春陽堂、478頁、1933.6.10
【萬葉集講座第三卷】言語研究篇目次
萬葉期以前の國語研究に關する卑見……………上田萬年…(一)
國語史に於ける萬葉集の位置……………………吉澤義則…(九)
萬葉語法研究資料…………………………………安藤正次…(四三)
萬葉集品詞概説
 1 代名詞・助詞・接頭語・接尾語…………森本治吉…(七九)
 2 形容詞・動詞・助動詞……………………佐伯梅友…(二一三)
萬葉集用字法概説…………………………………森本健吉…(二七五)
上代假名遣の解説と其應用………………………遠藤嘉基…(三二三)
萬葉集の尊卑表現の研究…………………………石坂正藏…(三五九)
萬葉集と方言(東歌防人歌研究の過程)………東條操…(四〇七)
萬葉語と琉球語……………………………………伊波普猷…(四二九)
あいぬの歌謡と萬葉集の歌………………………金田一京助…(四五一)
 
(1) 萬葉期以前の國語研究に關する卑見
                      上田萬年
 
 今般萬葉集講座が出版せられるやうになつて言語篇が新進諸家によつて執筆せられるやうになり、その目次がすでに發表せられて居る。然るところ私にも何か話せといふことであるので、平素考へてゐたところをいさゝかのべてみたいと思ふ。勿論私は最近眼を患つて、各種の文獻を引用することが甚だ困難である故に、かういふ側の引用は茲には略すことゝして、たゞ卑見だけを述べて讀者の批判を仰ぐことゝする。
 一體、萬葉集は奈良朝に出來たものであつて、奈良朝といふのは西洋紀元でいふと八世紀にあたるのである。古事記日本紀の如きもやはり奈良朝で編纂きれたものであるからこれと同時代の著書だといふことがいへる。吾らが日本國語に關する最古の文獻としては先づこれらの書物を主とするのであるが、然し、これらは日本語を漢文字にかき表すといふ上に於ての最古のものであつて、日本語それ自身はこれよりもはるかに古く存在したといふことは否みがたい事實であらう。神武天皇の御即位を紀元元年として勘定すれば少くも千三四百年の後の時代にあたるものである。昭和の今日の御世から奈良朝に遡るほどの時間がその間にあるのである。或は今から奈良朝までよりももつと多い年(2)月がその間にあるといつてもよからうと思ふ。この間は即ち日本語が口で語り傳へられたといふ時代に屬するので、文字でその寫眞をとられるといふことはなかつたといつていゝ。この千三四百年の不文時代に、言語が全く變遷なしに進んだといふことは、今日の吾々には考へられないところである。無論國學者にいはすれば、上世は極めて質樸の御世であつて交通などが頻繁でないので言語は比較的簡單に語りつたへられた、又朝廷の事蹟や神社に關することは語部といふものがあつて正實にそれを語り傳へた、それであるから神代からの言語は大體古事記日本紀萬葉集あたりの言語と大差がないものであると主張するのである。それにしても語り傳へてゆく上に文字といふやうな利器がなかつた時代であるから、變遷のあるべきは想像してよからうと思ふ。斯樣な次第で私共の意見からすると、古事記日本紀萬葉集等にのこつてゐる言語を有史的の言葉とみて、それ以前の言葉を不文的の言語といふやうに見、この不文的の言語について色々研究してみることが必要であらうと考へる。これは今日までの國學者仲間によつては試みられなかつた企であるが、明治以後の言語學者によつては色々の企がされたのである。例へば、田口卯吉博士は印度語と日本語の關係について論文を發表され、松村任藏博士は支那語と日本語の關係について、又西洋人では英國のアストン氏は朝鮮語と日本語の關係について、同じく英人チヤンバレン氏はアイヌ語及琉球語と日本語の關係について、最近には松岡、波岡等の諸氏が日本語と南洋語との關係について新意見を發表された。その他日本語とペルシヤ語、日本語とイスラエル語、日本語とギリシヤ語などといふやうな方面についても研究を發表された人があるやうに記憶する。斯樣に明治年間以後になつては日本語の上代の有樣について、世界各國語と比較研究をする機運が大いに表れてきた。かういふ研究は、日本の古典の知識を以て研究をしなければならぬものであるが、今日までの學界の有樣から(3)いふと、まだ充分組織的の比較研究にはなつてゐないと思ふ。これは今日以後に於て、日本の言語學界の發達と共に新進の學者諸君の研究に期待する外ないのである。
 私は今さういふ大きな問題について比較研究して見ようといふやうな考は持つてゐない。けれども日本語の歴史をしらべてゆく場合に、萬葉以前の言葉といふものについて今までに考へついたことを茲にお話して、萬葉研究の諸氏の御參考に供したいと思ふのである。
 一體、日本では五十音圖といふものが出來て、その五十音圖を基礎として國語研究に入ることが一般の順序と考へられてゐるやうであるが、私はこの五十音圖といふものについて少し異つた見解を持つのである。五十音圖を以て日本語を組織する音韻のすべての如きものであるかに考へる學者がある。徳川氏時代の國學者は殆んどすべてさういふ信仰のもとにゐたやうであるが、これは私は少し考へものではないかと思ふ。例へば五十音圖の上には濁音がない、拗音がない、促音がない、ンの假名もない。日本の古語はかういふ五十音の假名の代表するものだけであつて、その外のものが日本の古語になかつたといふことは果して正確な説であらうか。私はまづこの點で一つの疑問を持つのである。奈良朝以前の日本語には濁音もあり拗音もあり、促音もあつたのではないかといふ考を持つて居る。又ンの音も長母音も二重音もあつたのではないかと思ふのである。そのことを少し述べてみたいと思ふ。
 例へば奈良朝から平安朝に於てもサといふ假名がある。そのサといふ假名は同時にザとよんだこともある。又シヤとよんだこともある。者といふ字をかいてサともよみ、シヤともよむ。者といふ字はシヤといふ字音である。これは古くはシヤと訓んだのであると考へられる。魚のシヤケ、サケなども兩方によんでゐるが或はシヤケといふ方が古い(4)のではないかと思ふ。かういふやうに假名を發音外の濁音や拗音によむことが古くからあつたのを、假名でかくときはそれを一つのサといふ字に攝してしまつたのだと思ふ。又長音の場合でも同樣のことが云へるのである。
 今日でも五畿内地方では、ハとかメとかはハーとかメーとかいふやうに發音してゐる。これも長母音をかきあらはす方法がないために單母音でかいたと説明する事も出來ないであらうか。又二重母音では、uiといふやうな二重母音が古くあつたのではないかと思ふ。例へば神といふ言葉でもカムイといふ形が古いので、カムイといふ形から一方にカムといふ語が出、一方にカミといふ言葉が出てきたのではないか。つまりアクセントの關係から音が分化するので、今日の鹿兒島の方言で、寒い・眠いをサミ・ムミと發音するやうに、イかムかにアクセントのある場合によつて二つにわかれるのである。又、ウがヲにかはつたり、ヌがノにかはつたりする。かういふことを考へると二重母音も上代にはあつたやうに思はれるのである。字音假名遣でいへば、貴といふ字をクヰと書くのであるが、このクヰといふのも支那の音では二重母音の、uiである。花といふ字をクワとかく、これも支那ではホアHoaである。斯の如く二重母音であるのが支那の本語であるのを、日本の假名で書くときはワ行の假名を加へたのではないか。かういふ例はこの外にも多いやうに思はれるのである。
 又、子音の上でいへば、ガと※[カに點一つ]といふ音は昔から兩方あつたもので、それが假名であらはすときはガといふやうに一つであるが、實際にはgとngといふ音が昔からありはしないか。例へば、ワガ大君ワゴ大君といふ語は、これは一方のてにはのノとかナとかいふ語と同一性質ものであつて、古くはナとノ、ガとゴといふものは兩方併正して使はれたといへるやうである。これも發音上のちがひであつて、それが鼻音的に強くなるときはナ行となり、普通のときは(5)喉音的のガ行になるのである。而して、鼻音と喉音の間のものがng音になる。ンの字は平安朝に到つてはじめてつくり出された文字であるが萬葉時代にもすでにこの音があつたやうに思はれる。例へば萬葉集で手名とかいてテンナと訓せてゐるが、これは萬葉集をよむ場合の口傳とされてきたものである。それはンの假名のない時代に萬葉をかいた人がンを附け加へてよむやうにしたことが想像せられる。
 例へばハ行の假名でも、今日はハヒフヘホとよむが古くはパピプペポとよんだらしいのである。このことについては、拙著「國語のため」に詳しく論じておいたからそれについて參照せられたい。不文時代の日本語は今日のハヒフヘホを持たないのであつた。今日の日本人は語のかしらをハヒフヘホと發音して中はワヰウエヲに發音するやうである。奈良平安のはじめ頃にはハヒフヘホに發音してゐたからこれからかはつてゐるので、ワヰウエヲと發晋するのは平安朝以後のことであるやうだ。かういふやうにハヒフヘホの假名であらはしてゐる音の側の變遷は、P・F・Wの三つの音がこの一つの行によつてあらはされてゐるのである。これは方言研究からも或は漢語や悉曇語の比較研究からも容易に證明出來ることである。現代の人がこの説をきくと奇異な感をもつかもしらぬが、奈良朝から現代までの音の變遷を考へてみて奈良朝以前の音の有樣を想像しやうとする場合に、この推斷は決して無理なことではないのである。
 以上述べたやうな考はすべて一つの提案にすぎない。然し凡そ擧術研究の上では吾々はこの提案を輕んじてはならぬのである。これについて十分研究してこれがやがて一般に認られるとき公説となるのである。かういふ方面に向つて新進の學生諸君が十分に努力していたゞきたいと考へる。
(6) 次に述べてみたいと思ふのは日本語の語根の研究である。日本語といふものは一體單節的のものか、二節的のものか、若くは多節的のものか、かういふ問題もまだ、はつきりと研究されてゐるといはれない。名詞・形容詞・動詞などの組織構造についてはこれまでにも一通りの研究がなされてゐるけれども、てにはなどは一體どういふ起源のものであるか、歐洲などではこの方面のことは明かになつてゐるが、吾國ではまだ/\不十分としかいへない。感投詞から派生したといふてゐる學者もあるやうであるが承服することは出來ない。ヲといふてには、ヘといふてには、或はヨリといふてにはの如き何れも一部の説明は存するけれども、てには全體が總括的に如何なる起顔で出來たかといふことは明でない。ガとかノとかいふものに到つてはまだ提案すらないやうである。この方面も今後大いに研究されて然るべきものであると考へるのである。
 又、次には動詞・形容詞の活用の起源如何といふことになるとたゞつかひざま〔五字傍点〕の研究だけで、それがどういふ言語の變遷を經てきたかといふこ上は不明のまゝのこされてゐるのである。日本語は四段活用であるものが多い。けれどもその外の一段二段變格の活用は如何にして發達してきたかも十分に説明されてはいない。これは外國語との比較研究でなくても日本語だけの上からも十分に説明出來るやうに考へられる。又萬葉集以後の時代に於て吾々が普通みとめる動詞・形容詞、更にかゝりむすび〔六字傍点〕の原則なども如何にしてそれが生じたのであるか、無論簡單に言語上の習慣に基いたといへないことないが、さういつてしまふまでにその以前の心理的經過はどうであるかといふ説明も未だ出來てゐないのである。
 かういふ問題は今日以後の國語學界の解釋すべき問題でなければならぬ。これをするには文學的の言語の性質を研(7)究することも貴重なことであるが、文學的でない言語、例へば方言とか、周圍の異民族の言語の比較研究が必要になつてくる。かういふ立場を築いてゆく上に萬葉にのこれる言語の法則――音韻・語法は貴重な材料である。歌學の變遷をみる上にも萬葉集は大切な文獻であるが言語の比較研究をする上に於て大なる價値がある。かういふ意味で言語篇を研究される人々が日本の言語學或は東洋の言語學といふものに向つて光輝ある研究を發表されることを切に希望する次第である。
 
 
(9) 國語史に於ける萬葉集の位置
                  吉澤義則
 
     一
 
 萬葉集を國語資料として見ようとする場合には萬葉集所載の和歌の用語が當時の口語であつたか、或は何らかの技巧が加へられてゐるかを考察しなければならぬ。言葉を換へていへば、當時の自然語がそのまゝに用ひられてゐるか、當時の自然語が取捨選澤を經て用ひられてゐるか、單語材料は自然語であつても、その用法に特別な人爲が加へられてゐるか、古語が用ひられてゐるか等が考察せられなければならぬのである。
 かうした考察を試みるのには、萬葉集中の和歌を少くとも三期位に別けて見なければならぬ。即ち藤原以前・從藤原至天平・天平ぐらゐの期別をしてかゝらねばならぬのである。けれども今はその程度の調査を試みる餘裕すらも與へられてゐないから、甚だ粗略ではあるが、萬葉集の主な時代を萬葉時代の名に於て一括し、用語性質の概要を提示するに止めようと思ふ。勿論個人々々の態度に言及する遑などは持つてゐない。
(10) 萬葉時代の名に於て一括するにしても、その用語の性質を考察しようとなると、餘りにも資料の不足を感ずるのである。口語であるか否か、自然語であるか人工語であるか、現代語であるか古語であるか、それらを摘出しようとしてもそれを決定するだけの材料は到底獲られさうにはないのである。
 そこで、私は先づ萬葉時代歌人の詠歌態度を稽へて、その光をかりて一條の檢索線路をあなぐり出さうと思ふ。つまり演繹方法によつて歸納材料の不足を補ひつゝ、ともかくも一つの纏まつた論説として江湖の面前に呈示しようとするのである。この方法に危險の伴ふべきは言ふまでも無いのであるが、材料不足の只今の場合急を要する只今の場合に於ては、その他に趨くべき道はなからうと信ずる。
 
         二
 
 萬菓歌人の詠歌態度についてやゝ明瞭に説いてあるのは、藤原俊成の古來風體抄を初とする。抄に
   上古の歌はわざとすがたをかざり詞をみがかんとせざれども、代もあがり人の心もすなほにして、たゞ詞にまかせていひいだせれども、心もふかく姿もたかくきこゆるなるべし(【中略】)その(【柿本人麻呂、山上憶良など】)後南良のみやこ聖武天皇の御時になむ、橘諸兄の大臣と申人勅をうけたまはりて萬葉集をば撰はせられける、その頃までは歌のよきあしきなどしひてえらぶことはいともなかりけるにや、公宴の歌もわたくしの家々の歌もその席によめるほどの歌は、數のまゝに入れたるやうにぞあるべき、(【中略】)この集(【古今集】)のころほひよりぞ歌のよきあしきもことにえらびさだめられたれば、歌の本體にはたゞ古今集を仰ぎ信ずべき事也。
とある。この見方はその後殆ど改まることなしに、大體明治に及んでをり、また現代に於てもなほ相當勢力のあるものゝやうに思はれる。
 然し中には萬葉時代を以て技巧時代と見てゐた人が、昔にも無いではなかつた。後拾遺集の序に
   この集の心は、やすきことをばかくし、難き事をあらはせり、よりてまどへるもの多し。
とあつて、一種の選擇の行はれたことを説いてゐる。俊成は古來風體抄で
   此集のころまては、歌のことばに人のつねによめる事どもを、時よのうつりかはるまゝには、よまずなりにたることばどものあまたあるなるべし、唐土にも文體三たびあらたまるなど申たるやうに、此歌のすがた詞も時代のへだゝるに從ひてかはりまかるなり、むかしの人のかたき事をあらはし易き事を難くなして、人をまどはさむとおもへるにはあらざるべし。
と批評してゐる。俊成がこの難易の問題を言語の時代的變化によつて解決しようとしてゐるのは、確に誤つてはゐない。けれどもその用語に技巧が加へられてゐるか否かの問題は、これで解消されたわけではないのである。
 降つて江戸時代になつて、荷田在滿がその著國歌八論の歌源論の中で、
   されど家持がころ歌ごとに必うたふにはあらざる事、萬葉集を見て知るべし、其の歌はざるものはひたぶるに詞花言葉を翫ぶなるべければ、巧拙を論ずべし、されば萬葉集は聞まゝに取のせたるものにて、古今集の如く歌を選みたるものとは見えず、纔に最末に至りて、遠江以下諸國の防人の歌の中にて、拙劣の歌をば取のせざるよし見えたり、是等は定めて方言鄙語都人の耳には通じがたきほどの歌成べし、然れども大伴家持が林王の宅にて、白雪のふりしく山をこえゆかむ君をともなひ(【君をぞもとな】の誤)いきのをにおもふといふ歌を、左大臣尾を換ていきのをにすると改めんとせる事見えたり、然ばこのころ既に拙を去て巧に就事なきにはあらず。
と説いて、萬葉集時代には、巧拙論もあり用語の詮議も行はれた事を認めてゐる。
 右林王宅に於ける用語論は萬葉時代の詠歌態度を明瞭に物語つてゐるのであつて、これだけの事實を以てしても、俊成の見方の誤つてゐることを完全に立證することが出來て、貴い資料であるから左に全文を引用しよう。
(12)  二十七日(【天平勝寶四年十一月】)林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首
白雪能布里之久山乎越由可牟君乎曾母等奈伊吉能乎爾念
   左大転換尾云伊伎能乎爾爲流然猶喩日如前誦之也
   右一首少納言大伴宿禰家持(【万、十九】)
 家持が用ひた「息の緒に念ふ」も橘諸兄が換へようとした「息の緒に爲る」も語義としての歸結は同じことで、その點からは改める必要は無い筈である。で、こゝに問題になるのは、いづれが表現が的確であるかを、兩語が持つ語感によつて味ひ別けようといふ點でなければならぬ。かくて萬葉時代に於ける歌語は單に詮議せられたといふに止まらないで、その標準は最も高い所におかれてゐたと考へなければなるまい。尤も當時歌語選擇の標準がこの一つであつたといふのではない。その他の標準に就いては後章に述べようと思ふからこゝには省略する。
 
         三
 
 萬葉集勅撰説は契沖の反對説が出てからいろ/\祖述もせられて、甚だ影がうすくなつてゐる。けれども勅撰私撰の説はまだ解決されたものとは思はぬ。萬葉集が未完成の書であることは誰も認めるところである。この集が未完成品であり、材料のまゝで殘されたものがあるとすれば、契沖等の難も必ずしも勅撰説に對する致命傷にはならない。而して勅撰私撰の問題は見やうによつてはさしたるものでないかも知れぬが、見やうによつては非常に重大性を持つてゐるから、更に觀點をかへて、新しい眼で大に詮議しなければならないと思ふ。が、それは何れにしても萬葉集の(13)出現は詩文集に倣つたものであつたであらう。一體萬葉時代といふ劃期的な和歌隆盛時代を出現したといふ事それ自體が、詩文の刺戟によつたものであらう。
 萬葉集には自然の景物を歌つたものが澤山にある。花鳥風月を歌ふといふ事は紀記時代には無かつたことである。紀記は史書であるから、自然に花鳥風月の歌が漏れたのだといふ見方もあらうけれども、ともかくも花鳥風月を譬喩に用ひた歌はあるが、それを題目として歌つたものは一首も見當らないのは事實である。それが萬葉集に於て急展開したのである。詩文尊重の風が和歌の隆盛を促し、施いて歌人の價値を認めしめ、歌集の編纂ともなつたと思はれるので、右題目の問題も詩文の影響に結びつけて考へて然るべきものと思ふのである。
 當時の詩人は辭句の末技に全力を擧げてゐた。文心彫龍の如きもその弊を矯めようとした著述であつたけれども、時流の趨くところは如何ともすることが出來ず、對句を目ざして華辭麗句を案出するに腐心されてゐた。空海の文鏡秘府論にも、專ら對句が説かれてゐるのを見ても、當時の詩文の傾向を知ることが出來よう。
 詩文の對句彫琢の流行は和歌に於ける對句の興味を促進し、長歌の興隆となり、その歌形の完成となつたと考へてゐる。長歌の生命が案外短かつたのも、かうした外部的刺戟によつて榮えたに過ぎなかつたからではないかとも考へてゐる。こゝまでいふことは新釈しなければならぬかも知らぬが、長歌が賦の影響によつて發達したことは疑はれまい。現に萬菓集には長歌を賦と書いてゐるのもある。
 また長歌に添うてある反歌の名は、木村※[木+觀]齋が説いてゐるやうに、賦の反辭に學んだものであらう。これらの事實は明かに賦と長歌との交渉を物語つてゐるのである。(14) かくの如く詩文の和歌に及ぼした影響は可なり重大ではあつたが、この事實を見て直に心醉的模倣と誤解してはならぬ。長歌の反歌もその名稱は賦の反辭から思ひついたものに相違あるまいが、長歌に短歌を添へる歌形は賦によつて初めて創案せられたものではなく、既に紀記時代にあつたのである。たゞ紀記時代では、長歌から一續きに書きつづけてあつて、一見短歌が添うてゐるやうには見えないまでゝある。それが賦の影響によつて、反歌の名稱を得て判然書き分けられたのみならず、長歌には反歌の添うたのが本體となつたまでに發達したといふだけの事で、決して無かつた歌體が新に發生したのではないのである。その他詩の五言七言の音律が和歌の五七交錯の樣式を動かさうとした形迹もなく、詩の脚韻法が學ばれようとした事實も全く無い。
 かうして萬葉時代の和歌に對する詩文の影響は、認めなければならぬと信ずるが、その影響は國語と和歌との本質を十分視つめた眼で、嚴正なる批判の加へられた結果であつた。こゝに特に一項書き加へたいのは、萬葉歌人が漢語を用ひなかつた事である。戯咲の歌には漢語の用ひられたのも無いではないが、さうでない和歌には四千餘首中一首ならでは漢語を用ひたものは無かつたと記憶してゐる。當時漢學を學習してゐた青年等の口に、衒學的興味から如何に盛に漢語が談られてゐたかは、現代に於ける欧米語擧習者が欧米語を使用することの多い例に徴しても明かであるが、また平安朝時代になると漢語の國語化された數の少くないのを見てもその一斑は窺はれよう。
 試に竹取物語を開いて見よう。名詞には變|化《げ》 世界 大願・願 功徳 不死 禄 一生 化粧 勘當 料 番 装束 本意 格子 質 橡 錢等多くの漢語が用ひられてゐる外、動詞に案ず 懲ず 請ず 對面す 奏す 御覽ず 具す 害す 制す 帶す 要す等があり、形容詞に怠々し、副詞に優に 切に 猛に 例等が見えてゐる。
(15) この事實は必要以上に漢語が話されてゐたであらうことを思はしめるのである。なほこゝに漢語といつてゐるのは、上代に於て夙く國語化してゐた梅・馬の類を含んではゐない。
 かくて漢語は衒學的或は新奇的興味から平談常話の際には用ひられてゐたであらうに拘はらず、和歌には採用せられなかつた。漢語も、國語の中に住みなれた今日とは違つて、まだ輸入されたばかりで外來語といふ感じもはつきりと際だつてゐたであらう。その爲和歌の調べに調和することが出來なかつたであらう。そんなわけで歌語に採用されなかつたものであらうかと思はれるが、ともかくも萬葉時代に於ける詠歌の態度は極めて眞面目であつて、用語上には一々嚴正な批判が行はれたもので、苟も興味氣分などの割込むべき餘地は持つてゐなかつたことを認めなければなるまいと思ふ。
 萬葉時代和歌興隆に伴つて和歌による娯樂が行はれた。例へば萬葉集第十六卷に吾兄子之犢鼻褌爾爲流郁夫禮石之吉野乃山爾氷魚曾懸有の歌を擧げて右歌者舍人親王令侍座曰、或有作無所由之歌者、賜以錢帛、于時大舍人安倍朝臣子祖父乃作斯歌獻上、登時以所募物錢二千文給之也とある類がそれである。その他同卷にある戯咲を目的とした歌の類は、最初から眞面目さを棄てゝかゝつてゐる。そんなのは論外であつて、所謂戯書と共に萬葉歌人の氣まぐれな惡趣味である。
 
         四
 
 萬葉時代の和歌がかうした自覺の下に詠まれたとすると、萬葉集の編纂も單なる詩文集の模倣とのみは思はれま(16)い。この自覺は和歌の上だけに醒めてゐたのではない。大寶令以下我が法制制定上に支那のそれを參考した際にも能く我が國體を初として風俗習慣を考慮したもので、決してそれらを傷けるやうな事をしなかつた事は、故桑原隲藏博士が精密に指摘してゐられるところである。されば國史編纂事業もまた單なる支那の模倣では無く、深い國家的意義を持つてゐた筈である。當時我が祖先が支那文化にあこがれてゐたのは事實である。時には心醉といふ言葉で評するのが適當な事情もあつたと思はれる。けれども醉興に乘ずることはあつても、引締める時には引締めて、決して亂に及ぶやうな失態は無かつたのである。我が祖先は佛教を消化し儒教道教を消化するだけの精神文化を保有してゐたのである。物質文化が劣つてゐたからといつて、直に精神文化が幼稚であつたと即斷することは出來まい。特に藝術に關する場合にさうである。我が上代人は繪畫彫刻刺繍染織等美術品や工藝品に優秀な技能を示してゐる。勿論それらは支那に立派な手本のあつたによるのではあるが、少くともこれを鑑賞批判するだけの趣味教養は具へてゐたわけである。萬葉歌人はこの自覺の世界に生き、この趣味教養を呼吸し、華辭麗句を積載した詩文を手本に持つてゐたのである。その萬葉歌人が、よりくる言葉でそのまゝに歌ひあけるだけの事に滿足してゐられさうな筈はない。即ちその一語一句の調味洗錬に精神を打込み、それが爲に論議を闘はしもし、曩に引用した「息の緒に思ふ」論の如き場合が繰返へされなければならなかつた筈である。
 
        五
 
 趣味教養の一發露として次の事實を萬葉集から拾ひ出して見たい。
(17)      天平八年十二月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首
     比來古※[人偏+舞]盛興、古歳漸晩、理宜共古情、同鳴此歌、故擬此趣、獻古曲二節、風流意氣之士、儻有此集之中、爭發念、心々和古體、
    我屋戸之梅咲有跡告や者、來云似有、散去十方吉
    春去者乎呼理爾乎呼里鶯之鳴吾島曾不息通爲(万、六)
 時宜に適した古歌を誦することは、平安朝時代にもてはやされた趣味であつた。平安朝時代に於ては、我が歌を創作するよりも寧ろ適當な古歌を借用する方が、氣の利いた行き方と見られてゐた。その需用に應じて生れたのが和漢朗詠集であつた。かうした趣味は既に萬葉時代に在つたのである。第十五卷、遣新羅使人等、悲別贈答并當所誦詠之古歌とあるのも、卷十八の大伴池主大伴家持贈答歌の中に古人云とて都奇見禮婆於奈自久爾奈里夜麻許曾波伎美我安多里乎倣太※[氏/一]多里家禮とあり、答所心、印以古人之跡、代今日之意とて故敷等伊布波夜毛名豆氣多理伊布須敝能多豆伎母奈吉波安賀美奈里家利とあるのもこの類である。一體萬葉時代と古今時代とを餘りにも區別しすぎてゐるから、俊成のやうな誤解も生ずるのである。萬葉集と古今集とそれ/”\時代調に相違のあることは云ふまでもない事であるが、文字の相違は事實以上に時代の拒離を遠く感ぜしめてゐる。假に萬葉假名を平假名に改めて見たらば、この文字感から來る錯覺を除去して、彼此の時代を近づかしめるであらう。
 古今集の和歌が萬葉集の和歌と本質的に異なつてゐるやうに見られてゐるのは、その調べはさて措いて、趣向に興味を持ちすぎてゐる點である。趣向の歌が古今集よりも萬葉集に少いのは事實である。
(18) けれども萬葉集にも趣向の歌が無いのではなく
    妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる (萬、三)
    天の海に雲の浪たち月の舟星の林にこぎかくる見ゆ (萬、七)
などのやうに巧妙なのを初として、相當の數をかぞへる事が出來る。
 修辭上から見ても、枕詞は藤原宮之役民作歌に用ひてある吾作日之御門爾不知國依巨勢道從我國者常世爾成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河爾の如く念の入つたのを初として、種類に於ても數に於ても、古今集に於ける率以上の率に於て用ひられてゐる。特に古今集以後秀句中の隨一と考へられてゐた縁語の如きも、既に萬葉集に用ひられてゐるやうに思ふ。
    古の舊き堤は年深み池の渚に水草生ひけり (萬、三)
この「深み」は年の多くたつた意に用ひられてゐる。「夜がふけた」とか「年がふけて見える」などいふ「ふけ」も「深」に語原がありさうだから、「年深し」といふ言ひ方もありさうに思はれる。現に萬葉集第四大伴坂上郎女怨恨歌一首并短歌とある長歌の中に「年深く長くしいへば」と用ひてあるし、同第六天平十六年正月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首の一つに「一つ松幾代か經ぬる吹く風の聲の清めるは年深みかも」と用ひてあるから、右赤人の「舊き堤は年深み」だけを問題にする理由もないやうではあるが、第四の歌は「長し」に對して用ひられた文字の文學的用法の特例であるやうにもあり、第六の歌は「經ぬる」といふ語が用ひられてあるから、それをさけて言はうとして特例のやうにもおもはれる、なほ此の二例は共に萬葉時代後期の歌で、この期の歌には前期に用ひられた歌語の模傚も(19)行はれてゐるのであるから、前掲赤人の特殊用法を學んだものといふ見方もありさうに思はれる。それは餘り立入りすぎた説であるにしても、ともかくもこの場合「舊き堤は年を經て」といふやうにいふべき所であつて、「年深み」とあるのは何か或目的を持つた特殊用法であつたやうに思はれてならない。而して私はその目的を「池」の縁語たらしめる爲であつたと解かうとするのは無理であらうか。
    吾妹子に戀ひて亂れば※[糸+參]車に懸けてよせむと吾が戀ひそめし (萬、四)
 「染」は絲の縁語である。これが王朝時代の歌ならば、問題は無いのである。
    安積山影さへ見ゆる山の井の淺き心を吾が念はなくに (萬、十六)
 「心」は井の縁語である。これも王朝時代の歌ならば、問題は無いのである。
 萬葉時代に縁語が無かつたと定めなければならぬ理由は更に無い。たゞ上れる代だから無かつたと、漫然定めてかかるからの事で、何ら根據あつての見解ではないのである。が、縁語も畢竟言語を構成してゐる聲音を二重にはたらかせたものである。枕詞中の懸詞も同じ作用によつて成立する。その懸詞は萬葉集の隨所に用ひられてゐる。またかうした二重用法は詩の對句の一種にも行はれてゐる。即ち文鏡秘府論に
  或曰、字對者、若桂楫荷弋、荷是負之義、以其字、草名、故與桂爲對、但取字對也。
とあるのがそれである。それやこれやを思ふと、縁語用法が萬葉時代に始まつてゐたと見ても、必ずしも無理では無いやうに思ふ。和歌の修辭の中でこの縁語のみを古今集から始まつたと見なければならぬ理由はなささうである。
    安胡の浦に舟乘りすらむをとめらが赤裳の裾に潮みつらむか (萬、十五)
(20)とあるのが卷一には「珠裳の裾」となつてゐる。略解に「珠はほむる詞のみ」といつてゐるが、これも玉藻にひヾかせて海の縁語に用ひたものと解すべきでは無からうか。要するに萬葉時代に縁語用法が始まつてゐたとすると、縁語と解すべき用例は可なり澤山に摘出することが出來るのである。
 また古今集に同じ文字なき歌とて「世のうき目見えぬ山路に入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」といふ遊戯歌が載つてゐるが、その先蹤と見るべき歌が萬葉集にも見えてゐる。
    霍公鳥今來なきそむあやめぐさかつらくまでにかるゝ日あらめや【毛能波三箇辭闕之】(萬、十九)
    我が門ゆ鳴きすぎわたる霍公鳥いやなつかしく聞けど飽きたらず【毛能波※[氏/一]爾乎六箇辭闕之】(萬、十九)
などがそれで、これらは皆豫め註記の助辭を加へない約束の下に詠まれた歌である。
 先入の力は偉大である。私がこの位の聲で叫んだところで長い間の眠を覺すことはむつかしからうが、事實上萬葉時代と古今時代との世界にさまで大きな懸隔をおくべき理由を認めない。尤も國文學の支持者が男子から女子に移つた爲に、それに伴ふ和歌の變化は認めなければならないことは、私の常に主張してゐるところであるが、それにしても從來萬葉時代と古今時代とを餘りにも引放しすぎてゐる。
 
        六
 
 萬葉假名には漢字の字音を借りたものと字訓を借りたものとある。字音を借りたものゝ中にもいろ/\種類があるが、特殊假名遣――本居宣長が氣づき、石塚龍麿がそれを纏めて奧山路を著はし、橋本進吉氏が祖述した――の如き(21)は實に精細な注意を拂つたもので、萬葉時代人の言語文字に對する見方の細かさと努力とを窺ふには最も適切な事實であるが、それは今日一つの流行をなしてゐるものであるから、こゝには省略する。
 字訓假名にも種類が多くあつて、萬葉歌人の趣味の博さと細かさとを物語つてゐるのであるが、春登の萬葉用字格鹿持雅澄の萬葉集古義總論中に見えてゐる説などもあつて、補正せらるべき點があるにしても一般に知れわたつてゐるところであり、また近く森本治吉氏、森本健吉氏等の研究も出てゐることであるから、これも省略に從ふことにする。
 これら從來の假名の研究は主として萬葉集用字法を語學的見地から考察したものであるが、またこれを文學的見地からも考察すべきもので、そこにも萬葉歌人の用字上の注意と趣味との博さ及び萬葉時代の和歌と支那文學との交渉が見られるのである。この文學的用字法に就ては説いたものも餘り見えてゐないやうに思ふから、私が今年一月「國語・國文」誌上に書いたものゝ一節を引用しよう。
 和歌を鑑賞するやうになるにつれて、眼の力を利用して、文字を二重に使用する娯樂を思ひついた。即ち文字を假名として用ひると同時に、別にその文字の持つ趣を味はうとするのである。戯書とか戯訓とかいつてゐる一團の用法はそれである。
    たらちねの母が飼ふ蠶のまゆごもり馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]《いぶせくも》あるか妹にあはずて (萬、十二)
の馬聲・蜂音などや山上復有山を「出で」と讀ませたり、八十一を「くゝ」と讀ませたり、羲之を「てし」と讀ませたりする類である。馬聲を「い」と讀ませるのは馬が「い」と鳴くからである。馬の鳴くのを嘶ゆといふのも、「い」(22)となく意味である。蜂音を「ぶ」と讀ませるのはその羽音からであり、山上復有山を「出で」と讀ませるのは、「出」の字形が山を重ねたやうに見えるからであり、八十」を「くゝ」と讀ませるのは九九八十一であるからであり、羲之を「てし」と讀ませるのは王羲之が手師であつたからである。
 こんな文字の用法は何ら歌の意を擴充するものでもなく、今日から見れば、歌への緊張が散らされてしまつて、却て、歌の價値を損じるものゝやうに思はれるが、表現味を味ふと共に、趣向の上にも同樣の興味を持つた時代であるから、人が感じるやうな惡影響はなかつたものであらう。
 ともあれ、この所謂戯書はその發音を以て國語を寫すといふのが目的ではあるが、それ以外に別種の意味を視力によつて注入する副次的の目的をも持つてゐるのである。
    肥人《こまびと》の額髪結へる染木綿の染めし心は我忘れめや (萬、十一)
    玉藻刈る辛荷の島にあさりする水烏《ウ》にしもあれや家おもはざらむ (萬、六)
    霞立ち春日の里の梅の花|山下風《あらしのかぜ》に散りこすなゆめ (萬、八)
    我袂まかむとおもはむ丈夫は戀水《なみだ》にしづみ白髪生ひにたり (萬、四)
    冷芽子《あきはぎ》における白露朝な/\玉とぞ見ゆるおける白露 (萬、十)
    梅花散らす冬風《あらし》のおとにのみ聞きし吾妹を見らくしよしも (萬、八)
    寒《ふゆ》すぎて暖《はる》來たるらし朝烏《あさひ》さす春日の山に霞たなびく (萬、十)
以上傍訓を附した八語も視力によつて注入する副次的目的を持つて書かれてゐる。その中朝烏、水烏、肥人などは戯(23)書に近い趣もないではないが、その他の五語の如きは文字のみが持つ副次的意義によつて、それ/\に主意義を擴充してゐる。
 この擴充の意義を最も明瞭に示してゐるのに次の如き例がある。
    人ならば母の最愛子《まなご》ぞ麻裳よし紀の川の邊の妹と背の山 (萬、七)
 「まなご」は「母父の愛子《まなご》にもあらむ」【萬、十三】「父君に我は眞名子ぞ母刀自に我は愛兒《まなご》ぞ」【萬、六】などのやうに、愛子の義をあらはす言葉である。さればこの歌に「最愛子」とあるのは、ことばの表はしきれない意義を、即ち愛の中の最たる意義を文字によつて補足しようとした計劃的の用法であると認めて然るべきものであらう。
      和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫島松原見妹子屍悲嘆作歌二首 (萬、二)
    妹が名は千代に流れむ姫島の小松が末に蘿むす萬代に
    難波潟汐干なありそね沈みにし妹が光儀《すがた》を見まく苦流思も
 「すがた」といふことばには形容・容儀【以上日本紀】形【萬、十二】などの文字が當てられてゐる。されば「光」字はすがたの表はす以外の意義を示す爲に用ひられたものであつて、特にその姿の美しかつたことを、文字によつて補足しようとした計劃的の用法と見なければなるまい。
 この用法から推して、右第一歌の「まで」といふ助辭に「萬代」の文字の書かれてあるのも、文字によつて「永久に」の意味を響かせようとしたものと見てよからうと思ふ。この「萬代」は一方に於て「千代」に對する對語としようとしたものである事は勿論である。
(24) なほこの「萬代」の假名を「いつまでも」の意に用ひようとしたことの明かなのに、次の例がある。
    ありつゝも君をば待たむうちなびく吾が黒髪に霜のおく萬代日《までに》(萬、二)
 かう見てくると、第二歌の「くるし」の假名に苦とか思とかいふ文字を用ひたのにも副次的な意味が考へられてゐたのでは無からうか。また「流」の文字にも水死の心持が籠められてあたのではなからうか。第一歌の「流れむ」とも考へあはすべきものゝやうに思はれる。而して「苦留思」の假名がさうした意圖の下に用ひられたとするならば、梅や馬を「烏梅」「烏馬」など書くのもこの類と見るべきものであらう。
 またこの種の文字用法に漢文の助字を雇用した一類がある。春登が萬葉用字格に
   (卷十)戀許曾増焉・戀許曾増也、此二句を對へてみるに二字ともに徒に添たる也、又此卷の上に鶯鳴烏の烏を一本焉に作る、又悲烏の烏焉の誤とす此外卷十君乎社待也、同卷妻之眼乎欲焉などのたぐひ句末にあるは例の唐ざまにならひて、いたづらに句末の助字に添たるのみ。
と述べてゐるのがそれである。但し焉・也等の助字はいたづらに添へてゐるのではなく、それによつて、咏嘆の意味を強調する爲に用ひられてゐるのであつて、ことばの意味を文字によつて擴充しようとしたのに外ならないものと思はれる。
 以上の説は、今日認められてゐるやうに訓まれたものとしての上のことであつて、訓み方に新説が出れば、撤回しなければならぬことが起るかもしれないのは云ふまでもないことである。
 以上が萬葉集に於ける文學的用字法に就いて述べた私見の一節である。萬葉歌人は文字の一つを使用するにも如何(25)に深刻なまた如何に廣汎な注意と努力とを惜まなかつたかは、實に驚歎に値ひするものがあるのである。この一事を以てしても、萬葉歌人の詠歌態度が如何に行きとゞいたものであるべきかは、容易に想像することが出來ようと思ふ。
 
        七
 
 今までいろ/\の方面から萬葉歌人の詠歌態度に就いて考察して來た。これから少しく萬葉集の和歌の例によつて歌謡の性質を檢討して見ようと思ふ。
 枕詞は對句の發達と聯關して、萬葉時代に著しい展開を見たのである。今更それを説く必要は認めないが、萬葉時代にはその枕詞が代用語として使用せられてゐるのは興味深い事實である。これは頻用されてゐる間に枕詞と被修飾語との關係が緊密になつて、枕詞をいへば被修飾語を想起し、被修飾語をいへば枕詞を想起するまでに至つた結果である。
    足引乃木の間たちぐく霍公島かくきゝそめて後戀ひむかも (萬、八)
    うつせみの八十言の葉《へ》は繁くとも爭ひかねて吾《あ》をことなすな (萬、十四)
 第一例の「足引の」は山の枕詞であつて、こゝでは「山」に代用されてゐる。第二例の「うつせみの」は人の枕詞であつて、こゝでは「人」に代用されてゐる。この用法は歌型音律保持の必要から發逢したものであらうが、たゞ山といひ人といふよりは内容を潤澤にする效果もあつて、興味ある枕詞の利用だとおもふ。この法は平安朝時代にも行(26)はれ、喜撰式には異名と稱して類聚してあるほどである。
 こゝに合せ考へて見たい一群がある。
    古郷の飛鳥はあれど青丹よし平城の明日香を見らくしよしも (萬、六)
    春日なる三笠の山に月の船出づ遊士の飲む酒杯にかげに見えつゝ (萬、七)
などに用ひられたる飛鳥・春日の文字である。これをそれ/\「あすか」「かすが」の地名を寫すに用ひるやうになつたのは「飛ぶ鳥の」「春の日の」といふ言葉を、「飛ぶ鳥のあすか」「春の日のかすが」といふやうに、それ/\地名の枕詞に用ひてゐたのが、頻用の結果として、いつとなく被修飾語たる地名を寫す文字に轉用されるやうになつて來たのである。これらは固より代用語の例ではないが、相似た徑路をたどつて發達した例であり、また相助けて説明せらるべき例とおもふから、こゝに一言したわけである。
    雨ふらば着せむと念へる笠乃山人にな着しめ濕れはひづとも (萬、三)
 「笠の山」を契沖は三笠山だらうといつてゐる。ともかく笠の山といふ山の名を以て「笠」の意に用ひた一種の代用語の例である。
    眞野の浦の淀の繼橋情ゆも思へや挾が夢《いめ》にし見ゆる (萬、四因)
 これは「繼橋」を連續の意味に用ひてある。繼橋は「つぎ/\に」の同音繰返しの枕詞かとも思はれるが、この場合の繼橋は「山」における「足引の」や「人」に於ける「うつせみの」のやうに、一般的なものでもなく、また熟したものでも無いのだから、前の「笠の山」と同類の代用語と見たいのである。
(27)    玉藻刈る奧へはこがじ敷妙の枕のあたり忘れかねつも (萬、一)
 この「枕」は宿泊所の意味に用ひられてゐる。萬葉時代に於ける文字の文學的用法から考へても、「枕」といふ語には、宿泊所といふ意味以外に作者の特別な感情が含められてゐるものと見るべきであらう。尤もこの「枕」に限らず、代用語にはすべてそれ相當に言外の含蓄があるものと見るべきであらう。
    鳥翔なすありがよひつゝ見らめども人こそ知らね松は知るらむ (萬、二)
 「鳥翔」を「つばさ」と訓むか否かに就いては、なほ研究の餘地はあらう。今假に「つばさ」と訓むべきものとして「鳥」の代用語に用ひられた例として引用したのである。
 代用語は前にも述べたやうに、歌型音律に支配されて發逢したものではあらうが、代用語固有の意義が自ら一種の陰影を作つて、感じを複雜にする傾向を持つてゐる。だから代用語はいづれも文學的或は修辭的用法と見るべきではあるが、その間自ら區別があつて、
    天ざかる鄙の長路ゆ戀ひ來れば明石の門より倭島所見 (萬、三)
    香山に雲居たなびきおほゝしく相見し子らを後戀ひむかも (萬、十一)
の「倭」に代用された「倭島」、「雲」に代用された「雲居」などになると、そこに特別の感情を求めようとする意圖は認められないやうに思ふ。この引例そのものには異見を持つ人もあるかも知らぬが、「語」の用法にも前述「字」の用法と同じく語學的なものと文學的なものと大體二種あることは認めて可いやうに思ふ。
 代用語は音律に支配されて發達したものであらうと述べた。萬葉時代には歌型音律は可なり嚴守されたものゝやう(28)で、その爲に起つた語法無視と考へられる例が少からずあるやうである。中に最も多いのは對合を示す「と」の省かれた例である。
    霞打つあられ松原住吉の弟日娘と見れどあかぬかも (萬、一)
 この歌は「松原」の下にあるべき「と」が省略されてゐる。
    あをやなぎ梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし (萬、五)
 「あをやなぎ」の下に「と」の略された例である。この歌は大伴旅人の園遊會で詠まれた三十餘首中の一つであるが、この三十餘首中青柳を「あをやなぎ」と詠んだのはこの一箇所だけで、他は皆「あをやぎ」とある。されば「青柳」は「あをやぎ」と呼ぶのが普通であつたらしい。この歌も「あをやぎ」といつたならば音律を紊すことなしに「と」を加へ得るのである。それであるのに、わざ/\常ならぬ「あをやなぎ」といふ形を用ひて「と」を省いたのは、さういはなければならぬ事情が作者の胸にあつたものであらう。この歌には他にも一つ問題がある。それは「梅との花」である。これをそのまゝ受入れたならば、「青柳と梅との花」となつて、「花」は「青柳」にも結合する事になる。青柳にも花は無いことはないが、青柳の花を歌つた歌は萬葉中に一首も見當らないやうに思ふから、「花」は「梅」だけに結びつくものと解しなければなるまい、さうだとすれば、「あをやなぎ梅の花とを折りかざし」といはなければならぬ筈である。またその誤寫だといふ説もあるが、古寫本にさうあるのは一本も無いのだから、漫に改めることは出來ないとなると、これも特殊感情を尊重したらしいこの作者の故意の文法破棄と解するより他に道は無いやうである。
    馬ないたく打ちてな行きそ日《け》ならべて見ても我がゆく志賀にあらなくに (萬、三)
(29) この歌には「な」といふ打消の副詞が二度用ひてあるが、これは何れか一つは除かれなければならない筈である。殊に初句は「な」のある爲に六音になつて破格である。それ故初句の「莫」を衍字として取除いてゐる人もあるが、これも古寫本にさうなつてゐるのは一本もないから、簡單に衍字と定めてしまふことは出來ないであらう。さてこのまゝ解釋しようとすれば、作者の特殊感情の表現とするより他に道はあるまい。
    ※[女+采]女の袖吹きかへす飛鳥風都を遠みいたづらに吹く (萬、一)
 右の「吹きかへす」は「吹反」と書いてあつて果して「吹きかへす」と訓ませたものか、「吹きかへしし」と訓ませたものか明かでない。然し古來「吹きかへす」と訓んで疑はなかつたやうであるから、初よりさう訓ませたものとすると、これも破格である。これは飛鳥が郡であつた時代に※[女+采]女の袖を吹きかへしたのであるから、當然「吹きかへしし」といはなければならぬところである。柿本人麻呂の歌の
    淡路の野島が崎の濱風に妹が結びし紐吹きかへす
の「に」や、山上憶良の思子等長歌の
    (前略)まなかひにもとなか1りて安いしなさぬ
の「なさぬ」などは問題になつてゐて、確な解釋はまだ見えてゐないが、和歌にのみ容された語法の破格が認められるならば、簡單に説明はつくのである。前述對合の「と」の破格用例には疑ふべき點はなく、また平安朝でも歌語には城格用例が認められてゐたのであるから、萬葉時代に於ても「と」以外の破格用例があつたとしたところで、怪しむにも當らないやうに思ふ。
 
(30)        八
 
 歌型音律の支配を受けてゐるものに、語序の破格がある。
    はしきよしかくのみからに慕ひこし妹が心のすべもすべなさ (萬、五)
 「はしきよし」は妹に冠らせられる枕詞であるのに離れて置かれてある。然しこれは挿入された「かくのみからに慕ひこし」も妹の修飾語だから、必ずしも語序破格とはいはれないが、
    霍公鳥鳴く羽觸りにもちりにけり盛過ぐらし藤浪の花 (萬、十九)
の歌が從來解かれてゐるやうに「鳴く霍公鳥の羽觸り」といふ意味であつたならば、確に語序の破格である。但しこの原歌は「霍公鳥鳴羽觸爾毛」と書かれてあつて、或は「ほとゝぎす鳴き羽振るにも」と訓めるかも知れぬし、ともかく、その訓みやうに攷究の餘地もあるやうに思はれるから、これも語序の破格の適例とは云はれないであらう。
    あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る (萬、一)
 これは散文であつたならば、「紫野ゆき標野ゆき君が袖振る、野守は見ずや」であるべきで、語序破格である。但しこの破格は音律には關係なく、表現を適確にする爲に倒置せられたまでゝあるが、實に巧みな倒置であつて、これによつて額田王の御心持がさながらにいき/\とひゞいて來るのを感じる。然かもこの倒置は散文には許さるべくもないのである。
    山川もよりて仕ふる神ながら瀧つ河内に舟出せすかも (萬、一)
(31) この歌は「山川も寄りて仕ふる瀧つ河内に神ながら舟出せすかも」と見るべきもので、明かに音律の束縛によつて餘儀なくされた語序破格の例である。尤もこの「山川も寄りて仕ふる」を「神ながら」の修飾語と見ようとする説がある。この場合には「神」或は「神ながら」が體言でなければならない。といふのは「仕ふる」が連體形であるから。ところで「神ながら」はこの歌では「神長柄」と書かれてあつて「かみながら」と訓むべきか「かむながら」と訓むべきか不明のやうではあるが、「神ながら」の假名書きになつてゐるのは總べて「かむながら」になつてゐるから、この歌に於ても「かむながら」と訓まれなければなるまい。「かむ」は「かみ」が他の語と複合する爲に頽れた形で、「かむはかり」「かむづまり」などに見るやうに、もはや「かみ」として具へてゐた體言の資格は失つてゐるのである。即ち「かむながら」は形までも熟合した完全な一語になりきつてゐる。さて「かむながら」も「かむながらの道」であるとか、また
    立山に降りおける雪の常夏に消ずてわたるはかむながらとぞ (萬、十七)
であるとかいふやうに用ひられたのは體言であるが、前に引いた人麻呂の歌の「かむながら」は副詞である。、用言が副詞に接續する場合に連體形を以てする筈はないから、「仕ふる」を「神ながら」の修飾語と見ることは、絶對に認められないのである。
    春柳※[草冠/縵]に折りし梅の花誰か浮べし盃のへに (萬、五)
 この歌は、春柳を縵の枕詞に用ひたものとして「縵として折りとつた梅の花を、誰がわが盃に浮べたか」と解くのが一般の説のやうであるが、私は不賛成である。
(32) 梅ならば挿頭に折らるべきで、あの硬直な枝振の梅を縵に爲さうとしたつて出來るものではない。されば萬葉集中梅を縵に折ると詠んだ歌は一首もないではないか。たゞ卷八櫻花歌に
    をとめらが挿頭のために遊子が縵のためと敷きませる國のはたてに開きにける櫻の花の匂ひはもあなに
の歌に、一箇所櫻を縵にすることが見えてゐる。櫻が縵に用ひられたら、梅も縵に用ひられないことも無ささうに思はれる。けれども右の歌のは對句の爲に用ひられたまでゝあつて、對句でない所用の例が一つも見えない事が、やがて右用例は對句を作るための文飾に過ぎない事を思はしめるのである。かくて梅や櫻のやうな硬直な枝振りの花は、挿頭にこそ折りもしたれ、縵に折るといふ事は無かつたものと思はれる。なほこの春柳の歌は前に引いたあをやなぎの歌などゝ共に、旅人邸で詠まれた三十餘首中の一首であるが、この一聯の中にも柳を縵に梅を挿頭に折つた歌は幾首もあるけれども、梅を縵に折ると歌つたものの無い事は勿論である。
 そこで私はこの歌を左の好く解かうと思ふ。
  誰か  春柳縵に折りし
      梅の花盃の上に浮べし
 かう解けば、係結法も整ひ、用語上構想上何等の無理も無くなる。つまり我が亂醉忘我の態を歌つたものである。かくて音律に支配された語序破格の好適例である。
    吾大王ものなおもほしすめ神の嗣ぎてたまへる吾無けなくに (萬、一)
 この歌も諸説紛々として歸結を見ないものゝ一つであるが、これも語序破格の歌として考へれば、極めて簡単に解(33)かれると思ふ。即ち荷田東萬侶の説に從つて、
    すめ神の嗣ぎて賜へる吾大王、ものな念ほし吾無けなくに
と解けば何の支障もなく、完全に理解されるのである。
 
        九
 
 言語の略體は何時の代でも鄙俗視されるものであるから、正雅なるべき文章には使用せられないのが常である。萬葉時代に於ても宣命祝詞などには決して頽れた言語を用ひてゐない。けれども萬葉集には
    遠つ人松浦の川にわかゆ(【若鮎】)釣る妹が袂を我こそまかめ (ア略)
    まかなしみ寢ればことにづ(出)さ寢なへば心の緒ろに乘りて悲しも (イ略)
    山の名といひつけとかも佐用姫がこの山のへ(上)に領巾を振りけむ (ウ略)
    梅の花夢《いめ》に語らくみやびたる花と吾《あれ》もふ(思)酒に浮べこそ (オ略)
の如き例が數多く見えてゐる。如何なる理由かは分らないが、「え」音の省略された例だけは見當らない。
 この種の語形は祝詞宣命の類に見えないで、和歌に限つて用ひられてゐるのであるから、それが歌型音律に關係の深いことを思はしめるのである。即ち五言七音への配當上音數の異なつた言葉を握つてゐる必要もあつたから、和歌に限つて略體使用をも認めてゐたものと解釋すべきであらう。この事を更に助詞「ゆり」「より」に就いて統計表を示して見ると、
(34)助詞/書名  記 紀 萬   祝 宣
  ユリ     〇 〇 一或二 〇 三
  ユ      〇 三 三四  〇 〇
  ヨリ     一 二 四〇  三 一三
  ヨ      八 〇 一四  〇 〇
記………古事記所載歌
紀………日本紀所載歌
萬………萬葉集所載歌
祝………祝詞文
宜………宣命文
右の如き事實を示すのである。
 以上述べ來つた如く、萬菓時代は歌型音律を嚴守しようとしてゐた爲にいろ/\な苦心やら犠牲やらを拂つたものであるが、また故意に歌型を破つてゐる例がないではない。前記「馬ないたく」の歌もさうであるが、その他
    さゞ波の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたもあはめやも (萬、一)
 第五句は八音になつてゐるが、「またもあはめや」と止めればよい所である。
    赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなるせなかわがり來むといふ (萬、十四)
 この第五句も八音になつてゐるが、「といふ」を「ちふ」と約めればよい所である。
    さわたりの手兒にいゆきあひ赤駒があがきを早みこと問はず來ぬ (萬、十四)
 第二句は接頭語の「い」を加へなければ七音に收まる所である。
    さきはひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が聲をきく (萬葉、七)
(35) 第五句は「妹が聲きく」といへば、破調にはならない所である。しかもそれ/\故意に定型を破つてゐるのは,破調によつて特別の表現を求めようとしたものであることは、それ/\味ひくらべて見れば明かに分ることである。右は字餘りの場合であるが、また字足らずの場合もある。例へば
    淡路の野島が崎の濱風に妹が結びし紐吹きかへす (萬、三)
    ※[女+采]女の袖吹きかへす飛鳥風郡を遠みいたづらに吹く (萬、一)
の如きは二首共に第一句が四音になつてゐる。これは不足感から淋しさを誘致しようとしたものでは無からうか。
 これらの破調は定型嚴守といふことゝ、一見矛盾するかのやうにも思はれるが、實はかうして破調によつて特別の表現を有效に感ずるのも、一方に定型嚴守の背景があるからであつて、彼此相助ける性質のものと考へられてゐたことゝ信ずるのである。
 
        十
 
 萬葉時代に於ては、短歌に同語が二度用ひられなければならない時には、その形を變へるといふ慣例になつてゐたやうである。これは當時の詩學に行はれてゐた同語の病の影響を受けたものと思はれる。
    あ〔右○〕れなしとなわびわ〔右○〕がせこほとゝぎす鳴かむ五月は玉をぬかさね (萬、十七)
    わ〔右○〕がせこをあ〔右○〕が松原よ見わたせば海人少女ども玉藻刈る見ゆ (萬、十七)
    置きてい〔右○〕かば妹はまがなし持ちてゆ〔右○〕く梓の弓の弓柄にもがも (萬、十四)
(36)    小筑波の茂き木の間よ〔右○〕立つ鳥の目ゆ〔右○〕か汝を見むさ寢ざらなくに (萬、十四)
 などがその例であつて、一・二の歌は「我」を「あ」系「わ」系にいひわけ、三の歌は「行」といふ言葉を「ゆく」と「いく」とにいひわけ、四の歌は助詞「より」を「ユ」系と「ヨ」系とにいひわけてある。それも漫然言ひ分けてゐるのではなくして、頭韻をふむやうに注意してあるのである。即ち一の歌は「わび」と「わが」と、二の歌は「あが」と「あま」と、三の歌は「ゆく」と「ゆみ」と「ゆづか」と、同じ頭音が連續的にあらはれるやうに工夫されてある。但し四の歌のやうに同じ頭音を持つた言葉が句中に無い場合にはこの考慮は當然起つて來ない。
 この事實は、如何に萬葉歌人が用語の上に深い注意を拂つてゐたかを教ふるものであると同時に、當時如何に多くの言語貯蓄が要求されてゐたかを知らしめるものである。
 「我」の二種の中あ系の語の「あ」「あれ」はわ系の語の「わ」「われ」よりも古語であり、助詞「より」の二種の中ゆ系の「ゆり」「ゆ」はよ系の「より」「よ」よりも古語である。多くの言語を所有してゐる必要から、かうして古語をも和歌の上には使用してゐたのである。「行」の二種である「ゆく」と「いく」との關係は詳かでない。平安朝では「ゆく」は歌語或は文章語として用ひられてはゐたが、口語では「いく」が專用されてゐたものゝやうである。萬葉時代に於ては果して如何であつたかを判斷する材料を持たない。或は共に口語に用ひられてゐたかも知らぬ。或は「ゆく」は文章語としてのみ生存してゐた前代語であり、「いく」は口語として話されてゐた現代語であつたかも知らぬ。けれども當時行はれてゐた二地方の方言であつたとは考へられない事情がある。
 平安朝盛時の文學を見ると、和歌には必ず「ゆく」といふ形が用ひてあるが、物語類の文になると兩形が用ひてあ(37)る。和泉式部物語は「いく」の形ばかり、枕册子は兩形が、源氏物語は殆ど「ゆく」であるが極めて稀に「いく」が用ひてある。この時代はまだ東國語の影響が文學乃至は京方言に影響したとも考へられないから、自然この兩形は共に京言葉であつたと認めなければなるまい。然し當時文章語として雅語として「ゆき」の形を認めてゐたことは、和歌に必ずこの形を用ひてゐるによつて察せられよう。而して「ゆく」の形が雅語と認められたのは、こ)の形が「いく」の形よりも古かつたからでは無からうか。歌語が一般に、新語形――例へば音便によつて生じたやうな形は「てふ」(ト云フの約言)その他一二の外は一切用ひてゐないし、倭名類聚鈔の訓讀方針もさうなつてゐるから、この推測は誤つてゐまいと信ずる。これを萬葉集に溯つて推當てることは無理だらうか。萬葉時代に於ても「ゆく」の形が雅語であつたのは事實である。「いく」の形が用ひられてゐるのは、東國人の歌か、前に擧げたやうな特殊の場合かに限られてゐるやうである。東國人が用ひてゐるのは東國人が都の歌界事情に疎かつたからであらう。さて萬葉時代に「ゆく」が雅語であつたのは、やはりこの形が先行文學に用ひられてゐた古語であつたからでは無からうか。萬葉時代には古歌を誦して樂しんだことは前章に述べておいた通りであるから、先行文學の影響を全く無視することは出來ない時代であつたと思はれる。かう見てくると、平安朝の和歌に「ゆく」を專用してゐるのは萬葉時代から定まつてゐた歌語の踏襲であつたと言はなければなるまい。
 打消助動詞の中止形「に」例へば
    山守のありける知らにその山に標結ひたてゝゆひの恥しつ (萬、三)
    わがこゝだしぬばく知らに霍公鳥いづへの山をなきかこゆらむ (萬、十九)
(38)の「知らに」の「に」はこの「知る」に達續して用ひられてゐる例は相當にあるが、その他には「がてに」「あかに」「あらに」と用ひられた例が極めて少しくあるばかりである。これは當時打消の「に」は廢れて、纔かに特殊の言葉に結びつくことによつて、歌の上に餘命をつないでゐたばかりであつて、生きた口語の世界には新生の「ず」が代つてゐた結果と解すべきであらう。また更に用途の局限されてゐた「なす」(如き)に就ても同樣の事がいへよう。
 また萬葉集卷十九
    毎年に來鳴くものゆゑ霍公鳥聞けばしばぼく逢はぬ日をおほみ 【毎年謂之等之乃波】
と註し、爲家歸贈在京尊母所誂作歌一首并短歌の中に「見がほし御面たゞ向ひ」とあるに話して「御面謂之美於毛和」とあるのは、その訓方が註を要するほどの古語になつてゐたからではなからうか。
 かくの如く萬葉時代の歌語の中には、既に當時口語界には死語になつてゐた言葉も用ひられてゐたと考へて誤なからうと思ふ。これらの死語が歌語として生きてゐた理由はいろ/\であつたであらうが、ともかくもそれが古歌に導かれて傳はつたものであらうことは、信じてよくは無からうか。前章に引用したやうに、當時時宜に應じて古歌を誦ずる習慣のあつたことを、こゝにも合せ考へたいのである。
 
         十一
 
 本居宣長はその著玉霰の中に「歌と文との詞の差別」を述べて、
    おほよそ同じき雅言の中にも歌の詞と文の詞と差別あるがあるを、今の人は此差別なくして、歌の詞にして文にはつかふまじ(39)きを文につかふことおほし、心すべし、たとへば花にたをるといふは歌詞なり文にはわゞをるといふべし、車を小車といふは歌詞なり、文にはたゞ車といふべし、さよふけてといふは歌詞なり、文には夜ふけてといふべし、水ぐき玉づさなどいふは歌詞なり、文にはふみといふべし。
といひ、また玉勝間に
    櫻の花をさくら花といふこと、これも後の世には常なれど、古今集には詞書にはいづくもいづくも櫻の花との文字をそへてのみいひて、たゞにさくら花といへること、歌こそあれ、詞には一つも見えず。
といつてゐる。これは主として平安朝の歌語に就いての記述であるが、かうした見方は推して萬葉集に及ぼせるやうに思ふ。つまりいづれも歌型音律に適合せしめる爲の造語である。
    櫻花咲きかもちると見るまでに誰かもこゝに見えて散りゆく (萬、十二)
    吾がせこが古き垣内のさくら花いまだふくめり一目見にこね (萬、十八)
等の如く、萬葉集中にも「さくら花」とよまれた歌は澤山にある。尤も初の歌は「櫻花」と書いてあるので「櫻の花」と訓ませたかも知れぬといふ疑もあらうが、次の歌は全部假名書になつてゐて疑ふ餘地はない例である。古今集時代のやうに對比すべき散文はないけれども、七音の所に「櫻の花の」「櫻の花は」「櫻の花を」など必ず「の」を用ひてあり、五音の必要な時にのみ「さくらばな」の形の用ひてある點も、古今集時代と同樣であるから、萬葉時代も「さくらばな」といふ熟語は、和歌だけに限られた造語であつたと考へて然るべきやうに思はれる。
 また「藤浪の花」「青垣山」「青香山」等は歌にのみ用ひられた造語であつたであらう。その他接頭語の使用が萬葉時代の和歌には多い。その中には音律保持の目的から時に臨んで新造されたのもあらうとおもふが、今それを檢別す(40)ることは多くは不能であるのを遺憾とする。
 
         十二
 
 以上考察し來つたところをとりすべて見れば、結論は簡単である。萬菓時代の歌語は
 
  一 音感
  こゝにいふ音感は單語素材としての單音感のみを意味してゐる。單語には一音のものも多くあるけれども、また助詞類の場合などには單語として考へるよりも、實際上單音として考へる方が適當と思はれるのも多いとは信ずるけれども、別に語感の目を立てたから、形式の上から、單語としての單音はすべて語感の目で考へることにしておきたい。
  二 字感
  これは主として書寫樣式に關するもので、歌語選擇の標準たるべきものではないが、字感が強くなると、自然に言語選擇にまで及び得ると思ふので、この一目を加へたわけである。
  三 語感
  語感の主要分は音感であると思ふ。けれども一語にはいろ/\の事情によつて起つた複雜な感情が結びついて語感を構成してゐると思ふから、音感から引放してこの一目を設けたのである。
(41)  四 調感
   甲 基本調
    和歌の定型による調べである。
   乙 時代調
    基本調に時代趣味が溶けこんで出來た調べである。
   丙 表現調
    時代調の中に個人の性格感情等を盛り上げた調べである。この調べには更に委しく小別する必要があるけれども、今はそれまでには及ぶまいと思ふから略する。
といふやうな立場から、十分に選擇されたものと信ずる。如上の標準が一々意識され分類されて存したといふのでないことは勿論である。
 歌語素材としては、現代語中の正雅なのが主要なものであつたであらうことは、當時の事情から推察される。が、前代語、略語(或は卑語)、代用語、新造語等が詩嚢に準備せられて、必要に應じて使用せられたことは、前章説き來つたところによつても認められなければなるまい。
 これを要するに、萬葉時代の歌語は周到なる考察によつて美化された人工語であつて、自然語そのまゝのものでは無い。即ち萬葉時代の吾が祖先は既に口語の外に、また散文語の外に、立派に歌語を持つてゐたものと認められるのである。
(42) かくて國語史に於ける萬葉集の位置は自ら明かであらうと思ふ。
 
 以上甚だ大膽な粗論をぶちまけたのみならず、非常に忙しい中をせき立てられて、昨日三枚書き今日五枚書くといつた有樣で順序立たない所もあらう、また意義の通じにくい所もあらう。それらの點に放ては、讀者諸君に深くおわびをする。
  昭和八年五月二十四日
 
 
(43) 萬葉集語法研究資料
                   安藤正次
 
      前編 語法研究に先行するもの
 
         一
 
 萬葉集は、現存してゐる奈良朝時代の古文獻のうちで、上代の國語を研究の對象とする學徒に對して、もつとも豐富な資料と多種多樣な問題とを提供する。この時代の古文獻としては、古事記、日本書紀の如き、續紀宣命の如き、古風土記の如き、正倉院古文書の如き、さては、新舊混淆してはゐるが、延喜式所收の祝詞の如き、いづれもそれ/”\の特質を有してゐて、國語史料として十分に尊重されるべきものであることはいふまでもないが、萬葉集は、特にその資料が豐富であるのと、その提供する問題が多種多樣であるのとによつて、獨自の地位を占めてゐる。しかしながら、奈良朝時代の文獻を國語研究の資料として取扱ふに當つて、われ/\が最初に困難を感じるのは、その國語の記載をいかにして當代の國語に還元せしむべきかにある。換言すれば、いかにこれを訓むべきかにある。漢字の音訓を假用して國語をうつした部分のものは、比較的容易にこれを還元することが出來るのではあるが、その然らざるもの、(44)すなはち、當代人の言語意識の導くまゝに、自由に漢字、漢語を驅使し、また、漢文の句法を準用してはゐるが、必ずしも常にその正用正規に從はないといふやうな部分のものに至つては、これを還元することの容易ならぬ場合が少くない。これらの點について、よくその正鵠を得むとするには、まづ當代の人々の言語意識と用字意識とに通曉することを要する。すなはち上代における人々が國語を書きあらはすに當つて、いかなる慣用を馴致し來つてゐたかを明らかに知るのが必要である。これがいかに困難なことであるかは、從來の古典研究史を窺つてゐるものにとつて周知の事がらであるが、すべての古文獻の研究は、その出發點をこゝにおかなければならぬのである。いはでもの事ではあるが、次に一二の例をあげてみる。
 古事記上卷のはじめに「次國稚如浮脂而」といふ句がある。寛永本の古事記に脂〔右・〕を胎〔右・〕と誤つて、「次(ニ)國稚《クニワカクシテ》如(クニ)2浮胎《ウカヘルハラコモリノ》1而」と訓んでゐるのは論ずるに足りないが、この「如浮脂而」を、度會延佳の鼈頭古事記には「ウカベルアブラノゴトクニシテ」、賀茂眞淵の訓には「うかべるあぶらなして」、本居宣長の古訓古事記には「ウキアブラノゴトクニシテ」、田中頼庸の校訂古事記には「ウカベルアブラナシテ」と訓んである。如〔右・〕字をゴトクと訓むか、ナシと訓むかが問題となつて來るのであるが宣長は、かくの如き場合の如〔右・〕はいづれに訓んでもよいと考へてゐたらしく、景行記に「吾足如2三重勾1而」とある如而〔二字右・〕をナシテと訓んでゐる。それによつてみれば、上卷のこの場合の訓をゴトクニシテ(これはゴトクシテと訓むべきのであつて、ニシテといふのは古格ではないが、それはしばらく別問題とする。)としてあるのは、すぐその次に「久羅下那洲〔二字右○〕多陀用幣流」といふ語があるので、或は重複を避ける意に出たのではないかと思はれる。なほ、宣長のナスといふ語に對する考は、記傳二十八、景行記の「然今吾足不v得v歩成2當藝斯形1」の條に、(45)「○成――形は加多知爾那禮理《カタチニナレリ》と訓べし。又|加多知那世理《カタチナセリ》とも訓べし。」と註し、さらにその細註に、「那世理《ナセリ》は、如しの意なり。然れども、此は爾那禮理と云(フ)方まさるべし。」といひ、また、同じく景行記の「亦詔之吾足如2三重勾1而甚疲」の「如2三重勾1」をミヘノマガリナシテと訓んでゐるのによつて知られる。すなはち、宣長は、「なす」を「なせり」と活用させ、また「なして」と用ゐてゐるのによつてみれば、これを佐行四段の動詞と見てゐたやうである。この「なす」を動詞と見たのは、宣長ばかりではない。東條義門も、山口栞中卷【三十九オ】に、「似字にあたる詞に、なすとも、のすともいふあり。そは佐行四段の活き」といつてゐる。しかしながら、「なす」に如〔右・〕の意のあること、また如〔右・〕を「なす」と訓むべき場合のあることは、萬葉集中に「泣く兒なす」を「奈久古奈須」(三六二七)「泣子那須」(七九四)「哭兒成」(四六〇)「哭兒如」(三三三六)「鳴兒成」(三三〇二)と書いてある例を、彼此對照して見るによつても、たゞちに了知されるのであるが、この語を四段活用の動詞とすべき何等の典據も、古書に見出され得ないのである。さうすれば、如〔右・〕を「なせり」「なして」と訓むのは、不可であるといふことになる。宣長の所謂古訓によつて「なす」の活用を論ずることの不可なるはいふまでもない。語法を論ずるに當つて、まづ訓詁を正すべき要のあることは、これによつても知られよう。
 また、古事記上卷天孫降臨の條に、「豐葦原之千秋長五百秋之水穂國者伊多久佐夜藝弖有那理〔三字右○〕告而」同中卷神武紀に、「葦原中國者伊多玖佐夜藝帝阿理那理〔四字右○〕」の那理〔二字右・〕は祁理〔二字右・〕の誤であるといふ説は古くより信じられて來て、記傳には、日本書紀神武卷に、「聞喧騷之響此云左椰霓利奈離〔六字右○〕」とある奈離〔二字右・〕をも氣離〔二字右・〕と改め、「氣《ケ》を今(ノ)本に奈《ナ》と作《カケ》るは、決て誤なり。此は奈離《ナリ》とては言とゝのはず」といひ、日本書紀通釋には、「偖此訓注(ノ)奈離(ノ)二字恐くは衍なるべし」といつてゐる。し(46)かし、これは誤謬として猥りに改訂されるべきものではなく、奈良朝時代の語法にかくの如きいひあらはし方の存してゐたことが、他の方面からも立證されるのである。すなはち、正倉院古文書の、天平寶字六年以前のものと認められる假名文の文書のうちに、「伊知比爾惠比天美奈不之天阿利奈利〔四字右○〕」といふ句がある。この句は、「伊知比(櫟酒の義?)に醉ひて皆臥して有りなり〔四字右○〕。」と解せられる春日政治氏の研究(萬葉學論纂所收「萬葉集の訓義と古經卷の施點」)によれば、正倉院聖語藏御藏の成實論天長點にある、「假名字者所謂元明因縁諸行乃至老死諸苦集滅」の「諸苦集城」の訓點は「諸ノ苦集ナリ滅セリナリ〔四字右○〕」とよむべきものであるといふ。これもまた、新しく見出された一例である。山田孝雄博士は、奈良朝文法史において、この類のものを、「なり」が用言の原形をうけたものとして、「於伎敝能可多爾可治能於等須奈理〔三字右○〕」(万十五)、「伎美麻都等宇長呉悲次奈里〔三字右○〕」(万十七)、「保等登藝須奈伎弖故由奈里〔四字右○〕」(万二十)、「奈岐弖伊奴奈流〔四字右○〕」(万五)と同列に説いてゐられる。かういふ方面の研究は、他の古文獻の用例の發見によつて助けられることが多いのであつて、廣くすべての文獻に通じて見透しをつけるといふことが必要になつて來る。
 なほ、他の一例を擧げれば、萬葉集卷二、高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌(一九九)のうちに、「敵見有虎可※[口+立刀]吼登」といふ句がある。この句の「散見有」は、古くよりアタミタルと訓み、代匠記、萬葉考など、このアタをきりはなして「あひて」もしくは「敵」の義と解してゐるが、この解の誤であることは、はやく岸本由豆流がこれを説破してゐる。すなはち、萬葉集攷證卷二には、「敵見は、新撰字鏡に怏、※[對/心]也、強而心不服也、宇艮也牟、又阿太牟とありて、あだみ、あだむとはたらく言也。これを敵を虎が見たる意とするは誤り也。」とある。天治本新撰字鏡には、「阿太牟」の下に、なほ、「又伊太牟」とあり、また、攷證に「あだみ、あだむ」といつてゐるのは、「あたみ、あた(47)む」とあるべきものと思はれるが、この「敵見有」がアタムといふ動詞にタルの結びついたものであるべきことは、十分に肯定される。かくの如き、古語の闡明は、たま/\新撰字鏡に遺珠を探り得たによるものであつて、一語の忽にすべきでないことは、これによつても知ることが出來る。
 
         二
 
 萬葉集の語法を研究するに當つて、われ/\はまづ、萬葉人の言語意識と用字意識とに關して、十分な理會と正確な認識とをもたなければならぬ。このことは、必ずしも語法研究の場合にのみ限られた問題でなく、古代文獻の研究のすべての部門にわたつていはれ得ることであつて、古代の文獻を研究するに當つて、まづ校勘の重んぜられるべきはいふまでもなきことであるが、なほわが奈良朝時代の文獻の如く、その言語記載の方法が複雜多岐にわたつてゐるものにあつては、當代人の言語意識と用字意識とに關する周到な注意が加へられるのでなければ、われ/\は、國語の文獻として、正確にこれを還元することが出來ない。上記の例を以てすれば、「久羅下那須多陀用幣琉」のやうな漢字の音を假用して國語を記してゐる部分のものは、これをそのまゝに古語として受取ることが出來る。しかし、「成2多藝斯形1」は、タギシノカタチニナレリと訓むべきか、タギシノカタチナセリと訓むべきか、當時の人々はいづれをうつすものとして、かくの如く書いたものであるかゞ問題となる。すでに述べておいたやうに、ナスといふ語が動詞として認められ得ないとすれば、タギシノカタチナセリといふ推定訓は當然斥けられるべきものであるが、しからば、タギシノカタチニナレリといふ推定訓が動かすべからざる表現法であるかといふに、これについては、なは議論の餘(48)地があらう。當時の人々は、かくの如き、漢文の句法を用ゐて國語を書きあらはすに當つて、果して唯一の訓法をのみ豫想したものであらうかといふことも、また十分に考慮せらるべきである。古事記、日本書紀における訓法の問題は、かくの如くして起るのである。
 古事記のうちで、古語の形のそのまゝに傳へられてゐるのは、いふまでもなく、その假名書の部分である。その他の部分は、まづこれをいかに訓むべきかゞ決定されなければならぬのである。現存の最古の寫本、眞福寺本には、古訓の徴すべきものが見出されない。寛永二十一年版の古事記には、施訓の散見してゐるものがあるけれども、古訓の俤を窺ふに足りない。慶會延佳の鼈頭古事記の訓もまた、後世の私を加へてゐることが多い。賀茂眞淵の訓讀古事記は、本居宣長の古訓の源流をなしたものであり、宣長の古訓は、博引旁捜、本書の文辭を古風に訓みとゝのへることを期したもので、その苦心の跡は歴々として讃嘆に値するのではあるが、その古訓なるものが、果してよく、當代の言語意識、用字意識に副ふものであるか、なほ今日に疑を容れ得べきものが少くない。日本書紀は、岩崎家本、前田家本、圖書寮本等の如き、古訓古點を傳ふるものがあり、また、日本書紀私記の如き、釋日本紀の如きものがあつて、平安朝以來の諸家の研究の跡もたどられるのであるが、やはり、假名書もしくは訓註以外の部分の文辭については、書紀が純漢文に近い文辭を以て草せられてゐるだけに、古事記におけるよりは、一そうその訓み方に疑を挾む餘地の多くを存してゐる。
 今、釋日本紀から、一二の例をあげてみる。卷十六秘訓一、「譬猶浮膏而漂蕩」の條に
 私記曰。問。此一書文已2古事記1然漂蕩 於 クラケナスタヽヨヘリ 止 可v讀也。而タヽヨヘリ 止 讀、其由如何。答。師説、古事(49)記、上宮記、大倭本紀等、皆クラケナスタヽヨヘリ 止 云々。然則其説爲v先、タヽヨヘリ 止 云 於 可v爲2後説1。參議淑光朝臣云、或舊説、此漂蕩二字 於 クラケナスワタヽケリ 止 讀、於v今言v之、頗似v有2□便1。公望私記曰。橘侍郎案、依2古事記1可v讀云々、而師不v讀v之。
とあり、また、「是獲滄溟」の下には、コヽニアヲウナハラヲエキといふ訓を施し、さらに、
 私記曰。問。是字或讀或不v讀如何。答。養老説不v讀2是字1、公望私記云、案2三卷私記1、是字コヽニ 止 讀之。(謂2三卷私記1者弘仁私記也)
 といふ解説を附記してある。ことにまた、「溟※[さんずい+幸]」の條下には、クヽモリテ、タユタヒテ、アカクラニシテ、クラケナスタヽヨヒテ、クラケナスタユタヒテの五訓を擧げ、これについての諸家の意見を列記してある。かういふ例によつても知られる如く、これらの文辭を解するには、まづこれを古語に還元し古意を再現せしめなければならぬのであるが、日本書紀には、「此書之例或以2一字1讀2戚兩訓1、或以2二宇1讀如2一字1、其近文者則含牙 於波 葦穎 乎 含 止 讀、又神聖 於波 神 止 讀等也」(釋日本紀)といふやうな體例があり、また、漢文の辭句を引用してある場合にも、或は本文に幾分の變改を加へて國語に合致せしめてゐるもの、或はそのまゝで國語に合致してゐるもの、すなはち「或變2本文1便從2和訓1或有2倭漢相合者1也」(同上)といふやうな體例があるので、その訓法を古意古語に背かぬやうにとつとめるのは容易ではないのである。
 古文献を正しく訓み釋かうとするに當つて、古語を探るのは、なほ比較的容易であるといへる。記紀を訓むに當つて、從來の諸家の執つた方針のやうに、祝詞、宣命や萬葉集や新撰字鏡、和名類聚抄などに旁例を求めて、その然る(50)べきものを充當してゆくといふのは、一わたりは、その成果を收め得るに近い途であるといへる。しかしながら、その旁例を求めるに當つて、その考察が深く内面に透徹するのでなければ、單に外貌を摸し得たとしても、それが果して古意に適ふかどうかは問題である。
 
        三
 
 萬菓集語法の研究に當つて、われ/\が最初に注意しなければならぬのは、上述のやうな諸點であると思ふ。今、語法研究の基礎となるべき部門の各種にわたつて詳細の資料を擧げるのは、本稿の主とするところではないから、大方は省略にしたがつておくが、その主要なもの、語法研究に交渉をもつことの多いものだけについて、簡單に述べてみることにする。
 第−に、漢字假用の研究が語法の問題と關聯することの多いことは、現時のやうに用字例の研究の盛になつて來た今日においては、今さら繰返してこれを論ずる要もあるまいと思はれるが、わが國の古文献が、漢字の正用假用により、漢文の正體變體によつて記述されてゐるといふ性質のものであつて、これを古語に還元し古意を再現するに、それらの各方面からの研究を要することは、上述の如くであるが、その漢字を假用して國語を寫した部分は、比較的正確に國語の俤を傳へてゐるものと認められ、これをそのまゝに訓めば、古語の眞相を捉へ得るに容易であるやうに思はれるけれども、その部分すらも、これをそのまゝに訓むといふことに、なほ諸種の問題を生ずることがある。こゝに用字例の研究が必要となつて來るのであるが、漢字假用の研究はその一部分を成すものである。
(51) 漢字假用の研究は、その源流まで遡ることになると、支那の韻書や字書についても渉獵することを要するが、今しばらくその範圍をわが古文獻と直接の交渉をもつてゐるものに限定してみても、本居宣長の「字音假字用格」(安永五年刊)「漢字三音考」(天明五年刊)「地名字音轉用例」(寛政十二年刊)釋文雄の「磨光韻鏡」(延享元年以降續刊)「三音正譌」(寶暦二年)太田全齋の「漢呉音圖」、「漢呉音徴」、「漢呉音圖説」(以上三卷、文化十二年刊)東條義門の「奈萬之奈」(天保六年成)石塚龍麿の「古言清濁考」(享和元年刊)「假字遣奧山路」(寛政年中成?)奧村榮實の「古言衣延辨」(文政十二年成)白井寛蔭の「音韻假字用例」(萬延進元年成)等の如き諸書、本居宣長の「古事記傳の卷二、鹿持雅澄の「萬葉集古義」の總論、春登の「萬葉集用字格」(文化十五年刊)に見えてゐる漢字假用に關する研究、明治以後刊行のものでは、木村正辭博士の「萬葉集文字辨證」、「同字音辨證」、「同訓義辨證」大矢透博士の「假名源流考」、「周代古音考」、「同韻徴」、「韻鏡考」、「隋唐音圖」、大島正健博士の「韻鏡音韻考」、「支那古韻史」滿田新造博士の「支那音韻斷」の如き類、いづれも重要な參考の資料となるべきものである。
 古文献における漢字の假用は、字音の假用と字訓の假用との二つに大別され、これを基礎として、諸種の轉用が分岐して來るのであり、なほまた、その用字の體系は、その文献の性質によつてそれ/”\の特色があつて、一律にこれを取扱ふことが出來ないといふこともある。これらの點については、近時の諸家の研究に參考の資とすべきものが頗る多い。今その主要なものを次にあげておく。
  橋本進吉
   國語假名遣研究史上の一發見(【帝國文學第二十三巻第五號】)
(52)   上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法(【國語と國文學第八巻第九號】)
   上代に於ける波行上一段活用に就いて(【國語國文創刊號】)
   允恭紀の歌の一つに就て(【早稻田文学第二百六十三號】)
  春日政治
   假名の發生に關する考察(【松井博士古稀記念論文集】)
  森本治吉
   萬葉集の研究――用字法を中心として――(【岩波講座「日本文學」)
   萬葉集用字研究の歴史――非體系的研究の方面について――(【文學――岩波講座日本文學附録――第五號第六號】)
  時枝誠記
   萬葉用字法の體系的組織について――森本治吉氏に答ふ――(【國語と國文學第九巻第五號】)
  望月世教
   上代に於ける特殊假名遣の本質(【日本文學論纂】)
  遠藤嘉基
   上代(萬葉集)文字遣考(【文學――岩波講座「日本文學」附録――第十二號】)
   上代文字遣解説(【丘第六號】)
   萬葉集防人歌雑考――上代文字遣が提出する二三の問題について(【國語國文第二巻第一號】)
   「念弊利」考(【國語國文第二巻第五號】)
   萬葉集研究の一態度――文字遣研究に關する覚書として――(【國語と國文學第十巻第二號】)
(53)  澤瀉久孝
   戯者について(【國語國文の研究第二十二號、萬葉學論纂にも】)
   誤寫誤讀の問題を中心とした萬葉作品の時代的考察(【國語國文第二巻第一號】)
  石井庄司
   人麻呂集考――人麻呂集の用字法(【國語國文の研究第二十二號、萬葉學論纂にも】)
  大坪國益
   上代の假名(【國語國文の研究第四十九號】)
  有坂秀世
   古事記に於けるモの仮名用法について(【國語と國文學第九巻第十一號】)
  池上禎造
   古事記に於ける假名「毛・母」に放いて(【國語國文第二巻第十號】)
  正宗敦夫
  「朝爾食爾」存疑(【アララギ第二十四巻第十一號】)
  「朝爾食爾」存疑續考(【アララギ第二十五巻第二號】)
  吉澤義則
   萬葉集に於ける文字の文學的用法に就て(【國語國文第三巻第一號】)
  遠藤嘉基
   「朝爾食爾」存疑について(【奈良文化第二十二號】)
  安藤正次
(54)   萬葉人の用字意識から見た「者」字の一研究(【奈良文化第二十二號】)
 第二に、漢字正用の場合においても、われ/\は、それが當代の人々によつて如何にわが國語をうつすものとして用ゐられてゐるかを考察するのでなければ、眞に古文献を古語に還元する道を講じたといふことは出來ない。例へばアメツチに「天地」をあて、また「玄黄」をあてゝ書いてある、「天地」は明らかに正用といへるが、「玄黄」を正用といひ得べきかどうかについては疑義かある。しかし、當代の人々は「玄黄」の成語によつてたゞちにアメツチを聯想し得たものと思はれるから、これは準正用といふべきものであらう。ハニに「黄土」をあて、アキカゼを「金風」と記したのもこの類であり、「春日」をカスガ、「飛鳥」をアスカと訓ませる類も同樣である。しかしまた、アメツチの場合には、ツチをあらはすに用ゐられる「地」を、或場合にはクニをあらはすものとして用ゐてゐる。「天神地祇」をアマツカミクニツカミに宛てゝゐるが如き、その例である。津田左右吉博士が、最近「書紀の書き方及び訓み方について(二)」(【史學雜誌第四十四編第四號】)といふ論文のうちに、いろ/\の例を擧げて説いてゐられるやうに、支那の成語の天神地祇の觀念とわが國のアマツカミクニツカミの觀念とは、根本において異なるところがあるが、その支那の成語をそのままに用ゐてゐる。和銅元年の宣命には「天坐神地坐祇」といふ語がある。これは、津田氏もいつてゐられる如くアメニマスカミ・クニニマスカミと訓んだのであらうが、同じ宣命のうちには「天地之神」といふ語もある。これはアメツチノカミと訓んだのであらう。アメツチノカミは、また萬葉集には、「天地神祇」「天地之神祇」とも書かれてゐる。かういふ風に、或場合には、支那の成語を、その内容の如何にかゝはらず、そのまゝに國語に適用したり、或場合にはアメツチノカミの如き、支那の成語の字面から導き出されたと思はれるやうな國語をも派生してゐる。かういふ場(55)合の相互的關係は、やはり語法的研究の場合にも十分に考慮されるべきものである。萬葉集でアラソフに「諍競」、タナビクに「霏※[雨/微]」をあてゝゐるが如き、書紀などにも同趣のものが多いのであるが、萬葉集には、また、スメロギを「天皇寸」、ユツリを「由移」、ホセドを「雖干跡」などと書いてゐる例も少くない。後者の類は、正用が主であるがこれを補ふに假用を以てしたといへる。
 右のやうな問題は、廣くこれを訓義の研究のうちに含ませてよいのであり、これはまた、萬葉集研究の一つの中心を形づくるものである。したがつて、仙覺の註釋以來の萬葉集の註釋書は、隨所にこの間題を取扱つてゐるのであるから、今ことさらに、これを研究資料として列擧するにも及ぶまい。ただ、前に擧げた木村正辭博士の「萬葉集訓義辨證」の如きは、同じ人の「概齋雜攷」、「美夫君志」の別記と共に、この種の特殊的のものとして、これを掲げておくに値するものであらう。近時發表された諸家の論文の主なものには左の如きものがある。
  橋本進吉
   萬葉集の語釋と漢文の古訓點(【日本文學論纂】)
   「がてぬ」、「がてまし」考(【國學院雜誌第十六卷九、十、十一號】)
  春日政治
   萬葉集の訓義と古經卷の施點(【萬葉學論纂】)
   認字の和訓に就いての疑問(【奈良文化第十二號】)
   認宇和訓再考(【奈良文化第十八號】)
(56)  雲出鳥還處漫筆――萬葉集の「靡」の訓――(【能古第三卷三號】)
  鴻巣盛廣
   萬葉集研究の用意(【萬葉學論纂】)
  粂川定一
   莫囂圓隣の歌の訓に就いて(【國語國文の研究第二十二號】)
  山田孝雄
   日並皇子尊殯宮の時柿本人麻呂作歌のよみ方(【奈良文化第六號萬葉集論考】)
   萬葉集の「綜麻形」の訓に關する一提要(【奈良文化第八號萬葉集論考】)
   萬葉集訓義考(【アララギ第十三巻――第十七巻連載】)
   古事記訓義考――如己男――(【アララギ第十四巻第六號】)
  井上通泰
   萬葉雜話(【アララギ第二十三巻――第二十五巻連載】)
  正宗敦夫
   「然面毛」考(【奈良文化第二十號】)
   萬葉集索引を整理しつゝ――「妣登」「伊波牟」「雖不見左右」――(【アララギ第二十三巻第五號】)
   石根禁樹の試訓 附 卷一の訓添へに就て(【アララギ第二十五巻第七、八號】)
  谷鼎
   萬葉の歌一首――「陰爾將比疑」――(【國民文學第百八十六號】)
(57)  森本治吉
   「濱松之上於雲棚引」の訓(【奈良文化第十六號】)
  佐伯梅友
   萬葉集「不知」の訓lこついて(【松井博士古稀記念論文集】)
  品田太吉
   萬葉集訓點考(【アララギ第十五巻第十一號】)
   萬葉集疑義(【アララギ第二十五巻第十一、十二號】)
   萬葉集觀(【歴史と國文學第五卷巻一、二、三號】)
  志村健雄
   萬葉集改訓意見(【國學院雜誌第三十六卷巻七號】)
  石井庄司
   萬葉集卷二の「日月」の訓に就て(【奈良文化第十九號】)
  生田耕一
   萬葉の「打廻」の一訓(【心の花第三十一卷第十一號】)
   萬葉の「半手不忘」の試訓(【國語國文の研究第四十四號】)
   萬葉集の「古人爾和禮有哉」訓考(【國語國文の研究第四十七、六號】)
   萬葉集三三三九番の「潦」の訓考(【國語國文第二巻第四、七、九號】)
   萬葉の「事不問木尚味狹監」の歌の新訓と新解(【國語國文第二巻第十號】)
(58)   「潦」の訓考補遺(【國語國文第二巻第十二號】)
   萬葉の「鹿火屋」の古義と音訓(【藝文第十九巻第四號】)
   萬葉の「高槻村」の出土訓と試掘訓(【藝文第二十一巻第一號、萬葉學論纂】)
   萬葉の「附目緘結跡」の原字訓(【藝文第二十一巻第七號】)
   萬葉の「己具耳矣自得見監乍共」の諸訓説より誘導されたる六つの試訓(【藝文第二十一巻第九號】)
   改訓抄に暗示を受けたる「子鹿丹」の一訓(【藝文第二十二巻第二號】)
   元暦校本萬葉の本文に基く「子鹿丹」の還元作用(【藝文第二十二巻第一、二號】)
   萬葉の「雪驪朝樂毛」の古訓と古文の復活(【日本文學論纂】)
 第三に、萬葉集における言葉の書きあらはし方の上において、純漢文風のものの交つてゐることは、奈良朝時代の他の文獻におけると同樣であるが、萬葉集にあつては、その書きあらはされるものが歌詞であるがために、その純漢文風の部分は、わづかに一語句一連語といふやうな、小さい範圍に限られてゐて、他の散文におけるとは、頗る趣を異にするものがある。サモラヘドを「雖侍候」、シラネドモを「雖不知」、ツルハケテを「著絃而」アヒミズハを「不相見者」と書くが如きものであつて、しかもかくの如き部分は、訓法の上から見れば、問題を生ずることの少いものに屬する。しかるに、集中には、語句の中心となる要素だけを、書きあらはして、助詞、助動詞などは讀む人をして自由に讀みそへしめるといふやうな方法をとつてゐるものが少からずある。一二の例をあげれば、
    卷一、東野炎立所見而反見爲者月西渡《ヒムカシノヌニカギロヒノタツミエテカヘリミスレバツキカタブキヌ》 (四八)
(59)    卷十一、早人各負夜音灼然吾名謂※[女+麗]恃《ハヤヒトノナニオフヨゴヱイチジロクワガナハノリツツマトタノマセ》 (二四九七)
    卷十二、人言繁時吾妹衣有裏服矣《ヒトゴトノシゲケキトキニワギモコシキヌニアリセバシタニキマシヲ》 (二八五二)
 右のやうな場合において、「東野炎」をヒムカシノヌニカギロヒノと訓み、「西渡」をカタブキヌと訓み、「謂」をノリツ、「※[女+麗]恃惇」をツマトタノマセ、「繁時」をシゲケキトキニ、「衣有」をキヌニアリセバ、「裏服矣」をシタニキマシヲと訓むが如きは、あたかも謎を解くに似てゐるともいへる。仙覺の註釋に「東野炎立所見而」をアツマノヽケフリノタテルトコロミテと訓んでゐるに對して、賀茂眞淵が上記のやうに訓んだのは、まことに眞淵の萬葉に對する體得のいかにすぐれてゐたかを示す好個の例であるが、これを逆に考へれば、われ/\は、かういふ事實によつて、萬葉人の言語意識が、かくの如き書きあらはし方を可能ならしめたほどに、いかに鋭敏であつたかを知ることが出來るのである。したがつて、われ/\は、萬葉語法を研究するに當つては、この種の省略的記載法をも、萬葉人の語法感を知り得る一つの資料として參酌するを要する。
 
      後編 語法研究の中心をなすもの
 
          一
 
 萬菓集の語法の研究において、われ/\は、まづその各の歌が、いかに訓まれるべきかを當代の各種の文獻を參酌して考究し、當代人の言語意識と用字意識とを探求して、古語の還元の正確を期しなければならぬことは、前編に述べた通りであるが、かくの如くにして、訓法の誤なきを得、還元の正しきを認め得るに至るにもまた、上代の語法に(60)關する智識を必要とする。この關係は相互的であつて、彼此相補ひてはじめてその研究の完全を期することが出來るのである。
 萬葉集の語法を研究するに當つて、上述の意味において、まづ奈良朝時代の語法に關する一わたりの智識を得ておく必要のあることは、いふまでもないが、この時期の語法をだけ特に取扱つた資料はきはめて少い。まとまつたものとしては、山田孝雄博士の「奈良朝文法史」(大正二年刊)「奈良朝文法概説」(短歌研究第九卷)などを擧ぐべきであらう、吉澤義則博士の「國語史概説」(昭和六年刊)安田喜代門氏の「國語法概説」(昭和三年刊)にも、これに觸れてゐる點があるが、それは部分的にである。かくの如く、特にこの時代の語法について、まとまつた研究のあらはれてゐるのが數へるほどしかないといふのは、わが國の國語の研究が、江戸時代の國學隆盛時代から明治のはじめにかけて、主として中古時代の歌文を對象してゐたものであつたがために外ならない。古典研究の發達に伴つて、記紀萬葉祝詞宣命などの註釋が相次で世に出で、學者の注意は、かなり廣くこの方面に及んだのではあるが、奈良朝時代のものは、これを古風古格として取扱ふのが一般の風であつて、それらの註釋書には、隨所に、その古風古格なるものに論及してはゐるが、全體としてこれを見透し、これを組織立てるといふ方面の注意は、まだ喚起きれなかつたのである。本居宣長の「言葉の玉緒」にも、卷七に、特に古風の部を立てゝ、萬葉集などの語法の一部分を取扱つてゐるが如き、平安朝の語法を標準視し、規範視した時代思潮のあらはれであるといへる。此の間にあつて、鹿持雅鐙に「雅言成法」(二卷)「鍼嚢」(二卷)「舒言三轉例」(一卷)「用言變格例」(一卷)「結詞例」(一卷)の如き、萬葉集を中心として、この時代の語法を取扱つた研究のあるのは、異とするに足る。
(61) わたくしが、右のやうに、特に奈良朝時代の語法の一般的研究について言及したのには、いさゝかその故がある。わたくしは、萬葉集の語法は、奈良朝時代を背景とした當時の文學語の語法の代表的のものである、すでに文學語であるから、かならずしもそのすべてが、當時における普通の用語例と一致してゐるには限らないし、またこれらのうちには、奈良朝に先だつ或時代の語法の、一般にはすでに古例となつてゐるものの若干を含んでゐることも考慮されなければならぬと思惟するからである。要するに、わたくしは、萬葉集の語法は、奈良朝時代の文學語の語法であると見るのが至當であると考へる。もとより、集中には、卷十四の東歌の如き、卷二十の防人の歌の如き、當時の標準語法の圏外に立つと思はれるものもあるが、これを全體的に見て、萬葉集の語法の性質を上述のやうに考へることは、甚しい誤算ではあるまいと思ふ。かくの如き主張に對して、或は、萬葉集の歌は、當代の平常語を用ゐてそのまゝに歌ひ出したものである、當時においては、平常語と歌語との差別はなかつたのである。したがつて、語法においても、平常語の語法と異なることはなかつたのであるといふ異論も出ようと考へる。しかし、歌は、その根本の性質において散文と異なるところがあり、萬葉集時代におけるそれは、すでに耳に訴へるのを主とした謠ひものの特質がかなり失はれて、眼に訴へるのを主とするやうな傾向が著しくなつて來たとはいへ、やはり諷詠の趣味が閑却されず、格律の支配は依然としてその力を有つてゐたのであるから、語法の點においてもまた、幾分かその影響を蒙つてゐることが無いとはいへない。吉澤博士も、奈良朝時代には、「すでに歌語の意識は十分にあつて、話語が無雜作に和歌にとり入れられたものではないやうである。」といひ、また「散文には無い枕詞といふ修辭が和歌にはあり、話語には既に用ひられなくなつたと思はれる言葉も、また違格の語法も、和歌には用ひられてゐることを思ふと、歌語が話語と全く一(62)致してはゐなかつたといはねばならぬ。」といつてゐられるが、わたくしもさう考へてゐる。これについては、こゝに一つの問題を提供して見よう。從未、上に「こそ」といふ助詞のある場合に、下を形容詞の連體形で結ぶのを古格として考へ、これを形容詞の已然形が發達してゐなかつた時代の語法と見るのが普通のことゝなつて來てゐる。
    萬十一、難波人葦火燎屋之酢四手雖有己妻許曾常目頬次吉《ナニハビトアシビタクヤノスシテアレドオノガヅマコソトコメヅラシ キ》 (二六五一)
    萬十一、海底奧乎深目手生藻之最今社戀者爲便無寸《ワタノソコオキヲフカメテオフルモノモトモイマコソコヒハスベナキ》 (二七八一)
    萬十二、タマ劔卷宿妹母有者許増夜之長毛歡有倍吉《タマクシロマキネシイモモアラハコソヨルノナカキモウレシカルベキ》 (二八六五)
    萬十七、山高美河登保之呂思野乎比呂美久佐許曾之既吉《ヤマタカミカハトホジロシヌヲヒロミクサコソシゲキ》―― (四〇一一)
 右のやうな集中の例は、さらに日本書紀に見えてゐる次の旁證によつて、一そうの確實性を加へる。
    仁徳紀 虚呂望虚層赴多幣茂豫耆瑳用廼虚烏那羅陪務耆瀰破箇辭古耆呂筒茂《コロモコソフタヘモヨキサヨドコヲナラベムキミハカシコキロカモ》
    天智紀 美曳之弩能曳之弩能阿喩阿喩擧曾播施麻倍母曳岐《ミエシヌノエシヌノアユアユコソハシマベモエキ》
 しかしながら、この時代に、形容詞の已然形が發逢してゐなかつたとはいへない。舊著「古代國語の研究」(二六九頁)にもいつておいたやぅに、卷五に「おのが身し伊多波斯計禮婆」、「和可家禮婆」、卷十五に「かへしやる使奈家禮婆」、卷十七に「あが片戀の思氣家禮婆かも」、「世の中の常し奈家禮婆」、「をくよしのそこに奈家禮婆」、卷十八に「すくなくも年月經れば古非之家禮やも」、卷八に「霍公鳥鳴きとよむらむわれ無視杼毛《ナケレドモ》」、卷十に「天の河遠きわたりは無友《ナケレドモ》」のやうな例は、少からず各所に散見してゐるのである。しかるに、上述のやうに、上に「こそ」のある場合に、下を連體形で承けてゐるのは、いかに解釋されるべきものであるか。わたくしなども、かつては、これを奈良朝時代の語(63)法の一の特色であると考へてゐたのであるが、さらに按ふに、これはさうたやすく論定し得べき問題ではない。この種の語法を前代の餘風と見るのも、一つの解釋ではあるまいか。これは、「こそ」の係結の變遷の歴史とも關係をもつのではあるが、形容詞の活用が十分に發達しなかつた時代の名殘が、歌の上にその俤をとゞめてゐるので、歌には語數の制約があり、また傳統の力が散文の上におけるよりも強くはたらくから、かくの如き古格が支持されるのであるといふことがいへるのではあるまいか。この假説には、前記のやうに、この種の例が歌の上にのみ認められるといふ事實が、相當に有力な根據を與へることにならう。
 奈良朝時代の國語史料のうちで、續日本紀に收められてゐる宣命の如きものは、この時代における國語の現實的の動きを明らかに提示してゐるものであるといへる。しかしながら、それも、宣命といふ特殊の性質に支配されて、形式的の部分には、やはり前代の慣用を踏襲してゐるに過ぎないと思はれるものがある。これは、延喜式所收の祝詞を見てもわかることである。祝詞各篇の述作年代については、從來諸種の説が行はれてゐるけれども、少くともわれわれの今日有つてある材料では容易にこれを論定することが出來ない。祝詞述作の前後は、幾分か、その祭祀の起源の前後によつて定められ得ないではないが、祭祀の起源の比較的古いものゝ間においては、延喜式に採録された祝詞そのものが、果してその當時のものかどうか明らかで無い以上、容易にその先後を定めることが出來ない。しかし、神祇祭祀の儀式典禮が漸く整頓し來つた時代にあつては、祝詞は、ほとんど一定の形式を守るやうになり、新しく起つた祭祀に關する祝詞も、なほ比較的古き起源を有する祭祀の祝詞の形式文辭を踏襲するといふことが行はれたであらうことは、個々の祝詞の比較研究によつて知られるところである。現に傳はつてゐる祝詞は延喜式に採録されたもの(64)であるが、これはなほ貞觀、弘仁の二式に遡り得るものであり、その古いものは、さらに大寶令の式または別式に採録されてゐたものであつたらうとも推考されるのである。この假説は、或は假説として斥けられるかも知れないが、少くとも、大祓の詞、出等國造神賀詞または、大殿祭、鎭火祭、祈年祭の祝詞の如きものは、奈良朝の色彩の著しいものであることは、學者の間に異論のないところであらう。しかるに、これらの祝詞の間には、用語、語法、形式などの上において、一定の型の存することが見出されることはいふまでもないが、全體から見ても、祝詞には、その性質上、時代の動きといふものが反映されてゐない。その反映されてゐるのは、はるかに遠い時代の動きなのである。すなはち、祝詞においては、その遠い時代の動きが、全體として定型化されてゐるのである。宣命にあつては、その形式的の部分こそ定型化されて居れ、その主要な部分は、前にも述べたやうに、よくその時代の動きをあらはしてゐる。漢語などが自由にとり入れられてゐるが如きは、その著しい一例である。かういふ點からみると、萬葉集の長歌、特に人麻呂の長歌の如きは、さういふ古風の定型を復現して莊重典雅な趣を加へるに成功してゐるが、これは歌なればこそ、古型の復現が許されるのである。現代の歌において、「たまゆら」とか、「ずけり」「につゝ」とかいふやうな、古語や古い語法が復現されてゐるのと趣を等しくする。かういふやうな點から見ると、われ/\は、萬葉集の語法といはれるもののうちにも、當時における通用と特殊との兩樣のもののあることを認めるのを至當と考へざるを得ないのである。
 
        二
 
(65) 萬葉集の語法の考察は、その範圍が廣汎にわたるが、こゝには、まづ問題として、動詞、形容詞の活用の研究についての考察を試みることにする。
 動詞の活用については、江戸時代の學者のうちにも、動詞の各種の活用は、後世に至つて分岐したもので、古くは四段活用の如きものがその原形であつたのであらう、他の活用はその轉訛であらうといふやうな考をもつ人々があつた。これは奈良朝の文獻を研究の對象とした古典學者の間には當然起り得る疑問なのであつて、平安朝時代に上二段活用としてあらはれて來る「もみづ」(紅葉する)「よく」(避)などが、古くは四段に活き、後に下二段活用としてあらはれて來る「おそる」(恐)「かくる」(隱)などが、古くは四段にはたらいたと思はれるやうな例が見出されるのであるから、古格としてかういふ活用例を取扱ふことは、夙くから注意されて來てゐたのである。義門の山口栞にも、多くの活用の古形が示されてゐて、われ/\はこれによつて多分の示唆を受けるのであるが、まだ義門の時代においては、各種の活用のいづれが原形であるかといふやうな點までは、考究せられなかつたのである。動詞活用の原形に關して、明確に一元論を唱へ出したのは、おそらく鹿持雅澄をそのはじめとなすべきのであらう。雅澄は、その著「用言變格例」において、すべて諸の用言は四段に活くのが骨格であつて、他の諸活用は、みなこの四段活用の變格であると論じ、多くの例證をあげてゐる。かういふ四段活用一元論は、明治年間の内外の學者の間には、かなり多くの支持者をもつてゐたのであるが、或はまた、四段活用と二段活用とが原形であらうといふ二元論を唱へる人もあり、また近くは、動詞は、古代においては、多種の活用をもつてゐたのであるが、それが、漸次統一されて來る傾向を示してゐるといふ多元論を主張してゐる學者もある。
(66) オランダのホフマン(Hoffmann)は、その著「日本文典」(一八六八年すなはち明治元年に、蘭文と英文との兩樣で發刊され、一八七六年、明治九年に訂正の上再版された。)には、四段活用の動詞がすべての動詞の基本となるものであつて、他の活用の動詞は、四段活用の動詞に aru(有)uru(得)suru(爲)などが複合して出來たものと考へてゐたらしい意見が見えてゐる。ホフマンの所説はやゝ曖昧であるが、この文典の影響を、多分にうけてゐるアストンの「日本文語文典」(一八七二年、明治五年)の動詞活用の論に至つては、明らかに四段を基本活用と斷じてゐる。しかし、氏の見解によれば、四段活用が終止形と連體形と同形であるのは古い姿ではない、終止と連體とは、奈行變格が shinu,shinuru,inu,inuru となつてゐるやうに−u,−uru の二つにわかれてゐたのであらうといふのである。チヤンブレンの「琉球語の研究」(Essay in Aid of a Grammar and Dictionary of the Luchuan Language,189)の中にも、琉球語との比較研究の上から見た國語の動詞の原形論が見えてゐるが、氏は大體においてアストンの説を繼承し、さらに琉球語との比較から得た結果によつてこれを補つたものといつてよい。この種の問題について、わが國の學者の發表した論文の主なものには、大島正健博士の「動詞組織考」(早稻田文學第二期三十三・四號、明治三十年)「日本語の組立を考ふ」(國民之友第三六二・三號、明治三十年)三矢重松博士の「動詞成立期考」(國學院雜誌第四卷第西號、明治三十一年)の如きものがあり、また、大矢透博士の「國語遡源」、草野清民氏の遺著「日本文法」の附録「言語の發達」、金澤庄三郎博士の「日本文法新論」、龜田次郎氏の「國語學概論」などのうちにも、その所説が見えてゐる。なほ、近く世に出た金田一京助氏の國語音韻論には、動詞活用の原形に關する多元論の片鱗をうかゞふことが出來る。
 動詞の活用の變遷については、奈良朝の文獻の忠實な研究によつて、多くの新しい光を見出すことが出來る。橋本(67)進吉氏の「上代に於ける波行上一段活用に就いて」(國語・國文創刊號)の如きは、その一例である。この論文は、上代文獻に存する特殊の假名遣の研究に本づいて、「乾る」の將然形、連用形の「ヒ」「嚔る」の連用形の「ヒ」に斐の類の假名が用ゐられてゐることによつて、假名遣の上からこれが上二段活用のものであるべきことを論じ、さらに日本書紀景行紀に「兄曰2市乾鹿文1【乾此云賦】」とあるを引き、また、萬葉集卷十一の「吾屋戸之草佐倍思浦乾來」とある「浦乾來」をウラブレニケリと訓むべき由を述べ、これによつて、「乾る」がフ、フレとも活用してゐたことの證となし、なほ動詞に接尾辭「す」を附けて他動詞を作る時、動詞の語尾音は、上二段のものにあつては、「おこす」「おとす」「すぐす」「つくす」のやうにオ段又はウ段になるものが多いが、上一段においては、イ段音が普通であつてキス(着)ニス(似)ミス(見)などの形になるがハ行に限つてホス(乾)となつてオ段音となる、かやうの點から見ても、「乾る」は上二段の性質を帶びてゐると斷じ、「嚔る」もまた「乾る」と同樣のものと見、ハ行上一段動詞は、奈良朝に於ては上二段であつたが、平安朝において、完全に上一段に變化して、上二段であつた名殘を留めなくなつた、それは多分これ等が一音節の語であつた爲であらうと思はれると論じてゐられる。
 右のやうに、上代の上二段が上一段に變つて行く例として橋本氏は、なほ「荒ぶ」が續日本紀卷四十延暦八年九月戊午の宣命に「陸奧國荒備流蝦夷等」となつてゐる例をあげてゐられるが、かくの如くにして、上二段が上一段に轉化して來たことが證明されるとすれば、從來の假定説が漸く假定の域を脱して來るわけであるが、なほ古事記には次のやうな例がある。
    (神代卷) 何由以汝不治所事依之國而哭伊佐知流〔四字右○〕
(68)    (同上)唯大御神之命以問賜僕之哭伊佐知流〔四字右○〕之事故白都良久
    (同上)八拳鬚至于心前啼伊佐知〔三字右○〕伎也【自以下四字以音下傚之】
 右のイサチルは、明らかに上一段活用のものと思はれるが、日本書紀などの古訓には、「哭泣」「血泣」「泣悲」などをイサチ、イサツと訓ませてゐるのによれば、これは上二段にも活用したものと思はれる。上一段が古く、上二段が新しいと見るべきか、上二段から上一段に轉じたと見るべきかが問題であるが、或は、これは、古くは上二段活用であつたが、或時代において、上一段にも活用させるやうになり、それがたま/\古事記によつて傳へられたものと見るべきのではあるまいか。しかし、その轉移の際において、上二段の古い活用の方が優勢であつて、上一段は一時的一部的のものとして、そのまゝ影を潜めるに至つたものではあるまいか。
 上代の動詞のうちで、特にその一音節のものについては、なほ諸種の疑問の存するものがある。今その一二を擧げてみれば、萬葉集卷十五に「わが旅は久しくあらしこの我が家流〔二字右○〕妹が衣の垢つく見れば」同卷四に「わがせこが蓋世流〔三字右○〕衣の針目おちず」などとある、ケルもしくはケセルは、古事記中卷日本武尊の歌に「汝が祁勢流〔三字右○〕おすひの裾に月たちにけり」同宮簀媛の歌に「わが祁勢流〔三字右○〕おすひの裾に月たたなむよ」とあり、熱田縁起に、この宮簀媛の歌を「わが祁流〔二字右○〕おすひのうへに」とあると同じく、ケルは「著」、ケセルはその敬語である。かくの如き類例は、同音異義の語、「來」の場合にもある。萬葉集卷二十に「父母にものはず價〔右○〕爾弖」とある、このケニテは防人歌であるから、これを特例と見ても、同十七に「玉づさの使の家禮〔二字右○〕婆嬉しみとあが待ち問ふに」とあるケレは、明に「來」の義であるのみならず、他にもまた、助動詞ケリ、ケルに「來」の字を假用してある例がめづらしくない。「見」をメスといつた例も萬(69)菓集中に多く散見してゐる。卷一に「食國を賣之〔二字右○〕たまはむと」、卷六に「大君の賣之思〔三字右○〕野べには」、卷十八に「吉野の宮をありがよひ賣須〔二字右○〕」などのメシ、メスは「見」の義の敬語である。シロシメス、キコシメスのメスも同語である。かういふ風に上一段活用に屬するものと見られてゐる一音節の語のイ列のものがエ列に轉じてゐるのは、從來單に「キ」「ミ」音韻變化の結果であると説かれてゐるが、これは偶發的の音韻變化と見るべきものでなく、「著」來」「見」などの動作が決定的であることをいひあらはす場合に、かくの如く轉用されるものであらうと思はれるが、これはなほ、將來の考察を要すべき問題であらう。たゞし、これは、必ずしも上一段活用に限られてゐるのではない。「寢」をナス、「爲《シ》」をセスといふが如き類例もある。
 
         三
 
 萬葉時代の動詞のうちで、特に四段活用の動詞にあつては、それがさらにサ行四段に活き、またハ行四段に活く一類のものがある。「採む」を「つます」、「笑む」を「ゑます」、「待つ」を「またす」、「作る」を「つくらす」といふが如きは、前者の例であり、「流る」を「ながらふ」、「散る」を「ちらふ」、「靡く」を「なびかふ」、「還す」を「かへさふ」といふが如きは、後者の例である。これらの類を、古くは延言もしくは伸言などと呼び、或は舒言とも名づけて、「採む」が「つます」となるのは、「む」が延びて「ます」となつたのであり、「流る」が「ながらふ」となるのは、「る」が延びて「らふ」となつたのであると説明されてゐた。鹿持雅澄は、この類のものに、「聞く」に對する「聞かく」などのものなどを加へて、「舒言三轉例」のうちにこれを説明し、また「雅言成法」の下卷、舒言の條にこれを取扱つて(70)ゐる。「聞かく」などの類はしばらくこれを措く。雅澄が、「採む」をサ行に活らかして「採ます」といふのを、尊みていふ言、すなはち敬語であるといひ、「流る」をハ行に活らかして「流らふ」といふのを、「その流るゝことの引つゞきて絶えず長緩《ノドノド》しき意味あるときにいふことなり」といつてゐるが如きは、また一家の見たるを失はない。山田孝雄博士は、この上に、さらに一歩を進めて、「採ます」、「立たす」の如き「す」を「さ、し、す、せ」と活用する複語尾とし、これを敬意をあらはす複語尾と名づけ、「流らふ」「散らふ」の如き「ふ」を「は、ひ、ふ、へ」と活用する複語尾とし、これを作用の繼續をあらはす複語尾と名づけ、いづれも四段活用の未然形をうけるのを原則とするものと見てゐられる。その詳説は「奈良朝文法史」(二五九頁以下)に見えてゐるが、これを複語尾と見るかどうかについては、學者の間に異論もあらうが、前者が敬意をあらはすに用ゐられ、後者が作用の繼續をあらはすものであるとみる點においては、山田博士の所説は、まさに雅澄の説を裏書するものとして一般の承認するところであらう。前節の末項に、疑問として擧げた「ぬ」(寢)を「なす」、「す」(爲)を「せす」、「きる」(著)を「けす」、「みる」(見)を「めす」といふ類の「す」も、山田博士にしたがへば、前者と同じく、敬意をあらはす複語尾に屬するので、これらは、四段以外の動詞につく例と見られる。しかして、「せす」の場合には、「す」は未然形の「せ」をうけてゐるが、その他の場合にあつては、「ね」が「な」に、「き」が「け」に、「み」が「め」にといふやうに、音韻の變化を伴ふことになつてゐると説明されてゐる。
 鹿持雅澄は、前にも述べたやうに、「聞く」を「きかく」、「嘆く」を「なげかく」、「言ふ」を「いはく」の類を、やはり舒言であると見、さらにまた、「荒れむ」を「荒れまく」、「刈らむ」を「刈らまく」などといふのをも舒言として(71)ゐる。しかして、雅澄は、「雅言成法」のうちに、これを解して、「此はかくらく〔四字傍線〕は隱るゝ事がと云意なり。見らく少なく戀らくの多きと云歌は、見る事が少く戀ることが多きと云意なるにて、其餘は准へて知べし。」といひ、また、「通ひけまくはと云は、通ひけむやうはの意。」といつてゐるので、かういふ語法についての大體の意向を知ることが出來るが、この種の「く」およびその系統に屬するものについては、容易に論定することの出來ない諸種の問題がある。これに關する諸家の論考には次のやうなものがある。
  岡倉由三郎
   語尾の「く」について(【言語學雜誌第一卷第一號】)
  岡澤鉦次郎
   岡倉氏の語學上の二論文を讀みて所見を述ぶ(【國學院雜誌第六卷第四、五、六號】)
  金澤圧三部
   日韓兩國語同系論(【東洋協會調査部學術報告第一册】)のうちの名詞法の項
   延言考(「國語の研究」のうち】)
  山田孝雄
   奈良朝文法史
  安藤正次
   「都良久」「去良久」などについての考(【佐佐木信綱博士還暦記念論文集日本文學論纂】)
 右のやうな「採ます」「流らふ」「聞かく」の類は、奈良朝以前においては、或は一般に行はれてゐた表現法であつたであらう。しかし、萬葉集時代における各種の用例を見るに、幾分かその慣用に局するところがあつて、四段活用(72)のものならば、そのすべてがかくの如き形をとり得るといふのではないやうである。平安朝に入つては、この種の表現法は全くその活動的生命を失ひ、わづかに前代の遺物として化石的存在を有するに過ぎなくなつてゐる。
 
 形容詞の活用に關しては、萬葉集時代の特殊の語形と認められるものに、次のやうな「け」がある。
    萬四、 天雲のそきへの極み遠鷄跡裳〔四字右○〕こゝろしゆけば戀ふるものかも (五五四)
    萬五、 たまきはるいのち遠志家騰〔四字右○〕せむすへもなし (八〇四)
    萬八、 戀之家婆〔四字右○〕形見にせむとわかやとにうゑし藤浪今さきにけり (一四七一)
    萬十七、 たまきはるいのち乎之家騰〔四字右○〕せむすへのたときをしらに (三九六二)
    同  玉ほこの道の等保家婆〔四字右○〕間使もやるよしをなみ (三九六五)
    同  あしひきの山來へなりて等保家騰〔四字右○〕母心しゆけはいめに見えけり (三九八一)
    萬二十、梅の花香をかくはしみ等保家杼母〔五字右○〕心もしぬに君をしそおもふ (四五〇〇)
    古事記中卷 梯立の倉橋山は佐賀斯祁騰〔五字右○〕いもとのほれはさかしくもあらす
 右のやうな例に見えてゐる「遠け」「惜しけ」の如き「け」の活用は、この時代の一の特色とも見られるのであるが、しかし、これによつて、奈良朝時代の形容詞の已然形は「け」であつたと論ずるのは早計である。前にも述べておいた通り、形容詞の已然形の「けれ」は集中にも多くの例證を見出し得るのであるから、むしろこれは、「けれ」の發達しなかつた以前の時代の用法の遺存せるものと見るのを至當とするのであらう。
(73) 右のやうな「け」については、舊來の諸説みな「けれ」が「け」となつたものであると説いてゐる。「奈良朝文法史」もまた、同説である。たゞ同書には、日本書紀、卷十四(雄略紀)に「あたらしき猪名部のたくみかけし墨繩旨我那稽麼〔三字右○〕誰かかけむよあたら墨繩」とある、「なけば」の「けば」は「からば」であるとして、「けば」は「からば」「ければ」の略の二樣ありて意義一ならず、と説いてある。思ふにこれは、「しが無けば誰かかけむよ」とある、前後の關係から、「無けば」を假定條件をあらはすものと見て、意義の上から「無からば」より來たものと解されたのであらうが、果してどうであらうか。〔萬五〕佐夫志計米〔五字右○〕夜母、〔萬十五〕宇都之家米〔五字右○〕也母、〔同〕須敝奈家奈久〔四字右○〕爾、〔同〕和可禮奈波宇良我奈之家武〔七字右○〕、〔萬十七〕奈加奈可爾之奈婆夜須家牟〔四字右○〕の如き例における「け」も「から」の略と説かれるのが普通であるけれども、これらも、やはり、形容詞の已然形の「け」と見、「けれ」の先驅を成せるものと解すべきものではあるまいか。橋本進吉氏の研究(【「上代の文獻に存する特殊の假名遣と當時の語法」國語と國文學第八巻第九號】)によれば、形容詞の已然形の語尾の「け」をあらはす上代の假名遣は、所謂甲類の假名であり、祁、計、鷄、稽、家などは、これに屬するのである。上來例示した、形容詞の已然形の語尾と思はれる「け」の假名は、すべて所謂甲類の假名に屬するものであつて、少くともこの時代の假名遣の研究からは、「け」に二種あるといふことは考へわけられないのである。同じく橋本氏の研究によれば、「はるけし」「のどけし」の連用形「はるけく」「のどけく」と、形容詞の語尾「け」に「く」が附いた「よけく」「きよけく」「さむけく」とは、外形上區別が立て難いが、上代假名遣では、前者はケの乙類(氣の類)を用ゐ、後者は甲類(祁の類)を用ゐて明らかに書きわけられてゐるし、動詞の活用語尾に於ても、四段の命令および助動詞「り」に連るケヘメは甲類、已然のケヘメは乙類といふやうに、はつきりした假名の書きわけ方がある。もし形容詞の語尾「け」に二種の(74)つかひわけがあつたのならば、假名遣にもまた二種の區別があつた筈であるともいへよう。しかし、これはまた、他の方面からの反對説も成立ち得ないではない。すなはち、上代假名遣の性質が、發音上の相異にその根底をもつてゐるならば、發音上の相異のあるものにおいてこそ、その書きわけも可能であれ、發音上の相異のないものにあつては、何等これを書きわけることが出來ないではないかといふ主張も成立ち得るのである。
 
         四
 
 今まで述べて來たところは、語法研究の、きはめて小さな部分だけである。語法研究の範圍は廣汎であるから、與へられた紙數においてこれを説き盡すことは不可能である。今わたくしは、筆をこゝに止めて、近時の諸家の研究の語法に關する主要な論文を左に列擧し、その詳説は、これを他日に讓ることゝする。
  武田鵡吉
   「がの」考(萬葉集新解下)
   「にてし」考(同)
   「鹿こそ子持たりといへ」考(同)
   「しか」「てしか」考
   形容詞の論(東洋語學の研究)
  折口信夫
   形容詞の諭(東洋語學の研究)
  上田萬年
(75)   形容詞考(國語のため第二)
  金澤庄三郎
   形容詞考(國語の研究)
   形容詞考補遺(同)
   一種の敬相lこ就いて(同)
  今泉忠義
   助動詞「き」の活用形「し」の考(【國學院雜誌第三十六巻第十號】)
   助動詞る・らるの意義分化(【國學院雜誌第三十七巻第二號】)
   助動詞「き」の連體形(東洋語學の研究)
  吉澤義則
   萬葉集に用ゐられたる助詞ユリ・ユ・ヨリ・ヨについて(【藝文第八巻第七號國語國文の研究】)
  榮田猛猪
   來字の活用及語源考(【國學院雜誌第十七巻第三、四號】)
  佐伯梅友
   萬葉集の助詞二種(【國語國文の研究第二十二號】)
   「秋風も未だ吹かねば」(【國文學誌第一卷第六號】)
   主語につく「の」と「が」に就いて(萬葉學論纂)
   萬葉集「泣く」「泣くる」考(【國語國文第二卷第十號】)
   可可良波志考(【國語國文の研究第四十九號】)
(76)  橘純一
   「ゆゑ」の古用について(【國語と國文學第五卷第一號上代の國語國文學】)
   「ものゆゑ」といふ語の意義に就いて附「もの」「ものを」「ものから」(【國語と國文學第六卷第十一、二號上代の國語國文學】)
  橋本進吉
   萬葉時代にこ於ける「まじ」と「ましじ」(【心の花第二十四卷第七號】)
   「がてぬ」「がてまし」考(【國學院雜誌第十六巻第九、十、十一號】)
   奈良朝語法研究の中から(【國語と國文學第二卷第一號】)
   允恭紀の歌の一つについて(【早稻田文學第二百六十三號】)
   「とほしろし」考(【奈良文化學第六號萬葉集論考】)
   辭書ところ/”\(【國語と國文學第九卷第八號】)
  小林好日
   古格の助詞と萬葉集の「もとな」「さはだ」(【國語と國文學第八卷第十號】)
  正宗敦夫
   多能之氣久の考(【アララギ第二十二卷第六號萬葉集論考】)
  生田耕一
   「多能之氣久」の一考察(【國學院雜誌第三十七巻第五號】)
   「多能之氣久」追記(【國學院雜誌第三十七巻第六號】)
  橋本徳壽
(77)   萬葉集の感動の「も」(【短歌雜誌第十三巻第六、七、八、十二號】)
   萬葉集の助辭(【短歌講座第九巻】)
  波多江種一
   古代に於ける接尾語「等」に就て(思想第百一號)
  宮島弘
   願望助詞「なも」についての一考察(【國語國文第二卷第九號】)
  森本治吉
   萬葉集に於ける「と」助詞の用法(【アララギ第二十五卷第十、十二號】)
   萬葉集の「吾をねし泣く」「吾をねし泣くる」の一解釋(日本文學論纂)
  安田喜代門
   國語法上の諸問題(【國學院雜誌第三十巻第三、四、五號】)
   助詞「ぞ」「そ」の研究(【國學院雜誌第三十巻第九號】)
   古代に於ける副詞「いと」及びその一類の研究(【國語と國文學第三卷第九、十號】)
   新に發見された萬葉語(【奈良文化學第十七號】)
  山脇萬吉
   「八隅知之」考(萬葉學論纂)
  新村出
   國語に於ける東國方言の位置(東方言語史叢考)
   東國方言治革考(同上)
(78)  山田孝雄
   「大命良麻」の文法上の解釋(【國學院雜誌第十一卷第一號】)
   「自物」の文法的解釋(【國學院雜誌第八卷第十一號】)
   「母等奈」考(【奈良文化第十二號萬葉集論考】)
   「許知碁知」の考(【アララギ第二十二卷第十號】)
  彌富破摩雄
   萬葉に見えたる枕詞の一語法――提示的枕詞に就いて――(【奈良文化第十七號萬葉集論考】)
  湯澤幸吉郎
   自己に敬語を用ひた古代歌謡等について(【國語と國文學第七卷第五號】)
  安藤正次
   用言の連用形に關する一考察(【言語と文學第三輯】)
   「末爲流」原義考(【國語國文第一卷第二號】)
   「侍」字訓義考(【國文學研究第一輯】)
   「宇禮牟曾」考(東洋語學の研究)
   「爾都追」考(奈良文化第二十四號)
 
 
(429) 萬葉語と琉球語
                  伊波普猷
 
         はしがき
 
 島津氏の琉球入後、間もなく世に出た、琉球の經世家羽地王子向象賢は、其の仕置〔二字傍点〕の中に、「竊惟者、此國人生初は、日本より爲渡儀疑無御座候。然者末世之今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至迄皆通達せり。雖然言葉の餘相違者、遠國之上久敷通融爲絶故也。五穀も人同時日本より爲渡物なれば、云々」と言つてゐる。彼は言語の類似から琉球人の祖先が日本から渡つた、といふ事を思付いた最初の人で、その説は、明治の初年に至つて、琉球最後の政治家|宜灣《ぎわん》朝保によつて布衍された。宜灣は位よあすたべ〔五字傍点〕(法司ともいふ、大臣のこと)に上つた人で、、松風齋と號し、和漢の學に通じてゐたが、ことに和歌は八田知紀の門下でも錚々の名があつたといはれてゐる。政務の餘暇に、『琉語解釋』を物し、「古事記傳萬葉集などを見るに、日本上古のことば爰には今も多く殘れり」といつて、三十餘の單語を記紀萬葉中の古語と比較對照してゐるが、この語彙にはイロハのみだし〔三字傍点〕をおいて、皆餘白が存してあるから、稿本の中でも着手始めのものであつたことが知れる。
(430) 私もこれらの古語と縁故のある琉球語をより/\あつめて、比較對照を試みてゐるが、平安朝から鎌倉室町の二期にかけての國語も、かなり輸入されてゐるのを見て、琉球語が國語三千年の歴史の横斷面であることを、今更のやうに感じてゐる。
 最近、萬葉集中のものに類似のもの、約百五十餘語を拾ひ出したから、左にこれを比較對照することにしよう。
 
         あ、あん
 
 山田孝雄博士は、『奈良朝文法史』中に、吾は「わ」「われ」といつたのは、萬葉期以後のことで、この期以前には「あ」「あれ」で、琉球語の第一稱も亦「わ」であるのを見ると、「あ」の古形は日本・琉球兩國語の祖語にあつた筈だから、琉球語は完全に「わ」の勢力の成立した時期に分立したのではないか、と言はれたが、「あ」は琉球の神歌オモロ及び宮古島の古詩アヤゴ中に見出され、現に沖繩島の北部の方言中にも見出されるから、琉球語分立の時期は、もつと溯らなければならないやうな氣がする。推古朝に南島人が來朝した時、譯語《をさ》を置いたところから考へても、當時は分立してから可なりの年數を經過してゐたと見なければなるまい。なほ又それは音韻變遷の方面からも垣間見ることが出來よう。即、PからFへ、そしてFからHへと、國語がこの三千年間に進んだものが、現在南島に縮寫されてゐるのを見ても領かれよう。これについては、先達而山田博士にはじめてお目にかゝつた時、お知らせするの光榮を得た、。
 「あ」「あん」が古形で、「わ」「わん」がそれから分化したことは、文獻に徴しても明かで、明の永樂の初頃、支那人に(431)よつて採録された琉球館譯語(華夷譯語の一)は、「我」をミ(ang)と音譯し、それから一世紀たつて、明の弘治十四年に、朝鮮人によつて編纂された語音翻譯は、之を※[ワンのハングル](ワン)と音譯してある。更に一世紀たつて、明の萬暦前後の所輯に係る篇海類編・音韻字海・海篇正宗等の琉球譯語には、これが瓦奴〔二字傍点〕(わぬ、萬葉にもある)になつてゐるが、この形は、「わん」と共に、今なほ方言中に竝行はれてゐる。以上は口語の場合であるが、オモロは古形を踏襲する韻文である關係上、永樂頃(十五世紀の初葉)のものはもとより、弘治頃(十六世紀の初葉)のものも、又それ以後ののも、「あ」又は「あん」になつてゐる。二三の用例を擧げて見ると、「あ〔傍点〕がおなりみ神のみまぶらでておわちやむ」(【我が妹の生御魂、見守らむちて來ませり】)、「おし出《ぢへ》たる、ゑ、つかさご〔四字傍点〕(【神名】)、ゑ、あ〔傍点〕は祈《いの》て、帆舟《はりよ》る、ゑ、走《は》り出《い》ぢへたる、ゑ」(【ゑ〔傍点〕は囃子】)、「知花後嶽《ちばなこしだけ》に、あん〔二字傍点〕は神てづら〔二字傍点〕(【手摺らむ即ち祈らむの意】)、神やあん〔二字傍点〕守《ま》ぶれ」「あ〔傍点〕がかい撫であぢおそい」の如きものである。試みに、オモロに現れた第一人稱の代名詞の統計を取つて見ると、「あ」が百十八、「あん」が九あるに對して、「わ」は八、「わん」は十二あるのみで、しかも後者は比較的新しいものに出てゐるか、さもなければ、祭祀を歌つた以外のものに出てゐる。
 「あ」「あん」と「わ」「わん」とは、古くから竝行はれてゐたであらう。といふのは、洪武・永樂頃支那に留學した琉球の官生等は、皆貴族の子弟であつたから、「わ」「わん」に比べて、古風な情調を有つてゐた「あ」「あん」を使つたと思はれるからだ。この二形は、恐らく南島に定住しない以前から竝行はれてゐたに違ひない。さうでなければ、平安朝以後に、日本語から拜借したと見なければならなくなるが、それは一寸考へにくいことである。
 それから、語音翻譯の編纂された前年に、八重山征伐があつて、其時從軍した宮古島の酋長が、人質につれて歸つた、八重山の酋長の娘の歌が、二百年前に編纂された宮古島舊記に採録されてゐるが、その中に、「漲水《びやるみづ》もあ〔傍点〕は見て、(432)おやざけもあ〔傍点〕は見て」と出てゐる。稍後れて、同じ宮古島の酋長が、與那國島の鬼虎を征伐した時のことを歌つた五十二句のアヤゴが、宮古島第三舊記に出てゐて、その中に、「我〔傍点〕刀治金丸請見《たちちがねまるうけみ》ろ」といふ句があるが、この「我」も「あが〔二字傍点〕」と讀んだに違ひない。明治四十一年の春、宮古島を訪れた時、鬼虎の娘の歌と稱して、私の中學時代の同窓の奧さんが謠つてゐた五十七句のアヤゴを初めて採録したが、その中に「ば〔傍点〕が八重山みやげればど、ばん〔二字傍点〕が家《や》のおもかげの、前んど立ちゆれば」といふのがある。この「ば」「ばん」も、古くは「あ」「あん」であつたのが、口々に語りついでゐるううに、いつしか新しい形にすげかへられたのであらう。因にいふ。宮古八重山の方言では、Wは皆bに變じてゐる。この代名詞の二形が、沖繩本島同樣に、兩先島でも竝行はれたことは言ふまでもない。「あ」「あん」は、今では沖繩島の北方地方の方言中に遺つてゐるが、他の地方では、時偶幼穉な者が使つてゐるのを耳にするだけである。
 「あ」は、いふまでもなく、代名詞の語尾の發達しない時代のものだから、複合語を作る時には、あづま〔三字傍点〕(我妻)・あご〔二字傍点〕(吾兒)などのやうに、領格の接尾語を俟たないで、直に接してゐる。琉球館譯語に、「父親、阿〔傍点〕舍都」とある阿〔傍点〕も「我《あ》」であらう。オモロに、「親《おや》のもとかまへ、あ〔傍点〕さがもとかまへ」(【父のもとを探して】)とある、「あ〔傍点〕さの」「あ」もこれであらう。「あさ」は、語翻譯には、※[アシャのハングル](asha)になつてゐるが、宮古の方言には、今なほこの古形が保存されてゐる。音韻字海は、「父」を、一更加烏牙( yikiga−uya 即男親の義)と音譯してあるから、「あさ」は、三百年前には、もう耳遠くなつてゐたと見て差支ない。これは八重山の方言では、轉訛して atcha となつてゐるが、徳之島、鬼界の兩方言では、adja 沖永良部・與論の兩方言では acha となつてゐるから、奄美大島方言にも、かつて、その存在してゐたことが窺はれる。
 首里の士族は母を、アヤーといつてゐて、琉球館譯語にも、母親を阿也〔二字傍点〕と音譯してゐるがこれが、「我親《あや》」の義で(433)あることは、琉歌に「旅や濱屋取り、草の葉ど枕、寢ても忘らゝぬ、我親《わや》の御側《おそば》」とあるのでわかる。又地名に親富祖《やふそ》といふのがあつて、「や」に親を宛てた場合があるのでも知れる。「わ」が複合語を作る場合に、領格の接尾語を俟たないで、直に接してゐることも、これで能くわかる。琉歌には「我嫁《わよめ》」など用ゐた例もあるが、現今の口語では、ワーユミ(我が嫁)、ワームン(我が物)などのやうに、母音を長く引張つてゐる。
 
         あかず
 
 この語は、萬菓集では、滿足せぬ、不足などいふ物足らぬ心持ちと、極端によくて、何處までも嫌にならぬといふのとの二義に使はれてゐるが、オモロでは、「あかず〔三字傍点〕珍らしや」「見れどもあかぬ〔三字傍点〕、首里親國《しよりおやぐに》」などのやうに、第二義に用ゐられた例はあるが、第一義で用ゐられた例は見出せない。だが、琉歌では「あかぬ〔三字傍点〕別れ路や、斯《かに》すつれなさめ。朝夕面影のいつものかぬ」のやうに、第一義に使つたのと、「あかぬ〔三字傍点〕語らたる人の面影や、あはれことの音に、まさて立ちゆさ」のやうに、第二義に使つたのとがある。
 この語は、とうに死語となつて、口語では、その第一義には、アチザラン(飽きざらぬ)が使はれてゐるが、これには滿足せぬ、不足などいふ物足らぬ心持ちをあらはす以外に、氣にくはないといふ言語情調が伴ふやうである。これは二重打消の形になつてゐるが、「飽き足らぬ」がアチヂャ〔二字右○〕ランに變じ、何かの類推でアチザ〔右○〕ランとなつたに違ひない。それから、第二義には、アチハティランが使はれてゐるが、これは「飽き果てらぬ」の轉訛したものである。
 
(434)       あかと(ン)き
 
 琉語解釋に、「田舍などにて曉をしか云也。萬葉第二に、わがせこをやまとへやるとさよふけてあかとき〔四字傍点〕露にわれたちぬれし、註に曉はアカトキと云が本語也と云り」と見えてゐる。國語では、あかとき〔四字傍点〕は夜のひきあけ、まだほの暗い時分の朝はやくの義を有し、後にあかつき〔四字傍点〕に轉じたが、琉球語では、あかと(ン)き〔五字傍点〕に轉じ、更に akatunchi に轉じて、田舍に遺り、國語と同樣の義で用ゐられてゐる。そして奄美大島諸島の方言にも a:tuki (<ahatuki<akatuki )又は a:tuchi といふ形で遺つてゐる。あかとき〔四字傍点〕は、首里語では、とうの昔 akatsichi に轉じたと見えて、清の康煕五十年(今から二百二十三年前)に編纂された古語の辭書にも、見出すことが出來ず、それには「あがるいのあけもどろ、あかつきの事、てだがあなのあけもどろ、反詞、天啓三年船ゑとのおもろ御双紙に見えたり」とあるのみである。序でにいふ。あがるい〔四字傍点〕は東方の義、てだがあな〔五字傍点〕は太陽の穴の義である。あけもどろには、曉と注がしてあるが、あけ〔二字傍点〕は曉の義で、もどろ〔三字傍点〕は太陽が出ない前に光線を射出する状を形容した語のやうに思はれる。あかとき〔四字傍点〕といふ語は、オモロには一つも出てゐないが、おもろ人《びと》は多分之を使つたであらう、オモロでは、曉の露を「あけ〔二字傍点〕のつよ」といひ、又夜あけを「ようあけ」といふから、あかとき〔四字傍点〕のあか〔二字傍点〕が明いといふことでなく、このあけ〔二字傍点〕の轉であることは、折口博士がいはれた通りに違ひない。
 
(435)       あかぼし
 
 國語では、あかほし(曉星)は、曉《あけ》の明星のことで、萬葉集には、あかほしのあくる朝、と枕詞風に用ゐてある。オモロには、「ゑけ、あがる三日月や、ゑけ神ぎやかなまゆみ、ゑけ、あがるあかぼし〔四字傍点〕や、ゑけ、神ぎやかなまゝき」と出てゐるが、宵の明星のことであるか、曉の明星のことであるか、判然しない。八重山の方言では、曉の明星を akapusi といふから、恐らく後者を言つたに違ひない。この語はとうに死語となつて、今ではその代りにヨーカーが用ゐられてゐる。夜明け星の義である。之に對して、宵の明星をユーバンマンヂヤーといつてゐるが、それには夕飯を欲しさうに眺めてゐる星の義がある。
 
         あそび
 
 小中村清矩博士は、『歌舞音樂略史』中に、書紀に「天稚彦が死《みまか》りし時、その親族等集ひて、喪葬の式を行ひ定め、日八日《ひやか》、夜八夜《よやか》、遊び〔二字傍点〕たりき」と見えてゐるあそぷ〔三字傍点〕といふことを、管絃歌舞の樂を爲るをいつた、と解されたが、沖繩島の東海岸を少しく沖に離れた津竪《つけん》島でも、一時代前までは、風葬の俗があつて、一週間ほどは毎晩のやうに、親戚朋友が、酒肴や樂器を携へて、死人を訪づれ、思ふ存分に遊ぶ〔二字傍点〕のを「別れ遊び」といつてゐた。これは折口博士が(436)喝破された通り、單なる葬宴ではなく、かうしたら、死人が蘇生もしようか、といふ希望をもつて、踊り狂つたのが、後世その古義が忘れられて、「別れ遊び」の義に解されたに違ひない。折口博士も、『萬葉集辭與』中に、あそぶ〔三字傍点〕を解して、「古くは管絃の類の音樂を樂しむことにいうたやうで、遊部の部曲《かきべ》すらあつたのである、後には廣く心を慰め、霽れさせる行爲をいふ事になつたので、本集中にあるあそぶ〔三字傍点〕も、この兩義を持つてゐるやうである」といつて居られるが、琉球語でもやはり、この兩義に使はれてゐる。しかも「あそび」と名詞形にすると、誰でも第一義に解するのが普通である。オモロでもやはり、兩義に使はれてゐるが、九分通りは第一義に使はれてゐる。『おもろさうし』の十二の卷「いろ/\のあそび〔三字傍点〕おもろ御さうし」は、例のあそび〔三字傍点〕の時に謠はれたオモロを收めたものである。
 具志堅《ぐしけん》のろくもいのおもり〔三字傍点〕帳に出てゐる、舊八月十日の御嶽御願《おたけおぐわん》の折りのオモリに「我が神や、今日《けふ》ん明日《あちや》ん、蜻蛉《あげぢや》あそび〔三字傍点〕、胡蝶《はべる》あそび〔三字傍点〕、あいるすんど、はいるすんど、わが神や」といふのがあるが、神と呼ばれる祝女《のろ》が、神羽《かんばね》を着て、神前で踊る状《さま》を歌つたもので、この場合のあそび〔三字傍点〕は、舞ひ〔二字傍点〕の義に解して差支ない。
 
         あたら
 
 錯置法で、あらた(新)から轉じて、惜しく思ふ感情を表すやうになつた副詞。無駄にしたのを殘念がる心地。大事に思ふ心理。もつたい無いといふ意もある。混效驗集に、「あたら〔三字傍点〕夜、おしき夜の事也。和詞にもいふ、あたら夜の月(437)と花とを同しくばあはれしれらん人にみせばや」とある。琉歌には、「あたら〔三字傍点〕花やすが、ませ立てることのならなしゆて朝夕風にもまち」「あたら〔三字傍点〕白地に色つけて亂れむめなちやる縁のつらさ」などの用例がある。戯曲にも、「あたら〔三字傍点〕敵かたき討たな〔傍点〕(ずに)いたづらに」「あたら〔三字傍点〕人間に生れやり居《を》とて、」等の用例がある。これだけを見ても、あたら〔三字傍点〕が萬葉集中のそれと同義に使はれてゐることがわかる。だが、現今の口語には、かうした用法はなく、あたら〔三字傍点〕を語根にしたあたら〔三字傍点〕しや(惜即ちあたらしの義)といふ形容がある。混效驗集にも、「あたらしや、おしきと云ふ事。和詞にも通。歌に、あたらし〔四字傍点〕や夷《ゑぞ》がちしまの春の花詠むる人もなくて散るらむ」とある。戯曲に、「淺ましや、村原《むらばろ》、命《のち》のあたらしや〔五字傍点〕い」(【淺ましいことだ、村原よ、命が惜しいのかの義】)といふ用例がある。又、「あたらし〔四字傍点〕が滿納《まんな》、如何《いきや》しちやる事が」(【惜しい滿納をどうしたといふのだ】)とも見えてゐる。前者は口語でも使はれてゐるが、後者は戯曲でのみ用ゐられてゐる。その外、あたら〔三字傍点〕から轉じて、あッたる〔四字傍点〕といふ限定辭となり、「あッたる・むん」(惜しい物。大切な物)といつたやうに用ゐられるが、これは動詞の連體的の類推で出來た形に違ひない。
 
         かち
 
 徒歩。乘り物に由らずに、陸路をぢかにあるくことで、今なほ盛んに使はれてゐる。例へば、徒歩で行くをカチ・カラ・イチュンといひ、さうして行ける處をカチワタイといつてゐる。かち〔二字傍点〕の古い形は、くがぢ〔三字傍点〕(陸地)であつたと見えて、オモロには、「くがぢ〔三字傍点〕歩《あゆ》む樣《や》に漕《こ》がせ」と出てゐる。これで金澤博士が、かち〔二字傍点〕は陸地《クカチ》の融合で、馬より行く、船(438)から行くの如く、陸地より行くといつたのを、歩みの由る所を直に歩み方の名にしたのである、といはれた説が裏書きされるやうな氣がする。
 
         くすし
 
 醫者のこと。混效驗集に、「くすし、醫師を云。和詞には藥師と云」と見えてゐるから、二百五十年前までは、内裏言葉として使はれたことが知れる。
 
         けもゝ
 
 毛桃。桃の一種で、花も實も共に大きく、果には細毛が密生してゐる。今はキームヽと言つてゐる。
 
         こら
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 子等《こら》。オモロに男等の義に使はれたのが、唯一つある。十四の卷の七に、「あさてや、たいらのまつり、ばふとりがみせらば、みちへおわれ、みかひは、さにきやのおりめ、やまとのこら〔二字傍点〕にみせたなやたる」といふオモロがある。一首(439)の意は、明後日は平良《たいら》の祭だ、棒踊が見たければ〔八字傍点〕(?)、見ていらつしやい、今日から三日目はサニキヤの節句《よをり》だ、日本の男等〔二字傍点〕にも見せるとよかつた、(もう出帆して了つた、惜しことだ)といふことである。こゝでは、こら〔二字傍点〕は複數になつてゐるが單數の意味でも使はれたやうな氣がする。といふのは、その音韻轉訛なる kkwa には、子の義があり、沖繩島の北部の方言では、老人が、なつかしがつて、若い人を呼ぶ時にも、使はれてゐるからだ、序にいふが kora が kkwa に轉じたのは mekura (盲)が mikwa に轉じ yu:magure (夕間暮)が yumangwi に訛つたのと同じ音現象である。
 
         ころ
 
 萬葉集辭典に、ころ〔二字傍点〕は『子等《コラ》といふのと同じ事である。このろ〔傍点〕にはなつかしみがある。子ろと言うても一般的に人を指すので無くて、特定の人を指してゐるのだ。卷十四、「春の野に草|養《ハ》む黒馬《コマ》の口止まず吾《ア》をしぬぶらむ家の子ろはも」「かの子ろと寢ずやなりなむは薄うら野の山に月かたよるも。妹ろ・夫《せ》ろといふ例もある。』と見えてゐる。この語はオモロの中にも澤山出てゐるが、やはり一般的に人を指すのでなく、特定の人を指してゐる。ころ〔二字傍点〕は一語のやうになつて、そのろ〔傍点〕には萬葉語にあるやうな、なつかしみは感ぜられないが、婿ろ〔二字傍点〕といふのが一つ出てゐるからら〔傍点〕と同じものであるやうに思はれる。「撫でころ〔二字傍点〕」「いくさもいころ〔二字傍点〕がま」(【イクサモイといふ青年の義で、がまは小の義】)等の例がある。之を複数にする時は、語尾にた〔傍点〕(等)をつけて、ころた〔三字傍点〕にしたり、二つ重ねてころ/\〔四字傍点〕にしたりする。又接頭のま〔傍点〕をつけて、まごろた〔四字傍点〕(440)と美稱にすることもある。混效驗集に、「大《おほ》ころ、男の事也。こしあての大ころといふ時は夫の事也」と見えてゐるが、今も夫のことをこしやて(腰當即ち據りかゝるべき者の義)といひ、夫方をこしやてかた〔六字傍点〕又はこしやてばら〔六字傍点〕といつてゐる。ころ〔二字傍点〕はオモロでは殆ど勇士又は武士の義に用ゐられてあるが、大《おほ》を冠した場合もある。一の卷の三五は、八重山を征服した時の凱旋のオモロであるが」その中に、「大ころた〔四字傍点〕、ぢや國しちへ、國討ちしちへす〔傍点〕(こそ)もどりよわれ。ゑぞこ(大船)かず(數即ち毎)ころた〔三字傍点〕よ、島討ちしちへすもどりよわれ。みおうね(大御船)かずころた〔三字傍点〕よ、戰《あお》てすもどりよれ。おぼつぎめ(天つ國迄も)とよで(鳴響みて)、闘《あお》てすもどりよれ」といふ事がある。
 この大ころ〔三字傍点〕は、古事記の次生2隱伎之三子島《おきのえごのしま》1亦名2天之忍許呂別《あめのおしころわけ》1の忍許呂〔三字傍点〕と比較すべきものであらう。本居翁は、「名の義は大《おほし》の約りたるなり(中略)凡河内を大河内ともあり、これ大をおほしと云例なり、許呂は未だ思ひ得ず」といはれたが、この忍許呂〔三字傍点〕はオモロの「大ころ」と同じものに違ひない。
 
         さゝらなみ
 
 萬葉集では、さゞらなみ〔五字傍点〕(【さゞれなみと同義】)ともいひ、小い波立ちの絶間なき貌を以て、間《ま》なく〔二字傍点〕といふ語の枕詞に用ゐられてゐるが、混效驗集には、「さら浪、めよと浪、小浪の事也、さら波はさゞ浪と云ふ事か」とある。このさら浪〔三字傍点〕はさゝら波〔四字傍点〕の誤寫に違ひない。「おもろさうし」の十の卷の十四に、「しちよぎや潟原《かたばる》に、まきしや潟原に、さゝらなみ〔五字傍点〕立てば、めよと〔三字傍点〕なみ立てば」といふのかある。めよとなみ〔五字傍点〕は夫婦浪《めをとなみ》で、今ではミートナミといつてゐる。岸によする小い浪が(441)重なり合ふところから得た名である。さゝらなみ〔五字傍点〕は、とうに死語になつたが、さゞなみ〔四字傍点〕は今なほ琉歌で使はれてゐる。
 
         さで
 
 小網。萬葉集一に、「下つ瀬に小網《さで》さし渡し」とある。このさで〔二字傍点〕は、後を狹く前を廣く箕の如き形に作つて、魚を掬ふ網で、この語は、私の知つてゐる限りでは、南島方言中、鬼界島に殘つてゐる。三角形の袋状を呈し、兩方に柄がついてゐる。
 
         さをどる
 
 さ躍る。さ〔傍点〕は接頭語。跳躍する。踊躍する。萬葉葉卷十九、「椙《すぎ》の野にさ躍る〔三字傍点〕雉子いちしるく音にしもなかむ隱妻《こもりづま》かも。」明の弘治年間、宮古島の酋長が、與那國島の鬼虎を征伐したいきさつを歌つた當時のアヤゴ中に、「いくさばなほあらばなよ選び、大八重山《おほやいま》ん下八重山《しもやいま》んぺやれ行けば、いくさみや〔二字傍点〕(勝負)をほあらみやを爲《す》せばど、あげず舞ひをはべら舞ひをさ躍り〔三字傍点〕、前手《まへて》んな百《も》さるぎ倒せば、尻手《つべて》んな百かなぎ倒せば、云々」とある。戰争の好機をとらへて、八重山へ侵入したら、忽ち戰端が聞かれたので、まづ蜻蛉《あきつ》の舞、胡蝶の舞ひをさ躍つて、大手では百突《もヽつ》きに突き倒し、搦手では百薙《もゝな》ぎに薙ぎ倒せば、といふほどの意で、「神靡きなば人はおのづから降參すべし」といふ、南島古來の信仰に(442)從つて、巫女等が陣頭に立つて、跳躍しつゝ呪咀した後、「大ころた」の吶喊した有樣が、能く描寫されてゐる。
 
         さす
 
 命ずる。遣す。名ざしする。琉歌に、「首里《仁ゆり》がなし御奉公《めでい》取る人や多《おほ》さ。必ずと里前《さとめ》御さし〔二字傍点〕召しやうち」といふのがある。國王の御奉公は、何人も喜んでするものです、あなた、是非お使ひに行つていらつしやい、といふ意で、海外に使ひする役人の妻がよんだ歌である。今一つ、「だんじよ嘉例吉《かれよし》や、選《えら》でさし〔二字傍点〕召《め》しやいる。船の綱取れば、風や眞艫《まとも》」といふのがある。ほんとに幸運の旅には、特に人を名ざしして、遣されることよ、船が纜を解くと、風は早や追手になつてゐる、といふほどの意である。このさし〔二字傍点〕はオモロにも見されるが、悉くう〔傍点〕(御)といふ接頭辭がついてゐる。二十二の卷の劈頭に出てゐる、「稻之穂祭之時のおもろ」に、「あまみきよがうさし〔三字傍点〕しよ、この大島《おほしま》下《お》れたれ、ともゝすへ、おぎやかもいすちよわれ。ほうばなとて、ぬきあげば、ちりさびはつけるな」といふのがある。アマミキヨ(開闢の神)の命令こそこの大島に下りたれ、尚眞王こそは千代にましませ、垂穗は色づきぬ、取りて獻げよ、塵土《ちりひぢ》をな着けそ、の意である。
 
         みそでやりかわちへ
 
(443) 萬葉集に、そでかふ(袖易ふ)といふ語がある。男女が契つて、變らぬしるし、後會ふ迄のかたみに、袖を切つてとりかはすの義で、衣を易へる事の簡略になつたものだといふ。卷四「白細《しろたへ》の袖解き更へて、」卷八、「白細《しろたへ》の袖指し代へてさ寢し夜や、」卷十一、「敷白《しきたへ》の袖易へし子を忘れて念へや」。オモロにもそれに似た言表しがあるやうに思はれる。六の卷の六十四に、「やらのいふ崎に、やらの濱崎に、ゑ、島親《しまおや》瀬《せ》たゝみ、國おやせ疊、上《かみ》の押笠《おしかさ》と、下《しも》の破《や》れ笠《がさ》と、み股《もヽ》うち交《か》わちへ、み袖〔二字傍点〕や〔右・〕り易わちへ〔五字傍点〕、いみやは繩《なは》一《ふて》つ、今《いみや》は糸ふてつ、」といふオモロがある。一首の意は、屋良《やら》の磯崎で、ヤレヤレ、干瀬《ひせ》(【珊瑚礁の水面に露れた所】)を疊の積りで、上の賤の男と下の賤の女とが、み股をうち交し、み袖をさし交してゐる−もうはや縒《よ》れて、一筋の繩になつてゐる、といふことで、媾曳を歌つたものである。「み袖やりかわちへ」は、こゝでは袖さし交して、それを枕に共寢してゐる意だが、古くは袖を切つてとりかはす風習もあつて、「そでかへて」といふ言表しもあつたに違ひない。
 
         す(しゅ、しょ、ぢょ)
 
 琉球語が、原始日本語から分岐したことは、推測するに難くないが、そこにはなほいくつかの解きにくい謎が殘されてゐる。萬葉時代には、「玉の緒」の説の如くには規則正しからずして、古今時代に至つて、「玉の緒」の理想とする如くになつた、といふ用言の呼應法《コンコード》即ち係結そつくりの語法が、見出されるのは、その一例である。
 琉球語の係結も、國語のそれのやうに、ヤ、ガ、ヌ(の)を受けて、終止言で結ぶものと、du(ぞ)を受けて連體言で(444)結ぶものと、ス(こそ)を受けて已然言で結ぶものとの三種があつて、前二者は、今なほどの方言でも、規則正しく使はれてゐるが、後者はオモロにのみ遺つてゐて、四百年前の金石文にも見出すことが出來ない。こゝでは專ら後者について述べることにする。試みに、一二の例を擧げて見ると、「天《てに》が下《した》國のかず大ぬしす〔傍点〕よしらめ」「きこゑ君がなし島|襲《おそ》てちよわれ、ゑぞこ(大船)通わぎやめ(通はんかぎり)あぢおそい(我君)しよ〔二字傍点〕世知りよわれ(うしはき給へ)」の如きものである。古今時代に至つて、規則正しくなつた係結と符を合すやうな語法が、オモロに現れたのは、一體どう説明したらいゝか。國語の揺籃期に手を別つたこの二つの姉妹語は、長い世代の間に、別々に發達を遂げたが、琉球語の環境も日本語のそれと略々似通つてゐた爲に、發達の結果は偶然一致するやうになつたなど、と「偶然」を考へてよからうか。オモロの内容やその他の文獻によつて、平安朝から鎌倉・室町の二期にかけて、日琉の交通の頻繁であつたことがわかり、又琉球語中に、この二期の國語のかなり多く這入つてゐるのが、見られるが、單語の借用ならまだしも、係結の如き語法の借用に至つては、單なる文化の交渉といふだけでは、説明することが出來まい。この説明には、或は大古に於て、琉球人の祖先が南島に移住したと同樣な事が、中古以後にもあつて、さうした移住者の群れが、政治的社會的に勢力を得た結果、起つた現象だと假定するのも一方法であらう。といふのは、琉球史にも、又重なる島々の傳承にも、それがほの見えてゐるからだ。しかもこの係結は、首里及びうらおそひ〔五字傍点〕(【浦襲即ち國を治める所の義で、首里以前の國都】)のオモロに多く現れて、邊鄙な地方のには、稀にしか現れないのも、注意すべきことである。それから、沖繩島の北部、本部の方言に、 an kushe: yara(斯くこそあらめ)、an kushe:i:ra(斯くこそ言はめ)といふ言表しがあるが、もしこの kushe:が「こそ」の變形だとすれば「す」(<そ)の前身はやはりこそ〔二字傍点〕といふことになるけれども、速斷は出來ない。
(445) 或はこの語法は、詩人が國語から拜借したもので、韻文でのみ用ゐられて、口語では使はれなかつた、といふ疑ひも起つて來るが、しかし今日の口語中に、ダンヂユ〔二字傍点〕又はゲンヂユ〔二字傍点〕カといふ副詞句があるところから考へると、文學の影響かも知れぬが、兎に角古くは口語でも使はれたことは、疑ふ餘地がない。オモロに、「首里杜城《しよりもりぐすく》、ながえ(永久に)きよらおぐすく(美しき城ぞ)、だりじよ〔四字傍点〕(實にこそ)また上下鳴響《かみしもとよ》め」「安富祖燒島《あふそやきしま》よ、だりす〔三字傍点〕(げにこそ)鳴響《とよ》み聞かれゝ」といふのがあるが、他のオモロには、だにす〔三字傍点〕又はだもす〔三字傍点〕とあるから、この「だに」は眞〔傍点〕の義があつて、だり〔二字傍点〕が「だに」の轉訛であることはいふまでもない。混效驗集に、「す、言葉の結也。所により心替地。てるかは〔四字傍点〕(日神)す〔傍点〕世のむすびつけおろせ。さうすれかうすれといふ心か」とあり。又、だりしよ、だにごとを解して、「二つ共さればこそ〔二字傍点〕と云心」としてある。二百年前の辞書の編纂者も、この「す」「しよ」をこそ〔二字傍点〕と解したことがわかる。ダンヂユが「だにす」又は「だにじよ」の轉であることは、それで明白で、ダンヂユカはなるほど又は案の條といふ意に使はれてゐる。
 二百年前に、初めて琉球語で戯曲(組桶《くみをどり》)を作つた玉城朝薫は、其の執心鐘入(道成寺)の女主人公の詞中に、「約束の御行合《おいちえ》やだにす〔三字傍点〕また爲ちやれ〔四字傍点〕、袖の振合《ふやは》せど〔傍点〕御縁さらめ」といつたやうに、この古い語法を用ゐたが、これは世の常のあひびきは、なるほどやつて見たけれども、かうして行きずりにあつて、陷つた戀こそは、何かの因縁であらう、といふ程の意である。この語法は短歌にも取入れられたが、「だんぢよ〔四字傍点〕嘉例吉《かれよし》や選でさし召しやいる」とか、「名護の番所《ばんどころ》だんじよ〔四字傍点〕鳴響《とよ》まれる」とかいつたやうに、連體言で結んでゐる。
 序でに言ふが、この「だに」は誠に〔二字傍点〕の義で、「げに」の同義語である。オモロの姉妹詩のくわいにや〔五字傍点〕には、「だに賜《たば》れ、實《げ》に賜《たば》れ」と使はれてゐるが、その「に」の形式語であることはとうに忘れられて、オモロにも「ごれどだに〔二字傍点〕の眞王《まてだ》や(446)れ(これこそ眞の王なれ)といつたやうに用ゐられ、戯曲にも、「御眞人《おまんちよ》のまぎれ誠《だに》よ聞き留めれ(爾民衆よ能く聞け)といふ使ひ方がしてある。だが、「だ」が本體であることは、オモロに此島・御國・本國といふ意味の語に、だしま・だくに・だきよりがあるのでもわかる。この「だ」はたゞ「忠・唯」等と縁を引いた語であらう。そして、この「だに」は國語の助辭の「だに」と關係があるやうも思はれる。首里語では、實に意外だとか、人の意表に出づるとかいふことをダヌンナランといふが、伊江島あたりの方言では、ダニンナラン(【だにもならぬ即ち信ぜられない位だの義】)といつたやうに、古形が保存されてゐる。戯曲には、「おれこれよ言ちも、だに〔二字傍点〕すらぬあらば(【それ程まで言つても信用しなければ】)」といふ使ひ方などもしてある。
 
         たかびかり
 
 萬葉集に、たかひかる(高光る)といふ枕詞があつて、天高く光る日とつづくやうになつてゐるが、琉球語では、これがたかびかり(>タカビチヤイ)と名詞形になつて、今なほ使ほれてゐる。これは太陽が天高く光ることにいひ、そのきら/\して、まむきに見にくいことをミーフイチユルサ(<メフイキヤルサ目映《まばゆ》しの義)といふ。
 
         たけ
 
 萬葉集辭典に、「山を仰ぎ見て、高さの感じを主とする時に用ゐる。高嶺といふに同じ。嶽には必神が住んで居る。(447)その神性は人間とは多く直接關係は無いが、雨霧雲等を支配してゐる恐しいものである。嶽は遠く仰ぎ見るもので近づき難いものである。第二十、高千穗ノ嶽、第十三、三吉野の御釜ノ嶽」と見えてゐるが、琉語の「たけ」も殆ど同樣である。たゞ異なるところは、琉球には山らしい山がないために、神の住んでゐる所は、薮でも「たけ」といつてゐることだ。「にらいの大ぬし」(常世の神)の足溜りで、後に聖地になつた「さやは嶽」も藪のやうな所である。封建時代には、「國々の按司部《あぢへ》」(諸侯)は皆祭るべき「たけ」をもつてゐたが、四百年前中央集權を斷行して間も無く、首里王府では、王城の東に高く聳へてゐる冕の嶽を祀つて、國中の「たけ/”\、もり/\」を統御させることにした。そのいきさつを刻んだ國王頌徳碑(明の嘉靖二十二年)は、今なほ首里市のかたのはな〔五字傍点〕に立つてゐるが、其の劈頭に、「大りうきう國王尚清は、そんとんよりこのかた、二十一代の王の御位《おくらゐ》をつきめしよわちへ、天《てに》より王の御なをば天つぎの王にせ〔七字傍点〕とさづけめしよれちへ、御いわひ事かぎりなし、王がなしはむまれながらむかしいまの事をさとりめしよわちへ、天下をおさめめしよわちやる事、むかしもろこしのていわうぎようしゆんの御代ににたり、しかれば御たかべ〔四字傍点〕(祀)めしよわるもり〔二字傍点〕あり、だいり〔三字傍点〕(内裏)よりひがしにあたりて、べんのたけ〔五字傍点〕といふ。これはきこゑ大ぎみきみ/”\かみほとけの御あそび〔四字傍点〕めしよわるところ云々」と見えてゐる。不淨があると、「たけ/”\」は荒れるといはれてゐるが、それには「たけあれ」といつてゐる。「たけ」の同義語には「もり」(杜)があるが、これはあとで述べる。
 
         たちゅん
 
(448) 立つ〔二字傍点〕の義から轉じて、往復する意になつたもの。チャー立ちは、立ちつゞける義であるが、頻りに往復することの意にもなる。タトゥナ立チユン(立ちに立つ)は、督促などすることがあつて、頻繁に通つてゐるの義である。この語は行き馴らす、行きつけてゐるの義を有する國語の「たちならす」と比較すべきものであらう。萬葉卷九、「葛飾の井見れば立ちならし水をくみけむ弖兒奈し思ほゆ。」卷十二「椿市の八十の衢に立ち馴らしむすびし紐を解かまく惜しも」
 
         たがし、たがす
 
 誰《た》がし、し〔傍点〕は強めていふ助辭、その物を確にさしていふ助辭、國語のたれし〔三字傍点〕又は人し〔二字傍点〕なければのしに似通つてゐる。し〔傍点〕はす〔傍点〕(si)と發音する場合もある。歌にのみ用ゐられる。たがし〔三字傍点〕には、一體誰がまあといふ程の意がある。琉歌、「たがすお〔四字傍点〕としゆたが驚ちやめわらべ二人手枕のねざどやすが。」す〔傍点〕はまた「のが」(何が)につくこともある。同「のがす〔三字傍点〕どく我《わみ》に物を思はしゆが與所もながめゆる月どやすが。」この「のがす」には、どうしてまあの義がある。
 
         なかいゆん
 
 二人の間に立つて、互に感情を害ふことをいふの義。中傷する。讒誣する、最近、琉球の民謠「おほんしやり節」の原形が、竹柏國珍藏の琉歌集中から發見された結果、今までのに缺けてゐた初めの六句がわかつて、琉球歌謠の研(449)究に光を投じたが、煩を厭はず左に其の全文を引用して見よう。「誰《たん》のまゝで新里《しんざと》が、なか言ち〔四字傍点〕こひたが、なかいよ〔四字傍点〕すどあまる。はたいよすどあまる。誰《たる》すぎやんしへん、聞きみしやうれ里前《さとめ》、『隣の耳切り鼻切り、ぐね引き宮《みや》が、目はげこべきりおえんきゆの〔傍点〕(に?)、あらかぢこわりて、あべらち、をらばけ、とのがち、』思《おめ》いりや里一人《さとちよい》だう。あゝ、里《さと》がものいくらしやや、のにため〔傍点〕(て?)るが、はい、ほだ、のがれるい」これを譯して見ると、何處の饒舌奴《おしやべりめ》が、蔭口《かげぐち》をして廻つたかしら、蔭口をするなんてあんまりだわ、ほんとに餘計なことだ、でも、誰が聞いたつて、かまひやしない、ネエ、貴方、まあお聞きなさいませ「お隣の耳の切れた鼻の缺けた蹇《びつこ》を引いた猫奴が、目の爛れた首の廻りの毛の剥げた鼠に、不恰好な太い首筋をくはへられたつて、そして猫奴は悲鳴をあげて、ばた/\したつてさ」あら、この人はこんな面白い話を聞かされても、たゞ一人で考へ込んでいらつしやる、口の中で物を言つて、何です、そのざまは、妾《あたし》は危く騙されるところだつた、といふ事になる。夫の秘密を嗅ぎつけて、妻が皮肉を言つてゐることを描寫した三百年前の民謠で、その原形がわかつたお蔭で、古琉球語の疑義の解けたのもあるが、くはしい説明は後日に讓り、こゝでは、「なかいゆん」といふ語について、今少し附加へて置かう。
 この語は、今では耳遠くなつてゐるが、國語の「なかごと」(間言)と縁を引いてゐる語であらう。萬葉卷四、「汝《な》をと吾《あ》を人ぞ離くなるいで吾君《あぎみ》人の中言《なかごと》聞きこすなゆめ。」同、「けだしくも人の中言聞けるかもこゝだく待てど君が來まさぬ。」琉球の俚諺に、「夫婦《めいとんだ》の仲《なか》や言《い》ゆ者《す》がど側《はた》なゆる」といふのがあるが、「夫婦喧嘩は犬も喰はぬ」と略々同じ意味をもつてゐる。
 輿へられた貢數の都合で、一先づ切上げて、あとは雜誌「方言」で發表することにしたい。
 
春陽堂、436頁、1933.7.10
【萬葉集講座第四卷】史的研究篇 目次
萬葉葉の國文學史上の地位………………………藤村作…(一)
古代文學と萬葉集…………………………………倉野憲司…(五)
平安時代の文學と萬葉集…………………………山岸徳平…(二七)
中世文學と萬葉集…………………………………風卷景次郎…(七九)
江戸時代の文藝と萬葉集…………………………穎原退藏…(一二九)
明治大正の和歌と萬葉集…………………………安部忠三…(一六七)
萬葉風歌人概説……………………………………佐佐木信綱…(二一三)
源實朝………………………………………………石井直三郎…(二四一)
賀茂眞淵 …………………………………………齋藤茂吉…(二六三)
田安宗武……………………………………………土岐善磨…(二八三)
良寛…………………………………………………相馬御風…(三〇七)
平賀元義……………………………………………土屋文明…(三三五)
愚庵和尚……………………………………………松村英一…(三五五)
正岡子規……………………………………………香取秀眞…(三七九)
島木赤彦……………………………………………藤川忠治…(三九九)
萬葉集と外來文化…………………………………西田直二郎…(四二七)
 
(263)賀茂眞淵
                  齋藤茂吉
 
          一
 
 萬葉尊敬者を聯想するときは直ぐ賀茂眞淵に行くのは順序で、それほど眞淵は萬葉を尊敬し、作歌に對しても萬葉を唯一の手本としたほどの、萬葉集にとつては尊ぶべき人である。
 眞淵以前の萬葉學者は可なり多く、仙覺以後でも、契沖のごとき大萬葉學者が出たのであるが、眞淵の萬葉學はまた一つの色彩を有つものであり、尊敬に値するものであるのみならず、眞淵を源とする土佐學派からは鹿持雅澄の古義が出で、江戸からは千蔭の略解が出た。略解は通俗的だが萬葉を一般に普及せしめるにはかういふものであることを先づ欲するので、古義は今でこそ通俗化したけれども、徳川期などでは先づ見られなかつた。宮内省から出版されたときにも極一部の人がそれを求めたに過ぎず、吉川から出た時にもそれを買ふ人は餘程の萬葉崇拜家か、國文を專門とする學者でなければ買はなかつたぐらゐであるから、萬葉を勉強しようとするものは先づ略解に據るのが便利であつた。良寛なども略解を參考書として勉強してゐるのを見ても、萬葉普及に略解の功の大きかつたのを想像するに(264)困難ではない。
 次に作歌に際して萬葉集を手本とすることは、これは眞淵にはじまると謂ふべきである。中世歌學にも萬葉集のことがよく出てくるけれども、萬葉を端的に學ぶのでなくて、本歌取のための萬葉集に過ぎなかつた。ただその間にあつて、不思議にも源實朝のごときものが出でて、萬葉調の歌を作つてゐる。併し實朝は若くて死んだから、萬葉集に對する本當の考はいまだ分からない。實朝以後、萬葉語を使つた歌人は時々見つかるし、仙覺の歌などには稀に萬葉調らしい歌もあるが、大體はさうでない。眞淵の先進者の歌でもさうである。戸田茂陸、下河邊長流、僧契沖、荷田春滿などの歌には、たまに萬葉調らしいものが見つかるけれども、強い信念を以て萬葉調の歌を作つて居るのではない。
 然るに眞淵に至つてはじめて端的に明快に露骨に萬葉調の歌でなければならぬと叫ばれたのである。その絶叫も眞淵の晩年からで、眞淵の歌もなかなか萬葉調にはなり得なかつたものである。それをぢりぢりと萬葉調に押進めて行つた。それだから後進の私等には眞淵の作歌徑路といふものは非常に爲めになるのである。
 眞淵門下では、千蔭、春海の徒は、眞淵の歌がいまだ純萬葉調になり得なかつた頃の門人であるから、晩年の眞淵の萬葉觀は理解し得ずにしまつた。從つてその作る歌は萬葉調でなく綺麗な新古今調を混合してゐた。千蔭、春海の歌はそんな具合であつたが、田安宗武とか楫取魚彦とかいふ人が眞淵の心を理解して萬葉調の歌を作つてゐるのみならず、僧良寛とか平賀元義とかいふ後世の萬葉歌人も、直接間接に眞淵の恩頼を蒙つて居るのである。元義の如きは眞淵のことを先師と云つてゐるぐらゐであるのみならず、元義の古學に對する考は土佐の眞淵系統から來てゐること(265)は今では歴史的に之を追尋ることが出來るやうになつて居る。良寛が略解の讀者であつたこと、大村光枝が間接に眞淵を源としてゐることなどをおもふと、眞淵の萬葉尊敬の影響といふものは想像よりも大きい。
 明治になつてからもぽつぽつ萬葉調の歌を作るものがゐた。これもよく調べてみると眞淵の文章などを読んで萬葉調になつたものが多い。正岡子規の萬葉崇拜は直接眞淵に關係が無いやうに見えるが、子規は初期に曙覽に親しみ、ついで宗武の歌、元義の歌を讀んで考を進めて行つたところを見ると、やはり眞淵の考までにその根源を溯ることが出來ると謂つても敢て過言ではないほどである。
 現代萬葉學の興隆は一人のみの力でなく、從うてその源を決して賀茂眞淵一人に歸するわけには行かぬが、少くとも一大動力として眞淵を尊敬せねばならぬのである。現代は白面の書生といへども種々の萬葉古鈔本の複製などを容易に手に入れ得る忝き盛世であるから、眞淵の萬葉考の説がいまだ精到でないからといつて眞淵それ自身を輕蔑する理由にはならぬのである。それよりも、萬葉考序中の『心は直き一つ心のみになん有りける』といふ一つの文章句だけを讀んでも、眞淵の萬葉尊敬がいかに純粹であつたかを理解すべきではなからうか。
 
         二
 
 眞淵は萬葉集を研究したが、その研究は訓詁注釋と共に歌の批評をも兼ねた。眞淵以前の萬葉注釋書にもたまには歌の批評の言葉があるが、眞淵ほどではない。眞淵の萬葉注釋は、萬葉考を以て代表せしめることが出來るが、考には次の如き批評の言葉が見つかるのである。
(266) 卷一の持統天皇の御製歌について、『夏のはじめつ比、天皇埴安の堤などに幸し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、實に夏の來たるらし、衣をほしたりと、見ますまにまにのたまへる御歌也。夏は物打しめれば、萬づの物ほすは常の事也。さては餘りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがまゝにこそよめれ。或説に、白妙の衣とは白雲を譬給ふといふも、いよゝ後世心もて頻に考よせたるもの也。香山は貴けれど、高山ならねば、白雲の立もかゝりもする事なし、地をも古へをも知ずていふのみ』と云つてゐるのなども萬葉觀の一つの例である。もつとも、代匠記の初稿本には『衣ほすてふ』の句について論じ、『これは目前に御覽じて、よませたまへるを、人づてにきこしめしたるやうになりたれば、叡慮にはそむきぬべし。世にきよきことをこのむやまひあり。歌も卑俗なるはいふにたらず。あまりにけだかからんことをこのみて、ふるき歌をさへ、わが心にしたがへて、あらためけんは、かのきよきをこのむやまひにひとし』と云つてゐるのであるが、これは二人とも正しい解釋をし、正しい批評をしてゐるので、興味ふかいのである。
 なほ『大宮處みればさぶしも』を『巧みの類ひなきもの也』と評し、人麿の長歌の結末に就き、『山も川もよりなびきつかへまつる、神《かん》すべらぎの御代なるかもといへるきほひ、此ぬし一人のしわざなり』と評し、人麿の『かへりみすれば月かたぶきぬ』の歌に就き、『いと廣き野に旅ねしたる曉のさまおもひはかるべし』と評し、藤原宮之役民作哥に就き、『上にもいへる言を、二たびいひて結びたり。このたびの民どもの中に、いかなる人の隱れをりてかゝる哥をしもよみけん。時なるかな』といひ『わが背の君はひとりか寐らむ』に就き、『夫君の旅ねを女ぎみの京に在てふかく思ひやり給ふ心あはれ也』といひ、『宇治間山』の歌に就き、『心明らかにして、しらべすぐれてよき哥也』と云つてゐ(267)るたぐひ、評は簡潔だが、黙つてゐられない眞淵の態度が見えてなかなかの興味をおぼえるのである。
 萬葉考卷二に入つてからも、かういふ種類の短評が散見する。例へば、石川郎女の『吾を待つと君が沾れけむ』の歌のくだりに、『皇女の御哥よりこなた四くさの、ゆるやかにみやびたる調、ひたむきにあはれなるこころこそ妙なれ。上つ代下つ代をおもひ渡すに、短哥は此時ぞよろしかりき』といふ評をしてゐる。皇女の御哥といふのは、大伯《おほく》皇女の御歌、『わが背子をやまとへやると』から四首の歌をさしていふのである。『妹が門みむなびけこの山』に就き、『古郷出てかへり見るほどの旅の情、誰もかくこそあれ、物の切なる時は、をさなき願ごとするを、それがまゝによめるはまことのまこと也。後世人は此心を忘れて、巧みてのみ哥はよむからに、皆そらごとと成ぬ』と評し、それから、有間皇子の、『家にあれば笥にもる飯を』に就き、『さて有がまゝによみ給へれば、今唱ふるにすら思ひはかられて哀也』といひ、山上憶良の『人こそ知らね松は知るらむ』に就き、『又悲しさくはゝりぬ。古へ人の哥はかくこそあれ、後の人おもへ』といひ、舍人等の歌に就き、『悲き餘りには、をさなき事を思ひいひもせらるるを、其まゝによむは古への哥にて、實にあはれと聞ゆ』といひ、『かく事も無が如くして情深きは、心のまことより出れば也』といひ、※[手偏+闌]外記に、『いと悲しき時は、口もつぐみ、なみだもすくみて、ものもいひはてがたし。其をりいささかいへる如き事を哥にいへれば言少なし。古への哥は皆是をおして思へ』といひ、なほ舍人の歌のをはりのところに、『右は六百の舍人なれば哥もいと多かりけんを、撰みて載られしなるべし。皆いとすぐれて、嘆を盡し事をつくせり。後にも悲みの哥はかくこそあらまほしけれ』と云つてゐる、。
 萬葉考卷三(今本卷十三)に入つてからも、『言の置ざまより始めてすべて皆心たけたるものなり。此前後の奈良人の(268)哥の弱く拙きにむかへて、古のめでたきを思ふべし、したふべし』とか『いにしへ人のをさなくよめるは眞の餘りにて、よく見れば理りにしてめでたく、此あはひを思ふべき也』とか『凡物を乞祈ことの深きが餘りにはをさなく及びなき事までもねがふぞ、眞の心の至り也。故に神もめでませり。後世人は中々なる理をいひ、そら言に千代萬代もて人をいはふとは天地のたがひなり。此うたただ九句の間に窮なきこころこもれるは、直くねがふ心をいへばなり。且古人の心たけたるをも思へ』とか、『古へ歌はかくこそ妙なれ、且上のほぎ哥と同じ比の哥と聞ゆ』とか、『こは奈良人のいかでとふるまひてよめれば、古へのまことより出しにはくらべぐるし』とか、『情のせちなる時かかる事いふものにて、眞にあはれなりけり』とか、『ことは足て心みち、靜にして力ら有は、いかなる女の哥にや有けん。これや古今哥集にいふ貫之の好める女うたのさまといふべきにや』とか、この卷三にはいろいろの評言があるが、省いた。ただ、『かくさまの事をいひてなきをらぶは古も今も均し。然ればそのなきつゝいふ言を哥とせし也。ゆゑにあはれに聞ゆ。後世は哥はこと事を作るものと思ひ誤るから感たき哥なし。我友思へ』といふのと、『その死者の入しを見しが如くよめるにかぎりなきあはれあり。むかし人は此意にたけたり。後の人の理窟もていふこととおもへるがつたなさよ』といふのを手抄するにとどめる。要するに、眞淵は萬葉集の歌を解釋するに當つて、味ひながら解繹して行つた。即ち、作歌の手本とすることを暗に豫想しながら解釋して行つてゐるのである。
 萬葉考にあらはれた一首一首の眞淵の評言は右のごとくであるが、眞淵は萬葉集の總論をいつた時に、盛にこの萬葉集の歌の本質について論じてゐる。これは「萬葉考の初めに記るせる詞」として賀茂翁家集卷三にも載り、この言は、和歌に對する眞淵の根本の考とも看做し得るものであるので、私もこれまで眞淵について論じたとき屡引用した(269)ものである。しかし、此等は萬葉歌人としての眞淵を論ずるのにはくべからざるものであるから、是等は眞淵の歌論をいふときに二たびそれに言及しようとおもつて居る。
 
        三
 
 なほ眞淵は萬葉集の卷次に就いて一つの意見を樹て、本來の意味の萬藥集といふのは卷一、卷二、卷十三、卷十一、卷十二、卷十四の六卷で、他は寧ろ補つた氣味のあるものとなした。今眞淵の説を表にして示せば次の如くである。先に記す卷數は眞淵の謂ふ卷で、括弧内のは流布本萬葉集の卷數である。
 卷一(卷一)。卷二(卷二)。卷三(卷十三)。卷四(卷十一)。卷五(卷十二)。卷六(卷十四)。卷七(卷十)。卷八(卷七)。卷九(卷五)。卷十(卷九)。卷十一(卷十五)。卷十二(卷八)。卷十三(卷四)。卷十四(卷三)。卷十五(卷六)。卷十六卷(卷十六)。卷十七(卷十七)。卷十八(卷十八)。卷十九(卷十九)。卷二十(卷二十)。
かういふ次第である。この卷の次第のことは眞淵も得意であつたと見え、本居宣長が疑問を挿んだとき、眞淵答へて、『萬葉撰者、卷の次第等の事御記被遣候。是は甚小子が意に違へり。いはばいまだ萬葉其外古書の事は知給はで異見を立らるるこそ不審なれ。か樣の御志に候はば向後小子に御問も無用の事也。一書は二十年の學にあらでよくしらるる物にあらず。餘りにみだりなる御事と存候。小子が答の中にも千萬の古事なれば、小事には誤りも有べく侍れど、其書の大意などは定論の上にて申なり』(書簡)と云つてゐるのを見ても分かる。
 この萬葉卷次の論は、その後の學者の研究によつて破れたのであり、現今の學者も眞淵のこの論を顧みなくなつて(270)ゐるけれども、眞淵の此論は、萬葉集の歌の看方について一つの暗指を與ふるものとして、眞淵の獨創を尊重すべきではなからうか。つまり萬葉集の歌の時代的觀察は、一つには文學的價値論とも交渉してゐるのであるから、縱しんば事實の考證に據つて眞淵の論は破れても、大體を流れてゐる歌調、文學的價値の點に就いて動かせないものが存じてゐるから、眞淵の直覺はさういふ動かせないものに矢張り觸れてゐると解していゝのである。普通本の卷十三を卷三としたのなども、明かに眞淵の獨創の見を示して居るもので、この如きは單に訓詁注釋を以てのみ萬葉集を取扱ふものにとつては到底出來ないことなのである。
 眞淵は、萬葉集につき以上のやうな考を持つたと共に、萬葉歌人の批評をもしてゐる。今その代表的な文章一二を抄するが、これなども眞淵のごとき萬葉集贔屓の學者でなければ到底いひ得ない同情の言葉に滿ちてゐるのである。いふことには稍啓蒙的なところのあるのは、自分よりも學問的に低い位置にあるものを豫想しての言葉であるからおのづと調子をおろした點もあるが、大體に於て眞淵の萬葉歌人に對する品評が盡きてゐると思つていゝだらう。
 
   『ここに此集に載るが中の人々の姿を別ち云はんに、古き御世なるは押照るや難波の宮の皇后、隱口《こもりく》の初瀬の宮の天皇《すべらぎ》、葛城《かつらき》の豐浦《とようら》の宮の日嗣の皇子《みこ》、高市岡本《たけちをかもと》の宮の天皇《すべらぎ》おはしませど、論《あげつろ》はんは畏《かしこ》し。詠み人知られぬに「奥十山《おきそやま》三野の山」、「眞そみ鏡に蜻蛉領巾《あきつひれ》負ひ並め持ちて」、「吾《わ》を偲《しぬ》はする息長《おきなが》の遠《をち》の小菅」などの類ひ數あり。こは既に云へる古の實《まこと》にして哀れなる物なり。是れより下《しも》に秀《ひ》でたる歌と云へど比《くら》ぶべくも有らず聞ゆるは、古《ふ》りぬる世こそ欽慕《むか》しかりけれ。斯くて後、大津の皇子《みこ》の寛《ゆた》けき姿、大伯《おほく》の姉王《ひめみこ》の哀れなる調《しらべ》など、歌ちふ物の調《しらべ》は斯くぞ有りなましと覺ゆ。志貿皇子《しぎのみこ》は靜かにして細《こま》やかに、厚見《あつみ》の大君は和《にぎ》びで直し。高市《たけち》の連《むらじ》黒人《くろひと》は厚らかにして面白し。名細《なぐは》しき吉野の山を花に由《よ》らで見るが如し。長きが愛《め》でたかりけんを是れぞ其れと知られぬにや有らん。柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂は古ならす後ならず一人《ひとり》の姿にして、荒魂《あらたま》和魂《にぎたま》至らぬ隈《くま》なん無き。其の(271)長歌《ながうた》、勢は雲風に乘りて御空《みそら》行く龍《たつ》の如く、言《ことば》は大海の原に八百潮《やほしほ》の湧くが如し。短歌《みじかうた》の調は葛城の襲《そ》つ彦、眞弓を引き鳴らさん如《な》せり深き悲しみを云ふ時は、千早振る者をも歎《な》かしむべし。山上憶良は詞|太《ふつ》つかにして心|美《うつ》くし。久米の伴の雄雄しき姿して殊舞《たつまひ》せらん思ほゆ。短歌の中に徒言《ただごと》に言へるは云ふべくも無し。山部(ノ)宿禰赤人は人麻呂と裏表《うらうへ》なり。長歌は心も詞も唯だに清らを盡せり。短歌こそ是れも一人の姿なれ。巧みをなさず、有るがまにまに云ひたるが、妙《たへ》なる歌と成りにしは、本の心の高きが至りなり。譬へば檳榔《あぢまさ》の車して大路を渡る主《ぬし》の、あから目もせぬが如し。大伴(ノ)宿禰|旅人《たびと》のまへつ君の短歌は、雄雄しくて哀《かな》し。酒を詠めるに皇御國《すめらみくに》の心を云へるは貴し。こは調を捨てて心をぞ取るべき。長きは知らず。其れが繼《つぎ》なる家持《やかもち》の主は事を能く記るして匂ひ無し。譬へば幸《いでまし》の大御伴《おほみとも》の行《つら》を愛《め》でたく記せる文の如し。短歌はいと多かれど、荒びてうらぐはしきは稀になん有る。是れより先に三方《みかた》の沙彌《さみ》、久米の禅師《せじ》が古き姿の美《うる》はしき、また長の忌寸《いみき》意寸《おき》麻呂、春日(ノ)藏の首《おほと》老が《おゆ》が心しらび、其外にも是れ彼れ有れど、ここに盡さず。田邊の史《ふびと》さち麻呂、笠の朝臣|金村《かなむら》、高橋(ノ)連《むらじ》虫麻呂などは、徒らに古を云ひ寫せし物なれば、強きが如くにして下《した》弱し。女にては額田姫王は古の雅人《みやびびと》なり。春秋の爭を判《ことわ》り給へりしなん女心《をみなごころ》の愛《を》かしき。大伯皇女《おほくのひめみこ》の御歌は事に觸れて上《かみ》に云ひつ。石川(ノ)郎女が嫋《なよ》びたる姿、譽謝姫王《よさノひめみこ》のよろしき調、大伴(ノ)坂(ノ)上の郎女の歌は氏の手振《てぶり》の著《しる》く、事にも當りぬべき樣なり。また歌主《うたぬし》知られぬにこそ猶多けれ。藤原の宮造りに立てる民が歌は朧げにあらず。同じ御井《みゐ》の歌の故事《ふること》を和《やは》し云ひて彩《あや》あるは、其代の黒人、人麻呂の外に勝れにたり。總《す》べて短歌に秀でたる多《さは》なれど、擧ぐるに堪へんやは。』(賀茂翁家集卷三)
   『さて、人麿の比それより前なるが中にもえもいはずよろしき歌おほかれど、或は作人の見ゆるは歌の數少く、或はよみ人しられざるなど侍り。人麿、赤人こそ名あらはれて歌數も多く見ゆるが中には及ぶ人なし。人まろのよきは短歌にてはふとも見分がたきを、長歌ぞまことにならぶものなきなり。赤人は長歌は得ず、短歌の妙なる事亦たぐひなし。されど人麿は雄壯に、赤人は艶麗にて、すがた大にことなり。其外、憶良は質朴に過たり。いささか雅をもおびぬにはあらねど、必、延喜の比の人のほむまじきすがたなり。家持は古雅にはあらず。ただ長歌に事を記せし所に得たる事あり。短歌も多が中にはよろしき、はた(272)多し。されどひと麿、赤人などにむかへては、漸下りて、風調うすし。其外、額田王、石川郎女、坂上郎女など、女上手もあれど人麿、赤人にならぶべからず。又歌の數なくては擧いひがたかるべし。』(龍のきみえ賀茂眞淵問答)
 此等の評は皆短評で、古今集序にある貫之が加へた歌人短評に類するものであるが、先づ大體眞淵の氣持をうかがふことが出來る。人麿以前の古調を讃へてゐるのも特色があり、また山上憶良について、『短歌の中に徒言に云へるは云ふべくも無し』といひ、また『憶良は質朴に過たり。いささか雅をもおびぬにはあらねど、必、延喜の比の人のほむまじきすがたなり』などいふ評語もおもしろいものである。併し以上のごとき評語は、眞淵の晩年まで毫も變化しなかつただらうかといふに決してさうではあるまい。やはり少しづつ變つて行つてゐただらうとおもはれるし、眞淵の好尚は古代古代と溯つたのではなからうか。さうおもはれるのである。
 
         四
 
 眞淵の歌に對する考、即ち作歌態度、作歌方嚮、或は端的に云つて、歌論といふやうなものは、盡くその具體的手本を萬葉集に置いてゐたと云つていゝだらう。少し油斷をした時とか、少し調子をおろした時、或は女流門人に對した時などには、古今集のことなども時々云つたが、晩年になればなるほど萬葉菜の歌に憧れる傾向を示したものである。『古《いにしへ》の歌は天地《あめつち》の成しのまにまに成る海山《うみやま》のごとし』(【萬葉新採百首解序】)といふのは、技巧を排して眞情流露を説いたものである。『古の人の歌は設《まう》けて詠まず』(萬葉考序)といふのも亦同樣である。また、『其心|多《さは》なりと云ふも、直くひたぶるなる物は詞多からず』と云つてゐるのは、短歌に單純化の大切なことを道破したもので眞淵の短歌觀の並々でないのを證據(273)(273)だててゐるのである。これは萬葉卷十三に就いて云つた言葉であるが、なほ『上《かみ》なるは言《こと》少なくして雅び、心ひたぶるにして愛《め》でたし。言《こと》少なかれど心通り、心ひたぶるなるが哀れなるは、高く誠なる心より出づればなり』と云つてゐるのなども同じく單純化の骨髄を遺破して餘すところがないものである。『古の歌ははかなきが如くにして善く見れば誠なり。後の歌は理《ことわり》ある如くにして善く見れば空言《そらごと》なり。古の歌は徒言《ただごと》の如くにして善く見れば心高きなり。後の歌は巧みある如くにして善く見れば心|淺《あさ》らなり』といふのも、眞淵の萬葉觀の眞髓の一つで、まことにいゝ文章だと常におもふのである。
 それから眞淵は新學《にひまなぴ》で『萬葉集を常に見よ。且つ我歌も其れに似ばやと思ひて、年月に詠む程に、その調《しらべ》も心も、心に染みぬべし』と云つてゐるのは、眞淵の萬葉觀であるのみならず、眞淵の作歌稽古の眞髓を最も端的に云つたものである。それだから、これほど萬葉尊敬を端的にいひあらはし得たものは眞淵以前には一人も居なかつた。眞淵の萬葉觀がそのころの古擧者中一頭地を拔くのはまさしくこの點にあるのである。
 眞淵の歌に對する考はそのやうなものであつたから、本居宣長の歌に加へた眞淵の評言のごときは實に峻嚴を極めたものであつた。即ち、『歌ならず』とか、『歌とはならず』とか、『只今のはいかいにこそ』とか、『歌ともなし』とか云ひ、『是は新古今のよき歌はおきて中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりしなり。右の歌ども一つもおのがとるべきは無し。是を好み給ふならば、萬葉の御問も止給へ。かくては萬葉は何の用にたたぬ事なり』(【和歌史の研究】)とか云つてゐるのは、晩年の眞淵の地金を最も露骨に出したもので、極言すれば、萬葉調の歌が嫌ひなやうなら萬葉を研究したり萬葉を云々したりするのは無用のことだと云ふのだから、眞淵の萬葉に對する態度はもはや純粹(275)に一徹になつてゐるのであつた。
 
         五
 
  眞淵の歌に對する考は、晩年にいたるほど、かくの如く純粹になつたが、實際の作歌のことになるとさう容易にはゆかなかつた。即ち、眞淵の歌といふものは、古今調或は新古今調混合の時代が隨分長かつたのであり、萬葉驟を尊敬するやうになつてからも、なかなか萬葉調にはなり得なかつたのである。その萬葉調になりかけたのも、大體六十歳を起點としてその前後から漸次的な移行型を有ちつつ變化して行つたものと見える。
 この作歌上の變化については、眞淵自身が萬葉考の序のなかで書き記してゐるから少しく抄記しよう。『こを思ふに皇御國《すめらみくに》の上つ代の事を知り通らふ業《わざ》は、古き世の歌を知るより先《さき》なる物は無かりけり。斯かる己が若かりける程、萬葉は唯だ古き歌ぞとのみ思ひ、古歌《ふるうた》もて古の心を知りなん事としも思ひたらず、古今歌集或るは物語|書《ぶみ》らを説き記るさん事を業《わざ》とせしに、今しも返り見れば、其歌も書《ふみ》も世|下《くだ》ちて手弱女《たわやめ》の少女さびたる事こそ有れ、益良夫《ますらを》の男さびせるし乏《とも》しくして、御盛《みさか》りなりし古の嚴《いか》し御代に協《かな》はずなん有る。此事を知り足らはしてより、唯だ萬葉こそ有れと思ひ、麻も小綿《さわた》も、數多《あまた》の夏冬をたち更へつつ、百《もも》足らず六十《むそぢ》の齡にして説き記るしぬ。古の世の歌は人の眞心なり。彼の世の歌は人のしわざなり。』即ち、はじめは古今集、物語などを尊敬してゐたのが、誤であつたことを懺悔してゐるのである。この文章で『此事を知り足らはしてより、唯だ萬葉こそ有れと思ひ、麻も小綿《さわた》も、數多の夏冬をたち更へつつ、百《もも》足らず六十《むそぢ》の齡にして説き記るしぬ』と言つて、それから直ちに、『古の世の歌は人の眞心なり。後の世の(275)歌は人のしわざなり』と續けた文章は、なかなかの手際で、短歌の方で悟入した言語に對する感覺が期せずしてここに現れたものである。
    うらうらとのどけき春の心より匂ひいでたる山櫻ばな
 此歌は寶暦六年二月の歌會の作であるから恰も眞淵六十歳の時に當る。作歌當時は眞淵自身も稍得意であつて、『これのみぞいはれたる心地す』と云つたさうだし、女流門人の手本に此歌を書いたのを見たこともあるから、此處まで進境を得たときの眞淵の滿足であつた氣持を推するに難くはないだらう。即ちこの悟入は眞淵一代の劃期的なものであつたかも知れない。さういふ意味で、芭蕉ならば『古池や蛙とび込む水の音』の俳句を聯想せしめるものである。併し、芭蕉の場合もさうであつた如く、眞淵はかういふ歌の程度に滿足しては居なかつた。彼はこの程度の歌境からまだまだ高い處へと目ざしてゐる。
    いそぎ|てぞ《イつつ》早苗は殖《う》ゑむあしびきの山|時鳥《ほととぎす》なきにしものを
 此歌もまた寶暦六年年の作である。第三句で『あしびきの』といふ枕詞を用ゐたり、結句で、『なきにしものを』とつまつた調を用ゐたのなども此歌を稍萬葉調にしてゐるのである。なほ寶暦六年作といふことの分かつてゐるものには『思はぬを思ひし程にくらぶれば思ふを思ふ事ぞすくなき』といふ歌もあるが、たいしたものではない。
    みふゆつき《イけふはしも》春たちけらしひさかたの日高見《ひたかみ》の國に霞たなびく (寶暦八年、六十二歳)
    常陸には田をこそ作れ|しめはへて今日行く春を《イ行春をしめひきはへて》誰か留むる (寶暦十年、六十四歳)
    葛城《かつらぎ》の襲津彦《そつひこ》眞弓ひきつつもますらをのともの花を見るかな (寶暦十一年、六十五歳)
(276)    大木曾《おほぎそ》や小木曾《をぎそ》の山の岩がね《イむら》もなびきよるべき旅にやはあらぬ (寶暦十二年、六十六歳)
    世の事は皆がら無しと見し人をありのすさびに問ふが悲しさ (寶暦十二年、六十六歳)
 大體かういふ歌風である。『み冬つき』の歌は、田安の姫君の結婚賀の歌であり、常陸にはの歌は、「春のはて」といふ題があり、『葛城の』は枝直七十の賀歌であり、『大木曾や』の歌は九月作長歌の反歌で、『世の事は』の歌は橘常樹を悲しむ文章の終にある一首である。大體作歌時代の分かつてゐるもので萬葉調に傾いてゐるのを此處にのせた。私は嘗て眞淵を論じたとき、『わたの原豐さかのぼる朝日子のみかげかしこきみな月の空』の歌を『うらうらとのどけき春の心より』の歌とほゞ同期のものと想像したのであつたが、此は延享四年、五十一歳の時の作である。それから、『見わたせば天の香具山うねび山あらそひ立てる春がすみかな』が寛延一年、五十三歳の時の作であり、もつと後の如くに想像した、『信濃路のおきその山の山櫻またも來て見むものならなくに』の歌は、寶暦二年、五十六歳の時の作だといふことが分かつて見れば、眞淵の萬葉調の歌も、漸次的であり、種々の移行型があつて一概にはいへぬ。大體を以て結論すべきものだといふことが分かる。これは實朝の金槐集の場合でもまた同樣である。
    播磨潟|追門《せと》の入日《いりひ》のすゑ晴れて空よりかへる沖のつりふね
    たちばなのかをれる宿のゆふぐれに二こゑ嶋きて行くほととぎす
    信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲のつばさもたわに吹く嵐かな
    ももくまの荒き筥根路こえくればこよろぎの磯に波のよる見ゆ
 此等の歌は、何年ごろの作か瞭然としないが、春海等の謂ゆる中頃の歌が交つてゐるやうにおもへる。播磨潟の歌(277)などは新古今の味ひが未だ殘つて居り、すがの荒野の歌などは萬葉の言葉を取つてゐるけれども、結句の『ふく嵐かな』などはどうも据わりが弱いのである。ももくまのの歌は實朝の筥旅路の歌を目中に置いて作つたものらしく、或はもう少し後の作かも知れぬ。かういふ萬葉調の間題も一夜にして實行することが出來ないものだから、興味ある問題なのである。
    淺間山(打のぼる)ほのやき彦のつくらしし藥の石を知人やたれ
    光る神ほのてる彦の藥ねに淺間の山はそらもとどろに
    淺間山峰もとどろに神ろぎの火燒彦のくすりねらすも
    淺間山火照彦のあら玉のなりこそいでめ國もとどろに
    淺間山火照彦はたすけなん天(國)もとどろになり出よ(ん)君
 この五首は、何年の作か未だ明かでないが、萬葉調で歌はうとしてゐることが分かる。この五首は賀茂翁遺草所載のものであるが、賀茂翁家集卷四「淺間の嶽を見て記るせる詞」のをはりに、『淺間山火の照彦の荒神魂《あらふたま》鳴りこそ出づれ國もとどろに』といふのがあるから、矢張りこの頃の作であらう。作風から言へば、矢張り寶暦十年以後の作のやうな氣がする。
    すがのねの永き春日《はるび》に袖たれて見むと思ひし花ちりにけり
    ふるさとの野べ見にくれば昔わがいもとすみれの花さきにけり
 この『ふるさとの』の歌は、寶暦十三年、三月のころ濱松の里に來りてよみけるといふのであるから、さうすれば(278)眞淵六十七歳の時に當つてゐる。なほ同年六月、岡部の家にて作つた長歌の反歌に、『しらたまの涙かきたりむかひゐていにしへ偲ぶことぞさね多き』といふのがあるが、『昔わがいもとすみれの花』などといひかけなどして、巧みに言葉を使つてゐるのなどは具合が惡く、そのために、私は此歌をもう少し早期の作と考へたのであつた。併しこの歌はやはり寶暦十三年の作として大體間違は無からうし、また眞淵自身この歌を稍得意であつた(書簡)ところを見ると、萬葉集の歌の悟入といふことが、決して決して容易の業でないといふことが分かるのである。
    秋の夜のほがらはがらと天《あま》のはら照《て》る月かげに雁なきわたる
    こほろぎの鳴くやあがたの我宿《わがやど》に月かげ清《きよ》しとふ人もがも
    あがた居《ゐ》のちふの霹原《つゆはら》かきわけて月見に來つる都びとかも
    こほろぎのまち喜《よろこ》べる長月《ながつき》の清き月夜《つくよ》はふけずもあらなむ
    鳰鳥《にほとり》のかつしか早稻《わせ》のにひしぼり|くみ《イのみ》つつをれば月かたぶきぬ
 この一聯は、寶暦十四年(明和元年)、眞淵六十八歳の時の作である。此等は眞淵一代の傑作であるのみならず、これならば先づ萬葉集に肉迫して居ると云つていゝとおもふ。然も連作五首に纏めてをり、作歌衝動のさかんなることを證してゐるのなども、この老翁を尊重する理由として充分である。この一聯は賀茂翁家集所載のものだが、あがたゐの歌集の方には、『こほろぎの鳴くやあがたのわが宿に月かげきよしとふ人もがな〔六字右○〕』『こほろぎのまちよろこべる長月のこよひの月は〔六字右○〕更《ふけ》ずもあらなむ』『にほとりのかつしかわせのにひしぼりくみつつあかせ清き月夜を〔くみ〜右○〕』になつてゐる。この方が或は初稿かも知れないのでかかなか興味ふかいのである。
(279)    ゆふされば海上《うなかみ》がたの沖つかぜ雲井に吹きて千鳥なくなり
    香取《かとり》がた千重の汐瀬《しほせ》をせきあげて浪穗《なみほ》に立てる神の水門《みと》かも
この二つも、門人楫取魚彦のところの歌會で咏んだもので、おなじく明和元年、眞淵六十八歳のときの歌である。この二つを見ればやはり純萬葉調であつて、前の縣居に於て九月十三夜に咏んだ一聯の歌と相かよふところがある。
    天のはら八重棚雲をふきわくるいぶきもがもな月のかげ見む
    野分して縣《あがた》のやどはあれにけり月見に來よと誰につげまし
    あまのがは見つつしをれば白妙《しろたへ》の我ころもでに露ぞおきにける
    播磨路《はりまぢ》や夕霧はれて久かたの月おし照れりいなみ野のはら
    にひた山うき雲さわぐ夕立に利根《とね》の川水うはにごりせり
かういふ歌も、恐らく晩年のものではなからうかと思へる。眞淵以後、平賀元義の如き純萬葉調の歌人が出でたから萬葉調の歌は誰でも出來るとおもふかも知れぬが、實際に當つて見るとさう容易には行かない。眞淵のも、ぢりぢりと此處まで來たのであり、縱ひ一首の萬葉調の成就といへども尊敬に値するのである。
    み冬つき今は春べとなりぬればきのふもけふも梅の遊しつ
    とほつあふみ。うなび照らして。よれるしら玉。遠き世に。名を耀《かが》さむと。よれるしらたま。
『み冬つき』の歌は「うめのこと葉」といふ文章の末にある一首であるが、大石手引の序文によると、明和二年春のやうに記してあるから、明和二年といへは眞淵六十九歳に當つてゐる。今差當り序文を信じて、この歌をこの年次に(280)置いて見た。『とほつあふみ』の歌は光海靈神碑銘に添へた歌だから、明和四年夏眞淵七十一歳の時の作である。この長歌は萬葉卷十三あたりと古事記あたりからの悟入によつて成つたものであらう。
    うまらに喫《をや》らふるがねや。一|杯《つき》二|杯《つき》。ゑらゑらに掌《たそこ三》うちあぐるがねや。三|杯《つき》四|杯《つき》。言《こと》直《なほ》しこころ直《なほ》しもよ。
    五|杯《つき》六|杯《つき》。天《あま》足《た》らし國《くに》足《た》らすもよ。七|杯《つき》八|杯《つき》。
 この長歌もやはり晩年のもののやうな氣がする。明和元年の縣居歌會のをりのものでなく、もつと後のもののやうにも思へる。これは長歌だが、晩年の眞淵の傾向は、かういふ稍短い長歌などに向いてゐたかも知れない。春海の文中『其末とは、みまかられし年より六年七年ばかり前なる方をいひ侍るにて、其程はひたすらに萬葉集解きしるさるる事にのみ心を決められ侍りしかば、さるいたづきにいとなくて、歌よむことなどには心をも深められず。さてたまたまに歌の事いはるるには、中程の論《あげつら》ひをば多く改められたりと覺ゆるふしも見えたり』とある如く、晩年には作歌の數の少かつたことは事實であらう。併し出來る歌は、やはり標準の高かつたこと、この長歌を見てもわかるのである。
 また、眞淵晩年の歌稿が火災にあつたと考へることも出來るから、その中には、縣居九月十三夜の歌の如き、楫取魚彦歌會の二首のごときものが幾つかあつたと想像することが出來るだらうから、萬葉調歌人として眞淵はやはり第一流に位してゐることは言を須たないのである。
 眞淵の萬葉調には、何處かに清いところのあるのは晩年の人物からの反映であらう。それから聲調が急迫せず、大きい波動をなしてゐるのも元義などの堅い萬葉調の歌とちがふところである。眞淵の歌調は餘り朗々としてゐるのでやゝともすれば調子のみの歌のやうにとられがちだが、これは決してさうでない事に注意せねばならない。ただ正岡(281)子規などの萬葉調とちがひ、寫生の手法が違ふのは、時代の差別であつていかんとも爲しがたい。
 參考。佐佐木信綱、和歌史の研究〈大正四年、大日本學術研究會)。石井庄司、賀茂眞淵歌集講話(昭和七年、改造社、短歌講座第六卷)。齋藤茂吉、近世歌人評傳(昭和七年、岩波講座、日本文學)
 
 
春陽堂、278頁、1933.9.15
【萬葉集講座第五卷】萬葉美論篇 目次
萬葉集の歌體美……………………………………久松潜一…(一)
萬葉短歌聲調論……………………………………齋藤茂吉…(四七)
萬葉集の表現美に就て……………………………高木市之助…(一一三)
内容美論……………………………………………森本治吉…(一四三)
萬葉人と自然………………………………………小宮豐隆…(二〇五)
世界文學と萬葉集…………………………………阿部次郎…(二二三)
吾が萬葉觀
 萬葉集を通しての「日本詩」觀一斑…………權藤成卿…(二五七)
 吾が萬葉觀………………………………………三木露風…(二六三)
 萬葉の藝術曲線と生活曲線……………………長谷川如是閑…(二六七)
 吾が萬葉親………………………………………津田青楓…(二七六)
附録
 萬葉集踪合年表…………………………………竹内金治郎
                     篠原一二  (一)
 
 
(47) 萬葉短歌聲調論
                齋藤茂吉
 
     第一章 總論、萬葉調
 
 萬葉集聲調美論といふ題で執筆するやうに註文を受けたのであつたが、美論といふのは美學の論文のやうで私には向かないからその名は罷めた。それから萬葉集の歌全般についての聲調論をすることになれば、長歌、旋頭歌の聲調についても論ぜねばならず、長歌には長いのもあれば極く短いのもあるから、複雑になつて豫定の長さでは論及が困難である。加之、長歌の方面には、小國重年の長歌詞珠衣、橘守部の長歌撰格の如き研究があるから、このたびは短歌を對象としてその聲調について少しく論ずることとするのである。
 短歌に於ける「聲調」といへば、その概念が大體理解出来るほど普遍化した語であり、眞淵や、景樹等の謂つた「調べ」といふのと大體おなじものである。併し、聲調のことは、單に言語の音楽的要素ばかりを以ては論ずることは出(48)來ない。即ち、音韻とか韻律とかの調査のみを以て萬葉の歌の聲調を解明することが出來ない。そのことは私は嘗て短歌聲調の汎論に於ても論じたことがあつた。
 短歌の聲調は、音の要素のみでなく、意味の要素をも同時に念中にもつて論ぜねばならぬ。それからその二つの結合から成る、「句單位」を以て「聲調の單位」として論ぜねばならぬ。例へば、『秋の田の穗のへに霧らふ朝霞いづへの方に我が戀ひやまむ』といふ萬葉卷二の歌について、『秋の』だけではいまだ獨立した單位を形成し得ない。それに、『田の』が續いて、『秋の田の』となればここにやうやく、句單位が形成せられる。そしてその句單位の音の要素と意味の要素とが相結合して、はじめて聲調の單位が形成せられる。即ち、聲調の單位は、音の要素だけでも論ぜられず、意味の要素だけでも論ぜられず、二つの結合によつてはじめて論の對象となり得るのである。同樣にして、『穗のへにきらふ』が一つの單位となり、『あさがすみ』が一つの單位となり、『いづへの方に』が一つの單位となり、『わが戀ひやまむ』が一つの單位となるのである。さうして見れば、句單位、聲調の單位は、短歌では五音(第一句)。七音(第二句)。五音(第三句)。七音(第四句)。七音(結句)が各の其單位を形成し、そして此等の五つの單位が相結合して、短歌一首としての獨立した聲調を形成するものである。
 それであるから、萬葉集にある數千首の短歌の聲調といふものは實に複雜で、千差萬別だと謂つていいのである。然るに實際の歌論のうへで、萬葉短歌の聲調を論ずるとき、『萬葉調』といふ一括した名稱を以てこれを表はすことが出來るのを習慣としてゐる。これはどうしてであるかといふに、日本の和歌には、萬葉集のほかに、古今集とか新古今集とかの歌集があり、その歌集の包含してゐる短歌の聲調は大體に於て共通した特徴を有つてあるために、そしてそ(49)れ等の各の特徴を有つ短歌の聲調は萬葉短歌の有つ聲調の特徴と相異るものがあるからして、萬葉短歌の聲調は、一括して『萬葉調』と稱し、相待上、『古今調』或ひは、『新古今調』と區別することが出來るのである。その細かい點になると千差萬別であるが、また一括して、萬葉調と云ひ得るほど、聲調の特徴を有して居る一集團なのである。
    白妙《しろたへ》の月も夜寒に風さえて誰にころもをかりのひと聲(定家)
    朝にゆく雁の鳴くねは吾が如くもの念《おも》へかも聲のかなしき(萬葉)
    折しもあれ雲のいづくに入る月のそらさへをしき東雲《しののめ》のみち(定家)
    ひむがしの野《ぬ》にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(萬葉)
    寺ふかき紅葉の色にあとたえてからくれなゐを拂ふこがらし(定家)
    時雨のあめ間なくな降りそくれなゐににほへる山の散らまく惜しも(萬葉)
    おろかなる露や草葉にぬくたまを今はせきあへぬ初時雨かな(定家)
    うらさぶる情《こころ》さまねしひさかたの天《あめ》のしぐれの流らふ見れば(萬葉)
 かういふ具合に、試に藤原定家の歌と、萬葉集の歌とを竝べて見れば、その各の聲調のありさまが如何にも截然と分かれてゐる。即ち、『萬葉調』のいかなるものだかといふことが直ぐ分かるのである。もつともこの感じは修練が要るので、大體日本の歌を讀んだものでなければ直ぐ頭には來ないが、和歌を好み、和歌を云々してゐる者の間には、受納の豫備が出來てゐるから、極めて鮮明に頭に來るのである。そしてこの直覺的な感じは餘程確かなものであつて、いはゆる『萬葉調』の特質などいふことを、音韻學的に、或は實驗心理學的に、細かに分析して、百分率などを以て(50)結論を附け、その結論による、『萬葉調』の特色などといふやうなものよりも餘程確かで、且つ迅速に直覺的に來るものである。それであるから、さういふ音韻學的・實驗心理學的研究も一つの大切な研究方法ではあるが、實際上の聲調の感受には殆ど役に立たない。言葉を換へていへば、さういふ研究の方法なり、結論なりは却つてまだまだ粗笨で、寶際の聲調の要素はまだまだ複雜微妙だといふことに歸著するのである。
 そんなら、『萬葉調』の特質について何か表徴することが出來ないかといふに、大體の特質を云ふことが出來る。そして、いろいろと細かく分解などするよりも、この大體の感じで行く方が却つて確かであると云ふのである。また、それくらゐな程度に、ぼんやりさせて置く方が却つていいので、この聲調のことは非常に微細な點にまで徹しなければならないのだから、百分率などの結論で律しきれないものが存じてゐるのである。
 先づ此處に竝べた萬葉の歌についていふならば、第一定家の歌の方は見所が多くくだくだしく面倒であるが、萬葉の歌の方が、言葉が順直である。感じに應じて言葉を使ひくだしてゐるから、順當で分かりよい。第二に、定家の歌の方は細《ほそ》く中に入つてゆくやうな調子に、幾らか語氣の氣取つたところがあるのに、萬葉の方は調子が太くて重く厚みがある。そして言ひ振りが素朴で單純、稚雅なところがある。第三に、定家の歌は、讀んでもぴんと直ぐ來ない。何かぼんやりした、抽象的なところがあるに反し、萬葉の歌の聲調からは、讀んで直ぐ浮んでくるものがある。つまり具象的である。これは守部なども論じたが、萬葉の歌は實語が多く、特に上實の歌が多いためである。一首を讀んで感ずる點は、何か重々しいうちに純粹な何ともいへぬ品《ひん》を感ぜしめるのが、いはゆる萬葉調、古調の特徴である。それが單に原始的とか簡單とかいふものでなく、もつと立體的な特色である。支那詩論でいふ渾厚とか遒潤とか高古(51)とか古淡とかいふやうな感じで、かういふ直覺的な評語の方が却つてよくその特徴をあらはしてゐるものである。
 右は、萬葉集の歌と定家の歌とを比較したが、もつと時代が降つて、萬葉集の歌調を摸した、即ち萬菓調の歌と、さうでないといはれてゐるものとを比較して見れば、いはゆる萬葉調といふものの特徴がなほはつきりとしてくるのである。例へば賀茂眞潤の歌と、村田春海の歌とを竝べて比較すれば次のごとくである。加藤千蔭のもの萬葉人麿のものをも一二首參考し、また、古今集卷二十の東歌一首と本居宣長の一首とを比較しつつ書き加へる。
    あがたゐのちふの露原かきわけて月見に來つる都びとかも(眞淵)
    月見にと訪ふ人あれや夕庭に露もみだれて萩の花散る(春海)
    訪へかしと思へば人のとひ來つつ同じ心を月に見るかな(千蔭)
    さざなみの比良の大わた秋たけてよどめる淀に月ぞすみける(眞淵)
    みぞれ降る比良の大わたさえ暮れて氷によどむ志賀のうら舟〔春海)
    さざなみの比良の大わた淀めども淀みもやらぬ短夜の月(千蔭)
 
    ゆふさればうなかみ潟の沖つ風雲ゐにふきて千鳥なくなり(眞淵)
    沖つ風雲井に吹きて有明の月にみだるる村千鳥かな(春海)
    にひた山うき雲さわぐ夕立《ゆふだち》に利根のかは水うはにごりせり(眞淵)
    とね河や消えせで波にながれゆく雪にも今朝ほうはにごりせり(春海)
    青駒のあがきをはやみ雲居にぞ妹があたりを過ぎてきにける(萬葉、人麿)
(52)    のる駒のあがきをはやみ大雪のみだれていづる御狩野の原(春海)
    最上川のぼれぱくだる稻舟のいなにはあらずこの月ばかり(古今、東歌)
    最上川のほれぱくだる水底のつきの空こぐ夜半のいな舟(宣長)
 大體右の如くである。眞淵は萬葉集を尊敬し、作歌するにも、『萬葉調』の歌を作らうと心掛けた。然るにその門人の春海も千蔭も、本來から行けば師の歌を手本とし、師が手本とした萬葉集を手本として、『萬葉調』の歌を作る筈であるのに、實際はさうでなく、寧ろ古今調或は新古今調の歌を作つてゐるのである。それゆゑ、二つ竝べて見れば、『萬葉調』の如何なるものだかといふことが直ぐ分かるのである。また聲調の研究には、二つ比較して直ぐその聲調の持つ特徴を感受するやうに練習することが一番大切であつて、それが出來ないやうならば、聲調の研究家としては殆ど役に立たぬと謂つていいくらゐである。その練習は、細かい分類などよりも幾遍も幾遍も吟誦して悟入するの謂である。
 併し、その間に暇があつたら、客觀的にそれらの特徴を幾らか調べても決して害にはならないものである。例へば、上記の、『比良の大わた』の歌で、眞淵と春海と差別のあるのは、一方は、『よどめる淀に月ぞすみける』といひ、一方は、『水によどむ志賀のうら舟』といつてゐる。一首聲調の差別は大體ここに本づいてゐるのである。萬葉調では、『月ぞすみける』と云つた調べのものを結句とする場合が多い。これに反して新古今調では、『志賀のうら舟』といつた調べのもので結ぶのがなかなか多い。つまり、『秋のゆふぐれ』に類した名詞止の場合である。それから、萬葉調の歌には、守部が分類したやうに、謂ゆる上實の歌が多く、それゆゑ、初句から、『さざなみの比良の大わた』と云つて、主格(53)の實語を先づ云つて居り、それから、順々に、虚語、即ち作用の語を置くやうにして、『月ぞすみける』といつて作用言で止めてゐる。即ち、もう一度繰かへせば、現象にそのまま隨順しながら表現して行つて居る。然るに、春海の歌になると、『比良の大和田』をはじめに置かずに、先づ作用言を置いて、『みぞれ降る』といつて居り、また第三句で、『さえくれて』と作用をいつて、また第四句で、『氷によどむ』と作用をいつて居るのであるから、どうしても聲調がたるんでしまふのである。春海の歌の次に出した千蔭の歌もまた同樣である。それから、海上潟の歌でも、眞淵の歌は、自然現象にそのまま隨順して歌つてゐるが、春海のになると、その間にいろいろ挿入するものがあるために聲調が弛緩してしまつてゐる。眞淵のは、『ゆふされば』と初句に置いたのは順當で、その次からは、實語の、『うなかみ潟の沖つ風』を置き、それから順々に、『雲居にふきて千島なくなり』と一本調子に行つてゐるに反し、春海のは、『沖つ風雲井に吹きて』といふ一事件を先づいつて、『有明の月にみだるる村千鳥かな』と一事件を云つてゐるから、一首の聲調が割れて、弱く弛んでしまつた。かういふのは原則として萬葉調にはなり得ないものである。特に、『村千鳥かな』といつた、この『かな』の使ひざまなどはもつとも萬葉調からは縁の遠いものである。この結句による萬葉調の特徴は、後段にも比較研究するのであるが、此處に出した、古今集東歌の一首と本居宣長の一首とを比較すればその特色が直ぐ分かるのである。即ち古今集の此一首の歌は寧ろ萬葉調に近い系統のものであるが、この歌の結句の、『この月ばかり』といふのが特色なのであり、宣長の歌の結句の、『夜半のいな舟』との差別によつて、一方は萬葉調となり、一方は萬葉調になり得ないといふ結果になつて居る。聲調と結句との關係は非常に重大であつて、一首の性命に關すると謂つていいほどである。此處にはただ一首を例としたけれども、他は機會に應じて論じ得るとおもふ。併し、(54)結句のみによつて萬葉調の構成出來ないことは上述でも明かであるが、此處で、たまたま、『うはにごりせり』といふ二首とも同じ結句を有ちながら一方は萬葉調となり、一方は萬葉調とならない例があるから一言を費すなら、眞淵の歌には、實語、虚語の關係が自然で無理がないのに、春海の歌には、天爾乎波や作用言が多過ぎ、ごたごたしてゐる。『や』『で』『に』『にも』『は』などがあるために、調がくだけて弛緩してしまつてゐる。これでは萬葉調になり得ないのである。なほ、かういふ客觀的の原理は、暇がある人には調査してもいい一つの題目としてもつと範圍を押ひろめ得る性質のものである。
 次に、この、『萬葉調』を理解するために、實倒を追加しようとおもふ。萬葉集の歌をば一語または一句、或は二句ぐらゐ改めて勅撰集のなかに收録したのがある。その改作は萬葉學のいまだ幼稚な時代であつたために正訓を得なかつたこともあるが、もう一つはその時代の歌風に適合するやうに改めたのもある。それゆゑ、この二つを竝べて見れば純粹の萬葉調がどういふ具合に變化し、くづれて行つたかをも觀察することが出來、萬葉調となるために、いろいろの要約・條件が入つてゐることをも觀察することが出來て有益だとおもふのである。
    安積山かげさへみゆる山の井の淺き心をわがもはなくに(萬葉)
    安積山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(今昔、落窪)
    ほととぎす來鳴く五月の短夜《みじかよ》も獨しぬれば明かしかねつも(萬葉)
    ほととぎす鳴くやさつきの短夜も獨しぬればあかしかねつつ(拾遺)
    あしひきの山道《やまぢ》も知らず白橿《しらかし》の枝もとををに雪のふれれば(萬葉)
(55)    あしひきの山路もしらずしらかしの枝にも葉にも雪のふれれば(拾遺)
    浪の上ゆみゆる兒島のくもがくりあな息づかしあひわかれなば(萬葉)
    浪の上にみえし小島のしまがくれ行くそらもなし君にわかれて(拾遺)
    水底に生ふる玉藻のうちなびき心はよりて戀ふるこのごろ(萬葉)
    水底に生ふる玉藻のうちなびき心をよせて戀ふるころかな(拾遺)
    あしひきの山下とよみゆく水の時ともなくも戀ひわたるかも(萬葉)
    あしひきの山下とよみゆく水の時ぞともなく戀ひわたるかな(拾遺)
    いはしろの野中にたてる結び松こころも解けずいにしへ思ほゆ(萬葉)
    いはしろの野中にたてる結び松こころも解けずむかし思へば(拾遺)
    秋かぜのさむく吹くなへ我宿のあさぢがもとにこほろぎ鳴くも(萬葉)
    秋かぜのさむく吹くなる我宿のあさぢがもとに日ぐらしもなく(拾遺)
    あづさゆみ春山ちかく家居らし繼ぎて聞くらむうぐひすのこゑ(萬葉)
    あづさゆみ春山ちかく家居してたえず聞きつるうぐひすのこゑ(新古今)
    ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集《つど》へる(萬葉)
    ももしきの大宮人は暇あれや櫻かざして今日もくらしつ(新古今)
    田子の浦ゆうちいでて見れば眞白にぞ不二の高根に雪は降りける(萬葉)
(56)    田子の浦にうちいでて見れば白妙の不じの高根に雪は降りつつ(新古今)
    春すぎて夏きたるらし白たへの衣ほしたりあめのかぐやま(萬葉)
    春すぎて夏來にけらし白たへの衣ほすてふ天のかぐやま(新古今) 
    あすか川もみぢ葉ながる葛城《かつらぎ》の山の木葉は今し散るかも(萬葉)
    あすか川もみぢ葉ながる葛城《かつらぎ》の山の秋かぜ吹きぞしぬらむ《イらし》(新古今)
    ぬばたまの夜のふけぬれば久木《ひさぎ》おふる清き河原に千鳥しば鳴く(萬葉)
    うばたまの夜のふけゆけば楸《ひさぎ》おふる清き河原に千鳥なくなり(新古今)
    ひさかたの天《あめ》知《し》らしぬる君ゆゑに日月《ひつき》も知らに戀ひわたるかも(萬葉)
    ひさかたの天《あめ》にしをるる君ゆゑに月日も知らで戀ひわたるらむ(新古今)
    ささの葉はみ山もさやに亂《さや》げどもわれは妹おもふ別れ來ぬれば(萬葉)
    篠の葉のみ山もそよに亂《みだ》るなりわれは妹おもふ別れ來ぬれば(新古今)
 此等の例は、眞淵・春海等の例とちがつて、萬葉集の歌として示してあるのだから、萬葉調となるための細かい要約が分かつて興味があるのである。
 萬葉の、『淺き心をわがもはなくに』を、『淺くは人をおもふものかは』と直し、『獨しぬれば明かしかねつも』を、『獨しぬれば明かしかねつつ』と、直し、『あな息《いき》づかしあひ別れなば』を、『行くそらもなし君に別れて』と直し、『心はよりて戀ふるこのごろ』を、『心をよせて戀ふるころかな』と直し、『心も解けずいにしへ思ほゆ』を、『心も解けず(57)昔おもへば』と直し、『梅をかざしてここに集へる』を、『櫻かざして今日もくらしつ』と直し、『清き河原に千鳥しば鳴く』を、『清き河原に千鳥鳴くなり』と直し、『日月《ひつき》も知らに戀ひわたるかも』を、『月日《つきひ》も知らで戀ひわたるらむ』と直してゐるので、かういふ細かいところから、萬葉調のくづれて行く状態がよく分かるので甚だ有益である。特に、持統天皇御製の、『春すぎて夏きたるらし白たへの衣ほしたりあめのかぐやま』をば、『春すぎて夏來にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐやま』と直したなども、これなどは一語一句といふよりも一首全體に影響するやうな改作である。そして改作者にとつては『夏きたるらし』といふ流動的な重厚な音調が寧ろ嫌ひなので、『夏來にけらし』と細《ほそ》く小きざみの音調の方が好きなのである。また、『衣ほしたり』と端的にいふのが嫌ひで、『衣ほすてふ』といふ淺く輕い音調の方が好いのである。また、『田子の浦ゆうちいでて見れば眞白にぞ不二の高根に雪は降りける』をば、『田子の浦にうちいでて見れば白妙の不二の高根に雪は降りつつ』と改めたのも同樣であつて、結局、『眞白にぞ』といふ重い調子よりも、『白妙の』と輕く云つた方が好いと思へたのに相違なく、初句の、『ゆ』よりも、『に』の方が好きであつたに相違ない。それから結句の、『雪は降りける』よりも、『雪は降りつつ』の方が好きなのである。かくのごとくにして萬葉調といふものが漸々破壞されて行つたのであり、その徑路が分かつて大に興味あるのである。
 右の諸例について考察しても、一首の萬葉調になるために、用言、虚語即ち、動詞とか副詞とか助動詞とか天爾乎波などの具合がなかなか重要な役目をして居るといふことがわかる。それだから、明治の新派でも古語の名詞などをどしどし復活させた一派があつたが、それら一波の歌は萬葉調の歌にはなり得なかつた。之に反して、正岡子規一派のものは、名詞などは隨分新しいものを取入れてゐるが、動詞、助動詞、天爾乎波などの虚語の具合まで萬葉的であ(58)つたため、一首全體としての聲調が萬葉調となり得たのであつた。このへんのことも今は結論だけ云つて置くが、細かく分類して調べるとおもしろいとおもふ。
 ここに、『つつ』といふ助辭で止めた結句の歌で、萬葉、古今、新古今あたりでどうちがふかを一瞥しようとおもふ。元來、『つつ』止めの歌は、萬葉でも古いところには無く、漸々増してゐる。そして寧ろ萬葉的でない結句のやうにも思へるが、それでも、一首一首にして見ればそこに萬葉調、古今調、新古今調があるのだから、これは綜合的な聲調だといふことも分かるので、單に、結句だけによつて萬葉調の極まるものでないことも分かる。このへんの事實はなかなか微妙で且つ複雜である。歌の年代は土屋文明氏の萬葉葉年表に從ふ。
              ○
    つぬさはふ磐余《いはれ》も過ぎず泊瀬山《はつせやま》いつかも越えむ夜は更《ふ》けにつつ(萬葉【以下同じ】大寶元年)
    あかねさす日竝《ひなら》べなくに吾が戀は吉野《よしぬ》の河の霧に立ちつつ(養老七年)
    雨ごもり三笠の山を高みかも月の出でこぬ夜はくだちつつ(天平五年)
    わたつみの沖つ繩海苔《なはのり》くる時と妹が待つらむ月は經につつ(天平八年)
    山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくだちつつ(天平八年)
    ひとよりも妹ぞも惡しき戀もなくあらましものを思はしめつつ(天平十二年)
    松の花花かずにしも我背子が思へらなくにもとな咲きつつ(天平十八年)
    月まちて家には行かむ我が挿せる明ら橘かげに見えつつ(天平十九年)
(59)    春の野《ぬ》にあきる雉子の妻戀におのがあたりを人に知れつつ(天平年次未詳)
    ほととぎす鳴き渡りぬと告ぐれどもわれ聞きつがず花は過ぎつつ(天平勝寶二年)
    御苑生の竹の林にうぐひすはしば鳴きにしを雪は降りつつ(天平勝寶五年)
    をとめらが玉裳裾びくこの庭に秋風ふきて花は散りつつ(天平勝寶七年)
    かくのみし戀ひやわたらむたまきはる命もしらず歳を經につつ(年次未詳)
    やますげの亂れ戀のみ爲《せ》しめつつ逢はぬ妹かも年は經につつ(年次未詳)
    山のはにいさよふ月をいつとかも吾が持ちをらむ夜はふけにつつ(年次未詳)
    ぬばたまの吾が黒髪に降りなづむ天の露霜とれば消につつ(年次未詳)
    うちなびく春さりくればしかすがに天雲きらひ雪は降りつつ(年次未詳)
    大坂を吾が越えくれば二上《ふたかみ》にもみぢ葉ながる時雨ふりつつ(年次未詳)
    妹がりと馬に鞍おきて射駒山《いこまやま》うち越えくれば紅葉ちりつつ(年次未詳)
    こと降らば袖さへぬれてとほるべく降りなむ雪の空に消につつ(年次未詳)
    なかなかに君に戀ひずは比良の浦の白水郎《あま》ならましを玉藻《たまも》苅りつつ(年次未詳)
    山吹のにほへる妹が唐樣花色《はねずいろ》の赤裳のすがた夢《いめ》に見えつつ(年次未詳)
              ○
    春霞たてるやいづこみ吉野の吉野のやまに雪は降りつつ(古今【以下同じ】)
(60)    梅が枝に來ゐる鶯春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ
    君がため春の野にいでて若菜つむ我がころも手に雪は降りつつ
    山ざくら我が見にくれば春霞峯にも丘にも立ち隱しつつ
    山里は秋こそ殊にわびしけれ鹿の鳴く音に目を覺ましつつ
    やどりせし人の形見か藤ばかま忘られがたき香に匂ひつつ
    風ふけば落つるもみち葉水清み散らぬ影さへ底に見えつつ
    戀ひ死ねとするわざならしうばたまの夜はすがらに夢に見えつつ
    つくば嶺の木の下ごとに立ちぞ寄る春のみ山の陰を戀ひつつ
              ○
    やまふかみ猶かげさむし春の月そらかきくもり雪は降りつつ(新古今【以下同じ】)
    夏衣きていくかにかなりぬらむのこれる花は今日も散りつつ
    見るままに冬は來にけり鴨のゐる入江のみぎは薄こほりつつ
    戀ひしさに今日ぞたづぬる奥山のひかげの露に袖はぬれつつ
    うき人の月は何ぞのゆかりぞと思ひながらもうちながめつつ
    かよひこしやどの道芝かれがれに跡なき霜のむすぼほれつつ
    折りに來と思ひやすらむ花櫻ありしみゆきの春を戀ひつつ
(61)    あかつきの月みむとしも思はねど見し人ゆゑにながめられつつ
    秋くれど昔をのみぞしのぶ草葉ずゑのつゆに袖ぬらしつつ
    その山のちぎらぬ月も秋かぜもすすむるそでに露こぼれつつ
    憂きながらあればある世に故郷の夢をうつつにさましかねつつ
    世をいとふ心のふかくなるままに過ぐる月日をうち數へつつ
 これで見ても、結句だけを抽出して考へれば、それだけに萬葉調の特色があるのではない。そのほかの句單位の聲調の合成により、一首全體として萬葉調の特色を具備するときに、結句の『つつ』もその一要素となり得るのである。古今集、新古今集の『つつ』の場合も亦同樣である。ただ萬葉卷十四の歌には、『つつ』止めのものは一首もない。それから、文武天皇大寶元年以前の短歌には、やはり『つつ』止めの短歌が一首もない。これなどもやはり萬葉調といふものの根本調を考察するうへの一暗指となるとおもふのである。
 
      第二章 萬葉短歌聲詞の種々相
 
 萬葉調の短歌とは大體如何なるものであるか、そして、謂ゆる古今調・新古今調の歌調と如何なる差異があるかといふことを前章に述べたのである。併し一口に萬葉調の短歌といふけれども、それにもいろいろ種類があるのである。(62)時代に於てもちがふ。それから銘々の歌人の歌詞も幾らかづつちがふ。作歌の動機に於てもちがふ。請人不知の民謠風のものと對咏的な戀愛歌でもちがふ。高貴に奉つた歌、讃歌、唱和歌などでも幾分づつちがふといふ具合であるから、單純な公式のごときものを以て一言に律することが出來ない。また、音韻の分類等によつても、極くぼんやりした結論は附くが、一首全體の聲調はまだまだ複雜な要素を含んでゐるのであるから、單にさういふ分類だけでは解決はつかない。或は、分類をばもつと精細に、幾とほりにも幾とほりにも爲上げねばならぬ面倒が伴ふのであるから、現在はさういふものは結論を導く一つの參考として役立たせ、一首一首の聲調は、その全體から來る『感』によつて解決して行かうとおもふのである。この『感』による結論は、一定の修練が要るのだから、極めて主親的に見え、曖昧のやうに見えるが、實際はなかなか確かなものであつて、縱ひ分類法による客觀的標準に頼る場合があつても、終極にはこの『感』による解決を要求してゐるのである。
 そこで、以下大體の分類を行ふが、この分類は、『感』に本づく極めて大まかなる分類である。この大まかな大體の分類をして、萬葉集の短歌の全體を彷彿せしめ、萬葉短歌の聲調のいかなるものだかといふことを第一章の論より一歩進んで解明しようとおもふのである。そしてその解明は、常に、『感』によつて規定せられるのである。
 先づ、次に土屋文明氏の萬葉集年表に據り、萬葉集中の比較的年代の古いところの歌の一部を收録して見、その中から共通の聲調を感得し得られるだけ感得しようといふのである。
    たまきはる字智《うち》の大野《おほぬ》に馬|竝《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草深野《くさふかぬ》
    山越《やまこし》の風を時じみ寢《ね》る夜おちず家なる妹《いも》をかけて慕《しぬ》びつ
(63)    夕されば小倉《をぐら》の山に鳴く鹿は今夜《こよひ》は鳴かず寢《い》ねにけらしも
    還《かへ》りにし人を念ふとぬばたまの其の夜は吾も寐《い》も寢《ね》かねてき
    秋の野《ぬ》のみ草苅り葺《ふ》き宿れりし兎道《うぢ》の宮處《みやこ》の假廬《かりほ》し思ほゆ
    君が代も我が代も知れや磐代《いはしろ》の岡の草根《くさね》をいざ結びてな
    吾背子《わがせこ》は假廬《かりほ》作らす草《かや》なくば小松が下の草《かや》を苅らさね
    吾が欲《ほ》りし野島《ぬじま》は見せつ底ふかき阿胡根《あこね》の浦の珠ぞ拾《ひり》はぬ
    磐代《いはしろ》の濱松が枝《え》を引き結び眞幸《まさき》くあらば亦かへり見む
    家にあらば笥《ケ》に盛《も》る飯《いひ》を草枕旅にしあれば椎《しひ》の葉に盛《も》る
    妹がため吾《われ》玉拾ふ沖邊なる玉|寄《よ》せ持ち來沖つ白浪
    朝霧に沾《ぬ》れにし衣|干《ほ》さずしてひとりや君が山路越ゆらむ
    ※[就/火]田津《にぎたづ》に船乘《ふなの》りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜《こ》ぎ出でな
    渡津海の豐旗雲《とよはたぐも》に入日さし今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清明《あきらけ》くこそ
    三輪山をしかも隱すか雲だにも情《こころ》あらなむ隱さふべしや
    あかねさす紫野《むらさきぬ》行き標野《しめぬ》行き野守《ぬもり》は見ずや君が袖振る
    紫草《むらさき》のにほへる妹を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑに吾戀ひのやも
    天の原ふりさけみれば大王《おほきみ》のみいのちは長く天足《あまた》らしたり
(64)    秋山の樹の下がくり逝く水の吾《われ》こそ益さめ御念《みおもひ》よりは
    吾《われ》はもや安見兒《やすみこ》得たり皆人《みなひと》の得がてにすとふ安見見得たり
    君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋の風吹く
    河上《かはかみ》の五百箇磐群《ゆついはむら》に草|生《む》さず常《つね》にもがもな常處女《とこをとめ》にて
    うつせみの命を惜しみ波にぬれいらごの島の玉藻苅り食《を》す
    燃ゆる火も取りて裹《つつ》みて袋には入ると言はずやも知るといはなくも
    北山にたなびく雲の青雲の星|離《さか》りゆき月も離《さか》りて
    わが背子《せこ》を大和へ遣《や》るとさ夜《よ》更《ふ》けて曉露《あかときつゆ》に吾が立ち霑《ぬ》れし
    二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ
    百傳《ももづた》ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲|隱《がく》りなむ
 右のごときものをば大づかみに一群のものとして分類した。そして一讀して見るに、皆盡く所謂萬葉調の特色を具備してゐるものばかりである。それのみでない。これらのものは萬葉短歌聲調の最も基本的な純粹なものではなからうかとさへ思はしめるもののみである。これは一には、卷一卷二あたりに採録されたものが多く、從つて、吟味して選拔された歌であるから、聲調が整つてゐる點に本づくためもあらうけれど、大體に於て、萬葉調といふものの代表的なものとして差支ないもののみである。そしてここに收録した二十八首ばかりのものでも、一首一首變化があつて決して一樣ではない。それだから、これらの一首一首について、骨折つて味ふなら、その一首一首の聲調についての(65)特徴を感知することが出來るのである。そしてその方法が一番有益で且つ確かである。併し、右の二十八首について纏めてその特徴の大體をいふことも出來る。即ち、一首を構成する句單位、即ち聲調の單位が、皆整つてゐて、細かに亂れることがない。助辭などの次の句單位へまたがることもなく、句割れなどのことがない。短歌形態を構成する五つの句單位が整然として居る。第二に、それだから意味が分かりよい。時代が古いからもつと難解かとおもふと、却つて時代の下つた一部の歌などよりも解し易い。第三に、聲調が一般に延びて、屈折があつても一首の聲調に統一があり、ひびきが順當に一首を貫いてゐる。一首の聲調は豐かで太くて潤ひがある。第四に、一般に單純化されて居る。從つて高古素朴にひびく。賀茂眞淵が彼の歌論で強調したのはその點で、萬葉の歌は、まうけて咏まずといひ、眞心だといひ、ひたぶるだといひ、ひとつ心だといつたのなどは盡くここにあげた歌などからの歸納結論なのである。語氣が洗煉れてゐて、古雅であつて卑くない。古代にあつてどうしてかういふ語氣をもつてゐたかと感歎せしめるものばかりである。萬葉集でも全體が決してかうではない。これは後にも出てくるが、もつとこせこせし、乾いた聲調の歌が萬葉集にも幾らもあるのである。第五に、聲調の意味の要素(表象的要素)について見ても、實に驚歎すべきもののみである。『朝踏ますらむその草ふかぬ』といひ、『秋の野のみ草苅り葺き宿れりし』といひ、『小松が下の草《かや》を苅らさね』といひ、『あかねさす紫野ゆき』といひ、『豐旗雲に入り日さし』といひ、『常にもがもな常處女にて』といひ、『山越の風を時じみ』といひ、『うつせみの命ををしみ』といひ、人間詩の發現の極致を示してゐるものばかりである。若し作歌の手本を萬葉調の歌に求めるなら、黽勉してこの境地にたどり著くことを心がけねばならぬ。世人はよく新古今時代は本邦和歌史中の技巧の最も發達した時だと論ずるが、若し具眼の士が、詩歌のみならず、他の藝術の(66)分野にも目ざめて、大觀して批判をくだすときに、萬葉集のこれらの古調の方がどのくらゐ優位に位置を占めてゐるかが分からねばならぬのである。『たまきはる字智の大野に馬なめて』『わたつみの豐旗雲に入り日さし』のごときに至れば、その全體をつつむ氣品に於てすでに新古今集の歌などとは遠い遠い距離があつてもはやいかんともすることが出來ないのである。よつて、『妹がため吾玉拾ふ』のごとき比較的平凡なものでも、萬葉調の基本歌の一つとして愛惜せねばならぬとおもふのである。
 次に、藤原宮持統天皇三年以後から見える柿本人麿の作幾つかについて考察したいとおもふのであるが、個人的に見て、人麿は群を拔いた歌人であり、その聲調にも人麿一流のものがあつて、萬葉調の歌の一部を一人で優に占めて居るのである。
    さざなみのしがの辛崎《からきき》さきくあれど大宮人《おほみやびと》の船まちかねつ
    見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河のとこなめの絶ゆることなくまたかへりみむ
    嗚呼兒《あご》の浦に船乘すらむをとめらが玉裳のすそに潮みつらむか
    ひむがしの野《ぬ》にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
    小竹《ささ》の葉《は》はみ山もさやに亂《さや》げども吾は妹おもふ別れ來ぬれば
    おほきみは神にしませば天雲《あまぐも》のいかづちの上《うへ》に廬《いほり》せるかも
    御津《みつ》の崎浪をかしこみ隱江《こもりえ》の船よせかねつ野島《ぬしま》の崎に
    珠藻《たまも》かる敏馬《みねめ》を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ
(67)    淡路の野島《ぬしま》の崎の濱風に妹が結べる紐《ひも》吹きかへす
    荒栲《あらたへ》の藤江の浦に鱸《すずき》釣る海人《あま》とか見らむ旅ゆく吾を
    稻日野《いなびぬ》もゆき過ぎがてに思へれば心《こころ》戀《こ》ほしき可古《かこ》の島見ゆ
    ともしびの明石大門《あかしおほと》に入らむ日や漕ぎわかれなむ家のあたり見ず
    天離《あまざか》るひなの長道《ながぢ》ゆ戀ひ來れば明石の門《と》より大和島《やまとしま》みゆ
    飼飯《けひ》のうみのにはよくあらし苅薦の亂れ出づ見ゆ海人《あま》のつり船
    もののふの八十氏河《やそうぢがは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ浪のゆくへ知らずも
    淡海《あふみ》の海ゆふ浪千鳥|汝《な》が鳴けばこころもしぬに古《いにしへ》おもほゆ
    敷妙の袖かへし君たまだれの越野《をちぬ》に過ぎぬ亦もあはめやも
 これらの歌を見るに、前にあげた古調の歌と相通ずる聲調もあるが、人麿の方がもつと大きい波動を感ぜしめる。それから前の歌は豐かで圓味を帶びてゐるが、人麿の歌にはもつと鋭い峻嚴なところがある。人麿は好んで枕詞を用ゐ、長歌は無論だが、短歌でも、『あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隱らく惜しも』といふ具合に一首に二つも枕詞を用ゐてゐる。かういふ用法は萬葉の他の短歌にも見あたるが、やはり人麿の歌調の一つの特色をなしてゐる。人麿は動詞形容詞などと共に、助動詞、天爾乎波を旨い具合に使つて、彼一流の聲調を爲遂げてゐる。同じ結句でも、『みかり立たしし時は來むかふ』と据ゑるのもあれば、『王裳の裾に潮みつらむか』と据ゑるのもある。『いさよふ浪の行くへしらずも』と据ゑ、『明石の門より大和島みゆ』と据ゑ、『野島の崎に舟ちかづきぬ』と据ゑ、『漕(68)ぎわかれなむ家のあたり見ず』と据ゑ、『妹がむすべる紐吹きかへす』と据ゑ、『古の人ぞまさりて哭《ね》にさへ泣きし』と据ゑ、その力量によつて千變萬化であるが、人麿と明らかに署名されてあるものは盡く秀でたものばかりであり、人麿歌集といふものの中にも必ず幾つかの人麿の作があるのであらうから、數から云つても萬葉集中の大歌人であつたことが分かる。そこで、萬葉調といふ一群の歌を論ずる場合には人麿の歌はその一方の代表作として役立つのである。特に人麿の歌は寧ろ「音樂的」とも謂ふことが出來るから、短歌の聲調を主として論ずる場合には、人麿の歌は重要な役割を爲し得るのである。人麿は形式を重んじ、又ある事柄に際しての實用的な作歌があるので、人麿の歌には中味が不足してゐるやうに論ずる向きもあるが、人麿の歌の聲調の奧にこもる沈痛のひびきを聽漏らしてはならぬのである。人麿の歌は、どういふ動機で作つた場合にせよ、抒情詩本來の無くてならぬものを遁してはゐない。即ち意味の點で不足してゐても、音韻の大切な點に於て適してはゐないのである。例へば、『いかづちのうへにいほりせるかも』の如き、意味の上からいへば誇張に過ぎて稍反感を持たせる時もあるが、そのひびきに於て、世の小氣の利いた論者などを壓倒せずば止まないほどのものを持つてゐる。さういふ風であるから聲調の威勢よきに壓せられて、人麿の歌調は餘り達者すぎるなどといふものもあるかも知れぬとおもふが、これなども、人麿の歌の聲調について吟味に吟味を重ねるならば、實にこまかいところに滋味の滲透があつて、人麿の歌が決して空虚な達者に終つてゐないことが分かる。特に、長歌には幾分さういふ點があるかも知れんが、短歌に於ては寧ろ力量を愛惜し、ひそめて使つてゐる傾きがあつて大にいいのである。古來人麿は歌聖として仰がれ、歌神として奉讃せられたが、どういふところに根據があつたのか、『ほのぼのと明石の浦の』あたりを目標としての結論だとすると、人麿の評價といふものは幾たび(69)も繰返して吟味せられねばならぬ性質のものではあるまいか。
    人言《ひとごと》をしげみこちたみおのが世にいまだ渡らぬ朝川《あさかは》わたる
    けさの朝け雁がね聞きつ春日山《かすがやま》もみぢにけらし吾がこころ痛し
    わが育子はいづく行くらむ奧つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
    大海《おほうみ》に島もあらなくに海原《うなばら》のたゆたふ浪に立てる白雲
    春すぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
    【女+采】女《うねめ》の袖ふきかへす明日香風《あすかかぜ》みやこを遠みいたづらに吹く
    大船の泊つる泊《とまり》のたゆたひに物念《ものも》ひやせぬ人の兒ゆゑに
    今更に何をかおもはむうち靡きこころは君に縁りにしものを
    河風の寒き長谷《はつせ》を歎きつつ君が歩くに似る人も逢へや
    大宮の内まできこゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼びごゑ
    瀧の上の三船の山にある雲の常にあらむとわが思はなくに
    ほととぎす無かる國にも行きてしかその鳴く聲を聞けば苦しも
    さ夜中と夜はふけぬらし雁がねの聞ゆる空に月渡る見ゆ
    ぬばたまの夜霧は立ちぬころもでの高屋《たかや》のうへに棚引くまでに
    大和には鳴きてか來らむ呼子鳥|象《きさ》の中山呼びぞ越ゆなる
(70)    巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思ふな巨勢の春野を
    あさもよし紀入ともしも亦打山《まつちやま》行き來と見らむ紀人ともしも
    苦しくも降りくる雨か神《みわ》の埼《さき》狹野《さぬ》のわたりに家もあらなくに
    つぬさはふ磐余《いはれ》も過ぎず泊瀬山《はつせやま》いつかも越えむ夜は更《ふ》けにつつ
    引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》いりみだり衣《ころも》にほはせ旅のしるしに
    何所にか船泊すらむ安禮《あれ》の埼こぎたみ行きし棚無《たなな》し小舟《をぶね》
    ながらふる妻ふく風の寒き夜に吾が背の君はひとりか寢らむ
    旅にして物こほしきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に榜《こ》ぐ見ゆ
    櫻田へ鶴《たづ》なきわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし鶴なきわたる
    吾が船は比良の湊に榜ぎはてむ沖へな放《さか》りさ夜ふけにけり
    此處にして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり
    葦べゆく鴨の羽交に霜ふりて寒きゆふべは大和しおもほゆ
    秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿《か》鳴かむ山ぞ高野原《たかぬはら》のうへ
    相坂をうち出《で》て見れば淡海《あふみ》の海《み》しらゆふ花に浪たちわたる
    むささびは木末《こねれ》もとむとあしひきの山の獵夫《さつを》にあひにけるかも
    いはばしる垂水《たるみ》の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも
(71)    年のはに斯くも見てしかみ吉野の清き河内《かふち》のたぎつ白波
 これ等は、柿本人麿とほほ同時代に作られた歌である。その作者は、持統天皇、高市黒人、弓削皇子、舍人皇子、志貴皇子、長意吉麿、春日老、石上麿、その他である。この時代の歌も皆相當に優れたものであり、人麿の歌詞などとも相出入して區別の出來ないのが幾つかある。志貴皇子の御作、それから高市黒人の諸作など、皆萬葉集中での注目に値する歌である。
 かうして竝べるときには、年次的差別のごときもさう截然とは分からない。また個人的聲調の差別等もさうはつきりとしてゐない。つまり大體に於てこの時代の含む萬葉聲調の歌といふことになるのである。人麿の歌も、この時代のその他の歌も卷一に選ばれてゐるのだから、さう特別に變化する筈はないのである。この中にあるもので却つて古調にひびくのもあり、もつと前の年次のもので稍後世調にひびくのもある。さういふ點になればその評價は稍主觀的になるのであるけれども、説明はそれよりほかに途はない。即ち前にもいつたごとく大體の『感』で行くのである。それでも新しくあらはれてくる歌人のものにおのづからなる歌調の變化が見えてきてゐる。
 山上憶良の歌はこのごろから見えてゐるがこれは一纏めにして後に一言する筈である。奈良朝になつて、聖武天皇の神龜年間になると、大伴旅人があり、山部赤人があり、笠金村があり、大伴坂上郎女があり、高橋蟲麿があり、歌の聲調も幾らかづつ變化して來てゐる。それは實例についていふのが一番確かだからして、實例を書いてその一首一首の聲調について吟味してもらふことにせねばならぬ。
(72) 山上憶良の歌調は、個人的聲調を論ずる場合にはその資料になり得るものであるから、次にその特色のあるものを録しようとおもふ。これと人麿の歌調などと比較すればなかなか興味あるものである。
    翅《つばさ》なす有り通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
    憶良等《おくらら》は今は罷《まか》らむ子泣くらむその彼《か》の母も吾《あ》を待つらむぞ
    家にゆきていかにか吾がせむ枕《まくら》づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも
    ひさかたの天路《あまぢ》は遠しなほなほに家にかへりて業《なり》を爲《し》まさに
    しろがねも黄金も玉もなにせむにまされる寶《たから》子に及《し》かめやも
    天飛《あまと》ぶや鳥にもがもや京《みやこ》まで送り申《まを》して飛びかへるもの
    言ひつつも後《のち》こそ知らの須臾《しましく》も不樂《さぶし》けめやも君いまさずして
    吾《あ》が主《ぬし》の御靈《みたま》たまひて春さらば奈良のみやこに召上《めさ》げたまはね
    常知らぬ道の長路《ながて》をくれぐれといかにか行かむ糧米《かりて》はなしに
    世の中を厭《う》しと恥《やさ》しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
    富人《とみびと》の家の子どもの着る身なみ腐《くた》しすつらむ絹《きぬ》綿《わた》らはも
    慰むる心はなしに雲隱《くもがく》れなきゆく鳥の音《ね》のみし泣かゆ
    稚《わか》ければ道《みち》行き知らじ幣《まひ》はせむ黄泉《したべ》の使《つかひ》負《お》ひて通らせ
    布施《ふせ》おきて吾は乞祈《こひの》むあざむかず直《ただ》に率去《ゐゆ》きて天路《あまぢ》知らしめ
(73)    礫《たぶて》にも投げ越《こ》しつべき天の河へだてればかもあまた術《すべ》なき
    天の河いと河波は立たねども侍《さむら》ひがたし近きこの瀬を
 かう竝べて見ると、憶良の歌調は、人麿のものなどに較べて、流動の氣に乏しく、且つ何となく堅いところがある。甘滑に失してしまはないが、何か感動の流露に乏しいところがある。語氣に滋味が乏しく、あはれが尠い。憶良には、『大野山《おほぬやま》霧たちわたるわがなげく息嘯《おきそ》の風に霧たちわたる』のごとき歌調のものもあり、また卷一に收録せられた、『いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の濱松まち戀ひぬらむ』の歌調のごときもあるが、それでも何處かに滲みいでてくるものが少いやうな氣がしてならないのである。併し一面からいへば、この素朴で、素氣ないやうな語氣がやがて憶良の歌調の特色をなすものであるから、これがやがて萬葉調といふ一群の歌の有する聲調の一特色をなすに至るのである。『腐《くた》しすつらむ絹《きぬ》綿《わた》らはも』といつたやうなものは、吃々といつて居るやうで、やはり眞率の氣が何處からかしみいでてくるやうにおもふ。『直に率去きて天路しらしめ』あたりでもさうである。それだから、萬葉調の歌と一口にいふが、その中には山上憶良の歌の有つごとき聲調をも含んでをるのである。
         ○          山部赤人
    み吉野の象山《きさやま》のまの木末《こねれ》にはここだも騷ぐ鳥のこゑかも
    ぬばたまの夜のふけゆけば久木《ひさき》おふる清き河原に千鳥しば鳴く
    印南野《いなみぬ》の淺茅おしなべさ寢《ぬ》る夜の日《け》長くあれば家ししぬばゆ
    武庫の浦を榜《こ》ぎたむ小舟|粟島《あはしま》を背向《そがひ》に見つつともしき小舟
(74)    阿倍の島鵜の住む磯に寄る浪の間なくこのごろ大和しおもほゆ
    われも見つ人にも告げむかつしかの眞間の手兒名《てこな》が奧津城《おくつき》どころ
    わかの浦に潮みちくれば潟《かた》をなみ葦邊《あしべ》をさして鶴《たづ》なきわたる
    あしひきの山谷こえて野づかさに今は鳴くらむ鶯のこゑ
    春の野に董つみにと來しわれぞ野をなつかしみ一夜《ひとよ》ねにける
    田兒の浦ゆうち出でて見れば眞白《ましろ》にぞ不盡の高根に雪はふりける
    明日香がは川淀《かはよど》きらず立つ霧のおもひ過ぐべき戀にあらなくに
         ○          大伴旅人
    盆《しるし》なきものを思はずは一坏《ひとつき》の濁れる酒を飲むべく有《あ》らし
    いにしへの七《なな》の賢《さか》しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし
    生けるもの遂にも死ぬるものにあれば現世《このよ》なるまは樂《たぬ》しくをあらな
    世の中は空しきものと知るときしいよよますます悲しかりけり
    わが園に梅の花ちるひさかたの天《あめ》より雪のながれくるかも
    妹《いも》と來し敏馬《みぬめ》の崎をかへるさにひとりし見れば涙ぐましも
    むかし見し象《きさ》の小河をいま見ればいよよさやけくなりにけるかも
    ますらをと思へる吾や水莖の水城《みづき》のうへに涙のごはむ
(75)    あわ雪のほどろほどろに降りしけば平城《なら》の京《みやこ》しおもほゆるかも
    吾が盛りまた變《お》ちめやもほとほとに寧樂《なら》のみやこを見ずかなりなむ
    吾が命もつねにあらぬか昔みし象《きさ》の小河を行きて見むため
 この二人のものを竝べて見るときに、前の歌などとは幾らかちがつて來て居る。大體二人の歌ともに分かりよくなつて居り、山部赤人の歌は概しておとなしい歌である。『さつやたばさみみだりたり見ゆ』と云つたり、『あしべをさして鶴なきわたる』と云つても、人麿の歌などに較べて沈痛のひびきがなく、何となく平淡である。そして人麿の聲調の混沌の氣のあるのに比して清明なところがある。人麿の歌の聲調の重く淀むのに比して、赤人の歌の聲は輕く分かりよくなつてゐる。山部赤人は柿本人麿と二歌聖として古來竝稱せられ、特に赤人は短歌の方の名人として云ひはやされたものであるが、赤人の歌調の平淡明快な點は、やがて萬葉聲調の純粹境から離れかかつてゐると考察すべきではあるまいか。即ち赤人の歌の平淡で分かりよいのは一面は時代推移の結果だともいへるのである。もつと時代が降つた歌に、東歌に類したやうな面倒なのがあり、家持の歌にもさういふのがあるけれども、それは全體から見れば破格で、やはり全體としては分かりよくなつて來てゐるのである。そして、句單位と句單位との連續の爲方に推移があるのではなからうかともおもへるが、これはいづれ客觀的に證據だてたいと思つてゐる。
 大伴旅人の歌でも、此處にはやはり期せずして分かりよい歌を拔いたが、旅人は太い線で一氣によみくだす聲調の歌を好んだやうにもおもへる。そしていろいろの聲調の歌を作つてゐても、奧底から傳はつてくる細かいひびきに乏しい。これなども人麿、或はその以前の歌調とちがふ點である。古調のは圓味を帶びてゐて細かい放射がある。旅人(76)のものなどになるとやや鋭角なところがあるやうでゐて、細かな顫ひが足りない。これなどもやはり時代の推移による自然的變化のやうにおもへる。赤人も旅人も相當の歌人であるが、もつと前の歌の古調には及ばないやうにおもへる。それから、これは憶良の歌もさうだが、主觀が思想的になつてゐる。これは赤人のものにはない。この思想的抒情詩の傾向は一面からいへば一進歩で、憶良も旅人も尋常一樣の歌人でなかつたことを表明する點であるが、思想を抒情詩として咏みあげることは非常にむづかしいものであり、ややともすれば概念の索寞にをはるものである。憶良のも旅人のも或る程度まで作者の息吹をふきかけて活かしてゐるが、短歌の根本からゆけばやはり卷一あたりの古調には及ばないのである。憶良の歌には袁韻が足らず、旅人の歌に哀調があつても、やはり古歌調とは差別がある。一口に萬葉調といふけれども決して簡單ではない。
 ついで天平五年以後大伴家持の歌が見える。これより先き天平三年に旅人が歿し、この年天平五年に憶良が歿し、赤人、金村なども存命してゐたが、今年天平五年以後金村の記事は絶えてゐる。このあたりから、大伴坂上郎女、田邊福麿、光明皇后、橘諸兄、市原王、湯原王、藤原八束、藤原宇合などの作が見え、山部赤人は天平八年以後記事絶えてゐる。
 これから以後の歌人では先づ大伴家持をあげずばなるまい。家持はそれほどの力量のある歌人であつた。家持には澤山の作歌があり、玉石混合で、また歌嗣などもまちまちだが、これから以後の萬葉歌壇は、女流歌人などをも交へ、家持を中心として活動されたやうにおもへる。このあたりの歌を一讀して行き、少し注意すべき歌調に接して誰の作かとおもへば家持の作である場合がなかなか多い。そこで今次に家持の歌若干を拔いて見るが、これは家持の歌のい(77)い方面のものを拔いて見ようとおもふのである。惡いのは棄ててもかまはぬのである。
         ○          大伴家持
    あしひきの山さへ光りさく花の散りぬるごとき吾おほきみかも
    ひさかたの雨のふる日をただ一人山邊にをればいぶせかりけり
    ふりさけて三日月みればひと目見し人の眉引《まよびき》おもほゆるかも
    ひさかたの雨間《あまま》も置かず雲がくり鳴きぞゆくなる早田《わさだ》かりがね
    雨ごもり情《こころ》いぶせみ出でみれば春日の山は色づきにけり
    この見ゆる雲ほびこりてとのぐもり雨も降らぬか心|足《だ》らひに
    春の苑《その》くれなゐにほふ桃のはな下照《したて》る道に出で立つをとめ
    珠洲《すす》の海に朝びらきして漕ぎくれば長濱の灣《うら》に月照りにけり
    あしひきの八峰《やつを》の雉《きぎし》鳴きとよむ朝明《あさけ》の霞見ればかなしも
    朝床に聞けばはるけし射水河《いみづがは》朝漕ぎしつつうたふ船人
    澁溪《しぶたに》を指して吾がゆくこの濱に月夜《つくよ》飽きてむ馬しまし止《と》め
    春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげに鶯なくも
    わが宿のいささ群竹《むらたけ》ふく風の音のかそけきこの夕《ゆふべ》かも
    うらうらに照れる春日《はるぴ》に雲雀あがり情《こころ》かなしも獨りしおもへば
(78)    見わたせば向《むか》つ峰《を》の上《へ》の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻
    雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく
    剱刀いよよ研ぐべし古《いにしへ》ゆ清《さや》けく負ひて未にしその名ぞ
    うつせみは數なき身なり山河の清《さや》けき見つつ道を尋ねな
 右の如き歌を家持の歌として拔いた。家持の歌調はいろいろ複雜で一樣ではない。併しおのづから時代のおもかげを否定することが出來ない。家持の歌の聲調には前のものに比して一種の細みが加はつてゐるやうにおもはれるし、同じ哀情でも漢詩などと共通のものがあるだらう。風流も以前に比して増加してゐるし、名詞どめなども、何となく古今集への移行型をおもはしめるやうなものがある。また同じ寫生でも、美的な寫生の爲方をしてゐる。『花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻』といひ、『下照る道に出で立つをとめ』といふあたりは即ちそれである。天平八年十二月の廣成の家の宴の歌の序に、『風流意氣之士儻有此集之中爭發念心々和古體』といつて、『わが屋戸《やど》の梅咲きたりと告げやらば來《こ》ちふに似たり散りぬともよし』『春さらばををりにををり鶯の鳴くわが山齋《しま》ぞ止まず通はせ』の二つの歌が書いてある。つまりこの時代の人々から見れば、この二つの歌調のごときが既に、『古體』であつたことが分かる。また、當時にあつて作歌しようとするには相應の稽古を要し、古歌集とか人麿歌集とか類聚歌林のやうな種類のものに據つて先進の歌調を學んだものに相違ない。それでゐて全體としての聲調におのづからなる變化を認めることが出來るのである。それゆゑ、萬葉調と一口にいふけれども、家持の歌の聲調のごときも亦一部の代表作として講究せねばならぬのである。
(79) 以上を以て年次的に大體の歌調のことをいつた。然るに萬葉集には以上のごときもののほかに、卷十四所收の東歌《あづまうた》のごとき聲調のものがある。これは一種特別のものであつて、地方の俗語を咏み込み、それで調子をとつてゐるほかに、一首としてみれば、ある特有の音樂的要素を發揮してゐるものである。これは主として結句によつて決定せられてゐるのが多く、人麿の歌の聲調のごとくのびのびとしたものでなく、もつと小きざみに行つてゐて毫も厭味にひびかない、不思議な聲調を有つ歌である。東歌の時代については議論があるやうだが、これは思つたよりも古くないもののやうにおもへる。そして、卷一にある、『綜麻形《へそがた》の林の始《さき》のさ野榛《ぬはり》の衣《きぬ》に著《つ》くなす眼に著くわが背《せ》』は、どちらかといへば、東歌の聲調である。つまり撰者はかういふ聲調のものをも卷一中に收録したのである。今、東歌から次のごときものを手抄して聲調の一端をうかがはう。
    武藏野の小岫《をぐき》が雉《きぎし》立ち別れ往《い》にし宵より夫ろに逢はなふよ
    馬來田《うまぐた》の嶺《ね》ろの篠葉《ささば》の露霜の濡れて吾《わ》來《き》なば汝《な》は戀ふばそも
    上毛野《かみつけぬ》安蘇《あそ》の眞麻屯《まそむら》掻き抱《むだ》き寢《ねぬれど飽かぬを何《あ》どか吾《あ》がせむ
    かみつけの乎度《をど》の多杼里《たどり》が川路にも兒《こ》らは逢はなも一人のみして
    伊香保ろに天雲《あまぐも》い繼《つ》ぎ鹿沼《かぬま》づく人とおた延《ば》ふいざ寢《ね》しめ刀羅《とら》
    伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奧をな兼ねそまさかし善《よ》かば
    多胡《たこ》の嶺《ね》に寄鋼《よせづな》延《は》へて寄すれども豈《あに》來《く》やしづしそのかほよきに
    伊香保ろの夜左可《やさか》の堰塞《ゐで》に立つ虹《ぬじ》の顯《あらは》ろまでもさ寢をさ寢てば
(80)    上毛野|佐野田《さぬた》の苗の群苗《むらなへ》に事は定めつ今は如何《いか》にせも
    伊香保せよなかなかしけに思ひどろ隈《くま》越《こ》そしつと忘れ爲《せ》なふも
    上毛野佐野の舟橋《ふなはし》取り放《はな》し親は故《さ》くれど吾《わ》は放《さか》るがへ
    下毛野《しもつけぬ》みかもの山の小楢《こなら》如《の》す目細《まぐは》し兒ろは誰《た》が笥《けか持たむ
    下毛野|安蘇《あそ》の河原よ石|踏《ふ》まず空ゆと來《き》ぬよ汝《な》が心|告《の》れ
    志太《しだ》の浦を朝漕ぐ船は由《よし》無しに漕ぐらめかもよ由《よし》こさるらめ
    諾《うべ》兒汝《こな》は吾《わぬ》に戀ふなも立《た》と月《つく》の流《ぬが》なへ行けば戀《こふ》しかるなも
    遠しとふ故奈《こな》の白峰《しらね》に逢ほ時《しだ》も逢はのへ時《しだ》も汝《な》にこそよされ
    麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》に多《ふすさ》に績《う》まずとも明日《あす》來《き》せざめやいざせ小床《をどこ》に
    梓弓末に玉|纏《ま》き斯《か》く爲《す》すぞ宿《ね》なな成りにしおくを兼《か》ぬ兼《か》ぬ
    岡に寄せ我が刈る草《かや》の狹萎草《さねがや》のまこと柔《なごや》は寢《ね》ろとへなかも
    紫草《むらさき》は根をかも竟《を》ふる人の兒のうらがなしけを寢《ね》を竟《を》へなくに
    安波《あは》をろのをろ田に生《お》はる多波美蔓《たはみづら》引かばぬるぬる吾《あ》を言《こと》な絶え
    我が目妻《めづま》人は放《さ》くれど朝貌《あさがほ》の年さへこごと吾《あ》は放《さか》るがへ
    白雲の絶えにし妹を何《あぜ》爲《せ》ろと心に乘りて許多《ここば》悲しけ
    水久君野《みくくぬ》に鴨の匍《は》ほ如《の》す兒ろが上《うへ》に言《こと》おろ延《は》へて未《いま》だ宿《ね》なふも
(81) 『わが〔二字右○〕目妻《めづま》人はさくれ〔三字右○〕ど朝《あさ》がほの年さへ〔二字右○〕こごと吾はさかるがへ〔七字右○〕』のごとき音の按配は外國語の規則にあてはめた詩を讀むやうで一種の諧調音をおぼゆるが、萬菓集の撰當時にあつてすでにめづらしい音調のものであつたのであらう。
 東歌の音韻的關係は前言のごとくだが、なほ一首の聲調を構成する要素として、東歌獨特の看方が多い。『やさかの堰塞《ゐで》に立つ虹《ぬじ》の』といふ。『みかもの山の小楢《こなら》のす』といふ。『石ふまず空ゆと來ぬよ』といふ。『隈|越《こ》そしつと』といふ。『小岫が雉たちわかれ』といふ。『天雲いつぎ鹿沼づく』といふ。かういふ看方のものは隨所にある。かういふ覺官的のものは古事記の歌謠にもあるから、さうして見れば東歌の一部はまた存外古いもののやうにもおもへるが、三十一音律ですべて統一されてゐるところを見ると、意識して、約束に順つてゐるのだから、さう古い時代として考へなくともいいやうにもおもへるのである。いづれにしても一種獨特の聲調で、萬葉調の歌全般から見れば、前言した古調の歌、人麿、赤人、憶良、旅人、家持らの歌調と相對峙して考察せねばならぬ大切な一部門に屬するものである。
    吾《われ》のみし聞けば不怜《さぶ》しもほととぎす丹生《にふ》の山邊にい行き鳴かなも
    ほととぎす夜喧《よなき》をしつつ我が兄子《せこ》を安宿《やすい》な寢《ね》しめゆめ情《こころ》あれ
    叔羅河《しくらがは》瀬を尋ねつつ我が兄子《せこ》は鵜河立たさね情《こころ》なぐさに
    鵜河立ち取らさむ鮎の其《し》が鰭《はた》は吾に掻《か》き向け念《おも》ひし念《も》はば
    卯の花を腐《くた》す霖雨《ながめ》の水始《みづはな》に縁《よ》る木糞《こづみ》如《な》す縁《よ》らむ兒もがも
    鮪《しび》衝《つ》くと海人《あま》の燭《とも》せる漁火《いさりび》のほにか出ださむ吾が下念《したもひ》を
(82)    鳴く鷄《とり》は彌頻《いやし》き鳴けど降る雪の千重に積めこそ吾《われ》立ちがてね
 右の如き歌調の歌もまた萬葉調といふものの一種であるが、これらは萬葉集卷十九にあるもので、大伴家持の作及びその他である。家持はかういふ歌調の歌をも作つてゐるのであるが、これらの歌を吟味すれば、歌調がいかにも小きざみで、一種妙な節奏を有つてをり、方言俗語のごときものをも入れてあるあたりは、東歌《あづまうた》の歌調に似たものがある。なほかくのごときものは卷十八にもあつて、『針袋取りあげ前に置きかへさへばおのともおのや裏もつぎたり』『竪樣《たたさ》にも彼にも横樣《よこさ》も奴とぞ吾《あれ》はありける主の戸の外に』『我が兄子《せこ》が琴取るなべに常人の云ふ歎《なげき》しもいや重《し》き益《ま》すも』などのごとくである。それから、地名の固有名詞の入つてゐるのも亦東歌に類似してをり、却つて時代の古い萬葉集卷一あたりの歌よりも難解面倒なもののみである。家持は、調の延びた、分かりよい歌をも作つてゐるが、その間にかういふ歌をも作つてゐる。これは赴任してゐた越中あたりの方言、越中人あたりの語氣を眞似て、著意してかういふ歌調の歌を作つたのであつたのかも知れない。その想像が當らぬにしても、實際上、家持の時代にかういふ歌調の短歌のあつたことに注意せねばならぬのである。
 その内容に於て、その語氣に於て東歌の方が古風であるに相違ないが、歌調に於て分類するとせば、大體に於て略一樣の聲調と看做してかまはないだらう。それから萬葉集卷十六中の一部、それから卷二十の防人の歌の一部なども同一樣の聲調の歌として考察することが出來る。また、それらの中に交つてゐる家持の歌、例へば、『秋といへば心ぞ痛きうたて異《け》に花に比《なそ》へて見まく欲りかも』なども同樣に考へることが出來る。
    吾妹子《わぎめこ》と二人我が見しうち寄《え》する駿河の嶺《ね》らは戀《くふ》しくめあるか
(83)    立鴨《たちこも》の發ちの騷ぎに相見てし妹が心は忘れ爲《せ》ぬかも
    大君の命《みこと》かしこみ出でくれば我ぬ取り著《つ》きて言ひし子なはも
    筑紫方《つくしべ》に舳向《へむか》る船の何時《いつ》しかも仕へ奉りて本郷《くに》に舳向《へむ》かも
    筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ妹ぞ晝もかなしけ
    月日《つくひ》やは過ぐは往けども母父《あもしし》が玉の姿は忘れ爲《せ》なふも
    吾が門《かづ》の五株《いつもと》柳いつもいつも母《おも》が戀ひすす業《なり》ましつしも
    我が夫《せな》を筑紫へ遣りて愛《うつく》しみ帶は解かななあやにかも寢も
 かういふ種類のものである。東歌を中心とするこの一群の歌調は、なかなか複雜した聲調であり、特に意味も面倒であるから、古來萬葉調を模倣した歌人等も、かういふ聲調までは手が延びなかつた。ただ本居宣長の古調の歌に數首あり、明治になつてから、長塚節が東歌の聲調を研究して、幾らかその聲調を取入れたに過ぎなかつた。なぜ模倣がさう困難かといふに、その方言口語とその語氣とが、日本語として考へられないやうに響くために、おなじやうな調子に歌ひ直すことが困難なためである。例へば、『かなしけ妹ぞ晝もかなしけ』をば、『かなしき妹ぞ晝もかなしき』と直せば、既に原作の聲調が破壞せられてしまふやうな微妙の點が存じてあるからである。併し、この東歌の聲調といふものは萬葉調の一部として、未來に實際作歌上にも應用せらるべき可性能あることは論を須たない。
 それから、萬葉集卷十六には、諧謔的に歌つた歌が幾つかあつて、歌調がおのづから別樣の趣をなしてゐる。またいろいろの品物等を咏み込んだのがあつて、時代からゆけば人麿あたりとも相交渉したのがある。短歌の聲調として(84)は不自然なものだが、事實はかういふものをも萬葉集は含んで居るのである。
    家にありし櫃《ひつ》に※[金+巣]《ざう》刺《さ》し藏《をさ》めてし戀の奴《やつこ》のつかみかかりて
    美麓物《うましもの》いづく飽かじを尺度《さかど》らが角《つぬ》のふくれにしぐひあひにけむ
    勝間田《かつまだ》の池は我《われ》知る蓮《はちす》なし然《しか》いふ君が髭《ひけ》なきごとし
    吾妹子が額《ぬか》に生ひたる雙六《すぐろく》の牡牛《ことひのうし》のくらの上の瘡《かさ》
    吾背子が犢鼻《たふさき》にする圓石《つぶれいし》の吉野の山に氷魚《ひを》ぞ懸有《さが》れる
    寺寺の女餓鬼《めがき》申さく大神《おほみわ》の男餓鬼《をがき》たばりて其の子うまはむ
    佛《ほとけ》造る眞朱《まそほ》足らずは水|渟《たま》る池田の朝臣《あそ》が鼻の上を穿《ほ》れ
    小兒《わらは》ども草はな苅りそ八穂蓼《やほたで》を穗積の朝臣《あそ》が腋《わき》くさを刈れ
    何所《いづく》ぞ眞朱《まそほ》穿《ほ》る岳《をか》薦疊《こもだたみ》平群《へぐり》の朝臣《あそ》が鼻の上を穿《ほ》れ
    法師らが鬚の剃杭《そりぐひ》馬|繋《つな》ぎいたくな引きそ僧《ほふし》なからかむ
    檀越《だむをち》然《しか》もな言ひそ里長《さとをさ》が課役《えつき》はたらば汝《なれ》もなからかむ
    食薦《すごも》敷き蔓菁《あをな》※[者/火]《に》持ち來《こ》梁《うつばり》に行〓《むかばき》懸けて息《やす》むこの公《きみ》
    一二《いちに》の目のみにあらず五六三《ごろくさむ》四《し》さへありけり雙六《すぐろく》の釆《さえ》
    枳《からたち》の棘原《うまら》苅り除《のぞ》け倉立てむ屎《くそ》遠くまれ櫛造る刀自《とじ》
 かういふ聲調の歌である。かういふこてこてと壓搾したやうな聲調の歌は、一つの變化であり、何か知ら象徴詩の(85)やうなところがあるけれども、畢竟、遊戯が主な動機をなしてゐるものであり、一首短歌としての微妙な聲調を構成することが出來ないやうである。總じて酒宴の座などに行はれる遊びは、ジヤズ音樂でも、拳《けん》の遊びでも、テムポの早いものを自然に要求するところがあると見えて、萬葉集に於て既にかういふ聲調のものが出來あがつてゐた。そしてかういふ事物を出來るだけつめ込むものは、古事記あたりの歌謠にも無いことは無いが、古事記の歌謠には、動詞や助辭などの按配によつて何ともいへぬ佳いひびきを持たせてゐるが、萬葉のこれらのものになると、何となく流動性に乏しく、感情が冷くなつて理智的に構成せられるやうになつてしまつてゐる。ただ、若し參考にするならば、『法師なからかむ』『汝《なれ》もなからかむ』『其の子生まはむ』あたりの聲調を參考すべきであらうか。『息むこの公《きみ》』あたりの調は、明治新派和歌の一部に働きかけたが、やはりどこかに輕薄なところがあつて具合がわるい。併しなかなか參考になるもののみである。
 それから萬葉調の歌には、繰返しによつて特有の聲調をなすものがある。これは古今集にもあり、新古今集にもあるが、むしろ萬葉調の一つとも看做すべきものの一つである。この繰返しは、第二句と第五句で繰返したのがあり、第二句と第四句で繰返したのがあり、第三句と第五句で繰返したのがあり、第二句と第三句で繰返したのがあり、第四句と結句で繰返したのがあり、小きざみに一首の中で數回繰返したのもある。この繰返しは一種の節奏をもたらすものであり、一首の聲調が流動性を帶びてくるが、それと共に同一の感情を強める効果をも豫想することが出來る。
    吾が背子はいづくゆくらむ奧つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
    あさもよし紀人ともしもまつち山行きくと見らむ紀人ともしも
(86)    吾はもや安見兒得たりみな人の得がてにすとふ安見兒得たり
    あしひきの山の雫に妹まつとわれ立ち沾れぬ山の雫に
    櫻田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし鶴なきわたる
    白管の眞野の榛原往くさ來《くさ君こそ見らめ眞野の榛原
    ひさかたの雨も降らぬか雨障《あまづつみ》君にたぐひてこの日くらさむ
    をとめらが珠匣《たまくしげ》なる玉櫛《たまぐし》の神さびけむも妹にあはずあれば
    天の河橋渡せらば其の上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
    吾妹子《わぎもこ》をいざみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも
    雄神河くれなゐにほふ少女《をとめ》らし葦附《あLつき》とると瀬に立たすらし
    君が行《ゆき》けながくなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
    玉かづら花のみ咲きて成らざるは誰が戀ならめ吾《あ》は戀ひ念《も》ふを
    北山につらなる雲の青雲の星さかりゆき月も離りて
    藤浪を假廬に造り湾廻《うらみ》する人とは知らに海人とか見らむ
    巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思ふな巨勢の春野を
    よき人のよしとよく見てよしといひし芳野よく見よよき人よく見つ
    ひむがしの瀧の御門《みかど》に侍らへど昨日も今日も召すこともなし
(87)    いなといへど強ふる志斐のが強語《しひがたり》このごろ聞かずて朕《われ》こひにけり
    いなといへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と言《の》る
    馬ないたく打ちな行きそね日竝べて見ても我が行く志賀にあらなくに
    憶良らは今は罷《まか》らむ子泣くらむその彼の母も吾を待つらむぞ
    來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとはまたじ來じといふものを
 この繰返しはなかなか古い時代からある一つの技法であつて、古今集以後になつてどちらかといへば衰へた傾向の技法である。古今調、新古今調といふものが、間が延びて、一首としてたるんでしまつた歌調に較べれば、かういふ繰返しの技法などは、一首をたるませないやうにする效果もある。それから、『山の雫に妹まつと』とか、『いづく行くらむ』とか、『安見兒得たり』といふのは、一首の中味を單純化して、無駄な邪魔物を除き、却つて感情を強調しうる效果さへもちうるのであるが、『よき人のよしとよく見て』とか、『憶良らは今は罷らむ子泣くらむ』などと小きざみに繰返す技法は却つて單純化を遂行することが出來ずにうるさく感ぜしめるやうになつてゐる。荘重の氣韻を無くしてしまつて却つて輕薄にひびかせるやうにもなつてゐるから、作歌の稽古としてこれ等の技法を考察する場合には一反省をも要するのである。
 
      第三章 萬葉集短歌の第三句分類
 
(88) 短歌の第三句は、上《かみ》の句《く》と下《しも》の句との連接點であるから、實際の作歌に際しては極めて重要な役目をなしてゐる。そこで上の句、下の句の區別の未だ截然としなかつた時代の、萬葉短歌の第三句が奈何の具合であるか、そして、第一句・第二句との連接、第四句・結句への關係などを考察することは、一首一首の聲調を吟味する點に於て、また實際作歌の手本とする點に於て、興味もあり同時に甚だ大切なことだと思ふのである。併し、このたびは紙數に制限があるために、細かい分類の方法はこれを避けて大體の類別を報告するにとどめる。短歌の聲調は、黙讀か或は低誦微吟によつて分かるから、その黙讀に際して息《いき》を切《き》る場合の參考ともなり得るのである。
 第一〔二字□で囲む〕助詞「の」で終るもの。(六百二十五首)
 第三句が助詞「の」で終り、即ち第四句へ、「の」を以て連續するもので、萬葉の歌四千二百餘首のうち六百二十五首ばかりを占め、これにもいろいろ種類があるが、大體を以て次のごとくに分類して置く。
 【A】體言に續くもの。(三百二十二首)
    春すぎて夏來るらししろたへの衣ほしたり天の香具山
    梅の花いまさかりなりももとりの聲のこほしき春來るらし
    丈夫の鞆の音すなりもののふのおほまへつ君たて立つらしも
    家に來てわが家を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕
    君待つとわが戀ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風ふく
    大君は神にしませば天雲の五百重がしたに隱りたまひね
(89)   わぎもこに戀ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを
    妹が目の見まく欲しけく夕闇の木葉がくれる月待つごとし
    卷向の山邊とよみて行く水の水泡の如し世の人われは
    あめのした既に蔽ひて降る雪のひかりを見ればたふとくもあるか
    君にあはず久しき時ゆ織る機のしろたへ衣あかづくまでに
    ますらをの弓末《ゆずゑ》振り起し借高《かりたか》の野べさへ清く照る月夜かも
 【B】用言に續くもの(百四十五首)
    いざ子どもたはわざな爲《せ》そあめつちのかためし國ぞやまと島根は
    ほととぎす鳴く聲きくや卯の花の咲き散る丘に田草ひくをとめ
    あぶり干す人もあれやも家人《いへびと》の春雨すらを間使にする
    春さらばををりにををりうぐひすの嶋くわが山齋《しま》ぞ止まず通はせ
    あをによし奈良の京師《みやこ》は咲く花のにほふが如く今さかりなり
    わぎもこに戀ひつつをれば春雨のそも知るごとく止まず零りつつ
    神無月時雨にあへる黄葉《もみぢば》の吹かば散りなむ風のまにまに
    いはばしる垂水のうへのさわらびの萌えいづる春になりにけるかも
    さを鹿の心あひおもふ秋萩の時雨の零るに散らくし惜しも
(90) 【C】第三句迄序詞をなすもの(百五十八首)
    秋山の木の下がくり行く水のわれこそまさめ御思ひよりは
    ほととぎす鳴く峯《を》の上の卯の花のうきことあれや君が來まさぬ
    をとめらが袖|振山《ふるやま》の瑞籬《みづかき》の久しき時ゆ思ひき吾は
    鎌倉の見越《みこし》の埼の石崩《いはくえ》の君が悔ゆべき心は持たじ
 他に枕詞として用ゐられたもの二百四首は特に第十六枕詞となれるもの(五六頁)の部に入れてある。
 第二〔二字□で囲む〕助詞「が」で終るもの(六十八首)
    あさ鴉《がらす》はやくな鳴きそ吾背子があさけの姿見れば悲しも
    泊瀬河夕わたり來て吾妹子が家の金門に近づきにけり
    まひしつつ君がおほせるなでしこが花のみとはむ君ならなくに
    われのみぞ君には戀ふるわが背子が戀ふといふことは言のなぐさぞ
    山主はけだしありとも吾妹子が結ひけむ標を人とかめやも
    山の名と言ひ繼けとかも佐用比賣《さよひめ》がこの山のへにひれを振りけむ
    この山の黄葉の下の花をわがはつはつに見てさらに戀ひしも
 第三〔二字□で囲む〕格助詞「に」を句尾とするもの、竝に「に」を以て終る副詞よりなるもの(四百六首)
    ただのあひはあひかつましじ石川に雲たちわたれ見つつしぬばむ
(91)    可之布江《かしふえ》に鶴鳴きわたる志珂《しか》の浦《うら》に沖つ白波たちしくらしも
    人言をしけみこちたみおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる
    をとめらにゆきあひの早稻を刈るときになりにけらしも萩が花咲く
    ながらふるつまふく風の寒き夜にわが背の君はひとりか寢らむ
    月よめばいまだ冬なりしかすがに霞たなびき春たちぬとか
    三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ
    わが盛りまたをちめやもほとほとに寧樂の京を見ずかなりなむ
    あしひきの山すがの根のねもころに止まず思はば妹にあはむかも
    飼飯《けひ》の浦に寄する白波しくしくに妹が姿はおもほゆるかも
    うつつにも今も見てしか夢のみに袂まきぬと見れば苦しも
 その他、此處に分類すべきものに、君なしに。われなしに。よしなしに。時なしに。みずひさに。ゆきがちに。なべに。がへに。けふまでに。いままでに。照るまでに。見るまでに。里ごとに。時ごとに。見るごとに。見むごとに。置くごとに。吹くごとに。わがゆゑに。われゆゑに。ながゆゑに。たれゆゑに。きみゆゑに。たまゆゑに。ひとゆゑに。ものゆゑに。わがからに。ものからに。たがために。ききしゆゑに。みしからに。われさへに。鴨すらに。桑すらに。戀ふるとに。等のたぐひがある。此等を一々分類しその解析する煩を今は避ける。
 第四〔二字□で囲む〕格助詞「を」を句尾とするもの(百四首)
(92) これは、體言+を。――すらを。――のみを。といふ三つの形式に區別することが出來る。
    梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮さな
    二人ゆけどゆきすぎがたき秋山をいかにか君がひとり越えなむ
    あまのがは川門にをりて年月を戀ひこし君にこよひあへるかも
    息の緒にわが息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも
    ありありて後も逢はむと言《こと》のみを堅くちぎりつつ逢ふとはなしに
 第五〔二字□で囲む〕助詞「と」「より」「ゆ」「よ」「から」「へ」等を句尾とするもの(百一首)
    人もなき國もあらぬかわぎも子とたづさひ行きてたぐひてをらむ
    足姫《やらしひめ》神のみことの魚《な》釣らすと御立《みた》たしせりし石をたれ見き
    あらたまの年の經ぬれば今しはとゆめよわが背子わが名のらすな
    あまのがは楫《かぢ》の音《と》きこゆ彦星と織女《たなばたつめ》とこよひ逢ふらしも
    濱きよみ浦うるはしみ神代より千船のとまる大和田の濱
    石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか
    わぎもこが夜戸出《よとで》の姿見てしより心そらなり地《つち》はふめども
    つるぎたちいよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて來にしその名ぞ
    しろたへのころもの袖を眞久良我《まくらが》よ海人《あま》こぎ來見ゆ波立つなゆめ
(93)    月夜よみ妹にあはむとただぢからわれは來つれど夜ぞ更けにける
    春日《かすが》なる羽易《はがひ》の山ゆ佐保のうちへ鳴きゆくなるは誰|喚子鳥《よぶこどり》
 第六〔二字□で囲む〕助詞「は」を句尾とするもの(百四十首)。附「をば」(二首)
 これは、【A】體言+は。なのりそは。かりがねは。わがこひは。この月は。降る雪は。寢たる夜は。越えむ日は。よし我は。ただ人はの類。【B】連體形+は。かづらくは。ならざるは。鳴きつるは。含めるはの類。【C】連用形+は。さやけくは。さぶしくはの類。【D】「く」形+は。はしけくは。戀ふらくはの類。【E】1には。春野には。木梢《こぬれ》には。籠りには。亂れには。わがへにはの類。【F】−よりは。明日よりは。花よりは。今よりは。【G】−ゆは。戀ひむゆは。【H】−とは。通ふとは。手折るとは。告らむとは。【I】−こそは。今こそは。言《こと》こそは。山こそは。【J】−ては。相見ては。別れては。今日見ては等。【K】−ずは。相見ずは。生けらずは。忘れずは等。【L】しましくは。おほよそは。うれむぞは。附、【M】をばを句尾とするもの。いのちをば。佐保路をば。實例を簡潔省略する。
    わが背子がける衣《きぬ》うすし佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
    やくもさす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
    わぎもこが見し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木は常世にあれど見し人ぞなき
    たまかづら花のみ咲きてならざるは誰が戀ならめ吾《あ》は戀ひもふを
    さぬらくは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高根のなるさはのごと
(94)    みけ向ふ南淵山《みなぷちやま》のいはほには降れるはだれか消え殘りたる
    青旗の木旗のうへを通ふとは目には見ゆれどただに逢はぬかも
    奈良山の小松が梢《うれ》のうれむぞはわが思《も》ふ妹にあはず止みなむ
    夕霧に千鳥の嶋きし佐保路をば荒らしやしてむ見るよしをなみ
 第七〔二字□で囲む〕助詞「も」を句尾とするもの竝に之に準ずるもの(百五十首)
 【A】體言+「も」。鶯も。山川も。白雲も。もみぢばも。住む鳥も。漕ぐほども。たびゆきも。きみもわれも。否《いな》も諾《う》も。いももわれも等。【B】−に+も。つかひにも。よなかにも。石木にも。よそめにも。來むよにも。とををにも。しみみにも等。【C】−ゆ+も。心ゆも。木の間ゆも。網目《あみめ》ゆも等。【D】−よりも。君よりも。【E】−をも。山道をも。太刀が緒も。石根をも。家路をも。貫《ぬ》ける緒も。【F】−とも。夕べとも。【G】−ても。われ見ても。しらけても。【H】−つつも。知りつつも。【I】−だにも。今だにも。言だにも。汝だにも。雲だにも。かくだにも。【J】−にしも。ただにしも。【E】副詞十も。形容詞連用形十も等。しましくも。ここだくも。こきだくも。けだしくも。にはしくも。とのしくも。うつしくも。しくしくも。かもかくも。かつがつも。たまたまも。をさをさも。ありつつも。あやしくも。すくなくも。くすしくも。こちたくも。かしこくも。くやしくも。ねふかくも。よろしくも。ともしくも。しづけくも。うたがたも。いつもいつも等。【L】−べくも。見つべくも。【M】−のすも。見るのすも。
    春山の霧にまどへる鶯もわれにまさりてもの思はめや
(95)    かくのみしありけるものを妹も吾も千歳のごとくたのみたりける
    彦星の思ひますらむ心ゆも見るわれ苦しよの更けゆけば
    こまにしき紐解きあけて夕べとも知らざる命戀ひつつかあらむ
    古への事は知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天の香具山
    岩だたみ恐《かしこ》き山と知りつつもわれは戀ふるかなみならなくに
    三輪山をしかも隱すか雲だにも心あらなむ隱さふべしや
    琴とれば歎きさきだつけだしくも琴の下樋に嬬やこもれる
    妹が家にさきたる梅のいつもいつもなりなむ時にことは定めむ
    水底の珠さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば
 第八〔二字□で囲む〕助詞「かも」「やも」を句尾とするもの(五十首)
 こころかも。まことかも。−とかも。刈るとかも。見よとかも。何時とかも。今とかも。−をかも。われをかも。珠をかも。なにをかも。夢にかも。いづゆかも。なにしかも。いつしかも。いなをかも。今日もかも。いまもかも。−みかも。寒みかも。高みかも。茂みかも。清みかも。薄みかも。己然形十かも。思へかも。聞かせかも。飽かねかも。知らねかも。已然形+やも。思へやも。そわへかも等。
    くれなゐに深く染みにし心かも奈良の都に年の經ぬべき
    かつしかの眞間の手兒名をまことかも吾に寄すとふ眞間の手兒名を
(96)    山の端にいさよふ月を何時とかもわが持ちをらむ夜は更けにつつ
    鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
    うつつにか妹が來ませる夢にかもわれかまどへる戀のしげきに
    聞かずしてもだあらましを何しかも君がただかを人の告げつる
    旅にありて戀ふれば苦しいつしかも郡に行きて君が目を見む
    阿保山の櫻の花は今日もかも散り亂るらむ見る人なしに
    わぎもこをいざみの山を高みかも大和の見えぬ國遠みかも
    今更に妹に逢はめやと思へかもここだわが胸おほほしからむ
    明日香川|明日《あす》だに見むと思へやもわが王《おほきみ》のみ名忘れせぬ
 第九〔二字□で囲む〕助詞「だに」「さへ」「すら」を句尾とするもの(二十九首)
 今夜だに。一目だに。一日だに。憩越しだに。風をだに。これをだに。夢にだに。よそにだに。目のみだに。こころさへ。今夜さへ。その葉さへ。草木すら。帶《おび》をすら。
    戀ふる日はけながきものを今夜《こよひ》だにともしむべしや逢ふべきものを
    ひなぐもり碓日《うすひ》の坂を越えしだに妹が戀ひしく忘らえぬかも
    風をだに戀ふるはともし風をだに來むとし持たば何か歎かむ
    ぬばたまの昨夜《きそ》はかへしつ今夜《こよひ》さへわれをかへすな道のながてを
(97)    かくしつつ遊びのみこそ草木すら春は生ひつつ秋は散りゆく
    一重のみ妹《いも》が結ばむ帶をすら三重むすぶべくわが身はなりぬ
 第十〔二字□で囲む〕助詞「し」「こそ」「ぞ」「か」「や」等を句尾とするもの(合計。百二十一首)
 家の妹し。をとめ等《ら》し。わぎもこし。天人《あめひと》し。知る時し。木葉《このは》をし。戀ふるにし。かくのみし。乏《とも》しみし。珠藻こそ。まさかこそ。君をこそ。人をこそ。刈りにこそ。かくしこそ。うべしこそ。思へこそ。戀ふれこそ。告らせこそ。惜しみこそ。遠みこそ。清《きよ》みこそ。あらばこそ。絶えばこそ。見てばこそ。無くばこそ。山道ぞ。鶯ぞ。さを鹿ぞ。來し吾ぞ。心をぞ。都にぞ。涙にぞ。雲居にぞ。眞白にぞ。思ふにぞ。奴とぞ。戀ひすとぞ。解かむとぞ。有らむとぞ。待ちつつぞ。戀ひつつぞ。かく爲《す》すぞ。誰ゆゑぞ。なにすれぞ。たが妻か。いくばくか。わが如《ごと》か。誰がためか。たれゆゑか。なばりにか。神代にか。いづくにか。還れとか。何すとか。何時よりか。いづくゆか。今夜《こよひ》もか。いつまでか。音《ね》のみをか。あどすすか。然らばか。祈らばか。いははばか。なれなばか。戀ふればか。言へればか。思へばか。あど思へか。誰れ解けか。ますらをや。入らむ日や。來しわれや。寒き夜や。今日の日や。雲ゐにや。淺きをや。限りとや。明日ゆりや。おくれてや。ぬれつつや。在りともや。かくのみや。やや多くや。名のごとや。波立てや。草なれや。雲なれや。海人《あま》なれや。ものにあれや。暇《いとま》あれや。
    世の中は空《むな》しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
    見れど飽かぬ人國山《ひとくにやま》の木葉《このは》をしわが心からなつかしみ思ふ
    菅の根のねもころ妹に戀ふるにしますらを心思ほえぬかも
(98)    慰もろ心はなしにかくのみし戀ひやわたらむ月に日にけに
    吾妹子をあひ知らしめし人をこそ戀のまさればうらめしみ思へ
    睦月たち春の來らばかくしこそ梅を折りつつ樂しきを經め
    よくだちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も忍びきにけれ
    さゆりはな後《ゆり》も逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ
    いづみ川ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮どころ移ろひゆかめ
    春の野にすみれ摘みにと來しわれぞ野をなつかしみ一夜《ひとよ》寢にける
    たしかなる使を無みと心をぞ使にやりし夢に見えきや
    青駒の足がきを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける
    しら鳥の鳥羽山松の待ちつつぞわが戀ひ渡るこの月ごろを
    くさまくら旅の宿りに誰が妻か國わすれたる家持たまくに
    わが背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる
    ともしびの明石大門《あかしおほと》に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
    うつそを麻續《をみ》の王《おほきみ》あまなれや伊良湖が島の珠藻《たまも》刈り食《を》す
 第十一〔二字□で囲む〕間投助詞を句尾とするもの、(十一首)
 八代《やつよ》にを。よしゑやし。はしきやし。はしきよし。あれつぐや。
(99)    あぢさゐの八重咲くごとく八代《やつよ》にを在《いま》せわが背子見つつしぬばむ
    あかときと鷄《かけ》は鳴くなりよしゑやしひとり寢る夜は明けは明けぬとも
    人の寢るうまいは寢ずてはしきやし君が目すらをほりし歎くも
    藤原の大宮づかへあれつぐや處女《をとめ》がともは羨《とも》しきろかも
 第十二〔二字□で囲む〕「ず」「がてに」で終るもの、(四十九首)
 あざむかず。石ふまず。寢《ぬ》る夜おちず。口やまず。散り過ぎず。朝さらず。夕さらず。よひさらず等。及び、いでがてに。過ぎがてに。着せがてに。
    今しらす久邇《くに》の郡に妹《いも》にあはず久しくなりぬゆきてはや見な
    今日もかも明日香の川の夕さらす蛙《かはづ》なく瀬のさやけかるらむ
    あらたへの布衣《ぬのぎぬ》をだに着せがてにかくや歎かむせむすべを無み
 第十三〔二字□で囲む〕助詞「て」「つつ」で終るもの。(二百十一首)
 呼びたてて。越えて來て。船うけて。おしなべて。、霜ふりて。眞日くれて。難みして。一人ゐて。ありさりて。いかにして。言絶えて。ひならべて。けならべて。あひ見ずて。矢はかずて。あまりにて。みやこにて。逢はずして。旅にして等。及び、かくしつつ。雲ゐつつ。思ひつつ。出で見つつ。せしめつつ。遊びつつ等。
    夕闇は路たづたづし月待ちて行かせわが背子その間にも見む
    鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮べる心わが念はなくに
(100)    生ける世にわはいまだ見ず言たえてかくおもしろく縫へる袋は
    朝|戸出《とで》の君が姿をよく見ずて長き春日を戀ひや碁さむ
    還るべく時はなりけり京にて誰が袂をかわが枕かむ
    今は吾は死なむよわぎも逢はずして思ひわたれば安けくもなし
    宇治間山《うぢまやま》朝風さむし旅にして衣かすべき妹もあらなくに
    むつきたつ春のはじめにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも
    天ざかる鄙に五年《いつとせ》すまひつつ都のてぶり忘らえにけり
 第十四〔二字□で囲む〕接續助詞「ば」、「を」、「に」、「ど」、「ども」、「とも」及び形容詞「み」形を句尾とするもの。形容詞連用形で終るもの。「ごとく」で終るもの。「べく」で終るもの等。(皆合せ六百五十五首)
    わが背子は假廬《かりほ》つくらす草なくは小松が下の草を刈らさね
    玉に貫く楝《あふち》を家に植ゑたらば山ほとゝぎす離《か》れず來むかも
    近江のうみ夕波千鳥汝がなけば心もしぬに古へおもほゆ
    來むと言ふを來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ來じといふものを
    三河《みつかは》の淵瀬もおちずさで刺すに衣手ぬれぬ乾す子はなしに
    山科の木幡の山を馬はあれど歩《かち》ゆわが來し汝をおもひかね
    去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年さかる
(101)    さざなみの志賀の大わだよどむとも昔の人にまたも逢はめやも
    いにしへのふるきつつみは年ふかみ池の渚に水草《みくさ》生ひにけり
    夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか佐日《さひ》の隈囘を
    湯の原に鳴くあしたづはわがごとく妹に戀ふれや時わかず鳴く
    こと降らば袖さへぬれて透るべく降りなむ雪のそらに消につつ
 第十五〔二字□で囲む〕まで。むた。なべ。ため。なす。がに。ばかり。のみ。がへ。ごと等にて終るもの。その他、神ながら。あらかじめ。わがここだ。なぞここば。おのづから。いとのきて。ゆくさくさ。あさなさな。はたやはた。わたさはだ。うつらうつら等の副詞。その他未定のもの、かぬまづく。おほなわに。かぢつくめ。子鹿丹。おもひどろ等。(九十首)。
    黒髪に白髪まじり老ゆるまでかかる戀にはいまだ逢はなくに
    國遠み思ひなわびそ風のむた雲のゆくなす言《こと》は通はむ
    秋風の山吹きの瀬のとよむなべ天雲かける雁を見るかも
    風高く邊には吹けども妹がため袖さへぬれて刈れる玉藻ぞ
    はやひとの薩摩の迫門を雲ゐなす遠くもわれは今日見つるかも
    秋づけば水草《みくさ》の花のあえぬがに思へど知らじただに逢はざれば
    うはへなきものかも人はしかばかり遠き家路を還すおもへば
(102)    司《つかさ》にも許したまへり今夜《こよひ》のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
    山川もよりてまつれる神ながらたぎつ河内に船出するかも
    筑紫船いまだも來ねばあらかじめ荒ぶる君を見るが悲しさ
    山邊の石井の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも
    白菅の眞野の榛原ゆくさ來さ君こそ見らめ眞野の榛原
    撫子のその花にもがあさなさな手に取り持ちて戀ひぬ日なけむ
    痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻《むなぎ》をとると川に流るな
 第十六〔二字□で囲む〕枕詞となれるもの(二百九十四首)
 たまきはる。あからひく。たまかぎる。うまさはふ。いさなとり。いはばしり。あかねさし。おしてるや。やほたでを。ころもでを。あをによし。あさもよし。くれなゐの。ぬばたまの。あしひきの。くさまくら。はたすすき。まそかがみ等を第三句としたもの。
    ただに逢ひて見てばのみこそたまきはる〔五字右○〕命にむかふわが戀やまめ
    命をさけくよけむと石走る〔三字右○〕垂見の水を結びて飲みつ
    秋たちて幾日もあらねばこのねぬる〔五字右○〕朝明の風は袂さむしも
    ぬばたまのこの夜な明けそあからびく〔五字右○〕朝行く君を待たば苦しも
    印南野はゆきすぎぬらし天傳ふ〔三字右○〕日笠の浦に波立てる見ゆ
(103)    きのふこそ船出はせしかいさなとり〔五字右○〕比治奇《ひぢき》の灘を今日見つるかも
    直超のこの徑にして押照るや〔四字右○〕難波の海と名づけけらしも
    わらはども草はな刈りそ八穗蓼を〔四字右○〕穗積の朝臣が腋くさを刈れ
    ふるさとの飛鳥《あすか》はあれどあをによし〔五字右○〕奈良の飛鳥を見らくしよしも
    わが背子はいづくゆくらむ沖つ藻の〔四字右○〕なばりの山を今日か越ゆらむ
    しきたへの袖かへし君たまだれの〔五字右○〕越野《をちぬ》に過ぎぬまたも逢はめやも
    みなわなすもろき命もたくなはの〔五字右○〕千尋にもがと願ひくらしつ
    まくさ刈る荒野にはあれどもみぢばの〔五字右○〕過ぎにし君がかたみとぞ來し
    吾《あ》を待つと君が濡れけむあしひきの〔五字右○〕山の雫にならましものを
    ぬばたまの夜はふけぬらしたまくしげ〔五字右○〕二上山に月かたぶきぬ
    人な無き空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
 第十七〔二字□で囲む〕句尾が動詞連用形にて終るもの。(百九十三首)
 山尋ね。妹に戀ひ。標野ゆき。見まく欲り。霞立ちの如きもの。
    荒波に寄りくる珠を枕に置きわれここにありと誰か告げなむ
    あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
    大船のたゆたふ海に碇おろし如何にせばかもわが戀ひやまむ
(104)    君が行《ゆき》けながくなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
    ここにありて春日やいづく雨障《あまざは》り出でて行かねば戀ひつつぞをる
    今さらに何をか念はむうちなびき心は君に寄りにしものを
    秋田刈る旅のいほりに時雨降りわが袖ぬれぬ干す人なしに
    うらうらに照れる春日に雲雀あがり心かなしも一人しおもへば
    もみぢばの過ぎにし子らとたづさはり遊びし磯を見れば悲しも
    君がゆく道の長手をくりたたね燒き亡さむ天の火もがも
    神代より吉野の宮にありがよひ高知らせるは山川をよみ
    ひさかたの天ゆく月を綱にさしわが大君はきぬがさにせり
    わたつみの豐旗雲に入日さし今夜の月夜あきらけくこそ
    秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも
    秋山に霜ふりおほひ木の葉散り年は行くともわれ忘れめや
 第十八〔二字□で囲む〕動詞、形容詞、助動詞等の連體形で經るもの。(二百八十三首)
 動詞の連體形。慰むる。さにづらふ。うちなびく。忘れ來る。いはくぐる。雲がくる。雲に飛ぶ。持ちて行く。家と住む。人の寢る。鳥が鳴く。かづくとふ。ゆりにとふ。わが戀ふる。朝日さす。いさりする。貝ひろふ。今夜《こよひ》あふ。七重著《ななへか》る。いたく降る。はやく降る等。(105)形容詞連體形で終るもの。うつくしき。あきらけき。まがなしき。底深き。濱清き。術《すべ》もなき。つれもなき等。助動詞連體形で終るもの。神さびし。慕ひ來し。麻まきし。御立《みたち》せし。今朝ふりし。一目見し。わが待ちし。妹が植ゑし。海人の言ひし。よしといひし。よそに見し。出でて來し。見つつ來し。沈みにし。負ひ來にし。結びてし。相見てし。戀ひにてし。かためとし。宿れりし。見えざりし。降らしめし。造らしし。出でましし。許すべき。たなびける。わが乘れる。手にまける。このあがける。送りける。榮えたる。咲き出たる。わが持たる。結びつる。わが見つる。今見つる。まどひぬる。沖べなる。ときはなる。越え來なる。逢ふべかる。敷きませる。近からぬ。鈴かけぬ。實にならぬ。人の見ぬ。見れど飽かぬ。慰めむ。歸り來む。花咲かむ。明日越えむ。見つつあらむ。行きてゐむ。下に著む。いかならむ。思ふなむ。榜き出なむ。嘆くらむ。遊びけむ等。
    わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ藥はむともまたをちめやも
    ありつつも君をば待たむうちなびくわが黒髪に霜のおくまでに
    家にありて母がとり見ばなぐさむる心はあらまし死なば死ぬとも
    大君は神にしませばまきの立つ荒山中に海をなすかも
    あらたへの藤江の浦にすずき釣る海人とか見らむ旅行くわれを
    秋されば春日の山の黄葉みる奈良の都の荒るらく惜しも
    道のべの草ふかゆりの後《ゆり》にとふ妹が命をわれ知らめやも
    ぬばたまの夜のふけぬれば久木《ひさき》生ふる清き河原に千鳥しば鳴く
(106)    岩戸わる手力もがもたよわき女にしあればすべのしらなく    わがほりし野島は見せつ底深きあこねの浦の珠ぞひろはぬ
    戀ひこひてあへる時だにうつくしき言つくしてよ長くと思《も》はば
    大船にかしふりたてて濱ぎよき麻里布《まりふ》の浦にやどりかせまし
    橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を戀ひずあらめかも
    妹がためわれ珠もとむ沖邊なる白珠よせこ押つ白波
    わが命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小川を行きて見むため
    鹽津山うちこえゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家こふらしも
    燒津べにわが行きしかば駿河なるあべの市道《いちぢ》にあひし子らはも
    よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ
    ひさかたの天《あの》みるごとく仰ぎ見し御子《みこ》のみかどの荒れまく惜しも
    しらまゆみ磯邊の山のときはなる命なれやも戀ひつつをらむ
    あまぐものたなびく山のこもりたるわが下心木の葉知るらむ
 第十九〔二字□で囲む〕體言で終るもの。(三百七十四首)
(106) 種類には、一句一體言。ほととぎす。をみなへし。生駒山。吉野川。飛鳥風。眞葛原。一句が二つ以上の體言からなるもの。梅柳。人二人。五六三四《ごろくさむし》。連體詞+體言。この月夜。この夕べ。そのこころ。このわがめ。用言+(107)體言。用言+助動詞+體言。なく涙。潜く鳥。行きし我。體言+助詞+體言。梅の花。萩が花。沖つ波。わがこころ。わがかづら。妹と吾。夢に吾。その他。まこと我。ただ一目。ただひとり。いで吾君《わがきみ》。いざこども等。
    つぬさはふ磐余《いはれ》も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜はふけにつつ
    うぐひすの春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
    ことしげみ君は來まさずほととぎす汝《なれ》だに來鳴け朝戸ひらかむ
    昨日こそ年ははてしか春霞|春日《かすが》の山《やま》にはや立ちにけり
    山高み夕日かくりぬ淺茅原《あさぢはら》のち見むために標《しめ》ゆはましを
    白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ
    ひとりゐてもの念《も》ふ夕《よひ》にほととぎす此《こ》ゆなき渡る心しあるらし
    橘のにほへる園にほととぎす鳴くと人告ぐ網ささましを
    よろづ代に在《いま》したまひて天の下《した》まをし給はね朝廷《みかど》さらずて
    かくのみしありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも
    あしひきの山にも野にもみ狩人《かりびと》さつやたばさみ亂りたり見ゆ
    風はやの三保の浦囘の白つつじ見れどもさぶしなき人おもへば
    山吹のたちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
    釆女《うねめ》の袖ふきかへす飛鳥風《あすかかぜ》京を遠みいたづらに吹く
(108)    古りにし人の食《をさ》せる吉備の酒病めばすべなし貫簀《ぬきす》たばらむ
    紀の國の飽等《あくら》の濱の忘れ貝われは忘れず年は經れども
    上毛野|可保夜《かほや》が沼のいはゐづら引かばぬれつつ吾《あ》をな絶えそね
 第二十〔二字□で囲む〕三句切。(百四十八首)
 いざゆかむ。いざぬれな。いざゆかな。起きよ起きよ。降り降りぬ。今は無し。われは無し。われは著じ。まひは爲む。時は經ぬ。夜は過ぎぬ。名は立ため。今ぞ知る。またも見む。後も逢はむ。黙《もだ》もあらむ。夢に見ゆ。夢に見つ。見に來ませ。此處にあらめ。色に出でよ。妹にあれや。もとむと言へ。とれば散る。出でて見よ。草結ぶ。夕占《ゆふけ》とふ。吾ゆかむ。われ待たむ。草とらむ。倉たてむ。子泣くらむ。間《あひだ》あらむ。使來ず。山近し。しるし無し。蓮《はちす》まし。二つなし。紐解けぬ。波たちぬ。くはしく見。うらがなし。飛びわたる。さかりなり。さわぐなり。色づきぬ。慰めつ。解かしめつ。逢はざりき。思《も》はざりき。祈りてき。仕へけり。成りにけり。生《な》りにけり。荒れにけり。散りにけり。咲きにけり。置きにけり。泊てにけり。騷ぐらむ。にほふらむ。漕ぎづらし。立ち來らし。高からし。露ならし。夢ならし。ゆかざらし。散りぬべし。越えぬべし。住みけらし。逢ひけらし。ありけらく。しぬびけむ。さぶしけむ。いはれけめ。思はずろ。織の繼がむ。追ひ及かむ。漕ぎ泊てむ。いほり爲む。なびきねむ。いはひてむ。尋ねてな。漕ぎゆかな。ゆきてしか。ありてしか。なりてしか。えてしかも。花にもが。珠にもが。われにもが。暇《いつま》もが。珠もがも。無くもがも。うつてこそ。渡らなむ。來鳴きてよ。にほひこせ。おもほすな。な散りそね。な降りそね。誰なるか。待てりやも。寄せけるか。著ほしきか。愛しきかも。ともし(109)かも。あらぬかも。ありしかも。流らふや。見えつげや。するものぞ。忘れめや。さはらめや。とほらめや。纏《ま》き寢めや。逢はめやも。解かめやも。あらめやも。散らめやも。言《こと》とへや。
    憶良らは今はまからむ子泣くらむそのかの母も吾を待つらむぞ
    わが庭の萩の花さけり見に來ませ今二日ばかりあらば散りなむ
    わが船は比良の湊にこぎ泊てむ沖へな放り小夜ふけにけり
    妹が門ゆきすぎかねて草結ぶ風吹きとくなまたかへり見む
    天の川浮津の浪音《なみと》さわぐなりわが待つ君し船出すらしも
    こもりくの泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
    磯ごとに海人の釣舟はてにけりわが船はてむ磯の知らなく
    わが庭の花たちばなは散りにけり悔しき時に逢へる君かも
    わが背子が袖かへす夜の夢ならしまことも君に逢へりしごとし
    この雪の消殘る時にいざ行かな山橘の實の照るも見む
    島がくりわが漕ぎくればともしかも大和へ上る眞熊野の船
    眉根かき鼻ひ紐とけ待つらむやいつかも見むと思ふわが君
    思ひやるすべのたどきもわれは無し逢はなくまねく月の經ぬれば
    立ちてゐて術《すべ》のたどきも今は無し妹に逢はずて月の經ぬれば
(110)    高圓の野のうへの宮は荒れにけり立たしし君の御代とほぞけば
    鴨川の後瀬しづけく後も逢はむ妹にはわれは今ならずとも
    ほととぎす來鳴きとよまば草とらむ花橘を宿には植ゑずて
    君が家の花橘はなりにけり花なるときに逢はましものを
    來る道は石ふむ山の無くもがもわが待つ君が馬つまづくに
    古へもかく聞きつつや偲びけむこの古川の清き瀬《せ》の音《と》を
    かりがねは使に來むと騷ぐらむ秋風さむみその川の邊に
    うつつにも夢にもわれは思《も》はざりきふりたる君にここに逢はむとは
    梅の花咲き散る國にわれ行かむ君が使を片待ちがてり
 大體右のごとく萬葉短歌の第三句を分類した。その分類の爲方については、文法上からは異説もあるとおもふし、細かい點になると、私自身に分からないものがある。併し今は聲調を云々するための文法で、文法論をして居るのではないから、右のごとくで大體間に合ふとおもふ。そして文法的に不都合のことがあつたら適宜に改良せられむことを望むのである。右、第三句を二十の種類に分類したが、これも稍人爲的の便宜に從つたに過ぎない。そして、ただの第三句といへども、いかに複雜な聲調の要素をなしてゐるかといふことが分かればいいのである。これを、古今集らしい古今集の歌、新古今集らしい新古今集の歌の第三句と比較するなら、萬葉集の方は數倍の複雜度を有つてゐることが分かればいいのである。そして此第三句が、他の四つの句と相互に關聯し呼應してまだまだ複雜な一首一首の(111)聲調を形成するのであるが、この聲調の研究は前にも云つたごとく、かういふ分類的な客觀的な方法と同時に、一讀過して直ちにその聲調を受納れるだけの主觀的な修練を必要とするのである。私のごときは、短歌は根本に於て萬葉調を基柢とせねばならぬと説く論者であるから、この、謂ゆる、「萬葉調」といふものについてはまだまだ細かく考察しようとも思つて居り、他の諸家の音韻的研究、助辭の分類的研究等をも參考し、なほ、私も萬葉短歌の第一句(初句)。第五句(結句)の分類も既に出來あがつてゐるが、このたびは紙數の關係で此處に發表し得なかつた。それらは雜誌アララギに發表するつもりであるから就いて見られむことをのぞむ。この分類をなすに柴生田稔君の助力を得たること多大である。茲に感謝の意を表する。
 
        參考文献
   賀茂眞淵  萬葉考附言。新學。
   伊藤左千夫 萬葉論。萬葉集新釋。(左千夫歌論集卷一)。
   長塚節   萬葉口占。萬葉集卷十四。東歌餘談(長塚節全集)。
   土屋文明  萬葉集年表(昭和七年)。
   吉水干之  音聲音響學より見たる萬葉短歌(雜誌香蘭昭和七年八年)。
   齋藤茂吉  短歌聲調論(短歌講座昭和七年)。
   横山青娥  短歌の韻律の考察(短歌研究昭和八年一月)。
   橋本徳壽  萬葉集諸詞の研究(雜誌青垣昭和二年より)。
    〔その他は、萬葉三水會編の萬葉集研究年報によつて文獻を求め得る。よつて之を略す〕。
 
 
(223) 世界文學と萬葉集
                  阿部次郎
      一
 
 ゲーテの『ヱルテル』の第一部に、八月二十一日の日附で次の短い手紙がある。それは彼のロツテに對する戀が最初のクライマツクスに到達して、彼が彼女の町から逃げ出さうとする少し手前にあるのである――
  甲斐なくも僕は僕の腕を彼女の方に差しのばす、朝、僕が重苦しい夢から醒めかけるときに。空しくも僕は深夜僕の床の中に彼女をま探る、一つの幸福な、罪のない夢が僕を欺いて、僕が牧場で彼女の側に坐つてゐて、彼女の手を握つて、千の接吻でその手を蔽ふかのやうに思はせたときに。ああ、僕がまだ半ば眠りのよろめきの中にゐて彼女を求めて掻探り、さうしながら心勇みするとき――涙の川が僕のおしつけられた心臓から湧いて來て、僕は慰むるすべなく暗黒な未來を望みつゝ泣くのである。
 昔この章を讀んだとき、私は萬葉集にある大伴家持の歌をすぐに想起して、頁の端にそれを書きつけた。それは從妹坂上大孃との戀が數年の中絶の後に再び燃え上つて、彼が一生の中最も熱情的な戀歌を作つた頃の一首である――
  夢之相者苦有家里覺而掻探友手二毛不所觸者(國歌大觀番號七四一)
  夢のあひは苦しかりけり覺《おどろ》きて掻探れども手にも觸れねば
(224) ヱルテルとロツテとの戀は前者の自殺に終り、家持と大孃との戀は幸福な結婚に到達したとは云ふものの、私はヱルテルと家持とが彼等の戀の頂點に於いて、同じ夢の苦しさを歌ひ上げてゐることを面白いと思つた。而も單に素材としての體驗を等しくするのみならず、その情熱の響を言葉の調に表現し得てゐる點に於いても亦兩者が雁行してゐることに興味を感じた。これは單に私が發見した一例に過ぎないが、我々は同樣の類似や平行を猶數多く探り出すことが出來るであらう。萬葉集の歌は廣く世界文學の中に多くの兄弟姉妹を持つ。その體驗と情熱とに於いて普遍人間的内容を持つ文學として、萬葉集の長短歌は我國の和歌中最も世界的價値を擔つてゐることを私は信ずる。萬葉集が世界文學中如何なる特異の新しさ〔六字傍点〕を持つてゐるかは、私が後に一瞥しようとするところであるが、今は先づその共通性〔三字傍点〕を最初に注意して置くのである。
 西洋文學のうちで萬葉時代の日本の文學に最も類似點を持つのは、恐くは希臘の抒情詩である。假りに希臘抒情詩の年齡の標準をピンダロスの晩年紀元前四百五十年頃にとり、萬葉抒情詩の年齡の標準を聖武天皇の治世の最後紀元後七百五十年頃にとれば、兩者の年齡の相異は正に千二百歳である。併しその神話時代から拔け出でて民族文化獨自の途を探索しつゝ進み行く若さ〔二字傍点〕に於いて、兩者の間には環境や内容の多くの相違を持ちながらも、猶多くの共通性が存在するのである。希臘語の不得手な私が、單語や文章の構造やその格調などについて兩者を比較し得ぬのは甚だ遺憾であるが、G.R.Tpmson:Greek Anthology の中から摘譯せる左の四五の例によつても、それが旋頭歌や小長歌に類する形式を持ち、その墓碣銘が挽歌に、戀愛小曲が相聞に、類した感動を傳へてゐることを髣髴することは出來るであらう――
(225)
        ○
  はしけやしサビノス、汝《な》が墓のこれの石こそ
  汝《な》と我《われ》が涯《はて》なき戀のいささけき記念《かたみ》なりけれ。
  汝《なれ》なきもわれ戀ひやまじ。あはれ汝も
  レーテの川の川浪に、われを忘れの水な飲みそね。
        ○
  あはれ舟人、誰が奧津城《おくつき》と我に問ひそね。
  疾風《はやち》に狂ふ海の運命《さだめ》、汝《なれ》になかれと祈るばかりぞ。
        ○
  暴風《はやち》に傷き、痛ましく碎けし松ぞ我、
  何しかも汝《なれ》は我《わ》か舟にはつくる――
  蓮命《さだめ》拙く、磯吹く風に挫けにしもの。
        ○
  幸運《さち》よ、希望《のぞみ》よ、さらば。我わが港見出でつ。
  長かりしかな汝が眩惑《まどはし》、今、我ならぬ者に戯《ざ》れ行け。
        ○
  君にまゐらす匂|佳《よ》き歿藥《もつやく》、君匂はせむためならで
  君によりて匂ひを増せよとこそ。
 此處には短さに對する愛〔七字傍点〕とも稱すべきものがある。而もそれは後世のエピグラムやデイステイヒヨンなどのやうに(226)反省せられたる智慧を多くの場合一つの突端《ポアンテ》を持ちつゝこれを對手に注射しようとする意圖を持つことなしに、純抒情詩の地盤に立つて實現されてゐるのである。固よりこの短さに對する愛は、我國の短歌や旋頭歌のやうに明確な定形を得るには到らなかつたとは云へ、それは猶西洋の短詩中最もわが國の和歌に類似するものと稱することを妨げないであらう。
 さうして記紀中の物語歌や萬葉集卷頭の雄略天皇御製歌と稱せらるゝ「籠《こ》もよみ籠持ち掘串《ふぐし》もよみ掘串もちこの岳《をか》に菜摘ます兒」に呼びかくる臨時歌《ゲレーゲンハイツゲデイヒト》のやうなものから、柿本人麿の長歌に導く擴がらむとする意志〔九字傍点〕は又ピンダロス流の讃歌《オーデ》に於いてその類比を見出し得るであらう。因より人麿の時代には、ピンダロス時代の希臘のやうに、國運を賭する對外戰爭はなかつた、一局部の現象として行はれた三韓のための戰爭は寧ろ敗戰の記録であつた。又我國にはピンダロスの見たやうな、シラクーザの如き海外の植民地をも加へて全ヘラス人の血を湧かしたオリンピアその他の競技もなかつた。人麿は現存するピンダロスの作品の大部分を占める競技者讃美の詩を作るわけには勿論行かなかつた。同時にピンダロスは既にそれ自身の文字を有しそれ自身の文化が既に數世紀の間獨立せる進行を續けて來た希臘に生れた人として、外國文化の新しい學習によつて漸く文化的新存在を獲得せねばならぬ人麿時代のやうな對外的折衝を知らなかつた。併し兩者ともに國運の高まりを身に感じつゝ、國家的機會に乘じてその代表人物のために制作するといふ位置に立つてゐた。彼等は代作〔二字傍点〕若くは雇傭詩人といふやうな現代的膚淺の言葉では到底表示し得ぬやうな深さに於いて、帝王や君主や優勝者のために詩人の役割を果した。さうしてこの役割を果すに、莊重な、潮のやうに高まり行く格調と、多くの形象《ビルト》を攝取しつゝこれを開展し行く擴がりとを以てしたのである。羅馬のアウグスツス(227)時代に、ハリカルナツススのデイオニシウスがピンダロスに就いて云つたといふ言葉は、殆んどそのまゝに我が柿本人麿に當るであらう。「此等の詩句(ピンダロスのデイテユランボス)は、遒勁で重々しくて威嚴があり、文體の著しき森嚴を特色としてゐる。それは粗剛であるが、不快を與へるほどのことなく、耳に荒く響くが猶適度を越えぬ。それはその節奏に於いて綬徐であり、而も語調に幅廣き效果を示してゐる。さうしてそれは我々の時代の思はせぶりな装飾的な美しさではなくて、遠い過去の森嚴な美を現はす」と彼は云ふのである。ピンダロスの讃歌も柿本人麿の挽歌と同樣に、性急にその主題におし迫ることをしない。彼は勝者の來由を述べ、その國土を讃め、多くの序詞と迂餘曲折とを經つゝその讃美を完くする。特にピンダロスも人麿もそのすぐに背後にまだ活カとした神話を持ちつゝ、これを語りこれにその力を汲み來る點に於いて、人文史上に於ける共通の若さを持つてゐることは、我々の看過し得ぬところである。ピンダロスの詩はその長さの故に茲に引用することを省略するが、人麿の「日並皇子尊の殯宮の時」(一六七)の歌の起首をアストンの英譯を通して讀むとき、我々はそれが如何にピンダロス的高揚に近いかを感するであらう――
 
  天地之初時之久堅之天河原爾八百萬千萬神之神集集座而神分分之時爾天照日女之命天乎波所知食登葦原之水穗之國乎天地之依相之極所知行神之命與天雲之八重掻別而神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之淨之宮爾神隨太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上上座奴………
  天地《あめつち》の 初の時し 久堅《ひさかた》の 天《あま》の河原《かはら》に 八百萬 千萬神の 神集《かむつど》ひ 集ひ坐《いま》して 神分《かむはか》り 分《はか》りし時に 天照す 日る女の命 天をば 知らしめすと 葦原の みづ穗の國を 天地の 依りあひの極《きはみ》 知らしめす 神の命と 天雲の 八重|掻別《かきわけ》て 神下《かむくだ》し (228)座《いま》せ奉《まつり》し 高照す 日の皇子《みこ》は 飛鳥の 淨《きよみ》の宮に 神《かむ》ながら 太しき座《ま》して 天皇《すめろぎ》の 敷座《しきいま》す國と 天の原 石門《いはと》を開き 神上《かむあが》り 上《あが》り座《いま》しぬ………
 
[英文省略]
 
(229)
 
 固より五七を一句と見て十八行の原文を二十五句に譯した譯文には、敷衍に過ぎ、形象を明かにしすぎて、同音を繰返しつゝ音調を以て繋がつて行く原文の韻律のきれ目のない荘重と甚だちがつたものが生れて來てゐることは爭ひ難いが、同時にそれは耳馴れてゐるために看過されてゐた神話的背景を際立てゝ讀者に感じさせる效果を持つといふことが出來る。さうして神話との間近き〔三字傍点〕接觸が萬葉文學と希臘文學とに隨分根柢に觸るゝが如き類似を作り出してゐるのである。
 
 萬葉集を世界文學として見るとは、固よりこれと外國文學とをこのやうに平面的に竝べて見て、その類似點をあげ(230)ることのみではない。それは寧ろ極めて淺い表面的な見方に過ぎないであらう。或文學を世界文學として見ることは、何よりも先づその作品が世界文學の中に占有する位置を明かにすることでなければならぬ。それが世界文學的見地から見て内外及び前後の文學と歴史的に如何に連繋するか、それは世界文學の全領域に對して如何なる獨自の價値を提示するか――この二つの問題が此際に於ける最本質的な問題であるであらう。歴史的の問題に就いて云へば、萬葉集の世界文學的意義は、主としてそれが日本の文化と大陸文化との接觸と、これによつて生じた日本民族の藝術的振興の一表現とを意味するところにあるであらう。併しこの世界史的な――少くとも東洋史的な――問題は、本來一門外漢に過ぎぬ私が苟且にも指を觸れ得るやうな範圍ではない。又これを後に繋いで萬菓集の世界的影響を間題にすることは、今日のところ遺憾ながら歴史的事實の範圍外に屬する。前掲アストンの寧ろ優秀な英譯の一例が既に明示するが如く、その文學的價値の味會は、到底飜譯によつて庶幾せらるゝやうな性質のものではない。それは中に含まれてゐる思想や形象よりも言語そのものゝ格調と言語表象の流動の微妙なる流向によつて文學的内容を獲得してゐるが故に、日本語そのものとの深い親みなしにはたゞ一つの珍らしいものとして見られるぐらゐにとゞまるのである。萬葉集の世界的位置はたゞ日本語そのものゝ世界的流通の媒介によつてのみ、將來に築かれ得るであらう。從つてこれは差當り問題としたくても問題にはならないのである。
 私は寧ろ萬葉集の獨自の價値に就いて、門外漢としての一面觀を語つて見たいと思ふ。これも固より門外漢〔三字傍点〕の一面觀〔三字傍点〕である。今日萬葉學〔三字傍点〕が眞劔な諸々の研究によつて眞正な一分科としての基礎を固めつゝあることは、明治以後に於ける日本文化研究の最も輝かしき業蹟として、私は深い尊敬をこれに捧げてゐる。私はたゞこれ等の專門的研究を敬(231)意を以て踏襲しつゝ自分の心の中に萬葉集の美を構成しようと企てゝゐるに過ぎないのである。萬葉集の中に我々は如何なる魂を見るか、特に如何なる生育期にある〔六字傍点〕魂を見るか。その魂は如何なる特殊なる形體《ゲシユタルト》として自己を表現してゐるか。この形體には如何なる特殊の美しさがあるか。私は素人の一面觀を以て、斷片的ながらにこれ等の問題を一瞥して見ようと思ふのみである。
 
      二
 
 或人は萬葉集を貴族の文學であるといふ。併しそれは如何なる意味に於いて貴族の文學であるか。例へば平安朝の和歌と同じ意味に於いて我々は萬葉集を貴族文學と稱することが出來るか。固より平淺な外面的な特徴にのみ着眼すれば、それが貴族文學であることは何の疑ひもないやうに見えるでもあらう。作者の大多數は歴代の天皇や男女の皇族や古來の名門や大小の廷臣たちである。その編者は近來の研究によつて各卷それ/”\に相違あるべきことを明かにされて行くにしても、結局それは貴族中の或人々の手によつて編成されたものであることは動かし難い。貴族の手によつて主として貴族の所作を集めた歌集――これを貴族文學と名けるのは自明であると論者は云ふでもあらう。併し貴族文學の内的特徴はかういふ外面の事實によつて決定されるのではない。それはその内容に貴族的制限〔五字傍点〕が著しく現れてゐるか、それが庶民的なるものゝ輕蔑や排斥や、庶民的詩境に對する無感覺などによつて狹隘にされてゐるか、などの問題を考慮することによつて答へられなければならぬ。さうしてこの問題を親切に顧慮するとき、我々は萬葉集が日本文學中最も著し意味に於いて全國民的文學〔六字傍点〕であることを發見するであらう。萬葉集の世界文學的意義はこ(232)の第一歩に於いて既に特殊な重要性を持つのである。
 私は萬葉集の文學的性質を明かにするために、編者を支配せる編纂意識〔四字傍点〕を一瞥する。其處に各卷による相違があることは云ふまでもないが、概して云へば、その中には初歩ながらも眞實な學的意識〔四字傍点〕が流れてゐて、その後の勅撰歌集のやうな表面的な整頓よりももつと深刻な意味で歌を集める〔五字傍点〕動機を解してゐたやうに思はれる。第七、第十、第十一、第十二、第十三の如く、後世歌集の濫觴をなすやうな分類法の外に、我々は又作者や作品に關する史實の穿鑿や、作歌の地理的排列や、傳奇的興味に基く事件的配合などの動機が交錯してその間に働いてゐることを發見する。左註の成立は恐らくは相應に複雜で、これを分析するには專門的考證を必要とするであらうが、たゞその中に編者の手に成つて彼の編纂意識を表明するものが少くないことは明かであると云はなければならぬ。さうして我々はこの一點に突込んで行く途によつても、編者が如何なる用意を以てこれに對してゐるかを推測することが出來るのである。私は今その中からたゞ二つの點をとりあげる。一つは作家をして上總の末の珠名娘子(一七三八−九)や水江浦島子(一七四〇−一)や葦屋處女(一八〇一−三、一八〇九−一一)や勝鹿の眞間手古奈(四三一−三、一八〇七−八)などの説話に注意させたと同樣の興味が編者をも動かして、當時人口に膾炙してゐた歌を有名な傳奇的史實に結晶させる傾向である。もう一つは眞正の蒐集慾に基いて、地方庶民の作歌を出來るだけ原形に忠實に保存して置かうとする傾向である。さうしてこの二つの點がともに、編者の意識が特殊な貴族的制限の下に立つてゐるのではないことを證明するに足るであらう。
 前者の例として私は第二卷の初頭にある磐姫皇后仁徳天皇を思へる御作歌四首を問題とする。
 
(233)  君之行 氣長成奴 山多都禰 迎加將行 待爾可將待
    右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
  如此許 戀不有者 高山之 磐根四卷手 死奈麻死物乎
  在管裳 君乎者將待 打靡 吾黒髪爾 霜乃置萬代日
  秋田之 穗上爾霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀將息
    或本歌曰
  居明而 君乎者將待 奴婆珠乃 吾黒髪爾 霜者零騰文
    右一首古歌集出
    古事記曰輕皇子※[(女/女)+干]輕太郎女故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追往時歌曰
  君之行 氣長久成奴 山多豆之 迎乎將往待爾者不待 此云山多豆者是今造木者也
    右一首歌古事記與類聚歌林所説不同歌主亦異焉因檢日本紀曰……今案二代二時不見此歌也
 
  君が行きけ長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(八五)
    右一首云々
  かくばかり戀ひつゝあらずは高山の磐根しまきて死なましものを(八六)
  在りつゝも君をば待たむ打靡き吾黒髪に霜の置くまでに(八七)
  秋の田の穗の上に霧らふ朝霞いづへの方に我戀息まむ(八八)
    或本の歌に曰ふ
  居明して君をば待たむぬば珠の吾黒髪に霜は零るとも(八九)
(234)   古事記に曰ふ……
  君が行きけ長くなりぬ山たづの迎か行かむ待つには待たじ(九〇)
    右の一首の歌は云々
 
 この一群に多い左註のうちでどれだけが編者の筆であるか、或ひはその全部が後人の註記であるやうなことはないか、私はこれを解決する方法を知らない。併し或本歌曰と古事記曰とを編者のそれであると假定すれば、彼はその本文に採用せる歌主の歌にこれと類似し若くはその異傳であるらしい歌を竝置して歴史的〔三字傍点〕考證を始めようとしてゐるのである。而もこの考慮にも拘らず磐姫皇后を作者とする所傳に從つてゐるのである。此處に我々は二つのことを推測し得るであらう――一つは編者の用ゐた材料〔二字傍点〕の中に既にこれ仁徳天皇と皇后との間にあつた傳奇に附會する結晶が行はれてゐたこと、もう一つは編者がこの傳奇的興味に同感して、少くともこれをあり得べきこと〔七字傍点〕ゝしてその所傳を採用したこと。さうして此處の左註全部を後人の記入とすれば、編者は更に素僕にこの四首を磐姫皇后の御作歌と信じて無意識の間に傳奇的興味に打任せて編纂してゐるのである。さうして此際に於ける傳奇的興味の特質〔二字傍点〕は決して貴族的に制限されたものではない。それは人情を高貴化せむとする動機に導かれてゐるといふよりも寧ろ皇后を一般人間化する方向をとつて働いてゐる。仁徳天皇の皇后はその尊貴なる特殊地位によつて民衆と區別されずに、一つの戀愛史の女主人公として、庶民の娘眞間の手古奈や葦屋の菟原處女などと同じやうに編者(若くは編者の材料となつた所傳)の意識を動かしてゐるのである。その意識によつて行はれる選擇は特殊な貴族趣味によつて行はれるのではない。それは戀愛の深さ痛さ苦しさ美しさを標準として、皇后と皇女と庶民の子との差別なしに、最も彼の心を動かす(235)ものを採擇せむとする。故に所傳の材料の多少による制限はあつても、苟もそれが編者の手に達する限り、庶民の歌も亦皇后の御作歌と同樣に採録せらるゝ可能性を持つ。さうしてこの意識の前には皇族も貴族も一人の人間として戀に悩み戀に熱する姿に於いて出現するのである。これは天智天皇の三山の御歌(一三−四)天武天皇の「み吉野の耳我の嶺」の御歌(二五−六)などに就いても云ひ得るであらう。後者は第十三卷の相聞の中にある類似の長歌(三二九三−四)を考慮の中に容るゝとき、天武天皇の御製であるといふ史實〔二字傍点〕については、磐姫の御作歌と同樣に疑問の餘地がある。併し文學的見地に立つとき我々にとつて重要なのは、到底明かにする見込のない史實そのものよりも、それ等の歌が磐姫皇后や天武天皇の御歌として萬葉集中に通用〔二字傍点〕してゐることである。假令それが傳承意識によつて構成された傳説に過ぎぬにもせよ、此等の熱烈な感情の歌を天皇や皇后の御歌として所持することが出來たのは我々の幸福である。世界を通じて王者や王妃を主人公とする戀愛譯は決して少くないが、その直接の制作としてこれほど熱の籠つた抒情詩が傳誦されてゐる人は極めて少いであらう。王者のロマンスを第三者としての抒事詩人の口を經ずに直接に後世に傳へる意味に於いても、萬葉集は世界文學の中に一つの位置を要求し得なければならぬ。さうして我々は臣下の貴族に於いても亦一團の傳奇的抒情詩の主人公を見ることが出來る。多くの輝ける女性の中心に立つ若き貴公子大伴家持や、第十五卷に於ける中臣宅守と藏部女嬬狹野弟上娘子との相聞歌(三七二三−三七八五)などがその例である。この場合に於いては、我々はそれが傳説的附會ではなくて史實であることを信じてもよいであらう。宅守と弟上娘子との往復歌を一人の作者の擬作と見ようどする説もあるやうであるが、宅守の流謫地越前と大和との交通が甚だしく不便ではなかつたことは、ほゞ時を同じくする越中守大伴家持と京にあるその親朋との贈答の跡を見ても明かであり、(236)他人の境遇と心情とに自己を投入して身をその境に置きつゝ擬作することが當時の意識にとつて既に不可能ではなかつたことは、家持の爲防人之情陳思作歌一首并短歌(四三九八−四四〇〇)などによつても推測し得るとは云へ、宅守と弟上娘子との歌には正にこの擬作の證據を如何なる左註によつても内面的徴候によつても明示することが出來ないのである。萬葉集編纂の意識の一面をなす史的考證の要求も、第十五卷の前半を形成する遣新羅使一行の歌の編纂ぶりも、共に現存の人について斷りなしに此の如き擬作を編入するを許さなかつたであらう。萬葉學の隆盛につれて擡頭せむとする空想的新説は此處にも亦嚴正に警戒せられなければならぬ。我々が此處に推測することを得るものは、ただ宅守と弟上娘子との贈答の歌を、此の如き序列に於いて編纂〔二字傍点〕せる編者の傳奇的興味のみである。この傳奇的興味の特殊貴族的ではなくて一般人問的な傾向のみである。
 固より外面的に云へば萬葉集の編纂にも全然貴族意識が動いてゐないといふのではない。寧ろ作者の官位身分を一首毎に標示するやうな書き方はそれが表面に浮動してゐる何よりの證據とも云ひ得るであらう。特に「草加山歌一首」(一四二八)の後にある「作者微しきに依りて名字を顯さず」といふやうな註記は、英國人アストンをして聽耳を欹てさせた異樣の貴族意識である。併し萬葉集の結集された時代にこのやうな擧名法が行はれたといふことは、當時の社會組織から云へば固より當然のことであつて、我々の注目を要するのは寧ろこの微人の作が集中に採録されたことそのものにあるのである。編者は賤人の作をもその歌の價値によつては採取することを避けぬ。我々はこの點に彼等の編纂意識を見るのである。さうして東歌(第十四卷)や防人の歌(主として第二十卷)に於いて、編者は單に庶民の歌を擯斥せぬのみではなく、又今の民謠蒐集家に似た蒐集熱を以て庶民の歌を手の及ぶ限り蒐集して、これを忠實に保存せ(237)むとしてゐることを證明する。その文字が特別に眞假名のみを使用してゐるのは、或人の説のやうに蒐集家の書寫せる原形を編者が書き改めた痕跡があると假定しても、方言に特殊の興味を感じて忠實にこれを模寫せむとする者は當然前掲第二卷の歌のやうな記載法を避けてこの形を揮ばなければならなかつたであらう。編者は庶民の歌を忌避するとはうらうへに、蒐集を其處まで擴張してこれを「萬葉」の中に包括せむと欲する。これを出來得る限り國別にして、未詳のものは一括して卷尾に附するが如き學術的方法を以てこれを取扱ふ。事實上庶民の歌が少いのはその材料が缺乏してゐるからである。而もこれをその後の歌集に較べれば萬葉集の階級的廣がりは何れの時代のものよりも優れてゐるのである。
 併し問題はまだこれでは片付かない、編纂意識の廣さの如きは寧ろ些末の問題であつて、それが如何に庶民の歌を採用してゐるにせよ、その大部分をなす貴族の心が實質上庶民のそれと著しき相違を示してゐるならば、この歌集は依然として貴族文學たるを免れないであらう。併し當時の貴族の心は實質上果して庶民の心とそれほどの懸隔があつたか。彼等の制作せる文學はどれほどに當時の大和民族全體の生活と心情とを代表し得てゐたか。此處に萬葉集を貴族文學と稱することの當否を決定すべき最後の視點が潜んでゐる。さうしてそのためには東歌や防人歌と皇族や貴族の歌とを比較して見る必要があるであらう。
 先づ私は當時の皇族や貴族の生活状態を問ふ。さうしてそのために中皇命往于紀伊温泉之時御歌三首を引用する。
 
  君之齒母 吾代毛所知哉 磐代之 岡之草根乎 去來結手名
  言勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
(238)  吾欲之 野島波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曾不拾
  君がよも吾代も知らむ磐代の岡の草根をいざ結びてな(一〇)
  吾背子は借廬《かりほ》作らす草無くば小松が下の草を苅らさね(一一)
  吾が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ(一二)
 
 これは女性の歌に違ひない、又皇族の御歌に違ひない。これを舒明天皇の御子、天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉、孝徳天皇の皇后間人皇女と見ようとする加茂眞淵や鹿持雅澄の説には相應の根據があると思ふが、今はたゞ皇族の女性の御歌と見て置くことに滿足する。御同行の「吾背子」が兄君であるか夫君であるかは明かでないが、兎に角皇女は親み深く、全身を任せて吾背子に依りながら、恐らくは未だうら若き心勇みを以て旅に打興じつゝこの三首の歌を咏まれたであらう。磐代の岡の上に立つては、二人の代の長く幸多からむことを祈りつゝ、「岡の草根をいざ結びてな」と傍の我背子に呼びかける。行暮れて一夜をあかすためには、皇族と雖も假廬を作つてこれに草を葺かなければならぬ。若くて屈托のない心に假廬作りの營みを見ながら、「草なくば小松が下の草を苅らさね」と云はば無用のことを話しかけずにはゐられぬ親しげな呼び掛け。さうして最後に「吾が欲りし野島」は見せて貰つたが〔三字傍点〕まだ阿胡根の浦の珠拾ひはしてゐぬと、甘えるやうに催促する心の躍りやう――「見せつ」といふ吾背子を主格とする動詞を「吾が欲りし野島を」のあとに持つて來た文法的不整合が却つて女性的に吾背子に依る心持の表現を助ける。さうしてこの三首には、その生活樣相から云つてもこれを裏付ける心持から云つても、何等庶民と懸絶したものがないのである。問題はただ旅を樂む時間の餘裕の有無にのみある。歌中にあらはれた旅をするこゝろ〔三字傍点〕そのものは、貴族的條件(239)の制限なしに、何人の胸にも幸福な反響を喚び起さずにはゐないであらう。此處に表現されてゐるこゝろは皇族と庶民との間に障壁を劃するものではない。寧ろそれは皇族や貴族の心と庶民の心とがその簡素によつて相接觸し得る一つの境涯を表現してゐるのである。
 凡そこの時代の貴族は生きた自然に對する生きた接觸を持つてゐた。自然に對する忠實にして生命に滿ちた觀察と共感とは寧ろ驚くべきものがある。さうしてその自然は又庶民の見た自然であつて、それは農業や漁業と交渉する生産的關係より遊離したものではなかつたのである。その實例をあげれば數限りなきほどであるが、私は茲にはたゞ聖武天皇の御製を一首引用するに止めなければならぬ。
  秋田乃 穗田乎鴈之鳴 闇爾 夜之穗杼呂爾毛 鳴渡可聞
  秋の田の穗田を雁がね闇けくに夜のほどろにも鳴渡るかも(一五三九)
 これは萬葉時代の後期に入つて宮廷の莊麗が次第に庶民との懸隔を増しつゝあつた頃の至尊の御製である。さうしてこの歌に響いてゐる感情はそれが自然と農耕との健全な交渉を依然として持續けてゐることを物語つてあるのである。
 同時にこの時代の庶民も亦單に自然にかじり附く蟲のやうに土を喰つて無意識に生きてゐたのではなくて、自然に對する鋭き感覺と觀察とを持ち、これを人事との照應と融合とに向つて驅使する序詞の靈用――恐らくは萬葉集に世界無比の特長を與へるもの――に於いても決して一流の作者に劣らぬ高みにのぼることを解してゐた。固より我々は東歌の中に貴族の擬作が混入してるないかどうかを、一應疑つて見なければならぬ。若くは庶民が既に成句として貴(240)族の歌を踏襲したやうなことがないかどうかを考慮して見なければならぬ。例へば「高麗錦紐解きさけて寢《ぬ》るが上《へ》に何《あ》ど爲ろとかもあやに愛《かな》しき」(三四六五)のうち「高麗錦」は恐らく庶民の用ゐ得たものではあるまい。從つてそれは和歌の成句として下民の間にも擴がり用ゐられたものであらう。この事實は一面に於いて貴族と庶民とを通じて全國民的な文學世界が成立してゐたことの傍證となるものであるが、それは一面に於いて又東歌や防人歌の庶民的純粹性について多少の疑を挾ませる理由ともなるであらう。併しそれが大體に於いて庶民が彼自身の言語を以てせる自己表現であり、少くとも彼等がこの程度に貴族の文學を自己のものとして消化し得てゐたといふことは疑問の餘地を殘さぬと云はなければならぬ。さうして我々はその中に貴族の和歌と同質〔二字傍点〕にして更に素撲な心を、同質〔二字傍点〕な自然觀と同質〔二字傍点〕な文學的樣式とを見るのである。私は次にたゞ僅少の例を擧示する。
 
  伎倍比等乃 萬太良夫須麻爾 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許爾
  城柵《きべ》人の班衾《まだらふすま》に綿|多《さは》だ入りなましもの妹が小床に(三三五四)
  筑波禰乃 禰呂爾可須美爲 須宜可提爾 伊伎豆久伎美乎 爲禰※[氏/一]夜良佐禰
  筑波嶺の嶺《ね》ろに霞|居《ゐ》過ぎがてに息衝く〔三字傍点〕君を率寢てやらさね(三三八八)
  刀禰河泊乃 可波世毛思良受 多多和多里 奈美爾安布能須 安敝流伎美可母
  利根河の河瀬も知らずただ渉り浪に遇ふ如《の》す逢へる君かも(三四一三)
  麻可奈思美 奴禮婆許登爾豆 佐禰奈敝波 己詐呂乃緒呂爾 龍里※[氏/一]可奈思母
  最愛《まかな》しみ寐れば言に出《づ》さ寢なへば心の緒ろに乘りて〔八字傍点〕哀しも(三四六六)
  美蘇良由久 君女爾毛我母奈 家布由伎※[氏/一] 伊母爾許等抒比 安須可敵里許武
(241)  み空行く雲にもがもな今日行きて妹に言問ひ明日歸り來む
  宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都波都爾 仁必波太布禮思 古呂之可奈思母
  馬柵《うませ》越し麥食む駒〔七字傍点〕のはつ/\に新膚觸れし兒ろし愛《かな》しも(三五三七或本歌)
  阿須可河泊 之多爾其禮留乎 之良受思天 勢奈奈登布多理 左宿而久也思母
  飛鳥河下濁れるを知らずして背《せな》なと二人さ宿《ね》て悔しも(三五四四)
  阿遲可麻能 可多爾左久奈美 比良湍爾母 比毛登久毛能可 加奈思家乎於吉※[氏/一]
  味鎌《あぢかま》の潟に開《さ》く波平瀬にも紐解くものか愛《かな》しけを措きて(三五五一)
  安之能葉爾 由布宜利多知※[氏/一] 可母我鳴久 左牟伎由布赦思 奈乎波思奴波牟
  葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の塞き夕し〔葦の〜傍点〕汝をば偲ばむ(三五七〇)
  乎可爾與世 知我河流加夜能 左禰加夜能 麻許等奈其夜波 禰呂等敝奈香母
  岡に寄せ我が刈る草《かや》の狹萎草《さねかや》のまこと柔《なごや》は寢ろとへなかも(三四九九)
  佐伎母利爾 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
  防人《さきもり》に行くは誰が夫《せ》と問ふ人を見るが羨《とも》しさ物思ひもせず(四四二五)
  佐左賀波乃 佐也久志毛用爾 奈奈辨加流 去呂毛爾麻世流 古侶賀波大波毛
  小竹《さゝ》が葉のさやぐ霜夜に七重|著《か》る衣にませる子ろが膚はも(四四三一)
  夜未乃夜能 由久左伎之良受 由久和禮乎 伊都伎麻左牟等 登比之古良波母
  闇の夜の行く先知らず行く吾を何時來まきむと問ひし兒らはも(四四三六、昔年相替りし防人の歌)
 
 私はこれと照應させるために所謂貴族の歌數首を竝べて引用する。
 
(242)   但馬皇女在高市皇子宮時思穗積皇子御歌一首
  秋田之 穗向之所縁 異所縁 君爾田奈名 事痛有登母
  秋の田の穗向のよれる片縁り〔秋の〜傍点〕に君に縁りななこちたかりとも(一一四、參照二二四七)
  是川 瀬々敷浪 布々 妹心 乘在鴨
  この川の瀬々に敷く浪しく/\に妹が心に乘りにける〔妹が〜傍点〕かも(二四二七、參照一〇〇、六九一、一八九六、二七四九)
  氣緒爾 吾氣築之 妹尚乎 人妻有跡 聞者悲毛
  氣《いき》の緒に吾が氣《いき》衝きし〔三字傍点〕妹すらを人妻なりと聞けば悲しも(三一一五、參照一四五四、二九〇四)
    天皇(聖武)賜海上女王御歌一首
  赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思
    右今案此哥擬古之作也但以時當便賜斯歌歟
  赤駒の越ゆる馬柵〔九字傍点〕のしめ結ひし妹が情《こゝろ》は疑ひもなし(五三〇〕
  ※[木+巨]※[木+若]越爾 麥咋駒之 雖詈 猶戀久 思不勝焉
  馬柵越しに麥|咋《は》む駒の〔十字傍点〕詈《の》らゆれど猶し戀しく思《しぬ》びがてなく(三〇九六)
    慶雲三年丙午幸于難波宮時志貴皇子御作歌
  葦邊行 鴨之羽我比爾 霜零而 寒暮夕 倭之所念
  葦邊行く鴨の羽がひに霜零りて寒き夕〔葦邊〜傍点〕は大和し思ほゆ(六四)
 
 私は此處に引用せる貴人の歌と前掲東歌及び防人歌との間に、同質の心と同一の傳統とを中斷する階級の障壁を認(243)めることが出來ない。寧ろ其處には兩者に共通の文學世界の中に通用する既成の成句(例へば「馬柵越しに麥喰む駒)があつて、それが貴族と庶民との文學を通じて時處に應じて踏襲されてゐるのではないかとさへ思はれるのである。さうして我々が萬葉集に於いて驚嘆する言葉の若き力が――官能にまで徹せる精神の表現が――貴族の間に創作された藝術語ではなくて、日本民族の共通の傳統に屬してゐることは、それ等の言葉のうちの最も著しきものゝうちの二つ「心に乘る」「息衝く」等の語が貴族と庶民とに共通してゐることによつても推測し得るであらう。更に兩者の自然觀照の内容に就いて見れば、志貴親王の「葦邊行く」の御歌と東歌の「葦の葉の」の歌との模倣と見えるまでの相似や、但馬皇女の御歌の秋の田に對する親密な觀察――これも亦傳統的成句の疑ひあるものではあるが、假にさうであるとしても猶皇女のこゝろ〔三字傍点〕がこの成句の世界に親縁を持つてゐられたことは動かせないであらう――などに徴しても明かであると云はなければならぬ。萬葉集の文學を貴族文學の範疇に祭り込まうとするのは、事實の根柢に對する洞察の淺い、新しい成心の幻影である。我々は明治に至るまでの日本文學に於いて、徳川文學の歪められたる普遍性を問題外に置けば、萬葉集ほどに全民族的意義ある文學を持つてゐないと云ふことが出來るであらう。これに較べれば漢文學や佛教の影響の如きは寧ろ表面的にして間接であることを免れない。萬葉集の正統の祖先は記紀の歌や祝詞などになければならぬ。私はこれが萬葉集に對する正當な見方であることを信ずる。同時にこれが故に萬葉集は當時の日本民族の精神の最も深き表現であることを信ずる。懷風藻のやうな漢詩集を、當時の文化的貴族のより誇りとした文學である故を以て、萬葉集以上の歴史的價値あるが如く主張する珍説〔二字傍点〕は、民族の眞の魂が、所謂文化と開明との外に、如何に深き處にその水脈を發見しつゝあるかを知らぬ膚淺の言である。
(244) 固より私は外來の思想が憶良や旅人や家持等を通じて、後期にいたるに從つて次第に萬葉世界の内部に浸潤を深めて行くことを認めぬものではない。さうしてこの浸潤は同時に又萬葉精神の崩壞を意味するものでなければならなかつた。併し支那印度の文化の積極的貢獻は、全體として見れば、部分的影響として指摘し得べき幾つかの徴候以外に、寧ろ民族精神の發揚〔七字傍点〕を刺戟したところにあると云はなければならぬ。日本の精神はこの外來の刺戟なしには恐らくはあの程度の發揚を遂げることが出來なかつたであらう。この意味に於いて、古代東洋の文化が日本民族に萬葉集を制作せしめたと云ふのは、萬葉集が正統的に日本的傳統の所産であるといふのと同樣に正當である。この兩者は決して矛盾する提言ではないのである。
 特に私は在來の呪術的宗教的意識からの解放〔五字傍点〕を助けた點に於いて、外來文化が萬葉集の成立に貢献した功績を深刻に認識する。この點に於いて私は萬葉集を猶呪術的神話的信仰時代の中に置かうとする一部の新説と、正反對の立場に立つてゐることを告白せねばならぬ。萬葉集の強味は、世界的に多くの類似を發見し得るが如く(例へば希臘のクラツシツク時代、歐羅巴の文藝復興時代の如く)在來の〔二字傍点〕宗教的桎梏からの自由〔二字傍点〕が始まりつゝあるところに――從つて神話時代と或適當の距離〔五字傍点〕を獲得したところにある。それが宗教の内的深化を意味するか、凡そ宗教からの脱落を意味するかは、時代によつて種々の相違があるが、兎に角從來の〔三字傍点〕宗教的拘束からの人間性の自由〔六字傍点〕が常に藝術的開花期の條件をなすことは古今東西を通ずる定則と稱することさへ出來るであらう。固よりそれは宗教的氣分や雰圍氣や豫感と遠かり過ぎる〔六字傍点〕ことによつて再びその力を失ふ。在來の宗教が止揚せられたる最近の過去として猶その内的活躍を繼續しつつその時代に深き根柢を與へてゐる時代こそ最も優れた藝術の産出にふさはしき雰圍氣を持つのである。さうし(245)て私は萬葉時代(特に初期)に於いて正にこの通則の好適例を發見する。
 固より我々が止揚せられたる契機として前代の呪術的宗教の痕跡を萬葉集の中に數多く拾ひ出すことは容易である。而も人はそれが猶生きた力として萬葉人の感情〔二字傍点〕を規定しつゝあることをさへ發見するであらう。併しそれがどれほど無條件の眞劔〔六字傍点〕さを以て受けとられつゝあるか――この一つの疑問が多くの新發見の根柢に向つて投ぜられなければならぬ。單にその痕跡を拾ひ集めてこれとその時代の感情生活との交渉を指摘するだけならば、我々は現代に於いてさへ萬葉時代と共通な多くの呪術的信仰を發見し得るであらう。併し我々が我々の時代を呪術的信仰の時代と呼ばないのは、それが我々の意識の片隅にあつて無條件の眞劔さを持ち得ぬやうになつてゐるからである。固より萬葉時代の中には、在來の信仰が、我々の時代とは比較にならぬほど生きた力強さを以て働きつゝあることは、何人も疑はないであらう。併しそれにも拘らず、萬葉人は既にこれ等の呪術や神話を、信じて信じなかつた〔九字傍点〕のである。彼等は既にこの呪術や神話と、樣々の程度に於いて、畏怖しつゝも戯れることが出來たのである。かくて彼は藝術的自由を以てこの呪術的體驗を詩的に〔三字傍点〕使用することが出來た。私は萬葉人の意識に於けるこの事態を證明するためにたゞ四首の歌を引用する。
 
  和可家禮婆 道行之良士 末比波世武 之多弊乃使 於比弖登保良世
  稚け打は道行知らじ幣《まひ》はせむ黄泉《したへ》の使負ひて通らせ(九〇五、山上憶良?)
    湯原王月歌
  天爾座 月讀壯子 幣者將爲 今夜乃長者 五百夜繼許曾
(246)  天に座《ま》す月讀をとこ幣《まひ》は爲《せ》む今夜《こよひ》の長さ五百夜繼ぎこそ(九八五)
  千磐破 神之社爾 我掛師 幣者將賜 妹爾不相國
  ちやはぶる神の社に我が掛けし幣《ぬさ》は賜《たば》らむ妹に逢なくに(五五八、土師宿禰水通)
  千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無
  ちはやぶる神の齋《い》垣も越えぬべし今は吾名の惜しけくもなし(二六六三)
 第一首は子を失へる者の悲痛な遣瀬ない心から、幣によつて黄泉の下官を動かして、我兒を負ひて通つて貰ふことを求める。我々はこの歌によつて兒を失へる者の痛いやうな心を身に感ずるが、幣が果して黄泉の下官を動かす力を持つか否かについては、既に信じて信ぜぬ假定の上に立脚してゐるに過ぎぬことを認めなければならぬ。第二首は單なる空想の遊戯である、この遊戯に呪術的嚴肅を持つべき「幣」を持ち込むのは、既に幣に對して宗教的眞摯を失つてゐるのである。更に第三首に至つては、作者の自嘲の心を此處に讀むことを忘れるならば、最も打算的にして殆んと神を涜すものとさへ云ひ得るであらう。これに對して第四首は戀に狂へる心の歌として鈍いながらに切なき訴を持つてゐるが、その眞摯は作者の主觀にあつて神に對する畏敬にあるのではない。最も畏敬せらるべきものが切々たる戀の對照としてそれ以下の位置に置かるべきために引き出されて來るのである。この四首は最初のものを除けば共に歌として優秀であるとは云ひ難い。併し萬葉人の宗教的自由の限度を示すものとしてこれを見れば、我々はこれによつてこの時代を呪術的宗教との距離を測定することが出來るであらう。萬葉集に於ける人間の勝利〔五字傍点〕はこの限界の内部に成立する。さうして萬葉人がこの程度に祖先の神から解放されることは、異邦の神佛との接觸なしには恐らく不(247)可能であつたであらう。
 かくて日本民族の文化は東洋的文化の中にその新なる局面を展開する。それは彼自身の國民的〔三字傍点〕傳統の開展として、民族的純粹性を根柢に於いて把持するが故に、その獨自なる特色を以て世界文學の中に歩み入るべき資格を獲得する。凡そ國民文學の世界的意義はその國民的特色の著しさに比例して増大するのである。
 
      三
 
 萬葉集は活きて動きつゝ成長する時代の現實を背景とする。舊來全民族の絶氏ノ上として國家に君臨せる皇室は、大化の革新以降の中央集權によつて益々その存在を明かにし、國民との直接の交渉を濃くしつゝ、切の國民生活の中心に立つ。當時に實勢力を持つ信仰の中最も無條件な眞劔さを以て受取られたのは、恐らく現人神としての天皇に對する信仰であらう。「皇《おほぎみ》は神にしませば天雲の雷の上に廬するかも」(二三五、柿本人麿)――これが天皇崇拜の基調である。國民は神に對する信仰を以て喜んでこれに奉仕する。御民たちは「家忘れ身もたな知らに鴨じもの水に浮きゐて」(五〇)藤原宮造營の流木を取り、「弱薦《わかこも》を獵路《かりぢ》の小|野《ぬ》に猪鹿《しし》こそはい匐ひ拜《をろ》がめ鶉こそい匐ひもとほれ猪鹿じものい匐ひ拜み鶉なすい匐ひもとほりかしこみと仕へ奉りてひさかたの天《あの》見るごとく眞十鏡《まそかゞみ》仰ぎて見れど春草のいやめづらしきわが大王《おほぎみ》」長皇子の遊獵に奉仕する(二三九、人麿)。「やすみししわが大王の食《をす》國は大和も此處も同じとぞ念ふ」(九五六)――これが大宰帥大伴旅人の信念であり、遣新羅使阿陪繼麿は筑前國に船がかりして「大君の遠の朝廷《みかど》と思へれど日長くしあれば戀ひにけるかも」(三六六八)と歌ふのである。固より其處には鹿や蟹に寄せて奉仕する身の果(248)敢さを嘆く乞食者《ほがひぴと》の詠《うた》(三八八五−六)のやうな異色もあるが、それとても奉仕を受くる權利と奉仕する義務とについて何の疑ひを挾むのではない。而もかくて國民生活統一の中心をなす天皇は、持統天皇と志斐嫗との問答(二三六−七)の如く歌を以て近侍の婦と戯れ、山居する坂上郎女が歌と共に山土産を奉獻する(七二一)を得るやうな氣安さをその臣下との間に持つてゐられたのである。柿本人麿はこのやうな空氣の中にゐて、ピンダロスのシラクーザに於けるが如く、充實と誠意とを以て宮廷詩人となることが出來た。彼を自屈せる御用歌人のやうに思惟するのは、この時代の觀念に同化する心の寛い客觀性が論者の側に缺けてゐるからである。
 併しこの時代は皇室の内部に於ける闘争も亦最も多い時代であつた。その最も著しいものは天武天皇の壬申の亂であるが、齊明天皇の朝には有間皇子の逆謀があり、持統天皇の御代には大津皇子の謀叛があり、更に世が降るに從つてそれは重臣の間にも波及して、多くの刑死や流竄が運命の轉變を深刻に感じさせるものがあつた。而もそれは次の平安朝に藤原氏の間に行はれた權勢爭奪の如き女性的陰謀的なものではなく、その權勢欲は寧ろ陽性に英雄的なものを持つてゐた。それが反對黨を根絶しようとするやうな執拗なものではなく一種の男らしき寛かさを持つてゐたことは、天武天皇の天智帝の諸皇子に對する取扱ひによつても窺知し得るであらう。さうしてこれ等の英雄的悲劇はそれぞれに萬葉集の中にその痕跡を殘した。有間皇子は「磐代の濱松が枝を引き結び眞幸くあらば亦かへり見む」(一四一)と歌へるも甲斐なく、間近き藤白坂に絞首されて、その磐代の結松だけが空しく後人の詩興を動かした(一四三−一四六)。天智天武兩帝の間に額女王を中に置く嬬爭ひがあつたことは周知の事件であるが、この女王との間に生れた天武帝の長女十市皇女が、弘文天皇の妃として父と夫との爭ひの間に苦み、夫君の縊死せられた後六年、「卒然病發薨於(249)宮中」、その同胞高市皇子をして、「三諸の神の神杉|夢《いめ》のみに見えつゝもとな寐ねぬ夜ぞ多き」(一五六、眞淵の訓に從ふ)と嘆せたことを思へば、昔處女として伊勢神宮に參赴かれたとき、「河の上の五百箇磐群《ゆついはむら》に草|生《む》さず常にもがもな常處女《とこをとめ》にて」と吹※[草がんむり/欠]《ふきの》刀自が歌つたことが、新たなる感慨を以てふりかへられるのである。さうして大津皇子が「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年好學、博覽而能屬文、及壯愛武、多力而能撃劔、性頗放蕩、不拘法度、降節禮士、由是人多附託」と稱せられる材幹を以てして二十四歳を一期に「死を譯語田の舍に賜り」臨終の詩「金烏臨西舍、鼓聲催短命、泉路無賓主、此夕離家向」(懷風藻)――(これが國風であつたらどれほど自由に皇子の最後の感慨を傳へ得たであらうに)――を殘して薨去される前後に、その同母姉、伊勢の大伯皇女の深き憂慮と慟哭とがあつたことは、「二人行けど行過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ」(一〇六)の御歌や、「神風の伊勢の國にもあらましをいかにか來けむ君もあらなくに」(一六三)などの御歌によつても想見し得るであらう。さうして大津皇子と草壁皇子との間に石川郎女を間に置く戀愛の葛藤もあつたであらうことは、一〇七−一一〇の贈答歌が暗示してゐる。我々は又同樣の關係を但馬皇女に對する高市皇子と穗積皇子との間にも推測することが出來る。――このやうな權勢と戀愛との葛藤は、現實の事實としては甚だ悲むべきである。併しそれが萬葉集の背景にある活きて動いてゐる事實として見られるとき、情意の熱烈にして溌剌たる活動はこの文學世界の深さを裏打するものとして、別樣に評價せられなければならぬ。
 この活動せる情意の世界に、更に外國關係が酵母として作用する。その文化的影響は普く人の注意せるところであるが、文藝との關係は單にこの方面にのみ局限されるのではない。百濟に關する新羅と唐との外交的軍事的折衝は、もつと現實的に當時の人心を刺戟して、その情意の世界に多くの緊張を與へたであらう。文化的外交的意義を有する(250)遣唐使や遣新羅使の往復は、當時に於ける海路の困難を思へば、想像し得る限りの深刻な體驗をその一行に與へなければならぬ。これに筑紫に於ける邊防の要務をも加へて、萬葉人は從來の日本史上最も深く海洋との接觸を持つてゐた。さうしてそれが萬葉集をして世界有數の海洋文學たらしめる。「潮滿てば水沫《みなわ》に浮ぶ細砂《まなご》にも」(二七三四)や「小浪《さざなみ》の波越す安暫《あざ》に降る小雨」(三〇四六)の微から、「大葉山霞かがふり小夜|深《ふ》けて吾が船|泊《は》てむ泊知らずも」(一二四四)や「家にてもたゆたふ命浪の上に浮きてし居れば奧處《おくが》知らずも」(三八九六)の深さにいたるまで、それが心の底に體驗された海であつて、決して沿岸遊覽の歌に墮してゐないことは、樣々の意味に於ける外國關係の多事が齎した好影響と云はなければなぬ。更に内國關係に於いては、蝦夷の討伐が再び始められて、東國が新しく中央の注意の前に蘇り、地方官が遙任の搾取に墮落せずに自ら任地に下つて眞摯政務に鞅掌したことは、中央を刺戟すると共に地方といふ存在を直接の姿に於いて全國民的存在の中に攝取する。而も大伴旅人の歌――「沫雪のほどろ/\に零り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念ほゆるかも」(一六三九)――が證明するやうに、彼等の憧憬は常に帝都を焦點とするのである。明瞭に中央を焦點とする地方の直接的存在――これはその後の久しきに亙つて日本の社會が享受し得なかつた幸福である。さうして其處から萬葉世界の、當時に於いて可能であつた限りの廣さが成立するのである。
 この情勢は庶民の情意生活にも波及せずにはゐられない。彼等は中央の派遣官を通じて中央の文化の餘響を受くる以上に、禁衛や邊防の務によつて自らこの動ける世界の中に動きつゝ接觸しなければならなかつた。故に「家にして戀ひつつあらずは汝が佩ける刀《たち》になりても齋《いは》ひてしかも」(四三四七)といふ父を殘し、「草枕旅の丸寢の紐絶えば我《あ》が手と附けろ此《これ》の針《はる》持《も》し」(四四二〇)といふ妻に別れ、「ちはやぶる神の御坂に幣《ぬさ》奉《まつ》り齋ふいのちは母《おも》父の爲」(四四〇二)、「旅(251)衣八重着重ねて寢ぬれどもなほ膚寒し妹にしあらねば」(四三五一)と嘆きつゝ、「難波門を榜ぎ出で見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく」(四三八〇)を見て、遠く筑紫に赴くとき、彼等の魂は家郷に安居する者の知らぬ悲痛と恩愛の高鳴りを體驗する。而も其處には「筑紫なる匂ふ兒ゆゑに陸奧のかとり處女の結ひし紐解く」(三四二七)といふ挿話も生ずるであらう。「うち日さす宮の吾背は大和女の膝|枕《ま》くごとに吾《あ》を忘らすな」(三四五六)といふやうな家妻の懸念も生れるであらう。かくて彼等も亦彼等の苦痛と嘆息とによつて萬葉世界の一員たる資格を獲得するのである。
 萬葉集の世界的意義を問ふとき我々はこのやうな背景を具體的に描き出してその唯一《ユニーク》な點を把握して置くことも必要である。併しそれは猶本題ではない。本題は漸く此處から始まらうとしてゐるのである。このやうな背景の上に生きつゝ、彼等は如何に自然〔二字傍点〕を微細に質實に内的同感を以て把握したか。「道の邊の草深百合」(一二五七、二四六七)や、「山|萬苣《ちさ》の白露おもりうらぶるゝ」姿(二四六九)や、「鳰鳥の足沾《あぬ》れ」(二四九二)や、「卯の花をくだす霖雨《ながめ》の水始《みづはな》に縁る木糞《こづみ》」(四二一七)や、「小竹の末《うれ》に尾羽うち觸りて鳴く鶯」(一八三〇)などの微細なもの、「水鳥の鴨の羽の色の春山の」(一四五一)や、「時雨降る曉月夜」(二三〇六)などの美しいものから、「白浪の八重折の上に亂るゝ沖つ玉藻」(一一六八)の大きさにいたるまで、彼等は如何に呼吸を等しくしつゝ自然を感じたか。又彼等は如何に身心の情熱を感じつゝ戀愛〔二字傍点〕を歌ひ上げたか、贈答や辭令などといふ少部分の些事を全然問題外にするほど燃え上る力を以て、眞實に、身に徹してこれを體驗したか。「たらちねの母が召す名を申さめど路行く人を誰と知りてか」(三一〇二)、「相見ては面隱さるるものからに繼ぎて見まくの欲しき君かも」(二五五四)、「幼婦《をとめご》は同じ情《こゝろ》に須臾《しましく》も止む時もなく見なむとぞ思ふ」(二九二一)の幼さから、「はね※[草冠/縵]今する妹がうら若み咲《ゑ》みみ慍《いか》りみ著けし紐解く」(二五四二)、「若草の新手枕を※[糸+橿の旁]そめて夜をや(252)隔てむ憎くあらなくに」(二五四二)、「たけばぬれたかねば長き妹が髪この頃見ぬに騷《みだ》りつらむか」(一二三)、「人はみな今は長しとたけと言へど君が見し髪亂れたりとも」(一二四)の初々しさを新山踏として、「悔しくも老いにけるかも我背子が求むる乳母《おも》に行かましものを」(二九二六)の凄さにいたるまでの樣々の年齡。阿倍女郎の「吾背子が著《け》せる衣の針目落ちず入りにけらしもわが情《こゝろ》さへ」(五一四)のひたすらに家庭的な愛らしさから「栲領布《たくひれ》の白濱浪の寄りも肯《あ》へす荒《あら》ぶる妹に戀ひつゝぞ居る」(二八二二)にいたるまでの色々の性格。「敷妙の衣手|離《か》れて玉藻なす靡きか寢らむ吾を待ち難《がて》に」(二四八三)の官能性から、「妹と言ふは無視《なめ》し恐し《か仁こ》しかすがに懸けまく欲しき言にあるかも」(二九一五)、「時雨ふる曉月夜紐解かず戀ふらむ君と居らましものを」(二三〇六)などの理想主義まで。その間あらゆる境位と情熱とが戀愛の全スカーラを盡して如何に此處に歌はれてゐるか。さうしてその格調〔二字傍点〕がどれだけの丈高さを以て人間の感動を直ちに、細目に入ることを求めずに、打出してゐるか。「暮《ゆふ》されば小|椋《ぐら》の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(一六六四、雄略天皇、參照、一五一一、舒明天皇)「渡津見の豐旗雲に入日さし今夜の月夜|清明《あきら》けくこそ」(一五、天智天皇)の大らかさから、「曉と夜烏鳴けどこの山上《をか》の木末《こぬれ》の上は未だ靜けし」(一二六三)のゲーテの旅人の夜の歌を想起させるやうなものを經て、「わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」(四二九一、家持)の最後にいたるまで、それは時を經るにつれて變遷を見せつゝも猶その緊張を如何に保持してゐるか。而も一方に於いてこの格調が自然や人生の細かな忠實な筒勁な音樂的な寫實と兩立し得てゐるか。さうして最後に萬葉的表現の特徴として、その後の日本語に於いて再びし得ず、況して外國語に飜譯することの絶對に不可能な序詞〔二字傍点〕――それが英語に於ける as や like や、獨逸語に於ける wie や gleich を眼下に見卸し、是等の外國語の二つのものを竝置〔二字傍点〕するに過ぎぬに較べれば遙かに動的な日(253)本語の「なす」をもまだるしとしつゝ、自然の景象や人生の他の事象を、音をたてながら直ちに主題の中に流れ込ませ、主題と照應し融合して渾然として微妙な一つの世界を形成させる序詞――について、その藝術的本質やその變化流動の範圍を追跡することは、我々にとつて最も重大な課題でなければならぬ。併し本題に入るに先つて私は既に所定の紙數を用ゐ盡してしまつた。私は私の云はむと欲するところを強暴に中斷しつゝ此處に筆を擱かなければならぬ。最近の機會を待つて私は私が準備しただけのことを書きとめて置きたいと思ふ。(八、八、一一)
 那須の山中で參考所に不便を感じつゝ私はこの中斷せられた小論を草した。歌のよみ方は諸家の説を參照しつゝ自分の欲する讀み方を選擇した。引用の歌を白文と平假名書きと竝べあげたのは、讀者に自分の獨斷ね強ひぬ用意であつた。併し後半に至つて紙數の缺乏に迫られたため、問題の多いものを却つて平假名だけで本文に挿入するといふやうな不統一に陷つてしまつた。今日の學者の讀み方のうちでは山田孝雄氏の萬葉集講義と佐々木信鋼氏の新訓萬葉集に負ふところが最も多かつた。正宗敦夫氏の萬葉集總索引は、それが大部で山中に持込むに不便であつたため第七卷までを參照してその後を抛棄しなければならなかつた。茲に記して以上の三氏に特別の謝意を表する。
 
春陽堂、481頁、1933.7.20、
【萬葉集講座第六卷】編纂研究篇 目次
編纂論序説…………………………………………澤瀉久孝…(一)
雜歌・四季雜歌論…………………………………石井庄司…(二五)
相聞歌・四季相聞歌論……………………………安田久雄…(五七)
譬喩歌・問答歌論…………………………………中島光風…(九一)
挽歌論………………………………………………竹内金治郎…(一二七)
卷一・二論…………………………………………品田太吉…(一六一)
卷三・四論…………………………………………境田四郎 (四六五)
卷五論………………………………………………峯岸武司…(一八一)
卷六論………………………………………………横山英…(二〇一)
卷七論………………………………………………篠原一二…(二二一)
卷八論………………………………………………武智雅一…(二四五)
卷九論………………………………………………松山慎一…(二六九)
卷十論………………………………………………宮島弘…(二九一)
卷十一・十二論……………………………………福田嘉樹…(三一五)
卷十三論……………………………………………加藤順三…(三四三)
卷十四論……………………………………………藤森朋夫…(三六二)
卷十五論……………………………………………粂川定一…(三八一)
卷十六論……………………………………………大館義一…(四〇六)
卷十七・十八・十九・二十論……………………池上禎造…(四四一)
 
 
 
(161) 卷一・二論
                品田太吉
 
     此集は二十卷歟
 
 萬葉集は始より二十卷なりし哉否哉、これを疑ふこと久し。卷數の事、古書には見えず。源氏物語梅ケ枝の卷に、嵯峨天皇の古萬葉集四卷撰び書かせ給ひしよし見えたるは、いづれの卷々なりし歟、さだかならず。古くは卷二を上下二卷とせるよし、此集の古寫本に記せり。又卷三なる挽歌部の末に、旅人、家持兩人と、不比等公の履歴を載せたるは、終末の體裁と見ゆ。此集二十卷といふことは、後拾遺の序に、奈良のみかどは萬葉集二十卷を撰びて、常のもてあそびものとし給へりと見えたるが其始にして、平安朝に入りて後、古き歌集どもを取集めて、二十卷とせしものならん。
 第十七より第二十に至る四卷の如きは全然別種にして、家持歌集と名づくべきに似たり。又第十卷の如きは、類聚又は類題歌集と云ふべきものなり。詠花、詠鳥、詠月等の題を置きて、其類の歌を集めたれど、題詞も作者の名も記さず。卷七亦これに屬す。
(162) 古くは歌集と云ふもの無く、國史に歌を記載せらるゝのみなりしに、天武持統兩天皇の御代に至りて、始めて歌集撰定の事あり。此集の第一卷は即ち其根本にして、もとは天皇の御代御代に分ち載せたるのみなりしを、大伴家へ移りて後、雜歌と題したるものならん。
 日本書紀三十卷の内、天智紀に至るまでは、歌を記載せられしに、天武持統の兩紀に限りて、これを載せず。最も詳細に記されたる此兩紀に、一首の歌も見えざるは、別に書集め置かれしものあればなり。即ち萬葉集これなり。日本書紀に無き歌は此集に在りて、あたかも符節を合はすが如く、兩書を合せ見て、始めて完全なるものとなれり。予が此集の撰定は、勅を奉じて成れるものなりと言ひしは、此事實に據りてなり。
 雄略天皇の御製一首、國史に洩れたる故、此集に載せて補足せられたり。卷二の始に載せたる磐姫皇后の御歌四首は、傳説に依りたるにて、仁徳天皇の時代の歌體にあらず。作者未詳歌中に入るべきものなり。天武天皇の御父君にまします舒明天皇の御代を以て始まるは、當然の事にして、此時代の歌は、古老に尋ね聞きても、知ることを得べきなり。
 天武天皇の十年三月、大極殿に出御ましまして、川嶋皇子と忍壁皇子等に詔して、帝紀及上古の諸事を記さしめ給ひし時、中臣(ノ)連大嶋と平群(ノ)臣子首の兩人が、これを筆録せるよし天武紀に見ゆ。此集第一卷の編纂は、これに本づくものにして、天武持統の兩朝に書集め置かれしものに、奈良朝のはじめ、元明天皇の靈龜元年九月、御讓位ありし時までの歌を追加し、其後大伴家へ移りてより、相聞挽歌の兩部を増補して第二卷とせり。其事は次條に詳説す。
 
(163)      此集は奈良朝歟
 
 此集を指して奈良朝の歌集と言ひ、或は奈良朝文學、奈良朝文法など言ふは、當らぬことなり。奈良朝とは元明天皇の和銅三年に都を奈良に遷し給ひてより後、七十餘年間の事なれども、此集は天平實字三年正月を以て打切りたれば、奈良朝の歌が入りしは四十九年間なり。それより上代なる、舒明天皇の御代より、文武天皇の御代に至るまで、八十一年間の皇居は、多くは飛鳥《アスカ》地方なり。此集第一第二の兩卷には、上記の如く靈龜元年九月までの歌を載せたれば、奈良朝は僅に六年ばかりにして、其他は皆前代の歌なり。奈良朝にはあらで、飛鳥《アスカ》朝と言ふべきにあらずや。猶第三以下の卷々に入りし人麿歌集を始め、飛鳥朝の歌多し。
 藤原宮は持統文武兩天皇の皇居にして、持統天皇の四年に宮造りの事ありて、朱鳥八年十二月、明日香(ノ)清御原(ノ)宮より遷り給ひぬ。藤原朝と云ふを設くべき事なれど、其地は高市郡鴨公村大字高殿、飛鳥川の流域にして、飛鳥風の吹くあたりなれば、藤原朝は飛鳥朝に屬せしめて可なりと思ふ。此集二十卷世に行はるゝ事なれども、其眞本は第一第二の兩卷なるべきこと、前條に言へるが如し。
 
      兩卷の相違と此集の成立
 
 此集第一第二の兩卷が古き撰定にして、體裁相似たれども、其内容について考ふるに、相違せる點少からず。例へば、
(164)(一) 天皇の御製は、卷一には必ず御製歌〔三字右・〕と記したれど、卷二にはすべて御歌と書けり。
(二) 卷二には何々歌四首〔二字右・〕、又何々歌−首〔二字右・〕とやうに、歌数を記したれど、卷一にはすべて歌数を書かざる例なり。但し十一丁に三山歌一首〔二字右・〕とあれど、元暦校本、神田本等には、一首の二字無し。
(三) 反歌の添はりたる長歌の題詞について、卷二には必ず何々歌何首并短歌〔三字右・〕と記したれど、卷一には并短歌の三字を書けるもの無し。又歌数を書かざること前記せるが如し。但し十八丁に幸2于吉野宮1之時、柿本朝臣人麿作歌二首井短歌二首〔七字右・〕と書ける本見ゆれど、それは目録に依りて書加へたるものにて、版本にも古寫本にも二首以下の七字無し。
(四) 卷一に内大臣藤原朝臣〔二字右・〕とあるは、鎌足公なるが、卷二には同公の事を、三所まで内大臣藤原卿〔右・〕と書けり。
(五) 卷二相聞部の歌に續けて、禅師、郎女と書き、又挽歌部の歌の下に、額田王、舎人吉年と、作者の名を連ね書たれど、卷一には此書式の例を見ず。又卷二の末に、和銅四年歳次〔二字右・〕辛亥、靈龜元年歳次〔二字右・〕乙卯と記したれど、卷一には年號の下に歳次と書けること無し。
(六) 卷二挽歌部、川嶋皇子の薨じ給ひし時の歌の題詞に、
  柿本朝臣人麻呂(ガ)獻(リシ)2泊瀬部(ノ)皇女、忍坂部(ノ)皇子(ニ)1歌一首并短歌
とあるは、歌の意義に背ける記しざまにして、人の惑ふ所なり。誤脱歟と思へど、金澤本をはじめ、諸古本又目録にも、皆かくの如く記せり。按ずるに人麿の原本には、次の明日香(ノ)皇女の御事をよめる歌と共に二首を兼ねて、獻(リシ)2泊瀬部(ノ)皇女、忍坂部(ノ)皇子(ニ)1歌とのみありしを採りて、其上に柿本朝臣人麻呂の七字を書加へしものならん。卷一には、かくの如く紛らはしき記しざまを見ず。
(165)(七) 卷二に大伴安麿、大伴田主、大伴宿奈麿、巨勢郎女等、大伴家の人々の歌が多く入りたれど、卷一には是等の人を見ず。
(八) 歌の選びざまについて相違あり。卷二の始に山多都禰迎加將行《ヤマタヅネムカヘカユカム》云々と唱へ誤れる歌を載せ、又皇子(ノ)尊(ノ)宮(ノ)舎人等(ガ)慟傷歌二十三首を、優劣|併《アハ》せ載せたれど、卷一には、すべて選び探れる歌をのみ載せたり。大寶元年九月、紀州へ行幸し給ひし時の歌は、卷九に十三首見えて、いと多かりし事なれど、卷一には只二首選び載せたり。
(九) 卷二には記載の順序正しからざるもの往々見ゆ。高市(ノ)皇子の薨じ給ひしは、持統天皇の十年七月にして、明日香(ノ)皇女の薨じ給ひしは、文武天皇の四年四月なり。然るに此卷には後者を前に載せ、前者を後に記せり。又但馬(ノ)皇女の薨じ給ひしは和銅元年六月にして、弓削(ノ)皇子の薨じ給ひしは、文武天皇の三年七月なり。これも亦其次第を誤れり。卷一も追加部には順序を誤りしもの見ゆれど、藤原(ノ)宮御井歌に至るまでは、此類の事無し。
(十) 用字法について「神ながら」と云ふ語、卷一に四所皆神長柄〔三字右・〕とあるに、卷二にも四所見えたるが、いづれも神随〔二字右・〕と書けり。又「さゞ浪」と云ふ語、卷二に神樂浪〔三字右・〕とあるに、卷一には樂波〔二字右・〕と略書せり。これは卷七に神樂聲浪〔四字右・〕と書けるが其本字なり。
 以上に擧げたるが如く、同時の撰定と見ゆる此兩卷に、かくの如き相違あるは何故ぞ。そは言ふまでも無く、同時に撰定せるにはあらで、撰者全然異なりしが故なり。卷一は天武持統兩朝頃に記し置かれしものを其基礎とせり。今假りに藤原宮御井歌に至るまでを其原本とせんに、其歌すべて四十四首(反歌は長歌に合せたり)の内、天皇の御製歌五首、皇子皇女の御歌十九首にして、臣民の歌は二十首入りたれど、それも皇居、舊都等をよめるもの、行幸の御(166)供に從ひし時によめるもの多く、すべて皇室に關する〔六字右・〕歌を集めたるが、此卷の特色なり。もと朝廷の御編纂なりしを、後に大伴家へ移されし事は、卷二に大伴家一門の人々の歌が多く入りたるに依りて知らる。大伴安麿卿は壬申の年の功臣にして、其家族には歌を好む人多ければ、乞へるがまゝに、此家へ移されしものなるべし。移りて後、相聞挽歌の兩部を増し加へたるにて、其時卷一に雜歌と題したりと見ゆ。されど常の雜歌と異なるは、いづれの旅の歌も、行幸の時によめるものにて、常の旅行の歌は無し。此卷は皇室に關する歌どもを載せたるものなればなり。されば此卷に題すとならば、皇室部とあるべき事と思ふ。
 かくて大伴旅人卿の時、養老の初年頃に此兩卷は成れりと見ゆ。旅人卿は養老二年三月中納言に任ぜられ、天平二年十月大納言に昇り、同三年正月從二位に進み、同年七月薨。今卷二に見えたる大伴家一門の人々と、旅人卿との關係を、圖に示すこと次のし。
 
 右大臣長徳公第六子和銅七年五月薨   
安麿――――――――旅人 安麿の第一子
          田主 安麿の第二子母は巨勢郎女
          宿奈麿 安麿の第三子
 
       舊本とは何ぞや
 
 此集第一第二兩卷の左註について、或は順朝臣等の註なりと言ひ、或は撰者の自記なるべしと言ひ、眞淵翁の萬葉考には、左註をこと/”\\く削り去れり。そは後人の加筆にて、誤れること多しとての所爲《シワザ》なるべし。今按ずるに左註(167)は年月作者等の勘文にして、後人の書加へしものなれども、其文面に據れば、此集編纂の時代より遠く離れたる後世の註にはあらざるが如し。其註者も一人にはあらで、幼稚なる加筆もあれど、學者の貴重なる勘文も見えて、參考に供ふべき事多し。其二ツ三ツを次に記す。
 一の卷十二丁|渡津海乃豐旗雲爾伊理比沙之《》ワタツミノトヨハタグモニイリヒサシ云々の左註に、
 右一首(ノ)歌、今案(ルニ)不v似2反歌(ニ)1也。但(シ)舊本(ニハ)以2此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌(ニ)1、故今猶載(ス)2此次(ニ)1(この次は次第の次なり「ツイデ」と讀むべし)。
又十三丁に綜麻形乃林始乃狹野榛能《ヘソガタノハヤシノサキノサヌハリノ》云々の左註に、
 右一首(ノ)歌、今案(ルニ)不v似2和(スル)歌(ニ)1。(この和歌は「ヤマトウタ」にあらず唱和の和なり「ワスルウタ」と讀むべし)但(シ)舊本(ニハ)載(ス)2于此次(ニ)1、故以猶載(ス)焉。
と見えたる舊本〔二字右・〕とは何ぞ。これについて解説せる人無きやうなれど、愚案は次の如し。
 此集|始《モト》は卷物なりき。それには後より書入れたるものあるべく、裏書せし事も多かるべし。それを清書して冊子本に改めし時、其最初の卷物を指して舊本と言ひしなり。原本と云ふに同じ。いにしへ歌書を清書せし時、其筆者には能書家を選び用ひたるが如し。其能書家なる筆者は、多くは學力低級にして、是非を判斷すること能はざりしが故に前記左註に見ゆる如く、但(シ)舊本(ニハ)以2此歌(ヲ)1云々、但(シ)舊本(ニハ)載2于此爽1、故(ニ)以猶載(ス)焉と記して、原本のまゝに從ふよし言へり。反歌なりや否哉、又和歌なりや否哉と云ふが如きは、歌の素養ある人ならば、容易に辨別し得べき筈なり。故今猶載2此次1〔六字右・〕などと記せるは、筆者みづからの無能を表白せるものと言ふべし。無能なりしが故に、誤りし事も多きなり。勿論古筆本に依りて誤脱を補正し得ること多けれども、歌の心得無き人が無意識に書寫したるより、莫囂圓隣之云々(168)の如き怪文字、「はたゝ雲ふらぬ雨故」云々の如き異樣なる歌を書出でて、人を當惑せしむること少からず。そは此集の元暦校本、三十六人集の西本願寺本をはじめ、能書家が書ける古筆本に、誤まれる歌が多く見ゆる事によりて知らる。西本願寺本家持集に、
 おとにのみ〔五字右・〕戀ふれば苦しなでしこの花に咲かなんなぞつねに〔五字右・〕見んとあるは、萬葉集第十、夏相聞に、隱耳戀者苦瞿麥之花爾開出與朝且將見《シタニノミコフレバクルシナデシコノハナニサキイデヨアサナサナミム》、同第八春相聞に、吾屋外爾蒔之瞿麥何時毛花爾咲奈武名蘇經乍見武《ワガヤトニマキシナデシコイツシカモハナニサカナムナゾヘツヽミム》とある兩首の上下句が混じたるにて「したにのみ」を「おとにのみ」に誤り「なぞへつつ見む」を「なぞつねに見ん」と誤りしなり。それは書寫の際、次の歌の相似たる詞に目移りて、ふと書誤りしなり。又
    はたゝ雲〔四字右・〕ふらぬ雨故ひさかたのあめよりそらは〔ひさ〜傍点〕くもりあひつゝ
とあるは、萬葉集第十、冬雜歌に、甚多毛不零雪故言多毛天三空者隱相管《ハナハダモフラヌユキユヱコチタクモアマツミソラハクモリアヒツヽ》とある歌にて、歌仙家集本には「いたくしもふらぬ雪ゆゑ」とあるを、西本願寺本も群書類從本も「はたゝ雲ふらぬ雨ゆゑ」云々と誤りしなり。此類の脱線したる歌幾首も見えたり。古筆本を過信する人の爲に、こゝに記し置く。
 
      哀傷歌の脱落
 
 
 一の卷十丁|※[就/火]田津爾船乘世武登月待者《ニギタヅニフナノリセムトツキマテバ》云々の左註に、
  右※[手偏+僉](ルニ)2山上(ノ)憶良大夫(ガ)類聚歌林(ヲ)1曰、飛鳥《アスカノ》岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)元年己丑、九年丁酉、十二月已巳(ノ)朔壬午、天皇大后|幸《イデマス》2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1。後(ノ)岡本(ノ)(169)宮(ニ)馭宇天皇(ノ)七年辛酉春正月丁酉(ノ)朔壬寅、御船西(ニ)征《ユキテ》、始(テ)就2于海路(ニ)1。庚戌御船泊(ル)2于伊豫(ノ)※[就/火]田津石湯《ニギタヅノイハユノ》行宮(ニ)1。天皇|御2覽《ミソナハス》昔日《ムカシヨリ》猶|存《ノコレル》之物(ヲ)1、當時《ソノトキ》忽起2感愛之情1。所以因《コノユヱニ》製2歌詠(ヲ)1爲2之哀傷(ヲ)1也。即此歌者天皇(ノ)御製(ナリ)焉。但(シ)額田王(ノ)歌者別(ニ)有2四首1。
とある元年己丑〔四字右・〕は舒明天皇の元年。九年丁酉〔四字右・〕も同天皇の九年なり。此兩年は行幸についての註にあらず。古へは干支を重用したれば、十一年の干支を明瞭に知らん爲め、元年己丑、二年庚寅、三年辛卯とやうに記すべきを、元年と九年のみを出して、其他は省略したるなり。略解に『舒明紀に九年には此幸無くて、十年十月にあり』と言ひしは、行幸についての註と思ひ誤りしなり。十年十月の行幸は造後温泉にはあらで、有馬の温泉なり。十二月己巳朔壬午〔八字右・〕の上に十一年己亥冬〔六字右・〕の六字を脱せり。此六字無くては、こゝの文を解すること能はざるなり。壬午は十四日に當る。伊豫湯宮〔四字右・〕は※[就/火]田津石湯行宮《ニギタヅノイハユノカリミヤ》とあるに同じ。道後温泉へ行幸の時建て給ひし假宮なり。行宮〔二字右・〕は行在所に同じ。天子之|行《ミユキヲ》曰2乘輿(ト)1、止(ヲ)曰2行在1。こゝまでは舒明天皇の行幸ありし事を註せり。
 後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇天皇は齊明天皇なり。馭宇は御宇に同じ。「アメノシタシロシメス」と讀む。御船西征〔四字右・〕とは百濟《クダラノ》國の爲に新羅《シラギ》を伐《ウ》たんとて、筑紫へ到り給ひし事なり。征は行旅に云ふ。旅衣を征衣と云ふも此義なり。
 庚戌御船〔四字右・〕云々、齊明天皇紀には、甲辰御船到(リ)2于|大伯《オホクノ》海(ニ)1、庚戌御船云々とあり。庚戌は十四日。大伯(ノ)海は備前國|邑久《オホク》の海なり。※[就/火]田津石湯行宮〔七字右・〕と云ふまでは、日本書紀を引用して、造後温泉へ行幸し給ひし時の事を註せり。
 天皇|御2覽《ミソナハシ》昔日(ヨリ)猶|存《ノコレル》之物(ヲ)1とは舒明天皇の御時、齊明天皇と共に行幸し給ひし時の物が、今猶存するを見そなはして、忽ち感愛の情を催し給ひ、當時の事どもを慕《シヌ》びて、よみ給ひし歌ぞとなり。猶存之物〔四字右・〕とは、軍王(ノ)歌の左註に見えたる行宮《カリミヤ》の前なる二樹木などの事なるべし。爲2之哀傷1也〔五字右・〕とは、舒明天皇の崩御し給ひし事を悲しみ給ふ意なり。此(170)左註について注意すべきは此點にして、其哀傷歌は、こゝに併記せられしが脱落せるなるべし。※[就/火]田津爾船乘世武登月待者《ニギタヅニフナノリセムトツキマテバ》の歌には、哀傷の意無し、天皇御覽〔四字右・〕より哀傷也〔三字右・〕と云ふまでは、憶良が類聚歌林に記載したる文なり。即此歌者〔四字右・〕と云ふより下は、註者の勘文なり。類聚歌林には、此歌を齊明天皇の御製として載せ、額田王の歌は別に四首見えたれば、此|※[就/火]田津爾《ニギタヅニ》の歌は、額田王の歌に在らずと云へるなり。まことに今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》などは、天皇の御詞と聞ゆ。但し額田王の歌は別に四首ありと云へる額田王は、野守者不見哉《ノモリハミズヤ》と歌ひ給ひし女王にはあらで、御父王の方なるべし。
 類聚歌林が湮滅して、其寫本すら世に傳はらざる今日、此左註は貴重なる文書にして、一字千金とも云ふべきものなるに、脱字に心づかず、舒明天皇の元年と九年とを行幸の年と思ひ、後人の誤れる註として削り去りしは、短慮なる事と言ふべし。こゝの左註と前に記せる但(シ)舊本(ニハ)云々と書ける左註とは雲泥の相違あり。兩文面を合せ見て、註者の學力程度同じからず、一人の筆にあらざる事を知るべし。
 
     莫囂圓隣之の歌
 
 前條に脱落したるにやと言ひし哀傷歌は、莫囂圓隣之云々の第三句以下に、其哀傷の意が見ゆるやう也。即ち齊明天皇の御製にして、吾瀬子《ワガセコ》とは舒明天皇を指し給ひしならん。五可新何本《イツカシガモト》は嚴橿が本、行宮《カリミヤ》の前に立てる橿の老木にして、上記の二樹木と共に、昔より存《ノコ》れる物の内なるべし。此老木のもとに立ちて、京へ還り給ふべき出船の時の至るを待ち給ひし往時を慕《シヌ》び、悲しみて、よみ給ひし御製なるべし。おぼつかなき事ながら、今|假《カリ》に此初句を補足せんに「夕月をあふぎて待ちし」と云ふやうの詞にやと覺ゆ。月の出づると共に、出船すべき滿潮の時を待ち給ひし意な(171)り。莫囂の二字は「耳無し」とも「しづけく」とも讀むべく、又|徐《シヅカ》なること林の如しと言へば「もり」とも讀まるゝ事なれども、圓隣之大相七兄爪謁氣の十字は、和漢いづれの書にも有り得べからざる怪文字にして、十二音の初句に十二字を充《アテ》たるも、此兩卷などには、たえて例無き事なり。それについて思ふに、もと卷物なりし時、こゝに書入れし事どもが混雜したる爲め、後に清書したる筆者が見誤りたるにて、其十二字は額田王の四首中の歌と混じたる上に書損もありて、かくの如き異樣なる怪文字と成りしものならん。
 歌集を清書する時、能書家を選ぶ事なるが、其能書家の書ける本が、必ずしも善本にあらず、憑《タノ》むに足らざるよしは、既に記せる西本願寺本家特集などの例に依りて知られたり。それは萬葉集に對照して、辛うじて訂正することを得たれども、幾百年の間人を悩まし、學者を苦しめたる、此莫囂圓隣之の歌は、其原本は更なり、憶良が類聚歌林も見ることを得ざる今日、正確にこれを讀解かん事は、全然不可能の事に屬す。
 
      綜麻形乃《ヘソガタノ》の歌
 
 次に此卷の難解歌として知られたる、綜麻形乃、林始乃、狹野榛能、衣爾著成、目爾郡久和我勢。此歌の舊訓に、
  ソマガタノ、ハヤシハジメノ、サノハギノ、コロモニキナシ、メニツクワガセ
とよめるに對して、意見を提出せレは、荷田大人の僻案抄なり。此抄に「ミワヤマノ、シゲキガモトノ、サヌハリノ(萬葉考美夫君志等にはサヌハギノとせり)キヌニツキナス(萬葉考略解古義等にはツクナスとせり)メニツクワガセ」と改訓せしより、萬葉考、略解、美夫君志等は、皆これに從へり。美夫君志に、
(172)  左註に和歌に似ずとは、初句を「ソマガタノ、ハヤシハジメノ」とよめるより、長歌に縁無き歌となりたるが故なり。荷田大人の功偉なりと言ふべし。
と言ひ、三輪山の名は、もと綜麻《ヘソ》の三|勾《ワ》殘りしより名づけたること、古記に見ゆと言へり。そは活王依姫《イクタマヨリビメ》の許《モト》へ、若き男が夜な/\通ひ來てより、幾許も經ざるに姫は妊娠せり。父母は其男の家を知らんと欲して、卷子《ヘソ》の紵《ヲ》を針もて男の裾に縫ひつけたるを引きて歸れり。其絲につきて尋ね行きしに、大神《ミワ》神社に入りたれば、神の子なるを知れりと、古事記中卷に見えたり。これは三輪と云ふ名に依りて言ひ出でたる俗説にして、お伽噺の類として聞くべき程度のものと思ふ。清輔奧義抄中卷に、三輪の明神は社も無くて、祭りの日には、茅《チ》の輪を三ツ作り、岩の上に置きて、それを祭るなりとあるも、三輪と云ふについての所爲《シワザ》なるべし。美濃國大野郡三輪村に三輪神社。下野國那賀郡總社村に大神《ミワ》神社あり。羽後國雄勝那杉(ノ)宮村にも三輪神社あり。是等は分社なるべけれど、分社によりて知る事もあるべく、其名義は猶よく考ふべき事ならん。それよりは契沖が「ヘソガタノ、ハヤシノサキノ」とよめる方、穩當に聞ゆ。但し「ハヤシ」と云ふは地名なるべし。近江國蒲生郡龍王山の西、日野川の畔に林《ハヤシ》と云ふ處あり。岡崎、山崎など言へば、突《ツキ》出でたる所を「サキ」と言ひしなるべし。狹野榛は「サヌハリ」にて「サ」は添へて云ふ助辭「ヌハリ」の紫色が衣につくやうに、わが目につくと言へり。皇太子なる大海人《オホアマノ》皇子が、盛装したる女官たちの處に到りて、袖振り給ふ事が目につくと云ふ意なり。即ち次の茜草指武良前野逝《アカネサスムラサキノユキ》云々に和したる歌にて、井戸王が額田王の意中を察して同情したるなり。標野逝《シメノユキ》と云ふを受けて、同じ郡なる林《ハヤシ》と云ふ地を取出で、又武良前野に對して、同じ色なる「ヌハリ」をよめるは、唱和する歌の常なり。和我勢《ワガセ》とは女より男を指して云ふ稱にて、皇太子を指したるなり。井戸王の(173)事は物に見えねど、歌に和我勢《ワガセ》とあれば、女王にてやおはしけん。これを前記の三輪山の歌に答へたるものとする時は、此|和我勢《ワガセ》は額田王を指すことゝなりて、其語意に違ふべし。されば略解には三輪山の歌の題詞を、大海人(ノ)皇子(ガ)下(リタマヒシ)2近江國(ニ)1時御作歌とし、此歌の題詞を額田王(ガ)奉vレ和歌と書改めて註に、
  此歌を女王の御答へとする時は、和我勢《ワガセ》とは大海人(ノ)皇子(ノ)命《ミコト》を指し奉りしならん。
と言ひて、其誤用となる事を避けたり。そは萬葉考に、
  此長歌(三輪山の歌を云ふ)の體、男歌にて、額田姫王の口つきと異り、次の綜麻形てふ歌ぞ、女歌にて、和我勢《ワガセ》とも言ひたればそれこそ額田姫王の和歌《コタヘウタ》なれ。
と言へるに從ひしものなれども、此集の本文を勝手に書改むるは妄《ミダリ》なる事にて、吾等の同意せざる所なり。三輪山の歌を男歌の體と言へるも、當らぬことなり。住み馴れし故郷の地に別るゝを悲しむは女の情なりと知るべし。初句|綜麻形乃《ヘソガタノ》は樹木の生茂れる所を形容したるにて、遠くより見る時、其頭部の圓形なる状を云へり。綜は字書に以v絲交錯(スルヲ)之曰v綜と見え、和名抄織機具に綜和名|閇《ヘ》とあり。俗に「かけ絲」と云ふ。又同抄に卷子|閇蘇《ヘソ》、今按本文未v詳。但(シ)閭巷所v傳績麻(ヲ)圓(ク)卷(タル)名也とあり。崇神紀に大綜麻杵と云ふ人名も見えたり。さて略解に、
  榛ハ借字にて、野萩なりと翁(眞淵翁なり)は言はれき。先人|枝直《エナホ》(千蔭の父なり)は榛と書けるは、花咲く萩にあらず。波利《ハリ》と讀みて、今「ハンの木」と云ふものなり。其皮は衣を摺るものにて、物にうつり易きを以て、わが目につくに譬へたり。
と言へる説は、本草の書にさへ引用して、世間に多く行はれたれど、此集には榛の字、萩に代用せり。されば舊訓にも、常葉考、美夫君志等にも、榛を「ハギ」とよめり。又略解に『其皮は衣を摺るもの』と言ひしも違へり。吾が住(174)む家のあたりに此木あれど、衣に摺りつくる程の色を持つ木にあらず。其皮と實を煮たる汁にて染むるを「ハン木染」と云ふ。褐色なり。衣に摺りつくるは、和名本草に王孫、和名|奴波利久佐《ヌハリグサ》、一名|乃波利《ノハリ》と見えたる草にて、其皮の肉は紫色なりと云ふ。「ヌハリ草」の色が衣につく如くと云へるなり。
 以上の解説によりて、此歌の大意を知ることを得べし。從來難解を以て知られたるは、歌の順序を誤り、又|林《ハヤシ》と云ふが地名なる事に心づかざりしが故なり。此歌の題詞を引離して、額田王(ガ)下2近江國1時作歌に續け書たるは、筆者が誤れる所爲《シワザ》なり。
 
      釼著手節乃崎《クシロツクタフシノサキ》
 
 一の卷二十丁に、釼著手節乃崎二今日毛可母《クシロツクタフシノサキニケフモカモ》云々とある釼の字、正しくは釧と書くべき事なれど、卷十二に玉釼卷宿妹母《タマクシロマキヌルイモモ》、また玉釼卷寢志妹乎《タマクシロマキニネシイモヲ》と見え、古事記下卷にも玉釼《タマクシロ》とありて、古くは釼とも書きしなり。版本に釼著と書きて「タチハキノ」と讀むは誤れり。釧《クシロ》は手に卷きつくる装飾具にて、印度より移り來たりしなり。佛畫佛像などに、肩下の肱部に纏ふもの是なり。冠辭考に、
  釧《クシロ》は手の臂《ヒヂ》に纏《マ》くものにて、其|臂《ヒヂ》は手の節《フシ》なれば、釧を著《ツ》くるタブシとは言ひかけたり。
と言へり。諸註皆これに從ひたれど、臂を「ヒヂ」とし、手の節《フシ》に言ひかけたる枕詞とせられしは違へり。釧《クシロ》は手に卷きつくるものなれども、手の節《フシ》に著《ツ》くるにはあらず。手は「タ」とも言へば、釧《クシロ》つく手《タ》と言ひかけたるにて「フシ」には係らざるなり。「衣手《コロモデ》の田上《タナカミ》山」狛剱和射見我原《コマツルギワサミガハラ》」など言へると同じ續けざまなり。臂は可比奈《カヒナ》、手の節《フシ》は肘《ヒヂ》なり。(175)臂を比知《ヒヂ》とするは後世の事なり、志摩國の答志《タフシ》(濁音に唱ふるは誤れり)を手節と書たるにて、多太志《タブシ》と云ふ國語あるが爲にあらず。古書に多夫志《タブシ》と云ふ語見えたること無し、『言海』に、たぶし、手の節「釧つく手節の崎に」とあるは、冠辭考に依りて記されたるにて、此語の實例を見出でたるにあらず。世間に行はるゝ國語字典の類に「たぶし」と云ふ語を載せたるは、皆言海を蹈襲せるものなり。
 答志《タフシ》の崎は鳥羽の港より北方二里ばかりの沖に在る答志《タフシノ》島(周圍六里一町)の東端を云ふ。今日毛可毛《ケフモカモ》、今本には日の字を脱せり。古寫本に依りて補ふ。
 一首の意は志摩は海藻の産地なり。海人《アマ》が千尋《チヒロ》の海底に入りて、海藻を採る状況は壯觀にして、人をして驚嘆せしむと言へり。こゝは海を知らぬ大宮人が珍《メヅ》らしがりて、岩などに附きたる藻類を採りて打興じ、又|海人《アマ》が海中に入るを見て、心を慰むることならんと、京に在りて想像したるなり。
 
 
      去來見乃山《イザミノヤマ》
 
 又同所に吾妹子乎去來見乃山乎高三香裳《ワギモコヲイザミノヤマヲタカミカモ》。日本能不所見國遠見可聞《ヤマトノミエヌクニトホミカモ》とある去來見乃山《イザミノヤマ》を、略解に、
  去來見《イザミ》乃山知られず。式に伊勢國伊佐和神社、志摩國伊佐波神社などあり。此國々の中に、いさみの山と云ふもありしか、又古衣きならの山と言ひ下せし類にて、佐美の山に去來見《イザミ》と言ひかけしか。
と言ひ、荒木田久老が槻《ツキ》の落葉に、
  伊勢國河口(ノ)行宮より、大淀の方に出でまし、二見が浦を御船にめして、五十等兒《イラコ》崎を背向《ソガヒ》に見給ひて、答志《タフシ》の崎を南に折れて、阿(176)胡《アコノ》行宮に到りましゝなるべし。去來見《イザミ》の山は二見が浦なる大夫の松と云へる大樹の立てる山なるべし。倭姫命世記に佐見津彦《サミツヒコ》、佐見津姫參相而《サミツヒメマヰリアヒテ》、御鹽濱《ミシホバマ》、御鹽山奉支《ミシホヤマタテマツリキ》とあるは、此二見が浦なるを、其山の麓に流るゝ小川を佐美河と云へば、これぞ佐美《サミ》の山なるを、吾妹子乎去來見乃《ワギモコヲイザミノ》山とは續けしならん、二見が浦より阿胡《アコ》に到りまさんには、此山の東より南に折れて、鳥羽に御船|泊《ハツ》べきなれば、二見が浦を出でますほどは、大和國より越えませし山々も、西の方に遙に見|放《サケ》らるゝに、此山を※[手偏+旁]《コギ》廻りて東南に入りては大和の方の見えずなりぬるを悲みて、かくはよみ給へるなるべし。
と言へり。されど二見が浦の近くには「高みかも」とよめる程の高山無し。又二見が浦より大和國飛鳥なる妹が家のあたりを見んことは、あまりに遠きに過ぎたり。飛行機、航空船などの往來する今日ならば、二見が浦の上天より、飛鳥地方を見ると云ふ事もあらんを、久老が説は痴人夢を説くの類なりと言ふべし。略解に佐美の山と言へるは、此夢物語に據りて書ける説なるべし。谷川士清は去來見《イザミ》の山は伊勢國飯高郡に在りと言ひ、三國地志(伊賀、伊勢、志摩の三國なり)には、飯高郡の西端、大和國吉野との境なる高見峠にして、大和紀伊より伊勢大神宮への參道なり。吾妹子乎去來見乃山《ワギモコヲイザミノヤマ》とよめるは、還幸の時の歌なり』と言へり。此説いと宜しく聞ゆ。還幸の頃に至りてこそ、妹を思ふ情いたく増すべければ、「高みかも」と云ふに山名を持たせて、初句に吾妹子乎去來見乃山乎《ワギモコヲイザミノヤマヲ》と言へるなり。高見山は飯高郡|船戸《フナト》村より登ること二十八町許。此山より流れ出づる川を櫛田《クシダ》川と云ふ。飯野郡松名瀬村を經て海に入る。川の長さ十七里。「國遠みかも」とは、廣大なる吉野地方を隔てたればなり。
 
      大寶元年以下の歌
 
 一の卷藤原宮御井歌に至るまでは、年號を記載せられざりしに、大寶元年より題詞の記しざま、いたく變りて、年(177)號をさへ書出でたり。守部説に『此卷の古き撰びは藤原(ノ)宮御井歌までにして、大寶元年以下は其後追々に書添へしものなり。されば端書《ハシガキ》の體裁も變りて、撰びたる歌の書式にあらず』と言へり。第一第二の兩卷には、某宮御宇天皇代と標して、御代御代の順についでたれば、年號を記載せられざりし例なるに、大寶元年より年號を書出でたるは、げに守部説の如く追加せられたるものなるべし。
 孝徳天皇の元年に大化と云へるが年號の始にして、六年に白雉と改められしが、齊明、天智の兩朝に至りて、又年號を用ひず。天武天皇の御代に白鳳、また朱鳥の年號見えたれど、其間に用ひ給はぬ年もありて、天武紀の末に改(テ)v元(ヲ)曰2朱鳥元年(ト)1と見えたるのみなるが、此集の左註に引用せる日本書紀には、朱鳥四年、同五年、同七年等の年號見えたり。然るに文武天皇の五年に大寶元年と云ひしより後、歴代續きて年號を用ひたれば、此集にも大寶元年より年號を書出でたるなり。一の卷の末に寧樂《ナラノ》宮長(ノ)皇子云々と記したる倶宴歌は、長皇子の歌のみにて、志貴皇子の歌無きは、脱《オチ》たるにやと諸註に言へるは、さる事なり。此倶宴歌は其年月さだかならねど、寧樂《ナラノ》宮の三字は、和銅三年の所に記すべかりしなり。それに續けたる倶宴歌も亦其處に入るべきにや。長(ノ)皇子は續日本紀に靈龜元年六月一品長親王薨。天武天皇第四之皇子也と見え、志貴皇子は靈龜二年八月二品志貴親王薨。天智天皇第七之皇子也とあり。
 此追加部の歌を、古義には題詞を書改め、歌の順序を變更したれども、それはいと古き世の事にて、既に本文化したるものなれば、今に至りて書改むべきにあらず。すべて舊《モト》のまゝにして、註にそのよしを記し置くべきなり。一の卷二十六丁に三野(ノ)連入唐時、春日藏首老(ガ)作歌、在根良對馬乃渡《アリネヨシツシマノワタリ》云々、又山上(ノ)臣憶良(ガ)在(リシ)2大唐(ニ)1時、憶(フ)2本郷(ヲ)1歌、去來子等早日本邊《イザコドモハヤクヤマトヘ》云々とある兩首は、同時に入唐せし時の歌なり。萬葉考に『此遣唐使は大寶元年正月に命ありて、五月(178)節刀を賜はりて立ちぬ。老《オユ》は、もと僧にて辨記と云ひしを、同年三月春日(ノ)藏首|老《オユ》と姓名を賜はりて、臣となりしこと、續日本紀に見ゆ。然れば此歌は三月より五月までによみたれば、大寶元年九月とあるより上に入るべきなり』と言へるを、美夫君志に、
  まづ行幸の時の歌を擧げて、遣唐使の歌を後にしたるなり。其間に二年の歌もあれど、同じく行幸の歌なれば、一續きとし、さて遣唐使のをば出したるものならん。萬葉考の説は、年序に泥《ナヅ》み過ぎたりと言ふべし。但(シ)元年五月のをりは、風浪よろしからざる爲め、翌二年五月渡海したり。
と言へり。此説に據れば、歌の次第は正しきに似たり。然るに慶雲三年丙午幸2于難波(ノ)宮(ニ)1時の條に、太上天皇幸2于難波宮1時歌、また太上天皇幸2于吉野宮1時、高市(ノ)連黒人(ガ)作歌を載せたるは、いかゞ。萬葉考に『此下五首も、右の大寶元年より前に入るべきなり。此太上天皇は、おりゐまして六年、大寶二年の十二月崩給ひき。然るを慶雲三年と標したる下に載すべきにあらず。これも亂れ本をよく正さゞりしものなり』と言へるを、美夫君志に、
  これも年序に泥《ナヅ》み過ぎたる説なり。これより下は、行幸年月の詳ならざるものを列載したるにて、錯亂せしにはあらず。
と言へり。持統天皇難波行幸年月の知れざるは、今の世よりの事なり。天皇御即位の年より數ふるも、此集を撰びし寧樂(ノ)宮の始頃までは四五十年の程なり。古老に尋ね聞きても、其年月を知ることを得べし。古義に續日本紀に文武天皇(ノ)三年正月癸未幸2難波(ノ)宮(ニ)1二月丁未車駕至v自2難波宮1と見えたる其度に、太上天皇も共に幸し給へるなるべし』と言ひ、又芳樹が萬葉集註疏に、
  續日本記に、文武天皇(ノ)三年正月癸未、是日幸2難波(ノ)宮(ニ)1と見えたるが、此太上天皇の御事なれば、是日の下に、太上天皇の四字を脱(179)せるなるべし。されど持統は大寶二年十二月に崩《カムサリ》給へれば、慶雲三年丙午と標したる下に、難波宮に幸あるべきにあらねば、ここは萬葉考に言へる如く、原本に錯亂ありしならん。見ん人其心して、よく勘へ正すべし。
とあれど、太上天皇の四字を脱せるにはあらで、古義に言へる如く、共に幸し給へるならん。又大行天皇行幸の時の歌は、契沖が『日本紀に大行をサキとよめり。持統を太上天皇と申し、文武をば大行天皇と云へり。こは文武崩御の後、程無く記せるまゝにて載せたるなるべし』と言へり。大寶元年以下は題詞の記しざま一樣ならず。又或本の長歌一首見えたるのみにて、左註も無きは、追加したるものなればなるべし。
 
      相聞と挽歌
 
 さて卷二に年號を記したるは、挽歌部に三所見えたるのみにて、相聞部には年號を記したるもの無く、又|寧樂《ナラノ》宮の標記を缺きたるは、此部には書加へざりしが爲歟。挽歌部、後岡本宮の所に、大寶元年辛丑幸《イデマシヽ》2于紀伊國(ニ)1時、見2結松(ヲ)1歌一首、後將見跡君之結有《ノチミムトキミガムスベル》云々とあるは、藤原(ノ)宮の所に記すべき例なるに、こゝに載せたるは、有馬皇子の結2松枝(ヲ)1歌に對して、追和せる歌として書加へしものが、本文となりしなり。萬葉考に意吉《オキ》麿が歌を唱へ誤りしものなりとて除かれしは非《ワロシ》也。大寶元年紀州に行幸し給ひし時の歌は、卷一に二首、卷九に十三首載せたり。其時の歌なるべし。
 奈良朝に入りてより後、相聞の歌いと多くして、卷四のみにても三百九首。第十一、第十二の兩卷には、古今相聞往來歌類と題して載せ、又第八、第十の兩卷には、四季相聞と云ふを載せ、第三、第七などに載せたる譬喩歌と云ふも、實は相聞歌の一種なるに、卷二相聞部に、五十首ばかりを載せたるは何故ぞ。
(180) 相聞歌は奈良朝の特色にして、上代には其歌少かりしが故歟と云ふに然らず。第十、第十一、第十二等に、人麿歌集より轉載したる相聞歌は頗る多數にして、卷十一のみにても百六十一首入りたり。卷二相聞部に五十首ばかりを載せ、追加せる歌も、寧樂《ナラノ》宮の標記も見えぬは、何歟事情の有りしことならん。藤原氏を憚《ハヾカ》りたるが爲歟。これに比して挽歌部には、すぐれたる歌いと多く見えたり。挽歌が卷二の特色なるべし。
 
(201) 卷六論
              横山 英
 
        序
 
 萬葉集卷六は、卷頭に「雜歌」と題して、年月、所處、作者ほゞ明なる長歌二十七首、短歌百   二首、旋頭歌  首を年代順に輯めた集中比較的小なる一卷である。明記せられたる年代によれば、養老七年(  年)に始ま  天平十六年(一四〇四年)に終る二十二年に亙り、時代から云つても比較的新しい卷と云へる。作者は笠金村、山部赤人を始めとして奈良朝時代の歌人を網羅し、最後に田邊福麿之歌集から採つた一群の長短歌をおく。内容から見れば行幸に供奉して詠んだ作品及び宴會における作品多く、又卷末の寧樂恭仁等の舊郡新京に關する歌が目立つ。
 既に年月作者を詳にしてある以上多く穿鑿する餘地はないやうであるが、如何に編纂きれてゐるかといふ立場からこゝに今一應考察して見ようとするのである。
 そこで立脚點を左におく。
 一、此の卷は一囘に編纂されたものであるか否か。