新訂増補橘守部全集 第五、橘純一編集、久松潜一監修、東京美術、1921年8月15日(1967.9.15.新訂増補)
 
 
(1)萬葉集墨繩卷一
         橘 守部撰述
  總論
   萬葉是古學要
萬葉考云、すめら御國の上つ代の事を、知とほらふわざは、古き世の歌をしるよりさきなるものぞなかりける。かゝるを、おのれが若かりけるほどは、萬葉は只古き歌ぞとのみおもひ、古き歌もていにしへの意を、しりなん事とも思ひたらず。古今歌集或は物語ふみらを、説しるさむ事をわざとせしに、今しもかへり見れば、其歌も書も世くだちてめゝしき事等のみこそあれ、雄々しき事の乏しくて、みさかりなりしいにしへの、いかしき御代に、かなはずなんある。」又云、上つ御代には、かむろぎの定めましゝ道のまに/\、すめらみことは、いかく雄々しきを表《ウヘ》とし賜ひ、臣たちは、武く直きをもはらとして治め給ひ、つかへまつりけるを、中つ代より、外《トツ》國人の作れる、こまかなるまつり事をおほくとりとなへて、臣たちはも、ふみのつかさ、つはものゝつかさとわかれ、ふみを貴く、つはものをいやしとせしよりぞ、あがすめ神の道おとろへて、人の心ひたぶるならずなりにたる。うへはうるはしびたる教へことをいひて、下にきたなき心をかくせるは、から國人なり。すめらみかどの人は、もとよりなほく、おほらかなる、よき心を生れうる國にしあれば、こまかなる教へは、なか/\にそこなふわざぞや。此こころをよくしらんにも、萬葉を見るにしくものぞなき。」
玉勝間云、宣長三十あまりなりしほど、縣居大人の教へをうけ給はりそめし比より、古事記の註釋をものせむの心ざしありて、其事大人にも聞えけるに。さとし賜へりしやうは、われももとより、神のみふみをとかんと思ふ心ざしあるを、そはまづから心を(2)清くはなれて、古へのまことの意をたづね得ずは有べからず。然るにそのいにしへの意を得むことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言を得ん事は、萬葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾はまづ、もはら萬葉をあきらめむとするほどに、すでにとし老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御典を解までに、いたる事得ざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたる事なく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐる事あるべしと、いとねんごろになん、いましめさとし賜ひたりし、此御さとしごとの、いとも/\たふとくおぼえけるまに/\、いよ/\萬葉集に心をそめて、深く考へて、くりかへし問たゞして、古への意詞を、さとり得て後に見れば、まことに世の物しり人と云ものゝ、神の御ふみ説る趣は、みなあらぬから意のみにして、まことの意は、え得ぬものになんありける。」
槻落葉云、縣居大人の、おのれに常にさとし給へりしやうは、かにかくに萬葉集をよく見よ。萬葉を歌とのみおもふはまだしきなり。古へ人の意詞を得むには、歌の外やはある。萬葉をよく見ば、おのづから古へになれゆきて、其身、其世、其時にあるが如く、外國ごとにまよはされぬいにしへに立かへりぬべし。さてこそ神世の事をもうかゞひ、後の世のまどひをも、たゞすにいたるべきなれ。まことに千歳の人の上にたゝんは、此萬葉の學びなりと、くりかへし教へ給ひしを、やう/\としたけゆくまに/\、さる事にて侍りきと、おもひとりぬる、いと貴く、かたじけなき御喩にぞありける。」又云、今の世に、此ふる言學びは、みさかりにおこれるものから。猶此萬葉集をしも、くはしくする人のなきはいかにぞや、たま/\萬葉を見る人あれど。いにしへの意を、しらむものとしもおもはず。後の世の拙き心もて、たゞ其歌のよしあしのみ、あげつらひをるこそをこ(3)なれ。」
今おもふに、これらのさとしよ、たれも萬葉をよく見たらむのちは、げにと思ひしりぬべき事なれど、おなじくは學びのはじめより、此事のしらせまほしきなり。つら/\むかし今のものしり人を見わたすに、此集より入たちたる人々は、おふなおふな道の眞に入て、ひろくも、せばくも、おのかじゝ、其人ほどのいさをはたちけるを、此集をよそにして、入たちたるひと/”\は、われからあらぬ方にふみまどひて、あまた殘せる書どもゝ、皆いたづら事と成ぬるが、まのあたり多く見ゆ。かかればもの學びの、つひになるとならざるとは、偏に此集を、よく見ると、見ざるとによるなりけり。若(シ)そは何ゆゑに然るぞといはんに、そのゆゑはしられざれど、うつしくしるしのある事は、後の世にしほじみ來し心ぐせも、此集になれゆけば、やがてきよまはり、外國ごとにそみつき來しさかしら心も、此集になれゆけばいつしか眞心に立かへりゆくなん、あやしともあやしきものなる。もしは神とも神とあふぐべき、いにしへの世々の人の、言靈の助けによりて、しかるにかあらん。かゝるがゆゑに、常の言ぐさにも、身のけがらひは、大川道にまかでゝすゝぐべく、心のしほじみは、此集につきて、あらひきよめよとしも、いはるゝばかりなり。そも/\此集をよくも見ずて、國史などを見んとするは、船なくして海をわたらんよりも、あやふかりなん。たふとき神代の御典を、きたなきもじごゑによみなして、あらぬ疑ひを引いづめるも、此集の眞心を得ざるゆゑなり。又其ふる言にめまどひして、あやしきふしに説なすめるも、猶此集のおくがをさぐらざるあやまちなりけり。大かたの世につきて見るに、中昔のほどより、道の眞をわすれ來しも、此集をうもらしつる故なりけるを、今かく明らかになりこし世にあひながら、なほ此集をよそにして、いたづらに古き代の書なぶりせる人(4)等の、多く見ゆめるがいとほしくて、先此事をはじめにことわるになん。
 
   題號
 
仙覺萬葉抄云 先此集を萬葉と名づくるは、何の意ぞや。是はよろづの言の葉の義也。詩賦は漢家の文花、歌は我朝の風俗也。在(ルヲ)v心(ニ)曰(ヒ)v志(ト)形(ル)v言(ニ)曰(フ)v詩(ト)。うたも亦(タ)爾《シカ》也《ナリ》。されば古今(ノ)眞名序には、夫(レ)和歌者。託(シテ)2其(ノ)根(ヲ)於心地(ニ)1發(スル)2其(ノ)花(ヲ)於詞林(ニ)1者也。といひ、假名序には、やまとうたは人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける。とかけるも、此心なり。云云。問(テ)云(ク)、古今より以來、代々の撰集、みな題目の下に、有2和歌(ノ)兩字1。所謂古今和歌集、後撰和歌集(ト)云(ヘ)り。何ぞ萬葉集の題目に、無(キ)2和歌兩字1乎如何。答(フ)。不(ルコト)v書(カ)2和歌兩字(ヲ)1、ことにいみじき也。可(シ)v有(ル)2其(ノ)子細1。不(ルコト)v書(カ)2和歌(ノ)兩字(ヲ)1、可(シ)v有(ル)2二(ノ)故1。一にはよろづの言の葉といへる、則歌也。何ぞかさねて可(キ)v書2和歌兩字(ヲ)1乎云云。」
代匠云、此集を、萬葉と名付る事、萬は十千也。和語には、與呂豆《ヨロヅ》と云。今は必(ズ)十千に限るにあらず。たゞ物のおほかるを云なり。史記魏世家曰。萬(ハ)滿數也。左傳曰。萬(ハ)盈數也。莊子秋水篇には、號(シテ)2物之數(ヲ)1謂(フ)2之(ヲ)萬(ト)1。といひ。則陽篇には、今計(ヘテ)2物之數(ヲ)1、不v止2於萬(ニ)1。而|期《カギツテ》曰2萬物1者。以2數之多(キ)者(ヲ)1。號《カネテ》而|讀《イフ》v之也。といへり。此心也。葉の字は、これに二の義有。一つには、世の義、毛萇が詩傳に、葉(ハ)世也。といへり。葉の字、世の字ともに、與《ヨ》とも、都疑《ツギ》ともよめり。父子相(ヒ)かはるを、世といひ、或は三十年をも、世といふ。文選左太仲が呉郡賦には、雖2累(ネ)v葉(ヲ)百《モヽ》疊(ナルト)1。而富彊相繼(リ)。といひ、劉※[王+昆]が勸進表には、三葉重v光(ヲ)。四聖繼v軌《アトヲ》。といひ、顔延年が赭白馬賦には、維(レ)宗二十有二載。盛烈光(トシテ)乎重v葉(ヲ)。といへる、これら皆世の心也。況や顔延年が曲水(ノ)詩序に、其宅2天宸(ニ)1立2民極(ヲ)1。莫v不(ルコト)d崇2尚其(ノ)道(ヲ)1神2明其(ノ)位(ヲ)1。拓《ヒロメ》v世(ヲ)(5)貽《ノコシテ》v統。固2萬葉(ヲ)1而爲uv量(ト)者也。とかければ、もしは此序文より、二字をとり出て、此集、萬世まで傳はりて、言の葉の種ともなれとて、名付たるにや。後の勅撰にも、千載集と名付られたる、此こゝろ也。仁明天皇令義解を、天下に施行し賜ふ詔には、宜(ク)d頒2天下(ニ)1。普(ク)使3遵2用畫一之訓(ニ)1。垂c於萬葉u。といひ、齋部(ノ)廣成が、古語拾遺には、隨v時(ニ)垂(レテ)v制(ヲ)。流2萬葉之英風(ヲ)1。興(シ)v廢(タルヲ)繼(テ)v絶(タルヲ)。補(ス)2千載之闕典(ニ)1。といへり。此等は此集より後の事なれども、皆萬世の心に用たる證也。又元亨釋書第廿二。資治表曰。延暦二年七月。左官右僕射藤原(ノ)魚名薨。甞(テ)於2平城1建2萬葉寺1。といへり。是も萬世の意にて。名付られたり。二つには歌(ノ)義。釋名云。人聲(ヲ)曰v歌(ト)。歌(ハ)柯也。如(シ)3草木(ニ)有(ルガ)2柯葉1也。といへり。此心にて名付るか。ふたつのあひだ、撰者の心はかりがたしといへども、先達みな後の義につけり。先古今集の眞名序にいはく。各獻2家集并古來舊歌(ヲ)1。曰2續萬葉集(ト)1。於是重(テ)有v詔。部類(シテ)所v奉之歌|勒《勅イ》(シテ)爲2二十卷(ト)1。名(テ)曰2古今和歌集(ト)1。かゝれば彼(ノ)集、初はむかし今の歌を、たゞ多くかきあつめて、續萬葉集と名づけて奉られけるを、かさねて勅ありて、よく部類をわかち、歌をも吟味して、古今集と名を改て奉れる也。本此集によりてなる故に、假名序に、やまと歌は人の心をたねとして、よろづのこと葉とぞなれりける、とかき出して、一集の大體をのべ、和歌の本意を盡せり。よろづのことの葉といへるに、續萬葉と名づけたる、最初の心こもるべし。たねといひ、葉といふに、おのづから柯葉の意あり。中略 後々の勅撰に、金葉集、玉葉集、南朝に新葉集など名付られたるも、此集の名より出たるなるべし。集は、廣韻曰。聚也。およそ物のあつまる事、鳥の木にあつまるより、おほきはなし。故に字を製すること、木の上に、隹の字を冠らしめたり。玉篇曰。隹(ハ)之惟(ノ)切。鳥(ノ)短尾之總名。といへり。戰國策には、鳥集(リ)鳥飛。兎興馬逝(ク)。といひ、張衡が西京(ノ)賦には、(6)環貸方(ニ)至(テ)。鳥(ノ如ク)集(リ)鱗(ノ如ク)萃(ル)。といへり。」
萬葉考云、こを萬葉集といへるは、萬は數の多かる也。葉は言葉にて、歌をいふぞと、荷田(ノ)大人【東萬呂】はいはれき。或人は、から文に、萬葉は、萬世の意なるに依つれど、こゝには字を借(リ)しのみなり。葉に歌をよせずば、何を集めたりともきこえじ。」
今按に、此考注に、東萬呂の説とせるは、既に仙覺のいへるむねなり。又或人といへるは、契冲を指るなれど、彼(ノ)阿闍梨はじめより二つの意をたてて、自(ラ)も終に後の方に心よせたる趣なれば、難ずべき處はなし。もし、彼(ノ)代匠の説につきていはゞ、題目の表は、萬の言の葉の心にして、其文字は、顔延年が詩序の二字をきり出たるも知がたし。此集撰べりしほどは、もはら漢學行はれつれば也。
 
   撰者 附時代
 
代匠云、此集の撰者并に時代の事、昔より説々ありて、一定せず。されども一同に、勅撰とは定むるか。今此集の前後を見て、ひそかに是をおもふに、中納言家持卿若年より古記、類聚歌林、家々の集まで殘らず是を見て、撰みとり、むかし今の歌、見聞に隨て、人に尋とひて、漸々に是を記し集て、天平寶字三年までしろされたるが、其後とかく紛れて、部類もよくとゝのへられぬ草本のまゝにて、世に傳はりけるなるべし云云。京極黄門、たしかにさだめ給はざれども、家持の撰と云に心をよせられたり。彼(ノ)卿のかゝれし詞に云、萬葉時代(ノ)事。近代(ノ)歌仙等。多雖v有(ト)2喧嘩相論事等1。粗伺(フニ)2集之所(ヲ)1v載(スル)自2第十七卷1。似v注2付(ルニ)當時出來(ノ)歌(ヲ)1。事(ノ)體見(タリ)v集(ニ)。第十七(ハ)自2天平二年1至2于廿年1。第十八(ハ)自2天平廿年三月廿三日1至2同勝寶二年正月二日1。【今加云。考(ルニ)2集第十八(ヲ)1二月二日之後。自2同五日1至2二月十一日1載v之。】第十九。自2同年三月一日1至2同五年正月廿五日1。今【今按。第十九(ノ)終。二月廿五日也。非2正月1】凡和漢(ノ)書籍。多以v所2注(シ)載(ル)1。爲2其時代(ノ)書(ト)1。何※[手偏+却](テ)2本集之所見(ヲ)1。徒(ラニ)勘(ヘン)2他集之序詞(ヲ)1哉。(7)頗(ル)似(タリ)v無(キニ)2其(ノ)謂1。撰者又無(シ)2慥(ナル)説1。世繼(ノ)物語(ニ)云。萬葉集(ハ)高野御時。諸兄大臣奉v之云云。但件(ノ)集。橘大臣薨(ズル)之後(ノ)歌多書之。似(タリ)2家持卿之所1v注(スル)。尤以不審。
此詞をおもふべし。他集の序詞とは、古今集の兩序を云り。廢帝、稱徳のころほひ、朝廷に事おほくなりて、歌の道もおとろへ、嵯峨天皇は、ひとへに詩文をのみ好ませ給へば、皇女にいたるまで、詩をのみ作らせ給ひけるほどに、歌もすたれ、謬説出來て、此集をも心とめて、見る人もなかりけるにこそ。其後又歌をもやう/\よむ事とはなりけれど、たヾかの妄説などを、さるにこそと思ひて、深くも究めざりければ、貞觀の勅答、延喜の勅撰にも、慥かならぬ詞のこされて、大空をあふぐばかり、此道にはあふぐ人どものいへることなれば、其後吠聲のならひとはなれる也。然るに京極中納言よく此集を見て、かくはのたまへりや。」
考注云、「萬葉集は、高野(ノ)御時、【孝謙天皇の、天平勝寶の時をいふべし。】橘(ノ)諸兄の大臣撰み賜へりと世繼が物語に見ゆ。されども高野の御時よりも前、聖武天皇の御代ならむとおもふ事あり。たゞ諸兄のおとゞの撰ぞちふは、古へより傳へしにて、實にさりけらし。萬葉と云は、卷(ノ)一より六までにて、【今の三四五六にあらず。】是ぞ此おとゞ、上つ代より、奈良の宮の始めまでの歌を撰みのせられし物也。然るを後世人は、今ある二十卷を、一度に集めたる物とおもひをり。諸兄のおとゞは、天平寶字元年正月薨給へるに、卷の二十の末に、同三年正月までの歌載しかば、しからずと云といへど、二十(ノ)卷などは、萬葉の外なればきらひなし。」
今按に、此考注ぞ、いとめでたき考へなる。(彼(ノ)代匠の頃までは、いまだ家持卿の家集のあまた入|混《マジ》りたるに心付ずして、卷々の年月を、一々に合せ見られけるに、彼卿の歌に限りて、拙歌など、謙下せる事もこれかれ見え、又父大伴卿の、名を記さゞるなどにつきて、然か思ひとれりし也。それも其世にして(8)は、ことわりなりけれど、いまだ時の至らざりしなり。)時のゆければ、かく妙なるかうがへもこそはいで來にけれ。其中に聖武の御代ならんと云るには、何の徴もなし。かの高野の御時と傳へたる事は、元暦校本の裏書にも、古本云。高野天皇(ノ)天平勝寶五年、左大臣橘諸兄撰(ト)有。と記せれば、古き時より然か傳へたるにこそ。
 
   本文
 
代匠云、此集に文字を用るに、正訓あり。義訓あり。梵語を翻譯するに、正翻、義翻あるが如し。正訓は、花を、はな、月を、つきと、よむがごとし。義訓は、春草をわかくさとよみ、金山をあきやまとよみ、冬風をあらしとよみ、向南とかきて、きたとよむたぐひ也。又なぞ/\のやうなるも多し。千變萬化、神の如くして、はかりがたし。日本紀の義訓また妙也。かれを見てこれをよむべし。所詮※[虫+也]牀を蛭莚《ヒルムシロ》と訓する心を得ば、はじめて音訓をかたるべし。」亦曰、眞名もて假名に用るに、日本紀は、やすらかに音を取てもちひ、むづかしき文字などをつかひて、音も呉漢相まじはれり。三十一字の歌は、三十一字を用て、眞名をまじふる事なし。此集の假名は、さのみむづかしきもじは用ひず。音訓相まじへてつかへり。音は多分呉音を用ひて、漢音はまれに用ひたり。和訓をかむなに用ひたるに、無窮のことあり。心をつくべし。八十一《クヽ》、十六《シヽ》、左右《マデ》、二二《シ》、二五《トヲ》、喚※[奚+隹]《ツヽ》、少熱《ヌル》、馬聲《イ》、牛音《ム》、蜂音《ブ》、青頭※[奚+隹]《カモ》、留鳥《アミ》、此たぐひ數しらず。」
考注曰、此集もとは草の手に書つるを、仙覺などや、眞字となしけむ。今ふかく考るに、疑はしき處々、その字を古への草になして見れば、必草より誤れるぞ多き。譬ば家一字を、夕和二字とし、山高(ミ)を己高になし、日を月、田を白、閉を閑などに誤り、又乞を〓《ヨ》と見て、遂に與と書る類ひ也。これら幾百千か(9)あらん。今考へ得たるは改めて、そのよししるしぬ。又あまれる字、もれたる詞、或は本のみだれたるを、仙覺が考誤て、あしく書のせ、所たがへたるなど多かる中に、いとことなるをば、しるしをつけて、借に字を添などせしも有(リ)。」又曰、はやくよりこゝにから文字を借れりといへども、皇朝は言の國にしあれば、字は言のしるしのみとして、大津、清御(ノ)原(ノ)宮などまでは、多は假字にて書しを、藤原(ノ)宮の末、奈良(ノ)宮の初つ比の人、から樣を好みて、字意もて書り。仍て此集の中にも、或は字を重て、言の意をしらせむとして、中々に後の惑ひをなし、或は字の略きに過て、うたがひをおこせるあり。故(レ)こゝの言を知て、言を本としてよまぬ人は、字に泥みたるひがごとあめり。」又云、卷七八【今の十卷と七卷とを云。】など、又古歌集、人万呂歌集などいふ類は、其もと假字がきなりけむを、後に奈良人の、私の家に集る時、から歌ざまに書て、字を略き過しつれば、後にうたがひあり。又一二卷などの如書しには、言の意をしらせむとて、あらそふを、諍競、あきらけくを、清明など書しも後の疑ひあり。」
玉勝間曰、萬葉集は、文字を誤れる所いと多し。仙覺、契冲、次々に改めて、もとのにくらぶれば、こよなくよくはなれゝども、いまだ誤字なる事をしらずして、本のまゝによめるなどには、強たる事おほく、其外すべてのよみざまも、なほよからざる事多きを、其後又此集の、いよ/\委くなりもて來ぬるまに/\、訓もいとよくなれゝども、猶いまだ誤字もあるべく、訓もきよくなほりはてたりとはいひがたし。先此誤字の悉くしられざるほどは、訓も悉くよろしくは、在りがたきわざなり。さるをしひて其字をたすけんとする時は、なかなかにひが事引いづるもとゐなり。よく誤字を考へ正すべきわざなり。」
今按に、此段初(メ)の代匠の説は、今引べき程のことにもあらざれど、難もなし。考の説は、悉くしかりと(10)云にも有べからねど、心得てはよむべきなり。(但(シ)仙覺が誤て、あしく書のせなど云るは、つれなし。守部年來、仙覺のいたづけりし状を、考へ合せけるに、かの律師は、思ひの外正しき人にて、わざこそは至らずとも、いさゝかも私事せる處は見えず。さるをかくあなづりて、あしざまにのみいひ貶せるは、功もありし人なるを、其勞を思はぬなり。)玉勝間の誤字のさだも、さる事にはあれど、猶彼人々の誤字と定められたるに、誤字にあらざるも多かるを見れば、こはいとかたきわざなりかし。さりとて誤字もなきにあらざれば、半は誤字をおもひ、半はよき訓を考へ出ん方に心を用ふべし。そはたとひ其字、誤字たらんとも、さりぬべき古語を、思ひ得ざる限りは、誤字とは定めがたきわざなればなり。然れば常に假字書の歌の、詞つゞきに心をつけ、次に古事記、書紀、祝詞、宣命等の、古語どもを思ひ得て、難き文字、穩かならぬふしぶしに、あてくらべて考へゆかば、次々に、明かに成ゆきぬべきものとぞおぼゆる。
代匠云、此集をよむに、假名反に心を付べし、云云。一切の音聲は、五十音を出(デ)ず。涅槃經文字品【四十住第八、第十三品】曰。佛復告(ゲ玉ハク)2迦葉(ニ)1。【菩薩(ノ)名也。非2迦葉尊者(ニハ)1。】所有《アラユル》種々異論。呪術言語文字。皆是佛説(ナリ)。非2外道(ノ)説(ニ)1。迦葉菩薩白v佛(ニ)言(サク)。世尊云何(ゾ)。如來(ノ)説(ク)2字根本(ヲ)1。佛言。善男子初(メ)説(テ)2半字(ヲ)1。以爲2根本(ト)1。持2諸記(ヲ)1論2呪術(ヲ)1。文章諸陰實法。凡夫之人學2是字本1。然後能知2是法非法(ヲ)1。迦葉菩薩復(タ)白v佛(ニ)言(サク)。世尊所(ノ)v言字者。其義之云何。善男子有2十四音1。名爲2字義(ト)1所v言字(トハ)名(ヲ)曰2涅槃常(ト)1。故(ニ)不v流。若(シ)不v流者。爲2無盡1。夫無盡者。即(チ)是(レ)如來金剛(ノ)之身(ナリ)。是十四音(ヲ)名(テ)曰2字本(ト)1。【已上】此經に、字母五十音を説たまふ。是は直に五十音にはあらず。此五十字をたゝむで、十四音とし賜ふにつきて、和漢の諸師、これを解するに異義まち/\にして、おの/\蘭菊也。されども和語にかなはぬは出さず。其中に信範法師の(11)解、こゝに要なる故に引也。十四音と云は、阿伊宇哀遠《アイウヱヲ》を五とし。迦遮※[口+托の旁]那波摩也良和《カサタナハマヤラワ》を九音として、合する時、十四音也。九字を聲の體とし、五字を韻とする時は、三十六音を生ずる故に、能生不生。合すれば五十音となる也。されば迦等の九字は、父の如し。阿等の五字は、母のごとく、吉句計古《キクケコ》等の三十六字は子のごとし。涅槃經の五十字、悉曇字紀の四十七字等も、皆十四字を本とする故に、十四字をば説せたまへり。梵天所v製の四十七言の中に、十二字を摩多《マタ》の字と云。摩多は梵語、唐には點畫とも、韻とも譯せり。開すれば十二字なれども、合すれば阿伊宇哀遠《アイウヱヲ》の五字也。三十五字を體文と云。字の體となる字なり。これを合すれば、迦佐《カサ》等の九字に攝す。今十四字の、三十六音を生ずるやうを、梵字の法に準じて、かりに漢字をもて、合して圖すべし。【今略之。】もし梵語につきていはゞ、無量の義あるべし云云。」又云、本朝は、唐の文字をかり用といへども、音韻は、かへりて天竺によく通ず。そのゆゑは、梵文よむに、本朝の音韻よくかなふが故也。倶舍云、一切(ノ)天衆。皆作2聖音1。謂(ル)彼言辭。同2中印度(ニ)1。西域記第二云。詳(ニスルニ)2其文字(ヲ)1。梵天(ノ)所v製(スル)。原始無v則。四十七言過(テ)v物(ニ)合成(シ)。隨(テ)v事(ニ)轉(ジ)用。流演技派(ハ)。其源漫廣。因(リ)v地(ニ)隨(テ)v人(ニ)微(ク)有2改變1。語(ルニ)2其大較(ヲ)1未v異2本源(ヲ)1。而中印度物爲2詳正1。辭調和雅與v天同。音氣韵清亮爲2人(ノ)軌則(ト)1。しかればわが國の上國なること知(ラ)れたり。こゝをもて日本紀纂疏曰。按(スルニ)2韻書(ニ)1。倭(ハ)烏禾(ノ)切。女王國(ノ)名(ナリ)。又於鳥(ノ)切。説文(ニ)云。順貌廣愼(ノ)貌。増韵謹貌。今以2兩韵(ヲ)1通用(スルトキハ)。則倭(ハ)順貌(ナリ)。盖(シ)取2人心(ノ)之柔順。語言之諧聲(ニ)1也。今の集に、ことさへぐ韓、ことさへぐ百濟といひ、日本紀に、韓婦《カラノヲムナ》用2韓(ノ)語言1。などいへるは、異國の音韵の、さだかならざることをいへり。もろこしは呉漢の二音ありて、呉音は、南天竺に近く、漢音は中印度|の《にカ》近かりけるを、衰世にいたりて、北狄のために國をうばゝれける故にや、今の(12)唐音詳正ならずして、聞もいといやし。詳正ならざる事、何をもてしるしとするとならば、一には梵文をもて證するにかなはず、ふたつには此國の音は、呉漢ともに、かなたの盛にをさまれる世の音をつたへて、今にあらたまる事なきに、それにもかなはざれば、今の唐音は、よこなまれるなるべし。しかれば本朝は、此國のことばの正しきのみにならず。唐よりつたはれる音も正しき也。又唐にはことわりをさきにいひて、事を後にあらはす。天竺は事をさきにいひて、ことわりを後にいへり。わが國の法、天竺とおなじ。たとへばもろこしには、見月、見花と云を、此國には、月を見、花を見るといへるたぐひ也。此故に、唐の文をよむには、五字三字、五行十行、一紙二紙を隔てゝも、かへりて讀也。此國にても、おもひきやと初の五もじに置てよむたぐひはすこし似たれど、それももろこしの、豈料《アニハカランヤ》、不《ズ》v圖《ハカラ》と云(フ)心なれば、一句の中にかへると、かへらざるとのたがひあり。其うへ此國の言葉にても、古き歌は、おほくいひ下して、稀々に下より上に立かへりて、心うる歌はよめり。」【已上代匠記説なり】。
考注云、古き言は、五十(ノ)音をよくしらでは、解べきよしなし。仍ておのれ語(ノ)意ちふ物しるして、別にあり。故(レ)こゝには一わたり言をときつ。後の世と成て、こゝの古言を皆わすれて、からことをのみ唱ふる人、こゝの言も、からの字の聲もてとかんとし、假字をも、からごゑを本にて書とするは、わだの魚の、山をはからんがごとし。物はその方に深く入て見る時は、思ひしに違ふ事あるものなるを、他(ノ)國を學べる人、他を推はかりにいふ故に誤りぬ。且皇朝には、言有て後にこゑの分ちあり。こゑよりおこると思ふはからざま也。又假字は聲にかゝはらず。譬ば奥《オク》も平、山も平なるを、奥山とつゞくる時は、去聲となるに、其假字は、共に於久夜萬《オクヤマ》なり、是を又奥山|津見《ツミ》(ノ)神と云時は、上聲なること古事記に見ゆるに、(13)假字は猶上に同じ。」同頭書云、皇朝と、天竺と、言の體似たるが如くなれば、天竺の言を少し學べる人、五十音は、悉曇より出づと思へり。是をよく學びし人は、各別有ことを知て、却てこゝの五十音もて、彼方の音を解便りにもせり。彼方をもよくしらで云は、笑はしきなり。」
今按に、五十音は、言語の本源なりければ、人の初めよりありし事、諭をまたずして明(ラ)けし。かの天竺にも十四音の説あるは、彼(ノ)國も言音(ノ)國なりければ、自(ラ)にして相似たることの有しにこそあれ、加茂翁なども、こゝには代匠の説にあたらむとて、かくは云(ヘ)れど、語意考の説を見れば、專(ラ)彼(ノ)文字品なる十四音より、三十六音を生《ウム》と云に、本(ト)づきてかゝれたり。又本居氏の説にも、五十音は、もと漢國へ物學びに行し僧徒の記し置たるが、のこりしものならんとて、其初(メ)は悉曇より出(デ)つる物の如く、云(ヒ)なせりしをおもふに、此二人も、實は梵説に眩《メクルメ》けりしにこそ。此外近來、音韵をさたせし書多かれど、いづれも右の佛説に惑はざるはあらず。【そは彼代匠記中に引れたる、信範法師の解、又悉曇字紀抄、又河内國延命寺の僧淨嚴闍梨の、悉曇三密鈔等に據(ラ)ざる書あらざればなり。】そも/\此間《コヽ》の五十音は、右に云が如く、神世よりありて、上つ代の人は百人が百人ながら、よく其音の方位、言の通ひをも心得て在つれば、殊更に物に記しも置ざりしを、今京となりて、こを忘るゝ人の多くなれるにつきて、物にも記しそめたる也。かの異國へ物習ひにゆきけん人などの、彼國の音韵を學ぶ便に用ひけむは、書史會要【元(ノ)陶宗儀九成著】外域(ノ)部曰。日本国於2宋(ノ)景徳三年(ニ)1。嘗有v僧入(テ)貢(ス)。不v通(セ)2華言(ニ)1善(ス)2筆札(ヲ)1。命(シテ)以(テ)v牘(ヲ)對(シム)。名(ハ)寂照號(ス)2圓通大師(ト)1云云。曩《サキニ》余與2其(ノ)國(ノ)僧克全、字(ハ)大用(ト云)者1。偶解2后(ス)于海陬(ノ)一禅刹(ノ)中(ニ)1。頗習(フ)2華言(ニ)1。云彼(ノ)中自(ラ)有2國字1。字僅(ニ)四十有七。能通2識(スレバ)之(ヲ)1。便(チ)可v解(ス)2其音義(ヲ)1云云。【これは五十音と、いろは字とを、一(ツ)に混じて、書る文なり。】とある如く、元來此方に有て、音義を解(ク)に、便(リ)宜ものなる故に、かゝる時には用ひし也。是より以前にわたりし人々も、皆(14)此でうなる事准へて知べし。かゝれば此五十音は、本より誰が作など云べき物にあらず。弘(ク)いはゞ、此集の歌に、言靈《コトダマ》とよめる、即其もとは、此五十連音の靈妙なるを指て云る稱《ナ》なりけるを、常には大かたの言語の上にも轉《ウツ》して、言靈の幸《サキ》はふ國などはよめりし也。神代紀に、五十猛《イタケリ》(ノ)命など、五十の二字を、伊《イ》の假字に用ひしも、伊《イ》は息《イキ》の義、【息、氣等を伊の一言に用ひたろも、あるもてしるべし。】息《イキ》は、聲にて、其(ノ)聲は、必ず五十に定れるよしの義訓なり。此等の事に就て、委き考へもあれど、此《コヽ》は五十音の釋ならざれば省きつ。
代匠云、神(ノ)道は、幽玄にして、測りがたし。和歌は、淺深を兼て、上は神明に通じ、下は凡民までをさとす。天下の治亂と、和歌の興廢、ともに運をひとしうすと見えたり。論語云、陣亢問2於伯魚(ニ)1曰云云。又云。子曰。小子何(ゾ)莫v學2夫(ノ)詩(ヲ)1云云 禮記曰。孔子曰。入2其國(ニ)1其教可v知(ヌ)也。其爲v人也温柔敦厚(ハ)詩(ノ)教也。正義云。温柔敦厚(ハ)。詩(ノ)教(トハ)者。温(ハ)謂2顔色(ノ)温潤(ヲ)1云云。柔(ハ)謂2情性(ノ)和柔(ヲ)1。詩(ハ)依(ルノ)4違(テ)2諷諫(ニ)1。不(ルニ)3指功(ニセ)2事情(ヲ)1故云v爾也。又曰。詩(ノ)之失(ハ)愚(ナリ)云云。温柔敦厚(ニシテ)。而不(ルトキハ)v愚(ナラ)則莫(シ)d深(キ)2於詩(ヨリ)1者(ハ)u也。書舜典云。詩(ハ)言(ヒ)v志(ヲ)歌(ハ)永(ス)v言(ヲ)。聲(ハ)依v永(ニ)律(ハ)和(ス)v聲(ヲ)。淮南子(ニ)云。温惠淳艮(ハ)者。詩之風(ナリ)。子夏詩(ノ)》序云。詩(ハ)者志之所v之(ク)也云云。うたは此國の詩なり。このゆゑに此集ならびに、續日本紀には、やがて詩ともいへり。心ざしのゆくところ、つひにことをながくすれば、もろこしには、初につきて詩と名づけ、此國には後につきて、うたと名づくと。かなたにもまた歌といへば同じこと也。詩のをしへの如く、歌をも用ふべし。詩すでに五經の中の隨一なれば、詩の天下に用あるもおほきなり。此集をば、此國にては詩經に準ふべし。いはむや詩は唐虞に起り、歌は神代にはじまる云云。」
今按に、此説いつもの事にて、何のめづらしげもあらざれど、古きためしにして、難もあらざれは引つ。萬葉考の卷首に、歌の事いろ/\さたせられたる、(15)はじめ二三條は、あまり事長く、末に柿本(ノ)大人以下の人々の歌のうへを、評せられたるなどは、少しをこなるこゝちもし、かつは其書刊行して、誰も見しれることゞもなれば、皆もらしつ。
 
   部類
 
代匠云、此集部類を分つに、六種あり。一には雜(ノ)歌、後々の勅撰に、雜部あるにおなじ。【今云、雜は易(ノ)十翼に雜卦傳あり。韻會云、昨合(ノ)切、雜(ハ)五采相合也とあり。】二には相聞《アヒギコヱ》、これは贈答して、おもひを述るなり。【今云、必しも贈答には限らず、只互におもひを、聞えかはすよりいふなり。】後の戀(ノ)部に當れり。十に六七も、男女の情を述て、其外は君臣、父子、兄弟、朋友にわたれり。三には挽歌《バンカ》、これは後の哀傷なり。挽(ハ)玉篇(ニ)云。亡遠(ノ)切。引也。與v輓同。もろこしに葬送の時、※[糸+弗]を執て、薤露《カイロ》、蒿里《カウリ》の歌をうたひて、轜車を挽(ク)ゆゑに、かなたに准じて、哀傷の歌を挽歌とはいへり。禮記檀弓(ノ)下(ニ)云。弔2於葬者(ヲ)1必(ズ)執引(ス)。若(シ)從(モノハ)2柩及(ビ)擴(ニ)1皆執v※[糸+弗](ヲ)。」左傳(ニ)云。晋之喪事敝邑之間。先君有v所v助2執※[糸+弗]1矣。【※[糸+弗](ハ)、輓索也。禮(ニ)送v葬(ヲ)、必(ズ)執v※[糸+弗](ヲ)。」捜神紀云。挽歌(ハ)者。喪家之樂。執(ル)v※[糸+弗]者相和(スル)之聲(ナリ)。【注云。※[糸+弗](ハ)引v柩(ヲ)索也。」】文選注(ニ)、李周翰曰。※[木+廣]【齊(ノ)田※[木+廣]也。】自殺(ス)。從者不(シテ)2敢(テ)哭《コクセ》1。而不v勝《タヘ》v哀(ニ)。故(ニ)爲《ツクリテ》2悲歌(ヲ)1以(テ)寄v情(ヲ)。後廣v之。爲2薤露蒿里(ノ)歌(ト)1。以送v終。至2季延年(ニ)1分(テ)爲2二等(ト)1。薤露(ハ)送2王公貴人1。蒿里送2士大夫庶人(ヲ)1。挽v柩者歌v之。因(テ)呼(テ)爲2挽歌(ト)1。」挽歌と名づくる事、これらに見えたり。四には譬喩、これは物にたとへて、心をあらはす也。譬喩(ハ)、論語曰。近取v譬。法華經譬喩品注曰。告v之使v曉。廣韻(ニ)譬喩也。同譬(ハ)。匹至(ノ)切。諭也。徐曰。猶v匹也。匹而論之也。と有。第三卷に、譬喩(ノ)歌とて、さま/”\の心を、さま/”\の物にたとへたるを部類せり。相聞等の中にも、譬喩あれば、かりに立たるなるべし。五には、四季の歌、四季を四部にわかつは、九部とも云べし。六には四季の相聞、これは第八、第十の兩卷に見えたり。是をも四部とせば、十二部と云べし。又相聞に合せば、※[手偏+總の旁]じて只(16)五部とも云べし。此五部を合するに、此集は相聞をもて主とすればにや。四季の歌も相聞ならぬは、雜(ノ)春、雜(ノ)夏などゝいへり。古今集より後の集にも、戀(ノ)部を、五卷六卷にわかてる、この心におなじかるべし。又古今集は、戀(ノ)部、ひとへに男女の中をいへり。其後の集には、まれ/\只相聞なるも見えたり。」
今按に。【考注は、右(ノ)説を採て、云のみなれば今略之。又略解は考注を採て、只纔にいへれば、引にたらず。其他も皆】こまかにいはヾ、猶もあるべけれども、大かたは此等の如し。かくてうたは、誠情より發出するものなりければ、いはゆる喜怒哀樂の中にも、おのづから切なる方の多くよまるゝなり。故(レ)其次第をいはゞ、第一を戀、第二を述懷、第三を哀傷と云(フ)ほどにて、あはれなる歌も此中に多かり。其他はたゞ事のついでにうたふといはんばかりなり。是(レ)うたの本意なりければ、此集の定も、おのづからこれに叶へり。然るを漢國の詩に、戀の切なるが見えざるに引くらべて、此《コ》間の古集に多かるをば、國がらの猥りがはしきやうにいひおもふめるもあるは、歌てふものゝ、本(ト)の實をしらぬひが事なり。畢竟ずる處は、國がらの正しくて、猥りなる犯し事を愼める故に、戀の歌の多しとこそはいふべけれ。から國も、毛詩の比までは人の心なほかりし故に、戀の詩も少しは作れりし也。それより後うはべをかざり、裏にきたなき心をかくせるやうになりて、詩の實を失ひ來しは、是(レ)國のあしきしるしなり。論語【子罕篇】に、吾(レ)未(ダ)v見2好(ムト)v徳(ヲ)如(クスル)v好v色(ヲ)者1也と。比喩《タトヘ》に引るばかり深き色情をば、彼(ノ)温柔敦厚にして、眞情を盡すと云る詩に隱していはざる、是(レ)いみじき僞りならずや。さて代匠記に、此次々一部の部立を、卷毎に記されたれど、既に云つるやうに、あまたの人の手して記せれば、元より一樣ならず。殊に家集などは、便にまかせて記せるもあれば、ことわるまでもあらじとて省きつ。
 
(17)   目録
 
仙覺奥書云。愚老年來之間。以2陬本1令v比2※[手偏+交]之(ヲ)1處庭。異説且千也。其中於2大段不1v同。有2三種(ノ)差別1。一者卷々目録不v同。二者歌詞高下不v同。三者假名離合不v同也。初卷々目録不v同者。如2松殿御本。左京兆本。忠兼等本1者。廿卷皆卷々端(ニ)目六在v之。但目六之詞各有2少異1。就中第廿卷目六。有2三重相違1云云。凡他卷目六擧2歌員數1事。大旨如v此也。今愚本附2順之1畢。如2二條(ノ)院御本之流。并基長(ノ)中納言本之流。尚書禅門眞觀(ノ)本1【元家隆卿本也】者。至2于第十五卷1目六在v之。第十六卷以下(ノ)五卷無2目六1。自v本如v此本一流布之歟。或又有d都(テ)無2目六1本u也。又卷々初擧2長歌員數1書v之。短歌何首等假名v之。合第五卷初書v之。下略」
代匠云、右等の中に、すべて目六なかりしが正本なるべし。昔も初學の人は侍ければ、目六なくしては、何の卷にいかなる事のありと知(リ)がたければ、さやうの事にたよりせんがために、詞書のまゝにひろひ出し、或は左注をとり、或はみづからの料簡をもてかける所もあり。第一卷には、あやまりあり。第二より、第九までは、本のまゝにて、あやまりなし。第十には一所あやまり、十一より十四まで、又あやまらず。十五卷は、天平八年に、使を新羅國へ遣はさるゝ時、新舊(ノ)歌、合(テ)百四十五首と中臣(ノ)朝臣宅守が越前(ノ)國へ流し遣はさるゝ時、狭野(ノ)茅上(ノ)娘子と贈答せる歌六十三首と、合せて二百八首にて卷をつくせり。事はたゞ兩條也。兩條ともに目六は小序の體にて、詞書は、目録のごとし。然れば此卷は、本來目録有けるにや。もし目録なくて見は、宅守が事は、越前へ流さるゝ故見えざれば心得かたがるべし。第十六より、第二十までは、あやまれる事は甚多し。十六より、十九までは、ことに愚拙のものゝわざ也。仙覺奥書に、十五卷まで目六ありて、十六よりなき(18)本ありといへり。然れば此五卷は、初學の中にもおろかなるがしわざなるべし。此集をば昔の人も、本歌などに用べきをえり見て、一部の始終までは、心をつけても見ざればこそ、これていの目録も、とがをつけられずしてありけれ。」
考注曰。此集にもと目録なし。今本の目録は、後人私のまじろしにせしものなれば、この度は、いよよ見やすからん爲に、字をはぶきてしるしつ。」
今按に、此集一部廿卷、一人の手して成れるにあらざれば、其目録も、本より附たるもあり。後に附たるもありて、一樣ならず。はじめより、皆なしとはいひがたし。其むねかの仙覺の、數本をあつめていへる趣にても、かつ/”\はしられたり。さて後にそへたるも、今より見れば、やゝ古き時の筆なりければ、【彼奥書に云る尚書禅門の本は小野(ノ)道風(ノ)書左京兆の本は、行成卿(ノ)筆とある類ひにて知るべし。其他も皆其頃の筆なるよし云り。】みだりに略きすつべきにあらず。猶よく見もてゆけば、本文の端詞の誤を、却て目録によりて知(ル)こともこれかれあり。故(レ)今はたゞ、其まゝしるして、誤れる事共は、そのところ/”\にことわれり。
 
   端詞
 
考注曰、ふりぬる世の有樣を考るに、古へは歌の端の詞も、歌と同じく假字にてかき、又字の意もてせるも、こゝの言もてやすく訓べく書けむを、奈良の宮のころと成て、多くはからざまをまねびて、此集のこと葉を、さるさまに書しぞおほき。然れば此端詞をば、もはら字の音のまに/\、よむべくおもふ人あれど、歌しも字の音ならばこそあらめ、そをばいかに書るをも、こゝの言もて唱るを、端のみからざまにせんは、何れにもつかず、人わらへなるわざならずや。既に古事記、祝詞、宣命など、必こゝの言してよむべく書つるを、此歌の端をしか書しは、時のさかしらにて、すめらみかどの古への手ぶりを失ふわざなり。しかあれば其ひが事を助けて何かせ(19)ん云云。」
今按に、考注に、如此《カク》云るは、わがやまとだましひにつのりて、時代の人情をしらぬなり。もし知つゝいへらば、しひたるなり。今の人情よりいはゞ、端詞の古語ならざるは、一(ツ)の遺憾《ウラミ》なりけれど、此比ほひは、いまだ平假字と云ものもなく、殊に遣唐使さかりにして、其(ノ)御使に立しも、立ざりしも、文詞といへば、漢文より外に書すべしらず、其作者たちは、多くは詩も作りて、却てから文字をめづらしみつれば、歌こそあれ、其前文は、漢文にかゝまほしかりしなり。彼(ノ)古事記は、勅語を重みして、一言をもたがへじとものせし趣なれど、それだに假字書は少くして、つひに漢文のふりをはなれず、然か書とるをだに、大に難義なりしよし序文に見えたり。是より以前、假名して文辭を記せりし事、物に見えず。又祝詞も、宣命も、大命告《オホミコトノリ》なれば、其心ばへ歌と同じく、讀あやまたぬを、主として記せる書法なり。もししひて古語を聞せんとならば、それらのふりして書つべきなれど、既に云如くなれば、さほどの心もなかりし也。しかはあれど、今かく漢樣を厭ひ、更に古へぶりを慕ひあへる、御代に立かへりきにては、訓るゝ限りは、こゝの言してよみもしつべけれど、それも其書ざまに、よるべきわざなり。
 
   左註 附細注
 
本文の左注、又端詞の下などの細注等をも、萬葉考には皆後人のさかしらなりとて、多くは削り※[手偏+棄]られたり。されど今よく見もてゆけば、是もかの目録などゝ同じく、本より記者の筆なるべきもあり、又實に後人の書入と見ゆめるもあり。然れどもそを今とり分たんはいとかたく、又おのれひとりの推量にまかせて、みだりに棄べきならねば、只よきもあしきも、其まゝにしるしつけて、考の及ぶ限りは其かたはらに諭らへり。細注はおほくは、古本とて擧たる(20)中に收(メ)て、稀に用あるは、注の處に引て云もありぬべし。
 
   卷次第
 
考注云、此集、今は二十卷あれど、實には一二の卷と今の十三、十一、十二、十四の卷ぞ本の三四五六の卷にて、此六卷を萬葉集とは名づけられし物とす。」
同別記云、今の五の卷は、山上(ノ)憶良(ノ)大夫の歌集ならん。今の七と十の卷は、歌もいさゝか古く、集ぶりも他と異にて、此二卷はすがたひとしければ、誰ぞ一人の集めならん。今の十五の卷は、新羅へ遣はされし御使人の歌どもなり。其中に河村(ノ)王、大伴(ノ)家持の歌も入しかば、古き集にあらず。こは家持卿の集のうちもやあらん。今の三の卷より、四六八九十七十八十九二十の卷々は、家持卿の家の歌集なる事さだかなり。」
今按に、これぞ萬葉考中の最第一の考へなる、かゝればいにしへ古萬葉と稱《イヒ》しは、其初の六卷を指(シ)て云(ヒ)しにや。さるときは古今集に、萬葉にいらざる歌をといひて、十首ばかり入たるも、右六卷中の外なれば、妨げなくしてよく※[立心偏+匡の王が夾]《カナ》ひたりと、同人の續萬葉論にもいへるが如し。今此説を助けていはゞ、權記曰。長保三年五月廿八日己亥。故民部卿在世(ノ)日。被v送2續色紙一卷1。請v書2古萬葉集1。仍書v之云云。」源氏物語梅枝(ノ)卷云。嵯峨(ノ)帝の、古萬葉を撰びかゝせ賜ふ。四卷云云。」これらに一卷といひ四卷といへる、もし今ある二十卷の萬葉ならば、たとひ其中を撰びとりて記すとも、そればかりの小冊には、書べからぬかとおぼしきやう也。もし然らば、其他の十四卷の歌集どもに對(ヘ)て、初の六卷を古萬葉とはいひしか。但(シ)源順集に、應和元年七月十一日、四つなる子をうしなひて、同じ年の八月六日に、又五つなるをのこをうしなひて、無常のおもひ、ことにふれておこる。悲しびの涙かわかず。古萬葉集の中に、沙彌滿誓が(21)よめる歌、「世の中は何にたとへむ」といへることをとりて、かしらにおきてよめるうた、云云とある、此滿誓が歌は、今の三(ノ)卷に載て、右の古萬葉六冊の外なるを、それをも猶古萬葉集といへれば、古萬葉と云稱は、はやくより今の萬葉廿卷總ての名にて古とは、菅贈太政大臣の新撰萬葉集に對(ヘ)てのとなへならん。その後々の物、又いと後の新猿樂記などやうの物の中にも、古萬葉といへること多し。此程は、既に今の二十卷の專(ラ)世に弘りての後なりければ、いよ/\今の萬葉の稱なる事明らけし。續萬葉論の説はかなふべからず。
又考注云、卷々の體、古き新きあり。それのみならず、年月の次もいと亂て見ゆ。故に深く考へて、今改め正すこと左のごとし。一二【今に同】三【今の十三】四五【いまの十一十二】六【今の十四】是までを萬葉とす。七【今の十】八【今の七】九【今の五】十【今の九】十一【今の 十五】十二【今の八】十三【今の四】十四【今の三】十五【今の六】十六【今に同】十七【同】十八【同】十九【同】二十【同】、右の七より下は、家々の歌集にて、萬葉にあらず。委しくは別記に見ゆ。」【是則前條に記す所なり。】
今按に、初の六卷の説は、まことにさる事なりけれど、次々の卷の次順は、たゞ其卷中に見えたる年號を以て定めたる説どもなれば、あながちに信《タノ》みがたし。そは其卷々をよく見もてゆくに、七より十五までの九卷は、互に古き新しき入まじりて、さのみ年號もてもさだめがたし。况や三四(ノ)卷などは、古き歌ども多かるを、かの新羅への御使人などの歌よりも下につけて、一部の中、十三四とまでくだせるは、かなふべからず。猶此あたり、六八九の卷などまでは、毎卷初めに古きを録して、末に新しきを書そへたるは、そのかみのならひ、卷未の白紙をもとめて書入たるなりければ、其卷どもの末に見えたる年號にのみよりて定めんは、卷の大體にそむけて、なか/\にひが事也。たゞ慥かなるは、十六より、二十までの五まきの次第なれど、こは今本とても同じ事(22)也。かくて此年季の事は、考注(ノ)別記に引るさまよりも、代匠記に引合せたる方、いと遙かに詳かなり。おもふにかゝる考へも、其もとは代匠記の彼(ノ)條にもとづきて、思ひよられたるものなるべし。たゞ其中に、家々の歌集を定かに見出られたるが大きなるいさをと申すべし。今となりては、たとひ右の次第の如くならんとも、久しき時よりもろ/\の書どもにも、今本のついでもて引來にければ、ひとりの心にまかせて、これをいかで改むべき。只其まゝに見べきなり。
 
   古訓新訓
 
今按に、古今六帖に載たる、萬葉の歌の訓ざまの、やゝ平かなるもあるにつきて、はやくそのかみより古訓のありし物とおもへる人もあれど、其以前に別に古訓とては有べからず。そは寧樂人は、字のまゝに安くよみつべければ、其訓とては遺るべきにあらず。それより後は、かの貞觀の御時にすらいつばかりと問せ給ふほどなりければ、代匠記にいはれたる如く、既にそのかみ久しくうづもれて、此集を見る人などはなかりしさまなり。中昔の人の古訓といひしは、順ぬしなどの點をさせるならん。これに就て、かの天暦の詔を疑ふ人もあれど、こは浮たることゝは見えず。源順集云、天暦五年宣旨ありて、初て大和歌撰ぶ所、梨壺におかせ賜ふ。古萬葉集よみときえらばしめ給ふなり。めしおかれたるは、河内掾清原元輔、近江掾紀時文、讃岐掾大中臣能宣、學生源順、御書所預坂上茂樹也。藏人左近衛少將藤原朝臣伊尹、其所之別當にさだめさせて給ふに云云。又其(ノ)下に云、そも/\順、梨壺には、奈良の都のふる歌よみときえらび奉りし時には、すこしくれ竹のよごもりて、行末たのむをりも侍りき。今は草の菴に難波の浦のあしのけにのみわづらひてこもり侍れば、われ舟の引人もなぎさに、すてられおかれたらんこ(23)ゝちしける云云。袋草紙云、天暦五年十月日。詔2坂上(ノ)望城。源(ノ)順。紀(ノ)時文。大中臣(ノ)能宣。清原(ノ)元輔等(ニ)1。於2昭陽舍(ニ)1。令v讀2解(カ)萬葉集(ヲ)1之次云云。【號2梨壺(ノ)五人(ト)1也。一條(ノ)攝政爲(リシ)2藏人(ノ)少將1之時。爲2此所之別當1。于v時有2平(ノ)兼盛1。而不v入2此中1不審云云。など見えたり。おもふに是より以前に、なのめにも萬葉の古訓ありて、よまるゝほどなりけむには、此御時にかゝる詔は有べからず。彼(ノ)六帖は、縣居本の書入に、此書初めは、其ほどの古歌を六卷にかき集めけるより、六帖とはよびけるを、後人又其後の歌どもを三冊書そへて、九卷となしつるを、六帖と云からに、再び合せて又六冊とはなしゝなりとて、其よし委く辨へられたり。是につきて又思ふに、彼(ノ)書に載たる歌どもは、萬葉の本集より取れるには有べからず。其ほどまで人の口に傳へたるを、誰ぞの人の書とめおけるが一卷二卷ありけむを、其中より採て載たるにぞあらん。【奈良の代のふる歌の遺りけん事は、世に小野(ノ)道風の秋萩帖など云物のたぐひに合せて、推はかるべき也。】今も稀々。貫之ぬしの萬葉五卷抄とて、一冊あるよし。【袖中抄、八雲御抄等にも、出たる書目にて、下にも引つ。】まろはいまだ見ざれども、そを見し人に聞つるに、大かた六帖に出たる歌のみにして、六七十首を一卷にて、五卷【一冊】ありといへり。是もし實に貫之の比の物ならば、彼六帖は、其書の歌を出せるならんかし。既に上に引(ク)權記などに、古萬葉云云、一卷とあるも、もしさる類にもや有けらし。これらにつきて思ふにも、二十卷なる本文は、其ほどの人には解がたかりけむ故に、うづもれつらんを、かの天暦の詔りよりして世に行はれそめたらむとぞおぼしき。【世に中書王の萬葉抄、道風筆の萬葉集と云も、中書王は、圓融院の天延の比猶世におはし、道風も久しく存へられたれば、天暦の後として妨げなし。宣長云、古今集墨滅(ノ)歌、「道しらばつみにもゆかん住の江の岸におふてに戀忘草。此うたもし、貫之萬葉を見ずばよむべからず、」といへり。今おもふには、萬葉を見られたらば、却てかくはよむべからざるか。此人にして萬葉の歌をさしもかすむべしとも思はれず。こは語り傳へたる古うたの耳の底にのこりけむが、ふとうかび出たるならし。もしこれね萬葉見ての歌とする時は、同じ撰者の列に並びし躬恒、忠岑の主たち咎めずば有べからず。そは延喜の比ほひ、萬葉世にうもれずありて既に貫之見られなば、躬恒、忠岑等も見ぬ事あるまじかれば也。然るに四人の撰者そのまゝに見ゆるして、載られたるをおもににも、諸共に萬葉は見しられざりけん。古今集の序文のさま、又何くれの物に合せても、猶然かとこそはおぼしけれ。】斯《カク》て天暦(24)の五人の點を、古點といひしよしは、詞林採葉曰、天暦のみかどの御時、廣幡(ノ)女御のすゝめ申させ給ひけるによりて、源(ノ)順以下の人々に詔りして、昭陽舍において、萬葉集に和點をくはへしめ賜ふ。これを古點といへり。其後法成寺(ノ)關白【道長公】上東門院にまゐらせられんとて、漢字の外に假名の歌を別にかゝしめ給ふ。是は藤原(ノ)高經かけり。其外に大江(ノ)佐《スケ》國、藤原(ノ)孝言《タカトキ》、權中納言匡房、源(ノ)國|信《ザネ》、源(ノ)師《俊歟》頼、藤原基俊等、おの/\點をくはへらる。是を次點といへり。又權律師仙覺が點を新點と云。此新點を後嵯峨(ノ)院御宇に、仙洞に獻上す。奏状あり。此状天聽に達するによりて、叡感ありて、萬葉得業のよし、院宣を下し賜ふ云云。又曰、仙覺が調ふる所の新點の本は、正二位前(ノ)大納言征夷大將【頼經、光明峰寺殿息】御本、松殿入道殿【基房公】御本、光明峰寺前(ノ)攝政左大臣【道家公、後京極殿息】御本、鎌倉右大臣家【實朝公】御本、六條修理太夫繼盛【刑部卿忠盛息】本、右大辨光俊入道眞觀【按察使中納言光親卿息】本、已上の本を以て※[手偏+交]合せしめ、古點次點は墨を以て點(シ)v之(ヲ)、新點は朱を以點(ス)v之(ヲ)。」とあり。かゝれども今にしては、其古點次點一つに混じて、何れとわくべきよしもなし。誰も古點といへば、ゆかしくおぼゆるやうなれど、今傳へたる活字本の古點のさまを見るに、仙覺の點にはいたく劣れるをもても、彼古點次點のまだしかりけむほども、大かたにはおしはかるべし。故(レ)今は律師の功をたゝへて、そを今の古點と名づけ、【今より見れば、是も古點なればなり。】細字に分ちて傍(ラ)に出しつ。そも/\同じ歌を然か並べ出さん事、煩はしきが如くなれど、かつは古き本のすがたをも失はじ、かつは圓珠庵以來の人々のいさをも、よくしらせんとてなり。
 
   異本
 
今世に流布する印本には、活字本、校本、校異本等あり、寫本の事は量り知べからず。注さくせる書どもの異本又限りなし。そのあらましは次に云べし。(25)おのれが見し中にして異なる事のあるかぎりは、其時々に※[手偏+交]合して書くはへ置つるを、こたび本行と並べて出す。古點の下に用ありげなるを引つれば、此に其書目は省きつ。其外に今わづかにもたるは、元暦五年(ノ)※[手偏+交]合の殘本、建長年間堂上能筆本、全部二十卷、同二年(ノ)部類、古葉略類聚抄、又時代不知古寫本等也。これらも用ある處には稀々引べし。
 
   古鈔
 
代匠記首卷、今井似閑書入云、仙覺抄廿卷、藤澤由阿(ガ)詞林采葉抄十卷、作主不v知古本見安二卷、【俗に目安と云。】萬葉佳詞一卷、定家卿萬葉長歌(ニ)載2短歌1字之由(ノ)事一卷、顯昭撰萬葉時代難事一卷、宗祇萬葉抄二十卷、權大納言藤原宣胤卿萬葉類葉抄十三卷、爲秀卿萬葉類聚一卷、又所2見聞1萬葉集抄、或未v見、或不v傳とて出せる書目の中にも、八雲御抄云、貫之萬葉五卷抄、【今云、袖中抄。あさもよひの條に、五卷抄の序り。同書歟。】同不v知2作者1廿卷抄、萬代集第十八云、藤原(ノ)盛方朝臣(ノ)かきおける萬葉集の抄を借て侍りけるを、身まかりて後、跡に返しつかはすとて、平(ノ)忠度朝臣【歌有今省v之。】云云。【此萬葉抄の事、忠度集にも見(エ)たり。】木瀬(ノ)三之がもたる延喜(ノ)御子前中書王(ノ)萬葉抄、上に云、藤|田《澤イ》由阿(ガ)撰百卷萬葉抄、これは近江彦根(ノ)家中岡村半之丞所持にて、他にある事なし。仙覺新點、百五十二首の注、【是は同人の抄第一、ゆふ月のあふきてとひしの歌の注にも云る釋なり。】明月記曰、覺喜二年七月十四日。自2殿下1給2部類萬葉集二帖(ヲ)1。蓮花王院(ノ)御物。專第一第二(ハ)季時入道書v之。可2書寫(シ)進1者(ナレド)目v春手腫之後彌不v能v執v筆(ヲ)。但給(ヒ)置(カバ)可2書試1之由申(ス)v之(ヲ)云云。顯昭陳状曰、敦隆(ノ)類聚萬葉云云。又曰、萬葉に、順が讀殘したる歌の中に、少々匡房卿、敦隆、道因なども、讀加たるよし侍りき云云。【今云、匡房卿の點は、官本に見ゆ。其他無所見。】凡(ソ)代匠記中に云る所かくのごとし。此外書目に載たるも二十部許あるべし。守部若かりし時より、萬葉の精注を作らむの心ざし有ければ、書目に記せる古き(26)ちうさくどもを、しきりに得まほしみしけるほどに、をり/\得つる事もありしかど、一つも釆用ふべき物のあらざるにうむじはてゝ、つひにその念ひも絶はてにき。近き比となりて、猶さてもあまたの中には、見所あらんもありなんかとて、人のひめもたるをしひてこひうけて見もてゆくに、萬葉に局りて古き物ほど見所なし。かの仙覺律師を、そのかみ萬葉得業と稱し賜ひしもうべにざりける。かゝれば右等の古抄どもゝ、ふつにもたらぬにはあらざれど、あまりえうなき説どもに所ふたげんも煩はしかるべければ、今はつぎ/\さたする抄どもの外は、皆省きつ。【但(シ)いと希に、いひ當たらん説あらば、そは引もすべけれど、毎條の評ににくはへざるを云也。】
 是より出す所の抄等は、なべての人も常に見知て、更にいはんも事あたらしきが如くなれど、右あるが中にて、こたび本文の釋に、其書目を擧て引並べ、毎條其説の勝劣を評すれば、其書の大むね、其撰者の心ぐせをも、よく/\心得おかずてはあながちにいひ貶すやうの事もありて、見む人疑ふべき所の多かれば也。故(レ)こゝに先づつゝましき事をも憚らず、ありのまにまにことわりおくなり。其心して本文の論ひどもは見てよかし。
 
   仙覺萬葉抄
 
此書、うた毎に釋せるにもあらず。古點の謬をたゞして新點をつけたるも、すべてぬき/\なり。其中に愚考新點百五十二首といふこと見えたれど、是は殊更に難歌の分を書拔たる釋の事にて、今古點と云物とくらべ見るに、半は改められたらんとぞおぼしき。さて此鈔、今にしてはよるべきはどの考へも見えざれど此集の埋れはてたる比にしも、深く心をつくして、世にとり出せし人なりければ、同じふしも此律師の説をのこさまほしく、かつは後世に傳はらざる風土記どもをあまた引のこされたる、もし此書なくばとおぼゆる事もすくなからねば、今引用の數(27)にくはへたるなり。
 
   代匠記
 
世に流布する代匠記と云ものは、いつの比の艸按にて、いかなるをこの者の拔寫せしにかあらん。いとまだしく、かつあらきものなり。おのれがもたるは、今井似閑の自筆にて書入あり。世に似閑本とはなべての名なれども、普通のとはこよなくまさりたり。卷數は流布の本と同じく二十二冊なれども、薄紙にて、一部の紙數凡二千枚あり。されば普通の本の如く、五十枚位を一冊とせば、四十卷の本なり。是とても彼阿闍梨の初度の稿本にて、清撰の下書にはあらざれども、其説どもを見合するに、縣居翁などの見られたるも、世のかいなでの惡本なりし事は、其引て云るさまにてしるし。玉勝間曰、安藤爲章が千年山集と云物に、契冲の萬葉の注さくをほめて、かの顯昭、仙覺が輩を此大徳になぞらへば、あだかも駑駘にひとしと云べし。といへる、まことにさる事なりかし。そのかみの説どもにくらべては、かの契冲の釋は、くはふべきふしなく、事つきたりとぞ誰もおぼえけむを、今又吾縣居大人にくらべて見れば、契冲の輩も又駑駘にひとしとぞ云べかりける。何事もつぎ/\に後の世は、いとはづかしきものにこそありけれ。」と云る、此詞を見れば、宣長も猶かの普通の醜本のみを見て、よき本は見ざりし事しられたり。又略解は考を又引していへれば、定かにもしられざれども、序文にも右のさまにいひおとし、又春海が言に、「契冲はたゞ古今集こなたの學者にして、萬葉以前には一足もふみ得ざりき。」といひしをおもへば、此二人もよき本は見ざりし事しられたり。今さやうあらざりつるよしをいはんに、彼(ノ)代匠記の似閑の序文曰、
難波東高津、圓珠庵、秘密乘沙門契師は、父下河の何がしが子にて、津(ノ)國尼崎に生れ給ひ、いとけなか(28)りしより※[草がんむり/塵]の世をうとみ、家出して深く瑜伽の道にいり、しばらく生玉の今里の邊に住給ひぬれど、猶いとはしく、資産をすつる事※[尸/徙]のごとく、東高津に淵潜して、俗を圓珠に避(ケ)、閑をぬすむのあまり、しきしまや倭歌に心をよせ、剰へ枯溪にさへふけりて、和漢の書を閲する事、あげてかぞへがたし。其性榮利をしたはず、窓外に雪をあつめ、昏旭に書をたがやし賜ひねれど、終に倦たまふ|おも《色》へりもなく、和歌をのみ友とし給ひおはしけるに、ひとゝせ水戸西山公、師の和歌にふけり、和書にいさをある事を聞しめして、萬葉集の新注を作らせ賜ひければ、いにしへより人の誤り來れるを、いきどほりましけるにや、程もなく萬葉代匠記草稿三十卷を編集して、奉らしめたまふ。今書寫する所の代匠記是也。其旨自序に見えたり。されども公の御心にかなはず。いかにとならば、世に行ふ所の印本をもて鈔し給へばなり。たとへば記中に、何誤て何に作(ル)。何文字脱(スル)乎。此點誤れり。如v此點じかふべしなど注し給へる所々すくなからず。こゝによりて、官庫御本、中院家(ノ)本、飛鳥井家(ノ)本、阿野家(ノ)本、紀伊殿(ノ)本、細川幽齋(ノ)本、水戸校本等の秘書をめぐらし賜ひて、彼此校讐をくはへて、改て鈔出し給ふべきよしの仰ごといなびがたく、まづ比校し給ふに、先(キ)に今按をつけ給へるに、符節を合せたる如きの事又すくなからず。此秘本どもをもて、再び代匠記六十卷あらたに注釋をくはへて、奉らしめ給ふに、公其説の玄妙なる事をおどろかせ賜ひ、ねもごろにめぐみ給ふあまり、しきりにめせども、かたくいなびておもむかず。ときに板垣宗膽をもて、公も亦萬葉の註釋を下し、代匠記の説を、採用ひ賜はんとす。功を一時に遂たまはゞ、奏覽を經、世にひろめしめ給はん。そのうちは、代匠記の説世にもらす事勿れとなり。師うたがひを公にとらんよりはとて、清撰の代匠記の草案までも、殘りなく奉り給へば、いよゝます/\おほんうつくし(29)みあつく、身まかり給ふをりまでも、代匠記に餘力とならん事は、追々にかうがへ奉らしめ給ふ。しかるゆゑ清横の代匠記は、西山にのみありて、世に傳ふ事なし。やう/\眞名(ノ)序のみをあなぐりもとめて、左にのするなり。其むね序中に詳なり。さるによりて此代匠記は、公の御心にかなはざる所の書なれども、今予か聞所と考へ合するに、其説のたがふ事、十にしてふたつ三つばかりならんか。こゝに元禄壬未(ノ)年、高津に師の三回忌をとぶらはむとてまかりしに、弟子利元坊、予が心ざしの淺からざりしをめで給ひけるにや、ふかく此草稿を篋に藏めおき給へりしを、ひそかに見せ給ひぬるより、心もそらにて、白波の立居にぬすむはかりことして、とりかへりて、中略 其後代匠記と予が聞書とを【今加云、こはかの西山公の命じ給ひし代匠記の清撰を、寫し取(ラ)ざりしをくちをしみて、一とせ師にねぎて、講釋聞し事を云なりけり。其事は省きたる間にあり。】見合せ侍れば、いさゝかたがへる事あり。いかにとならば、まづ代匠記に二通りありて、又追々考へ加へ給へる事、清撰の代匠記の後にもあればなり。こゝによりて不(ル)v全事のものうく、我聞ところの本説、又追々かうがへ給へる説、又師の見給はざりつる書、予後に見及ぶ所を、私(ニ)云とかきて、一事をのこさず、朱もて書加へしむるものなり。【今加云、守部がもたるは此原本ならんとぞおぼしき。】云云。
先(ヅ)此序文の趣をもて、代匠記のあらましを知べし。或人云、代匠記の清撰は、先(ヅ)本文の訓點を改めたる二十卷、作者の傳を記せる八卷、註釋二十卷、總論一卷、枕詞(ノ)釋二卷にで、惣計五十一冊也。又其後の追考、年々に書加(ヘ)て凡二百卷に及べりといへり。然れば其二百卷の精撰を見明らめずては、契冲は萬葉には至らじなどはいひがたかりなん。たゞ今わづかに見る處をもて、おしはかるに、語釋、及本文の訓點などは、いまだしからんとおぼゆれど、そも猶若冲がみそかに拔とりおきし萬葉類林の詳しげなるを見れば、後の清撰の方は、さるかたも、よくたりと(30)ゝのひたらんも知べからず。こたび守部が引(ク)所の代匠記は、善本とはいへど、語釋いまだよく整はざりける方なれど、それだに考注とくらぶるに、かの古今集ならば、餘材抄と打聞との如くにて、採用る所大かた互角なり。【本書の引合たる條々にて見べし。】おもふに常陸(ノ)雨引山の、惠岳の見し本は、三十卷といへれば、初度のながら、未(ダ)作者傳の闕ざりしなりけん。選要抄の凡例(ニ)云、作者の系譜、及故事、及字義、及地名等の考へは、代匠記を詳也とす。言語、及冠辭の釋は考の説まさる所ありなど記して、其本文は、むねと代匠記に隨へり。此惠岳は、初め縣居門の人なりけるに、猶かくしもぞいへりける。是らをもても、かの宣長の駑駘、春海が一足の誹は、過言と云べし。かゝれば代匠記を見む人は、よく其本を撰ぶべきなり。
 
   萬葉類林
 
萬葉類林とて、寫本十五冊あり。作者の名も、年季も記さゞれども、其釋文のさまを見るに、圓珠庵の高弟、若冲の撰ならんとぞおぼしき。すぐれてよろしとにはあらねど、和訓類林の手際とは、こよなう立まさりたるを思ふに、もしはかの阿闍梨の西山公に奉れりし、清横の釋どもを、かたへにほしみして、其注の内を、若冲みそかに書拔おきけるを、後に自の考へをもくはへて、類聚せしにやあらん。師説と云るは、皆阿闍梨の説にして、其中にをり/\、三之、【山城(ノ)山科(ノ)人木瀬氏。】長流【大和(ノ)人後津(ノ)國下河邊に住す。】等の説をも載ながら、撰者の名を隱して、序跋なども記さゞる、もしや彼(ノ)卿の御疑を、憚りてのわざなりけん、とさへぞおぼしき。猶異本いろ/\あり。何れの本にか、それとしらるゝ事あらん。
 
   萬葉履歴
 
萬葉履歴とて、作者の傳を記せる物八卷あり。世に此書を、田中道麻呂の撰といひふらしゝは僞りなり。(31)萬葉考より後ならぬ事は、をち/\に見えて明らか也。かの代匠記の清撰の作者傳も、八卷といひ、かの似閑か序文に、三十冊といへるに、今の本は廿二冊ならではなし。是に八卷くはふれば、三十冊となるをおもふに、此履歴も原(ト)は代匠記の内なりけむ事、推てしらる。その中に、稀に師説とことわれる事のあるは、似閑が筆記せし時補ひけるにぞあらん。さるをはやく、書ひさぐ徒などが、利のために切とりて、うべ/\しき名目をおふせて、珍書などいひふらし、世人を欺きけむとぞおぼしき。もし此考への如くならゞ、其(ノ)しわざのあるまじきのみならず、それが爲に今世のなべての代匠記に、作者の系譜の欠たるは、もの學ぶ人の爲にもあかず、阿闍梨の爲にもほいなきかな。
 
   萬葉考
 
此書のよろしき方を先いはゞ、よく古意を得、よく古言を解(キ)、いはゆるやまとだましひつよくして、やがて此集の古意をもて、いにしへの眞心をしり、やう/\神世の道にも、おし及ぼすべく説(キ)そめられたる、大きなるいさをと申すべし。又奇《ク》しくあやしきさとりありて、此時まで誰もおもひ及ばざりし、古き世の歌どもの階《シナ》を見分ち、自(ラ)の歌文詞にも、やがて其古言をとり用ひ、又かたしともかたかりし枕詞の本つ意をときそめられたるなど、代々の識者等《モノシリビトタチ》の中にも、一きは拔群《ヌケイデ》られたるところなるべし。世に此書を見む人は、偏に此ふし/”\に眼をとゞめて、翁の賜ものをよろこびぬべきわざなりかし。又おふけなけれど、學びのために、其よからざる事どもをあげつらはゞ、いたく思ひあがれる心ありて、物事を一かたにおしきはめ、我がいふ事はとて、いはゆる英雄人を欺くてふたぐひも多く、又其事の徴をも引ずして、常におしはかりの空談おほかり。さて然か我こそ千歳の一人なれ、我が上に誰かはたゝんと、(32)思ひとれる心さかりなりけるに、先輩に圓珠庵の如き強き人の在けるを悦ぶ心はなくて、却て目の上の瘤《コブ》の如くやおもはれけん。これを厭ひ妬める情、こゝかしこの詞の内に顯はれて、是がために、しひ言せる事すくなからず。又東方呂をほめ過せる、師を尊ぶはよき事なれども、多くは圓珠庵の説をかすむる時か譏る時の言ぐさなり。又たま/\契冲云とて引るを見れば、あるが中にも、いまだしきをえり出て、其非を咎め、又常に其名を擧るをだにいとはしくや思はれけん、只或人とのみ記せるやうの、かだましげなる云(ヒ)ざま多かり。今其事を一ついはゞ、此集開卷、雄略御製歌の條(ニ)云、籠毛與《カタマモヨ》云云。布久思毛與《フクシモヨ》云云。此四句は、荷田(ノ)大人【東万呂】のよみ初めたるなり。かくしも上つ代のことばに至りにたりといひ、又別記に、再び右の句を引て云(ク)、此訓の如きは、上つ代の人の心詞を、我常とする程の人ならでは、訓出る事なしといへり。【此詞どもの上にも、おのづからおごり、誇れる心ざま見えたり】然るに此|加多麻《カタマ》の訓の事は、既に代匠記【一本の方】に然か訓(マ)れて、其處の似閑か詞(ニ)云、昔より此籠の字の訓を不知して、唯|許《コ》とのみよみ來しを、吾師はじめて加太麻《カタマ》と訓じて、神代紀の無目堅間《マナシカタマ》を證とせられければ、西山公その卓見を感じ給ひ、且御自(ラ)の素意にかなはせ給ふ事を、奇《アヤ》しませ給ひ、かへすん/”\めで給ひて、其御謝に、白金一千兩、絹三十匹を賜ひて、これを勞《ネギ》らひ給ふ。【此事阿闍梨自(ラ)の假字序にも見え、又水戸(ノ)安藤年山の書どもにも載て、甚慥かなる事也。】とあるをだに、然かしひられたる、此一つになずらへて、大かたの上をも思ふべきなり。今かゝる事まで、あなぐり出ていはんは、いとあるまじく、かつはつゝましきわざなりけれど、此意氣をよくくみ知てよまずては、いたくあやまつべき事の多かるゆゑに、すべなくてかくはわきまへおくになん。さても上のをち/\論らふ所、何とかや圓珠庵をあげて、縣居をおとすやうにも聞え來しこそ、心ぐるしけれ。守部元より、上つ代の道をたふとめば、いづれ(33)と云(フ)中に、彼契冲は僧の事なりければ、やまと魂なきにもあらざれど、つひに三國いづれともつかぬ見識《コヽロ》ありて、たのみとはせざりけれど、かの代匠記は、よきが隱れて、わろきが世に弘れるもあかず、其上此考注にいひ貶せるが、吠聲のならひとなりて、あまりにこれもかれもあなづりつるが、かたはら痛くてなり。よしやなめしき罪をうけなんとも、いかにせん。學問の上におきては、いさゝかも誣(ヒ)いつはるべきにあらざれば、愚かなる心にも、是非善惡を眞直に正しく述て、後學をさとさんとて、此注さくを墨繩とは名づけたるなりけり、かくて此考注の體裁、本文をも立ずして、直に句を掴とりて分註せる、さばかり貴べりし心にも似ず、いとかろ/”\しく、踈けなるしざまなり。又目録を改め、左注を削り、端詞まで心のまゝに引かへ【此等の内、端詞を改めたる中には、宜きもあり。其私なき分は此たびも用(ヒ)たり。】など、凡て私事多かり。たとひ後人の加筆ありなんとも、よしや亂れたらんとも、千歳以前の古書なるを、後の今よりして、漫に物すべきわざかは。かの一(ノ)卷の如きは、半(バ)より末、こと/”\く追入なるを、もし後の加筆なりとて、是を削らば、あまたの歌を失ふわざなり。もし又それは歌なれば、削られじとならば、其他も其まゝに見て、おのれおのれが試をいひおかんに何事かはあらん。
 
   玉小琴
 
此書は、本居宣長はやくより心にかけて、萬葉考のひがよみ、ひが説を、追々に正し改められたる書也。猶ひが事もあれど、よき考へもありて、其訓ざまは、大かた皆よろしく見えたり。されどたゞ歌の上のみにして、一部にはとほりてあれど、追考ともに、わづかに二卷のみなるぞあかぬわざなる。
 
   槻落葉
 
此書は、荒木田久老の作にして、いはゞ少し奇説め(34)きたる所もあれど、萬葉考などにははなれて、ひたすら一人の志を述られたるこそ、雄々しく見えたれ。されど印行なれるは、たゞ第三(ノ)卷上下二册に、別記一册のみなり。稿本は全くなれりときけど、いまだ得ず。故(レ)今引用る事の欠たるぞ、是もあかぬわざなる。
 
   略解
 
此書あまたの人の考へをあつめて改めたれば、其訓點は、考注には、こよなく立まさりたり。只をしむべきは、此(ノ)時勢にして、今少し歌の心を聞しる人はあらざりしかと思ふやうなり。こゝに引も心ぐるしかれど、此書の出ける比、伊勢人川喜田(ノ)常道といふが、物lこ記して云(ク)、「萬葉略解は、いと心ぎたなきかきざまなり。かの書は、もはら吾本居大人の、とし比考へおかれたる説どもを乞もとめて、それによりてこそものしたれ。さるをかのはし書に、これを考へたすけたるは、平(ノ)春海、源(ノ)躬絃などのみいひて、わが大人にねぎつる事などは、露ばかりもいはず。又注釋の中に、本より吾大人の考へなるを、却ておのれが考へとして、其書のしりに、宣長もしかいへり、などやうにかきなせる事もおほく、又吾大人の、おほく例をあげ、書を引ていはれたる事どもを、宜長いはく、云云と擧し所には、其例どもをいはずして、おのれが説の中にぬすみて引る事もいと多し。心きたなきわざならずや。すべてかの書は、萬葉考の説と、吾師の説と、わが友久老か考へを除《オキ》ては、ひとつも取べき説なし。」とぞいへりける。こは憤れる處ありての、いひ言なるべけれど、【伊勢の或人云、此文は、實は宣長の怒て書けるなり。常道とあるは、只名を借たるなりと。】しばらく此難じにつきていはゞ、其人の定本を請て、其説の奪はるゝわざにはあらざれど、もしは止事を得ざりしよしもありけむか。そはかの時、たづさはりし人々、何れも別に考への有べきほどの際ならざりければ、歌毎に、いつ(35)も宣長、久老等の説のみ擧んも、あまりいふかひなく、かつは江戸に人なきやうにもおぼえて、少しはしひたる事もや有けん。そはいかにまれ、今其説るさまを見もてゆくに、何とかや難きふしはいひのがれて、却てさしもあらぬ所に、詞をつひやせるやうの事も見え、又此事は、かしこに云とことわりて、其所になき事などもこれかれ見ゆ。かゝれど幸ひに、代匠記の善本は得がたく、萬葉考もいまだ五が一も刊行ならざりつれば、よき時節にあひて、一時に弘りけるなん、さきはひのめでたきふみなりける。【已上こたび、本文の表に立(テ)其名を擧て引所なり。】
さても上のをち/\、世に誰しらぬ人も有べからぬ書の上を、かくしもさたする事、今更めきで聞ゆべけれど、こは既にもことわりつるごとく、こたび引用(フ)るに就て、此に先づ其書どもの、大かたの趣意を述おく也。猶此外にも、古き物には、桑門由阿が詞林采要、北村季吟の拾穗抄、近き世の物には荷田春滿の量蒙抄、俊道惠岳の選要抄等の類ひも見合せぬにはあらざれど、さまで事ふりにたる書どもを引て、評すべきにもあらざれば、專(ラ)世に名高く、おもたゞしきのみを引て、あげつらはんと也。
 
   今釋墨繩
 
おのれ此集をちうせんと企つる事、こたびにて三たびなり。初め若かりける時、一たび筆を立つるは、考証、略解等のうたの釋の足はざるをあかずおぼえて、唯歌の心のみを、こまやかに物せしを、他し事どもの漏にたるが、とかくに心のこりして、半途にしてすてつ。其後又二たび企たる時は、本集に載れる事は、一つも漏(ラ)さじとて、いとつばらに物しそめたるに、まろ地理の上には、殊にくらかりければ、初めのほどは、さきの注どもにいへる趣を取合せてものしつるに、名だゝるもの知人といへども、地理は極めがたきものと見えて、いと思ひの外に違へる事(36)の多かりき。是にわびてつら/\思ひけらく、かく年ごろおもひ入來つれば、言語の上は、かたしとも、心ばかりはときつへし。服食器用動植等の上も、おふな/\考へもしつべし。たゞかく歌毎に地理をよみて、しかも自(ラ)其境にいたりて、長歌などには、一日二日の路次をよみ入たるも多かるを、求てよめる後の集の歌どもを説(ク)やうに、よき程の暗推にまかせんはいとほいなく、かつは注するかひもあらぬわざなりとて、又半途にしてやみつ。それより地理を學ばんの心出そめて、何くれと集め見れど、凡(ソ)地理ばかり、學びにくきものこそあらね。かの一たび手ごりしつれば、世のものしり人の云る説も、頼みがたかれば、此五とせ六とせがほどは、たゞ慥かなる書の限りを集めて、考へわたりけれど、【其書目どもは、本文中、地名の出たる處々にことわれば、此《コヽ》には擧ざるなり】これは限りもあらざるに、よはひには限りありて、今既に老たれば、ことし天保十二年の春、更におもひ起して、又筆をたてそめつ。此時嗣業冬照、又近く從へる人々に、問試みけるは、委くせまほしきものなれど、今(ノ)世の人は、氣根よわくして、長き事は倦つかれて、えよまぬさま也。猶さても委くかゝんや。又筒古にして、よく行屆くべくかゝんやと問に、皆いはく、願はくは世人にかゝはらず、たゞ/\精く撰びて得させ給へ。詳き釋ありて後、其《ソ》を約めんは、かやすきわざ也。おもふに書紀よりも、古事記よりも、世に萬葉集こそたふとけれ。常に萬葉を、歌とのみ勿《ナ》心得そよの給ふ如く、いにLへの眞の中の、眞を得なんものは、唯此集なりければ、此集にこそ、委き釋のあらまほしかるわざなるを、今までなきは、何よりあかぬわざに侍り。よしや百卷千卷に及ぶとも、御心のゆきなん限り、書て得させ給へとぞいひあへる。さらば其中を取てかきつべし。いのちあらば又簡古なる方も撰びなんとて、筆とりそめぬ。然れども百にもあまる卷の數を草稿して後、更にかき清めんまでは、人も(37)待遠かるべく、我も心いられのせらるれば、こたびは下書などもせず、打つけに一冊づゝものして、寫さまほしみする人々にあたふ也。さて寫さするには、先づ惣釋なくては有べからず、そも/\惣釋凡例など云物は、全部書をへて後にこそ、定るものなれ。いまだ一册も書ざるに、筆のはじめより是を作らば、後にいたりて、大にたがふ事、又漏れたる事などあるべけれど、そはいかにせん。凡てこたびのちうさくは、次々の卷々にもいひもらし、引漏す事などのあるべけれど、そは其時の、己があやまちと思ひあきらめて、もはら全部、すゑ遂なん事を主《ムネ》として、いそぎものすれば、今此惣釋も、たゞ一わたり、おしはかりにかきながして、此書の第一卷には、そなふるになん。
  此卷、ことし正月の十一日をよき日と定めて、筆を立そめぬ。まだ年のはじめの、よごといひいるゝ人絶ず來るを、をり/\はあへしらひなどしつゝ、同じ月のはっかの日のゆふさりつがたにかきをへつ。
 
  こたび吾師、萬葉集の新注墨繩と云を作りそめ給へり。全部の稿、いつなりをへんにかと、いと待遠くおぼえけるに、下書などをもし給はず、筆さしぬらして、さら/\とものし給ふさま、既にいで來てある書を、寫しとるよりもすみやかなり。故(レ)わづか九日十日がほどには、一まきづゝ卷成て、月に三卷は必ず書をへ給へり。さるをそを寫しとる人々は、却ておそくして、月に一卷をだに、得はたさず。然かのみならず、をちこちに持ゆきで、たやすくめぐりこざりければ、手をむしくして待遠がる人々、かくてはつひに、かしうせん事もあらん。こは板にゑらせて、おのがじゝわかたばやとて、其事を師に(38)ねぎけるに、師の仰せ給ふやう、そも/\書を作るわざは、僅に五卷六卷の物すらも、一たび草稿して、後に立かへり見れば、そこゝこそぐはしからぬ事の多く見え、其中には、恒によく心得たる事をしも、思ひよらずあやまりて、我ながらいかでかくは物しけむと、あやしむばかりのひが事もあるものなるを、まして此大部の書を、かうかたはしよりものして、もし後にかへり見ましかば、いかばかりのひが事か、おほからまし。たゞ引べき事を引漏せるたぐひは、常の事にて、或は右なる書を引ながら、左の書の名を記すやうの事も有べく、あるは既にいひし事を忘れて、同じ釋の重なる事もあるべく、あるは又おもひよらずいひ過し書過して、煩はしからんふしも有べく、又は後の卷におもひ得て、前の注を悔むやうの事なども多かりなんを、いかで打つけに、世にあらはす事を得んとて、ゆるし給ふべきおもゝち見えざるは、げに御ことわりとこそ承り侍れ。此をりわが輩の中にて、ひとりがいへらく、かくて我等がためには、あかぬふしは侍らずと申すとも、大人は又大人ほどの、正しばえあるべければ、その事はしばらくおきて、おのれが相しれる物しり人ありき。其人若き時より、いたづきて書作りけるが、稿なりける比、事なきほどに、板にゑらせよと、皆人すゝめけるに、其人いなびて、世に書を著はすわざは、然かたやすきものにあらず、よくいく度もかうがへ改め、人にもよませ試みて、そのうへの事にこそあれと、ひたぶるにのどめけるが、いのちのほどにゑらずして、身まかりにき。よそながらもいとほしくおぼえければ、其後かの稿本は、いかゞなりにしと、問やりけるに、さばかり心盡せしふみなれば、なき跡にだに、世に弘めてんものとおもふを、いつか人(39)にかしうせて、足はずなれる卷々ありてなんと、いひおこせき。およそかやうに、あたら年ごろのいたづきをしも、水のうへにふる雪、いさごの上におく露となしはてつるためしもこそあれ。殊に此大江戸は、火の災ひといふがありて、あへなき事をも見きゝ侍りき。そをおもふにも、よしや一わたりの御筆にて、大人のみ心にはあかずおぼすとも、もしや然かなりなんには、何ほどかはまさり侍らん。又おもふに、世に書作る人はあれど、かゝるいにしへの、難しともかたきふみをしも、艸稿もせずして、打つけにかきながす人の、いづくにかはあらん。こを此まゝにさくら木にゑらせて、長き世に花さかせむも、又一つのためしならずや。よその人はしるべからぬ事にはあれど、そはしらずともよし。たゞ此池の庵に來よりつどふ人々の、朝夕まさめに見て、いひつぎかたりつぐのみにて事は足たり。いざゝせ給へと、ひたぶるにすゝめけるに、師の翁かたゑみて、いへば又いはるゝものかな。其中に、うちつけにものせし故に、謬りありなんとなげくならば、さてもありぬべし。其すみやかなるを、人にかたりつげんたねにせんとおもはんは、いはゆる名聞と云物にして、更におのれが心にはあらざるぞかし。されどはじめにいへる一くさは、そのことわりなきにしもあるべからず。さるは此書かくながらものせばなか/\に長き世に耻をのこすわざなれど、なほさても、命のほどにはたさずして、なき世の後にちりうせなんには、げにすこしはまさりなん。われも今既にとしおいて、後のたのみなし。さほどにおもはゞ、ともかくもせよかしとて、すべなくゆるしたまふに、皆人ちからを得て、こたび先づ一帙をゑらせて、人々に分ちあたへんとす。それにつけても、卷々の凡例など(40)あるべきなれど、此惣諭だに、師の既にのたまひし如くなれば、おしはかりにのみもものしかねて、すべなく省きつ。何事も本書につきて見てよかし。さて本書の中に、いひ漏し、引もらし給ふ事、或は又後に思ひ得たまふ事などは、別録を作りて、丁附などをもして、卷尾につくべし。又此書はじめ筆立給ふとき、われらが爲に委くものして、大かた御國の學びを、此一部に總《フサ》ね給へかしとねぎつれば、一字一言をももらさず、悉く釋したまへり。おもふにわづか三卷の古事記だにも、傳(ノ)注なりて後に目録をそへたるに、引見るに便りよく、ちからを得る事多かり。況や此萬葉集は、はるかに廣く大くして、世にあらゆる事の出たれば、此目録を作りそへなば、もろこしの字彙、字典などの如くに、御國の言に、をさ/\漏るゝ事はあらざるべし。全部の功業遂たまはゞ、とくかきそへてんとおふも、今よりなんうたゝたのしき。かくてことしを上木のはじめとして、是より年々にゑらせつぐべし。いかですむやけくなしをへてしがなと、ひと日池の庵の別館につどひて、何くれの事をさだむるついでに、此ゆゑよしをいさゝかことわりおかんとて、中村(ノ)正冨、片山(ノ)元質のぬしたちとかたらふに、おの/\ゆづりて事はてねば、坂倉(ノ)千英筆をとりてしるす。此日や天保の十二年七月廿五日の事になん。けふより後、板にゑりそむるより、卷をとゝのふるまでの事は、昌麻呂ぬしにゆだねつ。
 
(41)萬葉集卷第一目録
 
   雜歌
泊瀬朝倉宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代
 天皇(ノ)御製歌
高市崗本(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代
 天皇。登2香具山(ニ)1望國(セス)之時(ノ)御製歌○天皇遊2内野(ニ)1之時。中皇女命。使2間人(ノ)連老(ヲ)1獻(シメ玉フ)御歌并短歌【女(ノ)字本文與に脱せり】○幸2讃岐(ノ)國安益郡1之時。軍王見v山(ヲ)作歌并短歌
明日香川原(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)代
 額田(ノ)王(ノ)歌 未詳
 代匠云。此標は集の中よりひろひて上たりと見ゆれば、あやまりにあらず。集にあやまれるか。其故は、額田王の歌の左に山上憶良の類聚歌林をひけるに、一書に、戊申の年といへるは孝徳天皇(ノ)大化四年也。日本紀を引るは齊明天皇五年なれば、いづれにても、皇極天皇の御宇の時にはあらず。
後(ノ)崗本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)代
 額田(ノ)王(ノ)歌○幸2紀伊温泉1之時。額田(ノ)王(ノ)作歌○中(ノ)皇女命。往2于紀伊温泉1之時。御歌三首【是も女字を脱せり】○中大兄命。三山御歌一首并短歌二首【今本命字を脱せり】
近江(ノ)國大津(ノ)宮(ニ)御宇天皇代【本文に國の字なし】
 天皇詔2内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣1。競2憐春山萬花之艶(ト)秋山千葉之彩1時。額田王。以歌判之歌○額田王。下2近江國1時作歌。并戸王和歌【井戸以下、本文與に誤れり。其處に可v辨】○天皇遊2獵蒲生野(ニ)1時。額田(ノ)王作歌○皇太子。答御(42)歌【本文に明日香宮御宇天皇とあり】
明日香清御原(ノ)宮御宇天皇(ノ)代
 十市皇女。參2赴於伊勢大神宮(ニ)1時。見2波多(ノ)横山(ノ)巖巌1。吹黄刀自作歌【本文に大の字なし】○麻績(ノ)王。流2於伊勢國伊良虞島1之時。時人哀痛作歌【本文に、痛を傷に柞れり】○麻績王。聞之感傷和歌○天皇御製歌。或本歌○天皇。幸2吉野宮1時。御製歌
藤原(ノ)宮御宇天皇(ノ)代
 天皇御製歌○過2近江荒都1時。柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌○高市連古人。感2傷近江(ノ)舊堵1作歌 或書。高市(ノ)黒人○幸2紀伊國1時。川島(ノ)皇子御作歌【本文に或云山上臣憶良作とあり】○阿閉皇女。越2勢能山1時。御作歌○幸2吉野宮1之時。柿本朝臣人麻呂作歌二首并短歌二首○幸2伊勢國1之時。留v京。柿本朝臣人麻呂作歌三首○當麻眞人麻呂妻作歌○石上(ノ)大臣從駕作歌○軽皇子。宿2于安騎野1時。柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌四首○藤原宮之役民作歌○從2明日香宮1。遷2居藤原宮1之後。志貴皇子御歌【本文歌上作(ノ)字あり】○藤原宮御井歌一首并短歌○大寶元年辛丑秋九月。太上天皇。幸2紀伊國1時歌二首。或本歌○二年壬寅。太上天皇。幸2參河國1時歌。長忌寸奥麻呂一首○高市連黒人一首○譽謝(ノ)女王作歌○長皇子御歌○舎人娘子從駕作歌
(43)代匠云。二年云云の下に、五首の二字を加へて、下の別目を省きて然るべし。其故は、歌に至りては作者ことなれば、枚擧すべし。今は無用なり。別目の中に、長皇子御歌と云(フ)下の從駕作歌の四字、衍文也。』巳上、今按に此第一(ノ)卷は、右の藤原宮御井歌までが舊《モト》の撰(ビ)にして、次の大寶元年云云以下は其後の書そへなり。故(レ)端書の體裁俄に變じて、更に撰びたる歌の書法にあらず。其書そへも又一旦に補ひたるにはあらで、其ほどの行幸の歌を本(ト)として、寄(リ)來る歌どもを、追々に追入せしものなりければ、あながちに前後不頓の論《サダ》には及びがたし。此等の事本文の條にいはん方、歌に親しかれば、すべて此目録の下は省けり。
○三野連名闕入唐時。春日(ノ)藏(ノ)首老作歌○山上臣憶良。在2大唐1憶2本郷1作歌○慶雲三年丙午。幸2難波宮1時歌二首【代匠云。下の別目又用なし。別目の中に作主未詳歌、此五字衍文、又此太上天皇と云より下、長屋王の歌と云迄慶雲三年より上にあるべし。太上天皇は大寶二年十二月に崩じたまふ故也。」と云へり。此等の事も本文にて辨ふべし。】○志貴皇子御歌○長皇子御歌○太上天皇。幸2難波宮1時。歌四首○置始東人作歌【今本、こゝに作主未詳歌の五字有(リ)代匠記に云る如く、本文にもなければ衍文なり】○高安大島○身入部王作歌○清江娘子。進2長皇子1歌○太上天皇。幸2吉野宮1時。高市連黒人作歌○大行天皇。幸2難波宮1時。歌三首【代匠云。別目又用なし。別目の中に作主未詳歌の五字、例の行文。注二首は、別目よし。別目の中、或云天皇御製歌。是歌の左注を其まゝに擧(グ)】○忍坂部乙麻呂作歌○式部卿藤原宇合○長皇子御歌○大行天皇。幸2吉野宮1時歌。或云天皇御製歌○長屋王歌【代匠云。此處に標して寧樂宮御宇天皇と云べきを、集の中に脱せる歟。下に三年。從2藤原(ノ)宮1遷2于寧樂(ノ)(44)宮1と云故に略すといはゞ、上に從2明曰香(ノ)宮1。遷2居藤原(ノ)宮1といへども、藤原(ノ)宮御宇天皇(ノ)代と標せり。又和銅三年に奈良へ移り給へば、元年の上にあげて、標すべからずといはゞ、藤原(ノ)宮も朱鳥八年にこそ、遷らせ給へども、三年の歌よりさきに標せり。』已上 といへり。萬葉考も是に依て此處に標を立たり。今按に假そめの目じるしのためには、寧樂御代ともことわりつべきものなれど、既にも云つる如く、彼(ノ)大寶元年云云とあるより已下は、そのかみの人の追入なりければ、本より標など立べき記しざまに非ず。然れば是を改んには、先づ其(ノ)端詞の書體よりして改めずば、似つくべきにあらず。つら/\其(ノ)前文、左註等の書(キ)ざまを合せ考るに、缺たる後の追加也と、定かに知(ラ)せん爲の記しぶりとのみ見えて、原(ト)の清撰にまがへむとて物せるにあらざれば、今※[勅/心]に改むべきにあらず。又標などのみを撰集|風《ブリ》に改めたらんとも、かの大行天皇、太上天皇、何年何月、右一首何某とやうに、左にも右にもしるしたるなどをいかにかはせん。たゞ落失は落失とし、追入は追入と見てあるべき事、和漢古今の常例なりかし】○和銅元年戊申。天皇御製歌○御名部皇女。奉和御歌○三年庚戌春二月。從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時。御輿停2長屋原1。※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌。一書歌【代匠云。此(ハ)是(レ)前(ノ)御製(ノ)之異説耳。非3別(ニ)有2一首1也】○五年王子夏四月。遣2長田王伊勢齋宮1時。山邊御井作歌三首
寧樂宮【萬葉考云。上の長屋(ノ)王(ノ)歌の條に、此標は有べきを、物よくしらぬ者がこゝには記しける也』今按に、是は標には非ず。標ならば寧樂宮御宇天皇代、と有べきを、こは只後人の書入の本文に紛れたる也。上の歌(ノ)條とても標は有べからぬ事、既に云(ヒ)つるが如し。】長皇子與2志貴皇子1宴2於佐紀宮1歌○長皇子御歌【代匠云。此佐紀(ノ)宮の宴の歌は長皇子のよませたまへば、歌の左に注せる宴の歌の外に別に一首あるやうに記せるはいにしへの幼學のしわざ也。】
 
(45)萬葉集墨繩卷二(原本萬葉|檜※[木+爪]《ヒノツマデ》卷第一)
 
本集一之一【自一葉至八葉】
 
   雜(ノ)歌
 
 代匠記曰、此は行幸、王臣の遊宴、旅行其外くさ/”\の歌を載し故に云(フ)。後の勅撰に云るとたがはず。されど此集は相聞をもて主とすればにや、四季の歌も相聞ならぬは、雜(ノ)春、雜(ノ)夏などゝ云り」と云るが如く、歌は切なる情を感發するものなりければ、戀と述懷とが本(ト)にて其他は枝葉なり。故(レ)此集の部立もおのづから其(レ)に隨へり。さて此《コゝ》の雜(ノ)字は易の十翼に雜卦傳あり。韻會曰。昨合(ノ)切。雜(ハ)は五采相合也。と見ゆ。然れば物の相合(ヒ)※[殺の木が有]《マジ》(ハ)るを云て、此《コヽ》にではクサグサと訓《ヨミ》つべきなり。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタシラシゝスメラミコトノミヨ》 大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケノスメラミコト》
○泊瀬」は和名抄に、大和(ノ)國、城《シキノ》上(ノ)郡|長谷《ハツセ》波都勢《ハツセ》郷。神名帳に、同郡長谷(ノ)山口(ノ)神社あり。此(ノ)地、集中、山川郷、檜原等、多くよみたり。【一(ノ)廿一丁、又廿九丁、三(ノ)廿一丁、又四十五丁、又四十七丁、又同丁右、又左、又六十一丁、又廿八丁、又廿九丁、七(ノ)六丁、又七丁、又同左、又廿六丁、又卅八丁、又四十一丁、又同左、八(ノ)四十五丁、九(ノ)七丁、又廿六丁、又廿七丁、十(ノ)五十二丁、又六十三丁、十一(ノ)二丁、十三(ノ)三丁、又同丁、又十二丁、又廿一丁、又二十四丁、又廿五丁、又同丁、又卅丁、又卅一丁、に出て凡(ソ)四十首見ゆ。】其(ノ)地理の事は下の歌にて委く云べし
○朝倉(ノ)宮【九(ノ)七丁右にも、泊瀬朝倉(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)御製歌一首と見えたり。】雄略紀曰。十一月【安康天皇三年丙申】壬子朔甲子。天皇|命《オホセテ》2有司《ツカサ/\ニ》1設2壇《タカミクラヲ》於泊瀬(ノ)朝倉(ニ)1即天皇位《アマツヒツギシロシメス》。遂(ニ)定(メマシキ)v宮(ヲ)焉。(古事記傳(ニ)云(ク)、姓氏録。秦(ノ)忌寸(ノ)條(ニ)云(ク)云云。大泊瀬(ノ)稚武天皇(ノ)御世云云。役(ヒテ)2諸(ノ)秦氏(ヲ)1構(ヘ)2八丈《ヤツヱノ》大藏(ヲ)於宮(ノ)側(ニ)1。納(メ玉フ)2其貢物(ヲ)1。故(レ)名(ケテ)2其地(ヲ)1。曰2長谷(ノ)朝倉(ノ)宮(ト)1。是時始(メテ)置2大藏(ノ)官員(ヲ)1。以v酒爲2長官(ト)1。とある、宮(ノ)號《ナ》の由(シ)是也。但(シ)書紀に依(ル)ときは本よりの地(ノ)名のごとくにも聞ゆ。いかゞありけん。と見ゆ。)今按(46)に、朝倉と云地(ノ)名、國々に多かれば、本よりの號なりけむ。かゝる地名の由縁《ユヱヨシ》は古傳説も信《タノミ》がたくまた推量もて、或は校倉《アゼクラ》【和名抄】の義ならん。或は東に山ある地なりければ、朝闇《アサクラ》の意ならんなど、云(ヒ)もすべけれど、慥かなる徴なき限りは、たゞ空談《ムナシゴト》也。大宮(ノ)跡は、帝王編年記には、城上(ノ)郡、磐坂《イハサカノ》谷也といひ、輿地通志には、在2黒崎、磐坂二村(ノ)間(ニ)1と云り。今行嚢抄、地理志等を披て考るに、實に黒崎(ノ)村と磐坂(ノ)村とのあはひにして、今俗に龍谷と云地の邊まで、總て大宮の趾なりけらし。文明無名(ノ)紀行に、長谷寺より、南十町餘りの處に龍谷と云(フ)村あり。此處を朝倉(ノ)宮の跡と、そこの古院【龍谷寺】に書傳へたる物を見て、別に記しぬとて歌あり。(和漢三才圖會に、泊瀬朝倉宮(ハ)在2長谷寺之南半里(ニ)1。と云るとも合《カナヘ》り。)
○御宇」代匠(ニ)云。御(ハ)治也。蔡※[災の火が巴]獨斷(ニ)曰。漢(ノ)天子。凡所v進(ル)曰v御。御(ハ)者進也。凡(ソ)衣服加2於身(ニ)1。飲食入2於口(ニ)1。妃妾接(ル)2於寢(ニ)1。皆曰v御(ト)。淮南子曰。四方上下。謂2之(ヲ)宇(ト)1。往古來今。謂2之(ヲ)宙(ト)1云云。』已上 今按に、此釋にて事は足れゝど、猶いはゞ、御宇は馭宇、御寓など、書たるも同じ。書(ノ)五子之歌に、予臨2兆民(ニ)1。凛乎(トシテ)若(シ)3朽(タル)索(ノ)之馭(スルガ)2六馬(ヲ)1也云云。注曰。朽索(ハ)易(ク)v絶(エ)六馬(ハ)易v驚。朽索(ハ)固(ヨリ)非v可(キニ)2以馭(ス)1v馬(ヲ)也。尸子に、天地四方。曰宇。廣韻に、大也。玉篇に、方也。史記(ノ)秦本記に、包2擧(ス)宇内(ヲ)1。呂覽(ノ)下賢(ノ)注に、四方上下(ヲ)曰(ハ)v宇。以(テ)v屋(ヲ)喩(フル)2天地(ニ)1也云云。晋書(ノ)武帝紀に、握(テ)v圖(ヲ)御(シ)v宇(ヲ)。敷(キ)v化(ヲ)導(ク)v民(ヲ)云云。【白氏文集(ノ)長恨歌曰、御宇多年求(レドモ)不v得云云。賈誼(ガ)過秦論云、振2長策1而御2宇内1云云。御は、正韻曰。統也。説文曰。使v馬(ヲ)也。徐※[金+皆]曰。御(ハ)解(スル)2車馬(ヲ)1也。从v※[行人偏]从v卸。皆御者(ノ)之職(ナリ)云云。など見ゆ。然れば御(スル)v宇(ヲ)にて、即治(ラス)2天(ノ)下(ヲ)1よしなり。斯《カク》て古へ、其(ノ)時世を指(シ)て云に、某宮《ソレノミヤニ》治《シロシメシヽ》2天(ノ)下1天皇御代《スメラミコトノミヨ》と申せる例也。天武紀に、孝徳の代を指(シ)て、難波(ノ)宮治(メシヽ)2天(ノ)下1天皇(ノ)御代(47)と申し、天智天皇を指て於2近江(ノ)宮1治(メシヽ)2天(ノ)下1天皇、と申せる類也。又其(レ)を此《コヽ》の如(ク)書るは、攝津(ノ)國風土記に、宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇世《ウネビノカシバラノミヤニアメノシタシラシヽスメラミコトノミヨ》、また高穴穗(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代、常陸風土記に、難波|長柄豐前《ナガラノトヨサキノ》大宮(ニ)臨軒《アメノシタシラシヽ》天皇|之世《ノミヨ》、また昔(シ)美麻貴《ミマキノ》天皇(ノ)馭宇之世《アメノシタシラシヽミヨ》、なども書るが如し。歌によむも、此さまに云る、集中長歌の續けにて見べし。【其歌は下にも引くべし。】
○天皇」令(ノ)第六儀制令(ニ)曰。天皇(ハ)詔書(ニ)所(ナリ)v稱。同義解云。凡《ソ》自2天子1至2車駕1。皆是書記所v用(ル)。至(テハ)2風俗所(ニ)1v稱(スル)。別(ニシテ)不v依2文字(ニ)1。假《タトヘバ》如(シ)2皇御孫《スメミマノ》命。及《マタ》須明樂美御徳《スメラミコト》【是は異國へ示す時の書|法《ザマ》にて、好(キ)字の限りしてかけるなり。】之類(ノ)1也。とあり。今按に、此風俗(ノ)所v稱(スル)ぞ、上代よりの尊稱《トナヘ》なる。文字には天皇命《スメラミコト》とも皇尊《スメタミコト》ともかく事あれど、唱へは皆同じことなり。(書紀竟宴(ノ)歌には、須女羅乃支美《スメラノキミ》とも、數梅羅機瀰《スメラキミ》ともよみたるなり。)思ふに須賣良《スメラ》とは本(ト)天(ノ)下を統知《スベシラ》す意より申(シ)始《ソメ》たる尊稱なるべし。(續紀の詔詞に、天(ノ)下|統《スベ》とも、統總而《スベフサネテ》ともあるに、書紀に統(ノ)字、攝(ノ)字等を、同じくフサネと訓る、もはら同義なればなり。)此を天皇|御親《ミミヅカラ》、皇我《スメラガ》とも、皇吾《スメラワガ》とも詔へるは、既に尊稱と成たるうへの御詞なり。又皇祖ならぬ神|等《タチ》をも、須賣《スメ》神と申すことのあるは、天皇の尊稱より轉りて、崇め申す辭となりし也。そは神を指て、某《ナニ》明神と稱するも、天皇を明神《アキツカミ》と申すより、轉りたると同じかればなり。
○大泊瀬稚武天皇《オホハツセワカタケノスメラミコト》」【皇統二十二嗣、後に雄略天皇と申奉る。】雄略紀曰、大泊瀬幼武(ノ)天皇。雄朝津間稚子宿禰《ヲアサツマワクコノ》天皇(ノ)《允恭》第五子也《イツバシラノオトミコナリ》。天皇産《ミアレマセルホド》。而神光滿殿《アヤシキヒカリミアラカニミテリ》。長而伉健過人《ヒタチマシテタケハヤクマスコトナラブヒトナシ》云云。四年春二月。天皇|射2獵《ミカリシタマヘルニ》於葛城山(ニ)1忽見長人來《ユクリナクタケタカキヒトキテ》。望丹谷《タニムカヒニタテリ》。面貌容儀《カホカタチ》相2似《ニタリ》天皇(ニ)1。天皇|知《シラセド》2是神《カミトハ》1猶故《コトサラニ》問曰。何處公也《イヅレノキミゾ》。長人對曰。現人之神《アラヒトガミナリ》。先稱王諱《マヅミナノリタマヘ》。然後應※[道/口]《サテノチニアレナノラム》。天皇答曰。朕《アレハ》是幼武(ノ)尊(ナリ)也。長人次(ニ)稱2曰《ナノリ玉ヒキ》僕《アレハ》是一事主(ノ)神(ナリト)1也。遂(ニ)(48)與(ニ)盤《ミカリシ》于|遊田《アソビタマヒキ》。駈2逐《オヒテハ》一鹿《シヽヲ》1相辭發箭《アヒユヅリテヤハナチタマヒ》。並轡馳騁《ウマヲナラベテハセタマフ》。言詞恭恪有若逢仙《ミコトドヒヰヤ/\シクタダヒトハミエズ》。於是日晩田罷《ツヒニヒクレテカヘリマスニ》。神《コノカミ》侍2送《オクリマツリキ》天皇(ヲ)至《マデ》2來目水《クメガハ》1。是(ノ)時|百姓咸《ヒト/”\コゾリテ》。言《マヲシキ》2イデマシテ有徳天皇《ミイツマススメラミコトヽ》也。秋八月辛卯朔戊申。行2幸《イデマシテ》吉野(ノ)宮(ニ)。庚戌。幸(ス)2于河上(ノ)小野1。命《オホセテ》2虞人《カリヒトニ》1駈《カラシメ》v獣《シヽヲ》。欲躬射而待《ミヽヅカライントオモホシテマチタマヘルニ》。虻疾飛來《アムトビキテ》※[口+替]《クラフ》2天皇(ノ)臂《ミタヾムキヲ》1。於是蜻蛉忽然飛來《コヽニアキヅタチマチトビキテ》。齧《クヒテ》v※[亡/(虫+虫)]《アムヲ》將去《モチイヌ》。天皇|嘉《オムカシミ玉ヒテ》2廠(ノ)有(ルヲ)1v心|詔《ノリテ》2群臣《マヘツキミタチニ》1。曰《ノリ玉ヘル》d爲(メニ)v朕《アガ》讃《ホメテ》2蜻蛉(ヲ)1歌賦之《ウタヨミセヨト》u。群臣莫能敢賦《ミナヒトエヨマザリケレバ》者。天皇|乃口號《スナハチヨミタマハク》。曰云云。讃(メテ)2蜻蛉(ヲ)1名(ク)2此地爲蜻蛉野《コノトコロヲアキツヌト》1云云。五年春二月。天皇|狡2獵《カリシタマフ》于葛城山(ニ)1。靈鳥《アヤシキトリ》忽(チ)來(ル)。其大如雀《スヾメノオホキサシタリ》云云。舍人|臨刑而《コロサルゝトコロニシテ》。作歌曰《ウタヨミシテイハク》云云。皇后聞悲興感止之《オホギサキキヽカナシミアハレトオモホシテトヾメ玉フニ》。詔曰云云。呼2萬歳(ヲ)1曰。樂哉人皆獵(ル)2禽獣(ヲ)1。朕(ハ)獵2得(テ)善言(ヲ)1歸(ル)。清寧紀曰。二十三年八月。大泊瀬天皇|崩《カムアガリマス》【御在位廿二年聖壽書紀に不記。古事記に百二十四とあるは疑はし。延佳考云、六十二。】同紀。元年冬十月發巳朔辛丑。葬(リマツル)2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)。于|丹比高鷲原陵《タヂヒノタカワシノハラニ》1。
 〔細註〕 代匠云。安康天皇紀に、眉輪《マヨワノ》王、天皇を弑《シ》せまつりし後、雄略天皇をおそれて圓大臣《ツブラオホミ》の家ににげ隱れ給へるを、彼(ノ)大臣の家を兵を率て取りかこませ賜ふに、大臣出てかしこまり、眉輪(ノ)王のためにさま/”\にゆるし給ふべきよしをこひ奉られけれど、つひにゆるし給はで、家に火をかけて、御兄の黒彦皇子、眉輪王、圓大臣を燔《ヤキ》殺し給へり。大臣の妻に、大臣|脚帶《アユヒ》を求められけるを、取てあたふとて忍ぶに堪ぬ歌をよまれしさま、大臣、黒彦皇子、眉輪(ノ)王のにげ入賜へるを、臣こそ事あらば君の御蔭にかくれめ、臣の家にかたじけなく隱れ給へるを、いかでか出し奉らんとて、終に出し奉らで、共に猛火にこがれけるよしをしるせる一段、義のあたる處のことわりは、さる事ならめと、卷をすてゝ、涙ののごはるゝ悲しさなり。かくて天下をしろしめして廿三年に崩じ給ふ。御やまひすみやかなる時、公卿をめして、遺詔まめやかに(49)おほせおかる。星川(ノ)皇子の、清寧天皇にうやうやしからで、みかどかたぶけんとはかり給ふべき御下心有べきよしまで、のたまひおかる。はたして遺詔のごとし。生れさせ給ふ時、神光みあらかをかゞやかし、葛木の神と共に獵せさせ給ひて還御の時、久米川まで、おくり奉り給へるよりはじめて、崩じ給へるに臨みて、天下を安からしめんと、おもほしめしけるよしなど、くはしく遺詔ありて、清寧天皇の御かたちよくましませば、よく/\つかへ奉るべき事などまで宣ひおかせ賜ふ。いはゆる始ありて終をよくし賜ふなり。御在位のほど、心得がたき事もあれど、凡慮の及ぶ所にあらず。崩じ給ひて、あくる年に至りて、河内國、丹比(ノ)高鷲(ノ)陵にをさめ奉る。今多治比村の西、黒山村の東にあたりて陵あり。是なるべし。五十餘年のさきにや、小澤氏の何がし彼(ノ)陵をあばきて、大きなる巖のかまへて有けるをば、坂東の故郷の庭にすゑおけるが、ほどなくゆゑもなくて、自殺しけるとぞ。かのあたりの土民、かたりし。』【已上】 今按に、此説あしとにもあらねど、燔殺し給へる事を、いへるあたりは、さすがに僧の見識なり。たとひ圓大臣、明ほど助命をこひねぎつらんとも、天皇尊を弑《シ》せまつりし人を、いかでかいけおき給ふべき。圓大臣が申(シ)し處は、たゞわれを頼みて、にげ入給へるものをと、おもへるのみにして、神代よりためしもあらぬ、逆(シ)ま事を思はざるなれば、義ありといへど、たゞ一己の義のみにして、天下おほやけの道を、しらざるものなり。黒彦皇子ともに、猛火につゝまれ給へるも罪人をかくして出さゞる故なれば、止事を得ざる所也。そも/\彼(ノ)厩戸(ノ)皇子なども、此天皇の大御心を、露ばかりもおぼし給はゞ、蘇我(ノ)馬子をいけおき給はざらましをと、口をしきにつ(50)けても、此天皇の御心こそたふとけれ。御在位のほど心得ぬ事ありしかどなど、おぼめきたるもくはしからず。此天皇は、御自(ラ)我が御事を、神ときこして、實に現人《アラヒト》神にこそはおはしましたれ。然るに當昔《ソノカミ》、天皇本紀を筆記せし人、さかしら心ありて、此(ノ)御紀と、武烈天皇の御紀とへ、漢國の惡王等の作行のふりを書加へつるは、彼國の史に似すとの、すさびわざならめど、阿那《アナ》畏こ、皇朝には、曾てなき事なり。古事記(ノ)序に於是《コヽニ》天皇詔(ハク)之。朕聞(ク)諸家(ノ)所(ノ)v賚《モタル》帝紀。及本辭。既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1。多(ク)加(フト)2虚僞(ヲ)1。とあるも、此等の類なりし事、既に記紀の歌の釋に、委く辨へ置つれば此には省けり。
諸陵式云。高鷲原(ノ)陵(ハ)。兆域東西三町。南北三町。山陵志曰。雄略陵(ハ)。在2高鷲原(ニ)1。是長野(ノ)之西。島原村(ニ)有2古墳1。其形圓。而環以v溝。此也。呼爲2丸山1。以2今所1v觀也。然從v遠眺(レバ)v之。其地勢隆然所謂宮車(ノ)象。可2以想見1矣。耒※[耒+巨]殘餘。纔(ニ)覩2其圖1。悲夫。高鷲(ノ)之名久喪v之。但陵南有2僧寺1。取(テ)以(テ)爲2寺地(ノ)山號1。と見えたり。
天皇(ノ)御製歌《オホミウタ》
○製は、與v制同(ジ)。説文曰。製(ハ)裁也。孝經序注※[足+流の榜](ニ)曰。製者裁剪(ナリ)。述作之謂(ヒ)也。とあり。かゝれば製すとは誰が上にも云べけれど、御(ノ)字の、此《コヽ》は重きなり。
 さて此《コヽ》に先づ古本を引て、古點をつけ、ついでに他本の異同、誤字、漏脱等を合せ記す。
籠毛與《コモヨ》。美籠母乳《ミコモチ》。【藤原(ノ)爲廣本。由阿本等。乳(ノ)下有2之(ノ)字1】布久思毛與《フグシモヨ》。美夫君志持《ミフグシモチ》。此岳爾《コノヲカニ》。菜採須兒《ナツムスコ》。家吉閑《イヘキカ》【先注云、吉閑(ハ)誤2告閉1也】名告沙根《ナツゲサネ》。虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居師《ワレコソヲヲシ》。告《ツゲ》【先注云、告(ハ)誤v吉也】名倍手《ツゲナベテ》。吾己曾座《ワレコソノヲラシ》。我許者《ワレコソハ》。【元暦校本。無2此(ノ)者(ノ)字1。】背齒《セナニハ》【拾穗本。齒(ヲ)作v者(ニ)】告目《ツゲメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 〔細註〕 今にしてかゝる古點を擧ん事、無益のごとく、かつは煩らはしきに似たれども、かく(51)物する事は、なべての人々に、むかしの訓をもしらせ、又圓珠庵阿闍梨以來、やう/\開け來て、つぎ/\清くよみ説りし人々のいたづきをもしらせんとて也。此古點より以前にも、活字の古萬葉と云もありて、今少しあやしく、ふつゝかなる訓もあれば、實はそれらより引並べて、仙覺律師のいたづきをもしらせまほしかれど、あまりに煩(ラ)はしかりなんとて、今は仙覺の訓を古點としてむねとあげ、又まれ/\には、元暦校本古葉類聚本、またおのれが家に持る、堂上家の古筆本等を相合(セ)て、引ことも有べきなり。
 
籠毛與《カタマモヨ》。美籠母乳之〔左〔〕《ミカタマモタシ》。布久思毛與《フグシモヨ》。美夫君志持《ミブクシモタシ》。此岳爾《コノヲカニ》。菜採須兒《ナツマスコ》。家告閉〔二字左〔〕《イヘノラヘ》。名告沙根《ナノラサネ》。虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居《アレコソヲレ》。師吉〔左〔〕名倍手《シキナベテ》。吾己曾座《アレコソマセ》。我許曾〔左〔〕《アレヲコソ》。背齒告目《セトハノラメ》。家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》。
 〔細註〕 今如此、訓點を改めたる中に、他本の異同は其(ノ)優れる方につき、又既に先注等に誤字落字と考へ定めて、いかにも然かおぼしき字どもは、皆改めて記しつ。これ私事に似たれども、今は代匠記、萬葉考、略解等の注繹世に行はれて、それらにもおの/\ことわりおける事どもなりければ、いつまでも憚るべきにあらず。殊にこたびは、古本の本文をも並べて出せれば、然か改めても原《モト》を失ふべきつみはあらざる也。猶おのれがひが心得あらんほどは、はかりがたかれば、改めたる字の限りは、左に〔如此しるししで、釋の中に、そのゆゑよしは悉くことわりおきつ。よく合せ考へてよ。又下も皆これになずらへてよかし。
○籠《カタマ》」代匠記。初(メ)の説に云(ク)。こもよ、みこもち、ふぐしもよ、みぶぐしもち、云云。後の説に云(ク)。(52)かたまもよ、みかたまもちと訓べし。神代紀に無目堅間《マナシカタマ》と有り。是(レ)籠也。」似閑書入云。此集ニモ三卷ニ、玉勝間《タマガツマ》、安倍島山《アベシマヤマ》。十二(ノ)卷ニ、玉勝間《タマカツマ》、相登云者《アハムトイフハ》ナドアリ。籠ノ蓋ノ合(フ)ヨシノヅヾキ也云々。」若冲云。和名抄云。四聲字苑曰。※[竹/令]※[竹/青](ハ)【漢語抄云。賀太美《カタミ》】小籠也。毛詩。筐《カタミ》。神代紀下云。乃作2無目籠《マナシカタマヲ》1。一書曰。因取(テ)2其竹(ヲ)1。作(ル)2大目麁籠《オホマアラコヲ》1。一云。以(テ)2無目堅間《マナシカタマヲ》1爲2浮木《フネト》1。所謂(ル)堅間《カタマハ》。是今之竹籠也。古事記上云。即造(ル)2旡v間|勝間《カツマ》之小船(ヲ)1。【かたまも、かつまも、共に音通じて、かたみも同し。古今集、伊勢、花かたみ目ならぶ人のあまたあれば、云々】萬葉考云。籠《カタマ》は神代紀に依(ル)。同別記云。是を今本にこもよと訓しは古意ならず。依て荷田(ノ)東麻呂うしの訓しに從へること、考にしるせしが如し。」【略解是に同じ。】古事記傳【十七(ノ)十二葉】曰。旡間勝間は云云、【此間に引る書も、いへる説も、右(ノ)若冲の説を、其まゝ取ていへれば、皆省きて其異なる説のみを此《コヽ》に引(ク)。】加都間《カツマ》は、堅津間《カタツマ》の約《ツヾ》まりたるにて、書紀には、即堅間とあり。こは籠の、編る竹と竹との間の、堅く密《シマ》りて、目の無きを云り。』【已上衆説】今按に、右に引る神代紀に、是(レ)今之竹籠也とあれば、はやくより竹もても造りしなれど、猶古くは、專(ラ)葛して組《クミ》つれば、其(ノ)名義も、葛編《カツラアミ》の約(マ)れるならん(都良は、多と約りて、阿《ア》は自《オ》ら省れる言なり。又直に、葛編《カタアミ》と心得ても、たがふべからず。和名抄に、山城國葛野、加止乃《カドノ》、應神紀の大御歌に、知婆能《チバノ》、伽豆怒《カヅヌ》とよませ給ひたれば、加多とのみも云べきなり。)拾遺集、物名、【こにやくを隱して】「野邊見れば春めきにけり青葛籠《アヲツゞラコ》にや組《クマ》まし若菜つむべく」空穗物語、俊蔭に「青葛《アヲツヾラ》を、大なる籠にくみて、云云」などある類にて知べし。今(ノ)世の賤き者の調度に、葛籠《ツヾラ》と云物のあるも、葛もて組(ミ)し、古き代の名の遺れる也。或人の家に鎭魂祭の葛筥を傳へ賚《モタ》るを見るに、細き葛して編密《アミシメ》たるが、水一滴も不漏といへり。彼(ノ)神代の無目堅間《マナシカタマ》も、おもひやるべし。
 〔細註〕 竹にでは、さばかり粗密《クミシム》る事あたふべからず。かくて此(ノ)籠《カタマ》を籠《コ》とのみ云も、右に引る(53)神代紀に、大目麁籠《オホマアラコ》、八目麁籠《ヤツメアラコ》などあれば、共に古言也。此集十四(ノ)十八丁に、乎加能久君美良《ヲカノククミラ》。和禮都賣杼《ワレツメド》。故爾毛美多奈布《コニモミタナフ》云云。とよみたり。故《コ》とは、凡て物を納《イル》る物の名也。入子《イレコ》、口子《クチコ》、※[木+累]子《ワリゴ》、杓《ヒサゴ》、※[竹/〓]《ハタゴ》、※[竹/鹿]《スリコ》の類、猶多かるべし。又筥も、盖子《アタコ》の意、加介子《カケコ》も懸子の意なり。此外加行の通音に※[竹/隔の旁]《アシカ》、盆《ヒラカ》、游※[土+岡]《ユカ》、抔《ツキ》、甑《コシキ》、笥《ケ》、※[瓦+厘]《サラケ》、桶《ヲケ》などやうに、かよはし云(フ)具の多かるを思ふに、器(ノ)字の音を、幾《キ》と云も、和漢おのづから、相(ヒ)合(ヘ)るにやあらん。具(ノ)字の音の寓《グ》なるも猶同行の通音なり。
○毛與」考注云。毛《モ》は助辭、與《ヨ》は喚(ビ)出す辭也。古事記に阿波母與《アハモヨ》、めにしあれば。紀に【顯宗】おきめ暮《モ》與、あふみのおきめなどよみ給へるを、むかへて古への助辭の樣を知ぬ。この類ひ下にも有。」【略解是に同じ】記傳【十一(ノ)四十八葉】曰。阿波母與《アハモヨ》。阿波《アハ》は、吾者《アハ》にて、母與は助辭《ヤスメ》なり。清寧紀(ノ)大御歌に、奴底喩羅倶慕與《ヌデユラグモヨ》。また於岐毎慕與《オキメモヨ》、【置目《オキメ》人(ノ)名なり】萬葉一(ノ)始(メ)に籠毛與《カタマモヨ》、などあ
り。又此(レ)を毛夜《モヤ》とも云り。萬葉二、【十一丁】に、吾者毛也《アハモヤ》とある、此と同じ。』【已上】 今按に毛《モ》は歎息(ノ)辭【賞《ホム》るにも悲《カナシ》むにも歡ぶにも云(フ)、今(ノ)世の言にマアと云る末《マ》も、此(ノ)毛《モ》の通音なり。】與《ヨ》は夜《ヤ》に通ひていはゆる呼(ビ)出しの也《ヤ》の如し。故(レ)賞《ホム》る方に云るは、此《コヽ》の如くよび出て、下に其(ノ)物をとりいで、又右の古事記に、阿波母與《アハモヨ》。賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》。とある類は、たゞ嘆きのみにして、呼出す意はあらず。是(レ)毛《モ》の言の活くと與《ヨ》の言の活くとに因(リ)て也。此類他の詞の上にも常多かり。
○美籠《ミカタマ》」考注云。美《ミ》は眞《マ》にて、ほむる辭也。集中に三《ミ》熊野とも、眞《マ》熊野とも有にて、通はし云(フ)をしれ。紀に【推古】まそがよ、そがのこら。古事記に美延《ミエ》しぬの、延《エ》しぬ。など有も、眞《マ》と、美《ミ》の通はしざま、語の重ねざまなどひとし。」【略解又此におなじ】記傳【三(ノ)九葉】云。御中《ミナカ》は眞中《マナカ》と云むが如し、凡て眞《マ》と御《ミ》とは本(ト)通《カヨ》(54)ふ辭なるを、やゝ後には分て、御《ミ》は尊む方(御(ノ)字を書(ク)も此意なり。但し此字は漢國にては王のうへに限りて云を、此方《コゝ》にて美《ミ》と云は、天皇の御うへに限らず、凡人《タヾビト》にも何にも云(フ)辭なり。)眞《マ》は美稱《ホム》ると、甚しく云(フ)と、全きことゝに用ふ。されど古(ヘ)の言の遺れるは、なほ通はして眞熊野《マクマヌ》とも三熊野《ミクマヌ》とも云る類(ヒ)多く、又|眞《マ》と云べきを御《ミ》と云るも、御空《ミソラ》、御雪《ミユキ》、御路《ミチ》など多かり云云。」と云る此等の説の如し。
○母乳之〔左〔〕《モタシ》」此句、大方の本に母乳《モチ》とありて、既に毛知《モチ》と訓來しも子細はあらざれど、藤原爲廣朝臣本、藤澤由阿本等に如此《カク》有て、毛多志《モタシ》と讀みたる、調べよろしく聞ゆ。されど乳(ノ)字を多志と訓べき故をしらず。今強ていはゞ、母《ハヽ》を足乳根《タラチネ》と云は乳《チ》汁して其(ノ)兒を養ふ故の稱なりければ、乳(ノ)字を、多之《タシ》と訓(マ)せむとて、之《シ》を添(ヘ)て書しにやあらん。【足乳根てふ言の意は、三卷帶乳根の條下に云ことゞもを見合すべし】持《モツ》をもたすと云は、取《トル》をとらす、引《ヒク》をひかす、書《カク》をかゝすと云類の延言にして即|立《タツ》をも、たゝすといへるが如し。二、【三十四丁】大御身爾大刀取帶之《オホミミニタチトリオバシ》。大御手爾《オホミテニ》。弓取持之《ユミトリモタシ》。廿【五十丁】波自由美乎《ハジユミヲ》。多爾藝利母多之《タニギサモタシ》。などいへる、古語の常にして、今此大御歌中にも、採須《ツマス》、告閇《ノラヘ》、告沙根《ノラサネ》など延(ベ)言多かれば、持《モツ》をも毛多之《モタシ》と詔ふべきものなり。猶よく考へてよ。
○布久思毛與《フグシモヨ》」代匠云。ふぐしとは、かねにてへらのやうにこしらへて、菜摘女のもつ物にて、これにてそのねをさし切てとる也。常にはふぐせといへり。和名抄云。唐韻曰。※[金+讒の旁]【音讒。一音暫。漢語抄云。加奈布久之】犂鐵(ナリ)。又土具也。とある此字也。すきの具にも此字あり。又土具也といへるが、ふぐしなり。」似閑書入云。フグシハ、伊呂波字類ニ、※[木+立]、フグシ、或本、土掘子《フグセ》、講説ニ、俗ニフグセト云ル物也。ホフ〔二字傍線〕通ズ。掘串《ホルクシ》ノ中略也。木竹ナドノヘラナリ。長流云。フグシハ金ノ※[竹/拜]《ヘラ》也。」考注云、田舍人の野菜(55)などほり取串をふぐせともほぐしともいふ是にて、竹また鐵しても作る。和名抄に云云。」略解云。布久思は、保留《ホル》の約《ヤク》、布《フ》にてほる串をいふなるべし。倭名鈔に云云。』【已上】 今按に、右の内にへら也と云る説よろし。神武紀に、竹刀とある類也。これを私記に、阿乎比衣《アヲヒエ》と訓るより、和名抄にも竹刀(ハ)阿乎比衣《アヲヒエ》と出せれど、此は恒に取あつかはぬ假字なる故に、誤れるにて、實は阿乎比惠《アヲヒヱ》なり。神武大御歌に、古那美賀《コナミガ》、那許波佐婆《ナコハサバ》云云。許妃志斐惠泥《コキシヒヱネ》。宇波那理賀《ウハナリガ》。那許波佐婆《ナコハサバ》云云。許紀阿斐惠泥《コキダヒヱネ》。此等の斐惠《ヒヱ》より、名となりて、布久思《フグシ》は、悲惠串《ヒヱグシ》(比惠《ヒヱ》は閉《ヘ》と約れるを布《フ》に轉じて云なり)の約り。へらも、斐惠羅《ヒヱヲ》の釣りなるべし。さて斐惠《ヒエ》とは斐《ヒ》は※[月+聶]《ヘグ》、※[にすい+咸]《ヘラ》す等の意、惠は和行の通音にて刳《ヱグル》、※[金+雋]《ヱル》、割《ワル》、折《ヲル》などゝ、【何れも和行の通音にて】同意也。禮記、禮蓮に、※[手偏+卑]《ヒヱ》v豚(ヲ)。註云。※[辟/手]2析《ツミサキワル》豚(ノ)肉(ヲ)1也。また同少儀に、牛(ト)與《トノ》2羊魚1之腥。聶《ヒヱテ》而切(リ)v之(ヲ)爲v膾(ト)。とある聶は字書に、※[月+聶]※[月+牒の旁]と同じく、薄2切《ヘグ》肉(ヲ)1也と有(リ)。これらもて其(ノ)意をさとるべし。
 〔細註〕 かのほる串の約りと云説もふと打きゝては、さる事のやうなれど、摘と、掘とは、其意趣|別《コト》なり。又※[金+讒の旁]は字書に鐵也とも犂鐡也ともありて、牛の犂《スキ》也。又或は※[金+讒の旁](ハ)※[金+雋]鋒也と云る物は柄の長き※[金+且]《スキ》にて、杜甫(ガ)詩に長※[金+讒の旁]白木柄と作れる是也。これら何れもいと大きなる農具にして、更に此《コヽ》に由なき物どもなり。又字書に梨鐡(ハ)※[金+産]※[錢の旁+立刀]也ともあり。※[金+産]※[錢の旁+立刀]は和名抄にも、奈良之《ナラシ》とあれば、牛に懸けて土塊《ツチクレ》を碎き平《ナラ》す具なる也。かゝれば彼(ノ)土掘子《フグセ》と云る物も、今田舍にて、つちほぐしと云る物にて、堅土を突(キ)崩す具、※[木+立]も土を平《ナラ》す棒の類なるべければ、其(ノ)名義も頽《クヅ》す物のよしにて、本より※[竹/拜]《ヘラ》の類とは同じからす。今も東國の田舍にて、物を崩すをほぐすといへり。然れば※[金+讒の旁]、土掘子等の名は、ほぐしが本にて、布(56)具志《フグシ》とも轉じたる也。
○美夫君志持《ミブクシモタシ》」美《ミ》は上の美籠《ミカタマ》の美《ミ》に同じ。夫《ブ》は美の言に牽れて濁り、夫《ブ》の濁るより、君《ク》を清《スミ》てよむ。是(レ)上つ代の音便の定り也。さて已上の四句は、少女が手に持有《モタル》具を以て其形容を宣へるなり。
○此岳爾《コノヲカニ》」考注云。此天皇、吉野、三輪などへ幸《イデマシ》し時も、少女《ヲトメ》を召(シ)し事あり。今は何處《イヅコ》のをかにまれ、をとめのよろしきを見給てよみましゝものぞ。』【略解是に同じ】 今按に、此《コレ》とは御まのあたりを指(シ)て詔(ハ)す詞也。集中に此(ノ)川、此(ノ)山、此(ノ)野、此(ノ)里などよめる、常多かり。(後世にも云ことなれど、後世よりも多かり。其中に此吾心《コノアガコヽロ》。此月《コノツキ》。此一日《コノヒトヒ》。許能見由流《コノミユル》なども用《ツカ》ひて、中古後よまぬさまなるも、少なからず。されど其例を擧るほどの事にもあらぬは省けり。)
○菜採須兒《ナツマスコ》」代匠云。すこは賤しき者の名也。第十に山田もるすことよめり。男女に通(ハ)して云べし。今は女なり。」考注云。須兒《スコ》の須《ス》は志豆《シヅ》を約めたる言にて、賤兒《シヅコ》也。されど天皇よりは賤との給へど實にあやしの女にはあらず。古事記に、仁徳天皇吉備の黒姫がもとへ幸《イデマ》しゝ時、黒ひめ大御羮《オホミアヘ》の菘菜《アヲナ》を採ところへ、幸(マシ)て「やま方《ガタ》にまける阿袁那母、きび人と共にしつめば、たぬしくもあるか。」とよみましゝほどの女なりけん。』本居氏(ノ)玉(ノ)小琴云。ナツムスコト訓ルハ誤也。ナツマスコト訓ベシ。ツマスハ、十七卷【廿七丁】ニ、ヲトメラガ春菜都麻《ワカナツマ》須等、トアルニ同クテ、ツムヲ延タル詞ナリ。十卷【四十丁】ニ山田守酢兒、是モモルト訓ルハ誤ニテ、モラスコ也。總テスコト云稱ハナキコト也。七卷【廿七丁】ニ小田刈爲子《ヲダヲカラスコ》。九卷【十七丁】ニ伊渡爲兒《イワタラスコ》ナドアル同ジ例也。思ヒ合セテ知ルベシ。』【略解是に同じ。】とある、此(ノ)説に從ふべし。菜は記傳【卅五(ノ)四十二葉】曰、菘菜は阿袁那と訓べし。即御歌に見ゆ。和名抄に、蘇敬(ガ)本草注(ニ)云(ク)。蕪菁。北人名(クト)2之(ヲ)蔓菁(ト)1。和名|阿乎奈《アヲナ》【温菘和名古保禰】と(57)見え、持統紀に蕪菁《アヲナ》、萬葉十六に蔓菁《アヲナ》、字鏡に蔓(ハ)阿乎奈《アヲナ》、※[草がんむり/封]※[草がんむり/〓](ハ)阿乎奈《アヲナ》、聰明子(ハ)阿乎奈《アヲナ》などある是なり。(字には拘《カヽハ》るべからず。凡そ古人は字をば心々に當たればなり。字典なりとて疑ふべからず。今委く分るときは、常にいふ那《ナ》は菘なり。蔓菁とも蕪菁ともいふは加夫良那《カブラナ》なりといへり。)今世に云(フ)菜《ナ》なり。【今も青菜ともいふなり。】那《ナ》と云は、凡て魚菜の惣名なる故に、菘をば古(ヒ)は分て阿袁那と云(ヘ)しなり。【今は菘に限りて那とはいふなり。』【已上】 今按に、是は陸田に作れる、菘のうへの釋なり。此の小女の布具志《フグシ》持(チ)、岡に出て採(メ)る状《サマ》は、只おのづから生(フ)る野菜《ナドモ》にて、何(ノ)菜と局《カギ》れるにはあらず。八【十五丁】須美禮採爾《スミレツミニ》。十【七丁】惠具採跡《ヱグツムト》。また【十一丁】菟芽子採《ウハギツミ》而。十六【十八丁】水葱煮物《ナギノアツモノ》。二十【四十八丁】都賣流芹子許禮《ツメルセリコレ》などの類を合せ見れば、古へは田野におのづからおふる菜の食《タベ》つべき限りを、常にいろ/\摘し也。祝詞に大野(ノ)原に生(ル)物者、甘菜《アマナ》、辛菜《カラナ》とあるもおのづから生(フ)る種々の菜を包《カネ》て云る詞也。此等をもて推(ス)に記傳の青菜の釋はたがひたり。そはもし、魚《ナ》に對(ヘ)ての名ならんには、右等の野菜、皆悉く青菜と云べくして、其わかち有べからねば也。今これをいはゞ、何れの野菜も青からぬはあらざれど、彼(ノ)菘は、あるが中にも葉廣く大く、青々と盛(リ)なる物なれば、おのづからに生る、小菜どもにむかへて、とり分(ケ)青菜とはいひし也。又後に彼(ノ)菘のもはら那《ナ》てふ名を負(ヒ)來しは、家近くおふし置て、年中の菜となれるがゆゑ也。又原野に自然と生るをば、若菜とも春菜とも云るは、春生(ヒ)出るを待て採ゆゑなり。(集中、春菜とかきたるは八(ノ)十四丁左、又十五丁右、又同丁左、又十八丁右、十六(ノ)十六丁右、十七(ノ)二十七丁右等に出づ。これら何れも春菜と書(キ)たり。わかなと云を義を以て如此書たる歟。又字のまゝに、はるなと訓べきか、定めがたし。)此《コヽ》も岡の春菜を摘なればわかなととか、はるなとか、あるべきなれど、句つ(58)ゞきの状《サマ》、さはいひ難き處なる故に、たゞ菜《ナ》とのみ詔ひし也。
○家告閇〔二字左〔〕《イヘノラヘ》」考注云。住る家所を申せと也。告る事を古は專ら乃禮《ノレ》と云し也。其|乃禮《ノレ》を乃良閇《ノラヘ》と云は延言《ノベコト》てふものぞ。次の句も同じく延言もて對《ムカ》へ給ひしを見よ。同別記云。今本此句を家吉閑と書て、いへきかんと訓しは、後世の平言《ツネコトバ》也。字も閑をかんの言に用る事有べくもなく、例もなし。さて吉は古本に依て、告とし、閑は例によりて閉《ヘ》とす。(頭書云。から國にては、命令宣告など、字を分ちて事をしらしむ。皇朝には乃留《ノル》てふ言は、公にも私にもいへるを、公事には、みことのり、のりまし、のりたまへなど、あがむる言をそへて分てり。)記傳【四ノ五葉】曰。詔は能理碁知弖《ノリゴチテ》と訓べし。能流《ノル》とは、人に物を云聞《イヒキカ》すことなり。己が名を人に云(ヒ)聞すを名告《ナノル》と云にて知べし。又法を能理《ノリ》と云も、上より云云《シカ/”\》せよと定(メ)て云(ヒ)聞せたまふより出たり。告また、謂などの字をも能留《ノル》と訓ること、記中、又萬葉などに數多あり。さて此(ノ)詔(ノ)字、美許登能理《ミコトノリ》とも能理賜布《ノリタマフ》とも云り。(美許登能理《ミコトノリ》は御言詔《ミコトノリ》なり。能理多麻布《ノリタマフ》は詔賜《ノリタマフ》なり。常に能多麻布《ノタマフ》と云は、此|理《リ》を省《ハブ》けるなり。)云云』といへる、此等相合せて其(ノ)言の意を知べし。此《コゝ》は告閇《ノラヘ》とある、良閇《ラヘ》は禮《レ》と約りて、能禮《ノレ》とは告《ツゲ》よと令《オフ》せ給ふ御詞也。
○名告沙根《ナノラサネ》」代匠云。なのらさねと、よむべし。第五卷、山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)歌に、なが名|告《ノラ》さねとよみたり。」考註云。名を告《ノレ》也。沙根《サネ》は二たび延《ノベ》たる言にて、先|名乃禮《ナノレ》の禮《レ》を延れば、名乃良世《ナノラセ》となるを、又その良世の世を延て沙根《サネ》と云也。かく言を約《ツヾメ》も延《ノベ》もして歌の調《シラベ》をなすは古への常にて、下に、小松が下の草を苅孩《カラサネ》てふも草をかれと二たび延たる事、こゝと同じ。猶下にも、此たぐひある也。』【已上】 今按に、斯《カヽ》る語を後よりわりくだきて云ときは、二重にも三重にも延(ベ)約(メ)せるやうなれど、あな(59)がちさのみにもあらず。皆古への詞どもにて其代の人は延(ブ)るとも、約(ム)るとも、思はでいひし也。(其《ソ》を後より延し約して見れば、悉く五十聯聲の縱横の通ひに協ひて、一つも背(ク)ることのあらざるは、おのづから言語の靈妙による所なり。)彼(ノ)上の採《ツマ》す兒、此《コヽ》の告《ノラ》へ、告《ノラ》さねの類、おの/\一つづゝの辭なりしなり。こを後の詞もていはゞ、あらばとも、ありせばとも、あらませばともいひ、またゆかばとも、ゆきなばとも、ゆかませばとも云(フ)類、いづれも皆、一つづゝの詞にして、延(ブ)るとも、約むるとも思はで、たゞ其かゝりに隨て、いはるゝが如くなりしなり。(俗言の上には殊に此類多かれど、煩はしかれば省きつ。今此沙根の例をいはゞ十(ノ)五十八丁に、花乎|茸核《フカサネ》。十二(ノ)四十丁に行核《ユカサネ》。十四(ノ)十丁に、ヤラ佐禰。又十五丁に、ムスバ左禰。又十八丁に、ツマ左禰。十五(ノ)三十丁に、ソデヲフラ佐禰。十七(ノ)卅九丁に、タマヲヌカ佐禰。十九(ノ)廿一丁に、ウカハ多々左禰。此外五(ノ)七丁、九(ノ)十五丁等に出(ヅ)。猶もあるべし。)かくて上つ代の處女は、夫と定むる人ならずては、其(ノ)實名を、明《アカ》さゞるならはしなりき。禮記曲禮上に男女非(レバ)v有(ニ)行媒1不v相2知(ラ)名(ヲ)1とあるを見れば、他(ノ)國も然かなりし也。これらはおのづからに相合(ヘ)るなり。今此事を一二つ云(ハ)むに、十二【三十丁右】椿市の※[女+燿の旁]會《カヾヒ》に立し男の係歌《カケウタ》に、紫者《ムラサキハ》。灰指物曾《ハヒサスモノゾ》。海石榴市之《ツバイチノ》。八十街爾《ヤソノチマタニ》。相兒哉誰《アヘルコヤタレ》。【この誰(レ)と云へるに名を問へる意あれば、其の女の答歌に云。】足乳根乃《タラチネノ》。母之召名乎《ハヽノヨブナヲ》。雖白《マヲサメド》。路行人乎《ミチユキビトヲ》。孰跡知而可《タレトシリテカ》。(此|和歌《コタヘ》の意は、母の召(シ)坐(ス)わが實名をも、夫と頼むべき人ならば申すべけれど、道行旅人を何國の誰と知てかは、みだりに明(カ)し申さんといへるなり。)又【二十七丁左に】三佐呉集《ミサゴヰル》。荒礒爾生流《アリソニオフル》。勿謂藻乃《ナノリソノ》。告名者爲告《ノリナハノラセ》。父母者知鞆《オヤハシルトモ》。(此歌も、上は只序のみにて、先(ヅ)名を告《ノリ》て夫婦のかためせよ。よしや父母は知給ふともと云意なり。)又【同丁並に】住吉之《スミノエノ》。敷津之浦乃《シキツノウラノ》。名告藻(60)之《ナノリソノ》。名者告而之乎《ナハノリテシヲ》。不相毛恠《アハナクモアヤシ》。【こは既に夫と頼(ミ)定て、名は顯はしたるに、猶逢(ハ)ざるがいぶかしく、もどかしと也。】此外、此類の歌猶多かれど、さまでも得しるさず。【三(ノ)卅四丁、四(ノ)卅一丁、五(ノ)七丁、九(ノ)十五丁、十一(ノ)八丁、又十三丁、又十六丁、又卅二丁、又同丁二首、又卅三丁、十二(ノ)廿六丁、十五(ノ)卅一丁、六(ノ)十八丁に出。】今此等に合せて、つら/\此御時の形状《サマ》を思ふに、先(ヅ)此大御歌は、此(ノ)句までが一段にて、家を告《ノ》れ、名を告れと詔へる御詞に、やがて我が妻《メ》になれ、父母にも其事申(シ)きけむにと詔へるにあたれり。されば此少女、此時いまだいわけなかりければ、御いらへも得聞え奉らず。顔打赤めて、いぶかしげなるおもゝちなるからに、我は世の凡人《タヾヒト》ならず、今天の下しろしめす天皇にましますぞよとて、又次の句、以下のことゞもを繼てうたはせ賜へるなり。古き歌には此例多かり。(今(ノ)世の人の綴《ツヾ》るやうに、必しも一篇を一度によみ竟《ハツ》るのみにはあらで、中には一日二日の事を其時々によみて、一つに合せたるも見え又まづ一段をよみかけて、其對する人のいらへをきゝて、其あまれる心をよみ繼たるも見えたり。故(レ)さる歌には、おのづから其章句に、段をなせるが多かり。)
○虚見津《ソラミツ》」代匠云、やまとゝつゞけり。そらにみつと云も同じ。饒速日《ニギハヤビノ》命の、天(ノ)磐船に乘て空に翔《カケ》りて、所を見て天降て、鳥見白庭《トミノシラニハノ》山にまし/\けるより事おこりて、空見つ大和國とはいへり。舊事本紀(ニ)云。天祖《アマツカミ》以2天璽瑞寶十種《アマツシルシノミヅタカラトクサヲ》1。授《サヅケ玉フ》2饒速日(ノ)命(ニ)1。則此(ノ)命禀(ケテ)2天神御祖詔《ミオヤノカミノミコトノリヲ》1。乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1。而天降(テ)坐《マス》2於河内國河上(ノ)哮峯《ヲノタケニ》1。則遷2坐(ス)於大倭(ノ)國鳥見(ノ)白庭(ノ)山(ニ)1。所謂(ル)乘2天(ノ)磐船(ニ)1。而|翔2行《カケリテ》於|大虚空《オホソラヲ》1。睨(ミテ)2是(ノ)郷《クニヲ》1而天降(玉ヒキ)。謂(フハ)2虚空見《ソラミツ》日本(ノ)國(ト)1是(レカ)歟。日本紀の神武紀の義も、是に同じければ不v注v之。彼(ノ)神の駕し給ひし磐船は、河内國、天(ノ)川の水上に今も存《アリ》。磐船(ノ)神と申ならはしたり。』冠辭考(ニ)云。古事記に、蘇良美都夜麻登能久邇爾《ソラミツヤマトノクニニ》。萬葉集卷一に、虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。また天爾滿《ソラニミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。卷十(61)三に、空見津《ソラミツ》。倭(ノ)國云云。卷十九にも然あり。是は神武紀に、至饒速日(ノ)命乘(テ)2天(ノ)磐船(ニ)1。而|翔行大虚《ミソヲカケリユクトキニ》也。睨《ミテ》2是郷《コノクニヲ》1而|降之《アマクダリヌ》。故因《カレ》目2之曰《ナヅケタリ》虚見日本國《ソラミツヤマトノクニト》矣。てふ意にて、やまとの冠辭とはする也。かくて上つ世には、そらみつと、四言にいひたるを、人万呂に至りて、そらに見つと五言にはよまれし。されど其後にも四言によみたるもあり。その人まろの歌の滿の字は借たるにて、見つてふ意也。』【已上】 今按に、此(ノ)枕詞の意、書紀にも右に引るが如くあれば、言擧《コトアゲ》せずして其(レ)に隨(フ)べきなれど、紀記といへども地名の濫觴を云る、多くは信《タノ》み難かれば此《コ》も猶疑ひあり。若(シ)右の説どもの如くならば、虚從見《ソラユミル》とか、天從見《アメユミシ》とか云べきものなるを、空見《ソラミツ》とては言たらはず。故(レ)此つゞきの意を竊に按ずるに十七【四十丁】越中立山の長歌に、之良久母能《シラクモノ》。知邊乎於之和氣《チヘヲオシワケ》。安麻曾々理《アマソヽリ》。多可吉多知夜麻《タカキタチヤマ》とよめる此(ノ)曾々理《ソヽル》は空に高く進み上《ノボ》れるを云(フ)。神代紀下に火盛(ナル)時(ニ)※[足+聶]誥出兒名《フミタケビテイデマセルミコノミナヲ》。火進命《ホノソヽリノミコト》。とありて、今世の言にも、心の浮(キ)立を、そゝるといひ、【そゞろと云も是より出たり。】放逸《ソルヽ》【物の反《ソル》と云も又おなじ。】といひ、高犬《ソラ》といひ、聳《ソビユ》と云類多かり。物語書に、格子そゝげ上(グ)るなど云(フ)も是にて、何れも皆|進《スヽ》み騰《ノボ》ることにいへり。今此等に依ていはゞ、蒼天滿《ソラミツ》、山と係《カヽ》る意の枕詞なりけん。滿《ミツ》は潮の滿《ミツ》と云と同じく、山の巓きの蒼天《ソラ》に至り及ぶを云也。さるを紀に右の如く、風土記|風《ブリ》の故事を擧られたるより、山に續けたる歌は絶て、たゞ山跡(ノ)國の枕詞となりしならん。彼(ノ)次嶺經《ツギネフ》山城とつゞけたる枕詞も、宣長の云(ヘ)る如く、繼苗生《ツギナヘフ》山と云意のつゞきにして、本(ト)は山といはん枕詞なりけるを、もはら山城(ノ)國の枕詞に取(ラ)れて後は、常の山には用ひずなれると同例なり。さて今かく見る時は空爾滿《ソラニミツ》とも云べき詞なりければ、集中に爾《ニ》(ノ)字添たるも非《ヒガゴト》とは云(ヒ)がたし。却て本義に就て委く云るにも有べし。
(62)○山跡乃國者《ヤマトノクニハ》」代匠云、やまとは、日本の惣名と和州の別名とあり。今は總名なり。」考注云、跡《ト》は借字にて山門《ヤマト》てふ事と見ゆ。此《コゝ》にやまとゝの給ふは、今の大和一國の事ぞ。大八洲をやまとゝいふ事、此御時ごろには未(ダ)なかりし也。』【已上】 今按に、考注の如くなるべし。但(シ)山門《ヤマト》の一説は甘なひがたし。此(ノ)國號の事は、次の御歌、蜻島。八間跡能國《アキツシマヤマトノクニ》。とある條下に云べし。
○押奈戸手《オシナベヘテ》」代匠云、 おしなべてとは常にも云詞なるを、こゝはすこし心かはれり云云。」【此已下むけにまだしかれば省きつ。】考注云。古への天皇やまとに宮敷まして、天(ノ)下知しめしゝが故に、只やまとを押並《オシナベ》てとの給へば、即天(ノ)下知する事となりぬ』【已上】 今按に、押並《オシナベ》の押《オシ》は七【三丁】春日山。押而照有《オシテテラセル》。此月者《コノツキハ》。八【二十五丁】我家戸爾《ワガヤドニ》。月押照有《ツキオシテレリ》。十一【十丁】山代《ヤマシロノ》。泉小菅《イヅミノコスゲ》。凡浪《オシナミニ》云云。古今集春上、梓弓おして春雨今日ふりぬ。など云る押《オシ》にて普く至の意。並《ナベ》も總云《スベイフ》言にてて、俗に押亘《オシワタシ》てと云(ハ)むが如し。次の師吉名倍手《シキナベテ》と合せて心得べし。
○吾許曾居《ワレコソヲレ》」代匠記(ニ)云、われこそ居師《ヲラシ》云云。」考注云。吾許曾居師《ワレコソヲラシ》云云。告名倍手《ノリナベテ》云云。」小琴云。本ニ居師《ヲラシ》ト師(ノ)字ヲ上(ノ)句ヘツケヲ訓ルハ誤也。コヽハヲラシト云(ヒ)テハ語トヽノハズ。ヲレト訓ベシ。又吉(ノ)宇ヲ、告ニ誤リテ、ツゲナベテ、ノリナベテ、ナドヨムモイカヾ。ノリナベテト云コト心得ズ。コハ必吉(ノ)字ニテ、シキ也、シキハ、太敷座《フトシキマス》、又|敷坐《シキマス》國ナドイヘルシキ也。』【略解是に同じ。】 今按に、此(ノ)小琴の訓點も略解出てより後は然訓(ム)べき物となれゝばこそあれ。其(ノ)始に如此《カク》しも心付れたる、優れて愛《メデタ》き考なりや。さて居《ヲル》とは天(ツ)日嗣(ノ)高御位《タカミクラ》に座《オハ》するを御自《ミミヅカラ》詔(ハ)す詞也。(後の物語書に、天皇御自の御詞にわが位に居《ヲル》ほどはとも詔ひ、又他より申詞に、御位に御座《オハス》うちになどもいひ、又仙洞を、おりゐの帝と申すも、其(ノ)御座《オハセ》る御位を、下りさせ賜ひし(63)帝のよし也。)されば其(ノ)御位に居《ヲル》と詔へば、即(チ)天(ノ)下押並て知看《シロシメス》こととなる也。
○師吉名倍手《シキナベテ》」(此句、代匠記、萬葉考等は、右の如く訓(ミ)ひがめて、其上の釋なれば、今は皆|不用《イタヅラ》事にて引(ク)にたへず。)今按に、師吉《シキ》と云に、いろ/\あり。先(ヅ)小屋之四忌屋《ヲヤノシキヤ》などはいへるは醜《シコ》の意也。されば鬼之四忌手《シコノシキテ》と醜《シコ》よりつゞけたり。又|於比之久《オヒシク》と云るは追及《オヒシク》也。故にしかずと云も不v及《オヨパ》と云むが如し。又|志久々々《シク/\》、吹志久《フキシク》、志伎浪《シキナミ》など云|志久《シク》は物の引(キ)續(ク)を云(フ)。さる故に志伎浪《シキナミ》と云に、重浪《シキナミ》とも跡位浪《シキナミ》とも書る、重はかさなる意、跡位はあとより追(ヒ)つゞくよし也。又|宮柱太敷《ミヤバシラフトシク》、などの敷《シク》は、敷栲《シキタヘ》の敷《シキ》、又|疊《タヽミ》を敷《シク》、などの敷《シク》にて、俗《ヨ》に屋を建る地を屋敷《ヤシキ》と云と同じ心ばへにて、大宮を建る事にもいひ、又其(ノ)地に大宮建て、天下知す方にも及《オヨ》ぼして云り。【此事は、下の人麻呂大人の歌の條に、委く云べし。】今此(ノ)師吉名倍手《シキナベテ》は、押奈戸手《オシナベテ》の對句なれば、四【五十九丁】に、春之雨者彌布落爾《ハルノアメハイヤシキフルニ》の布《シク》にて、普天の普の如くなれば、押《オシ》も敷《シキ》も、もはら同(ジ)意の言なるを、少し詞をかへて、調(ベ)を助くる上つ代の歌の雅び也。
○吾己曾座《ワレコソマセ》」此(ノ)座《マセ》も御位に座《マス》かたより廻(ラ)して、天(ノ)下知す事に宣る也。上の居《ヲレ》の條にて心得べし。
○我許曾〔左〔〕《ワレコソ》」考注云、我許曾者《ワレコソハ》、此句、曾の字、上の例に依て加ふ。「略解云。今本、我許の下、曾の字を脱せり。」小琴云。我許者、ワヲコソ、ト訓ベシ。ワレコソト云テハ、コヽモ宜シカラズ。又者(ノ)字ハ曾ヲ誤レルナルベシ。』【已上】 今按に、元暦校本其(ノ)他の古本にも、者(ノ)字なければ、今本の者は曾の寫なる事明(ラ)けし。前(ノ)句にも吾許曾《ワレヲコソ》と既に例あり。五言に訓べし。
○背齒告目《セトハノラメ》」考注云。背齒告目《セトシノラメ》。六言。背《セ》ハ夫《セ》也。齒ハ登志《トシ》の言に借て、志《シ》は辭也。こは荷田大人の初めの考なれど、暫よりぬ。又背の下に登の字落たるか。然らば夫登者《セトハ》のらめと訓て事もなし。正(64)本を待のみ。』【略解是に同じ。】今按に、拾穗本には此(ノ)齒(ノ)字を者に作《カキ》て、背者告目《セトハノラメ》とあれば、他本も齒は者の假字に用ひし也。集中、齒を、者《ハ》の假字に用ひたる例はあり。又|與《ヨ》、與波比《ヨハヒ》、と迄は訓べき字なれども、其をさし越て、登之《トシ》とは訓(ミ)がたし。考注の訓はしひ事也。かくて右二句、我許曾《ワレヲコソ》。背齒告目《セトハノラメ》。とは、天(ノ)下知(ラ)す、此(ノ)我をこそ、夫《セ》として、名のらば名告《ナノラ》めとの給ふ也。背とは、弟《オト》より、兄《アミ》をもいひ、朋友互に敬ひてもいふ言なれども、其(ノ)中にも、仁賢紀に、古者不v言(ハ)2兄弟長幼(ヲ)1。女は以(テ)v男|稱《ヨビ》v兄(ト)。男(ハ)以v女|稱《ヨブ》v妹(ト)。と有て、妹背《イモセ》の方に云がおのづから多かり。さて此(ノ)句迄にて二段なり。
○家乎毛名雄母《イヘヲモナヲモ》」此一句は上の一段の末、家告閉《イヘノラヘ》。名告沙根《ナノラサネ》。と云二句を、再び受て、こゝは家をも名をも告目《ノラメ》と、上へ立反りて聞(ク)さまに續け賜へり。
○一篇の總意は 籠と※[竹/拜]《ヘラ》やうの物を持て、此《コゝ》の岡に若菜つむ少女子よ。汝は誰が子ぞ。家はいづこぞ。名はなにと云(フ)。家も名も告《ツゲ》よ。」となり。(是迄が先づ一段也。さてそのかみの世にしては、かく宣へる御詞に、即《ヤガテ》わが妻になれといはんが如くなりつれば、其少女、貌うち赤めなどして、御いらへも得聞え奉らざりし也。こゝに天皇、我を世の凡《タヾ》人と思ひて然るにやとおもほして、御身のやむ事なくおはす事を、次の二段に顯はして、又歌はし給ふなり。)其(ノ)二段、我(レ)は今、泊瀬朝倉(ノ)宮にして、此(ノ)大倭を、押並て知しめす、大君にましますぞ。汝も終《ツヒ》に夫《セ》をもたずは有べからねば、此(ノ)我をこそ夫《セ》として、家をも名をも名のれとの給ふ也。
 〔細註〕 これたゞ時の御戯れのみかともおもへど、かゝる賤の女に忝も御まなじりのかゝりけるは、もし此小女、貌容《カホ》よくや有けん。仙覺抄にも、彼(ノ)賤女艶妙、故有2此御製1歟といひ、代匠記にも、此みかどは、きはめて雄々しくおはしま(65)して、色をも好せ給ひければ、もし御目もとまりて、問はせ給へるにや、と云り。今試云此(ノ)小女、彼(ノ)引田(ノ)赤猪子が故事に似たる所あり。もしは此集に其(ノ)はじめの御契のみ載て、古事記に、其(ノ)終りを傳へたるか。
古事記日。天皇遊行(シテ)。到2於美和河(ニ)1之時。河邊(ニ)有2洗v衣童女1。其容姿甚麗。天皇問2其童女(ニ)。汝者誰子(ト)1。答白。己(ガ)名(ハ)謂(ス)2引田部(ノ)赤猪子(ト)1。爾令v詔者。汝不嫁夫。今將喚而還2坐於宮(ニ)1。故其赤猪子。仰2待天皇之命(ヲ)1。既(ニ)經2八十歳1。於是赤猪子以爲。望命之間(ニ)已經2多年1。姿艶痩萎。更無v所v特。然非v顯2待情1。可不v忽2於悒1而。令v持2百取之机代(ノ)物1。參出貢献。然天皇既忘2先所v命之事(ヲ)1。問2其赤猪子1曰。汝者誰老女。阿由以參來。爾赤猪子答白。其年其月被2天皇之命1。仰2待大命1至2于今日1。經2八十歳1。今容姿既耆。更無v所v特。然顯2白己志(ヲ)1。以參出耳。於是天皇大驚。吾既忘2先事1。然汝守v志待v命。徒過2盛年1。是甚愛悲云云。とあるを、今此少女と見ても、かなふやう也。但(シ)岡邊と河邊と、菜採と洗v衣とのちがひあれば、同じ御代に、同じほどの事の、二たび有しか。又古き世の傳へごとなりければ、さばかりの異同は有べきか、定め難かれど、たゞ試に引おくなり。此赤猪子が事も此(ノ)時八十歳とありては年齡合(ハ)ず。これかれ疑ひなきにしもあらねど、遠き代の事なれば、きはやかには云(ヒ)がたし。
 
高市崗本宮《タケチヲカモトノミヤニ》御宇(シ)天皇(ノ)代 息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇
○高市崗本(ノ)営」代匠記云。舒明紀曰。二年冬十月壬辰朔癸卯。天皇遷(マス)2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍(ニ)1。是(ヲ)謂(ス)2岡本(ノ)宮(ト)1。【高市は、和州十六郡の中に、別して名高き郡、六郡あり。その隨一也云云。】』考注云。この宮は、大和(ノ)國高市(ノ)郡飛鳥にあり。今も岡てふ里也。』宣長云。飛鳥(ノ)社司飛鳥氏の説に、かの大宮の跡は、今の岡寺のふもとなり、と云り』【已上】 今按に、和名抄高市(ノ)郡に崗(ノ)地見えず。神名帳に、高市(ノ)郡に天(ノ)高市神(66)社あり(高市とは今も人の群集するをたかると云如く、繁昌なる市場を云名なり。神代紀に、天(ノ)高市とあるも都會のよしなり。代匠記に、此神代紀を引て、これを一つに云るは違へり)大和(ノ)國古風土記殘篇に、高市(ノ)郡(ノ)中云。岡本郷(ハ)土地中肥。民用多。郷中(ニ)有2寺一宇1。厩戸(ノ)皇子(ノ)創立也。と見えたれば、本より岡本と云郷名もありしなり。行嚢抄曰。飛鳥(ノ)地、奥山村、雷土村、八釣村、此(ノ)三村ハ飛鳥村(ノ)東ニ在。何(レ)モ皇居(ノ)跡也。河原村【右ニアリ】岡【自2奈良1至2于此1七里余。自2八木1一里。】東光山龍蓋寺、眞珠院、岡町ノ東ニ在。【寺領廿石。聖徳太子建立。】是モ逝回《ユキヽノ》岡ニアル故ニ、俗《ヨ》ニ岡寺ト云。【西國卅三所順禮ノ札所七番目也。眞言宗也。】此(ノ)所舒明、齊明二朝(ノ)舊都也。とあり。かゝれば此(ノ)逝回(ノ)岡の本(ト)なる地ゆゑに、岡本と云郷名にもなりしにこそ。又、其岡は、此集に逝回《ユキミノ》(逝は、折の誤にて、折回岡《ヲリタムヲカ》ならんと思ふよし有(リ)。その歌の條に委く云べし)岡とよみたるを、後世にゆきゝの岡とよみ誤りて、一の名所となれる也。近來までも其岡の傍のこ高き處に大宮の跡ありきと云り。岡寺は、聖徳太子の創立には有べからず。聖武の御時なるべし。此大宮より後ならではかなはぬ事あり。
○息長足日廣額《オキナガタラシビヒロヌカノ》天皇」【皇代三十五嗣後に舒明天皇と申奉る。】代匠云。第三十五代舒明天皇也。初は田村(ノ)皇子と申奉き。敏達天皇の御孫|彦人大兄《ヒコヒトノオホエノ》皇の御子、天智の御父なり。御母は糠手姫《ヌカテヒメノ》皇女と申。在位十三年。冬十月九日崩。日本紀曰。或本云。呼(テ)2廣額(ノ)天皇(ヲ)1。爲2高市天皇1也』【已上】 今按に、舒明(ノ)紀曰。息長足日廣額(ノ)天皇(ハ)。渟中倉太珠敷《ヌナクラフトタマシキノ》天皇(ノ)【敏達】孫。彦人大兄(ノ)皇子(ノ)子(ナリ)也」母《ミハヽヲ》曰(ス)2糠手姫皇女《ヌカテヒメノミコト》1。推古紀曰。三十六年春三月丁未(ノ)朔壬子。天皇|病甚之不可諱《ミヤマヒイタクオモシ》。則召2由村(ノ)皇子(ヲ)1。謂之曰。昇《ツキテ》2天位《タカミクラニ》1。而|經2綸《シラセ》鴻基《アマツヒツギヲ》1云云。故《カレ》汝愼以察之不可輙言《ツヽシミテナモラシタマヒソ》云云。又舒明紀元年春正月癸卯朔丙午。大臣及詳細共《オホオミタチマヘツキミタチヲ》以2天皇之璽印《アマツミシルシ》1。獻(ル)2於田村(ノ)皇子(ニ)1。則辭之《イナビタマヒテ》。曰《マヲシ王フニ》2宗廟重事矣《オノレヲヂナシイカデ》。寡人不賢何敢當《タカミクラニヲリアヘムト》》乎。群(67)臣伏固請曰《オミタチコヒタマハク》。大王《ミコヲバ》。先朝鍾愛《サキノミカドウツクシミ玉ヒテ》。幽顯《カミモヒトモ》屬《ツケリ》v心(ヲ)。宜《ベシトテ》d纂《ツギテ》2皇綜《アマツヒツギヲ》1光c臨《テラシ玉フ》億兆《アメノシタヲ》u即日即天皇位《ソノヒアマツヒツギシロシメシキ》。十三年冬十月己丑朔丁酉。天皇崩(マシヌ)2于百濟宮(ニ)1(御在位十三年、御壽未v詳。正統紀、四十九、扶桑略記同(ジ)。水鏡五十九など見ゆ)丙午殯(ス)2於宮(ノ)北(ニ)1。是謂2百濟大殯《クダラノオホミアガリト》1。是(ノ)時|東宮開別皇子《ヒツギノミコヒラカスワケノミコ》年《ミトシ》十六。而|誄之《シノビゴトシ玉ヒキ》。皇極紀曰。二年九月壬午。葬(リマツル)2息長足日廣額(ノ)天皇(ヲ)于2押坂《オサカノ》陵(ニ)1。或云。城上(ノ)郡坂と見ゆ。諸陵式云。城上(ノ)郡押坂(ノ)内陵。兆域東西九町。南北六町。山陵志云。今呼(ブ)2壇々山(ト)1。壇|三成《ミカサネナル》故(ニ)。得2斯名1矣。倉梯(ノ)之北。爲2押阪1。又其北(ハ)三輪也。とあり。大御歌、第四に岳本天皇御製、第八に崗本(ノ)天皇(ノ)御製【第九再出或云同。】
 
天皇登(マシテ)2香具山1望國之時《クニミセストキノ》御製歌
○香具山」は、大和(ノ)國十市郡也。此地の事は、次にもいひ、下の三山(ノ)歌の條にも云べし。
○望國《クニミ》」代匠云。下に至りて持統天皇、吉野へみゆきし給ふ時、人麻呂の歌にも此二句あり。天子は巡狩と云事をさへして、國々の樣を見給ふ事なれば國見は、國の盛衰、民の哀樂を、うかがひしろしめすに尤要なり。神武紀には、國見《クニミノ》岳と云る所の名も和州に見えたり。今も山々に遠く見|晴《ハル》かさるゝ所を國見と云なり。第三卷に、筑波山にのぼりて、國見せるをよめれば、諸臣より、常の人にも云べし。』考注曰。望國《クニミ》は、磐余彦《イハレヒコノ》天皇【神武】※[口+兼]間《ホヽマ》の岳に、國見しましゝを始て、古への皇尊《スメラミコト》、專らしかし給へり。【略解全同じ】』【已上】今按に、右等の説、ひが事也。こはたゞ遊興のために、高き岡山に登りて、四方を見晴《ミハラ》しで樂むわざなれば、天皇、諸臣に限るにはあらず。民間にて、もはらせしわざなりき。播磨風土記に、土人登(テ)2此岡(ニ)1。望國《クニミシテ》而|遣悶《オモヒヲヤル》云云。此外國々の風土記に多く見えたり(是則、後世の風俗歌に、高き山から谷底見れば、瓜やなすびの花ざかり。とうたへる心ばへにして、今(ノ)世にも邊土には(68)春夏の間、岡山に登りて、見晴(ラ)し、心をやるならはし多かり。是其まゝ、古への國見なりけり)然るに國見《クニミ》としも云る語に泥みて、天子の巡狩、或は國體《クニガタ》を看行《ミソナハ》すわざのさまに誰も思へど、さる重きわざにはあらず。古事記に、大雀(ノ)天皇、淡道島に幸行《イデマ》しゝ時に「遙望歌曰《ハルカニミサケテウタヒタマハク》。淤志弖流夜《オシテルヤ》。那爾波能佐岐用《ナニハノサキヨ》。伊傳多知弖《イデタチテ》。和賀久邇美禮婆《ワガクニミレバ》。阿波志摩《アハシマ》。淤能碁呂志摩《オノゴロシマ》。阿遲摩佐能《アヂマサノ》。志麻母美由《シマモミユ》。佐氣都《サケツ》。志摩母美由《シマモミユ》。」此大御歌に、和賀久邇美禮婆《ワガクニミレバ》と詔へるは、我が眺望《クニミ》すれば、と云(フ)心也。(我國と詔ふにあらざる事は、阿波志摩《アハシマ》云云と續け給へる御詔どもにて、明(ラ)かなりかし)凡(ソ)如此《カク》海上を望み坐(シ)ても、猶國見と詔へるもても、國見とはたゞ見晴(ラ)す事を云しことを知べし。又十【二十二丁】に、雨間開而《アママアケテ》。國見毛將爲乎《クニミモセンヲ》。故郷之《フルサトノ》。花橘者《ハナタチバナハ》。散家牟可聞《チリニケンカモ》。【此外一(ノ)十九丁、右又同丁左、三(ノ)卅九丁右、十(ノ)廿七丁左、十三(ノ)廿八丁右、又同丁左、十九(ノ)卅九丁右等に出(ヅ)。】の類集中に猶多し。此等相合せ見ば論を待ずして覺るべきものぞ。さて例の古點を擧(グ)。
 
山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアレド》。取與呂布《トリヨロフ》。天乃香具山《アマノカグヤマ》。騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレパ》。國原波《クニハラハ》。煙立籠《ケブリタチコメ》。【元暦校本、籠作v龍。爲廣卿本、同作v竜。】海原波《ウナバラハ》。加萬《カマ》【※[木+夜]齋校本萬作v茂。】目立多都《メタチタツ》。怜※[立心偏+可]《オモシロキ》【古注云。怜※[立心偏+可](ハ)誤2※[立心偏+可]怜1。一本無2※[立心偏+可](ノ)字1。】國曾《クニゾ》。蜻島《アキツシマ》。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
今此異同を檢べて、其(ノ)勝る方に改む。
山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアレド》。取與呂布《トリヨロフ》。天乃香具山《アメノカグヤマ》。騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレパ》。國原波《クニバラハ》。煙立龍〔左〔〕《ケブリタチタツ》。海原波《ウナバラハ》。加茂〔左〔〕目立多都《カモメタチタツ》。※[立心偏+可]怜〔左二字〔〕國曾《オモシロキクニゾ》。蜻島《アキツシマ》。八間跡能國者《ヤマトノクニハ》。
○山常庭《ヤマトニハ》。村山有等《ムラヤマアレド》 代匠云。初二句は惣じて和州に山多き事をの給へり。むら山は群山也。唐(ノ)謝觀
が白賦にも、曉入2粱王之苑1。雪滿2群山1。といヘり。神武紀曰。抑又聞(ケリ)2於鹽土(ノ)老翁《ヲヂニ》1曰。東(ニ)有2美(キ)地《クニ》1。青山四周《アヲヤマヨモニメグレリ》。これやまとの國を云り。景行紀|思郷《クニシノビノ》歌(ノ)中にも「やまとは國のまほらま、たゝな(69)づく、あをがき山こもれる」とよませ給へるは、筑紫にで、和州のかたを、ながめやらせ賜ひて也。【古事記にては、倭建命の東國にて國偲び給ふ歌なり』】考注云。大和國は四方に群りて、多くの山あれど也。常は假字《カナ》、庭は借字。』【略解是に同じ。】【已上】 今按に、此二句の意は、右等の釋にて大方事足べし(群山の例集中此一首の外には見えず。村竹は十九(ノ)四十八丁に見え、相島は六(ノ)四十三丁、九(ノ)廿九丁、十三(ノ)十九丁、其外六七首見え、又古事記上卷の歌にも見ゆ。村苗は、十四(ノ)十四丁に見ゆ。又下に屬《ツケ》て云るに、麻素武良《マソムラ》は十四(ノ)十二丁に見え、鶴村は、九(ノ)卅一丁に見え、樹《コ》村は三(ノ)廿八丁に見岬。皆何れも衆群《ムラガリアツマ》る意。准へて知べし。又百重山は五(ノ)廿七丁、五百重山は六(ノ)廿五丁、一重山は四(ノ)五十五丁、六(ノ)四十丁、八重山は十(ノ)十九丁、廿(ノ)四十四丁等に出(ヅ)。たゝなづくは、下の歌に云を合せ見べし)
○取與呂布《トリヨロフ》」代匠云。取よろふは取よそふ也。軍にきる鎧も、身をよそひて、かこむ物なれば、よろふと云(フ)用の詞を躰にいひなして名付る也。和名抄曰。唐韻云。鐙(ハ)外蓋(ノ)反。和名|與路比《ヨロヒ》。甲也。釋名(ニ)云。甲者似3物之有2鱗甲1也。魚の鱗あり、貝の甲あるに似たれば、甲と云が如く、村山の取つゝめる香具山也。又齊明紀に、弓矢|二具《フタヨロヒ》と書て、ふたよろひとよめり。源氏物語に、屏風ひとよろひといへるも、二帖を一具《ヒトヨロヒ》といへるなり。これは具足したる義なれば、峰谷、岩木に至るまで備りて、圓滿したる山とほめ給ふ歟』考注云。取《トリ》は辭の如し。與呂布《ヨロフ》は、宜きてふに同じくて、此(ノ)山の形の、足《タリ》とゝのへるをほめ給ふなり』【略解是に同じ。】 』【已上】 今按に(右代匠記の釋に、よろふは、よそふ也と云もいまだしく、又|鎧《ヨロヒ》は只語の上の例にこそはあらめ。其(ノ)鎧を、直に山に比して、大和の群山の鱗甲の如く取(リ)つゝめる香具山也と云るなどは、其意趣たがへる説なり。されどよろふといふ、言の(70)意の一端はいひ出られて、見合せとはすべきなり)此(ノ)考説は、即代匠の説の内、よき處のみを取て云るなり。此意なる歟。又上よりの言の續きざまを思ふに、群山《ムラヤマ》はあれど、其中に取撰分《トリヨリワケ》て、此香具山に騰《ノボリ》立て云云と、の給ふやうにも聞ゆ。さる時はあながち山の足整へるを讃《ホメ》たるにはあらで國見するに宜きを、の給へる詞なり。さて彼(ノ)宜し、鎧《ヨロヒ》、また、よろこぶ、萬《ヨロヅ》など云語に合せみれば、足備はれるを云と云(フ)説も捨がたかれど、えり、えらむと云も、よきを撰《エリ》出る【吉を、えともよとも云(フ)が如し。】なれば、其根ざしは、同じ語ながら、此《コヽ》はえり出る意に見むかた優るべし(近來或人の説に、取《トリ》は足《タリ》の通音にて、即|足備《タリソナハ》るを云なりと云るは殊にわろし。そは次に引(ク)取《トリ》の例を以て知べし)取《トリ》は、萬(ヅ)のわざを、先(ヅ)手に取て、ものする故に、手して爲《スル》事につけて云也。
 〔細註〕 取粧(ヒ)は古事記、八千矛(ノ)神の御歌に、三處出(デ)、此集、二十(ノ)卅三丁にも見ゆ。取(リ)餝(ヲ)比は十六《ノ)九丁、取替《トリカヘテ》は十一(ノ)四十七丁、取付(テ)は二十(ノ)廿四丁、又卅三丁、又卅五丁、又卅七丁、取都々伎《トリツヅキ》は五(ノ)九丁、九(ノ)卅六丁、取靡《トリナビケ》は九(ノ)九丁、取向(ケ)は一(ノ)廿六丁、十三(ノ)六丁、取|與《アタフ》は二(ノ)卅九丁、取|委《マカス》は二(ノ)四十丁、取見(ル)は五(ノ)廿八丁三處、七(ノ)廿五丁、十(ノ)廿八丁、取持《トリモツ》は十七(ノ)四十三丁、又四十二丁、十八(ノ)三十丁、十(ノ)九丁、十九(ノ)九丁、又十九丁、又四十丁、二十(ノ)卅九丁等に出(ヅ)。今此句のよろふも、撰《ヨル》は、本(ト)手してえり分るわざなる故に、他の物に云にも移して云る也。是を以ても取撰《トリヨル》の意と見む方勝るべし。
○天乃香具山《アメノカグヤマ》」考注云。十市(ノ)郡にあり。古へ天上の軻具山《カグヤマ》に擬《ナゾラヘ》て崇み給ふ故に、天のかぐ山とも云(フ)。さて其(ノ)天なるは、軻具突智《カグツチノ》神成給へば、即かぐ山といひ、紀【神武】に、香山此(ヲ)云(フ)2介遇夜摩《カグヤマト》1。といひこゝに具《グ》ともあれば、必濁(リ)ていへ』記傳、【八(ノ)三十丁】曰。天香山。中卷に、阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》とあり。此(レ)に依(71)て訓べし。前に出たる香山は、大和國なるを云(ヒ)、此《コヽ》のは、天上《アメ》なるを云れば別なり云云。此《コヽ》に金《カナ》山の名あり。彼(レ)此(レ)を合(セ)て思ふに、本此(ノ)山の名は、彼(ノ)迦具士《カグツチノ》神に由あるにや。猶よく考(フ)べし。』【已上】 今按に(神代の舊事に傳へたるは、神等の幽冥《カゲ》より領知《シリ》まかなひて、物し給ふを云にて、天の上にさる山の有にはあらず。たゞ幽と顯との分ちのみなり。さて古く幽冥の神事に多く天之香具山と傳へ來つるまに/\、此顯明の世なるをも、同じく天(ノ)之とそへて云(ヒ)ならひし也。かゝる顯明の物に添(ヘ)て云る天は、自然と美賞《ホメ》言の如く、又|奇靈《クシビ》なる意に云るも有て、一樣ならず。然るを此(ノ)翁たちは、いまだ神典の本義、秘訣を得られざりし故に、かゝる神語の解にはいたく泥まれたるひが事多し。此(ノ)すぢの事は、別に神典の解、稜威《イヅ》(ノ)道別《チワキ》に委くせれば、此には省ける也。されど神事に關《アヅカ》る言の上には、其見合せとせんために、此集なるをも、皆一わたりづゝは説(カ)んと也。下の歌どもに云(フ)言を相合せて考ふべし)大和(ノ)國風土記殘編【古本、校合】十市(ノ)郡(ノ)下曰。天(ノ)香山(ハ)一山金砂《ヒトヤマコガネノイサゴナリ》。有(リ)2銅鐵1云云。今これに依(ル)に名義はR山《カヾヤマ》の意なるべし。彼(ノ)金の砂の耀映《カヾヤケ》るより、負たる名なるべければ也。即|迦具土《カグツチ》、R毘古《カヾビコ》、※[言+可]具漏比賣《カグロヒメ》、迦其夜比賣《カグヤヒメ》、香余理比賣《カゴヨリヒメ》など申す御名の意、又星(ノ)神を香々背男《カヾセヲ》、鏡をR見《カヾミ》と云類も皆|映《カヾヤ》く意也。今も彼(ノ)山、小雨など降て砂《イサゴ》潤《ウルホ》ひ、日影さす時に登て見れば、實に光曜《カヾヤ》けりと云り(文政年間、下毛國足利の石田(ノ)宗睦と云る者、彼(ノ)山に登りける時、餘りに耀きけるが目につけりとて、其砂を包て持來つるを見しに、げに光(リ)ありき)
○騰立《ノボリタチ》。國見乎爲者《クニミヲスレバ》」代匠(ノ)説、考説等は既に端詞の條に引(キ)つ。今按に、然かむづかしき事にはあらず。只此香具山の一つはなれたる丸山にして、眺望するに便よろしき故に、登(リ)坐て、遠近を見晴《ミハラ》し(72)樂しませ給ふ也。
○國原波《クニバラハ》」代匠云。高平(ヲ)曰v原(ト)。毛詩の傳にも云て此國にもひろ/”\としたるところを原といへば、國原といひ、天(ノ)原、海原《ウナバラ》など云也』考注云。廣く平けき所をすべてはらと云』【已上】 今按に、廣《ヒロ》、平枚《ヒラ》も、原《ハラ》と音通ひ、腹《ハラ》も人の體の中にして廣く晴《ハレ》たる處なれば云(フ)ならん。さて此《コヽ》に國と詔へるは吉野(ノ)國、泊瀬(ノ)國、難波(ノ)國、又次の伊奈美國波良《イナミクニバラ》など云る類にて、纔かに其(ノ)近邊の村里を見わたして、國原とはの給ふなり。
○煙立龍《ケブリタチタツ》」(代匠云。右二句は高津(ノ)宮(ノ)御宇の心ちす。日本紀第十一仁徳紀云。四年春二月己末朔甲子。詔2群臣1曰。朕(レ)登2高臺1以遠(ク)望之。烟氣不v起2於域中(ニ)1。以爲百姓既(ニ)貧。而家(ニ)無2炊者1云云。七年夏四月辛未朔。天皇居2臺上1。而遠望之。烟氣多起。是日語2皇后1曰。朕既富(メリ)矣。豈有v愁乎。また御製の歌に曰「たかきやにのぼりて見れば烟たつ民のかまどはにぎはひにけり」今の御歌、けぶりたちたつとあれば、民を愛子のごとくおぼしめすみかどの御よろこび、御詞の上にうかべり』似閑書入云。右引る歌、新古今ニ、御製トアルハ誤也。日本紀竟宴歌、得2仁徳天皇1時平公ノヨメル也。師後ニ心付テ大ニ歎息セリ云云』)考注云。この煙は人家にまれ、霞にまれ、遠く見し給ふさま也。下に霞立春日とも、烟立春ともよみて、烟霞は通はし云めり。から人の烟山烟樹てふが如し』略解云。煙立こめは、人家の煙、又は霞にても遠く見及し給ふさま也』【已上】 今按に、此等の諸抄に、けぶり立こめと訓たるはわろし。又此(ノ)煙は霧霞にもあらず。詩に烟山樹煙など作る靄氣にも非ず。民家にて立る、まことの烟也(代匠記に、竈の烟と見たるはよけれども、仁徳天皇の、朕既(ニ)富(メリ)矣と詔へると一つにして、民を愛子の如くおぼしめす帝の御悦び、御詞の上にうかべりなど云るは、いみ(73)じき附會の牽強なり。是皆初(メ)に云し、國見と云ことを、天子の巡狩など云(フ)類に重く思ひ取れるよりのめまどひなりけり)此《コヽ》は其(ノ)煙と、水鳥とを對に取て、たちたつと云を合せ賜へる御句也(上の大御歌に、みかたまもたしと、みふぐしもたしとを合せ、下に朝がりに、夕がりにとのたまひて、今たゝすらしを合せ、又雪はふりける、雨はふりける云云、時なきがごと、間《ヒマ》なきがごと云云と、合せ給へる類ひにで、古き代の歌の常也。かゝる句の一方を轉じて次へ送りて云るも、此集には少しはあれど、それはやゝ後の手ぶり也。點する人此心をすべきわざなり)斯《カク》て、たちたつとは、煙は、村里の、此《コヽ》に立(チ)、彼《カシコ》に立(チ)、水鳥は廣き池の此《コヽ》に立(チ)彼《カシコ》に立(チ)て、えもいはず怜《オモシロ》きよし也。眺望するに、煙の立籠《タチコメ》ふたがりて、何のおもしろき事あらん。故(レ)今は元暦(ノ)校本、又一本の古本、爲廣卿本等に依て、古訓の如くはよめる也。仙覺點の今の印本には籠と書て、タチタツと訓たるを見れば、原《モト》は龍字なりけむを、刻せし時の筆者の手に誤りつるならん。家の本の、似閑が書入に、立龍《タチタツ》仙點、としるしたり。然ればこれも、龍(ノ)字に作れる本を持りしにこそ。
○海原波《ウナバラハ》」(代匠云。かの山のいたゞきよりは、難波の方まで見ゆるにや。さらでも興によみ給へるか。式の祝詞に舟の上はさをかぢほさずと云るごとく云云』)考注云。香具山の畝尾《ウネヲ》は西へも引(ケ)ど殊に東へは長く曳渡りけん。今は其(ノ)畝尾の形、いささか殘れるが、其畝の本につきて二町四方許(リ)の池あり。是ぞ古への埴安の池の遺《ノコ》れるなる。彼(ノ)池より八町ばかり東北に池尻村池(ノ)内村てふ里、今あるは、古へ此池の大きなりし事知べし。それは後にかの畝尾を崩し池を埋みて田所とし、里居をもなせしもの也。かゝれば此御歌に、其池を海原云云ともよみ給ひ、且かの三つの山の中に香具山はな(74)だらかにて、よろづに便りあれば、登りて、國見をもし給ひけん。中略此(ノ)山、今は嶺もふもとも、木を切あらし、池をも多くは埋みて、見所なく成にしを悲しと思へば、むかしの書ども以て、有けん状を擧て、古へしぬぶ人に傳へ侍るなり』【略解は、是を纔に採て云るのみ也】【已上】 今按に、代匠の説は此段、取はかるにたらはず。【海と云に泥みて、ふと似あはぬしひ説はせられたるなるべし。】考注も、大かたの地理は闇く、常には杜撰多かれど、此地はまのあたり見とめられたる事ありと見えて、其いへる所たがはず。且(ツ)委曲《ツバラ》かにして、愛《メデタ》き考へどもなり。此(ノ)卷下の【二十三丁】藤原(ノ)宮(ノ)御井(ノ)歌に、麁妙乃《アラタヘノ》。藤井我原爾《フヂヰガハラニ》。大御門《オホミカド》。始賜而《ハジメタマヒテ》。埴安乃《ハニヤスノ》。堤上爾《ツヽミノウヘニ》。在立之《アリタヽシ》。見之賜者《ミシタマヘバ》。日本乃《ヤマトノ》。青香具山者《アヲカグヤマハ》。日經乃《ヒノタテノ》。大御門爾《オホミカドニ》。青山跡《アヲヤマト》。之美佐備立有《シミサビタテリ》云云。とある、是は池の堤より、香具山を望み坐(ス)をいひ、今は香具山より、池の面を見おろし給ふにて、其地のさまを思ふべし。又|宇微《ウミ》とは、本(ト)水の湛へたるを云名にて、湖水はもとより池などをも包《カネ》たる名なりつれば、必しも潮海には局《カギ》らざりし也。三(ノ)【十三丁右】長皇子|遊2獵《ミカリタヽシ》獵路(ノ)池(ニ)1之時。柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌に、皇者《オホキミハ》。神爾之坐者《カミニシマセバ》。眞木之立《マキノタツ》。荒山中爾《アラヤマナカニ》。海成可聞《ウミヲナスカモ》。此外池の渚《ナギサ》とも礒とも澳《オキ》ともよみたり。同卷【十六丁左】鴨(ノ)君足人(ガ)、香具山(ノ)歌に、【上略】松風爾《マツカゼニ》。池浪立而《イケナミタチテ》。奥邊波《オキベニハ》。鴨妻喚《カモメツマヨビ》。邊津方爾波《ヘツベニハ》。味村左和伎《アヂムラサワギ》云云。とある、此(ノ)足人の歌と、こたびの國見とを合せて思へば、斯《カク》しも此池の絶景なりしからに、香具山に登て此池を望む事は、當時《ソノカミ》の壯觀なりけんかし。故(レ)天皇も登らして見晴らし給ひし事しられたり(國見と云言も、取與呂布《トリヨロフ》と云言の意も、又是に合せて惑ひを解(ク)べし)
○加茂目立多都《カモメタチタツ》」代匠云。かまめは、かもめ也。まともと五音相通也云云』考注云。廣き池の面に鴎どもの群て飛立あそぶをのたまへり』略解云。かまめは倭名抄唐韻云。和名|加毛米《カモメ》。たちたつは(75)彼(ノ)鳥の群て、飛立遊ぶさま也。』【已上】 今按に、此かもめは鴎には有べからず。鴎は山中の池に栖《スム》べき鳥にあらず。川にはすめど、それもおほくは海につゞきて、潮のさし入(ル)河ならずては居(ラ)ぬもの也。(集中に湊の渚《ス》鳥、入江の鳥、濱|渚《ス》鳥などのみよみて、鴎と分ちてよめる、一首も見えざるを思へば、鴎をかもめと云は、後の字訓なるにぞあらん)今|此《コヽ》に加茂目《カモメ》とあるは鴨群《カモメ》の義にて、鴨鳧《カモ》、鴛《ヲシ》※[爾+鳥]《タカベ》の屬《タグヒ》の水鳥の群《ムレ》(此(ノ)群《ムレ》を約(メ)て米《メ》と云(フ)は、すゞめ、つばくらめ、ひがらめ等のごとし)をこめて云(フ)名也。鴎にあらざる事は、右に引(ク)足人の香具山の長歌は、同じ池の鳥をよめるなるに、鴨《カモメ》と書《カ》き、又|味村左和伎《アヂムラサワギ》などあるにてしらる。又此句を今本には加萬目《カマメ》とあるにつきて、誰も古くはさもいひしにやと思ひ來つるに、※[木+夜]齋が校本には二本まで加茂目《カモメ》と書たり。然れば萬と茂と草書の字體相近かれば、今本は誤りしなり。
○※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》」代匠云。おもしろきとは、古語拾遺云「當(ニ)此(ノ)之時。上天《アメ》初(テ)晴(ル)。衆倶《モロ/\ニ》相見(テ)面(テ)皆|明白《シロシ》。伸(ベテ)v手(ヲ)歌(ヒ)舞(ヒ)。相共《ミナ》稱曰。阿波禮《アハレ》。(言(ハ)天晴《アメハル》也)阿那於茂志呂《アナオモシロ》。(古語事(ノ)之甚切(ナル)皆(ナ)稱2阿那(トハ)1。言衆《モロ/\》面(テ)明白《シロキ》也)※[立心偏+可]怜を、此集にあはれともよめり。』似閑云。靈異記に、※[言+慈]オモシロシ、※[立心偏+可]怜ウマシ、カナシ、アハレ、オモシロシ四點アリ。オモシロキ、尤此ニ能叶ヘリ』考注云。こは神代紀に、可怜小汀を、うましをばまと訓に依ぬ。今本怜※[立心偏+可]とあれど、例に依て上下にす』略解云。うましは、ほむる詞也』小琴云。考ニ※[立心偏+可]怜ト下上ニ改ラレタルハ宜シ。※[立心偏+可](ノ)字ハ諾(ノ)字書ニ見エズ。漢ニハナキ字也。書紀ニハ皆可怜トカケリ。是正シカルベシ。エヲ、可愛トカヽレタルト同ジ例也。然ルニ此集ニアルハ皆※[立心偏+可]トカケリ。コハ此方ニテ扁ヲ加ヘタルモノナルベシ』【已上】 今按に、これをうましと訓てほむる方に取(レ)るは、既に云如く、國見と云を、國體《クニガタ》を見給ふ(76)事と思へるよりのひが事也。こゝはたゞ見わたして、心をやり給ふ上《ウヘ》よりの御詞なりければ、古訓の如くおもしろしとこそはよみつべけれ。四(ノ)【五十三丁】に、如是※[立心偏+可]怜縫流嚢者《カクオモシロクヌヘルフクロハ》。七【四丁】に、夜渡月乎※[立心偏+可]怜《ヨワタルツキヲオモシロミ》云云(此外一(ノ)十二丁に、曾許之怜之《ソコシオモシロシ》、七(ノ)廿二丁に面白|四手《シテ》。十四(ノ)十九丁、於毛思路伎《オモシロキ》、十六(ノ)八丁、面白|見《ミ》など見ゆ。齊明紀大御歌に、於母之樓枳《オモシロキ》、今城ノウチハ。」などあれば、古き語なれど、古語拾遺の釋はそのかみの俗説也。又小琴の説に、※[立心偏+可](ノ)字書紀には皆可とありと云(ヘ)れど、仁賢紀に吾夫※[立心偏+可]怜《アヅマハヤ》など見え、字鏡の※[言+慈](ノ)字の注にも※[立心偏+可]怜也とあれば此集のみにもあらず。又漢土にも有し字なりけん事は是善卿の字集を以て證すべし)など、其例も慥かなり。
○蜻島《アキツシマ》」考注云。紀【神武】に、天皇ほゝまのをかに登(リ)坐(シ)て、やまとの國形を見|放《サケ》給ひて「蜻蛉《アキツ》の臀※[口+占]《トナメ》せる如《ナス》」とのり賜ひしより、やまとの國の今の一の名と成たり』【略解是に同じ。】記傳【廿一(ノ)三十五丁】云(ク)。秋津島《アキツシマノ》宮。書紀に、二年冬十月。遷(シマス)2都(ヲ)於|室地《ムロノトコロニ》1。是(ヲ)謂(フ)2秋津島(ノ)宮(ト)1。とあり。此は彼(ノ)神武卷に、皇輿巡幸因《スメラミコトイデマシノチナミニ》。登(テ)2腋上※[口+兼]間《ワキノカミノホヽマノ》丘(ニ)1。而|廻2望《ミワタシマシテ》國状《クニガタヲ》1曰云云。猶《ゴトシ》2如蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメセルガ》1焉。由(リ)v是始(テ)有(ル)也2秋津洲之號《アキツシマトフナハ》1也。とあるは、誰も大倭一國のことゝは思へど、若くは又此掖(ノ)上の邊の地形を御覽《ミソナハ》して、詔へるにもあるべし。若(シ)然らば秋津島と云は、彼時より此地の號なりしが、此天皇の百餘年も久しく敷坐せるめでたき大宮地の名なりし故に、後におのづから倭(ノ)國の大號の如くにもなれるか。又彼(ノ)御古事《ミフルコト》を倭一國のことゝせば、此宮號は彼(ノ)御古事の有し地なる故に如此《カク》は付給へりしか。何れにまれ、彼(ノ)御故事に、依れる號なり』【已上】 今按に、秋津島(ノ)宮(ノ)號は、其(ノ)地を室《ムロ》と云に就ての稱號《タヽヘナ》也。室とは、本(ト)稻の名なる故に(籾《モミ》を水に浸し室に入て芽《メ》を生して、急く苗は蒔ければ、中古までも室のはや早稻《ワセ》など、多く(77)よみたり)秋津島とは稱《タヽ》へしなり。御代々々の宮號の例を見合するに、本よりの地(ノ)名を取(ラ)られたるもあり。又|新《アラタ》に稱《タヽ》へて名づけられたるも有(リ)。其(ノ)稱へられたるは崇神天皇の瑞籬《ミヅカキノ》宮、垂仁天皇の珠城《タマキノ》宮、履中天皇の稚櫻《ワカザクラノ》宮、應神天皇の豐明《トヨノアキラノ》宮、繼體天皇の玉穗《タマホノ》宮等の類也。かくて此秋津島と云を、國號、又宮號にも稱へ始(メ)たるも、瑞穗《ミヅホノ》國と云に就ての事也。神代紀に、千五百秋之瑞穗國《チイホアキノミヅホノクニハ》是。吾子孫可王之地也《アガミコノミコトノシラスベキクニナリ》。【古事記には千五百之長五百秋之水穗國云云と云り】云云。以(テ)2吾高天原所御齋庭之穗《アガタカマノハラニキコシメスユニハノホ》1亦《モ》。當《ベシ》v御《キコシメス》2於|吾兒《アガミコノミコト》1。とあるより、御代々々の高祖《スメロギ》の大御名、皇子等《ミコタチ》の御名を始て、何事の上にも稻を以て稱へ奉し例多かるを思ふにも、かの秋津島瑞穗《アキツシマミヅホノ》國、また秋津島倭(ノ)國なども稱へし、名とこそは聞えたれ。既に神代紀に、大日本豐秋津洲《オホヤマトトヨアキツシマ》のあるをや(然るに、此國號神代より有ては、右等の如く、己が立たる説どもにくひちがふ故に、是を後より上に及ぼして云也、と云(ヒ)なせり。若(シ)然らば神代の古事は孝安天皇より後の作(リ)物と、自《ミヅ》らなせるなり)そも/\神代の初(メ)より、如此《カク》稱(ヘ)來し號の愛《メデタ》きに就て、右考注等に引て云る※[口+兼]間《ホヽマノ》丘の故事などは、其(レ)に託《コトヨ》せたる風土記|風《ブリ》の語辭《カタリゴト》なり。是は史典を破るには非ず。古傳説の例に隨ひて云所也。されば此《コヽ》も、蜻(ノ)字は、たゞ借字のみ也(さて秋津島倭とつゞけたる例は十三(ノ)九丁、又卅一丁、十九(ノ)卅九丁、二十(ノ)五十丁等に出(ヅ)。猶古くは、仁徳紀の歌に二首、雄略紀の大御歌に一首、其外大八洲の號にして云る、古き文に多く見ゆ)
○八間跡能國者《ヤマトノクニハ》」此國號の事は殊に往昔《ムカシ》より、區々《イロイロ》に云(ヒ)來れる上に、近世となりても、代匠には山跡《ヤマト》、考注には山門《ヤマト》、日本紀歌(ノ)解には、家庭處《ヤニハト》、國號考には、山處《ヤマト》の義とせられたる、あまり囂々《カマビス》しく且は人まねめきたれば、今は云(ハ)じと思へど、右等の説の中に一つも當れりとおぼしきがあらざれ(78)ば、今又己が思ふ事を述る也。此名義は山凹《ヤマタヲ》の約りとするぞよき。先(ヅ)大和(ノ)國古風土紀殘編(ニ)曰。山跡(ノ)國者。往昔山岳多《ムカシヤマタケサワニシテ》。而平地少《タヒラナルトコロスクナカリキ》。於是《コヽニ》所2作《ツクラシヽ》天(ノ)下(ヲ)1大神。大穴持《オホナモチノ》命(ト)。與《ト》2少彦名(ノ)命1。巡2行《メグラシテ》此(ノ)國(ヲ)1。鑿《ウガチ》v山(ヲ)開(キテ)v谷(ヲ)。爲《ナシキ》2平夷《タヒラト》1。故《カレ》云(フ)2山跡(ト)1也。國(ノ)内外山(ノ)郷邊則《サトノホトリハ》。長髄彦所開地又多《ナガスネヒコガヒラケリシトコロモオホカリ》也。とある、此(ノ)山跡の跡(ノ)字は、いはゆる假名注にて、當昔《ソノカミ》の人の耳には山跡《ヤマト》と云て、山間《ヤマアヒ》の凹《タヲ》の事とよく聞分りし也。たとへば古事記上、八千矛(ノ)神の御歌に、夜麻登能《ヤマトノ》。比登母登須々岐《ヒトモトスヽキ》。宇那加夫斯《ウナカブシ》云云。とある【こは出雲國にての御歌にして、大和(ノ)國の名にはあらざるなり。】是(レ)山凹《ヤマタヲ》の一本薄の撓み傾き安きよしの序辭なるが、夜麻登《ヤマト》とのみにて然か聞えし也。さて凹《タヲ》とは、十三(ノ)【十六丁】高山《タカヤマノ》。峯之手折丹《ミネノタヲリニ》。十八【三十三丁】夜麻能多乎理爾《ヤマノタヲリニ》。許能見由流《コノミユル》云云。此等山の低く、たはみたる所を云(登袁々《トヲヽ》、多和々《タワヽ》恒に通へり。女の髪のたはみたる處を、たはとも、たをとも云(フ)も、此語の遺れる也。金葉戀上に物いひける女の髪をかきこして、見けるをよめる。「朝ね髪たが手枕にたはつけてけさは鏡にふりこしてみる」續詞花戀下、法性寺入道「朝ねがみわがつけそむる手枕のたはとな人にかたりきかせそ」新六帖、信虎「人とはゞいかゞはのべん朝ね髪けさ手枕にたはつけにけり」壬二集中「青柳のかつらき山の朝ねがみたがたはつけて春風のふく」此たはを今(ノ)世にたぼと云は、たをより轉りたるなり。今もたをと云國あり)又此(ノ)多乎《タヲ》を約めて登《ト》とよみたるは八【二十三丁】霍公鳥《ホトヽギス》。今毛鳴奴香《イマモナカヌカ》。山之常影爾《ヤマノトカゲニ》。十【四十丁】足日木乃《アシヒキノ》。山之跡陰爾《ヤマノトカゲニ》。鳴鹿之《ナクシカノ》云云。此等の跡陰《トカゲ》は、即彼(ノ)多乎陰《タヲカゲ》の約(マ)れる詞也。是を以て山跡《ヤマト》てふ國號も山凹《ヤマタヲ》の意なる事、右の風土記の文と相合せて知べきなり。
○大御歌の一編總ての意は、倭(ノ)國には群山あれど其中にも眺望によろしき天香具山に登り見れば、麓の村里、こなたかなたに煙たち、又海をなす池(79)の面には、水鳥どもの飛(ビ)立て、廣く晴れたる景色、えもいはずおもしろき國なるかな、此倭の國は。とのたまふなり。此外に意はなし。
 〔細註〕 代匠云。此御製は、今さへ見奉るもたのしきやうなれば、子夏が詩(ノ)序に、治世之音(ハ)安(シテ)以(テ)樂(メリ)。其政和(スレバナリ)也。と云るにもかなひて、又世も遠くして、人も君にましませば、雄略天皇の御歌なくば、かならず此歌、第一に載べければ、やがてさしつゞきて、兩帝の和歌をのせて、後の君たる人をしておもはしめ奉らんとなるべし。孔子の如き聖人も位なければ、道おこなはれず。これによりてまづ御歌をつゞけて、載しなり。守護國界主陀羅尼經に、佛廣く國王を護持する法要を説給へる時、佛の慈悲は、一切衆生にあまねし、何ぞ國王を分てしものたまふ。と云難の有しに、たとへは母に歡樂あれば、子は隨ひて安穩をうる如くなる故に、國王のために護持の法要は説なり、とこたへ給へり。かゝる御歌よませたまふ御世にうまれあひけん民は宿善のほども思ひやられ侍り。定家卿の百人一首に、初に天智、持統の兩帝の、をさまれる世の御製をのせ給へるも、此集をおもはれるけるにや』【已上】
今按に、はじめ一足ふみちがふれば、末千里の道をあやまつとか、これはじめ國見と云事の心得違より、ます/\惑ひてかゝる事まで思ひよせられたるなりかし。そも/\かばかりの大人なりけれど、若きほどより説法と云わざして、人ををしへたてられし心ぐせやのこりけん。釋もすぐれて上手なる中に、ともすれば教への方に引つけ、又其歌にあづからぬ事どもを付そへて説なせるやうの事をり/\あり。今此釋も其たぐひにして、無用の談にはあれど、其人を知(ラ)せん爲に引おくなり。
 
(80)萬葉集墨繩卷三〈原本萬葉|檜※[木+瓜]《ヒノツマデ》卷第二)
 
   本集一之二【自七葉左至九葉右】
 
天皇|遊2獵《ミカリタヽス》内野《ウチノニ》1之時《トキニ》。中皇女〔左〔〕命《ナカノヒメミコノミコト》。
使《シメ玉フ》d間人連老《ハシビトノムラジオユシテ》獻《タテマツラ》u御〔左〔〕歌《ミウタ》。并短歌。
○天皇」は上の舒明天皇なり。
○遊獵《ミカリ》」諸抄注なし。今按に、神代紀下に、兄《イロセ》火闌降《ホスソリノ》命(ハ)自(ラ)有《マシ》2海幸《ウミサチ》1。弟《イロト》彦火々出見《ヒコホヽデミノ》尊(ハ)自(ラ)有《マシキ》2山幸《ヤマサチ》1云云。一書曰。兄《イロセ》火酢芹《ホスセリリノ》命(ハ)能《ヨク》得《マス》2海幸1。故《カレ》號《マヲス》2海幸彦《ウミサチビコト》1。弟彦火々出見(ノ)尊(ハ)能(ク)得《マス》2山幸《ヤマサチ》1。故(レ)號《マヲス》2山幸彦《ヤマサチビコト》1云云。とある、是(レ)物に見えたる始めなり。神武天皇より、次々もありつらめど、古き間(ダ)は漏て傳へず。紀に載たるは、雄略紀に五度見え、其(ノ)後もこれかれ見ゆるは(たゞ行幸と有も半(ハ)漁獵を兼給へりき)古への天皇、武き大稜威《オホミイツ》を以て、天(ノ)下を治め賜ひし御試行《ミナラシ》なりし也。此集にも、一【二十一丁】日雙斯《ヒナメシノ》皇子の御狩場へ、輕(ノ)皇子出まして宿り給へる時、人麻呂(ノ)歌に、日雙斯《ヒナメシノ》。皇子命乃《ミコノミコトノ》。馬副而《ウマナメテ》。御獵立師斯《ミカリタヽシヽ》。時來向《トキハキムカフ》。また三【十三丁】長皇子。遊2獵《ミカリタヽス》獵路野(ニ)1之時。柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ル)歌に、八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホギミ》。高光《タカヒカル》。吾日乃皇子《アガヒノミコ》。馬並而《ウマナメテ》。三獵立流《ミカリタヽセル》云云。又【五十八丁】安積《アサカノ》皇子(ノ)薨之時。内舍人大伴(ノ)家持(ノ)作(ル)歌に、掛卷母《カケマクモ》。文爾恐之《アヤニカシコシ》。吾王《アガオホギミ》。皇子之命《ミコノミコト》。物乃負能《モノヽフノ》。八十件男乎《ヤソトモノヲヲ》。召集聚《メシツドヘ》。率比賜比《アトモヒタマヒ》。朝獵爾《アサカリニ》。鹿猪踐起《シヽフミオコシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。鶉雉履立《トリフミタテ》。大御馬之《オホミマノ》。口抑駐《クチオサヘトメ》。御心乎《ミコヽロヲ》。見爲明米之《ミシアキラメシ》。活道山《イクヂヤマ》云云。此外卷々に多かり。【六(ノ)十四丁右、七(ノ)廿五丁右、又廿八丁右、又同丁左、十一(ノ)廿六丁右、十(ノ)廿二丁右、九(ノ)九丁右、十二(ノ)廿二丁左、十三(ノ)十六丁左、十四(ノ)十七丁右、十七(ノ)十二丁左、又四十五丁右、又四十六丁右、十九(ノ)十一丁左、又三十七丁左等に出(ヅ)。但(シ)此中にはたゞ人の獵もまじれリ。】
○内野《ウチノ》」考注云。大和(ノ)國宇智《ウチノ》郡の御野也」今按に神名式に、宇智(ノ)神社あり。宇智(ノ)郡は吉野山の西に當りて、吉野(ノ)郡と葛上(ノ)郡との間《アハ》ひなり。風土記殘缺(ノ)一本に、此(ノ)郡界を記(シ)て云(ク)、宇智(ノ)郡(ハ)東南(ハ)至(リ)2吉野(ノ)郡(ノ)界(ニ)1。西(ハ)至(リ)2紀伊(ノ)國(ノ)伊都。河内(ノ)國(ノ)石川二郡(ノ)界(ニ)1。北(ハ)至(ル)2(81)葛上(ノ)郡(ノ)界(ニ)1と見えたり。輿地通志云。内(ノ)大野(ハ)【大野村】阿多(ノ)大野(ハ)【阿※[こざと+施の旁]】とて、並て記せり。名所集に、内の大野、阿※[こざと+施の旁]の大野、名は異にして同じ野也といへり。和名抄に宇智(ノ)郡|阿※[こざと+施の旁]《アダ》 ※[こざと+施の旁]音(ノ)可(シ)2濁(テ)讀1 神名式に、同郡|阿陀比賣《アタヒメノ》神社あれば、全く一(ツ)所二名あるにはあらで、内野と阿※[こざと+施の旁]野と、並てつゞけるなるべし。
○中皇女《ナカノヒメミコノ》命」(代匠云。中皇命とは、何れの皇子を申にか云云。日本紀を見るに、舒明天皇のころより、齊明天皇までには、中皇命と申べき皇子も見えず、不審の事也云云』【已上】 と云れたるは女(ノ)字の落たるに心づかれざりし故なり。)考注云。舒明天皇の皇女にて、後に孝徳天皇の后に立給ひ、間人《ハシビトノ》皇と申せし也。故にたふとみて命と申し來れる也。此類の事、允恭紀にも見えたり。さて此皇女、下にも出たるに、御歌と有。かた/”\以てこゝに女と御の字を補ひつ。
 [細註〕 同別記云。こは舒明天皇の皇女、間人(ノ)皇女におはすと、荷田大人のいひしぞよき。さてまづ御|乳母《チオモ》の氏に依て間人を御名とするは例也。それを又、中皇女と申せしならんよしは、御|兄《セ》葛城(ノ)皇子と申す。葛城は、御乳母の氏により給ひ、それを中(ノ)大兄とも申すは、今一つのあがめ名也。御庶兄を古人(ノ)大兄と申せしなど、古へ御子たちの御名のさま、此外にもかゝる類あり。こゝに間人(ノ)連老てふ人もて、御歌を奉らせ給ふも、老は御乳母の子などにで、御睦き故としらる。かゝれば後に孝徳天皇の后に立ましゝ間人(ノ)皇女は此御事也。かくて崗本(ノ)宮などより次々に皇太子をば、日並知《ヒナメシノ》皇子命、高市(ノ)皇子命と申しき。中皇女命は後に皇后に立ましゝ故に、崇(メ)て命と申せり。仁徳天皇の御母|仲《ナカツ》姫命と紀に有は、皇大后なれば也。允恭天皇の皇后の御名も忍坂(ノ)大中姫(ノ)命と、紀に有。其比既に皇太子の外には、命としる《(せる脱か)》なきを思ふに、共に后に立ま(82)せし故に、たふとみて申す例なりけり。頭書云、その中姫は、三世(ノ)王、大中姫は二世の王にて命と申すは皇后ゆゑ也。かゝれば輕(ノ)皇子阿部(ノ)皇女をも命と申べきに、集に然かしるしたぬらは、後に命の字落しならん』【已上】
今按に、中皇女命は舒明紀曰。二年春正月丁卯(ノ)朔戊寅。立(テ)2寶(ノ)皇女(ヲ)1【皇極天皇也】爲2皇后(ト)1。后生(マス)2二男一女(ヲ)1。一(ヲ)曰《マヲシ》2葛城(ノ)皇子(ト)1。【近江(ノ)大津宮(ニ)御宇天皇】二(ヲ)曰(シ)2間人《ハシヒトノ》皇女(ト)1。三(ヲ)曰(ス)2大海《オホアマノ》皇子(ト)1【浄御(ガ)原(ノ)宮御宇天皇】云云。孝徳紀。大化(ノ)元(ノ)年秋七月丁卯朔戊辰。立(テ)2息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇(ノ)【舒明】女《ミムスメ》。間人(ノ)皇女(ヲ)1爲2皇后(ト)1。と見ゆ。此《コヽ》に皇女(ノ)命と崇め申せる事、考説いとよろし。又皇子王孫の名は、乳母の氏をとらるゝ事、古へ皆しかり。後の紀にも、其よし有と云るもたがはず。其中に中某《ナカノナニ》と中津某《ナカツナニ》と一(ツ)にして云るは、未(ダ)委(シ)からず。故(レ)此に中と申(シ)、間人と申す御名の意を考るに、上つ代、乳母人の親稱《シタシミナ》を間人《ハシビト》とぞ云(ヒ)けらし。そは其(ノ)子の朝夕乳汁《チ》を乞(ヒ)添臥《ソヒブシ》せるさま、もはら母《ハヽ》の如くして、まことは母にも非ず。さりとて其(ノ)親しき情は、他人とも思はれざりければ、親と他人との中間《アヒダ》の心を取て乳母《オモ》人をば、間人と稱《トナ》へ、其(ノ)間人《ハシヒト》の手一(ツ)にて、鞠養《ヤシナヒ》たてたる御子をば中の某《ソレ》とも、間人《ハシヒト》の某《ソレ》とも稱《タヽ》へしならん。中《ナカ》も間《ハシ》も、あはひの意は同じこと也。
 〔細註〕 二(ノ)卅四丁、左に去鳥乃《ユクトリノ》。相競端爾《アラソフハシニ》。一本に、打蝉等《ウツセミト》。安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》とあるも相競間《アラソフアヒダ》にの意也。即書紀に間(ノ)字を、波之《ハシ》と訓たり。又古今集雜(ノ)下、高津内親王和歌に「木にもあらず草にも非ず竹のよの波志《ハシ》にわが身は成ぬべらなり」とある、是も竹は、木と草との、中間《アヒダ》なる物なりければ、間《ハシ》の序に取拾へる也。此内親王は、續後紀云。嵯峨天皇踐祚之初。大同四年六月。授2親王三品(ヲ)1即立(テ)爲v妃(ト)。未(ダ)v幾(アラ)而廢(ラル)とあるに依(ル)に、此御歌は、其(ノ)廢せられんとし給へりしをりに、よみませるにて、一首の意は竹によせ(83)て、吾(ガ)御身の、いづれにもつかず、間《アヒ》だなる者に成行らんとの御述懷なり。又間を中とも云は神と、君との間《アヒダ》を執持《トリモツ》人を、中臣といひ、夫婦の間を、取(リ)結ぶ人を、中人《ナカヒト》とも、中立とも云(ヒ)、又直に男女の間を、中とも云(フ)。五(ノ)卅九丁右に、和我中能《ワガナカノ》。産禮出有《ウマレイデタル》。白玉之《シラタマノ》。吾子古日者《アガコフルヒハ》などよめり。先づこれらもて、間《ハシ》といひ、中といへる意をしるべし。
其(ノ)中に中(ツ)某《ナニ》と云しには、十四(ノ)卷に、殿の中《ナカチ》とよめるやうに、三柱の中なる御子の意も【中津比賣と申(ス)是なり。】有べく、又詔詞に、中今乃御代《ナカイマノミヨ》と云るやうに、盛なる稱名《タヽヘナ》も有べけれども此《コヽ》の如く一柱の皇女をも申(シ)、又第一(ノ)皇子をも、中大兄《ナカノオホエ》とやうに申せる類は必ず右の意ならんとぞおぼしき。又乳母を間人《ハシヒト》と云(ヒ)しも、悉く然りしにはあらで、御|乳汁《チヽ》、御中《ミナカ》のよく良《フサヒ》て、其(ノ)御子の慕(ヒ)給ふをばとりわき間人《ハシヒト》と呼ばせ給ひ、又|此《コヽ》の如く長く奉仕《ツカヘ》て、入内し給ふまで副《ソヒ》奉れるは、即て其御子(ノ)の御名にも負《オヒ》給ひ、又終に乳仕方の姓ともなりしが有けらし。姓氏録に、間人《ハシヒトノ》宿禰、又|間人《ハシヒトノ》造等も見ゆ。古事記、欽明(ノ)段なる、間人穴太部王《ハシヒトノアナホベノミコ》も右の例なるべきを、記傳【四十四(ノ)四十四丁】の釋に、間人《ハシヒト》は、間《ハシ》は借字にて土師人《ハシヒト》也といはれたるは強説《シヒゴト》也。間人《ハシヒト》と云姓のたえてあらずばこそあらめ。姓氏録にも、間人《ハシヒト》と土師《ハニシ》とは、別に出し、書紀などにも、各別に擧られたるものをや。かくて此(ノ)皇女の御歌、下の【十一丁】徃2于紀伊國1時の三首の端詞にも、御歌と記したれば、考注に、女(ノ)字御(ノ)字を補はれたるぞよろしき。今もこれに隨ひて改めつ。
 かゝる端詞も一度古點の本の趣を並べ出して、其上にて改むべきなれど、大に誤れらん外は、さのみも頂はしくて得出さず。たゞいさゝかの誤字、落字は傍にしろしをそへて出せれば其しるしもて分つべし。下皆これに傚へ。
(84)○間人漣老《ハシヒトノムラジオユ》」代匠云。孝徳紀曰。小乙下中臣(ノ)間人《ハシヒトノ》連老。老此(ニ)云2於喩《オユト》1 入v唐(ニ)而|歸還《カヘル》。【考注是に同じ】』【已上】 今按に、小乙下は少初位下也(同御卷曰。五年二月。制2冠十九階1云云。大織。小織。大繍。小繍。大紫。小紫。大華上。小輩下。大山上。大山下。小山上。小山下。大乙上。大乙下。小乙上。小乙下。立身【已上】十九階也)中臣は、此(ノ)老が本(ト)よりの姓也。間人《ハシヒト》は皇后の御乳母方の人なる故に、こたび新に賜へる姓也。【是を以て乳母を間人といひし事を知べし。】此(ノ)人御乳母の父かと思ふやうなれど、入唐とあれば、老人には有べからず。兄弟《ハラカラ》か、子にても有べし。何れにも此御代に出て奉仕《ツカヘ》けるは、皇女の、后に立賜ひて後に取立給ひしにこそ。連《ムラジ》は部主《ムラジ》にて、本(ト)は其(ノ)伴《ムレ》の中の大人《ウシ》の意の稱言《タヽヘゴト》なりけるが、一の姓稱《カバネ》と成(リ)しなり。凡て何れの姓屬《カバネ》も本は皆稱言ならぬはなし、縣居説に加婆禰《カバネ》と云言は崇稱《アガマヘナ》と云が約れる也といはれしはさる事なりかし。主《ヌシ》を自《ジ》と云は、宮主《ミヤジ》、戸主《トジ》、在主《アルジ》などの如し。
○使《シム》v獻(ラ)」代匠云。中皇命のよませ給ひて、間人(ノ)連をもて帝に聞えあげさせ給へる歟、又中皇(ノ)命、間人(ノ)達におほせて、よませて奉らしめ給へる歟、心得がたし。大かたは連が歌なるべし』考注云。中(ノ)皇女(ノ)命の御乳母がたにて、御したしければ、此人して御歌も奉り給ひし也』【已上】 今按に、考説の如く、皇女のよませ賜へる歌を老《オユ》に含(メ)て、父天皇の御前に獻(ラ)しめ賜へる也。今の心にては筆記したるを老して奉らしむを云と、おもふやうなれど然には非ず。かの仁徳天皇の御製歌を筒城(ノ)宮に坐(ス)皇后の御許へ、口持《クチモツノ》臣をして聞えさせ賜ひしさまに、口に持して獻り給ひし也。凡て此ほど迄は、皆其例にて(此集の頃は短歌は既に誦する迄の物となりたれば、筆のわざともなりつらめど、長歌は皆うたひしなり)いまだ悉くは筆のわざとはならず、筆に記すともそを人に聞するにはうたひたり(85)し也。孝徳紀に、川原(ノ)史《フビト》滿《マロガ》進而奉(ル)v歌(ヲ)。歌曰《ウタヒケラク》。耶麻※[鳥+我]播爾《ヤマガハニ》。烏志賦※[手偏+施の旁]都威底《ヲシフタツヰテ》。陀虞毘預倶《タグヒヨク》。陀倶陛屡伊慕乎《タグヘルイモヲ》。多例柯威爾鷄武《タレカイニケム》。【其一】摸騰渠等爾《モトゴトニ》。婆那播左該騰摸《ハナハサケドモ》。那爾騰柯母《ナニトカモ》。于都倶之伊母我《ウツクシイモガ》。磨陀左枳涅渠農《マタサキデコヌ》。【其二】皇太子|慨然頽歎褒美《アハレアハレトホメタマヒ》。曰《ノリ玉ヒテ》2善矣《ムカシキカモ》悲矣《カナシキカモト》1。乃《ヤガテ》授《アタヘテ》2御琴《ミコトヲ》1。而|使《シメ》v唱《ウタハ》。賜(ヒキ)2絹四疋。布二十端。綿二|※[果/衣のなべぶたなし]《ツヽミヲ》1。と見えたる、是は短歌なれども獻るにつきてうたへりし也。況や長歌をや。
○并短歌」代匠云。目録には并(ニ)短歌の三字をくはへたり。此集の例を思ふに反歌ある歌には、かく注すべき事也。もとは有けるが、後にうせたるか。初よりなかりけれど、目録をくはふるものゝ、心を得てそへたるか。後々これに准ずべし』【已上】 今按に、さる事なり。然るに考注には、此《コヽ》に無(キ)を本(ト)として、あまた此例に記せるをば、悉く削り棄られたり。こは漢めくを嫌てのわざなるべけれどもさりとて、もと漢文に書傳へたる端詞なるを、是のみ削りたりとて、何のかしこき事あらん。其上削るは私事也。たゞ一部の例に隨て漏せる所は、しるしそふべきわざにこそ。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》。我大王乃《ワガオホキミノ。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナデクマヒ》。夕庭《ユフベニハ》。伊縁立之《イヨセタテテシ》【或手鑑中古筆(ニ)之(ヲ)作v坐(ニ)】御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサユミノ》。奈加《ナカ》【先注云。加(ハ)誤v利(ノ)今誤v留(ヲ)歟。】弭乃《ハズノ》。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサガリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。今他田渚良之《イマタヽスラシ》。御執《ミトラシノ》。【元暦校本執(ノ)下(ニ)有2能(ノ)字1】梓能弓之《アヅサノユミノ》。奈加《ナカ》【先注如v上】弭乃《ハズノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
今改て新點をはどこす事、左のごとし
八隅知之《ヤスミシヽ》。我大王乃《アガオホキミノ》。朝庭《アシタニハ》。取撫賜《トリナデタマヒ》。夕庭《ユフベニハ》。伊縁立坐〔左〔〕《イヨセタテマス》。御執乃《ミトラシノ》。梓弓之《アヅサノユミノ》。奈留〔左〔〕弭乃〔ナルハズノ〕。音爲奈利《オトスナリ》。朝獵爾《アサガリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。今他田渚良之《イマタヽスラシ》。御執能〔左〔〕《ミトラシノ》。梓能弓之《アヅサノユミノ》。奈留〔左〔〕(86)弭乃《ナルハズノ》。音爲奈里《オトスナリ》。
○八隅知之《ヤスミシヽ》。我大王乃《アガオホキミノ》」仙覺抄云。日本紀第十一卷曰。武内宿禰答歌曰。夜輪瀰始之《ヤスミシヽ》。和我於朋枳瀰波《ワガオホキミハ》。于陪儺于陪儺《ウベナウベナ》云云。又同十四卷云。大泊瀬(ノ)天皇作歌(ニ)曰。野須瀰斯志《ヤスミシヽ》。倭我飫〓枳瀰能《ワガオホキミノ》。阿蘇磨斯志《アソバシヽ》云云。又續日本紀第五卷(ノ)歌(ニ)曰。夜須美斯志《ヤスミシヽ》。和己於保枝美波《ワゴオホキミハ》。多比良氣久那何久伊末之弖《タヒラケクナガクイマシテ》。等與美岐麻郡流《トヨミキマツル》。八隅知之。可v點(ズ)2之(ヲ)夜須美斯志《ヤスミシヽト》1。其(ノ)證據かくのごとし。先達多(ク)以(テス)2耶須彌志流《ヤスミシルヲ》1。帝は八方をしろしめす義たるの由釋v之(ヲ)。其義しからず。理を盡すにあらず。故いかん。天皇の御宇《アメノシタシラス》何(ゾ)限(ン)2八方(ニ)1乎云云』代匠云。抱朴子曰。八隅云云。此(ノ)こと別に注しつ(かくありて、枕詞(ノ)部にもなく此釋凡て代匠記二本の中に見えず。不審)冠辭考云。古書に四方八方を治め給ふなどいへる語もあれば、八隅まで殘なく知しめす天皇と申す事と誰もおもひて、實にさる御事なれば、さても有べし。然れどもかくては、から文の詞のごとく、理り過て皇朝の上つ世の稱《タヽヘ》ごとにも似ず侍るはいかに。よりて思ふに萬葉卷(ノ)一より始めて、かた/”\に、安見知之《ヤスミシヽ》。和期大王《ワゴオホキミ》と、書たるを正しき字とせんか。集中にも、祝詞にも、安良氣久《ヤスラケク》。平良氣久《タヒラケク》。見之賜《ミシタマヒ》。聞之賜《キコシタマヒ》などいひ、安國と見し給ひ、知しめすともよめり。さらば安らけく見そなはし、しろしめし賜ふてふ語をつゞめて、安見知爲《ヤスミシヽ》と云て、冠らしめたるにや侍らん。中略 知之《シヽ》とは立《タヽ》せ給ふをたゝしゝ、御坐《オハシ》ますを、おはしゝなど云類にて天皇の御事につけて、あがめ申語也。依て天下を安らけく見させ給ふてふ意ならん』記傳【廿八(ノ)十一葉左】云。夜須美斯志《ヤスミシヽ》は、冠辭考の説の如く、安《ヤス》けく見賜《ミタマ》ふなり。天武紀、續紀などに、安殿とあるも、(大安殿、内安殿、外(ノ)安殿、中(ノ)安殿、小安殿などある是なり)夜須美杼能《ヤスミドノ》にて天皇の安見爲賜《ヤスミシヽタマフ》殿と云意の名也。大安股《オホヤスドノ》とあるは、大極殿のことぞ。(87)さて美斯志《ミシヽ》を、立《タヽ》せ賜ふを立《タヽ》しゝ、御坐《オハシ》ますを、おはしゝなど云類にて、崇《アガメ》申す語也と、師の云れつるは、然ることなれども精しからず。其故は立《タヽ》しゝ、御坐《オハシ》しなどの類の下の斯《シ》は過去《スギニ》し事を云辭なるを、此(ノ)美斯志の下の志《シ》は然には非ず。今の現《ウツヽ》に坐《マシ》ます大君を申す辭なればなり。されば此(ノ)志《シ》は爲《シ》の意にて(安見《ヤスミシ》を爲賜《シタマフ》と云こと也。上の斯《シ》は見を古言に、美斯《ミシ》と云るなり。さて見《ミ》を物見、花見など云ときは、体言なるが如く、此(ノ)安見《ヤスミ》も體言なり。されば夜須美斯《ヤスミシ》と連《ツヾ》け讀て下の志《シ》を離してよむべし。夜須美《ヤスミ》とよみ、斯志《シヽ》とよむは言の意を細かにわきまへざるひがよみなり)萬葉十九に、豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》云云。また國見之勢志弖《クニミシセシテ》(これも國《クニ》を看爲《ミシシ》てと云ことなり。國看《クニミ》を爲《シ》てと云とは少し異なり。又|爲《ス》を勢須《セス》と云も古言にて、勢志弖《セシテ》は爲《シ》てなり、されば夜須美斯志《ヤスミシヽ》をも、此格に云へば、夜須美斯勢志《ヤスミシセシ》なり)などあると同じ云(ヒ)ざま也。然らば夜須美斯須《ヤスミシス》と云べきに、志《シ》と云は歌ふ語の一(ツ)の格《サマ》にて、異舍儺等利《イサナトリ》、海とつゞくるなど同(ジ)例なり』【已上】 今按に、此釋にて見知之《ミシヽ》の意はいと詳《クハシ》く明かに成來れり。されど安《ヤス》てふ言の意未(ダ)委しからず。彼(ノ)安殿《ヤスミドノ》、又|安《ヤス【良氣久】》平《タヒ》【良氣久】などは、平安の意也。今|此《コノ》安見知之《ヤスミシヽ》の安《ヤス》は浦安國《ウラヤスクニ》など云|安《ヤス》にして、うしろ安き意也。其《ソ》は此《コレ》の皇御國は神代の始(メ)より、天照大御神の神勅《ミコトノリ》にして、君は萬代の君、臣は萬代の臣と定まりて、外《ト》つ國などのやうに、傍(ラ)より其(ノ)御位を奪はんとする人、絶てあらざれば、うしろ安く【心がゝりなくの意也】天(ノ)下知しめす、大君とかゝれるなり。同語ながら安【良氣久】など云とは、其(ノ)意味異なり。そも/\吾天皇《アガスメロギ》の天津高御座《アマツタカミクラ》は、古事記上に、天照大御神之命以《アマテラスオホミカミノミコトモチテ》。豐葦原之千秋長五百秋之《トヨアシハラノチアキノナガイホアキノ》。水穗國者我御子《ミヅホノクニハアガミコ》。正勝吾勝勝速日《マサカアカツカチハヤビ》、天忍穗耳命之《アメノオシホミヽノミコトノ》。所知國《シラサンクニト》。言因賜而天降也《コトヨサシタマヒテアマクダシ玉ヒキ》云云。續紀。神護景雲三年。九月已丑。詔曰。云云。道鏡語(テ)2清麻呂(ニ)1曰。大神(88)所2以(ハ)請(フ)1v使者。蓋爲v告(ンガ)2我即位(ノ)之事(ヲ)1。因(テ)重(テ)募(ルニ)以(ス)2官爵(ヲ)1。清麻呂行2詣神宮(ニ)1。大神詫宣(シテ)曰。我國家開闢已來。君臣定矣。以v臣(ヲ)爲《スルコト》v君(ト)未(ダ)2之(レ)有1也。天(ツ)之日嗣(ハ)必(ズ)立(テヨ)2皇緒(ヲ)1。無道(ノ)之人宜(ク)2早(ク)掃除(ス)1。清麻呂來歸(テ)奏(ススルコト)如2神教(ノ)1云云。此集十九【二十七丁】天地之初時從《アメツチノハジメノトキユ》。宇都曾美能《ウツソミノ》。八十伴男者《ヤソトモノヲハ》。大王爾麻都呂布物跡《オホキミニマツロフモノト》。定有《サダメタル》云云。此類猶古書に多くして引にたへず。先(ヅ)これらもて、うしろ安く知(ラ)す。本意をさとるべし。さておほきみとは、天下の大君に坐(シ)ます意なれば、天皇を奉申は更なり。皇太子をも申し、此集には凡(テ)の皇子をも申せり。彼(ノ)日之御子《ヒノミコ》と申す尊稱も、皇子諸王までにわたして申せれば、おほきみと申も、同例なるべきもの也。今此二句の續き、記紀已下集中にもいと多くして、是又擧るにたへず。
 〔細註〕 記の景行(ノ)段、仁徳紀、雄略紀、繼躰紀、續紀聖武御卷、此集一(ノ)十八丁、又十九丁、二(ノ)廿三丁、又廿四丁、又廿五丁、三(ノ)卅丁、六(ノ)十二丁、又十三丁、又十四丁、又十七丁、又廿一丁、又卅二丁、又四十六丁、十九(ノ)卅九丁、又四十二丁等に出(ヅ)。其(ノ)中に和期《ワゴ》大王とよみたるは二(ノ)廿四丁、六(ノ)十二丁、又十三丁、又十四丁、等に出(ヅ)。かゝれば文字もて、我大王と書たるも、皆|和期《ワゴ》と訓べしと云(フ)人も多かれど、既に記紀等にも悉く和賀《ワガ》とのみ書たれば、和賀と訓(ム)が本意也。さて此集の右の卷々、又續紀等の歌に、和期とあるは、其歌をうたひし時の音《ネ》ぶりに依て也。其(レ)に泥(ミ)て此集の我大王を、悉く和期と訓(メ)るはひが事也。唯和期と書分ざる他は皆和賀とよむべきなり。
○朝庭《アシタニハ》」代匠には、釋なし。考注云。朝影爾者《アサケニハ》也。古事記、雄略條に、夜須美斯志《ヤスミシヽ》。和賀淤冨岐美能《ワガオホキミノ》。阿佐計爾波《アサケニハ》。伊余理※[こざと+施の旁]多志《イヨリタヽシ》。由布計爾波《ユフケニハ》。伊余理※[こざと+施の旁]多須《イヨリタヽス》。和岐豆紀賀斯多能《ワキヅキガシタノ》。伊多爾母賀阿世袁《イタニモガアセヲ》。これと物は異なれど、言の意ひとしければ、今をもしか訓つ。且|由布計《ユフケ》としも有からは、朝影《アサカゲ》、夕(89)影《ユフカゲ》の略なる事知べし』【已上】 今按に、此説いみじきひが事也。彼(ノ)古事記の歌は、古本皆、阿佐斗《アサト》。由布斗《ユフト》とありて、即朝戸夕戸の意也。玉小琴、略解等にあしたには、ゆふべにはと、訓るが如し。三【六十丁右】朝庭出立偲《アシタニハイデタチシノビ》。夕爾波入居嘆合《ユフベニハイリヰナゲカヒ》。八【五十二丁】旦者庭出立《アシタニハニハニイデタチ》。夕庭《ユフベニハ》。床打拂《トコウチハラヒ》。十三【十五丁右】朝庭出居而嘆《アシタニハニハイデヰテナゲキ》。夕庭入居而思《ユフベニハイリヰテシヌビ》。又【三十丁右】朝庭出居而嘆《アシタニハイデヰテナゲキ》。夕庭《ユフベニハ》。入座戀乍《イリヰコヒツヽ》(此外、朝と、暮《ユフベ》とを對してよみたる、一(ノ)八丁、二(ノ)十八丁、又廿五丁、又卅二丁、又四十一丁、三(ノ)廿九丁、又卅九丁、四(ノ)十六丁、六(ノ)十一丁、又十五丁、又十六丁、八(ノ)卅三丁、又五十二丁、十三(ノ)五丁、又八丁、又廿三丁、又廿九丁、又卅丁、又卅一丁、十五(ノ)十一丁、又廿四丁、十七(ノ)廿一丁、又四十四丁、十八(ノ)廿丁、廿(ノ)廿五丁等に見ゆ。但(シ)此中には、朝某《アサナニ》、夕某《ユフナニ》と云るもこめてひきつ)凡(ソ)かばかり數多ある例になどて心付れざりけん。
○取撫賜《トリナデタマヒ》」代匠云。弓はめでたき徳の有物なるゆゑに、もろこしにも此國にも、天子までこれをいさせ給ふ。女は鏡を寶とし、男は弓を寶とする故に、神樂歌にも「四方山の人の寶とする弓を神のみまへにけふたてまつる」とよめり。朝には取いで、塵など打はらひてこれをひき、夕べには取おきてよせたつる也」考注云。神武天皇、天津|璽《シルシ》とし給ひしも只弓矢也。こを以て天(ノ)下治め知(リ)ます故に、古への天皇、是を貴み愛《メデ》ます事如v此也』【已上】 今按に、取《トリ》は上の取與呂布の取と同例ながら、此《コヽ》にては在に手に取て撫《ナデ》給ふなれば、其(ノ)言|動《ハタラ》きたり。さて撫《ナデ》とは、御寵愛の深きよし也。
○伊縁立坐《イヨセタテマス》」仙覺抄云。いよせたてゝしは、いは發語の詞也。天竺には阿字を發語の詞とす。我朝には、伊字を發語の詞とする也』代匠云。伊は發語(ノ)辭にて、此集に尤多し。のち/\是に准じて知べし。唐土も同じければにや。爾雅曰。伊(ハ)維也。注(ニ)曰。發語(ノ)詞(ナリ)也。とあり』考注云。伊は發語《オコシコトバ》に(90)て意なし。下同じ。よせたゝしてふは、夜の間もおろそげにせさせ給はぬ意也』略解云。いは發語にて意なし。よせたてしめ給ふ也』【已上】 今按に、發語といへどもそれ/”\に意あり。今此|伊縁《イヨセ》、伊行《イユキ》、伊反《イカヘリ》等の伊《イ》は氣息《イキ》、稜威《イツ》、勢《イキホヒ》、勇《イサム》、憤《イキドホル》等の伊《イ》にして、氣を張(リ)心をこめ、力(ラ)を入てものするより、殊更に思起して、企つる事の上に必ずおける事、次々の歌どもを見合せて知べし。さて今本に、此(ノ)句を伊縁立之《イヨセタテヽシ》と有て、諸抄皆いよせたててしと訓たり。然るに、或家に藏せる手鑑の古筆【六條(ノ)宮御筆】の寫とて、人の見せたるに伊緑立坐《イヨセタテマス》とあり。思ふに立之《タテヽシ》にては、其(ノ)對の取撫賜《トリナデタマヒ》と云に、語《コトバ》背けて過去の之《シ》も、穩かならねば、今は其古書に依て、立坐《タテマス》に改めつ。かくては、賜《タマヒ》と坐《マス》とよく相(ヒ)應じて續きがらも宜し。今本の之は、坐を、寫し誤り來りしなるべし。
○御執乃《ミトラシノ》」仙覺抄云。みとらしと云は御弓なり。又はみたらしとも云。ととたと同内《ドウナイ》相通の故なり云云』代匠云。みとらしは、御手にとらす也。とらすは、とる也。雄略紀に弓(ノ)字をみたらしとよめるも御執《ミトラシ》のことばを、用をもて體に名づけ、五音通ずるによりて、とをたと、なせるにや』類林云。雄略紀、五年春二月。瞋猪《イカリヰ》直(チニ)來(テ)欲(ス)v噬《クラハマク》2天皇(ヲ)1。天皇用(テ)v弓《ミタラシヲ》刺止(テ)。擧(テ)v脚《ミアシヲ》踏(ミ)殺(シ玉フ)。内藏式云、御弓《オホンタラシ》云云。書添云、太刀は、佩ス物故ニ御佩《ミハカシ》ト云(ヒ)、衣ハ著《キ》マス物ナル故ニ、御者《ミケシ》ト云(ヒ)、弓ハ執《トラ》ス物ナル故ニ、御執《ミトラシ》ト云』似閑云。御料ノ品ヲ、今|御料《オンメシ》ノ馬、御料ノ御衣ナド云心バヘノ詞ナリ』【已上】 今按に、此等の釋のごとし。
○梓弓之《アヅサノユミノ》」考注云。弓はくさ/”\の木もても作れども、延喜式にも、御弓は梓なるを思ふに、古へよりしか有しならん』【略解全おなじ。】記傳【卅三(ノ)六十七葉】云。梓弓にて、たゞ弓なり。【此は梓には意なし。】和名抄に、孫※[立心偏+面](ガ)切韻(ニ)云。梓(ハ)木(ノ)名。楸(ノ)之屬也(ト)。和名阿豆佐とあり。其(ノ)木桐に似て、葉も似たり。梓弓は、此(ノ)木を以て作れ(91)る弓也。かくて古(ヘ)は、弓には此木を用ひたりし故に何《ナニ》の木となく、たゞ弓のことをも、常に梓弓と云(ヒ)なれたりき』【已上】 今按に、此説ひが事也。弓は古へ、くさ/”\の木もて造れりし中にも、專(ラ)梓を用ひたりし故に、弓の事を、後には、只梓とのみも云とはいふべし。他し木もて作れるをば、いかで梓弓とは云(ハ)ん(凡て記傳の彼歌の釋は、悉くひが事也。其(ノ)よしは、おのれが、八十(ノ)言別に、委く辨へつ)考注に云る如く、延喜式に、御弓(ハ)梓(ナリ)とあれば、御執《ミトラシ》の弓は、多く梓なりし也。此(ノ)木の事を、猶按ずるに本草綱目云。宮寺人家園亭(ニモ)。亦多植v之(ヲ)。爲2百木(ノ)長(ト)1。屋室(ニ)有(スハ)2此木1。則餘材皆不v震《フルハ》。爲(ルコト)2木王1可(シ)v知(ンヌ)。其木似(テ)v桐(ニ)而葉小(ク)。花紫(ニシテ)生(ズ)v角(ヲ)。其角細長(シテ)v著《ハシノ》。其長(サ)近(ク)v尺(ニ)。冬(ノ)後葉落(テ)。而角猶在v樹(ニ)。其實(ヲ)名2豫章(ト)1。其花葉(ヲ)飼(ヘバ)v猪(ニ)。能(ク)肥(テ)大云云。凡(ソ)如(キ)v此靈樹なる故に、弓にも多く用ひられたるならん。延喜式三【三十丁】信濃國、梓弓百張、また續紀大寶二年三月甲午。信濃國。獻2梓弓一千二十張(ヲ)1。又景雲元年。夏四月庚午。以3信濃國獻2梓弓一千四百張(ヲ)1。充(ツ)2太宰府(ニ)1。三代實録、元慶二年五月九日。獻2信濃國梓弓二百張(ヲ)1。など見ゆ。【檀弓、槻弓等は此に省きつ。】集中の歌にも、多くよみたり。
 〔細註〕 二(ノ)十一丁二首、又廿一丁、九(ノ)十七丁、十四(ノ)廿四丁三首、十一(ノ)十六丁、左右二首、又十三丁、又廿六丁、又卅四丁、又四十七丁、十二(ノ)十六丁、十三(ノ)廿三丁、又廿八丁、十四(ノ)卅四丁、十八(ノ)廿一丁、十九(ノ)廿八丁、四(ノ)廿丁等に出(ヅ)。これら多く檀弓、槻弓、櫨弓等に對へいへれば、何れも正しく梓弓なる事を、准へて知べし。仁徳紀、允恭紀等に、二三首見えたるも、又准ふべし。
○奈留珥乃《ナルハズノ》。音爲余利《オトスナリ》」仙覺抄云。中はずの、おとすなりと云は、弓のつるはすと云云。詠(ズ)v之(ヲ)。廣韻曰、釋名(ニ)曰。其(ノ)末(ヲ)曰v※[弓+肅](ト)。又謂(フ)2之(ヲ)弭(ト)1。以v骨(ヲ)爲(ル)v之(ヲ)。骨弭是也』代匠云。なかはずは、うらはず也。(92)云云。【此末ます/\まだしかれば今略之』】考注云。卷六【今の十四】安豆佐由美《アヅサユミ》。須恵爾多麻末吉《スヱニタママキ》。可久須酒曾《カクスヾゾ》とよみたるを思ふに、古へは弓弭をまき、鈴を懸つれば、手に取ごとにも鳴からに、鳴弭とも云べし。今本には、奈加弭とあれど古(ヘ)今に中弭てふ語もなく、理りもなし。此|加《カ》は留《ル》の草の手より、誤りつと見ゆれば改めつ。同頭書云。古(ヘ)の物には、鈴を付たるぞ多かる。釧の鈴、足《ア》ゆひの鈴、太刀の鈴、鈴印《スヾオシデ》と云も、鈴付しもの也。古鏡の端に、鈴を六つ鑄付たるもあり。然れば弓弭には、いよゝ鈴を付て弦の音を添しなるべし。古弓は、鞆にあたる音のみにて、※[弓+肅]に音なければ也』略解云。弓射るに殊更に弦の弭にあたりて、鳴るべくせるを、鳴弭といひしか、さらば加は、利の字の誤りならん』小琴云。利ヲ加ニ誤レリ。考ニハ留ノ誤トセラレタレド遠シ利ト加ト、ヨク似タリ【追考】』【已上】 今按に、留(ノ)字を古書には、專(ラ)〓と作《カケ》り。此(ノ)留(ノ)字の下の、田の滅けんを、加と見誤りたるならん。鳴某《ナルナニ》と云稱多く奈留某《ナルナニ》と云(ヘ)れば也。神代紀に、 鏑(ハ)此(ニ)云(フ)2那流※[言+可]夫良《ナルカブラト》1。古事記上に、於《ニ》2左(ノ)足(ハ)1者。鳴雷居《ナルイカヅチヲリ》。此集十九【三十四丁】光神《ヒカルカミ》。鳴波多※[女+感]嬬《ナルハタヲトメ》とよみて、今世にも、鳴神《ナルカミ》とのみ云り。卷九【九丁】の響矢も、袖中抄に、那流夜《ナルヤ》とよめり。此外|鳴瀧《ナルタキ》、鳴澤《ナルサハ》、鳴尾《ナルヲ》、鳴海《ナルミ》等の類(ヒ)、多く鳴《ナル》と云り。但(シ)字鏡に、鏑(ハ)奈利加夫良《ナリカブラ》ともあれば、奈利某《ナリナニ》と云る例も、なきにはあらざれど、其多き方、古き方に隨ひて訓べき也。さて弭は字書に弓(ノ)梢、末也と注し、※[弓+肅](ハ)弭(ノ)頭也と注せれば、※[弓+肅]と同物也。和名抄に、釋名(ニ)云(ク)。弓(ノ)末(ヲ)曰(フト)v※[弓+肅]。和名|由美波數《ユミハズ》と見え、神代紀に、弓※[弓+肅]【ユハズ】【崇神紀同(ジ)】神武紀に、皇弓※[弓+肅]《ミユミノハズ》などあり。彼(ノ)仙覺抄に引る釋名に、以v骨爲(ル)v之(ヲ)とあると、此集十六(ノ)【三十丁】長歌【鹿の言に】吾爪者《ワカツメハ》。御弓之弓波受《ミユミノユハズ》。とよめるとを合せて思へば、骨、爪、角などして、造りしなるべし。名義は端末《ハズヱ》の下略にてもあるか。古事記※[言+可]志比(ノ)宮(ノ)段に、弭《ハズシ》v弓(ヲ)藏《ヲサメテ》v兵(ヲ)とあ(93)るによらば、弦をはずす處なる故に、云にも有べし。其(ノ)形は箭にも筈《ハズ》と云が有て、今(ノ)俗《ヨ》に物の※[馬蹄の形]如v此なるを、矢筈《ヤハズ》と云(フ)。弓の弭《ハズ》も、弦の懸る所有べき也。かくて二【三十四丁】に取持流《トリモタル》。弓波受乃|驟《サワギ》云云。聞之恐久《キヽノカシコク》。とよみたるは、凡ての戦の驟《サワギ》を云るか又數多の弓の鳴弭の音の饗を云るか、定かならねど、高鞆など云て、音もて威《オド》す事の多かりつるに合せておもへば、此弭にも、考注に云る如く、鳴《ナル》べく作(リ)なしたるが有て、それを鳴弭と云(ヒ)しならん。
○朝獵爾《アサガリニ》。今立須良思《イマタヽスラシ》。暮獵爾《ユフガリニ》。今他田渚良之《イマタヽスラシ》」代匠云。たゝすらしは、立ますらんと、思ひやり給へる也。日本紀にも、二神天の淨橋に立たまふを、たゝしてと訓り。古語は皆かくのごとく、かう/”\しき事多し』考注云。こゝの朝暮は、上の朝夕てふ言を轉し云|文《アヤ》也。卷十五【今の六】の朝獵に、しゝふみ起し、夕獵に、鳥ふみたて、馬|並《ナメ》て、御獵ぞたゝす、春の茂野に。とよめるはこゝによれるならん。立須《タヽス》は、崇《タフトメル》辭也』略解云。たゝすは、立しめ給ふを、約てたふとむ詞也【已下考注と全く同じ』】小琴云。朝ト暮ト二ツナガラ、今タヽスララシト云ルコト、誰モ疑フメリ。コハ朝ガリトハ朝饌ノ料ヲトルヲイヒ、夕ガリトハタ饌ノ料ヲトルヲ云名ニテ、其(ノ)獵スル時ヲ云ニ非ズ。サレバ時ニ拘ラズ、覇獵ヲモ夕獵ヲモスルト也。【追考】』【已上】 今按に、こは笑ふに堪たる説也。もしは十一【四十二丁】に、伊勢乃白水郎之《イセノアマガ》。朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》。潜云鰒貝之《カヅクトフアハビノカヒノ》。とよみたると、一つに思ひなして、かゝるひが説をいひ出られたるか。浦の蜑が魚菜を捕《トル》は實に食料の爲なれば、かくは書(キ)たる也。それと天皇の遊獵とを、いかでか一つに云(ハ)ん。既に上の端詞【則卷の初丁】の御獵の條に、云るが如く、古への天皇の獵をせさせ給ひしは、專(ラ)武の下ならしにして、且は御心やりの御爲《ミワザ》なりければ遊獵とはかける也(もし鳥など捕せ給はゞ大御饌(94)にも、獻るべけれども、それは只傍(ラ)の事なり)三【五十八丁】掛卷母《カケマクモ》。文爾恐之《アヤニカシコシ》。吾王《ワガオホキミ》云云。朝獵爾《アサカリニ》。鹿猪踐起《シシフミオコシ》。暮獵爾《ユフカリニ》。鶉雉履立《トリフミタテ》云云。六【十四丁】安見知之《ヤスミシヽ》。和期大王波《ワガオホキミハ》云云。朝狩爾《アサカリニ》。十六履起之《シシフミオコシ》。夕狩爾《ユフカリニ》。十里※[足+搨の旁]立《トリフミタテ》。馬並而《ウマナメテ》。御※[獣偏+葛]曾立爲《ミカリゾタヽス》。春之茂野爾《ハルノシゲノニ》。十七【四十五丁】朝※[獣偏+葛]爾《アサカリニ》。伊保都登里多底《イホツトリタテ》。暮※[獣偏+葛]爾《ユフカリニ》。知登理布美多底《チドリフミタテ》云云。などつゞけたる、是らいづこに、食料の意ありとかせん(彼(ノ)朝魚夕菜《アサナユフナ》は、菜《ナ》と云に食料の意あれど、獵《カリ》は只|駈分《カリワク》るを云て、櫻がり、紅葉がりなども云る詞なるをや)たゞ朝夕を對(ヘ)て云る詞の文《アヤ》なり。此(ノ)朝夕を對(ヘ)たる詞の事、既に上の、朝庭《アシタニハ》云云、夕庭《ユフベニハ》云云の下に丁附を出し置たれど、猶此にも二つ三ついはゞ、二【二十五丁】(【ゆふされば。めし給ふらし。あけくれば、とひ給ふらし】又【三十二丁】(【朝宮を、わすれ給ふや。夕宮を、そむき給ふや】三【二十九丁】(【朝雲に、田鶴はみだれて。夕霧に河津はさわぐ】又同丁(【夕されば、潮をみたしめ。明されば、潮をひさしむ】四【十五丁】(【朝なぎに、水手の聲よび。夕なぎに、かぢの音しつゝ】六【十四丁】(【あさなぎに、千重浪より。ゆふなぎに、五百重浪よる】又【十六丁】(【朝なぎに、玉藻かりつゝ。夕なぎに、藻鹽やきつゝ】又【四十七丁】(【朝風に浦なみさわぎ。夕風に、玉もはきよる】八【三十三丁】(【朝なぎに、いかきわたり。夕しほに、いこぎわたり】十三【六丁】(【朝日なす、まぐはしも。夕日なすうらぐはしも】又【八丁】(朝なぎに、みちくるしほの。夕なぎによりくるなみの】又【二十八丁】(【あしたには、めしてつかはし。ゆふべには、めしてつかはし】又【三十一丁】(【朝なぎに、かこの音しつゝ。夕なぎに、かぢの音しつゝ】などある、此等照し合せて、唯調の助《タスケ》なる事を知べき也。こは猶朝と暮とには限らず他《アダ》し語の上にも、一聯の句の調《シラベ》には、恒多かることなり。又一つ二ついはゞ、二【二十三丁】(【沖さけて、こぎくる舟。邊つきて、こぎくる舟】又【二十五丁】(【今日もかも、問給はまし。明日もかも、召給はまし】又【三十一丁】(上つせに、いはばしわたし。下つせに、うちはしわたし】五【九丁】(【かくゆけば人にいとはえ。かくゆけば人ににくまえ】六【二十五丁】(【かきなでぞ、ねぎ給ふ。うちなでぞ、ねぎ給ふ】又【三十六丁】(【つき給はん、島のさき/”\。より給はん、磯のさき/”\】又【四十丁】(【あなたふと、ふたぎの原。いとたふと、おほみや所】八【三十三丁】(【かくのみや、いきづきをらん。かくのみや、こひつゝあらん】又【同丁】(【さにぬりの、小舟もがも。たまゝきの、眞※[楫+戈]もがも】九【三十一丁】(【あはぬ日の、まねくすぐれば。こふる日の、かさなりゆけば】又【三十二丁】(【ながき世の、かたりにせんと。のち人のしぬびにせんと】十三【七丁】(【なびけと、人はふめども。かくれよと、人はつけども】又【九丁】(【もとめて、得てし玉かも。ひりひて、得てし玉かも】又【同丁】(【おもへども、胸やすからぬ。こふれども、心のいたき】又【十七丁】(【赤駒の、うまやをたて。黒駒の、うまやをたて】又【二十六丁】(【おきつ波、きよる白玉。へつ波の、よする白玉】又【二十四丁】(【つゝじ花、にほへるをとめ、さくら花、さかゆるをとめ】又【二十七丁】(【あまなくに、いかりもちき。しかなくに、いかりもちき】又【三十五丁】(【ことさけば、國に(95)】さけなん。ことさけば、家にさけなん】凡そ此等の四句二行の調(ベ)べよ、左右何れにても一行にて事は足たるを、少し語をかへて合せ云るが、古への雅《ミヤ》びなりし也。然るに今此皇女の御歌の、朝獵爾《アサカリニ》云云、暮獵爾《ユフカリニ》云云は、次に今立すらしとあるを心得かねて、右の如き説は、立たるなれど、こは朝獵爾《アサカリニ》の一行が有用にして、次の暮獵爾《ユフカリニ》の一行は、只うたふしらべのみ也。そは古への雅樂には、必ず定れる節博士《フシハカセ》と云ことありて、もし其ふしに足はざる時は、同じ言を再びをり返しても、其(ノ)調べにかなへずしては、うたはれざりし也(故(レ)古への歌に同じことのおほきなり)こを今、此(ノ)處に引る句|等《ドモ》もていはゞ、彼(ノ)十三(ノ)卷なる歌も、沖つ浪のよする玉と、邊つ浪のよする玉と二つにはあらず。只浪のよせ來る玉といふことを、かくは云る也。又つゝじ花の如くにほへる少女と、櫻花の如くさかゆる少女と、二人にはあらず、たゞ紅顔の少女と云こと也。又赤駒の厩と、黒駒の厩と、二つ建るにはあらず。只厩をたてゝかふ駒と云を、かくいひて、調べをとゝのへたる也。此等の例をもてわいだむべきものぞ。猶次の反歌の下に云ことゞもをも、合せて心得べし。又代匠記以下の、立《タヽス》須の釋もわろし。たゝすは、立《タツ》を延(ベ)たるにて、行《ユク》をゆかす、待《マツ》をまたすと云類なるが、崇《アガ》まへ辭ともなりぬるは、言のゆるやかなる故也。さて良思《ラシ》は推量の辭にて、此《コヽ》は鳴弭《ナルハズ》の音を聞(カ)して、朝獵《アサカリ》に出(デ)立すを、察し給ふなり(今俗に、某《ナニ》らしいと云もこの辭の遺れるなり)斯《カク》て此(ノ)御歌、此句までが一段也。
○御執能梓弓之《ミトラシノアヅサノユミノ》。奈留弭乃音爲奈里《ナルハズノオトスナリ》」代匠云。古歌には、くりかへし、ねんごろによめる事おほし。毛詩などの、三章、四章も同じことを、少しづゝ詞をかへて云るは、まことのあつき也』【考注云。留を加に誤れること上に同じ。一所の誤を末まで取誤る類ひおはし』【已上】 今按に、こはまことの篤き故にはあらず。例のうたふしらべ也。後の詩(96)歌も、たえてうたはぬにはあらざれど、そはこなたより節をつけてうたふ也。古へは何の曲にまれ、其|雅樂《ウタマヒ》の定れる曲節《フシハカセ》の方を本(ト)して、其(レ)にならひて句をしらべてし故に、其(ノ)節に隨ひて、句も並《ナラ》ばりしなり。然るを後の世となりて、此ゆゑよしをしらずなれるより、たゞ同語の多きは、古への歌のくせの如くに思ふめれば、返々も、かくねんごろにことわる也。【此事長歌撰格を見合すべし】さて此句にして二段なり。
○一編總ての意は我(ガ)大君の晝《ヒル》は取(リ)撫《ナデ》愛《メデ》たまひ、夜(ル)は御側によせ立(テ)坐(シ)て、護りとなし給ふ御弓の、鳴弭の音のいさましさよ【一段】朝獵に今立すらし、あはれ我も男ならましかば從駕《ミトモ》せましものを、彼(ノ)引鳴(ラ)す鳴弭の音の、いさましさよ【二段】となり。さてかく二度までくり返し、羨しみ給ふは、もしも天皇のさほどうらやましからば、汝《ミマシ》も御供せよと、詔《ノタマ》はんかとて、御心を引(キ)給ふにぞ有ける。故《カレ》其(ノ)御出立にしも、かくはの給ひ聞えたまふなりかし。諸抄にかゝる風情を味はへたる釋は一つもなく、皆いとおろそかなり。
 
   反歌
 
代匠云。端詞に、并短歌とある、短の字を、反とは書る歟。皇朝の古へは、同音の字を、通はし用ひしかば、こゝも若(シ)短を段に代《カヘ》て、段の草書、段を反に誤りたるにやあらん』考注云。こは上の長歌の意を約めて、或は長歌にのこれる事にても、短歌に打反しうたふ故に、かへし歌とはいへり。然るに是をば、字音のまゝに唱ふる事といふ人あれど、皇朝の古言を、字音に唱ふるはひが事なれば、從ふべからず。さて長歌に短歌を添る事は、古事記にも、集にも、上つ代には見えずして、こゝにあるは、此しばし前つ比よりや、始りつらん』略解云。是は長歌の意を約めても、あるは長歌に(97)殘れる事をも、短歌に打返しよむ故にかへし歌と云云々【已下全考注に同じ】』【已上】 今按に、こはよめる長歌の返歌には非ず(自《ミ》の歌にに自《ミラ》返しすべきいはれもなし)其(ノ)歌をうたふ時の、聲の返しに用ひたる短歌の名也。假令《タトヘ》ば、中古に、神樂催馬樂(ノ)歌をうたひしに、呂の律に返る時に、青柳、朝倉、大比禮《オホヒレ》等の歌を借て、其(ノ)音《ネ》ぶりを返す事ある頼也。
 〔細註〕 袖中抄、返し物の條に、右の歌どもを引て、神樂(ノ)譜(ニ)云(ク)、朝倉吹(キ)返(シ)催馬樂、拍子云々「あさくらや木の丸殿にわれをれば名のりをしつゝ行は誰か子ぞ」此歌|爲《ス》2御前(ノ)返(シ)歌(ト)。是(レ)延喜廿一年(ノ)勅定也。神樂遊仕る時は、榊(ノ)音振《ネブリニ》唱(フ)。又云(ク)。星已(ニ)了(リテ)掻2返《カキカヘ》絲竹(ヲ)1して、可《ベ》仕(ル)2朝倉(ヲ)1支《キ》、催(ス)2堪能(ノ)之歌人(ヲ)1。私(ニ)云(ク)、朝倉うたふをば、あさくらかへすと云。或は吹(キ)返といひ、或は掻2返絲竹1と云り。或は催馬樂拍子と云り、云々。此かへすは笛も琴も、別にしらべ改むるか。催馬樂拍子と云にて知りぬ云々』【已上】 江家次第、石清水(ノ》臨時(ノ)祭(ノ)儀に「舞人出(デ)畢(テ)陪從|反《カヘシ》歌退出」と見えて抄に「反歌(ハ)大比禮返ハオホヒレカヘシ》也」とあり。源氏若菜上(ノ)卷に「唱歌《サウガ》の人々、御階に召て、勝れたる聲のかぎり出して返り音《ゴヱ》になる。夜の更(ケ)行(ク)まゝに、物の調(ベ)どもなつかしくかはりて、青柳遊び給ふほど云々」注に「かへり聲になるは呂の律になるなり」と有り。體源抄にも「返り聲に青柳をうたふと云は、律の聲を返り聲と云」と云り。是は凡て律(ノ)聲を返(リ)聲と云には非ず。呂(ノ)聲の易《カハ》り、律(ノ)聲になれるを云なり。伊勢家集に「故中務(ノ)宮の琴を借り給ひて、吾妻琴春の調(ベ)を借《カリ》しかば返し物とは思はざりけり」此歌の意は春の調(ベ)は呂にて、律に非れば返(シ)物とは思はずと云て、借りたるを、返すべき物とは思はずとたはぶれたるなり。此外仁智要録、五重序、鳴鳳集、樂譜要録等の樂律の書を照し合せて、うたひし歌には必ず呂律に依(98)てかへり聲に、借用ふる歌有事を知べきなり。古事記、書紀に載られたる長歌どもに、反歌の副《ソハ》ざるは、其歌どもを雅樂寮より獻りける時に反歌をば別に分て出せし故なり。又其中には、古き代の歌どもなりければ、其歌主の借用ひたる反歌迄は、知られがたくなりつるも有しならん。仁徳天皇(ノ)條に、此(ノ)六歌《ムウタハ》者、志都歌之返歌也《シヅウタノカヘシウタナリ》とある類也。(此外|上歌《アゲウタ》、尻上歌《シラゲウタ》、片下《カタオロシ》などくさ/”\の名あるもて、各別になして獻りし事を知べし。是史典に載るは、うたふためにあらざればなり)かゝれば代匠記に段を反に誤れるかと云るもまだしき説なるを、近來或説に彼(ノ)非《ヒガゴト》を補ひて、左右《カニカク》に助け云るも又|強説《シヒゴト》也。今集中を考るに、反歌の處に短歌と書るは【一(ノ)廿一丁左、又廿四丁右、二(ノ)卅三丁右、又卅五丁左、又卅八丁右、又卅九丁右、又四十一丁右、又四十四丁左等に出(ヅ)】一二(ノ)卷に十首ばかり見えて、三(ノ)卷より二十(ノ)卷(ノ)終までに、一處も見えず。是をふと見れば、一二(ノ)卷に短歌と書しは端詞より移りたる誤かとも思ふやうなれど、然らず。是本(ト)撰びたる手ぶりの、遺りたるにで、却て正しかるべし。そは二(ノ)卷四十一丁に、人麻呂(ノ)長歌二者、並(ビ)たるに、初(メ)なるには短歌と出し、次なるは反歌と擧たる類ひの歌どもを、此(レ)彼(レ)合せて考るに、短歌とあるは其時長歌もよみ、短歌もよめるにて、返(シ)歌には借ざりし也。又反歌とあるは長歌の終《トヂメ》を呂にうたひて、次の短歌を律のかへり聲に借たる也。此返(シ)に用ひたるは、必ず一首なるべければ、もし二首、三首あるらんは、其(ノ)ついでによめる短歌を其まゝ並べ記せしなるべし。さて十三(ノ)卷も古萬葉五卷の内なりければ、一二(ノ)卷と同じ記しざまなるべきに、然らざるは後に亂れたるならん。今其卷を見もてゆくに、歌のついでもいたく亂れ、端詞などもうせ、一首の長歌のこゝかしこに入まじりなどして、凡て撰びたる趣はあらずなりにたり。かゝれば一たび、しか散亂《ミダレ》しを、後に取集めたる人、己が目《マ》じ(99)るしに、【歌の左に】右二首、右四首とやうに記し付ける程なりつれば、此(ノ)短歌、反歌の、けぢめをも、失ひしにこそ。そは二十三丁、二十四丁等の、問答の長歌の、答歌をだに反歌と記せる類ひにて知(ラ)れたり。又三四(ノ)卷以下には皆反歌とありて、短歌とかけるが見えざるは、其(ノ)分ちもなきかとおもふに、猶よく見もてゆけば、こは其(ノ)端詞に詠2云云(ヲ)1歌、并短歌とあるにゆづりて、直(グ)に長歌に引つゞけ記せる也(是(レ)一二(ノ)卷の例もていはゞ、端詞は、端詞として、返り聲に借(リ)ざる短歌は、其(ノ)間《アハヒ》に更に短歌とことわる例なるを、端詞なる短歌の二字にゆづりて別に記さゞるなり)又返(シ)歌に用ひたるは、端詞に然か記せども、更に長歌の末に、反歌とは記せるなり。これ憶良大夫、家持卿のほどの、筆記のふりなりけらし。今此事を一ついはゞ、十七(ノ)卷に長歌十三首載て【悉く短(カ)歌も添(ヒ)たるに、】反歌と記せしは、一首もなし。こはいかなるよしかと見もてゆくに、此時、家持卿、越中(ノ)守にて、皆任國に在てよめる獨(リ)言なりつればなり。其(ノ)中に越前(ノ)掾、大伴(ノ)池主と贈答の長歌もあれど、其人も、隣國に在て、互に筆談の歌どもにして、うたひつる歌にあらざれば、反歌とは記(サ)ざりし也。又十八(ノ)卷に長歌十首載たるに、京にてよまれたる九首には、皆反歌とありて、越中にてよまれたる【二十三丁左】爲v贈2京家(ニ)1願2眞珠1歌一首、并短歌四首とあるにのみ、反歌とはことわらずして、直(グ)に長歌に引つゞけて記したり。是も任國に在しほどによめるにて、うたひし歌にあらざれは也。凡そ此等以て、他の卷々の例をも准へ知べし。然るに諸抄に、かゝるけぢめ有事をも思はずして、漫に改め記せるなど、いみじき私事なるぞかし。さて又此例を以て推(ス)に、今の世の長歌の末に、反歌と記すはあたらぬ事也(近來古學者の歌集にも、此ひが事尤多し。後の世はづがしきわざにあらずや)今はなべて、うたふ事もせざり(100)ければ彼(ノ)十七(ノ)卷の、家持卿の歌などの如く、端詞に云云(ノ)歌。并短歌(假字ならば、云云をよめる長うた、みじかうた、又あるひは、云云をよめる歌、又みじかうたなど)とことわりて、其短(カ)歌は、長歌の次に并(ベ)て記すべきなり。
 〔細註〕 此《コヽ》に古點を出すべきなれど、今此歌の訓は古點もさせるたがひあらざれば、一つに出すなり。凡て誤字落字等もなく、其訓も大かたに叶へる、は、皆一つに出して、別には擧(ゲ)ず。下これになずらふべし。
 
玉刻春《タマキハル》。内乃大野爾《ウチノオホヌニ》。馬《ウマ》數《ナメ・ナベ》而《テ》。朝布麻須等六《アサフマスラム》。其草深野《ソノクサフケヌ》。
○玉刻春」代匠云。神功紀にたまきはる内(ノ)朝臣とつゞけたる、二首見えたれば、古きことばなり。此集第五卷、山上憶良が長歌に、玉剋《タマキハル》。内限者《ウチノカギリハ》。平氣久《タヒラケク》。安久母阿良牟遠《ヤスクモアラムヲ》。事母無久《コトモナク》。裳無母阿良牟遠《モナクモアラムヲ》。とつゞけて、自注(ニ)云(ク)。謂《イハユル》瞻浮洲(ノ)人。壽一百二十年也。とかける、此歌の心は玉しひ、きはまる内は、安く事もなくてあらんものをと、よみたる也。同(ジ)卷に、玉きはる命とよめるも、同じ義也。内とつゞくる類ひは、命きはるの詞をかりてよめるにや。必ず内とつゞけざれども、およそ内のこゝろに、聞ゆる所におけり』若沖云。右第五の自注は、長阿含經等に見えて佛説也。されども此詞つゞきは、往古よりよみならひて、佛經によらず、日本紀の歌、未(ダ)佛法此國にあらざる時の歌也。此撰者、これを命存生の内と云意にとれる、此語を例鐙に、自注せられしが證據也。たまは魂の義、きはるは、極にて、盡期なるべし。ほむる詞にあらず。存命の内也。顯昭、毬杖の玉を、春打の義とせる、似て非なり』冠辭考云。多麻《タマ》は魂也。岐波流《キハル》は極にて、人の生れしより、ながらふる涯《カギリ》を、道にかけて云語也。故に内の限とも、息(101)内《イノチ》とも、幾代ともつゞけたり。さるを後の人、命の今終る極《キハ》みを云とのみ思へるは、此冠辭の本の意にあらず。いかにぞなれば、右の靈剋《タマキハル》。内限者《ウチノカギリハ》。平氣久《タヒラケク》でふ歌の憶良の自序に、瞻浮洲(ノ)人。壽百二十歳。謹(テ)案(ルニ)。此(ノ)數非2必不1v得v過v此(ヨリ)云云。といひて、遙に百二十を、凡の生涯《イキノカギリ》とするを合せ見よ。且|言忌《コトイミ》せぬ上つ世といへど、今死に臨むを云(フ)語ならませば、其人の名に冠らしめては、のたまはじ。又内の限りは平らけくと、末かけて云のみならず、幾代經ぬらんと、前を遙におもへるさへ有を見よ』槻落葉別記曰、ぬばたま、あらたま、たまきはるなどの玉は皆假字にて、月日の經るを云、抑も此多麻といへる言は、卷(ノ)十八、家持卿の放2逸鷹1歌に、知加久安良婆《チカクアラバ》。伊麻布都可太末《イマフツカタマ》。【今本末を未に誤れり】等保久安良婆《トホクアラバ》。奈奴可乃宇知波《ナヌカノウチハ》。須疑米也母《スギメヤモ》。とある、太末《タマ》是にて、年月《トシツキ》、日夜《ヒルヨル》の來經行間《キヘユクホド》を云(フ)古言と見えたり。中略 玉剋《タマキハル》は程來經《タマキフル》也。玉坂《タマサカ》は程避《タマサカル》也。邂逅《タマタマ》も程《ホド》經《ヘ》て稀《マレ》なるを言(フ)こと也云云』記傳【卅七(ノ)廿八丁】曰。多麻岐波流《タマキハル》は阿良多麻能《アラタマノ》と云と同意也。年月日時の移りもてゆくを云言也。多麻岐波流《タマキハル》とは阿良多麻來經《アラタマキフ》るにて、彼(ノ)倭建(ノ)命(ノ)段(ノ)歌に、阿良多麻能《アラタマノ》。登斯賀岐布禮婆《トシガキフレバ》。阿良多麻能《アラタマノ》。都紀波岐關白久《ツキハキヘユク》。とある是也。されば此も、年月日時の經行《ヘユク》ことにて、宇知《ウチ》とつゞく意は顯現《ウツ》也。そは現身《ウツシミ》現世《ウツシヨ》など云て人の此(ノ)世に、生(キ)てあるほどを云り。故(レ)萬葉に、多麻岐波流《タマキハル》、命《イノチ》と多くつゞけ、世ともつゞけ、又|内限《ウチノカギリ》とよめるも現世《ウツシヨ》の限なり云云(此枕詞を、魂極として説(キ)來たるは、ひが事也。魂の極まると云こと、有べき言かは。又萬葉五、憶良(ノ)長歌|靈剋《タマキハル》、内限者《ウチノカギリハ》と云處の注に謂(ル)、瞻浮洲(ノ)人、壽一百二十年也とあるは、かの魂極(ル)の説になれたる、後(ノ)世人のしわざにて、此(ノ)上(ノ)文に、内教(ニ)云(ク)とて、此(ノ)語のあるを取持來《トリモチキ》て、此《コヽ》に書入たるなり。是を自注と思ふはひが事也。又十(ノ)卷に靈寸春《タマキハル》。(102)吾山之於爾《ワガヤマノウヘニ》。と有は春山を誤れるなり。春と、吾と、草書よく似たればなり云云)』これまで諸抄の釋ども也。如此《カク》いろ/\に説《イヘ》れども、未(ダ)當れりと思《オボ》しきもなく、殊に記傳の説、疑はしかれば、今集中に有(ル)限の歌|等《ドモ》引(キ)集(メ)て云べし。四【四十三丁左】靈剋《タマキハル》。命向《イノチニムカフ》。【五十丁右】多摩枳波流《タマキハル》。伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》。又【三十七丁左】靈剋《タマキハル》。内限者《ウチノカギリハ》。又【四十丁右】靈剋《タマキハル》。伊乃知多延奴禮《イノチタエヌレ》。六【二十六丁右】靈剋《タマキハル》。短命乎《ミジカキイノチヲ》八【二十丁左】玉切《タマキハル》。命向《イノチニムカフ》。十【十五丁右】靈寸春《タマキハル》。吾山之於爾《ワガヤマノウヘニ》。又【四丁左】玉切《タマキハル》。不知命《イノチモシラズ》。十一【六丁右】年切《タマキハル》。及世定《ヨマデサダメテ》。【年は玉を誤れるう也。】又【十六丁右】玉切《タマキハル》。命者棄《イノチハステツ》。十五【三十三丁右】多麻吉波流《タマキハル》。美自可伎伊能知毛《ミジカキイノチモ》。十七【四十一丁右】多末伎波流《タマキハル》。伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》云云。これ集中に見えたる限りなり以上十二首の中、九首は正《マサ》しく、命とつゞけたり。内(ノ)限《カギリ》とつゞけたるも、命と、同意なれば、十首とすべし。【仁徳紀、神功紀等に内とつゞけたるも準ふべし。】若(ス)久老、宣長等の、説の如くならんには、かくしも命の方にのみ、多くはつゞけよむべしとも思はれず。又彼(ノ)五卷の【謂(ル)瞻浮洲(ノ)人壽一百二十歳也。】自注もよく前文の語どもに相(ヒ)合《カナ》ひたれば、後人の加筆とは見えず(記傳に魂極(ル)と云説に馴たる、後(ノ)世人のしわざ也と云(ヘ)れど、魂極(ル)と云説は、仙覺抄に見えたれば、古しとも、文永の頃よりの事ならんを、右の自注は、道風、行成卿筆の萬葉集校本も、猶同じ事也。かゝれば是を後人のわざとするは、己が説を立んとての強言なるぞかし)今此自注の語に依て、魂來經《タマキフル》の義として見るときは、十七(ノ)卷なる、伊久代經《イクヨヘ》にけんと云も、越中の立山の徳を讀《ホメ》て、其(ノ)靈感を稱《タヽヘ》云(ヘ)る句のつゞけなれば、是にもよく協ひたり。只心得がたきは、十(ノ)卷なる吾山《ワガヤマ》と係《カケ》たる一首也。此(ノ)吾(ノ)字を、春の誤とする時はいよいよ心得がたし。故(レ)思ふに、彼(ノ)歌は雲井成《クモヰナス》、春山之於爾《ハルヤマノウヘニ》、立霞《タツカスミ》と有けんを靈寸春〔三字傍点〕と寫し誤りたるならん【何れも其字形相ちかし。】十二首の中十一首まで、靈魂《タマシヒ》によりたるを、此歌のみ、唯一首肯けぬべきことわりあ(103)らねば也。
○内乃大野爾《ウチノオホノニ》」既に出。阿陀《アダノ》大野と續きて、いと廣き故に 大野と云なるべし。
○馬數而《ウマナメテ》」代匠云、馬並而《ウマナラベテ》也。こゝにかく書(ケ)るは數あるものは、ならばる故なるべし』考注云、馬を並て也。數はことわりもて書(ク)』【已上】 今按に上の雄略天皇大御歌に、押奈戸手《オシナベテ》、また師吉名倍手《シキナベテ》ともあれば、馬奈倍而《ウマナベテ》とも書べきなれど、六卷【十九丁左】に、馬名目而《ウマナメテ》とあるによるべき歟。集中假字書は此一首の外には見えず。眞字して、馬並而、【三(ノ)十三丁、六(ノ)十四丁、七(ノ)十三丁、十(ノ)卅四丁、十七(ノ)十九丁、十九(ノ)卅七丁、又四十七丁等に出(ヅ)。】とも、馬副而とも、馬雙而【七(ノ)十二丁】ともかきたり。
○朝布麻須等六《アサフマスラム》」代匠云、第六赤人の長歌に、朝がりに、しゝふみおこし、馬なべで、みかりぞたゝす、春のしげ野に、此歌と同じ心なり』似閑云。朝に其野を踏わけ給ふを、朝ふむと云。めづらしき詞也』考注、略解、全(ク)代匠の如し。
○其草深野《ソノクサフケヌ》」代匠云、草ふけ野は、内野を、再びいへり』似閑書入云、草木ノ繁リタル處ニハ鳥獣モアツマルモノナレバ、如此《カク》ハ宣ヘル也』考注云。深きを約轉して、下へつゞくる時、夜ふけ行といひ、田の泥深きを、ふけ田と云が如し。言は加伎《カキ》の約は、伎《キ》なるを、氣《ケ》に通はして、下へつゞくる也』【略解是に同じ】
○一首の意は可怜《オモシロ》かるべき宇智の大野に、あまたの御供の馬並べて、今朝しも踏わけ給ふらん、その春の繁野よ。うらやましき事かな。と也。此結句は、上に立かへるにはあらず、再び返し給ふ御句也。下に、歎息のよをそへてきくべし。その八重垣をの類也。
 
幸《イデマシヽ》2讃岐(ノ)國|安益《アヤノ》郡(ニ)1之時。軍(ノ)王。見(テ)v山(ヲ)作(ル)歌。并短歌。
○幸」代匠云、幸(ハ)者。蔡※[災の火が邑]獨斷曰。天子(ノ)車駕所v至(ル)(104)以爲(ス)2僥倖(ト)1。故(ニ)曰v幸(ト)。至v見2令長三老官屬1。親(ラ)臨v軒作v樂。賜2食帛越巾刀佩1。帶2民爵1。有2級數1。或賜2田租(ノ)之半(ヲ)1。故因v是謂2之(ヲ)幸(ト)1。日本紀には、いでましとよめり。みゆきと云は御行《ミユキ》也。字はもろこしの心にて、幸の字を用ひたれど、和訓の心はかはれり。天子に行幸といひ、太上天皇に、御幸と云は、簡別の約束にして、義は有べからず。こまかにいはゞ、打かへし云(ヒ)ても、かなひぬべし』考注曰、舒明紀に十一年十二月、伊豫の湯(ノ)宮へ幸て、明年四月還ましゝよし見ゆ。此春ついでに讃岐へも幸有し事、此歌にてしらる。【略解是に同じ】』【已上】 今按に、左注にも、此行幸を疑ひたり。げにも凡てに就て、疑はしき所あり。次に試は云べし。
○讃岐(ノ)國|安益《アヤノ》郡」代匠曰、讃岐とかきて、さぬきとよむは宇奴牟《ウヌム》はよく通ずる故也。此集に、和泉のちぬの海を珍海《チヌノウミ》とかける、これにおなじ。安益(ノ)郡は和名|集《マヽ》に、阿野《アヤ》綾郡國府。後拾遺、藤原孝善「霧はれぬあやの河原に鳴ちどり聲にや友のゆき方をしる」とよめるも此郡也』【考注、略解等、釋なし。】 今按に神名式に、讃岐(ノ)國|阿野《アヤノ》郡三座、鴨神谷《カモノカムタニノ》神社、城山《キヤマノ》神社、【名神大】と見ゆ(行嚢抄を考るに、今は此郡、綾(ノ)北條、綾(ノ)南條とて、二郡に分れたり)天武紀、十三年十一月、讃岐(ノ)國、稜(ノ)君(ニ)賜(テ)v姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1。續紀【四十】讃岐(ノ)國|阿野《アヤノ》郡(ノ)人。綾(ノ)公菅麻呂等言(ス)云云。績後紀【十九】讃岐(ノ)國、阿野(ノ)郡(ノ)人。綾(ノ)公姑繼。綾(ノ)公武主等。改2本居1、貫2附(ス)左京六條三坊(ニ)1。など見えて、安益《アヤ》は名高き所なり。
○軍(ノ)王」代匠云、如此の名、紀に見えず』考注云、此王は、考る物なし』【已上】 今按に、舒明紀に、此行幸見えず。此集にも、此(ノ)歌の外に此名なし。これ慥かならぬ二つなり。
○見(テ)v山(ヲ)作(ル)歌」かくあれど、此(ノ)歌、見(テ)v山(ヲ)よめるにあらず。在(テ)v旅(ニ)戀(ル)2本郷(ヲ)1歌也。此(ノ)端書のしざま疑はし。是(レ)おぼつかなき三つなり。又此歌の風調、(105)此(ノ)御代頃のすがたにあらず。これ疑はしき四つなり。故(レ)思ふに此第一(ノ)卷は既《ハヤク》當時《ソノカミ》、錯亂して、歌數あまた失《ウセ》つるを、其後これを補ひし時、後の歌の此(ノ)處に紛れ入たるものならん。此歌の口調、人麻呂よりは遙におくれて、寧樂もやゝ、未つ比のすがたなり。猶此(ノ)下の廿四葉、大寶元年幸2于紀伊國1之時云云とあるより、卷尾までも、皆缺たる後の追加の歌ども也。さる時などに、其程の歌の此(ノ)處に紛れ入たるものならし。そも/\二(ノ)卷の歌どもの古きに合せて思ふにも、此(ノ)初卷に、和銅以後の歌を、さしも數多撰ぶべきことわりなし。これら考へ合すべし。
○并短歌」代匠記云、目録に此三字あり。短歌の添へる端詞は皆かく有べき例なり。此《コヽ》は後に漏せるならん』【已上】 今按に、考注には漢樣《カラザマ》なりとて、如此《カク》あるをも、削り棄られたれど、此集の端詞は元より漢文のふりに記せれば、たゞ其(レ)に隨ふべき事、總釋に詳く辨へつるが如し。
 
霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナガキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》。村肝乃《ムラキモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコドリ》。卜歎居者《ウラナケヲレバ》。珠手次《タマダスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。行幸能《ミユキノ》。山越風乃《ヤマコシノカゼノ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《ワガコロモデニ》。朝夕爾《アサユフニ》。還比叡禮婆《カヘラヒヌレバ》。大夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルワレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》。網《アミ》【一本網、作v綱、元暦校本、綱作v網】能浦之《ノウラノ》。海處女等之《アマヲトメラガ》。燒
鹽乃《ヤクシホノ》。念曾所燒《オモヒゾヤクル》。吾下情《ワガシタゴヽロ》。
此歌、古點の訓も、よくよみて、させるたがひもあらざれど、長歌なれば、漏(ラ)しかねて出せるなり
霞立《カスミタツ》。長春日乃《ナガキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》。利豆肝之良受《ワヅキモシラズ》。村肝乃《ムラギモノ》。心乎痛見《コヽロヲイタミ》。奴要子鳥《ヌエコドリ》。卜歎居者《ウラナケヲレバ》。珠手次《タマダスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》。遠神《トホツカミ》。吾大王乃《アガオホキミノ》。行幸(106)能《イデマシノ》。山越風乃《ヤマゴシノカゼノ》。獨座《ヒトリヲル》。吾衣手爾《アガコロモデニ》。朝夕爾《アサヨヒニ》。還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》。丈夫登《マスラヲト》。念有我母《オモヘルアレモ》。草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》。思遣《オモヒヤル》。鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》。網能浦之《アミノウラノ》。海處女等之《アマヲトメラガ》。燒鹽乃《ヤクシホノ》。念曾所燒《オモヒゾヤクル》。吾下情《アガシタゴヽロ》
○霞立《カスミタツ》」諸抄釋なし。今按に、王逸楚辭注云、日者霞之實。霞者日之精。また陸陽子明經言(ク)、朝霞者日始出時。赤黄氣也。蜀都賦云、舒(テ)2丹氣(ヲ)1以爲v霞(ト)。張景陽雜詩曰。金風扇(テ)2素節(ヲ)1。丹霞|啓《ヒラケリ》2陰期(ヲ)1。また朝霞迎2白日1。丹氣臨2※[陽のこざとが日]谷1。玉篇云。霞(ハ)下加(ノ)切。東方赤氣也。など見ゆ。此集にも、二【八丁】秋之田《アキノタノ》。穗上爾霧相《ホノヘニキラフ》。朝霞《アサカスミ》。八【三十四丁】七月八日(ノ)夜、霞立《カスミタツ》。天河原爾《アマツカハラニ》。十【五十三丁】秋(ノ)相聞。朝霞《アサガスミ》。鹿火屋之下《カビヤガシタ》。などよみて、何時《イツ》と定れるにもあらざれど、おのづから春の天に多く立ば、後世つひに、春の物とはなれり。
○長春日乃《ナガキハルヒノ》。晩家流《クレニケル》」【是も、釋なし。】 今按に、以上二句の續け、五【十八丁左】可須美多都《カスミタツ》。那我岐波流卑乎《ナガキハルヒヲ》。十三【十一丁右】霞立《カスミタツ》。長春日乎《ナガキハルヒヲ》(たゞ春に續けたるは、一(ノ)十七丁、三(ノ)十六丁、十(ノ)十五丁二首、又十三丁に霞立あすの春日、十二(ノ)卅四丁、霞立。春乃永日。など見ゆ。猶末の卷々にも、有べきなり)など見えて晩がたきさま、春日遲々など云時節なるべし。
○和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》」代匠云。此わづきもしらずと云るを、長流がわかき時かける抄に、わと、たと同韻の字なれば、たづきもしらずと云ことかといへれど、たづきもしらずは、たよりもなきやうの心なれば、上にくれにければといはば、さも有べきに、くれにけるとつゞきたればかなはず。これはわきもしらずと云に、つもじの中にそはれるにや。わきをわづきと云る事はいまだ見及ばざれど、古語には、其例あればいふ也云云』考注云。わづきもは、分《ワカ》ち著《ツキ》も不v知也。手著《タヅキ》てふに似て少し異なるのみ。此氣色旅の愁を催すべし』【略解是に同じ。】小琴云(107)|多豆肝之良受《タヅキモシラズ》ナリ。多ヲ、和ニ誤レリ。多ト和トヨク似タリ』【已上】 今按に、此(ノ)小琴の説は代匠記を見ずして、云(ハ)れたるか。多豆伎《タヅキ》は、手《タ》より著《ツキ》と云言なりければ、晩家流《クレニケル》と云下に、居べき語ならぬ事は、契冲のいはれたるが如くなるをや。さて和豆伎《ワヅキ》と云る語、此《コヽ》より外に見えざれど、集中傍例なき語、いくらもあれば、是のみ疑ふべきにあらず。十一【十六丁】年月之往覽別毛《トシツキノユクラムワキモ》。不所念鳧《オモホエヌカモ》。また【二十九丁】月之有者《ツキシアレバ》。明覽別裳《アクラムワキモ》。不知而《シラズシテ》。十二【十一丁】出日之《イヅルヒノ》。入別不知《イルワキシラニ》。十【十五丁】春雨之《ハルサメノ》。零別不知《フルワキシラズ》。四【四十八丁】夜晝《ヨルヒルト》、云別不知《イフワキシラニ》云云などある、此等の別《ワキ》は、分《ワカ》ち也。此|分《ワカ》ちの下に、豆伎《ツキ》の言を添へたるなれば、考注に分着《ワカチツキ》も不知也と云る、よく當りたる釋ども也。【其續きも、用ひ状も、もはら同じ。】そも/\後輩より、先輩の説どもを、合せ見るときは、其(ノ)善惡、邪正、いと明かに見《ミエ》分るものなるを、かゝる明論をしも、後にわろく説(キ)曲る事こそ、いふがひなけれ。
○村肝乃《ムラキモノ》」代匠云、村肝は心也。第四にも、村肝の心くだけてとよめり。むらは群《ムラ》にて、おほき也。きもは、字のまゝにも、心得べし。雄略紀に、心府と書て、こゝろぎもとよめれば、心を丹府と云が如く、きもといふも心なり。字書に、府(ハ)聚也とも釋せり。心《コヽロ》と和語に名づくるも、こゝらと云ことにて、多きなるべし。※[田+比]盧庶那《ビルシヤナ》經には、無量心識とて、心もとより無量也ととき、常の教には、一心無量の境を縁する故に、境のかたにつきて、心を無量と云よし也。今はそれまではなく、萬の事のよくもあしくも思はるれば、むらぎもの、心とは云なるべし』冠辭考云、こはまづ、一わたりにていはゞ、肝は七葉|群《ムラガリ》てあれば、群肝《ムラキモ》と云て、さて肝向《キモムカフ》、心乎痛《コヽロヲイタミ》ともよみたる如く、心と肝は相はなれぬものなれば、然かつゞけたりとすべし。されども、肝の心と云(ヒ)て隱かにも聞えず。字につきてのみことわるも、萬葉の意ならずおぼゆ。故(108)に思ふに村肝の二字は訓を借て、かの靡《ナビ》くものてふを、浪雲乃《ナミクモノ》とかき、天《アメハ》者しもを天橋文と書る類ひか。さらば群《ムラ》がり物てふを、加里《ガリ》の反、紀《キ》なれば、群《ムラ》ぎ物といへるなるべし、さて物の多きを、こゝらこゝばくなどいへば、群《ムラガ》る物《モノ》、幾許《コヽラ》といひかけしならむ。武烈紀に、物多《モノサハ》に、おほやけ過とつゞけし類ひとすべき也』記傳【三十六(ノ)三十五丁】岐毛牟加布《キモムカフ》の下(ニ)云(ク)、かくつゞく由は、まづ腹(ノ)中にある、いはゆる五臓六腑の類を、上代には凡て皆|伎毛《キモ》と云しなり。さて腹(ノ)中に、多くの伎毛《キモ》の相(ヒ)對ひて集《アツマ》り在(リ)て凝々《コリ/\》しと云意に、許々呂《コヽロ》とは連《ツヾ》くなり。凝《コリ》を許呂《コロ》とも云(ヘ)ば許々呂《コヽロ》は許呂許呂《コロコロ》にて、凝々《コリ/\》なり。海菜の心太《コヽロフト》も【凝海藻《コルモハ》、和名抄に見ゆ】凝《コ》る意の名、神代紀に、田心姫《タコリヒメ》、萬葉廿【三十一丁】に、妹(ガ)之心を以母加去々里《イモガコヽリ》とあるなどを以て曉《サト》るべし。又萬葉に、岩根こゞしきと多くあるも、凝々しきなり。又同集に、多くむら肝《キモ》の心とつゞきたるも同意にて、群《ムラガ》りたる伎毛《キモ》の凝々しと云るなり。冠辭考の説はわろし。群《ムラガ》り物と云(フ)言、古(ヘ)にあるべくもあらず。又きもむかふを、契冲が心肝といへば、心に對する肝と云にやと云るもわろし。許々呂《コヽロ》は上よりつゞきたる意はたゞ凝る意のみにして、心(ノ)臓の意にも非ず。又物を識思《シリオモ》ふ心にもあらず』【已上】 今按に肺肝等の説はさてもあるべし。今此枕詞の續きを、群《ムラガ》りたる肝の、凝々《コリ/\》しと云意也といへるも、猶心得がたし。心と肝膽《キモ》とは別なるを、さては只|肝《キモ》の上のみのさだにして、其(ノ)主たる心はかたはらになりつべし。又|凝《コル》と云るもいはゆる五臓六腑の上のさだのみなるに、其(レ)を心に取《ト》れるは、いかなる事ぞや。心は元より形なき物にして、凝《コル》と云も雲の凝(ル)氣の凝(ル)などの類ひlこして、即(チ)許々呂《コヽロ》の名義は、氣《ケ》、凝《コリ》の意なり(氣《ケ》と云(ヘ)ば字音の如くなれど、十三(ノ)卷に、潮氣《シホゲ》、十六卷に日異《ヒノケ》とよみたる氣《ケ》にして、本より此方の古言なるが、字音と同じきは適《々》に合りしなり)禮(109)記に祭(ハ)2肺肝心(ヲ)1貴(ブ)2氣主(ヲ)1也。とあるなどをおもふべし。然れば群肝《ムラキモ》に、氣《ケ》の凝留《コリトヾマ》るよしの、續けなるべし。斯《カク》て集中、此(ノ)枕詞は四【四十九丁】村肝《ムラギモノ》。於摧而《コヽロクダケテ》。十【三十三丁】村肝《ムラギモノ》。心不歡《コヽロサブシミ》。十六【十三丁】村肝《ムラキモノ》。心碎歡而《コヽロクダケテ》。など見えたり。
○心乎痛見《コヽロヲイタミ》」考注云、見《ミ》の辭の事、別記云(フ)、別記(ニ)云(ク)、此反歌に、風乎時自見《カゼヲトキジミ》、など云(フ)見《ミ》の言は、万利《マリ》の約《ツヾメ》にて、痛万利《イタマリ》。時自方利《トキジマリ》也。此(ノ)美《ミ》てふ辭、百千多かれど皆しかり。云云』略解云。心を痛みは痛くしての意也と、東馬呂翁いへり』宣長云、心を痛み、時自見《トキジミ》などの美《ミ》は、中古の歌にも、山高み、月清み、風をいたみなどよみて、さにと、云に通へり。即山高みは、山が高さにの意、月清みは、月が清さにの意、風を痛みは、風がつよさにの意也』【已上】 今按に、さにと譯《ウツ》しても、大方は聞ゆれど、實(ト)は故爾《ユヱニ》と云(フ)言《コト》の古語也。山高みは山高きゆゑに、月清みは月清きゆゑに、風をいたみは、風いたき故にの意なるが如し。されば此《コヽ》も心の痛きゆゑにの意にして、痛きとは、身に受て、痛きのみにはあらず。平言に、心痛と云が如く、心にしみておぼゆるには、戀しきにも、悲しきにも、いたましきにも廣くいへり。こゝは京の戀しさの、深く心にしみとほるに云る也(猶|美《ミ》と云におひみ、いだきみ、ふりみ、ふらずみなど、云類ひもあり。それらの美《ミ》の意は、下の歌にていひつべし)
○奴要子鳥《ヌエコドリ》」代匠云、ぬえ子鳥は、子はそへ字にて唯ぬえ鳥也」和名抄云、唐韻曰。※[空+鳥]【青空。漢語抄云|沼江《ヌエ》】怪(キ)鳥也。とあり。此にかくつゞけたるは、此(ノ)鳥隱聲になくにぞあらん』冠辭考云、卜歎《ウラナケ》とかき、能杼與比《ノドヨビ》と云るをもて、或人は隱靜になく鳥ならんといひしを、武藏の上野に實傳僧都と云がありしが、もと三井寺に住學せしほど、此(ノ)寺にて、ぬえの鳴は、凶きさがとていむを、たま/\は聞侍りしに、(110)遙なる谷に鳴も、耳とほるばかり高く、苦しきこゑ也と、かたり侍りし。文土佐人、大神垣守がいへる、奴衣《ヌエ》鳥は、今の猿樂の笛の、ひしぎてふ音の如く鳴ぬ。亥の時ばかりより始て、夜る鳴なり。鳩よりもいさゝか大きにて、鳶の羽の如しと。よりておもふに、和名抄に、※[空+鳥]【沼江】恠鳥也とあれば鳥などの類にて、夜(ル)鳴ならん。且|喉呼《ノドヨヒ》とも書るは隱聲なるにはあらで、からごゑに鳴かたにて云なりけり。うら鳴は恨鳴也。卷二に、片戀とつゞけたれば、山鳥の如く、雌雄ひとつ/”\すむ鳥にやとも云べけれども、卷三に、容《カホ》鳥にも、片戀とよめれば、たゞつま戀つゝ鳴より、片戀する人の上にとりて、冠らせたるなり』記傳【十一(ノ)十二丁】云、和名抄云々、字鏡には、鵺また※[易+鳥]を、奴江《ヌエ》とあり。なほ此鳥の事、冠辭考に委く見ゆ』【已上】 今按に、右冠辭考の説の内、土佐人の説は大かたに合《カナ》ひたれど、其(ノ)他は當らず。形容は鳶のちひさき貌《サマ》して、嘴細く、喉甚廣く、口を開(ケ)ば猫の喉の如く、其(ノ)聲も又猫の怒れる時の、なき聲に似たる事あり。凡てから聲にて、高くも低くも鳴(ク)中に、げにもひしぎ笛の音に、似たる聲もあり。よひの程よりも鳴(ケ)ど、夜更ては、喉よびして、恨むが如く、愁ふるが如く、しなえうらぶれたるさまして、鳴(ク)ことのある故、歌には取てよめる也。故(レ)奴要《ヌエ》と云名義も偃鳥《ナエドリ》の心なるべし。古事記上、沼河比賣《ヌナガハヒメノ》歌に、奴延久佐能《ヌエクサノ》。賣邇志阿禮婆《メニシアレバ》とあるも、偃草《ナエクサ》の如き、手弱き女にてあればと云意のつゞけなれば也。(今おのれ、此鳥の事をかく委く云は、下總(ノ)關宿藩中に、※[空+鳥]を六年飼し人あると。又我が住る、此(ノ)淺草寺の境内に※[空+鳥]栖て、をりをり此(ノ)小菴の邊りへも來て、鳴(ク)をも聞しり其鳥を、まさ目にも、見知つれば成けり)台記曰。康治三年六月十八日戊戌丑到許。聞2※[空+鳥]聲1。召2泰1令v占2※[空+鳥]事1。又曰。同二十四日甲辰。※[空+鳥]事。女房所勞重。拾芥抄一曰、※[空+鳥](ハ)(111)恠鳥(ナリ)云云。懸2其上1者鳥成v恐去云云。永久三年七月之比。洛中有2※[空+鳥]事1。此時仙洞有2此沙汰1。度支郎、并李部小卿。被v獻2勘文1。 【恠鳥之間事等也。】など見えたり。思ふに此集には、あまたよみて、何の恠しともせざりしさまなるを、今京こなた、かやうにめづらしき事にして、云るを見れば、大和國には多くして、山城國には稀なりけん。彼和名抄に恠鳥とあるは、只あやしき鳥と云釋にて、別に怪異あるよしには有べからず。然るに中昔に、かくしも忌恐れつるは、恠鳥とあるに、惑へりしにや。但(シ)甚|猛《タケ》き鳥にして、其怒れる時の鳴(キ)聲には、今も聞懼《キヽオヅ》る人多かり。又雌雄むつれて、空より落る事あるに、其(ノ)羽音、大木を裂《サク》が如き事ありて、いはゆる天狗かと驚くばかり也。夜鳥にして、かくまで烈しき鳥は、二(ツ)とあらじ(三才圖會曰「※[空+鳥](ハ)》俗或用2鵺字(ヲ)1。此鳥晝伏(シ)夜(ル)出(ヅ)。故(ニ)然(リ)焉。山海經云。單張(ノ)之山(ニ)有v鳥。状如(ニシテ)v雉。而文首白翼黄足。名(ヲ)曰2白鵺(ト)1。按(ニ)今(ノ)世(ニ)稱(スル)v※[空+鳥](ト)者。非(ズ)2恠鳥(ニ)1。而洛東、及處々深山(ニ)多有(リ)v之。大(サ)如v鳩。黄赤色黒|彪《フ》似v鴟(ニ)。晝伏(シ)夜出(テ)※[口+夜](ク)2木(ノ)※[木+少](ニ)1。其嘴(ノ)上黒(ク)下黄(ナリ)。鳴(トキハ)則後(ノ)※[穴/〓]應v之(ニ)。如v曰2休戯《ヒユウヒイト》1。脚黄赤色也」とて其圖を出せり。此(ノ)云る處はやゝ近かれど、猶違ふ事多かり。圖はいたく違ひたり。此(ノ)外此鳥の事を云る書多かれど、皆たがへるを見れば、學者の却て見しらざる鳥と見えたり)斯《カク》て、此集に、此鳥をよめる、此《コヽ》の外には、二【三十三丁右】宿兄鳥之《ヌエドリノ》。片戀爲乍《カタコヒシツヽ》。五【三十丁左】奴延鳥之《ヌエドリノ》。能杼與比居爾《ノドヨビヲルニ》。十【二十丁右】奴延鳥之《ヌエドリノ》。裏歎座津《ウラナケヲリツ》。また【二十七丁左】奴延鳥《ヌエドリノ》。浦嘆居《ウラナケヲルト》。十七【三十二丁左】奴要鳥能《ヌエドリノ》。宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》云云。など見ゆ。是皆かれが鳴(ク)聲のさまによりたるつゞけども也。
○卜歎居者《ウラナケヲレバ》」代匠云、高く聲をもたてず、喉《ノド》聲にて、つぶやくやうに鳴鳥なれば、それにたとへて我も下になくといふ心也。卜の字は、借てかけるなり。裏の字也』似閑書入云、長息《ナゲキ》ヲ省キテ云ナレ(112)バ、ウラナゲト訓ベキ歟。但(シ)コヽハ連《ツヾ》キニヨリテ伎《キ》ヲ清(ミ)シニヤ。第二ニ春鳥ノサマヨヒヌレバ、歎キモ、云云。古事記ニ、ハサノ山ノ、鳩の、下泣ニナク。ナドヨミタルヲ、合セテトクベシ』考注に、卜歎居者《ウラナキヲレバ》、と訓で云(ク)、※[空+鳥]が鳴(ク)音は恨哭《ウラミヲラブ》が如きよし、冠辭考にいひつ。人の裏歎《ウラナキ》は、下《シタ》になげくにて、忍音をいへり。然れば※[空+鳥]よりは恨《ウラ》鳴といひ、受る言は下歎なり』小琴云、本(ト)ノマヽニ訓ベシ。十七卷【三十二丁】ニ、ヌエトリノ、宇良奈氣之都追《ウラナケシツヽ》トアリ』【已上】 今按に、考説は、凡てひが事也。【契冲似閑の説に劣て且(ツ)拙し。】卜歎《ウラナケ》はうらぶれ歎くにて、※[空+鳥]がしなえうらぶれたる状《サマ》の、聲をうけて、云るにこそはあれ。
○珠手次《タマダスキ》」代匠云、珠はほめたる詞、玉椿、玉笹などの類也。襷は肩に懸《カク》る物なれば、懸《カケ》とはつゞけたり云云』冠辭考云。こは襷をかくるを、言にかけて云(フ)ことに、つゞけたり云々』【此つゞけは、誰にも打つけに、聞えわかりて、注にも及ばざる事なれば省きて引つ。】 今按に、襷は和名抄云。襷※[衣+畢]。續齊諧記(ニ)云、織(テ)成v襷(ト)本朝式(ニ)用(テ)2此字(ヲ)1云(フ)2多須岐(ト)1。今按所(ニ)v出意義未v詳。日本紀私記(ニ)云、手繦 訓上(ニ)同。繦(ハ)音饗。本朝式(ニ)云。襷※[衣+畢]各一條。今(ノ)讀、知波夜《チハヤ》。按(ニ)不v詳。と見ゆ。今珠手次といへる、珠は一わたり美稱と聞ゆ。されど古へは、かゝる物にも玉を飾れる事多かれば、實に玉を著しも知がたし。今|俗《ヨ》に、袖より通して背《ウシロ》にて結ぶを、玉だすきと云傳へたるも、若(シ)其(ノ)言の遺れるにや。【此枕詞の例は、二(ノ)卅五丁、八(ノ)廿丁、九(ノ)卅一丁、十二(ノ)七丁、十三(ノ)十八丁、又廿一丁、又廿八丁二首、十(ノ)四十九丁、十二(ノ)十六丁、十六(ノ)廿八丁、等に見えたり。】猶下の歌のつゞけにも又云べし。
○懸乃宜久《カケノヨロシク》」代匠云、かけのよろしくとは、君を神とひとつに、かけて申がよろしきなり。云云』考注云、懸は言にかけて申すを云。懸まくも恐きの懸に同じ。宜(シ)てふ言は、たゞ吉《ヨキ》ことを云のみに非ず。萬の事の足備れるをほむる言也。委くは、下の宜奈倍《ヨロシナベ》てふ言の、別記に云り。こゝはいひ切(113)たるにあらず。宜久は、宜かるてふ辭を約めたる也』略解云。かけのよろしくは、卷(ノ)十、子らが名にかけの宜き朝妻の、云云、とよみて、言にかけて、云もよろしきと云意にて、下のかへらひと云詞へかゝる也』小琴云。懸乃宜久、ヨロシキト云(ハ)ズシテ、久《ク》ト云ルニ心ヲ付ベシ。コハ六句ヲ隔テヽ、下ノ朝夕爾《アサヨヒニ》。還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》トイフ所ヘカヽル詞ニテ、一首ノ眼也。ソハイカナル意ゾトイフニ、旅ニテハ早ク本國ヘ歸ム事ヲ、願フ物ナル故ニ、カヘルト云コトヲ悦ブ也。然ルニ今、行幸能山越ノ風ノ吾袖ニ朝夕カヘルガヘル吹クルヲ、カケノヨロシクトハヨメル也。カノ業平朝臣ノ、ウラヤマシクモ、カヘル浪カナ。ト云歌ヲモ思ヒ合スベシ。此詞ヲ、遠神、云云、ヘカケテ見ルハヒガ事也。【追考】』【已上】 今按に斯《カク》ては懸《カケ》と云言の釋、未(ダ)説(キ)をへずしていと耳うとし。先(ヅ)此(ノ)懸《カケ》と云言は、たとへば橋を懸《カク》ると云も、こなたの岸より、かなたの岸へわたすを云。又鋼をかけ、竿をかくると云も、物より、物へ懸(ケ)わたすを云是也。されば君をかけ、妹をかけなど云も、此方《コナタ》の思ひを、彼方《カナタ》へ懸亘《カケワタシ》て戀るを云。又言にかけ、口にかけなど云も、彼方の事を、此方の言に、亘し云(ヒ)、己《オノ》が口に移して云をいふ也。又掛まくも恐《カシコ》しと云も、やむ事なき君の御上《ミウヘ》を賤き口に懸《カケ》うつして申すが、恐しと云こと也。又或は其(ノ)名、其(ノ)物の、二かたに亘れるを云(フ)。そは【三十二丁】に明日香(ノ)皇女の薨坐《ウセマシ》ける時、人麻呂の作る長歌に、御名爾懸世流《ミナニカヽセル》。明日香河《アスカガハ》。及萬代《ヨロヅヨマデニ》。形見荷此焉《カタミニコヽヲ》。とある、こは明日香皇女《アスカノヒメミコ》と申す御名の、明日香河《アスカガハ》と云河(ノ)名に、相繋《アヒカヽリ》たるを云也。又十六【六丁】に、櫻兒《サクラゴ》を悼てよめる歌に、妹之名爾《イモガナニ》。緊有櫻《カヽレルサクラ》。花開者《ハナサカバ》。とあるは、櫻兒と云名の、櫻の名に、相(ヒ)繋《カヽ》りたるを云る也。然れば右の釋に引て云る、十(ノ)卷【五丁】なる、子等名丹《コラガナニ》。關之宜《カケノヨロシキ》。朝妻乃《アサヅマノ》と云も、かねて我(ガ)妻にせばやとおもふ他《ヒト》の處女《ヲトメ》を朝妻と云名に【朝妻】(114)とは一夜相寢して、其(ノ)朝(タ)にいふ言葉なればなり。】相(ヒ)繋《カケ》て云が、心よく吉想なる也。是に准(ヘ)て、今此句も、皇郡《ミヤコ》戀しく、還(ラ)まほしき時《ヲリ》から、山越(ノ)風の、朝夕に、わが袖に吹(キ)戻《カヘ》り來るが、快きよしに云る也。さて又|宜久《ヨロシク》、と押へたる久字《クモジ》は、世に送(リ)詞といひて、直(グ)には續けず、下へ云(ヒ)送る時の詞なり。(宜伎《ヨロシキ》といへば、直(グ)に續く詞なるを、宜久《ヨロシク》と押(ヘ)置(ク)をいふ)此《コヽ》は暫く云(ヒ)押へ置て、下の朝夕に、還らひぬれば、と云へかゝる也。其(ノ)還らひと云言の釋は、其處に引(ク)代匠記の説いとよろし。又此處の隔句の事は、下の一編の解の所に、其圖を出して、知らすべし。
○遠神《トホツカミ》。吾大王《ワガオホキミ》」代匠云。凡人の境界に、遠ければいへり」似閑云。人倫ニ隔(テ)アルヲ云ナリ』冠辭  
考云。三卷にも、清江乃《スミノエノ》。木笑松原《キシノマツバラ》。遠神《トホツカミ》。我王之《アガオホキミノ》。幸行處《イデマシドコロ》。こは天皇は即|顯津御神《アキツミカミ》に坐て、遙に人のたぐひならねば、遠津神とは申也。此事は卷六に、明津神《アキツカミ》。吾皇《アガオホキミ》。とも、大王《オホキミ》は、神にしませばとも、宣命などにも、數しらずあり』略解云。人倫に遠きを崇めいふ也』荒太田久老云。皇祖(ノ)、天降坐(シ)し頃ほひ、此(ノ)國人の、人倫に遠くましますよしもて、申そめし語なるを、此頃いまだ天神の御子と申す事を、忘れずして、かくいへる、後人おもへ』【已上】 此(ノ)久老のいひざまは理りあるやうにも聞ゆれど、猶よく思ふに然るべからず。もしさる事ならば、古事記、書紀などにこそ、此(ノ)尊稱の有べきものなるを、此(ノ)ほどより以前には、凡て見えざるをおもへば、こは皇祖|瓊々杵《ニニギノ》尊より、皇統の遠く久しき、神に坐々《マシマス》大王《オホキミ》と申せる、稱辭とぞ聞ゆる。常に臣等《オミタチ》のうへにも語繼《カタリツギ》、言嗣《イヒツギ》など(十八(ノ)廿一丁に、大伴能《オホトモノ》。遠神祖乃《トホツカムオヤノ》云云。大夫乃《マスラヲノ》、伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》。伊爾之敝欲《イニシヘヨ》。伊麻乃乎追通爾《イマノヲツヽニ》。奈我佐敝流《ナガサヘル》。於夜能子等毛曾《オヤノコドモゾ》云云。の類ひ多かると合せ考ふべし)遠祖《トホツオヤ》の名の、遠く久しく傳へたるを、互に美事《ホマレ》ときそひあへると同じ心ばへなり。もと(115)より天皇(ハ)神にましませども、常に目にも見えさせ給ひ、物もきこしめし、妻ももたし、子も持ませれば、天神地祇の神等《カミタチ》のうとくますにくらぶれば、人倫に近しとこそは申すべけれ。遠き事に申さんもいさゝかしひたる、つけそへ言と聞ゆ。
○行幸能《イデマシノ》」代匠云。みゆきともいへど、此集にはいでましとよめり。是(レ)古言也』【已上】 今按に、出《イヅ》ると云に、坐《マス》てふ崇《アガ》め言をそへたるが、體語となれる也。みゆきと云も、行《ユク》と云に、御《ミ》をそへたるなれば、其心ばへは同じ。此(ノ)幸の字義等の事は既に端詞の條に言へり。
○山越風乃《ヤマゴシノカゼノ》」考注云、此(ノ)幸せし所の山を、吹こす風也』【已上】 今按に、阿野《アヤノ》郡|城《キノ》山は、其(ノ)國にての高山といへば、其山より吹おろす風なるべし。同じ風も、平陸、或は海より吹來るはやはらかなるを、高山よりおろす風は、殊に身につよくしむもの也。然れば山越としも云る也。心をつくべし。
○獨座《ヒトリヲル》」ひとりとは、妻子に離れて、旅に在を云(フ)也。旅館に一人在よしにはあらず。
○吾衣手爾《ワガコロモデニ》」略解云、衣手《コロモデ》は袖《ソデ》也。衣を古語に、そといへり。されば衣《コロモ》の手にてそでと同語也』【已上】 今按に、衿を、ころもの首《クピ》とも、衣首《ソクビ》とも云類也。天武紀に、襟を、きぬのくびとも訓(ミ)たり。
○朝夕《アサヨヒ》爾」考注云。此(ノ)朝は日の間(ダ)夕は、夜の間をつゞめ云(フ)』【已上】 今按に、此言、中古後はあさゆふとのみいへど、二【五十四丁】安佐欲比爾《アサヨヒニ》。また安左欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》。十八【二十六丁】安沙余比爾《アサヨヒニ》。などあり。これらによりて訓べし。【猶集中、四(ノ)五十三丁、十(ノ)三十丁、十七(ノ)四十丁、十(ノ)四十一丁、十三(ノ)十二丁、十七(ノ)四十三丁、十九(ノ)十六丁、三(ノ)五十丁等に出。】
○還此奴禮婆《カヘラヒヌレバ》」代匠云。故郷こひしく、ながめをるに、そなたより、吹來る風の、わが袖に、ふれて過るかとおもへば、又吹來て、いとゞ物思ひをもよほして、忘るゝまもあらせず、なやますを云なり。吹返すにはあらず(爲兼大納言の歌に「山(116)風はまがきの竹に吹すてゝ峯の松よりまたひゞくなり」ありのまゝなることをめづらしくも、おもしろくもよまれて、感情ふかし。今もおなじ心なり)』考注云。山風の常に、かへる/”\わが袖に吹來つゝ、春寒きに獨居人の、妹戀しらをます也。又頭書曰、十【三十三丁】「吾衣手に、秋風之、吹反らへば、立て居て、たどきをしらに、村肝の、心いぶしみ」と有も、同じくて、幾度となく、吹過れば、又吹來るを云』略解云。今は家に歸まほしく思ひをるほどに、風の吹かへらへば、かけのよろしとは、いへるなり』【已上】 今按に、良比は理《リ》と約りて、吹還りぬればと云也。さて衣手に吹還るといふは、代匠記の説の如くにして、懸乃宜久《カケノヨロシク》と云より係《カヽ》る方は、旅にして、還ると云が、心に適《カナ》ひてよろしき也。然れば此(ノ)還るといふには、風の吹反り來ると、袖の都の方へひるがへるとを、兼たる也。
○丈夫登《マスラヲト》」仙覺抄云。ますらをとは、たけきものゝふを云。増荒男とかくは此字也』代匠云。かねて事もなかりし時は、我も丈夫なりとおもひほこりしに、旅にありてはをめ/\となる也』考注云。益荒男《マスアラヲ》の意にて、雄々しきを云。今本丈を凡て大に誤れり。故(レ)改む』槻落葉云。丈夫と云も、大夫と云も、もと大丈夫を省るなれば、何れにても同じこと也。されば本のまゝにて、ますらをと訓べきなり』【已上】 今按に、集中に、大夫と書(キ)たるは、【一(ノ)廿六丁、又廿八丁、二(ノ)廿丁、三(ノ)卅四丁、又五十八丁、四(ノ)廿九丁、又卅九丁、六(ノ)廿六丁、又廿八丁、十一(ノ)廿六丁、十八(ノ)廿一丁、又廿二丁、十九(ノ)十五丁、又十四丁、又四十一丁、又廿八丁、廿(ノ)五十丁等(ニ)出】いと多かれど訓は五【九丁左】に、麻周羅遠乃《マスラヲノ》、十七【十二丁左】麻須良雄乃《マスラヲノ》十八【四十一左】麻須良多家乎爾《マスラタケヲニ》、廿【五十丁左】麻須良多祁乎々《マスラタケヲヽ》などあるに依てよむべし。言の義は、九【三十二丁右】益荒夫乃《マスラヲノ》、二【十五丁左】益卜雄《マスラヲ》などあれば、はやく仙覺の其一端をいはれたる意なるべし。十三【三十四丁】に、大士と書たるを、古本に、ますらをと訓たれど、是は大土《オホツチ》を、誤れる也。壯士を訓るも若く盛りなる(117)を云なれば、其意同じ。但(シ)必しも荒くたけ/”\しきを云のみにあらず。本(ト)はたゞ女を手弱女《タワヤメ》と云に對(ヘ)いふ稱也。其中に輕(ク)用ひたると、重く用ひたるとあり。輕きは只男子の稱の如し。神代紀に、是男子《コレマスラヲナリ》と訓る類是也。重きは實に健雄《タケヲ》を指てもいへり。神武紀に、大丈夫《マスラヲ》と訓る類是也。【女を手弱女と云も、其輕重全(ク)これにおなじ。】又佛足石(ノ)碑の歌に、釋迦佛を指て、麻須良乎《マスラヲ》とよみたるは、其(ノ)徳を讃《ホメ》たる詞也(然るに後世の歌に、山のますらを、小田のますらを、などやうによみて、終に賤(キ)者の稱の如く成たるは、いたく轉れるものなり。但(シ)是も本(ト)はたけ/”\しき方より轉りたるがいひ古(ル)してしかなれるにこそ)かゝれば、彼(ノ)丈と大とのさだも、久老の説ことわりなきにあらざれど、大夫の方は、卿大夫など云て、一(ツ)の官名の如くなり來しも久しき時よりの事なれば、猶大夫を誤れりとせん方まさりなん。其字もまことに誤りつべき形(チ)せり。
○念有我母《オモヘルワレモ》」此つゞき二(ノ)卷【二十丁右】にも、丈夫跡《マスラヲト》。念有吾毛《オモヘルワレモ》。敷妙乃《シキタヘノ》。衣袖者《コロモノソデハ》。通而沾奴《トホリテヌレヌ》。とありて、既に引たる代匠(ノ)記の説の如く、常は大丈夫と思へる我なれども云云といふにて、此句より下の念曾所燒《オモヒゾヤクル》と引つゞけて見べし。
○草枕《クサマクラ》。客爾之有者《タビニシアレバ》」代匠云、旅とつゞけたり。又枕詞ならねど、旅の歌に草をむすぶ、草枕をゆふなどよめり。野にふし山にふして、枕だになくて、草を結ぶよしなるが、旅ねのあはれなる也。日本紀云。藉《シキ》v草(ヲ)斑《ワカツ》v荊(ヲ)と見ゆ。海路の旅には草枕とはよむまじきか。六帖云「舟路には草の枕もむすばねばおきながらこそ夢も見えけれ」(鳥虫などにもよめり。伊勢が庭に鈴虫をはなちける時の歌「いづくにも草の枕を鈴虫はもとのたびとも思はざらなん」新古今集に、康資王母の、郭公の歌「時鳥花たち花の宿かれて空にや草の枕ゆふらん」云云)』冠辭考云。こは卷(ノ)五に、道乃久麻尾爾《ミチノクマビニ》。久佐(118)太袁利《クサタヲリ》。志婆刀利志伎提《シバトリシキテ》。てふ如く、草引結びて枕とする意にて、旅には冠らするなり。卷十四に、【上野歌】安我古非波《アガコヒハ》。麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》。久佐麻久良《クサマクラ》。多胡能伊利野乃《タコノイリヌノ》。於久母可奈思母《オクモカナシモ》。こは既にいひなれて、草枕を即旅の事とせしなるべし。青丹吉《アヲニヨシ》。國内《クヌチ》など云が如し。又は旅にははたごてふ物をもてゆく故に、その波《ハ》を略きて、たごともつゞけしにや』【已上】 今按に、草枕は五卷(ノ)の歌の心也。さて枕詞と成ての上は、海路にてよむとも妨げなかるべし。雁郭公等によむも此でう也(多胡《タコ》とかけたるは、薦枕、高《タカ》とつゞくると同例にて、たかぬる意也。妹が髪あげたかば野のとつゞけたるをおもふべし)
○思遣《オモヒヤル》」代匠云、思ひをやり過すなり。遣《ヤル》v情《コヽロヲ》。遣《ヤル》v悶《モダエヲ》。など云が如し。想像《オモヒヤル》にはあらず。此集末にいたりて、おもひやるとよめる、多分今の心におなじ』考注云。心の思ひをやり失ふべき手よりをしらずとなり』【已上】 今按に、二【三十七丁左】遣《ヤル》v悶《オモヒ》【是をなぐさもるとも訓(メ)るにて知べし。】九、【三十一丁右】思遣《オモヒヤル》、十二【六丁左】思遣《オモヒヤル》、十七【四十三丁左】於毛比夜流《オモヒヤル》、などあり。又此等の思遣《オモヒヤル》と同じことを詞をかへて、思過《オモヒスグ》とも云るあり。今此二(ツ)を合すれば心得やすし。三【二十九丁】念應過《オモヒスグベキ》。孤悲爾不有國《コヒニアラナクニ》。又【四十六丁】杉村乃《スギムラノ》。思過倍吉《オモヒスグベキ》。君爾有名國《キミニアラナクニ》。九【二十六丁】念母不過《オモヒモスギズ》。戀之茂爾《コヒノシゲキニ》。【此外四(ノ)四十二丁、十(ノ)廿七丁、又五十四丁、十三(ノ)三丁、十七(ノ)四十丁等にも出たり。】これも悶《オモヒ》を遣過《ヤリスグ》す事なれば、集中に即|過遣都禮《スグシヤリツレ》なども重ねてよみたるも有(リ)。こを上なるは、遣《ヤル》を用ひ、次に引るは、過《スグ》を用ひて、つひに同じ心なり。さて後世に想像の方に轉し云も、他の上に思ひを遣《ヤリ》て察するなれば、本(ト)は一つにて、用ひざまの少し易《カハ》りたるのみなり。
○鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》」代匠記云、しらには不知とかきてよめり。續紀にあり。古語なり』考注云。鶴寸《タヅキ》は借字にて、手著《タヅキ》也。別記云。言の本は、手著《タヅキ》にて手寄《タヨリ》もしらずと云に同じ。又何にても、事の(119)より所なきをも云めり』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、鶴寸《タヅキ》は手依著《タヨリツキ》を省る語にて(考注に、手寄もしらずと、譯したれど、著《ツキ》と云にも意ありて、只たよりと云とは別也。俗言ならば、手がかりと云にはかよへり)此句は便《タヨ》り着《ツキ》も不v知と云也。上の和豆伎《ワヅキ》もは、分着《ワカチツキ》の略語なると合せて知べし(此|和豆伎《ワヅキ》を宣長が多豆伎《タヅキ》の誤とせるは中々にわろし)此(ノ)語集中に多し。【四(ノ)三十四丁、又四十一丁、十二(ノ)十六丁、十三(ノ)十四丁、又二十五丁、六(ノ)三十丁、十八(ノ)十六丁、二十(ノ)三十丁等に出。】皆和合すればいよ/\慥か也。白土《シラニ》は不v知を、佐行【サシスセソ】の音にて「しらざる」「しらじ」「しらず」と濁るを、奈行【ナニヌネノ】の清音に轉じて、「しらに」「しらぬ」「しらね」とは云也。【波(ノ)行の音のばびぶべぼと濁るときは、まみむめもの清音に通ふが如きなり。】されば土《ニ》は、なにぬねのの通音なれど、爾《ニ》と云に辭《テニヲハ》の爾《ニ》の響きあれば、受爾《ズニ》の意におのづからなれる也。こゝも手《タ》より著《ツキ》もしらずに云意あり。【猶集中三(ノ)四二丁、九(ノ)三十一丁、十(ノ)三十三丁、十一(ノ)三十丁、十二(ノ)十六丁、十三(ノ)十丁、十五(ノ)十二丁、又三十八丁、十九(ノ)三十四丁等に出。】これかれ相合せて知べし。さて此《コヽ》に白土《シラニ》、十二【十六丁】に、白粉《シラニ》。十三【十丁】胡粉《シラニ》など書たるは、土を古く爾《ニ》と云て、卷々に、赤土《アカニ》、赤土《ハニ》、黄土《ハニ》、赭土《ソホニ》などかき、古事記應神(ノ)段に和邇佐加乃爾《ワニサカノニ》。また波都爾《ハツニ》。志波爾《シハニ》。那加郡爾《ナカツニ》。など見え、和名抄に、考聲切韻云。丹砂和名爾似2朱砂1而不2鮮明(ナラ)1者也。山海經云。丹以v赤爲v主。黒白(モ)皆丹之類也。毛詩に、赫(キコト)如2渥赭1。ともあり。
○網能浦之《アミノウラノ》」代匠云。あみの浦、彼(ノ)地の名所也。家隆卿の「浪風ものどかなる世の春に逢てあみの浦人たゝぬ日ぞなき」とよみ給へるは何れにつかれけんともしられぬを、近來の類字名所抄と云物に、讀岐とさだめたるは其(ノ)證をしらず』考注云。神祇式に、讃岐(ノ)國|鋼丁《ツヌノヨボロ》、和名抄に、同國鵜足(ノ)郡に津野《ツヌノ》郷あり。そこの浦なるべし。綱《ツナ》をつのと云は古言也。今本に網浦と有て、あみの浦と訓しかど、より所も見えず』【略解是と同じ。】』【已上】 今按に、行嚢抄海上(ノ)部に讃岐(ノ)國|阿野《アヤノ》郡に綾川《アヤカハ》、絃打山《ツルウチヤマ》、網《アミノ》浦とつ(120)いでたり。桑間西順(ノ)歌林名所考に、網《アミノ》浦讃岐として歌三首引たり。又夫木集にも「あみの浦の朝ひく汐の浪間より目にもかゝらず行千鳥かな」と云を出して、讃岐とせり。類字名所集には、阿比《アヒノ》浦とて、同國に出したり。萬葉集、筑紫人の書入云、今|津野《ツノ》と云郷もあれど、海邊にはあらず。諸云、網《アミノ》浦はあり。土人|阿比《アヒノ》浦と云と記したり。かゝれば古點に隨ふべし。網と綱と似たれば、字にては定めがたかれども、十一【三十七丁左】中々爾《ナカ/\ニ》。君不戀波《キミニコヒズハ》。留鳥浦之《アミノウラノ》。海部爾有益男《アマナラマシヲ》。珠藻刈刈《タマモカル/\》。とあるなどは慥に網也。【十三(ノ)卷にも一首あり。】又十五【九丁右】に、安故乃宇良爾《アコノウラニ》。布奈能里須良牟《フナノリスヲム》。と云歌の一本に、安美能宇良爾《アミノウラニ》とあり。是は新羅への御使人の、人麻呂の古歌を誦しける時、初句を、此(ノ)地に引かへて吟《ウタ》ひしなるべし(但(シ)其船路の便りはしりがたかれど、船人手記と云書に云る趣きにては、此(ノ)浦其順路なりければ、かくは云なり)
○海處女等之《アマヲトメラガ》」諸抄釋なし。記傳【卅三(ノ)十四丁】云、海部は阿麻《アマ》と訓べし(部(ノ)字を、別に辨《ベ》とよむは非なり)和名抄に、尾張、紀伊などの郡名の海部も、阿末《アマ》とあり。さて海部《アマ》は、下卷|甕栗《ミカクリノ》宮(ノ)段(ノ)御歌に、斯毘郡久阿麻《シビツクアマ》などあり。上卷、又此(ノ)下、又書紀万葉などに、海人《アマ》と書り。又書紀万葉に、白水郎《アマ》。万葉には泉郎《アマ》、礒人《アマ》、海夫《アマ》、海子《アマ》なども書り。和名抄に、辨色立成云。白水郎。今按(ニ)日本紀云。用2漁人(ノ)二字(ヲ)1。一云用2海人(ノ)二字(ヲ)1。和名|阿萬《アマ》。とあり。【白水とは、泉(ノ)字を分て云なるべし。即(チ)泉郎ともあり。】また漁子和名|伊乎止利《イヲトリ》漁父|無良岐美《ムラキミ》潜女|加豆岐米《カヅキメ》などあるも、皆|海部《アマ》の屬《タグヒ》なり』【是まで記傳の釋なり。】 今按に、白水の字《モジ》は、漢土の地名より出たる也。渝州記曰。〓白水。東南流。三曲。如2巴字1。故名2三巴1。代醉編曰。唐周邯。自v蜀買v奴。曰2水精1。善沈v水。乃崑崙白水之屬也。と見えたり。是にて知べし。然れば泉郎とあるは白水の二字を、泉の一字に、誤りたるなり。【記傳の説は非なり。】故(レ)此(121)集にも、白水郎と書るは多く、【三(ノ)十五丁、七(ノ)十八丁、又二十三丁、又三十一丁、又十一(ノ)三十七丁等】泉郎と書たるは、おのづから少し【六(ノ)卅丁、五(ノ)十五丁、七(ノ)十五丁等】また阿麻《アマ》とは、上海《ウハウミ》と云言の約縛《ツヾマレ》るにて(宇波《ウハ》は阿《ア》と約り、海《ウミ》の宇《ウ》を省き、美《ミ》を麻《マ》に轉して云也)海邊の郷村を云(フ)名なりければ、其處《ソコ》に居《スム》人を云には、海人《アマビト》、海處女《アマヲトメ》など云べきに、平言にいひ馴て、下の言を省けるは、彼(ノ)棚機《タナハタ》織(ル)人をたゞ棚機とのみ云類也。されば字《モジ》には海人、【三(ノ)十二丁、又廿三丁】海子、【七(ノ)十七丁、又廿九丁、六(ノ)十六丁、】海夫、【十七(ノ)七丁】礒人、【七(ノ)十八丁】など書ながら、言にはたゞ阿麻《アマ》とのみよみならひたり。海部と書(ケ)るは、【六(ノ)四十六丁、十一(ノ)卅七丁、又同丁左、十二(ノ)卅七丁、十九(ノ)二十四丁等】殊に集中にも多く見えたり。これ即海邊の部《ムレ》と云ことにて、其(ノ)郷村に當れば也。又|海女《アマメ》、【六(ノ)十七丁、 七(ノ)廿一丁、又廿二丁】海童女《アマヲトメ》、【十七(ノ)七丁】海未通女《アマヲトメ》、【六(ノ)十五丁、七(ノ)十七丁二首、十七(ノ)八丁二首、】など云る、是又彼(ノ)棚機を、棚機|津女《ツメ》とも云が如きなり。又此(ノ)阿麻《アマ》は潮海のみならず、湖水に云るも此(レ)彼(レ)見ゆ (七(ノ)廿四丁、サヽナミノ。志賀津(ノ)白水郎《アマ》。十一(ノ)卅七丁、枚浦乃《ヒラノウラノ》。白水郎《アマ》ナラマシヲ。十七(ノ)卅七丁、布施(ノ)湖(ノ)歌に、阿麻夫禰爾《アマブネニ》。とよみたり)湖水も、共に宇美《ウミ》と云(フ)故なり。又|潜女《カヅキメ》と云こと、輟耕録云。廣東采(ル)v珠(ヲ)之人。名(テ)曰2島蜑戸(ト)1。懸2※[糸+亘]《ツナヲ》于腰(ニ)1沈2入海中(ニ)1。良久(シテ)得vy珠(ヲ)。※[手偏+感]《ウゴカス》2其(ノ)※[糸+亘]《ツナヲ》1。舶上(ノ)人〓2出(スナリ)之(ヲ)1。葬2〓〓蛟龍之腹1者。比々(トシテ)有(ルカ)焉。と見ゆ。今も志摩(ノ)國の海人は此(ノ)状《サマ》に似たりといへり。
○燒鹽乃《ヤクシホノ》」考注云。此(ノ)乃《ノ》はやく鹽の如くてふを略きたる也。古歌に例多し』【略解是に同じ。】』 今按に、省くと見れば心得安きが如くなれば、それもさる事なれど、實は如《ナス》の奈《ナ》を乃《ノ》に通はして云るなれば、乃《ノ》と云言に如《ゴト》くの意は含(メ)る也。即|如《ナス》を似《ノス》とも似《ニス》とも云て、此(ノ)如くの心を爾《ニ》とよめるも有(ル)もて知べし。一【二十九丁】栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。とあるも、栲の穗の如くと云意なり。又二【十一丁】東人之《アヅマドノ》。荷向篋乃《ノザキノハコノ》。荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。とあるも、荷之緒《ニノヲ》の如くマアの意也。猶此類ひ多かるを合せ考へてよ。さて鹽燒(ク)わざは(122)國によりてもたがひ、古今の製も等《ヒト》しかるまじき也。本草綱目云。天(ヨリ)生(ズル)之曰v鹵《アラシホト》。人造(ルヲ)曰v鹽《マシホト》。黄帝(ノ)臣宿沙氏。初(テ)煮(テ)2海水(ヲ)1爲v鹽(ヲ)。其法海邊(ニ)掘v坑《アナヲ》。上(ニ)布(キ)2竹木(ヲ)1。覆(フニ)以(シ)2蓬茅(ヲ)1。積(ム)2沙(ヲ)于上(ニ)1。毎(ニ)潮汐衝(クトキハ)v沙。則鹵鹹淋(ク)2于坑(ノ)中(ニ)1。水退(クトキハ)則以2火炬《タイマツヲ》1照(ス)v之。鹵氣衝(テ)v火皆滅(ル)。因(テ)取(リ)2海鹵(ヲ)1貯(ヘ)2盤中(ニ)1煎(ス)v之。頃刻《シバラクシテ》而就(ル)。其煮v鹽之謂(フ)2之(ヲ)牢盆(ト)1。今(ハ)或(ハ)鼓v※[金+蔑](ヲ)爲(ル)v之。又編(テ)v竹(ヲ)爲(ル)v之(ヲ)。上下周(ニ)以2蜃灰《イシバヒヲ》1。横一丈。深(サ)一尺。平底(ニシテ)ゥ2于竈(ノ)背(ニ)1。謂(フ)2之(ヲ)鹽盤(ト)1。と見えたり。其(ノ)大略是にて見べし。
○念曾所燒《オモヒゾヤクル》」代匠云。遊仙窟にも、未(ダ)2曾(テ)飲1v炭(ヲ)。腹《ハラ》熱《コガレテ》如(シ)v燒《ヤクガ》。と云り』考注云。五卷に、心波母延農《コヽロハモエヌ》とよめり。是によりてよむべし』略解云。こゝはやく鹽のと云よりつゞければ、やくと云べし』【已上】 今按に、七【三十二丁】春乃大野乎。燒人者《ヤクヒトハ》。燒不足香文《ヤキタラヌカモ》。吾情熾《ワガコヽロヤク》。十三【十四丁】我情《ワガコヽロ》。燒毛吾有《ヤクモワレナリ》。四【五十四丁】吾※[匈/月]《ワガムネ》。截燒如《キリヤクガゴト》。など例あり。網(ノ)浦より燒鹽乃までの三句は、此(ノ)所燒《ヤクル》をいはんとて其處《ソコ》の物もて序に立(チ)入たる也。
○吾下情《アガシタゴヽロ》」考注云。吾下情《ワガシヅゴヽロ》、下つ心を、しづ心と云は、下枝《シヅエ》、下鞍《シヅクラ》など云が如し。後撰集にも下《シヅ》心哉とよめり』略解云。下情《シタゴヽロ》は、しづこゝろとも、訓べし』【已上】 今按に、十【十二丁】に、下心吉《シタゴヽロヨシ》。十一【十丁】吾裏念《ワガシタオモヒ》。十二【二十丁】吾下思《ワガシタオモヒ》。などあるによりてよむべし。彼(ノ)下枝《シヅエ》、下鞍《シヅクラ》などはいへど、下の心を、しづこゝろと云る例見えず。宣命に、靜心爾《シヅゴヽロニ》とあるは、中古の歌に、しづ心なく花のちるらん、などよめると同じく、靜かなる心也。傍例も物に因て異《カハ》るなり。漫に引付(ク)べからず。かくて此うたはやゝ後ぶりにて、いと聞え安かれど、次々に長歌の句つゞきの紛(ラ)はしきには、其(ノ)つゞき状を圖の如くに書(キ)並べてさとさんとなれば、先つ此うたの隔句のつゞきを圍みてしらすなり。
(123)霞立。長春日乃。晩ニケル。和豆肝之良受。
          村肝乃。心乎イタミ。
          ヌエコ鳥。ウラナケヲレバ。
          玉ダスキ。カケノ宜シク。(一)――(三)朝夕ニ。還ラヒヌレバ丈夫ト。念へル我モ○※[線が念の上の○に向かう、その線の途中の左に、草枕云云、とある]
遠ツ神。吾大王乃。行幸能。山越風乃。獨座。吾衣手爾(二)※[線が(三)に向かう]  ○念曾所燒。吾下情。
○此六句はかけの宜しく云云。の中間へ行幸の事と、山より吹おろす風の事とをわり入て、還らひねればへつゞけたれば、上は竪の如く、此六句は横のごとし。
○此草枕已下の七句隔てるも、同例のたち入ども也。
 
○一褊總ての意は、霞の立頃の長き春の日は、暮を待かぬるならひなるに、其(ノ)長き日のくれゆくわかちもしらず、都の戀しくて、※[空+鳥]鳥の如くうらぶれ歎きをるに、此(ノ)行幸《ミユキ》せす山のあなたより、嶺ごしに吹おろす風のいとゞ身にしみて、旅に離れをるわが袖に朝夕吹還り來て、歸らまほしとおもふ都の方へ、かけの宜しく袖さへかへるを見れば、常は大丈夫と思ひをる我も、むねの悶を遣過すべき手《タ》より着もしらずに、此(ノ)網の浦の海人等がやく鹽の如くに、下の心に思ひを焦《コガ》して、めゝしくなれるよとなり。
 
   反歌
山越乃《ヤマゴシノ》。風乎時自見《カゼヲトキジミ》。寢夜不落《ヌルヨオチズ》。家在妹乎《イヘナルイモヲ》。懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》。
○山越乃《ヤマゴシノ》。風乎《カゼヲ》」既に長歌に出づ。
(124)○時自見《トキジミ》」代匠云。垂仁紀に、非時とかきてときじくとよめり。不斷の心なり。長歌に、朝夕にかへらひぬればと云(ヒ)し心也』考注云。時も定めず、風の吹を云。紀にも、此集にも、ときじくてふ語に、非時と書つ』略解云。紀にも集中にも、非時と書て、時ならずといふ意也』【已上】 今按に、此(ノ)語の本(ト)は、常《トコ》を常志久《トコシク》とも、常並《トコシナヘ》とも云如く、物の常住不斷に布並《シキナベ》て不《ザル》v斷《タエ》を云(ヒ)けんを、不(ル)v斷物は非《ナラズ》v時|存《アリ》わたるゆゑに、時ならざる方へ、もはら轉《ウツ》して云(ヒ)しなるべし。垂仁紀九十年春二月。天皇命(テ)2田道間守《タヂマモリニ》1。遣(シテ)2常世(ノ)國(ニ)1令(ム)v求(メ)2非時香菓《トキジクノカグノミヲ》1。とあるは、本(ト)常世(ノ)國の物なるに就て、常住不斷の意に稱《タヽ》へたるなるを、其(ノ)橘子の夏よりなりて、秋を經《ヘ》、冬の霜雪にもよく堪《タヘ》、時ならぬ頃にも盛りなるより、非v時と書る類ひを云なり。八【五十一丁】に、非時藤之《トキジクフヂノ》。目頻布《メヅラシク》。とよめるは、六月の歌也。又富士(ノ)山雪、越中(ノ)立山の雪などを、時自久爾とよみたるも、常住不斷に雪の降る意にも取べく、又夏秋などの頃に、時ならずふる意にも取べきなり。今|此《コヽ》の句は時ならぬ寒き風の吹來を云て、其(レ)を時自見《トキジミ》と云るは、時ならぬ故にと云意なり(既に長歌の心乎痛見《コヽロヲイタミ》の下に云つるが如く、かゝる見《ミ》もじを、宣長は、左爾《サニ》の意として説(ケ)れども、今此(ノ)時自見《トキジミ》などは左爾《サニ》としては合《カナ》ひがたし。故爾《ユヱニ》と譯《ウツ》すときは、いかなる言の下に屬《ツケ》るも合《カナ》はざるはあらず。是を以て實(ト)は故爾の意なる事を知べき也)かくて集中に、非時《トキジク》の語例多く出たれど、引出るにも今は及ばじ。【若(シ)も用あらば披きみょかし。一(ノ)十六丁右、三(ノ)廿七丁右、又卅八丁右、四(ノ)十三丁左、七(ノ)四丁左、十三(ノ)十二丁右、又同丁、又廿丁右、又同丁、十八(ノ)廿七丁左、又廿八丁左、又卅八丁右等に出たり。】
○寂夜不落《ヌルヨオチズ》」代匠云。毎夜かけずと云義也。後々多き詞也。上をうけて、その風の時なきが如く、一夜として、故郷に置て來し妹を、はるかにかけて忍ばぬ夜はなしと也』考注云。一夜も漏《モラ》ずなり』略解云。一夜も漏《モラ》ずにて、集中くまもおちずなど(125)云る、おちずに同じ』記傳【十一(ノ)四十七丁】云。伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》云云。淤知受《オチズ》は漏《モラ》さずなり。延喜式八、祈年《トシゴヒ》祭(ノ)祝詞に、島之八十嶋墜事無《シマノヤソシマオツルコトナク》。萬葉一【二十九丁】川隈之《カハグマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。四【十七丁】に、盖世流衣之《ケセルコロモノ》。針目不落《ハリメオチズ》云云。同【廿三(ノ)四十三丁】云。無遺忘は、オツルコトナクと訓べし。龍田(ノ)祭(ノ)詞にも、天社國社《アマツヤシロクニツヤシロト》。忘事久《オツルコトナク》。遺事無久《ノコルコトナク》。稱辭竟奉《タヽヘゴトヲヘマツル》。又續紀十(ノ)詔に、漏落事母在牟加止《モレオツルコトモアランカト》。辱美《カタジケナミ》云云。ともあり』【已上】 今按に、此語の意は、此等の釋にて殘る隈なく通《キコ》ゆべし。今の平言に、爲落《シオト》し、言落《イヒオト》し、書落《カキオト》しなど云(フ)も即|爲漏《シモラ》し、言漏《イヒモラ》し、書漏《カキモラ》しの意なるがごとし。【此語の例は、一(ノ)十五丁、又廿八丁、九(ノ)十四丁、十一(ノ)三十丁、十二(ノ)二丁、又卅一丁、十三(ノ)十七丁、十五(ノ)十七丁、十七(ノ)卅七丁、十八(ノ)十六丁等(ニ)出。】
○家在妹乎《イヘナルイモヲ》」考注云。家爾阿留《イヘニアル》の、爾阿《ニア》を約めて奈留《ナル》と云(フ)。家は都の家也』【略解是に同じ。】』 今按に、此集にしては、旅より、本郷を指ては國とも、家とも云り。是まことに然云べきことわり也。
○懸而小竹櫃《カケテシヌビツ》」代匠云。ふる郷に置て來し妹を、遙かにかけて忍ばぬ夜はなしといふ也』考注云。こゝより、遠き妹が家をかけて慕《シヌ》びつると云也』【已上】 今按に、此(ノ)懸《カケ》は彼(ノ)「あはの山かけてこぐ舟」など云と同じ用ひざまにて、此處《コヽ》より彼處《カシコ》へさし及ぶ意也。中古の歌に、春かけて、秋かけて、むかしをかけて、などいふも、さし及ぶ心は同じ。既に懸乃宜久《カケノヨロシク》の條に云るが如く、心にかくるも、言にかくるも、双方を相(ヒ)懸《カク》るも、此《コヽ》より彼《カシコ》へかくるも、本皆同語なる事、上と合せてさとるべし。
○一首の意は旅のやどりへ、吹おろす山越の風の時ならず身にしみてさむき故に、寢る夜もらさず、遙に都をかけて家なる妻をしたふとなり。忍ぶといふ言の意は、下に委く云べし。
 
右檢(ルニ)2日本書紀(ヲ)1。無(シ)v幸2於讃岐(ノ)國1。亦軍(ノ)王未v詳也。但(シ)山上(ノ)憶良大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰(ク)。紀(ニ)曰(ク)。天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午。幸2于伊豫(ノ)温湯《ユ》(ノ)宮(ニ)1云云。(126)一書云。是(ノ)時(ニ)宮(ノ)前(ニ)在(リ)2二(ノ)樹木1。此(ノ)之二樹(ニ)斑鳩《イカルガ》此米《シメノ》二鳥|大集《オホクアツマル》。時勅(シテ)多(ク)掛(テ)2稻穗(ヲ)1而養(フ)之。乃(チ)作歌云云。若(シ)疑(ラクハ)從(テ)2此便(ニ)1幸(マスカ)v之(ニ)歟。
 〔細註〕 ○山上憶良の事は、下の歌の條に云べし○類聚歌林」此(ノ)書古き書目に、百卷とあり。そははやく亡て傳らず。こゝに引る物は、後の僞書なる事しるし。今は此僞書だにも傳らず○天皇十一年云云」。代匠記云。同紀曰。十二年夏四月丁卯朔壬午。天皇至v自2伊豫1。使v居2厩坂《ウマヤサカノ》宮(ニ)1矣。八年紀曰。八年六月。災《ヒツケリ》2岡本(ノ)宮(ニ)1。天皇遷2居田中(ノ)宮(ニ)1。然れば八年に、天火の爲に岡本(ノ)宮は燒たる故に、十二年に伊豫より還御せさせ給ひても、うまや坂の宮にいらせ給ふなるべし。下に一書云といふは、風土記なるべし。第三卷赤人のいよの湯にて、よめる歌の所に引べし』【已上】 今按に、仙覺抄云。伊與(ノ)國風土紀云。二木(トハ)者。一者|椋《ムクノ》木。一者|臣《オミノ》木(ト)云云。臣(ノ)木可v尋v之。私勘(ニ)臣(ノ)木者、もみの木也。といへり。此木等の事も三(ノ)卷の歌(ノ)條に云べし○斑鳩、此米《シメ》云云」和名抄云。崔禹錫(ガ)食經云)鵤和名|伊加流加《イカルガ》。貌(チ)似(テ)v鴿(ニ)而白喙(ナル)者也。兼名苑注(ニ)云。斑鳩(ハ)和名上(ニ)同。觜大(ニ)尾短者也。又※[旨+鳥]孫※[立心偏+面](ガ)切韻云。※[旨+鳥](ハ)小青雀也。音脂。漢語抄云。之女《シメ》とあり。是も十三卷(ノ)歌に出○從2此便1幸v之(ニ)歟」今按に、誰も然か思ふやうなれど、此歌は後の追入なるべき事、既に云るが如し。猶左注にひが事ある事、考に云る事どもは下に引べし。
 
(127)萬葉集墨繩卷四(原本萬葉|檜※[木+瓜]《ヒノツマデ》卷第三)
 
   本集一之三【自九葉左至十二葉右】
 
明日香川原宮《アスカノカハラノミヤニ》御宇(シヽ)天皇(ノ)代 天豐財重日足姫《アメトヨタカヲイカシヒタラシヒメノ》天皇
○川原(ノ)宮」考注云。此天皇、再の即位は、飛鳥(ノ)板盖(ノ)宮にてなし給ひつ。其年の冬、其(ノ)宮燒しかば、同飛鳥の川原(ノ)宮へ俄に遷まし、明年の冬、又岡本に宮造(リ)して遷ましぬ。かゝれば川原(ノ)宮には暫おはしたり』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、齊明紀元年冬十月丁酉(ノ)朔己酉。於《ニ》2小墾田《ヲハリタ》1造2起《ツクリタテヽ》宮闕《ミアラカヲ》1擬將《セントス》2瓦覆《カハラブキニ》1。又|於《ニ》2深山廣谷《オクヤマノタニ/”\》1擬造営殿之材《ミヤギヲトラントシタマヒシニ》。朽爛者多遂止弗作《クチタルオホカレバツヒニツクラズナリキ》。是(ノ)冬|災《ヤケヌ》2飛鳥(ノ)板盖(ノ)宮1。故《カレ》遷2居《ウツリマス》飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)1。とあれば、川原(ノ)宮は假宮なりし也。此(ノ)宮(ノ)地は、輿地通志曰。板盖(ノ)宮。川原宮。倶在2岡飛鳥二村(ノ)間(ニ)1。と見え、行嚢抄南遊、大和國高市(ノ)郡の條に云、奥山村。雷士村。八鈎村云云。此三村ハ飛鳥村ノ東ニ在。是地昔の皇居ノ跡也。川原村。路ヨリ右ニ在。岡町、自2奈良1至2于此1七里餘。自2八木1一里|逝回《ユキヽノ》岡云云。とあり。然れば今も岡と並て川原村あり。其所なる事しるし(元暦校本裏書云。川原宮(ハ)高市(ノ)郡丘本(ノ)宮同地也。菅笠日記云「川原(ノ)宮は、川原寺のほとりなる小山なり。板葺(ノ)宮は飛鳥川の東の畠中也と。飛鳥(ノ)社司飛鳥氏の説也」と云り。今按に、彼(ノ)日記に云る舊跡勝地の説多くはたがひて、信み難かれど、是はもしさる事なるか、よく考へ合すべし)さて今彼(ノ)暫し御坐《オハシ》し川原(ノ)宮をしも標《アゲ》たるは、其ほどの歌なればなるべし。
○天豐財重日足姫《アメトヨタカヲイカシヒタラシヒメノ》天皇」【皇代三十八嗣、後に齊明天皇と申奉る。】代匠云。天皇は、敏達天皇五世(ノ)孫、茅渟《チヌノ》王(ノ)御女、舒明天皇皇后、舒明崩まして、位(ニ)即せ給ひて、皇極天皇と申(シ)しを、今は重祚し給ひて、齊明天皇と申す。別に注せればこゝには省けり』【已上】 今按に、皇極紀(128)曰。天豐財重日足姫(ノ)天皇(ハ)渟中倉太珠敷《ヌナクラフトタマシキノ》天皇(ノ)【敏達】曾孫《ヒヽコ》。押坂彦人大兄皇子《オサカノヒコヒトオホエノミコノ》孫。茅渟《チヌノ》王(ノ)女也。母(ヲ)曰(ス)2吉備(ノ)姫王(ト)1。天皇|順2考《ナラヒテ》古(キ)道(ニ)1而|爲《ヲサメ玉ヒ》v政(ヲ)也。息長足日廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇【舒明】二年。立2爲《タヽセ玉フ》皇后(ニ)1。十三年十月。息長足日廣額天皇崩(マシヌ)。元年春正月丁巳(ノ)朔辛未。皇后|即天皇位《アマツヒツギシロシメシキ》云云。齊明紀曰。天豐財重日足姫天皇(ハ)初(メ)適《ミアヒテ》2於橘(ノ)豐日(ノ)天皇【用明】之孫|高向《タカムコノ》王(ニ)1。而生(玉ヒ)2漢《アヤノ》皇子(ヲ)1。後(ニ)適《ミアヒテ》2於息長足日廣額天皇(ニ)1。而坐2二男一女(ヲ)1云云。十三年冬十月。息長足日廣額(ノ)天皇崩(マシヌ)。明(クル)年正月(ニ)皇后|即天皇位《アマツヒツギシロシメス》。改元《アタラシキミヨノ》四年六月(ニ)譲《ユヅリ玉ヒキ》2位(ヲ)天萬豐日《アマヨロヅトヨヒノ》天皇
(ニ)1【孝徳】。稱《タヽヘテ》2天豐財重日足姫(ノ)天皇(ヲ)1曰《マヲス》2皇祖母《スメミオヤノ》尊(ト)1。天萬豐日天皇。後(ノ)五年十月崩(マシヌ)。元年審正月壬申朔申戌。皇祖母尊。即2天皇位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)板盖(ノ)宮(ニ)1云云。【再祚】同二年九月。逐起2宮室(ヲ)1。天皇乃(チ)遷(マス)。號2曰(ス)後(ノ)飛鳥岡本(ノ)宮(ト)1。災七年五月。天皇遷2居于朝倉橘廣庭(ノ)宮(ニ)1。【和名抄云。伊與國越智(ノ)郡朝倉(ハ)安佐久良。立花(ハ)多知波那。】秋七月甲午朔丁巳。天皇|崩(マシヌ)2于朝倉(ノ)宮(ニ)1。【在位七年。聖壽未詳。編年集成曰。六十一。私記又水鏡曰。六十八。正統記曰。七十六。】十一月壬辰朔戊戌。以《ヲ》2天皇(ノ)喪《ミモ》1。殯《アガリス》2于飛鳥(ノ)川原(ニ)1。天智紀。六年春二月壬辰朔戊午。合(セ)d葬《マツル》天豐財重日足姫(ノ)天皇(ト)與《トヲ》2間人《ハシヒトノ》皇女1。於|小市《ヲチノ》岡(ノ)上(ノ)陵u云云。天武紀云。八年三月丁亥。天皇幸2於|越智《ヲチニ》1拜2後(ノ)岡本(ノ)天皇陵1。【文武紀次出之。】諸陵式云。高市(ノ)郡越智(ノ)岡上陵。兆域東西五町。南北五町。山陵志曰。越智軍記云。載(テ)d置(テ)2兵(ヲ)於越智(ノ)陵邊(ニ)1而守(コト)uv之(ヲ)云(フ)。茅原之東(ニ)有2巒※[山+喬]1。號2志貴奈美伊佐羅波《シキナミノイサラハ》山(ト)1。所v奉v藏2齊明天皇1處云云。輿地通志云。越智(ノ)岡(ノ)上(ノ)陵(ハ)。在2北越智村(ノ)東北(ニ)1。俗(ニ)呼2升冢(ト)1。
 
額田王《ヌカダノオホキミノ》歌 未詳
○額田(ノ)王」考注云。紀に【天武】天皇。初(メ)娶《イレテ》2鏡(ノ)王(ノ)女額田(ノ)姫王(ヲ)1生2十市皇女(ヲ)1。とありて、天武天皇いまだ皇太子におはしゝ時の夫人なり。かくて集中に、額田(ノ)王とて擧たるは、皆女(ノ)歌也。然れば此(ノ)王に、姫の字を落(シ)し事、定かなる故に、今加へつ。たゞ額田(ノ)王と有ては男王をいふ例にて、其歌どもにかな(129)はぬ也』略解云。未詳二字は、後人の書加へし也。額田王の事、考の別記に委しかれど、猶考るに、額田王は鏡(ノ)王の女にて云云。【此(ノ)已下云る趣、次に引(ク)宣長の説どもなれば省(キ)ぬ』玉勝間二【二十八丁】云。萬葉集に、鏡(ノ)女王、また額田(ノ)王とある二人の女王の事紛(ラ)はし。まづ鏡(ノ)女王を鏡王(ノ)女とあるは皆誤(リ)》なる事、又額田(ノ)王とは別なる事などは、師の考に辨へられたるが如し。さて古(ヘ)は女王をも分て某(ノ)女王とはいはず。男王と同じくたゞ某(ノ)王といへり。かくて萬葉のころに至りては、女王をば、皆女王と記せるに、此(ノ)額田(ノ)王に、女(ノ)字なきは古き物に記せりしまゝに記せるなるべし。鏡(ノ)女王は父の名と紛るゝ故に、ふるくも女王と記せるなるべし。さて右の二女王ともに、鏡(ノ)王と云し人の女にて、鏡(ノ)女王は姉、額田(ノ)王は弟《オトウト》と聞えたり。父(ノ)王は近江(ノ)國の野洲(ノ)郡の鏡の里に住居《スマハ》れしによりで、鏡(ノ)王といへりと見ゆ。此ほども居住を以て呼る名の例多し。かくて其(ノ)女子も、もと父の郷に居住《スマハ》れしによりて、同じく鏡(ノ)王と呼る也。すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など同じ名なる多し。そは事にふれて紛るゝをりなどは、女子の方をば鏡(ノ)女王と書て分ち、つね口には、京人などはたゞ鏡(ノ)王といひし也。これ古(ヘ)のなべての例也。さて此姉妹ともに、天智天皇に娶《メサ》れたる人也。萬葉二の卷の十のひらに、天皇の賜へる御歌、御答に奉れる歌、これ鏡(ノ)女王もめされたる證也。此女王此時は、大和國に居住《スマ》れたりと聞えたれば、故郷の鏡の里にはこれよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘《ヨバ》ひ給へるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうへの事にても有べし。天武紀に十二年に、天皇の此女王の病をとひ給ひし事、又その薨《ミウセ》を記されたるも、天智天皇の妃なるが故也。さて額田(ノ)王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。萬葉四の卷の十三のひらに、思2近江天皇(ヲ)1歌、こ(130)れその證なり。其次に鏡女王の歌あり。これ又此女王も天智天皇に娶《メサ》れたる證にて、妹《オトノ》王と共に思ひ奉れる也。さて天武天皇、皇太子におはしましゝほどより、額田(ノ)王に御心をかけられたりし事、同一の卷の十四のひらなる御歌にてしらる。其御歌に、人つまゆゑにとよみ給へるは、天智天皇の妃なるが故也。考の説はたがへり。さて此御歌の此御詞にても、額田王も、はじめは天智天皇のめしたりし事しるべし。かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市(ノ)皇女をうみ奉られしなり』【已上、是まで玉勝間の説なり。】 今按に、こはよき考へなり。額田と云も同じく近江の郷(ノ)名也。十三【二十七丁】に、師名立《シナテル》。都久麻左野方《ツクマサヌカタ》。とある是也。此(ノ)額田は、筑摩《ヅクマノ》郡、息長《オキナガ》は、坂田(ノ)郡なれども、相並びたり【此地の事、下の歌(ノ)條に委しくいひつべし。】然れば此(ノ)妹の額(ノ)王の方は、母又乳母などに附て、額田(ノ)郷にて成長《ヒトヽナラ》れしか。又姓などに依たる名なるべし。此人姉妹ともに容貌もきはめて優れ、ざえも此集婦人第一の人たちと見えたり。額田(ノ)王の歌は、一【九丁】又【十二丁】又【十三丁】二【十四丁】四【十三丁】等に出(ヅ)。
 
金野乃《アキノノヽ》。美草苅葺《ミクサカリフキ》。屋杼禮里之《ヤドレリシ》。兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》。借五百熾《カリイホシ》【拾穗抄本(ニ)熾作v磯】所念《ゾオモフ》。
金野乃《アキノヌノ》。美草《ミクサ・ヲバナ》苅葺《カリフキ》。屋杼禮里之《ヤドレリシ》。兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》。借五百磯〔左〔】所念《カリイホシオモホユ》
○金野乃《アキノヌノ》」諸抄釋なし。今按に、十【五十丁】にも、秋山を金山と書り。秋風を金風とかける類也。文選張景陽(ガ)雜詩云。金風。善曰。西方(ヲ)爲v秋(ト)。而主(ル)v金(ヲ)。故秋風(ヲ)曰2金風(ト)1−也。
○美草《ミクサ・ヲバナ》苅葺《カリフキ》」仙覺抄云。美草はすゝき也。此(ノ)歌古點にも或はをばなかりふきとも、或はみくさかりふきとも點(ズ)v之(ヲ)。此歌には、みくさと點せる殊(ニ)宜(キ)也。みくさと云はもろ/\の草の中に、たかくをゝしき草なるがゆゑに、眞草《マクサ》の義にて、みくさと云べ(131)し。難(ジテ)云(ク)、たかく雄々しきによらば、荻《ヲギ》葦《アシ》等又これあり。何ぞかれをみくさと不(ル)v云(ハヤ)乎。答云、たとひ其義もありぬべくとも、古(ノ)賢者殊(ニ)秋のはな薄を賞せり。故(ニ)柿本(ノ)朝臣集云「人みなははぎを秋といふいなはれはをばなが末を秋とはいはむ云云」又諸草多しといへども、此(ノ)集の歌の義讀の中に、草花と書て、をばなとよむ。これすゝきは、眞の草なる故也。可v思v之』代匠云。みくさは眞草也。尾花などかりふきてしつらへる行宮《カリミヤ》のさま、中々ことそぎてめづらしく、又所がらもおもしろかりければ、立山で來しなごりの、あかずをしくおぼゆる也』考注云。美草は眞《マ》草と云に同じ。只こゝは秋の百草をかね云』略解云。宣長云。云々【此(ノ)説次に出せば此に省けり。】といへり。元暦本に、をばなと訓るもかなへり。卷八に、草花と書てをばなとよめり』小琴云。美草は、ヲバナト訓ベシ。貞觀儀式大嘗祭ノ條ニ、黒酒十缶云云。以2美草1餝v之。又次ニ、倉代十輿云云。餝(ルニ)以(ス)2美草(ヲ)1。ト見エテ、延喜式ニモ同ク見ユ。然レバ必一種ノ草ノ名也、古ヘ薄ヲ美草ト書傚ヘルナルベシ。モシ眞草ノ意ナラムニハ、式ナドニ美草ト美字ヲ假字ニ書ベキ筋ナシ』平(ノ)春海云。宣長が玉(ノ)緒琴に云云と云るは不叶。かゝる類の物の名などには假字書なるも有こと也。職員令に、狹疊《サダヽミ》とあるを、義解に、狹疊は、猶(シ)v云(ガ)v疊(ト)とあるは、假名書にて、大和詞の發語也。されば式の美草を必一種の草にて、をばな也とも定めがたし』【已上衆説】 今按に(彼(ノ)小琴に云る處は、元來今井似閑が説にして、我家の代匠記書入にも、大甞會式、新規式等を引て云る趣、もはら右の如くして、其末に、元暦本、又官本等に、をばなと訓りとあり)薄は、茅葺に似たる物なれば、彼(ノ)八卷に「はたすゝき尾花さかふき黒木もて造れる家は萬代までに」十(ノ)卷に「秋の野の尾花かりそへ秋はぎの花をふかさね君が借廬《カリホ》に」などの如きは、葺草《カヤ》の代《カハ》り(132)にふきし也。又倉代などの飾に用ひしは、もしは美草《ウルハシキクサ》のよしにて、其(ノ)時々の美事《ビサウ》を以て餝れと云ことにはあらじか。そは十一月の大甞曾の比は、尾花も有べからねば也。又さる物の餝りにいつも必一種の草と定むべきいはれもあらざるべし。されば今此歌も秋の花野の行宮なりつれば、右に引し十(ノ)卷の歌の如く、尾花に苅そへて、萩、女郎花の、うるはしき花どもを、葺れけむが興ありて、後々まで忘れがたかりしにぞあらん。かゝれば式の美草は、【漢文なれば、】美草《ビサウ》の意、此集なるは眞草《ミクサ》の意と心得むか。猶よく考ふべし(一(ノ)廿二丁に、眞草苅《マクサカル》とある、是はたゞ草也。二(ノ)十一丁に、水篶《ミスヾ》又|三篶《ミスヾ》とかき、又三(ノ)卅七丁、十(ノ)十四丁、同五十四丁等に、水草《ミクサ》とある、此等は、水草《スヰサウ》と云には非ず。水は皆借字にて何れも眞草《ミクサ》の意也。こは其歌の意とかの眞篶《ミスヾ》をば、水篶、三篶など書るとに合せて知べし。猶此外にも其例多かりなん)
○屋杼禮里之《ヤドレリシ》」之《シ》は過(ギ)去(リ)し辭也。次の借五百《カリイホ》と續けて心得べし。野遊の時、其所に廬を造りて宿る事、下の紀伊(ノ)國の行幸の時の歌に、吾勢子波《ワガセコハ》。惜廬作良須《カリホツクラス》。草者《カヤナクバ》とある類也。
○兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》」仙覺抄云。うぢのみやことは行宮《カリミヤ》也。非2京都1也。可2分別1v之』代匠云。これを兎道乃稚郎子《ウヂノワキイラツコ》の大宮をたてゝ住せ給ふゆゑに、今宇治(ノ)都とよめるとおもへるは非也。【是は詞林采葉の説を辨へ云る也。】後の人のうぢの都とよめるは、それにても侍るべし。今は行宮《カリミヤ》につきてよめり。左傳曰。凡(ソ)邑(ニ)有(ルヲ)2宗廟先君之主1曰v都(ト)。無(キヲ)曰v邑(ト)。杜預注解。周禮(ニ)四縣(ヲ)爲v都。四井爲v邑(ト)。然(ドモ)宗廟所(ヲ)v在則雖v邑。曰(フハ)都尊(ンデ)v之(ヲ)也。また舜は匹夫なりしかども、居たまふ處人みな跡を慕ひて、あつまりける故に、都君と云(ヒ)ければ、いはんや天子の一夜にてもましまさん所はいづくにても、都と云に難なかるべし。日本紀に、應神天皇六年、近江國にみゆきし給ひける時も、(133)宇治野にて御歌よませ給ひ、又天武天皇近江宮にて出家し給ひて、吉野へ入らせ給ふとて、大和の嶋宮へ歸らせ給ふ時も、諸臣兎道迄送り奉りけると見えたれば、大和に都ありける時の路次也。左注に、幸2比良(ノ)宮1とあるによりて、ことぢをつくる(似閑云。楊子法言。先知篇云。譬(バ)猶2膠(シテ)v柱而調(ルガ)1v瑟(ヲ))ともがら、路次の御供にて、額田王のよみ、あるひは行宮をおぼしめして、天子のよませ給ふとは、えこゝろ得ずして、とかくいへるはとるにたらず』考注云。幸の時、山城の宇治に造りたる行宮を云。さて離宮所《トツミヤコ》をも、行営所《カリミヤコ》をも、略きては、みやこと云り』【略解是に同じ。】』 今按に、美夜許《ミヤコ》は右考説の如く、宮所《ミヤコ》の義なれば、いづこにても其宮を指て云詞也。都(ノ)字の意とは異《コト》なり。さて此(ノ)行宮《カリミヤ》は、岡(ノ)屋、餘戸の邊より小野小栗栖邊なりけん。宇治の内はいづこも景地ならぬはあらざる中にも、彼(ノ)邊は殊に見晴(ラ)しも廣く、土地も美麗《ウルハ》しく、車駕も留るべき所也。
○借五百磯所念《カリイホシオモホユ》」考注云。五百は訓をかり、磯《シ》は助辭、行宮をかり廬《ホ》と云は、下にも例有。末を今本に、かりほしぞおもふと訓しも、下に妹乎師曾於母布《イモヲシゾオモフ》とあれば、さても有べきを、かく所念と書しをば、惣てをもほゆと訓例なり下も是によれ。秋野の百草を、花ながら苅ふきたる、かり宮に宿れりしを、面白くおぼえし事、後までも忘れがたきと也』略解云。かりほは、かりいほを約めいへり』【已上】 今按に、此(ノ)句、語は餘りても如v比、五(ノ)字を添(ヘ)て書たるは、猶|借五百《カリイホ》と訓べきなるべし。凡て岡部氏は、言を省き約(ム)るを、古雅《フルシ》とのみ思ひて訓れたれど、集中、假字もて書たる歌どもを見もてゆくに、言のまゝに約めざるぞ多かりける。されば此語も、かりほとも云れど、又かりいほとも云り。十【五十一丁】借廬作《カリイホフクリ》。五百入爲而《イホリシテ》。十五【二十五丁】可里伊保爾布伎弖《カリイホニフキテ》。【今本伊を脱せり。元暦本、建長本、又一本の古本皆同じ。】猶有べし。(134)思を、毛布《モフ》ともいへど、又|於毛布《オモフ》とも多くあるが如し。又所念とかく、所(ノ)字は集中凡てを合せ考るに、良行【ラリルレロ】の音に當る處に、主《モハラ》と書り。故(レ)流《ルノ》音の、未(ダ)然らざる、ほゆ、見ゆ、聞ゆ等の由《ユ》もじ、見え、聞え、などの衣《エ》もじにも、おのづからあてゝもかけるなり。
○一首の意は、ひと日秋の野の、千種の盛に、山城の宇治に大御行ありて、そこの野に、おの/\萩尾花など苅ふきて、やどりたる事ありしが、其時のおもしろさ、今に思ひ出られて、忘れがたしと云なり。【額田(ノ)王のよめる也。天皇にはあらず】
 
右檢(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰。一書曰。戊申(ノ)年幸(ス)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌。但紀(ニ)曰(ク)。五年春正月己卯(ノ)朔辛巳。天皇至(リマス)v自(リ)2紀温湯1。三月戊寅(ノ)朔。天皇幸(テ)2吉野宮(ニ)1。而|肆宴焉《トヨノアカリキコシメス》。庚辰(ノ)日。天皇幸(ス)2近江(ノ)之平(ノ)浦(ニ)1。
 〔細註〕 ○云云。代匠云。右檢云云より平浦と云まで、皆類聚歌林の詞なるべき歟。但紀曰。以下は撰者の、日本紀を引る歟。思ふに皆歌林の詞なるべし。其(ノ)故は、撰者、皇極天皇の御時、額田王のよみ給へりと聞て、明日香(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇(シヽ)天皇代と標して載たれども、歌林に異説あるによりて、未詳と注し、さて歌林を引也。但紀以下、撰者の詞ならば、皇極天皇御代と標せる、いよ/\ことわりなし。齊明天皇の紀伊(ノ)温湯へみゆきせさせ給へるは、四年冬十月庚戌朔甲子と、紀に載らる。一書の説によらば、此歌孝徳天皇御製也』【已上】○紀中行幸」考注云。歌に兎道のみやこと有は、近江へ幸(ノ)時の行宮をいふ也。さて紀には此時はなくて、後(ノ)岡本(ノ)宮の時、近江の幸の事あれど、此御代の紀は誤多し。此集中に依べし○幸2比良(ノ)宮1」考別記云。戊申(ノ)年幸2比良(ノ)宮1云云飛鳥(ノ)川原宮におはしゝは、齊明重祚元年乙卯の冬より二年丙辰の冬までにて、此時に戊申の年はなし。此注、例のよしなし○但紀曰。五年春(135)正月云云。三月云云」此五年は、後(ノ)岡本宮におはしませば、川原(ノ)宮にかなはず。殊に三月なれば、此に秋野と有に背けり○庚辰天皇幸(ス)2近江之平浦1」この度の事、歌に金野と有を思へば、紀に三月の幸と有は誤れるなるべし。凡遠き幸には、百官皆御供をし、經給ふ國々もゆすりて、大きなる御事なるを、朔日に吉野にをはしまして、三日に近江への幸有べきにあらねば也。其(ノ)飛鳥板盖(ノ)宮燒て、俄に川原宮へうつりまし、かり宮所故に宮(ノ)地をかた/”\求めませるよし紀に見ゆ。仍て近江の穴穗(ノ)宮の舊地など見まさんとて、かの川原(ノ)宮(ノ)二年の秋に、此幸有つらんとおぼゆ。然れば紀を捨て、集によるべし。紀の末は、後に加へしものなるが中に、齊明天智の卷は、殊に誤れる事多かれば、みだりに取がたき也』【已上】
今按に、紀と、此集と、年月日時のひとしからざる事多かるは、紀も違へるにはあらねど、おほやけの事は、昔も今も、表(テ)むきと、うち/\とのかはりあるを、紀は凡ておもて向に付て録せる故也。其中にも、行幸などは、觸出しありても、延る事の多かるものなるを、紀は其觸出しの日時を、物に記せるまゝに載られたるもある故にぞある。されば紀と此集と、日時の違へるを合せ見もてゆくに、紀は多くはさきだち、此集はおくれたり。これらを思へば此行幸も紀に三月と記せしが延て、秋七月にいでましゝならん。猶凡ての違ひも是になずらへて心得べし。
 
後崗本宮《ノチノヲカモトノミヤニ》御宇(シ)天皇(ノ)代 天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇
○後(ノ)崗本(ノ)宮」代匠云。齊明紀二年九月。遂(ニ)起2宮室(ヲ)1。天皇乃遷(マス)。號曰(ス)2後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ト)1云云』考注云。右同(ジ)天皇、重て即位まして、二年の冬に本(ト)の舒明天皇の岡本(ノ)宮の地に、宮づくりして遷ましゝ故に後(ノ)岡本(ノ)宮と云。かの川原(ノ)宮の東北にて、共にいと(136)近き所也』【已上】 これらの事は既に皆出て、引にも及ばざれど、先注に云る限りは一(ツ)も省じとて也。(岡本の地の事は、初(メ)の舒明天皇の標の崗本(ノ)宮の下にいひつ。又此(ノ)齊明天皇の御事は、上(ノ)條に皆引ていへり)
 
額田(ノ)王(ノ)作《ヨメル》歌
熟田津爾《ニギタツニ》。舟乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテバ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコギコナ》。
今按に、此歌、齊明天皇、筑紫へ行幸の御供にてよめるなれば、端詞に、幸2于筑紫1之時、と云六字を脱せしなるべし。齊明紀曰。六年十二月丁卯(ノ)朔庚寅。天皇幸(ス)2于難波(ノ)宮(ニ)1。天皇方(ニ)隨《マカセテ》2福信(ガ)所乞《マヲス》之意1。思(シテ)d幸(テ)2筑紫(ニ)1將遣(ント)c救軍(ヲ)u。而初幸(ス)。斯(ニ)修2諸(ノ)軍器(ヲ)1云云。七年春正月丁酉朔壬寅。御船西(ニ)征(テ)。始就2于海路(ニ)1。甲辰御船到2于大伯《オホクノ》海(ニ)1時。大田(ノ)姫皇女産(ム)v女(ヲ)焉。仍名(テ)2是(ノ)女(ヲ)1。曰2大伯《オホクノ》皇女(ト)1。庚戌泊2于伊豫(ノ)熟田津《ニギタツノ》石湯(ノ)行宮《カリミヤニ》1。三月丙申。御船還至2于|娜《ナカノ》大津(ニ)1。居2于磐瀬(ノ)行宮(ニ)1。天皇改2此(ノ)名(ヲ)1曰2長津(ト)1。夏四月百濟(ノ)福信。遣《マタシテ》v使(ヲ)上v表(ヲ)。乞v迎(ント)2其王子|糺解《キゲヲ》1。五月乙未朔癸卯。天皇遷2居朝倉(ノ)橘(ノ)廣庭(ノ)宮(ニ)1云云。とある、此(ノ)紀の文と、歌の詞とを合せて按ずるに、此(ノ)歌は、其(ノ)度備前(ノ)大伯《オホク》より伊豫(ノ)熟田津《ニギタツ》へ渡らせ賜ふ時によめる趣なり。さて古點もさせるたがひはあらざれども、誤字もあれば改て擧(グ)。
 
熟田津爾《ニギタツニ》。船乘世武登《フナノリセムト》。月待者《ツキマテバ》。潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》。今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》。
○熟田津爾《ニギタツニ》」仙覺抄云。如2古點1者、或はむまたつ、或はなくたつ也。如2日本紀1者、にぎたつと和すべし。にぎたつと云は、祈2渡海安穩(ヲ)1義也と云は、祈祷をいたして、神慮を和らげ奉る義也。旅行のならひ、水陸ともに、祈請すべしといへども、殊(ニ)渡海安穩をいのる故也』考注云。齊明紀に、(137)熟田津、此(ヲ)云(フ)2爾枳陀豆《ニギタヅト》1。とあるにおなじ』【略解是に同じ。】』 今按に、熟田津、石湯(ノ)行宮とあるによれば、此(ノ)地は、温泉《ユ》(ノ)郡なるべし。神名帳に、同郡に湯(ノ)神社あり。行嚢抄西遊云。伊與(ノ)温泉ハ、岩木嶋ニアリ。是ヲ伊與(ノ)湯ト云。古(ヘ)ヨリ有(リ)。萬葉(ニ)云云。とあり。もし此岩木嶋(ノ)湯を、古くは石湯と云(ヒ)しにや。岩木は、石城《イハキ》の義の地名なるべければ也。さて行嚢抄に、此(ノ)岩木嶋へ渡る海上に、長鳴門など云荒灘もあるよしなれば、渡るに大事なる海故に、月と汐とを待れしならん。又彼(ノ)仙覺抄に、にぎたづと云は、祈2渡海安穩(ヲ)1義也。と云るは、古き説なるか。若(シ)然らば、彼(ノ)海神に祈て、和幣《ニギテ》奉《タツ》る海路なる故に名とはなれる歟。此(ノ)地名、こゝの外にもこれかれ見ゆ。二【一八丁】に、和多豆《ミギタヅ》。又【二〇丁】に、柔田津《ニギタヅ》などあるは、石見(ノ)國那賀(ノ)郡也。此(ノ)處も荒き海なるべし十二(ノ)【十四】なるは、其(ノ)國定かならず。これら皆海神に幣《ヌサ》まつる海路ならば、いづれも、和幣《ニギテ》奉《タツ》の義にやあらん。
○船乘世武登《フナノリセムト》」船《フネ》を、布奈《フナ》と云は、稻《イネ》を伊奈《イナ》、金《カネ》を加奈《カナ》、竹《タケ》を多加《タカ》、酒《サケ》を佐加《サカ》など云如く、下の言につゞけ云時のことにて、第四の音を、第一の音にかへで云例也。即集中假字にも、布那能理《フナノリ》、布奈能閇《フナノヘ》、布奈與曾比《フナヨソヒ》など書たり。
○月待者潮毛可奈比沼《ツキマテバシホモカナヒヌ》」代匠云。潮もかなひぬとは、潮時《シホトキ》の應じてよくなる也。宣化紀云。是以(テ)2海表之《ワタノホカノ》國(ヲ)1候《サモラヒテ》2海水《ウシホヲ》1以|來賓《マ井デク》。といへり。文選謝靈運(ガ)詩。解(テ)v纜《トモヅナヲ》及2流潮(ニ)1。懷v舊不v能v發。ともいへり』考注云。月も出(デ)、汐も滿たるをいふ。
○今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》」代匠云。こぎこなは、こぎこんなといふか、ゆかんなどこそ云べけれ。こぎ出て來べき道なければ、ことわりたがへり。又禮記月令、孟春之月鴻雁來とあるを、かへるとよみ、此集第十卷には、春はきにけりと云べきを、春《ハル》去《サリ》にけりとよめれば、爰もこぎゆかんといふこと也、(138)としるべし。又乞の字、此集に、コと云假字に用たる事、いまだ考へず。いでとよみ、こそとはよめり。共に物をねがふ詞也。いでをば出にかりて、今(ハ)こぎ出なとよむべき歟。今こぎ出んなり云云』考注云。集中に乞をこそと訓て、即|乞《コヒ》願ふ言也。有乞《アリコソ》、見えこそ、又にほひ乞《コツ》、妻よしこせねなどもよめる、共に乞《コフ》意也。然ばこゝも今も時のかなひたれば、御船※[手偏+旁]出よと乞給ふ也」略解云。或人、乞は弖の誤にて、こぎてなならんといへり。こぎてなは、漕てんと云に同じ』小琴云。乞ノ字ハ、※[氏/一]ノ誤ナラムト、田中道麻呂云リ。サモアルベシ。コソナト云ル例モナク、句ノ調ベモワロシ。コギテナハ、コギテムト云ニ同ジ』【已上】 今按に、こは代匠記の、後の説よろし。乞をこそとのみおぼえて、とかく云はかたくな也。いでと訓(ム)一種ありて、物を押乞《オシコフ》ことに云り。允恭紀に、刀自《トジ》其(ノ)蘭一莖云云。壓乞《オシコフ》此(ヲ)云(フ)2異提《イデト》1。とある是也。此集にも、二【一八丁】乞通來禰《イデカヨヒコネ》。四【三十一丁】乞吾君《イデワキミ》。七【十八丁】欲得※[果/衣]登《イデツトト》。十一【六丁】伊田何《イデイカニ》。十二【二十五丁】乞吾駒《イデワガコマ》。十四【十七丁】伊低兒多婆里爾《イデコタバリニ》。など見えたり。是等に依(ル)に)、今此句は、將出《イデナ》と云に借て、乞菜二字共に訓を用ひたるなり。
○一首の意は、備前の大伯《オホクノ》津【和名抄云。備前國|邑久《オホクノ》郡。邑久(ハ)於保久と有是也。】より、伊與の熟田津へ船乘せんとて、月を待をれば、月も出(テ)、汐も共に協ひたれば、今は※[手偏+旁]出んとなり。
 
右檢(ルニ)2山上憶良大夫類聚歌林(ヲ)1曰。飛鳥岡本宮(ニ)御宇天皇(ノ)元年己丑。九年丁酉十二月己巳朔壬午。天皇大后幸(ス)2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1。後(ノ)岡本宮(ニ)馭宇(シヽ)天皇(ノ)七年辛酉。春正月丁酉朔壬寅。御船西征始就(ク)2于海路(ニ)1。庚戌御船泊2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1。天皇|御2覽《ミソナハス》昔日《ムカシヨリ》猶|存之《ナガラヘコシ》物(ヲ)1。當時忽起(ス)2感愛之情(ヲ)1。所d以因(テ)製(テ)2歌詠(ヲ)1爲《ナス》c之(ガ)哀傷u也。即此(ノ)歌者、天皇御製(ナリ)焉。但(シ)額田王(ノ)歌(ハ)者。別(ニ)有四首。
 〔細註〕 代匠云。此中に○天皇九年」と云るは、憶良の誤也。さきの軍王の歌の注にも歌林を引(139)り。其中に日本紀を引て、十一年十二月己巳朔壬午といへり。今日本紀を考るに、全同なり。又九年の行幸をしるさず。其上なかに一とせをへだてゝ、十二月朔日の支干、ともにおなじからんや。行幸の日もともに壬午にて、十四日也。かならず誤れりと知べし○後岡本馭宇天皇」此八字は憶良加へらる。下は紀のまゝ也。海路の下にいはく、甲辰御船到2于大泊(ノ)海1時云云。おほくは備前にあり。行宮(ノ)下(ノ)注(ニ)云云(ノ)之情までは紀の詞、所以下は憶良の詞也』考注云。
○飛鳥岡本宮(ニ)御宇天皇。元年己丑」此元年は何の用ともなし。又舒明天皇より、齊明天皇まで元年に己丑もなし○九年丁酉十二月云云」舒明紀に、九年此幸なし。十年十月にあり。伊與風土記に、岡本天皇、并皇后二躯爲2一度1。と有を、こゝには云と見ゆ。然れども此は、後の崗本(ノ)宮と標せれば、右は時代異にて用なし○後(ノ)崗本宮(ニ)馭宇天皇云云。石湯(ノ)行宮」これより上三十六字のみ、後(ノ)岡本(ノ)御代の事にて、こゝの事也。他は皆用なし○天皇御2覽昔日猶存之物(ヲ)1云云」此天皇と申より下は又注にて、甚誤れり。こゝに製2歌詠1と云は、右の歌を指に、其歌何の處に感愛の意ありとするにや。思ふに、むかし天皇と、御ともにおはしましゝ時のまゝに、よろづは在て、天皇のみおはしまさぬを、悲しみ給ふ御心より、むかしの御船のこぎ來れかしとよみ給へりと思ふなるべし。こはこぎこなと訓誤りて、よしなき事に取なせるものぞ云云○即此歌者」云云(ノ)四首別にあらば何の書とも、何歌とも云べし。右の云如くのひが心より、何歌をか、見誤て云らん。上の軍王の歌より始めて、古注多かれど、煩はしくてさのみは論せず。是等を推てしれ』同頭書云、山上憶良大夫は古の物知人と聞ゆるを、此類聚歌林は、惣て誤多(140)きを思ふに、後の好事人、憶良の名を借て僞り云し物也。依て多くはとらず。されどよほど昔の人の書しかば、たま/\は依べき所もなきにあらず』
 
幸(シケル)2于|紀温泉《キノイデユヘ》1之時《トキ》額田(ノ)王(ノ)作(ノ)歌
○幸《イデマシ》」代匠云。此行幸、齋明紀云。四年冬十月庚戌朔甲子。幸2紀(ノ)温湯1』考注云。此幸は、後(ノ)岡本(ノ)宮の紀には、四年十月とあり。此集誤て、前後に成しか』【已上】 今按に、撰者の誤りにはあらず。後に錯亂せしなり。
○紀(ノ)温泉《イデユ》」諸抄釋なし。今按に、牟婁(ノ)郡なる走湯なるべし。南紀名勝志曰。同郡走湯は瀬戸(ノ)庄湯(ノ)崎村ノ中ノ白良(ノ)濱に出湯數箇所有。走湯ト云ハ、村ノ西二丁計ニ在ヲ云也。今土人|崎《サキノ》湯ト云り【仲實朝臣(ノ)歌】「マシラヽノ濱ノ走湯ウラサビテ今ハミユキノカゲモウツラズ。】 日本書紀曰。齊明天皇三年九月。有間(ノ)皇子。往2牟婁(ノ)郡温湯(ニ)1云云。同四年冬十月庚戌朔甲子。幸2紀(ノ)温湯1云云。續日本紀曰。文武天皇。大寶元年九月丁亥。天皇幸2紀伊國1。冬十月丁未。車駕至2武漏温泉(ニ)1云云。按ニ牟婁(ノ)郡(ノ)中ニ、温泉數ケ處有トモ、他所御幸ノ事ヲ不相傳。然レバ紀ニ載ル牟婁(ノ)湯ハ是所也』【是まで名勝志に云る所なり。】。三才圖會には、湯崎(ノ)温湯者。在2牟婁(ノ)郡鉛山村(ニ)1。俗云2田邊(ノ)湯(ト)1。とあり。是則崎(ノ)湯ならん。
 
莫囂圓隣《ユフツキ》【※[木+夜]齋古本隣作v憐】之《ノ》。大相七《アフキ》【拾穗本無2七字1】兄爪謁氣《テトヒシ》。吾瀬子之《ワガセコガ》。射立爲兼《イヽタセルカネ》【元暦校本兼作v薫】五《イツ》【同本、五以v朱作v吾】可新《カアハ》【一本新作v斯】何本《ナモ》。此歌集中第一の難訓たりければ、次々○をしるして、衆説を出すなり。故(レ)まだしき説をも得省かず。
○仙覺抄云。ゆふつきとは、十三四日のゆふべの月也。いたゝせるかねと云るは、いは發語の詞、よめる心は、ゆふつきのごとく、あふぎてとひしわがせこが、たちてやあるらん、いつかあはんと、よそへよめる也。これは愚老新點の歌のはじめの歌也。彼新點の歌、百五十二首はべる中に、是は(141)くはしく釋をかきそへて侍るうた也。くはしきむねをしらむと思はん人は、可v爲3披見2彼(ノ)釋1也。
かくあれど、今其釋もなくて見る時は、いかなるよしありて、右の字どもを然か訓るにか、心得がたき事どもなり。きはめて僻説なるべきにこそ。
○代匠云。此歌のかきやう難義にて、心得がたし。しひて第一の句を案ずるに、莫は禁止(ノ)辭にて、なかれなれども、唯なしともよめり。囂は、左傳杜預(ガ)注(ニ)、喧嘩也といへり。堯の時老人ありて、日出(テ)而起(キ)日入(テ)而|息《イコフ》といひ、又陶淵明が詩に、日入(テ)群動|息《ヤム》と作れり。されば陰氣に應じて、くるれば靜になる心にて、莫囂を、夕とはよみたる歟。圓隣とは、十日過るころは、月もやう/\まろに見ゆれば、七八日はそれに近づけば、かくは書りとするか。此集に女の歌に、妾の字をはれとよめり。男の歌には云べからず。夕月ならでは圓隣ともかくまじ。第二の句は、かきやう、よみやうひたすら心得ず。新の字あふとよめるも、又いまだしらず。猶追々によく考へてむ』【これは契沖の、はじめ一わたりいへる所なり。といへり】
○今井似閑書入(ニ)曰。仙覺釋ニ、此歌、予ガ新點也ト云リ。然レバ此點ハ古點ニアラズ。古來ヨリ難義トシテ、點ヲモ付ザリシ也。今點ハ仙覺ナリ。難(シ)2信用1。師及(テ)2晩年(ニ)1不意ニ思得テ點ヲ加フ。自(ラ)モ神(ノ)助(ケ)アリト云リ。依(テ)v茲(ニ)加(テ)2新注(ヲ)1、板垣氏ニ贈テ云(ヒ)ケラク、西山公願ハ開封シ玉ヘ。他人ニ見セシムルコトナカレト。公、冲ガ需ニ應ジテ、掛自開封シ玉ヒテ、稱美シ玉フコト甚切ナリ。其ヨリ御手(ヅ)カラ篋ニ藏メ玉フト云(フ)。爰ニ因テ高弟トイヘドモ、其説ヲシルコトナシ。師滅後、草稿ヲ篋中ニ遺ス。弟子利元坊、予ガ心ザシヲ感ジ、其草稿ヲモ惠マル。今別ニ秘2藏(ス)之(ヲ)1。
此(ノ)圓珠庵の晩年に思得られたる新點は、いかさまなりけむ。いとゆかしきを、此に記さゞるこそ遺恨なれ。
○考注云。〔細註〕莫囂國隣之《キノクニノ》(こはまづ神武天皇紀に、今の大和國を、内つ國といひつ。さて其内つ國を、こゝに囂《サヤギ》なき國と出たり。同紀に、雖邊(142)土未清餘妖尚梗而《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》。中洲之地無風塵《ウチツクニハヤスラケシ》。てふと、同意なるにて知ぬ。その隣とは、此度は紀伊國を指す也。然れば莫囂國隣之の五字は、紀乃久爾乃《キノクニノ》と訓べし。又右の紀に、邊土と中洲を對へ云しに依ては、此五字を外《ト》つ國のとも訓べし。然れども云云の隣と書しからは、遠き國は本よりいはず、近きを云なる中に、一國をさゝでは、此歌にかなはず。次下に三輪山の事を、綜麻形と書なせし事などあひ似たるに依てもなほ上の訓をとるべし。大相《ヤマ》」【山也】古兄※[氏/一]湯氣《コエテユケ》」越てゆけなり。吾瀬子之《ワガセコガ》(こは大海人《オホアマノ》皇子命か、又何れにても、此(ノ)姫王の崇み親み給ふ君の前に、此山路を往坐し事あるを思ひ給ふなるべし)射立爲兼《イタヽセリケン》」射は發言、たゝせりは、立しと云に同じくて、あがめ云也。けんは、けるらんの略にて、過にしを云辭なり。五可新何本《イツカシガモト》」五は借字にて、嚴也。可新河本は、橿之《カシノ》本也。紀に垂仁卷、天照大神(ヲ)鎭2座|磯城嚴橿之本《シキノイツカシガモトニ》1。古事記雄略條に、美母呂能《ミモロノ》。伊都加斯賀母登《イツカシガモト》。加斯賀母登《カシガモト》。と云も同じ。かゝれば神の坐(シ)ませる山路の、齋橿《イムカシ》の木の下に前つ時、吾背子の立給ひし事を聞傳へて、かくよみ給へるなりけり」こは荷田大人のひめ歌也。さて、此歌の初句と、齋明紀の童謠とをば、はやき世より、よく訓人なければとて、彼(ノ)童謠をば、己(レ)に此歌をば、そのいろと、荷田(ノ)信名(ノ)宿禰に傳へられき。其後多く年經て、此訓をなして、山城の稻荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隱しおかば、荷田大人の功も、徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ』猶別記にもいへる事あれど、そは次に引(ク)略解の中に摘とりていへれば、其(レ)にゆづりてこゝには省り。大かたは用なき事どもなり。
○略解云。此歌、荷田東萬呂翁「きのくにのやまこえてゆけわがせこがいたゝせりけむいつかしが(143)もと」とよめり。其故は、古本に、莫囂國隣之と有(リ)。古葉略要集には、莫器國隣之とあり。又一本に、莫器圓隣之と有。二の句、古本大相云兄爪謁氣と有。古葉略要に、大相土兄爪湯氣と有。一本に、大相七咒竭氣と有。是らを合せ考るに、七も土も、古の字の誤、爪は、※[氏/一]を誤、謁は湯を誤れるなるべし云云(此(ノ)間(ダ)に云る所、皆右の考の説どもなれば、今略之)さて元暦本には、草囂云云。爪湯氣。と有て、瀬の下、子の字なし。千蔭がもたるたる古葉略類聚抄には、莫囂圓隣云云云湯氣。と有。此歌はいたく誤りたりと見ゆ。此初句、きのくにのとよまんも、強たる事のやう也。ことはりもいかゞに聞ゆ。されども今外に考得たりと思ふ事もなければ、しばらく右の説を擧つ。猶考ふべき事なり。
是は考注の本書と別記とを取合せていへるのみなり。初句のよみを難じたるも、此ほど久老の説をきゝてなり。其説は次に引べし。
○玉勝間【七卷初丁】云。萬葉一の卷に、幸2于紀(ノ)温泉(ニ)1之時(ニ)。額田(ノ)王(ノ)作歌。莫囂國隣之《カマヤマノ》。霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》。吾瀬子之《ワガセコガ》。射立爲兼《イタヽスガネ》。五可新何本《イヅカシガモト》。とあり。莫囂は、加麻と訓べし。加麻《カマ》をかく書るよしは、古(ヘ)に人のものいふを制して、あなかまと云るを、そのあなを省きて、かまとのみも云(ヒ)つらん。そは今(ノ)世の俗言にも、囂《カマビス》しきを制して、やかましと云と同じ。やかましは、囂《カマビス》しと云ことなれば、かまといひて莫《ナカレ》v囂(シキコト)といふ意也。さてかま山と云は、神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡|竈山《カマヤマノ》神社。諸陵式に、同郡竈山(ノ)墓。と見えたる是也。此御墓は神武天皇の御兄|五瀬《イツセノ》命の御墓にて、古事記、書紀にも見えたり。神社も、御墓も、いにしへの熊野道ちかきところにて、今もあり。國隣は、夜麻《ヤマ》と訓べし。山は隣の國の境なる物なれば、かくも書べし。國(ノ)字は、本には圓とあるを、一本に國とある也。霜(ノ)字、本に大相と(144)あるは、霜の草書を大相の二字と見て誤れるなり。そも/\此|幸《イデマシ》は、書紀(ノ)齊明天皇(ノ)卷に、四年冬十月庚戌朔甲子。幸(マス)2紀(ノ)温湯(ニ)1。とありて、十一月までも、かの國にとゞまりませりしさまに見えたれば、霜の深くおくころなり。木兄※[氏/一]《キエテ》は、本には、木(ノ)字を七に誤り、或本には、土にも誤り、※[氏/一](ノ)字は爪に誤れり。又湯(ノ)字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯とあるなり。吾瀬子《ワガセコ》とは、天智天皇、此時皇太子にてましますをさしてよまれたり。太子も、此幸(シ)に供奉し給へる趣、書紀に見えたり。さて額田(ノ)王は、天智天皇の娶《メシ》たりし女王《ヒメミコ》なること、槻(ノ)落葉(ノ)卷に云るが如し。さるによりて、わがせことはよみ給へるなり。爲兼は、須賀禰《スガネ》と訓べし。此句は、此度いづかしが本に立(チ)給ふべき事をよみ給へる也。然るをせりけむと訓ては、徃時《イムサキ》のことなれば、物どほし。五可新何本《イヅカシガモト》は、竈山(ノ)神社の嚴橿之本《イヅカシガモト》也。かくて此歌は、此女王も太子に從(ヒ)奉り行給へるにて、太子の竈山(ノ)社に詣(デ)給はんとする日の朝など、霜の深くおけるにつきてよみ給へるさまにて、一首《ヒトウタ》の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いづかしが本に立給ひがたかるべければ、吾兄子がわづらひなく立(チ)給ふべきために、しばし霜の消むを待てゆけかしとなり』
○信濃漫録曰。諏訪殿の家人千野貞愼とひけらく云云。己答けるは云云。莫囂圓隣の歌、師の考に、初句を、きのくにの、とよまれしは、いかゞ也。紀の國の行幸に、紀の國の山こえて行(ク)とは云べきにあらず。紀の山を越て、いづくにゆくにや。また第二句の大相を、やま、とよまれしも、いかなる意とも心得がたし。是はもと大相土の三字を、やまとはよまれしものならんを、その土の字を古の誤字として、次の言にとられしより、しひて大相の二字をやまとよみおかれしものとこそおぼゆれ。宣長これをよみあらためて、初句をかまやま(145)とよみしもいかゞ也。物語ぶみに、あなかまと手かくなどいへるは、あゝやかましと制する言にてかまは即囂の字にあたれば、かまとよまんには莫の字|衍《アマ》れり。第二句を、霜吉兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》と改めよめるもいかゞ也。また霜は、橋(ノ)上、野面なとに置わたしたらんこそ、歌にもよみならひつれ。山上の霜、いかにぞや。雪にてありたし。雪は踏分がたければ、消て後ゆけとも云べけれど、霜はさるものにしもあらねばいかゞ也。とまれかくまれ、此第二句の訓は、誰もいかゞにおもふべかめるを、別に考出べき才力《チカラ》なきゆゑに、もだをるならん。己(レ)が考は、囂《カマビスシキ》ことなきは、耳なしなり。圓《ツブラ》は、山の形にて、倭姫命世紀に、圓奈留《ツブラナル》有《アリ》2小山《ヲヤマ》1支《キ》其所乎都不良止號支《ツブラトナヅケキ》。と見えたり。しかれば莫號圓は、耳無山也。耳無山に隣れるは、香具山なれば、莫號圓隣之は、かぐ山のとよむべし。大相土は、書經(ノ)洛誥(ニ)大(ニ)相《ミル》2東土(ヲ)1。とあるによるに、大に相《ミル》v土(ヲ)は、國見なるべし。兄爪謁氣の兄は、一本、旡に爲《ツク》れゝば、爪謁の二字は、靄(ノ)一字を誤れるものにて、旡靄氣は、さやげきなれば、第二句をば、くにみさやけみとよむべき也。第三句は、舊訓、第四句は宣長の訓に從ひて、いたゝすがねとよむべし。がねは、集中に多き詞にで、思ひはかり定むる意、第五句を、諸説に、嚴橿《イツカシ》が本とせるは、よきに似たれど、己(レ)按に、嚴橿が本は、日本紀垂仁紀に、磯城嚴橿本《シキイツカシガモト》とありて、倭姫命世記に、倭(ノ)國|伊豆加志本宮《イヅカシガモトノミヤニ》。八箇歳《ヤトセ》奉(ル)v齋《イハヒ》。と見え、古事記の歌に、美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》とあれば、磯城嚴橿、三諸嚴橿、ともに倭(ノ)國にて、三輪山近きあたりにありと思はるれば、巌橿本《イツカシモトガ》、紀の國にあらん事、おぼつかなし。是は古寫の一本に、五可斯河本とありて、斯は、期の草の手の誤字也。然れば舊訓のまゝ、いつかあはなもとよむべし。莫號圓隣之《カグヤマノ》。大相土旡靄氣《クニミサヤケミ》。吾瀬子我《ワガセコガ》。射立爲兼《イタヽスガネ》。五可期何本《イツカアハナモ》。(146)前にも、登(テ)2香山《カグヤマニ》1望國の歌のあるをもておもふに是も中大兄《ナカノオホエ》命の、かぐ山に登りて國見しまさん事をおもほしやり、國見のさやけきを、おもしろみあそびおはしまして、紀の行幸に追及《オヒシキ》ます事のおくれ給ひなば、いつかはあはんと、夫君《セノキミ》を戀しぬび給ひて、よみませる歌なるべし』【已上衆説】
今按に、此荒木田氏の説よ。考注、又玉勝間等の考どもを難じたる、實に明辨と云べし。此(ノ)辨に一うちに破られて、彼(ノ)説どもはなごりなく潰れたり。さらば此久老の考へ云る所の説、彼考へどもに勝るかと見もてゆくに、猶五十歩百歩の説にして、諾なひ難きふし/”\おほかり。是を思へば、互に他《ヒト》の非は見えやすくして、おのれ/\が非は見えわかぬものと見えたり。故(レ)今又|他眼《ヨソメ》を以て、此(ノ)漫録に云る所を難じ試んに、莫號圓隣之の句を、耳無山より、香具山に轉《ウツ》しいへる論らひ、をかしきに過て、ようせすば奇怪におちぬべし。又國見と云事は既に云が如くなるを、此(ノ)時紀伊國への行幸なるに、ひとり香具山に登りて國見し給はんいはれあらんや。又其(ノ)順路も、紀伊國は、巨勢より待乳山へかゝりて行なれば、十市(ノ)郡香具山は、遙かに跡の方なるをや。又射立爲兼とある、かねてふ言の釋に、かねはおもひはかり定むる意也として、訓(ミ)つゞけたるもかなはず。集中がねは、其物の設をする事に云て、俗に其用意に、其(ノ)爲にと、いふ意にのみ用ひたり。然れば射立爲兼《イタヽスガネ》。五可期何本《イツカアハナモ》。とては、一首の意とほりがたし。又|嚴橿《イツカシ》は齋槻《イハヒツキ》、齋杉《イハヒスギ》などの類にて、必しも磯城三諸《シキミモロ》のみに限るべきにあらず。何れの社にても齋《イツ》き置かるゝあらば、其(レ)を云べき物なるを、其(ノ)釋《トキ》ざまよからず。凡(ソ)此等以て彼(ノ)漫録の解も、又同じくひが事なる事を知べきなり。さらばいかに、訓むぞといはんに、おのれいまだ、思ひ得たる事もなし。されど猶、後の人の考へのたづきのために、しひて試(147)を申さば、考注に引りし神武紀に依て、莫號國隣之大相土の八字を、まつちやまとよまんか。莫《ナキ》v囂《カマビスシキコト》國《クニ》は、彼(ノ)故事によれば、中洲にて、即大和國也。さて其(レ)に隣之山《トナレルヤマ》は、待乳山なれば也。四(ノ)卷【二十三丁】に、麻裳吉《アサモヨシ》。木道爾入立《キヂニイリタツ》。眞土山《マツチヤマ》。越良武公者《コユラムキミハ》云云。とあり。大(ニ)相《ミル》v土《ツチヲ》は、山と訓べき義訓と見えたり。兄爪謁氣は、見乍竭意を誤れるにて、見つゝあかに、とよむべし。謁は、一本に竭に作るよし、考にも略解にもいへり。氣は※[木+夜]齋が校本に意に作れり。竭《ツクスハ》v意(ヲ)は、是もあかにとよまする義訓也。此待乳山の見るにあかれぬよしは、此卷(ノ)下【二十四丁】に、朝毛吉《アサモヨシ》。木人乏母《キビトトモシモ》。亦打山《マツチヤマ》。行來跡見良武《ユキクトミラム》。樹人友師母《キビトトモシモ》。と羨《ウラヤ》めるほどの處也。そは此(ノ)山道を登りはつれば、西は難波より、播磨の海を目の下に見おろし、遠くは西の海を隈なく見わたされ、南は紀の浦々より、阿波、讃岐、四國の海を見|晴《ハル》かして、行過がたき處なりければ、かくはよめる也。【今も待乳峠とて、殊に壯觀の所に、茶店多くして、旅人の足を留る所あり。是を待乳茶屋と稱へり。猶これらの事は、下の亦打山の條に、行嚢抄等を引て委くいふべし。】かくて下句の、兼五可の三字は、元暦本に、薫吾の二字に作りたれば、薫は座の誤、また次の新は、一本に斯に作りたり。かゝれば射立爲座吾斯何本の八字を、いたゝしまさば、わはこゝになもとよむべし。これを一つに束ねて、一うたをよまば、
莫囂國隣之大相土《マツチヤマ》。見乍竭意《ミツヽアカニト》。吾瀬子之《ワガセコガ》。射立爲座《イタヽシマサバ》。吾斯何本《ワハコヽニナモ》。
如此《カク》訓て、一首の意は、彼(ノ)待乳山の見晴(ラ)しの峠に皇太子の見乍不v飽《ミツヽアカズ》と※[行人偏]《タヽズ》み給へるに、額田(ノ)王しばし待あはせて、吾背の君が然か※[行人偏]《タヽズ》ませ給はゞ、よしや天皇の供奉《ミトモ》にはおくるとも、吾は斯《コヽ》に在て、君に具《タグ》ひ侍らんと云るなり」此己が新點も、後より見ば、猶上の先注どもの類ひなるらめど、かゝるついでには、おもふ事をいはずても、得あらずてなん【只改めたる文字等は、諸抄に引る異本どもに皆出て、一字も私にかへざるのみなり。】
 
(148)中(ノ)皇女《ヒメミコノ》命。往《イマセル》2于紀(ノ)温泉《イデユニ》1之時《トキニ》。御作歌《ヨミタマヘルウタ》三首
○中(ノ)皇女(ノ)命 ○紀(ノ)温泉 共に既に出。
○三首」代匠云。歌の下、目録に、三首とあり。此に加ふべし』考注云。此端詞に、御の字は本よりあり。作の字は、例によりて加へたり。徃をいますと訓は、卷二に、朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》。此外例あり。且いにましの略也』略解云。紀の下、一本に伊の字なし』記傳【三十九(ノ)五十八丁】云。往は伊麻須《イマス》と訓べし云云【萬葉三(ノ)十八丁、四(ノ)三十二丁、五(ノ)三十一丁、十二(ノ)三十八丁、十五(ノ)四丁、又五丁、廿(ノ)四十四丁等(ニ)出。】これら皆|徃坐《ユキマス》ことを、伊麻須《イマス》と云り。これたゞ坐《マス》を伊麻須《イマス》と云と同(ジ)言にして、其《ソ》を徃坐《ユキマス》ことにも用ひたるなり。万葉十七に、和我勢古我《ワガセコガ》。久爾幣麻之奈婆《クニヘマシナバ》、これも徃坐《ユキマス》なるを、たゞ麻之《マシ》と云る(伊《イ》と云(ハ)受)にて、知(ル)べし(然然るに、此いますを、いき坐《マス》、又いに坐の略(キ)と心得るは非なり。さては右の十七卷なるをば何とか解むとする。又古今集に、法皇西川におはしましける日云云。又布引の瀧御覽ぜむとて、七月七日の日おはしまして、ありける時に云云。これらの類も、徃坐《ユキマス》ことをおはしますと云る、おはしますは坐《マシ》ますと云と同きを思ふべし。今の俗言にも、物へ徃(ク)ことを、其處へ御座《ゴザ》ると云、又來ることをも御座《ゴサ》ると云。彼(ノ)おはしますも、來賜ふことにも云り。然れば坐ことゝ、徃坐《ユキマス》ことゝ來坐《キマシ》こととを、同言以て通はし云こと、古も今も、おのづから同じことなりけり。但し萬葉などに、來坐《キマス》ことを、伊麻須と云る例は、いまだ見およばず』【已上】 今按に、此記傳の説は、いとよろし。考注はひが事也。略解に云る伊(ノ)字、集中にあるもなきもあれば、何れにても有べけれど、上の端詞にも見えざれば、此《コヽ》はなきに依れり。さて此御歌も上と同(ジ)度なるか、又別に徃《イマス》と記せれば、別の度なるか定めがたし。
 
君之齒母《キミガヨモ》。吾代毛所知哉《ワガヨモシレヤ》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》。
(149)君之齒母《キミガヨモ》。吾代毛所知武〔左〔〕《ワガヨモシラム》。磐代乃《イハシロノ》。岡之草根乎《ヲカノカヤネヲ》。去來結手名《イザムスビテナ》。
○君之齒母《キミガヨモ》」考注云。こゝに君といひ、又次に吾せことよみ給へるは、御兄中(ノ)大兄(ノ)命にいざなはれておはしけん。さらば此君は、かの命をさし給ふべし』【略解是に同じ。】』 今按に、君が代とよめるに、其(ノ)時世を指ると、其人の齡を指ると、二つ有。今は其(ノ)君のよはひをさし給へる也。故(レ)君之齒とは書たり。齒は齡と同じ。
○吾代毛所知武《ワガヨモシラム》」代匠云。所知哉《シレヤ》は、しれと云下知の詞にてはあらず。知《シ》れりやといはんが如し。君が世の久しからんことも、わが世の長からんほども、汝ぢしれりや。所の名しも、常磐なるべき磐代にきつるぞ。嘉瑞にあらずや。いざ此《コヽ》にかやねを引むすびて枕として、一夜やどらんとよませ給へり』考注云。磐代の名に依て、右の二句は有』略解云。宣長は我は武の誤にて、所知武《シラム》なるべくやといへり』【已上】 今按に、たゞ磐代と云名に就てのみには非ず。彼(ノ)地の濱に神代より不(ル)v變|奇靈《クスシクアヤシ》き巖のある故也。次に記す所知我《シレヤ》は、所知武《シラム》の誤にて (此事は既《ハヤク》の抄にも云り)此(ノ)知(ル)は、常に云(フ)とは少し異にて、領知《シル》と同じく、安保《ウケタモツ》を云り。四【二十六丁】に、三笠杜之《ミカサノモリノ》。神思知三《カミシシラサム》。また【四十丁】天地之《アメツチノ》。神祇毛知寒《カミモシラサム》。十二【二十八丁】神思將御知《カミシシラサム》。三【二十二丁】又七【三十五丁】木葉知良武《コノハシルラム》云云。古今集賀に「春日野の若菜つみつゝ萬代をいはふ心は神ぞ知らん」此等皆領知し、受保つ心に云り(常に心に知と云かたも、本(ト)承《ウケ》保つ方より云て、同じことなれど、用ひざまによりて、少しづゝかはるが如きなり)
○磐代乃岡之《イハシロノヲカノ》」考注云。磐代は、紀伊國日高(ノ)郡也』【已上】 今按に、行嚢抄、南遊云「熊野道ノ海邊ナル切目坂、切目川ヲ過テ、次に磐代也。今モ西岩代、東岩代トテ、村里有。岩代(ノ)王子(ノ)社、海邊ニア(150)リ」また南紀名勝志云「日高(ノ)郡岩代岡ハ岩代(ノ)庄、岩代(ノ)村ノ中ニ在。岩代(ノ)濱云云。屈石ハ三尾(ノ)庄、三尾村ノ西南三十余丁海邊ニ在。高十八九間。周(リ)廿七八間計有。伏テ人ノ腰ヲ屈タルガ如シ。依テ名トセリ」と云る、此(ノ)巖の存在《アル》ゆゑに、其地を岩代と云て、斯《カヽ》る壽言《ホギゴト》もあるなり(今其(ノ)巖の在(ル)處を、三尾村と云は、三保の音を訛り來しにて、本(ト)は三保なりき。即三(ノ)卷廿五丁に、皮爲酢寸《ハタススキ》。久米能若子我《クメノワクゴガ》。伊座家牟《イマシケム》。三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》。雖見不飽鴨《ミレドアカヌカモ》。とよみたるも、此岩の事也。此岩中|空《ウツロ》にて、石室《イハヤ》なりけるが、いつの昔か、うつぶしに伏て、今は人の腰を屈めたる貌したり。元和の比、此石室の事記せし物を見るに、高(サ)四十間、廻(リ)四十間とあれば當時《ソノカミ》はいと大きなる岩窟なりけむを、年々に砂を押よせて埋みければ、今は名勝志lこ記せし所よりも、又小(ク)なれりと、其地の老人かたりき。猶此等の事は、三卷の歌の條に委く云べし。
○草根乎《カヤネヲ》」仙覺抄云。此歌も、有馬(ノ)皇子の、岩代の濱松が妓を引結び、とよみ賜へりけるを、本縁としてよみ給へるなるべし。然れば又是も君が世もわが世も知らん、岡のかやねをいざむすばん。とよめる成べし』【藤澤由阿云。哉は武の誤か】』 代匠云。草根はくさねとよまぬにはあらねど、かやねとよむべし。式子内親王も此歌をとりて、新古今に「行末は今いく代とか岩代の岡のかやねに枕むすばん」とよませ給ひ、此次の歌にもかやとよめり』(似閑書入云。第十四に、アカミヤマ。クサネカリソケ。トモヨミタレドモ、書紀に、草野姫《カヤヌヒメ》。古事記ニ、訓(テ)2葦草(ヲ)1云(フ)2加夜《カヤト》1トアレバ、是ニ可v依』類林曰。二【十四丁】苅草乃《カルカヤノ》。四【五十八丁】黒樹取《クロキトリ》。草毛刈乍《クサモカリツヽ》。十四、十六【三十丁】茅草刈婆加《カヤカリバカ》。和名抄云。草原【加也波良】云云』記傳【五(ノ)四十五丁右】にも釋せれど、凡て此説を取れゝば、省きつ。今按に、後世の心にては、草(ノ)字を、かやともくさとも訓ては、くさとかやとの分ちなく、紛(ラ)(151)はしきが如くなれど、古くは用る方に、其(ノ)差ありし故に、紛れざりし也。其例は魚は、うを【中古後はいを】なるを、食料の時は那《ナ》と云(ヒ)(常に魚釣《ナツル》ともよみ、又伊勢の海人が、朝魚夕菜《アサナユフナ》に、かつぐとふ、鰒の貝の云云の類也)水は、みづなるを、飲料の時は、もひと云(ヒ)(主水《モヒトリ》、又みもひも寒しなど云る類なり)又汲料の時は、ゐと云り(※[木+偃の旁]《井セキ》、流れ井、走井、田《タナ》井など云類なり)若菜なども、常は諸の草《クサ》なるを、食料の時は、菜《ナ》と云(フ)(笋も竹(ノ)子なるを、食料の時は竹菜芽《タカナメ》と云(フ)。是をたかんなど云は音便也。此外此類(ヒ)猶多かり)此等に准ふるに、今此草も、葺《フク》料のときは、かやと云(ヒ)し也。根は、岩をいはね、嶋をしまね、屋をやね、矛をほこね、木をきねと云類ひにて、添て云辭也。本は賞《ホメ》言なりけん。
○去來結手名《イザムスビテナ》」考注云。松をむすびて齡ひをちぎるにひとしければ、此草は、山菅をさして、よみ給へるならん』略解云。いはしろの名に依て、其岡の草を結びて、よはひを契也』【已上】 今按に、此等の説は、兵察して云るのみにて、彼(ノ)貴《メデタ》き巖のある地なる事を知(ラ)ざるひが事也。上の辨と合せて知べし。さて去來《イザ》は歸去來(ノ)辭に、歸去來《カヘリナンイザ》とある類を取て書る也。さて伊邪《イザ》は、誘《イザナヒ》さそふ意の詞、名《ナ》は牟《ム》と云(ハ)んが如し。神功紀の歌に、伊弉阿波那《イザアハナ》。履中紀に、去來去來此(ヲ)云(フ)2伊弉《イザト》1。此集に、一【二十六丁】去來子等《イザコドモ》。四【二八丁】率此間《イザコヽニ》。この外多き詞也。【四(ノ)廿九丁、又同四十丁、八(ノ)五十六丁、十一(ノ)卅三丁、十四(ノ)十二丁、又廿八丁、十六(ノ)九丁、十七(ノ)廿九丁等に出。】名《ナ》の例は、崇神紀に、伊弟弖由介那《イデヽユカナ》。此(ノ)集二【十六丁】玉藻苅手名《タマモカリテナ》。また【十四丁】君爾因奈名《キミニヨリナヽ》。などありて、是も多かり。【此外六(ノ)廿二丁、七(ノ)十四丁、又十六丁、十(ノ)三十八丁、十四(ノ)廿二丁、九(ノ)十丁、十(ノ)卅四丁、又五十丁、十七(ノ)十五丁、十九(ノ)卅一丁、又卅八丁、二十(ノ)卅一丁、又五十二丁、又五十二丁、又六十二丁等に出(ヅ)、】相合せて心得なん。宣長云|阿波那《アハナ》など云|那《ナ》は、牟《ム》と云と同じかれど、牟は、自他を兼て云を、那《ナ》は自(ラ)然かせんとするにのみ「ゆかな」「せな」「かへらな」とやうに云りといへり。こは將戀名《コヒムナ》、將行名《ユカムナ》とやうに、牟《ム》に添(ヘ)(152)て云、歎息の那《ナ》を、牟《ム》と一(ツ)に合せこめて云る辭なるべし。斯《カク》て松が枝を結び、葺草《カヤ》をむすびて、命を堅むる事は、鎭魂祭の沫緒《アワヲ》の心ばへなるが、それが中にも、松はちとせの物、葺草《カヤ》は屋を保つ物なれば、結ぶべきよしある歟。顯宗紀の室壽(ノ)御詞に、取結繩葛者《トリユヘルツナハ》。此家長御壽之堅也《コノイヘギミノミイノチノカタメナリ》。取葺草葉者《トリフケルカヤハ》。此家長御富之餘也《コノイヘギミノミトミノアマリナリ》。とある。繩葛《ツナ》と葺草《カヤ》とを相合せて見れば、即|葺草《カヤ》を結ぶは、壽の堅めなるが如き也。
○一首の意は、君が齡ひも我が齒も領知《シラ》ん。愛《メデタ》き巖のある磐代の岡の、かや草を結びで、互の命をゆひ堅めむとなり。
 
吾勢子波《ワガセコハ》。借廬作良須《カリホツクラス》。草無者《カヤナクハ》。小松下乃《コマツガシタノ》。草乎苅核《カヤヲカラサネ》。
○吾勢子波《ワガセコハ》」諸抄釋なし。今按に、吾《ワガ》は、我大王《ワガオホキミ》など云、我《ワガ》と同じくて、親しみ云詞。勢子《セコ》は、男の稱にて、女を伊毛《イモ》と云に對ひたる名なれば、妻より、夫を云は元よりにて、女よりは、兄弟《アニオト》をも云(ヒ)、又男どち互に敬ひ親しみても云へり。婦より夫を云(ヘ)るは、允恭紀に、衣通《ソトホシノ》姫、天皇を指て、和餓勢故餓《ワガセコガ》くべきよひなり、とよみ賜へる是也。此集にも、此卷(ノ)下【廿丁】に、當麻(ノ)眞人麻呂(ガ)妻(ノ)作(ル)歌に、吾勢枯淡《ワガセコハ》。何所行良武《イヅクユクヲム》云云。の類(ヒ)引にたへず【二(ノ)十三丁、四(ノ)卅七丁二首、六(ノ)廿七丁、七(ノ)廿八丁、又四十一丁、八(ノ)十五丁、又廿六丁、又卅五丁、十一(ノ)十五丁、又卅丁、十二(ノ)卅一丁、十四(ノ)十八丁、十六(ノ)十五丁、又廿丁、十七(ノ)七丁、又卅九丁、又四十三丁、十九(ノ)十一丁、二十(ノ)五十九丁、十九(ノ)十八丁、又廿一丁、又廿五丁、二十之十二丁等に出(ヅ)。但(シ)此中には、夫を云るのみにもあらず、兄弟朋友いろ/\混れり。】又女よりは、弟をも云るは、二【十三丁右】大伯《オホクノ》皇女の、其(ノ)御弟、大津(ノ)皇子を指給ひて、吾勢枯乎《ワガセコヲ》。倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》云云。の類(ヒ)、又敬(ヒ)親しみては、兄より弟をも云るは、同卷【十八丁右】長皇子|與《アタヘ玉フ》2皇弟《オトミコニ》1弓削《ユゲノ》皇子 御歌に、戀痛吾弟《コヒタキワガセ》。乞通來禰《イデカヨヒコネ》の類(ヒ)、又朋友互に稱《タヽヘ》て云るは、十七【三十八丁】に、繩麻呂對(テ)2家特卿(ニ)1吾勢子《》とよみ、又【四十三丁】家持卿對(テ)2池主(ニ)1、吾勢枯とよめる類也。【此類は猶十七(ノ)四十四丁、又四(153)十六丁、十九(ノ)十八丁、又廿一丁、又廿五丁、二十(ノ)十二丁等に出。】先(ヅ)これらにて、其(ノ)大抵《オホムネ》を知べし。今|此《コヽ》は中(ノ)皇女より大兄(ノ)皇子か、大海人(ノ)皇子を指給るなり。
○借廬作良須《カリホツクヲス》」代匠云。つくらすは、つくるを延て云(フ)。後にはいほりさすなどもよみて、一夜二夜のやどりをむすぶ也』考注云。古へは旅ゆく道のまに/\、假庵作て宿れりし也』【已上】 今按に、三【十二丁右】雷之上爾《イカヅチノウヘニ》。廬爲須鴨《イホリセスカモ》。二十【二十二丁】に、多非乃加里保爾《タビノカリホニ》。夜須久禰牟加母《ヤスクネムカモ》。【此外六(ノ)十四丁、七(ノ)十三丁、又卅四丁、又四十一丁、八(ノ)卅九丁、十(ノ)三十四丁、又四十三丁、十(ノ)五十一丁、又五十六丁等に出(ヅ)。但(シ)此中には、秋田の借廬もあれど、其(レ)も終に同じ心ばへなれば、合せて引り。】などあり。上の額田(ノ)王の歌に、借五百礒所念《カリイホシオモホユ》と、よめる條にも云つれば、大方に云(ヒ)て止(メ)り
○草無者《カヤナクバ》。小松下乃《コマツガシタノ》」代匠云。もしやねに、葺(ク)べきかやなからば、わがあたりの小松がもとに、よきかやの有あひて見ゆるを、苅てふかせとのたまふ也』考注云。小松まじりに、すゝき高がやの生たる所を見て、是こそ假菴ふく物、と云を聞て、何心もなくよみ給へるなるべし』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、此行幸、先の度と同じ時ならば、十月なりければ、草多く霜枯たるにつきて、松の下蔭に、枯殘りたるが有を見て、かくはのたまへる也。【小松とは、此はたゞ松の事にて、姫子松とよめる類ひなるべし。】考説は、いとわろし。此ほどしば/\行幸ありて、かりほし給ふ君の、葺草を知給はぬ事やは有べき。
○草乎苅核《クサヲカラサネ》」考注云。苅孩は、孩は借字、この言の事、上にいひつ』【略解是に同じ。】』 今按に、こは核を孩の誤字として、改めたるなれど、核も孩も、訓同じかれば、何れにても有べき歟。さてからさねは、苅(ラ)せと云を延べたるにて、初(メ)の名告沙根《ナノラサネ》と同じ。【一卷廿一丁】
○一首の意は、わが背の君よ、もし其御あたりに借菴作らす葺《カヤ》なくば、こゝの松蔭に枯殘れるが侍れば、苅てふかせ給へと、申しおくり給へる也。廣き野の、こゝかしこ、おもひ/\に、庵作る事(154)と見えたり。是は集中凡てに就て考へ云所なり。
 
吾欲之《アガホリシ》。野島波見世追《ヌジマハミセツ》。底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能
浦乃《アコネノウラノ》。珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》。 或(ハ)頭(ニ)云(ク)。吾欲《アガホリシ》。子島羽見遠《コジマハミシヲ》
○吾欲之《アガホリシ》」代匠云。ほるは、ほしき也。からの文をよむに、下よりかへる處に、欲の字あるは、ほりすとよめども、つよく云(ハ)んとては、ほつすとは云也。むさぼると云も俗語に、きたなき事を、むさしといへば、きたなく物ほしがると云心なるべし。わが聞おきて、見まくほしかりし、野島をば見せ給ひつ也』考注云。わが見まくほしみせし也』【已上】 今按に、見欲《ミホシ》かりしにて、俗に見たかりしと云が如し。代匠の釋は、わろき事まじりたり(猶此|欲《ホシ》と云る例は第二に欲見《ホシミ》、第三|欲爲《ホリスル》、また欲寸《ホシキ》、第四|目乎保利《メヲホリ》、第五|保志伎麻爾麻爾《ホシキマニマニ》、第三|見容之三《ミガホシミ》など猶末々いと多かり)
○野島波見世追《ヌジマハミセツ》」代匠云。紀(ノ)國にも野島ある歟。もしは紀の海の濱づらを經て、かなたこなた御覽じ給ふに、あはぢの野島を、見やらせ給ふにや』考注云。子島羽見遠《コジマハミシヲ》。兒島てふ所は集にも他にもかた/”\にあり。紀伊にも子島とて、古へ名細《ナグハシ》き所有しにや。今本|野島波見世追《ヌジマハミセツ》とあれど、こは淡路に名高ければ、中々におぼつかなし。故に或本に依ぬ』略解云。是は或本の、子島は見しをと有かた、然るべし。野島は、淡路の地名なれば、こゝによしなし。兒島は、紀伊也』【已上】 今按に、此考、略解の説どもよ。おのが地理に闇き方をば顧る心はなくして、或は本文を改め、或はなき地をありと云(ヒ)なせるなど、いみじき私事也。紀伊國には野島ありて、子島と云は見えず。そは先熊野順路記云「日高(ノ)郡、日高川の末、鹽屋(ノ)浦の南に、野島と云あり。景地なり。又其海邊に阿古根と云もありて、貝のおほくよる浦なり。是をあこね貝と云」南紀名勝略志、一本云「同郡、鹽屋(ノ)王子(ノ)社ハ(155)山田(ノ)庄、鹽屋村ノ中ニ有。又其村ノ南ニ島野アリ。萬葉卷第一云、吾ガホリシ野島ハ見セツ。云云」又玉勝間【九卷廿丁】に「紀の國の名所、記せる物の中にとて、書拔る條(ニ)云。野島、阿胡根(ノ)浦は日高(ノ)郡、鹽屋(ノ)浦の南に、野島(ノ)里あり。その海邊を、あこねの浦と云て貝の多くよりて集る所也」とありて、右等の書に、凡て子島と云は見えず。行嚢抄にも見えず。しかれば、或本の方こそは、紛《マガ》ひたるなれ。
○底深伎《ソコフカキ》。阿胡根能浦乃《アコネノウラノ》」代匠云。あこねの浦はめのまへに見ながら、そこの深さに歸さの家づとにすべき眞珠をえひろひ給はぬが、のこり多くおぼさると也』
 〔細註〕 考注云。是も紀伊に有べし。さて聖武天皇、此國へ幸有て、若(ノ)浦の字を改めて、明光《アカノ》浦とせさせ給ひしは、和加と、阿加と、言の通へばか。又其ころ若浦とは書ども、本は阿加の浦と唱へし故にも有べし。こを思ふに、其始は阿胡根の浦と云(ヒ)しを、後に阿加の浦といひしにやあらん。胡根の約|氣《ケ》なれば、おのづから阿加とも、和加ともなりぬべし。集中に、吾(ガ)大君を阿期《アゴ》大君ともいひ、志摩國の安呉《アゴ》の浦を、吾《ワガノ》浦と書しを、後に若の浦と誤り、又阿波宇美を、阿布美と唱ふる如き、約言も多ければ也。その上此命のいましけむ比に、わかの浦てふ名あらば、是にもれじやともおぼえ、玉給はんも同じ浦によし有。同頭書云。同國室の湯へはおはしたれど、まだかの玉光る浦へおはさぬ故の御歌なれば、此國の專なる、明光《アカノ》浦の事なるべし。
略解云。あこねの浦も、紀伊に有べし。兒島は見給へれど、まだあこねの浦へおはさぬゆゑに、よみ給(フ)にて心明らけし』【已上】 右諸抄、何れも非《ヒガゴト》なる中に、考注に、此(ノ)阿胡根(ノ)浦を、和歌(ノ)浦の古名と云(ヒ)なせるこそ、殊にいみじき牽強《シヒゴト》なれ(其論中に阿虞《アゴノ》浦と、若(ノ)浦と一つに心得て、云るも、又同斷(156)なり)和歌浦は、此磐代よりは、在田(ノ)郡、伊都(ノ)郡、那賀(ノ)郡、名草(ノ)郡等の四郡を隔てゝ、遙かに西北、海部(ノ)郡なるものをや。又略解に、此御歌中の難所、底深伎《ソコフカキ》とある句を不v釋(カ)して、心明らけしと云るは何事ぞや。彼(ノ)釋には、かゝる事多かり。今按に、底深伎《ソコフカキ》とは、水の深きを云に非ず。此(ノ)底《ソコ》は退《ソキ》にて、奥《オク》の方に、退離《ソキハナ》れたるを云。古事記仁徳(ノ)條(ノ)歌に、玖毛婆那禮《クモバナレ》。曾岐袁理登母《ソキヲリトモ》。和禮和須禮米夜《ワレワスレメヤ》。とある、此(ノ)曾岐《ソキ》も、離れ居るを云。又此集五(ノ)卷【十三丁】に、和多能底《ワタノソコ》。意枳都布可延乃《オキツフカエノ》。宇奈可美乃《ウナカミノ》。故布乃原爾《コフノハラニ》。とあるも、和多能底《ワタノソコ》を、沖つと云、枕詞とのみ思ふめれど、是も海《ワタ》の退《ソキ》、奥《オク》の方の深江と云地の故布(ノ)原と云るなり。此等に合せて、今此二句も、野島に退離《ソキハナ》れて、彼方《カナタ》なる阿胡根(ノ)浦の、よしなるを知べし(常に、山深くと云は、奥山の方へ、深き事と、誰が耳にも通《キコ》ゆるを、海には後世、奥《オキ》とのみ云(ヒ)習ひたる故に、底《ソコ》とでは水の下底の如く聞なせども、古くは山に云と同じかりし也。猶此|退《ソキ》底《ソコ》等の言の意は下の歌どもに、幾度も云べけれども、此《コヽ》に其(ノ)例のみも、記しおかん。三(ノ)四十六丁、四(ノ)廿五丁、六(ノ)廿五丁、九(ノ)卅三丁、十四(ノ)十丁、又十六丁、又八丁、十七(ノ)廿四丁、十九(ノ)卅七丁、又四十丁、二十(ノ)六十一丁等に出(ヅ)。卷を披て、考へ合すべし。十五(ノ)卅四丁には、アメツチノ、曾許比《ソコヒ》ノウラ、ともよみたる有(リ))
○珠曾不拾《タマゾヒリハヌ》」代匠云。眞珠を得拾ひ給はぬが、のこり多くおぼさるゝと也』(考注は、既に引つる如く、玉出島《タマヅシマ》の玉とせり) 今按に、名所記等の書に、美麗《ウルハシ》き貝の多く寄集る浦とあれば、それをの給へる也(眞珠などは、拾はるべき物に非ず。殊更に覓《モト》めても、たやすく得難き事は、十八(ノ)卷なる家持卿の、眞珠(ノ)歌の詞などにても思ふべき也)催馬樂に「伊勢の海の清き渚の潮間《シホガヒ》に貝や給はんや玉や給はんや」とあるに同じ。給《ヒロフ》は集中に、多く(157)比里比《ヒリヒt》と云り。【假字して然か書る例は、十五(ノ)十丁、又十三丁、又十四丁、又廿八丁、十八(ノ)七丁、二十(ノ)卅八丁等に出(ヅ)。又七(ノ)四十一丁、珠爾拾都とあるを、建長の古點に、ヒリヒツと訓たり。】されど十四(ノ)【十一丁】に、多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》ともあれば、ひろはぬとよまんもひが事ならず。
○一首の意は、我が見まくほりせし、野島は見せ給ひつ。されど未(ダ)かなたなる、阿胡根(ノ)浦の、貝や珠を拾ひ侍らねば、其浦へも伴なひ給へかしとのたまふ也。
 
右瞼(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ》類聚歌林(ヲ)1曰。天皇御製歌云云。
○代匠云。此説ならば、君が代とは、御供の皇子大臣をのたまふべし。仁和のみかど、僧正遍昭に、七十(ノ)賀給ひける御歌に、君が八千代、とよませ給へり』今按に、既に往々云る如きの、猥り事多かれば、信ずべからず。右の御歌のさま、いかにも彼(ノ)皇女のとこそきこえたれ。
 
中大兄《ナカノオホエノ》命〔左〔〕(ノ)。三(ノ)山(ノ)御〔左〔〕歌。并短歌〔三字左〕〕 近江宮御宇(シ)天皇
此端詞流布(ノ)本には、中大兄近江宮御宇天皇。三山歌一首とあり。
○中(ノ)大兄(ノ)命」代匠云。中大兄とのみ書るは、少しいかゞとおぼゆ。尊とか、皇子とか、有べきにや』考注云。命の字は、皇太子を申す。例のまゝに加(ヘ)つ。御の字は、目録にあり。本よりも、必御と有べき事也。然れば命の字も、落せしを知(ル)』略解云。中(ノ)大兄(ノ)命、三山(ノ)御歌と有しを、かく誤れりと見ゆ。近江宮云云(ノ)七字、古本小字なるによれり。もと後人の書入し也』【已上】 今按に、後人の、注の爲に、細書して書入けむが、本文に混じ、且(ツ)其上に寫(シ)脱しなどして、今の如くは成れるなり。さて皇太子に、立賜ひての御歌ならんには、中(ノ)大兄(ノ)皇子(ノ)命と有べき例なれど、もしはまだいと稚く坐(シ)けんほどの御歌なりしからに、如此《カク》書(キ)傳へたるも知べからねば、姑《シバラ》く右等の説に隨ひて、記しつ。かくて御名の、中と云意は、上の中(ノ)皇女【此※[木+爪]】の二卷三丁、四丁】の下に云(ヘ)(158)り。大兄は彦人(ノ)大兄(ノ)皇子、山背(ノ)大兄(ノ)皇子など申す例に合せて考ふるに、少兄《スクナエ》と云に對へたる稱名《タヽヘナ》也。書紀(ノ)私記曰。昔稱(シテ)2皇子(ヲ)爲2大兄《オホエト》1。又稱(シテ)2近臣(ヲ)1爲2少兄《スクナエト》1也。宿禰之《スクネノ》義。取(レリ)2於|少兄《スクナエニ》1。とあり。猶此皇子の御事は下の大津(ノ)宮の標下【此※[木+爪]】(ノ)四卷三葉已下】に云べし
○三山(ノ)御歌」代匠云。三山は、かぐ山、うねび山、耳なし山也。昔何れの時にか有けむ。此三山あひたゝかひける事あり。其故はかぐ山は雌《メ》山にて、うねび、耳なしの二つは、雄《ヲ》山也。此二つの山、ともにかぐ山にけさうして、おの/\われこそ得て妻にせめと、あらそひてなりとよみけるを、出雲國の阿菩《アホノ》神と申(ス)神聞給ひて、いさめて、あらそひをやめしめむとて、はりまの國まで、おはしけるほどに、山のあらそひやみぬと聞して、乘給ひし船を、打うつふせて、それに坐して、國へはかへらで、播磨にとゞまり給ふ。此事を、三山のあらそひと云を、よませ給へるなり』考注云。是はかの三(ノ)山を見まして、よみ給へるにはあらず。播磨(ノ)國印南(ノ)郡に往ましゝ時、そこの神集《カムヅメ》てふ所につけて、古事の有しを聞して、よみ給へる也』【已上】 今按にさる事なるか。又三(ノ)山を見坐(シ)し時、さるむかしがたりをおぼし出て、よみ給ひしにも有べし。かの伊奈美國原《イナミクニハラ》の御歌も、其故事のまゝを、詔へりとせんには、妨(ゲ)もなければ也。但(シ)渡津海乃《ワタツミノ》云云をも同(ジ)時の御歌とせば、右の説の如くにてもあるべき歟。【歌の状、別と見えたり。】かゝる事は、後よりきはやかに知(ラ)るべきならねばさしおきぬ。猶此三(ノ)山の事、考注(ノ)別記曰「倭(ノ)國は、山々四方にのみ廻り立て、國の中は平かなるに、香《カグ》山、耳成、畝火山の三(ツ)のみ、各獨立り。香山と耳成とは、十市郡、畝火は、高市(ノ)郡なれど、其あはひ、各今の道法一里ばかりづゝありて、物の三(ツ)足あるが如し。さて畝火は高く、耳成はそれに次、香山は中に低かれど、其(ノ)形富士(ノ)山をちひさく作れるが如し」といへり。是は彼(ノ)人、(159)一とせ往て、まのあたり見られたる状をいへるなれば違はざるなり。されど空論なりければ、物に見えたる處以て補ふべし。大和(ノ)國風土記(ノ)殘編(ニ)云。山跡(ノ)國(ハ)者。往昔山岳多而《ムカシヤマダケサハニシテ》。平地少《タヒラケキトコロスクナカリキ》。所2作《ツクラシヽ》天(ノ)下1大神。大穴持《オホナモチノ》命(ト)與《ト》2少彦名《スクナヒコナノ》命1。巡2行《メグリマシテ》此(ノ)國(ヲ)1。鑿《ウガチ》v山(ヲ)開(キテ)v谷(ヲ)。爲《ナシ玉ヒキ》2平夷《タヒラニ》1。故《カレ》云(フ)2山跡(ト)1也(國(ノ)内。外山(ノ)郷(ノ)邊(リハ)。則|長髄彦《》所(ノ)v開(ク)之地(モ)。又多(カリ)也)又|稱《タヽヘテ》2此(ノ)國(ヲ)1【此間二十字許。虫食不v明】而後。從(リ)2平城《ナラノ》舊(キ)都1。至(マデ)2金峰山下《カネノミタケノフモトニ》1。浩々陸而《ヒロクハレテ》。其間|惟《タヾ》有(ル)2畝傍《ウネビ》山。耳梨《ミヽナシ》山。天香《アメノカグ》山1而已。故《カレ》是(ヲ)謂2大和(ノ)三(ツノ)山1也。而今|所3以《ユヱハ》號《タヽフル》2大和《オホヤマト》1。則|神日本磐余彦《カムヤマトイハレビコノ》天皇。東(ニ)征|之時《マシヽトキ》到2坐(テ)此(ノ)國(ニ)1。討《ウチキタメテ》2長髄彦(ガ)之|不順《マツロハザルヲ》1。而|都《ミヤシキマス》2橿原《カシハラニ》1。故(レ)號《マヲス》2大御國(ト)1者也云云。また高市(ノ)郡畝傍山の下(ニ)云。此(ノ)山高(ク)峻《サカシ》也。松栢繁茂也。山(ノ)西北(ナル)桃花鳥田《ツキタハ》。則綏靖天皇之陵也。山(ノ)西南(ナル)御蔭《ミカゲハ》。即安寧天皇之陵也。山(ノ)東(ナル)繊沙谷《マナゴダニハ》。則懿徳天皇之陵也。山(ノ)西(ニ)有(リ)2神社1。所v奉《マツル》v崇《アガメ》2神日本磐余彦天皇(ヲ)1也。また耳梨山の下(ニ)云。此山高(ク)廣(シ)也。出(ス)2栗李榧松云云等(ヲ)1。また十市(ノ)郡天香山の下(ニ)云。一山《ヒトヤマ》金砂《コガネノイサゴ》。有2銅鐡1。出2榧栗椎松栢云云等(ヲ)1云云。
 〔細註〕 行嚢抄南遊云「畝傍山ハ畝傍村ノ西ノ方ニ在。自v路右ニヨク見ユル丸山ニテ、茂山ノ松山也。此所神武天皇(ノ)舊都也。此山ノ西北ノ梺ニ慈明寺村アリ。其寺ノ山ニ神社アリ。毎年六月一日ニ住吉ヨリ麻苧三把、鳥目一貫文、蛤三升を棒來テ、當山ノ土、三升三合三勺ニ代テ歸ル神事有。俗是ヲ住吉ノ母神ト云(ヘ)ドモ、此神ハ、神武(ノ)御母、玉依姫命ノ靈ナルベシ。玉依姫命ハ、海神(ノ)女也。住吉(ノ)神、又海神也。其由縁有歟云云。また耳無山の條云。此山里俗ハ、天神山ト云(フ)。離レタル丸山也。有2神社1。此山ハ、新賀村ノ東ニッゞキ、木原ノ南也。式ニ十市郡、耳成(ノ)山口(ノ)神社、名神大月次新甞トアル是也云云。また天香具山(ノ)條云。香具山ハ、安倍ヨリ南ノ方、池田村ノツヾキニ在。自2奈良1到2于此1六里。松茂タル丸山(160)也。順平ニシテ、小社有。大神宮也。九月祭禮アリ。香具山興善寺文珠院、寺領三十石、坊舍五宇、是ハ後世トナリテ、建タリ下見エテ、寺領モナカリシヲ、秀吉公始テ附玉ヘリ。天磐戸ハ、興善寺ノ西一町余、南浦ト云村ニ在。其前に榊(ノ)靈木トテ在。是神代ヨリノ神木ト云。實ニ無双ノ大木也。又湯篠トテアリ云云。右天香具山ハ安倍山ノツヾキ也。赴(ク)2多武峰1非2順道1。大鳥居路、是ハ安倍山ノ北、多武峰ニ赴ク順路也。華表ハ倒テ礎殘レリ」とあり。此行嚢抄は寛永の比より巡行して、元禄九年に記たる書也。又其後木なども伐荒し、田畑などにも掘崩して、今は此すがたよりもいよ/\荒つらんと思ふにも昔を忍ぶ人の爲にかくは引おくになん。
 
高山波《カクヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲヽシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カヽルニアラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》。虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》【※[木+夜]齋校本乎(ノ)下有2之字1。】相格《アイウツ》【一本格作v挌】良思吉《ラシキ》。
高山波《カグヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲヽシト》。耳梨與《ミヽナシト》。相諍競伎《アヒアラソヒキ》。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクニアルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》。虚蝉毛嬬乎之《ウツセミモツマヲシ》。相挌良思吉《アラソフラシキ》。
○高山波《カグヤマハ》。雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》」仙覺抄云。古點にはたかやまのはらもねひをゝし、と點せり。其心たがへり。高山波《タカヤマハ》。雲放火雄男志等《ウネビヲヲシト》。と和すべし。かとたとは、同韻相通也。されば高麗を、かのくにの人はかくりといふ如く、高山とかきて、かぐやまと讀、同事也。其由縁は、むかしは山川も夫婦の契をむすびけり。かゝるにかぐ山は、女山也。畝火山と、耳梨山とは男山也(然るにみゝなし山はじめにかぐ山をけさうするに、何となくうけひくけしきなりけり。其後にうねびの山、又かぐ山をけさうするに、うねびの山は、すがたもをゝしくよかりければ、これに心うつりにけり。をゝしと云はけだかくよきなり。さて耳成山、さきのや(161)くそくにまかせて、あはんとするに、かぐ山うけひかず。うねびの山、これを聞て、ともにたたかふ。是を三つ山のたゝかひと云也。今此みうたに、彼(ノ)本縁をよませ給として、神代より、かゝるにあらし、いにしへも、しかにありこそ、うつせみもつまを、あひうつらしきとは、令v詠給也。うつせみとは、云々中略)私考云。播磨國風土記(ニ)云。香山里《カグヤマノサト》 本(ハ)名(ク)2鹿來墓《カクノハカト》1。土下(ノ)上。所3以《ユヱハ》2號《ナヅクル》2鹿來墓《カグハカト》1者。伊和《イワノ》大神占(フ)v國(ヲ)之時《トキ》。鹿來(テ)立2於山(ノ)岑(ニ)1。是忽似(タリ)v墓(ニ)。故《カレ》號(ツ)2鹿來墓《カグハカト》1。後至(テ)2道守(ノ)臣|爲掌之時《ツカサドレルトキニ》1。乃(チ)改(テ)v名(ヲ)爲(ス)2香山《カグヤマト》1。家内谷《ヤヌチノタニハ》。即(チ)是(レ)香山之谷形《カグヤマノタニノカタチ》。如(ク)v垣(ノ)廻《メグレリ》。故《カレ》號《イフ》2家内谷《ヤヌチノタニトナモ》1云々。香《カウ》をかくとよむ證也。日本紀第三卷云。宜v取2天(ノ)香山(ノ)社(ノ)中(ノ)士(ヲ)1香山此(ニ)云2介遇夜摩《カグヤマト》1。 香をかくとよめるは、高をかくとよまん事、不v可v疑v之。伊香《イカヾ》と云姓有v之。又近江(ノ)國に、伊香《イカゴ》と云所有v之。可v思v之』【是まで、仙覺抄の釋言也。】 代匠云。もろこしにも、山のたゝかふ事あり。明朝謝肇※[さんずい+制]が著(ハ)せる、五雜俎云。水固(シテ)常(ニ)有2闘者1。春秋云。穀洛闘(テ)毀2王宮(ヲ)1。竹書紀年(ニ)。載d洛伯用(ト)、與《ト》2河泊馮夷1闘u云云。宋史五行志(ニ)。載(テ)3高宗紹興十四年。樂半縣(ノ)河決2衝(スルコト)田(ヲ)1云。數百頃(ノ)田中(ノ)水。自(ラ)起(キ)立(テ)如(シ)2爲(ニ)v物(ノ)所(ノ)v吸(ルヽ)者1。高(キコト)v地(ヨリ)數尺不v※[土+蝦の旁]2堤防(ヲ)1。而水自(ラ)行。里(ノ)南程家(ノ)井水(モ)亦高(キコト)數尺。天※[矢+肖]如2瀬《虹イ》聲1如2雷霆1。穿v垣(ヲ)毀v樓(ヲ)而出。二水別闘(フ)2杉※[土+敦](ニ)1。且前(ミ)且卻(ク)十餘刻。乃解(シテ)各復2其(ノ)故(ニ)1。説海記貴州普定衛(ニ)有2二水1。一(ヲ)曰2滾塘寨(ト)1。一(ヲ)曰2〓蛙池(ト)1。相2近前後1。呉人泣v軍(ニ)。至v此夜聞2水聲擣激(スルコトヲ)1。既而其響益大。居人開v戸視v之。波濤噴面不v可v逼。近坐以伺。且及v明聲止。二水一(ハ)涸《カレ》。一(ハ)溢(ル)。人以(テ)爲2水闘(ト)1。此亦古今所(ロニシテ)v有(ル)不v足v異(トスルニ)云云。第一の句は、かぐ山をばと心得べし。をゝしは、をのこしき也。日本紀に雄略、あるひは雄技、また雄壯とかきて、をゝしとよめる、その心、字のごとし。源氏物語葵の卷にも、中將の君、にび色のなほしさしぬき、う(162)すらかに衣がへして、いとをゝしく、あざやかに心はづかしきさましてあり給へり【似閑書入云。幻、又宿木等ニ、メヽシキトキト云リ。是雄々シキニ對シタル詞ニテ、女々シキナリ。是ニテ心得ベシ。】をとめには、すこしをゝしく、あさやきたる御心には、しづめがたしともかけり。うねびの雄々しき山と、耳成山とが、われ得むとあらそふ也』考注云。香山波《カグヤマハ》、今本高山と有は誤也。三(ノ)山の一つは、必香山にて、外の二山より低ければ、高山と書べからず』略解云。高山の高は、誤かとも思へど、高も音もて、かくとよむべければ、暫今本によるべし。さて契沖が説の如く、かぐ山をば、と云意に見べし。をゝしはうねびは、男神にて、男々しきを云。みゝなしは是も男神也』【已上衆説】 今按に、先(ヅ)山闘の事は、今昔物語に、二荒山と、赤城山と闘ひし事を載て、今土人も語傳へたり(其山の麓より、神軍の矢(ノ)根石とて、如(キ)v鏃《ヤノネノ》石多く出(ヅ)。國人將來て、予が許にも二三(ツ)あり)猶他國にも、此類ひあらむ。次に香と高とのさた、是は既に引たる仙覺抄に、さばかり委く論らひたるを、今更めきて、かく云るは、考注と略解とは、かの抄を見ざりしにや。次に三山(ノ)男山女山のさだめは、畝火が女山にて、高《カグ》山と耳梨山とが男山なる也。然らざれば、助辭《テニヲハ》の運びにも合《カナ》はず。次の反歌に、高山與《カグヤマ》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。とあるにも背けり。されば此二三句の續きは、高《カグ》山は、雲根火《ウネビ》を愛《ヲシ》とて、耳梨《ミヽナシ》山と相諍競《アヒアラソヒ》きと云にて、高山の男山がうねびの女山を妻に愛《ヲシ》と思ひて、耳梨の同じ男山と、あらそひたりと云心なりけり。愛《ヲシ》は惜《ヲシ》と同語にて、愛《ヲシ》や欲《ホシ》やの意にも用《ツカ》ひ又惜む方にも用ひたり。【十七(ノ)九丁、又卅五丁、又卅五丁、又四十三丁、十九(ノ)廿七丁、又廿八丁、又】四十七丁、二十(ノ)六十一丁等を見合すべし。】此《コ》は雄々しと云るにはあらず。そも/\高《カグ》山は、と云(ヒ)たる句を、高山をばとして、雲根火の雄々しき山と、耳梨山と二人が、其(ノ)高《カグ》山をば得んとてと、上に轉して聞するやうの事、上古の歌に、いかでかあらん。よく考ふべきものぞ(163)よ。
○耳梨與相諍競伎《ミヽナシトアヒアラソヒキ》」考注云。香山の、女山を得んとして、二つの男山のあらそふ也。あひあらそふの言は、相諍二字にて足たるを、是に競を添しは、奈良人のくせ也。字に泥む事なかれ』【已上】 今按にひが事也。雲根火を、女山として、上に云し如く、續けて心得べし。又奈良人の云云と云るもわろし。あらそふと云語は、諍(ノ)字の意のみには非ず。負《マケ》じと競《キホ》ふが本(ト)なれば、加へたる也。二【三十四丁】去鳥乃相競端爾《ユクトリノアラソフハシニ》とある、是(レ)群鳥《ムラトリ》の、後《オク》れじと飛《トブ》方より連《ツヾ》けて、競(ノ)字を書たり。又九【三十五丁】智奴壯子《チヌヲトコ》と、宇奈比壯士《ウナヒヲトコ》と、一人の處女《ヲトメ》を、競《アラソ》へる長歌に、須酒師競《スヽシキホヒテ》とも、立向競時爾《タチムカヒアラソフトキニ》ともありて、其次に如己男爾《モコロヲニ》。負而者不有跡《マケテハアラジト》。とあるつゞきもて知べし。【猶此語の例は、九(ノ)卅三丁、又卅六丁、十(ノ)十丁、又卅四丁、又卅五丁、又卅六丁、又四十五丁、又四十七丁、十四(ノ)十九丁、又廿二丁、十九(ノ)十五丁、又廿六丁等に出(ヅ)。是等合(セ)見ば、自曉りなん。】さて此御歌、此句までにて、一段なり。
○神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《カクニアルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカニアレコソ》」代匠云。神代よりかゝるにあらし。いにしへも、しかにあれこそとは、此三山のあらそひ、神代の事にて、さて神代より、かゝるわざ有事に、あるらしと、よませ給へるか。又人代になりての事なるを、それよりさきの神代よりと、よみ給ふか。しかにあれこそとは、しかはさと云に同じ。さすがとも、しかすがとも云が如く、さあればこそなり。さあればこそと、いはでかなはぬ所に、かやうにはの字なければ、今のみゝにきけば、片言のやうなれど、此集に、此類多きこと也。古語のならひと知べし、』考注云。神代從《カミヨヨリ》。如此爾有良之《シカナルラシ》。古昔母《イニシヘモ》。然爾有許曾《シカナレコソ》。爾阿留の爾阿を約て、奈と云り。かく訓例、下に假字がき有。且然るなればこその、ばを略くも例也』【略解是に同じ。】』小琴云。如此爾有良之云云。然爾有許曾。如此爾ハ、カクニト訓ベシ。カクニ、シカニト上下詞ヲカヘテ、重ネイ(164)フゾ古歌の常なる』【已上】 今按に、此(ノ)山諍の事は、古き世談《ヨガタリ》なりければ、凡(ソ)に神代といひ、古昔《イニシヘ》と宜る也。それを四句二聯に調べて、上は神代と、古昔とを合せ、下は如此《カク》と然《シカ》とを、むかへ給へる、雅(ビ)言なり。上下ひとしく合せて、くひちがはぬやうに訓べきなり。
○虚蝉毛《ウツセミモ》」仙覺抄云。うつせみとは、つねに人の思ひならひたるは、蝉のぬけがらを云といへども此ふるき歌どもに見えたるは、しかにはあらず。うつせみとは、わが身をうつくしむ義也』代匠云。世とつゞけたり。又ううせみの人とも、うつせみの命などもつゞけたり。うつせみは、蝉のもぬけたるからを云也。是によりて、うつせみのむなしきからともよみたり。貝のからを、うつせ貝と云とおなじ心也。うつほ木、うつむろなど云たぐひ皆中のむなしきをいへり。蝉のからをとゞめて、ゆくへしらずなるにたとへて、人の世のはかなきをいへる心也。莊子に、※[虫+惠]※[虫+古]《ケイコハ》不v知2春秋(ヲ)1。とある注に、※[虫+惠]※[虫+古](ハ)寒蝉也。春生れて、夏死し、夏生れて秋死すといへり云云』【此説 凡てまだしかれば、下省きつ。】冠辭考云。うつせみの【○いのち○世○人○妹がゑまひ○八十とものを○八十こと】萬葉卷一に、空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。卷三に、虚蝉之《ウツセミノ》。代者無常跡《ヨハツネナシト》云云。顯《ウツ》しき身《ミ》の命、顯《ウツ》の身の世、とつゞけたる也。さて集中に、空蝉《ウツセミ》、欝瞻《ウツセミ》など書しは、借字なるを後人は空蝉の字に泥て、蝉脱《モヌケ》の事とのみ思へり。其本を極むれば、いき死の違ひになん侍ける。よりてさま/”\によみたるを左に擧て明すなり。まづ萬葉卷一に、虚蝉毛《ウツセミモ》。嬬乎《ツマヲ》。相挌良思吉《アラソフラシキ》。とあるは、今の世の顯にある人も、妻戀に相爭ふ也けり。との給へる也(此御歌一つ一にても現《ウツヽ》の身てふ語とはしらる)卷二に、【天智(ノ)崩ましゝ時ある婦人のうた。】空蝉師《ウツセミシ》。神爾不勝者《カミニタヘネバ》。離居而《ハナレ井テ》云云。この婦人、今|顯《ウツヽ》にてある身は、遠つ神の御靈《ミタマ》に從ひ奉ることかなはねば、おくれ居て歎くと也。また宇都曾臣跡《ウツソミト》。念之時《オモヒシトキニ》。(165)春部者《ハルベハ》。花析挿頭《ハナヲリカザシ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉挿頭《モミヂバカザシ》。卷十九に、宇都世美波《ウツセミハ》。戀乎繁美登《コヒヲシゲミト》。春麻氣※[氏/一]《ハルマケテ》。卷十一に、燈之《トモシビノ》。陰爾蚊蛾欲布《カゲニカヾヨフ》。虚蝉之《ウツセミノ》。妹峨咲状思《イモガヱマヒシ》。面影爾所見《オモカゲニミユ》。卷十二に、空蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》。不粕而《アハズシテ》。また、情庭《コヽロニハ》。燎而念杼《モエテオモヘド》。虚蝉之《ウツセミノ》。人目乎繁《ヒトメヲシゲミ》。妹爾不相鴨《イモニアハヌカモ》。また、虚蝉之《ウツセミノ》。宇都思情毛《ウツシゴヽロモ》。吾者無《アレハナシ》云云。これら皆うつゝの身てふ意なる事、ことわるを待ずて明らか也。さてうつしみとも、うつそみともよみて、うつせみとのみはいはず。そのうつしみは顯《ウツ》しき身てふ意にて、正しきを、うつそみ、うつせみなど云は、音の轉《ウツ》ろひし物也。然るを其|顯《ウツ》しき身は、常なき物にもあれば、右の初(メ)に擧たる命など様につゞけしは、空蝉の字の意にもまがふ故に、疑ふ人も有べし。さらば猶侍り。古事記に(雄略天皇、葛木山にて、一言主(ノ)大神の御ありさまを、顯《ウツヽ》に見そなはしてのり給はく)恐《カシコシ》我大神《アガオホカミ》。
有《マサント》2宇都志意美《ウツシオミ》1者《ハ》。不《ザリキ》v覺《オボエ》。白而《トマヲシタマヒテ》云云。この宇
都志意美《ウツシオミ》は、顯御身《ウツシオミ》也。神代紀に、天照大神|喜《ヨロコビマヒテ》之。曰《ノリ玉ヒテ》2是物者《コノモノハ》。則顯見蒼生可食《ウツシキアヲヒトグサノヲシテ》」而|活之《イクベキモノト》也1。乃《ヤガテ》以(テ)2粟稗麥豆(ヲ)1云云。注。顯見蒼生此(ヲ)云(フ)2宇都志枳阿烏比等久佐《ウツシキアヲヒグサトト》1。神武紀に、朕《ワレ》親《ミヅカラ》作《ナサン》2顯齋《ウツシイハヒヲ》1。顯齋。此(ヲ)云(フ)2于圖詩怡破毘《ウツシイハヒト》1。云云。また萬葉卷十九に、天地之初時從《アメツチノハジメノトキユ》。宇都曾美能《ウツソミノ》。八十伴男者《ヤソトモノヲハ》。大王爾《オホキミニ》。麻都呂布物跡《マツロフモノト》。卷十四に、宇都世美能《ウツセミノ》。夜蘇許登乃敝波《ヤソコトノヘハ》。思氣久等母《シゲクトモ》。これらにて疑ひなかるべければやみぬ(古今和歌集の比に下りては、即蝉のもぬけに譬て、はかなき意にもいひなし、又蝉をやがて夏は空蝉なきくらしともよみたるは、もぬけする物なれば、いきてあるをしも、うつせみと云事となれるものなり。これらは只、かの空蝉の字を、心もせで見て、古語を忘れたるなりけり』【已上】 【冠辭考の説なり。】 今按に、かゝる難き古語をしも、此時にして、よくもかくまでに思ひ得られたる事と、あやしきばかり也。されど今よりして、是を見れば、顯《ウツシ》見てふ言(166)の本義を得られざりしからに、その引て云る中に、まだしきふし/”\も見えたれど、先此(ノ)枕詞のつゞけの意を知のみには、事足ぺければ、此《コヽ》はかくてさしおきぬ。猶此語の詳《クハ》しき事は、下の歌、又【本書】卷(ノ)二【二十三丁】の歌(ノ)下に云べし(こは枕詞のみにもあらず。常に顯《ウツ》とも、現《ウツヽ》とも、宇都志《ウツシ》とも云て幽冥《カミ》にも、黄泉《ヨミ》にも、其(ノ)對(ヘ)云る方廣く、これを神の御上に對へては、難き神典の疑關を開くべき基とも成ぬべき古語なりければ、重みして如此《カク》は云なり
○嬬乎之《ツマヲシ》」此句、諸抄共に釋なし。記傳【九(ノ)四十五丁左】云。都麻《ツマ》とは、夫《ヲ》に對へて、妻《メ》を云のみならず、妻に對へて、夫《ヲ》をも云(フ)稱《ナ》にて、夫婦の間を互にいふ。云云』【已上】 今按に、妻《メ》を云(フ)方は、おのづから多く、今も專ら然かいへば、引にも及はず。夫《ヲ》を云るを一、二いはゞ、九【十九丁】に、夫香有良武《ツマカアルラム》。十【三十二丁】に、其夫乃子《ソノツマノコ》。十三【二十九丁】夫君爾《ツマニ》。なども書たり。二【三十一丁】に、嬬乃命《ツマノミコト》と書たれども、川嶋(ノ)皇子を指せれば是も夫君を云る也。此類集中に猶多かり。さて都麻《ツマ》とは、二つ相(ヒ)對ふ物を云。袖のつま、裾のつま、軒のつま、弱草《ワカクサ》のつまと云も、二葉の相對ふ故也。此事は若草(ノ)夫婦《ツマノ》條に委く云べし。此《コヽ》は何れと指せるならねば、男女に亘れるなり。今此(ノ)句普通の本に、嬬乎とあれど、※[木+夜]齋が校本には、嬬乎之とあり。乎と之と相似たれば、はやくの時、下の之を落せしならんとて、今は其書に隨へり。
○相挌良思吉《アラソフラシキ》」代匠云。妻をあひうつは、妻にあひうつ也。此相挌を、あらそふともよむべし。上にこそといひて、きとうけてとむるてにをは、此集にはあまた見えたり。古今集をはじめて、其後は見えぬことなり云云』考注云。相挌良思吉《アヒウツラシキ》。挌は、闘撃の意を得て書しのみと見ゆ。卷二に、相競端爾と有を、其一本に安良蘇布波之爾《アラソフハシニ》。とあるに依て、こゝも二字にて、あらそふとも訓べけれども、卷十三に、眞杭乎挌《マクヒヲウチ》と有に依て、打と訓た(167)り。良思吉《ラシキ》の吉《キ》は、氣里《ケリ》の約にて、あひうつらしけりてふ辭也。紀に【推古】おほきみの、つかはす羅志枳《ラシキ》。また卷六に、偲家良思吉《シヌビケラシキ》。と有も同じ。後世は、是を上下して、けるらしといへり』略解云。相挌二字にて、あらそふとよむは、卷二に、相競。卷十に相爭など、あらそふと訓所に、皆相の字を加へたり。又挌をあらそふと云に用ひしは、卷十六に、有2二壯士1。共(ニ)挑2此娘1。而捐v生挌競。など書り。らしきのきは、後の物語ぶみに、何するかし、何すらんかしなどの、かしと同じ語にて、強くいひ定むるやうの詞也』小琴。全く此(ノ)略解の如くありて、其(ノ)末(ニ)云「嬬ヲアヒウツトイヒテハ、理リ聞エガタシ」と云り』【已上】 今按に、相挌を、あらそふと訓るは、うごくべからず。きもじの説は考は殊にわろく、略解もよからず。かゝる助辭《テニヲハ》の一言、漫りに解べきに非ず。只上古の一(ツ)のてにをはと心得て有べき也(此助辭の例は、仁徳紀(ノ)歌に、虚呂望虚曾《コロモコソ》。赴多幣茂豫耆《フタヘモヨキ》。天智紀(ノ)童謠に、阿喩擧曾播《アユコソハ》。施麻倍母曳吉《シマヘモエキ》。とある、此等の吉《キ》を、けりと云(ヒ)、かしと云て、調ひなんや。笑(フ)にたへぬみだりごとなり。此集にも、右に引る外に、十一(ノ)四十一丁、又四十六丁、十二(ノ)四丁、十七(ノ)四十四丁、六(ノ)四十七丁、十一(ノ)廿七丁等に出たるをも、考へ合すべし)かくて此御歌、上の一段に、諍競伎《アラソヒキ》と收(メ)て、此二段に、又|諍挌《アラソフ》らしきと結め給へる初(メ)の雄略舒明の御製に似たり。
○一篇の總意は、此三(ノ)山の舊き傳へごとをきけば高《カグ》山の男山は、雲根火の女山を愛《ヲ》しみして、耳梨の同じ男山と、相(ヒ)いどみ競ひきといへり。非情の山だに、妹背のうへには、神代よりかゝる事もありけらし。古へも然るわざのあればこそ、顯《ウツ》しき世の人の、妻どひするは、ことわりなれと也。
 
   反歌
高山與《カグヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》。相之時《アヒシトキ》。立見爾來之《タチテミニコシ》。(168)伊奈美國波良《イナミクニバラ》。
○高山與《カグヤマト》。耳梨山與《ミヽナシヤマト》」代匠云。此歌にては耳梨山にあひて、うねび山のまけて、やみたらんやうなれど、あひし時は、あはんとせし時成べし』【此次文は下に引(ク)。】 今按に、かく云るは、高《カグ》山を女山とおもへるひが事也。先此二句は高《カグ》山の男山と、耳梨の男山と、男共《ヲトコドチ》の上を云るなり。
○相之時《アヒシトキ》」代匠云。あらそひのやみけんやうはしらねども、はかりて思ふに、耳なし山にあはんとする時は、うねび山のことにうらみて、あらそひける成べし。さて耳なし山もえあはず、うねび山も思ひやみて、持になりて、和睦せるにや』考注。此歌の釋せず』略解云。畝火は、爭ひまけて、かぐ山と耳梨山と逢し也』【已上】 今按に、これらの説、初(メ)よりのひが心得を推さんとせるのみならず、相《アフ》と云ことをさへ心得ちがひせり。此(ノ)相《アフ》は、男女相逢を云にはあらず。相(ヒ)闘《タヽカ》ふを云て、即|高山《カグヤマ》、耳梨《ミヽナシ》の兩男山の闘《タヽカ》ひし時と云也。其《ソ》は神功紀曰。攝政元年三月丙申朔庚子。命(セテ)2武内(ノ)宿禰。和珥《ワニノ》臣(ノ)祖|武振熊《タケフルクマニ》1。率(テ)2數萬衆《ヤヨロヅノイクサヲ》1。令v撃(タ)2忍熊《オシクマノ》王(ヲ)1。爰(ニ)武内宿禰等。選(ビ)2精兵《ヲイクサヲ》1。從2山背1出(テ)之。至2菟道《ウヂニ》1以|屯《ツドヒヌ》2河(ノ)北(ニ)1。。忍熊(ノ)王。出(テ)v營《イホリヲ》欲v戰時《タヽカヒナントキ》。有《エリテ》2熊之凝《クマノコリヲ》者1。爲《セス》2忍熊王軍之先鉾《イクサノサキホコト》1。則《トキニ》欲《シメントテ》v勸《スヽメ》2己衆《ワガイクサヲ》1。因以高唱之歌曰《コワダカニウタヒケラク》。烏智箇多能《ヲチカタノ》。阿邏々摩菟麼邏《アラヽマツバラ》。麻菟麼邏珥《マツバラニ》。和多利喩祇※[氏/一]《ワタリユキテ》。菟區喩瀰珥《ツクユミニ》。未利揶塢多倶倍《マリヤヲタグヘ》云云。伊弉阿波那和例波《イザアハナワレハ》云云。また、雄略紀、廿三年秋七月辛丑朔。吉備(ノ)臣尾代云云。會《アヒテ》2蝦夷於娑婆水門《サバノミナトニシテエミシラニ》1合戰《タヽカヒテ》而云云。瀰致※[人偏+爾]阿賦耶《ミチニアフヤ》。嗚之慮能古《ヲシロノコ》。阿毎※[人偏+爾]擧曾《アメニコソ》。枳擧曳孺阿羅毎《キコエズアラメ》。矩※[人偏+爾]※[人偏+爾]播《クニニハ》。枳擧曳底那《キコエテナ》(此歌の意は、言向《コトムケ》の道にして、我一人と蝦夷百人と戰(ヒ)て勝たる、此尾代が武勇を、天上《アメ》にこそは聞え上がたからめ。國の限りは、大八洲に聞えて、後(ノ)代迄も語りつげんと云なり)とある、是等の阿波那《アハナ》も阿賦《アフ》とよめるも、戰ふ事也。即合戰の、合(ノ)(169)字、又會※[禾+(尤/山)]の、會(ノ)字等に當て心得べし。此前文に會(テ)戰ふとあるも同意。又世に劍術の手合《テアハセ》と云(ヒ)、爲合《シアフ》とも云る類の合《アフ》も是也。
○立見爾來之《タチテミニコシ》。伊奈美國波良《イナミクニバラ》」仙覺抄(ニ)云(ク)。播磨(ノ)國(ノ)風土記(ニ)云(ク)。出雲(ノ)國(ノ)阿菩《アボノ》大神。聞《キカシテ》2大和(ノ)國(ノ)畝火。香山。耳梨(ノ)三(ノ)山|相闘《タヽカフト》1。以(テ)2此(ノ)歌(ヲ)1諫(メニ)v山(ヲ)上來之時《ノボリキマシシトキ》。到(テ)2於此(ノ)處(ニ)1。乃(チ)聞(シテ)2闘止《タヽカヒヤミヌト》1。覆《フセテ》2其(ノ)所乘之船《ノリマセルフネヲ》1而|坐《マシキ》之。故《カレ》號《イフ》2神集之形覆《カムヅメノフセガタトナモ》1云云。以(テ)v之(ヲ)思(フニ)v之(ヲ)。此(ノ)阿菩(ノ)大神播磨まで來坐し事をいへるにや云云。神集若(シ)印南邊歟。以(テ)2風土記(ヲ)1猶可2了見1v之』代匠云。阿菩(ノ)大神の、出雲よりたちて、播磨までおはしてとゞまり給へど、あらそひ止ずば大和までのぼり給ふべき本意なれば、かくはのたまへり。いなみ國原とは、播磨に印南(ノ)郡あり。そこにとゞまり給ひけるなるべし。國原はさきに釋せるが如し。難波(ノ)國、吉野(ノ)國と云ごとく、郡なれども、國と云べし。地の字、郷の字など、久爾とよめり』考注云。今も播磨(ノ)國鹿子川の西に神詰《カヅメ》てふ里あり。こゝをいふ歟』【已上】 今按に、立《タチテ》とは、阿菩(ノ)大神の、出雲より立て、來坐(シ)しを云。旅立などの立(チ)なり。伊奈美野が立て、來しには非ず。
○一首の意は、高《カグ》山と、耳梨山と、たゝかひし時、阿菩(ノ)神の出雲より立て、やうすを見に、爰まで來坐(シ)し、其(ノ)印南の郷ぞとなり。
 
渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲爾《トヨハタクモニ》。伊理比沙之《イリヒサシ》。今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《スミアカクコソ》。
渡津海乃《ワタツミノ》。豐旗雲爾《トヨハタクモニ》。伊理比沙之《イリヒサシ》。今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《アキラケクコソ》。
○渡津海乃《ワタツミノ》」代匠云。此(ノ)歌は注の如く、反歌とは見えず。月を御覽ぜんとおぼしめす比、をりふし夕日やけして、月もあかかるべきをりなれば、よろこびおぼして、よませ給へるなるべし。わたつみとしもよみ出させ給ふは、難波などへおはしま(170)して、西の方海上はるかに見ゆる所にてや、よませ給ひけん。又さはなくとも、とよはた雲は夕に西の方に旗のなびきたるやうに、ひろがりたてるをいへば、西は海上、天につらなりたれば、いづくにもあれ、かくつゞけさせ給ふか』考注云。渡津海乃。こは冠辭ならねど、委くは其(ノ)考によりてしれ』冠辭考。和多能曾許《ワダノソコノ》條云。海を和多《ワタ》と云るは、集中に、渡津海、方便海、綿津海、など書るが中に、綿は借字のみ。方便は、方便もて、人わたすてふ事をかりて書し也。されば渡と書たるぞ正《マサ》しき字にて、即わたるてふ意なりけり。古きふみに、山には越《コユ》るといひ、海には渡るとあり。中つ國より、山を越てゆく故に、越《コシ》の國といひ、その越より、海を渡て到る所なれば、越のわた嶋てふ名も有ならん。集中に對馬のわたり渡中《ワタナカ》になどもよみしをおもへ』【已上】 今按に、此冠辭考、宜き説とて、記傳も全《モハラ》此説に隨へり。然れば海をもと、和多《ワタ》とも宇美《ウミ》とも云を、渡津海《ワタツミ》と重ね云は、天を安來《アメ》とも、曾良《ソラ》とも云を、天津空《アマツソラ》と重ね、又|高《タカ》とも云を重ねて、高天(ノ)原と云が如くなりかし。又わたつみと云て、海(ノ)神の名となる事もあり。それも冠辭考の右の條下に云り。其説に海(ノ)神をわたづみと云は、海津持《ワタツモチ》の意也。山(ノ)神をやまづみと云も、山津持《ヤマツモチ》の義なるに合せてしれとあり。此事は|海神《ワタツミ》とよみたる歌の條に委く云べし(集中わたつみとよめる歌、此卷(ノ)下、廿六丁、三(ノ)三十丁、又卅九丁、九(ノ)十八丁、又廿九丁、十二(ノ)廿六丁、又三(ノ)卅五丁、又七(ノ)二十丁等に見ゆ。又わたつみと云て、海神の意なるは、七(ノ)廿九丁、又同丁、又九(ノ)十八丁、七(ノ)十丁、十三(ノ)十九丁、十五(ノ)六丁、十六(ノ)八丁、十八(ノ)卅三丁、十九(ノ)廿九丁等に出(ヅ)。此外海とも、大海とも、海原《ウナバラ》とも、青海原《アヲウナバラ》とよめる類もおほかる。皆その處々に引て云べければ、爰に省り)
○豐旗雲爾《トヨハタクモニ》」代匠云。旗雲は旗の靡きたるやうな(171)るを云。呂覽云「〓尤家。在2東郡(ノ)壽張縣|〓《カン》郷城(ノ)中(ニ)1。高(サ)七尺。常十月祠v之。有2赤氣1出如v降。名(テ)爲2〓尤旗(ト)1」懷風藻。大津皇子遊獵詩(ニ)云。月弓輝2谷裏1。雲旗張2嶺前1。』考注云。文徳實録に、天安二年六月有2白雲1。竟v天自v艮亘v坤。時人謂2之旗雲(ナリト)1。と有。今はかく大きならでも西の空に、長く旗の如き雲の棚引るを、の給ひつらん。豐は大きなるを云。』【已上】 今按に、豐は廣韻(ニ)大也。盛也。詩註(ニ)豐年(ハ)大有年也。言の本義は、十四【十丁】に「つくばねのいはもとどろに落る水|代爾毛多由良爾《ヨニモタユラニ》わがおもはなくに」又【七丁】「あしがりのとびのかふちに出る湯の余爾母多欲良爾《ヨニモタヨラニ》子らがいはなくに」此等の多由《タユ》、多欲《タヨ》は物の多く盛りなるを云(フ)。古語なりければ、是と同語なるべし。音も登欲《トヨ》、多欲《タヨ》、相通へり。かくて此豐を添て云る例、書紀古事記に、豐葦原《トヨアシハラ》、豐秋津洲《トヨアキツシマ》、豐雲《トヨクモ》、豐布都《トヨフツ》、豐宇氣《トヨウケ》、豐日《トヨヒ》、豐玉《トヨタマ》豐石〓神《トヨイハマドノカミ》、豐樂《トヨノアカリ》。祝詞に、豐御酒《トヨミキ》、豐幣帛《トヨミテグラ》。此集に、豐泊瀬道《トヨハツセヂ》、豐乃登之《トヨノトシ》。【此外六(ノ)廿六丁、又廿八丁、十一(ノ)十四丁、十七(ノ)十四丁、十九(ノ)四十丁等を見合すべし。】神樂譜に、豐遊《トヨノアソビ》。此外多き詞なり。旗雲は、右の外にも九歌【屈平】乘2回風1兮載2雲旗1。楊子雲(ガ)反騷云。乘2雲〓之〓〓1。【或〓〓(ハ)小雲(ノ)貌。】十四【二十七丁】爾努具母《ニヌグモ》【布雲】とよみたるも、旗雲の類也。十【二十七丁】に東細布と書たる字も、又同じ。
○伊理比沙之《イリヒサシ》」考控云。入日刺也』略解云。入日の空のさまにて、其夜の月の、明かならんを知也』【已上】 今按に、此(ノ)日|晝間《ヒルマ》曇りなどして、今宵の月は見難しと思《オボ》したりしに、おもひの外、入相のけはひのよきを見て、かくは宣るならん。今も雨|霽《ハル》る夕ぐれなどに、なごりの雲に入日の刺(ス)事あるを、入相がよきといひて、日よりになる想とせり。鶴林玉露(ニ)、占v雨(ヲ)詩(ニ)云。朝霞(ニハ)不v出v門(ヲ)。暮霞(ニハ)行(ケ)1千里1。とある、此霞は、日に映ずる雲の事なり。
○今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》。清明己曾《アキラケクコソ》」代匠云。すみあかくこそ』考注云。あきらけくこそ』【已上】 今按に、考(ノ)訓(172)よくよまれたり。月を古くは都久《ツク》と云り。十八【十丁】に、都久欲《ツクヨ》。二十【二十九丁】都久比夜波《ツクヒヨハ》などどありて、正(サ)しく假字して書るは、十四【十丁】又【三十四丁】二十【三十九丁】又【四十七丁】又【五十七丁】此外多かるべし。但(シ)古事記に、倭建命(ノ)御歌に、意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》。都紀多知爾祁理《ツキタチニケリ》。また美夜受比賣《ミヤズヒメノ》歌に、阿良多麻能《アラタマノ》。都紀波岐閇由久《ツキハキヘユク》。などもあれば、都紀《ツキ》とも云(ハ)ぬにはあらず。殊に月次の月はもとより都紀《ツキ》と云べきものなり。釋名曰。月(ハ)缺也。滿則缺也。とあれば、都紀《ツキ》も盡《ツク》るの義なるべし。
考注云。此一首は同じ度に、印南の海方《ウミベ》にて、よみましつらん。故に右に次《ツイデ》て載しなるべし。下に類あり」 今按に、然るにかあらん。又上の代匠の説の如くにかあらむ。考注は畢竟伊奈美國原の詞につきて、長歌をも凡て播磨にての、御歌とせられしなり。見む人よくかうがへて取べし。
○一首の意は、海上を見わたすに、立靡きたる夕べの雲に、入日さしそめぬ。かくては、曇らんかと思ひし、今夜の月も、明かに照(ラ)すらんと也。風調高く、愛《メデタ》き御歌なるべし。
右一首(ノ)歌。今案(ニ)不v似2反歌(ニ)1也。但舊本以2此歌(ヲ)1載2於反歌(ニ)1。故今猶載(スルコト)如v此。【今本如此(ノ)二字を、此歟に作る。元暦本に依るに、この所までは、撰者の左註ときこえたり。】亦紀曰。天豐財重日足姫天皇。先四年乙巳立(テ)2天皇(ヲ)1(今本立(テ)爲2天皇(テ)とあり。代匠云。立と天との中間の爲の字、削りさるべし。皇極紀曰。四年六月丁酉朔庚戌。譲2位(ヲ)於輕(ノ)皇子(ニ)1。立2中(ノ)大兄(ヲ)1爲2皇太子(ト)1。とあり』略解云。爲天皇(ノ)三字、衍文なるべし』今按に、後よりの詞なりければ、立2天皇1とは云るなり。爲(ノ)一字衍文也。下より轉りたるならん)爲2皇太子(ト)1。
(173)萬葉集墨繩卷五(原本萬葉|檜※[木+爪]《ヒノツマデ》卷第四〉
 
   本集一之四【自十二葉左至十四葉右】
 
近江大津宮《アフミノオホツノミヤニ》御宇(シヽ)天皇(ノ)代 天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
○近江(ノ)大津(ノ)宮」諸抄釋なし。今按に、天智紀、六年三月辛酉朔己卯。遷2都(ヲ)于近江(ニ)1。是(ノ)時(ニ)天下(ノ)百姓《ミタカラドモ》。不v願(ハ)v遷(コトヲv都(ヲ)。諷諫者《ソヘイサムルヒト》多(ク)。童謠《ワザウタモ》亦衆(ク)。日々夜々失火處多《アサニケニミツナカレノトコロモオホカリ》。とあり。是(レ)後(ノ)岡本宮より此地に遷らせたまふ也。大津は、志賀(ノ)郡にして、今の東海道の大津也。宮の跡は、濱町の方によりて、近來藏屋敷の有し邊也と云り。辛崎の方によりて大曲に近し。此(ノ)卷下【十七丁】柿本(ノ)人麻呂(ノ)過2近江(ノ)荒(タル)都(ヲ)1時(ノ)歌の反歌lこ「さゝなみのしがの辛崎さきくあれと大宮人の船まちかねつ」又「さゝなみの志我の大和太よどむとも昔の人に又もあはめやも」とて、辛崎と大曲《オホワダ》とをよまれたれば,まことに其處なるべし。源光行路次記云『むかし天智天皇の御代、大和(ノ)國の飛鳥の岡本(ノ)宮より、近江の志賀(ノ)都にみやこうつりありて、大津(ノ)宮を作られけりと聞にも此地はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえてあはれなり「さゝなみやあふみの宮のあれしより浪の殘れる志賀の故郷』【是(レ)大津の濱にての詞也】此(ノ)地の見晴(ラ)しは、十三【六丁】相坂乎《アフサカヲ》。打出而見者《ウチデヽミレバ》。淡海之海《アフミノミ》。白木綿花爾《シラユウフバナニ》。浪立渡《ナミタチワタル》とあり。况《マシ》て大宮よりは、正に湖水は御庭の如くなりけん。二【二十四丁】天皇|大殯《オホアラキノ》宮之時。大后|御作歌《ヨミマセルミウタ》に、鯨魚取《イサナトリ》。淡海乃海乎《アフミノウミヲ》。奥放而《オキサケテ》。※[手偏+旁]來船《コギクルフネ》。邊附而《ヘツキテ》。※[手偏+旁]來船《コギクルフネ》。奥津加伊《オキツカイ》。痛勿波禰曾《イタクナハネソ》。邊津加伊《ヘツカイ》。痛莫波禰曾《イタクナハネソ》。若草乃《ワカクサノ》。嬬之命之《ツマノミコトノ》。念鳥立《オモフトリタツ》。かくよませ給へるも、常に行かふ船、あそぶ鳥などを、御まのあたり見そなはして、樂しみましゝ故也(行嚢抄に「大津は、天智天皇(ノ)舊都也。大津(ノ)宮トモ、近江(ノ)宮トモ云。中略。此(ノ)地西ヨリ北ノ方ニツヾケル浦々ハ、松本、辛崎、板下、苗鹿、大久津、(174)衣川、堅田、和邇、木戸、荒川、小松、比良、小野山、八木濱、長濱。又南ヨリ東ニツヾク浦々ハ、打出、番場、膳所、勢多、矢橋、山田、下笠、芦浦、小曲尺、貝淵、木濱、志那、今濱、佐津川、葭川、五條、六條、旦妻、筑摩、柳川、松川、米原也。大津ヨリ漫々ト見ユル湖水ノ形、琵琶ニ似タリ。仍テ琵琶湖ト云。勢多ノ方ニテ狹ク、竹生島ノ方ニテ廣シ。長(サ)十八里ト云」と見えたり。是にて大宮所よりの眺望、思ひやるべし)實に天下第一の景地にしあれば、人の諫(メ)を※[手偏+王](ゲ)て、大宮移し給ひしも、御理りなりけり。集中此湖邊をよみし歌、凡(ソ)百首にも及ぶべし。たゞ此大宮の地をよみたるのみも少なからず。【一(ノ)十七丁五首、二(ノ)廿三丁、又卅七丁、三(ノ)十七丁、又廿二丁、七(ノ)廿四丁、又四十丁、十三(ノ)七丁等に出。是等の外にも有べし。】さて、大津とは、もと天皇の大御津《オホミツ》の義なるべし。難波の三津を、書紀に、御津とも、大津ともある、互に一字を省るなり。是も天皇の大御津の意なると、合せてしらる。
○天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇」諸抄釋せず。今按に、天智紀(ニ)曰。天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇(ハ)。息長足日廣額《オキナガタラシビヒロヌカノ》天皇(ノ)【舒明】太子也。母《ミハヽハ》曰(ス)2天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇(ト)1【皇極】天豐財重日足姫(ノ)天皇(ノ)四年。讓2位(ヲ)於|天萬豐日《アマヨロヅトヨヒノ》天皇(ニ)1【孝徳】。立(テ)2天皇(ヲ)1爲2皇太子(ト)1。天萬豐日(ノ)天皇(ノ)後(ノ)五年(ノ)十月(ニ)崩《カムアガリマシヌ》。明年|皇祖母《スメミオヤノ》尊|即天皇位《アマツヒツギシロシメス》【齊明】。七年丁巳崩(マシヌ)。皇太子|素服稱制《ミモナガラマツリゴトヲキコシメス》云云。【凡(ソ)舒明、皇極、孝徳、齊明、四代(ノ)皇太子也。】皇極紀冬十一月。蘇我《ソガノ》大臣|蝦夷兒入鹿《エミシガコイルカノ》臣。雙2起《ナラベタツ》家(ヲ)於|甘檮《アマカシノ》岡(ニ)1。稱《ヨビテ》2大臣(ノ)家(ヲ)1曰(ヒ)2宮門《ウヘノミカドト》1。入鹿(ガ)家(ヲ)曰(フ)2谷宮門《ハザマノミカドヽ》1。谷此(ヲ)云(フ)2波佐麻《ハザマト》1。稱《ヨビテ》2男女《コドモヲ》1曰(フ)2王子《ミコト》1。家(ノ)外《トニ》作(リ)2城柵《キガキヲ》1門(ノ)傍《ホトリニ》作(リ)2兵庫《ヤグラヲ》1。毎(ニ)v門置(テ)2盛水一木鉤數十《ミヅブネトカギイソヤソヲ》1。以2備《フセグ》火災《ヒノマガヲ》1。恒(ニ)使《シム》d力人《チカラビトシテ》持(セ)v兵《ツハモノヲ》守uv家(ヲ)。大臣(フ)使《シム》d長(ノ)直《アタヘシテ》於|大丹穗《オホニホノ》山(ニ)造《ツクラ》c梓削寺《ホコツクルタカヤヲ》u。更(ニ)起2家《イヘタテヽ》於畝傍山(ノ)東(ニモ)1。穿《ホリ》v池(ヲ)爲(リ)v城(ヲ)起(テ)v庫《ホグラヲ》儲《マケ》v箭《ヤヲ》。恒《マタ》將《ヰテ》2五十兵士《イソノイクサヲ》1繞《カクミテ》v身(ヲ)出入(ス)。名《ヨビテ》2健人《チカラビトヽ》1曰(フ)東方※[人偏+賓]徒者《アヅマシリトリベト》1。氏々(ノ)人等|入2侍《イリサブラフヲ》其(ノ)門(ニ)1。名《ヨブ》2曰|祖子孺者《オヤノコワラハト》1。漢(ノ)直(ヘ)等《ラヲ》全《モハラ》侍《ヲラシム》2二(ノ)門(ニ)1。四年六月丁酉朔甲辰。中(ノ)大兄【天智】密(ニ)謂(テ)2倉(ノ)山田麻呂(ノ)(175)臣(ニ)1曰。三(ノ)韓《カラヒト》進(ル)v調(ヲ)之日。必(ズ)將使卿讀唱《イマシニソノフミヲヨミアゲシメムト》其表(ヲ)。遂(ニ)陳《ノベタマフ》d欲《オモホス》v斬(ント)2入鹿(ヲ)1之謀《ハカリゴトヲ》u。麻呂(ノ)臣|奉許焉《ウベナヒマツリヌ》。戊申天皇|御(マス)2大極殿《オホヤスミドノニ》1。古人(ノ)大兄|侍《ハベリ》焉。中臣(ノ)鎌子(ノ)連【鎌足】知(テ)d蘇我(ノ)入鹿(ノ)臣(ガ)爲人《サガ》多(テ)v疑(ヒ)畫夜|持《ハケルコトヲ》uv劔(ヲ)。而教(ヘテ)2俳優《ワザヲキニ》1方使《タバカリテ》令《シム》v解《ヌガ》。入鹿(ノ)臣|咲《ワラヒテ》而解(キ)v劔(ヲ)入2侍《サモラヒヌ》于|座《オマシニ》1。倉(ノ)山田麻呂(ノ)臣|進《スヽミテ》而|讀2唱《ヨミアグ》三韓表文《カラノフミヲ》1。於是《コヽニ》中(ノ)大兄。戒《オホセタマフ》d衛門府一時倶《ユゲヒノツカサラモロトモニ》※[金+巣]《サシカタメサセ》2十二通門《ヨモノミカトヲ》1勿使往來《ナカヨハセソト》u。召2聚《メシツドヘテ》衛門府《ソノツカサヲ》於|一所《ヒトツニ》1將《ムトセス》2給禄《モノタマハ》1。時《トキニヤガテ》中大兄|即自《ミヽヅカラト》執《トラシテ》2長槍《ナガホコヲ》1隱(シマシヌ)2於殿(ノ)側(ニ)1。中臣(ノ)鎌子(ノ)連等持(テ)2弓矢1而|爲助衛《マモリマツル》。使(テ)2海犬養《アマノイヌカヒノ》連|勝麻呂《カツマロヲ》1投《サヅケテ》d箱(ノ)中(ノ)兩(ノ)劔(ヲ)於佐伯《サヘキノ》連|子麻呂《コマロト》與《トニ》c葛城(ノ)稚犬養《ワカイヌカヒノ》連|網田《アミタ》u。曰《イフ》2努力努力《ユメユメ》急《スムヤケク》須2應《ベシ》斬《キル》1。子麻呂等《コマロラ》以水送飯《イヒヲスヽルニ》恐而反吐《オヂテタマヒツ》。中臣(ノ)鎌子(ノ)連|嘖《セメテ》而|使《シム》v勵《ハゲマ》。倉(ノ)山田麻呂(ノ)臣恐(テ)2唱表文將盡《ソノヨムフミハタツキナムニ》而。子麻呂|等《ラガ》不(ルヲ)1v來《コ》。流汗沃身亂聲動手《アセヲナガシコヱフルヒテワナヽグ》。鞍作(ノ)臣。恠而問曰《アヤシミテトヒケラク》。何故掉戰《ナニトカモフルヒワナヽグ》。山田麻呂對d曰《イフ》恐《カシコクテ》v近(キガ)2天皇《オホマヘ》1不覺流汗《スヾロニアセアユト》h。中(ノ)大兄見《ミタマヒテ》d子麻呂|等《ラガ》畏(レ)2入鹿(ガ)威《イキホヒニ》1便旋《シヾマヒテ》不(ルヲ)uv進《スヽマ》。曰《ノタマヒテ》2吐嗟《ヤヽト》1即共(ニ)2子麻呂|等《ラト》1出(テ)2其不意《ユクリナク》1。以(テ)v劔(ヲ)傷2割《キリサキタマフ》入鹿(ガ)頭肩《カシラカタヲ》1。入鹿驚(キ)起《タチヌ》。子麻呂|運《ノベ》v手(ヲ)揮《フキテ》v劔(ヲ)傷《キル》2其一脚《マタカタアシヲ》1。入鹿|轉《マロビ》就《ツキテ》2御座《タカミクラニ》1叩頭曰《ノミマヲサク》。當《ベキハ》v居《シラス》2嗣位《アマツヒツギ》1天之子《アマツカミノミコナリ》也。臣不知罪《ヤツコワスレヌルツミハ》乞《マヲス》2垂審察《ナダメサセタマヘト》1。天皇|大驚《イタクオドロカシテ》詔(ニ)2中大兄1曰《ノリタマフ》2不知所作用何事耶《ナニゴトゾヤソノユヱヲシラズト》1。中(ノ)大兄伏(テ)v地(ニ)奏曰《マヲシタマハク》。鞍作《クラツクリ》盡《コトゴトク》2滅《ホロボシテ》天宗《ミコタチヲ》1將《ス》v傾(ケント)2日位《タカミクラヲ》1。豈《ナニトカモ》以《ヲ》2天孫《アマツヒツギ》1代《カヘント申玉フ》2鞍作(ニ)1耶 蘇我(ノ)臣入鹿(ガ)更《マタノ》名(ヲ)鞍作(ト)云 天皇|即起《ヤガテタチテ》入(リ玉フ)2於殿(ノ)中(ニ)1。佐伯《サヘギノ》連子麻呂。稚犬養(ノ)連網田。斬《キリツ》2入鹿(ノ)臣(ヲ)1。是(ノ)日|雨下潦水溢庭《アメフリテニハダツミナガル》。以(テ)2席障子《ムシロシトミヲ》1。覆《オホフ》2鞍作(ガ)屍《カラヲ》1。古人(ノ)大兄見(テ)走2入《ニゲイリテ》私営《オノガミヤニ》1。謂(テ)2於人(ニ)1曰。韓《カラ》人殺(ス)2鞍作(ノ)臣(ヲ)1謂(フ)d因(テ)2韓(ノ)政1而誅(スト)u吾(ガ)心痛(シ)矣。即(テ)入(テ)2臥内《ヨドノニ》1杜《サシテ》v門(ヲ)不v出。中(ノ)大兄即|入《ユキテ》2法興寺(ニ)1爲《ツクリ》v城《キヲ》而|備《ソナヘ玉フ》。凡(ソ)諸皇子諸王諸卿諸大夫臣連件造國造悉皆隨侍《ミコタチオホキミタチマヘツギミタチモヽノツカサオミムラジトモノミヤツコクニノミヤツココトゴトクミトモニサブラフ》。使《シテ》v人(ヲ)賜(フ)2鞍作(ノ)臣(ガ)屍(ヲ)於大臣|蝦夷《エミシニ》1。於是漢碇等《コヽニアヤノアタヘラ》※[手偏+總の旁]2聚《スベツドヘ》眷屬《ヤカラヲ》1。※[鐶の金が手偏]《キ》v甲《ヨロヒヲ》持(テ)v兵(ノヲ)助(テ)2大臣(ヲ)1設《マケヌ》軍陣《イクサヲ》1。中(ノ)大兄使(テ)2將軍巨勢徳陀臣《イクサノキミコセノトコダノヲ》1。以《ヲ》2天地(ノ)開闢君臣始有《ハジメヨリキミヤツコノワキアルコト》1。説《トキテ》2於|賊黨《タブレヲニ》1。令《シメ玉フ》v知(ラ)2所起《モトツコヽロヲ》1。於是《コヽニ》高向(ノ)臣|國押《クニオシニ》謂2(176)漢直等《アヤノアタヘラ》1曰(フ)。吾|等《ラ》由(テ)2君大郎《ヌシガコニ》1應2當《ベシ》被(ル)1v戮《ツミナハ》。大臣|亦《モ》於《ニ》2今日明日《ケフアス》1立2俟《マタムコト》其(ノ)誅《ツミヲ》1决《ウツナシ》矣。然(レバ)爲(ニ)v誰(ガ)空(ク)戰(テ)盡(ニ)破(ルベキト)v刑《ツミナハ》乎。言畢《イヒヲハリテ》解《ヌギ》v劔(ヲ)投《ナゲ》v弓(ヲ)捨(テ)v此(ニ)而去(リヌ)。賊徒亦随散走《タブレガトモミナアラケニゲウセヌ》。己酉蘇我(ノ)臣蝦夷|等《ラ》臨誅《ツミナハレキ》云云。三年春二月丁亥。天皇命(テ)3大皇弟《ヒツギノミコニ》1改(メ玉フ)2冠階1。六年遷(シ玉フ)2都(ヲ)于近江(ニ)1。七年正月皇太子。即天皇位《アマツヒツギシロシメス》【或六年三月】十年【九月天皇不豫、或本八年十月、天皇病疾彌留云云】十二月癸亥朔巳丑。天皇崩2于近江(ノ)宮(ニ)1。【御在位十年。聖壽四十六。正統紀曰。五十八歳。或云四十八歳。】天武紀云。元年五月。宣(テ)2美濃尾張兩國(ノ)司(ニ)1曰。爲v造(ム)2山陵《ミサヽギヲ》1。豫(メ)差(シ)2定(メ)人夫《ヨエダチヲ》1云云。續紀。文武天皇三年冬十月詔。欲《オモホス》v營《ツクラント》2越智《ヲチ》山科(ノ)二(ノ)山陵(ヲ)1也【未爲故也】或云。山科(ノ)陵1。在2山城(ノ)國宇治(ノ)郡(ニ)1【江次第云。北山科】諸陵式云。山科陵。兆域東西十四町。南北十四町。御陵圖云。山城國宇治(ノ)郡也。鏡山ニ背キ、京路ニ面ス。東郊栗田郷ト云。其東山科也。山陵志曰。鏡山(ノ)前(ハ)是陵地。而其右旁(ニ)有2小祠1。有2鳥居1焉。土人歳時奉v祀。幸(ニ)無v所2荒穢1云云。陵之四野(ヲ)號2御廟野1。廟(ト)之|與《ト》v陵。俗言互(ニ)通。又東南(ニ)有2村落1。曰2陵村1。乃隣2大津1云云。
 
天皇、詔(シテ)2内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣《アソミニ》1。競2憐《アラソハセ玉フ》春山(ノ)萬花之艶《ハナノニホヒト》。秋山千葉之彩《アキヤマノモミヂノイロトヲ》1時《トキニ》。額田(ノ)王以(テ)v歌|判之歌《コトワレルウタ》一首。
○内(ノ)大臣藤原(ノ)朝臣」代匠云。日本紀を考るに、天武天皇三年に、八姓を分、十三年冬十一月に、五十二氏に姓を朝臣と賜ふ。藤原も其随一也。後の人の詞なる故に、茲に朝臣と書けり』考注云。鎌足公也。是はいまだ後(ノ)岡本(ノ)宮にての事と見ゆれば(同頭書云。近江大津宮(ノ)下に、是を擧るは、御代の凡(ソ)もてする例也。此次に近江へ遷り給ふ時の歌を載たれば、此《コヽ》は後(ノ)岡本宮にて有し事しるべし)内(ノ)臣中臣(ノ)連鎌足と、もとは有つらんを、後より崇みて、かく書たる也。其(ノ)上今本に朝臣のかばねを書しは、非《ヒガゴト》なれば除きて、下の例に依て卿とす。(177)同別記云。此(ノ)公を内(ノ)臣と云(ヒ)しは、其(ノ)頃|内外《ウチト》の位有し類にはあらず。内つ宮の事を、専らすべ知(レ)ば云也。元正天皇紀に【養老五年十一月也】詔曰。凡家(ニ)有2沈痾1。大小不v安。卒發v事。故汝卿房前。當|作《ナリ》2内(ノ)臣(ト)1計2會(シ)内外(ヲ)1。准(テ)v勅(ニ)施行(シ)。輔2翼(シテ)帝業(ヲ)1。永寧(ゼヨ)2國家(ヲ)1。と有(ル)は、此鎌足公の内(ノ)臣に准へ給ふと見ゆれば、是をもて知べき也(頭書云。續紀に藤原魚名公は、寶龜九年大納言にて、爲2内(ノ)臣(ト)給ふは、房前公(ノ)内(ノ)臣の如し。其(ノ)明年爲2内大臣1とあり。然ればたゞ内(ノ)臣と云は、大臣にあらざる事をしるべし)且鎌足公、始め内の臣と聞えし時は、大錦冠にて四位に當り房前公も、右の時は三位にて大臣に非ず。然れば共に内の臣と有べきを、紀にも後の極官に依て、紛らはしき所多きが中に、天智天皇三年の紀に、中臣の内(ノ)臣と有のみは、正しかりけり(頭書云。鎌足公は薨給ふ日に大臣位も、藤原氏も賜りしを、紀に先だちて藤原(ノ)内(ノ)大臣などあるは、史法に非ず。此類は皆後人のわざなり)然れども此集は、奈良の朝に至て書しからに、凡極官をしるせる例にして、内(ノ)大臣藤原(ノ)卿と害しは、さても有べきを、此所にのみ、朝臣の加婆禰《カバネ》をしるせしは、後人のわざなるべし。仍て考には、此集の例のまゝに、藤原卿と書きたり(朝臣のかばねは、天武天皇十三年に至て賜て、鎌足公の時は、中臣連なりしかど、惣て後に依てしるすからは、かばねも然かあるべきかと思ふ人有べけれど、此集の例にたがふ事、右に云が如くなればとらず)』【已上】
今按に、此(ノ)端詞は、古き物に記し來しまゝを取て書るなれば、此(ノ)朝臣は、いまだかばねにはあらず。只稱辭也。彼(ノ)武内(ノ)宿禰(ノ)命は、宿禰にして、大臣《オホオミ》なりつるに、書紀仁徳天皇大御歌に、多莽耆破屡《タマキハル》。宇知能阿曾破《ウチノアソハ》(内(ノ)朝臣者《アソハ》なり)と詔へりし類(ヒ)也(上の額田(ノ)王の名などの如くに、舊き本書のまゝに書たるも集中にこれかれ見ゆ)又内(ノ)大臣とあるも、(178)内は親しみ詞、大は後よりの崇め言なり。即武内(ノ)宿禰、甘美《ウマシ》内(ノ)宿禰等の内《ウチ》是也(考注に、是を宮(ノ)内の事を專ら知(ル)故と云(ヘ)れども、專ら外を衛防《マモリフセ》ぐ)大伴、佐伯《サヘギノ》宿禰等を、内兵《ウチノツハモノ》とも、内(ノ)物部《モノヽベ》と云るも又同じ(續紀(ノ)宣命に、家持卿を指て、今朕御世爾當弖母《イマアガミヨニアタリテモ》。内兵止念召弖《ウチノツハモノトオモホシメシテ》云云。また大伴佐伯宿禰波《オホトモサヘギノスクネ》。自2遠天皇御世《トホスメロギノミヨ》1。内乃兵止爲而仕奉來《ウチノイクサトシテツカヘマツリキテ》而云云。また内物部乎遣爲《ウチノモノヽベヲツカハシテ》而云云。また内物部止奉仕而《ウチノモノヽベトツカヘマツリテ》など見ゆ)此等の内は、本(ト)畿内を内國《ウチツクニ》、宮城を内裏《ウチ》【下ざまに、己が家を内と云類ひ】と云と同じ心ばへの親しみ言にして、畢竟は身内《ミウチ》のよしに、云習へりし也(天皇は、何れの臣も、御身内ならぬはあらざれども、其(レ)が中にも、殊に御《ミ》力(ラ)とも、頼みとも念《オモ》ほし召(サ)るゝ、取分て内(ノ)某とは詔る也)其人々の中にも、彼(ノ)武内(ノ)宿彌、鎌足などの、内(ノ)稱の弘りて、上に云る房前公、魚名公の、内(ノ)大臣は出來、又終には、内大臣と云一(ツ)の官名とも成し也。そは眞人《マヒト》、阿曾美《アソミ》、宿禰《スクネ》等の崇《アガマ》へ言の、つひに八色の加婆禰《カバネ》と成たると同斷なり。然るに、古事記傳【廿二(ノ)十五丁】に云、味師《ウマシ》内(ノ)宿禰も建《タケ》内(ノ)宿禰も、大和(ノ)國|有智《ウチノ》郡の人として、地名より出たる稱名と云(ヘ)りしは、ひが事也(彼(ノ)人等は、葛城に在しよしは物にも出たれど、有智(ノ)郡の人と云こと曾て物に見えず。いみじき無稽の説なりかし)かくて此公の御事、諸抄にさせる釋もなし。今按に、孝徳紀云。大化元年六月。以2大錦冠(ヲ)1授2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1爲2内(ノ)臣1。増(コト)v封《ヘヲ》若干戸《ソクバク》云云。中臣(ノ)鎌子(ノ)連。懷《イダキ》2至忠之誠《イソシキマコトヲ》1。據(リ)2宰臣《ミコトモチノ》之勢(ニ)1。處(ル)2官司《ツカサ/\ノ》云上(ニ)1云云。皇極紀云。三年春正月以2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ヲ)1拜《メス》2神祇(ノ)伯《カミニ》1。再三固辭《シバ/\イナビテ》不v就《ツカヘ》。稱《マヲシテ》v疾(ト)退(テ)居2三島(ニ)1。于時輕(ノ)皇子|患脚《アシノミヤマヒシテ》不v朝《マ井リ玉ハ》。中臣(ノ)鎌于(ノ)連|曾《ハヤクヨリ》善《ウルハシ》2於輕(ノ)皇子(ト)1。故(レ)詣(デヽ)2彼(ノ)宮(ニ)1而|將《ス》v侍《サムラハント》v宿《トノ井ニ》。輕(ノ)皇子深2識《ヨクシリテ》中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ノ)之|意氣高逸容止《コヽロバセノタカクスグレテスガタ》難《コトヲ》1v犯(シ)。乃(チ)使《シメ》d寵妃《ミメ》阿陪氏(ヲシテ)淨2掃《キヨメ》別殿(ヲ)1高c舗《シカ》新蓐《シトネヲ》u。靡(シ)v不(ルコト)2具給《ツブサニツガ》1。敬重特異《井ヤヒタマフコトアツシ》。中臣(ノ)鎌子(ノ)連|便《スナハチ》感《カマケテ》2所遇《メグミニ》1。而(179)語(テ)2舎人(ニ)1曰。殊(ニ)奉《ウクルコト》2恩澤《ミウツクシビヲ》1過(ギタリ)2前所望《オモヒシニ》1。誰(カ)能(ク)不《ザラン》v使《シメ》王天下《キミトマサ》1耶云云。中臣(ノ)鎌子(ノ)連爲v人(ト)忠正《マメニシテ》有2匡濟《タヾシスクフ》心1。乃憤(リテ)(丙)蘇我(ノ)臣入鹿(ガ)失《ワスレ》2君臣長幼之序《キミヤツコオイタルワカキノツキテヲ》1挾(ムヲ)(乙)※[門/規]2※[門/兪]《ウカヾフ》社稷《クニヲ》1之|權《ハカリゴトヲ》(甲)。歴《ツタヒ》試(テ)接(リ)2王宗《ミコタチノ》之中(ニ)1而求d可v立2功名《イサヲヽ》1哲王《サカシキキミヲ》u。便(チ)附2心(ヲ)於中(ノ)大兄(ニ)1云云々。自v茲|相善倶述所懷既無所匿《ウルハシミキコエテアカキコヽロヲカクサハザリキ》云云。於是《コヽニ》中臣(ノ)鎌子(ノ)連議(テ)曰。謀(ニハ)2大(ナル)事(ヲ)1者不v如(カ)v有v輔《オホキニタスケ》。請納(レテ)2蘇我(ノ)倉(ノ)山田麻呂(ガ)長女《ヒメヲ》1爲v妃《ミメト》而成2婚姻(ノ)之|昵《ムツミヲ》1。然後陳説《サテトキテ》欲2與(ニ)計(ント)1v事(ヲ)。成(ス)v功《コトヲ》之路莫(シ)v近(キハ)2於茲(ヨリ)1。中(ノ)大兄聞(テ)而大(ク)悦(ビ玉フ)云云。【此後入鹿を亡し給ふ事、既に上の天皇の條に記しつ】天智紀云。八年十月乙卯。天皇幸(マシテ)2藤原(ノ)内(ノ)大臣家(ニ)1。親《ミ》問(玉フ)2所患《ヤマヒヲ》1而|憂悴極甚《イタミタマフコトフカシ》。乃詔曰云云。對曰。臣|既不敏《モヨヨリヲヂナシ》。當復《イママタ》何(ヲカ)言(サン)。但(ニ)其(ノ)葬事《ノチノワザ》宜v用2輕易《カロキヲ》1。生(テハ)則無v務2於|軍國《オホヤケニ》1。死(テハ)則|何敢重難《ナゾカサネテナヤメン 》云云。庚申。天皇。遣(ハシテ)2東宮大皇弟(ヲ)於藤原(ノ)内大臣(ノ)家(ニ)1。授(ケ玉フ)3大織(ノ)冠(ト)與《トヲ》2大臣(ノ)位1。仍賜(テ)v姓(ヲ)爲2藤原氏(ト)1。自v此|以後《ノチ》通《ナベテ》曰2藤原(ノ)大臣(ト)1。辛酉藤原(ノ)内(ノ)大臣薨云云。【碑曰春秋五十有六】文武紀云。二年八月丙午詔曰。藤原(ノ)朝臣所v賜之姓宜(ク)v令2d其子不比等(ヲ)1承(ケ)uv之。但|意美麻呂《オミマロ》等。縁v供2神事1宜v復2舊姓1云云。孝謙紀云。元年十二月壬子。太政官奏(シテ)議2定(ス)先臣功田(ノ)品(ヲ)1。大織藤原(ノ)内(ノ)大臣。乙巳年(ノ)功田一百町。大功(ハ)世々不v絶云云。姓氏録云。天兒屋根(ノ)命二十三世孫。【補任云。廿一世孫。小徳冠中臣御食子卿之長子也。】内(ノ)大臣大織冠中臣鎌子【鎌足】稱徳紀云。景雲三年十月朔云云。其帶皆以2紫綾1爲v之。賜2五位已上1。但藤原氏者。雖v未2成人1皆賜v之。元享釋書云。僧(ノ)定慧。率2其(ノ)從屬1。上2阿威山1。取2鎌足公遺體1。改葬2於此1。建2祠廟(ヲ)於墓上(ニ)1云云。即此天安二年十二月。獻2年終(ノ)荷前之幣(ヲ)1。與地通志云。十市(ノ)郡※[玄+少]樂寺。在2多武(ノ)山(ニ)1。號曰2護國院(ト)1。僧(ノ)定慧建贈太政大臣正一位藤原(ノ)朝臣鎌足公(ノ)祠廟。在2正堂(ノ)東(ニ)1。と見ゆ。御歌此(ノ)集二【十二丁】内(ノ)大臣藤原卿、【報2贈鏡王女1】歌同【娶2采女安見兒1】時作歌。
○競憐《アラソハセ玉フ》春山《ハルヤマノ》云云。秋山《アキヤマノ》云云(ヲ)」代匠云、此意は大織冠に勅して、よろづの花の咲みだれたる春の山(180)やおもしろき、又ちゞのもみぢのてりかはしたる秋の山やあはれなる。人々に各方人となりておとりまさりをあらそはしめ給ふ時、額田(ノ)王、秋山のまされるよしを判斷し給へる歌也。是も天氣にて、判じ給ひけるにや。ひろく春秋をくらべて、勝劣を論ずるにあらず。たゞ山につきてあらそふ也。春山、秋山の字に心をつくべし。歌も其心と見えたり。されど後の人春秋をあらそひけるは、これを濫觴と云べし。拾遺集雜下に「ある所に春秋いづれかまされると問せ給ひけるによみて奉りける、紀(ノ)貫之
 春秋におもひみだれてわきかねつ時につけつゝうつるこゝろは」「元良のみこ、承香殿のとし子に、春秋いづれかまさると問ひはべりければ、秋もをかしう侍りといひければ、おもしろき櫻を、これはいかゞといひて侍ければ、
 大かたの秋にこゝろはよせしかど花見る時はいづれともなし」「題しらずよみ人しらず、
 春はたゞ花のひとへに咲ばかり物のあはれは秋ぞまされる」新古今集春上にいはく「裕子内親王、ふぢつぼにすみ侍けるに、女婆らうへ人など、さるべき限りものがたりして、春秋のあはれ、何れか心ひくぞなどあらそひ侍けるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ、藤原|孝標《タカスヱノ》女
 あさみどり花もひとつに霞つゝおぼろに見ゆる春の夜の月」源氏物語野分に「春秋のあらそひに、昔より秋に心よする人は、かずまさりけるを」と云り。かの物語の抄に樹下集を引て云「志賀のとよぬし、大伴(ノ)黒主らが、論議の歌、豐主とふ
 おもしろのめでたき事をくらぶるに春と秋とはいづれまされる」くろぬしこたふ、
 春はたヾ花こそはちれ野べごとににしきをはれる秋はまされる」又「謙徳公、いまだ宰相中將のとき、應和三年七月二日、かのきむだち、春秋の歌(181)合の事あり。あきのかたより、
 花も見つもみぢをも見つむしのねもこゑ/”\おほく秋はまされる」今おのが心ざしをいはゞ、まことにつらゆきのやうに、ふたつのかたをこそ、ぬくべけれど、たからをこしにまとひて、揚州の鶴となることを得ずして、かならずひとつをおけとならば、なく/\東君のために左の肩をこそ』
 〔細註〕 考注云、春秋をあらそふ事、是に始て見ゆ。こは内つ宮の女がたにて、戯れあらそひつらんを、天皇興有事とおぼして、此卿は、内つ宮の事を預らせらるゝ故に、事とらせられ。額田の姫王は、時の風流《ミヤビ》人なれば、ことわらせ給ひつらん。男どちのわざならば、姫王の判給ふべくもあらず。又女がたの事故に、外《ト》の司に事|執《トラ》すべくもあらず。此卿におほせし也』と云り。今按に、是は推量ごとの、ひが説なり。只本書の端詞の如く、天皇と鎌足公と、あらそはせ給へるを、額田(ノ)王、御前に侍らひて、判り給へるにこそはあれ。考注には、ともすればかくさまなる無用のおしあてごと多かり。其心して見べきなり。
 
冬木成《フユキナリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮抒《ハナモサケレド》。山乎茂《ヤマヲシゲミ》。入而毛不取《イリテモトラズ》。【先注云。取(ハ)誤v見也(ト)。今按誤v聽也。】草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミエズ》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《モミヂヲバ》。取而曾思奴布《トリテゾシノブ》。青乎者《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテゾナゲク》。曾許之恨之《ソコシウラミシ》。秋山吾者《アキヤマゾワレハ》。【先注云。恨(ハ)誤v怜乎。】
冬木成《フユコモリ・フユキナス》。春去來者《ハルサリクレバ》。不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮抒《ハナモサケレド》。山乎茂《ヤマヲシミ》。入而毛不聽《イリテモキカズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミズ》。秋山乃《アキヤマノ》。木葉乎見而者《コノハヲミテハ》。黄葉乎婆《モミヅヲバ》。取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》。青乎者《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテゾナゲク》。曾許之怜〔左〔〕之《ソコシオモシロシ》。秋山吾者《アキヤマゾワレハ》。
○冬木成」仙覺抄云。ふゆこなり。春さりくればと云は、未(ダ)冬木のすがたにて、春のくればと云な(182)り』代匠云。冬木成は、冬木となりて、落葉するを云にはあらず。冬至の比より、陽氣下に催して、年立かへれば、木の芽《メ》はるといふ心につゞくればなり。なるは成就の心也』似閑書入云。冬木成ハフユキナスト點スベシ。ナスハ神代紀ニ、如《ナス》2五月蠅《サバヘ》1。舊事紀ニ如《ナス》2水母《クラゲ》1等ノ如《ナス》ト同ジクテ、俗ニ某《ソレ》ガヤウニナド云詞ト同ジ。春ノ枕詞也。春《ハル》ハ張《ハル》ニテ、ツハル也。木ノ芽ノハルヲ、俗ニツハルト云也。心ハ春ニナレバ、冬木ノ如クシテ、萬木ノ芽ノハルト云也。第九ニ「山代ノ久世ノ鷺坂神代ヨリ春ハ張《ハリ》ツヽ秋ハ散ケリ』考注云。冬木盛《フユコモリ》は、借字にて、卷七【今(ノ)十】その外にも、冬隱春去來者《フユコモリハルサリクレバ》と有に同じく、冬は萬の物内に籠(リ)て、春を待て、はり出るより、此こと葉はあり。然るに今本に冬木成と書て、ふゆこなりと訓しは、言の例も理りもなし。そは感の草は、〓とかくを〓と見誤て、成と書なしたるもの也。故に古意と、例とに依て改つ。下にも多し。皆これに從ふべし』槻落葉【三(ノ)下十一丁右】云。冬木成《フユキナス》。此成は、師は盛の誤と云(ハ)れしかど、集中すべて成とありて、一つも盛と書る例なければ、別意にやと思ふに、古事記【應神段】の歌に、布由記能須《フユキノス》。加良賀志多紀能《カラガシタキノ》とあるは、冬木成《フユキナス》。枯之下木《カラガシタキ》にや。もしさる意ならば同言とすべし。さて春につゞくは、冬木の晴《ハル》と云意にかゝれる發語《マクラコトバ》にや(夏木立木晩闇《ナツコダチコノクレヤミ》など云に對(ヘ)ば、冬木は晴《ハル》と云べきならずや)猶思ひ定めがたし。後人よく考てよ』【已上衆説】 今按に、これらの説による時は、冬木成と書たるは、ふゆきなすとよみ、冬隱と書たるは、ふゆこもりと訓て、言も續く意も、別語とする歟。又冬隱と書たる字を證として、考説の如く、成は盛の誤とも、略字とも見て、皆ふゆこもりと訓べき歟、思ひ定めがたし。集中冬木成と書たるは【此の外二(ノ)廿四丁、三(ノ)卅八丁、六(ノ)廿五丁、九(ノ)十二丁、十(ノ)十二丁、十三(ノ)二丁等に出(ヅ)】七八處も見え、冬隱と書たるは【七(ノ)卅二丁、十(ノ)六丁、又十三丁等】三四處ならでは見(183)えざれど、是を例と見る時は、別語とも云(ヒ)がたからんか。又八【五十五丁】に吾屋前之冬木乃上爾《ワガヤドノフユキノウヘニ》、また【五十六丁】に、冬木乃梅者《フユキノウメハ》、花開爾來《ハナサキニケリ》など、冬木《フユキ》と云る例もあるを見れば、彼(ノ)似閑、久老の説も、※[手偏+棄]がたし。故(レ)姑《シバラ》く兩點して、後の定めをまつ。
○着去來者《ハルサリクレバ》」代匠云。春さりくれば、是は春されば、秋さればと云には、心かはる也。春さればと云は、春之在者とかけるによれば、春にあればと云心也。定家卿も、かく心得給へり。今の春さりくればと云は、春よりくればにて、かしこをさりてこゝにくる心也。まことは遠くかしこより、こゝにくるまでもなく、すこしうごきて、其所をうつるは去なり。又さると云がすなはち來るなり。第十に「風まぜに雪はふりつゝしかすがに霞たな引春さりにけり」是は春は來にけりと云るなり』考注云。春去來者《ハルサリクレバ》は、去は借字にて、春になりくればてふ言也。爾奈《ニナ》の約は、奈《ナ》なるを、佐《サ》に轉して佐利《サリ》といへり。下に夕去來者《ユフサリクレバ》と云も、同じ事ぞ』【槻落葉、及略解等凡て皆是に同じ】』記傳【廿(ノ)四十三丁左】云。由布佐禮婆《ユフサレバ》は、夕去者《ユフサレバ》にて、夕《ユフベ》になればと、云むが如し云云』【是も考注に從て云へれば、此に省(キ)て引り。】四十八音考云。春去者《ハルサレバ》は、春之在者《ハルシアレバ》の、之阿《シア》の反、佐《サ》なり云云』(此外古今集の餘材抄、打聞、又伊勢物語古意、近頃の新釋、後撰集の新抄等を始て、凡(ソ)近世の注釋、悉く此説に從て云り。其中に、適(マ)少し異りたるは、近頃の一説に、詩に老去、擲去など云(フ)去と同じくて、助語也と云るのみなり)【已上衆説】 今按に、此等悉く非《ヒガゴト》なり。其中に、代匠記に、去者《サレバ》と云と、去來者《サリクレバ》と云とを別語とせるはまだしかれども、去《サル》と云が、すなはち來《ク》る也と云るぞよろしき。そも/\先輩に、かかる的當の説あるを、却て其(レ)を云(ヒ)破りて、後にわろく説(キ)なせるが多かれば、今此説を助(ク)べし。去《サル》と云(ヒ)、來と云(ヒ)、到《イタル》と云(ヒ)、行《ユク》と云(ヒ)、出《イデ》と云(ヒ)、いますと云(フ)類は、彼《カシコ》を去(リ)て此《コヽ》に來(ル)も、此《コヽ》を去(リ)て彼《カシコ》に到るも、自他前(184)後、互に通はし云(フ)こと、古へも今も、同じことなり。そを集中の歌もて、一二いはゞ、四【十七丁】に、鳥自物《トリジモノ》。魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》。家乃島《イヘノシマ》云云。此(ノ)去(ノ)字は、なづさひ來者《クレバ》の意也。又六【四十五丁】に、久邇乃京者《クニノミヤコハ》。荒去家里《アレニケリ》云云。此(ノ)荒去《アレイニ》も荒來《アレコ》し也。又三【十一丁】に天之芳來山《アメノカグヤマ》。霞立《カスミタチ》。春爾至婆《ハルニイタレバ》云云。此(ノ)至と云(フ)言は、常に多く行至《ユキイタ》る方に云習へるを、又|如此《カク》來至《キイタ》る方に、よみたるも何例也。又六【十九丁】に、打靡《ウチナビク》。者去往跡《ハルサリユクト》。山上丹《ヤマノヘニ》。霞田名引《カスミタナビク》云云。此(ノ)歌にては、去《サル》は勿論、往《ユク》と云も、此方《コナタ》へ來至《キイタ》る意なる事、立春の歌なるを以て著明《イチジロ》し。然れば此(ノ)去《サル》と云一字は、姑《シバラ》く爾之奈留《ニシナル》の約りともいはゞいひなんを、右の歌|等《ドモ》の、至(ノ)字、往(ノ)字等は、又如何なる詞の、約りとかはせん。是らもても萬葉考以來の諸抄の説の非なる事を知べし。此《コヽ》に或人問て云く、然らば春さればと云に、春之在者と書るもある、此(ノ)文字は如何なるよしぞ。こたふ。此《コ》はなると云言に、爾在《ニアル》と書る類にて、之在《シアレ》の之阿《シア》は、佐《サ》と約る故也。これを正字と思へるより、右等のしひごとはある也。又老去、擲去などの去也と云る説をついでに辨へば、十三【二十八丁】に、春避者《ハルサレバ》とも書る、避(ノ)字は、又いかなる熟字の助語なるにか。猶漢國などにも、來ると去《サル》とを通はし云ることなきにあらず。禮記月令云。孟春之月鴻雁|來《カヘル》。とありて、注に來(ハ)歸也と云り。これらを合せてよく考へなん。さて又六【四十五丁】に、※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》。績麻繋云《ウミヲカクトフ》。鹿背山之山《カセノヤマ》。時之往者《トキノユケレバ》。京師跡成宿《ミヤコトナリヌ》。この往者《ユケレバ》は、時運の到來せしを云なれば、誰が耳にも、時の來《キ》たるを云と聞ゆべし。又二【二十五丁】に、暮去者《ユフサレバ》。召賜良之《メシタマフラシ》。明來者《アケクレバ》。問賜良之《トヒタマフラシ》。十【十八丁】に、明來者《アケクレバ》。柘之左枝爾《ツミノサエダニ》。暮去者《ユフサレバ》。小松之若末爾《コマツガウレニ》。およそ長歌には、かくざまに、去《サル》と、來《クル》とを、對句によめるがいと多かる、若(シ)此類を去《ユク》と來《クル》との意に分ち見ば、不通《キコエヌ》うたのみならむもても、只同じ意の詞を、いひざまをかへて、文《アヤ》とせる事、又い(185)ちじろし。されば今|此《コヽ》の句に、此(ノ)去と來とを重ねて、春去來者《ハルサリクレバ》とよみたるは、七言の處なる故也。常に五言の句に、春去者《ハルサレバ》、秋去者、朝去者、夕去者などよめるは、右二つ内、去《サル》と云一つを用ひたる也。又|春來者《ハルクレバ》、夏來者、秋來者、冬來者など云類は、右二つの内、來《クル》と云(フ)一つを用ひて、其句を整へたる也。
 〔細註〕 猶此語集中に、春に云るは、一十(ノ)二丁、二(ノ)卅四丁、三(ノ)十七丁、又五十八丁、五(ノ)十七丁、又廿一丁、又廿六丁、六(ノ)十九丁、又廿五丁、又卅四丁、八(ノ)十四丁、十(ノ)六丁、又七丁、又九丁、又十丁、又同丁、三(ノ)二丁等に出(ヅ)。又秋に云るは一(ノ)卅一丁、三(ノ)五十六丁、六(ノ)四十二丁、八(ノ)四十七丁、十(ノ)五十二丁、十七(ノ)卅八丁等に出(ヅ)。又朝に云るは、三(ノ)卅九丁、十九(ノ)廿五丁に出(ヅ)。此外にも多かれど、今求に不v遑。又夕に云るは、一(ノ)廿一丁、四(ノ)五十二丁、十(ノ)五丁、又四十二丁、又六十丁、十一(ノ)廿一丁、又廿二丁、十四(ノ)廿丁、十七(ノ)四十丁等に出(ヅ)。此外|夜去者《ヨルサレバ》とよみたるも有て、甚《イト》多きやうなれど、來者《クレバ》とよめる方よりは少きを、解(ケ)がたき語なる故に、目に立(ツ)也。又|徒《ユク》とも至《イタル》ともよみたる方も、少なからねば、此類を皆よく相合(セ)見ば、喩しを待ずして、誰も心得べき物なるを、只かたへをわづかに見て、云(ヒ)思ふ故に、右等の僻註はある也。かれ今は如此、一部の類語を合せて解(ク)事を勤むるなり。さて又其(ノ)云(ヒ)ざまに、「されば」とも「さらば」とも「さりにけり」とも「さりぬれば」とも「さりゆけば」とも、いろ/\に云るは、只既に然ると、未(ダ)然らざると、又其(ノ)處のつゞきに依ての差《ケヂメ》也。又後世の歌に「夕されに、むすびとゞむる露の玉云云」「夕されの春の霞は云云」とやうに、既に躰語になしてよみなせるも、催馬樂の刺櫛に、與宇左利《ヨウサリ》とうたひ、今の俗言に、ユフサリ、又ヨサリな(186)ど云て、直に夜《ヨル》の事に云ると同例なりければ、ひが事にもあらざるを、是を難じたる釋の有(ル)は却て委しからざる也。又新古今に、俊成卿「今日といへば唐土までも行(ク)春を」とよみ給るを、美濃家※[果/衣]に難じたるも同斷のひが事也。此外近世のちうさくどもには、此類のひが事、常多かれば、かくは云(ヒ)おくなり。
○不喧有之《ナカザリシ》。鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》。不開有之《サカザリシ》。花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》」代匠云。鳥もなき、花もさくと云に、春のおもしろき事をつくせり。さけれどゝは、雖の字にて、ゆるして奪(フ)詞也』考注云。此なかざりし、開ざりしてふ言にて、右の冬|隱《ゴモ》りてふ言しらる』【已上】 今按に、鳴ざりし、開《サカ》ざりしは、不《ズ》v鳴《ナカ》在し、咲ず有(リ)しと云(フ)、受阿《ズア》を約(メ)て、邪《ザ》とは訓(ム)也。さて百千鳥囀る春とよむ如く、花のみならず、鳥も春を待てさへづる故にかくは云る也。
○山乎茂《ヤマヲシミ》」代匠云。山をしげみと云より、下の四句は、秋山の方人《カタウド》、秋のまさる事をいはんとて、春をいひおとす也。花がさけども、春山の茂ければ、入て手折人もなく、草深ければ、わきてとり人《テ》もなき也。手も人也。用を以て躰をよぶ也』似閑云。花ノ咲比ハ、未(ダ)草木ハ茂ラザレドモ、春ヲ茂ル時トシテ云也』考注云。しみは茂《シゲ》まり也。其(ノ)しげを略(キ)てし〔右○〕といひ、まりを約てみ〔右○〕と云也。さて此集には春の繁《シゲ》山、春の茂《シゲ》野など云て、春深き比の草木を茂き事とす』【已上】 今按にし〔右○〕は繁《シヾ》の省きみ〔右○〕は山高み、月清み、風を痛みなど云(フ)み〔右○〕にて、故《ユヱ》にと云に當る辭也(山高みは、山高き故に、月清みは、月清き故に、風を痛みは、風つよき故にの意なるが如し。宣長は、此等のみ〔右○〕をさに〔二字右○〕と譯して山が高さに、月が清さに、風がつよさにの意とせり。其(レ)も當らねにはあらざれど、たゞ似たる言を引合せたる譯にて、をり/\さし支(ヘ)ある事、下に云(ヒ)つべし)まりの略とせる説、心得がたし。常に(187)茂きことを、しげまりと云る詞のあらばこそ、さもいはめ。例なき言を、押(シ)當(ツ)べきにあらず。繁《シヾ》は三【二十九丁】に繁生有《シヾニオヒタル》。また【三十七丁】繁爾貫垂《シヾニヌキタレ》。六【十二丁】越乞爾《ヲチコチニ》。思自仁思有者《シヾニシアレバ》。とありて、密《シヾ》とも茂《シヾ》とも書たる是也。【猶三(ノ)五十八丁、四(ノ)十六丁、六(ノ)十丁、又十二丁、又四十四丁、七(ノ)卅八丁、八(ノ)二十丁、又卅八丁、九(ノ)八丁、又廿八丁、又三十丁、十一(ノ)十二丁、十三の十八丁、又卅一丁、十五(ノ)九丁、又十丁、又廿二丁、十七(ノ)卅九丁、十九(ノ)廿五丁、又卅九丁、二十(ノ)十八丁、又廿七丁等に出たり。】又是を、しみと云るも、此卷の下【二十三丁】に、之美佐橋立有《シミサビタテリ》。三【五十四丁】に、京思美彌爾《ミヤコシミミニ》。家者雖在《イヘハアレド》。十【三十七丁】に、枝毛思美三荷《エダモシミミニ》。花開二家里《ハナサキニケリ》。など見えたり。【此例も十一(ノ)十六丁、又卅八丁、十二の廿四丁、十三(ノ)廿七丁、又同丁、十六(ノ)廿五丁、十七ノ丁等に出たり。】此等互に見合せて、言の意をさとるべし。又春の野山を、繁きものに云は、暦と云物の無りし世の心ならひの遺れる也。そはいとしも上つ代には、木草のもえ出る時を春とし、其(ノ)葉の散萎《チリシボ》む時を、秋とせし故に、今の暦の立春のほどは未(ダ)冬にして、自《オ》らに、※[(貝+貝)/鳥]もなき、霞もたち、若草なども萌《モエ》そむるを見て、春を知(ル)ならひなりつれば其(ノ)順につれて、今の四月の下旬頃までも春の内とせし故に、春の繁山、春の繁野などは云(ヒ)しなり(暦の事は、欽明紀十五年より見え始めたれど、只暦博士を置れたるのみにして、家々に用るやうの事は、遙かに後の事也。たとひそのかみ、公には用ひられし事ありけんとも、國初の時より、ならはし來つるわざは何事も俄には改め難きものと見えて、此暦普く用る事と成て後も、猶世人のいひ思ふ所は、皆上つ代のふりにして、歌には中昔の末までも、古へのならはしのまゝによみ、今の世とても、邊土の民は、草木禽獣の色音、空のたゝずまひを見しりて、よく時季をしり、暦は頼みにならずと云る處多かり)さて然か年によりては、今の暦の四五月の比迄も春として、繁きものに云(ヒ)ひならひ來し故に、櫻のさくは、古へとても三月の比なりつれど、それをも猶春山は、茂しと云(フ)大方のならひに就てかくは云る也。
(188)○入而毛不聽《イリテモキカズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《トリテモミズ》」考注云。草木の茂き比、咲花なれば、山に入て手折て見ん事難しと也。春の繁《シゲ》山てふ事を聞傳へて、女王の心もてかくのたまふが却てあはれ也』とて入而毛不取《イリテモトラズ》。草深《クサフカミ》。執手母不見《タヲリテモミズ》と訓たり。略解も如此點して、其(ノ)釋に云(ク)。入ても不取は折取ぬ事也。されど又手をりてもと有からは、取は見の誤にて、みずにてもあらんか』小琴云。入而毛不見也。此不見ヲ本ニ不取トカケルハ誤也。入テモトラズ、取ヲモ見ズトテハ、イカゞナラム。次ノ句ヲ考注ニタヲリテモ、見ズト訓レタルモワロシ。ソハ本ノ傳ニ訓ベシ。サテ不取ハ、三井高蔭ガ不見ノ誤ナルベシ、トイヘル考宜シ。取ト見ト、草ノ手似タリ。カクテ入テモ見ズ、トリテモ見ズト對シイヘルハ、古歌ノ例ニヨク叶ヘリ』【已上】 今按に、不取《トラズ》は不聽《キカズ》を誤りたる也。前句に鳥と花とを云(ヒ)出たれば、其鳥を受る語なくば有べからねばな也(考注に女王の心もて、と云るはあらず。前(ノ)句にもいひつる如く大方のならひに就て云るにこそあれ。殊に古へは皇后、女王と申せども、野山の氣しきを見しらざる人は、をさ/\あらざりき。上の伊與、紀伊(ノ)國等の行幸、次の蒲生野の行幸など、凡て集中に婦人の遊獵、野遊の御供せる事、多かるもても知べし。况《マシ》て、此女王は、近江(ノ)國鏡(ノ)里に生《オヒ》たゝれたる人なるをや。考説は此處むげに依がたし)
○黄葉乎婆《モミヅヲバ》。取而曾思奴布《トリテゾシヌブ》」代匠云。とりてぞしのぶとは、春山の花は草深く木くらくて、よそにのみ見てやみにしが、心ゆかざりしを、もみぢの比は、草もかれて入やすく、心のまゝに錦と見ゆる枝を折とりて見る也。しのぶとは、過にしかたをしたふを云のみにあらず。眼前の事をも、あかずめでおもふをいふ也。【似閑書入云、此は紅葉に執着して見るを云】古今集に「見るものからやこひしかるべき」といへるが如し。同總釋云。もみぢとは、雨風露霜にもまれ(189)もまれて、色づく故に云。もみいづと云なれば、もみづと云は用語、もみぢとは體になして云也』考注云。丹出《モミヅル》をば折取て、見愛《ミメヅ》るを云り。此しぬぶは、慕ふ意にて、其黄葉に向ひて、めでしたふなり。古歌に、花などに向ひて、をしと思ふと云は散を惜むにはあらで、見る/\愛る事なると心ひとし。毛美豆《モミヅ》は赤出《モミイヅル》を略き云り。是を毛美治婆《モミヂバ》と云は、萬曾保美出《マソホミイヅ》る葉《ハ》てふ言也。何ぞといはゞ、毛《モ》は萬曾保《マソホ》の約にて、その萬《マ》は眞《マ》とほむる言、曾保《ソホ》は、本(ト)丹土《ニツチ》の名なるを、何にても、赤き色有物には借て云也。美《ミ》は萬利《マリ》の約にて、眞朱萬利《マソホマリ》也。染をそまり、赤きをあかまりと云類也。治《ヂ》は出《イヅル》を略き轉し、婆《バ》は葉也。濁は音使』【已上】 今按に、此考説の、黄葉の本義、あまりむづかしく、且迂遠にきこゆ。代匠の説は、少し安くして、勝りざまなれど、露霜にもまると云(フ)こと、いかゞあらん。今ふと思ふに、田舍人の言に、革木の葉、又蒔し苗などの、枯《カレ》れんとして、赤ばむを萬布《マフ》と云り。今此紅葉も、實は來む春の新芽《ワカメ》の、下より萌《キザ》すまゝに、萬比《マヒ》て色づくなりければ、萬比出葉《マヒデバ》てふことを、もみぢばとは云にやあらん(萬《マ》と、毛《モ》とは通音、比《ヒ》と美《ミ》とは、蛇を、へびとも、へみとも云て、常に甚親しく通ふ音なり)かの時ならず、もみぢする葉を、やまひ葉と云も、早萬比葉《ハヤマヒバ》の上略と聞ゆ。【紅絹を、もみと云も萬比色絹の意ならんか。】是今も專(ラ)いふ言なりければ、此二つに依て、いひ試るなり。猶よく考へ定めてよ。さて志奴布《シヌブ》と云に、愛《メヅ》ると、慕《シタ》ふと、堪《タフ》ると、隱《カクル》るとの四義あるも、本は一つなるが、上下の連《ツヾ》きに牽れて、姑く四義あるが如く、後の耳には聞ゆる也。そは此言を、同語の物と合せ考るに、先づしなひ靡く草を、しのゝ小笹とも、しのすゝきとも云(フ)。今假に此物の上よりいはんに、彼(ノ)愛る方は、其(ノ)物に心のしなひよる也。又慕ふ方に云は、其物に心の靡きふす也。堪る方に云はし(190)なひながら、こらふる也。隱るゝ方に云は、下に臥てしなふ也。恒に忍《オシ》の字を書習ひ來しも、右等の中に、おさふる意のはなれざる故也。かゝれば、後世の人こそ、三義四義など分ていへ、昔の人は、言の本をよく心得居つれば、只一つ言と思て、自由に用ひけんかし。
 〔細註〕 其大抵は、二(ノ)十九丁、又卅三丁に「夏草の思ひしなえてしぬぶらん」三(ノ)廿二丁に「しなふ世《セ》の山しぬはずて」六(ノ)四十七丁「百世へてしぬはえゆかん」七(ノ)廿三丁「河原をしぬびいや河のぼる」又「わがこゝだしぬぶ川原を」九(ノ)廿七町「櫻ばなさかんはるべは君をしぬばん」又廿九T「とまれる君をかけてしぬばせ」又卅三丁「のち人のしぬびにせんと」又「かたりつぎしぬびつぎこし」十一(ノ)廿六丁「戀とふ物をしぬびかねてん」又十一丁「細竹目《シヌノメ》の人にしぬべば」又卅八丁「しぬのめのしぬびてぬれば」又同丁「しなひねぶ吾《ワ》はしぬびえず」又十丁に「何によそへて妹をしぬばん」又同丁「ふりさけ見つゝしぬぶらん」十二(ノ)廿四丁「見つゝいまして吾としぬばせ」又卅四丁「わぎも子がわをしぬぶらん」十三(ノ)廿八丁「玉だすきかけてしぬばし」又同丁「かけてしぬばな」十四(ノ)卅五丁「寒き夕べし汝をばしぬばん」又同丁「こめてしぬばん」十五(ノ)卅六丁「やまずしぬばせ」又同丁「かけてしぬべと」十六(ノ)九丁「とねりをとこもしぬぶらひ」又十五丁「鹿火《カビ》屋が下に鳴蛙しぬびつゝありと」十六(ノ)廿二丁「しほひの山をしぬびつるかも」十七(ノ)十七丁「しのびかねつも」又卅四丁「見る人ごとにかけてしぬばめ」又四十二丁「しぬびつゝあそぶさかりに」十八(ノ)十九丁「かくやしぬばん」又卅一丁「いにしへゆしぬびにければ」十九(ノ)廿丁「としにしぬばめ」又十九丁「猶ししぬばゆ」又十丁「むかしの人もしぬび(191)來にけれ」又廿二丁「わがこゝだしぬばくしらに」二十(ノ)四十五丁「われをしぬばせ」十九(ノ)十六丁「時鳥きけはしぬばく」廿(ノ)六十一丁「はふくずのたえずしぬばん」又一(ノ)八丁「家なる妹をかけてしぬびつ」八(ノ)五十一丁「妹がかたみとかつもしぬばん」此外見つゝしぬばん、又忍びにすれど、などもよみたれど、さまでもとて省きつ。
○青乎者《アヲキヲバ》。置而曾歎久《オキテゾナゲク》」代匠云。春秋をまさしくくらべて、秋をまさりとする也。その心は、秋山のにしきと見ゆる中に、もみぢ殘りて、あを葉なるがあるをば、折人もなくて【似閑云。ステオク意ナリ】これさへひとつに、もみぢしてあらましかばとなげく也。(同入書入云。歎クハ、未(ダ)不足ノ處ヲナゲク也。花ノ如ク一旦ニ盛ハ過ズシテ、色ノ奥アルヲ云ナレバ、此(ノ)歎クハ賞《ホム》ルガ如シ)終の二句にて、判(リ)定むるなり』考注云。まだ染あへぬをば、折とらで置(ク)を、うらみとするなり』【已上】 今按に、次(ノ)句にそこしおもしろしと連けたるを見れば、似閑の書入の意もあるべし。青(キ)をおくと云るに、又來て見むと心の殘る意もありて、あかじと歎く中に、樂みもあれば也。
○曾許之怜之《ソコシオモシロシ》。秋山吾者《アキヤマワレハ》」代匠云。そこしうらめしは、青葉は春山の色にて、秋も折人なければ、その所がうらめしければ、わがまさるとさだむるは、秋山と也』考注云。曾許之恨之《ソコシウラメシ》。秋山曾吾者《アキヤマゾワレハ》。そこは、其《ソレ》也。うら枯る秋は山に入やすげなれば秋山のもみぢに、吾は心依りぬと也(こは山のもみぢの事なれば、女の山ぶみをおもほしての給ふのみ。上に花鳥をの給ひしさまを思ふに、赤裳すそ引、ゆきかふべきけ近さならば、春に依てことわりなん。所により、身につけ、をりにしたがひて、ことを分たれたるこそおもしろけれ)頭書云。山の下に曾を補ひつ。今は必落(チ)しとおぼしければ(192)也』略解云。うら枯る秋は山に入安ければ、秋山のもみぢに心をよすると也。宣長は恨は怜の誤にて、そこしおもしろしならんと云り。是に依べくおぼゆ』小琴云。恨ノ字ハ怜ノ誤也。ソコシオモシロシト訓ベシ。ウラメシニテハ聞エス。トヂメノ句ハ、アキ山ワレハト訓ベシ。ソレガオモシロケレバ、吾ハ秋山也ト云意也。秋山ゾト、ゾヲ加ヘテハ中々ニオトレリ』【已上】 今按に、恨はもしは本のまゝにて、物語書に妬《ネタ》しと云ると同じくて、ほむる意に云るにやとも思へど、怜と見むかた、人聞まさるさまなれば、姑く其(レ)に隨ひつ。山の下に、曾《ゾ》を加へたるはひが事に定れり。凡て考注には無用の談多かり。
○一篇の總意は、冬すぎて、春にいたれば、冬のほどには鳴ざりし百鳥も來なき、咲ざりし諸木の花も咲出て、是もあしくはあらざれど、木草の繁きが煩はしくて、入ても見聞ざるを、秋山の木の葉を見ては、山も晴《ハレ》、さかりも久しくて、先(ヅ)もみでたるを、取てはめでたみ、いまだ青きをばさし置ては、はやもみぢせよかしなど歎くが、却ておもしろくおぼゆれば、人はしらず、吾は秋の山に心ひかれ侍ると也。
 〔細註〕 さて端詞のさま、たゞ春秋の勝劣を爭せ給ひたるにて、天皇は何れの御|方人《カタウド》とも坐《マサ》ざりつるか。又内(ノ)大臣を御相手にて、爭せ給ふを見れば、若(シ)は天皇は春山の方、大臣は秋山の方なりけんを、此女王に判らしめ給ひつるか。然る時は、天皇を負し奉りたる也。思ふに此女王は、此時既に天皇に娶《メサ》れて、御親しみも深かりければ、憚りなく打思ふ所を、そのまゝに云りしか。又天皇は吾夫《ワガキミ》の心にて、わざと大臣に勝を取せて、一興とせられしか。歌の心春をいひ貶《オト》せるあたり、何とかやしひたるやうにも聞ゆる所々あり。何れにしても雅《ミヤ》びたる御爭ひにて(193)又雅びたる判りざまなり。から書などには、かゝる事|曾《カツ》て見えず。これもこなたのいにしへのみやびたるさまを見べき一つ也かし。
 
○此(ノ)間、一二葉の歌ども、殊にいたく亂れつればこゝにまづ、古點本の端詞より出して、前注どもの論説《アゲツラヒ》を擧るなり。
 
額田(ノ)王。下2近江(ノ)國1時作歌。井戸(ノ)王(ノ)即和(ヘ)歌。
代匠云。此端詞、歌にかなはず。井戸(ノ)王物に見えず。是は左注の類聚歌林を見合せけるに、大海人皇子命下2近江(ノ)國(ニ)1時。御作歌一首并短歌一首。と有て、次の綜麻形の歌は、額田王の歌なるべければ、其所に額田王(ノ)奉和歌と有けむが、かくは亂れたるならん』
考注云。今本こゝに、額田王云云と有は、先(ヅ)此集の端詞の例に違ひ、其外理なきこと多し。故に今一二の卷の例と、左の古注などのことわりに依て右の如くせり。さて今本のひが事をいはん。其こたへ歌の所にこそ、和歌とは書(ク)例なれ。こゝにのみ、端詞につゞけて書べきかは。又井戸王てふ名は、紀にも何にも見えず。さる氏も惣て聞えず。又此長歌の體、男の歌にて、額田(ノ)姫王の口風《クチツキ》とは甚異也。さて下の綜麻形てふ歌ぞ、女歌にて、それに吾勢《ワガセ》ともいひたれは、それこそ額田姫王の和《コタヘ》歌なれ。こゝは必男(ノ)歌なるからに、是のみ類聚歌林を合せ考て、大海人(ノ)皇子(ノ)命の御歌とす。其歌林のよしは下に見ゆ』【已上】 今按に勤くべからぬ考へどもなり。今も此説に依て改む。
 
大海人皇子命〔六字各左〔〕《オホアマノミコノミコトノ》下(リ玉フ)2近江(ノ)國(ニ)1時(ニ)。御〔左〔〕作歌《ヨミマセルミウタ》。并短歌一首。
○大海人皇子命」は、天智天皇同母(ノ)弟王、後に天武天皇と申奉る。委き事は、次の明日香清御原(ノ)宮の標下に云べし。
(194)○下(リ玉フ)2近江(ノ)國(ニ)1時」考注云。紀に【天智】六年三月。近江大津へ都遷の事有』とあり、此事の初丁に、既に出。
 
味酒《ウマザケノ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山際《ヤマノマニ》。【際下脱v從】伊隱萬代《イカクルヽマデニ》。【代下脱v爾】道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イツモルマデニ》。委曲毛《マグハシモ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シバシバモ》。見放武八萬雄《ヲミサケムヤマヲ》。情無《コヽロナキ》【古本欠2三字1可v有2漏脱1】雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフベシヤ》。
此等の落字、愚按ながら、補改て更に擧(グ)。
味酒《ウマザケノ》。三輪乃山《ミワノヤマ》。青丹吉《アヲニヨシ》。奈良能山乃《ナラノヤマノ》。山際從〔左〔〕《ヤマノマユ》。伊隱萬代爾〔左〔〕《イカクルヽマデニ》。道隈《ミチノクマ》。伊積流萬代爾《イサカルマデニ》。委曲毛《ツバラニモ》。見管行武雄《ミツヽユカムヲ》。數數毛《シバ/\モ》。見放武八萬雄《ヲミサケムヤマヲ》。情無《コヽロナク》○○○《ヤヘタナ・ヤヘシラ》雲乃《クモノ》。隱障倍之也《カクサフベシヤ》。
○味酒《ウマサケ》」代匠云。三輪とつゞけ、第七には、みむろ山ともつゝけたり云云。崇神紀云。八年夏四月庚子朔乙卯。以(テ)2高橋(ノ)邑(ノ)人|活日《イクヒ》1。爲《ス》2大神之掌酒《オホミワノサカヒトヽ》1。掌酒此(ヲ)云2佐介弭苔《サカビトト》1冬十二月丙申朔乙卯。天皇|以《シテ》2大田田根子(ノ)命(ヲ)1。令(メ玉フ)v祭(ラ)2大神(ヲ)1。是(ノ)日活目。自《ミ》擧《ヲ》2神酒《カミノオロシ》1獻(テ)2天皇(ニ)1仍歌之曰《ウタヒケラク》。許能瀰枳破《コノミキハ》。和餓渦状那羅嬬《ワガミキナラ》。揶麿等那殊《ヤマトナス》。於朋望能農之能《オホモノヌシノ》。介瀰之瀰枳《カミシミキ》。伊句臂佐伊句臂佐《イクヒサイクヒサ》。如此歌之《カクウタヒテ》宴《ウタゲス》2于神(ノ)宮(ニ)1。即宴竟之諸大夫等《ウタゲハツルトキニマヘツギミタチ》。歌之曰《ウタヒケラク》。宇磨佐開《ウマサケ》。瀰和能等能〔渡〕能《ミワノトノドノ》。阿佐妬珥毛《アサドニモ》。伊第※[氏/一]由介那《イデヽユカナ》。瀰和能等能渡塢《ミワノトノドヲ》。於是天皇歌之曰《コヽニスメラミコトウタヒタマハク》。宇磨佐階《ウマサケ》。瀰和能等能〔渡〕能《ミワノトノドノ》。〔由〕〔赴〕妬珥毛《ユフドニモ》。於辭寢羅箇禰《オシビラカネ》。瀰和能等能渡塢《ミワノトノドヲ》。【此等の落字、又訓點等は守部が私に補ひて、引所なり】即(チ)開(テ)2神(ノ)宮(ノ)門(ヲ)1而|幸行之《イデマス》。所謂《イハユル》大田田根子(ハ)。今三輪(ノ)君等之|始祖也《オヤナリ》。うまさけ、みわとつゞけしは古き詞也。此つゞけたる心は、神に奉る酒を神酒と書て、みわといへば、うまき酒をみわに居《スヱ》て奉ると云心にてつゞけたり。みむろの山も、三輪山の別名なれば、三輪より起て、うまざけのみむろの山とは、つゞくるなるべし。又第三、登(テ)2神岳1赤人作歌に、神なび山とつゞくるは此山にも、みわの神まします故なるべし。又酒を(195)釀《カモ》するを、かむといへば、其心にてつゞけたりとも聞ゆ。仙覺注釋に、土佐(ノ)國(ノ)風土記(ニ)云。神河(ヲ)訓(ムハ)2三輪川(ト)1。源(モト)出(テ)2此(ノ)山之中(ヨリ)1屆(ル)2伊與(ノ)國(ニ)1。水清(カリ)故《ケレバ》爲(スニ)2大神(ノ)1釀(ムニ)v酒(ヲ)也。用(フ)2此(ノ)河(ノ)水1。故《カレ》爲(ス)2河(ノ)名1也。倭|迹々媛皇女《トヽヒメノミコノ》。爲《ナリ玉ヒシハ》2大三輪(ノ)大神(ノ)婦《ミメト》1。毎夜有一壯士《ヨゴトニヒトリノヲトコ》。密來曉(ニ)歸(ル)。皇女思(シテ)v奇(ク)。以《ヲ》2綜麻《ヘソ》1貫(テ)v針(ニ)。及《トキニ》2壯士之《ヲトコノ》曉(ニ)去《カヘル》1也。以v針貫(キ玉ヘルニ)v襴(ニ)及《ナリテ》v旦(ニ)|也|着之《ツケタルヘソ》。唯有三輪遺器者《タヽミワノコリケレバ》。故時人《ヨノヒト》稱2爲《ヨビキ》三輪(ノ)村爲。社(ノ)名|亦然《モシカリ》云云。しかれば土佐國にある三輪川も、水清かれば大神のために酒をかみて、酒の名によりて、三輪川と名づくと見えたり。大神とは、大己貴《オホナムチノ》神、則三輪の明神の名也。和名抄云。伊豫(ノ)國温泉《ユノ》郡味酒、萬左介《マサケ》かの土左の三輪川、温泉(ノ)郡にいたりて、神酒をもかもする故に、此まざけの名ある歟。三輪山をも、みむろと云(ヒ)、神なみ山をも、みむろ山と云により、歌にもよみまがへたる事おほき歟。大己貴命と、その幸魂《サキミタマ》奇魂《クシミタマ》とを分ちて祭れる也。崇神紀等を見るに、神も又わかつにむつかりぬべきにとあり。みわの名も、崇神紀によらば、彼(ノ)神のために、みわを作れるゆゑの名なるべし』【已上代匠】冠辭考云。崇神紀に、許能瀰枳破《コノミキハ》云云。右に大物主の釀《カミ》し御酒《ミキ》とよみて、即その大神の坐(ス)ところなれば、三輪に冠らする事とのみ、思ふ人多かり。さることならば、酒かめるみわなど樣に、さるべき辭をそへてこそいはめ。たゝちに味酒三輪とつゞけしからは、必そのこゝろには侍らざる事を、古語をよく見む人は知べき也。然らばいかにと云に、萬葉卷十三に、味酒乎《ウマサケヲ》。神名火山之《カミナビヤマノ》。卷四に、味酒|呼《ヲ》。三輪之祝我《ミワノハフリガ》など、酒|乎《ヲ》とて、かみなびとつゞけしからは、美酒《ウマサケ》を釀《カミ》といひかけしのみにて、かの故あることには侍らぬ也。上にもかみしみきとよみ、卷十六に、【酒の事を】味酒|乎《ヲ》。水爾釀成《ミヅニカミナシ》。吾待之《ワガマチシ》など、此外古書に、うま酒を、かみてふ語甚多し。さて其|釀《カミ》を略きて、三輪、三室などの、三《ミ》の語にもつゞけし(196)也。然れば上の宇麻佐開瀰和《ウマサケミワ》とよめる類も、皆此意のみ。故に卷一に、味酒三輪乃山、卷七に、味酒三室(ノ)山と有をも、四言に、うまさけとよみて、又同じこゝろとすめり。
 〔細註〕 卷十一に、味酒之三毛侶乃山爾《ウマサケノミモロノヤマニ》云云。紀と集中に、此語多きに、皆|宇磨佐開《ウマサケ》と四言にも、味酒|乎《ヲ》とも有を、此一首のみ、味酒之と有は、おぼつかなく、且|之《ノ》の語の用ひ様も、古意ならぬを思ふに、乎《ヲ》の草の手の、竪の畫の消たるか。又後世の唱へをのみ覺えをるものゝ、暗《ソラ》に書そこなへるにも侍りなん。今彼(レ)此(レ)を思ひとりて、乎に改むべし。また卷二に、哭澤之《ナキサハノ》。神社爾三輪須惠《モリニミワスヱ》とよめる、三輪は借字にて、酒を釀たる、〓の事也。故にみわ居《スヱ》といへり。集中に忌戸乎《イハヒベヲ》。齋穿居《イハヒホリスヱ》とよみ、出雲國造が神賀詞に、天乃〓和爾《アマノミカワニ》。齋許母利※[氏/一]《イムコモリテ》てふも、供神の御酒を釀たる〓をいへり。これらに依ときは、上に擧る、味酒|呼《ヲ》三輪とつゞけし類は、美酒《ウマサケ》を釀〓《カミワ》といひかけつらんとも覺ゆ。されども神奈備とつゞきしは、釀とのみかゝりて聞ゆ。右も皆上に云如く心得べきなり』【已上考注】日本紀歌解曰。宇磨佐開《ウマサケ》は、※[倍の人偏が酉]酒《ウマサケ》にて、今俗(ニ)云あま酒の事也。三輪は、此|※[倍の人偏が酉]酒《ウマサケ》を、〓《ミカ》ながら神に奉る稱《ナ》にて、美《ミ》は糟交《カスゴメ》の糟《カス》と云(ヒ)輪《ワ》は涌《ワク》事也。今も酒造《サケツクル》に、其(ノ)糟《カス》の浮(キ)上るを、涌《ワク》と云り。故《カレ》〓《ミカ》なる※[倍の人偏が酉]酒《ウマサケ》の熟せるを瀰和《ミワ》とは云なり。三諸《ミモロ》とつゞけしも、其(ノ)涌酒《ワクサケ》の實諸《ミモロ》の意なるを、准へて知べし』【已上歌解】 今按に、右等の説の内、冠辭考にいへる所、一わたり諾《ウベ》々しく聞えたれば、古事記(ノ)傳、其(ノ)他の抄どもゝ皆彼説を用ひたり。其《ソ》を見なれたる人は、耳馴て誰もさる事と心得めるさまなれど、實は代匠記に因て取捨すべき也。彼(ノ)記に、うまさけをみわに居《スヱ》て奉ると云心にてつゞけたりと云るはまだしかれど、崇神紀を本とせられたるはさる事(197)にぞある。乞《イデ》今三輪(ノ)社に掌酒《サカヅカサ》を置れし所以《ユヱ》をいはんに、神代に、大己意《オホナムヂノ》神、終に國を避坐《サリマシ》て、永(キ)世まで皇孫(ノ)命の御守《ミマモリ》神と成坐(シ)き。故(レ)其(ノ)和魂《ニギミタマ》を倭の三輪山に拜祭《イヅキマツリ》て、大物主《オホモノヌシ》と稱(ヘ)給へりしは即大倭(ノ)國に生出《ナリイヅ》る物實主《モノシロヌシ》(主《ヌシ》は、主領《ツカサドル》よし也。故(レ)宇志波久《ウシハク》と云も、主《ヌシ》はくにて、其處を領するをいへり)と云(フ)意の崇名《アガメナ》也(物とは、指(ス)物多き語なれども、此《コヽ》は皇孫命の、朝夕聞(シ)召(ス)御飲食《ミヲシ》物也。中古の書|等《ドモ》にも、飲食物《ヲシモノ》をば、專(ラ)御物《ヲモノ》といひ習へり)書紀同卷に、曰(フ)2是(レ)倭(ノ)國(ノ)之|物實《モノシロト》1則反之《カヘリヌ》。物實此(ヲ)云2望能志呂《モノシロト》1とあるに同じ。此(ノ)亦(ノ)名《ミナ》を、櫛〓玉《クシミカタマノ》命と稱《タヽヘ》たるも、奇〓賜《クシミカタマハリ》の義にて、〓《ミカ》はこゝは、直に酒を指(セ)せるなりければ、即彼御社に掌酒《サカビト》を奉(リ)置て、大物主(ノ)神より、奇《クシ》き御酒《ミキ》を所賜《タマハリ》て聞しめす也。古事記に、息長帶日賣《オキナガタラシヒメノ》命の太子《ヒツギノミコ》に待酒を獻り賜へる時の御歌にも、許能美岐波《コノミキハ》。和賀美岐那良受《ワガミキナラズ》。久志能加美《クシノカミ》。登許余邇伊麻須《トコヨニイマス》。伊波多々須《イハタヽスス》。須久那美迦微能《クナミカミノ》。加牟菩岐《カムホギ》。本岐玖流本斯《ホギクルホシ》。登余本岐《トヨホギ》。本岐母登本斯《ホギモトホシ》。麻都理許斯美岐叙《マツリコシミキゾ》。阿佐受袁勢佐々《アサズヲセサヽ》。とよみて獻り賜へる、此(ノ)少御神《スクナミカミ》も、大己貴《オホナムヂノ》神と一體の如く並(ビ)坐(セ)れば、其心ばへ同じ事也。若(シ)これも越(ノ)國にての御事ならずは、猶大物主より賜はりて、獻り給ふべきを、旅にての御事なる故に、常世とは申(シ)賜へるならん(上つ代に、守護《ミマモリ》神と申(シ)しは、むねと御壽命《ミイノチ》の御護りなりし事は、神祇官の八神も、皆御壽の護り神にましますを以ても知るべし。さるからに、聞食物を專(ラ)として其(ノ)護神を大物主としも申し賜ひ、又かゝる御歌|等《ドモ》も、有にぞ有ける。さて掌酒の事も、此神代に始(メ)て見えたるやうなれども、猶國初より有つるを、さるよしなくて、紀などにも漏來し也。此御時、初(メ)て置そめられたるにはあらず)かゝれば、其賜はる所の酒を指て、美酒《ウマサケ》三輪とは續(198)け、其(ノ)三輪を、常に三諸《ミモロ》とも、神奈備《カミナビ》とも申す故に、共に三諸にも、神南備《カミナビ》にも、つゞけたるにぞ有べき(此(ノ)内神南備の稱は、集中に龍田も名高かれど、此枕詞は、三輪を專らとして飛鳥(ノ)神南備に、つゞけたる一首の事は、代匠記に云るが如し。其(ノ)他の社には、をさ/\見えざれどもし有(リ)なんとも、既に枕詞となりての上なればそれも妨げなし)さてかく見る時は、此集に味酒之《ウマサケノ》と有は元よりにて、味酒乎《ウマサケヲ》とつゞけたるも彼(ノ)御佩刀乎《ミハカシヲ》。劔池之《ツルギノイケノ》などの例の如く、乎《ヲ》は與《ヨ》の意にて、味酒《ウマサケ》よ三輪と云(フ)意也(冠辭考に、代匠記を難じて、若(シ)其心ならば、酒かめるみわなどあるべきをと云るはわりなし。枕詞は直に續く辭にも、いさなとり海、あられふり鹿島とやうにいひきるも有(リ)て、一様ならず。まして其處《ソコ》の物もて、呼(ビ)出せる、何の難あらん。麻曾宜《マソゲ》尾張、玉匣 三室、くれはとりあや、などやうにつゞくるも、いひもてゆけば同じ心ばへなるをや)殊に三輪と云名義よりして、酒に由縁《ヨシ》あるうへに、其(ノ)社其(ノ)里さへに、猶酒にゆえよし有つらんと思ふ事は、中昔後まで酒に名ある地とせしも櫛〓玉《クシミカタマノ》神に因(リ)、又|掌酒《サカヒト》のなごりなりけむかし。(文永の頃の物に、三輪の酒の事を云(ヘ)るあれど事長かれは省きつ。又其(ノ)後の謠曲、狂言等の詞にも、三輪の杉酒屋、三輪の酒賣など云ることあり。此等をも思ひ合すべし)今世までも、酒賣家のしるしに、杉の葉を束ね立て、それを酒ばやしとも、酒葉《サカバ》ともいへり(彼(ノ)一休和尚の、酒店にて酒のみて、一睡せられし時の歌に「極樂をいづこにありと思ひしに酒葉立たる與茂作が門」とよまれたる是也。今は此酒葉と云物も只田舍の酒店にのみ遺りて、其(レ)だにわづかに杉の葉を丸く束ね切て、軒下に釣おく事となりたれど、四五十年以前までも、其(ノ)門に杉を立るな(199)らひなりき)これ舊《モト》三輪の杉より出たる古きならはしの遺れるなるべし(さて今更に、集中の歌どもを見もてゆくに、味酒より續けたるは右の外にも、四(ノ)四十八丁、七(ノ)六丁、八(ノ)三十二丁、十一(ノ)十四丁、十三(ノ)十三丁等に出(ヅ)。これらと右に出たるとの中に、神岳をよみたる、只一首ありて、其他は凡て三輪に限りたるも、其所以ある歟)
○三輪乃山《ミワノヤマ》」代匠云。三輪の山をと、乎《ヲ》の字をそへて心得べし』【考注、略解等には、釋言なし】』【已上】 今按に、三輪は大和(ノ)國城上(ノ)郡也。同國(ノ)風土記殘編云。城(ノ)上(ノ)郡三輪(ノ)郷。土地中肥民用不v少。郷(ノ)北(ニ)有2三輪山1。其(ノ)山|足《フモトニ》有2三輪大神(ノ)社1。是則|大三輪國和魂《オホミワノクニツミタマノ》命也。行嚢抄云。三輪町。茶店多シ。素麺、酒、麻晒ヲ名物トス。古歌ニ、市人ヲヨメリ。此地大和ノ市ノ始ト云。自2奈良1至2于此1行程五里云云。三輪(ノ)山本トハ大鳥居ヨリ社邊ヲカケテ云ナルベシ云云。三輪山ノ西北ノツヾキニ、檜原山アリ。大山也。俚俗云。卷向山、三輪山、穴師山、此三ヲ合セテ、三諸山ト云ト云メルモ、此邊ニテ、目立山ナレバ也云云。輿地通志云。三輪山(ハ)三輪村(ノ)東。一名三諸山。又|神並《カミナビ》山。孤峯峻拔。林木、青葱。望v之(ヲ)異2於他山1。と見ゆ。【集中此山をよめる歌、こゝの外には八(ノ)卅二丁、九(ノ)十丁、七(ノ)九丁、又同六丁、十(ノ)四十八丁、十二(ノ)十九丁等に出たり。】
○青丹吉《アヲニヨシ》」代匠云。青丹よしは、奈良と云(ハ)ん枕詞なり。古き説々皆燭明抄に出たり。何れも誤にて、用るにたらず云云。顯昭法師は、青※[次/瓦]吉《アヲジヨシ》、那羅《ナラ》と云べきを、青丹吉《アヲニヨシ》とは訛たる也、と云(ヘ)れど、崇神天皇の比は、三韓もいまだ通ぜざりければ、※[次/瓦]《ジ》と云音にて名付たる器物、有べきやうなし云々。【此間、餘りに長く、且(ツ)用なきことどもなりければ省きつ。】次に今按を擧ば、第十三の長歌に「あをによしなら山過て」とよめるに、緑青吉と書たれは、玉もよし、さぬきの國、眞菅よし、宗我のかはらなど、名物を枕詞としてよめ(200)る如く、昔は奈良より、よき緑青を出しければ、かくはつゞくと見えたり。碧丹吉とかける處も有。青丹吉と常かけり。和名抄云。本草云。緑青一名碧青。【徐州貢土五色有2青黄赤白黒1】また異名を石緑、銅青、銅緑など云り。石緑は世に岩緑青と云物にて、其外は銅より出る也。およそ丹は、赤き物なるを、緑青は丹に似て青ければ、あをにとは云り。是を正義とすべし。古事記中卷、應神御製に、伊知比韋能《イチヒ井ノ》。和邇佐加能邇袁《ワニサカノニヲ》。波都邇波《ハツニハ》。波陀阿可良氣美《ハダアカラケミ》。志波邇波《シハニハ》。邇具漏岐由惠《ニグロキユヱ》。美都具埋能《ミツグリノ》。曾能那迦都邇袁《ソノナカツニヲ》。加未都久《カブツク》。麻肥邇波阿弖受《マヒニハアテズ》。麻用賀岐《マヨガキ》。許邇加岐多禮《コニカキタレ》。阿波志斯袁美那《アハシヽヲミナ》云云。源氏物語若菜下に「あをにゝ、やなぎのかざみ」と、云るを、河海抄云「あをに、萬葉にあをによしならといへり。昔彼所の土、青く赤かりけるにて、土器を作りけるよりいひそめたるなり。一説緑青」空穗(ノ)物語「春日祭の下づかへは、あをにゝ、柳がさねきたりと云云」源氏并にうつぼに、あをにと云るは、木賊色、萌黄など成べし。河海抄に、二説あり。初は青と丹とふたつの色と見て、彼所の土青くあかゝりけるにて、かはらけを作りけるよりいひそめたりと、かゝせ給へるは邪説也。次に一説、緑青とあるを、あたれりとす。第五卷に、ならとつゞけずして「くやしかもかくしらませばあをによしくぬちこと/”\見せましものを」とよめる歌有。あをによしを、即ならにして、くぬちは、國の内なり。はつせのくに、よしのゝ國と云が如し。委はそこに注せり』【是迄代匠記説】冠辭考云。古事記【磐之姫皇后の御歌】阿袁邇余志《アヲニヨシ》。那良袁須疑《ナラヲスギ》。武烈紀に、婀嗚※[人偏+爾]與志《アヲニヨシ》。乃樂能波娑摩※[人偏+爾]《ナラノハザマニ》。萬葉卷一に、青丹吉云云。これもやゝさるべきやと思はるゝは、たとへば大宮など建らるゝ地をば、幾重も土をつみて、杵築平《キヅキナラ》す物なるこゝろにて、彌百《イヤモヽ》の土《ニ》に平《ナラ》すといひかけしなるべし。其よしは古事記に、夜本爾余志《ヤホニヨシ》。伊岐(201)豆岐能美夜《イキヅキノミヤ》云云。出雲國造(ガ)神賀(ノ)詞に、八百丹杵築宮《ヤホニキヅキノミヤ》とも云り。今此二つを阿乎爾余志《アヲニヨシ》。平《ナラ》と云に對へ見れば、全く同じ意也。依て心をひそめて考るに、先(ヅ)阿乎爾《アヲニ》の爾《ニ》も、八百丹の丹も借字にて、爾《ニ》は士の古語也。八百は、多き數也。杵築《キヅキ》は、土を平《ナラ》し堅むるわざなれば、平すてふも、同じ理りに落めり。さて八百は彌百《イヤホ》の、伊を略きたる語なるに、阿乎《アヲ》の阿も、延れば伊夜となりぬ。然れば、阿乎爾《アヲニ》と彌百土《ヤホニ》と同じ語也。かゝれば阿乎爾與志奈良は、彌百土《ヤホニ》、平《ナラ》すてふ意也と覺ゆる也。與志《ヨシ》てふ辭を、かゝる語の下に添るに、吉と書るは借字にて、與は八百土|與《ヨ》と呼出す辭、志は助辭のみ也。右に擧たる、夜本爾余志《ヤホニヨシ》。伊岐豆岐能美夜《イキツキノミヤ》でふは、歌なれば、伊の發語と、余志《ヨシ》の助辭を添てうたひしを、神賀《カムホギ》は、たゞよみによむ故に、助辭發語もなく、八百丹杵築(ノ)宮といへり。これをむかへて、阿乎土與《アヲニヨ》、平《ナラ》すてふ意をしらば疑ひなけむ。此與志てふ辭をそへたる語、紀にも萬葉にも、數しらず多けれど皆此意のみ』【是迄冠辭考説】記傳【卅六(ノ)廿二葉】云。阿袁邇余志《アヲニヨシ》は、那良《ナラ》の枕詞にて、青土《アヲニ》よしなり。青土《アヲニ》は色青き土なり。明(ノ)営段大御歌に、和邇佐能邇袁《ワニサノニヲ》云云とあるも、眉畫《マヨガキ》の料なれば、青土なるを思ふべし。余志《ヨシ》は冠辭考に、余《ヨ》と呼(ビ)出す辭にで、志《シ》は助辭也。此(ノ)余志《ヨシ》と云辭を添たる例、眞菅よし、玉藻よし、大魚《オフヲ》よし、阿佐母《アサモ》よしなど、猶多しと有が如し(契冲は萬葉十三に、緑青吉と書るに依て云々と云れど、緑青と見るはわろし。又冠辭考に阿袁邇《アヲニ》を、八百土《ヤホニ》なり云云と云れたるは、強説なり。阿《ア》と夜《ヤ》とは、通ひもすべけれど、乎《ヲ》と保と通はし云ることなし。清濁の説も、心得がたし云云)さて那良《ナラ》とつゞく由は、是も冠辭考に云れたる如く、土を平《ナラ》し堅むる意也。然らば只土にも、有べきに、青色なるをしも云るは、如何《イカニ》と云に、彼(ノ)應神天皇の眉畫(ノ)料の、青土を賦《ヨミ》給へる和邇坂も、那(202)良《ナラ》山と近きを思ふに、古(ヘ)那良山も多く青土にて、名産にぞありけむ』【是まで記傳(ノ)説】 槻落葉三卷別記云。青丹吉《アヲニヨシ》は阿那爾夜斯《アナニヤシ》と、同言にや。神代紀に、吾屋惶根《アヤカシコネノ》尊を、亦曰2青橿城根《アヲカシキネノ》尊(ト)1といへり。又應神紀に穴織《アナハトリ》とあるを、雄略紀には、漢織《アヤハトリ》ともあれば、阿奈《アナ》も阿夜《アヤ》も、阿袁《アヲ》も、ひとつ言にて、阿奈《アナ》は、古語拾遺に、事之|甚切《イトセチナル》皆|稱《イフ》2阿奈《アナト》1とありて何事にまれ、切《セチ》におもふときの歎《ナゲキ》の言也。爾夜斯《ニヤシ》は、爾《ニ》の助辭《テニハ》に、夜斯《ヤシ》の言を添たるにて、縱惠夜師《ヨシヱヤシ》、波志祁夜斯《ハシケヤシ》などいへる類也。その夜《ヤ》と與《ヨ》とは常通ふ言なれば、あなにやしと、あをによしとは全(ク)同言也。さて此言を那良《ナラ》に冠らせしは、仁徳天皇の大后、石比賣命の御歌に「つぎねふ、やましろかはを、みやのぼり、わがのぼれば、阿袁邇余斯《アヲニヨシ》、邦良袁須疑《ナラヲスギ》、をたてやま、やまとすぎ、わがみがほしくには、加豆良紀多迦美夜《カヅラキタカミヤ》。和藝幣能阿多理《ワギヘノアタリ》」とよみましゝ御歌に見えたるぞ初め也ける。つら/\此御歌の意を考ふるに、葛城は大后の御本郷ゆゑ、殊にくにしぬびまして、迦豆良紀多迦美夜《カヅラキタカミヤ》、我家《ワギヘ》のあたりとの給へるなれば、此青丹吉は、葛城までにかゝる言にやともおもへど、日本紀に、越2那羅山《ナラヤマヲ》1。望(テ)2葛城(ヲ)1歌曰云云。とあれば、山城(ノ)國より、泉河をのぼり、那羅山に到まして、初めて本郷《ミサト》の葛城を見渡し給へるより、殊更御意に切におもほしめしゝより、阿袁邇余之奈良《アヲニヨシナヲ》とは、よみましゝなるべし。此和歌をはじめとして、後にはすき/\奈良には、かならず阿袁邇余斯《アヲニヨシ》の言を、蒙らする事とはなりにたり。又卷(ノ)五に【旅人卿の妻の、筑紫にて身まかれるを、卿のかなしめるうたに】「久夜斯《クヤシ》かも、かくしらませば、阿乎邇與斯《アヲニヨシ》、久奴知《クヌチ》こと/”\、見せましものを」とあるは、契冲が説にも、師説にも、國内《クヌチ》は、奈良の本郷をいへるにて、青丹吉《アヲニヨシ》、那良《ナラ》といひなれたるより、後に打つけに、阿袁爾與之《アヲニヨシ》とのみにて、即て奈良の事とせるなりとあるは、うけがたくな(203)ん。是は筑紫に下られて、間もなく身まかり給へるよし、其長歌に見えたれば、久奴知《クヌチ》は、大宰の府下をいへるにて(卿の妻の、那良《ナラ》の都より下り來ませるに、更に筑紫にて、奈良のくぬちを見せまほしものをとはおもほすべきにあらず。この歌舊説にては、いかにとも解(ク)べからず)遠《トホ》の朝廷《ミカド》とさへいひて、遙々にしたひ來ませる國内《クヌチ》にしあれば、殊に切(チ)におもへる意にて、青丹吉《アヲニヨシ》の言を冠らせしにや。又は、はしきやしなど云る類にて、一首のうへにかゝる歎息の言にて、あをによしとは云るにや。何れにまれ、この久奴知《クチチ》は、奈良《ナラ》を云る言にはあらずかし』【是迄槻落葉(ノ)説】記傳(ノ)上の續(キ)に、此説を引て云(ク)、或説に云云《シカ/\》と云るは、まことにさもあるべく、おむかしき考へなり。然れども、なほ又よく思ふに、石《イハノ》比賣(ノ)命の御歌に、倭と那良と、地(ノ)名二つ詔へる内、次なる倭には枕詞ありて、初(メ)の那良に無くてはいかゞ。かく並べ云には、枕詞は初(メ)なるに有て、次なるに無きはありもすべけれど、次なるに有て、初めなるに無きことは有べくもおぼえず。又後に那良の枕詞になれるは、此御歌によりて、轉れるものと云もさることながら、書紀の武烈(ノ)卷の歌にも、那良の枕詞に云るあり。彼(ノ)時などいまだ然轉じ用ることは、あるべくもあらず。故(レ)なほ本より那良の枕詞なることは、動かじとぞおもふ』【已上衆説也、】守部年來、此枕詞の意の、心得難かるに就て如此あまた引集めたる也。されど其衆説どもに、是ぞまさしく當れりとおぼしきも、未(ダ)きこえねば、此《コヽ》に先(ヅ)此(ノ)地の事を考へて、其末に試をも云べし。崇神紀云。十年九月丙戌朔壬子。大彦命到(ル)2於|和珥坂《ワニサカノ》上(ニ)1時云云。復《マタ》遣(シ)2大彦(ト)與《トヲ》2和珥《ワニノ》臣(ノ)遠(ツ)祖|彦國葺《ヒコクニフク》喜1。向(ハシメテ)2山背(ニ)1撃(ツ)2埴安彦(ヲ)1。爰(ニ)以《ヲ》2忌瓮《イハヒベ》1鎭2坐《マツル》於|和珥武〓《ワニノタケスキノ》坂上(ニ)1。則《ヤガテ》率《井テ》2精兵《ヲイクサヲ》1進2登《ノボリテ》那羅山《ナラヤマニ》1。而|軍之時《イクサダチスルトキニ》。官軍屯衆而《ミイクサヒトツドヒテ》〓2〓《フミナラス》草木(ヲ)1。因以《カレ》號《ヲ》2其(ノ)山1曰(フ)2那羅山《ナラヤマト》1。〓〓此(ヲ)云(フ)2布瀰那羅須《フミナラスト》1云云。とある、誰(204)も是を此(ノ)地の由縁と思ふめれど、實は自(リ)2此(ノ)時1以前《サキ》に、山を切(リ)平坦《ナラ》して、平地《ヒラチ》を作れるを以て、地《トコロノ》名を、平《ナラ》とは稱《イヒ》そめけんを、此時の故事のやうに云(ヒ)傳へしなるべし(其記紀中の、地名の由縁を云る常にして、信《タノ》み難き事、芦荻抄に、委く辨へたるが如し。下にも云べし)大和國風土記殘編に、此(ノ)國(ハ)者。往昔山岳多而《ムカシヤマダケサハニシテ》。平(ノ)地少《トコロスクナカリキ》云云。鑿《ウガチ》v山(ヲ)開(テ)v谷(ヲ)爲《ナシ玉ヒキ》2平夷《タヒヲニ》1云云。とありて、神名帳に、添(ノ)上(ノ)郡、【奈良】に奈良豆比古《ナラツヒコノ》神社【※[秋/金]靫】の坐(ス)を見れば、是(レ)神代よりのことなりき。そも/\奈良(ノ)地の今見る所の形状《サマ》も、全(ラ)此文の趣にして、四方に立(チ)周《メグ》れる山々の畝丘《ウネヲ》を切(リ)谷を埋めて、平陸《ヒラチ》と成せる地勢《クニガタ》したり。今是に依て、枕詞の續きを思ふに、青丹吉《アヲニヨシ》、平《ナラ》は、上丘土與《ウハヲニヨ》、平《ナラ》すと云意にはあらぬにや(宇波《ウハ》は、阿《ア》と約れり。丘《ヲ》とは、香具山(ノ)畝尾《ウネヲ》などある尾にして山の麓に曳(キ)下れる背筋《セスヂ》を云)彼(ノ)代匠記の緑青、考注の八百土、槻落葉の阿那爾夜斯《アナニヤシ》等のしひ説は、記傳に辨へられたるが如し。又然か辨へたる宣長も、青(ノ)字にいたく窮して、其地に、古へ青き土の名産ありしにぞあらんなど云る類のてづゝなる説どもには、少しまさりたらんか。只心得がたきは既に引し五卷の、阿乎邇與斯久奴知《アヲニヨシクヌチ》とつゞけたる一首にぞある。是を奈良の國内《クヌチ》としては、久老の云りしやうに、筑紫にての歌に背け、又筑紫の事としては諸説何れもむげに協はず。實に難義と云べし。もし右の考へに因て、しひていはゞ、上丘土與《ウハヲニヨ》、筑紫(ノ)國と云意なるを、筑紫(ノ)國にての歌なる故に、筑紫を省きて、直に國内《クヌチ》とかけたるにもやあらん。此事は猶其(ノ)歌の處に考へ云べし。斯《カク》て此地(ハ)然か鑿《ウガチ》v山(ヲ)開(テ)v谷(ヲ)て、平均《ナラシ》作りたる地なりければ一國中最第一に、廣く平かなる奥區也。故(レ)此地に國初より皇都ありし中にも、殊に元明天皇より、元正、聖武、孝謙、廢帝、稱徳、光仁天皇まで、七代の間斷絶なく、大宮敷せ賜ひしも、便りよか(205)りし故なりけり。其(ノ)風土の状は、次に記すを見て知べし。【さて集中、此枕詞のつゞけいと多かり。其大抵は、  一(ノ)十六丁、又廿九丁、又卅一丁、三(ノ)廿四丁、又卅丁、四(ノ)卅一丁、五(ノ)十丁、又十一丁、又廿三丁、六(ノ)廿丁、又廿九丁、又四十二丁、又同丁、又四十三丁、八(ノ)卅七丁、又四十三丁、又四十七丁、又五十四丁、七(ノ)廿丁、十(ノ)十四丁、又四十四丁、十一(ノ)卅丁、十三(ノ)六丁、又七丁、十五(ノ)七丁、又九丁又卅一丁、十六(ノ)卅二丁、十七(ノ)廿九丁、又十二丁、又四十三丁、十八(ノ)廿七丁、十九(ノ)卅丁、又卅六丁、又四十二丁等(ニ)出。】
○奈良能山乃《ナラノヤマノ》」諸抄釋なし。今按に、先(ヅ)其地の貌は、行嚢抄云。奈良町(ハ)自2木津1至2于此(ニ)1一里。町名一百五十餘町アリ。大和一國(ノ)大都會也。故ニ於2于今1南都ト稱ス云云。又云。奈良坂ハ、南都ノ入口也。名所ナリ。此坂ヲ越レバ、奈良(ノ)都ノ内也。追分ハ般若寺ノ前ニ在(リ)。自v是左(ノ)岐ニ入(リ)、坂ヲ上リ平野ニ出ルハ、伊賀伊勢ノ道路ナリ。近江ニモ出(ヅ)(今云。此皇子(ノ)命の、飛鳥(ノ)崗本宮より、近江へ越させ給ふも、此道なるべし)右ニ赴キ、直ニ行バ、奈良ノ町ニ入(ル)。左(ノ)方般若坂ト云ハ、伊賀ヘ赴ク道ノ坂也。是モ奈良坂ト云。源平盛衰記ニ、平重衡卿東大寺ヲ燒レジ時ノ合戰(ノ)條ニ、奈良坂ノ般若坂トアリ云云。輿地通志云。南都、一名奈良、町名一百三十五(今云、行嚢抄に、百五十餘町とあるに合すれば、寛永の頃より、享保年間迄に、然か衰へしならん。今は又いかさまにか)又云。奈良(ノ)嶺。一作2平城山《ナラヤマニ》1。奈良坂村云云。嘉禎三年、奈良坂四至(ノ)書軸(ニ)云。北限2京(ノ)大道(ヲ)1。南限2分路(ヲ)1。東有2鞆寺1。など見ゆ(猶集中、奈良坂とも、奈良(ノ)手向ともよめる、上に引る丁數の中にて見べし)
○山際從《ヤマノマユ》。伊隱萬代爾《イカクルマデニ》」仙覺抄云。伊は發語(ノ)詞也。梵語には、阿字を以て、爲2發語之詞(ト)1。和語には、伊字を以て、發語の詞とする也』考注云。先飛鳥岡本(ノ)宮より、三輪へ二里ばかり、三輪より奈良へ四里餘有て、其(ノ)間平かなれば、奈良坂こゆるほどまでも、三輪山は見ゆる也。さて其奈良山越ても猶山の際より、いつまでも見さけんとおぼし、こゝかしこにて、顧みし給ふまに/\、やゝ遠ざかりはてゝ、雲の隔(テ)たるを恨みて、末の御詞どもは(206)有也』略解云。【考注と、全(ラ)同(ジ)くて、其(ノ)釋の末に、】山(ノ)際の下、從の字脱せるか』【已上】 今按に、伊の發語の意は既にいひつ。【檜※[木+爪](ノ)第二十二丁】さて考注に、奈良山越ても、猶山の際よりいつ迄も見放んとおぼして云云といはれたるは違《タガ》へり。先(ヅ)此句までの續きは、なつかしく思(ボ)し食(ス)三輪の山の、奈良山に隱れゆきて、見えずなるまで、顧みし給ふ事を宣へるにて、從《ユ》は於《ニ》の意也。神功紀に、從《ヨリ》2山背1出《イデヽ》之。至(ル)2菟道《ウヂニ》1とあるも於《ニ》2山城1出而。至(ル)2宇治(ニ)1の意。繼躰紀に、簸都細能※[加/可]婆〓《ハツセノカハユ》。那峨例倶屡《ナガレクル》とあるも、其川に流來る也。此集三【二十七丁】に、田兒之浦從《タゴノウラユ》。打出而見者《ウチデヽミレバ》とあるも、田兒(ノ)浦|爾《ニ》打出て見ればの意也。又霍公鳥等の歌に、從此鳴度《コユナキワタル》と多くよみたるも、此爾《コヽニ》鳴來ると云意也。四【三十三丁】從蘆邊滿來鹽乃《アシベヨリミチクルシホノ》。彌益荷《イヤマシニ》。古今集(ノ)春下清原(ノ)深養父(ノ)歌の端詞に「山川より、花の流れけるをよめる」とあるも、山川に、花の流るゝを見ての意也。
 〔細証〕 然るに、記傳九(ノ)十七丁に、從《ヨリ》2其(ノ)河1箸流(レ)下(ル)と有(ル)下に云(ク)、從《ヨリ》は袁《ヲ》の意ぞ。姓氏録佐伯(ノ)直(ノ)條に、于時青菜葉《トキニアヲナノハ》自(ル)岡邊川1流(レ)下(ル)云云とあるを始(メ)として、此《コヽ》に引し歌どもをも引て、右|等《ラ》の從を、袁《ヲ》の意に説(キ)なせるもひが事也。其中に、稀に彼(ノ)從(リ)2山背1出《イデヽ》之至(ル)2菟道《ウヂニ》1、また、山川より花の流れけるを云云の類は、山背を、山川をと云に、通へるが如きも有(ル)は、漢文に、於(ノ)字を置て、於《ニ》2云云1とも訓つけ、又|於《ヨリ》2云云1とも、又云云(ヲ)於云云(ニ)とも、訓つくるが有(ル)とに、耳くせの附る故にこそあれ。彼(ノ)田兒(ノ)浦從、從2芦邊1、從《ユ》v此《コ》鳴渡等の類の從を、袁《ヲ》の意としては、凡て通《キコ》えがたし。又此(ノ)從を、爾而《ニテ》の意に用《ツカヘ》るも多かり。そは古事記中卷、倭建(ノ)命(ノ)段)(ノ)歌に、阿斯用由久《アシヨユク》とあるも、足にて行也。此集十三(ノ)廿五丁に、人都末乃《ヒトツノ》。馬從行爾《ウマヨリユクニ》。己夫之《オノヅマノ》。歩從行者《カチヨリユケバ》とあるも、馬にて行(ク)、歩《カチ》にてゆくと云意也。此外(ノ)自v船往と(207)あるも、船にて往なり。是と合せても知べき也。さて又右の從《ユ》v此《コ》の類を、此爾《コヽニ》の意に用《ツカ》ふのみが古言にも非ず。古くより、今云と同じく、此從《コヽヨリ》彼《カシコ》への意にも、多く用ひたり。十五(ノ)十六丁に、於伎敝欲理《オキベヨリ》。之保美知久良之《シホミチクラシ》。十八(ノ)八丁に、於伎敝欲里《オキベヨリ》。美知久流之保能《ミチクルシホノ》云云。此等彼(ノ)從芦邊《アシベヨリ》。滿來鹽乃《ミチクルシホノ》とよみたる類(ヒ)とは、反對せるは如何《イカニ》と云に、既に上の額田(ノ)王の歌の、春去來者の條下に云(ヒ)つるやうに、古へは來る事を去《サル》とも往《ユク》とも來《クル》とも、又去(ル)事を、至(ル)とも來《クル》とも去《サル》とも云(ヒ)けると、同例にて、即|此《コヽ》より彼《カシコ》へとも、彼《カシコ》より此《コヽ》へとも、自他前後、何れにも云(ヒ)し也。又此(ノ)從自《ヨリ》を、用《ヨ》とも、由《ユ》とも、余理《ヨリ》とも由理《ユリ》とも云る事は、記傳十九(ノ)五十二丁に云(ク)、記中の歌に、從《ヨリ》を一言に云るは、凡て皆|用《ヨ》とのみ有て、由《ユ》と云るは、一(ツ)もなし。然るを書紀には、此記と同(ジ)歌なるも、其除も皆由とのみありて、用《ヨ》と云るはなし。萬葉には、欲《ヨ》とも由《ユ》ともあるなり云云。崇神紀の歌に、於朋耆妬庸利《オホキトヨリ》とあれば、用理《ヨリ》と云も、上代の言なり。然るを理《リ》を省くをのみ、古言と心得居るも偏《カタオチ》なり。又|由理《ユリ》と云るは、萬葉廿の十五葉に、阿須由利也《アスユリヤ》と見えたりと云るが如し。其中に、用と由とは、字形いと近ければ、互に誤たるも有べし。既に彼(ノ)廿(ノ)卷なる歌も、一本には、阿須用利也《アスヨリヤ》とあり。かくて集中に、欲《ヨ》用《ヨ》など書たるは、五(ノ)十九丁、十四(ノ)十丁、又十三丁、又十四丁、又十七丁、又十八丁、又二十九丁、十五(ノ)三十八丁、十八(ノ)十丁、又廿一丁、又卅一丁、又卅二丁、又廿三丁、十九(ノ)十三丁等に出(ヅ)。又|由《ユ》と書たるは、十九(ノ)五十九丁、又卅九丁、二十(ノ)二十五丁、又十五丁、又十六丁、又五十四丁、又五十五丁等に出(ヅ)。又從とも自とも、文字して書る、是は數しらず多かり。引にも及ばざれば省きつ。其訓考注は、多く由《ユ》とよまれ(208)たれど右の旨に隨ふべし。
又考注、略解には、伊隱萬代を、いかくるゝまでと訓たるもわろし。隱《カクル》を後世には、かくるゝと云より連《ツヾ》くれど、古へはかくると云よりも續けたり。殊に迄《マデ》と受るには、るゝとは云べからず。又次の對句に、伊積流萬代爾《イサカルマデニ》とあれば、此句にも、代(ノ)下に爾《ニノ》字有けん事|炳《シル》ければ今補ひつ。
○道隈《ミチノクマ》」代匠云。神代紀に、大己貴命の宣はく、今我(レ)當於《マサニ》百不足之《モヽタラズ》。八十隈將隱去《ヤソクマデニカクリナム》矣。隈此(ヲ)云(フ)2矩磨※[泥/土]《クマデニ》1杜預左傳注。隈(ハ)陸蔽之處(ナリ)』考注云。隈は、入曲りなどの處をいへど、こゝはそれまでもなく、こゝかしこといはんが如し』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、隈《クマ》と云に、二つの用ひざまあり。其一つは、右の代匠記に引れし神代紀に、百不足之《モヽタラズ》、八十隈《ヤソクマデ》。此集三【四十七丁】に、云云|八十隈路爾《ヤソクマヂニ》。手向爲者《タムケセバ》。過去人爾《スギニシヒトニ》。蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》などある是也。此等は現《ウツ》しき人の世より、幽冥の、目に見えざる界を指る也。其二つは、一【二十九丁】に、川隈之《カハクマノ》。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。萬段顧爲乍《ヨロヅツタビカヘリミシツヽ》。また二【十八丁】に、此遺乃八十隈毎《コノミチノヤソクマゴトニ》。萬段顧爲騰《ヨロヅタビカヘリミスレド》などよみたる類也。此等は同じ顯明《ウツシ》世の中に、隱《コモ》りかなる處を云(ヒ)て(現《ウツヽ》と云に、夢に對(ヘ)て覺《サメ》たるを云と、幽《カミ》、夜見《ヨミ》に對(ヘ)て、人(ノ)世を云と、二つ有が如き也)右の見えずなるを云とは、其意大に異也。然るに、記傳【十四(ノ)四十三丁】などにも、右の二つを引よせて、一つに説るはたがひたり。此事は二【二十三丁】天智天皇崩(マシヽ)時、大后御作歌に、空蝉師《ウツセミシ》。神爾不勝者《カミニタヘネバ》とある下に、委く云べし。猶其末々にも、云べき處多かれば、此《コヽ》には省けり。【凡(ソ)集中に此語の見えたるに、右等の外にも一(ノ)十五丁、又十六丁、二(ノ)十五丁、又廿一丁、三(ノ)四十七丁、六(ノ)十八丁、十三(ノ)七丁、二十(ノ)廿二丁等に出(ヅ)。其(レ)より下にも多(シ)。】
○伊積流萬代爾《イサカルマデニ》」考注云。伊積流《イツモル》と訓て、積《ツモル》は、さる所々の、數のかさなる也』略解云。いつもると訓たれど、東萬呂翁が、いさかると訓るによる。積はさかの假字に借れり。二の伊は發語、さかるは、はなるゝなり』【已上】 今按に、東萬呂の童蒙抄(209)に、つもると訓たり。故に考注にも、未(ダ)さかると訓(ム)かたには、心付れざりしなり。此訓は、はやくは若冲、似閑共に、いさかると訓改めたるに、東萬呂も、賀茂翁も、古訓のまゝによまれしは、いぶかしき事也。常に遠離《トホサカ》ると云|避《サカ》るにて、集中にも二【二十一丁】に、里放來奴《サトサカリキヌ》。又【四十丁】益年離《イヤトシサカル》。三【十九丁】奥部莫避《オキベナサカリ》など見えて、此《コヽ》の積の字は、尺《サク》の音を、八尺《ヤサカ》など轉ずると同例にて、呉音を借れる也。【此言の例は、右の外にも三(ノ)五十二丁、又五十七丁、五(ノ)五丁、十(ノ)卅八丁、十二(ノ)七丁、又廿七丁、又三十丁、又廿三丁、十四(ノ)十三丁、十九(ノ)廿七丁、又十四丁、又卅四丁、十四(ノ)廿六丁、又同丁、十九(ノ)十一丁、又五十二丁、等に見えたり。】
○委曲毛《ツハラニモ》」考注云。つまびらかの略也。是をしか訓よしは、冠辭考に云』冠辭考云。卷三に、淺茅原《アサヂハラ》。曲々二《ツバラ/\ニ》。物念者《モノオモヘバ》。故郷之《フリニシサトノ》。所念可聞《オモホユルカモ》。卷五に、また淺茅原曲々とよめり。こは卷八に、茅花拔《ツバナヌク》。淺茅之原《アサヂガハラ》ともよみて、淺茅が穗花は、つばなといひ、又つまびらかてふを略きて、つばらともいへば、淺茅原に、つばら/\とはいひかけたり。曲々は、委曲の謂にてかくは訓也。卷十八に、安佐妣良伎《アサビラキ》。伊里江許具奈流《イリエコグナル》。可治能於登乃《カヂノオトノ》。都婆良都婆良爾《ツバラツバラニ》。吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》』記傳【六(ノ)十丁右】云。具。都婆羅迦爾《ツバラカニ》となん師の訓れし。此言は萬葉十九【十一丁】に都婆良可爾《ツバラカニ》。今日者久良佐禰《ケフハクラサネ》。又三【三十丁】に、曲々二《ツバラ/\ニ》云云。又十八【十二丁】に云云。又一【十三丁】に、委曲毛《ツバラニモ》云云、又九【二十二丁】に、委曲爾《ツバラカニ》。示賜者《シメシタマヘバ》などあり。記中に所々ある委曲(ノ)字も、如此よむべし。都麻毘良加《ツマビラカ》と同言なり。舒明紀に、曲擧《ツマビラケクス》ともあり』【已上】 今按に、此等の委曲、また曲々、また具(ノ)字などの訓は、代匠記より始て、明かに成たり。其(ノ)説は、淺茅原の條に引べし。右の外にも、崇神紀に、曲《ツバラニ》奏(ス)2其(ノ)状(ヲ)1。欽明紀に、一一《ツマビラカニ》教示(スコト)などもあり。さて此(ノ)語に如此《カク》物の委曲《クハシキ》かたに云ると、情念《オモヒ》の深《フカ》く懇切《ネンゴロ》なる方に云るとの、二つあれど、二義あるにはあらず。そは審詳なるも、懇切なるも、共に物の丁寧に厚き方は一(ツ)なる也。今此(ノ)處の句も懇切なる方(210)に宣るなり(古今集に、かず/\に思ひおもはず問(ヒ)がたみ、などよめる數々も、本は數量の言なるを、そを即て物を數ふる方より、推(シ)移して、丁寧に懇切《ネンゴロ》なる事に云ると同例也。凡ての詞も、いひもてゆけば、大かた是に同じ)
○見管行武雄《ミツヽユカムヲ》」諸抄釋なし。今按に、管《ツヽ》と云に、幾回《イクタビ》も顧(リ)見《ミ》給ふ意あり。管《ツヽ》の都《ツ》は、本(ト)物を數ふるに、一津《ヒトツ》、二津《フタツ》、三津《ミツ》、四津《ヨツ》(廿《ハタチ》より九十《コヽノソヂ》までの知《チ》、|千《チヾ》の知《チ》も、此(ノ)津《ツ》の通音也)また百津《モゝツ》、五百津《イホツ》、萬津《ヨロヅ》と物を數《カゾ》へ云類の津《ツ》(天津、國津、沖津、邊津、田津《タナツ》、畑津、野津等の津も、同じ)を重(ネ)て顧津《カヘリミツ》、々々《カヘリミツ》と云ことを、津々《ツヽ》の言に齎《モタ》せて、省約めたる詞なり。猶譬ていはゞ、物を記す時、文言を省くとて、云云と、書《シルシ》おく事あると同じ心ばへの辭なり。故(レ)助辭の釋に、世に乍《ナガラ》の都々《ツヽ》と云有て、今此句も、見乍《ミナガラ》と云に當て心得るも違はざるやうなれど、猶言の意は、其本義に就て、解べきわさ也。又|行武雄《ユカムヲ》と云に、行んものをと、口をしみ賜ふ意あり。
○數數毛《シバ/\モ》」考注云。數毛《シハ/\モ》を、今本|數々毛《シハ/\モ》とあれど一本をとる』略解云、しば/\は度々なり』【已上】 今按に、數の一字にて、しば/\と訓べきは勿論なれど、十一【三丁】にも、有數數《アラバシバ/\》。應相物乎《アフベキモノヲ》とあれば、本の如く有べし。集中に、只|志婆《シハ》と云にも、數(ノ)字を書たれば、其(レ)に分たんとて、二字にも書る也。數《カズ》と數々《カズ/\》との如し(數鳴《シバナク》は、三(ノ)廿六丁、六(ノ)十二丁、又十四丁、又十八丁、不《ズ》2數見《シハミ》1は、六(ノ)十八丁、數見者《シバミレバ》は、十(ノ)廿五丁に見えたり)かくて此句、詞の上は、度々の意ながら、委曲毛《ツバラニモ》と云(フ)對句と、相(ヒ)合する總意の時は、數《カズ》々と云と同じことにて、これも懇なる意ある也。【さて此語は、集中右等の外にも、十(ノ)十六丁、又廿八丁、十一(ノ)卅六丁、十二(ノ)二十丁、又卅六丁、十七(ノ)十六丁、十九(ノ)卅一丁、二十(ノ)六十丁、等に出(ヅ)。此中に、五百重浪などよりつゞけたる數(ノ)字は、しくしくと訓(ム)べきなり、】
○見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》」代匠記云。第三卷に、とひさく(211)ると云詞有。物がたりなどして、おもひをさくる也。これもみわ山を見つゝ、故郷をさりてゆく思ひを、さけんものをとにや。三輪山は、第二卷に天武天皇崩じ給ひて、持統天皇のなげきて、よませ給ふ御歌にも、朝夕にみわ山のことを、のたまひしものをとあれば、他に異なる山にて、今もみわ山を、わきてよみ給へる歟。又みわに住給へるがあふみへうつるとて、なごりををしみて、よみ給へるか。大江嘉言が歌に「おもひ出もなき故さとの山なれどかくれゆくはたあはれなりけり』考注云。見放は、遠く見やること也。かく言を重ね給ふは、深き御なごりゆゑ也』【已上】 今按に、見放《ミサケ》は振放見者《フリサケミレパ》など云と同じ言にて、放《サカ》れる所を見渡す意、又|問放《トヒサケ》など云は、言問《コトトヒ》て悶《オモヒ》を遣放《ヤリサク》るを以て別意也。是を一つに思へる釋は、たがへり。此言は次に引べし。さて三輪山の隱るゝを、さばかり惜み給へるは、故郷の岡本に、其方角のあたるのみには非ず。此山の見えずなるは、即大和に別るゝ如くなれば也。又もしは、代匠に云る意あるも知べからず。その故は三輪(ノ)大神は、大和第一におもく坐(ス)は、更にもいはず。御世々々の天皇の、近き御護り神と、厚く齋き奉り給へば、此山をとりわきて慕ひ給ふ御心もあるべきことなり。猶よく考ふべし。かくて彼(ノ)見放《ミサケ》は、ふりさけの放《サケ》なれど、後世の耳には、底解《ソコトケ》のしがたき語也。故(レ)猶いはんに、先(ヅ)男女の中を、引(キ)分放《ワケハナ》つ事を、四【三十四丁】に、千磐破《チハヤブル》。神哉將離《カミヤサケヽム》。空蝉乃《ウツセミノ》。人歟禁良武《ヒトカサフラム》。又【四十一丁】汝乎與吾乎《ナヲトワヲ》。人曾離奈流《ヒトゾサクナル》。十四【十四丁】可美都氣努《カミツケヌ》。佐野乃布余波之《サヌノフナバシ》。登利波奈之《トリハナシ》。於也波左久禮騰《オヤハサクレド》。和波左可流賀倍《ワハサカルガヘ》。催馬樂貫川に、奴留與波名久天《ヌルヨハナクテ》。於也左久留川末《オヤサクルツマ》云云。此等の離《サク》るは、引離《ヒキハナ》ち、遠離《トホザクル》なり。されば、見放《ミサケ》振放《フリサケ》などの放《サケ》も、此《こヽ》を離《ハナ》れて彼《カシコ》へ見渡す也。此(ノ)放《サク》るを、常にやりさくとも、さけやるとも云て、放《サケ》と、遣《ヤル》とは同意の言なれば(212)此|放《サケ》を遣《ヤル》に易《カヘ》て、見遣《ミヤル》といへば、耳に親しく聞ゆべし。又愁を離《サク》る方は、三【五十四丁】問放流《トヒサクル》。親族兄弟《ウカラハラカラ》。五【五丁】石木乎母《イハキヲモ》。刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》。十九【十一丁】語左氣《カタリサケ》。見左久流人眼《ミサクルヒトメ》。乏等《トモシミト》云云。此等の問放《トヒサケ》、語左氣《カタリサケ》も胸の内の憂さつらさを人に問(ヒ)語りて引(キ)離《ハナ》ち遺《ヤリ》すつる也。又此に引(ク)十九(ノ)卷の、見左久流《ミサクル》は、今の御句とは其意別也。こは卷五【二十八丁】に、國爾阿良波《クニニアラバ》。父刀利美麻之《チヽトリミマシ》。家爾阿良婆《イヘニアラバ》。母刀利美麻志《ハヽトリミマシ》などの見《ミ》と同じく、其事を看察して、患を遣放《ヤリハナタ》する人の乏きを云也。それ/”\に分別有べし。
○情無《コヽロナク》○○○雲乃《クモノ》」考注云。情無《コヽロナク》と訓て、なさけもなくてふ意也』略解云。宣長は、こゝろな雲のとよみて、心なは、こゝろなやの意とせり』小琴云。情無《コゝロナ》句|雲之《クモノ》句ナリ。此(ノ)雲之ヲ、上句へ附ルモ下ノ句ヘ附ルモワロシ。三言ノ句、例多シ。九言、十言ノ句ハ例ナシ。此類ヒ、皆二句ニ訓ベシ』【已上】 今按に、考注の訓は、甚《イト》てづゝ也。宣長の訓は、一わたりうべ/\しげにもあれど、此處に到て、俄に三言四言の句の、然か並ぶへしとも思はれず。根齋が校合せし古本には、無(ノ)字の下、三字闕て有と云(ヒ)、又或良家の御秘藏、行成卿筆の古萬葉と云にも、三字虫喰不2分別1とありと、或人語りき。然れば無(ノ)下三字脱せし也。其三字はいかさまなる語なりけむ。年來考へわたれど、未(ダ)得思ひえず。故(レ)姑く情無《コヽロナク》〔八〕〔重〕〔棚〕雲乃《ヤヘタナグモノ》と訓て、後の考をまつなり。
○隱障倍之也《カクサフベシヤ》」考注云。かくしさふる意とせんも理りはあれど、語の體を思ふに、佐布の約(メ)須なれば、かくすを延て、かくさふとは、よみ給ひし成べし』略解云。かくさふは、かくすを延たる言にて、雲の心無隱すべしやと云也』【已上】 今按に、此等の説の如くなれど、猶今少し慥かにいはゞ、也《ヤ》は反語《ウチカヘシ》にて、べきかはと云んが如くにて、情《コヽロ》なく隱すべしやは、隱すべきならぬをと、うち反して(213)きく辭也。
○一首の總意は、近江へ都を遷されたるに就て、年ごろ住なれし飛鳥を離れて、其道に出立來れば、今は只此三輪山を、故郷の形見と慕《シノビ》て(もし代匠記の説の如くならば、御守護《ミマモリ》神の坐《マス》三輪山の、なごり惜くおぼえての意なり)奈良山の際《マ》に、隱れなん限りはと懇にしば/\顧みつゝ行んと思ふものを、やう/\遠ざかるまゝに、八重雲の隱しつるよ。我がかくかへり見しつゝしたふ山を、心なく隱すべきものかはと也。
 
   反歌
三輪山乎《ミワヤマヲ》。然毛隱賀《シカモカクスカ》。雲谷裳《クモダニモ》。情有南畝《コヽロアラナム》。可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》。
○三輪山乎《ミワヤマヲ》」既に出(ヅ)。
○然毛隱賀《シカモカクスカ》」代匠云。さばかり隱す哉也』考注云。然もは、如v是も也。賀《カ》はなげく辭』【已上】 今按に、志加は、左と約れば、さばかりと云るよろし。賀《カ》も歎息《ナゲキ》の哉也。
○雲谷裳《クモダニモ》。情有南畝《コヽロアラナム》云云」代匠云。せめて雲なりとも心ありて、三輪山を行々見るべき限は見せもせで、隱すべしやと也。古今集春上、貫之「みわ山をしかもかくすか春がすみ人にしられぬ花や咲らん」もし此歌をとりて、よまれけるにや。陶淵明、歸去來(ノ)辭曰。雲無心而出(ヅ)v岫(ヲ)』考注云。谷は借字。南武は、今本武を、畝に誤る』略解云。畝一本武に作れり。何れにても有べし』【已上】 今按に、有南畝《アラナム》は、心あれと、令する語也(五十音第一等、又第四等より連くなんは、凡て令する辭なり。第二等より受て、ありなんと云とは別なり)
○一首の意は、故郷の形見と、見つゝしたふみわの山を、其やうにも、心なく立隱すか マア、雲は非情のものとはいへど、わがかく顧る心思はゞ、すこしは思ひやりあれかし。隱すべきものにはあ(214)らぬをと也。
 
右二首(ノ)歌。檢(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰。遷2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時。御2覽三輪山(ヲ)1御歌《ミウタ》焉。日本書紀(ニ)曰。六年丙寅春三月辛酉朔己卯。遷2都(ヲ)于近江(ニ)1。
考注云。是に御覽、又御歌と有をもて思ふに、すべて集にも、歌林にも、天皇に御製、また大御歌、皇太子と、皇子には、御歌、王には歌と書り。又御覽とは、天皇、皇太子に書べく、皇子と王には、書し事なし。かくて右の御歌と、御覽とを合せもて、皇太子の御歌なる事しらる。然れば此時は、大海人《オホアマノ》皇子(ノ)命の御事也。故(レ)端詞に、額田(ノ)王の歌とせしは、今の亂(レ)本の誤なること顯は也。頭書云。類聚歌林は眞の物ならねど、さすがに今よりは古き代の事故に、おのづからかゝる據と成るも稀に有』【已上】 今按に、額田(ノ)王云云とあるは、次の三首の唱和の御歌の事なるが、此處亂れて前後せしより次第に誤りて、右の如くはなりし也。
 
綜麻形乃《ソマカタノ》。林始乃《ハヤシハジメノ》。狹野榛能《サヌハギノ》。衣爾著成《コロモニキナシ》。目爾都久和我勢《メニツククワガセ》。
右一首(ノ)歌。今按(ニ)不v似2和歌《コタヘニ》1。但舊本載2于此(ノ)次(ニ)1。故以猶載焉。
○守部按に、此左注、よしや後人の筆にもせよ、不v似2和歌《コタヘニ》1といへる、まことにさる事なるを、萬葉考に、右の御歌の答歌として、此(ノ)歌の前に○額田(ノ)姫王(ノ)奉v和歌と、新《サラ》に端詞を作り加(ヘ)られたるは、いみじきしひ事也。其よしは、前の大海人《オホアマノ》皇子(ノ)命の御長歌は、右云如く、飛鳥(ノ)岡本より、近江へ遷り賜ふ、御なごりを惜み給ふのみにして、人に對してよみ給ふにあらざれば、答歌のあるべきいはれもなし。其うへ此綜麻形乃の歌は、目につくわがせと有て、戀の歌にこそあれ。右の故郷を避《サリ》給ふ御歎きとは、いたくかけはなれて、其意もとより別なるものをや。かくて此處の歌の次第は本(ト)天皇遊2獵蒲生野(ニ)1時。額田(ノ)王作(ル)歌○綜麻形乃云云。次(215)に○茜草指云云と、二首ありて、其次に大海人皇子命。答御歌○紫草能云云と有つるが、始(メ)の一首紛れて、端詞と、前後せし故に、右に引(ク)左註の如き疑ひはあるなり。故(レ)今其次順を改めて、其よし委曲《ツバラ》に辨へつべし。然るに、此條あやにくに解べき事の多かれば、其釋も極(メ)て長く煩はしかりなん。見む人倦(マ)ずしてよくよみ考へてよかし。
 
天皇|遊2獵《ミカリタヽセル》蒲生野《カマフノニ》1時。額田(ノ)王(ノ)作(ル)歌二首
○遊獵」代匠記云。右(ノ)左注。紀曰云云。五月五日の御獵は、藥獵なり。藥獵とは、鹿のわか角をとらんため也。きそひがりとも云。百草を取ことなりと思へるはあやまれり。第十六、乞食者の歌に、四月與《ウヅキト》。五月間爾《サツキノホドニ》。藥獵仕流時爾《クスリガリツカフルトキニ》云云。佐男鹿乃《サヲシカノ》。來立嘆久《キタチナゲカク》とよみたれば、先は五月五日にて、四五月の間は、おほく藥獵といふ也。第十七、家持卿歌に「かきつばた衣にすりつけますらをの服曾比獵須流《キソヒガリスル》月はきにけり」とて、左注に、四月五日云云とあり。此藥獵、日本紀に見えたるは、推古紀云。十九年夏五月五日。樂2獵《クスリガリシ玉フ》於|兎田野《ウタヌニ》1。取《マチテ》2鷄鳴時《アカトキヲ》1。集《ツドヒ》2于藤原(ノ)池(ノ)上(リニ)1。以《ニ》2會明《アケボノ》1乃往《ユク》之。粟田(ノ)細目《ホソメノ》臣(ヲ)爲2前(ノ)部領《コトリト》1。額田部(ノ)比羅夫《ヒラブノ》連(ヲ)爲2後(ノ)部領《コトリト》1。是(ノ)日|諸臣服色《オミタチノキヌノイロ》皆隨(ヘリ)2冠(ノ)色(ニ)1。各|著《サス》2髻華《ウズヲ》1。則大徳小徳(ノ)並《ミナ》用v金(ヲ)。大仁小仁(ハ)用(フ)2豹(ノ)尾(ヲ)1。大禮(ヨリ)以下《シモハ》用(フ)2鳥(ノ)尾(ヲ)1。また二十年五月五日藥獵(ス)之。集(フ)2于羽田(ニ)1。以相(ヒ)連《ツヾキテ》參2趣《マヰル》於|朝《ミカドニ》1。其(ノ)装束《ヨソヒ》如(シ)2菟田之獵《ウタノミカリノ》1。また二十二年夏五月五日。藥獵(ス)也。推古天皇十九年にはじまりて、今の天智天皇までに、以上四度其後見えず』類林曰。天智紀。八年夏五月戊寅朔壬午。天皇縱2※[獣偏+葛]於山科(ノ)野(ニ)1。右共に五度。後々未v勘。彼第十七に、天平十八年四月五日の歌も、藥がりと聞ゆ。然れば紀には載(セ)ざれども、年々に數度ありけらし。鹿(ノ)茸《ワカヅノ》は、和名抄云。雜要决云。鹿茸【和名鹿乃和加豆乃】鹿角初生也。俗にふくろづのと云るならん』考云。から國の醫の書どもに、四五月、鹿の茸《ワカヅノ》を取事多く見(216)え、又五月五日に百(ノ)草を採(ル)事見ゆ。こゝにも五日としもあるは、此二つをかねたる幸(キ)なるべし』
 〔細註〕 通證曰。藥(ハ)謂2鹿茸(ヲ)1。月令(ニ)仲夏。鹿角解。別録(ニ)曰。四月五月解v角時。取2隱乾1云云。延喜左近衛府式(ニ)曰。凡五月五日藥玉(ノ)料。菖蒲。艾。雜花十捧。聖武紀(ニ)曰。昔日五日之節常(ニ)用2菖蒲1爲v縵。比來已停2此事1。從v今而後非2菖蒲(ノ)縵1者。勿v入2宮中1。儀式帳(ニ)曰。五月五日(ノ)節菖蒲並蓬等。神宮並(ニ)高(ノ)宮及諸(ノ)殿供奉。拾芥鈔曰。此日主殿寮。葺2菖蒲于内裏(ノ)殿舍1。天台訪隱録(ニ)曰。以2端午(ノ)日1入2天台山1。採v藥。荊楚歳時記曰。競2採百藥1。謂(ラク)百草以鎰2除毒氣1。故世(ニ)有2闘草之戯1。風俗通(ニ)曰。五月五日以2五色(ノ)糸1繋v臂。攘2惡鬼1。令2人不1v病v瘟。一名長命縷。一名續命縷。一名辟兵縷。四民月令(ニ)曰。是日、〓子勿2多食1。食訖取2菖蒲根七莖1。名長一寸。漬2酒中1服v之。など見ゆ。此等はついでに引置也。これかれ合せて取べし。
○蒲生野《カマフノ》」諸抄釋なし。今按に、和名抄に、近江(ノ)國蒲生(ノ)郡|蒲生《カマフ》加萬不《カマフ》郷あり。野洲《ヤス》と神埼《カムザキ》とのあはひなり。行嚢抄西遊云。蒲生(ノ)郡、高野村【寛治元年大嘗會悠紀方の歌】今在家、是ヨリ前程、今堀村マデ、一里半余、人家ナシ。廣キ野ナリ。是ヲ蒲生野ト云。右ノ方ニ布引山見ユ。百濟野ト古歌ニヨミシモ、此邊ヲ云(フ)(今按に、同(ジ)野の中に、百濟村、百濟寺の邊を、百濟野といひしにや)又云。横關村、東西アリ。蒲生長者屋敷、路ヨリ右ノ畔ニアリ。蒲生野トハ、此邊ヲ云。玉ノ緒山ト云名所ハ、是ヨリ東南ノ方ニアリ。又同東遊部云。岡本自2石原1半里、久須目野《クスメノ》、於不佐《オフナ》川、布施野、今堀村、是ヨリ今在家マデ、一里余半ノ間(ダ)、人家ナシ。路筋ヨリ左ノ方ニ、伊賀ノ布引山見ユ。古歌ニ蒲生野トヨメルハ是也」と見ゆ。此(ノ)云る趣を合せ考るに、古へはいと曠き野原なりけん。播磨(ノ)國印南野にも、前後に今在家(217)と云村里あり。こは其野の内を墾《アラキバリ》して、住(ミ)そめたる里なる故に、然か呼(ビ)そめしなり。かくて此《コヽ》に入べき、彼(ノ)の綜麻形乃の歌、古點もよからず、考略解は殊にあやまれゝば、先(ヅ)己(レ)が按《オモフ》さまに、訓改めて、次に其よしことわるべし。
 
綜麻形乃《ソマガタノ》。林始乃《ハヤシノサキノ》。狹野榛能《サヌハリノ》。衣爾著成《キヌニツクナス》。目爾都久和我勢《メニツクワガセ》。
○綜麻形乃《ソマガタノ》」代匠云。木のしげき處は、杣人の入山の形ちに似たれど、杣形と云といへり、蓬が杣など云心に見たる歟。綜麻形とかきたれは異なるよみやうもあるべき歟。日H本紀に、綜麻と書て、へそとよみたれど、此《コヽ》にかなふべくもなし。もし杣かたの林と云名所にても侍る歟』考注云。此歌の訓は、荷田東萬呂大人の、考出せし也。綜麻形乃《ミワヤマノ》とよむべし。三輪山也。こは三輪山を目につけて、かへり見しつゝしたひ給ふわがせ子かもといふ意なるに、萩が花の、衣につきやすきをもて、譬へ下せる也。然れば、右の長歌を、短歌もて和《コタ》へ給ひし事明らか也。後人意得ずして、和《コタヘ》歌に不v似としも注せれば、委くいはん。先(ヅ)綜麻形と書しは、古事記【崇神條】三輪の大神、うるはしき男と成て活依《イクヨリ》姫の許へ通ひ給へるを云云、彼(ノ)つけ給へる卷子《ヘソ》の紡《ウミノ》紵の、三|※[螢の虫が糸]《ワゲ》のこれりと云(フ)形を思ひ得て、綜麻形と書なせるなれば、みわやまと訓べき事疑ひなし』略解云。此歌、額田(ノ)王奉和歌と端詞有べき也。綜麻形は古事記に云云。【此(ノ)間考注と全く同じ】仙覺註に土左國風土記(ニ)云(ク)云云。【彼(ノ)三輪(ノ)大神の故事なり】』【已上】 今按に、此等の説、皆ひが事也。上の長歌の答歌にあらざる事は既に云が如し。又此句のよみざまもいみじき強説《シヒゴト》也。然かむつかしき故事に因て、書る假字、集中に例なし。こはたゞ古點に隨て綜麻形乃《ソマガタノ》と訓べし。そまがたは、杣縣《ソマガタ》也。杣山の麓の郷を云(フ)。かの仁徳御製の、山縣《ヤマガタ》の類にして、地(ノ)名と成(レ)るに
                           (218)も、河内に、大縣《オホガタ》、美濃に方縣《カタガタ》、また山縣《ヤマガタ》、信濃に小縣《チイサガタ》、但馬に二方《フタガタ》、安藝に山縣《ヤマガタ》、日向に諸縣《ムラガタ》など【紀又式和名抄等】見えたるも、古くは御料、又其地のさるべき村里を指(シ)て、某縣《ナニガタ》と云ことの多かりし故也。今此行幸の路次に就て思ふに、先(ヅ)大津(ノ)宮より出立《イデタヽ》すには、同(ジ)滋賀《シガノ》郡なる、滋樂《シガラキノ》杣の下より、栗本(ノ)郡|田上《タナカミノ》杣の下を經て、甲賀《カフガ》、野洲《ヤス》、蒲生野《カマフノ》とかゝり賜ふなりければ、此歌は信樂《シガラキ》、田上、兩杣の内の林の前(キ)にてよまれたるべし(行嚢抄東遊にて、此道を考るに、云(ク)「追分、櫻谷ニアリ。右(ノ)方米炊、宇治、左(ノ)方朝宮、是(レ)信樂谷ノ内ナリ。信樂山ハ、田上山の不動嶽ノ東北ノツヾキ也」又同(ク)西遊(ニ)云(ク)、「栗本(ノ)郡建部神社名神大、此村中ノ追分ヨリ左ニ入テ、一里ニ田上アリ。或ハ谷上トモカク。此所ハ石山ノ東也。川ヲ阻テ程近シ。田上川アリ。信樂ハ、右自2田上1二里」とあり。又宗祇方角抄云、「東近江分、信樂山、外山、里、杣木、川、近江の南の端伊賀によりたり。石山宇治も近し。田上川、しがらき邊也。田上、川、里、石山の東なり。程近し」などあり。此等もて考合すべし)綜麻《ソマ》と書たる字《モジ》、假名めかずと思ふやうなれど、三(ノ)卷【五十八丁】に」蘇麻《ソマ》山ともかきたれば、綜麻《ソマ》とも書べきものなり。又|杣縣《ソマガタ》と云る例も、後の歌ながら、堀川院初度百首に、鹿、公實卿「杣縣に道やまどへるさをしかの妻|と《よイ》ふ聲のしげくも有かな」淺井家家譜云、谷上(ノ)杣方(ノ)壘云云。など見ゆ、參(ヘ)考ふべし
○林始乃《ハヤシノサキノ》」代匠云。その林のはじめにある榛と云なり。始の字は、此集末に到て、始水とかきて水ばなとよめば今も林のさきとよむべき歟』考注云。林始乃《シゲキガモトノ》と訓て、繋樹が下也』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、神樂譜(ノ)大前張に左伊波利爾《サイバリニ》、古呂毛波曾女武《コロモハソメム》とあるも、始榛《サキハリ》の意なりければ代匠記の訓ぞよろしき。右(ノ)二字をばしげ木がもととはよみがたし。
○狹野榛能《サヌハリノ》」代匠云。狹《サ》は、よく物につけて云辭
(219)也。雉子を、野つ鳥と云を、此十六には、さぬつとりとよみたれば、唯野にある榛也。榛は、はりの木也。俗にはんの木と云。武士の氏に、榛谷《ハリガヤ》【源平盛衰記に榛澤を、なんざはと云り】と云も是也。片山里の川邊などに多き木也。昔は榛摺のきぬとて、よき人も、此皮をもて染ける也。萩が花ずりと云こともあるゆゑに、榛と、萩とよく紛るゝ也』考注云。狹野榛能《サヌハギノ》と訓て、狹は發言、榛は、借字也。萩が花の、衣につき安きをもて、譬へ下せる也。榛の事、下の引馬野の別記に云』【已上】 今按に、是も代匠の説よろし。考注は、いみじき非也。そのよしは、下の引馬野爾《ヒクマヌニ》。仁保布榛原入亂《ニホフハリハライミリミダリ》。とある歌の下に、彼(ノ)別記をも引て、詳く辨ふべし。さて眞《マ》の意を、狹《サ》とも云は、狹男鹿《サヲシカ》を眞男鹿《マヲシカ》と云(ヒ)、眞夜《マヨ》を狹夜《サヨ》と云(ヒ)、眞遠《マドホキ》を、狹遠《サドホキ》(十四(ノ)十五丁に久爾乎狹杼抱美《クニヲサドホミ》)とも云(フ)類也。これを野山に添(ヘ)て云るは、十三【二十七丁】左野方《サヌガタ》。十七【四十七丁】佐夜麻太乃《サヤマダノ》などよみたる類也。
されば此句も野榛《ノハリ》と云に、眞《サ》を添て云也。かの杣山の下《フモト》の野邊の、榛原をさせる也。
○衣爾著成《キヌニツクナス》」代匠云。きぬにつくなすと訓べし。神代紀に、如2五月蠅1とかきて、さばへなすと訓(メ)り。此集に鏡なす、玉藻なすなどよめる、鏡の如く、玉藻の如く也。しかれば、榛染のよく衣にしみつくが如くと云也』考注云。萩が花の、衣につきやすきを譬へ云』略解云。榛の皮は古へ衣を摺ものにて、物にうつりつき安きをもて、吾せこがわが目につくに譬へたり』【已上】 今按に、榛と見たるはよけれども、皮以て染と云(ヒ)、又摺(ル)と云るは精しからず。染るをば、摺とはいはず。又皮もていかでか摺(ル)事あたはん。古へ摺衣に用ひしは、此木の若葉をもみてかき着し也。三【二十丁】「いざ子ども倭へ早く白菅乃眞野榛原手折而將歸《シラスゲノマヌノハリハラタヲリテカヘラナ》」とよみたる、こは摺衣の料に折て歸る也。此卷下【二十五丁】に「引馬野爾仁保布榛原《ヒクマヌニニホフハリハラ》入みだり衣匂はせ旅のしるしに」と(220)あるは、直に其(ノ)野にて、葉をとりて摺著し也。又七【二十四丁】に「時じくにまだらの衣|著《キ》まくほし衣服針《コロモハリ》原時二不有鞆《《コロモハリハラトキニアラズトモ》」この歌に、時にあらずともとよみたるは、榛は早く葉の衰(フ)る木なる故に、むねと三四五月までの若葉もて摺つれば也(猶委くは、下(ノ)歌の條に云んとて、此《コ》は省きつ)此七卷に斑衣《マダラノコロモ》とよめるも、摺衣の事也。天武紀。朱鳥元年正月。高市(ノ)皇子。賜2蓁摺(ノ)御衣三具。錦袴二具1。類聚國史。延暦十八年正月。賜2蕃客以上蓁摺衣(ヲ)1。並列庭踏歌。三代實録。光孝天皇。仁和二年十二月(ノ)下云云。已上十三人。各榛藍摺錦砲。又鎭魂祭儀(ノ)下。御巫。神部。卜部等。着2榛摺(ノ)衣1。令v持2供神(ノ)物1。また踐祚大嘗祭式(ノ)下。榛摺衣。錦袍。などありて、多く蓁(ノ)字を用ひられたるも、伐株の孫枝《ヒコバエ》の叢丁盛(リ)なるを採て、摺し故也。今も試に摺(リ)》付て見るに、甚よく著《ツキ》て、其(ノ)色(埴土色に、赤色に赤き艶《ニホヒ》ありて)甚美し。さて成《ナス》は、記傳【三(ノ)二十一丁】云(フ)。那洲《ナス》は如くと云意にて、吾(ガ)徒《トモ》稻掛(ノ)大平が、似《ニ》すなるべしと云る、さも有(ル)べし(那《ナ》と爾《ニ》とは通(フ)音なるうへに、那須《ナス》を能須《ノス》とも云る例あると、和名抄、備中の郷名に近似(ハ)知加乃里《チカノリ》と見え、又似を漢籍にてノレリと訓(ム)などゝを合せて思へば、似《ニ》すを那須《ナス》と云べきものぞかし)此(ノ)辭、倭建(ノ)命の御言に吾足《アガアシ》成《ナセリ》2當藝斯形《タギシノカタチ》1と詔ひ、輕(ノ)太子の御歌に、加賀美那須阿賀母布都麻《カヾミナスアガモフツマ》と見え云云』とある意なるべし。【猶集中那須と云る例は一(ノ)廿二丁、二(ノ)十八丁、又廿二丁、又卅八丁、三(ノ)十五丁、又卅六丁、又五十四丁、又五十六丁、又五十九丁、四(ノ)四十八丁、五(ノ)卅八丁、又五丁、七(ノ)四十二丁、九(ノ)卅一丁、又卅五丁、十一(ノ)六丁、又五丁、又十三丁、又卅五丁、又卅六丁、十三(ノ)五丁、又十二丁、又廿二丁、又廿三丁、又卅四丁、十四(ノ)廿九丁、又卅二丁、十五(ノ)十三丁、十七(ノ)四十一丁等に出。又能須と云るは、十四(ノ)十四丁、又十三丁、又廿九丁、又卅一丁、二十(ノ)卅九丁等に出。何れも皆東國の人の歌のみなり】
○目爾都久和我勢《メニツクワガセ》」今按に、此にわがせと云るは、皇太子、大海人(ノ)命を指る也。此(ノ)額田(ノ)王は、既にも云つる如く、はじめ天智天皇に娶《メサ》れ給へるが、後に此皇子(ノ)命にも娶《メサ》れて、十市(ノ)皇女を産給ふとあれば、此程より、互に御心かよひて、今此條の三首(221)の唱和ぞ、御戀慕の始めなりけらし。御歌の上に然かおぼしき所有。
○一首の意は、杣山縣の、林の前なる、榛の若葉の摺(レ)ば衣に染着《ソミツク》如く、わがせの御姿の、我が目につき侍るよと也。かくて此歌は、此度の行幸の御供のついでに、彼(ノ)田上(ノ)杣の、山縣にしてよみ給ひ次の茜草指《アカネサス》の歌は、蒲生野に到りてよみ給へる也。
 「細註〕 然るに、考、略解等に、此初句を しひてみわやまのとよみ、二句を、しげきがもとゝ訓て、三輪山にての、和(ヘ)歌とせりしに惑ひて、春海、濱臣、其外の人々も、其(ノ)非訓《ヒガヨミ》を己が歌に取てよめるが多かり。たとへば「三輪山のしげ木が下をわけ來つゝ先目につくはさくらなりけり」の類ひ、皆いたづら言と成て、後世恥しきわざなりかし。
○次の歌、古點もたがはざれば直に本行になして擧(グ)。
 
茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》。標野行《シメノユキ》。野守者不見哉《ノモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》。
○茜草指《アカネサス》」代匠云。月日の光の、あかきをもいひ又十六卷の歌に、あかねさす君とよめるは、紅顔のにほへるをいへり。今も紅顔をほめんとて、かくはよみ出たまへり』冠辭考云。卷二に、赤根刺日之盡《アカネサスヒノコト/”\》。また茜刺《アカネサス》。日者雖照有《ヒハテラセドモ》。卷六に、茜刺。日不並二《ヒナラベナクニ》云云。こは赤き氣のさす日とつゞけたり。阿加禰《アカネ》の加禰《カネ》の反は、氣《ケ》也。故に約めては、阿氣《アケ》といひ、延《ノベ》ては、阿加禰といへり。【茜も根も借字にてこゝは此字の意に非ず】十三に、赤根刺。晝者終爾《ヒルハシミラニ》。十五に、安可禰佐須《アカネサス》,比流波毛能母比《ヒルハモノモヒ》などもあり。二は日の一言にかゝるとは少し異にて、明《アカ》き意にて晝《ヒル》とつゞけしならん。十一に赤根刺《アカネサシ》。所光月夜邇《テレルツクヨニ》とも、卷一に、(222)茜根指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》なども云れば也。さて紫もあかき氣のにほふものなればつゞけたり。十六に赤根|佐須《サス》。君之情志《キミガナサケシ》云云。こも意は右と同じきが中に、丹著妹《ニヅカフイモ》、朱羅引子《アカラビクコ》など云如く、紅顔を云なり』【已上】 今按に、これらの説はいづれもさることゝ聞ゆ。
○武良前野逝《ムラサキノユキ》」〔細註〕代匠云。此歌のよみやう、かゝる所なく思ふまゝにて、上代ならずはよむ事あたはず。人もゆるさじ。心うる事の安からぬ歌也。大意はみかりの御供に、女もあまたぐせさせ給へるが、簾中を出て、まれにめづらしく見る野なれば、こなたかなた打むれてありくを、天武天皇、時に太子にてましますに、御覽じつやと、よみて奉り給へり。紫は野に生る物なれば、色よき女の多きをたとふとて、蒲生野をおさへて、紫野と云へり。同じ國にて「つくま野におふる紫」と此第三によみたれば、がまふ野に、まことに紫のあるによせて、よませ給へるにも侍るべし。あかねさす紫とつゞけ、紫野とよまんこと、歌をわが物に、領じたる人にあらずは、思ひよるまじ』考注云。紫野とは、卷三に託馬野爾《ツクマノニ》。生流紫《オフルムラサキ》とあるも、同國なれば、蒲生野にも、紫草の生もせめど、此《コヽ》はそれらには拘(ハ)らず、事をそへむ爲の言のみ』略解云。紫草の生る野と云のみにて、地名にあらず』【已上】 今按に、代匠の説は、多く取がたし。考説もひが事也。此等の句に、よそへたる意はなし。よそへたる意なき時は、紫草の生(ヒ)ずては、紫野とはよむべからず。殊に此行幸は藥獵にして、百草をも採べければ、此日女君たちは、わきて紫草をも取(ラ)れけむ故に、此蒲生野をしも、むらさき野とは、いひなせるなるべし。
○標野行《シメノユキ》」代匠云。しめ野とは、けふのみかりのために、かねてしめおく野なれば、同じがまふ野をいへり』【考も是に同じ】 今按に、七【三十三丁】我標之《ワガシメシ》。野山《ノヤマ》。(223)八【十五丁】春菜將採跡《ワカナツマント》。標之野爾《シメシヌニ》。また【三十一丁】吾標之野乃《ワガシメシノノ》。花爾有目八方《ハナニアラメヤモ》。【此外十三(ノ)四丁十九(ノ)廿三丁等にも出たり】などよめる皆領知しておくを云(フ)。標(ノ)字を書るは其(レ)としるしさす方以てなり。又十【十六丁】に、司馬乃野之《シメノヌノ》。數君麻《シバ/\キミヲ》とよみたるは、吉野の内にある地名なり
 〔細註〕 猶此|領《シメ》と云書を、活かして、しめゆふとよみたるは、二(ノ)十五丁、又廿三丁、又廿四丁、三(ノ)四十一丁、又四十二丁、又四十四丁、四(ノ)二十丁、七(ノ)廿三丁、又卅二丁、八(ノ)卅七丁、又六十一丁、十一(ノ)十丁、又十一丁、十二(ノ)廿四丁、十三(ノ)十四丁、十九(ノ)卅丁、またしめはへとよめるは、七(ノ)卅四丁、十(ノ)九丁、又四十七丁、またしめさすとよめるは、七(ノ)卅三丁、十(ノ)卅六丁、十一(ノ)廿八丁、又そらことゝ續けたるは、十一(ノ)十丁、又十一丁、十二(ノ)廿四丁等に出(ヅ)。續古今戀、元良親王「大空にしめゆふよりもはかなきはつれなき人を戀るなりけり」新勅撰戀、よみ人しらず「ゆめにだにまだ見ぬ人の戀しきは空にしめゆふこゝちこそすれ」などよめる、此集なるも此類也。又十(ノ)五十八丁に、標繩越而《シメナハコエテ》とよめる標《シメ》も、しるしに刺《サス》繩《ナハ》なれば同じこと也。此言今の人には、少し耳うとげなるやうなれば、かくは引おくなり。
○野守者不見哉《ノモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》」〔細註〕代匠云。君が袖ふるとは、かの女どもの、しなひたる袖を、
うちふりて行を、野守は見ずやと也。太子を野守によせて、御目の留らんと云心なるべし。君が袖ふるとは、太子をさして云る歟。彼紫に御目のつけるか云云。俊頼朝臣(ノ)歌に「紫のさかりはゆゝしましろなるくちの羽がひに雪ちりほひて」匡房卿「かまふ野のしめのゝ原のをみなへし野守に見すな妹が袖ふり」此歌は君が袖ふるを、女の袖ふると心を得てよまれたるなるべし。又はとりなしての事歟』考注云。こは紫野でふに、御ともの女房をそへ、命の彼《カ》ゆき此《カク》ゆき御袖ふり給ふを、二つの(224)野にそへ、野守は見ずやてふに、つかさ人たちの見奉り思はん事をそへし也云云』小琴云。紫野ユキ、シメノユキ、君ガ袖振ヲ、野守ハ見ズヤト云意也。此外ニヨソヘタル意ナシ』【略解是に隨ふ。】』【已上】 今按に、代匠記、考注は、甚惑されて、むげに取處なし。小琴(ノ)説は、難もなけれど、猶未(ダ)詳しからず。先(ヅ)此に君といへるは、前の歌の和我勢《ワガセ》の事にて、即皇太子、大海人(ノ)命を指(シ)奉れる也。野守は見ずやとは、此皇子(ノ)命の、かゆきかくゆき給ふ御姿の優れさせ給へるが尊ふとしと見るにあまりありて、皆人もよく見奉れかしと思へる心より云る詞にして、まことは御供の人皆は目につかずやと云意なるを、野邊にての事なれば、野守は見ずやとはいへる也。
 〔細註〕 神代紀下に、さね床も、あたはぬかもよ。濱つちどりよ。古今集に、人には告よ、海人の釣舟。などある類也。此等も海邊にての事なりつれば、其處の物もていひとれる、今とよく心ばへ相似たるをおもふべし。さて野は、集中假字もて努《ヌ》と書るが多かれば、凡て努《ヌ》と訓べくやと、思ふやうなれど、猶集中にも、須我乃安良能爾《スガノアラノニ》。などもかき、又野《ノ》字を、乃《ノ》の假字に用ひたる處も有(ル)を見れば、乃《ノ》ともいひ、又其連(キ)によりて、努《ヌ》とは、唱へにくきも有しさまに見ゆ。今此歌の野守も努毛理《ヌモリ》とはいひにくかれば三の野(ノ)字を、總て乃《ノ》とは訓(ミ)つ。猶次々の歌どもの訓點も、其つゞきに隨(ヒ)て、努《ヌ》とも乃《ノ》ともよみなんとて此《コヽ》にことわりおくになん。
○一首の意は、紫根はふ此(ノ)標野を、わが思ふ君のかゆきかくゆき、袖ふらす御姿の、あてにめでたきを、他し人は見ずや。目にはつかずやとなり。
 〔細註〕 元來此歌の續きは、紫野ゆき、しめ野ゆき袖ふる君を、野守は見ずやと云意なるを、さてはしらべのよからぬ故に、しめ野より、野(225)守に引つゞけたるものなり。
さて如此《カク》この王の、想(ヒ)を係《カケ》られたる、皇子命も、にくからずおもほして、右二首を、次の御歌一首を以てこたへさせ給ひしなり。
 
皇太子答御歌。明日香宮御宇天皇【元暦本。此八字小書。有d謚曰2天武天皇1六字u。】代匠云。白虎通曰。何(ヲ)以(テカ)知(ル)。天子(ノ)子(モ)亦稱(ヘテ)2世子(ト)1。春秋傳(ニ)曰。天子之子(ヲモ)稱2太子(ト)1。或曰。諸侯之子(ヲ)稱(コトハ)2代子(ト)1。則春秋傳曰。晋有2太子申生1。周(ノ)制(ニ)太子。代子。亦不v定也。漢(ノ)天子稱2皇帝(ト)1。其嫡嗣(ヲ)稱2皇太子(ト)1。諸侯王之嫡(ヲ)稱2代子(ト)1。後代咸(ク)因v之』考注云。皇太子をば、此集には、日並知皇子(ノ)命。高市皇子(ノ)命など書(ク)例なるを、こゝにのみ、今本に、皇太子と書しはいかにぞや。思ふに、こゝの端詞、亂れ消たるを、仙覺が補へるか、或本にかく有に依しか」とて此端詞を、大海人(ノ)皇子(ノ)命答御歌と改められたり。
今按に、此第一卷の、はやくより亂れてし事は、下に往々云べし。仙覺などの所爲には非ず。其(レ)より遙に以前の、書そへなりつる事は、古き本どもにてしらる。仙覺は、思ひの外にさかしらわざはせぬ人なりき。かくて今考注の如く改んも、私事には似たれども、此一二(ノ)卷の例、眞に然か有べきなれば、今も其(レ)に隨ひて、左の如くは改めつ。右は亂れたる後の人の書そへに決《ウツナ》ければなり。
 
〔大〕〔海〕〔人〕〔皇〕〔子〕〔命〕答御歌《オホアマノミコノミコトノコタヘタマフミウタ》一首
天智天皇、同母御弟、舒明天皇第二(ノ)皇子、後に天武天皇と奉v申る。委き事は、次(ノ)卷の始、清御原宮の條下に出(ヅ)。
 
紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》。吾戀目八方《アレコヒメヤモ》。
○紫草能《ムラサキノ》」古點アキハギノと訓るのみの違なり。仙覺抄云。むらさきは、根を用るもの也云云。紅葉淺深ありといへども、同く赤色の攝なり。され(226)ば字訓の所にも、紅をば淺赤とかき、紫をば深赤とかけるは此義也。皇太子の答(玉フ)御歌に、紫のにほへる妹をとつゞけ給へるも、赤きを、丹《ニ》と云ことあれば也』(本に、アキハギノと點して、釋にむらさきと云るは、點は古訓を用ひたれど、心にうべなはざりしにや)代匠云。紫草を、あきはぎと訓たるは、大きにあやまれり。紫野と云をうけて、紫のといひ、あかねさすといへるを、にほへるとつゞけさせ給へる也』【似閑書入云。句フトハ、薫香ノミニ非ズ。遊仙窟ニ、艶ヲニホフト訓り。俗ニホンノリト、櫻色ニ丹ヲ含ムヲ云。又ツヤアリテ、シホラシキヲ云ナリ。今紫ヨリ受タル方ハ色ノ底ニ含ム餘艶ナリ】』考注にも、略解にも、紫草の釋なし。答問録に、宣長云、八(ノ)卷の芽子(ノ)歌(ノ)中に、紫野とかきて、あきはぎと訓たり。こゝも然よむべきか』【已上】 今按に、こは代匠記に云(ハ)れたる如く、前(ノ)歌の紫野を受たるなれば、むらさきと訓べき事うごくべからず(時も五月五日(ノ)行幸なれば、未(ダ)芽子は咲べからず。これかれに就て、協はぬ非説なり)紫草は、和名抄云。本草曰。紫草和名|無良散岐《ムラサキ》蘇敬曰。又有2※[木+令]灰1。燒(テ)2※[木+令]木(ノ)葉(ヲ)1作v之(ヲ)。並(ニ)入v染。今按(ニ)俗(ニ)所謂椿(ノ)灰等是也。と見ゆ。延喜式【縫殿】深紫綾云云。紫草卅斤酢二升灰二石云云。此集十二【二十九丁】紫者灰指物曾《ムラサキハハヒサスモノゾ》。本草云。紫草(ハ)生2山谷(ニ)1人家(ニモ)亦種v之。根(ノ)紫色(ニシテ)而可(シ)2以染(ム)1v紫(ヲ)。其苗似2蘭香(ニ)1。莖赤節青(シ)。二月開(ク)v花。紫白色。結(ブコト)v實(ヲ)白色。秋|月《ニンス》熟云云。草木攷【曾槃著】曰、古へ漢土にては、紫に二種あり。ひとつは亂朱の紫にして、北紫也。ひとつは今こゝにある紫色にして、盖し彼に云油紫のたぐひ也。按に正字通云。紫黒赤間色也。魯論(ニ)。紅紫不3以爲2褻服1。六書故曰。紅紫之※[豊+盍]者。故(ニ)不v爲2褻服1。非2間色(ニ)1。又惡(ム)2紫(ノ)之奪1v朱也。或曰古之朱。赤汁染v之。紫(ト)與v朱實相類。今之淺紫是也。其紫近v絳謂2之北紫1。以月白或藍爲2初染1。地以2紅花1成v之。惡v奪v朱不v謂2淺紫1色※[豊+盍]也。六書曰。宋(ノ)仁宗(ノ)時。有v紫※[巾+白]油所v漬其色竊v玄。因(テ)命2染人1放而爲v之。謂2之油(227)紫1。今四品以上朝服用v此。其染(ルニ)v之以2紫草(ヲ)1。色近2玄昔之紫1。近v絳亂(ル)v朱(ヲ)者北紫也。今皇朝にて染る紫色は、紫草(ノ)根に、蘇枋木の煎汁及灰をさして染なすものなり。これ黒赤の間色にて、紫草、紫石英の紫色と、正に相同じ。おもふに宋人のいへる脂紫なるべし。今人但今の紫色を見て所云近v絳北紫を見ざれば、朱を奪ふの紫を疑ふのみといへり。
○爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》」考注云。こは額田姫王をさし給ふ』略解云。にほふは、色の餘光ある事に多くいひて、うるはしきを云。妹とはすべて女をさして云ことにて、此《コヽ》は額田女王をのたまふ也』【已上】(今按に、にほふは、既に引(キ)し似閑が書入に云る如く丹《ニ》のほのめくを云より出て、白き物にも云るは、其餘艶の方を取(レ)る也。薫香に云は、ほのかなる方より轉れる也。さて此語の例、既に茜根指の條の冠辭考等の引歌にも出たれど、猶いはゞ、七(ノ)十七丁、又廿九丁、八(ノ)卅五丁、又四十四丁、九(ノ)十一丁、十(ノ)廿三丁、十一(ノ)卅一丁、十三(ノ)廿四丁、十六(ノ)八丁、又九丁、又十丁、又十一丁、三首十九(ノ)廿六丁、二十(ノ)十丁、猶此外、いと多く出たれど、引にたへず。其中に、紫紅、花紅葉等に、つゞくるは常の事なれば、其例を引にも及ばざるを、七(ノ)卷に、白栲爾。丹保布|信士《マツチノ》。山川。九(ノ)卷に、白管自《シラツヽジ》。吾爾尼保波尼《ワレニニホハネ》。十七(ノ)卷に、宇乃花乃《ウノハナノ》、爾保弊流山《ニホヘルヤマノ》などは、例なくては、よみ難きこゝちす。十一卷に、山振之爾保弊流とあるは、埴土《ハニ》、眞榛《マハリ》などにつゞくると同じ心ばへにて、異《コトナ》らず)妹は、仁賢紀云。古者不v言2兄弟長幼1。女(ハ)以v男(ヲ)稱v兄。男(ハ)以v女(ヲ)稱v妹。と有が如くにて、既にもかつ/”\いへり。
 〔細註〕 猶此言は、古事記傳ぞいと委き。同書三(ノ)四十丁云。妹とは、夫婦にまれ、兄弟にまれ、他人どちにまれ、男と女と双ぶ時に、其女を指て云稱也。故に古書に兄弟を擧るに兄《アニ》と妹《イモウト》な(228)れば、妹をは妹某《イモソレ》と云(ヒ)、姉と妹なれは弟某《オトソレ》と云て、妹《イモ》とはいはず。女どちにては伊毛と云ふことは、上古にはなかりし也。仁賢紀に云云と有如く、男よりは姉をも妹と云(ヒ)き。夫婦も又其如く、年齡には拘(ハ)らず。男に對へては、加弱《カヨワ》く劣りたるを以て也。卷十二に「妹といへばなめしかしこししかすがにかけまくほしき言にあるかも」とよめるを思へば、此比は、敬ふべき人をば、いはざりし稱にこそ。然るを、やゝ後には女|共《ドチ》の間にても云事になれり。卷四、吹黄刀自が歌、又紀女郎が、友に贈れる歌、又十九に、家持卿の妹《イモウト》の、其妻の許に贈歌などに、妹と云り。さて男方より云伊毛にも、妹(ノ)字を用るは此稱に正しく當れる字のなきまゝに、姑《シバラ》く兄弟の間に就て用る字を、借用ひ習へるのみ。本(ト)兄弟より出たるが、轉りて妻をも云と、勿《ナ》心得そと有(リ)。
○爾苦久有者《ニクヽアラバ》。人嬬故爾《ヒトツマユヱニ》」代匠云。にくゝあらばは、きらはしく思はゞ也。憎惡《ニクム》と云ほどの、にくむにはあらず。惡寒《ヲカン》など云ほどの、にくむ也。第十に「われこそはにくゝもあらめわがやどの花橘を見には來じとや」とよめるに同じ。まことに紫の如くにほへる妹を、きらはしくおもふ我ならば我領せぬ、よそめばかりの色にかくまでは戀んやわ、順じてかへしたまへり。十に「赤らひくしきたへの子をしばみれば人づまゆゑに我こひぬべ
し」此歌、今の御歌に似たり。第十二に「さゝの上にきゐてなく鳥めをやすみ人づまゆゑにわれこひにけり』〔細註〕考注云。吾妹をにくからば、他《ヒト》妻をも戀べきを、妹を愛《ウツク》しむからは、いかで他妻を思はんや、との給へり。袖ふりしなどは、戯れごとぞとことわり給ふ也。さてこの御歌は、後世人のよむとはさまことなり。よく心をやりて見ずば、とき得じ』小琴云。集中ニ人ツマユユニト(229)イヘルコト、イト多シ。皆人ノ妻ナルモノヲト云意也。俗語ニ、人ノ妻ジヤノニト云ガ如シ。此歌ノ意ハ、額田(ノ)王ヲサシテ、ニクヽアラバ、何カ戀ム。人ノ妻ナルモノヲト云意也。此歌、萬葉考(ノ)説ハ痛クシヒコト也。人ノ妻故ニトイヘルコト、集中他ノ歌ノ例ニモ叶ハズ。言ノ意ニモソムケリ。サテ、此太子ノ額田王ヲ、人妻ト詔フコトヲ疑フ人アルベケレド、此(ノ)額田(ノ)王ノコトハ猶論アリ。別ニ云ベシ』【略解は纔(カ)に此説の初(メ)を取て、云るのみ】』【已上】 今按に、にくきの釋は代匠記よろし。ゆゑにの意は、小琴の如し。さて小琴に額田王の事は、別に云べしとあるは、此※[木+爪](ノ)三卷【三丁より五丁まで】に、引て云(ヒ)つる考へどもの事也。【精(ク)は其處を披て見べし】此(ノ)女王、此時は、天智天皇の娶《メシ》たまへる程なりければ、如此《カク》はの給ひしなり。
 〔細註〕 集中、にくしとよめる例は、五(ノ)十丁、七(ノ)四十丁、八(ノ)十五丁、十(ノ)十七丁、十一(ノ)十七丁、又十九丁、又廿八丁、又卅五丁等に出(ヅ)。此内に輕きと、重きとあり。其歌に依て、心得べし。又故と云に、ゆゑよしの故と、なるにの意なると、なるものをと云意の故との別あり。そは先「なるものを」「なるに」などの方をいはん。此《コゝ》の如く「人妻故に」と、よみたるは、十(ノ)廿五丁、十一(ノ)三丁、十二(ノ)廿八丁「人の子故に」は二(ノ)十六丁、十一(ノ)三丁、又十二丁、十二(ノ)十九丁「ねなん子故に」は、十一(ノ)廿二丁「あひ見し子ゆゑ」は、十一(ノ)十九丁「しらせぬ子故」は、十三(ノ)廿一丁「にほふ子故に」は、十四(ノ)十五丁「あはぬ君ゆゑ」は、十一(ノ)卅三丁「あはぬ子故に」は、十一(ノ)卅四丁、又卅六丁、凡此等皆、こゝの心と同じ。又「ゆゑよし」の方は「ねもころ誰ゆゑ」は、四(ノ)廿四丁 十二(ノ)三丁「たが故ぞ」は、七(ノ)卅一丁、十一(ノ)七丁、十二(ノ)三丁、十三(ノ)卅五丁「ゆゑしもあること」十(ノ)廿八丁「わがゆゑに」十一(ノ)十六丁、「何かそこ故」は、十一(ノ)十五丁「人の子ゆゑか」(230)は、十一(ノ)十六T「ふかぬ風ゆゑ」は、十一(ノ)廿四丁「ゆゑよし」は、九(ノ)卅六丁等を見合すべし。此外此二つの詞、不v可2枚擧1。
○吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》」われこひんやは、戀はせじと、反してきく詞也。是も集中多き辭なれど、後世のやはとさせるかはりも あらざれば、其例は省けり。
○一首の意は、上をうけて、其紫の如くにほへる妹がかはゆからずば、人の思ひものなるに、われこひんやはと也。さて妹乎《イモヲ》は妹之《イモガ》の意なり。
 
紀曰。天皇【此二字衍文】七年丁卯夏五月五日。天皇【今本脱2此二字1】縱2獵蒲生野(ニ)1。于時天皇弟。諸王。内臣。及群臣。皆悉【元暦本皆悉作2悉皆1一本無2悉字1】從焉。【代匠云。今の印本の日本紀に、天皇弟の天を大に作れるは、上の一畫を失へり。こゝに引るを證とすべし。日嗣のみことよめるは、同母御弟なるが、太子にましませばなり」といへり
 今按に、天(ノ)字元暦本には大(ノ)字にかきたり。大(ノ)字もあしからざるべし。さて、此縱獵の事、前の端詞の條下に委くいへり】
 
萬葉集墨繩卷六(原本萬葉|檜※[木+爪]《ヒノツマデ》卷第五)
 
 本集一之五【自十四葉左至十六葉左】
 
 
明日香清御原《アスカキヨミバラノ》宮(ニ)御宇(シヽ)天皇(ノ)代【天渟中原瀛眞人《アメヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
○明日香清御原(ノ)宮」諸抄釋なし。今按に、天武紀元年九月癸卯。自(リ)2嶋(ノ)宮1移(マス)2崗本(ノ)宮(ニ)1。是歳|營2宮室《オホミヤツクリ玉フ》於崗本(ノ)宮(ノ)南(ニ)1。即冬《ソノフユ》遷以居焉《ウツリマス》。是(ヲ)謂《マヲス》2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1。二年二月丁巳(ノ)朔癸未。天皇命(セテ)2有司《ツカサ/\ニ》1設(テ)2壇場《タカミクラヲ》1。即2帝位《アマツヒツギシロシメス》於飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ニ)1。と見えたり。さればはじめ嶋宮に暫し坐(シ)て、其後に清御原(ノ)宮には遷りましつる也。行嚢抄【南遊卷六(ノ)中】云。飛鳥村。川原村。【右ニ在。】岡町。【自2奈良1至2于此1七里餘。自2八木1一里。】岡寺【西國巡禮七番(ノ)札所。龍蓋寺珠院トス。】云云。上居村。橘村。嶋(ノ)庄町。是ラ岡町ノ東南ノツヾキ也云云。與地通志云。飛鳥淨見原(ノ)宮(ハ)。上居村。天武天皇二年即2位于此1。また島(ノ)宮(ハ)。嶋(ノ)莊(231)村。一名橘(ノ)島。天武天皇元年。便2居於此(ニ)1。先v是(ヨリ)蘇我(ノ)馬子。家2於飛鳥河(ノ)傍(ニ)1。乃庭中開2小池(ヲ)1。築2小島(ヲ)於池中(ニ)1。時人曰2島(ノ)大臣(ト)1。とある、此等の地理を合せ考るに、上居村【上居は、淨御の字音を訛り來しにて、是淨御原(ノ)宮(ノ)趾也】は、右の岡寺の麓より少し南によりて、昔は飛鳥川の岸邊の清崎の内にして、いと清らかなる地なりけむ故に、其宮地をば、清見原とは釋へられたるならん。嶋(ノ)宮の地も右のごとし。
○天渟中原瀛《アメヌナハラオキノ》天皇」【皇統四十嗣、後に天武天皇と奉v稱。】天武紀曰。天渟中《アメヌナ》渟中此(ヲ)云2農難《ヌナト》1 原瀛眞人《ハラオキノマヒトノ》天皇(ハ)。天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇【天智】同母(ノ)弟也。幼《ハジメノミナハ》曰(シキ)2大海人皇子(ト)1。生而《ミウマレナガラ》有《マシ》2岐嶷之姿《イヨヨカナルミスガタ》1。及壯雄拔神武《オヒタチマスマヽニヲヽシクタケクマシテ》能《タヘマシキ》2天文遁甲(ニ)1。納《メシテ》2天命開別天皇(ノ)女《ミムスメ》菟野《ウノノ》皇女(ヲ)1爲(シ玉フ)2正妃《オホキサキト》1。天命開別(ノ)天皇(ノ)元(ノ)年(ニ)立(テ)爲2東宮(ト)1。四年冬十月庚辰。天皇(ノ)臥病以痛之甚矣《ミヤマヒイタクカナシミマシキ》。於是《コヽニ》遣(テ)2蘇賀(ノ)臣安麻侶(ヲ)1。召(テ)2東宮(ヲ)1引2入(マス)大殿(ニ)1。時(ニ)安摩侶(ハ)素《モトヨリ》東宮(ノ)所好《ミヨシミアレバ》。密(ニ)顧(テ)2東宮(ヲ)1有意而言矣《ミコヽロシラヒテマヲシ玉ヘトマヲス》。東宮|於茲《コヽニ》疑(ハシテ)v有(コトヲ)2陰謀《ミソカゴト》1而愼(玉フ)之。天皇勅(シテ)2東宮(ニ)1授《ユヅリ玉フ》2鴻業《アマツヒツギヲ》1。乃|辭讓之曰《イナビテマヲシタマハク》。臣之不幸元多病何能《オノレサキナシモトヨリカヨワクテイカデヨク》保(ン)2社稷《クニヲ》1。願陛下擧《アメノシタノコトハ》。天下附皇后《オホキサキニサヅケタマヘ》。仍《マタ》立(テ)2大友(ノ)皇子(ヲ)1宜爲儲君《ヒツギノミコトシ玉フベシ》。臣《アレハ》今日|出家《イヘデシテ》爲《ミタメニ》2陛下《オホキミノ》1欲修功徳《ノリノコトヲオコナハントマヲシ玉ヒキ》。天皇|聽之《ユルシタマフ》。即日《ソノヒ》出家(シテ)法(ノ)服《ミケシヲキ玉フ》。因以《カレ》收(テ)2私(ノ)兵器《ツハモノヲ》1悉(ニ)納《カヘシ玉フ》2於|司《オホヤケニ》1。壬午入(玉フ)2吉野(ノ)宮1。時左(ノ)大臣蘇賀(ノ)赤兄(ノ)臣。右(ノ)大臣中臣(ノ)金(ノ)連。及大納言蘇賀(ノ)果安《ハタヤスノ》臣|等《ラ》送之《ミトモシテ》自(リ)2菟道《ウヂ》1返(ル)。或曰《トキノヒトイフ》。虎《トラニ》著(テ)v翼《ツバサヲ》放(ツト)之。是(ノ)夕|御《オハシマス》2嶋(ノ)宮(ニ)1。癸未至(テ)2吉野(ニ)1而|居之《マシマス》。是(ノ)時(ニ)聚《メシテ》2諸(ノ)舍人(ヲ)1謂之曰《マヲシタマハク》。我(レ)今|入道修行故《ノリノミチニイリテオコナヘバ》。隨欲修道者留之《トモニオコナハントオモハンモノハトヾマレ》。若(シ)仕(テ)欲成名者《ナヲアゲントオモフモノハ》。還(テ)仕於司然《ツカヘヨトノリ玉フニ》。無(シ)2退(ク)者1。更(ニ)聚(テ)2舍人(ヲ)1而詔(ハスコト)如(シ)v前(ノ)。是以《ココニ》舍人等等(ハ)留(リ)半(ハ)退(ク)。十二月天命開別天皇力|崩《カムアガリマス》云云。【壬申叛2大友皇子1。自2六月至2八月1終得2勝利1。】是歳營2宮室(ヲ)1云云。二年二月云云々。【此事既出2前條1】立2正妃1爲2皇后1。三年九月。獻2納神寶於伊勢二所(ノ)大神宮(ニ)1。十二月。侍2奉《ツカヘマツル》大甞《オホニヘニ》1。中臣忌部。及(ビ)神官《カムツカサノ》人等。竝(ニ)播磨。丹波二國(ノ)郡司。亦|以下人夫(232)等《シモツカサノミタカララニ》悉(ク)賜v録(ヲ)云云。十年二月庚于(ノ)朔甲子云云。是日立(テ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子(ト)1。因以《カレ》令《シメ玉フ》v攝《フサネ》2萬(ノ)機《マツリゴトヲ》1。朱鳥元年七月癸丑。勅(シテ)2天下(ニ)1事無2大小(ト)1。悉啓(サシメ玉フ)2皇后及皇太子(ニ)1。同九月戊戌朔丙午。天皇(ノ)病《ヤマヒ》遂(ニ)不《ズ》v差《オコタラ》。崩(マシヌ)2于|正宮《ミアラカニ》1。【御在位十五年。聖壽未v詳。神皇正統記(ニ)曰。七十三歳。皇年代記(ニ)曰。六十四】戊申始(テ)發《タテマツル》v哭《ミネ》。則起2殯(ノ)宮於南庭(ニ)1。辛酉殯2于南庭(ニ)1即發(ル)v哀(ヲ)。持統紀。元年冬十月。皇太子率(テ)2公卿百寮諸國(ノ)司造及百姓(ヲ)1。築2大内(ノ)陵1。二年十一月。葬2于大内陵1。諸陵式云。高市(ノ)郡檜隈大内(ノ)陵。兆域東西五町。南北四町。山陵志曰。檜隈(ハ)是身狹東南。所謂|輕《カルノ》之舊都也。廟陵記(ニ)引2或人説1曰。大内陵(ハ)在2淨御原村(ノ)西(ニ)1。今無2淨御原村1。但是陵(ノ)東有2上居《ジヤウゴ》村1。土人云。上居(ハ)者。淨御(ノ)之音亂而謬也。とあり。大御歌、卷一【十一丁長歌短歌又十四丁一首、十五丁長歌、十六丁短歌一首、已上。】卷二【十二丁一首、廿五丁天皇崩之時、太后御作歌云云。】に、六七首載たり。
 
十市皇女《トホチノヒメミコ》。參2赴《マ井リタマフ》於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1時。見(テ)2波多横山巖《ハタノココヤマノイハホヲ》1。吹黄刀自《フキノトジガ》作(ル)歌一首
○十市皇女」天武紀曰。天皇初|娶《メシテ》2鏡(ノ)王(ノ)女額田(ノ)姫王(ヲ)1。生(マス)十市(ノ)皇女(ヲ)1。七年夏四月癸巳。十市皇女。卒然《ニハカニ》病(ヒ)發(テ)薨(マス)2於宮(ノ)中1云云。庚子葬2十市皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1。天皇|臨之降恩以發哀《ミソナハシテイトホシミミネナカシタマフ》。懷風藻。葛野王傳云。王子者淡海帝之孫。大友太子之長子也。母(ハ)淨見原之長女。十市内親王也。
○參2赴《マ井リタマフ》於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1」天武紀曰。四年二月丁亥。十市皇女。阿閉皇女。參2赴於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)。七年是春將《シテ》v祠(ラント)2天神地祇(ヲ)1。而天下悉祓禊之。竪(ツ)2齋(ノ)宮(ヲ)於|倉梯《クラハシノ》河上(ニ)1。夏四月丁亥朔。欲v幸(ムト)2齋宮1卜v之。癸巳|食《アヘリ》v卜(ニ)。仍取2平旦《トラノ》時(ヲ)1。響蹕《ミサキオヒ》既(ニ)動《ドヨミ》。百(ノ)寮成v列《ツラヲ》。乘輿命蓋《スメラミコトミカサメシテ》以|來v及2出行《イマダイデマサザルホドニ》1。十市(ノ)皇女|卒然《ニハカニ》病發薨2於宮中(ニ)1。由(テ)v此(ニ)鹵簿《ミユキノツラ》既(ニ)停(テ)不v得2幸行1云云。大神宮諸雜事記曰。白鳳二年。太政大臣大伴(ノ)皇子企2謀反(ヲ)1。擬v奉v誤2天皇1。于時天皇之御内心(仁)。伊勢(233)大神宮令2祈申1給。必合戰間令v勝。御前以2皇子1(天)。皇大神宮御杖代可v令2齋進1之由。御祈祷有2感應1。彼合戰之日。天皇勝|御(世利)《マセリ》。仍御即位二年癸酉九月十七日。天皇參2詣於伊勢皇大神宮1(【志天】)。令v申2御祈1給(【倍利】)云云。扶桑略紀曰。白鳳二年四月十四日。以2大來《オホクノ》皇女1獻2伊勢神宮1。始(テ)爲2齋王1。依2合戰(ノ)願1也。など見ゆ。此等書紀と異なるは、不審。
 〔細註〕 守部つら/\考るに、彼(ノ)懷風藻(ノ)葛野(ノ)王(ノ)傳を見れば、十市皇女は、既に大友皇子(ノ)御妃にませれば、齋宮に立坐べきことわりなし。書紀は誤れるものならん。又此集の今此處に載たるも、上に引く書紀の、四年二月の度には有べからず。若しは大友皇子のために、密に詣で賜ふをりの事にやと思ほしき程なり。又七年四月卒然《ニハカニ》薨給ひしも、もしは自害などにはあらざりしにや。此時まで存へ給ふを見れば、おもたゞしく、御妃と定りたるには有べからねども、御子までも生《ナシ》給へれば、存へがたくおぼすべきことわりなり。猶よく考へてん。
○波多横山《ハタノヨコヤマ》」代匠云。湯津磐村とかけるを、ゆつはの村とよみて、一つの名所とするはあやまりなり。波多(ノ)横山より流出る川上に、奇異なる巖の、いくらともなく並びて立るをよめるなり。詞書の意をよく見ぬによりて、あやまれり』似閑書入云。波多(ノ)横山ハ、神名式ニ、伊勢(ノ)國壹志(ノ)郡波多(ノ)神社。和名抄ニ、同郡ニ、八太《ハタノ》郷アリ。大和ヨリ、今伊勢越トイフ道筋ナリ』考注云。こは伊勢の松坂の里より、初瀬越して、大和へ行道の、伊勢のうちに、今も八太《ハタノ》里あり。其一里ばかり彼方に、かいとうと云村に横山あり。そこに大なる巖ども、川邊にも多し。是ならんとおぼゆ。飛鳥(ノ)宮なとの比齋王群行は、此道なるべしと其國人はいへり。猶考てん』【略解、是に同じ。考注には、此外にも頭書等に云ることどもあれど、次に引く伊勢人の辨に引て云へれば、こゝに省(ケ)るなり。】名嶋隨筆伊勢|安濃津《アノツ》高橋(ノ)知周《トモチカ》著云。波多《ハタノ》横山(234)を、萬葉考(ニ)云(ク)、下に輕皇子、宇多の安騎野へ越給ふも、泊瀬山を越ましゝ也。此山のたやすければ、此たびもかの女坂、男坂などを越給ひつらんとおぼゆ。或人云、高市(ノ)郡の波多也といへど、淨見原(ノ)宮よりは、初瀬越す便り有べければ、伊勢の八太(ノ)横山ならんと覺ゆ云云。【此間の文は、前に引る考注の本文の説なれば省けり。】と書れしは、聞しまゝをふと爰へ擧られたるならん。こは此のあたりの事を、よくもしらで云、みだり言なり。そもそも垣内村は、八太(ノ)里より四里余も西にて、郷名もなく、今に倭七郷と云。其一にて物に見えず。近(キ)世の物に書る、入道垣内と見ゆ。街道の北の山に、入道屋敷と云(ヒ)傳ふ。是多氣國司時代の事なるにや。小倭は、東鑑に、小倭(ノ)庄、又小倭田(ノ)庄とも始(メ)て見ゆ。今此街道は、後の事なるは上にもいへり。されば飛鳥藤原宮の比、齋宮群行の道は、今の往來にあらざれば、垣内に八太(ノ)横山有べきにあらず。さて今の街道、垣内より上の村てふに川原といひ、二本木の驛は、昔の和遲野、大仰村、田尻村等、川原と今によぶ。八太里も垣内より往來となりしにて、今の新道となる。古の道にあらざる事は、里人も傳へ有てしれり。然るを大仰村、今米(ケ)瀬といへるを、横山なるべしと云は非也。略解云、今も八太(ノ)横山と云有て、大なる岩ども、川邊に多しと云るは、何方をさしたるにや。大なる岩ども、川邊に多しとは、いと杜撰の説也。考るに横山は、今ゐせき村に在(リ)。【ゐせきは、堰※[土+隶]の義。是八太郷にて、後一村となりて、村名とす。】こは飛鳥淨見原(ノ)宮、藤原(ノ)宮より出まし、櫻井より、初瀬越て、名張、長瀬てふより、伊勢の太郎生路へかゝり給ひ、八知村、小西へ行幸、竹原村、君(ケ)野、【こゝに大郎生より、八知へかゝらず、大原村、竹原村への道、又八知より、竹原へ行まして、君(ケ)野への道今存すれど道路けはしければ、竹原より君(ケ)野と行幸にやあらん。北畠國永卿の歌に、二またの上に、君が野と云所を通りけるとて「君が野の露おもげなる小車をおりて御幸の跡とだに見む」
八手俣夫を、東へ直に行て、波瀬村、【北畠權大納言顯雅卿居給ひて、波瀬御所と云。此村は、往來より南にいたる。】下の瀬古と云。こゝに矢頭山よ(235)り落くる流れあり。是波瀬村と、八太(ノ)郷、井せき村との堺也。川の南の山道を行に、東北の方に高さ三間餘、南北へは凡百間餘も有なん。築《キヅ》きし如きの小山あり。是横山にて、道を行々左手に見れば、横山といひしなるべし。往來の道を下り、川邊にいたり、東に横を望めば、後は高山重りそびえて、松多く生茂り、前は矢頭山より流れ出て、末は矢野浦へ落る用水清く、巖小石の有さまいとたへなれば、河上の湯津磐村に云云と、此時だによまれし、今千歳にも及びて、其所のけはひのさびたる、いはむかたなし。又ある時は、横山の東南の方より、水のしたゝりて瀧の如く落ちなど、誰かめでざらまし。さてこゝを里人、ゐせき村の横山と云。八太(ノ)里に今中の山といへる、をを八太の横山と云。山の巖などをかしけれど、流れもなくて、河上乃とはよみがたし。こは波多の里なるをもて、後人云なるべし。またく八太(ノ)郷の横山にて、ゐせき村横山を云是也。古くは郷名を云て、村名を云(フ)は、いとまれなり。里人すら名のみ知て、詳にせず。まして遠き國の人々のしらざるはうべなり。ついでに是より、神(ノ)宮への道を書《シル》す。こゝの山道を、ゐせき村、東山てふへ行、八太里の古道に出。宮古、須賀、月本、壹志(ノ)驛、夫より三渡、松崎、奈久利、石津【飯高驛也。】東岸江の後を通り、朝田へ出。清水、立利を經て、櫛田川の下流を渉り、坂本村に至り、齋宮村へ出る、是を今みいと通りと云。飛鳥藤原宮の時、齋営群行の古道是也。然れども三代實録【貞觀六年十月七日條下】云、大和國言。平城舊京。其東添上郡。西添下郡。和銅三年。遷v自2京都於平城1。於是兩郡自爲2都邑1。延暦七年。遷2都長岡1。其後七十七年。都城道變爲2田畝1云云。と見え、又元慶四年【十二月七日條】下2知大和伊賀等國造1。行宮以2伊勢齋内親王1。可2出v宮歸1v京也。又仁和二年六月廿一日。伊勢齋内親王。應d取2近江國新道1。入(ル)c(236)於大神宮(ニ)u。仍下2知伊勢國(ニ)1。又停2伊賀(ノ)國舊路頓宮(ニ)1下2知伊賀(ノ)國(ニ)1。と見えて、今の世に詳にしがたし』【是まで名島隨筆の説也。】 今按に、こは其國人のよく見とめて云る所なれば正しかりなん。此説に隨ふべし。
 〔細註〕 但し心の底に、いさゝか定め難かるは、彼のゐせき村の小山のさま、横山と云べき山とも見えず。又そこなる岩のさまも、五百箇磐《ユツイハ》村とは云ひがたき程とぞおぼしき。殊に今此度は齋宮(ノ)群行とは見えず。既にも云ひし如く、彼の大友皇子の御願などにつきて、私に神(ノ)宮へ參詣《マウデ》給ふなるべければ、其道筋も群行道には有べからず。此等を思ふにも、中昔後迄いひ傳へたる彼のゆつはの村の巖の事も、捨てがたかれば、此に其事をも記して、後の定をまつなり。行嚢抄、東海道、伊勢(ノ)國鈴鹿(ノ)關より經て、大神宮へ行く順路(ノ)條(ニ)云(ク)。川上山瑞光等。曹洞宗(ノ)古蹟也。寺領三石。川上村ニアリ。關ノ中町ヨリ、北ノ方二町ナリ。名所也。今は村ト云ベキ民屋モ不v見。只瑞光寺一宇アリ。川上村、或は湯津磐《ユツハノ》村トモ云。萬葉集卷一、十市皇女。參2赴於伊勢(ノ)神(ノ)宮(ニ)1時云云。續拾遺集「あらしふく川上かけてすむ月の湯津磐(ノ)村に影ぞさやけき」玉吟、家隆卿「河上の湯津磐(ノ)村のうす紅葉下草かけておちやそふらん」此外古歌多く引たり。又伊勢街道(ノ)記云「ゆつはの村とは、川上村の一名か。今は人家は絶て、古院一宇殘れり。往來かはりて後、所々へ移り住(メ)るなるべし。されば横山の巖は、あまた竝びて今もあれど、波多と云名もうせて聞えずなりつ。是より鈴鹿の關、石藥師へかゝるまで所々巖多かり」など云る、此地の事をも、猶よく考へ見べきなり。然るに古注どもには、湯津磐村《ユツイハムラ》と書たる字を、後に湯津磐《ユツハノ》村と訓(ミ)誤りて、一の名所と心得たりとて、是を後俗のしわざとのみ思ひあなづりたれど、猶いはゞ、彼(ノ)川上村(237)に名高きゆつ岩むらの在ける故に、其處《ソコ》をゆつはの里とも、村とも云(ヒ)そめたるなれば、何の妨かあらん。更に按に、此(ノ)十市皇女の神(ノ)宮に參赴《マウデ》給へるを、昔より齋壬に立給ひて、齋(ノ)宮へ入給ふとのみ心得來つる故に、昔の古道筋をたづねて、あらぬ所を引當などせるべければ、定らぬなるべし。此卷の下卅丁右に、和銅五年壬子夏四月。遣2長田(ノ)王(ヲ)于伊勢齋宮(ニ)1時。山邊(ノ)御井作(ル)歌「山(ノ)邊乃御井|乎《ヲ》見がてり神風之伊勢處女どもあひ見つるかも」とある、是は齋宮群行なれども、鈴鹿街道を經給へり。さて此等の端書と今とをくらべ見て、今は齋宮にあらざる事を知べし。又十三(ノ)五丁右の長歌に「神風の。伊勢乃國者。國見者。綾爾乏毛。山見者。高(ク)貴(シ)之云云。山邊乃。五十師乃原爾《イシノハラニ》。内日刺。大宮|都可倍《ツカヘ》云云』反歌「山(ノ)邊乃|五十師乃《イシノ》御井者|自然成錦乎張流《オノヅカラナレルニシキヲハレル》山可母」などよめる、山邊の御井も、石藥師の北の古(ル)道にて、彼(ノ)川上村と遠からぬ所なり。其(ノ)所を五十師《イシノ》原と云も、石巖の多かるより、名ともなれる也。如此これかれと、由ある事をも思ふべし。されど彼(ノ)川上村に、いよ/\横山と云ありて、巖多くありや否や、おのれ未(ダ)行ても見とめざれば、慥に其處《ソコ》と定めがたし。たゞ何とかや、此道筋の捨がたき心ちすれば、かくはいひおくになん。
○吹黄刀自《フキノトジ》」考注云。同じ氏名は、卷四にも出。さて天平七年(ノ)紀に、富紀《フキノ》朝臣てふあり。今は是を訓の假字にて、吹黄と書るか。されどおぼつかなし。刀自は、もと戸主《トジ》の意なるを、其後|喚名《ヨビナ》にもつきしなり。元正天皇紀に、茨田(ノ)連刀自など云る類多し』【已上】 今按に、吹黄《フキ》も、富紀《フキ》も、姓氏録にも見えず。此外はをさ/\見あたらねば、さしおきぬ。刀自の意は、考注の如し。猶委き事は、下の歌に云べし。歌は此《コヽ》の外には、四【十三丁】二首出。
 
(238)河上乃《カハカミノ》。津津磐村二《ユツイハムラニ》。草武左受《クサムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。常處女煮手《トコヲトメニテ》。
○河上乃」仙覺抄云。かはかみは、水の出れば云』代匠云。波多横山より流出る川上に、巖のたてるを云』考注云。こはかはかみ、かはらなども訓べけれども、右にいふ所に依て、暫かはづらと訓(ム)』略解云。かはのべの也』【已上】 今按に、古點にかはかみのと訓たるに、從ふべし。
○湯津磐村二《ユツイハムラニ》」代匠云。延喜式第八、祈年祭《トシゴヒマツリノ》祝詞の中に、四方御門爾《ヨモノミカドニ》。湯津磐村能如塞坐※[氏/一]《ユツイハムラノゴトクサヤリマシテ》。と云り。是はいほついはむらを約めていへる也。神代紀(ノ)上云。遂《ツヒニ》拔《ヌキテ》2所帶十握劔《ミハカセルトツカノツルギヲ》1。斬《キリテ》2軻遇突智《カグツチヲ》1爲《ナシ玉フ》2三段《ミキダト》1。此各《コレオノ/\》化2成《ナル》神《カミト》1也。復劔刃垂血《マタミツルギノハヨリシタヽルチ》。是|爲《ナル》2天(ノ)安(ノ)河(ノ)邊(ニ)所在《アル》五百箇磐石《ユツイハムラト》1也。とあり。村はむら、むれ、皆群の字の心にて、おほきを云。崇神紀に、百襲姫《モモソヒメノ》命の箸御墓《ハシノミハカ》を、大坂山の石にて築ける時、時の人のよめる歌にいはく「大坂につきのぼれるいしむらをたごしにこさばこしがでんかも」是も石のしげきを、石村とよめり云云』【此已下の釋はまだしかれば省きつ。】考注。神代紀(ニ)云云。祝詞(ニ)云云。湯津桂《ユツカヅラ》、湯津爪櫛《ユツヅマグシ》、など、皆木の枝の多く、櫛の刺《ハ》の繁きをいふ也。仍て古へより五百《イホ》を約(メ)て、湯《ユ》と云を知(レ)。村は群の意なる事既に出』記傳【五(ノ)七十一葉左】云。湯津石村《ユツイハムラ》。書紀には、云云と書り。師説に、五百《イホ》を約(メ)て、由《ユ》と云り。今云、伊富《イホ》を切《ツヅム》れば、與《ヨ》なれど、與《ヨ》と由《ユ》とは、殊に近(ク)通ふ音なり。自《ヨリ》を古言に由《ユ》とも、與《ヨ》とも云たぐひ也』【已上】 今按に此語は此等の釋にて、のこる隈もなし。
○草武左受《クサムサズ》」考注云。草もおひぬ堅巖《カキハ》の如く、常《トコ》しなへにもと、心得べし。牟須《ムス》は、生《ウム》こと也。紀に産靈〔二字傍線〕此(ヲ)云(フ)2美武須比《ミムスビト》1と有て、武須《ムス》に産(ノ)字をあつ。常にも生《ウミ》の子を、むすこ、むすめと云是也』【已上】 今按に、後世は、苔にむすとよみ習ひたれど、續(239)紀(ノ)詔詞、又此集十八【二十一丁】の長歌にも、山行者《ヤマユカバ》。草牟須屍《クサムスカバネ》。など草にも云り。
○常丹毛冀名《ツネニモガモナ》」代匠云。此いはほどもの、いくら世をふれども、草のおひぬ如く、われも仙女のごとき壽命をたもち、常處女《トコヲトメ》にて、いつとなくこゝにながめをらばやと、女の歌なれば云る也。おほよそおもしろき所、月花などに對して、身の常ならぬ事をなげくやうによめるは、むかへる所の物をほむとて、貪愛《ドンアイ》するやうにいへば也。第三(ノ)卷に大納言旅人「わが命もつねにあらぬか昔みしきさの小川を行て見むため」第六、笠(ノ)金村「萬代に見どもあかめやみよしのゝ瀧つかふちの大宮所」「人みなの命もわれもみよしのゝ瀧のとこはの常ならぬかも」初の歌をも、此《コヽ》にかくは、次の歌の心を、あらはさんため也。弓削皇子の吉野にての御歌に「瀧のうへのみふねの山にゐる雲の常にあらんとわがおもはなくに」第三に在(リ)。是も山の見あかぬよりの給へり。列子(ニ)云々。齊(ノ)景公牛山の嘆も、こゝに引べし。鎌倉右府、今の歌と、古今集「みちのくはいづくはあれど」と云兩首をとりて「なぎさこぐあまの小舟」と云秀歌はよまれたるを、無常を觀ずる心にのみ釋しなせり。清少納言に「云々かうらいべりのたゝみの、こまかにへりのもんあざやかに、くろうしろう見えたる、引ひろげて見れば、何か猶さらに、此世はえ思ひはなるまじと、命さへをしくなると申せば、いみじくはかなき事も、なぐさむかな。おばすて山の月は、いかなる人の見るにかと、わらはせ給ふ。さぶらふ人も、いみじくやすき、そくさいの祈りかなと云」とかけるをおもふべし。戀する人も「をしからざりし命さへながくもがな」とよめるかし』考注云。がもなは、願ふ辭、故に冀ともかき、集中に欲得ともかきつ』【已上】 今按に、此(ノ)冀名《ガモナ》の願ひは、刀自が我身常ならんと願ふには非ず。皇女の御身を願(240)ひてよめる也。代匠の釋はめでたかれど、今此歌にはくひちがひたり。さてついで云(フ)。常《ツネ》と云に、尋常の庸《ツネ》と、無常の常と、無窮の常との三(ツ)あり。尋常の意なるは、五【二十七丁】常斯良奴《ツネシラヌ》。國《クニ》【ノオクカヲ、】又、【二十八丁】――【ミチノナガテヲ、】七【三十三丁】――【ヒトグニヤマヲ、】十【二十八丁】如常哉《ツネノゴトクヤ》【ワガコヒヲラム、】十二【六丁、又十三丁】空蝉常辭《ウツセミノツネノコトバ》【トオモヘドモ、】などの類也。無常の意なるは、七【二十六丁】人之常無《ヒトノツネナキ》。十九【十三丁】常毛奈久《ツネモナク》【ウツロフミレバ】、又【二十八丁】空蝉毛《ウツセミモ》。無常《ツネナク》【アリケリ、】又【同丁左】世間《ヨノナカノ》。無常事《ツネナキコトヲ》。などの類也。無窮の意なるは、三【十三丁】居雲乃《ヲルクモノ》。常《ツネ》【ニアラント、】又【十四丁】立雲之。常【ニアラント、】六【十三丁】多吉能床磐乃《タギノトコハノ》。常《ツネ》【ナラヌカモ、】廿【五十九丁】伊蘇麻都能《イソマツノ》。都禰《ツネ》【ニイマサネ】などの頼也。今此句も、【無常のなきを、願ひ欲する意と見ても、聞ゆれど次の常《トコ》と云に合するに、猶無窮におはせかしと願ふ也。此皇女の御事、若(シ)上に云(ヒ)し如くならば、此時の御願、生死にかゝりて、長くは生《イキ》まさじと思ほしめすみけしきを見とりて、如此《カク》はよめるならんかし。
○常處女煮手《トコヲトメニテ》」考注云。とこしへに若き女にてをらんを願へり』略解云。とこしなへに、をとめにてましませと也。卷廿「いそ松のつねにいまさね今も見るごと」とよめり』【已上】 今按に、此考注も、又たがへり。略解に云るが如き也。歌の上に、君と指せる詞はなけれども、奉仕《ツカヘマツ》る皇女を除《オキ》きて、我身のみ祝ふべきにあらず。殊に處女《ヲトメ》としもいへるものをや。此詞、刀自が身には適《カナ》はず。皇女を指せる事明(ラ)けし。さて乎登賣《ヲトメ》とは、凡女子の七八歳比より未(ダ)人の妻《メ》と、成定(ラ)ぬほどを云て、今世にむすめと云が如し。記傳【四(ノ)二十九葉】云。袁登賣《ヲトメ》は袁登古《ヲトコ》に對(ヒ)て、若く盛なる女を云稱なり。
 〔細註〕 萬葉には、處女、未通女など書れば、未(ダ)夫嫁《ヲトコセ》ぬを云るに似たれども然らず。既に嫁たるをも云ふ。倭建(ノ)命の御歌に、袁登賣能《ヲト()》。登許能辨二《トコノベニ》。和賀於岐斯《ワガオキシ》。都流岐能多知《ツルキノタチ》云云。とある、此|袁登賣《ヲトメ》は、美夜受比賣《ミヤズヒメ》にて、既に御合坐(241)而《ミアヒマシテ》、御刀を其許《ソコ》に置賜しことなり。又輕《カルノ》太子の輕大郎女《カルノオホイラツメ》に※[(女/女)+干]《タハケ》て後の御歌にも、加流乃袁登賣《カルノヲトメ》とよみ賜へり。是等|嫁《トツギ》て後を云り。又|童《ワラハ》なるをも云る事多し。袁登古《ヲトコ》とは、童なるをばいはず。中古にも元服するを、壯士《ヲトコ》になると云るにても知るべし。然るに女は童なるをも袁登賣《ヲトメ》と云はひたすらに少《ワカ》きを賞《メヅ》る故にやあらん。又同【九(ノ)十九丁】曰、下卷に、婚2是(ノ)童女《ヲトメニ》1とあれば、こゝもむげにいときなきにはあらじ。書紀に、少女、幼婦、萬葉六に、漁童女《アマヲトメ》なども見え、和名抄に、小女。和名|乎止米《ヲトメ》。童女同v上。ともあれば、童なるをも云るなり』【已上記傳】此釋、委(ク)はあれど、ひが事多し。そは此(ノ)乎止米《ヲトメ》と云稱は、本(ト)緒留《ヲトメ》の義にて、髪の形より云稱なりければ、少壯に拘《カヽハ》るべきに非ず。引田部(ノ)赤猪子は、古事記に、既に經(タリ)2八十歳(ヲ)1とあれども、袁登賣《ヲトメ》と云り。されば若く盛りなる稱にも非ず。又|袁登古《ヲトコ》は、壯《サカ》りなるを云(ヒ)、女は幼少なるをも云も、髪に依てなり。少《ワカ》きを賞《メヅ》る故にはあらず。此髪の制や、たとはゞ今世のむすめの嶋田と云髪の如くにて、人の妻《メ》に成(ラ)ざる程の粧ひ成し也。されば彼(ノ)美夜受比賣《ミヤズヒメ》、輕(ノ)郎女などは、只|袁登賣《ヲトメ》ながらに、婚《ミアヒ》坐(シ)しにて、未(ダ)妻と成定たるにはあらざりき。則今(ノ)世にて、むすめにして、男に婚《アフ》ことあると同じ事也。猶此外、人の妻と成たる婦人を、袁登賣《ヲトメ》と云る例|曾《カツ》てなし。凡てかゝる男女の稱は、皆本(ト)は髪の形貌より云(ヒ)始たる事、委く考へて、別に一冊あり。下に釋すべき處あらば、引て云べし。今此歌にては、たゞ常處女《トコヲトメ》と云詞の上なれば、あながちにとり分ちがたし。
○一首の意は、此(ノ)河上に立る巖どもの、いつも苔だに生《ムサ》ずある如く、君も喪《モ》なく、事なく、今のわかき御貌《ミカタチ》にて、この巖のごとく、無窮《トコシヘ》にますよしもがなと願へるなり。そひまつれる老女のものあんじより、かくはよめるならん。たけ高くめでた(242)き歌なり。
 
吹黄刀自未v詳也。但紀(ニ)曰。天皇四年乙亥。春二月乙亥朔丁亥。十市(ノ)皇女。阿閉(ノ)皇女。參2赴於伊勢(ノ)神宮(ニ)1
此紀の文に、十市(ノ)皇女を、載たるは、紛《マガ》ひたるよし、既に云(ヒ)しがごとし。
 
麻績王《ヲミノオホキミ》。流《ナガサレケル》2於伊勢(ノ)國|伊良虞嶋《イラゴジマニ》1之時《トキニ》。時〔左〔〕人哀傷《ヨノヒトノカナシミテ》作(ル)歌一首
○麻績(ノ)王」代匠云。をうみと云べきを、うみを上略して、をみと云。續の字は、績にやと思ひつれと、日本紀、延喜式、此集、みな續の字をかけり。續麻(ハ)自績 《也》と字書にあれば、同じこと也』【已上】 今按に、績續〔二字傍線〕、同じこととはいへど、書紀も此集も、古本には專ら麻績とあるを見れば、後に誤りたるならん。又其字義も、差《ケヂ》めなくば有べからず。今は家藏の古本に依て改(メ)つ。此王は、天武紀に、三品麻績(ノ)王とある外は、勘る物なし。歌も此《コヽ》の外には見えず。
○伊勢(ノ)國。伊良虞嶋《イラゴジマ》」代匠記。左註(ノ)下(ニ)云。此注。猶不審のこれり。まことに日本紀は、此に引る如くなれども、いらごの嶋の玉藻かりますとは、故なくしてはよむべからず。若し初は、伊勢へ流しつかはされけるを、後に改めて、因幡へうつされけるを、日本紀には、後を取て記し給へる歟。大神宮の神衣奉るにつきて、麻績《ヲミ》氏、服部《ハトリ》氏の者、彼(ノ)國にあり。麻績(ノ)王と云名につきて、因幡なれども、いらごが嶋とよめる歟。これは入ほかなれど、後の人に、猶心をつけしめんとて也』考注云。今本伊良虞乃上に、伊勢(ノ)國とあるは、物よくしらぬ人の、傍にかきけむを、又後の人みだりに、本文に加(ヘ)しもの也。そのよしは下に見ゆ。【とてその】下に又云。いらごの崎を、志摩國に在と思へるも、ひが事ぞ。こは參河國より、しまの答志《タブシ》の崎の方へ向ひて、海へさし出たる崎故に、此下の伊勢の幸の(243)時の事、思ひはかりてよめる、人萬呂の歌には有也。然は右の紀に、違へるのみならず、いらごを伊勢と思へるもひが事也。後の物ながら古今著聞集に、伊與(ノ)國にも、いらごてふ地ありと。因幡にも同名あるべし』【已上萬葉考(ノ)説。略解是を採て云るのみ。】』 今按に、考注に、如此《カク》云(ヒ)て、伊勢(ノ)國の三字を削り、端詞を直せるは、いみじき私事也。其(ノ)云(ヘ)る所の僻事どもを辨へむに、伊良處は、もと志摩につけり。其志摩は、又伊勢(ノ)國に屬《ツキ》ければ、古くは伊勢(ノ)國伊良虞とはいひし也。志摩を伊勢國と云ひし事は、持統天皇、志摩(ノ)英虞《アゴ》に行宮を作らせて、度々行幸ありけるに、毎度ながら、幸2伊勢國1とありて、志摩(ノ)國とは記されざりしが如し。猶此(ノ)唱へは、中昔後近來までもしかいひき。山家集に「伊勢のたぶしと申す嶋には、云云。またあごと云嶋、またいらご嶋」など云り。鴨(ノ)長明(ノ)伊勢記も、もはら同じ。【此等の本文は、下の人麻呂(ノ)歌の條に引べし。】伊勢名所拾遺集【慶長年間の撰にて延寶九年に印行】云「昔より志摩をば、伊勢といひならへり。此集に志摩の名所を出す事は、皆是に依てなり」行嚢抄東海(ニ)云「伊良虞嶋ハ、自2船路1左ニ見ユ。志州(ノ)島也。此島ニ伊良虞大明神ノ山見ユ。西國大廻ノ船ヲ乘者ハ、此伊良處ノ嶋ニ副テ、太王崎ナド云難所ヲ乘ル云云」正廣日記云。文明五年八月七日、伊勢に下り山田と云所に、四五日やすらふ事ありて、十五日に大湊と云所より船にのり、其國の伊良兒のわたりとて、すさまじき所をこし侍るに、こよひは十五夜なりけり。むかしは所々にて歌などよみ侍るに、思ひの外なるこゝちして、かぢ枕にとまる月をわづかに見て「いにしへを思ひいらごの月みればかひのしづくぞ袖におちそふ」云云【此日記も行嚢抄に引(ケ)るをひきつ】凡(ソ)此等もて、近き比までも、專(ラ)伊勢(ノ)國伊良虞と云(ヒ)し事を知べき也。其(ノ)地理を考るにまことに伊勢とすべきものにぞある。志摩(ノ)鳥羽より、此嶋へ海上五里、同國の答志《タブシノ》崎に粕並(ビ)て、其(ノ)(244)間わづかに三里也と云。然るに參河國の吉田の海よりは、二十里はなれたり。【猶此地の精き事は、下の人麻呂の三首の歌の條に云を見べし。】思ふに彼(ノ)行嚢抄に云る、伊良虞(ノ)内の、大王嶋ぞ、此(ノ)王の謫居なりけん。一子たちに對(ヘ)て、父王を大王と稱して、其名の遺りつらんとぞおぼしき。彼(ノ)代匠記に云る、麻績《ヲミ》氏の事は、神祇令(神祇令曰。孟夏神衣祭。義解云。謂2伊勢神宮祭1也。此|神服部《カムハトリベ》等。齋戒潔清。以2參河赤引神調(ノ)糸(ヲ)1。織2作神衣(ヲ)1。又麻績(ノ)連等。績v麻(ヲ)以織2敷和衣《ウツハタノミソヲ》1。以供2神明1。故曰2神衣1云云)に見えたれば、もとよりの事なれども、此王も其一族なりければ、此(ノ)國にしも下されたるならん。かゝれば書紀に、因幡とあるは、其ほど一旦さる令命も有けるまゝ、初(メ)と後と、混雜せしなるべし。【行幸などの日時の、書紀と、此集と違へるも、皆其(ノ)でうなり。】よく考るに、其一子|等《タチ》だに、伊豆(ノ)島、血鹿(ノ)島等の遠流なるに、其(ノ)罪ある本人の、因幡ならん理(リ)なし。又因幡に伊良處と云地見えず。彼(ノ)國は、海はわづかにて、邑美《オフミノ》郡に、海士島《アマジマ》、法美《ハフミノ》郡に、永嶋と云嶋あれど、小島にて、流人をやるべき島にあらず。此外に嶋はなし。さて常陸(ノ)風土記曰。此(ヲ)謂2板來(ノ)驛(ト)1。其(ノ)西(ニ)榎(ノ)木成(セリ)v林(ヲ)。飛鳥淨見原(ノ)天皇(ノ)之世(ニ)。遣(ハシテ)2麻績(ノ)王(ヲ)1之|居處《ヲラシム》。とある。此《コ》は又伊良虞より、後に移れるか。いかにもあれ、是も東國に流されたる一(ツ)の據なり。かくて此端詞に、仙覺本、時(ノ)字一字脱したり。
○此あたり、古點もさせる變《カハ》りあらざれば、一(ツ)に擧ぐ。
 
打麻乎《ウチソヲ》。麻績王《ヲミノオホキミ》。白水郎有哉《アマナレヤ》。射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》。珠藻苅麻須《タマモカリマス》。
○打麻乎《ウチソヲ》」仙覺抄云。打麻乎《ウツアサヲ》。うつと云は、ものをほむる詞也云云』代匠云。第十二に、をとめらがうみをのたゝりうちをかけと侍る所に、今の如く書て、うちをとよめり。麻をわきて、よくやは(245)らげてうめば、うちをと云なるべし。今もうちをゝと、四もじにもよむべし。うちをといへば、打の字も躰となり、うつあさといへば、打の字用也。うちあさとよめば、うちをと同じ。うつとよむはあしかるべし。うちあさを苧《ヲ》にうむとつゞけたるか』冠辭考云。こはうつくしき麻を、うむとかゝれり。【打は借字なり。】うちを、うつくしとする事、上に云るにおなじ。【今云、こは内日指宮と係る内の事をいへるなり。】今本に、うつあさをとよみたれど、卷十六に、打十八爲と有は、うち麻者《ソハ》してふ意なれば、正《マサ》にうちそはしとよむべく、卷十二に、をとめらが績麻《ウミヲ》のたゝり打麻懸と有も、うちそかけとか、うちをかけとかよむべくて、此等はあさとはよまれず。故に今をとも、うちそともよむ云云』【已上】 今按に、打(ノ)字は、正字にて、打たる麻《ソ》を、績《ウム》とかゝる也。ををうむには、今も麻《アサ》を振打《フリウチ》、ほごしてうめば也。さて此(ノ)打麻《ウチソ》もかの内日指宮とかゝる打も、うつくしと云にはあらざる事、内日指(ノ)條にて、委くわきまふべし。
○白水郎有哉《アマナレヤ》」代匠云。あまにてあればにや也』考注に、白水郎|有我《ナルヤ》と改む』小琴云。有哉ハ、本ノマヽニナレヤト訓ベシ。ナレバニヤト云意ノ事ニテ、例イト多シ。ナルヤト訓テハ、聞エ安キヤウナレド、古ノフリニ非ズ。集中ニ例ナシ』略解云。あまにてあればにや也』【已上】 今按に、なればにやにては、疑(ヒ)の哉《ヤ》なり。さては此歌に叶はず。其よしは次に云べし。【白水郎の事は、既に此釋の二(ノ)卷、五十五丁に出(ヅ)】
○珠藻苅麻須《タマモカリマス》」考注云。玉藻は、藻に白き子《ミ》を結ぶ故に云。麻須《マス》は、おはします也』【略解同説】』 今按に實をむすぶをもて、玉といはん事おぼつかなし。それもまことに玉の如き實をむすばゞこそ、然か云こともあらめ、目につく程の物にはあらず。こは猶玉笹、玉椿などの類の、美賞《ホメ》言なるべし。又|麻須《マス》も、いつもの崇《アガ》め言にて、苅給ふといふ意ならん。さて此歌の「れや」を「ればにや」の意と(246)しては、只海人にてあればにやあらん。玉藻|苅坐《カリマス》と云のみにて、端詞に、哀傷作《カナシミテヨメル》歌といふにかなはず。されば此|哉《ヤ》は反語にて、其うらをいへるならん。そは、
○一首の意は、麻績《ヲミノ》王は、海人にあれやは、海人にも坐《マサ》ざるに、あな痛ましや。いらごの嶋の玉藻かり給ふよ、と心得なんかし。十四に「われわするれや」十八【長歌】に「あまさかるひなに一日も在べくあれや」九に「あぶりほす、人もあれやも」十九に「おもふらんその子なれやも、云云」などよみたる皆反語なり。
 
麻績王《ヲミノオホキミ》。聞之感傷和《キカシテカナシミテコタヘ玉フ》歌
 
空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》。浪爾所濕《ナミニヌレ》。伊良虞能島之《イラゴノマノ》。玉藻苅食《タマモカリヲス》
○空蝉之《ウツセミノ》。命乎惜美《イノチヲヲシミ》」諸抄釋なし。今云。空蝉之《ウツセミノ》は、枕詞。【既に釋三(ノ)五十丁(ニ)出。】惜美《ヲシミ》は、惜き故にの意にて、此《コヽ》は其枕詞を活《ハタラ》かして、顯《ウツ》しき身の命がをしくての意と見ても通《キコユ》る也。
○浪爾所濕《ナミニヌレ》」考注云。所は、ぬれの、れに當りぬ。言の意をしらせて書のみ』略解云。元暦本、ひぢと訓り。ひぢは、ひづちと同じく、元は泥付《ヒヂツキ》の意にて、ぬるゝことにいへり。こゝは所の字、ぬれの禮の言に當てかきたれば、ぬれと訓(マ)んかたまされり』【已上】 今按に、所(ノ)字は良行【ラリルレロ】の音よりして、留の未(ダ)v然、ほゆ、見ゆなどの由《ユ》、又見え、聞えなどの衣《エ》に當て書る事、初(メ)の【額田王(ノ)歌】所念《オモホユ》の下に云るがごとし(略解の、泥付《ヒヂヅキ》の釋は用ふべからず。ひづは、たゞ浸漬《ヒタル》を云言にて、俗にビッシヨリヌレタなど云、ビッシヨリと同言也。泥を云も、浸漬《ヒヂ》たるより云て、泥土《ヒヅチ》などは、借て書る也。其(レ)を語の本とな心得そ)
○珠藻苅食《タマモカリヲス》」考注云。もの食《クフ》を袁須《ヲス》と云。允恭紀に、御食を、美袁志《ミヲシ》と訓る是也』【已上】 今按に、食《ヲス》(247)は、天(ノ)下しろしをすとも云(ヒ)、また其(ノ)所知《シラセル》國を、をす國など云(フ)食《ヲス》と同語にて、袁須《ヲス》とは、凡て身に受いるゝを云(フ)。又見す、めす、きこすなど云も、皆同意なり。今(ノ)世の言に、飯《イヒ》を、めしと云も、常に身にめしいるゝより、それが體語となれりし。【扨前の歌に、かりますといひ、此歌にかりをすと、とぢめ給へるを思ふに、端書に云る時人は、既に流されて後よめるにて、京を出立給ふ時、思ひやりてよみたるにはあらず】
○一首の意、似閑書入云。流人トナリテモ、サスガニ命ハ惜ケレバ、浪ニヌレツヽ、嶋ノ海人ト共ニ、海藻ヲ苅テ、御食《ミヲシ》スルヨト也』(或古人ノ書入)ニ云「命ヲ惜ミ浪ニヌレト云(フ)カヽリ、後ノ歌ナラバ浪ニ涙ヲ兼タリトモ見ルベケレドモ、此頃未(ダ)サル事ハ有ベカラズ。但シ集中ニモ、思ヒノ外、巧ミナルモアレバ、今此歌モ、命ヲ惜ミ、涙ニ濕テノ意アルカ。何レニモアハレナルヨミナシナリ。後世ノ歌人モ、此心ニナラヘ」)
考注云。かくても命は捨がたくて、藻をかりて食《ヲシ》ものとして、ながらふぞとのたまへる、古へのまことある歌にて、悲しさ餘りあり』【已上】 今按に、此等の釋にて、殘る所なかるべし。さて此人々の如此《カク》あはれがれるは、よみ主の心を云へるなり。そは後世の人ならば、かゝる時に悔みても、さかしらに、かの罪なくして配所の月を見るなどやうの事どもをまうけ出で、何とかかしこげにいひなすべきを、少しもまけず魂(ヒ)のあらざるを云る也。二【二十二丁】に、有間皇子罪ありて、紀の藤代へ召れ給へる時、岩代の濱にて「いはしろの濱松が枝を引結び眞幸くあらば又かへり見む」「家にあらは笥《ケ》にもる飯《イヒ》をくさ枕たびにしあれば椎の葉lこもる」三【四十五丁】に、大津皇子謀反顯れて、磐余《イハレノ》堤にてうしなはれ給へる時の御歌に「百傳《モヽツタフ》いはれの池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲かくれなん」これ皆古人の情《マコト》なり。又歌の本意なり。
 
右按2日本紀1曰。天皇四年。乙亥夏四月戊戌朔乙(248)卯。三品麻績(ノ)王。有v罪流2于因幡1。一子流2伊豆島1。一子流2血鹿《チカノ》島1也。是(ニ)云(フハ)v配2于伊勢(ノ)國伊良虞島1者。若疑(クハ)後人縁(テ)2歌(ノ)辭(ニ)1而誤(リ)記(セル)乎。
今按に、此筆者も、書紀のみを信じて、深くも考へざりし也。さて此處に、代匠も、考注も、此書紀の文を信《タノミ》て、却て此集を、後人の所爲とせる論(ラ)ひどもあれど、そは皆前條に引出て、辨へたれば此《コヽ》にはいはざる也。
 
天皇御製歌
 〔細註〕 考注。次の天皇幸2于吉野宮(ニ)1時。とある下に云(ク)、同天皇、同吉野(ノ)大御歌なるに、端詞を異にして並べ載(セ)しを思ふに、此天皇の紀に、吉野の行幸は稀に見ゆるを、上の大御歌の意はあまた度|幸《イデマ》しゝさまに聞ゆ。然らばまだ皇大弟と申す時の事なりけむ。そはもし此山に、遁れ入ります時、よみ給ひしにやとさへおもはるゝ也。かゝれば上なるは、時も定かならず。こゝのは大御位の後にて、定かなれば、幸としるせしならんか』【已上】 今按に、これよろしき考へならん。然るときは、後より崇(メ)て天皇御製歌とは記せしなり。又此天皇、未(ダ)皇太子に坐し時、圖らず吉野山に遁れさせ給ひし事は、既に此卷の始の標下に引る、天智紀の文に見ゆ。かの御時、天智天皇の御隱謀、大友(ノ)皇子の叛逆、これかれの御物思ひ、此大御歌に粗《ホヾ》顯はれて聞ゆれば、まことに其《カノ》時の御製なるべし。
 
三吉野之《ミヨシノノ》。耳我嶺《ミカノミネ》【疑嶺下脱2嶽字1乎。】爾《ニ》。時無曾《トキナクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。
間無曾《ヒマナクゾ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時無如《トキナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。問無如《ヒマナキガゴト》。隈毛不落《クマモオチズ》。思乍叙來《オモヒツヽゾクル》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
此古點のよみは、させるたがひもあらざれど、僅に一字の疑ひによりて、更に改(メ)て擧るなり。
三吉野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺|嶽〔左〔〕爾《ミガネノダケニ》。時無曾《トキナクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《ヒマナクゾ》。雨者零計類《アメハフリケル》。其雪乃《ソノユキノ》。時無(249)如《トキナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。問無如《ヒマナキガゴト》。隈毛不落《クマモオチズ》。思乍叙來《オモヒツヽゾコシ》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
○三吉野之《ミヨシヌノ》」考注云。三《ミ》は眞《マ》にて、ほむる辭』今按に、彼(ノ)熊野を、三熊野《ミクマヌ》とも眞熊野《マクマヌ》とも云が如し。此事既にも云ひつ。【集中、此地をよみたる歌、殊に多し。其大抵は、一(ノ)一五丁、又一八丁、又二十三丁、二(ノ)十四丁、一(ノ)二十八丁、三(ノ)十四丁、又二十六丁左右、又卅三丁、又四十八丁、六(ノ)十丁ヨリ、十一丁左マデニ、長短九首、又十二丁左ヨリ、十四丁右マデニ、長短八首、又廿二丁、又卅二丁二首、七(ノ)九丁、又十三丁、九(ノ)十四丁、又十五丁五首、十(ノ)十丁、十三(ノ)十九丁、又廿丁、又左二首、十八(ノ)廿三丁二三首、十(ノ)四十丁等に出で、凡(ソ)百首にも及ぶべきほどの中に、假字して書たるは、十八(ノ)廿三丁右に、美與之努乃とあり。是に因て訓みつ。
○耳我嶺嶽爾《ミガネノダケニ》」考注云。耳我嶺爾《ミガノミネニ》。耳は、借字にて、御缶《ミミカ》の嶺也。卷三【今の十三】此歌の同言なる歌に、御金高《ミガネノダケ》とあれど、金は、岳の誤り也。こゝに耳我と書しに合せてしらる。後世金の御嶽と云は、吉野山の中にも、勝れ出たる嶺にて、即此大御歌の詞どもに、よく叶(ヒ)ぬ。然れば古へも、うるはしくは御美我嶺《ミミガネ》といひ、常には美我嶺《ミガネ》とのみいひけん其みがねを、金の事と思ひたる後世心より、金(ノ)獄とよこなまれる也けり。かの卷三【今の十三】に、缶を、金《カネ》に誤しも、後世人のわざなる事顯也。別記(ニ)あり。
 〔細註〕 同別記云、御缶《ミミカ》の嶺《ネ》てふ意なるを思ふに、此山の形、大きなる甕《ミカ》に似たればにやあらん。今(ノ)十三に、同じ此句を、御金高爾《ミカネノダケニ》と喜誤しを思ひ、或は非時《トキジク》に雪の降てふにもより、又かくばかり吉野の中にも、ことなる嶺なるを、此御歌の外に聞えざるを思ふにも、後に金峯《カネノミタケ》と云ぞ、即是なること知るべし。かくて源氏夕貌に御たけさうじのぬかづく聲を聞て、かりの世に何をむさぼるらんと有と、今昔物語に、此嶺にこがね多き事いひしをさかのぼらせて思へば、今京このかたの人、此山は金《コガネ》ある故の名と思ひて、式にも金峯とは書しなりけり。皇朝の上つ代、いまだ金のあらはれざりし時に、こがねもて名づけん物かは。皆後人ゆくりなく思ひ誤り(250)し事、明らか也。
略解は、是に隨(ヒ)て、聊か云るのみ』今按に、此句は、嶺(ノ)下に、嶽(ノ)字を落せしにて、耳我嶺嶽爾《ミガネノダケニ》と有けむ。似たる字の重(ナ)れるを落せる處、これかれあり。さて耳(ノ)字は、弭の偏を省(ケ)るなるべし。集中、醜を鬼と書(キ)、石村《イハレ》を石寸と書る類也。もしは、さなくとも、訓もみゝ、又壬(ノ)字を、美《ミ》の假字に用る類ひもあれば、美《ミ》に借(ル)まじき物にもあらず。彼(ノ)考説に、さこそいへ、此(ノ)同大御歌を、十三《二十丁》に再(ビ)び載せたるにも正《マサ》しく三吉野之《ミヨシヌノ》。御金高爾《ミガネノダケニ》。とあるを誤とし、又神名式に、吉野(ノ)郡|金峯《カネノミタケノ》神社、【名神大月次新嘗】四時祭式に、金峯《カネノミネノ》神社などあるを、後世のわざとせる、こは強て押曲るなり。そも/\式こそ延喜(ノ)朝に録《シル》されたれ。神社の號、地名の唱へなどの、俄に改《カハ》るべき物にあらず。他《アダ》し社號、社地等(ノ)稱の、全《モハラ》往古《イニシヘ》のまゝなるを以て、此(ノ)金(ノ)峯も、古くよりの稱《ナ》なる事を知べし。いで古き物に、此(ノ)名の出たるを、一二いはむ。日本靈異記曰。吉野(ノ)金峯《カネノミタケ》。葛木峯《カツラギノダケ》云云。大和(ノ)國風土記殘編曰。山跡(ノ)國者云云。從(リ)2平城《ナラ》1至(マデ)2金峯山下《カネノミタケノフモトニ》1。浩々平陸《ヒロ/\ハレテ》。而其(ノ)間(ハ)惟《タヾ》有2畝傍山。耳梨山。天(ノ)香山1而已《ノミ》云云。また吉野(ノ)山(ハ)云云。此(ノ)山(ト)與2金峯高間等《カネノミタケタカマラ》1。數山相連《ヤヘヤマツラナレリ》矣。自(リ)2吉野(ノ)郷《サト》1。至(ルマデ)2金(ノ)峯(ノ)山中(ニ)1。旡《ナク》2他木《アダシキ》1。惟櫻樹連綿《タヾサクラギノミナミタテリ》也。など見ゆ。又彼(ノ)四時(ノ)祭の、令(ノ)義解曰。所v謂《イハユル》金嶺《カネノミタケハ》。萬葉集(ニ)。所(ロ)v詠(シ)2御金高《ミガネノダケト》1也。とあるを以ても、此集今本、誤字にあらざる事|著明《イチジロ》し。又彼の今昔物語に、此(ノ)嶽に、金の多かる事を記したるを後世の俗説と云(ヒ)なせれども、是も正語《マサナゴト》也。日藏上人、金峯山(ノ)記曰。延喜十六年二月。入2金峯山椿山寺1。薙髪(ノ)時年十二。絶(テ)2鹽穀(ヲ)1精修六年。聞(テ)2母氏(ノ)沈痛(ヲ)1始(テ)出(テ)v山(ヲ)歸v洛(ニ)省觀居2東寺1。學2密教1而往2來金峯1。天慶四年(ノ)秋於2金峯山1。剋三七日絶v喰不v語修2密供1。八月二日云云。上2西岩1。其岩積雪數十丈。漸至2山頂1。一切世界皆在2下面(ニ)1。山頂平坦純(251)金爲v地(ト)。光明照映。北方有2金山(ニ)1云云。と記したり。かゝれば其(ノ)金を以て、名となれる事、决《ウツナ》し。さるを考説に、皇朝の上代になかりし、金もて名づけん物かはと云るは、偏固《カタクナ》なり。當昔《ソノカミ》金を取り用る事こそはなかりけめ、山岳に含みたるを見たらんに、などか金《コガネ》とは云(ハ)ざるべき。神代にすら金山彦神坐(シ)、素盞嗚(ノ)尊(ノ)條にも、金の事は見えたるものをや。
 〔細註〕 斯て此山の事、行嚢抄、吉野(ノ)奥(ノ)條云。川分村(ノ)追分、自v是右ニ赴クハ十津川、天(ノ)川ニ會スル路、左ハ大峯山上ノ路也。洞川村、自2追分1十五町、龍泉寺、自v路在v左。此處(ニ)都藍尼(ノ)子、千岩龍池(ノ)足跡ノ岩アリ。西除自v路右(ノ)方ニアリ。岩石峙タル嶮峻也、鷹塒、是モ右ニアリ。金懸、自v路左ノ峻嶺也、籠所堂アリ。大峯入ノ山伏ノ籠ル併ナリ。東除、自v路左ニ在(リ)。峻嶺也。笙ノ窟、北ノ方也。山上藏王堂、此所ヲ專(ラ)金(ノ)御嶽トハ云也。自2安禅寺1至2于此1、四里半余ト云。本尊ハ行者小角ノ秘佛也 右(ノ)方ニ行者ノ像二體アリ。坊舍多シ。追分、山上ノ藏王堂ノ前ニ在。自v是東ノ方ニ登ルハ御山ノ道也。左ニ登ルハ小篠ノ護摩所也。左平等岩、笙(ノ)窟、日藏上人ノ籠リシ岩窟也。御山秘所ト云。行者歸、此峯、自v是ハ、人ノ通(ル)コト不V成。小篠(ノ)護摩堂、三宇並テ有。行者山伏ノ秘密也。紫燈(ノ)護摩ハ、此堂前ニテ修スト也。山上ノ藏王ヨリ、行程十六町、寵山、護摩所ノ南西ノ峻嶽ヲ云。胎内潜、行者護摩所ノ南ノ岩上ヲ云。萬仞ノ石壁ノ峙タル山也。釋迦嶽、伊南牟羅(ガ)嶽ハ行山ノ南ニ、峯高ク見エテ、谷ヲ阻テタリ。前手、是ハ釋迦嶽、イナムラガ嶽ヨリ、東南ニ在。此所ニ後鬼、前鬼ト云、異人ノ住ム所アリ云云」これは今|目《マ》のあたり見る所のさま也。かく佛の遺跡となりはてたるは、後のことなれど、猶はやくそのかみより、修行(252)する人は此山に入て物する例《ナラハ》しの有けるまゝに此天皇もいらせ給ひ、又其後、小角、日藏が屬の行人も入し也。彼(ノ)天智紀、十六年冬十月云云。東宮見2天皇1請d之2吉野1修c行佛道u。天皇許焉。東宮即入2於吉野1。とある、此入坐(ス)山は、即金(ノ)御嶽なりし事、准(ヘ)てしらる。さてかく天智の御隱謀に依て、爲便なくも遁れ入(ラ)せ給ひつれば、此端書に、其事を省きて記さざりしもうべにざりける。此天智紀の文は、上に出たれば、いたく省けり。大友皇子の事は、下の歌の條下に引べし。
○時無曾《トキナクゾ》。雪者落家留《ユキハフリケル》。間無曾《ヒマナクゾ》。雨者零計類《アメハフリケル》」考注云。卷十七に、越中の立山の歌にも、等許奈都《トコナツ》
爾《ユ》。由伎布理之伎底《ユキフリシキチ》。とよみ、又卷十六に、越後の彌《イヤ》彦(ノ)山を、青雲乃《アヲクモノ》。田名引日須良《タナビクヒスラ》。※[雨/沐]曾保零《コサメソボフル》。とよみて、異なる高山は、いづこも然り』【已上】 今按に、上に引く日藏(ノ)記に「八月二日云云。上(ルニ)2西岩(ニ)1其(ノ)岩積雪數十丈」とあるにて、非時《トキジク》雪の降る事を思ふべし。
○其雪乃《ソノユキノ》。時無知《トキナキガゴト》。其雨乃《ソノアメノ》。間無如《ヒマナキガゴト》」代匠云。此御歌は、興(ニシテ)而比とも云べし。初六句は、興、次の五句は比、終の二句は、本意を述給へり。』考注云。此大御歌の體なる、集中に多し。後世人はいかでまねばざるらん』【已上】 今按に、前の四句は、雪と雨とを合せ、又|時《トキ》と間《ヒマ》とを對(ヘ)てのたまひ、此《コヽ》の四句は、再び其(ノ)雪雨時間を受て、八句四聯の疊對、ほど拍子よく、玉を貫けるが如し。
 〔細註〕 柿本(ノ)人麻呂大人の歌、長きも長からざるも、凡て此(ノ)風調をはなれざるは、此ほど生(ヒ)出られて、此製風を慕ひ習へりしなるべし。そも/\此天皇、そのかみの帝紀、本辭の、正實に違へるを棄《キラハ》せ給ひ、古傳の舊事を口授して、永き世に傳へ、又孝徳、天智、兩朝の漢風をしりぞけ、皇神を崇め、皇祖の道を貴みなど、凡て(253)おむかしき事多かり。挂卷も畏こかれど、萬代の後までも、吾(ガ)學びの大祖とも仰ぎ奉るべきは此天皇にぞおはしましける。
さて此句までは、其雪雨の如く、御物思の繁きをのたまはん爲の序也。
○隈毛不落《クマモオチズ》」代匠云。道のくま/”\、ひとつものこさず也。上の軍王の歌の、一夜もおちずに同じ』【已上】 今按に、隈は、道の間の隱《コモ》りかに、折廻《ヲリタム》所を云。落ずは、漏らず也。既に出たる言どもなれば、かくて止(ミ)つ。【隈は、此釋(ノ)四(ノ)卷四十五丁に出(デ)、不v落は、二(ノ)卷六十丁に出(デ)たり】
○思乍叙來《オモヒツヽゾコシ》」今按に、此句を、考注も、略解も、もひつゝぞくる、と訓たれど、思(ノ)字を下に付て「ものもひ」「下もひ」などは、よむ事あれど、句の上にあるを、然か書たる、假字の例を見ざれば、言は餘れゝど、姑くおもひとよみつ。又來(ノ)字も、此《コヽ》はこしと訓べき也。上よりの御句々の運び、道すがら物をおぼしつゝ、山に入はてゝ、よみをはらせ給へるかゝりなればなり。
○其山道乎《ソノヤマミチヲ》」考注云。此山の面白きくま/”\を漏さず、いく度も、幸《イデマシ》て見ますと也』略解云。此山のくま/”\を、漏さず見まして、おもしろく思(ホ)しめしつゝ、山道を幸《イデ》ますと也』【已上】 今按に、此等の釋は、いみじきひが事也。上よりのかゝり、雪も雨も、只繁く間《ヒマ》なき御物思ひの序にこそあれ。いく度も幸《イデマ》さんの意もなく、又おもしろく思食意などは曾てなし。此一二句の續(キ)きは、深き山の事なれば、道の隈も多かれど、其くま/”\を、一(ツ)も漏さず、物思ひ乍《ツヽ》ぞ〔傍点〕來し〔傍点〕。其(ノ)山道を、と云運びなるをや。かくて、
○一篇の總意は、吉野山の中にても、金の御嶽は、とりわけ高山なりければ、雪も雨も、時なくひまなくふりけるが、我(ガ)物思ひも其雪雨の、間《ヒマ》なくしげくて、道の隈々一(ツ)も漏(ラ)さず、思ひつゞけてぞ來し、其長き山道を、と也。これまことに天智御隱(254)謀によりて、遯れ入給ひし時の、御歌とこそ聞えたれ。
 
或本歌
これもと同じ歌なれば、たゞ落字を補ひ、訓點を改めおくなり。
 
三芳野之《ミヨシヌノ》。耳我嶺〔左〔〕山爾《ミガネノヤマニ》。時自久曾《トキジクゾ》。雪者落等言《ユキハフルトフ》。無間曾《ヒマナクゾ》。雨者落等言《アメハフルトフ》。其雪《ソノユキノ》。不時如《トキジクガゴト》。其雨《ソノアメノ》。無間如《ヒマナキガゴト》。隈毛不墮《クマモオチズ》。思乍叙來《オモヒツヽゾコシ》。其山道乎《ソノヤマミチヲ》。
 右句々相換(ル)。因v此(ニ)載焉。
 〔細註〕 代匠云。此歌句にはかはれる事あれど心はもはら同じ』【已上】 今按に、古くは何事も、口實に傳へてし故に、斯る異同はある也。書紀などの、一書の傳へに、相換(ル)ことのあるが如きなり。さて非時《トキジク》と書て、常住不斷の意にも用ひ、又時ならぬ意にも多くいへり。此事は一(ノ)卷軍王の歌(ノ)條下に既に注しつれば、此《コヽ》には省けり。又十三(ノ)十二丁に、小治田之《ヲハリダノ)。年魚道之水乎《アユチノミヅヲ》。間無曾《ヒマナクゾ》。人者※[手偏+邑]云《ヒトハクムトフ》。時自久曾《トキジクゾ》。人者飲云《ヒトハノムトフ》。※[手偏+邑]人之《クムヒトノ》。無間之如《ヒマナキガゴト》。飲人之《ノムヒトノ》。不時之如《トキジクガゴト》。吾妹子爾《ワギモコニ》。吾戀良久波《ワガコフラクハ》。已時毛無《ヤムトキモナシ》。と云も見ゆ。これも右の大御歌の優れて貴《メデタ》く、當時名高かりけん故に、世の人羨て、其句調をまねぴうつせしなり。
 
天皇幸(マス)2于吉野(ノ)宮(ニ)1時(ノ)御製歌
○吉野(ノ)宮」考注云。應神天皇紀に、幸2吉野(ノ)宮1時。國栖人來云云。とあれば、古へより宮ありし也。齊明天皇紀に、造2吉野宮1とあるは、改め作らしめ給へるなりけり』【已上】 今按に、吉野宮は、雄略の御時を始(メ)とすべき歟。應神の御時などは、未(ダ)離宮は有べからねど、行幸と云に就て、其《ソレノ》宮とは書しならん。彼(ノ)宇治宮所《ウヂノミヤコ》などの類也。輿地通志曰。吉野行宮。五所(アリ)。一(ハ)池田(ノ)莊麻志口村。雄略天皇。二年冬十月。幸2吉野(ノ)御馬瀬(ニ)1。即此《也》。一(ハ)在2大瀧村(ニ)1。一(ハ)在2宮瀧村1。一(ハ)在2下市村(ニ)1。平城《ナラ》七代(ノ)天皇。屡幸(ス)2于此(ニ)1。と見えたり。さて天武天皇の行幸は、書紀(255)にあまた出たれば、今|何時《イツ》と知べからず。此集中にも【一(ノ)十六丁、又十八丁、三(ノ)廿六丁、六(ノ)十丁、又十一丁、又十二丁、又十三丁、又卅二丁、九(ノ)十一丁、又十八丁、又廿三丁、十九(ノ)卅一丁等に其歌見えたり。】十三四度も出たらん。今は大御位の後の幸なりければ、如此《カク》分て、記せし事、上に云つるが如し。
 此大御歌の訓は、古點の方よきやうなれば、古本の點を擧て、衆説を會せいふべし。
 
淑人乃《ヨキヒトノ》。良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。好常言師《ヨシトイヒシ》。芳野吉見與《ヨシヌヨクミヨ》。良人四來三《ヨキヒトヨクミ》。
○淑人乃《ヨキヒトノ》」代匠云。詩(ノ)曹風(ニ)。淑人君子。注云。淑(ハ)良貴也』考注云。上つ代に在し、賢き人をの給ふ也』略解同注』【已上】 今按に、六【二十丁】玉乎師付牟《タマヲシツケム》。好人欲得《ヨキヒトモガモ》。七【八丁】古之《イニシヘノ》。淑人見等《ヨキヒトミキト》。十【八丁】良人之《ヨキヒトノ》。※[草冠/縵]可爲《カヅラニスベク》。十八【二十丁】善事乎《ヨキコトヲ》云云。毛詩(ニ)淑女。字書曰。淑同v〓善(キ)也。とありて、古へによき人と云るは、【惡人に對へて善人を言のみにはあらずて】うま人と同じく、多く良貴の心に云(ヒ)つれば、賢人と云とは、少し別なるやう也(うま人は、仁徳紀の歌にも見え、又二(ノ)十一丁に、宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》ともよみ、顯宗紀に、貴人《ウマビト》、欽明紀に、良家子《ウマヒトノコ》などあり。賢人は、九(ノ)十五丁、五(ノ)廿一丁、十六(ノ)九丁等に出(ヅ)。又三(ノ)卅一丁に、古之《イニシヘノ》。七賢人等毛《ナヽノカシコキヒトタチモ》。ともよみたり)但(シ)古事記上。八千矛神(ノ)御歌に、さかしめと、くはしめと對によみませる、此さかしは、賢の字の心に近きやうにもあれば、相通はして云こともあるか。猶可考。
○良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》。云云」代匠云。吉野には、天武天皇の入(ラ)せ賜ひて後も、聖主、賢臣登り給ひて、ほめ給はずと云ことなく、美稻《ウマシネ》が仙女にあひ、【似閑書入云。當集柘枝(ノ)仙女の事也。】天皇も、天女にあひ給ひて、【似閑云。此説不審。彼(ノ)ヲトメ子が、少女サビスモノ歌ハ、第五、憶良ノ歌ニ似タリ。】天女のまふを見たまふ靈山なれは、第九、人麻呂集に出たる歌にも「古へのかしこき人のあそびけむ吉野の河原見れどあかぬかも」これらにあはせて、今の御製をも見る(256)べし』略解云。上代に在し、賢き人をさして、吉野は世にことなる所ぞとほめたる歌、集中に多し』【已上】 今按に、此《コヽ》によしとよく見てと詔(ハ)せるは、彼(ノ)仙人の類、又佛道修行の僧徒の事には有べからず。神武、應神、雄略(ノ)天皇《スメロギ》を初め奉り、此山を、よしと詔《キコシ》て、行幸《イデマシ》けむ、古への皇祖、又良臣等をもかけて、のたまふならんか。然る時は右の九(ノ)卷などの歌とは、其さしたまふ所、同じからざるべし。
○良人四來三《ヨキヒトヨクミ》」代匠云。此良人は、皇后、皇子たち、大臣などを指て、のたまへるなるべし』考注云。良人四來三《ヨキヒトヨキミ》。【良人よ君の意なり】と訓て、古のよき人、吉野をよく見て、實によしといへり。今の心有よき人は、君にこそあれ、よく見よかしとのたまふ也。【凡(ソ)によしと云は、實によしと定めがたし。賢さ人の、しかもよく見定めたるこそ、まことなれてふ意にて、此重ね詞はなしましたり。さて君てふこと、歌には天皇より臣をものたまへる例、古へは多し、此は大御ともの大きみ、まちぎみたちの中に、さし給へる人、有しなるべし】』略解云。よきひとよくみつ。古へのよき人云云。【此間全く考説と同じ。】と翁いはれき。僻案抄にはよき人よくみとよみ、荷田御風は、よくみつとよめり。よく見つと云は、上の句を打返して、再びいひをさむる、古歌の一體にて、しからむ』小琴云。良人四來三四。○來三。或人ノ、ヨクミヨト訓ルヲ用フベシ。ミトノミイヒシモ、見ヨト云意ニナル、古言の例也。ヨキ人ヨキミトイヘル訓ハ心得ズ』【已上衆説】 今按に、右釋|等《ドモ》の中に、代匠、考注等に、上の淑人《ヨキヒト》と、下の良人《ヨキヒト》と、別に見たるは違へり。殊に考注に、良人よ君、と云意になして云る説は、甚しき強ごと也。又小琴に「或人ノヨクミヨト訓ルヲ、用フベシ」とて、良人四來三四《ヨキヒトヨクミヨ》、と書(キ)たるは、下の四(ノ)字、一(ツ)多し。然のみならず、さては四句の、吉見與《ヨクミヨ》と、言重(ナ)りて煩はしく、又上下のよき人、別になりて、考説と終に同意におちぬべし。是も妖説也。略解の末の説に、上句を打返して、と云るはよけれども、よく見つと訓ては、(257)其格にならず。こは古點に、よく見と訓たるぞよろしき。此訓、古き時よりの點と見えて、元暦本、建長本、又家藏の古本など、總てしかよみたり。此訓のよろしき事をいはんに、先(ヅ)此大御歌は「よき人の、よしとよく見て、よしといひし、よし野よく見よ」此句迄にて、御言も意も盡《ツキ》たれば、結《トヂメ》の一句は、二(ノ)句を再び返し給へるなり。集中に結句を返せる歌、いと多かる中に、其躰二種あり。其一種は、
あ《一》さもよし、紀人ともしも〔六字右○〕」まつち山、ゆきくと見らん、』紀人ともしも〔六字右○〕」
あ《二》しびきの、山のしづくに〔六字右○〕」妹まつと、われ立ぬれぬ』、山のしづくに〔六字右○〕」
此類は、全くに二句を、結句にて再び返せるなり。
其二種は、
玉《一》きはる、内のおほ野〔三字右○〕に」馬なめて、あさふますらん、』其草ふけ野〔三字右○〕」
た《二》まかづら、みならぬ木〔四字右○〕には」ちはやふる、神ぞつくとふ、』ならぬ木毎〔五字右○〕に」
此類は、少し詞をかへで、返せる也。今の大御歌も此體なり。
よき人〔三字右○〕の、よしとよく見て〔四字右○〕」よしといひし、よしのよく見よ、』よき人よく見〔六字右○〕(テ)」
如此、結句は、初二句を返し給へるなれば、結句のよく見は、則二句の、よくよく見て也。結句も見てと有べきなれど、一もじ餘れば、含めおき給へる也。
○一首の意は、四(ノ)句までにて、古へのよき人のよしとて、よく見て、よしといひ置しよしのゝ山ぞ、よく見よかしと也。此四の句は、御供の人に令せて、見よと詔ふ御詞なり。
 〔細註〕 かやうに詞を疊み重ぬる躰も、古くは八雲立の神詠を始(メ)として、中古の歌にもこれかれ見ゆ。代匠記云、此御歌は、毎句用2同字1格に(258)て、詩に一躰あるにおなじ。歌にも猶此類あり。六帖に「心こそ心をはかる云云」後撰集「おもはじとおもふも物をおもふかなおもはじとだに思はじや君」「おもふ人おもはぬ人のおもふ人おもはざらなん思ひしるやと」濱成和歌式に十種の雜躰を立る中に、第一聚蝶、毎句上(ニ)同字(ヲ)用也とて、其例に、此御製を出せる、第一の句、みよしのゝとありて、結句、よき人よく見と有」と云り。今按に、濱成式にも、古本には、右に引る古點の如く「よき人のよしとよく見てよしといひしよし野よく見よよき人よく見」とあり。
 
藤原宮《フヂハラノミヤニ》御宇(シヽ)天皇(ノ)代 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
○藤原(ノ)宮」諸抄釋なし。今按に、持統紀曰。八年十二月乙卯。遷2居《ウツリマス》藤原(ノ)宮(ニ)1と有。此時までは、清見原(ノ)宮におはしゝ也。藤原(ノ)地は、輿地通志日。大和(ノ)國高市(ノ)郡。在2大原村(ニ)1。持統天皇八年。遷2居於此(ニ)1。文武天皇。慶雲元年十一月。始(テ)定2藤原(ノ)宮(ヲ)1。又同文苑(ニ)云。藤原。并藤井(ガ)原。大原。大宮王郡《ミヤコ》。萬葉集曰。藤原之。大宮都加部《オホミヤツカヘ》云云。又膝原(ノ)宮(ノ)御井(ノ)歌云云。又天皇賜2藤原(ノ)夫人(ニ)1御歌。吾里爾《アガサトニ》。大雪落有《オホユキフレリ》。大原乃《オホハラノ》。古爾之郷爾《フリニシサトニ》。落卷者後《フラマクハノチ》。又|桂纏毛《カケマクモ》。文恐《アヤニカシコシ》。藤原《フヂハラノ》。王都志彌美爾《ミヤコシミヽニ》。人下《ヒトハシモ》。滿雖有《ミチテアレドモ》』書紀通證曰。私記曰。氏族略記曰。藤原(ノ)宮。在2高市(ノ)郡鷺栖坂(ノ)北(ニ)1云云』記傳【卅(ノ)四丁左】に、右等を引(テ)云(ク)、藤原(ノ)夫人(ハ)鎌足(ノ)大臣の御女にて、萬葉八に、字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀自(ト)1とあり。大原其本郷也。天皇初(メ)、此夫人の家に通ひ住賜へりし故に、古《フリ》にし郷とはよみ給へるなるべし。十一(ノ)卷の歌にも、大原の古にし里とあり。鎌足(ノ)大臣の本居《ウブスナ》、此大原なる故に、藤原と云姓は賜へるなり。されば大原即(チ)藤原なること、彼(レ)此(レ)につきて著《シル》し。かくて持統天皇の京の藤原(ノ)宮は異地《コトトコロ》なり。思ひ混《マガ》ふべからず云云。香具山は、十市(ノ)郡なれども、此宮は其(ノ)西にて、高市(ノ)郡の地にぞ有けん。然るに彼(ノ)大原と、此宮とを一つに心得た(259)るは、地理をも考へざる妄説《ミダリゴト》なり。大原は、香具山よりは南(ノ)方にあたりて、飛鳥に近き所なれば、かの萬葉の長歌の【藤井が原の歌なり。】趣に合はず。さて推古紀に、藤原(ノ)池とあるは、藤原(ノ)宮の、藤原なるべく聞ゆ。又今添上(ノ)郡にも、藤原村あれど、其《ソレ》も又別也』【是迄記傳の説なり】 今按に、神名帳に、高市(ノ)郡|鷺栖《サギスノ》神社靫。輿地通志云。在2四分村1。今稱2鷺栖(ノ)八幡(ト)1。與2城戸高殿醍醐繩手1共(ニ)預2祭祀1。又大原(ノ)下云。大原村一名藤原。舊名藤井(ガ)原。見(ユ)2多武峯(ノ)寺記(ニ)1。とある、是を大和國大繪圖以て推《オ》すに、鷺栖(ノ)八幡より大原までは、凡(ソ)そ二里近くあり。右に引る氏族略記に、此(ノ)宮(ノ)地を、鷺栖坂(ノ)北に在と云るに合すれば藤原と云し地は、古くは二里餘にも亘りしなり。扶桑略記に、持統天皇八年十二月乙卯(ノ)記曰。天皇還2幸藤原(ノ)宮(ニ)1。大和(ノ)國高市(ノ)郡。鷺栖坂(ノ)地是也。と見ゆ。然れば鎌足(ノ)大臣の本居の藤原も、此大宮所の藤原も、同じ野原の内にして、別にはあらざるをや。古へは然か廣き原なりける故に、大原とも云(ヒ)しにこそ。彼(ノ)通志に引る多武峯(ノ)記は、鎌足(ノ)大臣の系譜なりければ、正しき證とすべきものなり。猶此地の事、藤原(ノ)御井(ノ)長歌の下にも云を見合すべし。
○高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇。」【皇代四十一嗣、謚奏v申2持統天皇1。】持統紀曰。高天原廣野姫天皇。少名※[盧+鳥]野讃良《ハジメノミナハウノサヽラノ》皇女。天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇【天智】第二(ノ)女也。母(ヲ)曰(ス)2遠智娘《ヲチノイラツメト》1。更(ノ)名(ハ)美濃津《ミヌツコノ》娘也。天皇。深沈《オシシヅマリテ》有《マシキ》2大度《ヒドキサトリ》1。天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメノ》天皇【齊明】三年。適《ミアヒテ》2天渟中原瀛《アメノヌナハラオキノ》眞人(ノ)天皇(ニ)1【天武】爲《ナリ玉ヒヌ》v妃《ミメト》。雖帝王女而《スメラミコトノミムスメナレド》。好禮節儉有母儀徳《井ヤヤカニシテミサヲツヨクマシキ》。天命開別(ノ)天皇(ノ)元年(ニ)。生《アラシマス》2草壁皇子尊《クサカベノミコノミコトヲ》於大津(ノ)宮(ニ)1。十年(ノ)十月。從2沙門天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ニ)1。入2於吉野(ニ)1。避《サケタマフ》2朝猜忌《ミカドノソネミヲ》1。語《コトハ》在《ミエタリ》2天命開別(ノ)天皇(ノ)紀《ミマキニ》1。天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇(ノ)元年。夏六月(ニ)從(テ)2天皇(ニ)1。避《サケ》2難《ワザワヒヲ》東(ノ)國(ニ)1。鞠旅會衆遂與《タビシニテイクサヲツドヘツヒニトモニ》定(メ玉フ)v謀(ゴトヲ)。廼(チ)分(テ)命《オホセテ》2敢死者數萬《モロモロノマメナルモノニ》1置(キ玉ヒキ)2諸要害之地《コヽラノヌマノトコロニ》1。秋七月美濃(ノ)軍(ノ)將等《キミラト》。與《ト》2大倭(ノ)桀豪《タケヲラ》1。共(ニ)(260)誅《トリテ》2大友(ノ)皇子(ヲ)1。傳(テ)v首(ヲ)詣(ヅ)2不破(ノ)宮(ニ)1。二年立(テ)2爲2皇后(ト)1。皇后從v始(メ)迄《イタルマデ》v今(ニ)。佐《タスケテ》2天皇(ヲ)1。定(メ玉フ)2天下(ヲ)1。毎(ニ)於2侍執之際《ニモツカヘタマフアヒダ》1。輙(チ)言《コトヲ》及《オヨボシテ》2政事(ニ)1多(カリキ)v所《トコロ》2毘補《タスケタマフ》1。朱鳥(ノ)元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛(ノ)眞人(ノ)天皇|崩《カムアガリマシヌ》。皇后臨(テ)v朝《ミカドニ》稱制《マツリゴトヲキコシメス》云云。三年四月。皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨(シヌ)。四年正月皇后。即天皇位《アマツヒツギシロシメス》。公卿百寮|羅列匝拜而拍手《ツラナリヲロガミテウチアグ》焉。十月高市(ノ)皇子觀(ナハス)2藤原(ノ)宮(ノ)地(ヲ)1。十二月天皇幸(テ)觀(ハス)。【經2五六年1】八年十二月乙卯。遷2居藤原(ノ)宮(ニ)1。十一年八月。天皇|禅《ユヅリ玉フ》2天皇位《アマツヒツギヲ》於|皇太子《ミコノミコトニ》1。文武紀大寶二年十二月甲寅。太上天皇崩(マシヌ)。【御在位十年聖壽五十八。或云、六十五。或云六十八。】遺詔(ハク)勿2素服(シテ)擧(ルコト)1v哀(ヲ)。内外(ノ)文武(ノ)官(ヲ)釐v務《ヲサムルコトヲ》如v常(ノ)。喪葬之《ハフリノ》事(ハ)務(メテ)從(ヘ)2儉約(ニ)1。三年十二月癸酉。火2葬於飛鳥(ノ)岡(ニ)1。合(セ)葬(リマツル)2於大内(ノ)山陵(ニ)1云云。諸陵式、廟陵記、山陵志等は上の天武天皇の條下に引(ケ)り。此《コヽ》に御陵圖式云。檜陵大内(ノ)陵(ハ)、高市(ノ)郡野口村ニアリ。天武、持統、合葬中ニ、石棺二(ツ)アリ。在v北南面ハ天武。在v東西面ハ持統。石室奥行二丈五尺四寸。構七尺八寸五分。此山陵ヲ、俗云2丸山1とあり。大御歌。一卷御製云云。二卷【天皇崩之時】大后云云。三卷天皇賜2志斐嫗1御歌。
 
天皇(ノ)御製歌
春過而《ハルスギテ・ハルスギテ》。夏來良之《ナツゾキヌラシ・ナツキニケラシ》。白妙能《シロタヘノ・シロタヘノ》。衣乾有《コロモカワカル・コロモサラセリ》。天之香來山《アマノカゴヤマ・アマノカグヤマ》。
此に先(ヅ)擧る古點、右は元暦校本の訓。左は仙覺本の點なり。百人一首の撰に、なつきにけらしを用ひられたるは、此訓も、其程よりの點なりしなるべし。
春過而《ハルスギテ》。夏來良之《ナツキタルラシ》。白妙能《シロタヘノ》。衣乾有《コロモホシタリ》。天之香具山《アメノカグヤマ》。○春過而《ハルスギテ》。夏來良之《ナツキタルラシ》」代匠云。春過てとは、時節のかはりくる次第也。十九(ノ)卷、家持卿の長歌にも、春過て、夏きむかへばとよめり。宋玉が登徒手、好色(ノ)賦には、向《ナンナントシテ》1春(ノ)末(ニ)1。迎(フ)2夏(ノ)之歸(ヲ)1。といへり。左太沖が呉都(ノ)賦に、露往霜來《アキユキフユキタル》【註露(ハ)秋霜(ハ)冬也。】と云ひ、周(261嗣が千字文に、寒來暑往といひ、此第十に、冬過て、春は來ぬらしといへる、皆同意也』 考注云。なつきたるらしと訓べし。今本なつきにけらしとよみしは、けの言を、よむべき字なければ、とらず』 又云。こは持統天皇、まだ清御原(ノ)宮におはします時なる事、下の歌にてしらる。されど天武天皇崩ましてよりは、藤原(ノ)宮の中に入(ル)例也』【已上】 今按に、藤原(ノ)宮に遷坐て後の御製と見むかた、御歌に似つかはし。此卷既に亂れたれば、歌の次第も、あながちには信《タノミ》がたし。又代匠記に、此大御歌は、第八卷、夏雜歌の初に載(セ)らるべきを、此集いまだ部類をよくとゝのへざる故に、こゝにあるなるべしなど云るも、一部廿卷を、皆家持卿一人の手して、撰べるものと思へりし、惑ひなり。
○白妙能《シロタヘノ》」代匠云。白妙の衣とは、色が白きが本色なれは、白たへの衣、白たへの袖などおほくよめり。たへは妙の字、細の字などをかけり。ほめたる詞也。又白き色を、たへと云にや。此卷の末に至りて「たへのほに、よるの霜ふる」とよみ、十三には「たへのほ」と云に「雪穗」とかき、十一には「しき」と云に「敷白」とかけり。また栲角《タクヅヌ》、栲衾《タクブスマ》など云も、たくは白きと云古語なるを、しろたへと云に、白栲ともかけり。五色の中に、白たへとのみ云(ヒ)て、あをたへとも、黄たへともいはず。白の字を直に、たへとよめれば、白き色を云なるべし。丈撰には、皚々とあるを、しろたへと訓り』【是迄代匠記の説】冠辭考云。【○衣○袖○たすき○雪○雲○花等】萬葉卷一白妙能《シロタヘノ》。衣乾有《コロモホシタリ》。卷二に、白妙乃。麻衣著《アサゴロモキテ》。卷九に、白栲之《シロタヘノ》。我衣手者《ワガコロモデハ》。卷十三に、白木綿之《シロタヘノ》。吾衣袖裳《ワガコロモデモ》。卷六に、白妙之。袖友倍所沾而《ソデサヘヌレテ》。卷五に、志路多倍乃《シロタヘノ》。多須吉乎可氣《タスキヲカケ》。卷二に、白妙之。天領巾隱《アマヒレゴモリ》云云。こは白|布《タヘ》の衣と云より、袖はもとよりにて、襷《タスキ》も、領布《ヒレ》も 布もてすれば、つゞけたり。且|多倍《タヘ》は、凡|絹布《キヌヌノ》を惣べ云名なるが中に、白(262)多倍《シロタヘ》と云時は、穀《ユフ》もて織《オ》れる布を云。こは殊に白き物なれば也。さて穀布《ユフノタヘ》は、古へより專らとする物故に、下は絹にまれ、布にまれ惣《スベ》冠らせてよめり。然れば多倍《タヘ》を妙と書は借字のみなるを、後世人は、字につきて、白く妙なる事といふ誤のあれば、委しくいはん。先(ヅ)、孝徳紀に、其(ノ)葬《ハフリノ》時(ノ)帷帳等《トバリラハ》。用(ヨ)2白布《シロタヘヲ》1。【王以下小智以上同v右(ニ)】云云。庶人《ナホビトハ》云云。可v用2麁布《アラタヘヲ1。と。喪葬令(ノ)義解に、錫紵者|細布《ニギタヘ》云云。同集解に、不v限2布(ノ)麁細《アラキニゴキニ》1。皀色布《クリイロノタヘナリ》也云云。これに萬葉卷(ノ)十三(ノ)挽歌に、大殿《オホトノヲ》矣。振放見《フリサケミレバ》者。白細布《シロタヘニ》。飾奉而《カザリマツリテ》。内日刺《ウチヒサス》。宮舍人方《ミヤノトネリハ》。雪穗《テヘノホニ》。麻衣服《アサギヌキレバ》者云云。と有を對へて、布を多倍タヘ》と云事を知べし。【穀をかぢと訓は、専ら紙に造る時よりの名たるべし。由布と訓は古語なり。】又古語拾遺に、植《ウヱテ》v穀《ユフヲ》造《ツクリ》2白和幣《シラニギテヲ》1。植(テ)v麻《アサヲ》造2青《アヲ》和幣(ヲ)1。と有に、神祇式に明多閇《アカルタヘ》、照多閇《テルタヘ》、とも、和《ニギ》多閇、荒《アラ》多閇、とも、明和幣《アカルタヘ》、曜《テル》和幣、とも有を對へて、白多閇は、穀《ユフ》の皮もて、造る布なるをしれ(穀は、楮也。萬葉に栲と書は、楮の誤也。多閇(ノ)反は、弖《テ》也。故に和《ニギ》多閇を、和弖《ニギテ》とも云なり)さて萬葉には、例のさま/”\に書る中に、白|栲《タヘ》、白|木綿《タヘ》、白|細布《タヘ》など書るを、右の書どもに合せて、多閇は、布也(木綿は、專(ラ)は由不《ユフ》と訓を、右に多閇と訓べき所にも書り。細布は、和布と書に同じくて、細も、和も、布の好をほめたる語也。こゝは只|白布《シロタヘ》と訓(メ)ども、白|和《ニギ》多閇を、略きたる語なれば、細の字を、暫(ク)添るのみ。是よりうつりて、白多倍と云に、白細とのみかきし所もあるは、例の省きがきなり)爾伎《ニギ》は、織目のくはしくて、和《ナゴ》やかなるを云事を思ひ定めてよ。此事限りなく多かれど、一わたり云のみ(又神祇令の、神衣《カムミソ》祭の集解に、神服部等《カムハトリベラ》云云。以(テ)2三河(ノ)赤引神調《アカビキカムツギノ》糸(ヲ)1。神衣織作。麻績連等|麻績《ヲウミシテ》而。敷和御衣《ウヅハタノミゾヲ》織奉てふに、式の和妙《ニギタヘノ)衣(ハ)者。服部氏。荒妙(ノ)衣者。麻績氏。各自|潔戒《イモヒシテ》。始2九月一日(ニ)1織造。と有を對へ見れば、絹を和たへ、布を荒たへと云(263)り。是は絹と布とを對へ云時の語のみ。その布の中にても、よきをにぎたへ、わろきをあらたへと云る事、既に云が如し。よくせずば惑ふべし。よろづ古へと、中と、末との轉々有也)白多倍は、右の如く白布の事なるを、上つ代より、漸にいひなれ來つれば、いとはやくの世より、用を體に云(ヒ)なせるも多し。卷三に、【挽歌】白細爾《シロタヘニ》、【細は、細布を略きたり。萬葉の常也】舍人装束而《トネリヨソヒテ》。また、白|栲《タヘ》爾。衣取着而《コロモトリキテ》。などは、只|眞白《マシロ》にてふ意におけり。又卷一に、栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。卷十三に、雪穗《タヘノホニ》。麻衣服《アサキヌキレバ》者。などは、卷七に、白栲爾。丹保布信士之《ニホフマツチノ》。山川爾《ヤマガハニ》。とよめる如く、栲のいと白きが餘光《ニホヒ》を、穗といひ、その白きによりて、雪の字をば書たり。これらに泥みて、只白き事を云と思へるは、本をおきて、末につけるもの也。また卷七に、白妙の雲庭、白妙に降雪など云(ヘ)るは、白|布《タヘ》の如くてふ意にて、譬て云るなり。卷十一に、東細布《ヨコグモノ》。從空《ソラユ》。と譬てかけるをおもへ』【是まで、冠辭考の説なり。】 今按に、此冠辭考の説よいとも/\精《クハシ》く、至り盡せる考へどもにぞある。此時にして、かゝる古言を、かくまでには、孰《タレ》かは辨へあへむ。此明辨に、言くはふべくもあらねど、こゝにいさゝか、私事をそへば、かの白たへの雲、自たへににほふ信士《マツチ》、白たへに降雪、などやうに、白(キ)物に云るは、もしは白純《シロヒトヘ》の義にて、白栲《シロタヘ》とは、本より別語なりけるが、唱への同じかるまゝに、紛(ラ)はしくなり來しなるべし。そは集中に打妙《ウツタヘ》(四(ノ)十八丁に、打細丹《ウツタヘニ》。人妻《ヒトツマ》といへば。ふれぬものかも。又五十七丁に、打妙《ウワタへ》に。まがきのすがた。見まくほり。十(ノ)九丁に、打細爾《ウツタヘニ》。鳥ははまねど。などある宇都多閇《ウツタヘ》なり。此外多かれど、其語の下に引(キ)ていふべし)とよめる語も、全偏《ウツヒトヘ》の義にて、全《ウツ》は、神代紀の、全剥《ウツハギ》、全拔《ウツヌキ》等の全《ウツ》、妙《タヘ》、細《タヘ》などかくは、たゞ皆借字にて、比登閇《ヒトヘ》の略轉なり(比《ヒ》を略き、登《ト》と多《タ》とは通音なる故《カラ》に、轉ぜる(264)也「ひたすら」と云語も、純一の意にて、即|一純《ヒトヘスガラ》の約れると同例なり。純紅《ヒタクレナ井》、直土《ヒタツチ》など云類も思ひ合すべし)されば其用ひたる趣も、全《マタ》く偏《ヒトヘ》にと云意の所にのみよみたり。是に合せて、彼(ノ)雲、雪、花等の、白き物によみ來し志呂多閇《シロタヘ》も、白純《シロヒトヘ》にて純一《ヒタスラ》白きを云語なるべくぞおぼゆる。さて此語のみにも限(ラ)ず。古言をとく人は、似たる詞といへば轉々せしやうに、云(ヒ)なす事の多かれど、本(ト)別語にて、唱への混じたるも、又少なからず。今|採《ツミ》て一つ二ついはゞ、黙《ナホ》と猶《ナホ》と、無氣《ナゲ》と投《ナゲ》と、雪氣《ユキゲ》と雪消《ユキゲ》と、眺《ナガメ》と愁《ナガメ》と、遣悶《オモヒヤル》と想像《オモヒヤル》と、障漬障《ナヅサフ》と馴著添《ナヅソフ》と、逆《サカ》と榮《サカ》との類ひ、もて行かばいと多かりなん。萬(ヅ)の言語《コト》の上に就て、其心あるべき事どもなり。さて絹布の類、總て機物の名を、多閇《タヘ》と云は、十六【八丁】に、蟻衣之《アリキヌノ》。寶之子等蚊《タカラノコラガ》。打栲者《ウツタヘハ》。經而織布《ヘテオルヌノ》。とありて、今世にも、機《ハタ》を經《ヘ》ると云をおもへば、多閇《タヘ》は即|絲經《イトヘ》の上略なるべし。登と多と音通へり。絹布《タヘ》の形状、糸の經緯《タテヨコ》に經綿《ヘツヾ》きて成れる物なれば也。又|木綿《ユフ》の説よからず。此(ノ)多閇《タヘ》と、由布《ユフ》とに差《ケヂメ》ある事は、下の歌の條下に委く云べし。又栲の字を、楮の誤とせるもわろし。こは橋に椅、倉に椋、隈に前、都に堵、磯に礒とかく類ひにで、誤にはあらず。又|栲《タヘ》を、栲《タク》繩、栲衾、栲|領巾《ヒレ》など云、多久《タク》は栲の一名也。此等の事も、其所々に云べし。かくて今此御句は、たゞ衣の枕詞也(白き衣と云には非ず。本(ト)栲《タヘノ》木の皮は、其色甚白き物なれば、白栲《シロタヘ》と云ひなれて、即其栲して、織成せる衣なれば染て後も、通はして連《ツヾ》け云り)
○衣乾有《コロモホシタリ》」代匠云。此句を、さらせりとも、ほしたりともよみ來れり。春までの衣は、たゝみおかんためにほす也。開(ケル)v箱(ヲ)衣帶隔v年香(シ)と、更衣の詩にも作れる如く、去年より箱に入れおける衣をば今きん料に、濕氣などかわかさんとて、香具山のふもとかけてすむ家々に、取出でほさるが見ゆる(265)につけて、時節のいたれる事を、よませ賜へる也【似閑書入云。藤原(ノ)皇都ヨリハ、香具山モ程近ク、山ノ半腹ナドニ、人家モ有ベケレバ、直ニ其干シタルヲバ見玉ヘル躰ナリ。庶民ノ家ニハ、有ベカラズ。百官等ノ、其邊マデニ住居セシ成ベシ】等第十四東歌に「つくばねに雪かもふらるいなをかもかなしきころか布《ニノ》ほさるかも云云」今の御製。これに准じて心得べし。【衣ほしたり、衣さらせり、共にいひはてゝ、詞も古質也。なに思ひて 何れの世の人か、衣ほすてふと改めて、物ふかう、けだかくもなると思はれけん。ほすてふとては、人傳に聞れるになりてうはさなり。此集第三、沙彌滿誓の歌に「こぎゆく舟の、あとなきがごと」とあるを「あとのしら浪」と、拾遺集に改めて、入(レ)られたるは、心もたがはざるを、是は目前に御覧じてよませ給へるを、人傳に聞しめしたるやうになりたれば、叡慮にもそむきぬべし。そのこゝろもおぼつかなし。】』考注云。衣乾有《コロモホシタル》。かくよめるは、集中に例あり。又頭書云。集中に言の下に、有、在の字を書しは、らりるれろのこと葉にぞある。然るに後世乾有を、ほすてふと訓しは、誤也』【已上】 今按に、ほしたると改めたるは、中々にわろし。代匠記の點の如く、ほしたりとあるべし。ほしたりは、乾而有《ホシテアリ》の約まれるなり。
○天之香具山《アメノカグヤマ》」考注云。都とならぬ前に、鎌足公の藤原の家、大伴氏の家もこゝに在。此外にも多かりけん。然れば夏のはじめつ比、天皇、埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家らに、衣を懸ほして有を見まして、實に夏の來るらし、衣をほしたりと見ますまに/\、のたまへる御歌也。さてはあまりに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど、皆わろし』略解は、是を纔に採て云るのみ』【已上】 今按に、彼王臣の家につきて、都とならぬ以前の御製とせんとならば、都となりたる後の御製と見むかた、殊に家居も多かるべきなり。【鎌足公の家は、藤原の内なれども、香具山には非ず。大伴卿の家の此邊に在し事、物に見えず。遠祖は多く難波御津に住はれ、安麻呂卿の比は、龍田(ノ)神南備近く住はれたるよし、旅人卿の歌、一族の歌などを合せてしらる。其後は、佐保の邊なりき。考注には、かゝる事に、杜撰の説つねに多く見ゆ。】香來山の事、既に此釋(ノ)一【三十六丁】又釋三【四十三丁】等に出たり。
○一首の意は、まだ春とおもひしに、いつか春は過て、夏來たるらし。【らしは俗にさうなと云にあたれば、此も夏が來たさうな、と云意なり。又來たらしいと譯しても違ふべからず。今(ノ)世に某らしいと云(フ)らしいは、即此らしの遣れるなり。香具山あ(266)たりの家に、衣かけほさるが見ゆと也。【至尊の御身ながらも、衣に御目のつきて、かく詔ふに、さすがに女帝の御情なるべきにや。又しか見むに、あまりにうがち過たるか。】
 
萬葉集墨繩卷七(原本萬葉|檜※[木+爪]《ヒノツマデ》卷弟六
   本集一之六【自十六葉左至十七葉右】
 
柿本朝臣人麻呂。過《スグル》2近江(ノ)荒都《アレタルミヤコヲ》1時作歌。并短歌二首
考注云。今本柿本云云の十字を、時の字の下へつけたるは例に違へり。古本に依て改めつ』とあり。今も古本につき、此説に隨ひて、直(グ)に改めて擧(グ)。これ本文とは違(ヒ)て、端詞なれば也。
○柿本朝臣」考注別記云。柿本(ノ)臣は、古事記に葛城(ノ)腋上(ノ)宮(ノ)天皇【孝昭】乃皇子、天(ノ)神帶日子(ノ)命の後、十六氏に別れたる中の一つ也。且|臣《オミ》のかばねなりしに淨御原(ノ)宮の御時、朝臣と爲給へり』【已上】 今按に、此(ノ)ごとくなれども、本文を出されざれば引なり。古事記彼段云。故弟帶日子國忍人命者《カレイロトタラシヒコクニオシビトノミコトハ》。治(シキ)2天(ノ)下1也。兄天押帶日子命者《イロセアメオシタラシヒコノミコトハ》云云。柿(ノ)本(ノ)臣(ノ)之|祖也《オヤナリ》。天(267)武紀。十三年十一月戊申朔。柿(ノ)本(ノ)臣。賜(テ)v姓(ヲ)曰2朝臣(ト)1。姓氏録云。大和國皇別。柿(ノ)下(ノ)朝臣(ハ)。大春日(ノ)朝臣同祖。天足彦國押人(ノ)命(ノ)之後也。敏達天皇御世(ニ)。依(テ)3家(ノ)門(ニ)有(ルニ)2柿(ノ)樹1。爲2柿(ノ)本(ノ)臣氏(ト)1。神名式云。山城(ノ)國紀伊(ノ)郡。飛鳥田(ノ)神社。一名柿(ノ》本(ノ)社など見ゆ。又今大和(ノ)國葛(ノ)下(ノ)郡にも、柿(ノ)本(ノ)村ありて、柿(ノ)本(ノ)神社を祠れり。
○人麻呂」考注別記曰。かくて此人麻呂の父祖、考べき物なし。紀に【天武】柿本朝臣|佐留《サル》とて、四位なる人見え、續紀には、同氏の人かた/”\に出て、中に五位なるもあり。されど何れ近きやからか知がたし。さて人万呂は、崗本宮(ノ)の比にや生れつらん。藤原(ノ)宮の和銅の始め比に、身まかれりと見えたり。さて卷二挽歌の、但馬(ノ)皇女(ノ)薨後云云。【此皇女、和銅元年六月薨。】の下、歌數のりて後、此人在(テ)2石見(ノ)國(ニ)1死としるし(此《コヽ》に引し、和銅元年と、同三年都うつしとの間なれば、和銅二年に死たりと云べし)其次に和銅四年としるして、他人の歌あり。【同三年奈良へ京遷さたり】すべて此人の歌の載たる次《ツイ》でも、凡和銅の始まで也。齡はまづ朱鳥三年四月、日並知《ヒナメシノ》皇子(ノ)命の殯(ノ)宮の時、此人の悼奉る長歌の、卷二にあり。蔭子の出身は、廿一の年よりなると、此歌の樣とを思ふに、此時若くとも、廿四五にや有つらん。かりにかく定め置て、藤原(ノ)宮の、和銅二年までを數るに、五十に至らで、身まかりしなるべし。此人の歌多かれど、老たりと聞ゆる言の無にてもしらる。且出身は、かの日並知(ノ)皇子(ノ)命の大舍人にて(内舍人は、大寶元年六月、始て補せられしかば、こゝに云は、大舍人なり。されど後世ばかり、卑くはあらざりき)其後に高市(ノ)皇子(ノ)命の、皇太子の御時も、同じ舍人なるべし。卷二の挽歌の言にて知らる。筑紫へ下りしは、假の使ならん。近江の古き都を悲み、近江より上るなど有は、是も使か。又近江を本居にて、衣暇《イカ》、田暇《デンカ》などにて下りしか。(268)(官人五月と、八月に、田暇、衣暇とて、三十日づゝの暇を給(フ)。又三年に一皮、父母を定省する暇も給へる、令の定め也)いと末に、石見に任《マケ》て、任の間に上れるは、朝集使、税帳使などにて、かりに上りしもの也。此位には、もろ/\の國の司、一人づゝ、九、十月に上りて、十一月一日の官會にあふ也。其上る時の歌に、もみぢをよめる是也。即石見へ歸りて、かしこにて、身まかりたる也。位は其時の歌、妻の悲める歌の端詞にも、死と書つれば、六位より上にはあらず。三位以上に薨、四位五位に卒、六位以下庶人までに死とかく、令の御法にて、此集にも此定(メ)に書てあり。且五位にもあらば、おのづから紀に載べく、又守なるは、必任の時を紀にしるさるゝを、柿本(ノ)人万呂は、惣て紀に見えず。然(レ)ば此任は、掾目の間なりけり。此外に此人の事、考べきものすべてなし。後世人の云は、皆私ごとのみ也。 〔細註〕 よしや身はしもながら、歌におきて、其比よりしもつ代に、しく人なきからは、後(ノ)世に、言の葉の神とも神と、たふとむべきは此ぬし也。其言ども、龍の勢ありて、青雲の向伏きはみの、ものゝふと見ゆるを、近江の御軍の時は、まだわかくして、仕へまつらねば、いさをゝたつるよしなく、歌にのみ萬代の名をとゞめたるなり。古今集の今本の、貫之が序に、人万呂を、おほき三つの位とあるは、後人の書加へし僞ごとなり。同集の忠岑の長歌に「人万呂こそは、うれしけれ、身は下ながら、言の葉は雲の上まで聞えあげ」といへり。五位ともなれらば身は下ながらと、云べからず。まして三位の高き位をや。かく同じ撰者のよめるを擧て、序にこの樣の事かゝんや。すべて古今集には、後の好事の加へし事あるが中に、殊に序には、加はれる言多し。古へをよくしる人は、見分べし。その論らひは、かの集の考に云り。又かの眞字序は、皇(269)朝の事を少しもしらぬ人の、書しかば、萬葉の撰の時代も、人方呂赤人の時代をも、甚誤れり。そはかの考へにいへれば、こゝには省けり』【已上萬葉考の説也】 今按に、此考へ、いと委曲《ツバラ》にしてめでたく、をさをさ違ふべからずぞおぼゆる。其中に、此《コヽ》と三卷【十八丁】とに、再び近江を經られて、又同卷【十五丁】※[覊の馬が奇]旅《タビ》歌八首とある中に、飼飯海乃《ケヒノウミノ》。庭好有之《ニハヨクアラシ》。苅薦乃《カリコモノ》。亂出所見《ミダレイヅルミユ》。海人釣船《アマノツリフネ》。などあるを見れば、越前の屬官などにて、此(ノ)近江は、經られたるなるべし。さて此(ノ)柿本(ノ)大人、及山部(ノ)大人の事は、古今集の序のみならず、はやくそのかみより、名高かりけむ。此集十七【二十六丁】大伴家持卿より、更(ニ)贈2掾大伴宿禰池主(ニ)1歌の前文に、幼年未v過2山柿之門(ヲ)1。裁歌之趣。詞失2乎藻林(ヲ)1矣云云。また【二十九丁】池主よりの答歌の前文にも、山柿(ノ)謌泉と見えたり。かくて今柿木氏の人を考るに、天武紀十年【十月條下】小錦上柿本(ノ)臣|※[獣偏+爰]《サル》(續紀元明(ノ)卷(ニ)。從四位下柿本(ノ)朝臣|佐留《サル》と有。是は同人歟)聖武紀天平九年(ノ)條に、柿本(ノ)朝臣|濱名《ハマナ》。また同紀柿本(ノ)朝臣|市守《イチモリ》。續後紀柿本(ノ)朝臣|安氷《ヤスナガ》。文徳實録三、柿本朝臣|枝成《エナリ》など見ゆ。又人麻呂と云(ヒ)し人は、聖武紀【十七(ノ)四丁】阿部(ノ)連人麻呂。【續後紀九(ノ)六丁。又四(ノ)六丁等に見ゆ】又同紀【二十三丁】陽侯(ノ)史人《フビト》麻呂。孝誰紀【十八(ノ)三丁】阿部(ノ)巖(ノ)臣人麻呂。又同紀【二十八丁】石川(ノ)朝臣人麻呂。光仁紀【三十一(ノ)三十丁】加茂(ノ)朝臣人麻呂。桓武紀【四十五(ノ)十三丁】出雲(ノ)臣人麻呂。類聚國史【六十六(ノ)五丁】佐伯(ノ)宿禰人麻呂など見えたり。さて今|此《コヽ》の人麻呂大人(ノ)歌、此《コヽ》の外にも、次(ノ)【十八丁】幸2于吉野宮1之時作歌【二首并短歌】又【二十丁】幸2于伊勢國1時留v京(ニ)作歌【三首】又【二十一丁】輕皇子宿2于安騎野1時作歌【短歌四首】二【十八丁】從2石見國1別v妻。上來時歌【二首并短歌】又【二十丁】或本歌【一首短合九首】又【二十一丁】妻依羅娘子與2人麻呂1相別歌【一首】又【二十七丁】日並知皇子尊。殯宮之時作歌【一首并短歌二首】又【三十二丁】明日香皇女。木〓(ノ)殯宮之時云云歌【一首并短歌二首】又【三十三丁】高市(ノ)皇子(ノ)尊。城上(ノ)殯宮之時作歌【一首并短歌二首】又【三十七丁】妻死之後云云歌【二首并短歌四首】又或本歌【短歌三首】又【四十丁】志我津(270)釆女死時作歌【一首并短歌二首】又【四十一丁】讃岐國狹岑島云云歌【一首并短歌二首】又【四十二丁】在2石見(ノ)國1臨死時。自傷作歌【一首】又【四十三丁】人麻呂死時。妻依羅娘子作歌【二首】三【十三丁】長皇子。遊2獵々路|池《野カ》1之時作歌【一首并短歌一首】或本歌【一首】又【十二丁】天皇御2遊雷岳1之時。作歌【一首】又【十五丁】※[覊の馬が奇]旅歌【八首】又【十七丁】獻2新田部(ノ)皇子1歌【一首并短歌一首】又【十八丁】從2近江國1上來時。至(テ)2宇治河(ノ)邊1作歌【一首】又【同丁】短歌【一首】又【二十四丁】下2筑紫(ノ)國(ニ)1時。海路作歌【二首】又【四十七丁】見2香具山屍1悲慟作歌【一首】又【同丁】土形娘子火2葬泊瀬山1作歌【一首】又【四十八丁】溺死出婁娘子。火2葬吉野1時作歌【二首】四【十四丁】短歌【四首】又【同丁】同【三首】又【十五丁】妻歌【一首】など見ゆ。
○近江(ノ)荒(タル)都」考注云。天智天皇六年、飛鳥崗本(ノ)宮より、近江大津(ノ)宮へうつりまし、十年十二月崩給ひ、明る年の五月、大海人、大友の二皇子の御軍ありしに、事平らぎて、大海人皇子尊は、飛鳥清見原(ノ)宮に、天の下知しめしぬれば、近江(ノ)宮は古郷となりぬ。さて後いつばかり見つるにか。歌の次《ツイ》でを思へば、朱鳥二三年のころにや』【已上】 今按に(此宮遷の事、又大宮の事などは、既に出たれば、此《コヽ》に省きつ)天智天皇、大津宮におはしゝは、わづかに五年なりき。故京となりて後、人麻呂大人のこゝに訪(ヒ)見られしを、朱鳥二三年とする時は、纔に廿年の間なり。そのよめる歌のさま、大宮は既に絶て、趾かたもなくなりつるよしに聞ゆ。たとひ文武天皇の、大寶、慶雲の間、三四十年經て後の事とすとも、さばかりの年歴にて、そのかみの大宮は、然かも絶はつまじきものなるを、かの大友(ノ)皇子の、近江の亂に因て、しかりしなるべし。
 
玉手次《タマダスキ》。畝火之山《ウネヒノヤマ》【※[木+夜]齋本山(ノ)下有2或云宮(ノ)三字1】乃《ノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世《ヒジリノミヨヨリ》。【或云自宮】阿禮座師《アレマシシ》。神之書《カミノアラハス》。【眞淵云一本書作v盡】樛木乃《トガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食之乎《シロシメシシヲ》。【或云食來】天爾滿《ソラニミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山乎越《ナラヤマヲコエ》。【或云虚見倭乎置青丹吉平山越而】何方《イカサマニ》。御念食可《オボシメシテカ》。【或云所念計米可】天離《アマサカル》。夷者雖有《ヒナニハアレド》。石走《イハヾシル》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大(271)津宮爾《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シロシメシケム》。天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間雖云《コヽトイヘドモ》。春草之《ワカクサノ》【爲廣本之作v可】茂生有《シゲクオヒタル》。霞立《カスミタツ》。春日之《ハルヒノ》【爲廣本之作v可】霧流《キレル》。【或云霞立春日 香霧流夏草香繁成奴留】百磯城之《モヽシキノ》。大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。【或云見者左夫思母】
右の中、或云とあるは、原《モト》より校合也。其他は、おのれが校合せしなり。ふと見て混《マギラ》はしきやうなれば、如此はことわりおく也。かくて右異同ある中に、己が心に優れりと思ふ方を、本行に立て、左に改め出すなり。
玉手次《タマダスキ》。畝火之宮〔左〔〕乃《ウネビノミヤノ》。橿原乃《カシハラノ》。日知之御世《ヒジリノミヨユ》。阿禮座師《アレマシシ》。神之書《カミノコトゴト》。樛木乃《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食來《シロシメシコシ》。天爾滿《ソラミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山乎越《ナラヤマヲコエ》。何方《イカサマニ》。所念計米可《オモシケメカ》。天離《アマザカル》。夷者雖有《ヒナニハアレド》。石走《イハヾシノ》。淡海國乃《アフミノクニノ》。樂浪乃《サヽナミノ》。大津宮爾《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シロシメシケム》。天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》。大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間雖云《コヽトイヘドモ》。春草之《ハルクサシ》。茂生有《シゲクオヒタリ》。霞立《カスミタツ》。春日之霧流《ハルビノキレル》。百磯城之《モモシキノ》。大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
○玉手次《タマダスキ》」代匠云。玉は賞《ホメ》たる詞、玉椿、玉笹などの類なり。畝火とつづけたるは、手繦《タスキ》は采女のかくれば、玉手繦采女《タマダスキウネベ》とつゞく心なり云云』(此下に、允恭紀に、釆女と、畝傍《ウネビ》と、混《マガ》ひたる故事よりして、いよ長々と引ることども、よくもあらざれば、今省きつ)考注云。玉だすき、【○かけ○うねび山】萬葉卷一に、珠手次《タマダスキ》。懸乃宜久《カケノヨロシク》云云。こは襷《タスキ》をかくるを、言《コトバ》にかけて云事につゞけたり。同卷に玉手次《タマダスキ》。畝火之山乃《ウネビノヤマノ》云云。こは荷田(ノ)在滿が云る、襷を纏《ウナゲ》るとつゞけつらん。神代紀に、其頸所嬰《ソノミウナガセル》。五百箇御統之瓊《イホツノミスマルノニ》。また同紀の一書に、※[さんずい+于]奈餓勢屡《ウナガセル》。多磨廼彌素磨屡廼《タマノミスマルノ》云云ともあれば也と、げに餓勢《ガセ》の反、解《ゲ》なれば、※[さんずい+于]奈餓勢屡《ウナガセル》を、※[さんずい+于]奈解留《ウナゲル》ともいひ(272)又其|奈解《ナゲ》の反、禰《ネ》なれば、うなげを、うねともいひて、約言の例かなへり。是によるべし』【已上】 今按に、采女と云|稱《ナ》も、もと襷より出で所嬰部《ウナゲベ》の義なれども、枕詞の方は、襷を所嬰《ウナグ》と云を、直にうねびにかけたるなり。※[さんずい+于]奈《ウナ》は項《ウナジ》也。凡て項の邊に懸(ク)る物を、所嬰《ウナグ》といふこと、下(ノ)歌に委く云べし。
○畝火之宮乃《ウネビノミヤノ》。橿原乃《カシハラノ》」代匠云。神武天皇の御事なり。日本紀第三云。神日本磐余彦《カムヤマトイハレビコノ》天皇。諱。彦火々出見彦波瀲武※[盧+鳥]※[茲+鳥]草茸不合《ヒコホホデミヒコナギサタケウガヤフキアヘズノ》尊。第四子也。母《ミハヽヲ》曰(ス)2玉依姫(ト)1。海童之小女《ワダツミノミムスメ》也。天皇生而明達意〓如《スメラミコトミアレノマニヽミコヽロサトクタケクマシキ》也。年十五《ミトシトヲマリイツヽニシテ》立2爲《タゝセリ》太子《ヒツギノミコニ》1云云。三月辛酉朔丁卯。下令臼《ノリタマハク》。自(リ)2我東征《ワレヒムガシヲコトムケシ》1。於茲六年《ムトセニナリヌ》矣。頼2以《カヾフリテ》皇天之威《アマツカミノミイツヲ》1。凶徒就戮《アタドモヲコトムケヲヘツ》。雖《ドモ》2邊土清餘妖尚梗《トツクニハナホサヤゲレ》1。而中洲之地無復風塵《ウチツクニハヤスラニナリヌ》。誠宜恢廓皇都規※[莫/手]大批而今運《イマヤミヤコヲミタテミアラカヲツクルベキトキイタリヌ》。屬此屯蒙民心朴素《ミタカラノコヽロナホクアカクマツロヘリ》云云。且當《マサニ》披2拂《キリハラヒ》山林(ヲ)1。經2營《ツクリテ》宮室《オホミヤヲ》1。而恭臨寶位以鎭元元《アマツヒツギヲシラシミタカラヲヲサムベシ》云云。觀《ミレバ》2夫畝傍山《カノウネビヤマ》畝傍山此(ヲ)云(フ)2宇禰〓夜摩《ネビヤマト》1東南|橿原地《カシハラノトコロヲ》1者。蓋(シ)國(ノ)之|墺區乎《マホナルカモ》。可治之《コヽニシテヲサムベシ》。是(ノ)月即|命《オホセテ》2有司可《ツカサツカサニ》1。經2始《ツクリハジム》帝宅《ミアラカヲ》1云云。辛酉年。春正月庚辰朔。天皇|即2帝位《アマツヒヅギシロシメシキ》於橿原(ノ)宮(ニ)1。是(ノ)歳(ヲ)爲2天皇(ノ)元年(ト)1。尊(テ)2正妃《ミメヲ》1爲(ス)2皇后《オホギサキト》1。生《アラシキ》2皇子《ミコ》神八井(ノ)命。神|渟名川《ヌナガハ》耳(ノ)尊(ヲ)1。故古語稱之臼《カレフルコトニタヽヘマヲサク》。於《ニ》2畝傍(ノ)之橿原1也。太3立《フトシキタテ》宮柱《ミヤバシラ》於|底磐之根《ソコツイハネニ》1。峻3峙《タカシリテ》搏2風《チギ》於高天之原(ニ)1而。始馭天下之天皇《ハツクニシラススメラミコト》。號2曰《マヲシキ》神日本磐余彦|火々出見天皇《ホヽデミノスメラミコト》』考注云。こは神(ン)耶万登伊波禮彦(ノ)天皇【ジンム】を申す』【略解釋なし』【已上】 今按に、橿原(ノ)地は、倭(ノ)國風土記殘編云。高市(ノ)郡橿原(ノ)郷。土地中肥民不v少。是則《コハ》神日本磐余彦(ノ)天皇。自(リ)2日向(ノ)國宮崎(ノ)宮1。遷(マシテ)而始(テ)宮居之地《ミヤ井セシトコロナリ》云云。また畝傍山。此(ノ)山|高峻《タカシ》也。松柏|繁茂《シミサビタテリ》也。山(ノ)西北(ハ)云云。山(ノ)西南(ハ)云云。山東(ハ)云云。山(ノ)西(ニ)有2神社1。所2奉崇《イハヒマツレリ》神日本磐余彦(ノ)天皇(ヲ)1也云云。輿地通志曰。橿原(ノ)宮(ハ)柏原村(ナリ)。神武天皇都(ス)2於畝火山(ノ)西南(ノ)橿原(ニ)。即此日本紀(ニ)西(ヲ)作v東(ニ)傳寫(ノ)誤(ナリ)【右風土記と合せ考るに實に然るなり】また村里(ノ)部(ニ)曰。柏原村(ノ)屬邑四|本馬《ホンマ》。日本紀作2〓間《ホヽマ》1云云とて(273)此(ノ)地を葛(ノ)上(ノ)郡に收めたり。然れば古へは高市(ノ)郡なりけるが、後《ノチ》には葛(ノ)上(ノ)郡に屬《イリ》しなるべし。行嚢抄云。畝傍村ヨリ西ノ方也。此山ハ、自v路右ニヨク見ユル丸山ニテ、茂山ノ松山也云云。柏原村、山(ノ)西南ニ在(リ)。此所神武天皇ノ舊都也。とありて、是も風土記の趣也。斯《カク》て今此句、普通(ノ)本には、畝火之山乃とありて、諸抄皆其(レ)に依て説(キ)たれど、※[木+夜]齋が持る古寫本には、山(ノ)下に、或(ハ)云宮とあり。思ふに此(ノ)處は、其(ノ)御世を指て云るなれば、必ず畝火之宮乃《ウネビノミヤノ》とあるべきなり。即(チ)畝火之《ウネビノ》。橿原宮乃《カシハラノミヤノ》。日知之御世從《ヒジリノミヨヨリ》と云べきつゞきなりけるを、五七の調べありて、然《サ》は連《ツヽ》けがたかれば、畝火之|宮乃《ミヤノ》云云とは、先(ヅ)いへるなり。天武紀に、孝徳天皇の御代を指て、難波(ノ)宮(ニ)治《シラシヽ》2天(ノ)下1天皇。また天智天皇を、於《ニ》1近江(ノ)宮1治《シロシメシヽ》2天(ノ)下1天皇などあり。是等も豐前(ノ)宮とも、大津(ノ)宮とも申すを、如此《カク》記せれば、橿原(ノ)宮を畝火(ノ)宮と云も同例也。二十【五十丁】に、安吉豆之万《アキヅシマ》。夜万登能久爾乃《ヤマトノクニノ》。可之婆良能《カシバラノ》。宇禰備乃宮爾《ウネビノミヤニ》。美也婆之良《ミヤバシラ》。布刀之利多弖々《フトシリタテヽ》。安米能之多《アメノシタ》。之良志賣之祁流《シラシメシケル》。須賣呂伎能《スメロギノ》とある、是も倭(ノ)國之。畝火之。橿原(ノ)宮にと、連《ツヾ》けぬべき所なれども、さてはしらべよからぬ故に、上下ふりかへて、橿原之。畝火(ノ)宮とは云るなり。此等に准(ヘ)て、山(ノ)字は、宮を誤れる事を、知べき也。今本、御世從とある下に、或云自v宮と記せれど、此處は必ず御世從とあるべき處なれば、こは上に入べき校合を誤て下には記せし也。
○日知之御世從《ヒジリノミヨユ》」類林曰。續後紀、【十九】聖之御子曾《ヒジリノミコゾ》。神武紀云。夫大人《ヒジリ》立(ル)v制《ノリヲ》義《コトワリ》必(ズ)隨《ナラヘリ》v時(ニ)云云』 似閑書入云。日知《ヒジリ》ハ、日嗣知《ヒツギシリ》ヲ略キテ云。本(ト)我天皇ヲ申ス尊稱也』 考注云。日知《ヒジリ》てふ言は、先(ヅ)月讀(ノ)命は、夜之|食《ヲス》國を知しめせと有に對て、日之食國《ヒノヲスクニ》を知ますは、大|日女《ヒルメ》の命也。是よりして、天つ日嗣知しをす御孫(ノ)命を、日知《ヒジリ》と申奉れり。紀に神聖な(274)どあるは、から文體に、字を添しにて、二字にてそれはかみと訓也。聖の字に泥て、日知《ヒジリ》でふ言を誤る説多かり』 續後紀歌考【久老著】云。聖は、から國によき王どもを云(フ)字也。皇朝にて、ひじりと云言は、日知《ヒジリ》の意にて、日嗣《ヒツギ》知しめす天皇を申す言なるを、彼(ノ)王どもを、貴む代となりて、日知《ヒジリ》の言を、聖(ノ)字に訓つけたる也と、師はいはれき。さる事なるべし』 古事記傳【三十五(ノ)廿六丁】云。日知《ヒジリ》云云。此《コ》は皇國の、元よりの稱《ナ》には非じ。聖(ノ)字に就て、設けたる訓なるべし。其は漢籍《カラブミ》に、聖人と云者の徳をほめて、日月に譬へたることあるを取て、日の如くして、天(ノ)下を知しめすと云(フ)意なるべし』【已上衆説】 今按に、此記傳の説は、舊《モト》よりの説を、還りて拙《ワロ》くせるもの也。彼(ノ)仁徳天皇を、古事記に、故(レ)稱(ヘテ)2其(ノ)御世(ヲ)。謂《マヲス》2聖帝《ヒジリノミヨト》1と云(ヒ)、又同記(ノ)序文に、望(テ)v煙而撫2黎元(ヲ)1。於v今傳2聖帝(ト)1。とかき、又續紀詔詞に近江(ノ)大津(ノ)宮爾、天(ノ)下|所治聖代爾《シラシヽヒジリノミヨニ》などゝある類は其政事きこしゝさまの、やゝ漢國の聖人風に似たる所の有しをもて、後より然か稱《タヽヘ》たるにこそはあれ。字に就て、設けたる訓ならんには、神武の御時などに、此語有べからず。又人麻呂大人も、歌にはよむべからず。つら/\此語のさまを思ふに、天皇、皇子を、日(ノ)御子と申(シ)、其宮を、日(ノ)宮と申(シ)、奉仕る人を、日(ノ)宮人と申(シ)、或は又皇子、皇女の名を、日子《ヒコ》、日女《ヒメ》と申す類の言がらにして、全《モハラ》此間《コヽ》の古語と聞えたり。彼(ノ)續後紀(ノ)歌に、天照國乃《アマテルクニノ》。日宮乃《ヒノミヤノ》。日知之御子曾《ヒジリノミコゾ》。また日宮乃《ヒノミヤノ》。聖之御子能《ヒジリノミコノ》。天下爾《アメノシタニ》。御坐天《オホマシマシテ》。御世御世爾《ミヨミヨニ》。相承襲弖《アヒウケツギテ》。毎皇爾《キミゴトニ》。現人神止《アラヒトガミト》。成給《ナリタマヒ》。御坐世婆《オホマシマセバ》云云。とよみたる連《ツヾキ》も、其(ノ)定《デウ》なり。かゝれば既に、似閑、眞淵、久老|等《ナド》の、云(ハ)れたる旨なること决《ウツナ》し。さて又此|日知《ヒジリ》と云古語をしも、はやく聖(ノ)字に訓つけけるは、彼(ノ)國の聖人も、堯、舜、禹、周公など、皆其國王なりつれば、ひたぶるに貴みける心から、こなたの(275)天皇に准へて、假に聖《ヒジリ》とは訓し也(後にわづかなる道人、行者、法師の屬《タグ》ひ迄も、ひじりと云ことのあるは、釋迦も、孔子も、聖人と云に就て、其道を修する徒なりければ、又其(レ)に准へて云(ヒ)そめたる俗言なり)
○阿禮座師《アレマシシ》」代匠云。あれますは、生れます也。神代紀上云。然後神聖《ソノノチカミ》生《アレマス》2其(ノ)中(ニ)1焉。此第四、岳本天皇の御歌にも、神代より、あれつぎくれば、人さはに、國にはみちて、とよませ給へり。神のこと/”\、つがの木の、いやつぎ/”\に、あれましゝ神、とつゞくるは、神武、綏靖等のみかどを神と申て、次第におひつゞきてたえぬが如く、御子孫あひつゞきて、多分大和にこそ、天下ををさめさせ給ひしものをと也。【書(ノ)字は、盡の誤として既にこと/”\と訓(メ)り】』考注、略解、皆是此説に同じ』【依て省(ケ)り】記傳【廿(ノ)卅五丁】云。阿禮《アレ》坐は、生(レ)坐にて、宇麻禮《ウマレ》賜へりと云こと也。阿禮《ア
レ》てふ言の意は、新《アラ》、現《アラ》と通へり。生《ウマ》るゝは、此身の新《アラタ》に成なり。又|現《アラハ》るゝなればなり(宇麻《ウマ》を切《ツヾム》れば、阿《ア》なる故に、阿禮《アレ》は、即|宇麻禮《ウマレ》なりと、意得るは違へり。宇麻禮は、所《レ》y産《ウマ》にて、言は元より別なり。阿禮は、自ら生《ア》れ、宇麻禮は、母に被《レ》v産《ウマ》たる也)明《アキラノ》宮(ニ)御宇天皇の生坐るをも、其(ノ)御子《ミコハ》者、阿禮坐《アレマシキ》とあり。續紀一に、天皇(ノ)御子(ノ)之。阿禮坐牟彌繼々爾《アレマサムイヤツギツギニ》と見え、月次祭祝詞にも、阿禮坐皇子等乎毛《アレマサムミコタチヲモ》。惠給比《メグミタマヒ》と見え、萬葉六【四十二丁】に、阿禮將座《アレマサム》。御子之嗣繼《ミコノツギ/”\》など見ゆ。又書紀允恭(ノ)卷に、皇后《オホキサキ》産2大泊瀬(ノ)天皇(ヲ)1。とある産を、阿良志麻須《アラシマス》と訓るは、令《シメ》v生《アレ》坐《マス》なり。〔細注〕凡て阿禮坐《アレマス》とは、御子に就て云言にて、宇麻禮《ウマレ》賜ふと云意なり。故(レ)御母《ミオヤ》に就て云ときは、阿良志坐《アラシマス》なり。令《シ》v生《アラ》の意なればなり。文|宇牟《ウム》は、母に就たる言なる故に、子に就ていへば、宇麻流《ウマル》と云。所《ル》v生《ウマ》の意なり。されば古書に、生(ノ)字を書るに、此(ノ)差別《ケヂメ》あり。母に就て、某生v某とある生は、親の子を産なれば、宇牟《ウム》とか、阿良志(276)坐《アラシマス》とか訓べし。子に就て、某生とある生は、子の誕生《ウマルゝ》なれば、宇麻流《ウマル》とか、阿禮坐(ス)とか訓べし。然るに世(ノ)人此差別なく、生(ノ)字をば、子に就ても、親に就ても、阿禮坐《アレマス》と訓(ム)を、古言と心得たるは、非《ヒガゴト》なり。凡て何事も、文字に委《ユダ》ねおく故に、古言のかゝる差別ある事を、得辨へ知(ラ)ざる、此類多し。其例を一(ツ)二(ツ)いはゞ、賜ふと、賜《タマ》はるとを、一つに心得、遣《ツカハ》すと、遣《ツカハ》さるとを、一(ツ)つに心得るなど、皆誤也。多麻布《タマフ》は與《アタ》ふる人に就て云言、多麻波流《タマハル》は、受《ウク》る人に就て云言にて、所《ル》v賜《タマハ》の意なり。都加波須《ツカハス》は、遣(ル)る人に就て云言、都加波佐流《ツカハサル》は、宿《ユク》人に就て云言にて、所《ル》v遣《ツカハサ》の意なり。凡ての言《コトバ》づかひ、此等を以て、准(ラ)へしるべし』【已上】 今按に、此説の如くにて、猶いはゞ、阿禮《アレ》は、本(ト)隱《カクシ玉フ》v身《ミヽヲ》などある、隱《カクルヽ》の反對《ウラ》にて、現人神《アラヒトガミ》などの顯《アラ》也。故(レ)新《アラ》、在《アリ》、生《アル》等の類をも、此(ノ)言の中に包《カネ》たり。此(ノ)卷下【二十四丁】に、藤原之《フヂハラノ》。大宮都加倍《オホミヤツカヘ》。安禮衝武《アレツカム》。處女之友者《ヲトメガトモハ》。とよみたる安禮衝《アレツク》も同語也。是をば又一(ツ)異なる語の樣にいひなせども、別ならざる事、其(ノ)處に云べし。こゝは皇祖神の御守護にて、御孫《ミマノ》命の、連綿《ヒキツヾ》き顯生繼所知來《アレツギシラシコ》し事を云る也。
○神之盡《カミノコトゴト》」代匠記一本云。書は盡の誤にて、神のこと/”\と訓べし。第三卷長歌に、人乃|盡《コト/”\》、また|國之盡《クニノコト/”\》などありて、悉皆の心なり』(今の普通の代匠記には、神のあらはすとあれど、それも釋中の詞には、かみのこと/”\也といへる、前に引る文の如し) 考注云。今本に、神之書、一本に盡と有も、共に言たらず。もと神之|御言《ミコト》と有しを、盡の一字になりしものなり』小琴云。盡ヲ、本ニ書トアルハ、寫誤也。盡トハ、神武天皇ヨリ始メテ御世々々ノ天皇、悉ク大倭國ニ、営敷イマシヽヨシ也』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、言の意は、此小琴の如くなれども、さらば代匠記を引て云べきを、殊更めきて如此《カク》ことわれるは、此人々は、正しき代匠(277)記をば、見られざりけむ(契冲の、此|盡《コト/”\》の解は、厚顔抄にも出たるを、古事記傳十七(ノ)卷(ノ)八十丁に、其説をば引ながら、代匠(ノ)説を引ざるも、然かおぼし。又考注も、代匠記の右の説を見ば、かくやうのまだしき説は、立まじきにやとそおぼしき)萬葉に就ては、常に契冲を、いたく侮《アナド》れる説多かるも、いぶかしくてなり。猶此|盡《コトゴトク》の語は、神代紀に、譽能據〓馭〓母《ヨノコトゴトモ》。此(ノ)集二【二十四丁】夜者毛《ヨルハモ》。夜之盡《ヨノコトゴト》。晝者母《ヒルハモ》。日之盡《ヒノコトゴト》。十七【三十九丁】久奴知許登其等《クヌチコトゴト》(此外三(ノ)五十四丁、五(ノ)六丁、又三十九丁にも見ゆ、又五(ノ)卅八丁に、許等許等波《コトコトハ》。とよみたるもあれど、是は別々波《コトコトハ》の意にて、別也)などある、何れも限りの意なり。契冲の厚顔抄に、彼(ノ)よのこと/”\にと云、御歌の條下に、此《コヽ》の歌をも引き、又廿(ノ)卷に「たちしなふ君がすがたをわすれずば與能可藝里爾夜《ヨノカギリニヤ》こひわたりなん」此意に同じと云り。又其處の、或人の書入に、此言、常には數ある物を、一(ツ)も遺《ノコ》さぬ事にのみいへど、古くは限りの意にも、云りとあり。
○樛木乃《ツガノキノ》」仙覺抄云。樛。玉篇云。樛(ハ)居秋(ノ)切。詩曰。南有2樛木1。注云。下(ノ)曲(ヲ)曰v樛(ト)。科同v上(ニ)。爾雅曰。下(ノ)勾(ヲ)曰v科(ト)。廣韻曰。下平聲。卷第二曰。樛。説文云。下(ノ)勾(ヲ)云v樛。詩曰。南有2樛木1。傳曰。木下曲也。居料(ノ)切云云』代匠云。玉篇云云。毛詩周南云云。第三卷。赤人長歌にも「みもろの、神なび山に、いほえさし、しゞにおひたる、都賀《ヅガ》の樹の、いやつぎつぎに」とよめる、今に同じ。とがは、今栂の字を用れど、これも俗字なりといへり。樛の字をかけるは、昔別に據所ありてなるべし』冠辭考云。萬葉一云云。卷三に云云。卷六に御舟乃山爾《ミフネノヤマニ》。水枝指《ミヅエサシ》。四時爾生有《シジニオヒタル》。刀我乃樹能《ツガノキノ》。彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。萬代《ヨロヅヨニ》云云。こはつぎ/”\といはん料に冠らしめたり。且|都賀《ツガ》の木は、常葉《トコハ》にて、よろしければ、何れはあれど、かゝることに用ひたるな(278)るべし。中略 今本に、とがとよみたるは、刀我とあるからは、他なしと思ひけるなるべけれど、古へ都《ツ》を登《ト》と訓《ヨム》ことなければ、よく思はざるもの也。さて都賀《ツガ》の木は、樅《モミ》の木の類にて、今も栂の字を用る、是也。此(ノ)栂(ノ)字は、神武紀に、初(メ)孔舍衙之《クサカノ》戰(ノトキ)。有人隱於大樹而得免難《オホキニカクレテマヌガレタルヒトアリキ》。仍《カレ》指2其(ノ)樹(ヲ)1曰2恩如母《オモナスウツクシアリト》1。時人因號其地曰母木邑《ヨノヒトソコヲオモノキノムラトナモイフ》。今云(フハ)2飫悶廼奇《オミノキト》1訛(レルナリ)也といへり。此母木の謂もて作れりと見ゆ。然れば故も興も有字にて、後世人のわざならず。天武天皇十一年に出こし新字にやあらん。されども人万呂、此歌よみしは、其前か、又猶弘く新字の行れぬ程などにて、都賀《ツガ》に字なければ、樛の字を借しなるべし。樛は、黄楊の類なれば、都解《ツゲ》と訓て、言近ければ也』草木攷【曾槃著】云。眞淵は、黄楊の事ならんと云り。槃按に、今ツガノキとも、トガノキとも云て、つねに深山に生て、葉は樅《モミ》の木の葉に似て、いとこまかにして、しゞにおひたり。其材も樅に似てなほ良材也。或書云。栂(ハ)樅《モミノ》之屬。樹葉似(テ)v樅(ニ)。其材可v爲(ル)2屋柱(ニ)1。可v作v器(ニ)。其大木(ノ)根株(ハ)。※[耕の左+片]《ヘギ》v板(ニ)※[木+雲]《モク》微(ニシテ)有2雲能之形勢1。亦良木也。性耐(フ)2水濕(ニ)1。日向産最(モ)佳(シ)。土佐次(ク)v之。又有2椹栂《サハラトガ》1。出(ヅ)2於土佐(ヨリ)1。帶(ブ)2微赤(ヲ)1。とあるが如し。ツゲは、集中に皆黄楊と書たり。眞淵別に見る所ある歟』【已上衆説】 今按に、冠辭考の説は、專(ラ)牽強なり。樅と、都賀《ツガ》と似たればとて、其樹(ノ)元より別なるを、母木《オモノキ》の新字を作りて都賀木《ツガノキ》に當(テ)んやうあらんやは。又黄楊の類とせる、是も大に異也。又草木攷に、其材も樅に似たりと云る、是もたがへり。古人の樅に似たりと云るは、只其枝葉の事ならん。材は似たる所なし。是を東國の山中の人、又杣人等は、都賀松《ツガマツ》と云り。げにも其木ぶり、枝ぶり、深山の松の形状《サマ》に似たる處ありて、其材も、松のやになく、木理の細密《コマヤカ》なるものなり。さて此集に、樛木の字を用ひ來しは、若(シ)蓼木《サガリキ》の謂にはあらざるか。詩經の古き點に、樛木を、さがり木と訓せたり(古き謠曲(ノ)(279)書に、糸の操《ミサヲ》とて、毛詩を和して、節を附たる物一冊あり。それにも樛木を、皆さがり木とうたひたり)これを山人に問試みけるに、都賀松は、老木になるほど、枚長く垂るゝ故に、兒女などは、さがり木とあだ名つけて、よぶ國もありと云り。よく似たる事どもなり。猶慥かに考へ正してよ。
 〔細註〕 まろも一とせ、木曾山を通りつるに、をかしく枝の垂たる木どもの、遙かに見えけるを、かの木は松にやと問(ヒ)たるに、都賀の木也といふ。此時さがり木の訓などの事を思ひ出て心におもひけらく、彼(ノ)樛木の文字は、漢國にても、實は此方に云、都賀の事なりけむを、はやくより字書等に、木(ノ)下曲也など注しひがめて、知(ラ)れぬ事と成しより、此方にも字鏡、和名抄、本草和名、伊呂波字類等の諸書に、凡て見えざるにぞあらん。然れども、本(ト)木(ノ)名ならずては、南(ニ)有2樛木1とは、作るべきにあらず。此集に、都賀に當(テ)たるこそ由あらめ。もしは、そのかみ遣唐使の學生等、かの國に往ける時、詩の樛木は、吾國の都賀なると、語らひ定めて、此字を書傳へしにもあらん。猶博覽の人、よく考へ定めてよ。又事の次(デ)に云。此都賀(ノ)木に栂(ノ)字を書習ひたるは、〓を誤り來しにもやあらん。宋祁、萬物略記に、〓(ノ)木の枝の垂る形状を云ていはく、童々(トシテ)若2幢蓋1。經(テ)v歳不v凋(マ)。至v春(ニ)新陳相換(ル)と云る、此方の都賀の枝ぶりによく似たり。もし此意を取て當たるにや。彼(ノ)樛字も、※[樛の旁]は、則枝葉の垂るゝ形なりと云り。其常葉な」る事は、十七(ノ)卷四十二丁に「かきかぞふ、二上山に、神さびて、たてる都賀醗奇《ヅガノキ》、毛等毛延毛《モトモエモ》、おやじときはに、はしきよし、わがせの君と云云」とよみたり。此外三(ノ)二十九丁、六(ノ)十丁、十九(ノ)四十二丁等の、前後にも出(ヅ)。
○彌繼嗣爾《イヤツギツギニ》。天下《アメノシタ》。所知食來《シロシメシコシ》」考注云。食來《メシケル》にて、(280)次に倭乎置と云までつゞく也。今(ノ)本、食|之乎《シヲ》と有て、こゝを句とせるよりは、一本まさりぬ』 略解云。所知食之乎《シロシメシシヲ》云云。【下考説に同じ】』 今按に、此三句を、假にいはゞ、彌《イヤ》は、いやが上など云(フ)いや、繼嗣《ツギツギ》は、次々《ツギツギ》にて、即神武天皇より、齊明天皇まで、三十八代の間の天皇《スメロキ》の、引つゞきて天(ノ)下しろし來し、其(ノ)倭(ノ)國を除《オキ》てと、次へつゞく也。これを食來《メシケル》、また食之乎《メシシヲ》などよむはわろし。食來倭《メシコシヤマト》をと云|連《ツヾ》きなれば也。
○天滿《ソラミツ》。倭乎置而《ヤマトヲオキテ》。青丹吉《アヲニヨシ》。平山越而《ナラヤマコエテ》」考注云。虚見《ソラミツ》。【冠辭。今本天爾と有は、例にたがひつ。】倭乎置《ヤマトヲオキ》。【六言、置は捨置なり。】青丹吉。【冠辭】平山越而《ナラヤマコエテ》【今本、平山乎越と有よりも、一本平山越而とて、下のあふみの國へ、隔て懸るに依(ル)】』略解、訓も、説も全《モハラ》是に同じ』 小琴云。本ニ平山乎越トアルヨリハ、一本ニ、平山越而トアル方宜シ。倭乎置而ノ、而文字ハ、猶必有ベキ也。此而(ノ)文字ナクテハ、イトワロシ。而ノ重ナルハ、古歌古文ノ常也』【已上】 今按に、此小琴の説の如し。考、略解の説はわろし。但(シ)而(ノ)文字の重なるを、古歌古文の常とおぼえたるは、ひが心得なり(彼人の歌文に、いと漫(リ)に而もじを重ねて、かたはなるがをりをり見えけるも、此ひが心得より、起れりしなり)こは而(ノ)文字には限らず、凡て古歌古文に、同じ助辭《テニヲハ》を重ねいへる事のあるは、予が撰格に、句段と名付たる格にて、上を幾つにも云(ヒ)て、下の一段に受る時のわざにこそあれ。古へとても、其故なく、猥に重ぬる事ありなんや。こをよく心得ずては、自(ラ)の歌文は更にもいはず、古歌古文を解(ク)にも、ひが事すべければ、此に其格をいさゝか圖して、さとすべし。たとへば、
神代紀下
眞床覆衾をきせまつり而〔右○〕
あまのいは戸をひきあけ而〔右○〕
あめの八重雲をおしわけ而〔右○〕
あめのくし日をとりそへ而〔右○〕
               ○――あまくだしたまひき云云
(281)大祓祝詞
しなどの風の云云吹はなつ事の如く〔右○〕
あしたの御霧云云吹はらふ事の如く〔右○〕
大津へにをる大舟を云云おしはなつ事の如く〔右○〕
をち方のしげ木が下を云云打はらふ事の如く〔右○〕
               ○――のころ罪はあらじと云云
土佐日記 初丁
ある人あがたの四とせ五とせはてて〔右○〕
れいのことどもみなしをへて〔右○〕
げゆなどとりて〔右○〕
すむたちよりいでて〔右○〕
               ○――舟にのるべき所へわたる
竹取物語 初丁
たけとりの翁竹をとるに〔右○〕
此子を見つけて後に竹をとるに〔右○〕
ふしをへだてゝよことに〔右○〕
               ○――こがねある竹を見つくる事限りなし
伊勢物語 六段
昔男ありけり 女え得《ウ》まじかりけるを〔右○〕
       年へてよばひわたりけるを〔右○〕
               ○――ぬすみいでゝ云云
これら何れの行よりも、下の一行に係《カヽ》れり。即|比《コヽ》も此格にて【そら見つ、やまとをおきて、あをによし、ならやまこえて、】云云。近江(ノ)國のと、下の一段に受たるなり。猶隔句もあれば、前後の句を合せて、圖せば、
(282)天(ノ)下、知シメシ來シ、(一)
空見ツ、倭ヲオキ而〔右○〕
(二)青丹ヨシ、ナラ山コエ而〔右○〕
             (四)石走ノ、近江(ノ)國(ノ)、サヽ浪ノ、大津(ノ)宮ニ、天(ノ)下知シメシケム』天皇ノ云云、
(三)イカサマニ、思ホシケメカ、天ザカル、夷ニハアレド
  ○此四句は、近江ヘウツリ坐シ故ヨシヲ裁入タル、イハユル隔句ニシテ、横ノツヾキ也。
かくの如し。此格次々の長歌にも多かれど、其處々に云べければ、ここには引ず。
○何方《イカサマニ》。所念計米可《オモホシケメカ》」代匠云。是はすこしそしり奉る心あるか。其故は孝徳記曰。是年【白雉四年】太子乃
奏請曰《マヲシクマハク》。欲《ホリス》2冀(ハ)遷(ラマク)2于倭(ノ)京(ニ)1。天皇不v許(シ玉ハ)焉。皇太子乃|奉《井テマツリ》2皇祖母(ノ)尊間人皇后(ヲ)1。并率(テ)2皇弟等《ミオトタチヲ》1。住2居(マス)于倭(ノ)飛鳥(ノ)河邊(ノ)行宮《カリミヤニ》1。于時公卿大夫百官人等皆隨而遷(ル)。由v是天皇恨(ミ玉ヒテ)欲《オモホス》v捨《サラント》2於|國位《オホミクラヰヲ》1。令v造2宮於山碕(ニ)1。乃送(テ)2歌於間人(ノ)皇后(ニ)1曰云云。五年冬十月癸卯朔。皇太子聞(シテ)2天皇病疾(ヲ)1。乃|奉《ヰテマツリ》2皇祖母(ノ)尊間人(ノ)皇后(ヲ)1并率(テ)2皇弟公卿等(ヲ)1赴2難波(ノ)宮(ニ)1。壬子天皇崩2于正殿1云云。是日皇太子奉(テ)2皇祖母尊(ヲ)1遷2居(マス)倭河邊(ノ)行宮《カリミヤニ》1云云。天智紀曰。六年春三月辛酉朔乙卯遷2都于近江(ニ)1。是時天下(ノ)百姓不v願v遷v都。諷諌者多《ソヘイサムルヒトオホク》。童謠亦衆《チマタノウタマタオホシ》。日々夜々失火處多《ヨルヒルワカズヒノワザハヒシバシバナリキ》。これらの心を見るに、孝徳天皇の、長柄の豐崎王おはしますをば、倭へ歸らせ給ひて、然るべきよし奏し賜ひ、御許容し給はざりければ、皇祖母(ノ)尊をゐて奉り、皇后皇弟までを、引具し給ひて、倭の川原宮へかへらせ給ふにより、孝徳天皇恨みおぼしめして、位をさらせたまはんとさへ、おぼしならる。然るに齊明天皇の後、御位に即せ給ひての六年に、大(283)津宮へうつらせ給ふ時、百姓、都のかはらむ事をねがはず。いさめ奉る者も多かりけれど、遂に移らせ給ふに、さま/”\の童謠ありて、晝夜失火しよからぬ事ども有けるよし、右紀に見えたれば、ほのめかして云るにや。しげく都をうつす事は、民の恨る事也。史記(ノ)殷本紀(ニ)曰。盤庚渡(テ)2河南(ヲ)1復居(ス)2成湯之故居(ニ)1。廼五遷無2定處1。殷(ノ)民|※[次/口]《ナゲキテ》退(ク)。臣皆怨(テ)不v欲v徙《ウツルコトヲ》云云』 考注云。一本|所念計米可《オモホシケメカ》とあり』略解云。おもほしめせか。或本、おもほしけめかの方まされり。【宣長説也】』【已上】 今按に、此二句、詞の表は、たゞいかやうに思ほしめして、倭をすて近江へは遷りましけん、と云のみなれど、其御代の六年に、遷り給ひて、其かひもなく、十年に崩たまへば、此大宮に坐しは、わづかに四五年の間なりしに、其年より、大友(ノ)皇子の、御謀反などおこりて、いたづらになりし事等の、心にありて、かくは云るなりければ、終には右の意も、なきにはあらざるべし。さて計米《ケメ》は、計牟《ケム》なるを、可《カ》と連《ツヾ》く故に、米《メ》に轉して云る也(「いふらめど」「あらざらめど」など云類ひなり)即|計米《ケメ》は、往《イムサキ》を推(シ)量り云辭。可は疑(ヒ)なれば、下に兼《ケム》と受て、結(ビ)たるなり。
○天離《アマザカル》。夷者雖有《ヒナニハアレド》」代匠云。天ざかるは、ひなとつゞけたり。天離、天放、天疎など書たれば、帝都に遠ざかりたる國と云心也。天は都をさし、ひなは、田舍をさす。おほよそ方角を云に、王城をもとゝして云事常也。神代紀の歌に「天ざかるひなつめの云云」とよめり。久しき時より見えたる詞也。顯照法師は、遠國ならでは、よむまじきよし申されたれど、こゝに近江をよみたれば、畿内を出れば、いづくにもよむべし。あまざかるの、かもじある所に、我の字をも書たれど、只清てよむべし。清濁を通し用る事もなきにあらず。天のひきく、さがれる心といへど、王子淵が、聖主得2(284)賢臣(ヲ)1頌に、今臣|僻《サカリテ》在2西蜀(ニ)1など云る心に見るべし。延喜式祝詞に、青雲能《アヲクモノ》。靄極《タナビクキハミ》。白雲墜坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》と云るは、遠き所をのぞめば、雲も地におりゐて、つゞけるやうに見ゆるを云り』冠辭考云。【○ひな○むかつひめ】神武紀に、阿磨佐箇屡《アマザカル》。避奈菟謎廼《ヒナツメノ》。萬葉卷一云云。卷三に、天離。夷之《ヒナノ》長道|從(ユ)卷十五に、安麻射可流《アマザカル》。比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》云云。こは都がたより、ひなの國をのぞめば、天とゝもに遠放(リ)て見ゆるよしにて、天放るとは冠らせたり。さかるとはこゝより避《サカ》り離《ハナ》れて、遠きを云。古事記に、奥疎神《オキザカルカミ》。訓v疎云2奢加留《ザカルト》1萬葉卷十三に、夷離《ヒナザカル》。國治爾登《クニヲサメニト》。【一云天疎夷治爾登】なほ集中に、里放《サトサカリ》、澳放《オキサカリ》、振離《フリサケ》、見放《ミサケ》、などあるも、さかるは、同じ語也。(天|射《ザ》かるを、天|低《サガル》、振放を、振|提《サゲ》と意得たる人あれば、委くいふなりけり)さて天ざかるの、さは音便にて、濁るべき例也。よりて集中に、安麻射加流《アマザカル》と書て、射は專ら語る濁に用ふ。且夷ざかるも同じ意なるに、それに謝《ザ》の字をしも書し也。比奈《ヒナ》は、日《ヒ》の下《シタ》也。こは本(ト)天より、下つ國を云言なるを、天孫降りましゝより、其宮所を、天つ宮とも、日の宮とも申し、御食國《ミヲスクニ》を、天の下とも、日の下とも云故に、比能志多《ヒノシタ》を約めて、比奈《ヒナ》とは云也。【三言約也】神功紀に、天疎向津媛《アマザカルムカツヒメノ》命てふは、遙けきそらは、常に向ひ見やらるゝ物故に、冠らせし也。遠くむかはるゝ峯を、萬葉に向津峯、とほきそらを、祝詞に、天雲乃向伏極《アマグモノムカブスキハミ》などあるが如し。さて向津媛てふ名は、古へは愛《ウツクシ》みて、見まはしき事を、向《ムカ》しきといへれば、其意にてつゞけたるものなり』記傳【四十二(ノ)卅三丁】云。都の外を、總て、何處《イヅク》にても比那《ヒナ》と云り。神代紀(ノ)歌に、云々、比那《ヒナ》と云言の本の意、舊き説に、日無《ヒナ》と云(ヒ)師は田居中《タ井ナカ》とも、日の下《シタ》共云(ハ)れき。何れもよろしとも聞えず』答問録【是も宣長の著(ハ)せる書也】曰。比那《ヒナ》は、邊之處《ヘノカ》也。邊は片ほとりを云。それ
を比《ヒ》と云は、濱備《ハマビ》、岡傍《ヲカビ》などの如し。處《カ》は在處《アリカ》、(285)住處《スミカ》、隱處《カクレガ》などの例也。さて能可《ノカ》の約|奈《ナ》也。又そをゐなかとも云(フ)は、小邊之處《ヲヘノカ》也。乎比《ヲヒ》の約(メ)韋《井》也』信濃漫録【二十八丁】云。あまざかる鄙《ヒナ》は、天に放りまします日と云意にて、比《ヒ》の一言にかゝる發語《マクラコトバ》也。神后妃に、天照大御神の宣《ノリ》ましゝ大御言に、天離《アマザカル》、向津姫《ムカツヒメ》と、宣坐(シ)しは、即日の御ことなるを思(フ)べし』(久老自筆の、病床漫筆には、天離《アマザカル》、向津姫《ムカツヒメ》とは此國より天に離《サカ》りて、向ひ見る日《ヒ》を云を、日女《ヒメ》と續け給へる也。是を以て、日《ヒ》の一言に係る枕詞なる事を知べしとあり。今の印本には、此言等を、いかで省きけん)日本紀歌解云。ひなとは、日没《ヒナ》にて、西より北にかけて云詞也。萬葉集中にも、東南を指(シ)て、比那《ヒナ》と云る事なし。三重(ノ)※[女+采]が歌に、「百たる、槻が枝は、ほつ枝は、天《アメ》をおへり。中つ枝は、阿豆麻袁淤幣理《アヅマヲオヘリ》、下枝《シヅエ》は、比那袁淤幣理《ヒナヲオヘリ》」とて、阿豆麻《アヅマ》に對(ヘ)て、比那《ヒナ》と云るも、阿豆麻《アヅマ》は、東より南をかけていひ、比那《ヒナ》は西より北をかけて云(ヒ)て、天《アメ》と四方を云る詞と聞えたり』【已上衆説】 今按に、如此《カク》種々《イロイロ》に云る中に、枕詞のつゞきは、代匠記に云る如く、帝都に遠ざかる國をいへるなるべし。役(ノ)天に離《サカ》る日《ヒ》と、比《ヒ》の一言に係《カヽ》ると云説も言《コト》よきが如くなれど、夷《ヒナ》とかゝるとは、其(ノ)趣異なれば、神后妃の神語のつゞきは、別に見べき也。又|日之《ヒノ》下、と云もわろく、邊之處《ヘノカ》と云るは殊に拙し(そは常に、然か云古語の有に就て、比那《ヒナ》とは其(ノ)言の約りかともいはゞ、さてもあらんを、彼(ノ)邊之處《ヘノカ》、小邊之處《ヲヘノカ》など、例もなく、聞も及ばぬかた言を作り出て、其約りとせる、甚しき強説也。又ゐなかと、比那とを、一つことに云(ヒ)思へるも、ひが心得なり。ゐなかも比那も、其指せる處は相似たるさまにして、又必しも、同じからず。故(レ)其言の根ざしは各別々也。其(ノ)差は、下に委くわきまふべし)又|日没《ヒイナ》の意として、比那《ヒナ》は、西北をいひ、阿豆麻《アヅマ》は、東南を云と云る説も、甘なひがたし。(286)先(ヅ)此《コヽ》の歌に、近江を指て、夷《ヒナ》とよめる、近江は、大和よりは、北東にあたれり。又|阿豆麻《アヅマ》とは、東(ノ)國をこそいへれ。南(ノ)國を云る事、曾《カツ》てなし(集中に、西(ノ)國、又西北(ノ)國を指ては、多く比那《ヒナ》とよみ、東(ノ)國々をば、もはら阿豆麻《アヅマ》とよみたるは、阿豆麻と云|稱《ナ》は、東の國々の總名にして、一國も餘さず包《カネ》たるを、筑紫と云名は、古くはいと狹くして、西の國々には筑紫ならぬ國も多く、又北の方によりたる國の中に、越ならぬもありける故に、其國々を指(シ)て、廣く比那《ヒナ》とは、よめるにこそはあれ。西北に限る名にはあらざるをや。殊に歌の詞は、廣く大らかにものするならひなりければ、よしや阿豆麻に、比那を、對せしが有なんとも、一首や二首に、驚くべきに非ず。都を除《オキ》ては、東西南北ともに、比那ならぬ國やはあらん。對句の一方を阿豆麻といへば、其に牽れて、今一方の比那は、西の邊土となり行が歌詞なり。打まかせて比那を西國とせるにはあらざるぞよ)斯て今此言の意を考るに、十七卷に、山河能《ヤマカハノ》。幣奈里底安禮婆《ヘナリテアレバ》。また伎幣奈里底《キヘナリテ》。また關左閉爾《セキサヘニ》。幣奈里底《ヘナリテ》云云。などよめる、隔《ヘナル》てふ言の、體語になれるにて、都より遠く隔てる國々を云(ヒ)そめたるなるべし(隔《ヘナ》、比那《ヒナ》、通音にて、殊に親しく通へる言がら也。又|天離《アマザカル》よりつゞけたる枕詞の意は、代匠記にいはれたる如く、遠き國を望めば、天と一つになりて、遙に放《サカ》れるよしのつゞけなり)十三卷に、夷離國《ヒナザカルクニ》とつゞけたるも、即|隔離國《ヘナリサカレルクニ》と云ことなり。是と合せて、隔《ヘナ》の意なる事、動くべからず。さて今此歌にては、近江は隣國なるをと思ふやうなれど、四句を合せて、其趣意よく聞ゆ。其《ソ》は、天離《アマザカル》。夷者雖有《アマザカルヒナニハアレド》。石走《イハバシノ》。淡海國乃《アフミノクニノ》。とは、隔《ヘナ》りたる夷《ヒナ》とはいへど、實(ト)は近國の、間近き淡海と云(ヒ)つゞけたるなり。爾者雖有《ニハアレド》とある辭《テニヲハ》を、よく考ふべきものぞ。此(ノ)つゞけをよく思ふにも、比那《ヒナ》は本(ト)隔《ヘナ》る事ぞと知(ラ)ずて(287)は、うまく聞わき知べからず。諸抄皆おろそか也(猶集中、此枕詞のつゞけは此《コヽ》の外にも、二(ノ)四十三丁、三(ノ)十六丁、六(ノ)三十六丁、九(ノ)廿九丁、十三(ノ)廿九丁、又十九丁、十七(ノ)廿九丁、又三十九丁、十八(ノ)十七丁、又廿九丁、十九(ノ)廿一丁等に出(ヅ)。是等を皆合せ見ば、右の意なる事、いよいよ慥かにさとりつべし。又其歌に、普く夷(ノ)字を書ならひ來しももと隔る意なるに據てなりけり)
○石走《イハバシノ》。淡海國乃《アフミノクニノ》」冠辭考云。【○まぢかき○かみなひ○あふみ】萬葉卷四に、石走《イハバシノ》。間近君爾《マヂカキキミニ》云云。此石走の字は、卷六に、石走《イハバシル》、多藝《タギ》。卷十二に、石走《イハバシル》、垂水《タルミ》などあると同じかれど、訓も意も異にて、こをいはゞしとよめるは、川に石を並おきて渡るをいへり。さればその石間々々の、間の近きをもて、君と我住ところの近きに譬てつゞけたり。卷十に、石走《イハバシノ》。間々生有《マヽニオヒタル》。貌花乃《カホバナノ》。卷十一に、明日香川《アスカガハ》。明日文將渡《アスモワタラム》。石走《イハバシノ》。遠心者《トホキコヽロハ》。不思鴨《オモホエヌカモ》。とよめるも同じ。こは近してふことのうらを、打かへしていひつれば、即右と同意也。さて卷十九に、【七夕の歌】安吉佐禮波《アキサレバ》。奇里多知和多流《キリタチワタル》。安麻能河波《アマノガハ》。伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》。都藝弖見牟可母《ツギテミムカモ》。卷二に、明日香乃河之《アスカノカハノ》。上瀬《カミツセニ》。石橋渡《イハバシワタシ》。【一云。石浪《イシナミ》】下瀬《シモツセニ》。打橋渡《ウチハシワタシ》。石橋《イハバシニ》【一云。石浪《イシナミ》】生靡留《オヒナビケル》。玉藻毛叙《タマモモゾ》云云(此石(ノ)浪の、浪は借字にて、石並《イシナミ》也。その石並渡したるを、即|石《イハ》ばしとも云(フ)故に、かく二樣にも有なり)卷七に、【思2故郷1】年月毛《トシツキモ》。未經爾《イマダヘナクニ》。明日香河《アスカガハ》。湍瀬由渡之《セゼユワタリシ》。石走無《イハバシモナシ》。また橋立《ハシダテノ》。倉椅川《クラハシガハノ》。石走者裳《イハバシハモ》。壯子《ワカザカリ》。我度爲《ワガワタリシ》。石走者裳《イハバシハモ》。これらを合せて見ば、いはゞしのさま、うたがひなかるべし。卷十三に、石走《イハバシノ》。甘南備山丹《カミナビヤマニ》云云。こはかみの語を隔てゝ、並とつゞけたるにや。神なびを常に神なみともいひ、出雲風土記には、神並ともかき、右に石浪渡《イシナミワタシ》。伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》などあれば也。卷一に石走(ノ)。淡海國乃《アフミノクニノ》。また磐走《イハバシノ》。淡海乃國之《アフミノクニノ》云云。是も右の初めに擧たる、石走《イハバシノ》、間《マ》近とも、間々《マヽ》(288)ともいへるに同じ意にて、いはゞしの、間《アハ》ひと云を、あはうみの、あはに云(ヒ)かけしなるべし。あふみは、本(ト)はあはうみなるを、波宇《ハウ》を約むれは、布《フ》となる故に、阿布美《アフミ》と云(フ)。その本の語に、いひかけつらん』【是まで冠辭考の説なり。】 今按に、此考へ、いと審詳《ツバラ》にして、且めでたし。其中に石走《イハバシノ》、遠しと續けたる釋は、あやまてり。こは彼(ノ)玉(ノ)緒乃、といふ枕詞を、短しとも、長しとも續け云と、同じ心ばへにて、彼(ノ)置(キ)並べたる石間を、近しとも、遠しとも云(ヒ)なせる也。又|甘南備山《カミナビヤマ》とつヾけたるも、恐らくは別義ならん。こはよく考へて、其歌の條に云べし。其他はをさ/\違ふべからず(此(ノ)石走《イハバシノ》より、淡海(ノ)國へ續けたる、集中に、此《コヽ》と下の廿二丁(ノ)左に出たる外は見えず。七(ノ)廿八丁右に、石走《イハバシノ》。淡海縣《アフミノアガタ》とよみたるは、遠江(ノ)國碧海(ノ)郡(ノ)郷名なり)
○樂浪乃《サヽナミノ》」代匠云。あふみとつゞけたり。あふみの國、もとは淡海國とかけり。潮の海に對して、水海なれば、淡しき海と云義なり。【千字文に、海(ハ)鹹(ク)河(ハ)淡(シ)】今近江とかく事は、遠江に對して也。近江を、和名集には、ちかつあふみとあれども、こなたが本(ト)にて、遠江は名付たれば、かなたをば必ず、とほたふみといへども、こなたをば、ちかつあふみとはいはで、たゞあふみとのみいへり。さゝ浪は、小浪也。大海の如く、大浪のたつ事もなければ、只水文の小浪のたつ淡海《アハウミ》と云心也。よりてさゞ浪の國とばかりも名づくるなり。あるひは、大津とも志賀ともつゞけ、比良とも、長柄山とも、並倉山ともつゞけ(彼(ノ)大津(ノ)宮。故(キ)京。國津御神。大山守等に置(ク)樂浪《サヽナミ》は、枕詞には非ず。國の名なり)およそ彼(ノ)國の名には、さゝ浪と置也。これに神樂聲浪《サヽナミ》、神樂浪《サヽナミ》、樂浪《サヽナミ》などかけるは、篠浪《サヽナミ》とかくに、心同じかるべし。そのゆゑは、神樂《カグラ》の時の取物に、※[竹/修の彡なし]を取て打振つゝ、佐ア佐アとはやす事ある故也。神功皇后紀云。忍熊(ノ)王知v被v欺。曳(テ)v兵(ヲ)稍(ニ)退(ク)。武内(ノ)(289)宿禰出(シテ)2精兵《ヲイクサヲ》1。而追(フ)之。適(ニ)遇(テ)2于逢坂(ニ)1以破。故(レ)號《ヲ》2其處1曰2逢坂(ト)1也。箪衆|走《ニグ》之。及(テ)2狹々浪栗林《サヽナミクルスニ》1。而多斬(ル)。欽明紀云。三十一年秋七月壬子朔。高麗使到2于近江(ニ)1。是月遣(テ)3許勢(ノ)臣猿(ト)。與《トヲ》2吉子(ノ)赤鳩1。發v自2難波津1。控2引船(ヲ)於狹々波山(ニ)1。而裝2飾(テ)船(ヲ)1。乃往(キ)2迎(フ)於近江(ノ)北(ノ)山(ニ)1云云。神功皇后紀は、近江(ノ)國をさして、狹々《サヽ》浪といへる歟。欽明紀は、高麗の使近江に到といひ、舟をさゝ浪の山にひきこすといひ、近江の北山に迎ふとあれば、さゝなみの山は、ながら山にて、逢坂を引越をいふなるべし』【是迄代匠記説也。】冠辭考云。【○志賀○大津云云】萬葉卷一に、左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能大和太《シガノオホワダ》。また樂浪之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》。卷二に、神樂波之《サヽナミノ》。志賀左射禮浪《シガサヾレナミ》。敷布爾《シクシクニ》。卷七に、神樂聲浪乃《サヽナミノ》。四賀津之浦能《シガツノウラノ》云云。又集中に、樂浪乃《サヽナミノ》とて大津宮《オホツノミヤ》、故京《フルキミヤコ》、國都美神《クニツミカミ》、大山守《オホヤマモリ》、平山風《ヒラヤマカゼ》などもつづけたり。こは近江の志賀(ノ)郡にある、篠《サヽ》なみてふ地にて、そこの大名なる故に、其邊りの所には冠らせたる也。地の名なる事は、神功紀に、云云。【こは既に代匠の釋に、出たる文也】欽明紀に、云云。天武紀に、會《アヒテ》2※[竹/修の彡なし]《サヽ》【此(ヲ)云2佐々(ト)1】浪《ナミニ》1。而|探捕《マギトラヘツ》左右(ノ)大臣(ヲ)1云云と有にてしれり【今昔物語十一にしも、志賀(ノ)郡※[竹/修の彡なし]波の山、また※[竹/修の彡なし]波の長等の山とも有は、その比までは、※[竹/修の彡なし]なみてふことを、別に意得たるを、其後に小波の事とのみ、思ひ誤りけんかし。】さて其|※[竹/修の彡なし]《サヽ》は、小竹也。浪は借字にて、靡《ナミ》の意也。故になびく物にはつけて云り。古事記に、【應神條】志那※[こざと+施の旁]由布《シナダユフ》。佐々那美遲《サヽナミヂ》とよみしも此(ノ)※[竹/修の彡なし]靡道《サヽナミヂ》にて、しなえたゆふてふ語を、冠らしめたるにてもおもへ。故に右の狹々《サヽ》は、清《スミ》て唱ふる也。然るを近江の湖によりて、さゞ波てふ語を、冠らしむと思へるは委しからず。その浪のさゞ波をば、卷(ノ)二に、左射禮浪《サヾレナミ》。卷十三に、沙邪禮浪《サヾレナミ》など、下のさに、濁る字を書てしらせたり。かの神樂波之《サヽナミノ》。志賀佐射禮浪《シガサザレナミ》。とよめるにても、上の神樂波は、同じ事ならぬを知るべき也。篠《サヽ》なみを、神樂聲浪と書しは、古へ神樂に、さるうたひ物の有し故なるべし。さて神樂浪。樂浪など書は、字(290)を漸に略きたるもの也。此集にはさる事多し。嵐《アラシ》は山下出風と書べきを、山下風とも、山下とのみも、書たる類也』【是迄冠辭考の説也】 記傳【卅一(ノ)十八丁左】云。沙々那美《サヽナミ》は、近江(ノ)國の地(ノ)名にて、其(ノ)由師の冠辭考に、委く説れたるが如し。志賀は、古(ヘ)より廣き名にて郡の名にもなれるを、なほ古(ヘ)は、沙々那美《サヽナミ》は、志賀よりも、廣き名にや有けむ。萬葉の歌どもに、沙々那美の志賀と、多くよみて、志賀の沙々那美とよめるはなし。又九(ノ)卷には、樂浪之平山《サヽナミノヒラヤマ》ともあれば、比良《ヒラ》のあたりまでかけたる名にぞ有けん。綺語抄に、今按、近江(ノ)國、志賀(ノ)郡、さゝなみ山あり。志賀のさゝなみと云べきを、さゝなみや志賀と云傳へたるは、あるやう有にやあらむ』【已上古事記傳の説なり。】 今按に、代匠記に云る趣は、一(ツ)も疑ひなし。冠辭考、又古事記傳等に云る説こそ心得ね。もし然か近江(ノ)國に、沙々那美《サヽナミ》と云|地《トコロ》の有て、南は逢坂、粟津、北は比良山、高嶋邊までの大名《オホナ》に呼ばかり廣く、又皇居の大津、郡名の滋賀などよりも名高かりけむには、國史はもとより、其他の式、和名鈔等の書に、漏べきにあらず。又今世とても、失ひはつべきにあらざるを、さほどの地の、物に絶て見えざるはいかなる事ぞ。こは陀山石と云書にかき入たる、淺井家(ノ)記録に、近江(ノ)國(ノ)風土記を引(テ)云(ク)。淡海(ノ)國(ハ)者。以2淡海《アハウミヲ》1爲1國(ノ)號《ナト》1。故(レ)一名《マタノナヲ》云(フ)2細浪國《サヽナミノクニト》1。所3以《ユヱナリ》目前《マノアタリ》向2觀《ムカヒミル》湖上之漣※[さんずい+猗]《ウミノウヘノサヾレナミヲ》1也と見ゆ。然れば本(ト)湖上の小波《サヽナミ》より出たる號《ナ》にて、弘く湖水《ミヅウミ》の廻りの地を云(ヒ)しなり。さるを、沙》々《サヽ》と、沙邪《サヾ》との清濁に泥みて、右の如き説を立たるなれど清濁は連聲《ツヾキ》により、物によりて易《カハ》り、又時代によりて違へるも多かれは、強《アナガ》ちには泥みがたし。集中|小波《サヽナミ》と云には清み(彼(ノ)神樂浪と書る類も、左ア左アの聲なれば、本より清音也。又|左散難彌《サヽナミ》。佐左浪《サヽナミ》。佐散奈美《サヽナミ》などかける皆清音也)さゞれ浪と云には濁れり(かの左射禮浪《サヾレナミ》。沙邪禮浪《サヾレナミ》など書る(291)がごとし)これそのかみの音の便によりて、換りしなるべし。此(ノ)外小(ノ)字を、佐々と訓(ム)。悉くは濁らず。詞の上にも「いさゝか」「いさゝめ」「いさゝげ」「いさら井」「いさゝ小川」の類、皆小細の意の言なれども、左を清(ミ)て云(ヒ)習へり。又小竹を、さゝと云も、其葉の薄く、細かなるより云べけれども、是も左を濁らず。又「さゝら荻」「小蟹《サヽガニ》」等も佐を清(ミ)て、左邪良荻《サヾラヲギ》。左謝蟹《サヾガニ》とはいはず。允恭紀(ノ)歌の、佐瑳羅餓多《サヽラガタ》。邇之枳能臂毛弘《ニシキノヒモヲ》と云にも、清音以て書たり。凡(ソ)此等を以て、その泥み難き事を知べし。かくて今此旨を得て見れば、彼(ノ)疑ひて引りし、樂浪乃《サヽナミノ》。故京《フルキミヤコ》。又|國津御神《クニツミカミ》。又|大山守《オホヤマモリ》なども、即其地の名になして云るなり。又|狹々浪山《サヽナミヤマ》。狹々浪栗林《サヽナミクルス》などある類も、細浪《サヽナミノ》國の山、細浪《サヽナミノ》國の栗林《クルス》と云ことにて、湖邊の山、湖邊の栗林と云意也。是を風土記の文に合せて、樂浪《サヽナミ》より連《ツヾ》く近江の地名凡てをもさとるべし(集中此(ノ)佐々《サヽ》浪を以て湖邊の地につゞけたるは、一(ノ)十七丁、左右に五首、二(ノ)廿四丁、又卅七丁、又四十一丁、三(ノ)廿四丁、四(ノ)十九丁、七(ノ)十五丁、又卅四丁、又四十丁、九(ノ)十三丁、十三(ノ)七丁等に出(ヅ))
○大津宮爾《オホツノミヤニ》。天下《アメノシタ》。所知食兼《シロシメシケム》」代匠云。しろしめしけん。此所句絶なり。いかさまにおもほしけめかといふ歟《カ》の字をうくるゆゑなり』考注云。大津は、今の大津也』【已上】 今按に、宮の跡は、濱町の海岸、近來藏屋舗のありし處なりと云り。
○天皇之《スメロギノ》。神之御言能《カミノミコトノ》」考注云。天皇之《スメロギノ》。こゝは天智天皇を申』略解云。【おほきみのすめろぎの】云云』【已上】 今按に、天智天皇を、其御代過去て後、奉v申故に、天皇とは書(キ)たれども、此《コヽ》は須賣漏岐《スメロギ》と、奉v稱なり。同じ事ながら、考、略解等は、只天皇の尊稱の心にて、然かよみたるなれば、下に至て、當代先代の分ちなき事多かり。そも/\吾(ガ)大君とあふぎ奉る尊稱を辨へしらずては、物學ぶかひもなく、か(292)つは畏きわざなれば、今此事をさとすべし。先(ヅ)當代の天皇を指(シ)奉て、於寶岐美《オホキミ》とも、須賣良美許登《スメラミコト》とも申(シ)、先代より御代々々の、皇祖(ノ)天皇を指(シ)奉ては、須賣呂岐《スメロギ》と申(シ)、又神代の皇祖神を指(シ)奉ては神漏岐《カムロギ》と由(シ)奉れり。其(ノ)神漏岐《カムロギ》は、神顯祖君《カムアレオヤギミ》の義、(阿《ア》と夜《ヤ》と、上下を略き、禮於《レオ》を切《ツヾメ》て漏《ロ》と云り。顯祖《アレオヤ》とは、現世《ウツシヨ》へ出顯《アレ》賜(ヒ)し、大御祖《オホミオヤ》に坐(ス)よしなり)又其|配《ナラビ》坐(ス)女神を、神漏美《カムロミ》と奉(ル)v申は、神顯租女君《カムアレオヤメギミ》の義(賣岐《メギ》を切《ツヾメ》て美《ミ》といへり)なり。又彼(ノ)須賣呂岐《スメロギ》は、皇顯祖君《スメアレオヤギミ》の義、須賣良美許登《スメラミコト》は、皇顯尊《スメアレミコト》の義(須賣《スメ》とは、天(ノ)下を統所知《スメシラス》より、出たる言なり)於寶岐美《オホギミ》は、天(ノ)下の大君に坐(シ)々(ス)由の尊稱也。かゝれば此(ノ)須賣呂岐《スメロギ》と申すには、皇祖神、皇神祖、皇御祖、皇祖などかく例なれども、古(ヘ)の人は、よく此(ノ)稀《トナ》へを心得居て、一人もみだる人あらざりつれば、此集などには、於寶岐美《オホギミ》の處も、須賣呂岐《スメロギ》の處も、共に天皇と書る事の多かる也。又|須賣漏岐《スメロギ》と、迦牟漏岐《カムロギ》とも、此でうにて、共に彼(ノ)皇祖、皇神祖等の文字を、通はし書たれば、神(ノ)代の大御祖(ノ)神等を指(シ)奉れる處は迦牟漏岐《カムロギ》と訓べく、神武天皇より次々、皇祖(ノ)天皇を指(シ)奉れる處は、須賣漏岐《スメロギ》と訓べし。此等はさても、其指(ス)處を以て分つ時は、混《マギ》るべきにあらざれど、天皇《スメロギ》と申す稱は、當代と申せども、皇祖より受嗣坐る御位のうへ、或は其天皇の御世のみにも、局(ラ)ざる事等に就ては、なほ須賣漏岐《スメロギ》と申すべき處もあり。此等ようせずば紛れぬべし。故(レ)此《コヽ》に集中の例、ある限りを引置まほしかれど、さてはあまりに、事長く成べければ、槻(ノ)落葉三卷別記にも此事を粗云て、其例をも採《ツミ》出せれば、其《ソ》を假に擧(グ)。先づ須賣呂岐《スメロギ》と訓つべきは(此條悉くすめろぎにて、おほきみと訓べきは、加へざれば傍點は凡て省けり)一【十七丁】天皇之。神御言能《カミノミコトノ》云云。二【二十七丁】天皇之。敷座國等《シキマスクニト》(是は皇祖より、御代々々の天皇の、敷坐(ス)國と云意なり)又(293)【四十二丁】天皇之。神之御子《カミノミコ》(是は志貴(ノ)親王を申て、皇祖の神の、御子孫と云意なり)三【二十八丁】皇神祖之。神之御言能《カミノミコトノ》。敷座《シキマセル》。國盡《クニノハタテニ》。(此は二(ノ)廿七丁の言とおなじ)又【五十一丁】皇祖。神之御門爾《カミノミカドニ》(是は皇祖より受繼ませる、大御位しろしめす大宮を云言にて即(チ)上の敷座國と云におなじ)六【四十二丁】八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王乃《ワガオホキミノ》。高敷爲《タカシカス》。日本國者《ヤマトノクニハ》。皇祖乃。神之御代自《カミノミヨヨリ》。敷座流《シキマセル》。國爾之有者《クニニシアレバ》(此數言にて、上の敷ます國と、續けたる意をも、考へしるべし)七【十一丁】皇祖|神之宮人《カミノミヤヒト》(三(ノ)五十一丁の言に同じ)十一【十三丁】皇祖乃。神御門乎《カミノミカドヲ》。【上に既に出】十五【二十三丁】須賣呂伎能。等保能朝廷等《トホノミカドト》(上の敷座國云云と云に意同じ。是には當代を申ても、理り違はざればにや。十七(ノ)四十四丁に、大王乃等保能美可度《オホキミノトホノミカド》。十八(ノ)廿九丁に、於保伎美能《オホキミノ》。等保能美可等々《トホノミカドト》。ともよみたる見ゆ)十八【十八丁】須賣呂伎能。可未能美許登能《カミノミコトノ》。伎己之乎須《キコシヲス》。久邇能麻保良爾《クニノマホラニ》(皇祖より、しろしめす國と云意也)又【二十丁】【賀2陸奥出(スヲ)1v金(ヲ)詔書(ノ)歌。】須賣呂伎能。神乃美許登能《カミノミコトノ》。御代可佐禰《ミヨカサネ》(此一首の歌に、すめろぎと云言二つ、おほきみと云言、五つ見えたり。當代天皇と、遠祖の天皇とを申せる分ち、いと明かなり。可2熟考1なり)又【同丁】皇御祖乃。御靈多須氣弖《ミタマタスケテ》(皇祖の天皇たちの御靈のたすけ有てといふ意)又【二十二丁】須賣呂伎能。御代佐可延牟等《ミヨサカエムト》(是は受嗣ませる、御代と云言にて、上に擧たる御門、大宮、敷坐國などゝつゞけたるに同じ意なり。是(レ)於保伎美《オホキミ》と云ても叶へるに似たり。かゝる言より後人すめろぎと、おはきみとを、一つ言とおもひまがへたる也。よく考へて其差別を知べし)又【同丁】須賣呂岐乃。神能美許登能《カミノミコトノ》。可之古久母《カシコクモ》。波自米多麻比弖《ハジメタマヒテ》(是は雄略天皇の、吉野離宮を初め給ひし事を申せるなり)又【二十七丁】皇神祖能。可美能大御世爾《カミノオホミヨニ》。田道間守《タヂマモリ》。常世爾和多利《トコヨニワタリ》(是は垂仁天皇の御世を申(セ)り)又【三十二丁】須賣呂伎能。之伎麻須久爾能《シキマスクニノ》。安米能之多《アメノシタ》。四方(294)能美知爾《ヨモノミチニ》。【中略】伊爾之敝欲《イニシヘヨ》。伊麻能乎都々爾《イマノヲツヽニ》。萬調《ヨロヅツギ》。麻都流都可佐等《マツルツカサト》(此數言にて、皇祖より受繼ませる大御位につきては、當代天皇までをかけても申せる尊稱なる事を知べき也)十九【二十四丁】皇祖神之。遠御代三世波《トホミヨミヨハ》。【四十三丁】須賣呂伎能。御代萬代爾《ミヨヨロヅヨニ》(此言既に卷(ノ)十八に出たり)廿【十八丁】天皇乃。等保能朝廷等《トホノミカドト》(卷(ノ)十五に出(ヅ))又【二十四丁】天皇乃。等保岐美與爾毛《トホキミヨニモ》。又【五十丁】多可知保乃《タカチホノ》。多氣爾阿毛理之《タケニアモリシ》。須賣呂伎能《スメロギノ》。可美能御代欲利《カミノミヨヨリ》。又【同丁】須賣呂伎能。安麻能日繼等《アマノヒツギト》。都藝弖久留《ツギテクル》云云。
又天皇と書るを、互によみ誤れるは、一【二十九丁】天皇|命畏美《ミコトカシコミ》。六【十九丁】天皇之。命恐美《ミコトカシコミ》。十九【二十七丁】天皇之。命恐《ミコトカシコミ》。廿【三十七丁】天皇乃。美許登可之古美《ミコトカシコミ》とある類は、皆|於保伎美《オホキミ》とよむべきを、須米呂岐《スメロギ》とよみたるは誤也。三【二十三丁】大王之《オホキミノ》。命恐《ミコトカシコミ》。六【三十六丁】九【二十九丁】十三【七丁】又【十九丁】又【二十一丁】十七【三十一丁】等皆同じ。十四【二十二丁】於保伎美乃。美己等可志古美《ミコトカシコミ》。十七【二十九丁】又【四十三丁】廿【十七丁】又【三十三丁】又【三十九丁】又【五十二丁】等、皆假字書にて、憶保枳美《オホキミ》、於保伎美《キモ》などあり。かくあまた假字書も何も例あれば、かならず須賣呂岐《スメロギ》とは、よむまじきを知べし。また四【二十二丁】天皇之。行幸乃隨意《イデマシノマニマ》。六【三十九丁】天皇之。行幸之隨《イデマシノマニマ》とあるは、三【二十三丁】我王之《ワガオホキミノ》。幸行處《イデマシドコロ》。六【四十三丁】皇之《オホキミノ》。引乃眞爾眞爾《シキノマニマニ》とある例にて當代天皇を申奉る言なれば、是はおほきみとよむべきなり。又三【五十四丁】大皇之。敷座國《シキマスタニ》とあるは、天皇の誤にて、須賣呂伎《スメロギ》とよむべき例也。また六【二十九丁】天皇朕。とあるは廿【二十七丁】に、須米良美久佐爾《スメラミクサニ》といへる言もあれば、須米良和我《スメラワガ》とよむべし(續紀宣命に、天皇何大命《スメラガオホミコト》。天皇羅我命《スメラガミコト》。式(ノ)祝詞に、皇我《スメラガ》とあるも、須賣良《スメラ》と訓べき證也)かくて歌の題に、天皇云云とあるは、皆その御代々々の天皇を申奉ることなれば、おほきみとよむべきに似たれど、其《ソ》は須米良美許登《スメラミコト》とよみて、當代天皇を申す稱也。儀制令に、天子(ハ)祭祀(ニ)所v稱。天皇(ハ)詔書(ニ)所v稱。(295)皇帝(ハ)華夷(ニ)所v稱。と有て義解に、至(テハ)2風俗(ノ)所(ニ)1v稱。別(ニ)不v依2文字(ニ)1。假令《タトヘバ》如2皇孫命《スメミマノミコト》。及(ビ)須明樂美御徳之《スメラミコトノ》類1也』【已上槻(ノ)落葉に云る趣也。此外にもあれど今省之。】 今按に、宜き考へども也。此説に隨ふべし。さて此《コヽ》に神之御言《カミノミコト》と云る神は、遠神《トホツカミ》とも、現神《アキツカミ》とも、又|皇者《オホキミハ》。神二四座者《カミニシマセバ》ともよめる神にて、天皇は目《マ》のあたり明(ラ)かなる神に坐(シ)々(セ)ば、當代は勿論《モトヨリ》、皇祖にも申せること、上に引たる歌どもにも出たるが如し。抑(モ)如此《カク》尊重《タフトミ》て奉仕が、皇朝にして、神隨《カムナガラ》の大道なりければ、今(ノ)世の人も、此(ノ)眞情《マゴコロ》を勿《ナ》忘れそ。又かく添て申す御言《ミコト》は、たゞ崇辭《アガメゴト》也。記傳【四(ノ)三丁】云(ク)、凡て某命《ナニノミコト》と、御名の下に、命てふことを添て申すは、尊む稱《ナ》なり。御名のみならず、天皇命《スメラミコト》、神命《カミノミコト》、御祖《ミオヤノ》命、皇子《ミコノ》命、父(ノ)命、母(ノ)命、那勢《ナセノ》命、那邇妹《ナニモノ》命と、妻(ノ)命、妹(ノ)命、汝《ナガ》命などゝも云る、記中、又萬葉などに多かり。さて此(ノ)美許登《ミコト》てふ言の意は、未(ダ)思ひ得ず。命(ノ)字を書(ク)は、本(ト)御言《ミコト》と云言に、此字を書るを、言の同じきまゝに、尊稱の美許登《ミコト》にも、借て用ひたるなり。凡て言だに違(ハ)ねば、文字の義には拘らず左《カ》に右《カク》に借(リ)て書るは、古への常なり【此字に目を付けてその意を思ふべきに非ず。】さて書紀には、この美許登《ミコト》を、至(テ)貴(キヲ)曰v尊(ト)。自餘(ハ)曰v命(ト)。並《ミナ》訓(ム)2美擧登《ミコトト》1。と注《シル》されたり。これ君と臣と、稱の同じをを惡《ニクミ》て、強て別《ワカ》むために、文字を書加へ賜ふ撰者の所爲《シワザ》なり。さてその尊は、字の意を取て書れたれば正字也。命は、古へより書來《カキコ》しを其隨《ソノマヽ》なれば、猶借(リ)字なり』【已上記傳の説なり】 今按に、昔より如此《カク》耳《ノミ》云て、其言の意を、解し人の聞えざるは、あまり嚴重《オモク》とれる故なるべし。かれ今輕きこと以て、云(ヒ)試むべし。此言の本(ト)は、此《コヽ》に書(ケ)る字の如く、天皇の大御言《オホミコト》より出て、其(ノ)御言は、則勅命なりければ、命《ミコトノ》字は、多く書慣《カキナラ》ひ來しならん。かくて其(ノ)御言《ミコト》と云ことの、尊稱としも成けるは、世に天皇の勅言ばかり、重く畏むべきものも又あらざりければ(他《ヒトノ》國にすら、綸言如v汗など(296)云を、況や皇國におきてをや)そを即《ヤガテ》尊崇《タフト》む方に移して、申すことゝはなりしなるべし。世にやむ事なきと云語も、本(ト)は勅言の、違背しがたく、不(ル)v得2止事(ヲ)1の由なりけるが、終に貴むことゝなりつると同例なれば也。又古き時より、呪詛の牘に、急々如律令と書(キ)ならひしも、朝庭の律令ばかり、畏懼《カシコクオソロ》しき物もあらざるより、鬼氣《モノノケ》を威《オド》すにも借(テ)書る其心ばへもやゝ似たり。又|侍《ハベル》と云ことも、本(ト)君の側に侍坐して、候《ウカヾ》ひ居(ル)かたより出て、終に敬言《井ヤゴト》となり(候《サムラフ》も是に准ふべし)又つかうまつると云言も、本(ト)は君に奉v仕るかたより出て、何|事《ワザ》をするにも、敬ひ云ことゝなれり(今の俗のつかまつると云も是也)此等考へ合せてよ。
○大宮者《オホミヤハ》。此間等雖聞《コヽトキケドモ》。大殿者《オホトノハ》。此間等雖云《コヽトイヘドモ》」代匠云。大宮は、禁中をすべていひ、大殿は、大宮のうちにある別殿をいへり』考注云。宮といひ、殿と云も異ならず。文《アヤ》に云のみ』【已上】 今按に、考注に云る如く、同じほどの物を合せ、言を異《カヘ》て、調べを助(ク)る、古き長歌の常也。此(ノ)下(タ)に、絶たる大宮を、覓《モトム》る意を含めたり。
○春草之《ハルクサシ》。茂生有《シゲクオヒタリ》。霞立《カスミタツ》。春日之霧流《ハルヒノキレル》」代匠云。春草、春日の下の、二(ツ)の之の字は、共に疑ひの歟になしてよむべし。一(ツ)を之《シ》とよみてもわろく、又二(ツ)ながら之《ノ》とよみては、句もきれず、つゞきもせぬ也。中略 わか草のしげければ見えぬか、霞の立さゝへて見えぬか也。きるは遮《サヘギル》也。霧と云名も物をさへぎりて見せぬ故に、用を體の名とする也。源氏物語桐壺に、涙にくるゝを、目もきりて見えずといへる、是也』考注云。霞立《カスミタツ》。春日香霧流《ハルヒカキレル》。夏草香《ナツクサカ》。繁成奴留《シゲクナリヌル》。【是は或本の方を本文に立たる也】世に名高き此宮どころは、まさにこゝぞといへども、更に春霞が立くもりて見せぬ、夏草歟、生しげりて隱せる、と疑ふ也。春霞と云て、又夏草と云は、時違ひつと、思ふ人有べけれど、こは此宮の見えぬを、い(297)かなる事ぞと思ひまどひながら、をさなく云なれば時をも違へておもふこそ、中々あはれなれ。後の物に、日は違ひながらよめるといへるも、これに同じ』小琴云。春草之。茂生有。霞立。春日之霧流。ハル草シ、茂ク生タリ、ト訓ベシ。之ハヤスメ詞也。サテ此二句ハ、宮ノ痛ク荒タルコトヲ歎キテ云也。次ニ霞立云云ハ、只見タルケシキノミニテ、荒タル意ヲ云ニハ非ズ。春日ノキレル百磯城之云云ト續ケテ心得ベシ。春草之云云ト、霞立云云トヲ、同意ニ並ベテ、見ルハワロシ。一本ノ趣トハ異ナリ。コハ一本ノ方ハ、春日、夏草ト時節ノ違ヘルモワロシ。二ツノ疑ヒノ香モ心得ガタシ』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、右の内、訓は小琴よろし(但(シ)其意を説《トケ》る、甚非也。次に云(フ)旨と、合せてしるべし)其大宮所を、此處《コヽ》とはきけど、草の原と成(リ)はてゝ、只春(ノ)日のみ、きら/\と霞みて遺れるよし也。代匠記に、之の字は、歟《カ》の意也と云るも、既に古本に、二つながら可に作りたれば、云(ヒ)當たるなり。されど春草にまれ、夏草にまれ、草以て大宮えお、覆ひ隱すべきならねば、其一本は取がたし。又霞霧も、阻遮《ヘダテサヘギ》る心としては、あまりにおぼめきて、實なし。こは常に金殿樓閣には、霧霞も、よく顯れて棚曳(ク)ものなれば、かくは云る也(九(ノ)卷の霧の歌に「ぬば玉の夜霧は立ぬ衣手を高屋於爾《タカヤガウヘニ》たなびくまでに」と云もあり)霧流《キレル》と云も、こゝはたゞきら/\と、きらめくよし也。されば大宮は、草の原となりはてゝ、只霞のみ、獨り懸り處もなく、きらめき殘れるよと云(ヒ)て歎く也。此意、諸注ともに解あへず。
○百磯城之《モヽシキノ》」代匠云。禁中には、百官の座をさだめて、百の敷物ある故といへり。百官と云も、おほよそつかさ/\多きをいへり。必ず百に足たるにあらず。大宮人とつゞけねども、百敷とばかりもよめり。位の字を、くらゐとよむも、座居《クラヰ》の心(298)也。位階の上下によりて、座もちがひて、定れる處ある故也。百敷となづくる心も、おもふにかよへり』類林曰。此枕詞諸説どもに、禁中は、百官の座有故、百敷の意也と云り。いかゞ。衣冠官位も、雄略天皇の後、次第に委く、成(リ)定れるよし、紀に明かなれば、覺束なし。又百敷とも、百舗とも書る事もなし。當集多くは、百磯城とかけり。崇神天皇、磯城《シキノ》瑞籬(ノ)宮にましまして、天下知(シ)し事六十八年、めでたき帝都なりければ、百磯城と呼けるを、後に准へ祝して云にや』冠辭考云。古事記に、【雄略の大御歌】毛々志紀能《モモシキノ》。淤富美夜比登波《オホミヤヒトハ》。萬葉卷一に、百磯城之《モモシキノ》。大宮處《オホミヤトコロ》。卷六に、百石木能《モヽシキノ》。大宮人者云云。こは皇(ラ)大城の堅きを、石にたとへて百の石城《イシキ》の宮と云也。萬葉には、借字の多かれど右の百磯城は、正しく書し物也。崇神紀に【天照大御神を齋奉る時】祭《イハヒマツル》2於倭(ノ)笠縫(ノ)邑(ニ)1。仍立(ツ)2磯堅城神籬《シキノミヅガキヲ》1と有に、意も字さへ同じければ也。いと上つ代より、大宮を讃稱《ホメタヽヘ》て申には、神武紀に、古語稱之日《フルコトニタヽヘテイフ》。於《ニ》2畝傍之橿原《ウネビノカシハラ》1也。太古宮柱於底磐之根《ソコツイハネニミヤバシラフトシリタテ》。峻峙榑風於高天之原而《タカマノハラニチギタカシリテ》。始馭天下之天皇《ハツクニシラススメラミトトヽマヲス》。【古事記に大名持の大國主と成給ふ時此稱言は既にあり】てふを、此後に祝詞、萬葉などにも、常にいへり。又|天《アマ》の磐座《イハクラ》、磐門《イハト》、或は五百津磐石乃如塞坐《ユツイハムラノゴトサヤリマシテ》、など様に、磐石《イハホ》もて堅き譬とせしは引にたへず。さて百とは、例に依に、五百津磐城《ユツイハキ》と云べきを、百磯城と約めいひて、冠辭とせし物也。石を志《シ》とのみ云は、穴石《アナシ》、明石《アカシ》、磯城《シキ》の類也。城を紀《キ》と云は、古き語にて多ければ、更にもいはず』 記傳【四十二(ノ)四十一丁。】毛々志紀能《モモシキノ》は、大宮の枕詞にて、冠辭考に委く見ゆ』【已上】 今按に、【是より守部が疑ふ所を云也】右等の外にも、いろ/\に云(ヒ)たれど、未(ダ)實に當れりとおぼしき説見えず。其中に、百磯城と書たる字の意とする説、姑《シバラ》くうべ/\しく聞えたれば、古事記傳などにも、偏に冠辭考を思(ヒ)信《タノミ》て、彼(ノ)瑞籬(ノ)宮、あるひは杵築《キヅキ》、あるひは玉垣等の上につきても、専(ラ)右の(299)意に説(キ)なし。其外|夥多《アマタ》處に、【二十三(ノ)二丁、二十九(ノ)廿五丁、四十一(ノ)三十三丁、四十二(ノ)三十一丁、四十四(ノ)三十六丁等】引付(ケ)云(ヒ)、剰へ雄略(ノ)段(ノ)歌の、齋也玉垣《イツクヤタマガキ》の句をさへに、石以て築《ツク》ことゝ説(キ)曲られたり。然れどもこをよくおもふに、古への大宮には、柴垣《シバガキノ》宮、板蓋《イタガキノ》宮など云も見えて、然かいかめしく、石以て築(キ)堅め、岩構へして圍むやうのわざは凡て物に見えず(八百土杵築《ヤホニキヅキノ》宮などは、殊に高く物せんとて、築上(ゲ)られたる歟。其(レ)も八百土と有からは石には非ず。土なりし也。彼(ノ)古語に、底津磐根に宮柱太敷など云る磐根は、たゞ賀語《ホギゴト》にて、必ずしも石の底にと、云には非ず。さればかの杵築《キヅク》と云も、掘入たる柱どもの根を、杵《キネ》して築き堅めたるよしの稱辭なりけん。何れにしても、古へは、今云掘立柱なりければ、其礎を、石もて築き上るやうのわざは、あるまじきなり。况《マシ》て磐構へなど爲べきに非ず。奥槨《オクツキ》を岩城《イハキ》と云(ヒ)て、是は纔かなる一構にもあり、殊に永き代に朽ちざらしめん爲に、石以て圍みて、磐隱《イハガクリ》坐など云る、常にはこれを忌(メ)る事の、見えたるなどをも、思ふべし)彼(ノ)崇神天皇の宮所を、磯城《シキ》と云は、舊《モト》よりの地名にして、其(ノ)宮を、石以て築き賜へる故には非ず。既に神武紀に、磯城《シキノ》村見え、又其地に磯城津彦《シキツヒコ》と云人も有て、出て奉仕れる事なども見えたり。かゝれば其後、彼(ノ)嚴橿《イツカシガ》本に、天照大御神を齋祠《イツキマツリ》し時も、あながち石構へせしには、あるべからず。此地は元來石巖多くして、彼(ノ)邊にもおのづから、磐群《イハムラ》の有けむ故に、本(ト)志紀《シキ》と云|地《トコロ》の名を、磯城《シキ》と書(キ)(古事記には、志紀《シキ》とあるを、書紀に、右の如く書る、命に、尊の字を書(ル)類也)又|稱《タヽヘ》て磯堅城《シキ》なども、書なせるならん。此地の事を求るに、後の物ながら、連歌師宗久が、大和巡行記に云「嚴橿(ガ)本をたづぬ。出雲川村に、其跡とであり。今はさる樹もなく、たゞ白き赤き、澤の石どもあまたあり。傍(ラ)に小祠あり。ぬさ奉る云云」又「柳本村、長岳寺(300)に一宿す。同行ありて、連歌一順を興行せり。翌朝堂社を廻るに、大いなる彌勒の石像、不動の石像あり。古く神さびて貴し。坊の主に、其(ノ)由來を尋けるに、一卷の縁起を出す。披き見るに、聖徳太子、かの柳本の、嚴橿が本の巖どもの、自然と佛躰をなしけるを、いささかゑらせて、此所に一宇を建立し給ふよし見ゆ。いよ/\たふとし云云」とぞしるしたる。げにもそのかみさるほどの地なりけん(今も其地に、石の多からんとおぼしきは右の巡禮記、又近衛殿(ノ)高野(ノ)紀行、行嚢抄等の中にも、石の事かつ/\見えたればなり)崇神紀に、倭迹々日百襲姫《ヤマトトトヒモヽソヒメノ》命の、大市(ノ)御墓を造る條に、自v山至(ルマデ)2于墓1。人民相踵《ヒトビトアヒヅギテ》以(テ)v手迎(ヘ)傳(テ)而運(ビキ)焉。時人歌之曰《ヨノヒトウタヒケラク》「おほさかをつきのぼれる石群《イシムラ》を手ごしにこさばこしがてんかも」(此大市の名は、已に廢《ウセ》て、今箸中村と呼(ブ)。御墓も其村に存《アリ》て、甚《イト》大(キ)なる冢たてり)とある此等相合せて、磯城《シキノ》邊をも思ひやるべし。されば此(ノ)百しきの宮と續けたる枕辭の意も、右の磯城《シキ》に離れて、外に其(ノ)故ぞ有(リ)なんかし。集中に、百磯城之《モヽシキノ》と多く書たるは、かの現身《ウツシミ》を、空蝉とかき、陽炎《カギロヒ》と玉蜻とかける類の、通(リ)假字(假字ながら、通してかき習へるをいふ)なる中にも、殊に文字の愛《メデタ》きにしたがへるなれば、其(ノ)字に泥むべきにあらず。故(レ)今しひて試をいはゞ、百《モヽ》は、木丘開《モクサク》、薈茂《モクシゲシ》、其花|茂《モシ》(茂は字音に非ず。本(ト)よりの古言也)百足《モヽタル》、百襲姫《モヽソヒメ》などの百《モヽ》にして、茂く盛りなる意。磯城《シキ》は、例の借字にて、宮柱太敷《ミヤバシラフトシク》の、敷《シク》ならん歟。もしさならば植竹《サスタケ》の大宮と、つゞくと同じく、茂《イカシ》く盛に、太敷《フトシカ》す宮とかけたるなり。宮を敷《シク》と云るは、一【二十一丁】太敷爲《フトシカス》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》。二【二十七丁】淨見之宮爾《キヨミノミヤニ》。神随太布座而《カムナガラフトシキマシテ》。また天皇之《スメロギノ》。敷座國等《シキマスクニト》。又同【二十八丁】宮柱《ミヤバシラ》。太布座《フトシキイマシ》。又【三十五丁】神隨《カムナガラ》。太敷座而《フトシキマシテ》。六【十四丁】眞木柱《マキバシラ》。太高敷而《フトタカシキテ》。又【四十三丁】宮柱《ミヤバシラ》。太敷奉《フトシキタテヽ》などあるが如し。猶後の人、よく考へ定めてよ。
(301) 〔細註〕 集中此百しきより續けたるは、一(ノ)十七丁、又十八丁、二(ノ)廿四丁、三(ノ)十六丁、四(ノ)四十五丁、六(ノ)十二丁、又卅七丁、七(ノ)二十丁、十(ノ)九丁、又十二丁、十三(ノ)五丁、又同丁、六(ノ)四十六丁、三(ノ)十七丁、又廿八丁、六(ノ)十三丁、又卅二丁、七(ノ)三丁、又廿五丁、十八(ノ)七丁等に出(ヅ)。其書る文字を相合せて、如此《カク》不順には記せし也。さて此枕詞は、古事記雄略(ノ)段なる、其初めならん。さて右のおのれが、僻按の意に見るときは、同記なる百師木伊呂弁《モヽシキイロベ》の、御名の心いと安く聞ゆるやう也。
○大宮處《オホミヤドコロ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》」代匠云。帝都の荒廢をいためるすがた、感情ふかし』考注云。見者左夫思母《ミレバサブシモ》。その宮殿の見えぬは、疑ひながら、見るに冷《スサ》まじく、物悲しき也。佐夫思《サブシ》は、集中に、冷、不樂、不怜など出づ。然れば後世、もの閑けき事に、さびしと云は、轉じたる也。今本|見者悲毛《ミレバカナシモ》と有も、さる事なれど猶一本による云云』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、一本の左夫思《サブシ》の意は、考説の如し。されど其次に云る説どもは、彼(ノ)霞立春日以下を、惡く心得たるより、其(レ)に合《カナ》へんとて、左《カ》に右《カク》に云る 皆ひが事なれば、今省きつ。さて大宮處と云に、直に其(ノ)大宮をいへると、又其宮の地をいへるとあり。今此歌は、地を云る也。六【四十四丁】に、大宮處《オホミヤドコロ》。此跡標刺《コヽトシメサセ》。又同丁、大宮處《オホミヤドコロ》。定異等霜《サダメケラシモ》。これらも、今と同じく、其地をいへり。又【同丁左】不可易《カハルベカラヌ》大宮處。また、泉川ゆくせの水のたえばこそ大宮|地遷往目《ドコロウツロヒユカメ》。十七【十丁右】都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》。大宮所。これらは直に其大宮を指て云り。こは宮(ノ)言の活くと、處(ノ)言の活くとの差《ケヂメ》也。他の詞にも、此類あり。心得おくべし。
○一編の總意は、神武天皇より以降《コノカタ》、生現繼《アレツギ》坐る天皇《スメロギ》の盡《カギ》り、御代次々に、天(ノ)下知しめし來し、其倭(ノ)國を除《オキ》て、いかさまに念行《オモホシ》てか、平《ナラ》山越て、畿(302)外の近江には遷りましけむ(其かひもなく、僅かに四五年ならでは御座《オハサ》ず、不勝《ヨカラヌ》事なども起て、と云類の言を、いかさまにおもはしけめかと云(フ)中にほのかにこめたり)夷《ヒナ》とはいへど、倭遠からねば常に名高く聞及びし、其(ノ)大宮所をけふ訪(ヒ)見るに、此處《コヽ》とはいへど、いつの程にか、草ふかき原と成て、只霞のみ、獨きら/\と棚引のこる、むかしの宮趾を、見るがかなしとなり。
 
   反歌
樂浪之《サヽナミノ》。思賀乃辛崎《シガノカラサキ》。雖幸有《サキクアレド》。大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》。
○樂浪之《サヽナミノ》。既に出(ヅ)。
○思賀乃辛崎《シガノカラサキ》」代匠云。からさきと云をうけて、さきくとつゞけたり。十三卷にも、長歌に「さゝなみの志賀のからさきさきくあらばまたかへり見む」とよめり』【已上】 今按に、思賀《シガ》は、和名抄に、滋賀(ノ)郡【志賀】郷あり。辛崎は、行嚢抄に、三井寺の下より、坂本、志賀、唐崎とついでゝ、即大宮のありし大津の濱町の前なれば、かくはよめる也(かくて行嚢抄(ニ)云。一松ハ海道ヨリ右ノ方、志賀(ノ)里ノ東、湖邊ニ見ユ。松(ノ)下ニ唐崎明神(ノ)社(ノ)アリ。毎歳四月(ノ)中(ノ)中(ノ)日、山王ノ神輿ヲ、此所ニ出輿スル祭祀アリ。古老云、實ハ山王ノ御旅所ナリト)
○雖幸有《サキクアレド》」代匠云。さきくとは、日本紀に、無恙とも、平安ともかきたり。幸の字も心おなじ』考注云。雖幸有《サキカレド》。何にてもかはらであるを、幸《サキ》くありと云り』小琴云。本ノ儘ニ、サキクアレドヽ訓ベシ』【已上】 今按に、二【二十二丁】に、眞幸有者《マサキクアラバ》。十三【七丁】幸有者《サキクアラバ》。また十七、二十(ノ)卷等の假字にも、左伎久とのみあれば、然かよむべきなり(猶此言は、廿二丁、三(ノ)廿二丁、又五十丁、四(ノ)卅九丁、五(ノ)卅丁、九(ノ)八丁、又卅丁、十(ノ)十三丁、七(ノ)十六丁、十一(ノ)、五丁、十三(ノ)十丁、又七丁、十五(ノ)廿五丁、十七(ノ)廿丁(303)又廿一丁、十九(ノ)四十二丁、廿(ノ)十八丁、又廿七丁、又廿八丁等に出(ヅ)。それらの中には、たゞ佐久とも眞幸とも、言幸とも云り)
○大宮人之《オホミヤヒトノ》。船麻知兼津《フネマチカネツ》」代匠云。からさきは、昔のまゝに平安にしてあれど、大宮人の乘つれてあそびなどして、こぎかへりてよせし舟の、今はまでどもよせこぬを、待かねるよといへり。又此待かぬるは、からさきが待かぬるにても侍べし。心なきものにも、心あらするは、詩歌のならひ也』考注云。大宮人の遊びし舟の、よするやとまてど見えこず、只この辛崎のみ、もとの如くてありと云也。卷二に、【此天皇崩給ふのち】「やすみしゝ吾大君の大御船待か戀(フ)らむ志賀の辛崎」卷三に「百しきの大宮人の退出てあそぶ船には梶さをもなくて不樂《サブシ》もこぐ人なしに」など云たぐひなり』小琴云。志賀ノ辛崎ノ、大宮人ノ船ヲ待得ヌ也。作者ノ待得ヌト、ヨメルニ非ズ』【已上】 今按に、此《コヽ》に麻知兼津《マチカネツ》と云るは、今俗に云とは、少したがひて、待(チ)あへざるを云(フ)。待得ざると云も、同じことなり。十一【三十一丁】待不得而《マチカネテ》。十三【十八丁】待不待而《マチカネテ》など、加禰《カネ》と云に、多くは不得とかき、又不勝とも書り。古事記允恭段に、不v堪2戀慕1而とかきて、オモヒカネテと訓たるも、其意なる故也。此外|去不得《ユキカネ》、越不得《コエカネ》、荒競不勝《アラソヒカネ》など、多くよみたる皆同じ(其(ノ)加禰《カネ》の例は、二(ノ)四十三丁、三(ノ)廿四丁、七(ノ)十丁、又卅九丁、八(ノ)廿一丁、又四十九丁、又五十二丁、九(ノ)十六丁、又卅三丁、十(ノ)十丁、又四十五丁、十三(ノ)十八丁、又廿七丁、十一(ノ)七丁、十二(ノ)卅四丁、七(ノ)四十丁、又九丁、十四(ノ)十七丁、又十九丁、又廿三丁、又廿九丁、十五(ノ)廿二丁、二十(ノ)廿一丁、又五十四丁等に出(ヅ))
○一首の意は、湖邊の志賀の辛崎は【佐伎と云】名の如く幸《サキ》く、不變《カハラズ》遺《ノコリ》てあれど、ありし御代に出て遊びし大宮人の船は待あへず、さびしげ也となり。
 
左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能《シガノ》【一云比良乃】大和太《オホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》。昔(304)人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》
左散難彌乃《サヽナミノ》。志我能大和太《シガノオホワダ》。與杼六友《ヨドムトモ》。昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》。
○志我能大和太《シガノオホワダ》」代匠云。わだとは、水のいりこみて、まはれる所也「七わだに曲れる玉の」など云もかよへり。へみなどの蟠《ワダカマ》ると云も此心也。「水のみわだ」ともよめり。水うみの入こみたる所にて、廣き所なれば、大わだと云り。されば水は早くながれ過る物ながら、大わだに入ては、淀む故にかくはつゞけたり』考注云。一本に、比良乃《ヒラノ》とあり。何れにでも有ぬべし』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、何れにても有ぬべしと云るは、いかなる事ぞ。比良の邊には、曲《ワタ》もなく、又遙かに北によりたれば、地理も叶はざるものをや。こは、大津の濱町の前、打出(ノ)濱の邊、四(ノ)宮、松本の下まで入廻りたる江を云。即昔の大宮所の前通りなり。今も矢走より舟にのれば、此所にそひて入なり。
○與杼六友《ヨドムトモ》」考注云。神代紀に、わだのうらてふに、曲浦と書しに同じく、和太は、入江にて水の淀なり』【已上】 今按に、和太《ワダ》と云より、與杼《ヨド》と受たる、其意にて、淀み留るに、待意あれば、即待よどむともといはんが如し(但よみ人の彳みて、待には非ず。是も前の辛崎と同じく、大和太が淀みて、待(ツ)ともの意也。此處ようせずば、解ひがむべし)
○昔人二《ムカシノヒトニ》。亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》」代匠云。昔はさりて歸らぬものなれば、その世の人に、又あはんや。又はあはじと云也。【一本の歌に、あはんともへやは、あはんと思へや也。おもへやとは、下知するにはあらず。あはんと思はんや、といふ心也】』 考注云。水はかく淀もあれど過ゆく世人は、とゞまる事なきを、昔人にあはんと思はめや。船待かねしは、はかなかりきと、今ぞ知たる也(將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》とは、只あはめやてふ事なるを、そは心に念ふものなれば、念てふ言を(305)加へて云のみ。下に忘れめやてふ事を、忘而念哉《ワスレテモヘヤ》といへる類也)今本、亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》と有もさる事なれど、言の古きにより、右の例にも依て一本を用』小琴云。考ニ、昔ノ人ニアハムト思ハメヤ、船待兼シハ、ハカナカリキト、今知タル也トアルハワロシ。待兼ハ、爰ハ俗ニィフ、待カヌル意ニハ非ス。集中不得ト書ル意ニテ、待得ザル也。下ノ句ハ、是モ志賀ノ大ワタノ、昔人ニ、又モエアハジト云也。モシ作者ノエアハジト云意ニシテハ三ノ句、ヨドメトモト、イハザレバ叶ハズ。志賀ノ大ワタヨ、イツマデ淀ムトモ、昔ノ人ニ、又モエアハジト云意也。ヨドメドモトイハズシテ、ヨドムトモト云ルニ、心ヲ付べシ』【略解此(ノ)末(ノ)説をとれり。】』【已上】 今按に、此説の如くにて、一首の意も明かならん。
 
高市(ノ)連|黒人《クロヒト》。感2傷《カナシミテ》近江(ノ)舊堵《フリヌルミヤコヲ》1作(ル)歌二首
考注云。今本高市(ノ)古人、感傷近江舊堵1作歌と有はとらず。こは歌の初句を、よみ誤りてより、さかしらに古人とせしもの也。仍て一本によりぬ」と有(リ)。今も其一本に依て、更に端詞を改めつ)
○高市(ノ)連黒人」考注云。黒人の傳は、しられず』 今按に、高市(ノ)連は、姓氏録云。額田部(ノ)同祖。天津彦根命(ノ)三世(ノ)孫。彦|伊賀都《イガツノ》命之後也。と見ゆ。天武紀云。十三年十月己未。高市(ノ)縣主(ニ)賜2姓連1。元正妃云。養老七年十二月丁酉。放《ユルシテ》2官(ノ)花(ヲ)1。從(テ)v良(ニ)賜2高市(ノ)姓1。などもあり(串良士《ムラジ》は、崇稱《カバネ》にて、言の意は、群主《ムラジ》の義なる事、既にも云(ヒ)つ)牟良士《ムラジ》と云に連(ノ)字を用(ヒ)しは、禮記(ノ)王制に、十國以爲v連(ト)。連(ニ)有v帥云云。注曰。合(テ)2十國(ヲ)1爲2連比1。有(テ)v帥以統(ブル)v之(ヲ)也とあるをとれるなるべし。黒人。懷風藻云。黒人二首。同目録云。隱士民忌寸黒人。【隱逸傳民作v兵】天平已來火(ノ)國。眞麻呂。豐足。屋守等同氏。一族歟。所v詠歌。此《コヽノ》外下【二十五丁】一首。三【二十丁】二者。妻答歌又【二十一丁】一首。又【二十四丁】二首。九【十四丁】一首。以上五六首載。
○舊堵」代匠云。堵(ハ)。玉篇曰。都魯(ノ)切垣也。五版(ヲ)(306)爲v堵(ト)。二尺を一板といへば、高さ一丈の築垣也。ついぢの殘りたるを見て、かなしぶ歟。堵は、もし都と通する歟』【已上】 今按に、詩小雅曰。百堵《モヽノカキ》皆|作《フセリ》。又緜之篇曰。憑々(タル)百堵などある、何れも宮城の事なれば、都と通ずべし。西都賦曰。狹2百堵之側陋1。綜云。詩曰。築(クコト)v室(ヲ)百堵。濟云。宣王築v室百堵。五板曰v堵。左傳隱公元年注云。方丈曰v堵(ト)。三堵(ヲ)曰v雉(ト)と有。此義也。菅家萬葉に、城をもみやこと訓り。
 
古人爾《フルヒトニ》。和禮有哉《ワレアルラメヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見悲寸《ミレバカナシキ》。
古《イニシヘノ》。人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》。樂浪乃《サヽナミノ》。故京乎《フルキミヤコヲ》。見悲寸《ミレバカナシキ》。
○古《イニシヘノ》。人爾和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》」代匠云。此都の全盛にあひし、古への人にも、我はあらぬを、など舊都をみれば、かくばかりかなしかるらんと也』考注云。古一字を、初句とせし例、下に多し。さて古今六帖に、此歌を、いにしへのと有は、古き時の、訓の殘れるもの也。次の句の訓はわろし。人爾和禮有哉。今本あるらめや、と訓しは誤りぬ』略解云。あれやは、あればにやを略けり。こゝを見てかくの如く甚悲しきは、われこゝの古へ人にや有らんと、幼く疑てよめる也』【已上】 今按に、此段の釋、代匠の勝ること、次に云べし。
○故京乎《フルキミヤコヲ》。見悲寸《ミレバカナシキ》。」考注云。こゝを見て甚悲しきは、我こゝの古へ人に、あればにやあらんと、先(ヅ)いひて、立かへり、さはあらぬを、いかでかくまでは、思ふらんと、みづからいぶかる也』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、此説、二句の有哉《アレヤ》を、あればにやの意と云(ヒ)ながら、此《コヽ》に立かへりて、さはあらぬを、いかでかくまでなどいへる、上下齟齬して、其心|融《トホ》りがたし。さて此歌、一わたりは、あればにやの意と、思ふやうなれど(あればにやの意の時は、我は天智の世の人にてあればにや、此故京を見れ(307)ば、とりわきて悲しかるらんと云意なり)こゝに人麻呂の次に、ついでたるを見れば、此人は、人麻呂同時にても後輩か、又は少しおくれたらん。然る時は、持統文武の朝と見ても、天智の御時よりは、五六十年後なれば、代匠(ノ)説の如く、あれやはの意として、解べきなり。その時は、
○一首の意は、古への人にわれあれやは、【反語】われは其代の人にもあらざるに、此故京を見れば、何とてかく悲しかるらんと云也。禮也《レヤ》と云(ヒ)て、反語《ウチカヘシ》にいへる例は、十四に「君はわすらず、われ忘るれや」十八の長歌に「鄙《ヒナ》に一日もあるべくあれや」九に「あぶりほす人もあれやもぬれ衣を家にはやらな旅のしるしに」此外多かり。さて三卷に、高市(ノ)連黒人(ガ)。近江(ノ)舊都(ノ)歌。如是故爾《カクユヱニ》。不見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》。樂樂乃《サヽナミノ》。舊都乎《フルキミヤコヲ》。令見乍本名《ミセツヽモトナ》。とあるも、此時のうたにや。
 
樂浪乃《サヽナミノ》。國都美神乃《クニツミカミノ》。浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》。
○國都美神乃《クニツミカミノ)》」代匠云。日吉(ノ)神は、三輪と同躰にてませば、地祇を、國津神と云』考注云。志賀(ノ)郡などをしきます神を云。卷十七に、美知乃奈加《ミチノナカ》。【越中國をいふ】久邇都美可未波《クニツミカミハ》。と有にひとし』【略解是に同じ。】』【已上】 今按に、此考説の如し。猶いはゞ此國都神は、常に天神に對(ヘ)て、地祇を云とは別にて、大國御魂《オホクニミタマ》など申すやうに、其(ノ)國其(ノ)郡郷《サト》を、領《ウシハ》き賜ふ神を指て云詞也。
○浦佐備而《ウラサビテ》。荒有京《アレタルミヤコ》」代匠云。うらさびとつゞくるうらは、心也。うらかなし、うらめづらしなどの類皆同じ。毛詩に、不《ンヤ》v屬《ツケ》2于身(ニ)1。不v雖《ヅケ》2于|裏《コヽロニ》1といへり。身は表にあらはれ、心は裏にかくるゝ故に云也。【法性寺關白殿の歌に「さゝ浪や國津御神のうらさびて古きみやこに月ひとりすむ」とよめり。昔はかやうに取ても、よみけるにや。』考注云。浦は借字にて、心と云に同じ。佐備は下に不樂、不怜などかき、卷三に、佐備乍將居《サビツヽヲラム》ともよみて、心の冷《スサマ》じく、和《ナグ》さめがた(308)きを云。こゝには國つ御神の御心の、冷《スサ》び荒びて遂に世の亂を起して、都も荒たりといふ也。此言さま/”\あり。別記に委し』同別記云。宇良《ウラ》は内也』十五に、天地乃《アメツチノ》。曾許比能宇良爾《ソコヒノウラニ》とあるは、天地の極(ミ)の内にと云也。海の浦も、本は裏の事なり其内より轉《ウツ》りて、人の心の事を云ぞ多き。十四に、君が來まさぬ、宇良毛等奈久毛《ウラモトナクモ》。とあるも、平言に心もとなしと云に同じくて、うらは、内に思ふ、下に思ふなど云にひとし』【已上】 今按に、右等の釋大かた宜し。其中に、宇良《ウラ》は、物の裏内より、轉じて云といへるはわろし。物の裏内を云も、其義は一列にて、何れを本、何れを末と爲べきにあらず。其(ノ)大旨は、代匠に云るが如くして、彼(ノ)卜歎《ウラナケ》、浦悲《ウラガナシ》、裏戀《ウラゴヒ》、裏無《ウラナク》、裏本無《ウラモトナク》、浦妙《ウラグハシ》、浦安《ウラヤスク》、宇良麻知乎流《ウラマチヲル》、【二十(ノ)十四】裏觸《ウラブレ》、卜思《ウラオモヒ》、浦恥《ウラハヅカシ》などの、宇良《ウラ》のみならず、宇伎《ウキ》、宇禮志伎《ウレシキ》、宇萬伎《ウマキ》、宇牟賀志伎《ウムガシキ》、宇都久志伎《ウツクシキ》、宇多弖《ウタテ》、宇禮多伎《ウレタキ》、宇計夫《ウケブ》、宇牟《ウム》、宇良武《ウラム》、宇登牟《ウトム》、宇禮閉《ウレヘ》、宇禮豆久《ウレヅク》、宇加禮《ウカレ》、宇良氣《ウラゲ》、宇良賀須《ウラガス》、宇倍奈布《ウベナフ》、宇流波志牟《ウルハシム》、宇迦賀布《ウカガフ》、宇迦禰良布《ウカネラフ》、宇米久《ウメク》、宇曾夫久《ウソブク》等の宇《ウ》も、心より出る言のやうなれば、心を本とすとも、誣《シフ》べからず。そはこれらの言の中に、留《ル》とも禮《レ》とも、活《ハタラ》くも有て、彼(ノ)宇良《ウラ》と通へばなり。次に佐備《サビ》と云語は、いろ/\に用ひて、一樣ならず。そは此卷の下に、神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カムサビセスト》。二卷に、宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》。四卷に、大船乎《オホブネヲ》。榜乃進爾《コギノ スサビニ》。十卷に、朝露爾《アサツユニ》。咲酢左乾垂《サキスサビタル》。鴨頭草之《ツキクサノ》の類は、皆|進《スヽ》む方也。又|宇良佐備《ウラサビ》、神佐備《カムサビ》、山佐備《ヤマサビ》などは、荒冷《アレサブ》ると、舊冷《フリサブ》るとあり。又|佐備乍將居《サビツヽヲラム》、佐夫之毛《サブシモ》などは、心の愁冷《ウレヘサブ》るを云り(かゝれど此言の上に、然か幾義も有には非ず。皆用ひぶりに依て、換《カハ》りゆく事既に山響册子二篇、六(ノ)卷天(ノ)逆手(ノ)條、又|須佐備《スサビ》考(ノ)辨(ノ)條等に出しつれば、參《マジ》へ考ふべし。猶かゝる語の意、恒に心に離れざれば、下の神佐備《カムサビ》の條よりし(309)て、其次々にも、あまた出たれば、おのづからいくたびも云べしとて、此《コヽ》には只あらましを云なり)其(ノ)中にも、宇良《ウラ》より連《ツヾ》けて、宇良佐備《ウラサビ》と云るは、全《モハ》ら心の不樂《サブル》かたなり。下の【三十丁】浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。二【二十五丁】暮去者《ユフサレバ》。綾哀《アヤニカナシミ》。明來者《アケクレバ》。裏佐備晩《ウラサビクラシ》。などの如し。かゝれば今此句にては考説を宜しとすべし。されど國津御神の御心の冷《スサ》び荒びてと云のみには有べからず。彼(ノ)大友(ノ)皇子の、近江の亂に依て、俄に荒廢し、目もあてられぬ有|状《サマ》に成つるを、さは申しがたき故に、それを、國(ツ)神の御荒びとよみなしたるものとぞ聞ゆる。そは、國の存亡も、皆神の所爲《ミシワザ》に依(ル)わざなれば、然か云(ヒ)ても、終(ヒ)にたがはざれば也。しかれば次の○荒有京《アレタルミヤコ》。見者悲毛《ミレバカナシモ》」と云るも、たゞ大宮の、荒たるのみを悲めるにはあらず。此所に來て、其荒たる形状《サマ》を見れば、彼(ノ)皇子えうなき御謀反、天皇の御心違の事さへ思ひ出られて、そこはかとなく悲しきよしなり。集中に、他の故京の事はさのみいはで、此(ノ)大津宮のみを、かくざまに悲しめるも、皆其下心なりかし。よく思ひ、よく心をつけて、味はふべし。
○一首の意は、近江の亂に依て、跡はかもなく、荒(レ)はてたる、宮所《ミヤコ》を見れば、聞傳へたる、其御世の事どもを、いろ/\思ひ出られて、一かたならず悲しよと也。
 
(310)萬葉集墨繩卷八(原本萬葉|檜※[木+爪]《ヒノツマデ》卷第七)
  本集一之七【自十八葉右至十九葉左】
 
幸(シヽ)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時。川島皇子御作歌一首 或云山上臣憶良作
○幸2于紀伊(ノ)國1」考注云。紀に【持統】朱鳥四年九月、此幸あり』【已上】 今按に、本文曰。四月秋九月乙亥朔丁亥。天皇幸2紀伊(ノ)國1。丁酉云云。戊戌。天皇|至《カヘリ玉フ》v自2紀伊(ノ)國1。とあり。此(ノ)御時、御供奉《ミトモ》せさせ給ひしなるべし。
○川島(ノ)皇子」考注云。天智天皇の皇子也。紀に出』【已上】 今按に、天智紀曰。忍海《オシノミノ》造小龍(ガ)女。曰2色夫古娘《シコブコノイラツメト》1。生2一男二女(ヲ)1。其一(ヲ)曰2大江(ノ)皇女(ト)1。其二(ヲ)曰2川嶋(ノ)皇子(ト)1。其三(ヲ)曰2泉(ノ)皇女(ト)1。天武紀十年三月丙戌。天皇御2于大極殿1。以詔2川嶋(ノ)皇子云云。十三人(ニ)1。令v記2定帝紀及上古(ノ)諸(ノ)事(ヲ)1。十四年乙西春正月丁卯。授2淨大參位(ヲ)1。持統紀曰。五年。増2封百戸(ヲ)1【通v前五百戸】同九月丁丑。淨大參(ノ)皇子川島薨。此集二【三十二丁】或本(ニ)曰。葬(ル)2河島(ノ)皇子(ヲ)越智(ノ)野(ニ)1之時。獻(ル)2泊瀬(ノ)皇女(ニ)1歌。とあれば、泊瀬部(ノ)皇女(ヲ)。爲(玉ヒ)v妃(ト)しなり。懷風藻云。川島(ノ)皇子者。淡海帝之第二子也。志懷温裕(ニシテ)局量弘(ク)雅(ナリ)。始(メ)與《ト》2大津(ノ)皇于1爲(ス)2莫逆之契(ヲ)1。及(ビ)2津謀(ル)1v逆(ヲ)。嶋則告(グ)2變(ヲ)朝廷(ニ)1。嘉(シ玉フ)2其(ノ)忠正(ヲ)1。 朋友薄(クシテ)2其(ノ)才情(ヲ)1。議(スル)者(ハ)未(ダ)v詳(ニセ)2厚薄(ヲ)1。然(レトモ)余以爲(ク)忘(テ)v私(ヲ)好而奉(ズル)v公(ニ)者(ハ)。忠臣之雅。事背(テ)2君親(ニ)1。而厚(スル)v交(ヲ)者(ハ)。悖之流|耳《ノミ》。但|未《・ズシテ》(ダ)v盡2爭友(ノ)之益(ヲ)1。而陷(ル)2其(ノ)塗炭(ニ)1者。余亦疑(フ)v之(ヲ)。位終(ル)2于淨大參(ニ)1。時(ニ)年卅五。と記せり。是にて、其御ひとゝなりを見べし。
○或云。山上(ノ)臣憶良作」代匠云。此(ノ)歌第九卷に、山上(ノ)臣の歌と載て、歌の詞すこしかはりて、左に川島(ノ)皇子の御歌とも云(フ)よし注せる、今と表裏せり』【已上】 今按に、此御歌は、本(ト)岩代乃見(テ)2結松(ヲ)1よみ給へる事、次に云が如し。然れば二【二十二丁】有間(ノ)皇子。(311)自(ラ)結(テ)2松枝(ヲ)1云云。次に長(ノ)忌寸|意吉《オキ》麻呂。見2結松1云云。と有て、其次に、山上(ノ)臣憶良(ガ)追和(テ)作(ル)歌とある、此歌と後人思(ヒ)混《マガ》へて、かゝる小注はくはへたるなり。
 
白浪乃《シラナミノ》。【疑白浪(ハ)誤2磐白1乎。】濱松之枝乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》。年乃經去良武《トシノヘヌラム》。一云|年者脛爾計武《トシハヘニケム》
  古點も、訓はかはらざれど、誤字ある故に、更に改めて擧るなり。
磐〔左〔〕白乃《イハシロノ》。濱松之枝乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》。年者經爾計武《トシハヘニケム》
○磐白乃《イハシロノ》」仙覺抄曰、此第一二句、白浪乃濱《シラナミノハマ》。とつゞけたる事、おぼつかなし。普通には、しらなみのよするはまといはんとて、つゞけたるにや。たゞしその義ならば、おほやうなるべし云云』代匠云。白浪のよする濱也。名所にあらず』似閑云。白浪ノヨスル濱ヲ、白浪ノ濱トハ云(ヒ)ガタシ、イカヾ。サテ新勅撰ニ、寂蓮、風フケバ、下全(ク)同ジキヲ載ラレタルハ、寂蓮モ、定家卿モ、此歌ヲ知(ラ)レザリケルニヤ』考注云。此句、白神乃《シラカミノ》、又|白良乃《シララノ》。ならん。今本に、白浪乃と有は、古歌の讀にあらずと、荷田宇志の云しは、さる事也(考るに、卷九に、同國に、白神之磯とよめり。然れば白神の濱と有つらんを、神と浪と草の近きまゝに且濱に浪を云は常也とのみ思ふ、後世心もて、白浪とは書しなるべし。又催馬樂に、支乃久爾乃《キノクニノ》。之良々乃波末爾《シララノハマニ》と、うたへるによらば、白良と有けむを、四言の有をもしらぬ人、言たらず、浪の畫の落たらんとて、さかしらしけん)』略解云。翁は云云といはれたれど、こは本のまゝに、白浪にて、白浪のよする濱と云べきを、言を略きて、かくつゞけしが、かへりて古意ならん。今をも卷九をも、誤字とせんは、強ごとなるべし。宣長云。古事記。八千矛(ノ)神の御歌、幣都那美《ヘツナミ》。曾爾奴伎宇(312)弖《ソニヌギウテ》。は於《ニ》2邊浪磯《ヘツナミソ》1脱棄《ヌギウテ》也と、師説也。さて浪のよる磯、などゝこそ云べきを、直(チ)に浪礒《ナミソ》とては、つゞかぬに似たれど、こゝの白浪の濱松が枝とよめるも、同じさま也。土佐日記の歌に「風による浪の磯には」ともよめりといへり』【已上衆説】今【守部】按に、此(ノ)御歌は、こたびの行幸の、從駕の御次(デ)に、有間(ノ)皇子の結松を、名高く聞(カ)して、尋ね見てよみ給へるなれば、此句は、岩代乃とあらずては叶(ヒ)がたし。今本に、白浪乃と有は、磐白を、下上に寫(シ)誤り來しにこそ。故(レ)私には似たれども、それと思(ボ)しき事あれば、今改(メ)つ。右の考注以下の説どもは、皆ひが事にて、仙覺、似閑等の連《ツヾ》きがたしといへるぞ實(ト)なる。
 〔細註〕 古事記傳に、彼(ノ)八千矛(ノ)神の御歌を、邊浪礒《ヘツナミソ》と釋せるなれば、殊にひが事也。彼(ノ)曾《ソ》は、山能曾枳《ヤマノソキ》、野乃曾枳《ヌノソキ》などよめる曾枳《ソキ》の略きにて、即|邊浪《ヘツナミ》の、曾枳邊《ソキベ》に流し葉んと詔るなり。常に「うれしさ」「かなしさ」「うさ」「つらさ」など云|佐《サ》も、此(ノ)曾《ソ》の通音。又「うきせ」「あふせ」「うれしきせ」「こゝをせにせん」など云|勢《セ》も、此(ノ)曾の通音なり。されば其(ノ)佐《サ》にも、勢《セ》にも、自然と限りの意を含みたり。此等の事は、既に八十(ノ)語別《コトワキ》、又助辭本義等に辨へつれば、此《コヽ》はたゞ採て云也。又彼(ノ)記傳に引て云る、土佐日記の歌に「風による浪の磯には鶯も春もえしらぬ花のみぞさく」とよみたるは、上よりのかゝり「浪の風による磯」と云意の續けなる事は、きのふけふの初學びの耳にも聞わくべき詞なるを、そをだに引つけて云る、いみじき牽強ならずや。
 かゝる説に欺かれて、あまたの歌を、勿《ナ》解(キ)ひがめそ。
斯て磐代は、紀伊國名所考に、日高(ノ)郡の内、磐代は、切目《キリメ》を過て、切目川有て、次に磐代なり。【切目は、熊野道の海邊lこて、切目坂、切目(ノ)浦、切目村あり。切目山は、村より一里許東北也。村の北に、切目(ノ)王子(ノ)社もあり。】(313)西岩代、東岩代とて村有(リ)。岩代(ノ)王子(ノ)社、海べりにあり。南紀名勝志云「岩代ノ結松ハ、岩代庄(ノ)、東岩代村ノ岸(ノ)上ニアリ。岩ハ三尾(ノ)庄、三尾村ノ西南、三十余町海邊ニ在。高(サ)十八九間、周廻(リ)廿七八間許有。人ノ伏テ腰ヲ屈ルガ如シ。依テ屈石ト名ク」と云り。思ふに斯る、希見《メヅラシ》き巖のありける故に、岩代とは云るなるべし。此地の事は、既に此釋の三卷に出て、其處にも云つれど、得省きかねて更に擧つ。
○濱松之枝乃《ハママツガエノ》。手向草《タムケグサ》」仙覺抄云。たむけぐさは神に奉るもの也。松にかけおきたれば、濱松が枝と云。此義常の事也。あしからず。常陸國風土記に、香嶋郡の舊聞異事を註《シル》す處に、海上安足之孃《ウナカミノヤスタリガイラツコノ》歌(ニ)曰(ク)。伊夜是留乃《イヤゼルノ》。阿是乃古麻都爾《アゼノコマツニ》。由布悉弖弖《ユフシデチテ。和乎布利彌由母《ワヲフリミユモ》。阿是古志麻波母《アゼコシマハモ》。【守部云々、此歌かくては結句聞えず。是は二(ノ)句を再(ビ)返せる古風の格にて阿是乃古麻都爾。と有しを誤れるものなり。】是は濱松が枝のたむけ草などよめらん、ためしごとゝ聞えたり云云』代匠云。たむけ草は、草はそへたる詞也。松を結びて手向る也。第二卷に、有間(ノ)皇子「岩代の濱松が枝を引むすぴまさきくあらば又かへり見む」とよみ給へるも、神の手向のためなるべし。花をももみちをも折て、神にたむくるは、その折による手向也云云』似閑書入(ニ)云。惣テ思草、戀草、語ラヒ草ナド、其(ノ)事ニョリテ云ルハ、皆實ノ草ノ名ニハアラズ。此《コヽ》モ松ヲ手折テモ、又結ビテモ神ニ手向スレバ、其(レ)ヲ直ニ、手向種トハヨメルナリ。若(シ)岩代ナドニテノコトニヤ』考注云。今本に松之枝《マツガエ》と有はよしなし。考るに、卷九に、此歌松|之木《ノキ》と有を、古本には、松之本と有。然ればこゝは、根を枝と誤し也。手向草《タムケクサ》は、草は借字にて、種《クサ》也。即手向の具を云り。十三卷に、相坂山丹《アフサカヤマニ》。手向草《タムケグサ》。麻取置而《ヌサトリオキテ》。とある、手向草は、麻幣の事顯はなるもて、こゝをも知べし』【已上衆説】 今按に、此は彼(ノ)有間(ノ)皇子の、此時より以前《サキ》に、結び給ひし(314)松を指(シ)て、手向種とはの給る也。そは彼皇子罪顯はれて、御命も危くおぼしける故に、此處にして松を結びで、神に乞祷《コヒノミ》給ひつれば、即其松が枝ぞ其時の手向種なりける。似閑が書入に、若(シ)岩代にての事なりしにやと云(ヒ)しは、少し是を思ひたるべけれども、直に其松を手向草との給ひつるに、心つかざりければ、得いひはてざりしなり。【仙覺抄に松の枝に物を掛て奉る也と云るも、常陸風土記の歌に就てなりければ、其(レ)も古くなき事には有(ル)まじけれど、此には叶はず。又松蘿を云といへる一説あり。是もかの枝に掛てと云(フ)説にもとづきたる暗推なり。さて松を結ぶわざは、下に「松が枝をむすぶ心は長くとぞおもふ」又「ときはなる松のさ枝をわれはむすばな」などもよみたり。此等を思へば、後世に松の異名を、手向草と云とおぼえたるはわろけれど、結びて手向る名は、久しく傳へ來しなり。】
○幾世左右二賀《イクヨマデニカ》。年者經爾計武《トシハヘニケム》」考注云。こゝの歌の意は、いと古へに幸有し時、こゝの濱松が根にて、御手向せさせ給ひし事、傳へ云を聞て、松は猶在たてるを、ありし手向種のことは、幾その年を經ぬらん。とよみ給へるなり云云』【已上】 今按に、もし此考説の如くならば、其行幸をこそ、世々に傳へてもいはめ。旅路の手向は、常の事なるを、然か云(ヒ)つぎにせん事、あまりこと/”\しげにて、且は事かけたる論(ラ)ひなり。すべて初(メ)の見入のたがひたるより、其人にも似げなく、いへば云ほどわろくなりつるなり。更に是を辨へいはゞ、彼(ノ)有間(ノ)皇子の、此松を結びたまひしは、齊明天皇四年十月の事にして、其翌日藤代にて、御命失はれ賜ひき。其年より、今此朱鳥四年までを數ふれば、三十三年になれゝども、あはれなる事にて、誰手ふるゝ人もなく、松は猶結ばれながらありしなるべし。そは二【二十二丁】長(ノ)忌寸|意吉《オキ》麻呂。見(ト)結(タル)松(ヲ)1哀咽《カナシミテ》作(ル)歌二首。とある歌の一本の端書に、大寶元年辛丑。幸2于紀伊國1時云云。と記したり。此時は既に四十餘年過たれど、其詞に見(テ)2結(タル)松(ヲ)1哀咽《カナシミテ》といひ、歌に情毛不解《コヽロモトケズ》。とよめるなどを見れば、猶結ばれながらありし也。かゝれば今も其(レ)を見て手向種との給ひし事、いよ/\慥かに思ひ定むべ(315)し。幾代左右二賀《イクヨマデニカ》と、年をかぞへ給ひしも、其枝とけずして、三十餘年も經たる故也。今の本文に年乃經去良武《トシノヘヌラム》と有は、後に誤りたるなり。此歌を濱成式に引るにも、【此書は僞なれども、古き物なり。】下句、伊倶與麻弖爾可《イクヨマデデニカ》。等旨能倍爾計牟《トシノヘニケム》。又公任卿の和歌髓脳にも、かくあり。故(レ)今も一本の方によりつ。
○一首の意は、盤代の濱松が枝の手向種。結ばれながら、いく世までにか年は經にけん。今に解ざるを見れば、むかしおぼえてあはれなりと也。卷九に、濱松之本とあるは、是も後にあやまれるなり。
 
日本紀曰。朱鳥四年庚寅秋九月。天皇幸2紀伊國1也。
代匠云。天武紀云。秋七月乙亥朔戊午。改(テ)v元(ヲ)曰2朱鳥元年(ト)1。これは天武十五年丙戌の年也。今年天皇崩たまひて、次の丁亥、持統天皇御位につかせ給ふ。年號をば改ずして、丁亥を元年としたまふ故に、四年は庚寅也。斯る左註は、皆後人の筆なるべし。
 
越(マス)2勢能山(ヲ)1時。阿閉《アベノ》皇女(ノ)命(ノ)。御作歌《ヨミタマヘルウタ》一首
○勢能山」代匠云。日本紀孝徳天皇二年詔(ニ)。凡|幾《マヽ》内(ハ)自(リ)2名墾《ナバリ》。横河《ヨカハ》1以來《コノカタ》。南(ハ)自(リ)2紀伊(ノ)兄《セ》山1以來。西(ハ)自(リ)2赤石(ノ)櫛淵1以來。北(ハ)自2近江(ノ)狹々波(ノ)相坂山1以來(ヲ)。爲2畿内國(ト)1』考注云。上と同じ度なるべし。勢の山は、紀に【孝徳】云云』【已上】 今按に、南紀名勝志曰「背(ノ)山ハ、伊都(ノ)郡、加勢田(ノ)庄、背山村ノ西北ニ在。又村ノ南二丁余、紀伊《キノ》川ノ南邊ニ、妹(ノ)山アリ。此二(ノ)山ヲ合テ、妹背山ト云」とあり。待乳越のつゞき也。玉勝間に、背山ありて、妹山と云はなしと云(ヘ)りしより、世に惑ふ人多くなれゝば、下に悉く辨ふべし。【先(ヅ)集中に、背山をよめる歌は、此の外にも、三(ノ)廿二丁、又同丁、又廿一丁、七(ノ)十七丁、又十九丁、九(ノ)九丁、十三(ノ)廿六丁等に出(ヅ)。】
○阿閉《アベノ》皇女(ノ)命」は天智天皇の皇女、草壁(ノ)皇子(ノ)命(ノ)御妃。文武天皇御母にませり。後に日嗣知しめして元明天皇と申しつれば、委き事は、下の寧樂(ノ)宮の(316)標下に擧べし。
 
此也是能《コレヤコノ》。倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワガコフル》。木路爾有云《キヂニアリトフ》。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。
○此也是能《コレヤコノ》」代匠云。倭に在て、かねて紀の國にこそ、勢《セ》の山と云るおもしろき山はあれど、人の語るを聞しは、是や此山ならんと云也』考注云。辭は同じくて、意の別なる事を、一つにとりなして云(フ)とき、此言はおく也。同頭書云。我戀る勢《セ》とつゞく意なるを、其間に、他の事を置たる也。是を隔句といへり』略解云。是や此の辭は、此がかのと云意也。すべてかのと云べき事を、このと云る例多し。さて上の是は、今現に見る物をさして云。かのとは、常に聞居る事、或は世にいひ習へる事などをさして云。これやかの云云ならん、と云意也』【已上】 今按に、此(ノ)考略解の釋にて、【代匠(ノ)説はいかなる事か。其趣意少(シ)たがへり。】馴たらん人には聞ゆべけれど、猶いはゞ、先(ヅ)也《ヤ》は、疑(ヒ)なり。此《コレ》とは、勢能《セノ》山をゆびさして宣ふ也。是能《コノ》とは【彼のにて】倭に留りおはす夫君《セノキミ》を指《サシ》給ひて、其(ノ)夫《セ》てふ言を、結句の勢能《セノ》山の勢《セ》に係《カケ》て、引つゞけ給へるなり。猶かくても、初學の耳には藩かぬべければ、次に其語脈のかゝり状《サマ》を圖して知(ラ)すべし。
○倭爾四手者《ヤマトニシテハ》。我戀流《ワガコフル》」代匠云。げにもおもしろき山也とて、其(ノ)兄《セ》山と云名を、戀しく思食す夫君によせて、よませ給へり』考注云。京に留り給ふ御|夫《セ》、日並斯《ヒナメシノ》皇子【草壁】をのたまふ』【已上】 今按に、次の一句半の間、いはゆる隔句にして、此(ノ)流《ル》もじより、勢能《セノ》山に係《カヽ》るなり。即|我戀流《ワガコフル》夫《セ》と心得べし。
○木路爾有云《キヂニアリトフ》」諸抄釋なし。今按に、紀伊道《キヂ》に在《アリ》といふと云にて、木路《キヂ》は、紀伊(ノ)國へ行(ク)道を云也。さて有云と書たる字は「ありちふ」とも「ありとふ」とも訓れて、毎條定めがたし(彼|野《ノ》を、奴《ヌ》とも、乃《ノ》ともよみ、我を、我禮《ワレ》とも、阿禮《アレ》ともよむ(317)頻なり)「ちふ」とよみたる例は、五【七丁】由久知布《ユクチフ》。七【十五丁】雨曾零知否《アメゾフルチフ》。八【三十七丁】將卷知布《マカムチフ》。十八【二十四丁】可豆久知布《カヅクチフ》。日本後紀に、奈久知布《ナクチフ》と見え「とふ」とよみたる例は、五【二十六丁】必禮布理伎等敷《ヒレフリキトフ》。十四【九丁】與須等布《ヨストフ》。又【二十八丁】可良須等布《カラストフ》。十五【十一丁】左宿等布《カラストフ》。又【十五丁】可流登布《カルトフ》。十九【二十九丁】伊都久等布《イツクトフ》。二十【十六丁】波々登布《ハハトフ》など見ゆ。ちふは登伊《トイ》を約(メ)て知《チ》と云。とふは云《イフ》の伊《イ》を省きて、登《ト》と云るなり(今も上野の西北邊より、信濃、越後の人は、知布《チフ》といひ、又中國の邊土の民は、登布《トフ》といふめり)後世の歌にてふとのみよむは、轉じたる也。
○名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》」考注別記云。名爾負《ナニオフ》。こは二樣に聞ゆれど、本(ト)同じ意なり。十一に、早人《ハヤヒトノ》。名負夜音《ナニオフヨゴエ》。また何《イカサマニ》。名負神《ナニオフカミニ》。幣嚮奉者《タムケセバ》。十五に、巨禮也己能《コレヤコノ》。名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》。宇頭之保爾《ウヅシホニ》。などは、たゞ何にても、其名に負《オヒ》てあるを云也。今一つは此の卷に此也是能《コレヤコノ》云云。名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》。六に名耳乎《ナノミヲ》、名兒山跡負而《ナゴヤマトオヒテ》、吾戀の、千重の一重も、なぐさめなくに。などにて、名に負てふ意は、右とひとしきを、是は文《アヤ》に云(ヒ)しのみ也。且皆負と書たるにて、此言の意は明か也。【後人是を名に應こゝろと云は、皇朝の古言に字音は無(キ)をだに心得ざるなるべし】』【已上】 今按に、此説未(ダ)慥かならず。此言に二樣ありと云(ヒ)、又たゞ文《アヤ》に云のみなど云るひが事也。此外古今集の餘材鈔、打聞、新古今の美濃家※[果/衣のなべぶたなし]等の説(キ)ざまも、凡て快らねば、【さる故にやあらん。近き此世に、名だゝる人たちの歌の中にもいかゞなる用ひざまの、常にこれかれ見ゆめれば。】此《コヽ》に其本つ意より、云(ヒ)試むべし。極て事長かりなんを、見む人勿倦《ナウミ》そ。先(ヅ)名爾負《ナニオフ》とは、爾《ニ》は乎《ヲ》の意也。今世に、乎《ヲ》乎云べきを、古今に爾《ニ》と云ること多し。妻をこふ、妻|爾《ニ》戀《コヒ》、妹をこふを、妹|爾《ニ》戀と常によめるが如し。さて負《オフ》とは、重荷、薪の類のみならず、古くは實語、虚語共に、其物、其事、其身の上に、受持《ウケタモツ》を云り。古事記上、科《オホセテ》v詔《オホミコトヲ》2日于番能邇々藝《ヒコホノニニギノ》命(ニ)1。此集十九【三十八丁】公之事趾乎《キミガコトドヲ》。負而之將去《オヒテシユカム》。四【三十九丁】嘆久嘆乎(318)不負物可聞《ナゲクナゲキヲオハヌモノカモ》。十四【三十四丁】加米爾於保世牟《カメニオホセム》。十六【十三丁】神爾莫負《カミニナオフセ》(五(ノ)卷には、勅旨《オフミコト》。戴持弖《イタヾキモチテ》。ともよみたる、戴(ク)も、負も、其身に受持《ウケタモ》つ意は同じこと也)などやうにも云(ヘ)れば、其(ノ)詔旨《ミコトノリ》を受持(ツ)人を、即|宰《ミコトモチ》と云り。命持《モコトモチ》の義也(神功紀に、宰《ミコトモチ》。雄略紀に、國司《ミコトモチ》。た職事《ミコトモチ》などある、是なり)又其(ノ)令命を、於保勢其登《オホセゴト》と云も、本(ト)は令《セ》v負《オハ》言の義にて、其言を其者に負持《オヒモタ》する方より出たる語也。二十【三十一丁】爾波志久母《ニハシクモ》。於不世他麻保加《オフセタマホカ》。於母波幣奈久爾《オモハヘナクニ》とあり。此等にて於保世も、於布世も、本(ト)一(ツ)なる事を知べし。かくて續紀(ノ)詔詞に、天皇乃《スメラミコトノ》。美麻斯爾賜志天下之業止《ミマシニタマヒシアメノシタノワザト》。詔大命乎《ノリタマフオホミコトヲ》。聞食恐美《キコシメシカシコミ》云云。齡乃弱爾《ヨハヒノヨワキニ》。荷重波不堪自加止《ニオモキハタヘジカト》云云。とやうに云ること、これかれ見ゆ。これも本(ト)大命を負持《オヒモツ》と云と、同じ心ばへの詞ども也。かゝれば今(ノ)世に、彼(ノ)荷《ニ》を負(フ)、※[代/巾]を負(フ)など云負(フ)と、專ら同じことなり。然るに其(ノ)荷物をば、牛馬には附《ツク》ると云(ヒ)馴たるやうに、物の名も、附《ツク》るとのみ云(ヒ)ならはしける故に、負《オフ》すとては、いつしか耳うとくなりし也。
 [細註〕 但(シ)名づくと云も、猶古言也。三(ノ)廿七丁、又五十六丁、六(ノ)廿三丁、又廿六丁、十八(ノ)十六丁等に出たり。又物を負(フ)と云ふことは、三(ノ)六十丁、五(ノ)四十丁、二十(ノ)卅四丁、又五十丁等に出たり。又牛馬には五(ノ)三十七丁に、重馬荷爾《オモキウマニニ》。表荷打等《ウハニウツト》。十八(ノ)十七丁に宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》。於保世母天《オホセモテ》。など有て、附ると云るは、いまだ見ず。さて此に負せを、於保世と書るもて、既に云(ヒ)しおほせと、おふせと、同じ事なる事、いよゝ明らか也。此(ノ)負(フ)を、名の上に云るは、十七【二十一丁】大伴能《オホトモノ》。遠都神祖乃《トホツカムオヤノ》。其名乎婆《ソノナヲバ》。大來目主登《オホクメヌシト》。於比母知弖《オヒモチテ》。また毛能乃敷能《モノノフノ》。夜蘇等母能乎毛《ヤソトモノヲモ》。於能我於敝流《オノガオヘル》。於能我名負弖《オノガナオヒテ》。二【五十一丁】大伴能《オホトモノ》。宇治等名爾於敝流《ウヂトナニオヘル》。また阿伎良計伎《アキラケキ》。名爾於布等毛能乎《ナニオフトモノヲ》。また佐夜氣久於比弖《サヤケクオヒテ》。伎爾之曾乃名曾《キニシソノナゾ》云云。などある。(319)此等は、其家々の氏職等に、負持來《オヒタモチコ》し名をいふ也。又三【三十一丁】酒名乎《サケノナヲ》。聖跡負師《ヒジリトフシシ》云云。是は清酒の名を聖と名付たるを云なり。十一【三十五丁】無名乎毛《ナキナヲモ》。吾者負香《ワレハオヒシカ》云云。是はなき名を附られたるを云る也。五【二十四丁】「遠つ人、松浦さよ姫、つまこひに、ひれふりしより、於邊流夜麻能奈《オヘルヤマノナ》」これは其(ノ)領巾《ヒレ》振《フリ》たる時より、領巾振《ヒレフリ》山と云名を、山の負來たる也。十五【十五丁】巨禮也己能《コレヤコノ》。名爾於布奈流門能《ナニオフナルトノ》。宇頭之保爾《ウヅシホニ》。たまもかるとふ、あまをとめども」是は其鳴門の水の、渦卷《ウヅマク》より、其處|渦潮《ウヅシホ》と名に負て、船人だに恐む所なるに、馴(ル)ればなれぬとて、聞及びたるごと、其所にしも、玉藻かる海處女《アマヲトメ》かなと云也。【此等の續きを心得ひがめて、名高き事を云やうにおぼえたるにや。又宣長などの、此(ノ)渦潮の釋はひが事也。さる説に耳訓て、今此解をな疑ひそ】三【二十一丁】宜奈倍《ヨロシナベ》。吾背乃君之《ワガセノキミガ》。負來爾之《オヒキニシ》。此勢能山乎《コノセノヤマヲ》。妹者不喚《イモトハヨバジ》。これは吾(ガ)兄《セ》に似つかはしく兄《セ》と云名を負來にし、此(ノ)勢能山を、めゝしき妹とは呼(バ)じと云也。されば上の歌どもは、其物の負たる名に就ていひ、此三(ノ)卷の歌の類は、此方《コナタ》の名が彼方《カナタ》の物の名に負《ヅキ》てあるを云る也。
 〔細註〕 後の三代集などによめる、多く此類なり。彼(ノ)古今集の「名にし負《オハ》ばいざこと問む都鳥」と云も、都と云(フ)名の、隅田川に栖《スム》鳥《トリ》の名に付てあるを云也。さて如此《カク》名にしと添(ヘ)云しもじは助辭也。おはゞとは、渡守が言を受て、然かいふ如く、其鳥の名に負《ツキ》てあるならば、と云(フ)意也。世に只此類のみを見て、名におふと云語は、此(ノ)物の名の、彼(ノ)物の名に、付てあるを云とのみ心得たるも偏固《カタクナ》なり。
今此和歌も、京にして我(ガ)戀(ヒ)奉る夫《セ》と云名を、紀伊道《キヂ》にある山の負待《オヒモチ》てあるをの給ふにて(一首の意は、勢の山を指《ユビザ》しゝて、此山や、倭にして我戀奉る夫《セ》の君の其(ノ)勢《セ》と云言を名に負て、紀伊《キ》へ行(ク)道に在(リ)と、かねて聞來し山ならんと云にて、らんは、初句の此也《コレヤ》の、やもじに依て、含む也)はあれど(320)詞の、釋のみにては、耳うとく、底解のせねやうなれば、例の圖してしらす也。
此《コレ》――也《ヤ二重傍線》(一)
            京ノ意
是《コ》――能《ノ》――倭ニシヲハ我戀ル(ニ)――勢能山〔ナラン《二重傍線》カ〕
(三)〔夫《セ》卜云名ヲ〕紀賂ニ在ト云(フ)〔山ノ〕名ニ負フ〔其〕――
  此一行はイハユル隔句ナリ。〔一〕ハ歌ノ餘情也。=ハ助辭ノ結ビ−ハ語勢ノ續ク徑ナリ。
 
幸(シヽ)2于吉野(ノ)宮(ニ)1之時。柿本(ノ)朝臣人麻呂作歌二首。并短歌二首。
代匠云。今人麻呂作とありて、歌已下の字を落したり。目録に、作歌二首并短歌二者とあり。本はかくありしなり』考注云。持統天皇の、よし野の幸は、いと多かれば、何(レ)の度とはさしがたし。花ちらふてふ言に依に、春には有けむ』【已上】 今按に花ちらふ、秋津乃野邊爾と云つゞき、秋の野草めきたるに、次に鵜川乎立、とあると合すれば、秋と聞ゆ。紀に四年秋八月乙巳(ノ)朔戊申。天皇幸2吉野(ノ)宮(ニ)1と見えたる、此時にもやあらん。猶此事、下の左註の下に云。又吉野宮の事は、既に上の五卷に出(ヅ)。又人麻呂の事は、六卷首に云り。
 
八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。所聞食《キコシメス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。
澤二雖有《サハニアレドモ》。【一本。有2里者志母多雖有之七字1。】山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉野乃國之《ヨシノノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃野邊爾《アキツノノベニ》。宮柱《ミヤバシラ》。【古寫本桂作柱】太敷座波《フトシキマセバ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤビトハ》。船並※[氏/一]《フネナメテ》。且《アサ》【且者誤。旦也。】川渡《カハワタリ》。舟就《フナキホヒ》。夕河渡《ユフカハワタリ》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高《イヤタカヽ》【疑此間脱加歟。】良之《ラシ》。珠水《タマミヅノ》。激瀧之宮子波《タキノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
(321)(今此誤字、落字を改め、訓を正す事、左の如ごとし)
八隅知之《ヤスミシシ》。吾大王之《ワガオホキミノ》。所聞食《キコシメス》。天下爾《アメノシタニ》。國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレドモ》。里者志母《サトハシモ》。多雖有《オホクアレドモ》〔七字左〔〕。山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》。御心乎《ミコヽロヲ》。吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》。花散相《ハナチラフ》。秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》。宮柱〔左〔〕《ミヤバシラ》。太敷座波《フトシキマセバ》。百磯城乃《モヽシキノ》。大宮人者《オホミヤヒトハ》。船並※[氏/一]《フネナメテ》。旦〔左〔〕川渡《アサカハワタリ》。舟競《フナギホヒ》。夕河渡《ユフカハワタル》。此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高加〔左〔〕良之《イヤタカカラシ》。珠水激《イハヾシル》。瀧之宮子波《タギノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》。
○八隅知之《ヤスミシヽ》。吾大王之《ワガオホキミノ》」此續(ケ)の事既に二(ノ)卷に出(ヅ)。
○所聞食《キコシメス》」考註云。天下の事を聞しめす也。惣て身に著《ツク》るを、をすとも、めすとも云』記傳【十八(ノ)八葉】云|聞看《キコシメス》とは、天(ノ)下の臣連、八十伴(ノ)緒の執(リ)行ふ奉仕事《マツリゴト》を、君の聞《キコ》し賜ひ、看《ミ》し賜ふを云り。續紀卅一【十四丁】詔に、自2今日1 者。大臣|之奏之故者《マヲシシマツリゴトハ》。不《ズ》2聞看《キコシメサ》1夜成牟《ヤナラム》。とあるを以(テ)心得べし』【今云是は耳して聽(ク)方也。】また【七(ノ)八葉】云。食國《ヲスクニ》とは、御孫命《ミマノミコト》の所知看《シロシメス》、その天(ノ)下を惣《スベ》云稱にして、食《ヲス》はもと食《クフ》ことなり(書紀などに、食を美遠志須《ミヲシス》とよみ、食物を、遠志物《ヲシモノ》と云。萬葉十二に、ヲシと云辭にも、食(ノ)字を借(リ)て書(ケ)り)さて物を見《ミル》も聞《キク》も知《シル》も食《クフ》も、みな他(ノ)物を身に受入《ウケイ》るゝ意同じき故に、見《ミス》とも聞《キコス》とも、知《シラス》とも、食《ヲス》とも、相通はして云こと多くして、君の御國を始め有《タモ》ち坐(ス)をも、知《シラス》とも、食《ヲス》とも、聞看《キコシメス》とも申すなり。これ君の御國治め有《タモチ》坐(ス)は、物を見(ル)が如く、聞(ク)が如く、知(ル)が如く、食(ス)が如く、御身に受入れ、有《タモ》つ意あればなり』【已上】 今按に、此等の説の如くなれど、釋の内、君の御國治|有《タモチ》坐(ス)は、物を見るが如く、聞(ク)如く云云、と云るはわろし。その故以て、見(ス)聞(ス)食(ス)を通はし云には非ず。凡そ人の身體の内に、目(322)耳口は、萬(ノ)物を心に領《シメ》す道にして、身に受|納《イル》る門《カド》なりければ、何れに云も同じ事にこそあれ。目耳口を本にて云ことにはあらざるをや。【集中此聞食てふ詞の例は、五(ノ)七丁、十三(ノ)五丁、又廿六丁、又卅四丁、十八(ノ)十八丁、又同丁、又廿五丁、二十(ノ)十五丁等に出たり。只食(ス)召(ス)知(ス)見(ス)と云るは、限りもなかるべし。そは其(ノ)言の出たる、處々に引かん。】
○天下爾《アメノシタニ》」諸抄釋なし。記傳【十八(ノ)七葉】云。萬葉十八【三十二丁】又廿【廿四丁五十丁】に、安米能之多《アメノシタ》とあり。如此《カク》訓べし。さて此(ノ)稱は、天照大御神の所知看《シロシメス》なる高天原に對へて、此國土を謂《イハ》むこと、古意にも叶(ヒ)てはあれど、猶よく思(フ)に、本|漢籍《カラフミ》より出たる稱にて、神代よりの古言にはあらじか。然れど甚々《イト/\》古へより普(ク)云(ヒ)なれぬることにてはあるなり。今此神武天皇の御代などには、未(ダ)此稱有べからざれども、漢國より書籍《フミ》渡(リ)參來《マヰキ》て、言初《イヒソメ》たる稱を以て、古へゝ及ぼして語り傳へたるなるべし』【已上】 今按に、是はもしさる事にもあるか。又遇(マ)言も字も、漢籍に暗合して、常多く見ゆるを聞馴て、然か思へるか、定めがたし。
○國者思毛《クニハシモ》。澤二雖有《サハニアレドモ》」代匠云。さはは、おほきを云(フ)。日本紀に、多の字をよめり』考注云。しもは、事をひたすらに云辭。澤は、借字にて、物の多きを云』【已上】 今按に、さはは、眞多《サオホ》の於《オ》を省き保《ホ》を、波《ハ》に轉じて、一の語となれる也。思毛《シモ》は、物事を、殊更に撰出て云辭也。後々の歌にも「今日はしも』「是をしも」「春しも」「秋しも」など多くよみたる、こそとえり出て云(フ)勢ひある詞也。此集にも、十七【三十九丁】夜麻波之母《ヤマハシモ》。又|加波々母《カハハシモ》。【四十五丁】多加波之母《タカハシモ》(あまたあれども、矢形尾之《ヤカタヲノ》。安我大黒爾《アガオホクロニ》)十八【十八丁】山乎之毛《ヤマヲシモ》。【さはにおほみと、】又【三十七丁】都禰比登能《ツネビトノ》。伊布奈宜吉思毛《イフナゲキシモ》。【いやしきまさる】十九【十丁】啼爾之毛將哭《ネニシモナカム》【こもり妻かも、】これら見合て知べし(ついでに、佐波《サハ》の例は、四(ノ)十二丁、五(ノ)三十一丁、十三(ノ)九丁、十四(ノ)二十丁、十七(ノ)四十九丁、十八(ノ)十八丁、二十(ノ)十八丁、神武紀(ノ)歌、武烈紀(ノ)歌等にも見ゆ。更に思ふに、彼(ノ)「雲(323)のあは立」「雪のあはにふる」などよめる安波《アハ》も、彌多《イヤオホ》の義にて、本(ト)は此|佐波《サハ》も同じ根ざしの語なるべし。その事は、二(ノ)廿六丁、零雪者《フルユキハ》。安幡爾勿落《アハニナフリソ》とある下に云を見合すべし)
○里者志母《サトハシモ》。多雖有《オホクアレドモ》」今本、此二句なきは、後に脱せしなり。今は※[木+夜]齋が古寫本に依て補ひつ。六【四十三丁】に、天下《アメノシタ》。八島之中爾《ヤシマノウチニ》。國者霜《クニハシモ》。多雖有《オホクアレドモ》。里者霜《サトハシモ》。澤爾雖有《サハニアレドモ》云云。また十三【四十三丁】にも、天下。八島之中爾。國者霜。多雖有。里者霜。澤爾雖有云云。こらと同例也。集中かくざまに、四句二聯相並べる疊對の一方を落せるがこれかれ見えたるは、同字の並びたるを、見混《ミマガヘ》てなるべし。二卷【四十一丁】人麻呂の歌の、一聯を落せるを始めとして、其末々にも、五六首あるべし。
○山川之《ヤマカハノ》。清河内跡《キヨキカフチト》」代匠記、似閑書入(ニ)云。山川ハ、山ト川トナリ。川ヲ清(ミ)テ訓ベシ。濁ルトキハ、山ノ内ノ川ト成ヲ、一ニ混ズ。又河内ハ、カハウチノ、波宇《ハウ》ヲ約(メ)テ布《フ》ト云。國(ノ)河内モ、淀川ノ河(ノ)内ナレバ、加布知《カフチ》ト云、其(レ)ト同ジ』考注云。次なるも、山と川と二つによむべし。清河内跡《キヨキカフチト》は、川の行廻れる所を、加波宇知《カハウチ》と云を約て、加布知《カフチ》といへり。さて唱るに加宇知《カウチ》の如く云は、言(ノ)便のみ』【已上】 今按に、河内の意は、右の如し。跡《ト》は、跡而《トテ》の意也。清きかふもとてと、下へ續けて心得べし。集中|跡而《トテ》と云意を、跡《ト》とのみ云る、常多かり。
○御心乎《ミコヽロヲ》」代匠云。御心を、よしのゝ國、心よしとつゞけいへり。神功紀の神託の詞にも、御心乎|廣田《ヒロタ》の國といへり。今の津(ノ)國の、廣田(ノ)神社なり』冠辭考云。御心乎。【○よし野の國○ひろ田の國○ながやの國】萬葉卷一に、云云。こは天武天皇の、良《ヨシ》と能《ヨク》見《ミ》て、吉《ヨシ》といひしとよませ給ひし如く、此吉野を、よしと見そなはして、御心を慰め給ふてふ意に、いひかけたる也。神功紀に、御心《ミココロヲ》。廣田《ヒロタノ》國てふは、神の此所にしづもりまして、遠く廣く見はらし給はん事をいひ、(324)御心《ミコヽロ》。長田《ナガタノ》國とは、長く久しくこゝにまさん事を云り。顯宗紀に、【室壽の御詞】築立柱者《ツキタテルハシラハ》。此家長御心之鎭也《コノイヘキミノミコヽロノシヅモリナリ》云云。とあるも、昔古への賛稱《タヽヘ》ごとなり。人麻呂は、これらの古言によられし也。【廣田は、攝津國武庫(ノ)郡。長田は、同、八部(ノ)郡なること式に見ゆ』【已上】 今按に、右の釋に、神の云云といへるあたり。少しむづかしげに聞ゆ。廣田とかゝるは、たゞ心廣くの意、長田とつゞくはたゞ心長(ガ)にと云意なるべし。是に准《ナズ》らふるに、よし野とかゝるも、たゞ御心快《ミコヽロヨシ》と云意にやあらん。又|御心寄《ミコヽロヨセ》と云にもあるべし。寄《ヨス》を、古くよしといへり。神代紀下の歌に、めろよしに、豫嗣豫利據禰《ヨシヨリコネ》。此集三【三十五丁】縱毛依十方《ヨシモヨストモ》。十四【十九丁】こよひだに都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》。又【二十一丁】あせぞもこよひ、與斯呂伎麻奈奴《ヨシロキマサヌ》。などの如し。猶よく考へてよ。
○吉野乃國之《ヨシヌノクニノ》」既にも云(ヒ)し、難波(ノ)國泊瀬(ノ)國など云類也。國とは、大(ク)も小(ク)も、其(ノ)地|一域界《ヒトカギリ》を云(フ)言なりければ、古へはわづかなる一郷をも云しなり。
○花散相《ハナチラフ》」考注云。ちるを延て、ちらふと云(フ)。其所の物もてかざりとする事もあれど、こは猶時のさまをいひしものぞ』【已上】 今按に、あきつ野と云|阿伎《アキ》を、秋に取て、花散と置(キ)たるなれば、此花は秋野の花の心なるべし。此事既にも云つ。
○秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》」考注云。秋津は借字、蜻蛉野也。この野の名のはじめは、雄略紀に見ゆ』【已上】 今按に、雄略紀四年秋八月辛卯朔戊申。行2幸吉野(ノ)宮(ニ)1。庚戌幸(ス)2于|河上《カハカミノ》小野(ニ)1。命《オホセテ》2虞人《カリヒトニ》1駈《カラシメ》v獣《シヽヲ》。欲躬射而待《ミヽヅカライントオモホシテマチタマヘルニ》。虻疾飛來《アムトビキテ》〓《クラフ》2天皇(ノ)臂《ミタヽムキヲ》1。於是蜻蛉忽然飛來《コヽニアキツタチマチトビキテ》齧《クヒテ》v〓《アムヲ》將去《モチイヌ》。天皇|嘉《オムカシミテ》2厥《ソノ》有1v心。詔《ノリテ》2群臣《マヘツギミタチニ》1曰《ノリ玉ヘル》d爲《タメニ》v朕《アガ》讃《ホメテ》2蜻蛉《アキツヲ》1歌賦之《ウタヨミセヨト》u。群臣莫能敢賦《ミナヒトエヨマザリケレバ》者。天皇|乃口號曰《スナハチヨミタマハク》。野磨等能《ヤマトノ》。嗚武羅能〓該※[人偏+爾]《ヲムラノタケニ》。之々符須登《シヽフスト》。〓例柯擧能居登嗚《タレカコノコトヲ》。飫〓摩陛※[人偏+爾]摩嗚須《オホマヘニマヲス》。飫〓枳瀰簸《オホキミハ》。賊據嗚枳※[舟+可]斯題《ソコヲキカシテ》。〓磨々枳能《タママキノ》。阿娯羅※[人偏+爾]〓々伺《アグラニタヽシ》。施都魔枳能《シヅマキノ》。阿娯羅爾〓々伺《アグラニタヽシ》。斯々摩都登《シヽマツト》。倭我伊麻西磨《ワガイマセバ》。佐謂麻都登《サイマツト》。倭我〓々西(325)麼《ワガタヽセバ》。〓倶符羅爾《タクブラニ》。阿武柯枳都枳都《アムカキツキツ》。曾能阿武嗚《ソノアムヲ》。婀枳豆波野倶臂《アキツハヤクヒ》。婆賦武志謀《ハフムシモ》。※[舟+可]矩能御等《カクノゴト》。儺※[人偏+爾]於婆武等《ナニオハムト》。蘇羅瀰豆《ソラミツ》。野摩登能矩※[人偏+爾]嗚《ヤマトノクニヲ》。婀岐豆斯摩登以符《アキツシマトイフ》。因《カレ》讃《ホメテ》2蜻蛉《アキツヲ》1名《ナヲ》2此地《コノトコロノ》1爲《ツケ玉ヒキ》2蜻蛉野《アキツヌト》1。とある是也。後世の歌に、かげろふの小野とよみて、此地とするは、蜻蛉の訓より唱へ誤りたるなるべし。此野は、輿地通志曰。吉野(ノ)郡在2川上(ノ)莊|西河《ニシカハ》村(ニ)1と云へり。
○宮柱《ミヤバシラ》。太敷座波《フトシキマセバ》」考注云。下津磐根《シタツイハネニ》。宮柱太敷立《ミヤバシラフトシキタテ》。てふ古言もて、それを即天皇の、ふと敷おはします事にいひ下しつ。此宮は、吉野の夏箕川の下、今は宮(ノ)瀧と云川|曲《グマ》の上|方《ベ》に宮瀧てふ村有所也。同別記云。高知は、高敷と云にひとし。古事記に、於《ニ》2底津岩根《ソコツイハネ》1宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》。高天原垂橡多迦斯理《タカマノハラニヒギタカシリ》。てふと同じことを、祝詞には、宮柱|太敷立《フトシキタテ》とかき、卷六に、宮柱。太敷|奉《マツリ》。高|知爲《シラス》。布當乃宮者《フタギノミヤハ》。てふ類なり。又祝詞に、瓶上高知《ミカノヘタカシリ》てふは、たけ高き酒瓶《ミカ》どもを、繁く並べたるをいひて、即|高敷《タカシク》てふ言也。然れば知《シリ》は、敷《シキ》にて、敷は、繁《シゲ》きこと也。知ます國とも、敷ます國ともいひたり。物知《モノシル》人と云も、よろづの事を、繁く思ひ布《シキ》たるを云て知と、布《シク》は同じき也』記傳【十(ノ)六十葉】曰。布刀斯理《フトシリ》は、祝詞等に、太知立《フトシリタテ》とも、太敷立《フトシキタテ》とも、又|廣知立《ヒロシリタテ》とも廣敷立《ヒロシキタテ》ともあり。そは師(ノ)説に、萬葉二に、天皇之《スメラギノ》。敷座國《シキマスクニ》。と云(ヒ)、祈年祭(ノ)詞に、皇神能敷座嶋能八十嶋者《スメカミノシキマスシマノヤソシマハ》云云。など、知坐《シリマス》を、敷坐《シキマス》と云(ヒ)たれば、知《シリ》と、敷《シク》と同じとあり。さて此(ノ)稱辭《タヽヘ》を、古來たゞ柱の上とのみ意得れど、さに非ず。今考るに、萬葉二【三十五丁】に、水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》。神隨《カムナガラ》。太敷座而《フトシキマシテ》云云。又一【二十一丁】に、太敷爲《フトシカス》。京乎置而《ミヤコヲオキテ》云云。又二【二十七丁】に、飛鳥之《アスカノ》。淨之営爾《キヨミノミヤニ》。神隨《カムナガラ》。太敷座《フトシキマシテ》而云云。などある例を思ふに、宮柱布刀斯理《ミヤバシラフトシリ》も、其(ノ)主《ヌシ》の、其(ノ)宮を知(リ)坐(ス)を云なり。布刀《フト》も、右の萬葉に柱ならで、國を知坐(ス)にも云(ヘ)れば、たゞ廣く大きにと云稱辭なり。(326)布刀御幣《フトミテグラ》、布刀詔戸《フトノリト》、太占《フトマニ》などもいへり。故(レ)廣知《ヒロシリ》とも云るぞかし。かゝれば此語は、專(ラ)柱に係《カヽ》るには非ず。其宮の主に係れる語なるを、布刀《フト》と云が、柱に縁《ヨシ》あるから、宮柱太《ミヤバシラフト》とは云かけて、兼《ガネ》て其宮をも、祝《ホギ》たる物なり(萬葉二十に、麻氣波之良《マケバシラ》。寶米弖豆久禮留《ホメテツクレル》。等乃能其等《トノノゴト》云云)書紀(ノ)神代(ノ)下(ツ)卷に、其(ノ)造(ル)v宮之|制者《ノリハ》。柱(ハ)則|高太《タカクフトク》云云。萬葉二【卅丁】に、眞木柱《マキバシラ》。太心者《フトキコヽロハ》云云。など、柱は太《フトキ》を貴ぶなり。
 〔細註〕 又師説には、知(リ)は、敷《シキ》にて云云。但(シ)瓶上《ミカノヘ》高知(リ)は、右の説にてよく聞ゆれども、他の例に合(ハ)ず。故(レ)思ふに、彼(レ)は高(ク)とのみ云ては、調(ベ)たらぬ故に、千木高知と云(ヒ)なれたる、古言にならひて、知(リ)てふ言は、輕く添(ヘ)たるにてもありなん。萬葉一に、高知(ル)也。天之御蔭。天知也。日(ノ)御影とよめる高知(ル)も、たゞ高き意なるを、次の天知(ル)と對(ヘ)て、調(ベ)をなさんために、知(ル)を添(ヘ)たりとこそ聞ゆれ。されど、此等の知の意は、猶よく考(フ)べきなり。
さて此(ノ)稱辭《タヽヘゴト》は、萬葉一【十八丁】に、御心乎《ミコヽロヲ》云云。二【二十八丁】に、眞弓乃崗爾《マユミノヲカニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太布座《フトシキマシ》。御在香乎《ミアラカ ヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。六【十四丁】に、績麻成《ウミヲナス》。長柄之宮爾《ナガラノミヤニ》。眞木柱《マキバシラ》。太高敷而《フトタカシキテ》。又【四十三丁】に、山代乃《ヤマシロノ》。鹿背山際爾《カセヤマノマニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷奉《フトシキマツリ》。高知爲《タカシラス》。布當乃宮者《フタギノミヤハ》。廿【五十丁】に、可之波良能《カシバラノ》。宇禰備乃宮爾《ウネビノミヤニ》。美也婆之良《ミヤバシラ》。布刀之利多弖※[氏/一]《フトシリタテヽ》云々。などあり』【已上】 今按に、敷《シク》と、知《シル》とは、本(ト)より別語也。是を一つに心得たるは非なり。故(レ)左右《カニカク》云るも、皆|不用《イタヅラ》ごとにして、なかなかに人まどはせにこそ。此二つの語の差別《ケヂメ》をいはゞ敷《シク》は莚《ムシロ》を敷《シク》、夜床《ヨドコ》を敷《シク》、など云よりして、廣くは、普天の下に位をしく、徳をしくなど云類に亘《ワタ》る【字書に、普(ハ)敷也。布也。と有も通へり。】此集の開卷、雄略天皇大御歌に、虚見津《ソラミツ》。山跡乃國者《ヤマトノクニハ》。押奈戸手《オシナベテ》。吾許曾居《ワレコソヲレ》。師吉名倍手《シキナベテ》。吾己曾座《ワレコソマセ》。とて、押《オシ》と、敷《シキ》とを、對(ヘ)合せて詔ひ、又其處の釋に引置つる、雪雨などに、敷《シキ》て降《フル》とも云るた(327)ぐひ也。然れば大宮などに、敷《シカ》すと云は、即(チ)今(ノ)世に、家を敷《シク》地を、屋敷《ヤシキ》と云と同意也。又|知《シリ》と云も廣き語にて、心に承るをもいひ、身に受るをもいひ、又知行と熟《ツヾケ》云やうに、領知行《シリオコナ》ふをも、爲《ナシ》行ふをもいふ。【其(ノ)心に知(ル)方は、常に云て、例を引にも及(バ)ねば、】爲《ナシ》行ふ方を一ついはん。十二【二十九丁】に、不想乎《オモハヌヲ》。想常云者《オモフトイハヾ》。眞鳥住《マトリスム》。卯名手乃杜之《ウナテノモリノ》。神思將御知《カミシシラサム》。四【二十六丁】大野有《オホヌナル》。三笠杜之《ミカサノモリノ》。神思知三《カミシシラサム》。齊明紀に、蝦夷誓(テ)曰。若(シ)爲2官軍1以儲(ケバ)2弓矢(ヲ)1齶田《アキタノ》浦(ノ)神知矣《カミシシラサム》。などある、此等皆神の爲行《オコナハ》すを云り。かゝれば彼(ノ)太知《フトシリ》、廣知《シロシリ》、高知《タカシリ》等の【太廣高は稱辭にて】知《シリ》は、其(ノ)主の、爲《ナシ》行はす方より云(ヒ)、又|太敷《フトシキ》、廣敷《シロシキ》、高敷《タカシキ》等の敷《シキ》は、國にまれ、宮にまれ其主の敷及《シキオヨ》ぼし賜ふ方より云るにて、譬へば天(ノ)下を、食《メス》とも、治《ヲサム》とも、政事を聞《キコス》とも、申《マヲス》ともいふが如し。さるを若(シ)右の考注、記傳等の説のやうに【知(リ)と敷と】通はし云るからに、同語とせば、此等の食(ス)、治(ム)、聞(ス)、申(ス)の類をも、皆同語かと云(ハ)むが如きなり。これにて右の説どもの惑へるほどをさとるべし。さて又彼(ノ)瓶上高知《ミカノヘタカシリ》とあるも、猶只|嚴《オゴソ》かに爲行《ナシオコナ》ふよし也。又|天知也《アメシルヤ》云云。高知也《タカシルヤ》云云。の類は、天《ソラ》より蔭《カゲ》を爲行《ナシオコナフ》を云る也。此他も此類凡て准(ヘ)てしるべし(猶集中、敷《シク》と云るは、一(ノ)十八丁、二(ノ)廿七丁、又廿八丁、六(ノ)十四丁、又四十三丁、二(ノ)卅五丁、一(ノ)廿一丁、二十(ノ)五十丁等に出(ヅ)。記紀祝詞等にも多かれど、此《コヽ》に得引ず。又|知《シリ》と云るは、一(ノ)十九丁、又廿二丁、又廿四丁、六(ノ)十三丁、又十七丁、又卅二丁、又四十三丁、又四十四丁等に出たるを、互に相合せ見ば右の差別《ケヂメ》は、いちじろけんかし)
○百磯城乃《モヽシキノ》」既に六卷にいひつ。
○大宮人者《オホミヤビトハ》」考注云。大御供の王臣を云【略解是に同じ。】 今按に、【其(ハ)たゞ此處のみの釋也。】凡ては、宮中の人を稱へ云にて、官女を宮姫と云(ヒ)、又神(ノ)宮に奉仕る人を、神の宮人と云たぐひの稱《トナヘ》なり。【集中大宮人とよみたるは、六(ノ)廿一丁、又卅七丁、十(ノ)十二丁、十三(ノ)五丁、十五(ノ)卅五丁、十八(ノ)七丁 二十(ノ)四十九丁等に出(ヅ)。】
(328)○船並※[氏/一]《フネナメテ》」考注云。並はならべなり』久老云。押奈倍《オシナベ》などの時は、奈倍《ナベ》とあれども、船並而、馬並而の時は、奈米《ナメ》と云しか』【已上】 今按に、此卷【七丁】に押奈戸《オシナベ》、また師吉名倍《シキナベ》、六【十九丁】馬名目而《ウマナメテ》とあれば相通ふべき言ながら、姑く名目《ナメ》と書る例に隨ひつ。さて馬並而の方は、いと多かれど、船並※[氏/一]と云は此と、六【十六丁右】卷の外には見えず。
○旦川《アサカハ》」諸抄釋なし。今按に、朝に渡るを、朝川といひ、夕に渡るを夕川と云が本(ト)にて、又必ずしも然らねど、長歌などには、朝夕を相對(ヘ)て、詞の文《アヤ》に云るもあるべし。此《コヽ》も、次の夕河にむかへたり。
○舟競《フナギホヒ》」代匠記云。今の俗に、ふなぜりと云が如し。我さきにとあらそふ心也。拾遺集には、舟《フナ》くらべと有。荊楚歳時記云。南(ノ)方|競渡者《キソヒワタルモノ》。作(ルノ)2其(ノ)舟(ヲ)1使《マヽ》輕(シテ)利(シ)。謂(フ)2之(ヲ)飛鳧(ト)1。これは五月五日のたはぶれ也。又五日ならでも、つねにもする事也。第十二卷にも「布奈藝保布《ワナギホフ》。ほり江の川」とよめり』【考略解は、是を纔に摘て云へり】』【已上】 今按に、此釋にて事は足なん。船《フネ》を、ふなと云は、船|某《ナニ》と、下に引つゞけ云時の事にて、【ふな棚、ふな板、ふな※[楫+戈]、又ふな乘、ふなで、ふなよそひ、ふなかざり、ふなども等の類也】稻《イネ》をいな某《ナニ》、竹を、たか某《ナニ》、酒を、さか某、と云と同例也。
○夕河渡《ユフカハワタル》」考注云。夕河渡《ユフカハワタリ》、一段也。こゝの言妙也』 小琴云。夕河|渡《ワタリ》ハ、ユフカハワタルト訓切ベシ。ワタリト訓テ、下ヘ續ケヲハ、ワロシ』【已上】 今按に、此處にて一段なる故に、渡ると云收めたるなり。
○此川乃《コノカハノ》。絶事奈久《タユルコトナク》。此山乃《コノヤマノ》。彌高加良之《イヤタカヽラシ》」代匠云。此川のは、臣下のつかへまつることは、よしの川のたえぬが如く、此山のは、君の高みくらにいます事は、よしの山の高きが如くならんと也』考注云。良之の良は有の字を誤か。又良の上に加の字を落せしか。此四句は、山川にそへで、幸《イデマシ》と(329)宮とをことぶけり。卷六に「此山の盡《ツキ》ばのみこそ此川の、絶ばのみこそ、百しきの、大宮所、止《ヤム》時もあらめ」其反歌に「芳野の宮に在《アリ》通ひ、高しらするは山川をよみ」ともよみたり』略解云。此川の絶ざる如く、常に幸《ミユキ》し給ひ、此山の高く動きなきが如く、いつまでも宮居し給はん事をことぶける也』【已上】 今按に、右等の釋、何れも同じさまなる中に、其説(キ)きやう、略解の方少しまさりざま也。さて此川乃云云。此山乃云云。とある、諸抄ともに、乃(ノ)下に、如(ク)を省ける也といへる、まことに如くの意なれども、省けるには非ず。直(グ)に乃《ノ》もじに如くの意のある也。そは一【二十九丁】に、栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。二【十一丁】に「東人之《アヅマドノ》。荷向篋乃《ノザキノハコノ》。荷之緒爾毛《ニノヲニモ》。妹之心爾《イモガコヽロニ》。のりにけるかも」など多くよみたる、此等の爾《ニ》も、如くの意にて、栲乃穗《タヘノホ》の如く、荷之緒《ニノヲ》の如くにと云にて、爾《ニ》の下に如くを省きたるにあらざれば、右の乃《ノ》も同例なる事を知べし。此外|似《ニル》とも、似《ノル》とも、如《ナス》とも、如《ノス》とも云るを合せ見れば、奈行の通音にて、乃《ノ》は如《ノス》の省き、爾《ニ》は似《ニス》の省き也。
○珠水激《イハヾシル》」冠辭考云。卷六に、石走《イハヾシル》。多藝千流留《タギリナガルヽ》。泊瀬河《ハツセガハ》。十五に、伊波婆之流《イハバシル》。多伎毛登杼呂爾《タギモトヾロニ》。鳴蝉乃《ナクセミノ》云云。こは瀧のさまをいひ冠らするのみ。さて此|伊波婆之流《イハバシル》と假名《カナ》にて書るを以て、石走、石激など書たるをも、いはゞしるとよむべく、婆《バ》の字を書たれば、下のはを濁るべし。岩を走《ハシル》と云べきに、そのをゝ略きたれば、下のはを濁るは例也。又瀧は、沸《タギ》るを體にいひなせる語なれば、きを濁りて、多藝《タギ》と書り。且|多藝千《タギチ》は、沸利《タギリ》也。卷一に珠水激《イハヾシル》。瀧之宮子波《タギノミヤコハ》云云。これも瀧は、石(ノ)上を玉水の激《タバシ》るものなれば、意を待て、珠水激と書つと見ゆれば、此三字もいはゞしると訓べき也。古今集に「石ばしる瀧なくもがな」てふを、今はいしばしると唱ふれど、その比は、專ら萬葉にもとづ(330)きたるに、この一二の句、またく萬葉の語なるからは、是も本は、いはゞしるとよみつらん。十二に、石走《イハヾシル》。垂水之水能《タルミノミヅノ》。早敷八師《ハシキヤシ》。七に、【攝津の歌】石流《イハヾシル》。垂水之水乎《タルミノミヅヲ》。結飲都《ムスビテノミツ》。八に、石激《イハヾシル》。垂見上乃《タルミノウヘノ》。左和良妣乃《サワラビノ》。この石流、石激をも、いはゞしると訓こと、右に擧たる歌どもを見わたしてしれ。且垂水てふも、やがて瀧の事なれば、右の瀧に冠らせたるに、ことなるべからざる也。さるを後の人右の卷八の志貴(ノ)皇子の御歌の、石激を、いはそゝぐ、垂見を、たるひ、來鴨を、けるかなと訓しは皆誤れり。たるひならぬ事は、右にも下にも見ゆ云云』【已上】 今按に、此説は何れもあしからず。
○瀧之宮子波《タギノミヤコハ》。見禮跡不飽可聞《ミレドアカヌカモ》」考註云。宮の前、即瀧川なればかく云』略解云。瀧の都は、今吉野の夏箕河の下に、宮の瀧村と云有。古へ此宮の在し跡なるべし』【已上】 今按に、今(ノ)世に云(フ)宮(ノ)瀧にては其地理相(ヒ)合《カナ》はず。前に引(ク)雄略紀に、天皇幸2于河上(ノ)小野(ニ)1云云。名(テ)2此地(ヲ)1爲2蜻蛉野《アキツヌト》1。とあると、今此歌に、秋津乃野邊爾《アキツノヌベニ》。宮柱《ミヤバシラ》。太敷座《フトシキマセバ》。とあると次の歌に、遊副《ユフ》川をよめるなどに合するに、此《コヽ》によめる瀧之宮子は、西河(ノ)瀧なるべし。其《ソ》は先(ヅ)輿地通志、吉野(ノ)條(ニ)云。蜻蛉野《アキツノハ》。在2川上(ノ)莊西河村(ニ)1。名區也。雄略天皇四年秋八月。幸(ス)2于河上(ノ)小野(ニ)1云云。又同西河(ノ)條(ニ)云。西河。源自2迫《サコノ》西河村1云云。入(ル)2十津川(ニ)1。出谷《デユ》川自2上湯川村1云云。與《ト》2西河(ハ)1會。とある、此(レ)遊副《ユフ》川也。又同西河(ノ)瀧(ノ)條(ニ)云。蜻蛉瀑布《アキツノタキハ》。在2西河村(ニ)1。俗(ニ)呼(ニ)以(ス)2漢音(ヲ)1。倶(ニ)川上(ノ)荘也。【以上輿地通志。】又行嚢抄、吉野(ノ)河上(ノ)條(ニ)云。御園村、自2櫻木宮1西方、吉野川(ノ)南(ノ)岸邊ニ在。是ヲ御垣ガ原トモ、蜻蛉《カゲロフノ》小野トモ云。古ヘノ蜻蛉野《アキツノ》也。西河村、自2樫尾村1一里、西河(ノ)瀧ハ、村ヨリ北西ヲ流ル。前ハ御垣ガ原也。(今云。是則|蜻蛉野《アキツノ》の一名にて、歌に秋津乃野邊爾。宮柱。太敷座波。とよめる處なり。前に瀧ある故に、瀧(ノ)宮子とは稱《タヽ》へし也。後に御垣が原とも(331)云傳へしも、其宮所の御垣の、後々まで遺(リ)て有し故也)村ハ、川ノ向ノ南(ノ)岸邊ニ在。清明ガ瀧ヨリハ、七八丁西也。此瀧ハ、自余ニ異ナリ。吉野川ノ南、北ノ岸ヨリ出タル青※[山/屈]ノ、此岸彼岸ノ巖ニ走リカヽル、白浪ノ飜リテ落ル所ヲ云。瀬抛ニテ、三丈許落ル所アリ。瀬々ニモ又樣々ノ岩有テ、碎ケ落ル白浪ノサマ、絶景不(ル)v及(バ)2筆舌(ニ)1佳境也。【已上行嚢抄】とあるなどを合せて知べし。彼(ノ)宮瀧は、夏見川の上にして、地理も合《カナ》はず。野もなく、遊副川にもいと遙かに離れたり。思ふに宮(ノ)瀧は、寧樂(ノ)朝以後の行宮の跡なりし故に、却て其名を傳へたりけらし。既に五卷【三十一丁】に引つる、吉野(ノ)離宮五ケ所ありし中にも、雄略天皇より、次々古への天皇の宮趾は大瀧より西河の邊なるを、奈良七代の天皇の宮の跡は、在2宮瀧村1といへり。遠き代のは、はやく絶て疎く、後なるが耳近きことわりなり。然るに此歌に、瀧之宮子《タギノミヤコ》とよめる詞と、俗《ヨ》に宮(ノ)瀧と云名と、相似たるから、諸注共に、暗《ソラ》に其瀧と定め云るなるべし。さて此(ノ)宮子《ミヤコ》は、宮所《ミヤドコロ》にて、直(グ)に其宮を指て云なり。
○一編の惣意は、吾が大王の知しめす、大八島には、國も里もあまたあれども、山といひ川といひ殊にすぐれてよろしきみよし野の、清き河内の、秋津野に大宮を敷立置て、大行幸しませれば、御供の宮人等、我おくれじと、船並べ競ひて、朝川夕川をわたる』【一段】 如此《カク》貴く御さかりなる御有樣を見奉るにつけても、いかで此川の絶ざるが如く行末長く御幸もし給ひ、又此山の高く勒きなきが如く、大宮も無窮《トコシヘ》に高知せかし』【二段】 返すがへす玉ちり落る此西河の瀧の宮所の、見れど/\あきたらず、おもしろくもあるかな』【首尾詞也】と云也。
 〔細註〕 代匠云。此歌拾遺集には「やすみしゝ」を「ちはやぶる」と改め、國者思毛を、草の葉とよめり云云。然れば拾遺集のあらためやう、心(332)得がたし。彼集三代集の内にて、花山院御製とかやいへど、治定し給はぬほどに、流布せるにや。雜亂のことおほく、此集よりぬきとりて加へられたる歌も、あやまり多く見えたり』 考注頭云。拾遺歌集に、此歌を甚しきひがよみしつ』【已上】 今按に、彼(ノ)拾遺集に、此歌の澤二雖有を、うるひにたりと訓みたるなどを見れば、そのかみの梨壺の五人の訓點も、いかゞ有けんとおぼつかなきこゝちぞせらるゝ。
 
   反歌
雖見飽奴《ミレドアカヌ》。吉野乃河之《ヨシヌノカハノ》。常滑乃《トコナメノ》。絶事無久《タユルコトナク》。復還見牟《マタカヘリミム》。
○常滑乃《トコナメノ》云云」代匠云。とこなめは、川の底にいつとなく、にごりのこりつきて、苔むせるさまなる、滑《ヌメ》りの附る岩などの、ふみとめがたきを云』考注云。常《トコ》しなへに絶ぬ流れの石には、なめらかなる物のつけるものなり。そを即體に、とこなめといひなして、事の絶せぬ譬にせり』【已上】 今按に、【略解に、此考説のまゝを出せる中に「とこなめは、常しなへにいつもかはる事なく、なめらなるよし也」と云る、此詞どもの、定かならぬを見れば、こは其物だに慥に知らずして云るなるべし。】常滑《トコナメ》とは、巖に生る水苔の名なれども、大に心得有べし。そは先(ヅ)十一【十四丁】に、隱口乃《コモリクノ》。豐泊瀬道者《トヨハツセヂハ》。常滑乃《トコナメノ》。恐道曾《カシコキミチゾ》。戀〔左○〕由眼《アシフムナユメ》。とよみたるも、足蹈は、其(ノ)水苔にすべる故也。さて此句、一わたりいはゞ、右等の説の如く、無(キ)v窮意を、常《トコ》とも常《トコ》しくとも、常《トコ》しなへとも云故に、水苔の常滑《トコナメ》と、常並《トコシナヘ》とを相兼て、無窮に絶事《タユルコト》なくと、續けしならむと思ふやうなれど、それならば、常滑爾《トコナメニ》と云べきものなるに、常滑乃《トコナメノ》とては常滑《トコナメ》の如(ク)の意と聞えたり。右の十一(ノ)卷の歌にも、只|常滑《トコナメ》とのみにて、常滑の生(ヒ)たる岩の事を云るなれば、今此歌も、常滑乃《トコナメノ》にて、常滑の生(ヒ)たる此(ノ)瀧津瀬の岩の如くの意なるべし。常滑《トコナメ》と云名の意も本(ト) 常磐滑《トコイハナメ》の磐を略(キ)て云語なるべければ也。【古今集賀(333)に、いはほとなりて苔のむすまでとよみたるも、年經ずしては、苔も生(ヒ)ざるゆゑなり。】六【十三丁】人皆乃《ヒトミナノ》。壽毛吾母《イノチモワレモ》。三吉野乃《ミヨシヌノ》。多吉能床磐乃《タギノトコハノ》。常有沼鴨《ツネニアラヌカモ》。これもなずらふべし。こは猶よく考ふべき事なれども、姑く右の意もていはゞ、
○一首の意は、いく度見てもあきたらぬ、此よし野の西河の瀧つ瀬よ、願はくは此(ノ)巖におふる常滑乃《トコナメノ》如くに、絶る事なく、又いくたびもたちかへり來て見むと也。
 〔細註〕 思ふに、西河の瀧に、今も大き巖の有て、青き水苔のむせるうへを、白き浪のほとばしる、えもいはぬ景色也といへり。是行嚢抄に、北ノ岸ヨリ出タル青キ巖ニ、走リカヽル白浪ノ飜リテ、オツル所ヲ云々といへる、其(レ)なるべし。其外奇しき巖の多かる、瀧あるゆゑに、かくはよめるならん。
 
安見知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミノ》。神長柄《カミナガラ》。神佐備世須登《カミサビセスト》。芳野川《ヨシノカハ》。多藝津河内爾《タギツカウチニ》。高殿乎《タカドノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見乎《クニミヲ》【乎(ハ)誤v之歟】爲波《スレバ》。疊有《タヽナハル》。【有(ハ)誤v付乎】青垣山《アヲガキヤマノ》。山神乃《ヤマヅミノ》。奉御調等《タツルミツギト》。春部者《ハルベニハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》(一云。黄葉加射之《モミヂバカザシ》)遊副川之《ユフカハノ》。神《カミ》【疑神之上(ニ)脱2三四字1歟】母大御食爾《モオホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
此歌も上なると同じ度の歌なる故に、端詞を一にせしなり。即目録に歌二首并短歌二首と記したり。
安見知之《ヤスミシヽ》。吾大王《ワガオホキミ》。神長柄《カムナガラ》。神佐備世須登《カミサビセスト》。芳野川《ヨシヌガハ》。多藝津河内爾《タギツカウチニ》。高殿乎《タカドノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》。上立《ノボリタチ》。國見之〔左〔〕爲波《クニミシセレバ》。疊〔左〕〕付《タヽナヅク》。青垣山《アヲガキヤマノ》。山神乃《ヤマツミノ》。奉御調等《マツルミツギト》。春部者《ハルベハ》。花挿頭持《ハナカザシモチ》。秋立者《アキタテバ》。黄葉加射之《モミヂバカザシ》。遊副川之《ユフカハノ》。○○○神母《カハセノカミモ》。大御食爾《モオホミケニ》。仕奉等《ツカヘマツルト》。上瀬爾《カミツセニ》。鵜川乎立《ウカハヲタテ》。下瀬爾《シモツセニ》。小網刺渡《サデサシワタシ》。山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》。
(334)○神長柄《カムナガラ》」考注云。長柄は借字。天皇は即神におはするまゝにと云意也。紀に【孝徳】惟神我子應治故寄《カムナガラモワガミコノシラサムモノトヨサシ》云云。こを古注に、謂d髓《マヽニ》2神(ノ)道(ノ)1。亦自(ラ)有(ルヲ)c神(ノ)道u也。といへるをもて思へ。下の藤原(ノ)宮づくりに役《エタツ》民が歌の末に、神隨|爾有之《ナラシ》とよめる是也。後世に、ながらと云とは異なり。後世いふは轉々せり』又二(ノ)卷別記、須良《スラノ》下云。須良《スラ》は、佐奈我良《サナガラ》てふ言の約れる辭也云云。其(ノ)佐奈我良は、そのまゝとも轉じいへり。【言意共にかよへり。】木すら、鳥すらの、すらも即同じくて、木さながらとも、木その隨《マヽ》とも云べし。【鳥すら、虫すらも同(ジ)。】夜もすがらも、夜もさながら、夜もそのまゝと云てもかなへり。又其(ノ)佐を略きて、神隨《カムナガラ》と云も、神さながら、神そのまゝと心得る事也。又かの佐奈の二つを略きて、神がら、國がらなど云も、みなひとしく、神|隨《ナガラ》、國|隨《ナガラ》てふ言にて、それがまゝてふこと也』 記傳【四十一(ノ)十六丁】曰。隨奴は、夜都古那賀良《ヤツコナガラ》と訓べし。奴なるまゝにと云意なり。隨《ナガラ》は、天皇を神隨《カムナガラ》と申すに同じ。萬葉二【三十四丁】に、皇子隨《ミコナガラ》ともあり』【已上】 今按に、右考注に云るを、皆|諾《ウベ》なひてにもあらざれど、【斯る語を解(ク)ことの難かれば、】後の階梯《タヅキ》にとて、引置なり。其中に、神|髓《ナガラ》は、神そのまゝにの意と云るは、さる事なれど、猶今少し補ひいはゞ、大方の神【天神地祇】は、常に人の眼に見え給はねば、如此《カヽ》る境に出坐《イデマス》こともしられざるを、天皇は、其(ノ)御身直(グ)に神におはしながら、如此《カク》現《ウツ》しく顯明《アキラカ》に目に見えて、物せさせ給ふ事よと、【平日目に見え給はぬ神たちに對へて、】尊みいへる語なり。【猶此語の例は、一(ノ)十九丁、又廿一丁、又廿二丁、二(ノ)三十四丁、又三十五丁、又同丁、六(ノ)十七丁、十八(ノ)廿一丁、十九(ノ)卅九丁、四十二丁、二十(ノ)廿五丁、十七(ノ)四十丁、又四十一丁等に出(ヅ)。五(ノ)十三丁なるを脱せり。】
○神佐備世須登《カムサビセスト》」代匠云。神さびせすとは、神すさびしますとて、と云也。せすのすの字すみてよむべし。おきなさび、をとめさびなど云心と同じ』考注云。此佐備は、進《スヽ》みの意にて、心ずさみ、手ずさみなどいひて、なぐさみといはんが如し』別(335)記云。又國つ御神のうら佐備《サビ》てと云、此佐備は、冷《スサマジ》き意也云云』【已上】 今按に、此語を、かくさまに進《スヽ》むと、荒《アラ》ぶと、冷《サブ》るとに分(チ)て説(ク)はわろし。言の本(ト)は、皆進むことなるが、續けに牽れて、よき方にもあしき方にもなりゆく。此語のみにもあらず。忍ぶと云ことに四義、かこつと云ことに三義ありと云類も、本は皆一(ツ)言なると同例なりかし。此語の事既に前の六卷にも、かつ/”\云(ヒ)つれど、あしく心得たる解どもの弘りて、近き比は、いたく思(ヒ)惑へる説も聞ゆれば、此にも又いさゝかことわるべし。二【十一丁】宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》。四【二十五丁】大船乎《オホブネヲ》。※[手偏+旁]乃進爾《コギノスサミニ》。九【三十三丁】益荒夫乃《マスラヲノ》。去能進爾《ユキノスサミニ》。(此等の進(ノ)字を、スヽミと訓て、すさみとは別と心得たるはわろし。こはさかしらと云に、情進《サカシラ》と書る類にで、言の意を得て書る字なり)十【五十五丁】朝露爾《アサツユニ》。咲酢左乾垂《サキスサビタル》。鴨頭草之《ツキグサノ》云々。の類は、言の意の隨《マヽ》に、進むことに用ひたり。中古後の歌にも、六帖に「ある時はありの須左備《スサビ》にかたらはでなくてぞ人は戀しかりける」とやうに云るは、彼(ノ)須佐之男命の、我勝云《アレカナヌトイヒテ》而。於《ニ》2勝佐備《カチサビ》1云云。とあると同じくて、俚語以ていはゞ、在(ル)に乘じ、勝(ツ)に乘じてと云意なれば、是も進む方也。又手ずさび、心ずさび、口ずさびなど云類ひも、其事を爲《シ》て、慰み樂しむれば、是又進む方也。十一【九丁】雲谷《クモダニモ》。灼發《シルクシタヽバ》。意進《コヽロスザビ》【今本、進を追に誤れり。今は古本に、如此有(ル)に依て引(キ)つ。】見乍居《ミツヽモヲラム》。及直相《タヾニアフマデニ》。この歌に、意進《コヽロスザミ》と書るに合せて、右の※[手偏+旁]乃進《コギノスサミ》。去能進《ユキノスサミ》と書るをもしるべく、又|須佐備《スサビ》と云言に、如此《カク》あまた處、進(ノ)字(神代紀下云、焔《ホノホ》初(テ)起(ル)時(ニ)生兒。號2火酸芹《ホスソリノ》命1。一書(ニ)云。火進(ノ)命とあるをも思ふべし)をかけるを以ても、言の意を知べきなり。即すさめぬと云は、此言の反對《ウラ》なり(古今集春上「山高み人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさん」同雜上「大荒木の杜の下草老ぬれば駒もすさめずかる人もなし」後撰春上「谷(336)さむみいまだすだゝぬ鶯のなくこゑわかみ人のすさめぬ」此等平言もていはゞ、人の取(リ)はやさぬにて、愛せざるを云なれば、やがて不(ル)v進の意なり)然らば常に、宇良佐備《ウラサビ》、神佐備《カムサビ》、山佐備《ヤマサビ》など、荒冷《アレサブ》れ、舊冷《フリサブ》るゝ事に云るは、いかにと云に、其《ソ》は又其(ノ)荒《アレ》ゆく方、舊《フリ》ゆく方に進みて、然か冷《サブ》るゝ事になりゆくなり(佐備乍將居《サビツヽヲラム》。佐夫之毛《サブシモ》など心の愁冷るに云も、是におなじ)譬へば、多氣《タケ》と云語を、上《ノボ》る方に就て、山の嶽《タケ》(竹を云も、よく長《タケ》上る物なるより、名となれる也)力に健《タケ》、藝術《ワザ》に長《タケ》など云は、秀《ヒデ》進む方也。又|下《クダ》る方に就て、秋闌《アキタケ》、年闌《トシタケ》、齡闌《ヨハヒタケ》など云は、吏衰《フケオトロフ》る方なるが如し。凡て言語《コトバ》と云ものは、大かた此さまなりけるを、千年あまりこなた、文字に馴來し心ぐせの染つきて、少し反對する事あれば、轉用の、別語のとのみ説なせども、多くは然らざるなり(子をかなしむといふは、愛る也。身をかなしむと云は、歎く也。位ある人を、かしこしと云は貴むなり。猛き獣をかしこしと云は、惡むなり。かのちはやふると云語を神に申すは、其(ノ)稜威《ミイツ》をほむるなり。其同じ語を人に云は其(ノ)惡行を厭《キラ》ふなり)此類ひの事は、既《サキ》に著はせし鐘(ノ)響三(ノ)卷【百二丁】に委く論ひて、此(ノ)佐備《サビ》と云語の意をもことわり置つれば、かくて止つ。其處をも見合すべし。さて神《カミ》を、加牟《カム》と云は、神|某《ナニ》と下へ一つにいひ連《ツヾク》る時の例にして、木《キ》を、木《コ》某《ナニ》、竹《タケ》を竹《タカ》某《ナニ》、船《フネ》を船《フナ》某《ナニ》など云と同じ格なり。
○芳野川《ヨシヌガハ》」諸抄釋なし。【此は前の反歌にいひ漏(ラ)せれば、此處に云也】 今按に、芳野には瀧多かれば、川も又多し。然れども其川處々にて小名どもの異るのみにて、終には一に流|會《アヒ》て、紀伊の海に入なり。されば何れの川も他より打まかせて云(フ)ときは、皆吉野川なり。故(レ)こゝは西川なれども、かくは云る也。【但(シ)あまたの中には、一流に成ざるも有べけれごも、さる細かなる事までは、もとめ難かれば、たゞ大らかに云也。】 大和國風土記殘編(ニ)曰。吉野川有2數流1。源皆出3吉野山|於《ヨリ》2諸岳1。而(337)逐(ニ)一(ニ)會(ヒテ)流(レ)2入(ル)紀伊(ノ)湊(ニ)1也。とあるにて見べし。又輿地通志曰。吉野川源自2大臺(ガ)原山1流(テ)。經2鹽(ノ)葉。伯母谷。和田。多古。白川渡。人知(ヂ)。大瀧。西河(ヲ)1。至(ル)2東川(ニ)1。舊名遊副川。古人所2詠題1也。歴2國栖樫尾1。至2菜摘村(ニ)1。曰2菜摘川(ト)1。有2古歌1。經2歴宮瀧。河原屋。立野。飯貝。上市。六田。土田。下市。新住《アタラスミ》等(ヲ)1。入2宇智(ノ)郡(ニ)1云云。
○多藝津河内爾《タギツカフチニ》」諸抄釋なし。今按に、河内は、上の歌に出(ヅ)。多藝津《タギツ》は、瀧津《タギツ》にて、此|津《ツ》は、知《チ》とも活けり。下體語に連《ツヾ》く時は、此《コヽ》の如く多藝《タギ》津といひ、下用語に連く時は、多藝知《タギチ》と云例也。其は「たぎつ河内」「たぎつ山川」「たぎつ岩波」など云類は、何れも下體語也。又「たぎち流るゝ」「たぎち行水」「たぎち落くる」などの類は、下皆用語なるが如し。
○高殿乎《タカドノヲ》。高知座而《タカシリマシテ》」類林云。應神紀に、高臺。仁徳紀に、臺上。繼體紀に、高堂などある、皆|多加杼乃《タカドノ》と訓り。和名抄云。樓(ハ)辨色立成云。【太加止乃】と見ゆ』 或人云。續紀二に、宴(ス)2於西(ノ)高殿《タカドノニ》1とある、是宮中の安殿《ヤスミドノ》の事なれば、此ほど高殿と云(ヒ)しは、二層三層などの樓閣にはあらで、只高き殿也』【已上】 今按に、雄略紀十二年冬十月。天皇命(テ)2木工闘※[奚+隹]御田《コグクミツゲノミタニ》1。一本云、猪名部《ヰナベ》也。御田(ハ)蓋誤也。始(テ)起《テタテタマフ》2樓閣(ヲ)1。於是御田登(テ)v樓(ニ)疾2走《ワシルコト》四方《ヨモヲ》1。有若飛行《アダカモトブガゴトシ》。時《コヽニ》有(テ)2伊勢(ノ)采女1。仰(ギ)2觀(テ)樓上(ヲ)1恠《アヤシミテ》2彼疾行《カノトブガゴトキヲ》1。顛2仆《マロビフス》於庭(ニ)1云云。と見えて、此時既に、かばかり高き樓閣もありければ、なしとも云(ヒ)がたし。【四天王寺の塔を五層に起賜へるも推古の御時なりき。】高知《タカシリ》の事は、前(ノ)歌に出たり。
○上立《ノボリタチ》。國見之爲波《クニミシセレバ》」考注云。山の際にあれど、高殿よりは、廣く遠く見えしなり』 略解云。高殿に登り立て、國見し給へばと也』【已上】 今按に、諸抄皆、國見乎爲波とある本に依て、くにみをすればと訓たれど、さては人麻呂の、自(ラ)國見するになりて、神佐備世須《カムサビセス》といひ、高知座而《タカシリマシテ》と云る詞に(338)應ぜず。乎は之を誤れるにて、國見之爲波《クニミシセレバ》と訓べし。十九【三十九丁】に、國看之勢志弖《クニミシセシテ》。また【四十二丁】豐宴見爲今日者《トヨノアカリミシセスケフハ》などあり。即|此《コヽ》も、國見之爲賜者《クニミシシタマヘバ》と云意也。斯て國見と云ことを、彼人々は、もはら國體を見給ふ事とのみ思ひとれりしより、此《コヽ》も山あひなれども、高殿よりは遠く見えし也などはいへるなれど、假令何ほど高き樓上ならんとも、彼高き峯どもをこえて、四方の國體を見る事あたはん。殊に瀧宮は、谷|間《アヒ》なるものをや。此事は既に此第一卷に委く辨へたる如く、國見とは、たゞ眺望する事を云(ヒ)つれば、此《コヽ》も其邊の景色どもを見やりて、心をやり給ふを云なり。
○疊付《タヾナヅク》。青垣山《アヲガキヤマ》」代匠別注云。たゞなづく青垣山とつゞけたり。第六に、赤人の歌に「やすみしゝ、わがおほきみの、高しらす、よしのゝみやは、たゝなづく、青垣ごもり云云」第十二云「たゝなづく青垣山の、へだゝれば、しば/\君を、ことゝはぬかも」又第一に、人麻呂、吉野にてよまれたる歌の中には「たゝなはる青垣山の云云」たゝなづくもたゝなはりつくにて、たゝなはると云におなじ。たゝなはるは、疊有とかければ、衣のひだなどのたゝまれたる如く、山のいくへも、かさなれるをいへり。禮記云。主佩《キミノオモノ》垂(ルヽトキハ)則臣(ノ)佩委《タヽナハル》。楚辭に、攝葉を、タヽナハリテと訓たり。景行紀云。十七年春三月戊戌朔己酉。幸(テ)2子湯《コユノ》縣(ニ)1遊(玉フ)2于|丹裳《ニモノ》小野(ニ)1時(ニ)。東望謂左右曰《ヒムガシノカタヲミテミトモビトニノリ玉ハク》。是(ノ)國(ヤ)也。直《タヾニ》向(ヘリ)2於日(ノ)出(ル)方(ニ)1。故(レ)號《ヲ》2其(ノ)國1曰2日向(ト)1。是(ノ)日(ニ)渉《ノボリマシテ》2野中(ノ)大石(ニ)1。懷《シヌビテ》2京都《ミヤコヲ》1而|歌之曰《ミウタヨミシタマハク》。波辭枳豫辭《ハシキヨシ》。和藝幣能伽多由《ワギヘノカタユ》。區毛位多知區暮《クモヰタチクモ》。夜摩苫波《ヤマトハ》。區珥能摩保邏摩《クニノマホラマ》。多々儺豆久《タヽナヅク》。阿烏伽枳夜摩《アヲカキヤマ》。許莽例屡《コモレル》。夜摩苫之于漏破試《ヤマトシウルハシ》。異能知能《イノチノ》。摩曾祁務比苫破《マソケムヒトハ》。多々瀰許莽《タヽミコモ》。幣遇利能夜摩能《ヘグリノヤマノ》。志邏伽之餓延塢《シラカシガエヲ》。于受珥左勢許能固《ウズニサセコノコ》。是(ヲ)謂(フ)2思《シヌビノ》v邦歌(ト)1也。やまとの國は、四方に山の立めぐりて、こもれる國なれば、かくよま(339)せたまへり。神武紀云。抑又聞2於鹽土(ノ)老翁《ヲヂ》1曰。東(ニ)有2美地《ウマシクニ》1。青山|四周《ヨモニメグレリ》。これやまとの事也。延喜式第八、出雲(ノ)國造神賀(ノ)詞(ニ)云。出雲國乃青垣山(ノ)内爾。下津石禰爾。宮柱太敷立※[氏/一]云云。これはいづくにても、四面に青山ありて、垣の如くにめぐれるを青垣山と云證也「たゝなはる、やははだすらを」ともよめり。うつぼ物語に「御ぐしよれたり。しもにたゝなはれたる、いとめでたし」枕草紙に「かたはしのかたに、髪のうちたゝなはりて、ゆらゝかなるほど、長さおしはかられたるに云云」舊事紀に、三室の山を、青垣三室といへり。是は三室の山の歟。それも四面の群山を、垣にたとへて云るか』【已上代匠別記(ノ)説也。】 冠辭考云。古事記に、景行條。倭建念思國《クニシヌビノ》御歌|夜麻登波《ヤマトハ》。久爾能麻本呂婆《クニノマホロバ》。多々那豆久《タヽナヅク》。阿袁加伎夜麻《アヲカキヤマ》。碁母禮流《ゴモレル》。夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》。【紀には、景行の大御歌とす。】萬葉卷六に、芳野離宮者《ヨシヌノミヤハ》。立名附《タヽナツク》。青墻隱《アヲガキコモリ》。卷十二に、田立名付《タヽナヅク》。青垣山之《アヲガキヤマノ》。隔者《ヘダツレハ》云云。こは楯名附《タヽナヅク》山と云なるべし。そのよしは古事記に、【仁徳の后の御歌、】阿袁邇余志《アヲニヨシ》。那良袁須疑《ナラヲスギ》。袁陀※[氏/一]夜麻《ヲダテヤマ》。夜麻登袁須疑《ヤマトヲスギ》。【紀には、烏陀※[氏/一]の三語を、一句として、直に夜麻登袁とつゞけたり。】と有は、山を小楯《ヲタテ》と云意の外なし。然れば今も、山は國|護《マモ》る藩屏《カキ》ぞとて、青垣山といへば、其垣と楯の埋り同じき故に、楯の名附てふ辭を、冠らせしなりけり。神樂歌に、四方山の守りにたのむ梓弓、てふをも引べし。又萬葉卷一に、【人麻呂】疊有。青垣山云云。こは疊有とさへ書たれば、今本の如く、たゝなはると訓て、いよゝ疊る山の意とすべけれど、此一首のみにて、他《ホカ》みなたゝなづくとあるからは、此疊は、正字とし、有は、付を誤れるものとす。卷二に、【長歌】多田名附《タヽナヅク》。柔膚尚乎《ヤハハダスラヲ》。劔刀《ツルギダチ》。於身副不寢者《ミニソヘネネバ》云云。こも和らかなる單ぎぬなどの、身にしたしく疊り付を、妹が膚に譬へたらんともおもほえしを、猶此次の句に、劔刀を冠辭とせしなどを思ひ、右の記にもよるに、とかくに楯の矢(340)ふせぐ名を以て、矢とつゞけつらん。青垣山の青は、木ぶかく青き意にて、青香《アヲカグ》山など云が如し。云云』【已上冠辭考説なり】記傳【廿八(ノ)四十七葉】曰。多々那豆久《タヽナヅク》は、多々那波理那豆久《タタナハリナヅク》にて、多々那波理《タヽナハリ》は、契冲、禮記に、主佩垂(ルヽトキハ)則臣(ノ)佩|委《タヽナハル》。と云を引たり。此委の意なり。枕冊子に、そばの方に、髪のうちたゝなはりて、ゆらゝかなる、とあるも同じくて、長き物などの、縮《シヾ》まり倚合《ヨリアヒ》て、疊《タヽ》まりたるを云。青垣山に云るも、其(ノ)状《サマ》同じけれぱなり。萬葉一【十九丁】に、疊付《タタナヅク》。青垣山。【付(ノ)字を、本に有と作て、タヽナハルと訓(メ)れど、たゝたほると云に、有(ノ)字を添ふべき例に非ず。有(ノ)字ありては、タヽナハレル、と訓べき例なり。故(レ)こは師の、付(ノ)字のあやまり也。と云れたるぞ宜しき。』【已上古事記傳(ノ)説なり。】 日本紀歌解曰。疊並就《タタナミツク》』【已上衆説】 今これらの説どもを合せ考るに、此續け、多々那豆久《タヽナヅク》の例多かれば、有(ノ)字は、いかにも付の誤りなるべし。言の意は、代匠記の説ぞ、先(ヅ)穩に聞えたる。冠辭考に、楯によりて、矢とつゞけたりと云るはいとわろし。記傳に、たゝなはりなつくの約語とせるも、非《ヒガゴト》なり。こは彼(ノ)倭建(ノ)命(ノ)段の歌に、那豆岐能《ナヅキノ》。多能伊那賀良邇《タノイナガラニ》。とある那豆岐《ナヅキ》と、一(ツ)言に説(キ)なさんとて、然か強たる也。彼處《カシコ》は一本に、那豆岐多能《ナヅキタノ》と有て、靡附田之《ナヅキタノ》の意(其條(ノ)前文にも、其地之|那豆岐田《ナヅキタニ》とあれば、一本は落字なる事明か也)今此句は、疊附《タヽマリツク》にて、俗にたゝまると云意を、雅語にはたゝなはるといへりし也。されば附の字も、代匠記に云る如くにて、正字也。さてかの佩の委《タヽナハル》も、髪などの倚合《ヨリアフ》も、疊《タヽナハ》る中の一(ツ)にてはあれど、此《コヽ》は源氏箒木に「すくよかならぬ山のけしき、木ぶかくよはなれて疊みなし」とある處の花鳥餘情の釋に、巨勢(ノ)金岡(ハ)。以v墨疊《タゝムコト》v山(ヲ)十五重。廣高(ハ)五重。とある、此等の疊《タヽム》にて、付《ツク》は重《カサナリ》付よし也。かくて此處の句(ノ)意を玉小琴(ニ)云「青垣山ノト、ノ文字ヲ添ルハワロシ。アヲカキヤマ、ト訓ベシ。青垣山ハ、花挿頭持ト續ク意也」と云る、(341)此説はいみじき僻事なり。さては、調べのわろきのみならず、次の遊副川も、ユフカハと訓べきに遊副川之と之(ノ)字を添たるをいかにとかせん。此處は、御調《ミツギ》と御食《ミケ》とをいはんとて、山(ノ)神川(ノ)神とは云るなれど、其(レ)も實は山川の事にして別にはあらず。花黄葉をかざしもちといはんにも、神といはんかたの似つかはしかれば、山川をさして神とはいひなせるにこそはあれ。宣長は、長歌の句法を知られざりつれば、其人にも似ず、をりをり如此状なる僻説を云出せる事あり。是心すべき也。いで今此處の句の續きを例の圖してしらすべし。
青垣山ノ〔右○〕、山神ノ、奉ルミツギト、春部ハ、花カザシモチ、
                      秋立バ、紅葉《モミヂパ》カザシ〔右○〕、
                      山川モ、依|奉《ツカフ》ル云云
遊副川ノ〔右○〕、川セノ神モ、大ミケニ、仕奉ルト、上ツセニ、ウ川ヲタテ
                  下ツセニ、サデサシワタシ〔右○〕
     此○のしるしを以てニ(ツ)共に之を添ずては叶はぬ事を知べし。又下の二つのシ〔右○〕もじはしての意にこて、もみゞ葉かざして山もより仕へ、さでさしわたして川もより仕奉るよしのかゝり也。
○山神乃《ヤマツミノ》。奉御調等《マツルミツギト》」代匠云。山つみは日本紀に、山神等(ヲ)號2山祇《ヤマツミ》1といへり。天神地祇とわかつも一徃の事にて、山祇とも山神ともいへり。所々に山神在故に、日本紀に山神等と吉野には延喜式に、載たるも、山口(ノ》神社|水分《ミクマリ》神社金(ノ)峯《ミタケノ》社等有。奉の字まつるとのみよめるも、たてまつるなり。此集(342)未にいたりて、見奉とかきて、みまつりてとよめれば、こゝもまつると訓べし』 考云。山づみは、山をたもちます神をすべて云。み〔右○〕はもち〔二字右○〕の約にて山つ持てふ言也。奉《マツル》はたてまつるを略きて、まつるといふ。十五卷に、まそかゞみかけてしぬべと麻都理太流《マツリタル》といへり。他にもあり』【已上】 今按に、此に山神《ヤマツミ》と云るは、式などに祠《マツ》り賜へる神等《カミタチ》を指るにも非ず。又神代紀に云る大山祇《オホヤマツミ》、〓山祇《シキヤマツミ》、麓山祝《ハヤマツミ》等の神を指るにもあらず。たゞ山を神といひなせるなり。猶下にも云ことゞもと合せ考ふべし。又|奉《マツル》と云も、たてまつりを略きたるにはあらず。まつると云が(本(ト)は祭《マツル》、供《マツル》などと同言にて)物を獻進する古語にて、其をたてまつるとも云は、木につけ臺机等に立《タテ》まゐらせけるより、立《タテ》てふ事をそへて云也。記傳【九(ノ)廿七丁】に「立奉は、立(ノ)字を添たる故は先(ヅ)多都《タツ》とばかりも物を獻ること、麻都流とばかりも献ることにて、多弖麻都流《タナマツル》と云は、本其(ノ)二(ツ)を重ねたる言なり。又献るを麻陀須《マダス》と云ることあり。其を多弖麻陀須《タテマダス》とも云る、その多弖《タテ》も同じ。さて奉(ノ)字は多弖麻都流とも訓(メ)ども、又常に麻都流《マツル》とばかりにも用る故に、かく立(ノ)字を添(ヘ)ても書るなり」と云る、是も未(ダ)詳しからず。奉(ノ)字は麻都流《マツル》と云に當るが本つ義にて、彼所《カシコ》は立て供《マツ》る所なる故に、立(ノ)字を添(ヘ)たるにこそはあれ。立て供《マツ》るとは、神代
 
紀曰。掘《ネコジテ》2天香山(ノ)之|五百箇眞坂樹《イホツマサカキヲ》1。而上(ツ)枝(ニ)懸《トリカケ》2八
 
瓊之五百箇御統《ヤサカニノイホツミスマルヲ》1。中(ツ)枝(ニ)懸《トリカケ》2八咫鏡《ヤタカヾミヲ》1。下(ツ)枝(ニ)懸《トリカケテ》2青和
 
幣白和幣《アヲニギテシラニギテヲ》1云云。立《タテ玉フ》2於天(ノ)石窟戸之前《イハヤドノマヘニ》1。景行紀曰。爰有2女人1曰(フ)2神夏磯媛《カムナツシヒメト》1。聽(キテ)2天皇(ノ)之|使者至《ミツカヒキヌト》1。則|拔《コジトリ》2磯津《シヅ》山(ノ)賢木(ヲ)1以(テ)。上枝《ホツエニ》挂《トリカケ》2八握劔《ヤツカツルギヲ》1。中(ツ)枝(ニ)挂(ケ)2八咫鏡《ヤタカガミヲ》1。下枝《シヅエニ》挂(ケ)2八尺|瓊《ニヲ》1。亦|素幡《シラハタヲ》樹《タテヽ》2于|船舳《フナノヘニ》1參向《マ井キテ》云云。仲哀(ノ)紀に、岡(ノ)縣主(ノ)祖能鰐云云。また筑紫(ノ)伊覩《イトノ》縣主(ガ)祖|五十迹手《イトデ》云云。此二人が獻(レル)物を榊に掛たる状《サマ》も全《モハ》ら右に同じ。是(レ)古への禮儀《イヤゴト》の一の式《ノリ》なりき。此(ノ)遺風後まで傳(ヘ)て、木枝に著《ツケ》て物する事、いと多く(343)見えたり。且(ツ)奉る物を捧物と云ひ、又さゝげ奉ると云言の遺れるなども、木に著たるよりのなごり也。【伊勢物語下卷、かやのみこの條に、おの/\さゝげ物奉るに、其さゝげ物千さゝげばかりなん有けるといへる類猶多かり】又此(ノ)禮式《ヰヤワザ》を略して、高き臺に居《スヱ》て獻りしも古き事也。十六【二十九丁】に、所聞多禰之《カシマネノ》。机島能《ツクヱノシマノ》。小螺乎《シタヾミヲ》云云。高机爾盛《タカツキニモリ》。机爾立而《ツクエニタテヽ》。母爾奉都也《ハヽニマツリツヤ》。目豆兒乃負《メヅコノトジ》。父爾獻都也《チヽニマツリツヤ》。身女豆兒乃負《ミメヅコノトジ》。とある、机に置居《ノスル》を机に立而云る是也。貞觀儀式、大嘗祭の條に、倉代《クラシロ》十輿。續後紀一、出雲國造が奏(セル)2神壽(ヲ)1條に、高机四前。倉代(ノ)物五十荷。とあるなども、皆其(ノ)獻物を居《スウ》る臺也。倉《クラ》は、千座置座《チクラノオキクラ》など云|座《クラ》にて神に獻(ル)物も、恒に此等の座《クラ》に居《スヱ》て奉るゆゑに、みでぐらと云。其みてぐらは、御立倉《ミタテグラ》の義也(古事記傳に、御手與《ミテクラ》の義と云るは、ことわり違ひたり)是に對(ヘ)て、奉獻《タテマツル》も立祭《タテマツル》の義なる事を知べし。御調《ミツギ》は、此《コヽ》は山が花黄葉を咲にほはせて、天皇へ奉《タテマツ》るよし也。みつぎと云言の本は、下の歌にて云べし。
○着部者《ハルヘハ》」考云。四言、部《ベ》は方《ベ》也。別記にあり。宣長云「部《ベ》は婆衣嬰《バエ》の約れる意也。春は物のはえ榮ゆる時なれば、春榮《ハルバエ》と云て、夏秋冬にはいはぬなるべし」といへる此説よろし。依て考(ノ)別記に方《ベ》とせる説出たれど、今は不用なれば略きつ。
○花挿頭持《ハナカザシモチ》」代匠云。これは山の上に花もみぢのあるを、山神のかざしにいたゞきて、民のみつぎ物のやうに、春秋たてまつると也。晏氏春秋内篇諫上第一(ニ)曰。夫靈山固(ニ)以v石爲v身。以2草木(ヲ)1爲v髪(ト)』考云、持は添たる言にて、古きふみどもに例あり』【已上】 今按に、代匠の説よろしかれど、山の神のかざしもつにはあらず。山神を直に山の事と見べし。但(シ)山の神が山に令《オホセ》て、花もみぢをかざさしめて、貢に奉と見るもあしからず。
○秋立者黄葉加射之《アキタテバモミチバカザシ》」考云。黄葉頭刺理《モミヂカザセリ》。一本|黄葉加射之《モミヂバカザシ》と有もあしからず。されどこゝは定かに(344)いひ切たるに依』 略解云。こゝは今本の定かにいひ切たるによるべし』【已上】 今按に、この句にて云(ヒ)切ては、下の、山川母依※[氏/一]奉流《ヤマカハモヨリテツカフル》といふへかゝるべき助辭《テニヲハ》偏背《カタヽガヒ》になりて、調べをなさざるをや。其續き法《ザマ》上に出せる圖もて見べき也。今本の本行の方は、誤りなり。
○遊副川之《ユフカハノ》。(川《カハ》〉(瀬《セノ》)神母《カミモ》」代匠云。ゆふ川は、よしのにある川の名、常にゆかはといふ處也』 考云。かの宮瀧の末に、今はゆ川てふ所有。是か。又卷七に、結八川内《ユフハカフチ》とよめる是ならむか、定めがたし。此句なみはあまれりやたらずやと、おぼゆれど猶例あり』【略解全同】 今按に、今ゆ川といふ川は、宮(ノ)瀧の邊にはあらず。西河(ノ)瀧の邊なり。宮瀧は中(ノ)莊の内、西河湯川は河上(ノ)莊也。輿地通志曰。西河(ノ)瀧。在2西河村(ニ)1。川上(ノ)莊云云。又西川(ノ)條(ニ)云。源自2迫《サコノ》西川村1。經2過小坪瀬。小山手。長井。樫尾崎(ヲ)1。至2眞砂瀬《マサゴセニ》1與2出谷《デユ》川1合。過2柳本(ノ)渡1至2乘畑1。入2十津川(ニ)1。出谷《デユ》川源白2上湯川村1經2出谷(ヲ)1至2眞砂瀬(ニ)1與2西川1會(ス)。とあり。是遊副川なり。此に至2眞砂瀬1與2西川1會とあるをもておもへば、西川の枝川の如くに横に流れたる也。西河瀧よりは二町ばかりもあらんか。宮瀧にては、合《カナ》はざる事此川もて知べし。さて此(ノ)集《シフ》の歌に、句の餘りたらはざるもあるは、元よりの事なれど、こゝは二段につゞけて山と川と對へたる、其山の方に、青垣山(ノ)山神乃とありて、川の方に遊副川(ノ)之神母とばかりにて、半句足らはで調べをなさず。かゝる句段の調べに、一方足はざるやうの事集中に例見えざれば、落字せしにたがひなし。かゝる落字を暗推にまかすべきにあらねど、一方の句に合せ考ふるに、
青垣山〔右○〕之〔左○〕山〔右○〕神乃奉御調等云云
遊副川〔右○〕之〔左○〕川〔右○〕瀬神母大御食爾云云
これほどの字を落せるならんとて、右の如くはよみつるなり。山の方にも、之《ノ》を脱しつるなるべし。
(345)○大御食爾仕奉等《オホミケニツカヘマツルト》」代匠云。河伯のみつぎ物たてまつるをいふ。大御食は、みかどの供御にまゐる物也。傳【廿五(ノ)三十一丁】云。大御食《オホミケ》。日代(ノ)宮(ノ)段にも、献2大御食1之時云云。また朝夕之大御食と見え、書紀景行(ノ)卷に、諸縣《ムラガタノ》君泉媛依v献(ルニ)2大御食1。而其(ノ)族會之《ヤカラツドヘリ》。萬葉一【十九丁】に、遊副川之神母大御食爾仕奉等云。廿【二十五丁】に、於保美氣爾都加倍麻都流等《オホミケニツカヘマツルト》云云。など見ゆ』【已上】 今按に、食《ケ》は豐宇食毘賣《トヨウケビメノ》神、保食《ウケモチノ》神、大宜都比賣《オホゲツヒメノ》神、御食津《ミケツ》神など申す食《ケ》にて、食物《ヲシモノ》の總名也。故(レ)常に御膳《ミケ》とも、御饌《ミケ》とも書(ケ)り。祝詞に、奥津御季者《オキツミトシハ》云云。汁爾毛頴爾母《シルニモカヒニモ》と云る、頴《カヒ》は計《ケ》と約れり。猶下の御食國等の條に云べし。
○上瀬爾鵜川乎立《カミツセニウカハヲタテ》」考云。川の上下を多くの人もて斷《タチ》せきて、中らにて鵜を飼ものなれば斷《タチ》と云べし。卷十九に、宇河波多々佐彌、またう川|立《タチ》とらさんあゆの、とも云』 略解に、宣長云。御獵立す、又は射目立てなどの立と同じくて、鵜に魚をとらする業を即鵜川といひ、其鵜川をする人どもを立《タヽ》するといふ也』【已上】 今按に、考説はいとわろし。宣長のいへるが如く也。鵜は和名抄云「辨色立成云。大(ヲ)曰2※[盧+鳥]〓(ト)1。【日本紀私記云。志万豆止利。】小曰2鵜〓(ト)1【俗云宇】」爾雅注云「※[盧+鳥]〓(ハ)水鳥也。〓頭如v鈎好食v魚者也」本草綱目云「※[盧+鳥]〓處々水郷(ニ)有v之。似〓而小(ク)色黒。亦如(シテ)v鴉(ノ)而長(ク)喙微曲(リ)。善(ク)没v水(ニ)取(ル)v魚(ヲ)。日(ハ)集2洲渚(ニ)1。夜(ハ)巣2林木1。漁舟往々 縻2畜《ツナギカヒテ》數十(ヲ)1。令《シテ》2v其(ヲ)捕《トラ》1v魚(ヲ)」とあるは、後に皇朝に習て此業を得しならん。北史【九十四】倭國傳曰「水多陸少以2小環1掛2※[盧+鳥]〓頂1。令2入v水捕1v魚。日(ニ)得2百餘頭1」とあるに、皇朝にははやく神武紀に見えて、めづらしともせざりつれば神代よりありし也。御代々々公にも所々に鵜養を置れたり。職員令(ノ)大膳職(ノ)下、雜供戸の義解に、謂2鵜飼《ウカヒ》江人綱引等之類(ヲ)1。と見ゆ。吉野にも此鵜飼綱引等所々に多かりけむを、此行幸の時召れたる也。神武紀に、苞苴擔之子《ニヘモツガコ》。此則阿太養※[盧+鳥]部始祖也《コハアダノウカヒラガオヤナリ》。(346)十三【卅丁】長谷之川之上瀬爾鵜矣八頭漬《ハツセノカハノカミツセニウヲヤツカヅケ》。下瀬爾鵜矣八頭漬《シタツセノウヲヤツカヅケ》。上瀬之年魚矣令咋《カミツセノアユヲクハシメ》。下瀬之點矣令咋《シモツセノアユヲクハシメ》云云。【此鵜川をよみたるは、十七(ノ)卅六丁、又四十九丁、十九(ノ)十二丁、又廿一丁、又同丁、又同丁、十七(ノ)四十五丁、又たゞ鮎取事をよみたるは、五(ノ)廿丁、又廿一丁、又廿二丁、等に出(ヅ)。】
○下瀬爾小網刺渡《シモツセニサデサシワタシ》」代匠云。これは人のするわざなれど、河伯のゆるして、うをなど多くとらしむるをいふなり。文選斑固(ガ)東都賦(ニ)曰(ク)。山靈護v野。屬御(スルニ)方神(アリ)。而雨師汎灑(トシテ)。風伯清(ム)v塵(ヲ)。同寶鼎詩(ニ)曰。嶽(ハ)修(メ)v貢(ヲ)。今川(ハ)效《アラハス》v〓(ヲ)。また楊雄(ガ)甘泉賦曰。八神奔(テ)而警蹕(ス)。多(ク)振(ヒ)殷憐(トシテ)而軍(ノ)装(ヒ)。〓尤之倫|帶《ハイテ》2于將(ヲ)1而秉(レリ)2玉戚〔左○〕(ヲ)1。顔延年詩(ニ)云。山祇蹕2〓路(ニ)1。水若|警《イマシム》2滄流1。』考云。和名抄に、※[糸+麗](ハ)【佐天】網(ノ)如2箕形1。狹(ク)v後(ヲ)廣(クセル)v前(ヲ)名也。と云り。今もさる形なるをさでと云。卷十九に「平瀬には、左泥《サデ》さし渡し、早瀬には、うをかづけつゝ」とよみつ』 萬葉類林曰。かの和名抄の釋は、西京賦綜(ガ)注也。皇國に用るは、此《コヽ》に書る小網の類なるべし。然らざれば四(ノ)卷に、左手蠅師《サデハヘシ》といひ、渡《ワタス》と云るにかなはず』【已上】 今按に漢籍三才圖會に、右文選(ノ)注を引て其圖を出せるを見るに、いかさまにも點の捕らるべき具とは見えず。其注にも於2淺川1。追2〓小魚(ヲ)1也。とあり。かゝれば古へ此方《コヽ》にて、左手《サデ》といひしは、今|※[糸+卓]網《オヒマハシ》と云類の小網なりしなるべし。左右に竹の附たれば刺《サス》とも延《ハヘ》とも云べきなり(集中に、此|小網《サデ》をよみたるは、四(ノ)四十一丁、九(ノ)十四丁、十九(ノ)廿一丁に出。見合すべし)さてかく上(ツ)潮、下(ツ)瀬を合せて云は、たゞ語《コトバ》の文《アヤ》なり。あながち鵜《ウ》と小網《サデ》と、然か上に分(チ)て使(ヒ)
しには非ず。古事記上卷に、上(ツ)瀬(ハ)者|瀬速《セバヤシ》。下瀬者瀬弱而《シモツセハセヨハシトノリゴチタマヒテ》。初(テ)於《ニ》2中(ツ)瀬1墮迦豆伎而《オリカヅキテ》。二【三十二丁】上(ツ)瀬(ニ)石橋渡(シ)。下(ツ)瀬(ニ)打橋渡(シ)。また上(ツ)瀬|爾《ニ》生(ル)王藻(ハ)者下(ツ)瀬|爾《ニ》流(レ)觸經《フラバヘ》。九【二十五丁】上(ツ)瀬|爾《ニ》珠橋渡之《タマハシワタシ》。下(ツ)瀬|爾《ニ》船浮居《フネウケスヱ》。また六【十二丁】上(ツ)邊《ベハ》者千鳥|數鳴《シバナキ》。下(ツ)邊《ベハ》者|河津都麻喚《カハヅツマヨブ》。なども云り。
○山川母《ヤマカハモ》。依※[氏/一]奉流《ヨリテツカフル》。神乃御代鴨《カミノミヨカモ》」代匠云。山川もよ(347)りてつかふる事などは、四民百姓は云にや及ぶ、冥祇までもかしこまり、つかへまつる御代なりとほめ奉る也。此下の役民が歌に、天地もよりてあれこそといへるも、今におなじ。山川もすみて讀べし。山と川と也云云。これらをはじめて、集中に見えたる人麻呂の長歌ごとに、他人の及ばざる處きこゆ。赤人といへども、斑固が司馬遷をのぞまんが如し。李白が飄逸の仙才をもて、杜陵翁が沈欝をかぬとも云べし。いはゆる虎にして翅あるものなり』 考云。山のかざしとせる花もみぢを、即山(ノ)神のみつぎとし、川にとれる魚を、即河(ノ)神のみつぎとし、山も川もよりなびき、つかへまつる神《カム》すべらぎの御代なるかもといへるいきほひ、此ぬし一人のしわざなり(菅原長根が云(ク)、古事記に天孫天降ます始め、大山津見神、百取(ノ)机代の物を持しめて、其(ノ)女《ミムスメ》を仕奉らせ、火々出見命海に入ましゝ時も、海(ノ)神百取(ノ)机代の物を捧て、其女を仕奉せたる、即此山(ノ)神河(ノ)神の仕奉も均し。是ぞ此國人に教ずして教る道にして、あな恐あなたふと」とあり。今按に、是らに依て、云るにはあらず』【已上】 今按に、さすがに此二人のまなこ高くして、其ほめざまあしからず。げにも柿本の大人の歌調べにとりては、集中に今すこし立まさるもあれど、後世にいはゆる心の耳眼と云ものもていはゞ、此歌殊にまさるべし。そはおのづからに咲にほふ花もみぢを、山神の貢調とし、御供人の捕しめらるゝ大御食を、河神の貢調として、此二段より引つゞけ下して、山川も歸《ヨリ》て奉仕《ツカフ》る神の御代と云(ヒ)なせる廣く厚く高く雄々しくたへたるかな、くしきかな。言語の妙を得まくほりせん人は、偏に此さかひに心を盡すべし。かくて聞ゆべけれども、猶いはゞ、
○一編の總意は、わが天皇よ、そのまゝ神の御身にして、かくうつしくも、御心すさびせすとて、此よし野の瀧のかふちにいでまし、高殿にのぼり(348)たゝして、四方山を見わたし給へば、重れる山々は、大宮の衛《マモ》りとなりて、其嶺どもには春は花、秋はもみちをにほはせて、貢調をまつり、又河の神どもは、出ましの度毎に大御食をみつぎまつりて、天下の萬民のみかは、山も川も皆|歸靡《ヨリナビ》き仕奉て、さてもさても貴く、もはら神隨《カミソノマヽ》の御代にもあるかなと也。意味深長にして述がたし。見る人のこゝろ/\に考へ味はふべし。
 
   反歌
山川母《ヤマカハモ》。因而奉流《ヨリテツカフル》。神長柄《カムナガラ》。多藝津河内爾《タギツカフチニ》。船出爲加毛《フナデセスカモ》。
此歌上の長歌より其心引つゞき來て、さばかり山も川もより靡きて仕へ奉る、尊き神隨《カミソノマヽ》の御身にして、此よし野の瀧つかふちに、顯はれまして船出せすが、たふとくかたじけなしと也。加毛《カモ》と云に、其歎息ふかくこもりたり。右※[手偏+僉]日本紀曰。三年己丑正月。天皇幸2吉野宮1。八月幸2吉野宮1。四年庚寅二月幸2吉野宮1。五月幸2吉野宮1。五年辛卯正月幸2吉野宮1。四月幸(セス)2吉野宮1。者(レバ)未v詳2知何月從駕(テ)作(ル)歌(トハ)1。
 今按に、紀に、四年八月乙巳(ノ)朔戊申。天皇幸2吉野(ノ)宮(ニ)1。また五年秋七月庚午朔壬申。天皇幸2吉野宮1。と見えたる、これらの内なるべし。
此卷二月十四日よりかうがへそめて、廿四日に稿しをへつ。其間に二日三日いとまをかきたり。
萬葉集墨繩 終
 
(349)心廼種序
 
うたは、吹風のめに見えかぬる、人のこゝろのにほひなり。梅が香ならば、とふ人ごとの、袖にだにしめてましを、心よりこゝろにさとす、わざにしあれば、此にほひを、ふきつたへむことは、いとゞかたしや。むかしよりさたせし人も、ことのはたらはずといへりしかば、今おろかなるこゝろもて、わづかにこれをほのめかすとも、たゞ下くゆるけぶりをとり、くもり日の影をなん、むすぶがごとくなる。ましてきゝしらぬ。童のみゝにさとさむわざは、いさごのうへにおく霜、水の上にふる雪よりも、うとかりなん。しかはあのど、めに見ぬ風も、こずゑをうごかして、しらさばしらすべし。むすばれぬ日の影も、露にやどして、とらばとりつべし。此ごろ、人のもとめも、ねむごろなりければ、いかにしてだにさとしこゝろ見むと、かげろふのあるかなきかには、むすぴいでつ。されど見る人のめにふれ、こゝろにとまらむことこそは、猶かたかるべけれ。天保の七とせ、葉月の望の夜、はれたる月のまへに、はれぬことかきつく。
         いけの庵守部
 
(350)此ふみは、あるうた人の、ねぎまをせるにつきて、吾池庵の大人の、かりにかきすて給へる、下がきなり。大人はをさな事とて、かへり見もしたまはざれど、わがなみの、うひ學びのとものためには、世にになきたづきにして、心のやみのくらき夜に、月を待いで、はるけがたき學の窓に、ともし火をえたらん、こゝちぞすなる。かれこたび、おのれこひうけて、いたにゑらせて、おなじ心のひと/”\にも、ひろくあたへむとす。そも/\はじめ、此書をねぎまをせしゆゑよしは、世に高砂の松の、おもはん事もやさしとて、おくればせに思ひたてる翁おうな、あるは難波津も、まだたど/\しかる、うなゐはなりが輩、何てふふみを見たらば、歌はよまれんにかと、問へる事の常おほかるに、世にそれを見よと、いはん書のたえてなく、かばかり事の欠きたるわざも、又あらじと、皆人の、わびあへるにつきてなりけり、げにもはやくは、和歌よみ方、八重垣など、云やうのものを、見せたるべけれども、今は皆事ふりて、時にあはずなりにたり。又近き比にも、ふり分髪、歌語、うひ山ぶみなど、いふたぐひの物は、なきにもあらざれど、そはたゞ其人々の心まゝに、歌のあげつらひせるのみにして、よむかたの手引には、皆いともの遠きふみどもなり、大かたの人、かゝるものを記すにも、猶ものしりめかす心ぐせはなれずて、おのれ/\が、わたくしの心をもて、人をしたがへむと、かまふめるゆゑに、心ある人はしたがはず、をさな子どもにはきゝとれず、皆いたづらごとにひとしかるを、今此ふみよ、御自の高き學びは學びとして、ひとつも私の心を用ひず、こと/\く、中昔の人々に、いはせはて給へるこそ、廣く、正しく、おほやけなる、み手ぶりなりけれ。しかのみならず、我をすてゝ、いとひたぶるに、俗言に筆をくだし、引所の古歌古文には、注ともあらず言をそへて、聞えやすくものしたまへる御手際、誰しの人か、筆さしぬらして、か(351)くはしるしあへむ。かうねんごろなる、吾大人の、眞心のかよひてにやあらん、一たび此書を見れば、歌はよまじと、心得來し人々だに、忽ちに、よまゝほしうおもひなりゆくめり。まして何を見ましかばと、我心から問ふらん人は、いかばかりよろこびなんかし。猶わらは、おうなのためのみならず、世に大人とよばるゝ人も、めをさますべき事さへ、まじれゝば、上下つらぬきたる書といふべし。今より後、此書のあらはれゆかば、世はおしなべて、言葉の花の中津國となりゆきなんことの、たのもしく、うれしくてなん。さてをち/\ごとにわざと卑言俗字を、あまた用ひたまひたるは、もはら童の爲にして、かつは本文にかなつけん事の、所せくわづらはしくてなり。ふと打見てあやしぶことなかれかし。
 天保九年六月
         吉田秋主
 
こゝろの種
 
   上卷目録
 一、歌はかならずよむべきものゝ事…………三五三
 一、うたは誰にもよまるゝものヽ事…………三五四
 一、歌は始より不v憚打出してよむべき事…三五七
   附師に隨ひ友に交てよむべき事
 一、歌書を見る心得の事………………………三六〇
   附歌に近古の差別ある事
 一、歌は先題につきてよみ習ふべき事………三六四
 一、題のよみかたの事…………………………三六六
 
   中卷目録
 一、題の虚字心得有べき事……………………三七二
 一、落題傍題の事………………………………三七七
 一、歌を案ずる時の心得どもの事……………三七八
   附物の異名は新釈すべき事
(352) 一、歌を人にさとす心得の事…………三八〇
 一、初心のよみ口にわろきくせある事………三一八一
 一、名所をよむ心得の事………………………三八六
 一、古歌を取てもよむべき事…………………三八九
   附古歌をとる心得どもの事
 
   下卷目録
 一、よからざる取かたの事……………………四〇一
   附端書長歌文詞等の事
 一、返歌よみかたの事………………………‥四〇四
 一、詞の上の心得の事…………………………四〇六
 一、歌は心を先とすべき事……………………四〇七
   附花實といふ事
 一、つゞけがらの事……………………………四〇八
 一、風體の事……………………………………四〇九
 歌の善惡を早く可2分別1事…………………四一二
   附附一首の眼目の事
 一、てにをは詞の活用等の事…………………四二〇
   附かなづかひ學問等の事
右の事どもことわるに、世の童には、古歌をひけば其歌の意を聞しらず、古文を出せば、其文義を聞わかず。是に依て、其句中に卑言を加へてかこみ入たる也。されば是をよまんには、然か加へたる言どもを本文の語に引つゞけてよみくだせば、いかなる子供にも、其心おのづから聞えゆく也。其中に、文中に添たる言どもには、他より見ばあまり添過たるやうならんも有なんが、是は其文の前後の詞を省きて引る故也。一篇の全文には、必ず其意ある事は、本書と見合せて知べきなり。
 
(353)心の種上
         橘守部撰述
 
  ○歌はかならずよむべきものゝ事
歌の徳は、古今集よりはじめ、代々の撰集の序文、又歌論の書、歌物語等にあまた出たれば、行々は見ても知べし。今こゝに、まだ物見しらぬ童のためにいと手近くいはん。先ヅ人の身に、心ほど貴きものはあらざるを、其心は目にも見えず手にもとられず、形もしられざるに、只たま/\おとのみあり。其音(ト)を言(ト)といひ、其言をうるはしく調ぶるを歌とはいふ。すなはち歌は、心の音のあやにして、天地靈妙の聲なり。尊き事是を以ておもふべし。かるがゆゑに、こなたの音(ト)のいかるをきけば、かなたの心忽ち怒る。是心の音の相(ヒ)觸れて然る也。歌の是を和らげ、なぐさむること、春の日に雪氷のとくるがごとし。
むかしより一萬度の祝詞、百萬遍の念佛、陀羅尼よりも、只一首の歌によりて、神佛のあはれみを蒙り、あるひは風浪をしづめ、或は雨をふらしめ、或は死刑に極りて、遁れがたき罪をさへ許されなどせし例し多かる、是皆歌の感情の、天地につらぬける、しるしにぞありける。然のみならず、賤きしもが下迄恐れ多くも、
天子親王と並べて記され、又おもはずよき歌よみ出れば、ひとりでに、人の口より口に傳へて、見ぬ世の人迄泣しむるに至る。誰か歌ならで外の事を、さうは傳へむ。千歳の後迄も、其名の殘しやすかるは、只歌人のみなりといへるも感心の深きが故也。おほよそ物感あれば必ず聲をはなつ。春の鳥のさへづるは、春の季に感じて也、秋の虫の吟ずるは、秋の季に感じて也。木は風にゆるぎて鳴り、巖は浪にふれてひゞく。いはんやさばかり感じ安き人情をば抱きながら、吟詠する事をしらで過んは、鳥むしにおと(354)ると申さんも氣の毒なれど、心にひゞきのあやあらざるにて、即鳴(ラ)ぬ琴、音せぬ笛の如きなり。もし心の音は、俗談平話、詩文にても、響きなんともいはゞ云べけれども、その感情あらざるをばいかにかはせん。世くだちては、なす事もいふ言も、こと/”\く、から、天竺、朝鮮、近比はおらんだにさへ、まじこり來にたるを、只歌のみひとり、他國のものをまじへず、正しき神代の形見なり。玉葉集雜五、前參議爲相、
 これのみぞ人の國よりつたはらで神世をうけし敷しまの道」われも人も、此神國にうまれて、こゝを思はざるは、やがて神に背き奉る心なり。こゝろあらん人は、はやくおもひを興して、心を入ずしては、かなふまじきわざならずや。
 
  ○歌は誰にもよまるゝものゝ事
世間を見わたすに、むだに過せる人の中にも、さすがに心にはよみたいとおもひながら、むづかしい物じやと聞おぢて、手を出さゞるもあり、又家業にかまけ、物に紛れて、もんもうに育ちたれば、おれには迚もよめまいと弱氣に成て、心ざしを空しうせるもあり。今是らの人々にいはん。歌をよむに、何の學問だてがいらうぞや。此日本國に、文字學問の始りたるはやゝ後の事也。其やうな、こざかしい心なく、神國のまゝなりし以前こそ、人情も厚く、うるはしく、歌も自在なりしか。されば今いはんもおそまきながら、貫之と云歌仙の書れたる、古今集の序に「やまとうたは〔むつかしい、學問だてなどはいらず、只〕人〔々おの/\〕の〔嬉しい、悲しい、口をしい、樂しいなど思ふ、〕心をたねとして、〔いろ/\さま/”\とよみいづる、〕よろづの〔歌〕言の葉とぞ、なれりける」といひ、又其後に名高き、定家の中納言の、近代秀歌と云書の中に「おや〔俊成郷)の〔いひ置れたる、〕には《庭》のをしへ《訓》とては、うたは〔其やうに、〕ひ(355)ろく〔書などを〕見、〔もの〕遠く〔六ケ敷事を〕きく道にあらず、〔只わが〕心より〔考へ〕出て、自らさとる〔より、外なき〕ものとばかりこそ、申侍りしか」と仰せられたり。かゝれば、わづかに百人一首のよめるぐらゐの假名もんじをしり、心ざしだにあれば、誰にもよまるゝもの也。世におれもよんで見たが、六ケ敷て退屈したなど云人は、始めから、上手に成たいと云、我慢心のつよき也。是をいましめて、藤原(ノ)基俊と云名人の、悦目抄と云書にいはく「うたはよむ事の〔むつかしく、出來〕がたきに〔は〕あらず、〔只はじめから〕よくよむ事の、〔し〕かたき也」といへり。それはさうも有さうな物じやないか。先ヅよく思うて見たがよい。外の指さき。手さきでする、ちひさい技藝などゝはちがひて、上(ミ)は神明とくらべ、下(モ)は歴朝の名人と合せて、其上にて善惡を分つわざなるものを、さう始めから自由によまるべき道理も有まい。さりとて心は既(ニ)云靈物なりければ、馬鹿も悧功も、其情念は一列なるから、初心のほどにも、いと思ひの外よい事いひ出るをりもある也。彼(ノ)悦目抄云、「すべて〔誰が身にも、よむたび毎に、〕歌のこと/”\くに、〔本意に〕かなふ事〔は〕なし。〔されば〕堪能〔と云て、すぐれて上手〕の人も、〔昔から其〕たび毎に、秀逸はあらず、〔又〕さしもなき〔初心の〕人も〔をりふしに、〕よき歌はよむなり」といへり。是をもておもへば、下手も上手も、よき歌は、人々の心の靈の、ふと其時活らき出たるにて、拾ひ物せるが如くなれば、只年月によき歌の拾ひたまるをたのしんで、平生自由に出來ざるは、偏に迫の尊き故とおもひとるべき也。爰に又童べありて、子供にも出來る物ならば、おれらもよんで見たいものじや。先ヅどうよむ物か、よんで見せて下されと云に、よみても見せにくけれど、彼心をたねとするわざなれば、手前は手前が心ざしを述るが、即其身の歌なる也。今其大がいを古歌もていはゞ、たとへば、先(ヅ)(356)山の花を見やりて「アレマアさくらが咲たさうな、山の際だから、白い雲のやうな物が、見える」と云ほどのことを、思(ヒ)つかば、それを五もじ、七もじ、五もじ、七もじ、七もじと、つゞけて、
 〔マウ〕さくら〔の〕花〔が〕吹|にけらしも《タラシイマア》(あし引の《枕詞》)〔あの向ひの〕山の〔行(キ)ち〕かひ〔たるあはひ〕より見ゆるしら雲〔は、ほんまの雲ではあるまい、〕
とやうにつゞくるなり又夜中に時鳥を聞て、こゝで一ツ、何とかよんで見たいとおもはゞ、
 〔外へ行くも」夜やくらき〔ならん、又〕道や〔ふみ〕まどへる〔らん、あの〕時鳥〔は、所も多いのに、かう愚かに、心ない〕わがやどをしも〔あのマア行(キ)〕過がて《難イヤウ》になく〔事はよマア〕
又月のようさえたる夜、鴈(ン)などの飛(ブ)を見て、こゝで一首と思はゞ、
 しら雲〔の棚引(ク)高い空〕に〔いくつも〕はね打かはし〔連立ならんで〕とぶかりの〔其〕數さへ〔あり/\と〕見ゆる〔程に、よくさえたる〕秋のよの月〔かな〕
又雪のちら/\と、花のやうにふり出たるを見て、よんで見たくば、
 〔此節は〕冬〔で有〕ながら空より花の〔ちら/\と〕ちりくるは〔もしあの〕雲のあなた〔の天上〕は〔此世界とは別で、今比が〕春にやあるらん
又年賀とて、人の壽命をいはふ事あり。さう云時によまんと思はゞ、
 わが君は〔御無事で〕千代に八千代に〔御繁昌なされ、此ちひさい〕さゞれ石の〔あの大きなる〕いはほとなりて、〔ふる/”\しく〕苔のむす〔其遠い世〕まで〔に〕
と云やうなる氣味合のものなり。是らは、皆むかしの人の名歌なるを、今かう俗言を繼たしてとく時は、惜い哉歌の風韵かくれて、玉の丸きをたどん以てさとしたらんやうになれども、是をもとのごとく、五(357)句、三十一字のまゝにて、よくしらべてきく時は、涙もこぼるゝ程のものなる事、誰もよみおぼえて後はきゝしるべきなり。つぎ/\わり注くはへたる歌どもゝ、其心して見てよかし。猶萬葉集の比迄は、いまだ文筆のなかりし遠國のかたゐなかのむすめ子供迄も、皆自在によみたるものと見えて、其歌多く載せたり。今(ノ)世にては習ふ内が面倒なれど、元來が此國の風儀なりければ、よむ氣にだになれば、子供にも、老人にもよまるゝ也。其上にて、上手になるとならざるとは、好(キ)と嫌ひとあきずによむと、退屈するとの界に在なり。はじめたらば、どうぞ退屈せずに其志(シ)を逐たがよいぞや。
 
  ○歌は始めより不憚打出してよむべき事
    附師にしたがひ友に交てよむべき事
今(ノ)世に、貴樣もよまぬかとすゝむる事あるに、よんでも見たけれど、歌詞がしれぬなどよく人の云ことなり。されど歌詞とて、一々別なる物でもない。昔も今も、日はひ、月はつき、人はひと、鳥はとり、獣はけだもの、木はき、草はくさの如く、十に五六迄は、同じ事也。其中に、世のおし移るに隨て、文字の音、時々の俗言など入交りて、昔とちがふことも少しはあれど、それはそれなりによんでをれば、自然と面々の入用だけは間に合もの也。又よけいに知(ツ)たとて、自由によまるゝ物でもない。然るに今世の人は、商賣をしろといへば元手がないといひ、歌をよめといへば詞がしれぬといへど、身上待(ツ)人はかせぎながら元手をこしらへ、歌よみになる人は、よみながら、詞を覺えゆく也。近來右の人情に叶へんとして、あるひは濱の眞砂、或は荻のしをり、或は歌辭要解、或は麓の塵など云類の、詞寄の書どもの、何やかと多かる、かの詞から先(キ)覺たがる心には、重(358)寶なる物のやうにおもふべけれど、さう切拔たる物以ては覺えがたく、覺えた所が用に立がたきもの也。詞を覺ゆるにも、丸で一首の上を見て、其上下のつゞけなしに依てこそ心ばへもわかり、用ひやうもしらるべきなれ、其うへに歌もて覺えたるは、たゞ其時の用のみならず、行々いく度も役に立(チ)、いくつにもはたらく徳あれば、兎角に歌より覺ゆるにしくはなし。こゝに又歌よみたいと心ざしは有ながら、あまりつまらぬことをいはんも恥しと思ひて、先(ヅ)歌書の少しも見、うたも少しは口づいてから、人にも見せんなど、獨かくしてよみをる人多し。是は大なる心得違也。碁はひとりでは打れず、酒は獨ではすゝまず、歌はひとりではうかびにくし。うかびにくきものをしひて骨折て考へをるうちに、だん/\と案すくみ、ちゞまりゆく事、譬へば年月すわりつめたる人の、行々遠き道のあるけずなると同じ事也。然れば始めから恥だ見え坊とを打捨て、早く師に從ひ差圖を受てよみ習ふ程の近道はなし。餝りたりとてうはぬりしたりとて、岡目八もくにはよく其木地の見えすくものにぞある。まして高き眼(コ)をいかにおほひあへん。小言はいやがるほど長くなり、恥は包むほど大くなる。彼(ノ)定家卿の式に、和歌に師なしとのたまひたるは、只よき歌を師とせよとかゝん所の、文の勢ひのみにて、實はさうでなかりし事は、おなじ君の和歌庭訓云「〔歌ハ〕正路を忘れて、あらぬ方〔の脇道〕におもむくを愼しむべき事とぞ覺え侍る云々。〔帥ハ〕かまへて邪に趣く所をぞ、いかにもふせぎ教ふべきにて候。如法器量なる人も〔師の〕教へを受ずして、我意にまかせてよみ居たらんには、〔其〕歌ぐちの自然と邪に赴く事の候也。まして非量の人の〔師につかず、〕ことにわれと只おさへてよみならはんとし候はゞ、〔だん/\に〕あしくは成行候とも、〔歌の〕あがる道は候はず」と宣ひ、又爲家卿の八雲口傳云「歌を詠ずる事かならずしも才覺によらず、たゞ心よ(359)り起ると申したれども〔師に付て〕稽古なくては、上手のおぼえとりがたし」などのたまひ、又其他の清輔、基俊、俊頼の朝臣、俊成卿なども、各師につき給ひ、其次々の人達も皆師の教へを守りて學ばれたり。況んや今にしては、歌ばかり師の入用なるものもなく、又大事なるものもなし。船頭にぶければ汐路にたゞよひ、案内者うとければ脇道に入まよふ。師をとらんには、第一實意にして名聞なく、物の委くわかりて、かりにもうそを教へぬ人を、よく問(ヒ)糺して從ふべし。初めわろき師をとる時は、それが先入師となりて、一生直り難きもの也。敷百年の間にかけて見わたすに、よき師につきたる人は、共に名を揚て、よき師となれりしも此ゆゑなりかし。さばかり大切なる師に對して、何の見え坊がいらうぞや。始めからわが拙きを顯はしはてゝ、一つもよけいに教をうくべき也。此心用ひは師のみにも限らず、朋友に交るにも、しらぬ事はしらずとして、明かに物をとひ、歌も諸ともに親しくよみかはすべし。しかすれば樂しみも深く、うた口もよくほごれて、殊の外進みやすかり。獨吟にては右の損あるのみならず、いつとなく、高慢に思ひ上りゆくくせの付ものなり。さやうなる人、たま/\人にすゝめられなどして、よその歌合、點取などに歌出す事あるに、極めて敗北す。其時わが思ひあがりしゆゑとは心づかずして、其判者を恨みなどすめり。さう云事の二三度にもなれば、然か思ひ上れる心にも、さすがにおぢけがつき會席へも出ず、人とも附合ずなる、是一生下手ながら朽はつめるはじめなり。歌は生涯、只稽古なるものなりければ、若(シ)われ上手などおもふ慢心出なば、もはやそれ切にて下手になり下る計也。これを防がんいましめにも、人と諸ともによみかはし、或は隱名にて點収、歌合などをもして、昨日けふの人もあなづりがたく、歌はいとおもひの外のものなる事をもさとり、又同じ事ならば、おもしろくたのしみ、(360)退屆のいでこざるやうにして、生れた甲斐には世の人にもしられ、及ばれぬ迄も、名を後の世にのこさんとおもふこそ、人たるものゝ、眞心には有べけれ。
 
  ○歌書を見る心得の事
    附歌に古今互に勝男ある事
うたをよむには、古歌を見ならはずては道に入がたし。古歌を見るには、萬葉集もあれども、先(ヅ)古今集のおだやかなると、今一色、當世向なる物を見合せにするぞよき。しかせずては、歌にはたらきが付にくければなり。それにつきて鴨長明と云名人の書れたる、無名抄と云物に、代々の歌どもの上を、荒増評判せられたる事あり。其詞にいはく「萬葉の比迄は〔只眞心に、〕懇なる心ざしを述るばかりにて〔多く即席、當座によみすてければ〕あながちに姿詞をえらばざりけるにやと見えたり。中比古今の時、花實ともに備はりて〔うるはしき、やさしき、巧なる、〕其樣まち/\に分れたり。後撰はよろしき歌古今にとり盡されていく程もへざりければ、歌得がたくして〔わろきも多く、又風調と〕すがたをば撰はず、〔只其時の當世向なる〕心を先(キ)とせり。拾遺の比よりぞ、其體ことの外に〔後の人情に〕もの近く成て、ことわり〔耳に〕くまなく〔きゝ〕顯はれ、姿すなほなるをよろしとす。そのゝち後拾遺の時、〔又〕今少しやはらぎて、〔つひに〕むかしの風を忘れたり。〔されば〕やゝ其時のふるき〔老功の〕人などは、是を〔心に〕うけざりけるにや。後拾遺姿と名づけて、〔いふがひなく〕口をしき事にしけるとぞ、或先達かたり侍りし。金葉は又わざとをかしからんとして、〔詞の云がゝれるを好み、やゝ〕狂歌〔めく〕なる歌多かり。詞花、千載〔は、古今の歌の細くちひさくなれるにて、其〕大略後拾遺の風〔の、少し實めいなる所〕なるべし。歌の昔よりかはり來れるやう、〔先(ツ)わが世迄の所、〕かく(361)のごとし」とぞいへる、此評定を以ても、先(ヅ)彼(ノ)集をよむべきなり。是をよむに六ケ敷事を知(ラ)んとするより、先(ツ)其歌どもをそらんじ覺ゆるにしくはなし。歌を覺ゆるには、各わが氣に入てよしとおもふが、我に縁あるうたなれば、先(ヅ)わが氣に叶ひたるより覺ゆるにしくはなし。それも一旦に多く覺ゆるにも及ばず、只隙々に打吟じ見て、諺に云、習はうより馴ゆくにはしかじ。次に後撰は右の如くなれど、雜の歌などにはさすがに宜きも多く、又端書のしざまに今めかしきも見えたり。拾遺は、萬葉の歌を載たる、多く誤りてむだなれど、四季の歌めでたし。故に昔より、古今の戀、後撰の雜、拾遺の四季とて名物とせり。此三色の集を三代集と云て、歌學者流に重(ン)ずる所なれども、始(メ)から其樣にたんと見たがるもわろし。只歌よむばかりは、先目當とする物一品二品あれば、其他は見ずとも格別のちがひはなきもの也。はじめから歌學だてして物見通す時は、わがよむ歌のちからよりは、氣位ばかりのぼり上りて、いく首よみても氣にいらず、終に歌の出來ずなるくせの付事あり。又あまりに見ずても、よむ所の種盡て出ずなるめれば、只商人の代ろ物を仕入置て賣(ル)やうに、なく成(ル)と買入、なくなると買入して、其時々程よく見もて行ぞよき。それが中にも、かの古今は撰集の祖にして、歌の結構なるのみならず、のち/\の歌どもの故事も來歴も、多く此集の歌詞より出たれば、是を見しらずては後の歌にもわからぬ事の多かる也。然れども千歳以前の歌どもにして、今より見る時はあまりさ湯をのんだやうにて、後世の人情には面白からぬも是かれ見ゆ。又面白かれども餘り高上過て、企及び難きも少(ナ)からず。凡そ今(ノ)世の人のよみ口に自然と相似て、入安く習ひ安く見えたるは、千載集の比の歌ども也。又今世の人の耳に、其趣巧の氣のきゝて聞え、思付いひなしざまの小意氣に見えて、自然と心にしみ安く見えたるは、新古今の比の(362)歌ども也。それも皆よいと云ふはあらず。彼集の句調の、先賢の教に背けて、わろき僻もある事などは、短歌撰格に委く辨じたるが如し。今こゝに云所は、廣く彼此の時勢に就ての評なり。そは無名抄云「むかしは只〔わづかに〕花を雲にまがへ、月を氷に似せ、紅葉をにしきに思ひよする〔ぐらゐの事〕を、をかしき事とせしかど、今は其心いひ盡し〔耳ふり〕て〔其(レ)ぐらゐの事では聞てくれる人がない故に、その〕雲の中に、さま/”\の雲を尋ね、〔その〕氷にとりて、珍しき謂をそへ、〔その〕にしきにつきて、ことなるふしをたづ〔ねさがす秋とはなり〕ぬ。〔是も限りあれば、又いかなる界にふみ入んも知がたし。〕こゝに今(ノ)世の〔きかね氣の〕人の〔中に、中比よりこなた、〕歌のさまの、世々によみふるされにける事をしりて、〔いきどほりを起し、〕さらに〔うたの柱立、組立がらを〕古風にかへ〔し、詞を時世のよろしきにか〕りて、幽玄體を學ぶ事の、いで來たるなり。〔こゝにおいて、無上至極の界にいたれる人、多くなれり。〕されば〔後撰已下、〕中比のさしもなき歌を、今世の〔幽玄の〕歌に並べて見れば、〔譬へばうるはしく〕化粧したる人の中に、朝〔起たるまゝのす〕貌ににて、まじれるにことならず」とぞいへる。猶此世の人の歌論には、かくざまにいへる事まゝ見ゆ。守部按に、こゝにかく幽玄體と云るは、定家公の立給へる、和歌十體中の幽玄體の事にはあらず。風體抄云「〔歌の〕道をふかく執〔心〕する人は、〔佛の〕三昧に入が如く、心をしづめて、〔深く〕幽玄のさかひに入て、人のふるさぬ所を按ずべし」などいへる類の幽玄の事にて、水蛙眼目にいはゆる、無上至極の界といへると同じ事にて、即有心、眼目など云もやがて此事也。是を以ても、歌はあながち三代集と計もいひがたし。公任卿(ノ)新撰髓脳云「〔三代集等の〕むかしの〔ふりたる歌〕さまをこのみて、〔其人は〕われひとりよしとおもふらめど、〔當今の耳に聞て〕なべでさ(363)しもおぼえぬはあぢきなく〔むやくなる事に〕なんあるべき」和歌庭訓云「〔たとひ古き〕勅撰の歌なればとて、必ず歌ごとに、とりて學ぶべからず候。〔其時々の〕人にともなひ、世にしたがひて〔おのづから〕歌の興廢見え侍り。〔是時運の然らしむる所なり、〕」和歌二言集云「〔いかに名高き集にても〕古歌となりては、必歌ごとによき歌はなし。〔既に〕西行上人〔など〕は、古今集の歌なればとて、皆よきことなし。〔今にとりては、〕うけられぬ歌どもある也、と書たるにしりぬ。〔かく見識の定らずては、上手の位にはなりがたし。〕」などいへり。かゝれば今にして歌を見習ふにも、其心して、古今と合せて千載、新古今中の、名人の秀歌どもを見べき也。さて常に物を見るに昨日けふの内こそあれ、だん/\二年三年と學びゆくに隨ひて、師たる人にも問(ヒ)、自(ラ)もよしと思はん所をはやく見極て、先荒増にも心ざしを立(テ)、見識を定め置て、其見る所の歌の中にて、わが立たる所に叶ふべきは取(リ)、かなひがたきは捨るやうにして、必ずしも見る物どもに目うつりのせぬやうに用心すべき也。
後鳥羽院御口傳曰「〔誰も〕まだしき〔内、未(ダ)わが立たる見識の定らざる〕程は、萬葉集を見るをりは、百首の歌、半は萬葉の詞がよまれ〔又〕源氏等の物語見たる比は、やがてその〔詞〕やうに〔よまれて、すべて見るものに心のうつるものなるが、さては借物〕なる〔こと〕を、〔自(ラ)〕よく/\心得〔はやく見識を定〕て、〔ものは〕よむべき也」と詔へる、誠に誰も/\覺えある事ども也。大かたの人、然かおもひたゞよへる間に、おくれさまよひて、年老て此事を思ひつけども、後悔先(キ)に立ざる也。凡そ世間に、達人となる人のすくなきも、畢竟は見識の定りかねる故にぞある。かく云守部等も、はやく後悔して、流るゝ水の返りこぬ歎きのあまり、どうぞ今より後々の人達には此歎きさせじとて、かやうに古人のすいも甘(364)いも知盡し、既に其界をふみしりていへる教へどもをば擧おく也。なはざりに見過すべからず。かゝれば先(ヅ)物を見るにも、わが心ざす所を主として、其見る物の方へ引込れず、其見る物をしてわが方へ引いれ、たとひ歌仙の歌詞ならんとも憚らず、勝手次弟に取捨して、わが目ざす所の助けとはなしつべきなり。それが中に萬葉集は、わろく用ふる時はいたく害をなし、よく用る時は比類なく尊きものなれど、さやうならん高き論どもは、初學にはふさひがたかりなんと、此書にはすべてもらせり。
 古今の注は、契冲の餘材抄【廿卷】、眞淵の打聞【廿卷】、これら尤委し。宣長の遠鏡【六卷】あれども、是はあまりいやしげに解くだして、うたの風韵を聞うしなふめるつひえあれば、爲にならぬ事もあらん。千載は季吟の抄の外はさせる釋も見えず。此集に合せ見べきものは、清輔朝臣の續詞花集、賀茂重保の月詣集等也。是らは勅撰にはあらざれども、同じ時代にて歌がらよく相似たり。新古今の注は、加藤磐齋が増抄【廿卷】、宣長の美濃家※[果/衣のなべぶたなし]などあり。此集の見合と成べきものは、六百番歌合、千五百番歌合、又撰びとゝのへたるは、雲葉集、萬代集等也。是は私撰の集にて撰者もしられざれども、よき歌ども多かり。
世に八代集と稱するは、右の三代集に、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の、五代の集をくはへていへり。又十三代集と稱するは、右の八代の集に、新勅撰、續後撰、續古今、續拾遺、新後撰の五代の集を加へていへり。廿一代集と稱するは、右の十三代の集に玉葉、續千載、續後拾遺、風雅、新千載、新拾遺、新後拾遺、新續古今の、八代の集をくはへていへり。是らの集の時代、撰者等の事迄は、事長かれば得しるさず。
 
  ○歌は先題につきてよみ習ふべき事
(365)今(ノ)世にて歌よまんには、先(ヅ)題につきてよみ習ひ、題詠のだん/\と口づきゆくに隨て、外の事をもよむべき也。世に題詠はじまりて歌おとろへたりなどいふ説は、てにをはも口にうしなはず、俗言雅語のへだてもなく、おのづからに歌のよまれけむ昔の事にこそあれ。稽古せねばよみ習ひがたくなりし世の人に、題詠はすな、只見る事きく事につきてのみよめといはゞ、いかに拙き事をかいひ出ん。然るに此説、何か一わたり高慢げにも聞ゆめる故に、わづかに萬葉、古今の垣のぞきした心には、尤げにもおもひとりて、題詠をきらふ人世にまゝあり。又詩も作り、歌もよむなど云ぐらゐの人に、しか思ひとれるが、田舍などには殊に多かり。歌は人情の活用にて、さやうな、せぱく偏屈なるものには非ず。題詠もよくする程のちからあらずては、見る事、聞事につきても自由にはよみがたし。治世に亂を忘れずと云やうに、歌も畢竟は、まさかの時の用意にとて、平生は題詠もてならし置にこそあれ。昔の歌どもを見もてゆくに、中には題詠なればこそ、かゝる事迄も心つき、かゝる名歌も出つらめと見えたるも少なからず。殊に今は久しく題詠の代となりて、題につけば歌にも入安く、友にも交りよくて、自然と數もよけいによまるゝわざなるをや、彼(ノ)かたくなに、題詠はせじといひほこれる人を見もてゆくに、さる人に限りて、ひとりも上手になれるを見ず。たゞ氣位のみ高くのぼりて、歌ます/\いでず。世に書を學ぶ人書いできねば、書論家となるとか。さる人の、人の歌を給ぜるさま、あだかも賣卜者の自身の貧不屑は棚にあげて、高慢げに、人の幸福を論ずめるに似たり。としごろあまた見あつめて、かくなりゆくが氣の毒さに、先此事はさとしおくなり。さて題に就てよまんには、彼(ノ)古今集等の素讀本ばかりにても事欠べければ、題林やうの作例をしるせる物の内、何なりとも一色二色所持すべし。(366)題林は、題林抄【二卷】、題林愚抄【八卷】、明題和歌集【十二卷】、拾遺和歌集【十二卷】、六家集類題【六卷】、雑木集【八卷】、和歌分類【八卷】、千首分類【二卷】、百家類葉【一卷】凡此等の内、何れなりとも一二部あらば用はたるべし。又近比の物には、名家類題【三卷】、紅塵和歌集【二卷】、草野集【十二卷】等あり。かく近來の人の歌どもを作例とせん事、ことわりに違ふやうなれど、世の相近き故に初心の耳に入やすき方は有べきなり。又大部なる物には、類題和歌集【三十一卷】、新類題和歌集【二十卷】等、猶此外にも多かれど、かゝる物多く持てもさせる益もなし。たゞ其時の用だにたらばよきにすべし。諺に題林さがしとて、目當の多きは歌の手に入がたき基なり。
 
  ○題のよみ方の事
題をとりては、先其題の意をよく心得てよむべし。彼題林を披て作例を見れば、大方は心得らるゝものにはあれど、其中には推量のちがふ事などもまゝあり。又其題の文字の置(キ)やうなどにも色々心得あるよしなれども、こは我云迄もなく古人の説多かり。こゝに先、清輔朝臣の初學抄云「題のもじ、上句に皆よみはてゝ下句に〔至りて、〕いひ事のなき〔まゝ〕に〔そこに用なき〕すゞろなる事どもつゞけたる、いと見ぐるし云々」定家卿庭訓云「〔一首の上に〕題〔の字〕を〔よみ〕わかち候事、一字題をば幾たびも下句にあらさすべきにて候。〔さなくては、下よわくなり候也。〕二字三字より後は、題の字を〔上下〕甲乙の句にわかち置べし。〔曙歸鴈、秋夕鹿などやうの、〕結題を一所におく事は、無下の事にて侍とかや。又〔一首の〕かしらに、〔題の字〕いたゞきて出たる歌無念と申べし。但し〔初〕五文字ならで、題の字のおかれざらんは、制の限にあらずとぞうけたまはりおきて侍し」爲家卿八雲口傳云「朝霞などあらん題にて、〔直(グ)に〕朝がすみと詠じ、野虫を〔直に〕野べのむしのね(367)〔と引つゞけ、〕曉鹿を〔直に〕あかつきの鹿、〔と引つゞけ、〕夕時雨を〔直に〕夕しぐれ〔と引つゞけ、〕夜千鳥を〔直に〕さよちどりなど、〔引つゞけて〕詠たらんはむげに事あさき樣に侍るべし。但(シ)難題は、かやうの事まで嫌ふべからず。題を上句に〔皆よみ〕つくしたるはわろく、只一句〔ばかり〕によみたるもわろけれど、〔それは〕堀川院百首題、一字づゝあれば、さやうならん題の、歌數も多くよまんには、はじめの五文字によみたらんもくるしからず」四條局口傳云「ある人、山家卯花と云題にて「山ざとの垣ねにさける卯の花は」と、〔題の字、残らず上句に〕よみ〔はて〕て、末〔の句〕は何とよむべしともおぼえ候はざりけるやらん」わきがへぬるこゝちこそすれ」とよみて候らひけるが、いとをかしとて〔かたり〕候らひき」などいへる、初心のほどの歌には常ある事也。今是らの題の字の置ざま、つゞけざま等の心得に、古人の作例、五七首出し、それにしるしをそへて、いさゝかさとすなり。其しるしの例は、
 歌の右に、〇――如此そへたるは、題の字を配りたる句どものしるし也。歌の左に、△――如此せるは、したてがらによりて上下に應じたる所ある印也。したてとは、譬へば花の歌を雪もて仕立、露の草を玉もて仕立たる類を云。さて前後に引る歌どもには、句中に俗言を加へて歌の心をしらせたれど、こゝには主とする所の印の邪魔になる故に省けり。
   山 花      從三位季經
 さ〔左△〕かぬまは〔五字左傍線〕花〔右○〕かと見えし〔六字傍線〕しら雲に又〔左○〕まがひぬ〔五字左傍線〕る山〔右○〕ざくらかな〔六字傍線〕
   河 月      山階入道左大臣
 久かたのあまてる月〔右○〕のか〔左△〕つら〔五字傍線〕川〔四字左傍線〕秋〔右○〕のこよひの名〔七字傍線〕にな〔左△〕がれつゝ〔五字左傍線〕
   忍 戀      從三位頼政
 あさましやお〔右○〕さふる袖〔五字傍線〕の下くゞるな〔右○〕みだの末を〔六字傍線〕人〔左△〕や(368)見つらん〔六字左傍線〕
〔以下あまりに入力が煩わしいので引用歌の題と作者と一句目だけにする〕
  初郭公       寂蓮法師
あくがれし
  雪朝野       前大僧正慈鎭
ながめやる
  山家嵐
山ふかみ
  船中見花      後京極攝政
ふもとゆく
  同         頼政
さくらさく
  深山曉月      鴨長明
よもすがら
  同         後京極
ふかゝらぬ
  被返書戀      皇后宮美濃
こふれども
  同         頼政
玉づさに
 竹風如雨       基長卿
なよ竹の
 同          匡房卿
風ふけば
(369)先荒増、是らの歌の左右の印を相むかへて、題の字のすゑざま、詞の應じ等に心をつくべし。すべて名人の歌は、かやうに一句もよわき句なく、むだ言をそへず。若(シ)あそびたる句あれば、却て歌に風品をそへていうびなり。此界に心せずしてみだりによむ歌は、入ほがといひて、そこに用なきむだ言の多かれば口調くだげて心とほらず。たま/\よきこといひ出したるも、猶打たる釘のきかざるやうにて、きく人の耳にこたへざる也。是(レ)歌の肝要なる所なれば、今少し引て、委しくもいはまほしかれど、下卷の風體(ノ)部にこゝど相兼て、かくざまなる歌あまた出したれば、彼(ノ)條と見合せて猶よく歌の意味をはらに入べきなり。
かくては、殊の外にむつかしいものゝ樣に聞えて、初心の輩、もし退屈の出こんかと氣遣はしくもあれど、是ははやく上手にしたさに、行々の心得どもを事のついでに先いひおく也。よみはじめには、何にもかまはず出まかせによみて、是らの事は、只時をり一つづゝも、心にさしはさみおきて、そろ/\と用ふべきなり。さて又悦目抄云「題をよく心得べきやう、題の文字は、三四字、五字ある題も、必ずよむ文字〔と、〕よむべからざる文字〔と、又外の詞に〕まはして、〔其〕心をよむべき文字〔と、〕さゝへて〔直(グ)に、其まゝ〕よむべき文字〔と〕の〔けぢめ〕あるを、よく/\心得〔分て、〕よむべきなり。心をまはしてよむべき文字を、〔たゞに〕あらはによみたるもわろし。〔又〕たゞあらはに〔むき出して〕よむべき〔文字〕を、〔詞を作りて、〕まはしてよみたるも、くだけてわろく聞ゆ。必ずよむべき文字とは、天象、地儀、
植物、雜物など、〔すべて體あり、形ある物〕をば、題のまゝによむべきにや。必ずよむべからざる文字とは、たとへば野外、河邊などの、外〔の字〕邊〔の字〕の類なり。〔海上、霧中、雲間などの、上中間等の字は、丸では捨ず、いひ廻(ラ)して少し其字のことを含まする(370)例にや〕云々」此事下の落題の條に引(ク)、爲家卿の口傳にも見ゆ。さて廻らすといふこと、右の釋にて大かた心得らるべけれども、猶字數多き題もて慥にいはゞ、たとへば、
   臨期違約戀
 おもひきおや〔五字傍線〕しぢのはしがきかきつめて〔七字傍線〕もゝ夜もおなじまろねせんとは〔八字傍線〕
   等思兩人戀
 いづかたに夜がれんこと〔いづ〜傍線〕のかなしきに〔五字傍線〕ふたつにわくるわが身ともがな〔たつ〜傍線〕
これらのたぐひなりつ又悦目抄の上の續きに云「春〔の何、〕夏〔の何、〕秋〔の何、〕冬〔の何、〕とあらん題を得ては、題の字のまゝにもよみ、〔また〕其時の景物をとり〔出〕てもよむべし。〔是らは耳にさはらねば、〕先達も皆かよはしてよめり。大方題を得てよまんには、〔其〕題の外の事をよみ交ふべからず。〔俗に道具立多くては、ごた/\としてうるさくきゝにくし。〕其題のことわりを、〔一ツ心に眞すぐに〕よくつゞけぬべし。但(シ)題によりて、〔たとへば、柳に風、草に露の類は〕よみくはへたるもくるしからぬ事もあり。〔物によりて、其難なき事など、〕よく/\思ひはからるべし。又立春、〔初春な〕どいはん題に「霞たち」「雪きえ」「氷とくる」躰の事は、みな春の初の景氣にて、〔是らは〕題の外の物とも見えぬなり。〔それも五十首〕〔歌〕百首歌などよまんには、傍(ラ)》の題に〔別に〕霞の〔題〕あらんには、立春、早春の歌には、霞ならぬ〔外の〕風情をめぐらさんとおもふべし。是にて何れの題〔の上を〕もおしはからるべければ、數々〔は〕記さず云々」長明無名抄云「題〔詠〕の歌は、必ず心ざしを深くよむべし〔とむかしよりをしへたり。そは〕たとへば、祝ひには〔濱の眞砂はよみ盡すともなど、〕かぎりなく久しき心をいひ、戀には〔僞にも、身をすてゝ〕わりなく、浅からぬよしをよみ、もし〔或〕は命にかへて花をゝしみ、家を忘れて(371)紅葉を尋ねん〔などの〕如く、其物に〔ひたすら〕心ざしを深く〔執著して〕よむべし。古集の歌どもの〔中に、〕さしも見えぬ〔もある〕は、〔その〕歌ざまのよろしきに依て、其難をゆるせるなり。歌合などに、〔左右〕おなじ程なる〔歌の位〕によりては、今少し〔も、〕題〔意〕を深くおもへる〔方〕をまさると定むる〔例〕なり。〔是を物に〕たとへば、説法する人の、其佛によくさんたんする〔ほど、殊勝なる)が如し」又云「〔されば其〕題を必ずもてなすべきぞとて、古くよまぬ程の事をば、〔みだりにとり出ん事は〕心すべし。譬へば郭公などは、山野を〔遠く〕尋ねあるきて、きく心を〔常に〕よむ。鶯などは待心をばよめども、〔野山を〕尋ねてきく心をば、〔昔より〕いと〔しも〕よまず。又鹿のねなどは、聞に〔いみじう〕もの心ぼそく、あはれなるよしをばよめども、〔それにしては〕待よしをはいはず。かやうの〔ならはし〕事など、は〔自然のわざにて、背きがたきものなれば、格別〕ことなる秀歌など〔に〕なくば、必〔よけ〕さるべし。又さくらをば、〔身を忘れて〕尋ぬれども柳をば尋ねず。雪などは待心をよみて時雨、霰などをばまたず。花をば命にかへてをしめども、〔同じく愛する〕もみぢをば、さ程にはをしまず。〔是はちりながれて、〕〔後に、めづる方もある故也。よろづにつきて、〕これらのちがひめを心得ねば、〔題のならひも、歌の〕故實を〔も〕しらぬやう〔にて、見ぐるしき〕なり。よく/\古歌など〔のよみ口、こゝろ入等〕をもおもひときて、〔其〕さま〔其〕程に隨て〔品よろしく〕あひはからふべき也」夜鶴云「初學抄に〔物を賞してよむとて、〕四季の歌は、〔あまり〕空言したるはわろし。只有のまゝに、〔いうに〕やさしく執成てよむべし。戀の歌は、〔口ざかしう〕利口〔によむが習ひなれば、〕空言多かれど、わざとも苦しからず。〔彼古歌に〕枕のしたに海はあれどむねは富士、袖は清見が關〔などよめる)も、只おもひの〔深く、〕せつなる風(372)情をいはんとて〔のわざなれば、〕いかほどもよそへいはん事、四季の歌〔のよみ方〕に〔は〕異なるべし。〔又雜の歌も、天象、地儀、凡て景色にあづかるべきは、其實を失ふべからず〕と申され候らひき。〔但(シ)〕又四季の歌の空言もやうによるべし。〔かの花時鳥などを命にかへてをしむ類は、戀の情と同例なり。又〕遍昭僧正の「玉にもぬける春の柳か」、とよまれたるをはじめ、「有明の月と見るまでによしのゝ里にふれる白雪」、〔とよめる類、又雪を花、〕花を雪に似たりとも執成せることゞもは、僞ながらまことにさ〔やう〕おぼゆるわざなれば、〔その類は、いかやうに巧みいふとも〕苦しからず。〔物によりて見計ふべし〕」などぞいへる。是にて中昔の題詠のをしへざま、大抵事足べし。此後久しく亂世を經し程に、人いたく俗になりて、あらぬ事ども附そへいへる、多く成にたり。大かたはとりはかるにたらず。後の俗書にまどはさるゝ事なかれかし。
 
こゝろの種中
 
  ○題の虚字心得あるべき事
初學抄云「虚字〔も、常にはよむ字多かれども、題中に結びたる〕はすべて〔外の詞に云(ヒ)〕めぐらしてよむべし。〔題はしてよきもあれどそれは稀の事也。〕虚字とは〔物の體なく形なきを云て、即〕辭の字也。此虚字を〔詞の上に〕さゝへてよみたるは、落題傍題よりも、無念に聞なさるゝもの也」悦目抄云「めぐらしてよめと云は、すべて〔の〕辭の字也。たとへば、鶯聲稀など申さん題に、さゝへて〔直(グ)に〕こゑまれなりなどよむべからず。〔口まねしたやうにて〕念なるべし。〔もしは〕見「なく日すくなし」とも「久しく聞ざりつるに、今こそめづらしけれ」など〔やうに〕よむべきなり。又郭公幽などいはむ題に〔直(グ)に〕「かすかなり」とよめらんは、〔いよ/\〕ほいな(373)かるべし。〔只〕「ほのかにきこゆ」とも「雲ゐはるかに過ぬ」とも「をちのさとには、〔猶〕さだかにこそ聞らめ」などつゞくべきにや。又月前遠情など申さむに、〔直(グ)に〕とほきなど〔云詞を顯はして〕よみたらん、〔是も〕念なかるべし。月を見れば更科おばすても心にうかび、もろこし迄も隔てずおもひやらるゝさまをよむべきなり。又深(キ)雪など云題を、〔すぐに〕ふかしとよめらん、〔是又〕心うかるべし。只「ふみ分がたし」とも「いくへつもらん」とも「かきわけて」なども〔とり廻して、いかやうにも〕深き事にたとへよみたらん、やさしかるべし。すべて戀述懷の題に、かやうのこと多かるべし」といへり。今此事を古歌もてしらせんに、其歌の意を、きゝしらずしては覺束なかるべLとて、こゝには引所の歌の句中に言をそヘて、只彼(ノ)虚字をまはしていへる句にのみ「如此印せり。されば右の題の字の置ざま、詞の應じ等の上迄は、こゝにはこんざつをいとひて得しるさず。それらの事どもは、上の條になずらへて心得べし。
   紅葉滿〔右○〕v水        範永
 大井川〔の水(ノ)上には、いつも向(ヒ)なる小倉山の影がうつるが、此比は一面に〕ち〔りしけ〕るもみぢばにてらされて〔其〕「をぐらの山の影も〔はひるせきがなくなりて、〕うつらず〔なつた〕
   紫藤藏〔右○〕v松        良暹法師
 〔平日見馴た〕松〔も隱れて、見えずなつた。若(シ)〕風の音〔の〕せざりせば〔この〕藤なみを「何〔の木〕にかゝれる花と〔か〕しらまし〔風の音計でそれと心づいた〕
   落葉埋〔右○〕v菊        家經
 〔菊が咲て居たが、今朝はどこへか行(ツ)た。ふしぎな事ぢや。もし此ちり敷たる〕もみぢばの「外〔の所〕より高くつもれる〔下〕や〔其〕菊のさけりし所なるらん
先是らの歌、滿〔右○〕、藏〔右○〕、埋〔右○〕等の意、詞の上には顯はれずし(374)て、自然と一首の中にこもりたり。されば右の印せる句を上下の詞どもに相合せて、其まはしたる意を心得べし。こゝはわづかに其主たる句にのみ印せり。次々の歌どもゝ是になぞらへてよ。
   瞿麥夾〔右○〕v水        源仲正
 〔此花の並んでさかぬは、どう云事ぢややら、あゝこれは〕夏草の下ゆく〔うもれ〕「水にわけられて〔此やうには〕二かたにさく〔ぢや〕〔この〕やまとなでしこ〔の花は。〕
   風傳〔右○〕2隣花1       坂上定成
 〔大事の〕さくら〔の花が〕ちる〔と云て〕となり〔の家〕に〔なげき〕いとふ春かぜは〔こなたへ吹傳へ來て、〕「花なきやどぞ〔この比は却て〕うれしかりける
  松聲入〔右○〕2夜琴1       齋宮女御
 〔わがひく〕琴のねに〔ひゞきくるは、〕みねの「松風〔やこゝに〕かよふらし。〔物の似たるをもかよふと云が、よく似て同じやうな音がする。さて琴は緒をかきならしてしらぶるものぢやが、あの松風は〕いづれの〔山の〕をよりしらべそめ〔て、あのやうなよい音が聞ゆるなり〕けん。
   緑松臨〔右○〕v池        惠慶法師
 〔池の底をもこゝろと云が、もしや心がありなば、〕誰に〔ゆづらん〕とか〔其〕池の心はおもふ〔なる〕らん。〔おれと同じく主人の君にとの心と見える。〕〔水の〕「底に〔ふかく〕やどれる松のちとせを〔ば。〕
   擣衣幽〔右○〕       定家卿
 秋風〔の吹〕に「さそはれ〔たゆむに〕きえて、〔あの〕うつ衣〔の音の、ひとりではこゝ迄〕及ばぬ。〔遠き〕さとの程ぞ〔しられてたえ/”\に〕聞ゆる
   寒菊纔〔右○〕殘
 〔外の所は皆霜枯たるに、こゝのみ落葉に包まれて居たと見えて、けふ〕ふく風の〔少し吹(キ)〕はら(375)ふ「木のはの下ばかり〔枯のこりて、〕霜〔の〕おき〔からし〕はてぬ野べの冬菊〔かな、〕
   池水半〔右○〕氷       後京極攝政
 池水をいかに〔して〕嵐の〔半分/\に〕吹わけて〔一方〕「氷れるほどの〔廣さに、今一方の氷の、〕氷らざるらん〔ふしぎな事ぢや。〕
此、外、前、後、遙、長、短、年々、時々、漏、遲、遲速、早、期、初、終、盡、遂、送、漸、延、増、添、繞、連、礙、隔、籠、藏、掩、重、帶、映、等、浮、關、落、解、隨、飛、伴、獨、動、招、對、留、驚、翫、愛、擇、勝、戴、移、拂、催、知、不辨、交、比、依、及、纔、不改、不異、同、似、如、皆、不定、多、少、有、無、不一等の類常にいと/\多かる、皆准へて知べし。
  凡そかゝる虚字のよみざまを、手近く見合にすべきものは、清輔朝臣の一字抄【二卷】、後水尾院一字御抄【二卷】等有。右等の虚字一目に見わたされて、甚都合よきもの也。清輔朝臣の比、未(ダ)題林やうのものはあらざりしを、畢竟此虚字のよみ方は、大切なるわざなる故に、はやくさる書も作りおかれたるにこそ。
こゝに心得ぬ事あり。おほよそかくしも、中昔の人々のいとも大切なる事にいましめられて、和歌の家々には、是を第一の教へとせられたるよしなるを、近來となりては、世に大人先生とよばるゝ人の歌にも、常に此虚字を顯はしさゝへてよめる歌の見ゆるは、いかなる事にかあらん。ひそかに按ずるに、古學の徒は、彼(ノ)今京以後をないがしろにいひおとせりし、眞淵翁を祖とせるより、おのづから其僻をうけて、中昔以後のものは物の數ともせざるより、輕しめあなづりて、歌論の書などはろく/\に見ざる故のあやまちとぞおぼしき。既に麿なども若かりし程は、然かおもひつる事も有しかど、皆たゞ一旦の了簡にして、つひに英雄人をあざむける僻ある事に心づきそめて、中古のさだめを見もてゆくに、さすが(376)に、心ざしを、深く入けむほど有て、歌の位、是非善惡のさだめ甚正しく、何くれの心得ともいへる中に、後の今よりは思ひ及ばれぬ事どもの多かるより、わが心ざす學問の妨とはおもひつゝ、ある限りはとてうか/\と見ふけりつるをりもありき。後はさるすぢに心もとめねど、一たび經て來し心より、今も古學の徒の、歌のさだめを見きく事あるに、たゞ面々のすき/”\にまかせて、先達の、わづかに手近きさだめをも見しらずていへることの多かるも心ぐるしく、又然か心に足れる規則なき故にやあらん。いづれも上手によむちからは持ながら、其見わけ至て下手にて、却て自らわろしと思へるがよく、よしと思へるがわろきやうの事ども、常あるもよそながら氣の毒なり。是をおもふにも、今より後のわかうどは、もの學びこそあれ、歌の上の心得はたゞ/\中古の人の、私なき定めにつきてよむべきなり。
凡そかゝるすぢを心得んに、歌合の判詞とはいへど、歌合は高貴に諂ひ、時々の權家におもねり、又〓じひにもの知ぶりして、しひて詞のさり嫌ひせるやうの事どもありて、却て正しからず。それよりは、一箇の存念を不憚述られたる歌ばなし、歌論のたぐひぞこよなくまさりたる。それも皆よろしといふにあらざれば、かならず取捨はあるべきなり。その大抵は、
新撰髄脳【一卷】、清輔朝臣(ノ)奥義抄【四卷】、同※[代/巾]草子【四卷】、同初學抄【四卷】、基俊朝臣悦目抄【一卷】、俊成卿和歌肝要【一卷】、後鳥羽院御口傳【一卷】、鴨長明無名抄【二卷】、同瑩玉集【一卷】、順徳院八雲御抄【七卷】、定家卿和歌式【一卷】、同和歌庭訓【一卷】、同愚秘抄【二卷】、同桐火桶【二卷】、同三五記【二卷】、疑僞書歟、家隆卿和歌口傳【一卷】、阿佛尼夜鶴【一卷】、爲家卿八雲口傳【一卷】、辨入道簸河上【一卷】、良基公近來風體抄【一卷】、頓阿法師井蛙抄【六卷】、同水蛙眼目【一卷】、同愚問賢注【一卷】、等なり。此外にも多かり。南朝の比より以前の(377)物は見べし。それより後となりては既にも云(ヒ)つるごとく俗説多くなりて、取捨尤大切なれば、見ずとも事の欠べきにあらず。さて此所にかく云は、歌學を立んの志ある人に云事にて、只歌よまんのみは、今此書に引所、撰格に云所にて事は足べし。本書どもは、いづれもいひやう無調法にて、其比の平語ながら、今よりは耳うとき事がちにて、飽(キ)てよみがたきもの多かり。
 
  ○落題傍題の事
爲家卿八雲口傳云「三十一字の中に、題の字〔よみ〕おとす事をば、ふかく是をなんじたる、但し〔わざと其字を〕おもはせてよむことも〔まれには〕ありつ〔それとかれと、思ひまがふ事勿れ。先其おもはせたるは、〕
   紅葉浮v水        資守朝臣
 筏士よ〔其筏の上におびたいしいもみぢのつもりやうかな。やよやしばし〕まてことゝはん〔汝が下り來たる、其川の〕みなかみはいかばかり〔木の葉を〕ふく嶺のあらし〔なりし〕ぞ〔や〕
   月照v水         經信朝臣
 すむ人もあるかなきか〔と云ばかり〕の〔かすかなる難波わたりの〕やどならし芦間の〔水にやどれる〕月の〔軒端を〕もるにまかせて〔ともし火も見えざるは〕
此二首は其所にのぞみてよめる〔心ばへの〕歌なれば題を出したれども具今〔目前〕見るさまにゆづりて〔題の〕紅葉、水を〔含め〕よめるなり」とあり。今云、彼(ノ)公忠卿の落花のうたに、
 膜もりの伴のみやつこ〔物のあはれしる〕心あらば此〔南殿の花のちりしく〕春ばかり〔は〕朝ぎよめ〔の掃除をば〕すな〔よ〕
とよみたまひたるも右の類也。又前(ヘ)がきあるうたには、其前文にゆづりて、其物を省く事常なり。是は(378)し書のうたと、題詠とのおのづからのけぢめ也。又八雲口傳、上の文のつゞきに云「五月四日、歌會、時鳥、
 五月雨にふり出てなけとおもへどもあすのあやめのねをのこすらん
此歌〔五月四日、云云とはし書してよめるならばよろしかれど、題にてよみたるゆゑに、皆人々〕落題と難じたり」とあり。是にてはしがきと、題詠との差別を心得べし。
近來風體抄云「歌の傍題と申事は、〔其主とする〕題の物にてはなくて、こと物をよみそふる〔事あるに、其添たる物に、主意をとられたる〕を申事也。又數歌をよむに、〔彼にも是にも〕同じ事のあるをも傍題と申なり。三首五首のうたには殊に嫌ふべし。百首などの時は、雲霞やうの物はいく度もくるしからず。〔只耳立ものは斟酌せよとなり。〕」又同書云「傍題といふばかりはあらねど、同季、同等の物を〔一首の中に、〕合せよむ事このむべからず。〔多くは未練の人のわざなり。勝れてよき思ひよりのあらん外は、〕たゞ其物を〔一ツ心に〕いひはやすこそよけれ。梅に鶯、もみぢに鹿の類だにいかゞに聞ゆる多かり」といへり。或書に引ていはく、
 うぐひすのきつゝ鳴ずば梅の花けのこる雪に猶もまがはん
此歌、ある人の鴛の題にてよみたるを、傍題の難あるに依て法樂〔の歌の列〕にくはゝはらず云々」とあり。
 
  ○歌を案ずる時の心得どもの事
    附物の異名は斟酌すべき事
定家卿庭訓云「歌〔をよむに〕は、まづ心をよくすますが〔第〕一のならひにて侍り。〔さて〕わが心には日比おもしろしと思ひ得たらん〔古〕歌〔ども〕を心におきて、それをちからにてよみ〔出〕侍るべし」又同書云(379)「〔歌はあやしきものにて、時によりて〕沈吟事極り、案情すみわたれる中より、今とかく〔案事わづらひ〕もてあつかふ風情にてはなくて、〔ふと〕俄かにかたはらよりやす/\とよみ出したる中にも、いかにも/\秀逸は侍るべし。〔それも始めに沈吟極りて、神のはたらき出たるなれば、出來ぬはやがて出來る種なり。出來ぬをりも、其案をたやすくすつべからずとなり。〕」爲家卿云「うたを案ずるには、おもひを八方にめぐらして、一隅に窮むべからず。時に臨て物を見、〔古歌作例等の〕言を尋ぬるもわろし。又〔しひて古〕歌にはなるゝもわろし。〔亡父卿の時よりの口傳に、〕たゞわが心にふかく感じたる歌を、〔五首なり、十首なり〕そらんじおき、心の内にいくたびも誦しをれば、それが種となりて、案盡たる時もいと思ひの外によまるゝもの也云云」是を引て、ある説に云「こはもと伊勢が中務に、十首の歌を記しやりて、生涯此十首を種とせよといひしより出て、近くは俊成卿より定家卿へつたへ、定家卿より爲家卿へ傳へ給へる、和歌の極秘なり」といへる、今おもふに、此説はうそか眞か知がたかれど、此傳によりて、むかし今、名人となれる人々の多かるを思ふに、實に最第一の覺悟なるべし。近來風體抄云「當坐の歌は、まづわろくとも〔うかび次第に〕よみおきて、かさねてともかくも直す〔べき〕なり。〔一二首よめば心もおちつく上に、次の案情を誘ひ出る種ともなるもの也。〕貫之は立ながら、しづくににごる〔山の井の〕と〔云歌を〕よみ〔いで〕和泉式部は、はるかにてらせ〔山のはの月〕など云歌〔をよみ出たる〕は、骨ををらずして秀逸を得たる、道のほとりにて金を得たるがごとし。〔かゝる類ひ昔も今も多かり。これ皆平日の心がけ厚きが故に、時として神のあぶれ出るなり〕云々」此類の事は猶いと多かれども、是彼の物にもいで、前後にも見合すべき事どもあれば、その要たる事、一二擧て止つ。さて事のついでに云、(380)八雲口傳云「名譽ある題どもを、わざと異名をもとめて、〔たとへば〕虎をすがるとよみ、若草をさいたづまとよみ、萩を鹿鳴草とよまん〔類の〕事〔は〕このむまじき也。牡丹をふかみくさ、蘭をふぢばかまとやうに、こゑのよみ物は異名なくてはかなふべからず云云」今云、此御説の中「すがるを鹿の異名」とするは、其ほどの誤なれど、大かたの異名を制し給へるは、實にさる事なり。何人のしわざにかありけん。秘藏抄、莫傳抄など云ものに、あまたの物の異名を出せる、多く出所なきことゞも也。浮世の俗書どもに引出たる、これかれ見ゆ。此制禁を忘れて、さる物にまどふ事なかれかし。
風體抄云「寄v月と、月前とは〔大略〕同じ事也といへども、月前の題にて〔は、〕兩夜の月〔又〕入後の月など〔は〕わろし〔と云り。〕又云、雜(ノ)題に季をよ〔みこ〕む事は、當季は苦しからず。他の季はわろし。〔但(シ)旅宿などは自然と秋によみ安く、嵐などは冬に似合事もあれば、物によりては其時々の季ならでもよき事も有べし〕。又云、歌合には、月の題に有明、花には落花をよむべからずと云り」などあり。これらは常によく人のとふめる事故に、事のついでに引おくなり。
 
  ○歌を人にさとす心得の事
定家卿庭訓云「歌は〔心を種とするわざに候へば、〕人〔々〕の氣の趣を見て、〔其人相應に〕さづくべきにて候。其〔人の〕機にかなはぬ體ををしへて、何がよく候べき。只佛の説たまへるあまたの御法も、衆の機にあたへ給へるとかや。〔歌も〕それに少しもたがふべからず。〔教ふる人の〕わが好むやう、〔わが〕うけたるすがたなればとて、〔しひて〕此體をよめと〔云て其風をば〕得ざらん人にをしへ候はん事、かへす/”\道の魔障にて候。〔師はたゞ邪道をふせぎ、近道をこそ導くべきなれ。世のなま/\の師は、〕此趣を(381)わきまへかねて、〔誰にもかれにも〕只わがよむやうをまなべとのみをしふる事、無下に道をしらぬ〔ひがりやうけん〕にて侍るべし」こはさづくる人への御さとしなれども、習ふ人の心得にもなるべき事どもなれば、こゝには出しつ。さてもかたじけなく、貴き御さとしかな。此御さとしにつきて、つら/\おもふに、其むかし後京極(ノ)攝政には、高くいうびなる姿をつたへ、鎌倉右大臣には、古く雄々しき姿をさづけ、西行法師には、求めず有體なる姿をしめし給ひし類ひにて、あまたの人々を、其機に應じて皆それ/”\に引立給ひたるも、此御心おきてのましける紋にこそ。又かゝる御心むけのおはしける故に、人もあまた在し世なりつれど、此卿を一時に世こぞりて尊崇しけるもうべにざりける。此御さとしをもて、後のをしへどもの、いたく道に背ける事をもしり、人々むき/\に習ふ心得ともすべきなり。いかに古學先生出て、似我蜂の我に似よとをしふとも、つひに蝉はせみ、毛虫は毛むし、とんぼうはとんぼうと、おのがむき/\化しかへるもまのあたりなり。いはんや人のこゝろの面のごとくにして、神代よりよむ歌の、萬世に盡る期なき程のことなるにあらずや。
 
  ○初心のよみ口にわろきくせある事
清輔朝臣の初學抄云「〔歌は〕いづれの題にても、其〔感情、餘情あるべき〕風情〔の方〕に、〔ふかく〕おもひ入てよむべし。たゞ題を〔其まゝ〕さゝへて、〔其〕題の字をいひのべたるやうならんは、〔題の釋をなしたるのみのやうにて、〕むげにきかれぬものなり」といましめられたり。さてかく此程の詞に風情といへるは、今いはゆる其趣巧にて、ひとふしある思ひよりの事也。實に後世となりては、殊に此くせ多かり。就中初心の歌は、大かた題の釋にて、其字面に注し(382)たらやうによむものとさへ、おもひとれるさまに見ゆ。所詮此病をまぬがれて、風情の方に心深むるやうにならぬうちは、よき歌は出こぬなり。されば大事のことなれば、今此事をさとさむとするにさとしやうなくて、ひたとこまれり。いとせめてうたもていはんに、たとへば先(ヅ)獨摘若葉といふ題をよまするに、
「春淺み雪げのみづに袖ぬれて澤べにひとりわかなつむなり」とやうによむ。是今世の初心の、十人が十人まぬがれざる所なり。かくては、たゞ獨滴と云題の字の口うつしにして、感も興もなし。畢竟ずる所は、題にはえあらするが歌なれば、題にはなれて、題に背かず、平語して云格とはふりをかへて、一ふしいひ出ずては聞人の耳にとまりがたきわざなり。もしはおなじこヽろも、
 「雪げせし野澤の水に影見ればひとりはつまぬわかななりけり」かくもあらば、ひとりはつまぬといひなせるあたりに、少し風情は有べし。此氣味合は、江戸人の所謂しやれと、常の詞とのわかちの如し。歌はしやれに當り、彼(ノ)うつしたる樣なるいひぶりは常の平語に當れり。さて卑しきしやれの耳にとまるも、平言とは其いひなしに別なる所のある故也。いはんやあはれを述る歌のうへをや。よく此界をわきまへて、古人の風情とをしへ置れたる方に思ひをいれつべきなり。
  但し勝地の風景、世にめづらしき事の上、又哀傷述懷等のせつなる事の上は、たゞ有べきまゝによむぞよき。そは右の類はかざらずとも直に其事の上に感情あれば也。既に感ある事に別に趣巧を附添る時は、却て實をうしなふ事多かり。凡て何事も俗言にうつして有べきまゝに咄にしても、人の耳に入べきすぢがらは、皆平語の格によむべきものと心得べし。これ又實事の咄しと落し咄しとのけぢめの如く也。此二ツの内、(383)實事咄しの有べきまゝにて感ある事の上は、たゞ言によむわざなればさとす事もすくなきを、作り咄しに至りては、上手下手のあるやうに、さしもあらぬ物の上を題にてよむには、風情趣巧の取方いひなしつゞけなし等の上に、至て上手下手ある故にさとす事も又多きなり。よく/\此界を心得わくべきなり。又其題詠にも情と理りとをよく述て其感を聞するもあり。そは次に出す歌どももて心得てよ。
又山花始開といふことをよますれば、
 いつしかと待遠かりし山ざくらけさこそ花は咲そめにけれ
とやうによむなり。かくてはたゞ題をいひ延(ヘ)たるのみにして、聞人「そりや當り前の事じや」といはんやうなり。但しむかしの歌にはかやうなるも是かれ見ゆ。それらは皆時にふりたる姿也。もし其人の名を頼み其歌をあてにしてよまば、甚時に不向なる歌よむべきものぞ。是によりで貫之ぬしは「歌とのみ思ひて、其さましらぬなるべし」といはれ、公任卿は「古集の歌ざまをよみてわれのみよしとおもふとも、時世の人のうけぬ事はあぢきなきわざなり」とはのたまひたり。さて今右の心を、一ふし實情の方もていはゞ、
 いつしかと待々て又山ざくらけさよりちらん事をしぞおもふ
又其風情をかろくやすくいひとらんとならば、
 山ざくら咲にけらしなきのふ迄尋ねかねつゝ過しこずゑに
かくちよつとした中にも、其思入をくはへだにすれば、やがてふしとも、風情ともなりゆくが歌の奇妙なる所なり。是ら右に云咄しならば、只平語(ノ)格にて、詞の上には餝りもなけれど、其譯(ケ)がらに少しきゝ所のある類也。是を以て、彼(ノ)風情と云にも「いひなしの風情」「心の風情」等のわきある事をさとりてよ。(384)こゝに又さやうの結題はよめぬもことわり、只二字題にて山花、川紅葉をよめといへば、
 みよしのゝ高ねのさくら咲しより只しら雲にまがひぬるかな
 たつた川ちるもみぢばの流れきて水もさながら錦しにけり
とやうにぞよむなる。是らは花を雲、紅葉を錦と見たてたれば、其風情なしとにもあらねど、其いひなしざま今更めきて、其風情あまりに耳ふりたり。されば既に斯る無名抄云「むかしはたゞ花を雲にまがへ、紅葉をにしきにおもひよするををかしき事とせしかど、既に其心いひ盡したれば、今は雲の中にもさま/”\の雲を尋ね、錦につきてことなるふしをたづぬ」とはいへり。然るに今時、たゞ花を雲、もみぢを錦と云のみをふしとせむは、千歳以前に絶はてける長柄橋を、只今絶たるやうによみ出したると同じことにて、あまりしきおそまきならずや。されば中背後の人々はかゝる題をとりておなじしたてをおもひよりても、おの/\其雲、其錦に風情をもたせてよまれたり。こゝに二三首出していはゞ、
 さくら花咲ぬる時はよしの山たちものぼらぬみねの白雲
 さかぬまは花かと見えし白雲に又まがひぬる山ざくらかな
 よしの山みね立かくす雲かとて花ゆゑ花をうらみつるかな
 立田川ちるもみぢばゝ水のあやにかさねておれる錦なりけり
 から衣たつたの山のもみぢばゝはた物ひろきにしきなりけり
 故郷にかへると見てや立田姫もみぢのにしき空にきすらん
凡かやうに、同じ雲、同じ錦にも、おの/\一ふしづゝの風情をいひよせてよみたり。まして後の今は(385)又いよ/\心詞つゞけなしの内、いづれにも思ひ入たるふしなくてはえあらぬ理りならずや。かくいはゞ甚むつかしきことのやうなれど、一ふしとて異なるにあらず。わづかに一二字のいひなにして、こよなく耳に留る事も常多く、又風情とて新規に趣巧をまうくるにもあらず。たとへば納涼の題ならばいかにも凉しげなるふしを思(ヒ)入(レ)、閑居の題ならば、ひたすらしづかなるふしを考へ出てよむ類を云(フ)。然るに初心のほどは其凉しき風情、閑かなる風情の方は深くも求めずして、只詞のうへに「風ぞすゞしき」「宿ぞさびしき」などいひてやむめる故に、たゞ題をいひうつし、字を釋したるやうにはなれるなり。
  但し其凉しき風情、閑かなる風情を一首の中にいひはてゝ、句の餘り有なん時は、更に其詞を添云とも苦しからず。そは戀のうたに「こひしき」哀傷の歌に「かなしき」と添てよむ類にて、古歌にも多あり。
大かた是らにて、すべての上をも、風情の方に深く思ひを入て、世に「勿論の事じや」「當り前の事じや」「いはずとも其通りじや」などは聞なされず。一首の心か、詞かつゞけなしかの三の内、何方に付ても此一ふLを聞せばやと思(ヒ)入てよみ習はん人は、速かに上手になり、此師傳なく、たゞ世の並々に、題をいひうつすを、歌と思ひてよみをる人は、一生下手にて果る也。あはれ上手と下手とはたゞ此界にあり。かく太切なる界なれば、いかにも丁寧に教へたけれど、はじめにも云如く、此意味合は、さとすに詞もたらず、仕法もなし。依て下卷の眼目の條に、再び昔の名歌を出し、其句々にしるしを付てしらせたり。これかれ見合せてさとりてよ。かく手をかへ品をかへ、工夫をこらして教ふるも、どうぞして此微妙の界をよく呑込せたいとおもふ深切のあまりなり。見る人も又其おもひやりあれかしな。
 
(386)  ○名所をよむ心得の事
爲家郷口傳云「名所をよむ事常に〔誰もよみて〕名高く聞えたる所をよむべし〔開なれぬ所をよめば、それにつれて歌がらもものげなくきゝくださるゝもの也〕但し〔旅などして〕其所に臨でよまんは、耳遠からむも苦しかるまじきなり云云」此事は、清輔朝臣、定家卿などの御説にも是かれ見えて、實に然かあるべき事なれば、初心の輩に此旨をしめしてよまするにたとへば、
 明がたのみ空のほかの郭公玉のよこやま〔五字傍線〕なきて過なり
 いつしかとめづらしきかなをの山〔三字傍線〕の松のうはゞにふれる初雪
とやうによむなり。かくては其山には限らで玉の横山をくらはし山とも、あかしの浦にとも、何とも引かへられ、をの山を、鳥羽山のともすまの浦のとも、いか樣にも取かへられて、其所の所詮もなし。古人の歌には、大かたよせをそへて、其名所の動くまじきやうにぞよみたる。よせとは、たとへば古歌に、
 常磐山かはる梢は〔八字傍線〕あらねども月こそ秋の色は見え〔六字傍線〕けれ
 ふる雪に杉の青葉〔四字傍線〕は埋れてしるし〔三字傍線〕も見えずみわの山本〔五字傍線〕
是は、其名所を物のよせ、詞のよせもておさへたり。
 さゝなみや釣するあま〔五字傍線〕の袖迄も雪にぞかへる志賀の浦風〔十一字傍線〕
 大井川みゆきふりにし〔十字傍線〕色ながら入江の松〔四字傍線〕に夏も來にけり
これらは、其所をよめる、古歌の詞をいひよせておさへたり。
 よしの河〔四字傍線〕いはせの浪による花やあをねがみね〔六字傍線〕にきゆる白雲
 秋迄はふじの高ね〔五字傍線〕に見し雪を分てぞこゆるあしが(387)らの關〔六字傍線〕
是らは其名所に相近き地をいひよせておさへたり。先是にて荒増よせを添て、其名所の動くまじくよむさまを心得べき也。又或は其よせ輕くして動くといはゞ動くさまにもあれど、大略其地に似つきて聞ゆるさまなるは子細もあらぬなり。そは、
 明わたるをじまの松の梢より雲にはなるゝあまのつり舟
 ちらぬよりもみぢに浪はうつろひぬつたの下行うつの山川
などのたぐひなり。又
 もとこえし道とも見えず箱根山こずゑの雲にあまる高ねは
 かすが山岩ねのすゞを吹風の音もすゞしき秋は來にけり
是らは、別によせといふもあらざれども、にくからず相似合て、子細なく聞えたり。古き歌にはかやうなるが多かるより、それをうかつに見て、了簡ちがひせるわざなり。さればよく此似合(フ)と、似合ざるとの界を味はへで、動くと居るとのわかちを知べきなり。又必ずしもよせ有べきものとかたくなに心得て無理にいひよせたるも聞ぐるしきもの也。就中名所を二ツあひ合せて、たとへば「音羽山にあふみの海」「ふしみ山にうぢ川」「いぶきのだけに不破の關」などやうにいひよする事昔一たびおこなはれて、秀逸もありしより、今も高き姿と心得て、其まねをする人いと多かれど、其取合せたるのみをふしとしたるは、むげにきゝ所なきものなり。
 音羽山夕こえゆけば久かたの月ぞいざよふ志賀のうら波
 たかし山夕こえはてゝやすらへば濱名のはまにもしほやくみゆ
 ふしみ山ふもとの霧の絶まよりはるかに見ゆるうぢの川波
(388) 雲かゝるいぶきのだけをめにかけて越ぞかねつる不破の關山
 さゝ浪やこだかみ山に雲はれてあしりの沖に月おちにけり
こは昔の歌なれども、それすら猶古人の口まねしたるやうにて、今更めきて聞ゆ。まして今時の人の、又此まねしたらんをや。凡此姿なる歌は、その境にいたりて自ら感發せし時のわざにて、もし然らずば其景色目前にうかび出て、げにさる事哉と感ずる所あるほどならずては、無益の事なるべし。
又八雲口傳、上文の續きに云「〔もし〕さらでは〔其歌にとりて〕少もよせよかりぬべき所をもとめて、よく/\案じつゞくべし」と有。此よせよかるべき所とは、其よむ物の上に、用ある地名をとりてよむを云。たとへば、
 霧はれぬをぐらの山の高ねよりこゑばかりして鴈わたるなり
 雪ふればしらぬ翁のかゞみ山松もさながらおもがはりせり
などの類也。猶此外、あかるき事にあかしの浦、きよき事に清見潟、遠き事にとほちの里、近き事にちかの島をいひよする類多かり。又名所の名に就て、殊更にしたてよむわざも常多かれど、實は其景色につきてよみたるにはいたく劣れるわざなれば省けり。それが中にもいやしげなるは、
 山風のおろすもみぢのくれなゐを又いくしほかそめ川の波
 くものゐる谷の心もゆふべとてかへるやよひのうぐひすの山
 春の日の光りはきはもなけれどもまづ花さくは梅原の山
 月のすむいその松風さえ/\て見るめもしろき雪の白濱
旅の紀行中にはともすればかやうにもいはるゝ物な(389)れど、好むまじきつゞけなしなるべし。但し戀述懷等の歌のしたてにはいかにも不v苦。又右同書、上文の續きに云「〔又〕花さかぬ山にも花さかせ、もみぢせぬ所にももみぢせさせん事は〔やうによるべし〕只今その所にのぞみて歴覽せんに、花も紅葉もあらば景氣に隨て詠ずべし。さらでは、ふる〔き〕事をいくたびも案じつゞくべきなり」
又云「〔名所も古今のたがひ有〕大淀の浦にも今は松なし。住吉の松にも浪かけず。されども猶いひふるしたるすぢを〔いく度も〕詠ずべし〔但しかの〕ながらの橋などは、昔よりたゞ絶に絶にしかば〔今又更にたえたりとよみ出んも〕ことふりにたり。水無瀬川には水あれども、水なしと詠ずべき也〔一通り〕かくはおもへども〔もし〕今もめづらしき事ども出きて、むかしの跡かはりて、一ふしも此ついでによむべからん〔とおもふ〕には、やうにしたがひて詠ずべし」などのたまへり。これら又心得おくべき事どもなり。
 
  ○古歌を取ても可v詠事
    附古歌を取(ル)心得の事
彼(ノ)十首をむねに置(キ)三昧に入てよめと云は、物も少しは見、ことの心もすみ角わきまへたらん上の事也。今こゝに云所はいまだ歌と云ものを見た事もなく、やう/\句を並べてよみおぼゆる人にさとす所なり。先
近來風體抄云「〔歌をよむに〕はじめより〔題林などひらいて〕本歌計にかゝりたるはわろし。よくわが心中にてよみ〔出〕て後に、古歌〔の作例〕を〔もくらべ〕見るべきなり」頓阿の水蛙眼目云「祝部行氏云〔わが〕少年の時〔新勅撰の作者〕祝部忠成に逢て侍りて册子など見て歌よみ侍りしかば〔忠成云〕只うたは〔さやうに物などは見ず〕あを雲に向ひて案ぜよ。今〔よみ習ひ〕より古歌にかゝりては〔行末〕う(390)るはしき歌よみにはなるまじと申き」などぞいへる、げにもわがおもひよりのあらんたけは、自身と風情を案じ出てよみ習ふべきは、勿論の事にて、誰もさやう有たきものなり。然れども年來修行せし人だに案つきて無下に出來ぬをりもあるものを、いまやう/\入たゝんずる人にさのみいはんもわりなく、人によりては爲にならぬ事も有べく、又退屈もいできぬべき也。歌は兎も角も、人々の入安くよみ安く、勝手のよき方にすがり付て、あきず退屈せず、行すゑよみとづる所こそ肝要なりけれ。されば俊成卿、和歌肝要云「和歌は、神代よりはじまりて、今にたゆる事なければ〔實をいはゞ〕いひのこしたるふしもなく、つゞけのこしたる風情もなし。すゑの世の人いかでか〔歌毎に〕新しく〔ばかり〕はとりなすべき。然あれども、人の心〔千差萬別にて、人々の〕面のごとく〔別々なるもの〕なれば〔其同じ樣なる事云中にも、いづれ〕少しきかはらずと云事なし。其〔作りかへたる〕さま、おのづからかはりぬれば〔古歌とりたりとて〕くるしからざるものなり」又定家卿の式云「思(ヒ)より盡て、歌のいで來ざる時は、何なりとも見て、〔それによりて〕よめ」と仰せられたる、是らの御をしへこそ、今(ノ)世の童等には、よく相應じぬべけれ。おもふに、元來一物もなき腹を、いくら探りたりとて、何事をかは案じ出べき。いふべきことのあらぬ時は、古歌を披き見て、それに風情をさそひ出させてもよむべく、又其打見る所の歌を直(グ)に取(リ)りてもよむべきなり。されど古歌を取(ル)にはいろ/\の習ひあり。一わたり心得置てとるべし。其大むねは、和歌式に「古歌の上句を、わが歌の下句にとれ、古歌の下句をわが歌の上句にとれ」とのたまへり。今此御教へを假に歌もていはゞ、
 本歌 古今     紀貫之
 あふ事は〔まだいつと云あてもなく〕雲ゐはるかに〔遠い事じやに、おれは〕〔あの遠い所で〕なる神(391)〔鳴〕の」音〔ひゞき〕に〔よそで〕聞つゝ戀〔したうて、月日を〕わたる〔こと〕かな
  所v取歌後撰      よみ人しらず
 〔神なりは、雲の中で遠く鳴ものじやが、〕ちはやぶる《枕詞》神〔鳴〕にもあらぬわが〔おもふ〕中の雲ゐはるかに〔遠くよそ/\に〕なりも〔マア〕ゆく〔こと〕かな」又
 本歌 古今      紀友則
 君ならで〔外の〕たれにか〔は〕見せん〔了簡のない者に見せたとてむだな事じや。此〕梅の花〔の〕色をも香をも〔又おれが心意氣も、世間にしらぬ人が多いが、只ひとりおまへと云〕しる人ぞしる
  所(ノ)v取(ル)歌後拾遺    大貳三位
 〔此花にはおまへの心の樣に、むごい〕つらからん方こそ〔は〕あらね〔此やうに見事に咲たのを見れば、さりとて〕君ならで〔外の〕誰にか〔は〕見せん 〔知方からお馴染のわたしの庭の〕しら菊の花〔を〕」これらは、古歌の上句を我歌の下句に、取たるなり。又
  本歌 古今     素性法師
 〔見事な花じやとて、只〕見てのみや〔は都の〕人にかたらん〔それではうそをいふやうじや。いざ此〕さくら花〔をば面々〕手ごとに折て|家づと《ミヤゲ》に〔して、〕今日見たる花は、これ此通りじやと云て見〕せん
  所v取(ル)歌 詞花集   源登平
 〔春はたゞ花ゆゑの春じやが、是ほどの〕さくら〔の〕花〔を〕手ごとに折て〔大勢で〕かへるをば春の〔あるいて〕行とや〔よそ〕人の〔めには〕見るらん
  又 本歌 古今     よみ人しらず
 梅が技に來〔てとまつて〕居る鶯〔は〕春〔の立し日より、もはや幾日も日がら〕かけてなけどもいまだ雪はふりつ〔ふり〕つ〔して、春のやうではない。(392)やつぱり冬のやうじや〕
  所v取歌 新吉今   後鳥羽院
 うぐひすの〔此間から〕なけどもいまだふる雪に〔やつぱり、冬のやうに〕杉の葉しろし あふさかの山〔は〕
これらは、古歌の下句をわが歌の上句に取たる也。此類猶いと多かれど、今はたゞ一二出して、其形のみをしらするのみ。凡かくさまにとる事、彼式目のみにもあらず。昔の撰者達も難なきよしに評して、世々の勅撰の集にもあまた載られたれば、今よみ習はんにも、思付なき時などには、撰集にもあれ、題林にもあれ披き見て、其中の用ある句に、よしや繼足(シ)してよむとも咎なきこと也。たとへば書を學ぶに、其本書の趣をとろもあり、筋骨を取もあり、形(チ)をとるもあり。其字の上に直に玉盤を敷て、寫して習ぶもあれば、此習ふうちには勝劣なし。只人々の手に入所を以てよしとはせり。今古歌を取てよみ習ふは、玉盤もて寫して習ふにやゝ似たり。人によりては、却て手に入安き方あるもしりがたし。さればこゝに右の古人の取ざまにならひて、至て初心の輩のため其繼合せやうなさとす事、左のごとし。
 その見るところの、
  古歌の上句が取たくば、
 本歌  雨ふれば をだのますらを いとまあれや
  所v取歌                   苗代を空にまかせて
 つげをぐしとりやよそはん五月雨になだのあまめもいとまある比
  古歌の下句が取たくば、
 本歌
 さよ更るまゝに汀や氷るらん遠ざかりゆく志賀の浦波
  所取歌
 志賀の浦や遠ざかりゆく波間より氷て出る有明の月
大略此ふり合なるもの也。其心をかへ風情を改めてよむべき事は、右等の歌を以て知べし。又古歌の上句(393)を、直(グ)に、我歌の上句にとり、古歌の下句を、我歌の下句に同じく並べて取とも、心を轉じて一ところ我物なるふしだにあらば子細なきよし、古き歌合の判詞、又歌論の書等にもいへり。其取ざまは、
 本歌 古今      紀淑望
もみぢせぬ常磐の山は〔いつも青葉で時節もわかるまいが、それは大方〕吹風のおと〔のかはる〕に〔て〕や秋を〔年ごろ〕きゝわたるらん
  所v取歌 拾遺    大中臣能宣
 〔鹿はもみぢする比鳴ものなるが、彼〕もみぢせぬ〔と云〕常磐の山〔の青葉の中〕にすむ鹿はおのれ鳴てや〔おのれと〕秋をしるらん」又
 本歌 古今      藤原興風
 いたづら《ムダ》に過る月日〔も平生〕は〔何とも〕おもほえで〔うか/\と過るが〕花見て〔おもしろく〕くらす春ぞ〔別に日數の〕すくなき〔やうにおもはるゝ、手前勝手なものじや〕
  所v取歌 家集    元眞
 〔常にうか/\と〕いたづらに過る月日はおほけれど〔それは何とも思はいで、極月の〕けふしも〔一年の俄にくれたやうにおどろいて、身に〕つもるとしを〔めいわくに〕こそおもへ〔人と云ものは馬鹿なものじや〕」
是らは古歌の上の二三句を、同じくわが歌の上句に並べて取たり。又
 本歌 古今      素性
 〔其人をまだ見た事もなくて、よそながら〕音にのみきく〔ばツかり〕の〔事で菊におく〕しら露〔の如く〕よるは〔夜通し〕おきて〔居て氣をもみ〕ひるは〔終日の物〕おもひに〔思ひなやんで、今はこらへ〕あへず〔成(ツ)た。是では命も露と共に〕け《消》ぬべし
  所v取歌 詞花    能宣
 〔御所の〕御垣〔をま〕もり〔居る〕衛士〔と云者〕のたく火の〔如く、われも〕よるは〔夜通しおもひに〕も(394)えて、ひるは〔又一日心も〕きえ〔/”\と成り〕つゝ〔戀しき人ゆゑに〕ものをこそおもへ
これは古歌の下二句を、同じく我歌の下二句に取てよみたり。又
 本歌 古今     坂上是則
 〔おなじ〕みよしのゝ〔内でも〕山の〔深い所には〕しら雪〔やふり〕つもるらし〔ふもとの〕ふる郷〔の邊もいつも寒い所ながら、此比はめつきりと〕さむくなりまさるなり
  所v取歌 新古今   參議雅經
 〔深山ゆゑ〕みよしのゝ山の秋風〔は外より格別身にしむが、其風の又〕さ夜更て〔は〕故郷〔あたりもいとゞ〕さむく〔それ故に夜るも寐ずに〕衣うつ〔おとのさびしく聞ゆる〕なり
これは、上一句、下山一句づゝ取てよみたり。今是らにならひて、かの繼合やうをさとす事又左の一ごとし。
 古歌の上句を、我も同じく上句に用ひたくば、
 歌本
 としふればわが黒かみもしら河のみづはくむまで老にけるかな
  所取歌
 、、、、、、、、、、、、、糸のよるはほとけの名をとなへつゝ
  古歌の下句を我も下句に用ひたくば、
 本歌
 いろ見えてうつろふものは世の中の人のこゝろのはなにぞ有ける
  所取歌
 をりふしもうつればかへつ、、、、、、、、、、、、そめのそで
  古歌の上下を一句づゝ用ひたき事あらば、
 本歌
 おきつかせ吹にけらしな住の江の松のしつ枝をあらふしら波
  所取歌
 、、、、、誰がため吹て礒の岩の苔のころもを、、、、、、
先大略、此振合なるもの也。是らに准へて、面々の工夫を用ふべき也。但しかくさまに取には、あまり字數多くは取べからず。定家卿の式に、古歌を取て(395)よまん時は、二句の上、三四字迄は取べし。三句取(ル)事よろしからずとあり。それはさうも有べきものにこそ。古集の中にはまれ/\に、
 君がやどの花たち花は成にけり花のさかりにあはましものを
 かはづなくゐでの山ぶき散、、、、、、、、、、、、、、、
  又
 わがやどの池の藤なみ咲にけり山ほとゝぎすいつか來なかん
 、、、、、、、、、、しより、、、、、待ぬ日ぞなき
などやうに、もはら同じやうなる歌もをり/\交りたり。おもふに此類は取かすめて然るにはあらず。もとは同歌なりけるが、暗記のたがへるもあるべく又其歌を直して載たるもあるべきなり。このたぐひを一ツに混じて多く取事勿れ。但し至て心の引かはりて、いかにも借物と聞えざるきはの歌には、取過てもよき事あるにや。千五百番歌合に、後京極攝政
 雲はるゝ雪の光りや「白妙の衣ほすてふあまのかぐ山
此歌、上二句のみ御自分の御歌にて、下三句は丸で持統天皇の御製也。然れども取過たりと云難もなかりつるは、一首の心更にかはりて、別意となりたる故なるべし。又或は其本歌よりよみまさる時は、よろしきよしなり。爲家卿、八雲口傳云、
 「日もくれぬ人もかへりぬ山ざとはみねのあらしの音ばかりして
此歌よき聞えありて、後拾遺に入られたるを、俊頼朝臣是を取て、
 日くるればあふ人もなしまさ木ちるみねのあらしの音ばかりして
とよまれたり云々」とあり。今おもふに、いたく取過せるやうなれど、いみじき自讃の歌にて、時の人(396)も皆ゆるして秀逸とせられたり。此外誰もしれる中にて、本歌にまさる聞えあるを一ツいはゞ、
 本歌
 わがやどは雪ふりしきて道もなしふみ分てとふ人しなければ
  所取歌
 山ざとは、、、、、、、、、、けふこん人をあはれと思はん
   又
 本歌
 うぐひすの谷よりいづる聲なくば春くる事を誰かしらまし
  所取歌
 、、、、、聲なかりせば雪きえぬ山ざといかで春を、、、、
此外、上に出せる能宣朝臣、雅經朝臣などの歌も皆出藍の譽れあり。前後見合せて考へてよ。
かくて右の外にも猶取り方あり。悦目抄云「古歌の第一二句を取て、今の歌の第四の句lこ〔ふりかへて〕おき、又古歌の第三四の句を〔とりて〕今の第一二句に〔引かへ〕おく事、先達の教久しくなれ〔れば勿論の事な〕り」と有。今此事を歌もていはんに、例の句中に添たる辭どもは、印の邪魔になれば、此間もしばらく省て出せり。其しるしの例は、
 歌の傍(ラ)に○―― △――如此添て目じるしとせり。此二のしるしを、本歌の句と所v取(ル)歌の句と互に相合せて、其句を轉じて取たるさまを見べきなり。
 本歌 古今      在原棟梁
 春〔左△〕たてど花も匂はぬ山〔九字左傍線〕ざとは物〔右○〕うかるねに〔六字傍線〕うぐひすぞ鳴
  所v取歌家集      源重之
 梅が枝に物〔右○〕うきはどに〔六字傍線〕ちる雪を花〔左△〕ともいはじ春の〔八字左傍線〕名だてに
 本歌 新古今      大江千里
 てりもせずく〔右○〕もりもはてぬ〔七字傍線〕春のよのお〔左△〕ぼろ月夜に〔六字左傍線〕しくものぞなき
  所取歌        定家
(397) 大そらは梅の匂ひに霞みつゝく〔右○〕もりもはてぬ〔七字傍線〕春のよの月
又同書、上の續きに云「古歌に一句によめる事を二〔右△○〕句にいひのべ〔七字傍線〕三句によめる事を二句にいひ約れば、自然と風情もかは〔りて、わが物とな〕る也とあり。是を又歌もていはゞ、
 本歌 古今       平元矩
 秋〔左○〕ぎりのともに立いでゝわかれなば〔秋〜左傍線〕は〔右△〕れぬ思ひ〔五字傍線〕に戀やわたらん
  所v取歌 金葉    基俊
 秋〔左○〕ぎりの立わかれぬる〔秋〜左傍線〕君によりは〔右△〕れぬ思ひに〔六字傍線〕まどひぬるかな
 本歌 古今       よみ人不知
 い〔右○〕はゞしる瀧なくもが〔い〜傍線〕なさくら花た〔左△〕をりてもこん〔七字左傍線〕見ぬ人のため
  所v取歌 家集    定家
 い〔右○〕はゞしる瀧ある花の契り〔い〜傍線〕にてさ〔左△〕そはゞつらし〔七字左傍線〕春の山かぜ
又和歌式云「四季の歌をよまん時は〔願ハくは〕戀雜の歌をとり、戀雜の歌よまん時は、四季の歌をとりてよむ〔やうに心がく〕べし。四季の歌を取て、四季の歌をよみ、戀雜の歌を取て戀雜の歌をよむべからず。〔初心の手ぎはにて然かしたるは多くは盗みたるやうになればなり〕」とあり。かくては取にくきやうにも思ふべけれど、月花の上も、戀雜の上も人情をうつし運ぶ所に至りては、終に同じ事なりければ、只しばらく指(ス)所の物のかはるのみ也。それが中には損もあり、又徳もあり。少し取にくき所は損也。もし三四字ぐらゐ取過てもゆるさるゝ方のあるは徳也。人情の同じとは、
 本歌 古今       業平朝臣
 世〔右○〕の中にたえてさくらのなかりせば〔世〜傍線〕春のこゝろはの〔左△〕どけからまし〔七字左傍線〕
  所v取歌 拾遺    朝忠朝臣
(398) あふ事のたえてしなくばなか/\に人をも身をもうらみざらまし〔入力者注、あまりに煩わしいので、以下和歌の傍線などの記号類は全部省略する〕
是は李の歌を戀にとりたる也。又
 本歌 古今       よみ人不知
 むらさきの一もとゆゑにむさしのゝ草はみながらあはれとぞみる
  所v取歌 後撰    貫之
 をみなべしにほへる秋のむさしのはひとよりも猶むつまじきかな
是は雜の歌を季に取たり。是ら何れも其情あひの同じかるをおもふべし。凡てめづるも、したふも、をしむも、うらむも、物皆同じ情なるものなれば、よく其心を得てとる時は、かはる事なき也。されど必しも戀を戀により、季を季に取てよむをわろしと云にもあらず。右の定家卿の御説は、たゞ古歌をとる大かたのやうをのたまへる御詞なり。されば御自分の御歌にも、戀の歌を戀に、季の歌を季に取給へるも是かれ見ゆ。其苦しからざるよしは、悦目抄云「古歌を取に〔なまじひに〕花の歌を本としてもみぢに改め、雪の歌を取て霰の歌によみなどしたるを見れば〔只うはべの〕題目はかはれども〔其〕心詞〔をくらぶれば〕すべて本にかはる所なし。〔いつそ其(レ)よりは〕只花のうたを花に、月の歌を月に〔引かへ〕はたらかすとも〔借物にならず〕しかもその心を〔一きは〕かへて、更にめづらしく〔わが玉しひを入てよまんと〕おもふべし」とぞいへる。是もことわりある説にこそ。今こゝに其心をかへてよむ例を猶又いはん。
 本歌 萬葉       赤人
 きのふこそとしはくれしか春がすみかすがの山にはや立にけり
  所取歌 古今     よみ人不如
 きのふこそさなへとりしかいつのまにいな葉そよぎて秋風のふく
是は初春の歌を、初秋の歌に引かへたる也。心ば(399)せはやゝ似たれど、其風情おのづからひとしからず。
 本歌 古今       興風
 春がすみ色のちぐさに見えつるはたなびく山の花のかげかも
  所v取歌 續拾遺   行家
 見わたせば色のちぐさにうつろひて霞をそむる山ざくらかな
是は花のうたを花にとりて、其心を引かへたる也。又古歌をないがしろにとりたる類は、
 本歌 古今       よみ人不知
 あかでこそ思はん中ははなれなめそをだに後のわすれがたみに
  所v取歌 新古今   醍醐太政大臣
 ちる花のわすれがたみのみねの雲そをだにのこせはるの山かぜ
 本歌 古今       よみ人しらず
 なとり川せゞのうもれ木あらはればいかにせんとかあひみそめけん
  所取歌 續拾遺    定家
 なとり川春の日かずのあらはれて花にぞしづむせゞのうもれ木
是は本歌の心にはかゝはらず、我まゝにとれる也。此類にはあながちに、其歌をとて取(レ)るにはあらで、其詞のうかび出たるまゝに、借よせたるにもあるべし。又古歌に、返ししたるさまにとれるもあり。そは、
 本歌 古今       文屋康秀
 春の日のひかりにあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき
  所v取歌 後拾遺   伊勢大輔
 としつもるかしらの雪は大そらの光にあたるけふぞうれしき
 本歌 後拾遺      能因法師
 心あらん人に見せはやつのくにの難波あたりの春(400)のけしきを
  所v取歌 家集   爲家
 かすみ行難波の春の明ぼのに心あれなと身をおもふかな
此類は中にも子細なき取ざまのやう也。又古歌二首を取てよめるやうなるもあり。
 本歌 古今       業平次よみ人不知
 大かたは月をもめでじ是ぞ此つもれは人の老となるもの
 しかりとてそむかれなくに事しあれば先歎れぬあなう世中
  所v取歌 續後撰   信實朝臣
 老となるものとはしりぬしかりとてそむかれなくに月をみるかな
此類も、とらんとてのわざには有べからず。其歌を案ずる折しも、ふと二首の歌の詞のより來て、自然といで來たるにもあるべし。上の件より是迄の取方は、皆古人の跡にならひて、其正しき分を不v殘出す所なり。
 
(401)心のたね下
 
  ○よからざる取かたの事
    附端書長歌文章等の事
 本歌 古今       業平朝臣
 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして
  所v取歌 新古今   俊成卿女
 面かげのかすめる月ぞやどりける「春やむかしの」袖のなみだに
 本歌 古今       よみ人しらず
 よひ/\に枕さだめんかたもなしいかにねしよのゆめに見えけん
  所v取歌 續古今   家隆
 おのづから「いかにねしよの」夢たえてつらき人こそ月は見せけれ
是らは、本歌一首の心を一句にこめてとれるなり。かくさまに取事、ちからなくては取がたきわざなれば、今よからぬ例とすべきにはあらざれど、はやく爲兼卿、爲家卿などの判詞にも、好むまじきよしいへり。げにもかくては、打つけにふる歌の奴となるにて、いかによろしくよみえぬとも、其本歌の上に立事あたはず。つひに一本立の歌には及びがたかるべきにこそ。又
 本歌 古今       たゞみね
 春きぬと人はいへども鶯のなかぬかぎりはあらじとぞおもふ
  所v取歌 六帖追加  よみ人しらず
 冬きぬと人はいへども朝氷むばぬ程はあらじとぞおもふ
かやうに、一首の句調をいひうつして取事いと見ぐるし。此類ひ、彼獨よみせる人の歌などにはをり/\見ゆ。今是をいましむる事は、無名抄云「或人そら(402)にしれぬ雪ぞふりける、と云をとりて、月のうたに水にしられぬこほりなりけり、と〔いひうつして〕よめりしを、是ぞ眞のぬす人よ〔此比ある所に〕さるほどなる、なましんみやうの絹をぬすみて〔おのれが〕小袖になしてきたる〔事あり。それと同じ〕やうになんおぼゆるとこそ〔皆〕人申せしか」とあり。こは下句ばかりなれども、いひうつしたる故にかくはいへるなり。然るに新古今中に、
             道命法師
 しら雲の立田の山の八重ざくらいづれを花とわきてをりけん
             京極前關白太政大臣
 しら雲のたな引山の八重ざくらいづれを花とゆきてをらまし
此二首、何れをさきとはしるべからねど、猶右のたぐひなるを相混じて載られたるは、ゆるす所有てにはあらず。たゞふと紛れ入たるにたがひなし。又千載集に、
             刑部卿頼輔
 春くれば杉のしるしも見えぬかな霞ぞたてる三輪の山もと
             左兵衛督隆房
 見わたせばそことしるしの杉もなし霞のうちや三輪の山もと
これは右のたぐひにはあらざれど、清輔朝臣の奥義抄に、此類の歌どもをあまた出してきびしくいましめ置れたれば、ついでに出せるなり。後鳥羽院御口傳云「當世の上手などの、面白く詠じたるを見れば、〔うら山Lがりて〕やがて其中に珍らしき句を取てよむ事、まだしき人の定れる僻也〔同時の人の歌は一句といへども〕用捨あるべし」定家卿の式、其他の書にも、此事は往々見えたり。然るに近昔に、よみ方を教へたる書に、右の新古今の歌を引て等類遁れて難なき證となしたるはいかにぞや。撰者を信じ過(403)て撰者のいましめを破る事をもしらず、剰へ後世に毒を流せるもの也。かく思ひ泥める、僻説の多く成けるまゝに、終に古歌をいひうつして、古歌と句々相同じきを以て、正風躰と心得たる人の、今猶世に多かるこそ、例の氣の毒千萬なるものなれ。悦目抄云「すべて古く人の詠る詞を〔いひうつして、それをわが歌の〕ふしにしたるはわろし〔只々〕一ふしなりとも〔われと〕めづらしく、よき詞をよみ出ん〔もの〕とおもひはげむべし〔世に〕古歌を本文として〔或はうつし、或は句にこめて〕よめる事あり。いと見ぐるし」とぞいへる。古人は凡てかやうにのみをしへられたるものをや。かゝれば行々上手にもなりたいとおもひはげむ人は、もはら自のおもひ入をさきとして、又をり/\稽古のためには、ふるきうたによりてもよみ、又つねに題詠は題詠として、だん/\と口つきゆかば、世に見聞事の上をもよみ習ひ、はし書などをもかきおぼえ、返歌などをもし習ふべし。大方个成にも當坐の挨拶、端書等にもこまらず、其時々の間に合(フ)ぐらゐになれば、もはや一人前の歌よみなり。今の世にして一人前となる時は、亂世以來にのり超て五六百年以前の古人と並ぶべし。たのもしき事ならずや。猶其上にも餘力あらば、長歌もよみ、文詞なども書覺ゆべし。是をよくせば、長歌は千歳の上にいで、文章は七百歳の以前に嗣べし。是(レ)昇平文明の御世に生れあひたる幸にぞありける。かゝる世にあひて思ひを入ざるは、勝軍に臨てぶん取高名せざると同じかるべし。
 端書を教へたるものは、はし書ぶり前後【二卷】さき艸【一卷】文章は水戸の扶桑拾葉【三十一卷】文のしをり【七卷】近き物には、縣居家集、又よの子が十二月消息、琴後集後編、國つ書世々跡等見あはせとなるべし。又おのれが、文章撰格【二卷】あり。又古文類篇【百餘卷】も半は成(レ)り。此書成就せば、文詞において古今に並ぶものなかるべし。日記は土佐日記【一卷】蜻蛉日(404)記【六卷】更科日記【一卷】十六夜日記、庚子日記など也。長歌はさせる物もあらざれば、紀記萬葉による外なし。近比の歌を集て、菅根集と云物あれど、手本とはなしがたき子細あり。こはわが物ながら、長歌撰格に習ふほどの近道はあらじとぞおぼゆる。
 
  ○返歌よみかたの事
悦目抄云「贈答、これは〔人の〕歌をかへ〔し〕す〔る〕を云也。返し〔方に〕もさま/”\あり。たとへば、只人の〔常に〕返事する〔に〕も、何事かは〔ある)などいへる〔をりの〕返事にも〔たゞ〕何事も候はずなどもいひ、又別の事も候はずなど〔も〕云(フ)〔又直(グ)に〕その詞を〔相〕具してかへす〔事〕もあり。〔又返す〕心は同事なれども、詞をかへて返す事もあり〔人によりて〕歌よくよめども、〔此〕返しのいたく事のたらはぬもあ〔れば、よく習ひおくべき事な〕り。
  小町がもとへ〔彼〕眞せい法師が、せつほう〔に云る詞〕を〔共に〕聞て〔其日〕あべのきよゆきが〔よみてやる〕
 〔今日説れたる、法花經の衣裏寶珠の事で思(ヒ)付たが成(ル)ほどなんぼ〕つゝめども〔こぼれ出て〕袖にたまらぬ白玉〔と云〕は〔戀しきおまへと云〕人を〔得あひ〕見ぬめのなみだ〔の事〕なりけり
  かへし〔小町〕
 〔おまへのは〕おろ〔そ〕かなる〔少しばかりの〕泪〔ゆゑに〕ぞ軸に〔わづかに〕玉はなす〔ならん〕 われ〔が泪〕は〔其やうな淺い事ではない、せき留たくも〕せきあへず瀧つ瀬〔の如く〕なれば〔是にくらべても、そのおろそかに淺いのがしれた。〕
  なりひらの家に侍ける女に〔思ひをかけて、雨のふる日によみてやる〕としゆき
 つれ/”\〔と暇で淋しい比〕のなが〔あ〕めに〔物思ひの〕まさる〔我〕泪川〔は、たゞ〕袖のみぬれて〔そ(405)のくせに、おもふ人に流れ〕あふよしもなし
  といへる返しに、なりひら〔彼〕女にかはりて
 〔御大惣におつしやるが、それはまだ心ざしが〕淺みこそ〔わづかに〕袖〔ばかり〕は〔ぬれ〕ひづらめ〔其くらゐの事ではえ頼みませぬ。もしその〕なみだ川〔に〕身さへながると〔も〕きかば〔その時は〕たのまん
  〔御めのと〕大貳三位〔がしばしわが〕里にいで侍けるをきかせ給て、後冷泉院〔の御もとよりの〕御うたに
 〔おれが〕待人は〔たとひそちらで、面白く〕心ゆく〔事のあり〕とも〔そこを〕すみ〔よき、住〕よしの里にとのみはおも〔ひて長居〕は〔せ〕ざらなん
  とありければ大貳三位の御返し
 〔わたくしは〕すみよしのまつ〔の、待ぬの〕とも〔其樣な外事は〕更におもほえず〔只一心に、君千代ませと祈つゝ、あけくれ〕君がちとせのかげ〔ばツかり〕ぞ戀しき
かやうのたぐひ多けれど、〔大てい〕かへしするやうの〔手〕本に成べきは〔まづ〕これらなり。又鸚鵡がへしと云もあり〔それはさきの人より贈りたる〕本の歌の心を其まゝかへずして、同じ言を〔以て〕いへる也〔一ツいはゞ〕
  後一條院春日(ノ)行幸に〔御母上〕上東門院に〔申させたまひける御歌〕
 〔前の行幸ありしそのかみの代より〕その〔御先祖の〕かみ〔を〕や〔君の御心に〕祈りおき〔給ひ〕けむ〔終にかく位を受繼て〕かすがのゝ〔ふりし御幸の〕同じ道にも〔又〕尋ねゆく〔はかたじけなくうれしき事〕かな
  御かへし 上東門院
 〔これはわがちからにはあらず〕くもりなき〔御〕世の〔御威光の〕ひかり〔より、おのづから御位を受て〕にや春日野のおなじ道にも尋ねゆく〔事であ〕(406)らんかやうにかはらぬを云也〔されど通例の所にては〕詞はこれ程につゞかねども〔少しづゝ〕同心同詞なるは〔常に〕多かる也。又詞をかへて答へたるは、
  古今集に
 〔うつろひ安く〕あだなりと〔云〕名にこそ〔は〕たてれさくら花年〔の内〕に〔も〕まれな〔らでは來ざ〕る
 人〔を〕も〔ちらずして〕待〔つけ〕けり〔是を思へば、花もおまへほどはあだなものでもない〕
といへる返事に、あだなりとも、あだならずともいはず。又稀なるよしをも云べきに、それをも何ともいはで〔只心をとりて〕
  業平の返し
 〔おれが心ざして、けふ來ればこそあれ。もし〕けふこずばあすは雪とぞふり〔かはりて、よ所にうつろひゆき〕なまし〔たとひ〕消ず〔にしばし〕はありとも〔わが〕花と見ましや〔は、よその花とな(ツ)たであらうのに〕
これは、一ツの返しやうなり。是ら〔の類にも色々〕かはりたる事あれども〔先心をとりて返す方は〕これを心得てたりぬべし」とあり。猶今少し例をあげて、委くもいひたけれど、返し歌と云ものは六ケ敷さまにして、よみなるれば思ひの外出來よき方も有ものなりければ、かくてやみつ。
 
  ○詞の上の心得の事
八雲口傳云「歌の詞の事〔自分ごしらへせず、いやしきを用ひず〕いかにも古歌に〔ありて、人のよく聞しりて〕あらんほどのこと〔ば〕を用ふべし。それ〔と〕も〔もし萬一いやしからず〕聞よからん詞〔のうかびなん時〕は、今はじめてよみ出したらんもあしかるべきにあらず〔むかしも今も〕上手の中には、さる詞多かり。又古集にあればとて、今は人の〔耳うとみて〕よまぬ詞どもを〔物しりがほに〕つゞけたらんもものわらへに有べし」とあり。是は人の耳(407)くせも、時々にかはる事あるよしをさとしたまへるなり。又和歌庭訓云「當時〔春の曙、秋の夕ぐれと云べきを、かまへて〕曙の春、夕ぐれの秋など〔よむ人あり。かう〕やうの詞つゞきをよみ候事、いたくうけられぬ事にて候〔此外こよひの月を、月こよひ、をちこちの野を野べのをちこちなど云類のいやしき詞いと多かり。皆心すべきなり〕」八雲口傳云「〔たゞ〕やすくとほりぬべき中の道をば〔わざと〕よきすてゝあなたこなたにつたはんとしたるわろき也〔いかなるひが心得にかありけん。却て〕それを趣として、うき風はつ雪など〔やうの詞をさへ作り出て〕よみたる〔えせ人もありし〕よし、先達申さるめり。心の〔新しきは、もはら風情の方にある事をばしらで〕めづらしき〔ふし〕をかまへ出さんとて、ゆゝしきこと〔ばを作り〕出し、すゞろなるひが事をつゞくる事、さら/\せんなきことなり」と有。猶この詞の上には實語、虚語、中虚、中絶等の雅俗、又萬葉以前の語といへども、今用ひていよ/\雅なるもあり。又八代集中にも既に耳ふりたるもありて、いとさま/”\にわきある事どもは、皆長短撰格に出しつれば見合せて心得べし。
 
  ○歌は心を先とすべき事
    附花實と云ことのさだの事
新撰髄脳云「おほよそ歌は〔その〕心ふかくすがたきよげにて、心をかしき所あるをすぐれたりと云べし。〔あまり〕こと多く〔あれこれ〕そへくさりてよみたるはいとわろきなり〔たゞか安く〕一すぢにすくよかになんよむべき〔されど其歌によりてもし〕心姿〔ともに〕相具する事かたくば、先〔詞よりも〕心をとるべし〔もし又〕つひに〔其〕心深から〔しめん事あたは〕ずば〔其〕すがたをいたはるべし」和歌庭訓云「〔廣くいはゞ〕詞〔の上〕にあしきもなく、よろしきも有べからず〔たゞ〕つゞけがらもて、歌詞の勝劣(408)〔は〕侍るべし。されば〔心詞は鳥の兩翅の如しと云ふも其理りなきにあらねど、實の所は〕心を本として、詞をば取捨よとこそ、亡父卿も申置侍りしか云々」とのたまへるこそ、貴き御定めなれ。世に是をもどける説もあれど、猶いはゞ言葉は心に從ふものなり。彼(ノ)あしきもなく、よきもなき詞の中に、猶よきがあるは心がひきゐ助けてよくなせるなりければ、つひに心こそ先たるべきものなれ。同書に又云「或人の〔歌に〕花實〔と云て、とかく人のさだすめるよし〕の事を申て侍るに〔つきて〕愚推をわづかにめぐらして見侍べれば、可2心得1事侍るにや。所謂實と申は心、花と申は詞なり。さらば心を先とせよとをしふれば、詞を次にせよと申すに似たり云々」是は今も人のよく云ことなれば出しつ。
 
  ○つゞけがらの事、
八雲口傳云「うたはは亡父卿などの〕心をめづらしく案じ出して〔必ず一ところ〕わがものと〔すべき所を〕もつべしと申せど〔多くよむ内に〕さのみあたらしからん事〔のみ〕はあるまじかれば〔其時は〕同じふる事なれども、詞のつゞき〔上下の〕しなしやうなど〔を〕珍らしく聞なさるゝ躰をはからふべし」又云「うたは〔あやしきものにて〕同じ風情なれども、わろくつゞくればあはれよかりぬべき材木を、あたら事哉と〔見る人をしがりて〕難ずる也。されば〔歌を〕案ぜんをりは、上句を下句になし〔又下句を、上になしなどし〕て、言がらを見るべし〔すべての思ひよりは初心も勞功もさせる違ひはなし。たゞ〕上手と云は、同じ事を聞よくつゞけなす〔手ぎはにある〕なり。聞にくき事は、一字二字も耳にたちて、三十一字ながらけがるゝ也〔一字といへどもなほざりにすべからず〕まして一句わろからんは、よき句まじりても更に詮あるべからず。
 われが身はとかへる鷹となりにけり年はふれども(409)こひはわすれず此歌、五もじなくてあらばやとむかしより難じたり」などあり。猶上の詞の條よりこなた、皆一對の事どもなれば相合せてよ。
 
  ○風體の事
うたの風體の行末長くかくあれかしとおもふ所は、短歌撰格にいひつれど、こゝにもよみ習ひの人の爲に相應ずべき所を云也。先(ヅ)近代秀歌の中に「詞は古きをしたひ、心は新しきをもとめ、及ばぬ迄も高き姿をねがへ」とのたまひたる、動くまじき御論にこそ。たとひいかやうに新しく巧みなすとも一首の風體は御論を堅く守りて、後の卑き風には移るまじき也。但(シ)此御論も今入(リ)立の輩には、あまり高過たる方ありてわろく心得るときは、や(ツ)ぱりふる/”\しき所に留まりなんにやとおぼしき方なきにしもあらず。そのよしは下にいひ試むべし。
  凡此類の歌の風躰を論じたる書は、公任卿の和歌九品【一卷】源道濟和歌十體【一卷】俊頼朝臣髓脳【一卷】俊成卿古來風躰抄【五卷】定家卿詠歌大概【一卷】同秀歌大略、同正風躰抄【各一卷】同未來記、雨中吟【合一卷】近來風躰秒【一卷】の類狩多かり。既にも云やうに、今にしてはめまどろしいやうなる事共多かれども、よく見る時は、古學者の一旦の見識もてわがまゝに云説には、遙に勝る事多かり。されど是もわろく見るときは、大に迷ひを生ずる事あるべし。殊に四病、八病など云類には敢て泥むべからず。彼濱成式、喜撰式、孫姫式、石見(ノ)女式など云物は好事の者の僞作なり。躬恒の秘藏抄、俊頼朝臣の莫傳抄なども、眞のものとは見えず。此外にも覺束なきものども是かれ見ゆ。
ひそかに按ずるに、論となれば自然と高上にいはるゝならひにや。右の風體の評、歌の上の論どもゝ、彼から人の醫論、書論とひとしくて、そを打よむほど(410)はりつぱらしくも聞ゆれど、去とて其術に至りてはしか云人にも其通りには出來がたく、たゞ空論なるも多かる也。それに付ても感じ奉るは、後鳥羽院の御口傳にぞ有ける。其御書にしめし賜へるやう「やまと歌を詠ずる習ひ、昔より今に至る迄、〔おの/\の髓脳、歌論の書どもに、色々と云なれど、是は〕人のいさめにも〔あながち〕隨がはれず〔又〕自ら〔おれはかう云所がよみたい、此風躰がすきじやなど面々の〕たしむ〔所ある〕にもよらず〔わがよむ歌の〕其中に〔だに〕すがたまち/\にして、一隅を守りがたし(暫く其願ふ所は〕或はうるはしくてたけある、或はやさしく艶なる、或は風情をむねとする、或は姿を先とするなど也〔されど〕これに依て心を述れば則詞つきず〔又其〕要をとればむねあらはれがたし〔かゝればわが心にどうよまんかうよまんと望みても、其通りにのみゆくものにあらざれば、終には〕只天性の得たるをもて、おのづから風體の備はりぬ〔るにまかす〕べし。然れども〔其〕習ひによる所もなき》にあらず〔かりにもあしき風躰に近づくべからず〕」と詔へる、是眞實明白の御論なれば、此心を以て歌論の書は見べき也。又鴨長明の無名抄云「うたのならひ、世〔のおしうつる〕にしたがひて〔自然と〕用ふる姿あり。〔又〕賞する詞あり。然れば古集のうたとて、皆めでたしと仰ぐべからず。これ古集を輕しむるにはあらず〔其〕時〔々〕の風の〔うつりかはりて、きく耳の〕異なるが故なり。されば古集の中に、さま/”\の姿詞、一偏ならず、其中に今の世の風にかなへる〔姿詞を〕見計らふを本として、かつは其〔よき〕體を習ひ、其〔よき〕詞を學ぶべきなり。かの後撰〔など〕の〔おくれたる〕歌〔ども、今〕此比ならば撰集に入べくもあらず」といへる、是は時宜を知べき的論なるべし。これを以ても、彼詞は古きをしたひ、寛平以往の歌にならへとばかりも、云(ヒ)がたき事をしるべし。又其時々の風に隨へとて、俗情、卑劣(411)の界にふみ入べからず。和歌二言集に引るうた、
 夏の日のすがのねよりも長きをぞ衣ぬきかけくらしわびぬる
 庭の面の苔路の上にからにしきしとねにしける床夏の花
 花の色もあらはにめでばあだめきぬいざくらやみに折てかざゝん
 蛙なく井手の山田に蒔てしはみな筒苗とおひたちにけり
 みさぴまじるひしのうきづるとにかくに亂れて夏の池さびにけり
 夏山の椎のはごとにとりつきて耳のまもなくゆする蝉かな
 炭がまのたき木とり燒冬くればおのれけぶたきをのゝさと人
是ら、其出所は正しき歌なれども、何れも俗びていやしげなる所あり。あしきも見ねば、よきもしられぬわざなれば、むだなやうなれど拔て出せり。又ある書にしるせるうた、
 おく露のしろきをみればかさゝぎのこゝにもわたす藤の棚はし
 秋かぜによひのむら雲はやければ出にしかたにかへる月かな
 ふる雪に冬のさびしさうづもれて人めも青し谷のかげ草
これらは殊に野俗にして、異樣異躰なり。今(ノ)世の狂歌(ノ)徒のおもひよる所に此頻多かり。たとひ狂歌たりとも、異躰によみて何のよき事あらん。俗間には、儉約と吝嗇とを一(ツ)に心得、和歌者には、新しきと異躰とを同じやうにおもひ混じたる人の多かるこそ、うたてしき事なれ。又正しきがよろしとて、あまり有躰に過たるも與さめたるものなり。水蛙眼目云「故宗匠民部入道時元〔のもとに〕衛門督の僧都、何がしとやらん小ひし僧、歌の事問(ヒ)に常に來き〔それに教へたま(412)はく〕うたは誠を先(キ)とすべし。たゞ道理に叶ふやうによむべきよし申さるゝを聞て後日に來て、先日承候らひしに就て、歌を一首詠じ候。かやうにも候べきかと申き〔その歌〕
 ふじの山おなじすがたの見ゆるかなあなたおもてもこなたおもても
〔入道殿聞たまひて〕道理を先(キ)とすべしとて、かやうの事にては、いかでかあらんとて笑はれ侍りき」とあり。世に所謂實景躰、實情躰、眼前躰など云ふことをいみじき卓見と心得たる人の歌に、此類今も多かり。凡て理屈と、眞實と、風情と、虚談とは大(キ)にちがひある事、誰も常にはよく心得たれど、歌の上になりて、是を一ツに思ひ混ずる事、たとへばなれぬ野山に入て、方角をうしなふが如くなり。其中にたま/\さめたる人ありて東西を教ふれど、迷へる心には猶うたがふめり。今此書にさとす所も、もし先入の惑ひ有なん人の疑ふらん、亦復かくのごとくならんかし。かくて此所によろしき歌をも擧てさとすべきなれど、次の眼目(ノ)條にも、歌の入用ありて、二三十首出せれば、それをこゝと相兼て見合せてよ。
 
  ○歌の善惡を早(ク)可2分別(ス)1事
    附一首の中の眼目の事
此あたり、今歌はじめんといふ輩には、あまりむづかし過たる事どもにて、あきたくおもはんにやと、氣の毒にもあれど、かゝるついでには、一(ツ)もよけいにとていひ置るゝ也。殊に此條は、肝要なる事どもなれば、一旦にはものせず。をり/\立かへりてよく見るべきなり。和歌庭訓云「歌をよくわかちて、善惡を〔私なく〕定むる事は、まことに大切の事にて候。只人ごとに〔おのれ/\がすき嫌ひにまかせ〕推量ばかりにてぞ〔さだめ〕侍事と見え候〔又〕その上は、上手と世にいはるゝ人の歌をば、いと〔よく〕しもなけれども、ほめあひ〔世にうもれて人げなく〕い(413)たくもちひられぬ〔隱者の〕類の詠作をば、拔群の歌なれども〔それを〕けつく〔に〕難をさへとりつけてそしり侍るめり〔是らは、自ら定めわかつ的なき故に、只おもひなしと推量と追從とにまかせてなり。猶此外にも〕只言によりて、歌の善惡をわかつ人のみぞ多く候める。誠にあさましき事とおぼえ侍る」愚秘抄云「うた〔の眞の善惡〕を心得る〔わざ〕は〔實に〕難き事〔にて、幽玄の界をよく分別せざるうちはわきまへがたき〕なり〔されば〕年ふりたるうた人もおのれが歌のよしあしは〔え〕しらざるものなり」悦目抄云「うたの善惡を心得る事は、よむよりは〔かたく〕大事〔なるもの〕也。是を心得んとおもはゞ、只〔常に〕よき歌を打あんじて、其歌を〔今〕わがよまんずる〔時の〕こゝちに〔なりて、其眼目の句を〕我心のうちにもたせ〔ねり味ひ〕て〔よく〕思ひめぐらせば〔自然と〕心得らるゝもの也」八雲口傳云「歌を案ずるに〔自ら思入ありて〕沈思したるはよくおぼえ不慮にうかびたるはさしもおもはねど〔善惡は〕それにもよらず〔自らわが歌の善惡に了簡ちがひあるは、偏に此故也〕又云。披講の時、ゆゝし〔く秀逸〕げに聞えて、後に見ればさせる事なき歌あり〔又〕はじめは何〔のふし〕としもなけれども、よく/\見ればよき歌も有」初學抄云「歌の〔まことの〕善惡を聞しる位にいたらざれば、我もよき歌はよみがたき也〔されば〕歌よまんには、先〔其〕よしあしのしなを問きゝ〔荒増にも目あてを付〕て思ひを深く入ぬべし」水蛙眼目云〔歌よまん人は〕心のおよぶ〔べき〕所〔の限り〕先賢の詞をも尋ね、古き歌の心をもならひて〔其肝要なる〕まさしき無上至極の歌の眼目は、いづれの所ぞと云事を先尋(ツ)ね知べし〔是をしらで、いつ迄もたゞよみによみをるは大に不覺なり〕」などいへる、此無上至極の眼目と云は、上に引(ク)無名抄、又風躰抄等に、いはゆる、幽玄の界に人(ル)事にて、即一ふしあらする風情の事也。そは新撰髓脳云「ふるく人の(414)よめる詞を〔わが歌の〕ふしにしたるわろし〔歌はたゞ風情眼目のものなれば〕一ふしにてもめづらしき〔おもひよりある〕ことばをよみいでむとおもふべし」和歌庭訓云「十躰の中に、何れと申すとも〔眼目を主とする〕有心躰に過て、歌の本意と存せる姿は侍らず。さればよろしき歌と申は歌ごとに〔一ふしありて〕心のふかきをぞ申ためる云云。さても此有心躰は、餘の九躰にわたりて侍るべし。その上は、幽玄にも心あるべし」鴨長明瑩玉集云「歌は一句なりとも〔一ふし〕よしある詞をもとめ、一文字なりとも、やさしく聞えざらんことをば〔のぞき〕去んと思ふべし」和歌口傳云「うたは〔たとひ輕く〕花鳥風月によせて詠ずとも、必ず〔我が〕心〔の思入〕にあへる〔所の〕所詮一かど有つべし中略。一ふしし出したる歌は〔其〕作者一人の物にて、撰集などにも入なり」など見えたり。こゝに出す所はわづかなれど、むかしの名だゝる先達、いつれもかくのみいへるを以ても、歌の無上至極の界といへるは、心詞の眼目に、一ふしあるを云と見えたり。されば、心詞つゞけなしの内に、いづれ一所ちから入(レ)あらせずては有べからず。こゝに歌もて、其氣味合をさとさむとおもふに、おのが一箇の了簡に任(セ)ては、わざとそれに叶へむ歌えり出たらんにやと、疑ひもあるまじきにあらねば、はやく久我太政大臣通光公の、其程の秀逸とて、撰みおき賜ひたる歌仙落書と云書の中より、二三十首出せり。是とても、勝れて名歌と云にも有べからねば、今此さだめにはあかぬこゝちもすれど、初心の目當には、高からず低からず、相應ずべき歌どもなれば、それにしるしを添てさとす事左のごとし、
 一歌の首に、○を冠うせたるは、詞の上にはこゝと指(ス)所なくて、一首の中に實情のこもれるしるし也。是を心の眼目と云。此類の歌は詞に飾なく、平語のふりによむがよき事、既に云が如(415)し。
 一歌の傍に、、、、、、此點を漆へたるは、其歌の句中にして、眼目たる詞どものしるし也。此類の歌は、平語のふりにはなれて、必ずいひなしに、一ふしあるべき事既に出。
 一歌の傍に、――此しるしを添たるは、彼眼目の句に、あひ應じたる詞どものしるし也。即此應じたる詞どもを、右の眼目の句に合せて其風情の意味をよく味はふべきなり。凡歌の躰さま/”\ありといへども、約めていへば一首の感情右の二(ツ)には過ず。されば歌は、心を先として、詞に一ふしあらする外なき事をさとる時は、古人のさばかり難きものにいへりし善惡のわかちもいとたやすくわきまへられん。もし又此事をしらずして、人々のすき/”\に任せゆかば、生涯知事かたき也。そも/\かゝる大切なる界なりければ、既に中卷、初心のよみ口の條にもいひたれど、猶よく合點させんとて、かくいくたびもいひおかるゝにぞありける。はやく此條と引合せてよく合點せん人は、速かに上逢して上手の界に至るべく若(シ)おのれ/\が先入などの僻見を捨かねて、今此近き秘傳どもを輕しむらん人は、老てかならず後悔すべきものなるぞかし。
 
歌仙落書
 
  前大納言實定卿〔父〕大炊御門右大臣〔公能公〕かくれ給て〔のち〕かきおかれける日記を見て、
○〔世におはしゝ程は澤山さうに思ひつるに、うせたまへる跡にてかやうに〕をしへおくそのことの葉を見るたびに〔是も聞おけばよかつた、それも問(ヒ)おけばよかつたにと後悔すれど、そは〕又〔と〕とふ〔し〕かたのなきぞかなしき
(416)  皇太后宮權大夫俊成卿、擣衣のこゝろを
 うつおとはよその枕に〔かうしみ/”\と〕ひゞき來て〔其〕衣は〔いづくの〕たれ〔が身〕に〔マア〕なれんとすらん〔あはれと思ふも無益な事じや〕
  同 題しらず
○〔おれが死(ン)だならば、こゝに葬られんとて、兼て墓所なりと、心に〕しめおきて今は〔マウ其時節か〕とおもふ秋山の蓬がもとに〔おれを待と云〕まつむしのなく〔心ぼそい事かな〕
  清輔朝臣 三條大納言實家卿〔の家の〕八月十五夜歌合に
○〔年老て〕更にけるわがよ〔はひ〕のほどぞあはれ〔に悲しきもの〕なるかたぶく月は〔夜更ても、あすは〕又もいでなん〔を、おれはマウだん/\と傾くばかりじや〕
  同 懷舊のこゝろを
○〔此比は追々と苦勞が多いが、命〕ながらへ〔たら)ば又〔此くらうの多い〕この比や|しのば《シタハ》れん〔まへ方〕うし〔や、悲しや〕と〔思ひ〕みし〔其昔の〕世ぞ今は〔又〕戀しき〔是をおもへば、世中は次第/\にうき事の増(ス)ものじや〕
  右京權大夫源頼政 後朝戀人こゝろを
〔かの〕人〔の心〕はいさ〔しらず、おれがかうやるせなく戀しいのは、よんべ殘り多く〕あかぬ〔わかれせし、其〕夜床にとゞめ〔置て來〕つるわが心こそわれを待らめ
  敦頼 秋夕鹿
〔此〕夕まぐれ〔は、おれは鹿のね聞た故に、此やうに悲しいと思うてゐたが〕さ〔やうなく〕てもや秋の〔夕べは〕かなしきと鹿のねきかぬ人にとはゞや〔な〕
  右馬權頭隆信 深夜荻といふ事を
 おもふ人〔を、もし〕した〔心に〕待よはの風ならば〔かう夜更てそよぐたびごとに、問(ヒ)來たかとていく(417)たびも〕あやしかるべき荻の音かな
  同 水鳥
 おきつ風〔の吹てこそ、池は近くもより來るものなれ、風も〕ふかぬによする浪の音や〔是はマア何(ン)であらう、ふしぎな事じや。アヽ合點がゆいた。これは〕汀にきぬるアヂ〔と云小鴨〕のむら鳥〔どもの、はね音であつた〕
  同 戀のこゝろを
 〔何(ン)ぼつれない女でも〕われゆゑの泪とこれを〔マア〕よ所に見ばあはれ〔いとほしやと、おもひ〕なるべき袖の上かな
  俊惠法師 月の歌とて
 〔氷はさす棹にさはるものじやが〕筏おろす清瀧川〔の清き水〕にすむ月〔のかげ〕は〔すきとほるやうで、誠に〕棹にさはらぬ氷〔と云べき物〕なりけり
  登蓮法師 海邊月
 きよみがた〔きよくさえて〕月すむ夜はの〔晴盡て只〕うき雲〔と云〕は〔却て氣色をそふる〕ふじの高ねの烟〔のみ〕なりけり
  寂超法師 故郷月
 ふる郷の〔奄室へ久しぶりで來て見れば、普見馴た月が只獨照てをる。おれはかうなつかしいと思ふが、あの月はどうじややら、いざ〕宿もる月にことゝはん我をば見〔しら〕ずや] むかしすみ〔て居た、坊主であり〕きと
  寂然法師 曉霧隔舟と云事を
 霧ふかき淀のわたりの〔うすぐらい〕明ぼのに〔堤に立て、渡守よをゝい/\と聲たてつゝ、向ひから〕よするもしらず〔やツぱり〕舟よばふなり
  同 十月ばかり大原の栖にもみぢのいたく敷たるを見て
 〔拂ふ人のないとて、かうもつもるものか、此〕ちりつもるもみぢ〔をば、おのれが庵室じやとおもへばこそ珍らしくもあらね、もし外より〕分きてよ所(418)〔の人〕に〔成て〕見〔たなら〕ばあはれなるべき庭のおもかな
  二條院讃岐 始思はで後思戀といふことを
○今更におもふ〔と云〕も〔戀しと〕いふも頼まれず これも〔以前の通り又もや〕こゝろのかはる〔事あらん〕とおもへば
  同 曉の戀のこゝろを
 明ぬれど〔殘をしさに〕まだ〔おのれ/\が〕きぬぎぬ〔のわかれ〕に〔は〕なしやらで〔自分の袖を泣ぬらすばかりか〕人の袖をもぬらしつるかな
  大宮小侍從 戀の歌の中に
 〔來もせぬ人を〕待よひに〔だん/\と〕更行かねの聲きけば〔マウ九ツじや、マウ八ツじやと、是程ぢれつたう、心いられのする物はない。曉の〕あかぬわかれの鳥〔のねを〕ば〔つらいものぢやと人はいへど、それは逢ての上の事じや。かう待あかせし思ひにくらぶれば〕もの〔ゝ數〕かは〔何(ン)でもない事じや〕
  大輔 月のうた
 〔もしわが命〕はかなくて〔無常のけぶりの〕雲と成なん世なりとも〔空にのぼりて〕たちはかくさじ 〔これ程をしむ〕秋のよの月〔なれば〕
  大納言通具 曉月を
〔老が身の秋更て、寒き曉の〕霜こほる袖にも〔やツぱり〕影はやどりけり〔おもへばうき身の久しい友じや〕 〔まだ若かりし初秋の袂の〕露よりなれし在明の月〔なりけるに〕
  民部卿定家 戀のうた
 〔つれなくうき物じやとはいへど、逢て其曉の〕歸るさの物とや人のながむらん〔うら山しい事じや〕 〔われは來もせぬ人を〕待夜ながら〔に、其まゝ空しく明して〕の〔曉にながむる〕有明の月〔なるものを〕
  前宮内郷家隆 五十首奉りける時の歌
(419)○〔旅は心ぼそいものじや。けふ迄もあまたの山を越て來たが、こよひ〕あけば又〔あすもわが〕こゆべき山のみねなれや 〔あの〕空行月の末の〔あたりの〕しら雲〔のかゝれるみねは〕
  鴨長明 裏内《マヽ》御歌合に 曉鹿を
○今〔に程なく〕來むと〔もし〕つまや契りし〔此〕長月の〔夜の長いのに、よひより待更て〕有明の月に〔うらめしさうに〕をじか鳴なり
  藤原秀能 宇治にて夜戀といふことを
 〔どうで眞實からは訪來はせぬ。せめて此〕袖の〔泪の〕上に〔やどれる月を見て〕誰ゆゑ〔其樣に泣ぬらして〕月はやどるぞと〔われをば〕よそになし〔てだにせめ〕ても人のとへかし〔な〕
  宮内卿 五十首の歌奉りける時
 〔高ねより〕花〔を〕さそふ比良の山風〔の湖の上に〕吹〔わたり來て、ひら一面にさくらのちり浮〕にけり〔な〕 〔波の上には跡のつかぬ物じやが〕こぎゆく舟の〔其通ツた〕跡〔のはつきりと〕見ゆるまで〔に〕
  兵衛内侍 承久元年歌合 冬秋月を
 〔流るゝ水は、こほらぬものなるを、此〕きふね川〔の〕行瀬の〔波にやどる〕月〔のさえてゆく水〕も〔さながら〕氷る〔かと見ゆる冬の〕夜に〔其かげの〕うへこす〔波の〕玉は〔全く氷の上をたばしる〕あられなりけり
先かりに、是らを以て右に云所のむねをさとりてよ。おのれ年來、色々にしてさとし見たれど、凡そ初心の輩に、歌の氣味合を速かに合點させんには、如此一首の眼目に、しるししてしらするにまさるわざのあらざりつれば、かくはものせしなり。
  猶此二三十首の歌どもにもにて、飽たらず思はん人は、さきにこ古今集緊要、拾遺集同、堀川百首同、新古今同、万代集同、新葉集同、夫木集同、凡此等の書に、五七種の簽をほどこし、今(420)少し委くものし置つれば、それらを見て明らむ
 
  ○てにをは詞の活用の事
    附かなづかひ學問等の事
うたは既にも云如く、初めは先何にもかまはずによみ習て、少し口づきゆかば、古人のをしへ置れたる趣を荒増にも心得、其氣味合をケ成にも味はへてのちは、そろ/\とてにをは、詞の活き等をも心がけゆくべし。昔は是らの事は、させるさだもなく、自然と覺えゆくに任せけむやうすなりけれど、近來となりては、皆人はやく覺たがりて、狂歌師俳諧師の徒に至る迄も、是を習ひ學ぶ事となりにたり。今おもふに、實はさし越たるわざにして、譬へば今年生れ出たる乳子に、しひて物云(ヒ)を習はせんとするが如きなり。こはおのづからのわざなれば、さやうに急がずとも、三歳四歳とならば、我(レ)といひ出ざらめやは。てにをはもそれがやうに、歌の筋道、聞わくらん時節到らば、誰かはさとらでやむ人あらん。然れどもかゝるならひとなり來し世には、さのみもいひがたからん。何事も其時世のならはしは、しひても背き難きものなれば、其ほど/\に心にかけて習ひ覺ゆべし。但し此ほどのさまを見るに、世にてにをは家、活用家など稱して、此二ッの上ばかりにかゝりをる人、是かれ見ゆ。人の云をきけば、其教へを受る輩は、歌もろく/\にはよめず、文は一くさりも書得ざる程なり。是を近道としてをしふめるよしなれど、遠道にも至らず。いと無益なるわざなりかし。さやうならん人のまねは、ゆめ/\すべからず。先よく思うても見よ。手ばかり覺たとて相撲はとられず。形ばかり知たとて劔術は遣はれず。況や歌文章は心の術なるを、てにをは活用計覺たとて、其術の至らざるをばいかにせん。もし劔術相撲は手からさきも強て習はゞ覺えもすべけれど、いまだ歌も(421)よめず、文作り得ざる内に、てにをは、活用を覺えん事は、及びもない事也。しひて其かた角を覺えた所が、なま兵法大疵のもとゐを引出んのみならず、却て心におぢけが付て、つひに歌もよめず、文もかけずなる下地を、われからこしらふるわざ也。しかのみならず、然かおのが歌の出來ざるより心ひがみて纔に聞はさみたるかた角を頼み、われはがほに、人の歌の手おちを見いでなんと、毛をふき疵をもとむるにいたる、いとあぢきなき事どもなり。是を以ても、たゞ歌よみながら、心長に覺えて、術と法との二ツを互角にせん事を要とすべきなり。又假名は言語の學びのはじめなりければ、かなづかひをも心にかくべし。言の心をとけば、自然と假字の格も定るべき道理なれば、かなのたがひたらんは、打つけに見ぐるしきものなり。
  てにをはの書は、古きものは皆大あらめにて委しからず。近來の物には、かざし抄【三卷】あゆひ抄【六卷】詞の玉の緒【七卷】紐鏡【折本】詞の八千種、詞の本末、詞のかよひ路【各二卷】是らをおきては、おのれが助辭本義一覽【二卷】あり。活用の方は、家々に記せる物は多きさまなれど、印本はいまだ詞の八衢【二卷】の外は聞えず。假字遣の書は古言梯【一卷】掌中古言梯【一卷】字格【二卷】古假字格【1卷】文章假字遣【四巻】等也。此外にも色々あれど、荒増を擧るなり。
又其上に餘力ありて學問の方に心ざし出なば、ほど/\に隨て學問すべし。こは又歌にまさりて貴きわざにぞある。凡そ學問の順道は、歴史万葉の素本をよみて、後に其註釋は見合せて解べなきれども、さてはいと難きわざにて、なみ/\の心ざしにては成就しがたかりなん。故今、時世をはかり、下根の人の爲にいさゝか其近道を云(ヒ)試むべし。そも/\昔ならば、いかにかたしとも、本道をおきて逆にはすまじきわざなれど、はやく元禄享保の比より、其難きを蹈わけたる人、追々に出來つれば、今にしてはま(422)づ其先哲、契冲、眞淵、宣長、その他久老、士清等の、あまたの學者のいたづき置かれたる書どもより見むかた、大に入安かるべし。是も既に云(フ)、うたの稽古と同じ事にて、いかに高さ理りありとも、倦(ミ)つかれ退屈しては、何の詮かあらん。只入安き方より入て行々爲遂るが肝要なれば也。さて既にいたづかれたる人達の書どもより見むは、案内者をつれて山道にいるが如くにて、だん/\と學問の的、其すぢ/\、方角等も自然とわかり、又其人々の復古の志に引立られて、心ざしの深く成行方も有べく、又いにしへの良き事どもゝ追々に身にしみて、はじめさ程に思立ざる人も、いと思ひの外に心ざしを起すも有べし。かくて其すぢ/\の内、格別の英雄は、皆相兼て學ぶ氣にもなるべけれども、大かたの人は、其器量相應に或は神典、國史の方にゆくも有べく、或は律令、格式、職原等の方にゆくも有べく、又祝詞、万葉等の古語の方にゆくも有べく、撰集、家集等の、歌學の方にゆくも有べく、又物語記録等の方に行も有べき也。さて然かわが心ざす方に入て、其すぢの書を見もてゆくに、たゞに見過しなんは甚損なれば、はじめより心に留る事、めづらしげなる事、後に用のありげなる事などは、筆まめに書拔置べき也。若き時は、記憶もよき故に面倒に覺えて、見過すものなれど、年經て後は、自身の抄録ほど、用に立物も又有べからず。守部も空しく見過して、より/\是を後悔すれば、かくは云(ヒ)置也。但し近來は、考證學問とかいひて、いまだ自身によみ見もせぬ書を、先(ヅ)打つけに切ぬかせ、いろは分にわけ置て、物に引付るを賢きわざと心得たる人多かり。こは献立を以て饗膳を論ずるが如く未(ダ)其物を不見、其味はひを不v試してものせるわざなれば、只空論なり。故に目前に逢て、事の意味を問試るに、答ふる事あたはずして、彼いろは分の箱を持出さん外なき也。又其著述の上を見るに、自身の考へとてはなく、引書なども無益なるが多く、(423)凡てしり口あはず。不都合なる事がちなるも、自(ラ)其書を見ず。切拔もて集めなせるゆゑなり。かゝるうはべの餝りを羨むべからず。學者はたゞ自(ラ)心をはたらかするが專一なれば、抄録すればとても、先其本文をよくよみ、よく解得て、其上の餘力になすべき也。
  こゝに其すぢ/\の書目を出し其見方等をもさとすべきなれど、かばかりの物に盡すべきならねば、別に賀茂氏の書意考にかき入おけるを見べし。今はたゞおのが心にあかずおもふ事、又かくもあれかしとおぼゆる事などをわづかに一二ことわりてやくつ。
一古人の著はせる書は、よくもわろくも、其人の心にいはずてはえあらず、むねの思ひの溢れ出たるさまに見えて、皆眞心也。故に其事がらおもくして、文談みじかし。是をたゞ疎也とのみ見ん人はその眞情と名聞なき方を思はざるもの也。此比の人の著述は是に反して、たゞ見せかけばかり也。故にさまでもあらぬ事の上に引書多く、文談長くして、あきたくうるさき也。是を至れり盡せりと見む人は、其名聞ぐるしきをしらぬなり。此差別をよく/\わいだむべし。
一前文に云、契冲阿闍梨以下、五大家の人々の、古き代の事あまた説るに就て、今はいふ事なしとや心得らん。近き比は、學問甚低くなりて、古學者の著述に、源平盛衰記、東鑑以下の物を引用するやうになりぬるこそいふがひなくめゝしき心なれ。そも/\廣き古への事、何ぞかの人々にて盡ん。只大海の一滴をくめるのみにて、其わづかにいへる所だに半もあたらず。殊に未(ダ)埋れたるまゝにして手のとゞかざる書どもゝ、あまたあるにあらずや。ひたすらいにしへに心をむけて學問はせまほしくこそ
一第一に改めたき事は、神の道のときごと也。いつそわからずば、わからぬにてよかりしを、あいにくに大事のことをわろくも説そめられたりな。かの(424)大人達の説の如くにては、むかしより皆人の尊み來つる神の御徳うすろいで、はては何(ン)でもない物におもひなしゆくらんと、かばかり歎はしき事もなし。誠ある人、誰か是をなげかざらん。此頃是をにくみて、誹る人これかれ聞ゆ。もし誠あらば其心ざしに荷擔して、其わるきを正さんとこそはすべきわざなるに、敵にとれるははらぎたなき所ある故ならん。そは其説こそは右に云如くなれ。その志はよきにたがひあらざればなり。そも/\古傳説の趣は、然か傳へたる事の中に、別に一のさとりざまありて、奈良以前の人は、みなよく心得居たる事ども也。中昔迄も、稀には神秘とて傳へたるさまなりけるを、あまりに秘して、知人なくなり、つひに附會の説どもに入まじりて、定かならずなりし也。守部は、いさゝか神さちやありけん。はやくより、かの二人の大人を信じながら、神の御上のさだ、道の論などは、はじめよりえうけず。たゞ勿躰なく覺えければ、別になして學ひ來しを、さりとて外に考へもなく、歎きながら過つる内、家に聊か傳へたる事のあるにもとづきて初念のほい空しからず。數十年苦勞して今は十年あまり以前に、つひに眞の解ざまをさとり得つ。よろこばしきあまりに、とみに筆をとりてしるしおける、即書目に出せる、稜威道別是也。今より後、かのときごとをあかず思はん人々は、猶よく此道別を補ひ助けて、彼大人達の志にむくいてよかし。
一第二は、古事記日本書紀を、もとつ古意に解改めたきものなり。並六國史、百七十卷ともに。
一第三は、律令格式をときひろめたきもの也。
一第四は、國史の絶たる後をかき繼たきわざなり。
一第五は、万葉集祝詞等の精解を作りたきものなり
一第六は、諸國神社の來由、神寶、靈驗等をよく糺して、委く記したきものなり。
一第七は、古風土記の殘編、殘缺を悉く集めて、よく(425)修補したきものなり。
一第八は、古今の言語を、異朝の字典のごとく悉く大成して、一ツももらさずに類聚したきもの也。
一第九は、萬物を、右同樣に類聚したきものなり。
一第十は、古今の氏族を正し、人物の列傳を作りたきもの也。
凡是らをこそおもひを起して後學のつとむべき所なれ。右の内、予が少しく企たるあり。書目に出、世に久しく絶たりし古律も、天保七年三月、十二律の内九律出て、幸に予が手にいれり。これかれに出たる殘編を取合せて、今に全篇備はるべくなれるこそたのもしくうれしけれ。
 
(426)心の種 終
 
【新訂増補】橘守部全集
 
(新訂増補橘守部全集第五奥付)
大正十年八月十五日   初版発行
昭和四十二年九月十五日 新訂増補発行
    全十四巻定価四五、〇〇〇円
 編集者 橘純一
 監修者 久松潜一
 発行者 佐々藤雄
 印刷所 東京美術本社工場
 製本所 土開製本株式会社
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