契沖全集 附長流全集第十巻、佐佐木信綱編、朝日新聞社、775頁、7圓、1927.6.10
(367)枕詞燭明抄序
うたに枕こと葉あることは人の氏姓有に同し。氏をゝきてよふ名のなかきかことく、古きうたのたけたかく聞ゆるは、おほくは枕こと葉をゝき、おほくは序よりつゝけたるかゆへなり。和哥の抄物おほしといへとも、このまくら詞におゐてくはしく是を釋せるものなし。今百あまりの發語をこゝに集めて注する所は、日本紀風土記舊事紀古事紀古語拾遺万葉の古抄、古人髄能の説々、ことには三條内府實隆公の御説を用たり。わたくしの管見をも所々に加ふ。むは玉のよるのまくらことはあかくや見えむとて燭明抄と名付る所しかなり。
枕詞燭明抄上(モトナシ今之ヲ加フ)
枕言葉目録上
ひさかた あらかね
あし引 玉ほこ
うは玉 ちはやふる
鳥かなく あつま しらぬひ つくし
あたまもる つくし 天さかる ひな
空みつ やまと つきねふ 山しろ
かみかせ 伊せ なまよみ 甲斐
うちよする するか 水長鳥 安房
衣手の ひたち さゝなみ あふみ
石はしる あふみ 百くきね みの
八雲たつ いつも 角さはふ 石見
朝もよひ 紀伊 みけむかふ あはち
玉もよき さぬき 隼人の さつま
ありねよし つしま
(368)久かた 天といはむ枕ことはなり。久しくかたしといふ心なり。日本紀にわか國開闢のはしめをいへるにも、天(メ)先(ツ)成(テ)而地(チ)後(ニ)足(マル)。然(シテ)後|神聖《カミ》生《アレマス》2其(ノ)中(ニ)1焉と云々。しかれは其|清陽《スミアキラカ》をるものはたな引上りて天となりて久しく、かさなりにこれるものはとゝこほりて地となることの遲きなり。天かたまりて久しけれは久堅といふ儀なり。或は久方共かけり。天地の二方をいはゝ、天は久しき方といはんもたかふへからす。久かたと置ては、天共日共月とも星共或は雲共雨共つゝくるは、惣して天象のものなれはいつれにもいふなるへし。又月の名をひさかたといふこと有。是はむかし有ける后のめしたる袴のほころひて御膝の白く出たるか月に似たりけれは、御門の御覽して膝形の月はやと仰られしといふ古き説有。古今集に伊勢かかつらの里に住て七條中宮に奉らける哥に云、久かたの中に生たる里なれはひかりをのみそたのむへらなるとよめるそ月をひさかたといふ儀には聞えたる。月の中には桂の木の生たれはいへるなり。又后をは月にたとへたる事、禮記(ニ)云天子之|與《トハ》v后猶2日(ト)之|與《ト》v月陰(ト)之與《トノ》1v陽と有故に、月の光をたのむといひて、后の御影をたのむ心をそへたるなり。此伊勢かうたを本哥にて定家卿もかつら河のことを久かたの中なる河のうかひ舟とはよみ給へる也。又久かたの都とつゝけたる哥も有。万葉集十三云、ひ3かたのみやこをゝきて草枕たひ行人をいつしかまたむと云々。是は帝都の久しくてたしろくましきことをほめていへることはにや。又天子のまします所なれは、空のことくにいひなして久かたの都とはよめるにや。帝都たてらるゝことをは、日本紀にも下つ磐根《イハネ》に宮柱ふとしきたてゝ高天《タカマ》の原に千木高知《チキタカシリ》てなとかけるにて思へは、宮殿のことをは空になすらへて、たかく申さんとていへるにも有へし。かの紫震殿をは天子つねの御座所なれは雲の上と申も其心なり。
あらかね 地といはんまくら詞也。古今集序に云、久かたのあめにしては下てる姫にはしまり、あらかねの地にしてはすさのをのみことよりそおこりけると云々。是はあらかねまかねといふことの有なり。まかねとは吹たるかねのまことのかねに成たるをいふ(369)なり。あらかねとはいまたふかさるさきのかねをいふ也。ふかさるかねはいまたつちなり.よりて荒金の地とはいふなり。
あしひき 山とつゝくるまくら詞也。此事さま/\にいへり。天竺波羅奈國にひとりの仙有。ひたひにひとつの角生てかせきのあしあり。すなはち一角仙人と名つく。彼仙は四無量を修して五神通を得たり。雨ふりて山道のあしかりけるに、此仙たふれて足をそこなひて引しによりてもいへるか。委智度論第十七を見よと古人の説也。亦むかしそさのをのみことの出雲國におはしましけるに、山にてくゐをふみたてゝ足を引給ひし時のたまひし詞也共いへり。或は雄略天皇のみかりにくゐをふみて御あしをひきしときのたまひける共、或は推古天皇の大和國宇※[こざと+施の旁]野にみかりし給し時くゐをふみて御足を引しよりかく仰られしなともいへり。亦或説に是は三方沙彌といふもの雪ふりて山道にまよひてよみたる哥にあしひきの山ちもしらす白かしの枝もたはゝに雪のふれゝはとよめるは、旅たつにはよき日をえらふことなるに、あしき日出行して此難にあへり。されは惡日來といふこゝろ共いへり。亦わか國のはしめは葦原生しけりて人住へき地のなかりけれは、其あしを引すてゝ其跡に人も家居しけり。其捨たる蘆のつもりて山と成にけれはあし引の山といふへし共いへり。上の説々皆異説なり。是はいにしへ天地さきわかれてわか國いまた泥濕のかはかさりけるほと、人皆山によりて住けり。しかれは人跡の山にとゝまりて見えける心にて、わか國をは足引の山|迹《トノ》國とは名つけたねる也。其よりあしひきの山とはいひそめたり。是は日本紀の抄の説、亦後撰集の口傳にも侍る儀也。惣してあし引といへは山とつゝけされ共山の名に用たり。たとへは玉ほこの道といふへきを、道といはすして只玉鉾とはかりもよめるかことし。万葉十一哥云
窓こしに月さし入てあし引のあらしふく夜はきみをしそ思ふ 亦菅家の宰府にまし/\て、足ひきのこなたかなたに道はあれと都へいさといふ人のなき 此うたはつくしより都への間には山陰道山陽道のふ(370)たつの道ある心を、足引のこなたかなたとはよませたまふにやとそうけ給り侍る。私云、日本紀を考るに允恭天皇廿三年|木梨輕太子《キナシカルノミコ》輕(ノ)大|娘皇女《イラツヒメ》をおかしてよみ給へる哥云、あし引の山田をつくり山たかみしたひをわしせしたなきにわかなくつまかたなきにわかなくつまと云々。あしひきの山とつゝける詞こゝに見えたり。雄略天皇推古天皇より猶已前のこと也。
玉ほこの 道とつゝけり。哥に云、玉ほこの道行つかれいなむしろしきても君をみみよしもかな 又、玉ほこの道の山風寒からはかたみかてらにきなんとそ思ふ。或説に云、鉾は兵具の第一也。道に出たつ人先鉾を先立る也。道のしるへとなる心にていふなり。玉はよろつのものほむる詞なりといへり。亦云、いにしへは國々のさかひもいまたわかれす。道の行來もたしかならさる間、山行人はし折をし、野を行人は草を結ひなとしける世には、鉾をつくりてそれに旗をかけて、是をはたほこと名付て道のまとふへき所々に高く立置て、其を見て道のしるへにしける也。よりて玉鉾の道とはつゝくる也。郷村のしるしにも此はた鉾をはたてたり。されは玉ほ乙の里共よめり。万葉十一云
遠けれと君をそ戀る玉ほこの里人みなにわれ戀めやもとよめるは其心也といへり。定家朝臣の説には、道のほとをは一里二里なといへは、玉ほこの里とつゝけたるも其心かと侍り。亦或は道のゆかますして行を鉾のすくなるにたとへて玉ほこといひ、とかく行をは繩手と云なといへる説も有。所詮たゝ道の名をは玉ほこといふと心得へきにや。亦此玉ほこの事に付て秦始臭帝の兵具玉鉾のことゝいひ、或は漢高祖の兵具の儀をいふ説もあれと、始皇本記漢高の記等にもさらに見えす。信用にたらさる説歟。
むは玉の よるとつゝけたり。或はやみ共つゝけ、或は黒かみ共つゝけよめり。惣してくろきこといはむとていふこと葉也。むは玉うは玉ぬはたまなとかへてよめる皆同し詞也。しかるを喜撰式に、夢をぬる玉、夜るはぬは玉、髪はむはたまといへり。天徳哥合に中務うたに云、むは玉のよるの夢たに正しくは(371)わかおもふ人を人に見せはやとよみたるを、よるをはぬは玉といふをかきあやまてりと奏しけれは、あやまちあらんにはいかてかとおほせられて、此うた負になりぬ。是は喜撰か式に付てかくそ侍つらん。万葉集にはうは玉むは玉ぬはたま共に惣してよるのことにもつゝけ、黒かみにもよめり。中務かうたあやまりにあらさるか。夢をぬる玉といふは、ぬるか内の玉しゐの夢をは見るものなれはいふなるへし。伊勢かうたに
八重とつる道は夢にもまとふらしぬる玉にたにあふとみえねはとよめる其心なるへし。万葉に野干玉とかきてぬは玉とよみたれは、顯昭法師か云、順か和名に烏扇をは射干とかけり。からすあふきの實は丸にてくろきものなれはうは玉といふを、野干に文字のかよひたれは野干玉とかき、又夜干玉とかきたる歟。それを畧して干玉ともかき、野玉ともいふかといへり。亦綺語抄にはむは玉とはからす瓜の實を云といへり。からす瓜の實はまたく黒きことなし。これはかちす扇のみといふへさを思ひたかへたるにやと云々。能因か哥枕にもうは玉とは黒きものをいふとはかりかけり。或説に野干とは狐の名なり。きつねは百歳の後うはの委になる故なりといひたれ共、くろきことにいへるには不叶。亦或説に秦始皇帝の時に異國より五尺の烏きたれり。ふたつの羽のあいたにふたつの玉のくろき有り。其からすをとらへて、其玉をとりて箱に納たる時は世間あかく、箱をひらけは世間くらくなる。これを以て軍に出てまけんとする時には玉を出して世をくらくなしてかちぬといへる説もあれと是亦たしかならす。ちかき比堯孝法印か哥に、からすはの玉のひかりとよみてくらきことにいひたる、此説をよみたるか。うたにははかなきことわさをも用ひてよむこともあれはたしかなる證文なく共よみたるならん。されはいつれの説にも黒きことをいひたるに、古事紀|大己貴《オホアナムチ》の神のみうたに、ぬは玉のしろきみけしをまつふさにとりよそひをきと云々。是はぬは玉のしろきとつゝけれは大きにことのたかへること也。神世にも有し詞にて今たしかにはしる人なきなるへし。しかれ共只今し(372)ろきことにつゝけんはいはれす。黒きことにのみよむへし。亦万葉哥に云
うは玉のひましらみつゝ紐のをの結ひてしより後あふものか 此うたは夜といはね共夜の明るこゝろにいへり。明れは紐を結ふものなれは其心にいへり。亦同集哥に云
ぬは玉のねてのゆふへのものあもひにさけにし胸はやむときもなし かくもよめり。ゆふへもくらくなる心にてぬは玉とはをけるなるへし。
千はやふる 神といはん枕ことはなり。此詞につけて色々の説有。万葉集に千釼破亦千磐破なともかけるによつて、天照大神の千のつるきをやふり給ふ事とも、亦千の磐をやふり給ふ故なといへる説も有にや。或は神は茅《チ》の葉葺たる屋に世をへて住給ふ故ともいひ、又或はかんなきの服に千はやといふものをきて、神のまへに其袖をふる故夜ともいひたり。此説々皆異説にしてたしかならさる歟。日本紀には殘賊強暴構惡之神とかきてちはやふるあしきかみとよめり。舊事紀古事紀には道速振荒振《チハヤフルアラフル》國(ツ)神とかけり。是皆邪神のことをいへり。此儀によりてはあしき神をさしてちはやふる神とこそいふへけれ共、うたのならひは何となく神とつゝけむ枕ことはに用て、惣してよき神あしき神おしなへてちはやふるとはつゝけよめる也。後撰集哥に云千はやふる神にもあらぬわか中の雲ゐはるかに成もゆくかなと云々。これはなる神にも千はやふるとはをける也。又千はやふる人共有。万葉第二柿本人九高市皇子《タケチノミコ》殯宮《モカリ》の時の長哥のことはに云、千はやふる人をなこすとまつろはぬ國をおさむとみ子のまによさし給へはとつゝけよめり。此うたは大友皇子の亂をは此高市皇子のしつめさせ給ふ心なり。かの亂の時に大友皇子にしたかひて天武をそむき奉りし人のことをいへるなり。あしき神をちはやふるといふにかよはして凶賊の上をもかやうによみ給ふなるへし。亦千はやふる宇治共つゝけたり。古今集哥に云ちはやふるうちの橋守なれをしそあはれとは思ふ年のへぬれは 此うたにつけて、うちのはし守とは橋を守る神の名也。よりてちはやふるとはをけるなり(373)といへり。たゝし万葉十三の長哥に云、千はやふる宇治のわたりの瀧のやのあこにの原になとつゝけて、はしめ終り橋守のこと、惣して神のことよめる詞見えす。しかれは只宇治とつゝけんためなり。亦万葉哥云
ちはや人うちのわたりのはやきせにあはすあり共後もわか妻かくもよめり。日本紀のうたにも同しやうにちはや人うちのわたりとつゝけよみたり。千はや人とはちはやふる人と讀る其心に同しかるへし。又かの宇治の橋守のことは神にはあらさるか。日本紀に、大友皇子の大津の宮におはして、宇治の橋守者に命して、天武の宮の舍人かわたくしの粮をはこふ道を絶給ふよし見えたり。しからは橋守は橋をまもる人也。關守道守野守山守のたくひなり。其人の年老たるを見てあはれとは思ふと古今のうたもよめるなるへし。亦拾遺集に、柿本人丸よしのゝ宮に奉るなかうたに云
千はやふるわかおほ君のきこしめす天の下なる草の葉もうるひにたりと山川のとつゝけよめり。是は御門の御事は神とひとつに申奉れは、千はやふるわか大きみとよめるにこそ。たゝし此長うたも万葉にはやすみしゝわか大君のとよめり。本集にはたかへる詞也。
鳥かなく あつまとつゝけり。万葉廿家持哥に云
鳥かなくあつまおとこの妻わかれかなしく有けむとしのをなかみ 袖中抄顯昭云、此鳥かなくあつまは万葉におほく詠したり。されは尤可釋。もろ/\のすいなうに不見。試に可釋之。あつまといふ事坂東を云也。日本紀第七(ニ)云、日本武《ヤマトタケノ》尊相摸(ノ)國より上總(ノ)國へ往まさんとする海中にして、暴風忽起つて王船漂蕩してわたるへからす。王にしたかへる女あり。弟《ヲト》橘姫と云。穂積《ホツミ》氏|忍《ヲシノ》宿禰か女なり。王に啓して云、風起波泌して王船没す。是必海神の心也。ねかはくはいやしき妾か身を以て王の命をあかひて海にいらんと申。いひおはつて後浪をかふりて入る。風則やみて舟岸につくことを得たり。故に時の人其海を號して馳水と云。上總國より陸の奥に廻り入、蝦夷《エヒス》既に乎けぬ。日高見《ヒタカミ》の國より還つて、西南のかたひた(374)ちをへて、甲斐國に至りて酒折の宮に居し給へり。甲斐よむむさしかむつけを廻りて、西のかたうすひの坂に及へり。時に日本武尊ことに弟橘姫をしのひ給ふ心有故に、うすひの嶺にのほりて、東南のかたに望みてみたひ歎て曰、吾嬬者耶《アツマハヤ》。故に山東の諸國を號して吾嬬《アツマノ》國と云。されはあつまといふことはこれよりはしまれり。玄中記(ニ)云(ク)、東南(ニ)有2桃都山1。上(ニ)有2大樹1。名(テ)曰(フ)2桃都(ト)1。枝相去(ルコト)三千里。上(ニ)有2天※[奚+隹]1。日初出(テ)、照(ストキ)2此樹(ヲ)1※[奚+隹]即鳴(ク)。天下(ノ)※[奚+隹]皆隨(テ)v之鳴(ク)。今案に東南に天鷄初てなくに天下の鷄皆なくといへは、東國をとりのなくあつまといふか。日本紀云、日神閉(テ)2磐戸(ヲ)1幽居《カクレマス》之時思兼(ノ)神聚2常世《トコヨ》之長鳴(キ)鳥(ヲ)1使(ム)1長鳴1云々。此心は鷄鳴て後日の神は出給と見えたり。是はつねのやうにもかなへり。曉に鳥なきてこそは日出る事なれは、いかさまにも東より鳥なくことのあれは、かけのなくあつまとも、又鳴とりのあつま共つゝけんにたかはぬことにやと云々。是は思兼神のはかりことに、龍宮城の※[奚+隹]をとりて盤戸の前になかしめて、夜は明たり日神出させ給へと申心也。是よりして日の出んことちかく成て、曉に鳥は必なくことになりぬ。日の出給ふ方ひんかしなれは、鳥も東より先なかんはことはりなり。
しらぬひの つくしとつゝけり。万葉第五山上憶良長哥に云、おほきみのとをのみかとゝしらぬひのつくしの國になく子なすしたひきましてとつゝけよめり。此外おほくよめり。しらぬひは不知火といふ義なり。日本紀を考るに、景行天皇十八年春三月|巡《メクリマス》2筑紫(ノ)國(ニ)1。夏五月(ニ)從(リ)2葦北1發舩《ミフナタチテ》到2火(ノ)國(ニ)1。於是《コヽニ》日|没《クレヌ》也。夜冥(シテ)不v知2著岸(ヲ)1。遙(ニ)見2火(ノ)光(ヲ)。天皇詔(シテ)2〓抄者《カチトリニ》1曰、直(チニ)指(セ)2火(ノ)處《モトヲ》1。因(テ)指(テ)v火(ヲ)徃(ク)之。即(チ)得2著岸《ツクコトヲ》1。天皇問(テ)2其火(ノ)光(ル)處(ヲ)1曰、何(ト)謂(フ)邑(ソ)也。國人對(テ)曰、是八|代《シロノ》縣(タ)豐村(ナリ)。亦尋(テ)2其火(ヲ)1是誰人(カ)之火(ソ)也。然不v得v王《ヌシヲ》。茲《コヽニ》知(ル)非(サルコトヲ2人(ノ)火(ニ)1。故(ニ)名(テ)2其國(ヲ)1火國(ト)1と云々。其火のぬしをしらねはしらぬ火のつくしとはいへる也。火の國とは今の肥の國の二州なり。
あたまもる つくし共つゝけたり。万者第六、藤原字合卿西海道節度使としてつかはすの時高橋連虫麻呂か作る長哥云
(375)白雪のたつたの山の露霜に色つく時にうちこえてたひ行君はいほへ山いゆきさくみてあたまもるつくしにいたりとつゝけよめり。あたまもるは賊守とかけり。是はむかしから國よりわか國をうたむとうかゝひけれは、たけき兵をえらひてかのつくしにさしつかはして、異賊のよるへき崎々をまもちせられけり。是を防人共云。哥には崎守とよめり。万者廿卷に、其防人かことをいたみて大伴家持かよめる長歌に云
すめろきのとをのみかとゝしらぬひのつくしの國はあたまもるおさへの城そときこしめす四方の國には人さはにみちてはあれと鳥かなくあつまをのこはいてむかひかへりみせすていさみたるたけきいくさとねき給ひまけのまに/\とつゝけ讀り。此心は、坂東の國々の兵は中にも死をかへりみさるたけきものなれはおほくつかはされける心也。されは異國の寇守《アタマモル》つくしとはいふなり。天智天皇の御代にはつくしに大きなる堤をつきて、水をたくはへて、異賊のふせきにせさせ給ふ。是を水|城《キ》と名付と日本紀に見えたり。是も万者に水くきの水城の上なとうたによみたり。
天さかる ひなとつゝけり。万葉三柿本人丸哥に云
あまさかるひなのなか賂をこひくれはあかしの門よりやまと嶋みゆ 同第五山上憶良哥に云
あまさかるひなにいつとせすまひつゝ宮古のてふりわすらゑにけり ひなとはゐなかの國を云也。鄙の字を用ゆ。或は夷の字をもひなとよめり。天さかるは天のひきく下れる儀也。其心は、王城は國のみ中にて、天も高きに、遠きいなかの國々は天も下れる儀なり。亦万葉に遠國のことをは天雲の向伏《ムカフス》國とよめるも、天の下りてむかひふしたる國といふよし也。天のかたちは地をつゝみてめくるといへは、末々の國はをのつから天もひきからん故なり。亦天離天放とかきてあまさかるとよめるを思へは、離放は遠さかるの心也。帝都に遠さかりたる國といふ共聞えたり。神代に下てる姫のうたに天さかるひなつめのと云々。久しき時より見えたる詞也。
空みつ やまとゝつゝけり。万葉第一雄略天皇の御製(376)哥の詞云 空みつやまとの國はおしなへてわれこそおあらしつけなへて我こそあらしと云々。此外おほくよめり。舊事本紀(ニ)云、天祖以(テ)2天(ツ)璽《シルシ》瑞《ミツノ》寶(ヲ)十|種《クサヲ》1授(玉フ)2饒《ニキノ》速日(ノ)尊(ニ)1。則此(ノ)尊禀(テ)2天神御祖(ノ)詔(リヲ)1、乘(テ)2天(ノ)磐舩(ニ)1而天降(テ)、坐(ス)2於河内(ノ)國(ノ)河上(ノ)哮(ノ)峯(ニ)1。則(チ)遷(リテ)坐(ス)2於大倭(ノ)國(ノ)鳥見(ノ)白庭(ハノ)山(ニ)1。所謂(ル)乘(シテ)2天(ノ)磐舩(ニ)1而|翔2行《カケリマス》於大|虚空《ソラニ》1、睨《ミテ》2是郷《コノクニヲ》1而天降(リテ)謂《ノ玉フハ》2虚空見《ソラミツ》日本(ノ)國(ト)1是(レカ)歟と云々。日本紀の儀も同しことなれは不注之。万葉十九家持長歌云。
あきつ嶋やまとの國を天雲に磐舩うけてともにへにまかいしゝぬきいこきつゝ國見しせしてあもりましはらひたいらけとよめる此事也。かの神の駕し給ひし磐舩は河内國天川の水上に今も有り。磐舩の御神と申ならはしたり。
つぎねふ 山城とつゝけたり。万葉十三長歌に云
つきねふ山しろの道を人つまの馬よりゆくにさかつまのかちよりゆけはとよめり。つきねふは次嶺經とかけり。山の嶺々次たりといふ心なり。山しろの國は外の國にすくれて山なみのうるはしくつゝける國なり。同集題六田邊福丸か久邇《クニノ》新京をほめたる歌に云
あきつ神わか大きみの天の下八嶋の中に國はしもおほくあれ共里はしもさはにあれ共山並のよろしき國と川|次《ナミ》のたちあふさとゝ山しろのかせ山きはに宮はしらふとしきたてゝとつゝけよみたり。此うた山なみのよけれは川もそれにたち合たりといふ心也。日本紀のうたにも、つきねふ山しろ河をかはのほりわか上れはなとよめり。山しろの國ははしめ山背國とかけり。これはあふみの國を山のおもてにして山のうしろの國といふ儀なり。
神風 伊勢とつゝけたり。万葉集哥云、神風のいせの濱荻折ふせてたひねやすらんあらきはまへに此外おほくよめり。神風とは神の御めくみの廣きを風にたとへていふよし先賢の説大かたかくのことし。此國天照太神の跡たれさせ給ふ國なれは、其神徳をほめて神風のいせの國と申さんことことはり也。天照太神倭姫(ノ)命におしへ給ふ御詞にも、此(ノ)神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)則|常《トコ》世(ノ)浪(ノ)重浪《シキナミ》歸《ヨスル》國也。傍《カタ》國(ノ)可怜《ウマシ》國也。吾(レ)此國に居んと思ふ故に、大神のおしへのまに/\其祠を伊勢(ノ)國に立(377)と日本紀垂仁天皇紀に見えたり。亦伊勢國の風土記を考ふるに、伊勢國は天(ノ)御《ミ》中主の十二世の孫天(ノ)日別《ヒワケノ》命の平治する所なり。神倭磐余彦《カムヤマトイワレヒコノ》天皇東州を征し給ふ時、天(ノ)日別(ノ)命勅を奉りて東のかた數百里に入て此國にいたるに神有。伊勢|津彦《ツヒコ》と名つく。天日別命問て云、汝《イマシ》か國天孫に献んや。答て云、吾此國を求めておる事日久し。あへて命をきかしと。天日別命兵を發してうたんとす。其神畏れ伏して申さく、わか國こと/\く天孫にたてまつらん。吾あへておらしと。天日別命問て云、汝かさらん時何を以てしるしとせむ。答て申さく、吾今夜八風をおこして海水をふかしめ、浪に乘して東にゆかんと。天日別命兵をとゝのへてうかかふに、中夜に及て大凰四方におこり、波瀾《大ナミ少ナミ》をあけ、光りかゝやくこと日のことく陸海をてらして、波に乘して東に去ぬ。古語に云、神風(ノ)伊勢(ノ)國(ハ)常世(ノ)浪(ノ)寄(ル)國(ト云)者蓋(シ)此(ノ)謂之也。天日別命此よしを奏。天皇大によろこひ給て、國の名はよろしく神の名を取へしと。よつて名つけて伊せの國と號すと云々。風土記の儀ならは、伊勢津彦の風をおこしたる故に神風いせとはいふときこえたり。其いせつ彦の神は東に去て信濃國にとゝまると云々。今しなのゝ國に風伯神と申神是也といふ。風のはふりといふ。俊頼朝臣哥に云
今朝よりは木曾路の櫻咲にけり風のはふりにすきまあらすなとよめる也。風を心にまかせたる神とそ。亦日本紀を考るに、神武天皇の御哥に、かむかせの、いせの海の、おほ石にや、いはひもとへるしたゝみの、と云々。かむ風は神風也。天照太神いせの國に跡たれ給ふは人王十一代垂仁の御時のことなれは、是ははるかに已前の御製なり。亦万葉第二高市皇子殯宮の時、柿本人丸よめる長歌の中の詞に云 わたらゑのいつきの宮に神風にいふきまとはし天雲を日のめもみせすとこやみにおほひ給ひてと云々。此うたにては天照太神のおこさせ給ふ風にやときこえたり。いかさせにもこの神風は伊勢の國につきたる詞なれは、神風のみもすそ川ともよみ、いすゝの川共、山田の原共つゝけて後々のうたにはよめる也。(378)なまよみの 甲斐とつゝけたり。万葉第三詠不盡山歌に云、なまよみのかひの國うちよするするかの國とこち/\の國のみなかに出てし有ふしのたかねはとつゝけよみたり。此なまよみは生しきかよしといふ詞也。甲斐は香火によせたり。香は生しきよしといふこゝろ也と云々。
うちよする するかとつゝけたり。上のうたに見えたり。風土記に云、國に富士河在。其水きはめてたけく疾し。よつて駿河の國と名つくと云々。しかれは其川の早くして浪打よするするかといふ心にや。亦此國の古老傳へて云、むかしはするかの國ふしの山とあしたか山の間を東海道の驛路としき。よこ走りの關とて侍しも、此ふたつの山の間に有ける關の名也。驛路なれは朝夕に重服觸穢のものゝ行かよひけるを淺間大明神のいとはせ給て、今のうき鳴か原といふははるかの南海ほうかひありきけるを、こゝにうちよせさせ給ひてより、今の道は出來にけりと申傳へて侍る也と云々。
みなか鳥 安房とつゝけたり。万葉第九哥に云
みなかとりあはにつきたる梓弓末の玉名はむなわきのひろきわきも腰細のすかるをとめのと云々。此うたはむかし上総國にかほよきをとめ有。其名を末の珠名となつく。かれか事をよめる長哥なり。此水長鳥安房とつゝけたる事其心得かたし。もし水に長く居る鳥といふこゝろにて、鴎なとをいふか。かもめは水の泡に似て波にうかへは、みなか鳥泡といふ心にてつゝけたるかといふ儀有。安房に繼煎るとは安房につきて上總の國はあれは也。梓弓は未の珠名といはんため也。日本紀一書に、天|稚《ワカ》彦を葦原の中國にくたし給ふに、久しくかへりこと申さゝる間、無名雉をつかはしてみせ給ふに、此雉降來(テ)因(テ)見(テ)2粟田《アハフ》豆田《マメフヲ》1則留(リテ)而不v返(ラ)と云々。かの鳥の粟につきてかへらさるの心にて、國の名の安房を粟によせたる歟。たゝし雉の名を水長鳥といふへきよしのなけれは猶未決之。
衣手の 常陸の國とつゝけたり。万葉第九※[手偏+僉]税使大伴卿筑波山に登時のうたに云
衣手のひたちの國のふたなみのつくはの山を見まくほり君かきますとあつけきに汗かきなけきとつゝけ(379)讀り。風土記に云、倭武尊巡2狩東夷之國(ヲ)1幸(シ)2過(ク)新沼之縣(ヲ)1。所2遣《ツカハ》國(ノ)造(ニ)昆那良|珠《タマノ》命(トヲ)1新(ニ)令(ム)堀(ラ)v井(ヲ)。流泉淨(ク)澄(テ)尤(モ)有好愛《イツクシミアリ》。時停(リテ)乘(シテ)v興翫(ヒ)v水(ヲ)洗(ヒ玉フ)v手(ヲ)。御衣《ミソ》之|袖垂泉《テニシツクタリテ》而|沾《ヌレヌ》。依(テ)2漬(ス)v袖(ヲ)之義(ニ)1以(テ)爲(ス)2此國之名(ト)1。風俗《クニヒトノ》諺(ニ)云(ク)、筑波(ノ)山(ニ)黒雲掛(リテ)衣《コロモ》)袖|漬《ヒタシノ》國(ト云)是(ナリ)矣と云々。又ひたちはもと直道《ヒタテ》の義なり。同風土記(ニ)に云、徃來道路不v隔2江海之津濟1。郡郷之境堺相2經(ル)山川之峯谷(ヲ)1。庄《サト》近(ク)通(フ)之義(ナリ)。以(テ)即(チ)名稱《ナイフ》焉と云々。
さゝ浪の あふみとつゝけたり。あるひは大津共つゝけ、しか共つゝけ、ひら共つゝけ、なからの山共つゝけ、およそかの國の名所にはさゝなみと置也。是は天智天皇大津の宮におはしましけるときに、しかの山にひとりのうはそく有て行しか、天皇其所に行事有て山の名をとはせ給ふに、うはそくか云、仙の靈窟伏藏の地|佐々名實《サヽナミ》長等の山といひてうせぬ。其所に伽藍をたてらる。今の崇福寺是也。これよりいひそめける也と先達の舊説大かたかくのことし。日本紀を考るに天智天皇より已前に猶さゝなみのあふみの國といへり。亦さゝなみの國とはかりもいへる近江の名也。あふみの國もとは淡海《アハウミ》の國とかけり。藤原(ノ)不比等《フヒトウ》をあふみの國に封して淡海公とは申ける也。淡海は水海の心也。鹽の海に對して淡しき海といふ儀なり。さゝ浪は小浪也。かの水うみ大海のことく大浪のたつこともなけれは、只さゝなみの淡海といふ心也。よりてさゝなみの國とはかりも名つくる也。さゝなみはやかて此國の名なれは、此國の名所ならんからにはいつれにもをくへき詞なるへし。
石はしる あふみの國ともつゝけり。万葉第一柿本人丸長哥詞云、天さかるひなにはあれと石はしるあふみの國のさゝなみの大津の宮に天のしたしろしめしけんすめらきのと云々。天智天皇の舊都をよめるうた也。是はかの水海の水終に勢多より出て、田上《タナカミ》を過て宇治になかれ下る。石をはしりてなかれ行はかくはよめるにこそといへり。
もゝくきね 美濃とつゝけたり。万葉十三長哥に云、もゝくきねみのゝ國の高北のくゝりの宮にとつゝけ讀り。もゝくきねみのとは、案るに是はさゝめとい(380)ふ草のくきをとりて賤か簑《ミノ》に作る也。もゝくきのみのといふへきを、ねとのと五音かよひたれはもゝくきねといふなるへし。百莖の簑也。もゝはおほかる數也。くゝりの宮万には八十一隣宮とかけり。彼集の文字つかひのならひ也。日本紀には泳《クヽリノ》宮とかけり。景行天皇此宮に行幸し給ふよし有。亦万葉十三にもゝさゝのみのゝ大きみとよめる哥も有。さゝめといふへきを文字のあまれはもゝさゝのといへるなるへし。みのゝおほきみは人の名也。私云、もゝさゝのみのはさゝの實とつゝけたるか。篠には實のなる故也。さゝのおほかることをは此集に道のへのゆさゝか上になとよめり。ゆさゝは五百篠といふ也。さらは百篠とも讀へし。
八雲たつ 出雲とつゝけり。是はすさのをの尊の御うたより起れり。古事紀(ニ)云、茲《コヽニ》大神初(テ)作(リ玉フ)須賀(ノ)宮(ヲ)1之時自2其(ノ)地《トコロ》雲立(チ)騰《ノホル》。尓(ヲ)作(ル)2御歌(ヲ)1其歌(ニ)云
夜久毛多都伊豆毛夜弊賀岐都麻碁微尓夜弊賀岐都久流曾能夜弊賀岐袁《ヤクモタツイツモヤヘカキツマコメニヤヘカキツクルソノヤヘカキヲ》 古今集序に、かの尊女と住給はんとて出雲國に宮作りし給ふ時、其ところに八色の雲のたつを見てよみ給へるなりといへるも、古事紀を本文にていへるなるへし。尊の出雲やえかきとよませ給ふより國の名をも出雲と號する也。亦八雲さす共よめり。万葉第三出書(ノ)娘子《ヲトメ》吉野川に溺(レテ)死《マカル》の時柿本人丸哥云
八雲刺いつもの子らか黒髪はよしのゝ河の奥になつさふと云々。吉事紀の哥に衣都女佐須伊豆毛《エツメサスイツモ》と云々。是はえとやと五音かよへる字也。つとくと同韵の字也。めともと亦五音かよへり。しかれはえつめさすも八雲さす同し義歟。かの出雲娘子を吉野山に火葬するのとき人丸詠云
山のはにいつもの子らはきりなれやよし野ゝ山の嶺にたな引 是は山のはより雲は出るものなれは、出雲といはむとて山のはとはをける也。惣して八雲たつは出雲につきたる詞なれは、八雲たつてまの關なともよめり。
角さはふ 石見とつゝけり。万葉第二柿本人丸石見の國より京へ上る時の長歌云
つのさはふ石見の海のことさへくからの崎なるいく(381)りにそ深みる生るあら礒にそ玉もは生るとつゝけ讀り。顯昭云、角の字につけてすみとよめるはひかことにや。石見の國に角といふ所有と見えたり。されはつのといふ所をたちさへてみせぬ石とよめる也と云々。是は万葉に角障經とかきたれはつのさふるとよめる儀に付ていへるなるへし。かの國に角といふ所は人丸の本郷なり。高角山なと讀るも同し所の山と聞えたり。角といふ所をさへてみせぬと云儀、此哥にてはさこそ聞ゆれ共、此集の哥云、角さはふ岩村山に白妙のかゝれる雲はおほきみにかもなとよめるは、大和國の名所なり。さるからは只角さはふは岩とつゝけんまくら詞と聞えたる也。日本紀に仁徳天皇の御うたに、つのさはふいはの姫かおほろかにとよませ給ふは、后の御名磐の姫のことをよませ給へるなり。又日本紀に仁賢天皇の皇女春日の姫の御哥にもつのさはふいはれの池のと云々。皆岩とつゝけんかためなり。日本紀の古語かくのことくなれは角さはふといふへし。角さふると讀むことはたかへることにや。此角さふる岩といふことを或説には、かもしゝといふけたものは岩に己か角をかけてねるもの也。よつて角をさふる岩といふ也と云々。此儀信用しかたし。此角さはふといふは、岩にはかと/\の有て物にさはる心なるへし。亦万葉に角澤相ともかけり。亦味|澤相《サハフ》とよめる詞も有。此あちさはふはものをほめてあちはひおほしといふ儀なり。しかれはつのさはふは只岩にかと/\おほきことをいへる共きこえたり。
朝もよひ 紀伊とつゝけたり。万葉集五卷抄序(ニ)云、謹(テ)案(ルニ)2此集(ヲ)1古語雖(トモ)v質(ナリト)比興幽微(ナリ)。字々感(シメ)v人(ヲ)句々變(ス)v躰(ヲ)。今推(スニ)2作者之本意(ヲ)1令(ム)2知者(ニハ)知(ラセ)v之不v知(ラ)者(ニハ)不v知(ラ)v之(ヲ)。爰師説不v傳(ラ)。訓尺無v書(ルコト)。案牘之間甚(タ)難(シ)v得v心(ヲ)。天平勝寶五年春|二月《キサラキ》於(テ)2左大臣橘卿之東家(ニ)1宴2飲(ス)諸卿大夫等(ヲ)1。于v時|主人《アルシ》大臣問(テ)曰、古哥(ニ)云
安佐母與比《アサモヨヒ》紀|能勢伎母利家多豆加由美由流須等伎奈久安我母弊流伎美《ノセキモリカタツカユミニルストキナクアカモヘルキミ》
其(ノ)情(ロ)奈何(ン)者。式部石川卿(ノ)説(ニ)云、安佐母與比記所2以(ン)然(ル)1之者(ハ)、古(ヘノ)俗語併(ラ)朝(タニ)炊(ク)v飯(ヲ)。謂2之(ヲ)安佐母與此(ト)1也。紀(ハ)薪(ナリ)也。以(テ)燎《モヤシテ》v之炊(ク)v飯(ヲ)。因(テ)v是(ニ)將(ニ)v曰(ント)2紀伊(ノ)國(ト)1、發(シテ)v言(ヲ)以(テ)爲(ル)2安佐母(382)與比(ト)1耳《ノミナリト》云云。爰(ニ)知(ヌ)古歌難義先賢發(ス)v疑(ヒヲ)。況(ヤ)後代(ノ)愚叟無v由據《ヨルトコロ》勘(ニ)1云々。しかれはあしたにもやす木といふ心にていひつゝけたる也。私云、万葉五卷抄は紀貫之の作歟。或説に朝もよひは朝催也。朝たに飯かしくとて先薪を催す心也といひたれ共、万葉抄の儀は古人の説仰(テ)可2信用(ス)1。亦万葉十三には、朝もよひ城於道《キノウヘチ》より角さはふ石村を見つゝ共つゝけよめり。紀伊國ならてもつゝけたり。
みけむかふ 淡路とつゝけたり。万葉第六山部赤人うたに云、みけむかふ淡路の嶋にたゝむかふみぬめの浦のとつゝけよめり。みけむかふは御食向とかきたり。帝王のきこしめすものを御食とはいふ也。是は淡路の嶋の海士共御肴とりて日々のみつきものに奉らけるにより、御食もてむかふ淡路といふ心なり。亦なにはの宮にして赤人かよめる長うたに、みけつ國日々のみつきと淡路の野嶋のあまのわたの底奥ついくりに鰒珠《アハヒタマ》さはにかつきてとも讀り。此うたにて思へは、難汲の宮にむかひて淡路の國はあれは、なにはに向ふ御食つ國ともきこえたり−。亦天平十二年聖武天皇伊勢國に行幸の時大伴家持かうたに云、みけつ國志摩のあまならしまくま野の小舟にのりて奥へこくみゆと云々。是はいせの國に御門のせしますときは志摩の國の海士の御肴奉る故にかくはよめるなるへし。いつくにかきらす、帝王のまいり阜もの奉らん國は皆御食國とよむへし。亦みけむかふこかめの宮とよめるうた有。こゝの心にはいさゝかたかへり。此うや奥に注之。
玉もよき さぬきとつゝけり。万葉第二柿本人丸か長歌に云、玉もよきさぬきの國は國からかみれ共あかす神からかこゝはかしこきとつゝけよめり。此うたさぬきの國|狹嶺《サミネ》の嶋といふ所にての作也。玉もとは藻をほめたる詞也。海の藻ならね共川にも池にもよめり。玉もよきとは此さぬきの國海邊の國にてことに藻のよきを出す國にや。弘法大師のかゝせ給ふ詞に、頃日間刹那《コノコロノタシハシ》幻(ノ如ニシテ)住(ス)2南閻浮提(ノ)陽谷輪王所化之下玉藻所v歸《ヨル》之嶋橡樟|蔽《カクス》v日(ヲ)之浦(ニ)1と云々。是則讃岐の國のこと也。亦こゝのうたに神からかこゝはかしこきとよめる心は、舊事紀を考るに、いさなみの尊の大八(383)洲の國をこと/\く生給ふ中に、さぬきの國の名|飯依比古《イヒヨリヒコ》といふ神なり。
はや人の 薩摩とつゝけり。万葉第三長田王哥に云、
隼人のさつまの迫門を雲ゐなす遠くもわれはけふ見つるかもと讀り。隼人とは薩摩の國の人の名なり。日本紀に、彦火火出見尊の兄《コノカミ》火酢芹《ホスセリノ》尊の鈎《チ》をかりて魚にとられ給ひし時、兄の尊にせめられわひて其鈎をもとめんかために龍宮に入給て、わたつみの女豐玉姫を妻として三年まし/\て後、龍王のはからひにて其鈎をもとめ得て本土にかへり給ふ時、潮滿瓊《シホミツニ》潮涸瓊《シホヒルニ》のふやつの玉をとりてかへりて、兄火酢芹尊を塩におほらしめ給へは、兄の尊おと/\の威に伏して終にやつこと成給ふ。其兄の尊の苗裔《スヱ》を名付て隼人といふ也。今にいたる迄天皇の御垣のもとをはなれすして、代々にほゆる狗《イヌ》してつかふまつるもの也と云々。日向大隅薩摩の國の俗皆隼人也。其たけく烈しき乙と隼《ハヤフサ》のことしと風土記に見ゆ。兵の名を薩男共薩人共いふは薩摩男といふ儀なり。よつて隼人のさつまとはつゝけたり。弓をさつ弓矢をさつ矢といふも其さつ人か具なれは也。
有根よし 對馬とつゝけたり。万葉第一三野連か入唐の時の哥に云
有根よしつしまのわたりわた中にぬさとりむけてはやかへらさねと云々。在根良とはつしまの國につしまの嶺とてたかき山有。もろこしに行かへる舟は此國によりて風間をも待也。其時は此つしまの根を見付てよる故に、此根の有かよしといふ儀也。わた中とはわか國と唐との中に有國なれはよめる也。
(384)枕詞燭明抄 中
枕言葉目録中
青丹よし なら たかくらの みかさの山
こもりくの はつせ 海人をふね 同
かくらく こもり江等
みけむかふ こかめの宮 王たすき うねひの山
しなてる 片をか山 むま洒 みわ
石はしる 神なひ山 おほ口の まかみか原
たゝなつく 青垣山 たゝみこも 平群の山
しもとゆふ かつらき 青はたの 同
玉きはる 内大野 もゝつたふ いはれの池
ものゝふの いはせ はしたての くらはし山
うちあくる 佐保 よこもり ゐかひの岡
衾路 引ての山 紫は夜灰す つは市
さつ人 弓つきかたけ いめたてゝ とみの岡
いめ人の ふしみ 細ひれの 鷺坂山
たてなめて 泉の川 ものゝふの 八十氏川
衣手の なきの川 さしすきの くるすの小野
夕月夜 小くらの山 こもまくら 高瀬のよと
おしてる なには あしかちる 同
おほともの みつ 玉かきの 同
雨ころも たみのゝしま 白菅 眞野
し長鳥 ゐな野
(385)青によし 奈良と云む枕ことはなり。萬葉集第八聖武天皇御製歌に云、
青丹よしならの山なる黒木もて作れるやとはをれとあかぬかも 此外おほく讀り。萬葉抄云、青丹よしならとは、なら坂にむかしは青き土の有ける。それを取て繪かく丹につかひけるによかりける也。されはかくよめると云々。清輔朝臣云、青丹よしならとはものゝ色をいふには丹青をむねとする也。されは畫圖をも色/\あれと丹青といふ也。黄色は丹か色の薄き也。黒紫は青か色のこき也。而ならの新都のめてたきをほむとて青丹よしならとはいふ也と云々。顯昭(カ)云(ク)、考日本紀に云、崇神天皇十年秋七月|武埴安彦《タケハニヤスヒコ》與2妻吾田媛《ツマアタヒメ》1謀反して軍發して各《ヲノ/\》路を配りて、夫は山城より婦は大坂より入て帝京《ミカト》を襲《オソハン》とす。時に天皇|五十狹芹彦《イサセリヒコノ》命《ト》を遣して吾田媛か師《イクサ》をうたしむ。即大坂に遮りて吾田媛をころして悉に其軍を斬《キリ》つ。後に大彦(ト)與2彦|國葺《クニフクトヲ》1を遣して山|背《シロ》に向て埴安《ハニヤス》彦を撃《ウ》つ。爰に忌瓮《イムヘ》を以て和珥《ワニ》の武〓《タケスキ》坂の上に鎭坐《シツメ》て、則精兵を卒て進て那羅《ナラ》山に登(ツ)て軍たつ時に官軍《ミイクサ》屯聚《イハミ》て草木を〓〓《フミナラス》。因て其山を那羅《ナラ》山といふ也。爰に忌瓮《イムヘ》を以て和珥《ワニ》の武〓《タケスキ》坂の上に鎭坐といへり。此忌瓮は青〓《アヲシナリ》。仍(テ)青〓|吉《ヨキ》那羅《ナラ》とは可v號《イフ》也。青丹吉とは訛《ヨコナマレル》也。委(ク)見(ヘタリ)2日本紀(ノ)第五(ニ)1と云々。私云、此青丹よしならとつゝけたる詞はならの京より猶さきに見えたり。日本紀に仁徳天皇の后磐姫のうたに云
つきねふ。山しろ河を。いや上り。わかのほれは。青丹よし。をらをゆき。をたて山をゆき。わか見かほし國は。かつらきたか宮。わきへのあたりと云々。又武烈天皇の代物部(ノ)麁鹿火《アラカヒノ》大連か女|影姫《カケヒメ》か夫大伴(ノ)鮪《シミノ》臣をなら山にころされてよめる歌に云
あをによし。ならのはさまに。しゝにもの。みつくへこもり。みなそゝく。しみのわくこを。あさりつないの乙と云々。此ふたつは皆ならの京よりはるかに昔のうた也。さて崇神天皇の御宇よりはいつれも後の哥也。亦萬葉第五筑前守山上憶良かつくしにて妻にをくれて讀る哥云
くやしかもかくしらませは青によしくぬちこと/\みせましものをと云々。是は青によしと置てならと(386)はつゝけす。され共くぬちこと/\と云は國土こと/\くといふ儀也。青丹よしならの國といはんを、青によしはやかてならの儀をなはかくつらねたり。たとへはよしのゝ宮難波の宮をは、よしのゝ國なにはの國といふかことくに、奈良の都ならの國共可號也。
たかくらの 御笠の山とつゝけり。萬葉第三山部赤人詠云、春の日をかすかの山のたかくらのみかさの山に朝さらす雲ゐたな引かほとりのまなくしはなくとつゝけよめり。是は天子御位につかせ給ふ御座を高御座《タカミクラ》といふ也。されは高御座天の日つきと家持かうたにもよめり。其高みくらの上には天|盖《カイ》のかゝれるによりて、高座の御かさとはつゝけたる也。亦大きみのみかさの山共よめり。是はよのつねの御笠にもなすらへたり。亦雨こもりみかさの山をとよめるは子細なし。不及注儀なり。
こもりくの 泊瀬とつゝけたり。萬葉集云
こもりくの泊瀬の山にてる月はみちかけしてそ人のつねなき 此外おほくよめり。萬葉にこもりくは、隱口とかきたれは、或は是をかくらくの泊瀬共よみ來れり。日本紀第十四を考るに、雄略天皇六年春二月泊瀬小野に遊し時、山野の躰勢《ナリ》をみそなはして慨然興感歌《ナケヒテミオモヒヲコシテウタヨ≡シテ》曰
こもりくの。はつせの山は。いてたちの。よろしきやま。はしりての。よろしき山の。こもりくの。はつせの山は。あやにうらくはし。あやにうらくはし。と云々。同第十七春日皇女のうたにも、こもりくのはつせの川と云々。しかれは日本紀の古語みなこもりくの泊瀬なり。此心は彼泊瀬の境地四方に山のたちめくりて口のこもれる所なり。よつてこもりく共かくらくともいふなり。しかるを後々のうたにこもり江のはつせとよみたるは、顯昭か云、口の字江の字に似たれはよみ誤れる也と云々。日本紀をはしめ萬葉のうた數首皆こもりくなれは、こもり江といふへき由來有へきにあらす。まことに誤れるなり。されとこもり江とよめる事も久しくなれは、誤なからも用るととゝなれり。亦はつせの山をとませの山共よめり。六帖云
(387)かくらくのとませの山にすそつくと豐すめ神のまきし紅と云々。是は泊瀬の泊の字泊りとよむ故によみあやまれり。舟の泊ることをは萬葉には舟はつる、舟はてゝなとよめり。亦かくらくは極樂といふ儀也といふ説有。是は沙汰の外の説なり。
あま小舟 泊瀬共つゝけたり。萬葉集云
あまをふねはつせの山にふる雪のけなかく懸し君か音そするとよめり。上に注することく、舟の泊りをははつるといふ儀にてかやうにつゝけたるなり。是をも海人小舟とませと後々はよめる哥おほし。しかれはとませと讀たるも別の所にあらす。はつ瀬を誤りにかくはよみならはしたると心得へし。私云、海士小舟はつせと云ことは思ふ所有ていへるにや。萬葉十三歌云
天雲の影さえみゆるこもりくのはつせの川は浦なきか舟のよりこぬ磯なきかあまのつりせぬよしゑやしうらはなく共よしゑやしいそはなく共奥つ浪いそひこき入こあまの釣舟と云々。河しもこそおほけれ、わきて此川に海人のつり舟の入來んことをねかひたるは思ふ心有ける與ともいひつへし。亦家隆卿うたにあまをふね廿日の月の山のはにいさよふ迄も見えぬ君哉共よめり。是ははつせとよめる詞につけて廿日ともよみ、舟によせていさよふ共云たり。亦萬葉にはつせの山の山のはにいさよふ雲とよめる哥をもそへて讀るなるへし。
みけむかふ こかめの宮とつゝけ讀り。萬葉第二
明日香皇女かくれ給ふ時柿本人丸のよめる長哥の詞也。其詞に云、君與時々幸而遊賜之御食向木〓之宮乎常宮跡定賜《キミトトキ/\ミユキシテアソヒタマヒシミケムカフコカメノミヤヲトコミヤトサタメタマヒテ》と云々。是は酒かめをは玉たれの小かめなとゝよめり。酒かめも御食に奉る物なれはみけむかふこかめとつゝけたるなるへし。みけむかふ淡路とよめるには心いさゝか替りたれ共、御食に向ふの儀は猶ひとつ心なり。
玉たすき うねねひの山とつゝけり。萬葉第一柿本人丸長歌云、玉たすきうねひの山のかし原の日しりの御代ゆあれましゝ神のあらはすとかの木のいやつき/\にと讀り。同集第二人丸妻にをくれてよめる長うたにも、かるの市にわかたちきけは玉たすきう(388)ねひの山に夜く烏の聲もきこえすと云々。畝火《ウネヒ》の山はうねみの山と讀也。玉たすきとをくはたすきは采女の衣裳也。仍て玉たすき采女とつゝくる心なり。日本紀を考るに天武天皇十一年春三月詔有て、親王以下百寮の〓《マヘモ》褶《ヒラヲヒ》脛《ハヽキ》裳亦膳夫采女|等《トモ》の手繦《タスキ》肩巾《ヒレ》並莫服《トモニナキセソ》と云々。しかれは此御時にうねめのたすきはとゝめられぬと見えたり。亦日本紀に、新羅《シラキ》の國の人のまいりたるか、やまとの國に耳成《ミヽナシ》山|畝傍《ウネヒ》山とて有ふたつの山を愛して、宇泥※[口+羊]巴椰《ウネメハヤ》彌《ミ》々|巴椰《ハヤ》といひけるを、雄略天皇のきこしめして、かの人采女をおかしたるかとていましめ給ふよし有。うねみを采女にまかへたることこゝにも見えたり。亦或説に田を鋤て畝の見ゆるといふ儀はわたくしの説也。
しなてるや 片岡山とつゝけり。聖徳太子片岡にて飢人に給りたる御うたに云しなてるや片をか山に飯にうゑてふせるたひゝとあはれ親なし しなてるは級照也。級は階《ハシ》のきさみなり。照はほめたる詞なり。宮殿のきさはしはてりかゝやく心なり。片岡山とつゝけたるは、其階のきさみの片さかりなるやうに、片岡山の段々に下れる所なれはつゝくと云々。亦萬葉第九(ニ)云、級照片足羽河之左丹塗大橋之上《シナテルカタアスカハノサニヌリノオホハシノウヘ》とつゝけてもよみたり。しかれは片をか山ならねと只片とつゝけん爲にをきたる詞と聞えたり。太子の御うたは、かのうゑ人達磨大師にておはしけれは、かの禅法の支那《シナ》をてらしたる心也といふ説は佛者よりいへるなり。萬菓の片足羽川のうたは其心さらに不叶は、只階のきさみの片さかりなるにつけて片とつゝけむためなるへし。
うまさかの 三輪とつゝけ、三室の山ともつゝけたり。萬葉集哥に云
うまさかの三わのはふらか山てらす秋のもみちのちらまくおしも わかきぬの色きそめたりうまさかの三室の山の紅葉したるにと云々。うまさかは味酒とかきたるにつけて、是をあち酒とよめることもあれと、是も日本紀を考るに、崇神天皇七年冬十二月はしめて三輪(ノ)大神を祭り給ふ。其(ノ)日活目神|酒《キ》をさゝけて天皇に献る、時に天皇御うたよみして曰(389)うまさけみわのとのゝあさ戸にもおしみらかねみわのとの戸をと云々。うまさけみわは古き詞也。此うまさかのみわとつゝけたるを或説にうまさかは甘酒のこと也。甘酒にはまた實のうきてあれは甘酒の實といふ心也と云々。此説あやまり歟。惣して神に奉る酒をはみわと申也。神酒座奉とかきて萬葉にみわすへまつると讀り。酒は先神に奉るものにてみわといふを、三輪に同し詞なれはむま洒の三輪とつゝけたる也。人をほめてはむま人といふ也。日本紀に良家子とかきてむま人の子とよめり。しかれは酒をほめてはむま洒といふ也。亦土佐(ノ)國(ノ)風土記(ニ)云、神川訓(ス)2三輪川(ト)1。源(ト)出(テヽ)2此山之中(ヨリ)1屆《イタル》2伊豫國(ニ)1。水清故(ニ)爲v大神(ノ)釀《カムニ》v酒(ヲ)也用(ユ)2此河(ノ)水(ヲ)1。故(ニ)爲2河(ノ)名(ト)1也と云々。しかれは土佐國(ニ)有みわ川も水清ければ大神のために酒をかみて、酒の名によつて三輪川と名つくと見えたり。大神とは大己貴《オホアナムチノ》神則みわの明神の名也。三室の山も三輪山の別名なれは、三輪より起りてむま酒のみむろの山共つゝくるなるへし。亦むま酒神なひ山ともよめり。萬葉十三云
春されは花咲おゝり秋つけはにのほにきはむむまさけを神なひ山の帶にせるあすかの河のとつゝけたり。是は酒を釀《カモ》する事をは酒をかむといへは其心にてつゝけたり共聞ゆ。亦神なひ山もみわ山の名なれは、三わよりこと起りてよめる心か。惣してみわの山にはあまたの別名有。三|室《ムロ》山、三|諸《モロ》山、神|岡《ヲカ》山、神かき山、神南備山、神邊の山なとよめる皆此山の名也。亦大和國に龍田の社を祭らるる所の山をも神なひの御室の山共よめり。此兩所哥にも讀まかへたることおほき歟。
石はしる 神なひ山ともつゝけたり。萬葉十三に云
みてくらをならより出て水たてのほつみにいたり鳥網はる坂とを過て石はしる神なひ山に朝宮につかうまつりて吉野へと入ますみれはむかしおもほゆと云々。是は神のたけきちからは磐をも裂て行通るなり。道速振《チハヤフル》の儀也。よつて石はしる神なひとはつゝけたる也。亦獅子虎狼のたくひは獣の中の神といふ也。かやうの猛獣は岩かけをもやすくふみかよふなれは、是をも石はしる神とはいふへし。
(390)おほ口の 眞神か原とつゝけたり。萬葉八歌云
大口のまかみか原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくにと云々。是はむかし明日香《アスカ》の地に老狼在ておほく人を食ふ。土民畏れて大口の神といふ。名(テ)2其(ノ)住(ル)處(ヲ)1號《イフ》2大口(ノ)眞神原《マカムカハラト》1と云々。見(タリ)2風土記(ニ)1。日本紀にも狼を貴神《カシコキカミ》といへり。
たゝなつく 青垣山とつゝけたり。萬葉十二哥云
たゝなつく青垣山のへたゝれはしは/\君をことゝはぬかもと讀り。たゝなつく壘《タヽナハ》りつくといふこゝろ也。青垣山は、青山の垣のことくいく重もたゝなはりて、思ふあたりをへたてたりといふうた也。日本紀を考るに、景行天皇十七年春三月つくしに幸して、日向國にいたりて京都をしのひ玉ひて、御うたよみして曰
はしきよし。わきへのかたゆ。雲ゐたちくも。やまとは。國のまほらは。たゝなつく。あをかきやま。こもれる。やまとのうるはし。命の。まそけん人は。たゝみこも。へくりの山の。しらかしかえを。うすにさせこの子。と云々。やまとの國は四方に山のたち廻りてこもれる國なれはかくよませ給ふか。亦柿本人丸吉野の行幸にしたかひてよめるうたには、らゝなはる青垣山の山すみのとよめり。壘有《タヽナハル》とかけり。よしのゝ郡はとりわき山のみおほかれはかくよめるか。青垣山はさして名付たる山は有へからす。只青山のかさなれるなるへし。私(ニ)云(ク)、舊事紀に三室の山を青垣三室山といへり。是は三室の山の名か。
たゝみこも 平群《ヘクリ》の山とつゝけたり。上の景行天皇の御哥に見えたり。亦古事紀に雄略天皇河内國|日下《クサカ》に幸してよせせ給へるうたに云
くさかへの。こちの山と。たゝみこも。へくりの山の。こち/\の。山のかひに。たちさかゆる。葉ひろくまかしと云々。たゝみこもへくりといふ心は、こもをあむには一符二符三符四ふとあむ也。みちのくにゝとふのすかこもとよめるは、十符にあめるこも也。其符を一符つゝ隔てゝあめはへくりの山とはつゝけたる也。萬葉十一云
たゝみこもへたてあむ數かよひせは道のしは草生さらましをとよめり。此うたの心は、こもを編にはこ(391)も槌《ツチ》といふものに糸をまきて、とりちかへ/\して編也。其行かへりのひまなきことくにかよはゝ、道の草は生しとよめるなり。是はこもを一すちつゝ編心に聞えたり。亦萬葉十六乞食者の歌に、から國の虎といふ神をいけ取にやつとりもち來其皮をたゝみにさして八重たゝみ平群の山にとつゝけたり。是は虎の皮のたゝみ編物にあらす。八重たゝみといへは、其たゝみ上たるかすの隔て有心にてつゝけたる也。重の字隔の字は萬葉にもかよはしてよめる也。
しもとゆふ かつらき山とつゝけり。古今集廿ふるきやまと舞のうたに云
しもとゆふかつらき山にふる雪のまなく時なくおもほゆる哉 顯昭注に云、正月の卯の日は杖をたてまつることをしもとゝいふ。杖をはかつらにてゆへはしもとゆふかつらき山とはつゝくるなり。是を卯杖とはいふ也と云々。
青はたの かつらき山ともつゝけたり。萬葉第四に、丹比眞人《タチヒノマフト》笠丸かつくしに下る時の長歌の詞に云、
家當吾立見者青旗乃葛木山尓多奈引流白雲隱《イヘノアタリアカタチミレヘアヲハタノカツラキヤマニタナヒケルシラクモカクレ》とつゝけ讀り。是は青きかつらの木にはひかゝりたるは青き旗に似たれは、かくつゝけたるなるへし。玉きはる 内の大野とつゝけたり。萬葉第一舒明天皇内野に獵し給ふ時、中皇命の献れるうたに云
玉きはる内の大野に馬なめて朝ふますらん其草深野 顯昭云、これは玉き射る春と云ことを、いるのこと葉を略しけるか。十節録(ニ)云(ク)、黄帝(ト)與2〓尤1合2戰于坂泉之野(ニ)1。〓尤有(リ)2鉄(ノ)身1。黄帝之箭|不《ス》v中《アタラ》。黄帝仰(テ)v天(ヲ)祈(ル)之時玉女降(リテ)v自v天反2閇〓尤(ヲ)1。身如(クニ)v湯(ノ)解(テ)被(レ)v〓畢(ヌ)。仍(テ)取(テ)2〓尤(カ)頭(ヲ)1毬(ツ)之。取(テ)v服(ヲ)射(ル)之。今(ノ)毬〓是(ナリ)也。以(テ)2彼例(ヲ)1漢土年(ノ)始(ニ)用(テ)2件事(ヲ)1國中無(ト)2凶事1云々。仍(テ)日本(ノ)國學(テ)2其例(ヲ)1年(ノ)始(ニ)打(ツ)2毬〓(ヲ)1。然(ル)則(ハ)毬〓(ノ)玉尅春《タマキハルハル》といふ也と云々。さては毬〓の玉き春打といふことにつゝけたりと聞ゆ。たゝし内の大野とよめるに不限、玉きはる命とつゝけたる歌万葉に數首見えたり。山上憶良か長歌に詠て云、玉剋内限者平氣久安久毛阿良牟遠事母無裳無母阿良牟遠《タマキハルウチノカキリハタヒラケクヤスクモアラムヲコトモナクモナクモアラムヲ》とつゝけて、注(ニ)云《イフ》謂《コヽロハ》瞻浮州(ノ)人(ノ)壽一百二十年也とかけり。此うたのこゝろは、玉しゐきはまる内は安くこともなくわさはひもなくてあらんもの(392)をとよみたる也。玉きはる命と讀る同し儀也。されは内の大野も、内といふ詞まうけむとて、玉きはるは命きはまるの詞をかりてよめるかとそ覺ゆる。或説には、玉きはるは玉をきはむるとて物をほめていふ詞也といひたれ共、其證見えさること也。日本紀のうたにも玉きはるうちのあそとよめり。是は武内《タケウチノ》宿禰をさして、うちのあそは内の朝臣といふ儀なり。ふるくもいへる詞なり。
もゝつたふ いはれとつゝけ讀り。萬葉第三大津|皇子《ミコ》被死《ミマカラシムル》之時|磐余《イハレ》の池にのそみてよみ給へる歌云
もゝつたふ磐余の池に在く鴨をけふのみ見てや雲かくれなん 是は五十とかきてはいとよむなり。五十六十七十八十九十といひて百に傳るのこゝろ也。いといふ詞まふけんとて百傳ふとはをく也。もゝつての八十の嶋わ共よめり。又もゝたらぬ八十|隅《スミ》坂とも讀り。もゝたらぬ三十の槻《ツキ》枝ともよめり。百よりうちのかすをはもゝつたふとも、百たらぬ共よめるなり。
ものゝふの.磐瀬の杜とつゝけたり。萬葉八云
ものゝふのいはせの杜の時鳥今もなかぬか山のとかけにと云々。是は日本紀に屯集とかきていはむとよむ也。亦滿の字をもよめり。神武天皇紀に、大軍集(テ)而|滿《イハム》2於|其地《ソノトコロニ》1。因(テ)改(テ)號《イフ》2磐金《イハレト》1と云々。大和國の磐余といふ所はしめの名は片居《カタル》と云しを、皇軍の屯《イハミ》しよりいはれと名つくと見えたり。しかれはものゝふのいはせ共つゝくるなるへし。
はし立の くらはし山くらはし河とつゝけたり。萬葉第七柿本人丸旋頭哥云
はし立のくらはし山にたてる白雲みまくほりわかするなへにたてる白雲
はし立のくらはし河の石のはしはもみさかりにわかわたらたる石のはしはも
はしたてのくらはし河の川のしつ菅われかりて笠にもあます川のしつ菅
と云々。此心は高倉の上りおりには楷をたつる也。よつてはし立のくらとつゝけたる也。此くらはし山もくらはし河もやまとの國の名所也。丹後國に天の橋立と云所有によりて、此くらはし河をもそこに有(393)といふは誤り也。古事紀を考るに仁徳天皇の御弟|速總別《ハヤフサワケ》の王|女鳥《メトリ》の皇女《ヒメミコ》をぬすみて難波をにけて大和國に入る。倉椅《クラハシ》山に上るとてよみ給ふ哥に云
はしたてのくらはし山をさかしみといはゆきかねてわか手とらすも 又歌て云はしたてのくらはし山はさかしけといもとのほれはさかしくもあらす 終に宇陀にいたりてころされ給ひぬと云々。日本紀には此皇子皇女伊せの國にてころされ給ふと見えたり。なにはをにけて伊勢に入らんにも大和國をはへぬへし。丹後國ははるかにたかひたり。
うち上る 佐保とつゝけたり。萬葉八大伴坂上郎女哥に云
打上るさほのかはらの青柳は今は春へと成にけるかも 此うちあくるさほといふ心ははたを織|梭《カヒ》をはさといふ也。さをなくる間といふは其梭をかなたこなたにとりわたす間のなきを光陰のみしかきにたとふる也。うちあくるはうち投る也。あとなとは五音のかよへるなり。亦萬葉十三長哥の詞にも投左《ナクルサ》の遠離居而《トヲサルサイテ》とよめり。梭をはなくれは手をはなるゝによせて、思ふ人に遠さかる心をよめるうた也。
よこもりの 猪養の岡とつゝけり。萬葉第二穗積皇子御歌に云
ふる雪はあはになふりそよこもりの猪かひの岡のせきにせまくに よこもりは吉隱とかけり。よくこもるといふ也。猪のしゝのね所はよくかまへてふすもの也。かるもかき臥猪とよめるは草根かつらなとやうのものを、海人の藻をかきたることくにね所にかき集てふす也。同し所に七夜ふして亦ね所をかゆるといへり。されは猪といふ詞まうけむとてよこもりとはをける也。後のうたにみこもりのゐかひの岡とよめるそ心得ぬ。水のこもる井といふ心にてもいへるか。されと本歌にはたかへり。
ふすまちを 引手の山とつゝけり。萬葉二柿本人丸妻にをくれての哥に云
衾道を引ての山に妹をゝきて山路を行はいけり共なし 是は衾を引手といふ心に聞えたり。され共道の字心得かたし。衾道も所の名に有か。未決之。
(394)紫ははひさすものそ つは市とつゝけたり。萬葉十二云
紫は次さす物そつは市の八十のちまたにあへる子や誰 是は紫にてものをそむるには椿の灰《アク》をさすなり。つは市といはんとてかくはいひかけたる也。
さつ人の ゆつきか嵩とつゝけたり。萬葉十云
かけろふのゆふさりくれは薩人の弓つきかたけにかすみたな引 さつ人は上に隼人薩摩の所に委注之。弓つきとは槻といふ木は弓に作る木也。大和國巻向といふ所に弓槻か嵩有。さつ人の弓に切槻といふ心にてつゝけたり。或人の云弓つきか嵩はむかし雄略天皇此山にて弓をつき給ひしよりいふ也と云々。それは弓〓つき給ふといふ儀なるへし。
いめたてゝ 跡見の岡とつゝけたり。萬葉八紀朝臣鹿人か哥に云
いめたてゝとみの岡へのなてしこか花ふさたをりわれはもていなんなら人の爲とよめり。いめたてゝといふは、かり人の山に入てしゝをうかかふにはまふしさすといひて、柴の枝なと折かけてその中にかくれ居て、しゝの行かよふ跡を見て射とる也。よつて射目たてゝ跡見の岡とはづゝけよめる也。萬葉十三長哥詞にも、高山の嶺の手折に射目たてゝしゝ待ことくと讀り。手折とは山道の肘折《ヒチヲル》所也。獵師は道の手折に居てしゝをねらふ心なり。亦萬葉第六赤人か哥に云、みよしのゝ秋つの小野の野上には跡見すへをきてみ山にはせこたちわたり朝かりにしゝふみおこし夕かりに鳥ふみたてゝと云々。是は聖武天皇よし野ゝ宮に行幸の時讀る長うたの詞也。此心は、秋つの小野ゝ野上とは野の高み也。そこに跡見とてしゝ射るへき兵をゝきて、み山にはせこの入てしゝを追鳥をたつる心也。此|跡見《トミ》の岡は大和國に有所也。神武天皇の官軍長|髓彦《スネヒコ》の軍としきりに戰てかつことあたはす。時に忽に天陰《ヒシケ》て雨氷《ヒタメフル》、金色の靈鵄《アヤシキトビ》飛來て天皇の弓の弭にとゝまる。其鵄ていかゝやきていな光のミとし。長髓彦か軍|迷眩《マキヘ》て力戰《キハメタヽカ》ふ事なし。時の人其所を號して鵄邑《トヒノサト》といふ。今云2鳥見《トミト》1是訛なりと云々。日本紀に見えたり。
いめ人の 伏見とつゝけたり。萬葉第九云
(395)おほくらの入江ひゝくなりいめ人のふしみの田井にかりわたるらし いめ人は夢人なり。夢にみゆる人也。夢はふしてみる心也と古人の説皆かくのことし。集には射目人とかけり。今是を案るに上のうたに射目たてゝ跡見の岡へと讀るに同し儀か。其獵師のまふしさして、其陰にわか身はぬはれふしたるやうにかくれゐて、しゝのかよふを見る故に射目人の伏見とはよめるなるへし。夢をはいめとはよみたれ共、是はかのかり人の名を射目人といふと覺えたり。細ひれの 鷺坂山とつゝけたり。萬葉第九云
細ひれの鷺坂山の白つゝしわれににほはて妹にしめさん 是は白鷺のかしらに細き毛の長きかうしろに生さかれる、女の領巾(レ)といふものに似たれは、ほそひれの鷺といふ心なり。此細ひれをはたくひれ共よめり。其時は白きひれといふ心也。それにても猶たかはさるにや。
たてなへて いつみの川とつゝけたり。萬葉十七云
たてなめていつみの河のみを絶すつかへまつらん大宮所 是は日本紀に、崇神天皇の軍兵山しろの國に發して、武埴安《タケハニヤス》彦か軍と此川を隔てゝたゝかひをいとむ。此川の名もとは輪韓《ワカラ》川、それよりいとみ河と名つく。いつみ川と云は訛なりと云々。たてなへては楯並とかけり。たてをならへていとむの心なり。
ものゝふの 八十うち何とつゝけり。柿本人丸哥云
ものゝふのやそうち川のあしろ木にいさよふ浪の行衛しらすも ものゝふの八十うちは人十氏といふ心なり。武士の氏姓のおほき心也。八十は數のかきりにて、おほきことには皆八十と讀り。亦ものゝふの宇治河わたり共萬葉にはよめり。是は八十氏といふより起りて八十を略していへるなるへし。たゝし是はちはや人宇治とよめる儀にもかなへり。舊事紀を考るに、天孫天より下り給ふ時に、兵杖を帶し供奉して、天(メ)の物部《モノヽフ》廿五部人下れり。當磨《タキマノ》物部|芹田《セリタノ》物部馬見(ノ)物部久目(ノ)物部足田(ノ)物部なと有。悉くには不記。其物部の末々相わかれては數しらぬものゝふなるへし。或説に鷹神天皇の御時吉野よりものゝふ參れり。其名をやそ氏と申者也と奏す。御門かれに所を(396)給りて山しろの國字治に住しむ。是よりものゝふの八十うち川とはいふ也と云々。此こと日本紀等に曾不v見。是は萬葉集大件家持かうたに
ものゝふのやそうち人もよし野河絶ることなく宮仕へせん とよめるによりていへる説歟。此哥の心はたゝものゝふの輩絶ることなくて君につかうまつらんといふ心を、よし野川の絶ぬにそへてよめるうたなり。
衣手の なきの河とつゝけたり。萬葉第九哥云
衣手のなきの川へを春雨にわれたちぬると家思ふらんかと云々。衣手は袖なり。なきとつゝくるは人の泣時袖を用るの心にてつゝけたる也。わか衣手を泣ぬらし、袖なきぬらしなとよみたるにて心得へし。名木の河は山しろの國に有よしなり。
さしすきの くるすの小野とつゝけたり。萬葉六大納言大伴卿の哥に云
さしすきのくるすの小野のはきか花ちらん時にし行てたむけんと云々。さしすきは指進と書り。さしとをすの心なり。過るはとをるの儀也。くるすは栗栖とかけり。栗のいかを云也。くりのいかは針にしてさしとをすといふ心にてかく云也。
夕月夜 をくらの山とつゝけたり。古今集第五紀貫之哥云
ゆふ月夜をくらの山になくしかの聲のうちにや秋はくるらん 是は夕月夜のひかりはまた明らかならすをくらきといふこゝろにてつゝけたる也。萬葉集岡本天皇御製に云
夕されはをくらの山にふすしかの今夜はなかすいねにけらしも 此うたも夕されはをくらきと云儀なるへし。躬恒か大井川の序にも、月のかつらのこなた春の梅津より御舟よそひてわたし守をめして、夕月夜をくらの山のほとり行水の大井の河へにみゆきし給へはとかきたり。
こも枕 たかせの淀とつゝけたり。六帖哥に云
こもまくら高瀬のよとにかるこものかる共われはしらて頼まむ こもを卷て枕にするをこもまくらといふ也。よのつねの枕よりは高きものなれは高瀬とつゝけたる也。日本紀に物部|麁鹿火連《アラカヒノムラシ》か女影姫かうた(397)に、いすのかみふるを過てこもまくら高橋すきともよみたり。高瀬の淀ならす共たかきことにはつゝくへきなり。
おしてるや なにはとつゝけり。萬葉十哥云
おしてるやなにはほり江の芦邊には雁ねたるかも雪のふらくに 古今集十七哥に云
おしてるやなにはのみつにやく塩のからくも我は老にけるかな 日本紀抄(ニ)云、難波高津(ノ)宮於|辭底婁《シテル》。師説(ニ)難波(ノ)崎如2押|出《イタセル》1云々。此儀にてはなにはの崎の海におし出たる心也。日本紀仁徳天皇八田皇女を納んとおほしめして后に乞給ふ御哥に云
おしでるやなにはのさきのならひ濱ならへんとこそ此子は有けめ.此うたおし出たるの心かともきこえたり。亦萬葉廿大伴家持哥に云
櫻花今さかり也なにはの海おしてる宮にきかしめすなへと云々。なにはの宮をはやかておしてる宮ともよめる也。かくあれはおし照の詞は難波にかきるへく聞えたるを、喜撰式に塩海おしてると云。能因哥枕も同之。よつて後々の哥にはなにはならてもよめるなり。
おしてるやよさの濱こそ戀しけれ泪をよするかたしなけれは 亦堀川次郎百首唐人をよめるうたに云
おしてるや千重の白浪分過てわか日のもとにいかてきつらん これら皆塩海の惣名に詠したり。おしてるは潮照といふ儀につけり。塩のよく滿て海のなきたるをは照といふ也。土佐日記に浦ことてりてこきゆくといへる其心也。同し日記に住よしの奥にてかゝみを海にはめたる時のことはにも、うちつけに海はかゝみのこと成ぬれはともかけり。これ皆風浪のやみて潮のたいらかになれる心也。文選にも天臨(テ)海鏡(ノ如)と云々。しかれは潮照の詞も猶可用なり。わか國には難波の海第一の津なれはほめておしてるといふ共心得へし。
あしかちる 難波共つゝけたり。萬葉廿家持哥云
うな原のゆたけき見つゝあしかちるなにはに年は經ぬへくおもほゆ あしかちるはあしの花散なにはといふなるへし。なにはをは波華共かけり。あしのほの散て波の華といふこゝろにも聞えたり。日本紀に(398)神武天皇東征し給うて、皇船《ミフネ》到(ル)2難波之碕(ニ)1會《アヒヌ》2有|奔潮太急《ハシルシホノハヤキニ》1。因(テ)以名(ケテ)爲2波速(ノ)國(ト)1。亦曰2波華(ト)1。今|謂《イフハ》2難波(ト)1訛と云々。
おほともの 御津とつゝけたり。萬葉第一云
大伴のみつの濱なる忘貝家なる妹を忘れておもへや 同第七、あほとものみつのはまへをうちさらしよせくる波の行衛しらすも此外おほく讀り。此大とものみつといふみつは瑞といふ儀也。物をほむること葉也。日本紀に神武天皇御歌に云
をさかの。おほむろやに。人さはに。いりおりても。き入おりても。みつ/\し。くめの子らか。かふつゝゐ。いしつゝゐもち。うちてしやまん。抄に云、みつ/\しは瑞々なり。くめの子等とは大久目のものゝふか軍|功《コフ》しるし有事をほめ給ふ詞也。是は神武天皇東征の時、大伴(ノ)道|臣《オムノ》命大將として大|來目部《クメフ》を卒して、凶賊こと/\くたいらきぬ。よつて大ともの瑞とほめたる心にてつゝけたる詞也。亦難波の津を御津と名付る事は、仁徳天皇の后磐(ノ)姫|豐樂《トヨノアカリ》のおん爲に御綱柏《ミツナカシハ》をとらんと覺して、紀伊國に幸行し給ふ時、天皇后のおはしまさぬひまをもつて、八田《ヤタ》の若《ワカ》郎女をめし入させ給ふ。后御綱柏をとりて舟に積てかへり給ふに、此ことをきゝ給て、大にうらみいかり給て、其御舟に載所の御綱柏をこと/\く此海に投棄させ給ふ。故に號(シテ)2其|地《トコロヲ》1謂(フナリ)2御津(ノ)前《サキト》1也と云々。くはしく古事紀風土記等に見えたり。しかれは御津のかしはを捨給ふ故に其柏の名につきて御津とはいふ也。此みつの儀につきて異説有故に本説を注る也。
玉かきの みつの湊共つゝけたり。曾丹三百六十首中の哥に云
玉かきのみつの湊に春くれは行かふ人の花をたむくるとよめり。是は神のいかきをは玉垣といふ。亦みつ垣共いふ也。玉かきの瑞と云心にてつゝけたる也。大伴の瑞といふ儀も是にてよく聞えたり。
あま衣 たみのゝ嶋とつゝけたり。古今集十七云
なにはかた塩みちくらしあま衣たみのゝ嶋にたつなきわたる 顯昭注云、あま衣とはとりものゝ中に有。あまきぬといふもの也。たみのといはんとてあ(399)ま衣とはをける也。蓑則雨にきる衣なり。雨衣をは油衣ともかけり。三品以上雨(ニ)聽《ユルス》2雨衣(ヲ)1と云々。
しら菅の 眞野とつゝけたり。萬葉集に云
いさや子らやまとへ早く白菅のまのゝはき原た折てゆかん
しら菅のまのゝはき原行さ來さ君こそみらめまのゝはき原 しら菅ま野とは菅をは眞菅といふ故につゝけたる也。此眞野はつの國に有所なるを、やまとへ早くとよめるにつけて大和國に有と心得るは誤り也。眞野のはきを折てやまとへのみやけにせんといふ心也。私云、菅は眞野といふ所の名物か。萬葉哥云
わきもこか袖をたのみてまのゝ浦の小菅の笠をきすてきにけり 亦云
眞野の池の小菅を笠にぬはすして人のとを名をたつへきものか 此所菅の有所にてしら菅ま野とつゝくるかとも聞えたり。
しなか鳥 猪名野とつゝけたり。萬葉第七云
しなか鳥ゐな野を行は有馬山夕きり立ぬやとはなくして 俊頼朝臣無名抄云、ゐな野はつのくにゝ有所也。ゐな野と云んとてし長鳥とはつゝくることを人の尋る事にて、たしかなることも聞えす。むかし雄略天皇其野にて狩し給ひけるに、白きかのしゝのかきり有て、ゐのしゝはなかりけれはいひそめたる也。しなかとりとは白きかのしゝのかきりとられたれはいひ、猪野無野とはゐのしゝのなかりけれは云也とそ申つたへたる。居るにかりきぬの尻の長けれは、土につけしとてかりきぬの尻をとれは、しなか取と申人もあり。それは見くるし。いつれの野山にかは人のゐんにかりきぬの尻の土にはつかさらん。清輔朝臣奥儀抄云、これ世の古こと也。雄略天皇のかの野にてかりし給しに、白きかのしゝをひとつ取て、猪のしゝなとはなかりけれは、かの野をしなか鳥猪無野といふ。白き鹿をとりて猪はなき野といふ心也と云々。此ふたつの抄の説、ひとつには白き鹿のかきりをとうて猪はなき野といひ、ひとつには白き鹿ひとつをとりて猪はなき野といふ所はすこし相違あれ共、白き鹿のとられて猪の無といふ儀は同しこと(400)也 されは此儀を用へきにや。能因うた枕にはしなかとり白き猪を云。綺語抄に源頼綱朝臣の説もゐのしゝをし長鳥といふ。これらはしなか鳥は猪の名といふ心歟。
枕詞燭明抄 下
枕言葉目録下
いもに戀 わかの松原 さくら麻 おふのうら
天の原 ふしのしは山 まよひき 横山
夏そひく うなかみかた にほとりの かつしか
おほ舟の かとりのうみ まくら香 こかのわたり
あられふり 鹿嶋 さ衣の 小つくは
衣手の たなかみ山 ゆふたゝみ 同
つるきたちさやをぬきいてゝ いかこ山
にほとりの おき長川 こまつるき わさみか原
ひなくもり うすひの坂 あらたへの 藤江か浦
ま菅よき そかの川原 ふる衣 まつちの山
紫の 名たかのうら あられふり きしみかたけ
遠つ人 松浦又かりちの池 つまかくす やのゝかみ山
こと酒を おしたれ小野 衣手の まわかのうら
ひもかゝみ のとかの山 あら玉の 年 月 日
もゝしきの 大宮 さすたけの 大宮
(401) うち日さす 宮 すく六の 市場
しきたへ 枕 床 家 たくふすま しらき
くちらとる 海 わかくさの つま
まくらつく 妻屋 みつかきの 久しき世
うつせみの 世 命 妹 すみそめの ゆふへ
おほきみの 天の川原 みつくりの 中
かけろふの 春 夕 石 衣手の あしけの馬 亦 まなつるのあしけ
いもに戀 わかの松原とつゝけり。萬葉第六聖武天皇伊勢國に行幸の時の御製に云
いもに戀わかの松原みわたせは塩のひかたにたつ鳴わたる わかの松原は吾の松原とかけり。是は妹に戀て吾か待といふ心にてつゝける也。此集十七卷のうたに云
わかせこにあか松原よ見わたせは海士をとめ共玉もかる見ゆ 同し心也。
さくら麻の おふのうらとつゝけたり。俊頼朝臣詠云
櫻麻のおふの浦浪たちかへりみれ共あかぬ山なしの花 さくら麻とは麻の名也。萬葉に櫻麻の苧原の下草とよめり。麻の生たる畠をおふとこそは古くはよみたりけるを、おふの浦につゝけたるは俊頼朝臣のはしめてよめる歟。是を本にておふの浦にはつゝくへし
天の原 ふしのしは山とつゝけたり。萬葉十四東歌云
天の原ふしのしは山木のくれの時ゆつりなはあはすかもあらん 是はことなる子細なし。かの山のきはめて高けれは、其いたゝきの天に及ふ心にていへる(402)也。同集第三山部赤人かふしの山を望うたにも 天地のわかれし時に神さひて高くかしこきするかなるふしのたかねを天の原ふりさけみれはわたる日の影もかくろひてる月のひかりも見えすとつゝけたり。都良香富士山(ノ)記(ニ)云、富士山者在(リ)2駿河(ノ)國(ニ)1峯如2削(リ)成(ルカ)直(チニ)聳(ヘテ)屬(リ)v天(ニ)とかけり。竹取ものかたりにも、天にちかき山をもとめて不死の藥をやかせ給はんとて、此上にのほせてやかせ給ふといへり。
まよ引の 横山とつゝけたり。同しく東歌に云
妹をこそ相見にこしかまよひきのよこ山へろのしゝなすおもへる まよひきは眉引也。女の眉横に引ものなれは、横山といはんとて置たることは也。亦山のみどりなるをはまゆ墨にもたとへたり。日本紀(ニ)云、有2賓(ノ)國(ニ)1譬(ヘハ)如2美女之〓《ヲトメノマヨヒキノ》1有2向津《ムカツ》國1と云々。これはふたつの眉引相向ふのこゝろ也。
夏そ引 うなかみかたとつゝけたり。同しく東歌云
夏そ引うなかみかたの奥つすに舟はとゝめむさ夜ふけにけり 亦俊頼朝臣哥云夏そひくうなかみ山の椎柴にかし鳥鳴つ夕あさりして 海上は上総國に有郡の名也。奥儀抄云、麻の生たる所をはうといふ也。あさうなといふうもしをとらんとて夏そ引とはいふ也と云々。亦云、をゝは刈て後にうは皮をはとりて捨る物にて有を引といふ也。亦麻をは根なから引へしともいへり。私(ニ)云、古語拾遺を考るに云、天富《アマトミノ》命《ト》更《サラニ》求《モトメテ》2沃壤《ヨキトコロヲ》1分(チテ)2阿波(ノ)齋部(ヲ)1卒(テ)2往(キテ)東土《アツマノクニヽ》1播2殖《ウツシウフ》麻穀《アサカチヲ》1。好(キ)麻(ノ)所v生|故《カレ》謂2之(ヲ)總(ノ)國(ト)1。穀木《カチノキノ》所v生(ル)故(レ)謂2之(ヲ)結城郡《ユフキノクニト》1。 注(ニ)云(ク)、古語麻謂(フ)2之(ヲ)總(ト)1也。今爲2上總《カムツフサ》下(ツ)總(ト)1二國是也と云々。此儀にては上總下總のふたつの國はもとより夏そ引へき國なり。
にほとりの かつしかわせとつゝけたり。同しく東歌に云
にほとりのかつしかわせをにゑすともそのかなしきをとにたてめやも かつしかは葛餝とかく。下總國に有郡の名也。にほとりと置たるは、鳰といふ鳥はよく水にかつくといふ心にて、かつしかとはつゝけたる也。しかるを奥儀抄の説顯昭法師か説には、にほとりはにゐとりといふ心なりと云々。是は稻の早(403)く出來るをはわせといへは、それをはしめて刈とるの心にて新取と釋せられたり。亦無名抄に、かつしかわせとはいねにて有を、おものにせんとてこめになすの名也とかゝれたれ共、是は萬葉を不考のあやまりなるへし。
おほふねの かとりの海とつゝけ讀り。萬葉十一云
大舟のかとりの海にいかりおろしいかなる人か物思はさらむ これは大舟の楫取《カムトリ》といふ心にてつゝけたれ共、やかて大舟によりていかりおろしともよめる也。かとりのうみは下總國に楫取明神のおはする所也。亦あふみの國にも香取の海は有なり。
まくらかの こかのわたりとつゝけたり。萬葉十四東歌云 まくらかのこかのわたりのからかちの音たかしもなねなへ子故に 是はまくらかのこかるゝと云心にてつゝけたりと云う。たゝし此まくらかといふも所の名と覺えたり。同し東うたの中に云
白たへの衣のそてを枕かよあまこきく見ゆ浪たつな夢とよみたり。まくらかよと讀るは枕かよりといふ詞也。白たへの衣の袖をとをきたるは枕と云詞もとめんため也。枕かより海土のこきくるか見ゆるといひたれは、枕香は所の名そと聞えたり。枕かといふ所にこかのわたりといふわたりの有なるへし。此こかのわたりも下總國に有と云り。たゝし萬葉には未勘國の内の哥に入り。
あられふり かしまとつゝけたり。萬葉第七に云
あられふり鹿嶋の崎を浪たかみ過てやゆかん戀しきものを 同集廿哥云
あられふりかしまの神をいのりつゝすめらみくさにわれはきにしをと云々。是はあられふるをとのかしましきといふ心にてつゝけたり。亦あられふりきしみか嶽とよめるうたも同し心也。其うた奥に注之。
さ衣の をつくはとつゝけたり。萬葉十四常陸國のうたに云
さ衣のをつくはねろの山のさきわすらゑこはこそなをかけなはめ 是は衣の紐の緒つくるといふ心にてさ衣のをつくはねろとはつゝけたる也。根をねろといふは東俗のことは也。をつくはは小筑波といふ儀歟。ひえの山を小ひえ共いふ同し心かと云々。私云、(404)かのつくはの山はふたつの嶺相ならへり。高き方を雄神《ヲノカミ》と名付、相副る方を女の神といふ。いはゆる夫婦の神也と常陸國の風土記に見えたり。しかれは萬葉にも雄の神女の神とつくは山のことをはよみたり。亦ふたなみのつくはの山とも讀り。二並とかけり。雄の嶺女の嶺相ならふの心也。されは其男の神の嶺をさしてをつくは共讀る歟。
衣手の たなかみとつゝけたり。萬葉第一藤原宮の役民か作る長歌の詞に云
石はしるあふみの國の衣手の田上山のま木さくひのつまてをものゝふの八十氏川にとつゝけよみたり。是は衣手の手といふ字よりたなといひつゝけんため也。手にはたな心たなうらなといふゆへにかくいひかけたり。
ゆふたゝみ たなかみ山共つゝけたり。同集十二哥云
ゆふたゝみたなかみ山のさなかつらありさりてしもあらしめす共と云々。是はゆふをたゝむ手とつゝけたる歟。亦ゆふたゝみしらつき山とも、亦ゆふたゝみたむけの山共つゝけたり。ゆふは白きものにて神に手向るものなれは、しらつき山共手向の山共つゝくる也
つるきたちさやをぬき出て いかこ山とつゝけたり。萬葉十三長歌詞云
いや遠に里さかりきぬいや高に山もこえきぬつるきたちさやをぬき出ていかこ山いかゝわかせん行衛しらすてとよめり。是はつるきを拔ていかくといふ心也。たちをかくとはうつ心なり。いかくのいはそへたる字也。日本紀に八廻弄槍八廻撃刀《ヤタヒホコユケシヤタヒタチカキス》と云々。
鳰とりの 息長《ヲキナカ》河とつゝけたり。萬葉廿云
鳰とりのおきなか川は絶ね共君にかたらふことつきめやも 是は鳰といふ鳥は水に入て久しく有ものなれは、息長《イキナカ》しといふ心なり。亦海に出たる川を奥中川といふ儀あれ共不可用。息長川は江州の名所也。風土記に見えたり。
こまつるき わさみか原とつゝけり。萬葉第二柿本人丸長歌詞云
そともの國のまきたてるふは山こえてこまつるきわさみか原のかり宮にやすもりましてとつゝけよめ(405)り。わさみか原は美濃のくにに有。こまつるきは高麗つるき也。是は釼にはさひといふ物の出來る故にて、わさみか原とはさひといふ心にてつゝけたるか。日本紀のうたに云
八雲たつ出雲たけるかはけるたちつゝらさはまきさひなしにあはれ ひとみと同韻の字なれはさひさみ同し儀歟。或説にはこま人のつるきにはつはなとはなくて輪をかけたり。わと云ことはつゝけんとてかくいへるかと云々。亦萬葉十一うたに云
わきもこか笠のかりてのわさみ野に我は入ぬと妹につけこそ 此うたかさの借手とは、笠に緒をつくる所にはちいさき輪を作りて、それより緒をつくる也。其輪を笠のかりてといふなり。よつて笠のかりてのわさみ野とはつゝけたると云々。わさみ野|和射見《ワサミ》か原同し所なり。亦堀川百首公實卿のうたには、笠のかりてのわさみのを蓑のことによまれたるか。其うたに云
ま菅よき笠のかりてのわさみのをうちきてのみや過わたるへきと云々。
ひなくもり うすひとつゝけたり。萬葉廿下野國防人か哥に云
ひなくもりうすひの坂をこえしたに妹か戀しくわすらへぬかも 日なくもりは日のくもり也。くもり日の薄日《ウスヒ》といふ心にて云つゝけたるか。日のくれをは日な暮といふも東俗の語也。私云、亦萬葉十四卷の東うたの中に云
日のくれにうすひの山を越る日はせなのか袖もさやにふらしつ これも日のくれには薄くなるの義歟。亦うすひの山は碓氷とかきたれは、夕陽の舂《ウスツ》くといふ心にてもつゝけたる歟。いかさまにもうすひといはん枕詞也。よのつねに夕くれにかの山越るといふにはあるへからす。
あらたへの 藤江のうらとつゝけり。萬三柿本人丸うたに云
あらたへの藤江のうらにすゝきつる海士とか見らむ旅行我を 是はあらき布の藤といふ心よりつゝけたる也。藤衣とは藤にてあらくおりたる布也。賤しきものゝきる衣也。亦服衣にも是を用るなり。山上憶(406)良かうたに云
あらたへの布きぬをたにきせかてにかくやなけかんせむすへをなみと讀るも、家貧しくて藤の衣をさへに子共にきせかねたりといふ由也。うつくしくやはらかなる布をは和拷《ニキタヘ》といひ、藤にておれる布をは荒拷《アラタヘ》といふなり。藤江のうらは所の名なれ共、あらたへのと置ねるは此こゝろ也。同集第六赤人のうたにはあらたへの藤井か浦とよめり。藤江或は藤井ともいふふ。同し所也。はりまの國に有。
ま菅よき そかの河原とつゝけたり。萬葉十二云
ますけよきそかの川原になく千鳥まなしわかせこわか戀らくは そかの河原は出雲國に有所也。日本紀に、素盞烏《ソサノヲノ》尊稻田姫と住給はんの所をもとめて、こゝにいたりて乃言《スナハチコト上シテ》曰(ク)吾心清々之《アカコヽロスカ/\シ》。今此地を呼て清《スカ》といふと云々。すとそと五音かよひたれは清《スカ》を索我《ソカ》共云也。亦菅はすかといふ故にますけよき菅《スカ》といふ心にてつつけたり。菅をは笠にもみのにもむしろにもつくる草にてあれは、ほめてま菅よきとはいふ也。亦二條院讃岐哥云
千鳥なくそかの川風身にしみてま菅かたしき明す夜は哉 これは此川にすなはち菅の生たる心に讀たり。菅は川にもおほく讀たれは、ま菅のよきか生る索我の川原共云へし。
古衣 まつち山とつゝけたり。萬葉第六石上乙丸土佐國に配流の時のうたに云石上ふるのみことはたはやめのまとひによりて馬しもの繩とりつけてしゝしもの弓矢かこみて大きみのみことかしこみ天さかるひなへにまかる古衣まつち山よりかへりこぬかもと云々。まつち山は又打山とかけり。古き衣はときあらひてふたたひうつ心にてかくつゝけたり。同し集十二のうたにも
つるはみのきぬときあらひ又打《マツチ》山もとつ人には猶しかすけりとよみたり。同し心也。
むらさきの 名高の浦とつゝけたり。萬葉十一云
紫の名高のうらのなひきもの心はいもによりにし物をとよめり。紫はよろつの色の中にすくれて位たかき色に用る故に、紫の名高(キ)とはつゝくるなるへし。冠も紫冠は大臣の位に日本紀にもいへり。亦萬葉十(407)六哥云
紫のこかたの海にかつく鳥玉かつき出はわか玉にせん 此うたはむらさきの色こきといふ心にてつゝけたる也。かつく鳥とはまことの鳥にあらす。海士のかつくをよめると云々。こかたの海はつくしに有歟。
あられふり きしみかたけとつゝけたり。萬葉三哥に云
あられふりきしみかたけをさかしみと草とりかなや妹か手をとる 此うたもあられふりてかしましきといふ儀也。きしみかしま皆五音かよへるなり。風土記にはきしまか嶽と云々。肥前國に有所也。風土記(ニ)云(ク)、杵島《キシマノ》郡(リノ)南二里(ニ)有2一(ノ)孤山1。從(リ)v坤(ル)指(テ)v艮(ヲ)三(ノ)峯相(ヒ)連(ル)。是(ヲ)名(ク)2杵嶋(ト)1。坤者(ヲ)曰(フ)2比古神(ト)1。中者(ナルヲ)曰2比賣神(ト)1。艮者(ナルヲ)曰2御子神(ト)1。一(ニ)名(ク)2耳子《ミヽコ》神(ト)1。閭《サトノ》士女提(ケ)v酒(ヲ)抱(ヒテ)v琴(ヲ)毎歳春秋《トシコトノハルアキ》携(リテ)v手登(リ)望(ム)。樂飲歌舞(フ)。曲盡(テ)而歸(ルトキ)歌(フ)詞(ニ)云、阿雁禮符縷耆資熊加多〓塢嵯峨紫彌占區緒刀理我泥※[氏/一]伊母我堤鴎刀縷《アラレフリキシマカタケヲサカシミトクサトリカネテイモカテヲトル》と云々。
速つ人 松浦とつゝけたり。萬葉五山上憶良か佐用媛を讀るうたに云
遠つ人まつらさよ姫つま戀にひれふらしよりをへる山の名 是は遠人を待といふ心につゝけたり。亦萬葉十二のうたに云
遠つ人かりちの池に住鳥のたちても居ても物をしそ思ふ 是は速つ人雁といふ心につゝけたり。同し集十七大件家持か哥に云
今朝の朝け〓風寒し遠つ人雁かきなかむ時ちかみかもと云々。かりちは獵道とかきたれ共雁の心なり。うたには鳥けたものも時によりて人とはよむ也。ほとゝきすをも此集にはもとつ人とよめり。かりちの池は其國たしかならす。
妻こもる 矢野神山とつゝけり。萬葉十柿本人丸うたに云
つまこもるやのゝかみ山露霜ににほひそめたりちらまくおしも つまこもるは妻隱と書たれはつまかくす共よみたり。是は妻をかくすやといふ心にてつゝけたり。人しれぬ屋にをくをかくれ妻共こもりつま共よめり。よのつねにも妻をは人には見せぬものに(408)て奥やにこめ置なれはつせかくす屋とはいふへし。つまこもるやかみの山共よみたり。皆屋といふ詞まふけん爲也。俊頼朝臣哥云
つまかくすやのゝ山なるかへの木のつれなき戀にわれもとしへぬ.是やのゝ神山を畧してやのゝ山とも詠したる歟。
こと酒を 押垂小野とつゝけたり。萬葉十六長歌詞云
琴酒をおしたれ小野に出る水ぬるくは出すひや水のとつゝけ讀たり。これは琴をはおさへ、酒をはたるゝものなるによつてかくつゝけたる也。琴と洒は賢人の友とするものにて、相ならへてはいふ也。押垂小野有所未勘之。
衣手の 眞わかのうらとつゝけたり。萬葉十二云
衣手のまわかの浦のまなこ地のまなし時なしわか戀らくは 衣手は袖なり。袖をはま袖といふ詞を以てかくはつゝけたり。ま袖とは左右の袖をいふ也。萬葉に兩手とかき、或は二手とかき、或は左右手とかきてまてとよみたり。かくのことくならは兩の袖をま袖といはんも叶たり。物の調りたるを眞と云。不調を片といふ。常のことなり。まわかのうらも有所未勘と云々。私云、まわかの浦眞若浦とかけり。もし若のうらに眞の字をくはへて云る心歟。眞といふ字は何にもくはふる詞也。くまののうらを眞くま野のうら共よめる同しやうの儀歟。ひもかゝみ のとかの山とつゝけたり。萬葉十一柿本人丸家(ノ)集(ヨリ)出(タル)歌(ニ)云
ひもかゝみのとかの山も誰故か君きませるに紐とかすねむ 此ひもかゝみのこと、氷面鏡とて氷の閉たる水の面はかゝみのことし。よつて氷面《ヒモ》かゝみといふ。のとかの山とつゝくる心は氷の居たる水はのとかなる心也と云り。うたの心さはあらぬにやと覺えたり。ひもかゝみは紐鏡とかけり。是はかゝみを袋にもきぬにもつゝみて紐結たるなり。のとかの山とつゝくるはなとかの山と云儀也。其紐なときその心也。さて末の句にたれ故か君きませるに紐とかすねんとよみたる心は、紐かゝみなときそといふ山はたれ放そ思ふ人のきたる夜なとか紐ときてねさらんといふ心なり。のとかの山も國未勘之。此外の所の名(409)に とふ鳥のあすか 春の日をかすか から衣たつた あしかきのよし野 雨つゝみみかさの山 戀衣きならの山 あらひ衣取かへ川 いもか目を見そめの崎 いもか手をとり子の池 春くさを馬くひ山 いもかゝみ上さゝは野 やきたちをとなみ關 あつさ弓引野 玉くしけ二見のうら なとやうにいひかけたる哥は不可勝數。これらは注するに及はされは皆不載之。
あら玉の とし共春共月日ともつゝけたり。是は年も月も日もあらたまるものゝ故也。年春なとよめるうたは不及載之。月とよめる哥古事記を考るに、尾張(ノ)國|美夜受比賣《ミヤスヒメ》か日本武尊に奉るうたにいはく
たかてる。日のみこ。やすみしゝ。わかおほきみ。あらたまの。としかきふれは。あらたまの。つきはきえゆく。うへなうへな。きみまちかてに。わかきせる。をすひのすそに。つきたゝなんよ。亦萬葉廿大伴家持か長うたの詞に云
わかくさの妻をもまかすあらたまの月日よみつゝあしかちるなにはの御津にとつゝけたり。亦萬葉某十一哥に云
あら玉のす戸か竹垣編目にも妹し見えなはわれ戀めやもと云々。是はあたらしく作りかへたるす戸を讀る歟。亦同し集十四東歌遠江の國のうたに云
あらたまのきゑの林に名をたてゝゆきかつましゝいをさきたゝに 是は遠江の國に麁玉《アラタマ》郡有。そこをよめる也。まくら詞のあら玉にまかふへけれはこゝに注之。
もゝしきの 大宮とつゝけたり。禁中には百のつかさの座をさためて百のしき物有故也と云々。大宮とつゝけね共もゝしきとはかり讀るも内裏のことなり。うた共不及載
さす竹の 大宮人とつゝけたり。萬葉第六石川朝臣足人哥に云。
刺竹のおほ宮人の家と住さほの山をはおもふやも君 刺竹とは或説に矢のこと也。矢のかすのおほきによつて大宮人とはつゝけたり。日本紀にも天照大神|千箭《チノリ》の靱《ユキ》と五百箭《イホノリ》の靭《ユキ》を負給ふと云々。かやうの儀にてさす竹はおほきことに云なるへしと云々。亦云、(410)禁中の守りにて近衛つかさなるものはつねに弓箭を對してあれは、それを刺竹の大宮人ともいふ歟。萬葉十六竹取老翁か哥に、刺竹の舍人《舎人》おとことよめる、矢をさしたる舍人といふ心か。亦刺竹は大宮のことなれは大宮に仕ふる舍人おとこともいふへし。難決之。聖徳太子片岡にて飢人にたまふ御うた日本紀に云
しなてる。片をか山に。いひにゑて。こやせるそのたひと。あはれおやなしに。なれなりけめや。さすたけの。きみはやなき。いひにゑて。こやせるそのたひとあはれと云々。此御うたのさす竹のきみ猶凡慮にて分かたし。亦或抄に云、さす竹は垣なとに刺竹也。おほくさしならふる心にて大宮人とつゝけたりと云々。後々のうたにはさゝ竹の大宮人とそ讀ならはしたる。もとはさす竹と有れ共聞よきにつけてさゝ竹とはあらため讀るなるへし。私考萬葉十一哥云
刺竹のはかくれに有わかせこかわかりしこすはわれ戀めやも 此うたにては刺竹は只竹の事ときこえたるか。はかくれなとよめるは竹の葉にかくれたるなるへし。草によせてよめる哥共の中に此うたをもましへ出せり。矢にも羽はあれ共それをはかくれとよむへからす。
うち日さす 宮とよめり。萬葉十一の歌に云
うち日さす宮ちの人はみちゆけとわかおもふ人はたゝひとりのみ 亦云
うち日さす宮にはあれと月草のうつしこゝろはわか思はなくに 此外おほくよめり。是は宮殿のかまへは高けれは、内に日のさす宮とつゝけたる也。萬葉に打日さす内日さすとかきたれ共、内日さすといふかまことの文字なるへし。
すくろくの 市場とつゝけたり。拾遺集云
すく六の市場にたてる人妻のあはてやみ南ものにやはあらぬ 是はすくろくの目には一より六まて有。盤の上に一はなといふ詞あれはそれを市の庭にいひかけたり。市場にたてる人つまは由緒有。
しきたへの まくら共床共袖共つゝけたり。しきたへは敷なれたる心也。萬葉に敷妙敷細なとかけり。妙(411)細の字はくはしきともよめり。つねにしきていぬる物をしきたへといふへし。旅ねなとにて一夜の枕なとをしきたへとは讀へからす。亦しきたへのいもか黒髪なとよめるも、女のくろかみはことに長くしてふせはしかるゝ故也。亦しきたへの家共讀り。萬葉第三新羅尼理願か身まかりけるに坂上郎女かうたにいはく
とゝめえぬ命にしあれはしきたへの家より出て雲かくれにき 家はつねに座する所なれはしきたへとよめる、亦床共枕共いはてたゝしきたへとはかりよめるも床まくら在との事也。
たくふすま 新羅とつゝけたり。萬葉十五新羅國へつかはさるゝ使人の妻か歌云
たく衾しらきへいます君か目をけふかあすかといはひてまたむ たくふすまは拷衾とかけり。白きふすまなり。拷の字たへ共よめり。白たへの衾といふ儀にてしらきとはつゝけたる也。萬葉に拷《タヘ》の穂に夜るの霜ふりと讀たるも霜の白くふれるなり。日本紀神功皇后に神の託して誨《オシへ》てのたまふ詞(ニ)云(ク)、有2寶國《タカラノクニ》1譬《タトヘハ》如(クニ)2美女之〓《ヲトメノマヨヒキ》1有2向津《ムカツ》國1。眼炎《マカヽロク》之|金《コカネ》銀《ネ》彩色《ウルハシキ》多《サハニ》在(リ)2其(ノ)國(ニ)1。是(ヲ)謂《イフ》2拷衾新羅《タクフスマシラキノ》國(ト)1焉。若(シ)能(ク)祭《マツリ玉ハヽ》v吾(レヲ)者則曾(テ)不《ス》v血《チヌラ》v刃(ニ)其國必|自服《マツロヒナシ》矣と云々。亦萬葉第三坂上郎女か尼理願をいたみてよめる長うたには拷角《タクツノ》の新羅國共よめり。亦萬葉十四東哥の中に
たくふすましら山風のねなへ共ころかおそきのあれこそゑしも 是はしら山につゝけたり。新羅とつゝけたるも白きといふこゝろよりいへは、白山にもつゝくるなるへし。
くちらとる 海とつゝけたり。萬葉十六哥云
くちらとる海や死する山やしにするしねはこそ海は塩干て山は枯すれ 顯昭法師哥云
くちらとるかしこき海のそこ迄も君たにすまは浪ちしのかむ くちらとる海とは鯨の海を領するこゝろ也。淮南子に鯨鯢(ハ)魚之|王也《キミナリト》云々。魚の中の王にて海をとるの心也。世を取、國を取なといふに同し心なり。亦いさなとる海とよめるも、いさは鯨の名也。鯨取とかきたる所をいさなとるとよみても同しこと也。鯨伏《イサフシ》といふ所は壹岐(ノ)國に有。かの國の風土記(ニ)云(ク)、(412)鯨伏(ハ)財2郡(ノ)西(ニ)1。昔者|鮨鰐《ワニノウヲ》追(フ)v鯨(ヲ)。走(リ)來(テ)隱(レ)伏(ス)。故(ニ)云(フ)2鯨伏(ト)1。鰐并(ニ)鯨并化(シテ)爲(ル)v石(ト)。杳(カニ)去(ルコト)一里。俗(ニ)云(テ)爲2伊佐(ト)1と云々。衣通姫のうたに云
とこしへに君もあへやもいさなとり海のはまものよるとき/\を 萬葉にも勇魚取《イサナトル》海とかきたる所も亦おほし。いさなはいさめる魚といふ心歟。亦萬葉第二天智天皇崩御の時大后の歌にいはく
くちらとるあふみの海をおきさけてこきくる舟へにつきてこきくる舟おきつかいいたくなはねそへつかいいたくなはねそわか草のつまのおもふ鳥たつ 此うたあふみの海は水うみ也。くしらとるの詞いかゝといふ儀有。鯨鯢は惣して魚の王ならんには、よろつの魚のあらん所は水海にても猶領したる儀なるへし。わかくさの つまとつゝけたり。古今集春哥云
かすか野はけふはなやきそわか草のつまもこもれり我もこもれり 此わかくさのつまは萬葉にもおほくよめり。日本紀を考るに、仁賢天皇六年秋九月己酉(ノ)朔壬子(ノ日)遣(シテ)2日鷹吉士《ヒタカノキシヲ》2使(ヒシテ)2高麗《コマニ》2召《コフ》2巧手者《テヒトヲ》1。是(ノ)秋日鷹吉士被(レテ)v遣後(ニ)有(テ)2女人《ヲムナ》1居(リ)2〓難波御津(ニ)1。哭(テ)之曰(ク)於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ヲモニモヲアレニモヲワカクサアカツマアハレ》矣。注(ニ)云(ク)古(ヘ)者以(テ)2弱草(ヲ)1喩(フ)2夫婦(ニ)1。故(ニ)以(テ)2弱草(ヲ)1爲v夫《ツマト》と云々。つまとは夫婦ともにかよはしていふ詞也。妻は夫をつまと云。夫はもとより婦をつまといふ。わが草は春草初草なり。わかつまのあかすめつらしき心にてわか草にたとふる也。萬葉第三柿本人丸|長《マサルノ》皇子に献る長歌の詞に云
久堅乃天見如眞十鏡仰而雖見春草之益目頼四寸吾於富吉美可聞《ヒサカタノアメミルコトクマソカヽミアフキテミレトワカクサノマシメツラシキワカオフキミカモ》とよめり。此哥も皇子を見奉るにあかすいやめつらしきといふ心をわか草によせられたり。亦人丸哥云
なには人あし火たくやのすゝたれとをのか妻こそとこめつらなれ とこめつらはつねにめつらしき也。春草をは雪まの草のめつらしくなともよみ、又うらわかみねよけにみゆるわか草をといひたれは、わか草をつまにたとふる儀此心也。
まくらつく つまやとつゝけたり。萬葉第二柿本人丸妻にをくれてよめる長歌詞云
わきもことふたりわかねし枕つくつまやの内にひる(413)はもうらふれくらし夜るはもいきつきあかしと云々。同し集第五山上憶良か妻にをくれてのうたに云
家にいきていかにあかせむまくらつく妻やさひしくおもほゆへしも 夫婦つねにぬるやをつま屋といふ。よつて枕をつくつまやといふ也。集にも枕付とかけり。亦枕附共かけり。
みつかきの 久しき世とつゝけたり。柿本人丸哥云
をとめ子か袖ふる山のみつかきの久しき世より思ひそめてき 亦萬葉十三云
みつかきの久しき世より戀すれはわか帶ゆるふ朝ゆふことに 人丸の詠に袖ふる山のみつかきとよめるは、大和國山邊郡石上といふ所に布留のやしろの立たる山を布留の山といふ。布留山といはむとてをとめ子か袖とはをけり。女の舞をまふにも人をまねくにも袖をふるによりて也。布留の川をは袖ふる川共よめり。同し集にいはく
わきもこやわをわすらすないそのかみ袖ふる河のたえんとおもへやと云々。同國吉野に袖ふる山といふ山有。天女の下りて舞をまひし山なり。人丸の哥は其山にはあらす。みつかきの久しき世といふことは舊事本紀を考るに云磯城瑞籬宮《シキミツカキノミヤノ》天皇(ノ)御世(ニ)布都《フツノ》大神の社を大倭(ノ)國山邊(ノ)郡|石上邑《イソノカミノサト》に移(シ)建(テ)て、天璽《アメノシルシ》瑞《ミツノ》の寶同(ク)共藏(テ)號2石上(ノ)大神(ト)1。以(テ)爲2國家(ノ)1爲(ス)2氏神(ト)1と云々。しかれは布留のやしろは瑞籬の宮の御宇にたてられてわか國にては神社のはしめとす。よつて布留のやしろはふるき事に別してよめり。此故に久しきことをはみつかきの御代を申なり。ふるの神社の神垣を以で皇居のみつ垣の宮に相兼て、みつかきの久しき世とはよめる也。瑞籬の宮は人王第十代崇神天皇の皇居の名也。伊せ物語に住よしのおほん神けきやうし給ひて
むつましと君はしらなみみつ垣の久しき世よりいはひそめてきと有けるも、人丸のうたによりてかの神も仰られしなり。
空蝉の 世とつゝけたり。古今集云
うつせみの世にも似たるか花櫻さくとみしまにかつ散にけり うつせみはせみのもぬけたるからをいふ也。よつてうつ蝉のむなしきから共よみたり。貝の(414)からをはうつせ貝といふ同しこゝろ也。蝉のからをとゝめて行衛もなく成にたとへて、人の世のはかなきをいへるこゝろ也。しかるを後撰集哥云
おりはへてねになきくらすうつ蝉の空しき戀も我はする哉 是はねになきくらすと讀たれはもぬけ共きこえす。或説にうつせみはうつくしき蝉といふ心にも詠したりと云々。萬葉十二云
ともし火の影にかゝよふうつせみの妹かえめりし面影に見ゆ 此うたうつせみの妹かえめりしなとつゝけたれはうつくしき心歟。〓娟(タル)兩鬢(ハ)〓(ノ)蝉(ノ)翼(サ)と詩につくりたる、女の鬢のうつくしきを蝉のはにたとへたる也。しかれはおほかたはもぬけをうつせみといひ、もしはうつくしき蝉をもよむと心得へし。亦うつせみの命をゝしみなともよみたり。是は莊子に〓蛄(ハ)不v知2春秋(ヲ)1と有注に、〓蛄は寒蝉なり。春生れて夏死し夏生れて秋死すと云々。命みしかきものなれは、それに人の身をもたとへてうつせみの命とはよめるなめり。
墨そめの ゆふへとつゝけたり。古今集短歌云
色に出は人しりぬへみ墨そめのゆふへになれはひとり居てあはれ/\となけき餘りとつゝけたり。是はゆふへの空のくらく成行こゝろを墨そめといひなしたる也。
おほきみの 天の川原とつゝけたり。萬葉第十たなはたのうたに云
天地とわかれし時ゆ久かたのあましるしとておほきみのあまのかはらにあら玉の月かさなりてとつゝけよめり。是はおほきみの御名天子天皇なと申たてまつるによりて。おほきみの天とはつゝけたるなるへし。
みつくりの 中とつゝけたり。萬葉第九紀伊國那賀郡(ノ)曝井をよめるうたに云
みつくりのなかにむかへるさらし井のたえすかよはむそこに妻もか 那賀といふ詞まうけんとてみつ栗と置たり。木の實のうちに粟はいかの中におほくは三つつゝこもりてなるもの也。三つならふものは中をとる故にみつくりの中とはいふなり。日本紀を考るに、應神天皇日向の髪長姫を以て皇子大さゝきの(415)尊に給はる時の御製の詞に云
かくはしはなたち花しつえは人みなとりほつえはとりゐからしみつ栗の中つえのと云々。ふるきこと葉なり。
かけろふの 春とつゝけ、亦石とつゝけ、亦ゆふへともつゝけたり。萬葉第三ならの京をよめる長うたの詞に云
御子のつき/\天の下しらしいませと八百萬千とせを兼てさためけんならのみやこはかけろふの春にしなれはかすか山みかさの野邊に櫻花とつゝけよめり。亦同集第十云
今さらに雪ふらめやもかけろふのもゆる春へとなりにし物をと云々。かけろふのもゆる春といふをもゆるを畧してかけろふの春共よめるか。かけろふには二色有り。かけろふのもゆると讀るは陽炎といふもの也。春の陽氣の發して空に火の氣のことくもゆるもの也。是をは野馬とも名付、遊絲といふも同しもの也。ふるき歌に
梅の花雪にみゆれと春の氣は煙をこめて寒からなくにとよめるも.陽灸のもゆるにつけて春の景はけふる也。詩にも煙景といへり。萬葉のかけろふの春にしなれはといふ詞は則|炎乃春爾之成者《カケロフノハルニシナレハ》とかきたり。炎の字をやかてかけろふとよませたり。火のもえあかる氣をかけろふといふよりおこりて、陽氣のもゆるをもかけろふといふ也。火と日は同躰のものなれは相違なかるへし。古事紀を考るに、履中天皇の難波の宮にましますの時弟|墨江《スミノエ》の中(ツ)皇子天下をとらんと覺して、御門の大殿こもりけるをうかゝひて大殿に火をつけてやきうしなひ奉むとしけるを、倭漢直《ヤマトノアヤノアタヒ》の祖|阿知直《アチノアタヒ》ぬすみ出し奉りて御馬にたてまつりて大和國に幸なしたてまつる。河内國はにふ坂にいたりてなにはの宮をかへりのそみ給へは、其火猶さかりなり。天皇御うたよみして曰
はにふ坂わかたちみれはかけろひのもゆる家むら妻か家のあたりと云々。火をは、ふ共いへは、かけろひかけろふ同しこと也。亦かけろふの石とつゝけたるうた、萬葉十一云
かけろふのいはかき淵のかくれにはふして死ぬ共な(416)か名はいはし かけろふの石とつゝくるは石火とて石より火は出るものなれはいふか。古きうたにいはく
さゝれ石の中に思ひは有なからうち出ることのかたくもあるかな 石火をはうちて出せは、うち出ることのかたきなと石によせてよみたり。亦かけろふのゆふへとつゝけたるうた萬葉第一柿本人九輕皇子に奉る長うたの詞に云
こもりくのはつせの山は眞木たてるあら山みちを岩かねのふせ木おしなみ坂鳥の朝越ましてかけろふの夕さりくれはみ雪ふるあきの大野にとつゝけ讀り。同第十の哥に
かけろふのゆふさりくれはさつ人のゆつきかたけにかすみたなひくと云々。是は夕陽のかけろふをいはんとてかけろふのゆふさりくれはとよめるか。亦かけろふは蜻蛉といふ虫也。此虫夕くれにとひかふものなれは、かけろふのゆふへ共つゝくるか。ふるきうたに
夕くれに命かけたるかけろふの有やあらすやとふもはかなし いのちかけたるとよめるは虫のこと也。其虫のとふによせてとふもはかなしとそへたるうた也。此かけろふといふ虫は春あたゝかなる比より出來りて、有かなきかにとふものなれは、かけろふのもゆる春日とよめるも虫のこゝろ也ともいへり。古今集のうたに
かけろふのそれかあらぬか春雨のふるひとみれは袖そぬれける 是は顯昭法師か注にも、此虫の有かなきかにとふものなれはかくいふといへり。陽炎も有かなきかのものなれはそれにてもかくはよみつへし。源氏かけろふの卷に
有とみて手にはとられすみれはまた行衛もしらすきえしかけろふとよめるは、かけろふのとひかふをみてとかきたれは、かならす蜻蛉のこと也。六帖のうたに
かけろふの影をは行てとりつ共人の心をいかゝたのまむ 是は陽炎のかけとき乙えたるを、一本には此うたの上句をかけろふのひけをはぬきてとりつ共とかけり。此時は虫のこゝろ也。かくあれは蜻蛉陽炎(417)はつねにまかふなり。此蜻蛉といふ虫は其類おほし。俗にはえんはといふなり。黒えんは赤えんは青えんはなと色々有。其中に赤えんはは火の色なれは其をかけろふと名つけたるを、おしなへて蜻蛉の名とするかとも云つへし。
衣手の あし毛の馬とつゝけたり。萬葉十三歌云
衣手のあしけの馬のなく聲も心あれこそつねにけになくと云云。是は衣手の色はもとよりしろたへなり。しかれは衣手の色のあしけとつゝけたるこゝろ也。あしけをは芦の花毛とも讀り。此あしの花毛は因幡の白菟といふことよりおこれり。大己貴《オホアナムチ》の神の兄ほ八十《ヤソノ》神とています。此兄弟の神|稻羽《イナハ》の八上比賣《ヤウヘヒメ》を妻とせむと覺して、共にいなはの國に行ます時に氣多之前《ケタノサキ》にいたり給ふに、うさきの鰐《ワニ》にはかれて赤はたかなる有。八十神おしへて曰、汝此海の塩に湯あみして風の吹にあたりて高き山の上にふすへしと。其菟おしへのまゝにしてふす時、塩のかはくにしたかひていたみなく。おと/\大己貴神おしへて曰、汝今すみやかに此|水門《ミナト》にゆけ。水を以て身をあらひて其水門のあしの花をとりしきて、其上にふしまろふへしと。菟此おしへのことくすれは其身もとのことくになりぬ。これ稻羽《イナハ》の索菟《シロウサキ》といふもの也。今におゐて菟の神といふ也と云々。舊事紀古事紀に見えたり。亦まなつるのあしけの駒ともよめり。六帖に云
まなつるのあしけの駒よなかぬしのわか門すきはあゆみとゝまれ 是はつるの名はあしたつといへはかくつゝけたるかといへともしからす。まなつるは白鶴なり。其つるの毛に似たれはまなつるのあしけとはつゝけたる也。にふ色なるつるをまなつると俗にはいへとも、うたには白きつるをまなつるとよみたり。
寛文十【庚戌】稔孟春吉日
西澤太兵衛板行
〔2020年4月18日(土)午後8時46分、入力終了〕