續紀歴朝詔詞解
 
歴朝詔詞解序《ミヨミヨノミコトノリゴトノトキゴトブミノハシブミ》
 
掛久者雖畏《カケマクハカシコケド》。神之大御代爾《カミノオホミヨニ》。皇御孫之命之天降坐而《スメミマノミコトノアモリマシテ》。安國登平久所知食志與理始弖《ヤスクニトタヒラケクシロシメシシヨリハジメテ》。人之代登那埋弖母《ヒトノヨトナリテモ》。彌繼々爾生坐流日之御子之《イヤツギツギニアレマセルヒノミコノ》。現御神登神隨所知《アキツミカミトカムナガラシロシメス》。此御食國能大政事者皆《コノミヲスクニノオホキマツリゴトハミナ》。於高天原而《タカマノハラニシテ》。遠津神皇祖之神量々賜祁牟《トホツカムロギノカムハカリハカリタマヒケム》。天津法之麻々爾々許曾波有那米《アマツノリノマニマニコソハアリナメ》。如此有者事登有毎爾《カカレバコトトアルゴトニ》。天下爾令賜比志《アメノシタニオフセタマヒシ》。太古之詔詞之旨波志《イニシヘノミコトノリゴトノムネハシ》。即其神隨治賜比志政事爾斯弖《ヤガテソノカムナガラヲサメタマヒシマツリゴトニシテ》。其詞母亦《ソノコトバモマタ》。神隨之麗美久妙有詞爾波阿理祁牟乎《カムナガラノウルハシクタヘナルコトバニハアリケムヲ》。其遠津太古能波世爾不遺《ソノトホツイニシヘノハヨニノコラズ》。此平城之朝庭爾至而之《コノナラノミカドニイタリテノ》。御々代々之詔詞能美許曾《ミヨミヨノミコトノリゴトノミコソ》。今之現爾傳波理弖波有祁禮《イマノヲツツニツタハリテハアリケレ》。其本與理太古之状乎傳敝《ソレモトヨリイニシヘノサマヲツタヘ》。太古之詞乎云續來而有者《イニシヘノコトバヲイヒツギキタレバ》。大形者同伎状爾阿流倍久斯弖《オホカタハオヤジキサマニアルベクシテ》。最尊美重美可爲物爾志有乎《モトモタフトミイカシミスベキモノニシアルヲ》。唯不良加母《タダフサハヌカモ》。由々志伎加母《ユユシキカモ》。當昔既久言痛伎漢國之教《ソノカミハヤクコチタキカラクニノヲシヘ》。伊那志許米佛國之道等《イナシコメホトケグニノミチドモ》。富毘許理被行而《ホビコリオコナハエテ》。專其風爾學比《モハラソノフリニマナバヒ》。其詞爾習比《ソノコトパニナラハヒ》。彼神代之隨有《カノカミヨノママナル》。大御風母可美詞母《オホミテブリモウマシコトバモ》。漸爾被失弖《ヤヤヤヤニウシナハエテ》。甚母慨久懷悒伎枉事《イトモウレタクイキドホロシキマガコト》。多爾那母麻自禮理祁流《サハニナモマジレリケル》。然爾世々能物知人母《シカルニヨヨノモノシリビトモ》。不見識哉有祁牟《ミシラズヤアリケム》。諾而哉有祁牟《ウベナヒテヤアリケム》。其麗美登解有書《ソコウルハシトトケルフミ》。此不良登論有書者《ココフサハズトアゲツラヘルフミハ》。都而母阿良受弖《カツテモアラズテ》。千萬歳月《チヨロヅトシツキ》。可惜古言癈來爾志乎《アタラフルコトスタレキニシヲ》。靈幸比坐神之御心加《タマチハヒマスカミノミココロカ》。本居平大人《モトヲリノタヒラノウシ》。生涯乎古學爾心盡佐志《イキノキハミヲフルコトマナビニココロツクサシ》。許多之書卷書著志《ココダクノフミマキカキアラハシ》。萬世爾教喩登爲而《ヨロヅヨニヲシヘサトストシテ》。此詔詞乎母《コノミコトノリゴトヲモ》。如此那母解明論置賜敝理祁流《カクナモトキアキラメアゲツラヒオキタマヘリケル》。故混亂有異國風之枉事等者《カレミダレアヒタルコトクニブリノマガコトラハ》。委曲爾見別禮《ツバラニミエワカレ》。癈來志皇國之正久麗美伎弖夫理許登婆波《スタレコシミクニノタダシクウルハシキテブリコトバハ》。眞清明爾顯而《マサヤカニアラハレテ》。音違有八絃之琴乎《コヱタガヘルヤツヲノコトヲ》。調正有事能如久《シラベタダセルコトノゴトク》。塵居曇有眞十見之鏡乎《チリヰクモレルマソミノカガミヲ》。磨成有事能如久爾那母成出多流《ミガキナシタルコトノゴトクニナモナリイデタル》。阿那意牟加志《アナオムカシ》。底寶々之書登《ソコタカラタカラノフミト》。遠久長久都多波理由加牟《トホクナガクツタハリユカム》。是能六卷之此解説書《コレノムマキノコノトキゴトブミ》
享和三年三月                     大神安守
 
續紀歴朝詔詞解一巻
                      本居宣長解
 
   まづとりすべていふ事ども
 
世にいはゆる宣命は、すなはち古(ヘ)の詔勅《ミコトノリ》にして、上(ツ)代の詔勅は、此外なかりしを、萬の事漢ざまにならひ給ふ御世御世となりては、詔勅も、漢文のを用ひらるゝこと多くなりて、後の世にいたりては、つひにその漢文なる方を、詔書勅書とはいひて、もとよりの皇國言のをば、分て宣命とぞいひならへる、西宮記に詔書(ノ)事、改元改錢、并(ニ)赦令等(ノ)類也、臨時(ノ)大事(ヲ)爲v詔(ト)、尋常(ノ)小事(ヲ)爲v勅(ト)、勅書(ノ)事、攝政關白(ニ)賜2随身(ヲ)1、皇子(ニ)賜2源氏(ノ)姓(ヲ)1、内親王准(シテ)2三宮(ニ)1宛2封戸(ヲ)1等(ノ)類、可(シ)2尋註(ス)1、宣命(ノ)事、神社山陵(ノ)告文、立后太子、任大臣(ノ)節會任僧綱天台座主、及(ビ)喪家(ノ)告文等(ノ)類也、奏覽(ノ)儀同(ジ)2詔書(ニ)1、と見えたるが如し、北山抄にもかく有(リ)、されど此(ノ)續紀のころは、なほ然にはあらず、皇國言のをも、もろ/\の事にも、おほく用ひられて、これをも共に、詔といひ、勅といへりき、さて宣命といふ目《ナ》は、此續紀の十の卷に、始めて見えて、そは命《ミコト》を宜《ノル》よしにて、宣とは、命《ミコト》を受(ケ)傳へて、告聞《ノリキカ》するをいふ也、神祇令に、中臣|宣《ノル》2祝詞(ヲ)1とありて、義解に、宣(ハ)布也、言(フ)d以(テ)2告(ル)v神(ニ)祝詞(ヲ)1、宣c聞《ノリキカスルヲ》百官(ニ)uとあるごとく、宣命の宣もその意也、繼體紀に、宣勅使とあるも、勅を宣《ノ》る使也、其外つねにいふ宣旨宣下などもみな、宣(ノ)字は、告聞《ノリキカ》する人に係《カカ》れり、さればかの續紀に見えたる宣命も、其《ソノ》義《ココロ》にて、古語のにまれ漢文のにまれ、勅命《オホミコト》をうけ給はりて、宣聞《ノリキカ》する事をさしていへる目《ナ》にこそあれ、その文をさしていふ名にはあらざりしを、後(ノ)世には、直《タダ》に其文をさして、宣命といひ、さるから宣(ノ)字をも、詔勅《オホミコト》のこととぞ心得ためる、西宮記の、上(ノ)件の文のつゞきにまた、別(ニ)無(シ)2宣命1、或(ハ)詔書(ノ)之可(キヲ)2宣命(ス)1、謂(フ)2之宣命(ト)1云々《トイヘリ》とある、こは又一説を擧られたるにて、これぞ古(ヘ)の意なりける、可(キヲ)2宣命(ス)1とは、その儀式をとゝのへて、宣聞《ノリキカ》するをいふ也、
〇上(ツ)代の詔勅《ミコトノリ》は、みな此宣命といふさまの文にぞ有けむを、古事記にも書紀にも、しるされたることなければ、持統天皇よりあなたの御世/\のは、一つだに世につたはらずなりぬ、書紀に多く載せられたる詔ども、上(ツ)代のはみな、撰者の心もて、新に造りて、かざりに添(ヘ)られたる、漢文のなれば、意も詞も、古(ヘ)にあらざること論なし、推古天皇の御卷などよりこなたのは、實の當時々《ソノトキドキ》の文にも有べけれど、それはたみな漢文ののみなれば、いにしへまなびのためには、さらにやうなきを、あはれ古(ヘ)の皇国言のは、いかに麗美《ウルハシ》く雅《ミヤビ》たる、たふとき文なりけむ、いとも/\ゆかしきを、書紀撰ばれたりし時、いと上代のこそ、世にのこらざることもありけめ、やゝ近き御世/\のは、多く傳はりてぞ在(ル)べきを、みな棄《ステ》て載せられず、こと/”\に消亡《キエウセ》て、世にのこらずなりぬるは、いとも/\あたらしくくちをしく、うれたきわざになむ有ける、宣長書紀を讀(ム)ごとに、かの上代のからざまの造詔《ツクリミコト》の、こちたくうるさきにつけても、古語のまことの詔詞の、いとしぬはしき歎きぞ、たへがたかりける、然るを續紀には、これをすてずして、御世/\のを、こゝら載せられたるは、いとも/\めでたくたふときこと、申すもさら也、おほかた奈良(ノ)朝よりあなたの、古言の文詞の、世につたはれるは、延喜式にのれる、もろ/\のふるき祝詞と、此續紀の詔詞とのみこそ有けれ、これらをはなちては、あることなし、然るにこの續紀の詔詞といへども、まれには漢文言のまじり、又詞のみにもあらず、意さへに漢なることもおほかるこそ、なほいとあかぬわざなりけれ、かく皇國言の詔詞にしも、漢意をまじへらるゝことも、推古天皇孝徳天皇天智天皇などの御世/\よりぞ始まりけむ、又聖武天皇高野(ノ)天皇の御世のには、佛事のいとこちたくおほかるは、殊にうるさく、ふさはしからぬわざなりかし、おほかたかくのみ、からごゝろ佛ごとの多くまじりて、詞はた漢ざまなるも、まれ/\にはまじらぬにしもあらざれども、猶大かたの文詞のいとめでたく、古く雅《ミヤビ》たることはしも、後の世の人の、かけても及ばざるさまにぞありける、
〇續紀のつぎ/\、後紀よりこなたの史どもなる宣命(ノ)詞を、つぎ/\に見もてゆくに、御世/\を經るまに/\、古言はやうくに少《スクナ》くなりつゝ、たゞ漢意漢詞のみ、いよ/\ます/\おほく、語のつゞきさまなどはた、からぶみぶりがちになれる、其中に、たゞふるき例のある事をいへる所々のみは、その古き文によれる故に、なほ宣命めきて聞ゆれども、さきに例なき事を、新につゞれるふしは、たゞ文字の書(キ)ざまのみ、いにしへの宣命書(キ)にて、すべてたゞ漢文ぶりにて、むげに見どころなく、いと拙き物にぞなりきにける、そもいかなれば、かくつたなくはなれるぞといふに、まづすべて詔勅を作るは、内記の職にて、職員令に、大内記二人、掌(ル)d造(リ)こ詔勅(ヲ)1、凡(ソ)御所(ノ)記録(ノ)事(ヲ)u、中内記二人、掌(ルコト)同(ジ)2大内記(ニ)1、少内記二人、掌(ルコト)同(ジ)2中内記(ニ)1、と見え、貞觀儀式(ノ)讓國(ノ)儀に、大臣召(テ)2内記(ヲ)1、令(メ)v作(ラ)2讓位(ノ)宣命(ヲ)1訖(テ)、先(ヅ)以2草案(ヲ)1、就(テ)2内侍(ニ)1奏覽(ス)、【若(シ)有(レバ)d可(キ)2損益(ス)1者(ノ)u據(ル)2勅(ノ)處分(ニ)1】返(シ)賜(フ)、大臣復(リ)2本(ノ)所(ニ)1、令(ム)v書2黄紙(ニ)1、挾(テ)2於書杖(ニ)1祗候(ス)、また延喜(ノ)内記式に、凡神社山陵(ノ)宣命(ハ)、大臣奉(テ)v勅(ヲ)、命(シテ)2内記(ニ)1作(ラシム)v之(ヲ)、内記作(リ)了(テ)、進(ル)2大臣(ニ)1、大臣給(フ)v使(ニ)など見えたるが如し、さて内記には、學才ある人を任ぜらるゝことにて、後(ノ)世までも然にて、職原抄にも、儒門(ノ)之中、堪(タル)2文筆(ニ)1者任(ス)v之(ニ)、草(スレバ)2詔勅宣命(ヲ)1也、とあるがごとし、然るに昔は、すべて學問といへば、たゞ漢學のみにて、皇朝の古(ヘ)の事を、ことに學ぶわざはなかりしかば、物しれる人といふも、たゞ漢籍のすぢの事を、よく知れるのみこそあれ、皇國の古(ヘ)のすぢには、うとく昧《クラ》かりし故に、年月にそへて、古言古意は漸《ヤウヤウ》にうせゆきつゝ、世にこれをしれる人もなくなれる也、そは書紀の私記の説どもの、稚《ヲサナ》くつたなきを見ても知べし、弘仁などのころすら、はやく然りければ、ましてそれより後々のものしり人たちは、おしはかるべし、されば宣命(ノ)詞の、やう/\に拙く、もはら漢さへづりのさまになれるは、必しも作(レル)者《ヒト》の、漢ざまを好みてのみにもあらざめれども、古意古言をえしらざる故に、せむかたなく止(ム)事得ずて、おのづから然(カ)流れゆきたるなめりかし、〇いにしへは、片假字平假字といふ物なかりしかば、物をしるすに、皇國語のまゝにはものしがたけれは、から國のしるしざまにならひて、萬の事みな、漢文もてしるしけるを、歌のみは、いはゆる万葉假字をもてしるし、又祝詞宣命も、古語のまゝに書て、一もじもたがへず、てにをはの假字をさへに、細書に添(ヘ)たる、是を世に宣命書《セムミヤウガキ》といへり、そも/\これらのみは、漢文にはしるさで、然(カ)語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天(ノ)下(ノ)公民に、宣聞《ノリキカ》しむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめて感《カマ》くべく、其詞に文《アヤ》をなして、美麗《ウルハシ》く作れるものにして、一もじも、讀(ミ)たがへては有(ル)べからざるが故に、尋常《ヨノツネ》の事のごとく、漢文ざまには吾(キ)がたければ也、かゝれば宣命といふものは、聞(ク)人の心に染《シ》めて感《カマ》くべく作れる物なれば、その文詞の作りざまは、さらにもいはず、これを讀(ミ)擧る事をさへに、古(ヘ)はいと重く嚴《オゴソカ》にせられて、其法正しく、くさ/”\ならひども有しことなり、三代實録に、貞觀九年正月十七日、二品仲野(ノ)親王薨、親王(ハ)者桓武天皇(ノ)之第十二皇子也云々、幼(ヨリ)辨慧、性寛裕云々、親王能(ク)用2奏壽宣命(ノ)之道(ヲ)1、音儀詞語、足(レリ)v爲(ルニ)2模範(ト)1、當時王公、罕(レナリ)v識(ルニ)2其儀(ヲ)1、勅(シテ)2參議藤原(ノ)朝臣基經、大江(ノ)朝臣音人等(ニ)1、就(テ)2親王(ノ)六條(ノ)亭(ニ)1、受2習(ハシム)其(ノ)音詞曲折(ヲ)1焉、故(ノ)致仕左大臣藤原(ノ)朝臣緒嗣、授(ク)2此(ノ)義(ヲ)於親王(ニ)1、親王襲持(テ)、不v失2師法(ヲ)1焉、と見えたるにて、いとたやすからざりしほどをしるべし、ふるき書籍目録に、宣命譜といふ物出たり、今は傳はらぬ書なれば、いかさまなるものにか、しられねど、譜と名づけたるをもて思ふに、その讀揚《ヨミアゲ》ざま、音聲の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物にこそありけめ、そも/\かくまでやむことなきわざにしあれば、今此紀なるをよむにも、そのこゝろばへ有べし、訓を附ること、いと/\大事也、一(ト)もじといへども、なほざりにすべきにあらず、よく/\古語の例格を尋ね考へ、語のしらべをうるはしく物すべきわざなり、すべて何事をいふにも、その詞の文《アヤ》によりて人も神も、こよなく感《カマ》け給ふことなれば、祝詞宣命のたぐひは、殊に言詞《コトバ》の文《アヤ》を主《ムネ》とすべきわざ也、神代紀(ノ)天(ノ)石屋戸(ノ)段に、天(ノ)兒屋(ノ)命云々、而|廣厚稱辭《ヒロクアツクタタヘコトシテ》、所啓《ノミマヲス》焉|于時《トキニ》、日(ノ)神|聞之《キカシタマヒテ》、曰(ヒテ)d頃者《コノブロ》人《ヒト》雖《ドモ》2多請《サハニマヲセ》1、未c有《アラザリキト》若此《カク》言之麗美《コトノウルハシキハ》者u也、乃(チ)細2開《ホソメニアケテ》磐戸《イハヤトヲ》1而|窺之《ミソナハス》、とあるをもて、神も、殊に言詞のうるはしきを感《メデ》給ふことをしるべし、近き世のものしり人共のごとく、たゞ空理《ムナシゴト》をのみ説《トキ》て、言詞をなほざりに思ひすつるは、例の漢意にして、古(ヘ)の意にあらず、
〇宣命の儀式は、貞觀儀式の條々に、多く見えたる中に、大嘗祭巳(ノ)日のところに、内記以(テ)2宣命(ノ)文(ヲ)1進(ル)2大臣(ニ)1、大臣執(テ)奏(ス)v之(ヲ)、訖(テ)大臣喚(テ)d堪(ヘタル)2宣命(ニ)1參義以上一人(ヲ)u、授(ク)2宣命(ノ)文(ヲ)1、受(テ)即復(リ)2本(ノ)座(ニ)1云々、皇太子立(テ)2座(ノ)東(ニ)1西面(ス)、次(ニ)親王以下、共(ニ)隆(テ)之立(テ)、宣命(ノ)大夫下(テ)v殿(ヲ)、進(テ)就(テ)v版(ニ)宣制(ス)、其詞(ニ)云(ク)、云々諸聞食 止 宣(ル)、【皇太子先(ヅ)稱唯、次(ニ)親王以下共(ニ)稱唯、皇太子先(ヅ)再拝、次(ニ)親王以下共(ニ)再拜、】更(ニ)宣(テ)云(ク)云々、衆聞食 止 宣、【皇太子先(ヅ)稱唯、次(ニ)親王以下稱唯、訖(テ)皇太子先(ヅ)再拜、次(ニ)親王以下 小齋 再拜、】宣命(ノ)大夫復(ル)2本(ノ)座(ニ)1、親王以下(モ)亦復(ル)2本(ノ)座(ニ)1と見ゆ、何れのをりの宣命の儀も、大かたかくのごときもの也、宣命(ノ)大夫といふは、宣命(ノ)文を讀(ム)人にて、宣命使ともいへり、上に堪(ヘタル)2宣命(ニ)1參議以上一人とある是也、就v版(ニ)とは、宣命(ノ)版とて、かねて設(ケ)置(ケ)る、それに就《ツク》をいふ、宣制とは、制は即(チ)命にて、これも宣命といふと同じ意なれども、宣命といふは、其事の儀式を、ひろくいひならへる名なる故に、其中につきて、正《マサ》しく其文を讀(ミ)擧る事をば、宣制といひて、事を分《ワカ》てる也、
〇内記式にいはく凡宣命(ノ)文(ハ)者、皆以2黄紙(ヲ)1書(ク)v之(ヲ)、但奉(ル)2伊勢の大神宮(ニ)1文、以2縹(ノ)紙(ヲ)1書(ク)、賀茂(ノ)社(ハ)、以2紅(ノ)神(ヲ)1書、
〇今此解は、續紀に出たる詔書のかぎりを擧て、その詞を解《トキ》)たり、つぎ/\第一詔第2詔とやうに標《シル》すは、もとより然定まれることの有(ル)にはあらず、今たゞ私に、假《カリ》にまうけて定めたる也、然定めまうけたる故は、解の中に、しば/\他《アダシ》詔を引出る、そのたび毎に、某《ソノ》年の某(ノ)月日の某(ノ)詔と書出むは、言多く煩はしければ、言少《コトズク》なにものせむため、又此解を見む人の、かれこれ尋ね合(ハ)すにも、便(リ)よからむため也、
〇今此書に擧たる本文は、世にひろまれる印本《スリマキ》の外に、寫本《ウツシマキ》どもをも、三つ四つよみ合せて、中によしとおぼゆるを、えりとりてものしつ、さてその本どものよきあしきことは、その所々の解《トキゴト》にことわれり、
〇解の中に、書の名をあげずして、引る文は、續紀なり、又たゞ紀とのみいふも、績紀なり、
〇すべてもろ/\の書に、宣命(ノ)文をしるせるやう、てにをはの假字を、細書《コガキ》にして添(ヘ)たる、其例、大かたは定まれる如くにて、たとへば勅《ノリタマ》 波久《ハク》とあるがごとき、波久《ハク》は活《ハタラ》く辭《モジ》なるが故に、添(ヘ)たり、いづれの詞もかくのごとし、然れどもまた、勅《ノリタマハ》 久《ク》とやうに、波《ハノ》字は省きて、書《カカ》ざるたぐひも常のこと也、必(ズ)同じさまに定まれることはあらず、又細書にすべきを、大書にし、大書にすべきを、細書にしたるたぐひも多く、かならず細書の假字を添(フ)べきところに、省きて添(ヘ)ざるもおほし、すべてかゝるたぐひ、もとより然るも有(ル)べく、又後に寫すとて、變《カハ》れるも有べく、くさ/”\正しからざる書(キ)ざま、つねおほかるを、宣長今これを書(ク)に、大書細書のけぢめの例をば、正しく定めて、物せむとすれども、なほことごとくこまかには定めがたきことどもあり、されど又ひたぶるに本のまゝにてあらむは、あまりにみだりなることの多かれば、今は此大書細書ばかりは、本にかゝはらず、大かたには例をさだめてものしつ、
〇いづれの詔も、おの/\其《ソ》を作れる人の、心々とおぼしくて文字づかひなどかはれること有(リ)、たとへは仕奉《ツカヘマツル》を、供奉或は奉侍とのみ書き、所念《オモホス》をみな所思、大命《オホミコト》を、みな御命とも書るたぐひ也、假字も然にて、とほりて定まれることはなし、ににみな爾を用ひたる詔も有(リ)、又みな仁を用ひたるもあり、てに皆弖を書るもあり、又みな天を書るもあるたぐひ也、これはたおの/\、作者の心々にぞ有けむ、又まれには、つねにはをさ/\用ひぬ、めづらしきもじを用ひたることもあり、又假字の清濁は、分て用ひたりと見ゆるもあれども、また自(ノ)字夫(ノ)字などを、多く清音にも用ひたるたぐひ、分れざるも多し、又すべて細書の假字は、今の本、全くもとのまゝともおばえぬこと有(リ)、弖と天、爾と仁などのたぐひ、此本と彼(ノ)本と、異なることも多かるを見れば、中には後につぎ/\寫せるときに、何心もなく、書たがへたるたぐひもあるにやあらむ、
 
第一詔
 
 一の卷の始めに、天之眞宗豐祖父(ノ)天皇、【文武天皇】云々、高天(ノ)原廣野姫(ノ)天皇(ノ)十一年、立(テ)爲2皇太子(ト)1、八月甲子(ノ)朔、受(テ)v禅(ヲ)即v位(ニ)、庚辰詔曰(ク)とあり、持統天皇紀には、八月乙丑(ノ)朔、天皇定(メテ)2策(ヲ)禁中(ニ)1、禅2天皇(ノ)位(ヲ)於皇太子(ニ)1と有、八月朔の、乙丑と甲子と、たがひたるは、七月を、大としたると、小としたると、暦法の異なりけむ故なり、庚辰は十七日なり、
 
現御神 止 大八嶋國所知天皇大命 良麻止 詔大命 乎 集侍皇子等王臣百官人等天下公民諸聞食 止 詔《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメススメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲウコナハレルミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 爾 事始而遠天皇祖御世中今至 麻弖爾 天皇御子之阿禮坐 牟 彌繼繼 爾 大八嶋國將知次 止 天 都 神 乃 御子隨 母 天坐神之依 之 奉 之 随〔聞看來〕此天津日嗣高御座之業 止 現御神 止 大八嶋國所知倭根子天皇命授賜 比 負賜 布 貴 支 高 支 廣 支 厚 支 大命 乎 受賜 利 恐坐 弖 此 乃 食國天下 乎 調賜 比 平賜 比 天下 乃 公民 乎 惠賜 比 撫賜 牟止奈母 隨神所思行 佐久止 詔天皇大命 乎 諸聞食 止 詔《タカマノハラニコトハジメテトホスメロギノミヨミヨナカイマニイタルマデニスメラガミコノアレマサムイヤツギツギニオホヤシマクニシラサムツギテトアマツカミノミコナガラモアメニマスカミノヨサシマツリシマニマキコシメシクルコノアマツヒツギタカミクラノワザトアキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラミコトノサヅケタマヒオホセタマフタフトキタカキヒロキアツキオホミコトヲウケタマハリカシコミマシテコノヲスクニアメノシタヲトトノヘタマヒタヒラゲタマヒアメノシタノオホミタカラヲメグビタマヒナデタマハムトカムナガラオモホシメサクノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。是以百官人等四方食國 乎 治奉 止 任賜 幣留 國國宰等 爾 至 麻弖爾 天皇朝庭敷賜行賜 敝留 國法 乎 過犯事無 久 明 支 淨 支 直 支 誠之心以而御稱稱而緩怠事無 久 務結而仕奉 止 詔大命 乎 諸聞食 止 詔《ココヲモテモモノツカサノヒトドモヨモノヲスクニヲヲサメマツレトマケタマヘルクニグニノミコトモチドモニイタルマデニスメラガミカドノシキタマヒオコナヒタマヘルクニノノリヲアヤマチオカスコトナクアカキキヨキナホキマコトノミココロヲモチテイヤススミススミテタユミオコタルコトナクツトメシマリテツカヘマツレトノリタマフオホコトヲモロキロキコシメサヘトノル》。
故 (爾) 如此之状 乎 聞食悟而款將仕奉人者其仕奉 禮良牟 状隨品品讃賜上賜治將賜物 曾止 詔天皇大命 乎 諸聞食 止 詔《カレカクノサマヲキコシメシサトリテイソシクツカヘマツラムヒトハソノツカヘマツレラムサマノマニマシナジナホメタマヒアゲタマヒヲサメタマハムモノゾトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
 
現御神 止《》は、阿伎都美加微登《アキツミカミト》と訓べし、此訓の事、出雲(ノ)國造(ノ)神壽後釋にいへり、明御神《アキツミカミ》明津神《アキツミカミ》なども書り、止《ト》は、爾呈《ニテ》といはむがごとし、第五詔には、現御神 止 坐而《アキツミカミトマシテ》とも有(リ)、皇 止 坐《スメラトマス》父 止 坐《チチトマス》なども、皇にて坐《マシ》父にて坐(ス)也、此言は、天皇は、世に現《ウツツ》しく坐(シ)ます御神にして、天の下をしろしめすよし也、貴行紀雄略紀に、現人神《アラビトカミ》とあるも、同じ意也、又万葉に、遠神吾大王《トホツカミワゴオホキミ》と申し、又天皇の御うへの事には、神《カム》ながら云々と申すも、神にてましますまゝにといふ意也、そも/\後世に至りて、天皇を畏れ奉らざる者も、出來たりしは、世(ノ)人の心、漢意にうつりて、現御神にまします御事を、わすれたるが故也、あなかしこ/\、
〇大八嶋國の事、古事記傳にいへり、
〇所知は、志呂志賣須《シロシメス》と訓(ム)、食《メスノ》字を省きて書る也、万葉十八廿には、之良志賣之《シラシメシ》とも有(リ)、又六には、所知座《シラシマス》とも有、
〇天皇大命は、須賣良我意富美許登《スメラガオホミコト》と訓べし、十二詔に、天皇 羅我 命《スメラガオホミコト》、卅二詔に、天皇 何《ガ》 大御命 良麻止、四十二詔に、天皇 我 御命 良麻止、四十四詔に、天皇 良我 御命、四十八詔に、天皇 我 勅命、など有をもて知べし、四十詔に、天皇 我 御世 爾ともあり、
〇良麻止《ラマト》は、附ていふ辭と聞えたり、武烈紀に、臣をヤツコラマ、顯宗紀に、御裔僕をミナスヱヤツコラマ、など訓るに同じ、現御神云々の大命ぞと、たしかにいひ聞する意に添(ヘ)たる辭なるべし、師は、詔《ノ》らまにて、詔《ノラ》むといふこと也といはれたれど、わろし、大命のらむと詔ふとは、いふべくもあらぬうへに、詔旨艮麻なども多く書(キ)たるは、のらまとは訓(ミ)がたきをや、
〇集侍《ウコナハレル》の事、大祓詞(ノ)後釋に云り、
○皇子等云々、此事もかの後釋に、親王諸王諸臣百官人等とある所にいへり、皇子等は、親王とあると同じ、王臣は、譜王諸臣とあると同じ、すべてかくさまの、常に定まれることは、其字はさま/”\に、具《ツブサ》にも省《ハブ》きても書たれど、讀《ヨミ》はみな同じこと也、たとへばおほみことを、大御命とも、大命とも、御命とも、勅命とも、命とも書るが如し、此類、其所の字によりて、訓を異《カフ》るはひがこと也、等(ノ)字も、王の下臣の下にも有(ル)べきを、こゝは略きて書る也、みな多知《タチ》と讀付《ヨミツク》べし、十三詔に、王多知《オホキミタチ》、また臣多知《オミタチ》、卅八詔に、親王多知《ミコタチ》臣多知《オミタチ》、百(ノ)官(ノ)人等、四十二詔に、諸王多知《オホキミタチ》臣多知《オミタチ》、などあるをもて定むべし、
〇天下は、万葉五また廿などに、阿米能志多《アメノシタ》とあるに依て訓べし、つねにあめがしたといふは、俗《サトビ》なり、
〇公民は、意富芙多加良《オホミタカラ》と訓べし、委くは古事記傳廿四の卷にいへり、
〇諸《モロモロ》は、皇子等《ミコタチ》云々|諸《モロモロ》にて、上に屬《ツケ》る言なり、古事記に、天神諸《アマツカミモロモロ》などあるが如し、
〇聞食は、伎許志賣佐閇《キコシメサヘ》と訓べし、卅三詔に、諸問食 倍止 詔、卅五五十三五十四詔などにも、かく倍《ヘノ》字を添て書れば也、佐閇《サヘ》は世《セ》を延たる也、又つねのごとく、賣世《メセ》と訓(マ)むもあしからず、三代實録廿二(ノ)卷(ノ)詔には、諸聞(シメ) 世止ともある也、
〇詔、これは宣なり、能流《ノル》と訓べし、宣命使のみづからいふ也、詔とは書たれども、天皇の詔ふといふにはあらず、此詔には、宣をもみな詔と書たり、古(ヘ)は凡て、言だに同じければ、字にはかゝはらず、いかにも/\通はし書たり、なほ此宣の事、大祓詞後釋に委くいへり、続後紀三代實録などには、此宣に、詔 布と、布(ノ)字を添て書る所もあれども、そはそのかみはやく、心得誤れるか、但しみづからの事にも、給ふといふ古言の例あれば、これものりたまふともいへるか、そはいかにまれ、たとひ然訓ても、意はみづから宣(ル)也、決て天皇の詔ふよしには非ず、思ひ混《マガ》ふべからず、さてすべてもろ/\の詔に、かく諸聞食 止 宣(ル)といふ處、一段にて、此一段終る毎に、集侍《ウコナハ》れる諸《モロモロ》、共に稱唯《ヲヲトマヲス》例なり、
〇高天原 爾、爾(ノ)字、本どもに、乎と作《カケ》るは誤也、第五詔に、高天(ノ)原 爾《ニ》 事波自米而《コトハジメテ》とあるによりて、今改(メ)つ、
〇事始而《コトハジメテ》、道饗(ノ)祭(ノ)祝詞に、高天(ノ)原 爾 事始(メ) 弖、皇御孫之命云々、遷却祟神(ノ)祝詞に、高天之原 爾 神留《カムヅマリ》坐 弖、事始(メ)給(ヒ) 志、神漏伎神漏美 能 命以 弖云々、さて此語は、下の天(ニ)坐(ス)神之|依 之《ヨサシ》 奉(リ) 之 隨《シマニマ》、といふへ係《カカ》りて、天津日嗣の御事を、始め給ふをいふ也、
〇遠天皇租は、登本須賣漏岐《トホスメロギ》と訓べし、十三詔に、遠天皇御世始 弖《トホスメロギノミヨハジメテ》、今朕御世 爾 當《イマワガミヨニアタリ》 弖母、十七詔に、自(リ)2遠天皇(ノ)御世1、五十七詔に、遠天皇(ノ)御世御世、また第三詔に、遠皇祖《トホスメロギノ》御世 乎 始(メ)而、天皇御々世々《スメラガミヨミヨ》、第五詔に、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ)而、中今 爾 至 麻弖、十四詔廿三詔にも、同じさまに見えたり、孝徳紀に、又詔(テ)2於百濟(ノ)使(ニ)1曰(ク)、明神《アキツミカミト》御宇(メス)日本《ニホム》天皇詔旨、始(メ)我(ガ)遠皇祖之世《トホスメロギノミヨ》云々、これをトホツミオヤと訓るはわろし、持統紀にも、新羅|元來《ハジメヨリ》奏(テ)云(ク)、我(ガ)國(ハ)、自(リ)2日本|遠皇祖代《ホスメロギノミヨ》1云々、また自(リ)2我(ガ)國家遠皇祖代《ミカドトホスメロギノミヨ》1云々、万葉にも、皇祖皇祖神皇神祖などみな、スメロギと訓(ミ)、假字書(キ)にも、十五十七十八廿などに、須賣呂伎《スメロギ》と有(リ)、又十九に、皇祖神之遠御代三世波《スメロギノトホミヨミヨハ》、【三は借字にて御なり、】廿に、ひさかたの天の戸ひらき、高千穗のたけにあもりし、須賣呂伎《スメロギ》の神の御世より云々、さてすめろぎとは、上件の書どもに書る字のごとく、古(ヘ)の御世/\の天皇を申し、又今の天皇までをかけても申せること有(リ)、故(レ)天皇とのみも書る處も有也、さて上に引る第三第五第十三などの詔によれば、こゝにも此下に、始而《ハジメテ》と有しが、脱《オチ》たるかとも思へど、こゝは上に事始(メ)而とあれば、重ねてはいふまじく、こゝは御世御世と有べきところ也、されば御世一つ脱たるなるべし、
〇中今《ナカイマ》とは、今をいふ也、後世の言には、當時《イマ》のことを、降れる世後の世などいふは、よろしくもあらぬいひざまなるを、中といへるは、當時を盛(リ)なる眞中の世と、ほめたる心ばへ有て、おもしろき詞也、此言第四第五第十三詔にも有(リ)、さて此言は、下の天都神 乃 御子|隨《ナガラ》 母云々聞(シ)看來《メシクル》、といふへ係《カカ》れり、次の天皇御子之云々へはつゞかず、
〇阿禮坐は、生《アレ》坐(ス)也、古事記神武(ノ)段に、阿鎧坐御子《アレマセルミコ》、神功段に、其(ノ)御子(ハ)者阿禮坐(シヌ)など、なほ多し、
〇彌繼々 爾は、又繼(ギ)又繼(ギ)繼(ギ)ゆく也、
○次 止、都藝弖《ツギテ》と訓べし、ついでといふは、やゝ後の音便言也、四十五詔には、天 日嗣高御座 乃 |繼 天《ツギテ》とも書たり、さてこは天津日嗣しろしめす次第といふこと也、出雲國造神賀詞に、天穗日(ノ)命 波 云々 登《ト》、仰賜 志 次 乃 隨 爾《オホセタマヒシツギテノマニマニ》とあるも、天穗日命より、國造の繼々《ツギツギ》に仕奉るを、次《ツギテ》といへり、又顯宗紀に、陛下|正統《ツイデニマス》當《ベシ》v奉《ウケタマフ》2鴻緒《アマツヒツギヲ》1と有(リ)、さて此(ノ)言、下の依 之 奉へ係れり、此次(ノ)字を、一本には須と誤れり、
〇天 都 神 乃御子とは、天照大御神の御子のよしにて、天(ノ)忍穗耳(ノ)命邇々藝(ノ)命より始(メ)奉りて、御世/\の天皇を申す御稱にて、古事記書紀に、神武天皇をもかく申し、神代紀に、天孫をも、アメノカミノミコとよめる所あり、さてこゝに、天都神と書れたるを以て、すべて天神は、かくよむべきことを知べし、あめのかみとよむはひがこと也、
〇隨 母《ナガラモ》は、神隨《カムナガラ》のながらと同くて、天照大御神の御子に坐(シ)ますまゝにといふ也、母(ノ)字、印本には、爾と有(リ)、そはマニ/\と訓べし、同意ながらこれは、まに/\といひては、次なる隨《マニマ》と重なりて、語煩(ラ)はし、故(レ)今は一本に依れり、母《モ》は、第五第九詔十三五十四詔などに、隨神 母《カムナガラモ》と有(ル)ごとく、添(ヘ)たる辭也、万葉二に皇子隨任賜者《ミコナガラマケタマヘパ》云々、
〇天(ニ)坐(ス)神は、他《》の詔に、天(ニ)坐(ス)神國(ニ)坐(ス)神など、廣くいへるとは、心ばへ異也、こゝは諸(ノ)祝詞に、高天原に神留《カムヅマリ》坐(ス)云々とある天(ツ)神にて、もはら天照大御神高御産巣日(ノ)神をさして申せる也、たゞ天(ツ)神といはずして、天(ニ)坐(ス)といへるは、上の天都神と、同言の重なる故に、少しかへて申せる也、
〇依 之《ヨサシ》 奉(リ) 之 隨《シマニマ》は、古事記に、天照大御神(ノ)之命以(テ)、豐葦原(ノ)之千秋(ノ)長五百秋(ノ)之水穗(ノ)國(ハ)者、我(ガ)御子正勝吾勝勝速日天(ノ)忍穗耳(ノ)命(ノ)之|所知國《シラサムクニト》、言因賜而《コトヨサシタマヒテ》、天降也《アマクダシタマヒキ》云々、爾《ココニ》天照大御神高木(ノ)神(ノ)命以(テ)、詔《ノリタマハク》2太子《ヒツギノミコ》正勝吾勝勝速日天(ノ)忍穗耳(ノ)命(ニ)1云々、是(ヲ)以(テ)隨白之《マヲシタマフマニマニ》、科《オホセテ》v詔《ミコト》2日子番能爾々藝(ノ)命(ニ)1、此(ノ)葦原(ノ)水穗(ノ)國(ハ)者、汝所知國《ミマシシラサムクニナリト》、言依賜《コトヨサシタマフ》、故隨命以可天降《カレミコトノマニマニアモリマスベシトノリタマヒキ》、とある是也、猶書紀神代(ノ)下(ツ)卷にも見ゆ、隨は、こゝは麻爾麻《マニマ》と訓つ、下に爾(ノ)字なければ也、假字書(キ)に麻爾麻《マニマ》とも有(リ)、されど又まに/\とも訓べし、〇聞看來《キコシメシクル》、此(ノ)三字は、諸(ノ)本にみな脱《オチ》たるを、十四詔に、高天(ノ)原(ニ)神積《カムヅマリ》坐(ス)、皇(ラガ)親神魯伎神魯美(ノ)命以(テ)、吾孫《アガミマ》 乃 命 乃 將知《シラサム》食國天(ノ)下 止、言依(シ)奉(リ) 乃 隨《マニマ》、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ)而、天皇(ラガ)御々世々《ミヨミヨ》聞(シ)看(シ)來《クル》、食國天(ツ)日嗣高御座 乃 業 止奈母云々、廿三詔に、云々 止 事依(シ)奉(リ) 乃 任《マニマニ》、遠皇祖(ノ)御世(ヲ)始(メ) 弖、天皇(ラガ)御々世々、開(シ)看(シ)來《クル》、食國高御座 乃 業 止奈母云々、などある例によりて、今|補《クハヘ》つ、ここに此語なく、本のまゝにては、上の中今 爾 至(ル) 麻弖爾といへる語を承《ウク》るところなく、又次の語へもつゞかざればなり、
〇天津日嗣の事、古事記傳にいへり、
〇高御座之業、高御座は、天の御座といはむが如し、高とは天をいふ、たゞ高きよしにはあらず、天皇の御座は、即(チ)高天原にして、天照大御神のまします御座を、受(ケ)傳へますよしをもて、高御座とは申す也、さて高御座之業とは、天皇の此(ノ)御座に坐(シ)まして、天(ノ)下を治めさせ給ふ御業を申す也、大殿祭(ノ)詞に、高天(ノ)原 爾 神|留《スマリ》坐 須、皇(ラガ)親神魯企神魯美之命以 弖、皇御孫之命 乎、天津高御座 爾 坐《マセ》弖、天津|璽《シルシ》 乃 劔鏡 乎、捧持賜 天、言壽宣《コトホキノリタマヒ》 志久、皇我宇都御子《スメラガウヅミコ》、皇御孫之命、此 乃《コノ》天津高御座 爾 坐(シ)弖、天津日嗣 乎、萬千秋 乃 長秋 爾、大八洲豐葦原(ノ)瑞穗之國乎、安國 止 平 氣久 所知食《シロシメセト》、言寄《コトヨサシ》奉賜 比弖云々、さて上の高天(ノ)原 爾 事姶(メ)而といふより、是までの文、事のつゞきの趣、まぎらはしきが如し、よくせずは心得たがへなむ、文の條理《スヂ》をこまかに尋ね正して看《ミ》べし、高天(ノ)原 爾 事始(メ)而、天皇(ガ)御子之阿體坐 牟 彌繼々 爾、大八嶋國|將知次《シラサムツギテ》 止、天(ニ)坐(ス)神之依 之 奉 之 随《マニマ》、遠天皇祖(ノ)御世《ミヨミヨ》、中今(ニ)至(ル) 麻弖爾、天 都 神 乃 御子|隨《ナガラ》 母、聞(シ)看(シ)來(ル)云々 といふ次第也、
〇現御神 止 云々天皇命は、こゝは持統天皇をさして申(シ)給ふ也、倭根子と申す御稱の事、古事記傳廿一の卷にいへり、御世/\の天皇の通へる御號なり、天皇に命(ノ)字を添て書る例、古事記又出雲国造神賀詞などにも見ゆ、
〇授賜 比は、持統天皇の、今文武天皇に授奉給ふ也、此高御座の御業は、高天原に事始て云々 の御業ぞとして授(ケ)給ふといふ文のつゞき也、
〇負(セ)賜 布は、負(ヒ)持(タ)しめ給ふよし也、常に仰せといふ言も、もと其事を負(ヒ)持(タ)しむるよしにて、これと同言也、假字は四十五詔に、勅《ノリタマ》 比 於保世《オホセ》給 布と有、
〇貴 支 高 支 廣 支 厚 支、印本には、廣 支の二字脱たり、他《ホカ》の本どもみな此二字有(リ)、第六詔に、太上天皇(ノ)厚 支 廣 支 徳 乎 蒙而、高 支 貴 支 行(ヒ) 爾 依而、五十一詔に、公民之上(ヘ) 乎母、廣(ク)厚(ク)慈而、また仕奉 志 事廣 美 厚 美なども有(リ)、又明 支 淨 支 直 支 誠之心(ヲ)以而《モチテ》などやうに、かく同じたぐひの言を、いくつも重ねいふは、宣命の語の文《アヤ》にして、其事をねもころにする古(ヘ)の文なり、かゝる格、祝詞又歌には、をさ/\見えず、さてかく言を重ぬる例、後世なれば、終(リ)の一つを支《キ》といひて、上はみな久《ク》といひてつゞくるを、かくみな支《キ》と云て重ぬるは、古(ヘ)の格也、さて又支(ノ)字は、しの音なるに、きの假字に用ひたるは、伎(ノ)字の偏を省ける也、古(ヘ)は偏を省きて書る例多きこと、古事記傳に委くいへり、
〇受賜(ハ) 利は、持統天皇の授(ケ)給ひ負せ給ふ大命を、文武天皇の受(ケ)被《リ》v賜(ハ)給ふ也、常に、人のいふを聞(ク)ことを、うけたまはるといふも、もと此字の意にて、こゝも又|聽《キキ》給ふ意にも轉《ウツ》りて聞ゆる也、又物を諾《ウベナ》ふを聽(ク)といふも通へり、
 
〇恐(ミ)坐 弖は、もとは字のごとく、恐畏《オソ》るゝ意なるを、それ即(チ)承諾《ウベナ》ふ意になりて、万葉に多く、天皇《オホキミ》の命《ミコト》畏《カシコ》みといひ、古事記に、須佐之男(ノ)命の、櫛名田比賣を、吾に奉むやと詔へる御答(ヘ)に、足名椎の、恐《カシコシ》奉(ラ)むといへるなどみな然り、俗言に、奉(ル)v畏(マリ)といふこれ也、さて天皇は、御自《ミミヅカラ》の御事をも、尊みて詔ふ例にて、こゝも坐弖《マシテ》とはのたまふなり、此たぐひ皆然り、
〇食國は、古事記に、夜(ノ)食國とある處に、訓(テ)v食(ヲ)云2袁須《ヲスト》1と注せり、万葉に假字書は、十七に、須賣呂伎能乎須久爾奈禮婆《スメロギノヲスクニナレバ》、また於保伎美乃美許登可之古美《オホキミノミコトカシコミ》、乎須久爾能許等登里毛知弖《ヲスクニノコトトリモチテ》、十八に、須賣呂伎能可未能美許登能《スメロギノカミノミコトノ》、伎己之乎須久爾能麻保良爾《キコシヲスクニノマホラニ》など見ゆ、しろしめす國といふこと也、さて食國天下とつゞきたるところ、績後紀文徳實録三代實録などには、食國 乃と乃(ノ)字あれども、續紀には、いとあまた見えたる中に、一つも乃(ノ)字あるはなければ、今は乃《ノ》とは訓(マ)ず、
〇調《トトノヘ》賜 比、第三詔に、此(ノ)天(ノ)下 乎 治(メ)賜 比 諧《トトノヘ》賜(ヒ) 岐、第九詔に、上下 乎 |齊 倍針 和《トトノヘヤハラ》 氣弖、四十五詔に、汝等 乃 心 乎 等々能倍直 之《トトノヘナホシ》、万葉二に、御軍士乎安騰毛比賜齊流《ミイクサヲアドモヒタマヒトトノフル》、三に、網引爲跡網子調流《アビキストアゴトトノフル》、海人之呼聲《アマノヨビコヱ》、十に、左男牡鹿之妻整登鳴音之《サヲシカノツマトトノフトナクコヱノ》、十九に、物乃布能八十友之雄乎《モノノフノヤソトモノヲヲ》、撫賜等々能倍賜《ナデタマヒトトノヘタマヒ》、廿に、安佐奈藝爾可故等登能倍《アサナギニカコトトノヘ》、など見ゆ、これらを合せて思ふに、此言は、よそにあらけ居る者を、呼(ビ)集めて、みだれなく治むる意也、其中に呼(ビ)來《コ》す方を主《ムネ》といへると、亂れなく治むる方をむねとしていへるとの異《カハリ》ある也、
〇平《タヒラゲ》賜 比、第九詔にも、天下 乎 治(メ)賜 比 平(ラゲ)賜 比弖と有(リ)、こは必しも不服者《マツロハヌモノ》ありて、討(チ)平(ラ)ぐるにはあらず、平《タヒ》らかにするをいふ也、
〇惠賜 比は、第十三詔に、天(ノ)下 遠《ヲ》撫惠 備 賜(フ)とあるによりて、賣具備《メグビ》と訓つ、凡て備《ビ》とも美《ミ》とも通はしいふ言、例多し、
〇撫賜 牟止奈母、すべて撫《ナヅるは、愛《ウツクシ》み燐むしわざなるが故に、必しも撫ざれども、愛み燐むをかくいふ也、万葉六に、天皇朕《スメラワガ》、宇頭乃御手以《ウヅノミテモチ》、掻撫曾《カキナヂゾ》、禰宜賜《ネギタマフ》、打撫曾《ウチナデゾ》、禰宜賜《ネギタマフ》なども有(リ)、さて奈母は、後の文に、なむといふ辭也、なむは、此|奈母《ナモ》を、音便にいふ也、
〇隨神は、万葉に假字書に、可武奈何良《カムナガラ》と有(リ)、此言、諸の詔に多く有(リ)、下に母《モ》を添ていへる所々もあり、天皇の御
事には、何事にも、神ながら云々と申すことにて、万葉の歌にもいと多し、天皇は、現御神と申(シ)て、まことに神にましますが故に、神にて坐(シ)ますまゝに物し給ふよし也、
〇所思行《オモホシメ》 佐久止、於母本志賣佐久止《オモホシメサクト》と訓(ム)、行(ノ)字を書(ク)は、もと於母本志於許那波須《オモホシオコナハス》といへるより出て、其字を、おもほしめす、しろしめす、きこしめすなどの賣須《メス》にも、通はして書る也、其事委くは古事記傳廿七の卷、看行《ミソナハス》の解にいへり、みそなはすは、見しおこなはすを切《ツヅ》めたる言也、佐久《サク》は須《ス》を延たる也、
〇諸《モロモロ》は、始(メ)に出たる、皇子等云々|諸《モロモロ》也、
〇聞食 止 詔《ノル》、この詔(ノ)字も宣也、此所又一段なり、
〇四方(ノ)食國 乎云々宰等 爾 至(ル) 麻弖爾、こは諸國の司をいふ、天皇の御爲《ミタメ》に、その國々を治(メ)奉れとして、任《マケ》給へる宰といふ也、任は麻氣《マケ》と訓べし、麻氣は、令《セ》v罷《マカラ》を切《ツヅ》めたる言にて、其國々へ罷《マカ》らせ給ふよし也、されば任をまけと訓(ム)は、京外の官に限れること也、京官の任は、めし又よさしなど訓べし、宰は、守介掾目などを總《スベ》いふ、これを美許登母知《ミコトモチ》といふは、命持にて、天皇の大命を受(ケ)賜はり負(ヒ)持て、其國の政を申すよしの名也、さてこゝの文、此宰も、百官人の内にて、上は大臣より、下國々の宰に至るまでの意也、國司は、その一國の民を治むる官にて、その任《ヨサシ》重きによりて、是をとり分て擧らるゝなるべし、孝徳紀に、大化元年八月、同二年三月など、百官の中に、殊に國司の事のみ、とり分て、くはしくさだせられたるなどをも思ふべし、
〇天皇朝庭は、須賣良我美加度《スメラガミカド》と訓べし、大祓(ノ)詞に、天皇 我 朝廷《スメラガミカド》、鎖御魂齋戸祭(ノ)祝詞に、皇《スメ》 良我 朝廷、など有(ル)をもて定むべし、さてこの、天皇朝庭(ノ)敷賜(ヒ)行賜 幣留といふ十字、諸本共に、百官人等の上にあるは、次第の亂れたるもの也、此語は、かならず下の國(ノ)図法といふへ係《カカ》れる語なるに、百官人云々 とつゞきては、語の條理《スヂ》とゝのはず、故(レ)今改めて、至(ル) 麻弖爾の下にうつしつ、
〇過犯事無 久、大祓(ノ)詞に、官々 爾 仕奉 留 人等 乃、過(チ)犯(シ) 家牟 雜々《クサグサノ》罪 乎 云々、さて犯の假字は、古書どもに見えたることなきを、言の意を考るに、大《オホ》かす也、故(レ)於《オ》の假字と定む、大かすは、大凡《オホヲソ》になほざりにする意也、
〇明 支 淨 支 直 支 誠之心(ヲ)以而、第二詔に、以《モチ》2明(キ)淨(キ)心(ヲ)1而、第五詔に、清 支 明 支 正 支 置 支 心(ヲ)以(テ)、第七詔に、淨 伎 明(キ)心 乎 持而、廿詔に、以(テ)2明(キ)直(キ)心(ヲ)1、廿九詔に、貞《タダシ》 久 淨 岐 心 乎 以 天、卅一詔に、明《アキラカ》仁 貞 岐《タダシキ》 心 乎以 天、卅三詔に、貞《サダカ》 仁 能 久 淨 伎心 乎以 天、四十四詔に、己 何 心 乎明 爾 淨 久 貞 爾 謹 天、五十九詔に、清(キ)直(キ)心 乎 毛知、などさま/”\、長くも短くも云(ヘ)る、みな意は同じ、
〇御稱々而ほ、決《ウツナ》く誤字也、いと心得がたし、されど試にいはば、爾奨々而《イヤススミススミテ》にやあらむ、御と彌とは、草書はよく似たり、こゝは必(ズ)彌《イヤ》といふべき處也、奨(ノ)字は、人をすゝむるにて、みづからすゝむ意にはあらざれども、古(ヘ)は、向と迎とを通はし書るごとく、自他を相通はして書ること常なれば、これもみづからすゝむことにも用ふべし、さて大殿祭(ノ)祝詞に、百官人等云々、邪意穢心無《アシキココロキタナキココロナ》 久、宮進 米 進《ミヤススメススメ》、宮勤勤《ミヤツトメツトメ》 之米弖、咎過在《トガアヤマチアル》 乎波、見直《ミナホ》 志 聞直坐《キキナホシマシ》 弖とあると、上下の文のつゞきも似たり、考(ヘ)合すべし、但しかれは、大宮(ノ)賣(ノ)神の百官人等を、令《シメ》v進(マ)給ふをいふ故に、進米《ススメ》とあるを、こゝはみづからの事なれば、須々美《ススミ》と訓べき也、しばらく此考(ヘ)を用ふ、なほよく考ふべし、印本にこれを、ミハカリ/\テと訓たるを、師も、稱量の意以て書たる也、みはかり/\てと訓べし、出雲國風土記、大殿祭祝詞などにも有といはれたれど、出雲風土記に御量《ミハカリ》とあるは、宮を造る事につきていひ、大殿祭(ノ)詞なるは、事をはかるをいひて、神議々而《カムハカリハカリテ》といふと同く、事の有(ル)に就ていへるなれば、皆こゝにはよしなし、そのうへ稱(ノ)字、秤の意はあれども、はかりといふに、此字を書べきにもあらず、
〇緩怠事無 久、十三詔又五十一詔に、無2怠緩事1 久、卅二詔に、今由久前《イマユクサキ》 仁毛,緩怠事無 之天、四十一詔に、晝 毛 夜 毛 倦怠 己止 無 久など有、
〇務結而、結(ノ)字、諸本に給に誤れるを、今例に依て改めつ、志麻理《シマリ》と訓べし、第三詔に、淨(キ)明(キ)心(ヲ)以而、彌務《イヤツトメ》 爾 彌結《イヤシマリ》 爾 云々、卅二詔に、常 與利毛 益 須 益 須 勤結 理 奉侍《マスマスツトメシマリツカヘマツレ》など見え、類聚國史、弘仁十四年十一月(ノ)詔に、日夜《ヨルヒル》忘(ルル)事無 久、務 米 志麻理《ツトメシマリ》掛、伊佐乎《イサヲ》 志久 奉仕《ツカヘマツ》 流爾 依 弖、文徳實録三に、日夜無2怠事1 久、務結《ツトメシマ》 利、勤《イサヲ》 之久 仕奉(ル) 爾 依 弖、三代實録卅二に、務志萬利《ツトメシマリ》伊佐乎《イサヲ》 之久、など有(リ)、同書三にも此語あるを、それもこゝの如く、結を給に誤れり、さて志麻理は、志婆理《シバリ》と同くて、劔の手上《タカミ》とりしばりなどいふ如く、堅くすきまなく執持て、弛緩《ユル》べぬ意也、俗言に、放逸《タハレ》たる者の、行ひの直りて、忠實《マメ》になるを、しまるといふも、同言なり、古事記清寧天皇(ノ)段(ノ)歌に、意富岐美能美古能志婆加岐《オホキミノミコノシバカキ》、夜布士麻理斯麻理母登本斯《ヤフジマリシマリモトホシ》とあるも、大君の御子の柴垣、八節結々※[しんにょう+回]《ヤフジマリシマリモトホ》しにて、柴垣を結堅《ユヒカタ》め※[しんにょう+回]《メグ》らしたるをいふ也、夜布《ヤフ》は、八段に結《ユ》へる也、とふの管薦《スガゴモ》の十節《トフ》と同じ、万葉十二に、玉勝間嶋熊山、玉勝間安倍嶋山といへるも、共に玉勝間は、嶋にかゝれる枕詞にて、籠の目を堅く結《ユ》へるよしのつゞきなり、
〇故 爾、故は、古文に常に多く有て、みな加禮《カレ》と訓(ム)ことにて、かるがゆゑにといへる例はなければ、こ1の爾(ノ)字は、後(ノ)人の、ふとさかしらに書加へたるにや、削(リ)去(リ)てよろし、
〇如此之状は、加久乃佐麻《カクノサマ》と訓べし、然いひては、之《ノ》てふ言いかゞなるやうなれども、つねにかくのごとくといふも、之《ノ》の格同じことなり、廿七詔には、加久 能 状《カクノサマ》と書り、五十九詔に、如此時とあるをも、かくのときと訓べく、五十五詔六十詔に、此之状とあるも、かくのと訓べし、
〇款は、此字の注に、志純一(ナル)也とも、忠誠也ともいへれば、まめにと訓べくおもはるれども、五十一詔に、款 美 明 美 とあるは、美(ノ)字あれば、さは訓がたし、故(レ)伊蘇志久《イソシク》と訓べし、第七詔に、其人 乃 |宇武何志伎事《ウムガシキコト》、款事 乎、逐(ニ)不《ジ》2得忘《エワスレ》1とあると、十三詔に、伊蘇之 美 宇牟賀斯 美《イソシミウムガシミ》、忘《ワスレ》不《ズ》v給(ハ) 止自弖 とあるとを合せて、然訓べきことを知べし、五十二詔に、累(ネ)v世(ヲ)而仕奉(リ)麻佐 部《マサヘ》流 事 乎奈母、加多自氣奈 美 伊蘇志 美思《カタジケナミイソシミオモホシ》坐 須とも有(リ)、伊蘇志《イソシ》は、常には勤(ノ)字を書て、古書に多き言也、伊蘇《イソ》は、伊佐乎《イサヲ》の切《ツヅマ》れるにて、いそしはいさをしと同じ、
〇品々とは、その讃《ホメ》賜ひ上《アゲ》賜ふ差等《シナ》あるをいふ、
〇讃賜は、褒美なり、
〇上《アゲ》賜(ヒ)は、諸(ノ)詔に、冠位上賜とあるごとく、位階を昇せ給ふ也、廿八詔に冠位|阿氣《アゲ》賜(ヒ)治(メ)賜(フ)とあるに依て阿氣《アゲ》と訓べし、
〇治(メ)將《ム》v賜(ハ)、凡て治(メ)賜(フ)と云(フ)は、廣き言にて、吉凶《ヨキアシ》き何事にまれ、處分《コトワ》り行ひ給ふをいふ也、官に任《メス》を、某官《ソノツカサ》に治(メ)賜(フ)といひ、或は刑罰《ツミナヒ》をも、某刑《ソノツミ》に治(メ)賜(フ)などいふがごとし、かくてこゝは、讃賜(ヒ)上(ゲ)賜(フ)が即(チ)治(メ)賜(フ)なるを、語の文《アヤ》にかく重ねいへる也、第四詔に、冠位上(ゲ)可(キ)v賜(フ)人々治(メ)賜(ヒ)なども有(リ)、さて將(ノ)字は、讃(ノ)字の上に在る意也、
 
第二詔
 
 三の卷に、慶雲四年夏四月壬午、詔曰、とあり、藤原(ノ)不比等(ノ)朝臣に、食封《ヘビト》を賜ふ詔なり、
 
天皇詔旨勅 久 汝藤原朝臣 乃 仕奉状者今 乃未爾 不在《スメラガオホミコトラマトノリタマハクミマシフヂハラノアソミノツカヘマツルサマハイマノミニアラズ》。掛 母 畏 支 天皇御世御世仕奉而今 母 又朕卿 止 爲而以明淨心而朕 乎 助奉仕奉事 乃 重 支 勞 支事 乎 所念坐御意坐 爾 依而多利麻比弖夜夜彌賜 閇婆 忌忍事 爾 似事 乎志奈母 常勞 彌 重 彌 所念坐 久止 宣《カケマクモカシコキスメラガミヨミヨツカヘツカヘマツリテイマモマタアガマヘツギミトシテアカキキヨキココロヲモチテアレヲタスケマツリツカヘマツルコトノイカシキイトホシキコトヲオモホシマスミココロマスニヨリテタチマヒテヤヤミタマヘバイミシヌフコトニニルコトヲシナモツネイトホシミイカシミオモホシマサクトノリタマフ》。又難波大宮御宇掛 母 畏 支 天皇命 乃 汝父藤原大臣 乃 仕奉 賈流 状 乎婆 建内宿禰命 乃 仕奉 賈流 事 止 同事 叙止 勅而治賜慈賜 賈利《マタナニハノオホミヤニアメノシタシロシメシシカケマクモカシコキスメラミコトノミマシノチチフヂハラノオホオミノツカヘマツラヘルサマヲバタケウチノスクネノミコトノツカヘマツラヘルコトトオヤジコトゾトノリタヒテヲサメタマヒメグミタマヘリ》。是以令文所載 多流乎 跡 止 爲而隨令長遠 久 始今而次次被賜將往物 叙止 食封五千戸賜 久戸 勅命聞宣《ココヲモテノリノフミニノセタルアトトシテノリノマニマナガクトホクイマヲハジメテツギツギタマハリユカムモノゾトヘビトイチヘタマハクトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
 
天皇詔旨勅 久は、旨の下に、第一詔の如く、良麻止《ラマト》といふ辭を添て、スメラガオホミコトラマトノリタマハクと訓べし、すべてかやうの、いつも定まれることは、かくもじを多く省きても書る、常の事也、然るをたゞそこの文字のまゝに訓(ム)は、古言をしらざるもののしわざ也、省きたる所をも、具《ツブサ》に書る所の例にょりて、定まれる語のごとくに訓べきこと、大かた此類みな准へて然り、
〇汝は、第五詔に、美麻斯親王《ミマシミコ》、また美麻斯 乃 父《ミマシノチチ》、五十詔五十二詔などに、美麻之大臣《ミマシオホオミ》、などあるに依て、美麻斯《ミマシ》と訓べし、
〇藤原(ノ)朝臣、朝臣は、阿曾美《アソミ》と訓べし、あそんといふは、後の音便讀(ミ)也、此紀卅二に、阿曾美《アソミ》爲2朝臣(ト)1云々 とあるは、阿曾美の字を、朝臣と書(ク)事をいへるなり、書紀天武(ノ)卷、八色(ノ)姓の處の朝臣をも、アソミと訓り、さて此藤原(ノ)朝臣は、不比等《フヒト》公也、
〇今 乃未爾 不在《アラズ》は、今の御世に仕奉るのみに非ず也、
〇掛 母 畏 支とは、言に掛て申すも、恐《オソ》れ多きといふこと也、
○天皇(ガ)御世々々云々、不比等公は、天武天皇の御世よりぞ、仕奉り初め給ひけむ、書紀には、持統天皇の三年に、此卿始めて見えて、同十年に、位は直廣貳にて、資人《ツカヒビト》五十人を賜ふよし見えたり、績紀にては、初(メ)中納言にて、大寶元年三月、大納言となり、和銅元年三月、右大臣になり給へり、鎌足公の第二子也とあり、かくて養老四年八月癸未、正二位右大臣にて薨《カクレ》給ひき、年六十二と有、同年十月、大政大臣正一位を贈らる、天平寶字四年八月、勅曰云々、其(レ)先朝(ノ)太政大臣藤原(ノ)朝臣(ハ)者、云々、追(テ)以2近江(ノ)國十二郡(ヲ)1、封(シテ)爲2淡海公(ト)1、餘官如v故(ノ)云々、叙位は、公卿補任に、大寶元年三月正三位、同四年正月從二位、慶雲五年正月正二位と見ゆ、
〇卿は、麻閇都岐美《マヘツギミ》と訓べし、景行紀(ノ)歌に、魔幣菟耆彌《マヘツギミ》とある是也、天皇の御前に侍《サモラ》ふ君といふ意也、書紀に、卿又群卿などを、マチギミ又マウチギミなど訓(ミ)、和名抄にも、大臣を於保伊萬宇智岐美《オホイマウチギミ》とあるなどは、みな後に頽《クヅ》れたる唱(ヘ)にて、正しからず、
〇重 支は、伊加志伎《イカシキ》と訓べし、書紀に、皇極天皇の大御名の重日を、此(ヲ)云2伊柯之比《イカシヒト》1。また舒明紀に、嚴矛此(ヲ)云2伊
 
箇之保虚《イカシホコト》1、また祝詞|等《ドモ》に、茂桙伊賀志御世茂御世《イカシホコイカシミヨイカシミヨ》、また春日祭(ノ)祝詞に、王等卿等 乎母 平 久、天皇 我朝廷 爾、伊加志夜久波叡 能《イカシヤクハエノ》 如 久、仕奉 利 佐加叡志米《サカエシメ》賜(ヘ)、平野祭(ノ)祝詞にも、伊夜《イヤ》高 爾 伊夜《イヤ》廣 爾、伊賀志夜具波江《イカシヤクハエノ》如 久、立榮《タチサカエ》 之米、などあるを合せて、此言の意を知べし、重日嚴矛《イカシヒイカシホコ》などは、重《オモ》くおごそかにして畏き意、茂御世《イカシミヨ》いかしやくはえなどは、廣く繁く榮えて大きなる意也、いかしやくはえは、師の、茂彌木榮《イカシイヤコハエ》にて、樹のいやがうへにしげり榮ゆるをいふ、といはれたるが如し、又俗言に、物の大きなるを、いかいと云(ヒ)、多《サハ》なるを、いかいことといふなど、又いかめしといふなど、みな此詞にて、意通へり、さればこゝの重支《イカシキ》も、やむことなく重《オモ》く大きなる意也、
〇勞 支は、廿七詔に、愧 自彌 伊等保 自彌奈母 念 須《ハヅカシミイトホシミナモオモホス》、と有(ル)に依て、伊登保志伎《イトホシキ》と訓べし、此言は、いたつくいたはるなどと同言にて、本はみづから其事に勞苦《クルシ》むをいふを、又|他《ホカ》より然思ふにも通はしいへり、勞(ノ)字も然也、たとへば、かしこしといふ言なども、直《タダ》に其人の事にもいひ、又他より然思ひて、かしこむことにもいふがごとし、かくてこゝの重 支 勞 支《イカシキイトホシキ》は、藤原(ノ)大臣のうへを、直《》に詔ふともすべし、廿三詔に、天(ノ)下(ノ)政 平 聞(シ)看(ス)事|者《ハ》、 勞 支 重 棄《キ》 車 爾 在 家利、とあるが如し、俗言に、苦勞《クラウ》なる事、大義《タイギ》なる事といふ意也、然れども此言、他の詔にもあまたある多くは他のうへを然思(シ)召(ス)をいへれば、こゝも此大臣のうへを、天皇の然思(シ)召(ス)かたともすべし、五十二詔に、朕臣《アガオミ》 乃 仕(ヘ)奉(ル)状 母、勞 美 重 美とあるも、こゝと同じ、こは俗言に、人の勞《イタツキ》を謝て、御骨折《オホネヲリ》御大義御苦勞と云(フ)に當りて、大義なる事、苦勞なる事と、おぼしめすよし也、第三第四詔などに、天地之心 乎 勞 美 重 美 畏(ミ)坐とあるは、天地の、いかゞにおばしめして、心を勞苦《クルシ》め給はむと、天皇の畏《カシコ》み坐(ス)也、さていたはるといふ言も、病するなどをいふは、みづから苦む方にて、万葉五に、意乃何身志伊多波斯計禮婆《オノガミシイタハシケレバ》といへる類也、又人のうへを、他よりあはれむをもいふ、又物語書などに、いとほしといへるは、人の勞苦《クルシ》むを、あはれむよりいひて、俗言に、案《アン》じるといひ、氣之毒《キノドク》なといふ意に多く用ひたり、五十八詔に、勞 久 奈思麻志曾《イトホシクナオモホシマシソ》とあるは、其意也、万葉十三に、誰心勞跡鴨直渡異六《タガココロイトホシトカモタダワダリケム》、また誰之言矣勞鴨《タガコトヲイトホシトカモ》云々、十九に、大夫之語勞美《マスラヲノコトイトホシミ》、父母爾啓別而《チチハハニマヲシワカレテ》などあるも同じ、又俗言にいとしといふも、此言の訛れるにて、あはれむを悲《カナシ》むといふごとく、是もいたはるに同じ、〇多利麻比弖夜々彌賜 閇婆、此所誤字あるか、すべて心得がたきを、強《シヒ》て試にいはば、多利麻比は、利(ノ)字は、草書似たれば、知の誤にて、立※[しんにょう+回]《タチマヒ》なるべし、伊勢物語歌にも、昨日けふ雲のたちまひかくろふはと有(リ)、立(チ)まはり也、此大臣を、いかにもして、なほ高く褒賞《ホメアゲ》ばやと、御心をつけて、立まはりつゝ、うかゞひ給ふよし也、夜々彌は、漸看《ヤヤミ》にて、速にはえ物せずして、事のさまを考へうかゞひ看《ミ》つゝ、やすらひ給ふよしなり、俗言に、速《トミ》にものせずして、まち猶豫《ヤスラ》ふを、見合《ミアハ》すといふにあたれり、三代實録四十六、元慶八年六月の詔に、大政大臣藤原(ノ)朝臣、先(ノ)御世々々 與利、天(ノ)下 乎 濟助 介、朝(ノ)政 乎 |總攝《フサネ》奉仕 禮利、云々、朕將(ル)v議(ラムト)2其賞(ヲ)1 爾、大臣素(ヨリ)懷(ケバ)2謙※[手偏+邑](ノ)心(ヲ)1、必(ズ)固(ク)辭退 天、政事若(シ)壅滯 世无加止、也也美思《ヤヤミオモ》 保之天 云々とある、印本には、也々美(ノ)三字を脱せるを、今は古き寫本に依て引り、件の詔、すべての趣も、こゝの詔と全《モハラ》同じ事也、考(ヘ)合せて、こゝの語の意をもさとるべし、又五六百年ばかりさきの書に、やゝ見あふるまもなく、といふこと有しやうにおぼゆるは、漸看敢間《ヤヤミアフルマ》も無《ナク》にて、それも件の意と合へり、又思ふに、源氏物語などに、やゝましといふ言あるも、此やゝみと、同言の活用《ハタラキ》と聞ゆるを、それは心やましき意と注したる、まことに其意と聞えたるを、もし然らば、こゝもおぼしめしわづらひて、御心をやましめ給ふよしにもやあらむ、三代實録に、也々美思《ヤヤミオモ》ほしとつゞきたるを思へば、此方やまさりたるらむ、こは何《イヅ》れにしても、すべての意は同じこと也、さて上件の如く心得る時に、何とかや言のたらはぬこゝちすれども、一重|行越《ユキコシ》て見れば、聞ゆる也、かく行(キ)越(シ)たる語も、古書に例あること也、行(キ)越(ス)とは、いかにもして、猶|褒賞《ホメアゲ》むとおぼして、立(チ)まはりつゝうかゞひ給ふ也、然れども速には然え物し給はで、やゝみ給へばの意なるを、その然れどもといふ言を略きて、行(キ)越(セ)る也、
〇忌忍事 爾 似事 乎志奈母、これも心得がたし、誤字など有(ル)にや、されど姑く上の考(ヘ)に就て、例の強ていはば、忌忍事《イミシヌフコト》とは、何事にまれ、云々《シカシカ》せまほしと思ふ事のあるに、然しては、宜しからぬよしあるによりて、忌憚《イミハバカ》りて、さもえせず、忍ひて黙止居《モダシヲ》るをいふ也、さて今此大臣を、褒賞《ホメアゲ》まほしくは、早くよりおぼしめせども、事のさまをうかゞひて、今まで猶豫《ヤスラ》ひおはしますが、かの宜しからぬよしある事を、忌憚りて、忍ひ過すに似《ニ》たらむことを、いとほしくおぼしめすといへる也、乎志の志は、助辭《ヤスメコトバ》也、
〇常は、常に也、爾《ニ》といはざるは古言也、
〇宣は、詔なり、
〇又は、又一つには也、
〇難波(ノ)大宮云々は、孝徳天皇也、難波の長柄の豐崎(ノ)宮と申すに、宮敷坐りき、
〇御宇は、當代の御事に申す時は、天の下しろしめすと訓(ミ)、古(ヘ)の御事を申すには、天の下しろしめししと訓(ム)也、下のしは、過去《スギニ》し事をいふし也、
〇藤原(ノ)大臣は、鎌足公也、大臣は、すべて意富淤美《オホオミ》と訓(ム)ぞ古言なる、おほまうちぎみなど訓(ム)は、後のこと也、
〇仕奉 賈流、賈は、決《ウツナ》く誤字也、もし賈(ノ)字ならば、けの假字なるべけれど、此處はけるといふべき所にあらざるうへに、此字を假字に用ひたること、此詔より外に例なし、一本には、賣とあれども、めるといふべき所にもあらざれば其《ソレ》も誤字也、故(レ)考るに、第三詔に、敷賜覇留《シキタマヘル》、また立賜覇留《タテタマヘル》などあれば、こゝの賈も、覇を寫(シ)誤れるにて、つかへまつらへる也、れるを延(ベ)て、らへるといへる也、かくさまに延(ベ)云(フ)例多し、書紀にも、への假字に、覇を用ひられたるところ有、
〇建内(ノ)宿禰(ノ)命の事は、古事記傳廿二の卷に委(ク)云り、
〇同は、万葉に多く於夜自《オヤジ》とあれば、然訓べし、
〇勅而は、孝徳天皇の詔へる也、書紀にかく詔へることは見えざれども、皇極紀に、三年云々、輕(ノ)皇子深(ク)識(リ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ノ)之、意気高逸、容止難(キコト)1v犯(シ)、乃使(メテ)d寵妃阿陪氏(ヲシテ)、淨(メ)2掃(ヒ)別殿(ヲ)1、高(ク)鋪(カ)c新蓐(ヲ)u、靡(クシテ)v不2具給(セ)1、敬重特異云々、孝徳紀(ノ)首《ハジメ》に、以2大錦冠(ヲ)1、授(テ)2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、爲2内臣(ト)1、増(スコト)v封(ヲ)若干戸云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷(キ)2至忠(ノ)之誠(ヲ)1、據(テ)2宰臣(ノ)之勢(ニ)1、處2官司(ノ)之上(ニ)1云々、白雉五年正月、以2紫冠(ヲ)1授2中臣(ノ)鎌足(ノ)連(ニ)1、増v封若干戸、などあるを以思へば、かゝる詔も有けむかし、
〇令文は、乃理乃布美《ノリノフミ》と訓べし、文《フミ》は書の意也、
〇跡は例也、かゝる例はいまだあらざれども、令に見えたるを例として也、
〇隨令《ノリノマニマ》と重ねていへる、これに、先《サキ》に例はなけれどもといふ意あり、
〇長(ク)遠 久は、被賜《タマハリ》の上へ係《カケ》て心得べし、第三詔にも、長速不改《ナガクトホクカハルマジキ》、十一詔にも、長 久 遠 久 仕奉 禮等と有(リ)、万葉(ノ)歌には、彌遠長爾《イヤトホナガニ》とよめり、
〇始(メ)v今(ヲ)而は、今より始めて也、
〇次々は、子孫《ウミノコ》の嗣々なり、
〇被賜《タマハリ》、すべて賜ふとは、與《アタ》ふる方をいひ、賜はるとは、受る方をいひて、彼此《カナタコナタ》のたがひあり、四十五詔に、此(ノ)賜 布 帶 乎 多麻波利 弖《タマフオビヲタマハリテ》、と有(ル)にて知べし、故(レ)古書どもには、腸はるには多く被(ノ)字を添ても書る也、こゝは此大臣の子孫の、受る方をいへり、後(ノ)世に至りては、此けぢめをしらず、賜ふをも、常に賜はるといふは、ひがことなり、
〇食封は、孝徳紀天武紀持統紀などに、ヘビトと訓り、皇極紀持統紀などには、封一字をも然訓り、幣尾登《ヘビト》は、戸人《ヘビト》なり、凡て封は、賜(フ)2幾戸《イクヘヲ》1といひて、民戸を賜ふなるを、そは其|戸《ヘ》の内の人の出す、調庸などを賜ふことなる故に、戸人を賜ふとはいふ也、食(ノ)字は、食緑の意を以て書る也、そも/\食封を賜ふことは、上代の制にはあらず、孝徳天皇の御世より始まれり、書紀(ノ)彼(ノ)御卷に、大化二年正月甲子朔、賀正(ノ)禮畢(テ)、即宣(テ)2改新(ノ)之詔(ヲ)1曰(ク)、其(ノ)一(ニ)曰(ク)、罷《ヤメテ》2昔在《ムカシノ》天皇|等《タチノ》所(ノ)v立(ル)子代《ミコシロノ》之民、處々(ノ)屯倉《ミヤケ》、及|別臣連伴造國造村首所有《ワケオミムラジトモノミヤツコクニノミヤツコムラノオビトノタモテル》部曲(ノ)之民、處々(ノ)田莊(ヲ)1、仍(テ)賜(フ)2食封(ヲ)1、大夫以上各有2差降《シナ》1、とある是也、此時、上代よりの御制《ミサダメ》を改めて、始めて食封を賜へる也、かくて賦役令に、凡封戸(ハ)者、皆以2課戸(ヲ)1充(ツ)、【謂戸有2中男一人以上1者(ノ)、即爲2課戸(ト)1、其封戸仕丁、亦給2其主(ニ)1也、】調庸(ハ)全(ク)給(ヒ)、其田租(ハ)、爲(テ)2ニ分(ト)1、一分(ハ)入(レ)v官(ニ)、一分(ハ)給(フ)v主(ニ)と見えたり、封戸とは、人に食封に賜ふ民戸をいふ、全(ク)給(フ)とは、其戸を賜はれる人に、みながら給ふ也、主とは、其戸を給はれる人をいふ、調の事庸の事、みな同令に見えたり、庸は、役のかはりに出す物をいふ、さて民部省式に、凡封戸(ハ)、以2正丁四人中男一人(ヲ)1、爲《シテ》2一戸(ト)1率(シ)、租(ハ)、毎(ニ)v戸以2四十束(ヲ)1爲v限(ト)云々とあるは、現戸の數にはかゝはらず、正丁中男又租相の數を以て計りて、幾戸《イクヘ》と定めたるものなり、こはやゝ後の制にぞありけむ、さて親王一品より、臣大政大臣以下、從三位までの常の定まれる封戸の數は、禄令に見えたり、正四位以下は、食封を賜ふ限にあらず、
〇五千戸は、伊知幣《イチヘ》と訓べし、常には五十を伊《イ》とはいひて、五は伊都《イツ》といへども、今は五百《イホ》の例に依て、然訓り、さてかの禄令に見えたる、定まれる食封は、大政大臣三千戸、左右大臣二千戸なるを、こゝは殊に賞て、かく五千戸を賜へる也、同令に、凡令條(ノ)之外、若(シ)有(ル)2特(ニ)封(シ)及増(スコト)1者《ハ》、並(ニ)依(ル)2別勅(ニ)1とある、是也、さて此給へる食封の事、天平十三年正月、故(ノ)大政大臣藤原(ノ)朝臣(ノ)家、返2上食封五千戸(ヲ)1、二千戸、依(テ)v舊(ニ)返(シ)2賜(ヒ)其家(ニ)1、三千戸、施2入(シテ)諸國(ノ)國分寺(ニ)1、以充(ツ)d造2丈六(ノ)佛像(ヲ)1之料(ニ)uと有(リ)、また天平神護元年四月、右大臣藤原(ノ)朝臣豐成等上v表言(ス)、臣等(ガ)曾租大織冠内大臣、踏v義懷v忠、許v身(ヲ)奉v國(ニ)、皇朝藉(テ)2其不世(ノ)之勲(ニ)1、錫(フニ)以(ス)2無窮(ノ)之賞(ヲ)1、胤子正1位大政大臣、確(ク)陳(ベ)2丹誠(ヲ)1、抗(テ)v表(ヲ)固(ク)辭(ス)、天朝即割2賜(テ)二千戸(ヲ)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1云々、伏(テ)願(クハ)奉(リ)v納2先代所(ノ)v賜功封(ヲ)1云々、詔(シテ)許(ス)v之(ヲ)、また後紀に、弘仁六年六月、右大臣藤原(ノ)朝臣園人等、上v表乞(テ)v還(サムコトヲ)2先祖(ノ)功封(ヲ)1曰(ク)、臣等(ガ)高祖大織冠内大臣鎌子云々、錫(フ)2封一萬五千戸(ヲ)1、胤子正一位大政大臣、堂構相承、門風是存(ス)、由(テ)v茲(ニ)慶雲四年、勅(シテ)賜2封五千戸(ヲ)1、大臣固(ク)辭(ス)、天恩|允《ユルシテ》v請(ヲ)、即減(シテ)定(メ)2二千戸(ト)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1、天平神護元年、從一位右大臣、抗v表奉v返(シ)、寶亀元年、勅(シテ)更(ニ)還(シ)賜(フ)、大同三年、正三位守右大臣内麻呂、又抗v表奉v返(シ)、不v蒙(ラ)2允聽(ヲ)1、臣等云々、伏(テ)願(クハ)奉(テ)v納2所(ノ)v傳功封(ヲ)1、云々以聞(ス)、不v許、とあり、件の神護元年の文は、大政大臣の下に脱文有(リ)、後紀の方と相照して知べし、これらの文の事、猶下にいふべし、
〇聞宣、聞の下に、食(ノ)字を略(キ)て書る也、此例も多く有(リ)、訓(ミ)は、食(ノ)字有ところと同じ、さてこゝは、不比等公に宣(ル)詔なる故に、諸《キロモロ》とはいはざる也、
〇此詔の下につゞきて、辭(テ)而不v受、減(シテ)2三千戸(ヲ)1、賜(ヒ)2二千戸(ヲ)1、一千戸(ハ)傳(フ)2于子孫(ニ)1とあり、然るに右に引る天平十三年の紀に、返2上五千戸(ヲ)1、とあるはいかゞ、もしそれより先(キ)に、又更に五千戸を給へる事有しが、紀に漏《モレ》たるにや、されどさては、神護元年弘仁六年の文と合はず、猶いかゞ、又かの神護元年弘仁六年の文に、即(チ)減(シテ)定(メ)2二千戸(ト)1、傳(ヘ)2及(ス)子孫(ニ)1とあるも、こゝに一千戸(ハ)傳(フ)2于子孫(ニ)1とあると、合(ハ)ざるが如くなれど、これは違へるにはあらず、二千戸の内一千戸にまれ、傳へむには、傳(ヘ)及(ス)といひつべければ也、さて又こゝの詔に、令文書載《ノリノフミニノセ》 多流乎 跡 止 爲而云々、とあること、心得がたし、其故は、功田は、田令に、凡功田、大功(ハ)世々不v絶、上功(ハ)俸(フ)2三世(ニ)1云々、と見えたれども、食封は、禄令に、凡五位以上、【謂一品以下也、】以v功(ヲ)食v封(ヲ)者、其身|亡《ウセヌレバ》者、大功(ハ)減(シテ)v半(ヲ)傳(フ)2三世(ニ)1、上功(フ)云々、下功(フ)不v傳、とこそ見えたれ、永く子孫世々に傳ふる事は、見えざればなり、もしくは、禄令の件の文の次に、凡令條(ノ)之外、若(シ)有(ル)2特(ニ)封(シ)及(ビ)増(スコト)1者《ハ》、並(ニ)依(ル)2別勅(ニ)1とあれば、此文を例とするよしにや、又は天智紀十年、天武紀十一年、持統紀三年などにも、律令法令の事見えたれば、大寶より前の、それらの令條に見えたる事にや、猶よく考ふべし、これより後には、天平寶字二年八月、藤原(ノ)仲麻呂を、大保とせられし時の詔に、更(ニ)給(テ)2功封三千戸、功田一百町(ヲ)1、永(ク)爲(テ)2傳世(ノ)之賜(ト)1、以表(ス)2不常(ノ)之勲(ヲ)1、また弘仁十一年正月(ノ)詔に、藤氏先祖云々、是以褒賞封戸、歴代不v絶、總(テ)一萬五千戸云々、なども見えたり、
 
第三詔
 
 四の卷のはじめに、慶雲三年十一月、豐祖父(ノ)天皇不豫、始(メテ)有2禅v位(ヲ)之志1、天皇謙讓、固(ク)辭(テ)不v受、四年六月、豐祖父(ノ)天皇崩、庚寅、天皇御(シテ)2束樓(ニ)1、詔(シテ)召(テ)2八省(ノ)卿及(ビ)五衛(ノ)督卒等(ヲ)1、告(ルニ)以(ス)d依(テ)2遺詔1攝2萬磯(ヲ)1之状(ヲ)u、秋七月壬子、天皇即2位(ニ)於大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、元明天皇の即位のをりなり、
 
現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。關 母 威 岐 藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月 爾 此食國天下之業 乎 日並知皇太子之嫡子今御宇 豆留 天皇 爾 授賜而並坐而此天下 乎 治賜 比 諧賜 岐《カケマクモカシコキフヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシヤマトネコスメラミコトヒノトノトリノハヅキニコノヲスクニアメノシタノワザヲヒナメシノミコノミコトノムカヒメバラノミコイマアメノシタシロシメシツルスメラミコトニサヅケタマヒテナラビイマシテコノアメノシタヲヲサメタマヒトトノヘタマヒキ》。
是者關 母 威 岐 近江大津宮御宇大倭根子天皇 乃 與天地共長與日月共遠不改常典 止 立賜 比 敷賜 覇留 法 乎 受被賜坐而行賜事 止 衆受被賜而恐 美 仕奉 利豆羅久止 詔命 乎 衆聞宣《コハカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシオホヤマトネコスメラミコトノアメツチトトモニナガクツキヒトトモニトホクカハルマジキツネノノリトタテタマヒシキタマヘルノリヲウケタマハリマシテオコナヒタマフコトトモロモロウケタマハリテカシコミツカヘマツリツラクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是仕奉侍 爾 去年十一月 爾 威 加母 我王朕子天皇 乃 詔 豆羅久 朕御身勞坐故暇間得而御病欲治《カクツカヘマツリハヘルニコゾノシモツキニカシコキカモワガオホキミアガコスメラミコトノノリタマヒツラクアレミミツカラシクマスガユヱニイトマエテミヤマヒヲサメタマハムトス》。此 乃 天 豆 日嗣之位者大命 爾 坐 世 大坐坐而治可賜 止 譲賜命 乎 受被賜坐而答曰 豆羅久 朕者不堪 止 辭白而受不坐在間 爾 遍多 久 日重而讓賜 倍婆 勞 美 威 美 今年六月十五日 爾 詔命者受賜 止 白 奈賀羅 此重位 爾 繼坐事 乎奈母 天地心 乎 勞 美 重 美 畏坐 左久止 詔命衆聞宣《コノアマツヒツギノクラヰハオホミコトニマセオホマシマシテヲサメタマフベシトユヅリタマフオホミコトヲウケタマハリマシテコタヘマヲシツラクアハタヘジトイナビマヲシテウケマサズアルアヒダニタビマネクヒカサネテユヅリタマヘバイトホシミカシコミコトシノミナヅキノトヲカマリイツカノヒニオホミコトハウケタマフトマヲシナガラコノイカシクラヰニツギマスコトヲナモアメツチノココロヲイトホシミイカシミカシコミマサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。故是以親王始而王臣百官人等 乃 淨明心以而彌務 爾 彌 結 爾 阿奈奈 比 奉輔佐奉 牟 事 爾 依而 志 此食國天下之政事者平長將在 止奈母 所念坐《カレココヲモテミコタチヲハジメテオホキミタチモモノツカサノヒトタチノキヨキアカキココロヲモチテイヤツトメニイヤシマリニアナナヒマツリタスケマツラムコトニヨリテシコノヲスクニアメノシタノマツリゴトハタヒラケクナガクアラムトナモオモホシマス》。又天地之共長遠不改常典 止 立賜 覇留 食国法 母 傾事無 久 動事无 久 渡將去 止奈母 所念行 左久止 詔命衆聞宣《マタアメツチノムタナガクトホクカハルマジキツネノノリトタテタマヘヲスクニノノリモカタブクコトナクウゴクコトナクワタリユカムトナモオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。遠皇祖御世 乎 始而天皇御世御世天 豆 日嗣 止 高御座 爾 坐而此食國天下 乎 撫賜 比 慈賜事者辭立不在人祖 乃 意能 賀 弱兒 乎 養治事 乃 如 久 治賜 比 慈賜來業 止奈母 隨神所念行 須《トホスメロギノミヨヲハジメテスラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテコノヲスクニアメノシタヲナデタマヒメグミタマフコトハコトダツニアラズヒトノオヤノオノガワクゴヲヤシナヒヒタスコトノゴトクヲサメタマヒメグミタマヒクルワザトナモカムナガラオモホシメス》。是以先 豆 先 豆 天下公民之上 乎 慈賜 久 〔漢文〕賜 久止 詔天皇大命 乎 衆聞宣《ココヲモテマヅマヅアメノシタノオホミタカラノウヘヲメグミタマハク タマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
 
八洲御宇、第四詔にたゞ、御宇、また公式令第十詔などに、御大八洲などあるは、こともなきを、こゝは宇(ノ)字いかがなる書ざま也、さてはじめより、聞宣まで、第一詔の初(メ)と、同じ語なるを、字は略きも易《カヘ》もして書(キ)たれども、みな具《ツブサ》)に書る方にならひて訓べき也、
〇關 母、關(ノ)字を、印本などには、開に誤れり、今は一本に依れり、次なるも同じ、關(ノ)字を書るは、關係の意也、万葉六には、缺卷毛《カケマクモ》とも書(ケ)れば、こゝも闕の誤(リ)かとも思へど、然にはあらじ、万葉十の卷に、開之宜朝妻之《カケノヨロシキアサヅマノ》とある開(ノ)字も、關の誤也と、師もいはれき、
○藤原(ノ)宮云々は、持統天皇也、
○丁酉は、持統天皇の十一年にて、郎(チ)文武天皇の元年也、
〇日並知(ノ)皇太子、一本には、知の上に、所(ノ)字あり、それもさること也、さて此御名は、比邪賣斯乃美古能美許登《ヒナメシノミコノミコト》と訓奉る也、此(ノ)太子は、天武天皇の御子、草壁(ノ)皇子と申せしにて、御母は持統天皇に坐り、天武紀に、十年二月、立(テテ)2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、因(テ)以令v攝2萬機(ヲ)1、持統紀に、三年夏四月癸未朔乙未、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊薨と見えたり、日並知《ヒナメシ》は、御諡なるべし、万葉二に、日並《ヒナメシノ》皇子(ノ)尊(ノ)殯(ノ)宮(ノ)之時、柿本(ノ)朝臣人麻呂作長歌あり、又皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舎人等慟傷作歌廿三首あり、かくて天平寶字二年八月に、岡(ノ)宮(ニ)御宇《アメノシタシロシメシシ》天皇と、尊號を奉られたり、さてかく御名の下につけて申す皇太子は、みこのみことと訓(ム)例也、推古紀に、厩戸(ノ)豐聰耳(ノ)皇子命《ミコノミコト》、天武紀に、高市(ノ)皇子(ノ)命、万葉一に、日雙斯《ヒナメシノ》皇子(ノ)命、此紀一に、日並知(ノ)皇子(ノ)尊、など有(ル)を以て知(ル)べし、
〇嫡子の訓、物に見えたることなし、繼體紀に、ヒツギノミコと訓たることあれども、あたらぬ訓なり、殊にこゝは、天皇の御子にもあらざれば、然訓べきよしなし、故今新に、牟加比賣婆良乃美古《ムカヒメバラノミコ》と訓つ、正妃をムカヒメと訓(ミ)、字鏡にも、嫡(ハ)牟加比女《ムカヒメ》とあれば也、凡て嫡子とは、正妻の腹の子をいへり、今世に長子をいふとは異《コト》也、
〇今御宇 豆留 天皇は、文武天皇也、此(ノ)天皇は、日並知(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)之第二子也、母(ハ)天命開別(ノ)天皇(ノ)之第四女、平城(ノ)宮(ニ)御宇(シシ)日本根子天津御代豐國成姫(ノ)天皇是也、と一の卷のはじめに見え、元明紀の始(メ)にも、適《ミアヒマシテ》2日並知(ノ)皇も(ノ)尊(ニ)1、生2天之眞宗豐祖父(ノ)天皇(ヲ)1と有(リ)、そも/\持統天皇の御世、皇太子草壁(ノ)皇子(ノ)尊|薨《カムサリ》坐て後、高市(ノ)皇子を皇太子に立(テ)奉(リ)給ひしを、十年七月に、それも又薨(リ)坐(シ)ぬ、後(ノ)皇子《ミコノ》尊とある是也、此高市皇子の、皇太子に立(チ)給へる事書紀に記されず、もれたり、かくて後、文武天皇の太子に立給へる事も、書紀には漏《モレ》たり、そは、十一年春正月云々、各有v差とある、此時に太子に立給ひし也、次に二月に、東宮(ノ)傅春宮(ノ)大夫などを任ぜられたる事有(ル)をもて知べし、此紀一の卷に、十一年、立(テテ)爲2皇太子(ト)1と見えたり、さて同年八月朔に、受禅即位なり、此天皇は、持統天皇の御ためには、御父方の御孫、御母方の御甥にましませり、
〇並坐而云々 は、文武天皇に授(ケ)給ひながら、持統天皇も、太上天皇とましまして、なほ相並ばして、共に政きこしめししよし也、
〇近江(ノ)大津(ノ)宮云々 は、天智天皇也、
○大倭根子、大(ノ)字の添《ソハ》れること、殊なる意なし、
〇不改常典は、加波流麻自伎都禰乃能理《カハルマジキツネノノリ》と訓べし、まじきといふ言は、ふるくも仁徳紀(ノ)大御歌に、豫屡麻志枳《ヨルマジキ》、齊明紀(ノ)大御歌に、倭須羅※[まだれ/艘の旁]麻自珥《ワスラユマジニ》など有(リ)、又とこしへなるべき、など訓べきかとも思へど、云々|共遠《トモニトホク》、又下にも長(ク)遠(ク)、第五詔に、萬(ヅ)世 爾などある、上よりのつゞきを思ふに、猶かはるまじきと訓べき也、常《ツネ》も不易の意也、顯宗紀に、不易之典《ツネノノリ》ともあり、又十四詔には、不改 自 常典とある、自は乃の誤ならむか、然らばいづれをも、字音に讃(ム)べきにや、いかにも此言は、もとよりの古言にはあらず、此文字を本にて出來たる言なれば、音に讀むもあしからじ、さて此(ノ)典法《ミノリ》を立(テ)給へる事は、天智紀にも、十年春正月、東宮皇太弟、奉3宣《ウケタマハリノリタマフ》施2行(コトヲ)冠位法度(ノ)之事(ヲ)1、とあれども、そは又いさゝかづゝ改め給へることは有(リ)もしけめども、全く始めて新に立(テ)給へるは、既《ハヤ》く孝徳天皇の御世にて、其事彼(ノ)御卷、大化元年より次々見えたるが如し、然るにこれを、孝徳天皇といはずして、天智天皇の立給へりとするよしは、此事孝徳天皇の御世ながらも、皇太子中(ノ)大兄(ノ)皇子の御心より出て、物し給へる御しわざなるが故也、然いふ故は、まづ皇極紀に、三年春正月云々、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、曾《ハヤクヨリ》善《ウルハシ》2於輕(ノ)皇子(ト)1、故詣(テ)2彼(ノ)宮(ニ)1、而|將《ス》2侍宿《トノヰニハヘラムト》1、輕(ノ)皇子深(ク)識2中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ノ)之意氣高逸、容止難(キコト)1v犯(シ)乃、云々敬重、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、便|感《カマケテ》v所《ルルニ》v遇《メグマ》、語(リテ)2舎人(ニ)1曰(ク)、殊(ニ)奉(ルコト)2恩澤(ヲ)1、過(タリ)2前(ニ)所(ニ)1v望(ム)、誰(カ)能不(ム)v使(メ)v王(タラ)2天下(ニ)1耶、舍人便以v所v語(レル)、陳2於皇子(ニ)1、皇子大悦、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、爲人《ヒトトナリ》忠誠、有2匡濟(ノ)心1、乃慎(リテ)2蘇我(ノ)臣入鹿(ガ)云々(ヲ)1、歴試接2王宗(ノ)之中(ニ)1、而求(メテ)d可(キ)v立2功名(ヲ)1哲主(ヲ)u、便附2心(ヲ)於中(ノ)大兄(ニ)1、云々、自v茲|相善《ムツビテ》、倶(ニ)述v所v懷(ヲ)、既無(シ)v所v匿《カクス》、云々、路上往還之間、並(ベテ)v肩(ヲ)潜圖、無(シ)v不2相協1と見えて、これより中(ノ)大兄(ノ)皇子、此鎌子(ノ)連と御心を合せ給ひ、蘇我(ノ)蝦夷入鹿を誅し給ひしよりして、天下の權《イキホヒ》、此皇子と鎌足(ノ)連とに歸《ヨ》れり、輕(ノ)皇子は孝徳天皇、中(ノ)大兄は天智天皇の御名也、さて孝徳紀の首《ハジメ》に、天豐財重日足姫(ノ)天皇四年六月、思(シ)v欲《テムト》v傳(ヘ)2位於中(ノ)大兄(ニ)1、而詔(シテ)曰(ク)云々、中(ノ)大兄退(キテ)語2於中臣(ノ)鎌子(ノ)連(ニ)1、中臣(ノ)鎌子(ノ)連議(リテ)曰(ク)、古人(ノ)大兄(ハ)殿下(ノ)之兄也、輕(ノ)皇子(ハ)殿下(ノ)之|舅《ミヲヂ》也、方今古人(ノ)大兄|在《マシテ》、而殿下|陟《ノボリタマハバ》2天皇(ノ)位(ニ)1、便違(ハム)2人(ノ)弟(ノ)恭遜(ノ)之心(ニ)1、且《シバラク》立(テ)v舅(ヲ)、以答(ヘバ)2民(ノ)望(ニ)1、不《ズ》2亦|可《ヨカラ》1乎《ヤ》、於是中(ノ)大兄、深(ク)嘉2厥(ノ)議(ヲ)1、密(ニ)以奏聞、天豐財重日足姫(ノ)天皇、授2璽綬(ヲ)1禅v位(ヲ)、策曰、恣《アア》爾《ミマシ》輕(ノ)皇子云々、由(テ)v是(ニ)輕(ノ)皇子、不v得2固辭1、升v壇(ニ)即v祚(ニ)、以2中(ノ)大兄(ヲ)1爲2皇太子(ト)1とあり、さて此(ノ)孝徳天皇は、爲人《ヒトトナリ》柔仁とあると、大化元年、古人(ノ)皇子謀反、吉備(ノ)笠(ノ)臣|垂《シダル》、自2首《ミヅカラアラハシマヲシテ》於中(ノ)大兄(ニ)1曰(ク)、云々、中(ノ)大兄即(チ)討2古人大市(ノ)皇子(ヲ)1、また同二年、皇太子使(ハシ)v使(ヲ)奏請曰(ク)云々、などあるとを合せて思ふに、天下の政は、いよ/\中(ノ)大兄の御心にぞ有けむ、かくて此時、鎌子(ノ)連をば、内臣といふになし給ひて、中臣(ノ)鎌子(ノ)連、懷2至忠(ノ)之誠(ヲ)1、據2宰臣(ノ)之勢(ニ)1、處2官司(ノ)之上(ニ)1、故(ニ)進退廢置、計從2事立(ニ)1とあるを見れば、なほ上に左大臣阿倍(ノ)内麻呂(ノ)臣、右大臣蘇我(ノ)倉(ノ)山田(ノ)石川麻呂(ノ)臣など在(リ)といへども、大權は鎌足(ノ)連に在(リ)し也、されば孝徳天皇の御世に立(テ)給へる、此新典法は、みな中(ノ)大兄の、鎌足(ノ)連と議(リ)給ひての御しわざなりけること、上件の趣どもを、よく考へて、おしはかり知べし、同孝徳紀に、白雉四年、皇太子奏請(シテ)曰(ク)、冀(クハ)欲v遷2于倭(ノ)京(ニ)1、天皇不v許焉、皇太子乃|奉《ヰテマツリ》2 皇祖母尊、間人皇后(ヲ)1、并(ニ)率(テ)2皇弟等(ヲ)1、往(テ)居2于倭(ノ)飛鳥(ノ)河邊(ノ)行宮(ニ)1、于時公卿大夫百官人等、皆隨而遷(ル)、由(テ)v是(ニ)天皇恨(テ)、欲v捨(ムト)2於國位(ヲ)1云々、とあるを以て、此御世のすべてのやうを、おしはかるべし、公卿百官人もみな、天皇には從ひ奉らずして、中(ノ)大兄に從ひ奉れるをや、さて此天智天皇の、はじめよりの御しわざを、つら/\考へ奉るに、まづ皇極天皇、御位を傳へ給はむと有しを、辭《イナ》び給ひて、孝徳天皇を御位に即《ツケ》奉(リ)給ひて、御みづからは皇太子にて坐《イマ》し、孝徳天皇崩(リ)坐ても、なほ即位し給はず、ふたゝび皇極天皇を即位せしめ奉りて、御みづからはなほ皇太子にてまし/\、皇極天皇崩(リ)坐て、つひに御みづからの御世になりても、六年といふまでは、なほ皇太子と申(シ)て、即位の禮《ヰヤゴト》をも行はれず、又己(レ)命の御子たちもおはしますをばおきて、御弟の大海人(ノ)皇子を、皇太弟と立(テ)給へるなど、すべて初(メ)よりみな、強《シヒ》て謙遜《ヘリクダリユヅリ》を以て、世(ノ)人を感《カマケ》しめむためにて、から國の聖人風の御しわざ也けり、かくのみよろづにもてつけて行ひ給ひしかども、十年冬十月、大御病し給へりしほどに、つひに實の御心ぞ顯(ハ)れ坐る、そは御病重らせ給へる時に、東宮大海人(ノ)皇子を、大御許に召(シ)入(レ)て、詔(シテ)曰(ク)、朕疾甚(シ)、以2後事(ヲ)1屬v汝(ニ)云々、於是再拜(シテ)稱(シテ)v疾(ト)固(ク)辭(テ)、不v受曰(ク)、請(フ)d奉2洪業1、付2屬大后(ニ)1、令(メムト)c大友(ノ)王《ミコヲシテ》、奉c宣諸(ノ)政(ヲ)u、臣(ハ)請《コフ》d願(クハ)奉2爲《ミタメニ》天皇(ノ)1、出家修(ムト)uv道(ヲ)、天皇許(シタマフ)焉、東宮云々、爲(ラム)2沙門(ト)1云々、東宮見(エテ)2天皇(ニ)1、請d之(ヲ)2吉野(ニ)1、修c行佛道(ヲ)u、天皇許(シタマフ)焉、東宮即入2於吉野(ニ)1とある、此時に至りて、己(レ)命の御子大友(ノ)皇子に、位を授けまほしくおぼしめす下《シタ》の御心の、え忍びあへ給はで、ほころび出たるなりけり、然れども、大海人(ノ)皇子はじめより皇太弟にてましませば、やむことえず、以2後(ノ)事(ヲ)1屬v汝(ニ)とは詔《ノタマ》ひつれども、そは御心にはあらざりしことは、天武紀のはじめにも、此事を記して、天皇臥v病、以痛之甚矣、於是遣(シテ)2蘇我(ノ)臣安麻侶(ヲ)1、召(テ)2東宮(ヲ)1、引2入大殿(ニ)1、時(ニ)安麻侶(ハ)素(ヨリ)東宮(ノ)所(ナレバ)v好《ヨミシタマフ》、密(ニ)顧(テ)2東宮(ヲ)1曰(ク)、有意而言《ミココロシラヒシテマヲシタマヘ》矣、東宮於v茲疑(テ)v有(ルコトヲ)2陰謀1、而愼之、天皇勅(シテ)2束宮(ニ)1、授2鴻業(ヲ)1、乃辭讓之曰云々、とあるごとくにて、實は大友皇子に授け給はむとおぼして、その御謀有けむほど、いちじるし、もしさる御陰謀《ミハカリコト》なくは、東宮の出家せむことを請《コヒ》給ふを、たやすく許(シ)給ふべきにあらず、さて又かの遺詔の後に、大友(ノ)皇子、左大臣蘇我(ノ)赤兄(ノ)臣をはじめて、五人の重臣と警盟《チカヒ》て、六人同(シテ)v心(ヲ)、奉(ラム)2天皇(ノ)詔(ヲ)1、若(シ)有(ラバ)v違(フコト)者、必被(ラム)2天罸(ヲ)1と見え、また五臣奉(テ)2大友(ノ)皇子(ヲ)1、盟(フ)2天皇(ノ)前(ニ)1、(など有(ル)をも思ふべし、かの陰謀は、天皇の御心にぞ有ける、されば大海人(ノ)皇子、かの安麻侶が告(ゲ)申せるに依て、その御心しらひして、出家し給はむことを、請《コヒ》申(シ)給ひつればこそ、難《ワザハヒ》をまぬかれ給ひしか、もし何の御心もなく、遺詔を受(ケ)給はり給ひてあらましかば、ほと/\危《アヤフ》かりなまし、そも/\天智天皇の此御しわざよ、始(メ)より、おもほしめす御心のまゝに、大友(ノ)皇子を東宮に立(テ)給ひてあらましかば、壬申のいみしき亂《ミダレ》は出來ましやは、此皇子ぞ、めでたく平(ラカ)に御世はしろしめしてまし物を、よろづに聖人ぶりを好み給ひて、中々のうはべのつくろひの、遜讓《ゆづり》だての御しわざによりてぞ、御終(リ)をもてそこなひ給ひける、かくて此(ノ)不改常典といふも、よろづの事、改新《アラタムル》をたけきことにする、漢國ぶりの御しわざにして、神代より
有來しさまをば停廢《ヤメ》て、悉く漢國の制にならひて、新に定め給へる也、さるはかの國のも、周の代までの、封建の制といひしは、皇國の上代よりのさまに、をさ/\異なることもなかりしを、今ならひとり給へるは、秦よりこなたの、郡縣の制といふものにて、古(ヘ)とはいたくさま變《カハ》れり、そも/\かく漢國風をまねび行ひ給へるは、うはべこそめでたくとゝのひ備《ソナ》はれるが如くなれ、まことには、これぞ中々に、朝廷の大御稜威《オホミイツ》の衰へ坐べき、基本《モトヰ》をはじめ給へる物なりける、此(ノ)後やう/\に臣等《オミタチ》の威權《イキホヒ》つよく盛(リ)になりて、いとも畏《カシコ》く、天皇をもなほざりに思ひ奉るやうになりぬるは、もと人の心、此漢國ぶりにうつりて、皇國の意を忘れたるより起れるものを、世々の物しり人たちも、たゞから國|意《ゴコロ》をのみ思ひて、此ことわりをえさとらず、世に此天皇を、中興の君としも心得ためり、さて此不改常典といふことを、かく重《イカシ》く嚴《オゴソカ》に詔《ノリ》たまふことは、はじめ此|御制《ミノリ》を立給へりし時よりの事にぞ有べき、さるは神代より有來し御制《ミノリ》を、いたく變改《カヘ》給ふ御しわざなれば、王臣百官人、天(ノ)下の公民までも、たやすく信服《ウケヒカ》ざらむこと、又後に舊《フル》きに復《カヘ》すこともやと、よろづにあやぶみおぼしめせるからなるべし、かくて其《ソレ》例となりて、次々の御世御世までも、必(ズ)かく詔《ノリ》給ふこととはなれるなるべし、そも/\かく天地と共に長く遠く、かはるまじくとは、定め給へれども、わづかに五百年ばかりがほどに、やう/\に頽《クヅ》れもてゆきて、保元平治元暦文治のほどより、天下諸國の有さまは、又ふるきに立かへりて、此(ノ)常典は、たゞ名のみのこりて、おのづから又上代の形《カタチ》になりかへりにたる、皇神の御心を思ふべし、あなかしこ/\、
〇敷賜 覇留、覇(ノ)字は、呉音へなるを、取用ひたる也、書紀又佛足石歌の中にも、此字をへの假字に用ひられたり、そもそも此字、他の詔には、一つも用ひたることなきに、第二詔と此詔とにのみ、重ねて用ひたるは、同じ作者にて、其人の心なりけむ、敷賜とは、敷(キ)ほどこらし給ふ也、
〇受被賜坐は、持統天皇文武天皇つぎ/\、此常典を受賜はり坐て、其|典《ノリ》のまゝに、天下の政を行ひ給へりと也、
〇衆被賜云々、衆は、親王諸王諸臣百官人天下(ノ)公民もろ/\也、此典は、天智天皇、新に立給へる制なる故に、當初《ソノカミ》すみやかに普《アマネ》くは行はれがたく、やゝもすれば頽《クヅ》れやすかりけむ故に、かくのごとく取(リ)分て、ねもころには詔給へる、そのはじめよりの例にて、御世/\の詔にも、かならずかくは詔給ふなるべし、もし然らざらむには、此事かくこちたきまで、勅《ノリ》給はずともあるべきわざ也、
〇仕奉 利豆羅久止は、衆《モロモロ》の仕奉る也、豆羅久《ツラク》は、都流《ツル》を延たる言にて、いふをいはくといふ類也、
〇詔命は、元明天皇のなり、
〇仕奉侍 爾は、上を承て、衆の仕奉るをいふ内に、元明天皇の御みづからの御事をもこめ給へる也、故(レ)侍とは其意也、衆とは、親王以下をいふなれば、其中に、御みづからの御事もこもれり、さて侍は、波閇流《ハヘル》と訓て、閇《ヘ》は清音也、はんべるといふは、後の音便に、んを添(ヘ)、んに依て、へを濁る也、猶此言の意、古事記傳十四に委(ク)云り、三代實録貞觀十二年の詔に、起居失(ヒ)v便(ヲ) 天 波部利《テハヘリ》と有、
〇去年十一月、元明紀の首《ハジメ》に、慶雲三年十一月、豐祖父(ノ)天皇不豫、始(メテ)有2禅v位之志1、天皇謙讓、固辭不v受、とある是也、
〇威 加母、加(ノ)字、印本には久と有(リ)、今は一本又一本などに依れり、いづれにてもよし、此讓り給ふ大命の畏きよし也、
〇我王朕子天皇とは、文武天皇を申(シ)給ふ也、我王とは、殊に親み尊みて申(シ)給ふ也、他の詔にも多し、孝徳紀に、皇太子の天皇に奏(シ)給ふ御言にも、天皇我皇《スメラミコトワガオホキミ》と有、歌にも多し、朕子とは、元明天皇は、文武天皇の大御母命に坐(セ)ば也、
〇詔 豆羅久は、元明天皇に也、
〇勞は、都加良志久《ツカラシク》と訓べし、四十五詔に、朕 波 御身都可良之久於保麻之庶須 爾 依 天《アレハミミツカラシクオホマシマスニヨリテ》、太子 爾 天 都 日嗣高御座 乃 繼天 方《ツギテハ》、授麻都流 止 命 天《サヅケマツルトノリタマヒテ》、五十八詔に、此月頃間《コノツキゴロノホド》、身勞 須止《ミツカラスト》 聞食 弖、など有(リ)、みな御病の事也、後の言にも、いたはりといひ、所勞《シヨラウ》といふ、同じ意也、
○欲知は、乎佐米賜牟登須《ヲサメタマハムトス》と訓べし、欲(ノ)字は將の意也、
〇大命 爾 坐 世 大坐々而《オホミコトニマセオホマシマシテ》、此語、もろ/\の詔、又祝詞などにも、多くあるを、その訓(ミ)ざまもまぎらはしく、意もいと心得がたきを、まづ訓(ミ)は、大命 爾の爾《ニ》は、いづれもかくあれば決《ウツナ》し、坐 世の世は、こゝは本共には、母と作《ア》れども、他の例をあまねく考へわたすに、第九詔には、大命 爾 坐 而 奏(シ)賜 久とあるを、一本に、而を西と作《カケ》り、十四詔には、御命《オホミコト》爾 坐 止、伊夜嗣 爾云々、廿五詔には、御命坐 世《オホミコトニマセ》 宣 久と有(リ)、又類聚國史、天長二年十月(ノ)詔には、大命 爾 坐 世、石作 乃 山陵 爾 申(シ)給 久、春日祭(ノ)祝詞にも、天皇 我《スメラガ》 大命 爾坐 世 云々、廣前 仁 白 久、平野祭(ノ)祝詞にも、天皇 我 御命 爾 坐 世 云々とあり、これらを合せて考るに、多く坐 世とありて、第九詔なる而も、一本には西なれば、坐 世とあるぞ正しくて、こゝの母も、十四詔の止も、寫誤なりけり、故(レ)今は坐 世と定めて、共に然改めつ、さてかくさまの世《セ》は、なべては令《オホ》する辭なれども、これは然にはあらず、めづらしきいひざまにて、聞なれねども、かくいふべき古言なるべし、かくて大命 爾 坐 世といふ言の意、第五詔をはじめて、多く大命 爾 坐(セ)詔 久とあるは、坐 世といふ言のみこそ、いさゝか聞えにくけれ、大命 爾は、事もなく聞えたるが如くなれども、こゝなると、第六詔十四詔なるなどに依れば、大命 爾といふこと、ただに其時に詔給ふ命《ミコト》をいへるにはあらず、いと/\心得がたきを、例のしひて試にいはは、坐は借字にて、令《セ》v隨《マ》の意ならむか、まづ坐を借字ならむといふ故は、こゝに次に大坐々而《オホマシマシテ》とつゞきたればなり、さて令《セ》v隨《マ》とは、もと麻《マ》とのみいふが、即(チ)隨の意にて、それより麻々爾《ママニ》とも、麻爾々々《マニマニ》とも、麻加世《マカセ》ともいふなるべし、さて大命 爾 令隨《マセ》とは、まづ万葉の歌につねに、天皇《オホキミ》の命かしこみとよめるは、天皇の大命は、いかなることにても、背《ソム》きがたく、其命のまに/\、畏《カシコ》まりて仕奉るよしにて、それは臣民の方よりいふ言なるを、此大命にませは、そを天皇の方よりいへる詞にて、天皇は、天の下の萬の事を、大命の隨《ママ》に令《シメ》v爲《セサ》給ふよし也、されば大命に任《マカ》せといふと同意也、されば神ながらと申すたぐひにて、天下萬の事、大命のまゝなる天皇と申す意にて、此詞やがて天皇の御事となれるにて、かの大命 爾 坐(セ)詔 久といふ類は、天皇の詔《ノリタマ》はくといふ意、又こゝの如くいへるは、天皇となりて大坐々て也、されば大命とは、たゞに其詔をさしていへるにはあらざること、此詔第六詔十四詔などの語のつゞきを以てさとるベし、よくせずは混《マギ》るべし、さて又今一つの考(ヘ)も有(リ)、万葉九に、命乎志麻勢久可願《イノチヲシマセヒサシカレ》とあると、遊仙窟に、安穩をマセと訓るとを合せて思へば、坐 世《マセ》は、其意にて、安見《ヤスミ》ししといふ類か、されど万葉(ノ)歌は、久可願《ヒサシカレ》といへること、言も字も穩ならざれは、師の、麻狹伎久母願《マサキクモガモ》を誤れる也、といはれたるや然るべからむ、そのうへ件の意としては、大命 爾といふこと、聞えがたし、されば此考(ヘ)は、立(チ)がたかるべし、猶よく考ふべきこと也、大坐坐は、おはしまし也、おはしましといふは、即(チ)おほまし/\の、ほまをはと切《ツヅメ》ていふ也、古今集の詞書には、おまし/\とも有(リ)、四十一詔に、別好 久 大末之末世 波《コトニヨクオホマシマセバ》、四十五詔に、於保麻之麻須《オホマシマス》、また古事記仁徳(ノ)段に、令《シメテ》2大坐《オホマシマサ》1など有(リ)、一本に、坐(ノ)字一つなるは、一つ落たる也、
〇治可(シ)v賜 止、上の天つ日嗣の位|者《ハ》とあるは、こゝへ係《カカ》れり、汝命《ナガミコト》天皇となり坐て、天下を大命に令隨《マセ》おはしまして、天つ日嗣の位をは治(メ)給ふべしと也、是まで文武天皇の詔給へるよし也、
〇答曰 豆羅久は、元明天皇の也、
〇不《ジ》v堪《タヘ》は、天皇と爲(リ)て、天下を治むるにえ堪《タヘ》じ也、天皇謙讓、固辭不v受とある是也、
〇遍多 久は、多毘麻禰久《タビマネク》と訓べし、しげく度々の意なり、五十四詔に、一二逓能味 仁 不在《ヒトタビフタタビノミニアラズ》、遍麻年 久《タビマネク》、万葉十九に、多婢末禰久《タビマネク》、また廿三詔に、年長 久 日多《ヒマネ》 久、五十九詔に、麻禰 久 在《マネクアリ》、万葉二に、眞根久往者《マネクユカバ》、人應知見《ヒトシリヌベミ》、四に、君之使乃《キミガツカヒノ》、麻禰久通者《マネクカヨヘバ》など、猶多し、數多と書たるにも、まねくと訓べき、これかれあり、龍田(ノ)風(ノ)神(ノ)祭(ノ)祝詞にも、歳眞尼久《トシマネク》と有、
〇日重《ヒカサネ》、日(ノ)宇、本どもに、曰に誤れり、今改めつ、
〇詔命者は、度々讓(リ)給へる、右の詔命也、
〇受賜(フ) 止、此賜(フ)は、御みゝづから尊みてのたまふ辭也、被《ル》v賜(ハ)にはあらず、さて文武天皇は、六月丁卯朔辛巳に崩とあるを、十五日は、即(チ)其日なれば、こゝに至りて、やむことえず、受申(シ)給へるなるべし、
〇白(シ) 奈賀羅、白《マヲシ》は、文武天皇に申(シ)給ふ也、奈賀羅《ナガラ》は、隨《ママ》にの意也、俗にいふながらの意にはあらず、第十詔に、教賜 比 趣賜 比奈何良、受被賜持 弖、十五詔に、云々|勅《ノリ》賜(ヒ) 奈我良、成(リ) 奴禮波、五十二詔に、思 富之 坐 奈何良、これらも皆、まゝにの意也、さてこゝの奈賀羅は、繼坐といふまでにのみ係《カカ》りて、其下へはかゝらず、
〇重位 爾 繼坐、こは位 乎とあるべくおぼゆるに、爾《ニ》とあるは、第七詔にも、天 都 位 爾 嗣坐 倍伎 次《ツギテ》と有(リ)、すべて乎《ヲ》といひても、爾《ニ》といひてもよきところのある也、
〇天地(ノ)心 乎云々、卅三詔に、此位 方《ハ》、天地 乃 置賜 比 授賜 布 位 仁 在(リ)、とあるたぐひ、すべてかく天地に心有て、世(ノ)中の吉凶事《ヨキアシキコト》みな、天のなすわざのごとくいふは、皇國の意にあらず、漢意也、書紀の卷々の詔などに、此類の語の多かるは、上代の卷々なるは、みな撰者の潤色《カザリ》の文なれば、論ふべき限にあらざるを、末々の卷のころに至りては、やうやうに漢意のうつりて、實にさる語も有し也、殊に孝徳天皇天智天皇の御世になりては、萬に漢をまねび給へれば、さらなること也、この天地(ノ)心 乎云々 といふことを、御世/\の詔に、いつも/\詔給ふも、かの御代よりぞ始まりけむ、すべて此紀のもろ/\の詔ども、言は古(ヘ)ながらに、その意は、漢なることの多くまじれるは、おほくは天智天皇よりぞ始まりつらむ、
〇爾結 爾《イヤシマリニ》、既に第一詔に出たり、
〇阿奈々 比 奉(リ)、これも輔佐《タスケ》奉と同意の言と聞えたり、かくて言の然いふ本の意を考るに、足荷《アニナヒ》なるべし、凡て足は、人にも器にも下に在て、掲支持《アゲササヘモツ》物也、荷《ニナヒ》は、物を掲持《アゲモツ》をいふ、俗《ヨ》には、枴《アフコ》の兩端に物を着《ツケ》て擔《モツ》をのみ、になふとはいへども、それには限らざること也、かゝれば此言は、物の足の、掲支持《アゲササヘモツ》が如く、臣の下に在て、君を輔持《タスケモツ》をいふ也、和名抄造作具に、麻柱(ハ)、阿奈々比《アナナヒ》、竹取物語にあなゝひをゆひて、小右記、長和四年造内裏の事を記されたる所にも、安奈々比結《アナナヒユヒ》と有(リ)、これらは、今の世に足代《アシシロ》といふ物と聞えたり、麻柱と書る字は、いかならむしらねども、足代は、扶掲《タスケアゲ》て下を支持《ササヘモツ》物なる故にぞ、阿奈々比てふ名は負(ヒ)つらむ、さて此言、第五詔廿四詔四十八詔六十一詔などにも有、いづれも扶《タスケ》と重ねいへり、同意の言を重ねていふは、つねのこと也、改(メ)賜 比 換《カヘ》賜 比、或は恵賜 此 撫賜 比などのたぐひなり、
〇依而 志、志は助辭《ヤスメコトバ》也、此字、本どもに者に誤れり、今は廿四詔四十八詔の例によりて改めつ、
〇平(ケク)長(ク)、第九詔に、平 久 長 久 可(シ)v有 登、第十詔の次なる大御歌に、多比良氣久那何久伊末之弖《タヒラケクナガクイマシテ》、
〇不改常典 止 立賜 覇留 云々、上に既に、天下之政事|者《ハ》平(ク)長(ク)將v在と詔給へるに、引つゞけて又しも、此事をかくくりかへし詔給ふは、上に申せる如く天智天皇の此新法を立(テ)給へりし時に、人の信服《ウケヒカ》ざらむことを、あやぶみ思召て、かへすかへす詔給へりしよりの例なるべし、
〇傾事無 久、傾(ク)も動(ク)も、變易《カハ》るをいふなり、
〇渡(リ)將《ム》v去《ユカ》は、御世/\を經行《ヘユク》也、万葉十七に、立山《タチヤマ》にふりおける雪のとこなつに消《ケ》ずて和多流波《ワタルハ》神ながらとぞ、又ゑまひつゝ和多流《ワタル》あひだに云々、これらも月日を經行(ク)を、わたるといへり、
〇遠皇祖云々、此上に又(ノ)字あるべくおぼゆ、
〇辭立《コトダツ》、辭は借字にて、事の意なるべし、第七詔に、此者事立 爾 不有《コハコトダツニアラズ》、天 爾 日月在如《アメニツキヒアルゴト》、地 爾 山川有如《ツチニヤマカハアルゴト》、十五詔にも見ゆ、古事記仁徳(ノ)段に、言立者足母阿賀迦邇嫉妬《コトダテバアシモアガカニネタミタマフ》、伊勢物語に、正月なればことだつとて、など有(リ)、平常《ツネ》に異《カハ》りて、殊なることをするをいふ也、
〇人祖《ヒトノオヤ》、祖は父母也、古書には、於夜《オヤ》には、父母をいへるにも、おほく祖と書たり、さておやを人のおや、子を人の子といふは、古(ヘ)の常也、
〇弱兒は、和久碁《ワクゴ》と訓べし、武烈紀(ノ)歌に、思寐能和倶吾《シビノワクゴ》、繼體紀(ノ)歌に、※[立心偏+豈]那能倭倶吾《ケナノワクゴ》、万葉十四に、等能乃和久胡《トノノワクゴ》など有(リ)、これらはみな、少壯士《ワカキヲトコ》をいへるなれど、小兒《チゴ》をいふも、言は同じ、古(ヘ)は幼椎《イトキナキ》きをも、共にわかしとぞいへる、
〇養治は、夜志那比比多須《ヤシナヒヒタス》と訓べし、又ひたしをさむるとも訓べし、神代紀に、養又長養又持養などを、ヒタスと訓(ミ)、古事記垂仁(ノ)段に、日足《ヒタシ》奉(ル)と有て、此字の意にて、兒を育《オフシタツ》るを云(フ)、
〇事 乃 如 久、凡て物の譬(ヘ)をいふに、たゞに云々のごとくとはいはで、事といふことを入(レ)て、云々の事の如くといふぞ、古文のつねなる、〇慈賜|來《クル》、來《クル》は、遠皇祖の御世を始て御世/\也、
〇先 豆 先 豆 云々、上(ノ)件の如く、天皇と坐ては、天下の民を、己が弱兒を養育《ヒタス》ごとく、慈賜來るわざなるが故に、即位の始(メ)に、先(ヅ)第一に、此|慈《メグミ》を行ひ給ふと也、豆(ノ)字を添たるは、さき/”\といふに、紛《マガ》はむことを思ひてなるべし、
〇慈賜 久の下、漢文と記したるところは、大2赦天下(ニ)1、自2慶雲四年七月十七日昧爽1以前、大辟罪以下、罪無(ク)2輕重(ト)1、已發覺未發覺、咸(ク)赦2除之1、其(ノ)八虐(ノ)之内、已(ニ)殺(シ)訖(レル)、及強盗竊盗、常赦不v免者(ハ)、並不v在2赦例(ニ)1、前後諸人、非(ル)2反逆(ノ)縁坐、及移(スニ)1v郷(ヲ)者(ハ)、並宜(シ)2放還(ス)1、亡2命(シ)山澤(ニ)1、挾2藏(シテ)軍器(ヲ)1百日不(ルハ)v首《マヲサ》、復(スコト)v罪(ニ)如(クナラム)v初(メノ)、給(フ)v侍(ノ)高年、百歳以上(ハ)、賜2籾二斛(ヲ)1、九十以上(ハ)、一斛五斗、八十以上(ハ)一斛、八位以上(ハ)、級|別《ゴトニ》加(フ)2布一端(ヲ)1、五位以上(ハ)、不v在2此例(ニ)1、僧尼(ハ)、准(シテ)2八位以上(ニ)1、各施2籾布1賑恤(ス)、※[魚+環の旁]寡※[立心偏+(旬/子)]獨、不(ル)v能2自存1者(ニハ)、人別(ニ)賜2籾一斛(ヲ)1、京師畿内、及太宰所部(ノ)諸國(ハ)、今年(ノ)調、天下諸國(ハ)今年(ノ)田租|復《ユルシ》、とある是也、これその慈《メグミ》給ふ件々にて、そは皆、事も文も、定まれる漢籍のまゝなれば、今は用なく、煩はしさに、省《ハブ》ける也、これも一わたりは、解むもよかるべけれど、おのれもとよりたど/\しき漢事を、今さら考へ索《モトメ》むも、暇入(リ)て、古(ヘ)學びに益《ヤク》なければ、ひたぶるに黙止《モダシ》ぬ、餘の詔なるも、此筋の文は准へて皆然り、いづれも、令律などを考ふれば、大かたみな聞えたる事どもぞかし、
 
第四詔
 
 和銅元年春正月乙巳、武藏(ノ)國秩父(ノ)郡獻(ル)2和銅(ヲ)1、詔曰と有、
 
現神御宇倭根子天皇詔旨勅命 乎 親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 與利 天降坐 志 天皇御世 乎 始而中今 爾 至 麻弖爾 天皇御世御世天 豆 曰嗣高御座 爾 坐而治賜慈賜來食國天下之業 止奈母 隨神所念行 佐久止 詔命 乎 衆聞宣《タカマノハラヨリアモリマシシスメラガミヨヲハジメテナカイマニイタルマデニスメラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテヲサメタマヒメグミタマヒクルヲスクニアメノシタノワザトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是治賜慈賜來 留 天 豆 日嗣之業今皇朕御世 爾 當而坐者天地之心 乎 勞 彌 重 彌 辱 彌 恐 彌 坐 爾 聞看食國中 乃 東方武藏國 爾 自然作成和銅出 在 止 奏而獻焉《カクヲサメタマヒメグミタマヒクルアマツヒツギノワザトイマスメラワガミヨニアタリテマセバアメツチノココロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミイマスニキコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタムザシノクニニオノヅカラニナレルニキアカガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此物者天坐神地坐祇 乃 相于豆奈 比 奉福 波倍 奉事 爾 依而顯 久 出 多留 寶 爾 在 羅之止奈母 神隨所念行 須《コノモノハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツルコトニヨリテウツシクイデタルタカラニアルラシトナモカムナガラオモホシメス》。是以天地之神 乃 顯奉瑞寶 爾 依而御世年號改賜換賜 波久止 詔命 乎 衆聞宣《ココヲモテアメツチノカミノアラハシマツレルシルシノタカラニヨリテミヨノナアラタメタマヒカヘタマハクトノリタマフオホミコトヲキロモロキコシメサヘトノル》。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號 止 定賜《カレケイウムノイツトセヲアラタメテワドウノハジメノトシトシテミヨノナトサダメタマフ》。是以天下 爾 慶命詔 久 冠位上可賜人人治賜《ココヲモテアメノシタニヨロコビノオホミコトノリタマハクカガフリクラヰアゲタマフベキヒトビトヲサメクマフ》。〔漢文〕免武藏國今年庸當郡調詔天皇命 乎 衆聞宜《ムザシノクニノコトシノチカラシロソノコホリノツギユルシタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
 
高天原 與利、與(ノ)字、一本に由とあり、第七詔にも、由利《ユリ》又|由理《ユリ》とあり、万葉廿にも然あり、古(ヘ)よりともゆりとも、通はしいへる也、歌には、りを略きて、よともゆともいへり、
〇天降は、阿母理《アモリ》と訓べし、万葉に見ゆ、あまおりの切《ツヅマ》りたる也、此天降坐し天皇は、邇々藝《ニニギノ》命を申せる也、すべて神代にても、天皇と申し又人の代にても、天皇をば神と申(シ)て、神代人(ノ)代異なることなし、
○中今《ナカイマ》、第一詔に出。
〇天 豆 曰嗣の下に、止《ト》と讀(ミ)付(ク)べし、第三詔第五詔などに、天 豆 日嗣 止 高御座 爾 坐而、とある例也、
〇高御座 爾 坐而、爾(ノ)字一本に止と作《ア》るは誤也、
〇慈賜來は、末に出たる御慈《ミメグミ》の件々を詔給はむために、まづかくは詔給ふ也、
〇食國天下之業とは、食國天下を治(メ)賜ふ御業《ミワザ》といふ意にて、天皇の御業といはむがごとし、
〇天 豆 日嗣之業、此下にも、止《ト》と讀付べし、第十三詔に、云々惠賜來 流、天日嗣 乃 業 止、今皇朕云々、とあると同じ例なれば也、止《ト》は、としての意なり、
〇皇朕《スメラワガ》は、天皇の御みづから詔ふ言也、他の詔にも多く見ゆ、万葉六にも、天皇朕宇頭乃御手以《スメラワガウヅノミテモチ》云々、
〇辱 彌、四十一詔に、可多自氣奈《カタジケナ》 彌奈毛 念 須、五十二詔に、加多自氣奈 美《カタジケナミ》、伊蘇志《イソシ》 美 思(シ)坐 須、五十四詔に、恥《ハヅカ》 志 賀多自氣奈《カタジケナ》 志など、猶多し、此言は、恐れ憚る意にて、恥《ハヅ》る意をも帶《オビ》たり、俗言に、恐れおほい、物體《モツタイ》ない、などいふにあたれり、今俗にかたじけないといふは、意の轉れるにて、雅言と異《コト》也、但し廿六詔に、云々 乎 宇牟我《ウムガ》 自彌 辱《カタジケナ》 彌、又右に引る四十一詔五十二詔なる、又五十七詔に、辱 奈美 歡《ヨロコボ》 之美などあるは、俗言の意にも、おのづから通ひたるところありて聞ゆる也、
〇和銅は、爾伎阿加賀禰《ニキアカガネ》と訓べし、伎《キ》清音也、こはいはゆる熟銅なるべし、熟(ノ)字も、にきと訓り、さてこれは、自然《オノヅカラニ》とあれば、はじめより熟銅にて出たるにて、それがめづらしきなり、〇出在《イデタリ》、多理《タリ》に在(ノ)字を書(ク)事、古事記にも見え万葉に多し、すべて多理《タリ》は、止阿理《トアリ》と弖阿理《テアリ》との切《ツヅ》まれる言なれば也、
〇獻焉、すべてかゝる所に、焉などの助字を添て書ること万葉歌には多かるを、紀中宣命にはこれをおきて外には例なし、めづらし、
〇相于豆奈 比は、俗言に、神の約受《ナフジユ》し給ふといふに當れり、于豆《ウヅ》は、珍御子《ウヅノミコ》、宇頭 乃 幣帛《ウヅノミテグラ》、宇頭《ウヅ》 乃 御手《ミテ》、などある宇頭《ウヅ》にてうるはしくめでたきをいふ、奈比《ナヒ》は、活《ハタラ》かぬ言を活用《ハタラ》かすに、添へいふ辭にて、商《アキ》をするをあきなふ、いざといひてさそふをいざなふ、諾《ウベ》なりとするをうべなふ、といふ類にて、うづなひは、御世の政を、神のめでて、美好《ヨシ》とし給ふ意也、相《アヒ》は、必しも互《タガヒ》にせねども、彼(レ)と此(レ)との間の事には、添ていふ言也、又思ふに、仁徳紀に、納(レテ)2八田(ノ)皇女(ヲ)1、將v爲(ムト)v妃(ト)、時(ニ)皇后不v聽、とある不聽を、ウナヅルサズと訓るはうなづきゆるさずといふことと聞ゆ、うなづくは、物語書などにも見えて、人のいふことを、聽(キ)入(レ)ゆるす意にて、俗言に合點するといふことなり、さればうづなひも、うなづきなひにもあらむか、件の二つ、いづれにても、つひには同意にて、納受《ウケイレ》給ふよし也、此言、第六詔、十三詔、廿三詔、四十八詔などにも有、万葉十八にも、天地乃神安比字豆奈比《アメツチノカミアヒウヅナヒ》、皇御租乃御靈多須氣弖《スメロギノミタマタスケテ》と見ゆ、同十三に、現をウツナヒと訓るは、ひがこと也、こはウツシクとぞ訓べき、
〇福 波倍、凡てさきはひといふと、さきはへといふとは、自他の差《タガヒ》あり、集《ツド》ひと集《ツド》へとの如し、さきはへは、他を福《サキ》はゝしむるをいひて、さきはゝせのはせを切《ツヅ》めてへといふ也、さきはひと混《マガ》ふべからず、
〇顯 久《ウツシク》 出 多留、久を、一本に支と作《カケ》るは誤也、第五詔に、于都斯《ウツシ》 久母 皇朕御世當《スメラワガミヨニアタリテ》、顯見《アラハル》 留 物《モノ》 爾 者不在《ハアラジ》、第六詔にも見ゆ、古事記に、宇都志伎《ウツシキ》青人草とあるを、書紀に、顯見蒼生《ウツシキアヲヒトクサ》と書れたり、
○瑞寶、瑞は、他の詔にも、たゞ瑞とのみも、又大瑞とも、貴瑞ともある、いづれも志流斯《シルシ》と訓べし、欽明紀に徴表《シルシ》、仁徳紀に、有v瑞、是(レ)天之表焉《アマツシルシナリ》、これら瑞をさしてしるしといへり、然るに同じ書紀に、瑞蓮瑞稻瑞鷄などある瑞をば、アヤシキと訓るは、さも有べけれども、大瑞又たゞ瑞とのみあるなどは、アヤシキとは訓がたし、又書紀に、鵄(ノ)瑞《ミヅ》天瑞《アマツミヅ》など、凡てミヅと訓るは、いみしきひがこと也、祥瑞の瑞を、然訓べきよしなし、万葉十九に、從古昔無利之瑞多婢末禰久申多麻比奴《イニシヘユナカリシシルシタビマネクマヲシタマヒ》、この瑞をも、ミヅモと訓るはひがこと也、然訓ては一もじ足ざるを、モと讀付たるも、いと穩ならず、是もシルシとぞ訓べき、又書紀に、祥をサガと訓るもわろし、孝徳紀に、休祥《ヨキサガ》などあるは、即(チ)瑞も同じければ、それらをもシルシと訓べし、祥(ノ)字は、徴也と注し、瑞も、信の意なれば、共にしるしにて宜きをや、御世の政のめでたきに依て、其|徴表《シルシ》の顯はれたる物なれば也、さてこゝの瑞寶《シルシノタカラ》は、出たる和銅をいふ、
〇御世年號、此四字を美余乃那《ミヨノナ》と訓べし、文徳實録、齊衡元年の詔に、御世 乃 名、天安元年の詔にも、御代 乃 名、三代實録、元慶元年の詔にも、皆かく有(リ)、これらぞ古(ヘ)の讀《ヨミ》のまゝなるべき、第五詔に、御世(ノ)名とあるも、年號の事也、其外は此紀には、みな年號とのみあれど、こはたゞ漢國の目《ナ》によりて、そのまゝに書たるにこそあれ、としのなとは訓べきにあらず、ことわりを思ふにも、御世の名とこそいふべけれ、年毎にかふるにあらずは、年の名とはいふべきにあらざるをや、
〇慶雲、すべて年號《ミヨノナ》は、みな字音なるべし、もとより然定められたる物と聞えたり、天武天皇の御世の朱鳥に、阿訶美苔利《アカミトリ》といふ訓注あれども、そはたゞかれ一つのみ也、其餘訓にはよみがたきも多し、かの朱鳥は、いかなるよしにて、しか唱へけむ、もしくはそのかみ天皇の大御心に、年號をも、皇國言もて命《ツケ》まほしくおもほして、殊に然唱ふべしとの詔もや有けむ、されどそは、かの時のみにて、止《ヤミ》ぬるなるべし、さて又いづれの年號も、呉音漢音の間(ダ)、定まれることはなかりしにや、此慶(ノ)字も、いかに唱へけむしらねど、姑く世に唱へ來しまゝに、今もケイと讀つ、
〇和銅は、かの朱鳥《アカミトリ》の例によりて、ニキアカヾネと訓べきにやとも思へど、なほ年號にては、これも音讀にぞすべき、
〇慶(ノ)命詔 久、此次、冠位云々 の文、即(チ)此(ノ)命《オホミコト》也、
〇冠位、冠は加賀布理《カガフリ》と訓べし、賀《ガ》濁音、布《フ》清音也、万葉五に、麻被引可賀布利《アサブスマヒキカガフリ》、又廿に、美許登加我布理《ミコトカガフリ》などある、冠は、此かゞふるといふ用言を、體言にしたる名也、字鏡には、加々保利《カガホリ》とあり、和名抄に、加宇布利《カウフリ》とあるは、後の音便に頽れたる唱(ヘ)也、さて位階のことを、冠位といふ故は、推古天皇の御世に、始(メテ)行(フ)2冠位(ヲ)1、また始(メテ)賜(フ)2冠位(ヲ)於諸臣(ニ)1と有て、此御時に、始めて十二階の冠を制《サダメ》給ひて、其冠のさまによりて、尊卑《タカキイヤシ》き級《シナ》をわかたる、かくて後孝徳天皇の御世に、これを七色十三階とし給ひ、又十九階とし給ひ、天智天皇の御世に二十六階とし給ひ、天武天皇十四年に、更(ニ)改(ム)2爵位(ノ)之號(ヲ)1と有て、四十八階とし給へり、かくのごとく位階はもとは、冠を以て、その尊(キ)卑きしなとせられし故に、冠位とはいふなり、さて文武天皇大寶元年に、又官名位號を制《サダメ》られて、これより停(メテ)v賜(フコトヲ)v冠(ヲ)、易(フルニ)以(ス)2位記(ヲ)1と有て、此時より冠を賜ふことは、止《ヤミ》ぬれども、其後も猶宣命などには、もとの名目《ナ》のまゝに、かく冠位と詔給ふ也、
〇治賜は、すなはち冠位を上《アゲ》給ふをいふ也、
〇漢文としるしたる所は、大2赦天下(ニ)1、自2和銅元年正月十一日(ノ)昧爽1以前(ノ)大辟罪已下(ニ)罪无(ク)2輕重(ト)1、已發覺未發覺、繋囚見徒、咸(ク)赦2除之1、其犯(ス)2八虐(ヲ)1、故2殺人(ヲ)1謀2殺人(ヲ)1已(ニ)殺、賊盗(ノ)、常赦(ニ)所(ハ)v不v免者、不v在2赦限(ニ)1、亡2命(シ)山澤(ニ)1、挾2藏(シテ)軍器(ヲ)1、百日不(ハ)v首(サ)、復(ヘスコト)v罪(ニ)如(ク)v初(メノ)、高年(ノ)百姓、百歳以上(ハ)、賜2籾三斛(ヲ)1、(九十以上(ハ)二斛、八十以上(ハ)一斛、孝子順孫、義夫節婦(ハ)、表(シ)2其門閭(ニ)1、優復三年、※[魚+鐶の旁]寡※[立心偏+(旬/子)]獨、不v能2自存1者(ニハ)、賜2籾一斛(ヲ)1、賜2百官人等(ニ)禄(ヲ)1、各有v差、諸國之郡司、加2位一階1、其正六位上以上(ハ)、不v在2進(ム)限(ニ)1、とある是也、
〇庸は、知加良志呂《チカラシロ》と訓べし、孝徳紀に、庸布をチカラシロノヌノと訓り、力代《チカラシロ》の義《ココロ》也、賦役令に、凡正丁、歳(ゴトニ)役十日、若(シ)須(キ)v收v庸(ヲ)者(ハ)、布二丈六尺、一日二尺六寸、義解に、其(ノ)收v庸(ヲ)者、須(シ)v隨(フ)2郷土(ノ)所(ニ)1v出(ス)、不v可3以v布(ヲ)爲2一例(ト)1也、と見えたり、唐書(ノ)食貨志に、用(ルコト)2民(ノ)之力(ヲ)1、歳(ニ)二十日、不(ル)v役(セ)者(ハ)、日《ヒトヒヲ》爲2網三尺(ト)1、謂2之(ヲ)庸(ト)1と見えたる如く、役のかはりに收(ル)物也、故(レ)力代といへり、不(ル)v役(セ)者(ノ)とは、或は役《ツカ》はるべくして、役《ツカ》はれざる者、或は役《ツカ》ふべき事|少《スクナ》くて、役《ツカ》はざる者などにて、其日數をはかりて、庸を收(ル)也、そはまづは多くは布を收(ル)ことなれども、義解に見えたるごとく、必(ズ)布に限れるにもあらず、何にまれ、其|郷土《トコロ》より出る物をも、布に准へて收(ル)なり、〇當郡は、曾乃許保理《ソノコホリ》と訓べし、書紀にも、當は、當縣《ソノコホリ》當里《ソノサト》など、曾乃《ソノ》と訓り、こゝは和銅の出たる秩父(ノ)郡をさしていへり
〇調は、都岐《ツギ》と訓べし、みつぎ物也、調の事、賦役令に委く見えたり、さてこゝは、武藏(ノ)國中おしなべて、庸を免し給ひ、又殊に秩父(ノ)郡は、調をも免し給ふなり、
 
續紀歴朝詔詞解二卷
                      本居宣長解
 
第五詔
 
 九の巻に、神龜元年二月甲午、受v禅(ヲ)即2位於大極殿(ニ)1、大2赦天下(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)とあり、聖武天皇の、御位に即せ給へるをりの詔也、
 
現神大八洲所知倭根子天皇詔旨 止 勅大命 乎 諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 爾 神留坐皇親神魯岐神魯美命吾孫將知食國天下 止 與佐 斯 奉 志 麻爾麻爾高天原 爾 事波自米而四方食國天下 乃 政 乎 爾高爾廣 爾 天日嗣 止 高御座 爾 坐而大入嶋國所知倭根子天皇 乃 大命 爾 坐詔 久 此食國天下者掛畏 岐 藤原宮 爾 天下所知美麻斯乃父 止 坐天皇 乃 美麻斯 爾 賜 志 天下之業 止 詔大命 乎 聞食恐 美 受賜懼 理 坐事 乎 衆聞食宣《タカマノハラニカムヅマリマススメラガムツカムロギカムロミノミコトノアガミマノシラサムヲスクニアメノシタトヨサシマツリシマニマニタカマノハラニコトハジメテヨモノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲイヤタカニイヤヒロニアマツヒツギトタカミクラニマシテオホヤシマクニシロシメスヤマトネコスメラミコトノオホミコトニマセノリタマハクコノヲスクニアメノシタハカケマクモカシコキフヂハラノミヤニアメノシタシロシメシシミマシノチチトマススメラミコトノマシブタマヒシアメノシタノワザトノリタマフオホミコトヲキコシメシカシコミウケタマハリオソリマスコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。可久賜時 爾 美麻斯親王 乃 齢 乃 弱 爾 荷重 波 不堪 自加止 所念坐而皇祖母坐 志志 掛畏 岐 我皇天皇 爾 授奉 岐《カクタマヘルトキニミマシミコノヨハヒノワカキニニオモキハタヘジカトオモホシマシテオホミオヤトマシシカケマクモカシコキワガオホキミスメラミコトニサヅケマツリキ》。依行而是平城大宮 爾 現御神 止 坐而大入嶋國所知而靈龜元年 爾 此 乃 天日嗣高御座之業食國天下之政 乎 朕 爾 授賜讓賜而教賜詔賜 都良久 掛畏淡海大津宮御宇倭根子天皇 乃 萬世 爾 不改常典 止 立賜敷賜 閉留 隨法後達者我子爾佐太加爾牟倶佐加南無過事授賜止負賜詔賜 比志爾 依 弖 今授賜 牟止 所念坐間 爾 去年九月天地 ※[月+兄]大瑞物顯來 理《コレニヨリテコノナラノオホミヤニアキツミカミトマツステオホヤシマクミシロシメシテレイキノハジメノトシニコノアマツヒツギタカミクラノワザヲスクニアメノシタノマツリゴトヲアレニサヅケタマヒユヅリタマヒテヲシヘタマヒノリタマヒツラクカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニアメノシタシロシメシシヤマトネコスメラミコトノヨロヅヨニカハルマジキツネノノリトタテタマヒシキタマヘルノリノマニマニノチツヒニハアガコニサダカニムクサカニアヤマツコトナクサヅケタマヘトオホセタマヒノリタマヒシニヨリテイマサヅケタマハムトオモホシマスアヒダニコゾノナガヅキアメツチノタマヘルオホキシルシノモノアラハレケリ》。又四方食國 乃 年寶豐 爾 牟倶佐加 爾 得在 止 見賜而隨神 母 所念行 爾 于都斯 久母 皇朕 賀 御世當顯見 留 物 爾 者不在《マタヨモノヲスクニノトシユタカニムクサカニエタリトミタマヒテカムナガラモオモホシメスニウツシクモスメラワガミヨニアタリテアラハルルモノニハアラジ》。今將嗣坐御世名 乎 記而應來顯來 留 物 爾 在 良志止 所念坐而今神龜二字御世 乃 年名 止 定 弖 改養老八年爲神龜元年而天日嗣高御座食國天下之業 乎 吾子美麻斯王 爾 授賜讓賜 止 詔天皇大命 乎 頂受賜恐 美 持而辭啓者天皇大命恐被賜仕奉者拙 久 劣而無所知《イマツギマサムミヨノナヲシルシテコタヘキタリアラハレキタルモノニアルラシオモホシマシテイマジムキノフタモジヲミヨノナトサダメテヤウラウノヤトセヲアラタメテジムキノハジメノトシトシテアマツヒツギタカミクラヲスクニアメノシタノワザヲアガコミマシミコニサヅケタマヒユヅリタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲイナダキニウケタマハリカシコミモチテイナビマヲサバスメラガオホミコトカシコミウケタマハリツカヘマツラバツタナクヲヂナクテシレルコトナシ》。進 母 不知 退 母 不知天地之心 母 勞 久 重百官之情 母 辱愧 美奈母 隨神所念坐《ススムモシゾクモシラニアメツチノココロモイトホシクイカシクモモノツカサノココロモカタジケナミハヅカシミナモカムナガラオモホシマス》。故親王等始而王臣汝等清 支 明 支 正 支 直 支 心以皇朝 乎 穴 奈比 扶奉而天下公民 乎 奏賜 止 詔命衆聞食宣《カレミコタチヲハジメテオホキミオミイマシタチキヨキアカキタダシキナホキココロヲモチテスメラガミカドヲアナナヒタスケマツリテアメノシタノオホミタカラヲマヲシタマヘトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別詔 久 遠皇祖御世始而中今 爾 至 麻弖 天日嗣 止 高御座 爾 坐而此食國天下 乎 撫賜慈賜 波久 時時状状 爾 從而治賜慈賜來業 止 隨神所念行 須《コトワケテノリタマハクトホスメロギノミヨヲハジメテナカイマニイタルマデアマツヒツギトタカミクラニマシテコノヲスクニアメノシタヲナデタマヒメグミタマハクトキドキサマザマニシタガヒテヲサメタマヒメグミタマヒタルワザトカムナガラオモホシメス》。是以宜天下 乎 慈賜治賜 久《ココヲモテマヅアメノシタヲメグミタマヒヲサメタマハク》 〔漢文〕又官官仕奉韓人部一二人 爾 其負而可仕奉姓名賜又百官官人及京下僧尼大御手物取賜治賜 久止 詔天皇御命衆聞食宜《マタツカサツカサニツカヘマツルカラヒトドモヒトリフタリニ》
《ソノオヒテツカヘマツルベキカバネナタマフマタモヽノツカサノツカサヒトオヨビミサトノホウシアマニオホミテツモノトラシタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコヲモロモロキコシメサヘトノル》。
 
諸王、これに親王もこもれり、王臣といふ時も、王に親王はこもれり、おほきみといふは、天皇を始奉りて、親王諸王にわたれる號なれば也、
〇神留坐、此事、大祓(ノ)後釋に委(ク)云り、
〇皇(ガ)親神魯岐云々、これもかの後釋に委くいへり、さて十四詔又諸の祝詞などに、命以 弖《ミコトモチテ》とあるごとく、こゝも命の下に、以(ノ)字有しが、脱《オチ》たりげにおぼゆるに、十九詔廿三詔にも、以(ノ)字はなければ、脱たるにはあらざるにこそ、然れどもこゝも廿三詔も、正《タダ》しくは、命以《ミコトモチテ》と有べき文也、以(ノ)字ある時は、命は其詔命也、以(ノ)字無きときは、たゞ尊みて申す命《ミコト》也、
〇吾孫、孫は美麻《ミマ》と訓(ム)、十五の卷の大(ノ)御歌に、美麻乃彌己止《ミマシノミコト》とある、これ美麻《ミマ》と申す言の、正《マサ》しく見えたる也、さて廿三詔にも吾孫、十四詔に吾孫 乃 命、垂仁紀にも、御孫《ミマノ》尊又|皇御孫《スメミマノ》尊、諸の祝詞などにも、つねに皇御孫(ノ)命とあり、さて美麻と申す意は、いまだ考へ得ず、中昔よりこなた、子の子をむまごといひ今はまごといふによりて、麻《マ》はむまごの略きか、と思ふ人有べけれど、古(ヘ)は子の子をば、比古《ヒコ》とこそいへれ、むまごといへることなし、
〇輿佐斯ほ、十四詔廿三詔などに、事依《コトヨサシ》とある是也、神代紀に勅任《コトヨサシ》と書り、
〇高天原 爾 事波自米而、第一詔に見ゆ、天(ツ)神の依《ヨサ》し奉り給ひしより始まれるよしなり、本に、米(ノ)字を末に誤れり、
〇彌高彌廣 爾、高も隆盛《サカリ》なるをいふ、万葉一に、此山乃彌高良之《コノヤマメイヤタカカラシ》とよめるも、吉野(ノ)宮の御榮えを壽《ホキ》て、此山のごとく高くといへる也、五十九詔に、祖 乃 門不v滅(サ)、彌高 爾 仕奉(リ)とも有(リ)、
〇倭根子天皇、はじめなるは聖武天皇、こゝは元正天皇を申せり、思ひ混《マガ》へ奉ることなかれ、さて上の高天原 爾 神留坐云々よりして、此元正天皇の御世へ係《カケ》て、いひくだしたる文也、〇大命 爾 坐《マセ》、此事第三詔にいへり、
〇此食國云々、これより、元正天皇の、聖武天皇に詔給へるよし也、
〇藤原(ノ)宮 爾云々、父 止 坐天皇は、文武天皇なり、美麻斯は汝也、他の詔にも多く見ゆ、こゝは聖武天皇をさして詔給ふ也、次なるも同じ、父 止 坐(ス)とは、父たるといふことにて、この多流《タル》は、止阿流《トアル》の切《ツヅマ》りたるなれば、尊みて申すには、止坐《トマス》といふ也、
〇美麻斯 爾 賜 志云々、此事、紀には見えざれども、さる御事有しにや、又文武天皇の御子は、聖武天皇一柱ならでは、おはしまさざりしかば、御位は、必(ズ)此御子に授(ク)給ふべきことわりなるを以て、かくは詔給へるにや、
〇詔(タマフ)大命 乎云々、元正天皇の詔給ふ大命を、聖武天皇の聞(シ)食(シ)て也、さて下文の、可久《カク》賜(ヘル)時 爾云々 も、なほ上よりつゞきたる、元正天皇の詔にて、こゝは其|中間《ナカラ》なるに、かく詔給ふは、汝に賜ひし天(ノ)下の業ぞとある御言を、聞給ひて、まづいたく恐《カシコ》み懼《オソ》り給へるよしを、中間《ナカラ》に挾《ハサ》みて詔給ふ也、此所よくせずは紛《マガ》ひぬべし、
〇可久《カク》賜(ヘル)時 爾云々、これもなほ元正天皇の大命のつゞきにて、上に美麻斯 爾 賜(ヒ) 志とあるをうけて、如此《カク》賜へる時と詔給ふ也、
〇美麻斯親王 乃 齢 乃 弱 爾云々とは、弱(キ)は幼き也、文武天皇の崩(リ)坐(シ)し年は、聖武天皇は、わづかに七歳におはしましき、應神天皇は異なる御事にて、此時いまだ、幼王《ワカキミコ》の天下しろしめしし例は、おはしまさざりし也、
〇荷重 波とは、天下を治め給ふ御業の、重《イカシ》く大きなることを、荷の重きにたとへたるなり、廿三詔にも、年長 久 日《ヒ》多《マネ》 久、此(ノ)座《クラヰニ》坐(セ) 波、荷重(ク)力|弱《ヨワク》 之弖、不堪負荷《モチアヘタマハズ》と有(リ)、
〇所念坐而は、文武天皇の也、
〇皇祖母は、淤保美淤夜《オホミオヤ》と訓べし、文武天皇の大御母《オホミハハ》命のよしにて、元明天皇を申せる也、そも/\御母を、皇祖母と申(シ)ては、祖(ノ)字いかゞなれば、是は聖武天皇の御祖母《ミオバ》のよしならむ、と思ふ人あるべかめれど、然にはあらず、まづ古(ヘ)は凡て、母を御祖《ミオヤ》といへること、古事記などに多く見え、近くは下鴨を御祖(ノ)神と申すなども、上鴨(ノ)別雷(ノ)神の御母に坐(ス)が故也、又此紀の此卷の詔に、天皇の大御母藤原(ノ)夫人を、宜《ベシ》2文(ニハ)則皇大夫人、語(ニハ)則大御祖(トマヲス)云々1とある、これにて大御祖と申すは、大御母なること、いよ/\明らけし、さてそれに母(ノ)字を添て書(ク)事は、皇祖とのみにては、皇神祖《スメロギ》と混《マガ》ふ故に、御母なることを知らさむため也、その例は、皇極紀に、吉備(ノ)嶋(ノ)皇祖母《ミオヤノ》命とあるも、天皇の御母吉備姫(ノ)王の御事也、又孝徳紀にところ/”\、皇祖母(ノ)尊と有(ル)は、皇極天皇の御事にて、皇太子中(ノ)大兄の御母にて、天皇の御姉に坐(ス)を、大御母と崇(メ)奉り給へる也、これら皆|御祖母《ミオバ》にはましまさず、御母也、此事は、玉勝間の山菅の卷にもいへり、すべてよのつねの文字《モジ》づかひにのみめなれて、古書にうとき人は、思ひまがへて誤ること、此類多きぞかし、
〇我皇天皇 爾 授奉 岐、聖武天皇いまだ幼稚《ワカ》くましまししによりて、しばらく元明天皇に授奉給へる也、
〇依行而は、行(ノ)字は、此(ノ)字の誤なるべし、草書は〓〓形(チ)近し、依《ヨリ》v此《コレニ》而《テ》といふこと、他の詔に多く有(リ)、
〇是(ノ)平城(ノ)大宮 爾云々 は、元明天皇の御事也、此御世和銅三年に、藤原(ノ)宮より、平城《ナラノ》宮に都をうつし給へり、
〇朕 爾 授賜は、朕は元正天皇也、此天皇は、元明天皇の御子にて、文武天皇の御姉に坐り、六の卷の終(リ)に、靈龜元年九月庚辰、天皇禅2位(ヲ)宇氷高(ノ)内親王(ニ)1と有て、漢文の詔に、因(テ)以2此(ノ)神器(ヲ)1欲(スレドモ)v讓2皇太子(ニ)1、而年齒幼稚云々 と見ゆ、皇太子は聖武天皇也、和銅七年六月に、十四歳にて、太子に立せ給ひて、靈龜元年は、十五歳の御時也、
〇教(ヘ)賜(ヒ)詔(リ)賜(ヒ) 都良久は、其時に、元明天皇の、元正天皇に詔給ふ也、
〇我子 爾は、皇太子に也、聖武天皇は、元明天皇の御孫にて、皇太子に坐(セ)ば、かくは詔給ふ也、又思ふに、これは御子の元正天皇に對ひて、御孫の御事を詔ふなれば、阿碁《アゴ》と訓て、たゞ弱《ワカ》き人を親《シタシ》みて詔へる稱にも有べし、
〇牟倶佐加 爾は、茂榮《ムクサカ》の意と聞ゆ、下文にも、年實《トシ》豐 爾 牟供佐加 爾と有、万葉二に、石乍自木工開道乎《イハツツジモクサクミチヲ》とある、木工《モク》は茂く也、又神代紀に、枝葉|扶疏《シキモシ》、應神紀に、芳草薈蔚《モクシゲク》、顯宗紀に厥(ノ)功|茂焉《モシ》などあり、牟久《ムク》と母久《モク》と同じ言也、又|森《モリ》といふ名も、木の生(ヒ)茂りたるよし也、万葉六に、百樹盛《モモキモリ》、山者木高之《ヤマハコダカシ》、これも盛《モリ》はしげりといふこと也、今(ノ)本、成とあるは誤也、さてこゝは、壽祝《ホキ》て詔へるにて、今俗言に、めでたう賑々敷《ニギニギシク》などいふこゝろばへ也、
〇無(ク)2過(ツ)事1は、俗言に相違なくといふにあたれり、
〇負賜、負の假字は、四十五詔に、於保世《オホセ》給 布と有(リ)、さてこは元明天皇の、元正天皇に、かく仰せ給ひしよし也、
〇依 弖 今授賜 牟止 所念坐間 爾、諸本共に、依より念まで、大小九字なし、今事の意を考へて、私に補へり、此所、かならずかくさまの文有しが脱たること、決《ウツナ》ければ也、今は、俗言にいふやがての意にて、遠からぬほどにといふこと也、
〇天地(ノ)※[貝+兄](ヘル)、瑞の顯はれたるを、天地の賜へるとは、例の漢意也、
〇大瑞物顯、養老七年十月詔に、今年九月七日、得2左京(ノ)人紀(ノ)家(ガ)所(ノ)v獻(ル)白龜(ヲ)1、仍下2所司(ニ)1、勘2檢圖諜(ヲ)1、奏(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)云々、是(ニ)知(ル)2天地(ノ)靈※[貝+兄]、國家(ノ)大瑞(ナルコトヲ)1云々、とある是也、大瑞とは、漢籍に、大瑞上瑞中瑞下瑞といふ品あるに依て、此方にても、其品々を立られて、其種々の物、治部省式に載られたり、其中に、白龜は見えず、大瑞の中に、神龜といふ有(ル)を、四十八詔にも、白龜の出たることを、合(ヘリ)2大瑞(ニ)1とあれば、白龜を神龜に取て、大瑞とはせらるゝ也、故(レ)此瑞に依て、改められたる年號も、神龜といへり、
〇來 理は、祁理《ケリ》と訓べし、但し是は、つねにいふ辭のけりにはあらず、來而在《キタリ》といふことを、古言にけりといふ、それ也、書紀に、詣至來歸などを、マウケリと訓る、參來而在《マウキタリ》の意也、万葉に辭《コトバ》のけりに、常に來と書るも、これを借(リ)たる字也、
〇年實、二字を登志《トシ》と訓べし、凡てとしといふは、もと年穀の名也、書紀に、豐年をトシウ、凶年をトシエズと訓り、
○于都斯久 母は、第四詔に出(ツ)、本ども、郡(ノ)字を脱せるを、今補、
〇今將2嗣坐1御世名 乎、皇太子の御世を詔給ふ也、御世名は年號也、嗣字、諸本副に誤れり、今改、
〇記(シ)而とは、年號《ミヨノナ》とすべき瑞物《シルシノモノ》の現れたるをいふ也、万葉十七に、新(シキ)年のはじめに豐《トヨ》の年|思流須《シルス》とならし雪のふれるはとあるも、豐年のしるしの現はれたるを、しるすといへり、凡てしるしは、しるすを體言になしたるにて、本一つ言也、
〇應は、許多閇《コタヘ》と訓べし、皇極紀に、時(ノ)人説(テ)2前(ノ)謠(ノ)之|應《コタヘヲ》1曰(ク)云々、齊明紀に、爲《ニ》v敵|所《ルル》v滅(サ)之|應也《コタヘナリ》と見ゆ、歌に山彦のこたふといふごとく、此處《ココ》にある事の、彼處《カシコ》にひゞくやうのことを、應《コタフ》といふ、こゝは皇太子の徳に應《コタ》へて、出來つるよし也、二つの來(ノ)字、上の來 理《ケリ》と同じけれど、こゝはきたりきたると訓てある也、
〇所念坐は、元正天皇の也、
〇二字は、布多母自《フタモジ》と訓べし、もじといふは、もと文字(ノ)二字の音をとりて、字(ノ)字の訓に設けたる言なり、僧をほうしといふ類也、古今集序に、みそもじあまりひともじと有(リ)、
〇止 詔(フ)天皇(ガ)大命、上の此(ノ)食國天下者といふより、こゝの讓賜といふまで、聖武天皇に、元正天皇の詔給へる大命也、
〇頂(ニ)受賜(ハリ)、頂(ノ)字、本どもに順に誤れり、今例によりて改つ、十四詔に、頂 爾 受賜 理 恐 末理、廿四詔に、頂 爾 受賜 利 恐 美、廿五詔、四十二詔、四十五詔、四十八詔、六十一詔などにも見えたる、皆同じ、第九詔なる頂(ノ)字をも、一本に順に誤れり、さて頂は、万葉三に、伊奈太吉《イナダキ》とあるに依て訓べし、和名抄字鏡などには、いたゞきと有、さてこれよりは聖武天皇の也、
〇恐 美 持而にて、姑く語を切(リ)て心得べし、次へつゞけては心得べからず、
〇辭啓(サ)者云々、これより所念看《オモホシメセ》るやう也、上(ノ)件(リ)天皇の大命なれは、辭《イナビ》申さむは畏《カシコ》し也、
〇被賜、此上に、受(ノ)字有しが、脱たるなるべし、うけたまはりとあるべき所也、
〇仕奉(ラ)者、天皇と坐て、天下をしろしめす事を、仕奉とは、いかゞなるやうなれども、是は前の天皇の御讓(リ)を、敬ひ尊み謙りて、かくは申給ふ也、
〇劣而は、乎遲那久弖《ヲヂナクテ》と訓べし、四十五詔に、謀乎遅余 之《ハカリコトヲヂナシ》、古事記、袁祁(ノ)命(ノ)御歌に、意富多久美《オホタクミ》、袁遲那美許曾《ヲヂナミコソ》、佛足石(ノ)歌に、乎遲奈伎夜《ヲヂナキヤ》、和禮爾於止禮留《ワレニオトレル》、竹取物語に、をぢなきことする船人にもあるかな、雄略紀に、懦弱《ヲヂナク》又|怯《ヲヂナシ》、欽明紀に、微弱《ヲヂナシ》などあり、廿四詔に、朕《アハ》雖《ドモ》2拙弱《ツタナクヲヂナケレ》1、廿六詔に、知所《シルコト》 毛 無 久 |怯 久 劣 岐《ツタナクヲヂナキ》、卅二詔に、諸 能 |家牟《ヲヂナケム》人等 乎毛 教(ヘ)伊佐奈比、
〇無所知は、志禮流許止那志《シレルコトナシ》と訓べし、凡てかくさまの所(ノ)字を、ところと訓(ム)は、皇國言にあらず、漢籍讀(ミ)の言也、然るを此紀の詔どもの中にも、必(ズ)ところとよまでは、えあらぬ所々もあるは、既《ハヤ》くからぶみよみの言のうつれる也、さればこゝなども、もとよりしるところなしと訓(ム)べくて、書るにもあるべけれど、皇國言に讀(マ)るゝかぎりは、からぶみよみをば省《ハブカ》むぞ、古書よむ法《ノリ》なるべき、さてかく詔給へる意は、拙く劣《ヲヂナ》くて、知れる事もなき我(レ)なれば、大命を受賜はりて、天下治めむことは、いと畏《カシコ》しと也、
〇進 母 不知、退 母 不知、不知は、志良爾《シラニ》と訓べし、万葉歌に常多き言也、十四詔四十八詔などには、不知 爾《シラニ》と、爾(ノ)字を添ても書り、退は志叙久《シゾク》と訓べし、凡てしりなどいふ類の、りを省きていふも、古言に例多し、しぞくといへるは、土左日記に、しりへしぞきにしぞきてと見え、猶物語書に多し、さて此(ノ)進 母云々てふ語は、いたく恐みて、せむすべしられぬさまを詔給ふ也、他詔にも多く有て、進(ム) 母 不知、退(ク) 母 不知、夜日畏恐《ヨルヒルカシコ》 麻利なども有(リ)、かく詔給ふことは、もとは漢籍によれることなるべし、上代の意とは聞えぬこと也かし、
〇勞 久 重(ク)、重の下にも、久(ノ)字あらまほし、
〇王臣汝等は、汝王臣等《イマシオホキミタチオミタチ》といふこと也、
〇皇朝、又天皇朝、天皇朝廷などある、いづれも須賣良賀美加度《スメラガミカド》と訓べきこと、大祓(ノ)後釋にいへるが如し、第七詔にも、皇 我 朝《スメラガミカド》と有、
〇穴 奈比,本に奈(ノ)字を落せり、今は、廿四詔四十八詔六十一詔などの例に依て、補へり、穴は借字なれば、奈を讀(ミ)付(ク)べきにあらざれば也、
〇天下公民 乎 奏(シ)は、天(ノ)下申すといふと同じくて、天下の公民の事を執て、政申す也、
〇辭別(テ)詔 久、他詔にも多く見え、祝詞にも多きこと也、聞えたるまゝの意にて、ことなることなし、
〇高御座 爾 坐而、本ども、爾 坐(ノ)二字を脱せるを、今は、第三詔第四詔第五詔十三詔などの例に依て補つ、
〇慈賜 波久、久の下に、今一つ波(ノ)字有けむを、寫す時に、衍と心得て、除きたるなるべし、慈賜 波久波と有(ル)べきところ也、かくいはではたらはず、
〇宜は、決《ウツナ》く寫誤也、例を考ふるに、第三詔に、云々隨神所念行 須、是以|先 豆 先 豆《マヅマヅ》天下(ノ)公民|之《ノ》上 乎 慈賜 久、とあると同じければ、先(ノ)字を誤れるなるべし、故(レ)麻豆《マヅ》と訓り、〓と〓と、草書は似たり、又は麻豆の二字を誤れるにも有べし、
〇漢文としるせる所は、大2赦天下(ニ)1、内外文武職事、及五位已上、爲2父(ノ)後1者、授2勲一級1、賜2高年百歳已上(ニ)、穀一石五斗(ヲ)1、九十已上(ハ)、一石、八十已上、并(ニ)〓獨不v能2自存1者(ハ)、五斗、孝子順孫義夫節婦(ハ)、咸表2門閭(ニ)1、終v身勿v事、天下(ノ)兵士(ハ)、減2今年(ノ)調半(ヲ)1、京畿(ハ)悉免v之とあり、
〇官々(ニ)仕奉は、官に任《メサ》れて、其職を仕奉(ル)也、
〇韓人部は、三(ノ)韓|及《マタ》漢(ノ)國などより歸化《マヰキ》て、皇国人となれる部《トモ》也、部は杼母《ドモ》と訓べし、十三詔に、伊勢(ノ)大鹿首部《オホカノオビトドモ》とある部と同じ、又廿一詔に、秦等《ハダドモ》とあるも同じ、
。一二人は、これかれといはむがごとし、必しも一二人に限れるにはあらず、〇負而可(キ)2仕奉1姓名、負《オフ》とは、姓を賜はりて、其《ソ》を己が姓とするをいふ也、姓名《カバネナ》は、氏々名々《ウヂウヂナナ》などありて、名も姓の事也、姓と名とにはあらず、つねにいふ姓名とは異《コト》也、さて韓人に姓を賜へる事は、此次の文には見えず、漏《モレ》たるか、但し此年五月辛未、從五位上薩妙觀(ニ)、賜2姓(ヲ)河上忌寸(ト)1といふより、正八位上答本陽春(ニ)麻田(ノ)連といふまで、廿四人に、おの/\姓を賜へること見えたり、これか、又天平寶字五年三月などにも、韓人に姓を賜へること、多く見えたり、
〇百官(ノ)官人は、百官人といふとは異にして、諸司《モロモロノツカサ》に屬《ツキ》たる、下々の官人也、万葉八の詞書に、太宰(ノ)諸卿大夫并(ニ)官人等、とある官人のごとし、
〇及《オヨビ》、すべてかくさまに、某及某といふ及を、於余毘《オヨビ》と訓(ム)は、皇國言にあらず、からぶみ讀《ヨミ》也、故(レ)古事記などなるは、己(レ)はみな麻多《マタ》と訓り、然れども奈良のころになりては、おのづから漢籍讀(ミ)の言のうつれるも、これかれ有て、此紀の詔どもの中にも、其類見えたれば、これらも、もとよりおよびと讀(ム)べくて、書れたりとおぼゆれば、今も然訓つ、
〇京下は、美佐斗《ミサト》と訓べし、みやこといふは、廣くわたれる名なれども其中に、皇大宮《スメラオホミヤ》に關《アヅカ》らで、たゞ京の内の事をいふには、みさとといへり、和名抄に、左右京職(ハ)、美佐止豆加佐《ミサトヅカサ》と見え書紀にも、京をミサトと訓る、所々あ
 
り、孝徳紀に、凡(ソ)京《ミサトニハ》、毎(ニ)v妨《マチ》置v長(ヲ)、などあるを以て、みやこといふとのけぢめを知べし、万葉十に、山遠京爾之有者《ヤマトホキミサトニシアレバ》、これもミサトと訓べし、同十六に、京兆爾出而將訴《ミサトヅカサニイデテウタヘム》、これも京兆を本に、ミヤコと訓るはわろし、
 
〇僧尼、僧をほうしといふは、法師の字音をとりて、訓としたる也、和名抄に、玄蕃寮の訓、保字之萬良比止乃豆加佐《ホウシマラヒトノツカサ》とあるは、僧と蕃客との司のよし也、阿摩《アマ》といふは、もと女の梵語也といへども、此方にては古(ヘ)より、女僧《メホウシ》をいへること、さら也、
〇大御手物は、天皇の大御手づから賜ふよしの目《ナ》也、
〇取《トラシ》賜(ヒ)、万葉十三に、大御手二所取賜而《オホミテニトラシタマヒテ》とあるは、賜(ヒ)は、たゞ尊みて添(ヘ)たる詞なるを、こゝは然らず、御手に取《トラ》し給ひて、賜ふよしと聞ゆ、然らざれば言たらず、他詔には、僧尼には、布施《ホドコシ》賜(フ)とのみ有て、取《トラシ》賜(フ)といへる例はなければ、もしくは取(ノ)字は、施などを誤れるにはあらじか、又思ふに、人に物を與《アタ》ふるを、とらすといふは、受《ウク》る人の手に取《トラ》しむるよしか、又はそれももとは、取《トラ》して給ふよしか、然らば取賜《トラシタマフ》といふことも有やしけむ、
 
第六詔、十の卷に、神龜六年八月癸亥、天皇御2大極殿(ニ)1、詔(シテ)曰(ク)と有(リ)、年號を天平と改め給ふよしの大命也、
  
現神御宇倭根子天皇詔旨勅命 乎 親王等諸王等諸臣等百官人等天下公民衆聞宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミメカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 由 天降坐 之 天皇御世始而許能天官御座坐而天地八方調賜事者聖君 止 坐而賢臣供奉天下平 久 百官安 久 爲而 之 天地大瑞者顯來 止奈母 隨神所念行 佐久止 詔命 乎 衆聞宣《タカマノハラアモリマシシスメラガミヨヲハジメテコノタカミクラニマシテアメツチヤモヲトトノヘタマフコトハヒジリノキミトマシテカシコキオミツカヘマツリアメノシタタヒラケクモモノツカサヤスクシテシアメツチノオホキシルシハアラハレクトナモカムナガラオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。如是詔者大命坐皇朕御世當而者皇 止 坐朕 母 聞持 流 事乏 久 見持 留 行少 美 朕臣爲供奉人等 母 一二 乎 漏洛事 母 在 牟加止 辱 美 愧 美 所思坐而我皇太上天皇大前 爾 恐古士物進退匍匐※[しんにょう+回] 保理 白賜 比 受被賜 久 者卿等 乃 問來政 乎 者加久 耶 答賜加久 耶 答賜 止 〔白賜 比〕 白賜官 爾耶 治賜 止 白賜 倍婆 教賜於毛夫氣賜答賜宣賜隨 爾 此 乃 食國天下之政 乎 行賜敷賜乍供奉賜間 爾 京職大夫從三位藤原朝臣麻呂等 伊 負圖龜一頭獻 止 奏賜 不尓 所聞行驚賜怪賜所見行歡賜嘉賜 弖 所思行 久 者于都斯 久母 皇朕政 乃 所致物 爾 在 米耶 此者太上天皇厚 支 廣 支 徳 乎 蒙而高 支 貴 支 行 爾 依而顕來大瑞物 曾止 詔命 乎 衆聞宣《カクノリタマフハオホミコトイマセスメラワガミヨニアタリテハスメラトマスワレモキキヤモテルコトトモシクミタモテルオコナヒスクナミアガオミトシテツカヘマツルヒトドモモヒトツフタツヲモラシオトスコトモアラムカトカタジケナミハヅカシミオモホシマシテワガオホキミオホキスメラミコトノオホマヘニカシコジモノシシマヒハラバヒモトホリマヲシタマヒウケタマハラクハマヘツギミタチノトヒコムマツリゴトヲバカクヤコタヘタマハムカクヤコタヘタマハムトマヲシタマヒマヲシタマフツカサニヤヲサメタマハムトマヲシタマヘバヲシヘタマヒオモブケタマヒコタヘタマヒノリタマフマニマニコノヲスクニアメノシタノマツリゴトヲオコナヒタマヒシキタマヒツツツカヘマツリタマフアヒダニミサトヅカサノカミヒロキミツノクラヰフヂハラノアソミマロライフミオヘルカメヒトツタテマツラクトマヲシタマフトキコシメシオドロキタマヒアヤシミタマヒミソナハシヨロコビタマヒメデタマヒテオモホシメサクハウツシクモスメラワガマツリゴトノイタセルモノニアラメヤコハオホキスメラミコトノアツキヒロキメグミヲカガフリテタカキタフトキオコナヒニヨリテアラハレケルオホキシルシノモノゾトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別〔詔〕 久 此大瑞物者天坐神地坐神 乃 相宇豆奈 比 奉幅奉事 爾 依而顯 〔久 出 多留 瑞 爾 在 羅之止奈母 神隨所思行 須《コトワケテノリタマハクコノオホキシルシノモノハアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツルコトニヨリテウツシクイデタルシルシニアルラシトナモカムナガラオモホシメス》。是以天地之神 之 顯〕奉 留 貴瑞以而御世年號改賜換賜《ココヲモテアメツチノカミノアラハシマツレルタフトキシルシニヨリテミヨノナヲアラタメタマヒカヘタマフ》。是以改神亀六年爲天平元年而大赦天下百官主典已上人等冠位一階上賜事 乎 始一二乃慶命〔詔賜〕惠賜行賜 止 詔天皇命 乎 衆聞食宣《ココヲモテジムキノムトセヲアラタメテテムピヤウノハジメノトシトシテアメノシタヒロクツミユルシモモノツカサノフムヒトヨリカミツカタノヒトドモカガフリクラヰヒトシナアゲタマフコトヲハジメヒトツフタツノヨロコビノオホミコトノリタマヒメグミタマヒオコナヒタマフトノリタマフスメラガオホミコトヲモロキロキコシメサヘトノル》。
 
 高天原 由、自《ヨリ》を由《ユ》といへる、書紀万葉など歌には、常のことなれども、文には例なし、第四詔第七詔などに、みな由利《ユリ》とあれば、こゝも利(ノ)字の脱たるか、但し第十三詔に、尓とあるは、余《ヨ》もしくは由を誤れるか、猶かの詔のところにいふべし、
〇天官御座は、決《ウツナ》く高御座なれば、高を、天官の二字に誤れるか、はた官(ノ)字、高の誤(リ)にて、天高御座《アマツタカミクラ》か、天(ツ)高御座といへることは、例見えざれども、天 都 位ともあれば、此御世のころになりては、さもいひしにや、
〇天地八方(ヲ)調賜事者、一本に、方の下にも、賜(ノ)字あるは、治賜と有しが、治(ノ)字の落たるにこそ、第三詔に、天下 乎 治賜 比 諧(ヘ)賜 岐と有(リ)、さて又一本には、調(ノ)字を落せり、さて天下といはずして、天地八方といへるは、天地の大瑞の出たる事を詔給ふ大命なる故に、廣くいへるなり、されど天地を調(フ)といふこと、からぶみに變2理(ス)陰陽(ヲ)1といへる意に似て、ふさはしからずこそ、事者とは、云々事を考へ見ればの意也、
〇聖(ノ)君 止 坐、止(ノ)字、本共に乎に誤れり、今改む、第九詔に、聖 乃 天皇命、廿五詔に、聖(ノ)天皇、四十二詔に、聖(ノ)皇、万葉一に、橿原乃日知之御世從《カシバラノヒジリノミヨユ》など有(リ)、そも/\比自理《ヒジリ》と申すことは、もとよりの皇國言にはあらで、聖字の訓に、日知の意を以て、設けたる名なるべし、古事記仁徳天皇(ノ)段に、稱(ヘテ)2其御世(ヲ)1、謂(ヌ)2聖(ノ)帝(ノ)世《ミヨト》1也とあり、彼(ノ)御時などよりぞ始まりけむ、そのよし委くは、彼(ノ)傳卅五の卷にいへり、さてこゝの意は、聖たる人、君にてまし/\、といふ意にも聞ゆれども、なほ然にはあらで、天皇、聖(ノ)君にて坐の意なるべし、
〇百官は、こゝには穩ならず聞ゆ、もしくは百姓を誤れるには非るか、
〇爲而 之《シテシ》、爲《シ》は輕し、たゞ辭のして也、之《シ》は助辞《ヤスメコトバ》也、諸の詔に、すべて此助辭は、力を入れて、強《ツヨ》くいふところに置れて、曾《ゾ》又|許曾《コソ》といふ意の處にあり、さて此段の凡ての意は、大かた天地の大瑞の顯はるゝ事は、神代より御世御世、天下を治(メ)調へ給ふやうを、考へ見るに、天皇聖(ノ)君にまし/\、臣下も賢人にして、政よろしく、天下平らけく、百官|平安《ヤス》き御世にこそ、あることなれとおぼしめすと也、まづかく詔ふよしは、次に御みづからの御事を謙損《ヘリクダ》りて、もはら太上天皇の聖徳によれるよしを、詔給はむとて也、
〇大命(ニ)坐(セ)、此事、第三詔の處に、委(ク)云るがごとし、こは定まりて天皇の御事を申す言にて、大命(ニ)坐(セ)皇といへる、即(チ)たゞ天皇と申すこと也、
〇當而者《アタリテハ》は、朕(ガ)御世に當りては、大瑞の出べきよしなしといふことを、御心にもちて詔ふ御言也、
〇聞持 流 事云々少 美、持《タモツ》とは、手に持たる物を、放置《ハナチオカ》ず捨《ステ》ざる如く、聞たる事見たる事を、忘れず失はぬをいふ、事は、次なる行《オコナヒ》と對ひたれは、重し、たゞ添(ヘ)ていふ辭のことには非ず、善《ヨキ》事を聞給ひ見給ひて、其を捨忘《ステワス》れ給はず、持《タモチ》て、その如く行ひ給ふ事行《ワザオコナヒ》の少く乏きと也、少 美の美《ミ》は、少きによりての意にて、少《スクナ》さにといふこと也、
〇一二 乎 漏落、一(ツ)二(ツ)とは、多くの中に、まれにはといふ意也、漏に志(ノ)字、落に須(ノ)字の添(ハ)ざるによらば、モレオツルとも訓べけれど、もし然らば、上の乎《ヲ》は、者《ハ》と有べきに、今は乎《ヲ》とあるまゝに、モラシオトスと訓つ、大殿祭(ノ)祝詞に漏落事《モレオチムコト》 乎波云々々、漏(シ)落(ス)は、過失のいひにて、おぼえずあやまつをいふ也、十四詔に、誤落言無《アヤマチオトスコトナク》」ともあり、繼體紀に、闕また失を、アヤマチと訓り、さて此段、御みづからの御事は、全く謙損《ヘリクダリ》て、詔給ひ、臣たちの事をば、ただおぼめかしく、一(ツ)二(ツ)といひ、漏落といひ、又在 牟加止と疑ひて、すべて輕く詔給ひ、それも御みづからの不徳《ヲサナキ》によりてと、すべて御みづからの不徳に詔給ひなしたる御しらひ也、
〇太上天皇は、元正天皇也、そも/\太上天皇は、持統天皇その始(メ)にて、それより前には、例ましまさず、諸の書に、その訓見えたることなし、持統天皇の御時には、いかに申(シ)けむ、思ふにたゞ字音のまゝにぞ申けむ、然れども宣命などには、同じくは皇国言に讀奉らまほしければ、今新に意富伎須賣羅命《オホキスメラミコト》と訓奉りつ、
〇大前は、御前なり、古事記雄略天皇(ノ)御歌に、意富麻幣爾麻袁須《オホマヘニマヲス》とあり、古(ヘ)はすべて、神の御前をも大前と申(シ)て、古き祝詞には皆然あるを、フトマヘと訓(ム)は、ひがこと也、又後の祝詞などには、みな廣前とあれども、そは古くは見えざること也、
○恐古士物《カシコジモノ》、十四詔にも、云々|勅 夫 御命 乎《ノリタマフオホミコトヲ》、畏自物受賜 理《カシコジモノウケタマハリ》と見ゆ、凡て自物《ジモノ》といふ言、武烈紀(ノ)歌に、斯々貳暮能《シシジモノ》とあるを始めて、万葉に、鹿子自物《カコジモノ》鳥《トリ》自物鴨自物馬自物犬自物|鵜《ウ》自物などあるは、いづれも、それがやうにといふ意と聞え、又同二に男自物《ヲノコジモノ》、三に雄自毛能《ヲジモノ》、十一に男士物《ヲノコジモノ》などあるは、男のすまじきわざをする意にいへりと聞ゆるを、こゝと十四詔なるとは、件の二つとは、又意|異《カハ》りて、たゞ恐《カシコ》まりてといふやうに聞え、又用言の下に付たるも、件の例どもと異なり、こゝに稻掛(ノ)大平が、万葉に就て考へたるは、自物は、状之《ザマノ》なるべし、ざまとじもと、音通へり、鹿自物《シシジモノ》は、鹿状之《シシザマノ》にて、此類みな同じ、男《ヲノコ》自物は、男の状《サマ》としてといふ意にて聞ゆといへり、此考へさも有べし、さてこれによりて思ふに、恐士物《カシコジモノ》も、恐状之《カシコザマノ》にて、進退匍匐《シシマヒハラバヒ》即(チ)其恐状也、十四詔なるも、其状は詔給はねども、こゝのごとく、進退匍匐《シシマヒハラバ》ひ、恐状にて、受賜はり給ふよしなるべし、
〇進退は、垂仁紀に一則以懼(リ)一則以悲俯仰|喉咽進退而血泣《ムセビシシマヒテイサツ》と見え、神武紀には棲遑《シシマヒテ》不v知3其(ノ)所(ヲ)2跋渉《フミユカム》1、景行紀にもかくあり、これらに依て斯々麻比《シシマヒ》と訓べし、
○匍匐は、古事記に乃|匍2匐《ハラバヒ》御枕方《ミマクラベニ》1匍2匐《ハラバヒ》御足方《ミアトベニ》1而《テ》哭書紀にもかく有(リ)万葉十九に赤駒之腹婆布《アカコマノハラバフ》
〇※[しんにょう+回] 保理、古事記倭建命(ノ)段に、匍2匐※[しんにょう+回]《ハラバヒモトホリ》其地《ソコノ》之那豆岐田(ニ)1而哭、又上卷に、匍匐委蛇《ハラバヒモコヨフ》とも有、万葉二に、鶉成伊波比※[しんにょう+回]《ウヅラナスイハヒモトホリ》、なほ多し、もとほるは、めぐるの古言也、さて進退よりこれまではいたく恐懼《カシコ》み惑ひ給へる状《サマ》也、
〇白賜 比 受被賜 久 者は、次なる事共を、問(ヒ)申(シ)給ひて、その御答(ヘ)をうけ給はり給ふ也、物語書などにとひきくといへるに同じ、とひきくは、人に物を問て、其答(ヘ)をきく也、こゝも白《マヲシ》といふに、請問《コヒトヒ》給ふ意あり、古書どもに、請(ノ)字を、まをすと訓(ム)其意也、
〇卿等 乃、これより、答(ヘ)賜(ハム)といふまで、請《トヒ》申(シ)給ふ御言也、
〇問來(ム)政は、云々の事は、いかさまに仕奉むと、天皇へうかゞひ問奉る也、
〇加久 耶 答賜(ハム)、此言を二つ重ねて申(シ)給ふは、かやう/\にや答(ヘ)侍らむ、將《ハタ》かやう/\にや答(ヘ)侍らむと、その卿等答へ給はむ趣を、くさ/”\申(シ)試みて、問奉(リ)給ふ也、一本に、下の加久 耶の久(ノ)字なきは、同じ言の重なれるを疑ひて、此《カク》や彼《カ》やなるべしと思ひてさかしらに削(リ)たるなるべけれど、かくや云々かくや云々と、同じ此《カク》を重ねいふは、万葉五にも、可久由既婆《カクユケバ》、比等爾伊等波延《ヒトニイトハエ》、可久由既波《カクユケバ》、比等爾邇久麻延《ヒトニニクマエ》とあるなどと、同じ格也、さて答賜は、二つ共に、答賜 波牟と有べきに、波牟の字なきは、疑はしけれど、必(ズ)賜はむと訓べき語也、そも/\こゝは、卿等の問來る政を、御みづからは定め給はず、みな太上天皇に、請うかゞひ、問奉(リ)給ふよし也、
〇白(シ)賜 比は、太上天皇に問(ヒ)申(シ)給ひ也、諸本に、此三字なきは、次なる白賜と、重なれる故に、衍と心得て、さかしらに削去れるなるべけれど、此三字なくては、上の答賜 止の止(ノ)字を受る言なくて、語とゝのはず、故(レ)今補へり、
〇白賜(フ)官 爾耶云々は、又卿等の、人を擧て、某《ナニガシ》を某《ソノ》官に任《メシ》てよく侍らむと、白すをば、白すまゝに、其官に任《メシ》侍らむか、いかゞとやうに、任官などの事をも、太上天皇にうかゞひ問(ヒ)奉(リ)給ふよし也、此白(シ)賜(フ)は、卿等の、天皇へ申すよしにて、上の白賜とは異《コト》なり、
〇白賜 倍婆は、天皇の、太上天皇に、かくのごとく問申給へば也、
〇教賜(ヒ)云々は、其事は、かくのごとくし給へ、其事は、かくのごとくし給へと、太上天皇の、天皇に、ねもころに教へ答(ヘ)給ふと也、於毛夫氣《オモブケ》は、令《セ》v趣《オモブカ》にて、加世《カセ》を切《ツヅメ》て、氣《ケ》といふ也、かくのごとくし給へと教へ給ふが、即(チ)其方へ趣かしむる也、第十詔に、教賜 比 趣(ケ)賜 比奈何良、十三詔に、於母夫 氣 教 部牟 事不v過(タ)、などあり、
〇答賜(ヒ)、答(ノ)字、本に益に誤れり、今は一本に依、
〇乍《ツツ》)は、年月を經る意也、
〇供奉賜、天皇と坐て、天下を治め給ふを、供奉と詔給ふは、それをも、太上天皇に仕奉(リ)給ふわざとして詔ふ也、
〇京職大夫は、和名抄に、左京職(ハ)、比多利乃美佐止豆加佐《ヒダリノミサトヅカサ》、右京職(ハ)、美岐乃美佐止豆加佐《ミギノミサトヅカサ》、同書に、長官(ハ)云々、職(ニ)曰2大夫(ト)1、云々已上皆|加美《カミ》、
〇從三位、和名抄に、位階の、正は於保伊《オホイ》、從は比呂伊《ヒロイ》と有(リ)、こは天武天皇の十四年に、定め給へりし位階に、毎(ニ)v階有2大(ト)廣(ト)1、この大廣の訓を取て、正從の訓とせられたる也、おほきひろきといふべきを、きを共にいといふは、後の音便なれは、今は正しきにつきて、ひろきと訓べし、
〇藤原(ノ)麻呂等 伊、此卿は、不比等公の四男也、天平九年七月に、參議從三位兵部卿にて薨られたり、京職(ノ)大夫になられたりしは、養老五年六月辛丑、從四位下藤原(ノ)朝臣麻呂、爲2左右京(ノ)大夫(ト)1と有、此時は、左京右京|并《アハ》せての大夫たりし也、此卿、万葉四にも、京職(ノ)大夫とあり、紀廿四に、藤原(ノ)恵美(ノ)朝臣訓儒麻呂をも、左右京尹とあり、さて藤原氏四族の内、此麻呂卿の末を、京家といふ、そは此卿、久しく京職(ノ)大夫にて有し故也、等《ラ》とは、一人の事にも附ていへど、こゝは、京職の亮進などをも、こめていへるなるべし、伊《イ》は、多く人(ノ)名の下に、附ていふ助辭《ヤスメコトバ》也、繼體紀(ノ)歌に※[立心偏+鎧の旁]那能倭供吾伊《ケナノワクゴイ》、輔曳府枳能朋樓《フエフキノポル》、毛野(ノ)若子伊《ワクゴイ》、笛吹上(ル)也、万葉三に、志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》、こは志斐(ノ)嫗が、みづから志斐伊といへる也、強《シヒ》にはあらず、十二詔に、百濟王敬幅伊、十九詔に、奈良麻呂古麻呂等伊など、猶諸の詔に殊に多し、又人(ノ)名(ノ)下ならでも、万葉四に、木乃關守伊《キノセキモリイ》、將留鴨《トドメテムカモ》、九に、菟原壯士伊《ウナヒヲトコイ》、仰天《アメアフギ》、十二に、家有妹伊《イヘナルイモイ》、將鬱悒《イフカシミセム》、など見え、又用言の下にも、十三詔に、治(メ)賜(フ) 伊自《イシ》、また祖《オヤ》 乃 心|成《ナス》 伊自、子 爾波 可(シ)v在(ル)、四十五詔に、此《コ》 乎 持《タモツ》 伊自、稱《ホマレ》 乎 |致 之《イタシ》、捨《スツル》 伊自、謗《ソシリ》 乎 招(キ) 都、万葉三に、玉緒乃《タマノヲノ》、不絶射妹跡《タエジイイモト》、七に、花待伊間爾《ハナマツイマニ》、十に、不亂伊間爾《ミダレヌイマニ》、などあり、そも/\此助辭を置たる所は、賀《ガ》といひても、波《ハ》といひても、曾《ゾ》といひても、よろしからざるところにて、まづは余《ヨ》といふに近けれども、余にてもなほ穩ならず、必(ズ)伊《イ》といふべき所のある也、其味は、例どもを考へわたして知べし、〇負圖龜云々、此年六月己卯、左京職獻(ル)v龜、長五寸三分、闊(サ)四寸五分、其背(ニ)有v文、云(ヘリ)2天王貴平知百年(ト)1、とあるこれなり、かくて此詔の次に、其(ノ)獲(タル)v龜(ヲ)人、河内(ノ)國古市(ノ)郡(ノ)人、无位賀茂(ノ)子蟲(ニ)、授(ケ)2從六位上(ヲ)1、賜v物(ヲ)、※[糸+施の旁]二十疋、綿四十屯、布八十端、大税二千束と見えたり、万葉一に、圖負留神龜毛《フミオヘルアヤシキカメモ》、新代登泉乃河爾《アラタヨトイヅミノカハニ》とあるは、出《イヅ》と、泉の序にまうけていへる、壽詞《ホキコト》也、
〇驚賜怪賜は、不徳なる朕が御世に、さるめでたき祥瑞の出べきにあらざるをと、怪み給ふよしなり、
〇歡賜嘉賜、嘉は、米傳《メデ》と訓べし、たゞ聞しめしては、怪み給ひしかども、正《マサ》しく見そなはして、歡(ビ)嘉《メデ》させ給ふよし也、
〇所致《イタセル》、すべていたすは、令《ス》v至《イタラ》にて、令《ス》v渡《ワタラ》をわたす、令《ス》v返《カヘラ》をかへすといふ類の格也、大瑞を至らしむるをいふ、此處《ココ》に来るをも、至るといふ也、
〇在(ラ) 米耶は、あらずといふことを、つよくいふ言也、
〇高 支 貴 支 行(ヒ)も、太上天皇の御行(ヒ)也、
〇依而は、其御蔭に頼《ヨ》る意也、常に云(フ)よりてよりは重《オモ》し、さて上の蒙(リ)も頼(リ)も、天皇の蒙(リ)給ひ頼(リ)給ふよし也、〇辭別詔 久、諸本に、詔 久(ノ)二字を脱せり、今は例に依て補へり、辭別(テ)とのみいへる例はなければ也、祝詞に、辭別(テ)云々白(ク)、また辭別(テ)云々宣(ル)など、中に語を隔《ヘダテ》たることはあれども、こゝは其《ソレ》とは異なり、
〇顯 久 出 多留云々、此處、諸本共に、顯の下の廿六字無き故に、上の此(ノ)大瑞(ノ)物|者《ハ》、といへるを承《ウケ》たる言なく、語とゝのはずして、聞えがたし、故(レ)考るに此段、第四詔に、此(ノ)物|者《ハ》、天(ニ)坐神地(ニ)坐祇 乃、相干豆奈 比 奉(リ)、福 波倍 奉(ル)事 爾 依而、顯《ウツシ》 久 出 多留 寶 爾 在 羅之止奈母、神隨所念行 須、是以天地之神 乃 顯(ハシ)奉(レル)、瑞(ノ)寶 爾 依而、御世(ノ)年號政賜とあると、全《モハラ》同じ趣なれば、今彼(ノ)詔に依て、久《ク》より顯《アラハシ》まで、大小廿六字を補つ、こは顯(ノ)字の二つあるによりて、紛《マガ》ひて、其間の文を落したる也、さる例よくあることぞかし、
〇貴瑞以而、以(ノ)字は、これも件の第四詔の如く、依なりけむを、寫(シ)誤れるなるべし、以にても聞ゆれども、なほ然にはあらじ、
〇大赦天下は、阿米乃志多比呂久都美由流須《アメノシタヒロクツミユルス》と訓べし、持統紀などに、大(ニ)2赦天下(ニ)1と訓(ミ)たれども、大赦を音によまばこそ、天下にとはいふべけれ、訓によまむには、爾《ニ》といふべきにあらず、又大に爾《ニ》と付(ケ)たるも、皇國言にうとし、大赦は、曲赦に對ひたる目《ナ》なれば、ひろくとこそいふべけれ、
〇主典は、孝徳紀持統紀などに、フムヒトと訓り、職員令神祇官(ノ)條に、大史一人、掌(ル)d受(テ)v事(ヲ)上抄《シルシ》、勘2署(シ)文案(ヲ)1、檢2出(シ)稽失(ヲ)1、讀c申(スコトヲ)公文(ヲ)1、餘(ノ)主典准(フ)v此(ニ)、少史一人、掌(ルコト)同(ジ)2大史(ニ)1とあり、大史少史は、神祇官の主典也、餘(ノ)主典とは、諸(ノ)官の主典をいふ、和名抄には、主典を佐官《サクワン》とあげて、訓をばしるさず、諸司皆|佐官《サクワン》といふよししるせり、これをさうくわんといふは、佐を音便にさうと呼《イフ》也、さてもろ/\の官に、おの/\長官《カミ》次官《スケ》判官《マツリゴトビト》主典《フムヒト》とある也、此中に判官をば、後世にはなべて、じようと呼《イ》ふは、八省の判官の丞の字音よりうつれる也、又主典を佐官といふは、いかなるよしにか、いぶかし、
〇云々事 乎 始(メ)は、此事をはじめとして也、
〇慶命詔賜云々、諸(ノ)本に、詔賜(ノ)二字なし、そは賜字の重なれるより紛ひて、寫し落せし也、故(レ)命《オホミコト》惠《メグミ》賜といふつづき、穩ならず、これによりて今、件の二字を補へり、第四詔にも、慶命詔 久とあり、さきには、宣を惠に誤れるかとも思ひしかども、然にはあらず、
 
第七詔
 
同月戊辰、詔(シテ)立(テ)2正三位藤原(ノ)夫人(ヲ)1爲2皇后(ト)1、壬午、喚2入五位及諸司(ノ)長官(ヲ)于内裏(ニ)1、→而知大政官事一品舍人(ノ)親王宣(テ)v勅(ヲ)曰(ク)とあり、
 
天皇大命 良麻止 親王等又汝王臣等語賜 幣止 勅 久 皇朕高御座 爾 坐初 由利 今年 爾 至 麻弖 六年 爾 相成 奴《スメラガオホミコトラマトミコタチマタイマシオホキミタチオミタチニカタラヒタマヘトノリタマハクスメラワレタカミクラニイマシソメシユリコトシニイタルマデムトセニナリヌ》。此乃間 爾 天 都 位 爾 嗣坐 倍伎 次 止 爲 弖 皇太子侍 豆《コノアヒダニアマツクラヰニツギマスベキツギテトシテヒツギノミコハヘリツ》。由是其婆馬場 止 在 須 藤原夫人 乎 皇后 止 定賜《コレニヨリテソノハハトイマスフヂハラノキサキヲオホキサキトサダメタマフ》。加久定賜者皇朕御身 毛 年月積 奴《カクサダメタマフハスメラワガミミモトシツキニツモリヌ》。天下君坐而年緒長 久 皇后不坐事 母 一 豆乃 善有 良努 行 爾 在《アメノシタノキミトマシテトシノヲナガクオホキサキイマサザルコトモヒトツノヨカラヌワザニアリ》。又於天下政置而獨知 倍伎 物不有《マタアメノシタノマツリゴトニオキテヒトリシルベモノナラズ》。必 母 斯理幣 能 政有 倍之《カナラズモシリヘノマツリゴトアルベシ》。此者事立 爾 不有天 爾 日月在如地 爾 山川有如並坐而可有 止 吉事者汝等王臣等明見所知在《コハコトダツニアラズアメニヒツキアルゴトツチニヤマカハアルゴトナラビマシテアルベシトイフコトハイマシタチオホキミタチオミタチアキラケクミシレルコトナリ》。然此位 乎 遲定 米豆久波《シカルニコノクラヰヲオソクサダメツラクハ》 刀比止麻爾母|己 我《オノガ》 夜氣|授 留 人 乎波 一日二日 止 擇 比 十日二十日 止 試定 止斯 伊波 婆 許貴太斯 伎 意保 伎天下 乃 事 乎夜 多夜須 久 行 無止 所念坐而此 乃 六年 乃 内 乎 擇賜試賜而今日今時眼當衆 乎 喚賜而細事 乃 状語賜 布止 詔勅聞宣《サヅクルヒトヲバヒトヒフツカトエラビトヲカハツカトココロミサダムトシイハバコキダシキオホキアメノシタノコトヲヤタヤスクオコナハムトオモホシマシテコノムトセノウチヲエラビタマヒココロミタマヒテケフマノアタリモロモロヲメシタマヒクハシキコトノサマカタラヒタマフトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。賀久詔者挂畏 支 於此宮坐 弖 現神大八洲國所知倭根子天皇我王祖母天皇 乃 始斯皇后 乎 朕賜日 爾 勅 豆良久 女 止 云 波婆 等 美夜 我加久云《カクノリタマフハカケマクモカシコキコノミヤニマシテアキツミカミトオホヤシマクニシロシメシシヤマトネコスメラミコトワガオホキミミオヤスメラミコトノハジメコノオホキサキヲアレニタマヘルヒニノリタマヒツラクヲミナトイハバヒトシミヤワガカクイフ》。其父侍大臣 乃皇 我 朝 乎 助奉輔奉 弖 頂 伎 恐 実 供奉乍夜半曉時 止 休息無 久 淨 伎 明心 乎 持 弖《カノチチトハヘルオホオミノスメラガミカドヲアナナヒマツリタスケマツリテイタダキカシコミツカヘマツリツツヨナカアカトキトヤスモフコトナクキヨキアカキココロヲモチテ》 波紋刀比|供奉 乎 所見賜者英人 乃 宇武何志 伎 事款事 乎 送不得志《ツカヘマツルヲミシタマヘバカノヒトノウムガシキコトイソシキコトヲツヒニエワスレジ》。我兒我王過无罪無有者捨 麻須奈 忘 麻須奈止 負賜宣賜 志 大命依而加 爾 加久 爾 年 乃 六年 乎 試賜使賜 弖 此皇后位 乎 授賜《アガコワガオホキミアヤマチナクツミナクアラバステマスナワスレマスナトオホセタマヒノリタマヒシオホミコトニヨリテカニカクニトシノムトセヲココロミタマヒツカヒタマヒテコノオホキサキノクラヰヲサヅケタマフ》。然 毛 朕時 乃未爾波 不有《シカルモワガトキノミニハアラズ》。難波高〔津〕宮御 宇大鷦鷯天皇葛城曾豆比古女子伊波乃比賣命皇后 止 御相坐而食國天下之政治賜行賜 家利《ナニハノタカツノミヤニアメノシタシロシメシシサザキノスメラミコトカヅラキノソツビコノムスメイハノヒメノミコトオホキサキトミアヒマシテヲスクニアメノシタノマツリゴトヲサメタマヒオコナヒタマヒケリ》。今米豆良可 爾 新 伎 政者不有《イマメヅラカニアラタシキマツリゴトニハアラズ》。本 由理 行來迹事 曾止 詔勅開宣《モトユリオコナヒコシアトゴトゾトノリタマフオホミコトヲキコシメサヘトノル》。
 
語賜 幣止、語(ノ)字、一本に、詔と作るは誤也、下文にも、細事 乃 状語賜 布止 詔(フ)と有(リ)、廿七詔にも、卿等諸(ニ)語 部止 宣 久、
○由利《ユリ》は、自《ヨリ》なり、万葉廿にも、阿須由利也《アスユリヤ》と有(リ)、明日よりや也、
〇此 乃 間は、上の六年の間なり、
〇天 都 位は、もとよりの皇国言とは聞えず、漢文訓なるべし、但し書紀に、天業天基天朝天緒天勅などある類も、漢文ながら、ことわりは、皇國の古意にかなへり、孝徳紀には、天位をタカミクラと訓り、
〇皇太子、此御子は、藤原(ノ)夫人の御腹にて、神龜四年閏九月に生坐て、同年十一月に、皇太子に立給ひ、同五年九月に、二歳にて薨坐ぬ、
〇侍 豆は、坐 豆《マシツ》とあるべきに、かくあるは、天皇に對(ヘ)奉りて也、
〇婆々は、母也、
○藤原夫人、夫人は、伎佐伎《キサキ》と訓べし、反正紀に、皇夫人《キサキ》又|夫人《キサキ》とある、これ古(ヘ)にかなへる訓也、さて此藤原(ノ)夫人は、不比等公の御女にて、光明子と申せし也、天平寶字四年六月に薨坐て、そこに傳あり、其中に、神龜元年、聖武皇帝即位、授(ケ)2正一位(ヲ)1、爲2大夫人(ト)1とあるは、誤也、正一位は、こゝになほ正三位なると合はず、又|當御世《ソノミヨ》の夫人を、大夫人とし給ふといふこと、大(ノ)字かなはず、神龜元年に、正一位にて大夫人とし給へるは、天皇の御母の藤原(ノ)夫人、宮子と申せしにて、其事九の卷に見えたり、然るに其《ソ》を光明子皇后の傳にしるされたるは、紛《マガ》ひたるもの也、
〇皇后ほ、意富伎佐伎《オホキサキ》と訓べし、古(ヘ)は妃夫人などの列なるを、みな伎佐伎《キサキ》と申し、其中の第一の伎佐伎を、大后《オホキサキ》と申(シ)て、これ皇后也、此事委くは、古事記傳廿の卷にいへるがごとし、かの記などには、皇后をみな大后と記せり、後世に、皇后をきさき、皇太后を大きさきと申すとは、古(ヘ)は異也、
〇年月積(リ) 奴とは、天皇今年、廿九歳にならせ給へれば、よきほどの御齢《ミヨハヒ》にならせ給へるよしなるべし、
〇年(ノ)緒長 久、緒(ノ)字、本に諸に誤れり、今は一本に依れり、年(ノ)緒は、たゞ年のこと也、五十七詔にも、年緒不落《トシノヲオチズ》と有、万葉三に、年緒長久住乍《トシノヲナガクスマヒツツ》、四にも、荒玉年之緒長《アラタマノトシノヲナガク》など、猶卷々に多し、
〇善有 良努 行 爾 在、よからぬは、よくあらぬの切《ツヅマ》りたる也、故(レ)有(ノ)字を書り、行は、こゝは和邪《ワザ》と訓べし、爾在《ニアリ》は、那理《ナリ》也、すべてなりといふ辭は、此|爾在《ニアリ》の切《ツヅマ》りたる也、古文には、多くは本語のまゝに、にありといへり、
〇於《ニ》2天(ノ)下(ノ)政1置而、置(ノ)字、本に宜に誤れり、今は一本に依れり、さて常には於(ノ)字をオイテとよめども、こゝは古書の例にて、於(ノ)字をば爾《ニ》といふ辭《テニヲハ》に用ひて、別に置《オキテ》とは書るにて、意は於《オキテ》の意なり、
〇獨知、知(ル)は行ふ也、
〇必 母、必に母《モ》を添たること、めづらし、
〇斯理幣 能 政は、後方《シリヘ》の政にて、後宮の事也、神代紀に、背揮此(ヲ)云2志理幣提爾布倶《シリヘデニフクト》1、齊明紀に、後方羊蹄此(ヲ)云2斯梨蔽之《シリヘシト》1、これらはしりへてふことの例也、さて後紀、弘仁六年七月、橘(ノ)皇后を立給ふ詔にも、食國天下政 波、獨知 倍伎 物 爾波 不v有、必 母 斯理幣 乃 政有 倍之止、自v古行(ヒ)來 魯《ル》事云々と見え、貞觀儀式、立2皇后1儀に見えたる宣命にも、かく有(リ)、
〇事立、第三詔に出、
〇山川は、山と川と也、山の川にはあらず、
〇並坐は、天皇と皇后と也、
〇言事者は、言《イフ》も事《コト》も、たゞ辭にて、たゞに可《ベキ》v有《アル》者《ジャ》といはむも同じこと也、すべて止云事《トイフコト》といふ辭を添ていふこと、今も古(ヘ)も同じこと也、然るを今の人は、文を書(ク)に、かくさまの辭を、煩はしとして略くは、中々に漢ざま也、
〇此位は、皇后の位也、
〇遅定 米豆良久波、印本には、定(ノ)字なし、今は一本によれり、早くするを、早めといへば、遲くするをも、遅めといひつべければ、定(ノ)字なくても有べけれど、猶此字あるかたまされり、豆良久《ツラク》はつる也、遲《オソ》く定めつる故は、といふ意に見べし、
〇刀比止麻爾母、こはいと/\心得がたきを、下のつゞきの語によりて考るに、かりそめにもなどいふ意の古言なるが、こゝより外には傳はらぬにやあらむ、さるたぐひも、古事記書紀万葉などにも、まれにはあること也、又誤字脱字などの有(ル)か、又思ふに、賤き官職の名にもやあらむ、然いふ故は、次にいふべし、もし然《サ》もあらば、久良比止賣《クラビトメ》なるを、久を刀に誤り、良を落し、賣《メ》を麻に誤れるか、古事記仁徳天皇(ノ)段に、倉人女《クラビトメ》といふもの見ゆ、後宮職員令十二司の中に、藏司あり、それに藏人女といふも有しか、たとひ當時《ソノカミ》はなくとも、古(ヘ)にありし名なれば、かく詔給ふまじきにあらず、さてこゝは、皇后を立給ふことにつきて詔給ふなれば、女官の賤き者を詔給はむも、よしある也、又は加刀比止部《カドビトベ》なるを、加を落し、部を麻に誤れるか、職員令、衛門府の下に、門部二百人とある、是を語には、門人部《カドビトベ》といひしか、上の件の考(ヘ)ども、よろしとにはあらねどもせめて思ひよれるまゝに、姑(ク)しるせる也、猶よく考ふべし、
〇己 我は、天皇の御自詔給ふ也、そは太上天皇の大命、或ほ卿等の申すなどにはあらで、己命《オノレミコト》の御心もて、物し給ふよしにて、分てかく詔給ふ也、
〇夜気、夜(ノ)字は、安を誤れるにて、上《アゲ》也、廿八詔にも、阿氣《アゲ》賜(ヒ)治賜 久と書り、又廿六詔に、上《アゲ》奉(ル) 止 授賜(フ)、五十二詔に、上(ゲ)賜 比 授賜(フ)、これらのつゞきと同じ、麻氣《マケ》の誤にて、任《マケ》ならむと思ふ人有べけれど、麻氣《マケ》といふは、京外《ヰナカ》の官ならではいはぬこと也、
〇十日二十日 止、.これも上の一日二日といへると同意にて、礎の短く速《スミヤカ》なる意にいへる也、次の六年 乃 内 乎と對へて心得べし、
〇試定 止斯 伊波 婆、伊波婆《イハバ》は、たゞ輕き辭にて、試(ミ)定めなばといふ意也、斯《シ》は助辭也、さて此伊波婆の下に、脱《オチ》たる語有べし、そは容易《タヤス》く輕々しかるべし、などやうの語の有(ル)べきなり、さて刀比止麻爾母といふより、これまでの、すべての意は、いかに賤き官職にても、たゞ己が心もて、上《アゲ》授(ク)る人をば、わづかに一二日十日廿日ばかりの間《アヒダ》)、試み擇(ビ)て定めなば、速《スミヤカ》にて、たやすく輕々《カロガロ》しきしわざなるべしといへるにて、さてまして皇后を定めむことはと、次にいふ也、
〇許貴太斯 伎は、古事記神武天皇(ノ)大御歌に、許紀陀《コキダ》、万葉二に、己伎太雲《コキダクモ》、などある言にて、十人詔に、己々太久《ココダク》とあるも同じ、又こきばくとも、こゝばくとも、こゝだくとも、なほさま/”\にいふ皆同言也、此言の事、猶古事記傳十九に委(ク)云り、万葉に幾許と書て、もとは物の數の多きよりいひて、いかばかりかといふ意也、故(レ)万葉の内に、同じ幾許を、いかばかりと訓(ム)處も有也、さていかばかりかの意にて、おのづから甚しき意重き意大きなる意になる也、こゝは重く大(キ)なる意也、
〇意富 伎は、大き也、
〇天下 乃 事 乎夜は、天(ノ)下に關《カカ》る事也、又天(ノ)下の事の中に、重く大きなる事とも聞ゆ、夜《ヤ》は下へうつして、多夜須久夜波行無《タヤスクヤハオコナハム》の意也、皇后は、天皇に並(ビ)坐(ス)位なれば、其《ソ》を定むることは、いたく大きなる重き事なるを、たやすくやは行ふべきと也、
。六年 乃 内 乎、内(ノ)字は、間《アヒダ》の誤(リ)にはあらざるか、
〇試賜而、本どもに而(ノ)字なし、今は一本に依(ル)、
〇眼當《マノアタリ》は、前《マヘ》に同じ、まへは目方《マヘ》なれば也、中昔の言に、目路《メヂ》といひ、今の言に、目通《メドホ》りといふも、眼當《マノアタリ》と同意也、
〇衆《モロモロ》 は、はじめに親王等云々 とある是也、
〇細事 乃 状、細は、久波志伎《クハシキ》と訓べし、古書には、くはしに、此字を多く書り、
〇語賜 布止、印本には、此四字脱たり、今は一本によれり、
〇賀久詔者は、如此《カク》詔(フ)故《ユヱ》はといふ意にて、そは即(テ)此藤原(ノ)夫人を、如此《カク》皇后に定むる故はといふこと也、
〇此宮は、平城(ノ)宮也、
〇祖母《ミオヤ》は、御母のよし也、挂畏 支よりこれまで、一つゞきにて、元正天皇を申給ふ也、祖母の文字に就ては、元明天皇の如くなれども、然にはあらず、祖母と書て、美於夜《ミオヤ》と訓こと、第五詔の下にいへるが如し、元正天皇は、實の大御母命にはましまさざれども、其|御禅《ミユヅリ》を受嗣坐(セ)れば、御母《ミオヤ》とは申給ふなり、
〇斯皇后、皇后と定め給へるよし、既に上に詔給へる故に、今はたゞに皇后と詔給ふ也、
〇朕(ニ)賜(ヘル)、廿二の卷、此皇后の俸に、聖武皇帝儲貳(ノ)之日、納(レテ)以爲v妃(ト)、時(ニ)年十六とあり、天平寶字四年薨坐し時、春秋六十とあれば、十六歳は、靈龜二年にて、元正天皇の御世なれば、彼(ノ)天皇の詔命にて、納《イレ》給へるなるべし、故(レ)朕(ニ)賜(ヘル)とは詔給ふ也、朕の下に、爾(ノ)字あらまほし、
〇勅 豆良久は、元正天皇の也、
〇女 止云 波婆云々は、女といへば、何れの女も、なべて等《ヒトシ》き物と思ひてやは、朕がかく此女を納(レ)て、汝命の妃とし給へとはいはむ、此女は、尋常の女と等《ヒトシ》なみの女にはあらねばこそ、かくいへと也、加久云は、如此《カク》汝命の妃とし給へと云て、納(レ)しむるよし也、
〇其父(ト)侍(ル)大臣は、不比等公也、其時は、此大臣いまだ存在《ヨニマシ》しほどなりき、
〇皇 我 朝、本に、我(ノ)字を大書にしたるは非也、すめらわがにはあらず、
〇助奉、此(ノ)助は、阿奈々比《アナナヒ》と訓べし、他の詔に、輔《タスケ》奉とつらねていへるは、みな阿奈々比奉なれば也、第三 第五 廿四 四十八 六十一等詔を見て知べし、
〇頂 伎は、戴(キ)也、十一詔に、祖(ノ)名 乎 戴(キ)持而、十二詔に、恐(マ) 理 戴(キ)持、十三詔に、頂(キ)受賜 利など有、後拾遺集に、大中臣(ノ)輔親、おほぢ父うまご輔親三世までにいたゞきまつるすめら大神、
〇曉時、曉を、万葉にはみな阿加止伎《アカトキ》とよめり、あかつきといふは、後のこと也、
〇休息無 久は、五十一詔に、暫之問《シマラクノマ》 母、罷(リ)出而|休息安《ヤス》 母布 事無(ク)、とあるに依て訓べし、又同詔に、天下(ノ)公民之|息安《ヤス》 麻流倍伎 事 乎なども有、
〇波波刀比は、いと/\心得がたし、これも古言なるが、外には傳はらざるにや、又は誤字か、もし誤字ならば、爲夜万比《ヰヤマヒ》などを誤れるにや、〓〓と〓〓とやゝ似たり、四十一詔に、晝 毛 夜 毛 倦怠 己止 無 久、謹 美 禮《ヰヤ》 末比 仕奉 都都と有、上下のつゞき似たり、卅八詔に、爲夜備《ヰヤビ》 末都利ともあり、ゐやまひは、禮々《ヰヤヰヤ》しくといはむも同じこと也、廿七詔に、宇也宇也《ウヤウヤ》 自久とも有(リ)、爲夜宇夜《ヰヤウヤ》同じこと也、此考へも、必(ズ)よろしとにはあらず、たゞせめて思ひよれることをいふ也、さて下の波(ノ)字、一本には婆と作《カケ》り、
〇所見賜者、所見は、美志《ミシ》と訓べし、万葉一に、見之賜者《ミシタマヘバ》、六に、見之賜而《ミシタマヒテ》など、なほ多し、見《ミ》を美志《ミシ》といふは、聞《キキ》をきこし、知《シリ》をしらし、などいふ格の古言也、
〇其人は、不比等公也、
〇宇武何志 伎は、十三詔に、云々事|伊蘇之《イソシ》 美 宇牟賀斯《ウムガシ》 実、忘(レ)不《ズ》v給 止自弖奈母、孫等《ヒコドモ》一二治賜、廿六詔に、云々事 乎、宇牟我自《ウムガシ》 彌 辱 彌 念行 弖互、など見ゆ、於牟何志《オムガシ》といふも同じ、書紀竟宴集(ノ)歌に、伊佐袁志久多陀斯岐瀰知乃於牟迦斯佐《イサヲシクタダシキミチノオムカシサ》、神功紀に、相見(テ)欣感《オムガシミシ》、厚(ク)禮(ヒテ)送(リ)遣(ル)、また我(ガ)王必(ズ)深(ク)徳《オムガシミセム》v君(ヲ)など有、万葉十八には、牟賀思久母安流香《ムガシクモアルカ》、これは於《オ》を省ける也、字鏡には、偉慶(ハ)、悦也奇也賀也幸也福也、於毛我志《オモガシ》又|宇禮志《ウレシ》と有、みな同言也、
〇款《イソシキ》事は、第一詔に出、
〇送不得忘、送(ノ)字は、逐《ツヒニ》を誤れるなるべし、命《ヨ》のかぎりえ忘れじ也、一本に、忘の下にも、不得(ノ)二字あるは、衍か、又次の文によるに、不得捨《エステジ》とありし、捨(ノ)字の脱たるにもあるべし、〇我兒我王は、天皇をさして詔給ふ也、こゝにかく詔給ふは、殊更に呼(ヒ)出せる御言にて、此詔給ふ事を、懇切《ネモコロ》にし給ふ也、
〇過无(ク)云々は、此皇后の御事也、上よりの語のはこびにて、おのづから然聞ゆ、
〇忘 麻須奈は、彼(ノ)父大臣の功勞を忘(レ)給ふなにて、それ即(チ)此皇后をなほざりになおぼしめしそといふ意也、これまで、元正天皇の、かく詔給ひ屬《ツケ》しよし也、
〇負(セ)賜、すべて云々せよと仰するは、其事を負(ヒ)持(タ)しむるにて、荷を負(ヒ)持(タ)しむると同じき故に、仰せ負せ同言也、宰《ミコトモチ》といふも、仰せ給ふ命を受て、負持(ツ)意の名也、
〇加 爾 加久 爾は、彼《カ》に此《カク》ににて、万葉には左右《カニカク》と書り、後世にはこれを、とにかくにといふ、
〇年 乃 六年 乎、万葉十一に、年之八歳乎吾竊舞師《トシノヤトセヲワガヌスマヒシ》、十六に、年之八歳乎待騰來不座《トシノヤトセヲマテドキマサズ》、
〇使(ヒ)賜、古事記上卷に、使《ツカヒタマハバ》2石長比賣(ヲ)1者云々、亦|使《ツカヒタマハバ》2木花之佐久夜毘賣(ヲ)1者云々、垂仁天皇(ノ)段に、此(ノ)二女王《フタハシラノヒメミコハ》、淨(キ)公民(ナリ)、故(レ)宜《ベシ》v使《ツカヒタマフ》也、これらの外、應神天皇仁徳天皇(ノ)段などにも見えて、傳に委(ク)云り、今俗言にいふ、人をつかふと、同じこと也、仕《ツカヘ》は、被《レ》v使《ツカハ》のはれを切《ツヅメ》てへトいふにて、使《ツカ》はるゝ方よりいふ言、使《ツカフ》は、其《ソ》を使《ツカ》ふ方よりいふにて、同言也、
〇然 毛は、志加流毛《シカルモ》と訓べし、然有《シカアル》も也、こは王《ミコ》にあらずして、臣の女《ムスメ》を、皇后とし給ふこと也、次の文にて知(ル)べし、
〇高津宮、諸(ノ)本に、津(ノ)字を落せるを、今補へり、此津は、讀付(ク)べきにあらず、略きて書る例なければ也、
〇大鷦鷯、一本に、大焦と作《カケ》るは、雀を焦に誤れるなるべし、此大御名古事記には、みな大雀と書り、故(レ)思ふに、こゝも本は然有しを、後人さかしらに書紀によりて、鷦鷯とは改め書るにや、
〇葛城(ノ)曾豆比古は、古事記に、建内宿禰の九人の子の中の、第八にあたる子にて、葛城(ノ)長江(ノ)曾都毘古と有、
〇伊波乃比賣(ノ)命皇后、乃(ノ)字、印本に及に誤れり、今は一本に依れり、さて此御名、命の下に皇后といふことを添たるは、こゝに此事を擧給ふは、皇后に坐(シ)しことを詔給ふが主《ムネ》なる故に、そをたしかにせむため也、
〇御相坐而、古事記に、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命の遘合《ミトノマグハヒ》をも、御合《ミアヒマシ》といひ、又邇々藝(ノ)命の御事をも、御2合《ミアヒマシテ》高木(ノ)神(ノ)之女萬幡豐秋津師比賣(ノ)命(ニ)1と有、猶中卷にも見えたり、
〇治賜行賜 家利、印本には、行賜(ノ)二字なし、今は一本に依、
〇新 伎 政(ニ)者《ハ》不v有とは、臣の女を、皇后とし給ふこと也、政は、たゞ事といふと同じ、天皇の行(ヒ)給ふ事なる故に、政とはいへる也、さて荒木田(ノ)久老(ノ)神主の云(ク)、すべて新は、万葉などにても、みなアラタと訓べし、廿の卷なる、年月
波安多良安多良爾《トシツキハアタラアタラニ》云々といふ歌も、一本に、安良多安良多爾《アラタアラタニ》とあるぞよき、すべて古(ヘ)に、新をあたらしといへることなし、あらたし也、そを後にあたらしといふは、可惜《アタラシ》と混《マガ》ひたる訛也といへる、此説さも有べくおぼゆる故に、こゝもアラタシキと訓つ、
〇本 由理は、舊《フル》くより也、
〇迹事とは、舊くより有し例によれる事といふ意也、そも/\皇后《オホキサキ》を立給ふことは、上つ代より御世/\、常の事なるに、殊に仁徳天皇の例をしも引て、かくくはしく詔給ふ故は、いかにといふに、まづ古事記を考るに、御世御世の問(ダ)に、大后と記せるは、神武天皇の伊須氣余理比賣(ノ)命、垂仁天皇の比婆須比賣(ノ)命、仲哀天皇の息長帶比賣(ノ)命、仁徳天皇の石之比賣(ノ)命、允恭天皇の忍坂之大中津比賣(ノ)命、安康天皇の長田(ノ)大郎女、雄略天皇の若日下部(ノ)王、繼體天皇の手白香(ノ)命など也、件の餘《ほか》の御世/\のうちにも、有(リ)つらめども、大后と記せる文の、たま/\に無きなるべし、さて件の大后とあるかぎりを考るに、神武天皇のは、大三輪(ノ)神の御女なれば、殊事《コトコト》也、その餘《ホカ》は、石之比賣(ノ)命を除き奉りては、皆々|王《ミコ》にして、臣の女なるはましますことなし、されば件の外に有けむも、皆王なりけむこと、おしはかりてしるべし、然るを書紀には、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝靈天皇、孝元天皇、開化天皇などの御世御世に、立(テテ)v某(ヲ)爲2皇后(ト)1とあるは、みな臣の女なるは、すべて書紀は、かゝる事にも、漢ざまのかざり多くして、事實《コトノマコト》にたがへるたぐひあれば、これらも、爲2皇后(ト)1とあるは、例の潤色の文也、崇神天皇よりこなたの御世/\の皇后に、臣の女なるは坐(ス)ことなきをもて、かの御世/\の、臣の女なりしは、實に皇后には坐(サ)ざりしことをさとるべし、さればこそ件の御世/\、古事記にほ、大后と記せるは、一(ツ)も見えざりけれ、凡て古は、王《ミコ》にあらざれば、皇后には立給ふことなし、これ種胤《タネ》を重くせられし也、かの漢國の、たゞに同姓を嫌ひて、王《コキシ》が心にまかせて、卑賤の者の女をも、皇后といふにする俗《ナラハシ》とは、いみしき異《カハリ》にぞ有ける、大寶の令は、多く漢國の制によられたれども、妃すらなほ、親王ならでは爲給はぬ制にて、妃二員四品以上と有て、臣の女は、夫人以下にて、品といはず、位とあり、是らにても、古(ヘ)のやうを知べし、然るに仁徳天皇の石之比賣(ノ)命のみは、いかなることなりけむ、臣の女にして、皇后に立給へりしは、これより外には、例あることなし、故(レ)今聖武天皇の、藤原氏を皇后とし給ふこと、うちまかせては、世の人のうけ引がたかるべき事なるが故に、此石之比賣(ノ)命の例を引て、かく詔給ふ也、されば今米豆良可《イマメヅラカ》なる事にはあらずと、ことさらに詔給ふも、實にはいとめづらかなる事なるが故也、さてこゝにかく、此石之比賣(ノ)命の例をしも引給へるを思ふにも、かの書紀の、上つ御代/\に、臣の女を爲2皇后(ト)1とあるは、みな潤色なること、いよいよ決《ウツナ》し、
 
第八詔
 
上なる詔の次につゞきて、既(ニ)而《シテ》中納言從三位阿倍(ノ)朝臣廣庭、更(ニ)宣(テ)v勅(ヲ)曰(ク)と有(リ)、こは上なるとつゞきたる詔なれども、更(ニ)宣と有て、はなれたる故に、今別に學(グ)、此たぐひ、餘も然り、
 
天皇詔旨今勅御事法者常事 爾波 不有武都事 止 思坐故猶在 倍伎 物 爾 有 禮夜止 思行 之弖 大御物賜 久止 宣《スメラガオホミコトラマトイマノリタマヘルミコトノリハツネノコトニアラズムツゴトトオモホシマスガユヱニナホアルベキモノニアレヤトオモホシメシオホミモノタマハクトノル》。
 
御事法は、上件の詔のこと也、事法と書るは、借字にて御言詔《ミコトノリ》の意也、さてみことのりといふこと、これに正しく見えたり、
〇常(ノ)事 爾波 不v有は、尋常の詔とは、異なるよし也、
〇武都事は、親《ムツマ》しく語る言也、今皇后を立給ふにつきて、かく細《クハシ》き事の状を、詔《ノリ》聞せ給ふは、よのつねの例の事にはあらず、殊に汝等を親しみて、語り閲せ給ふぞと也、そも/\此言は、古今集俳諧に、むつごともまだつきなくに明ぬめり、といへるを始めて、後の歌に、男女閨(ノ)内にて語ふことをいふを思へば、こゝも、臣の女を皇后にし給ふことは、尋常ならざる事なる故に、親王諸王諸臣の思はむことを、憚りおぼしめして、件の詔は、ひそかに内々に告語るべき事ぞ、との意かとも思へど、然にはあらず、
〇猶在 倍伎、猶は借字にて、黙止《ナホ》也、十五詔にも、猶止事不得爲 天《ナホヤムコトエズシテ》と有、又廿五詔に、黙在 牟止 爲《ス》 禮止毛、止家不得《ヤムコトエズ》、四十二詔に、黙在 去止 不得《ナホアルコトエズ》 之天、これらの黙も、こゝに效《ナラ》ひて、奈保《ナホ》と、訓べく、又こゝの猶も、黙の意なることをも、相照して知べし、伊勢物語に、宮づかへのはじめに、たゞなほやは有べき、源氏物語花宴卷に、なほあらじに云々、又万葉に、黙然《モダ》といふこと、卷々に多かる中に、七の卷に、黙然不有跡《モダアラジト》云々といふ歌を、かの花宴卷の河海抄に引れたるには、なほあらじとと有(リ)、昔は然訓たりけむ、黙然は、十七に、母太毛安良牟《モダモアラム》と、假字書(キ)あれば、母太《モダ》と訓べきことは、論なけれど、那保《ナホ》と訓むも、意はたがはずなほあるも、もだあるも、何ともせずて、たゞにある也、
〇有 禮夜止は、あらめやといふと同意也、本に、禮夜止を、 禮止夜と作《カケ》るは、横に讀(ミ)行(ク)例を以て書るにて、此格ところどころに有(リ)、誤(リ)にはあらず、然れどもさてはまぎらはしければ、今は皆よのつねのごと改め書つ、
〇大御物ほ、他の詔に、御物ともある、同じことにて、禄を給ふ也、即(チ)此次に、賜2親王(ニ)※[糸+施の旁]三百疋、大納言(ニ)二百疋、云々、五位(ニ)一十疋(ヲ)1、とある是なり、四十六詔に、御物給《オホミモノタマ》 波久止 宣(ル)と有て、次に、賜v禄(ヲ)有v差としるせり、
 
第九詔
 
十五の卷に、天平十五年五月癸卯、宴2群臣(ヲ)於内裏(ニ)1、皇太子親(ラ)※[人偏+舞](ヒタマフ)2五節(ヲ)1、右大臣橘宿禰諸兄、奉(テ)v詔(ヲ)奏2太上天皇(ニ)1曰(ク)と有(リ)、皇太子は、孝謙天皇也、天平十年正月、立(テ)2阿倍(ノ)内親王(ヲ)1爲2皇太子(ト)1、とある是也、同十五年は、廿六歳の御時也、太上天皇は、元正天皇也、五節(ノ)舞の始めは、即(チ)此詔に見えたるを以て、正説とすべし、然るに政事要略に、五節(ノ)舞(ハ)者、淨御原(ノ)天皇(ノ)之所v制也、相傳(ヘ)曰(ク)、天皇御(ス)2吉野宮(ニ)1、日暮(テ)弾v琴(ヲ)、有v興、俄爾(ノ)之間、前岫(ノ)之下(ニ)、雲氣忽(ニ)起(ル)、疑(クハ)如(キ)2高唐(ノ)神女(ノ)1、髣髴(トシテ)應(テ)v曲(ニ)而舞(フ)、獨入(テ)2天矚(ニ)1、他人(ハ)無(シ)v見(ルコト)、擧(ルコト)v袖(ヲ)五變、故(ニ)2之五節(ト)1、其歌(ニ)曰(ク)、乎度綿度茂《ヲトメドモ》、※[災の火が邑]度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多茂度邇麻岐底《タモトニマキテ》、乎度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》と見え、河海抄江次第(ノ)裏書などにも、本朝月令(ニ)云(ク)とて、件の文を引れたり、三善清行の、延喜十四年に奉れる意見封事、請(フ)v減(セムコトヲ)2五節(ノ)舞妓(ノ)員(ヲ)1文の中にも、按(ニ)2舊記(ヲ)1、昔者《ムカシ》神女(ノ)來(リ)舞(ヘル)未(ダ)《ジ》2必(シモ)有2定數1、といふことあれば、これも古き傳説なりかり、然れども此神女の説は、古事記雄略天皇(ノ)段に、天皇|幸2行《イデマセル》吉野(ノ)宮(ニ)1之時(ニ)、吉野川(ノ)之|濱《ホトリニ》、有童女《ヲトメノアヘル》、其《ソレ》形姿美麗《カホヨカリキ》云々、坐(テ)2其(ノ)御呉床《ミアグラニ》1、弾(シテ)2御琴(ヲ)1、令(ム)v爲《セ》v※[人偏+舞]《マヒ》2其(ノ)孃子《ヲトメニ》1、爾《カレ》因(テ)2其(ノ)孃子之|好《ヨク》※[人偏+舞](ヘルニ)1、作御歌《ミウタぎヨミシタマヘル》、其(ノ)歌曰《ミウタ》、阿具良韋能《アグラヰノ》、加微能美弖母知《カミノミテモチ》、比久許登爾《ヒクコトニ》、麻比須流袁美那《マヒスルヲミナ》、登許余爾母如母《トコヨニモカモ》、とあるを取て、造りかへたる物にして、かの乎度綿度茂《ヲトメドモ》云々の歌も、四の句まで、万葉五なる長歌の中の句と、全《モハラ》同じけれは、其《ソ》をとりて、結(ビ)の句を造りそへたる也、さて又公事根源に、天平五年五月に、まさしく内裏にて、五節の舞は有けるとぞ、としるされたるは、こゝの事にて、天平十五年の、十の字の落たるなるべし、されどこれより前《サキ》、天平十四年正月にも、天皇御(シテ)2大安殿(ニ)1宴2群臣(ヲ)1とありて、五節(ノ)舞有しこと見えたり、又此後も、天平勝寶元年十二月、同四年四月など、東大寺行幸の時も、彼寺にて、此舞も有しこと見ゆ、さて此舞、後世には、十一月の節會に限りたる事なれども、もとは然らざりしこと、上件のごとし、
 
天皇大命 爾 坐 西 奏賜 久 掛 母 畏 伎 飛鳥淨御原宮 爾 大八洲所知 志 聖 乃 天皇命天下 乎 治賜 比 平賜 比弖 所思坐 久 上下 乎 齊 倍 和 氣弖 无動 久 靜 加爾 令有 爾波 禮 等 樂 等 二 都 並 弖志 平 欠 長 久 可有 登 隨神 母 所思坐 弖 此 乃 舞 乎 始賜 比 造賜 比伎等 聞食 弖 與天地共 爾 絶事無 久 彌繼 爾 受賜 波利 行 牟 物 等之弖 皇太子斯王 爾 學 志 頂令荷 弖 我皇天皇大前 爾 貢事 乎 奏《スメラガオホミコトニマセマヲシタマハクカケマクモカシコキアスカノキヨミバラノミヤニオホヤシマクニシロシメシシヒジリノスメラミコトアメノシタヲヲサメタマヒタヒラゲタマヒテオモホシマサクカミシモヲトトノヘヤハラゲテウゴキナクシヅカニアラシムルニハライトガクトフタツナラベテシタヒラケクナガクアルベシトカムナガラモオモホシマシテコノマヒヲハジメタマヒツクリタマヒキトキコシメシテアメツチトトモニタユルコトナクイヤツギニウケタマハリユカムモノトシテヒツギノミココノミコニナラハシイタダキモタシメテワガオホキミスメラミコトノオホマヘニタテマツルコトヲマヲス》。
 
大命 爾 坐 西、西(ノ)字、印本には而と作《カケ》れども、餘の本どもには、西と有(リ)、此言の事、第三詔に委くいへるが如し、
〇奏賜 久は、太上天皇に申給ふ也、
〇淨御原(ノ)宮、印本に淨の下に見(ノ)字あるは衍也、今は無き本に依、
〇上下は、君臣也、
〇齊、本に、齋に誤れり、
〇和 氣弖、すべてやはらかやはらぐといふは、物の一つに和合すること也、俗言にいふ意にはあらず、催馬樂(ノ)貫川(ノ)歌に、也汲良加爾奴留與波名久天《ヤハラカニヌルヨハナクテ》とあるも、男女一つに合《アヒ》て寐る夜はなくてといへる也、やはらげは、和合せしむる也、やはすともいへり、
〇令有 爾波,波(ノ)字、本共に八《ハ》と作れども、今は一本に依つ、
〇禮 等 樂 等、こはもはら漢國の趣によれることなれば、二つともに、字音に讀べし、もし訓ならば、禮は韋夜《ヰヤ》、樂は宇多麻比《ウタマヒ》と訓べし、和名抄に、雅樂寮(ハ)宇多末比乃豆加佐《ウタマヒノツカサ》とあるこれ樂の訓也、さるは正しくは、阿曾備《アソビ》といふぞ、樂の名なれども、禮樂と並べいふ時などは、あそびとてはいかゞ也、さて禮も樂も、世(ノ)中の萬の事の中の一つにこそあれ、かくとりわきて、此二つをならべて、國を治むるわざの第一として、言痛《コチタ》くさだするは、漢國のこと也、みだれやすく治まりがたき國を治むる、戎國《カラクニ》の王どもこそ、かゝるわざをも頼みて、治むるやうもあらめ、天照大御神の天つ日嗣を受繼《ウケツガ》して、神ながらしろしめす、天皇の御政に、かゝるわざをしも、むねと頼み給ふことは、有べくもおぼえぬを、何事もたゞ、漢をならひ給へる御世の御しわざとてぞかくは有ける、移(シ)v風(ヲ)易(フルハ)v俗(ヲ)莫(シ)v善(キハ)2于樂(ヨリ)1、などいふことも、皇國にしては、さらに用なく、あぢきなきわざ也、樂はたゞあそびの外なきものをや、
〇聞食 弖は、聖武天皇の也、
〇與2天地1共 爾云々 は、此五節(ノ)舞を也、
〇受賜 波利 行 牟云々は、天武天皇の造給へるを、受|被賜《タマハリ》て、御世/\永く傳へ行(ク)べき物として也、牟(ノ)字、印本に宇に誤り、一本には乎に誤れり、今は又一本に依(レ)り、
○斯王、皇太子、此時太上天皇の大前にして舞給へるなれば、此王とさして申給ふ也、
○學 志は、那良波志《ナラハシ》と訓べし、書紀卷々に皆、モノナラフと訓り、古今集に、阿倍(ノ)仲まろを、もろこしに物ならひにつかはしとある、古言也、
〇頂令荷 弖とは、學取《ナラヒトリ》て、有《タモ》たしむる意也、天武天皇の、重くして造り給へる舞なるが故に、尊みてかく詔給ふ也、十一詔に、戴持而、十四詔に、食國 乃 政 乎 戴持而、續後紀一の詔に、戴(キ)荷《モ》 知などあり、一本に、頂(ノ)字を順に、令(ノ)字を命に誤れり、
〇我皇、天皇は、太上天皇を申給ふ也、
〇大前、大(ノ)字、本に太と作るは、非也、今改、
〇貢(ル)とは、大前にて舞《マハ》しめて、御覽ぜさするをいふ、
 
第十詔
 
上件の詔につゞきて、於是太上天皇詔報曰とあり、
 
現神御大八洲我子天皇 乃 掛 母 畏 伎 天皇朝廷 乃 始賜 比 造賜 弊留 寶國寶 等之弖 此王 乎 令供奉賜 波 天下 爾 立賜 比 行賜 部流 法 波 可絶 伎 事 波 無 久 有 家利止 見聞喜侍 止 奏賜 等 詔大命 乎 奏《アキツミカミトオホヤシマクニシロシメスアガコスメラミコトノカケマクモカシコキスメラガミカドノハジメタマヒツクリタマヘルマヒヲクニノタカラトシテコノミコヲツカヘマツラシメタマヘバアメノシタニタテタマヒオコナヒタマヘルノリハタユベキコトハナクアリケリトミキキヨロコビハヘリトマヲシタマフトノリタマフオホミコトヲマヲス》。又今日行賜 布 態 乎 見行 波 直遊 止乃味爾波 不在 之弖 天下人 爾 君臣祖子 乃 理 乎 教賜 比 趣賜 布止爾 有 良志止奈母 所思 須《マタケフオコナヒタマフワザヲミソナハセバタダニアソビトノミニハアラズシテアメノシタノヒトニキミヤツコオヤコノコトワリヲヲシヘタマヒオモプケタマフトニアルラシトナモオモホシメス》。是以教賜 比 趣賜 比奈何良 受被賜持 弖 不忘不失可有 伎 表 等之弖 一二人 乎 治賜 波奈止那毛 思行 須等 奏賜 止 詔大命 乎 奏賜 波久止 奏《ココヲモテヲシヘタマヒオモブケタマヒナガラウケタマハリモチテワスレズウシナハズアルベキシルシトシテヒトリフタリヲヲサメタマハナトナモオモホシメストマヲシタマフトノリタマフオホミコトヲマヲシタマハクトマヲス》。
 
我子天皇とは、聖武天皇を申給ふ也、
〇天皇朝廷とは、こゝは天武天皇を申給ふ也、そも/\直《タダ》に天皇を指(シ)奉(リ)て、みかどと申すは、後のことのやうなれども、はやく奈良のほどより有しこと也、こゝも、始(メ)賜とつゞきたれば、朝廷とは、即(チ)天皇をさして申給へる也、廿六詔に、聖(ノ)天皇朝《スメラガミカド》云々、四十五詔に、天 乃 御門|帝皇 我《スメラガ》云々など見え、萬葉廿に、可之故伎也安米乃美加度乎可氣都體婆《カシコキヤアメノミカドヲカケツレバ》、とよめるなども、皆然也、されば書紀に、天子皇帝王などあるを、ミカドと訓るも、わろしとはいひがたし、今(ノ)京となりては、後紀、弘仁元年九月(ノ)詔に、柏原(ノ)大朝廷 爾 申賜 閇止 申 久、これは大は、天を寫誤れるか、續後紀一の詔に、柏原(ノ)御門 乃 天朝、とあるはいかゞ也、同八に、掛畏 支 天(ノ)朝 乃 護賜 比云々、三代實録八に、天皇 我 朝廷 乃、天(ツ)日嗣 乃 位 爾 平安 爾 御座 之、又御冠加(ヘ)賜 比、人 止 成 利 賜 布 事 波云々など、みな天皇をみかどと申せり、
〇寶國寶、上の寶字は寫誤なるべし、此舞 乎、もしくは舞 乎、など有べき所也、故(レ)姑(ク)まひをと訓つ、
〇此王 乎は、皇太子也、乎《ヲ》は、をしての意也、
〇令供奉は、舞(ハ)しめ給ふをいふ、これも此舞を尊みて、かくは詔給ふ也、
〇天下 爾 立賜云々は、立(テ)賜 比行賜 部流 天下 乃 法 波、といふ意也、
〇無 久 有 家利は、なかりけり也、天武天皇の、上下を齊へ和げて、長く平(ラカ)にあるべくとおぼしめして、造(リ)給へるこの舞を、國の寶とおぼしめして、今皇太子に舞しめ給ふを以て見れば、すべて立(テ)給ひ行(ヒ)給ふ、天下の法は、永く絶ることなく、行はるべしとおぼしめすよしなり、〇見聞は、舞を見給ひ、其歌を聞給ひ也、
〇侍《ハヘリ》とは、天皇へ申給ふ詔なる故に、かなたへ對ひて、尊みての言也、此|侍《ハヘリ》などは、後の文に、言の下に付ていふ侍に、いと近し、
〇奏賜は、太上天皇の、天皇に申給ふ也、
〇詔(フ)大命 乎 奏(ス)とは、傳ふる人の詞にて、太上天皇の、云々と申給ふ大命を、天皇へ奏(ス)といふなり、
〇又今日といふより、又太上天皇の詔也、
〇見行 波は、太上天皇の、御みづから詔給ふ也、
〇直(ニ)遊(ビ) 止乃味爾波不v在、古(ヘ)はすべて樂を遊びといひ、樂をするを、遊ぶといへり、然るに今日五節(ノ)舞を舞(ハ)しめ給ふを見れば、たゞ遊びのためのみにはあらずと也、直(ノ)字、一本に宜に誤り、遊(ノ)字、印本に迹に誤れり、今は皆別本に依れり、
〇君臣は、伎美夜都古《キミヤツコ》と訓べし、凡て君に對へていふ臣は、みなやつこと訓べき也、書紀にも、皆然訓たり、やつこといふは、賤き者のみの稱にはあらず、君に對へては、凡人《タダビト》をば、貴きをも皆やつこといへり、國(ノ)造伴(ノ)造なども、國(ノ)御臣《ミヤツコ》伴(ノ)御臣《ミヤツコ》也、但し天皇に對へても、王《オホキミ》をばやつことはいはず、されどこゝは、さるけぢめまでをいふべきにはあらず、たゞ漢國にいふ君臣也、皇太子親王諸王などの文に、みづから臣と書(キ)給ふなども、漢やう也、さて臣をおみといふは、朝廷に仕奉る人を、尊みていふ稱也、
〇祖子は、親子也、親を祖と書(ク)は、古(ヘ)の常也、こゝは君臣父子と、漢籍に常にいへる言に依て、詔給へる也、そもそも樂を以て、君臣父子の義を教るなどいふことも、漢意のさだ也、皇國の古(ヘ)には、さることかつてなし、
〇趣賜 布止爾、一本に、趣字を起に、布(ノ)字を而に誤れり、止(ノ)字、一本には等と作《カケ》り、
〇趣賜 比奈何良は、趣け給ふまゝになり、
。受被賜持 弖云々は、王臣百官公民もろ/\、君臣祖子のことわりを也、
〇治賜 波奈、万葉十七に、米具美多麻波奈《メグミタマハナ》、佛足石歌に、和多志多麻波奈《ワタシタマハナ》、また須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》などある、これ万葉五に、※[口+羊]佐宜多感波禰《メサゲタマハネ》とあると同じくて、禰《ネ》と奈《ナ》と通はしいふ也、されば此|奈《ナ》は、禰《ネ》と同じくて、願ふ辭也、然るを奈牟《ナム》の略と心得るは、あらず、牟《ム》を略くべきよしなし、又|牟《ム》を奈《ナ》といふこと有、行むをゆかなといふ類也、されどこれはそれにもあらず、思ひまがふることなかれ、さて治め給はなとおもほしめすとは、治め給へかしと、願ひおぼしめすよし也、さて然おぼしめし願ふことを、今の天皇に告(ゲ)申給ふ也、
〇此詔につゞきて、因(テ)御製歌曰とて、大御歌三首あり、みな太上天皇の御也、その御歌、
 
蘇良美都夜麻止乃久爾波可未可良斯多布度久安流羅之許能末比美例波《ソラミツヤマトノクニハカミカラシタフトクアルラシコノマヒミレバ》。
 
御歌の意、今此舞を見れば、倭の國の、かくたふときは、神からにて有けらしと也、倭は、皇國の大名の倭也、神からとは、昔の天皇を申給へるにて、天武天皇をさし奉り給へるなるべし、かゝるめでたき舞を、はじめ造り給ふばかりの、大穂まします天皇の、しろしめせるによりてこそ、倭の國は、かくたふときならめと也、
  
阿麻豆可未美麻乃彌己止乃登理母知弖許能等與美岐遠《アマツカミマノミコトノトリモチテコノトヨミキヲ》伊可|多弖末都流《タテマツル》。
 
此御歌の意は、さま/”\に聞えて、思ひさだめがたければ、いづれをもあぐ、其一つは、初二の御句は、天(ツ)神(ノ)之御孫(ノ)命にて、天皇をさして申給ひ、二の御句の下の乃(ノ)字は、爾《ニ》の誤り、結(ノ)御句の可(ノ)字は、諸本に寸と作《カケ》るを、今は政事要略、又年中行事秘抄などに、可と作《ア》るに依れるを、それもなほ聞えがたければ、末《マ》を誤れるにて、今《イマ》歟、はた伊(ノ)字、阿の誤(リ)にて、朕《アガ》歟、かくて一首の意は、此豐御酒を、朕《ア》がとりもちて、天皇に獻るとよみ給へるにや、一つは、たてまつるとは、きこしめすをのたまへるにて、天皇の、今此豐御酒をとりもたして、きこしめすとよみ給へるか、中昔の物語書などに、貴人の御衣を着《キ》給へることを、某を奉れりと常にいへれば、御酒などをきこしめすをも、たてまつるといふべき也、次なる御歌の麻都流《マツル》も、きこしめすことと聞えたり、一つは、古事記、神功皇后の大御歌に、此御酒は、わが御酒ならず、くしの神、とこよにいます、岩たゝす、少名御神の、云々、奉《マツ》り來《コ》し御酒ぞ、あさずをせさゝ、とよみ給へると同意にて、天(ツ)神|及《マタ》昔の御世/\の天皇たちの、此豐御酒をとりもちて、今天皇に獻り給ふ也と、壽祝《ホキ》申給へる歟、此意なれば、天(ツ)神と御孫(ノ)命とは、二つにて、御孫(ノ)命とは、御世/\の天皇を申給へる也、件の三つの中、いづれの意ならむ、後のかしこき人のえらびを待(ツ)也、さて凡て御孫命をば、みまのみことと訓奉るべきこと、此御歌に正《マサ》しく見えたり、さて又三四の御句は、何れの意にても、四三とついでて心得べし、彌(ノ)字、本に禰に誤れり、今は一本に依(ル)、
 
夜須美斯志和己於保支美波多比良氣久那何久伊末之弖等與美岐麻都流《ヤスミシシワゴオホキミハタヒラケクナガクイマシテトヨミキマツル》。
 
夜須美斯志は、師の冠辭考の説の如く、安見爲《ヤスミシシ》也、見《ミ》を美斯《ミシ》といふは、知《シリ》をしろし、聞《キキ》をきこしといふ類の格也、下の志《シ》は爲《シ》也、万葉十九に、國看之勢志弖《クニミシセシテ》とも、豐宴見爲《トヨノアカリミシセス》とも有(リ)、さて爲《シ》の意ならば、やすみしすといふべきに、すといはずして、しといふは、枕詞の格にて、霰ふり遠(ツ)江、いさなとり海などの例也、これらも、ふるとるとはいはず、さて冠辭考に、斯志《シシ》を知《シ》しと解《トカ》れたるは、たがへり、印本に、志(ノ)字を留《ル》と作《カケ》るは、後人のさかしら也、今は一本又年中行事秘抄に引るに依れり、此言の例皆ししにて、しるといへるは、例なければ也、
〇和己は、吾《ワガ》也、此(ノ)吾、古事記書紀の歌には、みな和賀《ワガ》とのみ有て、わごといへることはなきを、万葉(ノ)歌には、多く和期《ワゴ》と有、こは吾大《ワガオホ》とつゞく便(リ)に、賀於《ガオ》の切《ツヅマ》りて、おのづから期《ゴ》となれる也、故(レ)こは、吾大王《ワガオホキミ》とつゞく時にのみ限れる事にて、外に吾某《ワガナニ》といふに、わごといへることはなし、さてこゝの吾大王は、聖武天皇を申給ふなり、
〇麻都流は、奉(ル)にて、きこしめすことと聞えたり、もと奉(ル)は、他より獻るをいふ言なれども、それ即(チ)きこしめす事にもなれるなるべし、さてこゝは結《トヂメ》の流《ル》、穩ならず聞えて、禮《レ》と有べくおぼゆ、流《ル》にては、四の御句と、かけ合(ヒ)いかゞなるやうなるを、なほかくもいふべきにや、
 
第十一詔
 
上件の御歌につゞきて、右大臣橘(ノ)宿禰諸兄、宣(テ)v詔(ヲ)曰(ク)とあり、こは聖武天皇の詔なり、
 
天皇大命 良麻等 勅 久 今日行賜 比 供奉賜態 爾 依而御世御世當 弖 供奉 禮留 親王等大臣等 乃 子等 乎 始而可治賜 伎 一二人等選給 比 治給 布《スメラガオホミコトラマトノリタマハクケフオコナヒタマヒツカヘマツリタマフワザニヨリテミヨミヨニアタリテツカヘマツレルミコタチオホオミタチノコドモヲハジメテヲサメタマフベキヒトリフタリドモエラビタマヒヲサメタマフ》。是以汝等 母 今日詔大命 乃期等 君臣祖子 乃 理 遠 忘事無 久 繼坐 牟 天皇御世御世 爾 明淨心 乎 以而祖名 乎 戴持而天地與共 爾 長 久 遠 久 仕奉 禮等之弖 冠位上賜 比 治賜 布等 勅大命衆間食宣《ココヲモテイマシタチモケフノリタマフオホミコトノゴトキミヤツコオヤコノコトワリヲワスルルコトナクツギマサムスメラガミヨミヨニアカキキヨキココロヲモチテオヤノナヲイタダキモチテアメツチトトモニナガクトホクツカヘマツレトシテカガフリクラヰアゲタマヒヲサメタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又皇太子宮 乃 官人 爾 冠一階上賜 布《マタヒツギノミコノミヤノツカサビトニカガフリヒトシナアゲタマフ》。此中博士 等 任賜 部留 下道朝臣眞備 爾波 冠二階上賜 比 治賜 波久等 勅天皇大命衆聞食宣《コノナカニハカセトメシタマヘルシモツミチノアソミマキビニハカガフリフタシナアゲタマヒヲサメタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。
 
今日行賜 比云々、印本に、今日(ノ)二字脱たり、今は一本に依れり、供奉賜態とは、皇太子の、五節舞を、太上天皇の大前にして、仕奉り給へるをいふ、
〇子等は、直《タダ》の子のみならず、末孫《スヱ》までにわたれり、
〇一二人云々、上(ノ)件の太上天皇の詔に、一二人 乎 治賜 波奈止奈母 所思行 須とあるを、受賜はり坐て、治(メ)給ふ也、
○汝等とは、今日の宴に預り侍ふ人々をさして詔給ふ也、上に宴2群臣1と有、
〇今日詔大命は、上なる太上天皇の詔也、
〇繼坐 牟云々は、今よりゆくさきの也、
〇祖(ノ)名は、氏々の、各先祖より仕奉(リ)來たる職業《ワザ》也、十三詔に、男 能未 父(ノ)名負 弖、女 波 伊波禮 奴 物 爾 阿禮 夜、廿八詔に、先祖 乃 大臣 止之天、仕奉 之 位名 乎、繼(ム) 止 思 弖云々、先祖 乃 名 乎、興(シ)繼(ギ)比呂米 武止云々、万葉十八に、祖名不絶《オヤノナタタズ》、また毛能乃敷能《モノノフノ》、夜蘇等母能乎毛《ヤソトモノヲモ》、於能我於敝流《オノガオヘル》、於能我名々負《オノガナナオヒ》、大王乃《オホキミノ》、麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》、廿に、於夜乃名多都奈《オヤノナタツナ》など、みな家の職業を名といへり、猶委くは、古事記傳、允恭天皇(ノ)段、卅九の卷、氏々名々《ウヂウヂナナ》とある處にいへり、
〇戴持は、先祖より承繼來たる職業を、重《オモ》みし、つゝしみて、たもつをいふ、右に引る中に、名を負(フ)といへる、即(チ)戴(キ)持と同じ、戴(ノ)字、本に載に誤れり、今は一本又政事要略に引るなどに依(ル)、
〇天地|與《ト》共 爾云々は、子孫の末々に至るまで、家門を絶《タタ》ず、咎過なく仕奉れと也、
〇仕奉 禮等之弖、上なる太上天皇の詔に、云々不v忘不v失可v有 伎 表 等之弖云々、とある意にて、仕奉れといふ表《シルシ》としてといふ意也、
〇皇太子(ノ)宮 乃 官人は、東宮職員令に見えたるが如し、和名抄に、職員令(ニ)云(ク)、春宮妨、美古乃美夜乃豆加佐《ミコノミヤノツカサ》と有(リ)、さて東宮職員令に、傅と學士とを擧て、次に東宮坊官とて、大夫以下を擧られたり、これによりて、傅と學士とをば、東宮官といひて、東宮坊官とはせず、かくて令には、坊官をも、東宮坊と作《カカ》れたるを、常には、傅と學士とには東宮と書(キ)、坊官にほ春宮と書て分つ、こは後の事かと思へば、はやく持統紀にも、十一年の所に、東宮(ノ)大傅春宮(ノ)大夫と見え、此紀にも、かく書(キ)分られたり、又右の和名抄にも、職員令(ニ)云(ク)とて、春宮妨とあれば、令ももとは然有けむを、後の人さかしらに、東(ノ)字には書なせるにこそ、
〇博士は、波加世《ハカセ》といふ、書紀にも然訓り、こは此字の音を、やがて訓にしたるにて、蘭をらに、錢をせに、芭蕉をはせを、紅梅をこをばいといふ類也、さて下道(ノ)朝臣眞備は、天平十三年七月に、爲2東宮(ノ)學士(ト)1とあるを、こゝに博士とあるは、學士をも、はかせといへりしなるべし、東宮職員令に、傅一人、掌(ル)d以2道徳(ヲ)1輔c導(スルコトヲ)東宮(ヲ)u、學士二人、掌(ル)2執(テ)v經(ヲ)奉説(スルコトヲ)1と有、
〇任は、賣志《メシ》と訓べし、顯宗紀に、拜《メシ》2山(ノ)官(ニ)1、推古紀に、任《メス》2僧正僧都(ヲ)1など有、除目を、司召《ツカサメシ》縣召《アガタメシ》といひ、任大臣を、大臣めしといふ類にても知べし、同じき任(ノ)字にても、ヨサスマケなど訓(ム)は、趣(キ)異なるを、今(ノ)世(ノ)人の、官に任ずるをばみな、マケと訓(ム)をのみ、古言と心得たるは、ひがこと也、
〇下道(ノ)朝臣眞備は、寶亀六年十月二日、前(ノ)右大臣正二位勲二等吉備(ノ)朝臣眞備薨とありて、そこに傳あり、右衛士(ノ)少尉下道(ノ)朝臣國勝(ガ)之子也、靈龜二年、年廿二、從(テ)v使(ニ)入v唐(ニ)、留學、受v業(ヲ)、研2覽(シ)經史(ヲ)1、該2渉(ス)衆藝(ニ)1、我朝(ノ)學生(ノ)、播(ス)2名(ヲ)唐國(ニ)1者(ハ)、唯大臣(ト)朝衡(ト)二人而已云々、姓を吉備(ノ)朝臣と賜へるは、天平十八年十月なり、薨時年八十三とあり、眞備は、マキビと訓べし、此名の事、玉勝間からあゐの卷にいへり、
○冠二階上賜、此次に除位を記せる中に、此人は、正五位下なりしに、從四位下を授給ふと見えたり、
 
第十二詔
 
十七の卷に、天平勝寶元年夏四月甲午朔、天皇幸2東大寺(ニ)1、御(シ)2盧舍那佛像(ノ)前殿(ニ)1、北面(シテ)對v像(ニ)、皇后太子並(ニ)侍焉、群臣百寮、及士庶、分頭(シテ)行2列(ス)殿(ノ)後(ニ)1、勅(シテ)遣(シテ)2左大臣橘(ノ)宿禰諸兄(ヲ)1白(サシム)v佛(ニ)とあり、
 
〔三寶 乃 奴 止 仕奉 流〕天皇 羅我 命盧舍那像 能 大前 仁 奏賜 部止 奏 久 此大倭國者天地開闢以来 爾 黄金 波 人國 用理 獻言 波 有 登毛 斯地者無物 止 念 部流仁 聞看食國中 能 東方陸奥國守從五位上百濟王敬福 伊 部内少田郡 仁 黄金 〔出〕在奏 弖 獻《スメラガオホミコトラマトルサナノミカタノオホマヘニマヲシタマフトマヲサクコノオホヤマトノクニハァメツチノハジメヨリコナタニクガネハヒトクニヨリタテマツルコトハアレドモコノクニニハナキモノトオモヘルニキコシメスヲスクニノウチノヒムカシノカタミチノクノクニノカミヒロキイツツノクラヰノカミツシナクダラノコニキシキヤウフクイクニノウチヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此 遠 聞食驚 伎 悦 備 貴 備 念 久波 盧舍那佛 乃 慈賜 比 福 波 賜物 爾 有 止 念 閇 受賜 里 恐 理 戴持百官 乃 人等率 天 體拜仕奉事 遠 挂畏三寶 乃 大前 爾 恐 美 恐 美毛 奏賜 波久止 奏《コヲキコシメシオドロキヨロコビタフトビオモホサクハルサナホトケノメグミタマヒサキハヘタマフモノニアリトオモヘウケタマハリカシコマリイタダキモチモモノツカサノヒトドモヲヒキヰテヲロガミツカヘマツルコトヲカケマクモカシコキホトケノオホマヘニカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》。
 
三寶とは、佛書に、佛と法と僧との三(ツ)をいへり、然れどもこゝはたゞ佛也、下文に、三寶 乃 大前 爾とも、三寶 乃 勝(レテ)神《アヤシ》 枳 大御言とも見え、又卅八詔に、三寶 仁 供奉(リ)、四十二詔に、三寶 毛 諸天 毛、などあるも同じ、推古紀にも、三寶をホトケと訓たり、又天武紀に、云々天皇御(テ)2寺(ノ)南門(ニ)1、而禮2三寶(ヲ)1、また奉2珍賓(ヲ)於三賓(ニ)1、などあるも、たゞ佛を三寶といへり、
〇奴 止 仕奉 流、そも/\此天皇の、殊に佛法を深く信じ尊み給ひし御事は、申すもさらなる中に、これらの御言は、天神の御子(ノ)尊の、かけても詔給ふべき御言とはおぼえず、あまりにあさましくかなしくて、讀(ミ)擧るも、いとゆゝしく畏《カシコ》ければ、今は訓を闕《カキ》ぬ、心あらむ人は、此はじめの八字をば、目をふたぎて過すべくなむ、
〇盧舍那は、梵語にて、漢國にては、光明遍照とも、淨滿とも飜譯せり、また毘盧遮那《ビルシヤナ》は、※[行人偏+扁]一切處と譯して、此二つ共に、なべての佛のうへにいふこと也、又|摩訶毘盧遮那《マカビルシヤナ》は、大日と飜譯せり、然るに皇國にて古(ヘ)盧舍那といひしは、件の義どもにはあらず、いかなる故にか、たゞ大きなる佛像をいへりと聞えたり、十五詔に見えたる、河内國の智識寺の盧舍那佛といふも、大像と聞えて、三代實録十二に、河内守菅野(ノ)豐持を、智識寺の佛像を修理する別當とせられし事見えたり、大像にあらずは、さる事あらじ、そも/\大佛像をしも、わきて盧舍那といへるは、心得がたきこと也、又盧舍那と毘盧舍那とは、別《コト》事と聞えたるに、此東大寺の大佛を、文徳實録三代實録などには、大毘盧舍那佛とも毘盧舍那大佛とも記されたり、これによりて思へば、此大佛は、大日かと思へば、さも見えぬさま也、そのかみいまだ密教は渡りまうで來ざりし御世なれば、大日なるべきにあらず、元亨釋書などに、日輪を附會して、大日佛のごとくいへるは、いと心得ぬこと也、或は釋迦なりといふは、さも有べし、然れども盧舍那といふは、釋迦一佛の名にはあらず、又釋迦の名としていへるにもあらず、かにかくに大きなる佛像の名としていへりとこそ聞ゆれ、さて此東大寺の大像、長(ケ)十六丈、殿(ノ)高(サ)廿五丈六尺、東西廿九丈、南北十七丈と、或書にいへる、此量みな疑ひ有、さて又此像は、此時既に成(リ)訖(リ)たるさまなるに、此後天平勝寶四年四月、盧舍那大佛像成(テ)、始(メテ)開眼、是日行2幸東大寺(ニ)1云々、とあるはいかゞ、かれは此十二詔の時の事なるが、記のまがひたるにはあらざるか、月も共に同じ四月也、此元年に既に成れるさまなるに、四年まで開眼なかるべきにあらず、
〇奏賜 部止 奏 久は、天皇の申給ふと申す也、天皇の詔給ふを、奏(シ)賜(フ)とのたまふは、佛を尊み給ひて也、さて部(ノ)字は、多くはへの假字に用ひて、此下文に用ひたるも、へなれば、こゝもへ歟とも思へど、なほこゝはふの假字也、此字、十三詔にも、ふに用ひたる例ある也、ふとへとにて、こゝの言の意、うらうへの異《カハリ》あり、ふなれば、奏(シ)賜(フ)は天皇の申給ふにて、下の奏 久は、傳ふる人の申さくなるを、部をへとする時は、奏(シ)賜(ヘ)は、申給へと、傳ふる人に詔ふ御言となりて、下の奏 久が、天皇の申給ふになる也、さては事たがへり、結《トヂメ》の、奏賜 波久止 奏(ス)も、同例にて、天皇の奏(シ)賜ふと、傳ふる人の奏すよしなるをや、
〇開闢は、はじめと訓べし、
〇黄金は、万葉十八に、久我禰《クガネ》とあるに依て訓つ、和名抄には、古加禰《コガネ》と有て、常にも然いふを、古(ヘ)はくがねといへりしにこそ、
〇人國は、異國なり、万葉十五に比等久爾《ヒトクニ》、
〇獻言 波、言は、借字にて、たゞ添(ヘ)たる辭なり、
〇從五位上、和名抄に、正四位上(ハ)、於保伊與豆乃久良井乃加美豆之奈《オホイヨツノクラヰノカミツシナ》、從八位下(ハ)、比呂伊夜豆乃久良井乃之毛豆之奈《ヒロイヤツノクラヰノシモツシナ》と有(リ)、すべての位階、これにならひて訓べし、但し於保伊比呂伊《オホイヒロイ》の伊《イ》は、後の音便に頽《クヅ》れたる訓也、共に伎《キ》と訓べし、古今集序に、おほきみつの位とあるぞ正しき、
〇百濟王敬福、百濟《ウダラ》は姓《ウヂ》、王《コニキシ》は尸《カバネ》、敬福は名也、天平神護二年六月、刑部卿從三位百濟(ノ)王敬福薨と有て、そこに傳あり、云々、天平年中、仕(ヘテ)至2從五位上陸奥守(ニ)1、時(ニ)聖武皇帝、造2盧舍那銅像(ヲ)1、冶鑄云畢(テ)、塗金不v足、而(ルニ)陸奥(ノ)國馳(テ)v驛(ヲ)、貢2小田(ノ)郡所(ノ)v出、黄金九百兩(ヲ)1、我(ガ)國家黄金、從(リ)v此始(テ)出(ヅ)焉、聖武皇帝甚以(テ)嘉尚(シテ)、授2從三位(ヲ)1、云々、神護(ノ)初(メ)、
任2刑部卿(ニ)1、薨時年六十九と有(リ)、陸奥(ノ)守になれるは、天平十八年九月也、然るをそれより先(キ)、十五年六月の處にも、爲2陸奥(ノ)守(ト)1とあるは、紀の誤也、二度なれるにはあらず、さて此百濟氏は、敬福卿の曾祖父禅廣、參來《マヰキ》て皇朝に仕奉て、百濟(ノ)王といふ舊號を賜ひてより、それ即(チ)姓尸《ウヂカバネ》となれる也、王は、許爾伎志《コニキシ》又|許伎志《コキシ》と訓べし、これをしもオホキミと訓(ム)は、いみしきひがこと也、又敬福は音讀也、異國人の子孫には、字音の名多し、
〇部内は、孝徳紀には、クニと訓れども、天武紀に、所部《クニノウチノ》百姓とあるに依て、くにのうちと訓つ、敬福の治むる國の内也、
○黄金出在、諸本に出(ノ)字脱たり、今補へり、十三詔にも、小田(ノ)郡 爾 黄金|出在《イデタリ》 止 奏 弖と有(リ)、出たりのたりは、てありの切《ツヅマ》りたる辭なるが故に、在(ノ)字を書(ク)也、さて此黄金の出たる事は、天平廿一年二月、陸奥(ノ)國始(メテ)貢(ル)2黄金(ヲ)1、於是奉(テ)v幣(ヲ)以告2畿内七道(ノ)諸社(ニ)1、とある是也、かくて同四月丁未に、天平感寶と改元有しも、此黄金の出たるによりて也、さて同月乙卯、陸奥守從三位百濟王敬福、貢(ル)2黄金九百兩1とあるは、始めて貢りたる後に、又貢りたるにや、これは此詔より後の事也、万葉十八に、大伴家持の、賀2陸奥(ノ)國(ヨリ)出(セル)v金(ヲ)詔書(ヲ)1長歌あり、此度の事也、其歌に、鷄鳴東國能美知能久乃小田在山爾金有等麻宇之多麻敝禮《トリガナクアヅマノクニノミチノクノヲダナルヤマニクガネアリトマウシタマヘレ》云々、同反歌に、須賣呂伎能御代佐可延牟等阿頭麻奈流美知能久夜麻爾金花佐久《スメロギノミヨサカエムトアヅマナルミチノクヤマニクガネハナサク》、そも/\黄金の事、これよりさき文武天皇の御世、大寶元年にも、陸奥國に人を遣はして、冶(ハ)v金(ヲ)しむる事見えたれども、成らざりしなるべし、又同年、對馬より出せる事も見えたれど、そは詐欺なりしよし見えたり、さて此天平廿一年の後は、つゞきて出たりと見えて、勝寶四年二月、陸奥(ノ)國(ノ)調庸(ハ)者、多賀以北(ノ)渚郡(ハ)、令(ム)v輸2黄金(ヲ)1、其法、正丁四人一兩と有(リ)、
〇物 爾 有(リ)は、ものなり也、
〇念 閇は、念 閇婆と、いふべきを、婆《バ》を省きていはざる古語の一(ツ)の格也、十四詔に、不敢賜有 禮《アヘタマハズアレ》云々、また負賜 閇《オホセタマヘ》云々、廿六詔に、所念坐 世《オモホシマセ》云々、などあるも、みな同格にて、あれば賜へばませばの意也、此格、万葉(ノ)卷々の長歌にも多かり、
〇受賜(ハ) 里は、盧舍那佛の授(ケ)賜へる此黄金を、受て被《ハリ》v賜《タマ》給ふよし也、
〇恐(マ) 理は、恐 美《カシコミ》といふと同じくて、美《ミ》より少し重く聞ゆ、他詔にも、恐 麻利と多く有(リ)、すべて美《ミ》とも麻理《マリ》ともいふ言、屈《カガ》みかゞまり、縮《シジ》みしゞまりなど、猶有(リ)、
〇禮拜仕奉は、今日かく參詣坐《マヰデマシ》てなり、
〇恐 美 恐 美毛は、諸本、字を誤り或は脱せり、印本には、恐 毛 无 久と作《カキ》、一本には、恐 毛 无 毛と作、一本には、恐 毛 恐 无毛と作る、皆誤也、まづ恐 毛の毛は、誤(リ)なること論なし、次に无 久と作《カキ》、无 毛と作《カケ》るは、恐(ノ)字を脱して、細書の无を、大字に誤りたる也、また恐 无毛と作るは、今(ノ)京となりてこなたの宣命には、恐 无 恐 无毛《カシコムカシコムモ》ともある、そは美《ミ》を、例の音便に无《ム》といひなせるにて、後の正しからざる辭なるを、その音便辭になれたる後の人の、こゝをも、无毛とは寫誤れる物なるべし、十五詔に、恐 美 恐 美毛申賜 久とあるをも、類聚國史には、二(ツ)の美《ミ》を、共に无《ム》と作るを以ても、その誤れる例を准へ知べし、此紀の詔には、无毛《ムモ》といへる例なし、恐 美 恐 美毛といふことは、出雲國造神賀詞、齋内親王奉入時祝詞などを始め、其外も多く見えて、定まれる語なる故に、今は改め正しつ、
 
第十三詔
 
上(ノ)件の詔につゞきて、從三位中務卿石上朝臣乙麻呂宣と有(リ)、上なるは、佛像に詔給へる也、此詔は、此時に、群臣百寮及士庶、分頭行2列(ス)殿(ノ)後(ニ)1。とあるもろ/\の人に、宣《ノリ》聞しむる詔也、
 
現神御宇倭根子天皇詔旨宣大命親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣《アキツミカミトアメノシタシロシメスヤマトネコスメラガオホミコトラマトノリタマフオホミコトヲミコタチオホキミタチオミタチモモノツカサノヒトタチアメノシタノオホミタカラモロモロキコシメサヘトノル》。高天原 尓 天降坐 之 天皇御世 乎 始 天 中今 爾 至 麻弖爾 天皇御世御世天日嗣高御座 尓 坐 弖 治賜 比 惠賜來 流 食國天下 乃 業 止奈母 神奈我良 母 所念行 久止 宣大命衆間食宣《タカマノハラユリアモリマシシスメラガミヨヲハジメテナカイマニイタルマデニスメラガミヨミヨアマツヒツギトタカミクラニマシテヲサメタマヒメグビタマヒクルヲスクニアメノシタノワザトナモカムナガラモオモホシメサクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。加久治賜 比 惠賜來 流 天日嗣 乃 業 止 今皇族御世 爾 當 弖 坐者天地 乃 心 遠 勞 彌 重 彌 辱 美 恐 美 坐 爾 聞食食國 乃 東方陸奥國 乃 小田郡 爾 金出在 止 奏 弖 進 禮利《カクヲサメタマヒメグビタマヒクルアマツヒツギノワザトイマスメラワガミヨニアタリテマセバアメツチノココロヲイトホシミイカシミカタジケナミカシコミイマスニキコシメスヲスクニノヒムカシノカタミチノクノクニノヲダノコホリニクガネイデタリトマヲシテタテマツレリ》。此 遠 所念 波 種種法中 爾波 佛大御言 之 國家護 我多仁 波 勝在 止 聞召食國天下 乃 諸國 爾 最勝王經 乎 坐盧舍那佛化奉 止 爲 弖 天坐神地坐神 乎 祈祷奉挂畏遠我皇天皇御世治 弖 拜仕奉 利 衆人 乎 伊謝 奈比 率 弖 仕奉心 波 禍息 弖 善成危變 弖 全平 牟等 念 弖 仕奉間 爾 衆人 波 不成 ※[加/可]登 疑朕 波 金少 牟止 念憂 都都 在 爾 三寶 乃 勝神 枳 大御言驗 乎 蒙 利 天坐神地坐神 乃 相宇豆 奈比 奉佐枳 波倍 奉 利 又天皇御霊 多知乃 惠賜 比 撫賜 夫 事依 弖 顯 自 示給 夫 物在 自等 念召 波 受賜 利 歡受賜 利 貴進 母 不知退 母 不知夜日畏恐 麻利 所念 波 天下 遠 撫惠 備 賜事理 爾 坐君 乃 御代 爾 當 弖 可在物 乎 拙 久 多豆何 奈伎 朕時 爾 顧 自 示給 禮波 辱 美 愧 美奈母 念須《コヲオモホセバクサグサノノリノナカニハホトケノオホミコトシミカドマモルガタニハスグレタリトキコシメシテヲスクニアメノシタノクニグニニサイソウワウキヤウヲマセルサナホトケツクリマツルトシテアメニマスカミクニニマスカミヲイノリマツリカケマクモカシコキトホスメロギヲハジメテミヨミヨノスメラガミタマタチヲヲロガミツカヘマツリモロヒトヲイサナヒヒキヰテツクリマツルココロハワザハヒヤミテヨクナリアヤフキカハリテマタクタヒラガムトオモホシテツカヘマツルアヒダニモロヒトハナラジカトウタガヒワレハクガネスクナケムトオモホシウレヒツツアルニホトケノスグレテアヤシキオホミコトノシルシヲカガフリアメニマスカミクニニマスカミノアヒウヅナヒマツリサキハヘマツリマタスメロギノミタマタチノメグビタマヒナデタマフコトニヨリテアラハシシメタマフモノナラシトオモホシメセバウケタマハリヨロコビウケタマハリタフトビススムモシラニシゾクモシラニヨルヒルカシコマリオモホセバアメノシタヲナデメグビタマフコトコトワリニイマスキミノミヨニアタリテアルベキモノヲヲヂナクタヅガナキワガトキニアラハシシメシタマヘレバカタジケナミハヅカシミナモオモホス》。是以朕一人 夜波 貴大瑞 乎 受賜 牟《ココヲモテアレヒトリヤハタフトキオホキシルシヲウケタマハラム》。天下共頂受賜 利 歡 流自 理可在 等 神奈我良 母 念坐 弖奈母 衆 乎 惠賜 比 治賜 比 御代年號 爾 字加賜 久止 宣天皇大命衆聞食宣《アメノシタトモニイタダキウケタマハリヨロコバシムルコトワリナルベシトカムナガラモオモホシマシテナモモロモロヲメグビタマヒヲサメタマヒミヨノナニモジジクハヘタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。辭別 弖 宣 久 大神宮 乎 始 弖 諸神 多知爾 御戸代奉 利 諸祝部治賜 夫《コトワケテノリタマハクオホミカミノミヤヲハジメテモロモロノカミタチニシロタテマツリモロモロノハフリヲサメタマフ》。又寺寺 爾 墾田地許奉 利 僧綱 乎 始 弖 衆僧尼敬問 比 治賜 比 新造寺 乃 〔官〕寺 止 可成 波 官寺 止 成賜 夫《マタテラデラニハリタノトコロユルシマツリホウシノツカサヲハジメテモロモロノホウシアマヰヤマヒトヒヲサメタマヒアラタニツクレルテラノオホヤケデラトナスベキハオホヤケデラトナシタマフ》。大御陵守仕奉人等一二治賜 夫《オホハカモリツカヘマツルヒトドモヒトリフタリヲサメタマフ》。又御世御世 爾 當 天 天下奏賜 比 國家護仕奉 流 事 乃 勝在臣 多知乃 侍所 爾波置表 弖 與天地共人 爾 不令侮不令穢治賜 部止 宣大命衆聞食宣《マタミヨミヨニアタリテアメノシタマヲシタマヒミカドマモリツカヘマツルコトノスグレタルオミタチノハヘルトコロニハシルシヲオキテアメツチトトモニヒトニアナドラシメズケガサシメズヲサメタマフトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又天日嗣高御座 乃 業 止 坐事 波 進 弖波 挂畏天皇大御名 乎 受賜 利 退 弖波 婆婆大御祖 乃 御名 乎 蒙 弖之 食國天下 乎婆 撫賜惠賜 夫止奈母 神奈我良 母 念坐須《マタアマツヒツギタカミクラノワザトマスコトハススミテハカケマクモカシコキスメラガオホミナヲウケタマハリシゾキテハハハオホミオヤノミナヲカガフリテシヲスクニアメノシタヲバナデタマヒメグビタマフトナモカムナガラモオモホシマス》。是以王 多知 臣 乃 子等治賜 伊自 天皇朝 爾 仕奉 利 婆婆 爾 仕奉 爾波 可在《ココヲモテオホキミタチオホオミノコドモヲサメタマフイシスメラガミカドニツカヘマツリハハニツカヘマツルニハアルベシ》。加以挂畏近江大津宮大八嶋國所知 之 天皇大命 止之弖 奈良宮大入洲國所知 自 我皇天皇 止 御世重 弖 朕宣 自久 大臣 乃 御世重 天 明淨心以 弖 仕奉事 爾 依 弖奈母 天日嗣 波 平安 久 聞召來 流《シカノミニアラズカケマクモカシコキアフミノオホツノミヤニオホヤシマクニシロシメシシスメラガオホミコトトシテナラノミヤニオホヤシマクニシロシメシシワガオホキミスメラミコトアレニノリタマヒシクオホオミノミヨカサネテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツルコトニヨリテナモアマツヒツギハタヒラケクヤスクキコシメシクル》。此辭忘給 奈 棄給 奈止 宣 比之 大命 乎 受賜 利 恐 麻利 汝 多知乎 惠賜 比 治賜 久止 宣大命衆聞食宣《コノコトワスレタマフナステタマフナトノリタマヒシオホミコトヲウケタマハリカシコマリイマシタチメグビタマヒヲサメタマハクトノリタマフオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル》。又三國眞人石川朝臣鴨朝臣伊勢大鹿首部 波 可治賜人 止自弖奈母簡賜 比 治賜夫《マタミクニノマヒトイシカハノアソミカモノアソミイセノオホカノオビトドモハヲサメタマフベキヒトトシテナモエラビタマヒヲサメタマフ》。又縣犬養橘夫人 乃 天皇御世重 弖 明淨心以 弖 仕奉 利 皇朕世當 弖毛 無怠緩事 久 助仕拳 利 加以祖父大臣 乃 殿門荒穢 須 事无久 守 川川 在 之 事伊蘇 之美 宇牟賀 斯美 忘不給 止自弖奈母 孫等一二治賜 夫《マタアガタノイヌカヒノタチバナノオホトジノスメラガミヨカサネテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツリスメラワガミヨニアタリテオコタリタユムコトナクタスケツカヘマツリシカノミニアラズオホヂオホオミノトノカドアラシケガスコトナクマモリツツアラシシコトイソシミウムガシミワスレタマハズトシテナモヒコドモヒトリフタリヲサメタマフ》。又爲大臣 弖 仕奉 部留 臣 多知乃 子等男 波 隨仕奉状 弖 種種治賜 比川禮等母 女不治賜《マタオホオミトシテツカヘマツラヘルオミタチノコドモヲノコハツカヘママツルサマニシタガヒテクサグサヲサメタマヒツレドモメノコハヲサメタマハズ》。是以所念 波 男 能未 父名負 弖 女 波 伊婆 禮奴 物 爾 阿體 夜 立雙仕奉 自 理在 止奈母 念 須《ココヲモテオモホセバヲノコノミチチノナオヒテメノコハイハレヌモノニア ヤタチナラビツカヘマツルシコトワリナリトナモオモホス》。父 我 加久斯麻 爾 在 止 念 弖 於母夫 氣 教 部牟 事不過不失家門不荒 自弖 天皇朝 爾 仕奉 止自弖奈母 汝 多知乎 治賜 夫《チチガカクシマニアレトオモヒテオモブケヲシヘケムコトアヤマタズウシナハズイヘカドアラサズシテスメラガミカドニツカヘマツレトシテナモイマシタチヲヲサメタマフ》。又大伴佐伯禰 波 常 母 云〔如〕 久 天皇朝守仕奉事顧 奈伎人等 爾 阿禮 波 汝 多知乃 祖 止母乃 云來 久 海行 波 美豆久 屍 山行 波 草牟 須 屍王 乃 幣 爾去曾 死 米 能抒 爾波不死 止 云來 流 人等 止奈母 聞召 須《マタオホトモサヘキノスクネハツネモイフゴトクスメラガミカドマモリツカヘマツルコトカヘリミナキヒトドモニアレバイマシタチオヤドモノイヒクラククウミユカバミヅクカバネヤマユカバクサムスカバネオホキミノヘニコソシナメノドニハシナジトイヒクルヒトドモトナモキコシメス》。是以遠天皇御世始 弖 今朕御世 爾 當 弖母 内兵 止 心中 古止波奈母 遣 須《ココヲモテトホスメロギノミヨヲハジメテイマワガミヨニアタリテモウチノイクサトオモホシメシテコトハナモツカハス》。故是以子 波 祖 乃 心成 伊自 子 爾波 可在《カレココヲモテコハオヤノココロナスイシコニハアルベシ》。此心不失 自弖 明淨心以 弖 仕奉 止自弖奈母 男女并 弖 一二治賜 夫《コノココロウシナハズシテアカキキヨキココロヲモチテツカヘマツレトシテナモヲノコメノコアハセテヒトリフタリヲサメタマフ》。又五位己上子等治賜 夫《》マタイツツノクラヰヨリカミツカタノコドモヲサメタマフ。六位已下 爾 冠一階上給 比 東大寺〔造〕人等二階加賜 比 正六位上 爾波 子一人治賜 夫《ムツノクラヰヨリシモツカタニカガフリヒトシナアゲタマヒヒムカシノオホテラツクレルヒトドモノニフタシナクハヘタマヒオホキムツノクヲヰノカミツシナニハコヒトリヲサメタマフ》。又五位已上及皇親年十三已上无位大舎人等至干諸司仕丁 麻弖爾 大御手物賜 夫《マタイツツノクラヰヨリカミツカタオヨビミウガラノトシトヲマリミツヨリカミナルクラヰナキオホトネリドモツカサヅカサノツカヘヨホロニイタルマデニオホミテツモノタマフ》。又高年人等治賜 比 困乏人惠賜 比 孝義有人其事免賜 比 力田治賜 夫《マタトシタカキヒトドモヲサメタマヒマヅシキヒトメグビタマヒケウギアルヒトソノコトユルシタマヒリキデムヲサメタマフ》。罪人赦賜 夫《ツミビトユルシタマフ》。又王生治賜 比 知物人等治賜 夫《マタフムヤワラハヲサメタマヒモノシリビヒトドモヲサメタマフ》。又見出金人及陸奥國國司郡司百姓至 麻弖爾 治賜 比 天下 乃 百姓衆 乎 撫賜 比 惠賜 久止 宜天皇大命衆聞食宣《》マタクガネヲミイデタルヒトオヨビミチノクノクニノミコトモチコホノミヤツコオホミタカラニイタルマデニヲサメタマヒアメノシタノオホミタカラモロモロヲナデタマヒメグビタマハクトノリタマフスメラガオホミコトヲモロモロキコシメサヘトノル。
 
高天原 尓、尓(ノ)字は誤也、第四詔に、高天原 與利と有て、こゝと語のつゞき同じことなるを、一本には由利《ユリ》と有(リ)、第七詔