萬葉集講座第二卷・研究方法篇、佐佐木信綱・藤村作・吉澤義則監修、春陽堂、582頁、1933.4.20、
 
(493) 萬葉集と歌謡
                高野辰之
 
      一 はしがき
 
 歌論はフシを附けて諷謠する歌をいふ。而して此の標題の下に、萬葉集所收の長歌、短歌、旋頭歌は、そのどれまでが歌謠であつたかといふことと、もう一つ後代に於て歌謠として傳唱したものはどの歌であつたかといふことを説述しようと思ふ。先哲は皆上代の歌は謠へるものにてといふが如くに概説して、上代とはどの時代までをいふか、萬葉集には其の上代時代の歌があるかないか、要約していへば萬葉集には歌謠扱をすべきものがあるかないかを檢討して細説したものが無い。往年私は怱卒の間に日本歌謠史を著して始めて此の問題に逢着し、言を他に托して逃避し能はず、ともかくも私見を述べて同好の士に批正を仰ぐこととした。次いで歌謠の研究はあげて青年有爲の士に讓り、自らは累年の素志日本演劇史の研究に主力を用ひようと思ひ、歌謠史料の主體をなすものを刊行して後人の利便に供することにした。彼の日本歌謠集成十二卷がそれで、其の編纂刊行の二三年間に期せずして、此の標題に觸れた考査をしたこともあるが、爾來念慮をこれに傾けたことが無く、隨つて私見の適否に關する批評の言説を耳目にせず、今も(494)往時と略同樣の見解を持するのである。但其の後に於て、やや微細に入つたこともあるかに思ふので、再び此の標題の下に執筆することを諾したのである。分つて長歌、短歌、旋頭歌の三となし、その各に就いて歌謠扱をすべきものを説き、後代に至つて歌謠となつたものは便宜一項を立てて、其の條下に於て述べる。もしそれその謠ふ所が千古不變の戀愛の想に成るものであらうか、既往一千年の間、稍異る表現の下に反復せられたことが數多たびに及んでゐて、擧げ來らば際涯のなかるべきを豫想し、原形又はそれに近くして永く謠はれたものに限つてそれを説述の例に引くであらう。
 
      二 長歌
 
 そも/\萬葉集の卷頭は長歌であつて、古く雄略天皇の御製である。これが歌謠であるか否か。標題下の考査は先づ此の歌から始まらなければならぬ。
 雄略天皇の御代には、もう歌を文字に記して贈答することが起つてゐたと思ふが、それを徴すべき的確な史料が無い。ただし之を記紀所載の歌によつて考へれば、此の卷頭の歌は疑もなく諷謠せられたものである。雄略記には長短歌合せて十四首を載せ、雄略紀には八首を收めてあるが、天皇の御製と臣下の作とに別なく、其のすべては謠はれたものである。隨つて此の卷頭の歌、春光うらゝかな野外に於て、籠と掘串と持つて、若菜をあさる可憐な少女、健康色の滿ちた頬に、彩らぬ美しさの溢れてゐるを愛でて呼びかけ給へる此の歌は、些の遲疑を要せず歌謠と定むべきで(495)ある。
 次の第二の歌は、舒明天皇が香具山に登つて望國《くにみ》を遊ばした時の詠、一眸の内に收め給うた景觀を敍べて「國原は煙立ち立つ、海原は鴎立ち起つ」といひ、「うまし國ぞ、あきつ島大和の國は」と結ばれただけのもの。全くの即興詩で、口吟遊ばしたことが想見される。國見は蓋し上古以來の習俗であつて、前に述べた雄略天皇も國見の歌を遺し給ひ、古くは應神天皇も吟出してゐ給ふ。しかればこれも疑ひ無く歌謠。
 此の如く簡易に解決することが可能だとすれば、此の標題下の説明を編纂當事者から私に向つて求められなかつたであらう。第三の歌が直ちに解決し難い問題を提起する。これも同じく舒明天皇の御代の歌ではあるが、此の長歌には反歌が添へてある。而して中皇命が間人連老《はしひとのむらじおい》をして獻らせ給うた歌だと端書にあつて、その歌の詞の中に「朝獵に今立たすらし、暮獵に今立たすらし」と朝夕のことを一つに敍してあれば、現に目撃する所をいふので無く、離れてゐて想察するのである。されば必ず老の作で、文字に記して獻つたのであるとすべきではあるまいか。總じて
  反歌のある長歌は支那の賦に摸して作つたもので、謠ふことを考へず、目で視ること、すなはち讀むを目的にしたものである。而して反は賦の亂に該當するもので、反歌と書くは荀子に反辭とあるに導かれたものだ、
と考へる。反歌といふ語の説明は古く清輔の奧儀抄あたりから始まり、幾人かの先哲の考説が發表されて近く明治の代に及んだのである。而して元禄の昔契沖によつて「反は反覆の義なり。經の長行に偈頌の副ひ、賦等に亂の副ひたる類なり、長歌の意を約めて再び云ふ意なり」と端的の説明が下された。次いで橘守部によつて樂の調子を變へる意で、反としたのだといふ説が出たが、それは雅樂のかへしといふ眞意に通じなかつたが爲に誤つたのである。此のこ(496)とは既に日本歌謠史の中に説明しておいた。
 反歌のある長歌は舒明天皇の代の此の歌を最古として、梯本人麿や山部赤人等著名な作者の長歌には必ず附いてゐる。而して此の兩人は山柿と竝び稱せられて、萬葉歌人の二大巨匠であるが、此の人たちの長歌は諷謠されたものでなかつたのかといふ問が涌いて來る。私は謠はなかつたもので、彼等兩人は往時より謠つて來た歌を、目で見て讀み味はふ詩に改めた點に於ての先進者であつたのだと思ふ。當時は大陸文化の移植に急で、大化の改新以來漢才のある者は尊重せられて、貴族には漢詩の絶句や漢文を相當巧に綴るものが出て來た。但賦や辭は模作が容易でない。模作どころか讀んで味はふことが既に難事であつた。けれどもわが國人は今も己れを虚しうして他の文化を謳歌し追隨することに於てどの國にも劣らないが如く、往昔にあつても此の態度に出る者が多かつた。當時、人麿赤人の二人は地位が低く、かつ教養を十分に受くべき程の惠まれた家に生れなかつたので、師について漢才を十分に具備することは出來なかつた。自然わが國既有の和歌一切を拂ひぬけて擧げて以て漢詩に傾倒するまでにはなり得なかつた。そこでほんの淺い程度に於て、大陸詩賦の形式に則つて、わが固有の長歌に反歌を附けて見せた先行者の跡を追うたのであつたと考へる。けれども二人共に歌才を有することは時流に卓越してゐた。且つそれが和魂漢才の現れと見るべきものであつたが爲に、當時の貴族社會にはそれ程迎へられもしなかつたが、むつかしい支那の詩賦を咀嚼し謳歌し得ない中流以下の人には、程よき革新態度の下に歌を詠ずるものとして崇められた。さうして遂に山柿之門といふ語も生れるに至り、後の覺醒期に至つては、歌聖または歌仙として尊拜せられたのである。かう思考する私は人麿赤人のは勿論、反歌のある長歌一切は諷謠されることを目的として作つたもので無く、隨つて歌謠ではないと推定する。
(497) 人麿や赤人の先行者とは誰であらう。記紀の歌の作者は皆それであるが、其の作に係る長歌には反歌の添はつてゐるものが一首もなく、、そのこれあるは今説明した舒明朝のを最古とし、それに次ぐ軍王の讃岐國にあつて旅愁を詠出したものにも反歌があり、天智天皇の三山の歌にも反歌がある。しかして萬葉集全部の長歌二百六十二首を通覽して、荀くも諷謠された證文のあるものには、すべて皆反歌の無いことは否まれない。決して自己に都合のよい長歌のみを拾つて、かう論斷するのでなく、假りに此の説に反對して立つて見ても、審思の末にはこれが肯はれさうに思ふ。
 卷一卷二あたりの比較的古い時代の長歌には反歌のあるものと無いものと交雜するが、それ等に對しても同一に推定してよいと思ふ。ただ問題にすべきは、天智天皇が藤原鎌足に詔して、春秋の優劣論をなさしめられた時、額田女王が歌でそれを斷ぜられた長歌、これには反歌がない。私は此の歌には重大な意の潜むことを考へるので、少しく横にそれるけれど特に見解を述べさせて貰ふ。額田女王の姉君は鏡女王で、それが鎌足の夫人である。額田女王は天智の御弟天武の妃となつて、一女を擧げられた後、召されて天智の妃となり、天皇崩御に及んでまた天武の妃となられた人である。此の人に對して天智天皇が鎌足を通して、兄を選ぶか弟につくかを問はせられたのが底意で、これに對して、「秋山われは」といふ句で歌を結ばれた女王は、弟をとると明答されたのである。其の女王を兄弟兩人の妃たらしめた者は策士の鎌足の方案らしいが、そこに無理があつて、これが壬申の亂の遠因をなすのである。勿論女王の若い時の歌で、人麿や赤人より以前の作であり、當時は謠ふ長歌から、讀む長歌への過渡期であれば、これに反歌の無いのは古來の型を守つたものであつて、恐らくこれだけは文字に記して鎌足に示されたものであらうと思ふ。
 次に天武天皇が皇太子を辭し、怏々として大津から吉野に向はれた時の「み芳野の耳我の嶺に時なくぞ雪は降りけ(498)る………」の長歌にも反歌がない。これも途中に於て口吟されたのが、從者によつて世に弘まり且つ記録されて、此の萬葉集に收められたものであるべく、これも支那の詩賦に摸したものではない。
 次の藤原の朝すなはち持統天皇の御代は人麿の作の迎へられた時代である。赤人は稍後れるが、此の兩人のには反歌の添はつてゐないものは一首も無い。けれどもこれが一般を風靡せしめたわけでもない。持統天皇の藤原宮の造営の時に役民の作つたといふ長篇の歌には、堯の治世の大龜負圖來の故事をも詠み入れてあつて、大陸文化を憧憬する何人かの手に成つたものと定むべきだが、それにも反歌が無い。さうして二十餘句にわたる此の長歌は、目に一丁字のなき勞役民の共鳴を買ひ得て勞働用の歌に供し得る底のものでない。必ず記して以て獻つた聖世謳歌の一篇と見るべきものである。
 されば反歌の無い長歌も其の全部が歌謠であつたとは論定すべきでなく、當代の歌謠として認むべき長歌には反歌が無かつたとだけしかいへぬと思ふ。而して其の考の下に萬葉集二十卷を通覽すれば、有數のもの數篇を除いた即興詩的の長歌には反歌のないことは事實である。たとへは卷十六所載の、佐爲王の近習の婦が、連夜の宿直に夫戀しく、相見の夢さめて後、すすり泣きをして高聲に吟詠した所の
    飯《いひ》くへどうまくもあらず、歩けども、やすくもあらず、茜さす君が心し、忘れかねつも。
の一首は、反歌のない當代歌謠の一好適例で、至情は遂に王を動かして永く侍宿を免ぜられたといふ歌である。此の種の歌は集中にさう多いのでは無いが、これに近い、素朴にして熱を包藏するものは尠からずあるとはいひ得る。繁を去らんが爲に一々の例は示さず、卷二の天智天皇崩御の時の挽歌や卷八の草香山の歌や卷十六の能登の國の歌の類(499)が皆それだとだけ述べておく。
 右に述べた即興的でない有數の歌といふ中に於て、特に注目すべきものがある。それは諷刺の意を寓する長歌であつて、卷十六に載せてある所の
    乞食者詠《ほかひとのうた》二首
か代表者である、一には爲v鹿述v痛作v之也、一には爲v蟹述v痛作v之也と附記してある長篇物であつて、食を乞ふ者が門附に用ひた歌である。元來乞食をほかひと〔四字傍点〕といふは壽《ほかひ》の詞を述べる人の意であるが、此の二首は壽詞どころか、痛烈な怨恨を敍べたもので、身を鹿や蟹にたとへて、朝家への奉仕に心身困憊の果は、生命をも失ふことを陳じたものである。然るに之を聽いて人々が食を惠んだとすれば、一般人が此の歌に共鳴したことを推知すべきである。換言すれば、大化以降大陸文化の形體を追ふに急で、我が國の實情や富の力や人口の多少を顧みずして、租徴の法を改正し、相當な苛斂誅求を行つたことは、續日本紀の記事や萬葉集でいへば山上憶良の貧窮問答の歌によつても察知せられる。蓋し八省百官に對する俸給や諸雜費も少い額ではなかつたであらうが、それよりは遷都の頻繁であつたこと、宏壯な堂塔建築の引續いた事が深因をなしたのであつて、無用な土木事業も常に企てられたのであつた。而してそれが必ずしも聖慮に出です、野心を抱く貴臣が權勢を得んが爲の劃策に出づることを知つたものは、その私曲を爲す臣下を呪ふのみならず、遂に累を朝家にも及して、發して此の歌となつたのである。恐らくは天智天武持統三朝あたりに謠ひ出されたものであらうが、傳唱久しきが爲に録せられたものと見るべきである。此の二首の長歌に反歌のないことが時代の古いことを示し、三音または六音の句があつて形の整つてゐないことが伸縮を自在にして謠つた一證であ(500)り、後の古今和歌集漢文序に「乞食之客以v此爲2活計之媒1」とあるそれの實證となるものであつて、他にも此の類の多く行はれたことが想像される。
 
      三 短歌
 
 萬葉集所載の短歌で、確實に諷謠されたといふ證文のあるものは三四十首を越えないであらう。例へば天平八年十二月|歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等が葛井連廣成の家に集つて宴を開いた時の歌二首、
    我が宿の梅咲きたりと告げやらば來てふに似たり散りぬともよし。
    春さればをゝりにをゝり鶯の啼くわが島ぞやまず通はせ。
の如きは、固有の歌舞が外來樂に壓倒せられてゐるのを慨いて、相共に古情を盡さうといふので謠つたと馳の歌の後に明記してあるもので、其の當時に於ての古謠であつた。けれども他の短歌に比して何の異る點もない。
 天平十一年十月光明皇后の推摩講に終日大唐や高麗の種々の音樂を供養した後、市原王と忍坂王が琴を彈き、田口朝臣家守十數人のものが佛前で唱つた歌は、
    時雨のあめ間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも。
で、まだ和讃の作りされる以前とて、時の景色を述べただけの歌で、これも普通短歌である。
 此の他河村王が宴居の時、琴を出せば必ず先づ謠つたといふ二首の短歌(卷十六)も、小鯛王が同樣な時に謠つたと(501)いふ二首(同上)も皆同樣に時の景觀を詠じた短歌であつた。穗積親王が酒酣なる時にいつも謠はれたといふ
    家にありし櫃に鍵さし藏めてし戀の奴のつかみかゝりて(卷十六)
滑稽味こそ多けれ別な構造に成つてはゐない。是等を基礎として卷一卷二あたりの短歌を考察するに、即興的なものは其の座に於て口吟された歌謠で、當時世に行はれてゐるどれかの曲節に合せて諷謠されたことが推定される。例へば額田女王が齊明の朝に詠じた「熟田津に船乘りせむと月待てば、潮もかなひぬ今はこぎ出でな」も中皇命が紀伊の温泉へ往かれた時の「君が代も我が代も知れや」以下の三首も謠つたと見るべく、天武天皇が吉野宮に幸せる時の
    よき人のよしとよく見てよしといひし芳野よく見よよき人よく見つ。
も口吟された歌謠だと思ふ。これは頭韻の詩だといふことになつてゐるが、それよりは同聲をことさらに反覆した戯作であつたと見るがよく、當代に讀まれてゐた玉臺新詠の卷八にある鮑泉和2湘東王春日1詩に、
    新燕始新歸 新蝶復新飛 新花滿2新樹1 新月麗2新暉1 新光新氣早 新望新盈抱 (以下略)
とある類に導かれたのであらうといふ説がある。(林古溪著、萬葉集外來文學考)西洋の詩でいふ頭韻と同一に考へ難い配置で、恐らくは此の説が當つてゐると思ふが、座興的に謠はれたことも想像せられて、歌謠と見てよいと思ふ。
 此の考の下に當代歌謠を推定して行けば、短歌は謠はうとすれば、どの歌も/\謠ひ得たことが考へられる。今もどどいつ〔四字傍点〕形の七七七五形の歌が追分節にも潮來節にも甚句節にもおけさ節にも謠はれ得るが如く、萬葉集時代にも幾種かの曲があり、短歌はひろくそれ等の曲に合せて謠ひ得たものであつたことが想見される。隨つてこゝに同集の短歌が歌謠であるか否かの推測を下すは無用の業では無いかの感が起らないでもない。しかしながら其の推定を下す上(502)にも強弱の別があつて、卷十四に收めてある東歌すなは東國地方の俚謠、上總下總常陸信濃遠江駿河伊豆相模武藏上野陸奧に於て謠はれたもの、及び國が不明の分合せて二百三十一首は疑も無く歌謠で、勞働に伴つた歌もあるべく、舞踊の用に供したものもあるべく、宴席に謠つたものもあらうが、その總べてを歌謠と見るが至當である。
 次は卷十一の正述2心緒1歌百四十九首及び寄v物陳v思歌二百八十二首の如きは今の所謂情歌で、地方調にあらずして帝都に近きあたりに謠はれた洗練されたものと見るべきであらう。卷十二にも此の類が三百首近く收めてあるが、同じく歌謠と見てよいと思ふ。卷十六はすなはち有2由縁1歌を含む卷で、前にも屡引用したが、卷首の櫻兒《さくらこ》が二人の壯士に戀ひられて經死する時の歌、壯士たちが哀慟に堪へずして作つたといふ二首の歌、此の次の三人の男が一人の女|縵兒《かづらこ》を戀うた時の歌三首、此等は古傳説話中のもので、先づは歌謠と定むべきものである。同じく此の卷の中の前陸奧の采女の「淺香山影さへ見ゆる」の歌に至つては歌謠たるは敢て説明をまたぬであらう。此の次の、
    住吉の小集樂《をづめ》に出でて正目にも己妻《おのづま》すらを鏡と見つも。
の歌も、今更にわが妻の美しきを知つて讃歎した鄙人の純情を謠つたものとして傳唱された果が、記録されてこゝに收められたもの、總じて此の卷には歌謠が多く、白水郎《あま》や樵夫の歌として記されてゐるものは皆それとして認めてよい。ひとり十六卷のみならず十七八九二十等の卷に古歌傳唱とあるは歌謠たることは疑が無い。而して以上説く處の短歌には後世にかけて謠はれたものがぼつ/\ある。それ等は特にぬき出して項を改めて略述するであらう。
 
(503)      四 旋頭歌
 
 後世片歌と呼んだ五七七形の歌は、恐らくわが和歌の最古最小の形で、歌を構成する句の基本をなす五七の七を反復したもの、而してその五七をもう一回反復して、最後の七の句を繰返したものが短歌、五七を三回以上反復して、最後の七の句を繰返したのが長歌で、上古歌謠にあつては反復が歌の生命であつた。記紀所收の歌が實によく之を證する。
 五七七は多く問答の歌に用ひられた。その一問一答の形を連ねて獨自の詠歌にすることも行はれた。應神記仁徳記雄略紀繼體紀等にその適例が出てゐる。此の形式の歌は萬葉集に至つて旋頭歌と名づけられた。旋頭歌は漢土で作つた熟字でない。隨つて其の名義に關しては、わが國獨自で考へなければならぬ。恐らくは五七七を二首連ねたものといふ考がまだ消え去らない頃に、第二首の頭の句は前の歌の頭の句の曲節を繰りかへすといふ意で全く謠ふ方面から考へて附けた稱呼であらうと思ふ。彼の神樂歌に於て、普通の短歌を本方と末方とに分けて相對して謠ふ時には、本方では五七五までを謠ひ、末方では第三句の五を繰返して、五七七と謠ふのであつて、これも旋頭歌の形式を遺したものだと思ふ。
 旋頭歌は平安朝期に及んでは、謠ひ物の上に保存されたが、勅撰歌集では古今集だけで、他には載せられなくなつた。通觀しては、萬葉集時代が最も此の形の歌が用ひられた時であつて、通計六十一首を數へる。而して之を掲げる(504)ことは卷七に始まるが、此の卷に古歌集に見えてゐるといつて載せた十七首の中に、たつた一首だけが旋頭歌で、就v所發v思歌と題してゐる所の
    ももしきの 大宮人の 踏みし趾《あと》どころ 冲つなみ 來よらざりせば 失せざらましを。
の如きは、何人かが天智天皇の大津の宮の荒廢の趾に立つて、追懷の情を詠出したもので、勿論諷謠されたものだと思ふ。これに次いで旋頭歌と題して擧げてある二十四首も歌謠であるべく、殊に其の最後の歌はやはり古歌集に見えてゐるものだと斷つてあるが、
    春日なる 三笠の山に 月の船出づ みやびをが 飲む盃に 影に見えつつ。
で、風流漢が多くて、酒宴することを禁ぜられた程の奈良の都では、燕飲の席上で此の歌の高吟されたことが想像される。他に父母が嚴重に守つてゐる娘の許に通つた男がよんだといふ
    み幣とり 神の祝《はふり》が 齋《いは》ふ杉原 薪|樵《こ》り ほと/\しくに手斧とらえぬ。
の如きも、あぶなかつたといふ意で、此の經驗は誰にもあつて、弘く傳唱されたことであらう。
 卷八の山上憶良が秋の野の花を詠んだ「萩の花、尾花くず花撫子の花………」や、藤原八束の「さを鹿の萩にぬきおける露の白玉軍………」典鑄正《いもじのかみ》紀鹿人が大伴稻公の別莊で作つた「射部《いめ》立てて跡見の野邊の撫子の花………」以下の三首は、必ずしも謠つたものとも思へず、又秋の相聞の中にある丹生の女王が太宰帥の大伴旅人に贈つた「高圓の秋の野の邊の撫子の花………」の如きは、明かに記して贈つたもので、卷十あたりにも、謠つたものかどうか判じ難いものも二三首あるが、卷十一に收めてある相聞の歌で、人麿集に見えてゐるといふ十二首、古歌集に見えてゐるといふ(505)五首の如きは世に諷唱されたことが思はれる。いづれ確とした證文の無いものに對していふのであつて、反對説を立てようと思へば立ちもすべく、結局は水掛論以上の泥試合にまでも陷るであらうが故に、此のあたりで筆はとめる。しかしながら、卷十六の能登の國の歌
    梯立《はしだて》の 熊來《くまき》のやらに 新羅斧陷れ わし かけて/\ な泣かしそね 浮出づるやと見む わし。
    梯立の 熊來酒屋に まぬらる奴 わし 誘ひ立て 率て來なましを まぬらる奴 わし。
の二首の如きは、内容から見ても勞作歌であることが知られ、わしといふ囃子詞の附いてゐるのでも謠ひ物たることが知られよう。同じく越中の國の歌の、
    澁谷の 二上山に 鷲ぞ子生むとふ。
    翳《さしば》にも 君がみために 鷲ぞ子生むとふ。
も謠つたものと認められる。
 なほ旋頭歌に近いものとして考ふべきは、同じく此の越中の國の歌の
    彌彦《いやひこ》 神の麓に 今日らもか 鹿《カ》のこやすらむ 裘《かはごろも》着《き》て 角着きながら。
である。形からいへば旋頭歌だが、心持からいへば短歌の最後の句を反復するに別な語を用ひたものである。彼の佛足石歌二十一首は皆これであれば、又一體として別に立ててもよいが、萬葉集には右の一首のみであるが故に、旋頭歌に附説するだけに止めておく。
 
(506)      五 後の世までの歌謠
 
 奈良朝の歌、萬葉集の歌がどの位迄、謠ひ物として後世に傳つたかを説くは、やはり相當に難事である。例へば十二卷の、
    いで吾が駒はやく行きこせ、まつち山、まつらむ人を行きてはや見む。
が、催馬樂歌にそのまゝ用ひられてゐるなどはよい例だが、こんなのは極めて尠く、多くは少しづつ改めて謠はれた。例へば十一の卷の、
    妹が門ゆきすぎかねつ久方の雨もふらぬかそをよしにせむ。
を原歌にして催馬樂の「妹之門」の歌が生れたが、これも原歌のままではない。又十六の卷の、
    わが門に千鳥しばなく起きよ起きよ、わが一夜づま人に知らるな。
も、神樂の酒殿歌に周ひられて、
    にほとりはかけろと鳴きぬなり、おきよおきよ、わが一夜づま人もこそ見れ。
の如くに謠はれた。此の類はもつと/\多い。十一の卷の、
    伊勢のあまの朝な夕なにかづくとふ鰒の貝の片思にして。
も、梁塵秘抄の卷二の二句神歌の一として謠はれた
(507)    伊勢の海に朝な夕なにあまのゐて、とりあぐなる鰒の貝の片思なる。
の原歌なることには何人も異論があるまい。またもう少しく度を強めていへば、同じく十一の卷の
    山科の木幡の山を馬はあれど、かちよりわがく汝をおもひかねて。
が、同上書の二句神歌の春日十首のうちの、
    春日山くもゐはるかに遠けれど、かちよりぞ行く君を思へば。
の原歌と定めてよい。ただしもつと之をおしひろめて行けば、鎌倉時代の宴曲や室町時代の謠曲の上に、萬葉集の歌の後裔と認むべきものの尠からぬを思うて、斷然省略に附し、それ程必要もない引用や列擧に紙面を浪費しないことにする。
 判じ難いのは、風土記に載せてある歌と萬葉集の歌とに於て近似せるものの前後裁定である。風土記には概ね古傳の歌として收録してあるのであれば、恐らくは萬葉集の歌よりも古いのもあらうが、暫く兩者の間に前後の別を立てず、こんな類似なものもあると説くに止める。かの卷十六の、
    事しあらは小泊瀬山の石城にもこもらば共に、なおもひそわがせ。
と常陸風土記の葦穩山の條下の短歌との前後の如きは匆卒の間に解決せられない問題であらう。又彼の卷の五所掲の山上憶良の「哀2世間難1v住」歌の起首に
    少女等が少女さびすと、唐玉をたもとにまかしよち子らと………
とあるのと、五節舞の歌の
(508)    少女ども少女さびすも唐玉をたもとにまきて少女さびすも。
との間には到底前後を定めがたからう。もつと微弱なもの、例へば東歌の二の歌の「なをかけ山のかづの木………」の如きは萬葉集東歌の相模國歌
    足柄の吾をかけ山のかづの木の、わをかづさねもかづさがつとも。
から出たものと認むべきだが、かやうな斷片的なものにまでわたらば、穿鑿の煩に堪へ難く、且つその推定を進めたなら、獨斷肯定の弊に墮すべきを虞れて、敢て勇を鼓さないことにする。
 また原意の忘れられて、神事用の歌に用ひられたもの、例へば春日神社の田舞の歌
    千早振神の社しなかりせば、春日の原に粟まかましを。
の如きは、もと男女唱和の戀愛歌で、某の處女が佐伯赤麿に贈つた歌を少しばかり改めたもので、赤麿がこれに和した歌も萬葉集の卷三に載せてあるのだが、後世になつてそれと知らずに用ひたものであらう。
 
      六 結語
 
 人によつては上來私の説く所を無用の言となすであらう。「上古の歌は皆謠ひけるなり」といつた先哲の言に對して萬葉集の歌はどこまでその上代の部に入るべきかを考へず、單に詠歌上の參考に資せんが爲に、或は模範とせんが爲に萬葉集を見るといふ人たちに取つては恐らく何の役にも立たぬ説明であらう。しかしながら、どの國の詩も遠き昔(509)にあつては口吟されたものであり、それにその民族特有の音調曲節がこもつてゐた處に、尊重すべき價値のあつたことを思ふと、わが萬葉集に對しても前述の如き考査をすることが決して無用の業でないと思ふ。
 私は元來萬葉集を奈良朝の官吏や僧侶の有識階級人や上流貴族の心をこめた歌の集だとは認めてゐない。人麿や赤人の如き地位の低い人、旅人や家持の如き漢文學に對して、どこ迄咀嚼してゐたかわからない人、せい/”\で遣唐副使であつた山上憶良といつた人が、我が國古來の歌を詠じた所の其の集に過ぎないと思つてゐる。當代のすぐれた人達は漢詩漢文に思を凝して、和歌などには一瞥をも與へなかつたのではあるまいか。頭脳を冷靜にして、奈良朝を代表する天皇貴臣學者僧侶の作が果して此の集の中にどの位あるかを審思するがよい。あつても即興や愛の希求以外に何があるかを考へるがよい。奈良の大佛に關する歌や法隆寺に關する歌のないのをどう説けばよいかも考へるがよい。當時讀まれた文選其の他の漢籍の影響の極めて淺いのを、どう解したらよいのであらう。佛敦思想の浸潤にしても、此の集の歌の上では餘りに低級ではあるまいか。法華經は讀誦せられてゐた。それが萬葉集の上にどの位現れてゐるであらう。私は實にすくな過ぎることを感ずる。同時にかゝる難文字を咀嚼し得た人たちは新しい處に走つて、さう和歌なんぞはよまず、隨つて此の集の中には收められよう筈はなく、當代文化は決して萬葉集を主材として判定すべきでなく、我等はもつと/\多方面よりして奈良朝を研究すべきを思ふのである。
 萬葉集を尊重するはよい。詠歌の手本とするもよい。よいが、文化史料としての價値は、別に評定する必要があり、私は其の立場に於て此の集を見ようとしてゐる一人であり、與へられた此の標題の下に於ても自らそれに支配されてゐたであらうことを附言しておく。
 
               (2010年6月14日(月)、午後3時50分、入力終了)