萬葉秀歌  齋藤茂吉    齋藤茂吉全集第二十二卷 岩波書店1973.9.13
 
(39)    序
 
 萬葉集は我國の大切な歌集で、誰でも讀んで好いものとおもふが、何せよ歌の數が四千五百有餘もあり、一々注釋書に當つてそれを讀破しようといふのは並大抵のことではない。そこで選集を作つて歌に親しむといふことも一つの方法だから本書はその方法を採つた。選ぶ態度は大體すぐれた歌を卷毎に拾ふこととし、數は先づ全體の一割ぐらゐの見込で、長歌は罷めて短歌だけにしたから、萬葉の短歌が四千二百足らずあるとして大體一割ぐらゐ選んだことにならうか。
 本書はそのやうな標準にしたが、これは國民全般が萬葉集の短歌として是非知つて居らねばならぬものを出來るだけ選んだためであつて、萬人向きといふ意圖はおのづから其處に實行せられてゐるわけである。ゆゑに專門家的に漸く標準を高めて行き、讀者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選乃至五十首選をも作ることが出來る。それだけの餘裕を私は本書のなかに保留して置いた。
 さうして選んだ歌に簡單な評釋を加へたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釋が(40)從、評釋は讀者諸氏の參考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであつて、而して今は專門學者の高級にして精到な注釋書が幾つも出來てゐるから、私の評釋の不備な點は其等から自由に補充することが出來る。
 右のごとく歌そのものが主眼、評釋はその從屬といふことにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執著して、若し大體の意味が呑込めたら、しばらく私の評釋の文から離れ歌自身について反復熟讀せられよ。讀者諸氏は本書を初から順序立てて讀まれても好し、行き當りばつたりといふ工合に頁《ページ》を繰つて出た歌だけを讀まれても好し、忙しい諸氏は勞働のあひま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいづつ讀まれることもまた可能である。要は繰返して讀み一首一首を大切に取扱つて、早讀して以て輕々しく取扱はれないことを望むのである。
 本書では一首一首に執著するから、いはゆる萬葉の精神、萬葉の日本的なもの、萬葉の國民性などいふことは論じてゐない。これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が奈何結句が奈何といふやうなことを繰返してゐる。讀者諸氏は此等の言に對してしばらく耐忍せられむことをのぞむ。萬葉集の傑作といひ秀歌と稱するものも、地を洗つて見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で當り前な作歌の常道を踏んでゐるのに他ならぬといふ、その最も積極的な(41)例を示すためにいきほひさういふ細かしきことになつたのである。
 本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸學者の結論が融込んでゐること無論であるが、つまりは私の一家見といふことになるであらう。さうして萬人向きな、誰にも分かる『萬葉集入門』を意圖したのであつたのだけれども、いよいよとなれば假借しない態度を折に觸れつつ示した筈である。昭和十三年八月二十九日齋藤茂吉。
 
 
(43)卷第一
 
           ○
      たまきはる字智《うち》の大野《おほぬ》に馬《うま》並《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草深野《くさふかぬ》 〔卷一・四〕 中皇命
 
 舒明天皇が、宇智野《うちぬ》、即ち大和|宇智《うち》郡の野【今の五條町の南、阪合部村】に遊獵したまうた時、中皇命《なかちすめらみこと》が間人連老《はしびとのむらじおゆ》をして獻らしめた長歌の反歌である。中皇命は未詳だが、賀茂眞淵は荷田春滿の説に據り、『皇』の下に『女』を補つて、『中皇女命《なかつひめみこのみこと》』と訓み、舒明天皇の皇女で、のち、孝コ天皇の后に立ちたまうた間人《はしびと》皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此處では皇極(齊明)天皇に當らせられる。即ち前説に據れば舒明の皇女、後説に據れば舒明の皇后といふことになる。間人連老は孝コ天皇紀白雉五年二月遣唐使の判官に『間人連老』とあるその人であらう。次に作者は中皇命か間人連老か兩説あるが、これは中皇命の御歌であらう。縱しんば間(44)人連老の作といふ假定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作つたといふことになる。間人連老の作だとする説は、題詞に『御歌』となくしてただ『歌』とあるがためだといふのであるが、これは編輯當時既に『御』を脱してゐたのであらう。考に、『御字を補ひつ』と云つたのは恣に過ぎた觀があつても或は眞相を傳へたものかも知れない。『中大兄三山歌』(卷一・一三)でも『御』の字が無い。然るにこの三山歌は目録には『中大兄三山御歌』と『御』が入つてゐるに就き、代匠記には『中大兄ハ天智天皇ナレバ尊トカ皇子トカ有ヌベキニヤ。傍例ニヨルニ尤有ベシ。三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。脱セルカ』と云つてゐる如く、古くから本文に『御』字の無い例がある。そして、『萬葉集はその原本の儘に傳はり、改刪を經ざるものなるを思ふべし』(講義)を顧慮すると、目録の方の『御』は目録作製の時につけたものとも取れる。なほ、この『御字』につき、『御字なきは轉寫のとき脱せる歟。但天皇に獻り給ふ故に、獻御歌とはかゝざる歟なるべし』(僻案抄)、『御歌としるさざるは、此は天皇に對し奉る所なるから、殊更に御(ノ)字をばかゝざりしならんか』(美夫君志)等の説をも參考とすることが出來る。
 それから、攷證で、『この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや』と云つて、間人連老の作だといふ説に贊成してゐるが、これも、老が普通の使者でなくもつと中皇命との關係の深いことを示すので、特にその名を書いたと見れ(45)ば解釋がつき、必ずしも作者とせずとも済むのである。考の別記に、『御歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御睦き故としらる』とあるのは、事實は問はずとも、その思考の方嚮には間違は無からうとおもふ。諸注のうち、二説の分布状態は次の如くである。中皇命作説(僻案抄・考・略解・燈・檜嬬手・美夫君志・左千夫新釋・講義)、間人連老作説(拾穗抄・代匠記・古義・攷證・新講・新解・評釋)。『たまきはる』は命《いのち》、内《うち》、代《よ》等にかかる枕詞であるが諸説があつて未詳である。仙覺・契沖・眞淵らの靈極《たまきはる》の説、即ち、『タマシヒノキハマル内の命』の意とする説は餘り有力でないやうだが、つまりは其處に落著くのではなからうか。なほ宣長の『あら玉|來經《きふ》る』説、即ち年月の經過する現《うつ》といふ意。久老の『程來經《たまきふ》る』説。雅澄の『手纏《たま》き佩く』説等がある。宇智《うち》と内《うち》と同音だからさう用ゐた。
 一首の意は、今ごろは、たまきはる【枕詞】宇智の大きい野に澤山の馬をならべて朝の御獵をしたまひ、その朝草を踏み走らせあそばすでせう。露の一ばいおいた草深い野が目に見えるやうでございます、といふ程の御歌である。代匠記に、『草深キ野ニハ鹿ヤ鳥ナドノ多ケレバ、宇智野ヲホメテ再云也』。古義に、『けふの御かり御獲物多くして御興盡ざるべしとおぼしやりたるよしなり』とある。
 作者が皇女でも皇后でも、天皇のうへをおもひたまうて、その遊獵の有樣に聯想し、それを祝(46)福する御心持が一首の響に滲透してゐる。決して代作態度のよそよそしいものではない。そこで代作説に贊成する古義でも、『此|題詞《ハシツクリ》のこころは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が作《ヨミ》てたてまつれるなるべし。されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし』と云つてゐるのは、この歌の調べに云ふに云はれぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。此一事輕々に看過してはならない。それから、この歌はどういふ形式によつて獻られたかといふに、『皇女のよみ給ひし御歌を老《オユ》に口誦《クジユ》して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也』(檜嬬手)といふのが眞に近いであらう。
 一首は、豐腴にして莊潔、些の澁滯なくその歌調を完うして、日本古語の優秀な特色が隈なくこの一首に出てゐるとおもはれるほどである。句割れなどいふものは一つもなく、第三句で『て』を置いたかとおもふと、第四句で、『朝踏ますらむ』と流動的に据ゑて、小休止となり、結句で二たび起して重厚莊潔なる名詞止にしてゐる。この名詞の結句にふかい感情がこもり餘響が長いのである。作歌當時は言語が極めて容易に自然にこだはりなく運ばれたとおもふが、後代の私等には驚くべき力量として迫つて來るし、『その』などといふ續けざまでも言語の妙いふべからざるものがある。長歌といひこの反歌といひ、萬葉集中最高峰の一つとして敬ふべく尊むべきものだと(46)おもふのである。
 この長歌は、『やすみしし吾大王《わがおほきみ》の、朝《あした》にはとり撫でたまひ、夕《ゆふべ》にはい倚《よ》り立たしし、御執《みと》らしの梓弓《あづさのゆみ》の、長弭《ながはず》(中弭《なかはず》)の音すなり、朝獵《あさかり》に今立たすらし、暮獵《ゆふかり》に今立たすらし、御執《みと》らしの梓弓《あづさのゆみ》の、長弭(中弭)の音すなり』(卷一・三)といふのである。これも流動聲調で、繰返しによつて進行せしめてゐる點は驚くべきほど優秀である。朝獵夕獵と云つたのは、聲調のためであるが、實は、朝獵も夕獵もその時なされたと解することも出來るし、支那の古詩にもこの朝獵夕獵と續けた例がある。梓弓はアヅサユミノと六音で讀む説が有力だが、『安都佐能由美乃《アヅサノユミノ》』(卷十四・三五六七)によつて、アヅサノユミノと訓んだ。その方が口調がよいからである。なほ參考歌には、天武天皇御製に、『その〔二字右○〕雪の時なきが如《ごと》その〔二字右○〕雨の間なきが如《ごと》隈もおちず思ひつつぞ來るその〔二字右○〕山道を』(卷一・二五)がある。なほ山部赤人の歌に、『朝獵に鹿猪《しし》履《ふ》み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬|竝《な》めて御獵ぞ立たす、春の茂野《しげぬ》に』(卷六・九二六)がある。赤人のには此歌の影響があるらしい。『馬なめて』もよい句で、『友なめて遊ばむものを、馬なめて往かまし里を』(卷六・九四八)といふ用例もある。
 
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(48)     山越《やまごし》の風《かぜ》を時《とき》じみ寢《ぬ》る夜《よ》落《お》ちず家《いへ》なる妹《いも》をかけて偲《しぬ》びつ 〔卷一・六〕 軍王
 
 舒明天皇が讚岐國|安益《あや》郡に行幸あつた時、軍王《いくさのおほきみ》の作つた長歌の反歌である。軍王の傳は不明であるが、或は固有名詞でなく、大將軍《いくさのおほきみ》のことかも知れない【近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある】。天皇の十一年十二月伊豫の温湯《ゆ》の宮《みや》に行幸あつたから、そのついでに讚岐安益郡【今の綾歌郡】にも立寄られたのであつただらうか。『時じみ』は非時、不時などとも書き、時ならずといふ意。『寢る夜おちず』は、寢る毎晩毎晩欠かさずにの意。『かけて』は心にかけての意である。
 一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて來るので、ひとり寢る毎夜毎夜、家に殘つてゐる妻を心にかけて思ひ慕うた、といふのである。言葉が順當に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらはれた歌であるが、さればといつて平板に失したものでなく、捉ふべきところは決して免がしてはゐない。『山越しの風』は山を越して來る風の意だが、これなども、正岡子規が嘗て注意した如く緊密で巧な云ひ方で、この句があるために、一首が具體的に緊まつて來た。この語には、『朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越《やまごし》に置きて』(卷四・四九五)の例が參考となる。また、『かけて偲ぶ』といふ用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにゐるといふ氣持で、(49)自然的に同感を伴ふために他にも用例が出來たのである。併しこの『懸く』といふ如き云ひ方はその時代に發達した云ひ方であるので、現在の私等が直ちにそれを取つて歌語に用ゐ、心の直接性を得るといふ訣に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出來た心理を學ぶ方がいい。なほこの歌で學ぶべきは全體としてのその古調である。第三句の字餘りなどでもその破綻を來さない微妙な點と、『風を時じみ』の如く壓搾した云ひ方と、結句の『つ』止めと、さういふものが相待つて綜合的な古調を成就してゐるところを學ぶべきである。第三句の字餘りは、人麿の歌にも、『幸《さき》くあれど』等があるが、後世の第三句の字餘りとは趣がちがふので破綻云々と云つた。『つ』止めの參考歌には、『越の海の手結の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ』(卷三・三六七)等がある。
 
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    秋《あき》の野《ぬ》のみ草《くさ》苅《か》り葺《ふ》き宿《やど》れりし兎道《うぢ》の宮處《みやこ》の假廬《かりいほ》し思《おも》ほゆ 〔卷一・七〕 額田王
 
 額田王《ぬかだのおほきみ》の歌だが、どういふ時に詠んだものか審かでない。ただ兎道《うぢ》は山城の宇治で、大和と近江との交通路に當つてゐたから、行幸などの時に假の御旅宿を宇治に設けたまうたことがあつ(50)たのであらう。その時額田王は供奉し、後に當時を追懷して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王《かがみのおほきみ》の女で、鏡女王の妹であつたやうだ。初め大海人《おほあま》皇子と御婚《みあひ》して十市《とをち》皇女を生み、ついで天智天皇に寵せられ近江京に行つてゐた。『かりいほ』は、原文『假五百《かりいほ》』であるが眞淵の考では、カリホと訓んだ。
 一首の意。嘗て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄・萱)を刈つて葺いた行宮に宿《やど》つたときの興深かつたさまがおもひ出されます。
 この歌は、獨詠的の追懷であるか、或は對者にむかつてかういふことを云つたものか不明だが、單純な獨詠ではないやうである。意味の内容がただこれだけで取りたてていふべき曲が無いが、單純素朴のうちに浮んで來る寫象は鮮明で、且つその聲調は清潔である。また單純な獨詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から傳はつて來るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であつた。
 歌の左注に、山上憶良の類聚歌林に、一書によれば、戊申年、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝コ天皇の御製といふことになるが、今は額田王の歌として味ふのである。題詞等につき、萬葉の編輯當時既に異傳があつたこと斯くの如くである。
 
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(51)     ※[就/火]田津《にぎたづ》に船乘《ふなの》りせむと月《つき》待《ま》てば潮《しほ》もかなひぬ今《いま》は榜《こ》ぎ出《い》でな 〔卷一・八〕 額田王
 
 齊明天皇が【齊明天皇七年正月】新羅を討ちたまはむとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の※[就/火]田津《にぎたづ》に御滯在になつた【熟田津石湯の行宮】。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。※[就/火]田津といふ港は現在何處かといふに、松山市に近い三津濱だらうといふ説が有力であつたが、今はもつと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だらうといふことになつてゐる。即ち現在はもはや海では無い。
 一首の意は、伊豫の※[就/火]田津で、御船が進發しようと、月を待つてゐると、いよいよ月も明月となり、潮も滿ちて船出するのに都合好くなつた。さあ榜ぎ出さう、といふのである。
 『船乘り』は此處ではフナノリという名詞に使つて居り、人麿の歌にも、『船乘りすらむをとめらが』(卷一・四〇)があり、また、『播磨國より船乘して』(遣唐使時奉幣祝詞)といふ用例がある。また、『月待てば』は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は滿潮を待つのであらう。月と潮汐とには關係があつて、日本近海では大體月が東天に上るころ潮が滿始るから、この歌で月を待つといふのはやがて滿潮を待つといふことになる、また書紀の、『庚戊泊2于伊豫※[就/火]田津石湯行宮1』とある庚戊は十四日に當る。三津濱では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合(52)滿となり午後九時前後に滿潮となるから、此歌は恰も大潮の滿潮に當つたこととなる。すなはち當夜は月明であつただらう。月が滿月でほがらかに潮も滿潮でゆたかに、一首の聲調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との續けに、『に』、『と』、『ば』、『ぬ』等の助詞が極めて自然に使はれてゐるのに、『船乘せむと〔三字右○〕』、『榜ぎいでな〔三字右○〕』といふ具合に流動の節奏を以て緊めて、それが第二句と結句である點などをも注意すべきである。結句は八音に字を餘し、『今は』といふのも、なかなか強い語である。この結句は命令のやうな大きい語氣であるが、縱ひ作者は女性であつても、集團的に心が融合し、大御心をも含め奉つた全體的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉應詔歌の眞髓もおのづからここに存じてゐると看ればいい。
 結句の原文は、『許藝乞菜』で、舊訓コギコナであつたが、代匠記初稿本で、『こぎ出なとよむべきか』といふ一訓を案じ、萬葉集燈でコギイデナと定めるに至つた。『乞』をイデと訓む例は、『乞我君《イデアギミ》』、『乞我駒《イデワガコマ》』などで、元來さあさあと促がす詞であるのだが『出で』と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の價値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の『※[就/火]田津に』の『に』は、『に於て』の意味だが、橘守部は、『に向つて』の意味に解したけれどもそれは誤であつた。斯く一助詞の解釋の差で一首の意味が全く違つてしまふので、訓詁の學の大切なこ(53)とはこれを見ても分かる。
 なほ、この歌は山上憶良の類聚歌林に據ると、齊明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから齊明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懷遊ばされたとある。さうならば此歌は齊明天皇の御製であらうかと左注で云つてゐる。若しそれが本當で、前に出た宇智野の歌の中皇命が齊明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理會するにも便利だともおもふが、此處では題どほりに額田王の歌として鑑賞したのであつた。
 橘守部は、『※[就/火]田津に』を『に向つて』と解し、『此歌は備前の大伯《おほく》より伊與の※[就/火]田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ』と云つたが、それは誤であつた。併し、『に』に方嚮(到著地)を示す用例は無いかといふに、やはり用例はあるので、『粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門浪《となみ》いまだ騷げり』(卷七・一二〇七)。この歌の『に』は方嚮を示してゐる。
 
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     紀《き》の國《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ嚴橿《いつかし》がもと 〔卷一・九〕 額田王
 
(54) 紀の國の温泉に行幸【齊明】の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、『莫囂圓隣之、大相七兄爪謁氣、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立爲兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》』といふので、上半の訓がむづかしいため、種々の訓があつて一定しない。契沖が、『此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ』と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂つていい。そこで評釋する時に、一首として味ふことが出來ないから囘避するのであるが、私は、下半の、『吾が背子がい立たせりけむ嚴橿《いつかし》が本《もと》』に執著があるので、この歌を選んで假りに眞淵の訓に從つて置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、『い立たしけむ』と六音に訓み、それに從ふ學者が多い。嚴橿《いつかし》は嚴《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいつたものであらう。その樹の下に嘗て私の戀しいお方が立つておいでになつた、といふ追憶であらう。或は相手に送つた歌なら、『あなたが嘗てお立ちなされたとうかがひましたその橿の樹の下に居ります』といふ意になるだらう。この句は嚴かな氣持を起させるので、單に句として抽出するなら萬葉集中第一流の句の一つと謂つていい。書紀垂仁卷に、天皇以2倭姫命1爲2御杖1貢2奉於天照大神1是以倭姫命以2天照大神(ヲ)1鎭2坐磯城(ノ)嚴橿之本1とあり、古事記雄略卷に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登賣《カシハラヲトメ》、云々とある如く、神聖なる場面と關聯し、橿原《かしはら》の畝火の山といふやうに、橿の木がそのあたり一帶に茂つてゐたものと見て、さういふことを種々念中に持つてこの句を味ふこととしてゐた。考頭注に、『このかしは神の坐(55)所の齋木なれば』云々。古義に、『清淨なる橿といふ義なるべければ』云々の如くであるが、私は、大體を想像して味ふにとどめてゐる。
 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむづかしくて私の心に遠いので、差向き眞淵訓に從つた。眞淵は、『圓』を『國』だとし、古兄※[氏/一]湯氣《コエテユケ》だとした。考に云、『こはまづ神武天皇紀に依に、今の大和國を内つ國といひつ。さて其内つ國を、ここに囂《サヤギ》なき國と書たり。同紀に、雖邊土未清餘妖尚梗而《トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ》、中洲之地無風塵《ウチツクニハヤスラケシ》てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊國を差也。然れば莫囂國隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、邊土と中州を對云しに依ては、此五字を外《ト》つ國のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き國は本よりいはず、近きをいふなる中に、一國をさゝでは此哥にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし』とあり、なほ眞淵は、『こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、齊明天皇紀の童謠《ワザウタ》とをば、はやき世よりよく訓《ヨム》人なければとて、彼童謠をば己に、此哥をばそのいろと荷田(ノ)信名(ノ)宿禰に傳へられき。其後多く年經て此訓をなして、山城の稻荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隱しおかば、荷田大人の功も徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ』といふ感慨を漏らしてゐる。書紀垂仁天皇卷に、伊勢のことを、『傍國《かたくに》の可怜國《うましくに》なり』と云つた如くに、大和に隣つた(56)國だから、紀の國を考へたのであつただらうか。
 古義では、『三室《みもろ》の大相土見乍湯家《ヤマミツツユケ》吾が背子がい立たしけむ嚴橿が本《もと》』と訓み、奠器|圓《メグラス》v隣でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登《ミモロノイツカシガモト》を參考とした。そして眞淵説を、『紀(ノ)國の山を超て何處《イヅク》に行とすべけむや、無用説《イタヅラゴト》といふべし』と評したが、併しこの古義の言は、『紀の山をこえていづくにゆくにや』と荒木田久老が信濃漫録で云つたその模倣である。眞淵訓の『紀の國の山越えてゆけ』は、調子の弱いのは殘念である。この訓は何處か弛んでゐるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張してゐる。『吾が背子』は、或は大海人皇子(考・古義)で、京都に留まつて居られたのかと解してゐる。そして眞淵訓に假りに從ふとすると、『紀の國の山を越えつつ行けば』の意となる。紀の國の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになつたと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうてをります、といふぐらゐの意になる。
 
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      吾《わが》背子《せこ》は假廬《かりほ》作《つく》らす草《かや》なくば小松《こまつ》が下《した》の草《かや》を苅《か》らさね 〔卷一・二〕 中皇命
 
(57) 中皇命が紀伊の温泉に行かれた時の御歌三首あり、この歌は第二首である。中皇命は前言した如く不明だし、前の中皇命と同じ方かどうかも分からない。天智天皇の皇后倭姫命だらうといふ説(喜田博士)もあるが未定である。若し同じおん方だらうとすると、皇極天皇(齊明天皇)に當らせ給ふことになるから、この歌は後崗本宮御宇天皇(齊明)の處に配列せられてゐるけれども、或は天皇がもつとお若くましました頃の御歌ででもあらうか。
 一首の意は、あなたが今旅のやどりに假小舍をお作りになつていらつしやいますが、若し屋根葺く萱草が御不足なら、彼處の小松の下の萱草《かや》をお刈りなさいませ、といふのである。
 中皇命は不明だが、歌はうら若い高貴の女性の御語氣のやうで、その單純素朴のうちにいひがたい香氣のするものである。かういふ語氣は萬葉集でも後期の歌にはもはや感ずることの出來ないものである。『わが背子は』といふのは客觀的のいひ方だが、實は、『あなたが』といふので、當時にあつてはかういふ云ひ方には深い情味をこもらせ得たものであつただらう。そのほか穿鑿すればいろいろあつて、例へばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるといふやうな事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい詮議立は罷めることにする。契沖は、『我が背子』を『御供ノ人ヲサシ給ヘリ』といつたが、やはりさうでなく御一人をお指し申したのであらう。また、この歌に 『小松にあやかりて、ともにおひさき(58)も久しからむと、これ又長壽をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり』(燈)といふ如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に受納れる方がいいやうにおもふ。
 
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     吾《わ》が欲《ほ》りし野島《ぬじま》は見《み》せつ底《そこ》ふかき阿胡根《あこね》の浦《うら》の珠《玉》ぞ拾《ひり》はぬ 〔卷一・一二〕 中皇命
 
 前の續きで、中皇命の御歌の第三首である。野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。珠《たま》は美しい貝又は小石。中には眞珠も含んで居る。『紀のくにの濱に寄るとふ鰒珠《あはびだま》ひりはむといひて』(卷十三・三三一八)は眞珠である。
 一首の意は、わたくしの希《ねが》つてゐた野島の海濱の景色はもう見せていただきました。けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾ひませぬ、といふので、うちに此處深海の眞珠が欲しいものでございますといふ意も含まつてゐる。
 『野島は見せつ』は自分が人に見せたやうに聞こえるが、此處は見せて頂いたの意で、散文なら、『君が吾に野島をば見せつ』といふ具合になる。この歌も若い女性の口吻で、純眞澄み透るほどな(59)快いひびきを持つてゐる。そして一首は常識的な平板に陷らず、末世人が舌不足と難ずる如き澁みと厚みとがあつて、輕薄ならざるところに古調の尊さが存じてゐる。これがあへて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもかういふ尊い香氣があつたものであらうか。この歌の稍主觀的な語は、『わが欲りし』と、『底ふかき』とであつて、知らず識らずあい對してゐるのだが、それが毫も目立つてゐない。
 高市黒人の歌に、『吾妹子に猪名野《ゐなぬ》は見せつ名次山《なすぎやま》角《つぬ》の松原いつか示さむ』(卷三・二七九)があり、この歌より明快だが、却つて通俗になつて輕くひびく。この場合の『見せつ』は、『吾妹子に猪名野をば見せつ』だから、普通のいひ方で分かりよいが含蓄が無くなつてゐる。現に中皇命の御歌も、或本には、『わが欲りし子島は見しを』となつてゐる。これならば意味は分かりよいが、歌の味ひは減るのである。第一首の、『君が代も我が代も知らむ【知れや】磐代《いはしろ》の岡の草根《くさね》をいざ結びてな』(卷一・一〇)も、生えてをる草を結んで壽を祝ふ歌で、『代』は『いのち』即ち壽命のことである。まことに佳作だから一しよにして味ふべきである。以上の三首を憶良の類聚歌林には、『天皇御製歌』とあるから、皇極(齊明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。
 
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(60)     香具山《かぐやま》と耳梨山《みみなしやま》と會《あ》ひしとき立《た》ちて見《み》に來《こ》し印南國原《いなみくにはら》 〔卷一・一四〕 天智天皇
 
 中大兄《なかちおひね》【天智天皇】の三山歌の反歌である。長歌は、『香具山《かぐやま》は畝傍《うねび》を愛《を》しと耳成《みみなし》と相爭ひき神代より斯くなるらし古《いにしへ》も然《しか》なれこそ現身《うつそみ》も妻を爭ふらしき』といふのであるが、反歌の方は、この三山が相爭つた時、出雲の阿菩大神《あほのおほかみ》がそれを諌止しようとして出立し、播磨まで來られた頃に三山の爭闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたといふ播磨風土記にある傳説を取入れて作つてゐる。風土記には揖保郡の處に記載されてあるが印南の方にも同樣の傳説があつたものらしい。『會ひし時』は『相戰つた時』、『相爭つた時』といふ意味である。書紀神功皇后卷に、『いざ會《あ》はなわれは』とあるは相闘ふ意。毛詩に、『肆伐2大商1會朝清明』とあり、『會へる朝』は即ち會戰の旦也と注せられた。共に同じ用法である。この歌の『立ちて見に來し』の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうへにはあらはれてゐない。そこで一讀しただけでは、印南國原が立つて見に來たやうに受取れるのであるが、結句の『印南國原』は場處を示すので、大神の來られたのは、此處の印南國原であつた、といふ意味になる。 一首に主格も省路し、結句に、『印南國原』とだけ云つて、その結句に助詞も助動詞も無いもの(61)だが、それだけ散文的な通俗を脱却して、蒼古とも謂ふべき形態と響きとを持つてゐるものである。長歌が蒼古峻嚴の特色を持つてゐるが、この反歌もそれに優るとも劣つてはゐない。この一首の單純にしてきびしい形態とその響とは、恐らくは婦女子等の鑑賞に堪えざるものであらう。一首の中に三つも固有名詞が入つてゐて、毫も不安をおぼえしめないのは衷心驚くべきである。後代にしてかかるところを稍悟入し得たものは歌人として平賀元義ぐらゐであつただらう。『中大兄』は、考ナカツオホエ、古義ナカチオホエ、と訓んでゐる。
 
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     渡津海《わたつみ》の豐旗雲《とよはたぐも》に入日《いりひ》さし今夜《こよひ》の月夜《つくよ》清明《あきら》けくこそ 〔卷一・一五〕 天智天皇
 
 此歌は前の三山の歌の次にあるから、やはり中大兄の御歌【反歌】の一つに取れるが、左注に今案不v似2反歌1也とあるから編輯當時既に三山の歌とすることは疑はれてゐたものであらう。併し三山の歌とせずに、同一作者が印南野海濱あたりで御作りになつた敍景の歌と看做せば解釋が出來るのである。
 大意。今、濱べに立つて見わたすに、海上《かいじやう》に大きい旗のやうな雲があつて、それに赤く夕日《ゆふひ》の(62)光が差してゐる。この樣子では、多分|今夜《こんや》の月は明月《めいげつ》だらう。
 結句の原文、『清明己曾』は舊訓スミアカクコソであつたのを、眞淵がアキラケクコソと訓んだ。さうすれば、アキラケクコソアラメといふ推量になるのである。山田博士の講義に、『下にアラメといふべきを略せるなり。かく係助詞にて止め、下を略するは一種の語格なり』と云つてある。『豐旗雲』は、『豐雲野神《とよくもぬのかみ》』、『豐葦原《とよあしはら》』、『豐秋津州《とよあきつしま》』、『豐御酒《とよみき》』、『豐祝《とよほぎ》』などと同じく『豐』に特色があり、古代日本語の優秀を示してゐる一つである。以上のやうに解してこの歌を味へば、莊麗ともいふべき大きい自然と、それに參入した作者の氣魄と相融合して讀者に迫つて來るのであるが、如是莊大雄嚴の歌詞といふものは、遂に後代には跡を斷つた。萬葉を崇拜して萬葉調の歌を作つたものにも絶えて此歌に及ぶものがなかつた。その何故であるかを吾等は一たび省ねばならない。後代の歌人等は、渾身を以て自然に參入してその寫生をするだけの意力に乏しかつたためで、この實質と單純化とが遂に後代の歌には見られなかつたのである。第三句の、『入日さし』と中止法にしたところに、小休止があり、不即不離に第四句に續いてゐるところに歌柄の大きさを感ぜしめる。結句の推量も、赤い夕雲の光景から月明を直覺した、素朴で人間的直接性を有つている。【願望とする説は、心が稍間接となり、技巧的となる。】
 『清明』を眞淵に從つてアキラケクと訓んだが、これには諸訓があつて未だ一定してゐない。舊(63)訓スミアカクコソで、此は隨分長く行はれた。然るに眞淵は考でアキラケクコソと訓み、『今本、清明の字を追て、すみあかくと訓しは、萬葉をよむ事を得ざるものぞ、紀にも、清白心をあきらけきこころと訓し也』と云つた。古義では、『アキラケクといふは古言にあらず』として、キヨクテリコソと訓み、明は照の誤寫だらうとした。なほその他の訓を記せば次のごとくである。スミアカリコソ(京大本)。サヤケシトコソ(春滿)。サヤケクモコソ(秋成)。マサヤケクコソ(古泉千樫)。サヤニテリコソ(佐佐木信綱)。キヨクアカリコソ(武田祐吉・佐佐木信綱)。マサヤケミコソ(品田太吉)。サヤケカリコソ(三矢重松・齋藤茂吉・森本治吉)。キヨラケクコソ(松岡靜雄・折口信夫)。マサヤカニコソ(澤瀉久孝)等の諸訓がある。けれども、今のところ皆眞淵訓には及び難い感がして居るので、自分も眞淵訓に從つた。眞淵のアキラケクコソの訓は、古事記傳・略解・燈・檜嬬手・攷證・美夫君志・註疏・新考・講義・新講等皆それに從つてゐる。ただ、燈・美夫君志等は意味を違へて取つた。
 さて、結句の『清明己曾』をアキラケクコソと訓んだが、これに異論を唱へる人は、萬葉時代には月光の形容にキヨシ、サヤケシが用ゐられ、アカシ、アキラカ、アキラケシの類は絶對に使はぬといふのである。成程萬葉集の用例を見れば大體さうである。けれども『絶對に』使はぬなどとは云はれない。『日月波《ヒツキハ》、安可之等伊倍騰《アカシトイヘド》、安我多米波《アガタメハ》、照哉多麻波奴《テリヤタマハヌ》』(卷五・八九二)とい(64)ふ憶良の歌は、明瞭に日月の光の形容にアカシを使つてゐるし、『月讀明少夜者更下乍《ツクヨミノアカリスクナキヨハフケニツツ》』(卷七・一〇七五)でも月光の形容にアカリを使つてゐるのである。平安朝になつてからは、『秋の夜の月の光しあかければ〔十三字右○〕くらぶの山もこえぬべらなり』(古今・秋上)、『桂川月のあかきに〔六字右○〕ぞ渡る』(土佐日記)等をはじめ用例は多い。併し萬葉時代と平安朝時代との言語の移行は暫時的・流動的なものだから、突如として變化するものでないことは、この實例を以ても證明することが出來たのである。約めていへば、萬葉時代に月光の形容にアカシを用ゐた〔二十四字右○〕。
 次に、『安我己許呂《アガココロ》、安可志能宇良爾《アカシノウラニ》』(卷十五・三六二七〕、『吾情清隅之池之《アガココロキヨスミノイケノ》』(卷十三・三二八九)、『加久佐波奴《カクサハヌ》、安加吉許己呂乎《アカキココロヲ》』(卷二十・四四六五)、『汝心之清明《ミマシガココロノアカキコトハ》』、『我心清明故《アガココロアカキユヱニ》』(古事記・上卷)、『有2清心《キヨキココロ》1』(書紀神代卷)、『淨伎明心乎持弖《キヨキアカキココロヲモチテ》』(續紀・卷十)等の例を見れば、心あかし、心きよし、あかき心、きよき心は、共通して用ゐられたことが分かるし、なほ、『敷島のやまとの國に安伎良氣伎《アキラケキ》名に負ふとものを心つとめよ』(卷二十・四四六六)、『つるぎ大刀いよよ研ぐべし古へゆ佐夜氣久於比弖《サヤケクオヒテ》來にしその名ぞ』(卷二十・四四六七)の二首は、大伴家持の連作で、二つとも『名』を咏んでゐるのだが、アキラケキとサヤケキとの流用を證明してゐるのである。そして、『春日山押して照らせる此月は妹が庭にも清有家里《サヤケカリケリ》』(卷七・一〇七四)は、月光にサヤケシを用ゐた例であるから、以上を綜合して觀るに、アキラケシ、サヤケシ、アカシ、キヨシ、などの形容(65)詞は互に共通して用ゐられ、互に流用せられたことが分かる。新撰字鏡に、明。阿加之《アカシ》、佐也加爾在《サヤカニアリ》、佐也介之《サヤケシ》、明介志《アキラケシ》(阿支良介之《アキラケシ》)等とあり、類聚名義抄に、明(可在月)アキラカナリ、ヒカル等とあるのを見ても、サヤケシ、アキラケシの流用を認め得るのである。結論、萬葉時代に月光の形容にアキラケシと使つたと認めて差支ない〔三十字右○〕。
 次に、結句の『己曾』であるが、これも萬葉集では、結びにコソと使つて、コソアラメと云つた例は絶對に無いといふ反對説があるのだが、平安朝になると、形容詞からコソにつづけてアラメを省略した例は、『心美しきこそ』、『いと苦しくこそ』、『いとほしうこそ』、『片腹いたくこそ』等をはじめ用例が多いから、それがもつと時代が溯つても、日本語として、絶對に使はなかつたとは謂へぬのである。特に感動の強い時、形式の制約ある時などにこの用法が行はれたと解釋すべきである。なほ、安伎良氣伎《アキラケキ》、明久《アキラケク》、左夜氣伎《サヤケキ》、左夜氣久《サヤケク》は謂ゆる乙類の假名で、形容詞として活用してゐるのである。結論、アキラケク・コソといふ用法は、アキラケク・コソ・アラメといふ用法に等しいと解釋して差支ない〔四十三字右○〕。【本書は簡約を目的としたから大體の論にとどめた。別論がある。】
 以上で、大體解釋が終つたが、この歌には異つた解釋即ち、今は曇つてゐるが、今夜は月明になつて欲しいものだと解釋する説(燈・古義・美夫君志等)、或は、第三句までは現實だが、下の句は願望で、月明であつて欲しいといふ説(選釋・新解等)があるのである。而して、『今夜の月さや(66)かにあれかしと希望《ネガヒ》給ふなり』(古義)といふのは、キヨクテリコソと訓んで、連用言から續いたコソの終助詞即ち、希望のコソとしたから自然この解釋となつたのである。結句を推量とするか、希望とするか、鑑賞者はこの二つの説を受納れて、相比較しつつ味ふことも亦可能である。そしていづれが歌として優るかを判斷すべきである。
 
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     三輪山《みわやま》をしかも隱《かく》すか雲《くも》だにも情《こころ》あらなむ隱《かく》さふべしや 〔卷一・一八〕 額田王
 
 この歌は作者未定である。併し、『額田王下2近江1時作歌、井戸王即和歌』といふ題詞があるので、額田王作として解することにする。『味酒《うまざけ》三輪の山青丹よし奈良の山の山のまにい隱るまで道の隈《くま》い積《つも》るまでに委にも見つつ行かむをしばしばも見放《みさ》けむ山を心なく雲の隱《かく》さふべしや』といふ長歌の反歌である。『しかも』は、そのやうに、そんなにの意。
 一首の意は、三輪山をばもつと見たいのだが、雲が隱してしまつた。そんなにも隱すのか、縱ひ雲でも情《なさけ》があつてくれよ。こんなに隱すといふ法がないではないか、といふのである。
 『あらなむ』は將然言につく願望のナムであるが、山田博士は原文の『南畝』をナモと訓み、『情《こころ》(67)アラナモ』とした。これは古形で同じ意味になるが、類聚古集に『南武』とあるので、暫く『情アラナム』に從つて置いた。その方が、結句の響に調和するとおもつたからである。結句の『隱さふべしや』の『や』は強い反語で、『隱すべきであるか、決して隱すべきでは無い』といふことになる。長歌の結末にもある句だが、それを短歌の結句にも繰返して居り、情感がこの結句に集注してゐるのである。この作者が抒情詩人として優れてゐる點がこの一句にもあらはれてをり、天然の現象に、恰も生きた人間にむかつて物言ふごとき態度に出て、毫も厭味を感じないのは、直接であからさまで、擬人などといふ意圖を餘り意識しないからである。これを試に、在原業平の、『飽かなくにまだきも月の隱るるか山の端逃げて入れずもあらなむ』(古今・雜上)などと比較するに及んで、更にその特色が瞭然として來るのである。
 カクサフはカクスをハ行四段に活用せしめたもので、時間的經過をあらはすこと、チル、チラフと同じい。『奥つ藻を隱さふ〔三字右○〕なみの五百重浪』(卷十一・二四三七)、『隱さはぬ〔四字右○〕あかき心を皇方に極めつくして』(卷二十・四四六五)の例がある。なおベシヤの例は、『大和戀ひいの寢らえぬに情《こころ》なくこの渚《す》の埼に鶴《たづ》鳴くべしや』(卷一・七一)、『出でて行かむ時しはあらむを故《ことさ》らに妻戀しつつ立ちて行くべしや』(卷四・五八五)、『海《うみ》つ路《ぢ》の和《な》ぎなむ時も渡らなむかく立つ浪に船出すべしや』(卷九・一七八一)、『たらちねの母に障らばいたづらに汝も吾も事成るべしや』(卷十一・二五一七)(68)等である。
 
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     あかねさす紫野《むらさきぬ》行《ゆ》き標野《しめぬ》行《ゆ》き野守《ぬもり》は見《み》ずや君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る 〔卷一・二〇〕 額田王
 
 天智天皇が近江の蒲生《がまふ》野に遊獵【藥獵】したまうた時、【天皇七年五月五日】皇太子【大皇弟、大海人皇子】諸王・内臣・群臣が皆從つた。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子に婚《みあ》ひ十市皇女を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍してゐた。この歌は、さういふ關係にある時のものである。『あかねさす』は紫の枕詞。『紫野』は染色の原料として紫草《むらさき》を栽培してゐる野。『標野』は御料地として濫りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。『野守』はその御料地の守部《もりべ》即ち番人である。
 一首の意は、お慕はしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになつて、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでせうか。それが不安心でございます、といふのである。
 この『野守』に就き、或は天智天皇を申し奉るといひ、或は諸臣のことだといひ、皇太子の御(69)思ひ人だといひ、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潛めて、野守は野守として大體を味ふ方が好い。また、『野守は見ずや君が袖ふる』をば、『立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか』とうながすやうに解する説もある。『袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよなよとをかしげなるをいふ』(攷證)。『わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり』(講義)等である。併し、袖振るとは、『わが振る袖を妹見つらむか』(人麿)といふのでも分かるやうに、ただの客觀的な姿ではなく、戀愛心表出のための一つの行爲と解すべきである。
 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかひ、對詠的にいつてゐるので、濃やかな情緒に伴ふ、甘美な媚態をも感じ得るのである。『野守は見ずや』と強く云つたのは、一般的に云つて居るやうで、寧ろ皇太子に愬《うつた》へてゐるのだと解して好い。さういふ強い句であるから、その句を先きに云つて、『君が袖振る』の方を後に置いた。併しその倒句は單にそれのみではなく、結句としての聲調に、『袖振る』と止めた方が適切であり、また女性の語氣としてもその方に直接性があるとおもふほど微妙にあらはれて居るからである。甘美な媚態云々といふのには、『紫野ゆき標野ゆき』と對手の行動をこまかく云ひ現して、語を繰返してゐるところにもあらはれてゐる。一首は平板に直線的でなく、立體的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つやうになつた。先進(70)の注釋書中、この歌に、大海人皇子に他に戀人があるので嫉ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戲れに諭すやうな分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬へに觸れたためであらう。
 『袖振る』といふ行爲の例は、『石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか』(卷二・一三二)、『凡《おほ》ならばかもかも爲《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも』(卷六・九六五)、『高山の岑《みね》行く鹿《しし》の友を多み袖振らず來つ忘ると念ふな』(卷十一・二四九三)などである。
 
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     柴草《むらさき》のにほへる妹《いも》を憎《にく》くあらば人嬬《ひとづま》ゆゑにあれ戀《こ》ひめやも 〔卷一・二一〕 天武天皇
 
 右(二〇)の額田王の歌に對して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答へられた御歌である。
 一首の意は、紫の色の美しく匂《にほ》ふやうに美しい妹《いも》(おまへ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまへに、かほどまでに戀する筈はないではないか。さういふあぶないことをするのも、おまへが可哀いからである、といふのである。
 この『人妻ゆゑに』の『ゆゑに』は『人妻だからと云つて』といふのでなく、『人妻に由つて戀(71)ふ』と、『戀ふ』の原因をあらはすのである。『人妻ゆゑにわれ戀ひにけり』、『ものもひ痩せぬ人の子ゆゑに』、『わがゆゑにいたくなわびそ』等、これらの例萬葉に甚だ多い。戀人を花に譬へたのは、『つつじ花にほえ少女櫻花さかえをとめ』(卷十三・三三〇九)等がある。
 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別といふことにもなるとおもふが、戀人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐへたりしながら、然かもこれだけの複雜な御心持を、直接に力づよく表はし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粹といふことに歸著するであらうか。自分はこれを萬葉集中の傑作の一つに評價してゐる。集中、『憎し』といふ語のあるものは、『憎くもあらめ』の例があり、『憎《にく》くあらなくに』、『憎《にく》からなくに』の例もある。この歌に、『憎』の語と、『戀』の語と二つ入つてゐるのも顧慮してよく、毫も調和を破つてゐないのは、憎い(嫌ひ)といふことと、戀ふといふことが調和を破つてゐないがためである。この贈答歌はどういふ形式でなされたものか不明であるが、戀愛贈答歌には縱ひ切實なものでも、底に甘美なものを藏してゐる。ゆとりの遊びを藏してゐるのは止むことを得ない。なほ、卷十二(二九〇九)に、『おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に戀ひつつあらめや』といふ歌があつて類似の歌として味ふことが出來る。
 
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(72)     河上《かはかみ》の五百箇《ゆつ》磐群《いはむら》に草《くさ》むさず常《つね》にもがもな常處女《とこをとめ》にて 〔卷一・二二〕 吹黄刀自
 
 十市皇女《とをちのひめみこ》【御父大海人皇子、御母額田王】が伊勢神宮に參拜せられたとき、皇女に從つた吹黄刀自《ふきのとじ》が波多横山《はたよこやま》の巖《いはほ》を見て詠んだ歌である。波多《はた》の地は詳でないが、伊勢壹志郡八太村の邊だらうと云はれてゐる。
 一首の意は、この河の邊《ほとり》の多くの嚴には少しも草の生えることがなく、綺麗で滑かである。そのやうにわが皇女の君も永久に美しく容色のお變りにならないでおいでになることをお願ひいたします、といふのである。
 『常少女』といふ語も、古代日本語の特色をあらはし、まことに感歎せねばならぬものである。今ならば、『永遠處女』などといふところだが、到底この古語には及ばない。作者は恐らく老女であらうが、皇女に對する敬愛の情がただ純粹にこの一首にあらはれて、單純古調のこの一首を吟誦すれば寧ろ莊嚴の氣に打たれるほどである。古調といふ中には、一つ一つの語にいひ知れぬ味ひがあつて、後代の吾等は潛心その吟味に努めねばならぬもののみであるが、第三句の『草むさず』から第四句への聯絡の具合、それから第四句で切つて、結句を『にて』にて止めたあたり、皆繰返して讀味ふべきもののみである。この歌の結句と、『野守は見ずや君が袖ふる』などと比較(73)することもまた極めて有益である。 『常』のついた例には、『相見れば常初花《とこはつはな》に情ぐし眼ぐしもなしに』(卷十七・三九七八)、『その立山に常夏《とこなつ》に雪ふりしきて』(卷十七・四〇〇〇)、『白砥掘《しらとほ》ふ小新田《をにひた》山の守《も》る山の末《うら》枯れ爲無《せな》な常葉《とこは》にもがも』(卷十四・三四三六)等がある。
 十市皇女は大友皇子【弘文天皇】御妃として葛野王を生んだが、壬申亂後大和に歸つて居られた。皇女は天武天皇七年夏四月天皇伊勢齋宮に行幸せられむとした最中に卒然として薨ぜられたから、この歌はそれより前で、恐らく、四年春二月參宮の時でもあらうか。さびしい境遇に居られた皇女だから、老女が作つたこの祝福の歌もさびしい心を背景としたものとおもはねばならぬ。
 
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     うつせみの命《いのち》を惜《を》しみ波《なみ》に濡《ぬ》れ伊良虞《いらご》の島《しま》の玉藻《たまも》苅《か》り食《を》す 〔卷一・二四〕 麻續王
 
 麻續《をみ》王が伊勢の伊良虞《いらご》に流された時、時の人が、『うちそを麻續《をみ》の王《おほきみ》海人《あま》なれや伊良虞が島の玉藻《たまも》刈ります』(卷一・二三)といつて悲しんだ。『海人なれや』は疑問で、『海人だからであらうか』といふ意になる。この歌はそれに感傷して和へられた歌である。自分は命を愛惜してこのやうに海浪(74)に濡れつつ伊良虞《いらご》島の玉藻を苅つて食べてゐる、といふのである。流人でも高貴の方だから實際海人のやうな業をせられなくとも、前の歌に『玉藻苅ります』といつたから、『玉藻苅り食す』と云はれたのである。なほ結句を古義ではタマモカリハムと訓み、新考(井上)もそれに從つた。この一首はあはれ深いひびきを持ち、特に、『うつせみの命ををしみ』の句に感慨の主點がある。萬葉の歌には、『わたつみの豐旗雲に』の如き歌もあるが、またかういふ切實な感傷の歌もある。悲しい聲であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍小きざみになつてゐる。『いのち』のある例は、『たまきはる命惜しけどせむ術《すべ》もなし』(卷五・八〇四)、『たまきはる命惜しけど爲むすべのたどきを知らに』(卷十七・三九六二)等である。
 麻續王が配流されたといふ記録は、書紀には因幡とあり、常陸風土記には行方郡板來村としてあり、この歌によれば伊勢だから、配流地はまちまちである。常陸の方は傳説化したものらしく、因幡・伊勢は配流の場處が途中變つたのだらうといふ説がある。さうすれば説明が出來るが、萬葉の歌の方は伊勢として味つてかまはない。
 
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     春《はる》過《す》ぎて夏|來《きた》るらし白妙《しろたへ》の衣《ころも》ほしたり天《あめ》の香具(75)山《かぐやま》 〔卷一・二八〕 持統天皇
 
 持統天皇の御製で、藤原宮址は現在高市郡鴨公村大字高殿小學校隣接の傳説地土壇を中心とする敷地であらうか。藤原宮は持統天皇の四年に高市皇子御視察、十二月天皇御視察、六年五月から造營をはじめ八年十二月に完成したから、恐らくは八年以後の御製で、宮殿から眺めたまうた光景ではなからうかと拜察せられる。
 一首の意は、春が過ぎて、もう夏が來たと見える。天の香具山の邊には今日は一ばい白い衣を干してゐる、といふのである。
 『らし』といふのは、推量だが、實際を目前にしつついふ推量である。『來《きた》る』は良行四段の動詞である。『み冬つき春は吉多禮登《キタレド》』(卷十七・三九〇一)『冬すぎて暖來良思《ハルキタルラシ》』(卷十・一八四四)等の例がある。この歌は、全體の聲調は端嚴とも謂ふべきもので、第二句で、『來るらし〔二字右○〕』と切り、第四句で、『衣ほしたり〔二字右○〕』と切つて、『らし』と『たり』で伊列の音を繰返し一種の節奏を得てゐるが、人麿の歌調のやうに鋭くゆらぐといふのではなく、やはり女性にまします御語氣と感得することが出來るのである。そして、結句で 『天の香具山』と名詞止めにしたのも一首を整正端嚴にした。天皇の御代には人麿・黒人をはじめ優れた歌人を出したが、天皇に此御製あるを拜誦す(76)れば、決して偶然でないことが分かる。
 この歌は、第二句ナツキニケラシ(舊訓)、古寫本中ナツゾキヌラシ(元暦校本・類聚古集)であつたのを、契沖がナツキタルラシと訓んだ。第四句コロモサラセリ(舊訓)、古寫本中、コロモホシタリ(古葉略類聚抄)、コロモホシタル(神田本)、コロモホステフ(細井本)等の訓があり、また、新古今集や小倉百人一首には、『春過ぎて夏來にけらし〔三字右○〕白妙の衣ほすてふ〔三字右○〕あまの香具山』として載つてゐるが、これだけの僅かな差別で一首全體に大きい差別を來すことを知らねばならぬ。現在鴨公村高殿の土壇に立つて香具山の方を見渡すと、この御製の如何に實地的即ち寫生的だかといふことが分かる。眞淵の萬葉考に、『夏のはじめつ比、天皇埴安の堤の上などに幸し給ふ時、かの家らに衣を懸ほして有を見まして、實に夏の來たるらし、衣をほしたりと、見ますまにまにのたまへる御歌也。夏は物打しめれば、萬づの物ほすは常の事也。さては餘りに事かろしと思ふ後世心より、附そへごと多かれど皆わろし。古への歌は言には風流なるも多かれど、心はただ打見打思ふがままにこそよめれ』と云つてあるのは名言だから引用しておく。なほ、埴安の池は、現在よりももつと西北で、別所の北に池尻といふ小字があるがあのあたりだかも知れない。なほ、橋本直香(私抄)は、香具山に登り給うての御歌と想像したが、併し御製は前言の如く、宮殿にての御吟詠であらう。土屋文明氏は明日香の淨御原の宮から山の陽の村里を御覧になられての御製と解(77)した。
 參考歌。『ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも』(卷十・一八一二)、『いにしへの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山』(卷七・一〇九六)、『昨日こそ年は極《は》てしか春霞春日の山にはや立ちにけり』(卷十・一八四三)、『筑波根に雪かも降らる否をかも愛《かな》しき兒ろが布《にぬ》ほさるかも』(卷十四・三三五一)。僻案抄に、『只白衣を干したるを見そなはし給ひて詠給へる御歌と見るより外有べからず』といつたのは素直な解釋であり、燈に、『春はと人のたのめ奉れる事ありしか。又春のうちにと人に御ことよさし給ひし事のありけるが、それが期を過ぎたりければ、その人をそそのかし、その期おくれたるを怨ませ給ふ御心なるべし』と云つたのは、穿ち過ぎた解釋で甚だ惡いものである。かういふ態度で古歌に對するならば、一首といへども正しい鑑賞は出來ない。
 
            ○
     ささなみの志賀《しが》の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人《おほみやびと》の船《ふね》待《ま》ちかねつ 〔卷一・三〇〕 柿本人麿
 
 柿本人麿が、近江の宮【天智天皇大津宮】址の荒れたのを見て作つた長歌の反歌である。大津宮【志賀宮】の址は、(78)現在の大津市南滋賀町あたりだらうといふ説が有力で、近江の都の範圍は、其處から南へも延び、西は比叡山麓、東は湖畔迄至つてゐたもののやうである。此歌は持統三年頃、人麿二十七歳ぐらゐの作と想像してゐる。『ささなみ』【樂浪】は近江滋賀郡から高島郡にかけ湖西一帶の地をひろく稱した地名であるが、この頃には既に形式化せられてゐる。
 一首は、樂浪《ささなみ》の志賀の辛崎は元の如く何の變《かはり》はないが、大宮所も荒れ果てたし、むかし船遊をした大宮人も居なくなつた。それゆゑ、志賀の辛崎が、大宮人の船を幾ら待つてゐても待ち甲斐が無い、といふのである。
 『幸《さき》くあれど』は、平安無事で何の變はないけれどといふことだが、非情の辛崎をば、幾らか人間的に云つたものである。『船待ちかねつ』は、幾ら待つてゐても駄目だといふのだから、これも人間的に云つてゐる。歌詞からいへば、第三句は字餘りで、結句は四三調に緊まつてゐる。全體が切實沈痛で、一點浮華の氣をとどめて居らぬ。現代の吾等は、擬人法らしい表現に、陳腐を感じたり、反感を持つたりすることを止めて、一首全體の態度なり氣味なりに同化せむことを努むべきである。作は人麿としては初期のものらしいが、既にかくの如く圓熟して居る。
 
             ○
(79)     ささなみの志賀《しが》の大曲《おほわだ》よどむとも昔《むかし》の人《ひと》に亦《また》も逢はめやも 〔卷一・三一〕 柿本人麿
 
 右と同時に人麿の作つたもので、一首は、近江の湖水の大きく入り込んだ處、即ち大曲《おほわだ》の水が人戀しがつて、人懷かしく、淀んでゐるけれども、もはやその大宮人等に逢ふことが出來ない、といふのである。大津の京に關係あつた湖水の一部の、大曲《おほわだ》の水が現在、人待ち顏に淀んでゐる趣である。然るに、『オホワダ』をば大海《おほわだ》即ち近江の湖水全體と解し、湖の水が勢多から宇治に流れてゐるのを、それが停滯して流れなくなるとも、といふのが、即ち『ヨドムトモ』であると假定的に解釋する説(燈)があるが、それは通俗理窟で、人麿の歌にはさういふ通俗理窟で解けない歌句が間々あることを知らねばならぬ。ここの『淀むとも』には現在の實感がもつと活きてゐるのである。
 この歌も感慨を籠めたもので、寧ろ主觀的な歌である。前の歌の第三句に、『幸くあれど』とあつたごとく、この歌の第三句にも、『淀むとも』とある、そこに感慨が籠められ、小休止があるやうになるのだが、かういふ云い方には、ややともすると一首を弱くする危險が潛むものである。然るに人麿の歌は前の歌もこの歌も、『船待ちかねつ』、『またも逢はめやも』と強く結んで、全體(80)を統一してゐるのは實に驚くべきで、この力量は人麿の作歌の眞率的な態度に本づくものと自分は解して居る。人麿は初期から斯ういふ優れた歌を作つてゐる。
 
             ○
     いにしへの人《ひと》にわれあれや樂浪《ささなみ》の故《ふる》き京《みやこ》を見《み》れば悲《かな》しき 〔卷一・三二〕 高市古人
 
 高市古人《たけちのふるひと》が近江の舊都を感傷して詠んだ歌である。然るに古人の傳不明で、題詞の下に或書云|高市連黒人《たけちのむらじくろひと》と注せられてゐるので、黒人の作として味ふ人が多い。『いにしへの人にわれあれや』は、當今の普通人ならば舊都の址を見てもこんなに悲しまぬであらうが、こんなに悲しいのは、古の世の人だからであらうかと、疑ふが如くに感傷したのである。この主觀句は、相當によいので棄て難いところがある。なお、卷三(三〇五)に、高市連黒人の、『斯くゆゑに見じといふものを樂浪《ささなみ》の舊き都を見せつつもとな』があつて、やはり上の句が主觀的である。けれども、此等の主觀句は、切實なるが如くにして切實に響かないのは何故であるか。これは人麿ほどの心熱が無いといふことにもなるのである。
 
             ○
(81)     山川《やまかは》もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも 〔卷一・三九〕 柿本人麿
 
 持統天皇の吉野行幸の時、從駕した人麿の獻つたものである。持統天皇の吉野行幸は前後三十二囘【御在位中三十一囘御讓位後一囘】であるが、萬葉集年表(土屋文明氏)では、五年春夏の交だらうと云つてゐる。さすれば人麿の想像年齡二十九歳位であらうか。
 一首の意は、山の神(山祇《やまづみ》)も川の神(河伯《かはかみ》)も、もろ共に寄り來つて仕へ奉る、現神《あきつがみ》として神そのままに、わが天皇は、この吉野の川の瀧《たぎ》の河内《かふち》に、群臣と共に船出したまふ、といふのである。
 『瀧《たぎ》つ河内《かふち》』は、今の宮瀧《みやたき》附近の吉野川で、水が強く廻流してゐる地勢である。人麿は此歌を作るのに、謹んで緊張してゐるから、自然歌詞も大きく莊嚴なものになつた。上半は形式的に響くが、人麿自身にとつては本氣で全身的であつた。そして、『瀧つ河内』といふ現實をも免《のが》してゐないものである。一首の諧調音を分析すれば不思議にも加行の開口音があつたりして、種々勉強になる歌である。先師伊藤左千夫先生は、『神も人も相和して遊ぶ尊き御代の有樣である』(萬葉集新釋)と評せられたが、まさしく其通りである。第二句、原文『因而奉流』をヨリテ・ツカフルと訓(82)んだが、ヨリテ・マツレルといふ訓もある。併しマツレルでは調が惡い。結句、原文、『船出爲加母』は、フナデ・セスカモと敬語に訓んだのもある。
 補記、近時土屋文明氏は『瀧つ河内』はもつと下流の、下市町を中心とした越部、六田あたりだらうと考證した。
 
            ○
     英虞《あご》の浦《うら》に船乘《ふなの》りすらむをとめ等《ら》が珠裳《たまも》の裾《すそ》に潮《しほ》滿《み》つらむか 〔卷一・四〇〕 柿本人麿
 
 持統天皇が伊勢に行幸【六年三月】遊ばされた時、人麿は飛鳥淨御原宮【持統八年十二月六日藤原宮に遷居し給ふ】に留まり、その行幸のさまを思ひはかつて詠んだ歌である。初句、原文『鳴呼見浦爾』だから、アミノウラニと訓むべきである。併し史實上で、阿胡行宮《あごのかりみや》云々とあるし、志摩に英虞郡《あごのこほり》があり、卷十五(三六一〇)の古歌といふのが、『安胡乃宇良《アゴノウラ》』だから、恐らく人麿の原作はアゴノウラで、萬葉卷一のアミノウラは異傳の一つであらう。
 一首は、天皇に供奉して行つた多くの若い女官たちが、阿虞の浦で船に乘つて遊樂する、その時にあの女官等の裳の裾が海潮に濡れるであらう、といふのである。
(83) 行幸は、三月六日【陽暦三月三十一日】から三月二十日【陽暦四月十四日】まで續いたのだから、海濱で遊樂するのに適當な季節であり、若く美しい女官等が大和の山地から海濱に來て珍しがつて遊ぶさまが目に見えるやうである。さういふ朗かで美しく樂しい歌である。然かも一首に『らむ』といふ助動詞を二つも使つて、流動的歌調を成就してゐるあたり、やはり人麿一流と謂はねばならない。『玉裳』は美しい裳ぐらゐに取ればよく、一首に親しい感情の出てゐるのは、女官中に人麿の戀人もゐたためだらうと想像する向もある。
 
            ○
     潮騷《しほさゐ》に伊良虞《いらご》の島邊《しまべ》榜《こ》ぐ船《ふね》に妹《いも》乘《の》るらむか荒《あら》き島囘《しまみ》を 〔卷一・四二〕 柿本人麿
 
 前の續きである。『伊良虞《いらご》の島』は、三河渥美郡の伊良虞崎あたりで、『島』といつても崎でもよいこと、後出の『加古の島』のところにも應用することが出來る。
 一首は、潮が滿ちて來て鳴りさはぐ頃、伊良虞の島近く榜ぐ船に、供奉してまゐつた自分の女も乘ることだらう。あの浪の荒い島のあたりを、といふのである。
 この歌には、明かに『妹』とあるから、こまやかな情味があつて餘所餘所しくない。そして、(84)この『妹乘るらむか』といふ一句が一首を統一してその中心をなしてゐる。船に慣れないことに同情してその難儀をおもひやるに、ただ、『妹乘るらむか』とだけ云つてゐる、そして、結句の、『荒き島囘を』に應接せしめてゐる。
 
             ○
     吾《わが》背子《せこ》はいづく行《ゆ》くらむ奥《おき》つ藻《も》の名張《なばり》の山《やま》を今日《けふ》か越《こ》ゆらむ 〔卷一・四三〕 當麻麿の妻
 
 當麻眞人麿《たぎまのまひとまろ》の妻が夫の旅に出た後詠んだものである。或は伊勢行幸にでも扈從して行つた夫を偲んだものかも知れない。名張山は伊賀名張郡の山で伊勢へ越ゆる道筋である。『奥つ藻の』は名張へかかる枕詞で、奥つ藻は奥深く隱れてゐる藻だから、カクルと同義の語ナバル(ナマル)に懸けたものである。
 一首の意は、夫《をつと》はいま何處を歩いてゐられるだらうか。今日ごろは多分名張の山あたりを越えてゐられるだらうか、といふので、一首中に『らむ』が二つ第二句と結句とに置かれて調子を取つてゐる。この『らむ』は、『朝踏ますらむ』あたりよりも稍輕快である。この歌は古來秀歌として鑑賞せられたのは萬葉集の歌としては分かり好く口調も好いからであつたが、そこに特色もあ(85)り、消極的方面もまたそこにあると謂つていいであろうか。併しそれでも古今集以下の歌などと違つて、厚みのあるところ、名張山といふ現實を持つて來たところ等に注意すべきである。
 この歌は、卷四(五一一)に重出してゐるし、又集中、『後れゐて吾が戀ひ居れば白雲《しらくも》の棚引く山を今日か越ゆらむ』(卷九・一六八一)、『たまがつま島熊山の夕暮にひとりか君が山路越ゆらむ』(卷十二・三一九三)、『息《いき》の緒《を》に吾が思《も》ふ君は鷄《とり》が鳴く東《あづま》の坂を今日か越ゆらむ』(同・三一九四)等、結句の同じものがあるのは注意すべきである。
 
            ○
     阿騎《あき》の野《ぬ》に宿《やど》る旅人《たびびと》うちなびき寐《い》も寢《ぬ》らめやも古《いにしへ》おもふに 〔卷一・四六〕 柿本人麿
 
 輕皇子《かるのみこ》が阿騎野【宇陀郡松山町附近の野】に宿られて、御父|日並知《ひなみし》皇子【草壁皇子】を追憶せられた。その時人麿の作つた短歌四首あるが、その第一首である。輕皇子【文武天皇】の御即位は持統十一年であるから、此歌はそれ以前、恐らく持統六、七年あたりではなからうか。
 一首は、阿騎の野に今夜旅寢をする人々は、昔の事がいろいろ思ひ出されて、安らかに眠りがたい、といふのである。『うち靡き』は人の寢る時の體の形容であるが、今は形式化せられてゐる。(86)『やも』は反語で、強く云つて感慨を籠めてゐる。『旅人』は複數で、輕皇子を主とし、從者の人々、その中に人麿自身も居るのである。この歌は響に句々の搖ぎがあり、單純に過ぎてしまはないため、餘韻おのづからにして長いといふことになる。
 
            ○
      ひむがしの野《ぬ》にかぎろひの立《た》つ見《み》えてかへり見《み》すれば月《つき》かたぶきぬ 〔卷一・四八〕 柿本人麿
 
 これも四首中の一つである。一首の意は、阿騎野にやどつた翌朝、日出前の東天に既に曉の光がみなぎり、それが雪の降つた阿騎野にも映つて見える。その時西の方をふりかへると、もう月が落ちかかつてゐる、といふのである。
 この歌は前の歌にあるやうな、『古へおもふに』などの句は無いが、全體としてさういふ感情が奥にかくれてゐるもののやうである。さういふ氣持があるために、『かへりみすれば月かたぶきぬ』の句も利くので、先師伊藤左千夫が評したやうに、『稚氣を脱せず』といふのは、稍酷ではあるまいか。人麿は斯く見、斯く感じて、詠歎し寫生してゐるのであるが、それが即ち犯すべからざる大きな歌を得る所以となつた。
(87) 『野に・かぎろひの』のところは所謂、句割れであるし、『て』、『ば』などの助詞で續けて行くときに、たるむ虞のあるものだが、それをたるませずに、却つて一種渾沌の調を成就してゐるのは偉いとおもふ。それから人麿は、第三句で小休止を置いて、第四句から起す手法の傾を有つてゐる。そこで、伊藤左千夫が、『かへり見すれば』を、『俳優の身振めいて』と評したのは稍見當の違つた感がある。
 此歌は、訓がこれまで定まるのに、相當の經過があり、『東野《あづまの》のけぶりの立てるところ見て』などと訓んでゐたのを、契沖、眞淵等の力で此處まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。守部此歌を評して、『一夜やどりたる曠野のあかつきがたのけしき、めに見ゆるやうなり。此かぎろひは旭日の餘光をいへるなり』(緊要)といつた。
 
             ○
      日並《ひなみし》の皇子《みこ》の尊《みこと》の馬《うま》並《な》めて御獵《みかり》立《た》たしし時《とき》は來向《きむか》ふ 〔卷一・四九〕 柿本人麿
 
 これも四首中の一つで、その最後のものである。一首は、いよいよ御獵をすべき日になつた。御なつかしい日並皇子尊が御生前に群馬を走らせ御獵をなされたその時のやうに、いよいよ御獵(88)をすべき時になつた、といふのである。
 この歌も餘り細部にこだはらずに、おほやうに歌つてゐるが、ただの腕まかせでなく、丁寧にして眞率な作である。總じて人麿の作は重厚で、輕薄の音調の無きを特色とするのは、應詔、獻歌の場合が多いからといふためのみでなく、どんな場合でもさうであるのを、後進の歌人は見のがしてはならない。
 それから、結句の、『來向ふ』といふやうなものでも人麿造語の一つだと謂つていい。『今年經て來向ふ夏は』『春過ぎて夏來向へば』(卷十九・四一八三・四一八〇)等の家持の用例があるが、これは人麿の、『時は來向ふ』を學んだものである。人麿以後の萬葉歌人等で人麿を學んだ者が一人二人にとどまらない。言葉を換へていへば人麿は萬葉集に於て最もその眞價を認められたものである。後世人麿を『歌聖』だの何のと騷いだが、上の空の偶像禮拜に過ぎぬ。
 
            ○
     ※[女+采]女《うねめ》の袖《そで》吹《ふ》きかへす明日香風《あすかかぜ》都《みやこ》を遠《とほ》みいたづらに吹く 〔卷一・五一〕 志貴皇子
 
 明日香《あすか》(飛鳥)の京から藤原《ふぢはら》の京に遷られた後、明日香のさびれたのを悲しんで、志貴皇子《しきのみこ》の詠(89)まれた御歌である。遷都は持統八年十二月であるから、それ以後の御作だといふことになる。※[女+采]女《うねめ》(采女)は諸國から身分も好く【郡の少領以上】容貌も端正な妙齡女を選拔して宮中に仕へしめたものである。駿河※[女+采]女〔二字右○〕(卷四)駿河采女〔二字右○〕(卷八)の如く兩方に書いてゐる。
 一首は、明日香《あすか》に來て見れば、既に都も遠くに遷り、都であるなら美しい采女《うねめ》等の袖をも飜《ひるがへ》す明日香風も、今は空しく吹いてゐる、といふぐらゐに取ればいい。
 『明日香風』といふのは、明日香の地を吹く風の意で、泊瀬《はつせ》風、佐保《さほ》風、伊香保《いかほ》風等の例があり、上代日本語の一特色を示してゐる。今は京址となつて寂れた明日香に來て、その感慨をあらはすに、采女等の袖ふりはへて歩いてゐた有樣を聯想して歌つてゐるし、それを明日香風に集注せしめてゐるのは、意識的に作歌を工夫するのならば捉へどころといふことになるのであらうが、當時は感動を主とするから自然にかうなつたものであらう。采女の事などを主にするから甘《あま》くなるかといふに決してさうでなく、皇子一流の精嚴ともいふべき歌調に統一せられてゐる。ただ、『袖ふきかへす』を主な感じとした點に、心のすゑ方の危險が潛んでゐるといはばいひ得るかも知れない。この、『袖ふきかへす』といふ句につき、『袖ふきかへしし』と過去にいふべきだといふ説もあつたが、ここは樂《らく》に解釋して好い。
 初句は舊訓タヲヤメノ。拾穗抄タハレメノ。僻案抄ミヤヒメノ。考タワヤメノ。古義ヲトメノ(90)等の訓がある。古抄本中元暦校本に朱書で或ウネメノとあるに從つて訓んだが、なおオホヤメノ(神)タオヤメノ(文)の訓もあるから、舊訓或は考の訓によつて味ふことも出來る。つまり、『采女《ウネメ》は官女の稱なるを義を以てタヲヤメに借りたるなり』(美夫君志)といふ説を全然否定しないのである。いづれにしても初句の四音ウネメノは稍不安であるから、どうしてもウネメと訓まねばならぬなら、或はウネメラノとラを入れてはどうか知らん。
 
            ○
     引馬野《ひくまぬ》ににほふ榛原《はりはら》いり亂《みだ》り衣《ころも》にほはせ旅《たび》のしるしに 〔卷一・五七〕 長奥麿
 
 大寶二年【文武】に太上天皇【持統】が參河に行幸せられたとき、長忌寸奥麿《ながのいみきおきまろ》【傳不詳】の詠んだ歌である。引馬野は遠江敷智郡(今濱名郡)濱松附近の野で、三方原の南寄に曳馬邑があるから、其邊だらうと解釋して來たが、近時三河寶飯郡|御津《みと》町附近だらうといふ説(今泉忠男氏、久松潛一氏)が有力となつた。『榛原《はりはら》』は萩原《はぎはら》だと解せられてゐる。
 一首の意は、引馬野に咲きにほうて居る榛原(萩原)のなかに入つて逍遙しつつ、此處まで旅し來つた記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、といふのであらう。
(91) 右の如くに解して、『草枕旅ゆく人も行き觸ればにほひぬべくも咲ける芽子《はぎ》かも』(卷八・一五三二)の歌の如く、衣に薫染せしめる事としたのであるが、續日本紀に據るに行幸は十月十日【陽暦十一月八日】から十一月二十五日【陽暦十二月二十二日】にかけてであるから、大方の萩の花は散つてしまつてゐる。ここで、『榛原』は萩でなしに、榛《はん》の木原で、その實を煎じて黒染(黄染)にする、その事を『衣にほはせ』といふのだとする説が起つて、目下その説が有力のやうであるが、榛の實の黒染のことだとすると、『入りみだり衣にほはせ』といふ句にふさはしくない。そこで若し榛原は萩原で、其頃萩の花が既に過ぎてしまつたとすると、萩の花でなくて萩の黄葉《もみぢ》であるのかも知れない。【土屋文明氏も、萩の花ならそれでもよいが、榛の黄葉、乃至は雜木の黄葉であるかも知れぬと云つてゐる。】萩の黄葉《もみぢ》は極めて鮮かに美しいものだから、その美しい黄葉の中に入り浸つて衣を薫染せしめる氣持だとも解釋し得るのである。つまり實際に摺染せずに薫染するやうな氣持と解するのである。また、榛は新撰字鏡に、叢生曰v榛とあるから、灌木の藪をいふことで、それならばやはり黄葉《もみぢ》の心持である。いづれにしても、榛《はん》の木ならば、『にほふはりはら』という氣持ではない。この『にほふ』につき、必ずしも花でなくともいいといふ説は既に荷田春滿が云つてゐる。『にほふといふこと、〔葉〕花にかぎりていふにあらず、色をいふ詞なれば、花過ても匂ふ萩原といふべし』(僻案抄)。
 そして榛の實の黒染説は、續日本紀の十月十一月といふ記事があるために可能なので、この記(92)事さへ顧慮しないならば、萩の花として素直に鑑賞の出來る歌なのである。また續日本紀の記載も絶對的だともいへないことがあるかも知れない。さういふことは少し我儘過ぎる解釋であらうが、差し當つてはさういふ我儘をも許容し得るのである。
 さて、さうして置いて、萩の花を以て衣を薫染せしめることに定めてしまへば、此の歌の自然で且つ透明とも謂ふべき快い聲調に接することが出來、一首の中に『にほふ』、『にほはせ』があつても、邪魔を感ぜずに受納れることも出來るのである。次に近時、『亂』字を四段の自動詞に活用せしめた例が萬葉に無いとして『入り亂れ』と訓んだ説【澤瀉氏】があるが、既に『みだりに』といふ副詞がある以上、四段の自動詞として認容していいとおもつたのである。且つ、『いりみだり』の方が響としてはよいのである。
 次に、この歌は引馬野にゐて詠んだものだらうと思ふのに、京に殘つてゐて供奉の人を送つた作とする説【武田氏】がある。即ち、武田博士は、『作者はこの御幸には留守をしてゐたので、御供に行く人に與へた作である。多分、御幸が決定し、御供に行く人々も定められた準備時代の作であらう。御幸先の秋の景色を想像してゐる。よい作である。作者がお供をして詠んだとなす説はいけない』(總釋)と云ふが、これは陰暦十月十日以後に萩が無いといふことを前提とした想像説である。そして、眞淵の如きも、『又思ふに、幸の時は、近き國の民をめし課《オフス》る事紀にも見ゆ、然れ(93)ば前だちて八九月の比より遠江へもいたれる官人此野を過る時よみしも知がたし』(考)といふ想像説を既に作つてゐるのである。共に、同じく想像説ならば、眞淵の想像説の方が、歌を味ふうへでは適切である。この歌はどうしても屬目の感じで、想像の歌ではなからうと思ふからである。私かにおもふに、此歌はやはり行幸に供奉して三河の現地で詠んだ歌であらう。そして少くも其年は萩がいまだ咲いてゐたのであらう。氣温の事は現在を以て當時の事を輕々に論斷出來ないので、即ち僻案抄に、『なべては十月には花も過葉もかれにつゝ(く?)萩の、此引馬野には花も殘り葉もうるはしくてにほふが故に、かくよめりと見るとも難有べからず。草木は氣運により、例にたがひ、土地により、遲速有こと常のことなり』とあり、考にも、『此幸は十月なれど遠江はよに暖かにて十月に此花にほふとしも多かり』とあるとほりであらう。私は、昭和十年十一月すゑに伊香保温泉で木萩の咲いて居るのを見た。其の時伊香保の山には既に雪が降つてゐた。また大寶二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を經て京師に遷幸になつたのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はさう寒くなかつたのかも知れないのである。
 また、『古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ眞野の榛原』(卷七・一一六六)、『白菅の眞野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣《ころも》に摺《す》りつ』(同・一三五四)、『住吉の岸野の榛に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居らむ』(卷十六・三八〇一)、『思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも』(卷十・(94)一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染ならば直ぐに出來るが、ハンの實を煎じて黒染にするのならば、さう簡單には出來ない。もつとも、攷證では、『この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし』とあるが、これでも技術的で、この歌にふさはしくない。そこでこの二首の『榛』はハギの花であつて、ハンの實でないとおもふのである。なほ、『引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも』(卷八・一六四四)、『藤浪の花なつかしみ引よぢて袖に扱入れつ染《し》まば染《し》むとも』(卷十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり『衣にほはせ』の氣持である。なお、榛はハギかハンかといふ問題で、『いざ子ども大和へはやく白菅の眞野の榛原手折りてゆかむ』(卷三・二八〇)の中の、『手折りてゆかむ』はハギには適當だが、ハンには不適當である。その次の歌、『白菅の眞野の榛原ゆくさ來さ君こそ見らめ眞野の榛原』(二八一)もやはりハギの氣持である。以上を綜合して、『引馬野ににほふ榛原』も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであつた。以上は結果から見れば皆新しい説を排して舊い説に從つたこととなる。
 
             ○
    いづくにか船泊《ふなはて》すらむ安禮《あれ》の埼《さき》こぎ囘《た》み行《ゆ》きし棚(95)無《たなな》し小舟《をぶね》 〔卷一・五八〕 高市黒人
 
 これは高市黒人《たけちのくろひと》の作である。黒人の傳は審でないが、持統文武兩朝に仕へたから、大體柿本人麿と同時代である。『船泊《ふなはて》』は此處では名詞にして使つてゐる。『安禮の埼』は參河國の埼であらうが現在の何處にあたるか未だ審でない。【新居崎だらうといふ説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津附近の岬だらうと考證した。】『棚無し小舟』は、舟の左右の舷に渡した旁板(竅jを舟棚《ふなたな》といふから、その舟棚の無い小さい舟をいふ。
 一首の意は、今、參河の安禮《あれ》の埼《さき》のところを漕ぎめぐつて行つた、あの舟棚《ふなたな》の無い小さい舟は、いつたい何處に泊《とま》るのか知らん、といふのである。
 この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同樣、寂しい氣持と、家郷(妻)をおもふ氣持と相纏つてゐるのであるが、この歌は客觀的な寫生をおろそかにしてゐない。そして、安禮の埼といひ、棚無し小舟といひ、きちんと出すものは出して、そして、『何處にか船泊すらむ』と感慨を漏らしてゐるところにその特色がある。歌詞は人麿ほど大きくなく、『すらむ』などといつても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、『棚無し小舟』の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すつきりと緊縮させる手法である。
 
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(96)      いざ子《こ》どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の濱松《はままつ》待《ま》ち戀《こ》ひぬらむ 〔卷一・六三〕 山上憶良
 
 山上憶良《やまのうへのおくら》が大唐《もろこし》にゐたとき、本郷《ふるさと》(日本)を憶つて作つた歌である。憶良は文武天皇の大寶元年、遣唐大使|粟田眞人《あはたのまひと》に少録として從ひ入唐し、慶雲元年秋七月に歸朝したから、この歌は歸りの出帆近いころに作つたもののやうである。『大伴』は難波の邊一帶の地域の名で、もと大伴氏の領地であつたからであらう。『大伴の高師の濱の松が根を』(卷一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の濱といふのである。『御津』は難波の湊のことである。そしてもつとくはしくいへば難波津よりも住吉津即ち堺であらうといはれてゐる。
 一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ歸らう、大伴の御津の濱のあの松原も、吾々を待ちこがれてゐるだらうから、といふのである。やはり憶良の歌に、『大伴の御津の松原かき掃きて吾《われ》立ち待たむ早歸りませ』(卷五・八九五)があり、なほ、『朝なぎに眞楫《まかぢ》榜ぎ出て見つつ來し御津の松原浪越しに見ゆ』(卷七・一一八五)があるから、大きい松原のあつたことが分かる。
 『いざ子ども』は、部下や年少の者等に對して親しんでいふ言葉で、既に古事記應神卷に、『いざ兒ども野蒜《ぬびる》つみに蒜《ひる》つみに』とあるし、萬葉の、『いざ子ども大和へ早く白菅の眞野《まぬ》の榛原《はりはら》手折り(97)て行かむ』(卷三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行してゐる。『白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ』(卷十・二一七三)もまたさうである。『いざ兒ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜採みてむ』(卷六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れてゐる。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
 この歌は、環境が唐の國であるから、自然にその氣持も一首に反映し、さういふ點で規模の大きい歌だと謂ふべきである。下の句の歌調は稍弛んで弱いのが欠點で、これは他のところでも一言觸れて置いたごとく、憶良は漢學に達してゐたため、却つて日本語の傳統的な聲調を理會することが出來なかつたのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の聲調を要求してゐるのである。後年、天平八年の遣新羅國使等の作つたものの中に、『ぬばたまの夜明《よあか》しも船は榜ぎ行かな御津の濱松待ち戀ひぬらむ』(卷十五・三七二一)、『大伴の御津の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ』(三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なほ、大伴坂上郎女の歌に、『ひさかたの天の露霜置きにけり宅《いへ》なる人も待ち戀ひぬらむ』(卷四・六五一)といふのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は當時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢學者であつたのみならず、歌の方でもその學者であつたからだとおもふが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した聲調となつたためとも解釋することが(98)出來る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動が足りない、而してたるんでゐるところのあるものである。
 
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    葦《あし》べ行く鴨の羽《は》がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔卷一・六四〕 志貴皇子
 
 文武天皇が慶雲三年【九月二十五日から十月十二日まで】難波宮に行幸あらせられたとき志貴皇子《しきのみこ》【天智天皇の第四皇子、靈龜二年薨】の詠まれた御歌である。難波宮のあつたところは現在明かでない。
 大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもひ出されてならない。鴨でも共寢をするのにといふ意も含まれてゐる。 『葦べ行く鴨』といふ句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまはぬだらう。『葦べゆく鴨の羽音のおとのみに』(卷十二・三〇九〇)、『葦べ行く雁の翅を見るごとに』(卷十三・三二四五)、『鴨すらも己が妻どちあさりして』(卷十二・三〇九一)等の例があり、參考とするに足る。
 志貴皇子の御歌は、その他のもさうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雜に陷(99)るといふことがない。この歌でも、鴨の羽交《はがひ》に霜が置くといふのは現實の細かい寫實といはうよりは一つの『感』で運んでゐるが、その『感』は空漠たるものでなしに、人間の觀察が本となつてゐる點に強みがある。そこで、『霜ふりて』と斷定した表現が利くのである。『葦べ行く』といふ句にしても稍ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全體としての寫象はただのぼんやりではない。
 集中には、『埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる己が尾に零り置ける霜を払ふとならし』(卷九・一七四四)、『天飛ぶや雁の翅の覆羽《おほひは》の何處もりてか霜の降りけむ』(卷十・二二三八)、『押し照る難波ほり江の葦べには雁|宿《ね》たるかも霜の零《ふ》らくに』(同・二一三五)等の歌がある。
 
             ○
     あられうつ安良禮松原《あられまつばら》住吉《すみのえ》の弟日娘《おとひをとめ》と見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔卷一・六五〕 長皇子
 
 長皇子【天武天皇第四皇子】が、攝津の住吉海岸、安良禮松原で詠まれた御歌で、其處にゐた弟日娘《おとひをとめ》といふ美しい娘と共に松原を賞したまうた時の御よろこびである。この歌の『と』の用法につき、あられ松原と〔右○〕弟日娘と〔右○〕兩方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦であつたらうから、美し(100)かつたものであらう。初句の、『あられうつ』は、下の『あられ』に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做していい。一首は、よい氣持になられての即興であらうが、不思議にも輕浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健とも謂ふべき歌調である。これは日本語そのものがかういふ高級なものであつたと解釋することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。『見れど飽かぬかも』の句は萬葉に用例がなかなか多い。『若狹なる三方の海の濱|清《きよ》みい往き還らひ見れど飽かぬかも』(卷七・一一七七)、『百傳ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ來れど粟の小島し見れど飽かぬかも』(卷九・一七一一)、『白露を玉になしたる九月《ながつき》のありあけの月夜《つくよ》見れど飽かぬかも』(卷十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも寫生によつて配合すれば現代に活かすことが出來る。
 この歌の近くに、清江娘子《すみのえのをとめ》といふ者が長皇子に進《たてまつ》つた、『草枕旅行く君と知らませば岸《きし》の埴土《はにふ》ににほはさましを』(卷一・六九)といふ歌がある。この清江娘子は弟日《おとひ》娘子だらうといふ説があるが、或は娘子は一人のみではなかつたのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺つて記念とする趣である。『旅ゆく』はいよいよ京へお歸りになることで、名殘を惜しむのである。情緒が纏綿としてゐるのは、必ずしも職業的にのみこの媚態を示すのではなかつたであらう。またこれを萬葉卷第一に選び載せた態度もこだはりなくて圓融とも稱すべきものである。
 
             ○
(101)     大和《やまと》には鳴《な》きてか來《く》らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山《なかやま》呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる 〔卷一・七〇〕 高市黒人
 持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈從して行つた高市連|黒人《くろひと》が作つた。呼子鳥はカツコウかホトトギスか、或は兩者ともにさう云はれたか、未だ定説が無いが、カツコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云つた場合が最も多いやうである。『象の中山』は吉野離宮のあつた宮瀧の南にある山である。象《きさ》といふ土地の中にある山の意であらう。『來らむ』は『行くらむ』といふ意に同じであるが、彼方《かなた》(大和)を主として云つてゐる【山田博士の説】。從つて大和に親しみがあるのである。
 一首の意。(今吉野の離宮に供奉して來てゐると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京【藤原京】の方へ鳴いて行くのであらう。(家郷のことがおもひ出されるといふ意を含んでゐる。)
 呼子鳥であるから、『呼びぞ』と云つたし、また、ただ『鳴く』といはうよりも、その方が適切な場合もあるのである。而してこの歌には『鳴く』といふ語も入つてゐるから、この『鳴きてか』の方は稍間接的、『呼びぞ』の方が現在の状態で作者にも直接なものであつただらう。『大和には』の『に』は方嚮で、『は』は詠歎の分子ある助詞である。この歌を誦してゐるうちに優れてゐるも(102)のを感ずるのは、恐らく全體が具象的で現實的であるからであらう。そしてそれに伴ふ聲調の響が稍澁りつつ平俗でない點にあるだらう。初句の『には』と第二句の『らむ』と結句の『なる』のところに感慨が籠つて居て、第三句の『呼子鳥』は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。高市黒人は萬葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもふ。
 普通ならば『行くらむ』といふところを、『來らむ』といふに就いて、『行くらむ』は對象物が自分から離れる氣持、『來らむ』は自分に接近する氣持であるから、自分を藤原京の方にゐるやうに瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ來る意にとり、『來らむ』でも差支がないこととなり、古來その解釋が多い。代匠記に、『本來の住所なれば、我方にしてかくは云也』と解し、古義に『おのが戀しく思ふ京師|邊《アタリ》には、今鳴きて來らむかと、京師を内にしていへるなり』と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた氣持に解したのである。けれどもこの解は、大和を内とするといふところに『鳴きてか來らむ』の解に無理がある。然るに、山田博士に據ると越中地方では、彼方を主とする時に『來る』といふさうであるから、大和(藤原京)を主として、其處に呼子鳥が確かに行くといふことをいいあらはすときには、『呼子鳥が大和京へ來る』といふことになる。『大和には啼きてか來らむ霍公鳥《ほととぎす》汝が啼く毎に亡き人おもほゆ』(卷十・一九五六)といふ(103)歌の、『啼きてか來らむ』も、大和の方へ行くだらうといふので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。なほ、『吾が戀を夫《つま》は知れるを行く船の過ぎて來《く》べしや言《こと》も告げなむ』(卷十・一九九八)の『來べしや』も『行くべしや』の意、『霞ゐる富士の山傍《やまび》に我が來《き》なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ』(卷十四・三三五七)の、『我が來なば』も、『我が行かば』といふ意になるのである。
 
             ○
     み吉野《よしぬ》の山《やま》のあらしの寒《さむ》けくにはたや今夜《こよひ》も我《わ》がひとり寢《ね》む 〔卷一・七四〕 作者不詳
 
 大行天皇(文武)が吉野に行幸したまうた時、從駕の人の作つた歌である。『はたや』は、『またも』に似てそれよりも詠歎が強い。この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいひ下してゐるのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。この種の聲調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になつてしまふのだが、併しそのために此歌の價値の下落することがない。その當時は名は著しくない從駕の人でも、このくらゐの歌を作つたのは實に驚くべきである。『ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか寢らむ』(卷一・五九)も選出したのであつたが、歌數の制限のために、此處に附記するにとどめた。
 
(104)            ○
     ますらをの鞆《とも》の音《おと》すなりもののふの大臣《おほまへつぎみ》楯《たて》立《た》つらしも 〔卷一・七六〕 元明天皇
 
 和銅元年、元明天皇御製歌である。寧樂《なら》宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになつた。即ち和銅元年は御即位になつた年である。
 一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしてゐる。將軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであらうか、といふのである。『鞆』は皮製の圓形のもので、左の肘につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであらう。『もののふの大臣《おほまへつぎみ》』は軍を統べる將軍のことで、續紀に、和銅二年に蝦夷を討つた將軍は、巨勢麿《こぜまろ》、佐伯石湯《さへきのいはゆ》だから、御製の將軍もこの二人だらうといはれてゐる。『楯たつ』は、楯は手楯でなくもつと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
 どうしてかういふことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになつて、御心配になられたのであつた。考に、『さて此御時みちのく越後の蝦夷《エミシ》らが叛《ソム》きぬれば、うての使を遣さる、そ(105)の御軍の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此大御哥にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也』とある。
 御答歌といふのは、御名部皇女《みなべのひめみこ》で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。『吾が大王《おほきみ》ものな思ほし皇神《すめかみ》の嗣ぎて賜へる吾無けなくに』(卷一・七七)といふ御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、といふので、『吾』は皇女御自身をさす。御製歌といひ御答歌といひ、まことに緊張した境界で、戀愛歌などとは違つた大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集團、國家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたといふのは、後代の吾等拜誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかひ、『吾が大王ものな思ほし』といはれるのは、御妹君は一天萬乘の現神の天皇にましますからである。
 
             ○
     飛《と》ぶ鳥《とり》の明日香《あすか》の里《さと》を置《お》きて去《い》なば君《きみ》が邊《あたり》は見《み》え(106)ずかもあらむ 〔卷一・七八〕 作者不詳
 
 元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧樂《なら》宮に御遷りになつた時、御輿を長屋原【山邊郡長屋】にとどめ、藤原京の方を望みたまうた。その時の歌であるが作者の名を明記してない。併し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のやうで、天皇の御姉、御名部皇女《みなべのひめみこ》【天智天皇皇女、元明天皇御姉】の御歌と推測するのが眞に近いやうである。
 『飛ぶ鳥の』は『明日香《あすか》』にかかる枕詞。明日香(飛鳥)といつて、なぜ藤原といはなかつたかといふに、明日香はあの邊の總名で、必ずしも飛鳥淨御原宮【天武天皇の京】とのみは限局せられない。そこで藤原京になつてからも其處と隣接してゐる明日香にも皇族がたの御住ひがあつたものであらう。この歌の、『君』といふのは、作者が親まれた男性の御方のやうである。
 この歌も、素直に心の動くままに言葉を使つて行き、取りたてて技巧を弄してゐないところに感の深いものがある。『置きて』といふ表現は、他にも、『大和を置きて』、『みやこを置きて』などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、『見えずかもあらむ』の『見えず』といふのも、感覺に直接で良く、この類似の表現は萬葉に多い。
 
             ○
(107)    うらさぶる情《こころ》さまねしひさかたの天《あめ》の時雨《しぐれ》の流《なが》らふ見《み》れば 〔卷一・八二〕 長田王
 
 詞書には和銅五年夏四月|長田王《ながたのおほきみ》【長親王の御子か】が、伊勢の山邊《やまべ》の御井《みゐ》【山邊離宮の御井か壹志郡新家村か】で詠まれたやうになつてゐるが、原本の左注に、この歌はどうもそれらしくない、疑つて見れば其當時誦した古歌であらうと云つてゐるが、季節も初夏らしくない。ウラサブルは『心寂《こころさび》しい』意。サマネシはサは接頭語、マネシは『多い』、『頻り』等の語に當る。ナガラフはナガルといふ良行下二段の動詞を二たび波行下二段に活用せしめた。事柄の時間的繼續をあらはすこと、チル【散る】からチラフとなる場合などと同じである。
 一首の意は、天から時雨《しぐれ》の雨が降りつづくのを見ると、うら寂《さび》しい心が絶えずおこつて來る、といふのである。
 時雨《しぐれ》は多くは秋から冬にかけて降る雨に使つてゐるから、やはり其時この古歌を誦したものであらうか。旅中にあつて誦するにふさはしいもので、古調のしつとりとした、はしやがない好い味ひのある歌である。事象としては『天の時雨の流らふ』だけで、上の句は主觀で、それに枕詞なども入つてゐるから、内容としては極く單純なものだが、この單純化がやがて古歌の好いとこ(108)ろで、一首の綜合がそのために渾然とするのである。雨の降るのをナガラフと云つてゐるのなども、他にも用例があるが、響きとしても實に好い響きである。
 
             ○
     秋《あき》さらば今《いま》も見《み》るごと妻《つま》ごひに鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ高野原《たかぬはら》の上《うヘ》 〔卷一・八四〕 長皇子
 
 長皇子【天武天皇第四皇子】が志貴皇子【天智天皇第四皇子】と佐紀宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は從兄弟の關係になつてゐる。佐紀宮は現在の生駒郡|平城《へいじやう》村、都跡《みあと》村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあつたところであらう。志貴皇子の宮は高圓にあつた。高野原は佐紀宮の近くの高地であつただらう。
 一首の意は、秋になつたならば、今二人で見て居るやうな景色の、高野原一帶に、妻を慕つて鹿が鳴くことだらう、といふので、なほ、さうしたら、また一段の風趣となるから、二たび來られよといふ意もこもつてゐる。
 この歌は、『秋さらば』といふのだから現在は未だ秋でないことが分かる。『鹿鳴かむ山ぞ』と將來のことを云つてゐるのでもそれが分かる。其處に『今も見るごと』といふ視覺上の句が入つ(109)て來てゐるので、種々の解釋が出來たのだが、この、『今も見るごと』といふ句を直ぐ『妻戀ひに』、『鹿鳴かむ山』に續けずに寧ろ、『山ぞ』、『高野原の上』の方に關係せしめて解釋せしめる方がいい。即ち、現在見渡してゐる高野原一帶の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添へてそのうへ鹿の鳴く聲が聞こえるといふ意味になる。『今も見るごと』は『現在ある状態の佳き景色の此の高野原に』といふやうになり、單純な視覺よりももつと廣い意味になるから、そこで視覺と聽覺との矛盾を避けることが出來るのであつて、他の諸學者の種々の解釋は皆不自然のやうである。
 この御歌は、豐かで緊密な調べを持つてをり、感情が濃やかに動いてゐるにも拘らず、さういふ主觀の言葉といふものが無い。それが、『鳴かむ』といひ、『山ぞ』で代表せしめられてゐる觀があるのも、また重厚な『高野原の上』といふ名詞句で止めてゐるあたりと調和して、萬葉調の一代表的技法を形成してゐる。また『今も見るごと』の插入句があるために、却つて歌詞を常識的にしてゐない。家持が『思ふどち斯くし遊ばむ今も見るごと』(卷十七・三九九一)と歌つてゐるのは恐らく此御歌の影響であらう。
 この歌の詞書は、『長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌』とあり、左注、『右一首長皇子』で、『御歌』とは無い。これも、中皇命の御歌(卷一・三)の題詞を理解するのに參考となるだらう。目次に、『長(110)皇子御歌』と『御』のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かつたものであらう。
 
(111)卷第二
 
             ○
     秋《あき》の田《た》の穗《ほ》のへに霧《き》らふ朝霞《あさがすみ》いづへの方《かた》に我《わ》が戀《こひ》やまむ 〔卷二・八八〕 磐姫皇后
 
 仁コ天皇の磐姫《いはのひめ》皇后が、天皇を慕うて作りませる歌といふのが、萬葉卷第二の卷頭に四首載つてゐる。此歌はその四番目である。四首はどういふ時の御作か、仁コ天皇の後妃|八田《やた》皇女との三角關係が傳へられてゐるから、感情の強く豐かな御方であらせられたのであらう。
 一首は、秋の田の稻穗の上にかかつてゐる朝霧がいづこともなく消え去るごとく【以上序詞】私の切ない戀がどちらの方に消え去ることが出來るでせう、それが叶はずに苦しんでをるのでございます、といふのであらう。
 『霧らふ朝霞』は、朝かかつてゐる秋霧のことだが、當時は、霞といつてゐる。キラフ・アサガ(112)スミといふ語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具體的に云つてゐるので、象徴的として受取ることが出來る。『わが戀やまむ』といふいひあらはしは切實なので、萬葉にも、『大船のたゆたふ海に碇おろしいかにせばかもわが戀やまむ』(卷十一・二七三八)、『人の見て言《こと》とがめせぬ夢《いめ》にだにやまず見えこそ我が戀やまむ』(卷十二・二九五八)の如き例がある。
 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もつと古調なるべきであるが、戀歌としては、讀人不知の民謠歌に近いところがある。併し萬葉編輯當時は皇后の御歌といふ言傳へを素直に受納れて疑はなかつたのであらう。そこで自分は戀愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。
   君が行《ゆき》日長《けなが》くなりぬ山|尋《たづ》ね迎へか行かむ待ちにか待たむ  (卷二・八五)
   斯くばかり戀ひつつあらずは高山《たかやま》の磐根し枕きて死なましものを (卷二・八六)
   在りつつも君をば待たむうち靡《なび》く吾が黒髪に霜の置くまでに (卷二・八七)
 八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載つたが、古事記には輕太子が伊豫の湯に流された時、輕の大郎女《おほいらつめ》(衣通《そとほり》王)の歌つたもので『君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ』となつて居り、第三句は枕詞に使つてゐて、この方が調べが古い。八六の『戀ひつつあらずは』は、『戀ひつつあらず』に、詠歎の『は』の添はつたもので、『戀ひつつあらずして』といつて、(113)それに滿足せずに先きの希求をこめた云ひ方である。それだから、散文に直せば、從來の解釋のやうに、『……あらんよりは』といふのに歸著する。
 
             ○
     妹《いも》が家《いへ》も繼《つ》ぎて見ましを大和《やまと》なる大島《おほしま》の嶺《ね》に家《いへ》もあらましを 〔卷二・九一〕 天智天皇
 
 天智天皇が鏡王女《かがみのおほきみ》に賜はつた御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原鎌足の嫡妻となられた方とおもはれるが、この御製歌はそれ以前のものであらうか、それとも鎌足薨去【天智八年】の後、王女が大和に歸つてゐたのに贈りたまうた歌であらうか。そして、『大和なる』とことわつてゐるから、天皇は近江に居給うたのであらう。『大島の嶺』は所在地不明だが、鏡王女の居る處の近くで相當に名高かつた山だろうと想像することが出來る。【後紀大同三年、平群朝臣の歌にあるオホシマあたりだらうといふ説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであらう。】
 一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、といふぐらゐの意であらう。
 『見ましを』と『あらましを』と類音で調子を取つて居り、同じ事を繰返して居るのである。そ(114)こで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいといふのではあるまい。若しさうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返してゐるので、古調の單純素朴があらはれて來て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であつたが、この御製になると、もつと自然で、こだはりないうちに、無限の情緒を傳へてゐる。聲調は天皇一流の大きく強いもので、これは御氣魄の反映にほかならないのである。『家も』の『も』は『をも』の意だから、無論王女を見たいが、せめて『家をも』といふので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであらう。
 この御製は戀愛か或は廣義の往來存問か。語氣からいへば戀愛だが、天皇との關係は審かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病篤かつた時天武天皇御自ら臨幸あつた程であるから、その以前からも重んぜられてゐたことが分かる。そこでこの歌は戀愛歌でなくて安否を問ひたまうた御製だといふ説【山田博士】がある。鎌足歿後の御製ならば或はさうであらう。併し事實はさうでも、感情を主として味ふと廣義の戀愛情調になる。
 
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     秋山《あきやま》の樹《こ》の下《した》がくり逝《ゆ》く水《みづ》の吾《われ》こそ益《ま》さめ御思《みおもひ》ひよりは 〔卷二・九二〕 鏡王女
 
(115) 右の御製に鏡王女の和へ奉つた歌である。
 一首は、秋山の木の下を隱れて流れゆく水のやうに、あらはには見えませぬが、わたくしの君をお慕ひ申あげるところの方がもつと多いのでございます。わたくしをおもつてくださる君の御心よりも、といふのである。
 『益さめ』の『益す』は水の増す如く、思ふ心の増すといふ意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は萬葉には珍らしくないが、やはり誤魔化さない寫生がある。それから、『われこそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは』の句は、情緒こまやかで、且つおのづから女性の口吻が出てゐるところに注意せねばならない。特に、結句を、『御思よりは』と止めたのに無限の味ひがあり、甘美に迫つて來る。これもこの歌だけについて見れば戀愛情調であるが、何處か遜《へりくだ》つてつつましく云つてゐるところに、和へ歌として此歌の價値があるのであらう。試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈つた歌、『玉くしげ覆《おほ》ふを安《やす》み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも』(卷二・九三)の方は稍氣輕に作つてゐる點に差別がある。併し『君が名はあれど吾が名し惜しも』の句にやはり女性の口吻が出てゐて棄てがたいものである。
 
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(116)     玉《たま》くしげ御室《みむろ》の山《やま》のさなかづらさ寢《ね》ずは遂《つひ》にありがつましじ 〔卷二・九四〕 藤原鎌足
 
 内大臣藤原卿【鎌足】が鏡王女に答へ贈つた歌であるが、王女が鎌足に『たまくしげ覆《おほ》ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも』(卷二・九三)といふ歌を贈つた。櫛笥の蓋をすることが樂に出來るし、蓋を開《あ》けることも樂《らく》だから、夜の明けるの『明けて』に續けて序詞としたもので、夜が明けてからお歸りになると人に知れてしまひませう、貴方には浮名が立つてもかまはぬでせうが、私には困つてしまひます、どうぞ夜の明けぬうちにお歸りください、といふので、鎌足のこの歌はそれに答へたのである。
 『玉くしげ御室の山のさなかづら』迄は『さ寢』に續く序詞で、また、玉匣をあけて見むといふミから御室山のミに續けた。或はミは中身《なかみ》のミだとも云はれて居る。御室山は即ち三輪山で、『さな葛』はさね葛、美男かづらのことで、夏に白つぽい花が咲き、實は赤い。そこで一首は、さういふけれども、おまへとかうして寢ずには、どうしても居られないのだ、といふので、結句の原文『有勝麻之自』は古來種々の訓のあつたのを、橋本【進吉】博士がかく訓んで學界の定説となつたものである。博士はカツと清んで訓んでゐる。ガツは堪へる意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと(117)同じ動詞、マシジはマジといふ助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪ふまじ、堪へることが出來ないだらう、我慢が出來ないと見える、といふぐらゐの意に落著くので、この儘かうして寢てをるのでなくてはとても我慢が出來まいといふのである。『いや遠く君がゐまさば有不勝自《アリガツマシジ》』(卷四・六一〇)、『邊にも沖にも依勝益士《ヨリガツマシジ》』(卷七・一三五二)等の例がある。
 鏡王女の歌も情味あつていいが、鎌足卿の歌も、端的で身體的に直接でなかなかいい歌である。身體的に直接といふことは即ち心の直接といふことで、それを表はす言語にも直接だといふことになる。『ましじ』と推量にいふのなども、丁寧で、亂暴に押つけないところなども微妙でいい。『つひに』といふ副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。『生けるもの遂《つひ》にも死ぬるものにあれば』(卷三・三四九)、『すゑ遂《つひ》に君にあはずは』(卷十三・三二五〇)等の例がある。
 
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     吾はもや安見兒《やすみこ》得《え》たり皆人《みなひと》の得《え》がてにすとふ安見兒《やすみこ》得《え》たり 〔卷二・九五〕 藤原鎌足
 
 内大臣藤原卿【鎌足】が采女安見兒を娶つた時に作つた歌である。
(118) 一首は、吾は今まことに、美しい安見兒を娶つた。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見兒を娶つた、といふのである。
 『吾はもや』の『もや』は詠歎の助詞で、感情を強めてゐる。『まあ』とか、『まことに』とか、『實に』とかを加へて解せばいい。奉仕中の采女には嚴しい規則があつて濫りに娶ることなどは出來なかつた、それをどういふ機會にか娶つたのだから、『皆人の得がてにすとふ』の句がある。もつともさういふ制度を顧慮せずとも、美女に對する一般の感情として此句を取扱つてもかまはぬだらう。いづれにしても作者が歡喜して得意になつて歌つてゐるのが、率直な表現によつて、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返してゐるところにあらはれてゐる。
 この歌は單純で明快で、濁つた技巧が無いので、この直截性が讀者の心に響いたので從來も秀歌として取扱はれて來た。そこで注釋家の間に寓意説、例へば守部の、『此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾(レ)安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戲れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戲れの旨を慥かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、萬葉などは何の巧も風情もなきものと思ひ過めるは、實におのれ解く事を得ざるよりのあ(119)やまりなるぞかし』(萬葉緊要)の如きがある。けれどもさういふ説は一つの穿ちに過ぎないとおもふ。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乘じて一氣に表出したといふ種類のもので、沈潛重厚の作といふわけには行かない。同じく句の繰返しがあつても前出天智天皇の、『妹が家も繼ぎて見ましを』の御製の方がもつと重厚である。これは作歌の態度といふよりも性格といふことになるであらうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、『戲れ給へる也』といふところは一部當つてゐる。
 
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     わが里《さと》に大雪《おほゆき》降《ふ》れり大原《おほはら》の古《ふ》りにし里《さと》に降《ふ》らまくは後《のち》 〔卷二・一〇三〕 天武天皇
 
 天武天皇が藤原夫人《ふぢはらのふにん》に賜はつた御製である。藤原夫人は鎌足の女、五百重娘《いほへのいらつめ》で、新田部皇子《にひたべのみこ》の御母、大原大刀自《おほはらのおほとじ》ともいはれた方である。夫人《ふにん》は後宮に仕へる職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市郡飛鳥村小原の地である。
 一首は、こちらの里には今日大雪が降つた、まことに綺麗だが、おまへの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だらう、といふのである。
(120) 天皇が飛鳥の清御原《きよみはら》の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂はば即興の戲れであるけれども、親しみの御語氣さながらに出てゐて、沈潛して作る獨詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもかういふ直接の語氣を聞き得るやうなものは、後世の贈答歌には無くなつてゐる。つまり人間的、會話的でなくなつて、技巧を弄した詩になつてしまつてゐるのである。
 
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     わが岡《をか》の※[雨/龍]神《おかみ》に言《い》ひて降《ふ》らしめし雪《ゆき》の摧《くだけ》し其處《そこ》に散《ち》りけむ 〔卷二・一〇四〕 藤原夫人
 
 藤原夫人が、前の御製に和へ奉つたものである。※[雨/龍]神《おかみ》といふのは支那ならば龍神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はさうおつしやいますが、そちらの大雪とおつしやるのは、實はわたくしが岡の※[雨/龍]神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧《くだ》けが飛ばつちりになつたに過ぎないのでございませう、といふのである。御製の御揶揄に對して劣らぬユウモアを漂はせてゐるのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。(121)歌としては御製の方が優るが、天皇としては、かういふ女性的な和へ歌の方が却つて御喜になられたわけである。
 
           ○
     我《わ》が背子《せこ》を大和《やまと》へ遣《や》ると小夜《さよ》更《ふ》けてあかとき露《つゆ》にわが立《た》ち※[雨/沾]《ぬ》れし 〔卷二・一〇五〕 大伯皇女
 
 大津皇子《おほつのみこ》【天武天皇第三皇子】が竊かに伊勢神宮に行かれ、齋宮|大伯皇女《おほくのひめみこ》に逢はれた。皇子が大和に歸られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の關係にある。
 一首は、わが弟の君が大和に歸られるを送らうと夜ふけて立つてゐて曉の露に※[雨/沾]れた、といふので、曉は、原文に鷄鳴露《アカトキツユ》とあるが、鷄鳴【四更丑刻】は午前二時から四時迄であり、また萬葉に五更露爾《アカトキツユニ》(卷十・二二一三)ともあつて、五更【寅刻】は午前四時から六時迄であるから、夜の更《ふけ》から程なく曉《あかとき》に續くのである。そこで、歌の、『さ夜ふけてあかとき露に』の句が理解出來るし、そのあひだ立つて居られたことをも示して居るのである。
 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌を謀つたのが露はれて、朱鳥元年十月三日死を賜はつた。伊勢下向はその前後であらうと想像せられて居るが、史實的には確かでなく、單にこの歌だけを(122)讀めば戀愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切實で、且つ寂しい響が一首を流れてゐるのをおもへば、さういふ史實に關係あるものと假定しても味ふことの出來る歌である。『わが背子』は、普通戀人または夫《をつと》のことをいふが、この場合は御弟を『背子』と云つてゐる。親しんでいへば同一に歸著するからである。『大和へやる』の『やる』といふ語も注意すべきもので、單に、『歸る』とか『行く』とかいふのと違つて、自分の意志が活いてゐる。名殘惜しいけれども歸してやるといふ意志があり、そこに強い感動がこもるのである。『かへし遣る使なければ』(卷十五・三六二七)、『この吾子《あこ》を韓國へ遣るいはへ神たち』(卷十九・四二四〇)等の例がある。
 
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     二人《ふたり》行《ゆ》けど行《ゆ》き過《す》ぎがたき秋山《あきやま》をいかにか君《きみ》がひとり越《こ》えなむ 〔卷二・一〇六〕 大伯皇女
 
 大伯皇女《おほくのひめみこ》の御歌で前の歌の續と看做していい。一首の意は、弟の君と一しよに行つてもうらさびしいあの秋山を、どんな風《ふう》にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、といふぐらゐの意であらう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり單純な親愛のみで解けないものが底にひそんでゐるやうに感ぜられる。代(123)匠記に、『殊二身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成ナラズモ覺束ナク、又ノ對面モ如何ナラムト思召御胸ヨリ出レバナルベシ』とあるのは、或は當つてゐるかも知れない。また、『君がひとり』とあるがただの御一人でなく御伴もゐたものであらう。
 
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     あしひきの山《やま》の雫《しづく》に妹《いも》待《ま》つとわれ立《た》ち沾《ぬ》れぬ山《やま》の雫《しづく》に 〔卷二・一〇七〕 大津皇子
 
 大津皇子が石川郎女《いしかはのいらつめ》【傳未詳】に贈つた御歌で、一首の意は、おまへの來るのを待つて、山の木の下に立つてゐたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、といふのである。『妹待つと』は、『妹待つとて』、『妹を待たうとして、妹を待つために』である。『あしひきの』は、萬葉集では卷二のこの歌にはじめて出て來た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の『足引城《あしひきき》』説が平凡だが一番眞に近いか。『足《あし》は山の脚《あし》、引は長く引延《ひきは》へたるを云。城《き》とは凡て一構《ひとかまへ》なる地《ところ》を云て此は即ち山の平《たひら》なる處をいふ』(古事記傳)といふのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が單純になつた。けれどもそのために親しみの情が却つて深くなつたやうに思へるし、それに第一その歌詞がまことに快いものである。第二句の『雫に』は『沾れぬ』に續き、結句の『雫に』もまた(124)さうである。かういふ簡單な表現はいざ實行しようとするとさう容易にはいかない。
 右に石川郎女の和《こた》へ奉つた歌は、『吾《あ》を待つと君が沾《ぬ》れけむあしひきの山《やま》の雫《しづく》にならましものを』(卷二・一〇八)といふので、その雨雫になりたうございますと、媚態を示した女らしい語氣の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いてゐるからこれだけの親しい歌が出來た。共に互の微笑をこめて唱和してゐるのだが、皇子の御歌の方がしつとりとして居るところがある。
 
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     古《いにしへ》に戀《こ》ふる鳥《とり》かも弓弦葉《ゆづるは》の御井《みゐ》の上《うへ》より鳴《な》きわたり行《ゆ》く 〔卷二・一一一〕 弓削皇子
 
 持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、從駕の弓削皇子《ゆげのみこ》【天武天皇第六皇子】から、京に留まつてゐた額田王に與へられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二囘にも上るが、杜鵑の啼く頃だから、持統四年五月か、五年四月であつただらう。 一首の意は、この鳥は、過去つたころの事を思ひ慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉《ゆづるは》の御井《みゐ》のほとりを啼きながら飛んで行く、といふのである。
 『古《いにしへ》』即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額(125)田王とも御關係の深かつたことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懷せられたのが、『古に戀ふる鳥かも』といふ句で、簡淨の中に情緒充足し何とも言へぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を寫して、具體的現實的なものにしてゐる。この關係は藝術の常道であるけれども、かういふ具合に精妙に表はれたものは極く稀であることを知つて置く方がいい。『弓弦葉の御井』は既に固有名詞になつてゐただらうが、弓弦葉(ゆづり葉)の好い樹が清泉のほとりにあつたためにその名を得たので、これは、後出の、『山吹のたちよそひたる山清水』(卷二・一五八)と同樣である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られてゐるのである。『上より』は經過する意で、『より』、『ゆ』、『よ』等は多くは運動の語に續き、此處では『啼きわたり行く』といふ運動の語に續いてゐる。この語なども古調の妙味實に云ふべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を讀んで深い感慨にふけつたことは既に言ふことを須ゐない。この歌は人麿と同時代であらうが、人麿に無い簡勁にして靜和な響をたたへてゐる。
 額田王は右の御歌に『古《いにしへ》に戀ふらむ鳥は霍公鳥《ほとぎす》けだしや啼きしわが戀ふるごと』(卷二・一一二)といふ歌を以て和へてゐる。皇子の御歌には杜鵑のことははつきり云つてないので、この歌で、杜鵑を明かに云つてゐる。そして、額田王も亦古を追慕すること痛切であるが、そのやうに杜鵑が啼いたのであらうといふ意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選拔しな(126)かつた。併し既に老境に入つた額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色があるかといふに、和へ歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つといふことになるからであらう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和へ歌の方はどうしても間接になりがちだからであらう。
 
           ○
     人言《ひとごと》をしげみ言痛《こちた》みおのが世《よ》にいまだ渡《わた》らぬ朝川《あさかは》わたる 〔卷二・一一六〕 但馬皇女
 
 但馬《たじま》皇女【天武天皇皇女】が穗積《ほづみ》皇子【武天皇第五皇子】を慕はれた歌があつて、『秋の田の穗向《ほむき》のよれる片寄りに君に寄りなな言痛《こちた》かりとも』(一一四)の如き歌もある。この『人言を』の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、竊かに穗積皇子に接せられたのが露はれた時の御歌である。
 『秋の田の』の歌は上の句は序詞があつて、技巧も巧だが、『君に寄りなな』の句は強く純粹で、また語氣も女性らしいところが出てゐてよいものである。『人言を』の歌は、一生涯これまで一度も經驗したことの無い朝川を渡つたといふのは、實際の寫生で、實質的であるのが人の心を牽く。特に皇女が皇子に逢ふために、秘かに朝川を渡つたといふやうに想像すると、なほ切實の度が増(127)すわけである。普通女が男の許に通ふことは稀だからである。
 
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     石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》の間《ま》よりわが振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらむか 〔卷二・一三二〕 柿本人麿
 
 柿本人麿が石見の國から妻に別れて上京する時詠んだものである。當時人麿は石見の國府【今の那賀郡下府上府】にゐたもののやうである。妻はその近くの角《つぬ》の里《さと》【今の都濃津附近】にゐた。高角山は角の里で高い山といふので、今の島星山《しまのほしやま》であらう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川《がうのがは》の岸に出たもののやうである。
 大意。石見の高角山の山路を來てその木の間から、妻のゐる里にむかつて、振つた私の袖を妻は見たであらうか。
 角の里から山までは距離があるから、實際は妻が見なかつたかも知れないが、心の自然的なあらはれとして歌つてゐる。そして人麿一流の波動的聲調でそれを統一してゐる。そしてただ威勢のよい聲調などといふのでなく、妻に對する濃厚な愛情の出てゐるのを注意すべきである。
 
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(128)     小竹《ささ》の葉《は》はみ山《やま》もさやに亂《みだ》れども吾《われ》は妹《いも》おもふ別《わか》れ來《き》ぬれば 〔卷二・一三三〕 柿本人麿
 
 前の歌の續きである。人麿が馬に乘つて今の邑智《おほち》郡の山中あたりを通つた時の歌だと想像してゐる。私は人麿上來の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名《あかな》越をし、備後にいでて、瀬戸内海の船に乘つたものと想像してゐる。
 大意。今通つている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき亂《みだ》れてゐても、わが心はそれに紛《まぎ》れることなくただ一向《ひたすら》に、別れて來た妻のことをおもつてゐる。
 今現在山中の笹の葉がざわめき亂れてゐるのを、直ぐ取りあげて、それにも拘はらずただ一筋に妻をおもふと言ひくだし、それが通俗に墮せないのは、一首の古調のためであり、人麿的聲調のためである。そして人麿はかういふところを歌ふのに決して輕妙には歌つてゐない。飽くまで實感に即して執拗に歌つてゐるから輕妙に滑つて行かないのである。
 第三句ミダレドモは古點ミダルトモであつたのを仙覺はミダレドモと訓んだ。それを賀茂眞淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となつたし、『ササ〔二字右○〕の葉はみ山もサヤ〔二字右○〕にサヤ〔二字右○〕げども』とサ音で調子を取つてゐるのだと解釋してゐるが、これは寧ろ、『ササ〔二字右○〕の(129)葉はミヤマ〔三字右◎〕もサヤ〔二字右○〕にミダレ〔三字右◎〕ども』のやうにサ音とミ音と兩方で調子を取つてゐるのだと解釋する方が精しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて輕くなり過ぎる。次に、萬葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あつても他動詞だから應用が出來ないと論ずる學者【澤瀉博士】がゐて、殆ど定説にならむとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使はれてゐる以上【日本書紀に濫・妄・浪等を當ててゐる】は、四段に活用した證據となり、古訓法華經の、『不2妄《ミダリニ》開示1』、古訓老子の、『不v知v常妄《ミダリニ》作(シテ)凶(ナリ)』等をば、參考とすることが出來る。即ち萬葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでゐただらう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の區別は絶對的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のやうに他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄溯らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聽覺よりも寧ろ聽覺を伴ふ視覺に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出來ないと一歩を讓つて、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どほりにミダルトモと訓んでも毫も鑑賞に差支はなく、前にあつた人麿の、『ささなみの志賀の大わだヨドムトモ』(卷一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用ゐ得るのである。聲調の上からいへばミダルトモでもサヤゲドモよりも優さつてゐる。併しミダレドモと訓むならばもつとよいのだから、私はミダレドモの訓に執著するも(130)のである。【本書は簡單を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。】
 卷七に、『竹島の阿渡白波は動《とよ》めども【さわげども】われは家おもふ廬《いほり》悲しみ』(一二三八)といふのがあり、類似してゐるが、人麿の歌の模倣ではなからうか。
 
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     青駒《あをこま》の足掻《あがき》を速《はや》み雲居《くもゐ》にぞ妹《いも》があたりを過《す》ぎて來《き》にける 〔卷二・一三六〕 柿本人麿
 
 これもやはり人麿が石見から大和へのぼつて來る時の歌で、第二長歌の反歌になつてゐる。『青駒』はいはゆる青毛の馬で、黒に青みを帶びたもの、大體黒馬とおもつて差支ない。白馬だといふ説は當らない。『足掻を速み』は馬の駈けるさまである。
 一首の意は、妻の居るあたりをもつと見たいのだが、自分の乘つてゐる青馬の駈けるのが速いので、妻のゐる筈の里も、いつか空遠《そらとほ》く隔つてしまつた、といふのである。
 内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的聲調を遺憾なく發揮したものである。戀愛の悲哀といはうより寧ろ莊重の氣に打たれると云つた聲調である。そこにおのづから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は細々《こまごま》したことを描寫せずに、眞率に眞心をこめて歌ふのが(131)その特徴だから内容の單純化も行はれるのである。『雲居にぞ』といつて、『過ぎて來にける』と止めたのは實に旨い。もつともこの調子は藤原の御井の長歌にも、『雲井にぞ遠くありける』といふのがある。この歌の次に、『秋山に落つる黄葉《モミヂバ》しましくはな散り亂《みだ》れそ妹《いも》があたり見む』(一三七)といふのがある。これも客觀的よりも、心の調子で歌つてゐる。それを嫌ふ人は嫌ふのだが、輕浮に墮ちない點を見免してはならぬのである。この石見から上來する時の歌は人麿としては晩年の作に屬するものであらう。
 
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     磐代《いはしろ》の濱松《はままつ》が枝《え》を引《ひ》き結《むす》び眞幸《まさき》くあらば亦《また》かへり見《み》む 〔卷二・一四一〕 有間皇子
 
 有間皇子《ありまのみこ》【孝コ天皇皇子】が、齊明天皇の四年十一月、蘇我|赤兄《あかえ》に欺かれ、天皇に紀伊の牟婁《むろ》の温泉【今の湯崎温泉】行幸をすすめ奉り、その留守に乘じて不軌を企てたが、事露見して十一月五日却つて赤兄のために捉へられ、九日紀の温湯の行宮に送られて其處で皇太子中大兄の訊問があつた。齊明紀四年十一月の條に、『於v是皇太子、親問2有間皇子1曰、何故謀反、答曰、天與2赤兄1知、吾全不v解』の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代【今の紀伊日高郡南部町岩代】海岸を通過せられた時の歌である。皇(132)子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞に處せられた。御年十九。萬葉集の詞書には、『有間皇子自ら傷《かな》しみて松が枝を結べる歌二首』とあるのは、以上のやうな御事情だからであつた。
 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで來たが、いま濱の松の枝を結んで幸を祈つて行く。幸に無事であることが出來たら、二たびこの結び松をかへりみよう、といふのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがふ信仰があつた。
 無事であることが出來たらといふのは、皇太子の訊問に對して言ひ開きが出來たらといふので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。『天と赤兄と知る』といふ御一語は悲痛であつた。けれども此歌はもつと哀切である。かういふ萬一の場合にのぞんでも、ただの主觀の語を吐出すといふやうなことをせず、御自分をその儘素直にいひあらはされて、そして結句に、『またかへり見む』といふ感慨の語を据ゑてある。これはおのづからの寫生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂つていいほどである。作者はただ有りの儘に寫生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云はれる。例へば第三句で、『引き結び』と云つて置いて、『まさきくあらば』と續けてゐるが、そのあひだに幾分の休止あること、『豐旗雲に入日さし』といつて、『こよひの月夜』と續け、そのあひだに幾分の休止あるのと似てゐるごときである。かういふ事が自然に實行せられてゐるために、歌詞が、後世の歌のやうな常識的平俗に墮る(133)ことが無いのである。
 
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     家《いへ》にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕《くさまくら》旅《たび》にしあれば椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る 〔卷二・一四二〕 有間皇子
 
 有間皇子の第二の歌である。『笥』といふのは和名鈔に盛食器也とあつて飯笥のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であつただらうと考證してゐる【山田博士】。 一首は、家【御殿】におれば、笥【銀器】に盛る飯をば、かうして旅を來ると椎の葉に盛る、といふのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
 前の御歌は、『眞幸《まさき》くあらばまたかへりみむ』と強い感慨を漏らされたが、痛切複雜な御心境を、かく單純にあらはされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では 『草枕旅にしあれば』などと、普通※[羈の馬が奇]旅の不自由を歌つてゐるやうな内容でありながら、さういふものと違つて感ぜねばならぬものを此歌は持つてゐるのはどうしてか。これは史實を顧慮するからといふのみではなく、史實を念頭から去つても同じことである。これは皇子(134)が、生死の問題に直面しつつ經驗せられた現實を直にあらはしてゐるのが、やがて普通の※[羈の馬が奇]旅とは違つたこととなつたのである。寫生の妙諦はそこにあるので、この結論は大體間違の無いつもりである。
 中大兄皇子の、『香具山と耳成山と會ひしとき立ちて見に來し印南國原』(卷一・一四)といふ歌にも、この客觀的な莊嚴があつたが、あれは傳説を歌つたので、『嬬を爭ふらしき』といふ感慨を潛めてゐると云つても對象が對象だから此歌とは違ふのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯る客觀的莊嚴を成就せられた。
 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、『磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも』、『磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ』(長忌寸意吉麿)、『つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ』(山上憶良)、『後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも』(人麿歌集)等がある。併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであらう。また、穗積朝臣老が近江行幸【養老元年か】に供奉した時の『吾が命し眞幸《まさき》くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪』(卷三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切實にひびかない。
 『椎の葉』は、和名鈔は、『椎子【和名之比】』であるから椎《しひ》の葉《は》であつてよいが、楢《なら》の葉《は》だらうといふ説(135)がある。そして新撰字鏡に、『椎、奈良乃木《ナラノキ》也』とあるのもその證となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し盡してゐる。また『遲速《おそはや》も汝《な》をこそ待ため向つ峰《を》の椎の小枝《こやで》の逢ひは違《たげ》はじ』(卷十四・三四九三)と或本の歌、『椎の小枝《さえだ》の時は過ぐとも』の椎《しひ》は思比《シヒ》、四比《シヒ》と書いてゐるから、楢《なら》ではあるまい。さうすれば、椎の小枝を折つてそれに飯を盛つたと解していいだらう。『片岡の此向つ峯に椎《しひ》蒔かば今年の夏の陰になみむか』(卷七・一〇九九)も椎《しひ》であらうか。そして此歌は詠v岳だから、椎の木の生長のことなどさう合理的でなくとも、ふとそんな氣持になつて詠んだものであらう。
 
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     天《あま》の原《はら》ふりさけ見《み》れば大王《おほきみ》の御壽《みいのち》は長《なが》く天足《あまた》らしたり 〔卷二・一四七〕 倭姫皇后
 
 天智天皇御不豫にあらせられた時、皇后(倭姫王)の奉れる御歌である。天皇は十年冬九月御不豫、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したまうたから、これは九月か十月ごろの御歌であらうか。
 一首の意は、天を遠くあふぎ見れば、悠久にしてきはまりない。今、天皇の御壽《おんいのち》もその天の如(136)くに滿ち足つておいでになる、聖壽無極である、といふのである。
 天皇御不豫のことを知らなければ、ただの壽歌、祝歌のやうに受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願ひ、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切實な悲しみが潛むと感ずるのである。特に、結句に『天足らしたり』と強く斷定してゐるのは、却つてその詠歎の究竟とも謂ふことが出來る。橘守部は、この御歌の『天の原』は天のことでなしに、家の屋根の事だと考證し、新室を祝ふ室壽《むろほぎ》の詞の中に『み空を見れば萬代にかくしもがも』云々とある等を證としたが、その屋根を天に準へることは、新家屋を壽ぐのが主な動機だから自然にさうなるので、また、萬葉卷十九(四二七四)の新嘗會の歌の『天《あめ》にはも五百《いほ》つ綱はふ萬代に國知らさむと五百つ綱延ふ』でも、宮殿内の肆宴が主だからかういふ云ひ方になるのである。御不豫御平癒のための願望動機とはおのづから違はねばならぬと思ふのである。縱ひ、實際的の吉凶を卜する行爲があつたとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、さういふ行爲は現在傳はつてゐないから分からぬ。私は、歌に『天の原ふりさけ見れば』とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する舊説の方が却つて原歌の眞を傳へてゐるのでなからうかと思ふのである。守部説は少し穿過ぎた。
 この歌は『天の原ふりさけ見れば』といつて直ぐ『大王の御壽は』と續けてゐる。これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たやうに取れるかも知れぬが、これはさういふことではある(137)まい。此處に常識的意味の上に省略と單純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出來るところなのである。この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大學本がかう訓み、近くは略解がかう訓んで諸家それに從ふやうになつたものである。
 
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     青旗《あをはた》の木幡《こはた》の上を通《かよ》ふとは目《め》には見《み》れども直《ただ》に逢《あ》はぬかも 〔卷二・一四八〕 倭姫皇后
 
 御歌の内容から見れば、天智天皇崩御の後、倭姫皇后の御作歌と看做してよいやうである。初句『青旗の』は、下の『木旗』に懸る枕詞で、青く樹木の繁つてゐるのと、下のハタの音に關聯せしめたものである。『木幡』は地名、山城の木幡《こはた》で、天智天皇の御陵のある山科《やましな》に近く、古くは、『山科の木幡《こはた》の山を馬はあれど』(卷十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云つた。天皇の御陵の邊を見つつ詠まれたものであらう。右は大體契沖の説だが、『青旗の木旗』をば葬儀の時の※[巾+童]幡のたぐひとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。自分も一たびそれに從つたことがあるが、今度は契沖に從つた。
(138) 一首の意。青旗の【枕詞】木幡山の御墓のほとりを天がけり通ひたまふとは目にありありとおもひ浮べられるが、直接にお逢ひ奉ることが無い。御身と親しく御逢ひすることがかなはない、といふのである。
 御歌は單純蒼古で、徒らに艶めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同樣集中傑作の一つである。『直に』は、現身と現身と直接に會ふことで、それゆゑ萬葉に用例がなかなか多い。『百重なす心は思へど直《ただ》に逢はぬかも』(卷四・四九六)、『うつつにし直にあらねば』(卷十七・三九七八)、『直にあらねば戀ひやまずけり』(三九八〇)、『夢にだに繼ぎて見えこそ直に逢ふまでに』(卷十二・二九五九)などである。『目には見れども』は、眼前にあらはれて來ることで、寫象として、幻として、夢等にしていづれでもよいが、此處は寫象としてであらうか。『み空ゆく月讀男ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし』(卷七・一三七二)、『人言《ひとごと》をしげみこちたみ我背子を目には見れども逢ふよしもなし』(卷十二・二九三八)の歌があるが、皆民謠風の輕さで、この御歌ほどの切實なところが無い。
 
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     人《ひと》は縱《よ》し思《おも》ひ止《や》むとも玉《たま》かづら影《かげ》に見《み》えつつ忘《わす》ら(139)えぬかも 〔卷二・一四九〕 倭姫皇后
 
 これには、『天皇崩じ給ひし時、倭太后の御作歌一首』と明かな詞書がある。倭太后は倭姫皇后のことである。
 一首の意は、他の人は縱い御|崩《かく》れになつた天皇を、思ひ慕ふことを止めて、忘れてしまはうとも、私には天皇の面影がいつも見えたまうて、忘れようとしても忘れかねます、といふのであつて、獨詠的な特徴が存じてゐる。
 『玉かづら』は日蔭蔓《ひかげかづら》を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。山田博士は葬儀の時の華縵《けまん》として單純な枕詞にしない説を立てた。この御歌には、『影に見えつつ』とあるから、前の御歌もやはり寫象のことと解することが出來るとおもふ。『見し人の言問ふ姿面影にして』(六〇二)、『面影に見えつつ妹は忘れかねつも』(一六三〇)、『面影に懸かりてもとな思ほゆるかも』(二九〇〇)等の用例が多い。
 この御歌は、『人は縱し思ひ止むとも』と強い主觀の詞を云つてゐるけれども、全體としては前の二つの御歌よりも寧ろ弱いところがある。それは恐らく下の句の聲調にあるのではなからうか。
 
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(140)     山吹《やまぶき》の立《た》ちよそひたる山清水《やましみづ》汲《く》みに行《ゆ》かめど道《みち》の知《し》らなく 〔卷二・一五八〕 高市皇子
 
 十市皇女《とをちのひめみこ》が薨ぜられた時、高市皇子《たけちのみこ》の作られた三首の中の一首である。十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王、弘文天皇の妃であつたが、壬申の戰後、明日香清御原《あすかきよみはら》の宮【天武天皇の宮殿】に歸つて居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進發間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜v之、癸巳食v卜、仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣とある。高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。御墓は赤穗にあり、今は赤尾に作つてゐる。
 一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いてゐる山の泉の水を、汲みに行かうとするが、どう通《とほ》つて行つたら好いか、その道が分からない、といふのである。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬといふ心が含まれてゐる。
 作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いてゐるさまを一つの寫象として念頭に浮べてゐるので、謂はば十市皇女と關聯した一つの象徴なのである。そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有樣を『道の知らなく』と云つても、感情上毫しも無理ではない。併し、常識からは、一定(141)の山清水を指定してゐるのなら、『道の知らなく』といふのがをかしいといふので、橘守部の如く、『山吹の立ちよそひたる山清水』といふのは、『黄泉』といふ支那の熟語をくだいてさういつたので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないといふやうに解するやうになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はさういふ意圖を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらはれたものを第一義とせねばならぬから、おのづから私の解釋のやうになるし、それで感情上決して不自然ではない。
 第二句、『立儀足』は舊訓サキタルであつたのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。その他にも異訓があるけれども大體代匠記の訓で定まつたやうである。ヨソフといふ語は、『水鳥のたたむヨソヒに』(卷十四・三五二八)をはじめ諸例がある。『山吹の立ちよそひたる山清水』といふ句が、既に寫象の鮮明なために一首が佳作となつたのであり、一首の意味もそれで押とほして行つて味へば、この歌の優れてゐることが分かる。古調のいひ難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての關聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切實かといふに、『かはづ鳴く甘南備河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花』(卷八・一四三五)等の如く、當時の人々が愛玩した花だからであつた。
 
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(142)     北山《きたやま》につらなる雲《くも》の青雲《あをぐも》の星《ほし》離《さか》りゆき月《つき》も離《さか》りて 〔卷二・一六一〕 持統天皇
 
 天武天皇崩御の時、皇后(後の持統天皇)の詠まれた御歌である。原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉つた。即ち持統天皇御製として言傳へられたものである。
 一首は、北山に連《つらな》つてたなびき居る雲の、青雲の中の【蒼き空の】星も移り、月も移つて行く。天皇おかくれになつて萬づ過ぎゆく御心持であらうが、ただ思想の綾でなく、もつと具體的なものと解していい。
 大體右の如く解したが、此歌は實は難解で種々の説がある。『北山に』は原文『向南山』である。南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで『向南山』と云つたものであらう。『つらなる雲の』は原文『陣(陳)雲之』で舊訓タナビククモノであるが、古寫本中ツラナルクモノと訓んだのもある。けれども古來ツラナルクモといふ用例は無いので、山田博士の如きも舊訓に從つた。併しツラナルクモも可能訓と謂はれるのなら、この方が型を破つて却つて深みを増して居る。次に『青雲』といふのは青空・青天・蒼天などといふことで、雲といふのはをかしいやうだが、『青雲(143)のたなびく日すら霖《こさめ》そぼ降る』(三八八三)、『青雲のいでこ我妹子』(三五一九)、『青雲の向伏すくにの』(三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであらう。そこで、『北山に續く青空』のことを、『北山につらなる雲の青雲の』と云つたと解し得るのである。これから、星のことも月のことも、單に『物變星移幾度秋』の如きものでなく、現實の星、現實の月の移つたことを見ての詠歎と解してゐる。
 面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦してゐる。『春過ぎて夏來るらし』と殆ど同等ぐらゐの位置に置いてゐる。何か渾沌の氣があつて二二ケ四と割切れないところに心を牽かれるのか、それよりももつと眞實なものがこの歌にあるからであらう。自分は、『北山につらなる雲の』だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでゐるのだが、少しく偏してゐるか知らん。
 
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     神風《かむかぜ》の伊勢《いせ》の國《くに》にもあらましを何《なに》しか來《き》けむ君《きみ》も有《あ》らなくに 〔卷二・一六三〕 大來皇女
 
 大津皇子が薨じ給うた後、大來《おほく》(大伯)皇女が伊勢の齋宮から京に來られて詠まれた御歌であ(144)る。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云つた。皇子は朱鳥元年十月三日に死を賜はつた。また皇女が天武崩御によつて齋王を退き【天皇の御代毎に交代す】歸京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大體知つてゐられたと思ふが、歸京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであつただらう。
 一首の意。神風の【枕詞】伊勢國にその儘とどまつてゐた方がよかつたのに、君も此世を去つて、もう居られない都に何しに還つて來たことであらう。
 『伊勢の國にもあらましを』の句は、皇女眞實の御聲であつたに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く讀む者の心を打つのである。第三句に、『あらましを』といひ、結句に、『あらなくに』とあるのも重くして悲痛である。
 なほ、同時の御作に、『見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか來けむ馬疲るるに』(卷二・一六四)がある。前の結句、『君もあらなくに』といふ句が此歌では第三句に置かれ、『馬疲るるに』といふ實事の句を以て結んで居るが、この結句にもまた愬へるやうな響がある。以上の二首は連作で二つとも選つておきたいが、今は一つを從屬的に取扱ふことにした。
 
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(145)     現身《うつそみ》の人《ひと》なる吾《われ》や明日《あす》よりは二上山《ふたかみやま》を弟背《いろせ》と吾《わ》が見《み》む 〔卷二・一六五〕 大來皇女
     磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる馬醉木《あしび》を手折《たを》らめど見《み》すべき君《きみ》がありと云《い》はなくに 〔卷二・一六六〕 同
 
 大津皇子を葛城の二上山に葬つた時、大來皇女哀傷して作られた御歌である。『弟背《いろせ》』は原文『弟世』とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに從つた。同母兄弟をイロセといふこと、古事記に、『天照大御神之|伊呂勢《イロセ》』、『其|伊呂兄《イロセ》五瀬命』等の用例がある。
 大意。第一首。生きて現世に殘つてゐる私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもつて見て慕ひ偲ばう。今日いよいよ此處に葬り申すことになつた。第二首。石のほとりに生えてゐる、美しいこの馬醉木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。
 『君がありと云はなくに』は文字どほりにいへば、『一般の人々が此世に君が生きて居られるとは(146)云はぬ』といふことで、人麿の歌などにも、『人のいへば』云々とあるのと同じく、一般にさういはれてゐるから、それが本當であると強めた云ひ方にもなり、兎に角さういふ云ひ方をしてゐるのである。馬醉木については、『山もせに咲ける馬醉木の惡《にく》からぬ君をいつしか往きてはや見む』(卷八・一四二八)、『馬醉木なす榮えし君が掘りし井の』(卷七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。
 この二首は、前の御歌等に較べて、稍しつとりと底深くなつてゐるやうにおもへる。『何しか來けむ』といふやうな強い激越の調がなくなつて、『現身の人なる吾や』といつて、諦念の如き心境に入つたもののいひぶりであるが、併し二つとも優れてゐる。
 
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     あかねさす日《ひ》は照《て》らせれどぬばたまの夜渡《よわた》る月《つき》の隱《かく》らく惜《を》しも 〔卷二・一六九〕 柿本人麿
 
 日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮の時、柿本人麿の作つた長歌の反歌である。皇子尊と書くのは皇太子だからである。日並皇子尊(草壁皇子)は持統三年に薨ぜられた。
 『ぬばたまの夜わたる月の隱らく』といふのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、(147)そのうへの、『あかねさす日は照らせれど』といふ句は、言葉のいきほひでさう云つたものと解釋してかまはない。つまり、『月の隱らく惜しも』が主である。全體を一種象徴的に歌ひあげてゐる。そしてその歌調の渾沌として深いのに吾々は注意を払はねばならない。
 この歌の第二句は、『日は照らせれど』であるから、以上のやうな解釋では物足りないものを感じ、そこで、『あかねさす日』を持統天皇に譬へ奉つたものと解釋する説が多い。然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給はない等の史實があつて、常識からいふと、實は變な辻棲の合はぬ歌なのである。併し此處は眞淵が萬葉考で、『日はてらせれどてふは月の隱るるをなげくを強《ツヨ》むる言のみなり』といつたのに從つていいと思ふ。或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期【想像年齡二十七歳位】の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいふと腑に落ちないものがあるかも知れない。特に人麿のものは句と句との連續に、省略があるから、それを顧慮しないと解釋に無理の生ずる場合がある。
 
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     島《しま》の宮《みや》まがりの池《いけ》の放《はな》ち鳥《どり》人目《ひとめ》に戀《こ》ひて池《いけ》に潛《かづ》かず 〔卷二・一七〇〕 柿本人麿
 
(148) 人麿が日並皇子尊殯宮の時作つた中の、或本歌一首といふのである。『勾の池』は島の宮の池で、現在の高市郡高市村の小學校近くだらうと云はれてゐる。一首の意は、勾の池に放ち飼にしてゐた禽鳥等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なほ人なつかしく、水上に浮いてゐて水に潛《くぐ》ることはないといふのである。
 眞淵は此一首を、舍人の作のまぎれ込んだのだらうと云つたが、舍人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るやうである。例へば、『島の宮|上《うへ》の池なる放ち鳥荒びな行きそ君|坐《ま》さずとも』(一七二)、『御立せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで』(一八〇)など、内容は類似してゐるけれども、何處か違ふではないか。そこで參考迄に此一首を拔いて置いた。
 
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     東《ひむがし》の瀧《たぎ》の御門《みかど》に侍《さもら》へど昨日《きのふ》も今日《けふ》も召《め》すこともなし 〔卷二・一八四〕 日並皇子宮の舍人
     あさ日《ひ》照《て》る島《しま》の御門《みかど》におぼほしく人音《ひとおと》もせねばま(149)うらがなしも 〔卷二・一八九〕 同
 
 日並の皇子尊に仕へた舍人等が慟傷して作つた歌二十三首あるが、今その中二首を選んで置いた。『東の瀧の御門』は皇子尊の島の宮殿の正門で、飛鳥川から水を引いて瀧をなしてゐただらうと云はれてゐる。『人音もせねば』は、人の出入も稀に寂れた樣をいつた。 大意。第一首。島の宮の東門の瀧の御門に伺候して居るが.昨日も今日も召し給ふことがない。嘗て召し給うた御聲を聞くことが出來ない。第二首。嘗て皇子尊の此世においでになつた頃は、朝日の光の照るばかりであつた島の宮の御門も、今は人の音づれも稀になつて、心もおぼろに悲しいことであるといふのである。
 舍人等の歌二十三首は、素直に、心情を抒べ、また當時の歌の聲調を傳へて居る點を注意すべきであるが、人麿が作つて呉れたといふ説はどうであらうか。よく讀み味つて見れば、少し樂《らく》でもあり、手の足りないところもあるやうである。なほ二十三首のうちには次の如きもある。
  朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭《な》く涙やむ時もなし(一七七)
  御立せし島の荒磯を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(一八一)
  あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(一八八)
 
           ○
(150)     敷妙《しきたへ》の袖《そで》交《か》へし君《きみ》玉垂《たまだれ》のをち野《ぬ》に過《す》ぎぬ亦《また》も逢《あ》はめやも 〔卷二・一九五〕 柿本人麿
 
 この歌は、川島《かはしま》皇子が薨ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部《はつせべ》皇女と忍坂部《おさかべ》皇子とに獻つた歌である。川島皇子【天智天皇第二皇子】は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御關係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御兩人に同時に御見せ申したと解していい。『敷妙の』も、『玉垂の』もそれぞれ下の語に懸る枕詞である。『袖|交《か》へし』のカフは波行下二段に活用し、袖をさし交《かは》して寢ることで、『白妙の袖さし交へて靡き寢し』(卷三・四八一)といふ用例もある。『過ぐ』とは死去することである。
 一首は、敷妙の袖をお互に交《か》はして契りたまうた川島皇子の君は、今|越智野《をちぬ》【大和國高市郡】に葬られたまうた。今後二たびお逢ひすることが出來ようか、もうそれが出來ない、といふのである。
 この歌は皇女の御氣持になり、皇女に同情し奉つた歌だが、人麿はさういふ場合にも自分の事のやうになつて作歌し得たもののやうである。そこで一首がしつとりと充實して決して申訣の餘所餘所しさといふものが無い。第四句で、『越智野に過ぎぬ』と切つて、二たび語を起して、『ま(151)たもあはめやも』と止めた調べは、まことに涙を誘ふものがある。
 
           ○
     零《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隱《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔卷二・二〇三〕 穗積皇子
 
 但馬皇女が薨ぜられた【和銅元年六月】時から、幾月か過ぎて雪の降つた冬の日に、穗積皇子が遙かに御墓【猪養の岡】を望まれ、悲傷流涕して作られた歌である。皇女と皇子との御關係は既に云つた如くである。吉隱《よなばり》は磯城郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隱にあつたのであらう。『あはにな降りそ』は、諸説あるが、多く降ること勿れといふのに從つておく。『塞《せき》なさまくに』は塞《せき》をなさむに、塞となるだらうからといふ意で、これも諸説がある。金澤本には、『塞』が『寒』になつてゐるから、新訓では、『寒からまくに』と訓んだ。
 一首は、降る雪は餘り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隱の猪養の岡にかよふ道を遮つて邪魔になるから、といふので、皇子は藤原京【高市郡鴨公村】からこの吉隱【初瀬町】の方を遠く望まれたものと想像することが出來る。
 皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或(152)雪の降つた日に、往事のことをも追懷せられつつ吉隱の方にむかつてこの吟咏をせられたものであらう。この歌には、解釋に未定の點があるので、鑑賞にも邪魔する點があるが、大體右の如くに定めて鑑賞すればそれで滿足し得るのではあるまいか。前出の、『君に寄りなな』とか、『朝川わたる』とかは、皆皇女の御詞であつた。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであつた。そして血の出るやうなこの一首を作られたのであつた。結句の『塞なさまくに』は強く迫る句である。
 
           ○
     秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》を茂《しげ》み迷《まど》はせる妹《いも》を求《もと》めむ山道《やまぢ》知らずも 〔卷二・二〇八〕 柿本人麿
 
 これは人麿が妻に死なれた時詠んだ歌で、長歌を二つも作つて居り、その反歌の一つである。この人麿の妻といふのは輕《かる》の里《さと》【今の畝傍町大輕和田石川五條野】に住んでゐて、其處に人麿が通つたものと見える。この妻の急に死んだことを使の者が知らせた趣が長歌に見えてゐる。
 一首は、自分の愛する妻が、秋山の黄葉の茂きがため、その中に迷ひ入つてしまつた。その妻を尋ね求めんに道が分からない、といふのである。
(153) 死んで葬られることを、秋山に迷ひ入つて隱れた趣に歌つてゐる。かういふ云ひ方は、現世の生の連續として遠い處に行く趣にしてある。當時は未ださう信じてゐたものであつただらうし、そこで愛惜の心も強く附帶してゐることとなる。『迷はせる』は迷ひなされたといふ具合に敬語にしてゐる。これは死んだ者に對しては特に敬語を使つたらしく、その他の人麿の歌にも例がある。この一首は亡妻を悲しむ心が極めて切實で、ただ一氣に詠みくだしたやうに見えて、その實心の渦が中にこもつてゐるのである。『求めむ』と云つてもただ尋ねようといふよりも、もつと覺官的に人麿の身に即したいひ方であるだらう。
 なほ、人麿の妻を悲しんだ歌に、『去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹《いも》はいや年さかる』(二一一)、『衾道を引手の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし』(二一二)がある。共に切實な歌である。二一一の第三句は、『照らせれど』とも訓んでゐる。一周忌の歌だらうといふ説もあるが、必ずしもさう嚴重に穿鑿せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。『衾道を』はどうも枕詞のやうである。『引手山』は不明だが、春日《かすが》の羽易《はがひ》山の中かその近くと想像せられる。
           ○
(154)     樂浪《ささなみ》の志我津《しがつ》の子《こ》らが罷道《まかりぢ》の川瀬《かはせ》の道《みち》を見ればさぶしも 〔卷二・二一八〕 柿本人麿
 
 吉備津采女《きびつのうねめ》が死んだ時、人麿の歌つたものである。『志我津《しがつ》の子ら』とあるから、志我津《しがつ》即ち今の大津あたりに住んでゐた女で、多分吉備の國【備前備中備後美作】から來た采女で、現職を離れてから近江の大津邊に住んでゐたものと想像せられる。『子ら』の『ら』は親愛の語で複數を示すのではない。『罷道《まかりぢ》』は此世を去つて死んで黄泉の國へ行く道の意である。
 一首は、樂浪《ささなみ》の志我津《しがつ》にゐた吉備津采女《きびつのうねめ》が死んで、それを送つて川の瀬を渡つて行く、まことに悲しい、といふのである。『川瀬の道』といふ語は古代語として注意してよく、實際の光景であつたのであらうが、特に『川瀬』とことわつたのを味ふべきである。川瀬の音も作者の心に沁みたものと見える。
 この歌は不思議に悲しい調べを持つて居り、全體としては句に屈折・省略等も無く、むつかしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういふ場合に人麿がこの采女の死に逢つたのか、或は依頼されて作つたものか、さういふことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、『あまかぞふ大津《おほつ》の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき』(二一九)といふ歌をも作つてゐる。(155)これは、生前縁があつて一たび會つたことがあるが、その時にはただ何氣なく過した。それが今となつては殘念である、といふので、これで見ると人麿は依頼されて作つたのでなく、采女は美女で名高かつた者のやうでもあり、人麿は自ら感激して作つてゐることが分かる。
 
           ○
     妻《つま》もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山《やま》野《ぬ》の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過《す》ぎにけらずや 〔卷二・二二一〕 柿本人麿
 
 人麿が讚岐|狹岑《さみね》島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に屬し砂彌《しやみ》島と云つてゐる。坂出町から近い。
 一首の意は、若し妻が一しよなら、野のほとりの菟芽子《うはぎ》(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あはれにも唯一人かうして死んでゐる。そして野の菟芽子はもう季節を過ぎてしまつてゐるではないか、といふのである。
 タグといふ動詞は下二段に活用し、飲食することである。人麿はかういふ種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か戀人でもあるかのやうな態度で作歌して居る。それゆゑ輕くすべつて行くやうなことがなく、飽くまで人麿自身から遊離してゐないものとして受取ることが出きるの(156)である。
 
           ○
     鴨山《かもやま》の磐根《いはね》し纏《ま》ける吾《われ》をかも知《し》らにと妹《いも》が待《ま》ちつつあらむ  〔卷二・二二三〕 柿本人麿
 
 人麿が石見國にあつて死なむとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。當時人麿は石見國府の役人として、出張の如き旅にあつて、鴨山のほとりで死んだものであらう。
 一首は、鴨山の巖を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は吾の歸るのを待ち詫びてゐることであらう、まことに悲しい、といふ意である。
 人麿の死んだ時、妻の依羅娘子《よさみのをとめ》が、『けふけふと吾が待つ君は石川の峽《かひ》に【原文、石水貝爾】交《まじ》りてありといはずやも』(二二四)と詠んで居り、娘子は多分、角《つぬ》の里《さと》にゐた人麿の妻と同一人であらうから、さうすれば 『鴨山』といふ山は、石川《いしかは》の近くで國府から少くも十數里ぐらゐ離れたところと想像することが出來る。そこで自分は昭和九年に『鴨山考』を作つて、石川を現在の江川《がうのがは》だと見立て、邑智郡|粕淵《かすぶち》村の津目山《つのめやま》を鴨山だらうといふ假説を立てたのであつたが、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字|湯抱《ゆかかへ》に『鴨山』といふ名のついた實在の山を發見した。これは二つ峰のある低い山(157)【三六〇米】で津目山より約半里程隔つてゐる。この事は『鴨山後考』【昭和十三年『文學』六ノ一】で發表した。
 この歌は、謂はば人麿の辭世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もつと平凡でしつとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云はずに、ただ妻のことを云つてゐるのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかといふに、眞淵は和銅三年ごろだらうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなからうかと空想した。さすれば眞淵説より數年若くて死ぬことになるが、それでも四十五歳ぐらゐである。
 
 
(158)卷第三
 
           ○
     大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔卷三・二三五〕 柿本人麿
 
 天皇【持統天皇】雷岳《いかづちのをか》【高市郡飛鳥村大字雷】行幸の時、柿本人麿の獻つた歌である。
 一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟く雷《いかづち》の名を持つてゐる山のうへに行宮《あんぐう》を御造りになりたまうた、といふのである。雷は既に當時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神隨《かむながら》にましますといふのである。
 これは供奉した人麿が、天皇の御威コを讚仰し奉つたもので、人麿の眞率な態度が、おのづからにして強く大きいこの歌調を成さしめてゐる。雷岳は藤原宮【高市郡鴨公村高殿の傳説地】から半里ぐらゐの地であるから、今の人の觀念からいふと御散歩ぐらゐに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、こ(159)の歌をば事々しい誇張だとし、或は、『歌の興』に過ぎぬと輕く見る傾向もあり、或は支那文學の影響で腕に任せて作つたのだと評する人もあるのだが、この一首の莊重な歌調は、さういふ手輕な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の聲調は、人を欺くことの出來ぬものである、爭はれぬものであるといふことを、歌を作るものは心に愼み、歌を味ふものは心を引締めて、覺悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出來る。人麿は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であつたといふことを、吾等もやうやくにして知るに近いのであるが、賀茂眞淵此歌を評して、『岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり』(新採百首解)と云つたのは、眞淵は人麿を理會し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに從つた。此は荒木田|久老《ひさおゆ》(眞淵門人)の訓である。
 この歌、或本には忍壁皇子に獻つたものとして、『大君は神にしませば雲隱る雷山《いかづちやま》に宮敷《みやし》きいます』となつてゐる。なほ『大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井《たゐ》を京師《みやこ》となしつ』(卷十九・四二六〇)、『大君は神にしませば水鳥のすだく水沼《みぬま》を皇都《みやこ》となしつ』(同卷・四二六一)、『大君は神にしませば眞木の立つ荒山中に海をなすかも』(卷三・二四一)等の參考歌がある。 右のうち卷十九(四二六〇)の、『赤駒のはらばふ田井』の歌は、壬申亂平定以後に、大將軍贈右(160)大臣大伴卿の作である。この大將軍は即ち大伴|御行《みゆき》で大伴安麿の兄に當り、高市大卿ともいひ、大寶元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申亂に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の淨見原の京都を讚美したもので、『赤駒のはらばふ』は田の邊に馬の臥してゐるさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、卷十九で云ふのを此處で一言費すことにした。四二六一は異傳で童謠風になつてゐる。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いたのは、天平勝寶四年二月二日だとことわつてあるから、その邊の事情は好く分からない。
 
           ○
     否《いな》といへど強《し》ふる志斐《しひ》のが強《し》ひがたりこの頃《ごろ》聞《き》かずてわれ戀《こ》ひにけり 〔卷三・二三六〕 持統天皇
 
     否《いな》といへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と詔《の》る 〔卷三・二三七〕 志斐嫗
 
 この二つは、持統天皇と志斐嫗《しひのおみな》との御問答歌である。此老女は語部《かたりべ》などの職にゐて、記憶もよ(161)く話も面白かつたものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう澤山だといつても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなつた。第二の歌は嫗の和へ奉つた歌で、もう御話は止しませうと申上げても、語れ語れと御仰せになつたのでございませう。それを今無理強ひの御話とおつしやる、それは御無理でございます。二つは諧謔的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによつて知ることが出來る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現はれるといふことは、後代の吾等には寧ろ異といはねばならぬ程である。萬葉集の歌は千差萬別だが、人麿の切實な歌などのあひだに、かういふ種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ『天皇』とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考へてゐる。さすれば天皇の歌人としての御力量は、『春過ぎて夏來るらし』の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに當らぬものだかといふことを證明するものである。『志斐い』の『い』は語調のための助詞で、『紀の關守い留めなむかも』(卷四・五四五)などと同じい。山田博士は、『このイは主格を示す古代の助詞』だと云つてゐる。
 
           ○
(162)     大宮《おほみや》の内《うち》まで聞《きこ》ゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼《よ》び聲《ごゑ》 〔卷三・二三八〕 長意吉麻呂
 
 長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》が詔に應へ奉つた歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮【長柄豐崎宮。現在の大阪豐崎町】に行幸せられた時の作であらう。
 海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人數を揃へいろいろ差圖手配する海人《あま》のこゑが、離宮の境内まで聞こえて來る、といふ歌である。應詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでゐる。併しありの儘を詠んでゐるから、大和の山國から海濱に來た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらはれるので、強ひて心持を出さうなどと意圖しても、さう旨く行くものでは無い。
 また、この歌は應詔の歌であるが、特に帝コを讚美したやうな口吻もなく、離宮に聞こえて來る海人等の聲を主にして歌つてゐるのであるが、それでも立派に應詔歌になつてゐるのを見ると、萬葉集に散見する獻歌の中に、強ひて寓意を云々するのは間違だとさへおもへるのである。例へば、『うち手折り多武の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる』(卷九・一七〇四)といふ、舍人皇子に獻つた歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく『詔』でも、屬目の歌を求(163)められる場合が必ずあるだらうとおもふからである。
 
           ○
     瀧《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山《やま》に居《ゐ》る雲《くも》の常《つね》にあらむとわが思《も》はなくに 〔卷三、二四二〕 弓削皇子
 
 弓削皇子《ゆげのみこ》【天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去】が吉野に遊ばれた時の御歌である。瀧《たぎ》は宮瀧の東南にその跡が殘つてゐる。三船山はその南にある。 瀧の上の三船の山には、あのやうにいつも雲がかかつて見えるが、自分等はああいふ具合に常住ではない。それが悲しい、といふので、『居る雲の』は、『常』にかかるのであらう。『常にあらむとわが思はなくに』の句に深い感慨があつて、人麿の、『いさよふ波の行方しらずも』などとも一脈相通ずるものがあるのは、當時の人の心にさういふ共通な觀相的傾向があつたとも解釋することが出來る。なお集中、『常にあらぬかも』、『常ならめやも』の句ある歌もあつて參考とすべきである。いづれにしても此歌は、景を敍しつつ人間の心に沁み入るものを持つて居る。此御歌に對して、春日王《かすがのおほきみ》は、『大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや』(二四三)と和へてゐられる。
 
(164)           ○
     玉藻《たまも》かる敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて夏草《なつくさ》の野島《ぬじま》の埼《さき》に船《ふね》ちかづきぬ 〔卷三・二五〇〕 柿本人麿
 
 これは、柿本朝臣人麻呂※[羈の馬が奇]旅歌八首といふ中の一つである。※[羈の馬が奇]旅八首は、純粹の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ歸る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思ふ。敏馬は攝津武庫郡、小野濱から和田岬までの一帶、神戸市の灘區に編入せられてゐる。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
 一首の意は、〔玉藻かる〕【枕詞】攝津の敏馬を通《とほ》つて、いよいよ船は〔夏草の〕【枕詞】淡路の野島の埼に近づいた、といふのである。
 内容は極めて單純で、ただこれだけだが、その單純が好いので、そのため、結句の、『船ちかづきぬ』に特別の重みがついて來てゐる。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂ふ意味の内容が簡單になるわけである。この歌の、『船近づきぬ』といふ結句は、客觀的で、感慨がこもつて居り、驚くべき好い句である。萬葉集中では、『ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ』(卷一・四八)、『風をいたみ奥つ白浪高からし海人《あま》の釣舟濱に歸り(165)ぬ』(卷三・二九四)、『あらたまの年の緒ながく吾が念《も》へる兒等に戀ふべき月近づきぬ』(卷十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客觀的であつて、感慨のこもつてゐるものである。第三句、『夏草の』を現實の景と解する説もあるが、これは、『夏草の靡き寐《ぬ》』の如きから、『寐《ぬ》』と『野《ぬ》』との同音によつて枕詞となつたと解釋した。またかう解すれば、『奴流』(寐)は『奴島』(二四九)のヌと同じく、時には『努』(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎《アシヒキノヤマコエヌユキ》(卷十七・三九七八)の、『奴由伎』は『野ゆき』であるから、『奴』、『努』の通用した實例である。即ち甲類乙類の假名通用の例でもあり、野の中間音でヌと發音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だといふことも分かるのである。また現在淡路三原郡に沼島《ぬしま》村があるのは、野島の變化だとせば、野島をヌシマと發音した證據となる。
 
            ○
     稻日野《いなびぬ》も行《ゆ》き過《す》ぎがてに思《おも》へれば心《こころ》戀《こほ》しき可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ 〔卷三・二五三〕 柿本人麿
 人麿作、これも八首中の一つである。稻日野《いなびぬ》は印南野《いなみぬ》とも云ひ、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石三郡にわたる地域をさして云つてゐたやうである。約めていへば、稻(166)日野は加古川の東方にも西方にも亙つてゐた平野と解釋していい。可古島は現在の高砂町あたりだらうと云はれてゐる。島でなくて埼でも島と云つたことは、伊良虞《いらご》の島《しま》の條下で説明し、また後に出て來る、倭島《やまとしま》の條下でも明かである。加古は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
 一首の意は、廣々とした稻日野《いなびぬ》近くの海を航してゐると、舟行が捗々《はかばか》しくなく、種々ものおもひしてゐたが、やうやくにして戀しい加古の島が見え出した、といふので、西から東へ向つて航してゐる趣の歌である。
 『稻日野も』の『も』は、『足引のみ山も清《さや》に落ちたぎつ』(九二〇)、『筑波根の岩もとどろに落つるみづ』(三三九二)などの『も』の如く、輕く取つていいだらう。『過ぎがてに』は、舟行が遲くて、廣々した稻日野の邊を中々通過しないといふので、舟はなるべく岸近く漕ぐから、稻日野が見えてゐる趣なのである。『思へれば』は、彼此おもふ、いろいろおもふの意で、此句と、前の句との間に小休止があり、これはやはり人麿的なのであるから、『ものおもふ』ぐらゐの意に取ればいい。つまり旅の難儀の氣持である。然るに從來この句を、稻日野の景色が佳いので、立去り難いといふ氣持の句だと解釋した先輩(【契沖以下殆ど同説】)の説が多い。併しこの場合にはそれは感服し難い説で、さうなれば歌がまづくなつてしまふと思ふがどうであらうか。また用語の類例としては、『繩(167)の浦に鹽燒くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く』(卷三・三五四)があつて、私の解釋の無理でないことを示してゐる。
 この歌は※[羈の馬が奇]旅中の感懷であつて、風光の移るにつれて動く心の儘を詠じ、歌詞それに伴うてまことに得難い優れた歌となつた。そして、『心|戀《こほ》しき加古の島』あたりの情調には、戀愛にかよふやうな物懷しいところがあるが、人麿は全體としてさういふ抒情的方面の豐かな歌人であつた。
 
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     ともしびの明石大門《あかしおほと》に入《い》らむ日《ひ》や榜《こ》ぎ別《わか》れなむ家《いへ》のあたり見《み》ず 〔卷三・二五四〕 柿本人麿
 
 人麿作、※[羈の馬が奇]旅八首中の一。これは西の方へ向つて船で行く趣である。
 一首の意は、〔ともしびの〕【枕詞】明石《あかし》の海門《かいもん》を通過する頃には、いよいよ家郷の大和の山々とも別れることとなるであらう。その頃には家郷の大和も、もう見えずなる、といふのである。『入らむ日や』の『や』は疑問で、『別れなむ』に續くのである。
 歌柄の極めて大きいもので、その點では萬葉集中稀な歌の一つであらうか。そして、『入らむ〔二字右○〕日や』といひ、『別れなむ〔二字右○〕』といふやうに調子をとつてゐるのも波動的に大きく聞こえ、『の』、『に』、(168)『や』などの助詞の使ひ方が實に巧みで且つ堂々としてをる。特に、第四句で、『榜ぎ別れなむ』と切つて、結句で、『家のあたり見ず』と獨立的にしたのも、その手腕敬憬すべきである。由來、『あたり見ず』といふやうな語には、文法的にも毫も詠歎の要素が無いのである。『かも』とか、『けり』とか、『はや』とか、『あはれ』とか云つて始めて詠歎の要素が入つて來るのである。文法的にはさうなのであるが、歌の聲調方面からいふと、響きから論ずるから、『あたり見ず』で充分詠歎の響があり、結句として、『かも』とか、『けり』とかに匹敵するだけの効果をもつてゐるのである。この事は、萬葉の秀歌に隨處に見あたるので、『その草深野』、『棚無し小舟』、『印南國原』、『嚴橿《いつかし》が本』といふ種類でも、『月かたぶきぬ』、『加古の島見ゆ』、『家のあたり見ず』でも、また、詠歎の語の入つてゐる、『見れど飽かぬかも』、『見れば悲しも』、『隱さふべしや』等でも、結局は同一に歸するのである。さういふことを萬葉の歌人が實行してゐるのだから、驚き尊敬せねばならぬのである。かういふ事は、近く出す拙著、『短歌初學門』でも少しく説いて置いた筈である。
 
           ○
     天《あま》ざかる夷《ひな》の長路《ながぢ》ゆ戀《こ》ひ來れば明石《あかし》の門《と》より倭島《やまとしま》見《み》ゆ 〔卷三・二五五〕 柿本人麿
 
(169) 人麿作、※[羈の馬が奇]旅八首中の二 これは西から東へ向つて歸つて來る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を來、家郷戀しく思いつづけて來たのであつたが、明石の海門まで來ると、もう向うに大和が見える、といふので、※[羈の馬が奇]旅の歌としても隨分自然に歌はれてゐる。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の聲調で、強く大きく豐かだといふことである。そしてゐて、浮腫のようにぶくぶくしてゐず、遵勁とも謂ふべき響だといふことである。かういふ歌調も萬葉歌人全般といふ訣には行かず、家持の如きも、かういふ歌調を學んでなほここまで到達せずにしまつたところを見れば、何の彼のと安易に片付けてしまはれない、複雜な問題が包藏されてゐると考ふべきである。この歌の、『戀ひ來れば』も、前の、『心|戀《こほ》しき』に類し、ただ一つかういふ主觀語を用ゐてゐるのである。一、二參考歌を拾ふなら、『旅にして物戀《ものこほ》しきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に榜ぐ見ゆ』(卷三・二七〇)は黒人作、『堀江より水脈《みを》さかのぼる楫《かぢ》の音の間なくぞ奈良は戀しかりける』(卷二十・四四六一)は家持作である。共に『戀』の語が入つてゐる。
 なほ、人麿の※[羈の馬が奇]旅歌には、『飼飯《けひ》の海の庭《には》よくあらし苅《かり》ごもの亂《みだ》れいづ見ゆ海人の釣船』(二五六)といふのもあり、棄てがたいものである。飼飯の海は、淡路西海岸三原郡|湊《みなと》町の近くに慶野松原がある。其處の海であらう。なほ、人麿が筑紫に下つた時の歌、『名ぐはしき稻見《いなみ》の海の奥つ浪|千重《ちへ》に隱《かく》りぬ大和島根は』(三〇三)、『大王《おほきみ》の遠《とほ》のみかどと在り通ふ島門《しまと》を見れば神代し念《おも》ほゆ』(170)(三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が餘り多くなるので、從屬的に此處に記すこととした。新羅使等が船上で吟誦した古歌として、『天離るひなの長道を戀ひ來れば明石の門より家の邊《あたり》見ゆ』(卷十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が傳はつたので、人麿の歌を分かり好く變化せしめてゐる。
 
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     矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見《み》えず降《ふ》り亂《みだ》る雪《ゆき》に驟《うくつ》く朝《あした》たぬしも 〔卷三・二六二〕 柿本人麿
 
 柿本人麿が新田部《にひたべ》皇子に獻つた長歌の反歌で、長歌は、『やすみしし、吾|大王《おほきみ》、高|燿《ひか》る、日《ひ》の皇子《みこ》、敷《し》きいます、大殿《おほとの》の上に、ひさかたの、天傳《あまづた》ひ來る、雪じもの、往きかよひつつ、いや常世《とこよ》まで』といふ簡淨なものである。この短歌の下の句の原文は、『落亂、雪※[馬+麗]、朝樂毛』で、古來種々の訓があつた。私が人麿の歌を評釋した時には、新訓(佐佐木博士)の、『雪に※[馬+麗]《こま》うつ朝《あした》たぬしも』に從つたが、今囘は、故生田耕一氏の『雪に驟《うくつ》く朝樂しも』に從つた。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久《ウクヅク》とあつて、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであらう。この歌は、大體さう訓んで味ふと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。(171)『矢釣山木立も見えず降りみだる』あたりの歌調は、人麿でなければ出來ないものを持つてゐる。結句の訓も種々で考のマヰリクラクモに從ふ學者も多い。山田博士は、『雪にうくづきまゐり來らくも』と訓み、『古は初雪の見參といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候すべき儀ありしなり』(講義)と云つてゐる。なお吉田増藏氏は、『雪に馬|竝《な》めまゐり來らくも』と訓んだ。また、『亂』をマガフ、サワグ等とも訓んでゐる。これは、四段の自動詞に活用しないといふ結論に本づく根據もあるのだが、私は今囘もミダルに從つた。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、『ふる雪を腰になづみて參《まゐ》り來し驗《しるし》もあるか年のはじめに』(卷十九・四二三〇)が參考となる歌である。
 
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     もののふの八十《やそ》うぢ河《がは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ波《なみ》のゆくへ知《し》らずも 〔卷三・二六四〕 柿本人麿
 
 柿本人麿が近江から大和へ上つたとき宇治川のほとりで詠んだものである。『もののふの八十氏《やそうぢ》』は、物部《もののふ》には多くの氏《うぢ》があるので、八十氏《やそうぢ》といひ、同音の宇治川《うぢがは》に續けて序詞とした。網代木《あじろぎ》は、網の代用といふ意味だが、これは冬宇治川の氷魚を捕るために、澤山の棒杭を水中に打ち、(171)恐らく上流に向つて狹くなるやうに打つたと思ふが、其處が水流が急でないために魚が集つて來る、それを捕るのである。其處の棒杭に水が停滯して白い波を立ててゐる光景である。
 この歌も、『あまざかる夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ』の歌のやうに、直線的に伸々とした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全體の聲調的効果として受納れねばならぬ。さうすれば豐潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切實峻嚴、且つ無限の哀韻を感得することが出來る。この哀韻は、『いさよふ波の行方《ゆくへ》知らず』にこもつてゐることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却つて下の句の効果を助長せしめたと解釋することも出來るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に傳はり來るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
 この哀韻は、近江舊都を過ぎた心境の餘波だらうとも説かれてゐる。これは否定出來ない。なほこの哀韻は支那文學の影響、或は佛教觀相の影響だらうとも云はれてゐる。人麿ぐらゐな力量を有つ者になれば、その發達史も複雜で、支那文學も佛教も融けきつてゐるとも解釋出來るが、この歌の出來た時の人麿の態度は、自然への觀入・隨順であつただけである。その關係を前後混同して彼此云つたところで、所詮戲論に終はるので、理窟は幾何精しいやうでも、この歌から遊離した上の空の言辭といふことになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として輕蔑するが、自(173)分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。
 
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     苦《くる》しくも降《ふ》り來《く》る雨《あめ》か神《みわ》が埼《さき》狹野《さぬ》のわたりに家《いへ》もあらなくに 〔卷三・二六五〕 長奥麻呂
 
 長忌寸奥麻呂(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊國東牟婁郡の海岸にあり、狹野《さぬ》(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されてゐる。『わたり』は渡し場である。第二句で、『降り來る雨か』と詠歎して、愬へるやうな響を持たせたのにこの歌の中心があるだらう。そして心が順直に表はされ、無理なく受納れられるので、古來萬葉の秀歌として評價されたし、『駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ』といふ如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらゐである。それだけ感情が通常だとも謂へるが、奥麻呂は實地に旅行してゐるのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。辨基(春日藏首|老《おゆ》)の歌に、『まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原《すみたかはら》にひとりかも寢む』(卷三・二九八)といふのがあるが、この頃の人々は、自由に作つてゐて感のとほつてゐるのは氣持が好い。
 近時土屋文明氏は、『神之埼』をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは萬葉(174)時代交通路の推定から不自然のやうにおもはれることを指摘し、和泉日根郡の神前を以て擬するに至つた。また佐野も近接した土地で共に萬葉時代から存在した地名と推定することも出來、和泉ならば紀伊行幸の經路であるから、從駕の作者が詠じたものと見ることが出來るといふのである。
 
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     淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪千鳥《ゆふなみちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬにいにしへ思《おも》ほゆ 〔卷三・二六六〕 柿本人麿
 
 柿本人麿の歌であるが、卷一の近江舊都囘顧の時と同時の作か奈何か不明である。『夕浪千鳥』は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千鳥、湖上の低い空に群れ啼いてゐる千鳥で、古代造語法の一つである。一首の意は、淡海の湖に、その湖の夕ぐれの浪に、千鳥が群れ啼いてゐる。干鳥等よ、お前等の啼く聲を聞けば、眞《しん》から心が萎《しを》れて、昔の都の榮華のさまを偲ばれてならない、といふのである。
 この歌は、前の宇治河の歌よりも、もつと曲折のある調べで、その中に、『千鳥汝が鳴けば』といふ句があるために、調べが曲折すると共に沈厚なものにもなつてゐる。また獨詠的な歌が、相(175)手を想像する對詠的歌の傾向を帶びて來たが、これは、『志賀の辛崎幸くあれど』とつまりは同じ傾向となるから、ひよつとしたら、卷一の歌と同時の頃の作かも知れない。
 卷三(三七一)に、門部王の、『飫宇《おう》の海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに』があり、卷八(一四六九)に沙彌作、『足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ』、卷十五(三七八五)に宅守の、『ほととぎす間《あひだ》しまし置け汝が鳴けば吾が思《も》ふこころ甚《いた》も術《すべ》なし』があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人麿の此歌を學んだものかも知れない。
 
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     ※[鼠+吾]鼠《むささび》は木《こ》ぬれ求《もと》むとあしひきの山《やま》の獵夫《さつを》にあひにけるかも 〔卷三・二六七〕 志貴皇子
 
 志貴皇子《しきのみこ》の御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇【天智天皇第二皇女】の御弟、光仁天皇の御父といふ御關係になる。
 一首の意は、※[鼠+吾]鼠《むささび》が、林間の梢を飛渡つてゐるうちに、獵師に見つかつて獲られてしまつた、といふのである。
 この歌には、何處かにしんみりとしたところがあるので、古來寓意説があり、徒らに大望を懷(176)いて失脚したことなどを寓したといふのであるが、この歌には、※[鼠+吾]鼠の事が歌つてあるのだから、第一に※[鼠+吾]鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味ふべきである。寓意の如きは奥の奥へ潛めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。さうして味へば、この歌には皇子一流の寫生法と感傷とがあつて、しんみりとした人生觀相を暗指してゐるのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに屬してゐる。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全體を破壞してしまふのである。天平十一年大伴坂上郎女の歌に、『ますらをの高圓山に迫《せ》めたれば里に下《お》りける※[鼠+吾]鼠《むささび》ぞこれ』(卷六・一〇二八)といふのがあり、これは實際この小獣を捕へた時の歌で寓意でなく、この小獣に注して、『俗に牟射佐妣といふ』とあるから愛すべき小獣として人の注目を牽いたものであらう。略解に、『此御歌は人の強ひたる物ほしみして身を亡すに譬たまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり』とあるなどは寓意説に溺れたものである。【檜嬬手も全く略解の説を踏襲してゐる。】
 
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     旅《たび》にしてもの戀《こほ》しきに山下《やました》の赤《あけ》のそほ船《ぶね》沖《おき》に榜《こ》ぐ(177)見《み》ゆ 〔卷三・二七〇〕 高市黒人
 
 高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の※[羈の馬が奇]旅八首中の一つである。この歌の、『山下《やました》の』は、『秋山の下《した》ぶる妹』(卷二・二一七)などの如く、紅葉の美しいのに關係せしめて使つて居るから、『赤』の枕詞に用ゐたものらしい。『そほ』は赭土から取つた塗料で、赭土といつても、赤土、鉄分を含んだ泥土、粗製の朱等いろいろであつた。その精品を眞朱《まそほ》といつて、『佛つくる眞朱《まそほ》足らずは』(卷十六・三八四一)の例がある。『赤のそほ船』は赤く塗つた船である。『沖ゆくや赤羅《あから》小船』(卷十六・三八六八)も赤く塗つた船のことである。そこで一首の意味は、旅中にあれば何につけ都が戀しいのに、沖の方を見れば赤く塗つた船が通つて行く、あれは都へのぼるのであらう。羨しいことだ、といふので、今から見れば※[羈の馬が奇]旅の歌の常套手段のやうにも取れるが、當時の歌人にとつては常に實感であつたのであらう。黒人の歌は具象的で寫象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切實でないから、『もの戀しき』と云つたり、『古への人にわれあれや』等と云つても、稍通俗に感ぜしめる餘裕がある。卷一(六七)に、『旅にしてもの戀《こほ》しぎの鳴くことも聞えざりせば戀ひて死なまし』は持統天皇難波行幸の時、高安大島の作つたものだが、上の句が似てゐる。
 
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(178)     櫻田《さくらだ》へ鶴《たづ》鳴《な》きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴《たづ》鳴《な》きわたる 〔卷三・二七一〕 高市黒人
 
 黒人作。※[羈の馬が奇]旅八首の一。『櫻田《さくらだ》』は、和名鈔の尾張國愛知郡|作良《さくら》郷、現在熱田の東南方に櫻がある。その櫻といふ海濱に近い土地の田の事である。或は櫻田といふ地名だといふ説もある。『年魚市《あゆち》潟』は、和名妙に尾張國愛知郡|阿伊智《あいち》とあり、熱田南方の海岸一帶が即ち年魚市【書紀に吾湯市】潟で、櫻はその一部である。今の熱田新田と稱する邊も古へは海だつたらうと云はれてゐる。一首の意味は、陸の方から海に近い櫻の田の方へ向つて、鶴が群れて通つて行くが、多分年魚市潟一帶が潮干になつたのであらう、といふのである。一首の中に地名が二つも入つて居て、それに『鶴鳴きわたる』を二度繰返してゐるのだから、内容からいへば極く單純なものになつてしまつた。併し一首全體が高古の響を保持してゐるのは、内容がこせこせしない爲めであり、『櫻田へ鶴鳴きわたる』といふ唯一の現在的内容が却つて鮮明になり、一首の風格も大きくなつた。そのあひだに、『年魚市潟潮干にけらし』といふ推量句が入つてゐるのだが、この推量も大體分かつてゐる現實的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、櫻田が主で、櫻田を眺める位置に作者が立つてゐる趣で、あゆち潟といふのはもつと離れてゐるところであらう。(179)一首の形態からいふと、前出の、『吾はもや安見兒得たり皆人の得がてにすとふ安見兒得たり』(卷二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいふと、『年魚市潟潮干にけらし知多《ちた》の浦に朝榜ぐ舟も沖に寄る見ゆ』(卷七・一一六三)『可之布江《かしふえ》に鶴鳴きわたる志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし來らしも』(卷十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、『住吉の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫の泊《とまり》ゆ出づる舟人』(卷三・二八三)は、少しく樂《らく》過ぎて、人麿の『亂れいづ見ゆあまの釣舟』(卷三・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持つてゐないものがあるから、それを見のがさないやうに努むべきである。
 此處の、『四極山うち越え見れば笠縫《かさぬひ》の島榜ぎかくる棚無し小舟《をぶね》』(二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を與へたものである。四極《しはつ》山、笠縫《かさぬひ》島は參河といふ説と攝津といふ説とあるが、今は假りに契沖以來の、參河國幡豆郡磯泊(之波止《シハト》)説に從つて味ふこととする。また、『妹も吾も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる』(二七六)といふのもある。三河の二見は御油《ごゆ》から吉田《よしだ》に出る二里半餘の道だとはれてゐる。『妹《いも》』は、かりそめに親しんだそのあたりの女であらう。上句は、お前も俺も一體だからだらうと氣轉を利かしたいひ方である。黒人のには上半にかういふ主觀句のものが多い。それが成功したのもあればまづいのもある。
 
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(180)     何處《いづく》にか吾《われ》は宿《やど》らむ高島《たかしま》の勝野《かちぬ》の原《はら》にこの日《ひ》暮《く》れなば 〔卷三・二七五〕 高市黒人
 
 黒人作。※[羈の馬が奇]旅歌つづき。『高島の勝野』は、近江高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の※[羈の馬が奇]旅の歌はこれを見ても場處の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあつて詠んだので、それが現實的内容で、『何處にか吾は宿らむ』はそれに伴ふ自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂ふことが出來るであらう。この詠歎は率直簡單なので却つて効果があり、全體として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に關係あるものは、『磯の埼榜ぎたみゆけば近江《あふみ》の海《み》八十《やそ》の湊に鶴《たづ》さはに鳴く』(二七三)、『吾が船は比良《ひら》の湊に榜ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜《よ》ふけにけり』(二七四)がある。『沖へな放かり』といふのは、餘り沖遠くに行くなといふので特色のある句である。『わが舟は明石の浦に榜ぎはてむ沖へな放《さ》かりさ夜ふけにけり』(卷七・一二二九)といふのは、黒人の歌が傳誦のあひだに變化し、勝手に『明石』と直したものであらう。
 
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(181)     疾《と》く來《き》ても見《み》てましものを山城《やましろ》の高《たか》の槻村《つきむら》散《ち》りにけるかも 〔卷三・二七七〕 高市黒人
 
 黒人※[羈の馬が奇]旅八首の一つ、これは山城の旅になつてゐる。原文の『高槻村』は、舊訓タカツキムラノであつたのを、槻落葉でタカツキノムラと訓み、『高く槻の木の生たる木群をいふ成べし』といつて學者多くそれに從つたが、生田耕一氏が、高は山城國綴喜郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであらうといふ説をたて、他の歌例に、『山城の泉《いづみ》の小菅』、『山城の石田《いはた》の杜』などあるのを參考し、『山城の高《たか》の槻村』だとした。爾來諸學者それを認容するに至つた。
 一首の意は、もつと早く來て見れば好かつたのに、今來て見れば此處の山城の高《たか》といふ村の槻の林の黄葉も散つてしまつた、といふので、高【多賀郷】の槻の林といふものはその當時も有名であつたのかも知れない。或は高といふのは郷の名でも、作者の意識には、『高い槻の木』といふことをほのめかさうとしたのであつたのかも知れない。さうすれば、從來槻落葉の説に從つて味つて來たやうにして味ふことも出來る。この歌では、『山城の高の槻村散りにけるかも』といふ詠歎が主眼なのだが、沁みとほるやうな響が無い。また、『疾く來ても見てましものを』と云つても、いかにもあつさりして居る。是は單に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人(182)流なのだといふことになるのであらう。
 
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     此處《ここ》にして家《いへ》やもいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》を越《こ》えて來《き》にけり 〔卷三・二八七〕 石上卿
 
 志賀に行幸あつた時、石上卿《いそのかみのまへつきみ》の作つたものであるが、作者の傳は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田久老は、大寶二年太上天皇【持統天皇】が三河美濃に行幸あつた時、近江にも立寄られたのだらうと云つてゐる。さうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じてゐるから、後人が題詞を書いたとせば、『卿』でもよいのである。併し養老元年九月の行幸【元正天皇】の時だとすると、やはり槻落葉でいつたごとく石上豐庭だらうといふこととなる。この豐庭説が有力である。
 旅を遙々來た感じで、直線的にいひ下して、相當の感情を出してゐる歌である。大伴旅人の歌に、『此處にありて筑紫や何處《いづく》白雲の棚引く山の方《かた》にしあるらし』(卷四・五七四)といふのがあつて、形態が似てゐる。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、『白雲の棚引く山を越えて來にけり』も、近江で詠んだのだから、直接性があ(183)るし、旅人のは京にあつて筑紫を詠んだのだから、間接のやうだが、これは筑紫に殘つてゐる沙彌滿誓に和へた歌だから、さういふ意味で心に直接性があるのである。
 
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     晝《ひる》見《み》れど飽《あ》かぬ田兒《たご》の浦《うら》大王《おほきみ》のみことかしこみ夜《よる》見《み》つるかも 〔卷三・二九七〕 田口益人
 
 田口益人《たぐちのますひと》が和銅元年上野國司となつて赴任の途上駿河國|淨見《きよみ》埼を通つて來た時の歌である。國司は守・介・掾・目ともに通じていふが、ここは國守である。淨見埼は廬原郡の海岸で今の興津清見寺あたりだといはれてゐる。この歌の前に、『廬原の清見が埼の三保の浦の寛《ゆた》けき見つつもの思ひもなし』(二九六)といふのがある。三保は今は清水市だが古へは廬原郡であつた。『清見が埼の』も、『三保の浦の』も共に『寛けき』に續く句法である。『田兒浦』は今は富士郡だが、古へは廬原郡にもかかつた範圍の廣かつたもので、東海道名所圖繪に、『都て清見興津より、ひがし浮島原迄の海濱の惣号なるべし』とある。
 さて、此一首は、晝見れば飽くことのない田兒浦のよい景色をば、君命によつて赴任する途上だから夜見た、といふので、晝見る景色はまだまだ佳いのだといふ意が含まつてゐるのである。(184)そして、なぜ夜見たとことわつたかといふに、山田【孝雄】博士の考證がある(講義)。駿河國府(靜岡)を立つて、息津、蒲原と來るのだが、その蒲原まで來るあひだに田兒浦がある。靜岡から息津まで九里、息津から蒲原まで四里、それを一日の行程とすると、蒲原に著くまへに夜になつたのであらう、といふのである。
 この歌は右の如く、事實によつて詠んだものであるが、この歌を讀むといつも不思議な或るものを感じて今日まで來たのであつた。それは、『夜見つるかも』といふ句にあつて、この『夜』といふのに、特有の感じがあると思ふのである。作者は、『夜の田兒浦』をばただ事實によつてさういつただけだが、それでもその夜の感動が後代の私等に傳はるのかも知れないのである。
 補記。近時澤瀉久孝氏は田兒浦を考證し、『薩※[土+垂]峠の東麓より、由比、蒲原を經て吹上濱に至る弓状をなす入海を上代の田兒浦とする』とした。
 
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     田兒《たご》の浦ゆうち出でて見れば眞白《ましろ》にぞ不盡《ふじ》の高嶺《たかね》に雪《ゆき》は降《ふ》りける 〔卷三・三一八〕 山部赤人
 
 山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》が不盡山を詠んだ長歌の反歌である。『田兒の浦』は、古へは富士・廬原の二郡に(185)亙つた海岸をひろく云つてゐたことは前言のとほりである。『田兒の浦ゆ』の『ゆ』は、『より』といふ意味で、動いてゆく詞語に續く場合が多いから、此處は『打ち出でて』につづく。『家ゆ出でて三年がほどに』、『痛足の川ゆ行く水の』、『野坂の浦ゆ船出して』、『山の際《ま》ゆ出雲《いづも》の兒ら』等の用例がある。また『ゆ』は見渡すといふ行爲にも關聯してゐるから、『見れば』にも續く。『わが寢たる衣の上ゆ朝月夜さやかに見れば』、『海人の釣舟浪の上ゆ見ゆ』、『舟瀬ゆ見ゆる淡路島』等の例がある。前に出た、『御井の上より鳴きわたりゆく』の『より』のところでも言及したが、言語は流動的なものだから、大體の約束による用例に據つて極めればよく、それも幾何學の證明か何ぞのやうに堅苦しくない方がいい。つまり此處で赤人はなぜ『ゆ』を使つたかといふに、作者の行爲・位置を示さうとしたのと、『に』とすれば、『眞白にぞ』の『に』に邪魔をするといふ微妙な點もあつたのであらう。
 赤人の此處の長歌も簡潔で旨く、その次の無名氏【高橋連蟲麿か】の長歌よりも旨い。また此反歌は古來人口に膾炙し、敍景歌の絶唱とせられたものだが、まことにその通りで赤人作中の傑作である。赤人のものは、總じて健康體の如くに、清潔なところがあつて、だらりとした弛緩がない。ゆゑに、規模が大きく緊密な聲調にせねばならぬやうな對象の場合に、他の歌人の企て及ばぬ成功をするのである。この一首中にあつて最も注意すべき二つの句、即ち、第三句で、『眞白にぞ』と大きく(186)云つて、結句で、『雪は降りける』と連體形で止めたのは、柿本人麿の、『青駒の足掻《あがき》を速み雲居にぞ〔二字右○〕妹があたりを過ぎて來にける〔四字右○〕』(卷二・一三六)といふ歌と形態上甚だ似てゐるにも拘はらず、人麿の歌の方が強く流動的で、赤人の歌の方は寧ろ淨勁とでもいふべきものを成就してゐる。古義で、『眞白くぞ』と訓み、新古今で、『田子の浦に打出て見れば白妙の富士の高根に雪は降りつつ』として載せたのは、種々比較して味ふのに便利である。また、無名氏の反歌、『不盡の嶺に降り置ける雪は六月《みなづき》の十五日《もち》に消ぬればその夜降りけり』(卷三・三二〇)も佳い歌だから、此處に置いて味つていい。【附記。山田博士の講義に、『田兒浦の内の或地より打ち出で見ればといふことにて足る筈なり。かくてその立てる地も田子浦の中たるなり』と説明して居る。】
 
           ○
     あをによし寧樂《なら》の都《みやこ》は咲《さ》く花《はな》の薫《にほ》ふがごとく今《いま》盛《さかり》なり 〔卷三・三二八〕 小野老
 
 太宰少貮|小野老《おぬのおゆ》朝臣の歌である。老《おゆ》は天平十年【續紀には九年】に太宰大貮として卒したが、作歌當時は大伴旅人が太宰帥であつた頃その部下にゐたのであらう。卷五の天平二年正月の梅花歌中に『小貮小野大夫』の歌があるから、この歌はその後、偶々歸京したあたりの歌ででもあらうか。歌は、天平の寧樂の都の繁榮を讚美したもので、直線的に云ひ下して毫も滯るところが無い。『春花のに(187)ほえ盛《さか》えて秋の葉のにほひに照れる』(卷十九・四二一一)などと云つて、美麗な人を形容したのがあるが、此歌は帝都の盛大を謳歌したのであるから、もつと内容が複雜宏大となるわけである。併し同時に概念化してゆく傾向も既に釀されつつあるのは、單にこの歌のみでなく、一般に傾向文學の入つてゆかねばならぬ運命でもあるのである。またこの歌の作風は旅人の歌にあるやうな、明快で豐かなものだから、繰返してゐるうちに平板通俗にも移行し得るのである。人麿以前の歌調などと較べるとその差が既に著しい。『梅の花いまさかりなり思ふどち插頭にしてな今さかりなり』(卷五・八二〇)といふ歌を參考とすることが出來る。
 
           ○
     わが盛《さかり》また變若《をち》めやもほとほとに寧樂《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ 〔卷三・三三一〕 大伴旅人
 
 太宰帥|大伴旅人《おほとものたびと》が、筑紫太宰府にゐて詠んだ五首中の一つである。旅人は六十二、三歳頃【神龜三、四年】太宰帥に任ぜられ、天平二年大納言になつて兼官の儘上京し、天平三年六十七歳で薨じてゐる。そこで此歌は、六十三、四歳ぐらゐの時の作だらうと想像せられる。
 一首の意は、吾が若い盛りが二たび還つて來ることがあるだらうか、もはやそれは叶はぬこと(188)だ。かうして年老いて邊土に居れば、寧樂《なら》の都をも見ずにしまふだらう、といふので、『をつ』という上二段活用の語は、元へ還ることで、若《わか》がへることに用ゐてゐる。『昔見しより變若《をち》ましにけり』(卷四・六五〇)は、昔見た時よりも却つて若返つたといふ意味で、旅人の歌の、『變若』と同じである。
 旅人の歌は、彼は文學的にも素養の豐かな人であつたので、極めて自在に歌を作つているし、寧ろ思想的抒情詩といふ方面にも開拓して行つた人だが、歌が明快なために、一首の聲調に暈が少いといふ欠點があつた。その中にあつて此歌の如きは、流石に老に入つた境界の作で、感慨もまた深いものがある。
 
           ○
     わが命《いのち》も常《つね》にあらぬか昔《むかし》見《み》し象《きさ》の小河《をがは》を行《ゆ》きて見むため 〔卷三・三三二〕 大伴旅人
 
 旅人作の五首中の一首である。一首の意は、わが命もいつも變らずありたいものだ。昔見た吉野の象の小川を見むために、といふので、『常にあらぬか』は文法的には疑問の助詞だが、斯く疑ふのは希ふ心があるからで、結局同一に歸する。『苦しくも降りくる雨か』でも同樣である。この(189)歌も分かり易い歌だが、平俗でなく、旅人の優れた點をあらはし得たものであらう。哀韻もここまで目立たずに籠れば、歌人として第一流と謂つていい。やはり旅人の作に、『昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも』(卷三・三一六)といふのがある。これは吉野宮行幸の時で、聖武天皇の神龜元年だとせば、『わが命も』の歌よりも以前で、未だ太宰府に行かなかつた頃の作といふことになる。
 
           ○
     しらぬひ筑紫《つくし》の綿《わた》は身《み》につけていまだは著《き》ねど暖《あたた》けく見ゆ 〔卷三・三三六〕 沙彌滿誓
 
 沙彌滿誓《さみのまんぜい》が綿《わた》を詠じた歌である。滿誓は笠朝臣麻呂《かさのあそみまろ》で、出家して滿誓となつた。養老七年滿誓に筑紫の觀世音寺を造營せしめた記事が、續日本紀に見えてゐる。滿誓の歌としては、『世の中を何《なに》に譬《たと》へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきが如《ごと》(跡なきごとし)』(卷三・三五一)といふ歌が有名であり、當時にあつて佛教的觀相のものとして新しかつたに相違なく、また作者も出家した後だから、さういふ深い感慨を意識して漏らしたものに相違なからうが、かういふ思想的な歌は、縱ひ力量があつても皆成功するとは限らぬものである。この現世無常の歌に較べると、筑紫の綿の(190)方が一段上である。
 この綿は、眞綿(絹綿)といふ説と棉(木綿・もめん綿)といふ説とあるが、これは眞綿の方であらう。眞綿説を唱へるのは、當時木綿は未だ筑紫でも栽培せられてゐなかつたし、題詞の『緜』といふ文字は唐でも眞綿の事であり、また、續日本紀に『神護景雲三年三月乙未、始毎年、運2太宰府綿二十萬|屯《モチ》1、以輸2京庫1』とあるので、九州が綿の産地であつたことが分かるが、その綿が眞綿だといふのは、三代實録、元慶八年の條に、『五月庚申朔、太宰府年貢綿十萬屯、其内二萬屯、以v絹相轉進v之』とあるによつて明かである。以v絹相轉進v之は、在庫の絹を以て代らした意である。また支那でも印度から木綿の入つたのは宋の末だといふし、我國では延暦十八年に崑崙人【印度人】が三河に漂著したが、其舟に木綿の種があつたのを栽培したのが初だといはれてゐる。また、木綿説を唱へる人は、神護景雲三年の續日本紀の記事は木綿で、恐らく支那との貿易によつたもので、支那との貿易はそれ以前から行はれてゐただらうといふのである。それに對して山田博士云、『遣唐使の派遣が大命を奉じて死生を賭して數年を費して往復するに、綿のみにても毎年二十萬屯づつを輸入せりとすべきか』(講義)と云つた。
 一首の意は、白縫【枕詞】筑紫の眞綿《まわた》は名産とはきいてゐたが、今見るとなるほど上品だ。未だ著ないうちから暖かさうだ、といふので、『筑紫の綿は』とことわつたのは、筑紫は綿の名産地で、作(191)者の眼にも珍らしかつたからに相違ない。何十萬屯【六兩を一屯とす】といふ眞白な眞綿を見て、『暖けく見ゆ』といふのは極めて自然でもあり、歌としては珍らしく且つなかなか佳い歌である。
 さういふ珍重と親愛とがあるために、おのづから覺官的語氣が伴ふと見え、女體と關聯する寓意があらうといふ説もある。例へば、『滿誓、女など見られてたはぶれに詠れたるにて、かの綿を積かさねなどしたるが、暖げに見ゆるを女によそへられたるなるべし』(攷證)といふたぐひである。この寓意説は駄目だが、それだけこの歌が肉體的なものを持つてゐる證據ともなり、却つてこの歌を淺薄な觀念歌にしてしまはなかつた由縁とも考へ得るのである。即ち作歌動機は寓目即事でも、出來上つた歌はもつと暗指的な象徴的なものになつてゐる。結句、舊訓アタタカニミユであつたのを、宣長はアタタケクミユと訓んだ。なほこの歌につき、契沖は、『綿ヲ多ク積置ケルヲ見テ綿ノ功用ヲホムルナリ』(代匠記精撰本)『綿の見るより暖げなりといふに心を得ば、慈悲ある人には慈悲の相あらはれ、※[立心偏+喬]慢の人には※[立心偏+喬]慢の相あらはれ、よろづにかゝるべきことはりなれば、いましめとなりぬべき哥にや』(代匠記初稿本)と云つたが、眞淵は、『さまでの意はあるべからず、打見たるままに心得べし』(考)と云つた。
 
           ○
(192)     憶良等《おくらら》は今《いま》は罷《まか》らむ子《こ》哭《な》くらむその彼《か》の母《はは》も吾《わ》を待《ま》つらむぞ 〔卷三・三三七〕 山上憶良
 
 山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首といふ題がある。憶良は、大寶元年遣唐使に從ひ少録として渡海、慶雲元年歸朝、靈龜二年伯耆守、神龜三年頃筑前守、天平五年の沈痾自哀文(卷五・八九七)には年七十四と書いてある。この歌は多分筑前守時代の作で、そして、この前後に、大伴旅人、沙彌滿誓、防人司佑大伴四綱の歌等があるから、太宰府に於ける宴會の時の歌であらう。
 一首の意味は、この憶良はもう退出しよう。うちには子どもも泣いてゐようし、その彼等の母(即ち憶良の妻)も待つてゐようぞ、といふのである。『其彼母毛』は、ソノカノハハモと訓み、『その彼《か》の(子供の)母も』といふ意味になる。
 憶良は萬葉集の大家であるが、飛鳥朝、藤原朝あたりの歌人のものに親しんで來た眼には、急に變つたものに接するやうに感ぜられる。即ち、一首の聲調が如何にもごつごつしてゐて、『もののふの八十うぢがはの網代木に』といふやうな伸々した調子には行かない。一首の中に、三つも『らむ』を使つて居りながら、訥々としてゐて流動の響に乏しい。『わが背子は何處ゆくらむ沖つ藻の名張の山をけふか越ゆらむ』といふ『らむ』の使ひざまとも違ふし、結句に、『吾を待つらむ(193)ぞ』と云つても、人麿の『妹見つらむか』とも違ふのである。さういふ風でありながら、何處かに實質的なところがあり、輕薄平俗になつてしまはないのが其特色である。またさういふ滑かでない歌調が、當時の人にも却つて新しく響いたのかも知れない。憶良は、大正昭和の歌壇に生活の歌といふものが唱へられた時、いち早くその代表的歌人のごとくに取扱はれたが、そのとほり憶良の歌には人間的な中味があつて、憶良の價値を重からしめて居る。
 諧謔微笑のうちにあらはるる實生活的直接性のある此歌だけを見てもその特色がよく分かるのである。この一首は憶良の短歌ではやはり傑作と謂ふべきであらう。憶良は歌を好み勉強もしたことは類聚歌林を編んだのを見ても分かる。併し大體として、日本語の古來の聲調に熟し得なかつたのは、漢學素養のために亂されたのかも知れない。卷一(六三)の、『いざ子どもはやく大和《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の濱松待ち戀ひぬらむ』といふ歌は有名だけれども、調べが何處か弱くて物足りない。これは寧ろ、黒人の、『いざ兒ども大和へ早く白菅《しらすげ》の眞野《まぬ》の榛原《はりはら》手折《たを》りて行かむ』(二八〇)の方が優つてゐるのではなからうか。さういふ具合であるが、憶良にはまた憶良的なものがあるから、後出の歌に就いて一言費す筈である。
 大伴家持の歌に、『春花のうつろふまでに相見ねば月日|數《よ》みつつ妹待つらむぞ』(卷十七・三九八二)といふのがある。此は天平十九年三月、戀緒を述ぶる歌といふ長短歌の中の一首であるが、(194)結句の『妹待つらむぞ』はこの憶良の歌の模倣である。なほ『ぬばたまの夜渡る月を幾夜|經《ふ》と數《よ》みつつ妹《いも》は我待つらむぞ〔六字右○〕』(卷十八・四〇七二)、『居りあかし今宵は飲まむほととぎす明けむあしたは鳴きわたらむぞ〔七字右○〕』(卷十八・四〇六八)といふのがあり、共に家持の作であるのは吾等の注意していい點である。
 
           ○
     驗《しるし》なき物《もの》を思《おも》はずは一杯《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》を飲《の》むべくあるらし 〔卷三・三三八〕 大伴旅人
 
 太宰帥大伴旅人の、『酒を讚《ほ》むる歌』といふのが十三首あり、此がその最初のものである。『思はずは』は、『思はずして』ぐらゐの意にとればよく、從來は、『思はむよりは寧ろ』と宣長流に解したが、つまりはそこに落著くにしても、『は』を詠歎の助詞として取扱ふやうになつた【橋本博士】。
 一首の意は、甲斐ない事をくよくよ思ふことをせずに、一杯の濁酒を飲むべきだ、といふのである。つまらぬ事にくよくよせずに、一杯の濁醪《どぶろく》でも飲め、といふのが今の言葉なら、旅人のこの一首はその頃の談話言葉と看做してよからう。即ち、さういふ對人間的、會話的親しみが出てゐるのでこの歌が活躍してゐる。獨り歌つた如くであつて相手を豫想する親しみがある。その直(195)接性があるために、私等は十三首の第一にこの歌を置くが、旅人の作つた最初の歌がやはりこれでなかつただらうか。
   酒の名を聖《ひじり》と負《おほ》せし古《いにしへ》の大《おほ》き聖《ひじり》の言《こと》のよろしさ (三三九)
   古《いにしへ》の七《なな》の賢《さか》しき人等《ひとたち》も欲《ほ》りせしものは酒《さけ》にしあるらし (三四〇)
   賢《さか》しみと物言《ものい》ふよりは酒《さけ》飲みて醉哭《ゑひなき》するし益《まさ》りたるらし (三四一)
   言《い》はむすべせむすべ知らに【知らず】極《きは》まりて貴《たふと》きものは酒《さけ》にしあるらし (三四二)
   なかなかに人《ひと》とあらずは酒壺《さかつぼ》に成りてしかも酒《さけ》に染《し》みなむ (三四三)
   あな醜《みにく》賢《さか》しらをすと酒《さけ》飲《の》まぬ人をよく見《み》れば猿《さる》にかも似《に》る【よく見ば猿にかも似む】 (三四四) 
   價《あたひ》無《な》き寶《たから》といふとも一杯《ひとつき》の濁《にご》れる酒《さけ》に豈《あに》まさらめや (三四五)
   夜《よる》光《ひか》る玉《たま》といふとも酒《さけ》飲《の》みて情《こころ》を遣《や》るに豈《あに》如《し》かめやも (三四六)
   世《よ》の中《なか》の遊《あそ》びの道《みち》に冷《すず》しきは醉哭《ゑひなき》するにありぬべからし (三四七)
   この代《よ》にし樂《たぬ》しくあらば來《こ》む世《よ》には蟲《むし》に鳥《とり》にも吾《われ》はなりなむ (三四八)
   生者《いけるもの》遂《つひ》にも死《し》ぬるものにあれば今世《このよ》なる間《ま》は樂《たぬ》しくをあらな (三四九)
   黙然《もだ》居《を》りて賢《さか》しらするは酒《さけ》飲《の》みて醉泣《ゑひなき》するになほ如《し》かずけり (三五〇)
 殘りの十二首は即ち右の如くである。一種の思想ともいふべき感懷を詠じてゐるが、如何に旅(196)人はその表現に自在な力量を持つてゐるかが分かる。その内容は支那的であるが、相當に複雜なものを一首一首に應じて毫も苦澁なく、ずばりずばりと表はしてゐる。その支那文學の影響については先覺の諸注釋書に讓るけれども、顧れば此等の歌も、當時にあつては、今の流行語でいへば最も尖端的なものであつただらうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂ふべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。今、選拔の歌に限あるため、一首のみを取つて全體を代表せしめることとした。
 
           ○
     武庫《むこ》の浦《うら》を榜《こ》ぎ囘《た》む小舟《をぶね》粟島《あはしま》を背向《そがひ》に見《み》つつともしき小舟《をぶね》 〔卷三・三五八〕 山部赤人
 
 山部赤人の歌六首中の一首である。『武庫の浦』は、武庫川の河口から西で、今の神戸あたり迄一帶をいつた。『粟島』は卷九(一七一一)に、『粟の小島し見れど飽かぬかも』とある、『粟の小島』と同じ場處であらうが、現在何處に當るか不明である。淡路の北端あたりだらうといふ説がある。一首の意は、武庫の浦を榜ぎめぐり居る小舟よ。粟島を横斜に見つつ榜ぎ行く、羨しい小舟よ、といふので、『小舟』を繰返してゐても、あらあらしくないすつきりした感じを與へてゐる。あと(197)の五首も大體さういふ特色のものだから、此一首を以て代表せしめた。
   繩《なは》の浦ゆ背向《そがひ》に見ゆる奥《おき》つ島|榜《こ》ぎ囘《た》む舟は釣し【釣を】すらしも (三五七)
   阿倍《あべ》の島|鵜《う》の住む磯に寄する浪|間《ま》なくこのごろ大和し念《おも》ほゆ (三五九)
 
           ○
     吉野《よしぬ》なる夏實《なつみ》の河《かは》の川淀《かはよど》に鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる山《やま》かげにして 〔卷三・三七五〕 湯原王
 
 湯原王《ゆはらのおほきみ》が吉野で作られた御歌である。湯原王の事は審でないが、志貴皇子の第二子で光仁天皇の御兄弟であらう。日本後紀に、『延暦廿四年十一月【中略】壹志濃王薨、田原天皇之孫、湯原親王之第二子』云々とある。『夏實』は吉野川の一部で、宮瀧の上流約十町にある。今菜摘と稱してゐる。【土屋氏に新説ある。】
 一首の意は、吉野にある夏實の川淵に鴨が鳴いてゐる。山のかげの靜かなところだ、といふので、これは現に鴨の泳いでゐるのを見て作ったものであらう。結句の、『山かげにして』は、鴨の泳いでゐる夏實の淀淵の説明だが、結果から云へば一首に響く大切な句で、作者の感慨が此處にこもり、意味は場處の説明でも、一首全體の聲調からいへばもはや單なる説明ではなくなつてゐ(198)る。かういふ結句の効果については、前出の人麿の歌(二五四)の處でも説明した。此歌は從來敍景歌の極致として取扱はれたが、いかにもさういふところがある。ただ佳作と評價する結論のうちに、抒情詩としての聲調といふ點を拔きにしてはならぬのである。また此歌の有名になつたのは、一面に萬葉調の歌の中では分かり好いためだといふこともある。一首の中に、『なる』の音が二つもあり、加行の音の多いのなども分析すれば分析し得るところである。
 
           ○
     輕《かる》の池《いけ》の浦囘《うらみ》行《ゆ》きめぐる鴨《かも》すらに玉藻《たまも》のうへに獨《ひと》り宿《ね》なくに 〔卷三・三九〇〕 紀皇女
 
 紀皇女《きのひめみこ》の御歌で、皇女は天武天皇皇女で、穗積皇子の御妹にあられる。一首の意は、輕の池の岸のところを泳ぎ廻つてゐるあの鴨でも、玉藻の上にただ一つで寢るといふことがないのに、私はただ一人で寢なければならぬ、といふのである。萬葉では、譬喩歌といふのに分類してゐるが、内容は戀歌で、鴨に寄せたのだといへばさうでもあらうが、もつと直接で、どなたかに差し上げた御歌のやうである。單に内容からいへば、讀人知らずの民謠的な歌にかういふのは幾らもあるが、この歌のよいのは、さういふ一般的でない皇女に即した哀調が讀者に傳はつて來るためであ(199)る。土屋文明氏の萬葉集年表に、卷十二(三〇九八)に關する言ひ傳を參照し、戀人の高安王が伊豫に左遷せられた時の歌だらうかと考へてゐる。
 
           ○
     陸奥《みちのく》の眞野《まぬ》の草原《かやはら》遠《とほ》けども面影《おもかげ》にして見《み》ゆとふものを 〔卷三・三九六〕 笠女郎
 
 笠女郎《かさのいらつめ》【傳不詳】が大伴家持に贈つた三首の一つである。『眞野』は、今の磐城相馬郡眞野村あたりの原野であらう。一首の意は、陸奥の眞野の草原《かやはら》はあんなに遠くとも面影に見えて來るといふではありませぬか、それにあなたはちつとも御見えになりませぬ、といふのであるが、なほ一説には『陸奥の眞野の草原《かやはら》』までは『遠く』に續く序詞で、かうしてあなたに遠く離れてをりましても、あなたが眼前に浮んでまゐります。私の心持がお分かりになるでせう、と強めたので、『見ゆとふものを』は、『見えるといふものを』で、人が一般にいふやうな云ひ方をして確めるので、この云ひ方のことは既に云つたごとく、『見ゆといふものなるを』、『見ゆるものなるを』といふに落著くのである。女郎が未だ若い家持に愬へる氣持で甘えてゐるところがある。萬葉末期の細みを帶びた調子だが、さういふ中にあつての佳作であらうか。また序詞などを使つて幾分民謠的な技(200)法でもあるが、これも前の紀皇女の御歌と同じく、女郎《いらつめ》に即したものとして味ふと特色が出て來るのである。
 
           ○
     百傳《ももつた》ふ磐餘《いはれ》の池《いけ》に鳴《な》く鴨《かも》を今日《けふ》のみ見《み》てや雲隱《くもがく》りなむ 〔卷三・四一六〕 大津皇子
 
 題詞には、大津皇子被v死之時、磐余池|陂《ツツミ》流v涕《ナミダ》御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反が露はれ、朱鳥元年十月三日|譯語田舍《をさだのいへ》で死を賜はつた。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜2死皇子大津於譯語田舍1、時(ニ)年二十四。妃皇女|山邊《ヤマノベ》被v髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだらうと云はれてゐる。『百傳ふ』は枕詞で、百《もも》へ至るといふ意で五十《い》に懸け磐余《いはれ》に懸けた。
 一首の意は、磐余の池に鳴いてゐる鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、といふので、『雲隱る』は、『雲がくります』(卷三・四四一)、『雲隱りにき』(卷三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、『金烏臨2西舍1、鼓聲催2短命1、泉路無2賓主1、此夕離v家向』といふ五言臨終一絶を作り、懷風藻に載つた。皇子は夙くから文筆を愛し、『詩賦の興(201)は大津より始まる』と云はれたほどであつた。
 この歌は、臨終にして、鴨のことをいひ、それに向つて、『今日のみ見てや』と歎息してゐるのであるが、斯く池の鴨のことを具體的に云つたために却つて結句の『雲隱りなむ』が利いて來て、『今日のみ見てや』の主觀句に無限の悲響が籠つたのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであつただらうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語氣は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、『ま幸くあらば』といひ、大津皇子は、『今日のみ見てや』といつた。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主觀句に沁むものが出來て來てゐる。これは歌風の時代的變化である。契沖は代匠記で、『歌ト云ヒ詩卜云ヒ聲ヲ呑テ涙ヲ掩フニ遑ナシ』と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、萬葉集中の傑作の一つである。また妃山邊皇女殉死の史實を隨伴した一悲歌として永久に遺されてゐる。因に云ふに、山邊皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我赤兄の女である。赤兄大臣は有間皇子が、『天與2赤兄1知』と答へられた、その赤兄である。
 
           ○
     豐國《とよくに》の鏡《かがみ》の山《やま》の石戸《いはと》立《た》て隱《こも》りにけらし待《ま》てど來《き》ま(202)さぬ 〔卷三・四一八〕 手持女王
     石戸《いはと》破《わ》る手力《たぢから》もがも手弱《たよわ》き女《をみな》にしあれば術《すべ》の知《し》らなく 〔卷三・四一九〕 同
 
 河内王《かふちのおほきみ》を豐前國鏡山【田川郡香春町附近勾金村字鏡山】に葬つた時、手持女王《たもちのおほきみ》の詠まれた三首中の二首である。河内王は持統三年に太宰帥となつた方で、持統天皇八年四月五日賻物を賜つた記事が見えるから、その頃卒せられたものと推定せられる(土屋氏)。手持女王の傳は不明である。『石戸』は石棺を安置する石槨の入口を、石を以て塞ぐので石戸といふのである。これ等の歌も追悼するのに葬つた御墓のことを云つてゐる。第一の歌では、『待てど來まさぬ』の句に中心感情があり、同じ句は萬葉に幾つかあるけれども、この句はやはりこの歌に專屬のものだといふ氣味がするのである。第二の歌の、『石戸わる手力もがも』は、その時の心その儘であらう。二つとも女性としての云ひ方、その語氣が自然に出てゐて挽歌としての一特色をなしてゐる。共に悲しみの深い歌で、第二の歌の誇張らしいのも、女性の心さながらのものだからであらう。
 
           ○
(203)     八雲《やくも》さす出雲《いづも》の子等《こら》が黒髪《くろかみ》は吉野《よしぬ》の川《かは》の奥《おき》になづさふ 〔卷三・四三〇〕 柿本人麿
 
 出雲娘子《いづものをとめ》が吉野川で溺死した。それを吉野で火葬に附した時、柿本人麿の歌つた歌二首の一つで、もう一つのは、『山の際《ま》ゆ出雲の兒等は霧なれや吉野の山の嶺に棚引く』(四二九)といふので、當時大和では未だ珍しかつた火葬の烟の事を歌つてゐる。この歌の、『八雲さす』は『出雲』へかかる枕詞。『子等』の『等』は複數を示すのでなく、親しみを出すために附けた。生前美しかつた娘子の黒髪が吉野川の深い水に漬つてただよふ趣で、人麿がそれを見たか人言に聞きかしたものであらう。いづれにしてもその事柄を中心として一首を纏めてゐる。そして人麿はどんな對象に逢著しても熱心に眞心を籠めて作歌し、自分のために作つても依頼されて作つても、さういふことは殆ど一如にして實行した如くである。
 
           ○
     われも見《み》つ人《ひと》にも告げむ葛飾《かつしか》の眞間《まま》の手兒名《てこな》が奥津城處《おくつきどころ》 〔卷三・四三二〕 山部赤人
 
(204) 山部赤人が下總葛飾の眞間娘子《ままをとめ》の墓を見て詠んだ長歌の反歌である。手兒名《てこな》は處女《をとめ》の義だといはれてゐる。『手兒』(三三九八・三四八五)の如く、親の手兒といふ意で、それに親しみの『な』の添はつたものと云はれてゐる。眞間に美しい處女《をとめ》がゐて、多くの男から求婚されたため、入水した傳説をいふのである。傳説地に來つたといふ旅情のみでなく、評判の傳説娘子に赤人が深い同情を持つて詠んでゐる。併し徒らに激しい感動語を以てせずに、淡々といひ放つて赤人一流の感懷を表現し了せてゐる。それが次にある、『葛飾の眞間の入江にうち靡く玉藻苅りけむ手兒名しおもほゆ』(四三三)の如きになると、餘り淡々とし過ぎてゐるが、『われも見つ人にも告げむ』といふ簡潔な表現になると赤人の眞價があらはれて來る。後になつて家持が、『萬代の語ひ草と、未だ見ぬ人にも告げむ』(卷十七・四〇〇〇)云々と云つて、この句を學んで居る。赤人は富士山をも詠んだこと既に云つた如くだから、赤人は東國まで旅したことが分かる。
 
           ○
     吾妹子《わぎもこ》が見《み》し鞆《とも》の浦《うら》の室《むろ》の木《き》は常世《とこよ》にあれど見《み》し人《ひと》ぞ亡《な》き 〔卷三・四四六〕 大伴旅人
 
 太宰帥大伴旅人が、天平二年冬十二月、大納言になつたので歸京途上、備後鞆の浦を過ぎて詠(205)んだ三首中の一首である。『室の木』は松杉科の常緑喬木、杜松(榁)であらう。當時鞆の浦には榁の大樹があつて人目を引いたものと見える。一首の意は、太宰府に赴任する時には、妻も一しよに見た鞆の浦の室《むろ》の木《き》は、今も少しも變りはないが、このたび歸京しようとして此處を通る時には妻はもう此世にゐない、といふので、『吾妹子』と、『見し人』とは同一人である。『人』は後に、『根はふ室の木見し人』、『人も無き空しき家』といつてある如く、妻・吾妹子の意味に『人』を用ゐてゐる。旅人の歌は明快で、顫動が足りないともおもふが、『見し人ぞ亡き』に詠歎が籠つてゐて感深い歌である。
 
           ○
     妹《いも》と來《こ》し敏馬《みぬめ》の埼《さき》を還《かへ》るさに獨《ひとり》して見《み》れば涙《なみだ》ぐましも 〔卷三・四四九〕 大伴旅人
 
 前の歌と同樣、旅人が歸京途上、攝津の敏馬海岸を過ぎて詠んだものである。『涙ぐましも』といふ句は、萬葉には此一首のみであるが、古事記(日本紀)仁コ卷に、『やましろの筒城《つつき》の宮にもの申すあが背《せ》の君《きみ》は(吾兄《わがせ》を見れば)泪ぐましも』の一首がある。この句は、この時代に出來た句だから、大體の調和は古代語にある。そこで、近頃、散文なり普通會話なりに多く用ゐる、『涙(206)ぐましい』といふ語は不調和である。
 この歌は、餘り苦心して作つてゐないやうだが、聲調にこまかいゆらぎがあつて、奥から滲出で來る悲哀はそれに本づいてゐる。旅人の歌は、あまり早く走り過ぎる欠點があつたが、この歌にはそれが割合に少く、さういふ點でもこの歌は旅人作中の佳作といふことが出來るであらう。旅人は、讚酒歌のやうな思想的な歌をも自在に作るが、かういふ沁々としたものをも作る力量を持つてゐた。なほこの時、『往くさには二人吾が見しこの埼をひとり過ぐれば心悲しも』(四五〇)といふ歌をも作つた。やはり哀深い歌である。
 
           ○
     妹《いも》として二人《ふたり》作《つく》りし吾《わ》が山齋《しま》は木高《こだか》く繁《しげ》くなりにけるかも 〔卷三・四五二〕 大伴旅人
 
 旅人が家に歸つて來て、妻のゐない家を寂しみ、太宰府で亡くした妻を悲しむ歌で、このほかに、『人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり』(四五一)、『吾妹子《わぎもこ》がうゑし梅の木見る毎に心むせつつ涕《なみだ》し流る』(四五三)の二首を作つてゐるが、共にあはれ深い。
 此一首の意は、亡くなつた妻と一しよになつて、二人で作つた庭は、こんなにも木が大きくな(207)り、繁茂するやうになつたといふので、單純明快のうちに盡きぬ感慨がこもつてゐる。結句の、『なりにけるかも』といふのは、『秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも』(卷十・二一七〇)、『竹敷のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも』(卷十五・三七〇三)、『石ばしる垂水《たるみ》のうへのさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも』(卷八・一四一八)等の如くに成功してゐる。同じく旅人が、『昔見し象の小河を今見ればいよいよ清《さや》けくなりにけるかも』(卷三・三一六)といふ歌を作つてゐて効果ををさめてゐるのは、旅人の歌調が概ね直線的で太いからでもあらうか。
 
           ○
     あしひきの山《やま》さへ光《ひか》り咲《さ》く花《はな》の散《ち》りぬるごとき吾《わ》が大《おほ》きみかも 〔卷三・四七七〕 大伴家持
 
 天平十六年二月、安積皇子《あさかのみこ》【聖武天皇皇子】薨じた時【御年十七】、内舍人《うとねり》であつた大伴家持の作つたものである。此時家持は長短歌六首作つて居る。一首の意は、滿山の光るまでに咲き盛つていた花が一時に散つたごとく、皇子は逝きたまうた、といふのである。家持の内舍人になつたのは天平十二年頃らしく、此作は家持の初期のものに屬するであらうが、こころ謹しみ、骨折つて作つてゐるのでなかなか立派な歌である。家持は、父の旅人があのやうな歌人であり、夙くから人麿・赤人・憶良(208)等の作を集めて勉強したのだから、此等六首を作る頃には、既に大家の風格を具へてゐるのである。
 
(209)卷第四
 
           ○
     山《やま》の端《は》に味鳧群《あぢむら》騷《さわ》ぎ行《ゆ》くなれど吾《われ》はさぶしゑ君《きみ》にしあらねば 〔卷四・四八六〕 舒明天皇
 
 岳本天皇御製一首並短歌とある、その短歌である。岳本天皇は即ち舒明天皇を申奉るのであるが、御製歌には女性らしいところがあるので、左注には後岳本天皇即ち齊明天皇の御製ではなからうかと疑問を附してゐる。それだから此疑問は隨分古いものだといふことが分かるが、その精しい考證は現在の私には不可能である。攷證では、『この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて』と明かにしてゐる。
 一首の意は、山の端をば味鴨《あぢがも》が群れ鳴いて、騷ぎ飛行くやうに、多くの人が通り行くけれども、私は寂しうございます、その人々はあなたではありませぬから、といふので、やはり女性の歌と(210)して解釋するのである。そんなら作者は後岳本天皇即ち齊明天皇にましますかといふに、それも私にはよく分からぬ。ただ岳本天皇御製とあるのだから、天皇がかういふ戀愛情調をたたへた民謠風な抒情詩を御作りになつたと解釋申上げてもよく、或は岳本天皇時代のこの抒情詩が、天皇御製歌として傳誦せられ來つたとも解釋することが出來るのである。いづれにしても歌は女性の口吻であること既に前賢が注意したごとくである。次に、この歌の、『あぢ群さわぎ行くなれど』の句をば、實際あじ鴨の群が飛んでゆくのを御覧になつたのか、それとも譬喩で、あぢ鴨が騷いで飛行くやうに人が群れ騷ぎ行くといふのか、先輩の解釋にも二とほりある。けれども私は『山の端にあぢ群さわぎ』は、『行く』に續く意味のある序詞だと解した。そして誰が『行く』のかといへば、『人』が行くのであつて、これは長歌の方で、『人さはに國には滿ちてあぢ群の去來《ゆきき》は行けど吾が戀ふる君にしあらねば』とあるのに據つても分かる。即ち、あぢ群の騷ぎ行くやうに人等が行くけれどもと解釋したのであつて、その方が寧ろ古調だとおもふのである。
 私はこの御製を、素朴な抒情詩の優れたものとして選んだ。特に、『あぢむら騷ぎ』といふ句に心を牽かれたのであつた。かういふ實景を見つつ、その寫象によつて序詞を作つたのを感心したためであつた。もつとも、此用法は、『奥べには鴨妻喚ばひ、邊つべに味《あぢ》むら騷ぎ』(卷三・二五七)、『なぎさには味むら騷ぎ』(卷十七・三九九一)の如く實際味むらの居る處として表はしたものもあ(211)り、『あぢむらの騷ぎ競《きほ》ひて濱に出でて』(卷二十・四三六〇)のごとく、實際あぢ群の居るのでなく、枕詞に使つた處もあるが、いづれにしても古風な氣持の好い用ゐ方である。ことに、短歌の方で、單に『行くなれど』と云つて、長歌の方の、『人さはに』といふ主格をも含めた用法にも感心したのであつた。この歌に比べると、『秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども不樂《さぶ》し君にしあらねば』(卷十・二二九〇)、『み冬つぎ春は來れど梅の花君にしあらねば折る人もなし』(卷十七・三九〇一)などは、調子が弱くなつて、もはや弛んでゐる。また、『うち日さす宮道《みやぢ》を人は滿ちゆけど吾が念《おも》ふ公《きみ》はただ一人のみ』(卷十一・二三八二)といふ類似の歌もあるが、この方はもつと分かりよい。 この次に、『淡海路《あふみぢ》の鳥籠《とこ》の山なるいさや川|日《け》の此頃《このごろ》は戀ひつつもあらむ』(四八七)といふ歌があり、上半は序詞だが、やはり古調で佳い歌である。そしてこの方は男性の歌のやうな語氣だから、或はこれが御製で、『山の端に』の歌は天皇にさしあげた女性の歌ででもあらうか。
 以上、『あぢむら騷ぎ』までを序詞として解釋したが、『夏麻《なつそ》引く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲に鳥はすだけど君は音《おと》もせず』(卷七・一一七六)、『吾が門の榎《え》の實《み》もり喫《は》む百千鳥千鳥は來れど君ぞ來まさぬ』(卷十六・三八七二)といふのがあつて、これは實際鳥の群集する趣だから、これを標準とせば、『あぢむら騷ぎ』も實景としてもいいかも知れぬが、この卷七の歌も卷十六の歌もよく味ふと、やは(212)り海鳥を寫象として、その聯想によつて『すだけど』、或は『來れど』と云つてゐるのだといふことが分かり、屬目光景では無いのである。
 この御製を、女性らしい御語氣だと云つたが、代匠記では男の歌とし、毛詩鄭風の、出(バ)2其東門(ヲ)1、有v女如(シ)v雲、雖2則如(シト)1v雲、匪(ズ)2我思(ノ)存(スルニ)1を引いてゐる。即ち『君』を女と解してゐる。攷證でも、『この御製は、女をおぼしめして詠せ給ふにて』、『吾は君とは違ひて、誘《サソ》ふ人もあらざれば、いとさびしとのたまふにて、君は定めて誘ふ人もあまたありぬべしとの御心を、味村の飛ゆくさまをみそなはして、つゞけ給へる也』と云つてゐる。どちらが本當か、後賢の判斷を俟つてゐる。
 
           ○
     君《きみ》待《ま》つと吾《わ》が戀《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の簾《すだれ》うごかし秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く 〔卷四・四八八〕 額田王
 
 額田王《ぬかだのおおきみ》が近江天皇【天智天皇】をお慕ひまうして詠まれたものである。王ははじめ大海人皇子【天武天皇】の許に行かれて十市《とをち》皇女を生み、のち天智天皇に寵せられたことは既に云つたが、これは近江に行つてから詠まれたものであらう。
 一首の意は、あなたをお待申して、慕はしく居りますと、私の家の簾を動かして秋の風がおと(213)づれてまゐります、といふのである。
 この歌は、當りまへのことを淡々といつてゐるやうであるが、こまやかな情味の籠つた不思議な歌である。額田王は才氣もすぐれてゐたが情感の豐かな女性であつただらう。そこで知らず識らずかういふ歌が出來るので、この歌の如きは王の歌の中にあつても才鋒が目立たずして特に優れたものの一つである。この歌でただ、『簾動かし秋の風吹く』とだけ云つてあるが、女性としての音聲さへ聞こえ來るやうに感ぜられるのは、ただ私の氣のせゐばかりでなく、つまり、結句の『秋の風ふく』の中に、既に女性らしい愬へを聞くことが出來るといひ得るのである。また、風の吹いて來るのは戀人の來る前兆だといふ一種の信仰のやうなものがあつたと説く説【古義】もあるがどういふものであるか私には能く分からない。たださうすれば却つて歌柄が小さくなつてしまふやうだから、此處は素直に文字どほりにただ天皇をお慕ひ申す戀歌として受取つた方が好いやうである。
 この歌の次に、鏡王女《かがみのおほきみ》の作つた、『風をだに戀ふるはともし風をだに來むとし待たば何か歎かむ』(四八九)といふ歌が載つてゐる。王女は額田王の御姉に當る人で、はじめ天智天皇に寵せられ、のち藤原鎌足の正室になつた人だから、恐らく此時近江の京に住んでゐたのであらう。そして、額田王の此歌を聞いて、額田王にやつたものであらう。この歌にも廣い意味の贈答歌の味ひ(214)があり、姉妹のあひだの情味がこもつてゐる。併し萬葉集には、妹に和へた歌とは云つてゐない。
 
           ○
     今更《いまさら》に何《なに》をか念《おも》はむうち靡《なび》きこころは君《きみ》に寄《よ》りにしものを 〔卷四・五〇五〕 安倍女郎
 
 安倍女郎《あべのいらつめ》【傳不詳】の作つた二首中の一つである。女性の聲の直接傳はり來るやうな特色ある歌として選んだが、さうして見ると、素直でなかなか佳いところがある。前に既に『君に寄りななこちたかりとも』(卷二・一一四)の歌を引いたが、この歌はもつと分かり易くなつて來て居る。
 なほ、この歌の次に 『吾背子は物な念《おも》ほし事しあらば火にも水にも吾無けなくに』(五〇六)といふ歌があつて、やはり同一作者だが、女性の情熱を云つてゐる。併しこれも女性の語氣として受取る方がよく、此時代になると、感情も一般化して分かりよくなつてゐる。寧ろ、『事しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも籠《こも》らば共にな思ひ吾が背《せ》』(卷十六・三八〇六)の方が、古い味ひがあるやうに思へる。卷十六の歌は後に選んで置いた。
 
           ○
(215)     大原《おほはら》のこの市柴《いつしば》の何時《いつ》しかと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に今夜《こよひ》逢《あ》へるかも 〔卷四・五一三〕 志貴皇子
 
 志貴皇子の御歌で『市柴《いつしば》』は卷八(一六四三)に『この五柴《いつしば》に』とあるのと同じく、繁つた柴のことだといはれてゐる。『いつしかと』に續けた序詞だが、實際から來てゐる序詞である。『大原』は高市郡小原の地なることは既に云つた。この歌で心を牽いたのは、『今夜逢へるかも〔七字右○〕』といふ句にあつたのだが、この句は、卷十(二〇四九)に、『天漢《あまのがは》川門《かはと》にをりて年月を戀ひ來し君に今夜《こよひ》逢へるかも』といふのがある。
 なほ、この卷(五二四)に、『蒸《むし》ぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寐《ね》ねば肌《はだ》し寒しも』といふ藤原麻呂の歌もあり、覺官的のものだが、皇子の御歌の方が感深いやうである。此等の歌は取立てて秀歌といふ程のものでは無いが、ついでを以て味ふの便となした。
 
           ○
     庭《には》に立《た》つ麻手《あさて》刈《か》り干《ほ》ししき慕《しぬ》ぶ東女《あづまをみな》を忘《わす》れたまふな 〔卷四・五二一〕 常陸娘子
 
(216) 藤原|宇合《うまかひ》【藤原不比等第三子】が常陸守になつて任地に數年ゐたが、任果てて京に歸る時、【養老七年頃か】常陸娘子《ひたちのをとめ》が贈つた歌である。娘子は遊行女婦のたぐひであらう。『庭に立つ』は、庭に植ゑたといふ意。『麻手』は麻のことで、卷十四(三四五四)に、『庭に殖《た》つ麻布《あさて》小ぶすま』の例がある。類聚古集に據つて『手』は『乎』だとすると分かりよいことは分かりよい。『刈り干し』までは、『しきしぬぶ』の序のやうだが、これは意味の通ずる序だから、序詞をも意味の中に取入れていい。地方にゐる遊行女婦が、かうして官人を持成し優遇し、別れるにのぞんでは纏綿たる情味を與へたものであらう。そして農家のをとめのやうな風にして詠んでゐるが、輕い諧謔もあつて、女らしい親しみのある歌である。『東女《あづまをみな》』と自ら云うたのも棄てがたい。
 卷十四(三四五七)に、『うち日さす宮の吾背は大和女《やまとめ》の膝《ひざ》枕《ま》くごとに吾《あ》を忘らすな』といふのがある。これは古代の東歌といふよりも、京師から來た官人の歸還する時に詠んだ趣のものでこの歌に似てゐる。遊行女婦あたりの口吻だから、東歌の中にはかういふ種類のものも交つてゐることが分かる。
 
           ○
     ここにありて筑紫《つくし》やいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》の方《かた》に(217)しあるらし 〔卷四・五七四〕 大伴旅人
 
 大伴旅人が大納言になつて歸京した。太宰府に殘つて、觀世音寺造營に從つてゐた沙彌滿誓《さみのまんぜい》から『眞十鏡《まそかがみ》見飽《みあ》かぬ君に後《おく》れてや旦夕《あしたゆふべ》にさびつつ居らむ』(五七二)等の歌を贈つた。それに和《こた》へた歌である。旅人の歌調は太く、餘り剽輕に物をいへなかつたところがあつた。讚酒歌でも、『猿にかも似る』といつても、人を笑はせないところがある。旅人の歌調は、顫が少いが、家持の歌調よりも太い。
 
           ○
     君《きみ》に戀《こ》ひいたも術《すべ》なみ平山《ならやま》の小松《こまつ》が下《した》に立《た》ち嘆《なげ》くかも 〔卷四・五九三〕 笠女郎
 
 笠女郎《かさのいらつめ》が大伴家持に贈つた廿四首の中の一つである。平山《ならやま》は奈良の北にある那羅山《ならやま》で、其處に松が多かつたことは、『平山《ならやま》の小松が末《うれ》の』(卷十一・二四八七)等の歌によつても分かる。これは家持に向つて愬へてゐるので、分かりよい、調子のなだらかな歌である。この歌の次に、『わが屋戸《やど》の夕影草《ゆふかげぐさ》の白露の消ぬがにもとな念《おも》ほゆるかも』といふのもあり、極めて流暢に歌ひあげてゐ(218)る。相當の才女であるが、この時代になると、歌としての修練が既に必要になつて來てゐるから、藤原朝あたりのものとも違つて、もつと文學的にならむとしつつあるのである。併し此等の歌でも如何に快いものであるか、後代の歌に較べて、いまだ萬葉の實質の殘つてゐることをおもはねばならない。
 
           ○
     相念《あひおも》はぬ人《ひと》を思《おも》ふは大寺《おほてら》の餓鬼《がき》の後《しりへ》にぬかづく如《ごと》し 〔卷四・六〇八〕 笠女郎
 
 笠女郎が家持に贈つたものである。當時の大寺には種々の餓鬼が畫圖として畫かれ、或は木像などとして据ゑてあつたものであらうか。あなたのやうに幾ら思つても甲斐ない方は、伽藍の中に居る餓鬼像を後ろから拜むやうなものではありませんか、といふので、才氣のまさつた諧謔の歌である。佛教の盛な時代であるから、才氣の豐かな女等はこのくらゐの事は常に云つたかも知れぬが、後代の吾等にはやはり諧謔的に心の働いた面白いものである。そしてこの歌でよいのは女の語氣を直接に聞き得るごとくに感じ得る點にある。
           ○
(219)     沖《おき》へ行《ゆ》き邊《へ》に行《ゆ》き今《いま》や妹《いも》がためわが漁《すなど》れる藻臥束鮒《もふしつかふな》 〔卷四・六二五〕 高安王
 
 高安王《たかやすのおほきみ》が鮒の土産《みやげ》を娘子に呉れたときの歌である。高安王は天平十四年正四位下で卒した人で、十一年大原眞人の姓を賜はつてゐる。一首の意味は、この鮒は、深いところから岸の淺いところ方々《はうばう》歩いて、つかまへた藻の中にゐた大鮒だが、おまへに持つて來た、といふぐらゐの意で、『藻臥』は藻の中に住む、藻の中に潛むの意。『束鮒』は一束《ひとつか》、即ち一握《ひとにぎ》り【二寸程】ぐらゐの長さをいふ。この結句の造語がおもしろいので選んで置いた。卷十四(三四九七)の、『河上の根白高萱《ねじろたかがや》』などと同じ造語法である。
 
           ○
     月讀《つくよみ》の光《ひかり》に來《き》ませあしひきの山《やま》を隔《へだ》てて遠《とほ》からなくに 〔卷四・六七〇〕 湯原王
 
 湯原王《ゆはらのおほきみ》の歌だが、娘子が湯原王に贈つた歌だとする説【古義】のあるのは、この歌に女性らしいところがあるためであらう。併しこれはもつと樂《らく》に解して、女にむかつてやさしく云つてやつたと(220)もいふことが出來るだらう。また程近い處であるから女に促してやつたといふことも云ひ得るのである。和ふる歌に、『月讀の光は清く照らせれどまどへる心堪へず念ほゆ』(六七一)とあるのは、女の語氣としてかまはぬであらう。
 
           ○
     夕闇《ゆふやみ》は路《みち》たづたづし月《つき》待《ま》ちて行《ゆ》かせ吾背子《わがせこ》その間《ま》にも見《み》む 〔卷四・七〇九〕 大宅女
 
 豐前國の娘子|大宅女《おほやけめ》の歌である。この娘子の歌は今一首萬葉【卷六】にある。『道たづたづし』は、不安心だといふ意になる。『その間にも見む』は、甘くて女らしい句である。此頃になると、感情のあらはし方も細《こまか》く、姿態《しな》も濃《こま》やかになつてゐたものであらう。良寛の歌に『月讀の光を待ちて歸りませ山路は栗のいがの多きに』とあるのは、此邊の歌の影響だが、良寛は主に略解で萬葉を勉強し、むづかしくない、樂《らく》なものから入つてゐたものと見える。
 
           ○
     ひさかたの雨《あめ》の降《ふ》る日《ひ》をただ獨《ひと》り山邊《やまべ》に居《を》れば欝《いぶ》(221)せかりけり 〔卷四・七六九〕 大伴家持
 
 大伴家持が紀女郎《きのいらつめ》に贈つたもので、家持はいまだ整はない新都の久邇《くに》京にゐて、平城《なら》にゐた女郎に贈つたものである。『今しらす久邇《くに》の京《みやこ》に妹《いも》に逢はず久しくなりぬ行きてはや見な』(七六八)といふのもある。この歌は、もつと上代の歌のやうに、蒼古といふわけには行かぬが、歌調が伸々として極めて順直なものである。家持の歌の優れた一面を代表する一つであらうか。
 
(222)卷第五
 
           ○
     世《よ》の中《なか》は空《むな》しきものと知《し》る時《とき》しいよよますます悲《かな》しかりけり 〔卷五・七九三〕 大伴旅人
 
 大伴旅人《おほとものたびと》は、太宰府に於て、妻|大伴郎女《おほとものいらつめ》を亡くした【神龜五年】。その時京師から弔問が來たのに報《こた》へた歌である。なほこの歌には、『禍故重疊し、凶問|累《しきり》に集る。永く崩心の悲みを懷《いだ》き、獨り斷腸の泣《なみだ》を流す。但し兩君の大助に依りて、傾命纔に繼ぐ耳《のみ》。筆言を盡さず、古今の歎く所なり』といふ詞書が附いてゐる。傾命は老齡のこと。兩君は審かでない。
 一首の意は、世の中が皆空・無常のものだといふことを、現實に知つたので、今迄よりもますます悲しい、といふのである。
 『知る時し』は、知る時に、知つた時にといふ事であるが、今迄は經文により、説教により、萬(223)事空寂無常のことは聞及んでいたが、今|現《げん》に、自分の身に直接に、眼のあたりに、今の言葉なら、體驗したといふ程のことを、『知る』と云つたのである。同じ用例には、『うつせみの世は常無《つねな》しと知るものを』(卷三・四六五。家持)、『世の中を常無きものと今ぞ知る』(卷六・一〇四五。不詳)、『世の中の常無きことは知るらむを』(卷十九・四二一六。家持)等がある。そこで『いよよますます』といふ語に續くのである。この歌には、佛教が入つてゐるので、『空しきものと知る』といふだけでも、當時にあつては、深い道理と情感を伴ふ語感を持つてゐただらう。一口にいへば思想的にも新しく且つ深かつたものだらう。それが年月によつて繰返されてゐるうち、その新鮮の色があせつつ來たのであるが、旅人のこの歌頃までは、いまだ諳記してものを云つてゐるやうなところのないのを鑑賞者は見免してはならぬだらう。その證據には、此處に引いた用例は皆旅人以後で、旅人の口吻の模倣といつてよいのである。それから、結句の、『悲しかりけり』であるが、これは漢文なら、『獨り斷腸の泣《なみだ》を流す』といふところを、日本語では、『悲しかりけり』といふのである。これを以て、日本語の貧弱を云々してはならぬ。短詩形としての短歌の妙味もむづかしい點も此處に存するものだからである。大體以上の如くであるが、後代の吾等から見れば、此歌を以て滿足だといふわけには行かぬ。それはなぜかといふに、思想的抒情詩はむづかしいもので、誰が作つても旅人程度を出で難いものだからである。併しそれを正面から實行した點につき、(224)この方面の作歌に一つの基礎をなした點につき、旅人に滿腔の尊敬を払うて茲に一首を選んだのであつた。
 旅人の妻、大伴郎女の死した時、旅人は、『愛《うつく》しき人《ひと》の纏《ま》きてし敷妙《しきたへ》の吾が手枕《たまくら》を纏《ま》く人あらめや』(卷三・四三八)等三首を作つてゐるが、皆この歌程大觀的ではない。序にいふが、卷三(四四二)に、膳部王《かしはでべのおほきみ》を悲しんだ歌に、『世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は滿闕《みちかけ》しける』といふ作者不詳の歌がある。王の薨去は天平元年だから、やはり旅人の歌の方が早い。
 
           ○
     悔《くや》しかも斯《か》く知《し》らませばあをによし國内《くぬち》ことごと見《み》せましものを 〔卷五・七九七〕 山上憶良
 
 大伴旅人の妻が死んだ時、山上憶良《やまのうへのおくら》が、『日本挽歌』【長歌一首反歌五首】を作つて、『神龜五年七月二十一日、筑前國守山上憶良上』として旅人に贈つた。即ちこの長歌及び反歌は、旅人の心持になつて、恰も自分の妻を悼むやうな心境になつて、旅人の妻の死を悼んだものである。それだから、この『山上憶良上』云々といふ注が無ければ、無論憶良が自分の妻の死を悼んだものとして受取り得る性質のものである。因つて鑑賞者は、この歌の作者は憶良でも、旅人の妻即ち大伴郎女《おほとものいらつめ》の死を念中(225)に持つて味ふことが必要なのである。
 一首の意は、かうして妻に別れねばならぬのが分かつてゐたら、筑紫の國々を殘るくまなく見物させてやるのであつたのに、今となつて殘念でならぬ、といふのである。
 この歌の『知る』は前の歌の『知る』と稍違つて、知れてゐる、分かつてゐる程の意である。次に、『あをによし』といふ語は普通、『奈良』に懸る枕詞であるのに、憶良は『國内』に續けてゐる。そんなら、『國内』は大和・奈良あたりの意味かといふに、さう取つては具合が惡い。やはり筑紫の國々と取らねばならぬところである。そこで種々説が出たのであるが、憶良は必ずしも傳統的な日本語を使はぬ事があるので、或は、『あをによし』の意味をただ山川の美しいといふぐらゐの意に取つたものとも考へられる。【憶良は、『あをによし奈良の都に』(八〇八)とも使つてゐる。】次に、この歌は、初句から、『くやしかも』と置いてゐるのは、萬葉集としては珍らしく、寧ろ新古今集時代の手法であるが、憶良は平然としてかういふ手法を實行してゐる。もつともこの手法は、『苦しくも降り來る雨か』などといふ主觀句の短いものと看做せば説明のつかぬことはない。
 この歌を味ふと、内容に質實的なところがあるが、聲調が訥々としてゐて、沁み透るものが尠いので、つまりは常識の發達したぐらゐな感情として傳はつて來る。併し聲調が流暢過ぎぬため、却つて輕佻でなく、質朴の感を起こさせるのである。家持の歌に、『かからむとかねて知りせば越(226)の海の荒磯の波も見せましものを』(卷十七・三九五九)といふのがある。これは弟の書持の死を悼んだものであるが、この憶良の歌から影響を受けてゐるところを見ると、大伴家に傳はつた此等の歌をも讀味つたことが分かる。
 この日本挽歌一首【長歌反歌】は、憶良が旅人の心になつて、旅人の心に同感して、旅人の妻の死を哀悼したといふ説に從つたが、これは、憶良の妻の死を、憶良が直接悼んでゐるのだと解釋する説があり、岸本由豆流の萬葉集攷證にも、『或人の説に、こは憶良の妻身まかりしにはあるべからず、こは大伴卿の心になりて、憶良の作られけるならんといへれど、さる證もなければとりがたし』と云つてゐる程である。【なほ、大柳直次氏の同説がある。】併し、歌の中の妻の死んだのも夏であり、その他の種々の關係が、旅人の妻の死を悼んだ歌として解釋する方が穩かのやうに思へる。『筑前國守山上憶良上』をば、憶良自身の妻の死を悼んだ歌を旅人に示したものとして、『大伴卿も同じ思ひに歎かるゝころなれば、かの卿に見せられけるなるべし』(攷證)といふのであるが、ただそれだけでは證據不充分であるし、憶良の妻が筑紫で歿したといふ記録が無いのだから、これを以て直ぐ憶良の妻の死を悼んだのだと斷定するわけにも行かぬのである。併し全體が、自分の妻を哀悼するやうな口吻であるから、茲に兩説が對立することとなるのであるが、鑑賞者は、憶良が此歌を作つても、旅人の妻の死を旅人が歎いてゐるといふ心持に假りになつて味へば面倒ではないのである。
 
(227)           ○
     妹《いも》が見《み》し棟《あふち》の花《はな》は散《ち》りぬべし我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》いまだ干《ひ》なくに 〔卷五・七九八〕 山上憶良
 
 前の歌の續で、憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである。棟《あふち》は即ち栴檀で、初夏のころ薄紫の花が咲く。
 一首の意は、妻の死を悲しんで、わが涙の未だ乾かぬうちに、妻が生前喜んで見た庭前の棟の花も散ることであらう、といふので、逝く歳月の迅きを歎じ、亡妻をおもふ情の切なことを懷ふのである。
 この棟の花は、太宰府の家にある棟であらう。そして、作者の憶良も太宰府にゐて、旅人の心になつて詠んだからかういふ表現となるのである。この歌は、意味もとほり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相應の重みを持つてゐるが、飛鳥・藤原あたりの歌詞に比して、切實の響を傳へ得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は傳統的な日本語の響に眞に合體し得なかつたのではあるまいか。後に發達した第三句切が既にここに實行せられてゐるのを見ても分かるし、『朝日照る佐太《さだ》の岡邊に群れゐつつ吾が哭《な》く涙止む時もなし』(卷二・一七七)、『御立せし島を見るとき行潦《にはたづみ》な(228)がるる涙止めぞかねつる』(卷二・一七八)ぐらゐに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに、此歌は其處までも行つてゐない。この歌は、從來萬葉集中の秀歌として評價せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいといふやうな點があるためで、實は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行してゐるのである。
 天平十一年夏六月、大伴家持は亡妾を悲しんで、『妹が見し屋前《やど》に花咲き時は經ぬわが泣く涙いまだ干なくに』(卷三・四六九)といふ歌を作つてゐる。これは明かに憶良の模倣であるから、家持もまた憶良の此一首を尊敬してゐたといふことが分かるのである。恐らく家持は此歌のいいところを味ひ得たのであつただらう。(もつとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る。)
 
           ○
     大野山《おほぬやま》霧《きり》たちわたる我《わ》が嘆《なげ》く息嘯《おきそ》の風《かぜ》に霧《きり》たちわたる 〔卷五・七九九〕 山上憶良
 
 此歌も前の續である。『大野山』は和名鈔に、『筑前國御笠郡大野』とある、その地の山で、太宰府に近い。『おきそ』は、宣長は、息嘯《おきうそ》の略とし、神代紀に嘯之時《うそぶくときに》迅風忽起とあるのを證とした。
 一首の意は、今、大野山を見ると霧が立つてゐる、これは妻を歎く自分の長大息の、風の如く(229)強く長い息のために、さ霧となつて立つてゐるのだらう、といふので、神代紀に、『吹きうつる氣噴《いぶき》のさ霧に』、萬葉に、『君がゆく海べの屋戸に霧たたば吾《あ》が立ち嘆く息《いき》と知りませ』(卷十五・三五八○)、『わが故に妹歎くらし風早《かざはや》の浦の奥《おき》べに霧棚引けり』(同卷・三六一五)、『沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを』(同卷・三六一六)等とあるのと同じ技法である。ただ萬葉の此等の歌は憶良のこの歌よりも後であらうか。
 此一首も、『霧たちわたる』を繰返したりして強く云つてゐて、線も太く、能働的であるが、それでもやはり人麿の歌の聲調ほどの顫動が無い。例へば前出の、『ともしびの明石大門に入らむ日や榜ぎわかれなむ家のあたり見ず』(卷三・二五四)あたりと比較すればその差別もよく分かるのであるが、憶良は眞面目になつて骨折つてゐるので、一首は質實にして輕薄でないのである。なほ、天平七年、大伴坂上郎女が尼|理願《りぐわむ》を悲しんだ歌に、『嘆きつつ吾が泣く涙有間山雲居棚引き雨に零《ふ》りきや』(卷三・四六〇)といふ句があり、同じやうな手法である。
 
           ○
     ひさかたの天道《あまぢ》は遠《とほ》しなほなほに家《いへ》に歸《かへ》りて業《なり》を爲《し》まさに 〔卷五・八〇一〕 山上憶良
 
(230) 山上憶良は、或る男が、兩親妻子を輕んずるのをみて、その不心得を諭して、『惑情を反さしむる歌』といふのを作つた、その反歌がこの歌である。長歌の方は、『父母を見れば尊し、妻子見れば、めぐし愛《うつく》し、世の中は、かくぞ道理《ことわり》』、『地ならば、大王《おほきみ》います、この照らす、日月の下は、天雲の、向伏《むかふ》す極《きはみ》、谷蟆《たにぐく》の、さ渡る極、聞《きこ》し食《を》す、國のまほらぞ』といふのが、その主な内容で、現實社會のおろそかにしてはならぬことを云つたものである。
 反歌の此一首は、おまへは青雲の志を抱いて、天へも昇るつもりだらうが、天への道は遼遠だ、それよりも、普通並に、素直に家に歸つて、家業に從事しなさい、といふのである。『なほなほに』は、『直直《なほなほ》に』で、素直に、尋常に、普通並にの意、『延《は》ふ葛の引かば依り來ね下《した》なほなほに』(卷十四・三三六四或本歌)の例でも、素直にの意である。結句の、『業《なり》を爲《し》まさに』は、『業《なり》を爲《し》まさね』で、『ね』と『に』が相通ひ、當時から共に願望の意に使はれるから、この句は、『業務に從事しなさい』といふ意となる。
 この歌も、その聲調が流動性でなく、寧ろ佶屈とも謂ふべきものである。然るに内容が實生活の事に關してゐるのだから、聲調おのづからそれに同化して憶良獨特のものを成就したのである。事が裟婆世界の實事であり、いま説いてゐることが儒教の道コ觀に本づくとせば、縹緲幽遠な歌調でない方が却つて調和するのである。由來儒教の觀相は實生活の常識であるから、それに本づ(231)いて出來る歌も亦結局其處に歸著するのである。憶良は、傳誦されて來た古歌謠、祝詞あたりまで溯つて勉強し、『谷ぐくのさわたるきはみ』等といふけれども、作る憶良の歌といふものは何處か漢文的口調のところがある。併し、萬葉集全體から見れば、憶良は憶良らしい特殊の歌風を成就したといふことになるから、その憶良的な歌の出來のよい一例としてこれを選んで置いた。
 
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     銀《しろがね》も金《くがね》も玉《たま》もなにせむにまされる寶《たから》子《こ》に如《し》かめやも 〔卷五・八〇三〕 山上憶良
 
 山上憶良は、『子等を思ふ歌』一首【長歌反歌】を作つた。序は、『釋迦如來、金口に正しく説き給はく、等しく衆生を思ふこと、羅※[目+侯]羅《らごら》の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ子を愛《うつく》しむ心あり。況して世間の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《を》しまざらめや』といふものであり、長歌は、『瓜|食《は》めば、子等《こども》思ほゆ、栗|食《は》めば、況してしぬばゆ、何處《いづく》より、來《きた》りしものぞ、眼交《まなかひ》に、もとな懸《かか》りて、安寢《やすい》し爲《な》さぬ』といふので、この長歌は憶良の歌としては第一等である。簡潔で、飽くまで實事を歌ひ、恐らく歌全體が憶良の正體と合致したものであらう。
 この反歌は、金銀珠寶も所詮、子の寶には及ばないといふので、長歌の實事を詠んだのに對し(232)て、この方は綜括的に詠んだ。そして憶良は佛典にも明るかつたから、自然にその影響がこの歌にも出たものであらう。『なにせむに』は、『何かせむ』の意である。憶良の語句の佛典から來たのは、『古日《ふるひ》を戀ふる歌』(卷五・九〇四)にも、『世の人の、貴み願ふ、七種の、寶も我は、なにせむに、我が間《なか》の、生れいでたる、白玉の、吾が子|古日《ふるひ》は』とあるのを見ても分かる。七寶は、金・銀・瑠璃・※[石+車]※[石+渠]・瑪瑙・珊瑚・琥珀または、金・銀・琉璃・頗梨・車渠・瑪瑙・金剛である。さういふ佛典の新しい語感を持つた言葉を以て、一首を爲立て、堅苦しい程に緊密な聲調を以て終始してゐるのに、此一首の佳い點があるだらう。けれども長歌に比してこの反歌の劣るのは、後代の今となつて見れば言語の輪廓として受取られる弱點が存じてゐるためである。併し、旅人の讚v酒歌にせよ、この歌にせよ、後代の歌人として、作歌を學ぶ吾等にとつて、大に有益をおぼえしめる性質のものである。
 
           ○
     常《つね》知《し》らぬ道《みち》の長路《ながて》をくれぐれと如何《いか》にか行《ゆ》かむ糧米《かりて》は無《な》しに 〔卷五・八八八〕 山上憶良
 
 肥後國|益城《ましき》郡に大伴君|熊凝《くまこり》といふ者がゐた。天平三年六月、相撲部領使某の從者として京へ上(233)る途中、安藝國佐伯郡|高庭《たかには》驛で病死した。行年十八であつた。そして、死なむとした時自ら歎息して此歌を作つたとして、山上憶良が此歌を作つた。この歌の詞書に次の如くに書いてある。『臨死《みまから》むとする時、長歎息して曰く、傳へ聞く假合の身滅び易く、泡沫の命|駐《とど》め難し。所以《ゆゑ》に千聖已に去り、百賢留らず、況して凡愚の微しき者、何ぞも能く逃避せむ。但《ただ》我が老いたる親並に菴室に在り。我を待つこと日を過さば、自ら心を傷むる恨あらむ。我を望みて時に違はば、必ず明《めい》を喪ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一身死に向ふ途を患へず、唯二親世に在《いま》す苦を悲しぶ。今日長く別れなば、何れの世にか觀《み》ることを得む。乃ち歌六首を作りて死《みまか》りぬ。其歌に曰く』といふのである。そして長歌一首短歌五首がある。併しこれは、前言のごとく、熊凝が自ら作つたのではなく、憶良が熊凝の心になつて、熊凝臨終のつもりになつて作つたのである。
 一首の意は、嘗て知らなかつた遙かな黄泉の道をば、おぼつかなくも心悲しく、糧米《かて》も持たずに、どうして私は行けば好いのだらうか、といふのである。『くれぐれと』は、『闇闇《くれくれ》と』で、心おぼろに、おぼつかなく、うら悲しく等の意である。この歌の前に、『欝《おぼほ》しく何方《いづち》向きてか』といふのがあるが、その『おぼほしく』に似てゐる。
 この歌は六首の中で一番優れて居り、想像で作つても、死して黄泉へ行く現身《げんしん》の姿のやうにし(234)て詠んでゐるのがまことに利いて居る。糧米も持たずに歩くと云つたのも、後代の吾等の心を強く打つものである。糧米をカリテと訓むは、靈異記下卷に糧【可里弖】とあるによつても明かで、乾飯直《カレヒテ》の義【攷證】だと云はれてゐる。一に云、『かれひはなしに』とあるのは、『餉《かれひ》は無《な》しに』で意味は同じい。カレヒは乾飯《カレイヒ》である。憶良の作つたこのあたりの歌の中で、私は此一首を好んでゐる。
 
           ○
     世間《よのなか》を憂《う》しと恥《やさ》しと思《おも》へども飛《と》び立《た》ちかねつ鳥《とり》にしあらねば 〔卷五・八九三〕 山上憶良
 
 山上憶良の『貧窮問答の歌一首并に短歌』【土屋氏云、憶良上京後、即ち天平三年秋冬以後の作であらう。】の短歌である。長歌の方は、二人貧者の問答の體で、一人が、『風|雜《まじ》り雨降る夜の、……如何にしつつか、汝《な》が世は渡る』といへば、一人が、『天地は廣しといへど、あが爲《ため》は狹《さ》くやなりぬる、……斯くばかり術《すべ》無きものか、世間《よのなか》の道』と答へるところで、萬葉集中特殊なもので、また憶良の作中のよいものである。
 この反歌一首の意は、かう吾々は貧乏で世間が辛《つら》いの恥《はづ》かしいのと云つたところで、所詮吾々は人間の赤裸々で、鳥ではないのだからして、何處ぞへ飛び去るわけにも行くまい、といふのである。『やさし』は、恥かしいといふことで、『玉島のこの川上に家はあれど君を恥《やさ》しみ顯《あらは》さずあ(235)りき』(卷五・八五四)にその例がある。この反歌も、長歌の方で、細かくいろいろと云つたから、概括的に締めくくつたのだが、やはり貧乏人の言葉にして、その語氣が出てゐるのでただの概念歌から脱却してゐる。論語に、邦有v道、貧且賤焉耻也とあり、魏文帝の詩に、願v飛安(ゾ)得(ン)v翼、欲v済《ワタラント》河無v梁《ハシ》とあるのも參考となり、憶良の長歌の句などには支那の出典を見出し得るのである。
 
           ○
     慰《なぐさ》むる心《こころ》はなしに雲隱《くもがく》り鳴《な》き往《ゆ》く鳥《とり》の哭《ね》のみし泣《な》かゆ 〔卷五・八九八〕 山上憶良
 
 山上憶良の、『老身重病經v年辛苦、及思2兒等1歌七首【長一首短六首】』の短歌である。長歌の方は、人間には老・病の苦しみがあり、長い病に苦しんで、一層死なうとおもふことがあるけれども、兒等のことを思へば、さうも行かずに歎息してゐるといふのである。
 この短歌は、さういふ風に老・病のために苦しんで、慰めん手段もなく、雲隱れに貌《すがた》も見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ獨りで忍び泣きしてばかりゐる、といふので、長歌の終に、『彼《か》に此《かく》に思ひわづらひ、哭《ね》のみし泣かゆ』と止めたのを、この短歌で繰返してゐる。
 このくらゐの技巧の歌は、萬葉には幾つもあるやうに思ふ程、取り立てて特色のあるものでな(236)いが、何か悲しい響があるやうで棄て難かつたのである。
 
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     術《すべ》もなく苦《くる》しくあれば出《い》で走《はし》り去《い》ななと思《も》へど兒等《こら》に障《さや》りぬ 〔卷五・八九九〕 山上憶良
 
 同じく短歌。もう手段も盡き、苦しくて爲方がないので、走り出して自殺でもしてしまはうと思ふが、兒等のために妨げられてそれも出來ない、といふので、此は長歌の方で、『年長く、病みし渡れば、月|累《かさ》ね、憂ひ吟《さまよ》ひ、ことごとは、死ななと思へど、五月蠅《さばへ》なす、騷ぐ兒等を、棄《うつ》てては、死は知らず、見つつあれば、心は燃えぬ』云々といふのが此短歌にも出てゐる。『障《さや》る』は、障礙のことで、『百日《ももか》しも行かぬ松浦路《まつらぢ》今日行きて明日は來なむを何か障《さや》れる』(卷五・八七〇)にも用例がある。
 この歌の好いのほ、ただ概括的にいはずに、具體的に云つてゐることで、かういふ場面になると、人麿にも無い人間の現實的な姿が現出して來るのである。『出ではしり去ななともへど』といふあたりの、朴實とでも謂ふやうな調べは、憶良の身に即き纏つたものとして尊重していいであらう。なほ此處に、『富人《とみびと》の家《いへ》の子等《こども》の著る身《み》無《な》み腐《くた》し棄つらむ絹綿らはも』(九〇〇)、『麁妙《あらたへ》の布(237)衣《ぬのぎぬ》をだに著せ難《がて》に斯くや歎かむ爲《せ》むすべを無み』(九〇一)といふ歌もあるが、これも具體的でおもしろい。そして、これだけの材料を扱ひこなす意力をも、後代の吾等は尊重すべきである。この歌の『絹綿』は原文『※[糸+包]綿』で、眞綿の意であらうが、當時筑紫の眞綿の珍重されたこと、また名産地であつたことは沙彌滿誓の歌のところで既に云つたとほりである。
 憶良は娑婆界の貧・老・病の事を好んで歌つて居り、どうしても憶良自身の體驗のやうであるが、筑前國司であつた憶良が實際斯くの如く赤貧困窮であつたか否か、自分には能く分からないが、自殺を強ひられるほどそんなに貧窮ではなかつたものと想像する。そして彼は彼の當時教へられた大陸の思想を、周邊の現實に引き移して、如上の數々の歌を詠出したものとも想像してゐる。
 
           ○
     稚《わか》ければ道行《みちゆ》き知《し》らじ幣《まひ》はせむ黄泉《したべ》の使《つかひ》負《お》ひて通《とほ》らせ 〔卷五・九〇五〕 山上憶良
 
 『男子《をのこ》名は古日《ふるひ》を戀ふる歌』の短歌である。左注に此歌の作者が不明だが、歌柄から見て憶良だらうと云つて居る。古日《ふるひ》といふ童子の死んだ時弔つた歌であらう。そして憶良を作者と假定して(238)も、古日といふ童子は憶良の子であるのか他人の子であるのかも分からない。恐らく他人の子であらう。【普通には、古日は憶良の子で、この時憶良は七十歳ぐらゐの老翁だと解せられてゐる。なほ土屋氏は、古日はコヒと讀むのかも知れないと云つて居る。】
 一首の意は、死んで行くこの子は、未だ幼《をさな》い童子で、冥土の道はよく分かつてゐない。冥土の番人よ、よい贈物をするから、どうぞこの子を背負つて通してやつて呉れよ、といふのである。『幣《まひ》』は、『天にます月讀壯子《つくよみをとこ》幣《まひ》はせむ今夜《こよひ》の長さ五百夜《いほよ》繼ぎこそ』(卷六・九八五)、『たまぼこの道の神たち幣《まひ》はせむあが念ふ君をなつかしみせよ』(卷十七・四〇〇九)等にもある如く、神に奉る物も、人に贈る物も、惡い意味の貨賂をも皆マヒと云つた。
 この一首は、童子の死を悲しむ歌だが、内容が複雜で、人麿の歌の内容の簡單なものなどとは餘程その趣が違つてゐる。然かも黄泉の道行をば、恰も現實にでもあるかの如くに生々《なまなま》しく表現して居るところに、憶良の歌の強味がある。歌調がぼきりぼきりとして流動的波動的に行かないのは、一面はさういふ素材如何にも因るのであつて、かういふ素材になれば、かういふ歌調をおのづから要求するものともいふことが出來る。
 
           ○
     布施《ふせ》置《お》きて吾《われ》は乞《こ》ひ祷《の》む欺《あざむ》かず直《ただ》に率行《ゐゆ》きて天路《あまぢ》(239)知《し》らしめ 〔卷五・九〇六〕 山上憶良
 
 これも同じ歌で、『布施』は佛教語で、捧げ物の事だから、前の歌の、『幣』と同じ事に落著く。この歌も、童子の死にゆくさまを歌つてゐるが、この方は黄泉でなく、天路のことを云つてゐる。共に死者の往く道であるが、この方は稍日本的に云つてゐる。初句原文『布施於吉弖』は舊訓フシオキテであるが、略解で、『布施はぬさと訓べし。又たゞちにふせとも訓べき也。ここに乞のむといへるは、佛に乞にて、神に祷るとは事異なれば、幣《ヌサ》とはいはで、布施と言へる也。施を※[糸+施の旁]の誤として、ふしおき(臥起)てとよめるはひがこと也』と云つた。いかにもその通りで、『伏し起きて』では意味を成さない。この歌もこれだけの複雜なことを云つてゐて、相當の情調をしみ出でさせるのは、先ず珍とせねばなるまい。
 
(240)卷第六
 
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     山《やま》高《たか》み白木綿花《しらゆふはな》に落《お》ちたぎつ瀧《たぎ》の河内《かふち》は見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔卷六・九〇九〕 笠金村
 
 元正天皇、養老七年夏五月芳野離宮に行幸あつた時、從駕の笠金村が作つた長歌の反歌である。『白木綿』は栲《たへ》、穀《かぢ》(穀桑楮)の皮から作つた白布、その白木綿《しらゆふ》の如くに水の流れ落つる状態である。『河内《かふち》』は、河から繞らされてゐる土地をいふ。既に人麿の歌に、『たぎつ河内《かふち》に船出《ふなで》するかも』(卷一・三九)がある。また、『見れど飽かぬかも』といふ結句も、人麿の、『珠水激《いはばし》る瀧の宮處《みやこ》は、見れど飽かぬかも』(卷一・三六)のほか、萬葉には可なりある。
 この一首は、從駕の作であるから、謹んで作つてゐるので、その歌調もおのづから華朗で莊重である。けれどもそれだけ類型的、圖案的で、特に人麿の歌句の模倣なども目立つのである。併(241)し、この朗々とした莊重な歌調は、人麿あたりから脈を引いて、一つの傳統的なものであり、萬葉調といへば、直ちに此種のものを聯想し得る程であるから、後代の吾等は時を以て顧るべき性質のものである。卷九(一七三六)に、『山高み白木綿花《しらゆふはな》に落ちたぎつ夏實《なつみ》の河門《かはと》見れど飽かぬかも』といふのがあるのは、恐らく此歌の模倣であらうから、さうすれば金村のこの形式的な一首も、時に人の注意を牽いたに相違ない。
 
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     奥《おき》つ島《しま》荒磯《ありそ》の玉藻《たまも》潮干《しほひ》滿《み》ちい隱《かく》れゆかば思《おも》ほえむかも 〔卷六・九一八〕 山部赤人
 
 聖武天皇、神龜元年冬十月紀伊國に行幸せられた時、從駕の山部赤人の歌つた長歌の反歌である。『沖つ島』は沖にある島の意で、此處は玉津島《たまつしま》のことである。 一首の意は、沖の島の荒磯に生えてゐる玉藻刈もしたが、今に潮が滿ちて來て荒磯が隱れてしまふなら、心殘りがして、玉藻を戀しくおもふだらう、といふのである。長歌の方で、『潮干れば、玉藻苅りつつ、神代より、然ぞ尊き、玉津島山』とあるのを受けてゐる。
 第四句、板本、『伊隱去者』であるから、『い隱《かく》れゆかば』或は『い隱《かく》ろひなば』と訓んだが、(242)元暦校本・金澤本・神田本等に『※[人偏+弖]隱去者』となつてゐるから、『※[人偏+弖]』を上につけて『潮干みちて〔三字右○〕隱《かく》ろひゆかば』とも訓んでゐる。これは二つの訓とも尊重して味ふことが出來る。
 この歌は、中心は、『潮干滿ちい隱れゆかば思ほえむかも』にあり、赤人的に清淡の調であるが、なかに情感が漂つてゐて佳い歌である。海の玉藻に對する係戀とも云ふべきもので、『思ほえむかも』は、多くは戀人とか舊都などに對して用ゐる言葉であるが、この歌では『玉藻』に云つてゐる。もつとも集中には、例へば、『飼飯《けひ》の浦に寄する白浪しくしくに妹が容儀《すがた》はおもほゆるかも』(卷十二・三二〇〇)、『飫宇海《おうのうみ》の河原の千鳥汝が鳴けばわが佐保河《さほかは》のおもほゆらくに』(卷三・三七一)の如きがあつて、共通して使はれてゐる。行幸に供奉し、赤人は歌人としての意識を以てこの歌を作つたのだらうが、必ずしも『宮廷歌人』などといふ意圖が目立たずに、自由に個人としての好みを吐露してゐるやうである。一般が自由でこだはりのなかつた聖世を反映してゐると謂つていい。また、『宮廷歌人』などと云つても、現代の人々の持つてゐる『宮廷歌人』の西洋まがひの概念と違つた氣持で供奉したことをも知らねばならぬのである。
 
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     若《わか》の浦《うら》に潮《しほ》滿《み》ち來《く》れば潟《かた》を無《な》み葦邊《あしべ》をさして鶴《たづ》鳴《な》(243)き渡《わた》る 〔卷六・九一九〕 山部赤人
 
 赤人の歌續き。『若の浦』は今は和歌の浦と書くが、弱濱《わかはま》とも書いた(續紀)。また聖武天皇のこの行幸の時、明光の浦と命名せられた記事がある。『潟』は干潟《ひがた》の意である。
 一首の意は、若の浦にだんだん潮が滿ちて來て、干潟が無くなるから、干潟に集まつてゐた澤山の鶴が、葦の生えて居る陸の方に飛んで行く、といふのである。
 やはり此歌も清潔な感じのする赤人一流のもので、『葦べをさして鶴鳴きわたる』は寫象鮮明で旨いものである。また聲調も流動的で、作者の氣乘してゐることも想像するに難くはない。『潟をなみ』は、赤人の要求であつただらうが、微かな『理』が潛んでゐて、もつと古いところの歌ならかうは云はない。例へば、既出の高市黒人作、『櫻田へ鶴鳴きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴鳴きわたる』(卷三・二七一)の如きである。つまり『潟をなみ』の第三句が弱いのである。これはもはや時代的の差違であらう。この歌は、古來有名で、敍景歌の極地とも云はれ、遂には男波・女波・片男波の聯想にまで拡大して通俗化せられたが、さういふ俗説を洗い去つて見て、依然として後にのこる歌である。萬葉集を通讀して來て、注意すべき歌に標をつけるとしたら、從來の評判などを全く知らずにゐるとしても、標のつかる性質のものである。一般にいつてもさういふ(244)いいところが赤人の歌に存じてゐるのである。ただこの歌に先行したのに、黒人の歌があるから黒人の影響乃至模倣といふことを否定するわけには行かない。
 卷十五に、『鶴が鳴き葦邊をさして飛び渡るあなたづたづし獨さ寢《ぬ》れば』(三六二六)、『沖邊より潮滿ち來らし韓の浦に求食《あさ》りする鶴鳴きて騷ぎぬ』(三六四二)等の歌があり、共に赤人の此歌の模倣であるから、その頃から此歌は尊敬せられてゐたのであらう。
 なほ、『難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴《たづ》わたる見ゆ』(卷七・一一六○)、『圓方《まとかた》の湊の渚鳥《すどり》浪立てや妻呼び立てて邊《へ》に近づくも』(一一六二)、『夕なぎにあさりする鶴《たづ》潮滿てば沖浪《おきなみ》高み己妻《おのづま》喚《よ》ばふ』(一一六五)といふのもあり、赤人の此歌と共に置いて味つてよい歌である。特に、『妻呼びたてて邊に近づくも』、『沖浪高み己妻|喚《よ》ばふ』の句は、なかなか佳いものだから看過しない方がよいとおもふ。
 
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     み芳野《よしぬ》の象山《きさやま》の際《ま》の木末《こぬれ》には幾許《ここだ》も騷《さわ》ぐ鳥《とり》のこゑかも 〔卷六・九二四〕 山部赤人
 
 聖武天皇神龜二年夏五月、芳野離宮に行幸の時、山部赤人の作つたものである。『象山《きさやま》』は芳野(245)離宮の近くにある山で、『際《ま》』は『間《ま》』で、間《あひだ》とか中《なか》とかいふ意味になる。『奈良の山の、山の際《ま》に、い隱るまで』(卷一・一七)といふ額田王の歌の『山の際』も、奈良山の連なつて居る間にといふ意。此處では、象山の中に立ち繁つてゐる樹木といふのに落著く。
 一首の意は、芳野の象山の木立の繁みには、實に澤山の鳥が鳴いて居る、といふので、中味は單純であるが、それだけ此處に出てゐる中味が磨をかけられて光彩を放つに至つてゐる。この歌も前の歌の如く下半に中心が置かれ、『ここだも騷ぐ鳥の聲かも』に作歌衝迫もおのづから集注せられてゐる。この光景に相對《あひたい》したと假定して見ても、『ここだも騷ぐ鳥の聲かも』とだけに云ひ切れないから、此歌はやはり優れた歌で、亡友島木赤彦も力説した如く、赤人傑作の一つであらう。『幾許《ここだ》』といふ副詞も注意すべきもので、集中、『神柄か幾許《ここだ》尊き』(卷二・二二〇)『妹が家《へ》に雪かも降ると見るまでに幾許《ここだ》もまがふ梅の花かも』(卷五・八四四)、『誰が苑《その》の梅の花かも久方の清き月夜《つくよ》に幾許《ここだ》散り來る』(卷十・二三二五)等の例がある。この赤人の『幾許も騷ぐ』は、主に群鳥の聲であるが、鳥の姿も見えてゐてかまはぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却つていいかも知れない。また、結句の『かも』であるが、名詞から續く『かも』を据ゑるのはむづかしいのだけれども、この歌では、『ここだも騷ぐ』に續けたから聲調が完備した。さういふ點でも赤人の大きい歌人であることが分かる。
 
(246)           ○
     ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさき》生《お》ふる清《きよ》き河原《かはら》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く 〔卷六・九二五〕 山部赤人
 
 赤人作で前歌と同時の作である。『久木』は即ち歴木、楸樹で赤目柏《あかめがしは》である。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹《ひさぎ》の立ちしげつてゐる、景色よい芳野川の川原に、干鳥が頻りに鳴いて居る、といふのである。
 この歌は夜景で、千鳥の鳴聲がその中心をなしてゐるが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなつて居る。『久木生ふる清き河原』の句も、現にその光景を見てゐるのでなくともよく、寫象として浮んだものであらう。或は月明の川原とも解し得る、それは『清き』の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの『清き』は川原一帶の佳景といふ意味にとる方がいいやうである。併しこの歌は、さういふ詮議を必要としない程統一せられてゐて、讀者は左程解釋上思ひ惱むことが無くて済んでゐるのは、視覺も聽覺も融合した、一つの感じで無理なく綜合せられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の聲だけでは物足りないのかも知れない。『久木生ふる清き河原』といふ、視覺上の要素が(247)却つて必要なのかも知れない。その邊の解明が能く私に出來ないけれども、全體として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、『見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまたかへり見む』(卷一・三七)とも比較が出來るし、また、笠金村とも同行したのだから、金村の、『萬代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ』(九二一)、『皆人の壽《いのち》も吾《われ》もみ吉野の瀧の床磐《とこは》の常ならぬかも』(九二二)の二首とも比較することが出來る。比較して見ると、赤人の歌の方が具體的で、落著いて寫生してゐる。なほ、聲調のうち、第三句の『久木生ふる』といふ伸びた句と、結句の『しば鳴く』と端的に止めたのを注意していいだらう。
 
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     島隱《しまがく》り吾《わ》が榜《こ》ぎ來《く》れば羨《とも》しかも大和《やまと》へのぼる眞熊野《まくまぬ》の船《ふね》 〔卷六・九四四〕 山部赤人
 
 山部赤人が、辛荷《からに》島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨國室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乘つて榜いで來ると、羨《うらやま》しいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、といふので、旅にゐて家郷の大和をおもふのは、今から見ればただの常套手段のやうに見えるが、當時の人には、さういふ常套語が、既に一種の感動を伴つて聞こえて來たものと見え(248)る。『眞熊野の舟』は、熊野舟で、熊野の海で多く乘つたものであらう。攷證に、『紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船・伊豆手船・足柄小船などいふあるも、みなこの類とすべし』とあり、『浦囘《うらみ》榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし』(卷十二・三一七二)の例がある。『羨しかも』は、『羨しきかも』と同じだが當時は終止言からも直ぐ續けた。結句は、『眞熊野の船』といふ名詞止めで、『棚無し小船』などの止めと同じだが、『の』が入つてゐるので、それだけの落著《おちつき》がある。第三句の、『羨しかも』は小休止があるので、前の歌の『潟を無み』などと同樣、幾らか此處で弛むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、※[羈の馬が奇]旅の寂しい情を籠めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、『玉藻苅る辛荷の島に島囘《しまみ》する鵜にしもあれや家|思《も》はざらむ』(九四三)といふのがある。これは若し鵜ででもあつたら、家の事をおもはずに済むだらう、といふので『羨しかも』といふ氣持と相通じてゐる。鵜を捉へて詠んでゐるのは寫生でおもしろい。
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     風《かぜ》吹《ふ》けば浪《なみ》か立《た》たむと伺候《さもらひ》に都多《つた》の細江《ほそえ》に浦隱《うらがく》り(249)居《を》り 〔卷六・九四五〕 山部赤人
 
 赤人作で前歌の續である。『都多《つた》の細江』は姫路から西南、現在の津田・細江あたりで、船場川《せんばがは》の川口になつてゐる。當時はなるべく陸近く舟行し、少し風が荒いと船を泊めたので、かういふ歌がある。一首の意は、この風で浪が荒く立つだらうと、心配して樣子を見ながら、都多《つた》の川口のところに船を寄せて隱れてをる、といふのである。第三句、原文『伺候爾』は、舊訓マツホドニ。代匠記サモラフニ。古義サモラヒニ。この『さもらふ』は、『東の瀧の御門にさもらへど〔五字右○〕』(卷二・一八四)の如く、伺候する意が本だが、轉じて樣子を伺ふこととなつた。『大御舟《おほみふね》泊ててさもらふ〔四字右○〕高島の三尾《みを》の勝野《かちぬ》の渚し思ほゆ』(卷七・二七一)、『朝なぎに舳《へ》向け榜がむとさもらふと〔五字右○〕』(卷二十・四三九八)等の例がある。
 この歌も、※[羈の馬が奇]旅の苦しみを念頭に置いてゐるやうだが、さういふ響はなくて、寧ろ清淡とも謂ふべき情調がにじみ出でてゐる。ことに結句の、『浦隱り居り』などは、なかなか落著いた句である。そして讀過のすゑに眼前に光景の鮮かに浮んで來る特徴は赤人一流のもので、古來赤人を以て敍景歌人の最大なものと稱したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を廣義抒情詩と見立てるから、敍景・抒情をば截然と區別しないが、總じて赤人のものには、激越性が無く、靜かに落(250)著いて、物を觀てゐる點を、後代の吾等は學んでゐるのである。
 
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     ますらをと思《おも》へる吾《われ》や水莖《みづくき》の水城《みづき》のうへに涕《なみだ》拭《のご》はむ 〔卷六・九六八〕 大伴旅人
 
 大伴旅人が大納言に兼任して、京に上る時、多勢の見送人の中に兒島《こじま》といふ遊行女婦《うかれめ》が居た。旅人が馬を水城《みづき》【貯水池の大きな堤】に駐めて、皆と別を惜しんだ時に、兒島は、『凡《おほ》ならば左《か》も右《か》も爲《せ》むを恐《かしこ》みと振りたき袖を忍《しぬ》びてあるかも』(卷六・九六五)、『大和道《やまとぢ》は雲隱《くもがく》りたり然れども我が振る袖を無禮《なめし》と思ふな』(同・九六六)といふ歌を贈つた。それに旅人の和へた二首中の一首である。
 一首の意は、大丈夫だと自任してゐたこの俺も、お前との別離が悲しく、此處の水莖の【枕詞】水城《みづき》のうへに、涙を落すのだ、といふのである。
 兒島の歌も、輕佻でないが、旅人の歌もしんみりしてゐて、決して輕佻なものではない。『涙のごはむ』の一句、今の常識から行けば、諧謔を交へた誇張と取るかも知れないが、實際はさうでないのかも知れない、少くとも調べの上では戲れではない。『大丈夫とおもへる吾や』はその頃の常套語で輕いといへば輕いものである。當時の人々は遊行女婦といふものを輕蔑せず、眞面目に(251)その作歌を受取り、萬葉集はそれを大家と共に並べ載せてゐるのは、まことに心にくいばかりの態度である。
 『眞袖もち、涙を拭《のご》ひ、咽《むせ》びつつ、言問すれば』(卷二十・四三九八)のほか、『庭たづみ流るる涙とめぞかねつる』(卷二・一七八)、『白雲に涙は盡きぬ』(卷八・一五二〇)等の例がある。
 
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     千萬《ちよろづ》の軍《いくさ》なりとも言擧《ことあげ》せず取《と》りて來《き》ぬべき男《をのこ》とぞ念《おも》ふ 〔卷六・九七二〕 高橋蟲麿
 
 天平四年八月、藤原|字合《うまかひ》【不比等の子】が西海道節度使【兵馬の政を掌る】になつて赴任する時、高橋蟲麿の詠んだものである。『言擧せず』は、『神ながら言擧せぬ國』(卷十三・三二五三)、『言擧せず妹に依り寢む』(卷十二・二九一八)等の例にもある如く、彼此と言葉に出していはないことである。
 一首の意は、縱ひ千萬の軍勢なりとも、彼此と言葉に云はずに、前觸などせずに、直ちに討取つて來る武將だとおもふ、君は、といふので、威勢をつけて行を盛にしたものである。蟲麿の此處の長歌も技法に屈折のあるものだが、蟲麿歌集の長歌にもなかなか佳作があつて、作者の力量をおもはしめるが、この短歌一首も、調べを強く緊めて、武將を送るにふさわしい聲調を出して(252)ゐる。彼此いつても、この萬葉調がもはや吾等には出來ない。
 
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     丈夫《ますらを》の行くとふ道ぞ凡《おほ》ろかに念《おも》ひて行《ゆ》くな丈夫《ますらを》の伴《とも》 〔卷六・九七四〕 聖武天皇
 
 聖武天皇御製。天平四年八月、節度使の制を東海・東山・山陰・西海の四道に布いた。聖武天皇が其等の節度使等が任に赴く時に、酒を賜はり、この御製を作りたまうた。その長歌の反歌である。
 一首は、今出で立つ汝等節度使の任は、まさに大丈夫の行くべき行旅である。ゆめおろそかに思ふな、大丈夫の汝等よ、と宣ふので、功をおさめて早く歸れといふ大御心が含まれてゐる。『行くとふ』の『とふ』は『といふ』で、天地のことわりとして人のいふ意である。『おほろかに』は、おほよそに、輕々しく、平凡にぐらゐの意で、『百種《ももくさ》の言《こと》ぞ隱《こも》れるおほろかにすな』(卷八・一四五六)、『おほろかに吾し思はば斯くばかり難き御門《みかど》を退《まか》り出《で》めやも』(卷十一・二五六八)等の例がある。御製は、調べ大きく高く、御慈愛に滿ちて、闊達至極のものと拜誦し奉る。『大君の邊にこそ死なめ』の語のおのづからにして口を漏るるは、國民の自然のこゑだといふことを念はねばなら(253)ぬ。短歌はかくの如くであるが、長歌は、『食國《おすくに》の、遠《とほ》の御朝廷《みかど》に、汝等《いましら》が、斯く罷《まか》りなば、平らけく、吾は遊ばむ、手抱《たうだ》きて、我は御在《いま》さむ、天皇《すめら》朕《わ》が、うづの御手《みて》もち、掻撫《かきな》でぞ、勞《ね》ぎたまふ、うち撫でぞ、勞《ね》ぎたまふ、還り來む日、相飲《あひの》まむ酒《き》ぞ、この豐御酒《とよみき》は』といふのであり、『平らけく吾は遊ばむ、手抱きて我はいまさむ〔十九字右○〕』とは、慈愛遍照する現神のみ聲である。
 
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     士《をのこ》やも空《むな》しかるべき萬代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして 〔卷六・九七八〕 山上憶良
 
 山上憶良の痾《やまひ》に沈《しづ》める時の歌一首で、卷五の、沈痾自哀文と思2子等1歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作つたものであらう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣|八束《やつか》【藤原眞楯】が、河邊朝臣|東人《あづまびと》を使として病を問はしめた、その時の作だとある。
 一首の意は、大丈夫たるものは、萬代の後まで語り傳へられるやうな功名もせず、空しく此世を終るべきであらうか、といふので、名も遂げずに此儘死するのは殘念だといふ意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即いてゐて切實なものであつたに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々してゐないし、また憶良の歌にしては連續流動的(254)聲調を持つてゐるが、ただ後代の吾等にとつては稍大づかみに響くといふだけである。結句原文、『名者不立之而』は舊訓ナハ・タタズシテであつたのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。舊訓の方が古調のやうである。
 卷十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載つてゐる。長歌の方に、『あしひきの、八峯《やつを》踏み越え、さしまくる、情《こころ》障《さや》らず、後代《のちのよ》の語りつぐべく、名を立つべしも』(四一六四)とあり、短歌の方に、『丈夫《ますらを》は名をし立つべし後の代に聞き繼ぐ人も語りつぐがね』(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬してゐたことが分かる。
 
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     振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見《み》れば一目《ひとめ》見《み》し人《ひと》の眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔卷六・九九四〕 大伴家持
 
 大伴家持の作つた、初月《みかづき》の歌である。大伴家持の年代の明かな歌中、最も早期のもので、家持十六歳ぐらゐの時だらうといはれてゐる。『眉引《まよびき》』は眉墨を以て眉を畫くことで、藥師寺所藏の吉祥天女、或は正倉院御藏の樹下美人などの眉の如き最も具體的な例である。書紀仲哀卷に、譬如2美女之※[目+碌の旁]1、有2向津國1。※[目+碌の旁]、此云2麻用弭枳《マヨビキ》1。古事記中卷、應神天皇御製歌に、麻用賀岐許邇加岐(255)多禮《マヨカキコニカキタレ》、和名鈔容飾具に、黛、和名|萬由須美《マユスミ》。集中の例は、『おもはぬに到らば妹が嬉しみと笑まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも』(卷十一・二五四六)、『我妹子が笑まひ眉引《まよびき》面影にかかりてもとな思ほゆるかも』(卷十二・二九〇〇)等がある。
 一首の意は、三日月を仰ぎ見ると、ただ一目見た美人の眉引のやうである、といふので、少年向きの美しい歌である。併し家持は少年にして斯く流暢な歌調を實行し得たのであるから、歌が好きで、先輩の作や古歌の數々を勉強してゐたものであらう。この歌で、『一目見し』に家持は興味を持つてゐる如くであるが、『一目見し人に戀ふらく天霧《あまぎ》らし零《ふ》り來る雪の消ぬべく念ほゆ』(卷十・二三四〇)、『花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し兒ゆゑ千たび歎きつ』(卷十一・二五六五)等の例が若干ある。家持の歌は、斯く美しく、覺官的でもあるが、彼の歌には、なほ、『なでしこが花見る毎に處女らが笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも』(卷十八・四一一四)、『秋風に靡く川びの柔草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも』(卷二十・四三〇九)の如き歌をも作つてゐる。『笑《ゑま》ひのにほひ』は青年の體に即いた語でなかなか旨いところがある。併し此等の歌を以て、萬葉最上級の歌と伍せしめるのはいかがとも思ふが、萬葉鑑賞にはかういふ歌をもまた通過せねばならぬのである。
 
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(256)     御民《みたみ》われ生《い》ける驗《しるし》あり天地《あめつち》の榮《さか》ゆる時《とき》に遇《あ》へらく念《おも》へば 〔卷六・九九六〕 海犬養岡麿
 
 天平六年、海犬養岡麿《あまのいぬかひをかまろ》が詔に應へまつつた歌である。一首の意は、天皇の御民である私等は、この天地と共に榮ゆる盛大の御世に遭遇して、何といふ生き甲斐のあることであらう、といふのである。『驗《しるし》』は効驗、結果、甲斐等の意味に落著く。『天ざかる鄙の奴に天人《あめびと》し斯く戀すらば生ける驗《しるし》あり』(卷十八・四〇八二)といふ家持の用例もある。一首は應詔歌であるから、謹んで歌ひ、莊嚴の氣を漲らしめてゐる。そして斯く思想的大觀的に歌ふのは、此時代の歌には時々見當るのであつて、その思想を統一して一首の聲調を完うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあつた。それが萬葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなつてしまつて、弱々しい歌のみを辛うじて作るに止る状態となつた。此の歌などは、萬葉としては後期に屬するのだが、聖武の盛世にあつて、歌人等も競ひ勉めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至つた。
 
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(257)     兒等《こら》しあらば二人《ふたり》聞《き》かむを沖《おき》つ渚《す》に鳴《な》くなる鶴《たづ》の曉《あかとき》の聲《こゑ》 〔卷六・一〇〇〇〕 守部王
 
 聖武天皇天平六年春三月、難波宮に行幸あつた時、諸人が歌を作つた。此一首は守部王《もりべのおほきみ》【舍人親王の御子】の歌である。一首は、若し奈良に殘して來た嬬《つま》も一しよなら、二人で聞くものを、沖の渚に鳴いて居る鶴の曉のこゑよ、何とも云へぬ佳い聲よ、といふ程の歌である。なぜ私は此一首を選んだかといふに、特に集中で秀歌といふのでなく、結句が『鳴くなる鶴《たづ》の曉《あかとき》のこゑ』の如く名詞止めであるのみならず、後世新古今時代に發達した、名詞止めの歌調が此歌に既にあつて、新古今調と違つた、重厚なゆらぎを有つてゐるのに目を留めたゆゑであつた。なほ、卷十九(四一四三)に、『もののふの八十《やそ》をとめ等が※[手偏+邑]《く》みまがふ寺井《てらゐ》のうへの堅香子《かたかご》の花』、卷十九(四一九三)に、『ほととぎす鳴く羽觸《はぶり》にも散りにけり盛過ぐらし藤浪の花』といふ歌の結句も、上代の古調歌には無い名詞止めの歌である。
 
 
(258)卷第七
 
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     春日山《かすがやま》おして照《て》らせるこの月《つき》は妹《いも》が庭《には》にも清《さや》けかりけり 〔卷七・一〇七四〕 作者不詳
 
 作者不詳、雜歌、詠v月である。一首の意は、春日山一帶を照らして居る今夜の月は、妹《いも》の庭にもまた清《きよ》く照つて居る、といふのである。作者は現在|通《かよ》つて來た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通《かよ》つて來る道すがら見た)を云つてゐるのである。ただ妹の家は春日山の見える處にあつたことは想像し得る。伸々とした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謠風のものだが、一定の個人を想像しても相當に味はれるものである。やはり、『妹が庭にも清けかりけり』といふ句が具體的で生きてゐるからであらう。
 『この月』は、現に照つてゐる今夜の月といふ意味で、此卷に、『常は嘗て念はぬものをこの月〔三字右○〕の(259)過ぎ隱れまく惜しき宵かも』(一〇六九)、『この月〔三字右○〕の此處に來れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ』(一〇七八)があり、卷三に、『世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月〔五字右○〕は滿ち闕けしける』(四四二)がある。『おして照らせる』の表現も萬葉調の佳いところで、『我が屋戸《やど》に月おし照れり〔六字字右○〕ほととぎす心あらば今夜《こよひ》來鳴き響《とよ》もせ』(卷八・一四八〇)『窓越しに月おし照りて〔六字右○〕あしひきの嵐吹く夜は君をしぞ思ふ』(卷十一・二六七九)等の例がある。此歌で、『この月は』と、『妹が庭にも』との關係に疑ふ人があつたため、古義のやうに、『妹が庭にも清《さや》けかるらし』の意だらうといふやうに解釋する説も出でたが、これは作者の位置を考へなかつた錯誤である。
           ○
     海原《うなばら》の道《みち》遠《とほ》みかも月讀《つくよみ》の明《あかり》すくなき夜《よ》はふけにつつ 〔卷七・一〇七五〕 作者不詳
 
 作者不詳、海岸にゐて、夜更にのぼつた月を見ると、光が清明でなく幾らか霞んでゐるやうに見える。それをば、海上遙かなために、月も能く光らないと云ふやうに、作者が感じたから、斯ういふ表現を取つたものであらう。卷三(二九○)に、『倉橋の山を高みか夜《よ》ごもりに出で來る月の光ともしき』とあるのも全體が似て居るが、この卷七の歌の方が、何となく稚く素朴に出來て(260)ゐる。それだけ常識的でなく、却つて深みを添へてゐるのだが、常識的には理窟に合はぬところがあると見えて、解釋上の異見もあつたのである。
 
           ○
     痛足河《あなしがは》河浪《かはなみ》立《た》ちぬ卷目《まきむく》の由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に雲居《くもゐ》立《た》てるらし 〔卷七・一〇八七〕 柿本人麿歌集
 
 柿本人麿歌集にある歌で、詠雲の中に収められてゐる。痛足河《あなしがは》は、大和磯城郡|纏向《まきむく》村にあり、纏向山(卷向山)と三輪山との間に源を發し、西流してゐる川で今は卷向川と云つてゐるが、當時は痛足《あなし》川とも云つただらう。近くに穴師《あなし》(痛足)の里がある。由槻《ゆつき》が嶽は卷向山の高い一峰だといふのが大體間違ない。一首の意は、痛足河に河浪が強く立つてゐる。恐らく卷向山の一峰である由槻が嶽に、雲が立ち雨も降つてゐると見える、といふので、既に由槻が嶽に雲霧の去來してゐるのが見える趣である。強く荒々しい歌調が、自然の動運をさながらに象徴すると看ていい。第二句に、『立ちぬ』、結句に『立てるらし』と云つても、別に耳障りしないのみならず、一首に三つも固有名詞を入れてゐる點なども、大胆なわざだが、作者はただ心の儘にそれを實行して毫もこだはることがない。そしてこの單純な内容をば、莊重な響を以て統一してゐる點は實に驚く(261)べきで、恐らくこの一首は人麿自身の作だらうと推測することが出來る。結句、原文『雲居立有良志』だから、クモヰタテルラシと訓んだが、『有』の無い古鈔本もあり、從つてクモヰタツラシとも訓まれてゐる。この訓もなかなか好いから、認容して鑑賞してかまはない。
 
           ○
     あしひきの山河《やまがは》の瀬《せ》の響《な》るなべに弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に雲《くも》立《た》ち渡《わた》る 〔卷・一〇八八〕 柿本人麿歌集
 
 同じく柿本人麿歌集にある。一首の意は、近くの痛足川に水嵩が増して瀬の音が高く聞こえてゐる。すると、向うの卷向の由槻が嶽に雲が湧いて盛に動いてゐる、といふので、二つの天然現象を『なべに』で結んでゐる。『なべに』は、と共に、に連《つ》れて、などの意で、『雁がねの聲聞くなべに〔三字右○〕明日《あす》よりは春日《かすが》の山はもみぢ始めなむ』(卷十・二一九五)、『もみぢ葉を散らす時雨の零《ふ》るなべに〔三字右○〕夜《よ》さへぞ寒き一人し寐《ぬ》れば』(卷十・二二三七)等の例がある。
 この歌もなかなか大きな歌だが、天然現象が、さういふ荒々しい強い相として現出してゐるのを、その儘さながらに表現したのが、寫生の極致ともいふべき優れた歌を成就したのである。なほ、技術上から分析すると、上の句で、『の』音を續けて、連續的・流動的に云ひくだして來て、(262)下の句で『ユツキガタケニ』と屈折せしめ、結句を四三調で止めて居る。ことに『ワタル』といふ音で止めて居るが、さういふところにいろいろ留意しつつ味ふと、作歌稽古上にも有益を覺えるのである。次に、此歌は河の瀬の鳴る音と、山に雲の動いてゐる現象とを詠んだものだが、或は風もあり雨も降つてゐたかも知れぬ。併し其風雨の事は字面には無いから、これは奥に隱して置いて味ふ方が好いやうである。さういふ事をいろいろ詮議すると却つて一首の氣勢を損ずることがあるし、この歌の季についても亦同樣であつて、夏なら夏と極めてしまはぬ方が好いやうである。この歌も人麿歌集出だが恐らく人麿自身の作であらう。卷九(一七〇〇)に、『秋風に山吹の瀬の響《とよ》むなべ天雲《あまぐも》翔《かけ》る雁に逢へるかも』とあつて、やはり人麿歌集にある歌だから、これも人麿自身の作で、上の句の同一手法もそのためだと解釋することが出來る。
 
           ○
     大海《おほうみ》に島《しま》もあらなくに海原《うなばら》のたゆたふ浪《なみ》に立《た》てる白雲《しらくも》 〔卷七・一〇八九〕 作者不詳
 
 作者不明だが、『伊勢に駕に從へる作』といふ左注がある。代匠記に、『持統天皇朱鳥六年ノ御供ナリ』と云つたが、或はさうかも知れない。一首の意は、大海《だいかい》のうへには島一つ見えない、そ(263)して漂動してゐる波には、白雲が立つてゐる、といふので、『たゆたふ』は、進行せずに一處に猶豫してゐる氣持だから、海上の波を形容するには適當であり、第一その音調が無類に適當してゐる。それから、『あらなくに』は、『無いのに』といふ意で、其處に感慨をこもらせてゐるのだが、さう口譯すると、理に墮ちて邪魔するところがあるから、今の口語ならば、『島も見えず』、『島も無くして』ぐらゐでいいとおもふ。つまり、島一つ無いといふのが珍らしく、其處に感動が籠つてゐるので、『なくに』が、『立てる白雲』に直接續くのではない。若し關聯せしめるとせば、普段大和で山嶽にばかり雲の立つのを見てゐたのだから、海上のこの異樣の光景に接して、その儘、『大海に島もあらなくに』と云つたと解することも出來る。調子に流動的に大きいところがあつて、藤原朝の人麿の歌などに感ずると同じやうな感じを覺える。ウナバラノ・タユタフ・ナミニあたりに、明かにその特色が見えてゐる。普通從駕の人でなほこの調をなす人がゐたといふのは、まことに尊敬すべきことである。
 『見まく欲り吾がする君もあらなくに奈何《なにし》か來けむ馬疲るるに』(卷二・一六四)、『磯の上に生ふる馬醉木を手折らめど見すべき君がありといはなくに』(一六六)、『かくしてやなほや老いなむみ雪ふる大あらき野の小竹《しぬ》にあらなくに』(卷七・一三四九)等、例が多い。皆、この『あらなくに』のところに感慨がこもつてゐる
 
(264)            ○
     御室齋《みもろつ》く三輪山《みわやま》見《み》れば隱口《こもりく》の初瀬《はつせ》の檜原《ひはら》おもほゆるかも 〔卷七・一〇九五〕 作者不詳
 
 山を詠んだ、作者不詳の歌である。『御室齋《みもろつ》く』は、御室《みむろ》に齋《いつ》くの意で、神を祀つてあることであり、三輪山の枕詞となつた。『隱口《こもりく》』は、隱《こも》り國《くに》の意で、初瀬の地勢をあらはしたものだが、初瀬の枕詞となつた。一首の意は、神を齋《いつ》き祀《まつ》つてある奥深い三輪山の檜原を見ると、谿谷ふかく同じく繁つてをる初瀬の檜原をおもひ出す、といふので、三輪の檜原、初瀬の檜原といつて、檜樹の密林が欝蒼として居り、當時の人の尊崇してゐたものと見える。上の句と下の句との聯絡が、『おもほゆるかも』で収めてあるのは、古代人的に素朴簡淨で誠によいものである。なほ此種の簡潔に山を詠んだ歌は幾つかあるが、いまは此一首を以て代表せしめた。
 
            ○
     ぬばたまの夜《よる》さり來《く》れば卷向《まきむく》の川音《かはと》高《たか》しも嵐《あらし》かも疾《と》き  〔卷七・一一〇一〕 柿本人麿歌集
 
(265) 柿本人麿歌集にある、詠v河歌である。一首の意は、夜になると、卷向川の川音が高く聞こえるが、多分嵐が強いかも知れん、といふので、内容極めて單純だが、この歌も前の歌同樣、流動的で強い歌である。無理なくありの儘に歌はれてゐるが、無理が無いといつても、『ぬばたまの夜《よる》さりくれば』が一段、『卷向の川音高しも』が一段、共に伸々とした調であるが、結句の、『嵐かも疾き』は、強く緊まつて、嚴密とでもいふべき語句である。をはりが二音で終つた結句は、萬葉にも珍らしく、『獨りかも寢む』、『あやにかも寢も』(四四二二)、『な踏みそね惜し』(四二八五)、『高圓の野ぞ』(四二九七)、『實の光るも見む』(四二二六)、『御船《みふね》かも彼《かれ》』(四〇四五)、『櫛造る刀自《とじ》』(三八三二)、『やどりする君』(三六八八)等は、類似のものとして拾ふことが出來る。この歌も前の歌と共通した特徴があつて、人麿を彷彿せしむるものである。
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     いにしへにありけむ人《ひと》も吾《わ》が如《ごと》か三輪《みわ》の檜原《ひはら》に插頭《かざし》折《を》りけむ 〔卷七・一一一八〕 柿本人麿歌集
 
 詠v葉歌、人麿歌集にある。一首の意は、古人も亦、今の吾のやうに、三輪山の檜原に入來て、插頭《かざし》を折つただらう、といふので、品佳く情味ある歌である。卷二(一九六)の人麿の歌に、『春(266)べは花折り插頭《かざ》し、秋たてば黄葉《もみぢば》插頭《かざ》し』とある如く、梅も櫻も萩も瞿麦《なでしこ》も山吹も柳も藤も插頭にしたが、檜も梨もその小枝を插頭にしたものと見える。詠v葉とことわつてゐても、題詠でなく、廣義の戀愛歌として、象徴的に歌つたものであらう。人麿の歌に、『古にありけむ人も吾が如《ごと》か妹《いも》に戀ひつつ宿《い》ねがてずけむ』(卷四・四九七)といふのがある。さすれば此は傳誦の際に民謠風に變化したものか、或は人麿が二ざまに作つたものか、いづれにしても、二つ並べつつ鑑賞して好い歌である。
 
            ○
     山《やま》の際《ま》に渡《わた》る秋沙《あきさ》の行《ゆ》きて居《ゐ》むその河《かは》の瀬《せ》に浪《なみ》立《た》つなゆめ 〔卷七・一一二二〕 作者不詳
 
 詠v鳥、作者不明。『秋沙《あきさ》』は、鴨の一種で普通|秋沙鴨《あいさがも》、小鴨《こがも》などと云つてゐる。一首の意は、山のあひを今飛んで行く秋沙鴨が、何處かの川に宿るだらうから、その川に浪立たずに呉れ、といふので、不思議に象徴的な匂ひのする歌である。作者はほんのりと戀愛情調を以て詠んだのだらうが、情味が秋沙鴨に對する情味にまでなつてゐる。これならば近代人にも直ぐ受納れられる感味で、萬葉にはかういふ歌もあるのである。『行きて居《ゐ》む』の句を特に自分は好んでゐる。『明(267)日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ』(卷七・一三六六)は、寄v鳥の譬喩歌だから、此歌とは違ふが、譬喩は譬喩らしくいいところがある。
 
           ○
     宇治川《うぢがは》を船《ふね》渡《わた》せをと喚《よ》ばへども聞《きこ》えざるらし楫《かぢ》の音《と》もせず  〔卷七・一一三八〕 作者不詳
 
 『山背にて作れる』歌の一首である。『渡せを』の『を』は呼びかける時、命令形に附く助詞で、『よ』に通ふ。一首は、宇治河の岸に來て、船を渡せと呼ぶけれども、呼ぶのが聞こえないらしい、榜いで來る櫂の音がしない、といふので、多分夜の景であらうが、宇治の急流を前にして、規模の大きいやうな、寂しいやうな變な氣持を起させる歌である。これは、『喚ばへども聞《きこ》えざるらし』のところにその主點があるためである。
 なほ此歌の處に、『宇治河は淀瀬《よどせ》無からし網代人《あじろびと》舟呼ばふ聲をちこち聞ゆ』(一一三五)、『千早人《ちはやびと》宇治川浪を清みかも旅行《たびゆ》く人の立ち難《がて》にする』(一一三九)等の歌もある。網代人は網代の番をする人。千早《ちはや》人は氏《うぢ》に續き、同音の宇治《うぢ》に續く枕詞である。皆、旅中感銘したことを作つてゐるのである。
 
(268)           ○
     しなが鳥《どり》猪名野《ゐなぬ》を來《く》れば有間山《ありまやま》夕霧《ゆふぎり》立《た》ちぬ宿《やど》は無《な》くして 〔卷七・一一四〇〕 作者不詳
 攝津にて作れる歌である。『しなが鳥』は猪名《ゐな》につづく枕詞で、しなが鳥即ち鳩鳥《にほどり》が、居並《ゐなら》ぶの居《ゐ》と猪《ゐ》とが同音であるから、猪名の枕詞になつた。猪名野は攝津、今の豐能川邊兩郡に亙つた、猪名川流域の平野である。有間山は今の有馬温泉のあるあたり一帶の山である。結句の『宿はなくして』は、前出の、『家もあらなくに』などと同一筆法だが、これは旅の實際を歌つたもののやうである。それだから作者不明でも、誰の心にも通ずる眞實性があると看ねばならぬ。それから現在吾々が注意するのは、『有間山夕霧たちぬ』と切つたところにある。有間山は萬葉にはただ二ケ處だけに出てゐるが、後になると、『有間山猪名の笹原かぜふけばいでそよ人を忘れやはする』などの如く歌名所になつた。
 
           ○
     家《いへ》にして吾《われ》は戀《こ》ひむな印南野《いなみぬ》の淺茅《あさぢ》が上《うへ》に照《て》りし(269)月夜《つくよ》を 〔卷七・一一七九〕 作者不詳
 
 ※[羈の馬が奇]旅の歌。印南野で見た、淺茅の上の月の光を、家に歸つてからもおもひ出すことだらうといふので、印南野を過ぎて來てからの口吻のやうだが、それは『照りし月夜を』にあるので、併し縱ひ過ぎて來たとしても、印象が未だ新しいのだから、『照れる月夜を』ぐらゐの氣持で味つてもいい歌である。
 いづれにしても、廣い印南野の月光に感動してゐるところで、『戀ひむな』といつても、天然を戀ふるので、そこにこの歌の特色がある。この歌の側に、『印南野は行き過ぎぬらし天《あま》づたふ日笠《ひがさ》の浦に波たてり見ゆ』(一一七八)といふのがあるが、これも佳い歌である。
 
           ○
     たまくしげ見諸戸山《みもろとやま》を行《ゆ》きしかば面白《おもしろ》くしていにしへ念《おも》ほゆ 〔卷七・一二四〇〕 作者不詳
 
 『見諸戸《みもろと》山』は、即ち御室處《みむろと》山の義で、三輪山のことである。『面白し』は、感深いぐらゐの意で、萬葉では、※[立心偏+可]怜とも書いて居る。『生《い》ける世に吾《あ》はいまだ見ず言《こと》絶《た》えて斯く※[立心偏+可]怜《おもしろ》く縫へる嚢は』(270)(卷四・七四六)、『ぬばたまの夜わたる月を※[立心偏+可]怜《おもしろ》み吾が居る袖に露ぞ置きにける』(卷七・一〇八一)、『おもしろき野をばな燒きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに』(卷十四・三四五二)、『おもしろみ、我を思へか、さ野《ぬ》つ鳥、來鳴き翔らふ』(卷十六・三七九一)等の例があり、現代の吾等が普段いふ、『面白い』よりも深みがあるのである。そこで、此歌は、三輪山の風景が佳くて神秘的にも感ぜられるので、『いにしへ思ほゆ』即ち、神代の事もおもはれると云つたのである。平賀元義の歌に、『鏡山雪に朝日の照るを見てあな面白と歌ひけるかも』といふのがあるが、この歌の『面白』も、『おもしろくして古おもほゆ』の感と相通じてゐるのである。
 
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     曉《あかとき》と夜烏《よがらす》鳴けどこの山上《をか》の木末《こぬれ》の上《うへ》はいまだ靜けし 〔卷七・一二六三〕 作者不詳
 
 第三句、『山上《をか》』は代匠記に『みね』とも訓んだ。もう夜が明けたといつて夜烏《よがらす》が鳴くけれど、岡の木立《こだち》は未だひつそりとして居る、といふのである。『木末の上』は、繁つてゐる樹木のあたりの意、萬葉の題には、『時に臨める』とあるから、或る機《をり》に臨んで作つたものであらう。そして、烏《からす》等は、もう曉天《あかつき》になつたと告げるけれども、あのやうに岡の森は未だ靜かなのですから、も少(271)しゆつくりしておいでなさい、といふ女言葉のやうにも取れるし、或は男がまだ早いからも少しゆつくりしようといふことを女に向つて云つたものとも取れるし、或は男が女の許から歸る時の客觀的光景を詠んだものとも取れる。いづれにしても、曉はやく二人が未だ一しよにゐる時の情景で、かういふ事をいつてゐるその心持と、曉天の清潔とが相待つて、快い一首を爲上げて居る。鑑賞の時、どうしても意味を一つに極めなければならぬとせば、やはり女が男にむかつて云つた言葉として受納れる方がいいのではあるまいか。略解にも、『男の別れむとする時、女の詠めるなるべし』と云つてゐる。 次手に云ふと、この歌の一つ前に、『あしひきの山椿《やまつばき》咲く八峰《やつを》越え鹿《しし》待つ君が齋《いは》ひ妻《づま》かも』(一二六二)といふのがある。これは、獵師が多くの山を越えながら鹿《しし》の來るのを、心に期待して、隱れ待つてゐる氣持で、そのやうに大切に隱して置く君の妻よといふのである。『齋《いは》ひ妻』などいふ語は、現代の吾等には直ぐには頭に來ないが、繰返し讀んでゐるうちに馴れて來るのである。つまり神に齋《いつ》くやうに、粗末にせず、大切にする妻といふので、出て來る珍らしい獲物の鹿を大切にする氣持と相通じて居る。『鹿待つ』までは序詞だが、かういふ實際から來た誠に優れた序詞が、萬葉になかなか多いので、その一例を此處に示すこととした。
 
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(272)     卷向《まきむく》の山邊《やまべ》とよみて行《ゆ》く水《みづ》の水泡《みなわ》のごとし世《よ》の人《ひと》吾《われ》は 〔卷七・一二六九〕 柿本人麿歌集
 
 人麿歌集にある歌で、『兒等《こら》が手を卷向《まきむく》山は常《つね》なれど過ぎにし人に行き纏《ま》かめやも』(一二六八)と一しよに載つてゐる。これで見ると、妻の亡くなつたのを悲しむ歌で、『行き纏かめやも』は、通つて行つて一しよに寢ることがもはや出來ないと歎くのだから、この『水泡の如し』の歌も、妻を悲しんだ歌なのである。
 一首の意は、卷向山の近くを音たてて流れゆく川の水泡の如くに果敢ないもので吾身があるよ、といふのである。
 この歌では、自身のことを詠んでゐるのだが、それは妻に亡くなられて悲しい餘りに、自分の身をも悲しむのは人の常情であるから、この歌は單に大觀的に無常を歌つたものではないのである。其處をはつきりさせないと、結論に錯誤を來すので、『もののふの八十うぢ河の網代木にいさよふ波の行方《ゆくへ》知らずも』(卷三・二六四)でもさうであるが、この歌も、單に佛教とか支那文學とかの影響を受け、それ等の文句を取つて其儘詠んだといふのでなく、卷向川(痛足川)の、白く激つ水泡に觀入して出來た表現なのである。恐らく此歌は人麿自身の作として間違は無いとおもふ(273)が、一寸見には、ただ口に任せて調子で歌つてゐるやうにも聞こえるがさうではないのである。卷二に、人麿の妻を痛む歌があるが、この歌もああいふ歌と關聯があるのかも知れず、又紀伊の海岸で詠んだ歌も妻を悲しみ追憶した歌だから、一しよにして味つてもいいだらう。
 
             ○
     春日《はるひ》すら田《た》に立《た》ち疲《つか》る君《きみ》は哀《かな》しも若草《わかくさ》の※[女+麗]《つま》無《な》き君《きみ》が田《た》に立《た》ち疲《つか》る 〔卷七・一二八五〕 柿本人麿歌集
 
 此處に、柿本人麿歌集に出づといふ旋頭歌が二十三首あるが、その一首だけ拔いて見た。旋頭歌は萬葉にも數が少く、人麿でも人麿作と明かにその名の見えてゐるのは一首も無い。けれども此處の旋頭歌も、卷十一卷頭の旋頭歌も人麿歌集に出づといふのであるから、人麿はこの形態の歌をも作つたのかも知れず、技法はなかなかの力量を思はしめるものである。併し内容は殆ど民謠的戀愛歌だから、さういふ種類の古歌謠を人麿が整理したのだとも考へることが出來る。
 この一首は、この長閑な春の日ですら、お前は田に働いて疲れる、妻のゐない一人ぼつちの、お前は田に働いて疲れる、といふので、民謠でも勞働歌といふのに類し、旋頭歌だから、上の句と、下の句とどちらから歌つてもかまはないのである。『君がため手力《たぢから》疲れ織りたる衣《きぬ》ぞ、春さら(274)ばいかなる色に摺《す》りてば好《よ》けむ』(一二八一)なども、女の氣持であるが、やはり勞働歌で、機織りながらうたふ女の歌の氣持である。
 
             ○
     冬《ふゆ》ごもり春《はる》の大野《おほぬ》を燒《や》く人《ひと》は燒《や》き足《た》らねかも吾《わ》が情《こころ》熾《や》く 〔卷七・一三三六〕 作者不詳
 
 譬喩歌で、『草に寄す』歌であるが、劇しい戀愛の情をその内容として居る。『冬ごもり』は春の枕詞。一首の意は、こんなに胸が燃えて苦しくて爲方ないのは、あの春の大野を燒く人達が燒き足りないで、私の心までもこんなに燒くのか知らん、といふので、譬喩的にいつたから、おのづからかういふ具合に聯想の歌となるのである。この聯想はただ輕く氣を利かして云つたもののやうにもおもへるが、繰返して讀めば必ずしもさうでないところがある。つまり戀情と、春の野火との聯想が、ただ輕くつながつて居るのでなく、割合に自然に緊密につながつてゐるといふのである。そんならなぜ輕くつながつてゐるやうに取られるかといふに、『燒く人は』と、『吾が情《こころ》熾《や》く』と繰返されてゐるために、其處が調子が好過ぎて輕く響くのである。併しこれは民謠風のものだから自然さうなるので、奈何ともしがたいのである。この歌は明治になつてから古今の傑(275)作のやうに評價せられたが、今云つたやうに民謠風なものの中の佳作として鑑賞する方が好いであらう。
 家持が、坂上大嬢に贈つたのに、『夜のほどろ出でつつ來らく遍多數《たびまね》くなれば吾が胸|截《た》ち燒《や》く如し』(卷四・七五五)といふがあり、『わが情《こころ》燒くも吾なりはしきやし君に戀ふるもわが心から』(卷十三・三二七一)、『我妹子に戀ひ術《すべ》なかり胸を熱《あつ》み朝戸あくれば見ゆる霧かも』(卷十二・三〇三四)といふのがあるから、參考として味ふことが出來る。
 
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     秋津野《あきつぬ》に朝《あさ》ゐる雲《くも》の失《う》せゆけば昨日《きのふ》も今日《けふ》も亡《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ 〔卷七・一四〇六〕 作者不詳
 
 挽歌の中に載せてゐる。吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあひだ懸かつてゐた雲が無くなると(この雲は火葬の烟である)、昨日も今日も亡くなつた人がおもひ出されてならない、といふのである。人麿が土形《ひぢかた》娘子を泊瀬山に火葬した時詠んだのに、『隱口《こもりく》の泊瀬の山の山の際《ま》にいさよふ雲は妹にかもあらむ』(卷三・四二八)とあるのは、當時まだ珍しかつた、火葬の烟をば亡き人のやうにおもつた歌である。また出雲《いづも》娘子を吉野に火葬した時にも、『山の際ゆ出雲《いづも》の兒等は霧な(276)れや吉野の山の嶺に棚引く』(四二九)とも詠んでゐるので明かである。此一首は取りたてて秀歌と稱する程のものでないが、挽歌としての哀韻と、『雲の失せゆけば』のところに心が牽かれたのであつた。
 
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     福《さきはひ》のいかなる人《ひと》か黒髪《くろかみ》の白《しろ》くなるまで妹《いも》が音《こゑ》を聞《き》く
 〔卷七・一四一一〕 作者不詳
 
 自分は戀しい妻をもう亡くしたが、白髪になるまで二人とも健かで、その妻の聲を聞くことの出來る人は何と爲合《しあは》せな人だらう、羨しいことだ、といふので、『妹が聲を聞く』といふのが特殊でもあり一首の眼目でもあり古語のすぐれたところを示す句でもある。現代人の言葉などにはかういふ素朴で味のあるいひ方はもう跡を絶つてしまつた。
 一般的なやうなことを云つてゐて、作者の身と遊離しない切實ないひ方で、それから結句に、『こゑを聞く』と結んでゐるが、『聞く』だけで詠歎の響があるのである。文法的には詠歎の助詞も助動詞も無いが、さういふものが既に含まつてゐるとおもつていい。
 
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(277)     吾背子《わがせこ》を何處《いづく》行《ゆ》かめとさき竹《たけ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔《くや》しも 〔卷七・一四一二〕 作者不詳
 
 これも挽歌の中に入つてゐる。すると一首の意は、私の夫《をつと》がこのやうに、死んで行くなどとは思ひもよらず、生前につれなくして、後《うし》ろを向いて寢たりして、今となつてわたしは悔しい、といふことになるであらう。『さき竹の』は枕詞だが、割つた竹は、重ねてもしつくりしないので、後ろ向に寢るのに續けたものであらう。また、『背向に宿《ね》しく』は、男女云ひ爭つた後の行爲のやうに取れて一層哀れも深いし、女らしいところがあっていい。
 然るに、卷十四、東歌の挽歌の個處に、『愛《かな》し妹を何處《いづち》行かめと山菅《やますげ》の背向《そがひ》に宿《ね》しく今し悔しも』(三五七七)といふのがあり、二つ共似てゐるが、卷七の方が優つてゐる。卷七の方ならば人情も自然だが、卷十四の方は稍調子に乘つたところがある。おもふに、卷七の方は未だ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが傳誦せられてゐるうち民謠的に變形して卷十四の歌となつたものであらう。氣樂に一しよになつてうたふのには、『かなし妹を』の方が調子に乘るだらうが、切實の度が薄らぐのである。
 
 
(278)卷第八
 
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     石激《いはばし》る垂水《たるみ》の上《うへ》のさ蕨《わらび》の萌《も》え出《い》づる春《はる》になりにけるかも 〔卷八・一四一八〕 志貴皇子
 
 志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌である。一首の意は、巖の面を音たてて流れおつる、瀧のほとりには、もう蕨が萌え出づる春になつた、懽ばしい、といふのである。『石激《いはばし》る』は『垂水《たるみ》』の枕詞として用ゐてゐるが、意味の分かつてゐるもので、形状言の形式化・樣式化・純化せられたものと看做し得る。『垂水《たるみ》』は垂る水で、餘り大きくない瀧と解釋してよいやうである。『垂水の上』の『上』は、ほとりといふぐらゐの意に取つてよいが、瀧下《たきしも》より瀧上《たきかみ》の感じである。この初句は、『石激』で舊訓イハソソグであつたのを、考でイハバシルと訓んだ。なほ、類聚古集に『石※[さんずい+麗]』とあるから、『石《いは》そそぐ』の訓を復活せしめ、『垂水』をば、巖の面をば垂れて來る水、たらたら水の程度(279)のものと解釋する説もあるが、私は、初句をイハバシルと訓み、全體の調子から、やはり垂水《たるみ》をば小瀧ぐらゐのものとして解釋したく、小さくとも激湍の特色を保存したいのである。
 この歌は、志貴皇子の他の御歌同樣、歌詞が明朗・直線的であつて、然かも平板に墮ることなく、細かい顫動を伴ひつつ莊重なる一首となつてゐるのである。御懽びの心が即ち、『さ蕨の萌えいづる春になりにけるかも』といふ一氣に歌ひあげられた句に象徴せられてゐるのであり、小瀧のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは、感覺が極めて新鮮だからである。この『けるかも』と一氣に詠みくだされたのも、容易なるが如くにして決して容易なわざではない。集中、『昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも』(卷三・三一六)、『妹として二人作りし吾が山齋《しま》は木高《こだか》く繁くなりにけるかも』(卷三・四五二)、『うち上《のぼ》る佐保の河原の青柳は今は春べとなりにけるかも』(卷八・一四三三)、『秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも』(卷十・二一七〇)、『萩が花咲けるを見れば君に逢はず眞《まこと》も久になりにけるかも』(卷十・二二八○)、『竹敷のうへかた山は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色になりにけるかも』(卷十五・三七〇三)等で、皆一氣に流動性を持つた調べを以て歌ひあげてゐる歌であるが、萬葉の『なりにけるかも』の例は實に敬服すべきものなので、煩をいとはず書拔いて置いた。そして此等の中にあつても志貴皇子の御歌は特にその感情を傳へてゐるやうにおもへるのである。此御歌は皇子の御作中でも優れてをり、萬葉集中の傑作(280)の一つだと謂つていいやうである。
 大體以上の如くであるが、『垂水』を普通名詞とせずに地名だとする説があり、その地名も攝津豐能郡の垂水《たるみ》、播磨明石郡の垂水《たるみ》の兩説がある。若し地名だとしても、垂水即ち小瀧を寫象の中に入れなければ此歌は價値が下るとおもふのである。次に此歌に寓意を求める解釋もある。『此御歌イカナル御懽有テヨマセ給フトハシラネド、垂水ノ上トシモヨマセ給ヘルハ、若帝ヨリ此處ヲ封戸ニ加ヘ賜ハリテ悦バセ給ヘル歟。蕨ノ根ニ隱リテカヾマリヲレルガ、春ノ暖氣ヲ得テ萌出ルハ、實ニ悦コバシキ譬ナリ。御子白壁王不意ニ高|御座《ミクラ》ニ昇《ノボ》ラセ給ヒテ、此皇子モ田原天皇ト追尊セラレ給ヒ、皇統今ニ相ツヾケルモ此歌ニモトヰセルニヤ』(代匠記)といひ、考・略解・古義これに從つたが、稍穿鑿に過ぎた感じで、寧ろ、『水流れ草もえて萬物の時をうるを悦び給へる御歌なるべし』(拾穗抄)の簡明な解釋の方が當つてゐるとおもふ。なほ、『石走《いはばし》る垂水の水の愛《は》しきやし君に戀ふらく吾が情から』(卷十二・三〇二五)といふ參考歌がある。
 
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     神奈備《かむなび》の伊波瀬《いはせ》の杜《もり》の喚子鳥《よぶこどり》いたくな鳴《な》きそ吾《わ》が戀《こひ》益《まさ》る 〔卷八・一四一九〕 鏡王女
 
(281) 鏡王女《かがみのおほきみ》の歌である。鏡王女は鏡王の女で額田王の御姉に當り、はじめ天智天皇の御寵を受け、後藤原鎌足の正妻となつた。此處の神奈備《かむなび》は龍田《たつた》の神奈備で飛鳥の神奈備ではない。生駒郡龍田町の南方に車瀬という處に森がある。それが伊波瀬の森である。喚子鳥は大體閑古鳥の事として置く。一首の意は、神奈備の伊波瀬の森に鳴く喚子鳥よ、そんなに鳴くな、私の戀しい心が増すばかりだから、といふのである。
 『いたく』は、強く、熱心に、度々、切實になどとも翻し得、口語なら、『そんなに鳴くな』ともいへる。喚子鳥の聲は、人に愬へて呼ぶやうであるから、その聲を聞いて自分の身の上に移して感じたものである。この聯想から來る感じは萬葉の歌に可なり多いが、當時の人々は何時の間にか斯う無理なく表現し得るやうになつてゐたのだらう。人麿の、『夕浪千鳥汝が鳴けば』でもさうであつた。それだから此歌でも、現代の讀者にまでさう豫備的な心構へがなくも受納れられ、極く單純な内容のうちに純粹な詠歎のこゑを聞くことが出來るのである。王女は額田王の御姉であつたから、額田王の歌にも共通な言語に對する鋭敏がうかがはれるが、額田王の歌よりももつと素直で才鋒の目だたぬところがある。また時代も萬葉上期だから、その頃の純粹な響・語氣を傳へてゐる。卷八(一四六五)に、藤原夫人の、『霍公鳥《ほととぎす》いたくな鳴きそ汝が聲を五月の玉に交《あ》へ貫《ぬ》くまでに』があるが、女らしい氣持だけのものである。また、やはり此卷(一四八四)に、『霍公鳥《ほととぎす》い(282)たくな鳴きそ獨りゐて寐《い》の宿《ね》らえぬに聞けば苦しも』といふ大伴坂上郎女の歌があるが、『吾が戀まさる』の簡淨な結句には及ばない。これは同じ女性の歌でももはや時代の相違であらうか。
 
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     うち靡《なび》く春《はる》來《きた》るらし山《やま》の際《ま》の遠《とほ》き木末《こぬれ》の咲《さ》きゆく見れば 〔卷八・一四二二〕 尾張連
 
 尾張連《をはりのむらじ》の歌としてあるが、傳不明である。一首は、山のあひの遠くまで續く木立に、きのふも今日も花が多くなつて見える、もう春が來たといふので、『咲きゆく』だから、次から次と花が咲いてゆく、時間的經過を含めたものだが、其處に讀者を迷はせるところもなく、ゆつたりとした迫らない響を感じさせてゐる。そして、春の到來に對する感慨が全體にこもり、特に結句の『見れば』のところに集まつてゐるやうである。『木末の咲きゆく』などといふ簡潔ないひあらはしは、後代には跡を斷つた。それは、幽玄とか有心とか云つて、深みを要求してゐながら、歌人の心の全體が常識的に分化してしまつたからである。
 
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(283)     春《はる》の野《ぬ》に菫《すみれ》採《つ》みにと來《こ》し吾《われ》ぞ野《ぬ》をなつかしみ一夜《ひとよ》宿《ね》にける 〔卷八・一四二四〕山部赤人
 
 山部赤人の歌で、春の原に菫を採《つ》みに來た自分は、その野をなつかしく思つて一夜|宿《ね》た、といふのである。全體がむつかしくない、赤人的な晴朗な調べの歌であるが、菫咲く野に對する一つの係戀といつたやうな情調を感じさせる歌である。即ち極く廣義の戀愛情調であるから、説く人によつては、戀人のことを歌つたのではないかと詮議するのであるが、其處まで云はぬ方が却つていい。また略解は『菫つむは衣摺む料なるべし』とあるが、これも主要な目的ではないであらう。本來菫を摘むといふのは、可憐な花を愛するためでなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである。和名鈔の菫菜で、爾雅に、※[さんずい+勺]食v之滑也。疏可v食之菜也とあるによつて知ることが出來る。併し此處は、『春日野に煙立つ見ゆ※[女+感]嬬《をとめ》らし春野の菟芽子《うはぎ》採みて煮らしも』(卷十・一八七九)といふ歌のやうに直ぐ食用にして居る野菜として菫を聯想せずに、第一には可憐な菫の花の咲きつづく野を聯想すべきであり、また其處に戀人などの關係があるにしても、それは奥に潛める方が鑑賞の常道のやうである。
 この歌で、『吾ぞ』と強めて云つてゐても、赤人の歌だから餘り目立たず、『野をなつかしみ』(284)といつても、餘り強く響かず、從つて感情を強ひられるやうな點も少いのだが、そのうちには少し甘くて物足りぬといふことが含まつてゐるのである。赤人の歌には、『潟をなみ』、『野をなつかしみ』といふやうな一種の手法傾向があるが、それが清潔な聲調で綜合せられてゐる點は、人の許す萬葉第一流歌人の一人といふことになるのであらうか。併しこの歌は、富士山の歌ほどに優れたものではない。卷七(一三三二)に、『磐が根の凝《こご》しき山に入り初めて山なつかしみ出でがてぬかも』といふ歌があり、これは寄v山歌だからかういふ表現になるのだが、寧ろ民謠風に樂《らく》なもので、赤人の此歌と較れば赤人の歌ほどには行かぬのである。また、卷十(一八八九)の、『吾が屋前《やど》の毛桃《けもも》の下に月夜《つくよ》さし下心《したごころ》よしうたて此の頃』といふ歌は、譬喩歌といふことは直ぐ分かつて、少しうるさく感ぜしめる。此等と比較しつつ味ふと赤人の歌の好いところもおのづから分かるわけである。なほ、赤人の歌には、この歌の次に、『あしひきの山櫻花|日《け》ならべて斯く咲きたらばいと戀ひめやも』(一四二五)ほか二首があり、清淡でこまかい味ひであるが、結句は、やはり弱い。なほ、『戀しけば形見にせむと吾が屋戸《やど》に植ゑし藤浪いま咲きにけり』(一四七一)があり、これを模して家持が、『秋さらば見つつ偲べと妹が植ゑし屋前《やど》の石竹《なでしこ》咲きにけるかも』(四六四)と作つてゐるが、共に少し當然過ぎて、感に至り得ないところがある。赤人の歌でも、『今咲きにけり』が弱いのである。なお參考句に、『春の野に菫を摘むと、白妙の袖折りかへし』(卷十七・三九七(286)三)がある。
 
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     百済野《くだらぬ》の萩《はぎ》の古枝《ふるえ》に春《はる》待《ま》つと居《を》りし鶯《うぐひす》鳴《な》きにけむかも 〔卷八・一四三一〕 山部赤人
 
 山部赤人の歌で、春到來の心を詠んでゐる。百済野は大和北葛城郡百済村附近の原野である。『萩の古枝』は冬枯れた萩の枝で、相當の高さと繁みになつたものであらう。『春待つと居りし』あたりのいい方は、古調のいいところであるが、舊訓スミシ・ウグヒスであつたのを、古義では脱字説を唱へ、キヰシ・ウグヒスと訓んだ。併し古い訓(類聚古集・神田本)の、ヲリシウグヒスの方がいい。この歌も、何でもないやうであるが、徒らに興奮せずに、氣品を保たせてゐるのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になつたが、選んで來て印をつけると、自然かういふ結果になるといふことは興味あることで、もつと先きの卷に於ける家持の歌の場合と同じである。
 
            ○
(286)     蝦《かはづ》鳴《な》く甘南備河《かむなびがは》にかげ見《み》えて今《いま》か咲《さ》くらむ山吹《やまぶき》の花《はな》 〔卷八・一四三五〕 厚見王
 
 厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首。厚見王は續紀に、天平勝寶元年に從五位下を授けられ、天平寶字元年に從五位上を授けられたことが記されてゐる。甘南備河は、甘南備山が飛鳥(雷丘)か龍田かによつて、飛鳥川か龍田川かになるのだが、それが分からないからいづれの河としても味ふことが出來る。一首は、蝦《かはづ》(河鹿《かじか》)の鳴いてゐる甘南備河に影をうつして、今頃山吹の花が咲いて居るだらう、といふので、こだはりの無い美しい歌である。
 此歌が秀歌として持てはやされ、六帖や新古今に載つたのは、流麗な調子と、『かげ見えて』、『今か咲くらむ』といふ、幾らか後世ぶりのところがあるためで、これが本歌になつて模倣せられたのは、その後世ぶりが氣に入られたものである。『逢坂の關の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒』(拾遺・貫之)、『春ふかみ神なび川に影見えてうつろひにけり山吹の花』(金葉集)等の如くに、その歌詞なり内容なりが傳播してゐる。この歌は、全體としては稍輕いので、實際をいへば、このくらゐの歌は萬葉に幾つもあるのだが、この種類の一代表として選んだのである。參考歌に、『安積香《あさか》山影さへ見ゆる山井《やまのゐ》の淺き心を吾が念はなくに』(卷十六・三八〇七)がある。
 
            ○
(287)     平常《よのつね》に聞《き》くは苦《くる》しき喚子鳥《よぶこどり》こゑなつかしき時《とき》にはなりぬ 〔卷八・一四四七〕 大伴坂上郎女
 
 大伴坂上郎女が、天平四年三月佐保の宅で詠んだ歌である。普段には、身につまされて寧ろ苦しいくらゐな喚子鳥の聲も、なつかしく聞かれる春になつた、といふので、奇もなく鋭いところもないが、季節の變化に對する感じも出てをり、春の女心に觸れることも出來るやうなところがある。『時にはなりぬ』だけで詠歎のこもることは既にいつた。佐保の宅といふのは、郎女の父大伴安麿の宅である。『春日なる羽易《はがひ》の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰《たれ》喚子鳥』(卷十・一八二七)、『答へぬにな喚び響《とよ》めそ喚子鳥佐保の山邊を上《のぼ》り下《くだ》りに』(一八二八)、『卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥《ほととぎす》佐保の山邊に來鳴き響《とよ》もす』(卷八・一四七七)等があつて、佐保には鳥の多かつたことが分かる。
 
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     波《なみ》の上《うへ》ゆ見《み》ゆる兒島《こじま》の雲隱《くもがく》りあな氣衝《いきづ》かし相別《あひわか》れ(288)なば 〔卷八・一四五四〕 笠金村
 
 天平五年春閏三月、入唐使【多治比眞人廣成】が立つ時に、笠金村が贈つた長歌の反歌である。一首は、あなたの船が出帆して、波の上から見える小島のやうに、遠く雲がくれに見えなくなつて、いよいよお別れといふことになるなら、鳴呼吐息の衝かれることだ、悲しいことだ、といふのである。此處でも、『波の上ゆ見ゆる』と『ゆ』を使つてゐる。兒島は備前兒島だらうといふ説があるが、序の形式だから必ずしも固有名詞とせずともいい。『氣衝《いきづ》かし』は、息衝《いきづ》くやうな状態にあること、溜息《ためいき》を衝かせるやうにあるといふので、いい語だとおもふ。『味鴨《あぢ》の住む須佐《すさ》の入江の隱《こも》り沼《ぬ》のあな息衝《いきづ》かし見ず久にして』(卷十四・三五四七)の用例がある。訣別の歌だから、稍形式になり易いところだが、海上の小島を以て來てその氣持を形式化から救つてゐる。第四句が中心である。
 
         ○
     神名火《かむなび》の磐瀬《いはせ》の杜《もり》のほととぎすならしの岳《をか》に何時《いつ》か來鳴《きな》かむ  〔卷八・一四六六〕 志貴皇子
 
 志貴皇子の御歌。磐瀬の杜は既にいつた如く、龍田町の南方車瀬にある。ならしの岳《をか》は諸説あ(289)つて一定しないが、磐瀬の杜の東南にわたる岡だらうといふ説があるから、一先づそれに從つて置く。この歌は、『ならしの丘に何時か來鳴かむ』と云つて、霍公鳥の來ることを希望してゐるのだが、既に出た皇子の御歌の如く、おほどかの中に嚴かなところがあり、感傷に淫せずになほ感傷を暗指してゐる點は獨特の御風格といふべきである。他の皇子の御歌と較べるから左程に思はぬが、そのあたりの歌を讀んで來ると、やはり選は此歌に逢著するのである。此歌は一首に三つも地名が詠込まれてゐる。『朝霞たなびく野べにあしひきの山ほととぎすいつか來鳴かむ』(卷十・一九四〇)の例があるが、民謠風だから『個』の作者が隱れて居り、それだけ呑氣である。この近くにある、『もののふの磐瀬の杜《もり》の霍公鳥いまも鳴かぬか山のと陰に』(一四七〇)でも内容が似てゐるが、これも呑氣である。
 
          ○
     夏山《なつやま》の木末《こぬれ》の繁《しじ》にほととぎす鳴《な》き響《とよ》むなる聲《こゑ》の遙《はる》けさ 〔卷八・一四九四〕 大伴家持
 
 大伴家持の霍公鳥の歌であるが、『夏山の木末の繁《しじ》』は作者の觀たところであらうが、前出の『山の際の遠きこぬれ』の方が旨いやうにもおもふ。『こゑの遙けさ』といふのが此一首の中心で、(290)現實的な強味がある。この卷(一五五〇)に、湯原王 の、『秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の聲の遙けさ』も家持の歌に似てゐるが、家持の歌のまさつてゐるのは、實際的のひびきがあるためである。然るに卷十(一九五二)に、『今夜《このよひ》のおぼつかなきに霍公鳥鳴くなる聲の音の遙けさ』といふのがあり、家持はこれを模倣してゐるのである。併し、『夏山の木末の繁に』といつて生かしてゐるのを後代の吾等は注意していい。『繁に』は槻落葉にシゲニと訓んでゐる。
 
           ○
     夕《ゆふ》されば小倉《をぐら》の山《やま》に鳴《な》く鹿《しか》は今夜《こよひ》は鳴《な》かず寢宿《いね》にけらしも 〔卷八・一五一一〕 舒明天皇
 
 秋雜歌、崗本天皇【舒明天皇】御製歌一首である。小倉山は恐らく崗本宮近くの山であらうが、その邊に小倉山の名が今は絶えてゐる。一首の意は、夕がたになると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない、多分もう寢てしまつたのだらうといふのである。いつも妻をもとめて鳴いてゐる鹿が、妻を得た心持であるが、結句は、必ずしも率寐《ゐね》の意味に取らなくともいい。御製は、調べ高くして潤ひがあり、豐かにして弛まざる、萬物を同化包攝したまふ親愛の御心の流露であつて、『いねにけらしも』の一句はまさに古今無上の結句だとおもふのである。第四句で、『今夜は鳴か(291)ず』と、其處に休止を置いたから、結句は獨立句のやうに、豐かにして逼らざる重厚なものとなつたが、よく讀めばおのづから第四句に縷の如くに續き、また一首全體に響いて、氣品の高い、いふにいはれぬ歌調となつたものである。『いねにけらしも』は、親愛の大御心であるが、素朴・直接・人間的・肉體的で、後世の歌にかういふ表現のないのは、總べてかういふ特徴から歌人の心が遠離して行つたためである。此御歌は萬葉集中最高峰の一つとおもふので、その説明をしたい念願を持つてゐたが、實際に當ると好い説明の文を作れないのは、この歌は渾一體の境界にあつてこまごましい剖析をゆるさないからであらうか。
 此歌の第三句、舊板本『鳴鹿之』となつてゐるから、訓は『ナクシカノ』である。然るに古鈔本【類・神・西・温・矢・京】には、『之』の字が『者』となつて居り、また訓も『ナクシカハ』【類・神・温・矢・京】となつて居るのがある。注釋書では既に拾穗抄でこれを注意し、代匠記で、官本之作v者、點云、ナクシカハ。別校本或同v此。幽齋本之作v者、點云、ナクシカノ、と注した。そこで近時、『ナクシカハ』の訓に從ふやうになつたが、古今六帖には、『鳴く鹿の』となつて居り、又幽齋本では鳴鹿者と書いて、『ナクシカノ』と訓んで、また舊板本は鳴鹿之であるから、『ナクシカノ』といふ訓も古くからあつたことが分かる。もつとも、『鳴鹿之』は卷九卷頭の、『臥鹿之』の『之』に據つて直したとも想像することも出來るが、兎も角長い期間『鳴く鹿の』として傳はつて來てゐる。今となつて見(292)れば、『鳴く鹿は〔右○〕』の方は、『今夜は〔右○〕』と續いて、古調に響くから、『鳴く鹿は』の方が原作かも知れないけれども、『鳴く鹿の』としても、充分味ふことの出來る歌である。
 なほ、一寸前言した如く、卷九(一六六四)に、雄略天皇御製歌として、『ゆふされば小倉の山に臥す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも』といふ歌が載つてゐて、二つとも類似歌であるがどちらが本當だか審でないから、累ねて載せたといふ左注がある。併し歌調から見て、雄略天皇御製とせば少し新し過ぎるやうだから、先ず舒明天皇御製とした方が適當だらうといふ説が有力である。なお小倉山であるが、『白雲の龍田の山の瀧の上の小鞍の峯』(卷九・一七四七)は、龍田川(大和川)の龜の瀬岩附近、龍田山の一部である。それから、この(一六六四)が雄略天皇の御製とせば、朝倉宮近くであるから、今の磯城郡朝倉村黒崎に近い山だらうといふことも出來る。それに舒明天皇の高市崗本宮近くにある小倉山と、假定のなかに入る小倉山が三つあるわけである。併し、舒明天皇の御製でも、若しも行幸でもあつて龍田の小鞍峯あたりでの吟咏とすると、小倉山考證の疑問はおのづから冰釋するわけであるけれども、『今夜は鳴かず』とことわつてゐるから、ふだんにその鹿の聲を御聞きになつたことを示し、從つて崗本宮近くに小倉山といふ名の山があつたらうと想像することとなるのである。
 
           ○
(293)     今朝《けさ》の朝《あさ》け雁《かり》がね聞《き》きつ春日山《かすがやま》もみぢにけらし吾《わ》がこころ痛《いた》し 〔卷八・一五一三〕 穗積皇子
 
 穗積皇子《ほづみのみこ》の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の聲を聞いた、もう春日山は黄葉《もみぢ》したであらうか。身に沁みて心悲しい、といふので、作者の心が雁の聲を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むといふ御境涯にあつたものと見える。そしてなほ推測すれば但馬皇女との御關係があつたのだから、それを參考するとおのづから解釋出來る點があるのである。何れにしても、第二句で『雁がね聞きつ』と切り、第四句で『もみぢにけらし』と切り、結句で『吾が心痛し』と切つて、ぽつりぽつりとしてゐる歌調はおのづから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の『石激る垂水の上の』の御歌などと比較すると、その心境と聲調の差別を明らかに知ることが出來るのである。もう一つの皇子の御歌は、『秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸《やど》の淺茅が花の散りぬる見れば』(一五一四)といふのである。なほ、近くにある、但馬皇女の、『言《こと》しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを』(一五一五)といふ御歌がある。皇女のこの御歌も、穗積皇子のこの御歌と共に讀味ふことが出來る。共に戀愛情調のものだが、皇女のには甘く逼る御語氣がある。
 
(294)        ○
     秋《あき》の田《た》の穗田《ほだ》を雁《かり》がね闇《くら》けくに夜《よ》のほどろにも鳴《な》き渡《わた》るかも 〔卷八・一五三九〕 聖武天皇
 
 天皇御製とあるが、聖武天皇御製だらうと云はれてゐる。『秋の田の穗田を』までは序詞で、『刈り』と『雁』とに掛けてゐる。併しこの序詞は意味の關聯があるので、却つて序詞としては巧みでないのかも知れない。御製では、『闇《くら》けくに夜のほどろにも鳴きわたるかも』に中心があり、闇中の雁、曉天に向ふ夜の雁を詠歎したまうたのに特色がある。『夜のほどろ我が出てくれば吾妹子が念へりしくし面影に見ゆ』(卷四・七五四)等の例がある。
 
           ○
     夕月夜《ゆふづくよ》心《こころ》も萎《しぬ》に白露《しらつゆ》の置《お》くこの庭《には》に蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも 〔卷八・一五五二〕 湯原王
 
 湯原王《ゆはらのおほきみ》の蟋蟀の歌で、夕方のまだ薄い月の光に、白露のおいた庭に蟋蟀が鳴いてゐる。それを聞くとわが心も萎々《しをしを》とする、といふのである。後世の歌なら、助詞などが多くて弛むところで(295)あらうが、そこを緊張せしめつつ、句と句とのあひだに、間隔を置いたりして、端正で且つ感の深い歌調を全うしてゐる。『心も萎に』は、直ぐ、『白露の置く』に續くのではなく、寧ろ、『蟋蟀鳴く』に關聯してゐるのだが、そこが微妙な手法になつてゐる。いづれにしても、分かりよくて、平凡にならなかつた歌である。
 
           ○
     あしひきの山《やま》の黄葉《もみぢば》今夜《こよひ》もか浮《うか》びゆくらむ山川《やまがは》の瀬《せ》に 〔卷八・一五八七〕 大伴書持
 
 大伴|書持《ふみもち》の歌である。書持は旅人の子で家持の弟に當る。天平十八年に家持が書持の死を痛んだ歌を作つてゐるから大體その年に死去したのであらう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿の邸で宴をした時諸人が競うて歌を詠んだ。皆黄葉を内容としてゐるが書持の歌い方が稍趣を異にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく寫象を心に浮べて、『今夜《こよひ》もか浮びゆくらむ』と詠歎してゐる。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙のやうなところがあつて、何時か私の心を牽いたものだが、今讀んで見ても幾分象徴詩的なところがあつておもしろい。また所謂萬葉的常套を脱してゐるのも注意せらるべく、萬葉末期の、次の時代への移行型のやうなものかも知れぬが、(296)さういふ種類の一つとして私は愛惜してゐる。そして天平十年が家持二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作つた歌といふことになる。
 書持の兄、家持が天平勝寶二年に作つた歌に、『夜くだちに寢覺《ねさ》めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも』(卷十九・四一四六)といふのがある。この『河瀬尋め』あたりの觀照の具合に、『浮びゆくらむ』と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によつて發育した歌境だかも知れない。
 
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     大口《おほくち》の眞神《まがみ》の原《はら》に降《ふ》る雪《ゆき》はいたくな降《ふ》りそ家《いへ》もあらなくに 〔卷八・一六三六〕 舍人娘子
 
 舍人娘子《とねりのをとめ》の雪の歌である。舍人娘子の傳は未詳であるが、卷二(一一八)に舍人皇子に和へ奉つた歌があり、大寶二年の持統天皇參河行幸從駕の作、『丈夫が獵矢《さつや》たばさみ立ち向ひ射る的形《まとかた》は見るにさやけし』(卷一。六一)があるから、持統天皇に仕へた宮女でもあらうか。眞神《まがみ》の原は高市郡飛鳥にあつた原で、『大口の』は、狼(眞神)の口が大きいので、眞神の枕詞とした。
 この歌は、獨詠歌といふよりも誰かに贈つた歌の如くである。そして、持統天皇從駕作の如く(297)に、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでゐて、贈つた對者に對する親愛の情のあらはれてゐる可憐な歌である。『家もあらなくに』の結句ある歌は既に記した。
 
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     沫雪《あわゆき》のほどろほどろに零《ふ》り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念《おも》ほゆるかも 〔卷八・一六三九〕 大伴旅人
 
 大伴旅人が筑紫太宰府にゐて、雪の降つた日に京《みやこ》を憶《おも》つた歌である。『ほどろほどろ』は、沫雪の降つた形容だらうが、沫雪は降つても消え易く、重量感からいへば輕い感じである。嚴冬の雪のやうに固著の感じの反對で消え易い感じである。さういふ雪を、ハダレといひ、副詞にしてハダラニともいひ、ホドロニと轉じたものであらうか。『夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり』(卷十・二三一八)とあつて、一に云ふ、『庭もほどろに雪ぞ降りたる』とあるから、『はだらに』、『ほどろに』同義に使つたもののやうである。また、『吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに』(卷十・二三二三)とあり、輕く消え易いやうに降るので、分量の問題でなく感じの問題であるやうにおもへる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、『ほどろほどろに』と繰返してゐるのは、旅人はそう感じて繰返(298)したのであらうから、分量の少い、薄く降るといふ解釋とは合はぬのである。特に『零り重けば』であるから、單に『薄い雪』をハダレといふのでは解釋がつかない。また、『はだれ降りおほひ消なばかも』(卷十・二三三七)の例も、薄く降るといふよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、さういふ柔かい感じの雪が、勢ひづいて降るといふことになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまつた。
 この一首は、前にあつた旅人の歌同樣、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子でなく眞面目な歌ひぶりである。細かく顫ふ哀韻を聽き得ないのは、憶良などの歌もさうだが、この一團の歌人の一つの傾向と看做し得るであらう。
 
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     吾背子《わがせこ》と二人《ふたり》見《み》ませば幾許《いくばく》かこの零《ふ》る雪《ゆき》の懽《うれ》しからまし 〔卷八・一六五八〕 光明皇后
 
 藤皇后(光明皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原|不比等《ふびと》の女、神龜元年三月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまひ、天平寶字四年六月崩御せられた。御(299)年六十。この美しく降つた雪を、若しお二人で眺めることが叶ひましたならば、どんなにかお懽《うれ》しいことでございませう、といふのである。斯く尋常に、御おもひの儘、御會話の儘を傳へてゐるのはまことに不思議なほどである。特に結びの、『懽《うれ》しからまし』の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあはせつつ味ひ得るといふことの、多幸を私等はおもはねばならぬのである。『見ませば』は、『草枕旅ゆく君と知らませば』(卷一・六九)、『悔しかも斯く知らませば』(卷五・七九七)、『夜わたる月にあらませば』(卷十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシといふ助動詞の將然段に條件づけた云ひ方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらゐの意であらうか。精しいことは專門の書物にゆづる。なほ『あしひきの山より來《き》せば』(卷十・二一四八)も參考にならうか。ウレシといふ語も、『何すとか君を厭はむ秋萩のその初花の歡《うれ》しきものを』(卷十・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
 
(300)卷第九
 
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     巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田居《たゐ》に雁《かり》渡《わた》るらし 〔卷九・一六九九〕 柿本人麿歌集
 
 宇治河にて作れる歌二首の一つで、人麿歌集所出の歌である。巨椋《おほくら》の入江は山城久世郡の北にあり、今の巨椋池である。『射部人《いめびと》』は、鹿獵の時に、隱れ臥して弓を射るから、『伏』に聯ねて枕詞とした。『高山の峯のたをりに射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如』(卷十三・三二七八)の例がある。一首の意は、いま巨椋《おほくら》の入江に大きい音が聞こえてゐる。これは群雁が伏見の水田の方に渡つてゆく音らしい、といふので、『入江|響《とよ》むなりと、ずばりと云ひ切つて、雁の群れ立つその羽音と鳴聲とを籠めてゐるのも古調のいいところである。そして、斯ういふ使い方は萬葉にも少く、普通は、鳴きとよむ、榜ぎとよむ、鳥が音とよむ等、或は『山吹の瀬の響《とよ》むなべ』(卷九・一七〇〇)、『藤江の(301)浦に船ぞ動《とよ》める』(卷六・九三九)ぐらゐの用例である。それも響、動をトヨムと訓むことにしての例である。さうして見れば、『入江響むなり』の用例は簡潔で巧なものだと云はねばならない。この句は舊訓ヒビクナリであつたのを、代匠記で先づ注意訓をして『響ハトヨムトモ讀べシ』と云ひ、略解から以降かう訓むやうになつたのである。調べが大きく、そして何處かに鋭い響を持つてゐるところは、或は人麿的だと謂ふことが出來るであらう。ついでに云ふと、この歌の、『田居に』の『に』は方嚮をも含んでゐる用例で、『小野《をぬ》ゆ秋津に立ちわたる雲』(卷七・一三六八)、『京方《みやこべ》に立つ日近づく』(卷十七・三九九九)、『山の邊にい行く獵師は』(卷十・二一四七)等の『に』と同じである。
 
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     さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし雁《かり》が音《ね》の聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ 〔卷九・一七〇一〕 柿本人麿歌集
 
 弓削皇子に獻つた歌三首中の一つで、人麿歌集所出である。一首は、もう夜が更けたと見え、雁の鳴きつつとほる空に、月も低くなりかかつてゐる、といふので、『月わたる』は、月が段々移行する趣で、傾きかかるといふことになる。ありの儘に淡々といひ放つてゐるのだが、決してた(302)だの淡々ではない。これも本當の日本語で日本的表現だといふことも出來るほどの、流暢にしてなほ弾力を失はない聲調である。先學はこの歌にも寓意を云々し、『弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし』(代匠記初稿本)、『いかで早く御恩澤を下したまへかし。と身のほどを下心に訴るならむ』(古義)等と云ふが、これだけの自然觀照をしてゐるのに、寓意寓意といつて、官位の事などを混入せしめるのは、歌の鑑賞の邪魔物である。
 
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     うちたをり多武《たむ》の山霧《やまきり》しげみかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騷《さわ》げる 〔卷九・一七〇四〕 柿本人麿歌集
 
 舍人皇子《とねりのみこ》に獻つた歌二首中の一首で、『※[手偏+求]手折』をウチタヲリと訓むにつき未だ精確な考證はない。『打手折《うちたをり》撓《た》む』といふ意から、同音の、『多武《たむ》』に續けた。多武峰は高市郡にある、今の塔の峯、談山神社のある談山である。細川は飛鳥川の支流、多武峰の西にあつて、細川村と南淵村の間を過ぎて飛鳥川に注いでゐる。一首の意は、多武の峰に雲霧しげく風が起つて居るのか、細川の瀬に波が立つて音が高い、といふのである。
 かういふ自然觀入は、既に、『弓月《ゆつき》が嶽に雲たちわたる』の歌でも云つた如く、餘程鋭敏に感じ(303)たものと見える。そして人麿歌集所出の歌だから、恐らく人麿の作であらう。なほこの歌の傍に、『ぬばたまの夜霧《よぎり》は立ちぬ衣手を高屋《たかや》の上に棚引くまでに』(一七〇六)といふ舍人皇子の御歌がある。『衣手を』を、枕詞として『たか』に續けたのは、タク(カカグ)といふ意だらうといふ説がある。高屋は地名であらうが、その存在は未詳である。この御歌の調べ高いのは、やはり時代的關係で人麿などを中心とする交流のためだかも知れない。この歌にも寓意を考へ、『此歌上句ハ佞人ナドノ官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩ヘ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルヲ喩フル歟』(代匠記)等といふが、かういふ解釋の必要は毫も無い。
 
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     御食《みけ》むかふ南淵山《みなぶちやま》の巖《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え殘《のこ》りたる 〔卷九・一七〇九〕 柿本人麿歌集
 
 弓削皇子《ゆげのみこ》に獻つた歌一首といふ題があり、人麿歌集所出の歌である。『御食《みけ》むかふ』は、御食《みけ》に供へる物の名に冠らせる詞で、此處の南淵山《みなぶちやま》に冠らせたのは、蜷貝《みながひ》か、御魚《みな》かのミナの音に依つてであらう。當時は蜷貝を食用としたから、かういふ枕詞が出來たものである。南淵山は高市郡高市村字冬野から稻淵にかけた山である。
(304) 一首の意は、南淵山を見ると、巖の上に雪が殘つてをる、これは先《さき》ごろ降つた春の斑雪《はだれ》であらう、といふので、敍景の歌で、かういふ佳景を歌に詠んで、皇子に獻じたもので、寓意などは無からうのに、先學等は『下心《したごころ》あるべし』などと云つて、寓意を『皇子の御恩光にもれしを訴るやうによみて獻れるにや、さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや』(古義)と云々してゐるのは、學者等の一つの迷いである。この歌は敍景歌として、しつとりと落著いて、重厚にして單純、清嚴とも謂ふべき一首の味ひである。『巖には』の『には』、『降れる斑雪か』の『か』のあたりに、微かに息《いき》を休めてしづかな感情を湛へ、結句の、『消え殘りたる』は、迫らない靜かなゆらぎを持つた句で、清嚴の氣は大體ここに發してゐる。
 この歌は、結句原本、『削遺有』とあるので、舊訓チルナミ・タレカ・ケヅリ・ノコセルであつたのを、眞淵の考で、千蔭の説により、『削』は『消』だとして、フレルハダレカ・キエノコリタルと訓んだ。この眞淵の訓以前は、甚だしく面倒な解釋をしてゐたので、無理が多くて、一首の妙味を發揮することの出來なかつたものである。作者と南淵山との位置關係は、『弓削皇子ノオハシマス宮ヨリ南淵山ノマヂカク指向ヒテ見ユル』(代匠記)ところであつたかとおもふ。
 
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(305)     落《お》ちたぎち流《なが》るる水《みづ》の磐《いは》に觸《ふ》り淀《よど》める淀《よど》に月《つき》の影《かげ》見《み》ゆ 〔卷九・一七一四〕 作者不詳
 
 芳野宮に行幸あつた時の歌だが、その御代も不明だし作者もまた不明である。一首の意は、いきほひよく激《たぎ》つて流れて來た水が、一旦巖石に突當つて、其處に淵をなしてゐる。その淵に月影が映つてゐる、といふので、水面の月光を現に見て居る光景だが、その水面の説明をも加へてゐる。淵の出來てゐる具合と、激流との關係をも敍してゐるから、全體が益々印象明瞭となつた。前半を直線的に云ひ下したから、『淀める淀』と云つて曲線的に緊めてゐる。以前この『淀める淀』といふ繰返しを氣にしたが、或はこれが自然的な技法なのかも知れないし、それから『水の磐に觸り』の『の』などもやはり、『の』が最も適切な助詞として受取るべきもののやうである。結句もまた落付いてゐて大家の風格を持つたものである。此歌と一しよにある一首は、『瀧の上の三船《みふね》の山ゆ秋津《あきつ》べに來鳴きわたるは誰喚子鳥《たれよぶこどり》』(一七一三)といふのだが、これも相當な作で、恐らく藤原宮時代のものであらうか。眞淵などもこの二首を人麿作ではなからうかとさへ云つてゐるほどである。
 
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(306)     樂浪《ささなみ》の比良山風《ひらやまかぜ》の海《うみ》吹《ふ》けば釣《つり》する海人《あま》の袂《そで》かへる見ゆ 〔卷九・一七一五〕 柿本人麿歌集
 
 槐本歌一首とあるもので、槐本《ゑにすのもと》は柿本の誤寫で人麿の作だらうといふ説がある。一首の意は、近江の樂浪《ささなみ》の比良《ひら》山を吹きおろして來る風が、湖水のうへに至ると、釣している漁夫の袖の翻るのが見える、といふ極く單純な内容であるが、張りある清潔音の連續で、ゆらぎの大きい點も人麿調を聯想せしめるし、人麿歌集出の歌だから、先づ人麿作と云つていいものであらう。この歌の上の句ほどの程度の、諧調音でも吾々が作るとなれば、なかなか容易のわざではない。
 
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     泊瀬河《はつせがは》夕渡《ゆふわた》り來《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の門《かなど》に近づきにけり 〔卷九・一七七五〕 柿本人麿歌集
 
 舍人皇子に獻つた歌二首中の一つで、人麿歌集に出でたものである。『門』をカナドと訓んだのは、『金門《かなと》にし人の來立てば』(卷九・一七三九)等の例に據つたので、『金門《かなと》』で單に『門』といふ意味に使つてゐる。一首の意味は、戀歌で、戀しい女の家に近づいた趣だが、快い調子を持つて(307)居り、伸々と、無理なく情感を湛へてゐる點で、選ぶとせば選ばれる歌である。ただ舍人皇子に獻つた歌だといふので、何か寓意を考へ、『此歌モ亦下意アル歟。君ガ恩惠ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《チギ》リタラムニ、泊瀬川ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ來テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟』(代匠記)等と詮索しがちであるが、これは何かの機に作つたもので、自分でも稍出來の好い歌だといふので、皇子に獻つたものででもあらうか。さすれば、普通の戀歌として味つていいわけである。泊瀬川は長谷の谿を流れ、遂に佐保川に合する川である。
 
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    旅人《たびびと》の宿《やど》りせむ野《ぬ》に霜《しも》降《ふ》らば吾《わ》が子《こ》羽《は》ぐくめ天《あめ》の鶴群《たづむら》 〔卷九・一七九一〕 遣唐使隨員の母
 
 天平五年夏四月、遣唐使【多治比眞人廣成】の船が難波を出帆した時、隨行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌は、『秋萩を、妻|問《ど》ふ鹿《か》こそ、一子《ひとりご》に、子|持《も》たりといへ、鹿兒《かこ》じもの、吾が獨子《ひとりご》の、草枕、旅にし行けば、竹珠《たかだま》を、繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り、齋戸《いはひべ》に、木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて、齋《いは》ひつつ、吾が思ふ吾子《あこ》、眞幸《まさき》くありこそ』(一七九〇)といふのである。
 この短歌の意は、私の一人子《ひとりご》が、遠く唐に行つて宿るだらう、その野原に霜が降つたら、天の(308)群鶴よ、翼を以て蔽うて守りくれよ、といふのである。この歌の『はぐくむ』は巽で蔽うて愛撫する意だが、轉じて養育することとなつた。史記周本紀に、『飛鳥其翼を以て之を覆薦《ふせん》す』の例がある。『武庫の浦の入江の渚鳥《すどり》羽ぐくもる君を離れて戀に死ぬべし』(卷十五・三五七八)、『大船に妹乘るものにあらませば羽ぐくみもちて行かましものを』(三五七九)があり、新羅に行く使者等の歌だから同じやうな心持があらはれてゐる。なほ、『天飛ぶや雁のつばさの覆羽《おほひば》の何處《いづく》漏りてか霜の零《ふ》りけむ』(卷十・二二三八)の例がある。
 母親がひとり子の遠い旅を思ふ心情は一とほりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むといふのは、今ならば文學的の技巧を直ぐ聯想するし、實際また詩的に表現してゐるのである。けれども當時の人々は吾々の今感ずるよりも、もつと自然に直接にかういふことを感じてゐたものに相違ない。それは萬葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考へるよりももつと直接に感じつつああいふ技法を取つたものに相違ない。そこで此歌でも、毫もこだはりのない純粹な響を傳へてゐるのである。もの云ひに狐疑が無く不安が無く、子をおもふための願望を、ただその儘に云ひあらはし得たのである。併し、歌詞は天平に入つてからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなつてゐる。
 
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(309)     潮氣《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ來《こ》し 〔卷九・一七九七〕 柿本人麿歌集
 
 『紀伊國にて作れる歌四首』といふ、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。『行く水の』は、『過ぎ』に續く枕詞。『過ぐ』は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立つ荒寥たるこの磯に、亡くなつた妻の形見と思つて來た、といふのだが、句々緊張して然かも情景ともに哀感の切なるものがある。この歌は、卷一(四七)の人麿作、『眞草苅る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ來し』といふのと類似してゐるから、その手法傾向の類似によつて、此歌も亦人麿作だらうと想像することが出來るであらう。卷二(一六二)に、『鹽氣《しほけ》のみ香《かを》れる國に』の例がある。
 他の三首は、『黄葉《もみぢば》の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも』(一七九六)、『古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見ればさぶしも』(一七九八)、『玉津島《たまつしま》磯の浦囘《うらみ》の眞砂《まなご》にも染《にほ》ひて行かな妹が觸りけむ』(一七九九)といふので、いづれも哀深いものである。
 
(310)卷第十
 
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     ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも 〔卷十・一八一二〕 柿本人麿歌集
 
 春雜歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したやうな趣である。少くも歌調からいへば遠望であるが、香具山は低い山だし、實際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであつたかも知れない。併し一首全體は伸々としてもつと遠い感じだから、現代の人はさういふ具合にして味つてかまはぬ。それから、『この夕べ』とことわつてゐるから、はじめて霞がかかつた、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つといふのは暦の上の立春といふのよりも、春が來るといふやうに解していいだらう。
 この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し樂に作つてゐるやうだが、極(311)めて自然で、佶屈でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなつた。併しこの歌は未だ實質的で寫生の歌だが、萬葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。
 
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     子等《こら》が名《な》に懸《か》けのよろしき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく 〔卷十・一八一八〕 柿本人麿歌集
 
 人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。『片山ぎし』は、その朝妻山の麓で、一方は平地に接してゐるところである。『子等が名に懸けのよろしき』までは序詞の形式だが、朝妻といふ山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だといふので、この序詞は單に口調の上ばかりのものではないだらう。この歌も一氣に詠んでゐるやうで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂つていいだらう。氣持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり萬葉集の歌の一特質をなしてゐるものである。
 この歌と一しよに、『卷向の檜原《ひはら》に立てる春霞おほにし思はばなづみ來めやも』(一八一三)といふのがある。これは、上半を序詞とした戀愛の歌だが、やはり卷向の檜原を常に見てゐる人の趣(312)向で、ただ口の先の技巧ではないやうである。それが、『おほ』といふ、一方は霞がほんのりとかかつてゐること、一方はおろそかに思ふといふことの兩方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此處に置いて味ふことにした。
 
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     春霞《はるがすみ》ながるるなべに青柳《あをやぎ》の枝《えだ》くひもちて鶯《うぐひす》鳴《な》くも 〔卷十・一八二一〕 作者不詳
 
 春雜歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくはへながら鳴いてゐるといふので、春の霞と、萌えそめる青柳と、鶯の聲とであるが、鶯が青柳をくはへるやうに感じて、その儘かうあらはしたものであらうが、まことに好い感じで、細かい詮議の立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやくも萌えそめた柳を鶯が保持してゐる感じである。柳の萌えに親しんで所有する感じであるが、鴬だから啄んで持つといつたので、『くひもつ』は鶯にかかるので、『鳴く』にかかるのではない。また、ただ鶯といはずに、青柳の枝を啄《くは》へてゐる鶯といふのだから、寫象もその方が複雜で氣持がよい。その鶯がうれしくて鳴くといふのである。詮議すればさうだが、それを單純化してかく表はすのが萬葉の歌の一つの特色でもあり、佳作の(313)一つと謂ふべきである。この歌と一しよに、『うち靡く春立ちぬらし吾が門の柳の末《うれ》に鶯鳴きつ』(一八一九)があるが、平凡で取れない。また、『うち靡く春さり來れば小竹《しぬ》の末《うれ》に尾羽《をは》うち觸《ふ》りて鶯鳴くも』(一八三〇)といふのもあり、これも鶯の行爲をこまかく云つてゐる。鶯に親しむため、『尾羽うち觸り』などといふので、『枝くひもちて』といふのと同じ心理に本づくのであらう。
 
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     春《はる》されば樹《き》の木《こ》の暗《くれ》の夕月夜《ゆふづくよ》おぼつかなしも山陰《やまかげ》にして 〔卷十・一八七五〕 作者不詳
 
 作者不詳。春になつて木が萌え茂り、またそれが山陰であるので、さうでなくとも光のうすい夕月夜が、一層薄くほのかだといふ歌である。巧みでない寧ろ拙な部分の多い歌であるが、『おぼつかなしも』の句に心ひかれて此歌を拔いた。『この夜《よひ》のおぼつかなきに霍公鳥』(一九五二)の例がある。
 
            ○
     春日野《かすがぬ》に煙《けぶり》立《た》つ見《み》ゆ※[女+感]嬬等《をとめら》し春野《はるぬ》の菟芽子《うはぎ》採《つ》みて(314)煮《に》らしも 〔卷十・一八七九〕 作者不詳
 
 菟芽子《うはぎ》は卷二の人麿の歌にもあつた如く、和名鈔に薺蒿で、今の嫁菜である。春日野は平城《なら》の京から、東方にひろがつてゐる野で、その頃人々は打連れて野遊に出たものであつた。『春日野の淺茅《あさぢ》がうへに思ふどち遊べる今日は忘らえめやも』(一八八〇)といふ歌を見ても分かる。この歌で注意をひいたのは、野遊に來た娘たちが、嫁菜を煮て食べてゐるだらうといふので、嫁菜などは現代の人は餘り珍重しないが、當時は野菜の中での上品であつたものらしい。和かな春の野に娘等を配し、それが野菜を煮てゐるところを以て一首を作つてゐるのが私の心を牽いたのであつた。
 
             ○
      百礒城《ももしき》の大宮人《おほみやびと》は暇《いとま》あれや梅《うめ》を插頭《かざ》してここに集《つど》へる 〔卷十・一八八三〕 作者不詳
 
 『百礒城の』は大宮にかかる枕詞で、百石城《ももしき》即ち、多くの石を以て築いた城といふ意で大宮の枕詞とした。一首の意は、今日は御所に仕へ申す人達も、お閑であらうか、梅花を插頭《かざし》にして、此(315)處の野に集つてゐられる、といふので、長閑な光景の歌である。『大宮人は暇《いとま》あれや』の『は』は、一寸聞くと、御役人などといふものは暇《ひま》なものであるだらう、といふやうに取れるが、實はさういふ意味でなく、現在大宮人の野遊を見て推量したのだから、『今日は御役人は暇があるのか』ぐらゐに解釋すべきところで、奈良朝の太平豐樂を讚美する氣持が作歌動機にあるのである。
 
            ○
     春雨《はるさめ》に衣《ころも》は甚《いた》く通《とほ》らめや七日《なぬか》し零《ふ》らば七夜《ななよ》來《こ》じとや 〔卷十・一九一七〕 作者不詳
 
 これは、女から男にやつた歌の趣で、あなたは春雨が降つたので來られなかつたと仰しやるけれど、あのくらゐの雨なら、そんなに衣が沾れ通るといふ程ではございますまい。さういふ事なら、若し雨が七日間降りつづいたら、七晩とも御いでにならぬと仰しやるのでございますか、といふのである。女が男に迫る語氣まで傳はる歌で、如何にもきびきびと、才氣もあつておもしろいものである。かういふ肉聲をさながら聽き得るやうなものは、平安朝になるともう無い。和泉式部がどうの、小野小町がどうのと云つても、もう間接な機智の歌になつてしまつて居る。
 
          ○
(316)     卯《う》の花《はな》の咲《さ》き散《ち》る岳《をか》ゆ霍公鳥《ほととぎす》鳴《な》きてさ渡《わた》る君《きみ》は聞《き》きつや 〔卷十・一九七六〕 作者不詳
 
 問答歌で、この歌は問で、答歌は『聞きつやと君が問はせる霍公鳥《ほととぎす》しぬぬに沾《ぬ》れて此《こ》ゆ鳴きわたる』(一九七七)といふのであるが、問の方がやはり旨く、答の方は『鳴きわたる』などを繰返してゐるが、餘程劣るやうである。問答歌で、相手があるのだから、『君は聞きつや』で好い筈だが、かう單純にはなかなか行かぬものである。また、『卯の花の咲き散る岳《をか》ゆ』と云つて印象を鮮明にしてゐるのも、技巧がなかなか旨いのである。『岳ゆ』の『ゆ』は、『より』の意で、『鳴きてさ渡る』といふ運動してゆく語に續いてゐる。『咲き散る』といふ云ひあらはし方も、時間を含めたもので、咲くのもあり散るのもあるからであるが、簡潔で旨い。『梅の花咲き散る苑にわれ行かむ』(卷十・一九〇〇)、『秋萩の咲き散る野べの夕露に』(卷十・二二五二)等の例がある。普通は、『梅の花わぎへの苑に咲きて散る見ゆ』(卷五・八四一)といふ具合に、『て』の入つてゐるのが多い。
 
            ○
     眞葛原《まくずはら》なびく秋風《あきかぜ》吹くごとに阿太《あた》の大野《おほぬ》の萩《はぎ》が花《はな》(317)散《ち》る 〔卷十・二〇九六〕 作者不詳
 
 『阿太の野』は、今の吉野、下市町の西に大阿太村がある。その附近一帶の原野であつただらう。葛の生繁つてゐるのを靡かす秋風が吹く度毎に、阿太の野の萩が散るといふのだが、二つとも初秋のものだし、一方は廣葉の翻へるもの、一方はこまかい紅い花といふので、作者の頭には兩方とも感じが乘つてゐたものである。それを、『吹く毎に』で融合させてゐるので、穉拙なところに、却つて古調の面目があらはれて居る。特に、『阿太の大野の萩が花散る』の、諧調音はいふに云はれぬものである。
 
             ○
     秋風《あきかぜ》に大和《やまと》へ越《こ》ゆる雁《かり》がねはいや遠《とほ》ざかる雲《くも》がくりつつ 〔卷十・二一二八〕 作者不詳
 
 『大和へ越ゆる』であるから、大和に接した國、山城とか、紀伊とか、或は旅中にあつて、遠く大和の方へ行く雁を見つつ詠んだものであらう。空遠く段々見えなくなる光景で、家郷をおもふ情がこもつてゐるのである。初句の、『秋風に』といふ云ひ方は、簡潔で特色のあるものだが、後世(318)かういふ云ひ方が繰返されたので陳腐になつた。やはりこの卷(二一三六)に、『秋風に山飛び越ゆる雁がねの聲遠ざかる雲隱るらし』といふのがあるが、この方は聲を聞いて、『雲がくるらし』と推量してゐるので、傳誦のあひだに變化して通俗的に分かりよくなつたものであらう。即ち二一三六の方が劣るのである。
 
               ○
     朝《あさ》にゆく雁《かり》の鳴《な》く音《ね》は吾《わ》が如《ごと》くもの念《おも》へかも聲《こゑ》の悲《かな》しき 〔卷十・二一三七〕 作者不詳
 
 作者不明。初句、舊訓ツトニユク、古鈔本中、ケサ又はアサと訓んだのがある。いま朝早く、飛んで行く雁の鳴く聲は、何となく物悲しい。彼等もまた私のやうに物思《ものおもひ》してゐるからだらう、といふのである。どういふ物思かといふに、妻戀をして、妻を慕ひつつ飛んで行くといふ氣持で、自分の心持を雁に引移して感じて居るのである。この歌の、『朝に』は時間をあらはすので、『朝《あさ》に日《け》に出で見る毎に』(卷八・一五〇七)、『朝な夕なに潛《かづ》くちふ』(卷十一・二七九八)等の『に』と同じい。『物念へかも』は疑問の『かも』である。さう大した歌でないやうでも、惻々とした哀韻があつて棄てがたい。『鳴く音は』、『聲の悲しき』で重複してゐるやうだが、前は稍一般的、後は實質(319)的で、他にも例がある。旅人の歌に、『湯の原に鳴く葦鶴《あしたづ》はわが如く妹《いも》に戀ふれや時分かず鳴く』(卷六・九六一)といふのがある。
 
           ○
     山《やま》の邊《べ》にい行《ゆ》く獵夫《さつを》は多《おほ》かれど山《やま》にも野《ぬ》にもさを鹿《しか》鳴《な》くも 〔卷十・二一四七〕 作者不詳
 
 作者不明。野にも山にもしきりに牡鹿が鳴いてゐる。山のべに行く獵師は隨分多いのだがといふので、、獵師は恐ろしいものだが、それでも妻戀しさにあんなに鳴いてゐるといふ、哀憐のこころで詠んだもので、西洋的にいふと、戀の盲目とでもいふところであらうか。そのあはれが聲調のうへに出てゐる點がよく、第三句で、『多かれど』と感慨を籠めてゐる。結句の、『鳴くも』の如きは萬葉に甚だ多い例だが、古今集以後、この『も』を段々嫌つて少くなつたが、かう簡潔につめていふから、感傷の厭味に陷らぬとも謂ふことが出來る。この歌の近くに、『山邊には獵夫《さつを》のねらひ恐《かしこ》けど牡鹿《をじか》鳴くなり妻の眼《め》を欲《ほ》り』(二一四九)といふのがあるが、この方は常識的に露骨で、まづいものである。
 
             ○
(320)     秋風《あきかぜ》の寒《さむ》く吹《ふ》くなべ吾《わ》が屋前《やど》の淺茅《あさぢ》がもとに蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも 〔卷十・二一五八〕 作者不詳
 
 『吹くなべ』は、吹くに連れてといふ意味なること、既に云つた。この歌は既に選出した、『夕月夜心もしぬに白露のおくこの庭に蟋蟀鳴くも』(一五五二)に似てゐるが、『淺茅がもとに』といふのが實質的でいいから取つて置いた。結句の『も』は『さを鹿鳴くも』の『も』に等しい。萬葉にはこの種類の歌がなかなか多いが皆相當なものだといふのは、實質的で誤魔化さぬのと、奥に戀愛の心を潛めてゐるからであるだらう。
 
            ○
     秋萩《あきはぎ》の枝《えだ》もとををに露霜《つゆじも》置《お》き寒《さむ》くも時《とき》はなりにけるかも 〔卷十・二一七〇〕 作者不詳
 
 初冬の寒露のことをツユジモと云つた。宣長は玉勝間で單にツユのことだと考證してゐるが、必ずしもさう一徹に極めずに味ふことの出來る語である。萩の枝が撓ふばかりに露の置いた趣で、さう具體的に眼前のことを云つて置いて、そして、『寒くも時はなりにけるかも』と主觀を云つて(321)ゐるが、感の深い云ひ方であるのは、『も』、『は』などの助詞を持つてゐるからである。
 
             ○
     九月《ながつき》の時雨《しぐれ》の雨《あめ》に沾《ぬ》れとほり春日《かすが》の山《やま》は色《いろ》づきにけり 〔卷十・二一八〇〕 作者不詳
 
 この歌も伸々として、息をふかめて歌ひあげて居る。『時雨のあめに沾れ通り』の句がこの歌を平板化から救つて居るし、全體の具合から作者はかう感じてかう云つて居るのである。『君が家の黄葉《もみぢ》の早く落《ち》りにしは時雨の雨に沾れにけらしも』(卷十・二二一七)といふ歌があるが平板でこの歌のやうに直接的なずばりとしたところがない。また『霍公鳥しぬぬに沾《ぬ》れて』(卷十・一九七七)等の例もあり人間以外の沾れた用例の一つである。結句の『色づきにけり』といふのは集中になかなか例も多く、『時雨の雨|間《ま》なくし零れば眞木《まき》の葉もあらそひかねて色づきにけり』(二一九六)もその一例である。
 
           ○
     大坂《おほさか》を吾《わ》が越《こ》え來《く》れば二上《ふたがみ》にもみぢ葉《ば》流る時雨《しぐれ》零《ふ》(322)りつつ 〔卷十・二一八五〕 作者不詳
 
 大坂は大和北葛城郡下田村で、大和から河内へ越える坂になつてゐる。二上山が南にあるから、この坂を越えてゆくと、二上山邊の黄葉が時雨に散つてゐる光景が見えたのである。『もみぢ葉ながる』の『ながる』は水の流ると同じ語原で、流動することだから、水のほかに、『沫雪ながる』といふやうに雪の降るのにも使つてゐる。併し、水の流るるやうに、幾らか横ざまに斜に降る意があるのであらう。『天の時雨の流らふ見れば』(卷一・八二)、『ながらふるつま吹く風の』(卷一・五九)を見ても、雨・風にナガルの語を使つてゐることが分かる。『二上に』と云つて、『二上山に』と云はぬのもこの歌の一特色をなしてゐる。
 
            ○
     吾《わ》が門《かど》の淺茅《あさぢ》色《いろ》づく吉隱《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》のもみぢ散《ち》るらし 〔卷十・二一九〇〕 作者不詳
 
 『吉隱《よなばり》の浪柴《なみしば》の野《ぬ》』は、大和磯城郡、初瀬《はせ》町の東方一里にあり、持統天皇もこの浪芝野《なみしばぬ》のあたりに行幸あらせられたことがある。自分の家の門前の淺茅が色づくを見ると、もう浪柴の野の黄葉(323)が散るだらうと推量するので、かういふ心理の歌が集中なかなか多いが、浪柴の野は黄葉の美しいので名高かつたものの如く、また人の遊樂するところでもあつたのであらう。そこでこの聯想も空漠でないのだが、私は、『浪柴の野のもみぢ散るらし』といふ歌調に感心したのであつた。そして、『もみぢ散るらし』といふ結句の歌は幾つかあるやうな氣がしてゐたが、實際當つて見ると、この歌一首だけのやうである。
 
             ○
     さを鹿《しか》の妻《つま》喚《よ》ぶ山《やま》の岳邊《をかべ》なる早田《わさだ》は苅《か》らじ霜《しも》は零《ふ》るとも 〔卷十・二二二〇〕 作者不詳
 早稻田だからもう稔つてゐるのだが、牡鹿が妻喚ぶのをあはれに思つて、それを驚かすに忍びないといふ歌である。それをば、『霜は降るとも』と念を押して、あはれに思ふとか、同情してとかいふ、主觀語の無いのをも注意していい。岡邊といふ語は、『龍田路《たつたぢ》の岳邊《をかべ》の道に』(卷六・九七一)、『岡邊なる藤浪見には』(卷十・一九九一)等の例にある。かういふ人間的とも謂ふべき歌は萬葉には多い。人間的といふのは、有情非情に及ぼす同感が人間的にあらはれるといふ意味である。
 
            ○
(324)     思《おも》はぬに時雨《しぐれ》の雨《あめ》は零《ふ》りたれど天雲《あまぐも》霽《は》れて月夜《つくよ》さやけし 〔卷十・二二二七〕 作者不詳
 
 思いがけず時雨が降つたけれど、いつのまにか天雲が無くなつて、月明となつたといふだけのものであるが、言葉がいかにも精煉せられてゐるやうにおもふ。それも專門家的の苦心惨憺といふのでなくて、尋常の言葉で無理なくすらすらと云つてゐて、これだけ充實したものになるといふことは時代の賜といはなければならない。
 
            ○
     さを鹿《しか》の入野《いりぬ》のすすき初尾花《はつをばな》いづれの時《とき》か妹《いも》が手《て》まかむ 〔卷十・二二七七〕 作者不詳
 
 この歌は、『いづれの時か妹が手まかむ』だけが意味内容で、何時になつたら、戀しいあの兒の手を纏いて一しよに寢ることが出來るだらうか、といふ感慨を漏らしたものだが、上は序詞で、鹿の入つて行く入野、入野は地名で山城乙訓郡大原野村上羽に入野神社がある。その入野の薄《すすき》と初尾花《はつをばな》と、いづれであらうかと云つて、いづれの時かと續けたので、隨分煩いほどな技巧を凝ら(325)してゐる。かういふ凝つた技巧は今となつては餘り感心しないものだが、當時の人は骨折つたし、讀む方でも滿足した。併しこの歌で私の心を引いたのは、さういふ序詞でなく、『いづれの時か妹が手纏かむ』の句にあつたのである。聖コ太子の歌に、『家にあらば妹が手|纏《ま》かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ』(卷三・四一五)があつた。
 
             ○
     あしひきの山《やま》かも高《たか》き卷向《まきむく》の岸《きし》の子松《こまつ》にみ雪《ゆき》降《ふ》り來《く》る 〔卷十・二三一三〕 柿本人麿歌集
 
 卷向は高い山だらう。山の麓の崖に生えてゐる小松にまで雪が降つて來る、といふので、卷向は成程高い山だと感ずる氣持がある。『岸』は前にもあつたが、川岸などの岸と同じく、山と平地との境あたりで、なだれになつてゐるのを云ふのである。『山かも高き』といふやうな云ひ方は既に幾度も出て來て、常套手段の如き感があるが、當時の人々は、いつもすうつとさういふ云ひ方に運ばれて行つたものだらうから、吾々もそのつもりで味ふ方がいいだらう。『岸の小松にみ雪降り來る』の句を私は好いてゐるが、小松は老松ではないけれども相當に高くとも小松といつたこと、次の歌がそれを證してゐる。
 
(326)            ○
     卷向《まきむく》の檜原《ひはら》もいまだ雲《くも》ゐねば子松《こまつ》が末《うれ》ゆ沫雪《あわゆき》流る 〔卷十・二三一四〕 柿本人麿歌集
 
 卷向の檜林は既に出た泊瀬《はつせ》の檜林のやうに、廣大で且つ有名であつた。その檜原に未だ雨雲が掛かつてゐないに、近くの松の梢にもう雪が降つてくる、といふ歌で、『うれゆ』の『ゆ』は、『ながる』といふ流動の動詞に續けたから、現象の移動をあらはすために『ゆ』と使つた。消え易いだらうが、勢いづいて降つてくる沫雪の光景が、四三調の結句でよくあらはされてゐる。この歌は人麿歌集出の歌だから、恐らく人麿自身の作であらう。
 
            ○
     あしひきの山道《やまぢ》も知《し》らず白橿《しらかし》の枝《えだ》もとををに雪《ゆき》の降《ふ》れれば 〔卷十・二三一五〕 柿本人麿歌集
 
 これも人麿歌集出で、『山道も知らず』は道も見えなくなるまで盛に雪の降る光景だが、近くにある白橿の樹の枝の撓むまで降るのを見てゐる方が、もつと直接だから、さういふ具合にひどく(327)雪が降つたといふのを原因のやうにして、それで山道も見えなくなつたと云ひあらはしてゐる。前に人麿の、『矢釣山|木立《こだち》も見えず降りみだる』(卷三・二六二)云々の歌があつたが、歌詞に何處かに共通の點があるやうである。この一首は、或本には三方沙彌の作になつてゐるといふ左注がある。
 
            ○
     吾《わ》が背子《せこ》を今《いま》か今《いま》かと出《い》で見《み》れば沫雪《あわゆき》ふれり庭《には》もほどろに 〔卷十・二三二三〕 作者不詳
 
 『庭もほどろに』は、『夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり』(卷十・二三一八)とあつて、一云、『庭もほどろに雪ぞ降りたる』となつて居るから、ハダラニ、ホドロニ同義であらう。既に旅人の歌のところで解釋した如く、柔かく消え易いやうな感じに降つたのをハダラニ、ホドロニといふのであつて、ただ『薄《うつ》すらと』といふのとは違ふやうである。『ハダレ霜』と熟したのも、消ゆるといふ感じと關聯してゐる云ひあらはしであらう。またハダラニ、ホドロニの例は、單に雪霜の形容であらうが、對手を憶い、慕い、なつかしむやうな場合に使つてゐるのは注意すべきで、これも消え易いといふ特色から、おのづから其處に關聯せしめたものであら(328)うか。この一首も、女が男の來るのを、今か今かと思つて屡家から出て見る趣であるが、男が來ずに、夜にもなり、庭には、うら悲しいやうな、消え易いやうな、柔かい雪が降つてゐる、といふのである。どうしても、この『ほどろに』には、何かを慕ひ、何かを要求し、不滿を充たさうとねがふやうな語感のあるとおもふのは、私だけの錯覺であらうか。『今か今か』と繰返したのも、女の語氣が出てゐてあはれ深い。
 卷十二(二八六四)に、『吾背子を今か今かと待ち居るに夜の更けぬれば嘆きつるかも』。卷二十(四三一一)に、『秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ』がある。
 
             ○
     はなはだも夜深《よふ》けてな行《ゆ》き道《みち》の邊《べ》の五百小竹《ゆざさ》が上《うへ》に霜《しも》の降《ふ》る夜《よ》を 〔卷十・二三三六〕 作者不詳
 
 『五百小竹』は繁つた笹のことで、五百小竹《いほささ》の意だと云はれてゐる。もう繁つた笹に霜が降つたころです、こんなに夜更にお歸りにならずに、曉になつてからにおしなさい、といつて、女が男の歸るのを惜しむ心持の歌である。全體が民謠風で、萬人の唄ふのにも適つてゐるが、はじめは誰か、女一人がかういふことを云つたものであらう、そこに切にひびくものがあり、愛情の纏綿(329)を傳へてゐる。女が男の歸るのを惜しんでなるべく引きとめようとする歌は可なり萬葉に多く、既に評釋した、『あかときと夜烏《よがらす》鳴けどこのをかの木末《こぬれ》のうへはいまだ靜けし』(卷七・一二六三)などもさうだが、萬葉のかういふ歌でも實質的、具體的だからいいので、後世の『きぬぎぬのわかれ』的に抽象化してはおもしろくないのである。
 
(330)卷第十一
 
           ○
     新室《にひむろ》を踏《ふ》み鎭《しづ》む子《こ》し手玉《ただま》鳴《な》らすも玉《たま》の如《ごと》照《て》りたる君《きみ》を内《うち》へと白《まを》せ 〔卷十一・二三五二〕 柿本人麿歌集
 
 旋頭歌で、人麿歌集所出である。一首の意は、新しく家を造るために、その地堅め地鎭の祭を行ふので、大勢の少女《をとめ》等が運動に連れて手飾の玉を鳴らして居るのが聞こえる。あの玉のやうに立派な男の方をば、この新しい家の中へおはひりになるやうに御案内申せ、といふのである。この歌は大勢の若い女の心持が全體を領してゐるのであるが、そこに一人の美しい男を點出して、その男を中心として大勢の女の體も心も運動循環する趣である。一首の形式は、旋頭歌だから、『手玉鳴らすも』で休止となる。短歌なら第三句で序詞になるところであらうが、旋頭歌では第四句から新に起す特色がある。民謠風な勞働につれてうたふ勞働歌といふやうなもので、重々し(331)い調べのうちに甘い潤ひもあり珍しいものだが、明かに人麿作と記されてゐる歌に旋頭歌は一つもないのに、人麿歌集には纏まつて旋頭歌が載つて居り、相當におもしろいものばかりであるのを見れば、或は人麿自身が何かの機縁にかういふ旋頭歌を作り試みたものであつたのかも知れない。
 
            ○
     長谷《はつせ》の五百槻《ゆつき》が下《もと》に吾《わ》が隱《かく》せる妻《つま》茜《あかね》さし照《て》れる月夜《つくよ》に人《ひと》見《み》てむかも 〔卷十一・二三五三〕 柿本人麿歌集
 
 旋頭歌。人麿歌集出。長谷《はつせ》は今の磯城郡|初瀬《はせ》町を中心とする地、泊瀬《はつせ》。五百槻《ゆつき》は五百槻《いほつき》のことで、澤山の枝ある槻《けやき》のことである。そこで、一首の意は、長谷《はつせ》(泊瀬)の、槻の木の茂つた下に隱して置いた妻。月の光のあかるい晩に誰かほかの男に見つかつたかも知れんといふので、上と下と意味が關聯してゐる。併し旋頭歌だから、下から讀んでも意味が通じるのである。この歌も民謠的だが、素朴でいかにも當時の風俗が分かつておもしろい。旋頭歌の調子は短歌の調子と違つてもつと大きく流動的にすることが出來る。内容もまた複雜にすることが出來るが、それをするといけない事を意識して、却つて單純にするために繰返しを用ゐてゐる。
 
(332)            ○
     愛《うつく》しと吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》は早《はや》も死《し》ねやも生《い》けりとも吾《われ》に依《よ》るべしと人《ひと》の言《い》はなくに 〔卷十一・二三五五〕 柿本人麿歌集
 
 旋頭歌。人麿歌集出。一首の意。可哀《かあい》くおもふ自分のあの女は、いつそのこと死んでしまはないか、死ぬ方がいい。縱ひ生きてゐやうとも、自分に靡き寄る見込が無いから、といふのでこれも旋頭歌だからどちらから讀んでもいい。強く愛してゐる女を獨占しようとする氣持の歌で、今讀んでも相當におもしろいものである。『うつくし』は愛することで、『妻子《めこ》みればめぐしうつくし』(卷五・八〇〇)の例がある。『死ねやも』は、『雷神《なるかみ》の少し動《とよ》みてさしくもり雨も降れやも』(卷十一・二五一三)と同じである。併しこの訓には異説もある。この愛するあまり、『死んでしまへ』と思ふ感情の歌は後世のものにもあれば、俗謠にもいろいろな言ひ方になつてひろがつて居る。
 
            ○
     朝戸出《あさとで》の君《きみ》が足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原《つゆはら》早《はや》く起《お》き出《い》でつつ(333)吾《われ》も裳裾《もすそ》潤《ぬ》らさな 〔卷十一・二三五七〕 柿本人麿歌集
 
 同前。朝早くお歸りになるあなたの足結《あゆひ》を潤《ぬ》らす露原よ。私も早く起きてその露原で御一しよに裳の裾を潤らしませう、といふのである。別を惜しむ氣持でもあり、愛著する氣持でもあつて、女の心の濃やかにまつはるいいところが出て居る。『吾妹子が赤裳の裾の染め濕《ひ》ぢむ今日の小雨《こさめ》に吾さへ沾《ぬ》れな』(卷七・一〇九〇)は男の歌だが同じやうな内容である。
 
              ○
     垂乳根《たらちね》の母《はは》が手《て》放《はな》れ斯《か》くばかり術《すべ》なき事《こと》はいまだ爲《せ》なくに 〔卷十一・二三六八〕 柿本人麿歌集
 
 人麿歌集出。正述心緒といふ歌群の中の一つである。一首の意は、物ごころがつき、年ごろになつて、母の哺育の手から放れて以來、こんなに切ないことをしたことはない、といふので、戀の遣瀬無いことを歌つたものである。これは、男の歌か女の歌か字面だけでは分からぬが、女の歌とする方が感に乘つてくるやうである。術《すべ》なき事といふのは、どうしていいか爲方《しかた》の分からぬ氣持で、『術《すべ》なきものは』、『術《すべ》の知らなく』、『術《すべ》なきまでに』等の例があり、共に心のせつぱつま(334)つた場合を云つてゐる。下の句の切實なのは讀んでゐるうち分かるが、上の句にもやはりその特色があるので、此上の句のためにも一首が切實になつたのである。憶良が熊凝を悲しんだものに、『たらちしや母が手離れ』(卷五・八八六)といつたのは、此歌を學んだものであらう。なほ、『黒髪に白髪《しろかみ》まじり老ゆるまで斯る戀にはいまだ逢はなくに』(卷四・五六三)といふ類想の歌もある。第二句、『母之手放』は、ハハノテソキテ、ハハガテカレテ等の訓もあるが、今契沖訓に從つた。
 
            ○
     人《ひと》の寐《ぬ》る味宿《うまい》は寐《ね》ずて愛《は》しきやし君《きみ》が目《め》すらを欲《ほ》りて歎《なげ》くも 〔卷十一・二三六九〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。一首の意は、このごろはいろいろと思ひ亂れて、世の人のするやうに安眠が出來ず、戀しいあなたの眼をばなほ見たいと思つて歎いて居ります、といふので、これも女の歌の趣である。『目すら』は『目でもなほ』の意で、目を強めてゐる。今の口語になれば、『目でさへも』ぐらゐに譯してもいい。『言問《ことと》はぬ木すら妹《いも》と背《せ》ありとふをただ獨《ひと》り子《ご》にあるが苦しさ』(卷六・一〇〇七)がある。一首は、取りたててさう優れてゐるといふ程ではないが、感情がとほつて居り、『目すらを』と云つて、『目』に集注したいひ方に注意したのであつた。かういふいひ方(335)は、憶良の、『たらちしの母が目見ずて』(卷五・八八七)はじめ、他にも例があり、なほ、『人の寢る味眠《うまい》は寢ずて』(卷十三・三二七四)等の用例を參考とすることが出來る。
 
             ○
     朝影《あさかげ》に吾《わ》が身《み》はなりぬ玉耀《たまかぎ》るほのかに見《み》えて去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に 〔卷十一・二三九四〕 柿本人麿歌集
 同上、人麿歌集出。『朝影』といふのは、朝はやく、日出後間もない日の光にうつる影が、細長くて恰も戀に痩せた者のやうだから、そのまま取つて、『朝影になる』といふ云ひ方をしたのである。その頃の者は朝早く女の許から歸るので、かういふ實際を幾たびも經驗してかういふ語を造るやうになつたのは興味ふかいことである。『玉かぎる』は玉の光のほのかな状態によつて、『ほのか』にかかる枕詞とした。一首は、これまでまだ沁々と逢つたこともない女に偶然逢つて、その後逢はない女に對する戀の切ないことを歌つたものである。『玉かぎるほのかにだにも見えぬおもへば』(卷二・二一〇)、『玉かぎるほのかに見えて別れなば』(卷八・一五二六)等の例がある。この歌は男の心持になつて歌つてゐる。
 
            ○
(336)     行《ゆ》けど行《ゆ》けど逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑひさかたの天《あめ》の露霜《つゆじも》に濡《ぬ》れにけるかも 〔卷十一・二三九五〕 柿本人麿歌集
 同上、人麿歌集出。行きつつ幾ら行つても逢ふ當のない戀しい女のために、かうして天の露霜に濡れた、といふのである。苦しい調子でぽつりぽつりと切れるのでなく、連續調子でのびのびと云いあらはしてゐる。それは謂ゆる人麿調ともいひ得るが、それよりも寧ろ、この歌は民謠的の歌だからと解釋することも出來るのである。併し、この種類の歌にあつては目立つものだから、その一代表のつもりで選んで置いた。『ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露《やましたつゆ》に沾れにけるかも』(卷七・一二四一)などと較べると、やはり此歌の方が旨い。
 
             ○
     朱《あか》らひく膚《はだ》に觸《ふ》れずて寢《ね》たれども心《こころ》を異《け》しく我《わ》が念《も》はなくに 〔卷十一・二三九九〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。一首の意は、今夜は美しいお前の膚にも觸れずに獨寐したが、それでも決して心がはりをするやうなことはないのだ、今夜は故障があつてつひお前の處に行かれず獨りで(337)寐てしまつたが、私の心に別にかはりがない、といふのであらう。『心を異しく』は、心がはりするといふほどの意で、集中、『逢はねども異《け》しき心をわが思はなくに』(卷十四・三四八二)、『然れども異《け》しき心をあがおもはなくに』(卷十五・三五八八)等の例がある。女の美しい膚のことをいひ、覺官的に身體的に云つてゐるのが、ただの平凡な民謠にしてしまはなかつた原因であらう。アカラヒク・ハダに就き、代匠記初稿本に、『それは紅顏のにほひをいひ、今は肌《はだへ》の雪のごとくなるに、すこし紅のにほひあるをいへり』といひ、精撰本に、『朱引秦《アカラヒクハダ》トハ、紅顏ニ應ジテ肌モニホフナリ』と云つたのは、契沖の文も覺官的で旨い。
 
             ○
     戀《こ》ひ死《し》なば戀《こ》ひも死《し》ねとや我妹子《わぎもこ》が吾家《わぎへ》の門《かど》を過《す》ぎて行《ゆ》くらむ 〔卷十一・二四〇一〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。一首の意は、戀死《こひじに》をするなら、勝手にせよといふつもりで、あの戀しい女はおれの家の門を素通りして行くのだらう、といふのである。かういふのも戀の一心情で、それを自然に誰の心にも這入つて行けるやうに歌ふのが民謠の一特徴であるが、鋭敏に心の働いたところがあるので、共鳴する可能性も多いのである。『戀ひ死なば戀も死ねとや玉桙《たまぼこ》の道ゆく人に(338)ことも告げなく』(卷十一・二三七〇)、『戀ひ死なば戀も死ねとや霍公鳥《ほととぎす》もの念《も》ふ時に來鳴き響《とよ》むる』(卷十五・三七八〇)等のあるのは、やはり模倣だとおもふが、かう比較してみると、人麿歌集のこの歌の方が旨い。
 
            ○
     戀《こ》ふること慰《なぐさ》めかねて出《い》で行《ゆ》けば山《やま》も川《かは》をも知《し》らず來《き》にけり 〔卷十一・二四一四〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。一首の意は、この戀の切ない思を慰めかね、遣りかねて出でて來たから、山をも川をも夢中で來てしまつた、といふのである。『いで行けば』といつたり、『來にけり』と云つたりして、調和しないやうだが、さういふ巧緻でないやうなところがあつても、眞率な心があらはれ、自分の心をかへりみるやうな態度で、『來にけり』と詠歎したのに棄てがたい響がある。第二句、『こころ遣《や》りかね』とも訓んでゐる。これは、『おもふどち許己呂也良武等《ココロヤラムト》』(卷十七・三九九一)等の例に據つたものであるが、『戀しげみ奈具左米可禰※[氏/一]《ナグサメカネテ》』(卷十五・三六二〇)の例もあるから、いづれとも訓み得るのである。今舊訓に從つて置いた。それから、『ゆく』も『くる』も、主客の差で、根本の相違でないことがこの例でも分かるし、前出の、『大和には鳴きてか來らむ呼(339)子鳥』(七〇)の歌を想起し得る。石上卿の、『ここにして家やもいづく白雲の棚引く山を越えて來にけり』(卷三・二八七)の例がある。
 
            ○
     山科《やましな》の木幡《こはた》の山《やま》を馬《うま》はあれど歩《かち》ゆ吾《わ》が來《こ》し汝《な》を念《おも》ひかね 〔卷十一・二四二五〕 柿本人麿歌集
 
 寄v物陳v思といふ部類の歌に入れてある。人麿歌集出。『山科の木幡の山』は、山城宇治郡、現在宇治村木幡で、桃山御陵の東方になつてゐる。前の歌に、強田《こはだ》とあつたのと同じである。一首の意は、山科の木幡の山道をば徒歩でやつて來た。おれは馬を持つてゐるが、お前を思ふ思ひに堪へかねて徒歩で來たのであるぞ、といふのである。舊訓ヤマシナノ・コハダノヤマニ。考ヤマシナノ・コハダノヤマヲ。つまり、『木幡の山を歩み吾が來し』となるので、なぜ、『馬はあれど』と云つたかといふに、馬の用意をする暇もまどろしくて、取るものも取あへず、といふのであらう。本來馬で來れば到著が早いのであるが、それは理論で、まどろしく思ふ情の方は直接なのである。詩歌では情の直接性を先にするわけになるから、かういふ表現となつたものである。女にむかつていふ語として、親しみがあつていい。
 
(340)            ○
     大船《おほふね》の香取《かとり》の海《うみ》に碇《いかり》おろし如何《いか》なる人《ひと》か物念《ものおも》はざらむ 〔卷十一・二四三六〕 柿本人麿歌集
 同上、人麿歌集出。『大船の香取の海に碇おろし』までは、『いかり』から『いかなる』に續けた序詞であるから、一首の内容は、『いかなる人か物念はざらむ』、即ち、おれはこんなに戀に苦しんで居るが、世の中のどんな人でも戀に苦しまないものはあるまい、といふだけの歌である。序詞は意味よりも聲調にあるので、何か重々しいやうな聲調で心持を暗指するぐらゐに解釋すればいい。『香取の海』は、近江にも下總にもあるが、『高島の香取の浦ゆ榜ぎでくる舟』(卷七・一一七二)とある近江湖中の香取の浦としていいだらう。なほこの卷(二七三八)に、『大船のたゆたふ海に碇《いかり》おろし如何にせばかも吾が戀ひ止まむ』とあるのと類似して居り、この二七三八の方は異傳であらう。
 
             ○
     ぬばたまの黒髪山《くろかみやみ》の山菅《やますげ》に小雨《こさめ》零《ふ》りしきしくしく(341)思《おも》ほゆ 〔卷十一・二四五六〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。この歌の内容は、ただ、『しくしく思ほゆ』だけで、そのうへは序詞である。ただ黒髪山の山菅《やますげ》に小雨の降るありさまと相通ずる、さういふうら悲しいやうな切なおもひを以て序詞としたものであらう。山菅は山に生えるスゲのたぐひ、或はヤブラン、リユウノヒゲ一類、どちらでも解釋が出來、古人はさういふものを一つ草とおもつてゐたものと見えるから、今の本草學の分類などで律しようとすると解釋が出來なくなつて來るのである。この歌も取りわけ秀歌といふ程のものでないが、ただ結句だけで内容とする歌も珍しいので選んで置いた。
 
           ○
     我背子《わがせこ》に吾《わ》が戀《こ》ひ居《を》れば吾《わ》が屋戸《やど》の草《くさ》さへ思《おも》ひうらがれにけり 〔卷十一・二四六五〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。一首の意は、私の夫を待遠しく戀しがつて居ると、家の庭の草さへも思ひ惱んで枯れてしまひました、といふので女の歌である。『吾が戀ひ居れば吾が屋戸の』といふ具合に、『わが』を繰返してゐるのは、意識的らしく、少しく輕く聞こえるが、『草さへ思ひうらがれ(342)にけり』といふ息の長い、伸々した調によつて落著《おちつき》を得てゐるのは注意すべきである。特にこの下の句は伸びてゐるうちに、悲哀の感動を含めたものだから、上の句の稍小きざみになつたのは自然の調べなのか、よく分らないが、『我が』を三つも繰返したのは感心しない。そこに行くと、『君待つと吾が戀ひ居ればわが屋戸の簾うごかし秋の風吹く』(卷四・四八八)の方が旨い。似てゐるが初句の『君待つと』で緊つてゐる。結句は、近時橋本氏によつて、ウラブレニケリの訓が唱へられた。
             ○
     山萵苣《やまちさ》の白露《しらつゆ》おもみうらぶるる心《こころ》を深《ふか》み吾《わ》が戀《こ》ひ止《や》まず 〔卷十一・二四六九〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。山萵苣《やまちさ》は食用にする萵苣《ちさ》で、山に生えるのを山萵苣といつたものであらう。エゴの木だといふ説もあるが、白露おくといふ草に寄せた歌だから、大體食用の萵苣と解釋していいやうである。露のために花のしなつてゐるやうに心の萎える心持で序詞とした。この歌も取りたてていふ程のものでないが、『心を深みわが戀ひ止まず』の句が棄てがたいから選んで置いたし、萵苣は食用菜で、日常生活によつて見てゐるものを持つて來たのがおもしろいと思つたので(343)ある。
 
            ○
     垂乳根《たらちね》の母《はは》が養《か》ふ蠶《こ》の繭隱《まよごも》りこもれる妹《いも》を見《み》むよしもがも 〔卷十一・二四九五〕 柿本人麿歌集
 
 同上、人麿歌集出。第三句迄は序詞で、母の飼つてゐる蠶が繭の中に隱るやうに、家に隱つて外に出ない戀しい娘を見たいものだ、といふので、この繭のことを云ふのも日常生活の經驗を持つて來てゐる。蠶に寄する戀といつても、題詠ではなく、斯ういふ歌が先づ出來てそれから寄v物戀と分類したものである。この歌は序詞のおもしろみといふよりも、全體が實生活を離れず、特に都會生活でない農民生活を示すところがおもしろいのである。卷十二(二九九一)に、『垂乳根の母が養《か》ふ蠶《こ》の繭隱《まよごも》りいぶせくもあるか妹にあはずて』といふのがあり、卷十三(三二五八)の長歌に、『たらちねの母が養ふ蠶の繭隱り氣衝《いきづ》きわたり』といふのがあるが、やはり此歌の方が旨い。『いぶせく』では續きが突如としても居り、不自然で妙味がないやうである。
 
            ○
(344)     垂乳根《たらちね》の母《はは》に障《さは》らばいたづらに汝《いまし》も吾《われ》も事《こと》成《な》るべしや 〔卷十一・二五一七〕 作者不詳
 
 正述2心緒1。作者不明。一首の意は、母に遠慮して氣兼してぐづぐづしてゐるなら、お前も私もこの戀を遂げることが出來んではないかといふので、男が女を促す趣の歌である。男が氣を急いで女に向つて斯くまで強いことをいふのも或場合の自然であり、娘の方で母のことをいろいろ氣を揉むことも背景にあつて、なかなかおもしろい歌である。やはりこの卷(二五五七)に、『垂乳根の母に申さば君も我も逢ふとはなしに年ぞ經ぬべき』といふのもあるが、これも母に話して承諾を得る趣で、これも娘心であるが、『母に障《さは》らば』といふ方が直截でいい。
 この『障らば』をば、母の機嫌を害ふならばと解する説がある。これは『障《さはり》』の用例に本づく説であるが、『障《さは》りあらめやも』、『障《さは》り多み』、『障《さは》ることなく』等だけに據るとさうなるかも知れないが、『石《いそ》の上《かみ》ふるとも雨に關《さは》らめや妹に逢はむと云ひてしものを』(卷四・六六四)。『他言《ひとごと》はまこと煩《こちた》くなりぬともそこに障《さは》らむ吾ならなくに』(卷十二・二八八六)。『あしひきの山野さはらず』(卷十七・三九七三)等は、卷四の例に『關』の字を當てた如く、『それに拘わることなく、關係することなく』の意があるので、『山野さはらず』の如くに、そのために礙げらるることなくといふ(345)のは第二に導かれる意味になるのであるから、この歌はやはり、『母に關《かか》わることなく、拘泥することなく』と解釋していいと思ふ。また歌もさう解釋する方がおもしろい。
 
            ○
     苅薦《かりごも》の一重《ひとへ》を敷《し》きてさ寐《ぬ》れども君《きみ》とし寢《ぬ》れば寒《さむ》けくもなし 〔卷十一・二五二〇〕 作者不詳
 
 作者不明。薦蓆《こもむしろ》をただ一枚敷いて寐ても、あなたと御一しよですから、ちつともお寒くはありません、『君とし』とあるから大體女の歌として解していいであらう。第四句原文が、『君共宿者』であるから、キミガムタ。キミトモ。等の訓があるが、『伎美止之不在者《キミトシアラネバ》』(卷十八・四〇七四)などを參考して、平凡にキミトシヌレバと訓むのに從つた。これも民謠風に率直に覺官的にいひあらはしてゐる。『蒸被《むしぶすま》なごやが下《した》に臥《ふ》せれども妹とし宿《ね》ねば肌し寒しも』(卷四・五二四)といふのは、同じやうな氣持を反對に云つたものだが、この歌の方が、寧ろ實際的でそこに強みがあるのである。
 
            ○
(346)     振分《ふりわけ》の髪《かみ》を短《みじか》み春草《はるくさ》を髪《かみ》に綰《た》くらむ妹《いも》をしぞおもふ 〔卷十一・二五四〇〕 作者不詳
 
 振分髪といふのは、髪を肩のあたり迄垂らして切るので、まだ髪を結ぶまでに至らない童女、また童男の髪の風を云う。『綰《た》く』は加行下二段の動詞で、髪を束ねあげることである。一首の意は、あの兒は短い振分髪で、まだ髪を結えないので、春草を足して髪に束ねてでもいるだらうか、可哀いいあどけないあの兒のことがおもひだされる、といふくらゐの意とおもふ。童女のことを歌つてゐるのが珍しいのであるが、あの時代には隨分小さくて男女の關係を結んだこともあつたと見做してこの歌を解釋することも出來る。眞間の手兒名なども、やうやくをとめになつたかならぬころではなかつただらうか。いづれにしても珍しい歌である。第三句流布本『青草《ワカクサ》』であつたのを古義で『春草』としたが、古鈔本中(温・京)に『春』とあるし、契沖既に注意してゐる。
 
            ○
     念《おも》はぬに到《いた》らば妹《いも》が歡《うれ》しみと笑《ゑ》まむ眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔卷十一・二五四六〕 作者不詳
 
(347) 作者不明。一首の意。突然に女のところに行つたら、嬉しいと云つてにこにこする樣子が想像せられて云ひやうなく樂しい、といふので、昔も今もかはりない人情の機微が出て居る歌である。ただ現代語と違つて古語だから、輕薄に聞こえずに濃厚に聞こえるのである。おもひがけず、突然に、といふのを『念はぬに』といふ。『念はぬに時雨の雨は降りたれど』(卷十・二二二七)。『念はぬに妹が笑《ゑま》ひを夢に見て』(卷四・七一八)等の例がある。『歡《うれ》しみと』の『と』の使ひざまは、『歡《うれ》しみと紐の緒解きて』(卷九・一七五三)とある如く、『と云つて』の意である。にこにこと匂ふやうな顏容をば、『笑まむ眉引』といふのも、實に旨いので、古語の優れてゐる點である。やはり此卷(二五二六)に、『待つらむに到らば妹が歡《うれ》しみと笑《ゑ》まむすがたを行きて早見む』といふのがあり、大に似てゐるが、この方は常識的で、從つて感味が淺い。なほ、卷十二(三一三八)に、『年も經ず歸り來《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ』といふのもある。
 
             ○
     斯くばかり戀ひむものぞと念《おも》はねば妹《いも》が袂《たもと》を纏《ま》かぬ夜もありき 〔卷十一・二五四七〕 作者不詳
 
 作者不明。こんなに戀しいものだとは思はなかつたから、妹といつしよに寢ない晩もあつたの(348)だが、かうして離れてしまふと堪へがたく戀しい。容易《たやす》く逢はれた頃になぜ毎晩通はなかつたのか、と歎く氣持の歌である。當時の男女相逢ふ状態を知つてこの歌を味ふとまことに感の深いものがある。ただこのあたりの歌は作者不明で皆民謠的なものだから、そのつもりで味ふこともまた必要である。卷十二(二九二四)に、『世のなかに戀繁けむと思はねば君が袂を纏かぬ夜もありき』といふのがあり、どちらかが異傳だらうが、卷十一の此歌の方が稍素直である。
 
            ○
     相見《あひみ》ては面《おも》隱《かく》さるるものからに繼《つ》ぎて見《み》まくの欲《ほ》しき君《きみ》かも 〔卷十一・二五五四〕 作者不詳
 
 作者不明。お目にかかれば、お恥かしくて顏を隱したくなるのですけれど、それなのに、度々あなたにお目にかかりたいのです、といふ女の歌である。つつましい女が、身を以て迫るやうな甘美なところもあり、なかなか以て棄てがたい歌である。『面隱さるる』は面隱《おもがくし》をするやうに自然になるといふ意。『玉勝間逢はむといふは誰なるか逢へる時さへ面隱《おもがくし》する』(卷十二・二九一六)の例がある。『ものからに』は、『ものながらに』、『ものであるのに』の意。『路遠み來じとは知れるものからに然かぞ待つらむ君が目を欲り』(卷四・七六六)の『ものからに』も同樣で、おいでにな(349)らないとは承知してゐますのに、それでも私はあなたをお待ちしてゐますといふ歌である。白樂天の琵琶行に、猶抱2琵琶1半遮v面の句がある。
 
             ○
     人《ひと》も無《な》き古《ふ》りにし郷《さと》にある人《ひと》を愍《めぐ》くや君《きみ》が戀《こひ》に死《し》なする 〔卷十一・二五六〇〕 作者不詳
 
 作者不明であるが、舊都にでもなつたところに殘り住んでゐる女から、京にゐる男にでも遣つた歌のやうに受取れる。もう寂しくなつて人も餘り居らないこの舊都に殘つて居ります私に可哀さうにも戀死をさせるおつもりですか、とでもいふのであらう。『めぐし』は、『妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し』(卷五・八〇〇)、『妻子《めこ》見ればかなしくめぐし』(卷十八・四一〇六)等の『めぐし』は愛情の切なことをあらはしてゐるが、『今日のみはめぐしもな見そ言も咎むな』(卷九・一七五九)、『こころぐしめぐしもなしに』(卷十七・三九七八)の『めぐし』は、むごくも可哀想にもの意で前と意味が違ふ、その意味は此處でも使つてゐる。語原的にはこの方が本義で、心ぐし、目ぐしの『ぐし』も皆同じく、『目ぐし』は、目に苦しいまでに附くことから來たものであらうか。結句從來シナセムであつたのを、新考でシナスルと訓んだ。
 
(350)            ○
     僞《いつはり》も似《に》つきてぞする何時《いつ》よりか見《み》ぬ人《ひと》戀《こ》ふに人《ひと》の死《しに》せし 〔卷十一・二五七二〕 作者不詳
 
 一首の意。嘘をおつしやるのも、いい加減になさいまし、まだ一度もお逢ひしたことがないのに、こがれ死するなどとおつしやる筈はないでせう。何時の世の中にまだ見ぬ戀に死んだ人が居りますか、といふやうな意味のことを、かういふ簡潔な古語でいひあらはしてゐるのは實に驚くべきである。『僞も似つきてぞする』は、僞をいふにも幾らか事實に似てゐるやうにすべきだ、餘り出鱈目の僞では困る、といふやうなことを、斯う簡潔にいふので日本語の好いところが遺憾なく出てゐるのである。一首全體が、きびきびとした女の語氣から成り皮肉のやうな言葉のうちに男に寄らうとする親密の心をも含めて、まことに珍しい歌の一つである。結句、古鈔本中、ヒトノシニスルの訓あり、略解でヒトノシニセシと訓んだ。第四句コフルニ(澤瀉)の訓がある。
 
            ○
     早《はや》行《ゆ》きて何時《いつ》しか君《きみ》を相見《あひみ》むと念《おも》ひし情《こころ》今《いま》ぞ和《な》ぎ(351)ぬる 〔卷十一・二五七九〕 作者不詳
 
 いそいで行つて、一時もはやくお前に逢ひたいとおもつてゐたのだつたが、かうしてお前を見るとやつと心が落著いた、といふのだらうが、『君』を男とすると、解釋が少し不自然になるから、やはり此歌は、男が女に向つて『君』と呼んだことに解する方が好いだらう。私は、『今ぞ和ぎぬる』といふ句に非常に感動してこの歌を選んだ。このナギヌルの訓は從來からさうであるが、嘉暦本にはイマゾユキヌルと訓んでゐる。『あが念《も》へる情《こころ》和《な》ぐやと早く來て見むとおもひて』(卷十五・三六二七)、『相見ては須臾《しま》しく戀は和《な》ぎむかとおもへど彌々《いよよ》戀ひまさりけり』(卷四・七五三)、『見る毎に情《こころ》和ぎむと繁山の谿べに生ふる山吹を屋戸に引植ゑて』(卷十九・四一八五)、『天ざかる鄙《ひな》とも著《しる》く許多《ここだ》くもしげき戀かも和《な》ぐる日もなく』(卷十七・四〇一九)等の例に見るごとく、加行上二段に活用する動詞である。
 
             ○
     面形《おもがた》の忘《わす》るとならばあ|ぢ《イづ》きなく男《をのこ》じものや戀《こ》ひつつ居《を》らむ 〔卷十一・二五八〇〕 作者不詳
 
(352) あの女の顏貌《かほかたち》が忘られてしまふものなら、男子たるおれが、こんなに甲斐ない戀に苦しんで居ることは無いのだが、どうしてもあの顏を忘れることが出來ぬ、といふのである。『男じもの』の『じもの』は『何々の如きもの』といふので、『鹿《しし》じもの』は鹿の如きもの、でつまりは、鹿たるものとなるから、『男《をのこ》じもの』は、男の如きもの、男らしきもの、男子たるもの、男子として、大丈夫たるもの等の言葉に譯することも出來るのである。結句の『居らむ』は形は未來形だが、疑問があり詠歎に落著く語調である。この歌の眞率であはれな點が私の心を牽いたので選んで置いた。單に民謠的に安易に歌い去つてゐない個的なところのある歌である。それから、『面形《おもがた》』云々という用語も注意すべきであるが、これは、『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろに棚引く雲を見つつ偲《しぬ》ばむ』(卷十四・三五二〇)といふ歌もあり、一しよにして味ふことが出來る。
 
           ○
     あ|ぢ《イづ》き無《な》く何《なに》の枉言《たはこと》いま更《さら》に小童言《わらはごと》する老人《おいびと》にして 〔卷十一・二五八二〕 作者不詳
 
 枉言はマガコトと訓んでゐたが、略解で狂言としてタハコトと訓んだ。一首は、何といふ愚《おろか》な戲痴《たはけ》たことを俺は云つたものか、この老人が年甲斐もなく、今更小供等のやうな眞似をして、と(353)いふので、それでも、あの女が戀しくて堪へられないといふ意があるのである。これは女に對つて戀情を打明けたのちに、老體を顧みた趣の歌だが、初句に、『あぢきなく』とあるから、遂げられない戀の苦痛が一番強く來てゐることが分かる。これは老人の戀でまことに珍らしいものである。『あぢきなく』は『あづきなく』ともいひ、『なかなかに黙《もだ》もあらましをあぢきなく相見|始《そ》めても吾は戀ふるか』(卷十二・二八九九)の例がある。實に甲斐のない、まことにつまらないといふ程の語である。『わらは』は童男童女いづれにもいひ、『老人《おいびと》も女童兒《をみなわらは》も、其《し》が願ふ心|足《だら》ひに』(卷十八・四〇九四)の例がある。
 戀愛の歌は若い男女のあひだの獨占で、それゆゑ寒山詩にも、老翁娶2少婦1、髪白婦不v耐、老婆嫁2少夫1、面黄夫不v愛、老翁娶2老婆1、一一無2棄背1、少婦嫁2少夫1、兩兩相憐態、とあるのだが、萬葉には稀にかういふ老人の戀の歌もあるのは、人間の實際を虚僞なく詠歎したのが殘つてゐるので、賀茂眞淵が、『古への世の歌は人の眞心なり』云々といふのは、かういふところにも觸れてゐるのである。なほ萬葉には、竹取翁と娘子等の問答(卷十六)のほかに、石川女郎の、『古りにし嫗《おむな》にしてや斯くばかり戀にしづまむ手童《たわらは》の如《ごと》』(卷二・一二九)があり、『いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびて戀をも我は更にするかも』(卷十一・二四一七)、『現にも夢《いめ》にも吾は思《も》はざりき舊《ふ》りたる君に此處に會《あ》はむとは』(同・二六〇一)等があり、老人の戀でおもしろい。
 
(354)            ○
     奥山《おくやま》の眞木《まき》の板戸《いたど》を音《おと》速《はや》み妹《いも》があたりの霜《しも》の上《へ》に宿《ね》ぬ 〔卷十一・二六一六〕 作者不詳
 
 『音速み』は、音がひどいのでの意で、今なら音響の鋭敏などといふところを、『音速み』と云つてゐるのは旨いものである。『奥山の眞木の』までは序詞。一首の意は、折角女の家まで行つて板戸をたたいたが、その音が餘り大きく響くので、家人に氣づかれるのを怖れて、近くの霜の上に寢た、といふので、民謠風のものだが、さう簡單に片付けてしまはれぬものがある。『霜の上に寢ぬ』は民謠的に誇張があり文學的ないひ方である。けれどもそれをただの誇張として素通り出來ぬものを感ずるのはどういふわけであらうか。『妹ガ閨ノ板戸ヲ開ムトスレバ、音ノ高クテ人ノ聞付ム事ヲ恐レ、サリトテ歸リモエヤラデ其アタリノ霜ノ上ニ一夜寢タルトナリ』(代匠記)の解は簡潔でよいから記して置く。新考で、『音速』を、『押し難み』だらうといつたが、それは古今集ばり常識である。
 
            ○
(355)     月夜《つくよ》よみ妹に逢はむと直道《ただぢ》から吾は來つれど夜ぞふけにける 〔卷十一・二六一八〕 作者不詳
 
 『直道』は、眞直な道、まはり道しない道のこと、近道。『から』は『より』と同じで、『之乎路《しをぢ》から直越《ただこ》え來れば羽咋《はぐひ》の海朝なぎしたり船楫《ふねかぢ》もがも』(卷十七・四〇二五)、『直《ただ》に行かず此《こ》ゆ巨勢路《こせぢ》から石瀬《いはせ》踏み求《と》めぞ吾が來し戀ひて術《すべ》なみ』(卷十三・三三二〇)、『ほととぎす鳴きて過ぎにし岡傍《をかび》から秋風吹きぬよしもあらなくに』(卷十七・三九四六)などの『から』は皆『より』の意味だから、只今私等の使ふ『から』は既にこの頃からあつたのである。この歌は、急いでまわり道もせずに來たが、それでも夜が更けたといふ、そこに感慨があるのである。直接に女に愬へてゐない客觀的ないひ方だけれども民謠的な特徴が其處に存じてゐる。
 
              ○
     燈《ともしび》のかげに耀《かがよ》ふうつせみの妹《いも》が咲《ゑまひ》しおもかげに見ゆ 〔卷十一・二六四二〕 作者不詳
 
 寄v物述v思の中に分類せられてゐる。自分の戀しい女が燈火のもとにゐて、嬉しさうににこに(356)こしてゐた時の、何ともいへぬ美しく輝くやうな現身《うつせみ》即ち體《からだ》そのものの女が、今おもかげに立つて來てゐる、といふのである。この歌は嬉しい心持で女身を讚美してゐるのだから、幾分誇張があつて、美麗過ぎる感があるけれども、本人は骨折つてゐるのだからそれに同情して味ふ方がいい。『年も經ず歸り來《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ』(卷十二・三一三八)などと較べると、『燈のかげに』の方は覺官的に直接に云つてゐる。
 
            ○
     難波人《なにはびと》葦火《あしび》焚《た》く屋《や》の煤《す》してあれど己《おの》が妻こそ常《とこ》めづらしき 〔卷十一・二六五一〕 作者不詳
 
 寄v物述v思の一首。難波の人が葦火《あしび》を焚くので家が煤けるが、おれの妻もそのやうにもう古び煤けた。けれどもおれの妻はいつまで經つても見飽きない、おれの妻はやはりいつまでも一番いい、といふので、若い者の甘い戀愛ともちがつて落著いたうちに無限の愛情をたたへてゐる。輕い諧謔を含めてゐるのも親しみがあつて却つて好いし、萬葉の歌は萬事寫生であるから、縱ひ平凡のやうでも人間の實際が出てゐるのである。『青山の嶺の白雲朝にけに常に見れどもめづらし吾君』(卷三・三七七)、『住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも』(卷十・一八(357)八六)等の例がある。結句ツネメヅラシキとも訓んで居り、いづれでも好い。
 
            ○
     馬《うま》の音《と》のとどともすれば松蔭《まつかげ》に出《い》でてぞ見《み》つる蓋《けだ》し君かと 〔卷十一・二六五三〕 作者不詳
 
 結句原文『若君香跡』で、舊訓モシハ・キミカト、考モシモ・キミカトであつたのを古義でケダシ・キミカトと訓んだ。『若雲《ケダシクモ》』(卷十二・二九二九)、『若人見而《ケダシヒトミテ》』(卷十六・三八六八)の例がある。なお額田王の『古に戀ふらむ鳥は霍公鳥|蓋《けだ》しや鳴きし吾が戀ふるごと』(卷二・一一二)があること既にいつた。一首は女が男を待つ心で何の奇も弄しない、つつましい佳い歌である。そしていろいろと具體的に云つてゐるので、讀者にもまたありありと浮んで來るものがあつていい。なほこの歌の次に、『君に戀ひ寢《い》ねぬ朝明《あさけ》に誰が乘れる馬の足音《あのと》ぞ吾に聞かする』(二六五四)、『味酒《うまさけ》の三諸《みもろ》の山に立つ月の見《み》が欲《ほ》し君が馬の音《おと》ぞする』(二五一二)の例がある。
 
              ○
     窓《まど》ごしに月《つき》おし照《て》りてあしひきの嵐《あらし》吹《ふ》く夜《よ》は君《きみ》を(358)しぞ念《おも》ふ 〔卷十一・二六七九〕 作者不詳
 
 第二句原文『月臨照而』で、舊訓ツキサシイリテであつたのを、契沖がツキオシテリテと訓んだ。窓から月が部屋までさし込んで、嵐の吹いてくる今晩は、身に沁みてあなたが戀しうございます、といふので、月の光と山の風とが特に戀人をおもふ情を切實にすることを云つてゐる。私はこの歌で、『窓ごしに月おし照りて』の句に心を牽かれてゐる。普通『窓越しに月照る』といふと、窓外の庭あたりに月の照る趣のやうに解するが、『おし照る』が作用をあらはしたから、月光が窓から部屋までさし込んでくることとなり、まことに旨い云ひかたである。月光を機縁とした戀の歌に、『吾背子がふり放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き』(二六六九)、『眞袖もち床うち払ひ君待つと居りし間《あひだ》に月かたぶきぬ』(二六六七)等がある。
 
            ○
     彼方《をちかた》の赤土《はにふ》の小屋《をや》に※[雨/(月+水)]霖《こさめ》降《ふ》り床《とこ》さへ沾《ぬ》れぬ身に副《そ》へ我妹《わぎも》 〔卷十一・二六八三〕 作者不詳
 
 これは寄v雨歌だから、かういふ云ひ方をするやうになつたもので、『赤土の小屋』即ち、土の(359)うへに建ててある粗末な家に小雨が降つて來て床までも沾れた趣である。そこで結句が導かれるわけで、つまりは、『身に副へ我妹』が一首の主眼となるのである。上の句などは大體の意味を心中に浮べて居れば好いので、小説風に種々解釋する必要はなからうとおもふ。民謠的で、勞働に携はりながらうたふことも出來る歌である。
 
            ○
     潮《しほ》滿《み》てば水沫《みなわ》に浮《うか》ぶ細砂《まなご》にも吾《われ》は生《い》けるか戀《こ》ひは死《し》なずて 〔卷十一・二七三四〕 作者不詳
 
 海の潮が滿ちて來ると、水《みづ》の沫《あわ》に浮んでゐる細《こま》かい砂の如くに、戀死もせずに果敢《はか》なくも生きてゐるのか、といふので、物に寄せた歌だから細砂のことなどを持つて來たものだらうとおもふが、この點はひどく私の心をひいてゐる。近代の象徴詩などといふと雖、かくの如くに自然に行かぬものが多い。『細砂にも』をば、細砂にも自分の命を托して果敢無くも生きてゐると解するともつと近代的になる。眞淵は『み沫《ナワ》の如く浮ぶまさごといひて、我|生《イキ》もやらず死もはてず、浮きてたゞよふこゝろをたとへたり』(考)といつてゐる。
 この第四句は、原文『吾者生鹿』で、舊訓、ワレハナリシカ、代匠記ワレハナレルカ、略解ワレ(360)ハイケルカである。この句を舊訓に從つて、ナリシカと訓み、解釋を『細砂になりたいものだ』とする説もある(新考)。いづれにしても、細砂の中に自分の命を托する意味で同一に歸著する。『解衣《ときぎぬ》の戀ひ亂れつつ浮沙《うきまなご》浮きても吾はありわたるかも』(卷十一・二五〇四)、『白細砂《しらまなご》三津の黄土《はにふ》の色にいでて云はなくのみぞ我が戀ふらくは』(卷十一・二七二五)等の中には、『浮沙』、『白細砂』とあつて、やはり砂のことを云つてゐるし、なほ、『八百日《やほか》ゆく濱の沙《まなご》も吾が戀に豈まさらじか奥つ島守』(卷四・五九六)、『玉津島磯の浦廻《うらみ》の眞砂《まなご》にも染《にほ》ひて行かな妹が觸りけむ』(卷九・一七九九)、『相模路《さがむぢ》の淘綾《よろぎ》の濱の眞砂《まなご》なす兒等《こら》は愛《かな》しく思はるるかも』(卷十四・三三七二)等の例がある。皆相當によいもので、萬葉歌人の寫生力・觀入態度の雋敏に驚かざることを得ない。
 
            ○
     朝柏《あさがしは》閏八河邊《うるはかはべ》の小竹《しぬ》の芽《め》のしぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり 〔卷十一・二七五四〕 作者不詳
 
 此歌は『しぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり』だけが意味内容で、その上は序詞である。やはり此卷に、『秋柏|潤和川邊《うるわかはべ》のしぬのめの人に偲《しぬ》べば君に堪へなく』(二四七八)といふのがある。この『君に堪へなく』といふ句はなかなか佳句であるから、二つとも書いて置く。このあたりの歌は、序(361)詞を顧慮しつつ味ふ性質のもので、取りたてて秀歌といふほどのものではない。
 
             ○
     あしひきの山澤囘具《やまさはゑぐ》を採《つ》みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも 〔卷十一・二七六〇〕 作者不詳
 
 山澤に生えてゐる囘具《ゑぐ》を採みにゆく日なりと都合してあなたにお逢ひしませう。母に叱られても、といふので、當時も母が娘をいろいろ監視してゐたことが分かる。結句の、『母は責むとも』は、前にあつた、『母に障らば』などと同じ氣持である。新考で、『逢はせ』と訓み、新訓で其に從つたが、さうすると、男の方で女にむかつていふことになる。『逢つてください』となるが、少し智的になるだらう。新考のアハセ説は、第四句の『相將』が、古鈔本中(嘉・類)に、『相爲』になつてゐるためであつた。
 
            ○
     蘆垣《あしがき》の中《なか》の似兒草《にこぐさ》莞爾《にこよか》に我《われ》と笑《ゑ》まして人《ひと》に知《し》らゆな 〔卷十一・二七六二〕 作者不詳
 
(362) 『似兒草《にこぐさ》』は箱根草、箱根齒朶といふ説が有力である。『に』の音で『にこよか』(莞爾)に續けて序詞とした。『我と笑まして』は吾と顏合せてにこにこして、吾と共ににこにこしての意。一首の意は、わたしと御一しよにかうしてにこにこしておいでになるところを、人に知られたくないのです、といふので、身體的に直接な珍らしい歌である。此は民謠風な讀人不知の歌だが、後に大伴坂上郎女が此歌を模倣して、『青山を横ぎる雲のいちじろく吾と笑《ゑ》まして人に知らゆな』(卷四・六八八)といふ歌を作つた。これも面白いが、卷十一の歌ほど身體的で無いところに差違があるから、どちらがよいか鑑別せねばならない。
 
            ○
     道のべのいつしば原《はら》のいつもいつも人の許さむことをし待《ま》たむ 〔卷十一・二七七〇〕 作者不詳
 
 この歌は、『人の許《ゆる》さむことをし待たむ』といふのが好いので選んだ。男が女の許すのを待つ、氣長に待つ氣持の歌で、かういふ心情もまた女に對する戀の一表現である。この卷の、『梓弓引きてゆるさずあらませばかかる戀にはあはざらましを』(二五〇五)は、女の歌で、やはり身を寄せたことを『許す』と云つてゐる。なほ、卷十二(三一八二)に、『白妙の袖の別は惜しけども思ひ亂れ(363)て赦しつるかも』といふのがある。この、『赦す』は稍趣が違ふが、つまりは同じことに歸著するのである。
 
            ○
     神南備《かむなび》の淺小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ妾《わ》が思《も》ふ君《きみ》が聲《こゑ》の著《しる》けく 〔卷十一・二七七四〕 作者不詳
 
 一首の、『神南備の淺小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ』は下の『うるはしみ』に續いて序詞となつた。併し現今も飛鳥の雷岳あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁つて立派であつたに相違ない。當時の人(この歌の作者は女性の趣)はそれを觀察してゐて、『うるはし』に續けたのは、詩的力量として觀察しても驚くべく鋭敏で、特に『淺小竹原』と云つたのもこまかい觀察である。もつとも、この語は古事記にも、『阿佐士怒波良《アサジヌハラ》』とある。併しそれよりも感心するのは、一首の中味である、『妾《わ》が思ふ君が聲の著《しる》けく』といふ句である。自分の戀しくおもふ男、即ち夫《をつと》の聲が人なかにあつてもはつきり聞こえてなつかしいといふので、何でもないやうだが短歌のやうな短い抒情詩の中に、かう自由にこの氣持を詠み込むといふことはむつかしい事なのに、萬葉では平然として成し遂げてゐる。
 
(364)            ○
     さ寢《ね》かにば誰《たれ》とも宿《ね》めど沖《おき》つ藻《も》の靡《なび》きし君《きみ》が言《こと》待《ま》つ吾《われ》を 〔卷十一・二七八二〕 作者不詳
 
 おれと一しよに寢ね兼ねるといふのなら、おれは誰とでも寢よう。併し一旦おれに靡き寄つたお前のことだから、お前の決心を待つてゐよう、もう一度思案して、おれと一しよに寢ないかといふので、男が女にむかつていふやうに解釋した。さうすれば『君』は女のことで、今の口語なら、『お前』ぐらゐになる。この歌もなかなか複雜してゐる内容だが、それを事も無げに詠み了せてゐるのは、大體そのころの男女の會話に近いものであつたためでもあらうが、それにしても吾等にはかうは自由に詠みこなすことが出來ないのである。初句、『さ寢かにば』は、『さ寢兼ねば』で、寢ることが出來ないならばである。結句の『吾を』の『を』は『よ』に通ふ詠歎の助詞である。
 
            ○
     山吹《やまぶき》のにほへる妹《いも》が唐棣花色《はねずいろ》の赤裳《あかも》のすがた夢《いめ》に見(365)えつつ 〔卷十一・二七八六〕 作者不詳
 
 この歌は、一首の中に山吹と唐棣《はねず》即ち庭梅《にはうめ》とを入れてそれの色彩を以て組立ててゐる歌だが、少しく單純化が足りないやうである。それにも拘はらず此歌を選んだのは、夢に見た戀人が、唐棣《はねず》色の赤裳を著けてゐたといふ、さういふ色までも詠み込んでゐるのが珍しいからである。萬葉集の歌は夢をうたふにしても、かく具體的で寫象が鮮明であるのを注意すべきである。
 
             ○
     こもりづの澤《さは》たづみなる石根《いはね》ゆも通《とほ》しておもふ君《きみ》に逢《あ》はまくは 〔卷十一・二七九四〕 作者不詳
 
 この歌も、谿間の水の具合をよく觀てゐて、それを序詞としたのに感心すべく、隱れた水、澤にこもり湧く水が、石根をも通し流れるごとくに、一徹におもつてをります、あなたに逢ふまでは、といふので山の歌らしくおもへる。この卷に、『こもりどの澤泉《さはいづみ》なる石根をも通してぞおもふ吾が戀ふらくは』(二四四三)といふのがあるが、二四四三の方が原歌で、二七九四の方は分かり易く變化したものであらう。さうして見れば、『石根ゆも』は『石根をも』と類似の意味か。
 
(366)            ○
     人言《ひとごと》を繁《しげ》みと君《きみ》を鶉《うづら》鳴《な》く人《ひと》の古家《ふるへ》に語《かた》らひて遣《や》りつ 〔卷十一・二七九九〕 作者不詳
 
 人の噂がうるさいので、鶉鳴く古い空家のやうなところに連れて行つて、そこでいろいろとお話をして歸したといふので、『君』をば男と解釋していいだらう。この歌で、『語らひて遣りつ』の句は、まことに働きのあるものである。訓は大體考・略解に從つた。
 
           ○
     あしひきの山鳥《やまどり》の尾《を》の垂《しだ》り尾《を》の長《なが》き長夜《ながよ》を一人《ひとり》かも宿《ね》む 〔卷十一・二八〇二〕 作者不詳
 
 この歌は、『念《おも》へども念ひもかねつあしひきの山鳥の尾の永きこの夜を』(二八〇二)の別傳として載つてゐるが、拾遺集戀に人麿作として載り小倉百人一首にも選ばれたから、此處に選んで置いた。内容は、『長き長夜をひとりかも寢む』だけでその上は序詞であるが、この序詞は口調もよく氣持よき聯想を伴ふので、二八〇二の歌にも同樣に用ゐられた。なほ、『あしひきの山鳥の尾の(367)一峰《ひとを》越え一目《ひとめ》見し兒に戀ふべきものか』(二六九四)の如き一首ともなつてゐる。『尾《を》の一峰《ひとを》』と續き山を越えて來た趣になつてゐる。この『あしひきの山鳥の尾の』の歌は序詞があるため却つて有名になつたが、この程度の序詞ならば萬葉に可なり多い。
 
(368)卷第十二
 
           ○
     わが背子が朝《あさ》けの形《すがた》能《よ》く見《み》ずて今日《けふ》の間《あひだ》を戀《こ》ひ暮《く》らすかも 〔卷十二・二八四一〕 柿本人麿歌集
 
 私の夫が朝早くお歸りになる時の姿をよく見ずにしまつて、一日ぢゆう物足りなく心寂しく、戀しく暮してをります、といふのである。『朝明《あさけ》の形《すがた》』といふ語は、朝別れる時の夫の事をいふのだが、簡潔に斯ういつたのは古語の好い點である。『今日のあひだ』といふ語も好い語で、『梅の花折りてかざせる諸人《もろびと》は今日の間《あひだ》は樂しくあるべし』(卷五・八三二)、『眞袖もち床うち払ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ』(卷十一・二六六七)、『行方《ゆくへ》無みこもれる小沼《をぬ》の下思《したもひ》に吾ぞもの思ふ此の頃の間』(卷十二・三〇二二)等の例がある。なほ、『朝戸出《あさとで》の君が光儀《すがた》をよく見ずて長き春日を戀ひや暮らさむ』(卷十・一九二五)があつて、外形は似てゐるが此歌に及ばないのは、此歌は(369)未だ個的なところが失せないからであらうか。
 
           〇
     愛《うつく》しみ我《わ》が念《も》ふ妹《いも》を人《ひと》みなの行《ゆ》く如《ごと》見《み》めや手《て》に纏《ま》かずして 〔卷十二・二八四三〕 柿本人麿歌集
 
 おれの戀しくおもふ女が、今彼方を歩いてゐるが、それをば普通並の女と一しよにして平然と見て居られようか、手にも纏くことなしに、といふのである。あの女を手にも纏かずに居るのはいかにも辛いが、人目が多いので致し方が無いといふことが含まつてゐる。これだけの意味だが、かう一首に爲上げられて見ると、まことに感に乘つて來て棄てがたいものである。『人皆の行くごと見めや』の句は強くて情味を湛へ、情熱があつてもそれを抑へて、傍觀してゐるやうな趣が、この歌をして平板から脱却せしめてゐる。無論民謠風ではあるが、未だ語氣が求心的である。
 
           ○
     山河《やまがは》の水陰《みづかげ》に生《お》ふる山草《やますげ》の止《や》まずも妹《いも》がおもほゆるかも 〔卷十二・二八六二〕 柿本人麿歌集
 
(370) 上句は序詞で、中味は、『やまずも妹がおもほゆるかも』だけの歌で別に珍らしいものではない。また、『山菅のやまずて君を』、『山菅のやまずや戀ひむ』等の如く、『山菅の・やまず』と續けたのも別して珍らしくはない。ただ、山中を流れてゐる水陰《みづかげ》にながく靡くやうにして群生してゐる菅《すげ》といふ實際の光景、特に、『水陰』といふ語に心を牽かれて私はこの歌を選んだ。この時代の人は、幽玄などとは高調しなかつたけれども、かういふ幽かにして奥深いものに觀入してゐて、それの寫生をおろそかにしてはゐないのである。此歌は人麿歌集出だから人麿或時期の作かも知れない。『あまのがは水陰《みづかげ》草の』(卷十・二〇一三)とあるのも、かういふ草の趣であらうか。
           ○
     朝《あさ》去《ゆ》きて夕《ゆふべ》は來《き》ます君《きみ》ゆゑにゆゆしくも吾《あ》は歎《なげ》きつるかも 〔卷十二・二八九三〕 作者不詳
 
 『君ゆゑに』は、屡出てくる如く、『君によつて戀ふる』、即ち『君に戀ふる』となるのだが、もとは、『君があるゆゑにその君に戀ふる』といふ意であつたのであらうか。一首の意は、朝はお歸りになつても夕方になるとまたおいでになるあなたであるのに、我ながら忌々《いまいま》しくおもふ程に、あなたが戀しいのです、待ちきれないのです、といふ程の歌で、此處の『ゆゆし』は忌々《いまいま》し、厭《いと》(371)はしぐらゐの意。『言《こと》にいでて言はばゆゆしみ山川の激つ心をせかへたるかも』(卷十一・二四三二)の如き例がある。この卷十一の歌の結句訓は、『せきあへてけり』(略解)、『せきあへにたり』(新訓)、『せきあへてあり』(總釋)等がある。『ゆゆし』は、愼しみなく、憚らずといふ意もあつて、結局同一に歸するのだから、此歌の場合も、『愼しみもなく』と翻してもいいが、忌々しいの方がもつと直接的に響くやうである。
 
           ○
     玉勝間《たまかつま》逢《あ》はむといふは誰《たれ》なるか逢《あ》へる時《とき》さへ面隱《おもがく》しする 〔卷十二・二九一六〕 作者不詳
 
 『玉勝間』は逢ふの枕詞で、タマは美稱、カツマはカタマ(籠・筐)で、籠には蓋があつて蓋と籠とが合ふので、逢ふの枕詞とした。一首の意は、一體逢はうといつたのは誰でせう。それなのに折角逢へば、顏を隱したり何かして、といふので、男女間の微妙な會話をまのあたり聞くやうな氣持のする歌である。これは男が女に向つていつてゐるのだが、云はれて居る女の甘い行爲までが、ありありと眼に見えるやうな表現である。女の男を囘避するやうな行爲がひどく覺官的であるが、それが毫も婬靡でないのは簡淨な古語のたまものである。前にも、『面隱さるる』といふ(372)のがあつたが、また、『面無み』といふのもあり、實體的で且つ微妙な味ひのあるいひ方である。
 
           ○
     幼婦《をとめご》は同《おな》じ情《こころ》に須臾《しましく》も止《や》む時《とき》も無《な》く見《み》むとぞ念《おも》ふ 〔卷十二・二九二一〕 作者不詳
 
 この幼婦《をとめ》のわたくしも、あなた同樣、暫らくも休むことなく、絶えずあなたにお逢ひしたいのです、といふのであるが、男から、絶えずお前を見たいと云つて來たのに對して、かういふことを云つたものであらう。この歌では、『同じこころに』と云つたのが好い。『死《しに》も生《いき》も同じ心と結びてし友や違はむ我も依りなむ』(卷十六・三七九七)『紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ』(卷十二・三〇九九)等が參考になるだらう。なほ、この歌で注意すべきは、『幼婦《をとめご》は』といつたので、これは『わたくしは』といふのと同じだが、客觀的に『幼婦は』といふのに却つて親しみがあるやうであり、『幼婦《をとめご》』といふから此歌がおもしろいのである。
 
          ○
     今《いま》は吾《あ》は死《し》なむよ我背《わがせ》戀《こひ》すれば一夜一日《ひとよひとひ》も安《やす》けく(373)もなし 〔卷十二・二九三六〕 作者不詳
 
 一首の意は、あなたよ、もう私は死んでしまふ方が益しです、あなたを戀すれば日は日ぢゆう夜は夜ぢゆう心の休まることはありませぬ、といふので、女が男に愬へた趣の歌である。『死なむよ』は、『死なむ』に詠歎の助詞『よ』の添はつたもので、『死にませう』となるのであるが、この詠歎の助詞は、特別の響を持ち、女が男に愬へる言葉としては、甘くて女の聲その儘を聞くやうなところがある。この歌を選んだのは、さういふ直接性が私の心を牽いたためであるが、後世の戀歌になると、文學的に間接に墮ち却つて惡くなつた。
 卷四(六八四)、大伴坂上郎女の、『今は吾は死なむよ吾背生けりとも吾に縁《よ》るべしと言ふといはなくに』といふ歌は、恐らく此歌の模倣だらうから、當時既に古歌として歌を作る仲間に參考せられてゐたことが分かる。なほ集中、『今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし』(卷十二・二八六九)、『よしゑやし死なむよ吾妹《わぎも》生けりとも斯くのみこそ吾が戀ひ渡りなめ』(卷十三・三二九八)といふのがあり、共に類似の歌である。『死なむよ』の語は、前云つたやうに直接性があつて、よく響くので一般化したものであらう。併し、『死なむよ我背』と女のいふ方が、『死なむよ我妹』と男のいふよりも自然に聞こえるのは、後代の私の僻眼からか。ただ他の歌が(374)皆この歌に及ばないところを見ると、『今は吾は死なむよ我背』が原作で、從つて、『死なむよ我背』が當時の人にも自然であつただらうと謂ふことが出來る。
 
          ○
     吾《わ》が齡《よはひ》し衰《おとろ》へぬれば白細布《しろたへ》の袖《そで》の狎《な》れにし君《きみ》をしぞ念《おも》ふ 〔卷十二・二九五二〕 作者不詳
 
 一首の意は、おれも漸く年をとつて體も衰へてしまつたが、今しげしげと通はなくとも、長年狎れ親しんだお前のことが思出されてならない、といふ程の意で、『君』といふのを女にして、男の歌として解釋したのであつた。無論民謠的にひろがり得る性質の歌だから、『君』をば男にして女の歌と解釋することも出來るが、やはり老人の述懷的な戀とせば男の歌とする方が適當ではなからうか。さすれば、女のことを『君』といつた一例である。それから、『白細布の袖の』までは『狎れ』に續く序詞であるが、やはり意味の相關聯するものがあり、衣の袖を纏き交した時の情緒がこの序詞にこもつてゐるのである。
 萬葉に老人の戀を詠んだ歌のあることは既に前にも云つたが、なほ卷十三には、『天橋《あまはし》も長くもがも高山も高くもがも月讀《つくよみ》の持たる變若水《をちみづ》い取り來て君に奉《まつ》りて變若《をち》得しむもの』(三二四五)、反(375)歌に、『天《あめ》なるや月日の如く吾が思《も》へる公が日にけに老ゆらく惜しも』(三二四六)があり、なほ、『沼名河《ぬながは》の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉かも惜《あたら》しき君が老ゆらく惜しも』(三二四七)といふのもある。これは女が未だ若く、男の老いゆく状況の歌であるが、男を玉に比したり、日月に比したりして大切にしてゐる女の心持が出てゐて珍しいものである。なほ、『悔しくも老いにけるかも我背子が求むる乳母《おも》に行かましものを』(卷十二・二九二六)といふのもある。これは女の歌だが、諧謔だから、女はいまだ老いてはゐないのであらう。略解に、『袖のなれにしとは、年經て袖のなれしと、その男の馴來しとを兼言ひて、君も我も齡のおとろへ行につけて、したしみのことになれるを言へり』とあつて、女の作つた歌の趣にしてゐるのは契沖以來の説である。
 
          ○
     ひさかたの天《あま》つみ空《そら》に照《て》れる日《ひ》の失《う》せなむ日《ひ》こそ吾《わ》が戀《こひ》止《や》まめ 〔卷十二・三〇〇四〕 作者不詳
 
 この戀はいつまでも變らぬ、空の太陽が無くなつてしまふならば知らぬこと、といふのであるが、戀に苦しんでゐるために、自然自省的なやうな氣持で、かういふ云ひ方をしてゐるのである。後代の讀者には、何か思想的に歌つたやうにも感ぜられるけれども、いひ方の動機はさういふの(376)ではなく、もつと具體的な氣持があるのである。この種のものには、『天地に少し至らぬ丈夫と思ひし吾や雄心もなき』(卷十二・二八七五)、『大地《おほつち》も採《と》らば盡きめど世の中に盡きせぬものは戀にしありけり』(卷十一・二四四二)、『六月《みなつき》の地さへ割《さ》けて照る日にも吾が袖|乾《ひ》めや君に逢はずして』(卷十・一九九五)等は、同じやうな發想の爲方の歌として味ふことが出來る。心持が稍間接だが、先づ萬葉の歌の一體として珍重していいだらう。なほ、『外目にも君が光儀を見てばこそ吾が戀やまめ命死なずは』(卷十二・二八八三)があり、『わが戀やまめ』といふ句が入つて居る。
 
          ○
     能登《のと》の海《うみ》に釣《つり》する海人《あま》の漁火《いさりび》の光《ひかり》にい往《ゆ》く月《つき》待《ま》ちがてり 〔卷十二・三一六九〕 作者不詳
 
 まだ月も出ず暗いので、能登の海に釣している海人《あま》の漁火の光を頼りにして歩いて行く、月の出を待ちながら、といふので、やはり相聞の氣持の歌であらう。男が通つてゆく時の或時の逢遭を詠んだものと解釋していいだらうが、比較的獨詠的な分子がある。『光に』の『に』といふ助詞は此歌の場合には注意していいもので、『み空ゆく月の光にただ一目あひ見し人し夢にし見ゆる』(卷四・七一〇)、『玉だれの小簾の隙《すけき》に入りかよひ來ね』(卷十一・二三六四)、『清き月夜に見れど飽(377)かぬかも』(卷二十・四四五三)、『夜のいとまに摘める芹これ』(卷二十・四四五五)等の『に』と同系統のもので色調の稍ちがふものである。なほ、『夕闇は道たづたづし月待ちて往かせ吾背子その間にも見む』(卷四・七〇九)と此歌と氣持が似て居る。いづれにしても燈火を餘り使はずに女のもとに通つたころのことが思出されておもしろいものである。
 
          ○
     あしひきの片山雉《かたやまきぎし》立《た》ちゆかむ君《きみ》におくれて顯《うつ》しけめやも 〔卷十二・三ニー〇〕 作者不詳
 
 旅立つてゆく男にむかつて女の云つた歌の趣である。『片山雉』までは『立つ』につづく序詞である。旅立たれるあなたと離れて私ひとりとり殘されて居るなら、もう心もぼんやりしてしまひませう、といふので、『顯《うつ》しけめやも』、現《うつつ》ごころに、正氣で、確《しつか》りして居ることが出來ようか、それは出來ずに、心が亂れ、茫然として正氣を失ふやうになるだらうといふ意味に落著くのである。この雉を持つて來た序詞は、鑑賞の邪魔をするやうでもあるが、私は、意味よりも音調にいいところがあるので棄て難かつたのである。『僞りも似つきてぞする現《うつ》しくもまこと吾妹子われに戀ひめや』(卷四・七七一)、『高山と海こそは山ながらかくも現《うつ》しく』(卷十三・三三三二)、『大丈(378)夫の現心《うつしごころ》も吾は無し夜晝といはず戀ひしわたれば』(卷十一・二三七六)等が參考となるだらう。なほ、『春の日のうらがなしきにおくれゐて君に戀ひつつ顯《うつ》しけめやも』(卷十五・三七五二)といふ、狹野茅上娘子の歌は全くこの歌の模倣である。おもふに當時の歌人等は、家持などを中心として、古歌を讀み、時にはかく露骨に模倣したことが分かり、模倣心理の昔も今もかはらぬことを示してゐる。『丹波道《たにはぢ》の大江《おほえ》の山の眞玉葛《またまづら》絶えむの心我が思はなくに』(三〇七一)といふのも序詞の一形式として書いておく。
 以上で卷十二の選は終つたが、從屬的にして味つてもいいものが若干首あるから序に書記しておかう。たいして優れた歌ではない。
   死なむ命|此《ここ》は念《おも》はずただにしも妹に逢はざる事をしぞ念《おも》ふ (二九二〇)
   各自《おのがじし》ひと死《しに》すらし妹に戀ひ日《ひ》に日《け》に痩せぬ人に知らえず (二九二八)
   うまさはふ目には飽けども携《たづさ》はり問はれぬことも苦しかりけり (二九三四)
   思ふにし餘りにしかば術を無み吾はいひてき忌《い》むべきものを (二九四七)   現身《うつせみ》の常の辭《ことば》とおもへども繼《つ》ぎてし聞けば心|惑《まど》ひぬ (二九六一)
   あしひきの山より出づる月待つと人にはいひて妹待つ吾を (三〇〇二)
   夕月夜あかとき闇のおぼほしく見し人ゆゑに戀ひわたるかも (三〇〇三)
 
卷第十三
 
          ○
     相坂《あふさか》をうち出《い》でて見《み》れば淡海《あふみ》の海《み》白木綿花《しらゆふはな》に浪《なみ》たちわたる 〔卷十三・三二三八〕 作者不詳
 
 長歌の反歌で、長歌は、『山科《やましな》の石田《いはた》の森の皇神《すめがみ》に幣帛《ぬさ》とり向けて吾は越えゆく相坂《あふさか》山を』云々。もう一つのは、『我妹子に淡海《あふみ》の海《うみ》の沖つ浪來寄す濱邊をくれぐれと獨ぞ我が來し妹が目を欲り』云々といふので、大和から近江の戀人の處に通ふ趣の歌である。この短歌の意味は、相坂(逢坂)山を越えて、淡海の湖水の見えるところに來ると、白木綿で作つた花のやうに白い浪が立つてゐる、といふので、大きい流動的な調子で歌つてゐる。この調子は、はじめて湖の見え出した時の感じに依るもので、從つて戀人に近づいたといふ情緒にも關聯するのである。そこで、『うち出でて見れば』と云つて、『浪たちわたる』と結んでゐるのである。即ちこの歌では『見れば』が大切(380)だといふことになり、源實朝の、『箱根路をわが越え來れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ』との比較の時にも伊藤左千夫がさう云つてゐる。實際、萬葉の此歌に較べると實朝の歌が見劣りのするのは、第一聲調がこの歌ほど緊張してゐないからであつた。この歌は、『白木綿花【神に捧げる幣の代用とした造花】に』などと現代の人の耳に直ぐには合はないやうな事を云つてゐるが、はじめて見え出した湖に對する感動が極めて自然にあらはれてゐるのが好いのである。第三句は、アフミノミでもアフミノウミでもどちらでも好い。それから、『淡海の海』と、『伊豆の海や』との比較にもなるのであるが、やはり『淡海の海』とした方がまさつてゐるだらう。次にこの歌では、『相坂をうち出でて見れば』と云つてゐるが、これを赤人の、『田兒の浦ゆうち出でて見れば』と比較することも出來る。『打出でて見れば』は『打出の濱』といふ名とは關係なく、若しあつても後世の命名であらう。
 
          〇
     敷島《しきしま》の日本《やまと》の國《くに》に人《ひと》二人《ふたり》ありとし念《も》はば何《なに》か嗟《なげ》かむ 〔卷十三・三二四九〕 作者不詳
 
 一首の意は、若しもこの日本の國にあなたのやうな方がお二人おいでになると思ふことが出來(381)ますならば、何《どう》してこんなに嵯きませう。戀しいあなたが唯お一人のみゆゑこんなにも悲しむのです、といふので、この歌の『人』は貴方《あなた》といふぐらゐの意味である。この歌は女としての心の働き方が特殊で、今までの相聞歌の心の動き方と違ふところがあつていい。この歌の長歌は、『敷島の大和の國に人さはに滿ちてあれども藤波の思ひ纏はり若草の思ひつきにし君が目に戀ひやあかさむ長きこの夜を』(三二四八)といふので、この反歌と餘り即き過ぎぬところが旨いものである。この長歌の『人』は人間といふぐらゐの意だが、やはり男といふ意味が勝つてゐるであらう。
 略解で、『わがおもふ人のふたりと有ものならば、何かなげくべきと也』と云つたのは簡潔でいい。なほ、この短歌の、『人二人』云々につき、代匠記で遊仙窟の『天上無v双《ナラビ》人間《ヨノナカニ》有v一《ヒトリノミ》』といふ句を引いてゐたが、この歌の作られた頃に、遊仙窟が渡來したか奈何も定めがたいし、『人二人ありとし念はば』といふやうないひ方は相聞心の發露としてそのころでも云ひ得たものであらう。明治新派和歌のはじめの頃、服部窮治氏は、『天地の間に存在せるはたゞ二人のみ。二人のみと觀ぜむは、夫婦それ自身の本能なり。觀ぜざるべからざるにあらず、おのづからにして觀ずべしとす。夫婦はしかも一體なり。大なる我なり。我を離れて天地あらず、天地の相は我の相なり。既に我の相を自識し、我の存在を自覺せらば、何をもとめて何かなげかむ。我は長へに安かるべく、世は時じくに樂しかるべし。蓋しこの安心は絶對なり』(戀愛詩評釋)と解釋し、古義の解釋を、(382)『何ぞそれ鑑識のひくきや』等と評したのであつたが、やはり從來の解釋(略解・古義等)の方が穩當であつた。併し新派和歌當時の萬葉鑑賞の有樣を參考のために示さうとしてここに引用したのである。
 
          ○
     川《かは》の瀬《せ》の石《いし》ふみ渡《わた》りぬばたまの黒馬《くろま》の來《く》る夜《よ》は常《つね》にあらぬかも 〔卷十三・三三一三〕 作者不詳
 
 長歌の反歌で、長歌は、『こもりくの泊瀬小國《はつせをぐに》によばひせす吾がすめろぎよ』云々といふ女の歌である。この短歌は、川瀬の石を踏渡つて私のところに黒馬の來る晩はいつでも變らずかうあらぬものか、毎晩御通ひになることを御願してをります、といふので、『常にあらぬかも』は疑問をいつて、願望になつてゐるのである。『我が命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河《をがは》を行きて見むため』(卷三・三三二)の『常にあらぬか』がやはりさうである。卷四(五二五)、坂上郎女の、『佐保河の小石《こいし・さざれ》踏み渡りぬばたまの黒馬の來る夜は年にもあらぬか』は、恐らくこの歌の模倣だらうと想像すれば、既に古歌として傳誦せられ、作歌の時の手本になつたものと見える。『黒馬』といつたのは印象的でいい。
(383) 卷十三から選んだ短歌は以上のごとく少いが、卷十三は長歌で特色のあるものが多い。然るにこの選は長歌を止めたから、その結果がかくのごとくになつた。
 
(384)卷第十四
 
          ○
     夏麻《なつそ》引《ひ》く海上潟《うなかみがた》の沖《おき》つ渚《す》に船《ふね》はとどめむさ夜《よ》ふけにけりり 〔卷十四・三三四八〕 東歌
 
 この卷十四は、いわゆる『東歌《あづまうた》』になるのであるが、東歌は、東國地方に行はれた、概して民謠風な短歌を蒐集分類したもので、從つて卷十・十一・十二あたりと同樣作者が分からない。併し、作者も單一でなく、中には京から來た役人、旅人等の作もあらうし、京に住んだことのある遊行女婦のたぐひも交つてゐようし、或は他から流れこんだものが少しく變形したものもあり、京に傳達せられるまで、【折口博士は、大倭宮廷に漸次に貯留せられたものと考へてゐる。】幾らか手を入れたものもあるだらう。さういふ具合に單一でないが、大體から見て東國の人々によつて何時のまにか作られ、民謠として行はれてゐたものが大部分を占めるやうである。從つて卷十四の東歌だけでも、年代は相當の期間が含ま(385)れてゐるものの如く、歌風は、大體訛語を交へた特有の歌調であるが、必ずしも同一歌調で統一せられたものではない。
 『夏麻《なつそ》ひく』は夏《なつ》の麻《あさ》を引く畑畝《はたうね》のウネのウからウナカミのウに續けて枕詞とした。『海上潟』は下總に海上郡があり、即ち利根川の海に注ぐあたりであるが、この東歌で、『右一首、上總國の歌』とあるのは、古へ上總にも海上郡があり、今市原郡に合併せられた、その海上《うなかみ》であらう。さうすれば東京湾に臨んだ姉ケ崎附近だらうとせられて居る。一首の意は、海上潟の沖にある洲のところに、船を泊《と》めよう、今夜はもう更けてしまつた、といふのである。單純素朴で古風な民謠のにほひのする歌である。『船はとどめむ』はただの意嚮でなく感慨が籠つてゐてそこで一たび休止してゐる。それから結句を二たび起して詠歎の助動詞で止めてゐるから、下の句で二度休止がある。此歌は、伸々とした歌調で特有な東歌ぶりと似ないので、略解などでは、東國にゐた京役人の作か、東國から出でて京に仕へた人の作ででもあらうかと疑つてゐる。また卷七(一一七六)に、『夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず』といふのがあつて、上の句は全く同一である。この卷七の歌も古い調子のものだから、どちらかが原歌で他は少し變化したものであらう。卷七の歌も『※[羈の馬が奇]旅にて作れる』の中に集められてゐるのだから、東國での作だらうと想像せられるにより、二つとも傳誦せられてゐるうち、一つは東歌として蒐集せられたものの中に入つたも(386)のであらう。二つ較べると卷七の方が原歌のやうでもある。
 この歌の次に、『葛飾の眞間の浦廻《うらみ》を榜ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも』(三三四九)といふ東歌(下總國歌)があるのに、卷七(一二二八)に、『風早の三穗の浦廻を榜ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも』といふ歌があつて、下の句は全く同じであり、風早の三穗は風早を風の強いことに解し、三穗を駿河の三保だとせば、どちらかが原歌で、傳誦せられて行つた近國の地名に變形したもので、卷七の歌の方が原歌らしくもある。併し、此等の東歌といふのも、やはり東國で民謠として行はれてゐたことは確かであらう。仙覺抄に、『ヨソヘヨメル心アルベシ』云々とあるのは、民謠的なものに感じての説だとおもふ。
 
          ○
     筑波嶺《つくばね》に雪《ゆき》かも降《ふ》らる否《いな》をかも愛《かな》しき兒《こ》ろが布《にぬ》乾《ほ》さるかも 〔卷十四・三三五一〕 東歌
 
 常陸國の歌といふ左注が附いてゐる。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降つたのか知ら、いやさうではなからう、可哀いい娘が白い布《ぬの》を干してゐるのだらう、といふほどの意で、『否をかも』は『否かも』で『を』は調子のうへで添へたもの、文法では感歎詞の中に入れてある。(387)『相見ては千歳や去《い》ぬる否《いな》をかも我や然《しか》念ふ君待ちがてに』(卷十一・二五三九)の『否をかも』と同じである。古樸な民謠風のもので、二つの聯想も寧ろ原始的である。それに、『降れる』といふところを『降らる』と訛り、『乾せる』といふところを『乾さる』と訛り、『かも』といふ助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の聲調を形成してゐるので、一種の快感を以て勞働と共にうたふことも出來る性質のものである。『かなしき』は、心の切に動く場合に用ゐ、此處では可哀いくて爲方のないといふ程に用ゐてゐる。『兒ろ』の『ろ』は親しんでつけた接尾辭で、複數をあらはしてはゐない。この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でもすぐれて居る。
 ニヌは原文『爾努』で舊訓ニノ。仙覺抄でニヌと訓み、考でニヌと訓んだ。布《ぬの》の事だが、古鈔本中、『爾』が『企』になつてゐるもの(類聚古集)があるから、さうすれば、キヌと訓むことになる。即ち衣《きぬ》となるのである。
 
          ○
     信濃《しなぬ》なる須賀《すが》の荒野《あらの》にほととぎす鳴《な》く聲《こゑ》きけば時《とき》過《す》ぎにけり 〔卷十四・三三五二〕 東歌
 
 『すがの荒野』を地名とすると、和名鈔の筑摩郡|苧賀《ソガ》郷で、梓川と楢井川との間の曠野だとする(388)説【地名辭書】が有力だが、他にも説があつて一定しない。元は普通名詞即ち菅の生えて居る荒野といふ意味から來た土地の名だらうから、此處は信濃の一地名とぼんやり考へても味ふことが出來る。一首の意は、信濃の國の須賀の荒野に、霍公鳥の鳴く聲を聞くと、もう時季が過ぎて夏になつた、といふのである。霍公鳥の鳴く頃になつたといふ詠歎で、この季節の移動を詠歎する歌は集中に多いが、この歌は民謠風なものだから、何か相聞的な感じが背景にひそまつてゐるだらう。『秋萩の下葉の黄葉花につぐ時過ぎ行かば後戀ひむかも』(卷十・二二〇九)、次に評釋する、『このくれの時移りなば』(三三五五)、『わたつみの沖つ繩海苔《なはのり》來る時と妹が待つらむ月は經につつ』(卷十五・三六六三)、『戀ひ死なば戀ひも死ねとやほととぎす物|思《も》ふ時に來鳴き響《とよ》むる』(三七八○)等の心持を參照すれば、此歌の背後にある戀愛情調をも感じ得るのである。つまり誰かを待つといふ情調であらう。そして信濃國でかういふ歌が勞働のあひまなどに歌はれたものであらう。民謠だから自分等のうたふ歌に地名を入れるので、他にも例が多く、必ずしも※[羈の馬が奇]旅にあつて詠んだとせずともいいであらう。『アラノ』(安良能)といって『アラヌ』(安良努)と云はなかつたのは、この歌ではアラノと發音してゐたことが分かる。一種の地方訛であつただらう。この歌の調子はほかの東歌と似てゐないが、かういふ歌をも信濃でうたつてゐたと解釋すべきで、共に日本語だから共通してゐて毫もかまはぬのである。賀茂眞淵が、この歌を模倣して、『信濃なる菅の荒野を飛ぶ鷲の(389)翼もたわに吹く嵐かな』と詠んだが、未だ萬葉調になり得なかつた。『吹く嵐かな』などといふ弱い結句は萬葉には絶對に無い。
 
          ○
     天《あま》の原《はら》富士《ふじ》の柴山《しばやま》木《こ》の暗《くれ》の時《とき》移《ゆつ》りなば逢《あ》はずかもあらむ 〔卷十四・三三五五〕 東歌
 
 これは駿河國歌で相聞として分類している。『天のはら富士の柴山木の暗《くれ》の』までは『暮《くれ》』(夕ぐれ)に續く序詞で、空に聳えてゐる富士山の森林のうす暗い寫生から來てゐるのである。一首の意は夕方に逢はうと約束したから、かうして待つてゐるがなかなか來ず、この儘時が移つて行つたら逢ふことが出來ないのではないか知らん、といふので、この内容なら普通であるが、そのあたりで歌つた民謠で、富士の森林を入れてあるし、ウツリ(移り)をユツリと訛つてゐたりするので、東歌として集められたものであらう。この歌の、『時移りなば』の句は、時間的には短いが、その氣持は、前の『信濃なる』の歌を解釋する參考となるものである。取りたてていふ程の歌でないが、『妹が名も吾が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ』(卷十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでゐるので注意したのであつた。
 
(390)           ○
     足柄《あしがら》の彼面此面《をてもこのも》に刺《さ》す羂《わな》のかなる間《ま》しづみ兒《こ》ろ我《あれ》紐《ひも》解《と》く 〔卷十四・三三六一〕 東歌
 
 相模國歌で、足柄は範圍はひろかつたが、此處は足柄山とぼんやり云つてゐる。『彼面此面《をてもこのも》』は熟語で、あちらにもこちらにもといふのであらう。下に、『筑波嶺のをてもこのもに』(三三九三)といふ例があり、東歌的訛の口調である。卷十七(四〇一一)の長歌で家持が、『あしひきのをてもこのもに鳥網《となみ》張り』云々と使つたのは、此歌の模倣で必ずしも都會語ではなかつただらう。『かなる間しづみ』はよく分からない。代匠記では鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》で、鹿の鳴いて來る間に屏息して待つてゐる意に取つたが、或は、『か鳴る間しづみ』で、羂《わな》に動物がかかつて音立てること、鳴子のやうな装置でその音響を知ることで、『か鳴る』の『か』は接頭辭であらう。その動物のかかる間、じつと靜かにして、息をこらしてといふことになるであらう。 一首の意は、『かなる間しづみ』までは序詞で、いろいろとうるさい噂などが立つが、じつとこらへて、かうしてお前とおれは寢るのだよ、といふのである。代匠記に、『シノビテ通フ所ニモ皆人ノ臥シヅマルヲ待テ兒等モ吾モ共ニ下紐解トナリ』と云つてゐる。結句の、八音の中に、『兒ろ(391)吾《あれ》紐解く』即ち、可哀い娘と己《おれ》とがお互に著物の紐を解いて寢る、といふ複雜なことを入れてあり、それが一首の眼目なのだから、調子がつまつてなだらかに伸びてゐない。それに上の方も順じて調子がやはり重く壓搾されてゐるが、全體としては進行的な調子で、勞働歌の一種と感ずることが出來る。恐らく足柄山中の樵夫などの間に行はれたものであつただらう。調子も古く感じ方材料も古樸でおもしろいものである。
 『荒男《あらしを》のい小箭《をさ》手挾《たはさ》み向ひ立ちかなる間《ま》しづみ出でてと我《あ》が來る』(卷二十・四四三〇)は『昔年の防人の歌』とことわつてあるが、此歌にも、『かなる間しづみ』といふ語が入つてゐる。併し此語は卷十四の歌語を踏まへて作つたものと看做すことも出來るから、この語の原意は卷十四の方にあるだらう。なほ、『はろばろに家を思ひ出《で》負征箭《おひそや》のそよと鳴るまで歎きつるかも』(卷二十・四三九八)、『この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも』(卷十三・三二七〇)がある。
 
          ○
     ま愛《がな》しみさ寢《ね》に吾《わ》は行《ゆ》く鎌倉《かまくら》の美奈《みな》の瀬《せ》河《がは》に潮《しほ》滿《み》つなむか 〔卷十四・三三六六〕 東歌
 
 相模國歌で、『みなの瀬河』は今の稻瀬川で坂の下の東で海に入る小川である。一首は、戀しく(392)なつてあの娘の處に寢に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が滿ちて渡りにくくなつてゐるだらうか、といふのである。『潮滿つなむか』は、『潮滿つらむか』の訛である。内容は古樸な民謠で取りたてていふ程のものではないが、歌調が快く音樂的に運ばれて行くのが特色で、かういふ獨特の動律で進んでゆく歌調は、人麿の歌などにも無いものである。例へば、『玉裳の裾に潮みつらむか』(卷一・四〇)でもかう無邪氣には行かぬところがある。また、『ま愛《がな》しみ寢《ぬ》らく愛《はし》けらくさ寢《な》らくは伊豆の高嶺《たかね》の鳴澤《なるさは》なすよ』(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。
 
          ○
     武藏野《むさしぬ》の小岫《をぐき》が雉《きぎし》立《た》ち別《わか》れ往《い》にし宵《よひ》より夫《せ》ろに逢《あ》はなふよ 〔卷十四・三三七五〕 東歌
 
 『岫』は和名鈔に山穴似v袖云々といつてゐるが、小山に洞などがあつて雉子の住む處を聯想せしめる。雉が飛立つので、『立ち別れ』に續く序詞とした。『逢はなふよ』は『逢はず・よ』『逢はぬ・よ』、『逢はない・よ』である。一首の意は、あの晩に別れたきり、いまだに戀しい夫に逢はずに居ります、といふ女の歌であるが、結句の訛と、『よ』なども特殊なものにしてゐる。東歌には、(393)結句に、『鳴澤なすよ』などもあり、他に餘りない結句である。この歌の結句は、『崩岸邊《あずへ》から駒の行《ゆ》こ如《の》す危《あや》はども人妻兒《ひとづまこ》ろをまゆかせらふも』(卷十四・三五四一)【目ゆかせざらむや】のに似てゐる。一首全體として見れば、武藏野と丘陵と雉の生活と、別れた夫を慕ふ心と合體して邪氣の無い快い歌を形成して ゐる。
 
          ○
     鳰鳥《にほどり》の葛飾早稻《かづしかわせ》を饗《にへ》すとも其《そ》の愛《かな》しきを外《と》に立《た》てめやも 〔卷十四・三三八六〕 東歌
 
 下總國の歌。鳰鳥【かいつぶり】は水に潛《かづ》くので、葛飾《かづしか》のかづへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾區一帶。『饗《にへ》』は神に新穀を供へ祭ること、即ち新嘗《にひなめ》の祭をいふ。『にへ』は贄で、『にひなめ』は、『にへのいみ』【折口博士】の義だとしてある。一首の意は、今は縱ひ葛飾で出來た早稻の新米を神樣に供へてお祭をしてゐる大切な、身を潔くしてゐなければならない時であつても、あの戀《いと》しいお方のことですから、空しく家の外に立たせては置きませぬ、といふので、『その愛しき』の『その』は憶良の歌にもあつた、『そのかの母も』(三三七)の場合と同じである。輕く『あの』ぐらゐにとればいい。それにしても、自分の戀しいあのお方といふことを、『その愛《かな》しきを』といふ、簡潔でぞくぞ(394)くさせる程の情味もこもりゐる、まことに旨い言葉である。農業民謠で、稻扱などをしながら大勢して歌ふこともまた可能である。
 
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     信濃路《しなぬぢ》は今いまの墾道《はりみち》刈株《かりばね》に足《あし》踏《ふ》ましむな履《くつ》著《は》け我《わ》が夫《せ》 〔卷十四・三三九九〕 東歌
 
 信濃國歌。『今の墾道』は、まだ最近の墾道といふので、『新治《にひばり》の今つくる路さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを』(卷十二・二八五五)が參考になる。一首の意は、信濃の國の此處の新開道路は、未だ出來たばかりで、木や竹の刈株があつてあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、履をお穿きなさい、といふのである。履は藁靴であつただらう。これも、旅人の氣持でなく、現在其處にゐても、『信濃路は』といつてゐること、前の、『信濃なる須賀の荒野に』と同じである。山野を歩いて爲事をする夫の氣持でやはり農業歌の一種と看ていい。『かりばね』は『苅れる根を言ふべし』(略解)だが、原意はよく分からぬ。近時『刈生根《かりふね》』の轉【井上博士】だらうといふ説をたてた。私の郷里では足を踏むことをカツクイ・フムといつてゐる。
 
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(395)     吾《あ》が戀《こひ》はまさかも悲《かな》し草枕《くさまくら》多胡《たこ》の入野《いりぬ》のおくもかなしも 〔卷十四・三四〇三〕 東歌
 
 上野國歌。『多胡』は上野國多胡郡。今は多野郡に屬した。『草枕』を『多胡』の枕詞としたのは、タビのタに續けたので變則の一つである。垂水之水能早敷八師《タルミノミヅノハシキヤシ》(卷十二・三〇二五)で、ハヤシのハとハシキヤシのハに續けたたぐひである。『入野』は山の方へ深く入りこんだ野といふ意味であらう。『まさか』は『正《まさ》か』で、まさしく、現に、今、等の意に落著くだらう。『梓弓すゑはし知らず然れどもまさか〔三字右○〕は君に縁りにしものを』(卷十二・二九八五)、『しらがつく木綿は花物ことこそは何時《いつ》のまさか〔三字右○〕も常忘らえね』(二九九六)、『伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奥をな兼ねそまさか〔三字右○〕し善かば』(卷十四・三四一〇)、『さ百合《ゆり》花|後《ゆり》も逢はむと思へこそ今のまさか〔三字右○〕も愛《うるは》しみすれ』(卷十八・四〇八八)等の例がある。一首の意は、自分の戀は、いま現《げん》にこんなにも深く強い。多胡の入野のやうに【序詞】奥の奥まで相かはらずいつまでも深くて強い、といふのである。『まさかも』、それから、『おくも』と續いてをり、『かなし』を繰返してゐるが、このカナシといふ音は何ともいへぬ響を傳へてゐる。民謠的に誰がうたつてもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと傳はつたものと見えるが、甘美でもあり切實の悲哀もあり、不思議にも身に沁みるいい歌である。この(396)歌は男の歌か女の歌か、略解も古義も女の歌として居り、『夫の旅別の其際もかなし、別て末に思はむも悲しといふ也』(略解)とあるが、却つて男の歌として解し易いやうでもある。併しかういふのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういふ者だらうかなどといふ個人を絶してしまつてゐる。
 
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     上毛野《かみつけぬ》安蘇《あそ》の眞麻《まそ》むら掻《か》き抱《むだ》き寢《ぬ》れど飽《あ》かぬを何《あ》どか吾《あ》がせむ 〔卷十四・三四〇四〕 東歌
 
 上野國歌。『安蘇』は下野安蘇郡であらうが、もとは上野に入つてゐたと見える。この卷に、『下毛野|安素《あそ》の河原よ』(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかつてゐたことが分かる。『眞麻《まそ》むら』は、眞麻《まあさ》の群《むれ》で、それを刈つたものを抱きかかへて運ぶから、『抱《むだ》き』に續く序詞とした。一首の意は、眞麻むらの麻の束を抱《だ》きかかへるやうに【序詞】可哀いお前を抱いて寢たが、飽きるといふことがない、どうしたらいいのか、といふのである。これも農民のあひだに傳はつたものであらうが、序詞も無理でなく、實際生活を暗指しつつ戀愛情緒を具體的にいつて、少しもみだらな感を伴はず、嫉ましい感をも伴はないのは、全體が邪氣なく快いものだからであらう。それには(397)アドカ・アガセムといふ訛も手傳つてゐるらしく思はれるけれども、單にそれのみでなく、『何《あど》か吾がせむ』といふ切實な句が此歌の價値を高めてゐるからであらう。この句は萬葉に『あどせろとかもあやに愛《かな》しき』(三四六五)の例があるのみで、ほかは、『家に行きて如何にか吾がせむ〔八字右○〕枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも』(卷五・七九五)、『斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ〔七字右○〕人目繁くて』(卷四・七五二)、『今のごと戀しく君が思ほえばいかにかもせむ〔七字右○〕爲《す》るすべのなさ』(卷十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛してゐる。
 
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     伊香保《いかほ》ろのやさかの堰《ゐで》に立《た》つ虹《ぬじ》の顯《あらは》ろまでもさ寢《ね》をさ寢《ね》てば 〔卷十四・三四一四〕 東歌
 
 『やさかの堰《ゐで》』は八坂という處にあつた河水を湛へ止めた堰(ゐぜき・せき・つつみ)であらう。八坂は今の伊香保温泉の東南に水澤といふ處がある、其處だらうと云はれてゐる。一首の意は、伊香保の八坂の堰に虹があらはれた【序詞】どうせあらはれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しよにかうして寢てゐたいものだ、といふのであるが、これも『さ寢をさ寢てば』などと云つても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰《ゐぜき》の上に立つた虹の寫象と共に、一種不思議な快いものを感ぜ(398)しめる。虹の歌は萬葉集中此一首のみだからなほ珍重すべきものである。虹は此歌では、努自《ヌジ》と書いてあるが、能自《ノジ》、禰自《ネジ》、爾自《ニジ》等と變化した。古事記に、『うるはしとさ寢しさ寢てば苅薦《かりごも》の亂れば亂れさ寢しさ寢てば』といふ歌謠があり、この卷にも、『河上の根白高萱あやにあやにさ寢さ寢てこそ言《こと》に出《で》にしか』(三四九七)といふのがあつて參考になる。『顯《あらは》ろまで』は、『顯るまで』の訛で、かういふ訛もまた一首の鑑賞に關係あらしめてゐる。虹の如き鮮明な視覺寫象と、男女相寢るといふこととの融合は、單に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、かういふ點になると古代人の方が我々よりも上手《うはて》のやうである。
 
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     下毛野《しもつけぬ》みかもの山《やま》の小楢《こなら》如《の》す目細《まぐは》し兒《こ》ろは誰《た》が笥《け》か持《も》たむ 〔卷十四・三四二四〕 東歌
     下毛野《しもつけぬ》安蘇《あそ》の河原《かはら》よ石《いし》踏《ふ》まず空《そら》ゆと來《き》ぬよ汝《な》が心《こころ》告《の》れ 〔卷十四・三四二五〕 東歌
 
 下野歌を二つ一しよに此處に書いた。第一の歌、『みかも』は、延喜式の都賀郡三鴨驛、今、下(399)都賀郡、岩舟驛の近くにある。下野の三鴨の山に茂つてゐる小楢の葉の美しいやうに、美しく可哀らしいあの娘は、誰の妻になつて、食事の器を持つだらう、御飯の世話をするだらう、といふのだが、やはりつまりはおれの妻になるのだといふことになる。疑問に云つてゐるがつまりは自らに肯定する云ひ方である。古代民謠は、ただ悲觀的に反省し諦念してしまはないのが普通だからである。それからこの小楢の如く美しいといふのは、楢の若葉の感じである。結句|多賀家可母多牟《タカケカモタム》は、『手カケカモタム』(仙覺抄)、『高キカモタムニテ、高キハ夫ナリ。夫ハ妻ノタメニハ天ナレバ高キト云ヘリ』代匠記)等と解したが、大神|眞潮《ましほ》が、誰笥歟將持《タガケカモタム》の意に解し、古義で紹介した。『香具山は畝火を愛《を》しと』の解と共に永久不滅である。但し、拾穗抄に既に、『誰が家《け》か持たむ』の説があるが、『笥』までは季吟も思い及ばなかつたのである。
 第二の歌は、前にあつた安蘇と同じ土地で、そこの河である。安蘇河の河原の石も踏まず、空から飛んでお前のところにやつて來たのだ、何が何だか分からず宙を飛ぶやうな氣持でやつて來たのだから、これ程おもふ俺にお前の氣持をいつて呉れ、といふので、『空ゆと來ぬ』が特殊ないひ方で、今の言葉なら、『宙を飛んで來た』ぐらゐになる。卷十二(二九五〇)に、『吾妹子が夜戸出《よとで》の光儀《すがた》見てしよりこころ空《そら》なり地《つち》は踏めども』も、足が地に著かず、宙を歩いてゐるやうな氣持をあらはしてゐる。
(400) かういふ歌は、當時の人々は樂々と作り、快く相傳へてゐたものとおもふが、現在の吾々は、ただそれを珍らしいと思ふばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小楢の若葉の日光に透きとほるやうな柔かさと、女の膚膩の健康な血をとほしてゐる具合とを合體せしめる感覺にも感心せしめられるし、『誰が笥か持たむ』といふ簡潔で、女の行爲が男に接觸する程な鮮明を保持せしめてゐるいひ方も、石も踏まずとことわつて、さて虚空を飛んで來たといふ云ひ方も、一體何處にかういふ技法力があるのだらうとおもふ程である。ただもともと民謠だから、全體が輕妙に運ばれたもので、そこが個人的獨詠歌などと違ふ點なのである。
 
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     鈴《すず》が音《ね》の早馬驛《はゆまうまや》の堤井《つつみゐ》の水《みづ》をたまへな妹が直手《ただて》よ 〔卷十四・三四三九〕 東歌
 
 雜歌。『早馬驛』は、早馬《はやうま》を準備してある驛《うまや》といふ意。『堤井』は、湧いてゐる泉を圍つた井で、古代の井は概ねそれであつた。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のゐる驛(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、といふのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたはれたものか、少くともさういふ場處が作歌の中心であつただら(401)う。そして驛には古もかはらぬ可哀い女がゐただらうから、そこで、『妹が直手《ただて》よ』といふ如き表現が出來るので、實にうまいものである。『直手よ』の『よ』は『より』で、直接あなたの手からといふのである。いづれにしても快い歌である。
 
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     おもしろき野《ぬ》をばな燒《や》きそ古草《ふるさく》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに 〔卷十四・三四五二〕 東歌
 
 こころよいこの春の野を燒くな。去年の冬枯れた古草にまじつて、新しい春の草が生えて來るから、といふので、『生ふるがに』は、生ふべきものだからといふぐらゐの意である。『おもしろし』も今の語感よりも、もつと感に入る語感で、萬葉で※[立心偏+可]怜の字を當ててゐるのを以ても分かる。こころよい、なつかしい、身に沁みる等と翻していい場合が多い。※[立心偏+可]怜を『あはれ』とも訓むから、その情調が入つてゐるのである。この歌の字面はそれだけだが、この歌は民謠で、野の草を哀憐する氣持の歌だから、引いて人事の心持、古妻といふやうな心持にも聯想が向くのであるが、現在の私等はあつさりと鑑賞して却つて有益な歌なのかも知れない。
 
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(402)     稻《いね》舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手《て》を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取《と》りて嘆《なげ》かむ 〔卷十四・三四五九〕 東歌
 
 『皹《かが》る』は、皹《ひび》のきれることで、アカガリ、アカギレともいふ。『殿の稚子』は、地方の國守とか郡守とか豪族とかいふ家柄の若君をいふので、歌ふ者はそれよりも身分の賤しい農婦として使はれてゐる者か、或は村里の娘たちといふ種類の趣である。一首の意は、稻を舂いてこんなに皹《ひび》の切れた私の手をば、今夜も殿の若君が取られて、可哀さうだとおつしやることでせう、御一しよになる時にお恥しい心持もするといふ餘情がこもつてゐる。内容が斯く稍戲曲的であるから、いろいろ敷衍して解釋しがちであるが、これも農民のあひだに行はれた勞働歌の一種で、農婦等がこぞつてうたふのに適したものである。それだから『殿の若子』も、この『我が手』の主人も、誰であつてもかまはぬのである。ただこの歌には、身分のいい青年に接近してゐる若い農小婦の純粹なつつましい語氣が聞かれるので、それで吾々は感にたへぬ程になるのだが、よく味へばやはり一般民謠の特質に觸れるのである。併しこれだけの民謠を生んだのは、まさに世界第一流の民謠國だといふ證據である。なほこの卷に、『都武賀野《つむがぬ》に鈴が音《おと》きこゆ上志太《かむしだ》の殿の仲子《なかち》し鳥狩《とがり》すらしも』(三四三八)といふのがあつて、一しよにして鑑賞することが出來る。『仲子』は次男の(403)ことである。
 
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     あしひきの山澤人《やまさはびと》の人《ひと》多《さは》にまなといふ兒《こ》があやに愛《かな》しさ 〔卷十四・三四六二〕 東歌
 
 『足引の山澤人の』までは『人さはに』に續く序詞で、山の谿澤に住んで居る人々、樵夫などのたぐひをいふ。『まなといふ兒』は、可哀いと評判されている娘といふことである。そこで一首は、山澤人だち【序詞】おほぜいの人々が美しい可哀いと評判してゐるあの娘は、私にはこの上もなく可哀い、戀しい、といふのである。この歌も普通と違つたところがある。自分の戀してゐるあの娘は人なかでも評判がいいといふので内心喜ぶ心持もあり、人なかで評判のいい娘を私も戀してゐるので不安で苦しくもあるといふ氣持もあるのである。山間に住ついて働く人々の中にかういふ民謠があつたものと見える。『多麻河に曝す手作《てづくり》さらさらに何《なに》ぞこの兒のここだ愛《かな》しき』(三三七三)、『高麗錦紐解き放《さ》けて寢《ぬ》るが上《へ》に何《あ》ど爲《せ》ろとかもあやに愛《かな》しき』(三四六五)、『垣越《くへご》しに麦|食《は》む小馬《こうま》のはつはつに相見し兒らしあやに愛《かな》しも』(三五三七)等の例がある。
 
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(404)     植竹《うゑたけ》の本《もと》さへ響《とよ》み出《い》でて去《い》なば何方《いづし》向《む》きてか妹《いも》が嘆《なげ》かむ 〔卷十四・三四七四〕 東歌
 
 『植竹の』は竹林のことで、竹の根本《ねもと》から『本』への枕詞とした。家ぢゆう大騷ぎして私が旅立つたら、妻は嘸歎き悲しむことだらう、といふので、代匠記以來、防人などに出立の時の歌ででもあらうかといつてゐる。この卷に、『霞ゐる富士の山傍に我が來なば何方向きてか妹が歎かむ』(三三五七)の例がある。この歌を私は嘗て、女と言ひ爭ふか何かして、あらあらしく騷いで女の家を立退く趣に解したことがある。即ち植竹の幹の本迄響くやうに荒々しく怒つて立退くあとで、妹を可哀くおもつて反省した趣にしたのであつた。そして、『背向に寢しく今しくやしも』(一四一二)などをも參照にしたのであつたが、今囘は契沖以下の先輩の注釋書に從ふことにしたけれども、必ずしも防人出立とせずに、民謠的情事の一場面としても味ふことが出來るのである。
 
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     麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》に多《ふすさ》に績《う》まずとも明日《あす》來《き》せざめやいざせ小床《をどこ》に 〔卷十四・三四八四〕 東歌
 
(405) 麻苧の糸を娘が績《う》んでゐるのに對つて男がいひかける趣の歌で、『ら』は添へたものである。『ふすさに』は澤山の意。卷八(一五四九)にある、『なでしこの花ふさ手折り吾は去なむ』の『ふさ』、卷十七(三九四三)にある、『我背子がふさ手折りける』の『ふさ』も同じ語であらうか。一首は、麻苧をそんなに澤山|笥《をけ》に紡がずとも、また明日が無いのではないから、さあ小床に行かう、といふのである。『いざせ』の『いざ』は呼びかける語、『せ』は『爲《せ》』で、この場合は行かうといふことになる。『明日きせざめや』を契沖は、『明日著セザラメヤ』と解いたが、それよりも『明日來せざらめや也。明日來といふは、凡て月日の事を來歴ゆくと言ひて、明日の日の來る事也』といふ略解(宣長説)の穩當を取るべきであらう。これも田園民謠で、直接法をしきりに用ゐてゐるのがおもしろく、特に結句の『いざ・せ・小床に』といふのはただの七音の中にこれだけ詰めこんで、調子を破らないのは、なかなか旨いものである。
 
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     兒《こ》もち山《やま》若《わか》かへるでの黄葉《もみづ》まで寢《ね》もと吾《わ》は思《も》ふ汝《な》は何《あ》どか思《も》ふ 〔卷十四・三四九四〕 東歌
 
 『兒持山』は伊香保温泉からも見える山で、澁川町の北方に聳えてゐる。一首は、あの子持山の(406)春の楓《かへで》の若葉が、秋になつて黄葉《もみぢ》するまでも、お前と一しよに寢ようと思ふが、お前はどうおもふ、といふので、誇張するといふのは既に親しんでゐる證據でもあり、その親しみが露骨でもあるから、一般化し得る特色を有つのである。『汝は何《あ》どか思ふ』と促すところは、會話の語氣その儘であるので感じに乘つてくるのである。『吾をぞも汝に依《よ》すとふ汝はいかに思《も》ふや』(卷十三・三三〇九)といふ長歌の句は、この東歌に比して間が延びて居るやうに感ずるのである。
 
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     高《たか》き峰《ね》に雲《くも》の著《つ》く如《の》す我《われ》さへに君《きみ》に著《つ》きなな高峰《たかね》と思《も》ひて 〔卷十四・三五一四〕 東歌
 
 高い山に雲が著くやうに、私までも、あなたに著きませう、あなたを高い山だとおもつて、といふので、何か諧謔の調のあるのは、親しみのうちに大勢してうたへるやうにも出來てをり、民謠特有の無遠慮な直接性があるのである。高峰を繰返してもゐるが、結句の『高峰ともひて』には親しい甘いところがあつていい。
 
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(407)     我《あ》が面《おも》の忘《わす》れむ時《しだ》は國《くに》溢《はふ》り峰《ね》に立《た》つ雲《くも》を見《み》つつ偲《しぬ》ばせ 〔卷十四・三五一五〕 東歌
 
 あなたが旅にあつて、若しも私の顏をお忘れになるやうな時は、國に溢れて立つ雲の峰を御覧になつておもひ出して下さいませ、といふので、これは寄v雲戀といふやうに分類してゐるが、雲の峰を常に見てゐるのでかういふ聯想になつたものであらう。この誇張らしいいひ方は諧謔でない重々しいところがあるので感が深いやうである。この歌の次の、『對馬の嶺は下雲《したぐも》あらなふ上《かむ》の嶺にたなびく雲を見つつ偲ばも』(三五一六)は、男の歌らしいから、防人の歌ででもあつて、前のは防人の妻ででもあらうか。なほ、『面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろにたなびく雲を見つつ偲ばむ』(三五二〇)も類似の歌であるが、この『國溢り』の歌が一番よい。なほ、『南吹き雪解はふりて射水がはながる水泡の』(卷十八・四一〇六)、『射水《いみづ》がは雪解|溢《はふ》りて行く水のいやましにのみ鶴がなくなごえの菅の』(同卷・四一一六)の例もあり、なほ、『君が行く海邊の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ』(卷十五・三五八○)等、類想のものが多い。
 
         ○
(407)     昨夜《きそ》こそは兒《こ》ろとさ宿《ね》しか雲《くも》の上《うへ》ゆ鳴《な》き行《ゆ》く鶴《たづ》の間遠《まどほ》く思《おも》ほゆ 〔卷十四・三五二二〕 東歌
 
 『雲の上ゆ鳴き行く鶴の』は『間遠く』に續く序詞であるから、一首は、あの娘とは昨晩寢たばかりなのに、だいぶ日數が立つたやうな氣がするな、といふので、かういふ發想は東歌でないほかの歌にもあるけれども、『雲の上ゆ鳴き行く鶴の』は、なかなかの技巧である。
 
         ○
     防人《さきもり》に立《た》ちし朝《あさ》けの金門出《かなとで》に手放《たはな》れ惜《を》しみ泣《な》きし兒《こ》らはも 〔卷十四・三五六九〕 東歌・防人
 未勘國防人の歌。『金門《かなと》』は既にあつたごとく『門《かど》』である。『手放れ』は手離で、別れることだが、別れに際しては手を握つたことが分かる。これは人間の自然行爲で必ずしも西洋とは限らぬ。そこで、此處は、『た』は添辭とせずに、『手』に意味を持たせるのである。併しそれは字面の問題で、實際の氣持は別を惜しむことで、そこで、『泣きし兒らはも』が利くのである。これは、君命を帶びて邊土の防備に行くのだが、その別を悲しむ歌である。これも彼等の眞實の一面、ま(409)た、『大君の邊にこそ死なめ和には死なじ』も眞實の一面である。全體がめそめそばかりではないのである。
 
         ○
     葦《あし》の葉《は》に夕霧《ゆふぎり》立《た》ちて鴨《かも》が音《ね》の寒《さむ》き夕《ゆふべ》し汝《な》をば偲《しぬ》ばむ 〔卷十四・三五七〇〕 東歌・防人
 
 これも防人の歌で、葦の葉に夕霧が立つて、そこに鴨が鳴く、さういふ寒い晩には、といふので、具象的にいつてゐる。そして、『汝をば偲ばむ』といふのだから、いまださういふ場合にのぞまない時の歌である。東歌の歌調に似ない巧なところがあるから、幾らか指導者があつたのかも知れない。併しもとの作はやはり防人本人で、哀韻の迫つてくるのはそのためであらう。『葦べゆく鴨の羽交に霜ふりて寒き夕は大和しおもほゆ』(卷一・六四)といふ志貴皇子の御歌に似てゐる。
 
         ○
 東歌の選鈔は大體右の如くであるが、東歌はなほ特殊なものは幾つかあり、秀歌といふ程でなくとも、注意すべきものだから次に記し置くのである。
(410)   さ寢らくはたまの緒ばかり戀ふらくは富士の高嶺の鳴澤《なるさは》の如《ごと》 (三三五八)
   足柄《あしがり》の土肥《とひ》の河内《かふち》に出づる湯の世にもたよらに兒ろが言はなくに (三三六八)
   入間道《いりまぢ》の大家《おほや》が原のいはゐづら引かばぬるぬる吾《わ》にな絶えそね (三三七八)
   我背子を何《あ》どかもいはむ武藏野のうけらが花の時無きものを (三二七九)   筑波嶺にかが鳴く鷲の音《ね》のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (三三九〇)   小筑波の嶺ろに月《つく》立《た》し逢ひだ夜は多《さはだ》なりぬをまた寢てむかも (三三九五)
   伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奥をな兼ねそまさかし善《よ》かば (三四一〇)
   上毛野|伊奈良《いなら》の沼の大蘭草《おほゐぐさ》よそに見しよは今こそまされ (三四一七)
   薪《たきぎ》樵《こ》る鎌倉山の木垂る木をまつと汝《な》が言はば戀ひつつやあらむ (三四三三)
   うらも無く我が行く道に青柳の張りて立てればもの思《も》ひ出《づ》つも (三四四三)
   草蔭の安努《あぬ》な行かむと墾《は》りし道|阿努《あぬ》は行かずて荒草《あらくさ》立《だ》ちぬ (三四四七)
   ま遠《どほ》くの野にも逢はなむ心なく里の眞中《みなか》に逢へる夫《せな》かも (三四六三)
   佐野《さぬ》山に打つや斧音《をのと》の遠かども寢《ね》もとか子ろが面《おも》に見えつる (三四七三)
   諾《うべ》兒《こ》汝は吾《わぬ》に戀ふなも立《た》と月《つく》の流《ぬが》なへ行けば戀《こふ》しかるなも (三四七六)
   橘の古婆《こば》のはなりが思ふなむ心|愛《うつく》しいで吾《あれ》は行かな (三四九六)
(411)   河上《かはかみ》の根白高萱《ねじろたかがや》あやにあやにさ宿《ね》さ寐《ね》てこそ言《こと》に出《で》にしか (三四九七)
   岡に寄せ我が刈る草《かや》の狹萎草《さねがや》のまこと柔《なごや》は寢《ね》ろとへなかも (三四九九)
   安齊可潟《あせかがた》潮干の緩《ゆた》に思へらば朮《うけら》が花の色に出めやも (三五〇三)
   青嶺《あをね》ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこの頃 (三五一一)   一嶺《ひとね》ろに言はるものから青嶺《あをね》ろにいさよふ雲のよそり妻はも (三五一二)
   夕さればみ山を去らぬ布雲《にぬぐも》の何《あぜ》か絶えむと言ひし兒ろはも (三五一三)
   沼二つ通は鳥が巣我がこころ二行《ふたゆ》くなもと勿《な》よ思《も》はりそね (三五二六)
   妹をこそあひ見に來《こ》しか眉曳《まよびき》の横山|邊《へ》ろの鹿《しし》なす思《おも》へる (三五三一)
   垣越《くへご》しに麦食むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛《かな》しも (三五三七)
   青柳のはらろ川門《かはと》に汝を待つと清水《せみど》は汲まず立所《たちど》平《なら》すも (三五四六)
   たゆひ潟潮滿ちわたる何處ゆかも愛《かな》しき夫《せ》ろが吾|許《がり》通はむ (三五四九)
   鹽船《しほぶね》の置かれば悲しさ寢つれば人言《ひとごと》しげし汝《な》を何《ど》かも爲《し》む (三五五六)
   惱《なやま》しけ人妻《ひとづま》かもよ漕ぐ船の忘れは爲無《せな》な彌《いや》思《も》ひ増すに (三五五七)
   彼《か》の兒ろと宿《ね》ずやなりなむはた薄《すすき》裏野《うらぬ》の山に月|片寄《かたよ》るも (三五六五)
 
(412)卷第十五
 
         ○
     あをによし奈良《なら》の都《みやこ》にたなびける天《あま》の白雲《しらくも》見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔卷十五・三六〇二〕 作者不詳
 
 新羅に使に行く入新羅使以下の人々が、出帆の時には別を惜しみ、海上にあつては故郷を壞ひ、時には船上に宴を設けて『古歌』を吟誦した。その古歌幾つかが纏まつて載つてゐるが、此歌もその一つで雲を詠じた歌だと注してある。一首は、奈良の都の上にたなびいて居る、天の白雲の豐大な趣を讚美した歌であるが、作者もわからず、どういふ時に詠んだものかも分かつてゐない。ただ雲を詠んだものとして、豐かな大きい調子があるので吟誦にも適し、また奈良の家郷を偲ぶのにふさはしいものとして選ばれたものであらう。この新羅使は天平八年であるが、その時にもうこの歌の如きは古調に響いたのであつたのかも知れない。此處に、人麿作五つばかり幾らか變(413)化しつつ載つて居り、左注でその事を注意してゐるところを見ると、この歌も、上の句の、『あをによし奈良の都に』の句は變化したもので、原作は『奈良の都に』などでなく、山のうへとか海上とか、或は序詞などで續けたものか、さういふものだつたかも知れない。いづれにしても、『天の白雲見れど飽かぬかも』の句は形式的な感じもあるが、なかなかよいものである。
 
         ○
     わたつみの海《うみ》に出《い》でたる飾磨河《しかまがは》絶《た》えむ日にこそ吾《あ》が戀《こひ》止《や》まめ  〔卷十五・三六〇五〕 作者不詳
 
 この歌も新羅使の一行が、船上で『古歌』として吟誦したもので、戀の歌と注してある。『飾磨河』は播磨で、今姫路市を流れる船場川だといはれてゐる。卷七(一一七八)の或本歌に、『飾磨江《しかまえ》は漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ』とあるのも同じ場處であらう。一首の意は、海にそそぐ飾磨川の流は絶ゆることは無いが、若し絶ゆることがあつたら、はじめて俺の戀は止まるだらう、といふので、『ひさかたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾が戀ひ止まめ』(卷十二・三〇〇四)をはじめ同じ結句の歌は數首ある。そして此程度の歌ならば、他の卷には幾らもあると思ふが、當時既に古歌として取扱つた歌として、また、第二句『海にいでたる』の(414)句の穉拙愛すべき特色とを以て選出して置いた。
 
         ○
     百船《ももふね》の泊《は》つる對馬《つしま》の淺茅山《あさぢやま》時雨《しぐれ》の雨《あめ》にもみだひにけり  〔卷十五・三六九七〕 新羅使
 
 新羅使の一行が、對馬の淺茅浦に碇泊した時、順風を得ずして五日間逗留した。諸人の中で慟いて作歌した三首中の一つである。淺茅浦は今俗に大口浦といつてゐる。モミヅは其頃多行四段にも活用し其をまた波行に活用せしめた。『もみだひにけり』は時間的經過をも含ませてゐる。歌は平凡で取立てていふほどではないが、實際に當つて作つたといふ爭はれぬ強みがあるので、讀後身に沁むのである。
 
         ○
     天離《あまざか》る鄙《ひな》にも月《つき》は照《て》れれども妹《いも》ぞ遠《とほ》くは別《わか》れ來にける 〔卷十五・三六九八〕 新羅使
 
 前の歌の續きであるが、五日滯在のうちには時雨も晴れて月の照つた夜もあつたのであらう。(415)『鄙にも月は照れれども』といふ句に哀韻があるのは、都の月光といふ相對的な感じもあり、いつのまにか秋になつた感じもあり、都の月光と相愛の妻との關係などもあつて、さういふ哀韻を伴ふのであらうか。此歌とても特に秀歌といふものではないが、不思議に心をひくのは、實地の作だからであらう。人麿の歌に、『去年見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる』(卷二・二一一)がある。
 
         ○
     竹敷《たかしき》のうへかた山《やま》は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色《いろ》になりにけるかも 〔卷十五・三七〇三〕 新羅使(大藏麿)
 
 一行が竹敷《たかしき》浦(今の竹敷港)に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、小判官大藏|忌寸《いみき》麿《まろ》の作である。『うへかた山』は上方《うへかた》山で今の城山であらう。『八入の色』は幾度も染めた眞赤な色といふのである。單純だが、『くれなゐの八入《やしほ》の色』で統一せしめたから、印象鮮明になつて佳作となつた。『くれなゐの八入《やしほ》の衣朝な朝な穢《な》るとはすれどいや珍しも』(卷十一・二六二三)がある。この時の十八首の中には、大使阿倍繼麿が、『あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りの亂《まがひ》は今日にもあるかも』(三七〇〇)、副使大伴|三中《みなか》が、『竹敷《たかしき》の黄葉を見れば吾妹子《わぎもこ》が待たむといひし時ぞ來にけ(416)る』(三七〇一)、大判官|壬生《みぶ》宇太麻呂《うだまろ》が、『竹敷の浦廻の黄葉われ行きて歸り來るまで散りこすなゆめ』(三七〇二)といふ歌を作つて居り、對馬娘子、玉槻《たまつき》といふ者が、『もみぢ葉の散らふ山邊《やまべ》ゆ榜ぐ船のにほひに愛《め》でて出でて來にけり』(三七〇四)といふ歌を作つたりしてゐる。天平八年夏六月、武庫浦を出帆したのが、對馬に來るともう黄葉が眞赤に見える頃になつてゐる。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じてゐるのは、單に歌の上の詩的表現のみでなかつたことが分かる。對馬でこの玉槻といふ遊行女婦などは唯一の慰めであつたのかも知れない。この一行のある者は歸途に病み、大使繼麿のごときは病歿してゐる。また新羅との政治的關係も好ましくない切迫した背景もあつて注意すべき一聯の歌である。歸途に、『天雲のたゆたひ來れば九月《ながつき》の黄葉《もみぢ》の山もうつろひにけり』(三七一六)、『大伴の御津《みつ》の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ』(三七二二)などといふ歌を作つて居る。
 
         ○
     あしひきの山路《やまぢ》越《こ》えむとする君《きみ》を心《こころ》に持《も》ちて安《やす》けくもなし 〔卷十五・三七二三〕 狹野茅上娘子
 
 中臣朝臣宅守《なかとみのあそみやかもり》が、罪を得て越前國に配流された時に、狹野茅上娘子《さぬのちがみのをとめ》の詠んだ歌である。娘子の(417)傳は審かでないが、宅守と深く親んだことは是等一聯の歌を讀めば分かる。目録に藏部女嬬とあるから、低い女官であつただらう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行かれるのを、しじゆう心の中に持つてをりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、といふ程の歌である。『君を心に持つ』は貴方をば心中に持つこと、心に抱き持つこと、戀しくて忘れられぬこと、あきらめられぬことといふぐらゐになるが、『君を心に持つ』と具體的に云つたので、親しさが却つて増したやうにおもはれる。『吾妹子に戀ふれにかあらむ沖に住む鴨の浮宿《うきね》の安けくもなし《なき》』(卷十一・二八〇六)、『今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念ひわたれば安けくもなし』(卷十二・二八六九)等、用例は可なりある。
 
         ○
     君《きみ》が行《ゆ》く道《みち》の長路《ながて》を繰《く》り疊《たた》ね燒《や》き亡《ほろ》ばさむ天《あめ》の火《ひ》もがも 〔卷十五・三七二四〕 狹野茅上娘子
 
 同じく續く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰《たぐ》りよせてそれを疊《たた》んで、燒いてしまふ天火《てんくわ》でもあればいい。さうしたならあなたを引き戻すことが出來ませう、といふ程の歌で、強く誇張していふところに女性らしい語氣と情味とが存じてゐる。娘子は古歌などをも(418)學んだ形跡があり、文藝にも興味を持つ才女であつたらしいから、『天の火もがも』などといふ語も比較的自然に口より發したのかも知れない。そして、『燒き亡ぼさむ天の火もがも』といふ句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火《てんくわ》は支那では、劫火などと似て、思いがけぬところに起る火のことを云つて居る。史記孝景本記に、『三年正月乙巳天火〔二字右○〕燔2※[各+隹]陽東宮大殿城室1』とあり、易林に『天火〔二字右○〕大起、飛鳥驚駭』とある如きである。併しその火が天に燃えてゐてもかまはぬだらう。いづれにしても『天の火』とくだいたのは好い。なほ娘子には、『天地の至極《そこひ》の内《うら》にあが如く君に戀ふらむ人は實《さね》あらじ』(三七五〇)といふのもある程だから、情熱を以て強く宅守に迫つて來た女性だつたかも知れない。また贈答歌を通讀するに、宅守よりも娘子の方が巧である。そしてその巧なうちに、この女性の息吹をも感ずるので宅守は氣乘したものと見えるが、宅守の方が受身といふ氣配があるやうである。
 
         ○
     あかねさす晝は物思《ものも》ひぬばたまの夜はすがらに哭《ね》のみし泣かゆ 〔卷十五・三七三二〕 中臣宅守
 
 これは中臣宅守が娘子に贈つた歌だが、この方は氣が利かない程地味で、骨折つて歌つてゐる(419)が、娘子の歌ほど聲調にゆらぎが無い。『天地の神なきものにあらばこそ吾《あ》が思《も》ふ妹に逢はず死《しに》せめ』(三七四〇)、『逢はむ日をその日と知らず常闇《とこやみ》にいづれの日まで吾《あれ》戀ひ居らむ』(三七四二)などにあるやうに、『天地の神』とか、『常闇』とか詠込んでゐるが、それほど響かないのは、おとなしい人であつたのかも知れない。
 
         ○
     歸《かへ》りける人《ひと》來《きた》れりといひしかばほとはと死《し》にき君かと思ひて 〔卷十五・三七七二〕 狹野茅上娘子
 
 娘子が宅守に贈つた歌であるが、罪をゆるされて都にお歸りになつた人が居るといふので、嬉しくて死にさうでした、それがあなたかと思つて、といふのであるが、天平十二年罪を赦されて都に歸つた人には穗積朝臣老以下數人ゐるが、宅守はその中にはゐず、續紀にも、『不v在2赦限1』とあるから、此時宅守が歸つたのではあるまい。この『殆と死にき』をば、殆《あやふ》しの意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時にはそれに從つた。併し、『天の火もがも』を肯定するとすると、『ほとほと死にき』を肯定してもよく、その方が甘く切實で却つておもしろいと思つて今囘は二たびさう解釋することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
(420) 『ほとほとしにき』は、原文『保等保登之爾吉』であつて、『ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ』(代匠記精撰本)といふのが第一説で、古義もそれに從つた。鈴屋答問録に、『ほと』は俗言の『あわ(は)てふためく』の『ふた』に同じいとあるのも參考となるだらう。それから、『ほとんど死たりとなり。うれしさのあまりになるべし』(拾穗抄)は第二説で、『殆將死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ』(考)、『しにきは死にき也』(略解)。古事記傳、新考、新訓等もこの第二説である。集中、『君を離れて戀に之奴倍之《シヌベシ》』(卷十五・三五七八)があるから、『之爾』を『死に』と訓んで差支のないことが分かる。
 
(421)卷第十六
 
         ○
     春《はる》さらば插頭《かざし》にせむと我《わ》が思《も》ひし櫻《さくら》の花《はな》は散《ち》りにけりるかも 〔卷十六・三七八六〕 壯士某
 
 むかし櫻子《さくらこ》という娘子《をとめ》がゐたが、二人の青年に挑まれたときに、ひとりの女身を以て二つの門に往き適《かな》ふ能はざるを嘆じ、林中に尋ね入つてつひに縊死して果てた。二人の青年がそれを悲しみ作つた歌の一つである。櫻子といふ娘の名であつたから、櫻の花の散つたことになして詠んだ、取りたてていふ程のものでない、妻爭ひ傳説歌の一つに過ぎないが、素直に歌つてあるので見本として選んで置いた。この傳説は眞間《まま》の手兒名《てこな》、葦屋の菟原處女《うなひをとめ》の傳説などと同じ種類のものである。『かざしにせんとは、我妻にせんとおもひしと云心也』(宗祇抄)とある如く、また櫻兒といふ名であつたから、『散りにけるかも』と云つた。
 
(423)         ○
     事《こと》しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも隱《こも》らば共《とも》にな思《おも》ひ吾背《わがせ》 〔卷十六・三八〇六〕 娘子某
 
 むかし娘がゐたが、父母に知らせず竊かに一人の青年に接した。青年は父母の呵嘖を恐れて、稍猶豫のいろが見えた時に、娘が此歌を作つて青年に與へたといふ傳説がある。『小泊瀬山』の『を』は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬《はせ》町あたり一帶の山である。『石城《いはき》』は石で築いた廓で此處は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐずぐずしてゐるのに、女が強くなる心理をあらはしたものである。前の歌は實コの上からいへば、貞になり、これもまた貞の一種になるかも知れない。親をも措いて男に從ふといふ強い心に感動せられて傳説が成立すること、他の歌の例を見ても明かである。『な思ひ、我が背』の口調は強いが、女らしい甘い味ひがある。毛詩に、『死則同(セム)v穴』とあるのは人間共通の合致であるだらう。
 
          ○
     安積山《あさかやま》影さへ見ゆる山の井の淺き心を吾が思《も》はな(423)くに 〔卷十六・三八〇七〕 前の采女某
 
 葛城王《かつらぎのおほきみ》が陸奥國に派遣せられたとき、國司の王を接待する方法がひどく不備だつたので、王が怒つて折角の御馳走にも手をつけない。その時、嘗て采女《うねめ》をつとめたことのある女が侍してゐて、左手に杯を捧げ右手に水を盛つた瓶子を持ち、王の膝をたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、樂飲すること終日であつた、といふ傳説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄が皇族であつた時の御名は葛城王であつたから、そのいづれとも不明であるが、時代からいへば天武天皇の御代の方に傾くだらう。併し傳説であるから實は誰であつてもかまはぬのである。また、『前《さき》の采女』といふ女も、嘗て采女として仕へたといふ女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。『安積山』は陸奥國安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山といふ小山がある。其處だらうと云はれてゐる。木立などが美しく映つてゐる廣く淺い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして『山の井の』から『淺き心』に連接せしめてゐる。『淺き心を吾が思はなくに』が一首の眼目で、あなたをば深く思ひつめて居ります、といふ戀愛歌である。そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもひませぬといふに歸著するが、此歌はその女の即吟か、或は民謠として傳はつてゐるのを吟誦したものか、いづれとも受(424)取れるが、遊行女婦は作歌することが一つの款待方法であつたのだから、このくらゐのものは作り得たと解釋していいだらうか。この一首の言傳へが面白いので選んで置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女婦とを配した短篇のやうな趣があつて面白い歌である。傳説の文の、『右手持v水、撃2之王膝1』につき、種々の疑問を起してゐるが、二つの間に休止があるので、水を持つた右手で王の膝をたたくのではなからう。『之』は助詞である。
 
          ○
     寺寺《てらでら》の女餓鬼《めがき》申《まを》さく大神《おほみわ》の男餓鬼《をがき》賜《たば》りて其《そ》の子《こ》生《う》まはむ 〔卷十六・三八四〇〕 池田朝臣
 
 池田朝臣《いけだのあそみ》(古義では眞枚《まひら》だらうといふ)が、大神朝臣奥守《おほみわのあそみおきもり》に贈つた歌である。一首の意は、寺々に居る女の餓鬼どもは大神《おほみわ》の男餓鬼《をとこがき》を頂戴してその子を生みたいと申してをりますよ、といふので、大神奥守は痩男だつたのでこの諧謔が出たのであらう。『寺々の女餓鬼』といふのは、その頃寺院には、畫だの木像だのがあつて、三惡道の一なる餓鬼道を示したものがあつたと見える。前に、『相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づく如し』(卷四・六〇八)とあつたのを參考すれば、木像のやうにおもはれる。何れにせよ、この諧謔が自然流露の感じでまことに旨い。古(425)今集以後ならば誹諧歌、滑稽歌として特別扱をするところを、大體の分類だけにして、特別扱をしないのは、萬葉集に自由性があつていい點である。また、當時は佛教興隆時代だから、餓鬼などといふことを人々は新事物として興味を感じてゐたものであつただらう。ウマハムはウマムといふ意でウマフといふ四段活用の動詞である。
 
          ○
     佛《ほとけ》造《つく》る眞朱《まそほ》足《た》らずは水《みづ》たまる池田《いけだ》の朝臣《あそ》が鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ 〔卷十六・三八四一〕 大神朝臣
 
 これは大神朝臣が池田朝臣に酬いた歌である。『眞朱』は佛像などを彩色するとき用ゐる赤の顏料で、朱(丹砂、朱砂)のことである。『水たまる』は池の枕詞に使つた。應神紀に、『水たまるよさみの池に』の用例がある。また池田の朝臣の鼻は特別に赤かつたので、この諧謔の出來たことが分かる。前には餓鬼のことをいつたから、此歌でも佛教關係の事物を持つて來た。前の歌も旨いが、この歌も諧謔の上乘である。
 
          ○
(426)     法師《ほふし》らが鬚《ひげ》の剃杭《そりぐひ》馬《うま》つなぎいたくな引《ひ》きそ法師《ほふし》半《なから》かむ 〔卷十六・三八四六〕 作者不詳
 
 僧侶にからかつた歌で、鬚がいい加減に延びた、今謂ふ無精鬚といふのを捉へて、それを『剃杭』といつて、その杭《くひ》に馬を繋いでも、ひどく引つばるなよ、法師が半分になつてしまふだらうから、といふのである。この歌の結句は、原文、『僧半甘』と書いてあり、舊訓ナカラカモ。拾穗抄・代匠記・考も同訓である。代匠記初稿本に、『なからにならんといふ心なり』、考に『法師引かされ半分にならんと云』と解し、略解でホフシ・ナカラカムと訓み(古義同訓)、『なからは半分の意にて、なからにならんと戲れ言ふ也』と解した。然るに、古義が報じた一説に『法師は泣かむ』と訓んだのもあり、黒川春村はホフシ・ナカナム、と訓み、敷田年治ホフシハ・ナカムと訓み、井上(通泰)博士はホフシ・ナゲカムと訓んだ。近時新注釋書はホフシハ・ナカムの訓を採用して殆ど定説にならうとしてゐる。
 けれども、『法師は泣かむ』では諧謔歌としては平凡でつまらぬ。そこで、『法師|半《なから》かむ』と訓み、代匠記初稿本や考の解釋の如く、『半分になつてしまふだらう』と解釋する方が一番適切のやうにおもへる。そんならどうしてかういふ動詞が出來たかといふに、『半《なから》』といふ名詞を『半《なから》か(427)む』と活用せしめたので、恰も『枕《まくら》』といふ名詞を、『枕《まくら》かむ』と活用せしめたのと同じである。然らば、半《なから》き・半《なから》く等の活用形がある筈だらうといはんが、其處が滑稽歌の特色で、普通使はない語を用ゐたのであつただらう。それゆゑ、この歌に應へた、『檀越《だむをち》や然かもな言ひそ里長《さとをさ》らが課役《えつき》徴《はた》らば汝《なれ》も半《なから》かむ』(三八四七)といふ歌の例と、萬葉にただ二例あるのみである。この應へ歌は、『檀那よ、さう威張りなさるな、若し村長さんが來て、税金や勞役の事でせめ立てるなら、あなたも半分になつてしまひませう。どうです』といふので、二つとも結句は、『半《なから》かむ』でなくては面白くない。またいづれの古鈔本も『半甘』で、他の書き方のものはない。【愚案は、昭和十三年一月アララギ、童馬山房夜話參看。】
 
          ○
     吾《わ》が門《かど》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く起《お》きよ起《お》きよ我《わ》が一夜《ひとよ》づまひとに知らゆな 〔卷十六・三八七三〕 作者不詳
 
 もう門のところには、千鳥がしきりに鳴いて夜が明けました。あなたよ、起きなさい。私がはじめてお會したあなたよ、人に知られぬうちにお歸りください。原文には、『一夜妻』とあるから、男の歌で女に向つて『一夜妻』といつたやうにも取れるが、全體が男を宿《と》めた女の歌といふ趣にする方がもつと適切だから、さうすれば、『一夜|夫《づま》』といふことになる。この歌は民謠風な戀愛歌(428)で作者不明のものだから、無名歌として掲げてゐるのである。『千鳥しば鳴く起きよ起きよ』のところは巧で且つ自然である。『一夜夫』と解するのは考・古義の説で、『妻はかり字、夫《つま》也。初て一夜逢し也』(考)とあるが、これは遠く和歌童蒙抄の説まで溯り得る。あとは多く『一夜妻』説である。『人ノ妻ヲ忍ビテアリケルニ』(仙覺抄)、『一夜妻はかりそめに女を引き入れて逢ひしなり』(新考)云々。
 
卷第十七
 
          ○
     あしひきの山谷《やまだに》越えて野《ぬ》づかさに今《いま》は鳴《な》くらむ鶯《うぐひす》のこゑ 〔卷十七・三九一五〕 山部赤人
 
 山部宿禰赤人詠2春鶯1歌一首であるが、明人と書いた古寫本もある【西本願寺本・神田本等】。『野づかさ』は野にある小高い處、野の丘陵をいふ。『野山づかさの色づく見れば』(卷十・二二〇三)の例がある。一首は、もう春だから、鶯等は山や谷を越え、今は野の上の小高いところで鳴くやうにでもなつたか、といふので、一般的な想像のやうに出來て居る歌だが、不思議に浮んで來るものが鮮かで、濁りのない清淡とも謂ふべき氣持のする歌である。それだから、家の内で鶯の聲を聞いて、その聲の具合でその場所を野づかさだと推量する作歌動機と解釋することも出來るし、さうする方が『山谷越えて』の句にふさはしいやうにもおもふが、併しこの邊のことはさう穿鑿せずとも鑑賞し(430)得る歌である。『ひさぎ生ふる清河原に』の時にも少し觸れたが、つまりあのやうな態度で味ふことが出來る。卷十七の歌をずうつと讀んで來て、はじめて目ぼしい歌に逢著したとおもつて作者を見ると赤人の作である。赤人の作中にあつては左程でもない歌だが、その他の人の歌の中にあると斯くの如く異彩を放つ、さういふ相待上の價値といふことをも吾等は知る必要があるのである。
 
          ○
     降《ふ》る雪《ゆき》の白髪《しろかみ》までに大君《おほきみ》に仕《つか》へまつれば貴《たふと》くもあるか 〔卷十七・三九二二〕 橘諸兄
 
 聖武天皇の天平十八年正月の日、白雪が積つて數寸に至つた。左大臣橘諸兄が大納言藤原豐成及び諸王諸臣を率て、太上天皇【元正天皇】の御所に參候して雪を掃うた。時に詔あつて酒を賜い肆宴《とよのあかり》をなした。また、『汝諸王卿等聊か此の雪を賦して各その歌を奏せよ』といふ詔があつたので、それに應へ奉つた、左大臣橘諸兄の歌である。『降る雪の』は正月のめでたい雪に縁つてこの語があるのだが、『白髪』の枕詞の格に用ゐた。『白髪までに』は白髪になるまでといふことで簡潔ないひ方である。『貴くもあるか』は、貴く畏くありがたいといふので、自身を貴く感ずるといふのはや(431)がて大君を貴み奉るその結果となるので、これも特有のいひ方である。この歌は、謹んで作つてゐるので、重厚なひびきがあり、結句の『貴くもあるか』が一首の中心句をなして居る。この時、紀朝臣|清人《きよひと》は、『天の下すでに覆《おほ》ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか』(三九二三)を作り、紀朝臣|男梶《をかぢ》は、『山の峽そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば』(三九二四)を作り、大伴家持は、『大宮の内にも外にも光るまで零《ふ》らす白雪見れど飽かぬかも』(三九二六)を作つて居る。
 
          ○
     たまくしげ二上山《ふたがみやま》に鳴《な》く鳥《とり》の聲《こゑ》の戀《こひ》しき時《とき》は來《き》にけり 〔卷十七・三九八七〕 大伴家持
 
 大伴家持は、天平十九年春三月三十日、二上山の賦一首を作つた、その反歌である。この二上山は越中射水郡(今は射水・氷見兩郡)今の伏木町の西北に聳ゆる山である。もう一つの反歌は、『澁渓《しぶたに》の埼の荒磯《ありそ》に寄する波いやしくしくに古《いにし》へ思ほゆ』(三九八六)といふのであるが、この『たまくしげ』の歌は、毫も息を張ることなく、ただ感を流露せしめたといふ趣の歌である。『興に依りて之を作る』と左注にあるが、興の儘に、理窟で運ばずに家持流の語氣で運んだのはこの歌をして一層なつかしく感ぜしめる。既に出した、大伴坂上郎女の歌に、『よの常に聞くは苦しき喚(432)子鳥聲なつかしき時にはなりぬ』(一四四七)と稍似て居るが、家持の方が單純で素直である。
 
         ○
     婦負《めひ》の野《ぬ》の薄《すすき》おし靡《な》べ降《ふ》る雪《ゆき》に宿借《やどか》る今日《けふ》し悲《かな》しく思《おも》ほ《イは》ゆ 〔卷十七・四〇一六〕 高市黒人
 
 これは、高市連黒人の歌だが、天平十九年に三國眞人|五百國《いほくに》といふ者が誦し傳へたのを、越中にゐた家持が録しとどめたもので、『婦負の野』は、和名鈔には禰比《ネヒ》とあり、今でも婦負郡をネイグンといつてゐる。婦負の野は現在射水郡小杉町から呉羽山にわたる間の平地だらうと云はれてゐる。黒人は人麿などと同時代の歌人だが、地名を詠込んであるのを見ると、越中まで來たと考へていいであらう。この一首で、『悲しく思ほゆ』の句が心を牽く。當時の※[羈の馬が奇]旅の實際からこの句が來たからであらう。山部赤人の歌に、『印南野《いなみぬ》の淺茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜の日長《けなが》くあれば家し偲ばゆ』(卷六・九四〇)といふのがあるが、此歌と關係あるとすると、黒人の此一首も輕々に看過出來ないこととなる。結句は原文『於毛倍遊』でオモハユとも訓んでゐる。さうすれば、『おもはる』と同じで、『はろばろに於忘方由流可母』(卷五・八六六)、『かぢ取る間なく京師し於母倍由《オモハユ》』(卷十七・四〇二七)等の例もあるが、四〇二七の『倍』は『保』とも書かれて居り、また『おも(433)ほゆ』の用例の方が大部分を占めてゐる。
 
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     珠洲《すす》の海《うみ》に朝びらきして漕《こ》ぎ來《く》れば長濱《ながはま》の浦《うら》に月《つき》照《て》りにけり 〔卷十七・四〇二九〕 大伴家持
 
 大伴家持作。『珠洲郡より發船《ふなで》して治布に還りし時、長濱※[さんずい+彎]に泊てて、月光を仰ぎ見て作れる歌一首』といふ題詞と、『右件の歌詞は、春の出擧に依りて諸郡を巡行す。當時屬目する所之を作る』といふ左注との附いてゐる歌である。治布は治府即ち國府か(全釋)。左注の『出擧』は春、官の稻を貸すこと。『朝びらき』は、朝に船が港を出ることで、『世の中を何に譬へむ朝びらき榜ぎ去にし船の跡なきごとし』(卷三・三五一)といふ沙彌滿誓の歌があること既にいつた如くである。この歌も、何の苦も無く作つてゐるやうだが、うちに籠るものがあり、調ものびのびとこだはりのないところ、家持の至りついた一つの境界であるだらう。特に結句の、『月照りにけり』は、ただ一つ萬葉にあつて、それが家持の句だといふこともまた注目に値するのである。
 
(434)卷第十八
 
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     あぶら火《び》の光《ひかり》に見《み》ゆる我《わ》が縵《かづら》さ百合《ゆり》の花の笑《ゑ》まはしきかも 〔卷十八・四〇八六〕 大伴家持
 
 天平感寶元年五月九日、越中國府の諸官吏が、少目《さくわん》の秦伊美吉石竹《はたのいみきいはたけ》の官舍で宴を開いたとき、主人の石竹が百合の花を鬘に造つて、豆器といふ食器の上にそれを載せて、客人に頒つた。その時大伴家持の作つた歌である。結句の、『笑まはしきかも』は、美しく樂しくて微笑せしめられる趣である。美しい百合花をあらはすのに、感覺的にいふのも家持の一特徴だが、『あぶら火の光に見ゆる』と云つたのは、流石に家持の物を捉へる力量を示すものである。『我が縵』といつたのは、自分の分として頂戴した縵といふ意味である。
 
           ○
(435)     天皇《すめろぎ》の御代《みよ》榮《さか》えむと東《あづま》なるみちのく山《やま》に金《くがね》花咲《はなさ》く 〔卷十八・四〇九七〕 大伴家持
 
 大伴家持は、天平感寶元年五月十二日、越中國守の館で、『陸奥國より金《くがね》を出せる詔書を賀《ことほ》ぐ歌一首并に短歌』を作つた。長歌は百七句ばかりの長篇で、結構も言葉も骨折つたものであり、それに反歌三つあつて、此は第三のものである。一首の意は、天皇【聖武】の御代は永遠に榮える瑞象としてこのたび東《あづま》の陸奥の山から黄金が出た、といふので、それを金の花が咲いたと云つた。この短歌は餘り細かく氣を配らずに一|息《いき》にいひ、言葉の技法もまた順直だから莊重に響くのであつて、賀歌としてすぐれた態をなしてゐる。結句に『かも』とか『けり』とか『やも』とかが無く、ただ『咲く』と止めたのも此場合甚だ適切である。此等の力作をなすに當り、家持は知らず識らず人麿・赤人等先輩の作を學んで居る。
 續紀には、天平二十一年二月、陸奥始めて黄金を貢いだことがあり、これは東大寺大佛造營のために役立ち、詔にも、開闢以來我國には黄金は無く、皆外國からの貢として得たもののみであつたのに、朕が統治する陸奥の少田《をた》郡からはじめて黄金を得たのを、驚き悦び貴びたまふ旨が宣せられてある。また長歌には、『大伴の遠つ神祖《かむおや》の其の名をば、大來目主《おほくめぬし》と負《お》ひ持ちて仕へし官《つかさ》、(436)海行かば水漬《みづ》く屍《かばね》、山ゆかば草むす屍、おほきみの邊《へ》にこそ死なめ顧《かへり》みはせじと言立《ことだ》て』云々とあるもので、家持は生涯の感激を以て此の長短歌を作つてゐるのである。
 
           ○
     この見《み》ゆる雲《くも》ほびこりてとの曇《ぐも》り雨《あめ》も降《ふ》らぬか心足《こころだら》ひに 〔卷十八・四一二三〕 大伴家持
 
 天平感寶元年閏五月六日以來、旱となつて百姓が困つていたのが、六月一日にはじめて雨雲の氣を見たので、家持は雨乞の歌を作つた。此はその反歌で、長歌には、『みどり兒の乳乞《ちこ》ふがごとく、天《あま》つ水仰ぎてぞ待つ、あしひきの山のたをりに、彼《こ》の見ゆる天《あま》の白雲、海神《わたつみ》の沖つ宮邊《みやべ》に立ち渡りとの曇《ぐも》り合ひて、雨も賜はね』云々とあるものである。『この見ゆる』の『この』は『彼の』、『あの』といふ意である。『ほびこり』は『はびこり』に同じく、『との曇り』は雲の棚びき曇るである。『心足らひに』は心に滿足する程に、思ひきりといふのに落著く。一首は大きくゆらぐ波動的聲調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあつて、家持の人麿から學んだ結果は、期せずしてこの邊にあらはれてゐる。
 
           ○
(437)     雪《ゆき》の上《うへ》に照《て》れる月夜《つくよ》に梅《うめ》の花《はな》折《を》りて贈《おく》らむ愛《は》しき兒《こ》もがも 〔卷十八・四一三四〕 大伴家持
 
 天平勝寶元年十二月、大伴家持の作つたもので、越中の雪國にゐるから、『雪の上に照れる月夜に』の句が出來るので、かういふ歌句の人麿の歌にも無いのは、人麿はかういふ實際を餘り見なかつたせいもあるだらう。作歌のおもしろみは這般の裡にも存じて居り、作者生活の背景といふことにも自然關聯してくるのである。下の句もまた、越中にあつて寂しい生活をしてゐるので、都をおもふ情と共にかういふ感慨がおのづと出たものと見える。
 
(438)卷第十九
 
          ○
    春《はる》の苑《その》くれなゐにほふ桃《もも》の花《はな》した照《て》る道《みち》に出《い》で立《た》つ※[女+感]嬬《をとめ》 〔卷十九・四一三九〕 大伴家持
 
 大伴家持が、天平勝寶二年三月一日の暮に、春苑の桃李花を見て此歌を作つた。『くれなゐにほふ』は赤い色に咲き映えてゐること、『した照る道』は美しく咲いてゐる桃花で、桃樹の下かげ迄照りかがやくやうに見える、その下かげの道をいふ。『橘のした照る庭に殿立てて酒宴《さかみづき》いますわが大君かも』(卷十八・四〇五九)、『あしひきの山下《やました》ひかる黄葉の散りのまがひは今日にもあるかも』(卷十五・三七〇〇)の例がある。春園に赤い桃花が滿開になつてゐて、其處に一人の※[女+感]嬬《をとめ》の立つてゐる趣の歌で、大陸渡來の桃花に應じて、また何となく支那の詩的感覺があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。かういふ一種の構成があるのだから、『いで立つをとめ』と名詞止に(439)して、堅く据えたのも一つの新工夫であつただらう。そしてかういふ歌風は時代的に漸次に發達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一團の作者によつて進展したものと考へる方がよいやうであるし、支那文學乃至美術の影響がやうやく浸潤したやうにおもへるのである。曹子建の詩に、『南國に佳人あり、容華桃李の若し』の句がある。なおかういふ感覺的な歌には、『なでしこが花見る毎にをとめ等が笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも』(卷十八・四一一四)、『秋風に靡く河傍《かはび》の和草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも』(卷二十・四三〇九)などがあり、共に家持の歌だから、この桃の花の歌同樣家持の歌の一傾向であつたと謂ひ得るとおもふ。
 
          ○
     春《はる》まけて物《もの》がなしきにさ夜《よ》更《ふ》けて羽《は》ぶき鳴《な》く鴫《しぎ》誰《た》が田《た》にか住《す》む 〔卷十九・四一四一〕 大伴家持
 
 天平勝寶二年三月一日、大伴家持が、『飜《と》び翔る鴫を見て』作つた歌である。一首の意は、春になつて何となく憂愁をおぼえるのに、この夜更に羽ばたきをしながら鴫が一羽鳴いて行つた。あゝあの鴫は誰の田に住んでいる鴫だらうか、といふのである。『誰が田にか住む』の一句は、戀愛情調にかよふものだが、民謠的な一般性を脱して個的な深みが加わつて居り、この細みある感傷(440)は前にも云つたやうに、家持に至つて味はれる萬葉の新歌境なのである。そして家持は娘子などと贈答してゐる歌よりかういふ獨居的歌の方が出來のよいのは、心の沈潛によるたまものに他ならぬのである。
 この歌の近くに、『春まけてかく歸るとも秋風に黄葉《もみ》づる山を超《こ》え來《こ》ざらめや』(四一四五)、『夜くだちに寢覺めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも』(四一四六)といふ歌があり、共に家持の歌であるが、やはり同樣の感傷の細みが出來て來てゐる。『山を超え來ざらめや』、『河瀬尋め』のあたりの語氣は、中世紀の幽玄歌に移行するやうでも、まだまだ實質を保つて、空虚な觀念に墜落してゐない。
 
          ○
     もののふの八十《やそ》をとめ等《ら》が汲《く》み亂《まが》ふ寺井《てらゐ》の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花《はな》 〔卷十九・四一四三〕 大伴家持
 
 大伴家持作、堅香子《かたかご》草の花を攀《よ》ぢ折る歌一首といふ題詞がある。堅香子は山慈姑《かたくり》で薄紫の花咲き、根から澱粉の上品を得る。寺に泉の湧くところがあつて、其ほとりに堅香子の花が咲いてゐる。これは單獨でなく群生してゐる。その泉に多くの娘たちが水を汲みに來て、清くとほる聲で(441)話しあふ、それが可憐でいかにも樂しさうである。物部《もののふ》が多くの氏に分かれてゐるので、『八十』の枕詞とした。此處の『八十をとめ』は、多くの娘たちといふこと、『まがふ』は、入りまじることだから、此處は入りかはり立ちかはり水汲みに來る趣である。これも前の桃の花の歌に同じく、我妹子にむかつて情を告白するのでなく、若い娘等の動作にむかつて客觀的の美を認めて、それにほんのりした情を抒べてゐるのである。かういふ手法もまた家持の發明と解釋することが出來る。前にあつた、『かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山振《やまぶき》の花』(卷八・一四三五)もまた名詞止だが、幾分色調の差別があるやうだ。
 
          ○
     あしひきの八峰《やつを》の雉《きぎし》なき響《とよ》む朝けの霞見ればかなしも 〔卷十九・四一四九〕 大伴家持
 
 大伴家持作、曉に鳴く雉を聞く歌、といふ題詞がある。山が幾重にも疊まつてゐる、その山中の曉に雉が鳴きひびく、そして曉の霧がまだ一面に立ち籠めて居る。その雉の鳴く山を一面にこめた曉の白い霧を見ると、うら悲しく身に沁むといふのである。この悲哀の情調も、戀愛などと相關した肉體に切なものでなく、もつと天然に投入した情調であるのも、人麿などになかつた一(442)つの歌境と謂ふべきで、家持の作中でも注意すべきものである。『八岑《やつを》越え鹿《しし》待つ君が』(卷七・一二六二)、『八峰には霞たなびき、谿べには椿花さき』(卷十九・四一七七)等の如く、疊まる山のことである。なお集中、『神さぶる磐根こごしきみ芳野《よしぬ》の水分《みくまり》山を見ればかなしも』(卷七・一一三○)、『黄葉の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも』(卷九・一七九六)、『朝鴉はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀《すがた》見れば悲しも』(卷十二・三〇九五)等の例があるが、家持のには家持の領域があつていい。
 この歌の近くに、『朝床に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唱《うた》ふ船人』(四一五〇)といふ歌がある。この歌はあつさりとしてゐるやうで唯のあつさりでは無い。そして輕浮の氣の無いのは獨り沈吟の結果に相違ない。
 
          ○
     丈夫《ますらを》は名《な》をし立《た》つべし後《のち》の代《よ》に聞《き》き繼《つ》ぐ人《ひと》も語《かた》り繼《つ》ぐがね 〔卷十九・四一六五〕 大伴家持
 
 大伴家持作、慕v振2勇士之名1歌一首で、山上憶良の歌に追和したと左注のある長歌の反歌である。憶良の歌といふのは、卷六(九七八)の、『士《をのこ》やも空《むな》しかるべき萬代に語り繼ぐべき名は立て(443)ずして』といふのであつた。憶良の歌は病状にあつて歎いたものだが、家持のは、父祖の功績をおもひ現在自分の身上を顧みての感慨を吐露したものである。長歌には、『ますらをや空しくあるべき』といふ句が入つたり、『足引の八峰踏み越えさしまくる心さやらず後の代の語りつぐべく名を立つべしも』といふ句が入つたり、兎に角憶良の歌を模倣してゐるのは、憶良の歌を讀んで感奮したからであらう。
 一首の意は、大丈夫たるものは、まさに名を立つべきである。後代その名を聞く人々が、またその名を人々に語り傳へるやうに、さうありたいものだ、といふのである。『がね』は、さういふやうにありたいと希望をいひ表はしてゐる。『里人も謂ひ繼ぐがねよしゑやし戀ひても死なむ誰が名ならめや』(卷十二・二八七三)、『白玉を包みてやらば菖蒲《あやめぐさ》花橘にあへも貫《ぬ》くがね』(卷十八・四一〇二)等の例がある。なお笠金村が鹽津山で作つた歌、『丈夫の弓上《ゆずゑ》ふり起し射つる矢を後見む人は語り繼ぐがね』(卷三・三六四)があつて、家持はそれをも取入れて居る。つまり此一首は憶良の歌と金村の歌との模倣によつて出來てゐると謂つてもいい程である。家持は先輩の作歌を讀んで勉強し、自分の力量を段々と積みあげて行つたものであるが、彼は先輩の歌のどういふところを取り用ゐたかを知るに便利で且つ有益なる歌の一つである。憶良の歌の、『空しかるべき』は切實な句であるが、それは長歌の方に入れたから、これでは『名をし立つべし』とした。憶良の(444)歌に少し及ばないのは既にこの二句の差に於てあらはれてゐる。
 
          ○
     この雪《ゆき》の消《け》のこる時《とき》にいざ行《ゆ》かな山橘《やまたちばな》の實《み》の照《て》るも見《み》む 〔卷十九・四二二六〕 大伴家持
 
 大伴家持が、天平勝寶二年十二月雪の降つた日にこの歌を作つた。山橘は藪柑子《やぶかうじ》で赤い實が成るので赤玉ともいつてゐる。一首は、この大雪が少くなつた殘雪の頃にみんなして行かう。そして山橘の實が眞赤に成つてゐるのを見よう、といふので、雪の中に赤くなつてゐる藪柑子の實に感興を催したものである。『いざ行かな』と促した語氣に、皆と共に行かうといふ、氣乘のしたことがあらはれてゐるし、『實の照るも見む』は美しい句で、家持の感覺の鋭敏を示すものである。なほ、家持には、『消《け》のこりの雪にあへ照る足引の山橘を裹《つと》につみ來《こ》な』(卷二十・四四七一)といふ歌もあつて、山橘に興味を持つてゐることが分かる。この卷十九の歌の方が優つてゐる。
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     韓國《からくに》に往《ゆ》き足《た》らはして歸《かへ》り來《こ》む丈夫武男《ますらたけを》に御酒《みき》た(445)てまつる 〔卷十九・四二六二〕 多治比鷹主
 
 天平勝寶四年閏三月、多治比《たぢひ》眞人|鷹主《たかぬし》が、遣唐副使大伴胡麿宿禰を餞して作つた歌である。『行き足らはして』は遣唐の任務を充分に果してといふ意。『御酒』は、祝杯をあげることで、キは酒の古語で、『黒酒白酒《くろきしろき》の大御酒《おほみき》』(中臣壽詞)などの例がある。この一首は、眞面目に緊張して歌つてゐるので、かういふ壽歌の體を得たものである。この歌で注意すべきは、『行き足らはして』の句と、『御酒たてまつる』といふ四三調の結句とであらう。この作者の歌はただ一首萬葉集に見えてゐる。
 
          ○
     新《あらた》しき年《とし》の始《はじめ》に思《おも》ふどちい群《む》れて居《を》れば嬉《うれ》しくもあるか 〔卷十九・四二八四〕 道祖王
 
 天平勝寶五年正月四日、石上《いそのかみ》朝臣|宅嗣《やかつぐ》の家で祝宴のあつた時、大膳大夫|道祖王《ふなとのおほきみ》が此歌を作つた。初句、『あらたしき』で安良多之《アラタシ》の假名書の例がある。この歌は、平凡な歌だけれども、新年の樂宴の心境が好く出てゐて、結句で、『嬉しくもあるか』と止めたのも率直で効果的である。(446)それから、『おもふどちい群れてをれば』も、心の合つた親友が會合してゐるといふ雰圍氣を籠めた句だが、簡潔で日本語のいい點をあらはしてゐる。類似の句には、『何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花《はつはな》のうれしきものを』(卷十・二二七三)がある。
 
          ○
     春《はる》の野《ぬ》に霞《かすみ》たなびきうらがなしこの夕《ゆふ》かげにうぐひす鳴《な》くも 〔卷十九・四二九〇〕 大伴家持
 
 天平勝寶五年二月二十三日、大伴家持が興に依つて作歌二首の第一である。一首は、もう春の野には霞がたなびいて、何となくうら悲しく感ぜられる。その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いてゐる、といふので、日の入つた後の殘光と、春野に『おぼほし』といふほどにかかつてゐる靄とに觀入して、『うら悲し』と詠歎したのであるが、この悲哀の情を抒べたのは既に、人麿以前の作歌には無かつたもので、この深く沁む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであつた。それには支那文學や佛教の影響のあつたことも確かであらうが、家持の内的『生』が既にさうなつてゐたとも看ることが出來る。『うらがなし』を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい。
(447) 『朝顏は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ』(卷十・二一〇四)、『夕影に來鳴くひぐらし幾許《ここだく》も日毎に聞けど飽かぬ聲かも』(同卷・二一五七)などの例がある。なほ、『醜《しこ》霍公鳥|曉《あかとき》のうらがなしきに』(卷八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものと看るべく、『春の日のうらがなしきにおくれゐて君に戀ひつつ顯《うつ》しけめやも』(卷十五・三七五二)は狹野茅上娘子の歌だから、やはり同じ傾向の範圍と看ることが出來、『うらがなし春の過ぐれば霍公鳥いや敷き鳴きぬ』(卷十九・四一七七)もまた家持の作である。
 
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     わが宿《やど》のいささ群竹《むらたけ》吹《ふ》く風《かぜ》の音《おと》のかそけきこの夕《ゆふベ》かも 〔卷十九・四二九一〕 大伴家持
 
 同じく第二首である。『いささ群竹』はいささかな竹林で、庭の一隅にこもつて竹林があつた趣である。一首は、私の家の小竹林に、夕がたの風が吹いて、幽かな音をたててゐる。あはれなこの夕がたよ、といふので、これも後世なら、『あはれ』とでもいふところで、一種の寂しい悲しい氣持である。この歌は結句で、『この夕《ゆふべ》かも』と名詞に『かも』をつづけてゐるが、これも晩景を主としたいひ方で、この歌の場合やはり動かぬものかも知れない。『つるばみの解洗《ときあら》ひ衣《ぎぬ》のあや(448)しくも殊に著欲《きほ》しきこの夕《ゆふべ》かも』(卷七・一三一四)といふ前例がある。
 小竹に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあつたが、竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして觀入したのは、やはりこの作者獨特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、眞の意味の幽玄にはなりがたいのであつた。『梅の花散らまく惜しみ吾が苑《その》の竹の林に鶯鳴くも』(卷五・八二四)は天平二年大伴旅人の家の祝宴で阿氏|奥島《おきしま》の作つたものであるから此歌に前行して居り、『御苑生《みそのふ》の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ』(卷十九・四二八六)は此歌の少し前即ち一月十一日家持の作つたものである。
 鹿持雅澄の古義では、『いささ群竹』を『いささかの群竹』とせずに、『五十竹葉群竹《イササムラタケ》』と解し、また近時澤瀉博士は 『い笹〔二字右○〕群竹』と解し、『ゆざさの上に霜の降る夜を』(卷十・二三三六)の『ゆざさ』などの如く、『笹』のこととした。なほ少しく増補するに、古今集物名に、『いささめに時まつ間にぞ日は經ぬる心ばせをば人に見えつつ』とあるのは、『笹』を咏込むために、『いささめ』を用ゐた。但しこれは平安朝の例である。
 
          ○
     うらうらに照《て》れる春日《はるび》に雲雀《ひばり》あがり情《こころ》悲《かな》しも獨《ひとり》し(449)おもへば 〔卷十九・四二九二〕 大伴家持
 
 同じく家持が天平勝寶五年二月二十五日に作つたものである。一首は、麗らかに照らしてをる春の光の中に、雲雀が空高くのぼる、獨居して、物思ふとなく物思へば、悲しい心が湧くのを禁じ難い、といふので、萬葉集の大部分の歌が對詠歌、相待的な愬への歌であるのに、この歌は、不思議にも獨詠的な歌である。歌に、『獨しおもへば』といふのが其を證してゐるが、獨居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、佛教的靜觀の趣でもある。これも家持の到り著いた一つの歌境であつた。
 前言にもいつた天平二年の旅人宅の歌に、山上憶良の、『春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日くらさむ』(卷五・八一八)には、ややこの歌と類似點があるが、それ以外のものの多くは戀愛情調で、對者(男女)を豫想したものが多い、從つて人間的肉體的なものが多い。然るにこの歌になると、すでにその趣がちがつて、自然觀入による、その反應としての詠歎になつてゐる。
 卷十九(四一九二)の霍公鳥并藤花を詠じた長歌に、『夕月夜かそけき野べに、遙遙《はろばろ》に鳴く霍公鳥』とあるのも亦家持の作、『雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく』(卷二十・四(450)四三四)も亦家持の作で、この方は卷十九のよりも制作年代が遲い【天平勝寶七歳三月三日】のは注意すべきである。なほ、その三月三日には安倍沙美麿が、『朝な朝《さ》なあがる雲雀になりてしか都に行きてはや歸り來む』(卷二十・四四三三)といふ歌を作つてゐるが、やはり家持の影響とおもはれるふしがある。
 この歌の左に、『春日遲遲として、※[倉+鳥]※[庚+鳥]《ひばり》正に啼く。悽惆の意、歌に非ずば、撥《はら》ひ難し。仍りて此の歌を作り、式《も》ちて締緒を展《の》ぶ』云々といふ文が附いてゐる。※[倉+鳥]※[庚+鳥]は雲雀と訓ませてをり、和名抄でもさうだが、實は鶯に似た鳥だといふことである。
 
(451)卷第二十
 
           ○
     あしひきの山《やま》行《ゆ》きしかば山人《やまびと》の朕《われ》に得《え》しめし山《やま》づとぞこれ 〔卷二十・四二九三〕 元正天皇
 
 大和國添上郡|山村《やまむら》【今の帶解町邊】に行幸【元正天皇】あらせられた時、諸王臣に和歌を賦して奏すべしと仰せられた。その時御みづから作りたまうた御製である。(この御製歌は天平勝寶五年五月はじめて輯録されたから、孝謙天皇の御代になつて居り、從つて萬葉集には元正天皇を先(ノ)太上天皇と記し奉つてゐる。そして此歌の次に舍人親王の和へ奉つた御歌が載つて居り、親王は聖武天皇の天平七年に薨去せられたから、此行幸はそれ以前で元正天皇御在位中のことといふことになる。)
 一首の意は、朕が山に行つたところが山に住む仙人どもがいろいろと土産を呉れた。此等はその土産である、といふので、この山裹《やまづと》といふのは、山の仙人の持つやうなものをぼんやりと聯想(452)し得るのであるが、宣長は、『山づとぞ是とのたまへるは、即御歌を指して、のたまへる也』(略解)と云つたのは、『それ諸王卿等、宜しく和歌を賦して奏すべしと、即ち御口号に曰く』と詞書にある、その『御口号』をば直ぐ山裹と宣長が取つたからかういふ解釋になつたのであらう。併し山裹の内容はただ山の仙人に關係ある物ぐらいにぼんやり解く方がいいのではあるまいか。そこで下の舍人親王の『心も知らず』の句も利くのである。舍人親王の和へ御歌は、『あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰』(四二九四)といふので、前の『山人』は天皇の御事、後の『山人』は土産をくれた山の仙人の事であらう。そこで、『山に御いでになつた陛下はもはや仙人でいらせられるから俗界の私どもにはもはや御心の程は分かりかねます。一體その山裹と仰せられるのは何でございませう。またそれを奉つた仙人といふのは誰でございませう』といふので、御製歌をそのまま受けついで、輕く諧謔せられたのであつた。御製歌は、『山村』からの聯想で、直ぐ『山人』とつづけ、神仙的な雰圍氣をこめたから、不思議な清く澄んだやうな心地よい御歌になつた。
 
           ○
     木《こ》の暗《くれ》の繁《しげ》き尾《を》の上《へ》をほととぎす鳴《な》きて越《こ》ゆなり(453)今《いま》し來《く》らしも 〔卷二十・四三〇五〕 大伴家持
 
 大伴家持が霍公鳥を詠んだもので、鬱蒼と木立の茂つてゐる山の上に霍公鳥が今鳴いている、あの峰を越して間も無く此處にやつて來るらしいな、といふので、氣輕に作つた獨詠歌だが、流石に練れてゐて旨いところがある。それは、『鳴きて越ゆなり』と現在をいつて、それに主點を置いたかと思ふと、おのづからそれに續くべき、第二の現在『今し來らしも』と置いて、一首の一番大切な感慨をそれに寓せしめたところが旨いのである。霍公鳥の歌は萬葉には隨分あるが、此歌は平淡でおもしろいものである。家持の作つた歌の中でも晩期のものだが、稍自在境に入りかかつてゐる。
 
            ○
     我《わ》が妻《つま》も畫《ゑ》にかきとらむ暇《いつま》もが旅《たび》行《ゆ》く我《あれ》は見つつ偲《しぬ》ばむ 〔卷二十・四三二七〕 防人
 
 天平勝寶七歳二月、坂東諸國の防人《さきもり》を筑紫に派遣して、先きの防人と交替せしめた。その時防人等が歌を作つたのが一群となつて此處に輯録せられてゐる。此歌は長下《ながのしも》郡、物部|古麿《ふるまろ》といふ者(454)の作つたものである。一首は、自分の妻の姿をも、畫にかいて持つてゆく、その描く暇が欲しいものだ。遙々と邊土の防備に行く自分は、その似顏繪を見ながら思出したいのだ、といふので、歌は平凡だが、『我が妻も畫にかきとらむ』といふ意嚮が珍らしくもあり、人間自然の意嚮でもあらうから、此に選んで置いた。『父母も花にもがもや草枕旅は行くともフ《ささ》ごて行かむ』(四三二五)も意嚮は似てゐるが、この方には類想のものが多い。また、『母刀自も玉にもがもや頂《いただ》きて角髪《みづら》の中にあへ纏《ま》かまくも』(四三七七)といふのもある。
 
           ○
     大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ磯《いそ》に觸《ふ》り海原《うのはら》わたる父母《ちちはは》を置《お》きて 〔卷二十・四三二八〕 防人
 
 これも防人の歌で、助丁、丈部造人麿《はせつかべのみやつこひとまろ》といふ者が作つた。一首は、天皇の命を畏こみ體して、船を幾たびも磯に觸れあぶない思をし、また浪あらく立つ海原をも渡つて防人に行く。父も母も皆國元に殘して、といふのであるが、かしこみ、觸り、わたる、おきてといふ具合に稍小きざみになつてゐるのは、作歌的修練が足りないからである。併し此歌では、『磯に觸り』といふ語と、『父母を置きて』といふ語に心を牽かれて取つておいた。この男は妻のことよりも『父母』の(455)ことが第一身に應へたのであつただらう。また『磯に觸り』の句は、『大船を榜ぎの進みに磐に觸り覆《かへ》らば覆《かへ》れ妹によりてば』(卷四・五五七)といふ例があるが、『磯毎にあまの釣舟泊てにけり我船泊てむ磯の知らなく』(卷十七・三八九二)があるから、幾度も碇泊しながらといふ意もあるだらう。しかし『觸り』に重きを置いて解釋してかまはない。一寸前にも云つたが、防人の歌に父母のことを云つたのが多い。『水鳥の立ちのいそぎに父母に物言《ものは》ず來《け》にて今ぞ悔しき』(四三三七)、『忘らむと野行き山行き我來れど我が父母は忘れせぬかも』(四三四四)、『橘の美衣利《みえり》の里に父を置きて道の長道は行きがてぬかも』(四三四一)、『父母が頭《かしら》かき撫で幸《さ》く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる』(四三四六)等である。
 
           ○
     百隈《ももくま》の道《みち》は來《き》にしをまた更《さら》に八十島《やそしま》過《す》ぎて別《わか》れか行《ゆ》かむ 〔卷二十・四三四九〕 防人
 
 防人、助丁刑部直三野《すけのよぼろおさかべのあたひみぬ》の詠んだ歌である。一首の意は、これまで陸路を遙々と、いろいろの處を通《とほ》つて來たが、これからいよいよ船に乘つて、更に多くの島のあひだを通《とほ》りつつ、とほく別れて筑紫へ行くことであらうといふので、難波から船出するころの歌のやうである。專門技倆的(456)に巧でないが、眞率に歌つてゐるので人の心を牽くものである。この歌には言語の訛が目立たず、聲調も順當である。
 
           ○
     蘆垣《あしがき》の隈所《くまど》に立《た》ちて吾妹子《わぎもこ》が袖《そで》もしほほに泣《な》きしぞ思《も》はゆ 〔卷二十・四三五七〕 防人
 
 上總市原郡、上丁|刑部直千國《おさかべのあたひちくに》の作である。出立のまぎはに、蘆の垣根の隅の處に立つて、袖もしほしほと濡れるまで泣いた、妻のことが思出されてならない、といふので、『蘆垣の隈所』といふあたりは實際であつただらう。また、『泣きしぞ思はゆ』も上總の東國語であるだらう。或は前にも『おも倍由』といふのがあつたから、必ずしも訛でないかも知れぬが、『泣きしぞ思ほゆる』といふのが後の常識であるのに、『ぞ』でも『思はゆ』で止めてゐる。『しほほ』も特殊で、濡れる形容であらうが、また、『しをしをと』とか、『しぬに』とも通ふのかも知れない。
 
           ○
     大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ出《い》で來《く》れば我《わ》ぬ取《と》り著《つ》きていひ(457)し子《こ》なはも 〔卷二十・四三五八〕 防人
 
 上總周淮郡、上丁|物部龍《もののべのたつ》の作。下の句は、『我《わ》に〔右○〕取り著きて言ひし子ろ〔二字右○〕はも』といふのだが、それが訛つたのである。『我ぬ取り著きていひし子なはも』の句は、現實に見るやうな生々《いきいき》したところがあつていい。當時にあつては今の都會の女などに比して、感動の表出が活溌で且つ露骨であつたとおもふのは、抑制が社會的に洗練せられないからであるが、歌として却つて面白いのが殘つてゐる。『道のべの荊《うまら》の末《うれ》に這ほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ』(四三五二)も同じやうな場面だが、この豆蔓の方は間接に序詞を使つて技巧的であるが、それでも、豆蔓のからまるところは流石に眞實でおもしろい。
 
           ○
     筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花《はな》の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ妹《いも》ぞ晝《ひる》もかなしけ 〔卷二十・四三六九〕 防人
 
 常陸那賀郡、上丁|大舍人部千文《おほとねりべのちぶみ》の作である。『夜床《よどこ》』をユドコと訛つたから、『百合《ゆる》』のユに連續せしめて序詞とした。併し、『筑波嶺のさ百合の花の』までは、ただの空想でなく郷土的實際の(458)見聞を本としたのが珍らしいのである。『かなしけ』は、『かなしき』の訛。一首の意は、夜の床でも可哀いい妻だが、晝日中でもやはり可哀いくて忘れられない、といふので、その言ひ方が如何にも素朴直截で愛誦するに堪ふべきものである。このいひ方は卷十四の東歌に見るやうな民謠風なものだから、或はさういふ既にあつたものを書き記して通告したとも取れるが、若しこの千文《ちぶみ》といふ者が作つたとすると、東歌なども東國の人々によつて作られたことが分かり、興味も亦深いわけである。『旅行に行くと知らずて母父《あもしし》に言申さずて今ぞ悔しけ』(四三七六)の結句が、『悔しき』の訛で、『かなしき』を『かなしけ』と云つたのと同じである。
 
           ○
     あられ降《ふ》り鹿島《かしま》の神《かみ》を祈《いの》りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は來《き》にしを 〔卷二十・四三七〇〕 防人
 
 前と同じ作者である。鹿島の神は、現在茨城県鹿島郡鹿島町に鎭座する官幣大社鹿島神宮で祭神は武甕槌命《たけみかづちのみこと》にまします。千葉県香取郡香取町に鎭座する官幣大社香取神宮(祭神|經津主命《ふつぬしのみこと》即ち伊波比主命《いはひぬしのみこと》)と共に、軍神として古代から崇敬至つたものであつた。防人等は九州防衛のため出發するのであるが、出發に際しまた道すがらその武運の長久を祈願したのであつた。土屋文明(459)氏によれば、常陸の國府は今の石岡町にあつたから、そこから鹿島郡輕野を過ぎ、下總國海上郡に出たやうだから、途中鹿島の神に參拜することが出來たのである。 一首の意は、武神にまします鹿島の神に、武運をば御いのりしながら、天皇の御軍勢のなかに私は加はりまゐりましたのでござりまする、といふのである。
 結句の『を』は感歎の助詞で、それを以て感奮の心を籠めて結句としたものである。併し若しこの『來にしを』を、『來たものを』、『來たのに』といふやうに餘言を籠もらせたと解釋するなら、『皇御軍のために我は來しますらをなるを、夜晝ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ殘して含めるなるべし』(代匠記)か『鹿島の神に祈願て官軍に出て來しものをいかでいみじき功勲を立てずして歸り來るべしや』(古義)かのいづれにかになる。『あられ降り』を『鹿島』の枕詞にしたのは、霰が降つて喧《かしま》しいから、同音でつづけた。カマカマシ、カシカマシ、カシマシとなつたのだらうと云はれて居る。かういふ技巧も既に一部に行はれてゐたものか、或はこの作者の發明か。
 
           ○〔入力者注、この一首は現行の新書にはない〕
今日《けふ》よりは顧《かへり》みなくて大君《おほきみ》の醜《しこ》の御楯《みたて》と出《い》で立《た》つ(460)吾《われ》は 〔卷二十・四三七三〕 防人
 
 火長の今奉部與曾布《いままつりべのよそふ》の作である。いよいよ今日からは、何事も顧慮せずに、天皇の數ならぬ御楯として出發するのであるぞ、といふので、『醜の丈夫なほ戀ひにけり』(卷二・一一七)などとちがつて、謙遜し奉つたいひ方である。『火』といふのは、十人が一火だから火長は十人の長である。この歌はその火長の覺悟で歌つてゐるのはおもしろい。歌は大づかみで概念的のやうだが、この覺悟が出てゐるのでただの概念でなくなつてゐる。この歌の次に、『松の木の竝みたる見れば家人《いはびと》の吾を見送ると立たりし如《もころ》』(四三七五)も、やはり火長の物部|眞島《ましま》の作だが、この方は無邪氣で下手であるから、かう較べると與曾布の歌の方はまさつてゐる。防人は歌人としては素人が多く、家持のところに集まる迄幾らか手が入つてゐるともおもふが、それでも、家持が兵部少輔であつて、家持が歌を尊重したために、これだけのものが輯録せられたのである。
 
           ○
     ひなぐもり碓日《うすひ》の坂《さか》を越《こ》えしだに妹《いも》が戀《こひ》しく忘《わす》らえぬかも 〔卷二十・四四〇七〕 防人
 
(461) 他田部子磐前《をさたべのこいはさき》といふ者の作。『ひなぐもり』は、日の曇り薄日《うすび》だから、『うすひ』の枕詞とした。一首は、まだやうやく碓氷峠を越えたばかりなのに、もうこんなに妻が戀しくて忘れられぬ、といふのであらう。當時は上野からは碓氷峠を越して信濃に入り、それから美濃路へ出たのであつた。この歌は歌詞が讀んでゐていかにも好く、哀韻さへこもつてゐるので此邊で選ぶとすれば選に入るべきものであらう。『だに』といふ助詞は多くは名詞につくが、必ずしもさうでなく、『棚霧《たなぎ》らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代《しろ》に添へてだに見む』(卷八・一六四二)、『池のべの小槻《をつき》が下の細竹《しぬ》な苅りそね其をだに君が形見に見つつ偲ばむ』(卷七・一二七六)等の例がある。
 
           ○
     防人《さきもり》に行くは誰《た》が夫《せ》と問《と》ふ人《ひと》を見《み》るが羨《とも》しさ物思《ものも》ひもせず 〔卷二十・四四二五〕 防人の妻
 
 昔年の防人の歌といふ中にあるから、天平勝寶七歳よりもずつと前のものだといふことが分かる。またこれは防人の妻の作つたもののやうである。一首は、見おくりの人だちの立こんだ中に交つて、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たづねたりする人を見ると羨しいのです、といふので、さういふ質問をしたのは女であつたことをも推測(462)するに難くはない。まことに複雜な心持をすらすらと云つて除けて、これだけのそつの無いものを作りあげたのは、さういふ悲歎と羨望の心とが張りつめてゐたためであらう。『物思ひもせず』と止めた結句も不思議によい。
 
           ○
     小竹《ささ》が葉《は》のさやぐ霜夜《しもよ》に七重《ななへ》著《か》る衣《ころも》にませる子《こ》ろが膚《はだ》はも 〔卷二十・四四三一〕 防人
 
 これも昔年の防人歌だと注せられてゐる。一首は、笹の葉に冬の風が吹きわたつて音するやうな、寒い霜夜に、七重もかさねて著る衣の暖かさよりも、戀しい女の膚の方が暖い、といふので、膚を中心として、『膚はも』と詠歎したのは覺官的である。また當時の民間では、七重の衣といふ言葉さへ羨しい程のものであつただらうから、かういふ云ひ方も傳はつてゐるのである。この歌も民謠風で防人が出發する時の歌などに似ないこと、前に出した、『かなしけ妹ぞ晝もかなしけ』(四三六九)の場合と同じである。ただの東歌に類した民謠をば、蒐集した磐余伊美吉諸君《いはれのいみきもろきみ》が、進上された儘に防人の歌としたものであらう。
 
           ○
(463)     雲雀《ひばり》あがる春《はる》べとさやになりぬれば都《みやこ》も見《み》えず霞《かすみ》たなびく 〔卷二十・四四三四〕 大伴家持
 
 これは家持作だが、天平勝寶七歳三月三日、防人を※[手偏+僉]校する勅使、并に兵部使人等、同《とも》に集へる飲宴《うたげ》で、兵部少輔大伴家持の作つたものである。一首は、雲雀が天にのぼるやうな、春が明瞭に來たのだから、都も見えぬまでに霞も棚びいてゐる、といふので、調がのびのびとして、苦澁が無く、晴朗とでもいふべき歌である。『さやに』は清に、明かに、明瞭に、はつきりと、などの意で、この句はやはり一首にあつては大切な句である。なぜ家持はかういふ歌を作つたかといふに、その時來た勅使(安倍|沙美麿《さみまろ》)が、『朝なさな揚《あが》る雲雀になりてしか都に行きてはや歸り來む』(四四三三)といふ歌を作つたので其に和したものである。勅使の歌が形式的申訣的なので家持の歌も幾分さういふところがある。併し勅使の歌がまづいので、家持の歌が目立つのである。なほ此時家持は、『含《ふふ》めりし花の初めに來しわれや散りなむ後に都へ行かむ』(四四三五)といふ歌をも作つてゐるが、下の句はなかなか旨い。
 
           ○
(464)     劍刀《つるぎたち》いよよ研《と》ぐべし古《いにしへ》ゆ清《さや》けく負《お》ひて來《き》にしその名《な》ぞ 〔卷二十・四四六七〕 大伴家持
 
 大伴家持は、天平勝寶八歳、『族に喩す歌』長短歌を作つた。これは淡海眞人三船の讒言によつて、出雲守大伴古慈悲が任を解かれた、古慈悲は大伴の一家で寶龜八年八月に薨じた者だが、出雲守を罷めさせられた時に家持がこの歌を作つた。歌は句々緊張し、寧ろ悲痛の聲といふことの出來る程であり、長歌には、『聞く人の鑒にせむを惜《あたら》しき清きその名ぞ凡《おほろか》に心思ひて虚言《むなこと》も祖《おや》の名斷つな大伴の氏と名に負へる健男《ますらを》の伴』といふやうな句がある。この一首は、劍太刀をば愈ますます励み研げ、既に神の御代から、清《さや》かに武勲の名望を背負ひ立つて來たその家柄であるぞ、といふので、『清けく』は清く明かにの意である。この短歌は、長歌の方でいろいろ細かく云つたから、大要的に結論を云つたやうなものだが、やはり句々が緊張してゐていい。大伴家の家運が下降の向きにある時だつたので、ことに悲痛の響となつたのであらう。この短歌も威勢のよいのと同時に底に悲哀の韻をこもらせてゐるのはそのためである。
 
           ○
(465)     現身《うつせみ》は數《かず》なき身《み》なり山河《やまかは》の清《さや》けき見《み》つつ道《みち》を尋《たづ》ねな 〔卷二十・四四六八〕 大伴家持
 
 大伴家持が、『病に臥して無常を悲しみ修道を欲《ほり》して作れる歌』二首の一つである。『數なき』は、年齡の數の無いといふこと、年壽の幾何もないこと、幾ばくも生きないことである。人間といふものはさう長生をするものではない。よつて、濁世を厭離し、自然山川の清い風光に接見しつつ、佛道を修めねばならぬ、といふのである。『道を尋ねな』と日本語流にくだいたのも、既に當時の人の常識になつてゐたともおもふが、なかなかよい。この歌には前途の安心《あんじん》を望むが如くであつて、實は悲哀の心の方が深く滲みこんでゐる。また佛教的の本性清淨觀をただ一氣にいつてゐるやうで、實は病痾を背景とする實感が強いのであるから、讀者はそれを見のがしてはならない。この歌と並んで、『渡る日のかげに競ひて尋ねてな清きその道またも遇はむため』(四四六九)といふ歌をも作つてゐる。『わたる日の影に競ひて』は、日光のはやく過ぎゆくにも負けずに、即ち光陰を惜しんでの意。『またも遇はむため』は來世にも亦この佛果に逢はためといふ意で、やはり力づよいものを持つてゐる。かういふものになると一種の思想的抒情詩であるからむづかしいのだが、家持は一種の感傷を以てそれを統一してゐるのは、既に古調から脱却せんとしつつ、(466)なほ古調のいいものを保持してゐるのである。
 
           ○
     いざ子《こ》ども戲《たは》わざな爲《せ》そ天地《あめつち》の固《かた》めし國《くに》ぞやまと島根《しまね》は  〔卷二十・四四八七〕 藤原仲麿
 
 天平寶字元年十一月十八日、内裏にて肆宴《とよのあかり》をしたまうた時、藤原朝臣仲麿の作つた歌である。仲麿は即ち惠美押勝であるが、橘奈良麿等が仲麿の專横を惡んで事を謀つた時に、仲麿の奏上によつてその徒党を平げた。その時以後の歌だから、『いざ子ども』は、部下の汝等よ、といふので、『いざ子どもはやく日本《やまと》へ』(六三)、『いざ子ども敢へて榜ぎ出む』(三八八)、『いざ子ども香椎の潟に』(九五七)等諸例がある。『戲《たは》わざなせそ』は、戲れ業《わざ》をするな、巫山戲たまねをするな、といふので、『うち靡《しな》ひ縁《よ》りてぞ妹は戲《たは》れてありける』(卷九・一七三八)の例がある。一首は、ものどもよ、巫山戲たことをするなよ、この日本の國は天地の神々によつて固められた御國柄であるぞ、といふので、強い調子で感奮して作つてゐる歌である。併し、『戲《たは》わざな爲《せ》そ』といふ句は、惡い調子を持つてゐて慈心が無い。とげとげしくて増上の氣配があるから、そこに行くと家持の歌の方は一段と大きく且つ氣品がある。『劍大刀いよよ研ぐべし』や、『丈夫は名をし立つべし』の方(467)が、同じく發奮でも内省的なところがあり、從つて慈味が湛へられてゐる。仲麿は作歌の素人なために、この差別があるともおもふが、抒情詩の根本問題は、素人玄人などの問題などではない。よつて此歌を選んで置いた。
 
           ○
     大《おほ》き海《うみ》の水底《みなそこ》深《ふか》く思《おも》ひつつ裳引《もび》きならしし菅原《すがはら》の里《さと》 〔卷二十・四四九一〕 石川女郎
 
 『藤原|宿奈麿《すくなまろ》朝臣の妻、石川|女郎《いらつめ》愛薄らぎ離別せられ、悲しみ恨みて作れる歌【年月いまだ詳ならず】』といふ左注のある歌である。宿奈麿は宇合の第二子、後内大臣まで進んだ。『菅原の里』は大和國生駒郡、今の奈良市の西の郊外にある。昔は平城京の内で、宿奈麿の邸宅が其處にあつたものと見える。一首は、大海の水底のやうに深く君をおもひながら、裳を長く引き馴らして樂しく住んだあの菅原の里よ、といふので、かういふ背景のある歌として哀深いし、『裳引ならしし菅原の里』あたりは、女性らしい細みがあつていい。ただかういふ背景が無いとして味へば、歌柄の稍輕いのは時代と相關のものであらう。
 
           ○
(468)     初春《はつはる》の初子《はつね》の今日《けふ》の玉箒《たまばはき》手《て》に取《と》るからにゆらぐ玉《たま》の緒《を》 〔卷二十・四四九三〕 大伴家持
 
 天平寶字二年春正月三日、孝謙天皇、王臣等を召して玉箒を賜ひ肆宴をきこしめした。その時右中辨大伴家持の作つた歌である。正月三日【丙子】は即ち初子の日に當つたから『初子《はつね》の今日』といつた。玉箒は玉を飾つた箒で、目利草《めどきぐさ》(耆草)で作つた。古來農桑を御奨励になり、正月の初子の日に天皇御躬づから玉箒を以て蠶卵紙を掃い、鋤鍬を以て耕す御態をなしたまうた。そして豐年を壽ぎ邪氣を払ひたまうたのちに、諸王卿等に玉箒を賜はつた。そこでこの歌がある。現に正倉院御藏の玉箒の傍に鋤があつてその一に、『東大寺獻天平寶字二年正月』と記してあるのは、まさに家持が此歌を作つた時の鋤である。『ゆらぐ玉の緒』は玉箒の玉を貫いた緒がゆらいで鳴りひびく、清くも貴い瑞徴として何ともいへぬ、といふので、家持も相當に骨折つてこの歌を作り、流麗な歌調のうちに重みをたたへて特殊の歌品を成就してゐる。結句は全くの寫生だが、音を以て寫生してゐるのは旨いし、書紀の瓊音※[玉+倉]々などといふのを、純日本語でいつたのも家持の力量である。但し此歌は其時中途退出により奏上せなかつたといふ左注が附いてゐる。
 
           ○
(469)     水鳥《みづどり》の鴨《かも》の羽《は》の色《いろ》の青馬《あをうま》を今日《けふ》見《み》る人《ひと》はかぎり無《な》しといふ 〔卷二十・四四九四〕 大伴家持
 
 同じく正月七日の侍宴(白馬の節會)の爲めに、大伴家持が兼ねて作つた歌だと左注にある。『水鳥の鴨の羽の色の』は『青』と云はむための序である。『青馬』は公事根源に、『白馬の節會をあるひは青馬の節會とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて、正月七日に青馬を見れば、年中の邪氣を除くといふ本文侍るなり』とある。馬の性は白を本とするといつたから、當時アヲウマと云つて、白馬を用ゐてゐたといふ説もあるが、私には精しい事は分からない。『限りなしといふ』とは、壽命が限無いといふのであるが、この結句は一首の中心をなすものであり、据わりも好いし、恐らく、これと同じ結句は萬葉にはほかになからうか。中味は、『今日見る人は』とこの句のみだが、割合に落著いてゐて佳い歌である。家持は、かういふ歌を前以て作つてゐたといふことを正直に記してあるのも興味あり、このくらゐの歌でも、即興的に口を突いて出來るものでないことは實作家の常に經驗するところであるが、このあたりの家持の歌の作歌動機は、常に儀式的なもののみであるのも、何かを暗指してゐるやうな氣がしてならない。『いふ』で止めた例は、『赤駒を打ちてさ緒《を》引き心引きいかなる兄《せな》か吾許《わがり》來むと言ふ』(卷(470)十四・三五三六)、『澁渓の二上山に鷲ぞ子《こ》産《む》とふ翳《さしは》にも君が御爲に鷲ぞ子《こ》生《む》とふ』(卷十六・三八八二)があるのみである。
 
           ○
     池水《いけみづ》に影《かげ》さへ見《み》えて咲《さ》きにほふ馬醉木《あしび》の花《はな》を袖《そで》に扱入《こき》れな 〔卷二十・四五一二〕 大伴家持
 
 大伴家持の山齋屬目の歌だから、庭前の景をそのまま詠んでゐる。『影さへ見えて』の句も既にあつたし、家持苦心の句ではない。ただ、『馬醉木の花を袖に扱入《こき》れな』といふのが此歌の眼目で佳句であるが、『引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも』(卷八・一六四四)の例もあり、家持も『白妙の袖にも扱入れ』(卷十八・四一一一)、『藤浪の花なつかしみ引き攀ぢて袖に扱入《こき》れつ染まば染むとも』(卷十九・四一九二)と作つてゐるから、あへて此歌の手柄ではないが、馬醉木の花を扱入《こき》れなといつたのは何となく適切なやうにおもはれる。併し全體として寫生力が足りなく、諳記により手馴れた手法によつて作歌する傾向が見えて來てゐる。そして其に對して反省せんとする氣魄は、そのころの家持にはもう衰へてゐたのであつただらうか。私はまださうは思はない。
 
(471)           ○
     あらたしき年《とし》の始《はじ》めの初春《はつはる》の今日《けふ》降《ふ》る雪《ゆき》のいや重《し》け吉事《よごと》 〔卷二十・四五一六〕 大伴家持
 
 天平寶字三年春正月一日、因幡國庁に於て、國司の大伴家持が國府の屬僚郡司等に饗した時の歌で、家持は二年六月に因幡守に任ぜられた。『新しき』はアラタシキである。新年に降つた雪に瑞兆を託しつつ、部下と共に前途を祝福した、寧ろ形式的な歌であるが、『の』を以て續けた、伸々とした調べはこの歌にふさはしい形態をなした。『いや重《し》け吉事《よごと》』は、益々吉事幸福が重なれよといふので、名詞止めにしたのも、やはりおのづからなる聲調であらうか。また、『吉事《よごと》』といふ語を使つたのも此歌のみのやうである。謝惠連の雪賦に、盈v尺(ニ)則呈2瑞(ヲ)於豐年(ニ)1云々の句がある。
 此歌は新年の吉祥歌であるばかりでなく、また萬葉集最後の結びであり、萬葉集編輯の最大の功勞者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この『萬葉秀歌』で、最初に選んだ、『たまきはる宇智の大野に馬なめて』の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜざることを得ない。家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩を尊び遜つて作歌を學んだ者にしてなほ斯くの如くで(472)ある。萬葉初期の秀歌といふもののいかなるものだかといふことはこれを見ても分かるのである。
 萬葉後期の歌はかくの如くであるが、若しこれを古今集以後の幾萬の歌に較べるならば、これはまた徹頭徹尾較べものにはならない。それほど萬葉集の歌は佳いものである。家持のこの歌は萬葉集最後のものだが、代匠記に、『抑此集、初ニ雄略舒明兩帝ノ民ヲ惠マセ給ヒ、世ノ治マレル事ヲ悦ビ思召ス御歌ヨリ次第ニ載テ、今ノ歌ヲ以テ一部ヲ祝ヒテ終《ヲ》ヘタレバ、玉匣フタミ相|稱《カナ》ヘル驗アリテ、藏ス所世ヲ經テ失サルカナ』と云つてゐる。
 
備考(入力者記す)、『萬葉秀歌』は岩波新書として、1938.11.20に上下同時に發行。以後増刷改版などによってしばしば書き改められた。1968.11.25上卷が、ついで1968.12.25に下卷が新字體現代假名遣いになった。入力の底本とした全集は、1954.1.15のものである。
  入力者において、上卷は1994.9.5の第81刷を、下卷は1968.12.25の第41刷を參照した。その結果ふりがなのつけかた、句読点、歌番号の注記法等かなりの違いがあったが、あきらかに參照した新書の方の間違いと思われるものもあった。また岳と嶽、余と餘など、文字を使い分けているにかかわらず、現行の新書では、すべて岳、余になっている。これらの点からも、現行の新書は問題である。
 
2005年2月26日(土)、午後2時55分、入力終了
2005年3月6日(日)、午前11時8分、校正終了
2007年8月20日(月)、午前8時45分、再校正終了(75箇所以上の誤植を訂正した。)