續紀歴朝詔詞解
歴朝詔詞解序《ミヨミヨノミコトノリゴトノトキゴトブミノハシブミ》
掛久者雖畏《カケマクハカシコケド》。神之大御代爾《カミノオホミヨニ》。皇御孫之命之天降坐而《スメミマノミコトノアモリマシテ》。安國登平久所知食志與理始弖《ヤスクニトタヒラケクシロシメシシヨリハジメテ》。人之代登那埋弖母《ヒトノヨトナリテモ》。彌繼々爾生坐流日之御子之《イヤツギツギニアレマセルヒノミコノ》。現御神登神隨所知《アキツミカミトカムナガラシロシメス》。此御食國能大政事者皆《コノミヲスクニノオホキマツリゴトハミナ》。於高天原而《タカマノハラニシテ》。遠津神皇祖之神量々賜祁牟《トホツカムロギノカムハカリハカリタマヒケム》。天津法之麻々爾々許曾波有那米《アマツノリノマニマニコソハアリナメ》。如此有者事登有毎爾《カカレバコトトアルゴトニ》。天下爾令賜比志《アメノシタニオフセタマヒシ》。太古之詔詞之旨波志《イニシヘノミコトノリゴトノムネハシ》。即其神隨治賜比志政事爾斯弖《ヤガテソノカムナガラヲサメタマヒシマツリゴトニシテ》。其詞母亦《ソノコトバモマタ》。神隨之麗美久妙有詞爾波阿理祁牟乎《カムナガラノウルハシクタヘナルコトバニハアリケムヲ》。其遠津太古能波世爾不遺《ソノトホツイニシヘノハヨニノコラズ》。此平城之朝庭爾至而之《コノナラノミカドニイタリテノ》。御々代々之詔詞能美許曾《ミヨミヨノミコトノリゴトノミコソ》。今之現爾傳波理弖波有祁禮《イマノヲツツニツタハリテハアリケレ》。其本與理太古之状乎傳敝《ソレモトヨリイニシヘノサマヲツタヘ》。太古之詞乎云續來而有者《イニシヘノコトバヲイヒツギキタレバ》。大形者同伎状爾阿流倍久斯弖《オホカタハオヤジキサマニアルベクシテ》。最尊美重美可爲物爾志有乎《モトモタフトミイカシミスベキモノニシアルヲ》。唯不良加母《タダフサハヌカモ》。由々志伎加母《ユユシキカモ》。當昔既久言痛伎漢國之教《ソノカミハヤクコチタキカラクニノヲシヘ》。伊那志許米佛國之道等《イナシコメホトケグニノミチドモ》。富毘許理被行而《ホビコリオコナハエテ》。專其風爾學比《モハラソノフリニマナバヒ》。其詞爾習比《ソノコトパニナラハヒ》。彼神代之隨有《カノカミヨノママナル》。大御風母可美詞母《オホミテブリモウマシコトバモ》。漸爾被失弖《ヤヤヤヤニウシナハエテ》。甚母慨久懷悒伎枉事《イトモウレタクイキドホロシキマガコト》。多爾那母麻自禮理祁流《サハニナモマジレリケル》。然爾世々能物知人母《シカルニヨヨノモノシリビトモ》。不見識哉有祁牟《ミシラズヤアリケム》。諾而哉有祁牟《ウベナヒテヤアリケム》。其麗美登解有書《ソコウルハシトトケルフミ》。此不良登論有書者《ココフサハズトアゲツラヘルフミハ》。都而母阿良受弖《カツテモアラズテ》。千萬歳月《チヨロヅトシツキ》。可惜古言癈來爾志乎《アタラフルコトスタレキニシヲ》。靈幸比坐神之御心加《タマチハヒマスカミノミココロカ》。本居平大人《モトヲリノタヒラノウシ》。生涯乎古學爾心盡佐志《イキノキハミヲフルコトマナビニココロツクサシ》。許多之書卷書著志《ココダクノフミマキカキアラハシ》。萬世爾教喩登爲而《ヨロヅヨニヲシヘサトストシテ》。此詔詞乎母《コノミコトノリゴトヲモ》。如此那母解明論置賜敝理祁流《カクナモトキアキラメアゲツラヒオキタマヘリケル》。故混亂有異國風之枉事等者《カレミダレアヒタルコトクニブリノマガコトラハ》。委曲爾見別禮《ツバラニミエワカレ》。癈來志皇國之正久麗美伎弖夫理許登婆波《スタレコシミクニノタダシクウルハシキテブリコトバハ》。眞清明爾顯而《マサヤカニアラハレテ》。音違有八絃之琴乎《コヱタガヘルヤツヲノコトヲ》。調正有事能如久《シラベタダセルコトノゴトク》。塵居曇有眞十見之鏡乎《チリヰクモレルマソミノカガミヲ》。磨成有事能如久爾那母成出多流《ミガキナシタルコトノゴトクニナモナリイデタル》。阿那意牟加志《アナオムカシ》。底寶々之書登《ソコタカラタカラノフミト》。遠久長久都多波理由加牟《トホクナガクツタハリユカム》。是能六卷之此解説書《コレノムマキノコノトキゴトブミ》
享和三年三月 大神安守
續紀歴朝詔詞解一巻
本居宣長解
まづとりすべていふ事ども
世にいはゆる宣命は、すなはち古(ヘ)の詔勅《ミコトノリ》にして、上(ツ)代の詔勅は、此外なかりしを、萬の事漢ざまにならひ給ふ御世御世となりては、詔勅も、漢文のを用ひらるゝこと多くなりて、後の世にいたりては、つひにその漢文なる方を、詔書勅書とはいひて、もとよりの皇國言のをば、分て宣命とぞいひならへる、西宮記に詔書(ノ)事、改元改錢、并(ニ)赦令等(ノ)類也、臨時(ノ)大事(ヲ)爲v詔(ト)、尋常(ノ)小事(ヲ)爲v勅(ト)、勅書(ノ)事、攝政關白(ニ)賜2随身(ヲ)1、皇子(ニ)賜2源氏(ノ)姓(ヲ)1、内親王准(シテ)2三宮(ニ)1宛2封戸(ヲ)1等(ノ)類、可(シ)2尋註(ス)1、宣命(ノ)事、神社山陵(ノ)告文、立后太子、任大臣(ノ)節會任僧綱天台座主、及(ビ)喪家(ノ)告文等(ノ)類也、奏覽(ノ)儀同(ジ)2詔書(ニ)1、と見えたるが如し、北山抄にもかく有(リ)、されど此(ノ)續紀のころは、なほ然にはあらず、皇國言のをも、もろ/\の事にも、おほく用ひられて、これをも共に、詔といひ、勅といへりき、さて宣命といふ目《ナ》は、此續紀の十の卷に、始めて見えて、そは命《ミコト》を宜《ノル》よしにて、宣とは、命《ミコト》を受(ケ)傳へて、告聞《ノリキカ》するをいふ也、神祇令に、中臣|宣《ノル》2祝詞(ヲ)1とありて、義解に、宣(ハ)布也、言(フ)d以(テ)2告(ル)v神(ニ)祝詞(ヲ)1、宣c聞《ノリキカスルヲ》百官(ニ)uとあるごとく、宣命の宣もその意也、繼體紀に、宣勅使とあるも、勅を宣《ノ》る使也、其外つねにいふ宣旨宣下などもみな、宣(ノ)字は、告聞《ノリキカ》する人に係《カカ》れり、さればかの續紀に見えたる宣命も、其《ソノ》義《ココロ》にて、古語のにまれ漢文のにまれ、勅命《オホミコト》をうけ給はりて、宣聞《ノリキカ》する事をさしていへる目《ナ》にこそあれ、その文をさしていふ名にはあらざりしを、後(ノ)世には、直《タダ》に其文をさして、宣命といひ、さるから宣(ノ)字をも、詔勅《オホミコト》のこととぞ心得ためる、西宮記の、上(ノ)件の文のつゞきにまた、別(ニ)無(シ)2宣命1、或(ハ)詔書(ノ)之可(キヲ)2宣命(ス)1、謂(フ)2之宣命(ト)1云々《トイヘリ》とある、こは又一説を擧られたるにて、これぞ古(ヘ)の意なりける、可(キヲ)2宣命(ス)1とは、その儀式をとゝのへて、宣聞《ノリキカ》するをいふ也、
〇上(ツ)代の詔勅《ミコトノリ》は、みな此宣命といふさまの文にぞ有けむを、古事記にも書紀にも、しるされたることなければ、持統天皇よりあなたの御世/\のは、一つだに世につたはらずなりぬ、書紀に多く載せられたる詔ども、上(ツ)代のはみな、撰者の心もて、新に造りて、かざりに添(ヘ)られたる、漢文のなれば、意も詞も、古(ヘ)にあらざること論なし、推古天皇の御卷などよりこなたのは、實の當時々《ソノトキドキ》の文にも有べけれど、それはたみな漢文ののみなれば、いにしへまなびのためには、さらにやうなきを、あはれ古(ヘ)の皇国言のは、いかに麗美《ウルハシ》く雅《ミヤビ》たる、たふとき文なりけむ、いとも/\ゆかしきを、書紀撰ばれたりし時、いと上代のこそ、世にのこらざることもありけめ、やゝ近き御世/\のは、多く傳はりてぞ在(ル)べきを、みな棄《ステ》て載せられず、こと/”\に消亡《キエウセ》て、世にのこらずなりぬるは、いとも/\あたらしくくちをしく、うれたきわざになむ有ける、宣長書紀を讀(ム)ごとに、かの上代のからざまの造詔《ツクリミコト》の、こちたくうるさきにつけても、古語のまことの詔詞の、いとしぬはしき歎きぞ、たへがたかりける、然るを續紀には、これをすてずして、御世/\のを、こゝら載せられたるは、いとも/\めでたくたふときこと、申すもさら也、おほかた奈良(ノ)朝よりあなたの、古言の文詞の、世につたはれるは、延喜式にのれる、もろ/\のふるき祝詞と、此續紀の詔詞とのみこそ有けれ、これらをはなちては、あることなし、然るにこの續紀の詔詞といへども、まれには漢文言のまじり、又詞のみにもあらず、意さへに漢なることもおほかるこそ、なほいとあかぬわざなりけれ、かく皇國言の詔詞にしも、漢意をまじへらるゝことも、推古天皇孝徳天皇天智天皇などの御世/\よりぞ始まりけむ、又聖武天皇高野(ノ)天皇の御世のには、佛事のいとこちたくおほかるは、殊にうるさく、ふさはしからぬわざなりかし、おほかたかくのみ、からごゝろ佛ごとの多くまじりて、詞はた漢ざまなるも、まれ/\にはまじらぬにしもあらざれども、猶大かたの文詞のいとめでたく、古く雅《ミヤビ》たることはしも、後の世の人の、かけても及ばざるさまにぞありける、
〇續紀のつぎ/\、後紀よりこなたの史どもなる宣命(ノ)詞を、つぎ/\に見もてゆくに、御世/\を經るまに/\、古言はやうくに少《スクナ》くなりつゝ、たゞ漢意漢詞のみ、いよ/\ます/\おほく、語のつゞきさまなどはた、からぶみぶりがちになれる、其中に、たゞふるき例のある事をいへる所々のみは、その古き文によれる故に、なほ宣命めきて聞ゆれども、さきに例なき事を、新につゞれるふしは、たゞ文字の書(キ)ざまのみ、いにしへの宣命書(キ)にて、すべてたゞ漢文ぶりにて、むげに見どころなく、いと拙き物にぞなりきにける、そもいかなれば、かくつたなくはなれるぞといふに、まづすべて詔勅を作るは、内記の職にて、職員令に、大内記二人、掌(ル)d造(リ)こ詔勅(ヲ)1、凡(ソ)御所(ノ)記録(ノ)事(ヲ)u、中内記二人、掌(ルコト)同(ジ)2大内記(ニ)1、少内記二人、掌(ルコト)同(ジ)2中内記(ニ)1、と見え、貞觀儀式(ノ)讓國(ノ)儀に、大臣召(テ)2内記(ヲ)1、令(メ)v作(ラ)2讓位(ノ)宣命(ヲ)1訖(テ)、先(ヅ)以2草案(ヲ)1、就(テ)2内侍(ニ)1奏覽(ス)、【若(シ)有(レバ)d可(キ)2損益(ス)1者(ノ)u據(ル)2勅(ノ)處分(ニ)1】返(シ)賜(フ)、大臣復(リ)2本(ノ)所(ニ)1、令(ム)v書2黄紙(ニ)1、挾(テ)2於書杖(ニ)1祗候(ス)、また延喜(ノ)内記式に、凡神社山陵(ノ)宣命(ハ)、大臣奉(テ)v勅(ヲ)、命(シテ)2内記(ニ)1作(ラシム)v之(ヲ)、内記作(リ)了(テ)、進(ル)2大臣(ニ)1、大臣給(フ)v使(ニ)など見えたるが如し、さて内記には、學才ある人を任ぜらるゝことにて、後(ノ)世までも然にて、職原抄にも、儒門(ノ)之中、堪(タル)2文筆(ニ)1者任(ス)v之(ニ)、草(スレバ)2詔勅宣命(ヲ)1也、とあるがごとし、然るに昔は、すべて學問といへば、たゞ漢學のみにて、皇朝の古(ヘ)の事を、ことに學ぶわざはなかりしかば、物しれる人といふも、たゞ漢籍のすぢの事を、よく知れるのみこそあれ、皇國の古(ヘ)のすぢには、うとく昧《クラ》かりし故に、年月にそへて、古言古意は漸《ヤウヤウ》にうせゆきつゝ、世にこれをしれる人もなくなれる也、そは書紀の私記の説どもの、稚《ヲサナ》くつたなきを見ても知べし、弘仁などのころすら、はやく然りければ、ましてそれより後々のものしり人たちは、おしはかるべし、されば宣命(ノ)詞の、やう/\に拙く、もはら漢さへづりのさまになれるは、必しも作(レル)者《ヒト》の、漢ざまを好みてのみにもあらざめれども、古意古言をえしらざる故に、せむかたなく止(ム)事得ずて、おのづから然(カ)流れゆきたるなめりかし、〇いにしへは、片假字平假字といふ物なかりしかば、物をしるすに、皇國語のまゝにはものしがたけれは、から國のしるしざまにならひて、萬の事みな、漢文もてしるしけるを、歌のみは、いはゆる万葉假字をもてしるし、又祝詞宣命も、古語のまゝに書て、一もじもたがへず、てにをはの假字をさへに、細書に添(ヘ)たる、是を世に宣命書《セムミヤウガキ》といへり、そも/\これらのみは、漢文にはしるさで、然(カ)語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天(ノ)下(ノ)公民に、宣聞《ノリキカ》しむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめて感《カマ》くべく、其詞に文《アヤ》をなして、美麗《ウルハシ》く作れるものにして、一もじも、讀(ミ)たがへては有(ル)べからざるが故に、尋常《ヨノツネ》の事のごとく、漢文ざまには吾(キ)がたければ也、かゝれば宣命といふものは、聞(ク)人の心に染《シ》めて感《カマ》くべく作れる物なれば、その文詞の作りざまは、さらにもいはず、これを讀(ミ)擧る事をさへに、古(ヘ)はいと重く嚴《オゴソカ》にせられて、其法正しく、くさ/”\ならひども有しことなり、三代實録に、貞觀九年正月十七日、二品仲野(ノ)親王薨、親王(ハ)者桓武天皇(ノ)之第十二皇子也云々、幼(ヨリ)辨慧、性寛裕云々、親王能(ク)用2奏壽宣命(ノ)之道(ヲ)1、音儀詞語、足(レリ)v爲(ルニ)2模範(ト)1、當時王公、罕(レナリ)v識(ルニ)2其儀(ヲ)1、勅(シテ)2參議藤原(ノ)朝臣基經、大江(ノ)朝臣音人等(ニ)1、就(テ)2親王(ノ)六條(ノ)亭(ニ)1、受2習(ハシム)其(ノ)音詞曲折(ヲ)1焉、故(ノ)致仕左大臣藤原(ノ)朝臣緒嗣、授(ク)2此(ノ)義(ヲ)於親王(ニ)1、親王襲持(テ)、不v失2師法(ヲ)1焉、と見えたるにて、いとたやすからざりしほどをしるべし、ふるき書籍目録に、宣命譜といふ物出たり、今は傳はらぬ書なれば、いかさまなるものにか、しられねど、譜と名づけたるをもて思ふに、その讀揚《ヨミアゲ》ざま、音聲の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物にこそありけめ、そも/\かくまでやむことなきわざにしあれば、今此紀なるをよむにも、そのこゝろばへ有べし、訓を附ること、いと/\大事也、一(ト)もじといへども、なほざりにすべきにあらず、よく/\古語の例格を尋ね考へ、語のしらべをうるはしく物すべきわざなり、すべて何事をいふにも、その詞の文《アヤ》によりて人も神も、こよなく感《カマ》け給ふことなれば、祝詞宣命のたぐひは、殊に言詞《コトバ》の文《アヤ》を主《ムネ》とすべきわざ也、神代紀(ノ)天(ノ)石屋戸(ノ)段に、天(ノ)兒屋(ノ)命云々、而|廣厚稱辭《ヒロクアツクタタヘコトシテ》、所啓《ノミマヲス》焉|于時《トキニ》、日(ノ)神|聞之《キカシタマヒテ》、曰(ヒテ)d頃者《コノブロ》人《ヒト》雖《ドモ》2多請《サハニマヲセ》1、未c有《アラザリキト》若此《カク》言之麗美《コトノウルハシキハ》者u也、乃(チ)細2開《ホソメニアケテ》磐戸《イハヤトヲ》1而|窺之《ミソナハス》、とあるをもて、神も、殊に言詞のうるはしきを感《メデ》給ふことをしるべし、近き世のものしり人共のごとく、たゞ空理《ムナシゴト》をのみ説《トキ》て、言詞をなほざりに思ひすつるは、例の漢意にして、古(ヘ)の意にあらず、
〇宣命の儀式は、貞觀儀式の條々に、多く見えたる中に、大嘗祭巳(ノ)日のところに、内記以(テ)2宣命(ノ)文(ヲ)1進(ル)2大臣(ニ)1、大臣執(テ)奏(ス)v之(ヲ)、訖(テ)大臣喚(テ)d堪(ヘタル)2宣命(ニ)1參義以上一人(ヲ)u、授(ク)2宣命(ノ)文(ヲ)1、受(テ)即復(リ)2本(ノ)座(ニ)1云々、皇太子立(テ)2座(ノ)東(ニ)1西面(ス)、次(ニ)親王以下、共(ニ)隆(テ)之立(テ)、宣命(ノ)大夫下(テ)v殿(ヲ)、進(テ)就(テ)v版(ニ)宣制(ス)、其詞(ニ)云(ク)、云々諸聞食 止 宣(ル)、【皇太子先(ヅ)稱唯、次(ニ)親王以下共(ニ)稱唯、皇太子先(ヅ)再拝、次(ニ)親王以下共(ニ)再拜、】更(ニ)宣(テ)云(ク)云々、衆聞食 止 宣、【皇太子先(ヅ)稱唯、次(ニ)親王以下稱唯、訖(テ)皇太子先(ヅ)再拜、次(ニ)親王以下 小齋 再拜、】宣命(ノ)大夫復(ル)2本(ノ)座(ニ)1、親王以下(モ)亦復(ル)2本(ノ)座(ニ)1と見ゆ、何れのをりの宣命の儀も、大かたかくのごときもの也、宣命(ノ)大夫といふは、宣命(ノ)文を讀(ム)人にて、宣命使ともいへり、上に堪(ヘタル)2宣命(ニ)1參議以上一人とある是也、就v版(ニ)とは、宣命(ノ)版とて、かねて設(ケ)置(ケ)る、それに就《ツク》をいふ、宣制とは、制は即(チ)命にて、これも宣命といふと同じ意なれども、宣命といふは、其事の儀式を、ひろくいひならへる名なる故に、其中につきて、正《マサ》しく其文を讀(ミ)擧る事をば、宣制といひて、事を分《ワカ》てる也、
〇内記式にいはく凡宣命(ノ)文(ハ)者、皆以2黄紙(ヲ)1書(ク)v之(ヲ)、但奉(ル)2伊勢の大神宮(ニ)1文、以2縹(ノ)紙(ヲ)1書(ク)、賀茂(ノ)社(ハ)、以2紅(ノ)神(ヲ)1書、
〇今此解は、續紀に出たる詔書のかぎりを擧て、その詞を解《トキ》)たり、つぎ/\第一詔第2詔とやうに標《シル》すは、もとより然定まれることの有(ル)にはあらず、今たゞ私に、假《カリ》にまうけて定めたる也、然定めまうけたる故は、解の中に、しば/\他《アダシ》詔を引出る、そのたび毎に、某《ソノ》年の某(ノ)月日の某(ノ)詔と書出むは、言多く煩はしければ、言少《コトズク》なにものせむため、又此解を見む人の、かれこれ尋ね合(ハ)すにも、便(リ)よからむため也、
〇今此書に擧たる本文は、世にひろまれる印本《スリマキ》の外に、寫本《ウツシマキ》どもをも、三つ四つよみ合せて、中によしとおぼゆるを、えりとりてものしつ、さてその本どものよきあしきことは、その所々の解《トキゴト》にことわれり、
〇解の中に、書の名をあげずして、引る文は、續紀なり、又たゞ紀とのみいふも、績紀なり、
〇すべてもろ/\の書に、宣命(ノ)文をしるせるやう、てにをはの假字を、細書《コガキ》にして添(ヘ)たる、其例、大かたは定まれる如くにて、たとへば勅《ノリタマ》 波久《ハク》とあるがごとき、波久《ハク》は活《ハタラ》く辭《モジ》なるが故に、添(ヘ)たり、いづれの詞もかくのごとし、然れどもまた、勅《ノリタマハ》 久《ク》とやうに、波《ハノ》字は省きて、書《カカ》ざるたぐひも常のこと也、必(ズ)同じさまに定まれることはあらず、又細書にすべきを、大書にし、大書にすべきを、細書にしたるたぐひも多く、かならず細書の假字を添(フ)べきところに、省きて添(ヘ)ざるもおほし、すべてかゝるたぐひ、もとより然るも有(ル)べく、又後に寫すとて、變《カハ》れるも有べく、くさ/”\正しからざる書(キ)ざま、つねおほかるを、宣長今これを書(ク)に、大書細書のけぢめの例をば、正しく定めて、物せむとすれども、なほことごとくこまかには定めがたきことどもあり、されど又ひたぶるに本のまゝにてあらむは、あまりにみだりなることの多かれば、今は此大書細書ばかりは、本にかゝはらず、大かたには例をさだめてものしつ、
〇いづれの詔も、おの/\其《ソ》を作れる人の、心々とおぼしくて文字づかひなどかはれること有(リ)、たとへは仕奉《ツカヘマツル》を、供奉或は奉侍とのみ書き、所念《オモホス》をみな所思、大命《オホミコト》を、みな御命とも書るたぐひ也、假字も然にて、とほりて定まれることはなし、ににみな爾を用ひたる詔も有(リ)、又みな仁を用ひたるもあり、てに皆弖を書るもあり、又みな天を書るもあるたぐひ也、これはたおの/\、作者の心々にぞ有けむ、又まれには、つねにはをさ/\用ひぬ、めづらしきもじを用ひたることもあり、又假字の清濁は、分て用ひたりと見ゆるもあれども、また自(ノ)字夫(ノ)字などを、多く清音にも用ひたるたぐひ、分れざるも多し、又すべて細書の假字は、今の本、全くもとのまゝともおばえぬこと有(リ)、弖と天、爾と仁などのたぐひ、此本と彼(ノ)本と、異なることも多かるを見れば、中には後につぎ/\寫せるときに、何心もなく、書たがへたるたぐひもあるにやあらむ、
第一詔
一の卷の始めに、天之眞宗豐祖父(ノ)天皇、【文武天皇】云々、高天(ノ)原廣野姫(ノ)天皇(ノ)十一年、立(テ)爲2皇太子(ト)1、八月甲子(ノ)朔、受(テ)v禅(ヲ)即v位(ニ)、庚辰詔曰(ク)とあり、持統天皇紀には、八月乙丑(ノ)朔、天皇定(メテ)2策(ヲ)禁中(ニ)1、禅2天皇(ノ)位(ヲ)於皇太子(ニ)1と有、八月朔の、乙丑と甲子と、たがひたるは、七月を、大としたると、小としたると、暦法の異なりけむ故なり、庚辰は十七日なり、
現御神 止 大八嶋國所知天皇大命 良麻止 詔大命 乎 集侍皇子等王臣百官人等天下公民諸聞食 止 詔《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲウコナハレルミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 爾 事始而遠天皇祖御世中今至 麻弖爾 天皇御子之阿禮坐 牟 彌繼繼 爾 大八嶋國將知次 止 天 都 神 乃 御子隨 母 天坐神之依 之 奉 之 随〔聞看來〕此天津日嗣高御座之業 止 現御神 止 大八嶋國所知倭根子天皇命授賜 比 負賜 布 貴 支 高 支 廣 支 厚 支 大命 乎 受賜 利 恐坐 弖 此 乃 食國天下 乎 調賜 比 平賜 比 天下 乃 公民 乎 惠賜 比 撫賜 牟止奈母 隨神所思行 佐久止 詔天皇大命 乎 諸聞食 止 詔《タカマノハラニコトハジメテトホスメロギノミヨミヨナカイマニイタルマデニスメラガミコノアレマサムイヤツギツギニオホヤシマクニシラサムツギテトアマツカミノミコナガラモアメニマスカミノヨサシマツリシマニマキコシメシクルコノアマツヒツギタカミクラノワザトアキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラミコトノサヅケタマヒオホセタマフタフトキタカキヒロキアツキオホミコトヲウケタマハリカシコミマシテコノヲスクニアメノシタヲトトノヘタマヒタヒラゲタマヒアメノシタノオホミタカラヲメグビタマヒナデタマハムトカムナガラオモホシメサクノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。是以百官人等四方食國 乎 治奉 止 任賜 幣留 國國宰等 爾 至 麻弖爾 天皇朝庭敷賜行賜 敝留 國法 乎 過犯事無 久 明 支 淨 支 直 支 誠之心以而御稱稱而緩怠事無 久 務結而仕奉 止 詔大命 乎 諸聞食 止 詔《ココヲモテモモノツカサノヒトドモヨモノヲスクニヲヲサメマツレトマケタマヘルクニグニノミコトモチドモニイタルマデニスメラガミカドノシキタマヒオコナヒタマヘルクニノノリヲアヤマチオカスコトナクアカキキヨキナホキマコトノミココロヲモチテイヤススミススミテタユミオコタルコトナクツトメシマリテツカヘマツレトノリタマフオホコトヲモロキロキコシメサヘトノル》。
故 (爾) 如此之状 乎 聞食悟而款將仕奉人者其仕奉 禮良牟 状隨品品讃賜上賜治將賜物 曾止 詔天皇大命 乎 諸聞食 止 詔《カレカクノサマヲキコシメシサトリテイソシクツカヘマツラムヒトハソノツカヘマツレラムサマノマニマシナジナホメタマヒアゲタマヒヲサメタマハムモノゾトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
現御神 止《ト》は、阿伎都美加微登《アキツミカミト》と訓べし、此訓の事、出雲(ノ)國造(ノ)神壽後釋にいへり、明御神《アキツミカミ》明津神《アキツミカミ》なども書り、止《ト》は、爾呈《ニテ》といはむがごとし、第五詔には、現御神 止 坐而《アキツミカミトマシテ》とも有(リ)、皇 止 坐《スメラトマス》父 止 坐《チチトマス》なども、皇にて坐《マシ》父にて坐(ス)也、此言は、天皇は、世に現《ウツツ》しく坐(シ)ます御神にして、天の下をしろしめすよし也、貴行紀雄略紀に、現人神《アラビトカミ》とあるも、同じ意也、又万葉に、遠神吾大王《トホツカミワゴオホキミ》と申し、又天皇の御うへの事には、神《カム》ながら云々と申すも、神にてましますまゝにといふ意也、そも/\後世に至りて、天皇を畏れ奉らざる者も、出來たりしは、世(ノ)人の心、漢意にうつりて、現御神にまします御事を、わすれたるが故也、あなかしこ/\、
〇大八嶋國の事、古事記傳にいへり、
〇所知は、志呂志賣須《シロシメス》と訓(ム)、食《メスノ》字を省きて書る也、万葉十八廿には、之良志賣之《シラシメシ》とも有(リ)、又六には、所知座《シラシマス》とも有、
〇天皇大命は、須賣良我意富美許登《スメラガオホミコト》と訓べし、十二詔に、天皇 羅我 命《スメラガオホミコト》、卅二詔に、天皇 何《ガ》 大御命 良麻止、四十二詔に、天皇 我 御命 良麻止、四十四詔に、天皇 良我 御命、四十八詔に、天皇 我 勅命、など有をもて知べし、四十詔に、天皇 我 御世 爾ともあり、
〇良麻止《ラマト》は、附ていふ辭と聞えたり、武烈紀に、臣をヤツコラマ、顯宗紀に、御裔僕をミナスヱヤツコラマ、など訓るに同じ、現御神云々の大命ぞと、たしかにいひ聞する意に添(ヘ)たる辭なるべし、師は、詔《ノ》らまにて、詔《ノラ》むといふこと也といはれたれど、わろし、大命のらむと詔ふとは、いふべくもあらぬうへに、詔旨良麻なども多く書(キ)たるは、のらまとは訓(ミ)がたきをや、
〇集侍《ウコナハレル》の事、大祓詞(ノ)後釋に云り、
○皇子等云々、此事もかの後釋に、親王諸王諸臣百官人等とある所にいへり、皇子等は、親王とあると同じ、王臣は、譜王諸臣とあると同じ、すべてかくさまの、常に定まれることは、其字はさま/”\に、具《ツブサ》にも省《ハブ》きても書たれど、讀《ヨミ》はみな同じこと也、たとへばおほみことを、大御命とも、大命とも、御命とも、勅命とも、命とも書るが如し、此類、其所の字によりて、訓を異《カフ》るはひがこと也、等(ノ)字も、王の下臣の下にも有(ル)べきを、こゝは略きて書る也、みな多知《タチ》と讀付《ヨミツク》べし、十三詔に、王多知《オホキミタチ》、また臣多知《オミタチ》、卅八詔に、親王多知《ミコタチ》臣多知《オミタチ》、百(ノ)官(ノ)人等、四十二詔に、諸王多知《オホキミタチ》臣多知《オミタチ》、などあるをもて定むべし、
〇天下は、万葉五また廿などに、阿米能志多《アメノシタ》とあるに依て訓べし、つねにあめがしたといふは、俗《サトビ》なり、
〇公民は、意富芙多加良《オホミタカラ》と訓べし、委くは古事記傳廿四の卷にいへり、
〇諸《モロモロ》は、皇子等《ミコタチ》云々|諸《モロモロ》にて、上に屬《ツケ》る言なり、古事記に、天神諸《アマツカミモロモロ》などあるが如し、
〇聞食は、伎許志賣佐閇《キコシメサヘ》と訓べし、卅三詔に、諸問食 倍止 詔、卅五五十三五十四詔などにも、かく倍《ヘノ》字を添て書れば也、佐閇《サヘ》は世《セ》を延たる也、又つねのごとく、賣世《メセ》と訓(マ)むもあしからず、三代實録廿二(ノ)卷(ノ)詔には、諸聞(シメ) 世止ともある也、
〇詔、これは宣なり、能流《ノル》と訓べし、宣命使のみづからいふ也、詔とは書たれども、天皇の詔ふといふにはあらず、此詔には、宣をもみな詔と書たり、古(ヘ)は凡て、言だに同じければ、字にはかゝはらず、いかにも/\通はし書たり、なほ此宣の事、大祓詞後釋に委くいへり、続後紀三代實録などには、此宣に、詔 布と、布(ノ)字を添て書る所もあれども、そはそのかみはやく、心得誤れるか、但しみづからの事にも、給ふといふ古言の例あれば、これものりたまふともいへるか、そはいかにまれ、たとひ然訓ても、意はみづから宣(ル)也、決て天皇の詔ふよしには非ず、思ひ混《マガ》ふべからず、さてすべてもろ/\の詔に、かく諸聞食 止 宣(ル)といふ處、一段にて、此一段終る毎に、集侍《ウコナハ》れる諸《モロモロ》、共に稱唯《ヲヲトマヲス》例なり、
〇高天原 爾、爾(ノ)字、本どもに、乎と作《カケ》るは誤也、第五詔に、高天(ノ)原 爾《ニ》 事波自米而《コトハジメテ》とあるによりて、今改(メ)つ、
〇事始而《コトハジメテ》、道饗(ノ)祭(ノ)祝詞に、高天(ノ)原 爾 事始(メ) 弖、皇御孫之命云々、遷却祟神(ノ)祝詞に、高天之原 爾 神留《カムヅマリ》坐 弖、事始(メ)給(ヒ) 志、神漏伎神漏美 能 命以 弖云々、さて此語は、下の天(ニ)坐(ス)神之|依 之《ヨサシ》 奉(リ) 之 隨《シマニマ》、といふへ係《カカ》りて、天津日嗣の御事を、始め給ふをいふ也、
〇遠天皇租は、登本須賣漏岐《トホスメロギ》と訓べし、十三詔に、遠天皇御世始 弖《トホスメロギノミヨハジメテ》、今朕御世 爾 當《イマワガミヨニアタリ》 弖母、十七詔に、自(リ)2遠天皇(ノ)御世1、五十七詔に、遠天皇(ノ)御世御世、また第三詔に、遠皇祖《トホスメロギノ》御世 乎 始(メ)而、天皇御々世々《スメラガミヨミヨ》、第五詔に、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ)而、中今 爾 至 麻弖、十四詔廿三詔にも、同じさまに見えたり、孝徳紀に、又詔(テ)2於百濟(ノ)使(ニ)1曰(ク)、明神《アキツミカミト》御宇(メス)日本《ニホム》天皇詔旨、始(メ)我(ガ)遠皇祖之世《トホスメロギノミヨ》云々、これをトホツミオヤと訓るはわろし、持統紀にも、新羅|元來《ハジメヨリ》奏(テ)云(ク)、我(ガ)國(ハ)、自(リ)2日本|遠皇祖代《ホスメロギノミヨ》1云々、また自(リ)2我(ガ)國家遠皇祖代《ミカドトホスメロギノミヨ》1云々、万葉にも、皇祖皇祖神皇神祖などみな、スメロギと訓(ミ)、假字書(キ)にも、十五十七十八廿などに、須賣呂伎《スメロギ》と有(リ)、又十九に、皇祖神之遠御代三世波《スメロギノトホミヨミヨハ》、【三は借字にて御なり、】廿に、ひさかたの天の戸ひらき、高千穗のたけにあもりし、須賣呂伎《スメロギ》の神の御世より云々、さてすめろぎとは、上件の書どもに書る字のごとく、古(ヘ)の御世/\の天皇を申し、又今の天皇までをかけても申せること有(リ)、故(レ)天皇とのみも書る處も有也、さて上に引る第三第五第十三などの詔によれば、こゝにも此下に、始而《ハジメテ》と有しが、脱《オチ》たるかとも思へど、こゝは上に事始(メ)而とあれば、重ねてはいふまじく、こゝは御世御世と有べきところ也、されば御世一つ脱たるなるべし、
〇中今《ナカイマ》とは、今をいふ也、後世の言には、當時《イマ》のことを、降れる世後の世などいふは、よろしくもあらぬいひざまなるを、中といへるは、當時を盛(リ)なる眞中の世と、ほめたる心ばへ有て、おもしろき詞也、此言第四第五第十三詔にも有(リ)、さて此言は、下の天都神 乃 御子|隨《ナガラ》 母云々聞(シ)看來《メシクル》、といふへ係《カカ》れり、次の天皇御子之云々へはつゞかず、
〇阿禮坐は、生《アレ》坐(ス)也、古事記神武(ノ)段に、阿鎧坐御子《アレマセルミコ》、神功段に、其(ノ)御子(ハ)者阿禮坐(シヌ)など、なほ多し、
〇彌繼々 爾は、又繼(ギ)又繼(ギ)繼(ギ)ゆく也、
○次 止、都藝弖《ツギテ》と訓べし、ついでといふは、やゝ後の音便言也、四十五詔には、天 日嗣高御座 乃 |繼 天《ツギテ》とも書たり、さてこは天津日嗣しろしめす次第といふこと也、出雲國造神賀詞に、天穗日(ノ)命 波 云々 登《ト》、仰賜 志 次 乃 隨 爾《オホセタマヒシツギテノマニマニ》とあるも、天穗日命より、國造の繼々《ツギツギ》に仕奉るを、次《ツギテ》といへり、又顯宗紀に、陛下|正統《ツイデニマス》當《ベシ》v奉《ウケタマフ》2鴻緒《アマツヒツギヲ》1と有(リ)、さて此(ノ)言、下の依 之 奉へ係れり、此次(ノ)字を、一本には須と誤れり、
〇天 都 神 乃御子とは、天照大御神の御子のよしにて、天(ノ)忍穗耳(ノ)命邇々藝(ノ)命より始(メ)奉りて、御世/\の天皇を申す御稱にて、古事記書紀に、神武天皇をもかく申し、神代紀に、天孫をも、アメノカミノミコとよめる所あり、さてこゝに、天都神と書れたるを以て、すべて天神は、かくよむべきことを知べし、あめのかみとよむはひがこと也、
〇隨 母《ナガラモ》は、神隨《カムナガラ》のながらと同くて、天照大御神の御子に坐(シ)ますまゝにといふ也、母(ノ)字、印本には、爾と有(リ)、そはマニ/\と訓べし、同意ながらこれは、まに/\といひては、次なる隨《マニマ》と重なりて、語煩(ラ)はし、故(レ)今は一本に依れり、母《モ》は、第五第九詔十三五十四詔などに、隨神 母《カムナガラモ》と有(ル)ごとく、添(ヘ)たる辭也、万葉二に皇子隨任賜者《ミコナガラマケタマヘパ》云々、
〇天(ニ)坐(ス)神は、他《》の詔に、天(ニ)坐(ス)神國(ニ)坐(ス)神など、廣くいへるとは、心ばへ異也、こゝは諸(ノ)祝詞に、高天原に神留《カムヅマリ》坐(ス)云々とある天(ツ)神にて、もはら天照大御神高御産巣日(ノ)神をさして申せる也、たゞ天(ツ)神といはずして、天(ニ)坐(ス)といへるは、上の天都神と、同言の重なる故に、少しかへて申せる也、
〇依 之《ヨサシ》 奉(リ) 之 隨《シマニマ》は、古事記に、天照大御神(ノ)之命以(テ)、豐葦原(ノ)之千秋(ノ)長五百秋(ノ)之水穗(ノ)國(ハ)者、我(ガ)御子正勝吾勝勝速日天(ノ)忍穗耳(ノ)命(ノ)之|所知國《シラサムクニト》、言因賜而《コトヨサシタマヒテ》、天降也《アマクダシタマヒキ》云々、爾《ココニ》天照大御神高木(ノ)神(ノ)命以(テ)、詔《ノリタマハク》2太子《ヒツギノミコ》正勝吾勝勝速日天(ノ)忍穗耳(ノ)命(ニ)1云々、是(ヲ)以(テ)隨白之《マヲシタマフマニマニ》、科《オホセテ》v詔《ミコト》2日子番能爾々藝(ノ)命(ニ)1、此(ノ)葦原(ノ)水穗(ノ)國(ハ)者、汝所知國《ミマシシラサムクニナリト》、言依賜《コトヨサシタマフ》、故隨命以可天降《カレミコトノマニマニアモリマスベシトノリタマヒキ》、とある是也、猶書紀神代(ノ)下(ツ)卷にも見ゆ、隨は、こゝは麻爾麻《マニマ》と訓つ、下に爾(ノ)字なければ也、假字書(キ)に麻爾麻《マニマ》とも有(リ)、されど又まに/\とも訓べし、〇聞看來《キコシメシクル》、此(ノ)三字は、諸(ノ)本にみな脱《オチ》たるを、十四詔に、高天(ノ)原(ニ)神積《カムヅマリ》坐(ス)、皇(ラガ)親神魯伎神魯美(ノ)命以(テ)、吾孫《アガミマ》 乃 命 乃 將知《シラサム》食國天(ノ)下 止、言依(シ)奉(リ) 乃 隨《マニマ》、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ)而、天皇(ラガ)御々世々《ミヨミヨ》聞(シ)看(シ)來《クル》、食國天(ツ)日嗣高御座 乃 業 止奈母云々、廿三詔に、云々 止 事依(シ)奉(リ) 乃 任《マニマニ》、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ) 弖、天皇(ラガ)御々世々、開(シ)看(シ)來《クル》、食國高御座 乃 業 止奈母云々、などある例によりて、今|補《クハヘ》つ、ここに此語なく、本のまゝにては、上の中今 爾 至(ル) 麻弖爾といへる語を承《ウク》るところなく、又次の語へもつゞかざればなり、
〇天津日嗣の事、古事記傳にいへり、
〇高御座之業、高御座は、天の御座といはむが如し、高とは天をいふ、たゞ高きよしにはあらず、天皇の御座は、即(チ)高天原にして、天照大御神のまします御座を、受(ケ)傳へますよしをもて、高御座とは申す也、さて高御座之業とは、天皇の此(ノ)御座に坐(シ)まして、天(ノ)下を治めさせ給ふ御業を申す也、大殿祭(ノ)詞に、高天(ノ)原 爾 神|留《スマリ》坐 須、皇(ラガ)親神魯企神魯美之命以 弖、皇御孫之命 乎、天津高御座 爾 坐《マセ》弖、天津|璽《シルシ》 乃 劔鏡 乎、捧持賜 天、言壽宣《コトホキノリタマヒ》 志久、皇我宇都御子《スメラガウヅミコ》、皇御孫之命、此 乃《コノ》天津高御座 爾 坐(シ)弖、天津日嗣 乎、萬千秋 乃 長秋 爾、大八洲豐葦原(ノ)瑞穗之國乎、安國 止 平 氣久 所知食《シロシメセト》、言寄《コトヨサシ》奉賜 比弖云々、さて上の高天(ノ)原 爾 事姶(メ)而といふより、是までの文、事のつゞきの趣、まぎらはしきが如し、よくせずは心得たがへなむ、文の條理《スヂ》をこまかに尋ね正して看《ミ》べし、高天(ノ)原 爾 事始(メ)而、天皇(ガ)御子之阿體坐 牟 彌繼々 爾、大八嶋國|將知次《シラサムツギテ》 止、天(ニ)坐(ス)神之依 之 奉 之 随《マニマ》、遠天皇祖(ノ)御世《ミヨミヨ》、中今(ニ)至(ル) 麻弖爾、天 都 神 乃 御子|隨《ナガラ》 母、聞(シ)看(シ)來(ル)云々 といふ次第也、
〇現御神 止 云々天皇命は、こゝは持統天皇をさして申(シ)給ふ也、倭根子と申す御稱の事、古事記傳廿一の卷にいへり、御世/\の天皇の通へる御號なり、天皇に命(ノ)字を添て書る例、古事記又出雲国造神賀詞などにも見ゆ、
〇授賜 比は、持統天皇の、今文武天皇に授奉給ふ也、此高御座の御業は、高天原に事始て云々 の御業ぞとして授(ケ)給ふといふ文のつゞき也、
〇負(セ)賜 布は、負(ヒ)持(タ)しめ給ふよし也、常に仰せといふ言も、もと其事を負(ヒ)持(タ)しむるよしにて、これと同言也、假字は四十五詔に、勅《ノリタマ》 比 於保世《オホセ》給 布と有、
〇貴 支 高 支 廣 支 厚 支、印本には、廣 支の二字脱たり、他《ホカ》の本どもみな此二字有(リ)、第六詔に、太上天皇(ノ)厚 支 廣 支 徳 乎 蒙而、高 支 貴 支 行(ヒ) 爾 依而、五十一詔に、公民之上(ヘ) 乎母、廣(ク)厚(ク)慈而、また仕奉 志 事廣 美 厚 美なども有(リ)、又明 支 淨 支 直 支 誠之心(ヲ)以而《モチテ》などやうに、かく同じたぐひの言を、いくつも重ねいふは、宣命の語の文《アヤ》にして、其事をねもころにする古(ヘ)の文なり、かゝる格、祝詞又歌には、をさ/\見えず、さてかく言を重ぬる例、後世なれば、終(リ)の一つを支《キ》といひて、上はみな久《ク》といひてつゞくるを、かくみな支《キ》と云て重ぬるは、古(ヘ)の格也、さて又支(ノ)字は、しの音なるに、きの假字に用ひたるは、伎(ノ)字の偏を省ける也、古(ヘ)は偏を省きて書る例多きこと、古事記傳に委くいへり、
〇受賜(ハ) 利は、持統天皇の授(ケ)給ひ負せ給ふ大命を、文武天皇の受(ケ)被《リ》v賜(ハ)給ふ也、常に、人のいふを聞(ク)ことを、うけたまはるといふも、もと此字の意にて、こゝも又|聽《キキ》給ふ意にも轉《ウツ》りて聞ゆる也、又物を諾《ウベナ》ふを聽(ク)といふも通へり、
〇恐(ミ)坐 弖は、もとは字のごとく、恐畏《オソ》るゝ意なるを、それ即(チ)承諾《ウベナ》ふ意になりて、万葉に多く、天皇《オホキミ》の命《ミコト》畏《カシコ》みといひ、古事記に、須佐之男(ノ)命の、櫛名田比賣を、吾に奉むやと詔へる御答(ヘ)に、足名椎の、恐《カシコシ》奉(ラ)むといへるなどみな然り、俗言に、奉(ル)v畏(マリ)といふこれ也、さて天皇は、御自《ミミヅカラ》の御事をも、尊みて詔ふ例にて、こゝも坐弖《マシテ》とはのたまふなり、此たぐひ皆然り、
〇食國は、古事記に、夜(ノ)食國とある處に、訓(テ)v食(ヲ)云2袁須《ヲスト》1と注せり、万葉に假字書は、十七に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロギノヲスクニナレバ》、また於保伎美乃美許登可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、乎須久爾能許等登里毛知弖《ヲスクニノコトトリモチテ》、十八に、須賣呂伎能可未能美許登能《スメロギノカミノミコトノ》、伎己之乎須久爾能麻保良爾《キコシヲスクニノマホラニ》など見ゆ、しろしめす國といふこと也、さて食國天下とつゞきたるところ、績後紀文徳實録三代實録などには、食國 乃と乃(ノ)字あれども、續紀には、いとあまた見えたる中に、一つも乃(ノ)字あるはなければ、今は乃《ノ》とは訓(マ)ず、
〇調《トトノヘ》賜 比、第三詔に、此(ノ)天(ノ)下 乎 治(メ)賜 比 諧《トトノヘ》賜(ヒ) 岐、第九詔に、上下 乎 |齊 倍針 和《トトノヘヤハラ》 氣弖、四十五詔に、汝等 乃 心 乎 等々能倍直 之《トトノヘナホシ》、万葉二に、御軍士乎安騰毛比賜齊流《ミイクサヲアドモヒタマヒトトノフル》、三に、網引爲跡網子調流《アビキストアゴトトノフル》、海人之呼聲《アマノヨビコヱ》、十に、左男牡鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトトノフトナクコヱノ》、十九に、物乃布能八十友之雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》、撫賜等々能倍賜《ナデタマヒトトノヘタマヒ》、廿に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、など見ゆ、これらを合せて思ふに、此言は、よそにあらけ居る者を、呼(ビ)集めて、みだれなく治むる意也、其中に呼(ビ)來《コ》す方を主《ムネ》といへると、亂れなく治むる方をむねとしていへるとの異《カハリ》ある也、
〇平《タヒラゲ》賜 比、第九詔にも、天下 乎 治(メ)賜 比 平(ラゲ)賜 比弖と有(リ)、こは必しも不服者《マツロハヌモノ》ありて、討(チ)平(ラ)ぐるにはあらず、平《タヒ》らかにするをいふ也、
〇惠賜 比は、第十三詔に、天(ノ)下 遠《ヲ》撫惠 備 賜(フ)とあるによりて、賣具備《メグビ》と訓つ、凡て備《ビ》とも美《ミ》とも通はしいふ言、例多し、
〇撫賜 牟止奈母、すべて撫《ナヅるは、愛《ウツクシ》み燐むしわざなるが故に、必しも撫ざれども、愛み燐むをかくいふ也、万葉六に、天皇朕《スメラワガ》、宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》、掻撫曾《カキナヂゾ》、禰宜賜《ネギタマフ》、打撫曾《ウチナデゾ》、禰宜賜《ネギタマフ》なども有(リ)、さて奈母は、後の文に、なむといふ辭也、なむは、此|奈母《ナモ》を、音便にいふ也、
〇隨神は、万葉に假字書に、可武奈何良《カムナガラ》と有(リ)、此言、諸の詔に多く有(リ)、下に母《モ》を添ていへる所々もあり、天皇の御
事には、何事にも、神ながら云々と申すことにて、万葉の歌にもいと多し、天皇は、現御神と申(シ)て、まことに神にましますが故に、神にて坐(シ)ますまゝに物し給ふよし也、
〇所思行《オモホシメ》 佐久止、於母本志賣佐久止《オモホシメサクト》と訓(ム)、行(ノ)字を書(ク)は、もと於母本志於許那波須《オモホシオコナハス》といへるより出て、其字を、おもほしめす、しろしめす、きこしめすなどの賣須《メス》にも、通はして書る也、其事委くは古事記傳廿七の卷、看行《ミソナハス》の解にいへり、みそなはすは、見しおこなはすを切《ツヅ》めたる言也、佐久《サク》は須《ス》を延たる也、
〇諸《モロモロ》は、始(メ)に出たる、皇子等云々|諸《モロモロ》也、
〇聞食 止 詔《ノル》、この詔(ノ)字も宣也、此所又一段なり、
〇四方(ノ)食國 乎云々宰等 爾 至(ル) 麻弖爾、こは諸國の司をいふ、天皇の御爲《ミタメ》に、その國々を治(メ)奉れとして、任《マケ》給へる宰といふ也、任は麻氣《マケ》と訓べし、麻氣は、令《セ》v罷《マカラ》を切《ツヅ》めたる言にて、其國々へ罷《マカ》らせ給ふよし也、されば任をまけと訓(ム)は、京外の官に限れること也、京官の任は、めし又よさしなど訓べし、宰は、守介掾目などを總《スベ》いふ、これを美許登母知《ミコトモチ》といふは、命持にて、天皇の大命を受(ケ)賜はり負(ヒ)持て、其國の政を申すよしの名也、さてこゝの文、此宰も、百官人の内にて、上は大臣より、下國々の宰に至るまでの意也、國司は、その一國の民を治むる官にて、その任《ヨサシ》重きによりて、是をとり分て擧らるゝなるべし、孝徳紀に、大化元年八月、同二年三月など、百官の中に、殊に國司の事のみ、とり分て、くはしくさだせられたるなどをも思ふべし、
〇天皇朝庭は、須賣良我美加度《スメラガミカド》と訓べし、大祓(ノ)詞に、天皇 我 朝廷《スメラガミカド》、鎖御魂齋戸祭(ノ)祝詞に、皇《スメ》 良我 朝廷、など有(ル)をもて定むべし、さてこの、天皇朝庭(ノ)敷賜(ヒ)行賜 幣留といふ十字、諸本共に、百官人等の上にあるは、次第の亂れたるもの也、此語は、かならず下の國(ノ)図法といふへ係《カカ》れる語なるに、百官人云々 とつゞきては、語の條理《スヂ》とゝのはず、故(レ)今改めて、至(ル) 麻弖爾の下にうつしつ、
〇過犯事無 久、大祓(ノ)詞に、官々 爾 仕奉 留 人等 乃、過(チ)犯(シ) 家牟 雜々《クサグサノ》罪 乎 云々、さて犯の假字は、古書どもに見えたることなきを、言の意を考るに、大《オホ》かす也、故(レ)於《オ》の假字と定む、大かすは、大凡《オホヲソ》になほざりにする意也、
〇明 支 淨 支 直 支 誠之心(ヲ)以而、第二詔に、以《モチ》2明(キ)淨(キ)心(ヲ)1而、第五詔に、清 支 明 支 正 支 置 支 心(ヲ)以(テ)、第七詔に、淨 伎 明(キ)心 乎 持而、廿詔に、以(テ)2明(キ)直(キ)心(ヲ)1、廿九詔に、貞《タダシ》 久 淨 岐 心 乎 以 天、卅一詔に、明《アキラカ》仁 貞 岐《タダシキ》 心 乎以 天、卅三詔に、貞《サダカ》 仁 能 久 淨 伎心 乎以 天、四十四詔に、己 何 心 乎明 爾 淨 久 貞 爾 謹 天、五十九詔に、清(キ)直(キ)心 乎 毛知、などさま/”\、長くも短くも云(ヘ)る、みな意は同じ、
〇御稱々而ほ、決《ウツナ》く誤字也、いと心得がたし、されど試にいはば、爾奨々而《イヤススミススミテ》にやあらむ、御と彌とは、草書はよく似たり、こゝは必(ズ)彌《イヤ》といふべき處也、奨(ノ)字は、人をすゝむるにて、みづからすゝむ意にはあらざれども、古(ヘ)は、向と迎とを通はし書るごとく、自他を相通はして書ること常なれば、これもみづからすゝむことにも用ふべし、さて大殿祭(ノ)祝詞に、百官人等云々、邪意穢心無《アシキココロキタナキココロナ》 久、宮進 米 進《ミヤススメススメ》、宮勤勤《ミヤツトメツトメ》 之米弖、咎過在《トガアヤマチアル》 乎波、見直《ミナホ》 志 聞直坐《キキナホシマシ》 弖とあると、上下の文のつゞきも似たり、考(ヘ)合すべし、但しかれは、大宮(ノ)賣(ノ)神の百官人等を、令《シメ》v進(マ)給ふをいふ故に、進米《ススメ》とあるを、こゝはみづからの事なれば、須々美《ススミ》と訓べき也、しばらく此考(ヘ)を用ふ、なほよく考ふべし、印本にこれを、ミハカリ/\テと訓たるを、師も、稱量の意以て書たる也、みはかり/\てと訓べし、出雲國風土記、大殿祭祝詞などにも有といはれたれど、出雲風土記に御量《ミハカリ》とあるは、宮を造る事につきていひ、大殿祭(ノ)詞なるは、事をはかるをいひて、神議々而《カムハカリハカリテ》といふと同く、事の有(ル)に就ていへるなれば、皆こゝにはよしなし、そのうへ稱(ノ)字、秤の意はあれども、はかりといふに、此字を書べきにもあらず、
〇緩怠事無 久、十三詔又五十一詔に、無2怠緩事1 久、卅二詔に、今由久前《イマユクサキ》 仁毛,緩怠事無 之天、四十一詔に、晝 毛 夜 毛 倦怠 己止 無 久など有、
〇務結而、結(ノ)字、諸本に給に誤れるを、今例に依て改めつ、志麻理《シマリ》と訓べし、第三詔に、淨(キ)明(キ)心(ヲ)以而、彌務《イヤツトメ》 爾 彌結《イヤシマリ》 爾 云々、卅二詔に、常 與利毛 益 須 益 須 勤結 理 奉侍《マスマスツトメシマリツカヘマツレ》など見え、類聚國史、弘仁十四年十一月(ノ)詔に、日夜《ヨルヒル》忘(ルル)事無 久、務 米 志麻理《ツトメシマリ》掛、伊佐乎《イサヲ》 志久 奉仕《ツカヘマツ》 流爾 依 弖、文徳實録三に、日夜無2怠事1 久、務結《ツトメシマ》 利、勤《イサヲ》 之久 仕奉(ル) 爾 依 弖、三代實録卅二に、務志萬利《ツトメシマリ》伊佐乎《イサヲ》 之久、など有(リ)、同書三にも此語あるを、それもこゝの如く、結を給に誤れり、さて志麻理は、志婆理《シバリ》と同くて、劔の手上《タカミ》とりしばりなどいふ如く、堅くすきまなく執持て、弛緩《ユル》べぬ意也、俗言に、放逸《タハレ》たる者の、行ひの直りて、忠實《マメ》になるを、しまるといふも、同言なり、古事記清寧天皇(ノ)段(ノ)歌に、意富岐美能美古能志婆加岐《オホキミノミコノシバカキ》、夜布士麻理斯麻理母登本斯《ヤフジマリシマリモトホシ》とあるも、大君の御子の柴垣、八節結々※[しんにょう+回]《ヤフジマリシマリモトホ》しにて、柴垣を結堅《ユヒカタ》め※[しんにょう+回]《メグ》らしたるをいふ也、夜布《ヤフ》は、八段に結《ユ》へる也、とふの管薦《スガゴモ》の十節《トフ》と同じ、万葉十二に、玉勝間嶋熊山、玉勝間安倍嶋山といへるも、共に玉勝間は、嶋にかゝれる枕詞にて、籠の目を堅く結《ユ》へるよしのつゞきなり、
〇故 爾、故は、古文に常に多く有て、みな加禮《カレ》と訓(ム)ことにて、かるがゆゑにといへる例はなければ、こ1の爾(ノ)字は、後(ノ)人の、ふとさかしらに書加へたるにや、削(リ)去(リ)てよろし、
〇如此之状は、加久乃佐麻《カクノサマ》と訓べし、然いひては、之《ノ》てふ言いかゞなるやうなれども、つねにかくのごとくといふも、之《ノ》の格同じことなり、廿七詔には、加久 能 状《カクノサマ》と書り、五十九詔に、如此時とあるをも、かくのときと訓べく、五十五詔六十詔に、此之状とあるも、かくのと訓べし、
〇款は、此字の注に、志純一(ナル)也とも、忠誠也ともいへれば、まめにと訓べくおもはるれども、五十一詔に、款 美 明 美 とあるは、美(ノ)字あれば、さは訓がたし、故(レ)伊蘇志久《イソシク》と訓べし、第七詔に、其人 乃 |宇武何志伎事《ウムガシキコト》、款事 乎、逐(ニ)不《ジ》2得忘《エワスレ》1とあると、十三詔に、伊蘇之 美 宇牟賀斯 美《イソシミウムガシミ》、忘《ワスレ》不《ズ》v給(ハ) 止自弖 とあるとを合せて、然訓べきことを知べし、五十二詔に、累(ネ)v世(ヲ)而仕奉(リ)麻佐 部《マサヘ》流 事 乎奈母、加多自氣奈 美 伊蘇志 美思《カタジケナミイソシミオモホシ》坐 須とも有(リ)、伊蘇志《イソシ》は、常には勤(ノ)字を書て、古書に多き言也、伊蘇《イソ》は、伊佐乎《イサヲ》の切《ツヅマ》れるにて、いそしはいさをしと同じ、
〇品々とは、その讃《ホメ》賜ひ上《アゲ》賜ふ差等《シナ》あるをいふ、
〇讃賜は、褒美なり、
〇上《アゲ》賜(ヒ)は、諸(ノ)詔に、冠位上賜とあるごとく、位階を昇せ給ふ也、廿八詔に冠位|阿氣《アゲ》賜(ヒ)治(メ)賜(フ)とあるに依て阿氣《アゲ》と訓べし、
〇治(メ)將《ム》v賜(ハ)、凡て治(メ)賜(フ)と云(フ)は、廣き言にて、吉凶《ヨキアシ》き何事にまれ、處分《コトワ》り行ひ給ふをいふ也、官に任《メス》を、某官《ソノツカサ》に治(メ)賜(フ)といひ、或は刑罰《ツミナヒ》をも、某刑《ソノツミ》に治(メ)賜(フ)などいふがごとし、かくてこゝは、讃賜(ヒ)上(ゲ)賜(フ)が即(チ)治(メ)賜(フ)なるを、語の文《アヤ》にかく重ねいへる也、第四詔に、冠位上(ゲ)可(キ)v賜(フ)人々治(メ)賜(ヒ)なども有(リ)、さて將(ノ)字は、讃(ノ)字の上に在る意也、
第二詔
三の卷に、慶雲四年夏四月壬午、詔曰、とあり、藤原(ノ)不比等(ノ)朝臣に、食封《ヘビト》を賜ふ詔なり、
天皇詔旨勅 久 汝藤原朝臣 乃 仕奉状者今 乃未爾 不在《スメラガオホミコトラマトノリタマハクミマシフヂハラノアソミノツカヘマツルサマハイマノミニアラズ》。掛 母 畏 支 天皇御世御世仕奉而今 母 又朕卿 止 爲而以明淨心而朕 乎 助奉仕奉事 乃 重 支 勞 支事 乎 所念坐御意坐 爾 依而多利麻比弖夜夜彌賜 閇婆 忌忍事 爾 似事 乎志奈母 常勞 彌 重 彌 所念坐 久止 宣《カケマクモカシコキスメラガミヨミヨツカヘツカヘマツリテイマモマタアガマヘツギミトシテアカキキヨキココロヲモチテアレヲタスケマツリツカヘマツルコトノイカシキイトホシキコトヲオモホシマスミココロマスニヨリテタチマヒテヤヤミタマヘバイミシヌフコトニニルコトヲシナモツネイトホシミイカシミオモホシマサクトノリタマフ》。又難波大宮御宇掛 母 畏 支 天皇命 乃 汝父藤原大臣 乃 仕奉 賈流 状 乎婆 建内宿禰命 乃 仕奉 賈流 事 止 同事 叙止 勅而治賜慈賜 賈利《マタナニハノオホミヤニアメノシタシロシメシシカケマクモカシコキスメラミコトノミマシノチチフヂハラノオホオミノツカヘマツラヘルサマヲバタケウチノスクネノミコトノツカヘマツラヘルコトトオヤジコトゾトノリタヒテヲサメタマヒメグミタマヘリ》。是以令文所載 多流乎 跡 止 爲而隨令長遠 久 始今而次次被賜將往物 叙止 食封五千戸賜 久戸 勅命聞宣《ココヲモテノリノフミニノセタルアトトシテノリノマニマナガクトホクイマヲハジメテツギツギタマハリユカムモノゾトヘビトイチヘタマハクトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
天皇詔旨勅 久は、旨の下に、第一詔の如く、良麻止《ラマト》といふ辭を添て、スメラガオホミコトラマトノリタマハクと訓べし、すべてかやうの、いつも定まれることは、かくもじを多く省きても書る、常の事也、然るをたゞそこの文字のまゝに訓(ム)は、古言をしらざるもののしわざ也、省きたる所をも、具《ツブサ》に書る所の例によりて、定まれる語のごとくに訓べきこと、大かた此類みな准へて然り、
〇汝は、第五詔に、美麻斯親王《ミマシミコ》、また美麻斯 乃 父《ミマシノチチ》、五十詔五十二詔などに、美麻之大臣《ミマシオホオミ》、などあるに依て、美麻斯《ミマシ》と訓べし、
〇藤原(ノ)朝臣、朝臣は、阿曾美《アソミ》と訓べし、あそんといふは、後の音便讀(ミ)也、此紀卅二に、阿曾美《アソミ》爲2朝臣(ト)1云々 とあるは、阿曾美の字を、朝臣と書(ク)事をいへるなり、書紀天武(ノ)卷、八色(ノ)姓の處の朝臣をも、アソミと訓り、さて此藤原(ノ)朝臣は、不比等《フヒト》公也、
〇今 乃未爾 不在《アラズ》は、今の御世に仕奉るのみに非ず也、
〇掛 母 畏 支とは、言に掛て申すも、恐《オソ》れ多きといふこと也、
○天皇(ガ)御世々々云々、不比等公は、天武天皇の御世よりぞ、仕奉り初め給ひけむ、書紀には、持統天皇の三年に、此卿始めて見えて、同十年に、位は直廣貳にて、資人《ツカヒビト》五十人を賜ふよし見えたり、績紀にては、初(メ)中納言にて、大寶元年三月、大納言となり、和銅元年三月、右大臣になり給へり、鎌足公の第二子也とあり、かくて養老四年八月癸未、正二位右大臣にて薨《カクレ》給ひき、年六十二と有、同年十月、大政大臣正一位を贈らる、天平寶字四年八月、勅曰云々、其(レ)先朝(ノ)太政大臣藤原(ノ)朝臣(ハ)者、云々、追(テ)以2近江(ノ)國十二郡(ヲ)1、封(シテ)爲2淡海公(ト)1、餘官如v故(ノ)云々、叙位は、公卿補任に、大寶元年三月正三位、同四年正月從二位、慶雲五年正月正二位と見ゆ、
〇卿は、麻閇都岐美《マヘツギミ》と訓べし、景行紀(ノ)歌に、魔幣菟耆彌《マヘツギミ》とある是也、天皇の御前に侍《サモラ》ふ君といふ意也、書紀に、卿又群卿などを、マチギミ又マウチギミなど訓(ミ)、和名抄にも、大臣を於保伊萬宇智岐美《オホイマウチギミ》とあるなどは、みな後に頽《クヅ》れたる唱(ヘ)にて、正しからず、
〇重 支は、伊加志伎《イカシキ》と訓べし、書紀に、皇極天皇の大御名の重日を、此(ヲ)云2伊柯之比《イカシヒト》1。また舒明紀に、嚴矛此(ヲ)云2伊
箇之保虚《イカシホコト》1、また祝詞|等《ドモ》に、茂桙伊賀志御世茂御世《イカシホコイカシミヨイカシミヨ》、また春日祭(ノ)祝詞に、王等卿等 乎母 平 久、天皇 我朝廷 爾、伊加志夜久波叡 能《イカシヤクハエノ》 如 久、仕奉 利 佐加叡志米《サカエシメ》賜(ヘ)、平野祭(ノ)祝詞にも、伊夜《イヤ》高 爾 伊夜《イヤ》廣 爾、伊賀志夜具波江《イカシヤクハエノ》如 久、立榮《タチサカエ》 之米、などあるを合せて、此言の意を知べし、重日嚴矛《イカシヒイカシホコ》などは、重《オモ》くおごそかにして畏き意、茂御世《イカシミヨ》いかしやくはえなどは、廣く繁く榮えて大きなる意也、いかしやくはえは、師の、茂彌木榮《イカシイヤコハエ》にて、樹のいやがうへにしげり榮ゆるをいふ、といはれたるが如し、又俗言に、物の大きなるを、いかいと云(ヒ)、多《サハ》なるを、いかいことといふなど、又いかめしといふなど、みな此詞にて、意通へり、さればこゝの重支《イカシキ》も、やむことなく重《オモ》く大きなる意也、
〇勞 支は、廿七詔に、愧 自彌 伊等保 自彌奈母 念 須《ハヅカシミイトホシミナモオモホス》、と有(ル)に依て、伊登保志伎《イトホシキ》と訓べし、此言は、いたつくいたはるなどと同言にて、本はみづから其事に勞苦《クルシ》むをいふを、又|他《ホカ》より然思ふにも通はしいへり、勞(ノ)字も然也、たとへば、かしこしといふ言なども、直《タダ》に其人の事にもいひ、又他より然思ひて、かしこむことにもいふがごとし、かくてこゝの重 支 勞 支《イカシキイトホシキ》は、藤原(ノ)大臣のうへを、直《》に詔ふともすべし、廿三詔に、天(ノ)下(ノ)政 平 聞(シ)看(ス)事|者《ハ》、 勞 支 重 棄《キ》 車 爾 在 家利、とあるが如し、俗言に、苦勞《クラウ》なる事、大義《タイギ》なる事といふ意也、然れども此言、他の詔にもあまたある多くは他のうへを然思(シ)召(ス)をいへれば、こゝも此大臣のうへを、天皇の然思(シ)召(ス)かたともすべし、五十二詔に、朕臣《アガオミ》 乃 仕(ヘ)奉(ル)状 母、勞 美 重 美とあるも、こゝと同じ、こは俗言に、人の勞《イタツキ》を謝て、御骨折《オホネヲリ》御大義御苦勞と云(フ)に當りて、大義なる事、苦勞なる事と、おぼしめすよし也、第三第四詔などに、天地之心 乎 勞 美 重 美 畏(ミ)坐とあるは、天地の、いかゞにおばしめして、心を勞苦《クルシ》め給はむと、天皇の畏《カシコ》み坐(ス)也、さていたはるといふ言も、病するなどをいふは、みづから苦む方にて、万葉五に、意乃何身志伊多波斯計禮婆《オノガミシイタハシケレバ》といへる類也、又人のうへを、他よりあはれむをもいふ、又物語書などに、いとほしといへるは、人の勞苦《クルシ》むを、あはれむよりいひて、俗言に、案《アン》じるといひ、氣之毒《キノドク》なといふ意に多く用ひたり、五十八詔に、勞 久 奈思麻志曾《イトホシクナオモホシマシソ》とあるは、其意也、万葉十三に、誰心勞跡鴨直渡異六《タガココロイトホシトカモタダワダリケム》、また誰之言矣勞鴨《タガコトヲイトホシトカモ》云々、十九に、大夫之語勞美《マスラヲノコトイトホシミ》、父母爾啓別而《チチハハニマヲシワカレテ》などあるも同じ、又俗言にいとしといふも、此言の訛れるにて、あはれむを悲《カナシ》むといふごとく、是もいたはるに同じ、〇多利麻比弖夜々彌賜 閇婆、此所誤字あるか、すべて心得がたきを、強《シヒ》て試にいはば、多利麻比は、利(ノ)字は、草書似たれば、知の誤にて、立※[しんにょう+回]《タチマヒ》なるべし、伊勢物語歌にも、昨日けふ雲のたちまひかくろふはと有(リ)、立(チ)まはり也、此大臣を、いかにもして、なほ高く褒賞《ホメアゲ》ばやと、御心をつけて、立まはりつゝ、うかゞひ給ふよし也、夜々彌は、漸看《ヤヤミ》にて、速にはえ物せずして、事のさまを考へうかゞひ看《ミ》つゝ、やすらひ給ふよしなり、俗言に、速《トミ》にものせずして、まち猶豫《ヤスラ》ふを、見合《ミアハ》すといふにあたれり、三代實録四十六、元慶八年六月の詔に、大政大臣藤原(ノ)朝臣、先(ノ)御世々々 與利、天(ノ)下 乎 濟助 介、朝(ノ)政 乎 |總攝《フサネ》奉仕 禮利、云々、朕將(ル)v議(ラムト)2其賞(ヲ)1 爾、大臣素(ヨリ)懷(ケバ)2謙※[手偏+邑](ノ)心(ヲ)1、必(ズ)固(ク)辭退 天、政事若(シ)壅滯 世无加止、也也美思《ヤヤミオモ》 保之天 云々とある、印本には、也々美(ノ)三字を脱せるを、今は古き寫本に依て引り、件の詔、すべての趣も、こゝの詔と全《モハラ》同じ事也、考(ヘ)合せて、こゝの語の意をもさとるべし、又五六百年ばかりさきの書に、やゝ見あふるまもなく、といふこと有しやうにおぼゆるは、漸看敢間《ヤヤミアフルマ》も無《ナク》にて、それも件の意と合へり、又思ふに、源氏物語などに、やゝましといふ言あるも、此やゝみと、同言の活用《ハタラキ》と聞ゆるを、それは心やましき意と注したる、まことに其意と聞えたるを、もし然らば、こゝもおぼしめしわづらひて、御心をやましめ給ふよしにもやあらむ、三代實録に、也々美思《ヤヤミオモ》ほしとつゞきたるを思へば、此方やまさりたるらむ、こは何《イヅ》れにしても、すべての意は同じこと也、さて上件の如く心得る時に、何とかや言のたらはぬこゝちすれども、一重|行越《ユキコシ》て見れば、聞ゆる也、かく行(キ)越(シ)たる語も、古書に例あること也、行(キ)越(ス)とは、いかにもして、猶|褒賞《ホメアゲ》むとおぼして、立(チ)まはりつゝうかゞひ給ふ也、然れども速には然え物し給はで、やゝみ給へばの意なるを、その然れどもといふ言を略きて、行(キ)越(セ)る也、
〇忌忍事 爾 似事 乎志奈母、これも心得がたし、誤字など有(ル)にや、されど姑く上の考(ヘ)に就て、例の強ていはば、忌忍事《イミシヌフコト》とは、何事にまれ、云々《シカシカ》せまほしと思ふ事のあるに、然しては、宜しからぬよしあるによりて、忌憚《イミハバカ》りて、さもえせず、忍ひて黙止居《モダシヲ》るをいふ也、さて今此大臣を、褒賞《ホメアゲ》まほしくは、早くよりおぼしめせども、事のさまをうかゞひて、今まで猶豫《ヤスラ》ひおはしますが、かの宜しからぬよしある事を、忌憚りて、忍ひ過すに似《ニ》たらむことを、いとほしくおぼしめすといへる也、乎志の志は、助辭《ヤスメコトバ》也、
〇常は、常に也、爾《ニ》といはざるは古言也、
〇宣は、詔なり、
〇又は、又一つには也、
〇難波(ノ)大宮云々は、孝徳天皇也、難波の長柄の豐崎(ノ)宮と申すに、宮敷坐りき、
〇御宇は、當代の御事に申す時は、天の下しろしめすと訓(ミ)、古(ヘ)の御事を申すには、天の下しろしめししと訓(ム)也、下のしは、過去《スギニ》し事をいふし也、
〇藤原(ノ)大臣は、鎌足公也、大臣は、すべて意富淤美《オホオミ》と訓(ム)ぞ古言なる、おほまうちぎみなど訓(ム)は、後のこと也、
〇仕奉 賈流、賈は、決《ウツナ》く誤字也、もし賈(ノ)字ならば、けの假字なるべけれど、此處はけるといふべき所にあらざるうへに、此字を假字に用ひたること、此詔より外に例なし、一本には、賣とあれども、めるといふべき所にもあらざれば其《ソレ》も誤字也、故(レ)考るに、第三詔に、敷賜覇留《シキタマヘル》、また立賜覇留《タテタマヘル》などあれば、こゝの賈も、覇を寫(シ)誤れるにて、つかへまつらへる也、れるを延(ベ)て、らへるといへる也、かくさまに延(ベ)云(フ)例多し、書紀にも、への假字に、覇を用ひられたるところ有、
〇建内(ノ)宿禰(ノ)命の事は、古事記傳廿二の卷に委(ク)云り、
〇同は、万葉に多く於夜自《オヤジ》とあれば、然訓べし、
〇勅而は、孝徳天皇の詔へる也、書紀にかく詔へることは見えざれども、皇極紀に、三年云々、輕(ノ)皇子深(ク)識(リ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ノ)之、意気高逸、容止難(キコト)1v犯(シ)、乃使(メテ)d寵妃阿陪氏(ヲシテ)、淨(メ)2掃(ヒ)別殿(ヲ)1、高(ク)鋪(カ)c新蓐(ヲ)u、靡(クシテ)v不2具給(セ)1、敬重特異云々、孝徳紀(ノ)首《ハジメ》に、以2大錦冠(ヲ)1、授(テ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、爲2内臣(ト)1、増(スコト)v封(ヲ)若干戸云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷(キ)2至忠(ノ)之誠(ヲ)1、據(テ)2宰臣(ノ)之勢(ニ)1、處2官司(ノ)之上(ニ)1云々、白雉五年正月、以2紫冠(ヲ)1授2中臣(ノ)鎌足(ノ)連(ニ)1、増v封若干戸、などあるを以思へば、かゝる詔も有けむかし、
〇令文は、乃理乃布美《ノリノフミ》と訓べし、文《フミ》は書の意也、
〇跡は例也、かゝる例はいまだあらざれども、令に見えたるを例として也、
〇隨令《ノリノマニマ》と重ねていへる、これに、先《サキ》に例はなけれどもといふ意あり、
〇長(ク)遠 久は、被賜《タマハリ》の上へ係《カケ》て心得べし、第三詔にも、長速不改《ナガクトホクカハルマジキ》、十一詔にも、長 久 遠 久 仕奉 禮等と有(リ)、万葉(ノ)歌には、彌遠長爾《イヤトホナガニ》とよめり、
〇始(メ)v今(ヲ)而は、今より始めて也、
〇次々は、子孫《ウミノコ》の嗣々なり、
〇被賜《タマハリ》、すべて賜ふとは、與《アタ》ふる方をいひ、賜はるとは、受る方をいひて、彼此《カナタコナタ》のたがひあり、四十五詔に、此(ノ)賜 布 帶 乎 多麻波利 弖《タマフオビヲタマハリテ》、と有(ル)にて知べし、故(レ)古書どもには、腸はるには多く被(ノ)字を添ても書る也、こゝは此大臣の子孫の、受る方をいへり、後(ノ)世に至りては、此けぢめをしらず、賜ふをも、常に賜はるといふは、ひがことなり、
〇食封は、孝徳紀天武紀持統紀などに、ヘビトと訓り、皇極紀持統紀などには、封一字をも然訓り、幣尾登《ヘビト》は、戸人《ヘビト》なり、凡て封は、賜(フ)2幾戸《イクヘヲ》1といひて、民戸を賜ふなるを、そは其|戸《ヘ》の内の人の出す、調庸などを賜ふことなる故に、戸人を賜ふとはいふ也、食(ノ)字は、食緑の意を以て書る也、そも/\食封を賜ふことは、上代の制にはあらず、孝徳天皇の御世より始まれり、書紀(ノ)彼(ノ)御卷に、大化二年正月甲子朔、賀正(ノ)禮畢(テ)、即宣(テ)2改新(ノ)之詔(ヲ)1曰(ク)、其(ノ)一(ニ)曰(ク)、罷《ヤメテ》2昔在《ムカシノ》天皇|等《タチノ》所(ノ)v立(ル)子代《ミコシロノ》之民、處々(ノ)屯倉《ミヤケ》、及|別臣連伴造國造村首所有《ワケオミムラジトモノミヤツコクニノミヤツコムラノオビトノタモテル》部曲(ノ)之民、處々(ノ)田莊(ヲ)1、仍(テ)賜(フ)2食封(ヲ)1、大夫以上各有2差降《シナ》1、とある是也、此時、上代よりの御制《ミサダメ》を改めて、始めて食封を賜へる也、かくて賦役令に、凡封戸(ハ)者、皆以2課戸(ヲ)1充(ツ)、【謂戸有2中男一人以上1者(ノ)、即爲2課戸(ト)1、其封戸仕丁、亦給2其主(ニ)1也、】調庸(ハ)全(ク)給(ヒ)、其田租(ハ)、爲(テ)2ニ分(ト)1、一分(ハ)入(レ)v官(ニ)、一分(ハ)給(フ)v主(ニ)と見えたり、封戸とは、人に食封に賜ふ民戸をいふ、全(ク)給(フ)とは、其戸を賜はれる人に、みながら給ふ也、主とは、其戸を給はれる人をいふ、調の事庸の事、みな同令に見えたり、庸は、役のかはりに出す物をいふ、さて民部省式に、凡封戸(ハ)、以2正丁四人中男一人(ヲ)1、爲《シテ》2一戸(ト)1率(シ)、租(ハ)、毎(ニ)v戸以2四十束(ヲ)1爲v限(ト)云々とあるは、現戸の數にはかゝはらず、正丁中男又租相の數を以て計りて、幾戸《イクヘ》と定めたるものなり、こはやゝ後の制にぞありけむ、さて親王一品より、臣大政大臣以下、從三位までの常の定まれる封戸の數は、禄令に見えたり、正四位以下は、食封を賜ふ限にあらず、
〇五千戸は、伊知幣《イチヘ》と訓べし、常には五十を伊《イ》とはいひて、五は伊都《イツ》といへども、今は五百《イホ》の例に依て、然訓り、さてかの禄令に見えたる、定まれる食封は、大政大臣三千戸、左右大臣二千戸なるを、こゝは殊に賞て、かく五千戸を賜へる也、同令に、凡令條(ノ)之外、若(シ)有(ル)2特(ニ)封(シ)及増(スコト)1者《ハ》、並(ニ)依(ル)2別勅(ニ)1とある、是也、さて此給へる食封の事、天平十三年正月、故(ノ)大政大臣藤原(ノ)朝臣(ノ)家、返2上食封五千戸(ヲ)1、二千戸、依(テ)v舊(ニ)返(シ)2賜(ヒ)其家(ニ)1、三千戸、施2入(シテ)諸國(ノ)國分寺(ニ)1、以充(ツ)d造2丈六(ノ)佛像(ヲ)1之料(ニ)uと有(リ)、また天平神護元年四月、右大臣藤原(ノ)朝臣豐成等上v表言(ス)、臣等(ガ)曾租大織冠内大臣、踏v義懷v忠、許v身(ヲ)奉v國(ニ)、皇朝藉(テ)2其不世(ノ)之勲(ニ)1、錫(フニ)以(ス)2無窮(ノ)之賞(ヲ)1、胤子正1位大政大臣、確(ク)陳(ベ)2丹誠(ヲ)1、抗(テ)v表(ヲ)固(ク)辭(ス)、天朝即割2賜(テ)二千戸(ヲ)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1云々、伏(テ)願(クハ)奉(リ)v納2先代所(ノ)v賜功封(ヲ)1云々、詔(シテ)許(ス)v之(ヲ)、また後紀に、弘仁六年六月、右大臣藤原(ノ)朝臣園人等、上v表乞(テ)v還(サムコトヲ)2先祖(ノ)功封(ヲ)1曰(ク)、臣等(ガ)高祖大織冠内大臣鎌子云々、錫(フ)2封一萬五千戸(ヲ)1、胤子正一位大政大臣、堂構相承、門風是存(ス)、由(テ)v茲(ニ)慶雲四年、勅(シテ)賜2封五千戸(ヲ)1、大臣固(ク)辭(ス)、天恩|允《ユルシテ》v請(ヲ)、即減(シテ)定(メ)2二千戸(ト)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1、天平神護元年、從一位右大臣、抗v表奉v返(シ)、寶亀元年、勅(シテ)更(ニ)還(シ)賜(フ)、大同三年、正三位守右大臣内麻呂、又抗v表奉v返(シ)、不v蒙(ラ)2允聽(ヲ)1、臣等云々、伏(テ)願(クハ)奉(テ)v納2所(ノ)v傳功封(ヲ)1、云々以聞(ス)、不v許、とあり、件の神護元年の文は、大政大臣の下に脱文有(リ)、後紀の方と相照して知べし、これらの文の事、猶下にいふべし、
〇聞宣、聞の下に、食(ノ)字を略(キ)て書る也、此例も多く有(リ)、訓(ミ)は、食(ノ)字有ところと同じ、さてこゝは、不比等公に宣(ル)詔なる故に、諸《キロモロ》とはいはざる也、
〇此詔の下につゞきて、辭(テ)而不v受、減(シテ)2三千戸(ヲ)1、賜(ヒ)2二千戸(ヲ)1、一千戸(ハ)傳(フ)2于子孫(ニ)1とあり、然るに右に引る天平十三年の紀に、返2上五千戸(ヲ)1、とあるはいかゞ、もしそれより先(キ)に、又更に五千戸を給へる事有しが、紀に漏《モレ》たるにや、されどさては、神護元年弘仁六年の文と合はず、猶いかゞ、又かの神護元年弘仁六年の文に、即(チ)減(シテ)定(メ)2二千戸(ト)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1とあるも、こゝに一千戸(ハ)傳(フ)2于子孫(ニ)1とあると、合(ハ)ざるが如くなれど、これは違へるにはあらず、二千戸の内一千戸にまれ、傳へむには、傳(ヘ)及(ス)といひつべければ也、さて又こゝの詔に、令文書載《ノリノフミニノセ》 多流乎 跡 止 爲而云々、とあること、心得がたし、其故は、功田は、田令に、凡功田、大功(ハ)世々不v絶、上功(ハ)俸(フ)2三世(ニ)1云々、と見えたれども、食封は、禄令に、凡五位以上、【謂一品以下也、】以v功(ヲ)食v封(ヲ)者、其身|亡《ウセヌレバ》者、大功(ハ)減(シテ)v半(ヲ)傳(フ)2三世(ニ)1、上功(フ)云々、下功(フ)不v傳、とこそ見えたれ、永く子孫世々に傳ふる事は、見えざればなり、もしくは、禄令の件の文の次に、凡令條(ノ)之外、若(シ)有(ル)2特(ニ)封(シ)及(ビ)増(スコト)1者《ハ》、並(ニ)依(ル)2別勅(ニ)1とあれば、此文を例とするよしにや、又は天智紀十年、天武紀十一年、持統紀三年などにも、律令法令の事見えたれば、大寶より前の、それらの令條に見えたる事にや、猶よく考ふべし、これより後には、天平寶字二年八月、藤原(ノ)仲麻呂を、大保とせられし時の詔に、更(ニ)給(テ)2功封三千戸、功田一百町(ヲ)1、永(ク)爲(テ)2傳世(ノ)之賜(ト)1、以表(ス)2不常(ノ)之勲(ヲ)1、また弘仁十一年正月(ノ)詔に、藤氏先祖云々、是以褒賞封戸、歴代不v絶、總(テ)一萬五千戸云々、なども見えたり、
第三詔
四の卷のはじめに、慶雲三年十一月、豐祖父(ノ)天皇不豫、始(メテ)有2禅v位(ヲ)之志1、天皇謙讓、固(ク)辭(テ)不v受、四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩、庚寅、天皇御(シテ)2束樓(ニ)1、詔(シテ)召(テ)2八省(ノ)卿及(ビ)五衛(ノ)督卒等(ヲ)1、告(ルニ)以(ス)d依(テ)2遺詔1攝2萬磯(ヲ)1之状(ヲ)u、秋七月壬子、天皇即2位(ニ)於大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、元明天皇の即位のをりなり、
現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。關 母 威 岐 藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月 爾 此食國天下之業 乎 日並知皇太子之嫡子今御宇 豆留 天皇 爾 授賜而並坐而此天下 乎 治賜 比 諧賜 岐《カケマクモカシコキフヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシヤマトネコスメラミコトヒノトノトリノハヅキニコノヲスクニアメノシタノワザヲヒナメシノミコノミコトノムカヒメバラノミコイマアメノシタシロシメシツルスメラミコトニサヅケタマヒテナラビイマシテコノアメノシタヲヲサメタマヒトトノヘタマヒキ》。
是者關 母 威 岐 近江大津宮御宇大倭根子天皇 乃 與天地共長與日月共遠不改常典 止 立賜 比 敷賜 覇留 法 乎 受被賜坐而行賜事 止 衆受被賜而恐 美 仕奉 利豆羅久止 詔命 乎 衆聞宣《コハカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシオホヤマトネコスメラミコトノアメツチトトモニナガクツキヒトトモニトホクカハルマジキツネノノリトタテタマヒシキタマヘルノリヲウケタマハリマシテオコナヒタマフコトトモロモロウケタマハリテカシコミツカヘマツリツラクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是仕奉侍 爾 去年十一月 爾 威 加母 我王朕子天皇 乃 詔 豆羅久 朕御身勞坐故暇間得而御病欲治《カクツカヘマツリハヘルニコゾノシモツキニカシコキカモワガオホキミアガコスメラミコトノノリタマヒツラクアレミミツカラシクマスガユヱニイトマエテミヤマヒヲサメタマハムトス》。此 乃 天 豆 日嗣之位者大命 爾 坐 世 大坐坐而治可賜 止 譲賜命 乎 受被賜坐而答曰 豆羅久 朕者不堪 止 辭白而受不坐在間 爾 遍多 久 日重而讓賜 倍婆 勞 美 威 美 今年六月十五日 爾 詔命者受賜 止 白 奈賀羅 此重位 爾 繼坐事 乎奈母 天地心 乎 勞 美 重 美 畏坐 左久止 詔命衆聞宣《コノアマツヒツギノクラヰハオホミコトニマセオホマシマシテヲサメタマフベシトユヅリタマフオホミコトヲウケタマハリマシテコタヘマヲシツラクアハタヘジトイナビマヲシテウケマサズアルアヒダニタビマネクヒカサネテユヅリタマヘバイトホシミカシコミコトシノミナヅキノトヲカマリイツカノヒニオホミコトハウケタマフトマヲシナガラコノイカシクラヰニツギマスコトヲナモアメツチノココロヲイトホシミイカシミカシコミマサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。故是以親王始而王臣百官人等 乃 淨明心以而彌務 爾 彌 結 爾 阿奈奈 比 奉輔佐奉 牟 事 爾 依而 志 此食國天下之政事者平長將在 止奈母 所念坐《カレココヲモテミコタチヲハジメテオホキミタチモモノツカサノヒトタチノキヨキアカキココロヲモチテイヤツトメニイヤシマリニアナナヒマツリタスケマツラムコトニヨリテシコノヲスクニアメノシタノマツリゴトハタヒラケクナガクアラムトナモオモホシマス》。又天地之共長遠不改常典 止 立賜 覇留 食国法 母 傾事無 久 動事无 久 渡將去 止奈母 所念行 左久止 詔命衆聞宣《マタアメツチノムタナガクトホクカハルマジキツネノノリトタテタマヘヲスクニノノリモカタブクコトナクウゴクコトナクワタリユカムトナモオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。遠皇祖御世 乎 始而天皇御世御世天 豆 日嗣 止 高御座 爾 坐而此食國天下 乎 撫賜 比 慈賜事者辭立不在人祖 乃 意能 賀 弱兒 乎 養治事 乃 如 久 治賜 比 慈賜來業 止奈母 隨神所念行 須《トホスメロギノミヨヲハジメテスラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテコノヲスクニアメノシタヲナデタマヒメグミタマフコトハコトダツニアラズヒトノオヤノオノガワクゴヲヤシナヒヒタスコトノゴトクヲサメタマヒメグミタマヒクルワザトナモカムナガラオモホシメス》。是以先 豆 先 豆 天下公民之上 乎 慈賜 久 〔漢文〕賜 久止 詔天皇大命 乎 衆聞宣《ココヲモテマヅマヅアメノシタノオホミタカラノウヘヲメグミタマハク タマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
八洲御宇、第四詔にたゞ、御宇、また公式令第十詔などに、御大八洲などあるは、こともなきを、こゝは宇(ノ)字いかがなる書ざま也、さてはじめより、聞宣まで、第一詔の初(メ)と、同じ語なるを、字は略きも易《カヘ》もして書(キ)たれども、みな具《ツブサ》)に書る方にならひて訓べき也、
〇關 母、關(ノ)字を、印本などには、開に誤れり、今は一本に依れり、次なるも同じ、關(ノ)字を書るは、關係の意也、万葉六には、缺卷毛《カケマクモ》とも書(ケ)れば、こゝも闕の誤(リ)かとも思へど、然にはあらじ、万葉十の卷に、開之宜朝妻之《カケノヨロシキアサヅマノ》とある開(ノ)字も、關の誤也と、師もいはれき、
○藤原(ノ)宮云々は、持統天皇也、
○丁酉は、持統天皇の十一年にて、郎(チ)文武天皇の元年也、
〇日並知(ノ)皇太子、一本には、知の上に、所(ノ)字あり、それもさること也、さて此御名は、比邪賣斯乃美古能美許登《ヒナメシノミコノミコト》と訓奉る也、此(ノ)太子は、天武天皇の御子、草壁(ノ)皇子と申せしにて、御母は持統天皇に坐り、天武紀に、十年二月、立(テテ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、因(テ)以令v攝2萬機(ヲ)1、持統紀に、三年夏四月癸未朔乙未、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨と見えたり、日並知《ヒナメシ》は、御諡なるべし、万葉二に、日並《ヒナメシノ》皇子(ノ)尊(ノ)殯(ノ)宮(ノ)之時、柿本(ノ)朝臣人麻呂作長歌あり、又皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舎人等慟傷作歌廿三首あり、かくて天平寶字二年八月に、岡(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇と、尊號を奉られたり、さてかく御名の下につけて申す皇太子は、みこのみことと訓(ム)例也、推古紀に、厩戸(ノ)豐聰耳(ノ)皇子命《ミコノミコト》、天武紀に、高市(ノ)皇子(ノ)命、万葉一に、日雙斯《ヒナメシノ》皇子(ノ)命、此紀一に、日並知(ノ)皇子(ノ)尊、など有(ル)を以て知(ル)べし、
〇嫡子の訓、物に見えたることなし、繼體紀に、ヒツギノミコと訓たることあれども、あたらぬ訓なり、殊にこゝは、天皇の御子にもあらざれば、然訓べきよしなし、故今新に、牟加比賣婆良乃美古《ムカヒメバラノミコ》と訓つ、正妃をムカヒメと訓(ミ)、字鏡にも、嫡(ハ)牟加比女《ムカヒメ》とあれば也、凡て嫡子とは、正妻の腹の子をいへり、今世に長子をいふとは異《コト》也、
〇今御宇 豆留 天皇は、文武天皇也、此(ノ)天皇は、日並知(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)之第二子也、母(ハ)天命開別(ノ)天皇(ノ)之第四女、平城(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇是也、と一の卷のはじめに見え、元明紀の始(メ)にも、適《ミアヒマシテ》2日並知(ノ)皇も(ノ)尊(ニ)1、生2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1と有(リ)、そも/\持統天皇の御世、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊|薨《カムサリ》坐て後、高市(ノ)皇子を皇太子に立(テ)奉(リ)給ひしを、十年七月に、それも又薨(リ)坐(シ)ぬ、後(ノ)皇子《ミコノ》尊とある是也、此高市皇子の、皇太子に立(チ)給へる事書紀に記されず、もれたり、かくて後、文武天皇の太子に立給へる事も、書紀には漏《モレ》たり、そは、十一年春正月云々、各有v差とある、此時に太子に立給ひし也、次に二月に、東宮(ノ)傅春宮(ノ)大夫などを任ぜられたる事有(ル)をもて知べし、此紀一の卷に、十一年、立(テテ)爲2皇太子(ト)1と見えたり、さて同年八月朔に、受禅即位なり、此天皇は、持統天皇の御ためには、御父方の御孫、御母方の御甥にましませり、
〇並坐而云々 は、文武天皇に授(ケ)給ひながら、持統天皇も、太上天皇とましまして、なほ相並ばして、共に政きこしめししよし也、
〇近江(ノ)大津(ノ)宮云々 は、天智天皇也、
○大倭根子、大(ノ)字の添《ソハ》れること、殊なる意なし、
〇不改常典は、加波流麻自伎都禰乃能理《カハルマジキツネノノリ》と訓べし、まじきといふ言は、ふるくも仁徳紀(ノ)大御歌に、豫屡麻志枳《ヨルマジキ》、齊明紀(ノ)大御歌に、倭須羅※[まだれ/艘の旁]麻自珥《ワスラユマジニ》など有(リ)、又とこしへなるべき、など訓べきかとも思へど、云々|共遠《トモニトホク》、又下にも長(ク)遠(ク)、第五詔に、萬(ヅ)世 爾などある、上よりのつゞきを思ふに、猶かはるまじきと訓べき也、常《ツネ》も不易の意也、顯宗紀に、不易之典《ツネノノリ》ともあり、又十四詔には、不改 自 常典とある、自は乃の誤ならむか、然らばいづれをも、字音に讃(ム)べきにや、いかにも此言は、もとよりの古言にはあらず、此文字を本にて出來たる言なれば、音に讀むもあしからじ、さて此(ノ)典法《ミノリ》を立(テ)給へる事は、天智紀にも、十年春正月、東宮皇太弟、奉3宣《ウケタマハリノリタマフ》施2行(コトヲ)冠位法度(ノ)之事(ヲ)1、とあれども、そは又いさゝかづゝ改め給へることは有(リ)もしけめども、全く始めて新に立(テ)給へるは、既《ハヤ》く孝徳天皇の御世にて、其事彼(ノ)御卷、大化元年より次々見えたるが如し、然るにこれを、孝徳天皇といはずして、天智天皇の立給へりとするよしは、此事孝徳天皇の御世ながらも、皇太子中(ノ)大兄(ノ)皇子の御心より出て、物し給へる御しわざなるが故也、然いふ故は、まづ皇極紀に、三年春正月云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、曾《ハヤクヨリ》善《ウルハシ》2於輕(ノ)皇子(ト)1、故詣(テ)2彼(ノ)宮(ニ)1、而|將《ス》2侍宿《トノヰニハヘラムト》1、輕(ノ)皇子深(ク)識2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ノ)之意氣高逸、容止難(キコト)1v犯(シ)乃、云々敬重、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、便|感《カマケテ》v所《ルルニ》v遇《メグマ》、語(リテ)2舎人(ニ)1曰(ク)、殊(ニ)奉(ルコト)2恩澤(ヲ)1、過(タリ)2前(ニ)所(ニ)1v望(ム)、誰(カ)能不(ム)v使(メ)v王(タラ)2天下(ニ)1耶、舍人便以v所v語(レル)、陳2於皇子(ニ)1、皇子大悦、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、爲人《ヒトトナリ》忠誠、有2匡濟(ノ)心1、乃慎(リテ)2蘇我(ノ)臣入鹿(ガ)云々(ヲ)1、歴試接2王宗(ノ)之中(ニ)1、而求(メテ)d可(キ)v立2功名(ヲ)1哲主(ヲ)u、便附2心(ヲ)於中(ノ)大兄(ニ)1、云々、自v茲|相善《ムツビテ》、倶(ニ)述v所v懷(ヲ)、既無(シ)v所v匿《カクス》、云々、路上往還之間、並(ベテ)v肩(ヲ)潜圖、無(シ)v不2相協1と見えて、これより中(ノ)大兄(ノ)皇子、此鎌子(ノ)連と御心を合せ給ひ、蘇我(ノ)蝦夷入鹿を誅し給ひしよりして、天下の權《イキホヒ》、此皇子と鎌足(ノ)連とに歸《ヨ》れり、輕(ノ)皇子は孝徳天皇、中(ノ)大兄は天智天皇の御名也、さて孝徳紀の首《ハジメ》に、天豐財重日足姫(ノ)天皇四年六月、思(シ)v欲《テムト》v傳(ヘ)2位於中(ノ)大兄(ニ)1、而詔(シテ)曰(ク)云々、中(ノ)大兄退(キテ)語2於中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、中臣(ノ)鎌子(ノ)連議(リテ)曰(ク)、古人(ノ)大兄(ハ)殿下(ノ)之兄也、輕(ノ)皇子(ハ)殿下(ノ)之|舅《ミヲヂ》也、方今古人(ノ)大兄|在《マシテ》、而殿下|陟《ノボリタマハバ》2天皇(ノ)位(ニ)1、便違(ハム)2人(ノ)弟(ノ)恭遜(ノ)之心(ニ)1、且《シバラク》立(テ)v舅(ヲ)、以答(ヘバ)2民(ノ)望(ニ)1、不《ズ》2亦|可《ヨカラ》1乎《ヤ》、於是中(ノ)大兄、深(ク)嘉2厥(ノ)議(ヲ)1、密(ニ)以奏聞、天豐財重日足姫(ノ)天皇、授2璽綬(ヲ)1禅v位(ヲ)、策曰、恣《アア》爾《ミマシ》輕(ノ)皇子云々、由(テ)v是(ニ)輕(ノ)皇子、不v得2固辭1、升v壇(ニ)即v祚(ニ)、以2中(ノ)大兄(ヲ)1爲2皇太子(ト)1とあり、さて此(ノ)孝徳天皇は、爲人《ヒトトナリ》柔仁とあると、大化元年、古人(ノ)皇子謀反、吉備(ノ)笠(ノ)臣|垂《シダル》、自2首《ミヅカラアラハシマヲシテ》於中(ノ)大兄(ニ)1曰(ク)、云々、中(ノ)大兄即(チ)討2古人大市(ノ)皇子(ヲ)1、また同二年、皇太子使(ハシ)v使(ヲ)奏請曰(ク)云々、などあるとを合せて思ふに、天下の政は、いよ/\中(ノ)大兄の御心にぞ有けむ、かくて此時、鎌子(ノ)連をば、内臣といふになし給ひて、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷2至忠(ノ)之誠(ヲ)1、據2宰臣(ノ)之勢(ニ)1、處2官司(ノ)之上(ニ)1、故(ニ)進退廢置、計從2事立(ニ)1とあるを見れば、なほ上に左大臣阿倍(ノ)内麻呂(ノ)臣、右大臣蘇我(ノ)倉(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)臣など在(リ)といへども、大權は鎌足(ノ)連に在(リ)し也、されば孝徳天皇の御世に立(テ)給へる、此新典法は、みな中(ノ)大兄の、鎌足(ノ)連と議(リ)給ひての御しわざなりけること、上件の趣どもを、よく考へて、おしはかり知べし、同孝徳紀に、白雉四年、皇太子奏請(シテ)曰(ク)、冀(クハ)欲v遷2于倭(ノ)京(ニ)1、天皇不v許焉、皇太子乃|奉《ヰテマツリ》2 皇祖母尊、間人皇后(ヲ)1、并(ニ)率(テ)2皇弟等(ヲ)1、往(テ)居2于倭(ノ)飛鳥(ノ)河邊(ノ)行宮(ニ)1、于時公卿大夫百官人等、皆隨而遷(ル)、由(テ)v是(ニ)天皇恨(テ)、欲v捨(ムト)2於國位(ヲ)1云々、とあるを以て、此御世のすべてのやうを、おしはかるべし、公卿百官人もみな、天皇には從ひ奉らずして、中(ノ)大兄に從ひ奉れるをや、さて此天智天皇の、はじめよりの御しわざを、つら/\考へ奉るに、まづ皇極天皇、御位を傳へ給はむと有しを、辭《イナ》び給ひて、孝徳天皇を御位に即《ツケ》奉(リ)給ひて、御みづからは皇太子にて坐《イマ》し、孝徳天皇崩(リ)坐ても、なほ即位し給はず、ふたゝび皇極天皇を即位せしめ奉りて、御みづからはなほ皇太子にてまし/\、皇極天皇崩(リ)坐て、つひに御みづからの御世になりても、六年といふまでは、なほ皇太子と申(シ)て、即位の禮《ヰヤゴト》をも行はれず、又己(レ)命の御子たちもおはしますをばおきて、御弟の大海人(ノ)皇子を、皇太弟と立(テ)給へるなど、すべて初(メ)よりみな、強《シヒ》て謙遜《ヘリクダリユヅリ》を以て、世(ノ)人を感《カマケ》しめむためにて、から國の聖人風の御しわざ也けり、かくのみよろづにもてつけて行ひ給ひしかども、十年冬十月、大御病し給へりしほどに、つひに實の御心ぞ顯(ハ)れ坐る、そは御病重らせ給へる時に、東宮大海人(ノ)皇子を、大御許に召(シ)入(レ)て、詔(シテ)曰(ク)、朕疾甚(シ)、以2後事(ヲ)1屬v汝(ニ)云々、於是再拜(シテ)稱(シテ)v疾(ト)固(ク)辭(テ)、不v受曰(ク)、請(フ)d奉2洪業1、付2屬大后(ニ)1、令(メムト)c大友(ノ)王《ミコヲシテ》、奉c宣諸(ノ)政(ヲ)u、臣(ハ)請《コフ》d願(クハ)奉2爲《ミタメニ》天皇(ノ)1、出家修(ムト)uv道(ヲ)、天皇許(シタマフ)焉、東宮云々、爲(ラム)2沙門(ト)1云々、東宮見(エテ)2天皇(ニ)1、請d之(ヲ)2吉野(ニ)1、修c行佛道(ヲ)u、天皇許(シタマフ)焉、東宮即入2於吉野(ニ)1とある、此時に至りて、己(レ)命の御子大友(ノ)皇子に、位を授けまほしくおぼしめす下《シタ》の御心の、え忍びあへ給はで、ほころび出たるなりけり、然れども、大海人(ノ)皇子はじめより皇太弟にてましませば、やむことえず、以2後(ノ)事(ヲ)1屬v汝(ニ)とは詔《ノタマ》ひつれども、そは御心にはあらざりしことは、天武紀のはじめにも、此事を記して、天皇臥v病、以痛之甚矣、於是遣(シテ)2蘇我(ノ)臣安麻侶(ヲ)1、召(テ)2東宮(ヲ)1、引2入大殿(ニ)1、時(ニ)安麻侶(ハ)素(ヨリ)東宮(ノ)所(ナレバ)v好《ヨミシタマフ》、密(ニ)顧(テ)2東宮(ヲ)1曰(ク)、有意而言《ミココロシラヒシテマヲシタマヘ》矣、東宮於v茲疑(テ)v有(ルコトヲ)2陰謀1、而愼之、天皇勅(シテ)2束宮(ニ)1、授2鴻業(ヲ)1、乃辭讓之曰云々、とあるごとくにて、實は大友皇子に授け給はむとおぼして、その御謀有けむほど、いちじるし、もしさる御陰謀《ミハカリコト》なくは、東宮の出家せむことを請《コヒ》給ふを、たやすく許(シ)給ふべきにあらず、さて又かの遺詔の後に、大友(ノ)皇子、左大臣蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣をはじめて、五人の重臣と警盟《チカヒ》て、六人同(シテ)v心(ヲ)、奉(ラム)2天皇(ノ)詔(ヲ)1、若(シ)有(ラバ)v違(フコト)者、必被(ラム)2天罸(ヲ)1と見え、また五臣奉(テ)2大友(ノ)皇子(ヲ)1、盟(フ)2天皇(ノ)前(ニ)1、(など有(ル)をも思ふべし、かの陰謀は、天皇の御心にぞ有ける、されば大海人(ノ)皇子、かの安麻侶が告(ゲ)申せるに依て、その御心しらひして、出家し給はむことを、請《コヒ》申(シ)給ひつればこそ、難《ワザハヒ》をまぬかれ給ひしか、もし何の御心もなく、遺詔を受(ケ)給はり給ひてあらましかば、ほと/\危《アヤフ》かりなまし、そも/\天智天皇の此御しわざよ、始(メ)より、おもほしめす御心のまゝに、大友(ノ)皇子を東宮に立(テ)給ひてあらましかば、壬申のいみしき亂《ミダレ》は出來ましやは、此皇子ぞ、めでたく平(ラカ)に御世はしろしめしてまし物を、よろづに聖人ぶりを好み給ひて、中々のうはべのつくろひの、遜讓《ゆづり》だての御しわざによりてぞ、御終(リ)をもてそこなひ給ひける、かくて此(ノ)不改常典といふも、よろづの事、改新《アラタムル》をたけきことにする、漢國ぶりの御しわざにして、神代より
有來しさまをば停廢《ヤメ》て、悉く漢國の制にならひて、新に定め給へる也、さるはかの國のも、周の代までの、封建の制といひしは、皇國の上代よりのさまに、をさ/\異なることもなかりしを、今ならひとり給へるは、秦よりこなたの、郡縣の制といふものにて、古(ヘ)とはいたくさま變《カハ》れり、そも/\かく漢國風をまねび行ひ給へるは、うはべこそめでたくとゝのひ備《ソナ》はれるが如くなれ、まことには、これぞ中々に、朝廷の大御稜威《オホミイツ》の衰へ坐べき、基本《モトヰ》をはじめ給へる物なりける、此(ノ)後やう/\に臣等《オミタチ》の威權《イキホヒ》つよく盛(リ)になりて、いとも畏《カシコ》く、天皇をもなほざりに思ひ奉るやうになりぬるは、もと人の心、此漢國ぶりにうつりて、皇國の意を忘れたるより起れるものを、世々の物しり人たちも、たゞから國|意《ゴコロ》をのみ思ひて、此ことわりをえさとらず、世に此天皇を、中興の君としも心得ためり、さて此不改常典といふことを、かく重《イカシ》く嚴《オゴソカ》に詔《ノリ》たまふことは、はじめ此|御制《ミノリ》を立給へりし時よりの事にぞ有べき、さるは神代より有來し御制《ミノリ》を、いたく變改《カヘ》給ふ御しわざなれば、王臣百官人、天(ノ)下の公民までも、たやすく信服《ウケヒカ》ざらむこと、又後に舊《フル》きに復《カヘ》すこともやと、よろづにあやぶみおぼしめせるからなるべし、かくて其《ソレ》例となりて、次々の御世御世までも、必(ズ)かく詔《ノリ》給ふこととはなれるなるべし、そも/\かく天地と共に長く遠く、かはるまじくとは、定め給へれども、わづかに五百年ばかりがほどに、やう/\に頽《クヅ》れもてゆきて、保元平治元暦文治のほどより、天下諸國の有さまは、又ふるきに立かへりて、此(ノ)常典は、たゞ名のみのこりて、おのづから又上代の形《カタチ》になりかへりにたる、皇神の御心を思ふべし、あなかしこ/\、
〇敷賜 覇留、覇(ノ)字は、呉音へなるを、取用ひたる也、書紀又佛足石歌の中にも、此字をへの假字に用ひられたり、そもそも此字、他の詔には、一つも用ひたることなきに、第二詔と此詔とにのみ、重ねて用ひたるは、同じ作者にて、其人の心なりけむ、敷賜とは、敷(キ)ほどこらし給ふ也、
〇受被賜坐は、持統天皇文武天皇つぎ/\、此常典を受賜はり坐て、其|典《ノリ》のまゝに、天下の政を行ひ給へりと也、
〇衆被賜云々、衆は、親王諸王諸臣百官人天下(ノ)公民もろ/\也、此典は、天智天皇、新に立給へる制なる故に、當初《ソノカミ》すみやかに普《アマネ》くは行はれがたく、やゝもすれば頽《クヅ》れやすかりけむ故に、かくのごとく取(リ)分て、ねもころには詔給へる、そのはじめよりの例にて、御世/\の詔にも、かならずかくは詔給ふなるべし、もし然らざらむには、此事かくこちたきまで、勅《ノリ》給はずともあるべきわざ也、
〇仕奉 利豆羅久止は、衆《モロモロ》の仕奉る也、豆羅久《ツラク》は、都流《ツル》を延たる言にて、いふをいはくといふ類也、
〇詔命は、元明天皇のなり、
〇仕奉侍 爾は、上を承て、衆の仕奉るをいふ内に、元明天皇の御みづからの御事をもこめ給へる也、故(レ)侍とは其意也、衆とは、親王以下をいふなれば、其中に、御みづからの御事もこもれり、さて侍は、波閇流《ハヘル》と訓て、閇《ヘ》は清音也、はんべるといふは、後の音便に、んを添(ヘ)、んに依て、へを濁る也、猶此言の意、古事記傳十四に委(ク)云り、三代實録貞觀十二年の詔に、起居失(ヒ)v便(ヲ) 天 波部利《テハヘリ》と有、
〇去年十一月、元明紀の首《ハジメ》に、慶雲三年十一月、豐祖父(ノ)天皇不豫、始(メテ)有2禅v位之志1、天皇謙讓、固辭不v受、とある是也、
〇威 加母、加(ノ)字、印本には久と有(リ)、今は一本又一本などに依れり、いづれにてもよし、此讓り給ふ大命の畏きよし也、
〇我王朕子天皇とは、文武天皇を申(シ)給ふ也、我王とは、殊に親み尊みて申(シ)給ふ也、他の詔にも多し、孝徳紀に、皇太子の天皇に奏(シ)給ふ御言にも、天皇我皇《スメラミコトワガオホキミ》と有、歌にも多し、朕子とは、元明天皇は、文武天皇の大御母命に坐(セ)ば也、
〇詔 豆羅久は、元明天皇に也、
〇勞は、都加良志久《ツカラシク》と訓べし、四十五詔に、朕 波 御身都可良之久於保麻之庶須 爾 依 天《アレハミミツカラシクオホマシマスニヨリテ》、太子 爾 天 都 日嗣高御座 乃 繼天 方《ツギテハ》、授麻都流 止 命 天《サヅケマツルトノリタマヒテ》、五十八詔に、此月頃間《コノツキゴロノホド》、身勞 須止《ミツカラスト》 聞食 弖、など有(リ)、みな御病の事也、後の言にも、いたはりといひ、所勞《シヨラウ》といふ、同じ意也、
○欲知は、乎佐米賜牟登須《ヲサメタマハムトス》と訓べし、欲(ノ)字は將の意也、
〇大命 爾 坐 世 大坐々而《オホミコトニマセオホマシマシテ》、此語、もろ/\の詔、又祝詞などにも、多くあるを、その訓(ミ)ざまもまぎらはしく、意もいと心得がたきを、まづ訓(ミ)は、大命 爾の爾《ニ》は、いづれもかくあれば決《ウツナ》し、坐 世の世は、こゝは本共には、母と作《ア》れども、他の例をあまねく考へわたすに、第九詔には、大命 爾 坐 而 奏(シ)賜 久とあるを、一本に、而を西と作《カケ》り、十四詔には、御命《オホミコト》爾 坐 止、伊夜嗣 爾云々、廿五詔には、御命坐 世《オホミコトニマセ》 宣 久と有(リ)、又類聚國史、天長二年十月(ノ)詔には、大命 爾 坐 世、石作 乃 山陵 爾 申(シ)給 久、春日祭(ノ)祝詞にも、天皇 我《スメラガ》 大命 爾坐 世 云々、廣前 仁 白 久、平野祭(ノ)祝詞にも、天皇 我 御命 爾 坐 世 云々とあり、これらを合せて考るに、多く坐 世とありて、第九詔なる而も、一本には西なれば、坐 世とあるぞ正しくて、こゝの母も、十四詔の止も、寫誤なりけり、故(レ)今は坐 世と定めて、共に然改めつ、さてかくさまの世《セ》は、なべては令《オホ》する辭なれども、これは然にはあらず、めづらしきいひざまにて、聞なれねども、かくいふべき古言なるべし、かくて大命 爾 坐 世といふ言の意、第五詔をはじめて、多く大命 爾 坐(セ)詔 久とあるは、坐 世といふ言のみこそ、いさゝか聞えにくけれ、大命 爾は、事もなく聞えたるが如くなれども、こゝなると、第六詔十四詔なるなどに依れば、大命 爾といふこと、ただに其時に詔給ふ命《ミコト》をいへるにはあらず、いと/\心得がたきを、例のしひて試にいはは、坐は借字にて、令《セ》v隨《マ》の意ならむか、まづ坐を借字ならむといふ故は、こゝに次に大坐々而《オホマシマシテ》とつゞきたればなり、さて令《セ》v隨《マ》とは、もと麻《マ》とのみいふが、即(チ)隨の意にて、それより麻々爾《ママニ》とも、麻爾々々《マニマニ》とも、麻加世《マカセ》ともいふなるべし、さて大命 爾 令隨《マセ》とは、まづ万葉の歌につねに、天皇《オホキミ》の命かしこみとよめるは、天皇の大命は、いかなることにても、背《ソム》きがたく、其命のまに/\、畏《カシコ》まりて仕奉るよしにて、それは臣民の方よりいふ言なるを、此大命にませは、そを天皇の方よりいへる詞にて、天皇は、天の下の萬の事を、大命の隨《ママ》に令《シメ》v爲《セサ》給ふよし也、されば大命に任《マカ》せといふと同意也、されば神ながらと申すたぐひにて、天下萬の事、大命のまゝなる天皇と申す意にて、此詞やがて天皇の御事となれるにて、かの大命 爾 坐(セ)詔 久といふ類は、天皇の詔《ノリタマ》はくといふ意、又こゝの如くいへるは、天皇となりて大坐々て也、されば大命とは、たゞに其詔をさしていへるにはあらざること、此詔第六詔十四詔などの語のつゞきを以てさとるベし、よくせずは混《マギ》るべし、さて又今一つの考(ヘ)も有(リ)、万葉九に、命乎志麻勢久可願《イノチヲシマセヒサシカレ》とあると、遊仙窟に、安穩をマセと訓るとを合せて思へば、坐 世《マセ》は、其意にて、安見《ヤスミ》ししといふ類か、されど万葉(ノ)歌は、久可願《ヒサシカレ》といへること、言も字も穩ならざれは、師の、麻狹伎久母願《マサキクモガモ》を誤れる也、といはれたるや然るべからむ、そのうへ件の意としては、大命 爾といふこと、聞えがたし、されば此考(ヘ)は、立(チ)がたかるべし、猶よく考ふべきこと也、大坐坐は、おはしまし也、おはしましといふは、即(チ)おほまし/\の、ほまをはと切《ツヅメ》ていふ也、古今集の詞書には、おまし/\とも有(リ)、四十一詔に、別好 久 大末之末世 波《コトニヨクオホマシマセバ》、四十五詔に、於保麻之麻須《オホマシマス》、また古事記仁徳(ノ)段に、令《シメテ》2大坐《オホマシマサ》1など有(リ)、一本に、坐(ノ)字一つなるは、一つ落たる也、
〇治可(シ)v賜 止、上の天つ日嗣の位|者《ハ》とあるは、こゝへ係《カカ》れり、汝命《ナガミコト》天皇となり坐て、天下を大命に令隨《マセ》おはしまして、天つ日嗣の位をは治(メ)給ふべしと也、是まで文武天皇の詔給へるよし也、
〇答曰 豆羅久は、元明天皇の也、
〇不《ジ》v堪《タヘ》は、天皇と爲(リ)て、天下を治むるにえ堪《タヘ》じ也、天皇謙讓、固辭不v受とある是也、
〇遍多 久は、多毘麻禰久《タビマネク》と訓べし、しげく度々の意なり、五十四詔に、一二逓能味 仁 不在《ヒトタビフタタビノミニアラズ》、遍麻年 久《タビマネク》、万葉十九に、多婢末禰久《タビマネク》、また廿三詔に、年長 久 日多《ヒマネ》 久、五十九詔に、麻禰 久 在《マネクアリ》、万葉二に、眞根久往者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》、四に、君之使乃《キミガツカヒノ》、麻禰久通者《マネクカヨヘバ》など、猶多し、數多と書たるにも、まねくと訓べき、これかれあり、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞にも、歳眞尼久《トシマネク》と有、
〇日重《ヒカサネ》、日(ノ)宇、本どもに、曰に誤れり、今改めつ、
〇詔命者は、度々讓(リ)給へる、右の詔命也、
〇受賜(フ) 止、此賜(フ)は、御みゝづから尊みてのたまふ辭也、被《ル》v賜(ハ)にはあらず、さて文武天皇は、六月丁卯朔辛巳に崩とあるを、十五日は、即(チ)其日なれば、こゝに至りて、やむことえず、受申(シ)給へるなるべし、
〇白(シ) 奈賀羅、白《マヲシ》は、文武天皇に申(シ)給ふ也、奈賀羅《ナガラ》は、隨《ママ》にの意也、俗にいふながらの意にはあらず、第十詔に、教賜 比 趣賜 比奈何良、受被賜持 弖、十五詔に、云々|勅《ノリ》賜(ヒ) 奈我良、成(リ) 奴禮波、五十二詔に、思 富之 坐 奈何良、これらも皆、まゝにの意也、さてこゝの奈賀羅は、繼坐といふまでにのみ係《カカ》りて、其下へはかゝらず、
〇重位 爾 繼坐、こは位 乎とあるべくおぼゆるに、爾《ニ》とあるは、第七詔にも、天 都 位 爾 嗣坐 倍伎 次《ツギテ》と有(リ)、すべて乎《ヲ》といひても、爾《ニ》といひてもよきところのある也、
〇天地(ノ)心 乎云々、卅三詔に、此位 方《ハ》、天地 乃 置賜 比 授賜 布 位 仁 在(リ)、とあるたぐひ、すべてかく天地に心有て、世(ノ)中の吉凶事《ヨキアシキコト》みな、天のなすわざのごとくいふは、皇國の意にあらず、漢意也、書紀の卷々の詔などに、此類の語の多かるは、上代の卷々なるは、みな撰者の潤色《カザリ》の文なれば、論ふべき限にあらざるを、末々の卷のころに至りては、やうやうに漢意のうつりて、實にさる語も有し也、殊に孝徳天皇天智天皇の御世になりては、萬に漢をまねび給へれば、さらなること也、この天地(ノ)心 乎云々 といふことを、御世/\の詔に、いつも/\詔給ふも、かの御代よりぞ始まりけむ、すべて此紀のもろ/\の詔ども、言は古(ヘ)ながらに、その意は、漢なることの多くまじれるは、おほくは天智天皇よりぞ始まりつらむ、
〇爾結 爾《イヤシマリニ》、既に第一詔に出たり、
〇阿奈々 比 奉(リ)、これも輔佐《タスケ》奉と同意の言と聞えたり、かくて言の然いふ本の意を考るに、足荷《アニナヒ》なるべし、凡て足は、人にも器にも下に在て、掲支持《アゲササヘモツ》物也、荷《ニナヒ》は、物を掲持《アゲモツ》をいふ、俗《ヨ》には、枴《アフコ》の兩端に物を着《ツケ》て擔《モツ》をのみ、になふとはいへども、それには限らざること也、かゝれば此言は、物の足の、掲支持《アゲササヘモツ》が如く、臣の下に在て、君を輔持《タスケモツ》をいふ也、和名抄造作具に、麻柱(ハ)、阿奈々比《アナナヒ》、竹取物語にあなゝひをゆひて、小右記、長和四年造内裏の事を記されたる所にも、安奈々比結《アナナヒユヒ》と有(リ)、これらは、今の世に足代《アシシロ》といふ物と聞えたり、麻柱と書る字は、いかならむしらねども、足代は、扶掲《タスケアゲ》て下を支持《ササヘモツ》物なる故にぞ、阿奈々比てふ名は負(ヒ)つらむ、さて此言、第五詔廿四詔四十八詔六十一詔などにも有、いづれも扶《タスケ》と重ねいへり、同意の言を重ねていふは、つねのこと也、改(メ)賜 比 換《カヘ》賜 比、或は恵賜 此 撫賜 比などのたぐひなり、
〇依而 志、志は助辭《ヤスメコトバ》也、此字、本どもに者に誤れり、今は廿四詔四十八詔の例によりて改めつ、
〇平(ケク)長(ク)、第九詔に、平 久 長 久 可(シ)v有 登、第十詔の次なる大御歌に、多比良氣久那何久伊末之弖《タヒラケクナガクイマシテ》、
〇不改常典 止 立賜 覇留 云々、上に既に、天下之政事|者《ハ》平(ク)長(ク)將v在と詔給へるに、引つゞけて又しも、此事をかくくりかへし詔給ふは、上に申せる如く天智天皇の此新法を立(テ)給へりし時に、人の信服《ウケヒカ》ざらむことを、あやぶみ思召て、かへすかへす詔給へりしよりの例なるべし、
〇傾事無 久、傾(ク)も動(ク)も、變易《カハ》るをいふなり、
〇渡(リ)將《ム》v去《ユカ》は、御世/\を經行《ヘユク》也、万葉十七に、立山《タチヤマ》にふりおける雪のとこなつに消《ケ》ずて和多流波《ワタルハ》神ながらとぞ、又ゑまひつゝ和多流《ワタル》あひだに云々、これらも月日を經行(ク)を、わたるといへり、
〇遠皇祖云々、此上に又(ノ)字あるべくおぼゆ、
〇辭立《コトダツ》、辭は借字にて、事の意なるべし、第七詔に、此者事立 爾 不有《コハコトダツニアラズ》、天 爾 日月在如《アメニツキヒアルゴト》、地 爾 山川有如《ツチニヤマカハアルゴト》、十五詔にも見ゆ、古事記仁徳(ノ)段に、言立者足母阿賀迦邇嫉妬《コトダテバアシモアガカニネタミタマフ》、伊勢物語に、正月なればことだつとて、など有(リ)、平常《ツネ》に異《カハ》りて、殊なることをするをいふ也、
〇人祖《ヒトノオヤ》、祖は父母也、古書には、於夜《オヤ》には、父母をいへるにも、おほく祖と書たり、さておやを人のおや、子を人の子といふは、古(ヘ)の常也、
〇弱兒は、和久碁《ワクゴ》と訓べし、武烈紀(ノ)歌に、思寐能和倶吾《シビノワクゴ》、繼體紀(ノ)歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》、万葉十四に、等能乃和久胡《トノノワクゴ》など有(リ)、これらはみな、少壯士《ワカキヲトコ》をいへるなれど、小兒《チゴ》をいふも、言は同じ、古(ヘ)は幼椎《イトキナキ》きをも、共にわかしとぞいへる、
〇養治は、夜志那比比多須《ヤシナヒヒタス》と訓べし、又ひたしをさむるとも訓べし、神代紀に、養又長養又持養などを、ヒタスと訓(ミ)、古事記垂仁(ノ)段に、日足《ヒタシ》奉(ル)と有て、此字の意にて、兒を育《オフシタツ》るを云(フ)、
〇事 乃 如 久、凡て物の譬(ヘ)をいふに、たゞに云々のごとくとはいはで、事といふことを入(レ)て、云々の事の如くといふぞ、古文のつねなる、〇慈賜|來《クル》、來《クル》は、遠皇祖の御世を始て御世/\也、
〇先 豆 先 豆 云々、上(ノ)件の如く、天皇と坐ては、天下の民を、己が弱兒を養育《ヒタス》ごとく、慈賜來るわざなるが故に、即位の始(メ)に、先(ヅ)第一に、此|慈《メグミ》を行ひ給ふと也、豆(ノ)字を添たるは、さき/”\といふに、紛《マガ》はむことを思ひてなるべし、
〇慈賜 久の下、漢文と記したるところは、大2赦天下(ニ)1、自2慶雲四年七月十七日昧爽1以前、大辟罪以下、罪無(ク)2輕重(ト)1、已發覺未發覺、咸(ク)赦2除之1、其(ノ)八虐(ノ)之内、已(ニ)殺(シ)訖(レル)、及強盗竊盗、常赦不v免者(ハ)、並不v在2赦例(ニ)1、前後諸人、非(ル)2反逆(ノ)縁坐、及移(スニ)1v郷(ヲ)者(ハ)、並宜(シ)2放還(ス)1、亡2命(シ)山澤(ニ)1、挾2藏(シテ)軍器(ヲ)1百日不(ルハ)v首《マヲサ》、復(スコト)v罪(ニ)如(クナラム)v初(メノ)、給(フ)v侍(ノ)高年、百歳以上(ハ)、賜2籾二斛(ヲ)1、九十以上(ハ)、一斛五斗、八十以上(ハ)一斛、八位以上(ハ)、級|別《ゴトニ》加(フ)2布一端(ヲ)1、五位以上(ハ)、不v在2此例(ニ)1、僧尼(ハ)、准(シテ)2八位以上(ニ)1、各施2籾布1賑恤(ス)、※[魚+環の旁]寡※[立心偏+(旬/子)]獨、不(ル)v能2自存1者(ニハ)、人別(ニ)賜2籾一斛(ヲ)1、京師畿内、及太宰所部(ノ)諸國(ハ)、今年(ノ)調、天下諸國(ハ)今年(ノ)田租|復《ユルシ》、とある是也、これその慈《メグミ》給ふ件々にて、そは皆、事も文も、定まれる漢籍のまゝなれば、今は用なく、煩はしさに、省《ハブ》ける也、これも一わたりは、解むもよかるべけれど、おのれもとよりたど/\しき漢事を、今さら考へ索《モトメ》むも、暇入(リ)て、古(ヘ)學びに益《ヤク》なければ、ひたぶるに黙止《モダシ》ぬ、餘の詔なるも、此筋の文は准へて皆然り、いづれも、令律などを考ふれば、大かたみな聞えたる事どもぞかし、
第四詔
和銅元年春正月乙巳、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡獻(ル)2和銅(ヲ)1、詔曰と有、
現神御宇倭根子天皇詔旨勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 與利 天降坐 志 天皇御世 乎 始而中今 爾 至 麻弖爾 天皇御世御世天 豆 曰嗣高御座 爾 坐而治賜慈賜來食國天下之業 止奈母 隨神所念行 佐久止 詔命 乎 衆聞宣《タカマノハラヨリアモリマシシスメラガミヨヲハジメテナカイマニイタルマデニスメラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテヲサメタマヒメグミタマヒクルヲスクニアメノシタノワザトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是治賜慈賜來 留 天 豆 日嗣之業今皇朕御世 爾 當而坐者天地之心 乎 勞 彌 重 彌 辱 彌 恐 彌 坐 爾 聞看食國中 乃 東方武藏國 爾 自然作成和銅出 在 止 奏而獻焉《カクヲサメタマヒメグミタマヒクルアマツヒツギノワザトイマスメラワガミヨニアタリテマセバアメツチノココロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミイマスニキコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタムザシノクニニオノヅカラニナレルニキアカガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此物者天坐神地坐祇 乃 相于豆奈 比 奉福 波倍 奉事 爾 依而顯 久 出 多留 寶 爾 在 羅之止奈母 神隨所念行 須《コノモノハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツルコトニヨリテウツシクイデタルタカラニアルラシトナモカムナガラオモホシメス》。是以天地之神 乃 顯奉瑞寶 爾 依而御世年號改賜換賜 波久止 詔命 乎 衆聞宣《ココヲモテアメツチノカミノアラハシマツレルシルシノタカラニヨリテミヨノナアラタメタマヒカヘタマハクトノリタマフオホミコトヲキロモロキコシメサヘトノル》。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號 止 定賜《カレケイウムノイツトセヲアラタメテワドウノハジメノトシトシテミヨノナトサダメタマフ》。是以天下 爾 慶命詔 久 冠位上可賜人人治賜《ココヲモテアメノシタニヨロコビノオホミコトノリタマハクカガフリクラヰアゲタマフベキヒトビトヲサメクマフ》。〔漢文〕免武藏國今年庸當郡調詔天皇命 乎 衆聞宜《ムザシノクニノコトシノチカラシロソノコホリノツギユルシタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
高天原 與利、與(ノ)字、一本に由とあり、第七詔にも、由利《ユリ》又|由理《ユリ》とあり、万葉廿にも然あり、古(ヘ)よりともゆりとも、通はしいへる也、歌には、りを略きて、よともゆともいへり、
〇天降は、阿母理《アモリ》と訓べし、万葉に見ゆ、あまおりの切《ツヅマ》りたる也、此天降坐し天皇は、邇々藝《ニニギノ》命を申せる也、すべて神代にても、天皇と申し又人の代にても、天皇をば神と申(シ)て、神代人(ノ)代異なることなし、
○中今《ナカイマ》、第一詔に出。
〇天 豆 曰嗣の下に、止《ト》と讀(ミ)付(ク)べし、第三詔第五詔などに、天 豆 日嗣 止 高御座 爾 坐而、とある例也、
〇高御座 爾 坐而、爾(ノ)字一本に止と作《ア》るは誤也、
〇慈賜來は、末に出たる御慈《ミメグミ》の件々を詔給はむために、まづかくは詔給ふ也、
〇食國天下之業とは、食國天下を治(メ)賜ふ御業《ミワザ》といふ意にて、天皇の御業といはむがごとし、
〇天 豆 日嗣之業、此下にも、止《ト》と讀付べし、第十三詔に、云々惠賜來 流、天日嗣 乃 業 止、今皇朕云々、とあると同じ例なれば也、止《ト》は、としての意なり、
〇皇朕《スメラワガ》は、天皇の御みづから詔ふ言也、他の詔にも多く見ゆ、万葉六にも、天皇朕宇頭乃御手以《スメラワガウヅノミテモチ》云々、
〇辱 彌、四十一詔に、可多自氣奈《カタジケナ》 彌奈毛 念 須、五十二詔に、加多自氣奈 美《カタジケナミ》、伊蘇志《イソシ》 美 思(シ)坐 須、五十四詔に、恥《ハヅカ》 志 賀多自氣奈《カタジケナ》 志など、猶多し、此言は、恐れ憚る意にて、恥《ハヅ》る意をも帶《オビ》たり、俗言に、恐れおほい、物體《モツタイ》ない、などいふにあたれり、今俗にかたじけないといふは、意の轉れるにて、雅言と異《コト》也、但し廿六詔に、云々 乎 宇牟我《ウムガ》 自彌 辱《カタジケナ》 彌、又右に引る四十一詔五十二詔なる、又五十七詔に、辱 奈美 歡《ヨロコボ》 之美などあるは、俗言の意にも、おのづから通ひたるところありて聞ゆる也、
〇和銅は、爾伎阿加賀禰《ニキアカガネ》と訓べし、伎《キ》清音也、こはいはゆる熟銅なるべし、熟(ノ)字も、にきと訓り、さてこれは、自然《オノヅカラニ》とあれば、はじめより熟銅にて出たるにて、それがめづらしきなり、〇出在《イデタリ》、多理《タリ》に在(ノ)字を書(ク)事、古事記にも見え万葉に多し、すべて多理《タリ》は、止阿理《トアリ》と弖阿理《テアリ》との切《ツヅ》まれる言なれば也、
〇獻焉、すべてかゝる所に、焉などの助字を添て書ること万葉歌には多かるを、紀中宣命にはこれをおきて外には例なし、めづらし、
〇相于豆奈 比は、俗言に、神の約受《ナフジユ》し給ふといふに當れり、于豆《ウヅ》は、珍御子《ウヅノミコ》、宇頭 乃 幣帛《ウヅノミテグラ》、宇頭《ウヅ》 乃 御手《ミテ》、などある宇頭《ウヅ》にてうるはしくめでたきをいふ、奈比《ナヒ》は、活《ハタラ》かぬ言を活用《ハタラ》かすに、添へいふ辭にて、商《アキ》をするをあきなふ、いざといひてさそふをいざなふ、諾《ウベ》なりとするをうべなふ、といふ類にて、うづなひは、御世の政を、神のめでて、美好《ヨシ》とし給ふ意也、相《アヒ》は、必しも互《タガヒ》にせねども、彼(レ)と此(レ)との間の事には、添ていふ言也、又思ふに、仁徳紀に、納(レテ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1、將v爲(ムト)v妃(ト)、時(ニ)皇后不v聽、とある不聽を、ウナヅルサズと訓るはうなづきゆるさずといふことと聞ゆ、うなづくは、物語書などにも見えて、人のいふことを、聽(キ)入(レ)ゆるす意にて、俗言に合點するといふことなり、さればうづなひも、うなづきなひにもあらむか、件の二つ、いづれにても、つひには同意にて、納受《ウケイレ》給ふよし也、此言、第六詔、十三詔、廿三詔、四十八詔などにも有、万葉十八にも、天地乃神安比字豆奈比《アメツチノカミアヒウヅナヒ》、皇御租乃御靈多須氣弖《スメロギノミタマタスケテ》と見ゆ、同十三に、現をウツナヒと訓るは、ひがこと也、こはウツシクとぞ訓べき、
〇福 波倍、凡てさきはひといふと、さきはへといふとは、自他の差《タガヒ》あり、集《ツド》ひと集《ツド》へとの如し、さきはへは、他を福《サキ》はゝしむるをいひて、さきはゝせのはせを切《ツヅ》めてへといふ也、さきはひと混《マガ》ふべからず、
〇顯 久《ウツシク》 出 多留、久を、一本に支と作《カケ》るは誤也、第五詔に、于都斯《ウツシ》 久母 皇朕御世當《スメラワガミヨニアタリテ》、顯見《アラハル》 留 物《モノ》 爾 者不在《ハアラジ》、第六詔にも見ゆ、古事記に、宇都志伎《ウツシキ》青人草とあるを、書紀に、顯見蒼生《ウツシキアヲヒトクサ》と書れたり、
○瑞寶、瑞は、他の詔にも、たゞ瑞とのみも、又大瑞とも、貴瑞ともある、いづれも志流斯《シルシ》と訓べし、欽明紀に徴表《シルシ》、仁徳紀に、有v瑞、是(レ)天之表焉《アマツシルシナリ》、これら瑞をさしてしるしといへり、然るに同じ書紀に、瑞蓮瑞稻瑞鷄などある瑞をば、アヤシキと訓るは、さも有べけれども、大瑞又たゞ瑞とのみあるなどは、アヤシキとは訓がたし、又書紀に、鵄(ノ)瑞《ミヅ》天瑞《アマツミヅ》など、凡てミヅと訓るは、いみしきひがこと也、祥瑞の瑞を、然訓べきよしなし、万葉十九に、從古昔無利之瑞多婢末禰久申多麻比奴《イニシヘユナカリシシルシタビマネクマヲシタマヒ》、この瑞をも、ミヅモと訓るはひがこと也、然訓ては一もじ足ざるを、モと讀付たるも、いと穩ならず、是もシルシとぞ訓べき、又書紀に、祥をサガと訓るもわろし、孝徳紀に、休祥《ヨキサガ》などあるは、即(チ)瑞も同じければ、それらをもシルシと訓べし、祥(ノ)字は、徴也と注し、瑞も、信の意なれば、共にしるしにて宜きをや、御世の政のめでたきに依て、其|徴表《シルシ》の顯はれたる物なれば也、さてこゝの瑞寶《シルシノタカラ》は、出たる和銅をいふ、
〇御世年號、此四字を美余乃那《ミヨノナ》と訓べし、文徳實録、齊衡元年の詔に、御世 乃 名、天安元年の詔にも、御代 乃 名、三代實録、元慶元年の詔にも、皆かく有(リ)、これらぞ古(ヘ)の讀《ヨミ》のまゝなるべき、第五詔に、御世(ノ)名とあるも、年號の事也、其外は此紀には、みな年號とのみあれど、こはたゞ漢國の目《ナ》によりて、そのまゝに書たるにこそあれ、としのなとは訓べきにあらず、ことわりを思ふにも、御世の名とこそいふべけれ、年毎にかふるにあらずは、年の名とはいふべきにあらざるをや、
〇慶雲、すべて年號《ミヨノナ》は、みな字音なるべし、もとより然定められたる物と聞えたり、天武天皇の御世の朱鳥に、阿訶美苔利《アカミトリ》といふ訓注あれども、そはたゞかれ一つのみ也、其餘訓にはよみがたきも多し、かの朱鳥は、いかなるよしにて、しか唱へけむ、もしくはそのかみ天皇の大御心に、年號をも、皇國言もて命《ツケ》まほしくおもほして、殊に然唱ふべしとの詔もや有けむ、されどそは、かの時のみにて、止《ヤミ》ぬるなるべし、さて又いづれの年號も、呉音漢音の間(ダ)、定まれることはなかりしにや、此慶(ノ)字も、いかに唱へけむしらねど、姑く世に唱へ來しまゝに、今もケイと讀つ、
〇和銅は、かの朱鳥《アカミトリ》の例によりて、ニキアカヾネと訓べきにやとも思へど、なほ年號にては、これも音讀にぞすべき、
〇慶(ノ)命詔 久、此次、冠位云々 の文、即(チ)此(ノ)命《オホミコト》也、
〇冠位、冠は加賀布理《カガフリ》と訓べし、賀《ガ》濁音、布《フ》清音也、万葉五に、麻被引可賀布利《アサブスマヒキカガフリ》、又廿に、美許登加我布理《ミコトカガフリ》などある、冠は、此かゞふるといふ用言を、體言にしたる名也、字鏡には、加々保利《カガホリ》とあり、和名抄に、加宇布利《カウフリ》とあるは、後の音便に頽れたる唱(ヘ)也、さて位階のことを、冠位といふ故は、推古天皇の御世に、始(メテ)行(フ)2冠位(ヲ)1、また始(メテ)賜(フ)2冠位(ヲ)於諸臣(ニ)1と有て、此御時に、始めて十二階の冠を制《サダメ》給ひて、其冠のさまによりて、尊卑《タカキイヤシ》き級《シナ》をわかたる、かくて後孝徳天皇の御世に、これを七色十三階とし給ひ、又十九階とし給ひ、天智天皇の御世に二十六階とし給ひ、天武天皇十四年に、更(ニ)改(ム)2爵位(ノ)之號(ヲ)1と有て、四十八階とし給へり、かくのごとく位階はもとは、冠を以て、その尊(キ)卑きしなとせられし故に、冠位とはいふなり、さて文武天皇大寶元年に、又官名位號を制《サダメ》られて、これより停(メテ)v賜(フコトヲ)v冠(ヲ)、易(フルニ)以(ス)2位記(ヲ)1と有て、此時より冠を賜ふことは、止《ヤミ》ぬれども、其後も猶宣命などには、もとの名目《ナ》のまゝに、かく冠位と詔給ふ也、
〇治賜は、すなはち冠位を上《アゲ》給ふをいふ也、
〇漢文としるしたる所は、大2赦天下(ニ)1、自2和銅元年正月十一日(ノ)昧爽1以前(ノ)大辟罪已下(ニ)罪无(ク)2輕重(ト)1、已發覺未發覺、繋囚見徒、咸(ク)赦2除之1、其犯(ス)2八虐(ヲ)1、故2殺人(ヲ)1謀2殺人(ヲ)1已(ニ)殺、賊盗(ノ)、常赦(ニ)所(ハ)v不v免者、不v在2赦限(ニ)1、亡2命(シ)山澤(ニ)1、挾2藏(シテ)軍器(ヲ)1、百日不(ハ)v首(サ)、復(ヘスコト)v罪(ニ)如(ク)v初(メノ)、高年(ノ)百姓、百歳以上(ハ)、賜2籾三斛(ヲ)1、(九十以上(ハ)二斛、八十以上(ハ)一斛、孝子順孫、義夫節婦(ハ)、表(シ)2其門閭(ニ)1、優復三年、※[魚+鐶の旁]寡※[立心偏+(旬/子)]獨、不v能2自存1者(ニハ)、賜2籾一斛(ヲ)1、賜2百官人等(ニ)禄(ヲ)1、各有v差、諸國之郡司、加2位一階1、其正六位上以上(ハ)、不v在2進(ム)限(ニ)1、とある是也、
〇庸は、知加良志呂《チカラシロ》と訓べし、孝徳紀に、庸布をチカラシロノヌノと訓り、力代《チカラシロ》の義《ココロ》也、賦役令に、凡正丁、歳(ゴトニ)役十日、若(シ)須(キ)v收v庸(ヲ)者(ハ)、布二丈六尺、一日二尺六寸、義解に、其(ノ)收v庸(ヲ)者、須(シ)v隨(フ)2郷土(ノ)所(ニ)1v出(ス)、不v可3以v布(ヲ)爲2一例(ト)1也、と見えたり、唐書(ノ)食貨志に、用(ルコト)2民(ノ)之力(ヲ)1、歳(ニ)二十日、不(ル)v役(セ)者(ハ)、日《ヒトヒヲ》爲2網三尺(ト)1、謂2之(ヲ)庸(ト)1と見えたる如く、役のかはりに收(ル)物也、故(レ)力代といへり、不(ル)v役(セ)者(ノ)とは、或は役《ツカ》はるべくして、役《ツカ》はれざる者、或は役《ツカ》ふべき事|少《スクナ》くて、役《ツカ》はざる者などにて、其日數をはかりて、庸を收(ル)也、そはまづは多くは布を收(ル)ことなれども、義解に見えたるごとく、必(ズ)布に限れるにもあらず、何にまれ、其|郷土《トコロ》より出る物をも、布に准へて收(ル)なり、〇當郡は、曾乃許保理《ソノコホリ》と訓べし、書紀にも、當は、當縣《ソノコホリ》當里《ソノサト》など、曾乃《ソノ》と訓り、こゝは和銅の出たる秩父(ノ)郡をさしていへり
〇調は、都岐《ツギ》と訓べし、みつぎ物也、調の事、賦役令に委く見えたり、さてこゝは、武藏(ノ)國中おしなべて、庸を免し給ひ、又殊に秩父(ノ)郡は、調をも免し給ふなり、
續紀歴朝詔詞解二卷
本居宣長解
第五詔
九の巻に、神龜元年二月甲午、受v禅(ヲ)即2位於大極殿(ニ)1、大2赦天下(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、聖武天皇の、御位に即せ給へるをりの詔也、
現神大八洲所知倭根子天皇詔旨 止 勅大命 乎 諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 爾 神留坐皇親神魯岐神魯美命吾孫將知食國天下 止 與佐 斯 奉 志 麻爾麻爾高天原 爾 事波自米而四方食國天下 乃 政 乎 爾高爾廣 爾 天日嗣 止 高御座 爾 坐而大入嶋國所知倭根子天皇 乃 大命 爾 坐詔 久 此食國天下者掛畏 岐 藤原宮 爾 天下所知美麻斯乃父 止 坐天皇 乃 美麻斯 爾 賜 志 天下之業 止 詔大命 乎 聞食恐 美 受賜懼 理 坐事 乎 衆聞食宣《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコトノアガミマノシラサムヲスクニアメノシタトヨサシマツリシマニマニタカマノハラニコトハジメテヨモノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲイヤタカニイヤヒロニアマツヒツギトタカミクラニマシテオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラミコトノオホミコトニマセノリタマハクコノヲスクニアメノシタハカケマクモカシコキフヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシミマシノチチトマススメラミコトノマシブタマヒシアメノシタノワザトノリタマフオホミコトヲキコシメシカシコミウケタマハリオソリマスコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。可久賜時 爾 美麻斯親王 乃 齢 乃 弱 爾 荷重 波 不堪 自加止 所念坐而皇祖母坐 志志 掛畏 岐 我皇天皇 爾 授奉 岐《カクタマヘルトキニミマシミコノヨハヒノワカキニニオモキハタヘジカトオモホシマシテオホミオヤトマシシカケマクモカシコキワガオホキミスメラミコトニサヅケマツリキ》。依行而是平城大宮 爾 現御神 止 坐而大入嶋國所知而靈龜元年 爾 此 乃 天日嗣高御座之業食國天下之政 乎 朕 爾 授賜讓賜而教賜詔賜 都良久 掛畏淡海大津宮御宇倭根子天皇 乃 萬世 爾 不改常典 止 立賜敷賜 閉留 隨法後達者我子爾佐太加爾牟倶佐加南無過事授賜止負賜詔賜 比志爾 依 弖 今授賜 牟止 所念坐間 爾 去年九月天地 ※[月+兄]大瑞物顯來 理《コレニヨリテコノナラノオホミヤニアキツミカミトマツステオホヤシマクミシロシメシテレイキノハジメノトシニコノアマツヒツギタカミクラノワザヲスクニアメノシタノマツリゴトヲアレニサヅケタマヒユヅリタマヒテヲシヘタマヒノリタマヒツラクカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシヤマトネコスメラミコトノヨロヅヨニカハルマジキツネノノリトタテタマヒシキタマヘルノリノマニマニノチツヒニハアガコニサダカニムクサカニアヤマツコトナクサヅケタマヘトオホセタマヒノリタマヒシニヨリテイマサヅケタマハムトオモホシマスアヒダニコゾノナガヅキアメツチノタマヘルオホキシルシノモノアラハレケリ》。又四方食國 乃 年寶豐 爾 牟倶佐加 爾 得在 止 見賜而隨神 母 所念行 爾 于都斯 久母 皇朕 賀 御世當顯見 留 物 爾 者不在《マタヨモノヲスクニノトシユタカニムクサカニエタリトミタマヒテカムナガラモオモホシメスニウツシクモスメラワガミヨニアタリテアラハルルモノニハアラジ》。今將嗣坐御世名 乎 記而應來顯來 留 物 爾 在 良志止 所念坐而今神龜二字御世 乃 年名 止 定 弖 改養老八年爲神龜元年而天日嗣高御座食國天下之業 乎 吾子美麻斯王 爾 授賜讓賜 止 詔天皇大命 乎 頂受賜恐 美 持而辭啓者天皇大命恐被賜仕奉者拙 久 劣而無所知《イマツギマサムミヨノナヲシルシテコタヘキタリアラハレキタルモノニアルラシオモホシマシテイマジムキノフタモジヲミヨノナトサダメテヤウラウノヤトセヲアラタメテジムキノハジメノトシトシテアマツヒツギタカミクラヲスクニアメノシタノワザヲアガコミマシミコニサヅケタマヒユヅリタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲイナダキニウケタマハリカシコミモチテイナビマヲサバスメラガオホミコトカシコミウケタマハリツカヘマツラバツタナクヲヂナクテシレルコトナシ》。進 母 不知 退 母 不知天地之心 母 勞 久 重百官之情 母 辱愧 美奈母 隨神所念坐《ススムモシゾクモシラニアメツチノココロモイトホシクイカシクモモノツカサノココロモカタジケナミハヅカシミナモカムナガラオモホシマス》。故親王等始而王臣汝等清 支 明 支 正 支 直 支 心以皇朝 乎 穴 奈比 扶奉而天下公民 乎 奏賜 止 詔命衆聞食宣《カレミコタチヲハジメテオホキミオミイマシタチキヨキアカキタダシキナホキココロヲモチテスメラガミカドヲアナナヒタスケマツリテアメノシタノオホミタカラヲマヲシタマヘトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別詔 久 遠皇祖御世始而中今 爾 至 麻弖 天日嗣 止 高御座 爾 坐而此食國天下 乎 撫賜慈賜 波久 時時状状 爾 從而治賜慈賜來業 止 隨神所念行 須《コトワケテノリタマハクトホスメロギノミヨヲハジメテナカイマニイタルマデアマツヒツギトタカミクラニマシテコノヲスクニアメノシタヲナデタマヒメグミタマハクトキドキサマザマニシタガヒテヲサメタマヒメグミタマヒタルワザトカムナガラオモホシメス》。是以宜天下 乎 慈賜治賜 久《ココヲモテマヅアメノシタヲメグミタマヒヲサメタマハク》 〔漢文〕又官官仕奉韓人部一二人 爾 其負而可仕奉姓名賜又百官官人及京下僧尼大御手物取賜治賜 久止 詔天皇御命衆聞食宜《マタツカサツカサニツカヘマツルカラヒトドモヒトリフタリニ》
《ソノオヒテツカヘマツルベキカバネナタマフマタモヽノツカサノツカサヒトオヨビミサトノホウシアマニオホミテツモノトラシタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコヲモロモロキコシメサヘトノル》。
諸王、これに親王もこもれり、王臣といふ時も、王に親王はこもれり、おほきみといふは、天皇を始奉りて、親王諸王にわたれる號なれば也、
〇神留坐、此事、大祓(ノ)後釋に委(ク)云り、
〇皇(ガ)親神魯岐云々、これもかの後釋に委くいへり、さて十四詔又諸の祝詞などに、命以 弖《ミコトモチテ》とあるごとく、こゝも命の下に、以(ノ)字有しが、脱《オチ》たりげにおぼゆるに、十九詔廿三詔にも、以(ノ)字はなければ、脱たるにはあらざるにこそ、然れどもこゝも廿三詔も、正《タダ》しくは、命以《ミコトモチテ》と有べき文也、以(ノ)字ある時は、命は其詔命也、以(ノ)字無きときは、たゞ尊みて申す命《ミコト》也、
〇吾孫、孫は美麻《ミマ》と訓(ム)、十五の卷の大(ノ)御歌に、美麻乃彌己止《ミマシノミコト》とある、これ美麻《ミマ》と申す言の、正《マサ》しく見えたる也、さて廿三詔にも吾孫、十四詔に吾孫 乃 命、垂仁紀にも、御孫《ミマノ》尊又|皇御孫《スメミマノ》尊、諸の祝詞などにも、つねに皇御孫(ノ)命とあり、さて美麻と申す意は、いまだ考へ得ず、中昔よりこなた、子の子をむまごといひ今はまごといふによりて、麻《マ》はむまごの略きか、と思ふ人有べけれど、古(ヘ)は子の子をば、比古《ヒコ》とこそいへれ、むまごといへることなし、
〇輿佐斯ほ、十四詔廿三詔などに、事依《コトヨサシ》とある是也、神代紀に勅任《コトヨサシ》と書り、
〇高天原 爾 事波自米而、第一詔に見ゆ、天(ツ)神の依《ヨサ》し奉り給ひしより始まれるよしなり、本に、米(ノ)字を末に誤れり、
〇彌高彌廣 爾、高も隆盛《サカリ》なるをいふ、万葉一に、此山乃彌高良之《コノヤマメイヤタカカラシ》とよめるも、吉野(ノ)宮の御榮えを壽《ホキ》て、此山のごとく高くといへる也、五十九詔に、祖 乃 門不v滅(サ)、彌高 爾 仕奉(リ)とも有(リ)、
〇倭根子天皇、はじめなるは聖武天皇、こゝは元正天皇を申せり、思ひ混《マガ》へ奉ることなかれ、さて上の高天原 爾 神留坐云々よりして、此元正天皇の御世へ係《カケ》て、いひくだしたる文也、〇大命 爾 坐《マセ》、此事第三詔にいへり、
〇此食國云々、これより、元正天皇の、聖武天皇に詔給へるよし也、
〇藤原(ノ)宮 爾云々、父 止 坐天皇は、文武天皇なり、美麻斯は汝也、他の詔にも多く見ゆ、こゝは聖武天皇をさして詔給ふ也、次なるも同じ、父 止 坐(ス)とは、父たるといふことにて、この多流《タル》は、止阿流《トアル》の切《ツヅマ》りたるなれば、尊みて申すには、止坐《トマス》といふ也、
〇美麻斯 爾 賜 志云々、此事、紀には見えざれども、さる御事有しにや、又文武天皇の御子は、聖武天皇一柱ならでは、おはしまさざりしかば、御位は、必(ズ)此御子に授(ク)給ふべきことわりなるを以て、かくは詔給へるにや、
〇詔(タマフ)大命 乎云々、元正天皇の詔給ふ大命を、聖武天皇の聞(シ)食(シ)て也、さて下文の、可久《カク》賜(ヘル)時 爾云々 も、なほ上よりつゞきたる、元正天皇の詔にて、こゝは其|中間《ナカラ》なるに、かく詔給ふは、汝に賜ひし天(ノ)下の業ぞとある御言を、聞給ひて、まづいたく恐《カシコ》み懼《オソ》り給へるよしを、中間《ナカラ》に挾《ハサ》みて詔給ふ也、此所よくせずは紛《マガ》ひぬべし、
〇可久《カク》賜(ヘル)時 爾云々、これもなほ元正天皇の大命のつゞきにて、上に美麻斯 爾 賜(ヒ) 志とあるをうけて、如此《カク》賜へる時と詔給ふ也、
〇美麻斯親王 乃 齢 乃 弱 爾云々とは、弱(キ)は幼き也、文武天皇の崩(リ)坐(シ)し年は、聖武天皇は、わづかに七歳におはしましき、應神天皇は異なる御事にて、此時いまだ、幼王《ワカキミコ》の天下しろしめしし例は、おはしまさざりし也、
〇荷重 波とは、天下を治め給ふ御業の、重《イカシ》く大きなることを、荷の重きにたとへたるなり、廿三詔にも、年長 久 日《ヒ》多《マネ》 久、此(ノ)座《クラヰニ》坐(セ) 波、荷重(ク)力|弱《ヨワク》 之弖、不堪負荷《モチアヘタマハズ》と有(リ)、
〇所念坐而は、文武天皇の也、
〇皇祖母は、淤保美淤夜《オホミオヤ》と訓べし、文武天皇の大御母《オホミハハ》命のよしにて、元明天皇を申せる也、そも/\御母を、皇祖母と申(シ)ては、祖(ノ)字いかゞなれば、是は聖武天皇の御祖母《ミオバ》のよしならむ、と思ふ人あるべかめれど、然にはあらず、まづ古(ヘ)は凡て、母を御祖《ミオヤ》といへること、古事記などに多く見え、近くは下鴨を御祖(ノ)神と申すなども、上鴨(ノ)別雷(ノ)神の御母に坐(ス)が故也、又此紀の此卷の詔に、天皇の大御母藤原(ノ)夫人を、宜《ベシ》2文(ニハ)則皇大夫人、語(ニハ)則大御祖(トマヲス)云々1とある、これにて大御祖と申すは、大御母なること、いよ/\明らけし、さてそれに母(ノ)字を添て書(ク)事は、皇祖とのみにては、皇神祖《スメロギ》と混《マガ》ふ故に、御母なることを知らさむため也、その例は、皇極紀に、吉備(ノ)嶋(ノ)皇祖母《ミオヤノ》命とあるも、天皇の御母吉備姫(ノ)王の御事也、又孝徳紀にところ/”\、皇祖母(ノ)尊と有(ル)は、皇極天皇の御事にて、皇太子中(ノ)大兄の御母にて、天皇の御姉に坐(ス)を、大御母と崇(メ)奉り給へる也、これら皆|御祖母《ミオバ》にはましまさず、御母也、此事は、玉勝間の山菅の卷にもいへり、すべてよのつねの文字《モジ》づかひにのみめなれて、古書にうとき人は、思ひまがへて誤ること、此類多きぞかし、
〇我皇天皇 爾 授奉 岐、聖武天皇いまだ幼稚《ワカ》くましまししによりて、しばらく元明天皇に授奉給へる也、
〇依行而は、行(ノ)字は、此(ノ)字の誤なるべし、草書は〓〓形(チ)近し、依《ヨリ》v此《コレニ》而《テ》といふこと、他の詔に多く有(リ)、
〇是(ノ)平城(ノ)大宮 爾云々 は、元明天皇の御事也、此御世和銅三年に、藤原(ノ)宮より、平城《ナラノ》宮に都をうつし給へり、
〇朕 爾 授賜は、朕は元正天皇也、此天皇は、元明天皇の御子にて、文武天皇の御姉に坐り、六の卷の終(リ)に、靈龜元年九月庚辰、天皇禅2位(ヲ)宇氷高(ノ)内親王(ニ)1と有て、漢文の詔に、因(テ)以2此(ノ)神器(ヲ)1欲(スレドモ)v讓2皇太子(ニ)1、而年齒幼稚云々 と見ゆ、皇太子は聖武天皇也、和銅七年六月に、十四歳にて、太子に立せ給ひて、靈龜元年は、十五歳の御時也、
〇教(ヘ)賜(ヒ)詔(リ)賜(ヒ) 都良久は、其時に、元明天皇の、元正天皇に詔給ふ也、
〇我子 爾は、皇太子に也、聖武天皇は、元明天皇の御孫にて、皇太子に坐(セ)ば、かくは詔給ふ也、又思ふに、これは御子の元正天皇に對ひて、御孫の御事を詔ふなれば、阿碁《アゴ》と訓て、たゞ弱《ワカ》き人を親《シタシ》みて詔へる稱にも有べし、
〇牟倶佐加 爾は、茂榮《ムクサカ》の意と聞ゆ、下文にも、年實《トシ》豐 爾 牟供佐加 爾と有、万葉二に、石乍自木工開道乎《イハツツジモクサクミチヲ》とある、木工《モク》は茂く也、又神代紀に、枝葉|扶疏《シキモシ》、應神紀に、芳草薈蔚《モクシゲク》、顯宗紀に厥(ノ)功|茂焉《モシ》などあり、牟久《ムク》と母久《モク》と同じ言也、又|森《モリ》といふ名も、木の生(ヒ)茂りたるよし也、万葉六に、百樹盛《モモキモリ》、山者木高之《ヤマハコダカシ》、これも盛《モリ》はしげりといふこと也、今(ノ)本、成とあるは誤也、さてこゝは、壽祝《ホキ》て詔へるにて、今俗言に、めでたう賑々敷《ニギニギシク》などいふこゝろばへ也、
〇無(ク)2過(ツ)事1は、俗言に相違なくといふにあたれり、
〇負賜、負の假字は、四十五詔に、於保世《オホセ》給 布と有(リ)、さてこは元明天皇の、元正天皇に、かく仰せ給ひしよし也、
〇依 弖 今授賜 牟止 所念坐間 爾、諸本共に、依より念まで、大小九字なし、今事の意を考へて、私に補へり、此所、かならずかくさまの文有しが脱たること、決《ウツナ》ければ也、今は、俗言にいふやがての意にて、遠からぬほどにといふこと也、
〇天地(ノ)※[貝+兄](ヘル)、瑞の顯はれたるを、天地の賜へるとは、例の漢意也、
〇大瑞物顯、養老七年十月詔に、今年九月七日、得2左京(ノ)人紀(ノ)家(ガ)所(ノ)v獻(ル)白龜(ヲ)1、仍下2所司(ニ)1、勘2檢圖諜(ヲ)1、奏(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)云々、是(ニ)知(ル)2天地(ノ)靈※[貝+兄]、國家(ノ)大瑞(ナルコトヲ)1云々、とある是也、大瑞とは、漢籍に、大瑞上瑞中瑞下瑞といふ品あるに依て、此方にても、其品々を立られて、其種々の物、治部省式に載られたり、其中に、白龜は見えず、大瑞の中に、神龜といふ有(ル)を、四十八詔にも、白龜の出たることを、合(ヘリ)2大瑞(ニ)1とあれば、白龜を神龜に取て、大瑞とはせらるゝ也、故(レ)此瑞に依て、改められたる年號も、神龜といへり、
〇來 理は、祁理《ケリ》と訓べし、但し是は、つねにいふ辭のけりにはあらず、來而在《キタリ》といふことを、古言にけりといふ、それ也、書紀に、詣至來歸などを、マウケリと訓る、參來而在《マウキタリ》の意也、万葉に辭《コトバ》のけりに、常に來と書るも、これを借(リ)たる字也、
〇年實、二字を登志《トシ》と訓べし、凡てとしといふは、もと年穀の名也、書紀に、豐年をトシウ、凶年をトシエズと訓り、
○于都斯久 母は、第四詔に出(ツ)、本ども、郡(ノ)字を脱せるを、今補、
〇今將2嗣坐1御世名 乎、皇太子の御世を詔給ふ也、御世名は年號也、嗣字、諸本副に誤れり、今改、
〇記(シ)而とは、年號《ミヨノナ》とすべき瑞物《シルシノモノ》の現れたるをいふ也、万葉十七に、新(シキ)年のはじめに豐《トヨ》の年|思流須《シルス》とならし雪のふれるはとあるも、豐年のしるしの現はれたるを、しるすといへり、凡てしるしは、しるすを體言になしたるにて、本一つ言也、
〇應は、許多閇《コタヘ》と訓べし、皇極紀に、時(ノ)人説(テ)2前(ノ)謠(ノ)之|應《コタヘヲ》1曰(ク)云々、齊明紀に、爲《ニ》v敵|所《ルル》v滅(サ)之|應也《コタヘナリ》と見ゆ、歌に山彦のこたふといふごとく、此處《ココ》にある事の、彼處《カシコ》にひゞくやうのことを、應《コタフ》といふ、こゝは皇太子の徳に應《コタ》へて、出來つるよし也、二つの來(ノ)字、上の來 理《ケリ》と同じけれど、こゝはきたりきたると訓てある也、
〇所念坐は、元正天皇の也、
〇二字は、布多母自《フタモジ》と訓べし、もじといふは、もと文字(ノ)二字の音をとりて、字(ノ)字の訓に設けたる言なり、僧をほうしといふ類也、古今集序に、みそもじあまりひともじと有(リ)、
〇止 詔(フ)天皇(ガ)大命、上の此(ノ)食國天下者といふより、こゝの讓賜といふまで、聖武天皇に、元正天皇の詔給へる大命也、
〇頂(ニ)受賜(ハリ)、頂(ノ)字、本どもに順に誤れり、今例によりて改つ、十四詔に、頂 爾 受賜 理 恐 末理、廿四詔に、頂 爾 受賜 利 恐 美、廿五詔、四十二詔、四十五詔、四十八詔、六十一詔などにも見えたる、皆同じ、第九詔なる頂(ノ)字をも、一本に順に誤れり、さて頂は、万葉三に、伊奈太吉《イナダキ》とあるに依て訓べし、和名抄字鏡などには、いたゞきと有、さてこれよりは聖武天皇の也、
〇恐 美 持而にて、姑く語を切(リ)て心得べし、次へつゞけては心得べからず、
〇辭啓(サ)者云々、これより所念看《オモホシメセ》るやう也、上(ノ)件(リ)天皇の大命なれは、辭《イナビ》申さむは畏《カシコ》し也、
〇被賜、此上に、受(ノ)字有しが、脱たるなるべし、うけたまはりとあるべき所也、
〇仕奉(ラ)者、天皇と坐て、天下をしろしめす事を、仕奉とは、いかゞなるやうなれども、是は前の天皇の御讓(リ)を、敬ひ尊み謙りて、かくは申給ふ也、
〇劣而は、乎遲那久弖《ヲヂナクテ》と訓べし、四十五詔に、謀乎遅余 之《ハカリコトヲヂナシ》、古事記、袁祁(ノ)命(ノ)御歌に、意富多久美《オホタクミ》、袁遲那美許曾《ヲヂナミコソ》、佛足石(ノ)歌に、乎遲奈伎夜《ヲヂナキヤ》、和禮爾於止禮留《ワレニオトレル》、竹取物語に、をぢなきことする船人にもあるかな、雄略紀に、懦弱《ヲヂナク》又|怯《ヲヂナシ》、欽明紀に、微弱《ヲヂナシ》などあり、廿四詔に、朕《アハ》雖《ドモ》2拙弱《ツタナクヲヂナケレ》1、廿六詔に、知所《シルコト》 毛 無 久 |怯 久 劣 岐《ツタナクヲヂナキ》、卅二詔に、諸 能 |家牟《ヲヂナケム》人等 乎毛 教(ヘ)伊佐奈比、
〇無所知は、志禮流許止那志《シレルコトナシ》と訓べし、凡てかくさまの所(ノ)字を、ところと訓(ム)は、皇國言にあらず、漢籍讀(ミ)の言也、然るを此紀の詔どもの中にも、必(ズ)ところとよまでは、えあらぬ所々もあるは、既《ハヤ》くからぶみよみの言のうつれる也、さればこゝなども、もとよりしるところなしと訓(ム)べくて、書るにもあるべけれど、皇國言に讀(マ)るゝかぎりは、からぶみよみをば省《ハブカ》むぞ、古書よむ法《ノリ》なるべき、さてかく詔給へる意は、拙く劣《ヲヂナ》くて、知れる事もなき我(レ)なれば、大命を受賜はりて、天下治めむことは、いと畏《カシコ》しと也、
〇進 母 不知、退 母 不知、不知は、志良爾《シラニ》と訓べし、万葉歌に常多き言也、十四詔四十八詔などには、不知 爾《シラニ》と、爾(ノ)字を添ても書り、退は志叙久《シゾク》と訓べし、凡てしりなどいふ類の、りを省きていふも、古言に例多し、しぞくといへるは、土左日記に、しりへしぞきにしぞきてと見え、猶物語書に多し、さて此(ノ)進 母云々てふ語は、いたく恐みて、せむすべしられぬさまを詔給ふ也、他詔にも多く有て、進(ム) 母 不知、退(ク) 母 不知、夜日畏恐《ヨルヒルカシコ》 麻利なども有(リ)、かく詔給ふことは、もとは漢籍によれることなるべし、上代の意とは聞えぬこと也かし、
〇勞 久 重(ク)、重の下にも、久(ノ)字あらまほし、
〇王臣汝等は、汝王臣等《イマシオホキミタチオミタチ》といふこと也、
〇皇朝、又天皇朝、天皇朝廷などある、いづれも須賣良賀美加度《スメラガミカド》と訓べきこと、大祓(ノ)後釋にいへるが如し、第七詔にも、皇 我 朝《スメラガミカド》と有、
〇穴 奈比,本に奈(ノ)字を落せり、今は、廿四詔四十八詔六十一詔などの例に依て、補へり、穴は借字なれば、奈を讀(ミ)付(ク)べきにあらざれば也、
〇天下公民 乎 奏(シ)は、天(ノ)下申すといふと同じくて、天下の公民の事を執て、政申す也、
〇辭別(テ)詔 久、他詔にも多く見え、祝詞にも多きこと也、聞えたるまゝの意にて、ことなることなし、
〇高御座 爾 坐而、本ども、爾 坐(ノ)二字を脱せるを、今は、第三詔第四詔第五詔十三詔などの例に依て補つ、
〇慈賜 波久、久の下に、今一つ波(ノ)字有けむを、寫す時に、衍と心得て、除きたるなるべし、慈賜 波久波と有(ル)べきところ也、かくいはではたらはず、
〇宜は、決《ウツナ》く寫誤也、例を考ふるに、第三詔に、云々隨神所念行 須、是以|先 豆 先 豆《マヅマヅ》天下(ノ)公民|之《ノ》上 乎 慈賜 久、とあると同じければ、先(ノ)字を誤れるなるべし、故(レ)麻豆《マヅ》と訓り、〓と〓と、草書は似たり、又は麻豆の二字を誤れるにも有べし、
〇漢文としるせる所は、大2赦天下(ニ)1、内外文武職事、及五位已上、爲2父(ノ)後1者、授2勲一級1、賜2高年百歳已上(ニ)、穀一石五斗(ヲ)1、九十已上(ハ)、一石、八十已上、并(ニ)〓獨不v能2自存1者(ハ)、五斗、孝子順孫義夫節婦(ハ)、咸表2門閭(ニ)1、終v身勿v事、天下(ノ)兵士(ハ)、減2今年(ノ)調半(ヲ)1、京畿(ハ)悉免v之とあり、
〇官々(ニ)仕奉は、官に任《メサ》れて、其職を仕奉(ル)也、
〇韓人部は、三(ノ)韓|及《マタ》漢(ノ)國などより歸化《マヰキ》て、皇国人となれる部《トモ》也、部は杼母《ドモ》と訓べし、十三詔に、伊勢(ノ)大鹿首部《オホカノオビトドモ》とある部と同じ、又廿一詔に、秦等《ハダドモ》とあるも同じ、
。一二人は、これかれといはむがごとし、必しも一二人に限れるにはあらず、〇負而可(キ)2仕奉1姓名、負《オフ》とは、姓を賜はりて、其《ソ》を己が姓とするをいふ也、姓名《カバネナ》は、氏々名々《ウヂウヂナナ》などありて、名も姓の事也、姓と名とにはあらず、つねにいふ姓名とは異《コト》也、さて韓人に姓を賜へる事は、此次の文には見えず、漏《モレ》たるか、但し此年五月辛未、從五位上薩妙觀(ニ)、賜2姓(ヲ)河上忌寸(ト)1といふより、正八位上答本陽春(ニ)麻田(ノ)連といふまで、廿四人に、おの/\姓を賜へること見えたり、これか、又天平寶字五年三月などにも、韓人に姓を賜へること、多く見えたり、
〇百官(ノ)官人は、百官人といふとは異にして、諸司《モロモロノツカサ》に屬《ツキ》たる、下々の官人也、万葉八の詞書に、太宰(ノ)諸卿大夫并(ニ)官人等、とある官人のごとし、
〇及《オヨビ》、すべてかくさまに、某及某といふ及を、於余毘《オヨビ》と訓(ム)は、皇國言にあらず、からぶみ讀《ヨミ》也、故(レ)古事記などなるは、己(レ)はみな麻多《マタ》と訓り、然れども奈良のころになりては、おのづから漢籍讀(ミ)の言のうつれるも、これかれ有て、此紀の詔どもの中にも、其類見えたれば、これらも、もとよりおよびと讀(ム)べくて、書れたりとおぼゆれば、今も然訓つ、
〇京下は、美佐斗《ミサト》と訓べし、みやこといふは、廣くわたれる名なれども其中に、皇大宮《スメラオホミヤ》に關《アヅカ》らで、たゞ京の内の事をいふには、みさとといへり、和名抄に、左右京職(ハ)、美佐止豆加佐《ミサトヅカサ》と見え書紀にも、京をミサトと訓る、所々あ
り、孝徳紀に、凡(ソ)京《ミサトニハ》、毎(ニ)v妨《マチ》置v長(ヲ)、などあるを以て、みやこといふとのけぢめを知べし、万葉十に、山遠京爾之有者《ヤマトホキミサトニシアレバ》、これもミサトと訓べし、同十六に、京兆爾出而將訴《ミサトヅカサニイデテウタヘム》、これも京兆を本に、ミヤコと訓るはわろし、
〇僧尼、僧をほうしといふは、法師の字音をとりて、訓としたる也、和名抄に、玄蕃寮の訓、保字之萬良比止乃豆加佐《ホウシマラヒトノツカサ》とあるは、僧と蕃客との司のよし也、阿摩《アマ》といふは、もと女の梵語也といへども、此方にては古(ヘ)より、女僧《メホウシ》をいへること、さら也、
〇大御手物は、天皇の大御手づから賜ふよしの目《ナ》也、
〇取《トラシ》賜(ヒ)、万葉十三に、大御手二所取賜而《オホミテニトラシタマヒテ》とあるは、賜(ヒ)は、たゞ尊みて添(ヘ)たる詞なるを、こゝは然らず、御手に取《トラ》し給ひて、賜ふよしと聞ゆ、然らざれば言たらず、他詔には、僧尼には、布施《ホドコシ》賜(フ)とのみ有て、取《トラシ》賜(フ)といへる例はなければ、もしくは取(ノ)字は、施などを誤れるにはあらじか、又思ふに、人に物を與《アタ》ふるを、とらすといふは、受《ウク》る人の手に取《トラ》しむるよしか、又はそれももとは、取《トラ》して給ふよしか、然らば取賜《トラシタマフ》といふことも有やしけむ、
第六詔、十の卷に、神龜六年八月癸亥、天皇御2大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、年號を天平と改め給ふよしの大命也、
現神御宇倭根子天皇詔旨勅命 乎 親王等諸王等諸臣等百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミメカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 由 天降坐 之 天皇御世始而許能天官御座坐而天地八方調賜事者聖君 止 坐而賢臣供奉天下平 久 百官安 久 爲而 之 天地大瑞者顯來 止奈母 隨神所念行 佐久止 詔命 乎 衆聞宣《タカマノハラアモリマシシスメラガミヨヲハジメテコノタカミクラニマシテアメツチヤモヲトトノヘタマフコトハヒジリノキミトマシテカシコキオミツカヘマツリアメノシタタヒラケクモモノツカサヤスクシテシアメツチノオホキシルシハアラハレクトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是詔者大命坐皇朕御世當而者皇 止 坐朕 母 聞持 流 事乏 久 見持 留 行少 美 朕臣爲供奉人等 母 一二 乎 漏洛事 母 在 牟加止 辱 美 愧 美 所思坐而我皇太上天皇大前 爾 恐古士物進退匍匐※[しんにょう+回] 保理 白賜 比 受被賜 久 者卿等 乃 問來政 乎 者加久 耶 答賜加久 耶 答賜 止 〔白賜 比〕 白賜官 爾耶 治賜 止 白賜 倍婆 教賜於毛夫氣賜答賜宣賜隨 爾 此 乃 食國天下之政 乎 行賜敷賜乍供奉賜間 爾 京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等 伊 負圖龜一頭獻 止 奏賜 不尓 所聞行驚賜怪賜所見行歡賜嘉賜 弖 所思行 久 者于都斯 久母 皇朕政 乃 所致物 爾 在 米耶 此者太上天皇厚 支 廣 支 徳 乎 蒙而高 支 貴 支 行 爾 依而顕來大瑞物 曾止 詔命 乎 衆聞宣《カクノリタマフハオホミコトイマセスメラワガミヨニアタリテハスメラトマスワレモキキヤモテルコトトモシクミタモテルオコナヒスクナミアガオミトシテツカヘマツルヒトドモモヒトツフタツヲモラシオトスコトモアラムカトカタジケナミハヅカシミオモホシマシテワガオホキミオホキスメラミコトノオホマヘニカシコジモノシシマヒハラバヒモトホリマヲシタマヒウケタマハラクハマヘツギミタチノトヒコムマツリゴトヲバカクヤコタヘタマハムカクヤコタヘタマハムトマヲシタマヒマヲシタマフツカサニヤヲサメタマハムトマヲシタマヘバヲシヘタマヒオモブケタマヒコタヘタマヒノリタマフマニマニコノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲオコナヒタマヒシキタマヒツツツカヘマツリタマフアヒダニミサトヅカサノカミヒロキミツノクラヰフヂハラノアソミマロライフミオヘルカメヒトツタテマツラクトマヲシタマフトキコシメシオドロキタマヒアヤシミタマヒミソナハシヨロコビタマヒメデタマヒテオモホシメサクハウツシクモスメラワガマツリゴトノイタセルモノニアラメヤコハオホキスメラミコトノアツキヒロキメグミヲカガフリテタカキタフトキオコナヒニヨリテアラハレケルオホキシルシノモノゾトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別〔詔〕 久 此大瑞物者天坐神地坐神 乃 相宇豆奈 比 奉幅奉事 爾 依而顯 〔久 出 多留 瑞 爾 在 羅之止奈母 神隨所思行 須《コトワケテノリタマハクコノオホキシルシノモノハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツルコトニヨリテウツシクイデタルシルシニアルラシトナモカムナガラオモホシメス》。是以天地之神 之 顯〕奉 留 貴瑞以而御世年號改賜換賜《ココヲモテアメツチノカミノアラハシマツレルタフトキシルシニヨリテミヨノナヲアラタメタマヒカヘタマフ》。是以改神亀六年爲天平元年而大赦天下百官主典已上人等冠位一階上賜事 乎 始一二乃慶命〔詔賜〕惠賜行賜 止 詔天皇命 乎 衆聞食宣《ココヲモテジムキノムトセヲアラタメテテムピヤウノハジメノトシトシテアメノシタヒロクツミユルシモモノツカサノフムヒトヨリカミツカタノヒトドモカガフリクラヰヒトシナアゲタマフコトヲハジメヒトツフタツノヨロコビノオホミコトノリタマヒメグミタマヒオコナヒタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロキロキコシメサヘトノル》。
高天原 由、自《ヨリ》を由《ユ》といへる、書紀万葉など歌には、常のことなれども、文には例なし、第四詔第七詔などに、みな由利《ユリ》とあれば、こゝも利(ノ)字の脱たるか、但し第十三詔に、尓とあるは、余《ヨ》もしくは由を誤れるか、猶かの詔のところにいふべし、
〇天官御座は、決《ウツナ》く高御座なれば、高を、天官の二字に誤れるか、はた官(ノ)字、高の誤(リ)にて、天高御座《アマツタカミクラ》か、天(ツ)高御座といへることは、例見えざれども、天 都 位ともあれば、此御世のころになりては、さもいひしにや、
〇天地八方(ヲ)調賜事者、一本に、方の下にも、賜(ノ)字あるは、治賜と有しが、治(ノ)字の落たるにこそ、第三詔に、天下 乎 治賜 比 諧(ヘ)賜 岐と有(リ)、さて又一本には、調(ノ)字を落せり、さて天下といはずして、天地八方といへるは、天地の大瑞の出たる事を詔給ふ大命なる故に、廣くいへるなり、されど天地を調(フ)といふこと、からぶみに變2理(ス)陰陽(ヲ)1といへる意に似て、ふさはしからずこそ、事者とは、云々事を考へ見ればの意也、
〇聖(ノ)君 止 坐、止(ノ)字、本共に乎に誤れり、今改む、第九詔に、聖 乃 天皇命、廿五詔に、聖(ノ)天皇、四十二詔に、聖(ノ)皇、万葉一に、橿原乃日知之御世從《カシバラノヒジリノミヨユ》など有(リ)、そも/\比自理《ヒジリ》と申すことは、もとよりの皇國言にはあらで、聖字の訓に、日知の意を以て、設けたる名なるべし、古事記仁徳天皇(ノ)段に、稱(ヘテ)2其御世(ヲ)1、謂(ヌ)2聖(ノ)帝(ノ)世《ミヨト》1也とあり、彼(ノ)御時などよりぞ始まりけむ、そのよし委くは、彼(ノ)傳卅五の卷にいへり、さてこゝの意は、聖たる人、君にてまし/\、といふ意にも聞ゆれども、なほ然にはあらで、天皇、聖(ノ)君にて坐の意なるべし、
〇百官は、こゝには穩ならず聞ゆ、もしくは百姓を誤れるには非るか、
〇爲而 之《シテシ》、爲《シ》は輕し、たゞ辭のして也、之《シ》は助辞《ヤスメコトバ》也、諸の詔に、すべて此助辭は、力を入れて、強《ツヨ》くいふところに置れて、曾《ゾ》又|許曾《コソ》といふ意の處にあり、さて此段の凡ての意は、大かた天地の大瑞の顯はるゝ事は、神代より御世御世、天下を治(メ)調へ給ふやうを、考へ見るに、天皇聖(ノ)君にまし/\、臣下も賢人にして、政よろしく、天下平らけく、百官|平安《ヤス》き御世にこそ、あることなれとおぼしめすと也、まづかく詔ふよしは、次に御みづからの御事を謙損《ヘリクダ》りて、もはら太上天皇の聖徳によれるよしを、詔給はむとて也、
〇大命(ニ)坐(セ)、此事、第三詔の處に、委(ク)云るがごとし、こは定まりて天皇の御事を申す言にて、大命(ニ)坐(セ)皇といへる、即(チ)たゞ天皇と申すこと也、
〇當而者《アタリテハ》は、朕(ガ)御世に當りては、大瑞の出べきよしなしといふことを、御心にもちて詔ふ御言也、
〇聞持 流 事云々少 美、持《タモツ》とは、手に持たる物を、放置《ハナチオカ》ず捨《ステ》ざる如く、聞たる事見たる事を、忘れず失はぬをいふ、事は、次なる行《オコナヒ》と對ひたれは、重し、たゞ添(ヘ)ていふ辭のことには非ず、善《ヨキ》事を聞給ひ見給ひて、其を捨忘《ステワス》れ給はず、持《タモチ》て、その如く行ひ給ふ事行《ワザオコナヒ》の少く乏きと也、少 美の美《ミ》は、少きによりての意にて、少《スクナ》さにといふこと也、
〇一二 乎 漏落、一(ツ)二(ツ)とは、多くの中に、まれにはといふ意也、漏に志(ノ)字、落に須(ノ)字の添(ハ)ざるによらば、モレオツルとも訓べけれど、もし然らば、上の乎《ヲ》は、者《ハ》と有べきに、今は乎《ヲ》とあるまゝに、モラシオトスと訓つ、大殿祭(ノ)祝詞に漏落事《モレオチムコト》 乎波云々々、漏(シ)落(ス)は、過失のいひにて、おぼえずあやまつをいふ也、十四詔に、誤落言無《アヤマチオトスコトナク》」ともあり、繼體紀に、闕また失を、アヤマチと訓り、さて此段、御みづからの御事は、全く謙損《ヘリクダリ》て、詔給ひ、臣たちの事をば、ただおぼめかしく、一(ツ)二(ツ)といひ、漏落といひ、又在 牟加止と疑ひて、すべて輕く詔給ひ、それも御みづからの不徳《ヲサナキ》によりてと、すべて御みづからの不徳に詔給ひなしたる御しらひ也、
〇太上天皇は、元正天皇也、そも/\太上天皇は、持統天皇その始(メ)にて、それより前には、例ましまさず、諸の書に、その訓見えたることなし、持統天皇の御時には、いかに申(シ)けむ、思ふにたゞ字音のまゝにぞ申けむ、然れども宣命などには、同じくは皇国言に讀奉らまほしければ、今新に意富伎須賣羅命《オホキスメラミコト》と訓奉りつ、
〇大前は、御前なり、古事記雄略天皇(ノ)御歌に、意富麻幣爾麻袁須《オホマヘニマヲス》とあり、古(ヘ)はすべて、神の御前をも大前と申(シ)て、古き祝詞には皆然あるを、フトマヘと訓(ム)は、ひがこと也、又後の祝詞などには、みな廣前とあれども、そは古くは見えざること也、
○恐古士物《カシコジモノ》、十四詔にも、云々|勅 夫 御命 乎《ノリタマフオホミコトヲ》、畏自物受賜 理《カシコジモノウケタマハリ》と見ゆ、凡て自物《ジモノ》といふ言、武烈紀(ノ)歌に、斯々貳暮能《シシジモノ》とあるを始めて、万葉に、鹿子自物《カコジモノ》鳥《トリ》自物鴨自物馬自物犬自物|鵜《ウ》自物などあるは、いづれも、それがやうにといふ意と聞え、又同二に男自物《ヲノコジモノ》、三に雄自毛能《ヲジモノ》、十一に男士物《ヲノコジモノ》などあるは、男のすまじきわざをする意にいへりと聞ゆるを、こゝと十四詔なるとは、件の二つとは、又意|異《カハ》りて、たゞ恐《カシコ》まりてといふやうに聞え、又用言の下に付たるも、件の例どもと異なり、こゝに稻掛(ノ)大平が、万葉に就て考へたるは、自物は、状之《ザマノ》なるべし、ざまとじもと、音通へり、鹿自物《シシジモノ》は、鹿状之《シシザマノ》にて、此類みな同じ、男《ヲノコ》自物は、男の状《サマ》としてといふ意にて聞ゆといへり、此考へさも有べし、さてこれによりて思ふに、恐士物《カシコジモノ》も、恐状之《カシコザマノ》にて、進退匍匐《シシマヒハラバヒ》即(チ)其恐状也、十四詔なるも、其状は詔給はねども、こゝのごとく、進退匍匐《シシマヒハラバ》ひ、恐状にて、受賜はり給ふよしなるべし、
〇進退は、垂仁紀に一則以懼(リ)一則以悲俯仰|喉咽進退而血泣《ムセビシシマヒテイサツ》と見え、神武紀には棲遑《シシマヒテ》不v知3其(ノ)所(ヲ)2跋渉《フミユカム》1、景行紀にもかくあり、これらに依て斯々麻比《シシマヒ》と訓べし、
○匍匐は、古事記に乃|匍2匐《ハラバヒ》御枕方《ミマクラベニ》1匍2匐《ハラバヒ》御足方《ミアトベニ》1而《テ》哭書紀にもかく有(リ)万葉十九に赤駒之腹婆布《アカコマノハラバフ》
〇※[しんにょう+回] 保理、古事記倭建命(ノ)段に、匍2匐※[しんにょう+回]《ハラバヒモトホリ》其地《ソコノ》之那豆岐田(ニ)1而哭、又上卷に、匍匐委蛇《ハラバヒモコヨフ》とも有、万葉二に、鶉成伊波比※[しんにょう+回]《ウヅラナスイハヒモトホリ》、なほ多し、もとほるは、めぐるの古言也、さて進退よりこれまではいたく恐懼《カシコ》み惑ひ給へる状《サマ》也、
〇白賜 比 受被賜 久 者は、次なる事共を、問(ヒ)申(シ)給ひて、その御答(ヘ)をうけ給はり給ふ也、物語書などにとひきくといへるに同じ、とひきくは、人に物を問て、其答(ヘ)をきく也、こゝも白《マヲシ》といふに、請問《コヒトヒ》給ふ意あり、古書どもに、請(ノ)字を、まをすと訓(ム)其意也、
〇卿等 乃、これより、答(ヘ)賜(ハム)といふまで、請《トヒ》申(シ)給ふ御言也、
〇問來(ム)政は、云々の事は、いかさまに仕奉むと、天皇へうかゞひ問奉る也、
〇加久 耶 答賜(ハム)、此言を二つ重ねて申(シ)給ふは、かやう/\にや答(ヘ)侍らむ、將《ハタ》かやう/\にや答(ヘ)侍らむと、その卿等答へ給はむ趣を、くさ/”\申(シ)試みて、問奉(リ)給ふ也、一本に、下の加久 耶の久(ノ)字なきは、同じ言の重なれるを疑ひて、此《カク》や彼《カ》やなるべしと思ひてさかしらに削(リ)たるなるべけれど、かくや云々かくや云々と、同じ此《カク》を重ねいふは、万葉五にも、可久由既婆《カクユケバ》、比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》、可久由既波《カクユケバ》、比等爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》とあるなどと、同じ格也、さて答賜は、二つ共に、答賜 波牟と有べきに、波牟の字なきは、疑はしけれど、必(ズ)賜はむと訓べき語也、そも/\こゝは、卿等の問來る政を、御みづからは定め給はず、みな太上天皇に、請うかゞひ、問奉(リ)給ふよし也、
〇白(シ)賜 比は、太上天皇に問(ヒ)申(シ)給ひ也、諸本に、此三字なきは、次なる白賜と、重なれる故に、衍と心得て、さかしらに削去れるなるべけれど、此三字なくては、上の答賜 止の止(ノ)字を受る言なくて、語とゝのはず、故(レ)今補へり、
〇白賜(フ)官 爾耶云々は、又卿等の、人を擧て、某《ナニガシ》を某《ソノ》官に任《メシ》てよく侍らむと、白すをば、白すまゝに、其官に任《メシ》侍らむか、いかゞとやうに、任官などの事をも、太上天皇にうかゞひ問(ヒ)奉(リ)給ふよし也、此白(シ)賜(フ)は、卿等の、天皇へ申すよしにて、上の白賜とは異《コト》なり、
〇白賜 倍婆は、天皇の、太上天皇に、かくのごとく問申給へば也、
〇教賜(ヒ)云々は、其事は、かくのごとくし給へ、其事は、かくのごとくし給へと、太上天皇の、天皇に、ねもころに教へ答(ヘ)給ふと也、於毛夫氣《オモブケ》は、令《セ》v趣《オモブカ》にて、加世《カセ》を切《ツヅメ》て、氣《ケ》といふ也、かくのごとくし給へと教へ給ふが、即(チ)其方へ趣かしむる也、第十詔に、教賜 比 趣(ケ)賜 比奈何良、十三詔に、於母夫 氣 教 部牟 事不v過(タ)、などあり、
〇答賜(ヒ)、答(ノ)字、本に益に誤れり、今は一本に依、
〇乍《ツツ》)は、年月を經る意也、
〇供奉賜、天皇と坐て、天下を治め給ふを、供奉と詔給ふは、それをも、太上天皇に仕奉(リ)給ふわざとして詔ふ也、
〇京職大夫は、和名抄に、左京職(ハ)、比多利乃美佐止豆加佐《ヒダリノミサトヅカサ》、右京職(ハ)、美岐乃美佐止豆加佐《ミギノミサトヅカサ》、同書に、長官(ハ)云々、職(ニ)曰2大夫(ト)1、云々已上皆|加美《カミ》、
〇從三位、和名抄に、位階の、正は於保伊《オホイ》、從は比呂伊《ヒロイ》と有(リ)、こは天武天皇の十四年に、定め給へりし位階に、毎(ニ)v階有2大(ト)廣(ト)1、この大廣の訓を取て、正從の訓とせられたる也、おほきひろきといふべきを、きを共にいといふは、後の音便なれは、今は正しきにつきて、ひろきと訓べし、
〇藤原(ノ)麻呂等 伊、此卿は、不比等公の四男也、天平九年七月に、參議從三位兵部卿にて薨られたり、京職(ノ)大夫になられたりしは、養老五年六月辛丑、從四位下藤原(ノ)朝臣麻呂、爲2左右京(ノ)大夫(ト)1と有、此時は、左京右京|并《アハ》せての大夫たりし也、此卿、万葉四にも、京職(ノ)大夫とあり、紀廿四に、藤原(ノ)恵美(ノ)朝臣訓儒麻呂をも、左右京尹とあり、さて藤原氏四族の内、此麻呂卿の末を、京家といふ、そは此卿、久しく京職(ノ)大夫にて有し故也、等《ラ》とは、一人の事にも附ていへど、こゝは、京職の亮進などをも、こめていへるなるべし、伊《イ》は、多く人(ノ)名の下に、附ていふ助辭《ヤスメコトバ》也、繼體紀(ノ)歌に※[立心偏+鎧の旁]那能倭供吾伊《ケナノワクゴイ》、輔曳府枳能朋樓《フエフキノポル》、毛野(ノ)若子伊《ワクゴイ》、笛吹上(ル)也、万葉三に、志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》、こは志斐(ノ)嫗が、みづから志斐伊といへる也、強《シヒ》にはあらず、十二詔に、百濟王敬幅伊、十九詔に、奈良麻呂古麻呂等伊など、猶諸の詔に殊に多し、又人(ノ)名(ノ)下ならでも、万葉四に、木乃關守伊《キノセキモリイ》、將留鴨《トドメテムカモ》、九に、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》、仰天《アメアフギ》、十二に、家有妹伊《イヘナルイモイ》、將鬱悒《イフカシミセム》、など見え、又用言の下にも、十三詔に、治(メ)賜(フ) 伊自《イシ》、また祖《オヤ》 乃 心|成《ナス》 伊自、子 爾波 可(シ)v在(ル)、四十五詔に、此《コ》 乎 持《タモツ》 伊自、稱《ホマレ》 乎 |致 之《イタシ》、捨《スツル》 伊自、謗《ソシリ》 乎 招(キ) 都、万葉三に、玉緒乃《タマノヲノ》、不絶射妹跡《タエジイイモト》、七に、花待伊間爾《ハナマツイマニ》、十に、不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》、などあり、そも/\此助辭を置たる所は、賀《ガ》といひても、波《ハ》といひても、曾《ゾ》といひても、よろしからざるところにて、まづは余《ヨ》といふに近けれども、余にてもなほ穩ならず、必(ズ)伊《イ》といふべき所のある也、其味は、例どもを考へわたして知べし、〇負圖龜云々、此年六月己卯、左京職獻(ル)v龜、長五寸三分、闊(サ)四寸五分、其背(ニ)有v文、云(ヘリ)2天王貴平知百年(ト)1、とあるこれなり、かくて此詔の次に、其(ノ)獲(タル)v龜(ヲ)人、河内(ノ)國古市(ノ)郡(ノ)人、无位賀茂(ノ)子蟲(ニ)、授(ケ)2從六位上(ヲ)1、賜v物(ヲ)、※[糸+施の旁]二十疋、綿四十屯、布八十端、大税二千束と見えたり、万葉一に、圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》、新代登泉乃河爾《アラタヨトイヅミノカハニ》とあるは、出《イヅ》と、泉の序にまうけていへる、壽詞《ホキコト》也、
〇驚賜怪賜は、不徳なる朕が御世に、さるめでたき祥瑞の出べきにあらざるをと、怪み給ふよしなり、
〇歡賜嘉賜、嘉は、米傳《メデ》と訓べし、たゞ聞しめしては、怪み給ひしかども、正《マサ》しく見そなはして、歡(ビ)嘉《メデ》させ給ふよし也、
〇所致《イタセル》、すべていたすは、令《ス》v至《イタラ》にて、令《ス》v渡《ワタラ》をわたす、令《ス》v返《カヘラ》をかへすといふ類の格也、大瑞を至らしむるをいふ、此處《ココ》に来るをも、至るといふ也、
〇在(ラ) 米耶は、あらずといふことを、つよくいふ言也、
〇高 支 貴 支 行(ヒ)も、太上天皇の御行(ヒ)也、
〇依而は、其御蔭に頼《ヨ》る意也、常に云(フ)よりてよりは重《オモ》し、さて上の蒙(リ)も頼(リ)も、天皇の蒙(リ)給ひ頼(リ)給ふよし也、〇辭別詔 久、諸本に、詔 久(ノ)二字を脱せり、今は例に依て補へり、辭別(テ)とのみいへる例はなければ也、祝詞に、辭別(テ)云々白(ク)、また辭別(テ)云々宣(ル)など、中に語を隔《ヘダテ》たることはあれども、こゝは其《ソレ》とは異なり、
〇顯 久 出 多留云々、此處、諸本共に、顯の下の廿六字無き故に、上の此(ノ)大瑞(ノ)物|者《ハ》、といへるを承《ウケ》たる言なく、語とゝのはずして、聞えがたし、故(レ)考るに此段、第四詔に、此(ノ)物|者《ハ》、天(ニ)坐神地(ニ)坐祇 乃、相干豆奈 比 奉(リ)、福 波倍 奉(ル)事 爾 依而、顯《ウツシ》 久 出 多留 寶 爾 在 羅之止奈母、神隨所念行 須、是以天地之神 乃 顯(ハシ)奉(レル)、瑞(ノ)寶 爾 依而、御世(ノ)年號政賜とあると、全《モハラ》同じ趣なれば、今彼(ノ)詔に依て、久《ク》より顯《アラハシ》まで、大小廿六字を補つ、こは顯(ノ)字の二つあるによりて、紛《マガ》ひて、其間の文を落したる也、さる例よくあることぞかし、
〇貴瑞以而、以(ノ)字は、これも件の第四詔の如く、依なりけむを、寫(シ)誤れるなるべし、以にても聞ゆれども、なほ然にはあらじ、
〇大赦天下は、阿米乃志多比呂久都美由流須《アメノシタヒロクツミユルス》と訓べし、持統紀などに、大(ニ)2赦天下(ニ)1と訓(ミ)たれども、大赦を音によまばこそ、天下にとはいふべけれ、訓によまむには、爾《ニ》といふべきにあらず、又大に爾《ニ》と付(ケ)たるも、皇國言にうとし、大赦は、曲赦に對ひたる目《ナ》なれば、ひろくとこそいふべけれ、
〇主典は、孝徳紀持統紀などに、フムヒトと訓り、職員令神祇官(ノ)條に、大史一人、掌(ル)d受(テ)v事(ヲ)上抄《シルシ》、勘2署(シ)文案(ヲ)1、檢2出(シ)稽失(ヲ)1、讀c申(スコトヲ)公文(ヲ)1、餘(ノ)主典准(フ)v此(ニ)、少史一人、掌(ルコト)同(ジ)2大史(ニ)1とあり、大史少史は、神祇官の主典也、餘(ノ)主典とは、諸(ノ)官の主典をいふ、和名抄には、主典を佐官《サクワン》とあげて、訓をばしるさず、諸司皆|佐官《サクワン》といふよししるせり、これをさうくわんといふは、佐を音便にさうと呼《イフ》也、さてもろ/\の官に、おの/\長官《カミ》次官《スケ》判官《マツリゴトビト》主典《フムヒト》とある也、此中に判官をば、後世にはなべて、じようと呼《イ》ふは、八省の判官の丞の字音よりうつれる也、又主典を佐官といふは、いかなるよしにか、いぶかし、
〇云々事 乎 始(メ)は、此事をはじめとして也、
〇慶命詔賜云々、諸(ノ)本に、詔賜(ノ)二字なし、そは賜字の重なれるより紛ひて、寫し落せし也、故(レ)命《オホミコト》惠《メグミ》賜といふつづき、穩ならず、これによりて今、件の二字を補へり、第四詔にも、慶命詔 久とあり、さきには、宣を惠に誤れるかとも思ひしかども、然にはあらず、
第七詔
同月戊辰、詔(シテ)立(テ)2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、壬午、喚2入五位及諸司(ノ)長官(ヲ)于内裏(ニ)1、→而知大政官事一品舍人(ノ)親王宣(テ)v勅(ヲ)曰(ク)とあり、
天皇大命 良麻止 親王等又汝王臣等語賜 幣止 勅 久 皇朕高御座 爾 坐初 由利 今年 爾 至 麻弖 六年 爾 相成 奴《スメラガオホミコトラマトミコタチマタイマシオホキミタチオミタチニカタラヒタマヘトノリタマハクスメラワレタカミクラニイマシソメシユリコトシニイタルマデムトセニナリヌ》。此乃間 爾 天 都 位 爾 嗣坐 倍伎 次 止 爲 弖 皇太子侍 豆《コノアヒダニアマツクラヰニツギマスベキツギテトシテヒツギノミコハヘリツ》。由是其婆馬場 止 在 須 藤原夫人 乎 皇后 止 定賜《コレニヨリテソノハハトイマスフヂハラノキサキヲオホキサキトサダメタマフ》。加久定賜者皇朕御身 毛 年月積 奴《カクサダメタマフハスメラワガミミモトシツキニツモリヌ》。天下君坐而年緒長 久 皇后不坐事 母 一 豆乃 善有 良努 行 爾 在《アメノシタノキミトマシテトシノヲナガクオホキサキイマサザルコトモヒトツノヨカラヌワザニアリ》。又於天下政置而獨知 倍伎 物不有《マタアメノシタノマツリゴトニオキテヒトリシルベモノナラズ》。必 母 斯理幣 能 政有 倍之《カナラズモシリヘノマツリゴトアルベシ》。此者事立 爾 不有天 爾 日月在如地 爾 山川有如並坐而可有 止 吉事者汝等王臣等明見所知在《コハコトダツニアラズアメニヒツキアルゴトツチニヤマカハアルゴトナラビマシテアルベシトイフコトハイマシタチオホキミタチオミタチアキラケクミシレルコトナリ》。然此位 乎 遲定 米豆久波《シカルニコノクラヰヲオソクサダメツラクハ》 刀比止麻爾母|己 我《オノガ》 夜氣|授 留 人 乎波 一日二日 止 擇 比 十日二十日 止 試定 止斯 伊波 婆 許貴太斯 伎 意保 伎天下 乃 事 乎夜 多夜須 久 行 無止 所念坐而此 乃 六年 乃 内 乎 擇賜試賜而今日今時眼當衆 乎 喚賜而細事 乃 状語賜 布止 詔勅聞宣《サヅクルヒトヲバヒトヒフツカトエラビトヲカハツカトココロミサダムトシイハバコキダシキオホキアメノシタノコトヲヤタヤスクオコナハムトオモホシマシテコノムトセノウチヲエラビタマヒココロミタマヒテケフマノアタリモロモロヲメシタマヒクハシキコトノサマカタラヒタマフトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。賀久詔者挂畏 支 於此宮坐 弖 現神大八洲國所知倭根子天皇我王祖母天皇 乃 始斯皇后 乎 朕賜日 爾 勅 豆良久 女 止 云 波婆 等 美夜 我加久云《カクノリタマフハカケマクモカシコキコノミヤニマシテアキツミカミトオホヤシマクニシロシメシシヤマトネコスメラミコトワガオホキミミオヤスメラミコトノハジメコノオホキサキヲアレニタマヘルヒニノリタマヒツラクヲミナトイハバヒトシミヤワガカクイフ》。其父侍大臣 乃皇 我 朝 乎 助奉輔奉 弖 頂 伎 恐 実 供奉乍夜半曉時 止 休息無 久 淨 伎 明心 乎 持 弖《カノチチトハヘルオホオミノスメラガミカドヲアナナヒマツリタスケマツリテイタダキカシコミツカヘマツリツツヨナカアカトキトヤスモフコトナクキヨキアカキココロヲモチテ》 波紋刀比|供奉 乎 所見賜者英人 乃 宇武何志 伎 事款事 乎 送不得志《ツカヘマツルヲミシタマヘバカノヒトノウムガシキコトイソシキコトヲツヒニエワスレジ》。我兒我王過无罪無有者捨 麻須奈 忘 麻須奈止 負賜宣賜 志 大命依而加 爾 加久 爾 年 乃 六年 乎 試賜使賜 弖 此皇后位 乎 授賜《アガコワガオホキミアヤマチナクツミナクアラバステマスナワスレマスナトオホセタマヒノリタマヒシオホミコトニヨリテカニカクニトシノムトセヲココロミタマヒツカヒタマヒテコノオホキサキノクラヰヲサヅケタマフ》。然 毛 朕時 乃未爾波 不有《シカルモワガトキノミニハアラズ》。難波高〔津〕宮御 宇大鷦鷯天皇葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命皇后 止 御相坐而食國天下之政治賜行賜 家利《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシシサザキノスメラミコトカヅラキノソツビコノムスメイハノヒメノミコトオホキサキトミアヒマシテヲスクニアメノシタノマツリゴトヲサメタマヒオコナヒタマヒケリ》。今米豆良可 爾 新 伎 政者不有《イマメヅラカニアラタシキマツリゴトニハアラズ》。本 由理 行來迹事 曾止 詔勅開宣《モトユリオコナヒコシアトゴトゾトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
語賜 幣止、語(ノ)字、一本に、詔と作るは誤也、下文にも、細事 乃 状語賜 布止 詔(フ)と有(リ)、廿七詔にも、卿等諸(ニ)語 部止 宣 久、
○由利《ユリ》は、自《ヨリ》なり、万葉廿にも、阿須由利也《アスユリヤ》と有(リ)、明日よりや也、
〇此 乃 間は、上の六年の間なり、
〇天 都 位は、もとよりの皇国言とは聞えず、漢文訓なるべし、但し書紀に、天業天基天朝天緒天勅などある類も、漢文ながら、ことわりは、皇國の古意にかなへり、孝徳紀には、天位をタカミクラと訓り、
〇皇太子、此御子は、藤原(ノ)夫人の御腹にて、神龜四年閏九月に生坐て、同年十一月に、皇太子に立給ひ、同五年九月に、二歳にて薨坐ぬ、
〇侍 豆は、坐 豆《マシツ》とあるべきに、かくあるは、天皇に對(ヘ)奉りて也、
〇婆々は、母也、
○藤原夫人、夫人は、伎佐伎《キサキ》と訓べし、反正紀に、皇夫人《キサキ》又|夫人《キサキ》とある、これ古(ヘ)にかなへる訓也、さて此藤原(ノ)夫人は、不比等公の御女にて、光明子と申せし也、天平寶字四年六月に薨坐て、そこに傳あり、其中に、神龜元年、聖武皇帝即位、授(ケ)2正一位(ヲ)1、爲2大夫人(ト)1とあるは、誤也、正一位は、こゝになほ正三位なると合はず、又|當御世《ソノミヨ》の夫人を、大夫人とし給ふといふこと、大(ノ)字かなはず、神龜元年に、正一位にて大夫人とし給へるは、天皇の御母の藤原(ノ)夫人、宮子と申せしにて、其事九の卷に見えたり、然るに其《ソ》を光明子皇后の傳にしるされたるは、紛《マガ》ひたるもの也、
〇皇后ほ、意富伎佐伎《オホキサキ》と訓べし、古(ヘ)は妃夫人などの列なるを、みな伎佐伎《キサキ》と申し、其中の第一の伎佐伎を、大后《オホキサキ》と申(シ)て、これ皇后也、此事委くは、古事記傳廿の卷にいへるがごとし、かの記などには、皇后をみな大后と記せり、後世に、皇后をきさき、皇太后を大きさきと申すとは、古(ヘ)は異也、
〇年月積(リ) 奴とは、天皇今年、廿九歳にならせ給へれば、よきほどの御齢《ミヨハヒ》にならせ給へるよしなるべし、
〇年(ノ)緒長 久、緒(ノ)字、本に諸に誤れり、今は一本に依れり、年(ノ)緒は、たゞ年のこと也、五十七詔にも、年緒不落《トシノヲオチズ》と有、万葉三に、年緒長久住乍《トシノヲナガクスマヒツツ》、四にも、荒玉年之緒長《アラタマノトシノヲナガク》など、猶卷々に多し、
〇善有 良努 行 爾 在、よからぬは、よくあらぬの切《ツヅマ》りたる也、故(レ)有(ノ)字を書り、行は、こゝは和邪《ワザ》と訓べし、爾在《ニアリ》は、那理《ナリ》也、すべてなりといふ辭は、此|爾在《ニアリ》の切《ツヅマ》りたる也、古文には、多くは本語のまゝに、にありといへり、
〇於《ニ》2天(ノ)下(ノ)政1置而、置(ノ)字、本に宜に誤れり、今は一本に依れり、さて常には於(ノ)字をオイテとよめども、こゝは古書の例にて、於(ノ)字をば爾《ニ》といふ辭《テニヲハ》に用ひて、別に置《オキテ》とは書るにて、意は於《オキテ》の意なり、
〇獨知、知(ル)は行ふ也、
〇必 母、必に母《モ》を添たること、めづらし、
〇斯理幣 能 政は、後方《シリヘ》の政にて、後宮の事也、神代紀に、背揮此(ヲ)云2志理幣提爾布倶《シリヘデニフクト》1、齊明紀に、後方羊蹄此(ヲ)云2斯梨蔽之《シリヘシト》1、これらはしりへてふことの例也、さて後紀、弘仁六年七月、橘(ノ)皇后を立給ふ詔にも、食國天下政 波、獨知 倍伎 物 爾波 不v有、必 母 斯理幣 乃 政有 倍之止、自v古行(ヒ)來 魯《ル》事云々と見え、貞觀儀式、立2皇后1儀に見えたる宣命にも、かく有(リ)、
〇事立、第三詔に出、
〇山川は、山と川と也、山の川にはあらず、
〇並坐は、天皇と皇后と也、
〇言事者は、言《イフ》も事《コト》も、たゞ辭にて、たゞに可《ベキ》v有《アル》者《ジャ》といはむも同じこと也、すべて止云事《トイフコト》といふ辭を添ていふこと、今も古(ヘ)も同じこと也、然るを今の人は、文を書(ク)に、かくさまの辭を、煩はしとして略くは、中々に漢ざま也、
〇此位は、皇后の位也、
〇遅定 米豆良久波、印本には、定(ノ)字なし、今は一本によれり、早くするを、早めといへば、遲くするをも、遅めといひつべければ、定(ノ)字なくても有べけれど、猶此字あるかたまされり、豆良久《ツラク》はつる也、遲《オソ》く定めつる故は、といふ意に見べし、
〇刀比止麻爾母、こはいと/\心得がたきを、下のつゞきの語によりて考るに、かりそめにもなどいふ意の古言なるが、こゝより外には傳はらぬにやあらむ、さるたぐひも、古事記書紀万葉などにも、まれにはあること也、又誤字脱字などの有(ル)か、又思ふに、賤き官職の名にもやあらむ、然いふ故は、次にいふべし、もし然《サ》もあらば、久良比止賣《クラビトメ》なるを、久を刀に誤り、良を落し、賣《メ》を麻に誤れるか、古事記仁徳天皇(ノ)段に、倉人女《クラビトメ》といふもの見ゆ、後宮職員令十二司の中に、藏司あり、それに藏人女といふも有しか、たとひ當時《ソノカミ》はなくとも、古(ヘ)にありし名なれば、かく詔給ふまじきにあらず、さてこゝは、皇后を立給ふことにつきて詔給ふなれば、女官の賤き者を詔給はむも、よしある也、又は加刀比止部《カドビトベ》なるを、加を落し、部を麻に誤れるか、職員令、衛門府の下に、門部二百人とある、是を語には、門人部《カドビトベ》といひしか、上の件の考(ヘ)ども、よろしとにはあらねどもせめて思ひよれるまゝに、姑(ク)しるせる也、猶よく考ふべし、
〇己 我は、天皇の御自詔給ふ也、そは太上天皇の大命、或ほ卿等の申すなどにはあらで、己命《オノレミコト》の御心もて、物し給ふよしにて、分てかく詔給ふ也、
〇夜気、夜(ノ)字は、安を誤れるにて、上《アゲ》也、廿八詔にも、阿氣《アゲ》賜(ヒ)治賜 久と書り、又廿六詔に、上《アゲ》奉(ル) 止 授賜(フ)、五十二詔に、上(ゲ)賜 比 授賜(フ)、これらのつゞきと同じ、麻氣《マケ》の誤にて、任《マケ》ならむと思ふ人有べけれど、麻氣《マケ》といふは、京外《ヰナカ》の官ならではいはぬこと也、
〇十日二十日 止、.これも上の一日二日といへると同意にて、礎の短く速《スミヤカ》なる意にいへる也、次の六年 乃 内 乎と對へて心得べし、
〇試定 止斯 伊波 婆、伊波婆《イハバ》は、たゞ輕き辭にて、試(ミ)定めなばといふ意也、斯《シ》は助辭也、さて此伊波婆の下に、脱《オチ》たる語有べし、そは容易《タヤス》く輕々しかるべし、などやうの語の有(ル)べきなり、さて刀比止麻爾母といふより、これまでの、すべての意は、いかに賤き官職にても、たゞ己が心もて、上《アゲ》授(ク)る人をば、わづかに一二日十日廿日ばかりの間《アヒダ》)、試み擇(ビ)て定めなば、速《スミヤカ》にて、たやすく輕々《カロガロ》しきしわざなるべしといへるにて、さてまして皇后を定めむことはと、次にいふ也、
〇許貴太斯 伎は、古事記神武天皇(ノ)大御歌に、許紀陀《コキダ》、万葉二に、己伎太雲《コキダクモ》、などある言にて、十人詔に、己々太久《ココダク》とあるも同じ、又こきばくとも、こゝばくとも、こゝだくとも、なほさま/”\にいふ皆同言也、此言の事、猶古事記傳十九に委(ク)云り、万葉に幾許と書て、もとは物の數の多きよりいひて、いかばかりかといふ意也、故(レ)万葉の内に、同じ幾許を、いかばかりと訓(ム)處も有也、さていかばかりかの意にて、おのづから甚しき意重き意大きなる意になる也、こゝは重く大(キ)なる意也、
〇意富 伎は、大き也、
〇天下 乃 事 乎夜は、天(ノ)下に關《カカ》る事也、又天(ノ)下の事の中に、重く大きなる事とも聞ゆ、夜《ヤ》は下へうつして、多夜須久夜波行無《タヤスクヤハオコナハム》の意也、皇后は、天皇に並(ビ)坐(ス)位なれば、其《ソ》を定むることは、いたく大きなる重き事なるを、たやすくやは行ふべきと也、
。六年 乃 内 乎、内(ノ)字は、間《アヒダ》の誤(リ)にはあらざるか、
〇試賜而、本どもに而(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、
〇眼當《マノアタリ》は、前《マヘ》に同じ、まへは目方《マヘ》なれば也、中昔の言に、目路《メヂ》といひ、今の言に、目通《メドホ》りといふも、眼當《マノアタリ》と同意也、
〇衆《モロモロ》 は、はじめに親王等云々 とある是也、
〇細事 乃 状、細は、久波志伎《クハシキ》と訓べし、古書には、くはしに、此字を多く書り、
〇語賜 布止、印本には、此四字脱たり、今は一本によれり、
〇賀久詔者は、如此《カク》詔(フ)故《ユヱ》はといふ意にて、そは即(テ)此藤原(ノ)夫人を、如此《カク》皇后に定むる故はといふこと也、
〇此宮は、平城(ノ)宮也、
〇祖母《ミオヤ》は、御母のよし也、挂畏 支よりこれまで、一つゞきにて、元正天皇を申給ふ也、祖母の文字に就ては、元明天皇の如くなれども、然にはあらず、祖母と書て、美於夜《ミオヤ》と訓こと、第五詔の下にいへるが如し、元正天皇は、實の大御母命にはましまさざれども、其|御禅《ミユヅリ》を受嗣坐(セ)れば、御母《ミオヤ》とは申給ふなり、
〇斯皇后、皇后と定め給へるよし、既に上に詔給へる故に、今はたゞに皇后と詔給ふ也、
〇朕(ニ)賜(ヘル)、廿二の卷、此皇后の俸に、聖武皇帝儲貳(ノ)之日、納(レテ)以爲v妃(ト)、時(ニ)年十六とあり、天平寶字四年薨坐し時、春秋六十とあれば、十六歳は、靈龜二年にて、元正天皇の御世なれば、彼(ノ)天皇の詔命にて、納《イレ》給へるなるべし、故(レ)朕(ニ)賜(ヘル)とは詔給ふ也、朕の下に、爾(ノ)字あらまほし、
〇勅 豆良久は、元正天皇の也、
〇女 止云 波婆云々は、女といへば、何れの女も、なべて等《ヒトシ》き物と思ひてやは、朕がかく此女を納(レ)て、汝命の妃とし給へとはいはむ、此女は、尋常の女と等《ヒトシ》なみの女にはあらねばこそ、かくいへと也、加久云は、如此《カク》汝命の妃とし給へと云て、納(レ)しむるよし也、
〇其父(ト)侍(ル)大臣は、不比等公也、其時は、此大臣いまだ存在《ヨニマシ》しほどなりき、
〇皇 我 朝、本に、我(ノ)字を大書にしたるは非也、すめらわがにはあらず、
〇助奉、此(ノ)助は、阿奈々比《アナナヒ》と訓べし、他の詔に、輔《タスケ》奉とつらねていへるは、みな阿奈々比奉なれば也、第三 第五 廿四 四十八 六十一等詔を見て知べし、
〇頂 伎は、戴(キ)也、十一詔に、祖(ノ)名 乎 戴(キ)持而、十二詔に、恐(マ) 理 戴(キ)持、十三詔に、頂(キ)受賜 利など有、後拾遺集に、大中臣(ノ)輔親、おほぢ父うまご輔親三世までにいたゞきまつるすめら大神、
〇曉時、曉を、万葉にはみな阿加止伎《アカトキ》とよめり、あかつきといふは、後のこと也、
〇休息無 久は、五十一詔に、暫之問《シマラクノマ》 母、罷(リ)出而|休息安《ヤス》 母布 事無(ク)、とあるに依て訓べし、又同詔に、天下(ノ)公民之|息安《ヤス》 麻流倍伎 事 乎なども有、
〇波波刀比は、いと/\心得がたし、これも古言なるが、外には傳はらざるにや、又は誤字か、もし誤字ならば、爲夜万比《ヰヤマヒ》などを誤れるにや、〓〓と〓〓とやゝ似たり、四十一詔に、晝 毛 夜 毛 倦怠 己止 無 久、謹 美 禮《ヰヤ》 末比 仕奉 都都と有、上下のつゞき似たり、卅八詔に、爲夜備《ヰヤビ》 末都利ともあり、ゐやまひは、禮々《ヰヤヰヤ》しくといはむも同じこと也、廿七詔に、宇也宇也《ウヤウヤ》 自久とも有(リ)、爲夜宇夜《ヰヤウヤ》同じこと也、此考へも、必(ズ)よろしとにはあらず、たゞせめて思ひよれることをいふ也、さて下の波(ノ)字、一本には婆と作《カケ》り、
〇所見賜者、所見は、美志《ミシ》と訓べし、万葉一に、見之賜者《ミシタマヘバ》、六に、見之賜而《ミシタマヒテ》など、なほ多し、見《ミ》を美志《ミシ》といふは、聞《キキ》をきこし、知《シリ》をしらし、などいふ格の古言也、
〇其人は、不比等公也、
〇宇武何志 伎は、十三詔に、云々事|伊蘇之《イソシ》 美 宇牟賀斯《ウムガシ》 実、忘(レ)不《ズ》v給 止自弖奈母、孫等《ヒコドモ》一二治賜、廿六詔に、云々事 乎、宇牟我自《ウムガシ》 彌 辱 彌 念行 弖互、など見ゆ、於牟何志《オムガシ》といふも同じ、書紀竟宴集(ノ)歌に、伊佐袁志久多陀斯岐瀰知乃於牟迦斯佐《イサヲシクタダシキミチノオムカシサ》、神功紀に、相見(テ)欣感《オムガシミシ》、厚(ク)禮(ヒテ)送(リ)遣(ル)、また我(ガ)王必(ズ)深(ク)徳《オムガシミセム》v君(ヲ)など有、万葉十八には、牟賀思久母安流香《ムガシクモアルカ》、これは於《オ》を省ける也、字鏡には、偉慶(ハ)、悦也奇也賀也幸也福也、於毛我志《オモガシ》又|宇禮志《ウレシ》と有、みな同言也、
〇款《イソシキ》事は、第一詔に出、
〇送不得忘、送(ノ)字は、逐《ツヒニ》を誤れるなるべし、命《ヨ》のかぎりえ忘れじ也、一本に、忘の下にも、不得(ノ)二字あるは、衍か、又次の文によるに、不得捨《エステジ》とありし、捨(ノ)字の脱たるにもあるべし、〇我兒我王は、天皇をさして詔給ふ也、こゝにかく詔給ふは、殊更に呼(ヒ)出せる御言にて、此詔給ふ事を、懇切《ネモコロ》にし給ふ也、
〇過无(ク)云々は、此皇后の御事也、上よりの語のはこびにて、おのづから然聞ゆ、
〇忘 麻須奈は、彼(ノ)父大臣の功勞を忘(レ)給ふなにて、それ即(チ)此皇后をなほざりになおぼしめしそといふ意也、これまで、元正天皇の、かく詔給ひ屬《ツケ》しよし也、
〇負(セ)賜、すべて云々せよと仰するは、其事を負(ヒ)持(タ)しむるにて、荷を負(ヒ)持(タ)しむると同じき故に、仰せ負せ同言也、宰《ミコトモチ》といふも、仰せ給ふ命を受て、負持(ツ)意の名也、
〇加 爾 加久 爾は、彼《カ》に此《カク》ににて、万葉には左右《カニカク》と書り、後世にはこれを、とにかくにといふ、
〇年 乃 六年 乎、万葉十一に、年之八歳乎吾竊舞師《トシノヤトセヲワガヌスマヒシ》、十六に、年之八歳乎待騰來不座《トシノヤトセヲマテドキマサズ》、
〇使(ヒ)賜、古事記上卷に、使《ツカヒタマハバ》2石長比賣(ヲ)1者云々、亦|使《ツカヒタマハバ》2木花之佐久夜毘賣(ヲ)1者云々、垂仁天皇(ノ)段に、此(ノ)二女王《フタハシラノヒメミコハ》、淨(キ)公民(ナリ)、故(レ)宜《ベシ》v使《ツカヒタマフ》也、これらの外、應神天皇仁徳天皇(ノ)段などにも見えて、傳に委(ク)云り、今俗言にいふ、人をつかふと、同じこと也、仕《ツカヘ》は、被《レ》v使《ツカハ》のはれを切《ツヅメ》てへトいふにて、使《ツカ》はるゝ方よりいふ言、使《ツカフ》は、其《ソ》を使《ツカ》ふ方よりいふにて、同言也、
〇然 毛は、志加流毛《シカルモ》と訓べし、然有《シカアル》も也、こは王《ミコ》にあらずして、臣の女《ムスメ》を、皇后とし給ふこと也、次の文にて知(ル)べし、
〇高津宮、諸(ノ)本に、津(ノ)字を落せるを、今補へり、此津は、讀付(ク)べきにあらず、略きて書る例なければ也、
〇大鷦鷯、一本に、大焦と作《カケ》るは、雀を焦に誤れるなるべし、此大御名古事記には、みな大雀と書り、故(レ)思ふに、こゝも本は然有しを、後人さかしらに書紀によりて、鷦鷯とは改め書るにや、
〇葛城(ノ)曾豆比古は、古事記に、建内宿禰の九人の子の中の、第八にあたる子にて、葛城(ノ)長江(ノ)曾都毘古と有、
〇伊波乃比賣(ノ)命皇后、乃(ノ)字、印本に及に誤れり、今は一本に依れり、さて此御名、命の下に皇后といふことを添たるは、こゝに此事を擧給ふは、皇后に坐(シ)しことを詔給ふが主《ムネ》なる故に、そをたしかにせむため也、
〇御相坐而、古事記に、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命の遘合《ミトノマグハヒ》をも、御合《ミアヒマシ》といひ、又邇々藝(ノ)命の御事をも、御2合《ミアヒマシテ》高木(ノ)神(ノ)之女萬幡豐秋津師比賣(ノ)命(ニ)1と有、猶中卷にも見えたり、
〇治賜行賜 家利、印本には、行賜(ノ)二字なし、今は一本に依、
〇新 伎 政(ニ)者《ハ》不v有とは、臣の女を、皇后とし給ふこと也、政は、たゞ事といふと同じ、天皇の行(ヒ)給ふ事なる故に、政とはいへる也、さて荒木田(ノ)久老(ノ)神主の云(ク)、すべて新は、万葉などにても、みなアラタと訓べし、廿の卷なる、年月
波安多良安多良爾《トシツキハアタラアタラニ》云々といふ歌も、一本に、安良多安良多爾《アラタアラタニ》とあるぞよき、すべて古(ヘ)に、新をあたらしといへることなし、あらたし也、そを後にあたらしといふは、可惜《アタラシ》と混《マガ》ひたる訛也といへる、此説さも有べくおぼゆる故に、こゝもアラタシキと訓つ、
〇本 由理は、舊《フル》くより也、
〇迹事とは、舊くより有し例によれる事といふ意也、そも/\皇后《オホキサキ》を立給ふことは、上つ代より御世/\、常の事なるに、殊に仁徳天皇の例をしも引て、かくくはしく詔給ふ故は、いかにといふに、まづ古事記を考るに、御世御世の問(ダ)に、大后と記せるは、神武天皇の伊須氣余理比賣(ノ)命、垂仁天皇の比婆須比賣(ノ)命、仲哀天皇の息長帶比賣(ノ)命、仁徳天皇の石之比賣(ノ)命、允恭天皇の忍坂之大中津比賣(ノ)命、安康天皇の長田(ノ)大郎女、雄略天皇の若日下部(ノ)王、繼體天皇の手白香(ノ)命など也、件の餘《ほか》の御世/\のうちにも、有(リ)つらめども、大后と記せる文の、たま/\に無きなるべし、さて件の大后とあるかぎりを考るに、神武天皇のは、大三輪(ノ)神の御女なれば、殊事《コトコト》也、その餘《ホカ》は、石之比賣(ノ)命を除き奉りては、皆々|王《ミコ》にして、臣の女なるはましますことなし、されば件の外に有けむも、皆王なりけむこと、おしはかりてしるべし、然るを書紀には、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝靈天皇、孝元天皇、開化天皇などの御世御世に、立(テテ)v某(ヲ)爲2皇后(ト)1とあるは、みな臣の女なるは、すべて書紀は、かゝる事にも、漢ざまのかざり多くして、事實《コトノマコト》にたがへるたぐひあれば、これらも、爲2皇后(ト)1とあるは、例の潤色の文也、崇神天皇よりこなたの御世/\の皇后に、臣の女なるは坐(ス)ことなきをもて、かの御世/\の、臣の女なりしは、實に皇后には坐(サ)ざりしことをさとるべし、さればこそ件の御世/\、古事記にほ、大后と記せるは、一(ツ)も見えざりけれ、凡て古は、王《ミコ》にあらざれば、皇后には立給ふことなし、これ種胤《タネ》を重くせられし也、かの漢國の、たゞに同姓を嫌ひて、王《コキシ》が心にまかせて、卑賤の者の女をも、皇后といふにする俗《ナラハシ》とは、いみしき異《カハリ》にぞ有ける、大寶の令は、多く漢國の制によられたれども、妃すらなほ、親王ならでは爲給はぬ制にて、妃二員四品以上と有て、臣の女は、夫人以下にて、品といはず、位とあり、是らにても、古(ヘ)のやうを知べし、然るに仁徳天皇の石之比賣(ノ)命のみは、いかなることなりけむ、臣の女にして、皇后に立給へりしは、これより外には、例あることなし、故(レ)今聖武天皇の、藤原氏を皇后とし給ふこと、うちまかせては、世の人のうけ引がたかるべき事なるが故に、此石之比賣(ノ)命の例を引て、かく詔給ふ也、されば今米豆良可《イマメヅラカ》なる事にはあらずと、ことさらに詔給ふも、實にはいとめづらかなる事なるが故也、さてこゝにかく、此石之比賣(ノ)命の例をしも引給へるを思ふにも、かの書紀の、上つ御代/\に、臣の女を爲2皇后(ト)1とあるは、みな潤色なること、いよいよ決《ウツナ》し、
第八詔
上なる詔の次につゞきて、既(ニ)而《シテ》中納言從三位阿倍(ノ)朝臣廣庭、更(ニ)宣(テ)v勅(ヲ)曰(ク)と有(リ)、こは上なるとつゞきたる詔なれども、更(ニ)宣と有て、はなれたる故に、今別に學(グ)、此たぐひ、餘も然り、
天皇詔旨今勅御事法者常事 爾波 不有武都事 止 思坐故猶在 倍伎 物 爾 有 禮夜止 思行 之弖 大御物賜 久止 宣《スメラガオホミコトラマトイマノリタマヘルミコトノリハツネノコトニアラズムツゴトトオモホシマスガユヱニナホアルベキモノニアレヤトオモホシメシオホミモノタマハクトノル》。
御事法は、上件の詔のこと也、事法と書るは、借字にて御言詔《ミコトノリ》の意也、さてみことのりといふこと、これに正しく見えたり、
〇常(ノ)事 爾波 不v有は、尋常の詔とは、異なるよし也、
〇武都事は、親《ムツマ》しく語る言也、今皇后を立給ふにつきて、かく細《クハシ》き事の状を、詔《ノリ》聞せ給ふは、よのつねの例の事にはあらず、殊に汝等を親しみて、語り閲せ給ふぞと也、そも/\此言は、古今集俳諧に、むつごともまだつきなくに明ぬめり、といへるを始めて、後の歌に、男女閨(ノ)内にて語ふことをいふを思へば、こゝも、臣の女を皇后にし給ふことは、尋常ならざる事なる故に、親王諸王諸臣の思はむことを、憚りおぼしめして、件の詔は、ひそかに内々に告語るべき事ぞ、との意かとも思へど、然にはあらず、
〇猶在 倍伎、猶は借字にて、黙止《ナホ》也、十五詔にも、猶止事不得爲 天《ナホヤムコトエズシテ》と有、又廿五詔に、黙在 牟止 爲《ス》 禮止毛、止家不得《ヤムコトエズ》、四十二詔に、黙在 去止 不得《ナホアルコトエズ》 之天、これらの黙も、こゝに效《ナラ》ひて、奈保《ナホ》と、訓べく、又こゝの猶も、黙の意なることをも、相照して知べし、伊勢物語に、宮づかへのはじめに、たゞなほやは有べき、源氏物語花宴卷に、なほあらじに云々、又万葉に、黙然《モダ》といふこと、卷々に多かる中に、七の卷に、黙然不有跡《モダアラジト》云々といふ歌を、かの花宴卷の河海抄に引れたるには、なほあらじとと有(リ)、昔は然訓たりけむ、黙然は、十七に、母太毛安良牟《モダモアラム》と、假字書(キ)あれば、母太《モダ》と訓べきことは、論なけれど、那保《ナホ》と訓むも、意はたがはずなほあるも、もだあるも、何ともせずて、たゞにある也、
〇有 禮夜止は、あらめやといふと同意也、本に、禮夜止を、 禮止夜と作《カケ》るは、横に讀(ミ)行(ク)例を以て書るにて、此格ところどころに有(リ)、誤(リ)にはあらず、然れどもさてはまぎらはしければ、今は皆よのつねのごと改め書つ、
〇大御物ほ、他の詔に、御物ともある、同じことにて、禄を給ふ也、即(チ)此次に、賜2親王(ニ)※[糸+施の旁]三百疋、大納言(ニ)二百疋、云々、五位(ニ)一十疋(ヲ)1、とある是なり、四十六詔に、御物給《オホミモノタマ》 波久止 宣(ル)と有て、次に、賜v禄(ヲ)有v差としるせり、
第九詔
十五の卷に、天平十五年五月癸卯、宴2群臣(ヲ)於内裏(ニ)1、皇太子親(ラ)※[人偏+舞](ヒタマフ)2五節(ヲ)1、右大臣橘宿禰諸兄、奉(テ)v詔(ヲ)奏2太上天皇(ニ)1曰(ク)と有(リ)、皇太子は、孝謙天皇也、天平十年正月、立(テ)2阿倍(ノ)内親王(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、とある是也、同十五年は、廿六歳の御時也、太上天皇は、元正天皇也、五節(ノ)舞の始めは、即(チ)此詔に見えたるを以て、正説とすべし、然るに政事要略に、五節(ノ)舞(ハ)者、淨御原(ノ)天皇(ノ)之所v制也、相傳(ヘ)曰(ク)、天皇御(ス)2吉野宮(ニ)1、日暮(テ)弾v琴(ヲ)、有v興、俄爾(ノ)之間、前岫(ノ)之下(ニ)、雲氣忽(ニ)起(ル)、疑(クハ)如(キ)2高唐(ノ)神女(ノ)1、髣髴(トシテ)應(テ)v曲(ニ)而舞(フ)、獨入(テ)2天矚(ニ)1、他人(ハ)無(シ)v見(ルコト)、擧(ルコト)v袖(ヲ)五變、故(ニ)2之五節(ト)1、其歌(ニ)曰(ク)、乎度綿度茂《ヲトメドモ》、※[災の火が邑]度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多茂度邇麻岐底《タモトニマキテ》、乎度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》と見え、河海抄江次第(ノ)裏書などにも、本朝月令(ニ)云(ク)とて、件の文を引れたり、三善清行の、延喜十四年に奉れる意見封事、請(フ)v減(セムコトヲ)2五節(ノ)舞妓(ノ)員(ヲ)1文の中にも、按(ニ)2舊記(ヲ)1、昔者《ムカシ》神女(ノ)來(リ)舞(ヘル)未(ダ)《ジ》2必(シモ)有2定數1、といふことあれば、これも古き傳説なりかり、然れども此神女の説は、古事記雄略天皇(ノ)段に、天皇|幸2行《イデマセル》吉野(ノ)宮(ニ)1之時(ニ)、吉野川(ノ)之|濱《ホトリニ》、有童女《ヲトメノアヘル》、其《ソレ》形姿美麗《カホヨカリキ》云々、坐(テ)2其(ノ)御呉床《ミアグラニ》1、弾(シテ)2御琴(ヲ)1、令(ム)v爲《セ》v※[人偏+舞]《マヒ》2其(ノ)孃子《ヲトメニ》1、爾《カレ》因(テ)2其(ノ)孃子之|好《ヨク》※[人偏+舞](ヘルニ)1、作御歌《ミウタぎヨミシタマヘル》、其(ノ)歌曰《ミウタ》、阿具良韋能《アグラヰノ》、加微能美弖母知《カミノミテモチ》、比久許登爾《ヒクコトニ》、麻比須流袁美那《マヒスルヲミナ》、登許余爾母如母《トコヨニモカモ》、とあるを取て、造りかへたる物にして、かの乎度綿度茂《ヲトメドモ》云々の歌も、四の句まで、万葉五なる長歌の中の句と、全《モハラ》同じけれは、其《ソ》をとりて、結(ビ)の句を造りそへたる也、さて又公事根源に、天平五年五月に、まさしく内裏にて、五節の舞は有けるとぞ、としるされたるは、こゝの事にて、天平十五年の、十の字の落たるなるべし、されどこれより前《サキ》、天平十四年正月にも、天皇御(シテ)2大安殿(ニ)1宴2群臣(ヲ)1とありて、五節(ノ)舞有しこと見えたり、又此後も、天平勝寶元年十二月、同四年四月など、東大寺行幸の時も、彼寺にて、此舞も有しこと見ゆ、さて此舞、後世には、十一月の節會に限りたる事なれども、もとは然らざりしこと、上件のごとし、
天皇大命 爾 坐 西 奏賜 久 掛 母 畏 伎 飛鳥淨御原宮 爾 大八洲所知 志 聖 乃 天皇命天下 乎 治賜 比 平賜 比弖 所思坐 久 上下 乎 齊 倍 和 氣弖 无動 久 靜 加爾 令有 爾波 禮 等 樂 等 二 都 並 弖志 平 欠 長 久 可有 登 隨神 母 所思坐 弖 此 乃 舞 乎 始賜 比 造賜 比伎等 聞食 弖 與天地共 爾 絶事無 久 彌繼 爾 受賜 波利 行 牟 物 等之弖 皇太子斯王 爾 學 志 頂令荷 弖 我皇天皇大前 爾 貢事 乎 奏《スメラガオホミコトニマセマヲシタマハクカケマクモカシコキアスカノキヨミバラノミヤニオホヤシマクニシロシメシシヒジリノスメラミコトアメノシタヲヲサメタマヒタヒラゲタマヒテオモホシマサクカミシモヲトトノヘヤハラゲテウゴキナクシヅカニアラシムルニハライトガクトフタツナラベテシタヒラケクナガクアルベシトカムナガラモオモホシマシテコノマヒヲハジメタマヒツクリタマヒキトキコシメシテアメツチトトモニタユルコトナクイヤツギニウケタマハリユカムモノトシテヒツギノミココノミコニナラハシイタダキモタシメテワガオホキミスメラミコトノオホマヘニタテマツルコトヲマヲス》。
大命 爾 坐 西、西(ノ)字、印本には而と作《カケ》れども、餘の本どもには、西と有(リ)、此言の事、第三詔に委くいへるが如し、
〇奏賜 久は、太上天皇に申給ふ也、
〇淨御原(ノ)宮、印本に淨の下に見(ノ)字あるは衍也、今は無き本に依、
〇上下は、君臣也、
〇齊、本に、齋に誤れり、
〇和 氣弖、すべてやはらかやはらぐといふは、物の一つに和合すること也、俗言にいふ意にはあらず、催馬樂(ノ)貫川(ノ)歌に、也汲良加爾奴留與波名久天《ヤハラカニヌルヨハナクテ》とあるも、男女一つに合《アヒ》て寐る夜はなくてといへる也、やはらげは、和合せしむる也、やはすともいへり、
〇令有 爾波,波(ノ)字、本共に八《ハ》と作れども、今は一本に依つ、
〇禮 等 樂 等、こはもはら漢國の趣によれることなれば、二つともに、字音に讀べし、もし訓ならば、禮は韋夜《ヰヤ》、樂は宇多麻比《ウタマヒ》と訓べし、和名抄に、雅樂寮(ハ)宇多末比乃豆加佐《ウタマヒノツカサ》とあるこれ樂の訓也、さるは正しくは、阿曾備《アソビ》といふぞ、樂の名なれども、禮樂と並べいふ時などは、あそびとてはいかゞ也、さて禮も樂も、世(ノ)中の萬の事の中の一つにこそあれ、かくとりわきて、此二つをならべて、國を治むるわざの第一として、言痛《コチタ》くさだするは、漢國のこと也、みだれやすく治まりがたき國を治むる、戎國《カラクニ》の王どもこそ、かゝるわざをも頼みて、治むるやうもあらめ、天照大御神の天つ日嗣を受繼《ウケツガ》して、神ながらしろしめす、天皇の御政に、かゝるわざをしも、むねと頼み給ふことは、有べくもおぼえぬを、何事もたゞ、漢をならひ給へる御世の御しわざとてぞかくは有ける、移(シ)v風(ヲ)易(フルハ)v俗(ヲ)莫(シ)v善(キハ)2于樂(ヨリ)1、などいふことも、皇國にしては、さらに用なく、あぢきなきわざ也、樂はたゞあそびの外なきものをや、
〇聞食 弖は、聖武天皇の也、
〇與2天地1共 爾云々 は、此五節(ノ)舞を也、
〇受賜 波利 行 牟云々は、天武天皇の造給へるを、受|被賜《タマハリ》て、御世/\永く傳へ行(ク)べき物として也、牟(ノ)字、印本に宇に誤り、一本には乎に誤れり、今は又一本に依(レ)り、
○斯王、皇太子、此時太上天皇の大前にして舞給へるなれば、此王とさして申給ふ也、
○學 志は、那良波志《ナラハシ》と訓べし、書紀卷々に皆、モノナラフと訓り、古今集に、阿倍(ノ)仲まろを、もろこしに物ならひにつかはしとある、古言也、
〇頂令荷 弖とは、學取《ナラヒトリ》て、有《タモ》たしむる意也、天武天皇の、重くして造り給へる舞なるが故に、尊みてかく詔給ふ也、十一詔に、戴持而、十四詔に、食國 乃 政 乎 戴持而、續後紀一の詔に、戴(キ)荷《モ》 知などあり、一本に、頂(ノ)字を順に、令(ノ)字を命に誤れり、
〇我皇、天皇は、太上天皇を申給ふ也、
〇大前、大(ノ)字、本に太と作るは、非也、今改、
〇貢(ル)とは、大前にて舞《マハ》しめて、御覽ぜさするをいふ、
第十詔
上件の詔につゞきて、於是太上天皇詔報曰とあり、
現神御大八洲我子天皇 乃 掛 母 畏 伎 天皇朝廷 乃 始賜 比 造賜 弊留 寶國寶 等之弖 此王 乎 令供奉賜 波 天下 爾 立賜 比 行賜 部流 法 波 可絶 伎 事 波 無 久 有 家利止 見聞喜侍 止 奏賜 等 詔大命 乎 奏《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスアガコスメラミコトノカケマクモカシコキスメラガミカドノハジメタマヒツクリタマヘルマヒヲクニノタカラトシテコノミコヲツカヘマツラシメタマヘバアメノシタニタテタマヒオコナヒタマヘルノリハタユベキコトハナクアリケリトミキキヨロコビハヘリトマヲシタマフトノリタマフオホミコトヲマヲス》。又今日行賜 布 態 乎 見行 波 直遊 止乃味爾波 不在 之弖 天下人 爾 君臣祖子 乃 理 乎 教賜 比 趣賜 布止爾 有 良志止奈母 所思 須《マタケフオコナヒタマフワザヲミソナハセバタダニアソビトノミニハアラズシテアメノシタノヒトニキミヤツコオヤコノコトワリヲヲシヘタマヒオモプケタマフトニアルラシトナモオモホシメス》。是以教賜 比 趣賜 比奈何良 受被賜持 弖 不忘不失可有 伎 表 等之弖 一二人 乎 治賜 波奈止那毛 思行 須等 奏賜 止 詔大命 乎 奏賜 波久止 奏《ココヲモテヲシヘタマヒオモブケタマヒナガラウケタマハリモチテワスレズウシナハズアルベキシルシトシテヒトリフタリヲヲサメタマハナトナモオモホシメストマヲシタマフトノリタマフオホミコトヲマヲシタマハクトマヲス》。
我子天皇とは、聖武天皇を申給ふ也、
〇天皇朝廷とは、こゝは天武天皇を申給ふ也、そも/\直《タダ》に天皇を指(シ)奉(リ)て、みかどと申すは、後のことのやうなれども、はやく奈良のほどより有しこと也、こゝも、始(メ)賜とつゞきたれば、朝廷とは、即(チ)天皇をさして申給へる也、廿六詔に、聖(ノ)天皇朝《スメラガミカド》云々、四十五詔に、天 乃 御門|帝皇 我《スメラガ》云々など見え、萬葉廿に、可之故伎也安米乃美加度乎可氣都體婆《カシコキヤアメノミカドヲカケツレバ》、とよめるなども、皆然也、されば書紀に、天子皇帝王などあるを、ミカドと訓るも、わろしとはいひがたし、今(ノ)京となりては、後紀、弘仁元年九月(ノ)詔に、柏原(ノ)大朝廷 爾 申賜 閇止 申 久、これは大は、天を寫誤れるか、續後紀一の詔に、柏原(ノ)御門 乃 天朝、とあるはいかゞ也、同八に、掛畏 支 天(ノ)朝 乃 護賜 比云々、三代實録八に、天皇 我 朝廷 乃、天(ツ)日嗣 乃 位 爾 平安 爾 御座 之、又御冠加(ヘ)賜 比、人 止 成 利 賜 布 事 波云々など、みな天皇をみかどと申せり、
〇寶國寶、上の寶字は寫誤なるべし、此舞 乎、もしくは舞 乎、など有べき所也、故(レ)姑(ク)まひをと訓つ、
〇此王 乎は、皇太子也、乎《ヲ》は、をしての意也、
〇令供奉は、舞(ハ)しめ給ふをいふ、これも此舞を尊みて、かくは詔給ふ也、
〇天下 爾 立賜云々は、立(テ)賜 比行賜 部流 天下 乃 法 波、といふ意也、
〇無 久 有 家利は、なかりけり也、天武天皇の、上下を齊へ和げて、長く平(ラカ)にあるべくとおぼしめして、造(リ)給へるこの舞を、國の寶とおぼしめして、今皇太子に舞しめ給ふを以て見れば、すべて立(テ)給ひ行(ヒ)給ふ、天下の法は、永く絶ることなく、行はるべしとおぼしめすよしなり、〇見聞は、舞を見給ひ、其歌を聞給ひ也、
〇侍《ハヘリ》とは、天皇へ申給ふ詔なる故に、かなたへ對ひて、尊みての言也、此|侍《ハヘリ》などは、後の文に、言の下に付ていふ侍に、いと近し、
〇奏賜は、太上天皇の、天皇に申給ふ也、
〇詔(フ)大命 乎 奏(ス)とは、傳ふる人の詞にて、太上天皇の、云々と申給ふ大命を、天皇へ奏(ス)といふなり、
〇又今日といふより、又太上天皇の詔也、
〇見行 波は、太上天皇の、御みづから詔給ふ也、
〇直(ニ)遊(ビ) 止乃味爾波不v在、古(ヘ)はすべて樂を遊びといひ、樂をするを、遊ぶといへり、然るに今日五節(ノ)舞を舞(ハ)しめ給ふを見れば、たゞ遊びのためのみにはあらずと也、直(ノ)字、一本に宜に誤り、遊(ノ)字、印本に迹に誤れり、今は皆別本に依れり、
〇君臣は、伎美夜都古《キミヤツコ》と訓べし、凡て君に對へていふ臣は、みなやつこと訓べき也、書紀にも、皆然訓たり、やつこといふは、賤き者のみの稱にはあらず、君に對へては、凡人《タダビト》をば、貴きをも皆やつこといへり、國(ノ)造伴(ノ)造なども、國(ノ)御臣《ミヤツコ》伴(ノ)御臣《ミヤツコ》也、但し天皇に對へても、王《オホキミ》をばやつことはいはず、されどこゝは、さるけぢめまでをいふべきにはあらず、たゞ漢國にいふ君臣也、皇太子親王諸王などの文に、みづから臣と書(キ)給ふなども、漢やう也、さて臣をおみといふは、朝廷に仕奉る人を、尊みていふ稱也、
〇祖子は、親子也、親を祖と書(ク)は、古(ヘ)の常也、こゝは君臣父子と、漢籍に常にいへる言に依て、詔給へる也、そもそも樂を以て、君臣父子の義を教るなどいふことも、漢意のさだ也、皇國の古(ヘ)には、さることかつてなし、
〇趣賜 布止爾、一本に、趣字を起に、布(ノ)字を而に誤れり、止(ノ)字、一本には等と作《カケ》り、
〇趣賜 比奈何良は、趣け給ふまゝになり、
。受被賜持 弖云々は、王臣百官公民もろ/\、君臣祖子のことわりを也、
〇治賜 波奈、万葉十七に、米具美多麻波奈《メグミタマハナ》、佛足石歌に、和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、また須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》などある、これ万葉五に、※[口+羊]佐宜多感波禰《メサゲタマハネ》とあると同じくて、禰《ネ》と奈《ナ》と通はしいふ也、されば此|奈《ナ》は、禰《ネ》と同じくて、願ふ辭也、然るを奈牟《ナム》の略と心得るは、あらず、牟《ム》を略くべきよしなし、又|牟《ム》を奈《ナ》といふこと有、行むをゆかなといふ類也、されどこれはそれにもあらず、思ひまがふることなかれ、さて治め給はなとおもほしめすとは、治め給へかしと、願ひおぼしめすよし也、さて然おぼしめし願ふことを、今の天皇に告(ゲ)申給ふ也、
〇此詔につゞきて、因(テ)御製歌曰とて、大御歌三首あり、みな太上天皇の御也、その御歌、
蘇良美都夜麻止乃久爾波可未可良斯多布度久安流羅之許能末比美例波《ソラミツヤマトノクニハカミカラシタフトクアルラシコノマヒミレバ》。
御歌の意、今此舞を見れば、倭の國の、かくたふときは、神からにて有けらしと也、倭は、皇國の大名の倭也、神からとは、昔の天皇を申給へるにて、天武天皇をさし奉り給へるなるべし、かゝるめでたき舞を、はじめ造り給ふばかりの、大穂まします天皇の、しろしめせるによりてこそ、倭の國は、かくたふときならめと也、
阿麻豆可未美麻乃彌己止乃登理母知弖許能等與美岐遠《アマツカミマノミコトノトリモチテコノトヨミキヲ》伊可|多弖末都流《タテマツル》。
此御歌の意は、さま/”\に聞えて、思ひさだめがたければ、いづれをもあぐ、其一つは、初二の御句は、天(ツ)神(ノ)之御孫(ノ)命にて、天皇をさして申給ひ、二の御句の下の乃(ノ)字は、爾《ニ》の誤り、結(ノ)御句の可(ノ)字は、諸本に寸と作《カケ》るを、今は政事要略、又年中行事秘抄などに、可と作《ア》るに依れるを、それもなほ聞えがたければ、末《マ》を誤れるにて、今《イマ》歟、はた伊(ノ)字、阿の誤(リ)にて、朕《アガ》歟、かくて一首の意は、此豐御酒を、朕《ア》がとりもちて、天皇に獻るとよみ給へるにや、一つは、たてまつるとは、きこしめすをのたまへるにて、天皇の、今此豐御酒をとりもたして、きこしめすとよみ給へるか、中昔の物語書などに、貴人の御衣を着《キ》給へることを、某を奉れりと常にいへれば、御酒などをきこしめすをも、たてまつるといふべき也、次なる御歌の麻都流《マツル》も、きこしめすことと聞えたり、一つは、古事記、神功皇后の大御歌に、此御酒は、わが御酒ならず、くしの神、とこよにいます、岩たゝす、少名御神の、云々、奉《マツ》り來《コ》し御酒ぞ、あさずをせさゝ、とよみ給へると同意にて、天(ツ)神|及《マタ》昔の御世/\の天皇たちの、此豐御酒をとりもちて、今天皇に獻り給ふ也と、壽祝《ホキ》申給へる歟、此意なれば、天(ツ)神と御孫(ノ)命とは、二つにて、御孫(ノ)命とは、御世/\の天皇を申給へる也、件の三つの中、いづれの意ならむ、後のかしこき人のえらびを待(ツ)也、さて凡て御孫命をば、みまのみことと訓奉るべきこと、此御歌に正《マサ》しく見えたり、さて又三四の御句は、何れの意にても、四三とついでて心得べし、彌(ノ)字、本に禰に誤れり、今は一本に依(ル)、
夜須美斯志和己於保支美波多比良氣久那何久伊末之弖等與美岐麻都流《ヤスミシシワゴオホキミハタヒラケクナガクイマシテトヨミキマツル》。
夜須美斯志は、師の冠辭考の説の如く、安見爲《ヤスミシシ》也、見《ミ》を美斯《ミシ》といふは、知《シリ》をしろし、聞《キキ》をきこしといふ類の格也、下の志《シ》は爲《シ》也、万葉十九に、國看之勢志弖《クニミシセシテ》とも、豐宴見爲《トヨノアカリミシセス》とも有(リ)、さて爲《シ》の意ならば、やすみしすといふべきに、すといはずして、しといふは、枕詞の格にて、霰ふり遠(ツ)江、いさなとり海などの例也、これらも、ふるとるとはいはず、さて冠辭考に、斯志《シシ》を知《シ》しと解《トカ》れたるは、たがへり、印本に、志(ノ)字を留《ル》と作《カケ》るは、後人のさかしら也、今は一本又年中行事秘抄に引るに依れり、此言の例皆ししにて、しるといへるは、例なければ也、
〇和己は、吾《ワガ》也、此(ノ)吾、古事記書紀の歌には、みな和賀《ワガ》とのみ有て、わごといへることはなきを、万葉(ノ)歌には、多く和期《ワゴ》と有、こは吾大《ワガオホ》とつゞく便(リ)に、賀於《ガオ》の切《ツヅマ》りて、おのづから期《ゴ》となれる也、故(レ)こは、吾大王《ワガオホキミ》とつゞく時にのみ限れる事にて、外に吾某《ワガナニ》といふに、わごといへることはなし、さてこゝの吾大王は、聖武天皇を申給ふなり、
〇麻都流は、奉(ル)にて、きこしめすことと聞えたり、もと奉(ル)は、他より獻るをいふ言なれども、それ即(チ)きこしめす事にもなれるなるべし、さてこゝは結《トヂメ》の流《ル》、穩ならず聞えて、禮《レ》と有べくおぼゆ、流《ル》にては、四の御句と、かけ合(ヒ)いかゞなるやうなるを、なほかくもいふべきにや、
第十一詔
上件の御歌につゞきて、右大臣橘(ノ)宿禰諸兄、宣(テ)v詔(ヲ)曰(ク)とあり、こは聖武天皇の詔なり、
天皇大命 良麻等 勅 久 今日行賜 比 供奉賜態 爾 依而御世御世當 弖 供奉 禮留 親王等大臣等 乃 子等 乎 始而可治賜 伎 一二人等選給 比 治給 布《スメラガオホミコトラマトノリタマハクケフオコナヒタマヒツカヘマツリタマフワザニヨリテミヨミヨニアタリテツカヘマツレルミコタチオホオミタチノコドモヲハジメテヲサメタマフベキヒトリフタリドモエラビタマヒヲサメタマフ》。是以汝等 母 今日詔大命 乃期等 君臣祖子 乃 理 遠 忘事無 久 繼坐 牟 天皇御世御世 爾 明淨心 乎 以而祖名 乎 戴持而天地與共 爾 長 久 遠 久 仕奉 禮等之弖 冠位上賜 比 治賜 布等 勅大命衆間食宣《ココヲモテイマシタチモケフノリタマフオホミコトノゴトキミヤツコオヤコノコトワリヲワスルルコトナクツギマサムスメラガミヨミヨニアカキキヨキココロヲモチテオヤノナヲイタダキモチテアメツチトトモニナガクトホクツカヘマツレトシテカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又皇太子宮 乃 官人 爾 冠一階上賜 布《マタヒツギノミコノミヤノツカサビトニカガフリヒトシナアゲタマフ》。此中博士 等 任賜 部留 下道朝臣眞備 爾波 冠二階上賜 比 治賜 波久等 勅天皇大命衆聞食宣《コノナカニハカセトメシタマヘルシモツミチノアソミマキビニハカガフリフタシナアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
今日行賜 比云々、印本に、今日(ノ)二字脱たり、今は一本に依れり、供奉賜態とは、皇太子の、五節舞を、太上天皇の大前にして、仕奉り給へるをいふ、
〇子等は、直《タダ》の子のみならず、末孫《スヱ》までにわたれり、
〇一二人云々、上(ノ)件の太上天皇の詔に、一二人 乎 治賜 波奈止奈母 所思行 須とあるを、受賜はり坐て、治(メ)給ふ也、
○汝等とは、今日の宴に預り侍ふ人々をさして詔給ふ也、上に宴2群臣1と有、
〇今日詔大命は、上なる太上天皇の詔也、
〇繼坐 牟云々は、今よりゆくさきの也、
〇祖(ノ)名は、氏々の、各先祖より仕奉(リ)來たる職業《ワザ》也、十三詔に、男 能未 父(ノ)名負 弖、女 波 伊波禮 奴 物 爾 阿禮 夜、廿八詔に、先祖 乃 大臣 止之天、仕奉 之 位名 乎、繼(ム) 止 思 弖云々、先祖 乃 名 乎、興(シ)繼(ギ)比呂米 武止云々、万葉十八に、祖名不絶《オヤノナタタズ》、また毛能乃敷能《モノノフノ》、夜蘇等母能乎毛《ヤソトモノヲモ》、於能我於敝流《オノガオヘル》、於能我名々負《オノガナナオヒ》、大王乃《オホキミノ》、麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》、廿に、於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》など、みな家の職業を名といへり、猶委くは、古事記傳、允恭天皇(ノ)段、卅九の卷、氏々名々《ウヂウヂナナ》とある處にいへり、
〇戴持は、先祖より承繼來たる職業を、重《オモ》みし、つゝしみて、たもつをいふ、右に引る中に、名を負(フ)といへる、即(チ)戴(キ)持と同じ、戴(ノ)字、本に載に誤れり、今は一本又政事要略に引るなどに依(ル)、
〇天地|與《ト》共 爾云々は、子孫の末々に至るまで、家門を絶《タタ》ず、咎過なく仕奉れと也、
〇仕奉 禮等之弖、上なる太上天皇の詔に、云々不v忘不v失可v有 伎 表 等之弖云々、とある意にて、仕奉れといふ表《シルシ》としてといふ意也、
〇皇太子(ノ)宮 乃 官人は、東宮職員令に見えたるが如し、和名抄に、職員令(ニ)云(ク)、春宮妨、美古乃美夜乃豆加佐《ミコノミヤノツカサ》と有(リ)、さて東宮職員令に、傅と學士とを擧て、次に東宮坊官とて、大夫以下を擧られたり、これによりて、傅と學士とをば、東宮官といひて、東宮坊官とはせず、かくて令には、坊官をも、東宮坊と作《カカ》れたるを、常には、傅と學士とには東宮と書(キ)、坊官にほ春宮と書て分つ、こは後の事かと思へば、はやく持統紀にも、十一年の所に、東宮(ノ)大傅春宮(ノ)大夫と見え、此紀にも、かく書(キ)分られたり、又右の和名抄にも、職員令(ニ)云(ク)とて、春宮妨とあれば、令ももとは然有けむを、後の人さかしらに、東(ノ)字には書なせるにこそ、
〇博士は、波加世《ハカセ》といふ、書紀にも然訓り、こは此字の音を、やがて訓にしたるにて、蘭をらに、錢をせに、芭蕉をはせを、紅梅をこをばいといふ類也、さて下道(ノ)朝臣眞備は、天平十三年七月に、爲2東宮(ノ)學士(ト)1とあるを、こゝに博士とあるは、學士をも、はかせといへりしなるべし、東宮職員令に、傅一人、掌(ル)d以2道徳(ヲ)1輔c導(スルコトヲ)東宮(ヲ)u、學士二人、掌(ル)2執(テ)v經(ヲ)奉説(スルコトヲ)1と有、
〇任は、賣志《メシ》と訓べし、顯宗紀に、拜《メシ》2山(ノ)官(ニ)1、推古紀に、任《メス》2僧正僧都(ヲ)1など有、除目を、司召《ツカサメシ》縣召《アガタメシ》といひ、任大臣を、大臣めしといふ類にても知べし、同じき任(ノ)字にても、ヨサスマケなど訓(ム)は、趣(キ)異なるを、今(ノ)世(ノ)人の、官に任ずるをばみな、マケと訓(ム)をのみ、古言と心得たるは、ひがこと也、
〇下道(ノ)朝臣眞備は、寶亀六年十月二日、前(ノ)右大臣正二位勲二等吉備(ノ)朝臣眞備薨とありて、そこに傳あり、右衛士(ノ)少尉下道(ノ)朝臣國勝(ガ)之子也、靈龜二年、年廿二、從(テ)v使(ニ)入v唐(ニ)、留學、受v業(ヲ)、研2覽(シ)經史(ヲ)1、該2渉(ス)衆藝(ニ)1、我朝(ノ)學生(ノ)、播(ス)2名(ヲ)唐國(ニ)1者(ハ)、唯大臣(ト)朝衡(ト)二人而已云々、姓を吉備(ノ)朝臣と賜へるは、天平十八年十月なり、薨時年八十三とあり、眞備は、マキビと訓べし、此名の事、玉勝間からあゐの卷にいへり、
○冠二階上賜、此次に除位を記せる中に、此人は、正五位下なりしに、從四位下を授給ふと見えたり、
第十二詔
十七の卷に、天平勝寶元年夏四月甲午朔、天皇幸2東大寺(ニ)1、御(シ)2盧舍那佛像(ノ)前殿(ニ)1、北面(シテ)對v像(ニ)、皇后太子並(ニ)侍焉、群臣百寮、及士庶、分頭(シテ)行2列(ス)殿(ノ)後(ニ)1、勅(シテ)遣(シテ)2左大臣橘(ノ)宿禰諸兄(ヲ)1白(サシム)v佛(ニ)とあり、
〔三寶 乃 奴 止 仕奉 流〕天皇 羅我 命盧舍那像 能 大前 仁 奏賜 部止 奏 久 此大倭國者天地開闢以来 爾 黄金 波 人國 用理 獻言 波 有 登毛 斯地者無物 止 念 部流仁 聞看食國中 能 東方陸奥國守從五位上百濟王敬福 伊 部内少田郡 仁 黄金 〔出〕在奏 弖 獻《スメラガオホミコトラマトルサナノミカタノオホマヘニマヲシタマフトマヲサクコノオホヤマトノクニハァメツチノハジメヨリコナタニクガネハヒトクニヨリタテマツルコトハアレドモコノクニニハナキモノトオモヘルニキコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタミチノクノクニノカミヒロキイツツノクラヰノカミツシナクダラノコニキシキヤウフクイクニノウチヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此 遠 聞食驚 伎 悦 備 貴 備 念 久波 盧舍那佛 乃 慈賜 比 福 波 賜物 爾 有 止 念 閇 受賜 里 恐 理 戴持百官 乃 人等率 天 體拜仕奉事 遠 挂畏三寶 乃 大前 爾 恐 美 恐 美毛 奏賜 波久止 奏《コヲキコシメシオドロキヨロコビタフトビオモホサクハルサナホトケノメグミタマヒサキハヘタマフモノニアリトオモヘウケタマハリカシコマリイタダキモチモモノツカサノヒトドモヲヒキヰテヲロガミツカヘマツルコトヲカケマクモカシコキホトケノオホマヘニカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》。
三寶とは、佛書に、佛と法と僧との三(ツ)をいへり、然れどもこゝはたゞ佛也、下文に、三寶 乃 大前 爾とも、三寶 乃 勝(レテ)神《アヤシ》 枳 大御言とも見え、又卅八詔に、三寶 仁 供奉(リ)、四十二詔に、三寶 毛 諸天 毛、などあるも同じ、推古紀にも、三寶をホトケと訓たり、又天武紀に、云々天皇御(テ)2寺(ノ)南門(ニ)1、而禮2三寶(ヲ)1、また奉2珍賓(ヲ)於三賓(ニ)1、などあるも、たゞ佛を三寶といへり、
〇奴 止 仕奉 流、そも/\此天皇の、殊に佛法を深く信じ尊み給ひし御事は、申すもさらなる中に、これらの御言は、天神の御子(ノ)尊の、かけても詔給ふべき御言とはおぼえず、あまりにあさましくかなしくて、讀(ミ)擧るも、いとゆゝしく畏《カシコ》ければ、今は訓を闕《カキ》ぬ、心あらむ人は、此はじめの八字をば、目をふたぎて過すべくなむ、
〇盧舍那は、梵語にて、漢國にては、光明遍照とも、淨滿とも飜譯せり、また毘盧遮那《ビルシヤナ》は、※[行人偏+扁]一切處と譯して、此二つ共に、なべての佛のうへにいふこと也、又|摩訶毘盧遮那《マカビルシヤナ》は、大日と飜譯せり、然るに皇國にて古(ヘ)盧舍那といひしは、件の義どもにはあらず、いかなる故にか、たゞ大きなる佛像をいへりと聞えたり、十五詔に見えたる、河内國の智識寺の盧舍那佛といふも、大像と聞えて、三代實録十二に、河内守菅野(ノ)豐持を、智識寺の佛像を修理する別當とせられし事見えたり、大像にあらずは、さる事あらじ、そも/\大佛像をしも、わきて盧舍那といへるは、心得がたきこと也、又盧舍那と毘盧舍那とは、別《コト》事と聞えたるに、此東大寺の大佛を、文徳實録三代實録などには、大毘盧舍那佛とも毘盧舍那大佛とも記されたり、これによりて思へば、此大佛は、大日かと思へば、さも見えぬさま也、そのかみいまだ密教は渡りまうで來ざりし御世なれば、大日なるべきにあらず、元亨釋書などに、日輪を附會して、大日佛のごとくいへるは、いと心得ぬこと也、或は釋迦なりといふは、さも有べし、然れども盧舍那といふは、釋迦一佛の名にはあらず、又釋迦の名としていへるにもあらず、かにかくに大きなる佛像の名としていへりとこそ聞ゆれ、さて此東大寺の大像、長(ケ)十六丈、殿(ノ)高(サ)廿五丈六尺、東西廿九丈、南北十七丈と、或書にいへる、此量みな疑ひ有、さて又此像は、此時既に成(リ)訖(リ)たるさまなるに、此後天平勝寶四年四月、盧舍那大佛像成(テ)、始(メテ)開眼、是日行2幸東大寺(ニ)1云々、とあるはいかゞ、かれは此十二詔の時の事なるが、記のまがひたるにはあらざるか、月も共に同じ四月也、此元年に既に成れるさまなるに、四年まで開眼なかるべきにあらず、
〇奏賜 部止 奏 久は、天皇の申給ふと申す也、天皇の詔給ふを、奏(シ)賜(フ)とのたまふは、佛を尊み給ひて也、さて部(ノ)字は、多くはへの假字に用ひて、此下文に用ひたるも、へなれば、こゝもへ歟とも思へど、なほこゝはふの假字也、此字、十三詔にも、ふに用ひたる例ある也、ふとへとにて、こゝの言の意、うらうへの異《カハリ》あり、ふなれば、奏(シ)賜(フ)は天皇の申給ふにて、下の奏 久は、傳ふる人の申さくなるを、部をへとする時は、奏(シ)賜(ヘ)は、申給へと、傳ふる人に詔ふ御言となりて、下の奏 久が、天皇の申給ふになる也、さては事たがへり、結《トヂメ》の、奏賜 波久止 奏(ス)も、同例にて、天皇の奏(シ)賜ふと、傳ふる人の奏すよしなるをや、
〇開闢は、はじめと訓べし、
〇黄金は、万葉十八に、久我禰《クガネ》とあるに依て訓つ、和名抄には、古加禰《コガネ》と有て、常にも然いふを、古(ヘ)はくがねといへりしにこそ、
〇人國は、異國なり、万葉十五に比等久爾《ヒトクニ》、
〇獻言 波、言は、借字にて、たゞ添(ヘ)たる辭なり、
〇從五位上、和名抄に、正四位上(ハ)、於保伊與豆乃久良井乃加美豆之奈《オホイヨツノクラヰノカミツシナ》、從八位下(ハ)、比呂伊夜豆乃久良井乃之毛豆之奈《ヒロイヤツノクラヰノシモツシナ》と有(リ)、すべての位階、これにならひて訓べし、但し於保伊比呂伊《オホイヒロイ》の伊《イ》は、後の音便に頽《クヅ》れたる訓也、共に伎《キ》と訓べし、古今集序に、おほきみつの位とあるぞ正しき、
〇百濟王敬福、百濟《ウダラ》は姓《ウヂ》、王《コニキシ》は尸《カバネ》、敬福は名也、天平神護二年六月、刑部卿從三位百濟(ノ)王敬福薨と有て、そこに傳あり、云々、天平年中、仕(ヘテ)至2從五位上陸奥守(ニ)1、時(ニ)聖武皇帝、造2盧舍那銅像(ヲ)1、冶鑄云畢(テ)、塗金不v足、而(ルニ)陸奥(ノ)國馳(テ)v驛(ヲ)、貢2小田(ノ)郡所(ノ)v出、黄金九百兩(ヲ)1、我(ガ)國家黄金、從(リ)v此始(テ)出(ヅ)焉、聖武皇帝甚以(テ)嘉尚(シテ)、授2從三位(ヲ)1、云々、神護(ノ)初(メ)、
任2刑部卿(ニ)1、薨時年六十九と有(リ)、陸奥(ノ)守になれるは、天平十八年九月也、然るをそれより先(キ)、十五年六月の處にも、爲2陸奥(ノ)守(ト)1とあるは、紀の誤也、二度なれるにはあらず、さて此百濟氏は、敬福卿の曾祖父禅廣、參來《マヰキ》て皇朝に仕奉て、百濟(ノ)王といふ舊號を賜ひてより、それ即(チ)姓尸《ウヂカバネ》となれる也、王は、許爾伎志《コニキシ》又|許伎志《コキシ》と訓べし、これをしもオホキミと訓(ム)は、いみしきひがこと也、又敬福は音讀也、異國人の子孫には、字音の名多し、
〇部内は、孝徳紀には、クニと訓れども、天武紀に、所部《クニノウチノ》百姓とあるに依て、くにのうちと訓つ、敬福の治むる國の内也、
○黄金出在、諸本に出(ノ)字脱たり、今補へり、十三詔にも、小田(ノ)郡 爾 黄金|出在《イデタリ》 止 奏 弖と有(リ)、出たりのたりは、てありの切《ツヅマ》りたる辭なるが故に、在(ノ)字を書(ク)也、さて此黄金の出たる事は、天平廿一年二月、陸奥(ノ)國始(メテ)貢(ル)2黄金(ヲ)1、於是奉(テ)v幣(ヲ)以告2畿内七道(ノ)諸社(ニ)1、とある是也、かくて同四月丁未に、天平感寶と改元有しも、此黄金の出たるによりて也、さて同月乙卯、陸奥守從三位百濟王敬福、貢(ル)2黄金九百兩1とあるは、始めて貢りたる後に、又貢りたるにや、これは此詔より後の事也、万葉十八に、大伴家持の、賀2陸奥(ノ)國(ヨリ)出(セル)v金(ヲ)詔書(ヲ)1長歌あり、此度の事也、其歌に、鷄鳴東國能美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮《トリガナクアヅマノクニノミチノクノヲダナルヤマニクガネアリトマウシタマヘレ》云々、同反歌に、須賣呂伎能御代佐可延牟等阿頭麻奈流美知能久夜麻爾金花佐久《スメロギノミヨサカエムトアヅマナルミチノクヤマニクガネハナサク》、そも/\黄金の事、これよりさき文武天皇の御世、大寶元年にも、陸奥國に人を遣はして、冶(ハ)v金(ヲ)しむる事見えたれども、成らざりしなるべし、又同年、對馬より出せる事も見えたれど、そは詐欺なりしよし見えたり、さて此天平廿一年の後は、つゞきて出たりと見えて、勝寶四年二月、陸奥(ノ)國(ノ)調庸(ハ)者、多賀以北(ノ)渚郡(ハ)、令(ム)v輸2黄金(ヲ)1、其法、正丁四人一兩と有(リ)、
〇物 爾 有(リ)は、ものなり也、
〇念 閇は、念 閇婆と、いふべきを、婆《バ》を省きていはざる古語の一(ツ)の格也、十四詔に、不敢賜有 禮《アヘタマハズアレ》云々、また負賜 閇《オホセタマヘ》云々、廿六詔に、所念坐 世《オモホシマセ》云々、などあるも、みな同格にて、あれば賜へばませばの意也、此格、万葉(ノ)卷々の長歌にも多かり、
〇受賜(ハ) 里は、盧舍那佛の授(ケ)賜へる此黄金を、受て被《ハリ》v賜《タマ》給ふよし也、
〇恐(マ) 理は、恐 美《カシコミ》といふと同じくて、美《ミ》より少し重く聞ゆ、他詔にも、恐 麻利と多く有(リ)、すべて美《ミ》とも麻理《マリ》ともいふ言、屈《カガ》みかゞまり、縮《シジ》みしゞまりなど、猶有(リ)、
〇禮拜仕奉は、今日かく參詣坐《マヰデマシ》てなり、
〇恐 美 恐 美毛は、諸本、字を誤り或は脱せり、印本には、恐 毛 无 久と作《カキ》、一本には、恐 毛 无 毛と作、一本には、恐 毛 恐 无毛と作る、皆誤也、まづ恐 毛の毛は、誤(リ)なること論なし、次に无 久と作《カキ》、无 毛と作《カケ》るは、恐(ノ)字を脱して、細書の无を、大字に誤りたる也、また恐 无毛と作るは、今(ノ)京となりてこなたの宣命には、恐 无 恐 无毛《カシコムカシコムモ》ともある、そは美《ミ》を、例の音便に无《ム》といひなせるにて、後の正しからざる辭なるを、その音便辭になれたる後の人の、こゝをも、无毛とは寫誤れる物なるべし、十五詔に、恐 美 恐 美毛申賜 久とあるをも、類聚國史には、二(ツ)の美《ミ》を、共に无《ム》と作るを以ても、その誤れる例を准へ知べし、此紀の詔には、无毛《ムモ》といへる例なし、恐 美 恐 美毛といふことは、出雲國造神賀詞、齋内親王奉入時祝詞などを始め、其外も多く見えて、定まれる語なる故に、今は改め正しつ、
第十三詔
上(ノ)件の詔につゞきて、從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣と有(リ)、上なるは、佛像に詔給へる也、此詔は、此時に、群臣百寮及士庶、分頭行2列(ス)殿(ノ)後(ニ)1。とあるもろ/\の人に、宣《ノリ》聞しむる詔也、
現神御宇倭根子天皇詔旨宣大命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 尓 天降坐 之 天皇御世 乎 始 天 中今 爾 至 麻弖爾 天皇御世御世天日嗣高御座 尓 坐 弖 治賜 比 惠賜來 流 食國天下 乃 業 止奈母 神奈我良 母 所念行 久止 宣大命衆間食宣《タカマノハラユリアモリマシシスメラガミヨヲハジメテナカイマニイタルマデニスメラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテヲサメタマヒメグビタマヒクルヲスクニアメノシタノワザトナモカムナガラモオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。加久治賜 比 惠賜來 流 天日嗣 乃 業 止 今皇族御世 爾 當 弖 坐者天地 乃 心 遠 勞 彌 重 彌 辱 美 恐 美 坐 爾 聞食食國 乃 東方陸奥國 乃 小田郡 爾 金出在 止 奏 弖 進 禮利《カクヲサメタマヒメグビタマヒクルアマツヒツギノワザトイマスメラワガミヨニアタリテマセバアメツチノココロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミイマスニキコシメスヲスクニノヒムカシノカタミチノクノクニノヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此 遠 所念 波 種種法中 爾波 佛大御言 之 國家護 我多仁 波 勝在 止 聞召食國天下 乃 諸國 爾 最勝王經 乎 坐盧舍那佛化奉 止 爲 弖 天坐神地坐神 乎 祈祷奉挂畏遠我皇天皇御世治 弖 拜仕奉 利 衆人 乎 伊謝 奈比 率 弖 仕奉心 波 禍息 弖 善成危變 弖 全平 牟等 念 弖 仕奉間 爾 衆人 波 不成 ※[加/可]登 疑朕 波 金少 牟止 念憂 都都 在 爾 三寶 乃 勝神 枳 大御言驗 乎 蒙 利 天坐神地坐神 乃 相宇豆 奈比 奉佐枳 波倍 奉 利 又天皇御霊 多知乃 惠賜 比 撫賜 夫 事依 弖 顯 自 示給 夫 物在 自等 念召 波 受賜 利 歡受賜 利 貴進 母 不知退 母 不知夜日畏恐 麻利 所念 波 天下 遠 撫惠 備 賜事理 爾 坐君 乃 御代 爾 當 弖 可在物 乎 拙 久 多豆何 奈伎 朕時 爾 顧 自 示給 禮波 辱 美 愧 美奈母 念須《コヲオモホセバクサグサノノリノナカニハホトケノオホミコトシミカドマモルガタニハスグレタリトキコシメシテヲスクニアメノシタノクニグニニサイソウワウキヤウヲマセルサナホトケツクリマツルトシテアメニマスカミクニニマスカミヲイノリマツリカケマクモカシコキトホスメロギヲハジメテミヨミヨノスメラガミタマタチヲヲロガミツカヘマツリモロヒトヲイサナヒヒキヰテツクリマツルココロハワザハヒヤミテヨクナリアヤフキカハリテマタクタヒラガムトオモホシテツカヘマツルアヒダニモロヒトハナラジカトウタガヒワレハクガネスクナケムトオモホシウレヒツツアルニホトケノスグレテアヤシキオホミコトノシルシヲカガフリアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツリマタスメロギノミタマタチノメグビタマヒナデタマフコトニヨリテアラハシシメタマフモノナラシトオモホシメセバウケタマハリヨロコビウケタマハリタフトビススムモシラニシゾクモシラニヨルヒルカシコマリオモホセバアメノシタヲナデメグビタマフコトコトワリニイマスキミノミヨニアタリテアルベキモノヲヲヂナクタヅガナキワガトキニアラハシシメシタマヘレバカタジケナミハヅカシミナモオモホス》。是以朕一人 夜波 貴大瑞 乎 受賜 牟《ココヲモテアレヒトリヤハタフトキオホキシルシヲウケタマハラム》。天下共頂受賜 利 歡 流自 理可在 等 神奈我良 母 念坐 弖奈母 衆 乎 惠賜 比 治賜 比 御代年號 爾 字加賜 久止 宣天皇大命衆聞食宣《アメノシタトモニイタダキウケタマハリヨロコバシムルコトワリナルベシトカムナガラモオモホシマシテナモモロモロヲメグビタマヒヲサメタマヒミヨノナニモジジクハヘタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別 弖 宣 久 大神宮 乎 始 弖 諸神 多知爾 御戸代奉 利 諸祝部治賜 夫《コトワケテノリタマハクオホミカミノミヤヲハジメテモロモロノカミタチニシロタテマツリモロモロノハフリヲサメタマフ》。又寺寺 爾 墾田地許奉 利 僧綱 乎 始 弖 衆僧尼敬問 比 治賜 比 新造寺 乃 〔官〕寺 止 可成 波 官寺 止 成賜 夫《マタテラデラニハリタノトコロユルシマツリホウシノツカサヲハジメテモロモロノホウシアマヰヤマヒトヒヲサメタマヒアラタニツクレルテラノオホヤケデラトナスベキハオホヤケデラトナシタマフ》。大御陵守仕奉人等一二治賜 夫《オホハカモリツカヘマツルヒトドモヒトリフタリヲサメタマフ》。又御世御世 爾 當 天 天下奏賜 比 國家護仕奉 流 事 乃 勝在臣 多知乃 侍所 爾波置表 弖 與天地共人 爾 不令侮不令穢治賜 部止 宣大命衆聞食宣《マタミヨミヨニアタリテアメノシタマヲシタマヒミカドマモリツカヘマツルコトノスグレタルオミタチノハヘルトコロニハシルシヲオキテアメツチトトモニヒトニアナドラシメズケガサシメズヲサメタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又天日嗣高御座 乃 業 止 坐事 波 進 弖波 挂畏天皇大御名 乎 受賜 利 退 弖波 婆婆大御祖 乃 御名 乎 蒙 弖之 食國天下 乎婆 撫賜惠賜 夫止奈母 神奈我良 母 念坐須《マタアマツヒツギタカミクラノワザトマスコトハススミテハカケマクモカシコキスメラガオホミナヲウケタマハリシゾキテハハハオホミオヤノミナヲカガフリテシヲスクニアメノシタヲバナデタマヒメグビタマフトナモカムナガラモオモホシマス》。是以王 多知 臣 乃 子等治賜 伊自 天皇朝 爾 仕奉 利 婆婆 爾 仕奉 爾波 可在《ココヲモテオホキミタチオホオミノコドモヲサメタマフイシスメラガミカドニツカヘマツリハハニツカヘマツルニハアルベシ》。加以挂畏近江大津宮大八嶋國所知 之 天皇大命 止之弖 奈良宮大入洲國所知 自 我皇天皇 止 御世重 弖 朕宣 自久 大臣 乃 御世重 天 明淨心以 弖 仕奉事 爾 依 弖奈母 天日嗣 波 平安 久 聞召來 流《シカノミニアラズカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニオホヤシマクニシロシメシシスメラガオホミコトトシテナラノミヤニオホヤシマクニシロシメシシワガオホキミスメラミコトアレニノリタマヒシクオホオミノミヨカサネテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツルコトニヨリテナモアマツヒツギハタヒラケクヤスクキコシメシクル》。此辭忘給 奈 棄給 奈止 宣 比之 大命 乎 受賜 利 恐 麻利 汝 多知乎 惠賜 比 治賜 久止 宣大命衆聞食宣《コノコトワスレタマフナステタマフナトノリタマヒシオホミコトヲウケタマハリカシコマリイマシタチメグビタマヒヲサメタマハクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又三國眞人石川朝臣鴨朝臣伊勢大鹿首部 波 可治賜人 止自弖奈母簡賜 比 治賜夫《マタミクニノマヒトイシカハノアソミカモノアソミイセノオホカノオビトドモハヲサメタマフベキヒトトシテナモエラビタマヒヲサメタマフ》。又縣犬養橘夫人 乃 天皇御世重 弖 明淨心以 弖 仕奉 利 皇朕世當 弖毛 無怠緩事 久 助仕拳 利 加以祖父大臣 乃 殿門荒穢 須 事无久 守 川川 在 之 事伊蘇 之美 宇牟賀 斯美 忘不給 止自弖奈母 孫等一二治賜 夫《マタアガタノイヌカヒノタチバナノオホトジノスメラガミヨカサネテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツリスメラワガミヨニアタリテオコタリタユムコトナクタスケツカヘマツリシカノミニアラズオホヂオホオミノトノカドアラシケガスコトナクマモリツツアラシシコトイソシミウムガシミワスレタマハズトシテナモヒコドモヒトリフタリヲサメタマフ》。又爲大臣 弖 仕奉 部留 臣 多知乃 子等男 波 隨仕奉状 弖 種種治賜 比川禮等母 女不治賜《マタオホオミトシテツカヘマツラヘルオミタチノコドモヲノコハツカヘママツルサマニシタガヒテクサグサヲサメタマヒツレドモメノコハヲサメタマハズ》。是以所念 波 男 能未 父名負 弖 女 波 伊婆 禮奴 物 爾 阿體 夜 立雙仕奉 自 理在 止奈母 念 須《ココヲモテオモホセバヲノコノミチチノナオヒテメノコハイハレヌモノニア ヤタチナラビツカヘマツルシコトワリナリトナモオモホス》。父 我 加久斯麻 爾 在 止 念 弖 於母夫 氣 教 部牟 事不過不失家門不荒 自弖 天皇朝 爾 仕奉 止自弖奈母 汝 多知乎 治賜 夫《チチガカクシマニアレトオモヒテオモブケヲシヘケムコトアヤマタズウシナハズイヘカドアラサズシテスメラガミカドニツカヘマツレトシテナモイマシタチヲヲサメタマフ》。又大伴佐伯禰 波 常 母 云〔如〕 久 天皇朝守仕奉事顧 奈伎人等 爾 阿禮 波 汝 多知乃 祖 止母乃 云來 久 海行 波 美豆久 屍 山行 波 草牟 須 屍王 乃 幣 爾去曾 死 米 能抒 爾波不死 止 云來 流 人等 止奈母 聞召 須《マタオホトモサヘキノスクネハツネモイフゴトクスメラガミカドマモリツカヘマツルコトカヘリミナキヒトドモニアレバイマシタチオヤドモノイヒクラククウミユカバミヅクカバネヤマユカバクサムスカバネオホキミノヘニコソシナメノドニハシナジトイヒクルヒトドモトナモキコシメス》。是以遠天皇御世始 弖 今朕御世 爾 當 弖母 内兵 止 心中 古止波奈母 遣 須《ココヲモテトホスメロギノミヨヲハジメテイマワガミヨニアタリテモウチノイクサトオモホシメシテコトハナモツカハス》。故是以子 波 祖 乃 心成 伊自 子 爾波 可在《カレココヲモテコハオヤノココロナスイシコニハアルベシ》。此心不失 自弖 明淨心以 弖 仕奉 止自弖奈母 男女并 弖 一二治賜 夫《コノココロウシナハズシテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツレトシテナモヲノコメノコアハセテヒトリフタリヲサメタマフ》。又五位己上子等治賜 夫《》マタイツツノクラヰヨリカミツカタノコドモヲサメタマフ。六位已下 爾 冠一階上給 比 東大寺〔造〕人等二階加賜 比 正六位上 爾波 子一人治賜 夫《ムツノクラヰヨリシモツカタニカガフリヒトシナアゲタマヒヒムカシノオホテラツクレルヒトドモノニフタシナクハヘタマヒオホキムツノクヲヰノカミツシナニハコヒトリヲサメタマフ》。又五位已上及皇親年十三已上无位大舎人等至干諸司仕丁 麻弖爾 大御手物賜 夫《マタイツツノクラヰヨリカミツカタオヨビミウガラノトシトヲマリミツヨリカミナルクラヰナキオホトネリドモツカサヅカサノツカヘヨホロニイタルマデニオホミテツモノタマフ》。又高年人等治賜 比 困乏人惠賜 比 孝義有人其事免賜 比 力田治賜 夫《マタトシタカキヒトドモヲサメタマヒマヅシキヒトメグビタマヒケウギアルヒトソノコトユルシタマヒリキデムヲサメタマフ》。罪人赦賜 夫《ツミビトユルシタマフ》。又王生治賜 比 知物人等治賜 夫《マタフムヤワラハヲサメタマヒモノシリビヒトドモヲサメタマフ》。又見出金人及陸奥國國司郡司百姓至 麻弖爾 治賜 比 天下 乃 百姓衆 乎 撫賜 比 惠賜 久止 宜天皇大命衆聞食宣《》マタクガネヲミイデタルヒトオヨビミチノクノクニノミコトモチコホノミヤツコオホミタカラニイタルマデニヲサメタマヒアメノシタノオホミタカラモロモロヲナデタマヒメグビタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル。
高天原 尓、尓(ノ)字は誤也、第四詔に、高天原 與利と有て、こゝと語のつゞき同じことなるを、一本には由利《ユリ》と有(リ)、第七詔にも、自《ヨリ》を由利といへり、又第六詔には、高天原 由と有、これは利(ノ)字の脱たるか、こゝもかの例にて、尓(ノ)字は、由を誤れりとして有べきか、されど利《リ》を略きて、由《ユ》とのみいへること、文には例なければ、いかゞ也、なほ由利《ユリ》もしくは余利《ヨリ》なりけむを、利(ノ)字を落し、尓に誤れる也、
〇中今、上に出、
〇高御座 尓 坐 弖、尓(ノ)字、諸本に止に誤れり、今改む、第三詔第四詔第五詔などの例を見て知べし、
〇天日嗣 乃 業 止、止《ト》は、としての意也、此同じ語、第四詔にも有、
〇此 遠 所念 波は、此事をおもほしめすにといふ意也、此御詞ははるかに下の、示(シ)給 夫 物在《モノナラ》 自止 念(シ)召(セ) 波、といふ處までへ係れり、
〇種々(ノ)法中 爾波云々は、もろ/\の道の中に、國家を護るためには、佛の説|勝《スグ》れたりといふ也、種々(ノ)法中といふは、何とかや、佛の諸の法の中にと聞えて、其中に、國家を護るには、最勝王經すぐれたり、といふ意のごと聞ゆれども、語のやう、其意にはとりがたく、又こは盧舍那佛作奉へも係りたれば、其意にはあらず、さて印本には、佛(ノ)御言と有て、大(ノ)字はなし、今は一本に依れり、下にも、三寶 乃 勝(レテ)神《アヤシ》 枳 大御言とあれば也、之(ノ)字、印本に久に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇國家は、アメノシタとも、ミカドとも訓る中に、こゝはミカドと訓べし、下文に、天(ノ)下奏賜 比、國家護(リ)仕奉とも有、
〇多仁 波は、爲《タメ》には也、万葉五に、奈良乃美夜古邇《ナラノミヤコニ》、許牟比等乃多仁《コムヒトノタニ》、佛足石(ノ)歌に、乃利乃多能《ノリノタノ》、與須加止奈禮利《ヨスガトナレリ》と有、多能《タノ》はための也、
〇最勝王經は、金光明最勝王經とて、十卷卅一品あり、唐の三藏義淨譯也、國を護る事を、むねと説たる經にて、此經のことは、天武紀、五年に、遣(シテ)2使(ヲ)於四方(ノ)國(ニ)1、説(シム)2金光明經仁王經(ヲ)1、九年に、説(シム)2金光明經(ヲ)于宮中及諸寺(ニ)1、朱鳥元年に、請(テ)2一百僧(ヲ)1、讀(シム)2金光明經(ヲ)於宮中(ニ)1、持統紀、六年に、詔(シテ)令d京師及四畿内、講c説(セ)金光明經(ヲ)u、八年に、以2金光明經一百部(ヲ)1送(リ)2置(テ)諸國(ニ)1必取(テ)2毎年正月上(ツ)玄《ユハリニ》1讀(シム)v之(ヲ)、十年に、勅旨講2讀金光明經(ヲ)1、など見えて、文武天皇よりこなたの御世/\にも、此類の事たえず、此聖武天皇の御世には、神龜五年十二月、金光明經、六十四帙、六首四十卷(ヲ)、頒(ツ)2於諸國(ニ)1、國別(ニ)十卷、先v是諸國(ニ)所(ノ)v有金光明經、或(ハ)國(ゴトニ)八卷、或(ハ)國(ゴトニ)四卷(ナリ)、至v是寫備頒下、随2經到日1、即令(ム)2轉讀(セ)1、爲(メ)v令2國家平安(ナラ)1也、また天平十三年三月、詔曰(ク)云々、經(ニ)云(ク)、若(シ)有(テ)2國王1、講2宣讀誦、恭敬供義1流2通(セバ)此(ノ)經王(ヲ)1者、我等四王常(ニ)來(テ)擁護(セム)云々、宜(シ)v令(ム)d天下諸國、各敬(テ)造(リ)2七重(ノ)塔一區(ヲ)1、并(ニ)寫c金光明最勝王經、妙法蓮華經各十部(ヲ)u、朕又別(ニ)擬(ス)d寫(テ)2金字(ノ)金光明最勝王經(ヲ)1、毎(ニ)v塔各令(メムト)uv置2一部(ヲ)1云々、又毎(ニ)v國、僧寺(ニハ)必令(メ)v有2二十僧1、其寺(ヲ)名(ケテ)爲2金光明四天王護國(ノ)之寺(テ)、尼寺(ニハ)一十尼、其寺(ヲ)名(ケテ)爲2法華滅罪(ノ)之寺(ト)1云々、其僧尼、毎月八日、必應(シ)v轉2讀最勝王經(ヲ)1云々、また同十九年十一月の詔にも、件の事のいまだ成ざるにつきて、諸國司の怠緩を咎めて、催し仰せられたり、四天王の事は、かの經に、四天王護國品といふ有て、國を護る事を説たれはなり、仁王經金光明經法華經、これを鎭護守護三部経とも、鎭護國家三部經ともいふ也、
〇坐は、麻世《マセ》と訓べし、麻世は、令《セ》v坐《マサ》の切《ツヅマ》りたる言にて、こゝは置《オク》をいへり、欽明紀に安2置《マセマツル》小墾田(ノ)家(ニ)1、敏達紀に、安2置《マセマツル》彌勒(ノ)石像(ヲ)1など見え、此外にも、人を坐(サ)しむるをも、マセと訓ること多し、
〇化奉、化(ノ)字は、作を誤れる也、そも/\此盧舍那佛を造り給ふ事のはじめは、天平十五年十月の、漢文の詔に見えたり、其時は、近江國の紫香樂《シガラキ》に、都を遷さむとおぼしめししころにて、此大佛をも、かしこの山に、造り始め給ひしを、京うつりの事止にし故に、平城に造られたる也、
〇遠我皇天皇御世治 弖 此所聞えず、誤(リ)あるべし、遠天皇《トホスメロギ》と申すことは、第一詔の解にいへる如く、例多かるを、遠我皇といふことは、例もことわりもなし、又|我皇天皇《ワガオホキミスメラミコト》と詔給へる例は多かれど、それもこゝにはよしなし、かにかくに我皇(ノ)二字は、衍なるべし、治(ノ)字は、始の誤なるべし、さて考るに、下の文に、天(ニ)坐神地(ニ)坐神 乃、相宇豆 奈比 奉(リ)、佐枳 波倍 奉 利、又天皇(ノ)御靈 多知乃 惠賜 比云々、とあると照して思へば、こゝは、遠天皇始 弖《トホスメロギヲハジメテ》、御世御世天皇御靈《ミヨミヨノスメラガミタマ》 多知乎 拜《ヲロガミ》、など有(リ)けむが、亂れ脱《オチ》誤れるなるべし、故(レ)姑くかく訓て、後の考をまつ也、また世治 弖の三字、靈 多知乎の誤にて、遠天皇の御靈たちを拜(ミ)、ならむかとも思ひしかど、さては遠天皇の御靈のみを拜(ミ)給ひて、近き御世/\の御靈、あづかり給はねば、いかゞ也、
〇仕奉心 波、仕(ノ)字は、作を誤れるなるべし、たとひ仕奉にても、作(リ)奉(ル)意也、心 波は、此大佛を造り給ふ意趣は也、
○善成、成は借字也、ヨクナリと訓べし、禍の止《ヤミ》て、なほるをいふ也、ヨキコトナリとも訓べけれども、次の全平《マタクタヒラガム》の對なれば、これも用言なるべき也、
〇危《アヤフキ》は、體言にて、危(キ)事也、
〇不成 ※[加/可]登は、此事いたく大造なれば、成がたからむかと疑ふ也、
〇金少 牟止、少は、スクナケムと訓べし、すくなからむの意也、金は、皇國には出ず、異國より渡(リ)來るばかりなれば、足《タラ》じとなり、朝野群載に、此大佛の大きさなど記せる處に、用ひたる錬金、一萬四百三十六兩とあり、
○憂 都都、一本には門々、一本には川々と作《カキ》タリ、
○大御言(ノ)驗 乎 蒙とは、此度黄金の出たること也、佛の説に、國家を護り、福をあたふることを説たる、其驗を得給へるよし也、
〇撫賜 夫、夫(ノ)字、本どもに、天に誤(ル)、今改む、さて夫(ノ)字は、古事記万葉などには、必(ズ)濁音にのみ用ひたるを、此紀には、清音にも多く用ひたり、
〇事(ニ)依 弖、依(ノ)字、印本又一本には、從と作《カケ》り、今は一本に依(ル)、
〇顯 自 示給 夫 物在 自は、黄金の事也、物《モノ》は辭也、其黄金をさしていふにはあらず、
〇念召 波、印本、波(ノ)字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇受賜 利 歡は、此賜へる黄金を受て也、歡(ノ)字、一木に觀と作るは誤也、
○所念 波は、思(シ)召(ス)にといふ意也、上の畏恐 麻利にて、語を切(ル)べし、云々|恐《カシコ》まりて、此事を思ふに、といふ意なり、
○天下 遠、遠(ノ)字、一本裳に誤れり、
○理 爾 坐君は、理のごとくにかなひ給へる君也、
○可在物 乎は、かゝる貴き寶の始めて出る事は也、
〇多豆何 奈伎は、こゝより外には見えぬ言也、拙《ツタナ》し劣《ヲヂナ》しなどと、同意の言と聞ゆ、たどりなきといふことならむか、物をよく思ひめぐらすを、たどるといひて、物語書などに、たどりあり、たどり深し、たどりなしなど、多くいへり、たづきをも、たどきともいへば、どとづと通ふべし、源氏物語須磨(ノ)卷(ノ)歌に、たづがなき雲ゐにひとりねをぞなくとよめるは、たづきなき意によめりと聞ゆれば、こゝとは意異也、
〇給 礼波、礼(ノ)字、一本に尓と作るは誤也、
〇朕一人 夜波云々は、朕一人のみ、これを受(ク)べきにはあらずの意也、さて夜波《ヤハ》といふ辭、万葉には、夜母《ヤモ》とのみ有て、夜波とはいはざるを、これはめづらし、今一つ、十六詔にも見えたり、
〇大瑞、黄金の出たるをも、御世の祥瑞とする也、
〇歡 流自は、上に令(ノ)字有しが、脱たるなるべし、然らざれば、流(ノ)字讀(ミ)がたく、又ことわりも令《シム》とあるべき也、故(レ)ヨロコバシムルシと訓つ、自《シ》は助辭也、
〇字加賜(フ)は、同月丁未、天皇幸2東大寺(ニ)1云々、改(テ)2天平二十一年(ヲ)1、爲2天平感寶元年(ト)1、とある是也、もとよりの天平に、感寶(ノ)二字を如へ給ふ也、
〇御戸代は、或人の、御年代也といへる、よろし、年とは稻をいふ、神の御稻をつくる料の田也、代は、苗代などいふ代にて、即(チ)田のこと也、書紀に、神田《ミトシロ》、神戸田地《ミトシロ》とある、神戸を訓るほあたらず、〇祝部は、こゝは神社に仕奉る、神主禰宜祝部の類を、ひろくいへるなるべし、一本に祝(ノ)字を、兄と作《カケ》るは誤也、兄部《コノカウベ》といふこともあれど、こゝにはよしなし、
〇墾田(ノ)地許奉とは、墾開《ハリ》て田とすべき地を占《シム》ることを、許し給ふなり、許《ユルス》とは、公より捨《ヨセ》賜ふにはあらで、私に、或は買得《カヒエ》、或は壇越の施入を受入(レ)などして、其寺の墾田の地とすることをゆるさるゝ也、此年七月乙巳の日、定(ム)2諸寺(ノ)墾田(ノ)地(ノ)限(ヲ)1、と有て、各其限の量を擧られたり、其中に、必擧(グ)べきが、もれたる寺々もあるは、此限を定められざりしなるべし、又それより前《サキ》、閏五月癸丑の日、寺々に※[糸+施の旁]綿布稻、墾田(ノ)地一百町づゝを捨《ヨス》とあるは、公より賜へるにて、許《ユルス》とあるとは別也、故(レ)其量、これは皆一百町なるを、かの限を定められたるは、四千町二千町一千町など見えて、こよなく多きは、公より賜ふにはあらざるが故也、万葉十八に、天平感寶元年五月五日、饗d東大寺(ノ)之占(ル)2墾地(ヲ)1使(ノ)僧平榮等(ヲ)u云々とあるは、此墾田(ノ)地を占《シム》ることを許されたるにつきての使なるべし、
〇僧綱は、保字志乃都加佐《ホウシノツカサ》と訓べし、そも/\僧官を任《メ》されたることは、推古紀、卅二年より始めて見えたり、其時の僧官は、僧正僧都法頭也、天武紀、十二年三月、任(シ)2僧正僧都律師(ヲ)1、因(テ)以(テ)勅(シテ)曰(ク)、統2領(セシメ)僧尼(ヲ)1々と見えて、朱鳥元年の處に、三綱律師とある、三綱これ僧綱にて、僧正僧都小僧都をいへるなるべし、小僧都といふも、同紀かの十二年より先(キ)に見えたれば也、かの法頭といふ官も、孝徳紀にも見えたれども、そは白衣なれば、三綱には入(ル)べからず、さて後には、僧正僧都律師を僧綱といふ、大寶二年にも、僧正大僧都少僧都律師と任《メ》されたる事見ゆ、僧尼令に、僧綱(トハ)、謂(フ)2律師以上(ヲ)1と見え、義解にも、謂(フ)2僧綱(ト)1者《ハ》、僧正僧都律師也と有(リ)、延喜(ノ)治部省式にいへる僧綱も、僧正大小僧都律師也、さて又續紀よりこなたに、諸寺(ノ)三綱といふ物有、それは天武紀に、僧綱を三綱といへるとは別にして、此三綱といふは、諸寺に有て、おの/\其寺の僧尼の事を掌るものにして、僧尼令の義解に、三綱(ハ)者、上座寺主都維那也、とある是なり、玄蕃式に見えたるも同じ、同式に、凡(ソ)諸寺、以2別當(ヲ)1爲2長官(ト)1以2三綱(ヲ)1爲2任用(ト)1と有(リ)、諸寺の三綱の事は、こゝに用なけれども、物のついでに、いさゝかいへる也、〇敬問、問は訪ふ也、さて上に許(シ)奉(リ)とある奉(リ)、こゝに敬とあるなどを以て、佛法を尊み給ひしことの甚しきを知べし、
〇新造寺、出雲國風土記に、新造院といふ物、多く見えたり、皆寺の事也、これと同じかるべし、
〇官寺 止 可(キ)v成(ス) 波、諸本、官(ノ)字を脱せり、今補ふ、本のまゝにては、聞えざれば也、
〇官寺、官(ノ)字、本に宮に誤る、今改む、官は、つねにはツカサと訓めども、私に對へて、官某といふ類は、オホヤケと訓べき也、天武紀に、司をも然訓る處有(リ)、官寺《オホヤケデラ》とは、官《オホヤケ》の治めにあづかる寺をいふ、天武紀に、九年四月、勅(ス)、凡(ソ)諸寺(ハ)者、自v今以後、除(テ)d爲《タル》2國(ノ)大寺1二(ツ)三(ツヲ)u以外(ハ)、官司莫(レ)v治(ルコト)云々、且(ツ)以爲《オモフニ》飛鳥寺(ハ)、不v可v關《アヅカル》2于司(ノ)治(ニ)1、然(レドモ)元爲(テ)2大寺(ト)1、而官司恆(ニ)治(メ)、復嘗(テ)有v功、是(ヲ)以(テ)猶入(ル)2官治(ノ)之例(ニ)1、などあるこゝろばへ也、
〇大御陵守、大(ノ)字、天と作る本はわろし、今は一本に依れり、こは陵戸の人をいふなるべし、
〇當 天、天(ノ)字、本に久に誤(ル)、今改(ム)、
〇天下奏賜は、天下の政を執(リ)申す也、本に、奏(ノ)字を、奉に誤(ル)、今改(ム)、
○侍(ル)所とは、其墓をいふ也、凡て臣等は、死《ミマカ》りて、墓に葬られて後も、なほ朝廷を護り伺候《サモラ》ふ意もて、侍《ハヘル》といへる、おもしろきこと也、古事記に、大國主(ノ)神の、於《ニ》2百不足《モモタラズ》八十|〓手《クマデ》1隱而侍《カクリテハヘラム》、と申給へる侍の意也、持統紀五年に、詔(シテ)2十八氏(ニ)1上2進《タテマツラシム》其(ノ)祖等墓記《オヤドモノオクツキフミヲ》1、といふことも有(リ)、但し釋には、墓(ノ)字、纂と作《ア》り、いづれよけむ、
〇置v表 弖、置(ノ)字、本に量に誤(ル)、今改む、万葉十八の、上に引る長歌の反歌に、大伴能等保追可牟於夜能於久都奇波《オホトモノトホツカムオヤノオクツキハ》、之流久之米多底《シルクシメタテ》、比等能之流倍久《ヒトノシルベク》と有(リ)、之米多底《シメタテ》は、標《シメ》を建よ也、此歌は、即こゝの詔にょりて、よまれたるなるべし、下文に、大伴氏のことも有也、
〇與2天地1共(ニ)は、天地のあらむかぎり、永き世までに也、
○不令侮云々は、その墓を也、
〇高御座 乃 業 止 坐事 波、坐《マス》とは、此業を尊みたる言にて、止在《トアル》の意にて、業たることは也、たるは、とあるの切《ツヅマ》りたる辭也、
〇進 弖波 退 弖波、こは事を二ついふ時にいふ、漢籍語也、皇國語にあらず、
〇挂畏天皇、こゝはむねとは、大御父文武天皇、又元明天皇元正天皇をさして申給ひ、なほ廣く、御世/\の皇祖天皇《スメロギ》にもわたるべし、
〇大御名、十一詔に、祖(ノ)名とある處にいへる如く、名とは、職業をいひて、天皇の大御名は、即(チ)天下を治め給ふ御業也、
〇婆々大御祖、すべて母を御祖《ミオヤ》といふこと、第五詔にいへるがごとし、此天皇の大御母命は、不比等(ノ)大臣の御女、文武天皇の夫人、藤原(ノ)宮子と申せし也、後に大皇大后と申して、天平勝寶六年七月に薨坐ぬ、光明皇后の御姉命に坐り、
〇御名 乎 蒙は、子を養育《ヒタ》し成長《ヒトトナ》す、これ母の職業なれば、其《ソ》を蒙り給へるよし也、そも/\こゝは、王たちと、大臣の子孫とを、治(メ)給ふにつきて詔ふ故に、先(ヅ)己(レ)命の御父母の御事を詔給ふ也、
〇念坐 須、須(ノ)字、本に流と作るは誤也、今改む、オモホシマセルといふべき處に非れば也、
〇大臣 乃 子等、等(ノ)字、一本に弟、一本に第と作《カケ》り、みなわろし、子等《コドモ》は子孫にて、こはたゞ大臣の子孫也、上の王たちよりつらねての子孫にはあらず、又十一詔に、親王等大臣等 乃 子等とあれば、こゝの王は、ミコと訓て、親王のことにて、親王の子等、人臣の子等歟とも思へど、然にはあらじ、さて大臣は、御世/\の大臣たりし人々也、
〇治賜 伊自、伊《イ》といふ助辭の事、第六詔にいへり、自《シ》も助辭也、伊自《イシ》とつらねたる例、下文に、祖 乃 心成(ス) 伊自とも有(リ)、又四十五詔には、持《タモツ》 伊波云々|捨《スツル》 伊波云々ともあり、さてこゝの類の自《シ》てふ助辭は、いづれも曾《ゾ》といふ意に近くして、重く聞ゆ、
〇天皇朝は、上の挂畏天皇とある天皇也、婆々も上なるを申給ふ也、
○仕奉 爾波 可v在、かく詔ふすべての意は、朕が御父も、かく天下の大なる御業を、朕に 授(ケ)給ひ、御母も、朕を養育《ヒタシ》成長《ヒトトナ》し給ひて、朕(レ)其御父母の御蔭を受(ケ)蒙てあれば、朕も又、其御心の如く、御世/\の御後《ミコ》たる王たち、又大臣の子どもを、治め惠まむぞ、朕(ガ)御父母の御靈に、報《ムク》い仕奉るには有べきと也、
〇加以は、卅三詔に、然 乃味仁 不v在、とあるに依て訓り、常には切《ツヅ》めて、シカノミナラズと訓(ム)なり、
〇大命 止之弖、こゝにて語を切(ル)べし、此言は、下の朕(レニ)宣 自久へ係れり、
〇奈良宮云々天皇は、元正天皇也、洲(ノ)字、本に州と作るは誤也、今改(ム)、
〇御世重 弖は、天智天皇より、元正天皇まで次々に也、
〇朕宜 自久、朕の下に、爾(ノ)字あらまほし、元正天皇の朕に詔給ひし也、さてこゝの語のすべての意は、天智天皇の大命を、天武持統文武元明元正と、御世を重ねて、次々に受腸はり傳(ヘ)來坐て、元正天皇の、これは天智天皇の詔給へるを、御世/\傳へ坐る大命ぞとて、朕に詔給ひしといふこと也、そを約《ツヅマ》やかに短くよくいひとれるは、古文の勝《スグ》れたる也、さて宣 自久といふこと他の詔にも多きを、考へわたすに、いづれも皆、當時《ソノトキ》に詔給ふにはあらで、過し方の事にいへり、能理多麻比志久《ノリタマヒシク》と訓べし、志《シ》は、過し事をいふ志《シ》也、こゝもはやく詔給ひしよし也、タマハシクと訓べきが如くなれど、そはわろし、廿八詔には、奏 之久《マヲシシク》ともある、それも過し方の事也、仁徳紀に、先(ノ)皇(ノ)謂とある謂を、ノタウビシクと訓る、ノタウビは、のたまひを、穏便言にいへるなるを、シクは古言を失はぬ訓也、さて万葉四に、吾妹子之《ワギモコガ》、念有四九四《オモヘリシクシ》、面影二三湯《オモカゲニミユ》、七に、玉拾之久《タマヒリヒシク》、常不所忘《ツネワスラエジ》、また背向爾宿之久《ソガヒニネシク》、今思悔裳《イマシクヤシモ》、八に、來之久毛知久《コシクモシルク》、古事記應神(ノ)段、太子の御歌に、泥斯久袁斯叙母《ネシクヲシゾモ》、これら志と《シク》いへる例にて、志《シ》は皆過し方をいへり、万葉十に、戀敷者氣長物乎《コヒシクハケナガキモノヲ》、廿に、故非之久能於保加流和禮波《コヒシクノオホカルワレハ》、この志久《シク》は、たゞ添(ヘ)たる辭のごと聞えて、別也、
〇大臣 乃 御世重 天は、一人の大臣の、御世を重ねて、仕奉るよしにはあらず、御世/\を重ね來るあひだ、いづれの御世とても、其時々の大臣の、明(キ)淨(キ)心を以て、仕奉るに依ての意也、
〇平安 久は、多く見えたる中に、十四詔に、天下|者《ハ》平 久 安 久、廿四詔に、天下 乎波 平 久 安 久、など有(ル)に依て訓べし、
〇宜 比之 大命は、元正天皇の也、
〇恐 麻利、今(ノ)世の言に、人のいひつくることを、承諾《ウケイレ》て畏《カシコ》まりましたといふと、おのづから通ひて聞ゆるは、本末の合へる也、
。三國(ノ)眞人は、姓氏録に、諡繼體(ノ)皇子、椀子《マリコノ》王(ノ)之後也、
〇石川(ノ)朝臣は、同書に、孝元天皇(ノ)皇子、彦太忍(ノ)信(ノ)命(ノ)之後也とあり、建内(ノ)宿禰の子、蘇賀(ノ)石川(ノ)宿禰の末也、
〇鴨(ノ)朝臣は、同書に、賀茂(ノ)朝臣(ハ)、大神《オホミワノ》朝臣同組、大國主(ノ)神(ノ)之後也云々、
〇伊勢(ノ)大鹿(ノ)首、此姓、古事記敏達(ノ)段に見ゆ、姓氏録に、大鹿(ノ)首(ハ)、津速魂(ノ)命(ノ)三世(ノ)孫、天(ノ)兒屋根(ノ)命(ノ)之後也と有(リ)、なほ件の氏々の事、委くは、皆古事記傳にいへり、
〇部《ドモ》は、第五詔に、韓人部《カラヒトドモ》とある處にいへるが如し、
〇可(キ)2治賜1人 止自弖、伴の氏々の人を、殊に治(メ)給ふ事は、いかなる故由《ユヱヨシ》ならむ、知がたし、もしくは御乳母などのたぐひにもやあらむ、
〇簡賜 比は、諸の氏人の中より、件の氏々の人を擇《エリ》出て也、又件の氏々の中にて、人を擇てにもあらむか、
〇縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)夫人、姓氏録に、縣(ノ)犬養(ノ)宿禰(ハ)、神魂(ノ)命(ノ)八世(ノ)孫、阿居太都《アケタツノ》命(ノ)之後也と見ゆ、此(ノ)夫人は、從四位下縣(ノ)犬養(ノ)宿禰東人の女にて、名を三千代と申せり、敏達天皇の御曾孫、美奴《ミヌノ》王に嫁《ミアヒ》て、葛城(ノ)王|佐爲《サヰノ》王|牟漏《ムロノ》女王などを生《ウミ》給へり、又後に藤原(ノ)不比等公の繼室となりて、光明皇后を生(ミ)奉り給ひ、和銅元年に、縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰といふ姓を賜はり、天平五年正月に薨給へる、そこに内命婦正二位と有(リ)、天平寶字四年八月、贈(リ)2正一位(ヲ)1、以爲2大夫人(ト)1とあり、天平八年に、葛城(ノ)王佐爲(ノ)王に、橘(ノ)宿禰(ノ)姓を賜へるは、此母の賜はり給へる姓を繼《ツグ》よしにて、請《コヒ》申されし故也、さて此夫人は、宮づかへはし給へれども、たゞ内命婦にて、夫人《キサキ》にはあらざるを、夫人といふは、不比等(ノ)大臣の室なるを以て也、されば此夫人をば、於保刀自《オホトジ》と訓べき也、凡て人の家の女主《メアルジ》を、刀自といへば、貴人《ウマヒト》の夫人をば、尊みて大刀自《オホトジ》とぞいへりけむ、書紀に、天皇の夫人をば、キサキと訓るはよろしきを、又|其《ソ》をオホトジとも多く訓るは、臣(ノ)家の夫人を然云(フ)より、紛ひつるものとおぼしければ、これ臣(ノ)家の夫人をば、然訓べき據とすべし、又万葉八に、天武天皇の藤原(ノ)夫人《キサキ》五百重娘を注して、字(ヲ)曰2大原(ノ)大刀自(ト)1といひ、同廿に、同天皇の藤原(ノ)夫人氷上娘を、字(ヲ)曰2氷上(ノ)大刀自(ト)1、といへるなども、尊みてかく申せし也、これらはたゞ字をかく申せしよしにて、夫人《キサキ》の號に關《アヅカ》れることにはあらず、思ひまがふべからず、天皇の夫人をばキサキと訓べきこと、第七詔にいへるが如し、さてこゝの夫人を、オホトジと訓むには、右に引る文に、爲2大夫人(ト)1とあるをば、いかに訓べきぞといふに、大夫人といふは、たゞ文書のうへの號なれば、字音に讀べし、オホオホトジなどは訓べきにあらず、
〇御世重 弖は、天武天皇より、元正天皇まで、五御世也、
〇助仕奉、本に、仕の下に、細書の天(ノ)字あるは、衍也、今削去(ル)、もし天は夫の誤にて、ツカフマツリ歟、と思ふ人もあらむか、そは後世の音便言也、古(ヘ)には然云ることなし、たとひ然いはむにても、そは音便なれば、字の假字也、夫と書べきに非ず、
〇祖父大臣は、天皇の御外祖父にて、不比等(ノ)大臣也、
〇殿門は、家|門《カド》といふも同じ、家を門といふこと、今の世も同じこと也、十六詔に、己(ガ)家々己(ガ)門々、廿八詔に、氏氏(ノ)門、卅一詔に、先祖《オヤ》 乃 門、四十五詔に、門不v絶など有(リ)、
〇守(リ) 川川 在(ラ) 自之、印本には、川々(ノ)二字なし、一本にはツゝと有(リ)、一本には川と有(リ)、今は彼(レ)此(レ)を合せて取(リ)つ、さてつの假字に、川を用ひたる例、他の詔にも多し、万葉にも十八に、安我末川君我《アガマツキミガ》といふ一(ツ)有、神樂催馬樂(ノ)歌(ノ)古本には、多く用ひたり、こは水門《ミナト》に湖(ノ)字を用ひたる類(ヒ)にて、津に此字を用ひたりし事の有しより、假字にも用ひたるにや、詳ならぬこと也、鬥(ノ)字也とするは、中々にわろし、在(ラ) 自之は、阿理《アリ》を延て阿良志《アラシ》といへるにて、立をたゝしなどいふ格也、下の之《シ》は、過し事をいふ辭也、さてこは、養老四年に、不比等(ノ)大臣|薨《カクレ》給ひしより後、此夫人の、其家をよく守りつゝ、おはせし事也、在《アリ》といふは、年月日を經《ヘ》わたる意なれば、川々《ツツ》とはいふ也、
〇伊蘇 之美は、勤《イソ》しみにて、勤《イソ》しとするをいふ、すべて此|伊蘇《イソ》は、功《イサヲ》の切《ツヅマ》りたる言にて、功《イサヲ》しきこととする意也、
〇宇牟賀斯、第七詔に出、
〇孫等は、比古抒母《ヒコドモ》と訓べし、凡て孫をば、古(ヘ)は比古といへり、さてこゝは、不比等公の孫にはあらず、此夫人の先《サキ》の夫の子、橘(ノ)諸兄公同佐爲(ノ)宿禰牟漏(ノ)女王などの子どもをいふなるべし、次の叙位の中に、橘(ノ)奈良麻呂見えたり、
〇仕奉 部留、まつれるのれを延て、らへといへる也、
〇子等は、子孫《スヱ》なり、
〇種々は、しな/”\さま/”\也、
〇治賜 比川禮等母、印本、川(ノ)字を脱せり、今は一本に依れり、又一本にはツと作り、
〇女は、こゝは賣乃古《メノコ》と訓べし、書紀に、女又女人又婦など、然訓る處多し、皇極紀に、男子女子をいへる男女を、ヲノコメノコと訓り、
〇所念(セ) 波は、おもほすにの意也、
〇父(ノ)名、十一詔に、祖(ノ)名とある處に、いへるがごとし、
〇伊婆禮奴物 爾 阿禮 夜、いはれぬとは、然らずとして取らざるをいふ言にて、こ1は、女子は父の名を負(フ)べき物にあらずとして、棄る意也、奴(ノ)字、一本に女に誤れり、阿禮夜は、あらめやといふと同意にて、あらずといふ意也、女とても、父の名を負(ハ)ざるべきにはあらずと也、
〇立雙は、男も女も也、
〇父 我 加久斯麻 爾云々、かくしまは、如此状《カクサマ》也、佐麻《サマ》を斯麻《シマ》といへるは、横《ヨコ》さまをも、よこしまといふ例の如し、今の俗言に、ゆくさまかへるさまなどを、いきしなかへりしななどいふも、しなは、しまを訛れる也、さてこゝのすべての語の意は、其父の、子を、かくのごときさまにあれかしと思ひて、然教へ趣けたる、おきてをあやまたずといふ也、麻(ノ)字、本に鹿に誤れり、今は一本に依れり、教 部牟の部(ノ)字は、祁《ケ》を誤れるなるべし、必けむと有べき處也、失(ノ)字、諸本告に誤れり、今改めつ、第十詔に、趣(ケ)賜 比奈何良、受|被賜《タマハリ》持 弖、不v忘不v失とも有、
〇大伴佐伯(ノ)宿禰、大伴(ノ)宿禰は、天(ノ)忍日(ノ)命の後にて、古事記書紀姓氏録などに見えたるが如し、佐伯(ノ)宿禰は、雄略天皇の御代、大伴(ノ)室屋(ノ)大連の世に、別れて、其子|談《カタリノ》連の末也、姓氏録に見ゆ、なほ此二氏の事、委くは、古事記傳十五の卷にいへり、
〇常 母 云如 久、諸本に、如(ノ)字なくて、語とゝのはず、聞えがたし、故(レ)今補へり、天皇の、常々詔給ふよし也、又常に世(ノ)中にて云(フ)ごとくの意にもあるべし、
〇顧 奈伎とは、己が身命をかへり見ずして、勤《イソ》しく仕奉るをいふ、万葉廿、防守の歌に、祁布與利波《ケフヨリハ》、可蔽里見奈久弖《カヘリミナクテ》、意富伎美乃《オホキミノ》、之許乃美多弖等《シコノミタテト》、伊※[泥/土]多都和例波《》イデタツワレハ、次に引(ク)十八の長歌に、可弊里見波《カヘリミハ》、勢自等許等太弖《セジトコトダテ》などあり、顧(ノ)字、一本に餘に誤れり、伎(ノ)字、波に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
○汝 多知とは、此二氏の、現在《イマアル》人々をさして詔給ふなり、
〇祖 止母は、世々の祖也、
〇云來 久は、先祖より世々、云(ヒ)傳へ來る也、
〇海行 波云々、美豆久《ミヅク》は、万葉廿に、美豆久白玉《ミヅクシラタマ》とも有て、水に漬《ツカ》る也、豆(ノ)字、本に内に誤る、一本に、鬥と作るは、さかしらなるべし、鬥(ノ)字を用ひたる例なし、もしは川(ノ)字にてもあらむか、今は万葉に依て、豆と定めつ、
〇草牟須屍は、屍の上に、草の生るをいふ、そも/\海にも山にも死なむといふことを、かくいへるは、めでたき古言也、まことにいとふるく、先祖よりいひ來つることなるべし、
〇王 乃 幣《ヘ》は、天皇の方《ヘ》にて、邊《ホトリ》の意也、俗《ヨ》に御馬前《イウマサキ》といふが如し、さてこゝの語のすべての意は、天皇の御從《ミトモ》に仕奉(リ)て、もし海を行(ク)時に事あらば、天皇の御爲《ミタメ》に命をすてて、海(ノ)中にも沈みてむ、山を行《》時ならば即(チ)其山にて、命をすてむといふ也、
〇能杼 爾波 不《ジ》v死は、事なく安らかには死なじ、にて、いたづらには死なじ、此身命をば、天皇の御爲《ミタメ》にこそ捨《ステ》めの意
也、万葉十三に、吹風母《フクカゼモ》、和者不吹《ノドニハフカズ》、また立浪裳《タツナミモ》、箆跡丹者不起《ノドニハタタズ》、さて同十八、家持主の長歌に、大伴能遠都神祖乃《オホトモノトホツカムオヤノ》、其名乎婆《ソノナヲバ》、大來目主登《オホクメヌシト》、於比母知弖《オヒモチテ》、都加倍之官《ツカヘシツカサ》、海行者《ウミユカバ》、美都久屍《ミヅクカバネ》、山行者《ヤマユカバ》、草牟須屍《クサムスカバネ》、大皇乃《オホキミノ》、敵爾許曾死米《ヘニコソシナメ》、可弊里見波《カヘリミハ》、勢自等許等太弖《セジトコトダテ》、大夫乃《マスラヲノ》、伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》、伊爾之敝欲《イニシヘヨ》、伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》、奈我佐敝流《ナガサヘル》、於夜能子等毛曾《オヤノコドモゾ》、大伴等《オホトモト》、佐伯氏者《サヘキノウヂハ》、人祖乃《ヒトノオヤノ》、立流辭立《タツルコトダテ》、人子者《ヒトノコハ》、祖名不絶《オヤノナタタズ》、大君爾《オホキミニ》、麻都呂布物能等《マツロフモノト》、伊比都雅流《イヒツゲル》、許等能都可佐曾《コトノツカサゾ》云々、
〇御世始而、始(ノ)字、印本に治に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇内兵は、宇知乃伊久佐《ウチノイクサ》と訓べし、十七詔にも、又大伴佐伯(ノ)宿禰等波、自(リ)2遠天皇(ノ)御世1、内 乃 兵 止 |爲而《シテ》、仕奉來とあり、兵は、雄略紀欽明紀に、兵士《イクサ》、天智紀に兵《イクサ》、など有(リ)、いくさとは、もと其人をいふ名也、つはものといふは、兵器のことにて、其人をいふ名にはあらざるを、漢國にては、其人をも兵といへるにならひて、後には皇國にても、もはら其人をいふ名となれり、さて又戰の時ならでも、いくさとはいふ也、万葉廿に、伊佐美多流《イサミタル》、多家吉軍士等《タケキイクサト》、禰疑多麻比《ネギタマヒ》云々、また須米良美久佐《スメラミクサ》、などあるも、事ある時にはあらず、防人をいくさといへり、さて大伴佐伯は、神代より、殊に武事《タケキワザ》をもて、仕奉る氏なるが故に、兵《イクサ》とはいふ也、内といふは、殊に親《シタシ》み給ふ稱也、内臣、又伊勢(ノ)大神宮に、内人といふあるなど、皆然也、
〇心中 古止波奈母は、むげに聞えず、誤字也、そは念召 弖奈母などを、誤れるにや、姑くかく訓て、後の考へをまつ也、奈(ノ)字、一本に大に誤れり、母(ノ)字、一本に无と作《カケ》るもわろし、
〇遣 須は、使《ツカ》ひ給ふ也、遣(ノ)字にかゝはるべからず、人を使ふといふこと、第七詔に出、
〇成(ス) 伊自、伊《イ》は助辞、上にいへり、自は助辭ながら、曾《ゾ》といふ勢(ヒ)に近し、祖 乃 心を成《ナ》すとは、父の欲思《ホリオモ》へりし心の如く、其《ソ》を成就果《ナシハタ》すをいふ、上の、父 我 加久斯麻 爾云々とある語と、思ひ合すべし、
〇子 爾波 可v在は、まことの子といふ物なるべしの意也、
〇此心不v失は、祖の心を成《ナ》すべき義を失はず也、これかの、世々の祖の、海行(カ)者《バ》云々、といひ來れる志を成《ナ》すべしとの意也、
〇并《アハセ》 弖は、男女|并《アハセ》て也、并《アハセ》て一二とつゞくにはあらず、本に、並と作るは誤也、今改む、さてこれまでは、大伴佐伯氏の事也、次の叙位の中に、大伴氏、男には、牛養稻君家持など、女には、三原、佐伯氏は、男には、淨麻呂常人毛人靺鞨など、女には美努麻女見えたり、そも/\こゝらの氏々の中に、大伴佐伯を、かくとり分て治(メ)給ふことは、上代よりの例なるべし、
〇五位已上(ノ)子等、これよりは、諸氏なべての事也、こゝの子等《コドモ》は、直《タダ》の子なり、子孫にはあらず、
〇六位已下 爾云々、六位以下は、位を一階上(ゲ)給ふに、五位以上は然らざる故は、五位以上は、やゝ貴くして、一階といへどもたやすからざれバ也、さる故に、いつとても、六位以下に一階を給ふ時も、五位以上は、其かはりに、物を給ひなどする例也、
。東大寺造(レル)人等、諸本、造(ノ)字を脱せり、今補ふ、十五詔の次に、預(レル)v造(ルニ)2東大寺(ヲ)1人(ドモ)、隨(テ)v勞(ニ)叙(ス)v位(ニ)、有v差、また十八の卷の始めつかたにも、造(レル)2東大寺(ヲ)1官人已下、優婆塞已上、一等三十三人(ニ)、叙(ス)2位三階(ヲ)1、二等二宮四人(ニ)二階、三等四百三十四人(ニ)一階、などあるをもて知べし、さて東大寺といふ名は、音に讀ても有べけれど、書紀に、百濟(ノ)大寺高市(ノ)大寺大官(ノ)大寺國(ノ)大寺など見えたれば、これも其例に、ヒムカシノオホテラと訓べき也、寺號は別にある也、
〇子一人云々、上に五位以上には、子等《コドモ》とあるは、子ども皆なるを、これは、たゞ一人づゝ也、さて又上に六位以下には、子をいはず、其身の位を上(ゲ)給ふを、其中に正六位上のみは、其身を上《ア》げずして、子一人治(メ)給ふことは、上にいへる如く、五位はやゝ貴くして、たやすからざるに、正六位上を、一階|上《ノボ》せば、五位になるを、五位までは、たやすく上《ノボ》すまじきが故に、其かはりに、子一人を上(ゲ)給ふ也、いつとても然る例也、其身をも上せたるうへに、又其子をも上すにはあらず、上の六位已下云々の次に、東大寺云々の事は隔(テ)たれども、正六位上 爾波といへる爾波《ニハ》は、六位已下云々を承《ウケ》たる辭にて、其六位已下の中に、正六位上の人にはといへる也、
〇皇親、此訓、古書に見あたらず、美宇賀良《ミウガラ》と訓べし、天武紀に親、万葉五に親族など、ウガラと訓り、神代紀に、族の訓注にも宇我邏《ウガラ》と有(リ)、さて皇親とは、五世までの諸王をいひて、天皇の御親族のよし也、天皇の御子を、一世と申し、御孫を二世、御曾孫を三世、御玄孫を四世、御來孫を五世といふ也、繼嗣令に、凡皇兄弟皇子、皆爲2親王(ト)1、以外並(ニ)爲2諸王(ト)1、自2親王1五世(ハ)、雖v得(ト)2王名(ヲ)1、不v在2皇親之限(ニ)1と有、然るに慶雲三年二月、制(スル)2七條(ノ)事(ヲ)1中に、准(スルニ)v令(ニ)、五世(ノ)之王(ハ)、雖v得(ト)2王名(ヲ)1、不(ト)v在2皇親(ノ)之限(ニ)1、今五世(ノ)之王、雖v有(ト)2王名1、已(ニ)絶(テ)2皇親(ノ)之籍(ヲ)1、遂(ニ)入(ル)2諸臣(ノ)之例(ニ)1、顧(ミ)2念(フニ)親(ム)v々(ヲ)之恩(ヲ)1、不v勝《タヘ》2絶v籍(ヲ)之痛(ニ)1、自v今以後(ハ)、五世(ノ)王在2皇親(ノ)限(ニ)1、其承(ル)v嫡(ヲ)者(ハ)、相承(テ)爲v王(ト)、自餘(ハ)如(シ)v令(ノ)、
〇年十三已上、禄令にも、凡皇親年十三以上、皆給(フ)2時服(ノ)料(ヲ)1云々と見ゆ、
〇无位大舍人、まづ舍人といふ物は、上代より有て、天皇|及《マタ》王《ミコ》たちの、親しく使ひ給ふ物也、その委き事は、古事記傳卅三の卷にいへり、かくて大舍人といふ稱は、雄略紀に始めて見えたり、これ天皇の使ひ給ふ舍人を、分て大とはいふ也、天武紀二年に、詔(シテ)2公卿大夫、及諸(ノ)臣連、并(ニ)伴(ノ)造等(ニ)1曰(ク)、夫(レ)初(メテ)出身《ミヤツカヘエセム》者(ハ)、先令(テ)v仕(ヘ)2大舍人(ニ)1、然後(ニ)選2簡(ビテ)才能(ヲ)1、以充(ヨ)2當職《カナハムツカサニ》1と見え、職員令に、大舍人八百人とあり、又文武天皇(ノ)大寶元年より、別に内舍人といふ物をも置れて、職員令に、其員九十人と有て、掌(ル)3帶v刀(ヲ)宿衛(シ)、供奉雜使(シ)、若(シ)駕行(ケバ)、分2衛(スルコトヲ)前後(ヲ)1と有(リ)、こは思ふに、大舍人は數もいと多くして、いつとなく外《ト》さまになりて、親《シタ》しからざる故に、別に又|武勇《タケ》き人をえりて、此職を置て、近く衛護《マモ》り奉る物とせられたるなるべし、内といふは、親しみ給ふよし也、中昔までも、内舍人には、武勇の人をえりてなされし也、さて大舍人も内舍人も、賤き者にはあらず、両家の子弟これに補せられし多し、さてこゝに无位とあるは、大舍人中にも、位あるは、上の六位已下云々の内にて、位階を賜へば、これは其(ノ)餘《ホカ》也、〇諸司(ノ)仕丁、仕丁は、都加閇與保呂《ツカヘヨホロ》と訓(ム)、賦役令に、凡(ソ)仕丁(ハ)者、毎(ニ)2五十戸1二人、【以2一人1充2厠丁(ニ)1、】三年(ニ)一(タビ)替(フ)云々と見えて、諸國の民、五十戸毎に、其内より、二人づゝ京に上りて、諸の官司に役《ツカ》はるゝ者也、職員令に、もろもろの官司に、直丁駈使丁とあるもの是也、猶委きことは、古事記傳卅六にいへり、さて右の賦役令の本注に、以2一人(ヲ)1云々とあるは、以の上に、十人の二字落たる也と、或人のいへる、然るべし、十人の中にて、一人を以て也、厠丁は、義解に、給2使(ス)於汲炊(ニ)1也と有て、其十人の中の汲炊などに役ふ也、
〇大御手物賜(フ)、此下に、同月戊申、大臣以下、諸司仕丁以上、賜v禄(ヲ)、各有v差と見ゆ、
〇高年人は、八十歳以上なるべし、續後紀一の詔にも、天下(ノ)給(ヘ)v侍(ヲ) 留 高年 爾 給2御物1 布と有、給(フ)v侍(ヲ)は、八十歳以上なれば也、戸令に見ゆ、
〇困乏人、四十八詔にも見えたり、五十詔五十五詔六十一詔などには、窮乏とあり、同じこと也、マヅシキヒトと訓べし、持統紀に困乏《マヅシ》と有(リ)、又此下に、五月庚寅、※[魚+環の旁]寡孤獨、及疾疹(ノ)之徒、不v能2自存1者(ニ)、給2穀五斗(ヲ)1、孝子順孫云々とあれば、右のたぐひの、不v能2自存1者をいへるならば、タシナメルヒトと訓べし、書紀に、辛苦劬勞困苦などを、然訓り、又タヅキナキヒトとも訓べし、
〇孝義、凡て漢國の名目を、取(リ)用ひられたる中に、此方の言には讀がたきもあるを、強《シヒ》て訓めば、中々にことわり明らかならざること有(リ)、此孝義など然也、徳(ノ)字孝(ノ)字など、正しく當れる訓なし、さればこゝなども、たゞ音讀にすべき也、孝義有(ル)人とは、戸令に、孝子順孫義夫節婦、とある類をいふ、
〇其事とは、課役をいふ、そも/\孝子順孫義夫節婦は、賦役令に、表(シテ)2其(ノ)門閭(ニ)1、同籍悉(ク)免(ス)2課役(ヲ)1とあれば、免されたるは、本よりのことなるべきに、かく更に分て擧らるゝは、既に門閭に表《シルシ》て、それと定まれるをいふにはあらで、又新にさるたぐひの聞えある者をえり出て、免さるゝなるべし、
〇力田、これも字音に讀べし、漢國より取れる名目也、力は勤也、田の事に動功ある者をいふ、此下に、五月庚寅云々、孝子順孫云々、力田(ノ)人(ハ)者、无位(ニ)叙(ス)2位1階(ヲ)1、とある是也、天平十九年五月、力田外從五位下前部(ノ)寶公(ニ)、授2外從五位上、其妻久米(ノ)舍人妹女(ニ)外少初位上(ヲ)1、續後紀一の詔に、力田(ノ)之輩 乃、其業超(タル)v衆(ニ)者 爾、賜2爵一階(ヲ)1 布、同二に、安藝(ノ)國言(ス)、力田佐伯(ノ)郡(ノ)人、伊福部(ノ)五百足、同姓豐公、若櫻部(ノ)繼常等、所(ノ)2耕(シ)作(ル)1田、各卅町已上、貯積(ノ)之稻、亦各四萬束已上、並(ニ)立性寛厚、周(ク)施(シ)2困乏(ニ)1、往還粮絶、風雨寄宿(ノ)之輩、皆得(ト)v頼(ルコトヲ)焉、詔(シテ)各叙(ス)2一階(ヲ)1、同十三に、下野(ノ)國那須(ノ)郡(ノ)大領、外從六位下勲七等、丈部(ノ)益野、勸2課(スルコト)農田(ヲ)1、一千五百七十一町、増2益(スルコト)戸口(ヲ)2二千四十一人(ナリ)、國司褒擧(ス)、借(ス)2外從五位下(ヲ)1、文徳實録二に、伊豫(ノ)國(ノ)力田、物部(ノ)連道吉、鴨部(ノ)首福主等、叙(ス)2位一階(ヲ)1、道吉等、傾(ケ)2盡(シテ)私産(ヲ)1、賑2贍(ス)窮民(ヲ)1、故(ニ)有2此賞1、三代實六に、和泉(ノ)國和泉(ノ)郡(ノ)人、白丁川枯(ノ)首吉守、叙(ス)2位一階(ヲ)1、奬(ムル)2力田(ヲ)1也、
〇罪人赦賜は、次の文に、乙未、大2赦天下(ニ)1云々、これ也、
〇王生、王(ノ)字は、決《ウツナ》く寫誤なり、故(レ)今二(ツ)の考(ヘ)有(リ)、一(ツ)には、壬生《ミブ》歟、凡て壬生といふは、御産部《ミウブベ》にて、御産殿《ミウブヤ》に仕奉る諸部《モロモロノトモ》也、さればもとみうぶべなるを、略きてみぶとはいふ也、其よし委くは、古事記傳卅五、仁徳(ノ)段、定2壬生部(ヲ)1とある處に、證どもを引ていへり、考(ヘ)見べし、かくてこゝは、當時《イマ》の天皇の生《アレ》坐るをりの、御産部《ミウブベ》なるべし、二(ツ)には、書の草書〓を、〓に誤れるにて、書生歟、書生は學生也、推古紀に、云々選(テ)2書生《フミナラフヒト》三四人(ヲ)1、以|俾《シム》2學習《ナラハ》1と有(リ)、訓は、書紀に、學生を、フムヤワラハとも、モノナラフヒトとも訓る中に、ものならふひととは、廣くいふべし、ふむやわらはとは、大學寮の學生をいふべし、天智紀に、學職頭を、フムヤヅカサノカミと訓れば也、かくてこゝは、學問する人を、廣くいふにはあらで、大學寮の學生に限るべければ、布牟夜和良波《フムヤワラハ》と訓べきなり、職員令に、大學寮に、學生四百人と有(リ)、わらはといふは、年十三以上十六以下より、入學する故也、さて物知(リ)人を後に擧て、學生を先(キ)に擧たるは、人數の多き故なるべし、さて件の二つの考(ヘ)の内、いづれよけむ、え思ひ定めぬを、今はしばらく、物知(リ)人とつらね擧られたるによりて、書生の方につきて訓つ、なほよき考(ヘ)をまつものぞ、
〇知物人等、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞に、百 能 物知(リ)人等と有(リ)、さてこゝは、これも世の物知人を廣くいふにはあらで、大學寮の諸博士をいふなるべし、職員令に、大學寮に、博士一人、助教二人、音博二人、算博士二人などある類也、
〇見2出金(ヲ)1人及云々は、次の文に、從五位上百濟(ノ)王敬幅、從三位を授(ケ)られ、五月庚寅、陸奥(ノ)國(ハ)者、免2三年(ノ)調庸(ヲ)1、小田(ノ)郡(ハ)者、永免(ス)、其年限(ハ)者、待《マテ》2後(ノ)勅(ヲ)1、また閏五月甲辰、陸奥(ノ)國(ノ)介從五位下、佐伯(ノ)宿禰全成、鎭守判官從五位下、大野(ノ)朝臣横刀(ニ)、並(ニ)授2從五位上(ヲ)1、大掾正六位上、余足人、獲(タル)v金(ヲ)人、上総(ノ)國(ノ)人、丈部(ノ)大麻呂(ニ)、並(ニ)從五位下云々、
出(セル)v金(ヲ)山(ノ)神主、小田(ノ)郡、日下部(ノ)深淵(ニ)、外少初位下とあり、郡司の事は見えず、郡司の訓は、西宮記に、大領(ハ)、古保乃見ヤツ古、北山抄には、古本乃ミヤツコ、又|大《オホ》古本乃ミヤツコ、領(ハ)、古本乃ミヤツ古、
〇天下 乃 百姓云々は、上件の五月庚寅、小田(ノ)郡(ハ)者云々の次に、自餘(ノ)諸國(ハ)者、國別(ニ)、一年(ニ)免(ス)2二郡(ノ)調庸(ヲ)1、毎年相替(テ)、周(ク)2盡(ス)諸郡(ヲ)1、又咸(ク)免(ス)2天下(ノ)今年(ノ)田租(ヲ)1、とある是也、
續紀歴朝詔詞解三卷
本居宣長解
第十四詔
十七の卷に、天平勝寶元年秋七月甲午、皇太子受v禅即2位(ニ)於大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、皇太子は、孝謙天皇也、これよりさき閏五月丙辰、天皇遷2御藥師寺(ノ)宮(ニ)1、爲2御在所(ト)1と有、又同月それよりさき、癸丑(ノ)日の御願文にはやく、太上天皇沙彌勝滿、とあるはいふかし、御讓位はそれよりさきに有けるにや、
現神 止 御宇倭根子天皇 可 御命 良麻止 宣御命 乎 衆聞食宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。高天原神積坐皇親神魯伎神魯美命以吾孫 乃 命 乃 將知食國天下 止 言依奉 乃 隨遠皇租御世始而天皇御世御世聞看來食國天 川 日嗣高御座 乃 業 止奈母 隨神所念行 佐久止 勅天皇 我 御命 乎 衆聞食勅《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコトモチテアガミマノミコトノシラサムヲスクニアメノシタトコトヨサシマツリノマニマニトホスメロギノミヨヲハジメテスメラガミヨミヨキコシメシクルヲスクニアマツヒツギタカミクラノワザトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフ スメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。平城 乃 宮 爾 御宇 之 天皇 乃 詔 之久 挂畏近江大津 乃 宮 爾 御宇 之 天皇 乃 不改 自 常典 等 初賜 比 定賜 部流 法隨斯天日嗣高御座 乃業者御命 爾 坐 世 伊夜嗣 爾 奈 賀 御命聞看 止 勅 夫 御命 乎 畏自物受賜 理 坐 天 食國天下 乎 惠賜 比 治賜 布 間 爾 萬機密 久 多 久志天 御身不敢賜有 禮 隨法天日嗣高御座 乃 業者朕子王 爾 授賜 止 勅天皇御命 乎 親王等王臣等百官人等天下 乃 公民衆聞食宣《ナラノミヤニアメノシタシロシメシシスノラミコトノノリタマヒシクカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノカハルマジキツネノノリトハジメタマヒサダメタマヘルノリノマニマニコノアマツヒツギノタカミクラノワザハオホミコトニマセイヤツギニナガミコトキコシメセトノリタマフオホミコトヲカシコジモノウケタマハリマシテヲスクニアメノシタヲメグミタマヒヲサメタマフアヒダニヨロヅノマツリゴトシゲクオホクシテミミアヘタマハズアレノリノマニマニアマツヒツギノタカミクラノワザハワガミコオホキミニサヅケタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。又天皇御命 良末止 勅命 乎 衆聞食宣《マタスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。挂畏我皇天皇斯天日嗣高御座 乃 業 乎 受賜 弖 仕挙 止 負賜 閇 頂 爾 受賜 理 恐 末里 進 毛 不知退 毛 不知 爾 恐 美 坐 久止 宜天皇御命 乎 衆聞食勅《カケマクモカシコキワガオホキミスメラミコトコノアマツヒツギノタカミクラノワザヲウケタマハリテツカヘマツレトオホセタマヘイタダキニウケタマハリカシコマリススムモシラニシゾクモシラニカシコミマサクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。故是以御命坐勅 久 朕者拙劣雖在親王等 乎 始而王等臣等諸天皇朝庭立賜 部留 食國 乃 政 乎 戴持而明淨心以誤落言無助仕奉 爾 依 弖 天下者平 久 安 久 治賜 比 挂賜 布閇支 物 爾 有 止奈毛 神隨所念坐 久止 勅天皇御命 乎 衆聞食宣《カレココヲモテオホミコトニマセノリタマハクアハツタナクヲヂナクアレドモミコタチヲハジメテオホキミタチオミタチモロモロスメラガミカドノタテタマヘルヲスクニノマツリゴトヲイタダキモチテアカキキヨキココロヲモチテアヤマチオトスコトナクタスケツカヘマツルニヨリテアメノシタハタヒラケクヤスクヲサメタマヒメグミタマフベキモノニアリトナモカムナガラオモホシマサクノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
此詔は、聖武天皇の御讓位の詔と、孝謙天皇の御即位の詔とを、つらねて宣れるにて、はじめのほどは、聖武天皇の詔也、
〇天皇 可、一本には可(ノ)字なし、
〇神魯伎、印本に、魯の下に美(ノ)字あるは、衍也、又一本には、伎(ノ)字を棄と作《セ》り、
〇吾孫 乃 命 乃、下の乃(ノ)字、印本に天に誤る、今は一本に依(ル)、
〇奉(リ) 乃 隨《マニマニ》、かく用言の下に、乃《ノ》云々といふこと、例有(リ)、廿三詔にも、事依奉(リ) 乃 |任 爾《マニマニ》、廿九詔に、立 乃《タチノ》 後 仁、卅一詔に、教(ヘ)賜(ヒ) 乃 末仁々々《マニマニ》、三代實録二の詔に、其(ノ)仕奉(リ) 乃 隨《マニマニ》など有(リ)、さて云々|隨《マニマニ》聞(シ)看(シ)來(ル)、とつゞく語也、
〇天 川 日嗣、川(ノ)字、印本などにはなし、今は一本に依れり、又一本には、ツと作《カケ》り、次々なるにも皆川(ノ)字はなけれどもこゝはあるに依れり、
○所念行 佐久止、佐(ノ)字、本どもに波に誤れり、今例によりて改(ム)、
〇平城 乃 宮 爾云々は、元正天皇也、
〇詔 之久は、昔(シ)聖武天皇に詔給ひし也、此|之久《シク》の事、上にいへり、
○不改 自、自(ノ)字は、乃の誤(リ)歟といふこと、第三詔の處にいへるがごとし、又思ふに、自伎《ジオキ》の伎の落たるにも有べし、
〇定賜 部流、部(ノ)字、本どもに都と作るは誤也、都流《ツル》とはいふまじき語なれば也、(レ)故今第三第五などの詔なる例に依て改めつ、
〇御命 爾 坐 世、世(ノ)字、本に止に誤(ル)、今改む、此語の事、第三詔の下に委く云り、
〇伊夜嗣 爾、嗣(ノ)字、印本副に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇奈 賀 |御命《ミコト》は、汝(ガ)命也、古事記に多く見ゆ、御(ノ)字は、添(ヘ)て書るのみ也、建内(ノ)宿禰の歌に、汝《ナ》が王《ミコ》とも有(リ)、さてこゝは、聖武天皇をさして詔給ひし也、
〇勅 夫 御命は、元正天皇の也、
〇畏自物は、第六詔に出たり、
〇受賜 理は、聖武天皇の也、
〇萬機は、用明紀に、ヨロヅノマツリゴトと訓り、
〇不2敢賜1有 禮、不v敢は不v堪《タヘ》に同じ、卅六詔に、大政大臣 乃 官 乎 授(ケ)末都流《マツル》 仁方、敢多比《アヘタビ》 奈牟可等奈毛 念(ス)、四十一詔に、今 方 身 毛 不v敢阿流《アヘズアル》 良牟 物 乎など、敢は皆|堪《タヘ》也、さて有 禮の禮(ノ)字、本に良に誤(ル)、今は一本に依(ル)、有禮婆《アレバ》の意にて、婆《バ》を省きていはざる格也、此例、十二詔に、念 閇とある處にいへり、
〇朕子王とは、孝謙天皇をさして詔給ふ也、
〇天皇大命、はじめよりこれまで、聖武天皇の詔也、
〇又天皇御命、これよりは、孝謙天皇の詔にて、上とは別なるを、引(キ)つゞけて宣《ノ》れる也、又《マタ》とは、上件の聖武天皇の詔に對へて、又新天皇の大命といへる也、
〇我皇天皇とは、聖武天皇をさして申(シ)給ふ也、
〇高御座 乃 業 乎、こゝにて姑く語を切(ル)べし、受賜(リ)へはつゞかず、
〇受賜(ハリ) 弖云々は、孝謙天皇に、受|被《リ》v賜(ハ)て仕奉れとて、斯業《コノワザ》を負せ給へりと也、
〇負(セ)賜 閇は、負賜へばの意也、
〇拙劣は、第五詔に、拙 久 劣而《ヲヂナクテ》、廿六詔に、怯《ツタナ》 久 劣《ヲヂナ》 岐、
〇天皇(ガ)朝庭、これも直《タダ》に天皇をさして、朝庭《ミカド》とは申(シ)給へる也、
〇戴持而は、たふとみ重《オモ》みして、持《タモ》つ也、戴(ノ)字、本に載に誤(ル)、今改(ム)、
〇御命 乎 衆、本には乎(ノ)字なし、今は一本に依れり、
第十五詔
同年十一月辛卯(ノ)朔己酉、八幡(ノ)大神託宣(シテ)向v京(ニ)、甲寅、遣(ハシテ)2參議從四位上石川(ノ)朝臣年足、侍從從五位下藤原(ノ)朝臣魚名等(ヲ)1、以爲(ス)2迎神使(ト)1、路次(ノ)諸國、差2發(シ)兵士一百人以上(ヲ)1、前後駈除(セシム)、又所(ノ)v歴(ル)之國、禁2斷(ス)殺生(ヲ)1、其(ノ)從人(ノ)供給、不v用2酒宍(ヲ)1、道路清掃、不v令2汚穢(セ)1、十二月戊寅、遣(ハシテ)2五位十人、散位二十人、六衛府(ノ)舍人各二十人(ヲ)1、迎2八幡(ノ)神(ヲ)於平群(ノ)郡(ニ)1、是(ノ)日入v京(ニ)、即於2宮(ノ)南(ノ)梨原(ノ)宮(ニ)1、造(テ)2新殿(ヲ)1以爲2神宮(ト)1、請(シテ)2僧四十口(ヲ)1、悔過(ス)七日、と有て、さて同月丁亥、大神(ノ)禰宜、尼|大神《オホミワノ》朝臣|社女《モリメ》【其輿紫色一(ハラ)同(ジ)2乗輿(ニ)1、】拜(ス)2東大寺(ヲ)1、天皇太上天皇太后(モ)、同(ク)亦行幸、是日、百官及諸氏人等、咸(ク)會(シ)2於寺(ニ)1、請(シテ)2僧五千(ヲ)1、禮v佛讀v經、作(ス)2大唐渤海呉(ノ)樂、五節田※[人偏+舞]久米※[人偏+舞](ヲ)1、因(テ)奉(リ)2大神(ニ)一品、比※[口+羊]神(ニ)二品(ヲ)1、左大臣橘(ノ)宿禰諸兄、奉v詔白v神曰、とて此詔あり、八幡大神は、豐前國宇佐大神也、託宣は、京に上給はむとの託宣也、此詔の中に見えたる託宣のことにはあらず、大神(ノ)禰宜は、此八幡(ノ)大神の禰宜也、尼大神(ノ)朝臣社女は、本に神(ノ)字を脱せるを、今は一本に依て引り、尼(ノ)字、本に左に誤れり、こゝの詔の次の文に、尼社女とあるに依て、今改めつ、尼にして禰宜に仕奉らむことは、かけても有(ル)まじきわざなれども、此御世のころは、さるたぐひのまがこと、めづらしからず、此社女は、これよりさき十一月朔、八幡(ノ)大神(ノ)禰宜、外從五位下、大神《オホミワノ》社女、主神司從八位下、大神(ノ)田麻呂二人(ニ)、賜2大神(ノ)朝臣(ノ)之姓(ヲ)1と有(リ)、さて社女は、モリメと訓べし、廿七の卷に、毛理賣《モリメ》と書れたり、白(ス)v神(ニ)は、八幡大神に白(ス)也、神の上に、大(ノ)字脱たる歟、さて上件の文の趣を思ふに、此日、此大神をも東大寺に幸《イデマ》さしめ奉り給へりけむを、其事は、紀の文にもれたり、
天皇 我 御命 爾 坐申賜 止 申 久 去辰年河内國大縣郡 乃 智識寺 爾 坐盧舍那佛 遠 禮奉 天 則朕 毛 欲奉造 止 思 登毛 得不爲 之 間 爾 豐前國字佐郡 爾 坐廣幡 乃 八幡大神《スメラガオホミコトニマセマヲシタマフトマヲサクイニシタツノトシカフチノクニオホガタノコホリノチシキジニマスルサナホトケヲヲロガミマツリテスナハチアレモツクリマツラムトオモヘドモエナサザリシアヒダニトヨクニノミチノクチノウサノコホリニマスヒロハタヤハタノオホカミノ》〔爾 申賜 閇止〕勅 久 神我天神地祇 乎 率伊左奈比 天 必成奉 无事立不有《ノリタマハクカミワレアマツカミクニツカミヲヒキヰイザナヒテカナラズナシマツラムコトダツニアラズ》。銅湯 乎 水 止 成我身 遠 草木土 爾 交 天 障事無 久 奈佐 牟止 勅賜 奈我良 成 奴禮波 歡 美 貴 美奈毛 念食 須《アカガネノユヲミヅトナシワガミヲクサキツチニマジヘテサハルコトナクナサムトノリタマヒナガラナリヌレバウレシミタフトミナモオモホシメス》。然猶止事不得爲 天 恐 家禮登毛 御冠獻事 乎 恐 美 恐 美毛 申賜 久止 申《サテナホヤムコトエズシテカシコケレドモミカガフリタテマツルコトヲカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》。
申賜 止 申 久、すべて神に白(シ)給ふ詔は、尊みて、申(ス)と詔給ふ也、さて此詔は、太上天皇の詔也、
〇去辰(ノ)年は、天平十二年也、
〇大縣郡は、和名抄、河内(ノ)國の郡名に、大縣(ハ)於保加多《オホガタ》、
〇智識寺、天平勝寶元年十月、行2幸河内(ノ)國(ノ)智識寺(ニ)1、同八歳二月戊申、行2幸難波(ニ)1、是日至(リ)2河内(ノ)國(ニ)1、御(ス)2智識寺(ノ)南(ノ)行宮(ニ)1云々、天平神護元年閏十月、捨(ス)2弓削寺(ニ)食封二百戸、智識寺(ニ)五十戸(ヲ)1、など見ゆ、又三代實録に、貞觀八年閏三月、以2河内(ノ)守從五位下菅野(ノ)朝臣豐持(ヲ)1、爲d修2理知識寺(ノ)佛像(ヲ)1別當(ト)u、
〇禮奉 天、禮は、ヲロガミと訓べし、佛書には、拜むことを、禮拜頂禮などいふ故に、此字を書る也、さてかの辰(ノ)年には、智識寺に幸の事は、紀に見えざれども、其年二月に、難波(ノ)宮に幸の事見えたれば、その路次《チナミ》に、幸《イデマ》ししなるべし、かの勝寶八歳に、難波に幸の度も、此寺に幸ししこと、上に引る文の如くなれば也、
〇欲《ム》v奉(ラ)v造 止、欲(ノ)字は、字書に、將也と注したる意にて用ひたり、其例は、五十九詔に、御體《ミミ》欲《ム》v養(ハ) 止奈母 |所念 須《オモホス》、又三代實録廿九に 彌高 爾 仕奉 利 欲《ム》v繼《ツガ》 止、思(ヒ)愼 天など有(リ)、此字をば、必(ズ)ホリスとのみ訓(ム)ことと心得たるは、ひがこと也、
〇思(ヘ) 登毛は、思ひしかどもといふべきが如くなれども、次の不爲 之《ナサザリシ》の之《シ》までつゞけて、思ひしかどもの意となるなり、さて上の則《スナハチ》は、其時に即速《スナハチオスミヤカ》に、造(リ)奉むと思召(シ)し意也、こは禮奉 天の次にいふべかりしを、忘れてこゝにはいへる也、
○豐前は、國(ノ)字あれば音にも讀(ム)べけれどなほ古言に訓べし、和名抄に豐前(ハ)止與久邇乃美知乃久知《トヨクニノミチノクチ》、
〇廣幡 乃 八幡(ノ)大神は、神名帳に、豐前(ノ)國宇佐(ノ)郡、八幡大菩薩宇佐(ノ)宮【名神大】と有(リ)、そも/\此聖武天皇孝謙天皇の御世には、さばかりいみしく佛を尊み給ひて、神をば、佛の奴のごとおぼせしが如くなれども、なほ此大神を、大菩薩と申せることは、なかりしとおぼしくて、此紀には見えたることなきを、いつの御世よりかは、さるまが/\しき御號《ミナ》は、負せ奉り給ひけむ、いと/\ゆゝしき御事なり、さて此大神を、廣播 乃と申すは、いとめでたくみやびたる御號《ミナ》なるに、後には、此御號はかくれて、世にしれる人もなきが如し、又|八幡《ヤハタ》と申すをも、たゞ字音にのみ唱(ヘ)奉りて、やはたといふは、たゞ此大神を祭れる社のある地(ノ)名にのみ、こゝかしこにのこれる、それはた皆、はを音便にまかせて、和と唱ふること、木幡などの如し、これは幡によれる御號なれば、はを正しく、葉《ハ》などの如く唱(ヘ)奉りて、さてかのまが/\しき號をやめて、古(ヘ)のごとく、廣幡の八はたの大神と、正しく申し奉らまほしきわざなりかし。
〇 爾 申賜 閇止、此五字、こゝにはさらにかなはず、文の亂れたる物と見えたり、かく有ては、上よりのつゞきも聞えず、次の神我にもかなはず、又申賜 閇止といはば、其下も必(ズ)申 久と有べき例なるに、勅 久とあるは、申(ス)と勅とたがひて、語とゝのはず、さればこゝは、此五字を除きて、八幡(ノ)大神(ノ)勅 久とつゞけば、こともなく聞ゆる也、故(レ)今は然定めて訓つ、但し猶いはば、豐前國云々といふことは、はじめにこそ有べきに、初(メ)にはなくして、こゝにあるは、穩ならず、即(チ)其大神に對ひて、申給ふ御言には、よそげに聞ゆる也、故(レ)もろ/\の祝詞、又他紀どもに見えたる、此類の詔どもの例に依て、今こゝろみにいはば、天皇 我 御命 爾 坐(セ)、豐前國(ノ)宇佐(ノ)郡 爾 坐(ス)、廣幡 乃 八幡(ノ)大神 爾 申賜(フ) 止 申 久、去(シ)辰(ノ)年云々、得不爲 之 間 爾、大神 乃 勅 久、神我云々、とあるべき文也、
○神我《カミワレ》は、天皇の皇朕《スメラワレ》と詔給ふと同じことにて、神の御みづからの御事を、かくのたまふ也、天平勝寶七年三月、八幡(ノ)大神(ノ)託宣(ニ)曰(ク)、神吾(レ)不v願(ハ)3矯《イツハリテ》託(ルコト)2神(ノ)命(ニ)1云々、
○必成奉 无は、天皇の造(リ)給ふ大佛像を、必(ズ)成就せしめ奉む也、○事立(ニ)不v有は、第三詔の下にいへるが如し、但しこゝは、異なることもなしといふ意に聞ゆ、
〇銅湯 乎云々は、本文など有歟、そはいまだ考へざれども、意は聞えたり、銅をとらかしわかしたる湯は、殊に熱《アツ》さのすぐれたる物なるを、それをも忽(チ)に、冷水になさむといへるにて、いかに難《カタ》き事なりとも、たやすく成し得むとのたとへ也、
〇我身 遠云々は、いかなる艱難をしてなりともの意也、交《マジヘ》は、草木土と等《ヒトシ》くなす也、交 天の下に、毛(ノ)字脱たるか、なくても其意とは聞ゆる也、
〇障事無 久は、たゞ次の成《ナ》さむへ係りたるのみ也、上をうけたる言にはあらず、
〇勅賜 奈我良は、かく勅諭《ノリサト》し給へるまゝに也、
〇成 奴禮波は、大佛像成就せしをいふ、
〇歡 美は、ウレシミと訓べし、凡てよろこぶとうれしとは、一つ事なるを、たゞいひざまのかはれるのみ也、其(ノ)差《ケヂメ》は、うれしとは、よろこぶ心を、たゞにいふ言、よろこぶとは、うれしく思ふよしをいふ言也、
〇念食 須、須(ノ)字、本に流に誤(ル)、今改(ム)、
〇然は、佐弖《サテ》と訓べし、佐《サ》は、志加《シカ》の切《ツヅマ》りたる言にて、佐弖は、然して然ありてといふ意也、此外|然《シカ》を佐《サ》といふ類、常に多し、そも/\佐弖といふ言は、古言めかざるが如くなれども、奈良のころより有けむかし、此紀の詔どもに、然(ノ)字多くある中に、佐弖と訓(マ)むより外は、訓べきやうなきぞ多かる、
〇猶は、字は借字にて、黙《ナホ》也、此言の事、第八詔にいへり、なほやむは、たゞに止《ヤム》也、廿五詔にも、黙在《ナホアラ》 牟止 爲《ス》 禮止毛、止(ム)事不v得と見ゆ、
〇恐 家禮登毛とは、此大神は、なべての神社とは異にして、天皇祖《スメロギ》の御靈に坐(ス)が故也、故(レ)獻り給ふ御冠も、一位にはあらで、一品也、
〇御冠獻は、はじめに引る文に見えたるがごとし、
〇恐 美 恐 美毛、上の美(ノ)字、本に毛に誤(ル)、今改(ム)、又類聚國史に、美(ノ)字二(ツ)ともに、无と作るは、正しからず、
〇此詔につゞきて、尼社女(ニ)授2從四位下(ヲ)1、主神大神(ノ)朝臣田麻呂(ニ)外從五位下、施2束大寺(ニ)封四千戸、奴百人、婢百人(ヲ)1、又預(レル)v造(ルニ)2束大寺(ヲ)1人、隨(テ)v勞(ニ)叙v位、有v差と有(リ)、そも/\此詔の、有ける事のよしを考るに、まづ天平二十年八月、八幡(ノ)大神(ノ)祝部、從八位上、大神(ノ)宅女、從八位上、大神(ノ)社女、並(ニ)授2外從五位下(ヲ)1と見え、今年十一月朔に、大神(ノ)朝臣(ノ)姓を賜へるなど皆、此詔に見えたる託宣を奏せし故の賞なるべし、然るに天平勝寶六年十一月甲申藥師寺(ノ)僧行信(ト)、與《ト》2八幡(ノ)神宮(ノ)主神大神(ノ)多《タ》麻呂等1、同(シテ)v意(ヲ)厭魅(ス)、下(シテ)2所司(ニ)1推勘(スルニ)、罪合2遠流(ニ)1、於是云々、以2行信1配(ス)2下野(ノ)藥師寺(ニ)1、丁亥、從四位下大神(ノ)朝臣社女、外從五位下大神(ノ)朝臣|多《タ》麻呂、並(ニ)除名、從2本姓(ニ)1社女(ヲバ)配(ス)2於日向(ノ)國(ニ)、多麻呂於多※[衣+執]嶋(ニ)1、因(テ)更(ニ)擇(テ)2他人(ヲ)1、補(ス)2神宮(ノ)禰宜祝(ニ)1、其封戸位田、并(ニ)雜物一事已上、令(ム)2太宰(ヲシテ)檢知(セ)1焉、さて天平神護二年十月、授(ク)2無位大神(ノ)朝臣田麻呂(ニ)、外從五位下(ヲ)1、爲2豐後(ノ)員外(ノ)掾(ト)1、田麻呂(ハ)者、本是(レ)八幡大神宮(ノ)【この間(ダ)に、主神也叙2の四字有しが、脱たるなるべし、】禰宜大神(ノ)朝臣|毛理賣《モリメヲ》1時、授(ルニ)以(テシ)2五位(ヲ)1、任(ス)2神宮司(ニ)1、及(テ)2毛理賣(ガ)詐(リ)覺《アラハルルニ》1、倶(ニ)遷(ス)2日向(ニ)1、至(テ)v是(ニ)復(ル)2本姓(ニ)1、とあるを見れば、かの厭魅の事、田麻呂は冤《ナキナ》にて、たゞ行信と社女がしわざにぞ有ける、かゝれば社女は、いと/\穢惡《キタナ》き奴也けり、これによりて思へば、此詔に見えたる、八幡(ノ)大神の託宣も、又京に向はむと有し託宣も、共に此社女が、詐僞《イツハリ》て造りしことにぞ有けらし、なほ又尼にして禰宜になれりしも例の託宣などにこそありけめ、すべて此ころの御世には、かの行基僧が、伊勢(ノ)大御神の託宣を僞(リ)造りて、朝廷を詐欺《アザムキ》奉りて、まがことを行ひたりしたぐひの事多かりしぞかし、あなかしこ、
第十六詔
二十の卷に、天平寶字元年六月甲辰、先v是(ヨリ)去(シ)勝寶七歳冬十一月、太上天皇不豫(ノ)時(ニ)、左大臣橋(ノ)朝臣諸兄(ノ)祗承人、佐味(ノ)宮守告(テ)云(ク)、大臣飲酒(ノ)之庭(ニシテ)、言辭无禮、稍有2反状1云々、天皇優容(シテ)不v咎(メ)、大臣知(ル)v之(ヲ)、後歳致仕(ス)、既(ニシテ)而勅(シテ)召(テ)2越前守從五位下佐伯(ノ)宿禰美濃麻呂(ヲ)1、問d識(ル)2此(ノ)語(ヲ)1耶《ヤト》u、美濃麻呂言(シテ)曰(ク)、臣(ハ)未(ダ)2曾(テ)聞1、但(シ)慮(フニ)佐伯(ノ)全成應(シト)v知(ル)、於是將(ルニ)v勘(ヘ)2問(ムト)全成(ヲ)1、大后慇懃(ニ)固(ク)請(ヒタマフ)、由(テ)v是(ニ)事逐(ニ)寢《ヤミヌ》焉、語(ハ)具(サナリ)2田村(ノ)記(ニ)1、至(テ)v是(ニ)從四位上山背(ノ)王、復《マタ》告(グ)d橘(ノ)奈良麻呂備(ヘテ)2兵器(ヲ)1、謀(ル)v圍(マムト)2田村(ノ)宮(ヲ)1、正四位下大伴(ノ)宿禰|古《コ》麻呂(モ)、亦知(ルト)c其情(ヲ)u、秋七月戊申、詔(シテ)曰(ク)とて、此詔あり、戊申は二日也、橘(ノ)諸兄(ノ)大臣は、大后の異父同母の御兄なるが故に、固(ク)請(ヒ)給ひて、勘(ヘ)問(ハ)事|寢《ヤミ》て有し也、奈良麻呂は、諸兄公の第一男にて、母は藤原氏、不比等(ノ)大臣の女、從三位多比能なり、天平十二年五月、天皇幸(ス)2右大臣(ノ)相樂(ノ)別業(ニ)1、宴欽酣暢、授2大臣(ノ)男无位奈良麻呂(ニ)從五位下(ヲ)1、天平勝寶元年七月、爲2參議(ト)1、寶字元年六月、爲2左大辨(ト)1、この時位は、正四位下也、大伴(ノ)古麻呂は、父祖いまだ考(ヘ)得ず、天平十七年正月、從五位下、勝寶二年、遣唐副使、そののち官、左大辨、陸奥鎭守將軍、陸奥(ノ)國(ノ)按察使、位、正四位下に至る、此度謀反の事によりて、拷問せられて、みまかれり、万葉四又十九に、胡《コ》麻呂とある、此人也、
今宣 久 頃者王等臣等 乃 中 爾 無禮 久 逆在 流 人 止母 在而計 家良久 大宮 乎 將圍 止 云而私兵備 布止 聞看而加遍 須 加遍 須 所念 止母 誰奴 加 朕朝 乎 背而然爲 流 人 乃 一人 母 將在 止 所念 波 隨法不治賜《イマノリタマハクコノゴロオホキミタチオミタチノナカニヰヤナクサカシマナルヒトドモアリテハカリケラクオホミヤヲカクマムトイヒテヒソカニツハモノヲソナフトキコシメシテカヘスカヘスオモホセドモタレシノヤツコカアガミカドヲソムキテシカスルヒトノヒトリモアラムトオモホセパノリノマニマヲサメタマハズ》。雖然一事 乎 數人重奏賜 倍波 可問賜物 爾夜波 將在 止 所念 止母 茲政者行 布爾 安爲 弖 此事者天下難事 爾 在者狂迷 遍流 頑 奈留 奴心 乎波 慈悟 志 正賜 倍支 物在 止 所念看 波奈母 如此宣 布《シカレドモヒトツコトヲアマタヒトカサネアマヲシタマヘバサシオキタマフベキモノニヤハアラムトオモホセドモメグミノマツリゴトハオコナフニヤスクシテコノコトハアメノシタノカタキコトニアレバタブレマドヘルカタクナナル ヤツコノココロヲバメグミサトシタダシタマフベキモノナリトオモホシメセバナモカクノリタマフ》。此状悟而人 乃 見可咎事和射 奈世曾《カクノサマサトリテヒトノミトガムベキコトワザナセソ》。如此宣大命 爾 不從將在人 波 朕一人極而慈賜 止母 國法不得已成 奈牟《カクノリタマフオホミコトニシタガハズアラムヒトハアレヒトリキハメテメグミタマフトモクニノノリヤムコトエズナリナム》。己家家己門門曾名不失勤仕奉 禮止 宣天皇大命 乎 衆聞食 止 宣《オノガイヘイヘオノガカドカドオヤノナウシナハズイソシクツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
今宣 久、はじめにかくある例、廿一詔、卅六詔、卅八詔、四十詔、四十一詔、四十六詔、四十七詔など也、又はじめならぬ所には、五十六詔に有、
〇無禮 久、古事記景行段に、不伏无禮人等《マツロハズヰヤナキヒトドモ》、又繼體(ノ)段にも見え、他の詔にも多かり、多くは、朝廷を恐奉らず、あしきわざするをいへり、皇極紀に、蘇我(ノ)臣、專2擅《ホシキママニシテ》國(ノ)政(ヲ)1、多(ク)行(フ)2無禮《ヰヤナキワザヲ》1、とあるがごとし、又不敬無敬などをも、ヰヤナシと訓り、万葉十二には、無體を、ナメシと訓たれども、廿九詔に、无禮 之弖 不v從(ハ)、奈賣 久 |在《アラ》 牟とあれば、さは訓べからず、
〇逆在 流、これも朝廷に背(キ)奉るをいへり、十九詔に、惡逆在奴《キタナクサカシマナルヤツコ》)、廿八詔に、逆 爾 穢 岐 《サカシマニキタナキ》奴など有(リ)、
○計 家良久、家(ノ)字、本に奈に誤れり、今例に依て改(ム)、卅詔又四十三詔に、謀(リ) 家良久と有(リ)、
〇大宮は、皇宮也、こゝは當時《コノトキ》の御在所、田村(ノ)宮をいへり、上文に、將v圍2田村(ノ)宮(ヲ)1とある是也、いにし五月、天皇移(テ)御(ス)2田村(ノ)宮(ニ)1、爲(メナリ)v改2修大宮(ヲ)1也とあり、田村は、奈良の内なる地(ノ)名にて、此宮は、藤原(ノ)仲麻呂の家也、これより先にも、勝寶四年四月にも、御(テ)2大納言藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ノ)田村(ノ)第(ニ)1、以爲(ス)2御在所(ト)1、といふこと有き、
〇圍は、加久牟《カクム》といふぞ古言なる、仁徳紀皇后(ノ)御歌に、箇句瀰《カクミ》、万葉廿に、可久美《カクミ》などあり、
〇加遍 須 加遍 須云々は、いく度も、うちかへし/\、さま/”\と思ひ見給へども也、
〇誰奴 加は、多禮志乃夜都古加《タレシノヤツコカ》と訓べし、万葉十一に、誰之能人毛《タレシノヒトモ》と有(リ)、又|孰云人毛《タレチフヒトモ》ともあり、繼體紀歌には、駄例夜矢比等母《タレヤシヒトモ》ともあり、卅二詔に誰人 可《タレシノヒトカ》、さてこは、朝廷を背(キ)奉る者は、かけてもあるべきことにあらずとして、つよく詔給へる御言也、
○随法云々は、法のまゝに勘(ヘ)問(ヒ)て、罸《ツミナ》ひ給ふべきなれども、さる逆《サカシマ》なる事は、かけても有べきにあらず、實《マコト》にては有(ル)まじとおもほす故に、勘(ヘ)問(ヒ)給ふことなしと也、
〇一(ツ)事 乎は、同じ事を也、
〇可問賜、問(ノ)字は、閣を誤れるなるべし、佐志於伎《サシオキ》と訓べし、さるは閣(ノ)字に、その義《ココロ》はなけれども、皇國にては、然用ひならへり、食物を置(ク)所を、閣といふことあれば、置(ク)といふ意より、借(リ)用ひたるにや、それも後(ノ)世のことめきたれども、三代實録四十七に、權僧正遍照、辭(スル)v職(ヲ)上表(ノ)勅答に、自v今閣(テ)v筆(ヲ)、勿(レ)v傷(フコト)2朕(ガ)懷(ヲ)1と有(リ)、なほこれより古くも有しやうにおぽゆれども、さだかにおぼえず、
〇茲政者、茲(ノ)字は、慈を誤れるなるべし、次なる慈悟の慈をも、茲に誤れり、茲《コノ》故にては、次なる此事者《コノコトハ》とかけ合(ハ)ず、
〇行 布爾 安(ク)爲 弖とは、人を慈《メグ》むわざは、人の歡ぶことなれば、たとひ誤りても、害なければ、行ひ易《ヤス》きよし也、
〇此事者は、謀反の人を罸《ツミナ》ふ事也、
〇難事は、上の安(ク)爲 弖の反にて、大事といはむがごとし、
〇狂迷 遍流、狂は、多夫禮《タブレ》と訓べし、十九詔に、惡逆在奴《キタナクサカシマナルヤツコ》、久奈多夫禮麻度比《クナタブレマドヒ》、奈良麻呂古麻呂、万葉十七に、多夫禮多流《タブレタル》、之許都於吉奈乃《シコツオキナノ》など見ゆ、齊明紀に、狂心《タブレココロ》、三代實録十三の詔に、若狂人 《モシタブレヒト》乃 國家《ミカド》 乎 亡(サム) 止 謀 留 事 奈良波 などあり、謀反する者を、狂《タブレ》といふ也、迷《マドフ》も同じ、すべて朝廷を傾(ムケ)奉むと謀るは、正しき現心《ウツシゴコロ》にはあらず、狂《タブ》れ惑《マド》へるものとする也、
〇頑 奈留 奴、四十五詔に、頑 爾 無禮《ヰヤナ》 伎 心 乎 念 弖、横《ヨコシマ》 乃 謀 乎 構(フ)と有(リ)、皇極紀に愚癡《カタクナ》、天智紀に癡奴《カタクナヤツコ》など見ゆ、奴《ヤツコ》といふも、
謀反する人を、惡《ニク》み賤《イヤ》しめていへる也、右に引る十九詔の詞、又廿八詔にも、逆《サカシマ》 仁 穢 岐 奴《ヤツコ》仲麻呂と有、
〇慈悟 志は、かへりてあはれみおぼしめして、諭《サト》し正《タダ》して、直《ナホ》さしめむ物ぞと也、慈(ノ)字、印本、茲に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇如此宣 布とは、上に、云々|隨《マニマ》v法(ノ)不2治賜1、と詔給へること也、
〇此状悟而は、上件の趣をよく心得て也、此状は、カクノサマと訓べきこと、第一詔の處にいへるが如し、
〇人 乃 見可v咎事和射、卅五詔に、無禮《ヰヤナシ》 止 見咎 牟流乎毛 不v知 之弖トも有(リ)、事《コト》も和射《ワザ》も一つ也、五十六詔に、驚 呂之岐 事|行《ワザ》 奈世曾とある行も、こゝにならひて、和射《ワザ》と訓べし、古今集(ノ)序に、人の世にある、ことわざしげき物なれば、とあるも同じ、奈世曾は、勿(レ)v爲《スルコト》也、
〇極而は、至りて深くにて、いかばかりめぐみおぼしめすとも、といはむがごとし、
第十七詔
上件の詔につゞきて、詔畢(テ)、更(ニ)召(シ)2入(レ)右大臣以下(ノ)群臣(ヲ)1、皇太后詔(シテ)曰(ク)とあり、皇太后は、天皇の大御母命、光明皇后也、
汝 多知 諸者吾近姪 奈利《イマシタチモロモロハアガチカキヲヒナリ》。又豎子卿等者天皇大命以汝 多知乎 召而屡詔 志久 朕後 爾 大后 爾 能仕奉 利 助奉 禮止 詔 伎《マタワラハマヘツギミタチハスメラガオホミコトモチテイマシタチヲメシテシバシバノリタマヒシクアガノチニオホキサキニヨクツカヘマツリタスケマツレトノリタマヒキ》。又大伴佐伯宿禰等 波 自遠天皇御世内 乃 兵 止 爲而仕奉來又大伴宿禰等 波 吾族 爾母 在諸同心 爾 爲而皇朝 乎 助仕奉 牟 時 爾 如是醜事者聞 曳自《マタオホトモサヘキノスクネタチハトホスメロギノミヨヨリウチノイクサトシテツカヘマツリキマタオホトモノスクネタチハアガウガラニモアリモロモロオナジココロニシテスメラガミカドヲタスケツカヘマツラムトキニカカルシコゴトハキコエジ》。汝 多知乃 不能 爾 依 弖志 如是在 良志 諾以明清心皇朝 乎 助仕奉 禮止 宣《イマシタチノヨカラヌニヨリテシカクアルラシモロモロアカキキヨキココロヲモチテスメラガミカドヲタスケツカヘマツレトノリタマフ》。
近姪とは、甥《ヲヒ》をいふ姪(ノ)字は、めひなれども、又甥をも姪といふこと有(リ)、さてこゝは、近(キ)とあるを味ふに、必しも甥のみにも限らず、甥の列《ツラ》なる人々を、廣く詔給ふと聞えたり、此時、右大臣豐成公、紫微内相仲麻呂、共に武智麻呂公の子也、中約言永手卿も、房前公の子なれば、皆此大后の御甥たちなり、又その外にも御甥のつらなる人々、諸臣の中に多ければ、かく詔給ふ也、
〇豎子卿、豎(ノ)字本に竪に誤(ル)、今改む、からぶみ周禮に、内豎といふ官名有て、注に、豎(ハ)未v冠(セ)者(ノ)之官名とあり、故(レ)皇朝にても、童にて仕奉る人を、豎子といひて、ワラハと訓り、安閑紀に僮豎《シモベワラハ》なども有(リ)、和名抄に、内豎三百人、俗(ニ)云(フ)知比佐和良波《チヒサワラハ》と有(リ)、本に、豎を監に、和を利に誤れり、万葉二十に、二年春正月三日、召(テ)2侍從(ノ)豎子王臣等(ヲ)1、令v侍2於内裏(ノ)之東屋(ノ)垣下(ニ)1、即賜(テ)2玉箒(ヲ)1肆宴云々など見ゆ、大御許近く仕奉る者也、卿とは、即(チ)豎子を詔給へる也、良家《ウマヒト》の子弟《コドモ》もあれば也、さるは此豎子といふものは、必しも童子のみにもあらず、成長《ヒトトナリ》たる人の、なほ童の形にて仕奉るもある歟、はた大御前近く仕奉る人々を、豎子になすらへて、豎子卿《ワラハマヘツギミ》といふにもあるべし、
〇天皇、これは聖武天皇を申給ふ也、
〇汝 多知、これは豎子卿等をさして詔給ふ也、
〇詔 之久は、先(キ)に聖武天皇の詔給ひしよし也、
〇朕後 爾は、崩坐(シ)なむ後に也、
〇大后とは、其時の御言のまゝにて、皇后のよし也、古(ヘ)は皇后を大后と申せしこと、上にいへるが如し、奈良の御世のころまでも、口語には、皇后を大后と申せしなり、御母后を申す、漢文ざまの太后にはあらず、字も大也、太にはあらず、さてこは、皇太后御みづからの御事也、
〇詔 伎、これまで、聖武天皇の、豎子卿等に詔給ひしよし也、
〇吾族 爾母、卅四の卷に、大和(ノ)守從三位大伴(ノ)宿禰古慈斐薨、そこに傳有て、贈太政大臣藤原(ノ)朝臣不比等、以(テ)v女(ヲ)妻(ハス)v之(ニ)、と見えたれば、此御族なるべし、此外にも御縁《ミユカリ》あるか、そはいまだ考へ得ず、さて此古慈斐(ノ)卿も、此度事にかかりて、土左守たりしを、任國に流されたりき、
○諸同心 爾 爲而は、大伴佐伯の氏人|諸《モロモロ》、一(ツ)に心を合せてなり、
〇助仕奉 牟 時 爾は、諸《モロモロ》同心にして、助仕奉むには然《サ》る時にはの意也、
〇醜事は、謀反をいふ、
〇聞 曳自、此下に、然るにかゝる醜事の聞えあるは、といふ語を添て心得べし、
〇汝 多知とは、大伴佐伯の氏人等也、
○不能 爾 依 弖志とは、此氏人の中に、醜事の聞ゆるは、同氏の人々もろ/\心を一(ツ)に合さず、わろきに依てぞと也、此度大伴(ノ)古麻呂の、謀反せしによりて、かく詔給ふ也、なほ古麻呂の外にも、大伴佐伯氏の人々、此謀反にくみせし、これかれ下文に見えたり、
〇宣《ノリタマフ》、此詔は、皇太后の詔なるが故に、はじめと終(リ)のさま、他詔とは異にして、此宣は、太后の詔給ふよし也、故(レ)ノリタマフと訓べし、次の詔も然也。
第十八詔
上件の詔につゞきて、是(ノ)日(ノ)夕、中衛(ノ)舍人從八位上、上(ツ)道(ノ)臣斐太都、告(テ)2内相(ニ)1云(ク)、今日未(ノ)時、備前(ノ)國(ノ)前(ノ)守小野(ノ)東人、喚(テ)2斐太都(ヲ)1謂(テ)云(ク)、有(リ)2王臣謀(ルコト)1v殺(サムト)2皇子及(ビ)内相(ヲ)1、汝能從(ハムヤト)乎、斐太都問(テ)云(ク)、王臣(トハ)者、爲(ル)2誰等1耶、東人答(テ)云(ク)、黄文(ノ)王、安宿(ノ)王、橘(ノ)奈良麻呂、大伴(ノ)古麻呂等(ナリ)、徒衆甚多(シト)、斐太都又問(テ)云(ク)、衆(ノ)所(ハ)v謀(ル)者、將(ル)2若爲《イカニセムトスル》1耶、東人答(テ)云(ク)、所v謀(ル)有(リ)v二、一(ハ)者、駈2率(テ)精兵四百(ヲ)1、將v圍(マムト)2田村(ノ)宮(ヲ)1、二(ハ)者、陸奥(ノ)將軍大伴(ノ)古麻呂、今向(ヒ)2任所(ニ)1、行(テ)至(リ)2美濃(ノ)關(ニ)1、詐(テ)稱(シ)v病(ヲ)、請(ヒ)v欲(スト)d相見(テ)一2二《ツマビラカニシテ》親情(ヲ)1、蒙(ラムト)c官(ノ)聽許(ヲ)u、仍(テ)即塞(ムトス)v關(ヲ)、斐太都良久(シテ)答(テ)云(ク)、不《ジトイヒキ》2敢(テ)違(ハ)1v命(ニ)、先v是去(シ)六月、右大辨巨勢(ノ)朝臣堺麻呂密奏(スラク)、爲(メニ)v問(ムガ)2藥方(ヲ)1、詣(ル)2答本忠節(ガ)宅(ニ)1、忠節目語(シテ)云(ク)、大伴(ノ)古麻呂、告(テ)2小野(ノ)東人(ニ)1云(ク)、有(リ)2人欲(スルコト)1v劫(サムト)2内相(ヲ)1、汝從(ハムヤ)乎、東人答(テ)云(ク)、從(ハムト)v命(ニ)、忠節聞(テ)2斯(ノ)語(ヲ)、以告(グ)2右大臣(ニ)1、大臣答(テ)云(ク)、大納言年|少《ワカシ》也、吾加(ヘム)2教誨(ヲ)1、宜(シト)v莫(ルコト)v殺(スコト)v之(ヲ)、是日、内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂、具(ニ)奏(ス)2其状(ヲ)1、警2衛(セシメ)内外(ノ)諸門(ヲ)1、乃遣(ハシ)2高麗(ノ)朝臣福信等(ヲ)1、率(テ)v兵(ヲ)追2捕(セシム)小野(ノ)東人答本忠節等(ヲ)1、皆捉獲(テ)、禁2着(ス)左衛士府(ニ)1、又遣(ハシテ)v兵(ヲ)、圍(マシム)2道祖(ノ)王(ヲ)於右京(ノ)宅(ニ)1、己酉、勅(シテ)2右大臣藤原(ノ)朝臣豐成、中納言藤原(ノ)朝臣永手等八人(ニ)1、就(テ)2左衛士府(ニ)1、勘(ヘ)2問(ハシム)東人等(ヲ)1、東人※[石+霍]導無之、即《ソノ》日(ノ)夕、内相仲麻呂、侍(テ)2御在所(ニ)1、召(テ)2鹽燒(ノ)王、安宿(ノ)王、黄文(ノ)王、橘(ノ)奈良麻呂、大伴(ノ)古麻呂五人(ヲ)1、傳(ヘテ)2大后(ノ)詔(ヲ)1、宣(テ)曰(ク)とあり、
鹽燒等五人 乎 人告謀反《シホヤキライツタリヲミカドカタプケムトストヒトツゲタリ》。汝等爲吾近人一 毛 吾 乎 可怨事者不所念《イマシタチワガチカキヒトナレバヒトツモアレヲウラムベキコトハオモホエズ》。汝等 乎 皇朝老己己太久高治賜 乎 何 乎 怨 志岐 所 止志弖加 然將爲《イマシタチヲスメラガミカドハココダクタカクヲサメタマフヲナニヲウラメシキコトトシテカシカセム》。不有 加止奈母 所念《アラジカトナモオモホシメス》。是以汝等罪者免賜《ココヲモテイマシタチツミユルシタマフ》。今往前然莫爲 止 宣《イマユクサキシカナセソトノリタマフ》。
五人は、上に引る文に出たる五人也、此内奈良麻呂古麻呂の事は、既に十六詔の處にいへり、三人の王の事は、十九詔に、四王《ヨタリオホキミ》とある所にいふべし、
〇謀反は、古書どもに、ミカドカタブケムトスと訓り、
〇吾近人とは、吾が近き族《ユカリ》の人也、鹽燒(ノ)王は、其室、不破(ノ)内親王にて、聖武天皇の御女也、此御ゆかり歟、又藤原氏にも縁あるか、そはいまだ考へず、安宿(ノ)王黄文(ノ)王は、其母、不比等公の女なれば、御甥也、奈良麻呂も御甥なること、上にいへるがごとし、古麻呂は、いかなる御族《ミユカリ》にか、いまだ考へず、古慈斐卿につきたる御族歟、もし古慈斐卿の兄弟かと思へど、万葉四に、旅人卿の姪《ヲヒ》のよし見えたれば、然にはあらじ、又五人の内、此人一人は、御族ならずとも有(リ)なむ、
〇一(ツ) 毛は、一事も也、もし一人 毛の人(ノ)字の脱たるかとも思へど、然にはあらじ、
〇不所念、こゝはオモホエズと訓べし、俗言に、おばえぬといふにあたれり、近き人々なれば、殊にめぐみ給へば、怨みられむ事は、さらにおぼえずと也、○己々太久は、第七詔に、許貴太斯伎《コキダシキ》とあると、同言にて、彼處にいへるが如し、いかばかりかといはむが如し、
〇然將爲《シカセム》は、然《サ》る醜事はせむ也、
〇不《ジ》v有(ラ) 加止奈母とは、謀反すと、人は告つれども、よもさる事は有べきにあらざれば、然にはあらじかと思召(ス)と也、
〇罪者兎賜、それとはなけれど、太后の御族なるによりて、まづ免されたる也、
〇今往前は、今より後也、廿詔に、自v今往前、卅二詔に、今由久前《イマユクサキ》、卅五詔に、從(リ)v今往前、
〇然莫爲は、然《サ》る醜事することなかれ也、
〇此詔の次に、詔訖(テ)、五人退(リ)出(デテ)、南(ノ)門(ノ)外(ニシテ)、稽首(シテ)謝(ス)v恩(ヲ)とあり、
第十九詔
同月庚戌、詔(シテ)更(ニ)遣(シテ)2中納言藤原(ノ)朝臣永手等(ヲ)1、窮2問(セシム)東人等(ヲ)1、款(シテ)云(ク)、毎(ニ)v事實也、無(シ)v異(ナルコト)2斐太都(ガ)語(ニ)1、去(シ)六月中、期會(シテ)謀(ルコト)v事(ヲ)三度(ナリ)、始(メハ)於(テシオ)2奈良麻呂(ノ)家(ニ)1、次(ニハ)於(テシ)2図書(ノ)藏(ノ)邊(ノ)庭(ニ)1、後(ニハ)於(テス)2大政官(ノ)院庭(ニ)1、其(ノ)衆(ハ)者、安宿(ノ)王、黄文(ノ)王、橘(ノ)奈良麻呂、大伴(ノ)古麻呂、多治比(ノ)犢養、多治比(ノ)禮麻呂、大伴(ノ)池主、多治比(ノ)鷹主、大伴(ノ)兄人(ナリ)、自餘(ノ)衆(ハ)者、闇裏(ニシテ)不v見2其面(ヲ)1、庭中(ニシテ)禮2拜(シテ)天地四方(ヲ)1、共(ニ)飲(テ)2鹽汁(ヲ)1、誓(テ)曰(ク)、將《ストイヘリト》d以2七月二日(ヲ)1、闇頭(ニ)發(シ)v兵(ヲ)、圍(テ)2内相(ノ)宅(ヲ)1殺(シ)劫(シ)、即圍(テ)2大殿(ヲ)1、退(ケ)2皇太子(ヲ)1、次(ニ)傾(テ)2皇太后(ノ)宮(ヲ)1、而取(リ)2鈴璽(ヲ)1、即召(テ)2右大臣(ヲ)1、將使(メ)2號令(セ)1、然(シテ)後(ニ)廢(シテ)v帝(ヲ)、簡(ビ)2四王(ノ)中(ニ)1、立(テ)以爲(ムト)uv君(ト)、於v是|追《トラヘ》2被《ルル》v告(ラ)人等(ヲ)1、隨(テ)v來(ルニ)悉(ク)禁着(シ)、各置(テ)2別處(ニ)1、一一勘(ヘ)問(フ)、始(メニ)問(フ)2安宿(ニ)1、款(シテ)云(ク)、云々、又問(フニ)2黄文奈良麻呂古麻呂多治比(ノ)犢養等(ニ)1、辭雖2頗異(ナリト)1、略皆大(ニ)同(ジ)、勅使又問(テ)2奈良麻呂(ニ)1、逆謀縁(テ)v何(ニ)而起(セル)、款(シテ)云(ク)、内相行(フニ)v政(ヲ)、甚多(シ)2無道1、故(ニ)先(ヅ)發(シテ)v兵(ヲ)、請(テ)得(テ)2其人(ヲ)1後(ニ)、將《ス》v陳(ベムト)v状(ヲ)、又問(フ)云々、於v是奈良麻呂辭屈(シテ)而服(ス)、又問(フ)2佐伯(ノ)古比奈(ニ)1、款(シテ)云(ク)、云々、於v是一(ニ)皆下(ス)v獄、又分(チ)2遣(シテ)諸衛(ヲ)1、掩2捕逆黨(ヲ)1、更(ニ)遣(ハシテ)2出雲(ノ)守從三位百濟(ノ)王敬幅、太宰(ノ)帥正四位下船(ノ)王等五人(ヲ)1、率(テ)2諸衛(ノ)人等(ヲ)1、防2衛(シ)獄囚(ヲ)1、拷掠窮問(セシム)、黄文【改(ム)2名(ヲ)多夫禮(ト)1、】道祖【改(ム)2名(ヲ)麻度比(ト)1、】大伴(ノ)古麻呂多治比(ノ)犢養小野(ノ)東人賀茂(ノ)角足【改(ム)2姓(ヲ)乃呂志1、】等、並(ニ)杖下(ニ)死(ス)、安宿(ノ)王及妻子(ハ)、配2流(ス)佐度(ニ)1、信濃(ノ)國(ノ)守佐伯(ノ)大成、土左(ノ)國(ノ)守大伴(ノ)古慈斐二人、並(ニ)便流(ス)2任國(ニ)1、其(ノ)與黨人、或(ハ)死(ス)2獄中(ニ)1、自外悉(ク)依(テ)v法(ニ)配流(ス)、云々、又勅(シテ)2陸奥(ノ)國(ニ)1、令(ム)v勘(ヘ)2問(ハ)守佐伯(ノ)全成(ヲ)1、款(シテ)云(ク)、去(シ)天平十七年、先帝陛下行2幸難波(ニ)1、寢膳乖(フ)v宜(ニ)、于時奈良麻呂謂(テ)2全成(ニ)1曰(ク)、陛下枕席不v安、殆(ト)至(ル)2大漸(ニ)1、然(ルニ)猶無(シ)v立(ルコト)2皇嗣(ヲ)1、恐(クハ)有(ム)v變乎、願(クハ)率(テ)2多治比(ノ)國人多治比(ノ)犢養小野(ノ)東人(ヲ)1、立(テテ)2黄文(ヲ)1而爲(テ)v君(ト)、以答(ヘヨ)2百姓(ノ)之望(ニ)1、大伴佐伯(ノ)之族、隨(ハバ)2於此(ノ)擧(ニ)1、前(ニ)將《ス》v無(ラムト)v敵、方今天下憂苦、居宅無v定、乘路突叫、怨歎實(ニ)多(シ)、縁(テ)v是(ニ)議謀(セバ)、事可(シ)2必成(シツ)1、相隨(ハムヤ)以否《イナヤ》、全成答(テ)曰(ク)、云々、又去年四月、全成賚(テ)v金(ヲ)入(ル)v京(ニ)、是時奈良麻呂(ガ)云(ク)、願(クハ)與《ト》v汝欲(スト)v相2見古麻呂(ニ)1、共(ニ)至(テ)2辨官(ノ)曹司(ニ)1、相見(テ)語話良久(シ)、奈良麻呂(ガ)云(ク)、聖體離(クコト)v宜(ニ)、多(ク)住2歳序(ヲ)1、※[問の口が規](ヒ)2看(ルニ)消息(ヲ)1、不《ジ》v過2一日1、今天下亂(レ)、人心無v定、若(シ)有(ラバ)2他氏立(ル)v王(ヲ)者(ノ)1、吾(ガ)族徒(ラニ)將《ス》2滅亡(セムト)1、願率(テ)2大伴佐伯(ノ)宿禰(ヲ)1、立(テテ)2黄文(ヲ)1而爲v君(ト)、以|先《サキタタバ》2他氏(ニ)1、爲《タラムト》2萬世(ノ)基1、古麻呂(ガ)曰(ク)云々、全成曰(ク)云々、言畢(テ)歸(リ)去(ル)、奈良麻呂古麻呂(ハ)、便留(レリ)2彼曹(ニ)1、不(トイフ)v聞2後(ノ)語(ヲ)1、勘問畢(テ)而自經(レヌ)と見えたる、此七月は、朔丁未にて、十六詔十七詔は、戊申(ノ)日なれば、二日也、十八詔は、己酉の日なれば、三日也、かくて此庚戌は、四日なれは、件の太后の、五人の人々の罪を免し給へる詔の、翌日なるに、忽(チ)變《カハ》りて、更に又件の人々を、勘(ヘ)問(ハ)れしは、小野(ノ)東人の款《マヲ》せるところ、明らかにして、疑(ヒ)なければ、かの五人も、猶ゆるしがたき趣になれるにやあらむ、並(ニ)杖下(ニ)死(ス)とは、痛《イタ》く拷掠窮問せられて、件の六人は、命え堪《タヘ》ずなりぬる也、杖を以て打て、せめ問(フ)事なるが故に、杖下(ニ)とはいへり、さて奈良麻呂は、いかになられけむ、其終(リ)の見えざるは、漏《モレ》たる歟、はたよし有て、記されざる歟、いふかし、公卿補任に、天平勝寶九年七月二日、謀反伏誅、【或説(ニ)遠流|者《テヘリ》如何、】と有(リ)、まことに配流とはおぼえず、續後紀に、承和十年八月、詔(シテ)曰(ク)、无位橘(ノ)朝臣奈良麻呂、倚伏難(ク)v測、既(ニ)※[戸/回の六画目なし](ス)2夜臺(ニ)1、悼(ミ)2福禄之不(ルヲ)1v長、悲(ム)2忠貞(ノ)之未(ルヲ)1v遂(ゲ)、宜(シ)d寛(ニシテ)2典式(ヲ)1、賁《カザル》c幽墳(ヲ)u、可(ス)2贈從三位(ニ)1、同十四年十月、詔(シテ)贈大納言從三位橘(ノ)朝臣奈良麻呂(ニ)、更(ニ)贈(ル)2太政大臣正一位(ヲ)1、崇(フナリ)2帝戚(ヲ)1也と見ゆ、これは、天皇【仁明】の大御母橘(ノ)太后は、此奈良麻呂公の男、贈太政大臣清友公の女におはしまして、奈良麻呂公は、天皇の御外曾祖父《ミハハカタノオホオホヂ》なりしが故に、かくのごとし、悲(ム)2忠貞(ノ)之未(ルヲ)1v遂(ゲ)とは、此度の謀反は、内相仲麻呂がほしきまゝなるを、憤《イキドホ》りてのしわざなりしに、其事|遂《トゲ》ざりしを、悲しみ給ふよし也、さて同月甲寅云々、勅(シテ)曰(ク)、比者《コノゴロ》頑奴潜(カニ)圖(ル)2反逆(ヲ)1云々、又勅(シテ)曰(ク)云々、乙卯、遣(ハシ)2中納言藤原(ノ)朝臣永手、左衛士(ノ)督坂上(ノ)忌寸犬養等(ヲ)1、就(テ)2右大臣藤原(ノ)朝臣豐成(ノ)第(ニ)1、宣(テ)v勅(ヲ)曰(ク)、汝(ガ)男乙繩、關(レリ)2兇逆(ノ)之事(ニ)1、宜《ベシ》2禁(ジテ)進(ル)1者《テヘリ》、即加(ヘ)2肱禁(ヲ)1、寄(テ)2勅使(ニ)1進(リヌ)、戊午云々、勅(シテ)曰(ク)、右大臣豐成(ハ)者、事(ヘテ)v君(ニ)不忠、爲(テ)v臣(ト)不義、私(ニ)附2賊黨(ニ)1、潜(ニ)忌(ム)2内相(ヲ)1、知(テ)v構(ルコトヲ)2大亂(ヲ)1、無(ク)2敢(テ)奏上(スルコト)1、及(テモ)2事發覺(スルニ)1、亦不2肯(テ)究1、若(シ)怠(テ)延(バ)v日(ヲ)、殆(ト)滅(サム)2天宗(ヲ)1、嗚乎《アア》宰輔(ノ)之任、豈|合《ベケムヤ》v如(クナル)v此(ノ)、宜(シト)d停(メテ)2右大臣(ノ)任(ヲ)1、左c降(ス)太宰(ノ)員外(ノ)帥(ニ)u、是日、御(テ)2南院(ニ)1、追2集(ヘテ)諸司、并(ニ)京畿内(ノ)百姓、村(ノ)長以上(ヲ)1、而詔(シテ)曰(ク)とあり、
明神大八洲所知倭根子天皇大命 良麻止 宣大命 乎 親王王臣百官人等天下公民衆聞宣《アキツカミオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原神積坐 須 皇親神魯岐神魯彌命 乃 定賜來 流 天日嗣高御座次 乎 加蘇 毘 奪將盗 止 爲而惡逆在奴久奈多夫體麻度比奈良麻呂古麻呂等 伊 逆黨 乎 伊射奈 比 率而先内相家 乎 圍而其 乎 殺而即大殿 乎 圍而皇太子 乎 退而次者皇太后朝 乎 傾鈴印契 乎 取而召右大臣而天下 爾 號令使爲 牟《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコトノサダメタマヒケルアマツヒツギタカミクラノツギテヲカソヒウバヒヌスマムトシテキタナクサカシマナルヤツコクナタブレマドヒナラマロコマロライサカシマナルトモガラヲイザナヒヒキヰテマヅナイサウノイヘヲカクミテソヲコロシテスナハチオホトノヲカクミテヒツギノミコヲシゾケテツギニハオホミオヤノミカドヲカタブケスズオシテシルシヲトリテミギリノオホオミヲヨビテアメノシタニノリコトセシメム》。然後廢帝四王之中 乎 簡而爲君 牟止 謀而六月二十九日 乃 夜入大政官坊而飲鹽汁而誓禮天地四方而七月二日發兵 牟止 謀定而二日未時小野東人喚中衛舍人備前図上道郡人上道朝臣斐太都而誂云 久 此事倶佐西 止 伊射奈 布爾 依而倶佐西 牟止 事者許而其日亥時具奏賜 都《シカシテノチニミカドヲシゾケテヨタリノオホキミノウチヲエラビテキミトセムトハカリテミナヅキノハツカアマリココヌカノヨオホキマツリゴトノツカサノウチニイリテシホシルヲノミテウケヒアメツチヨモヲヲガミテフミヅキノフツカノヒイクサヲオコサムトハカリサダメテフツカノヒノヒツジノトキニヲヌノアヅマヒトナカノマモリノツカサノトネリキビノミチノクチノクニカムツミチノコホリノヒトカムツミチノアソミヒダツヲヨビテアトラヘテイハクコノコトイザセトイザナフニヨリテイザセムトコトハユルシテソノヒノヰノトキニツブサニマヲシタマツ》。由此勘問賜 爾 毎事實 止 申而皆罪 爾 伏 奴《コレニヨリテカムカヘトヒタマフニコトゴトニマコトトマヲシテミナツミニフシヌ》。是以勘法 爾 皆當死罪《ココヲモテノリヲカムカフルニミナコロスツミニアタレリ》。如此雖在慈賜 止 爲而一等輕賜而姓名易而遠流罪 爾 治賜 都《カクアレドモメグミタマフトシテヒトシナカロメタマヒテカバネナカヘテトホクナガスツミニヲサメタマヒツ》。此誠天地神 乃 慈賜 比 護賜 比 挂畏開闢已來御宇天皇大御靈 多知乃 穢奴等 乎 伎良 比 賜棄賜 布爾 依 弖 又盧舍那如來觀世音菩薩護法梵王帝釋四大天王 乃 不可思議威神之力 爾 依 弖志 此逆在惡奴等者顯出而悉罪 爾 伏 奴良志止奈母 神 奈賀良毛 所念行 須止 宣天皇大命 乎 衆聞食宣《コレマコトニアメツチノカミノメグミタマヒマモリタマヒカケマクモカシコキアメツチノハジメヨリコナタアメノシタシロシメシシスメロギノオホミタマタチノキタナキヤツコドモヲキラヒタマヒフニヨリテマタルサナニヨライクワムゼオムボサチゴホフボムワウタイサクシダイテムワウノフカシギヰジムノチカラニヨリテシコノサカシマナルキタナキヤツコドモハアラハレイデテコトゴトニツミニフシヌラシトナモカムナガラモオモホシメストノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。事別宣 久 久奈多夫禮 良爾 所※[言+圭]誤百姓 波 京土履 牟 事穢 彌 出羽國小勝村 乃 柵戸 爾 移賜 久止 宣天皇大命 乎 衆間食宣《コトワケテノリタマハククナタブレラニアザムカエタルタミドモハミサトノツチフマムコトキタナミイデハノクニノヲカチノムラノキヘニウツシタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
定賜來 流、天照大御神高御産巣日(ノ)命の命以て、豐葦原(ノ)中國は、吾(ガ)御孫(ノ)命のしらさむ國也と、事依し給へる、これ天津日嗣を定め給へる也、來 流は、祁流《ケル》と訓べし、これは辭也、來《キタ》るにはあらず、
〇次《ツギテ》は、第一詔に、天皇(ガ)御子之阿禮坐 牟 彌繼々 爾、大八嶋國|將知次《シラサムツギテ》 止云々、とあるに同じ、
〇加蘇 毘は、掠《カスム》と同言也、廿八詔に、皇(ノ)位 乎 掠 天とあるも、こゝに效《ナラヒ》て、カソヒテと訓べし、繼體紀に、捉《カスヒ》とあるも、同言と聞ゆ、但しかれは、人を捕《トル》をいへるなれど、とる意は一(ツ)也、又持統紀に、僞《カスヰノ》兵とある訓は、いかなる言か、いまだ考へず、
〇惡逆在は、キタナクサカシマナルと訓べし、下の文に、穢奴《キタナキヤツコ》、また逆在惡奴《サカシマナルキタナキヤツコ》、廿八詔に、逆 仁 穢 岐 奴、四十三詔に、岐多奈 久 惡 奴《キタナクサカシマナルヤツコ》、などある例どもを合せて、訓を定むべし、さてさかしまはさかさま也、よこしまよこさま同じきが如し、さまとしまと通へること、十三詔、加久斯麻《カクシマ》とある處にいへるがごとし、天武紀に、近江(ノ)群臣、元(ヨリ)有(リ)2謀心《キタナキココロ》1、必害(ハム)2天(ノ)下(ヲ)1、
〇久奈多夫禮麻度比、久奈《クナ》は、かたくなのくなにて、即(チ)頑の意也、多夫禮《タブレ》は、狂にて、十六詔にいへるがごとし、合せ考ふべし、さてこゝは、久奈多夫禮も、麻度比も、體言にて、頑狂《カタクナニタブレ》たる人、惑へる人といふ意也、此上に引たる文に、黄文(ノ)王の名を多夫禮、道祖(ノ)王の名を麻度比とつけられたるも、此意也、
〇等 伊、伊(ノ)字、印本に伴に誤る、今は一本に依(ル)、
〇逆黨、黨はトモガラと訓べし、書紀に、徒黨黨類屬類など、皆然訓り、
〇大殿は、皇太子の坐(ス)宮なるべし、
〇皇太子は、大炊(ノ)王也、今年【天平寶字元年】四月辛巳云々、迎(ヘ)2大炊(ノ)王(ヲ)1、立(テテ)爲2皇太子(ト)1と見ゆ、後に廢《シゾケ》られ給へる帝也、
〇皇太后は、於保美於夜《オホミオヤ》と訓べし、天皇の大御母命を、おほみおやと申奉ること、第五詔の下に、委くいへり、考ふべし、かの皇太夫人を、語《コトバ》には大御祖《オホミオヤ》と申せとあれば、皇太后をも、然申奉るべきこと、准へて知べし、皇太后皇太夫人など別つは、漢文のうへのことにこそあれ、常の語には、共に大御祖とぞ申けむ、かの皇極天皇は、天皇に坐(ス)をすら、皇祖母《オホミオヤノ》尊と申せしをや、
〇鈴は、驛(ノ)鈴なり、
○印は、天武紀にオシテと訓り、押手の意也、古(ヘ)は、印といふ物はなくて、みな手掌《タナウラ》を押て、信《シルシ》とせる、そをやがて印の訓としたる也、今の世に、手形といふ名の残れるも、此よし也、さて公式令に、内印(ハ)方三寸(ナリ)、五位以上(ノ)位記、及(ビ)下(ス)2諸國(ニ)1公文(ニ)則|印《オス》、外印(ハ)方二寸半(ナリ)、六位以下(ノ)位記、及(ビ)大政官(ノ)文案(ノ)則印(ス)、諸司(ノ)印(ハ)云々、諸國(ノ)印(ハ)云々、職員令、太政官少納言の處に、掌(ル)d奏2宣(シ)小事(ヲ)、請2進(シ)鈴印傳符(ヲ)1、進2付(シ)飛驛函鈴(ヲ)1、兼(テ)監(スルコト)c官印(ヲ)u、また公式令に、凡給(フ)2驛傳馬(ヲ)1、皆依(ル)2鈴傳符尅數(ニ)1云々、
〇契は、孝徳紀に、シルシと訓り、同紀に、大化二年正月、宣(ニ)2改新(ノ)之詔(ヲ)1曰(ク)云々、其二(ニ)曰(ク)、初(メテ)云々、造(ル)2鈴契(ヲ)1云々、凡諸國及(ビ)關(ニ)給(フ)2鈴契(ヲ)1云々と見ゆ、鈴契、此時よりぞ始まりけむ、但し驛(ノ)鈴の事は、はやく顯宗天皇の大御歌にも見えたり、公式令に、三關(ノ)國、各給(フ)2關契二枚(ヲ)1、義解に、謂其(ノ)作(ル)v契(ヲ)之形制(ハ)者、須(シ)v有2別式1、また同令に、凡車駕巡2幸(スレバ)京師(ヲ)1、留守官(ニ)給(フ)2鈴契(ヲ)1など有(リ)、江家次第、固關使(ノ)儀に、云々木契三枚、【長(サ)三寸方一寸】函三合、以上木工寮以2檜(ノ)木(ヲ)1作(テ)、進(ル)2之(ヲ)内記(ニ)1、云々、大臣執(テ)v筆(ヲ)、各書(テ)2木契(ノ)一面(ニ)1云(ク)、賜(フ)2伊勢(ノ)國(ニ)1、賜(フ)2近江(ノ)國(ニ)1、賜(フト)2美濃(ノ)國(ニ)1、書(キ)畢(テ)、即給(テ)2内記(ニ)1、令(ム)v割v之(ヲ)、内記各自(リ)2字(ノ)中央1割(リ)v之(ヲ)、惣(テ)六片、如(ク)v故(トノ)相合(セ)、進(ル)2之(ヲ)於上卿(ニ)1云々、なほ委し、此事貞觀儀式にも見えたり、さてこは、その二(ツ)に割たる一片をば、まづ其國司に給ひ、一片を固關(ノ)使に給ひて、其國に到りて、相合せてしるしとする物にて、俗にいはゆる割符《ワリフ》也、契の事、まづ件の如くなれども、なほ疑はしきよし有(リ)、そは事長ければ、こゝにははぶきぬ、さて又後世に、内侍所に、御寶物として安置《オカ》るゝ、大刀契といふ物あり、そはたゞ大刀にして、契にはあらず、此物の事、大刀と契とほ別也とも、一(ツ)なりともいひて、さま/”\説有て、さだかならざれども、今思ふに、なほ一物也、禁秘御抄に、節刀(ハ)可(シ)v在(ル)2此(ノ)外(ニ)1、と記させ給へれども、これ即(チ)節刀にて、節刀といふは、出征に給ふ時の名にて、そを常には、大刀契といふなるべし、これその信《シルシ》として給ふ物なるが故に、大刀なれども、契とはいふならむ、さればいづれの説にも、たゞ刀の事のみ見えて、別に契といふ物の事は、見えたることなし、これ別物にあらざるが故也、此大刀契の事は、たゞついでにいへる也、
〇取而は、奪取也、此物どもをとらむとはかるは、もろ/\の號令を出すに、信《シルシ》なくてはかなはざる故也、
〇右大臣は、藤原(ノ)豐成公也、
〇號令使爲 牟は、ノリコトセシメムと訓べし、天武紀に、命(セテ)2高市(ノ)皇子(ニ)1、號2令《ノリコトセシム》軍衆(ニ)1、
○帝は、美加度《ミカド》と訓べし、此字は、昔より世にも然訓(ミ)來れり、上にいへるごとく 直《タダ》に天皇を、朝廷《ミカド》と申せし事、これかれ見えたり、
○廢は、志叙氣弖《シゾケテ》と訓べし、
〇四王は、鹽燒(ノ)王、道祖(ノ)王、安宿(ノ)王、黄文(ノ)王なり、鹽燒(ノ)王は、天武天皇の御孫、新田部(ノ)親王の御子なり、道祖(ノ)王の兄のよし、廿八詔に見ゆ、聖武天皇の御女、不破(ノ)内親王を室《ミメ》とせられたり、天平五年三月に、无位より、從四位下に叙、其後官、中務卿大藏卿などを經、天平寶字元年八月に、氷上《ヒカミノ》眞人と姓を賜、同二年八月、從三位に叙し、同六年十二月、中納言に任、同人年九月、恵美(ノ)押勝謀反の時、近江(ノ)國にして、此(ノ)人を僞(リ)立(テ)て、今帝とす、同月十八日、湖(ノ)邊にして、押勝と共に斬(リ)殺されぬ、道祖《フナドノ》王は、鹽燒(ノ)王の弟也、天平九年九月、无位より從四位下に叙、天平勝寶八歳五月、聖武天皇崩坐時、遺詔、以2中務卿從四位上道祖(ノ)王(ヲ)1、爲2皇太子(ト)1、天平寶字元年三月、廢(ス)2皇太子(ヲ)1、同年七月この度、奈良麻呂謀反の事によりて、拷問せられて薨、上に見えたるが如し、万葉十九に、此王の歌有、安宿《アスカベノ》王は、天武天皇の御曾孫、高市(ノ)皇子(ノ)尊の御孫、左大臣從二位長屋(ノ)王の子也、母は藤原氏、不比等(ノ)大臣の女也と、廿四の卷、藤原(ノ)弟貞(ノ)卿の傳に見えたり、天平元年、御父長屋(ノ)王謀反のよしにて、殺され給へりし時、此王又黄文(ノ)王などは、不比等公の女の所生なりしをもて、命ゆるされたりき、同九年九月、无位より從五位下に叙、官は玄蕃(ノ)頭治部卿中務(ノ)大輔内匠(ノ)頭、位は正四位下に至る、天平寶字元年七月、此度の事によりて、佐度(ノ)國に配流、上に引る文に見えたるがごとし、かくて此後、京にめしかへされたることは見えずして、寶龜四年十月、賜(フ)2姓(ヲ)高階(ノ)眞人(ト)1と見えたり、黄文(ノ)王は、安宿(ノ)王の同母(ノ)弟也、天平九年九月、无位より從五位下に叔、官は散位(ノ)頭、位は從四位上に至る、此度の事によりて、拷問せられて、卒られし事、上の文の如し、さてそのかみ凡て親王諸王たちの御名は、みなその乳母の姓を取れる例にて、此四王の名も然也、鹽燒といふ姓は、物に見あたらざれども、此姓も有しなるべし、道祖は、道祖(ノ)史といふ姓有(リ)、こは布那斗《フナト》と訓(ム)こと也、孝徳紀に、※[魚+即]魚戸《フナトノ》直といふ姓も見ゆ、安宿《アスカベ》は、飛鳥戸《アスカベノ》造、飛鳥部《アスカベ》などいふ姓あり、和名抄に、河内(ノ)國安宿(ノ)郡(ハ)【安須加倍、】これを雄略紀には、飛鳥戸(ノ)郡と書り、此地によれる姓也、万葉廿に、安宿(ノ)王等、集(ヒテ)2於安宿(ノ)奈杼麻呂(ガ)之家(ニ)1宴歌とあるは、奈杼麻呂は、此王の乳母の族にやありけむ、黄文は、黄文(ノ)連といふ姓有(リ)、
〇大政官(ノ)坊、上に引る文には、太政官(ノ)院庭とも、院内とも有(リ)、卅一の卷卅六の卷にも、大政官(ノ)院といふこと見ゆ、又宮衛令に、兵庫大藏(ノ)院内ともあり、院内とは、その構(ヘ)の内をいへる也、さればこゝに坊とあるも、其意にて、ただ大政官の構(ヘ)の内といふこと也、故(レ)ウチと訓つ、さて此時、奈良麻呂左大辨也、古麻呂も、今年六月まで、左大辨なりしかば、大政官の内は、手附《タヅキ》ありし所也、和名抄に、大政官(ハ)、於保伊萬豆利古止乃官《オホイマツリゴトノツカサ》、
〇飲(テ)2鹽汁(ヲ)1而は、そのかみ世中に、誓盟《チカヒ》にせしわざなるべし、
〇禮2天地四方(ヲ)1も同じ、天地を拜み、四方を拜むこと、古(ヘ)意にはあらず、からぶり也、皇極紀に、元年八月朔、天皇幸(テ)2南淵(ノ)河上(ニ)1、脆(テ)拜(ミ)2四方(ヲ)1仰(テ)v天(ヲ)而祈(リタマフ)云々、雨を祈(リ)給へる也、
〇謀定而、先(ヅ)内相(ノ)家 乎 圍而、といふより、これまでの事ども、上に引る庚戌(ノ)日、小野(ノ)東人を窮問せしに、款(シテ)云(ク)云々と同じ、又同時、安宿(ノ)王款(シテ)云(ク)、去(シ)六月廿九日黄昏云々、庚戌は七月四日也、
〇二日(ノ)未(ノ)時(ニ)云々は、十七詔の次に、是(ノ)日(ノ)夕、中衛(ノ)舍人云々、とある是也、其文上に引り、今日といへる、二日のこと也、かくて其日に即(チ)小野(ノ)東人等捕へられたり、かねては、七月二日の夜、兵を發さむと約しつれども、其日に事|覺《アラ》はれたる也、
〇小野(ノ)東人、小野(ノ)朝臣は、姓氏録に孝昭天皇(ノ)皇子、天足彦國押人(ノ)命(ノ)之後也と見ゆ、東人は、誰(ガ)子ならむ、いまだ考(ヘ)得ず、天平九年九月、正六位上より、外從五位下に叙、其後從五位上に至る、官は、兵衝(ノ)佐治部(ノ)少輔備前(ノ)守などに任(ス)、此度拷問せられて卒(ル)、上に引る文に見ゆ、
〇中衛(ノ)舍人、中衛は、神龜五年八月、勅(シテ)始(メテ)置(ク)2内匠寮(ヲ)1云々、又置(ク)2中衛府(ヲ)1、大將一人、【從四位上】少將一人、【正五位上】將監四人、【從六位上】將曹四人、【從七位上】府生六人、番長六人、中衛三百人、【號2日來舍人(ト)1、】使部已下亦有v數、其(ノ)職掌、常(ニ)在(チ)2大内(ニ)1、以備2周衛(ニ)1、事並在v格(ニ)と見えたる、これ中衛府の始也、中衛三百人とある、これその舍人なるべし、號日來舍人とある、日來は誤字と見ゆ、さて中衝の訓は、物に見えざれども、ナカノマモリノツカサと訓べし、天平勝寶八歳七月、勅(ス)、授刀(ノ)舍人云々、其(ノ)中衛(ノ)舍人、亦以2四百(ヲ)1爲(ヨ)v限(ト)、さて紀略に大同二年四月、詔(シテ)、近衛府(ヲバ)者、爲2左近衛(ト)1、中衛府(ヲバ)者、爲(ス)2右近衛(ト)1と見ゆ、これより中衛の名は停《ヤミ》て、左右近衛府となれり、
〇備前國、和名抄に、備前(ハ)、岐比乃美知乃久知《キビノミチノクチ》、〇上道郡は、同書に、上道(ハ)、加無豆美知《カムツミチ》、
〇上道(ノ)朝臣斐太都、古事記に、孝靈天皇の御子、大吉備津日子(ノ)命を、吉備(ノ)上(ツ)道(ノ)臣(ノ)之祖也と有(リ)、斐太都は、此月辛亥五日に、從八位上より、從四位下に叙し、姓朝臣を賜へり、同月乙卯九日に、爲2中衛(ノ)少將(ト)1、閏八月、爲2吉備(ノ)國(ノ)造(ト)1、かくのごとく、俄になりのぼりしは、此度の事を告申せるによりて也、天平神護元年八月に、飛弾守となる、其後の事は見えず、
〇誂は、アトラヘと訓べし、
〇倶佐西 止《イザセト》、佐(ノ)字、本どもに倍と作《カキ》、一本には位と作《カケ》るを、今は又の一本に依れり、次なるも同じ、倶(ノ)字は、諸(ノ)本みな同じきを、これも伊を誤れるにて、伊佐西 止《イザセト》なるべし、次なるも同じ、いざせは、人を誘《サソ》ふ詞也、万葉十四に、安左乎良乎《アサヲラヲ》、遠家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》、宇麻受登毛《ウマズトモ》、安須伎西佐米也《アスキセザメヤ》、伊射西乎騰許爾《イザセヲドコニ》、此歌、むかしより皆|解《トキ》誤れり、四の句は、明日來《アスキ》せざらめやにて、明日の日の無きにあらず、明日も有(ル)をといへる也、結句は、小床《ヲドコ》に早く入て寢むと、いざなふ也、中昔の詞にも、人をいざなふに、いざさせ給へといへること有(リ)、一首の意は、女の夜(ル)のわざに、麻をうみ居るを、男の來て、早くねむと、催《モヨホ》せるにて、今夜さのみ多く麻笥《ヲケ》に麻をうまずとも有べし、明日の日のなからむにこそ、明日の日もあれば、麻は明日又いくらもうみ給へこよひは早く小床に入て寢む、いざさせ給へといへる也、今もこれに依て、いざせと訓つ、さきには、倶 仁 西《トモニセ》なるべし、西《セ》はせよの意也、と思へりしかども、倶《トモ》にせよといふ言いかゞ也、猶倶は伊の誤なるべし、此事、上文斐太都が告たる處には、汝能(ク)從(ハムヤ)乎と有、
〇倶佐西 牟止《イザセムト》、これも倶(ノ)字は、伊の誤なるべきこと、上に同じ、さてこは、彼方《カナタ》よりいざせといへるを承《ウケ》て、やがて其言を以て許諾《ウベナヒ》たるにて、いへるごとくせむの意也、
〇事者云々、事は借字にて、言也、言には許諾《ウベナヒ》て、實は然らざるよし也、上文に、不《ジ》2敢(テ)1v命(ニ)といへる是也、万葉七に、事聽屋毛打橋渡《コトユルセヤモウチハシワタス》、
〇其日(ノ)亥(ノ)時は、上(ノ)文には、是(ノ)日(ノ)夕とあり、
〇具奏は、上(ノ)文には、告(テ)2内相(ニ)1云(ク)と有、
〇實 止 申而は、奈良麻呂古麻呂等の申せる也、
〇罪 爾 伏 奴、すべて罪に伏《フス》といふは、もと漢文訓(ミ)にて、もとよりの皇國言にはあらじ、されど既《ハヤ》くさるたぐひ、つねのことなれば、字のまゝに訓べし、
〇勘v法、法は律をいふ、
〇死罪は、コロスツミと訓べし、允恭紀に、死刑《コロスツミ》とある訓よろし、其外、極刑大辟罪など、シヌルツミと訓るはいかゞ、これらもコロスツミとぞ訓べき、律に、謀反は八虐の第一也、さて死罪に、絞と斬との二(ツ)有て、絞は軽く、斬は重し、賊盗律に、几謀反及(ビ)大逆(ノ)者(ハ)皆斬と見ゆ、
〇姓名易而は、上の文に、黄文改(メ)2名(ヲ)多夫禮(ト)1云々のたぐひ、又姓を易《カヘ》尸《カバネ》をおとさるゝ類也、
〇遠流罪、凡そ罪有て流す事は、古事記允恭(ノ)段に、輕(ノ)太子(ハ)者、流2於伊余(ノ)湯(ニ)1と有、此流(ノ)字は、ハナツと訓べし、然云(フ)ぞ古言なるべき、そのよしは傳卅九の卷にいへり、然れども奈良のころは、既《ハヤ》く漢國の名目のまゝに、流罪は、ナガスとぞ訓けむ、天武紀にも然訓り、さて遠流は、神龜元年三月定2諸(ノ)流配(ノ)之程(ヲ)1、伊豆安房常陸佐渡隱岐土左六國(ヲ)、爲v遠(ト)、諏方伊豫、爲v中(ト)、越前安藝、爲v近(ト)と見ゆ、諏方は、信濃の諏方也、そのかみ國に建られて有しほど也、刑部式に見えたる遠中近流の定めも、右のごとし、獄令に、凡流人|應《ベキ》v配(ス)者(ノ)、依(テ)2罪(ノ)輕重(ニ)1、各配(ス)2三流(ニ)1、【謂2近中遠處(ヲ)1、】
〇天地(ノ)神 乃、一本に、乃の上に、多知の二字あり、四十二詔四十三詔などにも、然あれば、それもよろし、
〇開闢已來は、たゞ神代よりこなたの意なり、
〇伎良比賜、神代紀に、棄物とある棄に、此(ヲ)云2岐羅毘(ト)1と、訓注ある、此意にて、棄《ステ》賜(フ)と同じこと也、廿八詔に、先(キ) 仁 捨岐良《ステキラ》 比 賜(ヒ) 天之、卅五詔に、罪 奈比 給(ヒ)岐良 比 給(ハム)、四十三詔に、法(ノ)末爾々々《マニマニ》岐良 比 給 倍久 在(リ)、などなほ有(リ)、
〇護法は、佛法を護るよしにて四大天王までに係《カカ》れり、
〇梵王は、色界の初禅天の主を、大梵天王といふ、是也、これ娑婆世界の主なりといへり、色界とは、世界を三(ツ)に分て、欲界色界無色界といふ、これいはゆる三界也、欲界は下に在(リ)、其上(ヘ)色界、其上(ヘ)無色界也、初禅天とは、色界を四(ツ)に分て、初禅二禅三禅四禅といへり、
○帝釋は、釋提桓因といひて、※[立心偏+刀]利天の主也、※[立心偏+刀]利天は、三十三天と譯して、須彌山の頂上に在(リ)、帝釋の天は、欲界の最上也、印本には釋(ノ)字を脱せり、今は一本に依れり、
○四大天王は、須彌山の半腹の四方に居て、東方なるを、持國天王、南方なるを、増長天王、西方なるを、廣目天王、北方なるを、多聞天王といふ、多聞天王は、世(ノ)人のよく知れる、毘沙門也、毘沙門は梵語、多聞は、漢國の譯の名也、右梵王よりこなたのことども、佛ぶみどもにいへるさまを、一わたり注せる也、そも/\聖武天皇高野(ノ)天皇の御世のほどは、宣命にさへ、かゝる佛ごとどもの、多くまじれるは、いともうるさく、ふさはぬわざになむ、天照大御神を始め奉りて、もろ/\の天(ツ)神國(ツ)神の御護(リ)に、何のあかぬこと有てかは、かゝるよしなき戎國《カラクニ》の神どもをば、頼み給ひけむ、
〇不可思議威神之力は、佛書どもに、つねにいへる言也、
〇顯出は、謀反のあらはれたること也、
〇神 奈我良母、印本には、此五字なし、今は一本又の一本などに依(ル)、
〇所※[言+圭]誤は、持統紀に、爲《ニ》2皇子大津1所※[言+圭]誤《アザムカレタル》とある訓に依て訓べし、
〇穢 彌、彌(ノ)字、本に禰に誤(ル)、今は一本に依(ル)、きたなみは、きたなさにといはむがごとし、
〇出羽は、和名抄に、以天波《イデハ》とあり、其外も昔の物には、皆然あるを、今いを省きて、ではといふは、鄙言《サトビコト》也、
〇小勝、印本に、小(ノ)字を脱し、勝(ノ)字を膝に誤り、一本にも、小膝と有(リ)、今は又の一本に依れり、和名抄に、雄勝(ノ)郡(ハ)乎加知《ヲカチ》、有v城謂2之(ヲ)答合(ト)1と見え、雄勝(ノ)郷も有、答合は、誤字なるべし、
〇柵戸は、紀閇《キヘ》と訓べし、柵は城也、城と柵と、分て記せる處もあれども、此雄勝(ノ)柵も、城ともあり、皇極紀に、城柵とつらねてもいへり、さて此雄勝(ノ)柵は、和銅二年七月、令(ム)3諸國(ヲシテ)運2送(ラ)兵器(ヲ)於出羽(ノ)柵(ニ)1、爲(メナリ)v征2蝦狄(ヲ)1也とある、これ其《ソ》なるべし、天平五年十二月、出羽柵(ヲ)遷(シ)2置(ク)於秋田(ノ)村高清水(ノ)岡(ニ)1、又|於《ニ》2雄勝(ノ)村1、建(チ)v郡(ヲ)居(ラシム)v民(ヲ)焉、天平寶字二年十二月、徴2發(シテ)坂東(ノ)騎兵鎭兵役夫、及(ビ)夷俘等(ヲ)1、造(ラシム)2桃生(ノ)城小勝(ノ)柵(ヲ)1、五道倶(ニ)入(テ)、並(ニ)就(ク)2功役(ニ)1、同三年九月、勅(ス)、造(ルニ)2陸奥(ノ)國桃生(ノ)城、出羽(ノ)國雄勝(ノ)城(ヲ)1所(ノ)v役云々、同四年正月、勅(シテ)曰(ク)云々、昔先帝|數(シバシバ)降(シテ)2明詔(ヲ)1造(ラシム)2雄勝(ノ)城(ヲ)1、其事難(クシテ)v成、前將既(ニ)困(メリ)、然(ルニ)今云々、造成既(ニ)畢(ル)云々、紀略に、延暦廿一年正月、越後(ノ)國(ノ)米、一萬六百斛、佐渡(ノ)國(ノ)鹽、一百二十斛、毎年運2送(セシム)出羽(ノ)國雄勝(ノ)城(ニ)1、爲(メナリ)2鎭兵(ノ)1、三代實録卅四に、其(レ)雄勝(ノ)城(ハ)、承(テ)2十道(ノ)之大衝(ヲ)1也、國之要害、尤在(リ)2此地(ニ)1、など見えたり、すべて陸奥出羽越後などにある、所々の城柵は、みな蝦夷の背叛《ソムカ》む時の備(ヘ)也、さて柵戸《キヘ》といふは、柵に屬《ツキ》たる民戸《タミノイヘ》也、孝徳紀に、大化三年、造(テ)2渟足柵《ヌタリノキヲ》1、置(ク)2柵戸(ヲ)1、同四年、治2磐舟(ノ)柵(ヲ)1、以備2蝦夷(ニ)1、逐(ニ)選(テ)d越(ト)與《トノ》2信濃1之民(ヲ)u、始(テ)置(ク)2柵戸(ヲ)1などある、磐舟渟足は、共に越後(ノ)國也、和銅七年、勅(シテ)割(テ)2尾張上野信濃越後等(ノ)國(ノ)民二百戸(ヲ)1、配(ス)2出羽(ノ)柵戸(ニ)1、養老元年、以2信濃上野越前越後四國(ノ)百姓、各一百戸(ヲ)1配(ス)2出羽(ノ)柵戸(ニ)1焉、同三年、遷(テ)2東海東山北陸三道(ノ)民二百戸(ヲ)1、配(ス)2出羽(ノ)柵(ニ)1焉、天平寶字二年、發(テ)2陸奥(ノ)國(ノ)浮浪人(ヲ)1、造(ル)2桃生(ノ)城(ヲ)1、既而復(シ)2其調庸(ヲ)1、便即占着(セシム)、又浮宕(ノ)之徒(ヲ)、貫(シテ)爲2柵戸(ト)1、同三年九月、遷(テ)2坂東八國、并(ニ)越前能登越後等四國(ノ)浮浪人二千人(ヲ)1、以爲2雄勝(ノ)柵戸(ト)1、同四年三月、没官(ノ)奴二百卅三人、婢二百七十七人(ヲ)、配2雄勝(ノ)柵(ニ)1、並(ニ)從(フ)2良人(ニ)1、同七年九月、河内(ノ)國(ノ)人、尋來津(ノ)公關麻呂、坐(テ)v殺(スニ)v母(ヲ)、配(ス)2出羽(ノ)國小勝(ノ)柵戸(ニ)1、など見えたり、近く造れる柵にて、其戸足らざる故に、かくくさ/”\、外より遷して、其《ソレ》とせられしなり、
第二十詔
同月、癸酉詔曰(ク)とあり、
鹽燒王者唯預四王之列《シホヤキノオホキミハタダヨタリノオホキミノツラニアヅカレリ》。然不合謀庭亦不被告《シカレドモコトハカレルトコロニマジラズマタツゲラエズ》。而縁道祖王者應配遠流罪《シカレドモフナトノオホキミニカカレレバトホクナガスツミニヲサムベシ》。然其父新田部親王清明心仕奉親王也《シカレドモソノチチニヒタベミコキヨキアカキココロヲモチテツカヘマツレルミコナリ》。可絶其家門 夜止 爲 奈母 此般罪免給《ソノピヘカドタツベシヤトシテナモコノタビノツミユルシタマフ》。自今往前者以明直心仕奉朝廷 止 詔《イマヨリユクサキハアカキナホキココロヲモチテミカドニツカヘマツレトノリタマフ》。
四王、上に出たり、その列に預《アヅカ》るとは、四王の中を立《タテ》むと謀りし、其|中《ウチ》なるをいふ、
〇不會謀庭は、書(キ)ざま漢文ぶりなれば、字のまゝには訓べからず、コトハカレルトコロニマジラズと訓べし、かの太政官の院内にて、謀れりしところ也、
〇不被告は、此度此王の事は、告たることなき也、十八詔に、鹽燒等五人 乎、人2告(タリ)謀反(ト)1とあるは、此王のことを告たるにはあらざれども、四王の列なる故に、五人の内に入れて、召れたるを、此王、五人の中の上首なるを以て、此名をば擧られたるのみ也、さて告(ノ)字の下なる而(ノ)字も、シカレドモと訓べし、近く上にも次にも、然《シカレドモ》と有て、あ
まり同じ言の重なれるは、いかゞなれども、必(ズ)然訓べき語の意也、
〇道祖(ノ)王は、鹽燒王の弟にて、上に出(ヅ)、さて此名、布郡斗《フナト》と訓べき事を、なほいはば、まづ古事記に、船戸(ノ)神とあるを、書紀には岐《フナトノ》神と有て、口決纂疏などに、これを道祖神也と注せられたり、道祖の字は、漢國の名を以て、當《アテ》たるにて、まことに船戸(ノ)神にあたれり、されは古(ヘ)より、此神(ノ)名の布那斗《フナト》を、道祖とも書たりし也、和名抄には、岐《フナトノ》神とは別に擧て、道祖神をば、さへのかみとしるせれども、岐神と同じこと也、かくて上にいへる道祖《フナトノ》史といふ姓は、いかなるよしにて負けるかしらねども、もしくは地(ノ)名ならむか、そはいかにもあれ、かならずふなとと訓べきことは、かの孝徳紀の※[魚+即]魚戸《フナトノ》直に准へてもしるべき也、
〇緑は、加々流《カカル》と訓べし、親族などの罪に坐《カカ》るにて、これを緑坐といふ、俗にいはゆるかゝりあひの罪也、繼體紀に、筑紫(ノ)君葛子、恐(レ)2坐《カカリテ》v父《チチノツミニ》誅(レムコトヲ)1、孝徳紀に、坐《カカリテ》2蘇我(ノ)山田(ノ)大臣(ニ)1、而|被《ルル》v戮(サ)者云々等、几十四人、被《ルル》v絞者九人、被v流者十五人、持統紀に、從者|當《ベキ》v坐《カカル》2皇子大津(ニ)1者、皆赦v之、などある是也、
〇遠流、賊盗律に、凡謀反及大逆(ノ)者(ハ)、皆斬云々、祖孫兄弟(ハ)、皆配(ス)2遠流(ニ)1と見ゆ、
〇配は、乎佐牟《ヲサム》と訓べし、十九詔に、遠(ク)流(ス)罪 爾 治(メ)賜(ヒ) 都と有(リ)、
〇新田部(ノ)親王は、天武天皇の第七の御子にて、御母は、藤原氏、鎌足(ノ)大臣の女、五百重娘也、一品にて、天平七年九月晦日薨坐(シ)ぬ、
第廿一詔
同年、八月庚辰詔(シテ)曰(ク)とあり、
今宣 久 奈良麻呂 我 兵起 爾 被雇 多利志 秦等 乎婆 遠流賜 都《イマノリタマハクナラマロガイクサオコスニヤトハエタリシハダドモヲバトホクナガシタマヒツ》。今遺秦等者惡心無而清明心 乎 持而仕奉 止 宣《イマノコレルハダドモハキタナキココロナクシテキヨクアカキココロヲモチテツカヘマツレトノリタマフ》。
秦等《ハダドモ》、應神天皇の御世に、から國の秦(ノ)始皇が後《スヱ》なる、弓月(ノ)君といへる人、百廿七縣の秦《シムノ》民を率《ヒキヰ》て、歸化《マヰキ》たりしを、仁徳天皇の御世に、波陀《ハダ》といふ姓を賜ひて、國々に分ち置給ふ、即(チ)秦(ノ)字を書て、波陀《ハダ》と訓り、かくて雄略天皇の御世に、諸國に在ける秦等《ハダドモ》、合せて一萬八千六百七十人有けるを、秦《ハダノ》君酒をして、これを領《シラ》しめ給へり、酒は、弓月(ノ)君の子孫也、さて天平廿年、秦《ハダノ》民の京畿内に在(ル)者は、みな伊美吉《イミキ》の尸《カバネ》を給へり、件の趣は、書紀姓氏録に依て、要を摘《ツミ》ていへり、委き事は、古事記傳、應神(ノ)段、卅三の卷にいへり、こゝに見えたるは、京に在(ル)秦等《ハダドモ》なるべし、〇遺(レル)秦等云々、此度の謀反に雇はれたるが、多く有し故に、其餘の秦等をも、かくとりわきて詔給へる也、
〇惡心は、キタナキコヽロと訓べし、古事記に穢邪心、神代紀に、黒心濁心、天武紀に謀心、みな然訓り、卅四詔四十三詔に、逆心、卅五詔に、逆穢心などあるも、同じ訓なるべし、なほ十九詔に、悪逆在奴《キタナクサカシマナルヤツコ》とある下をも、考へ合すべし、
第二十二詔
件の詔につゞきて、又詔(シテ)曰(ク)とあり、
此遍 乃 政明淨 久 仕奉 禮留爾 依而治賜人 母 在《コノタビノマツリゴトアカクキヲクツカヘマツレルニヨリテヲサメタマフヒトモアリ》。又愛盛 爾 一二人等 爾 冠位上賜治賜 久止 宣《マタメデノサカリニヒトリフタリドモニカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフ》。
此遍 乃 政とは、奈良麻呂等の謀反の事につきての、とりはからひをいふ、〇明淨 久 仕事とは、朝廷に忠義なりしよし也、〇愛盛は、米傳乃佐加利《メデノサカリ》と訓べし、万葉五に、神奈我良《カムナガラ》、愛盛爾《メデノサカリ》、天下《アメノシタ》、奏多麻比志《マヲシタマヒシ》、家子等《イヘノコラ》、撰多麻比《エラビタマヒ》云々、とあるも同じ、メグミノサカリと訓るはわろし、又此万葉なる愛(ノ)盛は、撰《エラビ》たまひへ係《カカ》れり、天(ノ)下云々へ係ていへるにはあらず、さて此詞、顆聚國史、天長四年の詔にも、御意 乃 愛盛 爾《ミココロノメデノサカリニ》 治(メ)賜(フ)人 毛 亦在(リ)、文徳實録三にも、又御意 乃 愛(ノ)盛 尓 治(メ)賜(フ)人 毛 一二在(リ)と見え、貞觀儀式、踐祚大嘗祭(ノ)儀、また正月七日(ノ)儀、などの條の宣命にも見えたり、又三代實録八の詔に、又御意 尓 感《メデ》治(メ)賜(フ)人 毛 一二在(リ)とあるは、例に依(ル)に、感の下に盛(ノ)字|脱《オチ》、尓(ノ)字は、乃を誤れるか、そはいかにもあれ、これも愛(ノ)盛とあると、同意の語なるに、感(ノ)字を書るを以ても、愛をめでと訓べきことをしるべし、
第廿三詔
廿一の卷に、天平寶字二年八月庚子朔、高野(ノ)天皇禅2位(ヲ)於皇太子(ニ)1詔曰と有(リ)、
現神御宇天皇詔旨 良麻止 宣勅 乎 親王諸王諸臣百官人等衆聞食宣《アキツミカミトアメノシタツロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチモロモロキコシメサヘトノル》。高天原神積坐皇親神魯棄神魯美命吾孫知食國天下 止 事依奉 乃 任 爾 遠皇祖御世始 弖 天皇御世御世聞看來天日嗣高御座 乃 業 止奈母 隨神所念行 久止 宣天皇勅衆聞食宣《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコトノアガミマノシラサムヲスクニアメノシタトコトヨサシマツリノマニマニトホスメロギノミヨヲハジメテスメラガミヨミヨキコシメシクルアマツヒツギタカミクラノワザトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。加久聞看來天日嗣高御座 乃 業 波 天坐神地坐祇 乃 相宇豆奈 比 奉相扶奉事 爾 依 弖之 此座平安御坐 弖 天下者所知物 爾 在 良自止奈母 隨神所念行 須《カクキコシメシクルアマツヒツギタカミクラノワザハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリアヒタスケマツルコトニヨリテコノクラヰニハタヒラケクヤスクオホマシマシテアメノシタハシロシメスモノニアルラシトカムナガラオモホシメス》。然皇 止 坐 弖 天下政 乎 聞看事君勞 岐 重 棄 事 爾 在 家利《サテスメラトマシテアメノシタノマツリゴトヲキコシメスコトハイトホシキイカシキコトニアリケリ》。年長 久 日多 久 此座坐 波 荷重力弱 之弖 不堪負荷《トシナガクヒマネクコノクラヰニマセバニオモクチカラヨワクシオテモチアヘタマハズ》。加以掛畏朕婆婆皇太后朝 爾母 人子之理 爾 不得定省 波 朕情 母 日夜不安《シカノミニアラズカケマクモカシコキアガハハオホミオヤノミカドニモヒトノコノコトワリニエツカヘマツラネバアガココロモヨルヒルヤスカラズ》。是以此位避 弖 間 乃 人 爾 在 弖之 如理婆婆 爾波 仕奉 倍自止 所念行 弖奈母 日嗣 止 定賜 弊流 皇太子 爾 授賜 久 宣天皇御命衆聞食宣《ココヲモテコノクラヰサリテイトマノヒトニアリテシコトワリノゴトハハニハツカヘマツルベシトオモホシメシテナモヒツギトサダメタマヘルミコニサヅケタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
神魯美(ノ)命、命の下に、以(ノ)字なきこと、第五詔の處にいへり、
〇事依奉 乃 任 爾、此|乃《ノ》の例、十四詔に有、
〇天日嗣高御座、この天日嗣の三字を、諸本に食國と作《ア》り、そは十四詔に、食國天日嗣高御座 乃 業 止とあるによらば、下に天日嗣の三字を脱せるか、とも思へども、第一詔十三詔廿四詔四十八詔六十一詔などの例によるに、食國は、天日嗣を誤れるなり、故(レ)今は然定めて改めつ、かにかくに食國高御座とつゞくことは、例もことわりもなければ也、又座(ノ)字も、印本に原に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇加久聞君來、看(ノ)字、一本には者に誤れり、來(ノ)字、印本に事に誤る、今は一本に依(ル)、
○相宇豆奈 比は、第四詔に出(ツ)、
〇此座の下に、爾波《ニハ》と讀付(ク)べし、四十八詔に、者(ノ)字ある例に依(ル)、
〇御坐 弖は、オホマシ/\テと訓べし、大坐々とも、御坐々とも、於保麻志麻須とも書る、皆同じ例也、
〇然は、佐弖《サテ》と訓べし、此訓の事、十五詔にいへり、
〇日多 久は、比麻禰久《ヒマネク》と訓べし、まねくの事、第三詔にいへり、久(ノ)字、本に天に誤(ル)、今は一本に依れり、
〇皇太后は、オホミオヤと訓べし、そのよしは、十九詔にいへるがごとし、十三詔に、婆々大御祖《ハハオホミオヤ》と有、さてこは光明皇后也、
〇人(ノ)子之理 爾は、人(ノ)子の、父母《オヤ》につかふることわりのごとくにもの意也、
〇不得定省 波は、エツカヘマツラネバと訓べし、次の文に、如v理婆々 爾波 仕奉 倍自とあると照して知べし、定省の字は、からぶみ禮記に、昏(レニ)定(−シ)晨(ニ)省(−ス)といへる、これ親に事《ツカ》ふるさま也、注に、定(メ)2其(ノ)袵席(ヲ)1、省(ル)2其(ノ)安否(ヲ)1と有(リ)、そのかみ物知(リ)人、宣命にさへ、かゝる漢文字を好みてつかひたる、いとあぢきなく、こゝろづきなきわざ也、さてかく詔給ふは、天皇の御位に坐(シ)ましては、萬機の政しげく、御身も重《イカ》しくおはしませば、ことわりのごとくにも、え仕奉(リ)給はぬよしなり、
〇間 乃 人 爾 在 弖は、間ある人にて在て也、間は、伊登麻《イトマ》と訓べし、さていとまといふ言の意は、いとなみま也、萬のいとなみの隙《ヒマ》をいふ、
〇皇太子は、こゝはたゞ美古《ミコ》と訓べし、上に日嗣 止云々とあれば、ヒツギノミコとは訓べきにあらず、
續紀歴朝詔詞解四卷
本居宣長解
第廿四詔
廿一の卷、廿三詔につゞきて、是日、皇太子、受(テ)v禅(ヲ)即2天皇(ノ)位(ニ)於太極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、廢帝の、御位に即(キ)給へるをりの詔也、
明神大八洲所知天皇詔旨 良麻止 宣勅親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。掛畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高御座之業 乎 拙劣朕 爾 被賜 弖 仕奉 止 仰賜 比 授賜 閇 頂 爾 受賜 利 恐 美 受賜 利 懼進 母 不知 爾 退 母 不知 爾 恐 美 坐 久止 宣天皇勅衆聞食宣《カケマクモカシコキアキツミカミトマスヤマトネコスメラミコトワガオホキミコノアマツヒツギタカミクラモワザヲツタナクヲヂナキアレニタマハリテツカヘマツレトオホセタマヒサヅケタマヘイナダキニウケタマハリカシコミウケタマハリヲヂススムモシラニシゾクモシラニカシコミマサクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。然皇坐 弖 天下治賜君者賢人 乃 能臣 乎 得 弖之 天下 乎婆 平 久 安 久 治物 爾 在 良之止奈母 聞行 須《サテスメラトマシテアメノシタヲサメタマフキミハカシコキヒトノヨキオミヲエテシアメノシタヲバタヒラケクヤスクヲサムルモノニアルラシトナモキコシメス》。故是以大命坐宣 久 朕雖拙弱親王始 弖 王臣等 乃 相穴 奈止 奉 利 相扶奉 牟 事依 弖之 此之仰賜 比 授賜 夫 食國天下之政者平 久 安 久 仕奉 倍之止奈母 所念行 須《カレココヲモテオホミコトニマセノリタマハクアハツタナクヲヂナクアレドモミコタチハジメテオホキミタチオミタチノアヒアナナヒマツリアヒタスケマツラムコトニヨリテシコノオホセタマヒサヅケタマフヲスクニアメノシタノマツリゴトハタヒラケクヤスクツカヘマツルベシトナモオモホシメス》。是以無諂欺之心以忠赤之誠食國天下之政者衆助仕奉 止 宣天皇勅衆聞食宣《ココヲモテヘツラヒアザムクココロナクマメニアカキマコトヲモチテヲスクニアメノシタノマツリゴトヲバモロモロタスケツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別 弖 宣 久 仕奉人等中 爾 自 何 仕奉状隨 弖 一二人等冠位上賜 比 治賜 夫《コトワケテノリタマハクツカヘマツルヒトドモノナカニシガツカヘマツルサマニシタガヒテヒトリフタリノヒトドモカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。百官職事已上及大神宮 乎 始 弖 諸社禰宜祝 爾 大御物賜 夫《ツカサツカサノシキジヨリカミツカタオヨビオホミカミノミヤヲハジメテヤシロヤシロノネギハフリニオホミモノタマフ》。僧綱始 弖 諸寺師位僧尼等 爾 物布施賜布《ホウシノツカサヲハジメテテラテラノシノクラヰノホウシアマタチニモノホドコシタマフ》。又百官司 乃 人等諸國兵士鎭兵傳驛戸等今年田租免賜 久止 宣天皇勅衆聞食宣《マタツカサヅカサノヒトドモクニグニノイクサビトオサヘノイクサウマヤベドモコトシノタチカラユルシタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
掛畏云々我皇とは、孝謙天皇を申(シ)給ふ也、
〇高御座、諸(ノ)本に、御(ノ)字を脱せり、今は一本に依(ル)、此御(ノ)字を略きて書る例なければ也、万葉歌の枕詞には、高座《タカクラ》ともよめれど、詔などには、さることなし、
〇朕 爾 被賜 弖云々は、朕 爾と讀切(ル)べし、こは、仰賜 比へ係れり、朕に賜(フ)といふにはあらず、被賜 弖 仕奉(レ) 止、朕 爾 仰賜の意也、
。授賜 閇、諸本に、閇の下に波(ノ)字あり、今は一本に無きに依れり、十四詔に、云々負(セ)賜 閇、頂 爾云々とあると、上下も同じ語なるに、波(ノ)字はなし、こは賜へといひて、賜へばの意なること、十二詔に、云々有 止 念 閇、とある處にいへるがごとし、さればこゝも、波(ノ)字あるは、後の人の、さかしらに加へたるなるべし、
〇頂 爾、頂(ノ)字、一本に項と作《カケ》るは、誤也、
〇進 母云々、第五詔に出(ヅ)、
〇恐 美 坐 久止、久(ノ)字、本に之に誤(ル)、今改(ム)、
〇治賜君、治(ノ)字、本に詔に誤(ル)、今は一本に依れり、
○賢人 乃 能臣とは、賢く能(キ)人なる臣といふことにて、一つなるを、かく二(ツ)に分ていふは、古言にて、其例万葉六に、丹管士乃《ニツツジノ》、將薫時能《ニホハムトキノ》、櫻花《サクラバナ》、將開時爾《サキナムトキニ》とあるなども、丹つゝじのにほひ、櫻花の咲なむ時といへる也、祝詞に、八束穗能伊加志穗《ヤツカホノイカシホ》、安幣能足幣《ヤスミテグラノタルミテグラ》などいふ類も、同じ格也、第六詔には、賢臣とばかりも見え、四十八詔には、賢臣(ノ)能人とも有(リ)、六十一詔には、こゝのごとく有(リ)、
○天下 乎婆云々、婆(ノ)字、多くの本波と作《カケ》り、今は一本に依(ル)、安 久の久(ノ)字、之に誤(ル)、今は是も一本に依(ル)、
〇治物 爾 在、こは治の下に、賜(ノ)字脱たるかと思へど、四十八詔六十一詔など、こゝと同じつゞきの語にて、みな賜(ノ)字はなし、
〇相穴 奈比、第三詔に出(ヅ)、
〇授賜 夫、一本に、夫(ノ)字を天に誤れり、又一本には、此三字を脱せり、
〇諂欺之心、六十一詔にも見ゆ、廿八詔には、詐※[(女/女)+干] 流 心 乎 以 天、また※[(女/女)+干] 美 諂 天、四十四詔には、※[(女/女)+干]偽 利 諂曲 流 心無(ク) 之天なども有(リ)、こゝには之(ノ)字を添て書るは、漢文ざま也、
〇忠赤之誠、六十一詔に、以2忠明之誠1とあり、繼體紀孝徳紀持統紀に、忠誠をマメゴヽロと訓り、
〇衆助、衆は、はじめに、親王云々百官人等とある衆なり、
〇辭別 弖 宣 久、印本に、辭 久 別宣 之と誤れり、一本には、辭別宣 久と作《ア》り、印本の辭の下の久は、別の下に天と有しを、誤りて上に書るなるべし、但し此詔、テにはみな弖(ノ)字をのみ用ひたるに從ひて、今改(メ)つ、
〇自 何は、其之《ソレガ》なり、六十一詔にも、こゝのつゞきのごとく有(リ)、廿八詔に、先《サキ》 仁 |之 我《シガ》奏 之(シシ)事 |方《ハ》とも有(リ)、此言、古事記の歌、万葉歌などに多し、委きことは、古事記傳卅六(ノ)卷、御歌の所にいへり、
〇職事は、訓は物に見あたらず、字音に讀て有べし、公式令に、凡内外諸司、有(ル)2執掌1者(ヲ)、爲2職事(ノ)官(ト)1、無(キ)2執掌1者(ヲ)、爲2散官(ト)1と見えたり、有2執掌1者とは、職員令もろ/\の官司に、各長官をはじめ次々、掌(ル)2云々(ノ)事(ヲ)1、といふ文ある者をいふ、其例を神祇官にていはば、伯より次々、皆件の文有て、少史一人、掌(ルコト)同(ジ)2大史(ニ)1といふまで、これ職事(ノ)官也、其次、神部卜部使部直丁などは、件の文なし、これ散官也、餘の官司も、これに准ふべし、後宮職事令に、十二司を擧て、右諸司、掌以上、皆爲2職事(ト)1、自餘(ハ)爲2散事(ト)1、とあるにても知べし、掌以上とは、内侍司にては、掌侍これ掌也、藏司にては掌藏これ掌也、さて各掌より下に擧たる者は、散事也、散事散官同じ、
〇大御物賜 夫、一本に夫(ノ)字なし、
〇僧綱、十三詔に出(ヅ)、
〇諸寺(ノ)師(ノ)位、天武紀に、三綱律師、及(ビ)四寺(ノ)和上知事、并(ニ)現有(ル)師位《シヰノ・ノリノシノクラヰ》僧等、施2御衣御被各一具(ヲ)1、三代實録八に、僧位之制、本有2三階1、滿位法師位大法師位是也、と見えたり、師位とは、法師位大法師位をいふなり、紀十七の卷に、私度(ノ)沙彌、丸子(ノ)連宮麻呂(ニ)、授(テ)2法名(ヲ)應寶(ト)1、入(ル)2師位(ニ)1、さて僧尼とあれば、尼にも、師位なるがあるなるべし、僧尼令(ノ)集解に、養老四年二月四日(ノ)格(ニ)問(フ)、大學明法博士越知(ノ)直廣江等答(フ)、凡僧尼給(フ)2公驗(ヲ)1、其數有v三、初(メテ)度(シテ)給(フ)一(ナリ)、受戒(シテ)給(フ)二人(ナリ)、入(テ)2師位(ニ)1給(フ)三(ナリ)とある、これにも凡僧尼といひて、入2師位(ニ)1とあれば也、尼に位階を賜へる、たしかなる例は見えざれども、紀廿九に、法戒法均二人の尼を、大尼と記されたり、これ大法師位を賜へる尼を、然云るにやあらむ、なほ尋ぬべし、
〇百官司 乃 人等は、もろ/\の詔につねに、百官人等とあるとは異にして、これは諸の官司に屬《ツキ》たる人等といふことにて、其色は、くさ/”\有べし、賦役令に、凡舎人史生伴部兵衛衛士仕丁云々、並(ニ)兎(ス)2課役(ヲ)1とある、これらの類也、此類、課役はつねに免されてあれども、田租はつねには輸すを、今年は殊に免さるゝ也、
〇諸國(ノ)兵士、諸國に軍團といふもの有(リ)、其職員は、大毅一人、少毅二人、主帳二人、校尉五人、旅師十人、隊正二十人、かくのごとく有て、その隊正一人ごとに、兵士五十人づゝ屬て、一國に合せて千人づゝの兵士有(リ)、軍防令に、凡軍團(ハ)、大毅領(ス)2一千人(ヲ)1とある是也、但し國によりて、人數は多少ある也、かくてその兵士は、百姓の中より簡《エラ》び定めて、常に置(カ)るゝものにて、衛士|防人《サキモリ》などにも、此兵士の中より、上番とて差遣《サシヤル》こと也、又征討の事あれば、從ひ行(ク)也、なほ軍防令に委し、雄略紀に、物(ノ)部(ノ)兵士《イクサビト》といふも見えたり、訓は此雄略紀のに依(ル)べし、
〇鎭兵は、陸奥出羽などの、邊城の備(ヘ)にまうけ置るゝ兵也、紀廿九に、陸奥(ノ)國言(ス)、兵士(ノ)之設(ハ)云々、而(ルニ)比年諸國、差(シ)2入(ル)鎭兵(ヲ)1云々、今檢(ルニ)2舊例(ヲ)1、前(ノ)守從三位百濟(ノ)王敬福(ノ)之時、停2止(シ)他國(ノ)鎭兵(ヲ)1、點(シ)2加(フ)當國(ノ)兵士(ヲ)1、望請(フ)、依(テ)2此舊例(ニ)1、點(シ)2加(ヘテ)兵士四千人(ヲ)1、以停(メム)2他國(ノ)鎭兵二千五百人(ヲ)1、また陸奥(ノ)國言(ス)、他國(ノ)鎭兵、今現2在(スル)戌(ニ)1者、三千餘人、就(テ)v中(ニ)二千五百人(ハ)、被(テ)2官符(ヲ)1解却已(ニ)訖(ヌ)、其所v遺《ノコル》五百餘人、伏(テ)乞(フ)、暫(ク)留(メテ)2鎭所(ニ)1、以守(ラム)2諸塞(ヲ)1、卅三に、出羽(ノ)國言(ス)、蝦夷(ノ)餘燼、猶未2平殄(セ)1、三年(ノ)之間、請(テ)2鎭兵九百九十六人(ヲ)1、且(ツハ)鎭2要害(ヲ)1、且(ハ)遷(サムト)2國府(ヲ)1、勅差(テ)2相模武藏上野下野四國(ノ)兵士(ヲ)1發(シ)遣(ル)、など見えたるによりて見れば、鎭兵も、兵士の内より差(シ)遣る物也、兵部式には、凡鎭兵(ハ)、陸奥(ノ)國(ニ)五百人、出羽(ノ)國(ニ)六百五十人と有(リ)、これは事なく靜なるをりの定めなるべし、人數は、その時々のさまによるべき也、さて訓は、物に見えざれども、於佐閇乃伊久佐《オサヘノイクサ》と訓てよろしかるべし、万葉廿に、之良奴比《シラヌヒ》、筑紫國波《ツクシノクニハ》、安多麻毛流《アタマモル》、於佐倍乃城曾等《オサヘノキゾト》云々、これ正しく鎭之城《オサヘノキゾ》の意と聞ゆればなり、但し兵士もこれも、字音に讀ても有べし、
〇傳驛戸は、驛《ウマヤ》の民戸也、諸國驛傳馬の事、兵部式に見ゆ、賦役令に、驛長は、課役を免す中に出(デ)、驛子は、徭役を免す中に出たり、いづれも田租は、常には免されざる也、
〇田租は、書紀に、租をタチカラと訓り、田令に、段(ノ)租二束二把、町(ノ)租二十二束と見えて、田一町より、稻廿二束づゝ出すなり、さて口分田とて、男は二段づゝ賜ひ、女は男の三分の一を減じて賜ふなれば、男一人の口分田の租、四束四把づゝ也、かくて義解に、段(ノ)地、得2稻五十束(ヲ)1、束(ノ)稻、舂(テ)得2米五升(ヲ)1とあれば、男一人の口分田より、米五石を得る、其内より、一斗一升づゝ、租を納る也、さて租と税とは、一物にして、名くるところに差別ある、其差別は、神祇令(ノ)義解に、新(ニ)輸(ヲ)曰v租(ト)、經貯曰v税と見えて、民より約るところを、租といひ、既に納めたるを、貯へ置(ク)ところにては、そを税といふなり、
第廿五詔
廿二の卷に、同【天平寶字】三年六月庚戌、帝御(テ)2内(ノ)安殿(ニ)1、喚(テ)2諸司(ノ)主典已上(ヲ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、
現神大八洲所知倭根子天皇詔旨 止 宣詔 乎 親王王臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。比來太皇太后御命以 弖 朕 爾 語宣 久 大政之始 波 人心未定在 可波 吾子爲 弖 皇太子 止 定 弖 先奉昇於君位畢 弖 諸意靜了 奈牟 後 爾 傍上 乎波 宣 牟止 爲 天奈母 抑 閇弖 在 川留《コノゴロオホキオホミオヤノコトモチテアレニカタリタマハクオホキマツリゴトノハジメハヒトノココロイマダサダマラズアリシカバアゴヲシテヒツギノミコトサダメテマヅキミノクラヰニアゲマツリヲヘテモロモロノココロシヅマリハテナンムノチニカタヘノウヘヲバノリタマハムトシテナモオサヘテアリツル》。然今 波 君坐 弖 御宇事日月重 奴《シカルニイマハキミトマシテアメノシタシラスコトツキヒカサナリヌ》。是以先考追皇 止 爲乳母大夫人 止 爲兄弟姉妹親王爲 與止 仰給 夫 貴 岐 御命 乎 頂受給 利 歡 備 貴 美 懼 知 恐 利弖 掛畏我皇聖太上天皇御所 爾 奏給 倍波 奏 世止 教宣 久 朕一人 乎 昇賜 比治賜 部留 厚恩 乎母 朕世 爾波 酬盡奉事難 之《ココヲモテチチミコヲオヒテスメラトシハハヲオホミオヤトシアニオトアネイモヲミコトセヨトオホセタマフタフトキミコトヲイナダキニウケタマハリヨロコビタフトミヲヂカシコマリテカケマクモカシコキワガオホキミヒジリノオホキスメラミコトノオホミモトニマヲシタマヘバマヲセトヲシヘタマハクアレヒトリヲアゲタマヒヲサメタマヘルアツキウツクシミヲモアガヨニハムクイツクシマツルコトカタシ》。生子 乃 八十都岐 爾自 仕奉報 倍久 在 良之止 夜晝恐 麻里 侍 乎 伊夜益 須 益 爾 朕私父母波良何良 爾 至 麻弖爾 可在状任 止 上賜 比 治賜 夫 事甚恐 自《ウミノコノヤソツギニシツカヘマツリムクユベクアルラシトヨルヒルカシコマリハヘルヲイヤマスマスニアガワタクシノチチハハハラガラニイタルマデニアルベキサマノマニマトアゲタマヒヲサメタマフコトイトカシコシ》。受賜事不得 止 奏 世止 宣 夫《ウケタマハルコトエジトマヲセトノリタマフ》。朕又念 久 前聖武天皇 乃 皇太子定賜 比弖 天日嗣高御座 乃 坐 爾 昇賜物 乎 伊何爾 可 恐 久 私父母兄弟 爾 及事得 牟《アレモマタオモホサクサキノシヤウムノスメラミコトノヒツギノミコトサダメタマヒテアマツヒツギタカミクラノクラヰニアゲタマフモノヲイカニカカシコクワタクシノチチハハハラガラニオヨブコトエム》。甚恐自《イトカシコシ》。進 母 不知退 母 不知 止 伊奈備奏《ススムモシラニシゾクモシラニトイナビマヲセリ》。雖然多比重 弖 宣 久 吾加久不申成 奈波 敢 弖 申人者不在《シカレドモタビカサネテノリタマハクアガカクマヲサズナリナバアヘテマヲスヒトハアラジ》。凡人子 乃 去桐蒙福 麻久 欲爲 流 事 波 爲親 爾止奈利《オホカタヒトノコノワザハヒヲサリサキハヒヲカガフラマクホリスルコトハオヤノタメニトナリ》。此大福 乎 取取總持 弖 親王 爾 送奉 止 教 部 宣 夫 御命 乎 受給 利弖奈母 加久爲 流《コノオホキサキハヒヲトリスベモチテミコニオクリマヲシトヲシヘノリタマフミコトヲウケタマハリテナモカクスル》。故是以自今以後追皇舍人親王宜稀崇道盡敬皇帝當麻夫人稱大夫人兄弟姉妹悉稱親王 止 宣天皇御命衆聞食宣《カレココヲモテイマヨリユクサキトネノミコヲタタヘマツリテスダムジムキヤウワウタイトマヲシタギマノホトジヲオホミオヤトマヲシアニオトアネイモコトゴトニミコトマヲセトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別宣 久 朕一人 乃未也 慶 之岐 貴 岐 御命 受賜 牟《コトワケテノリタマハクアレヒトリノミヤヨロコボシキタフトキミコトヲウケタマハム》。卿等庶 母 共喜 牟止 爲 弖奈母 一二治賜 倍岐 家家門門人等 爾 冠位上賜 比 治賜 久止 宣天皇御命衆聞食宣《マヘツギミタチモロモロモトモニヨロバムトシテナモヒトリフタリヲサメタマフベキイヘイヘカドカドノヒトドモニカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又御命坐世 宣 久 大保 乎波 多他 仁 卿 止能味波 不念朕父 止 復藤原伊良豆賣 乎波 婆婆 止奈母 念《マタオホミコトニマセノリタマハクダイホウヲヲバタダニマヘツギミトノミハオモホサズアガチチトマタフヂハラノイラツメヲバハハトナモオモホス》。是以治賜 武等 勅 倍止 遍重 天 辭 備 申 仁 依 天 黙在 牟止 爲 禮止毛 止事不得《ココヲモテヲサメタマハムトノリタマヘドタビカサネテイナビマヲスニヨリテナホアラムトスレドモヤムコトエズ》。然此家 乃 子 止毛波 朕波良何良 仁 在物 乎夜 親王 多知 治賜 夫 日 仁 治不賜在 牟止 爲 弖奈母 汝 仁 冠位上賜治賜 夫。《サテコノイヘノコドモハアガハラカラニアルモノヲヤミコタチヲサメタマフ ヒニヲサメタマハズアラムトシテナモイマシニカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。又此家自 久母 藤原 乃 卿等 乎波 掛畏聖天皇御世重 弖 於母自 岐 人 乃 自門 波 慈賜 比 上賜來 流 家 奈利《マタコノイヘジクモフヂハラノマヘツギミタチヲバカケマクモカシコキヒジリノスメラガミヨカサネテオモジキヒトノウヂカドトメグミタマヒアゲタマヒクルイヘナリ》。今又無過仕奉人 乎波 慈賜 比 治賜 比 不忘賜 之止 宣天皇御命衆聞食宣《イママタアヤマチナクツカヘマツルヒトヲバメグミタマヒヲサメタマヒワスレタマハジトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
太皇太后は、オホキオホミオヤと訓べし、天皇の御母を、皇太后と申し、御祖母を、太皇太后と申す、こゝは光明皇后にて、孝謙天皇の御母に坐(ス)が故に、廢帝には御祖母也、
〇御命以 弖、弖(ノ)字、一本に天と作《カケ》り、
〇語宣 久、久(ノ)字、一本に之に誤れり、
〇大政之始とは、此廢帝の御世の始(メ)を詔給へる也、
當代《イマノミヨ》の御事をば、かくいふ例にぞ有けむ、
〇人心云々、去(シ)天平寶字元年三月、皇太子道祖(ノ)王を廢《シゾケ》給ひて後、同四月に、誰《イヅレノ》王を立て、皇嗣とせむと、卿たちに議り給へるに、鹽燒(ノ)王を立(テ)むといふ人もあり、池田(ノ)王をといふ人も有(リ)、群臣の心、とり/”\なりしを、つひに大炊(ノ)王【廢帝】と定まりしに、同六月、さらに橘(ノ)奈良麻呂など、ひそかに謀りて、鹽燒(ノ)王など四王の内を立(テ)むとせられしなど、これ人の心の定まらざりし也、さて件の事どもは、いまだ此廢帝の御世にはあらざるを、太政之始 波と詔給へるは、下に諸意靜了《モロモロノココロシヅマリハテ》 奈牟 後 爾といふに對へて、先(ヅ)詔給へるにて、既に此御世になりても、始(メ)のほどは、件の事どものなごりにて、なほいまだ人の心定まり了《ハテ》ざりしよしなり、さればこは、太政の始(メ)まではといふ意也、不《ズ》v定(マラ)といはずして、未《イマダ》v定といへるも、其こゝろばへ也、
〇吾子は、阿碁《アゴ》と訓べし、帝をさして詔給へる也、
〇爲 弖《シテ》は、某《ソレ》をして云々《シカシカ》せしむと常にいふして也、是を人みな漢文よみの辭とのみ心得ためれど、然らず、古語にもをり/\ある辭也、
〇皇太子 止 定 弖、上に太政之始 波とあると、事の次第、たがひたる如くなれども、然らず、上の太政の始 波云々は、はじめ道祖(ノ)王の廢《シゾケ》られ給ひし程より、此廢帝の御世の始つかたまでの事なるを、これはその始(メ)の事より詔給ふ也、
〇先《マヅ》とは、次の文に、後 爾 傍(ノ)上 乎波、といふに對へて也、
〇畢 弖とは、人の心定まらざりしをりなれば、皇太子に立(テ)給ひても、なほたしかならざりしを、即位ありては、たしかに事定まるよし也、
〇諸(ノ)意は、衆人の心也、
〇靜了、靜《シヅマリ》は、定まりに同じ、彼《カ》に此《カク》にと思ふ心の止《ヤム》をいふ、了は波弖《ハテ》と訓べし、凡てはてといふ言は、たとへば、花の一(ツ)も殘れるなく、こと/”\く散たるを、散(リ)はてたりといふ、それにならひて知べし、こゝは君(ノ)位に昇《アゲ》奉りて、人の心も、大かた定まりつれども、なほよく靜まり了《ハテ》なむ後にと、しばしやすらひ給ひしよし也、
〇傍(ノ)上は、先(ヅ)天皇の御位を定めて、それに付たる其餘のうへ也、
○抑 閇弖 在 川流は、留めてにて、此追皇等の事今まで延《ノド》めおき給へりしよし也、抑(ノ)字、一本に柳に誤り、川(ノ)字、一本に津とあり、津は例なき故に、例多きにつきて、今は川とある本に依(ル)、
〇月日重(リ) 奴、去年の八月、受禅有しょり、十箇月を經たり、
〇先考は、知々美古《チチミコ》と訓べし、天皇の大御父命、舍人(ノ)親王也、
〇追《オヒテ》、すべてかくさまの追《オヒテ》といふ言は、漢文によれる言なり、
〇親母は、波々《ハハ》と訓べし、六十一詔にもかく書り、其外も古書には、母を親母と書ること多し、さて母をば、みおやと申せる例なれども、こゝなどは、御考《ミチチ》とならべて申せる處なれば、然《サ》は訓べからず、さてこは、天皇の大御母命にて、當麻氏、上總(ノ)守從五位上|老《オユ》の女、御名は山背と申せり、帝受禅(ノ)之日、授2正三位(ヲ)1、後(ニ)尊(テ)曰2大夫人(ト)1と有、
〇大夫人は、於保美於夜《オホミオヤ》と訓べし、其由は、第五詔にいへるがごとし、
〇兄弟姉妹、兄は阿爾《アニ》と訓べし、このかみといふは、はじめの子一人をいふ名也、弟は於登《オト》、妹は伊毛《イモ》と訓べし、和名抄に、おとうといもうととあれども、そは弟人《オトヒト》妹人《イモヒト》にて、後のこと也、
〇貴 岐 御命は、太皇太皇后の也、
〇頂受給 利、こは十四詔に、頂 爾 受賜 理とあると、同じ例なれば、頂|爾《ニ》と訓べし、第五詔にも、爾を略(キ)て書り、
〇我皇聖太上天皇は、孝謙天皇を申給ふ也、
〇奏給 倍波は、件の太皇太后の御命の趣を、天皇の申給へは也、
〇奏 世止 教宣 久は、太皇太后へかく奏せと、太上天皇の、天皇に教へ給へるよし也、
〇朕一人は、天皇の朕也、一人とは、次に出る御父母兄弟に對へて也、
〇昇賜 比云々は、天皇になし給へること也、
〇生子 乃云々、神代紀に、子孫八十連屬《ウミノコノヤソツヅキ》、八十連屬、此(ヲ)云2野素豆々企《ヤソツヅキ》1、敏達紀に、子々孫々、古語(ニ)云2生兒八十綿連《ウミノコノヤソツヅキト》1、雄略紀にも見ゆ、
〇夜晝、晝(ノ)字、一本に盡に誤(ル)、
〇伊夜盆 須 盆 爾は、朕一人だにあるに、又それがうへにの意なり、
〇私とは、今は聖武天皇太皇太后太上天皇を、御父母と頂き給ふに對へて詔給ふ也、
〇可在状任とは、天皇の、御父は天皇、御母は大御祖《オホミオヤ》、御兄弟は親王と申す、定まりのまゝにといふ也、
〇奏 世止 宣 夫は、上(ノ)件のごとく、太皇太后へ申せと、太上天皇の、天皇に教へ給へるよし也、
〇念 久、久(ノ)字、印本に之に誤りて、大書にせり、一本には、そを細書にせり、今は又の一本に依れり、
〇前(ノ)聖武天皇 乃云々、前(ノ)とは、故《モトノ》といふと同じくて、既に崩坐(セ)りし故にいふか、はた太上天皇に對へて歟、さて神武天皇よりはじめ奉りて、御世/\の漢樣の御諡は皆、桓武天皇の御時に、追て着《ツケ》奉り給へるを、此聖武天皇と申す御名のみは、去年【天平寶字二年】八月に、勝寶感神聖武皇帝と奉り給へり、是(レ)漢ざまの御諡の始也、又同月それより先に、高野(ノ)天皇を、寶字稱徳孝謙皇帝、皇太后を、天平應眞仁正皇太后と稱し奉る、これは二柱共に、世に坐ませるほどにて、御追諡《ノチノミナ》にはあらず、さてこゝの文の意は、孝謙天皇は姫尊に坐(ス)が故に、此廢帝を以て、聖武天皇の皇太子として、立(テ)給へりしよし也、さるは聖武天皇は、はやく崩坐て後の事なれば、聖武天皇の立(テ)給へりといふにはあらず、讀(ミ)まがふることなかれ、さてかく分て御名を擧て詔給ふは、聖武天皇の御子として、立(テ)給へる朕なれば、伊何爾加《イカニカ》云々也、
〇及(ブ)は、榮福《サキハヒ》の往《ユキ》及ぶ也、
〇甚恐 自、甚(ノ)字、本に其に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇止 伊奈 備 奏は、太上天皇の教へ給へること、又御みづからの所念《オモホ》せる趣を以て、太皇太后へ辭《イナ》び申給へる也、そもそも上件の文はたゞ、太上天皇の教へ給へる御言、又御みづからの御心におもほせることのみなるに、其《ソ》をやがて、辭奏《イナビマヲ》し給へる御語となして、かくいへるは、言たらず、おもほせる御心と、奏《マヲシ》給へる御語と、一(ツ)に混《ナリ》て、いかゞなるやうなれども、同じことのやゝ長きを、二たびいひては、煩はしき故に、かく行越《ユキコ》していふこと、古文の例とおぼしくて、古事記などにも、かゝるさまのこと、をり/\見えたり、
〇吾加久云々、これより又太皇大后の詔給へる也、加久《カク》とは、先(キ)に詔給へることをさして也、久(ノ)字、一本には之に誤れり、
〇不申成 奈波は、終《ツヒ》に申さずして止《ヤミ》なばの意也、すべてかくさまのなりは、皆其意也、
○敢 弖は、堪《タヘ》てにて、人は得申さじの意也、敢てといふ言、廿六詔四十二詔四十四詔などにも有、皆同意也、
〇爲(メ)v親(ノ)、凡て人(ノ)子の禍(ヒ)福(ヒ)は、即(チ)その親《オヤ》の禍福也、されば禍を去(リ)、福を得むと願ふも、たゞに己がためのみにはあらず、親のためなれば、福を得ては、いたづらに己(レ)のみ受(ク)べきにはあらず、かならず親に及ぼすべきものぞと也、此語の例、六十一詔の處に引べし、
〇此大福とは、天皇となり坐て、天下をしろしめすをいふ、
〇取々、二字のうち一(ツ)は衍なるべし、取總持《トリスベモツ》とは、天皇は、天下の萬(ヅ)の福を、包總《カネスベ》て持給ふをいふ、それにとりて、此《コレ》や彼《カレ》やの意にて、取々《トリドリ》とはいへるかとも思へど、猶然にはあらじ、
〇親王は、御父舎人(ノ)親王也、
〇送奉は、人に物を贈遺《オクル》のおくる也、贈官位の贈の意にはあらず、取(リ)總(ベ)持(チ)給へる大福の内を分て、贈遺《オクリ》まゐらせ給へ也、
〇教 部、部(ノ)字、諸本江に誤れるは、※[部江の草書]草書似たる故なるべし、故(レ)今部として改めつ、江にては、假字違ひ、又例もなき字なれば也、さて上件の趣は、太上天皇の教へ給ふべき事なるに、太皇太后の教へ給へるは、聖武天皇の御子として、立(テ)給へる故にやあらむ、吾加久《ワガカク》不v申|成《ナリ》なば云々と詔給へるも、さる故にこそ、
〇加久爲 流は、追皇云々の事也、
〇追皇はこゝは、タヽヘマツリテと訓べし、
〇當麻(ノ)夫人は、大御母命也、當麻は、古事記に、當岐麻《タギマ》とあるに依て訓べし、たいまといふは、後の音便言也、さてこは舍人親王の御室なるをもて、夫人とは申せるなれば、此夫人は、オホトジと訓べし、其よしは、十三詔縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)夫人の處にいへるが如し、
〇悉稱(セ)2親王(ト)1、此詔のつゞきに、從三位船(ノ)王、池田(ノ)王、並(ニ)授(ク)2三品(ヲ)1云々、從四位下室(ノ)王飛鳥田(ノ)王(ニ)、並四品と見ゆ、船池田(ノ)二王は、天皇の御兄也、此二王の御事、三十詔に見ゆ、件の四王みな、親王になり給へるを以て、三位四位を改めて、三品四品になし給へる也、室(ノ)王飛鳥田(ノ)王は女王也、同年十一月、四品室(ノ)内親王薨、一品舍人(ノ)親王(ノ)之女也と見え、寶亀四年三月、復(ス)2無位飛鳥田(ノ)女王(ヲ)、本位從四位下(ニ)1とあるは、天皇の廃《シゾケ》られ給ひし時此内親王も、貶《オト》され給へりしなるべし、それより先(キ)、天平寶字五年の紀には、四品飛鳥田(ノ)内親王と見えたり、かくて延暦元年六月、從四位下飛鳥田(ノ)女王卒と有(リ)、さて此天皇の御兄弟は、猶あまたおはしけるに、たゞ此四王の事のみ見えたるは、餘の王たちは、既《ハヤ》くかくれ給へりしなるべし、
〇喜、一本には嘉と作《カケ》り、
〇大保は、藤原(ノ)仲麻呂が此時の官也、天平寶字二年八月、以2紫微内相藤原(ノ)朝臣仲麻呂(ヲ)1、任(ス)2大保(ニ)1、勅(シテ)曰(ク)云々、自v今以後、宜(シ)d姓(ノ)中(ニ)加(ヘ)2惠美《ヱミノ》二字(ヲ)1云々、名(ヲ)曰(ヒ)2押勝(ト)1云々、字(ヲ)稱(ス)c尚舅(ト)u云々、是日云々、奉v勅(ヲ)改(メ)2易(フ)官號(ヲ)1、太政官(ヲ)改(メテ)爲2乾政官(ト)1、太政大臣(ヲ)曰2大師(ト)1、左大臣(ヲ)曰2大傅(ト)1、右大臣(ヲ)曰2大保(ト)1、大納言(ヲ)曰2御史大夫(ト)1云々と見ゆ、そも/\此天皇を皇太子に定め奉りしより始めて、すべて此ほどの政は、何事もみな、此仲麻呂奴が、心のまゝに申(シ)行へりし也、此奴は、殊に漢學を好みけるまゝに、此ほどは、よろづからめきたる事ことに多く、官名をさへに、かくひたぶるにからにはなせるなり、故(レ)此後、同八年九月、此(ノ)穢奴《キタナキヤツコ》誅《コロ》されて、同月に、勅(ス)、逆人仲麻呂執(リ)v政(ヲ)、奏(シテ)改(メタリ)2官名(ヲ)1、宜(シ)v
復(ス)v舊(ニ)焉と有(リ)、大師大傅大保といふは、もろこしの國の周の代の三公也、又唐の代には、是を三師といひて、三公の上にたてたりき、
〇朕父 止、此下に、おもほしといふ言を添て心得べし、次なる念《オモホス》に、これをも承《ウケ》たり、
〇復、一本に後と作《カケ》るは誤也、
。藤原(ノ)伊良豆賣とは、仲麻呂が妻を詔給へる也、仲麻呂が妻は、房前公の女也、伊良豆賣は、其名にはあらず、郎女と書て、女人をほめたる稱也、
〇黙在 牟、此言の事、第八詔にいへり、
〇此家 乃 |子 止毛《コドモ》は、仲麻呂が子ども也、此詔の次に、藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣眞光、同久須麻呂、同朝狩、同|小弓《コユ》麻呂、同|薩雄《サツヲ》、同兒從など、叙位の事見えたる、皆此子ども也、
〇咲(ガ)波良何良、仲麻呂を父とおもほせば、其子等は兄弟ぞと也、はらがらといふは、もと同母の兄弟に局《カギ》れる名なれども、こゝなどは、たゞひろく兄弟を詔給ふ也、
〇親王 多知 治賜 夫とは、御兄弟たちを、親王になし給へること也、知(ノ)字、本に加に誤(ル)、今は一本に依(ル)、夫(ノ)字、一本に天に誤(ル)、
〇治不v賜在 牟は、上の物 乎夜の夜《ヤ》を、こゝへ受(ケ)て見べし、治(メ)給はずやはあらむ、必治(メ)給ふべきこととして也、仲麻呂夫婦を治(メ)賜はむとすれども、かたく辭《イナミ》申すを、さて止《ヤム》事得ず、故(レ)子等を治(メ)賜ふよし也、
〇汝とは、仲麻呂が子等を詔給ふ也、汝等と有けむ、等(ノ)字脱たるにや、〇此(ノ)家|自《ジ》 久母、此家は、上なると同じく、仲麻呂が家也、こゝは殊に、藤原氏の凡《スベ》てと、對へて見べし、自久母《ジクモ》は、万葉十九に、立わかれ君がいまさば、しきしまの人は我自久《ワレジク》いはひて待む、とある自久《ジク》と同じ、中昔の物語書に、女めきたるを、女《ヲンナ》しくといへるは、今の俗言に、女らしくといふにあたりて、すべて某《ナニ》らしくといふは、めくといふにいと近き意也、されば右の万葉のわれじくも、我らしくの意にて、大和(ノ)國の人は、たれも/\、君を、我身のことらしく、祝ひて待む也、こゝも其意にて、藤原氏をば、なべてみな、仲麻呂が家らしく、同じことにおぼしめさるゝよしの言也、下の今又といふへ係て心得べし、
〇藤原 乃 卿等は、仲まろが家に對へて、藤原氏の總てをいへり、
〇御世重 弖は、慈賜へ係《カカ》れり、於母自 岐へはつゞかず、弖(ノ)字を一本には之に誤れり、
○於母自 岐 人は、重《オモ》しき人なるべし、鎌足公不比等公を詔給へる也、此大臣たちを、重《オモ》みし給ふことは、いはむもさらなり、さて常には重《オモ》きといふを、古(ヘ)はかくおもしきともいへりしなるべし、淡《アハ》きをあはしき、嚴《イカ》きをいかしきともいふ類なるべし、又この自岐の自上の自久の自などの類、常には清《スメ》ども、これも古(ヘ)は濁れるも有しなるべし、万葉にも自(ノ)字を書れば也、
〇自門 波、自(ノ)字は、氏を誤れるなるべし、氏門といふこと、五十九詔に見え、廿八詔に、氏々(ノ)門とも有(リ)、なほ家を門といふこと、十三詔に殿門《トノカド》と有(ル)處にいへり、波(ノ)字は、止を誤れるなるべし、必(ズ)止《ト》とあるべきところ也、重《オモ》しき人の氏門として、慈賜也、
〇家 奈利は、藤原氏をいふ、
〇無(ク)v過云々は、藤原氏の人々也、
第廿六詔
同四年正月癸亥朔丙寅高野(ノ)天皇及(ビ)帝、御2内(ノ)安殿(ニ)1、授(ク)2大保從二位藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣押勝(ニ)從一位(ヲ)1、云々、事畢(テ)、高野(ノ)天皇口勅(シテ)曰(ク)と有(リ)、口勅とは、此(ノ)詔詞を、大御口づから讀(ミ)聞せ給ふ也、
乾政官大臣 仁方 敢 天 仕奉 倍岐 人無時 波 空 久 置 弖 在官 爾阿利《ケムジヤウグワムノオホオミニハアヘテツカヘマツルベキヒトナキトキハムナシクオキテアルツカサニアリ》。然今大保 方 必可仕奉 之止 所念坐 世 多 能 遍重 天 勅 止毛 敢 末之時止 爲 弖 辭 備 申 豆良久 可受賜物 奈利世波 祖父仕奉 天麻自《シカルニイマダイホウハカナラズツカヘマツルベシトオモホシマセアマタノタビカサネテノリタマヘドモアフマシジトシテイナビマヲシツラクウケタマハルベキモノナリセバオホヂツカヘマツリテマシ》。然有物 乎 知所 毛 無 久 怯 久 劣 岐 押勝 我 得仕奉 倍岐 官 爾波 不在恐 止 申《シカアルモノヲシルコトモナクツタナクヲヂナキオシカツガエツカヘマツルベキツカサニアラズカシコシトマヲス》。可久申 須乎 皆人 仁之毛 辭 止 申 仁 依 弖 此官 乎婆 授不給 止 令知 流 事不得《カクマヲスヲミナヒトニシモイナトマヲスニヨリテコノツカサヲサヅケタマハズトシラシムルコトエズ》。又祖父大臣 乃 明 久 淨 岐 心以 弖 御世累 弖 天下申給 比 朝廷助仕奉 利多夫 事 乎 宇牟我自 彌 辱 彌 念行 弖 掛 久毛 畏 岐 聖天皇朝太政大臣 止之弖 仕奉 止 勅 部禮止 數數辭 備 申 多夫仁 依 弖 受賜 多婆受 成 爾志 事 毛 悔 止 念 賀 故 仁 今此藤原惠美朝臣 能 大保 乎 大師 乃 官 仁 上奉 止 授賜 夫 天皇御命衆聞食宣《マタオホヂオホオミノアカクキヨキココロヲモチテミヨカサネテアメノシタマヲシタマヒミカドタスケツカヘマツリタブコトヲウムガシミカタジケナミオモホシメシテカケマクモカシコキヒジリノスメラガミカドオホキマツリゴトノオホオミトシテツカヘマツレトノリタマヘレドシバシバイナビマヲシタブニヨリテウケタマハリタバズナリニシコトモクヤシトオモホスガユヱニイマコノフヂハラノヱミノアソミノダイホウヲダイシノツカサニアゲマツルトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノリタマフ》。
乾政官(ノ)大臣は、卅六詔に、太政官 能 大臣とあると同くて、大政大臣なり、去(シ)二年官名改まりて、太政官を乾政官、太政大臣を大師とせられたること、廿五詔に引たる文のごとし、
〇敢 天 仕奉 倍岐は、其任に堪《タフ》べき也、岐(ノ)字、一本には伎也、
〇空 久 置 弖 在官とは、職員令に、大政大臣(ハ)云々、無(キトキハ)2其人1則闕(ク)、とある是也、こは唐(ノ)開元令に、大師太傅太保、右三師、師2範(トシ)一人(ニ)1、儀2刑(タリ)四海(ニ)1、太尉司徒司空、右三公、經(シ)v邦(ヲ)論(シ)v道(ヲ)、燮2理(ス)陰陽(ヲ)1、自2三師1以下、無2其人1則闕(ク)、といへるを合せて取られたる文也、
〇必可2仕奉1 之止とは、乾政官(ノ)大臣となるべきに堪たる也、止(ノ)字、一本に上に誤れり、三代實録卅八に、藤原基經公を、太政大臣とせらるゝ時の詔に、太上天皇 乃 詔旨 爾毛云々、太政官 乃 其人 止波、最此卿 乎 可(シ)v謂、 止 勅(ヘル)御命 母安利支、
〇所念坐 世、坐 世は、坐婆《マセバ》の意也、此格の事、十二詔にいへり、
〇勅 止毛は、乾政官(ノ)大臣になさむと、詔給へども也、止(ノ)字、一本上に誤(ル)、
〇敢 末之時止 爲 弖は、堪《タフ》べからずとて也、敢は、常にはアヘテとのみ訓めば、こゝもアヘマジと訓べく思ふ人も有べけれど、そは俗言の格也、こは閇《ヘ》は、下へのつゞきによりて、布《フ》と活《ハタラ》くこと、堪《タヘ》と同格の言なれば、こゝは阿布《アフ》と訓べき也、又|麻自《マジ》といふ辭は、麻自伎《マジキ》とは活《ハタラ》けども、麻自志《マジシ》とは活かず、凡てあししかなししくやししなどいふ類、志志《シシ》といふは皆俗言也、さればこゝに末之時《マシジ》とあるは、雅言の格に違へるがごとく聞ゆれども、然らず、五十八詔に例有(リ)、なほ彼處《ソコ》に論ふべし、
〇申 豆良久、本どもに、豆良久を、復に誤(リ)て、大書にせり、一本には又、後にも誤れり、こは 豆良久を、大書の復の一字と見誤れる也、必(ズ)つらくと有べき處なる故に、今改めつ、其辭の例は、第三詔に、答曰《コタヘマヲシ》 豆羅久、第五詔に、詔賜 都良久、また勅(マヒ) 豆良久など、猶多し、
〇可受賜、乾政官(ノ)大臣に任《メシ》給ふ大命を承諾《ウベナ》ひ奉るべき物ならは也、
〇祖父は、不比等公也、
〇仕奉 天麻自は、不比等公こそ、太政大臣に任ずべかりけれ、彼(ノ)大臣すら、いなび申せし物を也、
〇劣 岐、岐(ノ)字、一本波に誤(ル)、
〇得仕奉 倍岐、岐(ノ)字一本に伎と作《カケ》り、
〇恐 止 申(ス)、可(キ)2受賜(ハル)1云々 より恐(シ)まで、押勝が申せしよしの語也、
〇皆人 仁之毛は、下の令v知 流 事不v得へ係れり、
〇申(ス) 仁 依 弖 此官 乎婆、一本に、弖(ノ)字を天、婆(ノ)字を波と作り、此官は、乾政官(ノ)大臣をいふ、
〇令v知 流 事不v得とは、皆人にさやうに知らしめて、授けずてはえあらずといふ也、
〇又は、又一つにはの意也、
○明 久、印本に、今一(ツ)明 久とあるは衍也、餘(ノ)本にはなし、
〇心以 弖、弖(ノ)字一本に之に乱(ル)、
〇御世累 弖、不比等公は、天武天皇の御世より仕へて、元明天皇の和銅元年に、右大臣になり給ひ、元正天皇の養老四年まで、五御世に仕奉(リ)たまへり、
〇助仕奉 利多夫、多夫《タブ》は、賜《タマフ》也、雄略紀に、人(ノ)名香賜といふに、此(ヲ)云2※[舟+可]※[手偏+施の旁]夫《カタブト》1と見え、万葉廿に、のたまはくを、乃多婆久《ノタバク》と有(リ)、此(ノ)活用《ハタラキ》は、たまひをたび、たまはむをたばむ、たまへをたべ、たまはるをたばるといふ也、さて此詔に、たまふといはずして、かくたぶといへるは、作者の心也、卅六詔四十一詔にも例有(リ)、其(ノ)他《ホカ》にはなし、
〇宇牟我自 彌、第七詔に見ゆ、
○辱 彌、彌(ノ)字、諸本止に誤(ル)、今例に依て改(ム)、此言第四詔に出(ヅ)、
〇聖(ノ)天皇朝は、元正天皇を申(シ)給ふなるべし、さて是も天皇を即(チ)朝《ミカド》と申給へる也、
○大政大臣は、於保伎麻都理碁登乃於保於美《オホキマツリゴトノオホオミ》と訓べし、和名抄には、於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美《オホマツリゴトノオホマツギミ》としるし、物語書などには、おほきおとゞといへれども、それらはやゝ後のことにて、凡て大臣は、おほおみといふぞ古(ヘ)なる、
○勅 部禮止、部(ノ)字、本どもに祁と作り、今は一本に依(ル)、
〇數々辭 備、此事紀には見えず、公卿補任藤原氏(ノ)系圖などに、養老二年月日、雖v被(ルト)v任(セ)2太政大臣(ニ)1、固(ク)辭(ビテ)不v受と有(リ)、
○受賜(ハリ) 多婆受 成 爾志は、終《ツヒ》に太政大臣には任ぜられずしてやみにし也、多婆受《タバズ》は、賜《タマ》はず也、婆(ノ)字、一本には波と作《カケ》り、
〇惠美(ノ)朝臣、一本に、朝臣(ノ)二字なし、
〇大師は、太政大臣をかく改められしこと、上にいへるがごとし、
〇上奉 止 授賜 夫、授(ノ)字は、詔もしくは勅字を誤れるなるべし、詔又勅などに、賜(ノ)字を添て書る例、第五詔其外にも有(リ)、授賜にては、語のつゞき、例もなく、ことわりも穩ならざる也、夫(ノ)字も、一本には、天に誤れり、
第廿七詔
廿四の卷に、同六年五月辛丑、高野(ノ)天皇(ト)與《ト》v帝有v隙、於v是車駕還2平城(ノ)宮(ニ)1、帝(ハ)御(シ)2于中宮院(ニ)1、高野(ノ)天皇(ハ)御(ス)2于法華寺(ニ)1、六月庚戌、喚2集(テ)五位已上(ヲ)於朝堂(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、此詔は、高野(ノ)天皇の詔なれば朝堂は、法華寺(ノ)宮の朝堂か、はたつねのごとく、大極殿をいへるか、
太上天皇御命以 弖 卿等諸語 部止 宣 久 朕御祖大皇后 乃 御命以 弖 朕 爾 告 之久 岡宮御宇天皇 乃 日嗣 波 加久 弖 絶 奈牟止 爲《オホキスメラミコトノオホミコトモチテマヘツギミタチモロモロニカタラヘトノリタマハクアガミオヤオホキサキノミコトモチテアレニタツゲタマヒシクヲカノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノヒツギハカクテタエナムトス》。女子 能 繼 爾波 在 止母 欲令嗣 止 宣 弖 此政行給 岐《ヲミナコノツギニハアレドモツガシメムトノリタマヒテコノマツリゴトオコナヒタマヒキ》。加久爲 弖 今帝 止 立 弖 須麻 比 久 流 間 爾 宇夜宇夜 自久 相從事 波 無 之弖《カクシテイマノミカドヲタテテスマヒクルアヒダニウヤウヤシクアヒシタガフコトハナクシテ》 斗卑等 乃 仇 能 在言 |期等久 不言 岐 辭 母 言 奴 不爲 伎 行 母 爲 奴《ゴトクイフマジキコトモイヒヌスマジキワザモシヌ》。凡加久伊波 流倍枳 朕 爾波 不在《オホカタカクイハルベキアレニハアラズ》。別宮 爾 御坐坐 牟 時自加得言 也《コトミヤニオホマシマサムトキシカエイハメヤ》。此 波 朕劣 爾 依 弖之 加久言 良之止 念召 波 愧 自彌 伊等保 自彌奈母 念 須《コハアガヲヂナキニヨリテシカクイフラシトオモホシメセバハヅカシミイトホシミナモオモホス》。又一 爾波 朕應發菩提心縁 爾 在 良之止奈母 念 須《マタヒトツニハアガボダイノココロヲオコスベキヨシニアルラシトナモオモホス》。是以出家 弖 佛弟子 止 成 奴《ココヲモテイヘヲイデテホトケノデシトナリヌ》。但政事 波 常礼 利 小事 波 今帝行給 部《タダシマツリゴトハツネノマツリイササケキコトハイマノミカドオコナヒタマヘ》。國家大事賞罰二柄 波 朕行 牟《ミカドノダイジシヤウバチフタツノモトハアレオコナハム》。加久 能 状聞食悟 止 宣御命衆聞食宣《カクノサマキコシメシサトレトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
太上天皇は、高野(ノ)天皇也、
〇卿(ノ)字、印本に御に誤(ル)、今は一本に依れり、
○朕御祖は、光明皇后也、御母を御祖といひしこと、上にいへるが如し、
〇大皇后は、漢文ざまの皇太后とは異にして、古(ヘ)當《ソノ》御世の皇后を、大后と申せし、その意にて、大(ノ)字を添て書る也、前《サキ》には、皇大后と有しを、下上に寫し誤れるかと思ひしかど、然にはあらず、四十五詔にも、こゝの如く書り、
〇告 之久は、告の下に給之字脱たるか、又此告は、乃流《ノル》とも訓(ム)字なる故に、詔(ノ)字などの例に、給(ノ)字をば添(ヘ)ざるにて、ノリタマヒと訓べきかとも思へど、猶ツゲクマヒなるべし、之久《シク》のことは、十三詔に、宣(タマヒ) 自久とある處にいへり、久(ノ)字を、本に尓に誤(ル)、今改めつ、さてこは、昔(シ)聖武天皇の詔給ひしことを、光明皇后の、高野(ノ)天皇に告《ツゲ》申(シ)給ひしよし也、
〇岡(ノ)宮云々は、天武天皇の皇太子、草壁(ノ)皇子(ノ)尊也、天平寶字二年八月、勅(ス)、日並知(ノ)皇子(ノ)命、天下未(ダ)v稱2天皇(ト)1、追2崇(スルハ)尊號(ヲ)1、古今(ノ)恆典(ナリ)、自v今以後、宜(シ)v奉v稱2岡(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)天皇(ト)1と有、
〇日嗣 波 加久 弖、一本に、波(ノ)字弖(ノ)字を落せり、御後《ミスヱ》を日嗣とは、天皇と稱奉らるゝからなるべし、此皇子(ノ)魯の御子文武天皇、其御子聖武天皇にて、御後の絶ぬべきよし也、文武天皇を擧奉らずして、此皇子をしも擧給へるは、此皇子(ノ)尊よりこなたの御後の絶給ふべき故也、
〇女子 能 繼、聖武天皇、男皇子《ヒコミコ》おはしまさずなりぬれば、高野(ノ)天皇は、姫御子にはましませども也、
〇欲令嗣、令(ノ)字、一本に命に誤る、嗣字、諸本副に誤る、今改(ム)、〇止 宣 弖、印本止(ノ)字を脱せり、今は一本に依れり、さて岡(ノ)宮云々よりこゝまで、むかし聖武天皇のかく詔給ひて、孝謙天皇を立(テ)給へりしよしなれば、此(ノ)宣 弖は、聖武天皇の詔給へる也、さて其《ソレ》を孝謙天皇に告《ツゲ》給へりしは、大皇后なれば、大皇后の、かくのごとく告《ツゲ》給へりしよしの、結《ムス》びの言も有べきに、其言なけれは、宣 弖といふこと、大皇后の宣(リ)給へるに混《マガ》ひて聞ゆるを、こは例の行(キ)越(シ)ていへる文也、其よしは猶次にいはむ、
〇此政行給 岐は、孝謙天皇の、御みづからの御事にて、朕(レ)天皇と立(チ)て、此天下の政を行ひ給ひきと詔給へる也、上文宣 弖よりのつゞきを以て見れば、聖武天皇の、孝謙天皇を立(テ)て、天皇となし給へる事を、かくいへる如く聞ゆれども、然らず、さては此政といふ言、穩ならず、何事をさして詔給へりとも辨へがたし、そも/\此ところの語は、いふべき言を多く省《ハブ》きて、前《サキ》へ行(キ)越(シ)たる文にて、そを今|具《ツブサ》にいはば、はやく大皇后の、朕に告聞《ツゲキカ》せ給へるやう、むかし聖武天皇の、云々と宣 弖《ノリタマヒテ》、汝命を立(テ)て、位を授(ケ)給へりしぞと、告《ツゲ》聞せ給へり、朕は、件のゆゑよしを以て、天皇となりて、年ごろ此天下の政を行(ヒ)給ひしぞと詔へる也、
〇加久爲 弖は、件のごとくにて在《アリ》て也、
〇今(ノ)帝 止 立 弖は、今(ノ)帝 乎 帝 止 立 弖と有しを、帝 乎の二字を脱せるか、さかしらに削れるか、はた止(ノ)字は、乎を誤れる歟、いづれにまれ、本のまゝにては、止(ノ)字聞えず、
〇須麻 比 久 流は、住《スマ》ひ來るにて、年月を經《ヘ》來るをいふ、住ひは、在《アリ》といふに同じ、
〇宇夜宇夜 自久は、常に恭(ノ)字を訓て、禮々《ヰヤヰヤ》しく也、敬《ウヤマフ》をも、ゐやまふともいふ、皆もとは同言也、
〇相從事 波云々は、今(ノ)帝の、太上天皇に從ひ給はぬ也、相《アヒ》は、たゞ輕く附たる言也、
〇斗卑等 乃 仇 能 在言 期等久、卑(ノ)字、印本には星と作るを、今は餘の本共にみな卑と作るに依(ル)、期(ノ)字、一本に斯に誤(ル)、久(ノ)字、印本に之に誤(ル)、今は一本に依(ル)、さて此處の文、斗卑等は、第七詔に、刀比止麻といふことあると、似たる故に、相照して考ふれども、かれと同じかるべきよしも、思ひ得ず、此處すべていと/\意得がたきを、かくもやと、いさゝか思ひよれることを、例のこゝろみにいはば、上に麻(ノ)字の落たるにて、麻斗卑等《マドヒラ》か、麻斗卑《マドヒ》とは、謀反せる人を、賤しめ詈ていふことにて、十九詔に、久奈多夫禮麻度比《クナタブレマドヒ》とある處にいへるがごとし、仇は賊《アタ》の意にて、即(チ)麻斗卑等《マドヒラ》をいへる也、在言は、言在《イヘル》を下上に誤れる歟、凡ての意は、謀反するものどもの、朝廷天皇の御うへを、あしさまに申す如くといふ也、さてもし然らば、言《イフ》ごとくと有(ル)べきに、言在《イヘル》ごとくとあるは、有し事を指(シ)たるいひざまなれば、往年謀反せし、かの橘(ノ)奈良麻呂の黨の、さること申せることの有しをさして、詔給へるにもあるべし、此考(ヘ)いかゞあらむ、猶よき考(ヘ)を待(ツ)ものぞ、
〇不言 岐は、イフマジキと訓べし、
○不爲 伎は、スマジキと訓べし、今の帝の、孝謙天皇に對ひ奉(リ)て、言(フ)まじき无禮《ヰヤナ》きことをいひ、爲《ス》まじき无禮きわ
ざをし給へりと也、
〇加久伊波 流倍枳云々は、然|无禮《ヰヤナ》きことを、被《レ》v言(ハ)被《ル》v爲《セラ》べき朕にはあらずとなり、枳(ノ)字、本に具に誤れり、今は一本に依(ル)、
〇別宮 爾 御坐々 牟 時云々、こはいかなる事なりけむ、詳《サダカ》ならざるを、つら/\考るに、これよりさきに、去年十月より、太上天皇今(ノ)帝共に、近江(ノ)國の保良(ノ)宮に坐まして、今年五月、事篤還2平城(ノ)宮(ニ)1云々、上に引るがごとし、かくて卅二の卷に、道鏡僧が死たることを記せる處に、寶字五年、從(リ)d幸(セル)2保良(ニ)1時(ニ)、侍(リシ)c看病(ニ)u、稍|被《ル》2寵幸(セ)1、廢帝常(ニ)以(テ)v爲(ヲ)v言(フコトヲ)、與《ト》2天皇1不2相(ヒ)中(リ)得1、天皇乃還(テ)2平城(ノ)別宮(ニ)1而居焉とある、此文、廢帝常(ニ)以云々の處、いさゝか詳ならざるを、こゝの詔の語と、件の文どもとを合せて、考るに、かの保良(ノ)宮にしばらく坐ましし間(ダ)は、高野(ノ)天皇今(ノ)帝、一(ツ)宮におはし坐しけむ、其時高野(ノ)天皇の、道鏡を寵愛し給ふさまを、今(ノ)帝のいかゞとおぼしめして、諌《イサメ》申(シ)給ひしことなど有し歟、或はよそながら譏《ソシ》り申給ひしことなど有しを、高野(ノ)天皇怒らせ給ひ、道鏡も怒りて、高野天皇に、今帝を讒《ヨコ》し申せしことなども有けむかし、されば言《イフ》まじき辭《コト》、爲《ス》まじき行《ワザ》とは、道鏡を寵愛し給ふことを、申(シ)給へりしことなどなるべし、さて別宮《コトミヤ》 爾云々は、かの保良(ノ)宮にては、一(ツ)宮におはしましつるからに、馴々しくて、たやすくおぼし侮《アナド》りて、さる无禮《ヰヤナ》きことをもいひつらむ、各(オノ)別《コト》なる宮に、離れておはしまさむ時には、よも然《サ》る尤禮《ヰヤナ》きことは得いはじといふなるべし、さてかの卅二の卷に、還2平城(ノ)別宮(ニ)1とある別宮は、法華寺(ノ)宮をいへるにて、こゝの別宮は、彼《ソレ》とは異也、思ひ混《マガ》ふることなかれ、
〇自加は、然にて、上の不言《イフマジ》 岐 辭也、
〇朕(ガ)劣(キ) 爾 依 弖之云々は、然馴侮りて、无禮きことをいふも、朕がをぢなき故ぞと也、
〇念召 波、召(ノ)字、一本に占に誤る、
〇愧 自彌 伊等保 自彌奈母、伊(ノ)字、一本に保に誤り、上の彌(ノ)字、印本に禰に誤(リ)、下の彌(ノ)字も、一本に禰に誤れり、
〇朕應v發2菩提心(ヲ)1縁 爾云々、是以云々、此御言につきても、かの不言《イフマジ》 岐 辭をいへりと詔給へるは、道鏡を寵愛し給ふことを、物し給へりと聞ゆる也、
〇在 良之止奈母、本に止の下にも母(ノ)字あるは、衍也、今は餘の本どもになきに依て削(ル)、
〇常礼 利、礼(ノ)字は、祀を誤れるなるべし、
〇小事は、雄略紀に、イサヽケキコトとも、イサヽカナルコトとも訓り、推古紀に、無(ク)2大少《イササケト》1とあるは、大の訓の脱たる也、
〇二柄は、フタツノモトと訓べし、廿八詔に、政 乃 柄 乎 執 天とも有(リ)、柄といふは、柄《カラ》を執(リ)持て、その器物を、心のままにつかふにたとへたる、漢文也、二(ツ)は、賞と罸と二(ツ)也、
〇加久 能 状、第一詔に、如此之《カクノ》状 乎、聞食悟而、
第廿八詔
廿五の卷に、同八年九月乙巳、太師藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣押勝、逆謀頗(ル)泄(ル)云々、勅(シテ)曰(ク)、太師正一位藤原(ノ)惠美(ノ)朝臣押勝、并(ニ)子孫、起(シテ)v兵(ヲ)作(ス)v逆(ヲ)、仍(テ)解2免(シ)官位(ヲ)1、并(ニ)除(クコト)2藤原(ノ)姓字(ヲ)1已(ニ)畢(ル)、其職分功対等雑物、宜(シ)2悉(ク)收(ス)1v之(ヲ)、云々、是(ノ)夜、押勝走(ル)2近江(ニ)1、官軍追討(ス)、云々、丙午、高野(ノ)天皇勅(ス)云々、壬子、軍土石村(ノ)村主石楯、斬(テ)2押勝(ヲ)1、傳(フ)2首(ヲ)京師(ニ)1、押勝(ハ)者、近江(ノ)朝(ノ)内大臣藤原(ノ)朝臣錬足(ノ)曾孫、平城(ノ)朝(ノ)贈太政大臣武智麻呂(ノ)之第二子也、云々、樞機之政、獨出(ヅ)2掌握(ヨリ)1、由(テ)v是(ニ)豪宗右族、皆妬(ム)2其勢(ヲ)1、寶字元年、橘(ノ)奈良麻呂等、謀(テ)欲(ス)v除(カムト)v之(ヲ)、事渉(ル)2廢立(ニ)1、反(テ)爲(メニ)所《ル》v滅(サ)、云々、遂(ニ)起(ス)v兵(ヲ)、及(テ)2其夜(ニ)1相2招(テ)黨與(ヲ)1、遁(レテ)v自2宇治1、奔(テ)據(ル)2近江(ニ)1、云々、【不比等(ノ)大臣を、追て淡海公と號し、近江國を以て封じたるは、かつて例なきこと也、これ押勝己(レ)此國に據むための、かねてのはかりことにぞありけむ、】官軍攻(テ)撃(ツ)v之(ヲ)、押勝衆潰(エテ)、獨|與《ト》2妻子1三四人、乘(テ)v船(ニ)浮(ブ)v江(ニ)、石楯獲(テ)而斬(リ)v之(ヲ)、及(ビ)其妻子從黨四十四人、皆斬(ル)2之(ヲ)於江頭(ニ)1、云々、甲寅云々、是日、討賊將軍從五位下藤原(ノ)朝臣藏下麻呂等、凱旋(シテ)獻(ル)v捷(ヲ)、詔(シテ)曰(ク)とあり、
逆 仁 穢 岐 奴仲末呂 伊 詐※[(女/女)+干] 流 心 乎 以 天 兵 乎 發朝庭 乎 傾動 武止之天 鈴印 乎 奪復皇位 乎 掠 天 先 仁 捨岐良 比 賜 天之 道祖 我 兄鹽燒 乎 皇位 仁方 定 止 云 天 官印 乎 押 天 天下 乃 諸國 仁 書 乎 散 天 告知 之米 復云 久 今 乃 勅 乎 承用 與 先 仁 詐 天 勅 止 稱 天 在事 乎 承用 流己止 不得 止 云 天 諸人 乃 心 乎 惑亂三關 仁 使 乎 遣 天 竊 仁 關 乎 閇一二 乃 國 仁 軍丁 乎 乞兵發 之武《サカシマニキタナキヤツコナカマロイイツハリカダメルココロヲモチテイクサヲオコシミカドヲカタブケムトシテスズオシテヲウバヒマタミカドノクラヰヲカソヒテサキニステキラヒタマヒテシフナトガアニシホヤキヲミカドノクラヰニハサダメツトイヒテツカサノオシテヲオシテアメノシタノクニグニニフミヲアカチテツゲシラシメマタイハクイマノミコトノリヲウケモチヒヨサキニイツハリテミコトノリトイヒテアルコトヲウケモチフルコトエザレトイヒテモロヒトノココロヲマドハシミツノセキニツカヒヲヤリテヒソカニセキヲトヂヒトツフタツノクニニイクサヨホロヲコヒイクサオコサシム》。此 乎 見 流仁 仲末呂 可 心 乃 逆 仁 惡状 方 知 奴《コヲミルニナカマロガココロノサカシマニキタナキサマハシリヌ》。然先 仁 之 我 奏 之 事 方 毎事 仁 ※[(女/女)+干] 美 諂 天 在 家利《シカレバサキニシガマヲシシコトハコトゴトニカダミヘツラヒテアリケリ》。此 乎 念 方 唯己獨 乃未 朝庭 乃 勢力 乎 得 天 賞罰事 乎 一 仁 己 可 欲 末仁 行 止 念 天 兄豐成朝臣 乎 詐 天 讒 治 奏賜 流爾 依 天 位 乎 退 多末比天 是 乃 年 乃 年己呂在 都《コヲオモヘバタダオノレヒトリノミミカドノイキホヒヲエテシヤウバチノコトヲヒタブルニオノガホシキマニオコナハムトオモヒテコノカミトヨナリノアソミヲイツハリテシコヂマヲシタマヘルニヨリテクラヰヲシゾケタマヒテコノトシノトシゴロアリツ》。然今方明仁仲末呂可詐仁在 家利止 知 天 本 乃 大臣 乃 位 仁 仕奉 之武流 事 乎 諸聞食 止 宣《シカルニイマハアキラカニナカマロガイツハリニアリケリトシリテモトノオホオミノクヲヰニツカヘマツラシムルコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 惡 久 ※[(女/女)+干] 岐 奴 乃 政 乃 柄 乎 執 天 奏 多末不 事 乎 以 天 諸氏氏人等 乎毛 進都可方 須己止 理 乃 如 毛 不在 阿利都《マタノリタマハクキタナクカダマシキヤツコノマツリゴトノモトヲトリテマヲシタマフコトヲモチテウヂウヂノウヂビトドモヲモススメツカハスコトコトワリノゴトモアラズアリツ》。是以 天 今 與利 後 方 仕奉 良武 相 乃末仁末仁 進用賜 武《ココヲモテイマヨリノチハツカヘマツラムサマノマニマニススメモチヒタマハム》。然之 我 奏 之久 此禅師 乃 晝夜朝庭 乎 護仕奉 乎 見 流仁 先祖 乃 大臣 止之天 仕奉 之 位名 乎 繼 止 念 天 在人 奈利止 云 天 退賜 止 奏 之可止毛 此禅師 乃 行 乎 見 爾 至 天 淨 久 佛 乃 御法 乎 繼隆 武止 念行 末之 朕 乎毛 導護 末須己師 乎夜 多夜須 久 退 末都良武止 念 天 在 都《サテシガマヲシシクコノゼムジノヨルヒルミカドヲマモリツカヘマツルヲミルニトホツオヤノオホオミトシテツカヘマツリシクラヰナヲツガムトオモヒテアルヒトナリトイヒテシゾケタマヘトマヲシシカドモコノゼムジノオコナヒヲミルニイタリテキヨクホトケノミノリヲツギヒロメムトオモホシマシアレヲミチビキマモリマスオノガシヲヤタヤスクシゾケマツラムトオモヒテアリツ》。然朕 方 髪 乎 曾利 天 佛 乃 御袈裟 乎 服 天 在 止毛 國家 乃 政 乎 不行 阿流己止 不得《サテアレハカミヲソリテホトケノミケサヲキテアレドモアメノシタノマツリゴトヲオコナハズアルコトエズ》。佛 毛 經 仁 勅 久 國王 伊 王位 仁 坐時 方 菩薩 乃 淨戒 乎 受 與止 勅 天 在《ホトケモキヤウニノリタマハクコクワウイワウヰニマストキハボサチノジャウカイヲウケヨトノリテアリ》。此 仁 依 天 念 倍方 出家 天毛 政 乎 行 仁 豈障 倍岐 物 仁方 不在《コレニヨリテオモヘバイヘヲイデテモマツリゴトヲオコナフニアニサハルベキモノニハアラズ》。故是以 天 帝 乃 出家 之天 伊末 須 世 仁方 出家 之天 在大臣 毛 在 倍之止 念 天 樂 末須 位 仁方 阿良禰 止毛 此道鏡禅師 乎 大臣禅師 止 位 方 授 末都流 事 乎 諸聞食 止 宣《カレココヲモテミカドノイヘデシテイマスヨニハイヘヂシテアルオホオミモアルベシトオモヒテネガヒマスクラヰニハアラネドモコノダウキヤウゼムジヲオホオミゼムジトクラヰハサヅケマツルコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 天下 乃 人誰 曾 君 乃 臣 仁 不在 安良武《マタノリタマハクアメノシタノヒトタレゾキミノヤツコニアラズアラム》。心淨 久之天 仕奉 良武《ココロキヨクシテツカヘマツラム》 此 |之 實 能 朕臣 仁方 在 武《シマコトノアガオミニハアラム》。夫人 止之天 己 我 先祖 乃 名 乎 興繼比呂 米武止 不念 阿流方 不在《ソレヒトトシテオノガトホツオヤノナヲオコシツギヒロメムトオモハズアルハアラズ》。是以 天 明 久 淨 岐 心以 天 仕奉 乎方 氏氏門 方 絶 多末方須 治賜 止 勅御命 乎 諸聞食 止 勅《ココヲモテアカクキヨキココロヲモチテツカヘマツラムヲバウヂウヂノカドハタチタマハズヲサメタマハムトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又宣仕奉状 爾 隨 天 冠位阿氣賜治賜 久止 宣《マタノリタマハクツカヘマツルサマニシタガヒテカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマハクトノル》。
仲末呂 伊、伊(ノ)字、一本に可と作《カケ》るは、此|伊《イ》といふ助辭をしらず、いふかりて、さかしらに改めたるひがこと也、可《ガ》にては、中々に穩ならず、此|伊《イ》の事、第六詔にいへり、
〇※[(女/女)+干]は、如陀米流《カダメル》と訓べし、欽明紀に、※[(女/女)+干]佞《カダミイツハル》又|※[(女/女)+干]心《カダミゴコロ》、推古紀に、※[(女/女)+干]《カダマシ》また佞《カダマシ》、孝徳紀に、※[(女/女)+干]《カダム》など有(リ)、下文に、※[(女/女)+干] 美 諂 天、また惡 久 |※[(女/女)+干] 岐《カダマシキ》 奴など見ゆ、
〇傾動 武止之天、卅三詔にも、朝廷 乎 動 之 傾 無止 謀 天、卅四詔にも朝廷 乎 動傾 止之天など有(リ)、卅三詔には、動(ノ)字を別《ワケ》て讀(ミ)たれど、なほ二字を、カタブケと訓て有べし、
〇鈴印 乎 奪は、上に引る文に、逆謀頗(ル)泄(ル)とある次に、高野(ノ)天皇、遣(シて)2少納言山村(ノ)王(ヲ)1、收(メしむ)2中宮院(ノ)鈴印(ヲ)1、押勝聞(テ)v之(ヲ)、令(ム)2其男訓儒麻呂等(ヲシテ)、※[しんにょう+激の旁](テ)而奪(ハ)1v之(ヲ)云々、また同月癸亥(ノ)日の勅にも、乃今月十一日、起(シ)v兵(ヲ)作(シ)v逆(ヲ)、掠2奪(ヒ)鈴印(ヲ)1、とある是也、鈴印の事は、十九詔の處にいへり、〇掠は、加蘇比《カソヒ》と訓べし、十九詔に、高御座(ノ)次《ツギテ》 乎 加蘇 比 奪(ヒ)、
〇捨岐良 比、十九詔に、伎良 比 賜(ヒ)棄賜 布爾 依 弖、
〇道祖、天平賓字元年三月丁丑、皇太子道祖(ノ)王云々、是日、廢(シ)2皇太子(ヲ)1、以v王(ヲ)歸(ヘス)v第(ニ)、とある是也、此王の事、十九詔の處にいへり、
〇鹽燒 乎 云々は、上に引る、押勝が近江國に走りたる、とある文のつゞきに、僞(テ)立(テ)2鹽燒(ヲ)1、爲2今帝(ト)1と有(リ)、又同月癸亥(ノ)日の勅にも、竊(ニ)立(テ)2氷上(ノ)鹽燒(ヲ)1、爲2今皇1(ト)1と見ゆ、此王の事も、十九詔にいへり、
〇官印 乎 押 天、乾政官の印也、此月丙午(ノ)日、高野天皇の勅に、今聞(ク)、逆臣惠美(ノ)仲麻呂、盗(ミ)2取(テ)官(ノ)印(ヲ)1、已(ニ)逃去(ル)者《テヘリ》と有て、此印を、近江に賚下《モチクダ》りて在し也、
〇書 乎 散 天、散は、阿加知《アカチ》と訓べし、繼體紀に、散2置《アカチオク》諸縣(ニ)1と有(リ)、書《フミ》は官符也、これを僞(リ)造(リ)て、頒ちたる也、癸亥(ノ)日の勅に、造(リ)2僞(リ)乾政官(ノ)符(ヲ)1、發(シ)2兵(ヲ)三關諸國(ニ)1、奔(テ)據(ル)2近江(ノ)國(ニ)1と見ゆ、天(ノ)字、本どもに乎に誤(ル)、今改む、
〇告知 之米は、鹽燒(ノ)王を立て、帝としたるよしを也、
〇復云 久、印本には、久之字なし、今は一本に依(ル)、
〇今 乃 勅 乎 云々は、此度立(テ)たる今(ノ)帝の勅を也、
〇先 仁 詐 天 云々は、詳《サダカ》ならざれども、強《シヒ》ていはば、押勝、逆謀いまだ顯はれざりし程に、國々へ勅有し事どもも、皆己が心にはありしかども、其中に、今は己がために利《ヨ》からざる事どもも有(ル)故に、それをば、詐なりしぞと令《ノリゴチ》しなるべし、
〇不(レ)v得、此(ノ)不(レ)v得は、漢文言にて、制令《ノリコト》に常に多し、そは云々すること勿《ナカ》れといふとは、いさゝか心はへ異《コト》にして、今(ノ)世俗言に、云々することならぬといひ、命令の文書にも、不《ズ》2相成(ラ)1といふに當れり、
〇三關、軍防令に、凡置(テ)v關(ヲ)應(キ)2守(リ)固(ム)1者(ハ)、並(ニ)置2配(リ)兵士(ヲ)1、分番上下(ス)、其(ノ)三關(ハ)者、設(ケ)2皷吹軍器(ヲ)1、國司分當(シテ)守(リ)固(メヨ)、所(ノ)v配兵士(ノ)之數(ハ)、依(ル)2別式(ニ)1と見えて、三關は、義解に、伊勢(ノ)鈴鹿、美濃(ノ)不破、越前(ノ)愛發是也と有(リ)、本に、愛(ノ)字を受に誤れり、天平神護元年三月(ノ)勅に、伊勢美濃越前(ハ)者、是(レ)守(ルノ)v關(ヲ)之國也と見え、固(ムル)v關(ヲ)使は、件の三國に遣はしたること、紀中に見えたり、越前の愛發を除きて、近江の逢坂を加へて、三關とせられしは、後の事也、さて愛發は、阿良知《アラチ》と訓べし、万葉十に、有乳山《アラチヤマ》峯の沫雪寒くふるらし、とよめる所にて、敦賀(ノ)郡也、類聚國史に、天長九年に、越前(ノ)國|荒道《アラチ》山(ノ)道を作(ル)といふこと見えたるは、修理せしをいふなるべし、始めて開けるよしにはあらず、さて藤原(ノ)内麻呂公の子に、愛發《アラチノ》卿といふが有しも、此地名也、然るをチカナリヨシアキラなど訓るは、みだりごと也、さて此三關は、思ふに、天智天皇の大津宮の御時の定めにぞ有けむ、三處みな、近江(ノ)國の堺なれば也、もし大倭の京の時、定められむには、伊賀を經《ヘ》て、伊勢へ下る堺などのも、入べきことなるに、彼(ノ)道などのは入ざれば也、さて近江の堺にとりて、西(ノ)方なるは、此數に入らずして、三關みな東方なるは、東方の國々をは、殊に嚴《ヲゴソカ》に警《マモ》らるゝよしぞ有けむ、かくて延暦八年七月、勅(シテ)2伊勢美濃越前等(ノ)國(ニ)1曰(ク)、置(クノ)v關(ヲ)之設、本備(フ)2非常(ニ)1、今正朔所v施、區宇無(シ)v外云々、宜(シ)d其(ノ)三國(ノ)之關、一切(ニ)停廢(シテ)、所(ノ)v有兵器粮糒(ハ)、運2收(メ)於國府(ニ)1、自外舘舍(ハ)、移(シ)c建(ツ)於便郡(ニ)u、さて後紀に、同二十五年三月、遣(テ)v使(ヲ)、固(メ)2守(ラシム)伊勢美濃越前三國(ノ)故關(ヲ)1とあるは、非常の時に臨みては、なほ使を遺して、故《モトノ》關を守らしめ給ひし也、又同紀に、弘仁元年九月云々、仍(テ)遣(テ)v使(ヲ)、鎭2固(メシム)伊勢近江美濃等三國(ノ)府并(ニ)故關(ヲ)1とあるは、此ほど越前の故關をば除きて、かゝる非常のをりも、近江の逢坂の故關を加へて、守らしめ給へる也、さるはいかなるよしにて、然改められけむ、しらねども、思ふに、越前はほど遠くして、使を遣すに煩ある故に、ちかき逢坂にかへて、古(ヘ)の三關の例を遺《ノコ》されたるにや、此ほどははやく、
故關を守るといふも、たゞ古(ヘ)の例によらるゝ、儀式のみの如くにて、實にらしむるにはあらざりけむ故に、かくはなれるなるべし、もし然らずは、山城の京よりは、逢坂は、鈴鹿不破の關と、二隔《フタヘ》に重なりて、いたづらなるをや、
〇一二 乃 國とは、何れの國ならむ、詳ならず、
〇軍丁は、兵士を軍にたゝするをいふ、持統紀に、軍丁《イクサヨホロ》筑紫(ノ)國上(ツ)陽※[口+羊]《ヤメノ》郡(ノ)大伴部(ノ)博麻呂云々、還(リ)2至(ル)筑紫(ニ)1云々、詔(シテ)2博麻呂(ニ)1曰(ク)、於《ニ》2天豊財重日足姫(ノ)天皇(ノ)七年1、救(フ)2百濟(ヲ)1之役(ニ)、汝|爲《ニ》2唐(ノ)軍1見《ラル》v虜云々、汝獨(リ)淹2滯(スルコト)他界(ニ)1、於(テ)v今(ニ)三十年矣云々、これにて其やうを知べし、
〇之 我は、其《ソレ》が也、上に見ゆ、本に、之(ノ)字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇一 仁は、ヒタブルニと訓べし、
〇欲 末仁は、常にいふほしいまゝに也、まに/\を、まにとのみいへる例、万葉四に、天皇之行幸乃隨意《オホキミノイデマシノマニ》、六にも、
天皇之行幸之隨《オホキミノイデマシノマニ》と有(リ)、此處、一本又一本には、末仁末仁と作れど、件の例有(ル)故に、今は印本又一本などのまゝに擧つ、
〇豐成(ノ)朝臣は、天平神護元年十一月戊午朔甲申、右大臣從一位藤原(ノ)朝臣豊成薨(ス)と見えて、そこに傳あり、武智麻呂公の長子也、薨時六十二歳なりき、
〇讒は、志許遲《シコヂ》と訓べし、字鏡に、※[言+僭の旁](ハ)讒也、志己豆《シコヅ》、また讒、與己須《ヨコス》と見え、書紀にも、ヨコスと訓り、こゝは治(ノ)字あれば、さは訓がたし、孝徳紀に、蘇我(ノ)臣日向、※[言+僭の旁]《シコヂテ》2倉(ノ)山田(ノ)大臣(ヲ)於皇太子(ニ)1曰(ク)、云々、將反《ソムカムコト》其|不《ジ》v久(シカラ)、
〇位 乎 退(ケ)、古(ヘ)は官をも位といひしは、常の事也、こはかの天平寶字元年、橘(ノ)奈良麻呂卿の事の時、七月乙卯、遣(ハシ)2中納言藤原(ノ)朝臣永手、左衛士(ノ)督坂上(ノ)忌寸犬養等(ヲ)1、就(テ)2右大臣藤原(ノ)朝臣豐成(ノ)第(ニ)1、宣(シメテ)v勅(ヲ)曰(ク)、汝(ガ)男乙繩、關(カレリ)2兇逆(ノ)之事(ニ)1、宜(シ)2禁(メテ)進(ル)1者(ヘリ)、即(チ)加(ヘテ)2肱禁(ヲ)1、寄(セテ)2勅使(ニ)1進(ル)云々、勅(シテ)曰(ク)、右大臣豐成(ハ)者、事(ヘテ)v君(ニ)不v忠(ナラ)、爲(テ)v臣(テ)不v義(ナラ)、私(カニ)附(キ)2賊黨(ニ)1、潜忌(ミ)2内相(ヲ)1、知(テ)v構(ルコトヲ)2大亂(ヲ)1、無(ク)2敢(テ)奏上(スルコト)1、及(テモ)2事發覺(スルニ)1、亦不2肯(テ)究1、若(シ)怠(テ)延(ベバ)v日(ヲ)、殆滅(サム)2天宗(ヲ)1、嗚呼宰輔(ノ)之任、立合(シヤ)v如(ナル)v此(ノ)、宜(シ)d停(メテ)2右大臣(ノ)任(ヲ)1、左c降(ス)太宰(ノ)員外(ノ)帥(ニ)u、と見えたり、これ押勝が讒《シコヂ》によりて也、
〇本 乃 大臣 乃 位 仁 云々、此(ノ)月【寶字八年九月】戊申、以2太宰(ノ)員外(ノ)帥正二位藤原(ノ)朝臣豐成(ヲ)1、復(シテ)爲2右大臣(ト)1、賜2帶刀四十人(ヲ)1、甲寅、授2從一位(ヲ)1、また廿六卷、かの傳に、其弟大納言仲滿、執(テ)v政(ヲ)專(ニ)v權(ヲ)、勢傾(ク)2大臣(ヲ)1、大臣(ハ)天資弘厚(ニシテ)、時望(ノ)攸(ナリ)v歸(スル)、仲滿毎(ニ)欲(シテ)2中《アテ》傷(ナハムト)1、未v得2其隙(ヲ)1、大臣(ノ)第三子乙繩、平生|與《ト》2橘(ノ)奈良麻呂1相善(シ)、由v是奈良麻呂等(ガ)事|覺《アラハルル》之日、仲滿誣(ルニ)以(テシテ)v黨(ストイフヲ)v逆(ニ)、左2遷(シテ)日向(ノ)掾(ニ)1、促(シテ)令(メ)v之(カ)v官(ニ)、而(シテ)左2降(シテ)大臣(ヲ)1、爲2太宰(ノ)員外(ト)1、大臣到(テ)2難波(ノ)別業(ニ)1、稱(シテ)v病(ト)不v去《ユカ》、居(ルコト)八歳仲滿謀反(シテ)伏(ス)v誅(ニ)、即日復(ス)2本官(ニ)1と見えたり、
〇惡 久 ※[(女/女)+干] 岐 奴は、仲麻呂をいふ、
〇奏 多末不 事は、仲麻呂が奏せる言也、
〇進(メ)は、官位を進め昇す也、
〇都可方 須は、使《ツカ》ひ給ふなり、
〇仕奉 良武 相 乃末仁末仁 云々、今までは、仲麻呂が政を執行へること、邪曲《ヨコシマ》にありし故に、何事も、理《コトワリ》のごとくならざりしを、今よりは、その人々の、仕奉らむ状《サマ》にしたがひて、ことわりの如く、進めつかひ給はむと也、相(ノ)字も、サマと訓べけれども、なほ状を誤れるならむか、※[状の草書]と※[相の草書]と、草書はやゝ似たり、卅二詔に、其《ソノ》仕(ヘ)奉(ル)隨状《サマノマニマニ》治(メ)賜(フ)人 毛 在(リ)など有(リ)、印本に、上の仁(ノ)字を落せり、今は餘の本どもに依(ル)、
〇之 我は、其《ソレ》がにて、仲麻呂をいへり、
〇奏 之久は、マヲシシクと訓べし、此|之久《シク》の事、十三詔にいへり、一本に久(ノ)字を、天と作《カケ》るはひがことなり、
〇此(ノ)禅師とは、道鏡をいへり、此僧が事は、四十一詔の處に、委くいふべし、さて禅師とは、ひろく僧のことをいへるにはあらず、そのかみかくいふ職有し也、卅二の卷、此道鏡が傳に、入(リ)2内道場(ニ)1、列(シテ)爲(ル)2禅師(ト)1、と見えたり、又同卷に、禅師某々と、十人を擧て、當時稱(シテ)爲2十禅師(ト)1、其後有(レバ)v闕、擇(テ)2清行(ノ)者(ヲ)1補(ス)v之(ヲ)と有(リ)、後に内供奉十禅師といふもの是也、
〇先祖 乃 大臣 止之天、道鏡は、弓削(ノ)連氏也、姓氏録に、弓削(ノ)宿禰|四腹《ヨハラ》見えたる中に、左京神別上に出たるは、石上同祖とある、此同姓なるべし、石上は、古(ヘ)の物部氏也、三代實録卅二にも、弓削(ノ)連(ハ)、神饒速日(ノ)命(ノ)之後也、といふ見えたり、さて先祖 乃 大臣とは、守屋(ノ)大連をいへるなるべし、かの大連を、物部(ノ)弓削(ノ)大連といへればなり、石上同祖とある弓削氏は、此大連の末にぞありけむ、さて大連を大臣といへるは、古(ヘ)の大連も、今の大臣にあたれる職なれば也、古(ヘ)物部氏の人の、大臣になれりしことはなし、もとより弓削氏に大臣あることなし、
〇位名、名は職業也、上にいへるがごとし、
〇繼(ガム) 止 念 天は、先祖の大臣の位名を繼て、大臣にならむと欲する人也となり、
〇退賜(ヘ) 止 奏 之、上文、押勝が傳を記されたる中に、獨擅(ニシテ)2權威(ヲ)1、情放日(ニ)甚(シ)、時(ニ)道鏡常(ニ)侍(テ)2禁掖(ニ)1、甚被(ル)2寵愛(セ)1、押勝患(テ)v之(ヲ)、懷不2自安1云々、とある如くなれば、これを退け給ふべきよしを、奏せしなるべし、
〇至 天 淨 久、かくさまにいふ至ては、もと皇國言にあらず、漢文言也、久(ノ)字、本に之に誤れり、
〇繼隆 武止,隆は、比呂米《ヒロメ》と訓べし、下文に、繼比呂米武止《ツギヒロメムト》とあると同意也、
〇己(ガ)師 乎夜は、朕(ガ)師をや也、夜《ヤ》は、夜波《ヤハ》の意也、
〇多夜須 久は、憚るべき事を、はゞからず、輕々《カロガロ》しく物するをいふ、古今集(ノ)序に、位高き人は、たやすきやうなればいれず、といへるたやすきと同じ、夜(ノ)字、印本に衣に誤(ル)、今は一本に依れり、
〇念 天 在 都は、押勝は、退け給へと申(シ)つれども、朕は然思ひて、退けずして在つと也、
〇髪 乎 曾利 天云々、廿七詔にも、是(ヲ)以(テ)出v家(ヲ) 弖 佛(ノ)弟子 止 成 奴と見えたり、或書に、天平寶字六年六月、出家、法(ノ)諱(ハ)法基尼と有(リ)、此事紀にはもれたり、
〇國家 乃 政 乎云々、廿七詔に、但政事 波、云々、國家(ノ)大事、賞罸二(ノ)柄 波、朕行 牟と有き、
〇國王 伊云々は、梵網經に、若(シ)佛子、欲(スル)v受(ムト)2國王(ノ)位(ヲ)1時、受(ル)2轉輪王(ノ)位(ヲ)1時、百官受(ル)v位(ヲ)時、應《ベシ》3先(ヅ)受(ク)2菩薩戎(ヲ)1、一切(ノ)鬼神、救2護(シ)王(ノ)身、百官(ノ)之身(ヲ)1、諸佛歡喜(ス)云々、といへるを、少し文をかへて、引れたるなるべし、王(ノ)字、一本に主と作《ア》るはわろし、
〇菩薩 乃 淨戒、卅八詔にも、朕 方 佛 能 御弟子 等之天、菩薩 能 戒 乎 受賜 天 在(リ)、と見えたり、法苑珠林一百七、受戒篇、三聚(ノ)部に、夫(レ)十善五戒(ハ)、必|須《ベシ》2形(ヲモテ)受(ク)1、菩薩淨戒(ハ)、可(シ)2以(テ)v心(ヲ)成(ス)1、故(ニ)戒法理曠(ク)事深(シ)、在家出家、平等(ニシテ)而受(ク)云々、また、
云々、受2得菩薩(ノ)三聚淨戒(ヲ)1、其(ノ)三(ハ)是(レ)何(ソ)、一(ニハ)者攝律儀戎、二(ニハ)者攝善法戒、三(ニハ)者攝衆生戒云々と云り、これ菩薩戒は、大乘の戒なれば、殊に受(ケ)行ふ行(ヒ)はなくして、たゞ心のうへの戒也、可(シ)2以v心(ヲ)成(ス)1といへる是也、續後紀廿に、是(ノ)日天皇落餝(シテ)入(リ)v道(ニ)、誓(テ)受2清戒(ヲ)1、三代實録八、圓仁僧(ノ)傳に、天安二年云々、明年、天皇屈(シテ)2圓仁(ヲ)於内裏(ニ)1、受2菩薩戒(ヲ)1、また貞觀二年、淳和太后云々、請(テ)留(メ)2圓仁(ヲ)1、受2菩薩(ノ)大戒(ヲ)1、三年、太皇大后藤原氏云々、受2菩薩(ノ)大戒三昧耶戒及(ビ)壇灌頂(ヲ)1、
〇此 仁 依 天、すべて語の頭に、仍《ヨリテ》因《ヨリテ》などいふこと、漢文には常のことなれども、皇國言には、さることなし、語の頭なれば、必(ズ)こゝのごとく、これによりてといへり、然るを續後紀三代實録などの宣命に、頭に因《ヨリテ》といへることあるは、漢文にうつりて、古語の格を失へり、今世の人、文をかくに、これによりてといはむは、煩はしと思ひて、たゞよりてといふを、簡《コトズクナ》にして雅《ミヤビ》たりと心得て書(ク)は、此わきためをしらざるひがこと也、
〇豈云々、卅八詔に、豈《アニ》障(ル)事 波 |不《ジ》v在(ラ) 止、四十二詔に、豈《アニ》敢《アヘテ》云々事 波 無(シ) 止、仁徳紀大后の御歌に、阿珥豫區望阿羅儒《アニヨクモアラズ》、万葉四に、豈不益歟《アニマサラジカ》など有(リ)、古言の豈《アニ》は、漢文のいひざまとは、いさゝかかはれり、万葉十六に、豈藻不在《アニモアラズ》ともあるは、何の論もあらず也と、師のいはれし、其意也、さてこゝにかく詔給へる意は、菩薩戒を受ても、王位に在(ル)べきこと、かの經の文のごとくなれば、今朕(レ)出家の身ながらも、政を行はむに、なでふことかあらむ、さはることあらじと也、
○帝(ノ)字、一本に常に誤れり、
〇出家 之天 在(ル)、印本に此下に、細書の天(ノ)字あるは、誤也、今は一本又一本などに、無きに依れり、天は、もしくは尤《ム》を誤れるにもあらむか、
〇樂は、五教(ノ)反音ゲウにて、願ふこと也、佛書に多くつかへる字也、四十一詔にも、世間 乃 位 乎波、樂《ネガヒ》求(メ)多布《タブ》事 波 都《カツ》 天 無(ク)、また世間 乃 位冠 乎波 不樂《ネガハズ》などあり、
○大臣禅師 止、此詔につゞきて、又勅(ス)、以2道鏡禅師(ヲ)1、爲《セリ》2大臣禅師(ト)1、所司|宜《ベシ》d知(テ)2此状(ヲ)1、職分封戸、准(ヘテ)2大臣(ニ)1施行(ス)uと有(リ)、
〇誰 曾、曾(ノ)字、本に河と作《カケ》るは、何を誤れるなるべし、されど今は、一本又一本などに、曾とあるに依れり、凡てたれかといふことを、古語には、たれぞといへる多し、古事記雄略天皇の大御歌に、多禮曾意富麻幣爾麻袁須《タレゾオホマヘニマヲス》、色葉歌に、わが世たれぞつねならむ、此外万葉又さいばらの淺水(ノ)歌などにも有(リ)、
〇君乃 臣 、この臣は、夜都古《ヤツコ》と訓べし、書紀にも、君に對へていふ意の臣は、みな然訓り、おみといふは、朝廷に仕奉る人を、敬ひていふ稱也、
〇仕奉 良武 此 之、此所、かくても聞えぬにはあらざれども、穏ならず、此(ノ)字は衍にて、仕奉 良武之なり、之(ノ)字、印本などには、曾と作《カケ》り、其もあしからざれども、今は例多きに依て、一本又一本などに從へり、
〇朕(ガ)臣、この臣は、おみと訓べし、
〇夫《ソレ》、すべてかくさまに、語のはじめに夫《ソレ》といひ出るは、皇國言にあらず、漢文言也、然るに四十四詔四十五詔などにも、此言有(リ)、又五十四詔に、其《ソレ》高御座云々とあるも、字は其と書(キ)たれども、夫《ソレ》の意也、此(ノ)ほどは、やう/\に漢文讀(ミ)のうつりて、かゝるたぐひ、及所《オヨビトコロ》など、これかれまじれり、
〇名 乎は、職業を也、
〇仕奉状 爾 隨 天云々、上は、ひろくゆくさきまでをかけて詔給ひ、これは、此度行ひ給ふことを詔給ふ也、故(レ)別《ワキ》て又宣といへり、さて此詔は、今(ノ)帝の御にはあらず、高野(ノ)天皇の詔也、
第廿九詔
同年十月壬申、高野(ノ)天皇、遣(ハシ)2兵部卿和氣(ノ)王、左兵衛(ノ)督山村(ノ)王、外衛(ノ)大將百濟(ノ)王敬幅等(ヲ)1、率(テ)2兵數百(ヲ)1、圍(マシム)2中宮院(ヲ)1、時(ニ)帝遽(テテ)而不v及(バ)2衣履(ニ)1、使者促(ス)v之(ヲ)、數輩(ノ)侍衝奔散(シテ)、無(シ)2人(ノ)可(キ)1v從(フ)、僅(ニ)與《ト》2母家三兩人1、歩(テ)到(テ)2圖書寮(ノ)西北(ニ)1、立(チタマフ)v地(ニ)、山村(ノ)王宣(テ)v詔(ヲ)曰(ク)とあり、
掛 末久毛 畏朕 我 天先帝 乃 御命以 天 朕 仁 勅 之久 天下 方 朕子伊末之 仁 授給事 乎之 云 方 王 乎 奴 止 成 止毛 奴 乎 王 止 云 止毛 汝 乃 爲 牟末仁末仁 假令後 仁 帝 止 立 天 在人 伊 立 乃 後 仁 汝 乃多米仁 無禮 之弖 不從奈賣 久 在 牟 人 乎方 帝 乃 位 仁 置 許止方 不得《カケマクモカシコキアガアメノサキノミカドノオホミコトモチテアレニノリタマヒシクアメノシタハアガコイマシニサヅケタマフコトトシイハバオホキミヲヤツコトナストモヤツコヲオホキミトイフトモイマシノセムマニマニタトヒノチニミカドトタチテアルヒトイタチノノチニイマシノタメニヰヤナクシテシタガハズナメクアラムヒトヲバミカドノクラヰニオクコトハエザレ》。又君臣 乃 理 仁 從 天 貞 久 淨 岐 心 乎 以 天 助奉侍 牟之 帝 止 在 己止方 得 止 勅 岐《マタキミヤツコノコトワリニシタガヒテタダシクキヨキココロヲモチテタスケツカヘマツラムシミカドトアルコトハエムトノリタマヒキ》。可久在御命 乎 朕又一二 乃 豎子等 止 侍 天 聞食 天 在《カクアルオホミコトヲアレマタヒトリフタリノワラハドモトハヘリテキコシメシテアリ》。然今帝 止之天 侍人 乎 此年己呂見 仁 其位 仁毛 不堪《シカルニイマミカドトシテハヘルヒトヲコノトシゴロミルニソノクラヰニモタヘズ》。是 乃味仁 不在今聞 仁 仲麻呂 止 同心 之天 竊朕 乎 掃 止 謀 家利《コレノミニアラズイマシキクニナカマロトココロヲカハシテヒソカニアレヲハラハムトハカリケリ》。又竊六千 乃 兵 乎 發 之 等等乃 比 又《マタヒソカニムチヂノイクサヲオコシトトノヘマタ》七人 乃味之天 |關《セキ》 仁 入 |牟止毛 謀 家利《ムトモハカリケリ》。精兵 乎之天《トキイクサヲシテ》 押 之非天 |壊亂 天 罸滅 止 云 家利《ヤブリミダリテウチホロボサムトイヒケリ》。故是以帝位 乎方 退賜 天 親王 乃 位賜 天 淡路國 乃 公 止 退賜 止 勅御命 乎 聞食 止 宜《カレココヲモテミカドノクラヰヲバシゾケタマヒテミコノクラヰタマヒテアハヂノクニノキミトシゾケタマフトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
天先帝とは、聖武天皇を申(シ)給へる也、四十五詔にも、天 乃 御門|帝皇 我《スメラガ》とあるも同じ、猶天のみかどと申(シ)奉ること、彼處に云べし、
〇伊末之は、汝にて、高野(ノ)天皇をさして詔給ふ也、本に、 伊之末仁と、細書にせるはわろし、字の次第は、横に讀(ム)例に書る也、
〇授給(フ)にて、語|絶《キレ》たり、
〇事 乎之 云 方、乎(ノ)字は、止を誤れる也、事あらむにはといはむが如し、万葉四に、事之有者《コトシアラバ》、火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》、吾莫七國《ワレナケナクニ》、
〇王 乎 奴 止云々、此奴は、臣《ヤツコ》也、良に對へる奴碑にはあらず、字にかゝはるべからず、古(ヘ)は王《ミコ》臣《ヤツコ》と分(ケ)云て、諸王と臣下とは、尊(キ)卑きけぢめ、こよなかりき、此御世のころになりては、さもあらざりしかども、猶古(ヘ)の定まりの意はのこりて、王は尊く、臣は卑き物として、かくは詔給へるなり、
〇王 止 云 止毛,王は、降《クダ》して臣にもなすべきものなるが故に、成《ナス》 止毛といへるを、臣は、王になることは、かけてもかなはぬ物なる故に、成(ス) 止毛とはいはで、云(フ) 止毛といへり、心をつくべし、
〇末仁末仁は、こゝにて語|絶《キレ》たり、汝の心のまゝにせよの意なり、下の仁(ノ)字、おほくの本に、爾と作《カケ》り、今は一本に依(ル)、
〇後 仁は、今より後に也、
〇立 乃 後 仁、かく用言の下を、之《ノ》と承《ウク》る例、十四詔にいへるが如し、立《タチ》て後にといふに同じ、
〇奈賣 久、賣(ノ)字、本に壹に誤(ル)、今改めつ、一本に未と作るは、米を誤れる歟、なめくも、ゐやなくと同意にして、無禮《ナメク》と書り、かく同意の言を重ねいふは、古(ヘ)の常也、万葉十二に、妹登曰者《イモトイオハバ》、無禮恐《ナメクカシコシ》、繼體紀に輕《ナメク》、安閑紀に輕《ナメシク》、中昔の物語書にも、なめげと有(リ)、
〇掃は、退け除く意也、古事記書紀万葉に、退《ハラヒ》撥《タヒラゲ》駈《ハラヒ》除《ハラヒ》掃《ハラヒ》平《タヒラゲ》などあるは、不服人《マツロハヌヒト》をはらひ除くにて、言は一(ツ)也、
〇君臣 乃 理 仁 從 天とは、帝と立《タチ》てありとも、汝【高野(ノ)天皇】をば、君のごとく尊み、みづからは臣の如く仕奉れと也、君臣の義《コトワリ》により從ふ也、
〇助奉侍 牟之、高野(ノ)天皇を助奉也、牟の下に、人といふことを加へて心得べし、さてつかへまつるを奉侍と書る例、卅一詔卅二詔四十詔などにもあり、
〇得 止は、上の不得《エザレ》に對へては、延與《エヨ》と訓べけれど、なほ延牟止《エムト》と訓(マ)むぞ穩ならむ、
〇勅 岐、件のごとく聖武天皇の詔給ひしよし也、
〇可久在、本どもに、在(ノ)字脱たり、今は一本に依れり、
〇豎子は、十七詔に出たり、止は與《ト》也、
〇侍 天は、聖武天皇の大御前に也、
〇聞食 天 在は、御みづから詔給ふ也、
〇今帝は、今と讀て、帝と讀べし、又廿七詔にも、今帝《イマノミカド》とあれば、こゝも然訓(マ)むも、あしからじ、帝(ノ)字、一本に命に誤れり、〇是 乃味仁 不v在は、加以《シカノミニアラズ》とあると同じ、乃(ノ)字、印本に可に誤(ル)、今(ハ)一本に依(ル)、
〇同心 之天は、コヽロヲカハシテと訓べし、卅三詔に、仲末呂 止 同心《ココロヲカハ》 之天とあるも同じ、又十七詔に、諸|同心 爾 爲而《オナジココロニシテ》、四十一詔に、同心《オナジココロ》 乎 以 天などあるは、字のまゝに訓べし、
〇又竊、竊《ヒソカニ》は、下の謀 家利へ係れり、
〇發 之、之(ノ)字、諸本に止に誤(ル)、今改(ム)、
〇等々乃 比、こは兵 乎とゝのふるなれば、等々乃倍《トトノヘ》と有べきに、比(ノ)字は、寫(シ)誤(リ)なるべし、四十五詔に、心 乎 等々能倍《トトノヘ》とあるぞ正しき、此言は、集《ツド》ひ集《ツド》ヘ、幸《サキハ》ひ幸《サキハ》へなどと、同じ格の言にて、比《ヒ》と倍《ヘ》と、自他の差別あれば也、さてととのへは、呼(ビ)集めてそろふること也、万葉二に、御軍士乎《ミイクサヲ》、安騰毛比賜《アドモヒタマヒ》、齊流《トトノフル》、皷之音者《ツヅミノオトハ》、三に、網子調流《アゴトトノフル》、海人之呼聲《アマノヨビコヱ》、十に、左男牡鹿之《サヲシカノ》、妻整登《ツマトトノフト》、鳴音之《ナクコヱノ》、廿に、安佐奈藝爾《アサナギニ》、可故等々能倍《カコトトノヘ》など有、
〇又七人 乃味之天 關 仁 入 牟止毛、此處の文、心得がたきを、強《シヒ》てこゝろみにいはば、七(ノ)字は、土の誤(リ)、味(ノ)字は、状の誤(リ)にて、土人《サトビト》 乃 状《サマ》 之天 歟、然云(フ)意は、發さむと謀る兵は、關より彼方《ヲチ》の國の兵なるを、關を入るに、そのあたり近き郷民《サトビト》の状に詐《イツハ》りて、越《コエ》しめむといへるにや、あらむ、いづれにまれ入 牟は、イレムと訓べし、さて件の意としては、又(ノ)字いかゞなるやうなれども、兵を發さむと謀り、又其兵の、關を入(ル)べきやうをも謀れるよし也、又思ふには、關(ノ)字、閤などの誤(リ)歟、舒明紀に、閤門をウチツミカドと訓(メ)れば、高野(ノ)天皇のまします宮の、内つ御門をいへるにて、發したる兵の内、其|閤《ウチツミカド》にはたゞ七人のみをして、ひそかに入(ラ)しめむといへる歟、さるにては、七人と數を限れること、いかゞなれば、なほ七(ノ)字は誤(リ)か、かにかくに思ひ定めがたし、なほ後のよき考(ヘ)をこそまため、
〇精兵は、トキイクサと訓べし、仲哀紀に、シラケツハモノと訓るは、ひがこと也、またトキツハモノとも訓る、トキはよろし、
〇押 之非天、之非は、強《シオヒ》には有べからざれば、誤字なるべし、其字いまだ考(ヘ)得ず、
〇罰(ノ)字は、討を誤れるなるべし、
〇云 家利、上の竊(ニ)朕 乎云々よりこれまで、云々 止 謀 家利、云々 止 謀 家利、云々 止 云 家利と、いくつにも別《ワケ》て擧たるは、數人《アマタノヒト》の告奏《ツゲマヲ》したる事どもを、おの/\別に擧たるなるべし、其中に、謀(リ)けりといふは、然謀(リ)給ひしよしを聞(シ)食(シ)て也、云 家利は、然云(ヒ)給ひしよしを聞(シ)食(シ)て也、
〇淡路(ノ)國 乃 公とは、古(ヘ)の肥(ノ)君上毛野(ノ)君下(ツ)毛野(ノ)君などの類とは、異にして、皇國に例なき號なれば、漢國の諸侯の中の、公といふ爵の例と聞えたり、藤原(ノ)不比等(ノ)大臣を、追(テ)以2近江(ノ)國十二郡(ヲ)1封(シテ)爲2淡海公(ト)1、とあると同じ、
〇退賜は、淡路(ノ)國に退去《シゾケ》やり給ふ意也、位號を退け給ふことは、上に退賜 夫とあれば也、
〇此詔につゞきて、事畢(テ)將(テ)2公及其母(ヲ)1、到(テ)2小子門(ニ)1、庸(テ)2道路(ノ)鞍馬(ヲ)1騎(セ)v之(ヲ)、右兵衛督藤原(ノ)朝臣藏下麻呂、衛(リ)2送(ル)配所(ニ)1、幽(ス)2于一院(ニ)1、勅(シテ)曰(ク)、以2淡路(ノ)國(ヲ)1、賜2大炊親王(ニ)1、國(ノ)内(ニ)所(ノ)v有(ル)、官物調庸等(ノ)類、任2其(ノ)所用(ニ)1、但(シ)出擧官稻(ハ)、一(ニ)依(ル)2常例(ニ)1と見えたり、
第三十詔
上件の文の次に、又詔(シテ)曰(ク)とあり、
船親王 波 九月五日 爾 仲麻呂 止 二人謀 家良久 作 弖 朝庭 乃 咎計 弖 將進 等 謀 家利《フネノミコハナガヅキノイツカノヒナカマロトフタリハカリケラクフミツクリテミカドノトガカゾヘテタテマツラムトハカリケリ》。又仲麻呂 何 家物計 夫流爾 書中 爾 仲麻呂 等 通 家流 謀 乃 文有《マタナカマロガイヘノモノカゾフルニフミノナカニナカマロトカヨハシケルハカリコトノフミアリ》。是以親王 乃 名 波 下 弖 諸王 等 成 弖 隱岐國 爾 流賜 布《ココヲモテミコノナクダシテソワウトナシテオキノクニニナガシタマフ》。又池田親王 波 此夏馬多集 天 事謀 止 所聞 支《マタイケダノミコハコノナツウマオホクツドヘテコトハカルトキコシメシキ キ》。如是在事阿麻多太比所奏《カカルコトアマタタビマヲセリ》。是以親王 乃 名 波 下賜 天 諸王 等志弖 士左國 爾 流賜 布等 詔大命 乎 聞食 止 宣《ココヲモテミコノナハクダシタマヒテソワウトシテトサノクニニナガシタマフトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
船(ノ)親王、次なる池田(ノ)親王と共に、廢帝の御兄王にて、天平寶字三年六月、親王になり給へりしこと、廿五詔の處に見えたるがごとし、
〇九月五日は、仲麻呂が謀反の、いまだ覺《アラハ》れざりしほど也、かの顯れたるは、同月乙巳にて、十一日也、
〇書作 弖云々は、朝廷の政道の、よろしからざることどもを、かぞへたてて、條々《ヲヂヲヂ》して、その書をたてまつらむと謀る也、咎は、失といはむが如し、さてこは、廢帝の御世なれども、政は、高野天皇の行はせ給へば、朝廷の咎といふも、かの天皇の御事也、
〇家(ノ)物計 夫流爾は、仲麻呂滅びたる時、それが家のあらゆる物を、檢へて計《カゾ》へ擧たる中に也、今の俗言《ヨノコト》に、帳につけたてたるといふこと也、印本には、流爾(ノ)二字を脱せり、一本には、流(ノ)字を留と作《カケ》り、今は又の一本に依れり、次にも流(ノ)字を用ひたれば也、
〇書(ノ)中 爾は、かの家に有し文書どもの中に也、
〇通(ハシ) 家流は、船(ノ)親王の也、
〇所奏《マヲセリ》は、人の告(ゲ)奏せる也、
〇下賜 天、下(ノ)字、一本に不に誤れり、
第卅一詔
同月丁丑、詔(シテ)曰(ク)とあり、
諸奉侍上中下 乃 人等 乃 念 良末久 國 乃 鎭 止方 皇太子 乎 置定 天之 心 毛 安 久 於多比 仁 在 止 常人 乃 念云所 仁 在《モロモロツカヘマツルカミナカシモノヒトドモノオモヘラマククニノシヅメトハヒツギノミコヲオキサダメテシココロモヤスクオダヒニアリトツネヒトノオモヒイフコトニアリ》。然今 乃 間此太子 乎 定不賜在故 方 人 乃 能 家武止 念 天 定 流毛 必能 之毛 不在《シカルニイマノマコノヒツギノミコヲサダメタマハズアルユヱハヒトノヨケムトオモヒテサダムルカナラズヨクシモアラズ》。天 乃 不授所 乎 得 天 在人 方 受 天毛 全 久 坐物 仁毛 不在《アメノサヅケザルヲエテアルヒトハウケテモマタクイマスモノニモアラズ》。後 仁 壞《ノチニヤブレヌ》。故是以 天 念 方 人 乃 授 流爾 依 毛 不得力 乎 以 天 競 倍支 物 仁毛 不在《カレココヲモテオモヘバヒトノサヅクルニヨリテモエズチカラヲモチテアラソフベキモノニアラズ》。猶天 乃 由流 之天 授 倍伎 人 方 在 良牟止 念 天 定不賜 奴仁己曾阿禮 此天津日嗣位 乎 朕一 利 貪 天 後 乃 繼 乎 不定 止仁方 不在《ナホアメノユルシテサヅクベキヒトハアラムトオモヒテサダメタマハヌニコソアレコノアマツヒツギノクラヰヲアガヒトリムサボリテノチノツギヲサダメジトニハアラズ》。今 之紀乃 間 方 念見定 牟仁 天 乃 授賜 方牟 折 方 漸漸現 奈武止 念 天奈毛 定不賜勅御命 乎 諸聞食 止 勅《イマシキノマハオモヒミサダメムニアメノサヅケタマハムヒトハヤヤヤヤニアラハレナムトオモヒテナモサダメタマハヌトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 人人己比岐比岐此人 乎 立 天 我功成 止 念 天 君位 乎 謀竊 仁 心 乎 通 天 人 乎 伊佐奈 比 須須 牟己止 莫《マタノリタマハクヒトヒトオノガヒキヒキコノヒトヲタテテアガイサヲナサムトオモヒテキミノクラヰヲハカリヒソカニココロヲカヨハシテヒトヲイザナヒススムコトナカレ》。己 可衣之 |不成事 乎 謀 止曾 先祖 乃門 毛 滅繼 毛 絶《ナサヌコトヲハカルトゾオヤノカドモホロボシツギモタチヌル》。自今以後 仁方 明 仁 貞 岐 心 乎 以 天 可仁可久 仁止 念《イマヨリノチニハアキラカニタダシキココロヲモチテカニカクニトオモヒ》 佐末多久 |事奈 久之天 教賜 乃末仁末仁 奉侍 止 勅御命 乎 諸聞食 止 勅《コトナクシテヲシヘタマヒノマニマニツカヘマツレトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
念 良末久、五十四詔にも、云々 能 舍(ヘ) 良麻久母 恥(カ) 志と有(リ)、末久《マク》は、牟《ム》を延(ベ)たる言也、
〇國 乃 鎭、万葉三に、不盡(ノ)山をよめる歌に、日本之《ヒノモトノ》、山跡國乃《ヤマトノクニノ》、鎭十方《シヅメトモ》、座神可聞《イマスカミカモ》と有(リ)、
〇置定、置(ノ)字、一本に量に誤(ル)、
〇於多比 仁は、穩に也、此言、卅八詔四十五詔五十一詔などにも出(ヅ)、〇常人 乃は、常に人の也、常の人にはあらず、
〇今 乃 間は、俗言に當分といふ意也、
〇人 乃は、次に出たる天 乃に對へていへる人也、
〇定 流毛、流字、一本に漏に誤れり、
〇能 之毛、之(ノ)字は、久の誤(リ)にても有べし、
〇天 乃 不授所 乎、所(ノ)字は、作者は、漢文のごとく、トコロと訓べき心にて書たらめども猶意を得て、三字をサヅケザルと訓べし、さて世(ノ)中の萬(ノ)事は、もとより神の御しわざなる中にも、殊に天津日嗣の御位の御事などは、天照大御神の御心なるべきは、論なきに、其《ソ》をば忘れて、たゞ漢意によりて、かく天のしわざにいひなせる、物知(リ)人の心は、いかなる心ぞや、これらは道の大本《モト》に關《カカ》りて、いみしき禍言《マガコト》なり、なほざりにな思ひ過しそ、
〇後 仁は、始(メ)に對へていへるのみにて、輕し、さて天 乃 云々より、壞(レヌ)までは、廢帝の御事を、御心に持て詔給へる也、
〇不v得とは、全く持《タモ》つことあたはずして、壞《ヤブ》るゝは、まことに得たるには非る故にいふ、
〇力 乎 以 天云々は、己が力を以て、あらそひて得べきにもあらず也、
○定不賜 奴、印本には、不賜の二字なきを、今は一本に依れり、前後の例みな、此二字あれば也、但しさては、奴(ノ)字あまれるが如くなれども、かゝる例多し、不知爾《シラニ》など書る爾(ノ)字のたぐひ也、
〇今 之紀乃 間 方、之紀《シキ》は、添(ヘ)たる辭と聞ゆ、今之《イマシ》ともいへり、さればこれも、上に今 乃 間とあると同じこと也、万葉七に、今敷者《イマシキハ》、見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》、これもたゞ今者《イマハ》の意也、本に此敷を、シクと訓たれど、こゝと照して、シキと訓べし、
〇念見定 牟仁、考へてよく見定めむ、その間《アヒダ》にといふ也、
〇所 方、これもトコロハと訓べき心にて書るには有べけれど、なほ意を得て、ヒトハと訓べし、
〇漸々は、夜々夜々爾《ヤヤヤヤニ》と訓べし、俗言に、そろ/\と次第《シダイ》にといふ意也、万葉五に、漸々《ヤヤヤニ》、可多知《カ タ チ》都久保里、これをヤウヤクニと訓るはわろし、又七に、奥津梶《オキツカヂ》、漸々志夫乎《ヤヤヤヤニコゲ》、これもシバ/\と訓るはひがこと也、又志夫乎は、尓水手《ニコゲ》を誤れる也、さてつねに漸をやう/\といふは、やゝ/\の、音便に頽《クヅ》れたる也、又やうやくといふは、やうやうの下のうを、よくあしくなどの類のくを、うといふ格と心得て、そは正しからずとし、くと云(フ)を正しと思ひて、さかしらにいひ出たるにて、いよ/\わろし、〇現 奈武、俗言に、知《シ》れて來《コ》う出《デ》て來《コ》うといふにあたれり、
〇己(ガ)比岐々々、卅三詔にも、己 可 心 乃 比岐々々、四十五詔にも、己 我 比伎婢企、万葉十四に、己許呂妣吉《ココロビキ》、十九に、あらたまの年のを長くあひ見てし彼心引將忘也毛《ソノココロビキワスレナメヤモ》、
〇此人 乎は、某(ノ)人 乎の意なるを、然思ふ者の志《ココロザ》すところにつきて、此人とはいへる也、
〇須々 牟己止 莫(レ)、こはみづから進《スス》むをいふにあらず、人を勸《スス》むるをいふ言なれば、牟の下に、流(ノ)字おちたるかとおぼゆれど、万葉に、流るゝ某《ナニ》といふべきを、流《ナガ》る某《ナニ》といへる類、これかれあれば、古言には、かくもいひしにこそ、
〇己 可衣之 不v成事、衣之、心得がたし、誤字歟、又は之は助辭《ヤスメコトバ》にて、衣は得歟、もし然らは、得《エ》成《ナ》すまじき事也、なほよく考ふべし、
〇謀(ル) 止曾は、謀るとてぞ也、
〇繼 毛 絶(ヌル)、絶は、世繼にて、子孫をいふ、さて人々といふより、これまでは、かの橘(ノ)奈良麻呂等の謀反の事、又仲麻呂が事などを、御心に持て、詔給へる也、故(レ)次に、自今以後 仁方と有(リ)、仁方《ニハ》は、簡別《エラビワク》る辭也、
〇可仁可久 仁は、万葉に左右《カニクカクニ》と書り、彼《カ》に此《カク》に也、
〇念 佐末多久は、心得がたきを、例の強ていはば、念(ヒ)妨《サマタ》ぐる歟、然らば佐末多久流と有べきに、流(ノ)字なきは、上の須々牟己止と同(ジ)格也、さて念(ヒ)妨ぐとは次の教賜(ヒ) 乃末仁末仁とあるに、逆《サカ》ひたる心にて、此御教(ヘ)の趣を、心の内に思ひ妨げて、受(ケ)從はざる意也、
〇教賜(ヒ) 乃末仁末仁は、今此詔に教(ヘ)給ふまゝに從ひ奉りて也、印本に、上の仁字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇藤原(ノ)仲麻呂滅びてより後は、萬の政、又道鏡が申すまゝに、行ひ給へりとおぼしくて、廢帝を退《シゾケ》給ひしも、皇太子を立(テ)給はぬも、此天皇の再(ビ)御位につかせ給へるも、みな此髪長奴が、下心に、時を候て、つひに己(レ)位を得てむと、窺《ウカガ》へるからにぞ有けむ、されば此詔も、此奴が、よさまに奏しすゝめ奉れるまゝに、かくは詔給へるなるべし、
續紀歴朝詔詞解五卷
本居宣長解
第卅二詔
二十六の卷に、天平神護元年正月癸巳朔己亥、改2元天平神護(ト)1、勅(シテ)曰(ク)云々、又詔(シテ)曰(ク)とあり、
天皇 何 大御命 良麻止 勅大御命 乎 衆聞食 止 勅《スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。仕奉人等中 爾 其仕奉隨状治給人 毛 在《ツカヘマツルヒトドモノナカニソノツカヘマツルサマノマニマニヲサメタマフヒトモアリ》。又御軍 爾 仕奉 禮留爾 依 弖 治給人 毛 在《マタミイクサニツカヘマツレルニヨリテヲサメタマフヒトモアリ》。然此多比賜位冠 方 常 與利方 異 仁 在《サテコノタビタマフクラヰカガフリハツネヨヨリハケニアリ》。可久賜故 方 平 伎 時 仁 奉侍 己止方 誰人 可 不奉侍在 牟《カクタマフユエハタヒラケキトキニツカヘマツルコトハタレシノヒトカツカヘマツラズアラム》。如此 久 宇治方夜 伎 時 仁 身命 子 不惜 之天 貞 久 淨心 乎 以 天 朝庭 乎 護奉侍 流 人等 乎己曾 治賜 比 哀賜 倍伎 物爾 在 止奈毛 念《カクウヂハヤキトキニイノチヲヲマズシテタダシクキヨキココロヲモチテミカドヲマモリツカヘマツルヒトドモヲコソヲサメタマヒアハレミタマフベキモノニアレトナモオモホス》。故是以今由久前 仁毛 緩怠事無 之天 諸 能 劣 家牟 人等 乎毛 教伊佐奈 比 進常 與利毛 益 須 盆 須 勤結 理 奉侍 止之天奈毛 冠位上給治給 久止 宣御命 乎 諸聞食 止 宣《カレココヲモテイマユクサキニモタユミオコタルコトナクシテモロモロノヲヂナケムイヒトドモヲモヲシヘイザナヒススメツネヨリモマスマスツトメシマリツカヘマツレトシテナモカガフリクラヰアゲタマヒヲサメクマハクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
其仕奉、本ども、仕(ノ)字を脱せり、今補(フ)、
〇御軍 爾云々は、去年九月、藤原(ノ)仲麻呂を討給ひし時の事也、此上なる漢文の勅に、其(ノ)從(リ)2去(シ)九月十一日1、至(ルマデ)2十八日(ニ)1、職事及諸司番上、六位已下、供(ル)v事(ニ)者、宜(シ)3亦加2一階(ヲ)1、唯正六位上(ハ)、依(テ)v例(ニ)賜v物(ヲ)とあるは、御軍士の外なるべし、
〇位冠、常に冠位といふを、又かくうちかへしてもいへる例、卅七詔四十一詔などにも有(リ)、
〇異 仁は、氣爾《ケニ》と訓べし、異《コト》なるを、氣《ケ》といへること多し、万葉十三に、常從異鳴《ツネユケニナク》、
〇誰人 可云々は、易《ヤス》ければ、誰とても、みなよく仕奉ることぞと也、
〇宇治方夜 伎、宇(ノ)字、印本に牟に誤(ル)、今は一本に依れり、此言の意、師の冠辭考、ちはやぶるの條に見えたり、但し此|宇治《ウヂ》と稜威《イツ》とを、一つにいはれたるは然らず、稜威《イツ》はもとより別也、うぢはやきは、いちはやきともいひ、頭のいを省きて、ちはやぶるともいへり、源氏物語榊(ノ)卷に、后の御心いちはやくて、といへるなども、同言にて、意も同じ、こゝは仲麻呂が反逆によりて、亂(レ)有し事をいふ也、
〇貞 久 淨心、貞(ノ)字、一本に眞と作るは、誤なり、又一本には、久の下に、明 久の二字有、
〇勤結 理、第一詔に出たり、
第卅三詔
同年三月丙申、勅(ス)云々、復詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、
天下政 方 君 乃 勅 仁 在 乎 己 可 心 乃 比岐比岐太子 乎 立 止 念 天 欲 須流 物 仁方 不在《アメノシタノマツリゴトハキミノミコトノリニアルヲオノガココロノヒキビキヒツギノミコヲタテムトオモヒテホリスルモノニハアラズ》。然此位 方 天地 乃 置賜 比 授賜 布 位 仁 在《サテコノクラヰハアメノツチノオキタマヒサヅケタマフクラヰニアリ》。故是以朕 毛 天地 乃 明 伎 奇 岐 徴 乃 授賜人 方 出 奈牟止 念 天 在《カレココヲモテアレモアメツチノアキラケキクシキシルシノサヅケタマフヒトハイデナムトオモヒテアリ》。猶今 乃 間 方 明 仁 淨 岐 心 乎 以 天 人 仁毛 伊佐奈 方禮須 人 乎毛 止毛奈 方須之天 於乃 毛 於乃 毛 貞 仁 能 久 淨 伎 心 乎 以 天 奉仕 止 詔 己止乎 諸間食 倍止 詔《ナホイマノマハアキラカニキヨキココロヲモチテヒトニモイザナハレズヒトヲモトモナハズオノモオノモサダカニアカクキヨキココロヲモチテツカヘマツレトノリタマフコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復有人 方 淡路 仁 侍坐 流 人 乎 率來 天 左良 仁 帝 止 立 天 天下 乎 治 之米無等 念 天 在人 毛 在 良之止奈毛 念《マタアルヒトハアハヂニハヘリマスヒトヲヰテキテサラニミカドトタテテアメノシタヲヲサメシメムトオモヒテアルヒトモアルラシトナモオモホス》。然其人 方 天地 乃 宇倍奈 彌 由流 之天 授賜 流 人 仁毛 不在《シカレドモカノヒトハアメツチノウベナミユルシテサヅケタマヘルヒトニモアラズ》。何乎以 天可 知 止奈良方 志愚 仁 心不善 之天 天下 乎 治 仁 不足《ナニヲモチテカシルトナラバココロザシオロカニココロヨカラズシテアメノシタヲヲサムルニタラズ》。然 乃味仁 不在逆惡 伎 仲末呂 止 同心 之天 朝廷 乎 動 之 傾 無止 謀 天 在人 仁 在《シカノミニアラズキタナキナカマロトココロヲカハシテミカドヲウゴカシカタブケムトハカリテアルヒトニアリ》。何 曾 此人 乎 復立 無止 念 無《ナニゾコノヒトヲマタタテムトオモハム》。自今以後 仁方 如此 久 念 天 謀 己止 止 等 詔大命 乎 聞食 倍止 宣《イマヨリノチニハカクオモヒテハカルコトヤメトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
比岐比岐、本どもに、比岐(ノ)二字を落せり、今は一本に依れり、此言、卅一詔に出(ヅ)、
〇欲 須流は、念 天と重なりて、穩ならず聞ゆ、もしくは誤字にはあらざる歟、
〇天地 乃 置賜 比云々、此ほどの物しり人は、皇國の書とては、神代紀をだに讀(マ)ざりしにや、神代紀よみたらば、よもかくまで、古傳にそむけることはいはじをや、
〇故是以、こは本どもに、故是位 方と作《カケ》り、それも聞えたれど、今は一本にかく有(ル)がまされるに依れり、位 方は、上(ノ)文より紛れつるものなるべし、
〇朕 毛は、下の念 天 在(リ)へ係《カカ》れり、
〇天地 乃 明 伎云々は、明かに奇き祥瑞《シルシ》を現はして、天地の授け給ふ人といふこと也、
〇今 乃 間 方、此言、下に承《ウク》るところなけれども、太子を立(テ)むと思ふ心なくてあれといふ意を、次々の言にこめていへる也、
〇人 仁毛云々は、たとひ心のひき/”\、太子を立むとして、いざなひすゝむる人有とも、いざなはるゝことなかれと也、
〇止毛奈 方須、ともなふは、いざ共にせむと、誘ふ意にて、いざなふと同じことなるを、言をかへていへる也、
〇於乃 毛 於乃 毛、つねにいふ各《オノオノ》は、己己《オノオノ》なるを、それに毛《モ》を添ていへるにて、各《オノオノ》誰《タレ》も/\皆といはむが如し、
〇貞 仁 能 久、貞は、貞 久 貞 岐などあるをば、タヾシクタヾシキと訓るを、こゝには仁(ノ)字あれば、さは訓がたければ、同字を異に訓(マ)むは、いかゞなれども、佐陀加爾《サダカニ》と訓べし、さだかは、釋名に、貞(ハ)定也、精(ク)定(マリテ)不(ル)2動(キ)惑(ハ)1也、と注せる如き意也、能(ノ)字は、明を誤れる也、かゝる處に、能 久《ヨク》といへる例はなし、卅一詔に、明 仁 貞 岐 心 乎 以 天、卅七詔に、貞 仁 明 伎 心 乎 以 天、四十四詔に、淨 久 貞 仁 明(キ)心 乎 以 天、などある例を以て知べし、
〇淡路 仁 侍坐 流《ス》人は、廢帝也、流(ノ)字は、須を誤れる也、今の人は、凡て此類を、ますといふも、ませるといふも、同じごと心得て、差《タガヒ》あることをしらず、みづからの文にも、相誤ることつねなるを、古(ヘ)は此けぢめさだかにして、混《マガ》ふことなかりき、こゝはませるといふべき處にあらず、必ますといふべき處也、
〇佐良 仁は、更ににて、復(タ)再(ビ)也、
〇宇倍奈 彌は、諾《ウベナヒ》也、比《ヒ》を、古(ヘ)は彌《ミ》ともいひしなるべし、
〇授賜 流は、帝(ノ)位を也、
〇治 仁 不v足、すべて云々するにたらずといふは、戎書言《カラブミコトバ》也、
〇朝廷 乎云々、そも/\仲麻呂が返逆《ソムキ》し時は、此(ノ)廢帝の御世なれば、其朝廷をこそ、朝廷とはいふべきに、其《ソ》をおきて、別に高野(ノ)天皇を、朝廷とは、いかゞなり、意は仲麻呂が方に係ていへるにも有べけれど、語のつゞき、廢帝にかゝれるをや、
〇何 曾云々は、此人を復(タ)立(テ)むとは、念ふべきことにあらずの意也、
〇謀(ル)は、廢帝を再(ビ)立(テ)むと、念(ヒ)謀る也、
〇止は、夜米《ヤメ》と訓て、やめよの意也、
○聞食、此上に、諸(ノ)字脱たる歟、
第卅四詔
同年八月庚申朔、從三位和氣(ノ)王、坐(シテ)2謀反(ニ)1誅(セラル)、詔(シテ)曰(ク)とあり、さて此詔の次に、和氣(ハ)者、一品舍人(ノ)親王(ノ)之孫、正三位御原(ノ)王(ノ)之子也、勝寶七歳、賜(フ)2姓(ヲ)岡(ノ)眞人(ト)1、任2因幡(ノ)掾(ニ)1、寶字二年、【二は三の誤也、】追2尊(シテ)舍人(ノ)親王(ヲ)1、曰2崇道盡敬皇帝(ト)1、至(テ)v是(ニ)復(シテ)2屬籍(ヲ)1、授2從四位下(ヲ)1、八年、至2參議從三位兵部卿(ニ)1、于v時皇統無v嗣、未v有2其人1、紀(ノ)朝臣益女、以巫鬼著、得v幸(セラルルコトヲ)2和氣(ニ)1、心(ニ)挾(テ)2窺※[穴/兪](ヲ)1、厚(ク)賂(ス)2幣物(ヲ)1、參議從四位下近衛(ノ)員外(ノ)中將兼勅旨(ノ)員外(ノ)大輔式部(ノ)大輔因幡(ノ)守粟田(ノ)朝臣道麻呂、兵部(ノ)大輔兼美作(ノ)守從四位上大津(ノ)宿禰大浦、式部(ノ)員外(ノ)少輔從五位下石川(ノ)朝臣永年等、與《ト》2和氣1善(シ)、數《シバシバ》飲(ス)2其宅(ニ)1、道麻呂、時(ニ)與《ト》2和氣1密語(ス)、而(ルニ)道麻呂(ガ)佩(ケル)刀、觸(テ)2門屏(ニ)1折(レヌ)、和氣即遺(ルニ)以(ス)2裝刀(ヲ)1、於v是人等心疑(テ)、頗(ル)泄(ス)2其事(ヲ)1、和氣知(テ)v之(ヲ)、其夜逃竄(ス)、索(リ)2獲(テ)於率河(ノ)社(ノ)中(ニ)1、流(ス)2伊豆(ノ)國(ニ)1、到(テ)2于山背(ノ)國相樂(ノ)郡(ニ)1、絞(リテ)v之(ヲ)埋2(ム)于狛野(ニ)1、又絞(ル)2盆女(ヲ)於綴喜(ノ)郡松井(ノ)村(ニ)1とあり、復(ス)2屬籍(ヲ)1とは、岡(ノ)眞人の姓を停(メ)て、諸王に復《カヘ》されしをいふ、以巫より、賂幣物までの文、いさゝか心得がたし、落字など有歟、さて卅一の卷、藤原(ノ)永手(ノ)大臣(ノ)傳に、道鏡因(テ)2播籍(ノ)恩(ニ)1、私(ノ)勢振2内外(ニ)1、自v廢(セシ)v帝(ヲ)、點(シテ)d宗室(ノ)有(ル)2重望1者(ヲ)u、多(ク)罹(ル)2非辜(ニ)1、日嗣(ノ)之位、遂(ニ)且《ス》v絶(ナムト)矣、道鏡自以(テ)2寵愛(ノ)隆渥(ナルヲ)1、日夜僥2倖(ス)非望(ヲ)1とあると、寶龜二年九月、和氣(ノ)王(ノ)男女、大伴(ノ)王長岡(ノ)王名草(ノ)王山階(ノ)王采女(ノ)王、並(ニ)復(ス)2屬籍(ヲ)1、とあるとを、合せて思へば、この和氣(ノ)王を、謀反といひなして、かく罪におとせしも、道鏡奴が、誣《シヒ》たるしわざにぞ有けらし、
今和氣 仁 勅 久 先 爾 奈良麻呂等 我 謀反 乃 事起 天 在 之 時 仁方 仲麻呂伊忠臣 止之天 侍 都《イマワケニノリタマハクサキニナラマロラガムホムノコトオコリテアリシトキニハナカマロイタダシキオミトシテハヘリツ》。然後 仁 逆心 乎 以 天 朝庭 乎 動傾 止之天 兵 乎 備 流 時 仁 和氣 伊 申 天 在《サテノチニキタナキココロヲモチテミカドヲウゴカシカタブケムトシテイクサヲソナフルトキニワケイマヲシテアリ》。此 爾 依 天 官位 乎 昇賜治賜 都《コレニヨリテツカサクヲヰヲアゲタマヒヲサメタマヒツ》。可久 方阿禮止毛 仲麻呂 毛 和氣 毛 後 仁方 猶逆心以 天 在 家利《カクハアレドモナカマロモワケモノチニハナホキタナキココロヲモチテアリケリ》。復己 毛 先靈 仁 祈願 幣流 書 乎 見流仁 云 天 在 良久 己 我 心 仁 念求 流 事 乎之 成給 天波 尊靈 乃 子孫 乃 遠流 天 在 乎方 京都 仁 召上 天 臣 止 成 无止 云 利《マタオノガオヤノミタマニノミネガヘルフミヲミルニイヒテアラクオノガココロニオモヒモトムルコトヲシナシタマヒテバタフトキミタマノコドモノトホクハブリテアルヲバミヤコニメサゲテオミトナサムトイヘリ》。復己怨男女二人在《マタオノガアタヲノコヲミナフタリアリ》。此 乎 殺賜 幣止 云 天 在《コヲコロシタマヘトイヒテアリ》。是書 乎 見 流仁 謀反 乃 心 阿利止方 明 仁 見 都《コノフミヲミルニムホムノココロアリトハアキラカニミツ》。是以 天 法 乃末仁末仁 治賜 止 宣《ココヲモテノリノマニマニヲサメタマフトノリタマフ》。
謀反 乃、こゝは乃(ノ)字あれば、音に讀べし、此謀反の事は、十六詔より、廿二詔までに出(ヅ)、
〇仲麻呂 伊、伊(ノ)字、一本に可と作るは、ひがこと也、可《ガ》にては、語とゝのはず、
〇傾 止之天、一本に、之(ノ)字なし、ひがこと也、
〇和気 伊云々、伊(ノ)字、一本に何と作るは、例のさかしらのひがこと也、何《ガ》にては叶はず、さて仲麻呂が謀反を、此王の告(ゲ)奏されし事、紀には見えざれども、仲麻呂誅されたりし時の詔の次に、此王從四位上より、從三位に叙せられ、又此年【神護元年】三月に、功田五十町を賜へる事などあるは、告(ゲ)奏されし故と聞ゆ、
〇官位 乎云々、位の事は、右のごとく、其時從三位になされたるよし見えて、任官の事は、もれたるを、此はじめに引る文に、寶字八年、至2參議從三位兵部卿(ニ)1と見えたり、
〇仲麻呂 毛 和氣 毛云々、仲麻呂が逆心の事は、既に上に見えたるに、又かくあるは、事重なりて、いかゞなるを、こは思ふに、此和氣も、かの仲麻呂と同じやうに後には、といふ意なるべし、
〇後 仁方 猶、猶は、はじめは善《ヨ》かりしかども猶也、又これも仲麻呂と同じく、といふ意も、おのづから含みて聞ゆ、
〇復己 毛、毛(ノ)字は、可《ガ》を誤れるか、又は之《ガ》にて大書歟、いづれにまれ、必(ズ)がと有べき所也、
○先靈は、於夜乃美多麻《オヤノミタマ》と訓べし、祖父舍人(ノ)親王、又父御原(ノ)王などの御靈也、
〇見 流仁、一本、仁(ノ)字を脱せり、
〇云 天 在 良久、其祈の書に、書て有しやうはと也、あらくは、あるを延たるにて、いふをいはくといふと、同格也、
〇己 我 心は、吾(ガ)心也、
〇成(シ)給 天波、天波《テバ》は、たらばの意也、波(ノ)字濁りて讀べし、
○尊靈は、其靈に對ひて、申す言なる故に、尊といへり、
〇子孫は、こゝは古杼母《コドモ》と訓べし、子《コ》といへば、子孫にもわたるなり、こゝはウミノコなど訓(マ)むはわろし、
〇遠流 天 在 乎方、流 天は、波夫理弖《ハブリテ》と訓べし、古事記に、輕(ノ)太子の、伊豫(ノ)國に流《ハナ》たれ給ふ時の御歌に、意富岐美袁《オホキミヲ》、斯麻爾波夫良婆《シマニハブラバ》と有(リ)、放溢《ハブラ》ば也、放棄遣《ハナチステヤ》る意也、万葉十九に、四方之人乎母《ヨモノヒトヲモ》、安夫左波受《アブサハズ》、はふるとあふると同じ、五十一詔に、彌麻之大臣之家内子等《ミマシオホオミノイヘノウチノコドモ》 乎母、波布理《ハフリ》不v賜、失(ヒ)不v賜、慈(ミ)賜 波牟などあり、舍人(ノ)親王の御子たち、船(ノ)王は隱岐(ノ)國に、池田(ノ)王は、土左(ノ)國に流され給ひしこと、卅詔に見えたるがごとし、此二王の子たちもあらば、それらをも包《カネ》たるべし、廢帝は、下文に依(ル)に、此内には入べからず、さて在乎毛《アルヲモ》とあるべき語の勢ひに聞ゆれば、乎方《ヲバ》の方(ノ)字は、毛を誤れるか、但し吾は天皇となり、云々|乎方《ヲバ》云々せむと、對へていへる意に見れば、乎方《ヲバ》にてもよろし、
〇召上、万葉五に奈良能美夜故爾《ナラノミヤコニ》、※[口+羊]佐宜多麻波禰《メサゲタマハネ》、
〇臣 止成 无止、本に、尤止(ノ)二字なし、一本には、无(ノ)字ありて、止(ノ)字なし、今は又の一本に依れり、さて此|臣《オミ》といへるは、上代に、八十伴緒《ヤソトモノヲ》の中に、京に侍《ハヘリ》て、殊にしたしく仕奉るを、臣連《オミムラジ》といへる、その臣《オミ》の心ばへにて、朝廷に近く仕奉る人となさむといふことなるべし、王臣と王に對へいふ臣にはあらじ、かの船(ノ)王池田(ノ)王など、親王をばおとされ給へれど、諸王になされしかば、猶王なるを、臣になさむは、いよ/\おとすしわざ也、臣は、王より卑《イヤ》しければ也、
〇己(ガ)怨男女二人とは、高野(ノ)天皇と道鏡となるべし、怨は、ウラメシキとも訓べけれども、雁字添(ハ)ざれば、阿多《アタ》なるべし、こはあたと申すべきよしはなけれども、己(レ)天皇とならむと望むには、妨(ゲ)なればいふ也、
〇殺賜 幣止、これまで祈(リ)の書にいへるよし也、一本に、此下に今一つ穀賜(ノ)二字あるは衍也、
〇謀反 乃 心 阿利止波,阿利(ノ)二字、一本に在と作《カケ》り、
第卅五詔
上に引たる文につゞきて、是(ノ)日又下(シテ)v詔(ヲ)曰(ク)とあり、
粟田道麻呂大津大浦石川長年等 爾 勅 久 朕師大臣禅師 乃 宣 久 愚癡 仁 在 奴 方 思和久事 毛 無 之天 人 乃 不當無禮 止 見咎 牟流乎毛 不知 之天 惡友 爾 所引率 流 物在《アハタノミチマロオホツノオホウライシカハノナガトシラニノリタマハクアガシオホオミゼムジノノリタバクカタクナニアルヤツコハオモヒワクコトモナクシテヒトノナメクヰヤナシトミトガムルヲモシラズシテアシキトモニイザナハルルモノニアリ》。是以此奴等 毛 如是 久 逆穢心 乎 發 天 在 計利止方 既明 仁 知 奴《ココヲモテコノヤツコドモモカクキタナキココロヲオコシテアリケリトハスデニアキラカニシリヌ》。由此 天 理 波法 乃末爾末爾 治給 倍久 在《コレニヨリテコトワリハノリノマニマニヲサメタマフベクアリ》。然此遍 方 猶道鏡 伊 所賜 天 彼等 我 惑心 乎方 教導 天 貞 久 淨 伎 心 乎 以 天 朝庭 乃 御奴 止 奉仕 之米无止 宣 爾 依 天 汝等 我 罪 方 免給《シカレドモコノタビハナホダウキヤウイタマハリテカレラガマドヘルココロバヲシヘミチビキテタダシクキヨキココロヲモチテミカドノミヤツコトツカヘマツラシメムトノリタプニヨリテイマシドモガツミハユルシタマフ》。但官 方 解給 不《タダシツカサハトリタマフ》。散位 |止之天 奉仕 止 勅御命 乎 聞食 倍止 宣《トシテツカヘマツレトノリタマフオホミコトヲ キコシメサヘトノル》。又勅 久 從今往前 仁 小過 毛 在人 仁 所率 流止之 所聞 波 必法 乃末爾末仁 罪 奈比 給岐良 比 給 止 勅御命 乎 聞食 倍止 宣《マタノリタマハクイマヨリユクサキニイササケキアヤマチモアラムヒトニイザナハルトシキコシメサバカナラズノリノマニマニツミナヒタマヒキラヒタマハムトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
粟田(ノ)道麻呂、粟田朝臣は、姓氏録に、天足彦國押人命(ノ)三世(ノ)孫、彦國葺(ノ)命之後也と見ゆ、國押人(ノ)命は、孝昭天皇の第一の御子なり、道麻呂は誰が子にかあらむ、詳《サダカ》ならず、官位は、卅四詔のはじめに引る文に見えたるがごとし、
○大津(ノ)大浦、大津(ノ)宿禰姓姓氏録に見えず、此姓いまだ考(ヘ)得ず、もと連《ムラジ》なりしを、天平寶字八年九月、此大浦に、宿禰の姓《カバネ》を賜へり、大浦は、誰が子にか詳ならず、寶亀六年五月、從四位上陰陽(ノ)頭兼安藝(ノ)守大津(ノ)連大浦卒(ス)、大浦(ハ)者、世《ヨヨ》習(フ)2陰陽(ニ)1、仲滿甚信(シテ)v之(ヲ)、問(ニ)以(ス)2事(ノ)之吉凶(ヲ)1、大浦知(テ)3其指意渉(ル)2於逆謀(ニ)1、恐(テ)2禍(ノ)及(ムコト)1v己(ニ)、密(ニ)告(グ)2其事(ヲ)1、居(ルコト)未v幾(アラ)、仲滿果(シテ)反(ス)、其年授(ケ)2從四位上(ヲ)1、賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1、拜2兵部(ノ)大輔兼美作(ノ)守(ニ)1、神護元年、以v黨(スルヲ)2和氣(ノ)王(ニ)1、除(テ)2宿欄(ノ)姓(ヲ)1、左2遷日向(ノ)守(ニ)1、尋(テ)解(テ)2見任(ヲ)1、即留(ル)2彼(ノ)國(ニ)1、寶龜(ノ)初、原《ユルサレテ》v罪(ヲ)入(リ)v京(ニ)、任2陰陽(ノ)頭(ニ)1、俄(ニシテ)兼(ス)2安藝(ノ)守(ヲ)1、卒(ス)2於官(ニ)1、
〇石川(ノ)長年、石川(ノ)朝臣は、姓氏録に、孝元天皇(ノ)皇子、彦太忍(ノ)信(ノ)命(ノ)之後也と見ゆ、建内(ノ)宿禰の末也、長年は、誰が子にか、詳ならず、天平寶字八年十月、從五位下に叙し、同月、式部(ノ)大輔に任ず、そこに年(ノ)字を誤りて、手と作《カケ》り、さて件の三人、和氣(ノ)王に同心《ココロヲカハ》せしとの事、卅四詔のはじめに引る文のごとし、
〇大臣禅師 乃 宣 久は、道鏡なり、廿八詔に見ゆ、さて此奴がいへることをしも、かく天皇皇后などの大命と同じさまに詔給へるは、甚しきこと也、
〇愚癡は、カタクナと訓べし、天智紀に癡奴《カタクナヤツコ》、
〇人 乃、本どもに此二字なし、今は一本に依(ル)、
〇不當は、廿九詔に、無禮《ヰヤナク》 之弖 不v從(ハ)、奈賣 久《ナメク》 在 牟 人 乎波、とあるつゞきを思ふに、那賣久《ナメク》と訓べき也、万葉十二に、妹登曰者無禮恐《イモトイハバナメクカシコシ》、といへるなども、不當の意あり、
〇見咎、十六詔に、人 乃 可(キ)2見咎(ム)1事和射《コトワザ》 奈世曾、
〇所引率は、イザナハルと訓べし、いざなふといふこと、詔どもに多かる中に、卅三詔に、人 仁毛 伊佐奈 方禮須《イザナハレズ》と、假字書有、
〇此奴等は、上(ノ)件の三人をいへり、
〇逆穢心 乎 發(シ)は、人にいざなはれて也、
〇道鏡 伊 |所賜《タマハリ》 天は、俗言に、もらひてといふに全《モハラ》同じ、
〇朝庭 乃 御奴、御奴は、御臣《ミヤツコ》也、官奴といふ物にはあらず、散位としてとあるにて知(ル)べし、さて御臣ならば、分て朝庭 乃とはいふに及ぶまじきことなれども、こゝは道鏡 伊 |所賜《タマハリ》 天とあれば、道鏡が領《シメ》たる私の人なる意をもて、分てかくはいふ也、
〇奉仕 之米无止、无(ノ)字、本に天に誤(ル)、今は一本に依、
〇宣 爾 依 天は、道鏡がかくいふによりて也、
〇解は、登理《トリ》と訓べし、六十二詔に、解《トリ》v官(ヲ)取《トル》v冠(ヲ) 倍久云々、官冠 乎乃未 取《トリ》賜 比云々、取(ル)v冠(ヲ)罪 波 免(シ)賜 弖、官 乎乃未 解《トリ》賜 比云々、天武
紀に、官位盡(ニ)追《トラル》、追(ノ)字は、逐斥の意也、
〇散位、此訓おぼえず、刀禰《トネ》と訓る歟とおぼゆれど、たしかにはおぼえざれば、姑く音に讀り、さて散位とは、官なくして、位のみなるをいへり、〇從今往前、一本に、今の下に、波の細字あるは衍也、
〇必法 乃、本どもに必(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、
〇岐良 比 給、十九詔に出(ヅ)、
〇件の如く詔は有つれども、次の文に、居(ルコト)十餘日、以2道麻呂(ヲ)1、爲(テ)2飛騨(ノ)員外(ト)1、以2其(ノ)怨家從四位下上(ツ)道(ノ)朝臣斐太都(ヲ)1爲(ス)v守(ト)、斐太都到(テ)v任(ニ)、即幽(シ)2道麻呂夫婦(ヲ)於一院(ニ)1、不(ルコト)v通2徒來(ヲ)1、積(テ)2月餘(ノ)日(ヲ)1、並(ニ)死(ス)2院中(ニ)1、從四位上大津(ノ)連大浦(ハ)、爲(テ)2日向(ノ)守(ト)1、奪(フ)2其位封(ヲ)1、從五位下石川(ノ)朝臣永年(ハ)、爲《ス》2隱岐(ノ)員外(ノ)介(ト)1、到(テ)v任(ニ)數年、自溢(テ)而死(ス)と有(リ)、
第卅六詔
同年閏十月庚寅、詔(シテ)曰(ク)とあり、これよりさき十月に、紀伊(ノ)國に幸《イデマシ》の御かへるさ、弓削(ノ)行宮に到(リ)坐し、弓削寺にも幸(シ)て、佛を禮《ヲガミ》給ふと有(リ)、此詔は、弓削行宮におはします間《ホド》の事也、弓削は、河内(ノ)國若江(ノ)郡にて、道鏡が郷也、
今勅 久 大政官 能 大臣 方 奉仕 倍伎 人 乃 侍坐時 仁方 必其官 乎 授賜物 仁 在《イマノリタマハクオホマツリゴトノツカサノオホオミハツカヘマツルベキヒトノハヘリマストキニハカナラズソノツカサヲサヅケタマフモノニアリ》。是以朕師大臣禅師 能 朕 乎 守 多比 助賜 乎 見 禮方 内外二種 乃 人等 仁 置 天 其理 仁 慈哀 天 過無 久毛 奉仕 之米天志可等 念 保之米之天 可多良 比 能利 多布 言 乎 聞 久仁 是 能 大政大臣 乃官 乎 授 末都流仁方 敢 多比奈牟可等奈毛 念《ココヲモテアガシオホオミゼムジノアレヲマモリタビタスケタプヲミレバウチトフタクサノヒトドモニオキテソノコトワリニウツクシミテアヤマチナクモツカヘマツラシメテシガトオモホシメシテカタラヒノリタブコトヲキクニコノオホマツリゴトノオホオミノツカサヲサヅケマツルニハアヘタビナムカトナモオモホス》。故是以大政大臣禅師 能 位 乎 授 末都留止 勅御命 乎 諸聞間食止宜《カレココヲモテオホマツリゴトノオホオミゼムジノクラヰヲサヅケマツルトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 是位 乎 授 末都良牟等 申 佐方 必不敢伊奈 等 宣 多方牟止 念 之天奈毛 不申 之天 是 能 太政大臣禅師 乃 御位授 末都流等 勅御命 乎 諸聞食 等 宣《マタノリタマハクコノクラヰヲサヅケマツラムトマヲサバカナラズアヘジイナトノリタバムトオモホシテマヲサズシテコノオホマツリゴトノオホオミゼムジノミクラヰサヅケマツルトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
奉仕 倍伎 人 乃云々は、無(キトキハ)2其人1則闕(ク)とあるにつきて、かくは詔給へる也、其人有(ル)ときは任(ス)といふ文はなし、
〇守 多比は、守(リ)賜ひ也、次々なる多比《タビ》多布《タブ》みな同じ、
〇見 禮方は、其(ノ)状《サマ》を見れば也、
〇内外二種 乃 人等とは出家と在家との人をいふ、すべて佛法にては、佛書を内典といひ、其餘の書を外典といふごとく、僧を内とし白衣を外としたる也、こは皆佛家の私事なるが廣まりて、常の人も然いふは、いと有(ル)まじきこと也、但し此天皇などは、いたくかの法を尊み給ひて、出家し給へれば、此御言、あやしむべきにあらず、
〇置 天は、於(テ)なり、
〇其理 仁は、僧は僧、白衣は白衣と、各其ことわりにしたがひて也、一本に其(ノ)字を、甚に誤れり、
〇奉仕 之米天志可等、天志可《テシガ》は、てしがなにて、願ふ辭也、万葉九に、見而師香跡《ミテシガト》、悒憤時之《イフセムトキノ》など、猶多し、印本に、天志可を志可天と誤れり、今は一本に依、
〇念 保之米之天 米(ノ)字、多くの本に末と作《カケ》り、それも例多ければ、あしからず、されど今は一本に依(ル)、
〇能利 多布は、宣(リ)賜也、道鏡が也、
〇敢 多比奈牟可等は、堪《タヘ》賜ひなむ歟と也、多比奈牟可を、一本に多可比奈牟と誤れり、
〇伊奈は、否にて、辭《イナ》む言也、
〇念 之天奈毛、一本に、天(ノ)字を脱せり、
〇御位、御(ノ)字、道鏡を尊み給へる也、めづらし、
〇此詔につゞきて、詔(シテ)2文武百官(ニ)1、令(ム)v拜2賀(セ)太政大臣禅師(ヲ)1、事畢(テ)幸(シ)2弓削寺(ニ)1禮v佛(ヲ)、奏2唐高麗(ノ)樂、及黒山尓師部(ノ)※[人偏+舞](ヲ)1。施2太政大臣(ニ)綿一千屯(ヲ)1、僧綱及百官番上已上、至(ルマデ)2直丁擔夫(ニ)1、各有v差、内豎衛府(ニハ)、特(ニ)賜(フ)2新餞(ヲ)1、亦有v差、と有(リ)、擔夫の下、脱文あるべし、また同月丙申、留守(ノ)百官、拜2賀(ス)太政大臣善師(ヲ)1、賜2五位已上(ニ)綿人(ゴトニ)三十屯(ヲ)1と有(リ)、これは京にかへらせ給ひての事也、
第卅七詔
同年十一月癸酉、先v是廢帝既(ニ)遷2淡路(ニ)1、天皇重(テ)臨2萬機(ニ)1、於v是更(ニ)行2大嘗(ノ)之事(ヲ)1、以2美濃(ノ)國(ヲ)1爲2由機(ト)1、越前(ノ)國(ヲ)爲2須伎(ト)1、庚辰詔(シテ)曰(ク)云々、又詔(シテ)曰(ク)とあり、
由紀須伎二國守等 亡 命 久 汝 多知方 貞 仁 明 伎 心 乎 以 天 朝庭 能 護 等之天 關 仁 奉供 禮方之曾 國 方 多 久 在 止毛 美濃 止 越前 止 御占 仁 合 天 大嘗 乃 政事 乎 取以 天 奉供 良之止 念行 天奈毛 位冠賜 久止 宣《ユキスキフタクニノカミドモニノリタマハクイマシタチハサダカニアカキココロヲモチテミカドノマモリトシテセキニツカヘマツレバシゾクニオホクアレドモミノトコシノミチノクチトミウラニアヒテオホニヘノマツリゴトヲトリモチテツカヘマツルラシトオモホシメシテナモクラヰカガフリタマハクトノリタマフ》。
關 仁 奉供 禮方之曾、此度|由紀《ユキ》の美濃(ノ)國に不破(ノ)關、須伎《スキ》の越前(ノ)國に愛發《アラチノ》關あり、そのかみ三關の國は、關國とて、重くせられしこと也、三關はもとより國司分當(シテ)守(リ)固(メヨ)、と軍防令に見えたる如くなれば、關に奉仕《ツカヘマツ》るとは詔給へる也、なほ三關の事、廿八詔にいへり、之(ノ)字、一本に己《コ》と作り、それもあしからず、されど今は多くの本に依つ、之《シ》は助辭也、
〇美濃は、正しくは美怒《ミヌ》と訓べきなれども、此紀の詔、古(ヘ)怒《ヌ》といへる言、みな後(ノ)世のごとく、乃《ノ》とあれば、今も然訓つ、〇越前は、和名抄に、古之乃三知乃久知《コシノミチノクチ》と有、
〇御占 仁 合 天は、由紀須伎の國郡を定めらるゝ事、先(ヅ)神祇官に仰せて、御卜ありて、合《ア》へる國郡を以て、定めらるること也、
〇大嘗の事は、古事記傳八の卷に委く云り、
〇取以 天 奉供 良之止、神祇令に、凡大嘗(ハ)者、毎(ニ)v世一度(ナルハ)、國司行(フ)v事(ヲ)と有て、由紀須伎にあたれる國司、京に參上りて、此事に奉仕る、そのこまかなる事は、貞觀儀式などに見えたり、上件すべての意は、國はしも多かるに、美濃と越前と、由紀須伎にあたれるは、汝たちの、明き心をもちて、關を守り仕奉るが故にぞあるらしの意也、本どもに、天(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、
〇念行 天奈毛、毛(ノ)字、一本に牟と作るはわろし、
〇位冠賜、賜の上に、上《アゲノ》字など落たるにはあらざる歟、此詔の次に、授2美濃(ノ)守正五位下小野(ノ)朝臣竹良(ニ)、從四位下、介正六位上藤原(ノ)朝臣家依(ニ)、從五位下、越前(ノ)守從五位上藤原(ノ)朝臣繼繩(ニ)、從四位下、介從五位下弓削(ノ)宿禰牛養(ニ)、從五
位上(ヲ)1とあり、
第卅八詔
件の文につゞきて、又詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、
今勅 久 今日 方 大新嘗 乃 猶良比 能 豊明聞行日 仁 在《イマノリタマハクケフハオホニヘノナホラヒノトヨノアカリキコシメスヒニアリ》。然此遍 能 常 與利 別 仁 在故 方 朕 方 佛 能 御弟子 等|之※[○で囲む]天 菩薩 能 戒 乎 受賜 天 在《シカルニコノタビノツネヨリコトニアルユヱハアレハホトケノミデシトシテボサチノイミコトヲウケタマヒテアリ》。此 仁 依 天 上 都 万 波 三寶 仁 供奉次 仁方 天社國社 乃 神等 乎毛 爲夜 備末都利 次 仁方 供奉 留 親王 多知 臣 多知 百官 能 人等天下 能 人民諸 乎 愍賜慈賜 牟等 念 天奈毛 還 天 復天下 乎 治賜《コレニヨリテカミツカタハホトケニツカヘマツリツギニハアマツヤシロクニツヤシロノカミタチヲモヰヤビマツリツギニハツカヘマツルミコタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラキロモロヲアハレミタマヒメグミタマハムトオモホシテナモカヘリテマタアメノシタヲヲサメタマフ》。故汝等 毛 安 久 於多比 仁 侍 天 由紀須伎二國 乃 獻 禮留 黒紀白紀 能 御酒 乎 赤丹 乃 保 仁 多末倍惠良 伎 常 毛 賜酒幣 乃 物 乎 賜 方利 以 天 退 止 爲 天奈毛 御物賜 方久止 宣《カレイマシタチモヤスクオダヒニハヘリテユキスキフタクニノタテマツレルクロキシロキノミキヲアカニノホニタマヘヱラギツネモタマフサカマヒノモノヲタマハリモチテマカレトシテナモオホミモノタマハクトノリタマフ》。復勅 久 神等 乎方 三寶 余利 離 天 不觸物 曾止奈毛 人 能 念 天 在《マタノリクマハクカミタチヲバホトケヨリサケテフレヌモノゾトナモヒトノオモヒテアル》。然經 乎 見 末都禮方 佛 能 御法 乎 護 末都利 尊 末都流方 諸 乃 神 多知仁 伊末 志家利《シカレドモキヤウヲミマツレバホトケノミノリヲマモリマツリタフトミマツルハモロキロノカミタチニイマシケリ》。故是以出家人 毛 白衣 毛 相雜 天 供奉 仁 豈障事 波 不在 止 念 天奈毛 本忌 之可 如 久方 不忌 之天 此 乃 大嘗 方 聞行 止 宣御命 乎 諸聞食 止 宣《カレココヲモテイヘヲイデシヒトモシロキヌモアヒマジハリテツカヘマツルニアニサハルコトハアラジトオモホシテナモトイミシガゴトクハイマズシテコノオホニヘハキコシメストノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
大新嘗、大嘗と同じこと也、
〇猶良比、猶は借字にて、直會《ナホラヒ》にて、奈保理阿比《ナホリアヒ》の切《ツヅマ》れる也、直《ナオ》るとは、齋《モノイミ》をゆるべて、平常《ツネ》に復《カヘ》る意也、そも/\大嘗の齋(ミ)、神祇令に、散齋一月、致齋三日と有て、義解に、散齋(ハ)、謂仲冬(ノ)之月、自v朔至(ル)v晦(ニ)、致齋(ハ)、謂自v丑至(ル)v卯(ニ)、其(ノ)辰(ノ)日以後(ハ)、即爲2散齋(ト)1と見え、大嘗祭式にもかく見ゆ、儀式にも、致齋三日(ハ)、從v丑至(ル)v卯(ニ)と見えたり、卯(ノ)日に、大嘗宮に御《マシマシ》て、神にも祭(リ)給ひ、天皇御みづからも 聞(シ)食(シ)て、大嘗の事畢るに依て、辰(ノ)日よりは、豐樂院に御《マシマシ》て、致齋《モノイミ》をゆるべうちとけて、歡び集會《アフ》意の名也、解齋の舞、又脱(テ)2齋服(ヲ)1復(ル)v常(ニ)、などいふことは、午(ノ)日の儀式畢(リ)てあることなれども、卯(ノ)日の儀式の終るも、致齋の解《トク》るなれば、同じ心ばへ也、江次第には、辰(ノ)日(ノ)朝、主水司、供(ル)2解齋(ノ)御粥(ヲ)1とも見えたり、さて諸社の神事にいふ直會《ナホラヒ》も、神(ノ)祭畢(リ)て後に行ふわざにて、同じ意也、〇豐明、豐は、ゆたかなる意、明《アカリ》は、酒を飲て、顔の赤らむ意にて、酒宴をいふ也、豐(ノ)明(リ)爾《ニ》明(リ)坐(シ)などいひ、又此次の文に、赤丹 乃 保 仁云々、ともあるにて知べし、猶くはしくは、古事記傳卅二の卷にいへり、
〇常 與利 別 仁 在とは、例の大嘗會の時とは、異なるをいふ、
〇御弟子 等之天、諸本に、之(ノ)字なし、今例に依て補へり、凡て古言に、とてといへることなし、さて此天皇は、廿七詔に、出v家(ヲ) 弖 佛(ノ)弟子 止 成 奴と有(リ)、そも/\御餝をおろし給ひて、天津日嗣の御位に昇(リ)坐ること、神世より今に至るまで、たぐひなく、いとも/\ゆゝしくかしこき御事也、
〇菩薩 能 戒、廿八詔に、菩薩 乃 淨戒とあり、
。三寶は、ホトケと訓べし、
〇次 仁方云々、三寶を上 都 方と詔給ひて、神等を、次 仁と詔給へるは、佛書のみだり説《ゴト》にのみ惑ひ給へる、いともゆゝしきまがこと也、
〇爲夜 備は、禮《ヰヤ》びにて、敬《ウヤマヒ》と同じ、四十一詔に、謹 美 禮《ヰヤ》 末比 仕奉(リ)ともあり、
〇還 天は、再(ビ)御位に復《カヘ》り即(キ)給へるよし也、
〇安 久 於多比 仁 侍 天は、今日の宴會《トヨノアカリ》の御席に也、於多比 仁は、今(ノ)世の俗言に、ゆるりとといふにあたれり、
〇二國 乃 獻 禮留、二國の齋郡の内に、拔穗田とて、卜(ヘ)定めたる、其田の稻を、拔穗といふ、其《ソ》を持(チ)上りて、京の齋場(ノ)院に於て、黒紀白紀に釀《カミ》造(リ)て、獻る也、其間くさ/”\の行事有(リ)、委き事は、貞觀儀式、延喜(ノ)大嘗祭式などに見えたり、さて辰日の儀に、辨大夫就v版跪、奏2兩國所v獻多米都物 色目1、其詞云、悠紀 爾 供奉 留、其國官姓名等 加 進《タテマツ》 禮留 雜(ノ)物、合(セテ)若干荷、就(テ)v中(ニ)獻(レル)物、黒木(ノ)御酒若干缶、白木(ノ)御酒若干缶、云々、主基 爾 供奉(ル)、其國(ノ)云々、進 禮留 事 乎、申賜 波久止 奏(ス)、
〇黒紀白紀、万葉十九、新嘗會(ノ)肆宴《トヨノアカリ》の歌、天地與《アメツチト》、久萬※[氏/一]爾《ヒサシキマデニ》、萬代爾《ヨロヅヨニ》、都可倍麻都良牟《ツカヘマツラム》、黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》と有(リ)、こは色の黒きと白きと、二種の酒也、上代の酒の名にぞ有けむ、其|造法《ツクリサマ》を考るに、儀式に、以2藥灰(ヲ)1和(ス)2御酒(ニ)1、五斗(ハ)和(シ)2内院(ノ)白黒二酒(ニ)1、五斗(ハ)和(ス)2大多米(ノ)院(ノ)白黒二酒(ニ)1と見えたる、藥灰といふ物は、灰燒《ハヒヤキ》とて、此灰を燒く役人有て、山に入て、燒得ること也、さて件(ノ)文に依(ル)に、此藥灰、白酒にすると、黒酒にするとの、二種有て、各|其《ソ》を和《アハ》すに依て、其色白と黒とになることと聞えたり、然るを造酒式には、新嘗會(ノ)白黒(ノ)二酒(ノ)料云々、其(ノ)造(ルコトハ)v酒(ヲ)者云々、熟(シテ)後、以(テ)2久佐木《クサギノ》灰三升(ヲ)1、和2合(ス)一甕(ニ)1、是(ヲ)稱(ス)2黒貴《クロキト》1、其(ノ)一甕(ハ)、不v和(サ)、是(ヲ)稱(ス)2白貴《シロキト》1とあるは、かの儀式の、黒白共に、灰を和《アハ》すと異也、式の如きは、白|酒《キ》は、灰を和さざる、尋常《ヨノツネ》の酒と聞えたり、世々を經《フ》るまゝに、變《カハ》りぬるにや、又中原(ノ)康富(ノ)記には、二酒共に醴酒也として、白(ハ)者、自《オ ラ》其(ノ)色也、黒(ハ)者、上(ヘニ)聊(カ)振(ル)2烏麻《クロゴマノ》粉(ヲ)1といへるは、又後の事にて、いさゝか其色を見せたるのみ也、
〇赤丹 乃 保 仁は、酒を飲て、顧(ノ)色の榮えて、赤くなるをいへり、豐(ノ)明(リ)といふ明《アカ》り是也、中臣(ノ)壽詞に、悠紀主基 乃 黒木白木 乃 大御酒 遠云々、赤丹 乃 穂 仁 所聞食《キコシメシ》 弖、豐(ノ)明 仁 明(リ)御坐《マシ》 弖と有(リ)、又事は異なれど、万葉(ノ)歌に多く、丹穗面《ニノホノオモ》又|狹丹《サニ》つらふなどいへるも、顔の紅なるをいへるは同じ、
〇多末倍は、たべにて、酒をのむをいへり、四十六詔に、こゝと同じつゞきの語を、食 倍《タマヘ》と書り、今(ノ)世の言にも、物を食ふこと、酒をのむことを、たべるといふ是也、
〇惠良 伎は、古事記石屋戸(ノ)段に、歡喜咲樂《ヱラギアソブ》とある字の意也、これを書紀には、※[口+虐]樂《ヱラグ》、また歡喜盈懷《ヱラギマス》など書れたり、なほ記の傳八の卷にいへるがごとし、
○常 毛 賜とは、大嘗會の豐(ノ)明(リ)には、いつも例にて賜ふよし也、〇酒幣は、佐加麻比《サカマヒ》と訓べし、サカミテグラと訓(ム)は非也、みてぐらとは、神に奉る物をこそいへ、君の臣に賜ふ物を、いかでか然《サ》はいはむ、字に依て、言を誤ることなかれ、麻比《マヒ》は、すべて神に奉る物にても、人に贈る物にても、下たる者に賜ふ物にても、通はしいふ言也、まひなひといふも、まひと同じ、然るを後世には、まひなひといふは、正しからぬ賄賂《オクリモノ》するに限れる言のごとくなれり、書紀に、神に奉る幣物をも、まひ又まひなひといへり、万葉に、末比波世武《マヒハセム》、幣者將爲《マヒハセム》とあるも、たゞ物を贈《オク》らむといふことなり、酒幣《サカマヒ》は、宴の時に贈る物也、さて豐(ノ)明(リ)に賜ふも、其物は、つねの禄にかはれることなし、
〇爲 天奈毛、奈(ノ)字、印本には利に誤り、一本には、那と作り、今は又の一本に依れり、此詔の假字の例に依れば也、
〇御物は、即(チ)酒幣之物とある是也、貞觀儀式、午(ノ)日(ノ)儀に、宣制(シテ)云(ク)、天皇 我 詔旨 良末止 宣 不 大命 乎、衆聞食 閇止 宣、皇太子以下、稱唯再拜、更(ニ)宣(テ)云(ク)、今日 波、大嘗 乃 直會《ナホラヒ》 乃 豐樂《トヨノアカリ》聞食日 爾 在(リ)、故是以、黒伎白伎 乃 御酒(ヲ)、赤丹 乃 穗 爾 食《タマヘ》惠良 伎 罷(レ) 止 爲 弖奈毛、常 毛 賜(フ)御物賜 久止 宣(ル)、以v次(ヲ)稱唯、倶(ニ)拜舞(ス)、三代實録四十六にも、宣(テ)v詔(ヲ)曰(ク)、天皇 我 大命 良萬止 勅(フ)大命 乎、諸衆聞食 止 宣、今日 波、大嘗會《オホニヘ》 乃 直會 乃 豐樂畢(ル)日 爾 在、故是以、黒支白支 乃 御酒(ヲ)、赤丹(ノ)穂 爾 食(ヘ)惠良 支 罷(レ) 止 爲 天奈毛、常 毛 賜|酒 乃 幣《サケノマヒ》 乃 御物賜 久止 宣とあり、豊樂畢(ル)日とは、午(ノ)日の事也、
〇三寶 余利 離 天、余利《ヨリ》は、上に常 與利 別 仁、とある與利と同くて、止波《トハ》といふ意也、三寶とは遠離《トホザケ》てといふなり、
〇不v觸は、三寶は、神事には觸ぬものと也、
〇物 曾止奈毛、毛(ノ)字、一本に牟と作るは、例のわろし、
〇人 能は、世の人の也、
〇經は、佛經也、
〇佛 能 御法 乎 云々伊末 志家利、此語は、うちかへして、諸の神たちは、佛の御法を、護奉り、尊み奉るものにいましけり、といふ意に見べし、そも/\佛書には、佛を上なく尊き物とし、佛法を上(ヘ)なき道と立(ツ)るから、もろ/\の神たちも、佛を尊み、佛法を護り給ふ物とせり、かゝるたぶれ言を、いひひろめて、いともゆゝしく、神國の人の心を、欺き惑はして、つひに佛國《ホトケクニ》のやうになしたるは、あなかしこあなゆゝし、
〇白衣とは、出家の人の、墨染衣なるに對へて、たゞの人をいへり、推古紀天武紀に、俗人《シロキヌ》、天智紀に、緇素《ホウシシロキヌ》、天武紀に、僧尼沙彌及(ビ)白衣《シロキヌ》、など見えたり、
〇本忌 之可 如 久方 不v忌とは、大嘗會に、僧尼は奮《モト》より忌《イミ》しかども、此度は忌《イマ》ずと也、そも/\大嘗にほうしの仕奉ること、古今ためしなき大まが事、申すもさらなり、
第卅九詔
上件の詔につゞきて辛巳詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、
必人 方 父 我 可多母 我 可多 能 親在 天 成物 仁 在《カナラズヒトハチチガカタハハガカタノウガラアリテナルモノニアリ》。然王 多知止 藤原朝臣等 止方 朕親 仁 在 我 故 仁 黒紀白紀 乃 御酒賜御手物賜 方久止 宣《サテオホキミタチトフヂハラノアソミタチトハアガウガラニアルガユヱニクロキシロキノミキタマヒミテツモノタマハクトノリタマフ》。
成(ル)とは、生《ウマ》るゝをいへるか、もし然らば、現在 天《ウガラアリテ》は、たゞ父と母と在てといふことなるを、これは其親族の事につきての詔なるが故に、親《ウガラ》とは詔給へるなるべし、もし又成(ル)は、成長《ヒトトナ》るをいへるか、然らば親在 天は、父方母方の親族、相助けて養育《ヒタ》す意にや、又なほ上の意にても有べし、
〇王 多知は、大御父方の御親《ミウガラ》なり、
〇藤原朝臣等は、大御母命の御親《ミウガラ》也、
○御手物、第五詔に出(ヅ)、手(ノ)字、印本に乎に誤、今は一本に依(ル)、さてこは、大嘗會にあづからざる人々も、御親のゆゑを以て、別にかく賜ふ也、
第四十詔
廿七の卷に、同二年春正月甲子、詔(シテ)曰(ク)とあり、
今勅 久 掛畏 岐 淡海 乃 大津宮 仁 天下所知行 之 天皇 我 御世 爾 奉侍 末之之 藤原大臣復後 乃 藤原大臣 爾 賜 天 在 留 志乃比己止 乃 書 爾 勅 天 在 久 子孫 乃 淨 久 明 伎 心 乎 以 天 朝庭 爾 奉侍 牟乎波 必治賜 牟《イマノリタマハクカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシスメラガミヨニツカヘマツリマシシフヂハラノオホオミマタノチノフヂハラノオホオミニタマヒテアルシノビコトノフミニノリテアラクウミノコノキヨクアカキココロヲモチテミカドニツカヘマツラムヲバカナラズヲサメタマハム》。其繼 方 絶不賜 止 勅 天 在 我 故 爾 今藤原永手朝臣 爾 右大臣之官授賜 止 勅天皇御命 乎 諸聞食 止 宣《ソノツギハタチタマハジトノリテアルガユエニイマフヂハラノナガテノアソミニミギノオホオミノツカサヲサヅケタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
淡海 乃、一本に、淡の上に近(ノ)字あり、
〇奉侍 末之之、下の之(ノ)字、本どもに※[氏/一]に誤(ル)、今改(ム)、
〇藤原(ノ)大臣は、鎌足公也、
〇後 乃 藤原(ノ)大臣は、不比等公也、
〇志乃比己止 乃 書は、書紀(ノ)敏達(ノ)卷より末の卷々に、誄を、シノビコトタテマツルと訓る是也、此(ノ)字、累2擧(シテ)其(ノ)平生(ノ)實行(ヲ)1爲(テ)v誄(ト)、而定(テ)2其諡(ヲ)1、以稱(スル)v之(ヲ)也、また哀(テ)v死(ヲ)而述(ブル)2其行(ヲ)1之辭也、など注したる、皇國のしのび詞《コト》も、其意也、推古紀に、改2葬皇太夫人堅鹽媛(ヲ)於檜隈(ノ)大陵(ニ)1、是日誄2於輕(ノ)街(ニ)1、第一《ハジメニ》阿倍(ノ)内臣鳥、誄2天皇(ノ)之命《オホミコトヲ》1、則奠(ツル)v靈(ニ)明器《ミケモノ》明衣《ミソノ》之類、萬五千種也、第二《ツギニ》諸皇子等、以2次第(ヲ)1各誄之、第三《ツギニ》中臣(ノ)宮地(ノ)連烏摩侶、誄2大臣(ノ)之辭(ヲ)1、第四(ニ)大臣、引2率(テ)八腹(ノ)臣等(ヲ)1、便以2境部(ノ)臣摩理勢(ヲ)1、令v誄2氏姓(ノ)之本(ヲ)1矣、時(ノ)人(ノ)云(ク)、摩理勢烏摩侶二人、能(ク)誄、唯鳥(ノ)臣不v能(クセ)v誄也、皇極紀に、初(メテ)發2息長足日廣額(ノ)天皇(ノ)喪(ヲ)1、是曰小徳巨勢(ノ)臣徳太、代(リテ)2大派(ノ)皇子(ニ)1而誄、次小徳粟田(ノ)臣細目、代(リテ)2輕(ノ)皇子(ニ)1而誄、次(ニ)小徳大伴(ノ)連馬飼、代(リテ)2大臣(ニ)1而誄、乙未、息長(ノ)山田(ノ)公、奉v誄2日嗣(ヲ)1、天武紀に、天皇病逐(ニ)不v差、崩2于正宮(ニ)2云々、是日肇(メテ)進奠《ミケタテマツリ》、即誄之、第一《ハジメニ》大(シ)海(ノ)宿禰|蒭蒲《アラカマ》、誄2壬生《ミブノ》事(ヲ)1、次(ニ)淨大肆伊勢(ノ)王、誄2諸王(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直大參縣(ノ)犬養(ノ)宿禰大伴、※[手偏+總の旁](テ)誄2宮(ノ)内(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)淨廣肆河内(ノ)王、誄2左右(ノ)大舍人(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直大參當摩(ノ)眞人國見、誄2左右(ノ)兵衛(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直大肆采女(ノ)朝臣筑羅、誄2内命婦(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直廣肆紀(ノ)朝臣眞人、誄2膳(ノ)職(ノ)事(ヲ)1、乙丑、諸僧尼亦哭2於殯庭(ニ)1、是日、直大參布勢(ノ)朝臣|御主人《ミウシ》、誄2太政官(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直廣參石上(ノ)朝臣麻呂、誄2法(ノ)官(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直大肆大三輪(ノ)朝臣高市麻呂、誄2理官(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直廣參大伴(ノ)宿禰安麻呂、誄2大藏(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直大肆藤原(ノ)朝臣大嶋、誄2兵政(ノ)官(ノ)事(ヲ)1、丙寅、僧尼亦發v哀、是日、直廣肆阿倍(ノ)久努(ノ)朝臣麻呂、誄2刑官(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直廣肆紀(ノ)朝臣弓張、誄2民(ノ)官(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)直廣肆穗積(ノ)朝臣蟲麻呂、誄2諸國(ノ)司(ノ)事(ヲ)1、次(ニ)大隅阿多(ノ)隼人、及(ビ)倭河内(ノ)馬飼部(ノ)造、各誄之、丁卯、僧尼發v哀之、是日百濟(ノ)王良虞、代(テ)2百濟(ノ)王善光(ニ)1而誄之、次(ニ)國々(ノ)造等、隨2參赴(ル)1各誄之、仍奏2種々(ノ)歌舞(ヲ)1、持統紀に、皇太子率(テ)3公卿百寮(ノ)人等(ト)、與《トヲ》2諸蕃(ノ)賓客1、適(テ)2殯(ノ)宮(ニ)1而慟哭焉、於v是奉奠、奏2楯節《タタフシノ》※[人偏+舞](ヲ)1、諸臣各擧(テ)2己(ガ)先祖等(ノ)所(ノ)v仕(ル)状(ヲ)1、逓(ニ)進(テ)誄焉、己未、蝦夷百九十餘人、負2荷(テ)調賦(ヲ)1而誄焉、乙丑、布勢(ノ)朝臣|御主人《ミウシ》、大伴(ノ)宿禰御行、逓(ニ)進(テ)誄、仍廣肆當麻(ノ)眞人智徳、奉v誄2皇祖等(ノ)之|騰極《ヒツギノ》【古(ニ)云日嗣也、】次第(ヲ)1、禮也、畢(テ)葬2于大内(ノ)陵(ニ)1、これも天武天皇の御時のなり、此紀二に、左大臣正二位多治比(ノ)眞人嶋薨(ス)云々、正五位下路(ノ)眞人大人、爲2公卿(ノ)之誄(ヲ)1、從七位下下(ツ)毛野(ノ)朝臣石代、爲2百官(ノ)之誄(ヲ)1、三に、從四位上當麻(ノ)眞人智徳、率(テ)2誄人(ヲ)1奉(リ)v誄(ヲ)、諡曰2倭根子豐祖父(ノ)天皇(ト)1、即日火2葬於飛鳥(ノ)岡(ニ)1、これは文武天皇の崩の時也、七に、左大臣正二位石上(ノ)朝臣麻呂薨(ス)云々、右少辨從五位上上(ツ)毛野(ノ)朝臣廣人、爲2大政官之誄(ヲ)1、式部(ノ)少輔正五位下穗積(ノ)朝臣老、爲2五位已上(ノ)之誄(ヲ)1、兵部(ノ)大丞正六位上當麻(ノ)眞人東人、爲2六位已下(ノ)之誄(ヲ)1、十九に、正四位下安宿(ノ)王、率(テ)2誄人(ヲ)1奉(リ)v誄(ヲ)、諡曰2千尋|葛藤《フヂ》高知(ル)天(ツ)宮姫(ノ)之尊(ト)1、是日、火2葬於佐保(ノ)山陵(ニ)1、これは太皇太后藤原(ノ)宮子の薨の時なり、卅六に、正三位藤原(ノ)朝臣小黒麻呂、率(テ)2誄人(ヲ)1奉(リ)v誄(ヲ)、上(テ)2尊諡(ヲ)1曰2天宗高紹(ノ)天皇(ト)1、庚申、葬2於廣岡(ノ)山陵(ニ)1、これは光仁天皇なり、四十に、中納言正三位藤原(ノ)朝臣小黒麻呂、率(テ)2誄人(ヲ)1奉(リ)v誄(ヲ)、上(テ)v諡曰2天高知日之子姫尊1、これは桓武天皇の大御母命高野氏なり、また參議左大辨正四位上紀(ノ)朝臣古佐美、率(テ)2誄人(ヲ)1奉(リ)v誄(ヲ)、諡曰2天之高藤廣宗照姫之尊(ト)1、これは桓武天皇の皇后藤原乙牟漏也、そも/\上(ノ)件書紀に、誄《シノビコト》の事を記されたるさまを見れば、其儀式又其詞、さま/”\の事有しとおぼゆ、誄(ス)2某(ノ)事(ヲ)1誄(ス)2某事(ヲ)1とある、其詞ども、いかなるさまのことどもなりけむ、其文いとゆかし、能《ヨクス》不《ズ》v能《ヨクセ》とあるを思へば、其詞を造るも讀《ヨム》も、たやすからざりしほどしられて、いかにめでたくあはれなりけむ、其儀式も詞も、絶て世に傳はらず、いと/\あたらしきこと也、誄とて記されたるはたゞ、延暦廿五年、桓武天皇崩の時、夏四月甲午朔、中約言正三位藤原(ノ)朝臣雄友、率(テ)2後誄人、左方、中納言從三位藤原(ノ)朝臣内麻呂、參議從三位坂上(ノ)大宿禰田村麻呂、侍從從四位下中臣(ノ)王、侍從四位下大庭(ノ)王、參議從四位下藤原(ノ)朝臣緒嗣、右方、權中納言從三位藤原(ノ)朝臣乙叡、參議從三位紀(ノ)朝臣勝長、散位從四位上五百枝(ノ)王、參議正四位下藤原(ノ)朝臣繩主、從四位下秋篠(ノ)朝臣安人等(ヲ)1、奉(テ)v誄(ヲ)曰(ク)、畏哉《カシコキカヤ》、平安《タヒラノ》宮 爾 御坐 志《オホマシマシシ》天皇 乃、天 都 日嗣 乃 御名事 遠、恐 牟 恐 母 誄誄白《カシコムカシコムシノビコトマヲス》、臣末、畏哉《カシコキカヤ》、日本根子天皇 乃、天地 乃 共《ムタ》長 久、日月 乃 共《ムタ》遠 久、所自將去御諡《マヲサレユカムミナ》 止、稱《タタヘ》白(サ) 久、日本根子皇統彌照(ノ)尊 止 稱《タタヘ》白(サ) 久止 恐 牟 恐 母 誄《シノビコト》白(ス)、臣末、また天長元年、平城天皇の時の、此二つ、類聚國史に見え、さては續後紀に、承和七年、淳和天皇崩の時の一つ見えたると、合せて三(ツ)のみなるを、其文、みな件の延暦の度のと全《モハラ》同じことにて、これらは、かのくさ/”\の事を申せし古(ヘ)のとは、こよなくことそぎて、たゞ形《カタ》ばかりとこそ聞えたれ、さて件の誄に、天 都 日嗣 乃 御名事 遠 類白(ス)とあれば、誄はすべて、後の御《ミ》諡につきての事か、説文に、誄(ハ)諡也とも注したり、又は件の誄は、たま/\御諡の事を申せる故に、分て御名事とは申せる歟、さて又件の誄、いづれにも半《ナカラ》と結《トヂメ》とに、臣末とあるは、いかなるよしにか、詳ならず、他《ホカ》には見えぬこと也、末(ノ)字、等と作《カケ》るところあるによらば、ヤツコラマにて、末はまの假字歟、はた等は寫(シ)誤歟、又未とも來とも作る處あるは、みな誤なるべし、さて又孝徳紀に、凡(ソ)人(ノ)死亡《ウセヌル》之時(ニ)云々、或(ハ)爲(メニ)2亡《ウセヌル》人(ノ)1、斷《キリ》v髪(ヲ)刺(テ)v股(ヲ)而|誄《シヌビコトスル》、如(キノ)v此(ノ)舊俗《フルキナラヒ》、一《ナベテ》皆|悉斷《コトゴトニヤメヨ》、とあるを見れば、貴人のみならず、古(ヘ)は下ざままで、誄はせしことと見えたり、さて又しのびといふ言、万葉にはみな、志奴比《シヌヒ》志奴布《シヌフ》とのみありて、志乃備《シノビ》志乃夫《シノブ》といへることなし、たゞ十七に志乃備《シノビ》、廿に之乃布《シノフ》とある、二つのみ也、すべて古(ヘ)は、野《ヌ》篠《シヌ》角《ツヌ》樂《タヌシ》などいへる奴《ヌ》を、後世には乃《ノ》といふを、万葉歌には、大かた皆古(ヘ)によりて、奴《ヌ》とよめるを、此紀の詔には、此類皆、後世のごとく乃《ノ》とあるは、万葉と大かた同じ時代なるに、いかなることにかと考るにそのかみ既《ハヤ》く平生《ツネ》にはみな乃と呼《イヘ》るを、歌には、心して古(ヘ)によりて正《タダ》して、奴《ヌ》とよめるを、詔には、たゞ平言《ツネコトバ》のまゝに書るにこそ、又しのびしのぶの布《フ》比《ヒ》の清濁も、古(ヘ)と變《カハ》れり、古書には、清音の字をのみ用ひて、濁音を用ひたるは、右の万葉の十七の備《ビ》一つのみ也、これら事のついでに、驚かしおく也、
〇在 久、久(ノ)字、本に之に誤(ル)、今は一本によれり、
〇繼《ツギ》は、世嗣の子孫にて其家門をいふ、
〇絶《タツ》は、俗にいふたやすなり、
〇勅 天 在 我 故 爾、かの賜へる誄に也、我(ノ)字、一本に利と作るはわろし、
〇永手(ノ)朝臣の事は、五十一詔の處にいふべし、
〇右大臣之官授賜、此詔の次に、以2大納言從二位藤原(ノ)朝臣永手(ヲ)1、爲2右大臣(ト)1とあり、
〇御命 乎、乎(ノ)字、一本には遠と作り、
第四十一詔
同年冬十月壬寅、奉(テ)v請《マセ》2隅寺(ノ)毘沙門(ノ)像(ニ)所(ノ)v現(ルル)舍利(ヲ)於法華1簡d點(シテ)氏々年高(クシテ)然有(ル)2容貌1者(ノ)、五位已上二十三人、六位已下一百七十七人(ヲ)u、捧2持(テ)種々(ノ)幡蓋(ヲ)1、行2列(セシム)前後(ニ)1、其(ノ)所(ノ)v着(ル)衣服、金銀朱紫者、恣(ニ)聽(ルス)v之(ヲ)、詔(シテ)2百官主典已上(ニ)1、禮拜(セシム)、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、隅寺、本に脇寺とあり、今は一本又一本に依れり、元亨釋書にも、隅寺と記したり、此寺、今も奈良の法華寺近き所に、隅寺《スミデラ》とてある、それなるべし、法華寺のかたはらなる故に、隅寺とも脇寺ともいへるにや、法華寺は、奈良に在(リ)、聖武天皇、天平の間、諸國に、國分寺國分尼寺を造らる、その尼寺をは、いづれをも法華滅罪之寺と號《ナヅ》け給へる、此奈良のは、京師の法華滅罪寺也、
今勅 久 無上 岐 佛 乃 御法 波 至誠心 乎 以 天 拜尊 備 獻 禮波 必異奇驗 乎 阿良波 之 授賜物 爾 伊末 志家利《イマノリタマハクカミナキホトケノミノリハシジヤウノココロヲモチテヲロガミタフトビマツレバカナラズコトクスシキシルシヲアラハシサヅケタマフモノニイマシケリ》。然今示現賜 弊流 如來 乃 尊 岐 大御舎利 波 常奉見 余利波 大御色 毛 光照 天 甚美 久 大御形 毛 圓満 天 別好 久 大末之 末世波 特 爾 久須之 久 奇事 乎 思議 許止 極難 之《シカルニイマアラハレタマヘルニヨライノタフトキオホミサリハツネミマツルヨリハオホミイロモヒカリテリテイトウルハシクオホミカタチモタラハシテコトニヨクオホマシマセバコトニクスシクアヤシキコトヲオモヒハカルコトキハマリテカタシ》。是以意中 爾 晝 毛 夜 毛 倦怠 己止 無 久 謹 美 禮 末比 仕奉 都都 侍 利《ココヲモテココロノウチニヒルモヨルモウミオコタルコトナクツツシミヰヤマヒツカヘマツリツツハヘリ》。是實 爾 化 能 大御身 波 縁 爾 隨 天 度導賜 爾波 時 乎 不過行 爾 相應 天 慈 備 救賜 止 云言 爾 在 良之止奈毛 念 須《コレマコトニカリノオホミハエムニシタガヒテワタシミチビキタマフニハトキヲスグサズオコナヒニアヒカナヘテウツクシビスクヒタマフコトイフコトニアルラシトナモオモホス》。猶 之 法 乎 興隆 之牟流爾波 人 爾 依 天 繼比呂 牟流 物 爾 在《ナホシノリヲオコシサカエシムルニハヒトニヨリテツギヒロムルモノニアリ》。故諸 乃 大法師等 乎 比岐爲 天 上 止 伊麻 須 太政大臣禅師 乃 如理 久 勸行 波之米 教導賜 爾 依 天之 如此 久 奇 久 尊 岐 驗 波 顯賜 弊利《カレモロモロノダイホウシタチヲヒキヰテカミトイマスオホマツリゴトノオホオミゼムジノコトワリノゴトクススメオコナハシメヲシヘミチビキタマフニヨリテシカククスシクタフトキシルシハアラハレタマヘリ》。然此 乃 尊 久 宇禮志 岐 事 乎 朕獨 乃味夜 喜 止 念 天奈毛 太政大臣朕大師 商 法王 乃 位授 末都良久止 勅天皇御命 乎 諸聞食 止 宣《シカルヲコノタフトクウレシキコトヲアレヒトリノミヤヨロコバムトオモホシテナモオホマツリゴトノオホオミアガダイシニホウワウノクラヰサヅケマツラクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 此 乃 世間 乃 位 乎波 樂求 多布 事 波 都 天 無一道 爾 志 天 菩薩 乃 行 乎 修 比 人 乎 度導 牟止 云 爾 心 波 定 天 伊末 須《マタノリタマハクコノヨノナカノクラヰヲバネガヒモトメタブコトハカツテナクヒタミチニココロザシテボサチノギヤウヲオコナヒヒトヲワタシミチビカムトイフニココロハサダメテイマス》。可久 波阿禮止毛 猶朕 我 敬報 末川流 和佐 止之天奈毛 此 乃 位冠 乎 授 末川良久止 勅天皇 我 御命 乎 諸聞食 止 宣《カクハアレドモナホアガヰヤマヒムクイマツルワザトシテナモコノクラヰカガフリヲサヅケマツラクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロキロキコシメサヘトノル》。次 爾 諸大法師 可 中 仁毛 此ツギニモロモロノダイホウシガナカニモコノ二禅師等 伊 同心 乎 以 天 相從道 乎 志 天 世間 乃 位冠 乎波 不樂伊末 左倍止毛奈毛 猶不得止 天 圓興禅師 爾 法臣位授 末都流《フタリノゼムジタチイオヤジココロヲモチテアヒシタガヒミチヲココロザシテヨノナカノクラヰカガフリヲネガハズイマサヘドモナモナホヤムコトエズテヱムコウゼムジニホウシムノクラヰサヅケマツル》。基眞禅師 爾 法參議大律師 止之天 冠 波 正四位上 乎 授 氣 復物部淨 之乃 朝臣 止 云姓 乎 授 末川流止 勅天皇 我 御命 乎 諸聞食 止 宣《キシムゼムジニノリノオホマツリゴトビトダイリシトシテカガフリハオホキヨツノクラヰノカミツシナヲサヅケマタモノノベノキヨシノアソミトイフカバネヲサヅケマツルトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復勅 久 此寺 方 朕外祖父先 乃 太政大臣藤原大臣之家 仁 在《マタノリタマハクコノテラハアガハハカタノオホヂサキノオホマツリゴトノオホオミフヂハラノオホオミノイヘニアリ》 。今其家之名 乎 繼 天 明 可仁 淨 伎 心 乎 以 天 朝廷 乎 奉助 理 仕奉 流 右大臣藤原朝臣 遠婆 左大臣 乃 位授賜 比 治賜《イマソノイヘノナヲツギテアキラカニキヨキココロヲモチテミカドヲタスケマツリツカヘマツルミギノオホオミフヂハラノアソミヲバヒダリノオホオミノクラヰサヅケタマヒヲサメタマフ》。復吉備朝臣 波 朕 我 太子 等 坐 之 時 余利 師 止之天 教悟 家留 多 乃 年歴 奴《マタキビノアソミハアガヒツギノミコトマシシトキヨリミフミヨミトシテヲシヘサトシケルアマタノトシヘヌ》。今 方 身 毛 不敢 阿流良牟 物 乎 夜晝不退 之天 護助奉侍 乎 見 禮波 可多自氣奈 彌奈毛 念 須《イマハモアヘズアルラムモノヲヨルヒルマカラズシテマモリタスケツカヘマツルヲミレバカタジケナミナモオモホス》。然人 止之天 恩 乎 不知恩 乎 不報 奴乎波 聖 乃 御法 仁毛 禁給 弊流 物 仁 在《シカルヲヒトトシテメグミヲシラズメグミヲムクイヌヲバヒジリノミノリニモイサメタマヘルモノニアリ》。是以 天 吉備朝臣 仁 右大臣之位授賜 止 勅 布 天皇 我 御命 乎 諸聞食 止 宣《ココヲモテキビノアソミニミギノオホオミノクラヰサヅケタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
無上は、佛書の常(ノ)言也、
〇至誠は、推古紀には、ネムコロと訓たれど、佛書のつねの言なれは、音に讀つ、もし訓ならば、フカキマコトなどいふべし、
〇獻 禮波、尊みて添ていふまつるに、獻(ノ)字はめづらし、
〇必、本に心に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇異奇、四十二詔に、甚奇 久 異 爾 麗 岐、また美異《ウルハシクコトナル》、また奇異《クスシクコトナル》、など見え、此下文に、久須之 久 |奇事《アヤシキコト》とも有(リ)、
○如來 乃 尊 岐 大御舎利、岐(ノ)字、一本に波に誤れり、此翌日笑卯(ノ)日の漢文(ノ)詔にも、因(テ)有2靈示(ノ)緘器1、候(フニ)遂(ニ)則舍利三粒、見《アラハル》2於緘 器(ニ)1とあるは、 こゝとは又別の事のごとくにも聞ゆれども、猶一つ事なるべし、さて舍利といふ物は、或佛書に、此物乃是(レ)戒定慧忍行(ノ)功徳(ノ)薫成也、梵語設利羅、今(ハ)訛略(シテ)稱(ス)2舍利(ト)1、華言骨身(ナリ)、所2以(ハ)不(ル)1v譯(セ)者、恐(ルル)v濫(ラムコトヲ)凡夫(ノ)骨身(ニ)1故也、又云2駄都(ト)1、此(レ)目(ク)2不壞(ノ)義(ヲ)1、有2二種(ノ)舍利1、一(ハ)全身二(ハ)碎身、碎身(ニ)有v三、一(ハ)骨舍利、白色(ナリ)、二(ハ)肉舍利、紅色(ナリ)、三(ハ)髪舍利、黒色(ナリ)、惟《タダ》佛(ノ)舍利、五色(ニシテ)有2神變1、一切(ノ)物不v能v壞焉といへり、
〇甚美 久、久(ノ)字、本に之に誤(リ)、一本には三に誤(ル)、今改(ム)、
〇圓滿は、佛書の常(ノ)言也、タラハシと訓べし、万葉二に、滿將行神乃御面跡《タリユカムカミノミオモト》、九に、望月之滿有面輪二《モチヅキノタレルオモワニ》、これらをミチミテルと訓るは非也、面足《オモダルノ》尊など申す御名を思ふに、タルと訓べしと、師のいはれたるがごとし、
〇大末之 末世波、世(ノ)字、印本に泄と作るはいかゞ、今は一本又一本に依(ル)、
〇久須之 久、此言、くしとも、くすしとも、くすはしともいへり、奇(ノ)字をよめり、
〇思議 許止 極難 之、佛書に、不可思議不思議など、つねにいへり、極は、かやうの處は、常にはキハメテと訓(メ)ども、万葉三に、極貴物者酒西有良之《キハマリテタフトキモノハサケニシアルラシ》、この訓よろし、さて此言は、至(リ)てといふと同じさまにて、もと皇國言にはあらじ、
〇化 能は、加理乃《カリノ》と訓べし、佛書に權化といふ物にして、佛の權《カリ》に世に現れたるをいふ、いはゆる化身也、
〇度は、ワタシと訓べし、佛書に、濟度と常にいふこと也、佛足石(ノ)歌に、毛呂毛呂須久比《モロモロスクヒ》、和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、〇應 天は、カナヘテと訓べし、又コタヘテとも訓べし、
〇云言《イフコト》は、いふ物といはむが如し、言は借字也、
〇猶 之、之は、助辭《ヤスメコトバ》也、万葉廿に、奈保之禰可比都《ナホシネガヒツ》、ふるき漢籍訓にも、かく訓ること有、
〇人 爾 依 天は、人の繼弘《ツギヒロ》むるに依て、興隆《オコリサカ》ゆるよし也、
〇大法師は、廿四詔に、師(ノ)位とあるところにいへるが如し、
〇上 止 伊麻 須は、長たる也、諸司の長官をみな加美《カミ》といひ、長子をこのかみといふなども同じ、
〇教導、教(ノ)字、一本に敬と作るは誤也、
〇依 天之、本どもに、之(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、
〇獨 乃味夜、夜《ヤ》は、やはの意なり、
〇法王、佛經に、正法を以て國を治むる王を、法王といふといへることあり、今此號は、それにより給へるか、又たゞ法師なる王といふ意か、いづれにまれ、皇胤にあらざる人に、王といふ號を授け給へること、神代よりためしなく、理(リ)にそむきたる、いみしき大まがこと也、同月乙巳、詔(ス)、法王(ノ)月料、准(ス)2供御(ニ)1、云々、神護景雲元年三月置2法王宮(ノ)職(ヲ)1、以2造宮卿但馬(ノ)守從三位高麗(ノ)朝臣幅信(ヲ)1、爲2兼大夫(ト)1云々、同三年正月庚午朔壬申、法王道鏡居2西宮(ノ)前殿(ニ)1、大臣已下賀拜(ス)、道鏡自告(ル)2壽詞(ヲ)1、丙子、御(シテ)2法王宮(ニ)1、宴2五位已上(ヲ)1、道鏡與(フ)2五位已上(ニ)摺衣人(ゴトニ)一領、蝦夷(ニ)緋(ノ)袍人(ゴトニ)一領(ヲ)1云々
〇都 天は、カツテと訓べし、万葉四に、花勝見《ハナカツミ》、都毛不知《カツテモシラヌ》、戀裳摺可聞《コヒモスルカモ》、十三に、戀云物者《コヒチフモノハ》、都不止來《カツテヤマズケリ》、
〇一道 爾 志 天、万葉十一に、かにかくに物は思はず、ひだ人の打墨繩之直一道二《ウツスミナハノタダヒトミチニ》、六帖には、これをも、ひたみちにとして入たり、一本には、志 天の二字なし、
〇修 比、比(ノ)字、本に此に誤(ル)、今は一本に依る、
〇敬報 末川流、本に川(ノ)字、津と作《カケ》り、今は一本又一本に依(ル)、上に太政大臣禅師 乃 如v理 久云々とある、それに報《ムクイ》給ふよし也、
〇授 末川良久止、川(ノ)字、本に津と作り、今は一本又一本に依(ル)、〇此二禅師とは、次に出たる二人をさしていへり、禅師といふ號の事、廿八詔にいへり、伊(ノ)字、一本に何と作るは、例のさかしらのひがこと也、
○勸行 波之米、勸(ノ)字は、勤《ツトメ》を誤れるなるべし、此事、上にいふべかりしいを、漏せる故にこゝにいふ、
〇同心は、道鏡と也、
〇伊末 佐倍止毛奈毛 は、坐《イマ》せとも也、世《セ》を延て、佐倍《サヘ》といへり、さて止毛奈毛《ドモナモ》といへる辭は、めづらし、
〇授 末都流、都(ノ)字、一本には川と作り、
〇法參議、和名抄に、參議、於保萬豆利古止比止《オホマツリゴトビト》、とあるに依て訓り、又音に讀ても有べし、
〇正四位上云々、これより先九月に、授(ク)2修行進守大禅師基眞(ニ)、正五位上(ヲ)1とありき、そも/\僧に位階を賜ひ、姓を賜へる事、いとも/\めづらしく、いはむかたなきことども也、さて此基眞より上に立る圓興には、位をも姓をも賜ふことなくして、基眞にのみ賜へるは、故有べし、猶此二人のほうしが事、下にいふべし、
〇授 末川流止、川(ノ)字、本に津と作り、今は一本又一本に依(ル)、
〇此寺は、法華寺也、
〇外祖父、和名抄に、母方乃於保知《ハハカタノオホヂ》と有(リ)、於保知は、大父《オホヂ》のいひ也、
〇先(ノ)太政大臣は、不比等公也、先《サキノ》は、故《モトノ》といはむがごとし、
〇家 仁 在は、家なり也、家の内に在(リ)といふにはあらず、
〇家之名、上なる家は、家宅をいひ、此家は、氏門をいへり、名は職業也、
〇右大臣は、永手公也、
〇吉備朝臣は、眞吉備公也、此公の事、十一詔にいへり、
〇坐 之、一本には、坐 之之《マシシ》と作り、
。師は、美布美與美《ミフミヨミ》ト訓べし、應神紀に、阿直岐亦能讀(メ)經典(ヲ)1、即太子菟道(ノ)稚郎子|師《ミフミヨミトシタマフ》焉、
〇教悟、教(ノ)字、一本に敬に誤(ル)、
〇今 方 身 毛云々、寶亀六年、薨《カクレ》坐る時、八十三とあれば、此年は、七十四歳の時也、
〇奉侍 乎、乎(ノ)字、一本に遠と作(リ)、
〇可多自氣奈 彌、彌(ノ)字、一本に弘に誤(ル)、
〇聖 乃 御法は、佛法をいへり、
〇圓興基眞二人のほうしが事は天平寶字八年十一月、法臣圓興、其弟中衛(ノ)將監從五位下賀茂(ノ)朝臣田守等云々とあれば、圓興は、賀茂(ノ)朝臣氏也、法臣とあるは、後に賜はれる位を、前へもめぐらして記せる物にや、さて天平神護二年七月、以2中律師圓興(ヲ)1、爲2大僧都(ト)1、同年九月、授(ク)2修行進守大禅師基眞(ニ)、正五位上(ヲ)1、十月、此詔の次に、詔(ス)、法王(ノ)月料(ハ)、准2供御(ニ)1、法臣大僧都第一修行進守大禅師圓興(ハ)、准2大納言(ニ)1、法參議大律師修行進守大禅師正四位上基眞(ハ)、准2參議(ニ)1と見ゆ、准は、月料の事也、かくて神護景雲二年十二月、先v是(ヨリ)山階寺(ノ)僧基眞、心性無(ク)v常、好(テ)學(ビ)2左道(ヲ)1、詐(テ)咒2縛(シ)其(ノ)童子(ヲ)1、教(テ)説(カシム)2人(ノ)之陰事(ヲ)1、至(ル)d乃(チ)作(テ)毘沙門天(ノ)像(ヲ)1、密(ニ)置(テ)2數粒(ノ)珠子(ヲ)於其前(ニ)1、稱(シテ)爲《スルニ》uv現(スト)2佛舍利(ヲ)1、道鏡仍(テ)欲(シ)d眩2耀(シテ)時人(ヲ)1、以爲(ムト)c己(ガ)瑞(ト)u、乃諷(シテ)2天皇(ニ)1、赦(シ)2天下(ニ)1賜(ヒ)2人(ニ)爵(ヲ)1、基眞(ニ)賜(ヒ)2姓(ヲ)物部(ノ)淨志(ノ)朝臣(ト)1、拜(シテ)2法參議(ニ)1、隨2身(セシム)兵八人(ヲ)1、基眞(ガ)所(ノ)v作v怒(ヲ)者(ハ)、雖2卿大夫(ト)1、不v顧2皇法(ヲ)1、道路畏(テ)v之(ヲ)避(クルコト)、如(シ)v逃(ルガ)v虎(ニ)、至(テ)v是(ニ)凌(キ)2突(ク)其(ノ)師主法臣圓興(ヲ)1、擯《シリソク》2飛騨(ノ)國(ニ)1と見えたり、擯(ク)2飛騨(ノ)國(ニ)1とは、基眞がしわざにて、圓興を擯けたる如くに聞えて、まぎらはしけれども、然にはあらず、圓輿を凌突たるによりて、基眞を擯けたる也、擯(ノ)字の上に、仍(ノ)字などあらまほし、さて件の文によれば、此度現れたる舍利も、此基眞が詐(リ)造れる事にぞ有ける、あさましき事ども也、さて寶亀元年九月、基眞(ガ)親族、近江(ノ)國(ノ)人、從八位下物部(ノ)宿禰伊賀麻呂等三人、復(ヘス)2本(ノ)姓物部(ニ)1とあるは、基眞が申(シ)て、宿禰(ノ)尸を賜へるを、基眞惡行顯はれて、擯けられたるによりて、宿禰(ノ)姓を取られたる也、同九年正月、以2大法師圓興(ヲ)1、爲2少僧都(ト)1とある、圓興は、さきに既に大僧都なりしに、又かくあるは、高野天皇の御世に、あまりに昇進の過て、みだりなりし故に、彼天皇崩の後、おとされて在しを、今又さらに少僧都になし給へるにや、これを見れば、此圓興は、基眞が如く惡僧にはあらざりしにこそ、
第四十二詔
廿八の卷に、天平神護三年八月癸巳、改2元神護景雲(ト)1、詔(シテ)曰(ク)と有、
日本國 爾 坐 天 大八洲國照給 比 治給 布 倭根子天皇 我 御命 良麻止 勅 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《ヤマトノクニニオホマシマシテオホヤシマクニララシタマヒヲサメタマフヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。今年 乃 六月十六日申時 仁 東南之角 爾 當 天 甚奇 久 異 爾 麗 岐 雲七色相交 天 立登 天 在《コトシノミナヅキノトヲカマリムユカノヒノサルノトキニタツミノスミニアタリテイトクスシクコトニウルハシキクモナナイロアヒマジリテタチノボリテアリ》。此 乎 朕自 毛 見行 之 又侍諸人等 毛 共見 天 怪 備喜 備都都 在間 仁 伊勢國守從五位下阿倍朝臣東人等 我 奏 久 六月十七日 爾 度會郡 乃 等由氣 乃 宮 乃 上 仁 當 天 五色瑞雲起覆 天 在《コヲアレミミヅカラモミソナハシマタサモラフモロモロノヒトドモモトモニミテアヤシビヨロコビツツアルアヒダニイセノクニノカミヒロキイツツノクラヰノシモツシナアベノアソミアヅマビトラガマヲサクミナヅキノトヲカマリナヌカノヒニワタラヒノコホリノトユケノミヤノウヘニアタリテイツイロノアヤシキクモタチオホヒテアリ》。依此 天 彼形 乎 書寫以進 止 奏 利《コレニヨリテソノカタヲカキウツシテタテマツルトマヲセリ》。復陰陽寮 毛 七月十五日 爾 西北角 爾 美異雲立 天 在《マタオムヤウノツカサモフミヅキノトヲカマリイツカノヒニイヌヰノスミニウルハシクコトナルクモタチテアリ》。同月二十三日 仁 東南角 仁 有雲本朱末黄稍具五色 止 奏 利《オナジキツキノハツカマリミカノヒニタツミノスミニアルクモモトアケニスヱキニヤヤイツイロヲソナヘツトマフセリ》。如是 久 奇異雲 乃 顕在 流 所由 乎 令勘 爾 式部省等 我 奏 久 瑞書 爾 細勘 爾 是即景雲 爾 在《カククスシクコトナルクモノアラハレタルユエヲカムカヘシムルニヲサムルツカサドモガマヲサクズヰシヨニクハシクカムカフルニコレスナハチケイウムニアリ》。實合大瑞 止 奏 世利《マコトニダイズヰニアヘリトマヲセリ》。然朕念行 久 如是 久 大 仁 貴 久 奇異 爾 在大瑞 波 聖皇之御世 爾 至徳 爾 感 天 天地 乃 示現 之 賜物 止奈毛 常 毛 聞行 須《シカルニアガオモホシメサクカクオホキニタフトククスシクコトニアルオホキシルシハヒジリノスメラガミヨニイタレルミウツクシミニカマケテアメツチノアラハシタマフモノトナモツネモキコシメス》。是豈敢朕徳 伊 天地 乃 御心 乎 令感動 末都流倍岐 事 波 無 止奈毛 念行 須《コレアニアヘテアガウツクシミイアメツチノミココロヲウゴカシマツルベキコトハナシトナモオモホシメス》。然此 方 大御神宮上 爾 示顯給《シカルニコハオホミカミノミヤノウヘニアラハシタマフ》。故尚是 方 大神 乃 慈 備 示給 幣流 物 奈犂《カレナホコハオホミカミノメグビシメシタマヘルモノナリ》。又掛 毛 畏 岐 御世御世 乃 先 乃 皇 我 御靈 乃 助給 比 慈給 幣流 物 奈犂《マタカケマクモカシコキミヨミヨノサキノスメラガミタマノタスケタマヒメグミタマヘルモノナリ》。復去正月 爾 二七日之間諸大寺 乃 大法師等 乎 奉請 良倍天 最勝王經 乎 令講讀 末都利 又吉祥天 乃 悔過 乎 令仕奉 流爾 諸大法師等 我 如理 久 勒 天 坐 佐比 又諸臣等 乃 天下 乃 政事 乎 合理 天 奉仕 爾 依 天之 三寶 毛 諸天 毛 天地 乃 神 多知毛 共 爾 示現賜 幣流 奇 久 貴 伎 大瑞 乃 雲 爾 在 良之止奈毛 念行 須《マタイニシムツキニナヌカノアヒダモロモロノオホテラノダイホウシタチヲマセマツラヘテサイソウワウキヤウヲカウドクセシメマツリマタキチジヤウテムノケクワヲツカヘマツラシムルニモロモロノダイホウシタチガコトワリノゴトクツトメテイマサヒマタモロモロノオミタチノアメノシタノマツリゴトヲコトワリニカナヒテツカヘマツルニヨリテシホトケモシヨテムモアメツチノカミタチモトモニアラハシタマヘルクスシクタフトキオホキシルシノクモニアルラシトナモオモホシメス》。故是以奇 久 喜 之支 大瑞 遠 頂 爾受給 天 忍 天 黙在 去止 不得 之天奈毛 諸王 多知 臣 多知乎 召 天 共 爾 歡 備 尊 備 天地 乃 御恩 乎 奉報 倍之止奈毛 念行 止 詔 布 天皇 我 御命 遠 諸聞食 止 宣《カレココヲモテクスシクウレシキホキシルシヲイナダキニウケタマハリテシノビテナホアルコトエズシテナモオホキミタチオミタチヲメシテトモニヨロコビタフトビアメツチノミウツクシミヲムクイマツルベシトナモオモホシメストノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。然夫天 方 萬物 乎 能覆養賜 比 慈 備 愍 美 賜物 仁 坐 須《サテアメハヨロヅノモノヲヨクオホヒヤシナヒタマヒメグビアハレミタマフモノニイマス》。[此間脱文]又大神宮 乃 禰宜大物忌内人等 爾波 叙二級《マタオホミカミノミヤノネギオホモノイミウチヒトドモニハフタシナタマフ》。但御巫以下人等叙一級《タダシミカムノコヨリツモツカタノヒトドモニハヒトシナタマフ》。又伊勢國神郡二郡司及諸國祝部有位無位等賜一級《マタイセノクニノカムコホリフタコホリノコホノツカサオヨビクニグニノハフリウヰムヰドモヒトシナタマフ》。又六位以下及左右京男女年六十以上賜一級《マタムツノクラヰヨリシモツカタオヨビヒダリミギリノミサトノヲノコヲミナトシムソヂヨリカミツカタナルニヒトシナタマフ》。但正六位上|依例賜物〔各字それぞれ○デ囲む〕《タダシオホキムツノクラヰノカミツシナハアトニヨリテモノヲタマフ》。|其正六位下〔各字それぞれ○デ囲む〕重三選以上者賜上者正六位上《ソノオホキムツノクラヰノシモツシナノサムセムヨリウヘヲカサネタルモノハジヤウナルモノニハオホキムツノクラヰノカミツシナヲタマフ》。又孝子順孫義夫孝婦節婦力田者賜二級表旗其門至于終身田租免給《マタケウシズムソムギブケウフセフリキデムニハフタシナタマヒソノカドニシルシヲタテテミノヲハリニイタルマデタチカラユルシタマフ》。又五位以上人等賜御手物《マタイツツノクラヰヨリカミツカタノヒトドモニミテツモノタマフ》。又天下諸國今年田租半免《マタアメノシタクニグニノコトシノタチカラナカバヲユルシタマフ》。又八十以上老人及鰥寡孤獨不能自存者賜籾《マタヤソヂヨリウヘノオイビトオヨビクワムケコドクノミヅカラワタラフコトエセヌモノニハモミヲタマフ》。又示顯賜 弊流 瑞 乃末爾末仁 年號 波 改賜 布《マタアラハシタマヘルシルシノマニマニミヨノナハアラタメタマフ》。是以改天平神護三年爲神護景雲元年 止 詔 布 天皇 我 御命 遠 諸聞食 止 宣《ココヲモテテムピヤウジムゴノミトセヲアラタメテジムゴケイウムノハジメノトシトストノリタマフスメラガオホミコトヲモロ々ロキコシメサヘトノル》。
日本國とは、畿内の大和(ノ)國ヲいへる也、
〇照給 比、神代紀に、須佐之男(ノ)命の、天照大御神に申(シ)給へる御言に、請姉《ナネノミコト》、照2臨天國(ヲ)1、自可平安、崇神紀に、詔(シテ)曰(ク)、惟我(ガ)皇祖諸天皇、光2臨宸極(ニ)1、三代實録卅八の詔に、朕 我 食國 乎 平 久 安 久 |天照 之《アマテラシ》 治(メ)聞食 須 故 波云々、
〇東南之角、すべて東(シ)南(ミ)の間の方を辰巳、西北の間を戌亥などいふことは、もと漢事なることは、論なけれど、古きことと聞えたり、歌にさへみやこのたつみなどよめり、さて隅《スミ》を角と書るは、事違へれども、万葉にも角田《スミダ》川と書り、但し彼(レ)はツヌダか、さだかならず、角はかどにて、隅《スミ》とは異也、
〇阿倍朝臣は、姓氏録に、孝元天皇(ノ)皇子、大彦(ノ)命(ノ)之後也、〇東人は、誰が子にか、考へなし、天平寶字八年に、從五位下に叙し、其後中務大輔宮内大輔大藏大輔豊後守刑部大輔刑部卿などに任じ、位は從四位上まで見えて、其後は見えず、
〇等由氣 乃 宮 乃 上 仁、伊勢の、大神宮雜事記といふ書に、天平神護三年【丙午】七月七日、自2午(ノ)時1迄(デ)2于未(ノ)二點 仁1、
五色(ノ)雲立 天、天照坐(ス)皇大神宮鎭坐 須、即字治(ノ)五十鈴(ノ)河上 乃 宇治山(ノ)之峯頂 仁 懸 連利、即禰宜内人等、注(シテ)2具状(ヲ)1申(ス)2於宮司(ニ)1、即宮司水通、録(シテ)2子細(ヲ)1、言2上(ス)神祇官(ニ)1、隨即官奏(ス)、仍(テ)神祇官陰陽寮等勘申(シテ)云(ク)、奉2爲公家(ノ)1、又爲(メ)2天下(ノ)1、甚最嘉之瑞想也|者《テヘリ》云々といへるは、月日も地《トコロ》も違へり、いかゞ、
〇陰陽寮、和名抄に、於牟夜宇乃豆加佐《オムヤウノツカサ》とありて、訓はなし、職員令に、陰陽寮、頭一人、掌(ル)2天文暦數風雲氣色奏聞(ノ)事(ヲ)1云々、
〇七月十五日、印本又一本には、五(ノ)字なし、今は又の一本、類聚國史などに依(ル)、
〇本朱云々、本《モト》とは、見えたる所の下の方をいひ、末とは、上の方をいへる也、かくてその朱と黄とのうちに、やや青きところ、白きところ、黒き所なども、まじりたるなるべし、
〇式部省等、職員令を考るに、式部省は、かゝる事を掌るよしは見えず、治部省、卿一人、掌(ル)2云々祥瑞云々(ノ)事(ヲ)1と見え、延喜式にも、祥瑞の事は、治部省式に出たり、さればこゝは、式(ノ)字は、治を誤れる也、故(レ)今は和名抄に、治部省(ハ)、乎佐牟留都加佐《ヲサムルツカサ》と有(ル)に依て訓つ、さて等とは、卿また大輔少輔などをかねていふなるべし、
〇景雲、治部省式、祥瑞の大瑞の中に、慶雲といふ有て、状若(クニシテ)v烟(ノ)非(ズ)v烟(ニ)、(クニシテ)v雲(ノ)非(ズ)v雲(ニ)と注せり、さて慶雲を、景雲といへることは、物に見えざれども、慶雲といふ年號は、既に先(キ)に有(ル)故に、此度のは字を易《カヘ》て、景星にならひて、景(ノ)字をば用ひられたるなるべし、故(レ)こゝにも其字を書るなり、
〇合2大瑞(ニ)1、瑞書に、大瑞上瑞中瑞下瑞と、しな/”\ある、その大瑞の中の慶雲に合へるよし也、合(ノ)字、本に令に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇感は、加麻氣《カマケ》と訓べし、皇極紀にもかくよめり、万葉十六に、はしきやし老人《オキナ》の歌に、おほゝしき九兒《ココノノコ》らや蚊間毛而《カマケテ》をらむ、
〇常 毛、凡て今までといふことを、常《ツネ》といへること、古語にこれかれ見えたり、古事記傳十七卷、海(ノ)宮(ノ)段にいへり、こゝも其意也、類聚國史には、毛(ノ)字なし、
〇是(レ)豈(ニ)敢(テ)、かくつゞきたるは漢文ぶり也、されど豈《アニ》といひて、無《ナシ》と結《トヂ》めたるは、古語のさま也、
〇令感動は、ウゴカシと訓べし、古今集序に、力(ラ)をもいれずして、天地をうごかしといへる是也、そを眞字序には、動(カシ)2天地(ヲ)1といへり、凡て物に感《メヅ》るは、心の動く也、故(レ)感《メデ》しむるを、令《シ》v動《ウゴカ》とはいふ也、
〇大御神(ノ)宮は、こゝは等由氣(ノ)宮をいへる也、これに二(ツ)の意有べし、一(ツ)には、外宮も、天照大御神の外(ツ)宮なるに、等由氣(ノ)大神を祀《マツ》り給へるなれば、なほ天照大御神の宮の意歟、二(ツ)には、古事記に、高鴨(ノ)神をも、迦毛(ノ)大御神と記し、万葉に、諸能《モロモロノ》大御神等とも、墨吉乃吾《スミノエノワガ》大御神ともよみたれば、直《タダ》に等由氣(ノ)大御神の宮の意歟、
〇慈給 幣流 物 奈犂、犂(ノ)字、一本に利と作り、犂はあやしけれども、上の物 奈犂も、諸本皆此字なれば、今も姑く諸本に依れり、
○二七日は、此事の例どもを考るに、みな一七日にして、二七日なる例は見えざれば、二の字は、一を誤れるなるべし、故(レ)たゞナヌカと訓り、
〇奉請 良倍天、請は、麻世《マセ》と訓べし、令《セ》v坐《マサ》を切《ツヅ》めたる古言也、敏達紀に、請《マセテ》2其佛像二躯(ヲ)1、推古紀に、請《マセテ》v僧(ヲ)而設v齋(ヲ)、皇極紀に、屈2請《ツツシミマセテ》衆僧(ヲ)1、讀(マシム)2大乘經等(ヲ)1など有(リ)、さてこゝは、宮(ノ)内に請《シヤウ》じ給へる也、さて奉《マツ》りを延(ベ)ては、マツラヒなるに、良倍《ラヘ》とあるは、かくもいへりしなるべし、中昔の物語書に、奉《タテマツ》りを、たてまつれと多くいへるも、此格也、
〇最勝王經は、十三詔に出(ヅ)、
〇講讀、本に請讃と作るはわろし、今は一本又類聚國史などに依(ル)、玄蕃寮式に、凡毎年起(リ)2正月八日(ヨリ)1、迄(デ)2十四日(ニ)1、於(テ)2大極殿(ニ)1設(テ)v齋(ヲ)、講2説(セシム)金光明最勝王經(ヲ)1云々、後に御齋會といふ是也、其儀、貞觀儀式江次第などに見えたり、
〇吉祥天は、帝釋の女にて、端嚴美麗の天女也と、最勝王經に見えたり、かの經に、大吉祥天女品、また大吉祥天女増長財物品などいふ篇《クダリ》あり、〇悔過は、いはゆる懺悔《サムゲ》也、梵語には懺摩といふを、譯して悔過といふ、懺悔は、其梵語と漢語とを、重ね合せたる也とぞ、さて吉祥天(ノ)悔過の修法のさまは、かの増長財物品といふに見えたり、さて此年正月に、宮(ノ)内にて、此事を行はれたることは、紀に見えず、たゞ正月己未、勅(シテ)2畿内七道諸國(ニ)1、一七日(ノ)間、各於2國分金光明寺(ニ)1、行(ハシム)2吉祥天(ノ)悔過(ノ)之法(ヲ)1云々、とのみ有(リ)、この時に、大宮にても行はれしなるべし、然るにこれより後、神護景雲三年に、正月御(シテ)2東内(ニ)1、始(メテ)行2吉祥悔過(ヲ)1とあるは、始(ノ)字誤(リ)歟、はた天平神護三年を、誤(リ)て神護景雲三年に記されたる歟、かくて寶龜二年正月、停(ム)2天下諸國(ノ)吉祥悔過(ヲ)1、同三年十一月、詔(シテ)曰(ク)云々、宜(シ)d於(テ)2天下諸國(ノ)國分寺(ニ)1、毎年正月、一七日(ノ)之間、行(テ)2吉祥悔過(ヲ)1、以爲c恆例(ト)uと見え、玄蕃寮式に、凡諸國國分二寺、依(テ)2僧尼(ノ)見數(ニ)1、毎寺起(テ)2正月八日(ヨリ)1、迄(デ)2十四(ニ)1、轉2讀(セヨ)金光明最勝王經(ヲ)1、また凡諸國、起(テ)2正月八日(ヨリ)1、迄(デ)2十四日(ニ)1、請(シテ)2部内諸寺(ノ)僧(ヲ)於國廳(ニ)1、修(セヨ)2吉祥悔過(ヲ)1など見えたり、
〇坐 佐比は、いましを延ていへる也、さて勤《ツトメ》とのみにても有べきに此言を添(ヘ)たるは、凡て佛家に、僧の、日數を限りて、他《ホカ》へ出ず、こもり居るを、安居《アムゴ》といふこと有(ル)に依て、七日の間、此悔過にこもり居たるよしなるべし、
〇合v理 天、合(ノ)字、本に令に誤(ル)、今は一本又類聚國史に依(ル)、
〇然夫天 方云々、然夫といふこと、いかゞなる文なり、故(レ)今は二字をサテと訓つ、さて又此處の文、坐 須といふまでの語、上よりのつゞきも穩ならず、下へもつゞかず、上にも脱たる言ある歟、下には、脱文あること決《ウツナ》し、そを今こゝろみにいはば、又地 方《マタツチハ》云々|物 仁 坐 須《モノニイマス》、是以《ココヲモテ》云々、といふこと有べし、然らざれば、こゝの文いひ終《ヲヘ》ず、又次なる、又大神宮云々の上に屬《ツキ》たる語も有べし、然らざれは、又といふ言聞えざる也、養(ノ)字、本に奏に誤(ル)、今は一本又類聚國史に依(ル)、
〇禰宜大物忌内人、延暦(ノ)儀式帳に、大神宮に、職掌雜人四十三人、禰宜一人、大内人三人、物忌十三人、物忌(ノ)父十三人、小内人十三人と見え、外宮には、職掌禰宜内人等物忌(ノ)事、合(セテ)貳十壹人、禰宜一人、大内人三人、物忌六人、物忌(ノ)父六人、小内人五人と有て、二宮共に、物忌の中に、大物忌といふ一人づゝ有(リ)、こゝは大神宮といひて、二宮をかねたる也、
〇叙は、多麻布《タマフ》と訓べし、即(チ)このつゞきの下(ノ)文に、賜(フ)2一級(ヲ)1とも書り、又四十八詔に、大神(ノ)宮(ヲ)始(メ) 弖、諸社(ノ)之禰宜等給(ヒ)2位一階(ヲ)1と見え、六十一詔にもかく有(リ)、
〇御巫は、儀式帳に見えず、小内人の中に、御巫内人といふあれど、それにはあらじ、思ふに、上に脱文有(リ)げなれば、但(シ)とあるは、上に承《ウク》ること有て、此御巫は、朝廷のにて、大神宮に屬《ツキ》たることにはあらざるか、朝廷の御巫は、臨時祭式に、凡|御巫御門巫生嶋巫《オホミカムノコミカドノミカムノコイクシマノミカムノコ》、各一人、【其中宮東宮唯有御巫各一人、】取(テ)2庶女(ノ)堪(タルヲ)1v事(ニ)充(ツ)v之(ニ)、但(シ)考選(ハ)、准(ス)2散事(ノ)宮人(ニ)1、凡座摩(ノ)巫(ハ)、取(テ)2都下(ノ)國造氏(ノ)童女七歳已上(ナル)者(ヲ)1、充(ツ)v之(ニ)、若(シ)及(ババ)2嫁(グ)時(ニ)1、申(シテ)2辨官(ニ)1充替(ヘヨ)、凡諸(ノ)御巫者《ミカムノコハ》云々とある是也、さて古書どもに、大御巫《オホミカムノコ》と御巫《ミカムノコ》とを、多くは御巫巫と分て書るは、 御巫は大御巫にて、神祇官に坐(ス)八柱(ノ)神を祭る御巫《ミカムノコ》也、たゞ巫とあるは、其餘の御巫《ミカムノコ》也、然るに其《ソ》をまた、大御巫御巫と書ることも有(リ)て、同く御巫とあるに、大御巫なると、たゞ御巫なるとの差《タガヒ》あるを、そはその所のさまによりて、見分(ク)べき也、思ひ紛ふべからず、こゝの御巫は、諸の御巫也、大御巫のみにはあらず、
〇神郡二郡司は、多氣度會二郡の郡司也、此二郡は、大神宮の御料なるを以て、神郡といへり、後には又これに、飯野(ノ)郡も加はりて、神三郡といへり、
〇祝部、宮司神主禰宜などの色々《シナシナ》も、これにこめたり、
〇但正六位上、此下に文脱たり、其文は例は例に依ていはば依(テ)v例(ニ)賜(フ)v物(ヲ)其(ノ)正六位下(ハ)といふ九字有べし、かやうの時に正六位上の人には一階は給はずしてそのかはりに物を賜(フ)こといつもの例也、さて正六位下(ハ)重2三選1云々とつゞくべし、右の如くならでは此所聞えず、正六位といふことの重なれるによりて文を脱せる也、故(レ)今件の九字を補つ、
〇重2三選1とは、選は、考選なり、考とは、年毎に一度づゝ、年中の功と過とを考校《カムカヘ》て、等《シナ》を定むるをいふ、故(レ)一年を一考といへり、さて選は、よきを選(ビ)出る事にて、三考を重ねて、選ぜられたるを、三選を重ぬとはいへる也、これらの事、考課令選叙令に見えたり、
〇賜2上(ナル)者(ニハ)正六位上(ヲ)1、上(ナル)者(ノ)とは、上考三等の者をいふ、そはかの功過を考るに、上々上中上下、中上中中中下、下上下中下々と、九等に分(ケ)定むる、その上考三等【上々上中上下】なり、さてこゝに、賜2正六位上(ヲ)1とあるを以て、上に正六位下といふことなくては叶はざることを知べし、本に者(ノ)字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇孝子云々、力田まで漢文のまゝ也、十三詔の末考合すべし、孝婦は、夫の父母に孝なる婦也、
〇表2旗其門(ニ)1、此事も十三詔にいへり、但しかしこに引たる如く、賦役令には、同籍悉(ク)免(ス)2課役(ヲ)1と有て、終身田租を免し給ふよしは見えず、
〇御手物、手(ノ)字、本に平に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
○籾、本どもに粮と作り、今は類聚國史に依(ル)、例みな籾なれば也、
第四十三詔
廿九の卷に、同三年五月丙申、縣(ノ)犬養(ノ)姉女等、坐(テ)2巫蠱(ニ)1配流、詔(シテ)曰(ク)とあり、
現神 止 大八洲國所知倭根子掛畏天皇大命 乎 親王王臣百官人等天下公民衆聞食 止 宣 久 丈部姉女 乎波 内 都 奴 止 爲 弖 冠位擧給 比 根可婆禰改給 比 治給 伎《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコカケマクモカシコキスメラガオオミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノリタマハクハセツカベノアネメヲバウチツヤツコトシテカガフリクラヰアゲタマヒネカネアラタメタマヒヲサメタマヒキ》。然 流 物 乎 反 天 逆心 乎 抱藏 弖 己爲首 弖 忍坂女王石田女王等 乎 率 弖 掛畏先朝 乃 依過 弖 棄給 弖之 厨眞人厨女許 爾 竊往乍岐多奈 久 惡奴 止母止 相結 弖 謀 家良久 傾奉朝庭亂國家 弖 岐良比給 弖之 冰上鹽燒 我 兒志計志麻呂 乎 天日嗣 止 爲 牟止 謀 弖 掛畏天皇大御髪 乎 盗給 波利弖 岐多奈 伎 佐保川 乃 髑髏 爾 入 弖 大宮内 爾 持參入來 弖 壓魅爲 流己止 三度 世利《シカルモノワカヘリテキタナキココロヲイダキテオノレヒトゴノカミトナリテオサカノオホキミイハタノオホキミタチヲヒキヰテカケマクモカシコキサキノミカドノアヤマチニヨリテステタマヒテシクリヤノマヒトクリヤメガモトニヒソカニユキツツキタナクアシキヤツコドモトアヒムスビテハカリケラクミカドヲカタブケマツリアメノシタヲミダリテキラヒタマヒテシヒカミノシホヤキガコシケシマロヲアマツヒツギトセムトハカリテカケマクモカシコキスメラミコトノオホミカミヲヌスミタマハリテキタナキサホガハノヒトガシラニイレテオホミヤノウチニモチマヰリキテマジモノセルコミタビセリ》。然 母 盧舍那如來最勝王經觀世音菩薩護法善神梵王帝釋四大天王 乃 不可思議威神力掛畏開闢已來御宇天皇御靈天地 乃 神 多知乃 護助奉 都流 力 爾 依 弖 其等 我 穢 久 謀 弖 爲 留 壓魅事皆悉發覺 奴《シカレドモルサナニヨライサイソウワウキヤウクワムゼオムボサチゴホウゼムジムボムワウタイサクシダイテムワウノフカシギヰジムノチカラカケマクモカシコキアメツチノハジメヨリコナタアメノシタシロシメシシスメラミコトノミタマアメツチノカミタチノマモリタスケマツルチカラニヨリテソレラガキタナクハカリテセルマジワザミナコトゴトニアラハレヌ》。是以檢法 爾 皆當死刑罪《ココヲモテノリニカムカフルニミナコロスツミニアタレリ》。由此 弖 理 波 法 末爾末爾 岐良 比 給 倍久 在 利《コレニヨリテコトワリハノリノマニマニキラヒタマフベクアリ》。然 止毛 慈賜 止 爲 弖 一等降 弖 其等 我 根可婆禰替 弖 遠流罪 爾 治賜 布止 宣 布 天皇大命 乎 衆聞食 止 宣《シカレドモメグミタマフトシテヒトシナカロメテソレラガネカバネカヘテトホクナガスツミニヲサメタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
現神 止 云々宣 久、此文、他の詔の例と異なり、まづ倭根子掛畏とつゞける事、又大命 良麻止 詔(フ)、といふことを略きて、直《タダ》に大命 乎といひて、宣 久と、宣をやがて詔のことにして、久《ク》といへる、これらの文めづらしく、初(メ)の語のくはしきにあはせては、いとことそぎて、いかゞなるいひざま也、作者の心なるべし、
〇丈部は、姓氏録に、天足彦國押人(ノ)命(ノ)孫、比古意祁豆(ノ)命(ノ)後也、また杖部(ノ)造(ハ)、孝元天皇(ノ)皇子大彦(ノ)命(ノ)之後也、また丈部(ハ)、鴨(ノ)縣主同祖、鴨建津身(ノ)命(ノ)之後也、などある内、いづれならむ、此外に杖部(ノ)造丈部(ノ)首なども猶有(リ)、丈と杖とは同じこと也、さて波世都加倍《ハセツカベ》といふよみは、和名抄に、伊勢(ノ)國朝明(ノ)郡杖部(ハ)、鉢世都加倍《ハセツカベ》、安房(ノ)國長狹(ノ)郡丈部(ハ)、波世豆加倍《ハセツカベ》など有(リ)、言の意は、走握《ハセツカ》なるべし、
〇姉女、父祖詳ならず、天平寶字七年正月に、從五位下、天平神護元年正月に、從五位上を授らる、
〇内 都 奴は、内兵《ウチツイクサ》などの類也、奴は臣也、但し鎌足公を内臣とせられし類にはあらず、これはたゞ親《シタシ》み給ひての稱なるべし、
〇根可婆禰改給、凡て根とは、人を崇めていふ稱にて、可婆禰といふと同じきを、重ねていへる也、改給は、もとたゞ丈部にて有しを、上(ゲ)給へるをいふ、かの從五位下に叙したる處に縣(ノ)犬養(ノ)宿禰と有て、從五位上になれる處には、縣(ノ)犬養(ノ)大宿禰と有(リ)、然るをこゝに丈部とあるは、その賜へる姓尸《ウヂカバネ》を取て、もとの姓にかへされしなるべし、
〇抱藏は、イダキと訓べし、凡て云々《シカシカ》の心を懷《イダク》といふは、もと懷(ノ)字に就ての、漢文訓めきて、皇國言にはあらざるごと聞ゆれども、こゝは抱(ノ)字をしも書たれば、必(ズ)然訓べき也、
〇首は、ヒトゴノカミと訓べし、神武紀に、魁帥此(ヲ)云2比登誤廼伽彌《ヒトゴノカミト》1と有(リ)、首渠又長などをも、然訓り、さてここの首を、本に直に誤(ル)、今は一本に依て正しつ、
〇忍坂(ノ)女王は、詳ならず、延暦五年正月授2從五位下忍坂(ノ)女王(ニ)從五位上(ヲ)1、
〇石田女王も、詳ならず、さて凡て某(ノ)女王と、名の下に着《ツキ》たる女王は、ヒメミコとは訓べからず、さては内親王と別《ワキタメ》なし、又ヒメオホキミとはいふべくもあらず、されはたゞオホキミと訓べし、古事記などには、男女共に、某(ノ)王と記して、某(ノ)女王といへることはなし、これ古(ヘ)也、然るを女をば、女王と書(ク)は、たゞ字面のうへの別《ワカチ》にこそあれ、奈良のころとてもなほ、口語には女王をも、たゞ某《ナニ》のおほきみとぞいひけむ、
〇厨(ノ)眞人厨女とは、不破(ノ)内親王の御事也、聖武天皇の皇女にて、御母は、夫人正三位縣(ノ)犬養(ノ)宿禰廣刀自と申(シ)て、讃岐守從五位下唐の女也、今月【神護景雲元年】壬辰、詔(シテ)曰(ク)、不破(ノ)内親王(ハ)者、先朝有(テ)v勅、削(ル)2親王(ノ)名(ヲ)1、而(シテ)積惡不v止(マ)、重(テ)爲(ス)2不敬(ヲ)1、論(スレバ)2其(ノ)所(ノ)v犯(ス)罪(ヲ)1、合2八虐(ニ)1、但緑(テ)v有(ニ)v所v思、特(ニ)宥(シ)2其罪(ヲ)1、仍(テ)賜(フ)2厨(ノ)眞人厨女(トイフ)姓名(ヲ)1、莫(レ)v令(ルコト)v在2京中(ニ)1、又氷上(ノ)志計志麻呂(ハ)者、棄(テタル)2其父鹽燒(ヲ)1之日、倶(ニ)應(シ)2相從(フ)1、而(レドモ)依(テ)v母(ニ)不v坐(セ)、今亦其母、惡行彌彰(ハル)、是以處(テ)2遠流(ニ)1、配(ス)2土左(ノ)國(ニ)1とあり、此内親王は、鹽燒(ノ)王の室にて、志計志麻呂の母也、親王(ノ)名を削られ給へるは、鹽燒(ノ)王の、藤原(ノ)仲麻呂と共に誅せられしをりの事なるべし、さて右の文に、厨眞人の三字を脱せるを、今はこゝの詔と、かの文に姓名とあるとに依て、補て引り、さて此後、今年七月、賜2厨(ノ)眞人厨女(ニ)、封四十戸、田十町(ヲ)1、寶龜三年十二月、復(ヘス)2厨(ノ)眞人厨女(ノ)屬籍(ヲ)1、これ親王に復《カヘ》されし也、同四年正月、授2無位不破(ノ)内親王(ニ)、本位四品(ヲ)1、このころはいまだ無品といふ目《ナ》はなくして、親王にても、無位といひし也、天應元年十一月、授2三品不破(ノ)内親王(ニ)、二品(ヲ)1、しかるに延暦元年閏正月、氷上(ノ)川繼謀反の事|發《アラハ》れて、此内親王は、その母に坐(ス)故に、又淡路(ノ)國に流され給へり、川繼は、鹽燒(ノ)王の子にて、志計志麻呂の弟也、同十四年十二月、淡路より和泉(ノ)國に移し奉(リ)給ふこと見えて、其後の事は見えず、
〇竊往乍、乍(ノ)字、本に尓に誤(ル)、一本企に誤(ル)、今は類聚國史に依(ル)、
〇相結 弖、万葉九に、加吉結常代爾至《カキムスビトコヨニイタリ》、欽明紀に、始(メテ)約《ムスブ》2和親(ヲ)1。また自v古以來|約《ムスベリ》v爲(ムコトヲ)2兄弟1、
〇氷上(ノ)鹽燒、氷上(ノ)眞人といふ姓を賜ひしこと、上にいへるがごとし、
〇志計志麻呂、母は不破(ノ)内親王なること、上にいへり、
〇盗給 波利弖、取(リ)てを、尊みて、給はりとはいへる也、
〇岐多奈 伎は、髑髏へ係れり、
〇佐保川は、奈良に在(リ)、
〇髑髏は、和名抄に、頭(ノ)骨也、俗(ニ)云|比止加之良《ヒトガシラ》、
〇壓魅、壓(ノ)字、一本に厭と作《カキ》、五十四詔には魘と作《ア》り、いづれにても同じこと也、此二字|麻自母乃《マジモノ》と訓べし、大祓詞の蠱物《マジモノ》と、字は異なれども、同じ事也、こゝも端の文には、巫蠱と有(リ)、まじ物には、種々の爲方《シザマ》ある故に、字はさま/”\に書り、律の八虐の中の第五、不道に、造2畜(シ)蠱毒(ヲ)1厭魅(シ)と有て、義解に、云々厭魅(ハ)者、其事多端(ナレバ)、不v可2具(ニ)述(ブ)1、皆謂邪俗陰(ニ)行(ヒ)2不軌(ヲ)1、欲(スル)v令(ムト)2前人(ヲシテ)疾苦(シ)及(ビ)死(セ)1者也と見え、又賊盗律に、凡有(テ)v所2憎惡《ニクム》1、而造2厭魅(ヲ)1、及造2符書(ヲ)1、咒詛(シテ)、欲(スル)2以殺(サムト)1v人(ヲ)者《ハ》、各以(テ)2謀殺(ヲ)1論(シ)、減(ス)2二等(ヲ)1云々、義解に云々、と有(リ)、前人とは、俗にも前《サキ》の人といふ是也、前は對ふ意也、
〇盧舍那云々威神力、みな十九詔に出(ヅ)、但し彼處には、最勝王經また善神の二字は無し、
〇奉 都流、都(ノ)字いかゞなれども、なほマツルと訓べし、マツリツルとはいふまじき所也、又都は部の誤にて、マツラヘル歟とも思へど、然にはあらじ、一本に、流の下に加(ノ)字あるは衍也、
〇穢 久は、穢(キ)奴などある穢きにて、惡きこと也、上文の岐多奈伎とは意異也、
〇發覺は、罪のあらはるゝこと也、
〇死刑罪、類聚國史には、罪(ノ)字なし、こはあるもなきもよし、賊盗律に、凡謀反及(ビ)大逆(ノ)者(ハ)、皆斬と有(リ)、謀反は、謂(フ)v謀(ルヲ)v危(コトヲ)2國家(ヲ)1と有て、義解に、不3敢(テ)指2斥(セ)尊號(ヲ)1、故(ニ)託(シテ)云2國家(ト)1と有(リ)、天皇を壓魅し奉るは、これに當れり、
〇降 弖は、カロメテと訓べし、十九詔に、一等輕賜而《ヒトシナカロメタマヒテ》と有、
〇其等《ソレラ》は、不破(ノ)内親王をはじめ、忍坂女(ノ)王石田(ノ)女王縣(ノ)犬養(ノ)宿禰姉女など、其外岐多奈 久 惡奴 止母止 相結(ビ)とあれば、猶有べし、然るに、不破(ノ)内親王をくだして、厨(ノ)眞人厨女とし給へる事のみ、上に記して、其餘の人々の事は、たゞ此詔にかくあるのみにて、いかなる姓尸《ウヂカバネ》になし給へりとも、記されず、又姉女も、丈部とあるは、本の姓歟あらぬか、その事も詳ならず、すべていとおろそか也、すべて此紀のやう、必(ズ)記すべき事の、漏《モレ》たるが多く、又記しざましどけなくて事の趣のわかりがたき類も多きぞかし、
〇遠流罪 爾、これも志計志麻呂を土左(ノ)國に流すことのみ、上に見えて、姉女其餘の人々、何れの國に流すといふこと、記されざるはいかゞ、かくて寶亀二年八月、毀(ル)2外從五位下丹比(ノ)宿禰乙女(ガ)位記(ヲ)1、初(メ)乙女誣(ヒ)3告(グ)忍坂(ノ)女王縣(ノ)犬養(ノ)宿禰姉女等、厭2魅(フト)乘輿(ヲ)1、至(テ)v是(ニ)姉女(ガ)罪|雪《キヨマル》、故(ニ)毀(ル)2乙女(ガ)位記(ヲ)1、同九月、復(ヘス)2丈部(ノ)内麻呂姉女等(ヲ)本姓縣(ノ)犬養(ノ)宿禰(ニ)1、同三年正月、授2無位縣(ノ)犬養(ノ)宿禰姉女(ニ)、從五位下(ヲ)1と見ゆ、又同年十二月云々、景雲三年、縣(ノ)犬養(ノ)宿神姉女配流、至(テ)v是(ニ)恩|厚《ユルシテ》2罪降(ヲ)1、授2從五位下(ヲ)1とあるは、重複なるべし、景雲三年云々は、上の正月の處にいふべきこと也、又恩厚罪降も、誤字有べし、厚は原の誤歟、
第四十四詔
卅の卷に、同年九月己丑、詔(シテ)曰(ク)とあり、さて詔の次に、初(メ)太宰(ノ)主神習宜(ノ)阿曾麻呂、希(テ)v旨(ヲ)方媚(ヒ)2事(フ)道鏡(ニ)1、因(テ)矯《イツハリテ》2八幡(ノ)神(ノ)教(ト)2言(ク)、令(メバ)3道鏡(ヲシテ)即(カ)2皇位(ニ)1、天下太平(ナラム)、道鏡聞(テ)v之(ヲ)、深(ク)喜(テ)自(ラ)負(ム)、天皇召(テ)2清麻呂(ヲ)於床下(ニ)1、勅(シテ)曰(ク)、昨夜夢(ニ)、八幡(ノ)神(ノ)使來(テ)云(ク)、大神爲(メニ)v令(メムガ)v奏(セ)v事(ヲ)、請(ヒタマフ)2尼法均(ヲ)1、宜(シト)3汝清麻呂相代(テ)、而往(テ)聽(ク)2彼(ノ)神(ノ)命(ヲ)1、臨(テ)v發(ツニ)道鏡語(テ)2清麻呂(ニ)1曰(ク)、大神(ノ)所2以《ユヱハ》請(ヒタマフ)1v使(ヲ)者、蓋(シ)爲(メナリト)v告(ムガ)2我(ガ)即位(ノ)之事(ヲ)1、因(テ)重(ク)募(ルニ)以(ス)2官爵(ヲ)1、清麻呂行(テ)詣(ヅ)2神宮(ニ)1、大神託宣(シテ)曰(ク)、我(ガ)國家、開闢以來、君臣定(レリ)矣、以v臣(ヲ)爲(ルコト)v君(ト)、未2之有(ラ)1也、天(ノ)之日嗣、必立(テヨ)2皇緒(ヲ)1、無道(ノ)之人(ヲバ)、宜(シト)2早(ク)掃除(ス)1、清麻呂來(リ)歸(テ)、奏(スルコト)如(シ)2神(ノ)教(ヘノ)1、於v是道鏡大(ニ)怒(テ)、解(テ)2清麻呂本官(ヲ)1、出(シテ)爲2因幡(ノ)員外(ノ)介(ト)1、未v之《ユカ》2任所(ニ)1、尋(テ)有(リ)v詔、除(テ)v名(ヲ)配(ス)2於大隅(ニ)1、其姉法均(ハ)、還(ヘシテ)v俗(ニ)配(ス)2於備後(ニ)1と見えたり、
天皇 良我 御命 良麻止 詔 久 夫臣下 等 云物 波 君 仁 隨 天 淨 久 貞 仁 明心 乎 以 天 君 乎 助護|奉※[○デ囲む]對 天方 無禮 岐 面 幣利 無 久 後 仁波 謗言無 久 ※[(女/女)+干]僞 利 諂曲 流 心無 之天 奉侍 倍岐 物 仁 在《スメラガオホミコトラマトノリタマハクソレヤツコトイフモノハキミニシタガヒテキヨクサダカニアカキココロヲモチテキミヲタスケマモリマツリムカヒテハヰヤナキオモヘリナクウシロニハソシルコトナクカダミイツハリヘツラヒマガレルココロナクシテツカヘマツルベキモノニアリ》。然物 乎 從五位下因幡國員外介輔治能眞人清麻呂其 我 姉法均 止 甚大 爾 惡 久 ※[(女/女)+干] 流 妄語 乎 作 弖 朕 仁 對 天 法均 伊 物奏 利《シカルモノヲヒロキイツツノクラヰノシモツシナイナバノクニノカズヨリホカノスケフヂノノマヒトキヨマロソガアネホウクムトイトオホキニアシクカダメルイツハリゴトヲツクリテアレニムカヒテホウクムイモノマヲセリ》。此 乎 見 流仁 面 乃 色形口 爾 言猶明 爾 己 何 作 天 云言 乎 大神 乃 御命 止 借 天 言 止 所知 奴《コヲミルニオモテノイロカタチクチニイフコトナホアキラカニオノガツクリテイフコトヲオホカミノミコトトカリテイフトシロシメシヌ》。問求 仁 朕所念 之天 在 何 如 久 大神 乃 御命 爾波 不在 止 聞行定 都《トヒモトムルニアガオモホシテアルガゴトクオホカミノミコトニハアラズトキコシメシサダメツ》。故是以法 乃麻爾麻 退給 止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《カレココヲモテノリノマニマニシゾケタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復詔久 此事 方 人 乃 奏 天 在 仁毛 不在唯言其理 爾 不在逆 爾 云 利《マタノリタマハクコノコトハヒトノマヲシテアルニモアラズタダコトソノコトワリニアラズサカシマニイヘリ》。面 弊利毛 無禮 之天 己事 乎 納用 與止 念 天 在《オモヘリモヰヤナクシテオノガコトヲキキモチヒヨトオモヒテアリ》。是天地 乃 逆 止 云 爾 此 與利 増 波 無《コレアメツチノサカシマトイフニコレヨリマサルハナシ》。然此 方 諸聖等天神地祇現給 比 悟給 爾己曾 在 禮 誰 可 敢 弖 朕 爾 奏給 牟《シカルヲコハツヨシヤウタチアマツカミクニツカミノアラハシタマヒサトシタマフニコソアレタレカアヘテアレニマヲシタマハム》。猶人 方 不奏在 等毛 心中惡 久 垢 久 濁 天 在人 波 必天地現 之 示給 都留 物 曾《ナホヒトハマヲサズアレドモココロノウチアシクキタナクニゴリテアルヒトハカナラズアメツチアラハシシメシタマヒツルモノゾ》。是以人人己 何 心 乎 明 爾 清 久 貞 爾 謹 天 奉侍 止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《ココヲモテヒトヒトオノガココロヲアキラカニキヨクサダカニツツシミテツカヘマツレトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復此事 乎 知 天 清麻呂等 止 相謀 家牟 人在 止方 所知 天 在 止毛 君 波 慈 乎 以 弖 天下 乃 政 波 行給物 爾 伊麻 世波奈毛 慈 備 愍 美 給 天 免給 布《マタコノコトヲシリテキヨマロヲトアヒハカリケムヒトアリトハシロシメシテアレドモキミハメグミヲモチテアメノシタノマツリゴトハオコナヒタマフモノニイマセバナモメグビアハレミタマヒテユルシタマフ》。然行事 乃 重在 牟 人 乎波 法 乃麻爾麻 收給 牟 物 曾《シカアルシワザノカサナリタラムヒトヲバノリノマニマヲサメタマハムモノゾ》。如是状悟 天 先 爾 清麻呂等 止 同心 之天 一二 乃 事 毛 相謀 家牟 人等 波 心改 天 明 仁 貞 尓 在心 乎 以 天 奉侍 止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《カクノサマサトリテサキニキヨマロラトココロヲカハシテヒトツフタツノコトモアヒハカリケムヒトドモハココロアラタメテアキラカニサダカニアルココロヲモチテツカヘマツレトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復清麻呂等 波 奉侍 留 奴 止 所念 天己曾 姓 毛 賜 弖 治給 之可 今 波 穢奴 止之弖 退給 爾 依 奈毛 賜 弊利之 姓 方 取 弖 別部 止 成給 弖 其 我 名 波 穢麻呂 止 給 批 法均 我 名 毛 廣蟲賣 止 還給 止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《マタキヨマロラヲカヘマツルヤツコトオモホシテコソカバネモタマヒテヲサメタマヒシカイマハキタナキヤツコトシテシゾケタマフニヨリテナモタマヘリシカバネハトリテワケベトナシタマヒテソガナハキタナマロトタマヒテホウクムガナモヒロムシメトカヘシタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復明基 波 廣蟲賣 止 身 波 二 爾 在 止毛 心 波 一 爾 在 止 所知 弖奈毛 其 我 名 毛 取給 弖 同 久 退給 等 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《マタミヤウキハヒロムシメトミハフタツニアレドモココロハヒトツニアリトシロシメシテナモソガナキモトリタマヒテオヤジクシゾケタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
隨 天は、君の御心のまに/\物して、違ひ奉らざるをいふ、これ此詔の、裏《シタ》におぼしめす眼也、
〇助護、此下に、かならず奉(ノ)字有べし、故(レ)今補へり、奉侍(ノ)二字にても有べし、四十一詔に護助奉侍、
〇對 天方、君に也、
〇面 幣利は、面のけしきにて、俗にいふ顔《カホ》ぶり顔色也、應神紀に、有2不悦之色《ヨロコビタマハヌオモヘリ》1、武烈紀に、忍(ヒヲ)不v發《イダシタマハ》v顔《オモヘリニ》、天武紀に、若(シ)有(ラバ)2不服色《マツロハヌオモヘリ》1など有(リ)、
〇後 仁波は、俗に陰《カゲ》ではといふこと也、凡て目の前《マヘ》に見えぬところを、うしろといへり、必しも後方《シリヘ》のみならず、
〇員外は、カズヨリホカノと訓べし、源氏物語に、かずよりほかの權大納言など有、
〇輔治能(ノ)眞人は、もとは磐梨(ノ)別(ノ)公也、後に藤野(ノ)眞人(ノ)姓を賜ひ、又後に和氣(ノ)朝臣となれり、もと備前(ノ)國より出て、かの國の地(ノ)名也、和名抄に、備前(ノ)國和氣(ノ)郡藤野(ノ)郷、また磐梨(ノ)郡和氣(ノ)郷|石生《イハナスノ》郷【伊波奈須】など有(リ)、和氣(ノ)郡も、舊名《モトノナ》は藤野(ノ)郡なりき、姓氏録に和氣(ノ)朝臣(ハ)、垂仁天皇(ノ)皇子、鐸石別(ノ)命(ノ)之後也、神功皇后云々、遣(ハシ)2弟彦(ノ)王(ヲ)於針間吉備(ノ)堺1造(テ)v關(ヲ)防(シム)v之(ヲ)所謂(ル)和氣(ノ)關是也、太平(ノ)後録(シテ)2從(ヘル)v駕(ニ)勲(ヲ)1、酬(ルニ)以(ス)2封地(ヲ)1、仍(テ)被(ハリテ)2吉備(ノ)磐梨(ノ)縣(ヲ)1、始(テ)家(ス)v之(ニ)云々、
〇清麻呂は、天平神護元年正月、從六位上藤野(ノ)眞人清麻呂(ニ)、授2勲六等(ヲ)1、同年三月、備前(ノ)國藤野(ノ)郡(ノ)人、正六位下藤
野(ノ)別(ノ)眞人廣蟲女、右兵衛(ノ)少尉從六位上藤野(ノ)別(ノ)眞人清麻呂等三人、賜2姓(ヲ)吉備(ノ)藤野(ノ)和氣(ノ)眞人(同二年十一月、輔治能(ノ)眞人清麻呂(ニ)、授2從五位下(ヲ)1、神護景雲三年五月、從五位下吉備(ノ)藤野(ノ)和氣(ノ)眞人清麻呂等(ニ)、賜2姓(ヲ)輔治能(ノ)眞人(ト)、同年八月甲寅、從五位下輔治能(ノ)眞人清麻呂(ヲ)、爲2因幡(ノ)員外(ノ)介(ト)1と見ゆ、此人のこれより末の事は、奥にいふべし、さて件の文の内、神護二年十一月の處に、輔治能(ノ)眞人とあるは誤也、かしこには、吉備(ノ)藤野(ノ)和氣(ノ)眞人と有べきこと也、
〇法均、均(ノ)字、呉音クム也、古今集の作者承均法師を、假字にはそうくと書り、此尼もと俗名、廣蟲女也、尼になりて、大尼といふ位階を賜へるにこそ、そは僧の大法師の如き位階なるべし、神護景雲二年十月、大尼法戒、准(シテ)2從三位(ニ)1、賜(フ)2封戸(ヲ)1、大尼法均(ハ)、准(ス)2從四位下(ニ)1と見えたり、此人のこれより末の事も、奥にいふべし、
〇大《オホキ》 爾、凡てかくさまに、大《オホキ》に云々といふは、もと漢文よみ也、皇國言には、いたくといふ處也、
〇妄語は、イツハリゴトと訓べし、允恭紀に虚言《イツハリゴト》、繼體紀に虚《ウツハリ》、欽明紀に虚妄《ウツハリゴト》虚誕《イツハリゴト》、敏達紀に矯詐《イツハリコト》、天智紀に虚説《イツハリコト》など有(リ)、こは清麻呂宇佐よりかへりのぼりて、大神の託宣を、有(リ)のまゝに奏せしを、道鏡がいたく怒(リ)て、かく妄語也ととりなせるもの也、
〇法均 伊 物 奏 利は、清麻呂のうけ給はり來つる、かの託宣を、此尼がとり傳へて、奏せしなるべし、
〇面 乃 色形云々、造りていふ言とは、面の色形、詞のいひさまにて、明《シル》くしろしめしつと也、明 爾《アキラカニ》は、所知 奴《シロシメシヌ》へ係れり、
〇借 天は、託て也、
〇問求は、此事を知(リ)たるべき人々に問て、虚實《マコトイツハリ》をたゞせるに也、.
〇聞行定 都は、問求め給へる人々の申す言を聞(シ)食(シ)て、妄語なることの決《サダ》まれるよし也、
〇法 乃麻爾麻、一本に、下の麻の下に、爾(ノ)字有(リ)、然れども麻爾麻《マニマ》といへる例もこれかれ有也、
〇此事とは、法均が奏せる託宣の、妄語なること也、
〇人 乃奏 天云々は、人の奏せるに依て、然おもほすには非ず、もとより御みづからさとり給へるよし也、さて人にも問求め給へるは、なほたしかにせむためのみ也、
〇唯とは、人の奏せるにはあらず、唯《タダ》御自《ミヅカラ》知(リ)給へるよし也、
〇言其理 爾 不v在、言は、法均が奏せる言也、其(ノ)字、類聚國史に甚とあるはわろし、さてかの託宣は、全《モハラ》あるべき理(リ)のまゝにて、とかく論ふべき限にあらざれば、よもかくはえ詔給ふまじければ、これは其時に、別に奏せる事も有しを、かく詔給ふなるべし、
〇己事、事は言也、
〇天地 乃云々は、天地の間にあらゆる、逆といふ逆の中に、これにまされる逆はあらずと也、
〇諸聖等は、四十三詔に、盧舍那如來云々、四大天王とある類也、
〇現(シ)給 比は、清麻呂法均が僞を也、上の人 乃 奏 天 在 仁毛 不v在を、こゝまでへ係(ケ)て見べし、其僞なることを御自(ラ)しろしめし知(リ)たるは、これ諸聖たち神たちの現はし悟し給へる也と也、
〇誰 可 敢 弖云々、此事をかくかへす/\詔給ふは、道鏡がかく詔給へと、奏せるならむと、必(ズ)疑ふべき故に、然にはあらずといふことを、たしかにせむため也、これも又道鏡が、己(ガ)惡を覆《オホ》はむために、かく詔給へと、教(ヘ)奉れることなるべし、
〇猶人 方、猶といふ言、下の必(ズ)といふへ係て見べし、
〇不v奏在 等毛、一本には、奏の下に、天の細字有(リ)、
〇示給 都留,こは示(シ)給 布《タマフ》と有べき處也、都留《ツル》穩ならず、もしくは都は部の誤(リ)歟、一本には豆と作《カケ》り、
〇此事 乎 知 天は、此事に預《アヅカ》り知(リ)ての意也、
〇慈 備、備(ノ)字、一本に比と作り、
〇然行事 乃、乃(ノ)字、諸本尓と作り、今改(ム)、但し上の言、なほいさゝか穩ならず聞ゆ、
〇法 乃麻爾麻、一本には、下の麻の下にも、爾(ノ)字有(ル)こと、上なるが如し、
〇貞 尓、尓(ノ)字、本に止に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇奉侍 留 奴、奉の上に、字|脱《オチ》たりげにおぼゆ、能《ヨク》など有(リ)けむか、奴は臣也、
〇姓 毛 賜 弖は、此事五月に、輔治能(ノ)眞人になし給へること也、藤野を、かく字を易《カヘ》給へるは、好字《ヨキモジ》のかぎりをえら
びたるにて、褒《ホメ》給へる也、すべて此ころは、かゝることにも、字のさだ有し也、
〇治給 之可、一本に、之(ノ)上に天(ノ)字有(リ)、それもあしきにもあらず、さて上にこそとかゝれる結《ムスビ》の之可《シカ》の可《カ》は、皆清音也、濁るは非也、
〇依(テ) 奈毛、一本に、毛(ノ)字を牟と作るはわろし、さてよりなむといへる例、物語書に多ければ、こゝも天(ノ)字なければ、ヨリナモとも訓べし、
〇其 我、一本に某と作るはわろし、
〇廣蟲賣、蟲(ノ)字、印本に融と作《カケ》るを、今は一本又類聚國史などに依れり、次なるも同じ、印本、此名の外にも、蟲(ノ)字を、融と書るところ多かるは、いかなるよしにかあらむ、
〇還(シ)給は、はじめの名にかへし給ふ也、
〇明基は、こゝより外に見えたることなし、すべて詳ならず、法均がたぐひに仕奉れる尼にぞ有けらし、
〇清麻呂又法均の、これより後の事は、寶龜元年九月、徴《メシテ》2和氣清麻呂廣蟲(ヲ)於備後大隅(ヨリ)1、詣(ラシム)2京師(ニ)1、同二年三月、復《カヘス》2和氣(ノ)公清麻呂(ヲ)、本位從五位下(ニ)1、同五年九月、從五位下和氣(ノ)宿禰清麻呂廣蟲(ニ)、賜(フ)2姓(ヲ)朝臣(ト)1、これより先(キ)に、宿禰(ノ)姓を賜ひし事は、紀に漏(レ)たり、天應元年十一月、授2從五位下和氣(ノ)朝臣清麻呂(ニ)、從四位下(ヲ)1、延暦二年三月、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、同七年二月、爲2中宮大夫(ト)1、民部(ノ)大輔攝津(ノ)大夫(モ)如(シ)v故と見ゆ、さて後紀に延暦十八年二月乙亥朔乙未、贈正三位行民部卿兼造宮(ノ)大夫美作備前(ノ)國(ノ)造和氣(ノ)朝臣清麻呂薨、本姓磐梨(ノ)別(ノ)公、右京(ノ)人也、後改2姓(ヲ)藤野(ノ)和氣(ノ)眞人(ト)1、清麻呂爲v人高直、匪窮之節、與《ト》2姉廣蟲1共(ニ)事(ヘテ)2高野(ノ)天皇(ニ)1、並(ニ)蒙2愛信1、任(ス)2右兵衛(ノ)少尉(ニ)1、神護(ノ)初(メ)、授2從五位下(ヲ)1、遷2近衛(ノ)將監(ニ)1、特(ニ)賜2封五十戸(ヲ)1、姉廣蟲、及2笄年(ニ)1、許(ス)2嫁(ヲ)從五位下葛木(ノ)宿禰戸主(ニ)1、既(ニ)而天皇落餝、隨(テ)出家(シテ)、爲2御弟子(ト)1、法名法均、授2進守大夫尼位(ヲ)1、委(ルニ)以(ス)2腹心(ヲ)1、賜2四位(ノ)封并(ニ)位緑位田(ヲ)1、寶字八年大保惠美(ノ)忍勝、叛逆伏v誅(ニ)、連及(シテ)當v斬(ニ)者、三百七十五人、法均切諌(ス)、天皇納(テ)v之(ヲ)、減(シテ)2死刑(ヲ)1以處(ス)2流徒(ニ)1、亂止(ム)之後、民苦(ミ)2飢疫(ニ)1、棄(ツ)2子(ヲ)草間(ニ)1、遣(テ)v人(ヲ)收養(シ)、得2八十三兒(ヲ)1、同(ク)名(ケ)2養子(ト)1、賜2葛木(ノ)首1、此時僧道鏡、得v幸(セラルルコトヲ)2於天皇(ニ)1、出入警蹕、一、擬(ス)2乘輿(ニ)1、號(シテ)曰2法王(ト)1、太宰(ノ)主神習宜(ノ)阿蘇麻呂、媚2事(ヘテ)道鏡(ニ)1、矯(リテ)2八幡(ノ)神(ノ)教(ト)1言(ク)、令(メバ)3道鏡(ヲ)即2帝位(ニ)1、天下太平(ナラムト)、道鏡聞v之、情喜(テ)自負(ム)、天皇召(テ)2清麻呂(ヲ)於牀下(ニ)1曰(ク)、夢(ニ)有v人來(テ)、稱(テ)2八幡(ノ)神(ノ)使(ト)1云(ク)、爲(メニ)v奏(セム)v事(ヲ)、請(フト)2尼法均(ヲ)1、朕答(テ)曰(ク)、法均(ハ)軟弱(ニシテ)、難(ケレバ)v堪2遠路(ニ)1、其(ノ)代(リニ)遣(サムトイヘリ)2清麻呂(ヲ)1、汝宜(シト)3早(ク)參(テ)聽(ク)2神之教(ヲ)1、道鏡復喚(テ)2清麻呂(ヲ)1、募(ルニ)以(ス)2大臣(ノ)之位(ヲ)1、先v是路(ノ)眞人豐永、爲2道鏡(ガ)之師1、語(テ)2清麻呂(ニ)1云(ク)、道鏡若(シ)登(ラバ)2天位(ニ)1、吾以2何(ノ)面目(ヲ)1、可(キ)v爲2其臣1、吾|與《ト》2二三子1共(ニ)爲(ン)2今日(ノ)之伯夷1耳(ト)、清麻呂深(ク)然(リトシテ)2其言(ヲ)1、常懷(ク)2致v命(ヲ)之志(ヲ)1、往(テ)詣(ヅ)2神(ノ)宮(ニ)1、神託宣云々、清麻呂祈(テ)曰(ク)、今大神(ノ)所(ハ)v教(ル)、是(レ)國家(ノ)之大事也、託宣難(シ)v信(シ)願(クハ)示(セ)2神異(ヲ)1、神即忽然現(ス)v形(ヲ)、其(ノ)長(ケ)三丈許(リ)、色如(シ)2滿月(ノ)1、清麻呂消(シ)v魂(ヲ)失(テ)v度(ヲ)、不v能2仰(ギ)見(ルコト)1、於v是神託宣(スラク)、我(ガ)國家君臣分定(ル)、而(ルニ)道鏡悖逆無道輒(ク)望(ム)2神器(ヲ)1、是(ヲ)以神靈震怒(シテ)、不v聽2其祈(ヲ)1、汝歸(テ)如(ク)2吾(ガ)言1奏v之(ヲ)、天之日嗣、必續(カシメヨ)2皇緒(ヲ)1、汝勿v懼(ルルコト)2道鏡(ガ)之怒(ヲ)1、吾必相濟(ハムト)、清麻呂歸(リ)來(テ)、奏(スルコト)如(シ)2神(ノ)教(ノ)1、天皇不v忍v誅(スルニ)、爲2因幡(ノ)員外(ノ)介(ト)1、尋(テ)改(テ)2姓名(ヲ)1、爲2別部(ノ)穢麻呂(ト)1、流(ス)2于大隅(ノ)國(ニ)1、尼法均(ハ)、還(ヘシテ)v俗(ニ)爲(テ)2別部(ノ)狹蟲(ト)1、流(ス)2于備後(ノ)國(ニ)1、道鏡又追(テ)將《ス》v殺(サムト)2清麻呂(ヲ)於道(ニ)1、雷雨晦※[日+冥]、未v即(カ)v行(ニ)、俄(ニシテ)而勅使來(テ)、僅(ニ)得v免、于時參議右大辨藤原(ノ)朝臣百川、愍(テ)2其忠烈(ヲ)1、便割(テ)2備後(ノ)國(ノ)封郷廿戸(ヲ)1、送(テ)充(ツ)2於配處(ニ)1、寶龜元年、聖帝践祚、有(テ)v勅入(ル)v京(ニ)、賜2姓(ヲ)和氣(ノ)朝臣(ト)1、復(ヘス)2本位名(ニ)1、姉廣蟲(モ)、又掌(リ)2吐納(ヲ)1叙(シ)2從四位下(ニ)1、任(シ)2典藏(ニ)1、累(リニ)至(ル)2正四位下(ニ)1、帝從容勅(シテ)曰(ク)、諸(ノ)侍從(ノ)臣、毀譽紛紜未(ト)4嘗(テ)聞3法均(ガ)語(ルヲ)2他(ノ)過(ヲ)1、友于天至、姉弟同(クシ)v財(ヲ)、孔懷(ノ)之義、見(ル)v稱(セ)2當時(ニ)1、延暦十七年正月十九日薨、與《ト》2弟卿1約期(シテ)云(ク)、諸七及(ビ)服※[門/癸](ル)之日、勿(レ)v勞2追福(ヲ)1、唯|與《ト》2二三(ノ)行者1坐(シテ)2靜室(ニ)1、事(トセム)2禮懺(ヲ)1耳、後世子孫、仰(テ)2吾二人(ヲ)1、以爲(ヨト)2法則(ト)1、天長二年、天皇追2思(シテ)舊績(ヲ)1、贈2正三位(ノ)之告身(ヲ)1、弟清麻呂、脚痿(テ)不v能2起立(スルコト)1、爲(メ)v拜2八幡(ノ)神(ヲ)1、輿(シテ)v病(ヲ)即(ク)v路(ニ)、及(テ)v至(ルニ)2豐前(ノ)國宇佐(ノ)郡※[木+若]田(ノ)村(ニ)1、有2野猪三百許(リ)1、挾(テ)v路(ヲ)而列(リ)、徐(ク)歩(テ)前駈(スルコト)十許里(ニシテ)、走2入山中(ニ)1、見(ル)人共(ニ)異(ム)v之、拜v社(ヲ)之日、始(テ)得2起(テ)歩(ムコトヲ)1、神託宣(シテ)、賜(フ)2神封(ノ)綿八萬餘屯(ヲ)1、即頒(チ)2給宮司以下國中(ノ)百姓(ニ)1、始(メハ)駕(テ)v輿(ニ)而往(ク)、後馳(テ)v馬(ヲ)而還(ル)、累路見(ル)人莫(シ)v不2歎異(セ)1、清麻呂(ノ)之先、出v自2垂仁天皇(ノ)皇子鐸石別(ノ)命1、云々、高祖父佐波良、曾祖父波伎豆、祖宿奈、父乎麻呂(ノ)墳墓、在(ル)2本郷(ニ)1者、拱樹成(ス)v林(ヲ)、清麻呂投竄(ノ)之日、爲《ニ》v人|所《ル》2伐除1、歸來(テ)上疏(シテ)陳(ブ)v状(ヲ)、詔(シテ)以2佐波良等四人、并(ニ)清麻呂(ヲ)1、爲2美作備前兩國(ノ)國造(ト)1、天應元年、授2從四位下(ヲ)1、拜2民部(ノ)大輔(ニ)1、爲2攝津(ノ)大夫(ト)1、累(ニ)遷2中宮(ノ)大夫民部卿(ニ)1、授2從三位(ヲ)1、延暦十七年、上表(シテ)請2骸骨(ヲ)1、優詔(シテ)不v許、仍賜2功田廿町(ヲ)1、以傳2子孫(ニ)1、清麻呂練2於庶務(ニ)1、尤明(ニセリ)2古事(ヲ)1、撰2民部省例廿卷(ヲ)1、于v今傳(ハル)焉、奉(テ)2中宮(ノ)教(ヲ)1、撰2和氏譜(ヲ)1奏(ス)v之、帝甚善(ス)v之(ヲ)、長岡(ノ)新都、經(テ)2十載(ヲ)1未v成v功(ヲ)、費不v可2勝(テ)計(フ)1、清麻呂潜(ニ)奏(シテ)、令(ム)d上(ヲシテ)託(シテ)2遊獵(ニ)1、相(テ)2葛野(ノ)地(ヲ)1、更(ニ)遷(ラ)c上都(ニ)u、清麻呂爲(ルトキ)2攝津(ノ)大夫1、鑿(テ)2河内川(ヲ)1、直(ニ)通(シ)2西海(ニ)1、擬(ス)v除(カムト)2水害(ヲ)1、所v費巨多(ニシテ)、功遂(ニ)不v成、私(ノ)墾田一百町、在2備前(ノ)國(ニ)1、永(ク)爲2振給田(ト)1、郷民惠(トス)v之(ヲ)、薨時贈2正三位(ヲ)1、年六十七、有2六男三女1、長子廣世云々、と見えたり、そも/\此卿、道鏡がさばかりの威權《イキホヒ》に媚ふことなく、その怒をおそれず、身をすてて、神の御教(ヘ)のまゝに、かへりこと奏《マヲ》されし功の、世にすぐれて、後の御世/\、即位のはじめの宇佐の御使にほ、必(ズ)此和氣氏の人を遣す例とさへなれる、かゝるいみしき功のたふとさに、此卿の事、今かく殊につばらかに擧つるなり、父(ノ)名|乎《ヲ》麻呂、家の系圖又清麻呂(ノ)傳といふ物などには、平《ヒラ》麻呂と有(リ)、いづれか正しからむ、又姉の廣蟲も、件の文に見えたる如くにては、いと/\よき人にぞ有ける、なほ紀に見えたるは、寶龜元年十月、授2無位和氣(ノ)公廣蟲(ニ)、從五位下(ヲ)1、同八年正月(ニ)、從五位上、天應元年三月(ニ)、正五位上、同年十一月(ニ)、從四位下、延暦四年正月(ニ)、從四位上と見え、同十三年にも、此人の事見えたり、さて後紀に、同十八年正月丙午朔乙丑、典侍正四位上和氣(ノ)朝臣廣蟲卒、從三位行民部卿兼攝津(ノ)大夫清麻呂(ノ)姉也、少(シテ)而出v家爲(リ)v尼(ト)、供2奉(ル)高野(ノ)天皇(ニ)1、爲v人貞順、節操無(シ)v虧(ルコト)、事(ハ)見(エタリ)2清麻呂(ノ)語中(ニ)1、皇統彌照(ノ)天皇甚(ダ)信重(シタマフ)焉、今上思(テ)2勞舊(ヲ)1、追(テ)贈2正三位(ヲ)1、薨時年七十と見えたり、清麻呂卿の語(ノ)中には、延暦十七年正月十九日薨と有、こゝと年も一年たがひ、日も一日たがへり、そも/\、かゝるよき人々をしも、罪におとし給ひしは、いはむかたなく、ゆゝしくあさましかりしまがこと也き、
第四十五詔
同年冬十月乙未朔詔(シテ)曰(ク)とあり、
天皇 我 御命 良麻止 詔 久 掛 麻久毛 畏 岐 新城 乃 大宮 爾 天下治給 之 中 都 天皇 能 臣等 乎 召 天 後 乃 御命 仁 勅 之久 汝等 乎 召 都留 事 万 朝庭 爾 奉侍 良牟 状教詔 牟止曾 召 都留《スメラガオホミコトラマトノリタマハクカケマクモカシコキニヒキノオホミヤニアメノシタヲサメタマヒシナカツスメラミコトノオミタチヲメシテノチノオホミコトニノリタマヒシクイマシタチヲメシツルコトハミカドニツカヘマツラムサマヲシヘタマハムトゾメシツル》。於太比爾侍重諸聞食《オダヒニハヘリテモロモロキコシメセ》。貞 久 明 爾 淨 伎 心 乎 以 天 朕子天皇 仁 奉侍 利 護助 麻都禮《タダシクアキラカニキヨキココロヲモチテアガコオホキミニツカヘマツリマモリタスケマツレ》。繼 天方 是太子 乎 助奉侍 禮《ツギテハコノヒツギノミコヲタスケツカヘマツレ》。朕 我 教給 布 御命 爾 不順 之天 王等 波 己 我 得 麻之岐 帝 乃 尊 岐 寶位 乎 望求 米 人 乎 伊射奈 比 惡 久 穢心 乎 以 天 逆 爾 在謀 乎 起臣等 方 己 我 比伎婢企是 爾 託彼 爾 依 都都 頑 南 無禮 伎 心 乎 念 弖 横 乃 謀 乎 構《アガヲシヘタマフミコトニシタガハズシテオホキミタチハオノガウマジキミカドノタフトキミクラヰヲノゾミキトノヒトヲイザナヒアシクキタナキココロヲモチテサカシマニアルハカリコトヲタテオミタチハオノガヒキビキコレニツキカレニヨリツツカタクナニヰヤナキココロヲオモヒテヨコシマノハカリコトヲカマヘ》。如是在 牟 人等 乎波 朕必天翔給 天 見行 之 退給 比 捨給 比 岐良 比 給 牟 物 曾《カクアラムヒトドモヲバアレカナラズアマガケリタマヒテミソナハシシゾケタマヒステタマヒキラヒタマハムモノゾ》。天地 乃 福 毛 不蒙 自《アメツチノサチモカガフラジ》。是状知 天 明 仁 淨 伎 心 乎 以 天 奉侍 牟 人 乎波 慈給 比 愍給 天 治給 牟 物 曾《カクノサマシリテアキラカニキヨキココロヲモチテツカヘマツラムヒトヲバメグミタマヒアハレミタマヒテヲサメタマハムモノゾ》。復天 乃 福 毛 蒙 利 永世 爾 門不絶奉侍 利 昌 牟《マタアメノサチモカガフリナガキヨニカドタエズツカヘマツリサカエム》。許己知 天 謹 麻利 淨心 乎 以 天 奉侍 止 將命 止奈毛 召 都流|止※[○で囲む] 勅 比 於保世給 布 御命 乎 衆議聞食 止 宣《ココシリテツツシマリキヨキココロヲモチテツカヘマツレトノリタマハムトナモメシツルトノリタマヒオホセタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復詔 久 掛 毛 畏 伎 朕 我 天 乃 御門帝皇 我 御命以 天 勅 之久 朕 雨 奉侍 牟 諸臣等朕 乎 君 止 念 牟 人 方 大皇后 仁 能奉侍 禮《マタノリタマハクカケマクモカシコキアガアメノミカドスメラガオホミコトモチテノリタマヒツシクアレニツカヘマツラムモロモロノオミタチアヲキミトオモハムヒトハオホキサキニヨクツカヘマツレ》。朕 乎 念 天 在 我 如 久 異 奈 念《アヲオモヒテアルガゴトクコトニナオモヒ》。繼 天方 朕子太子 爾 明 仁 淨 久 二心無 之天 奉侍 禮《ツギテハアガコヒツギノミコニアキラカニキヨクフタゴコロナクシテツカヘマツレ》。朕 方 子二 利止 云言 波 無《アハコフタリトイフコトハナシ》。唯太子一人 乃味曾 朕 我 子 波 在《タダヒツギノミコヒトリノミゾアガコハアル》。此心知 天 諸護助奉侍 禮《コノココロシリテモロモロマモリタスケツカヘマツレ》。然朕 波 御身都可良 之久 於保麻之麻須 爾 依 天 太子 爾 天 都 日嗣高御座 乃 繼 天方 授 麻都流止 命 天 朕 爾 勅 之久 天下 乃 政事 波 慈 乎 以 天 治 與《サテアハミミツカラシクオホマシマスニヨリテヒツギノミコニアマツヒツギタカミクラノツギテハサヅケマツルトノリタマヒテアレニノリタマヒシクアメノシタノマツリゴトハメグミヲモチテヲサメヨ》。復上 波 三寶 乃 御法 乎 隆 之米 出家道人 乎 治 麻都利 次 波 諸天神地祇 乃 祭禮 乎 不 絶下 波 天下 乃 諸人民 乎 愍給 弊《マタカミツカタハホトケノミノリヲサカエシメイヘデセルヒトヲヲサメマツリツギハモロモロノアマツカミクニツカミノマツリヲタタズシモツカタハアメノシタノオホミタカラヲアハレミタマヘ》。復 勅 之久 此帝 乃 位 止 云物 波 天乃授不給 奴 人 爾 授 天方 保 己止毛 不得《マタノリタマヒシクコノミカドノクラヰトイフモノハアメノサヅケタマハヌヒトニサヅケテハタモツコトモエズ》。亦變 天 身 毛 滅 奴流 物 曾《マタカヘリテミモホロビヌルモノゾ》。朕 我 立 天 在人 止 云 止毛 汝 我 心 爾 不能 止 知目 爾 見 天牟 人 乎波 改 天 立 牟 事 方 心 乃麻爾麻世與止 命 伎《アガタテテアルヒトトイフトモミマシガココロニヨカラズトシリメニミテムヒトヲバカヘテタテムコトハココロノマニマセヨトノリタマヒキ》。復勅 之久 朕 我 東人 爾 授刀 天 侍 之牟留 事 波 汝 乃 近護 止之天 護近 與止 念 天奈毛 在《マタノリタマヒシクアガアヅマビトニタチヲサヅケテサモラハシムルコトハミマシノチカキマモリトシテマモラシメヨトオモヒテナモアル》。是東人 波 常 爾 云 久 額 爾方 箭 波 立 止毛 背 波 箭 方 不立 止 云 天 君 乎 一心 乎 以 天 護物 曾《コノアヅマビトハツネニイハクヒタヒニハヤハタツトモセハヤハタタジトイヒテキミヲヒトツココロヲモテテマモルモノゾ》。此心知 天 汝都可 弊止 勅 比之 御命 乎 不忘此状悟 天 諸東國 乃 人等謹 之麻利 奉侍 禮《コノココロシリテミマシツカヘトノリタマヒシオホミコトヲワスレズカクノサマサトリテモロモロノアヅマクニノヒトドモツツシマリツカヘマツレ》。然掛 毛 畏 岐 二所 乃 天皇 我 御命 乎 朕 我 頂 爾 受賜 天 晝 毛 夜 毛 念持 天 在 止毛 由無 之弖 人 爾 云聞 之牟留 事不得猶《サテカケマクモカシコキフタトコロノスメラガオホミコトヲアガイナダキニウケタマリテヒルモヨルモオモホシモチテアレドモヨシナクシテヒトニイヒキカシムルコトエズナホアリキ》。此 爾 依 天 諸 乃 人 爾 令聞 止奈毛 召 都留《コレニヨリテモロモロノヒトニキカシメムトナモメシツル》。故是以今朕 我 汝等 乎 教給 牟 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《カレコココヲモテイマアガイマシタチヲヲシヘタマハムオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノリタマフ》。夫君 乃 位 波 畷求 乎 以 天 得事 方 甚難 止 云言 乎波 皆知 天 在 止毛 先 乃 人 波 謀乎遅奈 之 我 方 能 久 都與 久 謀 天 必得 天牟止 念 天 種種 爾 願祷 止毛 諸聖天神地祇御靈 乃 不免給不授給物 爾 在 波 自然 爾 人 毛 申顯己 我 口 乎 以 天毛 云 都 變 天 身 乎 滅災 乎 蒙 天 終 爾 罪 乎 己 毛 他 毛 同 久 致 都《ソレキミノクラヰハネガヒモトムルヲモチテウルコトハイトカタシトイフコトヲバミナシリテアレドモサキノヒトハハカリコトヲヂナシアハヨクツヨクハカリテカナラズエテムトオモヒテクサグサニネガヒイノレドモナホシヨシヤウアマツカミクニツカミノミタマノユルシタマハズサヅケタマハヌモノニアレバオノヅカラニヒトモマヲシアラハシオノガクチヲモチテモイヒツツカヘリテミヲホロボシワザハヒヲカガフリテツヒニツミヲオノレモヒトモオナジクイタシツ》。因茲 天 天地 乎 恨君臣 乎毛 怨 奴《コレニヨリテアメツチヲウラミキミオミヲモウラミヌ》。猶心 乎 改 天 直 久 淨 久 在 波 天地 毛 憎 多麻波受 君 毛 捨不給 之天 福 乎 蒙身 毛 安 家牟《ナホココロヲアラタメテナホクキヨクアラバアメツチモニクミタマハズキミモステタマハズシテサキハヒヲカガフリミモヤスケム》。生 天方 官位 乎 賜 利 昌死 弖波 善名 乎 遠世 爾 流傳 天牟《イキテツカサクラヰヲタマハリサカエシニテハヨキナヲトホキヨニナガサヒテム》。是故先 乃 賢人云 天 在 久 體 方 灰 止 共 爾 地 仁 埋 利奴禮止 名 波 烟 止 共 爾 天 爾 昇 止 云 利《コノユヱニサキノカシコキヒトイヒテアラクミハヒトトモニツチニウヅモリヌレドナハケブリトトモニアメニノボルトイヘリ》。又云 久 過 乎 知 天方 必改 與《マタイハクアヤマチヲシリハテカナラズアラタメヨ》。能 乎 得 天方 莫忘 止伊布《ヨキヲエテハワスルナトイフ》。然物 乎 口 爾 我 方 淨 之止 云 天 心 仁 穢 乎波 天 乃 不覆 地 乃 不載 奴 所 止 成 奴《シカルモノヲクチニアハキヨシトイヒテココロニキタナキヲバアメノオホハズツチノノセヌモノトナリヌ》。此 乎 持 伊波 稱 乎 致 之 捨 伊波 謗 乎 招 都《コヲタモツイハホマレヲイタシスツルイハソシリヲマネキツ》。猶朕 我 尊 備 拜 美 讀誦 之 奉 留 最勝王經 乃 王法正論品 爾 命 久 若造善惡業今於現在中諸天共護持示其善惡報《ナホアガタフトビヲロガミドクズシマツルサイソウワウキヤウノワウボウシヤウロムホムニノリタマハクモシゼムアクノゴフヲツクラバイマゲムザイノウチニオキテシヨムトモニゴヂシテソノゼムアクノホウヲシメサム》。國人造惡業王者不禁制此非順正理《クニタミアクゴフヲツクラムニワウステテキムゼイセザルハコレジユムシヤウノリニアラズ》。治擯當如法 止 命 天 在《ヂヒムマサニホフノゴトクスベシトノリタマヒテアリ》。是 乎 以 天 汝等 乎 教導 久 今世 爾方 世間 乃 榮福 乎 蒙 利 忠淨名 乎 顯 之 後世 爾方 人天 乃 勝樂 乎 受 天 終 爾 佛 止 成 止 所念 天奈毛 諸 爾 是事 乎 教給 布止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《ココヲモテイマシタチヲヲシヘミチビクコノヨニハセケムノモウフクヲカガフリタダシクキヨキナヲアラハシノテノヨニハニムデムノシヨウラクヲウケテツヒニホトケトナレトオモホシテナモモロモロニコノコトヲヲシヘタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。復詔 久 此賜 布 帶 乎 多鹿波 利弖 汝等 乃 心 乎 等等能 倍 直 之 朕 我 教事 爾 不違 之天 束 禰 治 牟 表 止奈毛 此帶 乎 賜 久止 詔 布 御命 乎 衆諸聞食 止 宣《マタノリタマハクコノタマフオビヲタマハリテイマシタチノココロヲトトノヘナホシアガヲシヘコトニタガハズシテツカネヲサメムシルシトナモコノオビヲタマクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
掛 麻久毛、麻(ノ)字、一本萬と作り、
〇新城 乃 大宮 爾云々、新城といふところは、天武紀五年に、將《トス》v都2新城(ニ)1、また十一年云々、持統紀三年云々、五年、鎭(メ)2祭(ル)新益《ニヒキノ》京(ヲ)1、六年、天皇|觀《ミタマフ》2新益(ノ)京(ノ)路《オホヂヲ》1など有て、新益と書るも、にひきにて、新城と一(ツ)也、大和(ノ)國添下(ノ)郡にて、此紀に、寶龜五年八月、幸(ス)2新城(ノ)宮(ニ)1とある地也、然れどもこゝに今詔給へるは、件の新城にては、由なし、こゝは必(ズ)平城《ナラノ》大宮と有べきこと也、もしは平(ノ)字を、新に寫(シ)誤れるか、されど平とは、字の形も遠く、誤るべきよしもおぼえねば、新の下に、平(ノ)字を落せるか、飛鳥藤原の古京に對へて、新《ニヒシキ》平城(ノ)大宮とはいへるにやあらむ、猶よく尋ぬべし、
〇中 都 天皇は、元正天皇也、平城《ナラ》は、元明天皇より宮敷坐て、元正天皇は、第二世に、坐ますが故に、中 都《ナカツ》とは申(シ)給へる也、中昔に、人の女子あまたある中にも、第二にあたるを、中の君といへると同じ、
〇後 乃 御命は、遺詔也、此天皇、天平廿年四月に崩坐り、雄略紀推古紀などに遺詔《ノチノミコトノリ》、舒明紀に天皇|遺言《ノチノミコト》、
〇召 都留、都(ノ)字、一本豆と作り、次なるも同じ、
〇於太比 爾は、卅一詔に出(ヅ)、
〇朕子天皇は、聖武天皇を申(シ)給へる也、實は御甥命に坐ませども、太子とし給へれば、朕(ガ)子とは詔給へる也、十四詔に、朕子王《アガコオホキミ》、また第五詔に、此天皇の、聖武天皇を、吾(ガ)子|美麻斯王《ミマシミコ》とも詔給へり、
〇助 麻都禮、麻都を、一本に萬豆と作り、
〇繼 天方は、次にはの意也、
〇太子は、孝謙天皇也、天平十年正月、皇太子に立給へり、
〇得 麻之岐、一本に、之の下に字(ノ)字あり、そは衍と見ゆれども、五十八詔にも、忘(レ)得 末之自美奈毛とある自(ノ)字と、同じ格に聞
ゆれば、衍とも決《サダ》めがたし、なほ彼(ノ)詔の處にいふべし、
〇寶位は、戎書《カラブミ》に、聖人(ノ)大寶曰v位(ト)、といへるより出たる名目也、字音にも讀べし、訓はたゞミクラヰなるべし、タカラノクラヰと訓(マ)むは、こちなし、此|目《ナ》、此紀の詔には、こゝと五十九詔とにあるのみなるを、後々は、かならず寶位といはではかなはぬごとく、詔といふ詔に、此|目《ナ》なきはなし、
〇逆 爾 在、在(ノ)字、本に左に誤(ル)、今は一本に依れり、爾在《ニアル》はなる也、もし左は、左道の意にて、モトレルなど訓べきかとも思へど、猶在を誤れる也、
〇是 爾 託云々、託は屬也、此(ノ)王彼(ノ)王に屬依《ツキヨリ》て、其《ソ》を立《タテ》て、己が功をなさむと謀る也、
〇依 都都、都々、一本豆々と作り、
〇如是在 牟 人等は、王等臣等の中に、上件の如き人等也、
〇天翔、翔字、本に朔に誤(ル)、今は一本に依(ル)、天翔《アマガケル》とは、亡人《ウセヌルヒト》の靈《ミタマ》の、此世に往來來《カヨヒク》る事にいへり、物語書などに多し、古今集物(ノ)名(ノ)歌に、かけりても何をか靈《タマ》の來ても見む、とよめるも是也、こゝは遺詔なる故に、崩坐たらむ後のことをかく詔給へる也、万葉五に、久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利《ヒサカタノアマノミソラユアマガケリ》、見渡多麻比《ミワタシタマヒ》とあるは、同事ながら、神の御事也、亡人《ナキヒト》の靈《タマ》にはあらず、〇岐良 比 給、十九詔に出(ヅ)、岐(ノ)字、一本に波に誤(ル)、
〇天地 乃 福は、天地の與《アタ》ふる福也、さてこゝの文、此語の下に、今一(ツ)是に對《ナラ》ぶ言の有べきが、足《タラ》はぬこゝちするは、後に脱たる歟、次の文の例に依ていはば、家門 毛 絶 奈牟など有べき也、
〇天 乃 福、上の例に、こゝも天地 乃とこそ有べけれ、
〇許己知 天は、これを知て也、古言には、是《コレ》をこゝ、其《ソレ》をそこといへること多し、
○謹 麻利、下文にも、謹 之麻利、と有(リ)、恐《カシコ》みをかしこまりともいふごとく、これも麻利《マリ》ともいひしなるべし、
〇召 都留止、これまで元正天皇の遺詔のよし也、然るに諸本に止(ノ)字なき故に、次への語のつゞきも穩ならず、又元正天皇の遺詔と、今の詔との堺なくて、語とゝのはず、故(レ)今止(ノ)字を補つ、召つるは、上に、臣等 乎 召 天と有(ル)是也、
〇勅 比 云々 聞食 止 宣(ル)、こは御命といふまでは、元正天皇の云々と勅《ノリ》給ひおほせ給ふ御命をといへるにて、さてその御命を、衆間食せと、今の天皇の詔給ふよしの語のつゞきざまなれば、宣は、これはノリタマフと訓べきが如し、然れども衆聞食といふ言は、いづれの詔にても、宣命使のいふ詞なる例なれは、こゝも然也、宣は例のごとくノルと訓べし、さては御命といふ言を、今の天皇の御命とせざれば、語|足《タ》らざれども、同じ語の重なるところは、略きて行越《ユキコシ》ていふ、古語の例なること、上にもいへるがごとくなれば、其意を得て見べし、元正天皇の勅給ひし御命は、かくのごとくぞと、その御命を、今天皇のまねび詔給ふ御命を、衆聞食せと宣(ル)といふ意也、
〇復詔 久は、今の天皇の也、
〇天 乃 御門帝皇は、こゝは聖武天皇を申給へる也、朕 我とは、大御父尊に坐が故也、廿九詔に、険 我 天(ノ)先(ノ)帝とあるも、同じ天皇也、すべてあめのみかどとは、いづれの天皇をも申(シ)奉る御稱也、一(ト)御世の御名と心得たるは、ひがこと也、万葉廿に、かしこきや安米乃美加度《アメノミカド》をかけつれば、ねのみしなかゆ朝よひにしてとあるは、天武天皇の藤原(ノ)夫人の歌なれば、彼(ノ)天皇を申せる也、そも/\此御稱は、もと漢文に天朝といへることを取て、申(シ)そめたるなるべし、ふるくは聞えぬこと也、續後紀一の詔には、柏原(ノ)御門 乃 天朝ともあるは、天朝は、音に讀(ム)べきにや、又八の卷には、たゞ天朝とも有(リ)、古今集に、天のみかどの近江の采女にたまへるとあるは、一御世の御名と心得たるにて、誤也、さて天皇を帝皇と書ること、古事記書紀などにも、ところ/”\有(リ)、
〇大皇后《オホキサキ》は、皇后のよしにて、光明皇后を詔給へる也、大御母命を申す皇太后のよしにはあらず、
〇異 奈 思(ヒ)は、朕とひとしく思ひ奉れ也、一本に、思の下に細書の曾(ノ)字あるは、さかしらに添(ヘ)たるものか、上に莫《ナ》といひて、下には曾《ソ》といはぬ例も、万葉に多ければ、今は多本に依れり、〇太子は、孝謙天皇也、
〇云言 波、言は借字にて、たゞかろき辭のこと也、
〇都可良 之久は、勞疲《ツカラ》しくにて、病《ヤム》をいふ、五十八詔に、身勞 須《ミツカラス》とあるも、病也、さてつかるをかくいふは、わづらふをわづらはしく、穢《ケガ》るをけがらはしくなどいふと同じ活用《ハタラキ》也、
〇繼 天《ツギテ》は、次第《ツイデ》序《ツイデ》と同じ、此言こゝにかく、繼天と書るを以て、もと都岐弖《ツギテ》といひしことを知べし、ついでといふは、後の音便也、
〇授 麻都流、麻都を一本には萬豆と作り、
〇朕 爾 勅 之久、これも同じく聖武天皇の詔給へる也、これより上の文は、臣たちに詔給ひしよしなるを、是より下は、孝謙天皇に詔給ひしよし也、故(レ)分て朕 爾云々と、さらに詔給ふ也、
〇上 波は、カミツカタハと訓べし、卅八詔に、上 都 方 波 三寶 仁云々と有、
〇愍給 弊、一本に、弊(ノ)字を脱せり、
〇復勅 之久、聖武天皇の、孝謙天皇に也、
〇變 天は、却て也、下なるも同じ、
〇朕 我 立 天 在人とは、ひろく詔給へる御言ながら、今は道祖(ノ)王の御事に就《ツキ》て詔給ふにて、是に廢帝の御事をふくめたり、天平勝寶八年、聖武天皇崩坐る、遺詔に、以2中務卿從四位上道祖(ノ)王(ヲ)1、爲(ヨ)2皇太子(ト)1と有(ル)是也、
〇 止毛は、雖なり、
〇目 爾見 天牟は、不能《ヨカラズ》と見る也、さて上に、心 爾といふに對へて、目 爾とはいへり、
〇麻爾麻世與、一本には、下の麻の下にも、爾(ノ)字有(リ)、
○復勅 之久、聖武天皇の也、一本に、之(ノ)字を志と作たり、
〇東人は、東國の人也、
〇授v刀(ヲ) 天は、まづ慶雲四年七月、始(メテ)置(ク)2授刀舍人寮(ヲ)1、とあるより始まりて、授刀といふ官あり、養老四年三月、加(フ)2右大臣正二位藤原(ノ)朝臣不比等(ニ)、授刀(ノ)資人三十人(ヲ)1、同五年十二月、授刀寮及(ビ)五衛府云々、同六年閏四月、陸奥(ノ)按察使(ノ)管内(ノ)百姓云々、其國(ノ)授刀兵衛衛士云々、如(ノ)v此之類、皆悉(ク)放(チ)還(ヘシテ)、各從(ハシム)2本色(ニ)1、神龜三年三月云々、及(ビ)大舍人授刀(ノ)舍人兵衛等(ハ)云々、天平十八年二月、改(メテ)2騎舍人(ヲ)1、爲2授刀舍人(ト)1、天平勝寶八歳五月、左衛士(ノ)督坂上(ノ)忌寸犬養、右衛士(ノ)卒鴨(ノ)朝臣蟲麻呂云々、其(ノ)所(ノ)v從(フル)授刀舍人二十人、増2位四等(ヲ)1、同年秋七月、勅(ス)、授刀舍人(ノ)考選賜禄名籍(ハ)者、悉(ク)屬(セヨ)2中衛府(ニ)1、其(ノ)人數(ハ)者、以2四百(ヲ)1爲v限(ト)、闕(ケバ)即簡(ビ)補(セヨ)、但(シ)名(ク)2授刀舍人(ト)1、勿(レ)v爲(ルコト)2中衛舍人(ト)1、其(ノ)中衛舍人(モ)、亦以2四百(ヲ)1爲(ヨ)v限(ト)、天平寶字三年十二月、置(ク)2授刀衛(ヲ)1、其(ノ)官員、督一人、從四位上(ノ)官、佐一人云々、少志二人、正八位下(ノ)官、同四年十一月、遣(ハシテ)2授刀(ノ)舍人、春日部(ノ)三關、中衛(ノ)舍人、土師(ノ)宿禰關成等六人(ヲ)於太宰府(ニ)1、就(テ)2大貳吉備(ノ)朝臣眞備(ニ)1、令(ム)v習(ハ)2諸葛亮(ガ)八陣、孫子(ガ)九地、及(ビ)結營向背(ヲ)1、天平神護元年二月、改(メテ)2授刀衛(ヲ)1、爲2近衛府(ト)1、其官員、大將一人、爲2正三位(ノ)官(ト)1、中將一人云々と見えたり、件のごとくなれば、東人 爾 授v刀(ヲ) 天とあるは、授刀舍人なるべし、さてその授刀舍人には、凡て東國の人のみを補せられたる歟、はた授刀舍人の中に、東國の人なるをえりて、侍《サモラ》はしめ給へるか、さるこまかなることは知がたし、
〇近護 止之天、授刀衛を改めて、近衛府とせられしも、此官もとより、近き護(リ)なりしが故也、
〇護近 與止、近(ノ)字は誤也、一本に、細書にて、延と作れど、それも聞えず、もしは之米を下上に米之と誤て、つひに※[近ノ草書]とはせる歟、姑くマモラシメヨと訓て、後の考をまつ也、
〇額 爾波云々は、敵にむかひて、手を負(フ)とも、後《ウシロ》は見せじの意也、万葉廿に、聞食《キコシヲス》、四方國爾波《ヨモノクニニハ》、比等佐波爾《ヒトサハニ》、美知弖波安禮杼《ミチテハアレド》、登利我奈久《トリガナク》、安豆麻乎能故波《アヅマヲノコハ》、伊田牟可比加弊里見世受弖《イデムカヒカヘリミセズテ》、伊佐美多流《イサミタル》、多家吉軍卒等《タケキイクサト》、禰疑多麻比《ネギタマヒ》、麻氣乃麻爾麻爾《マケノマニマニ》云々、とあると同じ、
〇都可 弊は、使《ツカ》へなり、これまで、聖武天皇の詔給ひしよし也、
〇不忘は、孝謙天皇の御自也、
〇東國 乃 人等とは、凡てを詔給へるうちに、分て京に參上り居て、仕奉る人どもを、むねとは詔給ふなり、
〇謹 之麻利、上にも謹 麻利とあるに同じ、但しこゝに之(ノ)字あるを思へば、謹結《ツツツミシマリ》にて、ツヽシミシマリと訓べきか、又こゝをもツヽシマリと訓て、上なるも共に、意は謹結《ツツツミシマリ》なるを、彼《カレ》は美《ミ》を略けるものか、はた之(ノ)字の脱たる歟、決《サダ》めがたし、結《シマリ》の事は、第一詔にいへり、
。二所 乃 天皇は、はじめの元正天皇と、聖武天皇と也、類聚國史、大同五年の詔にも、二所(ノ)朝廷と有(リ)、物語書などにも、凡て貴人をば、一人二人とはいはず、一ところ二ところといへり、
〇由無 之弖は、人に云(ヒ)聞しむべき、故由《ユヱヨシ》ついでのなくして也、
〇猶《ナホ》、此辭いかゞ、思ふに、此下に在 伎《アリキ》とありしが、脱たるなるべし、猶は借字にて、黙止《ナホ》の意なるべし、もし然らずつねの猶《ナホ》ならば、上の不得の下に、細書の伎(ノ)字有て、エザリキなるべきに、伎(ノ)字なきをも思ふべし、故(レ)此考(ヘ)によりて訓つ、
〇此 爾 依 天は、二所の天皇の、上(ノ)件の御命をうけ給はりながら、いひ聞せず、さて止《ヤム》べきにあらざるによりて也、
〇令聞 止奈毛 召 都留、毛(ノ)字、一本に牟と作るは、例のわろし、都(ノ)字、一本に豆と作り、
〇教給 牟 御命は、次の夫君 乃 位 波、といふより下の文是也、
〇先 乃 人 波云々、これより、皇位を求めて、得むと謀る人の、思ふ心をいへるにて、先々《サキザキ》に此事を謀りし人どもの、得ることあたはずなりにしは、其(ノ)謀《ハカリコト》の拙劣《ヲヂナ》かりし故也、我はよく剛《ツヨ》く謀りて、必(ズ)得むと思ふよし也、
〇御靈 乃、此上に、天皇 乃などいふことの有しが、脱たるなるべし、十三詔四十三詔などの例を以て知べし、天神地祇(ノ)御靈といふことは、例なし、
〇物 爾 在 波、波(ノ)字、一本に岐に誤れり、
〇己 我 口 乎 以 天毛 云 都は、詞のはしに、おばえずいひ出るやうのことなるべし、都(ノ)字一本に豆と作り、さてこはかならず都々《ツツ》とあるべき處なれば、都(ノ)字今一(ツ)落たるなるべし、但し五十八詔五十九詔にも、必(ズ)都々《ツツ》と有べき處に、三ところまで都とのみ有、○他 毛は、いざなはれて、同心したる人も也、
〇致は、令《ス》v至《イタラ》にて、來らしむる也、
〇君臣 乎毛は、君をも臣をもにて、君と臣とを對へいふにはあらず、臣はオミと訓べし、其罪を議し、刑をとり行ふ臣たちなどをいふ也、
〇心 乎 改 (メ)天、改(メ)といふこと、心得がたし、今現にさる事を謀る人のある如く聞ゆれば也、但し強《シヒ》ていはば、今たとひさる事を謀らむと、ひそかに思ひたつ人ありとも、といふことを、心にもちて見れば、聞ゆる也、
〇憎 多麻波受、麻字、一本に萬と作り、
〇流傳 天牟は、ナガサヒテムと訓べし、ながしを延て、ながさひといふ也、万葉十八に、大夫乃《マスラヲノ》、伎欲吉彼名乎《キヨキソノナヲ》、伊爾之敝欲《イニシヘヨ》、伊麻乃乎追通爾《イマノヲツツニ》、奈我佐敝流《ナガサヘル》、これも流せるを延て、ながさへるといへり、ながすは、長くするにて、久しく傳ふるをいふ、
〇先 乃は、昔のといはむがごとし、
〇體 方 灰 止 共 爾云々は、漢人の語には有べからず、皇國人の語なるべし、さて灰と烟とをもていへるを思へば、いたく古き人のいへるにもあらで、火葬といふ事の、ひろくなりての世の人の語也、
〇過 乎 知 天方云々、千字文に、知(ラバ)v過(ヲ)必(ズ)改(メヨ)、得(バ)v能(ヲ)莫(レ)v忘(ルルコト)、
〇持 伊波、伊波《イハ》とつゞける助辭めづらし、十三詔には、治賜(フ) 伊自、また成(ス) 伊自とも有、
〇稱は、保麻禮《ホマレ》と訓べし、次の謗(リ)の反《ウラ》也、ほまれは、被《レ》v稱《ホメラ》の切《ツヅマ》りたる言也、
〇招 都、都(ノ)字、一本に豆と作り、
〇王法正論品は、彼(ノ)經三十一品に分たる中の、第二十也、
〇若造善惡云々、此文かの經には、若(シ)造(ラバ)2諸(ノ)惡業(ヲ)1、令(メム)d於(テ)2現世中(ニ)1、諸天不2護持(セ)1、示(サ)c其(ノ)諸(ノ)惡報(ヲ)u、國人造(テ)2惡業(ヲ)1、王捨(テ)不(ルハ)2禁制(セ)1、斯(レ)非(ズ)v順(フニ)2正理(ニ)1、治擯當(ニ・シ)v如(クス)v法(ノ)とあるを、こゝに引れたるは、初(メ)四句異也、こは件の文の上に、云々令(メバ)2捨(テ)v惡(ヲ)修(セ)1v善(ヲ)、諸天共(ニ)護持(シテ)、示(サム)2其(ノ)諸(ノ)善報(ヲ)1、とあるを一(ツ)に合せて文をかへて引れたるものと見えたり、然れども造(ル)2惡業(ヲ)1ものを、諸天共(ニ)護持といひては、ことわり背きてうらうへ也、いかゞ、作者の失《アヤマチ》)なるべし、さて今(ノ)字は、令を誤れる歟、又諸本に、禁の上の不(ノ)字を脱せるを、今は一本に依れり、又王者の者(ノ)字は、捨なるを、同音なる故に、誤れるなるべし、
〇人天 乃 勝樂 乎 受 天云々、同經の僧眞爾耶藥又大將品といふに、當(ニ・シ)d受(テ)2無量倶胝那〓多劫、不可思量(ノ)人天(ノ)勝樂(ヲ)1、常(ニ)與2諸佛1共(ニ)相値遇(シ)速(ニ)證(ス)c無上正等菩提(ヲ)uといへり、終 爾 佛 止 成(レ)は、この速證無上云々にあたれり、
〇此賜 布 帶 乎云々、賜 布は、與ふる方をいふ言、多麻波 利は、受る方をいふ言にて、彼此《カナタコナタ》のけぢめあること、第二詔にいへるが如し、さて此時帶を賜へること、此詔の次に、其(ノ)帶(ハ)、皆以2紫(ノ)綾(ヲ)1爲(ル)v之(ヲ)、長(サ)各八尺、其(ノ)二(ノ)端(ニ)、以2金泥(ヲ)1書(ク)2恕(ノ)字(ヲ)1、賜(フ)2五位已上(ニ)1、其(ノ)以2才伎貢獻(ヲ)1、叙(セル)v位(ニ)者(ハ)、不v在2賜(フ)限(ニ)1、但藤原氏(ハ)者、雖2未成人(ト)1皆賜v之とある是也、
〇束 禰 治(メ) 牟 表 止、帶は、衣を治めて、結ひ固むる物なれば也、
〇賜 久止、一本に、久の上に、細書の八(ノ)字あるは、賜の下の傍に、片假字のハの字を付(ケ)たるを、見誤れるなるべし、
〇此詔は、文のやうを以て考ふるに、もしくは、去《イニ》し天平神護元年、和氣王を、謀反せりとして誅《コロ》され、又粟田(ノ)道麻呂など三人をも、罪なひ給ひし時、それにつきての詔にて、卅五詔の次に在べきが、史の紛《マガ》ひて、此處《ココ》に入れるには非る歟、
第四十六詔
同年十一月王辰賜(テ)2宴(ヲ)於五位已上(ニ)1詔(シテ)曰(ク)と有、
今勅 久 今日 方 新嘗 乃 猶良比 乃 豐 乃 明聞 許之賣須 日 仁 在《イマノリタマハクケフハニヒナヘノナホラヒノトヨノアカリキココシメスヒニアリ》。然昨日 能 冬至日 仁 天雨 天 地 毛 潤萬物 毛 萌毛延始 天 好 阿流良牟止 念 仁 伊豫國 與利 白祥鹿 乎 獻奉 天 在 禮方 有禮 志 與呂許保 志止奈毛 見 流《シカルニキノフノフユノキハミノヒニアメフリテツチモウルホヒヨロヅノモノモメグミモエハジメテヨクアルラムトオモフニイヨノクニヨリシロキシルシノシカヲタテマツリテアレバウレシヨロコボシトナモミル》。復三 乃 善事 乃 同時 仁 集 天 在 之止 甚希有 止 念畏 末利 尊 備 諸臣等 止 共 仁 異奇 久 麗白 伎 形 乎奈毛 見喜 流《マタミツノヨゴトノオヤジトキニツドヒテアルシモイトメヅラシトオモホシカシコマリタフトビオミタチトトモニアヤシククスシクウルハシクシロキカタチヲナモミヨロコベル》。故是以黒記白記 乃 御酒食 倍 惠良 伎 常 毛 賜酒幣 乃 物賜 禮止之天 御物給 波久止 宣《カレココヲモテクロキシロキノミキタマヘヱラギツネモタマフサカマヒノモノタマハレトシテオホミモノタマハクトノリタマフ》。
新嘗は、爾比那閇《ニヒナヘ》と訓べし、閇《ヘ》は清音也、辨《ベ》と濁るはわろし、又ニヒナメと訓(ム)も、ひがことなり、其委きよしは古事記傳にいへり、
〇猶良比 乃云々、卅八詔に出(ヅ)、
〇冬至は、布由乃伎波美《フユノキハミ》と訓べし、
〇天雨は、アメフリと訓べし、
〇萌は、メグミと訓べし、めぐむは、芽《メ》ぐむにて、ぐむは、角ぐむ涙ぐむなどのぐむ也、
〇好《ヨク》は、雨の降《フリ》たるに依て也、
〇白祥鹿は、シロキシルシノシカと訓べし、祥は、書紀にはサガと訓(ミ)、休祥《ヨイサガ》祥物《サガモノ》、又|祥瑞《ミヅ》などあれど、これらの訓いかゞ也、又鹿もカセギと訓たれど、此名、古書にたしかに見えたることなし、さて治部省式に、白鹿は、上瑞の中に出せり、此明年【神護景雲四年】五月の漢文(ノ)詔に、先(ニ)v是(ヨリ)伊豫(ノ)國(ノ)員外(ノ)掾從六位上笠(ノ)朝臣雄宗、獻(ル)2白鹿(ヲ)1、勅(シテ)曰(ク)云々、去歳、得(タリ)3伊豫(ノ)國(ノ)守從五位上高圓(ノ)朝臣廣世等(ガ)、進(レルヲ)2白鹿一頭(ヲ)1云々と見えたる、こゝの詔なるは、去歳云々の方也、先(ニ)v是(ヨリ)云々の方は、明年の事と聞ゆれば、別事也、同年【改元寶龜】十月、授2伊豫(ノ)守從五位上高圓(ノ)朝臣廣世(ニ)、正五位下(ヲ)1、掾云々、並(ニ)是(レ)貢(レル)v瑞(ヲ)國郡司(ナリ)、去(ヌル)五月、有(テ)v勅進(ム)2位二階(ヲ)1、至(テ)v是(ニ)授(ク)焉、
〇輿呂許保 志止奈毛、一本に、保(ノ)字を脱し、止(ノ)字を仁に誤れり、
〇三 乃 善事、善事は、與碁登《ヨゴト》と訓べし、万葉廿に、新(シキ)年のはじめの初春の、けふふる雪のいやしけ餘其騰《ヨゴト》、とあるよごとと同じ、壽詞《ヨゴト》とは、事と言との異《カハリ》有(リ)、さて三(ツ)とは、冬至の日の雨の潤(ヒ)と、白鹿と、今一つは、新嘗をいふなるべし、復《マタ》とあるは、これらの外に、又別に有しやうに聞ゆれど、然にはあらず、此三(ツ)の吉事《ヨゴト》の、同時に集ひたるを、復《マタ》とはいへる也、
〇集 天 在 之止は、アルシモと訓べし、止(ノ)字は、決《ウツナ》く毛の誤也、之《シ》は助辭也、又アフシモとも訓べし、その時は、之《シ》は過しことをいふ詞也、然れども猶アルシモといふ方まさるべし、
〇甚希有、甚(ノ)字、本どもに其に誤る、今改む、希有は、メヅラシと訓べし、履中紀に然訓り、又神功紀に、希見此(ヲ)云2梅豆邏志《メヅラシト》1、敏達紀に未曾有《メヅラシ》、崇峻紀に所希聞《メヅラシ》、万葉に希將見《メヅラシ》、
〇尊 備、備(ノ)字、一本には美と作り、
〇麗白 伎 形 乎云々、かの白鹿を、今日|御覽《ミソナ》はし王臣たちにも、見せ給へるなるべし、
〇食 倍は、タマヘと訓べし、卅八詔に、多末 倍 惠良 伎《タマヘヱラギ》とあると、同事也、
〇賜(ハ) 禮は、俗言に、いたゞけといふことにて卅八詔に、賜 方利 以 天 |退《マカレ》と有(ル)に同じ、
第四十七詔
同四年八月庚寅朔癸巳、天皇崩(リマス)2于西宮(ノ)寢殿(ニ)1、春秋五十三、左大臣從一位藤原(ノ)朝臣永手、右大臣正二位吉備(ノ)朝臣眞備、云々等、定(メ)2策(ヲ)禁中(ニ)1、立(テテ)v諱(ヲ)爲2皇太子(ト)1、左大臣從一位藤原(ノ)朝臣永手、受(テ)v遺(ヲ)宣《ノリテ》曰(ク)とあり、
今詔 久 事卒爾 爾 有依 天 諸臣等議 天 白壁王 波 諸王 乃 中 爾 年齒 毛 長 奈利《イマノリタマハクコトニハカニアルニヨリテオミタチハカリテシラカベノオホキミハオホキミタチノナカニヨハヒモタケタリ》。又先帝 乃 功 毛 在故 爾 太子 止 定 天 奏 波 奏 流麻爾麻 宣給 布止 勅 久止 宣《マタサキノミカドノミイサヲモアルガユエニヒツギノミコトサダメテマヲセバマヲセルマニマサダメタマフトノリタマハクトノル》。
’
事卒爾 爾云々、上の爾(ノ)字、一本に然と作り、そも/\高野天皇は、自(リ)v幸(シシ)2由義《ユゲノ》宮(ニ)1之後、不豫經v月(ヲ)と有て、大御病俄なるにはあらざれども、いまだ皇嗣を定め給はずして、崩(リ)坐(シ)なむとすること、いま/\となりぬるよし也、万葉十六に、病める婦のよめる歌に、將死命《シナムイノチ》、爾波可爾成奴《ニハカニナリヌ》、とあると同じ、さてかく終に皇太子を定め給はずしてやみぬるは、道鏡が望(ミ)をかけて有しが故也けり、
〇白壁王は、天智天皇の大御孫、施基《シキノ》皇子の第六の御子に坐まして、大御母は、贈太政大臣紀(ノ)朝臣諸人の女、橡姫と申しき、此王此(ノ)時御年は六十二、御位は、正三位の大納言にぞおはしましける、
〇年齒 毛 長 奈利、こはヒトヽナリとより外に、訓べきやうなし、されど六十にもあまり給へるを、然申すべきにはあらざれば、奈(ノ)字は、多を誤れるものか、又太歟、姑く多氣多理《タケタリ》と訓つ、多氣《タケ》とは、高くなるをいふ、五十八詔に、年 毛 高 久 成 多流 朕 乎 置 弖と有(リ)、又奈(ノ)字本のまゝにて、オトナナリと訓べきかとも思へど、おとなといふこと、古くは見あたらず、次に引る、三代實録なるも、さは訓がたし、三代實録四十四詔に、光孝天皇を御位に即《ツケ》奉ることを、一品行式部卿(ノ)親王 波、諸(ノ)親王《ミコタチノ》中 爾、貫首 爾毛 御坐(シ)、又前(ノ)代《ミヨ》 爾、無2太子1時 爾波、如此老徳 乎 立奉之例在(リ)、必以御齢 母 |長《タケ》給 比、御心 母 正直 久、慈厚(ク)愼深(ク)御坐 天 云々と見ゆ、前代 爾云々は、此(ノ)光仁天皇の御例をいへる也、
〇先帝は、大御祖父天智天皇也、功は、もろ/\の御制《ミサダメ》を改めて、かの不改常典を立給へる御事也、
〇太子 止 定 天、上の諸臣等議 天は、此處《ココ》へ係れり、
〇奏(セ) 波は、いまだ皇太子を定め給はずして、事にはかになりぬる故に、止《ヤム》事えず、諸臣議りて、定め奉れるよしを、高野(ノ)天皇に申せば也、
〇奏 流麻爾麻 宣《サダメ》給 布止 勅、下の麻の下にも、一本には爾(ノ)字有(リ)、さて宣(ノ)字は、定を誤れる也、定給 布は、天皇の定め給ふよし也、そも/\此事、實には天皇は既に崩坐て後に、定めつるなれども、そは極《キハ》めてやむことを得ざる故にこそあれ、天津日嗣を、臣として定(メ)奉るべきに非るを以て、端の文にも、受(テ)v遺(ヲ)といひ、こゝにもかくは宣《ノ》れる也、されば勅 久も、天皇の勅ふよし也、そのかみ猶かく、古の意を失はざりしを、後(ノ)世に至りては、臣下として、何の畏《オソ》れもなげに、たやすく御位を定(メ)奉るは、いとも/\かしこき、まが事なりかし、
〇すべて此高野(ノ)天皇の御世のほどは、禍津日《マガツヒノ》神の心の、いかにあらびにあらびたりけむ、たぐひなきまが事ども多く、殊に道鏡が事は、神代よりたぐひなく、いはむかたもなき大禍事《オホマガコト》にぞ有ける、かゝるいみしき亂《ミダレ》はまことに三寶の驗《シルシ》、最勝王經梵天帶釋四大天王の、不可思議威神の力の守護《マモリ》にこそは有けめと、いとも/\ゆゝしく、あさましくなむ、さてかの道鏡が事は、天平寶字七年九月、以2道鏡法師(ヲ)1、爲2少僧都(ト)1と見えてより、いやすゝみに進昇《ススミノボ》りし事、廿八詔卅六詔四十一詔に見えたるがごとし、かくて高野(ノ)天皇崩(リ)坐て、葬奉りて、道鏡法師奉2梓宮(ニ)1、便留(リテ)廬(ス)2於陵(ノ)下(ニ)1とあるは、皇太子又臣のはからひにて、然|爲《セ》しめ給へりしなるべし、さて其次の文に、天皇尤、崇(メ)2佛道(ヲ)1、務(メテ)恤(ミタマフ)2刑獄(ヲ)1、勝寶(ノ)之際、政稱(ス)2儉約(ト)1、自2太師被(レテ)1v誅(セ)、道鏡擅(ニシテ)v權(ヲ)、輕興(シ)2力役(ヲ)1、務(メテ)繕(ヒ)2加藍(ヲ)1、公私彫喪(シテ)、國用不v足、政刑日(ニ)峻(シク)、殺戮妄(ニ)加(フ)、故(ニ)後(ノ)之言(フ)v事(ヲ)者、頗(ル)稱(ス)2其(ノ)冤(ヲ)1焉と見え、又皇太子令旨(ス)、如(キハ)v聞(ガ)道鏡法師、竊(ニ)挾(テ)2砥粳(ノ)之心(ヲ)1、爲《タルコト》v日久(シ)矣、陵土未v乾、※[(女/女)+干]謀發覺(ス)、是則神祇(ノ)所v護(ル)、社稷攸(ナリ)v祐(クル)、今顧(テ)2先聖(ノ)厚恩(ヲ)1、不v得2依(テ)v法(ニ)入(ルルコトヲ)1v刑(ニ)、故(ニ)任(シテ)d造(ル)2下野(ノ)國(ノ)藥師寺(ヲ)1別當(ニ)u發遣(ス)、宜(シト)v知v之(ヲ)、即曰、遣(シテ)2左大辨正四位下佐伯(ノ)宿禰今毛人弾正(ノ)尹從四位下藤原(ノ)朝臣楓麻呂(ヲ)1、促《ウナガシテ》令(ム)2上道《ミチダチセ》1と見え、また流(ス)2道鏡(ガ)弟弓削(ノ)淨人、淨人(ガ)男廣方廣田廣津(ヲ)於土左(ノ)國(ニ)1と見えたり、淨人は、是よりさきには、從二位大納言まで昇りたりき、抑此道鏡は、古(ヘ)今にたぐひもなき、おふけなき、惡き穢き奴にしあれば、極刑に行ひて、その屍を寸々《ツダツダ》に屠散《ハフリチラ》しても、なほあきたるまじきに、高野(ノ)天皇世に坐まししほどは、いさゝかも下より議《ハカ》らふことなく、天皇の御心に從ひ奉りて、崩坐て後に至りてすら、宥《ナダ》めて、かくいと輕く行ひ給へるは、ひとへに先(キノ)天皇を重《オモ》みし奉り給ひて、深く顧みおぼしめしたる大御心にて、かにもかくにも天皇の御しわざを、傍《カタハラ》よりはかり奉ることなく、かしこみ從ひ奉り、崩坐ての後までも、猶かく有けるは、古(ヘ)の正しき道の、さすがにのこれる御しわざにて、いとも/\有(リ)がたく、たふとき御事なりかし、同月授2從四位上坂上(ノ)大忌寸苅田麻呂(ニ)正四位下(ヲ)1以(テ)v告(ルヲ)2道鏡法師(ガ)※[(女/女)+干]計(ヲ)1也、寶龜三年四月下野(ノ)國言(ス)、造藥師寺別當道鏡死(スト)、道鏡(ハ)、俗姓(ハ)弓削(ノ)連、河内(ノ)人也、略《ホボ》渉(テ)2梵文(ニ)1、以2禅行(ヲ)1聞(ユ)、由(テ)v是(ニ)入(リ)2内道場(ニ)1、列(シテ)爲2禅師(ト)1、寶字五年、從(リ)d幸(シシ)2保良(ニ)1時(ニ)、侍(テ)c看病(ニ)u、稍被(ル)2寵辛(ヲ)1、廢帝常(ニ)以(テ)v爲《ナスヲ》v言(フコトヲ)、與《ト》2天皇1不2相中(リ)得1、天皇乃還2平城(ニ)1、別(ニシテ)v宮(ヲ)而居焉、寶字八年、大師惠美(ノ)仲麻呂、謀反伏v誅(ニ)、以2道鏡(ヲ)1爲2大政大臣禅師(ト)1、居(ルコト)頃之《シバラクシテ》、崇(ムニ)以(テシ)2法王(ヲ)1、載(スルニ)以(テシ)2鸞輿(ヲ)1、衣服飲食、一(ラ)擬(フ)2供御(ニ)1、政(ノ)之巨細、莫(シ)v不(トイフコト)2取(テ)決(セ)1、其(ノ)弟淨人、自(リシテ)2布衣1八年(ノ)中(ニ)、立(テ)至(ル)2從二位大納言(ニ)1、一門五位(ナリ)者、男女十人(アリ)、時(ニ)太宰(ノ)主神習宜(ノ)阿曾麻呂詐(テ)稱(シテ)2八幡(ノ)神(ノ)教(ト)1、誑2燿(ス)道鏡(ヲ)1、々々信(シテ)v之(ヲ)、有d覬2覦(スル)神器(ヲ)1之意u、語在2高野(ノ)天皇(ノ)紀(ニ)1、※[さんずい+自](テ)2于宮車晏駕(スルニ)1、猶以2威幅由(ルヲ)1v己(ニ)、竊(ニ)懷(ク)2僥倖(ヲ)1、御葬禮畢(テ)、奉v守2山陵(ヲ)1、以(テ)2先帝(ノ)所(ナルヲ)1v寵(シタマフ)、不v忍v致(スコト)v法(ヲ)、因(テ)爲(テ)2造下野(ノ)國藥師寺別當(ト)1、遞2送(ス)之(ヲ)1、死(ルトキ)以2庶人(ヲ)1葬(レリ)v之(ヲ)、と見え、卅一の卷、藤原(ノ)永手(ノ)大臣の傳に、寶龜元年、高野(ノ)天皇不※[余/心](ノ)時、道鏡因2播籍(ノ)恩(ニ)1、私勢振2内外1、自(リ)v廢(セシ)v帝(ヲ)、點(シテ)d宗室(ノ)有(ル)2重望1者(ヲ)u、多(ク)羅《カカラシメ》2非辜(ニ)1、日嗣之位、遂(ニ)且《ス》v絶(ムト)矣、道鏡自以(テ)2寵愛(ノ)隆渥(ナルヲ)1、日夜僥2倖(ス)非望(ヲ)1、至(テ)2宮車晏駕(スルニ)1、定(メテ)v策(ヲ)遂(ニ)安(ズル)2社稷(ヲ)1者(ハ)、大臣(ノ)之力|居多《オホシ》焉と見えたり、
續紀歴朝詔詞解六卷
本居宣長解
第四十八詔
卅一の卷に、寶龜元年八月四日癸巳、高野(ノ)天皇崩、群臣受(テ)v遺(ヲ)、即日立(テ)v諱(ヲ)、爲2皇太子(ト)1、冬十月己丑朔、即2天皇(ノ)位(ニ)於大極殿(ニ)1、改2元(ヲ)寶龜(ト)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、光仁天皇の御位に即(キ)給へるをりの詔也、
天皇 我 詔旨勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。掛 母 恐 伎 奈良宮御宇倭根子天皇去八月 爾 此食國天下之業 乎 拙劣朕 爾 被賜而仕奉 止 負賜授賜《カケマクモカシコキナラノミヤコニアメノシタシロシメシシヤマトネコスメラミコトノイニシハヅキニコノヲスクニアメノシタノワザヲツタナクヲヂナキアレニタマハリテツカヘマツレトオホセタマヒサヅケタマフ》 伎止 勅〔三字□デ囲む〕天皇詔旨 乎 頂 爾 受被賜恐 美 受被賜懼進 母 不知 爾 退不知 爾 恐 美 坐 久止 勅命 乎 衆聞食宣《スメラガオホミコトヲイナダキニウケタマハリカシコミウケタマハリヲヂススムモシラニシゾクモシラニカシコミマサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。然此 乃 天日嗣高御座之業者天坐神地坐祇 乃 相宇豆奈 比 奉相扶奉事 爾 依 弖志 此産者平安御坐 弖 天下者所知物 爾 在 良之止奈母 所念行 須《サテコノアマツヒツギタカミクラノワザハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリアヒタスケマツルコトニヨリテシコノクラヰニハタヒラケクヤスクオホマシマシテアメノシタハシロシメスモノニアルラシトナモオモホシメス》。又皇坐而天下治賜君者賢臣能人 乎 得而 志 天下 乎波 平安治物 爾 在 良志止奈母 聞看行 須《マタスメラトマシテアメノシタヲサメタマフキミハカシコキオミノヨキヒトヲエテシアメノシタヲバタヒラケクヤスクヲサムルモノニアルラシトナモキコシメス》。故是以大命坐勅 久 朕雖拙弱親王始而王臣等 乃 相穴 奈比 奉相扶奉 牟 事 爾 依而 志 此之負賜授賜食國天下之故者平安仕奉 倍之〔二字○で囲む〕止奈母 所念行 須《カレココヲモテオホミコトニマセノリタマハクアハツタナクヲヂナクアレドモミコタチヲハジメテオホキミタチオミタチノアヒアナナヒマツリアヒタスケマツラムコトニヨリテシコノオホセタマヒサヅケタマフヲスクニアメノシタノマツリゴトハタヒラケクヤスクツカヘマツルベシトナモオモホシメス》。故是以衆淨明心正直言以而食國政奏 比 天下公民 乎 惠治 倍之止奈母 所念行 須止 勅天皇命衆聞食宣《カレココヲモチテモロモロキヨキアカキココロタダシキナホキコトヲモチテヲスクニノマツリゴトマヲサヒアメノシタノオホミタカラヲメグミヲサムベシトナモオモホシメストノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別詔今年八月五日肥後國葦北郡人曰奉部廣主賣獻白龜《コトワケテノリタマハクコトシハヅキノイツカノヒヒノミチノシリノクニノアシキタノコホリノヒトヒマツリベノヒロヌシメシロキカメヲタテマツリキ》。又同月十七日同國益城郡人山稻主獻白龜《マタオヤジツキノトヲカマソナヌカノヒオヤジクニノマシキノコホリノヒトヤマノイナヌシシロキカメヲタテマツリキ》。此則並合大瑞《コハスナハチトモニダイズヰニアヘリ》。故天地※[貝+兄]大瑞者受被賜歡受被賜可貴物 爾 在《カレアメツチノタマヘルオホキシルシハウケタマハリ∃ロコビウケタマハリタフトブベキモノニアリ》。是以改神護景雲四年爲寶龜元年《ココヲモテジムゴケイウムノヨトセヲアラタメテホウキノハジメノトシトス》。又仕奉人等中 爾 志 何 仕奉状隨 弖 一二人等冠位上賜 比 治賜 布《マタツカヘマツルヒトドモノナカニシガツカヘマツルサマノマニマニヒトリフタリドモカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。又大赦天下《マタアメノシタヒロクツミユルシタマフ》。又天下六位已下有位人等給位一階《マタアメノシタノムツノタラヰヨリシモツカタクラヰアルヒトドモニクラヰヒトシナタマフ》。大神宮始 弖 諸社之禰宜等給位一階《オホミカミノミヤヲハジメテヤシロヤシロノネギドモニクラヰヒトシナタマフ》。又僧綱始 弖 諸寺師位僧尼等 爾 御物布施賜 布《マタホウシノツカサヲハジメテテラデラノシノクラヰノホウシアマドモニオホミモノホドコシタマフ》。又高年人等義賜《マタトシタカキヒトドモヤシナヒタマフ》。又困乏人等惠賜 布《マタマヅシキヒトドモメグミタマフ》。又孝義有人等其事免賜《マタケウギアルヒトドモソノコトユルシタマフ》。又今年天下田租免賜 久止 宣天皇勅衆聞食宣《マタコトシアメノシタノタヂカラユルシタマハクノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
天皇 我 詔旨、本ども詔旨(ノ)二字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇聞食、印本には食(ノ)字なし、今は一本又一本に依れり、下なるも皆同じ、
〇奈良宮云々 は、高野(ノ)天皇を申(シ)給ふ也、
〇去八月 爾云々、高野(ノ)天皇は、此天皇を、皇太子に定(メ)給へるのみにて、御位を授(ケ)給へる事は、前《サキ》に見えざれども、既に皇太子と定(メ)おきて、崩坐ぬれば、御位を授給へるも同じ事なる故に、かく詔給ふなるべし、
〇被賜而、上の朕 爾は、負(セ)賜(ヒ)へ係りて、受(ケ)賜はりて仕奉れと負せ給ふ也、朕に賜ひてといふにはあらず、而(ノ)字、印本に百に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇授賜 伎止 勅、伎止勅の三字、こゝに叶はず衍也、削(リ)去(ル)べし、もしは伎(ノ)字は、布の誤歟とも思へども、さても猶いかが也、此三字は、後にさかしらに加へたるものか、はたもとより作者の失錯か、とまれかくまれ、除かでは言とゝのはず、一本には止(ノ)字なし、
〇天皇詔旨は、即(チ)件の高野(ノ)天皇の詔なり、
〇進 母云々、第五詔に出(ヅ)、
〇勅命 乎 衆、本ども、勅命 乎の三字を、宣勅(ノ)二字に作、又印本、衆(ノ)字を落せり、今は並《トモ》に別本に依(ル)、
〇天坐神地坐祇 乃、おほくの本に、乃(ノ)字なし、今は一本に依れり、一本には、地坐の坐(ノ)字を脱せり、さて高野(ノ)天皇の御世のほどは、大かたのみだれ多かりしことは、さらにも申さず、さかりに佛法を尊み給ひて、大嘗に僧のまじりて、仕奉れりしなど、古今たぐひなく、まが事のきはみなりき、さてをり/\の詔にも、上 都 方 波 三寶 仁 供奉(リ)、次 仁方 天(ツ)社國(ツ)社 乃 神等 乎毛 爲夜備《ヰヤビ》 末都利、また三寶 毛 諸天 毛、天地 乃 神 多知毛など、ひたぶるに佛を上にたてて、先(ヅ)あげて、神をば、佛より次に下《クダ》して詔給ひ、やゝもすれば三寶諸天諸聖など、うるさきことのみにて、かにかくに佛法を主《ムネ》として詔給へりしは、神國にかけてもあるべきことにあらず、みな佛書のみだり説《ゴト》に欺かれ給ひ、惑ひ給へる、まがことなりき、然るに今此天皇の、天つ日嗣しろしめしての此詔には、かのまが/\しき佛ざたをば、清くすてて、かくもはら天(ツ)神國(ツ)神を擧給へる、定まれる事とは申しながら、いと/\たふとく、常夜《トコヨ》行《ユキ》ける天(ノ)下の、立かへりて照明《テリアカ》れるこゝちして、かへす/\たふとし、
〇相扶奉、天坐神地坐祇には、第四詔第六詔十三詔などみな、相宇豆 奈比 奉(リ)福《サキ》 波倍 奉(ル)事 爾 依而、とある例なれども、福 波倍をかへて、相扶といへるも、廿三詔に例有(リ)、前後の語も、かの詔の例に同じ、
〇所知物、物(ノ)字、一本に拗に誤れり、次なる治物 爾の物(ノ)字も同じ、
〇賢臣云々、廿四詔六十一詔などにも見ゆ、
〇大命(ニ)坐(セ)、此事、第三詔の處にいへり、
〇相穴 奈比、第三詔に出(ヅ)、
〇相扶奉 牟 事 爾 依而、印本に事(ノ)字を脱せり、一本には牟(ノ)字なし、今は共に一本に依れり、此語、廿四詔六十一詔などにも見ゆ、
〇仕奉 倍之止奈母、諸本に、倍之の二字を脱せり、今は廿四詔六十一詔の例に依て補(フ)、
〇奏 比は、マヲサヒと訓べし、しを延て、さひといへる也、五十一詔にもかく有、
○間食宣、本に食之字なし、今は一本に依れり、終(リ)なるも同じ、
○肥後は、和名抄に、比乃美知乃之利《ヒノミチノシリ》、
○葦北は、同書に阿之木多《アシキタ》、
〇日奉部(ノ)廣主賣、部(ノ)字、下(ノ)文には公とあり、姓氏録に、日奉(ノ)連ありて、高魂(ノ)命(ノ)之後也、と見えたるとは、異姓か同じきかしらず、
〇益城は、和名抄に、萬志岐《マシキ》、國府と有、
〇山(ノ)稻主、山は、山部氏なるべし、延暦四年の詔に、山部氏、天皇の御諱にふるゝに依て、山と改められしこと見ゆ、故(レ)こゝも、前《サキ》の事ながら、避てかくは記されたるなるべし、姓氏録に、山(ノ)公山(ノ)直山(ノ)首など有(リ)、又山部(ノ)宿禰も有しを、姓氏録に宿禰なるは見えず、こゝは右の内いづれとも知がたし、さて此白龜の出たる事、二つ共に、八月の紀には見えず、此下に、同月丁酉、賜(フ)d獲(タル)2白龜(ヲ)1者、山(ノ)稻主日奉(ノ)公廣主女、爵人(ゴトニ)十六級、※[糸+施の旁]十匹、綿廿屯、布四十端、正税一千束(ヲ)u上と有、
〇並は、トモニと訓べし、又ミナと訓てよろしき處も有(リ)、ナラビニと訓(ム)は、漢文よみ也、
○合2大瑞(ニ)1、白龜を大瑞とせらるゝ事、第五詔の處にいへり、
〇受被賜は、天地の※[貝+兄]《タマ》へるを、受て被《ハル》v賜也、
〇志 何《シガ》は、其之《ソレガ》也、上にも出(ヅ)、
〇状隨 弖、弖(ノ)字は、尓を誤れるか、マニ/\といへる例也、シタガヒテと訓ても、意は同じけれど、猶古言の例に訓べき也、
〇大赦天下、第六詔に出たり、
〇僧綱、十三詔に出(ヅ)、
〇諸寺師位、廿四詔に出(ヅ)、
〇高年人より、其事免賜まで、皆十三詔に出(ヅ)、
〇田租、租(ノ)字、本に稻に誤れり、今は一本に依(ル)、
第四十九詔
同年十一月己未朔甲子、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、
現神大八洲所知倭根子天皇詔旨 止 宣詔旨 乎 親王王臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。朕以幼弱身※[天/水]鴻業 弖 恐 利 畏進 宅 不知 爾 退 毛 不知 爾 所念 波 貴 久 慶 伎 御命自獨 能味夜 受賜 武止 所念 弖奈毛 法 能麻爾麻爾 追皇掛恐御春日宮皇子拳稱天皇又兄弟姉妹諸王子等悉作親王 弖 冠位上給治給《アレツタナクヲヂナキニアマツヒツギタカミクラノワザヲウケタマハリテカシコマリヲヂススムモシラニシゾクモシラニオモホセバタフトクヨロコボシキオホミコトヲミヅカラヒトリノミヤウケタマハラムトオモホシテナモノリノマニマニカケマクモカシコキカスガノミヤミオホマシマシシミコヲタタヘマツリテスメラミコトトマヲシマタアニオトアネイモミコタチミナミコトナシテカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。又以井上内親王定皇后 止 宣天皇御命衆間食宣《マタヰノヘノヒメミコヲオホキサキトサダメタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
以幼弱身、全く漢文ぶりのまゝに書る語也、幼弱も、拙弱拙劣などあると同じこと也、幼は、書紀に、不賢不敏などを、ヲサナシと訓る意也、
〇※[天/水]鴻業、これも全く漢文也、此處の語の例を考るに、廿四詔に、此(ノ)天(ツ)日嗣高御座之業 乎、拙劣朕 爾 被《リ》v賜(ハ)而云々、四十八詔に、此(ノ)食國天下之業 乎、拙劣朕 爾 被賜而云々、などあるにあたれば、こゝも、アレツタナクヲヂナキニ、アマツヒツギタカミクラノワザヲウケタマハリテと訓べし、書紀に、鴻業鴻基鴻緒帝業大業など、みなアマツヒツギと訓り、
〇恐 利 畏は、カシコマリヲヂと訓べし、廿四詔に、受賜(ハ) 利 恐 美、受賜 利 |懼《ヲヂ》、進(ム) 母云々、廿五詔に、頂(ニ)受給(ハ) 利、歡 備 貴 美、懼 知 恐《ヲヂカシコマ》 利弖など、猶多し、
〇所念 波 貴 久 慶 伎、印本、貴 久の二字を脱し、波(ノ)字を伎に、慶(ノ)字を度に誤れり、今はみな他(ノ)本どもに依れり、
〇御命は、高野(ノ)天皇の、御位を授給へる御命なり、
〇獨 能味夜、夜《ヤ》は、夜波《ヤハ》の意也、
〇法 能麻爾麻爾、繼嗣令に凡皇兄弟皇子皆爲2親王(ト)1云々、
〇御春日宮皇子、御は、オホマシ/\シと訓べし、天皇の大御父|施基《シキノ》皇子也、世に坐(シ)まししほど、春日の地に住居《スミ》坐(シ)けむ、御名をば諱《イミ》て、尊みてかく申給ふ也、さてやがてこれを、追尊の御號とし給へり、靈龜二年八片甲寅、二品|志貴《シキノ》親王薨、天智天皇(ノ)第七之皇子也、寶龜元年、追尊(シテ)稱(ス)d御(シシ)2春日(ノ)宮(ニ)1天皇(ト)uと有、御母は、道(ノ)君|伊羅都賣《イラツメ》と、書紀に見ゆ、諸陵式に、田原(ノ)西(ノ)陵(ハ)、春日(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ナリ)と有(リ)、御陵に依て、田原(ノ)天皇と申す也、
〇追皇は、タヽヘマツリテと訓べし、例廿五詔に在(リ)、
○奉稱は、マヲシと訓べし、マヲシマツルといふは、古言に非ず、さて此時に、大御母命をも、追尊し奉り給ふべきに、漏《モレ》給へるは、いかなるよしにか有けむ、此(ノ)明年に至りて、十二月癸丑朔丁卯、勅(ス)、先妣紀氏、未(ダ)2追尊號(セ)1、自今以後、宜(シ)v奉v稱2皇太后(ト)1、御墓(ハ)者、稱2山陵(ト)1、其忌日(ハ)者、亦入2國忌(ノ)例(ニ)1、設(ルコト)v齋(ヲ)如(クセヨ)v式(ノ)と有、
〇諸王子等は、此(ノ)天皇の御子たちなり、
〇作2親王1、此詔の次に、從四位下諱に四品、酒人(ノ)内親王に三品、從四位下衣縫(ノ)女王難波(ノ)女王坂合部(ノ)女王能登(ノ)女王|彌努摩(ミヌマノ)女王に並(ニ)四品を授(ケ)給ふとある、これ皆親王になし給へるよし也、いづれも是より後は、内親王とあり、右の内に、諱とあるは山部(ノ)王【桓武天皇】なり、衣縫難波坂合部三王は、天皇の御姉妹也、酒人能登彌努摩三王は、皇女也、かくて此中に、酒人のみ、三品になし給ひ、こゝにも内親王と記されたるは、いかなるよしにか、もしくは此一柱のみ、井上(ノ)内親王の御腹にやおほしましけむ、
〇井上内親王は、聖武天皇の皇女にて、御母は、讃岐守從五位下縣(ノ)犬養宿禰唐が女、夫人正三位廣刀自と申す、安積《アサカノ》親王不破内親王などと、同(ジ)御腹に坐き、此御名は、韋乃閇《ヰノヘ》と訓べし、和名抄に、河内(ノ)國志紀(ノ)郡井於(ハ)井乃倍《ヰノヘ》、甲斐(ノ)國山梨(ノ)郡井上(ハ)井乃倍とあり、神名帳に、大和(ノ)國平群(ノ)郡|猪上《ヰノヘノ》神社も有(リ)、万葉七に、春霞井上從直爾道者雖有《ハルガスミヰノヘユタダニミチハアレド》云々、これらの内の地名に依れる、井(ノ)上といふ姓有て、それに依れる御名也、そのかみ皇子皇女の御名は、皆御乳母の姓なれば也、
第五十詔
同二年春正月己未朔辛巳、立(テ)2他戸(ノ)親王(ヲ)1、爲2皇太子(ト)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、
明神御八洲養徳根子天皇詔旨勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。隨法 爾 皇后御子他戸親王立爲皇太子《ノリノマニマニオホキサキノミコヲサベノミコヲヒツギノミコトサダメタマフ》。故此状悟 弖 百官人等仕奉詔天皇御命諸聞食止宣《カレコノサマサトリテモモノツカサノヒトドモツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトル》。故是以大赦天下罪人《カレココヲモテアメノシタヒロクツミビトユルシタマフ》。又一二人等冠位上賜治賜《マタヒトリフタリドモカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。又官人等大御手物賜《マタツカサビトドモニオオミテツモノタマフ》。高年窮乏孝義人等義給治賜 久止 勅天皇命 乎 衆聞食宣《トシタカキヒトマヅシキヒトケウギアルヒトドモヤシナヒタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
養徳は、倭《ヤマト》なり、天平九年に、改(メテ)2大倭(ノ)國(ヲ)1、爲2大養徳《オホヤマトノ》國(ト)1とありて、同十九年に、改(メテ)2大養徳(ノ)國(ヲ)1、依(テ)v舊(ニ)爲2大倭(ノ)國(ト)1と有(リ)、かゝれば天平のころ、しばらく此字を用ひられしこと有しによりて、後にもかゝる文には、をり/\書れたる也、
〇聞食宣、本に食(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、終《トヂメ》なるも同じ、
〇皇后(ノ)御子とは、皇后の御腹のよし也、
〇他戸親王、此御名、ヲサベと訓る宜し、他《ヲサ》は譯語也、敏達天皇の都の譯語田《ヲサダノ》宮をも、古事記には、他田《ヲサダノ》宮と書り、和名抄、駿河(ノ)國有度(ノ)郡の郷(ノ)名にも、他田(ハ)乎佐多《ヲサダ》とあり、さて此御名の他戸は、御乳母の姓なるべし、
〇立爲は、サダメタマフと訓べし、立爲と書るは、漢文ざまなり、第七詔に、藤原(ノ)夫人《キサキ》 乎 皇后《オホキサキ》 止 定(メ)賜(フ)、廿三詔に、日嗣 止 定賜 弊流 皇太子、四十七詔に、太子 止 定(メ) 天、五十四詔に、皇太子 止 払(メ)賜 部流、六十詔に、皇太子 止 定(メ)賜 布、などある如く、皇后も太子も、定(メ)賜(フ)といふぞ古(ヘ)なる、
〇高年窮乏は、年の下乏の下、ともに人といふべきを、孝義人の人に兼て、略ける也、十三詔四十八詔などの例に依て、みな人と讀(ミ)付(ク)べし、此詔などは、すべて漢文ざまの字面を思ひて、字を略けること多し、
〇孝義人、これも十三詔四十八詔の例のごとく、有《アル》と讀付べし、
〇治賜 久止,久(ノ)字、本どもに牟に誤れり、布にても有べし、今は、もろ/\の詔どもの結《トヂメ》の例によりて改めつ、一本には、止(ノ)字を脱せり、
第五十一詔
同年二月己酉、左大臣正一位藤原(ノ)朝臣永手薨、時年五十八、奈良(ノ)朝(ノ)贈大政大臣房前(ノ)之第二子也、母(ヲ)曰2正二位牟漏(ノ)王(ト)1云々、神護二年、拜2右大臣1、授2從一位1、居(ルコト)二歳、轉2左大臣1云々、及v薨(ニ)天皇甚痛2惜之1、詔(シテ)遣(シテ)2正三位中納言兼中務卿文室(ノ)眞人大市、正三位員外中納言兼宮内卿右京(ノ)大夫石川(ノ)朝臣豐成(ヲ)1、弔2賻之(ヲ)1曰(ク)と有、
藤原左大臣 爾 詔大命 乎 宣《フヂハラノヒダリノオホオミニノリタマフオホミコトヲノル》。大命坐詔 久 大臣明日者參出來仕 牟止 待 比 賜間 爾 休息安 麻利弖 參出 末須 事 波 無 之帝 天皇朝 乎 置而罷退 止 聞看而於母富 佐久 於與豆禮 加母 多波許止 乎加母 云《オホミコトニマセノリタマハクオホオミアスマヰデキツカヘムマトタヒタマフアヒダニヤスマリテマヰデマスコトハナクシテスメラガミカドヲオキテマカリイマストキコシメシテオモホサクオヨヅレカタモタハコトヲカモイフ》。信 爾之 有者仕奉 之 太政官之政 乎波 誰任 之加母 罷伊麻須《マコトニシアラバツカヘマツリシオホキマツリゴトノツカサノマツリゴトヲバタレニヨサシカモマカリイマス》。孰授 加母 罷伊麻 須《タレニサヅケカモマカリイマス》。恨 加母 悲 加母 朕大臣誰 爾加母 我語 比 佐氣 牟《ウラメシカモカナシカモアガオホオミタレニカモアガカタラヒサケム》。執 爾加母 我問 比 佐氣 牟止 悔 彌 惜 彌 痛 彌 酸 彌 大御泣哭 之 坐 止 詔大命 乎 宣《タレニカモアガトヒサケムトクヤシミアタラシミイタミカナシミオホミネナカシマストノリタマフオホミコトヲノル》。加※[□デ囲む] 悔 加母 惜 加母 自今日者大臣之奏 之 政者不聞看 夜 成 牟《クヤシカモアタラシカモケフヨリハオホオミノマヲシシマツリゴトハキコシメサズヤナラム》。自明日者大臣之仕奉儀者不看行 夜 成 牟《アスヨリハオホオミノツカヘマツリシスガタハミソナハサズヤナラム》。日月累往 麻爾麻爾 悲事 乃未之 彌可起 加母《ツキヒカサナリユクマニマニカナシキコトノミシイヨヨオコルベキカモ》。歳時積往 麻爾麻爾 佐夫之 岐 事 乃未之 彌可益 加母《トシツキツモリユクマニマニサブシキコトノミシイヨヨマサルベキカモ》。朕大臣春秋麗色 乎波 誰倶 加母 見行弄賜 牟《アガオホオミハルアキノウルハシキイロヲバタトトモニカモミソナハシモテアソビタマハム》。山川淨所者孰倶 加母 見行阿加良 閇 賜 牟止 歎賜 比 憂賜 比 大坐坐 止 詔大命 乎 宣《ヤマカハノキヨキトコロヲバタレトトモニカミソナハシアカラヘタマハムトナゲキタマヒウレヒタマヒオホマシマストノリタマフオホミコトヲノル》。美麻之大臣 乃 萬政總以無怠緩事無曲傾事 久 王臣等 乎母 彼此別心無普平奏 比 公民之上 乎母 廣厚慈而奏事此耳不在《ミマシオホオミノヨロヅノマツリゴトフサネモチテオコタリタユムコトナクマゲカタブクルコトナクオホキミタチオミタチモカレコレワクココロナクアマネクタヒラケクマヲサヒオホミタカラノウヘヲモヒロクアツクメグミテマヲサヒシコトコレノミニアラズ》。天皇朝 乎 暫之問 母 罷出而休息安 母布 事無食國之政 乃 平善可在状天下公民之息安 麻流倍伎 事 乎 旦夕夜日不云思議奏 比 仕奉者款 美 明 美 意太比之 美 多能母志 美 思 保之川川 大坐坐間 爾 忽朕朝 乎 離而罷 麻之奴禮婆 言 牟 須部 母 無爲 牟 須部 母 不知 爾 悔 備 賜 比 和備賜 比 大坐坐 止 詔大命 乎 宣《スメラガミカドヲシマラクノマモマカリイデテヤスモフコトナクヲスクニノマツリゴトノヨクアルベキサマアメノシタノオホミタカラノヤスマルベキコトヲアサヨヒヨルヒルトイハズオモヒハカリマヲサヒツカヘマツレバイソシミアキラケミオダヒシミタノモシミオモホシツツオホマシマスアヒダニタチマチニアガミカドヲサカリテマカリマシヌレバイハムスベモナクセムスベモシラニクヤシビタマヒワビタマヒオホマシマストノリタマフオホミコトヲノル》。又事別詔 久 仕奉 志 事廣 美 厚 美 彌麻之大臣之家内子等 乎母 波布理不賜失不賜慈賜 波牟 起賜 波牟 温賜 波牟 人目賜 波牟《マタコトワケテノリタマハクツカヘマツリシコトヒロミアツミミマシオホオミノイヘノウチノコドモヲモハフリタマハズウシナヒタマハズメグミタマハムオコシタマハムタヅネタマハムカヘリミタマハム》。美麻之大臣 乃 罷道 母 宇之呂輕 久 心 母 意太比 爾 念而苧 久 幸 久 罷止富良須 倍之止 詔大命 乎 宣《ミマシオホオミノマカリヂモウシロカロクココロモオダヒニオモヒテタヒラケクサキクマカリトホラスベシノリタマフオホミコトヲノル》。
明日者云々は、此(ノ)大臣の病の間《ホド》に、天皇のおぼしめしたるやう也、明日は病|愈《ナホリ》て、參出來むと、待給ひしよし也、待 比は、マタヒと訓べし、チを延てタヒといへり、
〇休息安 麻利弖は、ヤスマリテと訓べし、病の治《ナホ》るをいふ、此(ノ)言、又第七詔に、夜半曉時 止 休息無《ヤスモフコトナク》、此下文に、休息安《ヤス》 母布 事無(ク)などあるは、休息《ヤスム》こと也、又下文に、公民之|息安《ヤス》 麻流倍伎 事 乎とあるは、民を安《ヤス》からしむること也、又忌詞に、病を夜須美《ヤスミ》といふは、苦《クルシミ》のうらをいへるか、はた事業《ワザ》を止《ヤメ》て、休息《ヤスミ》居る意にもあるべし、さてこゝは、上文に、癸卯、左大臣|暴《ニハカニ》病(ス)とある、癸卯は、今月十六日にて、此詔は、己酉廿二日、薨の日の事也、
〇天皇朝 乎、一本に朝の下に、臣(ノ)字あるは衍也、
〇罷退は、身罷《ミマカル》也、次の文に、罷伊麻須《マカリイマス》ともあれば、これもマカリマシヌと訓べし、
〇於母富佐 久は、所思 久にて、天皇の也、
〇於與豆禮 加母云々、天智紀に、妖僞《オヨヅレ》、天武紀に、妖言《オヨヅレゴト》、万葉三に、於余頭禮可吾聞都流《オヨヅレカワガキキツル》、狂言加我聞都流母《タハコトカワガキキツルモ》、また逆言之狂言等可聞《オヨヅレノタハコトトカモ》、高山之石穗乃上爾《タカヤマノイハホノウヘニ》、君之臥有《キミガコヤセル》、また逆言之狂言登加聞《オヨヅレノタハコトトカモ》、七に、狂言香逆言哉《タハコトカオヨヅレゴトカ》、十三に、狂言哉人之言釣《タハコトカヒトノイヒツル》、十七に、於餘豆禮能《オヨヅレノ》、多婆許登等可毛《タハコトトカモ》、十九に、狂言哉人之云都流《タハコトカヒトノイヒツル》、逆言乎人之告都流《オヨヅレカヒトノツゲツル》など有(リ)、これらも皆、人の死《シニ》たるを聞て驚きて、よも實にはあらじと思ひて、いへる言也、さて件の万葉なる逆言を、いづれもサカゴトと訓(ミ)、狂言をばみな、枉言と作《カキ》て、マガコトと訓るは、みな今(ノ)本のひがこと也、十七の卷、又此詔などの、假字書(キ)の例をもて、其誤りを知べし、狂をタハと訓べきことは、書紀に狂心《タブレココロ》、此紀の詔どもに、くなたぶれ、万葉廿に、多波和射《タハワザ》とあるなど是也、これら頑狂《クナタブレ》狂態《タハワザ》也、さてこゝは、大臣の薨れりといふは、妖僞《オヨヅレ》歟、狂言《タハコト》を人のいへるかと、おもほせるよし也、
〇信 爾之 有(ラ)者は、薨れりといふが、もし實ならば也、
〇任 之加母、此|任《ヨサ》しは、寄《ヨ》せ讓る意也、一本に、之(ノ)字を弖《テ》と作《カケ》り、されど次なる授 加母にも、弖(ノ)字はなし、かゝるところ、弖《テ》といはざるも、例多し、
〇罷伊麻 須、伊麻須《イマス》は、往《ユク》こと也、但し言《コト》は、坐《イマス》と一つにて、其《ソ》を往《ユク》ことにもいふは、中昔の言に、おはしますといふも、御坐《マシマス》にも行《ユキ》給ふにも、通はしいふと同じ、然るを往(ク)をいますといふは、いにますの略と心得るは、ひがこと也、もし然らば、おはしますといふをば、いかにとかせむ、
〇語 比 佐氣 牟云々、万葉三に、問放流《トヒサクル》、親族兄弟無國爾《ウガラハラカラナキクニニ》、渡來座而《ワタリキマシテ》、五に、石木可母《イハキカモ》、刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》、十九に、語左氣《カタリサケ》、見左久流人眼《ミサクルヒトメ》、乏等《トモシミト》、など有(リ)、放《サケ》は、情《ココロ》を遣《ヤ》ると云(フ)遣《ヤル》と同じくて、人と語らひて、思ひむすぼゝるゝ心を、放遣《サケヤ》る也、問《トヒ》は言《イフ》也、物いふを、古言に、こととふといへり、
〇酸 彌は、イタミと訓べきなれども、上に痛《イタミ》とあれば、これはカナシミと訓べし、身に觸《フル》る事の痛《イタ》きよりうつりて、心にふるゝ事にも、痛しといふごとく、酸は、口にふるゝ味の、酸《ス》きよりうつりて、心にふるゝ事のかなしきをもいふ字也、持統紀に、云々詔詞|酸刻《カラクイタシ》、不v可2具(ニ)陳(ブ)1、とある訓はいかゞ也、イタクカナシなど訓べし、
〇大御泣哭 之 坐、泣(ノ)字、諸本に坐に誤れるを、今は五十八詔に、大御泣哭(シ) 川川 大坐 麻須とある例に依て改(メ)つ、
〇宣 加、加(ノ)字は、後にさかしらに加へたるか、或は次の悔 加母の加のまがひて、こゝにも入たるか、いづれにまれひがこと也、削り去べし、其故は、宣 加《ノルガ》云々とては、是より下の語も、宣告《ノル》人のみづからの言となる也、もし又宣(ノ)字を、ノリタマフと訓て、大命の内の詞とするときは、上の詔《ノリタマフ》とあると重なりて、語とゝのはず、さればこは必(ズ)、ノルと讀(ミ)切るべき處なれば也、下にも、大坐坐(ス) 止 詔(フ)大命 乎 宣(ル)、とあると同じ例也、
〇悔 加母、本に母(ノ)字を落せり、今は一本に依(ル)、
〇惜は、アタラシと訓べし、
〇自今日云々、自明日云々、今日と明日とは、たゞ言をかへて、對にいへるのみにて、これ古文古歌のつね也、
〇儀は、スガタと訓べし、雄略紀に、容儀《スガタ》形容《スガタ》、万葉に、光儀《スガタ》容儀《スガタ》儀《スガタ》など有(リ)、又ヨソヒとも訓べし、
〇成 牟、こゝの二(ツ)の成 牟《ナラム》は、見ずなりぬ、知らずなりぬなど、つねにいふ那理《ナリ》にて、つひに然《サ》て止むをいふ辭也、
〇歳時は、字のまゝに訓べし、としときとつらねいふ言は、聞(キ)つかねども、こゝは上の日月《ツキヒ》の對言なれば、さもいひつべし、
〇佐夫之 岐は、万葉に、不樂不怜など書り、又三の卷に、吾者左夫思惠《ワレハサブシヱ》、また佐夫之家牟可聞《サブシケムカモ》など有(リ)、さびしといふは、後の言也、
〇春秋(ノ)麗色は、花と紅葉と也、万葉一の端詞に、春(ノ)山(ノ)萬花(ノ)之艶、秋(ノ)山(ノ)千葉(ノ)之彩、などあるがごとし、
○山川(ノ)淨所は、山と川と也、山の川にはあらず、上の春秋の對也、万葉一に、山川之清河内跡《ヤマカハノキヨキカフチト》、御心乎吉野乃國之《ミココロヲヨシヌノクニノ》、六に、山川乎清々《ヤマカハヲキヨミサヤケミ》、七に、みな人の戀るみよし野けふ見れは、うべもこひけり山川清見《ヤマカハキヨミ》、など猶多し、みな山と川と也、山をも清しといふ、
〇阿加良閇は、明らめ也、すべて阿加《アカ》と明とは通ひて、同じことぞ、万葉三に、御心乎見爲明米之活道山《ミココロヲミシアキラメシイクヂヤマ》、十七に、加久之許曾《カクシコソ》、美母安吉良米々《ミモアキラメメ》、十九に、見明良米情也良牟等《ミアキラメココロヤラムト》、布勢乃海爾《フセノウミニ》、また秋時花種々有等《アキノハナクサグサアレド》、色別爾見之明良牟流《イロゴトニミシアキラムル》、今日之貴左《ケフノタフトサ》、あきらむるは、物を見て心をはらす也、
〇大坐々 止、本に坐(ノ)字一つ無し、今は一本に依れり、下なるもみな、大坐々とあれば也、
〇美麻之は、汝也、上にも出たり、
〇總は、フサネと訓べし、用明紀に、※[手偏+總の旁]2攝《フサネカハリテ》萬(ノ)機《マツリゴトヲ》1、推古紀に、録攝政《マツヅゴトトリフサネカハラシム》、
〇曲傾は、怠緩《オコタリタユム》の對なれば、マゲカタブクルと訓べし、不傾は、嚴矛《イカシホコ》の中執(リ)持て、本末|傾《カタブ》けずといへる如く、直く平(ラカ)にする意也、
〇普平は、偏頗《カタヨ》ることなく、平等《ヒトシクタヒラカ》にまつりごつ也、
〇奏 比、凡て政を執(リ)行ふを、奏《マヲ》すといふは、其事を天皇に奏して、執(リ)行ふ故也、
〇廣厚、厚(ノ)字、本に原に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
○奏事、奏(ノ)字は、仕奉《ツカヘマツリシ》なりしを、仕を脱し、奉を誤れるにもあらむか、さてこの事《コト》は、ことよと、歎息《ナゲキ》たる辭にて、物語書などに、例多くあること也、尋常の輕く用ひたることとは、いさゝか異《コト》也、故に事《コト》にて語|絶《キル》る也、次の言へはつゞかず、
〇此耳(ニ)不v在は、然《シカ》のみならずの意也、
○暫之間 母、暫は、シマラクと訓べし、五十八詔にも、暫 久乃 間 毛と有(リ)、万葉十四に、思麻良久波《シマラクハ》、十五に、思末志久母《シマシクモ》、十八に、之麻志《シマシ》など有(リ)、間(ノ)字、一本に門に誤れり、
〇平善は、ヨクと訓べし、
〇款 美、第一詔に出(ヅ)、
〇明 美は、アキラケミと訓つ、又アカラケミとも訓べし、古事記應神天皇の御歌に、波陀阿可良氣美《ハダアカラケミ》と有(リ)、かれは埴土《ハニ》の色の赤きにて、事は異なれども、言は通はしいふべし、廿四詔に、以(テ)2忠赤《マメニアカキ》之|誠《マコトヲ》1、六十一詔に、以(テ)2忠明《マメニアカキ》之
誠(ヲ)1とある意也、
〇意太比之 美は、穩《オダヒ》しみ也、他詔に、於多比爾《オダヒニ》とあるに同じ言也、印本に、意の上に、多(ノ)字あるは、美の下なるが、錯《ミダ》れて入れる也、又太(ノ)字を大に誤れり、みな今は一本に依(ル)、
〇多能母志 美、印本に、多(ノ)字なきは、上の意の上に亂(レ)入れる也、今は一本に依(ル)、
〇思 保之川々、川々、本どもにツヽと作《カケ》り、今は例に依て改む、
〇罷 麻之奴禮婆、印本には、罷 止富良之母禮波女、一本には、罷 止母富良之禮波女、一本ニは、罷 止富良之奴留禮波、一本には、罷 止富良之奴禮波と作《カケ》り、皆誤也、止富良之《トホラシ》といふこと、此處《ココ》には由なし、こは思ふに、はじめに、麻之を良之と誤れるに就て、又後の人、下文に罷(リ)止富良須《トホラス》 倍之といふことあるを思ひて、さかしらに止富(ノ)二字をば加へたるなるべく、又母は奴を誤り、波女は婆を誤り、留は衍也、故(レ)今は、五十八詔に、朕 乎 置 弖、罷 麻之奴止 聞食 弖奈母云々、また續後紀十二、阿保(ノ)親王薨まして、位を贈(リ)給ふ詔に、朕 我 朝廷 乎 置 天、罷坐 奴止 聞食 天奈毛、驚賜 比 悔賜 比都都 犬坐(ス)などあると、かの誤れる本どもの中に、奴禮婆とも有(ル)とに依て、改めつ、
〇言 牟 須部 母 無(ク)云々、一本に、部(ノ)字を牟に誤れり、万葉に、將言爲便將爲爲便不知爾《イハムスベセムスベシラニ》といへること多し、又|無爲便《スベナシ》とも多くあり、又欽明紀に、不知所圖《セムスベシラズ》、皇極紀に、不知所爲《セムスベシラズ》、
〇廣 美 厚 美は、仕奉(リ)し勤功の、大きなるよし也、
〇家内は、家門也、
〇波布埋不賜は、はふらかし給はず也、はふるは、流離《サスラフ》ること也、あふると同言にて、水の溢《アフ》るゝも同じ、万葉十九に、食國之四方之人乎母《ヲスクニノヨモノヒトヲモ》、安夫左波受《アブサハズ》、愍賜者《メグミタマヘバ》とある、夫(ノ)字を、今(ノ)本に天に誤れり、源氏物語玉鬘(ノ)卷に、落しあぶさず、とりしたゝめ給ふ、
〇温は、から書に温《タヅネテ》v故(キヲ)而知(ル)v新(キヲ)といへる字也、
〇人目は、省(ノ)字を誤れるなるべし、故(レ)カヘリミと訓つ、
〇罷道は、死《シニ》て往(ク)道也、万葉二に、さゝなみのしがつのこらが、罷道之《マカリヂノ》、川瀬道《カハセノミチ》を見れば不怜《サブシ》も、川瀬(ノ)道は、葬り送りし道也、
〇宇之呂輕 久、後《ウシロ》は、俗にいふ跡《アト》也、輕 久は、思ひおく事なくして、心の安き也、五十八詔に、宇志呂 毛 輕 久、安 久 |通《トホ》 良世止、又かの續後紀十二の詔にも、罷坐 留 道(ノ)間 波、平 久 幸 久、宇志呂 毛 輕 久、罷坐(セ) 止 詔 不と有(リ)、これらに依れば、こゝも呂の下に、母《モノ》字落たるかとも思へど、上に罷道 母といへれば、こゝは母とはいはざるなるべし、さて齊明紀(ノ)御歌に、于之廬母倶例尼《ウシロモクレニ》、飫岐底※[舟/可]※[まだれ/臾]※[舟/可]武《オキテカユカム》とあるは、輕くの反《ウラ》にて、跡に思ふことの有て、心ひかれて安からざる也、倶例尼《クレニ》は闇《クレ》ににて、心のくるゝよし也、
〇平 久 幸 久は、俗語《ヨノコト》に隨分無事にてといふことにて、よのつねの旅行(キ)を送(リ)給ふ如く詔給へる也、
〇罷止富良須 倍之止、とほらすは、とほるを延たる言、とほるとは、往(ク)べき處まで行達《ユキトホ》るを云、
〇此詔、漢文めきたること雜《マジ》らず、すべての文、殊に古(ヘ)ざまにして、いと/\めでたきは、古き此状《コノサマ》の詔詞の有しに依て、書るにやあらむ、もしくは不比等(ノ)大臣などの、薨給ひしをりの詔詞などの、遺りて有しに依れる歟、もし然らずして、新《アラタ》に作れる文ならば、此作者は、やまと魂つよく、古言古意をうまく得たる人にぞありけむかし、
第五十二詔
上件の詔につゞきて、石川(ノ)朝臣豐成|宣《ノリテ》曰(ク)とあり、此卿も、此御使にゆきむかへる人にて、上に見えたり、
大命坐詔 久 美麻志大臣 乃 仕奉來状 波 不今耳《オホミコトニマセノリタマハクミマシオホオミノツカヘマツリコシサマハイマノミナラズ》。掛 母 畏近江大津宮御宇天皇御世 爾八 大臣之曾祖藤原朝臣内大臣明淨心以 弖 天皇朝 乎 助奉仕奉 伎《カケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシスメラガミヨニハオホオミノオホオホヂフヂハラノアソミウチノオホオミアカキキヨキココロヲモチテスメラガミカドヲタスケマツリツカヘマツリキ》。藤原宮御宇天皇御世 爾八 祖父大政大臣又明浄心以天皇朝 乎 助奉仕奉 岐《フヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシスメラガミヨニハオホヂオホマツリゴトノオホオミマタアカキキヨキココロヲモチテスメラガミカドヲタスケマツリツカヘマツリキ》。今大臣者鈍朕 乎 扶奉仕奉 麻之都 賢臣等 乃 累世而仕奉 麻佐部流 事 乎奈母 加多自氣奈 美 伊蘇志 美 思坐 須《イマオホオミハヲヂナキアレヲタスケマツリツカヘマツリマシツカシコキオミタチノヨヲカサネテツカヘマツリマサヘルコトヲナモカタジケナミイソシミオモホシマス》。故是以祖等 乃 仕奉 之 次 仁母 有《カレココヲモテオヤタチノツカヘマツリマシツギテニモアリ》。又朕|大※[○で囲む]臣 乃 仕奉状 母 勞 美 重 美 太政大臣之位 爾 上賜 比 授賜時 爾 固辭申而不受賜成 爾岐《マタアガオホオミノツカヘマツルサマモイトホシミイカシミオホキマツリゴトノオホオミノクラヰニアゲタマヒサヅケタマフトキニカタクイナミマヲシテウケタマハズナリニキ》。然後母將賜 止 思 富之 坐 之奈何良 太政大臣之位 爾 上賜 比 治賜 久止 詔大命 乎 宣《サテノチニモタマハムトオモホシマシナガラオホキマツリゴトノオホオミノクラヰニアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフオホミコトヲノル》。
大命、印本に、本の一字に誤り、一本には、大を本に誤れり、今は又の一本に依(ル)、
〇仕奉來、來(ノ)字、本に事に誤(ル)、今は餘(ノ)諸本に依(ル)、
〇不今耳は、今大臣一世のみならずの意也、今(ノ)字、本に令に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇曾祖、和名抄に、曾租父(ハ)和名|於保於保知《オホオホヂ》、
〇内大臣は、鎌足公也、
〇助奉仕拳 伎、本に、仕奉(ノ)二字を脱せり、今は一本に依(ル)、
〇太政大臣は、不比等公也、
〇藤原宮云々は、持統天皇文武天皇也、
〇鈍は、ヲヂナキと訓べし、廿四詔に、拙劣朕 爾《ツタナクヲヂナキアレニ》、四十八詔に、拙劣朕 爾など、其外にも多かる例によりて也、
〇賢臣等 乃云々は、鎌足公より永手公まで、世々を累《カサ》ねて也、
〇麻佐部流は、坐《マセ》るを延たる也、サヘはセと切《ツヅ》まる也、
〇祖等は、鎌足公より世々也、
〇仕奉 之 次 仁母 有(リ)とは、錬足公より世々、忠誠《マメ》に仕奉(リ)來つるよし也、又思ふにこは、太政大臣に任ずることにも有べし、さるは鎌足公は、太政大臣にあらざれども、不比等公房前公ともに、贈太政大臣也、これら贈官にはあれども、上にも祖父太政大臣とあるごとく、太政大臣に任ぜられたる例にとりて、詔給ふにも有べし、
〇朕大臣、諸本に大(ノ)字なきは、脱たるなるべし、上にみな大臣とのみ有て、たゞ臣といへる所はなし、故(レ)今補へり、
〇勞 美 重 美、此言第二詔に出(ヅ)、本どもに、下なる美(ノ)字を落せり、今は一本に依(ル)、
〇太政大臣之位 爾云々は、何れの年の事にか有けむ、紀には見えず、
〇授賜時 爾、一本に爾(ノ)字なし、
〇成 爾岐は、上にもいへるごとく、終《ツヒ》にさて已《ヤム》をいふ辭也、一本岐(ノ)字を脱せり、
〇後(ニ) 母は、在世には受(ケ)給はずなりにしかども、薨給ひて後にだにもの意なり、
〇思 富之 坐 奈何良は、思食すまゝになり、
〇大命 乎、大(ノ)字、一本に本に誤(ル)、
第五十三詔
卅二の卷に、同三年三月癸未、皇后井上(ノ)内親王、坐(テ)2巫蠱(ニ)1廢、詔(シテ)曰(ク)とあり、
天皇御命 良麻止 宣御命 乎 百官人等天下百姓衆聞食 倍止 宣《スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。今裳咋足嶋謀反事自首 之 申 世利《イマモクヒノタルシマムホムノコトミヅカラアラハシマヲセリ》。勘間 爾 申事 波 度年經月 爾計利《カムカヘトフニマヲスコトハトシヲワタリツキヲヘニケリ》。法勘 流爾 足嶋 毛 罪在 倍之《ノリニカムカフルニタルシマモツミアルベシ》。然度年經月 弖毛 臣 奈何良 自首 之 申 良久乎 勸賜 比 冠位上賜 比 治賜 波久止 宣天皇御命 乎 衆聞食 倍止 宣《シカレドモトシヲワタリツキヲヘテモヤツコナガラミヅカラアラハシマヲセラクヲススメタマヒカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別宜 久 謀反事 爾 預 弖 隱而申 佐奴 奴等粟田廣上安都竪石女 波 隨法斬 乃 罪 爾 行賜 倍之《コトワケテノリタマハクムホムノコトニアヅカリテカクシテマヲサヌヤツコヲアハタノヒロベアトノカクシハメハノリノマニマザムノツミニオコナヒタマフベシ》。然思 保須 大御心坐 爾 依而免賜 比 奈太毎賜 比弖 遠流罪 爾 治賜 波久止 宣天皇御命 乎 衆聞食 倍止 宣《シカレドモオモホスオホミココロマスニヨリテユルシタマヒナダメタマヒテヲムルノツミニヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
裳咋(ノ)足嶋は、考へなし、卅六の卷に、尾張(ノ)國中嶋(ノ)郡(ノ)人、裳咋(ノ)臣船主言(ス)、己(レ)等|與《ト》2伊賀(ノ)國(ノ)敢(ノ)朝臣1同祖也云々、この同氏なるべし、敢(ノ)朝臣ほ、大彦命の後也、
〇謀反(ノ)事、こは皇后の謀反にて、かの巫蠱の事是なり、五十四詔に、此皇后を謀反大逆(ノ)人とあり、かゝればこゝの文は、足嶋謀反とつゞけては讀(ム)べからず、皇后の謀反(ノ)事、今足嶋自(ラ)首(ハシ)といふ意なり、謀反の主は皇后にて、足嶋は、其《ソレ》に預かれるなれは也、自(ラ)といへるは、此謀反(ノ)事に預れるよし、己が事を、みづから顯はせる也、そも/\此詔、端の文には、皇后云々詔曰、としるしながら、その皇后の御事の見えざるはいかゞ、もしは皇后を廢《シゾケ》給ふよしの詔は、此(ノ)前《サキ》に今一つ別に有しが、紀に漏《モレ》たるにやあらむ、さて皇后の謀反して、御夫《ミツマノ》尊に坐(ス)天皇をしも、蠱《マジナヒ》奉(リ)給ひしは、いかなるよしなりけむ、おぼつかなし、思ふに此皇后は、聖武天皇の姫御子にましませば、高野(ノ)天皇の例のごと、又御みづから御位に昇坐まほしく思召ける御心などにやおはしましけむ、
〇自首、首は、アラハシと訓り、孝徳紀に、古人(ノ)皇子云々、謀反、吉備(ノ)笠(ノ)臣|垂《シダル》自首《アラハシマヲシテ》と有(リ)、みづからの罪、又人の罪にても、顯はし申すを、首といふ也、
〇勘問は、足嶋に、猶くはしく勘問也、
〇申事は、足嶋が申す皇后謀反の事也、
〇法は、律也、
〇足嶋 毛、毛《モ》といふは、謀反の主は皇后なれば、それに預かれる足嶋もの意也、
〇罪在 倍之は、刑有べし也、
〇度年經月 手毛は、久しく匿《カク》し居て、今遲く首《アラハ》せるは、いかゞなれどもの意にて、弖毛《テモ》とはいへる也、
〇臣 奈何良は、臣たるまゝに也、すべて臣たる者は、もとより君には、忠誠《マメ》なるべき物なる、其(ノ)あるべき職のまゝに也、
〇勸賜 比、勸(ノ)字、一本に勤と作《カケ》るはいかゞ、又歡の誤(リ)ならむかとも思へど、もし然らば、歡《ヨロコビ》賜 比弖と、弖《テノ》字有べきに、其字なければ、猶スヽメなるべし、賞《メデ》て進め給ふ也、
○冠位上云々、下に、授(ク)2從七位上裳咋(ノ)臣足嶋(ニ)外從五位下(ヲ)1と有(リ)、これにても、謀反は皇后の御事なるを知(ル)べし、も
したゞ自《ミ》の謀反を顯はしたるのみならむには、刑を輕めらるゝことはあらめども、いかでか賞《メデ》給ふことはあらむ、
〇治賜 波久止、久(ノ)字、本に之に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇粟田(ノ)廣上、廣上、印本には麻士とあり、一本には廣士と有(リ)、今は又の一本に依れり、こはいづれか正しからむ、知(ル)べきにあらざれども、麻士廣士などいふ名は、聞つかぬこゝちすれば也、さて此名、万葉八に、角(ノ)朝臣|廣辨《ヒロベ》といふある例に依て、ヒロベと訓べし、辨《ベ》は上《ベ》の假字書(キ)也、
〇安都(ノ)堅石女、石(ノ)字、印本には左とあり、一本又類聚國史には右とあり、今は又の一本に依れり、安都は姓也、姓氏録に、阿刀《アトノ》宿禰阿刀(ノ)連などあり、此紀此卷に安都宿禰眞足、万葉四に、安都(ノ)宿禰年足などいふ人見ゆ、さて此名は、雄略紀に、堅磐此(ヲ)云2柯陀之波《カタシハト》1、とあるに依て、カタシハメと訓べし、人(ノ)名の例は、此紀十六に、粟田(ノ)朝臣堅石あり、こは男也、女には同卷に、箭集(ノ)宿禰堅石といふ見ゆ、
〇斬は、コロスツミと訓べけれども、こゝは乃(ノ)字あれば、音讀也、律に、死罪に斬と紋と二(ツ)有て、斬は重し、賊盗律に、凡謀反及(ビ)大逆(ノ)者(ハ)皆斬とあり、
〇遠流も、こゝは上の斬に准へて、音に讀べし、
第五十四詔
同年五月丁未、廢(テ)2皇太子他戸(ノ)王(ヲ)1、爲2庶人(ト)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、
天皇御命 良麻止 宣御命 乎 百官人等天下百姓衆聞食 倍止 宣《スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。今皇太子 止 定賜 部流他戸王其母井上内親王 乃 魘魅大逆之事一二遍 能味二 不在遍麻年 久 發覺 奴《イマヒツギノミコトサダメタマヘルヲサベノオホキミソノハハヰノヘノヒメミコノエムミダイギヤクノコトヒトタビフタタビノミニアラズタビマネクアラハレヌ》。其高御座天之曰嗣座 波 非吾一人之私座 止奈母 所思行 須《ソレタカミクラアマノヒツギノクヲヰハアレヒトリノワタクシノクラヰニア ラズトナモオモホシメス》。故是以天之日嗣 止 定賜 比 儲賜 部流 皇太子位 仁 謀反大謔人之子 乎 治賜 部例婆 卿等百官人等天下百姓 能 念 良麻久母 恥 志 賀多自氣奈 志《カレココヲモテアマノヒツギトサダメタマヒマケタマヘルヒツギノミコノクラヰニムホムダイギヤクノヒトノコヲヲサメタマヘレバマヘツギミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラノオモヘラマクモハヅカシカタジケナシ》。加以後世 乃 平 久 安長 久 全 久 可在 伎 政 仁毛 不在 止 神 奈賀良母 所念行 須仁 依而 奈母 他戸王 乎 皇太子之位停賜 比 却賜 布止 宣天皇御命 乎 衆聞食 倍止 宣《シカノミニアラズノチノヨノタヒラケクヤスクナガクマタクアルベキマツリゴトニモアラズトカムナガラモオモホシメスニヨリテナモヲサベノオホキミヲヒツギノミコノクラヰヤメタマヒシゾケタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
今は、俗に當時《タウヂ》といふ意也、
〇他戸王、親王といはずして、王といへるも、貶《オト》してなり、
〇魘魅、厭壓魘同じこと也、四十三詔に出たり、こゝは大逆と書(キ)つゞけたれば、音にエムミと讀べし、
〇大逆は、律に、八虐(ハ)、一(ニ)曰(ク)謀反云々、二(ニ)曰(ク)謀大逆と有て、本注に、謂v謀(ルヲ)v毀(コトヲ)2山陵及(ビ)宮闕(ヲ)1と見ゆ、今此皇后の罪は、これに准へて、大逆とはいへるにや、四(ニ)曰(ク)惡逆と有て、木注に、謂d※[敲の左が區]2及(ビ)謀殺(シ)祖父母父母(ヲ)1、殺(スヲ)c伯叔父姑兄姉外祖父母夫夫(ノ)之父母(ヲ)uとあれば、御夫《ミツマノ》尊を殺(シ)奉らむと謀(リ)給ひし罪は、惡逆なるべし、但し夫を殺(ス)とあるは、既に殺したるをいふなれば、惡逆にもあたりがたからむか、猶よく尋ぬべし、又魘魅は、第五の不道の中にいれり、四十三詔の處に引るがごとし、
〇遍麻年 久、年(ノ)字、諸(ノ)本に牟に誤れるを、今改めつ、まねくの事、第三詔にいへり、さてこは魘魅大逆の事の、今までに幾度《イクタビ》も有しよし也、まねく發覺《アラハ》るといふにはあらず、發覺《アラハル》は、此度始めてあらはれたる也、まねくしてといふ意に見るべし、
〇其《ソレ》は、漢文言にて、夫と書(ク)意也、ソレと訓べし、
〇天之日嗣、こは古くはみな天津日嗣といひて、この紀の詔どもにも、上なるは皆然有(ル)を、此詔に至(リ)て、かく天之《アマノ》とあるは、奈良の末つかたよりは、然《サ》もいへりしなるべし、万葉にも、家持卿の歌には、安麻能日嗣《アマノヒツギ》とのみよめリ、
〇故是以云々、此處の凡ての文の意は、天皇の御位を繼(ギ)給ふべき皇太子の位は神代より天之日嗣と名づけて、定め|儲《マウケ》給へる位にて、吾一人の私の位にはあらず、然るに今謀反大逆の人の生《ウメ》る子を、其位に定めて在(リ)、故(レ)是(ヲ)以(テ)卿等云々の意也、定賜 比 儲賜 部流は、神代より皇太子の位のことを、ひろくいふ也、他戸(ノ)親王のことの如く聞ゆれども、然にはあらず、他戸(ノ)親王のこととしては次の語にかなはず、
〇念 良麻久母、麻久《マク》は、牟《ム》を延たる辭にて、將《ム》2思有《オモヘラ》1も也、
〇賀多自氣奈 志、此言第四詔に出(ヅ)、
〇後世 乃云々は、謀反大逆の人の子を、皇太子として、位を嗣(ガ)しめむことは、後の世までの例として、平く安く長く行ふべき政にあらずと也、平 久の久(ノ)字、本に之に誤(ル)、今は一1本に依(ル)、安の下にも、細書の久(ノ)字有しが、脱たる歟、
〇井上(ノ)内親王他戸(ノ)親王の御事、此内親王、初(メ)神龜四年に、伊勢(ノ)齋宮となり給ひ、天平十九年正月、无位より二品になり給へり、さて皇后に立(チ)給ひ、廢《シゾケ》られ給ひしこと、四十九詔五十三詔此詔のごとし、同【寶龜】四年十月辛酉、初(メ)井上(ノ)内親王、坐(テ)2巫蠱(ニ)1廢(ラル)、後復(タ)厭2魅(ス)難波(ノ)内親王(ヲ)1、是日、詔(シテ)幽(ス)2内親王及(ビ)他戸(ノ)王(ヲ)、于大和(ノ)國宇智(ノ)郡(ノ)没官(ノ)之宅(ニ)1、同六年四月己丑、井上(ノ)内親王他戸(ノ)王並卒、同八年十二月、改2葬(シ)井上(ノ)内親王(ヲ)1、其墳(ヲ)稱2御墓(ト)1、置(ク)2守冢一烟(ヲ)1、同九年正月、遣(ハシテ)2從四位下壹志濃(ノ)王、石川(ノ)朝臣垣守等(ヲ)1、改2葬(ス)故(ノ)二品井上(ノ)内親王(ヲ)1、これは去年の改葬の紛れて、重なりたるなるべし、類聚國史に、延暦十九年七月に、詔して、故(ノ)廢皇后井上(ノ)内親王、追復(シテ)※[人偏+稱の旁](フ)2皇后(ト)1、其(ノ)墓(ヲ)稱(ス)2山陵(ト)1、以2大和(ノ)國宇智(ノ)郡(ノ)戸一烟(ヲ)1、奉(ラシム)v守2皇后(ノ)陵(ヲ)1、遣(ハシテ)2散位從五位下葛井王等(ヲ)1、以2復位(ノ)事(ヲ)1、告(グ)2于皇后(ノ)陵(ニ)1、また、同廿二年、槻本(ノ)公奈※[氏/一]麻呂(ニ)、授2從五位上、弟豐人豊成(ニ)從五位下(ヲ)1、並(ニ)賜2姓(ヲ)宿禰(ト)1、奈※[氏/一]麻呂(ガ)父、故(ノ)右兵衛(ノ)佐|老《オユハ》、天宗高紹天皇(ノ)之舊臣也、初(メ)庶人居(テ)2東宮(ニ)1、暴虐尤甚(シク)、與《ト》v帝不v穆、遇(ルコト)v之(ヲ)无(シ)v禮、老竭(シテ)v心(ヲ)奉v帝(ヲ)、陰(ニ)有2補翼(ノ)之志1、庶人及(ビ)母廢后、聞(テ)2老|爲《ニ》v帝|所《ルト》1v昵、甚怒(テ)喚v之(ヲ)、切(ニ)責(ルコト)者|數《アマタタビナリ》矣、及(テ)3后有(ル)2巫蠱(ノ)之事1老按2驗(シテ)其獄(ヲ)1、多(シ)v發(ハスコト)2姦状(ヲ)1、以v此母子共(ニ)廢(セラレ)、社稷以寧(シ)、帝追2思其情(ヲ)1、故(ニ)有2此授1と見えたり、庶人とは他戸(ノ)親王をいへり、帝は、山部(ノ)親王にて、桓武天皇の御事也、
第五十五詔
同四年正月丁丑朔戊寅、立(テテ)2中務卿四品諱(ヲ)1、爲2皇太子(ト)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、
明神大八洲所知 須 和根子天皇詔旨勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食 止 宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。隨法 爾 可有 伎 政 止志弖 山部親王立而皇太子 止 定賜 布《ノリノマニマニアルベキマツリゴトシテヤマベノミコヲタテテヒツギノミコトサダメタマフ》。故此之状悟 天 百官人等仕奉 禮止 詔天皇勅命 乎 衆聞食宣《カレカクノサマサトリテモモノツカサノヒトタチツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。漢文※[二字□で囲む]又一二人等 仁冠位上賜高年窮乏孝義人等養給 久止 勅天皇命 乎 衆聞食宣《マタヒトリフタリドモカガフリクラヰアゲタマフトシタカキヒトマヅシキヒトケウギアルヒトドモヤシナヒタマハクノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
山部(ノ)親王は、桓武天皇也、
〇此之状は、カクノサマと訓べし、第一詔に、如此之状《カクノサマ》 乎 聞食悟而、廿七詔に、加久 能 状《カクノサマ》聞食悟(レ) 止、四十四詔に、如是(ノ)状悟 天、などある例也、こゝは上に如(ノ)字有しが、落たるかとも思へど、六十詔にも、如(ノ)字なくてあり、
〇漢文としるしたるところは、大2赦天下(ニ)1、但(シ)謀殺故殺、私鑄錢強竊二盗、及(ビ)常赦(ニ)所v不v免者(ハ)、並(ニ)不v在2赦(ス)限(ニ)1と有、
〇高年云々等、みな既に上に出(ヅ)、
〇養給 久止、久止(ノ)二字、諸本に牟(ノ)一字に誤(ル)、今は例に依て改(ム)、
〇聞食宣、諸本に食(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、上にも二處みな此字あれば也、
第五十六詔
卅四の卷に、同七年夏四月王申、御(シテ)2前殿(ニ)1、賜(フ)2遣唐使(ニ)節刀(ヲ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、此遣唐使は、去年【寶龜六年】六月、以2正四位下佐伯(ノ)宿禰今毛人(ヲ)1、爲2遣唐大使(ト)1、正五位上大伴(ノ)宿禰盆立、從五位下藤原(ノ)朝臣鷹取(ヲ)、爲v副(ト)、判官録事各四人、造(ル)2使(ノ)船四艘(ヲ)於安藝(ノ)國(ニ)1、と見えたるこれなり、
天皇 我 大命 良麻等 遣唐國使人 爾 詔大命 平 聞食 止 宣《スメラガオホミコトラマトモロコシノクニニツカハスツカヒニノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。今詔佐伯今毛人宿爾大伴宿禰益立二人今汝等二人 乎 遣唐國者今始 弖 遣物 爾波 不在《イマノリタマハクサヘキノイマケヒトノスクネオホトモノスクネマシタチフタリイマイマシタチフタリヲモロコシノクニニツカハスコトハイマハジメテツカハスモノニハアラズ》。本 與利《モトヨリ》 自※[□で囲む]|朝使其國 爾 遣 之 其國 與利 進渡 祁里《ミカドノツカヒカノクニニツカハシカノクニヨリマダシワタシケリ》。依此 弖 使次 止 遣物 曾《コレニヨリテツカヒノツギテトツカハスモノゾ》。悟此意 弖 其人等 乃 和 美 安 美 應爲 久 相言 部《コノココロヲサトリテカノヒトドモノニギミヤスミスベクアヒイヘ》。驚 呂之岐 事行 奈世曾《オドロシコトワザナセソ》。亦所遣使人判官已下死罪已下有犯者順罪 弖 行 止之弖 節刀給 久止 詔大命 乎 聞食 止 宣《マタツカハスツカヒマツリゴトヒトヨリシモツカタコロスツミヲハジメテオカシアラバツミニシタガヒテオコナヘトシテシルシノタチタマハクトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
聞食 止 宣(ル)、これに衆《モロモロ》といはざるは、これはたゞ遣唐使に宣《ノ》る詔なるが故なり、さて續後紀五に載せられたる、遣唐使に節刀を賜ふ詔に、此宣の下に、大使共(ニ)稱唯とあり、凡ていづれの詔にても、聞食 止 宣(ル)といふ處毎に、其《ソ》をうけ給はる人、稱唯《ヲヲトマヲ》す例也、
〇今詔、こは次の二人より返りて讀べきが如くなれども、かの續後紀の詔に、今詔 久波とあれば、まづ讀べき也、
〇佐伯(ノ)今毛人(ノ)宿禰、印本に、人(ノ)字を脱せり、今補(フ)、一本には、佐伯(ノ)宿禰今毛人と作《カケ》るは、次の益立の例に、さかしらに改めたるなるべし、中々にひがこと也、益立は五位なる故に、尸《カバネ》を名の上にいへり、此今毛人は四位なれば、尸を名の下にいへるものなり、かの續後紀の詔は、もはらこゝの詔によりて作れりと見ゆるに、かれにも、藤原(ノ)常嗣(ノ)朝臣、小野(ノ)朝臣篁と有(リ)、これも四位と五位との差《ケヂメ》なるをや、さて今毛人は、右衛士(ノ)督從五位下人足の子也、天平勝寶元年に、從五位下に叙し、其後官は、攝津大夫肥前守左大辨などを經たり、此度の遣唐使は、病に依て、え罷らで止《ヤミ》ぬ、其後太宰(ノ)大貳(ノ)皇后宮大夫民部卿參議太宰(ノ)帥になり、位は正三位にて、延暦九年十月薨らる、年七十二、
○大伴(ノ)宿禰益立は、誰(ガ)子ともしられず、天平寶字四年、從五位下に叙し、其後官は、兵部(ノ)大輔式部(ノ)大輔肥後(ノ)守太宰(ノ)少貳などを經たり、此度の遣唐副使は、十二月に停《ヤメ》られて、他人にかへらる、同九年、【寶龜】右兵衛(ノ)督征東副使陸奥(ノ)守になり、從四位下に至る、云々に依て、從四位下を奪《ト》らる、天應元年の事也、かくて續後紀に、承和四年五月、贈2正五位上伴(ノ)宿禰益立(ニ)、本位從四位下(ヲ)1、益立云々、遭(テ)v讒(ニ)奪(ハル)v爵(ヲ)、其男越後(ノ)大掾野繼、上書(シテ)冤訴(スルコト)久(シ)矣、逐(ニ)明(メテ)得(タリ)v雪(ムルコトヲ)2父(ノ)恥(ヲ)1と見ゆ、さて此名は、いかに訓べきにか、益はイヤ歟しらねども、姑くマシタチと訓つ、後世の名の例にては、マスタツと訓べけれど、古(ヘ)の例はおほく、足《タリ》成《ナリ》守《モリ》行《ユキ》持《モチ》などのごとし、さて益(ノ)字、印本に蓋に誤れり、
〇今始 弖云々、此事をわきてかく詔給ふは、いかなるよしにか、もしくは、彼國に御使を遣はすことは、あぢきなく、然《サ》らでも有べき事なる故に、こは古(ヘ)よりあり來し事なるによりて、遺《ツカハ》すものぞと、ことわり給ふにやあらむ、これらの語もすべて舊き遣唐使の時の詔の例によれることなるべし、
〇本 與利は、舊くより也、
〇朝(ノ)使は、皇朝の御使也、諸本に此上に、自(ノ)字あるは、衍なるべし、かの續後紀の詔にはなし、除(キ)去(ル)べし、
〇其國 與利、與利毛《ヨリモ》と有(ル)べき語のはこびなるに、毛《モ》といはざるは、彼(ノ)國王より使を奉る方を、主《ムネ》と強《ツヨ》くいふなるべし、
〇進渡は、麻陀志和多志《マダシワタシ》と訓べし、使を奉るをいふ、續後紀十九に、渤海國王の使に詔給ふ詔に、彼國 乃 王、一紀 乎 爲v期(ト) 天、朝拜 乃 使|進度 須倍志《マダシワタスベシ》、然(ル) 乎云々、また國 乃 王、差(テ)2王文矩等(ヲ)1、進度 之《マダシワタシ》、天皇 我 朝庭 乎 拜奉 留 事 乎云々、三代實録廿一に、同國の使に詔給ふ詔に、國 乃 王、楊成規等 乎 差 天、進(シ)度 志天云々、同卅一に、同國の使に賜ふ、太政官の宣に、云々彼(ノ)國王、此(ノ)制《ノリ》 爾 違 天、使 乎 奉出《タテマダ》 世利などあり、すべてまだしといふ言は、尊(キ)所へ使を奉り、或は物を進獻《タテマツ》るをいふ也、書紀に、奉遣を、マダスとも、タテマダスとも訓り、奉2遣《タテマダス》使(ヲ)1とも有(リ)、
〇使次 止は、使の次《ツギテ》としての意也、次《ツギテ》は、古(ヘ)より遣《ツカハ》し來つる次第也、止(ノ)字、諸本に尓と作るは、誤(リ)也、今はかの續後紀五の詔(ノ)一本に、止とあるに依て改めつ、
〇其人等は、唐(ノ)國の人ども也、
〇和 美 安 美 應v爲 久云々は、外國の通好《ムツビ》なれば、かの國王をはじめて、臣下どもまでも、和順《ナゴヤカ》に平穩《オダヤカ》に思ひて、受(ケ)賜はるべきさまに、何事も言《イヒ》語らへと也、本に爲(ノ)字を脱せり、今は一本又續後紀詔に依(ル)、
〇驚 呂之岐は、人の驚くべきさまなるをいふ、一本に此上に、今一(ツ)驚呂 の二字有(リ)、物語書どもにも、おどろ/\しといへる多ければ、さも有べくおボゆれど、諸本又かの續後紀(ノ)詔どもに、さはあらざれバ、本のまゝに從ひつ、
〇事行は、十六詔に、人 乃 見可(キ)v咎(ム)事和射《コトワザ》 奈世曾、とあるに依て、コトワザと訓べし、
〇判官は、和名抄に、萬豆利古止比止《マツリゴトビト》と有(リ)、凡て遣唐使に、大使副使判官主典あり、判官已下といふは、副使はあづからざる也、貞觀儀式、賜(フ)2將軍(ニ)節刀(ヲ)1儀の宣命の細注に、副將軍有(レバ)v犯(スコト)2死刑(ヲ)1、禁(テ)v身(ヲ)奏(ス)v之(ヲ)、不v在2殺(ス)限(ニ)1、とあるがごとし、
〇死罪已下は、コロスツミヲハジメテと訓べし、死罪よりして、輕き罪に至るまで也、
〇行(ヘ)は、刑罰を也、判官をはじめ、すべて下々の人どもまで、もし罪を犯す者あらば、大使副使これをことわりて、刑《ツミナ》へとなり、遣唐使に節刀を授けらるゝことは、これがためのしるし也、貞觀儀式、賜(フ)2將軍(ニ)節刀1儀に、大臣(ノ)宣命にも、有(ラバ)d犯(ス)2軍(ノ)法(ヲ)1者u、隨《マニマ》v法(ノ) 爾《ニ》 行(ヘ) 止 爲《シ》 天奈毛、勅書亦節刀賜(フ) 止 宣(ル)と有(リ)、
〇節刀は、斯流志乃多知《シルシノタチ》と訓べし、常には音にて、セツトといふ也、軍防令に、凡大將出(デ)征(スル)、皆授節刀、と見えたり、遣唐使もこれに准へて、いつも授けらるゝ例也、さて件の令の義解に、謂凡節(ハ)者、以2旄牛(ノ)尾(ヲ)1爲(ル)v之(ヲ)、使者(ノ)所v持(ツ)也、今以2刀劔(ヲ)1代(フ)v之(ニ)、故(ニ)曰2節刀(ト)1と有(リ)、節は信の意也、漢國にて節といふ物は、旄牛の尾をもて造りて、そを持て指麾をなす物なるを、皇朝にては、其代(リ)に刀を賜ひて、節《シルシ》とせられし也、
第五十七詔
同八年夏四月癸卯、渤海使、史都蒙等、貢(ル)2方物(ヲ)1、奏(シテ)曰(ク)、渤海國王、始(メテ)v自2遠世1、供奉(スルコト)不v絶、又國使壹萬福歸(リ)來(テ)、承(ハリ)3聞(テ)聖皇新(ニ)臨(ミタマフト)2天下(ニ)1、不v勝《タヘ》2歡慶(ニ)1、登時《スナハチ》遣(ハシテ)2獻可大夫司賓少令開國男史都蒙(ヲ)1入(リ)v朝(ニ)、并(ニ)載2荷(テ)國信(ヲ)1、拜2奉(ト)天闕(ヲ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、此使は、去年十二月、渤海國遣(ハシテ)2獻可大夫司賓少令開國男史都蒙等、一百八十七人(ヲ)1、賀(シ)2我(ガ)即位(ヲ)1、并(ニ)云々、便於2越前(ノ)國加賀郡(ニ)1、安置供給(ス)、今年二月、召(テ)2渤海(ノ)使史都蒙等三十人(ヲ)1、入朝(セシム)、時(ニ)都蒙言(シテ)曰(ク)云々、四月、渤海(ノ)使史都蒙等入(ル)v京(ニ)、とある是也、そも/\此渤海國といふは、古(ヘ)の高麗の地にて、高麗ほろびて後に、王にて有しものなり、姓は大氏といふ、はじめ乞々仲象といひし人の子に、祚榮といひしを、もろこしの睿宗といひし王が時に、渤海郡王といふになせり、祚榮諡を高王といふ、唐書五代史などに、渤海(ノ)傳有て、委くしるせり、かくて祚榮が子武藝といひし王、はじめて皇朝に使を奉遣《タテマダ》せり、聖武天皇の御世にて、神龜四年九月、渤海郡(ノ)使首領高齊徳等八人、來(リ)2着(ク)出羽(ノ)國(ニ)1、遣(シテ)v使(ヲ)存問(シ)、兼(テ)賜2時服(ヲ)1、十二月云々、渤海郡(ハ)者、舊《モトノ》高麗國也、淡海(ノ)朝廷七年冬十月、唐(ノ)將李※[責+力]、伐2滅(シテ)高麗(ヲ)1、其後朝貢久(シク)絶(タリ)矣、至(テ)v是(ニ)渤海郡王、遣(ハシテ)2寧遠將軍高仁義等廿四人(ヲ)1朝聘(セシム)、而(ルニ)着(テ)2蝦夷(ノ)境(ニ)1、仁義以下十六人、並(ニ)被(ル)2殺害(セ)1、首領齊徳等八人、僅(ニ)免(レテ)v死(ヲ)而來(ル)、五年春正月云々、天皇御(シ)2大極殿(ニ)1、王臣百寮及(ビ)渤海(ノ)使等朝賀(ス)云々、天皇御(シテ)2中宮(ニ)1、高齊徳等、上(ル)2其王(ノ)書并(ニ)方物(ヲ)1、其詞(ニ)曰(ク)、武藝啓(ス)云々、とある是也、武藝諡は武王といふ、其子欽茂が時、唐(ノ)肅宗、命じて郡といひしを改めて 渤海國とせり、かくてかの神龜の後は、延喜のころまでも、御世御世に絶ず、使を奉れりき、そのころ高麗《コマ》人といひしは、此渤海のこと也、
現神 止 大八洲國所知 須 天皇大命 良麻止 詔大命 乎 聞食 止 宣《アマツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。遠天皇御世御世年緒不落間 牟 事無 久 仕奉來 流 業 止奈毛 所念行 須《トホスメロギノミヨミヨトシノヲオチズカクルコトナクツカヘマツリクルワザトナモオモホシメス》。又天津日嗣受賜 禮流 事 乎左閇 歡奉出 禮波 辱 奈美 歡 之美奈毛 所聞行 須《マタアマツヒツギウケタマハレルコトヲサヘヨロコビタテマツレバカタジケナミヨロコボシミナモキコシメス》。故是以今 毛 今 毛 遠長 久 平 久 惠賜 比 安賜 牟止 彼國 乃 王 爾波 語 部止 詔天皇大命 乎 聞食 止 宣《カレココヲモテイマモイマモトホナガクタヒラケクメグミタマヒヤスメタマハムトカノクニノコギシニハカタラヘトノリタマフスメラガオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
現神 止云々、他詔の例に依るに此詔はかく詔給ふはかりの、大事にはあらざれども、異國の使に詔給ふ詔なるを以て、かくはあるなるべし、
〇聞食は、渤海の使に、うけ給はれといふ也、
〇遠天皇云々、トホスメロギと訓べし、上にも所々見えたり、こゝは神功皇后の御世より、高麗國の朝貢しよりこなたの事なるべし、又件の聖武天皇の御世よりの事かとも聞ゆれど、遠天皇とあるは、猶然にはあらじ、
〇年緒不落、年(ノ)緒は、第七詔にも見えたり、不v落とは、年久しきとだえをおかざるよし也、万葉に、一夜もおちずなど、其外にも多き言也、年(ノ)字、一本には事に誤れり、
〇間 牟は、闕 流《カクル》を誤れるか、緩 牟《タユム》かとも思へど然にはあらじ、
〇仕奉來 流 業は、朝貢の事也、來 流は遠天皇の御世より也、
〇天津日嗣云々は、端の文に、賀2我(ガ)即位(ヲ)1と見え、又使の奏せる言にも、聞3聖皇新(ニ)臨(ト)2天下(ニ)1、不v勝(ヘ)2歡慶(ニ)1、ともある是也、
〇奉出 禮波ハ、タテマツレバと訓べし、奉出の字は、古事記上卷にも見え、後紀より御世/\の詔に多くして、奉出 須 奉出 世利ナど書(ケ)れば、タテマダスと訓べき言也、然れどもこゝは、禮波《レバ》とあれば、然《サ》は訓(ミ)がたし、タテマダセレバと訓べき歟とも思へど、猶然にはあらじ、三代實録卅一の詔に、奉出 流ともある、これタテマツルとも訓べき例也、さて此たてまつるは、つねにたゞ尊みて附ていふ辭とは異也、使を奉るをいふ也、
〇歡 之美、四十六詔に、與呂許保志《ヨロコボシ》 止奈毛 見 流、
〇今 毛 今 毛、本に、今 毛の二字を落せり、今は一本に依れり、文徳實録九に、今 毛 今 毛《イマモイマモ》、彌益々 爾《イヤマスマスニ》、常磐 爾 堅磐 爾《トキハニカキハニ》、三代實録十三に、今 毛 今 毛、御體 乎《オホミミヲ》、天地日月(ト)共 爾、また今 毛 今 毛、風雨調和 米 給 比云々、十七に、今 毛 今 毛、國家 乎、慇懃 爾 助(ケ)守(リ)座 天、卅三に、今 毛 今 毛、常磐堅磐 爾などあり、今よりゆくさきも、遠く久しくといふ意也、めづらしきいひざまなる言なり、
〇遠長 久、万葉に、彌遠長爾《イヤトホナガニ》など、多く見ゆ、他詔には、長 久 遠 久とあり、
〇惠賜 比 安賜 牟止、印本には、賜 比 安の三字を脱せり、又一本には、安の下に今一つ、賜 比 安の三字あるは衍也、今は又の一本に依れり、安は、ヤスメと訓べし、漢ぶみに、安《ヤスンズ》v民(ヲ)などある安の意也、
〇彼國は、渤海國なり、
〇王は、コギシ或はコニキシと訓べし、そはもと百濟の王の號なるを、すべて韓の國々の王をば、皆然訓り、
第五十八詔
卅六の卷に、天應元年二月庚寅朔丙午、三品能登(ノ)内親王薨云々、遣(ハシテ)2參議左大辨正四位下大伴(ノ)宿禰伯麻呂(ヲ)1、就(テ)v第(ニ)宣《ノラシメテ》v詔(ヲ)曰(ク)とあり、詔の次の文に、内親王(ハ)、天皇(ノ)之女也、適(テ)2正五位下市原(ノ)王(ニ)1、生(ミタマヘリ)五百井(ノ)女王、五百枝の王(ヲ)1、薨(マセル)時年四十九とあり、御母は、桓武天皇に同じ、市原(ノ)王は、光仁天皇の御兄の、春日(ノ)親王の御孫にて、安貴《アキノ》王の子なり、
天皇大命 良麻止 能登内親王 爾 告 與止 詔大命 乎 宣《スメラガオホミコトラマトノトノヒメミコニツゲヨトノリタマフオホミコトヲノル》。此月頃間身勞 須止 聞食 弖 伊都 之可 病止 弖 參入 岐 朕心 毛 慰 米麻佐牟止 今日 加 有 牟 明日 加 有 牟止 所念食 都都 待 比 賜間 爾 安加良米佐 須 如事 久 於與豆禮 加毛 年 毛 高 久 成 多流 朕 乎 置 弖 罷 麻之奴止 聞食 弖奈毛 驚賜 比 悔 備 |賜 比〔二字各○で囲む〕 大坐 須《コノツキゴロノホドミツカラストキコシメシテイツシカヤマヒヤミテマヰリテアガココロモナグサメマサムトケフカアラムアスカアラムトオモホシメシツツマタヒタマフマニアカラメサスコトノゴトクオヨヅレカモトシモタカクナリタルアレヲオキテマカリマシヌトキコシメシテナモオドロキタマヒクヤビタマヒオホマシマス》。如此在 牟止 知 末世婆 心置 弖毛 談 比 賜 比 相見 弖末之 物 乎《カクアラムトシラマセバココロオキテモカタラヒタマヒアヒミテマシモノヲ》。悔 加毛 哀 加毛 云 部 不知然 毛之 在 加毛《クヤシカモカナシカモイハムスベシラニコホシクモシアルカモ》。朕 波 汝 乃 志 乎波 暫 久乃 間 毛 忘得 末之自美奈毛 悲 備 賜 比 之乃 比 賜 比 大御泣哭 川川 大坐 麻須《アレハミマシノココロザシヲバシマラクノマモワスレウマシジミナモカナシビタマヒシノヒタマヒオホミネナカシツツオホマシマス》。然 毛 治賜 牟止 所念 之 位 止奈毛 一品贈賜 不《サテモヲサメタマハムトオモホシクラヰトナモヒトツノシナオクリタマフ》。子等 乎婆 二世王 爾 上賜 比 治賜 不《コドモヲバフタツギノオホキミニアゲタマヒヲサメタマフ》。勞 久奈 思 麻之曾《イトホシクナオモヒマシソ》。罷 麻佐牟 道 波 平幸 久 都都 牟 事無 久 宇志呂 毛 輕 久 安 久 通 良世止 告 與止 詔天皇大命 乎 宣《マカリマサムミチハタヒラケクサキクツツムコトナクウシロモカロクヤスクトホラセトツゲヨトノリタマフスメラガオホミコトヲノル》。
身勞 須は、四十五詔に、朕 波 御身|都可良《ツカラ》 之久 於保麻之麻須 爾 依 天、とあるに同じ、御病也、
〇伊都之 可は、何時歟《イツカ》也、之《シ》は助辭《ヤスメコトバ》也、〇參入 岐、岐(ノ)字は心得ず、弖《テ》を誤れるなるべし、もし來《キ》の意ならば、たゞに來とこそ書べけれ、岐とは書(ク)べきにあらず、一本には、波と作り、それも誤也、
〇今日 加 有 牟云々 は、參入(リ)坐(ス)ことは、今日かあらむ云々 の意也、
〇待 比は、まちのちを延て、たひといへるなり、
〇安加良米佐 須 如v事(ノ) 久、景行紀に、倭建(ノ)命の崩坐し時、天皇の哀《カナシミ》坐ることを記せる處に、不意之間《ユクリモナク》、倏《アカラメサスゴト》亡(ヒヌ)2我(ガ)子(ヲ)1とある、こゝも此意にて、思ひかけず、俄なる意也、神武紀に、※[脩の月が黒]忽之間《アカラサマニ》、出2其(ノ)不意《オモヒノホカ》1、雄略紀に、嗔猪《イカリヰ》從(リ)2草(ノ)中1暴《アカラサマニ》出(デ)、また取急《アカラサマニ》歸(ル)v家(ニ)、また取假《アカラサマニ》歸(ル)v國(ニ)、皇極紀に、急《アカラサマニ》などあり、中昔の物語書などに、あからさまに罷出《マカンデ》などあるもにはかにふといさゝか物すること也、さてしばしも目をはなたぬことを、あからめもせずといふも、俄にふといさゝか他《ホカ》へ目をうつすを、あからめすといふ也、こゝにさすとあるも、爲《ス》といふに同じ、目をさすは、物を見やること也、されば此言は、物を目をつけてまもり居るほど、俄にふと他へ目をうつす如くといふこと也、如(ノ)字、本に加に誤(ル)、今は一本に依れり、
〇於與豆禮、五十一詔に出(ヅ)、
〇年 毛 高 久云々、此時天皇御年七十三におはしませり、
〇悔 備 賜 比、本どもに、賜 比の二字を脱せり、今例に依て補ふ、五十一詔に、歎賜 比 憂賜 比 大坐、また悔 備 賜 比 和備《ワビ》賜 比 大坐(シ)坐(ス)、などあれば也、
〇知 麻世婆は、かねて知(リ)てあらば也、ませばは、ましせばの切《ツヅ》まりたる辭にて、歌に多くよめり、
〇心置 弖毛は、英人に心を着留《ツケトド》むる也、
〇云 部は、脱字もしは誤字なるべし、こゝろみにいはば、云 牟須部《イハムスベ》などぞ有けむ、五十一詔に、言 牟 須部 母 無(ク)、爲《セ》 牟 須部 母 不知、
〇然 毛之、これも誤字脱字なるべし、例のいはば、戀 之久毛ならむか、万葉五に、毛々等利能《モモトリノ》、己惠能古保志枳《コエノコホシキ》、また伊加婆加利《イカバカリ》、故保斯苦阿利家武《コホシクアリケム》、廿に、防人の歌に、苦不志久米阿流可《クフシクメアルカ》、戀《コホ》しくもあるか也、なほよき考へをこそまて、一本に、然(ノ)字を脱せり、
〇志 乎波、これも穩ならず、誤字もしくは脱字歟、いかにともいまだ考へ得ず、故(レ)姑く本のまゝにて訓つ、猶よく考ふべきなり、
〇忘得 末之自美奈毛、これも末之自《マシジ》といふ辭は、心得がたけれども、例はあるなり、四十五詔に、己《オノ》 我 得《ウ》 麻之岐、これを一本に、麻之字岐《マシジキ》と作《カケ》るに依るときは、こゝと全く同言にて、恵も同じく聞えたり、然れば、爲《ス》まじき云《イフ》まじきなどの類の庶自《マジ》を、古言に麻志自《マシジ》ともいへるにこそあらめ、又廿六詔に、敢《アフ》 末之時止 爲《シ》 弖とある、これも堪《タフ》まじとしての意にて、同格也、考へ合すべし、
〇大御泣哭 川川、本に、川(ノ)字一(ツ)を脱せり、今は一本に依り、オホミネナカシツヽと訓べし、五十一詔にも、大御泣哭之坐《オホミネナカシマス》と有(リ)、書紀に、擧哀哀哭發哀發哭慟哭奉哀などをみな、ミネタテマツルと訓(ミ)、哭泣をネヅカヘと訓り、ねは、ねになくねをのみなくなどいふね也、さてつの假字に、川(ノ)字を用ひたる事、万葉にも、十八の卷に一(ツ)あり、五十一詔に、ツヽとあるも、川々なり、片假字のツ平假字のつも、皆此字也、こはみなとに湖(ノ)字を用ひたる類(ヒ)にて、もと津の意に用ひたる物なるべし、門(ノ)字也などいふ説は、中々にわろし、
〇然 毛《サテモ》、毛《モ》は、輕く添(ヘ)たる辭也、
〇治賜 牟止云々は、はやく世にまし/\しほどより、一品になし給はむと、おぼしめして有しよし也、
〇位 止奈毛は、位としてなも也、
。一品は、ヒトツノシナと訓べし、和名抄に、一品二品三品四品、品(ノ)讀(ミ)之奈《シナ》とあり、
〇子等 乎婆、本どもに、等字なし、今は一本に依れり、此内親王の御子たち也、五百井(ノ)女王五百枝(ノ)王と、男女二ところましき、
〇二世王、訓はいまだ考(ヘ)得ざれども、フタツギノオホキミと訓べし、又音讀にても有べし、凡て天皇の御子を、一世と申し、御孫を二世と申す也、此内親王の御子たちは、父は市原(ノ)王なれば、田原(ノ)天皇【施基皇子】の四世の御孫なれども、天皇の御外孫なる方をとりて、御母方につきて、今殊に二世(ノ)王の列になし給ふ也、
〇勞 久奈 思 麻之曾は、跡にのこし給ふ、御子たちの事を也、
〇罷 麻佐牟道は、五十一詔に、罷道 母云々とあるに同じ、本に、佐(ノ)字を化に誤(ル)、今は一本に依(ル)、
〇都々 牟 事無 久は、万葉廿に、あをうなはら、風浪なびき、ゆくさくさ、都々牟許等奈久《ツツムコトナク》、ふねははやけむ、此外つつみなくとも、つゝまはすとも、多くよめり、六の卷に、草管見とあるも、草(ノ)字は、莫を誤れるにて、つゝみなく也、
〇宇志呂 毛 輕 久云々、五十一詔に見ゆ、
第五十九詔
同年三月甲申、詔(シテ)曰(ク)、朕枕庸不v安、稍移(ス)2晦朔(ヲ)1云々、夏四月己丑朔云々、以固(メシム)v關(ヲ)焉、以(テ)2天皇不豫(ヲ)1也、辛卯、詔(シテ)云(ク)トアリ、詔の次に、是(ノ)日、皇太子受v禅即v位(ニ)と有(リ)、
天皇 我 御命 良麻等 詔大命 乎 親王等王等臣等百官 乃 人等天下公民衆聞食 止 宣《スメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。朕以寡薄寶位 乎 受賜 弖 年久重 奴《アレツタナクヲヂナクシテアマツヒツギタカミクラノワザヲウケタマハリテトシヒサシクカサナリヌ》。而 爾 嘉政頻闕 弖 天下不得治成《シカルニヨキマツリゴトシクシクカケテアメノシタエヲサメズナリヌ》。加以元來風病 爾 苦 都 身體不安《シカノミニアラズモトヨリカゼノヤマヒニクルシミツツオホミミヤスカラズ》。復年 毛 禰高成 爾弖 餘命不幾《マタトシモイヤクカクナリニテノコリノイノチイクバクモアラズ》。今所念 久 此位 波 避 天 暫間 毛 御體欲養 止奈毛 所念 須《イマオモホサクコノクラヰハサリテシマラクノマモオホミミヤシナハムトナモオモホス》。故是以皇太子 止 定賜 留 山部親王 爾 天下政 波 授賜 布《カレココヲモテヒツギノミコトサダメタマヘルヤマベノミコニアメノシタノマツリゴトハサヅケタマフ》。古人有言知子者親 止 云 止奈母 聞食《イニシヘノヒトイヘルコトアリコヲシルハオヤトイヘリトナモキコシメス》。此 王 波 弱時 余利 朝夕 止 朕 爾 從 天 至今 麻天 怠事無 久 仕奉 乎 見 波 仁孝厚王 爾 在 止奈毛 神奈我良所知食《コノミコハワカキトキヨリアサヨヒトアレニシタガヒテイマニイタルマデオコタルコトナクツカヘマツルヲミレバニムケウアツキミコニアリトナモカムナガラシロシメス》。其仁孝者百行之基 奈利《ソレニムケウハヒヤクギヤウノモトナリ》。曾毛曾毛百足之蟲 乃 至死不顛事 波 輔 乎 多 美止奈毛 聞食《ソモソモヒヤクソクノムシノシヌルニイタリテモクツガヘラザルコトハタスケヲオホミトナモキコシメス》。衆諸如此 乃 状悟 弖 清直心 古毛知 此王 乎 輔導 天 天下百姓 乎 可令撫育 止 宣《モロモロカクノサマサトリテキヨキナホキココロヲモチコノミコヲタスケミチビキテアメノシタノオホミタカラヲナデメグマシムベシトノリタマフ》。又詔 久 如此時 爾 當 都 人人不好謀 乎 懷 弖 天下 乎毛 亂己 我 氏門 乎毛 滅人等麻禰 久 在《マタノリタマハクカクノトキニアタリツツヒトヒトヨカラザルハカリコトヲオモヒテアメノシタヲモミダリオノガウヂカドヲモホロボスヒトドモマネクアリ》。若如此有 牟 人 乎婆 己 我 教諭訓直 弖 各各己 我 祖 乃 門不滅彌高 爾 仕奉|彌繼 爾※[三字各○で囲む] 將繼 止 思愼 天 清直 岐 心 乎 持 弖 仕奉 倍之止奈毛 所念 須《モシカクアラムヒトヲバオノガヲシヘサトシヲシヘナホシテオノモオノモオノガオヤノカドホロボサズイヤタカニツカヘマツリイヤツギニツガムトオモヒツツシミテキヨキナホキココロヲモチテツカヘマツルベシトナモオモホス》。天高 止毛 聽卑物 曾止 詔天皇 我 御命 乎 衆聞食 止 宣《アメタカケドモヒキキニキクモノゾトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
以寡薄は、いみしき漢文也、ツタナクヲヂナクシテと訓べし、
〇寶位 乎、こゝは、アマツヒツギタカミクラノワザヲと訓べし、そのよしは、四十九詔の、忝鴻業とある處にいへるがごとし、
○嘉政頻闕、漢文なり、
〇苦 都、都の下に、今一つ都(ノ)字有しが、落たるなるべし、
〇餘命は、ノコリノイノチと訓べし、
〇有(リ)v言(ヘルコト)、かくいふは、漢文ざまなり、
〇知(ル)v子(ヲ)者《ハ》云々は、戎書《カラブミ》管子の大匡(ノ)篇といふに、鮑叔(ガ)曰(ク)、先人有v言曰(ク)、知(ルコトハ)v子(ヲ)莫(シ)v若《シクハ》v父(ニ)、知(ルコトハ)v臣(ヲ)莫(シ)v若(クハ)v君(ニ)、といへる語也、左傳に、擇(ブコトハ)v子(ヲ)莫(シ)v如(クハ)v父(ニ)云々ともいへり、さて此紀廿の卷に、藤原(ノ)仲麻呂が言に、知v 臣老莫v若v君、知(ルコトハ)v子者莫(シ)v若(クハ)v父(ニ)とあるも、件の語を引る也、
〇云 止奈毛、云《イヘリ》ハ、即(チ)上の古人の云るよし也、上に有(リ)v言《イヘルコト》といひて、又かくいふこと、古語の常也、
〇此《コノ》王《ミコ》は、山部(ノ)親王也、
〇弱時 余利は、稚き時より也、今年四十五歳におはします、
〇其《ソレ》は、夫(レ)にて、漢文ぶり也、
〇從(ヒ) 天は、孝順の意にて、書紀に孝を、オヤニシタガフと訓(ミ)、不孝を、オヤニシタガハズとよめる是也、
〇仁孝|者《ハ》百行|之《ノ》基《モト》 奈利、仁とは、たゞ孝に附ていへるのみにて、輕し、仁と孝と二(ツ)をいへるにはあらず、上なるも同じ、さて此語は、鄭玄が論語(ノ)注に、孝(ハ)爲(リ)2百行(ノ)之本1とあるよし、〓〓が孝經(ノ)正義に引たり、鄭玄は、後漢といひし世の人也、かくて唐(ノ)代よりこなたの書どもには、これに似たる語も、又同(ジ)語も多く見えたり、又後漢書(ノ)江革といふ人の傳に、夫(レ)孝(ハ)百行(ノ)之冠、衆善(ノ)之始(メ)也ともあり、
〇曾毛々々は、抑なり、
〇百足之蟲 乃云々は、文選(ノ)曹〓六代論に、故(ニ)語(ニ)曰(ク)、百足之蟲(ノ)、至v死(ニ)不(ルハ)v僵(レ)、扶(クル)v之(ヲ)者衆(ケレバ)也と有(リ)、此語もと魯仲連子といふ書に見えて、それには、百足(ノ)之蟲(ハ)、三(ニ)斷(ドモ)不v蹶と有(リ)とぞ、百足といふは、戎書《カラブミ》には、馬陸又馬※[虫+玄]といふ蟲なるを、此方にては、蜈蚣を然云(ヒ)來れり、和名抄に、兼名宛(ニ)云(ク)、蜈蚣一名百足、和名|無加天《ムカデ》とあり、又本草(ニ)云(ク)、馬陸、一名百足、和名|阿末比古《アマビコ》ともあり、こは世にをさむしといふ蟲也、
〇輔 乎 多 美止奈毛とは、輔《タスケ》の多きが故にといふ意也、もろ/\の鳥獣魚蟲は、死ぬれば顛《クツガヘ》るものなるを、此蟲は、足多く有て、輔支《タスケササ》ふる故に、僵れざるよし也、さて此語をこゝに引出たるは、次に此(ノ)王 乎 輔(ケ)導 天といふに係(ケ)て也、
〇可v令2撫育1とは、此(ノ)王をして、天下の百姓を、よく撫育給ふべく、輔導き奉れといへる也、育はメグムと訓べし、第三詔に、撫賜 比 慈賜(フ)、十三詔に、撫賜(ヒ)惠賜、
〇當 都、都は都々《ツツ》なるべし、續後紀一、讓位の詔に、これより下、同じ語多きを、照(シ)校(フ)るに、如此(ノ)時 爾 當 都都と有(リ)、
〇不好謀 乎、印本に、好(ノ)字を、※[(女/女)+干]に誤れり、一本には、不(ノ)字なくして、※[(女/女)+干]謀と作るは、誤れる本に就て、さかしらに不(ノ)字を削れるなるべし、今は續後紀のかの詔に、人々不v好 留 謀(ヲ)懷 天とあるに依て、正しつ、
〇亂、續後紀に、亂 利と有(ル)によりて訓べし、
〇麻禰 久は、多く也、續後紀には、人等 宅 前々有《サキザキアリ》とあり、
〇如此有 牟 人 乎婆は、然ることあらむ人をば也、
〇己 我、此言穩ならず聞ゆ、續後紀にも有、
〇教諭、諸本、教卜と作《カケ》り、卜(ノ)字は、いかなる字を誤りけむ、しらねども、今は續後紀に依て改めつ、
〇祖 乃 門、續後紀には、祖々(ノ)門と有(リ)、各々といふにあたりて、宜しく聞ゆ、
〇彌繼 爾、諸本、此三字を脱せり、今續後紀に依て補、
〇持 弖、一本に、持々と誤れり、
〇天高 止毛云々、タカケドモと訓べし、けれどもを、れを省きていふぞ、古言の格なる、さて此語は、呂氏春秋制樂(ノ)篇に、宋(ノ)景公(ノ)之時云々、召(テ)2子韋(ヲ)1而問(フ)焉、曰(ク)云々、天之(レ)處(テ)v高(キニ)、而聽(ク)v卑(キニ)云々と見ゆ、史記(ノ)宋(ノ)世家にも有(リ)、また劉向(ガ)列女傳(ノ)、孫叔敖(ガ)母(ノ)傳、其(ノ)母の語にも有(リ)、後には、文選曹植責(ル)v躬(ヲ)詩、また蜀志(ノ)秦※[うがんむり/必](ガ)語(ノ)中などにも、これを引たり、天は高く遠くさかりてあれども、人のよきあしきをば、よく知(リ)わきまふる物なれば、あしき事を謀るときは、人はしらねども、天はよく見聞て、知(ル)よし也、そも/\此詔にかぎりてかくから書の語どもを、あまた重ねて引出たるは、いかにぞや、作者の心なりけむかし、
〇御命 乎、諸本に乎字なし、今は一本に依る、
第六十詔
同月壬辰、立(テ)2皇弟早良(ノ)親王(ヲ)1、爲2皇太子(ト)1、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、此御名、早良は、例の御乳母の姓なるべし、姓氏録に早良(ノ)臣見ゆ、假字は古事記に、佐和良《サワラノ》臣と有て、此紀にもかく有(リ)、然るに和名抄、筑前國の郷名、早良は佐波良《サハラ》とあるは、假字たがへり、いかゞ、さて此親王は、光仁天皇の第二の皇子、天皇【桓武】の御同腹の御弟におはしましき、然るに延暦四年九月云々、大伴(ノ)繼人同竹良等殺2中納言藤原(ノ)朝臣種繼(ヲ)1云々の事によりて、廢(シテ)2皇太子(ヲ)1、流(ス)2淡路(ノ)國(ニ)1、途中にして薨(ス)、葬2淡路(ノ)國(ニ)1、此時の事、紀に記し漏(ラ)されたること多し、かくて同十九年七月、詔(シテ)曰(ク)、朕有v所v思、宜(シト)d故(ノ)皇太子早良(ノ)親王、迫2稱(シテ)崇道天皇(ト)1、其墓(ハ)稱(ス)c山陵(ト)u、鎭d謝(シテ)在(ル)2淡路(ノ)國(ニ)1崇道天皇(ノ)山陵(ヲ)u、分(テ)2淡路(ノ)國津名(ノ)郡(ノ)戸二烟(ヲ)1、以奉(ラシム)守2崇道天皇(ノ)陵(ヲ)1、
天皇勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食 止 宣《スメラガオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。隨法 爾 可有 伎政 止志弖 早良親王立而皇太子 止 定賜 布《ノリノマニマニアルベキマツリゴトトシテサワラノミコヲタテテヒツギノミコトサダメタマフ》。故此之状悟 天 百官人等仕奉 禮止 詔天皇勅旨 乎 衆聞食宣《カレカクノサマサトリテモモノツカサノヒトタチツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
第六十一詔
同月癸卯、天皇御(テ)2大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、
明神 止 大八洲所知天皇詔旨 良麻止宣勅親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。掛畏現神坐倭根子天皇我皇此天日嗣高座之業 乎 掛畏近江大津 乃 宮 爾御宇 之 天皇 乃 初賜 比 定賜 部流 法隨 爾 被賜 弖 任奉 止 仰賜 比 授賜 閇婆 頂 爾 受賜 利 恐 美 受賜 利 懼進 母 不知 爾 退 母 不知 爾 恐 美 坐 久止 宣天皇勅衆聞食宣《カケマクモカシコキアキツミカミトマスヤマトネコスメラミコトワガオホキミコノアマツヒツギタカミクラノワザヲカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシスメラミコトノハジメタマヒサダメタマヘルノリノマニマニウケタマハリテツカヘマツレトオホセタマヒサヅケタマヘバイナダキニウケタマハリカシコミウケタマハリヲヂススムモシラニシゾクモシラニカシコミマサクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。然皇坐 弖 天下治賜君者賢人 乃 能臣 乎 得 弖之 天下 乎婆 平 久 安 久治物 爾 在 良之止奈母 聞行 須《サテスメラトマシテアメノシタヲサメタマフキミハカシコキヒトノヨキオミヲエテシアメノシタヲバタヒラケクヤスクヲサムルモノニアルラシトナモキコシメス》。故是以大命坐宣 久 朕雖拙劣親王始 弖 王臣等 乃相穴 奈比 奉相扶奉 牟 事依 弖之 此之仰賜 比 授賜 夫 食國天下之政者平 久 安 久 仕奉 倍之止奈母 所念行《カレココヲモテオホミコトニマセノリタマハクアハツタナクヲヂナクアレドモミコタチヲハジメテオホキミタチオミタチノアヒアナナヒマツリアヒタスケマツラムコトニヨリテシコノオホセタマヒサヅケタマフヲスクニアメノシタノマツリゴトハタヒラケクヤスクツカヘマツルベシトナモオモホシメス》。是以無諂欺之心以忠明之誠天皇朝廷 乃 立賜 部流 食國天下之政者衆助仕奉 止 宣天皇勅衆間食宣《ココヲモテヘツラヒアザムクココロナクマメニアカキマコトヲモチテスメラガミカドノタテタマヘルヲスクニアメノシタノマツリゴトハモロキロタスケツカヘマツレトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別宣 久 朕一人 乃未也 慶 之岐 貴 岐 御命受賜 牟《コトワケテノリタマハクアレヒトリノミヤヨロコボシキタフトキオホミコトヲウケタマハム》。凡人子 乃 蒙福 麻久 欲※[○デ囲む]爲 流 事 波 於夜 乃 多米 爾止奈母 聞行 須《オホカタヒトノコノサキハヒヲカガフラマクホリスルコトハオヤノタメニトナモキコシメス》。 故是以朕親母高野夫人 乎 稱皇太夫人 弖 冠位上奉 利 治奉 流《カレココヲモテアガミオヤタカヌノキサキヲオホミオヤトマヲシテカガフリクラヰアゲマツリヲサメマツル》。又仕奉人等中 爾 自何仕奉状隨 弖 一二人等冠位上賜 比 治賜 夫《マタツカヘマツルヒトドモノナカニシガツカヘマツルサマニシタガヒテヒトリフタリドモカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフ》。又大神宮 乎 始 弖 諸社禰宜祝等 爾 給位一階《マタオホミカミノミヤヲハジメテヤシロヤシロノネギハフリドモニクラヰヒトシナタマフ》。又僧綱 乎 始 弖 諸寺智行人及年八十已上僧尼等 爾 物布施賜 夫《マタホウシノツカサヲハジメテテラデラノチギヤウノヒトオヨビトシヤソヂヨリカミツカタノホウシアマドモニモノホドコシタマフ》。又高年窮乏孝義人等治賜養賜 夫《マタトシタカキヒトマゾシキヒトケウギアルヒトドモヲサメタマヒヤシナヒタマフ》。又天下今年田租免賜 久止 宣天皇勅衆聞食宣《マタアメノシタノコトシノタヂカラユルシタマハクトノリタフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
現神(ト)坐云々我皇は、光仁天皇を申(シ)給ふ也、
〇掛畏近江云々より、仕奉(レ)までは、光仁天皇の、桓武天皇に仰せ給へるよし也、
〇賢人 乃 云々衆助仕奉(レ) 止 宣までの文、廿四詔に出(ヅ)、
〇相穴 奈比、比(ノ)字本に乃に誤る、今は一本に依(ル)、
〇忠明之誠、廿四詔には、忠赤之誠と有(リ)、
〇蒙v福(ヲ)欲爲 流、本どもに、欲(ノ)字を落せり、今は例に依て補へり、廿五詔に、凡人(ノ)子 乃、去v禍蒙v福 麻久 欲爲 流 事 波、
爲(メ)v親(ノ) 爾止奈利、文徳實録一にも、凡人(ノ)子 乃、蒙v福 萬久 欲爲 留 事 波、於夜乃多米 爾止奈母 聞行 須、三代實録卅にも、かくの如くあり、
〇親母、廿五詔に見えたるをば、美波々《ミハハ》と訓たり、こゝは美於夜《ミオヤ》と訓べし、御母をみおやと申す事、第五詔に、皇祖母《オホミオヤ》とある處にいへるが如し、
〇高野(ノ)夫人は、延暦八年十二月乙未、皇太后崩、壬子葬2於大枝(ノ)山陵(ニ)1皇太后、姓(ハ)和氏、諱(ハ)新笠、贈正一位乙繼(ノ)之女也、母(ハ)贈正一位大枝(ノ)朝臣眞妹、后先(ハ)出(ヅ)v自2百濟(ノ)武寧王(ノ)之子、純陀太子1、皇后云々、生2今上早良(ノ)親王能登内親王(ヲ)1、寶龜中、改(メテ)v姓(ヲ)爲2高野朝臣(ト)1、今上即v位、尊(テ)爲2皇太夫人(ト)1、九年、追(テ)上(テ)2尊號(ヲ)1、曰2皇太后(ト)1云々、
〇冠位上奉、本に位(ノ)字を脱せり、今は一本に依(ル)、是(ノ)月【天應元年四月】乙卯、皇太夫人從三位高野(ノ)朝臣、加(フ)2正三位(ヲ)1、とある是也、
〇人等(ノ)中 爾、本に爾(ノ)字を等に誤(ル)、今は一本に依(ル)、さてこれより下の文、廿四詔に多く出(ヅ)、
〇一二人等、本に一二を三に誤れり、今は廿四詔の例に依て改(ム)、
〇智行人は、才智學問ある僧、行ひのよろしき僧也、
〇高年云々、十三詔に出(ヅ)、
第六十二詔
四十の卷に、同八年九月戊午、勅(シテ)遣(ハシテ)2大納言從二位藤原(ノ)朝臣繼繩、中納言正三位藤原(ノ)朝臣小黒麻呂、從三位紀(ノ)朝臣船守、左兵衛(ノ)佐從五位上津(ノ)連眞道、大外記外從五位下秋篠(ノ)宿禰安人等(ヲ)、於大政官(ノ)曹司(ニ)1、勘(ヘ)2問(ハシム)征東將軍等、逗留(シテ)敗v軍(ヲ)之状(ヲ)1、大將軍正四位下紀(ノ)朝臣古佐美、副將軍外從五位下入間(ノ)宿禰廣成、鎭守副將軍從五位下池田(ノ)朝臣眞枚、外從五位下安倍(ノ)※[獣偏+爰]嶋(ノ)臣墨繩等、各申(ス)2其由(ヲ)1、並(ニ)皆承伏(ス)、於是詔(シテ)曰(ク)とあり、
陸奥國荒 備流 蝦夷等 乎 討治 爾 任賜 志 大將軍正四位下紀古佐美朝臣等 伊任賜 之 元謀 爾波 不合順進入 倍支 奥地 毛 不究盡 之弖 敗軍費粮 弖 還參來《ミチノクノクニノアラビルエミシドモヲウチヲサメニマケタマヒシダイシヤウグムオホキヨツノクヲヰノシモツシナキノコサミノアソミヲイマケタマヒシモトノハカリコトニハアヒシタガハズススミイルベキオクノトコロモキハメツクサズシテイクサヲヤブリカテヲツヒヤシテカヘリマヰキツ》。是乎任法 爾 問賜 比 支多米賜 倍久 在 止母 承前 爾 仕奉 祁留 事 乎 所念行 弖奈母 不勘賜免賜 布《コヲノリノマニマニトヒタマヒキタメタマフベクアレドモサキニツカヘマツリケルコトヲオモホシメシテナモカムカヘタマハズユルシタマフ》。又鎭守副將軍從五位下池田朝臣眞枚外從五位下安倍※[獣偏+爰]嶋臣墨繩等愚頑畏拙 之弖 進退失度軍期 乎毛 闕怠 利《マタチムジユフシヤウグムヒロキイツツノクラヰノシモツシナイケダノアソミマヒラトノヒロキイツツノクラヰノシモツシナアベノサシマノオミスミナハヲカタクナニヲヂナクシテシムタイドヲウシナヒイクサノチギリヲモカキオコタレリ》。今法 乎 檢 爾 墨繩者 斬刑 爾 當 里 眞枚者解官取冠 倍久 在《イマノリヲカムカフルニスミナハハザムノツミニアタリマヒラハツカサヲトリカガフリヲトルベクアリ》。然墨縄者久歴邊戍 弖 仕奉 留 勞在 爾 緑 弖奈母 斬刑 乎波 免賜 弖 官冠 乎乃未 取賜 比 眞枚者曰上 乃 湊 之弖 溺軍 乎 扶拯 閇留 勞 爾 縁 弖奈母 取冠罪 波 免賜 弖 官 乎乃未 解賜 比 又有小功人 乎波 隨其重輕 弖 治賜 比 有小罪人 乎波 不勘賜免賜 久止 宣御命 乎 衆聞食 止 宣《シカレドモスミナハハヒサシクヘムジユヲヘテツカヘマツレルイサヲアルニヨリテナモザムノツミヲバユルシタマヒテツカサカガフリヲノミトリタマヒマヒラハヒカミノミナトニシテオホルルイクサヲタスケスクヘルイサヲニヨリテナモカガフリヲトルツミハユルシタマヒテツカサヲノミトリタマヒマタイササカノイサヲモアルヒトヲバソノオモキカロキニシタガヒテヲサメタマヒイササカノツミアルヒトヲバカムカヘタマハズユルシタマハクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
荒 備流、こは荒夫流《アラブル》といふべき、言の格にして、古書にみな然あるを、こゝに備流《ビル》とあるは、後世の俗言の格なれども、古(ヘ)よりかくもいへりしにや、古事記に、哭伊佐知流《ナキイサチル》とあるも、伊佐都流《イサツル》といふべき格なるに、知流《チル》とあるに同じ、
〇蝦夷の事は、古事記傳廿七、荒夫琉蝦夷《アラブルエミシ》とある處に委く云り、
〇任は、麻氣《マケ》と訓べし、マケと訓はひがこと也、まけは、令《セ》v罷《マカラ》の切《ツヅ》まりたる言にて、凡て他國の官に遣はすこと也、されば京官の任を、マケと訓(ム)はひがこと也、
〇大將軍は、オホキイクサノキミと、書紀に訓たれども、こゝは音に讀べし、〇紀(ノ)古佐美(ノ)朝臣は、日本紀略に、延暦十六年四月、大納言正三位紀(ノ)朝臣古佐美薨、年六十五、遣(ハシテ)2從四位下百濟(ノ)王英孫等(ヲ)1、贈(ル)2從二位(ヲ)1、古佐美(ハ)者、大納言麻呂(ノ)之孫、正六位上宿奈麻呂(ノ)之子、天平寶字八年十月十日、叙2從五位下(ニ)1云々、延暦六年五月壬寅、加2正四位下(ヲ)1、七年七月三日、爲2征夷大將軍(ト)1、云々、十三年十月、拜2中納言(ニ)1、叙2正三位(ニ)1、十五年七月、任2大納言(ニ)1と見ゆ、さて此度の任《マケ》の事は、此紀に、七年【延暦】七月、以2參議左大辨正四位下兼春宮(ノ)大夫中衛(ノ)中將紀(ノ)朝臣古佐美(ヲ)1、爲2征東大使(ト)1、十二月、征東大將軍紀(ノ)朝臣古佐美辭見(ス)、詔(シテ)召(テ)昇2殿上(ニ)1、賜2節刀(ヲ)1、因賜(テ)2勅書(ヲ)1曰(ク)云々、八年九月丁未、持節征東大將軍紀(ノ)朝臣古佐美、自2陸奥1進(ル)2節刀(ヲ)1、とある是也、この自2陸奥1といふところに、還(ノ)字或は至(ノ)字の脱たる也、
〇元謀、元(ノ)字、一本に无に誤れり、
〇粮、和名抄に、考聲切韻(ニ)云(ク)、糧(ハ)、行(ニ)所(ノ)v齎米也、又儲食也(ト)、和名|加天《カテ》と有(リ)、糧粮同じ、万葉五には、可利弖《カリテ》とよめり、加弖《カテ》は加利弖《カリテ》の略歟、
〇支多米は、罰(ノ)字の意に當れる言也、皇極紀に、東(ノ)國不盡河(ノ)邊(ノ)人、大生部多《オホフベノオホ》、勸(メテ)2祭1(ルコトヲ)v蟲(ヲ)於村里(ノ)之人(ニ)1曰(ク)、此(ハ)者常世(ノ)神也、祭(ル)2此神(ヲ)1者、致(スト)2富(ト)與《トヲ》1v壽、巫覡等逐(ニ)詐(テ)託(テ)2於神語(ニ)1曰(ク)、云々、於是葛野(ノ)秦(ノ)造河勝、惡(ミテ)2民(ノ)所《ルルヲ》1v惑(ハサ)、打(ツ)2大生部(ノ)多(ヲ)1、云々、時(ノ)人便(チ)作(テ)v歌(ヲ)曰(ク)、禹都麻佐波《ウツマサハ》、柯微騰母柯微騰《カミトモカミト》、枳擧曳倶屡《キコエクル》、騰擧預能柯微乎《トコヨノカミヲ》、宇智岐多麻須母《ウチキタマスモ》、この岐多麻須《キタマス》にて、此言の意をしるべし、
〇承前《サキ》 爾云々は、此度の罪はあれども、前に仕奉れる功勞を以て也、そは寶龜十一年三月、紀(ノ)朝臣古佐美(ヲ)、爲2征東副使(ト)1、天應元年五月、爲2陸奥守(ト)1、九月、詔(シテ)授2從五位上紀(ノ)朝臣古佐芙(ニ)、從四位下勲四等(ヲ)1云々、並(ニ)賞(ス)2征v夷(ヲ)之勞(ヲ)1とあれば、其時に功有しなるべし、
〇鎭守副將軍、訓あるべけれど、いまだ考得ず、鎭守府は、エミシノマモリノツカサ、副將軍は、スケノイクサノキミ、などや訓べき、されど今は音讀にてある也、副(ノ)字、つねにフクと讀めども、フの音也、
〇池田(ノ)朝臣眞枚、姓氏録に、池田(ノ)朝臣(ハ)、上(ツ)毛野(ノ)朝臣同祖、豐城入彦(ノ)命(ノ)十一世(ノ)孫、佐太(ノ)公(ノ)之後也と有、眞枚は父祖知られず、天平寶字八年十月、從五位下、寶龜元年十月、上野(ノ)介、同五年三月、少納言、延暦六年二月、鎭守副將軍となれり、〇安倍(ノ)※[獣偏+爰]嶋(ノ)臣墨繩、寶龜四年二月、下總(ノ)國※[獣偏+爰]嶋(ノ)郡(ノ)人、從八位上日下部(ノ)淨人(ニ)、賜2姓(ヲ)安部(ノ)※[獣偏+爰]嶋(ノ)臣(ト)1と見ゆ、墨繩は、此人の子などにや有けむ、和名抄に、下總(ノ)國※[獣偏+爰]嶋(ノ)郡|佐之萬《サシマ》と在(リ)、天應元年九月、詔(シテ)授(ク)2云々正六位上阿倍(ノ)※[獣偏+爰]嶋(ノ)臣墨繩(ニ)、外從五位下勲五等(ヲ)1云々、並(ニ)賞(ス)2征v夷(ヲ)之勞(ヲ)1、延暦元年六月、外從五位下安倍(ノ)※[獣偏+爰]嶋(ノ)臣墨繩、爲2鎭守(ノ)權副將軍(ト)1、同三年二月、爲2征東軍監(ト)1、同七年2月、爲2鎭守副將軍(ト)1、
〇進退失v度云々は、今年五月癸丑、勅(シテ)2征東將軍(ニ)1曰(ク)云々、六月甲戌、征東將軍奏(ス)云々、庚辰、征東將軍奏(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)云々、七月丁巳、勅(シテ)2持節征東大將軍紀(ノ)朝臣古佐美等(ニ)−曰(ク)云々とある、件の所々の文を考へて、此時の戰のやうを知べし、
〇久(シク)歴2邊戌1、國の四方のはし/”\を邊といひ、邊を守るを戌といふ、こゝは蝦夷を守るをいへり、さればこゝは、エミシノマモリなど訓べけれど、なほ音に讀て有べし、さて墨繩が、久しく此守(リ)を經《ヘ》たることは、上に引る文の如し、又|去《イニ》し六月甲戌云々の處の勅にも、廣成墨繩(ハ)、久(シク)在(リ)2賊地(ニ)1、兼(テ)經《フ》2戰場(ヲ)1云々とも見ゆ、
〇官冠 乎乃未、乃未《ノミ》は、官冠を取(リ)給ふのみなるよし也、冠は位なり、上下なるも然也、
〇日上 乃 湊は、衣川の川下なるべし、今の世に湊といふ所ある是歟、一本に、日上を是の一字に誤れり、
〇扶拯 閇留、拯(ノ)字、本に極に誤れるを、今改めつ、去《イニ》し六月甲戌、征東將軍の奏せる文の中に、投v河(ニ)溺(レ)死(ルモノ)、一千三十六人、裸身(ニシテ)游(キ)來(ルモノ)、一千二百五十七人、とある時の事也、河とは、衣川をいふ也、かの上文に見ゆ、
〇又有2小功1、又(ノ)字、本に久に誤れり、今は一本又一本に依れり、
享和三年亥九月
須受能耶藏板
〔2023年6月16日(金)午前10時入力終了〕