愛しむ鳥なので、吾が子を羽ぐくめと頼むのである。○天の鶴群 空を群れ飛ぶから鶴(127)に添へて云つたのである。
【後記】 長歌で旅行く子の幸を祈つた母親の、つきつめた愛情をこの反歌に率直に勁く現してゐる。初句から結句へ一氣に直敍した調子、四句の命令法にこもる感情の強さ、結句の名詞止め、母親の情が律動と共に胸にひびいて來る。鶴は子を大切に育てる鳥である。「燒野の雉子
夜の鶴」とも云ひ、白氏文集に「夜鶴子を思うて籠中に鳴く」ともある。乍然、此の歌の作者母親はその事を特に意識してそれ故に「鶴群」を思ひついて云つたのでなく、意識の底にはその事はあつたかも知れぬが、當時は鶴は大和攝津邊いづれも多く棲んでゐた樣であるから、たま/\天空に舞ふ鶴の群を見て、直ちに之に心を寄せて敍したのであらう。更に又、鶴は大陸に棲む渉り鳥であるから、之から吾が子の渡りゆく唐土の空に舞うてゐるであらう鶴の群をも想つたのであらう。「羽ぐくめ」も霜夜の野、母親の愛情にふさはしい温い情緒のある言葉である。萬葉集中秀歌の一つである。
娘子《をとめ》を思《しぬ》びて作《よ》める歌一首并に短歌
1792 白玉の 人のその名を なかなかに 辭《こと》の緒《を》延《は》へず 遇《あ》はぬ日の 數多《まね》く過《す》ぐれば (128)戀ふる日の 累《かさ》なり行けば 思ひ遣《や》る たどきを知らに 肝《きも》向《むか》ふ 心|摧《くだ》けて 珠《たま》たすき 懸《か》けぬ時なく 口|息《や》まず 吾《あ》が戀ふる兒を 玉釧《たまくしろ》 手に取持《まきも》ちて まそ鏡 直目《ただめ》に見ねば 下檜山《したひやま》 下|逝《ゆ》く水の 上《うへ》に出でず 吾《あ》が念《も》ふ情《こころ》 安からずかも
【口譯】 美しい人のその名を、戀しいので却つて言葉に出して云ふことが出來ず、相逢はぬ日が幾日も過ぎて行くと、一層に戀ひ焦れる日が重つてゆくので、心を晴らす術《すべ》もなく、心の張りも碎けて、言葉にかけて云はぬ時なく絶えず口に出していとしい名を云つてゐる。その吾が戀しい娘子を、手に纒き持つて離さぬ樣に、吾が眼に直接に見ないから、下蔭を流れる水が上に出ぬ樣に色にもあらはさず、吾が戀ひ思ふ心は、安らかではない。
【語釋】 ○白玉の人 人をうつくしいと讃めて云ふのである。○なかなかに 却つて、一層に、と云ふ意。○辭の緒延へず 言葉に出して云ひあらはさず、と云ふ意。契沖云ふ「思ふことを云はぬは、たとへば物の緒をつかねておけるが如く、それを云ひ出づるは、引はへてのぶるが如し」と。○數多《まね》く 隙《ひま》なく、繁く、と云ふ意で、茲では日數を多く重ぬることを云ふ。○思ひ遣る 心の思ひを晴らす意で、後世の想像するとか同情するとかの意ではない。○たどき 方便、よすが。○肝向ふ 「心」の枕詞。内臓が腹中に相對して集つてあるので、多くの肝の凝々《こり/\》しの意で、凝々はコロコロで、ココロにつづくのであると云(129)ふ。○珠たすき 「懸」の枕詞。○懸けぬ時なく 言葉にかけて云はぬ時はなく、の意。○口息まず 口に出して云ひ通してゐること。○玉釧 枕詞。語義に就いては既に釋いた。○まそ鏡 見る、向ふ、照る、面、影等の枕詞。○直目に見ねば 直接に顔を見ないから、と云ふ意である。○下檜山 攝津國能勢郡にありと云ふから・今の豐能郡であらうが何れの山か詳かにしない。次の句にかかる爲の辭であるが、同時に作者なり、その戀人なりが、下檜山のほとりに住んでゐるのであらう。○上に出です 表面にあらはさず、といふ意。
反歌
1793 垣ほなす 人の横言《よこごと》 繁みかも 遇《あ》はぬ日|數多《まね》く 月の經ぬらむ
【口譯】 人を隔て妨げる垣の樣に、人がいろいろに云ひふらす邪《よこしま》な噂が頻りなので、それを憚つて、逢はぬ日が重つて月日が經つたのであらう。
【語釋】 ○垣ほなす 垣ほ〔二字傍点〕は物を隔てるもの、なす〔二字傍点〕は「如く」の意。○横言 よこしま言である。
1794 立易《たちかは》る 月重なりて 逢はねども さね忘らえず 面影にして
(130) 右の三首は、田邊福麻呂の歌集に出づ
【口譯】 移りゆく月の數が重つてもう幾月にもなり、久しくあなたと逢はないでゐるけれど、面影が眼にあり/\と見えて、まことにしばしも忘れられない。
【語釋】 ○立易る 立〔傍点〕は月の立つを云ふ。易る〔二字傍点〕は月々が移り變るを云ふ。○さね忘らえず さね〔二字傍点〕は眞實に。まことに忘られず、の意。
挽歌
宇治若郎子《うぢのわきいらつこ》の宮所《みやどころ》の歌一首
1795 妹がりと 今木《いまき》の嶺《みね》に 茂立《しみた》てる 嬬松《つままつ》の木は 古人《よきひと》見けむ
【題意】 宇治若郎子は菟道稚郎子とも書く。應神天皇の皇子で、仁徳天皇紀に宇治に宮作りして在しましたことが載つてゐる。現今宇治町の北方宇治川沿ひに皇子の御墓がある。
【口譯】 今木の嶺に繁り立つてゐる松の木は、古へ皇子が朝夕に眺めましたものであらう。
(131)【語釋】 ○妹がりと 妹が許へと今來た、と云ふ意でつづけた枕詞である。○今木の嶺 宣長は宇治の東南にある山であると云ひ、古義では大和國高市郡にあつて、應神天皇御在位の時皇子は今木におはしましたのであらうと云ふ。○嬬松の木 ただ松の木を云つたので、戀する人が妻を待つと云ひかけたのである。「君松の木」などの用例もある。○古人見けむ 古〔傍点〕は「吉」の誤であるといふ古義の説に從つた。よき人〔三字傍点〕は皇子を指し奉るのである。
紀伊國にて作《よ》める歌四首
1796 黄葉《もみぢば》の 過ぎにし子等と 携《たづさ》はり 遊びし礒《いそ》を 見れば悲しも
【口譯】 今は亡きいとしい妹と、手をとりあつて遊び樂しんだこの紀伊の磯を見ると、過ぎし日が偲ばれて悲しい。
【語釋】 ○黄葉の 「過ぎにし」にかかる枕詞。○携はり 手をとりかはして、の意。
【後記】 「携はり遊びし」は佳句である。深みはないが情のこもつた味がある。一首の調子も張つて居り、内にこもる情も滿ちて居つて、よく徹つてゐるのがよい。
(132)1797 鹽氣《しほけ》立つ 荒礒《ありそ》にはあれど 往《ゆ》く水の 渦ぎにし妹が 形見とぞ來《こ》し
【題意】 此の歌に似た歌が卷一にある。やはり柿本朝臣人麻呂の作で「眞草苅る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ來し」(四七)。
【口譯】 潮けぶりの立つ波荒い磯であるが、亡き妹と共に遊んだ處であるから、妹の形見と思つて慕はしく見に來た。
【語釋】 ○鹽氣立つ 潮けぶりの立つ、の意。○往く水の 「過ぎにし」の枕詞。
【後記】 「鹽氣立つ荒磯」は情景を現す面白い言葉であるが、萬葉集中他に用例はないやうである。此の一聯四首は人麻呂歌集に出づとあるが、此の歌は「眞草苅る荒野にはあれど」の人麻呂の作が傳誦轉化したのではあるまいか。格調に於いては人麻呂の作に及ばない樣である。徳川時代、原久胤の作に、「鹽氣立つ荒磯の浪に聲はして影こそ見えね雁は來にけり」。
1798 古へに 妹と吾《あ》が見し ぬばたまの 黒牛潟を 見ればさぶしも
【口譯】 昔愛する妹と一緒に見た黒牛潟の佳い景色を今一人來て見ると心淋しい。
【語釋】 ○ぬばたまの 枕詞。○黒牛潟 今の和歌山縣黒江灣である。
(133)1799 玉津島 礒《いそ》の浦廻《うらみ》の 眞砂《まなご》にも 染《にほ》ひて去《ゆ》かな 妹が觸《ふ》りけむ
右の四首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ
【口譯】 玉津島の磯のめぐりの砂でなりと、吾が衣を色付けて行かう、この砂には、昔一緒に來て遊んだ時妹が觸れたであらうから。
【語釋】 ○浦廻 既出。○眞砂 眞〔傍点〕は發語。砂の細かいもの。○染ひて去かな 心の記念に衣に色を染めるので、集中に同樣の例が幾つもある。
足柄の坂を過ぐるとき、死人を見て作《よ》める歌一首
1800 小垣内《をかきつ》の 麻を引き干《ほ》し 妹なねが 作り著《き》せけむ 白|細《たへ》の 紐をも解かず 一重|結《ゆ》ふ 帶を三重|東《ゆ》ひ 苦しきに 仕へ奉《まつ》りて 今だにも 國に罷《まか》りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東《あづま》の國の 恐《かしこ》きや 神の御坂《みさか》に 和靈《にぎたへ》の 衣《ころも》寒《さむ》らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告《の》らず 家問へ(134)ど 家をも云はず 益荒夫《ますらを》の 行《ゆき》の進《すすみ》に 此處《ここ》に臥《こや》せる
【題意】 足柄は相模國足柄である。折口信夫博士は「口譯萬葉集」に「都の宮中の雜仕、或は九州の防人等に召された者が、行く時は團體となつて行くが、歸りは散り/\になつて官の保護もなく歸るので、中には行路病者として死ぬ者が多かつたのであるが、他郷の人を遇する事仇敵に對する樣であつた昔の里人は、是等の哀れな人を見捨てて、死ねば穢れがあるとして、愈々打捨てて其を見てさへ祓《はらへ》をした位であつた」と説的してゐる。
【口譯】 垣の内の麻を引いて干し乾かし、愛しい妻が作つて着せたであらう衣の紐さへも解かず、一重結びの帶が三廻りもする程に痩せ衰へて、苦しい務めに仕へて、今暫くで故郷に歸つて、父母にも妻にも逢はうと思ひ乍ら、旅をつゞけて來た君は、東國の恐しくも險しい坂に、白の衣も寒さうに、髪も亂れて、故郷を尋ねても故郷を答へず、家を聞いても家を云はず倒れてゐる。丈夫の元氣で行き進むままに進んで來て、此處に死んでゐる。
【語釋】 ○小垣内 小〔傍点〕は添へた辭。垣内〔二字傍点〕は屋敷垣の内である。○妹なね なね〔二字傍点〕は親しみ云ふ辭で、多くは女を指して云ふが、男の場合にも云ふことがある。茲では勿論女である。○白細の 枕詞。○一重結ふ帶を三重結ひ 一重廻る帶が三重も廻る程に激しく痩せ衰へたさまを云つたのである。後世、木下幸文の歌に「二へ帶三重にゆふべくなりぬとも我した心ゆるぶべしやは」と云ふのがある。○今だにも 今〔傍点〕は、追付(135)けと云ふ意。○國に罷りて 故郷に下つての意である。○鳥が鳴く 「東」の枕詞。語義に就いては古來數説ある。冠辭考は「鷄が鳴く明《アカ》」の「あ」にかかると云ひ、古義は「鷄が鳴くぞ、やよ起きよ吾夫《アヅマ》」と云ふ意で「あづま」にかかると云つて居る。○恐きや神の御坂に 恐ろしくも險しい坂にの意。古義は、神とは山でも海でも險しく行き悩む處を云ふと説明してゐる。○和靈の 靈〔傍点〕は細布〔二字傍点〕の誤であらうと云ふ眞淵の説に從つた。和細布は白い布である。○衣寒らに 着物も寒げに、の意。○ぬばたまの 枕詞。
【後記】 各句が割合に緊密に、調子を持つて詠まれてゐる。作者の死人に對する細かい心遣り、同情が一首に現れてゐる。「父母も妻をも見むと」であるから、死人は青年であらう。「益荒夫の行の進に此處に臥せる」もそれ故に一首の上に頗る能く働いてゐる。折口博士の説を念頭に置いて、當時の社會状態風習を考へてよむと、趣のある佳い歌である。
葦屋處女《あしやをとめ》が墓を過ぐる時|作《よ》める歌一首并に短歌
1801 古《いにしへ》の 益荒壯士《ますらをのこ》の 相兢《あひきほ》ひ 妻問《つまどひ》しけむ 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 奥津城《おくつき》を 吾《あ》が立ち見れば 永き世の 語《かたり》にしつつ 後人《のちひと》の 偲《しぬび》にせむと 玉|桙《ほこ》の 道の邊《べ》近く 磐構《いはかま》へ 作《つく》れる冢《つか》を 天雲《あまくも》の 退部《そくへ》の限《かぎり》 此の道を 行く人|毎《ごと》に 行き寄りて い立(136)ち嘆《なげ》かひ 里人は 啼《ね》にも哭《な》きつつ 語り嗣《つ》ぎ 偲《しぬ》び繼《つ》ぎ來《こ》し 處女《をとめ》らが 奧津城《おくつき》どころ 吾《あれ》さへに 見れば悲しも 古《いにしへ》思《おも》へば
【題意】 葦屋處女の物語は、下の一八〇九の長歌に詠まれてゐる。葦屋は和名抄に攝津國菟原郡葦屋とある。今の武庫郡で、六甲山の南麓一帶の稱であつた樣である。處女の基の所在に就いては一八〇九の長歌と共に釋く。
【口譯】 昔の立派な男が、競爭して妻にしようと訪ねたと云ふ物語の、葦屋の菟原處女の墓を自分が來て見ると、永い代々の物語として語り傳へつつ、後世の人の思ひ出の縁《よすが》としようと、道の傍に近く、磐を疊んで作つた墓を、國内の至る處いづこでもすべて、此の道を行く人は誰も彼も寄つて行つて立ち留つて嘆き、土地の人は聲に出して泣き嘆き乍ら、次々に語り傳へ代々思ひ出して傳へて來た處女の墓を見ると、自分さへも昔の事が思ひ偲ばれて悲しい。
【語釋】 ○菟原處女 攝津國|菟原《うなひ》郡の處女と云ふのでかく呼んだのである。類例は壮の卷にも既に周淮《スヱ》の珠名、播磨の娘子があつた。○奧津城 墓のこと。○磐構へ 磐を多く疊んでの意。○天雲の退部の限 そくへ〔三字傍点〕は「底方」で、至り極まる處。天雲の至り極る限と云ふので、國内いづこも殘らずと云ふ程の意である。○い立ち嘆かひ い〔傍点〕は添へ辭、立ち〔二字傍点〕は立ち留る意、嘆かひ〔三字傍点〕は「嘆く」の伸びたので、嘆くとは長き息を(137)つくこと。立ち留り嘆くことの絶えぬを云ふ。○處女らが 一人の場合でもら〔傍点〕と云ふことは屡々例がある。
【後記】 一首少々ごた/\してゐる。「……奧津城を吾が立ち見れば……作れる冢を……奧津城どころ……」と重ねたところが煩はしくなつてゐる。
反歌
1802 いにしへの 小竹田壯士《しぬだをとこ》の 妻問《つまど》ひし 菟原處女《うなひをとめ》の 奥津城ぞこれ
【口譯】 昔居つた和泉國の信太の男が、妻にしようと訪ね通つた菟原處女の墓がこれであるぞ。
【語釋】 ○小竹田壯士 和名抄に和泉國和泉郡信太とある處の男である。下の一八〇九の長歌にある智奴壯士と云ふのがこれである。尚、信太は今は大阪府泉北郡である。
1803 語り繼《つ》ぐ 故《から》にも幾許《ここだ》 戀《こほ》しきを 直目《ただめ》に見けむ 古壯士《いにしへをとこ》
【口譯】 語り傳へを聞く、その爲だけでもしきりに戀しいのに、親しく眼に見た昔の男達は如何ばかり戀しかつたであらう。
【語釋】 ○故にも 其の爲だけでも。○直目に見けむ 眼のあたり見たであらう、といふ意。○古壯士 こ(138)の物語の二人の男を指す。
弟《をと》の死去《みまかれる》を哀《かなし》みて作《よ》める歌一首并に短歌
1804 父母が 成《な》しのまにまに 箸向《はしむか》ふ 弟《おと》の命《みこと》は 朝露の 消易《けやす》き壽《いのち》 神《かむ》の共《むた》 爭《あらそ》ひかねて 葦原の 瑞穗の國に 家|無《な》みや また還り來《こ》ぬ 遠《とほ》つ國 黄泉《よみ》の界《さかひ》に 蔓《は》ふ蔦《つた》の おのもおのも 天雲《あまくも》の 別れし行けば 闇夜《やみよ》なす 思ひ迷《まど》はひ 射《い》ゆ猪鹿《しし》の 意《こころ》を痛《いた》み 葦垣《あしがき》の 思ひ亂れて 春鳥の 啼《ね》のみ鳴きつつ 味《あぢ》さはふ 宵《よる》晝《ひる》と云はず かぎろひの 心|燃《も》えつつ 嘆きぞ吾《あ》がする
【口譯】 父母が生み育て給ひしままに、吾と二人對ひあつてゐた愛する弟は、朝露の消え易い樣に果敢ない命を、神のみ心のままに、その御意思に反し難くて、此の日本の國に家が無くなつてしまつた故か、再び歸つて來ず、遠い黄泉の國に私共と別々に別れて行つてしまつたので、心迷ひ、胸が痛んで、思ひも千々に亂れて、聲をあげて泣きながら、夜も晝もわかちなく心が熱く燒けて吾は嘆き悲しんでゐる。
(139)【語釋】 ○成しのまにまに 成す〔二字傍点〕は物をつくりととのへる意。茲では生んで育成するを云ふ。○箸向ふ 物が二つ相對ふをいふので、二人の兄弟を指してゐる。兄弟なる故面白い詞である。○神の共爭ひかねて 神のみ心のままに從ひ、その意思に反抗し得ず、の意。○家無みやまた還り來ぬ 無み〔二字傍点〕は「無い故に」の意。や〔傍点〕は疑問の辭。○遠つ國 「黄泉」にかかる辭。○黄泉の界 夜見の國の義で、人の死後に行くといふ國と云はれてゐる。○蔓ふ蔦の 枕詞。○おのもおのも おのれおのれの義で、別々にと云ふ意である。○天雲の 枕詞。○闇夜なす 「迷」にかかる枕詞。○射ゆ猪鹿の 枕詞。矢に射られた猪鹿の疵の痛むことから、「痛」にかかる。○葦垣の 枕詞。葦を束ねて作つた垣は亂れさばけてゐるので、「亂れ」につづくのであると云ふ。○春鳥の 枕詞。○味さはふ 枕詞。○かぎろひの 「燃え」の枕詞。
【後記】 枕詞を非常に多く用ゐてゐる點注目される。枕詞によつて調子を整へ趣を出してゐるのであるが、少し煩はしい感じもするのではあるまいか。
反歌
1805 別れても またも遭《あ》ふべく 念《おも》ほへば 心亂れて 吾《あれ》戀ひめやも
【口譯】 相別れてもまた逢ふことが出來ると思へる別れなら、これ程に心亂れて戀しく思ひはし(140)ない。
【後記】 上句いくらか理窟めいてゐる。それよりも悲しみを直敍した方がよい。その點は次の歌の方が直接的であるだけ深く訴へるところがある。
1806 あしひきの 荒山中《あらやまなか》に 送り置きて 還《かへ》らふ見れば 情《こころ》苦しも
右の七首は、田邊福麻呂の歌集に出づ
【口譯】 人氣の無い荒山の中に葬り送つて置いて、人々が還つてゆくのを見ると、せん方もなく心が苦しい事である。
勝鹿《かつしか》の眞間娘子《ままをとめ》を詠める歌一首并に短歌
1807 鷄《とり》が鳴く 吾妻《あづま》の國に 古昔《いにしへ》に ありける事と 今までに 絶えず言ひ來《く》る 勝鹿の 眞間の手兒奈《てこな》が 麻衣《あさきぬ》に 青衿《あをえり》著《つ》け 直《ひた》さ麻《を》を 裳には織り著て 髪だにも 掻《か》きは梳《けづ》らず 履《くつ》をだに 穿《は》かず歩《ある》けど 錦綾《にしきあや》の 中《なか》に※[果/衣のなべぶたなし]《くく》める 齋兒《いはひご》も 妹に如《し》か(141)めや 望月《もちつき》の 滿《たれ》る面《おも》わに 花の如《ごと》 咲《ゑ》みて立てれば 夏蟲の 火に入るが如《ごと》 水門入《みなといり》に 船漕ぐ如く 行きかがひ 人の誂《と》ふ時 幾許《いくばく》も 生《い》けらじものを 何すとか 身をたなしりて 浪の音《と》の 騷ぐ湊の 奧津城《おくつき》に 妹が臥《こや》せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 念ほゆるかも
【題意】 眞間は今の千葉縣市川市眞間である。眞間娘子は眞間に居た娘子と云ふので、處の名を冠して呼ぶことは既に云つた。眞間娘子を詠んだ歌は卷三に赤人の歌があり、又卷十四にも二首ある。
【口譯】 東國に昔あつた事であると、今日までも絶えず言ひ傳へて來た、勝鹿の眞間の手兒奈が、麻の着物に青い衿を着け、麻ばかりを裳に織つて着て、髪も櫛目を入れず履きへ穿かないで歩いてゐるけれど、錦や綾の中に包まれて育つた良家の娘達も、この娘子に及びもしない。滿月の樣に圓滿な面わに花の樣ににつこりと笑つて立つてゐると、夏蟲が火を慕つて來て飛び入る樣に、或は湊に船が競うて漕ぎ入る樣に、人々が言ひ寄り挑んで來た時、幾程も生きられる生命でないのに何と身を分別したのであるか、浪音の騷ぐ湊の墓場に娘子が寐てしまつた。それは遠い昔にあつた事であるのに、昨日にも見た樣に思はれる事である。
(142)【語釋】 ○鷄が鳴く 枕詞。○直さ麻を裳には織り著て 直〔傍点〕はひたすらで、純粹なこと。「直土《ヒタツチ》」など其の用例である。さ〔傍点〕は接頭語。麻ばかりで裳を織つて著てゐるので、衣裳の粗末であることを意味してゐる。○髪だにも 髪さへも、の意。○※[果/衣のなべぶたなし]《くく》める 「羽ぐくむ」のくくむ〔三字傍点〕で、包む意である。○齋兒 良家の子女の意。○望月の 枕詞。○滿る面わ 圓滿な顔。○夏蟲の火に入るが如 下の「行きかがひ」にかかるので、夏虫が火の光を慕ひ來て火中に飛び入る樣に、男たちが寄り來ることを云つたのである。○水門入に船漕ぐ如く 湊に船を漕ぎ入れる樣に、と云ふので、男達が娘子を爭ふことを譬へたのである。○行きかがひ 原文は「歸香具禮」で、宣長の古事記傳、千蔭の略解等はヨリカグレと訓んでゐるが、古義が「具禮」は「賀比」の誤であると云ふのに從つた。筑波山の※[女+燿の旁]歌會《かがひ》は前に出た。かがひ〔三字傍点〕は婚するを云ふ。○人の言ふ時 古義は原文「人乃言時」の言〔傍点〕は「誂」の誤とし、トフと訓んでゐる。我が意に從はせんと説くこと、挑むの意。○何すとか 何とかと、の意で、か〔傍点〕は次句にたなしりて〔五字傍点〕か〔右○〕と附けて解するとよい。○たなしりて わきまへる、分別する、の意。○奥津城に妹が臥せる 葬り處に寢てゐると云ふので、湊に身を投げて死んだのを云つてゐるのである。○昨日しも しも〔二字傍点〕は取立てて云ふ辭。
【後記】 娘子の服装や容姿を細かに描いてゐる點特色がある。前にあつた周淮の珠名の長歌には、珠名の均整のとれた姿態の艶なるを敍してゐるが、之はややみすぼらしい服装の中に輝く娘子である。そして手兒奈は珠名とは異なつて純情を以て水死したので、「幾許も生けらじも(143)のを何すとか身をたな知りて」に作者の人生觀を見せてゐる。又、「夏蟲の火に入るが如」は特色ある言葉ではないが、「水門入に船漕ぐ如く行かがひ」は、適切で面白い形容である。
反歌
1808 勝鹿《かつしか》の 眞間《まま》の井見れば 立ち平《なら》し 水汲ましけむ 手兒奈し念《おも》ほゆ
【口譯】 勝鹿の眞間の井を見ると、始終行き通うて水を汲んだであらうあの手兒奈が思ひ偲ばれる。
【語釋】 ○立ち平し 常に往き來しての意。○水汲ましけむ まし〔二字傍点〕は敬語、水汲み給うたであらう、と云ふこと。
【後記】 特色のない普通の反歌であるが、「立ち平し」は働きのある言葉である。
菟原處女《うなひをとめ》が基を見て作《よ》める歌一首并短歌
1809 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 八年兒《やとせこ》の 片生《かたおひ》の時よ 小放《をはなり》に 髪《かみ》たくまでに 竝び居《を》る 家にも見えず 虚木綿《うつゆふ》の 隱《こも》りて在《ま》せば 見てしかと 悒憤《いぶせ》む時の 垣ほなす 人(144)の誂《と》ふ時 智奴壯士《ちぬをとこ》 菟原壯士《うなひをとこ》の 廬屋《ふせや》燒《た》き すすし競《きほ》ひ 相結婚《あひよば》ひ しける時に 燒大刀《やきたち》の たかみ押《お》しねり 白檀弓《しらまゆみ》 靱《ゆき》取り負《お》ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競《きほ》へる時に 吾妹子が 母に語らく 倭文手纒《しづたまき》 賤《いや》しき吾《あ》が故《ゆゑ》 丈夫《ますらを》の 爭ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあらめや しじくしろ 黄泉《よみ》に待たねと 隱沼《こもりぬ》の 下延《したは》へ置きて 打ち嘆き 妹が去《ゆ》ければ 血沼壯士《ちぬをとこ》 其の夜|夢《いめ》に見 取りつづき 追ひ行きければ 後れたる 菟原壯士《うなひをとこ》い 天《あめ》仰《あふ》ぎ 叫びおらび 地《つち》へ伏し 牙喫《きか》みたけびて もころをに 負《ま》けてはあらじと 懸佩《かきはき》の 小釼《をたち》取り佩《は》き ところつら 尋《たづ》ね行ければ 親族《やから》どち い行き集《つど》ひ 永き代《よ》に 標《しるし》にせむと 遠き代《よ》に 語り繼がむと 處女墓《をとめはか》 中に造り置き 壯士墓《をとこはか》 此方彼方《こなたかなた》に 造り置ける 故縁《ゆゑよし》聞きて 知らねども 新裳《にひも》の如《ごと》も 哭《ね》泣きつるかも
【口譯】 葦屋の里の菟原處女が、八歳でまだ十分に大きくなつてゐない子供の時分から、振分髪に髪を結ひ上げるまで、近隣の人々にも會はず家に隱《こも》つて居たので、處女を見たいものである
(145)と思ふ心が結ぼれて晴れない人々が、垣の樣に取卷いて言ひ寄つて來る時に、茅渟壯士と菟原壯士とが我勝ちに競爭して求婚した時には、刀の柄を押しひねり靱を負うて、處女の爲には水にでも火にでも飛び込まうと、對抗して競爭してゐるとき、處女が母に語つて云ふには、賤しい私であるのに立派な方が爭ふのを見ると、生きて居つても戀しいと思ふ人と一緒になることは叶ひますまい、いつそあの世で待つてゐませうと、心ひそかに思ひをかけて置いて打ち嘆いて死んでしまつたので、茅渟壯士は其の夜處女の死を夢に見て、引續いて後を追つて死んでしまつた。そこで後に殘つた菟原壯士は、天を仰いで大聲をあげて喚き、地に伏して齒噛みして叫んで、同輩に負けてなるものかと、常に身につけてゐる小釼を佩いて後を追うて往つてしまつたので、三人の親族の者達は寄り集つて來て、永久の標にしよう、後世に語り傳へようと、處女の墓を中に造り、二人の壯士の基を此方と彼方とに造つて置いた。さう云ふいはれを聞いて、知らぬ昔の事であるが、新らしい喪にあつた樣にも悲しく聲を立てて泣いたことである。
【語釋】 ○八年兒 八歳の子供。○片生の時よ 十分に成長してゐない時から、と云ふ意。○小放 ふり分け髪のこと。○髪たくまでに 髪を結ひ上げるまでにと云ふので、成長して髪を結ふ年頃迄にの意である。○竝び居る家 隣り近所の家。○虚木綿の 枕詞。語義は詳かでない。○見てしかと 見たいものである(146)との意。○悒憤む 心が結ぼれふさがること。○垣ほなす 垣の樣に、の意。○智奴壯士 茅渟の里の男。書紀に河内國泉郡茅渟海とあり、今の和泉國である。○廬屋燒き 枕詞。廬屋で火を燒くと煤が出るから「すす」にかかる。○すすし競ひ すすし〔三字傍点〕は進む〔二字傍点〕意。○相結婚ひ 女を呼ぶと云ふので、求婚する意。○燒大刀 燒いてよく鍛へた大刀の意。○たがみ押しねり たがみ〔三字傍点〕は書紀に「釼頭タガミ」とあり刀の柄のこと。押しねり〔四字傍点〕は押しひねりの意である。○白檀弓 白木の弓で、弓に關係ある言葉の枕詞である。○靱 矢を入れて負ふ具。○吾妹子 菟原處女を指す。○母に語らく 母に語るやうは、の意。○倭文手纒 「賤」の枕詞。倭文〔二字傍点〕は借字で賤《しづ》のこと、手纒〔二字傍点〕は手にまく玉の類である。賤の手纒は下品であるから賤しい意につづけたのであらうと云ふ。○賤しき吾が故 賤しい吾であるものを、の意。賤しい吾が爲にと解するのは賛成し難い。○逢ふべくあらめや 逢ふことが叶はぬとの意。處女は血沼壯士に心を寄せてゐたので、血沼壯士に逢ふことが出來ないと云ふのであると古義は説いてある。○しじくしろ 「黄泉」の枕詞。語義は冠辭考、管見、古義等諸説あつて明確でない。○隱沼の 「下」の枕詞。○下延へ置きて しのび隱して人知れずひそかに思ひをかけて置いての意。○妹が去ければ 處女の自害したことを云つたのである。○菟原壯士い い〔傍点〕は主格に附く助詞。卷四「紀の關守いとどめてんかも」(五四五)、卷十二「家なる妹い欝悒《おほほしみ》せむ」(三一六一)、卷十四「母い〔右○〕守《も》れども魂《たま》ぞ逢ひにける」(三三九四)の用例がある。○おらび 大聲に呼號するを云ふ。○牙噛みたけびて 齒噛みし叫びての意。○もころをに もころ〔三字傍点〕は「如」の古言で、如2自己1男と云ふ義で、己が同輩にと云ふ意である。○懸佩の 縣〔傍点〕は接頭語、「取佩の」と同じ。○ところつら (147)枕詞。野老《トコロ》で、ヤマノイモの一種で日蔭では冬でも葉が青々として春まで殘る。蔓を尋ねて薯を掘るので「たづね」にかかるのであると云ふ。○親族どち 處女と二人の壯士の親族等を云ふ。○處女基壯士墓 處女墓〔三字傍点〕は求女塚とも云ひ、攝津國武庫郡にある。「處女墓中に造り置き」に當るものは御影町東明にあり、壯士の墓の一つは東明より東へ十數町の住吉村|呉田《ごでん》にあり、他の一つは東明より西約二十町神戸市灘區にあたるが、壯士の墓の東の分は既に壞たれて今では畑となり、西の分は私有地になつてゐると云ふ。○新裳の如く 新裳〔二字傍点〕は「新喪」である。
【後記】 浪漫的な物語である。菟原處女と之に云ひ寄る二人の壯士を、斯く精細に描いてゐる事は萬葉集中異色ある長歌である。又二人三人の男から愛を求められて懊悩して死を選ぶのは、前の手兒奈や卷十六に櫻兒、縵兒があるが、卷十六のは詞書に物語を記した短歌であるから歌としての内容は簡単であるし、手兒奈の歌も戀愛葛藤は概敍的である。此の歌の如く内容極めて複雜であることも集中例を見ない特色で、長篇浦島兒の長歌も之程の複雜さはない。而してこの複雛な内容を生彩ある敍述を以て詠じ、一篇の劇詩的效果を形成してゐることは特筆すべきことであらう。
(148) 反歌
1810 葦屋《あしのや》の 菟原處女《うなひをとめ》の 奧津城《おくつき》を 往《ゆ》き來《く》と見れば 哭《ね》のみし泣かゆ
【口譯】 葦屋の菟原處女の墓を、道を往くにつけて見、歸るにつけて見ると、悲しくて聲を立てて泣かれる。
【語釋】 ○往き來と見れば 往くとては見、來とては見る、の意である。
【後記】 反歌として形式的な作で平凡の域を出でない。長歌が非常に生彩を帶びてゐるだけに對照して一層平板の感が深い。
1811 墓の上《へ》の 木《こ》の枝《え》靡けり 聞きし如《ごと》 血沼壯士《ちぬをとこ》にし 依りにけらしも
右の五首は、高橋連蟲麻呂の歌集の中に出づ
【口譯】 墓の上の木の枝が血沼壯士の墓の方へ靡いてゐる、さては豫て聞いた樣に處女は血沼壯士に心を寄せてゐたに違ひない。
【語釋】 ○木の枝靡けり 木は黄楊《つげ》である。それは、卷十九のこの處女の墓を詠んだ長歌の中に「偲びにせよと黄楊小櫛己がさしけらし生《お》ひて靡けり」(四二一一)、その反歌「處女等が後のしるしと黄楊小櫛|生更《おひかは》り生(149)ひて靡きけらしも」(四二一二)によつて知られる。
【後記】 長歌に對する反歌の地位としては、前歌より此の歌の方が、情趣があり、緊密さをも持つてゐる。
墓の邊の木の枝が血沼壯士の墓の方に靡いてゐたから、處女は心を血沼壯士に寄せてゐたであらうと云ふのは、當時として相當考へた面白い着想であらう。谷崎潤一郎氏の小説「春琴抄」の初めの方に、
目分量で測つたところでは春琴女の墓石は高さ約六尺檢校のは四尺に足らぬ程であらうか。二つは低い石甃の上に並んで立つてゐて春琴の墓の右脇に一と本《もと》の松が植ゑてあり緑の枝が墓石の上へ屋根のやうに伸びてゐるのであるが、その枝の先が屆かなくなつた左の方の二三尺離れたところに檢校の墓が鞠窮如として侍坐する如く控へてゐる。それを見ると生前檢校がまめまめしく師に事へて影の形に添ふやうに扈從してゐた有樣が偲ばれ恰も石に靈があつて今日もなほその幸福を樂しんでゐるやうである。
と、あるのも同樣の構想と云へるであらう。
萬葉集總釋 卷第九
〔2016年11月21日(月)夜8時42分、入力終了〕