増訂萬葉集全註釋三(卷の一・二)(1956.7.20)、639頁、480圓。
 
武田祐吉、角川書店、(1956年12月,昭和三十一年)初版、1969、7(6版)、改造社版、1949年(昭和24年)。
 
武田祐吉 増訂萬葉集全註釋 三 本文篇一(卷の一・二)
 
(1)  凡例
 
一、本書は、萬葉集の全部について註釋し、分冊して刊行する。この一冊から以下十冊は、その本文註釋の分で、各卷の註釋を順次分載する。
一、各條とも、初めに原文を掲げ、次に書き下し文、譯、構成、釋、評語、參考等に分かつて、これを註釋した。但し歌詞は見易いように、上部に書き下し文を掲げ、その下に原文を載せた。
一、原文は、主として定本萬葉集に依つたが、その後の研究に依つてこれを改めたところもすくなくない。定本萬葉集に依つたところは、本文研究に關する記事をそれに讓つて省いたものも多いが、改訂したものは一々これを記した。定本萬葉集は、西本願寺本を底本とし他本および諸説によつて改訂を加えた本である。今、異體字は、なるべく普通の字體に改めたが、尓祢弥?のような字形の相違の多いものは原形を殘した。但し解釋中に引用する場合は、便宜上、爾禰彌獵などの普通の字體によつた。原文は、漢文の部分には句讀點、返り點をつけ、歌謠の部分には、各句ごとに空白を置き、返り讀むべきものには返り點をつけ、漢字の右傍に片かなの訓をつけ、別の讀み方の參考とすべきもののある場合に限り、漢字の左傍にも訓をつけたものがある。
一 書き下し文も、主として定本萬葉集に依つたが、これも改めたところがすくなくない。殊に定本萬葉集に愼重を期して訓を缺いたものも、本書にはなるべく訓を下した。原文の簡易なものは、書き下し文を省略したものもある。歌の書き下し文の上にはその歌の番號を附した。この番號は國歌大觀の附けた(2)ものに依つたが、これは廣く行われているものである。歌詞の部分は、とくに行をわけて記し、これに相當する原文を、その行の下に掲げた。また」の記號を入れて、段落をあきらかにした。
一、譯は、歌謠に限り、現代語譯を附けた。なるべく逐語譯に從い、簡明に記したので、釋の部を參考してその意を得べきである。歌詞は、今日の口語に適譯を得られない場合があり、當らずといえども遠からずというべき程度のことも多い。たとえば、妹、吾妹子、君、ワガ夫子の如きも、妻か愛人か、二人稱か三人稱か、種々の用法があつて、現代語譯をすると、その一つに限定されて、誤解されるおそれのある場合も起る。そういう場合は、原語のままに殘さねはならないこともあるのである。枕詞、序詞の如きも、つとめて口譯したが、そのためにかえつて文意の通じないものができたかもしれない。
一、構成は、長歌に限つて、その段節の組織を説明した。
一.釋は、原文の語句、もしくは文を掲げて、その訓法と註釋とを記した。原文の語句、もしくは文の下にまず訓を掲げ、次に注意すべき異訓のあるものは、參考としてこれを掲げた。但し本書は、諸説を紹介するを目的とするものではないから、訓釋に問題のある句に限りこれを載せることとした。
一、評語は、歌について、批評鑑賞について記し、なおその他の事項にも及んだ。
一、參考は、歌の解釋鑑賞上、參考となるべきものを選んでこれを載せた。
一、かなづかいは、書き下し文、および引用の古文には、歴史的かなづかいを保存し、その他の部分は現代かなづかいに依つた。漢字は、特殊のもの以外はなるべく正體によつた。
一、引用した諸傳本および註釋書の名辭のうち、略號を使用したのは、次の通りである。
 桂  桂本               藍  藍紙本
(3) 金 金澤本              天  天治本
 元  元暦校本             嘉  嘉暦傳承本
 壬  傳壬生隆祐筆本          尼  尼崎本
 春  春日本              神  神田本(紀州本ともいう)
 冷  傳冷泉爲頼筆本          細  細井本
 西  西本願寺本            温  温故堂本
 矢  大矢本              文  金澤文庫本
 京  京都大學本            類  類衆古集
 古葉 古葉略類聚鈔           仙  萬葉集註釋(仙覺)
 管  萬葉集管見(下河邊長流)     拾  萬葉拾穗抄(北村季吟)
 代初 萬葉代匠記初稿本(契沖)     代精 萬葉代匠記精撰本(契沖)
 僻  萬葉僻案抄(荷田春滿)      童  萬葉童蒙抄(荷田信名)
 考  萬葉考(賀茂眞淵)        玉  萬葉集玉の小琴(本居宣長)
 槻  萬葉考槻落葉(荒木田久老)    略  萬葉集路解(橘千蔭)
 燈  萬葉集燈(富士谷御杖)      ? 萬葉集?解(香川景樹)
 攷  萬葉集攷證(岸本由豆流)     墨  萬葉集墨繩(橘守部)
 檜  萬葉集檜嬬手(橘守部)      私考 萬葉私考(不明)
 古義 萬葉集古義(拾鹿持雅澄)     札  萬葉集略解札記(岡本保孝)
(4) 美 萬葉集美夫君志(木村正辭)     補 萬葉集略解補正(木村正辭)
 註稿 萬葉集註稿木(關谷潜)      口譯 口譯萬葉集(折口信夫)
 註疏 萬葉集證疏(近藤芳樹)      新考 萬葉集新考(井上通泰)
 新訓 新訓萬葉集(佐佐木信綱)     全釋 萬葉集全釋(鴻巣盛廣)
 講義 萬葉集講義(山田孝堆)      定本 定本萬葉集(佐佐木信綱・武田祐吉)
 新校 新校萬葉集(澤瀉久孝・佐伯梅友) 私注 萬葉集私注(土屋文明)
なお、元朱、元赭、元墨、類墨、神朱などとあるのは、元暦校本、類聚古集、神田本等の諸本に、朱、代赭、別の墨で書いてあるものを示す。その他の諸本諸書を引用した場合は、その名稱を略書しても、ただちにその本その書と知れるように注意した。寫本、版本には、濁點句讀の無いものが多いが、今便宜濁點を附しまた句を切つたものもある。なお引用の歌文の下に括弧して出所を記したもののうち、萬葉集の歌文には、書名を略して、ただ卷數と歌の番號とを記すに留めた。古事記日本書紀の歌謠を引用した場合には、岩波文庫の記紀歌謠集でつけた歌謠の番號を記した。
一、目録は、原典では各卷の初めにあるが、本書では、まとめて各冊の初めに、目次としてその一冊の分を出し、その書き下し文の下には、歌の番號を括弧して入れ、その下方に本書のページ數とを記して?索に便にした。
 
(5) 目次
萬葉集卷の第一
 
雜歌
泊瀬《はつせ》の朝倉の宮に天の下知らしめしし天皇《すめらみこと》の代《みよ》
 天皇の御製歌(一)…………………………………………………………………二六
高市《たけち》の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 天皇の香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌(二)……四三
 天皇の内野に遊獵《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしひと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまる歌(三・四)……五二
 讃岐の國の安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王《おほきみ》の、山を見て作れる歌(五・六)………………………………………………………六三
明日香《あすか》の川原《かはら》の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 
萬葉集卷第一
雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市岡本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望國之時御製歌
 天皇遊2?内野1之時 中皇命使2間人連老獻1歌
 幸2讃岐國安益郡1之時 軍王見v山作歌
明日香川原宮御宇天皇代
〔以下略〕
 
(21)萬葉集卷第一
 
(22)(白紙)
 
(23)萬葉集卷第一
 
 萬葉集の卷の一は、雜歌の卷であつて、雄略天皇の御製の歌から、奈良時代の初頭の歌まで八十四首(長歌十六首、短歌六十八首)を收めている。このうちに或る本の歌四首(うち長歌二首)を含む。木文のはじめに、雜歌の分類項目があり、以下、各天皇の時代毎に分かつて時代順に歌を配列してあるが、大寶元年以後は、年號を標記してその年の歌を收め、最後に寧樂の宮と標記して歌一首を收めて終つている。この編纂法は、卷の二もほぼ同樣である。
 文字使用法としては、表意文字としての用法と表音文字としての用法を併用し、特に訓假字の使用が比較的多量になされている。上代假字づかいの例外的な用字法としては、四能(四五、小竹)が指摘される。特殊の用字として、白土(五、知ラニ)、金野(秋ノ野)、葉(四七、黄葉ノ)、西渡(四八、傾キヌ)などがあり、また莫囂圓隣之の歌(九)、清明己曾の句(一五)は、難訓をもつて知られている。
 作品は、その古い時代のものにあつては、歌曲の詞章ふうの歌謠であるが、時代が降るに及んで、歌體も固定し、獨語的な性質を増加して行くさまが窺われる。額田の王、柿本の人麻呂等の代表的作品のほかに、逸名氏の作にもすぐれたものが見出され、全體の歌數は少いが、優秀な一卷である。
 傳本としては、仙覺本以外の系統の本には、元暦校本が大部分を傳えている外に、神田本、傳冷泉爲頼筆本があり、類聚古集、古葉略類聚鈔も、多數の歌を傳えている。以上の諸本における特異の傳來としては、神田本および古葉略類聚鈔が、藤原の宮の御井の歌(五二)を重ねて書いていることが注目される。また仙覺本系(24)統の本には、西本願寺本、大矢本、京都大學本、その他數種がある。
 
 雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。ザフノウタ、クサグサノウタ等の讀み方がある。相聞、挽歌等の、他の部類に入らぬ雜多の歌を集めたという意味に解せられる。しかし卷中にも、例えば額田の王と皇太子との贈答の歌の如きは、むしろ相聞に部類した方が適當と考えられる。一體卷の一に雜歌を録することは、編纂法として不審である。元暦校本、神田本にこの一行が無いが、これはこの標目の次に目録を插入したとも考えられ、本文のはじめに、この標目のあるのは、後人がまたこれを補い入れたかとも考えられる。元暦校本に、この場處に、赭で「萬葉集卷第一 雜歌」とあり、傳冷泉爲頼筆本には、この行の前に、萬葉集卷第一の一行がある。これらの事實については、今明解を下し難いが、原形を考える上に參考となるであろう。卷の五の本文の初めの雜歌の一行も、神田本、細井本には無く、春日本の殘簡にも無い。
 次に元暦校本の本文の初めの部分の寫眞を載せる。初めの二行は、目録の終りである。萬葉集は、もと卷物の形の本であつたので、目録につづいて本文が書かれたのを繼承した形を傳えている。第一行の下方、および最後の行の此の字の左にあるのは、飛雲《とびくも》といつて、紅と藍の色を紙に漉き込んだものである。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
 
【釋】泊瀬朝倉宮御宇天皇代 ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。古代は、天皇一代毎に皇居を改められたので、その宮號を稱して、いずれの御方であるかをあきらかにした。泊瀬の朝倉の宮は、雄略天皇の宮室の稱で、奈良縣磯城郡朝倉村の地であり、今の初瀬町の西、初瀬川に臨んで、(25)その地名を存している。日本書紀、雄略天皇即位前紀には、「十一月(安康天皇三年)壬子朔甲子、天皇命2有司1、設2壇於泊瀬朝倉1、即天皇位、遂定v宮焉。」とある。御宇は、馭宇(萬葉集)、御寓(日本書紀)とも書く。御は統治、制御の義、宇は屋宇の義から轉じて天の蔽える下意に使用する。日本靈異記序文に、輕嶋豐明宮御宇譽田天皇代とある訓釋に「御、乎左女多比之」、「字、阿米乃之多」とあつて、アメノシタヲサメタビシとも讀まれる。本集には天下治賜とあるもの二例あるに對して天の下シラスとあるもの九例あり、これに依つて、アメノシタシラシメシシと讀むこととする。僻案抄にはアメノシタシロシメスとあるが、本集には「天下《アメノシタ》 志良之賣師家類《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九八)等、假字書きのものは、すべてシラシになつている。天皇は、天平五年の唐の國書に、「日本國|主明樂美御コ《スメラミコト》」とあり、これに依つて、スメラミコトと讀むべきが如(26)くである。但し本集の歌詞には、天皇の文字を四音の處に當てて使用してあり、これはスメラミコトと讀むことは不適當である。このスメラは、統《ス》ブの體言スメに、他語との間を接續する性能を有する助詞ラが接續したものと考えられ、例えば、赤ラ孃子《おとめ》、淺ラ褻《け》などの如き語法であろう。ミコトは敬稱の體言で、尊、命の字を當てられるものと同語である。天皇の文字は、大陸古代の皇帝に天皇氏があり、唐代には一時、皇帝を天皇と稱したこともあつたが永續せず、もつぱら日本で使用する例になつた。その古い使用例には、推古天皇の朝の文章と考えられる法隆寺金堂の薬師佛の光?の銘文に、「池邊大宮治2天下1天皇」など見えている。
 大泊瀬稚武天皇 オホハツセワカタケノスメラミコト。雄略天皇の御事である。日本書紀には大泊瀬幼武天皇とある。いまだ漢風の謚號を奉らざる以前の文とおばしく、この稱號を以つて、泊瀬朝倉宮御宇天皇の説明としたのである。この御稱號は、國風の謚號のようであるが、確實なことは知れない。雄略天皇は、允恭天皇の第五皇子、御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》つ姫の皇后。皇兄安康天皇の後を承《う》け、眉輪《まよわ》の王等を誅して帝位におつきになつた。天皇、勇武にましまし、狩獵を好ませられた。葛城山に狩せられた時、一言主の大神に出合つたこと、その他の記事が傳わつている。しかも一面には歌詠の作を傳え、數篇の美しい歌物語が、古事記や日本書紀に傳わつている。これらは泊瀬《はつせ》の天皇《すめらみこと》の名のもとに語り傳えられた歌物語を、天皇の御事蹟の如く取り扱うようになつたと考えられる。天下を知ろしめすこと二十三年にして崩じた。後世漢風の謚號をたてまつつて雄略天皇と申す。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌 スメラミコトオホミウタ。御製歌、オホミウタ(西)、ミウタ(西)、ヨミタマヘルミウタ(僻)、ミヨミマセルオホミウタ(古義)。天皇は、泊瀬朝倉宮御宇天皇代の標目のもとにあるので、雄略天(27)皇にましますことあきらかである。御製歌をオホミウタと讀むのは、古事記下卷の大御歌とあるに依るものである。御製の歌の如く、御製を字音に讀んだかとも考えられる。御製は、漢文に皇帝の制作する所にいい、御製詩、御製文、御製書等の用例がある。御製歌と書くを。正とするのであるが、歌の前行に御製とあれば、それでも意を通ずる。本集では多く御製歌とあるが、卷の四、四八五の前行には、崗本天皇御製一首とある。
 雄賂天皇の御製と傳える歌は、古事記、日本書紀にもあるが、歌曲の詞章と見られるものが多く、それらは、傳來した詞章について、作者を英雄的な天皇に附託したもののようである。ここに傳えているところも、ほぼ同樣であつて、まだ確實性には乏しい。しかし古い時代から、天皇の名のもとに傳えられているものであるから、この意味において、歌詞に對して、天皇の御製歌という限定は、不可分のものとなつている。
 
1 籠《こ》もよ み《こ》籠持ち、
 掘串《ふくし》もよ  み掘串《ぶくし》持ち
 この岡に 莱|採《つ》ます兒《こ》。
 家聞かな。 名|告《の》らさね。」
 そらみつ 大和《やまと》の國は、
 おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ。
 しきなべて 吾こそ居れ。
 吾こそは 告《の》らめ。
 家をも名をも。」
 
 籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》
 布久思毛與《フクシモヨ》 美夫君志持《ミブクシモチ》
 此岳尓《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》
 家吉閑《イヘキカナ》 名告紗根《ナノラサネ》
 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》
 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》
 師吉名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワレコソヲレ》
 我許背齒《ワレコソハ》 告目《ノラメ》
 家呼毛名雄毛《イヘヲモナオヲモ》
 
(28)【譯】お籠《かご》を持ち、掘串を持つてこの岡に菜を採んでいる娘さん。お家が聞きたい。名をおつしやい。この大和の國は總じてわたしの領國である。すべてがわたしの家である。わたしこそは言いましょう、家をも名をも。
【構成】第一段、名ノラサネまで。まず岡の邊に菜を採んでいる娘子に對して呼びかけて、家や名を聞きたいという希望を述べている。第二段、終りまで。轉じて作者自身の上を述べている。自分こそはこの國の主人である。家や名をもあきらかにしようと述べられている。
【釋】籠毛與美籠母乳 コモヨミコモチ。
   コモヨミコモチ (西)
   カタミモ、ヨミカタミモチ(代清)
   カタマモ、ヨミカタマモチ(僻)
   カタマモヨ、ミガタマモチ(考)
   カツマヨ、ミカツマモチ(註稿)
   コモヨ、ミコモチ(古義)
   ――――――――――
   籠毛與美籠母乳之《カタマモヨミカタマモタシ》(墨)
 籠をコと讀むのは、倭名類聚妙に、「唐韻云、籠、盧紅反、一音龍、又カ董反、古《コ》」とあるに依る。本集でも、訓假字として、「射等籠荷四間乃《イヲゴガシマノ》」(卷一、二三)など、コの音に使用している。正倉院文書(大日本古文書九ノ三一九)に「海藻三古」とある古も籠の意と推定される。代匠記にこれをカミと讀むのは、日本書紀卷の二、神代の下の本文に「無v間籠」とあるのを、同じく一書に「無v間堅間」としている。カタマに通ずるものとしてカタミと讀む。古事記上卷には「无v目勝間」とあり、倭名類聚紗には、??、四聲字苑云、??。零青二音、漢語抄云、加太美、小籠也」とある。コと讀むかカタマと讀むかでは、音節數の上に相違があるが、古歌には、「宇陀《うだ》の高城《たかぎ》に鴫羂《しぎわな》張る」(神武天皇御製、古事記一〇、日本書紀七)など、三音四音の句の例もかれこれと見え、(29)音節の數の制限からカタマの訓を採るべしというに至らない。本集および倭名類聚鈔に、籠をコと訓した例のあるに任せて、コと讀むによるべきである。竹で編んだ器である。モヨは助詞。籠に對して感動する意を表示する。モとヨとの接續による語である。「於岐毎慕與《オキメモヨ》 阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》」(顯宗天皇御製、日本書紀八六))の例におけるモヨの用法は、今の用法に同じである。この句を、古事記には、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一三)と傳えており、モヤというも同じであることが知られる。なお、モヨの用例には、「阿波母與《アハモヨ》 賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》(古事記六)、「怒底喩羅倶慕與《ノデユラクモヨ》」(日本書紀八五)、「母智騰利乃《モチドリノ》 可々良波志母與《カカラハシモヨ》」(卷五、八〇〇)・「斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》」(卷十四、三四三一)などある。ミは接頭語で、その添つている物件に對し、敬愛の情を感じている場合に使う。全然意味の無い接頭語では無い。まず籠モヨといつて、籠に對する感動をあらわし、これを受けて、お籠を持つてと續けている。次の掘串モヨミ掘串持チも同樣である。このようにまずその語を稱えて感動をあらわし、これを受けて、重ねてその語を擧げてこれを敍述するのは、「置目もよ、淡海の置目」(日本書紀八六)、「ま蘇我よ、蘇我の子らは」(同一〇三)等の例がある。「み吉野の吉野の鮎、鮎こそは島邊も宜き」(同一二六)の如きもこの例であつて、その他變化する所は多い。文字使用法についていえは、籠は表意文字、その他は表音文字で、毛與美母は字音假字、乳は訓假字である。
 布久思毛與美夫君志持 フクシモヨミブクシモチ。上の籠モヨミ籠持チの句に對して對句を成している。布久思は、倭名類聚鈔に、「唐韻云?、音讒一音暫、漢語抄云加奈布久之。犂鐵又土具也」とあつて、これは犂《すき》の如き土具で、その金屬製の品をいう。ここに布久思とあるは、木または竹を以つて製して、菜根を掘り採るヘラ?のものをいう。類聚名義抄には、槍にフクシの訓があり、伊呂波字類抄には、※[木+立]にフクシの訓がある。この歌詞を始め、以上の文獻いずれも清音の文字を使用しているから、フクシと清音に讀むべきである。今は、九州邊に殘つている方言では、フグシ、フグセなど言つている。美夫君志は、上記のフクシに接頭語ミの添つたもの。(30)夫は濁音ブの音を表示する文字である。接頭語ミの添う場合には連濁にはならないものとされているから、これによれは、文字にはよらずに、ミフクシと清音に讀むべきが如くである。しかし理論上連濁の現象を採らないものでも、口頭傳承の場合に、理窟を離れて連濁になることがあり得るであろう。例えば、山高みは、山と高ミとが、粘著してはいないと考えられるが、古事記には、夜麻陀加美、日本書紀には、椰摩娜箇彌に作つている。これは上句に、山田ヲワシセ(日本書紀には、山田ヲ作り)とあるに引かれたものであろうが、濁音のダが使用されている。この籠モヨの歌が、口頭に依る傳承を經たであろうということは、推測に難くない所であるから、この語も、音聲に任せて、美夫君志と寫したかとも考えられる。萬葉集の訓は、なるべく文字通りに讀まるべきであり、また言語現象があつての語法であるから、此處も、ミブクシと讀むを可とすべきであろう。殊にこの場合は、ハ行音であるので、文字表示に一層の動搖がなされたと見るべきである。
 此岳尓 コノヲカニ。倭名類聚鈔に、「嶽、字亦作v岳、訓與v丘同、未v詳」とある。漢文では、岳は嶽に通じ用いられているが、わが國では、丘に通じてヲカの義に使用される。この岡は、何處であるか知られない。ヲカは、サカ(坂)と同じ系列の語で、前面の高いところの義で、山よりは低いものをいう。
 菜採須兒 ナツマスコ。古くナツムスコと訓せられていたが、本居宣長に至つて、ナツマスコに改めた。ナは、魚類野菜に通じて食料となる物についていう語であつて、「多良志比賣《タラシヒメ》 可尾能美許等能《カミノミコトノ》 奈都良須等《ナツラスト》」(卷五、八六九)とある奈は、魚に用いている。ツマスは、動詞採ムの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、採ムの敬語法と解せられる。「乎登賣良我《ヲトメラガ》 春菜都麻須等《ワカナツマスト》」(卷十七、三九六九)の例がある。依つて、お採みになるの義をあらわすものであるが、元來敬語は、慣用されることに依つて、尊敬の意識無しにも使用されるものであつて、此處の用法はそれに近く「若干の親愛の情をあらわされる程度である。元來この語法は、ある動詞の準體言の形に、動作する意を表示する動詞スの接續したものが、國語接續の法則によつて、上の語(31)の語尾の音韻變化が行われたものに起原を有するが如く、自他を問わず使用したものが、他人のことにいう場合に敬意を感ずるに至つたのであろう。「御諸が上に、登り立ち、倭我彌細麼《わがみせば》、つぬさはふ磐余《いはれ》の池の、水下《みなした》ふ魚も上に出て歎く」(日本書紀九七、繼體天皇紀)のミセバは、自分のことについて、見ることをすればの意に使つているが如き、原形的な用法というべきだろう。「あり衣の三重の子が、佐々賀世流みづ玉盞に」(古事記下卷、一〇一)の佐々賀世流も、作者の位置におかれる三重の采女が、自分のことに使つている。萬葉集にも、「水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒキオビナス》 韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》」(卷十六、三七九一)の取爲は、トラシと讀むべきが如く、自己の上に言つている。この外、神や天皇のような貴人の歌詞の中に、この語法はいくつも見出され、それらは、傳承者が、敬意を表示するために、この語法を使うものと解されているが、それらも再檢討を要するものがあるのだろう。「大宮能《オホミヤノ》 宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》 比賀流麻泥《ヒカルマデ》 零須白雪《フラスシラユキ》 見禮杼安可奴可聞《ミレドアカヌカモ》」(卷十七、三九二六)の歌の零須は、フラスと讀まれ、白雪についていうものと解されるが、これも敬語法としては通じない。これを零流《フレル》の誤りとする説があるが、もちろん原形のままで解明が求められれば、これに越すことはない。菜採須兒の如き場合も、むしろこの方面から解説して行くべきものであろう。兒は、男にも女にも使用され、親愛の情をあらわしていう。小さいものに對していうのが本義の如く、轉じて下位の者に對しても、また親愛の情をあらわして使用される。此處の用法も、男にも女にも通じるのであるが、菜を採む、家や名を聞く等の附帶事項に依つて、女兒と推定するのである。この句は、呼格であつて、菜を採む娘さんと呼び掛けられるのである。「住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》 賤鴨無《ヤツコカモナキ》」(卷七、一二七五)の例は、この用法に同じである。
 家吉閑 イヘキカナ。
   イヘキケ(元朱)
   イヘキカ(古葉)
(32)   イヘキカン(僻)
   イヘキカナ(美)
   ――――――――――   
   家告閇《イヘノラヘ》(考)
   家告勢《イヘノラセ》(古義)
   家吉閑名《イヘキカナ》(次句の名をこれに附ける、古典全書)
 家を聞きたいの意。古くは下の名の字をこの句に附けて、イヘキカナと讀んでいた。この後諸説が出たが、最近この訓に復歸しようとする説もある。それはn韻の字の終りの音をナとする例が固有名詞以外に無いとするによるものである(龜井孝氏 國語と國文學 昭和十八年四月)。しかしその説による時は、この句および次の句の訓は、イヘキカナ、ノラサネとなり、句形が、長句短句の形となつて、例外的な句形となる。また單に家のみを尋ねられることになつて、末尾の家ヲモ名ヲモの句と照應しなくなる。固有名詞以外に、n韻の字をナの韻であらわしている例は、「旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》」(卷二、一八八)があり、この旦覆は、アサグモリとも讀まれ、また旦は且であるかもしれないが、歌意としてはタナグモリと讀むことが適切のようである。また「百積船潜納《モモサカノフネカヅキイルル》」(卷十一、二四〇七)の百積は、モモヅミノとも讀まれているが、モモサカは、百尺讃嘆にも見える語であつて、百石の義なるべく、しからば積をサカに當てたのは字音假字と見るべきである。これはn韻の字ではないが、漢字字音の末尾をアの韻に當てて書く例になる。固有名詞におけるこの種の用字法は、かならずしも上の一音だけに當てたものでないことは、m韻の字とn韻の字とを使いわけていることによつても推考されるところである。これによつて、すくない例ではあつても、なお閑の字をカナと讀むにつくべきである。萬葉考にはこれを家告閉の誤りとして、家|告《の》ラヘと讀み、萬葉集古義は、家告勢の誤りとして家告ラセと讀んでいる。これらは誤字説であつて、そのような傳本は無く、他に恰好の説が無くやむを得ぬ場合で無い限り、採用することを得ない。家聞カナと讀むのは、木村正辭博士の説で、閑はn韻の字であるから、古代の國語でナ行の音に轉じて用いること、信濃のシナ、引佐《いなさ》のイナ等の例に同じであるとする。聞カナのナは、自己の希望をあらわす助詞で、「梅の花咲きたる苑の青柳を蘰にしつつ遊び暮らさな」(卷五、八二五)等の用例がある。(33)このナは、自己の希望をあちわす場合に限られて使用されるが、ただ給フに接續する場合に限り、他に對して囑望する意にも使用される。「毛呂毛呂須久比《モロモロスクヒ》 和多志多肺波奈《ワタシタマハナ》須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》」(佛足跡歌碑)とあるが如き、度シ給フ、救ヒ給フは、先方の動作であるが、それを嘱望して助詞ナが使用されている。これは給フが自己に受け入れることを本義とする語である故に、かような例を見るに至つたものと考えられる。閑をカナと讀むことについては、字音辯證(木村正辭博士)に次のように記されている。
 「家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》は、家將v聞《イヘキカナ》、令2名告《ナノラサネ》1也。考、略解等にいへのらへ〔五字右○〕とよみて、注に、吉閑一本告閑とあり、閑は閇の誤にて、告閇とす、いへのらへ〔五字右○〕とよみて、住所をまをせ也、とあるは非也。版本又は古本どもいづれも告閑とありて、こゝに異同あることなし。さればもとのまゝにて、家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》とよむべきなり。閑は韻鏡第二十一轉山攝の字にて、漢音カヌ〔二字右○〕なれば、奈行の通にてカナ〔二字右○〕と轉用すべし。國名の信濃《シナノ》の信《シヌ》をシナ〔二字右○〕、因幡の因《イヌ》をイナ〔二字右○〕、郡名の引佐《イナサ》の引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲梯《ウナデ》の雲《ウヌ》をウナなどにあてたると同例なり。(中略)凡字音の韻の撥假字に三つの別あり。これを悉曇家【印度の音韻學】にては、喉内聲舌内聲唇内聲といふ。喉舌脣の三内といふ是也。喉内は、本邦にてウ〔右○〕と引音、唐音にてはン〔右○〕と撥る文字なり。舌内は、本邦の假字にて其韻をヌ〔右○〕又はン〔右○〕と書るす文字、脣内はム〔右○〕としるす字な。さて古へ本邦にて舌内聲の字の韻は、ナニヌネノ、ラリルレロ〔十字右○〕に轉用し、脣内聲の字の韻は、マミムメモ〔五字右○〕に轉用したり。此等の例は本居宣長翁の地名字音轉用例、又其細説は釋義門の男信《ナマシナ》、太田方の漢呉音圖、等に見えたれは、其書どもに就て見べし、義門の著書を男信《ナマシナ》と名づけたるは、上野(ノ)國利根(ノ)郡なる郷名にて、男は厚内聲なれは麻行の通音にて、ナム〔二字右○〕をナマ〔二字右○〕と轉じ、信は舌内聲なれは奈行の通にて、シヌ〔二字右○〕をシナ〔二字右○〕と轉じ用ゐたるなり。これ一の地名にて、舌内と脣内との別を證する事を得るは、いとおもしろし。かくて本文に出したる引佐《イナサ》は、遠江の郷名にて、和名抄に伊奈佐と訓じ、雲梯《ウナデ》は大和の郷名にて、同書に字奈天《ウナデ》と訓じたり。又伊勢の郷名に員辨ありて爲奈倍《ヰナベ》と訓ぜり。比等|引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲《ウヌ》をウナ〔二字右○〕》、員《ヰヌ》をヰナ〔二字右○〕に用あたるなり。されは閑はカ(34)ナ〔三字右○〕に轉用する文字なる事を了解すべし。此他舌内聲の韻のニヌ〔二字右○〕をネノリル〔四字右○〕等に轉じ用ゐたるものあり。いづれも上にいへる書どもに精しく載たれば、往見すべし。」
 名告紗根 ナノラサネ。紗は、仙覺本系統には沙に作つている。いずれも集中、字音假字としてサの音を表示するために使用されている文字である。ナノラサネは、代匠記の訓による。ナは名の義。ノラサは動詞告ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、上のツマスと同樣の語法である。その未然形ノラサに、他に對して希望する意を表示する助詞ネが接續してノラサネとなる。同じ語形に、「奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》」(卷五、八〇〇)「玉藻苅《タマモカル》 海未通等《アマノヲトメラ》 汝名告左禰《ナガナノラサネ》」(卷九、一七二六)などある。先方の動作告ルに對して、希望の助詞ネを添えている。上の家聞カナと竝んで對句となつて、第一段を結ぶ。
 虚見津 ソラミツ。古事記に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見通、虚見都、空見津の文字を使用し、ソラミツと讀まれるが、一例だけ「天爾滿《ソラニミツ》」(卷一、二九)と書いたものがあり、これはソラニミツと讀まれている。大和の枕詞。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「及d至饒速日命、乘2天磐船1、而翔2行太虚1也、睨2是郷1而降u之、故因目之、曰2虚空見日本國1矣」とあり、これによつて枕詞となつたと傳えている。本集中、多く虚見の文字を使用しているところを見ると、この起原説話が廣く信じられていたのであろう。天爾滿の一例は、元來四音の原形を、五音に整備して生じた形に文字を當てたものと考えられるから、これを以つて語義を解くわけにはゆかない。さて此處に神代の事と傳える起原説話のある枕詞を使用したのは、大和の國の提元を、莊重ならしめる上に大きな效果がある。ところで、虚空見ツの義と解せられていたとすると、ツは、下二段活用の助動詞であるから、これは終止形である。すなわち、ソラミツは、獨立文であつて、次のヤマトの語を修飾するものである。天ニ滿ツの場合も、滿ツは、四段活と考えられるから、終止か連體か不明である。獨立文が、次の詞句を修飾する例としては、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 安里我欲比《アリガヨヒ》」(卷三、四七九)のハシキカモ、(35))「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)のコゴシカモの如きがあり、枕詞では、天カゾフ、カキ數フ、百足ラズなどがあげられる、四段活の動詞、また形容詞は、終止形も連體形も同じなので、獨立文であるか、連體句であるか、明白にされないが、「みつみつし久米の子」(古事記一一等)、「花ぐはし櫻のめで」(日本書紀六七)の、ミツミツシ、花グハシの如き、詠歎の氣分を感ずることから見ても、終止形のものであるようにも考えられる。體言の形を取る枕詞や助詞も同樣である。
 山跡乃國者 ヤマトノクニハ。ヤマトのヤマは、山岳の意のヤマとされるが、トについてはあきらかでない。野獣の通過した跡を、古くトという。アトというは、足の跡の義で、トとのみいうが原形であろう。アトの前略とするは當らぬようである。關係語に、跡見《とみ》、乾迹《からと》などがある。本集ではこの外に、日本、山常、倭、八間跡、夜麻登、夜麻等、夜末等、夜萬登、也麻等の字が當てられている。古事記下卷、石の比賣の命の御歌に、「つぎねふや山城川を、宮のぼりわが上《のぼ》れば、あをによし那良を過ぎ、をだて夜麻登を過ぎ、わが見がほし國は、葛城高宮、我家のあたり」(五九)とあるによれは、ヤマトは、もと奈良縣の一部分であつて、奈良と葛城との間であつたことが知られる。日本書紀の崇神天皇の卷に、大倭の大神を祀るに、神地を穴磯《あなし》の邑に定め大市の長岡の岬に祀り、大倭《やまと》の直《あたえ》の祖|長尾市《ながおち》の宿禰をして祭らしめたとある。これに依れば、穴磯の邊がヤマトの境に入つていたらしく、また續日本紀には、城下郡大和神山、延喜式神名には、山邊郡坐大國魂神社とあつて、もと磯城郡であつたのが、後に山邊郡に編入されたものと見られる。本集では、日本の青香具山、日本の宇陀などあり、また藤原の京あたりをもヤマトと言つている。語原については、太居宣長は、山處の義であろうといつているが、ヤマは山であるにしてもトに處の字を當てた文献は見當らない。賀茂眞淵の説に、「この國は四方みな山門より出入れば山門の國と名を負へるなり」とあるが、これは後の大和の國には適當であるが、その一部分の地名としては當らない。しかし山門の文字を當てたものには、播磨國風土記、美嚢《みなぎ》郡|志深《しじみ》の里の(36)條に、「針間國之山門領所v遣山部少楯」の句がある。また日本書紀神功皇后の卷にも山門縣の地名があり、これは筑後の國である。佳吉神社神代記には大和川を山門川と書いてある。この山門は、水門、河門、島門など同樣の語組織から推測するに、兩方から山の迫つている地形をいうものと考えられる。そういう地形の名稱から出發して、一定の地方をヤマトというようになり、更に他國からこの地名を呼ぶことに依つて、漸次その範圍が擴大して行つたものであろう。但し上代假字遣法において山門のトは甲類、山跡のトは乙類であることは、この説の難關である。この歌における大和の國の範圍は、嚴密なものでは無く、この郷土はぐらいの意味に使用されていると解される。クニは、天に對して、地上をいうが、多量に人文的要素を含んでいる。人の住む世界というような思想のもとに使用される。そうして一區域を何の國と呼ぶようになる。此處では後代いう如き行政上の區劃では無く、その地方という程度に使用されている。ここにいう大和の國は、今見えている全部の地域を含んでいるものであつて、ヤマトの起原的地方に限られてはいない。
 押奈戸手 オシナベテ。押は、力を加える意、ナベテは、從來靡かせての義と解せられていた。しかし本集における靡かせての意の押靡は「石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》」(卷一、四五)、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》(同)、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》(卷六、九四〇)、「秋野之《アキノノノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》」(卷八、一五七七)、「我家戸之《ワガヤドノ》 麻花《ヲバナオシナベ》」(卷十、二一七二)、「秋穗乎《アキノホヲ》 之努爾押靡《シノニオシナベ》」(卷十、二二五六)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》」(卷十七、四〇一六)など、いずれも、植物の上にいい、それらを押し伏せての意に使用している。このナベテは、それらのナベとは違つて、「迦賀那倍弖《カガナベテ》 用邇波許々能用《ヨニハココノヨ》」(古事記二七)の那倍弖と同語として、竝べての義に解すべきである。この語は、本集では、多くマ行に轉じて、「友名目而《トモナメテ》 遊物尾《アソバムモノヲ》(卷六、九四八)、「宇麻奈米?《ウマナメテ》 宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》」(卷十七、三九九一)など、ナメテとなつてあらわれている。このオシナベテのオシは、ナベテの意味を強調するために、接頭語ふうに結合して、熟語を構成している。總じて、すべての意。「梅の花(37)それとも見えず。ひさかたのあまぎる雪のなべで降れれば」(古今和歌集卷の六)。
 吾許曾居 ワレコソヲレ。第一人稱の代名詞としてア、アレ、ワ、ワレがある。これは口語を寫音するに當つて、ア、アレとも、ワ、ワレとも、聞えるがままに記したものがもとになつているであろう。ワ、ワレと、ア、アレとは、古事記日本書紀、および萬葉集に竝んで使用されており、一首の中に兩方の表記のあるものもある。今これらの用例についてその使用囘數をあげれば下の表の通りである。この數字には、アゴ(吾子)、アセ(吾兄)、ワギヘ(我家)、ワギモ(吾妹)のような成語となつているものをも含む。古事記日本書紀は、歌謠のみについてあげた。
 下の表にあらわれた用例の數字、および個々の用法について知られるところを個條書きにすれば、次の通りである。
 一、古事記日本書紀の歌謠においては、ワ、ワレの方が壓倒的に多い。萬葉集でも、ワ、ワレの方が多いには多いが、その比率は、古事記日本書紀ほどではない。
 一、成語として、アに、アギ(吾君)、アゴ(吾子)、アセ(吾兄)があり、他語に直接に接續する。ワには、ワギヘ(吾が家)、ワギモ(吾が妹)、ワゴオホキミ(吾が大君)があり、助詞ガを伴なつて他語に接續する。
 一、一首の中に兩用しているもののうち、「わが見し子に……あが見し子に」
 
   記 紀 萬一 二 三 五 六 七 十一 十二 十三 十四十五十六十七十八
ワ  32 29 2 1 3 16 4 1 1  1 36 36 2 18 11     45
ワレ  5  9 2 1 3 18   1 1  1 39 37 2 23 16   9 68
ア  10 13      9      2   24 26   16  3 10 13
アレ  3  2      6         10  9   9  3 3 8
    記は古事記 紀は日本書紀 萬は萬葉集
 
(38)(古事記四三)、「あが思ふ妹……わが思ふ妹」(同九一)の如く對句に使つているものは、變化を求めるために意識して書かれたと考えられる。
 一、男女ともに、使つているが、大體、ア、アレは、うち解けた調子で親しみの情をあらわす場合に、しばしば使われる。「あれこそは世の長人」(古事記七三)は、この意味で例外的であるが、日本書紀では、ワレとしている。日本書紀では、播磨速待の「あれ養はむ」(四五)が例外的である。
 一、アは、助詞ガ、ヲを伴なうことが多く、助詞ハを伴なうものは一例あるのみである。ワの方は、ガ、ヲ以外の助詞を伴なうものが相當に多い。
 一、ア、ワは、他語との粘著力が強く、アレ、ワレは、それに比して弱いのは、アレ、ワレが、既に、ア、ワと、レの結合によつて成つているからである。
 以上の調査によつて、本集における吾我の類の字は、どちらにも讀み得るものであるが、ワ、ワレの方が歴史性の強いものと考えられるので、以下これによることとする。この句においては、ワ、ワレの兩訓が考えられるが、音調上、長い句の方が原則的であるから、ここには、アレ、ワレの類を採用すべきである。さてそのいずれを採るべきかというに、卷の一には、ワレの假字書きはあるが、アレは無い。依つて今、ワレと讀むこととする。居は、コソを受けて、已然形ヲレを以つて結ぶ。古くは、下の句の師を、この字に附けて、居師を以つてヲラシと讀んでいた。今、玉の小琴の説に依つて、師を下の句に屬せしめる。
 師吉名倍手
   シキナベテ(玉)
   ――――――――――
   告名倍手《ツケナヘテ》(西)
   告名倍手《ノリナバテ》(考)
 古くは、師を上の句に附け、吉を告に作るに依り、ツゲナベテ、ノリナベテなどと讀んでいた。玉の小琴に(39)至つて、師をこの句に附け、告を吉の誤として、シキナベテと讀むようになつた。シキは、一面に敷き行う意の動詞で、ナベテに對して接頭語として熟語を作り、ナベテの意を強調すること、上のオシナベテに同じである。總じての意。一體古く漢字の初畫を引き懸けて書く書風があつて、吉が告のように見え、それから告に誤つたものと見える。この外、比が此になり、枚が牧になるのも同樣の經過によるものである。吉が告のように見えるよい例は元暦校本の「朝裳よし」(卷一、五五)の歌の吉の字に見られる。上の圖を見られたい。
 吾己曾座 ワレコソヲレ。ワレコソヲラシ(西)、ワレコソマセ(略、宣長)。この座を普通にマセと讀んでいる。坐セは敬語であるが、天皇みずから敬語を用いる例は、日本書紀に雄略天皇の御製に、「鹿《しし》待つと吾《あ》がいませば、さ猪《ゐ》待つと吾が立たせば」等の例がある。しかし座をヲレと讀むことも、軍王見山の歌にも、「獨座吾衣手爾」(卷一、五)とあつて、座をヲルと讀むのであるから、不都合では無い。ワレコソヲレの同一句を重ねた方が古風である。上の、オシナベテ吾コソ居レに對して、シキナベテ吾コソ居レの句を以つて、對句としている。
 我許背齒告目 ワレコソハノラメ。ワニコソハノラメ(註稿)
(40)   ワレコソハノラメ(童喩)
   ――――――――――
   我許者背齒告目《ワレコソハセナニハツケメ》(西)
   我許曾者《ワレコソハ》背齒告目(代精)
   我許曾背齒告目《ワレヲコソセナトシノラメ》(僻)
   我許者|背齒告目《セトシノラメ》(考、春滿)
   我許者|背登齒告目《セトバノラメ》(考)
   我許曾背齒告目《ワヲコソセトハノラメ》(玉)
   我許者|背齒告目《セトハノラメ》(墨)
   我乎許曾背跡齒告目《アヲコソセトハノラメ》(古義)
   我許曾者背止齒告目《ワレコソハセトシノラメ》(美)
   我許背齒告自《ワレコソハノラジ》(新訓)
 通行本には我許者背齒告目とある。この者の字は元暦校本、類聚古集、古葉略類聚鈔、共に無いから省くべく、然らば、我許背齒をワレコソハと讀むべきである。萬葉代匠記には、許の下に曾の字脱として我許曾者背齒告目としている。又金澤文庫本にはその通りになつているが、金澤文庫本は仙覺本の一種であるから、この本一本のみの校異では直に本文を訂正するわけにゆかない。既に者の字が古寫本によつて省かれるのであるから、曾を補つても何にもならずまた補うわけにはゆかぬのである。告目は、このままならばノラメと讀んで、孃子の答を待たずに、自分こそ家をも名をも言おうの意になる。類聚古集には、目を自に作つている。これに依る時は、告自をノラジと讀んで、上に既にこの大和の國が居處なることをあきらかにしたのであるから、我は名告らないの意になる。それも一理あるが、類聚古集は、目を自に誤ること多く、次の歌の加萬目の目をも自に誤つているのであるから、この一本のみに依つて事を決するわけに行かない。上の吉の場合と同じく、目の初畫を誇張して書くことから自に誤つたものと解すべきであろう。
(41) 家呼毛名雄母 イヘヲモナヲモ。呼は、元暦校本等に依る。仙覺本には乎である。
【評語】この歌は、萬葉集中の最古の歌では無いが、仁コ天皇の皇后の御歌や、聖コ太子の御歌の短歌であるのに對して、かえつて古い傳誦の形體を備えているようであり、その意味でも、卷頭の歌としてふさわしいものがある。
 第一段、岡のべに菜を摘む孃子に呼び掛けられる部分は、あかるく和やかであり、和樂の氣に滿ちている。口語で、人を呼ぶには、その行爲の説明をしないのが通例であるが、この歌では籠や掘串《ふくし》を持つて、この岡に菜を摘む子と、こまかに説明している。これに依つて、その孃子の印象を明瞭にして非常に效果的である。しかもその持つている籠や掘串に對して、感愛の情をあらわして、籠モヨ、掘串モヨと歌つたのは、それらにも心が強く注がれていることを語る。かくして家聞カナと名告ラサネとが、語を變えて、對句として、上に説明した孃子に求められる所をあきらかにし、これに依つて心の集中點が元されている。
 第二段は、轉じて作者自身の上を説明され、ここには、莊重な表現に依つて、この國の帝王であることを示され、第一段とよい對照を成している。オシナベテ我コソ居レ、シキナベテ我コソ居レと、極めて類似した句を重ねて擧げているのは、強く指示する意志があらわれている。そうして、自分が名のろうとされる前提となつている。最後の家ヲモ名ヲモの一句は、上の家聞カナ名告ラサネの句を受けて、よく呼應した結末である。
 古代にあつては、人々は、名に對して特別の意味を感じていた。人に名を知られることは、その人に自己の全人格を支配されることである。それで孃子に名を問うことは、婚姻を申し入れることになり、孃子が名を答えることは、申し入れに應じたことになる。家を尋ねることも、訪問しようとする意志を表示するのであつて、特殊の關係を結ぼうというのである。この歌における家や名を尋ねることは、やはり特殊の關係を開こうとするにあつて、それ故に第二段の表白が力強く響くのである。泊瀬の天皇を主人公とした歌曲として宮廷に歌い(42)傳えられた歌の一つであろう。歌いものとしての性質が濃厚であつて、古事記などに傳わる幾篇の歌謠と同樣に、曲の形を失つて、歌詞のみが傳えられたのであろう。
 天皇と菜を採む娘子とを語る歌物語としては、古事記下卷に、仁コ天皇と吉備の黒日賣との物語が傳えられ、吉備の黒日賣が菜を採んであつものを奉つたとしている。その時に天皇が、黒日賣の菜をつむところにおいでになつて、「山|方《がた》にまける青菜も吉備人と共にしつめば樂しくもあるか」(古事記五五)の歌を詠まれたとしている。萬葉の籠モヨの歌にも、このような歌物語が成立していたのであろう。これはやがて仙女に出逢う物語に展開するであろうが、この歌自身、そこまで發展していたかどうかは不明である。
 形式は、短句を以つて歌い起し、長句がこれを承けて進行し、まだ五七調の定型に到達しないで、自由な格調を保つている。對句が多く使用され、いずれも有效に働いている。最後を五三七で結ぶのは、古長歌に往々ある格で、「うつせみも 嬬を 爭ふらしき」(卷一、一三)、「心無く 雲の 隱さふべしや」(卷一、一七)、「うらぐはし 山ぞ 泣く兒守る山」(卷十三、三二二二)などの例がある。これも五七七の定型に到達するまでの過渡的な形體である。
【參考】孃子に名を問う。
  丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の歌
 難波潟潮干に出でて玉藻苅る海孃子《あまをとめ》ども汝が名|告《の》らさね(卷九、一七二六)
  和《こた》ふる歌
 漁《あさり》する人とを見ませ。草枕旅ゆく人にわれは及《し》かなく(同、一七二七)
 紫は灰さすものぞ。海石榴《つば》市の八十《やそ》の衢《ちまた》に逢ひし兒や誰(卷十二、三一〇一)
 たらちねの母がよぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか〔同、三一〇二、以上二首問答)
(43) 雎鳩《みさご》ゐる磯廻《いそみ》に生ふる名乘藻《なのりそ》の名は告らしてよ。親は知るとも(卷三、三六二)
 雎鳩《みさご》ゐる荒磯《ありそ》に生ふる名乘藻《なのりモ》の名のりは告《の》らせ。親は知るとも(同、三六三)
 隼人《はやひと》の名に負ふ夜聲いちしろく吾が名は告りつ。妻と恃ませ(卷十一、二四九七 )
 
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
 
【釋】 高市岡木宮御宇天皇代 タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。高市の岡本の宮は、舒明天皇の皇居。飛鳥の岡本の宮というのも同處である。日本書紀、舒明天皇二年十月、「壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1。是謂2岡本宮1。」とあり、同八年の條に「六月、災2岡本宮1。天皇遷2居田中宮1。」とある。今、奈良縣高市郡高市村大字岡の地である。
 息長足日廣額天皇 オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト。舒明天皇である。息長は、近江の國の地名、母方の祖母は、息長眞手の王の女であるから、その系統の名を負われたのであろう。足日は、充實せる神靈の意。廣額は、容貌の特色を稱えたのであろう。天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄の皇子の子、御母を糠手《ぬかで》姫の皇女という。推古天皇の次に即位せられ、大和の高市の岡本の宮に都せられた。帝位にあること十三年にして崩じ、押坂の内の陵に葬つた。はじめ息長足日廣額《おきながたらしひひろぬか》の天皇と申し、後に舒明天皇と申す。また宮號によつて岡本の天皇とも申す。萬葉集の歌は、舒明天皇の御代から後は、漸次數量も多くなつて、彼此の間に系統づけても語られるようになつた。殊に齊明天皇は、天皇の皇后であり、天智天皇天武天皇はそのお二方のあいだに生まれた皇子である。
 
天皇、登2香具山1望2國之時、御製歌
 
(44)天皇の、香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌
 
【釋】天皇。舒明天皇。
 香具山 カグヤマ。歌中には、天の香具山とある。奈良縣磯城郡(もと十市郡)にある山。標高一四八メートルの小山であるが、古くから神聖な山として貴ばれ、古代の神事には、この山から採取した士で祭器を作り、この山の賢木を根こじにして祭場に据え、またこの山の鹿の骨を以つて神事の卜占をしたことなどが傳えられている。大和の國の中央平原の東方に位し、中央部の觀望に適している。香具山は古事記の歌詞に迦具夜麻、日本書紀に香山と書き、その自注に「香山、此云2介遇夜摩1」とある。萬葉では、高山、香山、香來山、芳山、芳來山とも書く。カグは、もと神靈の意で、卜占に使われる神聖な鹿も同語である。「天降《あも》りつく天の香具山」(卷三、二五七)の句などもあつて、天から降つて來た山だという。それでこれを神聖視して天の香具山ともいうのである。
 望國之時 クニミシタマヒシトキ。歌中には、國見乎爲者とある。國見は、高處に登つて國?を觀察するをいう。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「皇輿巡幸、因登2腋上?間丘《ワキハミノホヽマノヲカ》1、而廻2望國?1曰、妍哉乎《アナニヱヤ》、國之獲矣。雖2内木綿之眞?國《ウツユフノマサキクニ》1、猶如2蜻蛉之臀?《アキツノトナメ》1焉、由v是、始有2秋津洲之號1也。」これはやがてこの歌の中に見える秋津島の語の起原説話になつている。元來國?御視察の義があり、國土讃歎の歌または詞を傳えるのを常とする。この歌も、その意味の御製である。なお國見は、本來春の耕作の初めに當つて、その年に耕作すべ(45)き土地を選定することから起つたのであろう。それが後にはただ風光を觀るだけの意味にも使用されるようになつた。「雨間かけて國見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも」(卷十、一九七一)の如きは、そのような用例である。次に、本集の題詞には、作歌の場合を説明するに、時の字を以つて示すことが多い。その時に接する用言の連體形を、いかなる時間の語法で讀むべきかは、不明である。今「御獵立師斯時」(卷一、四九)などの例により、過去にあつた事實を示すものとして、過去の時を以つて讀むこととする。
 
2 大和には 群山《むらやま》あれど、
 とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》、
 登り立《だ》ち 國見をすれば、
 國原《くにはら》は 煙《けぶり》立ち立つ。
 海原《うなはら》は 鴎《かまめ》立ち立つ。」
 うまし國ぞ。
 蜻蛉島《あきづしま》 大和の國は。」
 
 山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》
 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》
 騰立《ノボリダチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》
 國原波《クニハラハ》 煙立龍《ケブリタチタツ》
 海原波《ウナハラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》
 怜※[立心偏+可]國曾《ウマシクニゾ》
 蜻島《アキヅシマ》 八問跡能國者《ヤマトノクニハ》
 
【釋】この大和の國には、多くの山があるが、中にも見事なこの天の香具山よ。その山に登り立つて國見をすると、國の廣い所には煙があちらにもこちらにも立つている。水面には水鳥がそこにもここにも立つている。よい國だなあ、この大和の國は。
【構成】第一段、鴎立チ立ツまで。事實を敍述する。以下第二段、感想を述べる。かように第一段でまず事實を敍述し、第二段でそれを基礎とする主觀的敍述をするのは、古い長歌に、しばしば見られる所である。これは人間の心理現象の順序どおりの敍述法であつて、素朴感を有する表現である。三山の歌(卷一、一三)など、(46)この法に依つている。
【釋】 山常庭 ヤマトニハ。このヤマトは、大和の國一帶の義に用いられているが、それは行政區劃を意味する所の知識的なものでは無く、見渡される主要部を中心としていう言い方である。常をトの音韻に當てているのは、他に例も多く慣用となつているが、トコの下略であるとされている。しかし常影《とかげ》の如き用字例もあつてトに常久の義があつたものかとも考えられる。庭は、助詞ニハをあらわすために、訓假字として使用されている。この大和の國にはの意の句である。
 村山有等 ムラヤマアレド。村山は群山の義。山の多數なのをいう。等は、清音の字であるが、集中、濁音のドにもしばしは使われている。
 取與呂布 トリヨロフ。トリは、意を強めるために附ける接頭語の動詞。元來、手にするの意味を有するのであり、その意味が若干殘つていると見られる、トリ持ツ、トリ見ル、トリ佩クなどの例もあるが、また、トリ續ク、トリ装フなど、原意を離れての用例もある。ここは原義を離れての用法である。ヨロフは、身を守る、装甲するの意の動詞で、甲鐙をヨロヒというも、同語である。新譯華嚴經音義私記傍訓鈔に、甲および冑に、それぞれ與呂比と訓している。この歌では、天の香具山が、山としての雄姿を具備し、貴むべく賞すべくある意に、その修飾語として使用されている。
 天乃香具山 アメノカグヤマ。古事記中卷に、「阿米熊迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とある。この山に限つて、天ノを冠らせるのは、古來神聖な山として仰がれていたためである。釋日本紀に引いた伊豫國風土記には、「倭在天加具山、自v天天降時、二分而、以2片端1天2降於倭國1、以2片璃1天2降於此土1、因謂2天山1也。」とある。本集にも、「天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》」(卷三、二五七)とあつて、天から降つて來たという傳えのある山である。天ノは、アメノともアマノとも讀まれ、本集にも兩方の假字がきがある。天は、獨立語としてはアメであるが、他語の上に(47)直接に冠して熟語を作る場合にはアマとなる、これは、たとえばタケ(竹)が、タカムラ(篁、竹村)となり、フネ(船)が、フナビト(船人)となるのと同じ現象である。天が助詞ノを伴なう場合は、天に獨立語としての性質が強いときはアメノとなり、これに反してノおよびその下の語と粘着性が強い時にアマノとなる。天ノ下がアメノシタであるのは、漢語の翻譯で、その成立が新しいからであり、天ノ原、天ノ河が、それぞれアマノハラ、アマノガハであるのは、熟語として各語の粘着が強いからである。アマノは、本集ではこの外に、假字書きのものに、アマノヒツギ(安麻能日繼四〇八九等)がある。天ノ香具山の場合は、本集には假字書きはないが、熟語としての慣用が廣いと見るならは、アマノカグヤマである。古事記にアメノカグヤマと書いたのは、歴史的記載法によつたものと見られる。さてこの句は、呼格であつて、その山を呼びかけて讃嘆の意をあらわされている。助詞ニを補つて解すべしとする説もあるが、意味はそうでも、ここはまずその山を呼びあげたものとしなければならない。それで無くては、感激の意が感じられない。
 騰立 ノボリダチ。香具山に登り立つての意である。日本書紀、繼體天皇紀に、「美母慮我紆陪?《ミモロガウヘニ》 能朋梨陀致《ノボリダチ》」(九七)とあり、本集に、「高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリダチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》」(卷一、三八)とある。タチのタは、普通に清音に讀まれているが、上記日本書紀に能明梨陀致とあり、古事記下卷に、「淤斐陀弖流《オヒダテル》」(一〇一・一〇二、生ひ立てる)などあるに依れば、連濁として、タを濁音に讀むべきであろう。
 國見乎爲者 クニミヲスレバ。作者たる天皇御自身の行動を敍せられる。國見は、題詞の項に説明した。
 國原波 クニハラハ。クニハラは、下の海原を清音に讀むに倣つて清音に讀む。國の語に、廣平の處を意味する原の語の熟したもので、國土の廣く平なるをいう。原は草原に限らず、すべて廣く平な處をいう。ハルカ(遙)、ハロバロ(遙々)等のハル、ハロと同語で、その名詞形を採つたものと考えられる。ここは香具山から望見される大和の國土をいう。
(48) 煙立龍 ケブリタチタツ。
   ケフリタツタツ(冷)
   ケブリタチタツ(僻)
   ケムリタチコメ(考)
   ケブリタチタチ(?)
   ――――――――――
   煙立籠《ケフリタチコメ》(細)
 類聚古集に、龍を籠に作つている。元暦校本には、朱で竹冠を附けて籠に直している。細井本に籠に作つているのは、これらの系統を受けたもので、仙覺寛元本は籠に作り、文永本に至つて龍に改めたものらしい。次の加萬目立多都とある句と對する句であつて、それと同形であることは古風であり、また内容から言つても、煙立チ立ツの方が、動態を描いて、生き生きとしている。龍に作るに依るべきである。寛永版本に籠に作り、訓はタツになつているのは、本文は、細井本系統から來ており、訓はそれとは異種の文永本系統の本に依つて加えたので、かような矛盾した形を生じたのである。その成立經過は、今日では分明になつている。さて煙は人家の炊煙をいう。倭名類聚鈔に、「煙、於賢反、字亦作v烟介不利」とある。古事記、仁コ天皇の記に、「於v是、天皇、撃2高山1、見2四方之國1、詔之、於2國中1烟不v發、國皆貧窮1。」また「後見2國中1、於v國滿v烟。故爲2人民富1。」とある。民が富み榮えておれば、炊烟を擧げること多く、貧しければ、炊烟が乏しいとするのであつて、ここは、炊烟の多く立つことによつて、民の繁榮を知ろしめされたのである。煙は、「所v遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《カスミタツ》 春日暮《ハルノヒグラシ》」(卷十三・三三二四)の如きは、煙霞の義に取つて、カスミとも讀めるが、ここはカスミでは適わない。タチタツは、同じ動詞を重ねて、その動作の繼續して行われるをいう語法。「在有而《アリアリテ》 後毛將v相登《ノチモアハムト》」(卷十二、三一一三)・「戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》」(卷四、六六七)などの例である。煙があちらからもこちらからも、あとからあとから立ち昇る意である。この句は終止形であつて、下の加萬目立多都と對句になつている。
(49) 海原波 ウナハラハ。「宇奈波良《ウナハラ》」(卷五、八七四)などハは假字書きの例は清音である。防人の歌ではあるが、「宇乃波良《ウノハラ》」(卷二十、四三二八)の例もある。ウは海の義であるが、元來、大の義のある語で、ウミは大水の義であろう。海上をウナカミといい、ウシホ(海水)のウも同語であろう。依つてウミのミを略したものとするは當らず、もと大の義なるウに海の義を感じたとすべきである。ナはノに同じく接續領格の助詞。ヌナト(瓊な音)、ミナモト(水の源)、タナソコ(手の底)などの用例がある。ハラは、廣い處の義。海を原野にたとえていうのではなくして、海の廣い處であることをあらわした語である。この海原は、もと香具山の麓にあつた埴安の池をいう。飛鳥川は、今、畝傍山と耳梨山との中間を西北流しているが、當時は、更に東寄りに流れて、香具山の西麓において埴安の池に流入したものと思われる。今でも泣澤神社の森から北方一帶は、一段と低くなつており、池尻、池内などの村名も殘つている。埴安の池は、柿本の人麻呂の歌(卷二、二〇一)にもあり、また鴨の君足人の歌(卷三、二五七−二六〇)にも詠まれている。
 加萬目立多都 カマメタチタツ。加萬目は、?のことであるという。カモメは、羽の強い鳥で、隨分奧地まで入り來り、現に琵琶湖などでは常に見る所であるという。しかしこの歌としては、水禽の代表として、カモメを擧げたものと解すべく、これに依つて白い水鳥の群れ立つさまを想像すればよい。その白い鳥が、眞のカモメであるかどうかは、問題にならない。カモメのメは、スズメ、ツバクラメ、コガラメなどのメと同じく、女性の義なるべく、然らばカモメは、鴨女の義か。なお鴨の君足人の香具山の歌には「奧邊には鴨妻よばひ邊つ方《ベ》にあぢ群さわき」(卷三、二五七)と詠んでいる。タチタツは、上の煙立チ立ツと同樣、?が續いて立つをいう。以上第一段。
 怜※[立心偏+可]國曾 ウマシクニゾ。
    オモシロキクニソ(西)
   ――――――――――
   可怜國曾(僻)
(50)   ※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》(考)
   可怜國曾《ウマシクニソ》(燈)
   ※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》(墨)
怜※[立心偏+可]は、本集中他に所見が無いが、※[立心偏+可]怜は、「家有者《イヘニアラバ》 妹之手將v纏《イモガテマカム》 草枕《クサマクラ》 客爾臥有《タビニコヤセル》 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)以下十一例がある。この※[立心偏+可]怜は、感嬬を※[女+感]嬬、鳳皇を鳳凰と書くが如き、漢字の連字扁旁を増す例で、可怜とあるべきを、怜の字に引かれて可を※[立心偏+可]に作つたものであつて、※[立心偏+可]は字書に無い字であるという。可怜は、日本書紀、神代の下に「可怜小汀」「可怜御路」、垂仁天皇紀に、「神風伊勢國、則常世之浪、重浪歸國也、傍國可怜國也」とある。※[立心偏+可]怜も、日本書紀にも遊仙窟にもあるので、漢土でも既に使用されていたものであろうとされている。依つて、此處に怜※[立心偏+可]とあるのは、※[立心偏+可]怜の誤りであろうという。訓は、日本書紀に、可怜小汀に註して「可怜、此云2于麻師1」とあるに依つて、ウマシと讀むべきである。但し本集における他の用例は、かならずしもウマシと讀むことが適切でなく、上掲の「此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)、「吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》」(卷四、七六一)、「※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」(卷七、一四一七)、「※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》」(卷九、一七五五)、「※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》」(卷十一、二五九四)、「※[立心偏+可]怜登君乎《アハレトキミヲ》(卷十三、三一九七)の諸例の如きは、アハレと讀むべく、「如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》(卷四、七四六)、「痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》 布當乃原《フタギノハラ》(卷六、一〇五〇)、「※[立心偏+可]怜《オモシロミ》 吾居袖爾《ワガヲルソデニ》」(卷七、一〇八一)・「秋山《アキヤマノ》 黄葉※[立心偏+可]怜《モミヂオモシロミ》」(卷七、一四〇九)の諸例の如きは、オモシロ(オモシロク、オモシロミ)と讀むべきである。また「※[立心偏+可]怜斷腸」(卷十六、三八三五)は、何と讀むべきか不明である。さてウマシは、物を賞美していう形容詞である。形容詞は、古くはその活用語尾シを以つて連體形としたので、ここもその連體法である。大和の國土を稱えて、良い國だとされたのである。もと食味の甘美を賞する語で、轉じて、すべて物を賞美するに使用される。「宇摩志阿斯訶備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》」(古事記上卷)の宇摩志などい、同じ語法、同じ意味に使用されている。この語は、後に(51)は、活用語尾キを以つて連體法とするに至つたが、竹取物語には、ウマシキという形が見えている。
 蜻島 アキヅシマ。上掲、日本書紀における神武天皇の、腋上《わきがみ》の?間《ほほま》の丘の國見の御詞に、蜻蛉《あきづ》の臀?《となめ》せるが如もあるかとあるに依つて、この國を蜻蛉島というとする起原説話がある。古事記雄路天皇の記には「その虻《あむ》を蜻蛉はや?《く》ひ、かくの如名に負はむと、そらみつ大和の國を、蜻蛉島とふ」(九八)とも詠まれている。そこには阿岐豆志麻と書かれているので、アキヅシマと讀むべきが如くである。この萬葉の歌では、大和の國の修飾語となり、枕詞として使用されている。なお本州を古事記には、大倭豐秋津島とし、日本書紀には、大日本豐秋津洲としているので、收穫のゆたかな國土の義にこの國土を稱えたのが本義であつて、後に蜻蛉島の義とする起原説話を生じたのであろうという。島は、水に面した美しい國土をいう語であつて、かならずしも水に圍まれた土地であることを要しない。なおアキヅは、明ツ神の明ツと同語で、アキヅシマは、現實にある美しの國土の義であるかも知れない。
 八間跡能國者 ヤマトノクニハ。この大和の國を提示して、主格を成している。これに對して上の、ウマシ國ゾが述語になる。
【評語】萬葉歌人の祖ともいうべき舒明天皇の御製として、萬葉集の歌の、最大多數の舞臺である大和の國の美を敍述された歌を見るのは、いかにもふさわしい。國土をほめる歌は、古くから數々あるが、この歌は高處から見下した特色が、よく煙立チ立ツ?立チ立ツの句に見えて、いかにも美しい古代大和の有樣が窺われる。まずトリヨロフ天ノ香具山と、その山を呼びあげて稱美され、さて國見された國土の?況の敍述に入る。殊に陸上水上の兩方面について、煙立チ立ツで、人民の繁榮を寫し、?立チ立ツで、自然の美を描かれている。短い句のあいだによく人事と自然との美を併せ有することを歌われている點は、實によくできている。香具山の上から御覽になつた風物は、種々であつたであろうが、その中から煙と?とを選定され、これに依つて印象を(52)あきらかにされた。その?は、水禽の代表としてあげられたものである。第一段において事實の敍述をなし、第二段に簡潔に總括された。主格を最後に置いて結末としたのもよく安定している。これも歌曲として傳えられた歌として認められ、歌いものらしい調子が感じられる。五七の句が既に整つており、末に至つて變化を生じているのは、古長歌の漸く整備に赴く過渡的な形である。
【參考】大和の國をほめた歌。
  大和は國のまほらま、疊なづく 青垣、山ごもれる 大和しうるはし。(日本書紀二二、景行天皇、古事記三一、倭建の命)
   正月元日讀歌
  そらみつ 大和の國は 神からか ありが欲しき。國からか 住みがほしき。ありが欲しき國は、あきづ島 大和(琴歌譜、景行天皇)
 
天皇、遊2?内野1之時、中皇命、使2間人連老獻1歌。
 
天皇、内野に遊?《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしびと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまへる歌
 
【釋】天皇。前の歌に引き續いて、舒明天皇であることあきらかである。
 遊?。 下の之時と併せて、ミカリシタマヒシトキと讀む。射獵のために遊行する義である。?は獵に同じ。
 内野 ウチノ。奈良縣宇智郡の原野。吉野川の左岸、和歌山縣との縣境に近い處の地名。固有名詞としての野の名は、助詞ノを伴なつて何の野ともいい、また助詞無しに何野ともいつて一定しない。
 中皇命 ナカツスメラミコト。中皇命は、君之齒母(卷一、一〇)以下三首の題詞にも、「中皇命、往2于紀温泉1之時、御歌」と見えている。萬葉考には、皇の下に女の字脱としてナカツヒメミコと讀み、古義は、命(53)を女の誤りとしている。しかし女の字のある本、もしくは女に作つている本は無いのであるから、原文のままに解釋するを要する。近年喜田貞吉博士の中天皇考(萬葉學論纂所收)が出て、女性にして帝位につかれた方をいい、ナカツスメラミコトと讀むべしとした。この語の用例には次の如きがある。
 掛麻久毛新城大宮天下治給天皇。(續日本紀、神護景雲三年十月宣命)
 爾時近江宮御宇天皇秦、開髻墨刺刺、肩負v?、腰刺v斧、奉v爲奏、仲天皇奏、妾我?炊女而奉v造(大安寺縁起流記資財帳)
 喜田氏は、前の例文の中都天皇を元明天皇、後の例文の仲天皇を倭姫の皇后(天智天皇の皇后)の事としている。なお皇命の字面については、天皇命の字面が古事記上卷に、「故是以、至v于v今、天皇命等之御命不v長也」とあり、また出雲國造神賀詞、續日本紀宣命等に見えている。これに依つて、此處も、ナカツスメラミコトと讀み、舒明天皇の皇后で、後帝位につかれた皇極天皇の事と解すべきである。
 間人連老 ハシビトノムラジオユ。間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀、孝コ天皇の紀に、遣唐使の判官となつた中臣の間人の連老であろうとされる。日本書紀、その人に註して「老、此云2於喩1」とある。
 この歌は、中皇命の御歌か、間人の老の作歌かというに、中皇命の御歌ならば、御の字があるべきであるが、その字が無いこと、間人の老が、御歌の俊使しただけならば、かように題詞にその名を出すはずが無いこと、これらに依つて、中皇命の命に依つて間人の老の作つて獻つた歌と定むべきである。
 歌の作られた事情は、題詞によつてあきらかであるが、この遊獵は、いわゆる藥獵であつたことと思われる。藥獵は、五月五日に行われる行事である。この日は正陽の節日であつて、この日に採取した藥品は、特效があるとされる。よつて男子は鹿を獵して、その袋角を採り、女子は藥草を採る。狩獵ではあるが、一面遊樂的な行事として、派手に行われる。本集に「かきつばた衣に摺り著けますらをの服襲《きそ》ひ獵する月は來にけり」(卷(54)十七、三九二一)、「春日野の藤は散りにて何をかも御獵の人の折りて插頭《かざ》さむ」(卷十、一九七四)などと詠まれているのも、この故である。今、歌詞によるに、皇后も獵場近くにお出ましになつているようであり、また反歌にはその草深野とあつて、夏の歌であることを語つているなど、この獵の藥獵であることを證するに足りる。
 
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 朝《あした》には とり撫でたまひ
 夕《ゆふ》べ には い寄《よ》り立たしし、
 御執《みと》らしの 梓弓《あづさゆみ》の
 中|弭《はず》の 音すなり。」
 朝獵《あさかり》に 今立たすらし。
 暮獵《ゆふかり》に 今立たすらし。
 御執らしの 梓弓の
 中弭の 音すなり。」
 
 八隅知之《ヤスミシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》
 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》
 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨリダタシシ》
 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》
 朝?尓《アサカリニ》 今立須良思《イマダタスラシ》
 暮?尓《ユフカリニ》 今他田渚良之《イマタタスラシ》
 御執能《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
【譯】天下を知ろしめす天皇陛下の、朝には愛撫したまひ、夕べには傍にお寄り立ちになつた、御料の梓弓の中弭の音が致します。朝獵に今お出ましになると見えます。夕獵に今お出ましになると見えます。御料の梓弓の中弭の音が致します。
【構成】第一段、初めの中弭ノ音スナリまで。第二段、終りまで。第一段で、事實を敍述し、第二段で、その(55)事實に基づく推量を延べるが、第一段の後半部を繰り返して、事實の敍述を確めている。
【釋】 八隅知之 ヤスミシシ。集中、八隅知之の字面は、この例を併せて二十例あり、外に、安見知之六例、安美知之一例である、これと同語と認められるもの、古事記に夜須美斯志《ヤスミシシ》四例、日本書紀に、夜輸彌始之、野須瀰斯志、野須美矢矢、夜須彌志斯各一例、續日本紀に夜須美斯志一例であつて、これらの文獻に依つて、萬葉集のを、ヤスミシシと讀むのである。この語は、わが大君を修飾するを例とするもので、天皇の威コを稱える内容を有すると考えられるが、語義については、諸説があつて一定しない。それらの諸説を分類すると、ヤスミについて、八隅説を取るものは、釋日本紀、註釋(仙覺)、代匠記であり、安見説を取るものは、冠辭考、古事記傳、古義、美夫君志、正訓等である。今、その代表的なものとして、正訓の説を擧げれば、ヤスミは上一段動詞の未然形、上のシは、敬語の助動詞の連用形、下のシは時の助動詞の連體形と見るのであつて、安く治めなされたの意と解するのであり、語法の説明は、一往これで成立している。但しここに、安ミを、上一段動詞の活用と見るのは、文獻上の支持が無く、無理である。むしろ上一段動詞見ルに、形容詞安の冠せられたものと見るべきである。動詞の見ルに、敬語の助動詞スの接續した例は、「見之賜者」(卷一、五二)、「見之賜而」(卷六、九七一)などあり、假字書きの例としては、「和乎彌佐婆志理之」(常陸國風土記)がある。ただここに問題となり得るのは、萬葉集における多數の用例が、何故すべて知之の文字を用いているかである。これについてシシは知ラスの義であるとなす説がある。知ルの古語に、シスの如きものがあつたかも知れないが、まだその存在が證明されない。この語の解釋上、參考となるべきものとしては、萬葉集に、「日雙斯皇子命」(卷一、四九)、「日竝皇子尊」(卷二、一一〇題詞、一六七題詞)とある御方を、續日本紀に「日竝所知皇子尊」、粟原寺の鑪盤の銘に「日竝御宇東宮」とあることである。これによつて、知之を所知、御宇の義とするのであるが、しかしこの日竝皇子尊は、訓讀が決定しかねるので、これを以つて語義を證明するのは困難で(56)ある。また、母の枕詞タラチネノは本集において、「多羅知斯夜《タラチシヤ》」(卷五、八八六)、「多良知子能《タラチシノ》」(同、八八七)、「垂乳爲《タラチシ》」(卷十六、三七九一)の形を採るものがあり、また播磨國風土記に「多良知志吉備鐵《タラチシキビノマガネ》」とあつて、タラチシを以つて原形とするものの如くであるが、この語義は、足ラシシであろうかと考えられる。これによれは、八隅知之、安見知之の知之も、字音假字として、チシと讀むことも成立すべきである。しかし今しばらく舊訓のままに、ヤスミシシの訓を存置する。この句は、宮廷歌謠において傳誦せられ來たつた句であつて、早くからその語義が忘れられて使用され、或る場合には別の語原解釋をも生じたものと考えられる。かくしてこれを使用することによつて、歴史あり傳統ある皇威が感じられるようになつたのである。
 我大王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミノ(元朱)、ワゴオホキミノ(槻)。集中、オホキミの語を修飾する場合の我の語の假字書きとしては、和期大王五例、和期大皇二例、和其大王、吾期大王、和期於保伎美各一例あり、また和我於保伎美二例であつて、ワゴとあるものが斷然多い。しかもヤスミシシの語を受けているものは、すべてワゴの例中にある。この語は、歴史的に言えば、勿論ワガであるが、そのガがオホキミのオと結合して、音聲で聞く場合には、ワゴーホキミと聞えるのであつて、その寫音がワゴオホキミと記されるのである。これによれば、ここもワゴオホキミノと讀むべきであるが、吾大王の文字は、表意文字として使用されたものであつて、この場合、なるべく文字に即して書くを原則とすべきであるから、今なおワガオホキミノの訓によることとする。この句は、下の取リ撫デタマヒ、及びイ寄リ立タシシの句に對して主格をなすものであつて、大王は、舒明天皇を指し奉つている。オホキミは、本來、天皇に稱し奉る語。ここはその本義に使用され、時に親しみまつる意を以つてワガを冠している。
 朝庭 アシタニハ。アサニハニとする訓もあるが、「安志多爾波《アシタニハ》 可度爾伊?多知《カドニイヂタチ》 由布敝爾波《ユフベニハ》 多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》」(卷十九、四二〇九)などの例に依つて、アシタニハと讀むべきである。庭は、助詞ニハをあらわす(57)訓假字として使用されている。下の夕庭も、これに倣うべきである。
 取撫賜 トリナデタマヒ。トリは手に取る意、ナデは愛撫する意の動詞で、熟語を作つているが、トリは接頭語となる傾向にあつて、ナデに意味の中心がある。タマヒは、敬語の助動詞。以上の二句は、下の、夕ベニハイ寄リ立タシシの句と對句をなしている。
 夕庭 ユフベニハ。朝庭の項參照。
 伊縁立之 イヨリダタシシ。
   イヨリタテリシ(元朱)
   イヨリタヽシシ(西)
   イヨセタテヽシ(神朱)
   イヨセタヽシシ(考)
   イヨシタテヽシ(?)
   イヨシタテシ(直好)
   イヨセタテシ(燈)
   イヨリタヽシ(攷)
   イヨシタヽシ(註稿)
   ――――――――――
   伊縁立坐《イヨセタテマス》(墨)
 講義(山田博士)には、緑に動詞としてヨスと讀むべき意義無しとしているが、集中、ヨスに當てて書いていると認められる例は多い。しかしここは、古事記雄略天皇の卷の「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》 阿佐斗爾波《アサトニハ》 伊余理陀多志《イヨリダタシ》 由布斗爾波《ユフトニハ》 伊余理陀多須《イヨリダタス》 和岐豆紀賀斯多能《ワキツキガシタノ》 伊多爾母賀《イタニモガ》 阿世袁《アセヲ》」の例などに依つて、イヨリタヽシヽの訓を採用すべきである。イは接頭語。ヨリは寄る意の動詞。タヽシは動詞立ツに敬語の助動(58)詞の接續したもの。下のシは時の助動詞である。古事記の例に依れは、タタシの上のタは、濁音なるべく、寄り立つを一の熟語と見るべきである。以上の二句は、上の朝ニハ取リ撫デタマヒの句と對句を成し、この句の下のシは、取り撫デタマヒとイ寄リ立タシとの雙方を受けて、下の御執ラシノ梓弓を修飾している。梓弓のもとにお立ち寄りになつた意味の句である。朝な夕なに、御愛撫になりまたはお立ち寄りになつたの意で、それを朝夕と對句に分かつたまでである。
 御執乃 ミトラシノ。ミは敬語の接頭語。トラシは、動詞取ルに敬語の助動詞スが接續して、名詞形を採つたもの、ここでは梓弓を修飾する。御手にお取りになるものの義である。弓をミトラシ、ミタラシというも、この語から出る。
 梓弓之 アヅサユミノ。梓の木で作つた弓、もとアヅサノユミノと、中にノを入れて讀んでいた。この句は、一首中に同句が二度出ていて、原文は前のは御執乃梓弓之とあり、後のは御執梓能弓之とあるので、後のに引かれて、前のをもアヅサノユミノと讀んでいたのである。然るに古事記日本書紀の假字書きの例を見ても、アヅサユミとはいうが、アヅサノユミとはいわない。ツキユミも同斷である。ただ一つ、當集に「安都佐能由美乃」(卷十四、三五六七)の一例があるのみである。これは短歌で、七音の句に當るので、ノを入れたもので、普通はアヅサユミといつたものと見ねばならぬ。古寫本では、元暦校本にこの後の方の句を御執能梓弓之としている。これは前の御執乃梓弓之ともよく一致した書き方である。故にこれに從つて、前をもノを入れずに讀むのである。アヅサの樹については、白井光太郎氏はヨグソミネバリまたはハンザであろうとし、萬葉集講義は方言にヅサと呼ぶ木の一種であろうとしている。
 奈加弭乃 ナカハズノ。
   ナカハスノ(西)
(59)   ナガハズノ(代)
 ――――――――――
   奈留弭乃《ナルハスノ》(考)
   奈加弦乃《ナカツルノ》(考)
   奈利弭乃《ナリハスノ》(玉)
   奈加?乃《ナカツカノ》(攷)
   奈利弦乃《ナリヅルノ》(古義、石原正明)
 奈加弭は、加は利の誤として鳴弭であるとし、長弭であるとも解していた。今萬葉隻講義(山田博士)に、弭は弓と弦または矢のくいあう所で、弓の上下を本弭末弭という。これに對して中間を中弭というとするに從う。弓弭の音については、高市の皇子の殯宮の時の歌に、「取り持てる弓弭《ユハズ》の騷、み雪降る冬の林に、飄風《つむじ》かもい卷き渡ると、思ふまで聞きの恐く」(卷二、一九九)という例がある。
 音爲奈利 オトスナリ。ナリは、強く指定する意の助動詞で、古くは、用言の終止形に接續する。以上第一段。梓弓の奈加弭の音の聞える處で詠んでいる歌意である。
 朝?尓 アサカリニ。朝獵夕獵と分けていうことは、「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)、「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフカリニ》 十里※[足+搨の榜]立」(卷六、九二六)などの例がある。朝の狩獵にの意。
 今立須良思 イマタタスラシ。タタスは、動詞立ツに、敬語の助動詞スの接續したもの。ラシは、根據ある推量の助動詞。出發される意になる。以上二句は、下の暮?尓今他田渚良之に對して對句を成している。
 暮?尓 ユフカリニ。夕方の狩獵にの意。
 今他田渚良之 イマタタスラシ。上の今立須良之と同語から成つている。二句ずつから成る對句で、下の一句が同語から成るものには、日本書紀に「くはし女をありと聞きて、よろし女をありと聞きて」(九六、繼體天皇紀)、「あつ取りつま取りして、まくら取りつま取りして」(同)、「萬代にかくしもがも、千代にもかくしもがも」(一〇二、推古天皇紀)など例が多くある。
(60) 御執能梓弓之 ミトラシノアヅサユミノ。もと御執梓能弓之とする本に依つて、ミトラシノアヅサノユミノと讀まれていた。今、元暦校本による。この事は既に上に述べた。
 奈加弭乃音爲奈里 ナカハズノオトスナリ。以上四句。第一段の末の四句を繰り返している。かような例は、日本書紀に「級《しな》照る片岡山に、飯に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人あはれ。親無しに汝《なれ》なりけめや、さす竹の君はや無き。飯に飢て臥せる、その旅人あはれ」(一〇四、推古天皇紀)、「打橋のつめの遊びに出でませ子。玉代《たまで》の家《いへ》の八重子の刀自.出でましの悔はあらじぞ、出でませ子、玉代の家の八重子の刀自。」(一二四、天智天皇紀)などの例がある。
【評語】この歌は二段から成つており、それぞれ同一の句法を以つて結んで、重疊の調を成している。偶數句形式で、御執シノ梓弓ノ中弭ノ音スナリと、ほとんど同音數の短句を重ねて結んでいるのは雄勁な古格である。歌いものの正統を傳えたものと云つてよく、獵場で歌いあげたものと解せられる。朝ニハ夕ニハと對句を用い、朝獵ニ暮獵ニと、對句でこれを受けたのも、用意がある。しかし朝と夕と異なる時間を一首中に竝立させ、しかもそれを、今立タスラシと受けたのは、その今が、いずれの時であるかをあきらかにすることができない缺點がある。他の、長歌中に春と秋との景物を竝敍したのと共に、印象の集中を妨げる不利益がある。これは、歌いものとして、調子に乘つて、内容に多くを顧慮しなかつた傾向があり、そこから生じた缺點と、考えられる。
 
反歌
 
【釋】反歌 ヘニカ。カヘシウタ(拾)、タンカ(睡餘漫筆、安井息軒)、ミシカウタ(僻)、ハンカ(美)。普通字音でハンカと讀んでいるが、反は集中「可反流左爾見牟《カヘルサニミム》」(卷十五、三七〇六)、「波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》」(61)(同、三七四八)など、への音に使つているから、ヘニカと讀んだものだろう。前の長歌の反歌である。反歌は長歌のうちの一節が分離獨立したもので、普通短歌形式のものであるが、「み吉野の瀧もとどろに落つる白波、留まりにし妹に見せまく欲しき白浪」(卷十三、三二三三)の歌は旋頭歌である。反歌の數は一首から多いのは六首(卷五、八九七の長歌の反歌)に及んでいる。通例、前に反歌もしくは短歌と記して添えている。本來古代の長歌に、一部を反覆吟唱する性質があり、その歌末の繰り返しの部分がちぎれて獨立すべき素質があつた所に、漢文學中、たとえば、荀子の反辭、離騷の亂というようなものの影響を受けて、獨立したものである。長歌の内容に對して、これを補足し、その一部を繰り返し、別の方面から敍述し、作者の環境を敍するなどの性質を有し、長歌に比して一層詠歎の氣分を集中せしめる性能を有している。本集中でもごく古い長歌にはこれの無いものがあり、比較的新しい歌には毎歌これがある。カヘシウタと讀んで、歌いものの末節を歌い返したから起つたとする説もあつて、そういう性質のあることは認められる。短歌と題してある例(卷一、四六など)があり、何とも題せずに書いてある例(卷五、八一四など)もある。
 
4 たまきはる 字智《うち》の大野《おほの》に
 馬|雙《な》めて  朝踏ますらむ。
 その草深野《くさふかの》。
 
 玉刻春《タマキハル》 内乃大野尓《ウチノオホノニ》
 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等六《アサフマスラム》
 其草深野《ソノクサフカノ》
 
【譯】大和の宇智の大野原に馬を竝べて、朝お踏み遊ばしてでございましよう。その草の深い野を。
【釋】玉刻春 タマキハル。假字書きの例には、多摩枳波流(卷五、八〇四)、多麻吉波流(卷十五、三七四四)、多末伎波流(卷十七、四〇〇三)、多摩岐波?(日本書紀、神功皇后紀)などある。その外、靈刻(卷四、(62)六七八)、玉切(卷八、一四五五)、玉刻(卷十九、四二一一)、等の字面をも、タマキハルと讀んでいる。靈寸春(卷十、一九一二)をもタマキハルと讀んでいるが、これは傳本に文字の相違あるものがあつて、文證としがたい。また類句としては、「年切《トシキハル》 及v世定《ヨマデサダメテ》 恃《タノメタル》 公依《キミニヨリテシ》 事繁《コトノシゲケク》」(卷十一、三二九八)というのがある。
 玉刻春をタマキハルと讀むにつけて、刻をキと讀むのは、訓キルの頭音を取つたので訓假字であるとされているが、靈刻、玉刻とあるものについては、それでは説明が困難である。玉切とも書いている所を見れば、キハルに刻切の意があるものの如くである。宇智の地に荒木神社があり、新撰姓氏録右京神別に、「玉祖宿禰、神牟須比命十三世孫建荒木命之後也」とあつて、玉を作る人の本居地であるので、玉を切る字智と續き、宮廷の意のウチにも冠し、また後にタマを靈に通わして、命、世にも冠するに至つたものか。眞淵は魂の極まるとし、雅澄は手纏佩くであるとし、他にも説があるが、いずれもまだ定説としがたい。枕詞として、内、命、世等を修飾する。
 内乃大野尓 ウチノオホノニ。字智の大野にである。
 馬數而 ウマナメテ。馬を竝べて。多くの騎乘で獵をされるをいう。數の字を使用しているのは、多數の義による。
 朝布麻須等六 アサフマスラム。フマスは、動詞踏ムに敬語の助動詞スの接續したもの。ラムは、現在推量の助動詞。その終止形である。ここに至つて、長歌に朝獵ニ暮獵ニといつたその夕べの方を消して、朝だけを出している。ここに時刻が明示されたのである。またラムを使用したので、作歌者の位置が、獵の現場で無いことを語つている。これは作者が、中皇命に代つて詠んでいるので、作歌者の位置としては、獵場では無いが、獵場に程近く中皇命の御座所が指定される。
(63) 其草深野 ソノクサフカノ。ソノは、上の朝踏マスラムを受けて、これを代理指示している。草深野は、草の深く生い茂つた野の意で、夏の獵場を描いている。
【評語】この歌は四句で切れ、一旦内容は完結する。五句は更に獨立した句で、草深い野を感歎したものと解すべきである。長歌には季節は無いが、反歌の草深野には、季節がある。夏五月のころ、藥獵を催された時のものと解せられる。推量が中心となつてはいるが、獵場の描寫は具體的であり、印象的なよい歌である。
 
幸2讃岐國安益郡1之時、軍王見v山作歌
 
讃岐の國|安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王の山を見て作れる歌
 
【釋】幸 下の之時と併せて、イデマシシトキと讀む。後漢書、光武紀の註に「天子所v行、必有2恩幸1、故稱v幸」とある。ここに幸とあるは、舒明天皇の行幸をいう。しかし國史には、舒明天皇が讃岐に行幸されたことを傳えない。ただ天皇の十一年に、伊豫の温湯の宮に行幸されたことがあるので、その途中、此處に幸せられたのであろう。但し歌意によれば、行幸の時でなく、この題詞は誤つているかもしれない。遠神の釋參照。
 讃岐國安益部 サヌキノクニアヤノコホリ。安益部は、延喜式に阿野郡とある。今、綾歌郡に編入せられている。高松市より西方の地である。
 軍王 イクサノオホキミ 他に所見が無い。古語に將軍をイクサノキミと訓しているに依れば、大將軍の意であるかもしれない。
 
5 霞立つ 長き春日《はるび》の
 暮れにける わづきも知らず、
(64) 村肝《むらぎも》の 心を痛み
 ?子鳥《ぬえこどり》 うらなけ居《を》れば、
 珠襷《たまだすき》 懸けのよろしく、
 遠つ神 わが大王
 行幸《いでまし》の 山越す風の
 獨《ひとり》座《を》る わが衣手に
 朝夕《あさよひ》に 還《かへ》らひぬれば、
 丈夫《ますらを》と 思へる吾も
 草枕《くさまくら》 旅にしあれば、
 思ひ遣る たづきを知らに、
 網《あみ》の浦の 海處女《あまをとめ》らが
 燒く鹽《しほ》の 念ひぞ燒くる。
 わが下《した》ごころ。」
 
 霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》
 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》
 村肝乃《ムラギモノ》 心乎痛見《ココロヲイタミ》
 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜歎居者《ウラナキヲレバ》
 珠手次《タマダスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》
 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 行幸能《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》
 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》
 朝夕爾《アサヨヒニ》 還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》
 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》
 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》
 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》
 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》
 燒鹽乃《ヤクシホノ》 念曾所燒《オモヒゾヤクル》
 吾下情《ワガシタゴコロ》。
 
【譯】霞の立つ長い春の日の、暮れて行つたほども知らずに、家戀しさに心が痛まれてヌエ鳥のように心中に歎いて居ると、ちようど家に還るということを口に出すのが好ましいと同じく、わが大君の行幸された山を越す風が、ひとりでいるわたしの衣服に、朝夕に吹き還るので、立派な男と思つているわたしも、草の枕の旅のことであるから、物思いをなくす手段を知らないで、網の浦の海人の娘子が燒く鹽のように、思いこがれるこ(65)とだ。わたしの心の中が。
【構成】全篇一文でできている。その用意で解すべきである。また枕詞を多く使用している。枕詞は、次の詞句を引き出すことをおもな任務とし、文義には直接の關係の無いのを普通とする。「網の浦の海處女らが燒く鹽の」は旅先の風光を使つて序として、次の燒クルを引き起している。
【釋】霞立 カスミタツ。その時の實際の情景を説明して春の枕詞としているので、全體の空氣を描く上に重要な意義を有している。枕詞でもあり、同時に實際の句でもある。
 長春日乃 ナガキハルビノ。日中の長い春の日の意で、次の暮レニケルに對して主語を成している。
 晩家流 クレニケル。助動詞ニに相當する文字は無いが、意を以つて添加して讀む。集中、かような文例は、はなはだ多い。暮れはててしまつた意である。
 和豆肝之良受 ワヅキモシラズ。
   ワツキモシラス(西)
   ――――――――――
   多豆肝之良受《タツキモシラズ》(玉)
   手豆肝之良受《タツキモシラズ》(古義)
   和肝之良受《ワキモシラズ》(古義)
 ワヅキは、他に所見の無い語である。玉の小琴には、和を多の誤とし、古義には、和を手の誤として、いずれもタヅキモシラズと讀んでいる。また古義の一説に、豆を衍として、ワキモシラズとしている。タヅキは、手段、方法の義で、ここには適わない。ワキは、區別で、ここに通ずるが、文字を衍入としなければならない。未詳の語という外は無い。
 村肝乃 ムラギモノ。群臓腑の義で、心の枕詞になつている。古代、臓腑の中に人の精神が宿つていると考えられていたので、この枕詞を生じた。「村肝之《ムラギモノ》 情摧而《ココロクダケテ》」(卷四、七二〇)など、心に冠する。
(66) 心乎痛見 ココロヲイタミ。「何(名詞)ヲ何(形容語)ミ」という語法上の型になるもので、心が痛くしての意をあらわす。風ヲイタミ、月ヲ清ミなど、この例である。痛ミは、動詞イタムのミ活用であつて、打撃を受ける意である。ヲは助詞であるが、月清ミなど、ヲ無くしても使用する。
 奴要子烏 ヌエコドリ。多くヌエドリと言つている。コは愛情をあらわして添えた語。鮎を「阿由故《アユコ》」(卷五、八五九)という類である。この鳥、フクロウ、コノハズクの類の夜鳴く鳥の總稱という。この説、是なるが如くである。また普通には、今、トラツグミという燕雀類の一種という。悲しげな聲で鳴くので、歎ク、ノドヨフなどの枕詞として使用される。
 卜歎居者 ウラナケヲレバ。ウラフレヲレハ(元墨)、ウラナケキヲレハ(元赭)、ウラナキヲレハ(西)、ウラナゲヲレバ(代初書入)。參考とすべき例としては、「奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》」(卷十、一九九七)、「奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》 告子鴨《ヅゲムコモガモ》」(同、二〇三一)があり、裏歎、浦嘆を、四音に讀むべき場處に當てている。また「奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(卷十七、三九七八)の例があつて、宇良奈氣を以つて、名詞を作つている。動詞泣ク、鳴クは、普通に四段活として知られているが、「安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》」(卷十四、三四七一)の如く、ナクルの形もあつて、二段活のあつたことが推測される。そうしてウラナケの如き名詞形のあるによれば、下二段活と見るべく、よつて此處も、ウラナケヲレバと讀むべきである。下二段活のナクは、使役の意になるものとされているが、それはやや新しい語法であり、古くはむしろ所能の意味になり、他の刺戟に依つて泣くことが餘義無くされる意と解せられる。ウラは、内面的で表面にあらわれないことをいう。ここは、表面にあらわれないで心中に泣いておれはの意である。
 珠手次 タマダスキ。タマは美稱。タスキは肩に懸けるものなので、懸クの枕詞となる。次をスキと讀むことは、日本書紀、天武天皇の紀に、齋忌次とあるに註して、「次、此云2須岐1。」と見えている。
(67) 懸乃宜久 カケノヨロシク。縣は元暦校本、神田本、類聚古集等による。懸と同意である。言葉にかけることが都合よくの意で、句を隔てて、下の朝夕ニ還ラヒヌレバに對して、副詞句となつている。還るという語は、大和に帰ることの意味を含む語であるから、口にすることが好ましいというのである。「子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山岸に霞たなびく」(卷十、一八一八)などある。また遠ツ神ワガ大王云々の内容を説明するものとも見られる。
 遠神 トホツカミ。天皇は神聖にして、凡人の境界に遠いのでいう枕詞と解せられている。しかしこれは、この長歌の大君を、現在の天皇と解することを基礎とした解釋であるが、もし過去の天皇の行幸をいうと解するならば、遠ツ神は、過去に出現して今は神となられた方の義に解すべく、語義からいえば、その方が自然である。「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の幸行《いでまし》處」(卷三、二九五)の用例も、過去の天皇の意に、ワガ大君を修飾している。題詞に、幸讃岐國安益部之時とあることが、どのくらいの權威を與えるかも、從つて問題となる。これが歌詞によつて作られた題詞で無いとも保證されない。一體、この歌の歌品は、もつと新しく、舒明天皇時代の作とは思えないので、この句にいうところも、昔の天皇の行幸を追想して詠んでいるのでは無かろうか。それも舒明天皇が、伊豫の熟田津に幸せられたことを想起して、行幸ノ山越ス風と歌つているのでは無いだろうか。
 吾大王乃 ワガオホキミノ。下の行幸に對して、領格を成している。
 行幸能 イデマシノ。行幸は、イデマシ、ミユキの二訓がある。イデマシは、假字書きの例は無いが、歌中、行幸、幸行、幸の諸字面を、多く四音の場處に使用しており、此處も四音の處に當ててあるので、イデマシと讀むべきが如くである。またミユキは、「君之三行者《キミガミユキハ》」(卷九、一七四九)の一例がある。
 山越風乃 ヤマコスカゼノ。
(68)   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマコスカゼノ(燈)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマゴエノカゼノ(打聽)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ――――――――――
   山越風爾《ヤマコスカゼニ》(檜)
ヤマコシノカゼノとも讀まれるのは、反歌の詞によるのであるが、此處は七音に當る句であるから、ヤマコスカゼノと讀むがよい。この句は、下の還ラヒヌレバに對して主語となつている。
 獨座 ヒトリヲル。作者の動作で、次の句に對して修飾句を成している。
 吾衣手尓 ワガコロモデニ。衣手は、衣服をいう。テは接尾語で、衣服には手の部分(横に出ている部分)があるから、附けていう。「敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》」(卷四、五四六)など、全衣の義である。但し、衣袖、衣袂の字を當てているものもあつて、衣服の袖の義をも生じている。
 朝夕尓 アサヨヒニ。安佐欲比爾(卷十七、四〇〇六)など、アサヨヒニというが、アサユフニの例は無い。山越す風の吹き來る時刻を指示している。これはその常に吹くことを語るものであるが、しかし初めに、春の夕碁の敍述があるので、ここに朝夕にというのは、印象の集中を妨げる缺點がある。
 還比奴禮婆 カヘラヒヌレバ。カヘラヒは、動詞還ルの未然形に、その繼續進行をあらわす助動詞フの接續したもの。風が、衣に絶えず吹き飜ることを歌つている。この語法は、集中に例が多く、またそのフに當るところに、合、相の字を書いたものが多い。これはもと合フの語から出たものの如く、その動詞の内容が、たがいに行う意を元すもので、その意を殘していると認められるものもすくなくない。それからして繼續進行の意に展開したものである。
 大夫登念有我母 マスラヲトオモヘルワレモ。美夫君志に、大夫は、大丈夫の略であるとしているが、遊仙窟にも大夫の字を使用しているのを見れば、大夫に立派な男子の義ありとすべきである。これをマスラヲと讀(69)むのは、古くより慣用する訓である。マスラヲは、増荒男の義といい、集中、「益荒夫《マスラヲ》」(卷九、一八〇〇)、「益荒丁子《マスラヲノコ》」(同、一八〇一)の用例があり、また「健男《マスラヲ》」(卷十一、二三五四)、「建男《マスラヲ》」(同、二三八六)をもマスラヲと讀んでいる。マスラヲは、勇氣あり思慮ある男子の謂であつて、當時の男子の目標とする所である。マスラヲト念ヘル吾の句は、當時の男子の自負を語るものとして注意される。「大夫と念へる吾も敷細の衣の袖は通りて沾れぬ」(卷二、一三五)、「大夫と念へる吾をかくばかりみつれにみつれ片念ひをせむ」(卷四、七一九)、「大夫と念へる吾や水莖の水城《みづき》の上に涙|拭《のご》はむ」(卷六、九六八)、「大夫と念へる吾をかくばかり戀せしむるはあしくはありけり」(卷十一、二五八四)、「天地に少し至らぬ大夫と思ひし吾や雄心も無き」(卷十二、二八七五)など、マスラヲとしてあるまじきことを言い、いずれもマスラヲト念へル吾の自省が歌われている。
 草枕 クサマクラ。族の枕詞。古代の旅行には、草を枕とするよりいうとされる。
 客尓之有者 タビニシアレバ。客は、客旅の義に使用している。シは、強意の助詞。その上にある詞句の意を強調する。この句では、旅ニを強調している。
 思遣 オモヒヤル。思念を放しやる意。オモヒは動詞で、ヤルと結合して熟語を作つている。心の動作として、思念することの無い?態になるをいう。思いを遣るという言い方では無く、また後世の想像する義ではない。思ヒ亂ル、思ヒ止《や》ム、思ヒ忘ルなど、同樣のいい方である。假字書きの例には、「和賀勢故乎《ワガセコヲ》 見都追志乎禮婆《ミツツシヲレバ》 於毛比夜流《オモヒヤル》 許等母安利之乎《コトモアリシヲ》(卷十七、四〇〇八)などある。
 鶴寸乎白土 タヅキヲシラニ。鶴寸、および白土は、訓假字として使用されている。手著ヲ知ラニの義である。タヅキは、手段、方法。シラニのニは、打消の助動詞ヌの古い活用形で、その中止形である。このニは、自由な活動を失つて、わずかに、知ラニ、飽カニ、ガテニの如き、熟語的な用法においてのみ使用されていた。(70)この句は副詞句である。「雖v念《オモヘドモ》 田付乎白二《タヅキヲシラニ》」(卷四、六一九)などの用例がある。タヅキは、タドキともいう。「世武須便乃《セムスベノ》 多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》」(卷五、九〇四)などある。
 網能浦之 アミノウラノ。
   アミノウラノ(元墨)、
   ――――――――――
   綱能浦之《ツナノウラノ》(僻)
   綱能浦之《ツナノウラノ》(考)
   綾能浦之《アヤノウラノ》(古義、大町稻城)
 網の浦は、地名。所在未詳であるが、多分讃岐の安益の郡にある地名であろう。作者の現にいる地となすべきである。萬葉考に網を綱の誤としているが、そのような傳本は無い。
 海處女等之 アマヲトメラガ。海人中の苦い女のの義。處女は未通女とも書き、未婚の女子の義であるが、ヲトメの語は、かならずしも婚姻の有無に拘泥しない。つまりヲトメは、若い女の總稱で、その中に、處女、未通女の文字の當る者もあるのである。此處も外觀に依つていうので、處女の字に拘泥するに及ばない。鹽を燒く女たちを美しく言いあらわしたものと見るべきである。
 燒塵乃 ヤクシホノ。當時の製鹽法は、海藻に海水を浸ませ、これを蒸發せしめて鹽分の濃厚になつたものを燒いて鹽を採るという。それで燒くという。網ノ浦ノからこの句まで、次の念ヒゾ燒クルを引き出すための序である。燒く鹽の如く燒くると、譬喩に言つている。近邊の風物を敍して、一面には敍景的效果を期し、一面にはこれを利用して序としたのである。序には、本文の内容に關係あるもの、全然關係無く意外感を與えるもの、また同音韻を利用するもの等、種々の用法があるが、此處はその最初の類に相當する。
 念曾所燒 オモヒゾヤクル。オモヒソモユル(考)。本集における所の字の用法には數種あるが、そのもつとも廣く使用されるのは、受身の意をあらわすものであつて、此處もその用法である。「人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》(71)將v隱《カクサムヲ》 所v燒乍可將v有《ヤケツツカアラム》 不v服而來來《キセズテキニケリ》(卷三、二六九)の所燒も、これと同樣の用法である。動詞燒クは、四段活用が普通であるが、受身の意味になる時に下二段活になる。依つて右の所燒乍可將有も、ヤケツツカアラムと讀まれる。假字書きのものには、「鶯能《ウグヒスノ》 奈久久良多爾々《ナククラタニニ》 宇知波米?《ウチハメテ》 夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》 伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》」(卷十七、三九四一)がある。今の場合は、係助詞ゾを受けて連體形に讀むのであるから、ヤクルと讀む。思ヒ燒クの例は無いが、情ヤク、胸ヲヤクとはいう。「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》」(卷七、一三三六)、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》 胸乎熱《ムネヲアツミ》 旦戸開者《アサドアクレバ》 所v見霧可聞《ミユルキリカモ》」(卷十二、三〇三四)。二個の動詞の中間に助詞ゾが插入される場合は、ゾは上の動詞の意を強調する性能を有するのであるが、意味は、上の動詞と下の動詞とを直に結合せしめて解すべきである。「呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》」(卷一、七〇)、「止曾金鶴《トメゾカネヅル》」(卷二、一七八)、「在曾金津流《アリゾカネヅル》」(卷四、六一三)の如き、その例である。この句は、終止形であつて、下の吾下情を主格として、それの動作を敍している。燒く鹽の燒くると云つて呼應するのであつて、燒をモユルと讀むべしとする説は否定される。
 吾下情 ワガシタゴコロ。ワガシヅゴコロ(考)。心の底、心裏の義。「吾屋前之《ワガニハノ》 毛桃之下爾《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》 下心吉《シタゴコロヨシ》 菟楯頃者《ウタテコノゴロ》」(卷十、一八八九)。
【評語】この前に出ている數首の歌が、歌いものの系統を傳えて、短文を組み重ね、感動的な表現であるのに對して、この歌は、全篇一文から成り、順序を守つて進行するが如き敍述法を取つている。歌中にも獨居ル我ガ衣手とあるように、獨語性の歌であつて、文筆的作品としての性格が、確立している。枕詞を多數使用し、序をも使用して、詞句の修飾に苦心している跡が見え、これは煩わしくさえ感じられる。また副詞句が、數句を隔てて下の句を限定するなど、明快を缺く憾みが無いでもない。對句を使用しないのは、文筆作品たる傾向を強くする。前出の長歌に比して、滑らかさにおいて劣つているのは、知識者の文筆に依る創作であるからで(72)ある。形式は、長歌形式の定型に到達している。霞立つ長き春日のいつしか暮れはてた情景から説き起しているのは、全體の空氣を作る上に效果が多く、山を越して吹いて來る風に郷愁を催している心境も相當に描出されている。この歌は、舒明天皇の時代の作品として、配列されているけれども、文筆性の内容を有し、形式も整備して、作り歌である性質が濃厚であつて、實際の時代は、もつと降つて、藤原の宮時代以後のものではないかとも思われる。マスラヲト思ヘル吾の句や、歌中に長い序を有することなども、新しい時代の作品であることを語つているように見える。
 
反歌
 
6 山越しの 風を時じみ、
 寢《ぬ》る夜おちず
 家なる妹を 懸けて思《しの》ひつ。
 
 山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》
 寢夜不v落《ヌルヨオチズ》
 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシノヒツ》
 
【譯】山を越して吹いて來る風が、時はずれに吹くので、寢る夜ごとに、家にいる妻を、心に懸けて戀い慕うことだ。
【釋】山越乃 ヤマゴシノ。長歌の、山越ス風の句を受けて、反歌を起している。長歌の詞句の一部を反歌に使うことは、例が多い。これは長歌と反歌との關係を深からしめる上に役立つものである。
 風乎時自見 カゼヲトキジミ。上に説明した心ヲ痛ミと同じ語法、風が時じくしての意、時ジは、時ジケ、時ジク、時ジキ・時ジミの用例を有し、形容詞と同樣の活用形を有する語と認められる。「河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時伊時《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》」(卷四・四九一)、「時自久曾《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトイフ》」(卷一、二六)・「登(73)岐士玖能《トキジクノ》 迦玖能木實《カクノコノミ》(古事記中卷)、「冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》 不v見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコホシミ》(卷三、三八二)。名詞に語尾ジが接續して形容詞類似の形態を作るものには二種がある。一種は、鴨ジモノ、犬ジモノの類であつて、ジは、その如きの意を成すようである。今一種は、この時ジであつて、このジは、打消の意味を有するものと考えられる。そこで、その時にあらざるの意味をあらわすのであるが、これを、斷えざるの意に解する説(代匠記等)と、時を定めずの意に解する説(考)と、その時ならざるの意に解する説(古事記傳)とが出ている。しかし上の語例のうち、河上ノ伊都藻ノ花の例、冬ゴモリ時ジキ時の例の如き、その時ならざる意に解すべきであつて、これを正説とすべきである。今の歌の意は、春の頃であつて、風の強く吹くべき時節ではないのに、しかも吹くのでの意で、相當の強風、もしくは寒風について歌つているであろう。以上二句は、下の三句に對して根據となることをあげている。
 寢夜不落 ヌルヨオチズ。寢る夜は落つることなくの意で、連夜である。「眼夜乎不v落《ヌルヨヲオチズ》 夢所v見欲《イメニミエコソ》」(卷十三、三二八三)などの例がある。
 家在妹乎 イヘナルイモヲ。イヘニアルイモヲ(元)、イヘナルイモヲ(考)。ニに相當する文字無く、在の字のみで、ニアリと讀むべき例は、「此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》」(卷四、五七四)、「玉緒《タマノヲノ》 念委《オモヒシナエテ》 家在矣《イヘニアラマシヲ》」(卷七、一二八〇)、「榜間《コグホドモ》 極太戀《ココダグコホシ》 年在如何《トシニアラバイカニ》」(卷十一、二四九四)など多くの例がある。ニアリは、約してナリともいい、兩方とも集中に假字書きされたものがある。ニアリは歴史的であり、ナリは表音的である。これは書き方の問題である。
 妹は、婦人に對する愛稱であつて、夫婦關係、兄弟關係、朋友關係等、いかなる關係においても使用され、また女子相互にも使用される。ここは夫婦關係で、妻をいう。この家は、わが家で、そこに妻と住んでいたものであろう。
(74) 懸而小竹櫃 カケテシノヒツ。カケテは、「妹登曰者《イモトイフハ》 無禮恐《ナメシカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 懸卷欲《カケマクホシキ》 言爾有鴨《コトニアルカモ》」(卷十二、二九一五)の如きは、口にかけていう意であるが、ここは心にかけてであろう。「留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシノハセ》」(卷九、一七八六)などの例がある。小竹は、訓を借りてシノの音を寫している。櫃も訓假字である。シノヒは、ハ行四段に活用し、活用語尾は、假字書きのものすべて清音である。シノフには數義がある。一、思慕する。「念思奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》(卷二、一三一)、二、想像する。「秋芽子之《アキハギノ》 上爾白露《ウヘニシラツユ》 毎v置《オクゴトニ》 見管曾思怒《ミツツゾシノフ》 君之光儀呼《キミガスガタヲ》」(卷十、二二五九)、三、賞美する。「黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》」(卷一、一六)。ここは思慕する意であるが、元來この語は想像して思慕するのが本意であろう。なお忍耐する意のシノブは、上二段活用で、ノは乙類、ブは濁音で、この語とは別である。その用例、「和我世故我《ワガセコガ》 都美之手見都追《ツミシテミツツ》 志乃備加禰都母《シノビカネツモ》」(卷十五、三九四〇)。
【評語】この歌は、長歌の意をつめて、殊に眞意のあるところをあきらかにしたものである。長歌では、わずかに歸ることを口にかけることも好ましいといつただけで、他の憂憤は何によるのかあきらかにしてないが、この反歌に至つて、家ナル妹ヲカケテシノヒツと明言している。その直接衝動として、山越シノ風ヲ時ジミと敍したのも、有力な手法である。長歌には、やや冗漫の嫌があつたが、これは短歌であるだけにそういう弊も無く、長歌よりもよく纏まつている。
 
右檢2日本書紀1、無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己己朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、云是時宮前在2二樹木1。此之二樹、班鳩此米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之、乃作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
 
(75)右は日本書紀を檢ふるに、讃岐の國に幸《い》でましし事なし。また、軍の王いまだ詳ならず。但し山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、天皇の十一年己亥の冬十二月の己巳の朔にして壬午の日、伊豫の温湯《ゆ》の宮に幸でましき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》比米《ひめ》二つの鳥|太《いた》く集れり。時に勅して多く稻穗をかけてこれを養ひたまふ。すなはち作れる歌云云といへり。けだし疑はくはこの便より幸《い》でまししか。
【釋】萬葉集には、歌の後に、作者または作歌事情等に關して記事を加えているものがある。攷證などには、後の人のしわざであるとしているが、その記事中には舊本ニヨリテナホコノ次ニ載ス等の文を有するものがあつて、本集の編纂に關與した人の筆のあることはあきらかである。中には後人の記事の、誤つて本文となつたものも絶無であるとは云い難いであろうが、さような證明の無い限りは、本集の成立當時からあつたものと見てよいであろう。
 日本書紀。續曰本紀の養老四年の條には、日本紀三十卷とあり、その他、古書に引く所は、多く日本紀とある。ここに日本書紀とあるは、書の字のある最古の文献である。但し本集にも、他には日本紀とするものもある。
 無幸於讃岐國。日本書紀には、舒明天皇の讃岐の國に行幸のあつたよしの記事が無い意である。
 亦軍王未詳也。また軍の王のいかなる人であるか知り難いよしである。これは日本書紀以外にもわたつての記事であろう。
 山上憶良 ヤマノウヘノオクラ。本集の歌人として著名の人である。續日本紀、大寶元年正月、粟田の朝臣眞人を遣唐執節使とし、無位山於の憶良を少録とすとあり、靈龜二年四月には、伯耆の守となり、養老五年正月には、退朝の後、東宮に侍せしめられた。本集では、天平二年に、筑前の守であつたことが知られ、その作(76)の沈痾自哀文(卷五)には、天平五年に年七十四であつたと記している。その年に病氣であつたことが傳えられ、その年以後の消息を傳えないところを見ると、まも無く死んだことと思われる。山上氏は、新撰姓氏録に、「山上朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦國忍人命之後也、日本紀合」とあるによれば、柿本氏と祖を同じくしている。
 大夫 マヘツギミ、ダイブ。歌中にあつては、マスラヲと讀み大丈夫の義に使用されるが、散文中では四位五位の人に對する敬稱として使用される。
 類聚歌林 ルズカリニ。集中九箇所にその名が見えている。書名及びその引用の記事によるに、古歌を分類輯録し、作歌事情等をも記載した書と考えられる。萬葉集には類聚歌林から歌を採録してはいない。これは萬葉集の編纂が、類聚歌林を一つの成書として尊重していたことを語る。この書、今傳わらない。平安時代には、永承五年四月二十六日の正子内親王歌合に、「おくらが歌林とかいふなるより、古萬葉集までは、心も及ばず」、藤原清輔の袋草子に、「山上憶良類聚歌林一本書也。在2同寶藏1云々」。同寶藏というは法成寺の寶藏である。和歌現在書目録の序に「憶良臣傳2舊聞1以集2歌林1。」同假字序に「奈良の御門萬葉をえらひ、憶良臣哥林をあつめしよりは、」同書の類聚家の條に、「類聚歌林憶良在平等院寶藏」、藤原俊成の古來風體抄に、「又そのかみはことに撰集などいふこともなかりけるにや、ただ山上憶良といひける人なむ類聚歌林といふ物をあつめたりけれど、勅事などにもあらざりければにや、殊にかきとどむる人もすくなくやありけん、代にもたへてつたはらず、みたる人もすくなかるべし。ただ萬葉集のことばに山上憶良が類聚歌林に曰などかきたるばかりにぞさる事ありけりと見えたる。宇治の平等院の寶藏にぞあなるときくとぞ、少納言入道通憲と申ものしりたりしものむかし鳥羽院にてものがたりのつゐでにかたり侍し」。しかし平等院にあるという噂ばなしだけで、見たという人も無く、その文を引用した書も無い。また正倉院文書の寫私雜書帳に、天平勝寶三年に、市原の王の歌林という(77)書を寫したことが傳えられている。これに關する記事は、次の通りである。
  六月三日來歌林七卷 玄蕃頭王書者 收水主
  七月二十九日進送書十四卷 七卷本七卷今寫用紙百廿八帳 見請紙二百張
 これによれば、七卷あつて用紙百二十八張を要したことが知られる。一卷平均十八張強に當るが、一張は大凡一尺七寸内外であるから相當の長卷であつて、内容も豐富であつたものと推考される。この歌林が、憶良の撰の類聚歌林と同書であるか否かはあきらかで無い。但し憶良の撰は、普通に類聚歌林という書と解せられているが、山上憶良大夫類聚歌林という句は、山上憶良が類聚せる歌林の義とも解せられる。本集に引用したうちの八箇所までは、山上憶良大夫類聚歌林、山上憶良臣類聚歌林、山上臣憶良類聚歌林等と記し、ただ一箇所、卷二、二〇二の歌の左註にのみ、類聚歌林とだけ記している。この下の曰の下が類聚歌林の文で、乃作歌までがその文である。
 記曰 キニイハク。類聚歌林の引用文であるが、記というのは、日本書紀のことであろうとされている。それは、この記の内容が、日本書紀の記事と一致するからである。攷證は、意を以つて記を紀に改めているが、紀に作つている本は無く、もとのままで日本書紀のこととすべきである。琴歌譜にも日本記とある。
 己巳朔壬午 ツチノトミノツキタチニシテミヅノエウマノヒ。干支を以つてその日を指示したもので、十二月の朔日が己巳で、それから數えて壬午に當る日の義。十四日に當る。
 伊豫温湯宮 イヨノユノミヤ。伊豫の國の温泉の涌出せる地の宮。今の松山市の道後温泉の地にあつた行宮である。
 云々 シカジカ。なおその文の續行するを下略する時に使用する。如是如是の義に依つて、シカジカと讀む。日本書紀の文は、別に續行するものが無いが、類聚歌林にはなお文のあつたのを中斷したのであろう。
(78) 一書 アルフミニ。これも類聚歌林に引用する所であつて、下の乃作歌までがその文である。この一書は、伊豫國風土記の謂であろうとされている。伊豫國風土記は逸書であるが、仙覺の萬葉集註釋に引く所は次の如くである。文は、伊豫の國の温泉に、天皇等の幸すること五度とする。その中の一度に關する記事である。「以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。于v時、於2大殿戸1有v椹云2臣木1、於v其集v上鵤與2比米鳥1。天皇爲2此鳥1、枝繋2穗等1養賜也。」この文は、此處の一書の文と一致しない。よつて、別書であろうとされる。但し、その文を引くに當つて、類聚歌林なり、萬葉集なりが、多少の變改を加え、意を取つて記しているかも知れない。
 是時 コノトキ。舒明天皇と皇后(後の皇極天皇)との行幸の時をいう。
 二樹木 フタツノキ。風土記の文によると、椹と臣の木とである。椹は、日本書紀、天武天皇紀に、「堪、此云2武矩1」とある。椋《むく》である。臣の木は、モミの古名と解せられている。山部赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の一節に、「み湯の上の樹群《こむら》を見れば、臣の木も生ひ繼ぎにけり、鳴く鳥の聲も變らず」(卷三、三二二)。
 斑鳩 イカルガ。風土記には鵤とある。鳴禽顆の一種。鳩ぐらいの大きさ。背および腹は灰色、翼および尾羽は黒色で青い光澤がある。
 比米 ヒメ。島名。倭名類聚鈔に、「陸詞、?音黔、又音琴、漢語抄云比米。白喙鳥也」とある。今の何の鳥であるかをあきらかにしない。但しこの比を、細井本大矢本系統には此に作る。今、元暦校本等の古本による。この島名、卷の十三、三二三九の歌にも出て、「下枝爾《シヅエニ》 比米乎懸《ヒメヲカケ》」また、「伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等比米登《イカルガトヒメト》」とあり、その二つの比を、古本系統に比に作るに對して、仙覺本系統には此に作つている。これによつて、すべて此米とする説もあるが、萬葉集にあつては古本系統、風土記にあつては萬葉集註釋引用の文に、比米とあるものを、悉く此米の誤りとするは妄斷である。但し、此米という鳥もある。倭名類聚鈔に、「孫?曰、?音脂、漢(79)語抄云之女。小青雀也。」燕雀環の一種。雀よりやや大きい鳥である。
 若疑 ケダシウタガハクハ。以下、萬葉集の編者の按文である。
 從此便 コノタヅキヨリ。伊豫の國に行幸された便宜に、讃岐の國にも行幸されたのであろうという編者の意見である。此ヨリスナハチと讀む説もあるが、行幸を此の一字であらわしたとするは無理である。
 
 明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
【釋】明日香川原宮 アスカノカハラノミヤ。日本書紀、齊明天皇紀に、「元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即1天皇位於飛鳥板蓋宮1。」また「是冬、災2飛鳥板蓋宮1。故遷2居飛鳥川原宮1。」ここに遷居とあるによつて、明日香の川原の宮にましましたのは、齊明天皇の御代とされる。川原の地は、飛鳥川の左岸、川原寺などある附近であろう。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。皇極天皇の御事、日本書紀、皇極天皇紀に、この名を掲げて、「重日、此云2伊柯之比1」とある。天皇は、敏達天皇の曾孫、押坂の彦人大兄の皇子の子茅渟の王の王女で、舒明天皇の皇后となり、舒明天皇の崩後、即位せられ、これを皇極天皇と申し、後重祚して齊明天皇と申す。天智天皇、天武天皇の御母である。
 
額田王歌未v詳
 
【釋】額田王 ヌカダノオホキミ。日本書紀、天武天皇紀に、「天皇、初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1。」とある。鏡の王は、尾山篤二郎氏の研究(萬葉集大成作家研究篇)に、奈良縣北葛城郡の穴蟲から出土した金屬製の骨壺の銘文に、「卿(威名の大村)、諱大村、檜前五百野宮御宇天皇之四世、後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第(80)三子也」とあるのを證として、威奈の鏡の公のことであるとし、その威奈氏は、新撰姓氏録左京皇別に「爲名眞人。宣化天皇皇子火?王之後也。日本紀合」とあるのに合わせて、宣化天皇の四世の孫とし、額田の王は、その威奈の鏡の公の女で、姉に鏡の王女(藤原の鎌足の妻)があるとする。
 女王を王と書くことは、古事記に衣通の王等あり、本集にも丹生の王など、例の多いことである。額田は地名。奈良縣生駒郡。實名は、傳わらない。王をオホキミと讀むのは、「打麻乎《ウチソヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》」(卷一、二三)と、王を四音のところに書いてあるによる。平安時代にも、何のオホキミと稱することは殘つていた。額田の王、初め天武天皇の皇子にましました時代に召されて十市の皇女を生み、後、天智天皇の近江の大津の宮に召され、晩年は大和に歸つて持統天皇の御代に及んだ。豐麗な詞句に依つて純情を吐露される。萬葉時代初期を代表する歌人というべきである。
 未詳 イマダツバビラカナラズ。額田の王のいかなる方であるかについて未詳というのであろう。詳、類聚名義抄に、ツハヒラカニ、アキラカニの訓があり、よつて、未詳をイマダアキラカナラズとも讀まれる。
 
7 秋の野の み草《くさ》刈《か》り葺《ふ》き 宿れりし
 菟道《うぢ》の宮處《みやこ》の 假廬《かりほ》し念ほゆ。  
 
 金野乃《アキノノノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 星杼禮里之《ヤドレリシ》
 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所v念《カリホシオモホユ》
 
【譯】秋の野のススキを刈り取つて屋根に葺いて宿つていた、あの兎道の行宮の假小舍が、思い出される。
【釋】金野乃 アキノノノ。金をアキと讀むのは、中國の五行説にもとづいている書き方である。五行というのは、宇宙間のあらゆる事象を、木火土金水の五行に配當して説明する方法であつて、四季を五行に配當するに、木は春、火は夏、土は土用、金は秋、水は冬に當てる。それで金をアキと讀むのである。その他、五方、五色の配當は、次の如くである。
(81) 五行 木  火  土  金  水
   五方 東  南 中央  西  北
   五色 育  赤  黄  白  黒
   五時 春  夏 土用  秋  冬
本集には、しばしば五行に依つて文字を使用している。金を秋に當てているのは、「金待吾者《アキマツワレハ》(卷十、二〇〇五)、「金風《アキカゼ》」(卷十、二〇一三)、「金山《アキヤマ》」(卷十、二二三九)などがある。その他「白風《アキカゼ》」(卷十、二〇一六)、「シロ〓子《アキハギ》」(卷十、二〇一四)、「事毛告火《コトモツゲナム》」(卷十、一九九八)、「二二火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三・三二九八)。火をナムに用いたのは、南の義によるのである。
 美草苅葺 ミクサカリフキ。ヲハナカリフキ(元)、ミクサカリフキ(元赭)。美草は、延喜式に「以2黒木1爲v輿飾以2美草1」とあるが、その美草は、賢木、弓弦葉、日蔭蔓、檜葉の類をいうのであつて、ここにいうのとは關係が無い。ここはススキ、カヤのような立派な草の義である。刈り葺きは、刈り取つて屋根に葺く意。
 屋杼禮里之 ヤドレリシ。動詞宿ルに、助動詞リの連用形リが接續し、それにまた助動詞キの連體形シが接續した形。過去に宿つておつたことをあらわす語法。この語法の例は、集中に多い。宿レリのような接續は、四段、サ變の動詞に限つて、助動詞リの接續するものである。カ變動詞にも接續するが、變形なので、しばらく別として、そのほかの場合は、動詞の已然形に接續するとされていたが、カ行、ハ行、マ行に活用する動詞の場合、そのケ、ヘ、メは、いずれも甲類の音なので、これは已然形ではなく、いわゆる命令形であることが知られる。宿ルのようなラ行活用の場合は、レに甲乙の二類はないが、他に准じていえば、已然形とはいえないことになる。助動詞リは、動詞アリと祖語を同じくするものの如く、ここに音韻變化の基礎が存するものであろう。
(82) 兎道乃宮子能 ウヂノミヤコノ。兎道は、山城の國の宇治。左註にいうように、大和から近江に行幸の途次、ここに行宮を營まれたので宮子というのであろう。宮子は京の義。行宮にても皇居のある處、これをミヤコという。「瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不v飽可聞《ミレドアカスカモ》」(卷一、三六)の宮子は、吉野の離宮を稱している。宇治は、宇治の稚郎子《わきいらつこ》が、宮作りしておられた地であるから、それでミヤコというかもしれない。「宇治若郎子宮所歌一首」(卷九、一七九五題)。
 借五百磯所念 カリホシオモホユ。カリホシソオモフ(元)、カリイホオモホユ(類)、カリイホシソオモフ(古葉)、カリホシシノハル(僻)、カリホシオモホユ(考)。カリホは、カリイホの約。假廬の義。イホは元來簡素な屋舍をいうのであるが、それに更に假の語を添えて、一時的の旅の小舍であることをあきらかにしている。シは強意の助詞。上出の「草枕旅にしあれば」のシに同じ。オモホユは、自分には思われるの義で、受身である。假字書きのものも多くオモホユと書かれているが、「波漏婆漏爾《ハロバロニ》 於忘方由流可母《オモハユルカモ》」(卷五、八六六)は、オモハユと書かれた一例である。ここのオモホユは、追憶される、想起されるの意。
【評語】ある時の樂しかつた行旅を思い出して、しかも樂しかつたとは口に出さずに、假小屋を作つたありさまを敍述して、これをあらわしている。實に巧みな表現である。初三句の具體的な敍述が、全體を生かしている。追憶の内容であるが、印象的な歌であつて、この人の才氣のほどを思わせる。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書、戊申年、幸2比良宮1大御歌。但紀曰、、天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野1而肆宴焉。庚辰ム日、天皇幸2近江之平浦1。
 
右は山上の憶良の大夫の類衆歌林を檢ふるに曰はく、一書に戊申の年、比良の宮に幸《い》でましし大御歌(83)といへり。但し紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇紀の温湯より至りたまひき。三月戊寅の朔、天皇吉野の宮に幸でまして肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰のそれの日、天皇近江の平の浦に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】一書 アルフミニ。以下大御歌まで、類聚歌林の文である。この一書というも、何の書であるかをあきらかにしない。
 戊申年 ツチノエサルノトシ。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝コ天皇の大化四年、元明天皇の和銅元年等が相當するが、額田の王の年代からいえは、そのうちの大化四年が近い。比良の宮は、近江の比良と考えられるが、大化四年に行幸のあつたことは、他に傳わらない。
 大御歌 オホミウタ。上の戊申の年を大化四年とせば、大御歌は、孝コ天皇の御製である。ここに大御歌とあるは、別にその歌があつたのであつて、この金野乃云々の歌をさしていうのでは無い。作者に異傳があるが故に類聚歌林の文を檢したので無くして、近江に行幸のあつた事實を檢出して、兎道の宮子に行宮の營まれた年を證明しようとしたのである。
 紀曰 キニイハク。日本書紀の文を檢出して上の類聚歌林の文の參考としたのである。
 五年。以下日本書紀の文である。但し日本書紀には、ム日の二字が無い。この文は齊明天皇の五年である。
 幸吉野而。元暦校本、神田本には、而を宮に作つてあり、西本願寺本等には野の下に宮の字がある。今、類聚古集、古葉路類聚鈔、および傳冷泉爲頼筆本による。これは日本書紀の引用であるが、日本書紀には宮の字が無い。吉野の訓法については、三吉野之(二五)參照。
 肆宴焉 トヨノアカリキコシメシキ。御宴を催されたよしである。古事記に、豐明、豐樂、日本書紀に宴樂、宴會、宴饗などあり、いずれもトヨノアカリと讀んでいる。
(84) ム日 ソレノヒ。ムは某に同じ。これは三月だから、歌は、この行幸に關するものでは無い。
 
後岡本宮御宇天皇代 【天豐財重日足姫天皇位後即後岡本宮】
 
【釋】後岡本宮 ノチノヲカモトノミヤ。日本書紀、齊明天皇の二年、「是歳、於2飛鳥岡本1、更定2宮地1。(中略)遂起2宮室1、天皇乃遷、號曰2後飛鳥岡本宮1。」齊明天皇の宮號である。
 
額田王歌
 
8 熟田津《にぎたづ》に 船乘《ふなのり》せむと 月待てば、
 潮《しほ》もかなひぬ。
 今は榜《こ》ぎいでな。
 
 熟田津尓《ニギタヅニ》 船乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》
 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》
 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
【譯】伊豫の熟田津で、船に乘つて航海をしようと、月の頃になるのを待つていると、月も滿ち、潮も船出に都合よくなつた。今は漕ぎ出ましようよ。
【釋】熟田津尓 ニギタヅニ。熟田津においての意。日本書紀、齊明天皇紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1」とあり、「熟田津、此云2?枳陀豆1」とある。當時は、今日よりも更に海が道後温泉の近くまで入り込んでいたとおぼしく、熟田津に温泉があつたので、熟田津の石湯の行宮と稱したのである。
 船乘世武登 フナノリセムト。船乘は、乘船して航海すること。假字書きのものには、「安胡乃字良爾《アゴノウラニ》 布奈能里須良牟《フナノリスレム》 乎等女良我《ヲトメラガ》」(卷十五、三六一〇)などある。熟田津に船乘せむとは、熟田津において出船しようとしての意。山部の赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の反歌に「ももしきの大宮人の飽田津《にぎたづ》に船乘しけむ年の知ら(85)なく(卷三、三二三)とある。
 月待者 ツキマテバ。潮は、滿月と新月のころに大潮となるので、船出をしようとして、大潮となるころを待つておればである。滿月と新月のいずれでもよいが、月待テバとある以上、滿月のころを待つとすべきである。日本書紀によるに、熟田津の石湯の行宮に泊せられたのは、正月十四日であるから、多分翌月の滿月のころの作であろう。これを月の出を待つ意とする解のあるのは誤りである。當時、事情に依つて夜間に船を進めることはあるが、普通に月の出を待つて夜間船を漕ぎ出すことは無い。
 潮毛可奈比沼 シホモカナヒヌ。潮モとあるので、月の滿月のころとなつたことが知られる。それと共に、潮も船出をするに都合よくなつた意である。句切。
 今者許藝乞菜 イマハコギイデナ。
   イマハコキコセ(神)
   イマハコギイデナ(代初)
   イマハコギテナ(僻)
   イマハコギコソナ(考)
   イマハコギコナ(攷)
   ――――――――――
   今者許藝?菜《イマハコギテナ》(玉、道麻呂)
   今者許藝手菜《イマハコギテナ》(燈)
   今者許藝天菜《イマハコギテナ》(札記師説)
   今者許藝出菜《イマハコギイデナ》(札記師説)
 乞は、「乞吾君《イデワガキミ》」(卷四、六六〇)、「乞如何《イデイカニ》」(卷十二、二八八九)、「乞吾駒《イデワガコマ》」(同、三一五四)等の例に依つてイデと讀み、出での義とする。ナは、自家の動作に關して希望する助詞で、動詞出ヅの未然形に接續している。「家聞かな」(卷一、一)のナに同じ。わが船は、今は漕ぎ出でたいことであると希望する語意である。
【評語】月待テバ潮モカナヒヌの句は、簡勁であつてよく意を盡している。名句というべきである。熟田津に停泊してやや時日を過したが、この行は新羅征討のための行旅であるので、兵船の装備を要するものがあつて(86)一處に長く碇泊されたのであろう。額田の王としては、出船を待ち遠に思つていた。その出船の時期の熟したよろこびを歌つたもので、よくその情をあらわしている。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥崗本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸2于豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉、春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就2于海路1。庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覽昔日猶存之物1、當時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1、爲2之哀傷1也。即此歌者、天皇御製焉。但額田王歌者、別有2四首1。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに、曰はく、飛鳥《あすか》の岡本《をかもと》の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸したまひき。後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁西の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就きたまひき。庚戌、御船伊豫《いよ》の熟田津《にぎたづ》の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覽《みそなは》して、當時《そのかみ》忽に感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製なり。但し額田の王の歌は別に四首あり。
 
【釋】飛鳥岡本宮御宇天皇。舒明天皇。以下爲之哀傷也まで、類聚歌林の文である。飛鳥の岡本の宮は、高市の岡本の宮に同じ。
 九年丁酉。日本書紀には、この九年の行幸の記事無く、十二年にその記事がある。干支は、十二年の方に合うのである。この記事は、下の齊明天皇の行幸に關する記事の伏線として掲げたのである。
(87) 大后 オホギサキ。皇后の御事。後の皇極天皇。
 壬寅。元暦校本等に丙寅に作つているが、丁酉の朔ではその月に丙寅の日は無い。
 昔日猶存之物 ムカシヨリナホノコレルモノ。昔、舒明天皇の御代に、皇后として天皇と御同列で行啓になつたその時の事物の今に至るまで遣存せるもの。
 感愛之情 メグシトオモホスミココロ。殊愛を感じたまう御心。
 哀傷。昔は舒明天皐と御同列にて御覽あり、今はひとり御覽になるので、哀傷の情を起されるのである。
 此歌者天皇御製焉。この熟田津ニの歌は、類聚歌林には、齊明天皇の御製としている、というのである。但し、この歌には、哀傷の意無く、七年の行幸の記事に適わない。哀傷の意を盛つた歌は、別にあつたのであろう。
 額田王歌者別有四首。類聚歌林には、額田の王のこの時の歌として、熟田津ニの歌ならざる歌四首を載せているというのである。その歌は今傳わらない。
 
幸2于紀温泉1之時、額田王作歌
 
紀の温泉に幸《い》でましし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】幸于紀温泉之時 キノユニイデマシシトキ。日本書紀、齊明天皇紀、四年、「冬十月庚戌朔甲子、幸2紀温湯1」とある。紀は紀伊であつて、和銅に至つて紀伊の二字としたのであろう。後の鉛山温泉の地という。この行幸に、額田の王が、御供にあつて詠んだか、または殘り留まつて詠んだかは、歌意が難解であつて、いずれとも決せられない。
 
9 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
(88) わが夫子《せこ》が い立たせりけむ
 五可新何本。
 
 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
 吾瀬子之 射立爲兼
 五可新何本
 
【釋】莫號圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本。齋明天皇が紀伊の國の温泉に行幸あらせられた時、額田の王の詠んだ歌で、この歌は、集中第一の難歌といわれている。それで古來多數の讀み方が傳わつているが、まだいずれも定説とはいえない。今日の研究も、それ以上多きを加えることを得ないが、もし第二句の湯氣が、ユケと讀むべきものならば、氣はケの乙類の字であるから、これは動詞行クの已然形と見るべく、それよりも上方に、助詞コソを含んでいるのでは無いかという推量がなされる。しかしどの字をコソに當てるかというと、大相七兄爪あたりのうちに求めるほかはあるまいが、ここに至つてまた行きつまらざるを得ない。校異としては、神田本に圓を國に作り、細井本西本願寺本等の仙覺本系統に、湯を謁に作つている。この歌は、仙覺の新點の歌百五十二首の最初の歌であつて、仙覺は、ユフツキノ云々の訓を附したのであるが、元暦校本神田本等にある訓のうちには、仙覺以前の訓があるようであり、仙覺は、これを見なかつたので、自分の訓を最初の訓と思つたらしい。元暦校本には、吾瀬子之射立爲兼五可(89)新何本の右に、赭でワカセコカイテタチシケムイツカシキカモとあり、神田本には、莫號國隣之の左に朱でナナクリノ、射立爲兼の左に朱でイテタチシケム、朔何本の左に朱でシテカモとある。今次に諸説を列擧する。
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ワカセコカイテタチシケムイツカシキカモ》(元赭)
   莫囂國隣之《ナナクリノ》大相七兄爪湯氣吾瀬子之|射立爲兼《イテタチシケム》五可|朔何本《シテカモ》(神朱)
   莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタヽセルネイツカハナム》(仙覺)
   莫囂圓隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(代精)
   莫囂圖隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マガツリノオホヒナセソクモワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(緯、契沖)
   奠器國隣之大相七兄瓜湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフクレノヤマヤツイユキワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   奠器國隣之大相虎爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフキリノソラカキクレテワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   莫囂國隣之大相古兄?湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(考、春滿)
   莫囂國隣之《トツクニノ》(考)
   莫囂國隣之相大古兄?湯氣《イカノクニノアホコエテユケ》(選要抄)
   莫囂國隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(略、二句村田春海)
   莫囂國隣之霜木兄?湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽスガネイツカシガモト》(玉勝間)
   莫囂圓隣之大相士兄爪謁氣吾瀬子者射立爲兼五可新何本《ユフヅキノオホニテトヘバワガセコハイタヽセルガネイツカシガモト》(冠辭續貂)
   莫囂國隣之《アケクレノ》――――――――――(同、或説)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタヽスガネイツカアハナモ》(信濃漫録)
   ――――――――――大相土見乍湯氣《ヤマミツヽユケ》(織錦舍隨筆)
   奠器圖隣弖美相嘉兒衣湯氣吾瀬子之射立爲兼五百可新何本《ヌサトリテミサカコエユケワガセコガイタヽスガネユツカシガモト》(織錦舍隨筆)
(90)   莫囂圓隣|支太相古曾湯氣《キホヒコソユケ》(書入本、粂川氏所引)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣《ユフグレノヤマナクモリソ》吾瀬子之射立爲兼五可新何本(同)
   莫囂圓隣之大相古曾湯氣《ナゴマリシホヒコソユケ》(同)
   莫囂國隣之大相土見乍竭意吾瀬子之射立爲座吾斯何本《マツチヤマミツヽアカニトワガセコガイタヽシマサバワハコヽニナモ》(檜)
   奠器圓隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ミモロノヤマミツヽユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(古義)
   莫囂國隣之大相土覽竭意吾瀬子之射立爲座五可期何本《キノクニノクニミアカニトワガセコガイタヽシマサバイツカハナモ》(橋本直香の私抄)
   三栖《ミス》山の檀《まゆみ》弦《つら》はけわが夫子《セコ》が射部《イメ》立たすもな。吾か偲《シノ》ばむ(口譯)
   莫囂圓隣之大堆七兄爪□□謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツヽコソユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(新考)
   草囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《サカドリノオホフナアサユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(粂川定一氏、國語國文の祈究)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣《フケヒノウラニシヅメニタツ》吾瀬子之射立爲|兼五可新何本《ケムイツカシガモト》(宮嶋弘氏、萬葉雜記)
   莫囂圓隣之大相七里謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシカミナナリソネワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(土橋利彦氏、文學)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフヅキノカゲフミテタツワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
   莫囂四隣之《ミヨシノノ》大相七兄爪湯氣《ヤマミツツユケ・ヤマミツメユケ》吾瀬子之《ワガセコガ》射立爲兼《イタタスガネ・イタタスガネヲ》五可新何本《イツカアハナモ》(尾山篤二郎氏・國語と國文學)
   莫囂圓隣之大相七見謁爪氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシウラナミミサケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(澤瀉久孝氏、萬葉)
   莫囂圓隣之大相七見爪湯氣《シヅマリシウラナミサワク(キ)》(同)
   莫囂圓隣之《ユフヅキノ》 大相七兄爪湯氣《カゲフミテタツ》 吾瀬子之《ワガセコガ》 射立爲兼《イタタセリケム》 五可新何本《イツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
 以上の外にもなお諸説があろう。またもとより訓によつて解釋が違い、同訓でも説が分かれている。例えば五句イツカシガモトと訓しても、代匠記は「何時か己が許」の義とし、僻案抄は「巖石が本」の義とし、考は(91)「嚴橿が本」の義としている。しかし結局訓義共に未決というほかは無い。
 
中皇命、往2于紀温泉1之時御歌
 
中皇命の、紀の温泉に往《い》でましし時の御歌
 
【釋】中皇命 ナカツスメラミコト。前出(三題詞)。中天皇と同語とする説によれは、女帝である。當時齊明天皇の御代であるが、歌詞によれば、更に若くして夫君を有せられる方のようである。よつてこれを求めるに、天智天皇の皇后|倭姫《やまとひめ》の命であろうか。皇后は、古人大兄の皇子の御女、天智天皇の七年に皇后となり、天皇の崩ずるに當つて、後事を付囑せられたのであろうとされている。紀の温泉に往かれたのは、齊明天皇の行幸に從われたのであろう。
 
10 君が代《よ》も わが代も知るや
 磐代《いはしろ》の 岡の草根を いざ結びてな。
 
 君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》
 磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
【譯】あなたの壽命もわたしの壽命も支配している、この磐代の岡の草を、さあ結びましょうよ。
【釋】君之齒母 キミガヨモ。齒は齡の義。君の壽命もの意で、次のわが代に對して竝立格をなしている。君は夫君をさしている。ヨは、二つの點の中間をいう語で、人に取つては、生涯の意になる。
 吾代毛所知哉 ワガヨモシルヤ。
   ワカヨモシラス(元)
   ワカヨモシレヤ(元朱)
       シラレン(僻)
(92)   ワカヨモシルヤ(考)
   ワカヨモシラム(美)
   ――――――――――
   吾代毛|所知武《シラム》(略、宣長)
 講義に、哉をムと讀む證として、「雖v見不v飽有哉《ミレドアカザラム》」(卷四、四九九)、「鳴渡艮哉《ナキワタルラム》」(卷十、一九四八)、「雲隱良哉《クモガクルラム》」(同、二三一八) の諸例を擧げているが、これらの諸例の哉は、元暦校本等にはいずれも武に作つているので、哉をムと讀む證明にはならない。此處は、文字どおりに、ワガヨモシルヤと讀むべきである。所は何々する所の義の用法。ヤは、用言の連體形につく感動の助詞である。かような哉およびヤの用例は、「天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガオモヘル》」(卷十三、三二四六)、「夕附日《ユフヅクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 構屋之《ツクルヤノ》」(卷十六、三八二〇)などの例がある。君の壽命もわが壽命も預り知つている所の意で、下句の磐代の岡を修飾する。知ルは、知識として知る外に、語原的意義として、管理支配する意があり、「天知也《アメシルヤ》 日御影乃《ヒノミカゲノ》」(卷一、五二)の用例などはそれである。また知ラスの用例によつても知られる。「大野有《オホノナル》 三笠社之《ミカサノモリノ》 神思知三《カミシシラサム》(卷四、五六一)などその例である。ここに所知と書いたのは、その意を示すためであつたのだろう。
 磐代乃 イハシロノ。和歌山縣日高郡の地名。有間の皇子が松の枝を結んだ地として知られている。(卷二、一四一參照)。
 岡之草根乎 ヲカノクサネヲ。ネは接尾語で、その草の根を張つていることを表示するためにつける。土に生えている草をいう。事實は草の葉をいうので、草の根の意では無い。「磯之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》」(卷三、四三五)、「春野之《ハルノノノ》 草根之繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(卷十、一八九八)の草根、みな草葉の謂である。島根、垣板などの根の用法も同じである。
 去來結手名 イザムスビテナ。日本書紀、卷の一、竝に履中天皇紀に、「去來、此云2伊弉1」とある。イザは人を誘う語である。テは助動詞、ナは希望の助詞。さあ結びたいものであるの意。
(93)【評語】草を結ぶのは、古代の 民間信仰の一で、ムスブということにすべてを祝い籠める意があつた。卷の二にある有間の皇子が磐代の岡の松が枝を結ん幸福を祈られた歌は有名である。草を結ぶことについては、
  近江の海|水門《みなと》は八十をいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ(卷七、一一六九)
  妹が門行き過ぎかねて草結ぶ。風吹き解くな。またかへり見む(卷十二、三〇五六)
などの歌がある。かような信仰から、君ガ代モ我ガ代モ知ルという句が出て來たのである。磐代の岡は、特に震驗ある地とされていたのであろう。その岡のほとりの草葉を結んで、我等の運命を祝おうとする。しかしそれはごく輕い意味での、旅行中のある夕べなどの出來事であろう。君と共に旅行される親しい情愛をよくあらわしている。
 
11 わが夫子《せこ》は 借廬《かりほ》作らす 草《くさ》無くば、
 小松が下《した》の 草《くさ》を刈らさね。
 
 吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《クサナクバ》
 小松下乃《コマツガシタノ》 草乎苅核《クサヲカラサネ》
 
 小松下乃 コマツガシタノ。コマツノモトノ(元)、コマツカシタノ(元朱)、コマツノシタノ(類)、コマツカモトノ(神)。コは愛稱。かならずしも若松の謂では無い。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神さび渡る」(卷十五、三六二一)。澤瀉博士の説に、モトは本と書くので、下の字は、すべてシタと讀むべしとする。
 草乎苅核 クサヲカラサネ。カラサネは、名告ラサネの語法に同じ。刈ルの敬語法に、他に對して希望を表示する助詞ネの接續したもの。
【評語】岡の上の小松のもとなどの草を刈つて、假小屋を作つて宿つた古代の旅行の心もちがよく出ている。借廬作ラス草無クバと云つて、次に近くの草叢を指示した調子が、そこに宿りの用意をしている男たちの傍に、口添えをしている婦人の姿を描き出している。
 
(94)12 わが欲《ほ》りし 野島《のじま》は見せつ。
 底深き 阿胡根《あごね》の浦の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ。
  或るは頭にいふ、 わが欲りし子島は見しを。
 
 吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ノジマハミセツ》
 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根能浦乃《アゴネノウラノ》 珠曾不v拾《タマゾヒリハヌ》
  或頭云 吾欲 子鳥羽見遠
 
【譯】わたしがかねがね見たいと願つていた野島は見せてくださつた。しかし底の深い阿胡根の浦の美しい珠を拾いません。
【釋】吾欲之 ワガホリシ。ホリシは、動詞欲ルに、時の助動詞キの連體形の接續したもの。次句に見セツとあつて、見ることを欲していたの意であることが知られる。
 野島波見世追 ノジマハミセツ。野島は、和歌山縣日高郡鹽屋の浦の南にある野島の里であるという。これは島嶼では無い。ミセツは、見しめつの義。ミセは使役の他動詞。下二段活。句切。
 底深伎 ソコフカキ。次の阿胡根の浦を敍述説明する修飾句。この句で、水の澄んで美しい地であることを語つている。
 阿胡根能浦乃 アゴネノウラノ。玉勝間に、野島の里の附近に阿胡根の浦があるという。地名の語義は未詳である。
 珠曾不拾 タマゾヒリハヌ。本集では、拾フを、多くヒリフと書いている。假字書きの例には、「於伎都白玉《オキツシラタマ》 比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》」(卷十五、三六一四)、「比里比登里《ヒリヒトリ》 素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》」(同、三六二七)などある。東歌には「多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》」(卷十四、三四〇〇)の例もあるが、これは東語であるから、多きについてヒリフとすべきである。タマゾは、珠を提示する意。珠は眞珠などの類で、服飾に用いたもの。古くは男女共に珠を飾りに使つたが、この集の時代では主として婦人の身の装飾である。その珠はまだ拾いません。だから、拾いに行(95)きたいという意である。珠を拾うは集中多く見受けられる事がらで、貝や石の珠とすべきを拾うことを云つている。
 或頭云 アルハハジメニイハク。或は、別の資料をいう。本集の例、類似の詞句を有する歌について、或云、或本、一本等として、本文との相違を擧げている。その別の資料は、稀に何の書であるかを察知し得るものもあるが、多くは不明である。此處も何の書とも知られないが、左註に擧げた類聚歌林であることも、有り得ないことでは無い。頭というは歌の初頭の意で、ここでは、初二句をさしている。「尼作2頭句1并大伴宿禰家持所v誂v尼續2末句等1和歌」(卷八、一六三五)、「或本歌頭云 人目多《ヒトメオホミ》 直者不v相《タダニハアハズ》」(卷十二、二九五八)、「或本歌頭句云、己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知?《ワレハタチテ》(卷十三、三二九九)、「一頭云 保等登藝須《ホトトギス》」(卷十八、四〇四三)。
【譯】あなたは旅の假小屋をお作りになる葺草がありませんでしたら、あの小松の下に生えている草をお刈りなさいませ。
【釋】吾勢子波 ワガセコハ。セは、男性に對して親しみいう語。コは親愛の情をあらわすためにつける。ワガセコは、男子相互間にもいうが、女子より男子をさしていう場合が多い。此處は夫君をいう。日本書紀に、「古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹」(仁賢天皇紀)とあるが、用例は、男子どうし、女子どうしでも、男子に對してセ、女子に對してイモと云つている。
 借廬作良須 カリホツクラス。ツクラスは、動詞作ルに、助動詞スの接續したもので、敬意をあらわす。その連體形。採マス、立タスなどの語法に同じ。
 草無者 クサナクバ。クサナクハ(元)、カヤナクハ(元朱)。借廬を作る料の草が無いならは、カヤナクバとも讀む。尾根に葺く料としてはカヤであるとするのである。但し一首のうちに草をカヤとクサと二語に讀み(96)分けることは、なるべく避くべきであり、クサと讀んで、意を成さぬでも無い。
 吾欲子島羽見遠 ワガホリシコジマはミシヲ。前の歌の初二句が、このようにあつたというのである。子島は所在未詳。ヲは、上に述べた詞句の内容について、然れどもの如き意を表示するもの。感動の助詞から分化した。子島は見たがしかしの如き意味において、次の詞句を迎える。
【評語】風光のよい野島を、夫君と共に見たことを述べ、しかも阿胡根の浦の底深くして珠を拾うに至らないことを惜しむ情がよく描かれている。その浦に下り立たないことを、珠を拾わないことで表現しているのは、珠に關心を持つ婦人としてふさわしいあらわし方である。これに依つて歌そのものが美しくなつている。
 
右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに曰はく、天皇の御製の歌云々といへり。
 
【釋】天皇御製歌。類聚歌林には、天皇の御製の歌としているよしで、本文に中皇命の御歌とすると、作者が相違しているから註記したのである。この天皇は、齊明天皇と考えられる。この記事は、右の歌三首のことか、最後の歌一首のみのことかについては、いずれとも解せられるが、特に一首と記していないのによれは、三首すべてにかかるのであろう。
 
中大兄近江宮御宇天皇三山歌
 
【釋】中大兄 ナカツオヒネ。天智天皇のこと。日本書紀、「天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也。母曰2天豐財重日足姫天皇1。」舒明天皇の第一皇子。ナカツは、中央中心を意味する語で、皇子皇女の名に使用されること多く、天の御中主の神の中も、同義である。長子末子に對して、比較的にいう中ではない。オヒネは、(97)文字通り、大兄の義で、長子をいう。スクネは、これに對して次の方の義であろう。大兄は、敬稱として附せられ、皇子等の語を添えないでもよいが、添えることもある。他に古人大兄の例などがある。ここは、天智天皇御即位以前のことであるから、この稱を用いたのであろう。
 近江宮御宇天皇 アフミノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト。天智天皇の御事。中つ大兄の説明である。天皇は、近江の國の滋賀の大津に都されたので、かようにいう。
 三山歌 ミツノヤマノウタ。三山は、歌詞にある、畝火山、耳梨山、香具山の三山である。この三山は、大和の國の中央平野にあり、それぞれ孤立した山で、香具山は東に、畝火山は西に、耳梨山は北に立ち、鼎立の勢いを成している。歌は、御歌とあるべきであるが、資料のままに記したのであろう。天智天皇が、まだ皇子でおいでになつたころ、播磨の國において、大和の三山に關する傳説に基づいてお詠みになつた作。それは、播磨國風土記の、揖保郡の條に、「出雲國阿菩大神、聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1、此欲2諫止1、上來之時、到2於比處1、乃聞2闘止1、覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜1、阜形似v覆。」と見える。耳梨、畝火は、古代の城塞であつて、今でも石鏃が多く發見される。古代民族がこれらの山に據つて戰つたことが、傳説のもととなつたのであろう。
 
13 香具山は 畝火を愛《を》しと、
 耳梨と あひ爭ひき。」
 神代《かみよ》より かくなるらし。
 古昔《いにしへ》も しかなれこそ、
 うつせみも 妻を 爭ふらしき。」
 
 高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》
 耳梨與《ミミナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》
 神代從《カミヨヨリ》 如v此《カク》尓有《ナル・ニアル》良之《ラシ》
 古昔母《イニシヘモ》 然《シカ》尓有《ナレ・ニアレ》許曾《コソ》
 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相挌良思吉《アラソフラシキ》
 
(98)【譯】香具山は、畝火山を愛して、耳梨山と闘つた。神代からこの通り、人を爭つて戰うということはあつたのだ。古代からこの通りであるからこそ、この今の自分も、妻を爭うのであろう。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第−段、アヒ爭ヒキまで。傳説の内容を敍する。以下第二段。第一段の事實を基礎として、推量をしている。
【釋】高山波 カグヤマハ。高は、kao の音の字であつて、カグと讀むべき字では無いのであるが、古音にカグと讀むべき音があつたか、または香字等の ng 韻の字に誤つて用いたかであろう。高をカガの音に使用した例は、美夫君志に擧げているように、日本書紀、孝コ天皇紀、白雉元年の條に、猪名公高見、天武天皇紀の上に、大紫韋那公高見とある人(額田の王の父と推考される人)は、その子大村の墓志には、紫冠威奈鏡とあると同人と認められ、高をカガに使用したことが知られる。この句は、下文に對して、主格を提示した句と考えられるが、これには異説もあり、その事は下に説明する。
 雲棍火雄男志等 ウネビヲヲシト。
   ウネヒヲヲシト(西)
   ウネヒヲ、ヲシト(?)
   ――――――――――
   雲根火雄曳志等《ウネヒヲヲシト》(古義)
 畝火山は大和の高市郡にある山で、三山の中では一番高く碓勁な山容をなしている。ヲシは、愛すべしの意の形容詞。古くは畝火を雄々しとしてと解していた。それによれは畝火山は男性で、香具山と耳梨山とは女性である。兩女性が一の男性を爭つて戰うこと、無いではないが珍しい。そこで、木下幸文と大神眞潮との説によつて、今の如く讀み改められた。また香具山をば、畝火と耳梨とで爭つたという説もあるが、反歌に香具山ト耳梨山トアヒシ時とあるは、闘爭の意に解すべきであるから、それも無理である。また風土記によれば、三山が互に相闘したとも解せられる。その場合は、三山とも男性で、一の女性(人間か)を爭つたものとすべき(99)であろう。なお澤瀉博士の萬葉古徑二には、香具山を女性、畝火と耳梨を男性とし、香具山は畝火を惜しとして耳梨山に背いて爭つたとしている。
 耳梨興 ミミナシト。大和の磯城都(もと十市部)にある。今、天神山と稱している。與は、漢文では二語の中間に置いてその竝立のものであることを示す辭であるが、これを竝立の助詞トの表示として、國語の語序に從つて、下に置いたのである。
 相諍競伎 アヒアラソヒキ。諍は、爭と通用する字で、諍競と熟して使用せられている。相は、國語アフを表示する文字として使用されている。アフは、相互にする意を表示するために、他の動詞に冠して使用される。アヒ思フ、アヒ見ルなど用例が多い。以上第一段。
 神代從 カミヨヨリ。神代は、わが國の古代を、神々の世界であつたとする思想から出る。神話時代の謂である。神代から人間の世界に續いているというので、後世の事物の起原を、神代に求める思想があつた。この歌においても、その思想が働いている。ヨリは、ユ、ヨに同じ。その時、もしくは點からずうつと引き續いての意を現す助詞。
 如此尓有島之 カクナルラシ。カカルニアラシ(西)、カカルナルラシ(僻)、シカナルラシ(考)、カクナルラシ(略)、カクニアルラシ(?)。上記の如くカクニアルラシとも讀まれているのは、尓は表音文字、有は表意文字として使用されているから、これを略體假字で表記する場合は、文字通りに書くのを至當とするのである。但し音聲としては約してナルとなるであろう。下の然尓有許曾の場合も同斷。第一段を受けて、神代からこの通りであると思われると推量している。ここで句切。以上、神代ヨリカクナルラシの二句は、次の古昔も然ナレコソと對句を成している。
 古昔母 イニシヘモ。イニシヘは、去《い》ニシ方《へ》の義と解せられる。古昔は、熟字として漢文にも使用せられ、(100)本集にも數個の用例がある。ここは遼遠の時代をいうが、「草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》」(卷一、四五)の用例は、わずかに數年前をさしている。上の神代ヨリに對する句。
 然尓有許曾 シカナレコソ。ナレコソは、ニアリの已然形に、係助詞コソが接續して已然條件法を作つたもの。後世ならば、已然形を、助詞バが受けて條件法を作る所であるが、古くはバ無くして條件法を作る。バをはぶいたものではなく、バの無い方が原形である。これに係助詞の無いものと、係助詞ゾ、ヤ、カ、コソの接續するものとがある。それぞれその形の出た所で説明する。コソの説續したものでラシで結ぶ例は、「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)がある。かくて以上の二句は、上の神代ヨリカクナルラシの句と對句を作つているが、神代ヨリカクナルラシの句は終止形であり、この句は下に説續する。かような形の對句は、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)など例が多い。元來對句は、一度歌い上げただけで滿足せず、更に立ち歸つて前句を反覆する所から出發したものであつて、その性質が遺存されて、かような形を採るものを見るのである。
 虚蝉毛 ウツセミモ。從來、ウツセミは、現シ身の義で現實に生ける身の意と説かれていた。この語を表示する文字としては、集中、宇都世美、宇都勢美、宇都蝉、打背見、空蝉、打蝉、鬱瞻、またウツソミとしては、宇都曾美、宇都曾見、宇都曾臣の字面が使用されている。この用例において、ミの音をあらわす文字として美見等が使用されているが、これらの文字は、上代假字遣のミの甲類美に屬する字であり、これに對して身を意味するミは、同じく乙類微に屬する音であつて、音韻が違うのである。またウツシミの原形が無くして、ウツセミ、ウツソミの轉音のみあるのも、現シ身説に不安を感じさせる。しかしこれに代るべき明解は無いが、一の私案を附記する。それは、古事記下卷、雄略天皇記に、葛城の一言主の大神について、「恐我大神、有2宇都(101)志意美1者、不v覺」とあることである。この宇都志意美も、現シ大身の義と説かれているが、同じくミの音を表示するに美を使用しており、音韻の相違が指摘される。萬葉集において、宇都曾臣の字を使用しているのは、四例あつて、いずれも柿本の人麻呂の作品中にあるが、オミの語が大身の義で無いとするならば、この臣の字などが當てられるのである。臣の語義については、後に述べる機會があることと思うが、連などと共に敬稱なるべく、一言主の大神に對して、宇都志意美あらむとは覺らざりきというのは、神の、現實の御方であることを意外とされたのであろう。然らば萬葉集のウツソミも亦、この義から出發して、現實に生ける人の義に使用したものと考えられる。その場合、ウツシオミが約してウツソミとなり、轉じてウツセミとなつたとすべきである。このミは、古代の神名人名の末尾にしばしば見られるミと同語であろう。しかしこの語は早く古語となつてその語義が忘れられ、空蝉、虚蝉の字面が、これに代つて登場すると共に、やがて無常思想の流布に伴なつて、はかないものの意識を感ずるに至つたのであろう。この世の人の意味に使用されている。枕詞としては、ウツセミの形を採り、人、世、命に係かるが、ここは普通語として使用されている。(以上大野晋氏同説)。なおミ及びオミの意義については、反歌の渡津海乃の條參照。
 嬬乎 ツマヲ。三音の一句。嬬は博雅に「妻謂2之嬬1、一曰妾」とある。ツマは配偶者の謂で、男子にも女子にもいう。
 相挌良思吉 アラソフラシキ。挌が木扁か手扁かの問題もあるが、古書では本扁と手扁とは區別はつかない。今普通に行われる所に依り、手扁とする。上の相諍競伎を受けて、アラソフラシキと讀むのがよいようである。助動詞ラシが係助詞のコソを受けてラシキと結ぶのは、古い語法であつて、「諾石社《ウベシコソ》 見人毎爾《ミルヒトゴトニ》 語嗣《カタリツギ》 偲家良思吉《シノヒケラシキ》」(卷六、一〇六五)の例がある。形容詞もコソを受けてはキで結ぶ。「己妻許増《オノガヅマコソ》 常目頬次吉《ツネメヅラシキ》」(卷十一、二六五一)、「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)などある。
(102)【評語】この歌は相爭ヒキまで、傳説の内容を敍し、神代ヨリカクナルラシとこれを評し、その句を受けて、古モ然ナレコソと起して、今の作者の場合を敍したのである。理路整然.簡潔直截に自己の云おうとするところを盡している。結末五三七の音の句で留めたのは古法である。この歌の實際問題として、天皇と皇弟大海人の皇子(天武天皇)とのあいだに、額田の王が係爭せられ、これに關してこの歌が詠まれているという古人の説がある。額田の王は、はじめ大海人の皇子に召されて、十市の皇女を生み、後に天智天皇に召されて近江に下つたと傳えられている方である。しかしその事を詠んだとするは明證無く、一般的な世上の問題について歌われたとも解せられる。
 古人は、今の世は神代の延長であると考えていた。神代にあつた通り、神代にきめた通りの事が今の世に行われると思つている。この苦しい妻爭いは、やはり神代からあつた事だという、はかない自己慰安がそこに宿つている。
 
反歌
 
14 香具山と 耳梨山と 會《あ》ひし時、
 立ちて見に來《こ》し 印南《いなみ》國原。
 
 高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミミナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》
 立見尓來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
【譯】香具山と耳梨山とが戰つた時に、出雲の國の阿菩の大神が立つて見に來た、この印南の國原だ。
【釋】高山與耳梨山與 カグヤマトミミナシヤマト。二つのトは、香具山と耳梨とが、竝立格であることを表示している。
 相之時 アヒシトキ。兩山が出會つた時。アフには行き向かう義があるから、戰いの意になるのである。日(103)本書紀、神功皇后紀、熊之凝《くまのこり》の歌、「宇摩比等破《ウマヒトハ》 于摩譬苔奴知野《ウマヒトドチヤ》 伊徒姑播茂《イトコハモ》 伊徒姑奴池《イトコドチ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》 多摩岐波?《タマキハル》 于池能阿層餓《ウチノアソガ》 波邏濃知波《ハラヌチハ》 異佐誤阿例椰《イサゴアレヤ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》。」(二八)の歌のアハナは、戰う意の動詞アフに、助詞ナの接續したものである。澤瀉博士の萬葉古徑二には、集中の用例により、アヒシを婚した意とし、女山の香具山と男山の耳梨山とが通じたのだとしている。
 立見尓來之 タチテミニコシ。阿菩の大神が、印南の國原まで、見に來たことをいうので、來シは連體形である。
 伊奈美國波良 イナミクニハラ。播磨の印南の平原をいぅ。政治上の區劃の一國ではなくて、一地方を國という。たとえは、大和の中でも、芳野の國、葛城の國などいう類である。播磨國風土記によれば、阿菩の大神が見に來たのは、揖保郡になつている。然るに、ここに印南國原とあるのは、印南郡の地方であろうから、地理的に合わない。多分印南地方にも、風土記にあるが如き傳説があつたのであろう。
【評語】この歌には主格が無い。ちよつと見ると印南國原が立つて見に來たようである。これは古歌の、稚拙なところで讀者の存在を豫想しないからであろう。香具山と耳梨山と戰つたというのだから、この兩山は男性らしい。しかし山の實際を見ると、畝火の方が男性的で、他の兩山は女性的のやさしい線の山である。
 
15 わたつみの 豐旗雲に 入日見し
 今夜の月夜 澄み明りこそ。
 
 渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲尓《トヨハタグモニ》 伊理比弥之《イリヒミシ》
 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《スミアカリコソ》
 
【譯】海上の大きな旗雲に入日のさしているのを見た今夜の月は、澄み明るくあつて欲しいことだ。
【釋】三山の歌の反歌の二である。左註に反歌と思われないとあるが、今日では反歌として解釋している。萬葉集講義の説のように、長歌短歌ともに播磨の國での作とするので、長歌と前の反歌一首とは三山の相闘に就(104)いて歌い、この歌は、轉じて作歌當時の實況を詠んだものと解するのである。かように見る時に、三山の歌全體の構成の大きいこともよく知られるのである。
 渡津海乃 ワタツミノ。ワタツミは海神の義である。古事記上卷に綿津見の神とある。山の神をヤマツミというと同樣の語構成である。ワタは海の義であるが、語義未詳である。ツは體言を連結する助詞。ミは尊稱で、神靈の義である。古代の神名人名には、その固有名詞の部分をミで終るものが多い。天の忍穗耳の命、神沼河耳の命等の如く、ミミの形を採るもの、また日子穗々手見の命、鳥鳴海の神等の如くミの形を採るものがあり、これらのミはいずれも尊稱と解せられ、御方の意味を有するものの如くである。ワタツミのミも、これと同じであろう。また君、民、臣のミも、これと同語ではないかと考えられる。いずれもミの甲類美の音韻に屬している。臣の語も神名に使用せられるもの多く、それらの中には、ヌミ、トミの形を採つているものもある。オミのオは、大を意味するのであろう。さてワタツミは海神の義であるが、轉じて海洋の意に用いる。元來海に對しては、その神秘不可測の性質を感じてここに海神の思想が成立する。海そのものを海神として表現するのである。よつてワタツミの語によつて表示される海は、神秘不可測の性質を強く感じているのが、本義である。今海上の夕燒雲の神秘を描こうとして、この語を以つて海を表示したのである。單に海の大なるをいう場合には、大海の語が選擇される。
 豐旗雲尓 トヨハタグモニ。トヨは、豐葦原、豐玉毘賣など、美稱として使用され、形容詞としての性格を有している。元來トヨは、穀物の豐富を表示する語であつたが、後、他物の美稱にも轉用されるようになつた。旗雲は、旗の如き形?をした雲。ハタは、織布の機にいう語であつて、古代のハタは、長い形のものであつた。よつて旗雲というのは、長い形の雲と解すべきである。文コ天皇實録、天安二年六月の條に、「庚子早朝、有2白雲1、自v艮至v坤、時人謂2之旗雲1」などある。
(105) 入日弥之 イリヒミシ。弥之は、諸本に相違するものが多い。一、元暦校本、類聚古集に、弥之。二、神田本、秘府本萬葉集抄に、佐之。三、細井本に、沙之。四、西本願寺本、金澤文庫本等に、祢之である。仙覺は祢之を採用して、「ネシトイフハ、ヤハラクト云コトハナレハ、入日ヤハラヒテハ、可v屬2晴天1コト、殊ニソノイハレアヒカナヘル也」と釋しているが、その説は無理であるから、これは捨てられねばならない。弥之、佐之(または沙之)は、いずれにても意味は通ずる。弥之による時は、見シの義とすべく、そのシは時の助動詞の連體形、佐之による時は、射シの義とすべく、動詞射スの中止形と見るべきである。而してそのいずれによるべきかは、一、傳來の性格、二、一首全體の調和の二點から觀察しなければならない。そこで傳來の性格としては、元暦校本と類聚古集とが一致して弥之としていることは、相當尊重されねばならない。これに對して、神田本が佐之、細井本が沙之に作つて、よし訓は同一でも、字面がそれぞれに相違する孤立的の傳來であることは、傳來の性格において弥之に讓るものとすべきである。次に一首全體の問題としては、この歌は、特に第五句が問題であつて、その句の訓をまず決定しなければならないが、同時にそれはまたこの第三句の決定如何に依つて左石される相關性の問題でもある。よつてここにはむしろこの三句を決定しておいて五句に臨む方針を採ることとする。
 今夜乃月夜 コヨヒノツクヨ。假字書きの例には、「奴婆玉乃《ヌバタマノ》 己與比能都久欲《コヨヒノツクヨ》」(卷二十、四四八九)がある。月夜は、月を主とした云い方で、夜は接尾語ふうな用法である。夜を重ねた云い方で、「生く日の足る日」の如き形であるが、夜は、ただ添えたもので、意味は、今夜の月はというほどのことである。
 清明己曾 スミアカリコソ。諸説があつて、問題となつている句である。この句については、清明攷(澤瀉久孝氏、萬葉古徑)に詳説がある。今これによつて、從來の諸訓を擧げれば、次の如くである。
 スミアカクコソ(元暦校本以下ノ――京大本ヲ除ク――古寫本ヨリ寛永本ニ至ル諸本、秘府本萬葉集抄、仙(106)覺抄、詞林采葉抄、拾穗抄、管見、代匠記)
 スミアカリコソ(京大本)
 サヤケシトコソ(僻案抄)
 アキラケクコソ(考、古事記傳、略解、燈、攷證、墨繩、新考、註疏、私抄、美夫君志、井上氏新考、折口氏口譯、佐佐木氏選釋、窪田氏選、豐田氏新釋、次田氏新講、橋田氏傑作選、山田氏講義、鴻巣氏全釋、正宗氏總索引、菊地氏精考、斎藤茂吉氏説〔綜合研究第一輯〕、金子氏評釋、新校)
 サヤケクモコソ(楢の杣)
 キヨクテリコソ(「明〔右○〕ヲ照〔右○〕ノ誤トスルモノ」古義、花田氏私解、「明〔右○〕ニ照〔右○〕ノ義アリトスルモノ」次田氏改修版新講)
 キヨクテルコソ(伊藤左千夫氏新釋)
 サヤニテリコソ(佐佐木氏増訂版選釋)
 キヨクアカリコソ(新訓、武田氏新解)
 マサヤケクコソ(古泉千樫氏説〔アララギ、第十五卷 第一號 輪講茂吉曰ノ中〕、島木赤彦氏鑑賞及び其批評)
 マサヤケミコソ(品田太吉氏説〔香蘭第十卷 第八號〕)
 キヨラケクコソ(松岡氏日本古語大辭典、折口信夫氏説〔「萬葉集の鑑賞」中央公論昭和九年一月號〕)
 サヤケカリコソ(森本治吉氏説〔國語・國文第七卷 第一號〕)
 澤瀉博士は、これらの諸説を批評して、更に私按として、マサヤカニコソの訓を出しておられる。以上の諸訓は多樣であるが、これをコソの立場から分類すれば、係助詞として下に敍述部の省路があると見る見方と、(107)希望の助詞と見る見方とに分かれる。係助詞コソとして見る時は、將來を期待した意になり、三句までは、目前の實景になる。係助詞コソの下に敍述部を省略した例としては、「時風《トキツカゼ》 吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》 出居乍《イデヰツツ》 贖命者《アガフイノチハ》 妹之爲社《イモガタメコソ》」(卷十二、三二〇一)の如きがある。しかし清明を形容詞として讀む訓の難點は、やはり形容詞に直接コソの接續した例の無いことである。そこで、マサヤカニコソの如き、助詞を插入した訓が考慮されるが、これもあり得べき語法というのみで、的確な文證は存在しない。また清明をマサヤカと讀むことの證明は無いが、マサヤカニの語例としては「伊呂夫可久《イロブカク》 世奈我許呂母波《セナガコロモハ》 曾米麻之乎《ソメマシヲ》 美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》 麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》」(卷二十、四四二四)の一例があり、有力な説として見ることができる。但し係助詞のコソは、古くは強調の意が強いのに、マサヤカニコソの場合は、比較的に輕く使われている上に、その敍述部が省略されているというのは、後世ふうの言い方であつて、この時代の歌としては輕快に過ぎる感がある。次に、コソを希望の助詞と見る時は、上の清明を動詞と見るのであるが、かような用例は集中に多數あつて、訓法からいえば自然である。清明の字面については、古事記上卷に、「爾天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知」、「我心清明、故我所v生之子、得2手弱女1。」日本書紀、敏達天皇紀、十年閏二月の條に、「清明心」とあるが、これらは、いずれも心の?態についていつているので、今の歌に、月についていうものとは違うのである。今これを動詞に讀むについても、諸訓があるが、京都大學本にスミアカリコソとあるのが、調子もよく整い、平易である。但し京大本の訓は、スミアカクコソとあるべきを、誤つてスミアカリコソとしたものであろう。清をスミと讀むことは、地名のスミノエに清江の文字を當てたものがある。月について澄む、明るという例の無いのはこの訓の弱點である。上にもいうようにこの句の訓は、三句の訓と併せて考うべきものであるが、三句を入日見シとするについては、それを連體形と見て、今假に五句を希望の語法とするによることとする。
【評語】この歌は、初二三句の敍述が、海上の夕燒の壯大な光景を描いている。五句の訓が難點ではあるが、(103)それはこの歌自身の缺點では無い。元來名歌と考えられるだけに、何とかして明解を得たいものである。
 
右一首歌、今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
 
右の一首の歌は 今|案《かむか》ふるに反歌に似ず。但し舊本この歌を反歌に載す。故《かれ》、今この次に載す。また紀に曰はく、天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の天皇《すめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となしきといへり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。前掲の渡津海乃の歌一首をいう。ここに反歌ニ似ズというのは、海上の風物を詠んだ歌で、大和の三山の歌の反歌と見えないというのである。この事については、既に上に述べた通り、全部が播磨の國の海岸で詠まれたと解すべきである。
 舊本 モトノマキ。萬葉集は、漸次増益して今日の如き形になつたものと見られる。その前身をいうのであろう。今日の萬葉葉からいえば、資料となつたものである。舊本の語は、綜麻形乃(卷一、一九)の歌の左註にもある。また古本ともあり、それは、天離(卷二、二二七)、直不來(卷十三、三二五七)の歌の左註にある。舊本に、この歌を反歌としているから、そのままこの順序に載せておくという編纂者の説明で、後人の疑惑を避けるための注意である。
 亦紀曰 マタキニイハク。紀は、日本書紀をいう。以下三山の歌全體に關するもので、天智天皇の御事蹟について記している。
 天豐財重日足姫天皇先四年。皇極天皇の四年である。重祚された天皇であるから、先の四年という。
 立天皇。天皇は天智天皇。
 
(109)近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇、謚曰2天智天皇1
 
【釋】近江大津宮 アフミノオホツノミヤ。天智天皇の六年三月に都を近江に遷した。今の大津市の附近で、これを近江の大津の宮という。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇の稱號。多分、國風の謚號であろう。
 
天皇、詔2内大臣藤原朝臣1、競2春山萬花之艶秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判之歌
 
天皇の、内の大臣藤原の朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競《あらそ》はしめたまひし時、額田の王の歌以ちてことわれる歌
 
【釋】天皇。天智天皇。
 内大臣 ウチノオホオミ。宮廷に奉仕する臣下の首班をいう、内臣の首席であつて、後の内大臣《ないだいじん》では無い。
 藤原朝臣 フヂハラノアソミ。藤原の鎌足。もと中臣氏であつたが、天智天皇の八年に藤原氏を賜い、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。それを前に溯らして書いている。名を書かないのは、鎌足に對して敬意を表したのである。
 春山萬花之艶、秋山千葉之彩 春の花と秋の黄葉の美を、對句として表現している。題の意は、花と黄葉との美を競わしめたのであるが、文雅の遊びとして、多分漢詩などを作らしめたのであろう。
 以歌判之歌 ウタモチテコトワレルウタ。額田の王は婦人であるから、特に歌を以つて、花黄葉の優劣を判定したのである。天智天皇が、内の大臣の藤原の鎌足に詔して、春山の多くの花の艶《におい》と、秋山の多くの黄葉の(110)彩と、どちらがよいか、ということを競わしめたもうた時に、額田の王が、歌にて、その判斷をなされたのである。
 
16 冬ごもり 春さり來れば、
 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ。
 咲《さ》かざりし 花も咲けれど、
 山を茂《しげ》み 入りても取らず、
 草深み 取りても見《み》ず。」
 秋山の 木の葉を見ては、
 黄葉《もみち》をは 取りてぞしのふ。
 青きをば 置きてぞ歎く。
 そこしうらめし。秋山、吾は。」
 
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 不v喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》
 不v開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》
 山乎茂《ヤマヲシゲミ》 入而毛不v取《イリテモトラズ》
 草深《クサフカミ》 執手母不v見《トリテモミズ》
 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》
 黄葉乎婆《モミチヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》
 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》
 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
【譯】冬の終りから春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴いている。咲かなかつた花も咲いているが、山の木が茂さにはいつても取らない。草が深さに手に取つても見ない。しかし秋山の木の葉を見ては、黄葉を取つて愛する。黄葉せぬ青葉をは、うち置いて歎くのである。自分は秋山の方をまさつていると思う。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第一段、草深ミ取リテモ見ズまで。春の花について論じている。以下第二段、秋の黄葉について論じ、最後に秋山を可として結んでいる。
【釋】冬木成 フユゴモリ。フユゴモリと讀むについては、美夫君志に、釋名釋言語に、「成盛也」とあるを引(111)いて、通用説を述べているのが廣く行われている。古書には或惑なども通用しているのであるから、この説も成立し得ることである。しかしまた、戍の字を、古書では戊の如く書くので、成と紛れ易く、現に戍とあるべきを成に作つている例もある。「如是爲哉《カクシテヤ》 猶八戍牛鳴《ナホヤマモラム》 大荒木之《オホアラキノ》 浮田之社之《ウキタノモリノ》 標爾不v有爾《シメナラナクニ》」(卷十一、二八三九)の戍牛鳴を、諸本に多く成牛鳴に作つている。これは牛鳴はムの假字であるべきであり、一首の歌意からいつても、マモラムでなければならず、現に神田本金澤文庫本には戍に作つている。これによれば、冬木成は、冬木戍の誤りであるかもしれない。但し集中に冬木成六例のほかに冬隱三例がある。モリ(戍)のモは甲類、コモリ(隱)のモは乙類で、音韻が違う。語意は、冬のまだ殘つていることをいうので、冬の終りから春に續く意味で、春さり來るの枕詞となつている。なお枕詞でない用法もある。「冬木成時じき時と見ずて行かば」(卷三、三八二)、「冬木成春べに戀ひて植ゑし木の」(卷九、一七〇五)などはそれである。王仁の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の冬ごもりの用法も同樣である。この語と同樣の構成の語に「夜ごもり」があり、それは「夜はこもる」の如き形にもなつている。(言語篇、冬ごもり考參照)。
 春去來者 ハルサリクレバ。コ田淨氏の説として、動詞去ルは、進行移動を意味する語として、方向の如何を問わず使用される。春去ればというも同じであつて、ここは七音の句であるから、春去り來レバという。春になればの意。その他、朝、夕、秋等につけていう。「春之在者」(卷十、一八二六等)と書いたものがあつて、シアレバの約言サレバであるとする説もあるが、それは別語として、かように書いたものであろう。
 不喧有之 ナカザリシ。冬のあいだ鳴かなかつた意で、連體句。
 鳥毛來鳴奴 トリモキナキヌ。冬のあいだは鳴かなかつた鳥も、春になれば來て鳴く意。終止句。
 不開有之 サカザリシ。冬のあいだは咲かなかつたの意。連體句。
 花毛佐家禮杼 ハナモサケレド。サケレドは、動詞咲クに助動詞リの已然形が接續し、更に助詞ドが接續し(112)て、逆態條件法を作つている。上の鳴カザリシ鳥モ來鳴キヌに對して、咲カザリシ花モ咲ケレドは、對句となつているが、鳥モ來鳴キヌは、終止形を採り、この句は、後續の句に連續している。古い對句の一樣式である。三山の歌參照。
 山乎茂 ヤマヲシゲミ。「心を痛み」(卷一、五)の語法に同じ。山が茂くして、山の草木の繁茂せるをいう。萬葉考には、ヤマヲシミと讀んでいる。シミという語の有無については、講義には無いという。しかし、「之美佐備立有《シミサビタテリ》」(卷一、五二)、「美夜萬等之美禰《ミヤヤマトシミニ》」(卷十七、三九〇二)のシミ、「小屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》」(卷十三、三二七〇)、「鬼之四忌手乎《シコノシキデヲ》」(同)、「爲支屋所v經《シキヤフル》」(卷十六、三七九一)のシキ、「打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》」(卷四、五〇九)、「竹珠叫《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》(卷十三、三二八六)等のシジ、「京思美彌爾《ミヤコシミニ》」(卷三、四六〇)、「枝毛思美三荷《エダモシミミニ》」(卷十、二一二四)等のシミミ等を綜合して考えれば、繁茂を意味する古語シが考えられそうでもある。しかし文證の確なのについて、ヤマヲシゲミと讀むに決すべきである。
 入而毛不取 イリテモトラズ。春は、山の草木が繁茂しているので、立ち入りても取らずの意。終止句。
 草深 クサフカミ。草が深く生えているのでの意。
 執手母不見 トリテモミズ。春は草が深くあるが故に、花を手に取りても見ずの意。上の山ヲ茂ミ入リテモ取ラズに對して、この草深ミ執リテモ見ズは對句となり、共に、花モ咲ケレドを受けてその説明をしている。以上第一段。春は鳥鳴き花咲く好季節であるが、その利用價値の少いことを難じている。
 秋山乃木葉乎見而者 アキヤマノコノハヲミテハ。以下秋葉について述べる。
 黄葉乎婆 モミチヲバ。モミチヲハ(元赭)、ソメシヲハ(僻)、モミヅヲハ(考)。草木の葉の、秋になつて變色したものをモミチといい、本集では、黄葉の字を多く使用している。ほかに紅葉と書いたもの一例(卷十、二二〇一)、赤葉と書いたもの一例(卷十三、三二二三)、動詞として赤を用いたものは二例である。これは本(113)集にあつては、廣く草木の葉の變色するのを愛したことを語つている。ここの黄葉は、名詞として使用されている。動詞として見る説もあるが、それは不可である。なお動詞としての用法については、その場合に述べることとする。モミチのチは、假字書きの例、知の字を用い、清音であつたと考えられる。
 取而曾思努布 トリテゾシノフ。手に取りて賞美する。シノフに數義あることは、山越乃(卷一、六)の歌の第五句の條に記した。ここはそのうちの賞美する、愛賞するの意に相當する用法。かような用法には、「百烏の來居て鳴く聲、春されは聞きのかなしも、いづれをか分きてしのはむ」(卷十八、四〇八九)、「初雪は千重に降り敷《し》け、戀ひしくの多かる吾は見つつしのはむ」(卷二十、四四七五)など。花については手に取つて愛することのできないのを缺點としたのに對して、黄葉については、手に取つて賞美し得ることを述べている。終止形の句。
 青乎者 アヲキヲバ。秋になつても黄葉しないのをばの意。
 置而曾歎 オキテゾナゲク。青くして殘れるをさし置いて歎息する意。上の、黄葉ヲバ取リテゾシノフに對して、青キヲバ置キテゾ歎クは、對句を成している。終止形の句。
 曾許之恨之 ツヨシウラメシ。
   ソコシウラメシ(管)
   ――――――――――
   曾許之怜之《ソコシオモシロシ》(玉)
   曾許之怜之《ソコシタヌシ》(古義)
 ソコは、それ、その點、その事などの意。上の青キヲバ置キテゾ歎クを受けている。シは強意の助詞。ウラメシは、恨まれる意の形容詞。終止形の句。
 秋山吾者 アキヤマワレハ。
   アキヤマワレハ(神)
(114)   アキヤマソワレハ(西)
   アキヤマヲワレハ(細)
   ――――――――――
   秋山曾吾者《アキヤマゾワレハ》(代初)
 吾は秋山を可とすの意。「秋山だ、吾は」の意で、秋山を指示している。この場合、秋山は、體言であつて、吾はに對しては述語となつている。以上は便宜上わかりよい説明をしたので、正しくいえは、秋山を提示するだけで、文は完成し、下の吾はは、それに對して主語を補足するものである。歌の末句として、強く言い放つている。
【評語】この歌、花と黄葉との優劣を論じ、春の花を抑えて秋の黄葉を擧げている。花黄葉の美を論ずるに、その本質的なものに觸れないで、手に取つて賞美することができるできないという二義的な理由によつて、判定を下しているのは、正しい議論とは言い難いが、とにかくかような議論的な内容を歌に詠みなした手腕は認めねばならない。歌が實生活の産物であつた性質から離れて、抽象的に花黄葉の美を取り扱うようになつたのは、文筆的作品としての地位を確保したことを語る。實生活以上の風雅の世界がここに開かれたもので、その先驅として意義の多い作品である。この作者に取つても、歌いものふうの他の長歌とは變わつて、かような理路の整つた作品を留めているのは、大陸文學の影響の大きく動いている時代の新傾向を示し、その才氣の非凡であつたことを語る。それだけに内容は抽象的で、描寫が無いのは缺點である。また初めの春の説明に力がはいつており、秋の部分がこれに比して特色の無いのは、元來この人が花黄葉の眞の美については、同等に感じていたことを、暗黙の間に語つている。結句の秋山吾はは、力強いいい方で、一首全體を引き締める效果がある。形は五七調がかなり整つているが、末節は七七である。文筆作品として見られるが、反歌を伴なつていない。これらは古い形の遺存している點である。この歌の成立時代については、この歌が、近江時代の最初にあり、また額田の王の近江に赴かれる時の歌よりも前にあるので、天皇のなお大和にましました頃の作であろう(115)とする説がある。しかし古い時代における歌の配列が、どの程度正確に年代に從つているかは不明であつて、これに依つて作歌年代を決することは危險である。
 春秋の季節を比較することは、古事記の神話にも、既に春山の霞|壯夫《おとこ》と秋山の下氷壯夫《したびおとこ》との對比がなされている。萬葉集に入つては、對句に春秋を對比することは常になされているが、しかしその優劣を判定することは、見えていない。そこにこの歌の歴史的意義が存在する。平安時代に入つては、春秋の優劣論は、しばしば見えている。今その二三を擧げる。
   ある所に春秋いづれかまされるととはせたまひけるに詠みて奉れる      紀の貫之
  はる秋におもひみだれてわきかねつ。時につけつつうつる心は
   元良のみこ、承香殿のとし子に、春秋いづれかまさると云ひ侍りければ、秋もをかしう侍りといひけれは、おもしろきさくらを、これはいかがといひて侍りければ
  大かたの秋に心はよせしかど花みる時はいづれともなし
   題しらず  よみ人しらず
  春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる(拾遺和歌集卷の九雜下)
  こころから春まつ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ   秋好の中宮
  風に散る紅葉はかろし。春のいろを岩根の松にかけてこそみめ(源氏物語少女の卷)  紫の上
  祐子内親王藤壺に住み侍りけるに、女房うへ人などさるべきかぎり、物語して、春秋のあはれいづれにか心ひくなどあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ 菅原の孝標の女
  淺みどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月(新古今和歌集卷の一春上)
   豐主とふ
(116)  おもしろのめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされる
   黒主こたふ
  春はただ花こそは散れ。野邊ごとににしきを張れる秋はまされり(樹下集)
 
額田王、下2近江國1時作歌、井戸王即和歌
 
額田の王の、近江の國に下りし時作れる歌。井戸の王のすなはち和ふる歌
 
【釋】額田王下近江國時作歌井戸王即和歌。
  額田王下近江國時作歌一首并短歌(代精)
  大海人皇子命下近江國時御作歌(考)
  井戸王下近江國時作歌額田王即和歌(燈)
  大海人皇子命下近江國時御作歌并短歌一首(墨)
  額田王下近江國時作歌(古義)
 下2近江國1時。額田の王が近江の國に下られたのは、多分近江の大津に帝都が遷され、そこにましました天智天皇に召されたのであろう。その途中、奈良山で、故郷を望み見て詠まれた歌と解せられる。もし然りとせば、近江の國に上ると書かねばならないのに、下ルと書いたのは、この歌を記し留めた人々に、大和を中心とする思想があつて、かように書いたのであろう。天武天皇の御代以後になつて、この題詞が書かれたのであろう。額田の王の故郷は、生駒郡平端村大字額田部の地が、それに擬せられている。
 井戸王即和歌 ヰノヘノオホキミスナハチコタフルウタ。井戸の王は他に所見無く、傳記等未詳であり、名の讀み方も男王か女王かも不明である。奈良縣添上郡に井戸村があつて、今その平和村に井戸野の字があるが、(117)關係地かどうか、不明。上の額田王云々の文にすぐ續けてこれを書いたのは、題詞として異例である。和歌は、和フル歌で、唱和の歌の義である。その井戸の王の歌は、綜麻形乃云々の歌をさすと見るほかは無い。誤謬があるとする説も多いが、異例だから誤謬であるということも無い。本集には、隨分不統一のものがあり、それらは多く資材としたものからそのままに受け入れたためであろう。原文のままに解釋を求むべきである。
 
17 味酒《うまさけ》 三輪《みわ》の山、
 あをによし 奈良の山の、
 山の際《ま》に  い隱るまで、
 道の隈《くま》 い積るまでに、
 つばらにも 見つつ行かむを、
 しばしばも 見|放《さ》けむ山を、
 情《こころ》なく 雲の 隱さふべしや。」
 
 味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》
 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》
 道隈《ミチノクマ》 伊積流萬代尓《イツモルマデニ》
 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミサケムヤマヲ》
 敷々毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》
 情無《ココロナク》 雲乃《クモノ》 隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
【譯】あの三輪の山よ。奈良の山の間に、隱れるまで、道の曲角《まがりかど》が積り重るまでに、十分に見つつ行こうものを。しばしばも遠く望み見ようとする山であるを、心無く雲が隱すべきではありますまい。
【構成】全篇一文で、段落は無い。まず初二句で三輪の山を呼びかけ、その山を中心として、離れ去り難い情を述べている。
【釋】味酒 ウマサケ。ムマサケノ(元緒)、ムマサケ(古葉)、ウマサカノ(西)、ウマサケノ(細)、アチサケノ(古點)、ウマサケ(僻)。うまい酒の義で、三輪の枕詞になつている。倭名類聚鈔に、「神酒、日本紀私(118)記云、神酒美和」とあつて、酒の古語をミワという。日本書紀、崇神天皇紀に、「宇摩佐開《ウマサケ》 瀰和能等能能《ミワノトノノ》」とあり、本集には、「味酒《ウマサケ》 三室山《ミムロノヤマ》」(卷七、一〇九四)、「味酒《ウマサケ》 三輪乃祝之《ミワノハフリガ》(卷八、一五一七)などある。また「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)、「味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山《カムナビヤマノ》」(卷十三、三二六六)、「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)など、ウマサケヲ、ウマサケノと五音に讀むべき例も存している。これは元來四音であつたものが、歌の文筆的性格が濃厚になるに及んで、五音に整理されたものと考えられる。
 三輪乃山 ミワノヤマ。奈良縣磯城郡三輪町にある山。平野に面して俊秀な山容を成しているので、遠方からも注意をひく山である。山名については、古事記中卷、崇神天皇記に、陶津耳の女の活玉依毘賣のもとに、何者とも知れぬ壯士の通つたのを、父母が教えて、麻絲を針に貫いてその壯士の裾につけしめたところ、朝になつて見れば、その麻絲が戸の穴から拔け出して、遣れる絲はただ三輪のみだつた。その絲をたよつて尋ねて行つたら、三輪山に至つて神の社に留まつたという。これは山號の起原傳説として見るべきである。一方には、酒の古名をミワということ、前掲の倭名類聚鈔に見え、また土佐國風土記の逸文にも、「神川、訓2三輪川1」とあり、神の字をミワと讀ましめている。播磨國風土記、讃容郡の記事のうちに、「伊和村【本名。神酒】大神釀2酒此村1。故曰2神酒村1」とあり、この神酒もミワと讀むべきもののようである。伊和の方の起原説明は無いが、ミワが、ミとワとに分解され、ミは美稱の接頭語となるので、イワというも、酒の義であるのかもしれない。ワは、輪を意味し、輪に神秘な力があるとすることから、酒をワといぅに至つたとも見られる。「天|※[瓦+肆の左]和《みかわ》齋許母利?」(出雲の國造の神賀詞)の※[瓦+肆の左]和は、大きい輪で、やはり神聖な場處を意味するのだろう。さて三輪は山、大神《おほみわ》神社の神體であつて、三輪山の名は、恐らくは神山の義が本義であろう。また三諸山と呼ばれることも旁證とするに足りる。さてこの句は呼格として見るべきである。解釋上からは、假にヲを補つて見るのもよいが、それは便宜のことであつて、正解では無い。下文に、その山をの意味の語が含みになつていると見るのが正しい(119)見方である。
 青丹吉 アヲニヨシ。奈良の枕詞。語義未詳。古い歌いものから襲用されている枕詞で、用例として「阿袁邇余志《アヲニヨシ》 那良袁須疑《ナラヲスギ》」(古事記五九)、「阿烏珥預辭《アヲニヨシ》 儺羅烏輸疑《ナラヲスギ》」(日本書紀五四)、「婀嗚?與志《アヲニヨシ》 乃樂能婆娑摩?《ナラノハザマニ》」(同、九五)があり、本集での用字例には、安乎爾余之一例、安乎爾余志一例、安乎爾與之四例、安遠爾與之一例、阿乎爾與斯一例、阿遠爾與志二例、青丹余之二例、青丹余志一例、青丹與之一例、青丹吉十三例、緑青吉一例である。これによれば、通用語原として、青丹吉が意識に上つていたと考えられる。ヨシの語を伴なう枕詞としては、麻裳ヨシ、在根ヨシ、玉藻ヨシ、眞菅ヨシ、八百丹ヨシ等がある。このうち、眞菅ヨシについては、「眞菅吉《マスゲヨシ》 宗我乃河原爾《ソガノカハラニ》」(卷十二、三〇八七)に對して、「摩蘇餓豫《マソガヨ》 蘇餓能古羅破《ソガノコラハ》」(日本書紀一〇三)の如く、シの無い用例があり、八百丹ヨシについては、「夜本爾余志《ヤホニヨシ》 伊岐豆伎能美夜《イキヅキノミヤ》」(古事記一〇一)に對して、「八百丹《ヤホニ》 杵築宮爾《キヅキノミヤニ》」(出雲の國の造の神賀詞、但し八百丹は八百米ともされる。)の如く、ヨシの無い用例がある。これによつてヨは呼稱の助詞、シは強意の助詞であつたものと推定される。さてアヲニについては、奈良に蹈ミ平ラスの通用語原意識がありとすれば、ニはやはり土の義とすべく、アヲはその形容語とするを順當とすべきが故に、やはり青の義であつたであろうか。奈良の地をほめてこの語が使用されている。古事記中卷に、「櫟井《いちゐ》の、丸邇坂《わにさ》の丹《に》を、初土《はつに》は膚赤らけみ、底土《しはに》はか黒きゆゑ、三つ葉のその中つ丹《に》を、かぶつくま火にはあてず、眉《まよ》がき濃に書き垂れ」(四三)という句の歌があつて、丸邇坂の丹を、眉書きに使つたとしている。その丸邇坂は、春日の地と推考され、奈良山の南麓とも見られるから、奈良に關して青丹ヨシの枕詞が成立する理由もあるのだろう。なお、國内《くぬち》に係けて使用せられたもの一例(卷五、七九七)があり、これもその國土を稱美する意であろうと考えられる。
 奈良能山乃 ナラノヤマノ。奈良山は、奈良縣の北部、縣境を成す山。低い山であるが幅が廣い。大和から(120)山城への通路になつている。
 山際 ヤマノマニ。
   ヤマキハニ(元赭)
   ヤマノマニ(西)
   ヤマノハニ(附訓本)
   ヤマノカヒ(僻)
   ――――――――――
   山際從《ヤマノマユ》(考)
 山と山とのあいだに。山のあいだに。助詞ニに當る文字無く、讀み添えている。
 伊隱萬代 イカクルマデ。
   イコモルマテニ(元赭)
   イカクルヽマテ(西)
   イカクルマデ(古義)
   ――――――――――
   伊隱萬代爾《イカクルマテニ》(墨)
 イは接頭語。動詞について、イ行ク、イ取ルなど使う。隱ルは、四段活用として、連體形カクルを使つている。「比賀迦久良婆《ヒガカクラバ》」(古事記四)、「伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》」(古事記一〇〇)など、四段に使用されている。マデは助詞。體言、および用言の連體形に接續する。防人の歌の中には、動詞|來《く》の終止形に接續するものがあるが、それは特例である。三輪山が奈良の山の山間に隱れるまでの意である。
 道隈 ミチノクマ。クマは曲り角の隅のところ、日本書紀卷の二に「隈、此云2矩磨?1」とある。山路であつて、曲り角である。
 伊積萬代尓 イツモルマデニ。イツモルマテニ(元赭)、イサカルマテニ(僻)。イは接頭語。上のイ隱ルと同じ語法。山路で、曲り角が多く隈が重なるのである。上の山ノ間ニイ隱ルマデに對して、この二句は對句を(121)成している。但しニは、上のイ隱ルマデと、このイ積ルマデとを併せ受けている。
 委曲毛 ツバラニモ。
   クハシクモ(元赭)
   マクハシモ(西)
   イクタヒモ(僻)
   ツバラニモ(考)
   ツブサニモ(考)
   ――――――――――
   委曲爾《ツバラカニ》(古義)
 ツバラは、委曲、詳細。「安佐比良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都波良爾《ツバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》」(卷十八、四〇六五)などの用例がある。靈異記の訓釋に、「委曲 ツ波比良計苦」とある。
 見管行武雄 ミツツユカムヲ。三輪山を仔細に見ながら行こうものをの意、ヲは、何々なるが然れどもの意をあらわす助詞として使用されている。
 數々毛 シバシバモ。度數多くも。數は頻數の義である。
 見放武八萬雄 ミサケムヤマヲ。サケは、下二段動詞離クの連用形。離クは、遠く距離を作るをいう語で、見サクは、眼を放つて見るの意である。「語左氣《カタリサケ》 見左久流人眼《ミサクルヒトメ》 乏等《トモシミト》 於毛比志繁《オモヒシシゲシ》」(卷十九、四一五四)の見サクルは、眺める位の意に使われている。山は三輪山をいう。上のツバラニモ見ツツ行カムヲの句に對して、この二句は對句を成し、今行く奈良の山のあいだから三輪山を眺めながら行こうとするのにの意をあらわしている。このヲも、何々であるが然れどもの意を示している。
 情無 ココロナク。下の隱スに係かる語。無情にも、無理解にも。「ま遠くの野にもあはなむ己許呂奈久《こころなく》里のみ中に逢へる夫《せ》なかも」(卷十四、三四六三)、「心無き秋の月夜の物思ふと寐《い》の宿《ね》らえぬに照りつつもとな」(122)(卷十、二二二六)などの用例がある。
 雲乃 クモノ。三音の一句。下の隱サフに對して主格を成している。
 隱障倍之也 カクサフベシヤ。カクサフは、動詞隱スの未然形に、繼續の意を示す助動詞フの接續したもの。ベシは自然の助動詞。ヤは反語の助詞。ベシヤは、漢文の訓讀にいうベケムヤの意に同じ。隱すべきか隱すべきではないの意。
【評語】この歌は、まず味酒三輪の山と、なつかしの三輪山を呼びかける。住み馴れた故郷において、朝夕に見ていたその山を、顧みがちに山路をたどる心が、青丹ヨシ以下の句で描かれ、そのあいだに二個の對句を使用したのも、纏綿たる哀別の情を寫すに適している。シバシバモ見サケム山ヲは、希望の目標である山を出して、意味を強くしている。最後に障害となる雲に對して恨みの詞を述べている。結句が五三七で終るのは、古長歌に見られる所で、既に前に述べた。その五三七の五三の關係は、三七の關係よりも密接なものが多いが、この歌ではよく切れているのが特色である。元興寺縁起には、額田の王を采女としているが、召しに依つて故郷を離れて他國に赴く女性の心ぼそさがよく描かれている歌である。風格は歌いものふうで、各句の音數も不整のものが多く、感情中心に歌われ、前の花黄葉を論じた歌の理智的なのと、好對比をなしている。
 
反歌
 
18 三輪山を しかも隱すか。
 雲だにも 情《こころ》あらなむ。
 隱さふべしや。
 
 三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》
 雲谷裳《クモダニモ》 情有南畝《ココロアラナム》
 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
(123)【譯】三輪山をそのようにも隱すことか。せめて雲だけでも心があつて欲しいことです。わたしが見ようと思うのに隱すべきでは無いでしよう。
【釋】然毛隱賀 シカモカクスカ。その通りにも隱すことよの意。カは感動詠嘆をあらわす助詞。句切。「三輪山をしかも隱すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集、紀貫之)。
 雲谷裳 クモダニモ。ダニは、他の大きい事はしばらく別として、せめてこの小事でもの意をあらわす助詞。他に情無いものがあるが、せめては雲だけでもの意。「面忘れだにも得爲やと手握りて打てども懲りず戀といふ奴」(卷十一、二五七四)、「朝井手に來鳴く貌鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)。
 情有南畝 ココロアラナム。
   コヽロアラナム(元)
   コヽロアラナモ(講義)
   ――――――――――
   情有南武《ココロアラナム》(類)
 畝の字については諸説がある。まず傳來については、類聚古集に武に作り、西本願寺本等には、畝の左に武イとある。武に作るによれば、ココロアラナムとなり、意もよく通ずるが、元暦校本等に畝に作つているのを捨てるわけにも行かない。次に畝に作るによれは、ムとする説(古義、美夫君志等)と、モとする説(講義)とがある。古義には、「字彙に畝、莫厚切謀、俗作v畝非とあり、畝謀呉音ムなり、謀坂などいふを思ふべし」とある。謀は、本集にも「奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》 不v告來二計謀《ノラズキニケム》(卷四、五〇九)の如く、ムに使つた例がある。講義には、畝の呉音モなりとし、誂の助詞ナムは、奈良時代にはナモであつたとしている。ナモの用例としては、「兒良波安波奈毛《コラハハナモ》」(卷十四、三四〇五)、「世奈波安波奈母《セナハアハナモ》」(同)の例があるが、これは東歌である。今、順當なるによつてココロアラナムとする。心があつて欲しいことだの意で、長歌の情無クに對して、逆の方面から説いている。終止形の句。心があるは、理解がある、同情があるの意。「鳩鳥の潜《かづ》く池水心あらば君にわが(124)戀ふる心示さね」(卷四、七二五)。
 可苦佐布倍思哉 カクサフベシヤ。長歌の末句を繰り返している。
【評語】長歌の末三句を受けて、これを變化させて作つている。長歌の末と短歌の末とが同一句から成るものは數々あることで、これに依つて兩者の關係を密接ならしめる。長歌と併せて味わうべきで、個々に離すべきではない。三個の短文を重ねて、特に詠嘆の氣味の多い歌である。雲ダニモ情アラナムと希望したことによつて、雲以外のもの、すなわち人は情無きものであることをあらわしている。それを直接に怨言を述べずに、雲に託して間接的に怨んでいるのは、女流の作としての特色を發揮しているものである。
【參考】ベシヤの語を使用せる短歌。
  大和戀ひ寐《い》の宿《ね》らえねに情無くこの渚埼みに鶴鳴くべしや(卷一、七一)
  出でて去なむ時しはあらむを故《ことさら》に妻戀しつつ立ちて去《い》ぬべしや(卷四、五八五)
  道の邊の草深百合の花ゑみに咲《ゑ》まししからに妻といふべしや(卷七、一二五七)
  海つ路のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(卷九、一七八一)
  わが戀を妻は知れるを往く船の過ぎて來べしや。事も告げなむ(卷十、一九九八)
  戀ひしくはけ長きものを今だにも乏しむべしや。逢ふべき夜だに(同、二〇一七)
  さ宿《ね》そめていくだもあらねば白たへの帶乞ふべしや。戀も過ぎねば(同、二〇二三)
  戀ふる日はけ長きものを今夜だに乏しむべしや。逢ふべきものを(同、二〇七九)
  たらちねの母に障らばいたづらに汝《いまし》も吾も事成るべしや(卷十一、二五−七)
  おのれ故|罵《の》らえて居れば醜《あを》※[馬+總の旁]の面高夫駄に乘りて來べしや(卷十二、三〇九八)
   同、長歌
(125)  見が欲れば雲居に見ゆる、うつくしき鳥羽の松原、小子《わくご》どもいざわ出で見む。こと離《さ》けば國に離けなむ。こと離けば家に離けなむ。天地の神し恨し。草枕この旅のけに、妻離くべしや(卷十三、三三四六)
 
右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
 
右の二首の歌は、山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江の國に遷しし時、三輪山を御覽《みそなは》せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅の春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
 
【釋】遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。以上、類聚歌林の文で、萬葉集と作者竝びに作歌事情の相違することを記したのである。ここに御歌とあるは、何人の御歌とも知り難いが、代匠記に天皇御製とし、古義には皇太子(天武天皇)の御歌としている。しかし歌意は、三輪山に別れを惜しむ情が強く、かつ雲ダニモ情アラナムと歌つているので、あらたに帝都を經營しようとする天皇の御製たるにふさわない。
 六年丙寅 以下日本書紀の文である。但し今の日本書紀には六年丁卯の年の事としている。この事については、美夫君志の別記に、詳論して、古本の日本書紀の年紀が今本と違うことを説いている。
 
19 綜麻縣《へそがた》の 林の始《さき》の さ野榛《のはり》の、
 衣《きぬ》に著《つ》くなす 眼に著くわが夫《せ》。
 
 綜麻形乃《ヘソガタノ》 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野榛能《サノハリノ》
 衣尓著成《キヌニツクナス》 目尓都久和我勢《メニツクワガセ》
 
【譯】綜麻の地方の林の先の野ハギが、著物を染めて色づくように、目につくあの方です。
【釋】前の題詞のうち、井戸王即和歌を、この歌の説明と見て解すべきである。但し左註には、和歌と思われ(126)ないよしを記している。和フル歌といつても、額田の王が、井戸の王に、歌を贈られたのではなく、たまたま井戸の王が、額田の王の歌を見て詠まれたものであろう。井戸の王が、その時、側近にいたかどうかも知られない。
 綜麻形乃 ヘソガタノ。ソマカタノ(西)、ヘソガタノ(代精)、ミワヤマノ(僻)綜麻をヘソと讀むことは、日本書紀崇神天皇紀にある大綜麻杵とある人を、新撰姓氏録には大閇蘇杵命と書いている。そうして形を縣の義とすれば、綜麻は地名ということになるが、それは何處とも知られない。滋賀縣栗太郡大寶村に綣《へそ》という地名があるというが、それがこの歌と關係があるとも思われない。ただそういう地名のあるべきことが推考されるだけである。倭名類聚鈔に、卷子を閇蘇と讀んでいるのは、績《う》んだ麻の圓く卷いたものの謂である。ガタはアガタの略。地方の義。この句、古くはソマカタノと讀んでいた。それでは意を成しがたい。僻案抄にはミワヤマノと讀んでいるが、その讀み方は無理である。ヘソガタの訓は代匠記の説である。
 林始乃 ハヤシノサキノ。ハヤシハシメノ(元赭)、ハヤシノサキノ(代初)、シケキカモトノ(僻)。林の先端の、林のとりつきのの義。
 狹野榛能 サノハリノ。サノハキノ(元赭)、サヌハリノ(僻)、サヌハギノ(考)。榛をハリと讀むか、ハギと讀むか、またはハンノ木かハギかについて問題が存する。榛は、新撰字鏡に、「叢生木曰v榛」とあつて灌木の叢生せるをいい、古事記下卷には、「天皇畏2其宇多岐1、登2坐榛上1」とあつて、その時の御製歌に「和賀爾宜能煩理斯《ワガニゲノボリシ》 阿理袁能《アリヲノ》 波理能紀能延陀《ハリノキノエダ》」とあり、榛のハリノキであることが知られる。本集では、榛は單獨にも用い、また榛原・眞榛と熱しても用いられている。その榛原と書いたものについては、「島之榛原《シマノハリハラ》 秋不v立友《アキタタズトモ》」(卷十、一九六五)の榛原の如きを、「蘇比乃波里波良《ワヒノハリハラ》」(卷十四、三四一〇)、「嶋針原《シマノハリハラ》 時二不v有鞆《トキニアラネドモ》」(卷七、一二六〇)の例によつて、ハリハラと讀むべきことが推考される。そのハンノキであるかハギであるかに(127)ついては、衣に摺るということ、秋立タズトモということ、「引馬野ににほふ榛原」(卷一、五七)、「白菅の眞野の榛原手折りて行かむ」(卷三、二八〇)の歌の如き、ハンノキでは風情をなさぬ歌のあること等によつて、ハギであることが確められる。しかし一方に、ハギは、波疑、波義の如く、假字書きにしたものがあつて、ハギであるが、古くハリとも言つたことは、播磨國風土記、揖保の郡萩原の里の條に、「右所3以名2萩原1者、息長帝日賣命、韓國還上之時、御船宿2於此村1、一夜之間、生2萩根1高一丈許、仍名2萩原1。即闢2御井1、故云2針間井1」とあることによつて證せられる。但しこの風土記の萩の字は、三條西家本には荻に作つているが、萬葉集註釋(卷の十四、イカホロノソヒノハリハラの條)に引いた文にはハギに作り、今も兵庫縣揖保郡揖保村に萩原の地名がある。よつてサノハリノと讀んで、サは接頭語、ノハリは野萩のこととすべきである。
 衣尓著成 キヌニツクナス。衣につくは、野ハギの花を採つて染料とし、これによつて衣を染めるをいう。ナスは、如くの意の動詞で、名詞または動詞の連體形に接續する。成スの義であろう。以上四句を序として、五句の目ニツクを引き出している。
 目尓都久和我勢 メニツクワガセ。目について忘れ難いわが君の意。ワガセは男性をさすことはあきらかであるが、何人をさすとも知られない。額田の王の思つておられる人をさすか、お召しになるところの天皇をさしているかである。
【評語】この歌は、作歌事情や讀み方に問題があつて、これを以つて、眞生命をあきらかにし得たとはいい難い所がある。しかし上四句は、畢竟譬喩で、主意は第五句にあるのだから、歌意においては、あまり讀み方に左右されない。下句の調子のよさは、何ともいえない。全く口で歌われる歌の調子を保有しているというべきである。一體詩歌に同音を利用するには、各種の方法があつて、それには種類もあるが、同音の詞句の所在についていえば、句頭にあるを頭韻、句末にあるを脚韻といい、これは從來もよく注意されたものである。しか(128)るにこの歌のは、句中にあつて、ツクの音を重ねており、しいて名を附けれは、腹韻ともいうべく、從來多く注意されなかつたものである。しかしこのために歌が一層諧調になるのは爭えない事實であるから、作歌の技術として、重視されねばならない。これは歌いものから來た所で、文筆作品になつて、發達しないでしまつた。「花ぐはし櫻のめで、ことめでは早くはめでず、わがめづる子ら」(日本書紀)の如きは、句中にメデの語を重ねた例である。
 
右一首歌、今案、不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉。
 
右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し舊本この次に載す。故、猶載す。
 
【釋】 不似和歌 コタフルウタニニズ。題に、井戸王即和歌とありながら、この歌の内容が、前の額田の王の歌に和したとも見られないことを指摘している。
 舊本。前出(一五左註)。この記事によつても、この一團の歌および題詞が、資料のままであることが推知される。
 載焉。元暦校本、古葉略類聚妙に焉載に作り、古葉略類聚妙には如集と注している。傳冷泉爲頼筆本に爲載とあるのも焉載を誤つたものであろう。焉は、字書に「然也」ともあり、類聚名義抄にもココニの訓を載せている。
 
天皇遊2?蒲生野1時、額田王作歌
 
天皇の、蒲生野に遊?したまひし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】天皇。 天智天皇。
(129)遊?。 左註によるに、この?は、天皇の七年五月五日に催された藥?である。藥?のことは、既に三の歌に記した。
 蒲生野 カマフノ。滋賀縣蒲生郡の原野。今、武佐、市邊のあいだに内野、蒲生堂、野口などの地名が殘つている。
 
20 茜《あかね》さす 紫野《むらさきの》行き 標野《しめの》行き
 野守《のもり》は見ずや。
 君が袖振る。
 
 茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキノユキ》 標野行《シメノユキ》
 野守者不v見哉《ノモリハミズヤ》
 君之袖布流《キミガソデフル》
 
【譯】 ムラサキの植えてある園に行き禁園に行きなどして、番人は見ているではありませんか。それなのに、あなたは袖を振つている。
【釋】茜草指 アカネサス。枕詞。アカネは、アカネ科の多年生草本。ムグラに似た草で、茎は蔓性である。その根から赤い染料を採る。紫色は赤味を帶びているので、紫の枕詞とする。
 武良好野逝 ムラサキノユキ。ムラサキは草の名。ムラサキ科の多年生草本。根から紫色の染料を採る。野生もあるであろうが、古くは諸國をして栽培せしめ、その紫草園は國司巡硯して、雜人の亂入を禁じたものである。これは、その染料を尊重したためであろう。ここの紫野も、その栽培してある紫草園をいうので、次の標野も、語を代えていつたに過ぎない。諸國における紫草園經營の一例を擧げると、正倉院文書、豊後國天平九年正税帳(大日本古文書二ノ四〇)に、球珠郡天平八年の國司の巡行を記して、「壹度蒔營紫草園【守一人從三人竝四人二日】單捌人、上貮人【守】、從陸人」「萱度掘紫草根【守一人從三人竝四人二日】單肆人、上貮人【守】、從陸人」とあり、他の郡にもこれが見える。
(130) 標野行 シメノユキ。標は、占有を表示するもので、雜人の亂入を防ぐために榜又は繩を以つて、その意志を表出するものである。シメノは、雜人の入ることを禁じた野。ここでは前の紫野と同じ野とも、また別の野とも解される。そのような禁園を行つてというのは、實際紫草園におられるので、それによつてこの句となつたのである。
 野守者不見裁 ノモリハミズヤ。野守は、紫草園また標野の番人をいぅ。禁斷の園なので、番人を置いて守らしめる。見ズヤは見ないか、見ているの意。ヤは反語になる助詞。この句は、以前は、獨立文で、君が袖ふるを野守は見ずやの意に解されていたが、澤瀉博士の説のように、上の三句を受けているものと解すぺきだろう。以上で、自分には番人のあることをいう。
 君之袖布流 キミガソデフル。袖は、衣の手を包む部分の、長く餘つているのをいう。袖を振るのは、合圖をするのである。皇太子が、野守の見ているのにもかかわらず、額田の王に對して、袖をふるのをとがめている。
【評語】この歌は、次の皇太子の御歌の意から推しても、天智天皇に寵愛されている額田の王の現在の身の上をも顧みずに、たとえば禁園にはいつて勝手な振舞をするが如きことのあつたのを説いているのであろう。紫野ユキ標野ユキと句を重ねて、藥獵の日のありさまをえがき、君が袖フルと野守の目にあまる光景をえがいて、巧みに人目を憚る心を寫している。美しい詞句によつて實況を寫し、しかもそれを利用して、情意を表現して(131)いる。越境を咎めるような語氣を用いながら、好意を寄せていることが感じられる。流麗であつて、言情兼ね備わり、最高度の作歌技術を盡している。名作というべきである。
 
皇太子答御歌【明日香宮御宇天皇、謚曰2天武天皇1】
 
皇太子の答へませる御歌【明月香の宮に天の下知らしめしし天皇、謚して天武天皇と申す。】
 
【釋】皇太子 ヒツギノミコ。舒明天皇の第二皇子。初め大海人の皇子といい、後、即位して天武天皇と申す。天智天皇の御代に、皇太弟として儲位にあつた。
 明日香宮 アスカノミヤ。天武天皇の明日香の淨御原の宮をいう。
 謚曰天武天皇 オクリナシテ天武天皇トマヲス。この註、古寫本にある。漢風の謚號は、天平勝寶三年の懷風藻に、文武天皇の御名が見え、天平寶字二年に、聖武天皇に勝寶感神聖武皇帝の稱號を奉り、同三年には、舍人の親王に崇道盡敬皇帝の追稱を奉つているから、その頃には既に上つたものと考えられる。よつて萬葉集にこれがあるのは、あえて恠しむに足らぬのである。歴代の天皇ことごとくに一度に奉つたものでなく、神武、天武、文武、聖武のような堂々たる稱號がまず奉られたのだろう。
 
21 紫草《むらさき》の にほへる妹を
 憎《にく》くあらば
 人妻《ひとづま》ゆゑに われ戀《こ》ひめやも。 
 
 紫草能《ムラサキノ》 尓保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》  尓苦久有者《ニククアラバ》人嬬故尓《ヒトヅマユユニ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】紫の色のように美しいあなたを、憎く思うならば、他人の妻であるのに、わたしは戀をしないことでしよう。
(132)【釋】紫草能 ムラサキノ。額田の王の歌の詞を取つて歌い起している。ここでは紫のようにニホフと解すべく、枕詞と見るべきである。紫の色に出ることから、ニホフの主格となつている。
 尓保敝類妹乎 ニホヘルイモヲ。ニホヘルは、動詞ニホフに、助動詞リの連體形の接續したもの。ニホフは、色または香のあらわれるをいう。この歌では、美しい意に使つている。この語は、花もしくは色についていうのが普通であつて、それ故に、紫ノニホヘルを以つて妹の修飾句とするのである。紫の色にあらわれたような妹の義にとる。これによつて、初句紫ノを以つて、ニホフの枕詞とする。また稀な例ではあるが、「筑紫奈留《》爾抱布兒由惠爾《ツクシナルニホフコユヱニ》」(卷十四、三四二七)の如く、花や色の主格なく、直にニホフを以つて、美しいことを表現する例もある。妹は、女性に對して親しみいう語、額田の王をいう。要するに、紫はニホフ、そのようにニホヘル妹の義であつて、ニホヘルを以つて兩方にかけて解すべきである。
 尓苦久有者 ニククアラバ。好ましからずあるならばの意。
 人嬬故尓 ヒトヅマユヱニ。人妻である、それだのに。次句の戀フを限定する。人妻に對しての戀の意に下に續くのである。
 吾戀目八毛 ワレコヒメヤモ。ヤは反語。戀をしようか、戀うことはしまいの意。結局、憎くない故に、人妻に對して戀をするの意である。
【評語】前の歌の紫草を受けて、初句を起している。答の歌には、前の歌の詞句を取ること常例である。但し紫草の語の用い方は違つている。前は紫草という草の名をさし、この歌では紫の色をさしている。初二句の美しい辭が全體を華やかにしている。額田の王の歌の婉曲に情意をいうのに對してこれはむしろ豪放率直に思う所を述べている。男性的な歌で、露骨になつているのはやむを得ない。人妻に對しては、集中の歌は、かなり嚴肅な倫理觀念を語つている。その良心の教えと、止み難い性の衝動との苦しい闘爭を語るものとして、注目(133)すべき作品となつている。
【參考】 人妻を歌つたもの。
  神樹《かむき》にも手は觸るといふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(卷四、五一七)
  人妻に吾もまじらむ。わが妻に人も言問へ(卷九、一七五九)
  赤らひくしきたへの子をしば見れば人妻ゆゑにわれ戀ひぬべし(卷十、一九九九)
  もみち葉の過ぎがてぬ子を人妻と見つつやあらむ。戀しきものを(同、二二九七)
  うち日さす宮道にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の思ひ亂れて寐る夜しぞ多き(卷十一、二三六五)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十二、二八六六)
  おぼろかにわれし思はば人妻にありといふ妹に戀ひつつあらめや(同、二九〇九)
  小竹《しの》の上に來居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑにわれ戀ひにけり(卷十二、三〇九三)
  息の緒にわが息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも(同、三一一五)
  つぎねふ山城|道《ぢ》を人づま(男)の馬より行くに(卷十三、三三一四)
  人妻とあぜか其《そ》をいはむ。然らばか隣《となり》の衣《きぬ》を借りて著なはも(卷十四、三四七二)
  崩岸《あず》の上に駒をつなぎて危《あやほ》かと人妻子ろを息にわがする(同、三五三九)
  崩岸邊《あずべ》から駒の行このす危《あやは》とも人妻子ろをま行かせらふも(同、三五四一)
  なやましけ人妻かもよ榜《こ》ぐ舟の忘れはせなな。いや思《も》ひ増すに(同、三五五七)
 
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及群臣、悉皆從焉。
 
(134)紀に曰はく、天皇の七年|丁卯《ひのとう》の夏五月五日、蒲生野に縱獵したまふ。時に大皇弟、諸王内臣、及び群臣、悉皆《ことごと》に從ひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇七年丁卯。天智天皇の七年である。但し今の日本書紀には、七年丙辰としてある。
 縱獵 ミカリシタマフ。藥獵であることは前に記した。
 大皇弟 スメイロト。天武天皇。
 諸王 オホキミタチ。皇族のうち、王と稱せられる方々を指す。
 内臣 ウチノオミ。日本書紀によるに、中臣の内の臣で、鎌足のこと。
 群臣 オミタチ。廣く地方官等をも含めていう。
 
明日香清御原宮天武天皇代【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1】
 
【釋】明日香清御原宮 アスカノキヨミハラノミヤ。元暦校本には、御の字が無い。この宮號、古事記の序文にも、飛鳥清原大宮とあり、かならずしも御の字を要しない。天武天皇の宮號であることは前に記した。
 天武天皇代。天武の二字は、元暦校本等による、宮の下に御宇の二字脱とする説があるが、無くても意をなさぬではない。漢風の謚號については前に記した。かように宮號の下に御稱號を擧げることに、卷の第二、一〇五の歌の前にある標目にも、「藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代」(元暦校本等)とあり、日本靈異記の序文にも、「輕島豐明宮御宇譽田天皇代」とある。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。日本書紀の註に、「渟中、此云2農難1。」とある、天武天皇の御事。國風の謚號であろう。その語意は、渟は靜水で、玉のような水。中は接續の助詞ノ(135)に同じと見られる。天ノ渟中原は、天上の美原の義であろう。瀛は、御名、大海人の皇子と申すに寄せたもの。眞人は、尊稱である。
 
十市皇女、參2赴於伊勢神宮1時、見2波多横山巖1吹※[草冠/欠]刀自作歌
 
十市《とをち》の皇女《ひめみこ》の伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山の巖《いはほ》を見て、吹?《ふふき》の刀自《とじ》の作れる歌
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女、御母は額田の王である。弘文天皇の妃となつて、葛野の王を生まれた。壬申の亂には、夫と父との戰爭という悲しむべき境遇に立たれた。戰後、天武天皇の宮中にあつたが、その七年に薨ぜられた。その時の事情を日本書紀に次の如く記している。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1卜之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」論者或るはいう、この祭祀は、壬申の年の戰に勝利を得たのを神祇に謝するにあり、これに當つて十市の皇女の急に薨ぜられたのは、みずから壽命を縮めさせられたのであるとしている。しかしそれは、推測に止まり、確論とするに至らない。この題詞に伊勢の神宮に參赴せられたとあるのは、日本書紀によるに、天武天皇の四年に、十市の皇女と阿閉の皇女(後の元明天皇)とが、伊勢の神宮に參詣せられたとある。その時にお供をした吹?の刀自が、波多の横山の巖を見て詠んだ歌である。お二方の御參詣であるが、題に十市の皇女のみを擧げたのは、この歌の内容または作者が十市の皇女に深い關係があるためであろう。
 波多横山 ハタノヨコヤマ。今の松坂市から、伊賀の伊勢地に越える途中に、八太村あり、延喜式にある波多神社もその附近にあつたのであろうという。波瀬《はぜ》川に沿つている通路である。横山は、長く横たわつている山勢をいう。卷の二十に多摩の横山の語がある。
(136) 吹?刀自 フフキノトジ。卷の四にも歌のある婦人であるが詳でない。?はフフキと訓んで植物のフキのことである。吹は餘分であるが、フの聲を助けるためにつけたものであろう。もとは吹黄とあつてフキと讀んでいたが、古寫本には大抵吹?とある。?を黄の草體と誤つて、吹黄としたものである。但し吹?は、名か姓氏か稱號か不明である。琴歌譜に「布々支乃乎止利」とあるフフキは、ウグイスのことのようであるから、ここもウグイスの意であるかもしれない。刀自は、一家の主婦の稱。わが兒の刀自、賞兒《めずご》の刀自など、若い女に用いた例もある。
 日本書紀に「戸母、此云2覩自1」(允恭天皇紀)とある。
 
22 河上《かはかみ》の 齋《ゆ》つ磐群《いはむら》に 草|生《む》さず、
 常《つね》にもがもな。
 常處女《とこをとめ》にて。
 
 河上乃《カハカミノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》
 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》
 常處女煮手《トコヲトメニテ》
 
【譯】川の上流の神聖な岩村に草が生えないであるように、永久に若い女子として變ることなくありたいものでございます。
【釋】河上乃 カハカミノ。カハノヘノ(略)。講義に、カハノヘの語無しとして、カハカミノの訓を採つている。カハカミは、假字書きに、「多麻之末能《タマシマノ》 許能可波加美爾《コノカハカミニ》 伊返波阿禮騰《イヘハアレド》」(卷五・八五四)、「可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》」(卷十四、三四九七)の例がある。川中に對して、川の上岸をいうとの説もあるが、上流の義に使用しているものもあつて、「河上乃《カハカミノ》 列列椿《ツラツラツバキ》」(卷一、五六)の如きと共に、やはり川の上流の細く流れているあたりをさすと解すべきである。「河上爾《カハカミニ》 洗若菜之《アラフワカナノ》 流來而《ナガレキチ》」(卷十一、二八三八)の如き、カハカミを可とすと思われる例があるので、今、カハカミノとする。但しカハノヘも、「鴈我禰波《カリガネハ》 都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》 佐和久(137)良武《サワクラム》 秋風左無美《アキカゼサムミ》 曾乃可波能倍爾《ソノカハノヘニ》」(卷十七、三九五三)の如き例があり、この倍が上の意味にも解せられることは、「多禮可有可倍志《タレカウカベシ》 佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》」(卷五・八四〇)、「波之太爾母《ハシダニモ》 和多之?安良波《ワタシテアラバ》 曾能倍由母《ソノヘユモ》 伊由伎和多良之《イユキワタヲシ》」(卷十八、四一二五)の如き用例の多いことによつて確められる。かくてカハノヘは、川中に對して川の岸上の義をなすであろう。
 湯都盤村二 ユツイハムラニ。ユツハノムラニ(類)、ユツイハムラニ(管)。盤は、磐に作つている本もある。盤磐は通用字であつて、巨石の義に使用せられている。盤村は、岩石群である。ユツは、從來五百ツのつづまれる言として、數の多いのをいうと説いている。しかしユツとイホツとは違うのである。イホツは、イホツノという時は五百箇ので、御統《みすまる》の玉、賢木《さかき》、野薦《のすすず》などに添うている。イホツから名詞につく時は、ツは助詞として解せられる。イホだけでは、五百引石、五百重浪、五百代小田、五百機などあるが、イホツの場合はユツと約せられるとして、イホだけの場合に、五百重をユヘともいわず、五百代をユシロともいわない。ユツは、眞椿、杜樹《かつら》などについている。古事記に伊耶那岐の命が火の神を斬つた條に、湯津磐村とあるを、日本書紀には五百箇磐石と書いてあるので、同語とも取れるが、これだけでは同語ともいわれまい。中臣の壽詞には、由都五百篁生出牟とあつてユツとイホとを重ねて、あきらかに別語であることを語つている。然らばユツの意義は何であるかというに、齋種《ゆだね》、齋笹《ゆざさ》、齋由《ゆぐし》、齋槻《ゆづき》等のユと同じで、齋忌の意とすべく、ツは體言と體言とを結ぶ助詞で、天ツ神、時ツ風、沖ツ浪の類のツであろうから、ユも體言であるべきで、意味は漢字に書く場合に多く宛て用いられている湯の義であろう。湯(熱水)は物を清潔にする力があると信じられ、神事に用いられる。熱湯を振りかけて、その物が神聖になると考えられていたものである。それで湯の字を書いているのは、訓を借りて用いたのでなくして、その字の内容にも、關連しているものであろう。この歌のユツイハムラは、神聖な磐石の群であつて、大巖石崇拜の意があらわれているものである。
(138) 草武左受 クサムサズ。ムスは草や苔の繁殖するに用いる。草については、「山行者《ヤマユカバ》 草牟須屍《クサムスカバネ》(卷十八、四〇九四)の用例がある。以上三句は、寓目の物を敍して、譬喩としている。草のむさずあるようにと解すべきである。副詞句。
 常丹毛冀名 ツネニモガモナ。ガが願望の助詞であつて、その上方にいう所の實現を願う意を表示する。その上方の詞句は、助詞モ、もしくはニモを伴なうを通例とする。ガで終止となるが、ガだけの場合もあり、またその下に、モ、モナ、モヤを伴なう場合もある。たとえば、鳥ニモガ、鳥ニモガモ、鳥ニモガモナ、鳥ニモガモヤなどいう。ここも常ニモガで意は通ずるのであるが、更にモナを添えて、詠嘆の意を強くする。永久であつて欲しいものだなあの意。モナの例、「
舒欝が粁肝伊野針ど譬空《アサヒサシマキラハシモナ》(卷十四、三四〇七)、「於登太可思母奈《オトダカシモナ》」(同、三五五五)。
 常處女煮手 トコヲトメニテ。トコは永久不變の意。常世、常夜、常宮・常闇など、他語を修飾して熟語を作る。ヲトメは、少女の義。若い婦人をいう。ここに處女の字を用い、また未通女の字も用いられているが、未婚の女子には限らない。ヲトコの語に對し、ヲは少の義、メは女性の義、トは接續の語であろう。常處女にて常にもありたきものだと、上の句の内容を限定する。
【評語】今見る所の、波多の横山の巖が、草も生えずあるようにと、嘱目の物を敍して、想を起している。四五句は、詠嘆の氣が強くあらわれている。壬申の亂後、その悲劇の中に處した十市の皇女は、鬱々として慰まない。その故に紛れるために、伊勢の神宮への參詣ともなり、吹?の刀自の、この歌ともなつたのだという説もある。この歌は、永く老いの至らないようにと願つた意であるから、ややその説に適しないであろうか。むしろ作者が、十市の皇女の、老のまさに至ろうとするのを嘆息されたのに同感して、詠んだものとすべきであろう。
 
(139)吹?刀自、未v詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥聯丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
 
吹?の刀自は、いまだ詳ならず。但し紀に曰はく、天皇の四年乙亥、春二月乙亥の朔にして丁亥の日、十市の皇女、阿閉の皇女、伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きたまひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇四年乙亥。天武天皇の四年。但し今本の日本書紀には、四年は丙子である。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。後、即位して元明天皇と申す。
 
麻績王、流2於伊勢國伊良虞島1之時、人哀傷作歌
 
麻績《をみ》の王の伊勢の國伊良虞の島に流さえし時に、ある人の哀傷して作れる歌
 
【釋】麻績王 ヲミノオホキミ。績、諸本に續に作る。績續は、古く通用している。系譜傳紀等未詳。この時代の王の稱は、縁故の地名または育てられた氏によるものが多い。麻績は地名によるか。次の二四の歌の左註にもあるように、日本書紀には、天武天皇の四年四月に、麻績の王が罪があつて、因幡に流され、一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されたという。何の罪であるか、不明。
 流 ナガサエシ。流刑に處せられた由である。
 伊勢國伊良虞島 イセノクニノイラゴノシマ。伊良虞は、今、愛知縣に屬し、三河の國の渥美半島の先端である。島嶼ではなくして押角であるが、往古は島嶼であつたともいう。しかし古語のシマは、水に臨んでいる(140)美土をいうので、かならずしも島嶼に限定しない。伊勢の國に近いので、その國から望み見て、伊勢の國と言つたのであろう。上にもいう如く、日本書紀には因幡に流されたといい、常陸國風土記、行方郡板來村の條には、「飛鳥淨見原天皇之世、遣麻績王居處之」とある。イラゴとイタコとは音が類似しているので、かような異傳を生ずるに至つたのであろう。地名は諸國に同名または類似の名が多い。また流謫の地が變更された等の事情があるかも知れない。
 人 アルヒトノ。この上に時の字の遺落したものとする説があるが、無くても意味の通ずる所である。當時の或る人の意であつて、誰であるか不明である。あるいは、上の句と合せ流さえし時の人の意であるかもしれない。
 
23 打麻《うちそ》を 麻績《をみ》の王《おほきみ》、
 白水郎《あま》なれや、
 伊良虞《いらご》が島の 珠藻苅ります。
 
 打麻乎《ウツシヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》
 白水郎有哉《アマナレヤ》
 射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》
 
【譯】麻績の王は、漁夫であるのだろうか、伊良虞の島の藻を刈つておいでになる。
【釋】打麻乎 ウチソヲ。ウツアサヲ(西)、ウテルヲヲ(顛)、ウチヲヲ(代初)、ウチアサヲ(代初)、ウツノヲヲ(僻)、ウチソヲ(考)、ウツソヲ(古義)。打つた麻の義で、ヲは感動の助詞。打麻よというに同じ。打つた麻を苧《を》に績むと續く。績ムは、絲にするをいう。「打十八爲《ウチソヤシ》 麻績兒等《ヲミノコラ》」(卷十六、三七九一)の例があ(141)る。
 白水郎有哉 アマナレヤ。白水部は漁夫。倭名類聚鈔に、「辨色立成云、白水郎阿萬」とある。この文字は唐の元?の詩にも、「黄家賊用2〓刀1利、白水郎行2旱地1稀」とあつて、漢文に始まつた字面である。また泉郎とも書き、そのいずれがもとであるかについては、漢文にも兩説がある。白水は川の名、蜀から流れ出る。その河濱の住民よく漁るよりいうとする。また泉州の民よく漁るよりいうとも説く。二個の漢字を一字に合わせて書くものには、麻呂を麿と書く如きがある。本集において、泉郎を用いた例には、卷の十七、三九六一の左註漁夫之船人海浮瀾の右に、元暦校本の赭に、「復有泉郎船、浮漂波浪」とある。ナレヤはニアレヤに同じ。ヤは係助詞、疑問の意である。この句に對して、第五句が結になつている。動詞助動詞の已然形を受けるヤについては澤瀉博士の説、(萬葉集の作品と時代所收、「か」より「や」への推移)は、これを反語としている。この語法の例は、「眞野の浦の淀の繼橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる」(卷四、四九〇)、「朝井手に來鳴く容鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)、のように、輕く疑問の意をあらわしているものと、「玉藻刈る辛荷の島に島廻《しまみ》する鵜にしもあれや家念はざらむ」(卷六、九四三)、「しましくも獨あり得るものにあれや、島のむろの木離れてあるらむ」(卷十五、三六〇一)、のように、鵜ではないのに、獨あり得るものではないのにの意を基礎とするものとがあつて、まちまちである。口語としては、音の抑揚強弱によつて區別したかも知れないが、文字の上には、それはあらわれていない。助詞ヤは、感動の意が強いので、反語ふうな氣分をも生ずるのだから、一般的には、その意味で解すべきであろう。ここもそれで、海人ではないのだのにと、深く疑つている意の條件法と解される。下の「古《フリニシ》 人相和禮有《ヒトニワレアレ》哉」、(卷一、三二)も同樣である。
 射等籠荷四間乃 イラゴガシマノ。荷は、字音假字として、ガの音を表示している。次の歌には、伊良虞能島之とあり、伊良虞が島とも、伊良虞ガ島とも云つたらしい。但し荷は訓假字としては、普通ニの音を表示す(142)るに使用されているが、荷前をノザキともいう如く、ノの音を表示していると解せられないこともない。
 珠藻苅麻須 タマモカリマス。
   タマモカリマス(類)
   タマモカリヲス(燈)
   ――――――――――
   珠藻苅食《タマモカリヲス》(古義)
 珠藻は、藻の美稱。萬葉集の人々の、藻に對する愛好の情をよくあらわしている。カリマスのマスは敬語の助動詞。苅麻須はカリヲスとも讀まれる。次の答歌に、玉藻苅食とあつて、食に關しているので、この歌にも食することをいうとも考えられるが、白水都ナレヤに對しては、カリマスの方が適するようである。ヲスは、食する意の敬語。他人の食するにいう。自己の食するに用いた例を見ない。
【評語】日本書紀には、事件について、しばしば時人の歌というを載せている。多くの歌が、事件の當事者の立場で歌われているのに對して、時人の歌は、事件を客觀視し、第三者としての批判性が窺われる。この歌も、王の名を詠み入れている點など、そういう傾向がある。五句の珠藻苅リマスは、王の海濱生活の一端が具體的に敍せられている。勿論實際に珠藻を刈つておいでになるとまで解するに及ばないが、白水郎でもないのに、玉藻を刈つておられるという所に、同情が動いている。
 
麻績王、聞之感傷和歌
 
麻績の王の、聞きて感傷して和ふる歌
 
【釋】麻績の王が、前の時の人の歌を聞いて、悲み傷んで和せられた歌。
 
24 うつせみの 命を惜《を》しみ
(143) 浪に濡《ぬ》れ、
 伊良虞《いらご》の島の  玉藻《たまも》苅《か》り食《は》む。
 
 空蝉之《ウツセミノ》
 命乎惜美《イノチヲヲシミ》
 浪尓所濕《ナミニヌレ》
 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリハム》
 
【譯】生ける命の惜しさに、浪にぬれて、伊良虞の島の玉藻を刈つて食べている。
【釋】空蝉之 ウツセミノ。枕詞として使われている。語義は、既出(卷一、一三)。
 命乎惜美 イノチヲヲシミ。命が惜しくして。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミ等と同じ語法。
 浪尓所濕 ナミニヌレ。所は被役の義。浪に濡らされて。
 玉藻刈食 タマモカリハム。タマモカリマス(西)、タマモカリヲス(考)、タマモカリハム(元赭)。萬葉考にタマモカリヲスと讀んでいるが、ヲスは、自家の食事に使用した例が無い。ハムは喫食するをいう。「宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯堤斯農波由《ウリハメバコドモオモホユクリハメバマシテシヌハユ》(卷五、八〇二)。
【評語】前の歌には、どことなく輕い氣分が感じられたが、それは白水郎ナレヤあたりの疑問的ないい方に煩わされたものであろう。この歌は、それに對して、事件が自己の事に關するので、一層眞劍である。初二句は、命の惜しさにかような習わぬ事をもするの意をいうものとして、よく利いている。また三句の波ニ濡レも、具體的に荒い海濱における漁夫の生活を描いている。沈痛な作とすべきである。
 
右案2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻績王、有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者、若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。
 
右は、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻績の王、(144)罪ありて因幡に流さえ、一の子は伊豆に流さえ、一の子は血鹿の島に流さえきといへり。ここに伊勢の國伊良虞の島に配さゆといへるは、若し疑はくは、後の人、歌の辭に縁りて誤り記せるか。
 
【釋】右案 ミギカムガフルニ。以下、編者の案文である。
 天皇四年 スメラミコトノヨトセ。天武天皇の四年。
 戊戌朔乙卯 ツチノエイヌノツキタチニテキノトウノヒ。十三日。但し今本の日本書紀は、甲戌朔乙卯としている。
 血鹿島 チカノシマ。血鹿は、今、値嘉の字を使う。九州の五島列島。
 是 ココニ。以下また編者の案文。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌。 天武天皇の御製である。作歌事情については、何の記載も無い、天武天皇、御名は大海人の皇子。舒明天皇の皇子。天智天皇の同母弟にまします。天智天皇の御代に東宮となられたが、天皇の御病あるにおよんで、疑いを避け辭して出家して大和の吉野に入られた。天皇崩じ、弘文天皇の御代となるに及び、兵を擧げて、遂に近江の朝廷を亡した。これを壬申の年の亂という。亂後、帝位に即《つ》き、大和の飛鳥《あすか》の淨原《きよみはら》の宮に都し、在位十四年にして崩じた。天の渟中原瀛《ぬなはらおき》の眞人《まひと》と申し、後に天武天皇と申す。皇后は天智天皇の皇女で、後に帝位に登られて持統天皇となられた方である。天武天皇の御製は、前の大津の宮の中にも額田の王の歌に答えたまう一首を載せた。
 
25 み吉野の 耳我《みみが》の嶺《みね》に、
(145) 時なくぞ 雪は降りける。
 間《ま》なくぞ 雨は降りける。」
 その雪の 時なきが如
 その雨の 問なきが如
 隈《くま》もおちず 念《おも》ひつつぞ來《く》る。
 その山道《やまみち》を。」
 
 三吉野之《ミヨシノノ》 耳我嶺尓《ミミガノミネニ》
 時無曾《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》
 間無曾《マナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》
 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》
 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《マナキガゴト》
 隈毛不v落《クマモオチズ》 念乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【譯】吉野の耳我《みみが》の嶺《みね》に、何時《いつ》ともいわず雪は降つている。あいだも無く雨は降つている。その雪の何時という事の無いように、その雨のあいだの無いように、山道の曲りかどごとに、物思いをしながら來ることである。その山道よ。  
【構成】二段から成つている。第一段、間無クゾ雨ハ零リケルまで、吉野山中の光景を敍述して全體の空氣を描く。以下第二段、第一段の敍述に基づき、これを譬喩に用いて、自己の行爲について敍述している。
【釋】三吉野之 ミヨシノノ。ミは美稱。ミ熊野と同樣の云い方で、吉野が三地方ある謂では無い。吉野は、また多く芳野とも書いている。大和南部、主として吉野川を挿んだ南岸の地方の名。吉野の國ともいついている。三吉野は、古事記に、「美延斯怒」(九八)、日本書紀に「美曳之弩」(一二六)と書き、もとミエシノといつたようである。このエは、ヤ行のエで、良シの意の語のようであり、形容詞良シをも、「曳岐」(日本書紀、一二六)と書いている。萬葉集における假字音きは「与之怒河波《ヨシノガハ》(卷十八、四一〇〇)・「余思努乃美夜《ヨシノノミヤ》」(同、四〇九九)があるが、これは奈良中期の歌である。いつごろヨシノになつたかわからないから、今は、すべてヨシノと讀むこととする。
(146) 耳我嶺尓 ミミガノミネニ。次に載せた或る本の歌には、耳我山爾とある。ミミガノミネニと讀むべきが如くである。この歌の別傳ともいうべき歌には、「御金高爾《ミカネノタケニ》」(卷十三、三二九三)とあり、ミカネノタケとし、後世いう所の金の御嶽の事とする説もある。吉野山中の高峰をいうと思われる。
 時無曾 トキナクゾ。その時となく、定まりたる時無くで、絶えずの意になる。
 雪者降家留 ユキハフリケル。上の時無曾を受けて結んでいる。
 間無曾 マナクゾ。間隔摘無くで、やはり絶えずの意になる。假字書きの例には、「可保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》」(卷十七、三九七三)、「梶音乃《カヂノオトノ》 麻奈久曾奈良波《マナクゾナラハ》 古非之可利家留《コヒシカリケル》」(卷二十、四四六一)などある。
 雨者零計類 アメハフリケル。上の間無クゾを受けて結んでいる。時ナクゾ雪ハ降リケルに對して、この二句は對句をなし、高山に雨雪の絶え間なきことを述べている。以上第一段。
 其雪乃時無如 ソノユキノトキナキガゴト。第一段の、時ナクゾ雪ハ降リケルを受けて、これを譬喩に利用している。
 其雨乃問無如 ソノアメノマナキガゴト。これも第一段の、間ナクゾ雨ハ零リケルを受けて、譬喩としている。ソノ雪ノ時無キガ如と、ソノ雨ノ間無キガ如とは、對句となつて、下の隈モオチズ念ヒツツゾ來ルを修飾している。
 隈毛不落 クマモオチズ。クマは「味酒三輪の山」(卷一、十七)の歌の道の隈に同じ。オチズは、「山越乃風乎時自見《ヤマゴシノカゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌の落チズに同じく、遺すこと無く、ことごとくの意である。山路屈曲多く、隈が多數であるが、そのいずれの隈もの意で、絶えずの意になる。曲りかどごとに。
 念乍敍來 オモヒツツゾクル。物思いしつつその山路を通行する意である。講義に、下に其山道乎とあるに依つて、來をコシと讀むべしとし、クルならば、此山道乎とあるべきであるとしているが、それは理由の無い(147)説である。「妻ごみに八重垣つくる その八重垣を」の如き明證もあつて、現在形でさしつかえない、終止形の句。 
 其山道乎 ソノヤマミチヲ。ヲは感動の助詞。その山道なるよの意である.
【評語】第一段は、み吉野の耳我の嶺に雨雪の多いことを對句によつて成し、第二段は、その對句を受けて、また對句で起して單句で結んでいる。よく整つた樣式を有している。この歌は、天武天皇の皇子時代の御歌であろうとする説もあるが、その在位の時代に編入されているので、それによつて解く外は無い。元來作歌事情の記事を伴なわない歌で、從つて何時の御製とも傳えなかつたのであろう。歌の内容は、物思いのあることを中心としているが、次にも記す如く、別傳の多い歌であり、それは歌いものとして流傳されていたことを證するものであるから、かならずしも天皇の御製を始原とするとも斷定されない。天武天皇御自身も、歌物語中の英雄としての傳えを有せられていた。しかし諸傳來のうちでは、この歌が、もつとも原形に近いもののようだ。たぶん歌曲の詞章となつていたものだろう。
 
或本歌
 
或本歌 アルマキノウタ。集中に或本歌として載せてあるのは、本文の歌に對して、詞句の類似の多い歌、または作者、作歌事情の別傳などを、參考として載せるのである。或本というのは、本文以外の別の資料をいぅものと解される。その何の書をさしているかの知られるものには、古歌集(卷二、八九)柿木朝臣人麻呂歌集(卷三、二四四)がある。
 
26 み吉野の 耳我《みみが》の山に、
(148) 時じくぞ 雪は降るといふ。
 間なくぞ 雨は降るといふ。」
 その雪の 時じきが如《ごと》、
 その雨の 間なきが如、
 隈《くま》もおちず 思ひつつぞ來る。
 その山道を。」
 
 三芳野之《ミヨシノノ》 耳我山尓《ミミガノヤマニ》
 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落《ユキハフル》等言《トイフ・トフ》
 無v間曾《マナクゾ》 雨者落《アメハフル》等言《トイフ・トフ》
 其雪《ソノユキノ》 不v時如《トキジキガゴト》
 其雨《ソノアメノ》 無v間如《マナキガゴト》
 隈毛不v墮《クマモオチズ》 思乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【釋】時自久曾 トキジクゾ。トキジは、「山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌で説明した。ここはその副詞形が出ている。雪の降るべき時ならずしての意。
 雪者落等言 ユキハフルトイフ。ユキハオツトイフ(元赭)、ユキハフルトイフ(類墨)、ユキハフルチフ(僻)、ユキハフルトフ(考)。人が雪の時ならず降ることをいう由である。本文の歌と相違する點は、自身その地にあらずして人傳てに聞く趣に歌つている。下の雨者落等言も同じ。これは傳承した形であることを語る。トイフは、トフとも讀むが、トイフは、歴史的、トフは表音的の書き方で、別ではない。國語の習性として、重母音の場合に、後の母音が省略されるので、各語獨立語としての意識が強い時は、重母音といえども、保存される。文末におけるトイフの假字書の例。「和我理許武等伊布」(卷十四、三五三六)、「可藝利奈之等伊布」(卷二十、四四九四)。
 不時如 トキジキガゴト。トキジキは、連體形で準體言。時ジキコトの義である。
 
右句々相換、因此重載焉。
 
(149)右は、句々あひ換れり。これに因りて重ねて載す。
 
【釋】右句々相換 ミギハククアヒカハレリ。前の本文の歌と詞句に相違があるとの意で、編者の注意として、この或る本の歌を載せた所以を説明している。
【參考】別傳。
  み吉野の 御金《みかね》の嶽《たけ》に 間無《まな》くぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その 雨の 間《ま》無きが如《ごと》 その雪の 時じきが如《ごと》 間《ま》も墮《お》ちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香《ただか》に(卷十三、三二九三、反歌略)
    類型。
  小治田《をはりだ》の 愛智《あゆち》の水を 間無《まな》くぞ 人は?《く》むといふ 時じくぞ人は 飲《の》むといふ ?《く》む人の 間無《まな》きが如《ごと》 飲む人の 時じきが如《ごと》 香妹子に わが戀ふらくは やむ時もなし(卷十三、三二六〇、反歌略)
 
天皇、幸2于吉野宮1時、御製歌
 
天皇の、吉野の宮に幸でましし時の御製の歌
 
【釋】幸于吉野宮 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。天武天皇が、吉野の宮に幸せられた時の歌である。吉野の宮は、後出の吉野の宮をほめる歌によつてあきらかであるように、吉野川に添うた處にあつた。今宮瀧という地であろうと思われる。もつと上流の丹生の川上であるとする説があるが取ることはできない。
 
27 淑《よ》き人の よしとよく見て
 よしと言ひし 芳野《よしの》よく見よ。
 よき人よく見つ。
 
 淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》
 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見與《ヨシノヨクミヨ》
 良人四來《ヨキヒトヨク》三《ミツ・ミ》
 
(150)【譯】昔のかしこい人が、良いと良く見て、良いといつた、この吉野をよく見よ。かしこい人はよく見たのである。
【釋】淑人乃 ヨキヒトノ。ヨキヒトは尊ぶべき人の意。淑人の字面は、佳字を選んだものと見るべく、詩經の鳩に、「淑人君子、其儀一兮」など見えている。佛足跡歌碑に「与伎比止乃《ヨキヒトノ》 麻佐米爾美祁牟《マサメニミケム》」などある。かつてありし善い人をいぅなるべく、本集に「古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(卷九、一七二五)とあると、同樣の人であろう。また懷風藻、藤原の不比等の吉野に遊ぶ詩の句に、「今之見2吉賓1」とある吉賓もよき人であつて、吉野を遊覽する高士の謂である。
 良跡吉見而好常言師 ヨシトヨクミテヨシトイヒシ。初句の淑き人の行動を敍している。
 芳野吉見与 ヨシノヨクミヨ。淑き人の良しと言つた芳野だから、皆もよく見よと歌われている。見ヨは命令彩。
 良人四來三 ヨキヒトヨクミツ。
   ヨキヒトヨキミ(類)
   ヨシトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミ(墨)
   ――――――――――
   良人四來三四《ヨキヒトヨクミヨ》(玉或人説)
 良キ人良ク見ツの義で、良い人がよく見たの意に上の第二句を繰り返して、その意をたしかにする。良人は、初句の淑き人に同じ。かの淑き人は良く見しことぞとの意。この歌、歌經標式に載せて、この句を、与伎比等与倶美としている。澤潟博士の説に、そのミは命令形だろうという。
【評語】この歌は、詞句の頭にヨの音を用いること八個に及び、これによつて一首の調子を取つている。その(151)調子は、非常に輕く明快である。かかる頭韻の歌は往々試みられるが、この歌の頭韻に用いたヨの音は、やわらかな音であるから、これは重ねてあまり煩わしさを覺えない。天皇得意の境の御製で、多分帝位につかれて後、吉野遊覽の際の作品であろう。かような頭韻の歌は、愉快な内容を盛るに適している。文字も淑良好芳など變えて書いている。頭韻には二種類ある。一は同語を用いるもので、他は、異なつた語で、ただ上の音だけ同一のものを用いるものである。これに成音の同じなものと、子音だけ同じなものとがある。この歌では、ヨシといぅ一の形容詞を重ね用いたので、前項に屬するものであるが、ヨキ、ヨシ、ヨクの如く語尾の變化を利用して、重複の感を弱めている。別語を用いた例としては、「瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」(拾遺集、藤原公任)、子音だけ同じ例として、「甲斐の黒駒鞍著せば」(日本書紀雄略天皇の卷)の例がある。         
【參考】頭韻の歌。
  否といへど強ふる志斐能《しひの》が強語《しひがたり》この頃聞かずてわれ戀ひにけり(卷三、二三六) 
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ。來じといふものを(卷四、五二七)
  白珠は人に知らえず、知らずともよし。知らずとも吾し知れらば知らずともよし(第六、一〇一八)
  秋の野に咲ける秋はぎ秋風に靡ける上に秋の露置けり(卷八、一五九七)
  紀の國に止《や》まず通はむ。妻の社《もり》妻|寄《よ》し來《こ》せね。妻と云ひながら(卷九、一六七九)
  梓弓引きみ弛《ゆる》べみ來《こ》ずは來《こ》ず。來《こ》ばそそをなぞ來《こ》ずは來《こ》ばはそを(卷十一、二六四○)
【參考】別傳。   
  如2淨御原天皇御製歌1曰。
 美与旨能呼 一句 与旨止与倶美弖 二句 与旨等伊比旨 三句 与岐比等与旨能 四句 与岐比等与倶美 五句
(152) 毎句有v吉無v凶、 譬如3葉蝶聚2一處1、 故曰2聚蝶1爲v吉。(歌經標式)
 
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1。
 
紀に曰はく、八年己卯の五月庚辰の朔にしで甲申の日、吉野の宮に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】紀曰。日本書紀に依つて、天武天皇の吉野の宮への行幸年月を註記している。
 
藤原宮御宇天皇代 【高天原廣野姫天皇、元年丁亥、十一年讓2位輕太子1、尊號曰2太上天皇1。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、元年は丁亥にして十一年位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇とまをす。】
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。持統天皇文武天皇二代の皇居で、宮址は、奈良縣高市郡鴨公村大字高殿にあり、耳梨山を背後にし、展望雄大な勝地である。持統天皇の四年十二月に天皇御觀察あり、六年五月から造營し、八年十二月に遷居された。但しこの宮號によつて持統天皇をさしているが、この御代の標目の下に遷都以前の歌及び文武天皇の御代の歌をも載せている。大寶以後、年號が繼續するようになつてからは、年號によつて歌を掲載するのであるが、その前の、文武天皇の無年號の時代は、別に標記することなく、この藤原の宮の時代に收められている。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。この御稱號、日本書紀、續日本紀に、共に見えているが、續日本紀文武天皇大寶三年十二月の條には、謚して、大倭根子天之廣野日女の尊と曰すと見えている。少名は鵜野の讃良の皇女、天智天皇の第二女にまします。天武天皇の皇后となり、その崩を受けて帝位につき、在位十年にして、草壁の皇太子の皇子である輕の皇子に讓位された。これを文武天皇とする。はじめ高天の原廣野姫の天皇と申し、後には持統天皇と申す。天皇の御代には柿本の人麻呂をはじめとし、(153)歌道の大才輩出して、空前の盛觀を成した。いゆる萬葉集の黄金時代といぅべきもの、この御代に起るのである。   
 輕太子 カルノヒツギノミコ。文武天皇。草壁の皇太子の皇子。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇。持統天皇。
 
28 春《はる》過《す》ぎて 夏|來《き》たるらし。
 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》乾したり。
 天《あめ》の香具山。
 
 春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》
 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》
 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
【譯】春が過ぎて夏が來たことと思われる。天の香具山のほとりでは、白い織物の衣がほしてある。
【釋】春過而夏來良之 ハルスギテナツキタルラシ。春の過ぎ去つて夏季の到れることを推量している。キタルは、來到るの略で、四段活。「武都紀多知《ムツキタチ》 波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》」(卷五、八一五)の如く未然形にキタラがあり、「等利都都伎《トリツツキ》 意比久留母能波《オヒクルモノハ》 毛毛久爾《モモクサニ》 勢米余利伎多流《セメヨリキタル》」 (卷五、八〇四)の如く、終止形にキタルの形があるので、四段活用であることが認められる。ラシは推量の助動詞。根據のある推量に使う。
 白妙能 シロタヘノ。タへは植物性の織物、その白いのをシロタへといぅ。荒栲《アラタヘ》、敷栲《シキタヘ》などいう例である。妙は借字で、タへの音に假り用いている。コウゾの皮の繊維で織つた布が白栲であるが、白栲の麻衣などともいい麻布の方が實際に廣く行われたので、普通に麻布をも白栲という。此處は枕詞では無く、白布であるが、その材料は何でもよく、ただ色についていうだけである。 
(154) 衣乾有 コロモホシタリ。衣をほしてあるとの描寫である。句切。
 天之香具山 アメノカグヤマ。既出。白い衣のほしてある場處の指定である。天の香具山にの意味ではあるが、その山を呼んで稱美されており、語法上、呼格となつている。
【評語】天の香具山のほとりの住民が、白い衣服をほしている情景により、春の過ぎて夏の來たことを推察している。極めて印象約な敍述であつて、名歌というべきである。初夏の強い日光にさらされた白い衣服が、新緑の天の香具山の麓に懸かつている。藤原の宮の造營の時の歌よりも前に置かれてはいるが、多分藤原の宮に遷りたまうてからの御製であろう。天の香具山は、白衣のほされている場處を指示するものであるけれども、その山容が眺められる位置にあつて詠まれたものとして、その山に對する稱美の呼格となつている。これは歌全體の背景を語るものである。
 日本の文學にあつては、季節は重要な位置を占めている。日本の文學の生育地は、四季の循環の整然として推移する風土であり、自然に親しんで生活していた人々は、おのずからにしてこれに十分の關心を持つていた。しかしその四季のうちにも春と秋とは住み心地ょく、夏と冬とは、どちらかといえば好ましからぬ時期であつた。國文學が實生活以上の風雅を要求する時代にはいつても、それ故に春と秋との作品は多く、夏と冬との作品はすくなかつた。そうして春の來ることを喜ぶのは、冬の苛烈な寒氣から解放される喜びであつた。しかし時代は一轉して、ここに夏の來たことを、あかるい氣もちで迎えるようになつたのである。この歌の代表する藤原の宮時代は、萬葉の歌の完成した時代であり、ここにかような御製を見るに至つたのは、歌の歴史上、特記すべき事實とすべきである。
 この歌には、春や夏が概念として掲示されているが、三句以下は實景の敍述であつて、その敍景の上に歌の生命が存している。わが國の民族詩である歌は、祭の庭の如き民衆生活のあいだにおいて生育してきたので、(155)その主力はもつぱら人事詩の上に置かれて來た。人間相互の愛情が、そのまま歌の内容であつた。しかるにここに敍景詩を見るに至つたのは、やはり當時の歌が、實生活以上の線に到達し、言語の方向を自然に向けることの發達して來たことを語るものである。ここにもこの歌の有する歴史的意義が認められる。
 以上の如きは、藤原の宮時代における一般の傾向として指示せらるべきであつて、この歌のみの有する意義ではないけれども、この歌が、かような潮流の方向を指向する所の代表作であるとはいえる。この意味においてもこの歌の有する意義は大きいと言わねばならない。
 この歌は、小倉百人一首には、「春過ぎて夏來にけらししろたへの衣ほすてふあまの香具山」となつてはいつている。これは平安時代におけるこの歌の訓法を傳えたものであるが、衣ホステフでは、人のことばに聞くことになつて、原歌の生命を損ずる。どこまでも現に見る所によつて、敍述されたものとして解釋せねばならない。
【參考】季節の推移を歌うもの。
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》來るらし。朝日さす春日の山に霞たなびく(卷十、一八四四)
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》し來たれば年月は新なれども人は古りゆく(同、一八八四)
  白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも。春霞たなびく野邊の鶯鳴くも(同、一八八八)
  春過ぎて夏來向へば、あしひきの山呼びとよめ、さ夜中に鳴く霍公鳥《ほととぎす》(下略、卷十九、四一八○)
 
過2近江荒都1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】過近江荒都時 アフミノアレタルミヤコヲスギシトキ。近江の荒都は、天智天皇の近江の大津の宮の荒(156)廢した跡である。この宮殿は、懷風藻の序文に、その朝廷の君臣の詩文の事を敍して、「時、亂離を經て悉く?燼に從ふ」(もと漢文)とあるによれば、壬申の年の亂に燒失したものと考えられる。柿本の人麻呂がこの地を過ぎてこの歌を詠んだのは、持統天皇の御代とのみで、その傳記中のいかなる時代であるとも知られない。また何のための旅行とも知られないが、官命を帶びて下つたことであろう。
 柿本朝臣人麻呂 カキノモトノアソミヒトマロ。柿本氏は、孝昭天皇の皇子|天押帶日子《あめおしたらしひこ》の命の子孫、春日氏(もと和邇氏という)と同祖、敏達天皇の朝に、その家門に柿の樹があつたので柿本氏という。はじめ臣の姓であつたが天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。春日氏は、代々皇室に、女子を奉ること多く、特に古事記、日本書紀の歌謡を中心とした歌物語と密接な關係がある。柿本氏もさような歌謠を傳えた家として考えられる。人麻呂の生歿年代はあきらかで無い。その作品は、持統天皇文武天皇二代のあいだのものがあり、溯つては、天武天皇の八年の作と推考されるものが、柿本朝臣人麻呂歌集の中にあり、降つては、その死去は奈良時代にはいつてからのことかとも考證されている。はじめ舍人として出仕し、のち他の官に移り、やがて地方官ともなつたらしい。紀伊の國にはすくなくも二囘は旅行した。そのうちの一囘は大寶元年の行幸に從つて赴いた。その他、山城の國を經て、近江の國に旅し、西の方は内海を航して、讃岐および筑紫に赴いた。晩年、石見の國にあり、そこから上京する作をも留めたが、遂にその國に歿した。その時の位は六位以下であつた。妻は數人あり、初めの妻は人麻呂に先だつて死に、後の妻は人麻呂の死を見送つた。作歌は、長歌、短歌共にこれをよくし、内容詞藻共に豐富である。固有の文學をよく傳えると共に、外來の文化をも攝取してすぐれた作風を成している。ひとりその時代を代表するはかりでなく、萬葉集中の第一人ともいうべく、また日本歌人中の第一人ともいうべきである。萬葉集の歌の大成者であり、その黄金時代の名譽を一身に負う作家でもあつた。その作品の傳來は、萬菓集におけるもののみ信ずべきであるが、それには、題詞に柿本人麻呂作とあるも(157)のの外に、柿本朝臣人麻呂歌集の所出のものがあり、また或云柿本人麻呂作の左註のあるものがある。柿本朝臣人麻呂歌集の性格については諸説があり、それはその集の名の出た所で、更に説かねばなるまいが、大體人麻呂の作品を中心にして集輯した書と考えられる。この近江の荒都を過ぎし時の歌は、その初期の作品であろうか。この歌をはじめ、人麻呂の作品中には或云として詞句の別傳の多いのは、これを傳唱するものが多かつたことを語る。現に天平八年の遣新羅使の一行も、船中にその作を吟じた。しかしかような事情のもとに、詞句の異傳が多くなつていることも事實である。朝臣は姓《かばね》。古寫本に多く麿の字を使用しているが、麿は麻呂の二字を合して一字としたもので、正倉院文書にも見られる所である。父祖を詳にしないが、日本書紀天武天皇紀に、柿木の臣佐留という人が見え、その名が猿を連想するので、人麻呂の近親ででもあるかとの推測もされている。
 
29 玉襷 畝火の山の
 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代《みよ》ゆ【或るはいふ、宮ゆ。】
 生《あ》れましし 神のことごと、
 樛《つが》の木の いやつぎつぎに
 天《あめ》の下 知らしめししを【或るはいふ、めしける。】
 天《そら》にみつ 大和《やまと》を置きて、
 あをによし 奈良山を越え、【或るはいふ、そらみつ 倭を置き あをによし 奈良山越えて。】
 いかさまに 念ほしめせか、【或るはいふ、念ほしけめか。】
(158) 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 樂浪《ささなみ》の 大津の宮に、
 天の下 知らしめしけむ。
 天皇《すめろき》の 神の尊《みこと》の、
 大宮は 此處《ここ》と聞けども、
 大殿は 此處と云へども、
 春草の 茂く生ひたる、
 霞立つ 春日の霧《き》れる【或るはいふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる。】
 ももしきの 大宮|處《どころ》、
 見れば悲しも。」【或るはいふ、見ればさぶしも。】
 
 玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》
 橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》【或云 自v宮】
 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》
 樛木乃《ツガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之乎《シラシメシシヲ》【或云 食來】
 天尓滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎超《ナラヤマヲコエ》【或云 虚見 倭乎違置 青丹吉 平山越而】
 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》【或云 所念計米可】
 天離《アマザカル》 夷者雖v有《ヒナニハアレド》
 石走《イハバシル・イハバシリ》 淡海國乃《アフミノクニノ》
 樂浪乃《ササナミノ》 大津宮尓《オホツノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食兼《シラシメシケム》
 天皇之《スメロキノ》 神之御言能《カミノミコトノ》
 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖v聞《ココトキケドモ》
 大殿者《オホトノハ》 此間等雖v云《ココトイヘドモ》
 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》
 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》【或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留】
 百礒城之《モモシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》【或云 見者左夫思母】
 
【譯】神武天皇以來、御出現になつた歴代の天皇は、次々に天下を統治遊ばされた武天智天皇に至つて、何とおぼし召されたか、大和の國をさしおいて、奈良山を越え、田舍は方々にあるけれども、中にも近江の國の樂浪《ささなみ》の大津の宮に、天下を統治遊ばされた、天皇の尊い御方の、大宮は此處であると聞くけれども、大殿は此處と云うことであるが、ただ春草の茂く生い、春の日のぼんやりとしている大宮處は、見れば、悲しいことである。
(159)【構成】別に段落は無い。全篇一文として解釋すべきである。
【釋】玉手次 タマダスキ。既出。ここでは畝火に懸かつている。手次は頸《うなじ》に懸けるもので、頸に懸けることをウナグというので、采女、畝火等のウネを引き出すために使用されるとされている。
 畝火之山乃橿原乃日知之御世從 ウネビノヤマノカシハラノヒジリノミヨユ。畝火の山の橿原の日知の御世は、神武天皇の御代をいう。古事記に「畝火之白檮原宮」、日本書紀に、「橿原宮」とある。その地は畝火山の東南とされ、今の橿原神宮の地であるという。ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂に賢明の人をいい、古代、農耕のうえに暦日を知る人を尊んで言つた語と考えられる。暦のことをヒヨミというは、日を數える義であり、月のことをツクヨミというも、月數を數える義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であろう。漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用いられ、聖の字の意味に習合した。聖は、風俗通に「聖者聲也、聞v聲知v情、故曰v聖也」、尚書大禹謨傳に「聖無v所v不v通」、老子王注に「聖智才之善也」とあつて、事に通じてすぐれた人をいう。古事記下卷に、仁コ天皇の御世を稱えて、「故稱2其御世1、謂2聖帝世1也」、續日本紀天平十六年五月の詔に「飛鳥淨御原宮、大八洲所v知天皇命、天下治賜平賜比弖」など使用し、みなこれをヒジリと訓讀している。從は、それよりしての意味の助詞を表示していると解されるが、國語のその意味の助詞には、ユ、ユリ、ヨ、ヨリの四種がある。集中、假字書きの例には、ユ三十八、ユリ二、ヨ十六、ヨリ四十四であつて、ユリの二例は防人の歌であるから、これを除外して、他の三種のうちいずれを採るべきかを決定しなければならない。まず一音に讀むべきか、二音に讀むべきかを考えると、集中、助詞に當てていると考えられる從の用例は、百九十七個あつて、それを含んでいる句の音數を、五音もしくは七音として見ると、一音に相當するもの百九、二音に相當するもの七十五、一音に讀んでも音數の超過するもの十、二音に讀んでも音數の不足するもの三である。かように一音に相當するもの(160)と二音に相當するものとが、共に相當に多數である以上は、その訓をその一方のみに決定してしまうわけにゆかない。よつて、なるべく一句の音數を、五音もしくは七音に近いように讀む外はない。そこでこの歌の場合は、ヒジリノミヨ從であつて、從の字を一音に讀む時に、この句は七音になるものであるから、そこで、ユもしくはヨのうちの一つが、訓として採擇せらるべきである。集中における、假字書きの例は、ユは、由三十四、遊一、喩一、湯二、ヨは、欲十三、夜二、用一であつて、ユの方が多く、その使用の時代も概してユの方が古い。古事記の歌謠では、ヨを用いているが、今、本集の例について、ユを使用することとする。ユの用法には、
 イ、ある點よりこなたの意。時についていうもの。「天地の別れし時ゆ、神さびて高く貴き」(卷三、三一七)
 ロ、同前、處についていうもの。「こちごちの國のみ中ゆ、いで立てる不盡《ふじ》の高嶺は」(卷三、三一九)
 ハ、を通つての惠。「卷向の穴師の川ゆゆく水の」(卷七、一一〇〇)
 ニ、そこからの意。「あをによし奈良の都ゆ、おしてる難波に下り」(卷十九、四二四五)
 ホ、に由つての意。「まけ長く戀ふる心ゆ秋風に妹が音聞ゆ、紐ときまけな」(卷十、二〇一六)
 ヘ、比較を元すもの、「心あれかも常ゆけに鳴く」(卷十三、三三二八)
の諸法がある。元來、ある點から起つて、ずうつとこちらへ引き續いての意がもとで、それから他の用法に分化をとげたもののようである。この歌のは、天地ト別レシ時ユの用法と同じく、時間的に、その時からこなたた引き續いての意を表示している。そこでこの句の意は、神武天皇の御世から引き續いての意になる。
 或云自宮 アルハイフ、ミヤユ。本文の御世從に對する別傳である。これは別の資料によつたものと認められるが、詞句の相違の多い場合は、或本歌として別掲し、比較的すくない場合に、本文の中に割註として插入したようである。それで大體、以下の或云のすべてが、同一の一個の別傳から來ているものと見てよい。かような別傳を生じたのは、作者の兩案もあるべきであるが、人麻呂の場合は、傳誦されたために生じたものが多(161)いのであろう。そうして大抵の場合、本文の方が正傳であつて、或云の方は詞句の弛緩があり、また時に從つて意識的にその場に適うように變更することもあつた。ここの自宮も訛傳であつて、本文の方が意味がよく通じる。
 阿禮座師 アレマシシ。アレは、出現する意で生まれるをいう動詞、下二段活。神、天皇、御子など貴い方の出現、出生をいう語。マシは敬語の助動詞。その下のシは時の助動詞。アレマシシ神は、天皇をいう。天皇はその崩御によつて神として考えられる。ここは過去の天皇なのでかようにいう。
 神之盡 カミノコトゴト。
   カミノコトゴト(玉)
   ――――――――――
   神之書《カミノシルセル》(神)
   神之書《カミノアラハス》(仙)
   神之書《カミノシルシニ》(代精)
   神之御言《カミノミコトノ》(僻)
   神之書《カミノミコトノ》(攷)
 仙覺本に神之書としているので、諸説があつたが、元暦校本等に、神之盡とあるので、問題はなくなつた。コトゴトは、悉皆の義。御歴代天皇のすべての意。この句は、下の知ラシメシシの主格になつている。
 樛木乃 ツガノキノ。枕詞。音韻の類似に依つて、次のツギツギに懸かる。樛木は、詩經に「南有2樛木1」とあるが、それは枝の下勾せる木の意で、樹名では無い。しかるにわが國のツガにこの字を當てたのは、ツガには相當する漢名漢字が無いので、樹の特質より、この字を借用したのであろうという。本集では、「五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤヅギヅギニ》」(卷三、三二四)、「水枝指《ミヅエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》 刀我乃樹能《トガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギヅギニ》」(卷六、九〇七)、「可牟佐僻?《カムサビテ》 多?流都我能奇《タテルツガノキ》」(卷十七、四〇〇六)、「都我能木能《ツガノキノ》 伊也繼繼爾《イヤツギツギニ》」(卷十九、四二六(162)六)の如く、ツガノキともトガノキとも書いている。よつてツギの音に近くかつ例の多いのに任せてツガノキとするのである。
 弥繼嗣尓 イヤツギツギに。いよいよ次々に。副詞句として、下の知ラシメシシを修飾する。
 天下 アメノシタ。天空の下の義で、國土の意になる。この語は、天下の字を譯したものであろうという。
 所知食之乎 シラシメシシヲ。シラシは、知ルに敬語の助動詞スの接續したもので、統治するの意になる。天下の事を領知されるの謂である。本集假字書きの例に「安麻久太利《アマクダリ》 之良志賣之家流《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九四)、「天下《アメノシタ》 志良之賣師家流《シラシメシケル》」(同、四〇九八)など、シラシメスとある。延喜式祝詞には「所知食、古語云2志呂志女須1」とあつて、後にはシロシメスに轉じた。メスは敬語の助動詞、語原は見スであろう。はじめ所知をシラスに當てて、知る所のの義を表示したものを、慣用によつて、メスの如き助動詞の接續する場合にも、シラシに所知の字を當てるようになつたものであろう。下のシは時の助動詞。ヲは逆轉の意を表示する助詞。知ろしめしたが、しかるにの意である。神武天皇以來の歴代の天皇が、天下を統治されたがの意であるが、下文の意味よりいえば、大和の國において統治されたがの意を語るものである。以上、下文に對して前提法をなしている。
 或云食來 アルハイフ、メシケル。本文の食之乎の別傳である。メシケルは、次の大和を修飾するが、これも本文の方がよい。
 天尓滿――ソラニミツ。大和の枕詞。この句、古事記、續日木紀に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見都、虚見通、虚見津、空見津とあつて、いずれもソラミツと讀まれる。ニの加わつているのはこれのみである。これも元來四音の句であつたものが、歌が文筆的になるに及んで、ニを加えて五音の句となしたものと考えられる。
 倭乎置而 ヤマトヲオキテ。大和の國をさし置いて、この以前、歴代の皇居はおおむね大和の國にあつたの(163)を、天智天皇に及んで大和から出られたことをいう。
 青丹吉 アヲニヨシ。枕詞、既出。
 平山乎超 ナラヤマヲコエ。大和の國から奈良山を超えて、山城の國に出て、それから近江の國に向かわれたことをいう。平山は、大和の國の北部の山。既出。日本書紀、崇神天皇紀に、「官軍屯聚而?2?草木1、因以號2其山1、曰2奈羅山1【?2?此云2布瀰那羅須1。1」とある。踏み平《なら》したので、奈羅山といい、ここに平山の字を當てたのである。山容高からず廣がつているので、この山號となつたものであろう。
 或云虚見倭乎置青丹吉平山越而 アルハイフ、ソラミツヤマトヲオキアヲニヨシナラヤマコエテ。例によつて別傳であるが、本文の方が五七調が整い、この方は音數不整の句がある。平山乎超の句などは、本文の方が諧調である。
 何方御念食可 イカサマニオモホシメセカ。イカサマニは、いかなるさまに。オモホシは、思フに敬語の助動詞スの接續したオモハスの轉じたもの。メセは敬語の助動詞。カは疑問の助詞。思ホシメセバカの意で、條件法となり、係りの形になるが、實は獨立句として插入されたものと解すべきである。この種の用例は、數個あるが、同じ作者の一例をあげれば、「天つ水仰ぎて待つに、何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、 つれも無き眞弓の岡に、宮柱太數きまし、みあらかを高知りまして、明言《あさごと》に御言問はさず、日月のまねくなりぬれ、そこゆゑに皇子の宮人、行く方《へ》知らずも」(卷二、一六七)語の順序から云えば、この句は上のソラニミツ大和を置キテの上にあるべきであるが、この句の内容を強調するために、ここに插入して、大和を捨てて近江に遷都された眞意の測りがたいことを敍したのである。
 或云所念計米可 アルハイフ、オモホシケメカ。木文の御念食可の別傳である。ケメは過去推量の助動詞。お考えになつたのであろうかの意で、插入句となることは本文に同じ。
(164) 天離 アマザカル。枕詞。地方は、天空のもとに遠く離れているというので、夷を修飾する。サカルは、遠く離れる意の動詞。ヒナが、日の彼方で、日の去り行く方を意味するとせは、天を遠く去る日と續くとも解せられる。
 夷者雖有 ヒナニハアレド。ヒナは、都に對して地方をいう。ニに相當する文字無くして者をニハと讀む例は、「眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》」(卷一、四七)などある。近江の國をさして、夷にはあれどという。大和の國から夷というのである。
 石走 イハバシル。イシハシリ(元赭)、イハハシル(西)、イハバシノ(考)。古くイハバシルと讀み、水の石の上を走る義としていた。萬葉考には、イハバシノとし、石橋の義としている。集中、ノに當る字を書いている例無く、假字書きのものに、「伊波婆之流 イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タキモトドロニ》」(卷十五、三六一七)の例のあるに任せて、イハバシルと讀む。ここは枕詞として、淡海の水《ミ》に懸かると解すべきである。石走り合フの義より、アフに懸かるとする説もある。
 淡海國乃 アフミノクニノ。アハウミ(淡海)の約アフミとなる。遠ツ淡海(遠江)に對して近ツ淡海ともいい、奈良時代の初めに至つて近江と書くようになつた。
 樂浪乃 ササナミノ。近江の國南方一帶の地名。本集では、志賀、大津、比良、連庫山等に冠している。日本書紀、孝コ天皇紀には、「近江狹々浪合坂山」とあり、古事記仲哀天皇記には、「出2沙々那美1、悉斬2其軍1」とある。樂浪の字は、「神樂聲浪《ササナミ》」(卷七、一三九八)「神樂浪《ササナミ》」(卷二、一五四)と書いたものがあり、これを略して樂浪と書いたもので、神樂のはやし詞にササというより起つたものである。この句を枕詞とする説のあるのは誤りである。
 大津宮尓 オホツノミヤニ。天智天皇の六年に近江の宮に遷居されたことをいう。
(165) 天下所知食兼 アメノシタシラシメシケム。エムは過去推量の助動詞で、その連體形。上の天尓滿からこの句まで、次の天皇の修飾句である。
 天皇之神之御言能 スメロキノカミノミコトノ。スメロキは、皇祖、皇神祖などの文字を當てたように、先の世の天皇をいい、轉じては現在の天皇をも併せいう。假字書きは須賣呂伎と書いたもの十例あり、キは清音である。ここは天智天皇の御事であるから、スメロキと讀むを可とする。先帝なるが故に神という。ミコトは尊稱、語義は御言の義で、御言を發する方の意から出で、多く命、尊の文字を當てる。ここは天智天皇の御上をいう。
 大宮者此間等雖聞 オホミヤハコココトキケドモ。天智天皇の大津の宮の址は比處であると聞くけれどもの意。その既に荒墟となつていることを語つている。
 大殿者此間等雖云 オホトノハココトイヘドモ。上の大宮は云々の句と對句を成しており、同じ内容を、言を變えていつたまでである。
 春草之茂生有 ハルクサノシゲクオヒタル。ハルクサノ(元赭)、ワカクサノ(矢)、ワカクサカ(代初)、ハルクサシ(玉)。下の大宮所を修飾する。宮殿のあとが荒れて、ただ春草のみ茂く生いたるよしである。
 雷立春日之霧流 カスミタツハルビノキレル。霞立をカスミタチと讀んで、實景のこととする説がある。しかしこの句は慣用句で、春を修飾し、しかも一面には實景の敍述でもあること、既に軍王見山の歌に釋せるが如くである。キレルは、動詞霧ルに、助動詞リの連體形の接續した形。霧ルは、水蒸氣の立ちこめて霞んでいるをいう。春季に霧ということは、「春山の霧にまどへる鶯」(卷十、一八九二)などの例がある。上の春草ノ茂ク生ヒタルの句に對して、この霞立ツ春日ノ霧レルの句は、對句を成して、共に竝んで下の大宮所を修飾している。なおこの對句をいずれも疑問の格とし、ここで句切とする説があるが、誤解である。この對句は共に(166)實景であつて、何等疑問の分子を含んでいない。
 或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留 アルハイフ、カスミタツハルビカキレル、ナツクサカシゲクナリヌル。本文の春草ノ茂ク生ヒタル以下の別傳である。春日香、夏草香の二つのカは、共に疑問の係助詞であつて、これを受ける霧流、および成奴留は共に連體形の終止句である。この別傳は、春と夏とに關して對句を構成しており、今がそのいずれの時であるかを明瞭にしない點、また疑問の辭を用いて、身の其處にあらざる趣に言いなしている點など、本文の傳來に比して劣るものである。この別傳が傳唱されたものであり、近江の大津の宮址にあらずして吟唱したものであることを語つている。
 百礒城之 モモシキノ。枕詞。大宮を修飾する。モモは多數の意。シキは石の築造物の意で、大宮の壯大にして堅固なのを稱美してその修飾句となる。古事記雄略天皇記に、「毛々志紀能《モモシキノ》 淤富美夜比登波《オホミヤヒトハ》」とあり、古い歌いものから來ていることを證している。
 大宮處 オホミヤドコロ。宮殿のある土地。ここでは古く大津の宮のあつた土地をいう。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。カナシは、感情が刺戟され激動する?態をいう形容詞で、古くは好愛の情にも悲哀の情にも使つている。ここは大津の宮の荒墟を哀悼せる意を表示している。モは感動の助詞。
 或云見者左夫思母 アルハイフミレバサブシモ。本文の見者悲毛の別傳である。サブシは、集中、不怜、不樂など書いたものをもかく讀んでいるように、心の樂しからざる貌である。後のサビシの原語であるが、ここには寂寥感は出ていない。
【評語】近江の大津の宮が、非常な抱負を以つて建設された皇居であり、新しい文化を採用した宮殿であつただけに、その荒廢したあとは、一層悲痛なものがある。湖上の春光はしずかに霞んで、この平和な、しかし寂寞の地上に臨んでいる。この間に立つ遊子の感懷は、この一篇の悲歌となつて傳えられる。天智天皇が、近江(167)に新京を建てられたのは、大和における舊い豪族の勢力から離脱しようとするにあつたと傳え、ここにそれらの大和における人々の不平も想像される。人麻呂は、その大和の國の住人の一人として、また遊子の一人として、この歌を作り、そういう氣分は、おのずからにこの歌の底の心となつている。畝火の山の橿原の御代から説き起した構成は、この歴史的な懷古の情を盛る歌として適切で、雄大感を與える。末に近く用いられた二個の對句も、それぞれに有效で、前の對句は、宮殿のあとを求める心があらわれ、後の對句は、季節の物を描いて、作者を包む空氣を作り成している。序詞のような冗漫な句も無く、全體によく纏まつている名作とすべきである。
 
反歌
 
【釋】反歌。以下二首とも、前の長歌の反歌である。
 
30 樂浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛碕《からさき》、幸《さき》くあれど、
 大宮人の 船待ちかねつ。
 
 樂浪之《ササナミノ》 思賀乃辛碕《シガノカラサキ》 雖2幸有1《サキクアレド》
 大宮人之《オホミヤビトノ》 舶麻知兼津《フネマチカネツ》
 
【譯】樂浪の志賀の辛碕は、變ることなく榮えてあるけれども、都が亡びてから、大宮人の船を待つことができなくなつた。
【釋】樂浪之思賀乃辛碕 ササナミノシガノカラサキ。近江の國の樂浪の思賀の地なる辛碕の意。第五句に對して主格であり、かつサキの音を引き出すに役立つている。
 雖幸有 サキクアレド。サキクは、無事幸福にある意の副詞。思賀の辛碕が、昔の大津の宮時代のままに變わらずにあれどもの意。第二句の末のサキの音を受けて、サキクと起している。かような例は、「樂浪乃《ササナミノ》 志(168)我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》」(卷十三、三二四〇)の如きがある。なお、「はね蘰《かづら》今する妹をうら若み、いざ率《いざ》川の音のさやけさ」(卷七、一一一二)、「いにしへの倭文機帶《しづはたおび》を結び垂れ、誰とふ人も君には益さじ」(卷十一、二六二八)の如きもあつて、これらは序詞を受けて同音の語で起している。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人は、宮廷に奉仕する人々。男子のみならず、女子をも含んでいう。
 船麻知兼津 フネマチカネツ。カネは得ざる意の動詞。獨立語としても使用されるが、多く他の動詞に附して助動詞のように使用される。大宮人の船を待つているが、その目的を達し得ないの意。
【評語】思賀の辛碕は、風光明媚にして昔ながらに存しているけれども、もうこの地に船を漕ぎ寄せる大宮人も無い由を歌つている。天地は悠久であるけれども、時は移り人は去つて、また舊時の姿にあらざる感情が巧みに歌われている。前の長歌の内容と全く別方面に詞を起して、同じく都の荒れたのを悼む心に歸つている。これも反歌の一形式である。サキの音を重ねたのも有效に響いている。こういう音を重ねるのは、序歌の手法から出發したものであろう。
【參考】類想。
  やすみししわご大君の大御船待ちか戀ふらむ。志賀の辛碕(卷二、一五二)
 
31 樂浪の 志賀《しが》の【一は云ふ比良の。】大曲《おほわだ》
 淀《よど》むとも、
 昔の人に またも逢はめやも【一は云ふ 會はむと思へや。】
 
 左散難弥乃《ササナミノ》 志我能《シガノ》【一云比良乃】大和太《オホワダ》
 與杼六友《ヨドムトモ》
 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》【一云將v會跡母戸八】
 
【譯】樂浪の志賀の大きな灣は、よし水が淀んでいるにしても、昔の大津の宮時代の人には、二度とあうことはあるまい。
(169)【釋】左散難弥乃志我能大和太 ササナミノシガノオホワダ。樂浪の志賀の大灣。ワダは、灣曲せる水域。曲灣。大津灣をいう。
 一云比良乃 アルハイフ、ヒラノ。本文の志我の別傳である。一云は或云に同じ。比良は、琵琶湖の西岸の地名であるが、比良の大わだと呼ぶには適しない。これも本文の方がよい。
 與杼六友 ヨドムトモ。ヨドムは、水の停滯して流通せざるをいう、集中しばしば不通の字を用いている。トモは假設條件法を示す助詞。たとえ淀んでいるにしても。このトモは、事實を認めつつ假定であらわす語法とする佐伯梅友氏の説がよい。
 昔人二 ムカシノヒトニ。大津の宮の時代の人に。
 亦母相目八毛 マタモアハメヤモ。ヤが反語の助詞。また逢うことがあろうか、否、そのような事は無いの意。
 一云將會跡母戸八 アルハイフ、アハムトモヘヤ。本文の亦母相目八毛の別傳。モヘは、動詞思フの已然形。オが省路されている。ヤは反語の助詞。アハメヤとアハムトモヘヤと、どう違うかというに、アハメヤはこれから先逢うことはあるまいの意。アハムトモヘヤは、これから先逢うだろうとは、今思わないの意。たとえば、忘レメヤは、將來も忘れないだろう。忘ルレヤは、不定時で今を主としていう。これらの例によつて、相違する所を知るべきである。
【評語】淀んでいるが、それはそれとしても、故人にはまたとあうまい。昔の榮華をこの地に見ることはできまいというのである。水を湛えて洋々たる琵琶湖の大觀に面して詠んだ歌であることを忘れてはならない。
 
高市古人、感2傷近江舊堵1作歌 或書云高市連黒人
 
(170)高市《たけち》の古人《ふるひと》の、近江の舊き堵《みやこ》を感傷して作れる歌【或る書にいふ、高市の連黒人】
 
【釋】高市古人 タケチノフルヒト。この人は他に所見無く、或る書にいう如く、高市の連黒人の誤りで、古人とあるは、歌詞の初句から誤つたものであろうといわれている。卷の九、一七一八の歌の前行には、高市歌一首とあり、かような形の資料を採り入れて、この歌の題詞の如きができたのであろう。
 近江舊堵 アフミノフルキミヤコ。大津の宮をいう。堵は、垣の義の字、轉じて都と通用している。
 或書云 アルフミニイフ。他の資料によつて作者の別傳を註している。その何の書であるかは知られていない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。高市氏は、天つ彦根の命の子孫。もと縣主の姓であつたが、天武天皇の十二年に連の姓を賜わつた。黒人は、大寶二年の太上天皇の參河の國への行幸に際して歌を傳え(卷l、五八)、また持統太上天皇の吉野の宮への行幸にも歌を傳えた。(卷一、七〇)その他、攝津、尾張、近江、越中等に旋行した時の歌を殘している。作品は短歌のみであるが、自然に接觸すること深く、よく獨自の歌境をなしている。また妻との贈答の歌もある。
 
32 古《ふ》りにし 人に我あれや、
 樂浪の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき。
 
 古《フリニシ》 人尓和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》
 樂浪乃《ササナミノ》 故京乎《フルキミヤコヲ》 見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
【譯】自分は古くなつた人でもないのに、この樂浪の古い都を見ると悲しくなる。
【釋】古人尓和禮有哉 フリニシヒトニワレアレヤ。イニシヘノヒトニワレアレヤ(類)、フルヒトニワレアルラメヤ(西)、フルヒナニワレハアレバヤ(代初)、イニシヘノヒトニワレアルヤ(僻)、フリニシヒトニワレアレヤ(新訓)。フリニシのニは完了の助動詞で、強意の用をしている。古びてしまつたの意で、次の句の(171)人を修飾する句。この句、イニシヘノとも讀まれているが、フリニシと讀むのは、「古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》 如v此許《カクバカリ》 戀爾將v沈《コヒニシヅマム》 如2手童兒1《タワラハノゴト》」(卷二、一二九)、「古《フリニシ》 人乃令v食有《ヒトノヲサスル》 吉備能酒《キビノサケ》」(卷四、五五四)の如き、イニシヘノと讀むに適しない例があるからである。フリニシの假字書きの例としては、「大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》」(卷二、一〇三)、「香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》」(卷三、三三四)の如きものがある。古リニシ人は、時代を經過した舊人の意である。ヒトニワレアレヤは、何々の人であろうかの意。初句を受けて、自分は既に古び去つた人であるからかの意を成している。アレヤは、既出、「白水郎有哉《アマナレヤ》」(卷一、二三)の例に同じ。ヤは係助詞、下の見レバ悲シキに懸かる。
 樂浪乃故京乎 ササナミノフルキミヤコヲ。大津の古き都をの意。
 見者悲寸 ミレバカナシキ。二句のアレヤを受けて結んでいる。
【評語】近江の舊都の地に到つて、悲哀の感の禁ずること能わざるは、自分が舊人である故かと歌つている。自己を顧みている所に、この歌の特色がある。同じ舊都を見ても、人麻呂は歴史の跡をしのび、黒人は自家の上を反省する。そこに兩者の相違が見出される。人麻呂の歌が萬人に理解せられ愛好せられると共に、黒人には、個性の表現があつて、現代人の指向する所に適うものがある。
 
33 樂浪《ささなみ》の 國つ御神《みかみ》の うらさびて
 荒《あ》れたる京《みやこ》、
 見《み》れば悲《かな》しも。
 
 樂浪乃《ササナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》
 荒有京《アレタルミヤコ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
【譯】近江の樂浪の地を守護する國の神の心が樂まなくなつて、それにより荒れはてた都を見れば悲しいことである。
(172)【釋】樂浪乃國都美神乃 ササナミノクニツミカミノ。クニツミカミは、國土の神靈。上のミは美稱。國つ神に同じ。天つ神に對して、國土に土著している神をいう。
 浦佐備而 ウラサビテ。ウラは、心の上にいう詞。表面に現れないことに用いる。ウラ樂シ、ウラ悲シなどいう。サビは荒涼として樂しまない意の動詞。「浦佐夫流《ウヲサブル》 情佐麻禰之《ココロサマネシ》」(卷一、八二)ともあり、上二段活である。樂浪の國の心が樂まず荒れた都と續く。
 荒有京 アレタルミヤコ。荒廢した帝都。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。前の歌は、二句に係助詞ヤがあつたから、見レバ悲シキと結んだが、この歌にはさような特殊係助詞が無いから、悲シモと結んでいる。モは感動の助詞。
【評語】この歌は、荒廢した都を見て、そこから國土の神の心の荒れたことを感じている。眼前に國土の神を祭つた社があり、それが何となく荒涼たる樣に見えるにしても、思想的には、國土の神靈を感じている所に意義がある。荒廢している?態の敍述に特色のある歌である。神社の荒れている實況とする説もあるが、國ツミ神ノウラサビテといういい方は、そうは解し難い。
 
幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌 或云山上巨憶良作。
 
紀伊の國に幸《い》でましし時、川島《かはしま》の皇子《みこ》の作りませる御歌。【或るはいふ、山上巨憶良の作れる。】
 
【釋】幸于紀伊國時 キノクニニイデマシシトキ。歌の左註に日本紀を引いて、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也とある。この事、今の日本書紀には、朱鳥は元年のみで、その翌年からは年號無く、その四年九月の事としている。
 川島皇子 カハシマノミコ。天智天皇の第二の皇子。持統天皇の五年九月薨じた。年三十五(六五七−六九(173)一)。
 天武天皇の十年三月に、諸人に命じて帝紀及び上古の諸事を撰録せしめた時には、諸人の名の第一に擧げられ、また懷風藻に詩を傳えているなど、文學の人であつたことを語る。懷風藻には傳記もあり、それには、大津の皇子と親交があつて、しかも大津の皇子の叛を朝廷に告げたのは、河島の皇子だつたという。よつていまだ爭友の益を盡さずと論じている。
 或云山上臣憶良作 アルハイフ、ヤマノウヘノオミオクラノツクレル。作者に關する別傳である。この或云は、卷の九、一七一六の歌によるものと認められる。そこにはこの歌を載せて、題詞に山上歌一首とある。なお歌經標式には角の沙彌の歌としている。かように作者に異傳のあるのは、この歌が廣く傳唱されたことを語つている。
 
34 白浪の 濱松が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》、
 幾代までにか 年《とし》の經《へ》ぬらむ。
  一は云ふ 年の經にけむ。
 
 白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケグサ》
 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》
  一云 年者經尓計武
 
【譯】白濱のうち寄する濱の松が枝にかけた、手向の祭の幣《ぬさ》どもは、幾代までの久しい年を經ていることであろう。
【釋】白浪乃 シラナミノ。
   シラナミノ(類)
   ――――――――――
   白神乃《シラカミノ》(考)
   白良乃《シララノ》(考)
   白紙乃《シラカミノ》(燈)
(174)   磐白乃《イハシロノ》(墨)
 白浪のうち寄するという意で、印象的な云い方である。萬葉考には白神、又は白良《しらら》の誤りとして、地名としているが、誤りとするには及ばない。
 濱松之枝乃 ハママツガエノ。濱邊なる松の枝のの意。次句の手向草の懸かつている場處を説明している。この濱は、紀伊の國の海濱であろうが、何處とも知られない。
 手向草 タムケゲサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪惡の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから轉じて、道路の惡神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を獻ずる意になるのである。クサは料の義。タムケゲサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、實質としては、布、木綿、絲、紙等が數えられる。それらのものが、古くなつて松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。
 幾代左右二賀 イクヨマデニカ。いくばくの代までにかの意で、下の年ノ經ヌラムに對して係りになつている。カは疑問の係助詞。左右をマデと讀むのは、左石の手の義で、一方の手を片手といい、兩手をマデというからである。集中、左右の字面は多く、また左石手、二手、諸手などとも書いている。なおこの種の字面をマデと讀むに至つたことについては、石山寺縁起に一つの説話を載せている。源の順が萬葉集の歌に訓を下した時に、左右の字に至つて行きつまつた。そこで石山寺の觀音に參籠し、その訓を得ることを祈願した。參籠を終つて下向の日、大津で、馬方が片手で馬に荷を附けていたのを、荷主が罵つて、「までにて附けよ」と言つたので、左右をマデと讀むべきことを悟つたというのである。これは勿論一つの傳説に過ぎないが、古人が、萬葉集の訓讀事業について、興味をもつて語り傳えたことを示すものである。
(174) 年乃經去良武 トシノヘヌラム。年ノは主語。ヘは經過する意の動詞。ヌは完了の助動詞、ラムは現在推量の助動詞で、現在、年が經ているだろうと推量している。上に疑問の辭があるので、年の經過したことを、幾代までにかと疑つていることが知られる。しかしこれは、年の經たことを疑つているのでは無い。その經過の世代の數を疑つているのである。
 一云年者經尓計武 アルハイフ、トシハヘニケム。卷の九の歌詞によつている。第五句の別傳である。ニは完了の助動詞、ケムは過去推量の助動詞。既に幾代かを經過したことであろうの意。
【評語】持統天皇の御事蹟としてしばしは諸國に行幸または御幸あらせられたことが傳えられている。大和の國内では吉野の離宮には度々行幸された。その他では、四年九月の紀伊への行幸、六年三月の伊勢への行幸、大寶元年九月の紀伊への御幸などが傳えられている。かような行幸の度毎に、大宮人は供奉して歌を詠んだ。それは作歌修業に取つての絶好の道場となつたのである。
 この歌は、初二句の簡潔な云い方が、紀州海岸の特色をよく云い得ている。白波のうち寄せる濱邊の松が枝、それは行く人毎に、手向の祭をして行つた處である。手向の行事の無くなつた今日では、感懷も薄くなつたが、古人は、そこに追憶の盡きないものがあつたであろう。旅人の何人も感ずる心を歌い得たものといえる。
【參考】別傳。
   山上歌一首
  白那彌之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
    右一首、或云河島皇子御作歌(卷九、一七一六)
   如2角沙彌記濱哥1曰
  旨羅那美能一句 婆麻々都我延能二句 他牟氣倶佐三句 伊倶與麻弖爾可四句 等旨能倍爾計牟五句(歌經標(176)式)
 
日本紀曰、先島四年庚寅秋九月 天皇幸2紀伊國1也。
 
日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊の國に幸《い》でましたまひきといへり。
 
【釋】朱鳥四年 アカミドリノヨトセ。題詞のもとに記した通り、今の日本書紀では、無年號の四年になつている。日本書紀、天武天皇紀、朱鳥元年七月の條に、「戊午(二十二日)、改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥此云2阿※[言+可]美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。この朱鳥のことは、扶桑路記に、「十五年、大倭國進2赤雉1、仍七月改爲2朱鳥元年1」とある。
 
越2勢能山1時、阿閉皇女御作歌
 
勢《せ》の山を越えましし時、阿閉《あべ》の皇女《ひめみこ》の作りませる御歌
 
【釋】越勢能山時 セノヤマヲコエマシシトキ。勢能山は、和歌山縣伊都郡背山村にあり、紀の川の右岸にある。大和の國から紀伊の國にはいつての通路に當る。セの音は、男性を意味するので、しばしばそれに關して歌が詠まれており、また紀の川を隔てた對岸に、妹山を想定するようにもなつた。阿閉の皇女(後の元明天皇)がまだ帝位につかれなかつた前に、紀伊の國へ行かれた時、その途上、勢の山を越えられて詠まれた歌。この御旅行は、持統天皇四年九月の行幸に從われたものなるべく、皇女の夫君草壁の皇太子は、その前年四月に薨ぜられている。故に山に託して夫君を慕われる哀悼を寫されたものと見られる。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。元明天皇。天智天皇の第四女にまします。草壁の皇太子の妃となり、文武天皇を生み、慶雲四年文武天皇の崩御された後を承けて、帝位におつきになつた。和銅三年三月、始めて平城に都(177)を遷し、ここに七代の帝都をお開きになつた。靈龜元年讓位、養老五年、平城宮に崩ぜられた。壽六十一。
 
35 これやこの、
 倭《やまと》にしては わが戀ふる
 紀路にありといふ 名に負ふ勢の山
 
 此也是能《コレヤコノ》
 倭尓四手者《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》
 木路尓《キヂニ》有云《アリトイフ・アリトフ》 名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
【譯】これがまあ、大和の國に在つて自分の戀い慕つている、夫《せ》という名を持つた、紀伊の國へ行く路にありという、あの勢《せ》の山であるのだ。
【釋】此也是能 コレヤコノ。或る事物を指して、これがかの何々なるかと指示する語法。ヤは、感動の係助詞で、最後の名詞の下に、これを受けて結ぶ助動詞の省略された形である。これがか、この何々はの意である。本集には「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海孃子《あまをとめ》ども」(卷十五、三六三八)がある。
 倭尓四手者 ヤマトニシテハ。大和にありては、大和にありし時は。
 我戀流 ワガコフル。第五句のセを修飾する連體句。四句の紀路ニアリトイフは、名ニ負フと共に、この句と竝んで勢の山を修飾している。「わが戀ふる勢の山」、「紀路にありといふ勢の山」、「名に負ふ勢の山」の三文を、一文に要約した云い方である。
 木路尓有云 キヂニアリトイフ。キチニアリテフ(類)、キチニアリトイフ(西)、キチニアリチフ(僻)、キチニアリトフ(考)。キヂは、紀路。紀伊の國の國府に行く路である。元來、何路というのは、その土地に行く路をいうので、その土地なる道路の義では無い。たとえば、大和と九州とのあいだを通ずる同一の道路でも、九州から大和に向かう時は大和路であり、逆に大和から九州に向かう時は筑紫路である。「大和路の吉備の兒島を過ぎて行かは筑紫の兒島思ほえむかも」(卷六、九六七)。これは筑紫で詠んだ歌である。「筑紫路の可太《かだ》の(178)大島しましくも見ねば戀しき妹をおきて來ぬ」(卷十五、三六三四)。これは周防の國で詠んだ歌である。後世は、道路を、地圖の上などに見るように、概念的に取り扱つて、何の地の道路として解釋するけれども、古人は、自分の立脚點から他の地點に通ずる用として道路を見る。わが前に横たわる道路として見るので、何の地に行く路を何路というのである。それで、紀路は、紀伊の國の國府に行く路である。嚴密にいう時は、勢の山は紀伊の國の堺内であるけれども、大和から紀伊の國の中心的地方へ行く途に當つているので、かくいうのである。トイフは、トフともチフとも讀まれる。チフというのは中世以後の語である。紀伊の國にありと人のいう所のの意。
 名二負勢能山 ナニオフセノヤマ。前にもいう如く、大和にしては我が戀ふる勢の山、紀路にありという勢の山、名に負う勢の山というべきを、各句を受けて、ここに至つて、結ぶのである。名ニ負フは、名に背負い持つている義。セは男子の稱である。そのわが戀う夫という名を持つている山の義である。
【評語】夫の君の薨去の後、たまたま夫《せ》と名づけられた山に接して、無量の感慨を寄せられた歌である。勢の山の修飾句が、三個も重なつているのは、その山に對するさまざまの思いを一擧に言い盡そうとする氣もちをあらわしている。詠嘆の氣に滿ちた歌である。
 山の名をセというので、それを男子の稱に思いよせて趣向を立てているが、この外、この山については、こういう取り扱い方をした歌が多く存している。今その一二を擧げて見よう。
   丹比の眞人笠麻呂の、紀伊の國に往き、勢の山を越えし時に作れる歌一首
  栲領巾《たくひれ》の懸けまく欲しき妹が名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ(卷三、二八五)
   春日の藏首老のすなはち和ふる歌一首
  よろしなへわが夫の君が負ひ來にしこの勢の山を妹とは呼はじ(同、二八六)
(179)遂には、川の北岸に勢の山があるので、對岸の山を妹の山と名づけるに至つた。「流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のあなう世の中」(古今和歌集)など、その地形をよく説明しているが、妹山は既に萬葉中にも見えている。
  勢の山に直《ただ》に對《むか》へる妹の山事|聽《ゆる》せやも打橋わたす(卷七、一一九三)
  紀の國の濱に寄るといふ鰒玉《あはびだま》拾はむと云ひて、妹の山勢の山越えて行きし君(下略、卷十三、三三一八)
 
幸2于吉野宮1之時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于吉野宮之時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。この題詞は、以下の長歌二篇(それぞれ反歌一首を含む)に係るものである。持統天皇は、吉野の宮を御愛好になり、その行幸は、日本書紀に傳えるだけでも三十度に及んでいる。そのうちのいずれの時とも知られない。またこの長歌二篇が、同時の作か別時の作かも知られない。人麻呂は妻に死別した時、石見の國から上京する時など、一つの題下に、しばしは二篇の長歌を作つている。その豐富な思想と詞藻とから考えても、一つの機會に、二篇の長歌を作ることもあり得るのである。
 
36 やすみしし わが大王《おほきみ》の
 聞《きこ》しめす 天《あめ》の下に、
 國はしも 多《さは》にあれども、
 山川の 清き河内《かふち》と、
 御心を 吉野の國の
(180) 花散らふ 秋津の野邊に、
 宮柱 太敷《ふとし》きませば、
 ももしきの 大宮人は、
 船|竝《な》めて 朝川渡り、
 舟競《ふなぎほ》ひ、夕河渡る。」
 この川の 絶ゆることなく
 この山の  いや高知らす、
 水《みな》ぎらふ 瀧《たぎ》の宮處《みやこ》は、
 見れど飽《あ》かぬかも。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 所v聞食《キコシメス》 天下尓《アメノシタニ》
 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》
 山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》
 御心乎《ミコロヲ》 吉野乃國之《ヨシノノクニノ》
 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊尓《アキヅノノベニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 船竝?《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》
 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》
 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》
 此山乃《コノヤマノ》 弥高思良珠《イヤタカシラス》
 水激《ミナギラフ》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》
 見禮跡不v飽可問《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の御統治遊ばされる天の下に、國は多くありますが、山や川の清き河内であるとして、吉野の國の秋津の野邊に、立派な宮殿をお作りになりますから、お仕え申す人々も、船を竝べては朝川を渡り、舟を競つては、夕川を渡ります。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く御座遊ばされる、水の激する宮處は、見れど飽きぬことであります。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋すべきである。第一段、舟競ヒ夕河渡ルまで。事實を敍する。以下第二段、第一段の事實を根據として作者の感想を述べる。表面吉野の離宮の景勝を稱えることになつているが、内意はその宮の永久に立ち榮えるだろうということを慶賀している。
【釋】八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。この歌では持統天皇をさす。所聞食に對して主(181)格となつている。
 所聞食 キヨシメス。キコシヲスとも讀まれている。本集における假字書きの例には、キコシメスに、「波乃海《ナニハノウミ》 於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》 伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》」(卷二十、四三六一)があり、キコシヲスに、「企許斯遠周《キコシヲス》 久爾能麻保良敍《クニノマホラゾ》」(卷五、八〇〇)、「伎己之乎須《キコシヲス》 久爾熊麻保良爾《クニノマホラニ》」(卷十八、四〇八九)、「伎己之乎須《キコシヲス》 四方乃久爾欲里《ヨモノクニヨリ》」(卷二十、四三六〇)がある。かようにいずれも例がある上に、食の字はメスともヲスとも讀める字であるから訓法を決定し難いが、類似の内容を盛つた字面に所知食があり、これはシラシメスであつて、シラシヲスとは讀めないものであるから、それによつてキコシメスと讀むべきである。キコシは、動詞聞クの敬語。メスは敬語の助動詞である。天下の有樣をお聞きになるの義から、統治あらせられるの意になる。次句の天下に對して、連體形となつている。
 天下尓 アメノシタニ。既出。
 國者思毛 クニハシモ。このクニは地方の國の義。各地の謂である。シモは張意の助詞。
 澤二雖有 サハニアレドモ。サハは多數の意。數多くあるけれども。以上、澤山にあるけれどもと言つて、以下とくにその中の一つをあげる形式で、長歌にしばしば見られる表現樣式である。三二二、三八二、四〇〇〇など。
 山川之 ヤマカハノ。山と川との。
(182) 清河内跡 キヨキカフチト。カフチはカハウチの約言。アハウミをアフミという類である。河内は、川を中心とした一帶の土地をいう。古人の言語は、概念的に使用せず、發言者の視聽する所に隨つて使用するのであつて、この河内の語も、そのように解するのを本義とする。川邊に立つて見られる範圍を河内というので、川、兩岸、および眺望に入る所の山までを含むのである。ここでは吉野川を中心とした一帶をいう。流域、溪谷などの語に近いが、そういう概念的な云い方では無い。國名となつた河内も、大和川を中心とした地名であり、その他、現に地名として殘つている諸國の河内の地勢を見れば、この語の持つ意味がわかるであろう。「山川ノ清キ河内」の語は、かくしてよく理解される。川の曲つた處とする從來の解は、正しくない。「三吉野乃《ミヨシノノ》 多藝都河内之《タギツカフチノ》 大宮所《オホミヤドコロ》」(卷六、九二一)、「阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》」(卷十四、三三六八)の河内の如きもこれによつてよく理解される。但しそれはどこまでも川を中心にした語であり、また慣用の久しきに及んで、川中の如き用例をも生じていることは、注意されねばならない。トは、トシテの意。山や川の清らかな河内として。
 御心乎 ミココロヲ。枕詞。ヲは感動の助詞。御心は佳しの意に、吉野を修飾する。「味酒を三輪の祝《はふり》」(卷四、七一二)、「御佩《みはか》しを劍の池」(卷十三、三二八九)というが如きヲの用法である。この枕詞は、他に用例を見ない。人麻呂の創始であろうか。
 吉野乃國之 ヨシノノクニノ、クニは一地方の稱。泊瀬の國、葛城の國などという。
 花散相 ハナチラフ。チラフは、動詞散ルの連績動作をあらわす。次句に對する連體形の句。花の續いて散り亂れるをいう。この句は、この歌中において、季節を描いている唯一の句であつて、これによつてこの歌の作られた時節を示している。
 秋津乃野邊尓 アキヅノノベニ。秋津は、吉野の離宮のあつた處の地名。「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》」(卷六、(183)(九〇七)、三芳野之《ミヨシノノ》 秋津乃川之《アキツノカハノ》」(同、九一一)、「秋津野爾《アキヅノニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》」(卷七、一四〇六)など見えている。今、宮瀧附近の吉野川岸に秋戸岸の名が殘つているという。地名の起原については、古事記下卷の雄略天皇記に、吉野に幸せられた時に、虻《あぶ》が御腕を食つたのを、蜻蛉が來てその虻を食つたので、御製の歌があり、その時からその野を名づけて阿岐豆野というと傳えている。
 宮柱大敷座波 ミヤバシラフトシキマセバ。フトは、シクの壯大なのを形容する。シクは、平面を領有する意の動詞。フトシクは、宮柱を堂々と建てる義で、宮殿を建立すること。マセは、敬語の助動詞。「眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》」(卷二、一六七)など使用されている。古事記上卷に、「於2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》、於2高天原1氷椽多迦斯理《ヒキタカシリ》」などあるによつて、フトシクとフトシルと同語とする説があるが、シクとシルとは違うのである。宮柱については、太敷クとも太知ルともいうが、高天ノ原ニ千木高シクとは云わないのを以つても、兩語の同じくないことを知るべきである。シクは、敷、布などの文字の意にちかく、平面を領有することであり。シルは、知の意で、廣く領有する意になるのである。以上條件法を成し、以下それに對する結語である。
 百磯城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトは。既出。以下の文に對する主格である。
 船竝?旦川渡 フネナメテアサカハワタリ。離宮に奉仕するために、大宮人は、朝は舟を竝べて、吉野川を渡ることを敍している。フネナメテは、舟を多く竝べてで、多數の人の出仕する有樣をいう。アサカハは、朝の川。、「未v渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》」(卷二、一一六)などある。
 舟競夕河渡 フナギホヒユフカハワタル。船の進行を競つて夕の川を渡るの意。舟競は、「布奈藝保布《フナギホフ》 保利江乃可波乃《ホリエノカハノ》」(卷二十、四四六二)の用例がある。上の船竝メテ云々の句と對句をなし、大宮人の主格を、兩岐に受けて結んでいる。以上第一段。吉野の宮の造營と廷臣の奉仕とを説いている。
(184) 此川乃絶事奈久 コノカハノタユルコトナク。上の朝川夕河の二句を受けて、コノ河ノと起し、これを譬喩に使つている。この川の水の流れて止まないように、絶える事無しにの意で、絶ユルコト無クイヤ高知ラスと續く語脈である。
 弥高思良珠水激瀧之宮子波 イヤタカシラスミナギラフタギノミヤコハ。
   イヤタカシラスミツタヽク(古葉)
   イヤタカシラスミヅハシルタギノミヤコハ(新訓)
   ――――――――――
   彌高良思珠水激瀧之宮子波《イヤタカカラシタマミヅノタキノミヤコハ。》(西)
   彌高良之珠水激《イヤタカカラシタマミヅノ》(細)
   彌高有之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高加良之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高良之隕水激《イヤタカカラシオチタギツ》(古義)
 思良珠は、元暦校本等による。流布本には思良を良之に作り、珠を下の句に附けて讀んでいるが、それでは意を成さない。珠をスと讀むは、「波太須珠寸《ハダススキ》」(卷八、十六三七)があり、地名の珠洲がある。タカシラスは山を受けて、高く立派に御座遊ばされるの意で、連體言である。この句は、遙に山川ノ清キ河内を受けて、上の此川乃云々の句と對句をなしているが、文脈は、絶ユルコト無クイヤ高シラスと績いて、次の瀧ノ宮處を修飾する。この山の高きが如くと、高を起している。イヤ高シラスは、いよいよ高大に御領有あらせられるの意。水激は、ミヅハシルとも、ミヅタギツとも讀まれるが、私注に、字鏡集に激にミナギルの訓があるによつてミナギラフと讀んだのがよかろう。水が霧る。水けむりが立つ意で、次のタギを修飾する。水の奔流するをいう。タギは、水の激しく流れる處、ミヤコは、宮室のある地。
 見禮跡不飽可問 ミレドアカヌカモ。どれほど見ても飽きないことであるの意。以上第二段。作者の感想を述べて一首を結んでいる。
(185)【評語】この歌は、初めに諸國の多い中に、特によい勝地として吉野川の流域を選擇し、その地に宮作りし、その川に大宮人の賑える有樣を敍逃し、これを前提として、その川のように、その山のようにと、雙頭に祝意を述べ、そのような勝地の宮室は、見れども飽きないことであると感激を敍している。徹頭徹尾、ほめ詞に終止したところ、この歌の特色ともいうべく、わずかに作者の感情を吐露した末の一句は、常套の成句であつて、特殊性は發揮していない。もつとも、この見レド飽カヌカモは、人麻呂の創始した句であるかも知れないが、あまりに模倣が多くなつている。吉野離宮の景勝をほめるという點からは、十分に、成功していると云えるであろう。
【參考】類句、見れど飽かぬかも。
  霞うつ安良禮《あられ》松原住吉の弟日孃子《おとひをとめ》と見れど飽かぬかも(卷一、六五)
  はだ薄久米の若子《わくご》がいましける三穗の石室《いはや》は見れど飽かぬかも(卷三、三〇七)
  (上略)駿河なる不盡《ふじ》の高嶺は見れど飽かぬかも(同、三一九)
  山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ激流《たぎ》の河内は見れど飽かぬかも(卷六、九〇九)
  神からか見がほしからむ。み吉野の激流の河内は見れど飽かぬかも(同、九一〇)
  (上略)御食《みけ》向ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも(同、一〇六二)
  若狹なる三方の海の濱清みい往き還らひ見れど飽かぬかも(卷七、一一七七)
  吾妹子が業《なり》と作れる秋の田の早穗《わさほ》の蘰《かづら》見れど飽かぬかも(卷八、一六二五)
  百傳ふ八十の島廻《しまみ》を榜ぎ來れど粟の小島し見れど飽かぬかも(卷九、一七一一)
  古の賢《さか》しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも(同、一七二五)
  山高み白木綿花《しらゆふばな》に落ち激《たぎ》つ夏實の河門《かはと》見れど飽かぬかも(同、一七三六)
(186)  ももしきの大宮人の蘰《かづら》けるしだり柳は見れど飽かぬかも(卷十、一八五二)
  秋田刈る假廬の宿《やどり》にほふまで咲ける秋はぎ見れど飽かぬかも(同、二一〇〇)
  玉梓《たまづさ》の君が使のた折りけるこの秋はぎは見れど飽かぬかも(同、二一一一)
  白露を玉になしたる九月《ながつき》の有明の月夜《つくよ》見れど飽かぬかも(同、二二二九)
  あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(卷十五、三六〇二)
  大宮の内にも外《と》にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬかも(卷十七、三九二六)
  うるはしみわが思《も》ふ君はなでしこが花に擬《なぞ》へて見れど飽かぬかも(卷二十、四四五一)
  秋風の吹き扱《こ》き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(同、四四五三)
 
反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑《とこなめ》の、
 絶ゆることなく また還り見む。
 
 雖v見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシノノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》
 絶事無久《タユルコトナク》 復遠見牟《マタカヘリミム》
 
【譯】見れども飽きない吉野の川の、なめらかな岩床のように、永久に絶える事なくまた立ち歸り見たいことであります。
【釋】雖見飽奴 ミレドアカヌ。長歌の末句の見レド飽カヌカモを取つて、反歌を起している。連體形で、次の句を修飾している。
 常滑乃 トコナメノ。トコナメは、從來、常に水に濕つて、苔など生え、常になめらかな處と解していた。井上通泰氏の萬葉葉新考の説に、頂の平な岩の列なつているものと云つている。同書に引いた柳田國男氏の説(187)に、トコナメは、天然にも人工にも、村境などに、神を祭る用の壇に磐石の竝べたのをいうとある。他の用語例に、「妹が門入り泉川の常滑にみ雪殘れり。いまだ冬かも」(卷九、一六九五)、「こもりくの豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑の恐《かしこ》き道ぞ。戀ふらくはゆめ」(卷十一、二五一一)の例がある。この歌および卷の十一の歌に、いずれも常滑の文字を使用している所を見れば、本集においては常になめらかなるものの義に使用されていたと解される。また山田孝雄博士の説に、中世の作庭の術語に、地中にさし出したる巨石を常滑という。これは古語の殘つたものであろうかとされている。澤瀉久孝博士の常滑考(萬葉古徑二)には、常滑のメと、床竝のメと、音韻の違うことを指摘し、これはどうしても滑の義であるとし、岩石の水苔などが生えてすべり易いものだとされている。その説く所詳細である。以上、目前の景物を敍して、絶ユルコトナクの序としたのである。吉野川の岸邊の大磐石を取つて、その恆久性により、絶えることのないようにの譬喩とした。
 絶事無久 タユルコトナク。常滑の如く絶ゆること無くと起している。下のマタ還リ見ムに對する副詞句。この句は、長歌の中の句を取り、その意を更に明確にしているものである。
 復還見牟 マタカヘリミム。またもこの他に來て、この勝景を見ようとの意である。
【評語】長歌の詞句を使つて、それと密接な關係を保つている。反歌の形態として原形的であり、長歌と不可分な性質をよく表示するものである。この關係は、次の長歌と反歌とにおいても保たれている。人麻呂の作品の音樂的な性格を語るものである。
【參考】類句、絶ゆることなくまたかへり見む。
  み吉野の秋津の川の萬代に絶ゆることなくまたかへり見む(卷六、九一一)
  卷向《まきむく》の病足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む(卷九、一一〇〇)
(188)  皀莢《かはらふぢ》に延ひおほどれる糞葛《くそかづら》絶ゆることなく宮仕せむ(卷十六、三八五五)
  ものゝふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつゝ見む(卷十八、四一〇〇)
 
38 やすみしし わが大王、
 神《かむ》ながら 神さびせすと、
 芳野川 激《たぎ》つ河内《かふち》に
 高殿を 高知りまして、
 登り立ち 國兄を爲《せ》せば、
 疊《たたな》はる 青垣山、
 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつき》と
 春べは 花かざし持ち、
 秋立ては 黄葉《もみち》かざせり。【一はいふ、もみち葉かざし。】
 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も、
 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると、
 上《かみ》つ瀬に 鵜川を立ち、
 下《しも》つ瀬に 小網《さで》さし渡す。」
 山川も 寄りて奉《まつ》れる
 神の御代かも。」
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 吉野川《ヨシノガハ》 多藝津河内尓《タギツカフチニ》
 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 上立《ノボリタチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》
 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲカキヤマ》
 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツキト》
 春部者《ハルベハ》 花插頭持《ハナカザシモチ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》【一云 黄葉如射之】
 逝副《ユキソフ》 川之神母《カハノカミモ》
 大御食尓《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》
 上瀬尓《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタチ》
 下瀬尓《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタス》
 山川母《ヤマカハモ》 依?奉流《ヨリテマツレル》
 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(189)【譯】わが大君は、神であるままに、貴い行動をされると、芳野川の激流の峽谷に、高殿を高くお立てになつて、それに登り立ち國見を遊ばされると、疊まつている青い垣の山は、その山の神の奉る貢として、春の頃は花を插頭にし、秋が來れは、紅葉を插頭にしている。添つている吉野川の神も、御食膳にお仕え申し上げようと、上の方の瀬では鵜飼をし、下の方の瀬では、小網をさし渡して魚を取つております。山や川も寄り來つて、お仕え申し上げる神の御代であります。
【構成】第一段、下ツ瀬ニ小網サシ渡スまで。天皇が吉野の離宮の高閣に上つて御覽になれば山川の景勝はかくの如しと敍している。以下第二段、第一段の事實に基づいて作者の感想を述べる。この二段構成の樣式は前の長歌と同じである。
【釋】安見知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。この歌では持統天皇をさす。
 神長柄 カムナガラ。假字書きの例に、「可武奈可良《カムナガラ》 可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一三)などあり、表意文字としては、「神隨《カムナガラ》」(卷一、五〇等)、「神在隨《カムナガラ》」(卷十三、三二五三)とも書いている。日本書紀孝コ天皇紀には、惟神とあり、また隨在天神ともある、その惟神、隨在天神をもカムナガラと讀んでいる。この語と同一の意味を有すと考えられる語にカムカラがあつて、「神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》」(卷二、二二〇)、「見禮等母安可受《ミレドモアカズ》 加武賀良奈良之《カムカラナラシ》(卷十七、四〇〇一)など使用されている。また「蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》(卷十三、三二五〇)に對して、別傳として擧げられた人麻呂歌集の歌には「葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》」(卷十三、三二五三)とある。この神カラは、國カラ、山カラ、川カラ、オノヅカラ等と同樣の語構成を有するものと見られ、そのカラは、故の義であると考えられる。これに準じて、カムナガラのカラも故の義と見るべく、ナは接續の助詞と解すべきである。かくて「皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》」(卷二、一九九)、「山隨《ヤマナガラ》 如v此毛現《カクモウツシク》 海隨《ウミナガラ》 然眞有目《シカマコトナラメ》」(卷十三、三三三二)の皇子隨、山隨、海隨の隨もナガラとして、同樣の語と見るべ(190)く、その他の動詞に附くナガラも、同樣に考えられる。ここにおいて、「諾己曾《ウベシコソ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 君之隨《キミナガラ》 所v聞賜而《キコシタマヒテ》(卷六、一〇五〇)の君之隨の如きも、君ナガラと讀んで、この類の語構成を有するものと考えられる。そしで神ナガラの語は、神の故、神の故に、神にましますが故に、神意のままに等の内容を有することが知られる。ここは、神にましますがままにと解すべく、神の思想の轉化して來たことを見るべきである。この句は、久の句の副詞句となつている。
 神佐備世須登 カムサビセスト。カムサビは、假字書きの例には」「可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一一、「可牟佐飛仁家理《カムサビニリ》」(同、八六七)などある。上二段動詞の名詞形。このサビは、體言についてその性質を發揮するをいう時に使用される。孃子《をとめ》サビ、男サビ、丈夫《ますらを》サビ、良人《うまびと》サピ、翁サビ等の用例がある。神サビは、神異である性質を發揮するをいう。普通でない行爲をすること。「乎止米止毛《ヲトメドモ》 乎止米佐比須止《ヲトメサビスト》 可良多萬乎《カラタマヲ》 多毛止爾萬伎弖《タモトニマキテ》 乎止女佐比須毛《ヲトメサビスモ》」(琴歌譜)、「麻周羅遠乃《マスラヲノ》 遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》 都流伎多智《ツルギタチ》 許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》」(卷五、八〇四)のヲトメサビ、ヲトコサビなどについてその用法を知るべきである。セスは、神サビを受けて、それをすることをいう。動詞爲に、敬語の助動詞スの接績したもので、その終止形。この語は、セサ、セシ、セス、セセと活用するが、セス以外は用例が極めてすくない。セサの例、「安左乎良乎《アサヲラヲ》 達家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《《ウマズトモ》 安須伎西佐米也《アスキセサメヤ》 伊射西乎騰許爾《イザセオヲトコニ》」(卷十四、三四八四)この第三四句は、「績《う》ますとも明日著せさめや」である。セシの例、「伊許藝都追《イコギツツ》 國看之勢志?《クニミシセシテ》」(卷十九、四二五四)、セスの例、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》(卷一、四五)、「草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》(同)、セセの例は、この歌の、「國見乎爲勢婆」がそれである。神サビセストのトは、とて、としての意。下の離宮を御造營になり、上り立つて國見をされることの理由を説明している。
 多藝津河内尓 タギツカフチニ。タギツは、「瀧乃河内」(卷六、九一〇)ともいうよりして、タギを名詞、(191)ツを接續の助詞と見られる。また、「明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノトヲ》」(卷十、一八七八)、「雨零者《アメフレバ》 湍都山川《タギツヤマカハ》 於v石觸《イハニフレ》」(同、二三〇八)の如き用例があつて、これらのタギツは動詞と見るべきであるから、タギツ河内のタギツも動詞と見ることもできる。ここは水の激流する意に、タギを體言と見るべきだろう。河内は既出。この句は、離宮御造營の場處を指元している。
 高殿乎 タカドノヲ。タカドノは高閣をいう。日本靈異記の訓釋に、「楼閣、多加度野」、倭名類聚鈔に、「樓、太賀度能」とある。
 高知座而 タカシリマシテ。高殿ヲを受けて、高知リマシテという。空に高き宮殿を高く御占據遊ばされて。高は知る有樣の高大なのをいう。シルは、領知する、占有する。以上二句、離宮を壯大に御造營あらせられての意である。
 上立 ノボリタチ。その高殿に上り立つてである。舒明天皇の香具山の國見の御製の歌にあつた句。
 國見乎爲勢婆 クニミヲセセバ。
   ――――――――――
   國見乎爲波《クニミヲスレバ》(西)
   國見乎爲波《クニミヲセレバ》(?)
   國見之爲波《クニミシセレバ》(墨)
   國見勢爲波《クニミセスレバ》(古義)
 クニミは既出。高處において、國土の風景を觀望すること。セセバは、動詞爲の敬語法、爲スの已然形に、助詞バが附いたものである。原文、もと國見乎爲波とあつて、これをクニミヲスレバと讀んでいたのであるが、然る時は敬意を失して、天皇の行動を敍するにふさわしくない。作者の行動とする時は、高殿ヲ高知リマシテと天皇の事に敍して來た上の句を受けて、中途で唐突に主格が變ることになつて不都合である。古寫本を見る(192)と、冷泉本に爲の下に勢がある。元暦校本には爲の下に、※[(生+丸)/云]がある。この字は藝と勢との中間の字である。類聚古集等には、爲の下に藝がある。藝では訓法に困るから、冷泉本によることとした。元暦校本の字も、勢の誤りとも見られよう。セセバは他に用例は無いが、あるべき語法である。國見をなされれば。以下その國見の結果について述べる。
 疊有 タタナハル。古事記中卷に「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」とあり、本集にも、タタナヅクの例がある。ここに疊有とあり、古くタタナハルと讀んでいたが、古くは他にこの語の用例が無いとて、諸説に疊著の誤として、タタナヅクと讀ませた。しかし中世には髪の重なつているのをタタナハルといい、類聚名義抄には委をタダナハルと訓み、その委は積る意であるから、ここももとのままにタタナハルと讀むべきものであろう。疊の動詞は、後にはタタムとマ行に活用するが、「君我由久《キミガユク》 道乃奈我?乎《ミチノナガテヲ》 久里多多禰《クリタタネ》」(卷十五、三七二四)の例もあつて、古くはナ行に活用したもののようである。古くナ行に活用した動詞が、後にマ行に變わつた例は他にもある。語の意味は、疊まり重なつている意で、ここでは山岳の重疊をいう。なおタタナハルは、中世の物語の類には、多く見えている。「御ぐし、たたなはれたるいとめでたし」(宇津保物語、藏開上)、「みづら、かたはらにたゝなはりまるがし、かきいでたまへれば」(濱松中納言)、「髪のうちたたなはりて、ゆらゝかなる」(枕草子)。
 青垣山 アヲカキヤマ。青い墻壁をなしている山。古事記中卷に、「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」、播磨國風土記に「倭者青垣、々山投坐、市邊之天皇」の用例があり、青垣のみで、山の意を成すものである。この句、下の文に對して主格を成している。
 山神乃 ヤマツミノ。古事記上卷に、山の神、名は大山津見の神というとある。山の神靈の謂である。ツミは、海神をワタツミという。そのツミに同じ。
(193) 奉御調等 マツルミツキト。マツルは、奉獻の意。假字書きの例に、「萬調《ヨロヅツキ》 麻都流都可佐等《マツルツカサト》」(卷十八、四一二二)などある。ミツキは、人民より土宜を獻ずるをいう。ミは接頭語、穀物以外の國土の産物を貢するを調という。トはトシテの意。ここは山に花黄葉の飾れるを、山の神靈の奉る御調であると見立てたのである。
 春部者 ハルベハ。ベは方の義、ほど、頃。春の頃は。「春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミヂバカザシ》」(卷二、一九六)などの用例がある。
 花插頭持 ハナカザシモチ。カザシは髪插の義。その動詞としての用法である。花を頭插として持ち。古代、時の花を頭插にする風習があり、これを頭插といい、本集にもその用例が多い。春の山に花が咲くのを、擬人法により、山の神靈が花を頭插にすると敍している。これが山の神の御調であるとするのである。
 秋立者 アキタテバ。タテは、出發する意の動詞タツの已然形。タツは起つ、發するの意で、その事の始り、進行につくをいう。行路に臨むをミチダチ、海路に上るをフナダチなどという。そのタチもこれである。春立ツ、秋立ツというは、その義から出て、春になる、秋になるの意になる。
 黄葉頭刺理 モミチカザセリ。モミチ、既出。カザセリは、上にいう動詞カザスに助動詞リの接續したもの。句意は上の花插頭特に準じて知るべきである。上の春ベハ花カザシ持チに對して、この二句は對句を成している。前の山神の奉る御調としての句を對句に受けている。
 一云黄葉加射之 アルハイフ、モミチバカザシ。本文の黄葉頭刺理の別傳で、これは、中止形になつている。モミチバの假字書きには、「毛美知婆能《モミチバノ》 知良布山邊由《チラフヤマベユ》」(卷十五、三七〇四)、「毛美知婆波《モミチバハ》 伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》」(同、三七二二)があり、また毛美知葉とも書いている(卷十五、三六九三、三七〇〇)のを見ると、モミチは單に、黄變するにいう語と思われる。なおいずれも知を使つているのによれは、もと清音であつたと見られる。
(194) 逝副川之神母 ユキソフカハノカミモ。この句、從來遊副川乃神母とあつて、諸説のあつたところである。吉野山中にユフ川という川があるともいわれていた。しかし元暦校本には、遊を逝に作つているから、これによつて、改むべきである。宮殿の前を流れる吉野川を、逝キ副フ川といつている。その川の神も云々と、上の山神云々と、對している。川の神は川の神靈をいう。
 大御食尓 オホミケニ。ケは食物。オホミはその美稱。オホミも元來形容詞から出た動詞の古い連體形であろう。假字書きの例に「於保美氣爾《オホミケニ》 都加倍麻都流等《ツカヘマツルト》」(卷二十、四三六〇)がある。
 仕奉等 ツカヘマツルト。奉仕するとして。川の神の奉仕をいう。語例は前項に擧げてある。
 上瀬尓 カミツセニ。上流の方の瀬に。瀬は水の淺く騷いで流れるところ。
 鵜川乎立 ウカハヲタチ。鵜を使用して魚を漁するを鵜川という。後の鵜飼に同じ。タチは、鵜川を催すをいう。「字奈比河波《ウナヒカハ》 伎欲吉勢其等爾《キヨキセゴトニ》 宇加波多知《ウカハタチ》」(卷十七、三九九一)、「夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》 宇加波多知家里《ウカハタチケリ》(同、四〇二三)、「和我勢故波《ワガセコハ》 宇可波多多佐禰《ウカハタタサネ》」(卷十九、四一九〇)などの用語例があつて、この場合のタツが四段活であることが知られる。この立ツは他動詞で、ここに鵜川を催して行う意味が確められる。
 下瀬尓 シモツセニ。下流の方の瀬に。
 小網刺渡 サデサシワタス。サデは小さい網。倭名類聚鈔に「文選注云、?【所買反、師説佐天】網如2箕形1、狹v後廣v前者也」とあり、本集にも「左手蝿師子之《サデハヘシコノ》 夢二四所v見《イメニシミユル》」(卷四、六六二)、「三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手潮《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》」(卷九、一七一七)などある。今も方言に殘つている語。サシは小網を河中にさし入れる行動。ワタスは、小網をして河を渡らせる義。サシワタスで小網を川に入れて漁獵をする意となる。ここにて段落となる。上ツ瀬ニ鵜川ヲ立チの句に對して、下ツ瀬ニ小網サシ渡スと對句になつている。勿論、上流や下流で、あるいは鵜川を行い、あるいは小網を渡しているということを對句表現に依つて分かつて言つたまで(195)である。ただ文章上の技術でかようにいう。上流でも下流でも、漁獵をしているのである。鵜川を立ち、小網さし渡すは、もとより人のすることであるのを、それが川の神の勤仕であると説いたのは、川の神が人をして漁獵せしめ、魚を得しめる意であつて、すべて神意に出でたものと解するのである。以上第一段、事實を敍述している。
 山川母 ヤマカハモ。山も川もで、第一段の山の神と川の神との行爲に關する敍述を受けて總括している。
 依?奉流 ヨリテマツレル。ヨリテタテマツル(元赭)、ヨリテマツレル(元赭)、ヨリテマツル(神)、ヨリテツカフル(西)、ヨリテツカヘル(考)。山の神も川の神も寄り來つて獻上物をする義。ヤツレルは、上の奉ル御調トのマツルに同じで、獻つているの意である。從來ツカフルと讀んでいるが、奉をツカフと讀むべき例が他に無い。また一首のうち、同一の字を別樣に讀むことは、なるべく避けた方がよい。
 神乃御代鴨 カミノミヨカモ。この御代は、あたかも神の御代の如きであると感嘆して文を終つている。カモは感動の助詞。天皇の御代は、神の御代では無い。しかるに帝コの宏大なことは、さながら神の御代のようであるというのを、文章上、譬喩表現を超越して、何は何なりというあらわし方をした。
【評語】この歌は、吉野の宮の勝景に筆を借りて、帝コの宏大なことを敍している。對句を重ね用い、堂々として敍述して來るところ、いかにも力強いところがある。ただ、春部ハ、秋立テバと、春秋を對句に用いて、作者現在の季節をあきらかにすることを逸している。頌コの賦として、名篇の一たるには違いはないが、やはり國民を代表して歌つているような、類型的のところがある。しかも凡小の作品に比して、山の神や川の神も寄つて奉仕するという規模の大きいところに、人麻呂の特色が認められる。
 
反歌
 
(196)39 山川も 寄りて奉《まつ》れる 神《かむ》ながら
 たぎつ河内《かふち》に 船出《ふなで》せすかも。 
 
 山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテマツレル》 神長柄《カムナガラ》
 多藝津河内尓《タギツカフチニ》 船出《フナデ》爲《セス・スル》加母《カモ》
 
【譯】山の神も川の神も、慕い寄つて奉仕をする、神にましますがままに、激流の河中に船出をなされることであるなあ。
【釋】山川毛因而奉流 ヤマカハモヨリテマツレル。前の歌の末を受けている。山の神も川の神も寄り來つて奉仕する神ながらと、連體法で續くところである。
 神長柄 カムナガラ。長歌にある句。神にましますが故に。
 多藝津河内尓 タギツカフチニ。この句も長歌にある句。ここは狹く川中にの義に使つているが、やはり高殿に立つて御覽になるその視野の中にあることを敍している。
 船出爲加母 フナデセスカモ。フナテセムカモ(元)、フナテスルカモ(元朱)、フナテセシカモ(神)、フナデセスカモ(考)。前の三六の長歌に、モモシキノ大宮人は船竝メテ朝川渡リ舟競ヒ夕川渡ルの文意が、ここに出ていて、宮殿にお仕えする人たちが、神意を受けて、激流ではあるが船出をすると感歎したとも見られる。しかし船出セスカモと、敬意を含めて讀み、天皇の御行動とする説の方がよいようである。神ナガラは、天皇の性質をいう句であるから、それを受けては、天皇の行動とするのがもつともである。船出スルカモの訓でも、天皇の行動と解することもできる。
【評語】この反歌も、長歌の末を受けて歌つている。長歌には山川の奉仕を説き、それを受けて川中に船を浮べられることを説いて、全體の構想を完成している。高殿から御覽になつた吉野を中心としての大觀は、ここに至つて中心點をその中の一點に移した。長歌の概念的なのに比して描寫であるのが、長歌の缺陷を補つて(197)いる。
 
右日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸2吉野宮1、八月、幸2吉野宮1、四年庚寅二月、幸2吉野宮1、五月、幸2吉野宮1、五年辛卯正月、幸2吉野宮1、四月、幸2吉野宮1者、未2詳知1何月從駕作歌。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野の宮に幸《い》でましたまひき。八月、吉野の宮に幸でましたまひき。四年庚寅の二月、吉野の宮に幸でましたまひき。五月、吉野の宮に幸でましたまひき。五年辛卯の正月、吉野の宮に幸でましたまひき。四月、吉野の宮に幸でましたまひきといへれば、いまだ詳に知らず、いづれの月|從駕《おほみとも》にして作れる歌なるかを。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホヌギニイハク。以下日本書紀によつて、持統天皇の吉野の宮への行幸の數次にわたることを記し、この歌の作がそのいずれの度であるかを知らない旨を述べている。但し日本書紀によれば天皇の行幸は三十餘度に上つており、ここにはその一端を擧げたに過ぎない。
 
 者 トイヘレバ。テヘレバと讀む説があるが、古語でないことは、既に記した。
 從駕 オホミトモニシテ。駕は車駕の義。直接に天皇をいうを憚つて、その車乘をいうのである。唐制、天子の行を駕というとある。
 
幸2于伊勢國1時、留v京、柿本朝臣人麻呂作歌
 
伊勢の國に幸《い》でましし時、京に留まりて、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于伊勢國時 イセノクニニイデマシシトキ。持統天皇の六年三月六日、天皇伊勢に幸し、二十日還御(198)された。この時、人麻呂の妻は、天皇に隨從して伊勢に赴き、人麻呂は京に留まり、行幸の地を思いやつてこの歌を詠んだと推考される。三首連作として解すべきである。なおこの伊勢の國に幸でましし時の句は、下の石上の大臣の歌にまで係かるのである。
 
40 嗚呼見《あみ》の浦《うら》に 船乘《ふなのり》すらむ
 孃子《をとめ》らが
 殊裳《たまも》の裾に 潮滿つらむか。
 
 嗚呼見乃浦尓《アミノウラニ》 船乘爲良武《フナノリスラム》
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》
 殊裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
【釋】嗚呼見《あみ》の浦に、船に乘つているであろう孃子の、美しい裳の裾には、今ごろは潮が滿ちているであろうか。
【評】嗚呼見乃浦尓 アミノウラニ。この歌を卷の十五に載せたのには、初句を、「安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》」とし、左註に「柿本朝臣人麻呂歌曰安美能宇良」云々と記している。アゴは志摩の國の安虞であつて、嗚呼見とあるは、嗚呼兒の誤であろうという説がある。見と兒とはいかにも似た字であるから、或るいは誤る事もあり得よう。しかしアゴが正しいにしても、卷の十五の左註にもアミとあるから、この卷の一のは、古くからアミとなつていたものであろうという萬葉集講義の説に從つて、もとのままにしておく。熟田津ニ船乘セムト(卷一、八)の例の如く、嗚呼見の浦にと船乘していると思われる地點を指示している。
 船乘爲良武 フナノリスラム。船乘は既出。航海しようとして乘船すること。スは動詞爲。ラムは推量の助動詞の連體形で、第三句に續く。船乘をしているであろうの意。
 ※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬の字は集中に多い。※[女+感]の字は字書に無く、萬葉集攷證に、感嬬と書くべきを、連字偏傍を増す習いによつて感にも女偏をつけたのであると云つている。すべて三音に相當する處に用いてあ(199)るので、ヲトメと讀むことが妥當と考えられる。卷の十五の別傳にも乎等女とあり、これについては別に左註を加えていないこともこの訓を證するに足りる。用例には、「※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》」(卷四、五二二)、「桃花《モモノハナ》 下照道爾《シタテルミチニ》 出立※[女+感]嬬《イデタツヲトメ》」(卷十九、四一三九)などある。等の字は、ただ一つのみにあらざることを表示する文字であつて、國語に訓讀するに當つては、ラ、タチ、ドモなどが當てられる。この歌の場合は、卷の十五の別傳に照らしてラと讀むべきことが推考される。ラは、助詞として他の助詞に接續して使用されるものと、接尾語として體言に接續して使用されるものがあるが、今の場合は、その後者である。その接續する體言は多種であるが、その中にはただ一個のみであることの確實なるものも存する。「今日良毛加《ケフラモカ》 鹿乃伏良武《シカノフスヲム》」(卷十六、三八八四)、「此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》」(卷十、二二二四)の如き、今日、此夜はただ一個のみの存在であるのに、接尾語ラがつけられている。人倫につけられる場合も同樣であつて、唯一人の場合でも、妹ラ、子ラ、妻ラなどいう。「見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《モラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》」(卷十三、三二九九)、「奈用竹乃《ナヨクケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)これらの妹ラ、子ラは唯一人の存在であることのあきらかなものである。ヲトメラの場合にあつては、少女一般をさすものと、特定の少女をさす場合とがあるが、複數に相違無いものは、かえつて見出されない。この歌の場合は、作者が行幸に供奉した※[女+感]嬬の一群を思つているか、または特定の人を思つているかが問題となるが、第三首に至つて妹の語を使用しているのによれは、それと關係あるものと見て、※[女+感]嬬のうちの或る一人を思つていると見るべきである。しかしそれを表示するにヲトメの語を使用したのは、客觀的な云い(200)方であつて、思つている人の特性をこれによつて表示しようとしたのである。それに意味の無い接尾語としてラが添加されたものであつて、これによつて、行幸に供奉した※[女+感]嬬たちの多數を想像するのは誤りである。大野ラ、夜ラなどの語によつて、ラの用法をよく見て置くことを要する。
 珠裳乃須十二 タマモノスソニ。裳は、腰部につける衣服である。珠はこれの美しきをほめていう。裾は衣類の下部をいう。
 四寶三都良武香 シホミツラムカ。潮が滿ちているであろうか。潮が滿ちて裳裾を濡らすであろうかというのである。
【評語】京にあつて、行幸にお供をした女官の有樣を想像して詠んでいる。二つのラムを取り除けば、かなりはつきりした描寫となるのは、作者が海邊の旅行を體驗していることを語る。婦人の衣服の下部が海水に濡れるをいうは、多少感覺的な氣もちがあろう。卷の十五の別傳は天平八年の遣新羅使の一行が、船中でこの歌を吟唱したのを傳えたものであるが、特に第四句を、赤裳の裾にしたのは、一層この感が強い。
【參考】別傳。
 安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》 フナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ
    柿本朝臣人麻呂歌曰 安美能宇良《アミノウラ》 又曰 多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》(卷十五、三六一〇)
 
41 釧《くしろ》著《つ》く 手節《たふし》の埼《さき》に、
 今日もかも 大宮人の
 玉藻刈るらむ。
 
 釼著《クシロツク》 手節乃埼二《タフシノサキニ》
 今日毛可母《ケフモカモ》  大宮人之《オホミヤビトノ》
 玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
【譯】志摩の國の手節の埼に、今日は、大宮人が、玉藻を刈つているだろうか。
(201)【釋】釼著 クシロツク。
   タチハキノ(西)
   クシロツク(美)
   ――――――――――
   釧著《クシロツク》(僻)
   鐶著《タマキツク》(僻)
   釵卷《クシロマク》(古義)
 釼は釧の異體字である。わが國の古書、多くこの字をクシロに使用している。これは元來釵の異體字であつて、これをクシロに通用したものらしい。古く出土品に銅や石の釧があり、古語に「佐久久斯呂伊須受能宮《サククシロイスズノミヤ》」(古事記上卷)あり、また同書に「女鳥王所v纏2御手1之玉釧」があつて、古く釧の使用されたことが知られる。本集には、「吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》 左手乃《ヒダリテノ》 吾奧手爾《ワガオクノテニ》 纏而去麻師乎《マキテイナマシヲ》」(卷九、一七六六)、「玉釼《タマクシロ》 卷宿妹《マキネシイモモ》」(卷十二、二八六五)がある。ここに釧を手につけるということから手節の埼のタの枕詞として使用されている。しかしそれは全然歌の内容と關係のないものではなくして、歌中に描寫されている大宮人の装身具として釧が取りあげられたのである。釧をつけることは、わが國の古風俗であつたであろうが、當時大陸風俗の影響を受けて、宮廷奉仕の女官たちが、釧をつけていたのであろう。作者は、その思う大宮人の一人を、この句によつて描寫し、かつこれを利用して枕詞としたものである。
 手節乃埼二 タフシノサキニ。タフシは今、答志の字を當てている。ここには釧著クの句を受けて手節の字を使つている。答志は島であつて、その岬角を想像している。
 今日毛可母 ケフモカモ。今日シモというが如く、モを強意に使用している。カモは疑問の係助詞で、五句の玉藻刈ルラムに懸かつている。分解すれば、カは疑問、モは感動で、カだけでも使用される。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人、既出。男子をも女子をもいい、此處は前の歌の※[女+感]嬬を、別の方面から描いている。「黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも」(卷七、一二一八)など、女子について、(202)大宮人という例である。この句は、次の句に對して主格を成している。
 玉藻苅良武 タマモカルラム。玉藻刈ルは既出。海藻を刈ることは、海人の女子の業とされているので、海人の業をする意味に、その代表作業として擧げている。大宮人が海人などのわざをしているであろうというのである。ラムは、推量の助動詞。
【評語】行幸に御供した大宮人の一人を想像している。その人は釧をつけた新風装の佳人であり、その人の海に遊ぶ?態を玉藻刈ルラムと推量している。美しい想像を描いている歌として見るべきものがある。
 
42 潮騷《しほさゐ》に 伊良處《いらご》の島邊《しまべ》 榜《こ》ぐ船に
 妹乘るらむか。
 荒き島廻《しまみ》を。
 
 潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 榜船荷《コグフネニ》
 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》
 荒島廻乎《アラキシマミヲ》
 
【譯】潮が騷ぐのに、伊良處の島邊を榜ぐ船に、わが思う人も乘つているであろうか。荒い島であるものを。
【釋】潮左爲二 シホサヰニ。シホサヰは、海水の立ち騷いでいるもの。潮流の衝突、または暗礁等があつて、ざわざわしているをいう。その潮の騷いでいる處にの意。「牛窓之《ウシマドノ》 浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》 島響《シマトヨミ》」(卷十一、二七三一)。
 五十等兒乃島邊 イラゴノシマベ。伊良處の島、既出。五十を古語にイという。「五十日太《イカダ》」(筏、卷一、五〇)など、イの假字に多く用いられている。シマベは島のほとり。次の句の榜ぐ船の場所を指示している。
 榜船荷 コグフネニ。榜は、字書に進v船也とあり、動詞に使つて、船を漕ぎ進めるをいう。次句の乘ルを修飾する句。
 妹乘良六鹿 イモノルラムカ。イモは、女子に對する愛稱。一般の女子に對して妹の語を使用する例もあるが、多く對稱として使用し、獨語性の歌語にても、或る特定の一人をさしていうものが多い。ここも人麻呂の(203)想つている或一人をさしていると見るべきである。ラムカは、推量してこれを疑つている。
 荒島廻乎 アラキシマミヲ。ミは接尾語で、地文上の名辭に接續して、浦ミ、磯ミ、道ノ隈ミなどとなる。このミは、それらの地が灣曲せる地形であることをあらわす。その曲つた處の意ではなくして、それが曲つている性質のものであることを示すのである。これらのミをあらわすにしばしば使用される廻は、流布本には多く回に作つているが、古寫本ではすべて廻である。ヲは感動の助詞であるが、荒い島であるよ、それだのにの意を含むものとして解せられる。
【評語】第一首に※[女+感]嬬ラといい、第二首に大宮人と云つていたものが、ここに至つて、はつきり妹と稱している。わが愛人が荒海に舟を出しているであろうかと心もとなく思つているのである。三首を併せてその内容を觀るべきである。この愛人は、持統天皇に仕えた女官で、人麻呂の妻となつたが、人麻呂に先んじて死んだ人と考えられる。三首ともラムとカとを使用しており、推量と疑問の内容であるが、その想像が具體的であるのは、人については作者のよく親しんでいる人であり、地については作者の曾遊の地であることを思わしめる。
 美しい想像の歌として味わうべきである。日本書紀によれば、天皇歸京の後、挾杪《かじとり》(舟こぐ人)八人に、今年の調役を免したとあつて、天皇が行幸先で乘船されたことを示しており、そのような豫定がなされていたのだろう。
 
當麻眞人麻呂妻作歌
 
當麻の眞人麻呂が妻の作れる歌
 
【釋】當麻眞人麻呂 タギマノマヒトマロ。傳未詳。この歌は、卷の四にも出て、その題詞には、「幸2伊勢國1時當麻麻呂大夫妻作歌一首」(卷四、五一一)とある。當麻氏は、用明天皇の皇子麻呂子の王の子孫で、初(204)め公の姓であつたが、天武天皇の十三年に眞人の姓を賜わつた。ここには幸伊勢國時とは無いが、これは上の柿本の人麻呂の歌の題詞にあるのを受けているのである。その行幸に際して、當麻の麻呂は供奉し、妻は京に留まつてこの歌を詠んだのである。
 
43 わが夫子《せこ》は 何處《いづく》行《ゆ》くらむ。
 沖《おき》つ藻の 名張《なばり》の山を
 今日か越ゆらむ。
 
 吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》
 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》
 今日香越等六《ケフカコユラム》
 
【譯】わが夫の君は、何處を旅行しているでしょう。あの伊賀の國の名張の山を今日越えていることでしょうか。
【釋】吾勢枯波 ワガセコハ。ワガセコ、既出。次の句に對して主格をなしている。
 何所行良武 イヅクユクラム。今、何處を旅行しているのだろうと推量している。ここにて段落。
 巳津物 オキツモノ。巳の字は起の通用字として、その訓オキを取つて假字としている。沖の藻のの意で、沖の海藻が海水に隱れるというより、隱れるの古語ナバリと同音のナバリの枕詞となつている。
 隱乃山乎 ナバリノヤマヲ。ナバリは、伊賀の國の地名。普通に名張の字を當てるが、沖ツ藻ノの枕詞を冠している關係から、ここには隱の字を使用している。古語に、隱れることをナバルという。ナバルの語は、ヨナバリの地名を、吉隱とも書いており、また「忍照八《オシテルヤ》 難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》 廬作《イホツクリ》 難麻理弖居《ナマリテヲル》 葦河爾乎《アシカニヲ》」(卷十六、三八八六)のナマリテも、ナバリテに同じく、隱れての義である。その名張の山は、大和と伊勢との通路に當る。
 今日香越等六 ケフカコユラム。今日か越えているならむと推量している。
(205)【評語】この歌、自問自答の形を採つて、旅に出ている夫の行動をかようにもあろうかと推量する心を描いている。その往路か歸路かは、詞句の上に出ていないが、これは勿論歸途の時分で、今日あたりは名張の山を越えて大和へ近づいているだろうかと待ちかねる心を詠んでいるのである。二句と五句とはラムを用いて、韻のようになつているのは、二句と五句とに同句を用いる古體から出發したものである。
【參考】別傳
   幸2伊勢國1時、當麻麻呂大夫妻作歌一首
  吾背子者《ワガセコハ》 何處將v行《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》 今日歟超良武《ケフカコユラム》(卷四、五一一)
 
石上大臣、從駕作歌
 
石上の大臣の從駕にして作れる歌
 
【釋】石上大臣 イソノカミノオホマヘツギミ。石上氏は饒速日の命の子孫、物部氏の支族で、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつて物部の朝臣といい、その後、石上氏に改めたものである。持統天皇の行幸に從つたのは、石上の麻呂なるべく、麻呂は慶雲元年に右大臣、和銅元年に左大臣となつたので、前に廻らして大臣と書いたのであろう。養老元年(四一七)三月三日薨じた。
 從駕 オホミトモニシテ。既出。
 
44 吾妹子《わぎもこ》を 去來見《いざみ》の山を 高みかも、
 大和の見えぬ。
 國遠みかも。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》
 日本能不v所v見《ヤマトノミエヌ》
 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
(206)【譯】わが妻を、さあ見たいと思うが、國境の去來見の山が高い故か、大和が見えない。はたまた國が遠い故なのだろうか。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。ワガイモコを約してワギモコという。ワガセコが男子に對する敬愛の呼稱であるのに對して、これは女子に對する敬愛の呼稱である。吾妹子をさあ見ようという意にイザミに冠している。枕詞ではあるが、一首の内容に深い關係のある詞である。
 去來見乃山乎 イザミノヤマヲ。山の名と、いざ見とを懸け詞にしている。この山は、宮内黙藏先生の伊勢名勝志に、大和と伊勢とのあいだの高見山の一名としている。
 高三香裳 タカミカモ。山を高みかも大和の見えぬという文脈で、山が高い故か、故郷が見えないの意。カモは疑問の係助詞で、下の大和の見えぬに懸かつている。
 日本能不所見 ヤマトノミエヌ。日本の字を使つているが、大和の國である。日本の字を使うようになつたのは、大陸との交通が行われて、國書に使つたのが初めであろう。上のカを受けて、ヌは打消の助動詞の連體形で止めている。ここで段落である。
 國遠見可聞 クニトホミカモ。山ヲ高ミを受けて、いな國ヲ遠ミカと顧みて云つたのである。このカモは疑問の係助詞であるが、この形のままでも文を終結することができる。「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなく。いと若みかも」(卷四、七八六)、「ほととぎす鳴く音はるけし。里遠みかも」(卷十七、三九八八)などある。何々の故であるかの意であるが、下に受ける語を備えていないものである。
【評語】山を高みか、國を遠みかと、幼く疑つている點に興味がある。小高い處に立ち登つて故郷の方を見たことでもあろうか。
【參考】類型。
(207) 河の瀬のたぎつを見れば玉もかも散り亂れたる。川の常かも(卷九、一六八五)
 玉藻刈る井手のしがらみ薄みかも戀のよどめる。わが心かも(卷十一、二七二一)
 
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等1、爲2留守官1。於v是、中納言三輪朝臣高市麻呂、脱2其冠位フ2上於朝1、重諌曰、農作之前、車駕未v可2以動1。辛未、天皇不v從v諫、遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の曰、淨廣肆廣瀬の王等を留守の官としき。ここに中納言|三輪《みわ》の朝臣《あそみ》高市麻呂《たけちまろ》、その冠位を脱《ぬ》ぎて朝にフ上《ささ》げ、諫を重ねて曰《まを》さく、農作の前、車駕いまだ動きたまふべからずとまをす。辛未の日、天皇諌に從はずして遂に伊勢に幸でましたまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行宮《かりみや》に御《おはしま》しきといへり。
 
【釋】右日本紀曰。以下日本書紀に依つて伊勢の行幸を記している。終りまで日本書紀の文である。
 朱鳥六年壬辰 アカミドリノムトセミヅノエタツ。今の日本書紀には朱鳥六年無く無年號になつている。
 淨廣肆 キヨキヒロキヨツノクラヰ。天武天皇の十四年に制定された位階の名で、諸王以上の位に「明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、併十二階」とある。その最下級である。
 廣瀬王 ヒロセノオホキミ。系譜未詳。小治田の廣瀬の王(卷八、一四六八)として歌がある。養老六年正月、正四位の下で卒した。
 留守官 ルスノツカサ。行幸の跡を守る役目の官。
 三輪朝臣高市麻呂 ミワノアソミタケチマロ。三輪氏は大國主の命の後、大神《おおみわ》氏ともいう。天武天皇の十三(208)年に朝臣の姓を賜はる。懷風藻に漢詩の作を留めている。この集には確實な作歌は無いが、大神の大夫の長門の守に任けられし時の歌のうち一首(卷九、一七七〇)は、この人の作であるかもしれない。歌經標式には、次の一首を載せている。
  白雲のたなびく山は見れど飽かぬかも。鶴《たづ》ならば朝飛び越えて夕《ゆふべ》來ましを
 脱其冠位 ソノカガフリヲヌギテ。當時は、冠に依つて位を授けたので、これを辭するに脱の字を使用したのである。下のフ上もこの意味で、位冠を捧持したのである。
 農作之前 ナリハヒノサキ。日本書紀には前を節に作つている。時は三月で、まさに農耕の事のいそがしくなる季節であるをいう。
 五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1 サツキノキノトウシノツキタチニシテカノエウマノヒ、アゴノカリミヤニオハシマシキ。六年三月の行幸は、三月二十日に遷幸になつたので、ここに五月に阿胡の行宮に御したというのは、萬葉集の編者が、日本書紀を讀み誤つたのである。これは五月の條に、三月の行幸の事に關する記事があるのを、直に五月の事としたのである。その文は、「五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1時、進v贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等兄弟三戸、復2十年調役雜徭1、復免2挾杪八人今年調役1。」とある。阿胡の行宮は、人麻呂の歌に見える安虞の地における行宮である。
 
輕皇子、宿2于安騎野1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
輕の皇子の安騎の野に宿りたまひし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】輕皇子 カルノミコ。續日本紀に「珂瑠皇子」とある。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の第二子である。持統天皇の十一年二月、皇太子となり、その八月、受禅して即位した。これを文武天皇と申す。御製の歌は、(209)本集には、「見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風乃《ヤマノアラシノ》」(卷一、七四)の歌の左註に「或云天皇御製歌」とあるだけであるが、懷風藻には、御製の詩數篇を留めている。
 宿于安騎野時 アキノノニヤドリタマヒシトキ。安騎野は、奈良縣宇陀郡の地名。延喜式に阿紀神社あり、その神社は、今、松山町附近の迫間村にある。その附近の野をいうのであろう。此處に宿られたのは、歌意に依るに、草壁の皇太子の薨後のことであり、その薨去は持統天皇の三年四月であるから、その以後、御即位以前のある年の冬であることが知られる。その時に人麻呂が御供して詠んだ歌で、長歌と反歌四首とから成つている。この野には、皇子の父君なる、今は亡き草壁の皇太子がかつて狩獵にお出になつたことがあるので、全篇の主想は、草壁の皇太子を慕い奉ることに懸かつている。
 
45 やすみしし わが大王《おほきみ》
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと、
 太數《ふとし》かす 京《みやこ》を置きて、
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は、
 眞木《まき》立つ 荒山道を、
 石《いは》が根《ね》 禁樹《さへき》おしなべ
 坂鳥の 朝越えまして、
 玉かぎる 夕さり來れば、
(210) み雪降る 阿騎《あき》の大野に
 旗薄《はたすすき》 小竹《しの》をおし靡《な》べ、
 草枕 旅宿《たびやどり》せす。
 古《いにしへ》念《おも》ひて。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》
 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》
 石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》
 坂鳥乃《サカドリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》
 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》
 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野尓《アキノオホノニ》
 旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》
 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》
 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君、照り輝く日の皇子樣は、神にましますままに貴い御行動を遊ばされるとして、お住みになつている都を出て、かの泊瀬の山は、木立の繁り立つた荒い山道であるのに、岩や、塞いでいる樹を押し伏せて、朝お越えになり、夕方になれば、雪の降る阿騎の大野に、ススキやシノを押し伏せて、旅の宿りをなさいます。昔の事をお思いになつて。
【構成】この歌は、全篇一文であつて、別に段落は無い。
【釋】八隅知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。ここは輕の皇子をいう。元來天皇についていう語と考えられるが、皇子に對しては、集中、高市の皇子、新田部の皇子、弓削の皇子について云つている。
 高照日之皇子 タカテラスヒノミコ。タカクテル(元赭)、タカテラス(仙)、タカヒカル(代精)。古事記には、倭建の命に對して、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》 夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀意冨岐美《ワガオホキミ》」(中卷)とある。タカテラスは、このタカヒカルに同じく、高照らすの義で日の修飾語である。高は形容詞、照らす有樣の高大なのをいう。これを天の義とする説のあるは誤である。もし天の義とするならば、高知るに對する太敷くの太を何と解するかというに、これを事物とすることは出來ないのである。ヒノミコは、天つ日のようにある義。日によつて皇子をたたえる。日の御門《みかど》、日の御調《みつき》などの用例である。ヤスミシシワガ大君とこの高照ラス日ノ御子とは、同一の方をいう。ヤスミシシワガ大君である日の御子の意である。この歌では輕の皇子をさし奉つている。以上、(211)全篇の主格。
 神長柄神佐備世須登 カムナガラカムサビセスト。既出。以下の御行動に關する總括的な説明である。
 太敷爲 フトシカス。既出の宮柱太敷キマセバ(卷一、三六)の句で、大敷クを説明した。シカスはシクの敬語法。壯大に御占據になる義。連體形として次の句を修飾している。
 京乎置而 ミヤコヲオキテ。都をさし置いて。この京は、明日香の淨御原の宮か、藤原の宮か不明。
 隱口乃 コモリクノ。泊瀬に冠する枕詞。古事記下卷に「許母理久能《コモリクノ》 波都世能夜肺能《ハツセノヤマノ》」とあり、本集には假字書きに己母理久乃があり、その他、コモリクに、隱口、隱久、隱來、隱國等の文字を當てている。語義については、大和國風土記の逸文に、「長谷郷、古老傳云、此地兩山澗水相來而谷間甚長、故云2隱國長谷1也」とあり、こもれる國の義と解せられる。クは國、處の義。なおこもり國の語は、皇大神宮儀式帳に「許母理國、志多備乃國」とある。外に、泊瀬は、墳墓の地で、人の隱れる處であるからいうとする説があるが、信じがたい。
 泊瀬山者 ハツセノヤマハ。ハツセは、今の初瀬町を中心とする一帶の地域の稱。相當廣範圍にわたつている。この句は、主格であつて、下の荒山道ヲまでに懸かつている。
 眞木立 マキタツ。眞木は、樹木を稱美していう語。立派な木。たとえば松杉檜などのような堂々たる風格の樹木。その木の立てる意で、次の句を修飾する。
 荒山道乎 アラヤマミチヲ。アラは、粗野未開の意をあらわす形容詞。ここは山道の荊棘に蔽われ、熟路となつていないのをいう。ヲは、何々なるが、然るにの意の助詞。
 石根 イハガネ。地に固著せる岩。ガ、助詞。ネは、地中に根據あるを示す語。ガネで接尾語となつている。ネは別語だが、雁ガネの語など合わせ見るべきである。岩が根を張るということ、「石床《いはどこ》の根|延《は》へる門」(卷十(212)三、三三二九)などの云い方がある。
 禁樹押靡 サヘキオシナベ。
   フセキオシナミ(西)
   サヘキオシナベ(若沖)
   ――――――――――
   楚樹押靡《シモトオシナベ》(考)
   禁杖押靡《シモトオシナベ》(古義)
   繁樹押靡《シゲキオシナベ》(古義)
 考に、禁樹を楚樹の誤りとしてシモトと讀んでいるが、楚樹をシモトと讀むべき證も無い。禁の字は、本集に「往時禁八《ユクトキサヘヤ》」(卷十二、三〇〇六)などサヘの音に當てているものがあるので、今しばらく原文のままに、禁樹をサヘキと讀むこととし、障害をする樹木の謂とする。オシナベは押し伏せての意で、籠モヨ(卷一、一)の歌のオシナベテとは違う。この用例には、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》 左宿夜之《サネシヨノ》」(卷六、九四〇)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》 布流由伎爾《フルユキニ》」(卷十七、四〇一六)など多い。この句のオシ靡ベは、石が根禁樹の兩方を處置する。
 坂鳥乃 サカドリノ。山を越える鳥の義で、次句の枕詞となつている。渡り鳥の朝早く山を越える習いのあるをいう。
 朝越座而 アサコエマシテ。皇子の一行の行動である。泊瀬の山は荒い山道なるが石が根禁樹を押し伏せて朝越えたまうと續く文脈である。
 玉限 タマカギル。タマキハル(元赭)、カギロヒノ(考「玉蜻の誤りとする」、攷證等)の諸説があるが、鹿持雅澄、木村正辭によつて、タマカギルに決定した。假字書きの例に、「多萬可妓留《タマカギル》 波呂可爾美縁弖《ハロカニミエテ》」(日本靈異記)、「朝影爾《アサカゲニ》 吾身成《ワガミハナリヌ》 玉垣入《タマカギル》 風所v見《ホノカニミニテ》 去子故爾《イニシコユヱニ》」(卷十一、二三九四)があり、この朝影の歌を「朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 玉蜻《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミニテ》 往之兒故爾《イニシコユヱニ》」(卷十二、三〇八五)とも書いている。その他、珠蜻、玉(213)蜻?とも書いている。この枕詞、夕、ほのか、はろか、石垣淵等を修飾するによれば、玉の微妙なる光彩を發つをいうと思われる。當時の玉は、普通貝や石を材料とするものであるから、光り輝くとまでは行かぬらしい。陽炎《かぎろひ》、蜻蛉《かぎろひ》などのカギロヒは、このカギルと同語から出たものなるべく、それらも、ほのかに發する意の名稱と思われる。玉かぎる岩垣淵などの句を作つては、しばしば序詞として使用されている。「珠蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》」(卷二、二〇七)。
 夕去來者 ユフサリクレバ。夕方になれは。サリクレバは、既出、「春去來者《ハルサリクレバ》」(卷一、一六)の條に説明した。朝に泊瀬山を越えて、夕方になつて阿騎の大野に旋宿りをされるよしである。
 三雪落 ミユキフル。ミは美稱の接頭語。當時、冬の頃であつたので、この句を使用している。季節を語る句。
 阿騎乃大野尓 アキノオホノニ。阿騎の野の廣大な感じをあらわしている。
 旗須爲寸 ハタススキ。旗の如く靡いているススキ。積に出たススキである。次の句の小竹と竝べてある。なお集中「皮爲酢寸《ハダススキ》」(卷十、二二八三等)、「波太須酒伎《ハダススキ》」(卷十四、三五〇六等)など、濁音のダを用いているものは、別語と見るべきであろう。
 四能乎押靡 シノヲオシナベ。シノは小竹。但しノは怒の類の字を使用すべきに、能を用いているのは違例である。オシナベは、禁樹押靡のオシナベに同じ。旗すすきや小竹をおし伏せての意である。
 草枕 既出。
 多日夜取世須 タビヤドリセス。旋宿りをされる。セスは動詞爲の敬語法、既出。この句は終止形。
 古昔念而 イニシヘオモヒテ。上の旅宿リセスの理由を説明している。ここにイニシヘというのは、草壁の皇太子の上にいうので、わずかに數年前の事である。
(214)【評語】この長歌は、輕の皇子が、宇陀野においでになることを敍述する部分が發達している。全篇敍事から成つている。最後にただ一句、古思ヒテと、感慨の中心をあきらかにしたのは、一語の力を強くする上に相當效果がある。これは一篇の主題ともいうべきであるが、しかし單に古思ヒテだけでは、漠然として、故の草壁の皇太子の御上を思う心があらわれない。この主題は、反歌に至つてあきらかにされるが、作者が對手としている輕の皇子には、この意があきらかであり、從つてその句の效果をお收めになるであろう。讀者を制限した文藝、少數を目的とした文藝、そういう性質が、古い文學には多量にあつて、これもその一つであることが、自然こういう形を取つてあらわれたのである。歌中「み雪降る」、「旗薄」と、冬季の風物を用いたのは空氣を描く上に有效である。
 
短歌
 
【釋】短歌 タニカ。以下四首に題している。この四首は、前の長歌の反歌であるが、ここに短歌と題したのは、その詩形によるものである。下、五三、一九七、二〇〇、二〇八、二一一、二一四、二一八、二三一等の前にも短歌とある。
 
46 阿騎《あき》の野に 宿る旅人、
 うち靡き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも。
 古《いにしへ》おもふに
 
 阿騎乃野尓《アキノノニ》 宿旅人《ヤトルタビビト》
 打靡《ウチナビキ》 寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》
 古部念尓《イニシヘオモフニ》
 
【譯】阿騎の野に宿《やどり》をする旅人は、打ち臥して、眠つていないことでありましょう。昔の事を思うので。
【釋】阿騎乃野尓 アキノノニ。原文もと阿騎乃尓とある。野は怒の類の音であるが、長歌に小竹を四能と書(215)いているから、ここも乃を野の假字に用いたものかも知れない。今は神田本に野の字あるにより、かつは諸家の論に從つて野の字を補つておく。
 宿旅人 ヤドルタビビト。皇子を始め一行の人々を旅人と云つている。
 打靡 ウチナビキ。横臥して眠る有樣を、ウチ靡キと形容したのである。ウチは接頭語、強めるために使われている。
 寐毛宿良目八方 イモヌラメヤモ。イは睡眠の名詞。ヌは、寐る意の動詞。ラメは助動詞ラムの已然形。ヌラメヤモは眠つていようや眠つていないの意で、反語になる。ヤが反語の助詞。一行の人々の眠られないのを推量している句。
 古部念尓 イニシヘオモフニ。長歌の末の、古思ヒテを受けて、往事を思うにと、睡眠しかねる理由を説明する句である。
【評語】反歌の第一首として、まず長歌との連繋を密接にしている。長歌の末の、旋宿リセス、古思ヒテとあるを受け、更に睡眠をしがたいことを敍して、一段と主題に立ち入つている。長歌の敍事中心に事を運んで來たのに對して、總括的な内容を盛つた一首である。
 
47 眞草《まくさ》刈る 荒野《あらの》にはあれど、
 黄葉《もみちば》の 過ぎにし君《きみ》が
 形見とぞ來《こ》し。
 
 眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》
 葉《モミチバノ》 過去君之《スギニシキミガ》
 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
【譯】草を刈り取るような荒野でありますが、ここは、かの黄葉の散りゆくようにお亡くなりなさつた方の形見の地として來たことであります。
(216)【釋】眞草苅 マクサカル。眞草は、立派な草らしい草というほどの意味の語で、眞木と同樣の云い方である。ススキ、カヤなどの堂々たる草。さような草を刈る荒野というのは、實際假屋を作るために草を刈るので、その目前の車實を使つたのである。
 荒野者雖有 アラノニハアレド。荒野は、人が手を入れることもなしに、自然のままに任せてある野。阿騎の野の荒涼たる風光をあらわしている。原文、荒野者雖有とあるので、諸家多くニを讀み添えて、アラノニハアレドと讀んでいる。この讀み添える例は集中に多い。上に「夷者雖v有」(卷一、二九)をヒナニハアレドと讀んだ例がある。
 葉 モミチバノ。原文、葉一字のみである。萬葉代匠記の説に、黄の字を脱したので、モミチバノと讀むべく、過ギニシの枕詞であると見えている。しかしもと黄葉とあつたかは問題であつて、黄の字のある傳本は無いのであるから、黄の字を補わないでおく。集中の文字使い、かならずしも讀むべくあるようにのみは書いていない。訓の一部分のみの文字表元は勿論多く、その中には暗示的な書き方もあつて、これらを誤脱とは定めがたいのである。この句、次の句の枕詞になつているが、その時しも黄葉の散り敷く頃であつたので、これが使用されたのである。
 過去君之 スギニシキミガ。スギニシは、過ぎ去つてしまつたの意で、死んだことをいう。「黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》」(卷二、二〇七)、「道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》 伊能知周疑南《イノチスギナム》」(卷五、八八六)などの用例がある。君は草壁の皇太子。
 形見跡曾來師 カタミトゾコシ。カタミは記念物、遣物。この地を記念の地として來たの意。
【評語】前の歌を受けて、阿騎の野に來た理由を説いている。一歩ずつ主題に近づいて行く構成が看取される。「潮氣《しほけ》立つ荒磯《ありそ》にはあれど往く水のすぎにし妹が形見とぞ來し」(卷九、一七九七)は、同型の歌である。
 
(217)48 東《ひむがし》の 野《の》にかぎろひの 立つ見えて
 かへり見すれば 月|傾《かたぶ》きぬ。
 
 東《ヒムカシノ》 野炎《ノニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》
 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
【譯】東方の野には、陽炎の立つのが見えて、西方を見ると、月が傾いて山にはいろうとしている。
【釋】東 ヒムカシノ。ヒムカシは東方をいう。日に向かう方の義。東に對して西をニシというは、日の去にし方の義なるべく、そのシは、東のシに通ずるものと考えられる。古事記中卷に、東方に向かつて戰うことについて、「吾者、爲2日神之御子1、向v日而故不v良」とある。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(古事記上卷)という日向も、東方の義から出た地名である。本集では、「日向爾《ヒムカシニ》 行靡闕矣《ユキナムミヤヲ》」(卷十三、三二四二)の日向など、東方の義に使用されていると考えられる。
 野炎 ノニカギロヒノ。カギロヒは、水蒸氣のちらちらするをいう。朝東方に日が昇ろうとして明るくなつた野の末に、陽炎の動くのが見えるのである。火?の義とする説もあるが、同じ人麻呂の作品に、「蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》」(卷二、二一〇)という荒野の敍述があり、陽炎の義とするを可とする。このカギロヒノは、次の句の立ツに對して主格となつている。
 立所見而 タツミエテ。陽炎の立つのが見えて。所は被役の用法。
 反見爲者 カヘリミスレバ、。カヘリミは、後をふり返つて見ること。それをすればの意で、西の方を顧みればになる。
 月西渡 ツキカタブキヌ。西渡をカタブキヌと讀むのは、義訓である。月のまさにはいろうとするのを敍している。
【評語】この一群の歌の構成は、ここに至つて方向を轉じて原野の景を敍している。眠られなかつた一夜は明(218)けて、人々は曉の大觀に立つた。その雄大な情景は、巧みにこの一首に盛られており、また全體の一角としてすこぶる意義の多い位置を占めている。朝の荒野の宿の情景が巧みに描かれている歌である。
  菜の花や月は東に日は西に   蕪村
この句は、夕方の景であるが、東西の景を一句のうちに入れたところが、趣を同じゆうしている。
 この歌、初二句はわずかに三字を以つて書いてある。字數のすくないという點は、人麻呂集の書き方と共通している。一群のこの歌が人麻呂集から出たものであるかも知れない。上三句は、古くは、アヅマノノケブリノタテルトコロミテと讀まれていた。これを「東の野にかぎろひの立つ見えて」と讀み改めたのは、萬葉考で、まことに名訓というべきである。
 
49 日竝《ひな》みし 皇子《みこ》の尊《みこと》の
 馬《うま》竝《な》めて 御獵《みかり》立たしし
 時し來向《きむ》かふ。
 
 日雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》
 馬副而《ウマナメテ》 御?立師斯《ミカリタタシシ》
 時志來向《トキシキムカフ》
 
【譯】日竝みし皇子樣が、馬を竝べて、遊獵においでになつた、その時節は、今來つたことであります。
【釋】日雙期皇子命乃 ヒナミシミコノミコトノ。ヒナミセシ(元)、ヒナラヒシ(古葉)、ヒニナヘシ(神)、ヒナメセシ(西)、ヒナラメシ(菅)、ヒナメシ(代初)、ヒナメシノ(僻)。ヒナミシミコノミコトは、草壁の皇太子。他の記載では、本集卷の二に「日竝皇子」とあり、續曰本紀卷の一に「日竝知皇子」とあり、粟原寺の鑪盤の銘に、「日竝御宇東宮」とある。天つ日に竝んで天を統治せられる意で、日の竝びてあるの義と思われる。狩谷?齋の古京遺文に、日竝御宇をヒナミシとよんでいるによる。皇太子であつた草壁の皇太子を稱美していう語で、謚號であるかもしれない。ミコトは尊稱、既出(卷一、二九)この句は主格で、御獵立タシシま(219)でに懸かる。
 馬副而 ウマナメテ。既出(卷一、四)。副の字を書いたのは、主なるものに副えての字義から、馬を竝べる意をあらわしたのであろう。
 御?立師斯 ミカリタタシシ。タタシシは既出(卷一、三)。タタシは、立ツの敬語法。下のシは助動詞。狩獵にお立ちになつたの意の連體句。
 時志來向 トキシキムカフ。志は元暦校本による。諸本みな者である。歌意はいずれでも通ずるが、シと強く指摘する方が、歌としてすぐれているので、孤立した異文ではあるが、これを採つた。キムカフは來つて相對する義で、今や皇子の獵にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に來て、正に時を同じくした感慨を述べている。「春過而《ハルスギテ》 夏來向者《ナツキムカヘバ》」(卷十九、四一八〇)などの用例がある。
【評語】この長歌と反歌とは、輕の皇子の阿騎野においでになつて、亡き父皇子の御上を忍ばれることを骨子としている。最後の一首に至つて、日竝みし皇子の尊と御名をあきらかにしてあるのも、全體として統一のある手段である。反歌四首もそれぞれ事を敍し、景を述べ、または感慨を録しているのも、變化があつてよい。日竝みし皇子の命の薨去の際の舍人の挽歌の一に、
(220)  褻衣《けごろも》を時片|設《ま》けていでましし宇陀の大野は思ほえむかも(卷二、一九一)
というのがある。あたかもこの作の伏線となつているかの如き觀がある。人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である輕の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにこの作を成したので、その代表作の一である。
 
藤原宮之?民作歌
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。既出。持統天皇の六年五月より御造營あり、八年十二月に遷居された。耳梨山を背後にした景勝の地で、今日發掘作業が行われ、その規模のすこぶる雄大であつたことが知られる。
 ?民 エニタツタミ。?は、役に同じ。當時の民、一年に十日間勞役に奉仕するをいう。ここは藤原の宮御造營のために、役に出で立つた民の義である。その民の作つた歌としてあるが、歌の實際を見るに、役民の勞働を見て、ある人の作つた歌で、組織の整美なのを見れば、相當の有識者の作と推察される。その人の名は不明である。柿本の人麻呂の作であろうとする説もあり、それは詞句、思想などによるので、若干の理由のあることであるが、まだ決定するに至らない。
 
50 やすみしし わが大王《おほきみ》、
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 荒細《あらたへ》の 藤原が上《うへ》に、
 食《を》す國《くに》を 見したまはむと、
 大宮《おほみや》は 高知らさむと
(221) 神《かむ》ながら 念ほすなへに、
 天地も 寄りてあれこそ、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の
 眞木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を、
 もののふの 八十氏河《やそうぢがは》に
 玉藻なす 浮べ流せれ。」
 そを取《と》ると さはく御《み》民も、
 家忘れ 身もたな知らに、
 鴨じもの 水に浮きゐて、
 わが作る 日の御門に
 知らぬ國 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ、
 わが國は 常世《とこよ》にならむ、
 圖負《ふみお》へる 神《くす》しき龜も
 新代《あらたよ》と 泉の河に
 持ち越《こ》せる 眞木《まぎ》の嬬手《つまで》を、
 百《もも》足らず 筏《いかだ》に作り 
(222) 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば、
  神《かむ》ながらならし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日乃皇子《ヒノミコ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我宇倍尓《フヂハラガウヘニ》
 食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》
 都宮者《オホミヤハ》 高所v知武等《タカシラサムト》
 神長柄《カムナガラ》 所v念奈戸二《オモホスナヘニ》
 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》
 磐走《イハバシル》 淡海乃國之《アフミノクニノ》
 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナカミヤマノ》
 眞木佐苦《マキサク》 檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》
 物乃布能《モノノフノ》 八十氏河尓《ヤソウヂガハニ》
 玉藻成《タマモナス》 浮倍流禮《ウカベナガセレ》
 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワクミタミモ》
 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不v知《ミモタナシラニ》
 鴨自物《カモジモノ》 水尓浮居而《ミヅニウキヰテ》
 吾作《ワガツクル》 日之御門尓《ヒノミカドニ》
 不v知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂユ》
 我國者《ワガクニハ》 常世尓成牟《トコヨニナラム》
 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《クスシキカメモ》
 新代登《アラタヨト》 泉乃河尓《イヅミノカハニ》
 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手平《マキノツマデヲ》
 百不v足《モモタラズ》 五十日太尓作《イカダニツクリ》
 泝須良牟《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》
 神隨尓有之《カムナガラナラシ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤原の他に天下を知ろしめし、宮殿はお建てになろうと、神にましますがままにお考えになると共に、天地もお助け申しあげて、近江の國の田上山の、りつぱな檜の用材を宇治川に浮べ流します。それを陸上すると騷ぐ人民も、家を忘れ、身も悉く知らずに、水に浮いていて、(我等の作るりつぱな宮殿には知らぬ國も寄つて來いと思うが、その巨勢路から、わが國は常世になるであろう、甲に圖を負うた不思議な龜も、新しい世と祝つて出て來る。)その泉の川に運び越した、良い木の用材を、筏に作つて、上流へとのぼらせるのであろう、勤勞しているのを見ると、これは神樣の故であるらしい。
【構成】二段から成つている。第一段、玉藻ナス浮ベ流セレまで。藤原の宮造營の企圖から、用材のことに及んでいる。コソを含む獨立文をもつて、前提法をなしている。以下第二段、主として人民の勞役について敍し、最後に作者の感想を添えている。そのあいだ、序詞を以つて御代を賀している。かように二段にはなつているが、第一段から第二段へと、事件の敍述が進行するのであつて、照應等の構成によるものでは無い。
【釋】八隅知之吾大王高照日乃皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。既出。この歌では持統天皇。主格句。
 荒妙乃 アラタヘノ。タへは既出。「白妙能《シロタヘノ》」(卷一、二八)。アラタヘへは、手ざわりの荒い織布で、藤の皮の繊維で織つたものをいい、藤の枕詞になる。延喜式大嘗祭式に「麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】」、古語拾遺に、織布の註に「古語阿良多倍」とある。
 藤原我宇倍尓 フヂハラガウヘニ。藤原は地名。次の歌には藤井ガ原とある。ガはノに同じく、接續の助(223)詞として使用され、その下方のものが上方のものに所屬することを示す語であるが、ノに比しては、熟語として慣用される語に多く使用される。ガの方が、いわゆるくだけた言葉なのであろう。ウヘは、上の義。原、野などにしばしば使用される。その地上にの意味である。「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《シカナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》」(卷一、八四)、「多可麻刀能《タカマトノ》 秋野乃宇倍能《アキノノウヘノ》 安佐疑里爾《アサギリニ》」(卷二十、四三一九)など、その用例である。
 食國乎 ヲスタニヲ。ヲスクニは、知ろしめす國土。ヲスは食するの敬語で、國土の産物を召しあがる義から、その國土をヲスクニというと思われる。「須賣呂伎熊《スメロキノ》 乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》」(卷十七、四〇〇六)などの用例がある。
 賣之賜牟登 メシタマハムト。メシは、動詞見ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したミスの音の轉じたものである。見の字を使用した例には、藤原の宮の御井の歌に、「見之賜者《メシタマヘバ》」(卷一、五二)とある。また假字書きの例には、「賣之多麻比《メシタマヒ》 安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》」(卷二十、四三六〇)、「於保吉美能《オホキミノ》 賣之思野邊爾波《メシシノベニハ》」(同、四五〇九)などある。
 都宮者 オホミヤハ。考にはミアラカハと讀んでいる。ミアラカは、御在處の義で、古語拾遺に、瑞殿の字に註して「古語、美豆能美阿良可」、延喜式、大殿祭祝詞に、「御殿、古語云2阿良可1」、本集に「御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》」(卷二、(224)一六七)とある。またオホミヤは、大御屋の義で、本集に「美與之努能《ミヨシノノ》 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》」(卷十八、四〇九八)とあり、その外、大宮と書いた例は多數ある。そのいずれを採るべきかというに、ミアラカについては、上記、御在香ヲ高知リマシテの用例のあるのは有力であるが、歌詞中にはこの語はただこの一例があるのみであり、一方、都宮と書いた字面も顧慮して、なおオホミヤと讀むべきである。ハは、ヲバの意に使用されている。
 高所知武等 タカシラサムト。タカシラスは既出(卷一、三六)。以上都宮ハ高知ラサムトは、食ス國ヲメシタマハムトに對して、對句を成し、共に竝んで下の思ホスナヘニに懸かつている。
 神長柄 カムナガラ。既出。
 所念奈戸二 オモホスナヘニ。この所の字の用法は、シラスを所知と書く時の所の用法に同じく、敬意をあらわすために使用せられているが、これはもと、何々する所のの、所の用法から出たのであろう。オモホスは、動詞思フの敬語オモハスの音の轉じたもの、キカス(聞かす)がキコス、シラス(知らす)がシロスになる類である。お思いになる。ナヘは、同時の意で、語義は、竝べであるというが、未詳。ナヘニの上の事と下の事とが同時に共に行われるを示す。たとえは、「鶯の音《おと》聞くなへに梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ」(卷五、八四一)は、鶯の音を聞くと、梅の花の散るが見えると、同時に行われるを示す。この歌では、天皇のおぼしめしと同時に、天地の神が寄つて、用材を宇治川に流すのである。
 天地毛縁而有許曾 アメツチモヨリテアレコソ。アメツチは、天地の神靈。その寄りてあるというのは、既出の吉野の宮の歌(卷一 三八)の山川も寄りて奉るというに同じく、心を寄せてあるの意である。アレコソは、「古昔毛《イニシヘモ》 然爾有許曾《シカニアレコソ》」(卷一、一三)のナレコソの語法に同じく、あればこその意である。このコソは係助詞で、下の浮ベ流セレに懸かる。
(225) 磐走淡海乃國之 イハバシルアフミノクニノ。既出(卷一、二九)。以下、天地モ寄リテアレコソの具體的事實を描く。
 衣手能 コロモデノ。コロモデは既出(卷一、五)。この句は枕詞。手に續く。
 田上山之 タナカミヤマノ。田上山は、滋賀縣栗太郡にある山の名。當時森林地帶で良材を産出したものと思われる。正倉院文書に、田上山工作所の名が見え、奈良時代に製材所が置かれてあつた。
 眞木佐苦 マキサク。眞木は既出。立派な木の意。サクは、拆クの意とする説と、幸《さ》クの意とする説とがある。しかしこの語は、「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(古事記一〇一)、「奔紀佐倶《マキサク》 避能伊陀圖塢《ヒノイタドヲ》」(日本書紀九六、繼體天皇紀)の如き例もあつて、ヒの一音に懸かるものであるから、このヒを檜と解するにおいては、眞木拆く檜と續くとする説は、意味の上からの難點がある。一方、幸ク説は、幸クという動詞の例證は無いが、花の咲くは、その語から出たものとも考えられる。また、日本書紀の訓註に、「幸魂、此云2佐枳彌多摩1」とあつて、幸の意のサキの語のあつたことが知られ、本集にも、「佐久安禮天《サクアレテ》 伊比之氣等婆是《イヒシケトバゼ》」(卷二十、四三四六)の例があつて、副詞幸クの存在したことが知られる。動詞榮ユも、この動詞幸クを根幹とするものであろう。花が咲く、物を裂くなどの動詞サクも、同じ祖語から分化して來たものであろう。「あぢかまの潟に左久奈美」(卷十四、三五五一)のサクは、波についていい、咲くと裂くとに通じるもののあることを語つている。よつてこの句は、眞木幸クの義で、立派な木として榮えるヒノキの意味に、ヒ(檜)の枕詞となつているのであろう。
 檜乃嬬手乎 ヒノツマデヲ。下文には眞木乃都麻手乎とある。ツマは、※[木+瓜]の字の義で、梭角のある材木をいう。嬬は借字である。手は、材木には普通枝があるので、附けていうのであろう。檜の嬬手は、檜の製材の義である。
(226) 物乃布能八十氏河尓 モノノフノヤソウヂガハニ。モノノフは、物の部の義で、モノはその掌つて奉仕するものを代名詞ふうに言いあらわした語。古くは文武官のすべてを稱し、その數の多きより、八十の語を引き出すに使う。「物部乃《モノノフノ》 八十乃心叫《ヤソノココロヲ》」(卷十三、三二七六)、「物部能《モノノフノ》 八十※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》」(卷十九、四一四三)など、八十の枕詞としてモノノフノの語が使用されている。この歌にあつては、物の部は、多數の氏あるにより、物の部の八十氏というとすべく、これによつて、宇治川を引き出している。序詞として物の部の八十が使用されているとすべきである。その用例には、「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》」(卷三、二六四)、「物部乃《モノノフノ》 八十氏川之《ヤソウヂガハノ》 急瀬」《ハヤキセニ》(卷十一、二七一四)などある。氏河は、普通に宇治川と書かれる川で、琵琶湖から發して山城の國を流れて他の川と合して淀川となる。その上流は、田上山の附近を流れるので、製材をこの川に流し下すのである。
 玉藻成 タマモナス。玉藻、ナス、共に既出。次の句の浮ブの枕詞。藻のようにの意。
 浮倍流禮 ウカベナガセレ。上のアレコソを受けて、已然形で結んでいる。天地の神靂の力によつて、田上山の製材を宇治川に浮べ流しているというのである。以上第一段、天地の奉仕を説く。
 其乎取登 ソヲトルト。以下第二段にはいつて、人民の奉仕を説く。上にいう宇治川に浮べ流した材木を受けてソと云つている。其をソとのみ云う例は、「比登豆麻等《ヒトツマト》 安是可曾乎伊波牟」《アゼカソヲイハム》(卷十四、三四七二)など多い。
 佐和久御民毛 サワクミタミモ。サワクは、川に流して來た材木を取りあげるとてざわめく意である。この語は、今日の騷ぐであるが、集中の用字例、假字書きのものに、左和寸、左和伎、佐和伎、佐和吉、佐和久、散和久、散和口、※[馬+聚]祁などあり、キ、ク、ケにいずれも清音の字を使つているので、古くはこれらが清音であつたことが知られる。御民は、皇民の義に、民の語に接頭語ミを附して使用している。
(227) 家忘 イヘワスレ。わが家の事を忘れて。
 身毛多奈不知 ミモタナシラニ。ミモタナシラズ(元赭)。タナは、「身者田菜不v知《ミハタナシラズ》」(卷九、一七三九)、「身乎田名知而《ミヲタナシリテ》」(同、一八〇七)、「事者棚知《コトハタナシレ》」(卷十三、三二七九)、「許等波多奈由比《コトハタナユヒ》」(卷十七、三九七三)などの用例におけるタナと同じく、すべて、全くなどの意をあらわす接頭語で、タナ引ク、タナ曇ル、タナ霧《ギ》ラフのタナも同語であろう。シラニは既出(卷一、五)。上の家忘レの句と竝んで、下の水ニ浮キ居テに懸かつている。
 鴨自物 カモジモノ。ジモノは、犬ジモノ、鳥ジモノ、鵜ジモノなどの語例におけるが如く、何々の如きものの意に使用される。このジは、體言に接續して、これを形容詞とする性能を有する語で、ジモノの場合は、古い形容詞の活用の如く、ジを以つて連體形となつているものである。また「之寄島能《シキシマノ》 人者和禮自久《ヒトハワレジク》 伊波比?麻多牟《イハヒテマタム》」(卷十九、四二八〇)の我ジク、「此家自【久母】藤原乃卿【乎波】(續日本紀、第二五詔)の家ジクの如く、ジクの形を採つているものも同語であろう。さて鴨ジモノは、鴨の如き物の意で、次句の水ニ浮キ居テに懸かる枕詞である。
 水尓浮居而 ミヅニウキヰテ。宇治川の水に浮んでの意で、材木を取りあげるさまをいう。
 吾作 ワガツクル。我等の造營するの意で、連體形の句。以下、新世トまでの九句は、插入句で、泉ノ河を引き出すための序詞である。その九句の中にも、またこの句から「知らぬ國寄り」までは、巨勢の序詞となつている。その部分は、二重に序詞になつているのである。
 日之御門尓 ヒノミカドニ。古事記下卷、雄略天皇記に「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(一〇一)とある。日は日輪の義。天皇の宮殿を稱えてヒノミカドという。ミカドは、御門の義であるが、轉じて宮殿の義となり、また朝廷、政府、國家の義となり、また轉じて天皇の義となる。ここは宮殿、朝廷の義。元來この語は、外部か(228)ら皇居を仰ぎ見ていう語で、視聽する所から發する語であつたが、概念の發達により、多種の用法を派生したものである。
 不知國 シラヌクニ。まだ知識に入り來ない國の意。
 依巨勢道從 ヨリコセヂヨリ。コセは地名。今の奈良縣南葛城郡古瀬村の地である。その地名の巨勢を引き出すために、知ラヌ國寄リコセと言い懸けたのである。ヨリコセは、寄リコセで、寄り來よと希望する語法。コセは、希望の助動詞コスの命令形。寄つてほしい。「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)、「許余比太爾《コヨヒタニ》 都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などのコセの用法に同じ。從は、ユともヨリとも讀まれる。集中の例、一音に讀むべき處にも二音に讀むべき處にも、いずれも多く使用されている。今、七音の句であるから二音に讀むこととする。巨勢に行く道から龜が出るとする文脈である。 我國者 ワガクニハ。この日本の國は。
 常世尓成牟 トコヨニナラム。トコヨは、常世の文字の通り、恒久不變の世界をいう。古事記にしばしば見えており、一の理想郷である。古人がかような國を想像し、これを求めていたことは、常陸國風土記に、常陸の國を稱えて、「いはゆる常世の國とはこれか」と言つているのに依つても知られる。後、神仙思想が入り來るに及んで、神仙の住む世界、仙郷の意に使用されるに至つた。「吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)、「伎彌乎麻都《キミヲマツ》 麻都良乃于良能《マツラノウラノ》 越等賣良波《ヲトメラハ》 等己與能久爾能《トコヨノクニノ》 阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》」(卷五、八六五)の常世など、その用例である。さて、ワガ國ハ常世ニナラムは、插入句で、巨勢道ヨリ圖負ヘル神シキ龜モ新世ト出ヅの事實を批評している。
 圖負留神龜毛 フミオヘルクスシキカメモ。神龜は、漢籍の洛書の故事による。尚書洪範九疇の孔安國の註に「洛書者、禹治v水時、神龜負v文而出、列2於背1、有v數至v九、禹遂因而第v之、以成2九類1」とある。圖は(229)河圖の類で、天子受命の徴であるという。龜の甲に圖ある不思議の龜である。延喜式の祥瑞のうちに、神龜を大瑞としており、その出るを以つて吉祥とした。當時、巨勢道から、かような龜が出たのであろう。年號の靈龜、神龜、寶龜なども、龜の祥瑞の出現によつて改元されたものである。神は、アヤシとも讀む。クスシの例は「許己乎之母《ココヲシモ》 安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》」(卷十八、四一二五)がある。
 新代登 アラタヨト。古く新の意をアラタという。可惜の患にはアタラである。アラタヨは、新時代の義。龜が新時代として出でたというのである。以上、次の泉(出ヅに懸けてある)の序になつているが、この序を以つて御世を賀する意をあらわしている。而してその序の中に「わが作る日の御門に知らぬ國寄り」はまた巨勢の序をなし、「わが國は常世にならむ」は插入の一文である。今これを書き下せば、〔鴨じもの水に浮き居て『「わが作る日の御門に知らぬ國寄り(來せ)」巨勢路ゆ「わが國は常世にならむ」圖負へる神しき龜も、新代と(出づ)』泉の川に〕となる。
 泉乃河尓 イヅミノカハニ。今の木津川。伊賀の國より發し、山城の國を經て淀川に入る。鴨ジモノ水ニ浮キ居テ泉ノ河ニ持チ越セル眞木ノ嬬手と續く文脈である。宇治川から材木を取りあげて、陸路を經て遠からぬ泉川に持ち來り、今度はそれを筏に組んで溯上させる。それを奈良山に近き地點で揚陸し、奈良山を經て、藤原の宮の造營地に運搬するのである。
 持越流 モチコセル。宇治川から泉川に持ち越したの意。
 眞木乃都麻手乎 マキノツマデヲ。上の眞木サク檜ノ嬬手を約していう。
 百不足 モモタラズ。百に足りない意で、ここは、次の五十の枕詞になつている。「百不v足《モモタラズ》 八十隅坂爾《ヤソスミサカニ》」(卷三、四二七)などの用例がある。
 五十日太尓作 イカダニツクリ。イカダは筏。今度は泉川を溯上させるので、筏に編むのである。
(230) 泝須良牟 ノボスラム。ノボスは溯上させる、のぼらせる。ラムは推量の助動詞。終止形。
 伊蘇波久見者 イソハクミレバ。伊呂波字類抄では、爭競角を、いずれもイソフと讀んでいる。このイソフのイソは、イソグ、イソガシ、イソシ等のイソと同語と見られ、競爭する意の動詞と考えられる。イソハクは、その體言形で、競爭することの義になる。作者が川邊に立つて、筏に作る人民の爭い勵むのを見るのである。
 神隨尓有之 カムナガラナラシ。上の神ナガラ思ホスナヘニを、遙に受けて一首を結んでいる。これが神ながらであると思われるの意。ナラシは、ニアラシの約言。
【評語】藤原の宮の造營につき、天地の感動し、人々の働く?を寫して、人天合一の盛代を祝している。相當手腕ある人の作品であろう。途中に長大の序詞を插入しているので、解釋上疑惑を生じやすく、また敍述の率直を缺く恨みがある。しかしこれによつて御世を賀ぐのは、一の企畫であつて、そこに外來の知識を盛り込んでいるのは、作者の階級を思わしめるものがある。とにかく堂々たる風格の作品ということができる。
 
右日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1冬十二月庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原の宮地に幸《い》でましたまひき。八年甲午の春正月、藤原の宮に幸でましたまひき。冬十二月庚戌の朔乙卯の日、藤原の宮に遷り居たまひきといへり。
 
【釋】朱鳥七年癸巳 アカミドリナナトセミヅノトミノトシ。しばしばいうように、今の日本書紀には朱鳥七年は無く、無年號の七年になつている。
 八年甲午 ヤトセノキノエウマノトシ。同じく無年號の八年である。
 
(231)從2明日香宮1、遷2藤原宮1之後、志貴皇子御作歌
 
明日香《あすか》の宮より、藤原《ふぢはら》の宮に遷《うつ》りましし後、志貴《しき》の皇子《みこ》の作りませる御歌
 
【釋】從明日香宮 アスカノミヤヨリ。明日香の淨御原の宮から。
 遷藤原宮之後 フヂハラノミヤニウツリマシシノチ。諸本に遷の下に居の字があるが、元暦校本に無いのがよい。
 志貴皇子 シキノミコ。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父。この系統は、代々歌をよくした。當時、シキノミコと稱せられた方が、天智天皇の皇子にも天武天皇の皇子にもあつたと傳えられている。まず天智天皇の皇子については、日本書紀、天智天皇の七年三月の條、立后の事を記すに附して「又有2越道君伊羅都賣1、生2施基皇子1」とあり、天武天皇の皇子については、日本書紀、天武天皇の二年正月の條、立后の事を記すに附して、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》姫娘、生2二男二女1。其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とある。以下日本書紀および續日本紀におけるシキノミコに關する記事を拾えは、次の如くで、
ある。
 一、日本書紀
  天武天皇八年五月庚辰朔乙酉
  天皇詔2皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子1曰、云々。
  朱鳥元年八月己巳朔癸未
   芝基皇子磯城皇子各加2二百戸1。
  持統天皇三年六月壬午朔癸未
(232)  以2皇子施基1(中略)拜d撰2善言1司u
 二、續日本紀
  大寶三年九月辛卯
   賜2四品志紀親王近江國銭穴1。
  同冬十月丁卯
   四品志紀親王、爲2造御竃長官1。
  慶零元年正月丁酉
   二品長親王舍人親王穗積親王三品刑部親王益2封各二百戸1。三品新田部親王四品志紀親王各一首戸。
  慶雲四年六月壬午
   以2三品志紀親王(中略)等1、供2奉殯宮事1。
 これに次いで寶龜二年八月に志貴の親王薨去の記事がある。以上のうち、文字の同一なのをまとめれば、日本書紀の記事について、天武天皇紀に、皇子出生の條、竝に朱鳥元年八月の條に「磯城皇子」とあるを、同一人と見るが至當であり、よつて、天智天皇紀の皇子出生の條に、「施基皇子」、天武天皇八年五月、朱鳥元年八月の條に、「芝基皇子」、持統天皇三年六月の條に「皇子施基」とあるをまた同一人と見るを至當とする。而して磯城は訓讀文字であり、施基、芝基は字音假字である。また續日本紀においては、「志紀親王」「志貴親王」の文字が使用せられ、その位階も順次昇進しており、これも同一人であると考えられ、その薨去の條には天智天皇の皇子であることが明記されている。これによれは、天武天皇の皇子に磯城の皇子がいましたとしても、その事蹟として見るぺきは、朱鳥元年八月の條のみであつて、しかも朱鳥元年八月加封の際は、天武天皇八年五月の條に擧げられている六皇子にそれぞれ加封があつたもので、その以外のはただこの磯城の皇子のみであ(233)るから、この記事は、何かの混雜があるものと思われる。その他の記事はすべて天智天皇の皇子の志貴の皇子に關するものと考えられる。さて萬葉集には八出しているが、うち、「志貴皇子」とあるもの七、「志貴親王」とあるもの一で、シキの音には、みな志貴の文字が使用せられている。これまた同一人と見る外無く、その場合、文字使用の上からしても、天智天皇の皇子とするのが順當である。なおこの皇子の薨去の年月についても問題があるが、これについては、これに關する歌(卷二、二三〇)の條に記すこととする。ここの歌は、都うつしの後、たまたま舊都に來て詠まれたのであろう。
 
51 釆女《うねめ》の 袖吹きかへす 明日香《あすか》風、
 都《みやこ》を遠み いたづらに吹く。
 
 ?女乃《ウネメノ》 袖吹反《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》
 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用尓布久《イタヅラニフク》
 
【譯】この地に都のあつた時分は、采女の袖を吹いた飛鳥の地の風が、都が遠くなつたので、采女の袖を吹くこともなく、むだに吹いている。
【釋】?女乃 ウネメノ。采女は、諸國の郡の少領(副郡長に當る)以上の姉妹子女の容姿端正なものを貢せしめて、供御に使うもの。日本書紀允恭天皇の紀四十二年十一月の條に「冬十一月、新羅弔使等、喪禮既?而還之、爰新羅人恒愛2京城傍耳成山畝傍山1、則到2琴引坂1、顧之曰、宇泥灯b椰、彌彌巴椰。是未v習2風俗之言語1、故訛2畝傍山1謂2字泥1、訛2耳成山1謂2彌彌1耳。時倭飼部從2新羅人1、聞2是辭1而疑之、以爲新羅人通2釆女1耳。乃返之、啓2于大泊瀬皇子1。皇子則悉禁2固新羅使者1而推間。時新羅使者啓之曰、無v犯2采女1。唯愛2京傍之兩山1而言耳。則知2虚言1皆原之」とあり、これによつて采女をウネメと言つたことが知られる。ウネメの語義は未詳であるが、元來天皇に奉仕する女性を地方から貢進する儀があり、後成文化するに及んで、釆(234)女の文字が當てられるに至つたものと考えられる。采女の文字は後漢に始まると傳えられる。わが國においては、日本書紀孝コ天皇紀に「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあり、その性質が知られる。原文?女とあるは、采女と書くべきを、采に女扁をつけたものである。この?の文字は、佛教の經典にしばしば見える字で、金光明最勝王經にも見える。宮女の意の字である。本集卷の四に駿河の?女とあり、古事記、正倉院文書等にも見えている。この句は領格で、采女の袖と、次句に續く。
 袖吹反 ソデフキカヘス。次の明日香風の修飾句。袖を吹き反すのを習性としている意である。
 明日香風 アスカカゼ。飛鳥の地を吹く風。佐保風、泊瀬風等の例がある。明日香は地名、飛鳥に同じ。飛ぶ鳥のアスカというより、飛鳥と書いてアスカと讀ませるのは、春日のカスガというより、カスガの地名に春日と書くと同樣である。
 京都乎遠見 ミヤコヲトホミ。藤原の京に遷都して、この明日香の里は京都に遠くなつたのでの意。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミなどと同樣の語法。
 無用尓布久 イタヅラニフク。イタヅラニは、何の用にも立たずに。むだに。美人の袖を吹き飜すことも無いので、むだに吹いているの意である。
【評語】舊都の荒れたのを悼んだ歌は多いが、これは采女などの徘徊することもなくなつて、ただ風のみ昔のままに吹いていると歌つている。大津の宮を悼んだ歌には、壬申の年の悲劇を悲しむ情が強いが、飛鳥の京の棄てられたのは、藤原に新造の大宮ができたためで、悲痛な哀傷の情を伴なわない。この歌の、悼みながら明るい歌である所以である。詞句の美しい歌である。
 
藤原宮御井歌
 
(235)〔釋〕藤原宮御井歌 フヂハラノミヤノミヰノウタ。井は、飲料に供すべき清水を湛えてある處で、川にも池にもいい、また堀井、筒井など、今日いう井戸の類をもいう。古人は、井については深い信仰を有し、神靈の宿る處と考えていた。井のある處に宮殿は造營せられ、村邑は發達する。神話、傳説は、井に關して語り傳えられ、物語、歌謡は、水汲みに集まる人々に依つて傳えられた。ここにいう藤原の宮の御井は、歌詞によるに、埴安の池の一角であつて、すぐれた景勝のもとに、清らかな水を湛えていたのでる。これを他に求める説のあるのは不可である。この歌も、左註にもあるように、作者未詳であるが、藤原の宮の役民の歌と同じく、相當手腕のある有識階級者の作と考えられる。
 
52 やすみしし わご大王
 高照らす 日の皇子、
 荒細《あらたへ》の 藤井が原に
 大御門《おほみかど》 始めたまひて、
 埴安《はにやす》の 堤の上に
 あり立たし 見《め》したまへば、
 大和の 青香具山は、
 日の經《たて》の 大御門に
 春山と 繁《しみ》さびたてり。
 畝火《うねび》の この瑞山《みづやま》は、
(236) 日《ひ》の緯《よこ》の 大御門に、
 瑞山と 山さびいます。
 耳高の 青菅山《あをすがやま》は、
 背面《そとも》の 大御門に、
 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立てり。
 名ぐはし 吉野の山は、
 影面《かげとも》の 大御門ゆ
 雲居にぞ 遠くありける。」
 高知るや 天の御蔭《みかげ》、
 天知るや 日《ひ》の御影《みかげ》の
 水こそは 常にあらめ。
 御井の清水。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原尓《フヂヰガハラニ》
 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上尓《ツツミノウヘニ》
 在立之《アリタタシ》 見之賜者《メシタマヘバ》
 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》
 日經乃《ヒニタテノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》
 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》
 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 弥豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備伊座《ヤマサビイマス》
 耳高之《ミミタカノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》
 背友乃《ソトモノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 宜名倍《ヨロシナヘ》 神佐備立有《カムサビタテリ》
 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》
 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》
 雲居尓曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》
 高知也《タカシルヤ》 天之御蔭《アメノミカゲ》
 天知也《アマシルヤ》 日之御影乃《ヒノミカゲノ》
 水許曾婆《ミヅコソハ》 常爾有米《ツネニアラメ》
 御井之清水《ミヰノシミヅ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤井が原に、大宮をお始めになつて、埴安の池の堤の上に、お立ちになつて御覽になれば、天の香具山は、東方の御門に、春の山と木立が繁く森々として立つている。畝傍の瑞々しい山は、西方の御門に、瑞山と、山の威コを備えて立つている。耳高の山スゲの青い山は、北方の御門に、よろしくも、神のけはいに立つている。名のよい吉野の山は、南方の御門から天の一方に遠くあつた。この立派な宮殿の水こそは永久にあるであろう。この御井の清水は。
(237)【構成】埴安の池の堤の上に立つて、天皇の御覽になつた光景を描く形で歌つている。この點、三八の吉野の宮の歌と同じ構想である。以下その光景を東西南北の四方に分けて、對句の樣式を以つて敍している。第一段、遠クアリケルまで、井を圍む四方の山々を敍し、以下第二段で、總括的に御井を稱えている。布置整然たる作品である。
【釋】八隅知之和期大王高照日之皇子 ヤスミシシワゴオホキミタカテラスヒノミコ。既出。但しこの歌では、和期大王と書いてある。これは本來ワガオホキミであるが、歌われる時にガとオとが結合して、ゴーと聞えるのを、そのままに寫したものであるが、漢字による音韻表示では、ゴーという表示が困難であるから、かような文字表示となつたものである。それ故に厳密にいえば、ガがゴに轉じたものでは無い。ガとオとが結合してゴーとなつたものである。かような書き方は古事記日本書紀には無く、續日本紀、聖武天皇の御製に「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和己於保支美波《ワゴホキミハ》」とある。本集には「和期於保伎美《ワゴオホキミ》 余思努乃美夜乎《ヨシノノミヤヲ》 安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》《卷十八、四〇九九》のほか、和基大王一、都期大王六、和期大皇二、吾期大王一である。ただしこれを以つて、この歌が歌われたとする證明にはならない。ただこの句が、歌われた歌から來ていることを語るだけである。ワガオホキミと書いたものは、その歴史的表記法で、讀む時には、ワゴーホキミと讀んだのだろう。於によつてオの長音を表記する例は、琴歌譜の譜中に見られる。主格句。持統天皇をさす。
(238) 麁妙乃 アラタヘノ。既出(卷一、五〇)。枕詞。
 藤井我原尓 フヂヰガハラニ。藤原の地をここには藤井が原と言つている。御井の歌であるからこの名を併用したのであろう。
 大御門 オホミカド。オホは雄大性を稱美する形容詞。ミカドは既出(卷一、五〇)。ここは宮殿の意。
 始賜而 ハジメタマヒテ。御創始になつて。
 埴安乃 ハニヤスノ。香具山の西麓の地名。當特大きな池があつた。山常庭(卷一、二)の歌參照。
 堤上尓 ツツミノウヘニ。ツツミは、水を包んでいる土地。ここには池の語は省略されているが、埴安の池の堤である。ツツミは、人工によるものでなくてもいう。
 在立之 アリタタシ。アリは存在を意味する動詞で、接頭語として他の動詞に冠して使用されている。本集には、アリ通フ、アリ去ル、アリタモトホル、アリ慰ム、アリ隻《な》ム、アリ待ツ、アリ廻《めぐ》ル、アリ渡ルなどの用例がある。タタシは、立ツの敬語法。お立ちになつて。
 見之賜者 メシタマヘバ。メシは、既出(卷一、五〇)。見ルの敬語法。ここは御覽になるの意に使用している。この語、古くはミスと云つたものなるべく、常陸國風土記に「和乎彌佐婆志理之《ワヲミサバシリシ》」がある。本集には敬語法のミスの假字書きは無く、メスの假字書きは、「美與之努《ミヨシノノ》能 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》(卷十八、四〇九八)などあるが、いずれも卷の十八以後のみであるから、古くはミスと言つたかも知れない。以上前提句で、以下の御覽になつた結果の敍敍を起している。
 日本乃 ヤマトノ 日本の字は既出(卷一、四四)。ヤマトは、もと大和の國の東方山嶽地方をいう。ここはその狹義の用法であつて、香具山の所在を示している。
 青香具山者 アヲカグヤマハ。アヲは文字通り青の義。形容詞で、香具山の青々と茂つているのを稱えて(239)いる。
 日經乃 ヒノタテノ。この次に日の緯の語が出てくる。漢籍の周禮の天官の疏に、「南北の道」、謂2之經1、東西之道、謂2之緯1、」とある。然るに、日本では、太陽の通路を標準にして縦横を定める。日本書紀の成務天皇の卷に、「因以2東西1爲2日縱1南北爲2日横1山陽曰2影面1山陰曰2背面1」とある。經は縱で、緯は横だから、漢籍と日本とでは、經緯が逆になつている。また高橋氏文の佚文に、「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天」とある。この文では、日竪日横を、東と西との意に使つているようである。今のこの歌の日の經も、實際の地形上、東方をさすものであるから、高橋氏文のと、同じ使いざまと見える。
 大御門尓 オホミカドニ。ここのミカドは、宮殿の御門をいう。
 春山跡 ハルヤマト。春山として。
 之美佐備立有 シミサビタテリ。シミは、繁茂の意の古語。「烏梅乃花《ウメノハナ》 美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》 安里登母也《アリトモヤ》」(卷十七、三九〇二)の用例がある。この語の重語と考えられるものに、シミミがある。サビは既出(卷一、三八)。サビは體言について動詞とするもので、その體言の性能を發揮するをいう。神サブ、男サブ、孃子《をとめ》サブ、丈夫《ますらを》サブなど例がある。この歌にも山サビの例がある。森々として繁茂の?態で立つている意。 畝火乃此美豆山者 ウネビノコノミヅヤマハ。コノは畝火山を指摘している。ミヅは、生々として嘉氣あるをいう。瑞穗、瑞枝、瑞籬な(240)ど、多く植物性の物に附していうが、また、瑞寶、瑞玉盞などともいう。ここは山の生々としているのを稱えていう。
 日緯熊 ヒノヨコノ。ヒノヌキノ(元墨)、ヒノヨコノ(考)。日の經の條にいう如く、西方をいう。
 弥豆山跡 ミヅヤマト。ミヅヤマは、上の美豆山とあるに同じ。瑞山として。
 山佐備伊座 ヤマサビイマス。山としての性能を發揮している意。イマスは、存在を意味する敬語の動詞。
 耳高之 ミミタカノ。
   ミミタカノ (元朱)
   ――――――――――
   耳爲之《ミミナシノ》(考)
   耳無之《ミミナシノ》(古義)
 高は爲の字の誤で、ミミナシノと讃み、耳梨山をいうといわれている。いかにも山は耳梨に相違ないが、ミミナシの語意は、平野の中に耳のような形を成している山の意であるとすれは、これをミミタカと言わないとも限らない。しいて文字を改めるには及ばない。耳高の語は、出雲の國造の神賀詞に、馬について「振立【流】耳【能】彌高【爾】」と見えている。耳梨山の山名は、日本書紀には耳成、耳梨の字を使用し、本集では耳梨、無耳の字を使用している。多分耳成が正字で耳を成している義であろう。そうすれは耳高も縁の無い語では無くなる。
 青菅山者 アヲスガヤマハ。アヲは、青香具山の青に同じ。スガはヤマスゲで、熟語となる時にスガの形を取る。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)などある。青々として山菅の生えている山はの意。
 背友乃 ソトモノ。日の經の條に擧げた成務紀の文に山陽を影面《かげとも》といい、山陰を背面《そとも》というとある。山を中心として、日の當る方が南面で影面といい、日の當らない北方を背面という。ソトモはソツオモで、背の方の面の義である。それで、山を中心としないでも北方を背面といい、南方を影面というのである。背友の友は借字、トモの音をあらわすだけである。
(241) 宜名倍 ヨロシナヘ。よい具合に。好都合にの意の副詞。ナヘは、既出の思ホスナヘニのナヘと同じであろう。「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)、「宜名倍《ヨロシナヘ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來爾之《オヒキニシ》」(卷三、二八六)など使用例がある。
 神佐備立有 カムサビタテリ。カムサブは既出(卷一、三八)。耳梨山が神山として立つている意である。山に神さぴというは、富士山、立山、生駒山など、例が多い。
 名細 ナグハシ。クハシは、精妙なる意の形容詞。クハシ女《め》、クハシ矛《ほこ》などいう。ここは名のりつぱなの意。「名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》」(卷二、二二〇)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷三、三〇三)。形容詞は、古くは、シの形を以つて連體形としたので、この句は、次の句に對する連體形の句である。
 影友乃 カゲトモノ。背面の條にいう如く、南方をいう。カゲツオモの約で、日の當る方の面である。カゲは光をいう。
 大御門從 オホミカドユ。前の三山は近い山だから大御門にといい、吉野は遠いからユを用いて、分けてある。南方の大御門を通しての意。
 雲居尓曾 クモヰニゾ。ヰは接尾語。動かない雲を雲居という。遠方の意。
 遠久有家留 トホクアリケル。上のゾを受けて連體形で結んでいる。以上第一段。
 高知也 タカシルヤ。タカシルは既出。建築物の高く聳え立つ意をあらわす。ヤは拍子詞で、感動の助詞の一種。「おしてるや難波」「天なるや月日の如く」 の如く連體法につく。「石見のや高角山」の如き例のヤも同樣である。かようなヤは、歌われる場合に添えて歌うので、文筆に記録する場合には、多く省略される。それが文筆作品になるに及んで、五音七音に一句の音數を整理するために、助詞として登場したのである。高知ル天ノ御蔭の意に、次の句に續く。天を修飾する。
(242) 天之御蔭 アメノミカゲ。天から隱れるところの義で、宮殿をいう。祈年祭の祝詞に、「皇神《すめがみ》の敷《し》き坐《ま》す下つ磐板《いはね》に、宮柱|大《ふと》知り立て、高天《たかま》の原に千木《ちぎ》高知りて、皇御孫《すめみま》の命《みこと》の瑞《みづ》の御舍《みあらか》を仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隱り坐して」云々とある。
 天知也 アマシルヤ。天知ルは、高く聳える形容。次句の修飾句。ヤは高知也の條參照。
 日之御影乃 ヒノミカゲノ。日から隱れる處の宮殿の意。天之御蔭の條參照。
 水許曾婆 ミヅコソハ。御井の水、すなわち埴安の池の水を提示している。この宮殿の井の水はと、コソを以つて強く提示している。
 常尓有米 ツネニアラメ。
   ツネニアルラメ(神)     
   トキハニアラメ(神朱)
   トコシヘナラメ(考)
   ツネニアラメ(?)
   ――――――――――
   常磐爾有米《トキハニアラメ》(古義)
 水の恒久にあるべきことを云つて、この宮の久しく榮えることを祝つている。メはムのコソを受けた終止法である。
 御井之清水 ミヰノシミヅ。最後に、更に御井の清水を擧げて、一篇を統制している。
【評語】 この歌は、一篇の構成が整美を盡している。今その句法を表示すれは次の通りである。ミヰノシミヅハ(僻)、ミヰノマシミヅ(考)などの訓があるが、しいて七音にしないでもよい。
(前提部)やすみししわご大王、高照らす日の皇子、荒栲の藤井が原に、大御門始めたまひて、埴安の堤の上に、あり立たし見したまへば、
(243)(敍述部)〔四行の上に括弧〕
  大和の青香具山は、日の經の大御門に、春山と繁さびたてり。
  畝火のこの瑞山は、日の緯の大御門に、瑞山と山さびいます。
  耳高の青菅山は、背面の大御門に、よろしなへ神さび立てり。
  名ぐはし吉野の山は、影友の大御門ゆ、雲居にぞ遠くありける。
(感想部)高知るや天の御蔭
     天知るや日の語影(二行に括弧)の水こそは常にあらめ、御井の清水。
 一篇の結構、實に雄大に堂々としている。漢籍の賦の影響を受けて、宮殿の景勝をほめたものと思われるが、四方の山の美を稱えて、その中の水に云い來つたところは、大手腕である。三方に近い山をいい、最後に南方吉野の遠山を點出し來つたのも、活力がある。この歌、藤原の宮の四山の美を描くのに、作者が見る所と云わずに、天皇が御覽になれは云々と云つているのは、一つの手段であつて、人麻呂の吉野の宮での歌の一つにもこれが出ている。山の如き自然物がその性を盡して、奉仕する意味で、歌として莊重を加える所以である。
 
短歌
 
【釋】短歌。右の藤原の御井の歌の反歌である。
 
53藤原の  大宮|仕《つか》へ、
 生《あ》れ着くや  孃子《をとめ》が伴《とも》は、
(244) ともしきろかも。
 
 藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》
 安禮衝哉《アレツクヤ》  處女之友者《ヲトメガトモハ》
 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》
 
【譯】藤原の宮の宮仕えに、生れてくる孃子の人々はうらやましいことである。
【釋】大宮都加倍 オホミヤツカヘ。藤原の宮に奉仕すること。名詞の句であつて、主題を提示している。「内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》(卷十三、三二三四)の用例がある。
 安禮衝哉 アレツクヤ。
   アレツケヤ(神) 
   アレツクヤ(古義)
   アレツガム (美)
   ――――――――――
   安禮衝武《アレツガム》(僻)
哉を武の誤とし、また原文のままに、共にアレツガムと讀む説があるが非である。哉をムと讀むことが無理であることは、既に「吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》」(卷一、一〇)の項に説明した。また衝の字は清音のツクであり、これを繼グの義に用いたとするも無理である。このままにアレツクヤと讀むべきである。アレツクは、「八千年爾《ヤチトセニ》 安禮衝之乍《アレツカシツヅ》 天下《アメノシタ》 所v知食跡《シラシメサムト》」(卷六、一〇五三)の用例があり、生れ著くの義で、この世に生まれ到る意と解せられる。ヤは感動の助詞。上記の「吾代毛所知哉」の句のヤに同じ。この句は、連體形の句で、次の處女ガ友を修飾する。
 處女之友者 ヲトメガトモハ。トモは、人々の意。多數の人をいう。マスラヲノ伴、佞人ノ伴などの用例がある
 乏吉呂賀聞 トモシキロカモ。諸本に乏吉召賀聞に作つているが、田中道麻呂の説に乏吉呂賀聞の誤とするによる。但し召は元暦校本等には呂に作つている。トモシはうらやましい意の形容詞。ロは意味無しに使(245)われる接尾辭である。微能佐加理?登《ミノサカリビト》 登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」(古事記九六)、「多布刀伎呂可?《タフトキロカム》」(卷五、八一三)などの用例がある。
【評語】宮仕の人々のふるまいをうらやましいものと見ている。宮仕えのために生まれ來る孃子の伴というのは、主として諸國から上つて來る釆女たちをさしているのであろう。長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。
【參考】井を詠んだ歌の數首。
  山の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢孃子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
  落ち激《たぎ》つ走井《はしりゐ》の水の清くあれば廢《す》てては吾は去《ゆ》きがてぬかも(卷七、一一二七)
  馬酔木《あしび》なす榮えし君が掛《ほ》りし井の石井《いはゐ》の水は飲めど飽かぬかも(同、一一二八)
  春霞井の上《へ》ゆ直《ただ》に道はあれど君に逢はむとたもとほり來《く》も(同、一二五六)
  葛飾《かつしか》の眞間《まま》の井を見れば立ちならし水汲ましけむ手兒奈《てこな》し思ほゆ(卷九、一八〇八)
  山の邊の五十師《いし》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(卷十三、三二三五)
  鈴が音《ね》の驛馬驛家《はゆまうまや》の包井《つつみゐ》の水を賜へな妹が直《ただ》手よ(卷十四、三四三九)
  もののふの八十孃子等《やそをとめら》が汲《く》み亂《まが》ふ寺井の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花(卷十九、四一四三)
 
右歌、作者未v詳
 
右の歌は、作者いまだ詳ならず
【釋】右歌 ミギノウタ。前の藤原の宮の御井の歌の長歌、および短歌をさして、その作者の知られないことを註している。
 
(246)大寶元年辛丑秋九月、太上天皇、幸2于紀伊國1時歌
 
大寶元年辛丑の秋九月、太上天皇の、紀伊の國に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大寶元年 ダイホウノハジメノトシ。文武天皇の五年三月、元を立てて大寶という。これより前にも年號を立てたことはあつたが、しばしは中斷せられて無年號の年もあつた。大寶より後は、引き續いて年號を定められ、無年號の年は無くなつた。これから下は、文武天皇の御代の歌と推考される。元來本卷には、何々宮御宇天皇代の標目を掲げて歌を記載する例であつたが、ここに至つて年號を以つてこれに代えている。またこれから以下、多く左註によつて作者を記しているのも、前の記載法と相違する所である。思うにこれよりして別の資料によるものがあるのであろう。以下或る本の歌を加えれば三首の題である。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。御孫なる文武天皇に讓位して、太上天皇としてましました。太上天皇は、漢土で皇帝の父を太上皇というに始まる。正倉院文書に帝上天皇と書いたもの(天平勝寶九歳五月二日生江臣家道女等貢經文)があつて、字音でも讀んだことが推知される。
 幸于紀伊國時歌 キノクニニイデマシシトキノウタ。この時のこと、續日本紀には、大寶元年九月十八日の條に、「天皇幸2紀伊國1、」十月八日「車駕至2武漏温泉1、」十九日「車駕自2紀伊1至」とあつて文武天皇の行幸を傳えている。この時の歌は、卷の二、卷の九にも載せているが、卷の九には「大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸2紀伊國1時歌」と題し、持統太上天皇、文武天皇御同列での行幸および御幸であつたことが知られる。
 
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿、
(247) つらつらに 見つつ思《しの》はな
 巨勢《こせ》の春野を。
 
 巨勢山乃《コセヤマノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツシノハナ》
 許湍乃春野乎《コセノハルノヲ》
 
【譯】巨勢山の竝んで生えているツバキ、よく見ながら思い見たいものです。巨勢の春野のありさまを。
【釋】巨勢山之 コセヤマノ。巨勢は既出(卷一、五〇)。奈良縣南葛城郡の地名。藤原の京から紀伊の國に赴く通路に當る。
 列々椿 ツラツラツバキ。ツラツラは、列なつていることをいう語であるが、同時に、ツバキの葉の光澤があつて光つていることにも懸けていうと思われる。ツバキの語も光澤のある葉の樹の義であつて、ツラにもさような意味があるものであろう。以上二句、この歌の中心を成す句であるが、これを序に利用して、次のツラツラニを引き出すに役立てている。
 都良々々尓 ツラツラニ。心をこめて十分に視る有樣にいう副詞。新撰字鏡に、「※[目+鳥]、熟視也、豆良々々彌留」とあり、本集に、「
アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニミトモアカメヤウヱテケルキミ」(卷二十、四四八一)とある。
 見乍思奈 ミツツシノハナ。ミツツオモフナ(元)、ミツツオモハナ(攷證)、ミツツシヌバナ(古義)。オモフナのナは、感動の助詞であつて、「阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(古事記三六)、「吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》」(卷十四、三三六二)の如き用例があるが、多くは助動詞ムに接續して、戀ヒムナの如き形を採つており、動詞にただちに接續する例は、右に擧げた以外には見當らない。この訓による時は、現にツバキを見つつ、春野の景色を愛賞することであるの意になる。またシノハナの訓につけば、ナは希望の助詞となり、思慕したいものだの意味になる。これによれは旅行の出發に當つて、巨勢の野を通過することを豫定して詠んだことになる。ナを感動の助詞とす(248)ることは、この集の用例が稀少であるから、今シノハナとするによる。思は、オモフともシノフとも讀まれるが、春野を愛賞し思慕する意については、シノフと讀む方が適切である。
 許湍乃春野乎 コセノハルノヲ。コセは、初句の巨勢に同じ。四句のシノフの目的格としてこの句を置いている。短歌の末句が、何々ヲで留まる場合、そのヲは、古くは感動の助詞として使用されるのが通例であるが、この歌に至つては、目的格を示す助詞としての性格が濃厚となり、しかも一面には、なお感動の意の殘つていることが看取される。過渡的な使用法というべきである。
【評語】同音韻を利用した詞句のなめらかさは、全くすばらしい。躍動的な快調子が漲つている。秋の歌であつて、春にあこがれを感じている。あかるい内容の歌である。九月の御幸の歌であつて、しかも歌中春季に係けているので、ここの題詞を誤りとする説もある。しかしこのままでよく理解されるのである。
 
右一首、坂門人足
 
【釋】坂門人足 サカトノヒトタリ。傳記未詳。饒速日の命の天降の時に從い降つた神の子孫であるという。「うましものいづく飽かじを尺度等《さかとら》が角のふくれにしぐひあひにけむ」(卷十六、三八二一)という兒部《こべ》の女王の歌の尺度も、同氏であろう。
 
55 朝裳《あさも》よし 紀人《きびと》ともしも。
 亦打山《まつちやま》 行來《ゆきく》と見らむ
 紀人ともしも。
 
 朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》
 亦打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》
 樹人友師母《キビトトモシモ》
 
【譯】 この紀伊の國の人はうらやましいなあ、亦打山を行く時にも見、來る時にも見ているだろうが、この紀(249)伊の國の人はうらやましいなあ。
【釋】朝毛吉 アサモヨシ。集中、麻毛吉一、麻裳吉一、朝毛吉二、朝裳吉二の例がある。アサモは、アサに朝の字を書いたものは、朝、裳を着るということに興味をもつているだろう。また麻の字をあてたものは、材料について感じているだろう。ヨシは、青丹吉(卷一、一七)の條に説いたように、語原は感動の助詞であり、轉じて、佳良の意味の形容詞として考えられるに至つたものであろう。アサ裳、それを著るという意味に、キの枕詞となる。
 木人乏母 キビトトモシモ。キビトは紀の國の人。難波人、宇治人、東人、阿陀人、須磨人、奈良人、飛驛人などいう例である。トモシはうらやましい意の形容詞。モは感動の助詞。句切。以上第一段。
 亦打山 マツチヤマ。亦打は、マタウチを約めてマツチの音をあらわしている。大和から紀伊にはいるところの吉野川の右岸にある。眞土山とも書く。この山を越えて、紀伊の國の國府の方へ行くのである。句意は、眞土山をと、ヲを添えて解すべきである。
 行來跡見良武 ユキクトミラム。ユキクは、行くと來ると。往復の意。トは行くとして來るとしての意。「葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奧槨乎《オクツキヲ》 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所v泣《ネノミシナカユ》」(卷九、一八二〇)の用例がある。ミラムは、ラムは助動詞、後の語法ではミルラムというべきを、この集では、一段活の動詞に限り、ミラムの如くいうのである。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムムマツラノ》」(卷五、八六二)などの用例がある。往來共に見るであろうの意で、次の句に懸かる連體形の句。以上ミラムに關する説明は、普通の説によつたのであるが、これにはなお問題が存するのである。「白菅乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マノノハリハラ》 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》 眞野乃榛原《マノノハリハラ》」(卷三・二八一)。これは高市の黒人の妻の歌であるが、夫の黒人が京に上るのに對して、往還の路すがらに君こそは見らめというので、このミラメは、あきらかに將來を推量している。この、「往くさ來さ君こそ見らめ」は、「往來と見らむ」と同樣(250)の意を有するものと考えられる時に、「往來と見らむ」の解は、考え直されねばならない。「石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》」(卷二、一三一)。この例のミラメのように、かならずしも現在の人の心を推量しているはかりではなく、不定時についても、その時の現在の推量をあらわすのである。もちろん一方には、現在の時についてもいう。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》 美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》 故飛都々遠良武《コヒツツヲラム》」(卷五、八六二)、「麻都良河波《マツラガハ》 多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》 和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》」(同、八六三)、「鹽早三《シホハヤミ》 礒廻荷居者《イソミニヲレバ》 入潮爲《アサリスル》 海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》 多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷七、一二三四)、「之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 射射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷十五、三六〇七)。これらは普通のラムの用法によつて解釋し得るものである。ミラムは、古い語法の殘存するものであつて、ラムの古い意義が、見られるのであろうと考えられる。それは現在の時に限るものでもないということである。
 樹人友師母 キビトトモシモ。第二句を更に繰り返して一首を終つている。
【評語】この歌は、二句と五句とに同一の句を繰り返している。これは古代の歌いものとしての短歌が、二句と五句とを句切とすることから來ているもので、音樂的な遺風を感じさせるものである。文筆作品時代にはいつては、二句切が無くなるのと、同音を重ねることの意義が薄弱になるのとで、この形は衰亡する。この集でも古い部分に比較的多いのは、その故である。なお二句と五句とに類形の句を用いたものは更にすくない。
【參考】二句と五句とに同一の句を重ねる歌。
  大和邊に往くは誰が夫《つま》。隱水《こもりづ》の下よ延へつつ往くは誰が夫《つま》(古事記五七)
  多遲比野に寢むと知りせは防壁《たつごも》も持ち來ましもの。寢むと知りせば(同七六)
  うるはしとさ寢しさ寢てば刈薦の亂れば亂れ。さ寢しさ寢てば(同八一)
  朝じもの御木《みけ》のさを橋、前つ君い渡らすも。御木のさを橋(日本書紀二四)
(251)  ぬば玉の甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし。甲斐の黒駒(同八一)
  枚方《ひらかた》ゆ笛吹き上《のぼ》る。近江のや毛野《けな》の若子い笛吹き上る(同九八)
  道の邊のはりとくぬ木としなめくもいふなるかもよ。はりとくぬ木と(琴歌譜)
  孃子ども孃子さびすも。唐玉を手本に纏きて孃子さびすも(本朝月令。琴歌譜には第二句を、「孃子さびすと」としている。)
  吾はもや安見兒得たり。皆人の得がてにすとふ安見兒得たり(卷二、九五)
  あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ。山のしづくに(同、一〇七)
  櫻田へ鶴《たづ》鳴きわたる。年魚市《あゆち》潟潮干にけらし。鶴鳴きわたる(卷三、二七一)
  白菅の眞野の榛原《はりはら》。行くさ來さ君こそ見らめ。眞野の榛原(同、二八一)
  大野山覇立ち渡る。わが嘆く息嘯《おきそ》の風に霧立ち渡る(卷五、七九九)
  梅の花今盛りなり。思ふとちかざしにしてな。今盛りなり(同、八二〇)
  豐國の香春《かはる》は我家《わぎへ》。紐の兒にい交《つが》り居れば香春は我家(卷九、一七六七)
  天の川|棚橋《たなはし》渡せ。織女《たなばた》のい渡らさむに棚橋渡せ(卷十、二〇八一)
  秋はぎに置ける白露。朝な朝な珠としぞ見る。おける白露(同、二一六八)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十一、二八六六)
  葛飾の眞間の手兒奈を眞《まこと》かもわれによすとふ。眞間の手兒奈を(卷十四、三三八四)
  庭に立つ麻手小衾。今夜だに夫《つま》よし來せね。麻手小衾(同、三四五四)
  明日香川塞くと知りせばあまた夜も率《ゐ》寐て來ましを。塞くと知りせば(同、三五四五)
  天にはも五百《いほ》つ綱|延《は》ふ。萬代に國知らさむと五百つ綱延ふ(卷十九、四二七四)
 
(252)右一首、調首淡海
 
【釋】調首淡海 ツキノオビトアフミ。壬申の年の天武天皇の擧兵に當り、初めから從つた二十餘人のうちの一人で、その時のこの人の日記が調連淡海の記として釋日本紀に引用されている。初め首の姓で、後に連の姓となつた。和銅二年に從五位の下を授けられた。應神天皇の御代に歸化した百濟の努理の使主《おみ》の子孫である。
 
或本歌
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の坂門の人足の歌と、詞句の類似が多いので、別の資料にあつた歌を載せたのである。その本の何であるかは知られない。なおこれは大寶元年九月の行幸の題には關係しない。
 
56 河|上《かみ》の つらつら椿、
 つらつらに 見れども飽《あ》かず。
 巨勢《こせ》の春野《はるの》は。
 
 河上乃《カハカミノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 雖v見安可受《ミレドモアカズ》
 巨勢能春野者《コセノハルノハ》
 
【譯》巨勢山につらなり生えている椿を、十分によく見るけれども飽きないことだ。この巨勢の春野は。
【釋】河上乃 カハカミノ。既出(卷一、二二)。
 巨勢能春野者 コセノハルノハ。第四句に對して、主格を提示している。
【評語】この歌は、前の坂門の人足の歌と詞句が類似しているので、萬葉集の編者が、特に附載したものである。いつ作られたものであるかは、わからないが、たがいに關係のある歌と考えられる。しかし歌の内容は、彼とは全く別個の獨立した歌として存立し得られる。この歌は、巨勢の春野に、現に對しており、前の歌は、(253)巨勢の春野に當面していないと見られることは、自然この歌の表現の方が、すなおになつた。それでむしろこの歌の方が本歌であるように思われる。「つら/\椿つら/\に」の句の如きは、「大君は神にしませば」の句などと同樣、いわゆる名句であつて、誰かが歌い出すと、他の人がこれを襲用して、時に應じた替歌を作るのである。これは歌が、古くは歌いものとしての傳來を有しているので、民衆の共有物としての性格があり、まだ個人の創作とする意識が發達していなかつたためである。
 
右一首、春日藏首老
 
【釋】春日藏首老 カスガノクラビトオユ。もと僧で辨基と稱した。學術あるによつて、大寶元年特に還俗して姓名を賜い、官吏に登用された。本集になお作歌があり、懷風藻に詩を傳えている。この時代、僧中出身の名家には、山田の史三方、吉田の連宜等があり、後に出る。
 
二年壬寅、太上天皇、幸2于參河國1時歌
 
二年壬寅、太上天皇の、參河《みかは》の國に幸でましし時の歌
 
【釋】二年壬寅 フタトセミヅノエトラノトシ。大寶二年。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。
 幸于參河國時歌 ミカハノクニニイデマシシトキノウタ。續日本紀によると、大寶二年十月十日、參河の國に幸すとあり、十一月、尾張、美濃、伊勢、伊賀の諸國を經て、二十五日にお還りになつた。以上は、「大夫之《マスラヲノ》」(卷一、六一)に至るまで五首の題である。歌の作者については、初めの二首は、左註に記事があり、後の三首は、歌の前に題している。これはそれぞれ別種の資料を受け入れているからであろう。
 
(254)57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》、
 入《い》り亂《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ。
 旅のしるしに。
 
 引馬野尓《ヒクマノニ》 仁保布榛原《ニホフハリハラ》
 入亂《イリミダレ》 衣尓保波勢《コロモニホハセ》
 多鼻能知師尓《タビノシルシニ》
 
【譯】引馬野に、ハギの花が咲き盛つている原に、入り亂れて、衣をハギの花の色に染めておいでなさい。旅行の記念として。
【釋】引馬野尓 ヒクマノニ。ヒクマノは、靜岡縣濱名郡、濱松市の北方に、今、曳馬村の名が殘つている。十六夜日記に「こよひはひくまのしゆくといふ所にとどまる。ここのおほかたの名をば濱松とぞいひし」と見える。この地は遠江の國なので、參河の國に幸せられた時の歌に、この地のあるのは不審として、久松博士は、愛知縣寶飯郡御津町字御馬下佐脇附近をこれに擬している。しかしこの歌は、出發に際して、御供に立つ人に贈つた内容であつて、當時、濱名湖のある遠江の國まで幸せられる計畫があつたものとも考えられる。敢えて不審とするに及ばない。
 仁保布榛原 ニホフハリハラ。ニホフハキハラ(元朱)、ニホフハリハラ(略、枝直)。ニホフは、花色の映發するをいう。ハリハラはハギ原である。ハンノ木の原の説があるが、この歌では、特にハギ原で無くては、歌意を成さない。ハギをハリということは、既に記した(卷一、一九)ニホフハリ原にの意味であるが、歌の中心としてハリ原を提示している。
 入亂 イリミダレ。イリミダレ(元墨)、イリミダリ(考)。動詞亂ルは、下二段活であるが、古くは四段に活用したと解せられている。本集には四段活の明證は無い。ここは自動詞として下二段活のままでよい。ハギ原の中に分け入つて徘徊する意である。
(255) 衣尓保波勢 コロモニホハセ。ニホハセは、におわしめる意の命令形。ハギの花を染料として衣服を染めよの意であるが、歌意としては、ハギの咲き亂れている野に分け入つて、そのハギの花の色が衣服に染みつくまでにせよの意である。紅葉の山に分け入れば、その紅葉の色に衣服が染まるかのように歌つている類である。「草枕旅行く人も往き觸れはにほひぬべくも咲けるはぎかも」(卷八、一五三二)とある歌意である。また黄葉については、「わが夫子が白栲ごろも行き觸ればにはひぬべくももみつ山かも」(卷十、二一九二)などある。當時の人々が、無色の衣を著しているので、はぎ原や紅葉の中を分けて行くと、一層その色に染まりそうに感ずるのである。
 多鼻能知師尓 タビノシルシニ。シルシは、記念。旅行したかいに、旅行の記念にの意。上の句意を限定している。
【評語】この歌の時節については、古來種々の説があるが、それは、作者も御幸の御供をして、引馬野にて作つたとするから、問題になつて、ハギの無い時だとの説も出る。御幸には留守をしていたので、御供に行く人に與えた作であるから、多分、ハギの花咲く頃に御幸が決定し、供奉の人々も定められた準備時代の作であろう。作者は、引馬野の秋をよく知つていて、この歌を成したと思われる。その地での作ではないが、白衣の人々の、ハギ原の中に入り亂れる美しい旅の風情が思いやられる。
 
右一首、長忌寸奧麻呂
 
【釋】長忌寸奧麻呂 ナガノイミキオキマロ。奧麻呂は、意吉麻呂とも書く。この人も傳が詳でないが、大寶二年の持統天皇の參河の國への行幸に、歌を詠んでいるから、まず高市の黒人と同時にいた人とされる。この人の作品は、短歌のみで、その作品は行幸の御供に從つた明るい作品のほかに、多數の物を題として一首の中(256)に詠み、また變わつた題材を取り扱うなど、遊戯的な方面にもその才を伸ばしている。この時代の歌にこのような一面のあつたこと、また見過せないところである。
 
58 何所《いづく》にか 船泊《ふなはて》すらむ。
 安禮《あれ》の埼 こぎ廻《た》み行きし
 棚無《たなな》し小舟《をぶね》。
 
 何所尓可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》
 安禮乃埼《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》
 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
【譯】何處に船泊りをすることだろうか。安禮の埼を漕ぎ廻つて行つた、横板も無いようなあの小さな舟は。
【釋】何所尓可 イヅクニカ。カは疑問の係助詞。次の句に懸かる。
 船泊爲良武 フナハテスラム。フナハテは、船の碇泊すること。ハツは終るの意の動詞の名詞形である。スラムは、動詞|爲《す》に助動詞ラムの接績した、その終止形。今は何處に船を停めることであろうかと、見えなくなつた船について推量し、時に拘わらずにその動作を推量している。
 安禮乃埼 アレノサキ。所在未詳。遠江の新居の埼であろうともいうが、臆説に過ぎない。サキは埼が正しい。流布本に崎に作るのは誤りである。
 榜多味行之 コギタミユキシ。タミは、迂廻する意の動詞。類聚名義抄に、迂廻にタミメクレルの訓がある。木集では、「礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)など、手廻の字をタミに當てて書いている。シは時の助動詞で、過去のことであるを示す。次の句に對する連體形の句。
 棚無小舟 タナナシヲブネ。タナは、横たえた板の義、ここはフナダナに同じ。フナダナは、新撰字鏡、類聚名義抄に舷の字に訓し、倭名類聚鈔に、※[木+世]の字に訓している。舷の上に、舷を丈夫にし、舟人の通行にも便するように附けた板。それも無いようなちいさな舟を、棚無し小舟という。安禮の埼を漕いで廻つて行つた舟、(257)實際に棚の無いことまで見屆けていうのではない。ただ粗末なちいさな舟という心を十分にあらわそうがために、具體的に、棚無シ小舟というのである。
【評語】旅の夕暮の歌である。暮れない前に、安禮の埼で見た光景を想起し、その行く先を案じている。しかしそれは表面にあらわれた所であつて、眞實は、作者自身の旅情が詠まれている。棚無し小舟の泊てる處を案じた裏には、御幸の御供とはいえ、自分たちの旅情が、ひしと迫つている。旅の日暮の心細さを、景物に託して歌つたもので、表面に露骨にいわないところに、かえつて無限の哀情がある。
【參考】同語、棚無し小舟。
  四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隱る棚無し小舟(卷三、二七二)
  海孃子《あまをとめ》棚無し小舟漕ぎ出《づ》らし。旅のやどりに?の音《と》聞ゆ(卷六、九三〇)
 
右一首、高市連黒人
 
【釋】高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出(卷一、三二題詞)。
 
譽謝女王作歌
 
【釋】譽謝女王 ヨサノオホキミ。系譜未詳。屬日本紀、慶雲三年の條に「六月癸西朔丙申、從四位下與謝女王卒」とある。この歌、大寶二年の御幸の時に、夫君を思つて詠まれたと見られるが、その夫君の何方であるかも不明である。作者はこの時京に留まつて、御幸に供奉した夫君を思つて詠まれたのであろう。しかし歌の表では、作者が供奉したとも見られる。
 
(258)59 ながらふる 妻吹く風の 寒き夜《よ》に、
 わが夫《せ》の君は ひとりか寐《ぬ》らむ。
 
 流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜尓《サムキヨニ》
 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
【譯】この世に生きながらえている妻を吹く風の寒い晩に、夫の君はひとりお寐《やす》みなされることでありましようか。
【釋】流經 ナガラフル。ナガレフル(檜)。動詞流ルをハ行下二段に再活用せしめた語で、もとの動詞の連續する意味をあらわす。その用法には、一、形體ある物の流れ行く。雨、雪、花など。「天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》」(卷一、八二)、「沫雪香《アワユキカ》 薄太禮爾零登《ハダレニフルト》 見左右二《ミルマデニ》 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)、「櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリナガラフル》」(卷十、》八六六)。二、時間を經過する。「至v今爾《イママデニ》 流經者《ナガラヘヌルハ》 妹爾相曾《イモニアハムトゾ》」(卷八、一六六二)、「於v君合常《キミニアハムト》 流經度《ナガラヘワタル》」(卷十、二三四五)、「月日《ツキヒハ》 攝友久《カハレドモヒサニ》 流經《ナガラフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》」(卷十三、三二三〇、「俗中波《ヨノナカハ》 常無毛能等《ツネナキモノト》 語續《カタリツギ》 奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》」(卷十九、四一六〇)。そこでこの歌のナガラフが、そのいずれであるかであるが、語を隔てて風を修飾すると見る説もある。直接に妻を修飾すると見て不可解ならばそれもやむを得ないが、流らえる妻でも意味を成すのであるから、そのように解するのが順當である。すなわち時を過している妻の意になる。待ちあぐねている情を寫していると見られるのである。
 妻吹風之 ツマフクカゼノ。雪吹風之《ユキフクカゼノ》(略、久老)。ツマは、代匠記に衣のつまなりといい、荒木田久老は、妻を雪の誤りとしている。これは文字通り配偶者の意に解すべきで、作者自身をいうのである。
 寒夜尓 サムキヨニ。この御幸は、十一月にわたつているので、この句となつている。
 吾勢能君者 ワガセノキミハ。夫君をさしている。次の句の主格をなす句。
 獨香宿良武 ヒトリカヌラム。カは疑問の係助詞。ヌは動詞。ラムは推量の助動詞。お一人でか寐たまうな(259)らむと推量している。
【評語】初二句は御自身の上を客觀的に敍せられている。それは寒い夜風のもとに孤影悄然たる作者を描寫する句として效果的である。その自分を吹く風の寒い晩に、わが君もまた獨寐をするだろうか。さぞお寒いことであろうと推量している。寒き夜の一語が中心をなしている歌である。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。續日本紀、靈龜元年(七一五)六月の條に「甲寅、二品長親王薨、天武天皇第四之皇子也」とある。前の歌と同じ御幸の時に、長の皇子が、御供に從つたある婦人を思つて詠まれた歌で、皇子は、その時京に留まられたと見られる。
 
60 暮《よひ》に逢ひて 朝《あした》面無《おもな》み、
 名張《なばり》にか 日《け》長く妹が 廬《いほり》せりけむ。
 
 暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》
 隱尓加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガクイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
【譯】昨夜は逢つて、今朝ははずかしさに隱れようとする。(その隱れることは、古語でナバルというが)あの名張山の邊に、幾日も幾日もわが思う妻は、廬していたのだろうか。
【釋】暮相而朝南無美 ヨヒニアヒテアシタオモナミ。この二句は、名張というための序詞である。ヨヒは前夜。夜、男に逢つて、朝ははずかしいので隱れるというのでナバリに懸かる。面無ミは、顔が無さにで、はずかしさにの意となる。
 隱尓加 ナバリニカ。ナバリは既出(卷一、四三)。古語に隱れるをナバルというので、伊賀の國の名張の地名に懸けている。名張は、伊勢と大和との通路に當る。カは疑問の係助詞。五句の廬セリケムに懸かつてい(260)る。
 氣長妹之 ケナガクイモガ。ケナガキイモガ(元朱)、ケナガクイモガ(神)。ケは、ある時間の長さをいう。ケナガクは、衣通の王の歌に、「岐美加由岐《キミガユキ》 氣那賀久那理奴《ケナガクナリヌ》」(古事記八九)・「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリヌ》」(卷五、八六七)など使用している。時の長くある意である。ケナガキと讀んで妹を修飾するとする説があり、「等之乃古非《トシノコヒ》 氣奈我使古良河《ケナガキコラガ》 都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨゾ》」(卷十八、四一二七)など使用されているが、それは兒ら自身の戀う時の久しいのをいうので、此處には適わない。ここは、ケナガクと讀んで、五句を修飾する副詞とすべきである。妹は、作者の思つている女性をいう。その妹が、時長く廬していたであろうというのである。
 廬利爲里計武 イホリセリケム。イホリは、假屋を作つて宿ること。セリはしてあるをいう。ケムは過去推量の助動詞。御幸に從つた妹が歸つて來た時の歌とする萬葉集精考(菊池壽人氏)の説がよい。
【評語】暮ニ逢ヒテ朝面無ミは、序であるが、名張を引き出す句として、非常に巧みな句というべきである。妹を思う歌であるから、この句がある。それから轉じて、主題にはいつて、待ち切れなかつた情を歌つているはずであるが、この序が巧みすぎるので、幾分餘裕が感じられる。もつともこの序詞は、やはり何人かが云い出すと皆が感心して襲用しているほどの句であつて、他にも用いられている。
 暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面無《おもな》み名張野のはぎは散りにき黄葉はや繼げ(卷八、一五三六)
 
舍人娘子、從駕作歌
 
舍人の娘子の、從駕《おほみとも》にして作れる歌
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。舍人は氏であろう。この氏は、新撰姓氏録に、百濟の國の人利加志貴王の(261)後であるとしている。娘子は、若い女をいう。イラツメと讀むべしという説があるが、やはりヲトメと讀むがよい。イラツメは、身分のよい婦人にいう語であつて、この集の娘子は、イラツメと呼ばれるほどの身分でない人が多く、この舍人の娘子も、さして身分のよい人とも思われない。何々の娘子とあるは、すべて若い女性をいう。舍人の娘子は、卷の二に舍人の皇子と歌を贈答している。
 從駕 オホミトモニシテ。既出(卷一、三九左註)。この歌まで、大寶二年の御幸の時の作である。
 
61 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立《た》ち向ひ 射る圓形《まとかた》は、
 見るに清《さや》けし、
 
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手插《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》
 見尓清潔之《ミルニサヤケシ》
 
【譯】勇士が狩矢を腋ばさんで、立ち向つて的を射る、その圓方の浦は、見るに清らかである。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出(卷一、五)。立派な男子。
 得物矢手插 サツヤタバサミ。サツヤは、動物に對してこれを支配する靈威の力をサチという。そのサチのある矢。サツ弓、サツ雄、サツ人などの用例がある。タは接頭語。威力ある矢をさしはさんで。
 立向 タチムカヒ。立ち向かつて射ると、次の句に續く。
 射流圓方波 イルマトカタハ。初句の丈夫ノからこの句の射ルまで、圓(的)というための序である。圓方は伊勢の國の浦の名。延喜式神名帳に、伊勢國多氣郡に、服部麻刀方神社がある。その地であろうという。今は海岸ではなくなつている。伊勢國風土記の逸文(參考欄參照)に、當時(奈良時代初めか)既に江湖となつたと見えている。圓方の名は圓形の灣であるからいう。
 見尓清潔之 ミルニサヤケシ。サヤケシは、清明にあるをいう。本集には、山川の景にこの語を使うことが(262)多い。「河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》(卷十三、三二三四)など。
【評語】この歌は序歌としてよくできている。主たる内容は、圓方の浦は清らかであるというに過ぎない。そのマトというために、長い序を持つて來たので、その序の内容、武士が矢をさしはさんで的に立ち向かうという、いかにも颯爽たる氣分で、主たる内容の印象を助けている。内容とは無關係であつて、しかも序と主文との氣分に共通の點がある。後の連歌、俳諧の興味は、これらの序歌の味から發育したもので、單に形を變えたものに過ぎないと考えられる。
【參考】別傳。
  的形浦者、此浦地形似v的。故爲v名也。【今已跡絶成2江湖1也。】。天皇行2幸濱邊1、歌曰、麻須良遠能 佐都夜多波佐美 牟加比多知 伊流夜麻度加多 波麻乃佐夜氣佐(伊勢國風土記【萬葉集註釋所引】))
 
三野連名闕、入唐時、春日藏首老作歌
 
三野《みの》の連《むらじ》【名闕けたり、】入唐の時、春日《かすが》の藏首老《くらびとおゆ》の作れる歌
 
【釋】三野連名關 ミノノムラジ、ナカケタリ。單に三野の連とのみで、その名が傳わらないというのである。萬葉集編纂の當時、その資料としたものに、名を傳えていなかつたものと見える。しかし萬葉集の西本願寺本等の胥入に、「國史云、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘2船五隻1、小商監從七位下中宮小進美奴連岡麻呂」とあり、また明治五年に奈良縣平群郡からこの人の墓誌が掘り出され、それにも大寶元年五月唐に使したこと、神龜五年十月六十七で死んだことが見えている。三野の連は、この美努の連に同じく、新撰姓氏録に、角凝魂《つのごりむすび》の神の後と傳えている。その美努の連岡麻呂が唐に遣された時に、春日の老の作つた歌で、岡麻呂の作ではなく、また他にも岡麻呂の作歌は、傳わらない。
(263) 入唐時 ニフタウノトキ。遣唐使の一人として唐に赴いた時の意。入唐とは、唐を主としていう云い方で、日本からいえば、當を失している。元來、漢文の書き方は、大陸から來た人が教え、自分の方を中心として教えたので、かような書き方を生じて、怪しまなかつたのである。日本から公式に、中國に便を遣されたのは、推古天皇の十五年に、小野の妹子を隋に遣されたのが初めである。その後、囘を重ねて使を出發せしめ、平安朝に至つて寛平年間に菅原の道眞の建議によつて廢せられるまで、引き續き行われた。かの地は、初めは隋の朝であつたが、まもなく唐の朝となつたので、これを遣唐使と稱する。文武天皇の大寶元年の發遣以來、奈良朝盛期の遣唐は最大規模に行われた。遣唐使の目的は、かの土の文化をわが朝に移入することであり、留學生僧侶等を從わしめたのもこれがためである。かくて歸朝したものは重く用いられるのを常とした。しかし、萬里の波濤を凌いで行くこととて、途中に困難が多く、愉快な旅でないことは無論である。萬葉集としては、遣唐關係では、行を送る歌が大部分を占めている。ここに入唐の時とあるのは、文武天皇の大寶年間の時のことである。大寶元年に出發することになつて筑紫に赴いたが、風波のために後れて、二年六月にその地を出發して唐に渡つた。
 春日藏首老 カスガノクラビトオユ。既出(卷一、五六)。美努の岡麻呂に贈つて、その行途の無事にして早く還らむことを歌つている。
 
62 在根《ありね》よし 對馬《つしま》の渡《わたり》、
 海《わた》なかに 幣《ぬさ》取り向けて、
 早《はや》還《かへ》り來《こ》ね
 
 在根良《アリネヨシ》 對馬乃渡《ツシマノワタリ》
 渡中尓《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》
 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
【譯】山の姿のよいかの對馬の海峽の海の途中で、幣を神に奉つて祭をして、早く還つていらつしやい。
(264)【釋】 在根良 アリネヨシ。
   アリネヨシ(類)
   アリネラ(札)
   アラネヨシ(美、秋成)
   ――――――――――
   百船能《モモフネノ》(考)
   百都舟《モモツネ》(考)
   布根竟《フネハツル》(玉、大平)
   大夫根之《オホフネノ》(古義)
 青丹吉、朝毛吉などと同型の枕詞である。アリネは攷證には荒根の義といい、その他、誤字説もあるが從いがたい。アリは、「阿理袁《アリヲ》」(古事記九九)のアリに同じく、そこに存在する意をあらわす語なるべく、ネは、嶺の義とすべきである。對馬はうち見た島山の姿の宜しき島とて、この枕詞を生じたのであろう。
 對馬乃渡 ツシマノワタリ。對馬は、古事記上卷に津島とあり、舟|著《つ》きの島の義である。對馬の文字は、日本書紀に見え、また、古く漢籍の魏志倭人傳に見えている。日本から大陸に渡る交通の要衝に當つていることは、いうまでもない。ワタリは、河でも海でも渡るべき處にいう。野山にも渡るべき地形にはワタリという。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十一、二三七九)の渡は、陸上にいうと解せられる。「大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》」(卷一、一三五)の渡も普通名詞とすべきである。ここの對馬の渡は、勿論海上で、對馬に渡るべき海上をいう。大陸に赴く途中、風波の烈しい處として知られているので、これを擧げて、無事に通過することを願つている。
 渡中尓 ワタナカニ。ワタは、渡に同じ。古語に、海洋をワタというのは、渡るべきものであるからいうのであろう。對馬に渡る海上においての意。ワタリワタナカニと、ワタの音を重ねて、調子をなめらかにしている。
 幣取向而 ヌサトリムケテ。ヌサは、手向の祭に使用する布麻絲絹紙の類をいう。トリムケテは、それを神(265)に手向けての意。旅行の途上、手向の祭をして、無事を願つたことは、「白浪乃《シラナミノ》」(卷一、三四)の歌で説明した。ここは海上で手向の祭を行うことをいう。
 早還詐年 ハヤカヘリコネ。コネは來ねで、來よと希望する語法。
【評語】當時、旅行の困難な時代にあつて、殊に大陸へ渡るのは、非常な冒險であつた。その中にも、海の荒いので有名な朝鮮海峽で、神を祭つて無事に行つていらつしやいと歌つたのである。旅に行く人を送るに、かように祭をするようにと心づけた歌はいくつもある。送別の一の儀禮のようにもなつている。初句の枕詞も、對馬の印象を描くに役立つものである。二三句の續きは、ワタリワタナカニと同音を利用しており、この歌そのものは、序歌では無いが、いくらか序歌的な氣分を感じさせる。
 
山上臣憶良、在2大唐1時、憶2本郷1作歌
 
山上《やまのうへ》の臣《おみ》憶良《おくら》の、大唐にありし時、本郷を憶ひて作れる歌
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 在大唐時 モロコシニアリシトキ。前と同じく文武天皇の大寶元年に、憶良は遣唐少録となつて、大使粟田の眞人に從つて唐に渡り、翌々年慶雲元年六月に歸朝した。その唐にあるあいだに詠んだ作である。大唐と書いたのは、尊んで書いたので、大陸崇拜の思想があらわれている。大唐はモロコシと讀むが、集中にモロコシと讀むべき明證は存しない。
 本郷 モトツクニ。本居である郷土をいう。ここは、大陸から日本をさしていう。
 
63 いざ子ども はやく日本《やまと》へ。
(266) 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の濱松、待ち戀ひぬらむ。
 
 去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》
 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
【譯】さあ人々よ、早く日本へ歸りましよう。大伴の御津の濱邊の松も待ち戀うていることでしょう。
【釋】去來子等 イザコドモ。去來をイザと讀むのは、この字に移動をうながす意味の用法があるからであろう。イザは誘いかけた詞。子は若いもの、または部下に對して、親しみいう詞、ドモは等の意。ここでは舟子從人等を總括していう。
 早日本邊 ハヤクヤマトヘ。ハヤヒノモトヘ(元)、ハヤクヤマトヘ(類墨)、ハヤモヤマトヘ(略)、ハヤヤマトベニ(古義)。日本は、枕詞の場合には、ヒノモトと讀むが、地名としてはヤマトである。この句で一段落となる。下に詞を省略してある云い方である。
 大伴乃 オホトモノ。オホトモは地名。集中、御津に冠するもの多く、また、「大伴乃《オホトモノ》 高師能濱《タカシノハマ》」(卷一、六六)とも見えており、大阪灣に面する一帶の總名であつたようである。この地名は大伴氏の本居であるので、出たものなるべく、日本書紀欽明天皇紀には、「大伴金村大連、居2住吉宅1、稱v疾而不v朝」とある。河内の國の伴林は、その名を殘しているものであろう。
 御津乃濱松 ミツノハママツ。御津は、難波の御津で、ミは津に對して敬意をもつてつける。今の大阪の邊にあつたと考えられる。遣唐使の船もその地から船出をするので、忘れがたいその地の濱松を擧げて、次の句の主格としたものである。
 待戀奴良武 マチコヒヌラム 四句の松を受けて、マチコフと起している。ヌラムは確にそうであろうと推量する語法。
(267)【評語】船出をした地の濱松を擧げて、それに對する戀情を、逆に松が待ち戀うているだろうと歌つている。故郷戀しい心が巧みに描かれている。集中の歌は四千五百餘首に及び遣唐使遣新羅使に關する歌もすくなくないが、しかも海外にあつて作つた歌は、これ一つである。そういう點で、後に安倍の仲麻呂が、明州で月を見て作つたと傳える、「あをうなはらふり放《さ》け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と共に、珍しい作品と稱すべきである。
【參考】同句、いざ子ども。
  いざ子ども大和へ早く白管の眞野の榛原手折りて行かむ(卷三、二八〇)
  (上略)いざ子どもあへて榜ぎ出む。海上《には》もしづけし(同、三八八)
  いざ子ども香椎の滷に白栲《しろたへ》の袖さへ沾《ぬ》れて朝菜採みてむ(卷六、九五七)
  白露を取らば消ぬべし。いざ子ども露にきほひてはぎの遊せむ(卷十、二一七三)
  いざ子どもたはわざなせそ。天地の固めし國ぞ。大和島根は(卷二十、四四八七)
   御津の濱松待ち戀ひぬらむ。
  ぬばたまの夜明しも船は榜ぎ行かな。御津の濱松待ち戀ひぬらむ(卷十五、三七二一)
 
慶雲三年丙午、幸2于難波宮1時、志貴皇子御作歌
 
慶雲三年丙午、難波の宮に幸でましし時、志貴《しき》の皇子の作りませる御歌
 
【釋】慶雲三年丙午 キヤウウニノミトセヒノエウマノトシ。慶雲は、文武天皇の年號。この年九月二十五日、難波の宮に幸せられ、十月十二日に還幸せられた。
 幸于難波宮時 ナニハノミヤニイデマシシトキ。難波には、古くは仁コ天皇、孝コ天皇の皇居もあつた。こ(268)こは離宮である。これは以下二首の題詞である。
 
志貴皇子 シキノミコ。既出。
 
64 葦邊《あしべ》ゆく 鴨の羽交《はがひ》に 霜|零《ふ》りて
 寒き夕《ゆふべ》は、
 倭《やまと》し念ほゆ。
 
 葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比尓《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》
 寒暮夕《サムキユフベハ》
 倭之所v念《ヤマトシオモホ》
 
【譯】 葦邊を行く鴨の羽交に霜が降つて、寒い夕べは、大和のわが家のことが思われる。
【釋】 葦邊行 アシベユク。アシベは、アシの生えている岸邊。この句は、寫實ではない、鴨の棲息?態を描いて鴨を説明している。更にこれを約言すればアシガモの語となる。
 鴨之羽我比尓 カモノハガヒニ。ハガヒは、羽の重なり合う義で、鳥の翼の疊まれているをいう。鴨の羽交は、部分を擧げて全體の印象をあきらかにするもので、鴨に霜が降るというべきを、鴨の羽交に霜が降ると云つたのである。
 霜零而 シモフリテ。以上、次句の寒き夕べの有樣を具體的に描寫している。
 寒暮夕 サムキユフベハ。暮夕は、同義の字を重ねている。この句、寒い夕べにはの意である。
 倭之所念 ヤマトシオモホユ。倭は、元暦校本等による。仙覺本には和に作つている。ヤマトに和の字を使用するのは、古事記にも本集にも、例はあるが、古くは倭の字を使うのが通例である。この句のヤマトは、帝都を中心として云つている。シは強意の助詞。
【評語】海邊の寒夜の情景に筆を起して、故郷を思う心を適切にあらわしている。鴨の羽交に霜が降るとは、その動物を憐む心から出發して、自己の旅情を顧みているのである。寒夜の景況を、具體的に描寫し、霜のふ(269)る場處を、葦邊行ク鴨ノ羽交ニとまでこまかく指定しているのが、極めて效果的である。家郷を思う歌も多いが、代表的なすぐれた歌である。
 鴨に霜の降ることによつて寒夜の情を寫している歌には、高橋蟲麻呂歌集から出た歌に、
  埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる。おのが尾に零り置ける霜を拂ふとにあらし(卷九、一七四四)
がある。
 
長皇子御歌
 
【釋】 長皇子 ナガノミコ。既出。
 
65 霰うつ 安良禮《あられ》松原、
 住吉《すみのえ》の 弟日孃子《おとひをとめ》と
 見れど飽かぬかも。
 
 霰打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》
 住吉乃《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》
 見禮常不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】 霞のはらはらと打ちつけるこの安良禮松原よ、住吉の弟日孃子と共に見ていても、飽きることを知らないことだなあ。
【釋】 霰打 アラレウツ。ミゾレフリ(元朱)、ミゾレフル(京赭)、アラレフル(仙)、アラレウツ(代初)、アラレウチ(古義)。文字通りアラレウツと讀む。霰の強くたばしる有樣が描かれている。古事記下卷に、「佐佐波爾《ササハニ》 宇都夜阿良禮能《ウツヤアラレノ》」(八〇)とある。次の句に對する連體句。
 安良禮松原 アラレマツバラ。萬葉集古義に、新撰姓氏録攝津國諸蕃の荒荒公、日本紀略の「延喜三年癸丑五月十九日、授2攝津國荒荒神從五位下1」などの證を擧げて、アララの地名あることをいい、それが轉じてア(270)ラレとも言つたものとしている。そのアララは、もと松のまばらに立つているより出た名であろう。
 住吉乃 スミノエノ。この地名、本集に、須美乃延、須癸乃江など書かれている。今、大阪市の一部になつている。
 弟日娘與 オトヒヲトメト。オトヒは、オトヒメ(弟姫)のオトヒと同じで、若い人の意であろう。實名ではないようである。肥前國風土記に、「大伴狹手彦連、即娉2篠原村弟日姫子1成v婚」とある。トは、弟日娘子と共にの意に解するを順當とする。あられ松原と弟日娘と二つ竝べての意とする説は、無理で、さようにしないでも解せられる。
 見禮常不飽香聞 ミレドアカヌカモ。既出(卷一、三六)。
【評語】霰うつ安良禮松原は、聞くからに清らかな松原の情景である。アラレを重ねたのも、調子を快調にしている。その松原を、孃子と共に見ていると、何時までも飽きないという、松原を讃した歌である。しかし、内意は、孃子とともに見ているから、飽きないので、内容の中心は、この方にあるのである。すぐれた歌である。
 
太上天皇、幸2于難波宮1時歌
 
太上天皇の、難波の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】太上天皇、持統天皇。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。持統天皇が、太上天皇として難波の宮に行幸のあつたことは傳わらない。持統天皇は、大寶二年十二月に崩御されたので、慶雲三年の難波の宮の行幸の時の歌の次にこれを載せているのは、順序について疑問がある。この時の歌は、前の歌とは別の資料から出ていると(271)見られるので、事實は大寶二年よりも前の事と考えられている。この題詞は、以下四首に懸かつている。
 
66 大伴の 高師《たかし》の濱の 松が根を、
 枕《まくら》に寐《ぬ》れど 家し偲《しの》はゆ。
 
 大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》
 枕宿杼《マクラニヌレド》 家之所v偲由《イヘシシノハユ》
 
【譯】大伴の高師の濱の松の根を枕として寐るけれども、わが家が戀い慕われる。
【釋】大伴乃 オホトモノ。既出(卷一、六三)。
 高師能濱乃 タカシノハマノ。高師の濱は、大阪府泉北郡の地名。和泉の國に屬している。日本書紀には高脚の海がある。
 松之根乎 マツガネヲ。次句にこれを枕とすることが見え、ここは松樹の根と解すべきである。
 枕宿杼 マクラニヌレド。
   マクラニヌレド(元)
   マクラニネヌト(仙)
   マクラニヌルトモ(代初)
   マキテシヌレド(考)
   マキテサヌレド(燈)
   マキテイヌレド(燈)
   マクラキヌレド(講義)
   ――――――――――
   枕宿夜《マキテヌルヨハ》(玉)
 枕の字を、どのように讀むかに問題が存するのである。枕の字を、動詞マク、及びマクラクに當てて讀むことは、例もあり、以上の訓は、いずれも可能とされる。そこでいずれがもつとも妥當であるかというに、まず(272)マクラクの語は、名詞マクラを活用したものと見るべく、その用例は、天平以後のみであつて、古い語と見られず、この歌に適當であるとは言いがたい。マキテシと讀むのは、テシを讀み添えるものであつて、枕の一字に對しては、他の讀み方があれば避くべきである。マクラと讀む例はもつとも多く、ニを讀み添えるだけで濟み、訓法としてもおだやかである。松が根を枕として寐れどの意である。ドはドモの意であるが、このドは、何々の事ではあるが、それはそれとしての意をあらわすものである。たとえは「小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ。別れ來ぬれば」(卷二、一三三)の如き、小竹の葉は騷いでいる。それとは別にの意を、ドモであらわしている。かような意味の用法におけるドである。
 家之所偲由 イヘシシノハユ。家はわが家。シは助詞。所偲に由を書き添えたのは、讀み方を確にするためである。わが家が思い慕われるの意。
【評語】松が根を枕として寐るという所に、海濱に旅寐する風情がよくあらわれている。しかもそういう風雅も家郷戀しさの念を如何ともすることができない。そこにまたこの歌の風情が生ずるのである。
 
右一首、置始東人
 
【釋】置始東人 オキソメノアヅマビト。傳未詳。
 
67 旅《たび》にして 物戀《ものこほ》しきに、
 鶴《たづ》が音《ネ》も 聞えざりせば
 戀《こ》ひて死《し》なまし。
 
 旅尓之而《タビニシテ》 物戀之《モノコホシ》□
 □鳴毛《ネモ》 不v所v聞有世者《キコエザリセバ》
 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
【譯】旅に出て、何となく家戀しさに堪えないのに、もしも鶴の鳴く聲も聞えなかつたら、戀い死にに死ぬこ(273)とだろう。
【釋】旅尓之而 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありての意。
 物戀之□鳴毛 モノコホシ□ネモ。大矢本系統の本には、物戀之伎乃鳴事毛とし、モノコヒシキノナクコトモと訓し、諸説おおむねこれに從つている。しかしこの字面は、諸種の傳來を集めたもので、伎乃、および事の字は古い傳來には無く、闕脱してあつたものと認められる。すなわち西本願寺本には、本文は、物戀鳴毛とあつて、その戀鳴の中間の右に之の字、左に伎乃の字を補い書き、頭書には別筆で、「伎乃多本無v之。但法性寺殿御自筆本有v之」とある。また鳴毛の中間の左に「事、六條本有之」とある。元暦校本、類聚古集等には、本文を、物戀之鳴毛とし、元暦校本には、右に伎および朱で事を補つている。これらを綜合して考えるに、この句は、古來脱落があつて、數字を失つたものと認められる。これを補うのに多種の本から集め來ることは宜しくない。よつて今本文は、元暦校本の傳來のままにしておく。そのいかなる字が脱落しているかというに、これを推定することは困難であるが、「客爲而《タビニシテ》 物戀敷爾《モノコホシキニ》」(卷三、二七〇)などの例があつて、物戀シキニとあつたのであろうかとは考えられる。しかしこれに鳥の鴫を懸けて言つたというが、そうい(274)う例は他に見えない。その下の字は、鳴の字が、これも集中に例のあるように、ネと讀まれるので、その上に鶴、もしくは雁の如き鳥名を脱したとも見られ、これを聞いて慰むという歌意よりして、しばらく鶴の字脱として、鶴《タヅ》ガ音《ネ》モの訓を想定し得られる。以上はもとより臆説であつて、ただちに定訓とはしがたいが、今これを參考までに掲げておく、物戀シとは、何事となしに戀しい?態である。
 不所聞有世者 キコエザリセバ。これは音聲本位の訓法であつて、文字としては、キコユズアリセバである。聞えなかつたならばという假設法。
 孤悲而死萬思 コヒテシナマシ。マシは、不可能であることのわかつているむだな希望、または假設の推量で、實際に反することを想像していう助動詞。ここは假設の推量。もし何々であつたならば、戀をして死んだであろう。しかし死ななかつたの意である。旅の寂しい心を、せめて鳥の聲にまぎれている意。
【評語】この歌は問題の歌である。從來の、物戀しきに鴫を懸けたという解は首肯できないが、さりとてそれに代るべき名解も無い。なお他の歌には、鶴が音の聞えるために旅情を増すという内容のものがある。ここにも右の假訓が落ちつかない理由がある。
 
右一首、高安大島
 
【釋】高安大島 タカヤスノオホシマ。傳未詳。目録には作者未詳歌とある。
 
68 大伴の 御津《みつ》の濱なる 忘《わす》れ貝《がひ》、
 家なる妹を 忘れて念《おも》へや。
 
 大伴乃《オホトモノ》 美津能濱《ミツノハマ》尓有《ナル・ニアル》 忘貝《ワスレガヒ》
 家《イヘ》尓有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
【譯】この大伴の御津の濱にある貝は、忘れ貝という名だが、さて家に殘して來た妻は、忘れることはできな(275)いなあ。
【釋】大伴乃美津能濱尓有 オホトモノミツノハマナル。大伴の美津の濱は既出(卷一、六三)。尓有は、尓は表音文字、有は表意文字であるから、ニアルとすべきであるが、音聲としてはナルである。かなをつけるに當つて、歴史的に書くか、表音式によるかの違いである。次句に對する連體句。
 忘貝 ワスレガヒ。貝の主が、忘れ去つたもぬけの貝がらをいうのだろう。「和須禮我比《ワスレガヒ》 與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》オキツシラナミ
」(卷十五、三六二九)の如き、その意である。また「
ワスレガヒヒリヘドイモハ」(卷十二、三一七五)ともいう。「海處女《アマヲトメ》 潜取云《カツギトルトイフ》 忘貝《ワスレガヒ》」(卷十二、三〇八四)の例があつて、海中にはいつて取ると歌つているが、これは京人が貝がらについて歌つたもので、かならずしも實際では無いだろう。今忘れ貝という貝は、ハマグリに似て、穀は白く、縱に紫褐色の條斑及び横にこまかい斑がある。かような特殊の貝をいうとするが、歌の意は、そのような特殊の貝ではないようである。貝の名を忘れ貝というが、その名に反して忘れることはできないの意を歌つている。なおこの類の語には、忘れ草がある。
 家尓有妹乎 イヘナルイモヲ。家にある妻をの意である。
 忘而念哉 ワスレテオモヘヤ。ワスレテオモフは、思い忘れるの意であつて、忘れてまた思うの謂ではない。ヤは反語。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)の條に説明した。思い忘れることが無いの意である。
【評語】目前に横たわる貝を見て旅情を述べている。忘れ貝の名に寄せて、名に實の伴なわないことを歌つている。名に實の伴なわないことをいうのは常套手段であつて、忘れ草、名草山などに寄せて、しばしば歌つている。歌の趣からも、忘れ貝を一種の貝とするよりも、貝のぬしの忘れて行つた貝として見る方が、興が深い。
【參考】わすれ貝。
  わが夫子に戀ふれば苦し。暇あらは拾ひて行かむ。戀わすれ貝(卷六、九六四、大伴坂上の郎女)
(276)  暇あらば拾ひに往かむ。住吉の岸に寄るといふ戀わすれ貝(卷七、一一四七)
  住吉に往くといふ道に昨日見し戀わすれ貝言にしありけり(同、一一四九)
  手に取るがからに忘ると海人の云ひし戀わすれ貝言にしありけり(同、一一九七)
  木の國の飽等《あくら》の濱のわすれ貝我は忘れじ。年は經ぬとも(卷十一、二七九五)
  海處女潜き取るといふわすれ貝代にも忘れじ。妹が姿は(卷十二、三〇八四)
  若の浦に袖さへ沾れてわすれ貝拾へど妹は忘らえなくに(同、三−七五)
  秋さらばわが船泊てむ。わすれ貝寄せ來て置けれ。沖つ白波(卷十五、三六二九)
  わが袖は手本《たもと》とほりて沾れぬとも戀わすれ貝取らずは行かじ(同、三七一一)
 
右一首、身入部王
 
【釋】身入部王 ムトベノオホキミ。系譜未詳。續日本紀に六人部の王とある人と同人とすれば、和銅三年正月に從四位の下、その後順次昇進して天平元年正月に正四位の上となつて卒している。藤原武智麻呂傳に、當時の風流の侍從をあげた中に六人部の王がある。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば、
 岸の埴生《はにふ》に にほはさましを。
 
 草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世波《シラマセバ》
 崖之埴布尓《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
【譯】草の枕の旅をなさる御方と存じておりましたなら、岸邊の埴生で、お召しものをお染め致しましたでしようものを。
【釋】草枕 クサマクラ。既出。枕詞。
(277) 客去君跡 タビユクキミト。左註に依るに、君は長の皇子をさす。
 知麻世波 シラマセバ。マセは假設推量の助動詞マシの未然形で、この句は、もし知つておつたならばの意をあらわす。これを受けて、下に多くマシを以つて受けている「可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》 伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》 安流倍久安里家留《アルベクアリケル》」(卷十五・三七三九)。これは下にマシで受けない例である。
 崖之埴布尓 キシノハニフニ。ハニフは、埴のある地。ハニは土。「白浪の千重に來寄する住吉の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かな」(卷六、九三二)など、住吉の岸の埴生は、衣を染めることに關して歌われている。フは、通例植物の生地にいう例である。茅生、萱生など。崖は、山の邊際でキシである。
 仁寶播散麻思乎 ニホハサマシヲ。ニホハサは、ニホハスの未然形。色に染めるをいう。マシは不可能の希望の助動詞。ヲは感動の助詞。色に染めたかつたものを、知らなかつたので染めなかつたの意。
【評語】深く思い入つたというほどの歌ではない。孃子の口をついて出たような、なめらかさのある歌で、歌いものとして口馴れた歌を歌つたまでのようである。
 
右一首、清江娘子、進2長皇子1 姓氏未v詳
 
右の一首は、清江《すみのえ》の娘子《をとめ》の、長の皇子に進《たてまつ》れる。【姓氏いまだ詳ならず。】
 
【釋】清江娘子 スミノエノヲトメ。スミノエは地名と考えられる。住吉に同じであろう。この娘子はいかなる人とも知られない。前の長の皇子の御歌に見える住吉の弟日娘と同人であるかも知れない。その身分は、多分遊行女婦ででもあろう。
 進 タテマツレル。獻上した意。
 
(278)太上天皇、幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌
 
太上天皇の、吉野の宮に幸《い》でましし時、高市の連黒人の作れる歌
 
【釋】太上天皇。持統天皇。
 幸于吉野宮時。持統太上天皇の吉野の宮に御幸ありし時。何年の事とも傳えない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出。
 
70 倭には 嶋きてか來《く》らむ。
 呼子鳥《よぶこどり》、
 象《きさ》の中山 呼びぞ越ゆなる。
 
 倭尓者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》
 呼兒鳥《ヨブコドリ》
 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
【譯】都の方では、ちようどこの喚子鳥が、鳴いて來ていることであろうか。今この吉野山中では、象の中山を鳴きながら都の方へ飛んで行くのだ。
【釋】倭尓者 ヤマトニハ。ヤトlは、大和の國の中央部、すなわち藤原の都の地方を指す。
 鳴而歟來良武 ナキテカクラム。カは疑問の係助詞。ラムは推量の助動詞。句切。都の方を思いやつているので、吉野の方から鳴きつつ來るだろうかと推量している。
 呼兒鳥 ヨブコドリ。人を呼ぶ鳥の義で、兒は愛稱である。その鳴く聲が人を呼ぶようなので、この名があるのであろう。これによつて何の鳥であるかを定むべきである。集中では三月から五月にわたつて歌に詠まれている。萬葉考には、かつこう鳥のことだという。その鳥の鳴く聲が、あたかも人を呼ぶように聞えるので、呼子鳥に當てられている。歌には常に、寂しがつて人を呼ぶという所から思いを起して、戀の歌に用いられて(279)いる。
 象乃中山 キサノナカヤマ。吉野の離宮の址と考えられる宮瀧の地の南方に聳える山。象は、倭名類聚鈔に、和名岐佐とある。象はわが國にはいないが、經典その他で、この巨獣のことを知り、大宮人などが、キサの地名にこの巨獣の字を當てたのであろう。この山を詠んだ歌には、「三吉野乃《ミヨシノノ》 象山際乃《キサヤマノマノ》 木末爾波《コヌレニハ》 幾許毛散和口《ココダモサワク》 鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》」(卷六、九二四)がある。中山は、山中を、山を主にしていう。他に、象の小川とも云つている。
 呼曾越奈流 ヨビゾコユナル。呼ビ越ユナリの意で、ゾは強意のために入れただけ。しかしこれを受けて連體形のナルで結んでいる。
【評語】作者は吉野山中に來て、家郷なる藤原のあたりを戀しく思つている。それで、彼方にいる人は、この呼子鳥を、聞いているだろうかの情を下に托している。表面に妻を思うと露骨にいわない所に、深い趣が存する。吉野山中を鳴き渡る鳥によつて家郷を思いやつた歌である。
【參考】同句、大和には鳴きてか來らむ。
  大和には鳴きてか來らむ。霍公鳥《ほととぎす》汝《な》が鳴く毎に亡き人念ほゆ(卷十、一九五六)
    よぶこどり。
  神奈備《かむなび》の石瀬《いはせ》の社《もり》の喚子島いたくな鳴きそ。わが戀まさる(卷八、一四一九、鏡の王女)
  よのつねに聞くは苦しき喚子鳥聲なつかしき時にはなりぬ(同、一四四七、大伴坂上の郎女)
  瀧の上の三船の山ゆ秋津邊に來鳴きわたるは誰喚子島(卷九、一七一三)
  わが夫子を莫越《なこせ》の山の喚子鳥君喚びかへせ。夜の更けぬとに(卷十、一八二二)
  春日なる羽買の山ゆ佐保の内へ鳴き往くなるは誰喚子鳥(同、一八二七)
(280)  答へぬにな呼びとよめそ。喚子鳥佐保の山邊をのぼりくだりに(卷十、一八二八)
  朝霧にしののに沾れて喚子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(同、一八三一)
  朝霞八重山越えて喚子鳥鳴きや汝が來る。宿もあらなくに(同、一九四一)
 
大行天皇、幸2于難波宮1時歌
 
大行天皇の難波の宮に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大行天皇 サキノスメラミコト。文武天皇。漢籍にて、皇帝の崩じてまだ謚號をたてまつらない以前を、大行皇帝という。史記の服虔の註に「天子死未v有v謚曰2大行1」とある。逝きて反らざるゆえに、大行というのである。しかるにわが國では、謚號を上つた後でも、先帝の御事を大行天皇という。天平勝寶八歳六月二十一日の東大寺獻物帳に、「藤原宮御宇太上天皇」の次に、「藤原宮御宇大行天皇」とあり、また「大行天皇即位之時、便獻2大行天皇1、崩時亦賜2大臣1」とあり、これらの大行天皇はいずれも文武天皇をさしている。また天平二年十一月に記した、美努連岡萬の基志には、「藤原宮御宇大行天皇御世、大寶元年歳次辛丑五月」また「平城宮治天下大行天皇御世靈龜二年」とも記され、ここには、文武天皇、および元正天皇のことをさしている。それ故に、今、この題詞に大行天皇とあるは、まだ謚號を上らぬ以前に書かれたとする説は成立しないのである。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、文武天皇の難波の宮への行幸を傳えたのは、無年號の三年正月と慶雲三年九月との兩度であつて、これはそのいずれの度であるかをあきらかにしない。慶雲三年のは、上に載せてあるが、これは記載書式を異にしているので、別の資料から出たものと考えられる。萬葉集編纂當時、既に年代をあきらかにしなかつたものであろう。
 
(281)71 倭|戀《こ》ひ 寐《い》の宿《ね》らえぬに、
 情《こころ》なく この渚埼廻《すさきみ》に
 鶴《たづ》鳴くべしや。
 
 倭戀《ヤマトコヒ》 寐之不v所v宿尓《イノネラエヌニ》
 情無《ココロナク》 比渚埼未尓《コノスサキミニ》
 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
【譯】大和を思つて、眠られないのに、心無しにも、この渚の岬の邊で、鶴が鳴くべきではないのだ。
【釋】倭戀 ヤマトコヒ。このヤマトは、藤原の京を含む大和の國の中心地方をいう。
 寐之不所宿尓 イノネラエヌニ。イは睡眠の名詞。ネラエヌは、眠られないの意。所の字は被役の用法。
 情無 ココロナク 既出(卷一、一七)無情に、同情心無く、つれなく。
 此渚埼未尓 コノスサキミニ。未は、元暦校本等による。仙覺本系統の本にはこの字が無い。スサキは、沙洲の先端。ミは接尾語。地形の名詞に附してその灣曲せるを示す。
 多津鳴倍思哉 タヅナクベシヤ。タヅは鶴。多豆、多頭と書いたものが多數であつて、ツは濁音であることが知られる。倭名類聚鈔に、「鶴、四聲字苑云、鶴何各反、都流。似v鵠、長喙高脚。唐韵云、※[零+鳥]音零、揚氏漢語抄云、太豆。」とある。鶴類の總稱である。集中、表音文字としては、「伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》」(卷一、八一)等、助動詞のツルに鶴の字を當てているものが多數であるが、歌詞には、假字書きにしたものにツルは無く、タヅは多數である。これを以つて見れば、タヅは上品の語であり、ツルはやや新しい口語ふうの語であつたのであろう。ベシヤは既出(卷一、一七)。ベシは適當をあらわす助動詞、ヤは反語の助詞、鶴の鳴くのは不適當である。鳴くべきではないの意。
【評語】家郷を思つて戀々として眠りをなしかねている時に、海濱の洲先の方に鶴の鳴く聲が聞える。夜沈々として鶴唳を聞く旅情を歌つている。鶴に呼びかけているような語氣が感じられるのは、旅人としての寂寥の(282)心を、この生物に寄せているからである。
 
右一首、忍坂部乙麻呂
 
【釋】忍坂部乙麻呂 オサカベノオトマロ。傳未詳。オサカベは日本書紀には、忍壁、押坂部、刑部等の文字を當てている。
 
72  玉藻刈る 奧《おき》へ は榜《こ》がじ。
 敷栲《しきたへ》の 枕せし邊人《つま》 忘れかねつも。
 
 玉藻苅《タマモカル》 奧敝波不v榜《オキヘハコガジ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕《マクラ》之邊人《セシツマ・ノベノヒト》 忘可祢津藻《ワスレカネツモ》
 
【譯】玉藻を刈るような沖の方は舟を漕ぐまい。かの枕を共にした妻が忘れ難いことだ。
【釋】玉藻苅 タマモカル。既出(卷一、四一)。沖の方の情景を描いている。實際に玉藻を刈つていてもいないでも、そんなことはどうでもよい。
 奧敝波不榜 オキヘハコガジ。ヘは、助詞と見る説と、邊の意の名詞と見る説とがある。しかし沖邊を於伎敝、於枳敝、於吉敝と書いた例があり、沖の方とする説(澤瀉博士)がよいのだろう。
 敷妙乃 シキタヘノ。シキタヘは、織布の一種。シキは繁密の義で、繊目のこまかなのをいう。また年々隨筆(石原正明)には、下に敷く織物なればいうとある。枕詞。袖、衣、枕等に冠する。
 枕之邊人 マクラセシツマ。人は元暦校本等多數の本にあり、ただ細井本のみに無い。五句に忘れかねるというより見ても、この字ある方が、人を目標とすることがあきらかになつて可である。さて種々の訓が考えられる。枕を名詞に讀むか動詞に讀むか。之を字音假字としてシと讀むか助詞ノを表示するとするか。邊人を文字に即して讀むか義を取つて讀むか等の諸問題があり、これらは相互に關連する所であつて、いまだ定訓を得(283)がたい。今案ずるに、邊人は、周邊の人の義によつてツマと讀まれるので、枕之をその修飾語としてマクラセシと讀む。また文字どおりについて讀めば、マクラノベノヒトであるが、八字であることが、この場合、難點である。
 忘可祢津藻 ワスレカネツモ。カネは不得の意の動詞であるが、助動詞として使用されている。下二段活。モは感動の助詞。
【評語】この歌は古本によつて人の字を補うことによつて確に生きて來る。「枕のあたり」というような漠然たる云い方より一歩進めて、しつかりと忘れかねる對象を明元し得るからである。妻に別れて海上を行く心が、感情をこめて歌われている。
 
右一首、式部卿藤原宇合
 
【釋】式部卿 ノリノツカサノカミ。藤原の宇合が式部卿に補せられた年代はあきらかで無いが、文武天皇の御代より後であることは否めない。ここにはそれを前に溯らして書いている。
 藤原宇合 フヂハラノウマカヒ。藤原の不比等の第三子で、正三位式部卿に至り、天平九年八月に薨じた(六九四−七三七)。懷風藻に年四十四と傳え詩六首を留めている。宇合は漢詩を善くし、諸人の作と違つて大陸かぶれのした思想を詠んでいる。尊卑分脈に集二卷ありとあるは、詩文の集であろうが今傳わらない。常陸國風土記の文章が、華麗な漢文でできているのも、彼が常陸の守時代にできた故であろうといわれている。この人の名、續日本紀には、はじめ馬養とあり、宇合とするは、その反名で、ウマカヒのウとカヒとをこの字であらわしたのである。合は字音カフであるのを轉じてカヒに當てたのである。大伴の旅人の名を淡等と書く類である。この人、天平九年に年四十四で薨じたとすれば、慶雲三年の頃は、十四歳のはずであつて、この歌(284)の作者として不適當である。ここの官氏名は、後人の記入であるのかも知れない。目録には作主未詳とある。目録を作つた時には、この官氏名は、無かつたもののようである。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。
 
76 吾妹子《わぎもこ》を はやみ濱風《はまかぜ》、
 倭なる 吾《われ》待つ椿
 吹かざるな、ゆめ。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》
 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワレマツツバキ》
 不v吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
【譯】わが妻を早く見たいと思う、その早く吹く濱邊の風よ、大和の國に置いて來た、わたしを待つているあのツバキさんを、おとずれて吹いてくださいよ。きつと。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。枕詞。吾妹子を早く見たいという意味に、早見に懸かる。但し作者に妻を早く見たいと思う心があつて、この枕詞となつたのである。「吾妹子をいざ見の山」(卷一、四四)の用法に同じ。ワギモコの解も同項に記した。
 早見濱風 ハヤミハマカゼ。吾妹子を早く見たいということと、早い濱風ということとを兼ねて云つている。ハヤミは、淨み原、赤み鳥などの例と同じく、連體形である。風についていうは、勁風の意である。
 倭有 ヤマトナル。大和にあるの意。家郷にあることを意味している。
 吾松椿 ワレマツツバキ。ツバキは、作者の妻、すなわち歌中の吾妹子を、美しい譬喩であらわしたもの。松は、待ツの借字、ツバキに譬えたので、特にこの字を使つた。待ツの語から、樹木の松を連想して、このツ(285)バキの語を引き出している。古人はツバキを愛し、集中にもしばしばこれを詠んでいる。「しが下に生ひ立てる、葉廣ゆつ眞椿、しが花の照りいまし、しが葉の廣りいますは、大君ろかも」(古事記五八)は、ツバキを以つて天皇の昏喩としている。「わが門の片山椿まこと汝《なれ》わが手觸れなな土に落ちもかも」(卷二十、四四一八)も、愛人をツバキに譬えている。ツパキの下に、助詞ヲを補つて解すべき句。
 不吹有勿動 フカザルナユメ。吹かずにあるな、決しての意。故郷の妻戀しさに、今自分の吹かれている濱邊の風に、故郷の妻のもとにも吹いて行つてくれと、嘱望するのである。ユメは、動詞忌ムの命令形を語原とし、慣用語として、努めて、決して等の意をあらわす。日本書紀に努力、本集に謹、勤の字をユメと讀んでいる。
【評語】自分を吹く風が、妹にも觸れよというが如き思想は、例歌もある。例えは「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が手本にい行き觸れぬか」(卷十、二三二〇)など。この歌の興味は、妻をツバキと云い放つた處にあろう。ここに意外感があり、目ざましさを覺えるのである。しかし、ツバキは古人の愛した植物で、ツバキに依つて思いを愛人に寄せている歌は、古事記以來、しばしば見受ける所であつて、そういう古歌の知識があらわれたものともいわれよう。
 
大行天皇、幸2于吉野宮1時歌
 
大行天皇の、吉野の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】幸于吉野宮時歌 ヨシノノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、大寶二年七月の吉野の離宮への行幸を傳えているが、その時の事であるか否かをあきらかにしない、以下二首の題詞である。
 
(286)74 み吉野《よしの》の 山の下風《あらし》の 寒けくに、
 はたや今夜《こよひ》も わがひとり寐む。
 
 見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久尓《サムケクニ》
 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
【譯】吉野の山の風が寒く吹くのに、今夜も、わたしは獨寐をすることだろうかなあ。
【釋】見吉野乃 ミヨシノノ。既出(卷一、二五)。見は借字、訓を借りてミの音を寫す。
 山下風之 ヤマノアラシノ。ヤマシタカゼノ(類)、ヤマノアラシノ(僻)。下風をアラシと讀むのは、「左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》」(卷十三、三二八一)の如く阿下と書いた例があるので、確められる。山から吹きおろす風が荒いので、下風と書くのであろう。アラシは、荒い風の義。
 寒久尓 サムケクニ。サムケクは、寒くあることの義の名詞。形容詞寒シのケ活用に、名詞を作るクが接續したもの。長ケク、戀シケクなどと同じ語法である。寒くあることなるにの意で、下の獨寐を修飾する。
 爲當也今夜毛 ハタヤコヨヒモ。爲當は、漢文に使用される熟字で、日本書紀欽明天皇十六年二月の條にも「於v是許勢臣、問2王子惠1曰、爲當欲v留2此間1、爲當欲v向2本郷1」など使用されている。これは國語のハタに相當するのであるが、ハタは、マタに近く更に感動の意の強いものである。「痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將v在乎《イケラバアヲムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》」(卷十六、三八五四)など使用例がある。ヤは感動の係助詞。下の獨寐に懸かつている。この句のハタヤは、それにしてもやつぱりなあの意味を有するのであろう。
 我獨宿牟 ワガヒトリネム。上のヤを受けて、獨寐をすることよと嘆いている。但し獨寐をすることは決定的であり、これを疑つてはいない。
【評語】何等人目をひくほどのことは無いが、すらすらと隙なくできている。歌に慣れた人の作のようであるが、この形のものが、歌われて流傳していて、固有名詞などを變えてこの歌となつたのだろう。
 
(287)右一首、或云、天皇御製歌
 
【釋】或云天皇御製歌 アルハイフ、スメラミコトノオホミウタ。右の歌は、作者を記さないが、ここに別傳として、天皇の御製であるという。天皇は文武天皇である。しかし歌の内容を按ずるに、ワガ獨ネムとあつて、天皇の御製としてふさわしくない歌であるから、多分行幸に御供した臣下の作であろう。文武天皇。既出。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の皇子。少名は珂瑠《かる》の皇子。御祖母持統天皇の讓位を受けて即位せられ、慶雲四年六月十五日崩御、寶算二十五。懷風藻に御製の詩を留められている。歌は、この或ルハイフの一首のほかには傳わらない。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風さむし。
 旅にして 衣《ころも》借《か》すべき
 妹もあらなくに。
 
 宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》
 旅尓師手《タビニシテ》 衣應v借《コロモカスベキ》
 妹毛有勿久尓《イモモアラナクニ》
 
【譯】宇治間山には朝風が寒く吹いている。自分は旅先のことであつて、衣を貸してくれるような妻も無いことである。
【釋】宇治間山 ウヂマヤマ。飛鳥地方から吉野の上市に越える途中の山であるという。
 朝風寒之 アサカゼサムシ。句切。
 旅尓師手 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありて。
 衣應借 コロモカスベキ。集中、借の字は、カルともカスとも讀んでいる。「妹立待而《イモタチマチテ》 宿將v借鴨《ヤドカサムカモ》」(卷七、一二四二)、「獨去兒爾《ヒトリユクコニ》 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》」(卷九、一七四三)など、借の字をカスに當てている例である。衣を貸し(288)てくれるべきの意。當時は、男女の衣服の制、殊に下著は同樣であつたと見え、しばしは貸借することを歌つている。「秋風の寒き朝明を佐農の岡超ゆらむ公に衣借さましを」(卷三、三六一)などある。
 妹毛有勿久尓 イモモアラナクニ。妹は妻、愛人。アラナクは、あらぬことの意。クは助詞で、動詞、助動詞、形容詞に接續して、それらを體言化する用をする。ニは感動の助詞であるが、輕く添えている。妻も無きことよと嘆じている。
【評語】衣服に寄せて妻を戀う心情を歌つている。山風の寒い朝の旅心が、よく描かれている。平凡な内容の歌であるが、實情はあらわれている。
 
右一首、長屋王
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。天武天皇の孫、高市の皇子の子である。聖武天皇の御代に正二位左大臣に至つたが、天平元年二月私に左道を學び國家を傾けんとすと讒する者があつて遂に自盡を命ぜられた。その室吉備の内親王、男、膳夫《かしわで》の王、桑田の王、葛木《かづらき》の王、鈎取《かぎとり》の王等も同じくみずから縊れた。長屋の王の年は、懷風藻に詩を傳え、年五十四とも四十六とも傳えている。その宅を作寶樓と稱し、賓客を迎えて詩文の會を催したことなどの事蹟がある。
 
和銅元年戊申、天皇御製歌
 
【釋】和銅元年戊申 ワドウノハジメノトシツチノエサルノトシ。元明天皇の御世、慶雲五年正月、武藏の國から銅を獻つたので、元號を改めて和銅といつた。
 天皇。元明天皇。天智天皇の皇女、御名は阿閉の皇女。草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。文武天皇の崩(289)後、即位された。靈龜元年九月讓位、養老五年十二月崩ず、壽六十一。天皇は慶雲四年に帝位につかれたので、和銅元年はその翌年である。しかるにあたかも蝦夷が叛いたので、和銅二年三月に征討軍を出した。前年にその兵を練る物聲をお聞きになつて、御代の初に事あるを歎かせられた御製である。
 
76 丈夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《おと》すなり。
 もののふの 大臣《おほまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも。
 
 大夫之《マスラヲノ》 鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》
 物部乃《モノノフノ》 大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
【譯】勇士たちが矢を放つ音がする。軍部の大臣が楯を立てて練兵をしていることと見える。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。勇氣あり思慮ある男兒の稱。
 鞆乃音爲奈利 トモノオトスナリ。鞆は國字。獣革にて袋の形に作り、中には獣毛など(290)を入れる。これを左の手腕に附けて、矢を射る時、弓弦が反つてこれに當るようにする。その弓弦の當つた音が、鞆の音である。スナリは爲《す》の強い語法である。この句で一段落、勇士が矢を放つ音がすると、事實を敍したのである。
 物部乃 モノノフノ。モノノベノ(類)、モノノフノ(元)。モノノフは既出(卷一、五〇)。ここは主として武官をいう。
 大臣 オホマヘツギミ。大前つ君の義。廷臣をマヘツギミという。その大官をいう。以上二句、武官の大臣の義で、將軍をいう。
 楯立良思母 タテタツラシモ。楯は立てて敵の矢を防ぐにより名づく。ラシは事實にもとづく推定の助動詞。モは感動の助詞。楯立ツラシモは、軍備を整えていることと思われるよしである。
【評語】この歌、表面には別に感情をあらわす語が見えない。將軍が武備を整えているというだけで、むしろいさましい語氣である。かように感情を表面に露出しないのは、古歌の趣で、力強い朴直な線が、ここから生まれるのである。楯立ツは、タ行音を重ねて、音聲上からも強い言い方で、内容にふさわしい表現である。
 
御名部皇女、奉v和御歌
 
【釋】御名部皇女 ミナベノヒメミコ。天智天皇の皇女。元明天皇の同母の御姉。
 奉和 コタヘマツレル。前記の元明天皇の御製の歌に對して唱和し奉つたのである。
 
77 わが大君《おほきみ》 ものな念ほし。
 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる
(291) 吾《われ》無《な》けなくに
 
 吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》
 須賣神乃《スメガミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》
 吾莫勿久尓《ワレナケナクニ》
 
【譯】わが大君は、物をお案じなさいますな。天の神樣が天皇のさしそえとして、この世にお下しになつたわたくしという者もございます。
【釋】吾大王 ワガオホキミ。御名部の皇女から天皇を指し奉つている。
 物莫御念 モノナオモホシ。モノは、代名詞ふうに或る事の意をいう語。ナは、勿かれの意の助詞。動詞がこれを受けて連用形を取り、その動作を禁止する意味になる。その下に更に助詞ソの接續するを通例とするが、古くはその無いものもある。これはその無い例で、「安禮奈之等《アレナシト》 奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》」(卷十七、三九九七)などの例がある。オモホシは、お思いになる。すなわち、物をお考えになりますな、御心配あそばしますなの意になる。モノ、ナオモホシと解するのが原形であるが、ナは、その上に他語がくる場合は、その方に接著する性質があつて、モノナ、オモホシのように切るようになる。前の歌に、天皇の練兵の物音を聞いて、御胸を惱ませたまう意、ここにあきらかとなる。ここにて一段落。
 須賣神乃 スメガミノ。スメは統御する意で、神の範圍を限定するもの。スメガミは統治者たる神、すなわち皇祖神をいう。轉じては、ただ神の尊稱としても使用される。「ちはやぶる金のみ埼を過ぎぬとも吾は忘れじ。牡鹿《しか》の須賣神」(卷七、一二三〇)の如きは、轉用の例である。
 嗣而賜流 ツギテタマヘル。天皇の副人《そえびと》として、補佐すべくこの世に下し賜わつたの意で、賜フの主格は皇神である。天皇に續いて皇神の下し賜えるの義である。神田本、金澤文庫本には、嗣を副に作つており、これによれば、ソヘテタマヘルで、解釋は一層やすらかである。古寫本では、嗣と副とは、しばしば混同しているので、いずれが是なるかを定め難い。
(292) 吾莫勿久尓 ワレナケナクニ。ナケもナクも打消の無で、打消が二重になるので、あることになる。ナケのケは、形容詞の古い活用形で、普通に用言の未然形と稱するものに相當する。助詞バの受けた形、無ケバ、助動詞ムの受けた形、無ケムなどの用例がある。ナクは否定の助動詞ヌに事の意のクがついたのである。ニは助詞で、言意を丁寧にするだけの用である。假字書きの例には「多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須久奈久毛《スクナクモ》 伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》」(卷十五、三七四三)などがある。
【評語】強い語法を用いて、天皇の御憂鬱をお慰め申し上げている。しかし類型の歌があり、かような形の古歌が歌い傳えられていたようである。
【參考】類型。
  わが夫子《せこ》は物なおもほし。事しあらば火にも水にも吾無けなくに(卷四、五〇六)
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時、御輿停2長屋原1廻2望古郷1御作歌 一書云、太上天皇御製
 
和銅三年庚戌の春二月、藤原の宮より寧樂《なら》の宮に遷《うつ》りましし時、御輿を長屋《ながや》の原《はら》に停《とど》めて、古郷《ふるさと》を廻望《かへりみ》たまひて作りませる御歌【一書にいふ、太上天皇の御製】
 
【釋】和銅三年庚戌春二月 ワドウノミトセ、カノエイヌノハルキサラギ。平城の京は、和銅元年に造營を始められ、その三年三月十日、始めて都を平城に遷した。この題詞は、この歌の作られた年月について記している。
 寧樂宮 ナラノミヤ。ナラは地名で、もと平坦を意味する。平城の字面は、これに依るが、ここには、好字を選んで寧樂の字を用いてある。これは當時、廣く行われた字面である。今の奈良市の西方に、宮址がある。
(293) 御輿 ミコシ。輿は乘輿。この歌の作者の乘物である。
 長屋原 ナガヤノハラ。所在未詳。藤原の京と平城の京との中間にあるべきは勿論である。今の朝和村永原であるという説がある。
 廻望 カヘリミタマヒテ。藤原の京の方を顧望したまうのである。西本願寺本等には、廻を?に作つている。?はハロカニである。
 古郷 フルサト。歌詞によるに、今は舊都となつた明日香の里をいうであろう。
 御作歌 ツクリマセルミウタ。集中、いかなる作者について、この字を用いているかというに、川島の皇子、阿閉の皇女、志貴の皇子、磐姫の皇后、大伯の皇女、大津の皇子、但馬の皇女、倭の大后、高市の皇子、穗積の皇子、聖コ太子、藤原の大后についてである。これに依れば、皇后、皇子、皇女に限られ、ここにこの歌の作者の範圍も、これらのうちであることが知られる。しかしここにはそのいずれの御方とも指定されていないのは、遺脱であるが、もとからかくの如き形になつていたものであろう。
 一書云 アルフミニイフ。作者に關する別傳であるが、何の書とも知られない。
 太上天皇。和銅三年には、太上天皇はおられない。歌詞に明日香の里ヲ置キテ去ナバとあるにより、明日香の京から遷居の歌とすれば、その時の天皇で、後に太上天皇と仰がれた持統天皇の御事になる。また題詞によつて平城の京に還居された時の御方とすれば、後に太上天皇と仰がれた元明天皇の御事になる。漠然たる書き方で、いずれの方とも決定しがたい。
 
78 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の里を
 置きて去《い》なば、
(294) 君が邊《あたり》は 見えずかもあらむ。
 【一は云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ。】
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》
 置而伊奈婆《オキテイナバ》
 君之當者《キミガアタリハ》 不v所v見香聞安良武《ミエズカモアラム》
 【一云、君之當乎不v見而香毛安良牟】
 
【譯】あの明日香の里をさし置いて、寧樂の宮に遷り行つたならば、わたしのなつかしくお慕い申し上げている君のあたりも、見えなくなることであろうか。
【釋】飛鳥 トブトリノ。枕詞。明日香に冠する。日本書紀、天武天皇の朱鳥元年七月の條に、「改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥、此云2阿訶美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。これは朱鳥の祥瑞によつて宮號に飛鳥を冠せられたものであり、ここに飛ぶ鳥の明日香ということが始まつたと考えられる。後、慣用するに及んで直にアスカに、飛鳥の文字を使用し、本集古事記等にもこれを見るに至つた。東大寺要録に載せた天平勝寶四年四月十日に元興寺の僧の獻つた歌には、「度布夜度利《トブヤトリ》 阿須加乃天良乃《アスカノテラノ》 宇太々天萬都留《ウタタテマツル》」とある。
 明日香能里乎 アスカノサトヲ。明日香は、奈良縣高市郡飛鳥村附近一帶の總名。大體香具山の西南に當る。ここにいう明日香の里は、それを總括的にいうと思われる。これを明日香の淨御原の宮とすれば、明日香から藤原に宮遷りされた時の歌とも解せられ、題詞に信をおくとすれば、明日香と藤原とは隣近の地であるから、明日香の地を顧望せられていうとも解せられる。美夫君志、講義の説の如く、後者に解するを順當とする。
 置而伊奈婆 オキテイナバ。オキテは、「倭乎置而《ヤマトヲオキテ》」(卷一、二九)、「京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(同、四五)のオキテに同じく、さしおいて、うち捨てての意。イナバ、往なば。
 君之當者 キミガアタリハ。君のいる邊はの意。君は何人をさすか不明であるが、明日香の里に住む人をさしていると解せられる。
 不所見香聞安良武 ミエズカモアラム。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。「置目(295)もや淡海の置目明日よりはみ山がくりて美延受加母阿良牟《ミエズカモアラム》」(古事記一一三)。
 一云君之當乎不見而香毛安良牟 アルハイフ、キミガアタリヲミズテカモアラム。この一云は、多分題詞の一書云と同じもので、太上天皇御製とある資料によつて、この歌詞の別傳をも記したのであろう。本文の歌詞は、君があたりを主格として敍し、この別傳は、作者自身を主格として敍している點に相違がある。
【評語】作者は不明であるが、多分女性の作と考えられる。住み馴れた土地に愛惜を感じて、低徊去り難い心がよくあらわれている。顧望の情をつくした歌というべきである。
 
或本、從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
 
或る本、藤原の京より寧樂の宮に遷りし時の歌
 
【釋】或本 アルマキ。上記の歌に對して、同じ時の歌として、別の資料にあつた歌を掲げている。特に或本と記したのは、既に本文の記事があつて、後にこれを加えたことを語る。第一次的な編纂の場合ならば、或本とことわる必要が無い。
 
79 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ、
 柔《にき》びにし 家をはなち
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の川に
 ?《おほき》浮けて わがゆく河の、
 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず、
 萬度《よろづたび》、顧みしつつ
(296) 玉桙《たまほこ》の 道行き暮らし、
 あをによし 奈良《なら》の京《みやこ》の、
 佐保川に い行き到りて、
 わが宿《ね》たる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ、
 朝月夜《あさづくよ》 さやかに見れば、
 栲《たへ》の穗《ほ》に 夜《よる》の霜降り、
 磐床《いはどこ》と 川の水|凝《こ》り、
 冷《さむ》き夜を 息《やす》むことなく
 通ひつつ 作れる家に、
 千代まで 來ませ大君よ。
 吾も通はむ。」
 
 天皇乃《オホキミノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》
 柔備尓之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》
 隱國乃《コモリクノ》 泊瀬乃川尓《ハツセノカハニ》
 ?浮而《オホキウケテ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》
 川隈之《カハクマノ》 八十阿不v落《ヤソクマオチズ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》
 玉桙乃《タマホコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》
 佐保川尓《サホガハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》
 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》
 朝月夜《アサヅクヨ》 清尓見者《サヤカニミレバ》
 栲乃穗尓《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》
 磐床等《イハドコト》 川之水凝《カハノミヅコリ》
 冷夜乎《サムキヨヲ》 息言無久《ヤスムコトナク》
 通乍《カヨヒツツ》 作家尓《ツクレルイヘニ》
 千代二手《チヨマデ》 來座多公與《キマセオホキミヨ》
 吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
【譯】天皇の仰せを恐れ懼《かしこ》み、馴れ親しんでいた家を解いて、かの泊瀬の川に材木を浮べて、わたしの行く川の、數多い曲り角毎に、何度も顧みながら一日中道を行き暮らして、奈良の都の佐保川に行き至つて、野宿をした衣の上に、明け方の月がさやかに照り渡れば、眞白な霜が降つて、岩床のように川の水が氷つて、寒い晩でも休むことなく通いながら作つた家には、千代までもおいでなさいませ、大君よ。わたくしも通おうと思つております。
【釋】天皇乃御命畏美 オホキミノミコトカシコミ。天皇は、皇祖をも含めて絶括的の場合にはスメロキとい(297)い、現在の天皇の場合にはオホキミという。集中の例、ミコトカシコミの場合には、現在についてオホキミという例である。假字書きの例に、「於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキノカモ》」(卷十四、三四八〇)、「憶保枳美能《オホキミノ》 彌許等可之古美《ミコトカシコミ》 安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻野佐波良受《ヤマノサハラズ》 安麻射可流《アマザカル》 比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》」(卷十七、三九七三)などある。ミコトは勅命。カシコミは、動詞カシコムの活用形。恐悚する?態にある意である。ミコトカシコミは、月清ミ、山深ミなどの語法に同じく、勅命の畏さに、仰せ言に恐懼して。この句、集中用例多く、二十二例を數える。馴れた家を捨てて新しい京に邸宅を構築する原因を説く副詞句となる。
 柔備尓之 ニキビニシ。柔は柔和の義で、剛(アラ)に對して古語のニキに相當する。ニキは、和柔の意の語。ニキビはその動詞の連用形。ニシは助動詞。和み賑いてありし意の連體形の句。假字書きの例に、「白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》 丹杵火爾之《ニキヒニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》」(卷三、四八一)などある。
 家乎擇 イヘヲハナチ。
   イヘヲエラビテ(神)
   イヘヲワカレテ(攷)
   イヘヲオキテ(講義)
   ――――――――――
   家乎釋《イヘヲオキテ》(僻)
   家毛放《イヘヲモサカリ》(考)
   家乎釋《イヘヲオキ》(古義)
   家乎放《イヘヲサカリ》(古義)
(298)右にあげたように諸説がある。柔ビニシ家に對して、離れ、または捨てる意であるべきは勿論と思われる。擇は、選擇の義の字で、良いものを取つて惡いものを捨てる意がある。類聚名義抄に、エラブ、ハナツの兩訓があり、また同書に、捨、舍、廢、釋、放、毀等にハナツの訓がある。今、これによつて、イヘヲハナチと讀み、家を解體する意とする。これは下の?浮而の訓と關連するものである。その條參照。
 隱國乃 コモリクノ。既出(卷一、四五)枕詞。隱國と書いているのは、この語の正字であろう。
 泊瀬乃川尓 ハツセノカハニ。泊瀬川は、泊瀬の山間から出で、西北流して佐保川等と合して大和川となる。その川の流下する勢いを利用したと見られる。
 ?浮而 オホキウケテ。?は、類聚古集、神田本に拱に作るによる。元暦校本はこの部分を傳えない。拱は、手をこまぬく意の字で、ここには適わない。古寫本に木扁を常に手扁に作るにより、?の字と定める。?は、柱の上方の木で、棟木を受ける材の字であるが、新撰字鏡には、材大者也とあつて、家屋構成の巨材をいうものと思われる。今、奈良に遷都されたに伴なつて、そこに家屋を新築するのであるが、藤原の京の家が不用になるので、それを解體してその巨材を水運を利して運ぶものと解せられる。續日本紀天平十五年十二月の條に(299)は、「初壞2平城大極殿并歩廊1、遷2造於恭仁宮1」とあり、宮殿でも舊材を遷し作るので、一般の家では、勿論この事が行われたであろう。また泊瀬川から水運を利して奈良に運ぶのに、舟では困難であるが、材木を引いて行く分には可能である。この歌の家は、どのくらいのものかわからないが、相當の邸宅であつたのだろうし、また家財なども、つけているだろう。仙覺本に?に作るのは、?の字義を理解し得ないで何人かが改めたものであろう。ウケは浮クの下二段活。他動詞として使用される。浮かべてである。藤原の京から水運を利用して、家屋の用材を運ぶ趣である。
 吾行河乃 ワガユクカハノ。河は泊瀬の川をいう。
 川隈之 カハクマノ。上に道の隈の語があつた(卷一、一七)。川隈は、川の曲つて生ずる隅をいう。
 八十阿不落 ヤソクマオチズ。ヤソクマは、多數の隈。多くの隈毎にの意。「此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》」(卷二、一三一)なと使用している。
 萬段 ヨロヅタビ。多くの度數の意。「與呂頭多妣《ヨロヅタビ》 可弊里見之都追《カヘリミシツツ》」(卷二十、四四〇八)。
 玉桙乃 タマホコノ。枕詞。道を修飾する。假字書きの例に、「多麻保許能《タマホコノ》 道乎多騰保美《ミチヲタドホミ》」(卷十七、三九五七)などある。假字書き以外にはタマホコに玉桙、珠桙、玉戈の字を使つているので、これらがこの語の正字で、立派な桙の義と解せられる。その道に懸かる所以はあきらかでないが、この詞の修飾する道の語は、チに中心思想があつて、ミは美稱の接頭語と解せられ、そのチは、靈威の意の語から出るとすれば、玉桙にチを感じて、枕詞となつたものだろう。古代の桙は、ちいさい幡を附けるための鈎《ち》があるので、道のチに懸かるとする説は信じがたい。
 通行晩 ミチユキクラシ。日暮に至るまで道を行く意で、川に沿つて行くのである。
 楢乃京師乃 ナラノミヤコノ。楢は借字、平城に同じ。
(300) 佐保川尓 サホガハニ。佐保川は、平城の京を流れ南下して泊瀬川に合流する。水量すくなく當時にても舟運の便があつたとは考えられないが、浮べた物を引くことは、或る地點までは可能だろう。
 伊去至而 イユキイタリテ。上のイは接頭語。行き到つての意。
 我宿有 ワガネタル。既に夜にはいつて川邊に寐たのである。その場處は、陸上かどこか不明である。
 衣乃上從 コロモノウヘユ。屋根無き處に寐るので、横たわれる作者の衣服の上を通してといつている。衣の上ゆ見ればと下の句に懸かる。
 朝月夜 アサヅクヨ。朝の月。ヨは接尾語。月は夜の物であるから附ける。月を月夜ということは、上にも例があり(卷一、一五)、また「去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖v照《テラセドモ》」(卷二、二一一)などある。
 清尓見者 サヤカニミレバ。朝月のもとに明白に見れば。サヤカは明白の意。この見た結果が、次の夜ノ霜フリと川ノ水凝りになるのである。
 栲乃穗尓 タヘノホニ。栲はコウゾで、その皮の繊維の純白なのを特色とする。ホは物のすぐれたのをいう。紅色を丹の穗という類に、純白色をタヘノホという。「
ウチヒサスミヤノトネリモタヘノホニアサギヌケルハ」(卷十三、三三二四)の雪穗も、タヘノホニと讀む。この句は次の夜ノ霜フリに懸かつている。栲は別字、樹名オウチのことである。
 夜之霜落 ヨルノシモフリ。夜のほどに降る霜なので、夜の霜という。
 磐床等 イハドコト。イハドコは、岩石の地に固定して床を成しているもの。トはトシテの意。次の水の凝る?態を説明している。
 川之水凝 カハノミヅコリ。
   カハノコホリテ(僻)
(301)   カハノミヅコリ(燈)
   ――――――――――
   川之氷凝《カハノヒコゴリ》(考)
   川之氷凝《カハノヒコリテ》(西)
   川之氷凝《カハノヒコホリ》(檜)
 神田本等には、水を氷に作つている。凝は凝固で、國語のコルに當るが、上の磐床トを受けており、磐床と凝るの意であるから、水でも氷でも通ずるとせねばならない。氷とするに依らばヒと讀むべく、凝をコリと讀めば、この句六音の句となり、七音とするにはテを讀み添えねばならない。これにより傳本の確なるに依つて水とするに從う。以上、〓ノ穗ニ夜ノ霜フリに對して、磐床ト川ノ水凝リの句が對句を成している。
 冷夜乎 サムキヨヲ。サユルヨヲ(西)。上の數句の敍述に依り、寒キと讀むことが適切である。
 息言無久 ヤスムコトナク。イコフコトナク(僻)。息は憩に通じて使用されるが、集中イコフの假字書きは無い。休息すること無くの意である。
 通乍 カヨヒツツ。藤原の京から此處に通いつつである。しばしば來たことを云している。
 作家尓 ツクレルイヘニ。上の句を受けて、辛苦して作つた家にの意。新しい京に、住宅を經營するのである。
 千代二手 チヨマデ。二手は、左石の手で、マテと讀むのは、眞手の義である。「幾代左右二賀」(卷一、三四)の條參照。
 來座多公與 キマセオホキミヨ。與は、表意文字としてはトと讀まれ、字音假字としてはヨと讀まれる。ここはいずれにても意を成す所である。但し次の、吾モ通ハムの句に對しては、千代マデ來マセ多公ヨを命令文として見ることが自然である。多公は大君の意で、皇族のある方をさすものと思われる。千代マデ來マセは、永久に來たまえの意。その大君に對して歌つている。
 吾毛通武 ワレモカヨハム。吾も大君と共にこの家に通おうの意。自分の作つた家に客を迎えようとしてい(302)る。
【評語】遷都に伴なつて、新しい京に住宅を作る辛苦と、樂しい希望とが歌われている。歌として珍しい資料を取り扱つており、敍述されている辛吉そのものに對する興味もあるが、たどたどしい所があり、歌作に慣れない人の歌のようである。その家が、どういう家か、十分にわからないので、終りの部分の意が明白にされないのは遺憾であるが、作者は、これでよしとしたのであろう。大君のために別宅でも移したのだろうか。
 
反歌
 
80 あをによし 寧樂《なら》の家には
 萬代に 吾も通はむ。
 忘ると念《おも》ふな。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家尓者《ナラノイヘニハ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 吾母將v通《ワレモカヨハム》
 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
【譯】美しい寧樂の京なる家には、萬代までに、わたしも通おうと思います。わたしが忘れるとはお思いくださいますな。
【釋】寧樂乃家尓者 ナラノイヘニハ。長歌を受けて、今造つたこの平城の新宅にはの意。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。長歌に千代マデと云つたのを受けて、語を變えている。千代でも萬代でも、内容は同じで、多くの世代をいう。多分、、千代の語が先にでき、更に強調する意味に萬代の語ができたのであろう。
 吾母將通 ワレモカヨハム。長歌の末句を使用している。句切。
 忘跡念勿 ワスルトオモフナ。わがこの家に通うことを忘るとは思うな。かならず吾も通おうの意。ナは禁止の助詞。「人事《ヒトゴトヲ》 茂君《シゲミトキミニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使不v遣《ツカヒモヤラズ》 忘跡思名《ワスルトオモフナ》」(卷十一、二五八六)。
(303)【評語】長歌の内容を受けて、この家に變ることなく來り通おうとする心を歌つている。よい歌とも考えられないが、一往よく纏まつている。
 
右歌、作主未v詳
 
【右歌】 ミギノウタ。右の長歌と反歌とをさしている。
 作主未詳 ツクリヌシイマダツマビラカナラズ。右の歌の作者があきらかでないという、編者の註である。この歌の作者は、皇族の家臣で、その邸宅を作るに從つていた者ででもあろうか。
 
和銅五年壬子夏四月、遣2長田王于伊勢齋宮1時、山邊御井作歌
 
和銅五年壬子の夏四月、長田の王を伊勢の齋《いつき》の宮に遣しし時、山邊の御井にて作れる歌
 
【釋】長田王 ナガタノオホキミ。續日本紀、和銅四年四月、從五位の上から正五位の下を授けられ、以下歴任して天平九年六月に至つて「散位正四位下長田王卒」とある方と、同じく天平十二年十月、從四位の下長田の王に從四位の上を授くとある方とがあり、三代實録、貞觀元年十月二十三日の條に、「尚侍從三位廣井女王薨。廣井者、二品長親王之後也。曾祖二世從四位上長田王、祖從五位上廣川王、父從五位上雄河王」とある長田の王は長の親王の御子であるが、位階から云えば、天平十二年の記事に見える方らしい。ここの長田の王は、そのいずれであるかを詳にしない。
 伊勢齋宮 イセノイツキノミヤ。皇大神宮に奉仕する内親王の宮殿をいう。また「渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カミカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》」(卷二、一九九)とある齋の宮は、皇大神宮そのものをさしている。ここは内親王の宮殿の方である。そこに朝命を以つて遣されたものと見られる。〔次改行せよ〕
(304) 山邊御井 ヤマノペノミヰ。玉勝間に、三重縣鈴鹿郡の山邊であるといい、講義に、御鎭座本紀に豐受の大神の伊勢に遷りましし時の順路をいう中に「次山邊行宮御一宿【今號壹志郡新家村是也】」とあるを引いて壹志郡新家村であるとしている。卷の十三の歌に「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤヅカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》」(三二三四)、また、「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナレルニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》」(同、三二三五)とあつて、大宮のあつたことが知られ、また五十師の御井の名でも傳えられているものと同處であろう。その地に離宮、行宮などがあつて、その井を御井と言つたのであろう。
 
81 山邊《やまのべ》の 御井《みゐ》を見がてり、
 神風《かむかぜ》の 伊勢孃子《いせをとめ》ども
 相見《あひみ》つるかも。
 
 山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我弖利《ミヰヲミガテリ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》
 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
【譯】山邊の御井を見るついでに、おりよくも伊勢の國の孃子たちに出逢つたことだつた。
【釋】山邊乃御井乎見我弖利 ヤマノベノミヰヲミガテリ。山邊の御井は、題詞參照。山邊は、固有名詞となつているであろうが、その地勢は、用語通り、山のほとりなのであろう。ガテリは、加えての意を示す助詞で、傍《かたわら》の語意に近い。この語の上にある部分を主とし、それに加えてこうもしたということを、その下方に敍述する。ガテラともいう。いずれが原形であるかはあきらかでないが、使用の年代はガテラの方が新しい。例は參考の欄に出す。
 神風乃 カムカゼノ。古い枕詞で、伊勢に冠する。「加牟加是能《カムカゼノ》 伊勢能宇美能《イセノウミノ》」(古事記一四)、「伽牟伽筮能《カムカゼノ》 伊齊能于瀰能《イセノウミノ》」(日本書紀八)、など使用されている。伊勢を修飾するについては、冠辭考に、神風の吹息の義で、イの一音に懸かるとしている。しかし、伊勢の國號は、大和の國よりして背の國とするにあるべく、(305)イは輕く添えた語であるようであるから、それに懸かるというに無理があり、またこの枕詞が、他のイに始まる語に懸かつた例を見ないのも、吹息説は、不安定である。この語は、日本書紀神功皇后紀の神語に「神風伊勢國之、百傳度逢縣之、折鈴五十鈴宮所居神」とあり、古い神語にしばしば使用されており、祭祀の詞から出たものであることを思わしめる。なお伊勢國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に、神武天皇御東征のみぎり、天の日別の命をして伊勢の國を平治せしめた所、伊勢津彦が國土を天孫に獻じ、大風を起して東方に去つたことをいい、古語に「神風の伊勢の國は常世の浪の寄する國なり」とは、この謂なりと傳えている。
 伊勢處女等 イセヲトメドモ。地名に處女の語を接續せしめて、その地の處女であることをあらわす例は、泊瀬處女、常陸處女、出雲處女など例が多い。ドモは多數の意をあらわす。井に水を汲むのは若い女の業とされていた。「葛飾の眞間の井を見れば立ち平《なら》し水汲ましけむ手兒名《てこな》し思はゆ」(卷九、一八〇八)、「もののふの八十※[女+感]嬬等《やそをとめら》が汲みまがふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花」(卷十九、四一四三)など見える。御井とあるによれば、齋宮の仕女でもあるべきであるが、それに限定すべきでもない。
 相見鶴鴨 アヒミツルカモ。動詞に冠するアヒは、雙方がその動作をする意をあらわす。アヒ思フ、アヒ語ル等である。ここは作者が伊勢處女を見たことに感興を催しているのは勿論であるが、その伊勢處女も自分を認めたことを含んでいる。
【評語】御井のほとりで、美しい伊勢の孃子どもに逢つた。旅先での愉快な出來事である。孃子に對する興味を中心として歌つている。この御井に水を汲みに集まる孃子たちの明るい美しさを讃えている。道具のよく備つている歌である。
【參考】山邊の五十師《いし》の御井。
  やすみししわご大君、高照らす日の御子の、聞し食《め》す御食《みけ》つ國、神風の伊勢の國は、國見ればしも、山見(306)れば高く貴し、河見ればさやけく清し、水門なす海も廣し、見渡しの島も名高し、ここをしもま細《ぐは》しみかも、かけまくもあやに畏《かしこ》き、山邊の五十師《いし》の原に、うち日さす大宮仕へ、朝日なすまぐはしも、夕日なすうらぐはしも、春山のしなひ榮えて、秋山の色なつかしき、ももしきの大宮人は、天地日月と共に、萬代にもが(卷十三、三二三四)
   反歌
  山邊の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(同、三二三五)
    がてり・がてら。
  雨ふらずとの曇る夜の濡れしかど戀ひつつ居りき。君待ちがてり(卷三、三七〇)
  わが舟は奧ゆな離《さか》り。迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ會はむ(卷七、一二〇〇)
  梅の花咲き散る園に吾行かむ。君が使を片待ちがてり(卷十、一九〇〇。【卷十八、四〇四一に重出、末句を可多麻知我底良としている。】)
  能登の海に釣する海人のいざり火の光にい往け。月待ちがてり(卷十二、三一六九)
  秋の田の穩向見がてりわが夫子がふさ手折りける女郎花かも(卷十七、三九四三)
  吾妹子が形見がてらと、紅の八人《やしほ》に染めて(卷十九、四一五六)
 
82 うらさぶる 情《こころ》さまねし。
 ひさかたの 天《あめ》の時雨《しぐれ》の
 流らふ見れば。
 
 浦佐夫流《ウラサブル》 情佐麻祢之《ココロサマネシ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》
 流相見者《ナガラフミレバ》
 
【譯】荒涼たる心で一杯である。おりしも大空から時雨の雨が流れ降るのに逢つて。
【釋】浦佐夫流 ウラサブル。心の樂しまない意味の動詞。既出、「浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》」(卷一、三三)のウラ(307)サビの連體形。
 情佐麻祢之 ココロサマネシ。祢は、諸本に弥とあるが、弥では意を成し難いので、代匠記の説に依つて、稱の誤りとする。サマネシのサは接頭語、マネシは度數多く、その事のみあるの意を示す形容詞。サマネシの用例は、「見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》 孤悲思家牟可母《コヒシケムカモ》」(卷十七、三九九五)、「月可佐禰《ツキカサネ》 美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》」(卷十八、四一一六)などあり、マネシは「眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》」(卷二、二〇七)、「可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》 都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》」(卷十七、四〇一二)などある。アマネシもこれと語原を同じくしている。うらさぶる心が一杯に行きわたつているの意。句切。
 久堅乃 ヒサカタノ。古い枕詞で、天に懸かる。「比佐迦多能《ヒサカタノ》 阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」(古事記二八)など使用されている。語義は諸説があり、冠辭考には、匏形の義といい、久老は日のさす方の義としている。ノを助詞とするに異説は無かるべく、ヒサカタについては、集中、字音假字以外には、久方、久堅の字を使用している。これに依れば、ヒサに久遠の意を感じていたとすべきである。形容詞ヒサシは、時間の經過すること多きをいう。カタは不明というほかは無いが、やはり形容詞カタシであるかも知れない。天の悠久性を感じていう詞とする平凡な見方が穩當なのであろう。カタが、もし方角の意であるとすれば、日のさす方か。
 天之四具禮能 アメノシグレノ。アメノは、時雨が天から降るものであるからいう。「久堅乃《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモ》 置二家里《オキニケリ》」(卷四、六五一)などの例がある。シグレは、倭名類聚鈔に、※[雨/衆]雨に當て、本集では暮秋の頃に降る雨に言つている。しかるに題詞には夏四月とあつて、この詞に合わない。興に乘じて他の歌を吟詠したのであろうとされる所以である。
 流相見者 ナガラフミレバ。ナガラフは、流ルの連續?態をあらわす語。既出(卷一、五九)。ここは時雨の降る?を言つている。ナガラフは終止形である。流れること、それを見ればの意で、上のウラサブル情サマネ(308)シの條件法になる句である。
【評語】旅に出て憂鬱な心で一杯であると、まず心中を敍して、その動機を下の句で更にこまかに敍している。ヒサカタノ天ノ時雨は、いかにも大空はるかな所から降つて來る雨の感じをよく出して、荒涼たる旅情を一層深く感じさせる。よい歌である。
 
83 海《わた》の底 沖つ白浪 立田山
 いつか越えなむ。
 妹があたり見《み》む。
 
 海底《ワタノソコ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》
 何時鹿越奈武《イツカコエナム》
 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
【譯】今自分の船は、遠く海上に出ているが、その海の沖邊では白波が立ち騷いでいる。白波の立つというのに縁のある、あの難波から大和へ越えて行く立田山を、はたしていつになつたら越えて行つて、妻のいる邊を見ることができるだろうか。
【釋】海底 ワタノソコ。オキに懸かる枕詞で、「和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》」(卷五、八一三)、「綿之底《ワタノソコ》 奧己具舟乎《オキゴゲフネヲ》」(卷七、一二二三)など使用されている。オキに懸かるについては、ソコに海中の深處をいうのみでなく、水上遙なる處をもいう意ありとする説もあるが、むしろオキの方に深處をもいう意があるので、この語を冠するとすべきである。「海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》」(卷四、六七六)、「海底《ワタノソコ》 奧在玉乎《オキナルタマヲ》」(卷七、一三二七)など、その用例に乏しくない。ここは、海上の意であるから、枕詞からいえば、轉接の類である。以上の二句は、立ツというための序詞。左註にもあるように、海上で歌つた歌なので、海の縁を以つて序としたのであろう。
 立田山 タツタヤマ。生駒山脈中、大和川の北岸に近い山。大和から難波の御津に通う要路となつていた。(309)從つて西方から來る者もこの山を越えて大和にはいるのである。
 何時鹿越奈武 イツカコエナム。カは疑問の係助詞。ナムは、豫想をあらわす助動詞。分けていえばナは完了、ムが豫想である。句切。
 妹之當見武 イモガアタリミム。イモガアタリは、わが妻の家の邊。上に「君があたり」の句(卷一、七八)があつた。「秋山に落つる黄葉しましくはな散り亂れそ。妹があたり見む」(卷二、一三七)。
【評語】船の廻りに立つ波を使つて序としている。まずそれを呼びかけて、これを序に轉用したのである。海上の旅情のよく出ている歌である。左註に山邊の御井の邊で作つたらしくないという。いかにももつともである。當時吟誦した古歌かというが、多分その通りであろう。
【參考】類句。
  風吹けば沖つ白波立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ(古今和歌集、伊勢物語)
  風吹けば雲の蓋《きぬがさ》立田山いとにほはせる朝顔の花(歌經標式)
 
右二首、今案不v似2御井所1v作、若疑當時誦之古歌歟。
 
右の二首は、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。編者の考えをいう。
 若疑 ケダシウタガハクハ。若は、モシともケダシとも讀まれるが、集中の例では、二音に相當する處に使用したものは、「君之往《キミガユキ》 若久爾有婆《モシヒサナラバ》」(卷十九、四二三八)の例があるのみで、これはモシとも讀まるべく、しかもモシの語例も外には見當らない。これに反してケダシは用例多く、また若を三音に當てて書いているものも、「松陰爾《マツカゲニ》 出曾見鶴《イデテゾミツル》 若君香跡《ケダシキミカト》」(卷十一、二六五三)、「若雲《ケダシクモ》 君不2來益1者《キミキマサズハ》 應2辛苦1《クルシカルベシ》」(卷十二、二九(310)二九)、「若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケミムカモ》」(卷十六、三八六八)などある。依つてケダシと讀むのが順當であろう。疑は、ハ行四段の活用であるから、その未然形を受けてクが接續して、ウタガハクとなる。
 誦之 ヨメリシ。誦は、暗誦、また吟誦の義の字で、ここは節を附けて吟誦した意であろう。
 古歌 フルウタ。これより前に作り傳えられた歌を、總じて古歌という。興に乘じて古歌を吟誦した例は、卷の十五、三五七八の題詞に、「當所誦詠之古歌」、卷の十八、四〇三二の題詞に、「爰作新歌、并便誦古詠」など見える。
 
寧樂宮
 
長皇子與2志貴皇子1、於2佐紀宮1倶宴歌
 
寧樂の宮、長の皇子と志貴の皇子と、佐紀《さき》の宮《みや》にて供に宴《うたげ》せる歌
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。これは時代の標示であるから、上の和銅三年の題詞の前にあるべしとする説がある。それにしても寧樂宮とのみあるは略書であつて、前に例が無い。前半の編者と人を異にしているのであろうか。
 佐紀宮 サキノミヤ。佐紀は、奈良縣の北端、生駒郡に屬している。そこに別邸などがあつたのであろう。
 
84 秋さらば 今も見る如《ごと》、
 妻ごひに 鹿《か》鳴《な》かむ山ぞ。
 高野原《たかのはら》の上《うへ》。
 
 秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《カナカムヤマゾ》
 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》
 
【譯】秋になつたならば、今も見るように、妻を戀い慕つて、鹿の鳴く山であろう、この高野原の上は。
【釋】秋去者 アキサラバ。サルは既出(卷一、一六)。秋にならば。 今毛見如 イマモミルゴト。目前にあるようにの意であるから、次の句の内容が、目前にあることになる。「於母布度知《オモフドチ》 可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》 異麻母見流其等《イマモミルゴト》」(卷十七、三九九一)、「和期大皇波《ワゴオホキミハ》 伊麻毛見流其等《イマモミルゴト》」(卷十八、四〇六三)、「都禰爾伊麻佐禰《ヅネニイマサネ》 伊麻母美流其等《イマモミルゴト》」(卷二十、四四九八)などある。
 嬬戀尓 ツマゴヒニ。妻に戀うためにの意。
 鹿將鳴山曾 カナカムヤマゾ。鹿は、シカと讀むのが通例であるか、「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》」(卷八、一六〇〇)、「妻戀爾《ヅマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)など、妻戀ニを受けては、カナクという例であるから、ここもカと讀むべきだろう。鹿をカの一言に讀むと思われるのは、以上のほかには、「秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》」(卷九、一七九〇)があるだけである。初句の秋サラバを受けて、鹿の鳴かむ山ぞと言つている。ゾは、名詞を強く指示する助詞。句切。
 高野原之宇倍 タカノハラノウヘ。高野原は、佐紀の地勢をいう。ウヘは野原についてしばしばいう。前にも「藤原が上に」(卷一、五〇)とある。
【評語】この歌は、初句に秋サラバとあつて、現に秋でないことが知られるのに、二句以下に、今も見る如くに鹿の鳴くべき山だと歌つているので、不審とされ、誤字説なども出ている。歌詞によるに、妻戀に鹿の鳴くことを今も見るというのであつて、宴席にさような作り物か繪畫などがあつたとすべきである。宴席に作り物などをすることは、卷の六、一〇一六の左註に、歌を白紙に書いて屋壁に懸け、卷の十九、四二三一の題詞に、「于v時積v雪彫2成重巖之起1、奇巧綵2發草樹之花1」など例がある。かような飾物に屬目して思いを自然の秋に寄せたのであろう。敍述がやや説明的であるが、高原の秋景色を思わしめるものがある。酒宴即興の歌としては、上乘の作とすべきであろう。澤瀉博士の説に、歌の作られた時が秋で、今も見るように、また秋になつ(312)たらの意とする。これは情趣を得た解のようである。
 
右一首、長皇子
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。前の歌の作者を註したのであるが、題詞には、長の皇子と志貴の皇子と宴を倶にされたと見え、目録には、元暦校本等にこの次に「志貴皇子御歌」の一行があるによれば、もと志貴の皇子の御歌のあつたのが遣落したのでもあろう。
 
萬葉集卷第一            2009.4.24(金)午前9時30分、入力終了
 
 
(313)萬葉集卷第二
 
(315) 萬葉集卷第二
 
 卷の二は、卷の一と共に集中において一團をなしていると考えられている。それは、卷の一は雜歌、卷の二は相聞と挽歌とであつて、部類の點において一往纏まつていることと、またこの二卷は、何々天皇代の標目を掲げて、その下に歌を記載していることとによる。しかし萬葉集は一の原形から成長して現在の形に到達したものと考えられるので、上記の解釋は、二卷の或る部分において考えられることであつて、現在の形においてこの二卷全部が特別に纏められたとは考えられない。
 歌數は次表の通りである。
        長歌    短歌    合計
  相聞     三    五三    五六
  挽歌    一六    七八    九四
  計     一九   一三一   −五〇
 歌の番號は、八五番から二三四番に至り、この卷は或本歌まで番號に入れてあるから、歌の實敷とよく一致する。
 作品の時代は、相聞は仁コ天皇の御代から柿本の人麻呂の妻の歌に及び、挽歌は齊明天皇の御代から奈良時代の靈龜元年(七一五)九月志貴の親王の薨去の時の歌に及んでいる。結局仁コ天皇の時代から元明天皇の時代に至つており、その仁コ天皇の時代の歌は集中最古の歌ということになるが、それがはたしてその時代のも(316)のであるか否かは問題の存する所である。
 作品としては特に柿本の人麻呂の諸作が目立つている。高市の皇子の殯宮の時の作は、集中第一の長篇で雄渾無比の名作であり、その他、石見の國から妻に別れて上京する時の歌、皇子皇女の殯宮の歌など、傑作に富んでいる。その他では大伯《おおく》の皇女の御歌も短歌ではあるが名品である。
 文字は、表意文字に表音文字を交え用い、かなり複雜で、資料の多種であつたことを思わしめる。傳本としては、仙覺本系統の諸本以外には、元暦校本が一部を傳え、金澤本が小部分あり、天治本は斷簡があるに過ぎない。神田本は全卷あり、類聚古集、古葉略類聚鈔は、例に依つて相當數の歌を傳えている。仙覺本系統では、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本等が、いずれも全卷を傳えている。
 
相聞
 
【釋】相聞 サウモニ。雜歌、挽歌と共に、本集の三大部門の一である。この字面は、漢文から來ている。文選、曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來數相聞とあり、註に聞問也とある、?況を問う意であり、その他漢籍に用例がある。たがいに交通して親愛の情を通ずる意に用いられる。木集では、この卷、及び卷の四、八、九、十、十一、十二、十三、十四の各卷にこの部門を立て、卷の十一、十二、十四では、相聞往來歌と稱している。文中では、卷の四の七二七の歌の題詞の下に、「離2絶數年1復會相聞往來」など見えている。この部門の歌は、男女間の情を歌つたものが多數であるが、中には朋友關係、兄弟關係、親族關係等の場合の作もあり、元來男女關係には限らぬ性質のものである。これは歌謠が古く懸け合わせたものから出發し、それが文字を得るに及んで、文筆によつて贈答するに至つたものであるが、本集にあつても、かならずしも文筆によつたものには限られない。この部門を立てて歌を分類することは、當時の歌の作られる實際に照らして適當であ(317)ると考えられるが、本集では別に問答歌の目を立てている卷もあり、それとの關係は、明瞭に區別されない。相聞の歌は、その性質上、對手を豫想して作られるので、その内容は概して單純であつて種類がすくない。そうして修辭の上に特に技巧の用いられることが多く、譬喩や序詞なども巧妙にかつ多量に使用される。またその用語は、主として會話性言語によつているが、柿本の人麻呂の妻に別れて上京する時の作品の如きは、獨語的な作といえる。この部類は、萬葉集以前、既に柿本朝臣人麻呂歌集あたりに使用されていたようである。それは、卷の十一における柿本朝臣人麻呂歌集の所出の歌の調査によれば、その歌の分類および排列法は、人麻呂歌集から受け繼いでいるものと考えられ、そこには相聞往來の歌を、正述心緒と寄物陳思とに分け、その寄物陳思の歌は、寄託した事物について秩序ある排列がなされているが、それは原典たる人麻呂歌集から持ち越したものと考えられる。然らばその分類および排列の大綱である相聞往來という部門もまた同じく人麻呂歌集から持ち越したものと考えられるからである。相(318)聞は、考にアヒギコエ、古義にシタシミウタと訓したが、今日では字音で讀む説が有力になつている。田邊正男氏の説に、相はngの音の字であるから、サガモニと讀むべきだという。サガミ(相摸)、サガラカ(相樂)などの例によるものである。前ページの寫眞は、金澤本萬葉集の目録から本文に移る所で、初め二行は目録の終りである。このように目録からすぐ本文に續いて書かれているのは、もと卷物の形であつたものから來ているものと見られる。
 
難波高津宮御宇天皇代 【大鷦鷯天皇謚曰2仁コ天皇1】
 
【釋】難波高津宮御宇天皇代 ナニハノタカツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。仁コ天皇の元年正月、難波に都し、これを高津の宮と言つた。今の大阪市、大阪城の南方東高津のあたりであろうという。當時海岸であり、角麻呂の歌、「ひさかたの天の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊《は》てし高津は淺《あ》せにけるかも」(卷三、二九二)の歌によつて、奈良時代に既に陸地となりつつあつたことが知られる。かようにこの標目は、仁コ天皇の御代を標記したもので、そのもとに仁コ天皇の皇后なる磐の姫の皇后の御歌四首、および附載の歌二首を收めている。
 大鷦鷯天皇 オホサザキノスメラミコト。仁コ天皇の御事。日本書紀に大鷦鷯の尊、古事記に大雀の命とある。御名の由來については、日本書紀仁コ天皇元年正月の條に、「初天皇生日、木菟入2于産殿1。明旦譽田天皇喚2大臣武内宿禰1語之曰、是何瑞也。大臣對言、吉祥也。復當2昨日臣妻産時1、鷦鷯入2于産屋1、是亦異焉。爰天皇曰、今朕之子與2大臣之子1同曰共産、竝有v瑞、是天之表焉。以爲取2其烏名1各相易名v子、爲2後葉之契1也。則取2鷦鷯名1以名2太子1曰2大鷦鷯皇子1、取2木菟名1號2大臣之子1曰2木菟宿禰1、是平群臣之始祖也」とある。鷦鷯は小鳥、ミソサザイである。
(319) 謚曰仁コ天皇 オクリナシテニトクテニワウトマヲス。仁コ天皇とは漢風の謚號である。萬葉集において漢風の謚號の記事のあるのに不思議の無いことは、既に卷の一において述べた所である。
 
磐姫皇后、思2天皇1御作歌四首
 
【釋】磐姫皇后 イハノヒメノオホギサキ。仁コ天皇の皇后。古事記に「葛城之曾都?古之女、石之日賣命」(下卷)とある。葛城の曾都?古は、日本書紀に葛城の襲津彦とあり、武内の宿禰の子である。履中天皇、反正天皇、允恭天皇等の御母であり、天皇に先だつて崩御された。古事記および日本書紀に、天皇とのあいだに相聞の御歌を中心とする歌物語を傳えている。皇后は、天皇の嫡妻で、國語にオホギサキという。古事記に皇后を大后と書いてあるのはこの故である。その御歌は、卷の四の卷初にある「難波天皇妹、奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首」(四八四)と共に、本集における最古の作とされている。しかし實際、これが最古の作と見られるかというと、疑問である。これらの歌は、歌體は短歌形體で、整備された段階に到達しており、仁コ天皇時代の歌謠として記紀に記載されているものと比較して見ても、多くはそれよりも後のものと見なされる。また用語も同じく後の品らしく至つて平明である。今日においては、この題詞のままに、傳説的な歌謠として取り扱われなければならない。それにしても萬葉集中では、古い時代の作に屬するものである。
 思天皇御作歌 スメラミコトヲシノヒマシテツクリマセルミウタ。歌詞によるに、天皇の行幸の御留守に當つて詠まれた歌である。いかなる場合の歌とも知られない。
 
85 君が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ。
 山尋《やまたづ》ね 迎へか行かむ。
(320) 待ちにか待たむ。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》
 山多都祢《ヤマタヅネ》 迎加將v行《ムカヘカユカム》
 待尓可將v待《マチニカマタム》
 
【譯】わが君がお出ましになつて、時久しくなりました。山を尋ねてお迎えに行きましようか。または待つておりましようか。
【釋】君之行 キミガユキ。君は天皇。ユキは、行くことの意で、體言になつている。どこかに行幸になつたものと思われる。
 氣長成奴 ケナガクナリヌ。ケは時間である。ケナガクは、「氣長妹之」(卷一、六〇)など、既に出ている。句切。「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリス》」(卷五、八六七)はここと同文である。この句、おいでになつてから、日數を歴た心をあらわしている。
 山多都祢 ヤマタヅネ。山を尋ねて行つて。古事記の同歌には「夜麻多豆能」と書いている。歌い傳えているうちに別傳を生じたものと見るべきである。
 迎加將行 ムカヘカユカム。迎えにか行こうの意。句切。
 待尓可將待 マチニカマタム。上の迎ヘカ行カムの句と對句をなし、迎えに行こうか待ちに待とうかと動搖する心を描いている。
【評語】二句および四句で切れて、三段になつているのは、古歌として正格の形である。初めに君が行幸されてから、やや日數を重ねたという事實を述べて、それから、戀しさに堪えやらぬ焦慮が歌われている。迎えに行こうか、それとも待つていようかという、途方にくれ、考えに惑う婦人の氣もちがよく出ている。
 この歌は古事記にも出ている。その古事記の歌は、下に出ているが、允恭天皇の皇子の木梨の輕の太子の跡を、衣通《そとおし》の王が戀慕に堪えずして、追つてお出でになつた時の御歌としており、三句以下が違つて、「君が行け(321)長くなりぬ。山たづの迎へを行かむ。待つには待たじ」となつてゐる。迎ヘヲ行カムというのは、強い意志のあらわれている句で、是非迎えに行こうと決意されたことをあらわしている。そうして、次の句は、待つていられないという意味を元している。かように、詞句は、似ているけれども、衣通の王の御歌の方は、非常に強い意氣込みが出ている。これに對して、皇后の御歌の方は、どうしたらよかろうかという、いても立つてもいられない氣もちが歌われている。
 
右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
 
【釋】山上憶良臣類聚歌林載焉 ヤマノウヘノオクラノオミノルズカリニニノセタリ。山上の憶良も類聚歌林も、卷の一に出ている。類聚歌林によつて採録したかどうかはわからないが、類聚歌林の所傳が、この本文の通りであつたことは、下に古事記の文を引いて、その左註に、古事記と類聚歌林と説く所同じからず、歌主も亦異なりと言つており、その類聚歌林の所傳とは、この本文をさすものであることによつて推知される。作者等について類聚歌林の所傳が相違しているとせば、ここにその相違を擧げるはずであるが、それが無いのを見れば、同一であつたと見なされる。
 
86 かくばかり 戀ひつつあらずは、
 高山の 磐根《いはね》し枕《ま》きて
 死なましものを。
 
 如v此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》
 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
【譯】これほどまでに、戀をしていないで、いつそ死んでしまつたろうものを。
【釋】如此許 カクバカリ。戀している程度を、かほどまでにと言つている。
(322) 戀乍不有者 コヒツツアラズハ。打消の助動詞ズに、語勢の助詞ハの接續したものとされている。戀いつつあらずにと同じで、戀をしていないでこのままという意に譯されている。「後れ居て戀ひつゝあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを」(卷四、五四四)の如き類歌があり、この集では、常に出る語法である。
 高山之磐根四卷手 タカヤマノイハネシマキテ。死んで高山の墓に横たわるという意味をあらわす。磐を枕にして寐るということから、死んで葬られることをいうのである。磐根のネは接尾語。シは強意の助詞。マキテは、枕とする意。
 死奈麻死物乎 シナマシモノヲ。死んでしまつた方がよかつたと、殘念がる意味である。
【評語】君が遠く旅にお出になつてから、ひとり後に殘つて、戀にのみ日を過している。しかしもう堪えきれない。こんな苦しい戀をしているくらいなら、むしろ死んだ方がましだつたという、戀の苦しみを詠まれている。死ぬことを敍して、高山の磐根を枕くというのは、具體的ないい方で、歌の内容がはつきりと出てくる。作者が死というものを、正面に考えていることを示している。死の實感のあらわれる句である。石田の王の卒去の時の歌に、「高山の石穗《イハホ》の上に君が臥《こや》せる」(卷三、四二一)とあるも、同樣の表現である。マシの語は、不可能であることを知つている希望を表示する語で、作者は生きているのだが、死んだ方がましだという氣もち。しかし死ぬにも死ねない氣もちをこの語であらわしている。ここにも戀に迷う苦しみが見えるところである。
 
87 ありつつも 君をば待たむ。
 うち靡く わが黒髪に
 霜の置くまでに。
 
 在管裳《アリツツモ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 打靡《ウチナビク》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
(323)【譯】やはりいくら苦しくても、このままでお待ち申し上げましよう。なよなよとしたわたしの黒髪に霜が置くまでも。
 
【釋】在管裳 アリツツモ。このままにありつつの意。生きながらえてである。
 君乎者將待 キミヲバマダム。句切。
 打靡 ウチナビク。黒髪の形容で、髪のなよなよと、風に靡くが如くにある?態をいう。作者が婦人であり、美しい髪をもつている御方であることが知られる。
 霜乃置萬代日 シモノオクマデニ。黒髪に霜が置くというのは、實際に夜遲く戸外に、寒夜をお待ち申しあげているので、霜が降るというのである。後世の歌ならば、白髪になるというだけに解いてよいのであるが、古歌では、寛際に霜が置くと見る方がよい。
【評語】上謁の、君が行け長くなりぬの歌では、お迎えに行こうか、はたまたお待ちしようかという迷う心が歌われていたが、この歌では、一途に變わる心なく、お待ち申し上げようとする情が歌われている。夕べになれば、今やお歸りになるかと、戸外に出ては、お待ち申し上げる。いつしか夜も更けて、うち靡くわが黒髪に大空から霜が冷く降りついてくる。それほどまでにもして、お待ち申し上げようとするひたすらな心が歌われている。類歌としては、「君待つと庭のみ居ればうち靡くわが黒髪に霜ぞ置きにける」(卷十二、三〇四四)がある。解釋上參考とするに足りよう。
 
88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞、
 何方《いづへ》の方に わが戀ひやまむ。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗上尓霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》
 何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將v息《ワガコヒヤマム》
 
【譯】秋の田の稻標の上に立ちこめている朝霞。ああどちらの方に行つたらわたしは戀がやむでしょう。
(324)【釋】秋田之 アキノタノ。秋のみのつた水田のである。
 穗上尓霧相 ホノヘニキラフ。ホは稻の穗。その上に立ち籠めている。キラフは、動詞霧《き》ルに、助動詞フが接續して、その連續せる動作を描く。水蒸氣が籠つている意である。「打靡春去來者《ウチナビクハルサリクレバ》 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》 雪者零管《ユキハフリツツ》」(卷十、一八三二)、「奈良山乃《ナラヤマノ》 峯尚霧合《ミネナホキラフ》」(同、二三一六)など、使用されている。ここは連體形で、次の朝霞を修飾する。
 朝霞 アサガスミ。朝の霞で、以上霞を説明しこれを呼びかけている。霞は、後には春のものと定まつたが、この集では秋にも霞という。「朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下爾《カビヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》」(卷十、二二六五)など詠まれている。以上秋の田の上に、一面に水蒸氣が立ちこめていることを敍し、さてどちらがどちらともわからない意を寓して次の句を引き出している。
 何時邊乃方二 イヅヘノカタニ。イヅヘは、どちらの方。イヅはイヅカタなどのイヅ。もとイツ(何時)と同語だろうが、ここは何時の字を借りているのだろう。へによつて方向を示すようである。へは方の意。「霍公鳥《ホトトギス》 伊頭敝能山乎《イヅヘノヤマヲ》 鳴可將v超《ナキカコユラム》」(卷十九、四一九五)の例がある。どちらの方にで、いかにしてかの意をあらわす。
 我戀將息 ワガコヒヤマム。何方に向かつて行つたら、わが戀がやむだろうか、その方角を知らないことである。
【評語】君をお待ちして、遂に君の來ぬ空しい夜は、ほのぼのと明け渡つた。ずうつと見渡されるはずの門田には、おりしも秋の末で、稻の穗が熟して、波をうつている。その一望の田の上には、すつかり霧がかかり、今朝はほのぐらいまでに感じられる。どちらがどちらとも知られずに、行き迷うほどである。自分の戀もまたかようなものである。途方にくれ、どういうようにしたら、どちらの方に行つたら自分の戀がやむだろうか、(325)この苦しい戀が。初三句に景を敍し、それから抒情に移つて行くあたり、説明に落ちないでよく妙趣を發揮している。以上四首、講義には一團の歌として見るべしと説いている。そう見ると、この歌の如き、一層よく生きて來るようである。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前出八七番の在管裳の歌の類歌として、參考に掲げてある歌である。前の歌を本文として、これを別の本から採録した意味で、或る本の歌と稱している。その或る本というのは、左註によれは古歌集であることが知られる。萬葉集で古歌集というのは一の定まつた集をいう。何人の集録とも知られないが、大體奈良時代初期の作品が收められてある。卷の九の古集中出とあるも、同じく古歌集の謂のようであるが、その歌には題詞のあるものがある。上代の書は卷物であつて、棒?を成しているから本という。
 
89 居|明《あ》かして 君をば待たむ。
 ぬばたまの わが黒髪に
 霜は降るとも。
 
 居明而《ヰアカシテ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
【譯】ここに、いたままで夜を明かして、わが君をお待ち申しましよう。わたしの黒い髪によし霜は降るとも。
【釋】居明而 ヰアカシテ。いたままに夜をあかして。徹夜して。代匠記に「乎里安加之母《ヲリアカシモ》 許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》」(卷十八、四〇六八)を證として、ヲリアカシテと讀むべきかと言つているが、「橘之《タチバナノ》 花乎居合v散《ハナヲヰチラシ》」(卷九、一七五五)など、居散ラシのような語もあるから、ヰアカシテでよいであろう。
(326) 君乎者將待 キミヲバマタム。句切。
 奴婆珠乃 ヌバタマノ。ヌバタマは、アヤメ科の宿根草本ヒオウギの實をいう。その實を愛玩したのである。集中、夜干玉、野干玉、烏玉、黒玉などの字をあてている。その實は、黒いので、黒、夜などの枕詞になる。本草に射干とあり射の音ヤなので、通じて野干、夜干と書く。この枕詞、古事記八千矛の神の相聞歌中に見え、古い枕詞である。
 霜者零騰文 シモハフルトモ。家の外に出て君の來るのを待つているので、黒髪によし霜が降るともというのである。髪が白髪になることも含んでいるとも取られるが、この場合は、そう取らぬ方がよさそうである。八七參照。
【評語】この歌は待つている有樣を説明しているところに特色がある。また黒髪に特に枕詞を冠したのも印象的であつて、霜は降ルトモとよく對照している。この場合、率直に實際の霜の降ることを言つていると見るべきである。これを白髪になるまでと解すると、技巧におちて、かえつてしんみりした味が失われる。
 
右一首、古歌集中出
 
【釋】古歌集中出 コカシフノウチニイヅ。古歌集のことは上記或本歌曰の項參照。なお古歌集の名は、このほか、卷の七、九、十一等に見え、出と書いているのはいずれもその集から歌を採録していることを示す。卷の七、九にある古集の名も、同じものをさすであろう。
 
古事記曰、輕太子?2輕太郎女1、故其太子流2於伊豫湯1也。此時、衣通王、不v堪2戀慕1而追往時歌曰
 
(327)古事記に曰はく、輕の太子、輕の太郎女《おほいらつめ》に?《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊豫の湯に流されき。この時|衣通《そとほし》の王、戀慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく、
 
【釋】古事記曰 コジキニイハク。以下、「君之行」(八五)の歌の參考として、萬葉集の編者が古事記の文および歌を掲げたものである。その文は節略し、歌も文字を書き改めてある。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。允恭天皇の皇太子木梨の輕の皇子である。御母は忍坂の大中つ比倍の命である。
 輕太郎女 カルノオホイラツメ。古事記に「輕太郎女、亦名衣通郎女、御名所3以負2衣通王1者、其身之光自v衣通出也」(下卷)とある。輕の太子の同母妹。
 伊豫湯 イヨノユ。伊豫の温泉で、今の松山市の道後温泉である。有名な温泉で、單に伊豫の湯というのはこのほかには無い。
 衣通王 ソトホシノオホキミ。輕の太郎女の別名。前掲古事記の文參照。衣通は、古今和歌集の序文には、「そとほりひめ」とある。日本書紀には、允恭天皇の皇后忍坂の大中つ姫の命の妹の藤原の郎姫《いらつめ》を衣通の郎姫というとする。この方のことを、古事記に、藤原の琴節の郎女と書いている。その琴節は、コトフシと讀まれるが、これは、ソトホシを訛つたものだろうという。よつて今、ソトホシとする。身の光が衣服を通すというのは、美人の表現で、傳説上の美人として語られていたのである。竹取物語のかぐや姫は、この傳説の系統をひく。
 
90 君が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ。
 山たづの 迎へを行かむ。
(328) 待つには待たじ。
   ここに山|多豆《たづ》といへるは、今《いま》の造木なり。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》
 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將v往《ムカヘヲユカム》
 待尓者不v待《マツニハマタジ》
   此云2山多豆1者是今造木者也
 
【譯】君がお出ましになつて、時久しくなりました。山タヅのようにお迎えに參りましよう。お待ちはしておりますまい。
【釋】君之行氣長久成奴 キミガユキケナガクナリヌ。以上は、八五の歌と同じである。
 山多豆乃 ヤマタヅノ。枕詞で、迎えに係かると見られるが、意味には諸説がある。註に「此云2山多豆1者、是今造木者也」と記しているが、これは古事記にもある註である。しかし折角の説明だが、その造木のいかなるものであるかがあきらかでないので、説明にならない。新撰字鏡には造木に女貞と註している。女貞は、モクセイ科の常緑木で、タマツバキ、ネズミモチなどいう植物である。また山釿ノで斧の類であるといい、加納諸平はミヤツコギで今のニワトコであると言つている。これは倭名類聚鈔に、「接骨木、和名美夜都古木」とある等、諸書にその名が見えている。ニワトコは、スイカズラ科の落葉灌木で、枝葉が相對して出るので、向きあうことから迎フの枕詞としたものだと言われている。本集に「山多頭能《ヤマタヅノ》 迎參出六《ムカヘマヰデム》」(卷六、九七一)の用例がある。
 迎乎將往 ムカヘヲユカム。ヲは感動の助詞で、強意の性能を有する。「
イマナルホドハタノシクヲアラナ」(卷三、三四九)、「保等登藝須 《ホトトギス》 許々爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》」(卷二十、四四八三)等の用例がある。かならず迎えに行こうといぅ強い語氣である。
 侍尓者不待 マツニハマタジ。上の迎ヘヲ行カムの意を、別の方面から敍している。マタジは、否定の意志をあらわしている。
(329) 此云山多豆者是今造木者也 ココニヤマタヅトイヘルハイマノミヤツコギナリ。歌中の山多豆を説明している註で、古事記の文章のままである。
【評語】前の磐の姫の皇后の御歌として擧げられた歌の、懊惱の氣もちの濃いのに對して、これははなはだしく強い意志が表示されている。いずれが原形であるかはわからないが、傳來のあいだに氣分の轉換する所を味わうべきである。
【參考】古事記原文。
   故後亦不v堪2戀慕1而、追往時歌曰、
  岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士此云2山多豆1者是今造木者也(古事記下卷)
 
右一首歌、古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉
 
右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌の主また異なり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。九〇の君之行の歌を受けているが、遠く八五の君之行の歌をこれと同歌と見て併わせ言つている。この歌が、古事記と類聚歌林とで、作歌事情や、作者が相違していることを説いている。類聚歌林の所説というのは、八五の方の傳來をいう。
 
因?2日本紀1曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇語2皇后1納2八田皇女1將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后1云云。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其(330)處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1聞3天皇合2八田皇女1大恨之云々。
 
因りて日本紀を?《かむか》ふるに曰はく、難波の高津の宮に天の下知らしめしし大鷦鷯《おほさざき》の天皇の二十二年の春正月、天皇皇后に語りて、八田《やた》の皇女を納《い》れて妃とせむとしたまふ。時に皇后|聽《う年なる》さず。ここに天皇歌もちて皇后に乞ひたまひき云々。三十年の秋九月乙卯の朔乙丑の日、皇后紀伊の國に遊行《いでま》して熊野の岬に到り、其處《そこ》の御綱葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后のいまきざるを伺ひて、八田の皇女に嬰《あ》ひて宮の中に納《い》れたまひき。時に皇后難波の濟《わたり》に到りて、天皇、八田の皇女を合《め》しつと聞きて、いたく恨みたまひき云々といへり。
 
【釋】因?日本紀曰 ヨリテニホニギヲカムガフルニイハク。古事記と類聚歌林とが所傳を異にするので、これを判斷するために日本書紀を?したのである。以下日本書紀の文は、仁コ天皇紀と允恭天皇紀とにわたつている。上に掲げたのは、その仁コ天皇紀の文で、これを簡略にして引用している。
 八田皇女 ヤタノヒメミコ。應神天皇の皇女。仁コ天皇の異母妹。
 皇后 オホギサキ。磐の姫の皇后。
 不聽 ウナヅルサズ。日本書紀の古訓に、ウナヅルサズとある。ウナヅキ許サズの義で、承知しなかつたの意。
 御鋼葉 ミツナガシハ。延喜式に三津野柏、皇大神宮儀式帳に、御角柏とある。葉が三尖形を成しているので、三角柏の義であろう。神事に際して酒などを盛るに使用する。カエデ科の常緑喬木カクレミノの葉だという。
 
(331)亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通、乃悒懷少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1蓋親々相?乎云々。仍移2太娘皇女於伊與1者、今案2二代二時1、不v見2此歌1也。
 
また曰はく、遠《とほ》つ飛鳥《あすか》の宮に天の下知らしめしし雄朝嬬稚子《をあさづまわくご》の宿稱《すくね》の天皇の二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨《きなし》の輕《かる》の皇子を太子としたまひき。容姿佳麗にして見る者おのづから愛《め》づ。同母妹《いろも》輕の太娘《おほいらつめ》の皇女、また艶妙《かほよ》し云々。遂に竊に通ひ、すなはち悒懷少しく息《や》みぬ。二十四年の夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷と作《な》れり。天皇|異《あや》しみてその故を卜《うらな》はす。卜ふ者曰はく、内の亂あり。けだし親親相|?《たは》くるかといへり云々。よりて太娘の皇女を伊與に移しきといへれば、今二つの代二つの時を案ふるに、この歌を見ざるなり。
 
【釋】亦曰 マタイハク。この下、日本書紀允恭天皇紀の文を要約している。
 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇 トホツアスカノミヤニアメノシタシラシメシシヲアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト。允恭天皇。
 伊與 イヨ。伊豫に同じ。今の愛媛縣。伊豫の温泉の地であろう。ここまで日本書紀の引用である。
 二代二時 フタツノヨフタツノトキ。仁コ天皇の代と允恭天皇の代と、二代のそれぞれの時の意。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇謚曰2天智天皇1
 
(332)【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。卷の一に出ている。天智天皇の御代。
 天命開別天皇 アメノミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇、賜2鏡王女1御歌一首
 
天皇の、鏡の王女に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 鏡王女 カガミノヒメミコ。藤原の鎌足の妻となり、天武天皇の十二年七月薨じた。威奈の鏡の公の女で、額田の王の姉と推定される。額田の王(卷の一、七題詞)參照。
 御歌 オホミウタ。御製歌とあるべきであるが、御歌とあるは、資料のままであろう。この卷、一〇三の題詞にも例があを。次の鏡の王女の歌によれは、多分天皇は近江の國にましまして、大和の國に歸ろうとする鏡の王女に賜わつたものと考えられる。
 
91 妹が家も 繼ぎて見ましを。
 大和なる 大島の嶺《ね》に
 家もあらましを。
   【一は云ふ、妹があたり繼ぎても見むに。一は云ふ、家居らましを】
 
 妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》
 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺尓《オホシマノネニ》
 家母宥猿尾《イヘモアラマシヲ》
  【一云、妹之當繼而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
 
【譯】あなたの家も續いて見たいものだが、あの大和の國の大島の嶺に、わたしの家があつたらよかつたろうに。
(333)【釋】妹之家毛 イモガイヘモ。妹は、女子に對する愛稱であつて、ここでは鏡の王女をさして呼ばれる。この語はいかなる關係においても同等以下の女性ならば使用される。これによつて天皇と鏡の王女とのあいだに戀愛關係ありとするのは誤りである。
 繼而見麻思乎 ツギテミマシヲ。ツギテは、引き續いてで、絶えずの意になる。ミマシヲは、不可能の希望の語法で、見たいものだがの意を成す。句切。
 山跡有 ヤマトナル。次の句の大島の嶺の所在を説明する。これによつて、天皇が大和以外にましましたことが知られる。
 大島嶺尓 オホシマノネニ。大和の國の中であろうが所在不明である。日本後紀大同三年九月の條に、平城天皇が神泉苑に幸し、平群《へぐり》の朝臣|賀是麻呂《かぜまろ》に勅して歌を作らしめたが、その歌は「伊賀爾布久《イカニフク》 賀是爾阿禮婆可《カゼニアレバカ》 於保志萬乃《オホシマノ》 乎波奈能須惠乎《ヲバナノスヱヲ》 布岐牟須悲太留《フキムスビタル》」という。この平群氏の本居は、大和の國の平群郡の地であるべきであつて、その歌中の於保志萬も同地なるべく、從つて大島の嶺も同じく平群郡だろうと言われている。
 家母有猿島 イヘモアラマシヲ。この家は、作者目身の家である。大島の嶺に自分の家もあつたら妹の家が續けて見られるだろうにというのである。
 妹之當繼而毛見武爾 イモガアタリツギテモミムニ。初二句の別傳である。これによれば、二句で文が切れない。五句に作者の家もというのだから、初句は妹があたりの方がよい。
 家居麻之乎 イヘヲラマシヲ。五句の別傳である。これは作者自身が家居していたいの意で、イヘヲルで家居するの意味になる。上の初二句の別傳と同じ一首であろう。これによれば、「妹があたり繼ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを」となる。
(334)【評語】二段から成つており、なつかしさのあまりに、王女が大和に歸つても、その住む家を見たいという御心を繰り返されている。情味の溢れた御製である。大和ナル大島ノ嶺と場所を指定したのが、歌意をはつきりさせていてよい。
 
鏡王女、奉v和2御歌1一首
 
鏡の王女の、御歌に和へまつれる一首
 
【釋】奉和御歌 オホミウタニコタヘマツレル。御歌は、天皇の御製歌をいう。但し他の例によるに、和者の作の意として御の字が無く和シマツレル歌と讀まれる例であるが、ここはもとの資料からあつたものであろう。本集では、王、女王の作には御歌とは云わない例である。
 
92 秋山の 樹《こ》の下がくり 逝《ゆ》く水の、
 われこそ益さめ。
 御念《おも》ほすよりは。
 
 秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝水乃《ユクミヅノ》、
 吾許會益目《ワレコソマサメ》
 御念從者《オモホスヨリハ》
 
【譯】秋山の樹の下がくれに行く水のように、私こそ益つて居りましよう。御心よりは。
【釋】樹下隱 コノシタガクリ。動詞隱ルは、古く四段活であつたので、カクリという。樹の下に隱れてで、次の句の逝く水を説明している。
 逝水乃 ユクミヅノ。以上三句は序詞で、次の句の益すを起している。逝く水のように益さるというのである。
 御念從者 オモホスヨリは。ミオモヒヨリハ(元)、オモホスヨリハ(元御本)、オモホサムヨハ(古義)。(335)御念は、オモホスともミオモヒとも讀まれるが。「吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》」(卷一、七七)、「平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》」(卷三、三三〇)などの例は、まさしく御念をオモホシ、オモホスに當てていると見られるから、證のある方についてオモホスと讀む。ヨリハは、比較を示してそれよりもの意をあらわしている。「賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》」(卷三、三四一)の如き用法である。
【評語】上三句は、益スというための序であるが、天皇御製が大島の嶺を云われているので、それに引かれて、その住むべき里の景を敍し、それを以つて序としているのである。前の歌に記したように、吾コソ益サメというのは、別かれて後に物思いが益すだろうというのである。この歌は、主文としては下二句だけであつて、陛下のお思い遊ばすよりは、わたしの方が思いまさるでしようというだけの内容であるが、序の美しさによつてもつている歌ということができよう。秋山ノ樹ノ下ガクリ逝クというのは、單に水の説明だけで、益スということには關係のないのも、古歌らしい歌いぶりであり、理くつのついていないのがよい。
 
内大臣藤原卿、婚2鏡王女1時、鏡王女、贈2内大臣1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女を娉《つまど》ひし時に、鏡の王女の、内の大臣に贈れる歌一首。
 
【釋】内大臣 ウチノオホオミ。既出(卷一、一六題詞)。宮廷に動仕する臣下の棟梁。
 藤原卿 フヂハラノマヘツギミ。藤原の鎌足。卿の字は、大臣か、三位以上に使う例であるが、本集では、大納言中納言にも使うことがある。
 娉鏡王女時 カガミノヒメミコヲツマドヒシトキニ。娉は禮を以つて妻となることを請う義。鏡の王女は、鎌足の正夫人と傳えられている。
 
(336)93 玉匣《たまくしげ》 覆《おほ》ふを易み、明《あ》けて行かば
 君が名はあれど
 わが名し惜しも。
 
 玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而行者《アケテユカバ》
 君名者雖v有《キミガナハアレド》
 吾名之惜裳《ワガナシヲシモ》
 
【譯】玉匣の蓋を蔽うのはたやすいが、その蓋をあけるというように、夜が明けてから出て行つたら、あなたの名はさておいて、わたくしの名が惜しいことです。
【釋】玉匣覆乎安美 タマクシゲオホフヲヤスミ。明ケテと言うがための序である。玉匣は、婦人の大事にしている手箱で、蓋を覆うものであるから、フタ、開クなどの枕詞にしばしば使われている。この歌では、玉匣に蓋をするのはたやすくしてという意から、明クにかかつている。
 開而行者 アケテユカバ。アケテは、玉匣のふたをあけることと、夜が明けることとをかけ詞にしている。鎌足が來て泊つて、夜が明けてから出て行つたらばの意である。
 君名者雖有 キミガナハアレド。君は鎌足をいう。鎌足が來て泊つたら、さぞ二人のうわさが立つであろう。その際、君の名の立つのはともかくもとしての意である。アレドは、それはあるがの意。
 吾名之惜裳 ワガナシヲシモ。シは強意の助詞。わが名の立つことが惜しいの意。
【評語】鎌足が王女のもとを訪れて婚姻を申し入れたのであるが、夜が明けて出て行つたら、二人の名が立つので、それが憚られるという歌である。この歌は、あなたの名はどうでもよいが、自分の名の立つのが惜しいと歌つている點が他の普通の歌と違うところで、この自己中心的な言い方がおもしろいのである。この君と我とが入れ違つているとして直す説もあるが、それでは全く平凡に落ちてしまうのである。あなたの名の事もあるけれども、自分の名の立つのが、何とも迷惑であると歌つているところに、率直な心があらわれている。鎌(337)足は既に、大臣として地位もあり、相當の年齡にも達していたものであろう。この歌と反對に歌つているものに、「わが名はも千名《ちな》の五百名《いほな》に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け」(卷四、七三一、大伴坂上の大孃)がある。
 
内大臣藤原卿、報2贈鏡王女1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女に報《こた》へ贈れる歌一首
 
【釋】報贈 コタヘオクレル。前掲の鏡の王女の歌に對して、鎌足の答え贈つた歌である。
 
94 玉くしげ 見む圓山《まとやま》の さな葛《かづら》、
 さ寐《ね》ずは遂に ありかつましじ。
  或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山の。
 
 玉匣《タマクシゲ》 將v見圓山乃《ミムマトヤマノ》 佐名葛《サナカヅラ》
 佐不v寐者遂尓《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリカツマシジ》
  或本歌曰、玉匣三室戸山乃
 
【譯】玉匣のように、見ようとする圓山のさな葛のように、寐ないでは結局あり得られまい。
【釋】玉匣 タマクシゲ。鏡の王女の歌詞を取つて答歌を起しているが、ここでは玉匣を譬喩として見ムを起している。玉匣の身からミの音に冠するという説は、見は甲類のミであつて、音が違うからよくない。
 將見圓山乃 ミムマトヤマノ。ミムロノヤマノ(童)。ミムロノヤマノと讀むのは、將見圓をミムマロとし、ムマを約めてムとするのであろうが無理である。文字通りならばミムマトヤマノと讀むほかは無い。別傳に三室戸山乃とあるによれば、ミムロトヤマノとあつたものを誤傳したのだろうか。ミムロトヤマは、神殿のある山の義であり、各地に同名の山があつて、そのいずれであるかは決定し難いが、鏡の王女の家が平群郡であるとすれば、そこから見える三輪山だろう。
(338) 狹名葛 サナカヅラ。サネカヅラともいう。モクレン科の蔓性植物。南五味子の字を當てる。ビナンカズラという。以上三句は、次句のサネを引き出すための序詞となつている。
 佐不寐者遂尓 サネズハツヒニ。サは接頭語。鏡の王女の歌に、夜を明かして行くことを拒否されたので、それに對して、寐ずしてはと言つている。ツヒニははてはの意で、次の句を修飾する。
 有勝麻之自 アリカツマシジ。古く、アリカテマシモ、アリカテマシヲなど讀まれていたが、橋本進吉博士の説により、アリカツマシジと讀み改められた。アリは、存在の意の動詞。カツは、可能の意の助動詞。「多誤辭珥固佐摩《タゴシニコサバ》 固辭介?務介茂《コシカテムカモ》」(日本書紀一九、崇神天皇紀)の例の如く、カテムの形があり、下二段活と推考される。マシジは打消の推量の助動詞で、後にマジとなつた語である。假字書きの例には「阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キベノハヤシニ》 奈乎多?天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》 移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》」(卷十四、三三五三)の如きがある。「豫?麻志士枳《ヨルマシジキ》 箇破能區莽愚莽《カハノクマグマ》」(日本書紀五六、仁コ天皇紀)の例の如く、マシジキの形も傳えられている。
 玉匣三室戸山乃 タマクシゲミムロトヤマノ。初二句の別傳である。
【評語】あなたは夜が明けてから出て行つてはいけないと言われるが、自分の氣もちとしては、どうしても泊らないでは行くわけに行かないのであるという情を述べている。序詞がかなり調子に乘つている感があつて、全體として熱情の歌であるべきであつて、しかも、それほどに響いていない。序詞から主文に續くつづき方が同音の法によつているためでもあろう。畢竟作者が、理智の人であることを、反映していると見られるのである。
 
内大臣藤原卿、娶2采女安見兒1時、作歌一首
 
内の大臣藤原の卿の采女安見兒《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時に作れる歌一首
 
(339)【釋】娶采女安見兒時 ウネメヤスミコニアヒシトキニ。采女は、卷の一、五一參照。その出身の國名または郡名を冠して呼ばれるのが通例で、駿河の采女、三重の采女などのように呼ばれる。ここに安見兒とあるのは、その名であるが、この采女の出身の郷土は知られない。采女は、天皇に側近奉仕する職にあり、これと通ずるが如きは嚴に禁止される。しかるにここに鎌足が采女安見兒を得たというのは、特に勅旨を以つて賜わつたものと推考され、この歌は、多分その席上で歌つたものと考えられる。
 
95 吾はもや 安見兒《やすみこ》得《え》たり。
 皆人の 得《え》がてにすとふ
 安見兒得たり。
 
 吾者毛也《ワハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》
 皆人乃《ミナヒトノ》 得難尓爲云《エガテニストフ》
 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
【譯】自分はあの安見兒を得た。皆が得がたいといつている、あの安見兒を得たことだ。
【釋】吾者毛也 ワハモヤ。モヤは感動の助詞で、吾はというに同じ、古事記上卷、須勢理?賣の歌に、「阿波母與《アハモヨ》 賣爾斯阿禮婆《メニシアレバ》」(三)とあるが、モヨもモヤに同じである。モヤの例は、古事記下卷、顯宗天皇記に、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一一三)とあり、この初句は、置目という名の老媼を呼びかけたもので、置目もやと言い、この同じ句を、日本書紀には「於岐毎慕與」と傳えている。「籠毛與」(卷一、一)參照。
 安見兒得有 ヤスミコユタリ。安見兒は采女の名である。ヤスミは形容詞の古い連體形で、後のヤスキ兒というに同じである。清ミ原《はら》、赤ミ鳥《とり》、高ミ座《くら》等、皆同法である。兒は親愛の情を含んでいう。得タリは、わが物とした意である。句切。
 皆人乃 ミナヒトノ。皆の人の。集中、人皆とも皆人とも用いている。
 得難尓爲云 エガテニストフ。得難いものにするという。ガテニは、ガテは勝つ、堪う、能くする等の意、(340)ニは打消の助動詞で、得ガテニは、得ることのできない意の副詞句である。ガテはもと清音であるが、連濁で濁音に轉じ、また難しの語根と混雜して考えられ、ニが否定の意を忘れるようになつた。これは打消の助動詞ニが古語になつて、特殊の熟語にのみ殘るようになり、一方助詞のニが發達して、副詞を作る場合にしばしば使用されるに至つたからである。それで文字としても、ここに見るように難尓のような字面を見るに至つたのである。ガテニは、集中、「宇具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》 宇米我波奈《ウメガハナ》」(卷五、八四五)、「加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》」(同、八五九)の如く、假字書きの例があつて、ガテニと讀むことに定められている。これによれは、ガテは下二段活と見るべきであるが、古くは四段活であつたかとも思われる。それは古事記中卷に、「宇倍那宇倍那《ウベナウベナ》 岐美麻知賀多爾《キミマチガタニ》 和賀祁勢流《ワガケセル》 意須比嚢須蘇爾《オスヒノスソニ》」(二九)の如く、ガタニの形があり、本集にも、「吾者干可太奴《ワレハカレガタヌ》 相日待爾《アハムヒマツニ》」(卷十、二〇三)、「玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 往褐《ユキガチニ》 寐者不v眠友《イハナサズトモ》 君者通速爲《キミハカヨハセ》」(卷十一、二五五六)の如く、ガタヌ、ガチニの例がある。ガチニは、ガツの名詞形に助詞ニの添つたものと見るのである。この句は、連體句で、次の句の安見兒を修飾している。難は、カタシに慣用される字であるから、この句も、エガタニであるかも知れないが、今しばらく舊訓のままとする。勝の字をあてたものも同樣である。
 安見兒衣多利 ヤスミコエタリ。第二句と同じ句を繰り返している。
【評語】この歌、二句と五句とに同一の句を重ねて、安見兒を得た滿足の情をあらわしている。二句と五句とに同一の句を用いるのは、記紀の歌には多いことであるが、この集には、あまり見受けない。短歌が古く二句と五句とで切れたことを、よくあらわすものとして意義がある。これは歌いものから來た形であり、鎌足が特に采女安見兒を得て、得意になつて歌いあげた?況が髣髴として浮んで來る。なお二句と五句とに同句を繰り返す歌の例は、卷の一の五五の條に掲げた。
 
(341)久米禅師、娉2石川郎女1時歌五首
 
久米の然師の、石川の郎女を娉《つまど》ひし時の歌五首
 
【釋】久米禅師 クメノゼシ。傳未詳。久米は氏であろう。禅師は、名か、法師の義か不明である。卷の五、八二一の歌の下の註文に、笠の沙彌とあるは、滿誓のことで、笠氏の沙彌の義であるから、久米氏の禅師ということもあり得るのである。
 娉石川郎女時 イシカハノイラツメヲツマドヒシトキニ。石川の郎女は傳未詳。郎女は、日本書紀景行天皇紀に、「郎姫、此云2異羅菟刀sイラツメ》1」とあるに準じてイラツメと讀む。イラは、イロハ(母)、イロセ(兄弟)などのイロと同語なのであろう。ツは助詞、メは女性の意。婦人の尊稱と考えられ、男子に對しては郎子《いらつこ》の語が存している。
 
96 み薦《こも》刈る 信濃《しなの》の眞弓 わが引かば、
 うま人《びと》さびて 否《いな》と言はむかも。禅師
 
 水薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》
 宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》 不欲常將v言可聞《イナトイハムカモ》禅師
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の國から出た弓を引くように、わたしが引いたならば、お上品ぶつていやですというでしようね。
【釋】水薦苅 ミコモカル。ミクサカル(仙覺)、ミスズカル(童蒙抄)の諸訓がある。考に薦の字は?の誤りであるという説があるが、誤字説は採用し得ない。薦は本集普通コモと讀む字であり、從つて此處もミコモカルと讀むべきである。信濃の枕詞であつて、同時にその地の實際を語る句になつている。
 信濃乃眞弓 シナノノマユミ。マユミは木の名、ニシキギの屬であるが、この樹は弓を作るに適している。(342)その眞弓を以つて弓の代表としたのである。信濃は弓を多く産した國で、梓弓を貢したことが國史等に見えている。此處に信濃の眞弓を提出しているのは、弓の産地として代表的な地方であり、またその國の弓が實際作者の附近にあつたものでもあろう。
 吾引者 ワガヒカバ。弓を引くことから引き起している。これに自分の方へ靡き寄れと誘うことを懸けている。以上、弓を引くように、あなたを誘つたらと譬喩に言つている。
 宇眞人佐備而 ウマビトサビテ。ウマビトは、身分のよい人をいう。サビは神サブ、男サブ等の語のサブと同じく、そのものの性能を發揮することをいう。ウマビトサビは貴人としての性質をあらわす意である。われわれが申し入れても、貴人としての立場においてことわるだろうという意味になる。
 不欲常將言可聞 イナトイハムカモ。申し入れるのをいやというであろうかの意。
【評語】相聞の歌として、溌剌たる才氣の感じられる巧みな歌であるが、譬喩による序を使用しただけに、し(343)んみりした情味は出ていない。
 
97 み薦《こも》刈《か》る 信濃の眞弓 引かずして
 あなさるわざを 知《し》ると言はなくに。  郎女
 
 三薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 不v引爲而《ヒカズシテ》
 強佐留行事乎《アナサルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》  郎女
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の眞弓をお引きにもならないで、まあそんなしわざを私は存じませんよ。
【釋】三薦苅信濃乃眞弓 ミコモカルシナノノマユミ。前の歌の句を取つている。弓を提示した句。
 不引爲而 ヒカズシテ。引きもしないで、以上、弓を引きもしないでで、自分を妻にと申し入れもなくての意の譬喩になる。
 強佐留行事乎 アナサルワザヲ。
   シヒサルワサヲ(元)
   ――――――――――
   強作留行事乎《シヒサルワサヲ》(西)
   弦作留行事乎《ツルハグルワザヲ》(代初)
   弦作留行事乎《ヲツクルワザヲ》(童)
   弦作留行事乎《ヲハグルワザヲ》(考)
 弦作留行事乎とする系統の説には、弓を引かないで弦を附けるという矛盾がある。また古く強佐留行事乎に作つているによれは、弦作留行事乎とするために二字直さなくてはならない。よつて原文のままに讀むべきである。佐留行事を、サルワザと讀むとすれば、強は、それを限定している副詞なるべく、副詞とすれば、古語拾遺に、強女を於須女と訓しているのによつて、オソ(鈍)とも讀まれるが、オスメのオスとオソと、はたして同語であるかは不安である。よつて今、類聚名義抄、強にアナガチニの訓のあるのによつて、アナとする。(344)アナガチニは、しいて、おしての意で、副詞アナを基礎としてできているのだろう。アナは驚嘆の意をあらわす。ああ、引きもしないでさような業を我は知るとは言わないの意になる。
 知跡言莫君二 シルトイハナクニ。イハナクニは言わないことの義。ニは感動の助詞。
【評語】以上二首、信濃の眞弓を材料として、譬喩として問答を交わしている。前の歌に女の心を見透したようなところがあり、、後の歌にも巧みに言い返した口調がある。巧みなやり取りだが、これもまた譬喩に囚われている。すべりがよいのも、かえつて口先だけのやりとりのような感を與える原因になる。
 
98 梓弓 引かばまにまに よらめども、
 後の心を 知りがてぬかも。 郎女
 
 梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》 郎女
 
【譯】梓弓を引くようにお引きになるならば、お心通りになりましようけれども、將來の心を知りかねることでございます。
【釋】》梓弓 アヅサユミ。引クの枕詞。前から信濃の眞弓を材料にして歌つているので、重ねてこの句を出している。
 引者隨意 ヒカバマニマニ。男が女を誘うことを引クと言つている。弓を引くように男が自分を引くならばその心のままにの意。
 依目友 ヨラメドモ。依らむなれども、御意に從いましようけれどもの意。
 後心乎 ノチノココロヲ。後は將來をいう。今は君の心に從うべきも、君の將來の心を知らずというのである。
 知勝奴鴨 シリガテヌカモ。ガテヌはできないことをあらわす。知ることが、できないことだというのであ(345)る。但し、勝は普通四段活の動詞に使われる字であるから、この文字からは、シリガタヌカモと讀むべきではないかと思われることは、「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)の條に説いた通りであるが、これもしばらく舊訓による。
【評語】女に、男の言に應じたいが、將來を危む心があり、それがこの歌となつている。これは平常に見られる心であり、それが歌を事務的なものにしているのは、やむを得ないところである。
 
99 梓弓 弦緒《つらを》とり著《は》け 引く人は、
 後《のち》の心を 知る人ぞ引く。 禅師
 
 梓弓《アヅサユミ》 都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》 禅師
 
【譯】梓弓に弦を取りつけて引く人は、將來の心を知る人が引くのですよ。
【釋】梓弓 アヅサユミ。この歌では單に枕詞でなく、歌全體に關する譬喩として使つている。
 都良弦取波氣 ツラヲトリハケ。ツラヲは弦緒で、弓弦の緒である。トリハケは、弓に弦をつけることを言う。トリは接頭語。
 引人者 ヒクヒトは。自分のことを言つている。
 後心乎知人曾引 ノチノココロヲシルヒトゾヒク。他の人にあらず、將來を知る人が引くというのである。
【評語】前の歌に後の心を知りかねると言つたので、それを辯解している。譬喩に弓を使つたのは前からの縁であるが、すこしそれにこだわり過ぎたような感がある。
 以上は弓を引くということを譬喩に使つているが、かような譬喩は、他にも見えている。すなわち次の如くである。
  陸奧《みちのく》の吾田多良《あだたら》眞弓|絃《つる》はけて引かばか人の吾《わ》を言成さむ(卷七、一三二九)
(346)  梓弓引きみゆるべみ來ずは來ず來ばぞそをなぞ來ずは來ば其《そ》を(卷十一、二六四〇)
  梓弓|弓束《ゆづか》卷き易《か》へ中見さし更に引くとも君がまにまに(同、二八三〇)
 
100 東人《あづまびと》の 荷前《のさき》の篋《はこ》の 荷の緒《を》にも、
 妹が心に 乘りにけるかも。 禅師
 
 東人之《アヅマビトノ》 荷向篋乃《ノサキノハコノ》 荷之緒尓毛《ニノヲニモ》
 妹《イモガ・イモハ》情尓《ココロニ》 乘尓家留香聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
【譯】東人の貢物を入れた箱の荷の緒のようにも、わたしはあなたの心に乘つたことです。
【釋】東人之 アヅマビトノ。東人は、東國の人のこと。特に遠い處から馬に貢物の荷をつけて來る人の感じがある。
 荷向篋乃 ノサキノハコノ。荷前《のさき》は、馬や船に積んだ荷物の先に乘せるものの義で、貢物のお初穗をいう。祈年祭の祝詞に「荷前は皇大神《すめおほかみ》の御前に、横山の如うち積み置きて、殘りをば平けく聞しめさむ」などある。荷前の箱は、荷前の貢物を納めて運送して來る箱をいう。
 荷之緒尓毛 ニノヲニモ。荷前の荷物を馬に附ける荷の緒で、箱に乘るので、妹が心に乘るの序になつている。
 妹情尓乘尓家留香聞 イモガココロニノリニケルカモ。妹情尓の句は、イモガココロニ(元)、イモハココロニ(考)の兩訓がある。心ニノルは、心に思う對象となることをいうので、殊に思われるということが、普通でないとして、妹が自分の心に乘つた意として、イモハココロニの訓が行われている。この二句はこのほかになお五首に使われているが、イモガココロニの部分の文字は、殊心四例、妹情一例で、いずれも助詞を補讀しなくてはならない。助詞ハは、補讀を要する場合がすくなく、妹心、妹情とある文字は、漢文ふうには、妹が心、妹の心、と解するのが普通であるから、今、イモがココロニとする。心ニ乘ルは、心に思われる、心に(347)問題になるの意。「あぜせろと心に乘りて」(卷十四、三五一七)は、どうしようとてか、氣にかかつてくらいの意である。妹が自分の心に乘るというので、心に思われることをいう。相手が自分の心に乘るというので、全面的に思うことをあらわした句である。イモガココロニと讀めば、妹に思われることを誇る意味になる。
【評語】序歌であるが、この二人の間に東人の荷前の箱は何か縁故があるであろう。前に信濃の眞弓といい、今また東人の荷前といい、東國に縁故のあるものと考えられる。妹ガ心ニ乘リニケルカモは、しばしば用いられる句で、譬喩を變えては詠まれている。一種の名句で、妹にとやかく思われ、問題にされることを滿足している句として、流行したのであろう。人麻呂歌集にもあり、どれが本歌であるかわからない。
【參考】心に乘る。
  ももしきの大宮人は多かれど心に乘りて思ほゆる妹(卷四、六九一)
  春されはしだり柳のとををにも妹が心に乘りにけるかも(卷十、一八九六)
  宇治川の瀬々の敷浪しくしくに妹が心に乘りにけるかも(卷十一、二四二七)
  大船に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乘りにけるかも(同、二七四八)
  漁する海人の楫の音ゆくらかに妹が心に乘りにけるかも(卷十二、三一七四)
  (上略)思ひ妻心に乘りて、高山の嶺のたをりに(下略)(卷十三、三二七八)
  白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乘りてここば悲しけ(卷十四、三五一七)
 
大伴宿称、娉2巨勢郎女1時歌一首【大伴宿称、諱曰2安麻呂1也。難波朝右大臣大紫大伴長コ卿之第六子、平城朝任2大納言兼大將軍1薨也。】
 
大伴の宿祢の、巨勢の郎女を娉《つまど》ひし時の歌一首【大伴の宿禰は、諱を安麻呂と曰ふ。難波の朝の右の大臣大柴大伴の長コの卿の第六子にして、平城の朝に、大納言兼大將軍に任けられて薨りき。】
 
【釋】大伴宿祢 オホトモノスクネ。下の註にあるように、大伴の安麻呂である。安麻呂は長コの第六子で、(348)大納言兼大將軍に至り、和銅七年五月に薨じた。旅人の父である。 巨勢郎女 コセノイラツメ。次の歌の題詞の註に「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。巨勢の人(日本書紀に巨勢の比等)の女である。下文一二六の歌の題詞の下の註に、大伴の田主の母は巨勢の郎女であると見えている。旅人の母については所傳が無いが、やはり巨勢の郎女であるかも知れない。
 難波朝 ナニハノミカドノ。孝コ天皇の御代をいう。天皇は難波の長柄の豐崎の宮においでになつた。
 大紫 ダイシ。位冠の名。孝コ天皇大化五年の制によれば、織、繍、紫、錦、山、乙、建の七種があつて、それぞれ大小の二階があり、そのうち錦山乙の三種には、またそれぞれ上中下があつて、併わせて十九階になつている。大紫は上から五番目の位である。
 大伴長コ卿 オホトモノナガトコノマヘツギミ。咋子《くいこ》の子、字を馬飼という。
 平城朝 ナラノミカドニ。平城の朝廷で、元明天皇以下七代の御代の謂であるが、ここは元明天皇の御代である。
 
101 玉葛《たまかづら》 實《み》ならぬ樹には
 ちはやぶる 神ぞ著《つ》くといふ。
 成《な》らぬ 樹ごとに
 
 玉葛《タマカヅラ》 實不v成樹尓波《ミナラヌキニハ》
 千磐破《チハヤブル》 神曾著《カミゾツク》常云《トイフ・トフ》
 不v成樹別尓《ナラヌキゴトニ》
 
【譯】實の成らない樹には、おそろしい神がつくということです。實の成らない樹毎に。
【釋】玉葛 タマカヅラ。枕詞。玉は美稱であるが、玉葛という以上は玉のような實が成る葛とするのが妥當である。そこで次の句のミ一字に懸るのである。
 實不成樹尓波 ミナラヌキニハ。實の成らない樹にはで、男に嫁せぬ女に譬えている。「山菅乃《ヤマスゲノ》 實不v成事(349)乎《ミナラヌコトヲ》」(卷四、五六四)く これは眞實の無いことをである。
 千磐破 チハヤブル。枕詞。日本書紀に、殘賊強暴をチハヤブルと訓している。猛威をふるう義であつて、神を恐怖する意から出た語である。この歌でも、神を恐るべきものとして、この詞を冠していると見られる。しかし、後には、ただ機械的に神を修飾する語になつている。本集では、知波夜夫流、知波夜布留、千羽八振、千早振、千速振、千石破、千葉破、千磐破、血速舊など書いている。ほかにチハヤビトの語もあつて、チハヤで一つの思想をあらわし、チは靈威、ハヤは勇猛の意の語で、ブルは、その性質のあらわれる意に動詞化するものと思われる。それを、チハに千石、ヤブルに破の字をあてた系統の字面は、たくさんの岩石を破壞するといぅ字面に興味を感じて通用語原となつているのだろう。なお卷の二、一九九など枕詞でない用法もある。
 神曾著常云 カミゾツクトイフ。實の成らない樹には恐るべき神がつきものするの義である。トイフは、トフともいう。この句で文が切れる。
 不成樹別尓 ナラヌキゴトニ。實の成らぬ樹毎にというべきを、繰り返して言うので實を略している。
【評語】實の成らない樹には神の降りつくという信仰があつた。それで相手に向かつて男と結婚しないような女には恐ろしい神樣がつくぞと言つておどかしている。譬喩の歌であるが變つた材料を用いているところがおもしろいのである。最後の句に、成らない樹にはかならずの意を含めているのも力強い表現である。實の成るということに戀の成るという意をかけて言う例は多い。
 
巨勢郎女、報贈歌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
 
巨勢の郎女の、報へ贈れる歌一首【すなはち近江の朝の大納言巨勢の人の卿の女なり。】
 
(350)【釋】巨勢郎女 コセノイラツメ。前の歌の題詞に見えている。
 報贈歌 コタヘオクレルウタ。大伴の安麻呂の歌に應じて贈つたのである。
 近江朝 アフミノミカドノ。天智天皇の御代をいう。
 巨勢人 コセノヒト。名は、日本書紀に比等ともある。大納言に至り、壬申の乳に、配流せられた。
 
102 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは
 誰《た》が戀ならめ。
 わが戀《こ》ひ念《も》ふを。
 
 玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》
 誰戀尓有目《タガコヒナラメ》
 吾孤悲念乎《ワガコヒモフヲ・ワハコヒオモフヲ》
 
【譯】玉葛のように花ばかり咲いて實の成らないのは、どなたの戀でもありません、あなたの戀です。わたくしは戀しく思つておりますのに。
【釋】玉葛 タマカヅラ。ここでも枕詞に使つている。但しその實の成らないのを取り立てて言つている。
 花耳開而 ハナノミサキテ。先方が言のみ巧みであることを諷している。
 不成有者 ナラザルハ。實の成らないのと戀の實意の無いのとをかけている。
 誰戀尓有目 タガコヒナラメ。コソが無くても誰がという語に對してメと結んで反語になる。誰の戀でもない。あなたの戀だ。「不v所v見十方《ミエズズトモ》 熟不v戀有米《タレコヒザラメ》」(卷三、三九三)などの例がある。
 吾孤悲念乎 ワガコヒモフヲ。轉じて自分のことを歌つている。ヲは感動の助詞で、それだのにの意を寓している。孤悲の文字は、字音假字であるが、集中戀の語の表示に慣用されている。吾は、ワハとも讀まれるが、ハに當る字がないからワガとする。
【評語】前の歌に對して同じ玉葛を使つて答としている。内容をあらわすのに一杯であつて情趣には乏しい歌(351)である。答歌の常としてやむを得ないところであろう。すべて贈答の歌は贈る歌の方が自由に題材を選擇することができるので、有利な事情に立つている。
 
明日香清御原宮御宇天皇代【天渟中原營眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
【釋】明日香清御原宮御宇天皇 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、二二題詞)。天武天皇の御代。
  天渟中原營眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
天皇、賜2藤原夫人1御歌一首
 
天皇の、藤原の夫人に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天武天皇。
 藤原夫人 フヂハラノオホトジ。夫人は、令制に「妃二員、夫人三員、嬪四員」とあつて、後宮に奉仕する職である。字音ではブニンと讀む。オホトジと讀むのは、卷の八、藤原の夫人(一四六五題)の自註に、大原の大刀自というとあるによる。刀自は主婦の稱。藤原の夫人は、日本書紀天武天皇紀に、「夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五首重娘生2新田部皇子1」とあり、いずれも藤原の鎌足の女である。そのいずれかというに、卷の八夏の雜歌に、藤原の夫人に註して、「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1。即新田部皇子之母也」とあり、新田部の皇子の母なる五百重娘を大原の大刀自と稱しているので、その方であろうと考えられる。
 
(352)103 わが里に 大雪降れり。
 大原の 古りにし里に
 降らまくは後。
 
 吾里尓《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》
 大原乃《オホハラノ》 古尓之郷尓《フリニシサトニ》
 落卷者後《フラマクハノチ》
 
【譯】わたしの住んでいる里には、大雪が降つている。あなたの住んでいる、大原の古くなつた里に、降ろうとするのはこれから後ですよ。
【釋】吾里尓 ワガサトニ。ワガサトは、皇居である明日香の清御原の地をさして仰せられている。
 大雪落有 オホユキフレリ。句切。
 大原乃 オホハラノ。大原は、奈良縣高市郡飛鳥村小原のうちで、今も大原の字が殘つているところ。ここは、鎌足の生地で、その邸址がある。そこに住まれて居つたのであろう。
 古尓之郷尓 フリニシサトニ。フリニシサトは、人の住むこともすくなくなつて荒廢した里をいう。「鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》 念友《オモヘドモ》」(卷四、七七五)、「人毛無《ヒトモナキ》 古郷爾《フリニシサトニ》 有人乎《アルヒトヲ》」(卷十一、二五六〇)など使用されている。ここは夫人の住んでいる里に對してたわむれに惡口を言われたのである。(353)「大原《オホハラノ》 古郷《フリニシサトニ》 妹置《イモヲオキテ》 吾稻金津《ワレイネカネツ》 夢所v見乞《イメニミエコソ》」(卷十一、二五八七)
 落卷者後 フラマクハノチ。フラマクは、降らむこと。雪の降ることは後であろうの意。
【評語】雪を賞美して、たわむれにそちらにはまだ降るまいと仰せられている。大雪、大原とオホの音を重ね、また降レリ、古リニシ、降ラマクとフルの音を重ねて、これによつて歌品をあかるくしている。吟誦のあいだから生まれ出た形態の作であつて、よく内容と表現とが一致している。天皇の御製には、「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」(卷一、二七)の如きもあつて、それも同音の重疊の點に特色を有している。
 
藤原夫人、奉v和歌一首
 
藤原の夫人の、和へまつれる歌一首
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。天皇の賜える歌に對して唱和した歌である。
 
104 わが岡の ?神《おかみ》に言ひて
 降らしむる、
 雪の推《くだけ》し、其處《そこ》に散りけむ。
 
 吾岡之《ワガヲカノ》 於可美尓言而《オカミニイヒテ》
 令v落《フラシムル・フラシメシ》
 雪之推之《ユキノクダケシ》 彼所尓塵家武《ソコニチリケム》
 
【譯】わたくしの住んでいる岡の、水を司る神に申し附けて、降らせます雪の、推《くだ》けたのが、貴方樣の里に散つたことでございましよう。
【釋】吾岡之 ワガヲカノ。わが岡は夫人の住んでいる大原の里をいう。この地は丘陵の地形である。
 於可美尓言而 オカミニイヒテ。 オカミは、日本書紀卷の一伊弉諾の尊が火神を斬る條に「從2劍頭1垂血、(354)激越爲v神、號曰2闇?《クラヲカミ》1」とあり、その自註に、「?、此云2於箇美1、音力丁反」とある。この字は、龍神の義である。なお古事記に闇淤加美《くらおかみ》の神があり、豐後國風土記には蛇?とあつて、於箇美《オカミ》と註している。國語のオカミも、蛇體の神であつて、水を掌り、雨雪をも掌ると信じられていたのであろう。オカミは低級の神で、岡の地主神ぐらいの感であつたと思われる。水の神であるから、その神に申して、雪を降らしめるというのである。
 令落 フラシムル。シムルは使役の助動詞、連體形。フラシメシとも讀まれているが、明日香と大原とは近接地で、雪は今降りつつあるのだろう。
 雪之推之 ユキノクダケシ。クダケは破片の意の體言。シは強意の助詞。
 彼所尓塵家武 ソコニチリケム。ソコは清御原の宮をさす。大雪降レリと仰せられたが、それはこちらで降らせる雪の破片が散つたのでしようというのである。
【評語】天皇の賜歌に對して反撥的に歌つている。これは相聞の歌が、歌の懸け合いから發達したものであつて、才を爭う氣分が傳わつたものである。そこに贈答問答の歌のおもしろさがある。しかしやはり贈つた歌の方が、歌境を選定する自由があり、歌品も大きくすぐれている。答歌は、その與えられた範圍内で詠むので、才氣のほどは窺われるが、理くつつぽくなつているのはやむを得ない所である。
 
藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代【天皇謚曰2持統天皇1、元年丁亥十一年讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1也。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし高天の原廣野姫の天皇の代【天皇謚を持統天皇と曰《まを》す。元年は丁亥にして十一年に位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
【釋】藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシタカマノハラヒロノヒメノスメラミコトノミヨ。高天の原廣野姫の天皇は、既出(卷一、二八題詞)。持統天皇の國風の謚號である。宮號(355)御宇の下に御稱號を加えるのは、これも卷の一、二二の歌の前に、「明日香清御原宮天武天皇代」の如き形があり、ここは更に御宇の二字が加わつている。これは違例ではあるが、文證の無いものではなく、統制の完全でない萬葉集としては、これを誤りとするわけにはゆかない。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。天武天皇の皇孫、草壁の皇子の御子。後に文武天皇と申す。
 
大津皇子、竊下2於伊勢神宮1、上來時、大伯皇女御作歌二首
 
大津《おほつ》の皇子《みこ》の、竊に伊勢の神宮に下《くだ》りて、上り來ましし時、大伯《おほく》の皇女《ひめみこ》の作りませる歌二首
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。天智天皇の皇女の太田の皇女と鵜野の讃良《さらら》の皇女とは、竝に天武天皇の後宮にはいつた。鵜野の讃良の皇女は皇后に立ち、天皇の崩後、帝位につかれた。すなわち持統天皇である。太田の皇女は、大伯の皇女と大津の皇子とを生まれたが、早く亡くなられた。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じて、大津の皇子は、竊に姉の大伯の皇女が齋宮として赴いておられた伊勢の神宮に下つたが、京に歸ると、十月三日謀反の罪によつて殺された。時に年二十四。妃山邊の皇女、被髪徒跣して難に赴いて殉死した。皇子は文武の才幹があり、この集に作歌があるほか、懷風藻に詩を留めているが、刑戮にあつて死せられたのは惜しむべきである。
 伊勢神宮 イセノカムミヤ。三重縣伊勢市に鎭座する皇大神宮。
 大伯皇女 オホクノヒメミコ。天武天皇の皇女。また大來の皇女とも書く。日本書紀齊明天皇紀に「七年春正月丁酉朔、甲辰、御船到2於大伯海1時、大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。この大伯は、岡山縣の邑久《おおく》である。皇女は、天武天皇の二年に十四歳で、伊勢の皇大神宮に奉仕する齊宮となり、翌年十月伊勢に下り、持統天皇の朱鳥元年十一月に解任して京に還つた。この歌は、伊勢にあつて弟の大津の皇子の京(356)に還るのを見送つて詠まれた歌である。
 
105 わが夫子《せこ》を 大和へ遣《や》ると、
 さ夜《よ》更《ふ》けて
 曉《あかとき》露に わが立ち濡《ぬ》れし。
 
 吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》
 佐夜深而《サヨフケテ》
 鷄鳴露尓《アカトキツユニ》 吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》
 
【譯】わたくしの弟を京へ歸し遣るとして、夜が更けて明るくなろうとする頃の露に、わたくしは立つていて濡れたことです。
【釋】吾勢枯乎 ワガセコヲ。セは男子に對して親しみいう語。コは親愛をあらわす語。ここは、弟に對して用いられている。
 倭邊遣登 ヤマトヘヤルト。ヤマトは、京のある大和の國。ヤルは、自分のものを放して出し遣る意。トは、としての意。
 佐夜深而 サヨフケテ。サは接頭語。フケテは深くして。夜の深きうちに伊勢を出發されるのである。立チ濡レシを修飾している。
 鷄鳴露尓 アカトキツユニ。アカトキは明時の義で、夜の明けゆく頃をいう。鷄鳴は、漢籍にて未明の時をいう語。それを借りてアカトキに當てている。ここはアカトキツユを一の熟語としている。「高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ノベノアキハギ》 比日之《コノゴロノ》 曉露爾《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》」(卷八、一六〇五)など使用されている。
 吾立所霑之 ワガタチヌレシ。上に、ゾヤカ等の係助詞無くして連體形に留めることは、古歌に往々にして見られるところである。これは、立ち霑れしことぞのような意味であつて、しかも既にそのようにいう必要の無い場合に使用される。「阿斯波良能《アシハラノ》 志祁去岐袁夜邇《シケコキヲヤニ》 須賀多々美《スガタタミ》 伊夜佐夜斯岐立《イヤサヤシキテ》 和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》」(古(357)事記中卷)、「大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》」(卷二、一〇九)など、この語法である。
【評語】弟を思われる眞の情がよく描出されている。集中、人を待つて露に濡れたという歌は多いが、見送つて濡れたことを歌つたものは稀である。夜深く皇子の出發されるのが、世に隱れるためであり、別れては再會を期しがたい危さが、この歌の生命となつたものである。
 
106 二人行けど
 行き過ぎがたき 秋山を、
 いかにか君が ひとり越ゆらむ。
 
 二人行杼《フタリユケド》
 去過難寸《ユキスギガタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》、
 如何君之《イカニカキミガ》 獨《ヒトリ》越武《コユラム・コエナム》。
 
【譯】二人で行つてもさびしくて行き過ぎかねる秋山を、弟は、どのようにして越えていることでしよう。
【釋】二人行杼 フタリユケド。二人して行けどもの意で、過去の體驗を擧げていう所である。この二人は、一人に對していうので、かならずしも二の實敷に拘泥すべきでないのは勿論である。
 去過難寸 ユキスギガタキ。秋山の荒涼として越えるのが、おそろしいのをいう。
 如何君之 イカニカキミガ。イカニカは、大津の皇子の越える?態を、どのようにかと疑つている。君は大津の皇子。
 獨越武 ヒトリコユラム。ヒニトリコユラム(舊訓)として現在の山行の?を推量する意に讀む説と、ヒトリコエナムと、これから越えようとする樣を思いやる意に讀む説(考)とある。前の歌に、弟の皇子の出發を見送つて、影が見えなくなるまでも立ちつくして、曉の露に濡れたとあるに、時間の經過があり、今これに依つて、コユラムとする。
(358)【評語】皇女の御身として、秋山のものおそろしさをいたく感じておられる。それを最愛の弟が、いかにして獨り越えておられるかと案じて詠まれた御歌である。情味のこもつた歌というべきである。この二首、連作として、并せて讀むと、相互におのずから關連する所があつて、一層感銘を深くする。
 
大津皇子、贈2石川郎女1御歌一首
 
大津の皇子の、石川の郎女に贈れる御歌一首
 
【釋】石川郎女 イシカハノイラツメ。傳未詳。既出九六の題詞にある久米の禅師の歌を贈つた石川の郎女とは別人であろうか。下の、一〇九、一二九の石川の女郎とは同人なるべく、さすれば、一一〇、一二六等の石川の女郎とも同人であろうと考えられる。
 
107 あしひきの 山の雫に、
 妹待つと、吾《われ》立ち沾《ぬ》れぬ。
 山の雫に。
 
 足日木乃《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 妹待跡《イモマツト》 吾立所v沾《ワレタチヌレヌ》
 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
【譯】この山の樹々のしずくに、あなたを待つとしてわたしは立ち濡れた。この山の樹々のしずくに。
【釋】足日木乃 アシヒキノ。古事記、日本書紀にも見える枕詞で、山に冠して使われているが、語義は不明である。文字は、古事記に、阿志比紀能、日本書紀に、阿資臂紀能、脚日木、萬葉集に、アシヒキについて、安之比奇、安之比紀、安志比寄、安志比紀、安思比奇、安思必寄、阿之比奇、足日木、足比木、足比奇、足檜木、足氷木、足引、足曳、足檜、足病、惡氷木、蘆檜木、葦引の字を使つている。ヒはいずれも甲類の清音、キは、紀、木、奇、寄は乙類、引、曳、病の場合のキは、四段動詞引クの連用形と見られるから甲類である。(359)ノは、助詞として誤りなかるべく、キは古きについて乙類とすれば、木、城などの語が當てられる。しかし城の字を使つたものはないから、やはり木として解すべきだろうか。アシは足か。ヒは、足を用言化する語尾か、不明である。後に足引とする通用語原意識を生じたようである。
 山之四付二 ヤマノシヅクニ。樹々から滴り落ちる露である。
 妹待跡 イモマツト。イモは石川の郎女をさす。トは、としての意。
 吾立所沾 ワレタチヌレヌ。句切。
 山之四附二 ヤマノシヅクニ。二句を繰り返している。
【評語】郎女の來るのを待つて、山の樹々の雫に濡れたというだけの歌であるが、初句に枕詞を使つて、大きく言つて來ている。いかにも、しつとり濡れた氣分が出ている。五句に、上の句を繰り返しているのも確である。枕詞を使つているが、しかも隙間のない歌ということができよう。
 
石川郎女、奉v和歌一首
 
石川の郎女の、和へまつれる歌一首
 
108 吾《わ》を待つと 君が沾《ぬ》れけむ
 あしひきの 山の雫に、
 ならましものを。
 
 吾乎待跡《ワヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》
 足日木能《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
【譯】皇子樣は、わたくしをお待ちくださるとて山の樹々の雫にお濡れになつたそうですが、わたくしは、その樹々の雫になりたいものでございます。
(360)【釋】君之沾計武 キミガヌレケム。ケムは過去推量の助動詞のその連體形。
 成益物乎 ナラマシモノヲ。なりたいが、なり得ない心である。
【評語】内容はやはり簡單であるが、平易に敍して自分の思う心をあらわしている。平易で趣のある歌というべきである。
 
大津皇子、竊婚2石川女郎1時、津守連通、占2露其事1、皇子御作歌一首
 v
 
大津の皇子の、竊に石川の女郎に婚《あ》ひし時に、津守《つもり》の連《むらじ》通《とほる》、その事を占《うら》へ露《あらは》ししかば、皇子の作りませる御歌一首 【いまだ詳ならず。】
 
【釋】竊婚石川女郎時 ミソカニイシカハノヲミナニアヒシトキニ。石川の女郎は、前二首の石川の郎女と同人であろう。竊婚は、その婚すべくもなかつた人であることを語る。いかなる境遇にあつたとも知られない。
 津守連通 ツモリノムラジトホル。陰陽道をもつて知られた人である。養老五年正月には陰陽の道によつて賞賜を受け、七年正月には從五位の上を授けられている。藤原の武智麻呂の傳に、當時の人物を列記した中に、陰陽には津守の連通とある。陰陽道は、陰陽の二氣のありさまをしらべる學問で、これによつて事象の眞相を知り、併わせて將來の動きを豫測しようとする。そこで、占いがおもな職掌になる。新撰姓氏録に、津守氏は、天の香《かぐ》山の命の後であるというが、天の香山の命は、占いの神である。
 占露 ウラヘアラハシシカバ。皇子の密婚のことを、占いあらわしたのである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が明白でないというのかわからない。竊婚云々の事情であろうか。
 
(361)109 大|船《ぶね》の 津守の占《うら》に 告《の》らむとは、
 正《まさ》しに知りて わが二人|宿《ね》し。
 
 大船之《オホブネノ》 津守之占尓《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》
 益爲尓知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
【譯】大きい船の泊る、その津守の占ないに出ようとは、まさしく知つてわたしは二人で寢たのだ。
【釋】大船之 オホブネノ。津守の枕詞であるが、この句があつて全體の調子を巧みに救つている。内容がかなりきわどいことであるに係わらず、歌らしさを與える所以である。
 津守之占尓 ツモリノウラニ。津守の通の占にの意。この占は、多分龜甲を燒く占法であろう。津守氏の祖神と傳えられる天の香山の命は、卜庭《うらば》の神とされている。
 將告登波 ノラムトハ。占に出ることをノルという。告はツゲとも讀めるが、「夕卜爾毛《ユフケニモ》 占爾毛告有《ウラニモノレル》 今夜谷《コヨヒダニ》 不v來君乎《キマサヌキミヲ》 何時將v待《イツトカマタム》」(卷十一、二六一三)の歌の告有は、ノレルと讀むべく、占については、ノルというもののようである。但し嘉暦傳承本には、この告有を吉有に作つているが、ノレルの方が諧調である。津守の通の占法により、我等二人の關係があらわれようとはの意。日本書紀允恭天皇の二十四年六月の條に、「夏六月、御膳羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1、蓋親々相?乎」とあり、この時にもかような類の事でもあつたのであろう。
 益爲尓知而 マサシニシソテ。マサシニは、正にの意の副詞であろう。シは、タタシ(縱)、ヨコシ(横)、ヒムカシ(東)などのシで、方向の意をあらわす語であろうか。その他諸説があるが從いがたい。占いに出ることは、あらかじめ知つていてである。
 我二人宿之 ワガフタリネシ。ゾヤカの係助詞無くして、ネシと連體形に留めている。上記「吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》」(卷二、一〇五)參照。
(362)【評語】人に知られて驚くような戀では無いという、強い意志があらわれている。大膽不敵の歌で、才氣の溢れるばかりな、人を人とも思わない所の性格がよく窺われる。終りを善くしなかつた所以もこの邊にもとづくものがあるのであろう。
 
日竝皇子尊、贈2賜石川女郎1御歌一首女郎字曰2大名兒1
 
日竝みし皇子の尊の、石川の女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名兒と曰へり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコトノ。既出「曰雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》」(卷一、四九)。天武天皇の皇子、草壁の皇子。天武天皇の十年二月、皇太子となり、持統天皇の三年四月薨じた。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。前に出た大津の皇子の相聞の歌の對手の石川の郎女と同人であろうと考えられる。但し彼には郎女とも女郎ともあつて、これには女郎とある。本集では郎女と女郎とは書き分けている。大伴の坂上の郎女、巨勢の郎女、藤原の郎女は、すべて郎女であり、安倍の女郎、石川の賀係の女郎、大神の女郎、笠の女郎、紀の女郎、紀の少鹿の女郎、久米の女郎、中臣の女郎、平群氏の女郎は、すべて女郎である。ただ大伴の郎女に別に大伴の女郎があり、石川の郎女に別に石川の女郎がある。大伴の郎女については、大伴の旅人の妻は大伴の郎女であるが、卷の四の五一九の歌の題詞には大伴の女郎があり、これに註して「今城王之母也。今城王後賜2大原眞人氏1也」とある。これは大伴の郎女とは、別人のようである。さて郎女と書いてあるのは、身分のよい人に敬意を表して書いているようで、イラツメと讀むのが妥當と考えられる。これに對して女郎の文字は、女子であることを示すだけで、別にたいして敬意を拂つてはいないようである。その用法を見ると、「右四月五日、從2留女之女郎1所v送也」(卷十九、四一八四左註)、「右爲v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也。女郎者即大伴家持之妹」(同、四一九八左註)とあるは、いずれも大伴の家持の妹であり、その文は(363)家持の手記を資料としていると考えられる。かくの如く、郎女と女郎とには區別があり、郎女をイラツメと讀むべくば、女郎はこれと區別して讀むことを要する。依つて今ヲミナの訓を定めた次第である。但しこの石川の女郎の場合は、石川の都女と同人とすれば、特別の例として、資料のままに掲記したためにかような形を採るに至つたものであろう。
 女郎字曰大名兒也 ヲミナ、ナヲオホナコトイヘリ。字は世に稱する所の名である。歌詞に、大名兒とあるので、この註を加えて誤解無きを期したのであろう。
 
110 大名兒《おほなこ》、
 彼方野邊《をちかたのべ》に 刈る草の、
 束《つか》の間《あひだ》も
 われ忘れめや。
 
 大名兒《オホナコ》
 彼方野邊尓《ヲチカタノベニ》 刈草乃《カルクサノ》
 束之間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
【譯】大名兒よ、川むこうの野邊で刈る草のように、つかのまもわたしは忘れはしないぞ。
【釋】大名兒 オホナコ。オホナコガ(元)、オホナコヲ(仙)、オホナコ(代精)。女郎の名をさして大名兒よと呼びかける語法である。
 彼方野邊尓苅草乃 ヲチカタノベニカルクサノ。ツカと言わんがための序である。ヲチカタは、延喜式神名に彼方にヲチカタと訓している。長谷川源司君の説(青垣)に、地名だろうとする説がある。地名として知られているのは、京都府久世郡宇治にあつて、宇治の彼方神社がある。この他は、宇治川の右岸で、大和の方から行くと宇治川の對岸になる。日本書紀神功皇后紀に、武内の宿禰が山背から宇治川の北岸に陣したのに對して、忍熊の王の軍の熊の凝《こり》が歌つた歌に「彼方のあらら松原、松原に渡り行きて」云々と歌つたのは、川を渡つて川向こうに行こうとする意であるが、この彼方は、宇治の彼方とされている。また大阪府南河内郡に彼方(364)の地があり、これは石川の右岸で、國府の方から行けは、川の對岸である。本集においては「こもりくの泊瀬の川の、乎知可多に妹らは立たし、この方に吾は立ちて」(卷十三、三二九九或本)は、あきらかに川の對岸であり、「今だにもにほひに行かな、越方人に」(卷十、二〇一四)は、七夕の歌であつて、ヲチカタ人は、對岸の人をさしている。「彼方の二綾裏沓」(卷十六、三七九一)は地名とも解せられるが、「彼方の赤土《はにふ》の小屋に小雨ふり袖さへ濡れぬ。身にそへ、吾妹」(卷十一、二六八三)は、地名とも解しにくい。元來この語は、ヲチとカタとに分解され、ヲチは、遠稱の指示代名詞とされるが、コチ、アチ、ソチなどは、コレ、ソレ、アレなどともなるのに、ヲチは、ヲレともいわないから、別系統の語と見られる。川の對岸をヲチカタというより見れば、ヲチは、多分もとに返る意の動詞ヲツの連用形だろう。川を渡つて戻つてくべき所、すなわちヲチカタであつて、地名の意味もここに出るもののようである。諸國に多い地名のヲチ(越智)も同樣の地形から出るもののようである。この歌の彼方野邊も、宇治あたりの地名を出すというのは、唐突であるから、普通名詞として、川向こうの野邊とすべきである。その野邊で刈る草ので、その草の束とつづく。
 束之間毛 ツカノアヒダモ。ごくわずかのま。古代の寸法を計る單位に、尋《ひろ》と束《つか》とがある。ヒロは、人が左右に手をひろげただけの寸法で、大きな間隔を計る單位として用い、ツカは、人がつかんだ幅を言うので、短いものを計る單位に用いる。
【評語】大名兒と呼びかけて、途中に序の詞を入れた行き方が、歌の調子を整えて、趣深くしている。但し、途中に序を入れたために、巧みになり過ぎて、切に思うという感じはやや遠くなつている。
 
幸2于吉野宮1時、弓削皇子、贈2與額田王1歌一首
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、弓削《ゆげ》の皇子の、額田《ぬかだ》の王に贈與《おく》りたまへる歌一首
 
(365)【釋】幸于吉野宮時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。持統天皇の吉野の宮への行幸は數十囘あり、そのいずれの時なるかを知らない。但し歌中にホトトギスが詠まれており、初夏の頃であつたことが知られる。
 弓削皇子 ユゲノミコ。天武天皇の第六皇子。文武天皇の三年七月薨。
 額田王 ヌカダノオホキミ。卷の一以來作歌の見えた方。この三首が、その名の見える最後である。この女王は、天武天皇に召された方であるから、弓削の皇子は、それを思つて歌を贈與されたのである。
 
111 古《いにしへ》に 戀《こ》ふる鳥かも、
 弓弦葉《ゆづるは》の 御井の上より
 鳴きわたり行く。
 
 古尓《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》
 弓弦葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》
 鳴濟遊久《ナキワタリユク》
 
【譯】昔を慕つている鳥でしようか、この吉野山中の弓弦葉の御井の上を通つて鳥が鳴いて渡つて行く。
【釋】古尓 イニシヘニ。イニシヘは、この歌を贈る先方の額田の王の往時で、かつてこの吉野に來た時の事を想起している。本集では、動詞戀フは、助詞ニを受けるのが常型であり、ここもニを受けている。戀フの動作の目標をこれによつて表示するのである。
 戀流鳥鴨 コフルトリカモ。鳥は、何の鳥とも説明されていない。次の歌にいう所が當つているとすればホトトギスである。鳥の鳴き渡るのを、古に戀うて鳴くかと推量している。カモは感動の助詞であるが、係りにもなつている。
 弓弦葉乃三井能上從 ユヅルハノミヰノウヘヨリ。ユヅルハは、タカトウダイ科の常緑喬木。今普通にユズリハという。ミヰは井を稱えていう。御井の義。井そのものの靈威を感じていう。ユズリハの木のある御井で、吉野の宮の用水を湛えているのであろう。その御井の上を通つて鳥が鳴いて行くのである。
(366) 鳴濟遊久 ナキワタリユク。鳴いて飛んで行くのである。
【評語】古ニ戀フル鳥カと感嘆し、三句以下、その鳥の鳴いてゆくことを具體的に描いている。よい歌である。昔、額田の王は、天武天皇との關係も淺からず、この吉野の宮などにもしばしばお出でになつたのであろう。弓削の皇子は、今、この他に遊んで、靜に老いを養つている額田の王を思つて、鳥が昔に戀うて鳴いて渡つているのであろうかと歌つて贈られた。情を鳥に託して歌つているが、勿論、昔を思い出しておられるのは弓削の皇子である。それを鳥に託して歌われたのである。
 
額田王、奉v和歌一首2倭京1進入
 
額田の王の、和へまつれる歌一首【倭の京より進《たてまつ》れる】
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。前掲の弓削の皇子の御歌に對して唱和應答した歌である。
 從倭京進入 ヤマトノミヤコヨリタテマツレル。持統天皇の八年十二月に、明日香の清御原の宮から藤原の宮に遷居されたので、この歌は、その前後、いずれであるか不明である。よつて額田の王が、當時大和の京に居られたことは知られるが、それが何の地であつたかは不明である。大津の皇子、草壁の皇子關係の歌に次いで配列されているによれば、まだ明日香の清御原の宮に皇居のあつた頃とも考えられる。進入は、進上の意の敬語である。
 
112 古《いにしへ》に 戀《こ》ふらむ鳥《とり》は、ほととぎす、
 けだしや鳴きし。
 わが念《おも》へる如《ごと》。
 
 古尓戀良武鳥者《イニシヘニコフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》、
 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》
 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》
 
(367)【譯】昔を慕つているでしようその鳥は、ホトトギスでしよう。きつとわたくしと同じ心で鳴いたことでございましよう。わたくしが昔を戀しく思つておりますように。
【釋】古尓戀良武鳥者 イニシヘニコフラムトリハ。弓削の皇子の、古ニ戀フル鳥カモの句を受けている。その古に戀うているでしょう鳥はの意に主格を提示している。
 霍公鳥 ホトトギス。霍公鳥の字面は漢籍から來ているであろうが、まだその用例を見出さない。本集では、ホトトギスにこれを使用しているが、霍氏鳥とも書いている(卷十九、四一八二、元暦校本)があるによれば、霍公は人名であつて、霍は姓であろう。霍は鳥の羽音を示す字であるから、それを姓に擬したものか。この句は、初二句に對して述語となり、同時に四五句に對して主語となつている。ホトトギスにしての如き意になつている。
 蓋哉鳴之 ケダシヤナキシ。益哉鳴之《マシテヤナキシ》(元)。ケダシは、推量の意の副詞。恐らくは、多分。ヤは疑問の係助詞で、これを受けてナキシと結んでいる。
 吾念流碁騰 ワガオモヘルゴト。吾戀流其騰《ワガコフルゴト》(西)。上の鳴キシの語に對して、副詞句としてこれを説明している。けだしわが思つている如く鳴いたのだろうの意である。自分は古に戀うている。鳥も多分その如くに鳴いたのであろうというのである。
【評語】複雜な内容を、よく一首に纏めている。それだけに文章構成も複雜であり、曲折混雜が感じられる。これはこの歌が、文筆に依つて作られた智的成立に依るためであつて、自由にのびのびとした所が感じられな(368)いのもこのためである。既に情熱の方面を失い、理智の方面のみ殘つた才媛の晩年としての額田の王を、ここに見るのである。
 
從2吉野1、折2取蘿生松柯1遣時、額田王奉入歌一首
 
吉野より、蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて、遣しし時に、額田の王の奉入《たてまつ》れる歌一首
 
【釋】蘿生松柯 コケムセルマツガエヲ。蘿は、倭名類聚鈔に、「松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介、一名佐流乎加世】」とある。今もサルオガセといい、地衣類松蘿屬に屬し、松その他の樹枝に懸かつて長く垂れる植物である。そのついている松の枝である。柯は枝に同じ。
 遣時 ツカハシシトキニ。何人が遣したとも記されていないが、前の續きで、多分弓削の皇子が遣されたのであろうか。持統天皇とする見方もある。
 奉入歌 タテマツレルウタ。奉入は進上の意の敬語である。
 
113 み吉野《よしの》の 玉松が枝《え》は
 愛《は》しきかも 君が御言《みこと》を
 持ちて通はく。
 
 三吉野乃《ミヨシノノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》
 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》
 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
【譯】吉野山の美しい松の枝は、おなつかしい君の御言葉を持つて、通うことでございます。
【釋】三吉野乃 ミヨシノノ。贈られた松が枝の産地を説明している。
 玉松之枝者 タママツガエハ。タマは美稱。松が枝をほめていう。
 波思吉香聞 ハシキカモ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。「波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》」(卷三、四七四)、「波之伎(369)和我勢枯《ハシキワガセコ》」(卷十九、四一八九)など用例は多い。この句は、ここで切つて、上の玉松が枝を敍述するものとも解せられるが、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》」(卷三、四七九)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)などのように、次の句を修飾する用法があるので、ここも三句切とするよりは、次の君の御言を修飾するものと見るべきだろう。この場合、カモは、愛しきことよ、君の御言という意に、感動を表示する。獨立文として修蝕句となつている。
 君之御言乎 キミガミコトヲ。キミは、この松が枝を贈つた人。ミコトは文字通り御言葉である。
 持而加欲波久 モチテカヨハク。カヨハクは、通うことの意。松が枝が御言を持つて通うとなすのである。
【評語】上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持參した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが殘り、漸次手紙の方が圭になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであつた。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて來たことをいう。文が松が枝につけられてあつたという解釋は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、穗積の皇子を思《しの》ひて作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女 タヂマノヒメミコノ。天武天皇の皇女、母は藤原の鎌足の女|氷上《ひかみ》の娘《いらつめ》。和銅元年六月薨。
 在高市皇子宮時 タケチノミコノミヤニイマシシトキニ。高市の皇子は、天武天皇の皇子。御母は、胸形《むなかた》の君コ善が女尼子の娘。持統天皇の四年に太政大臣となり、十年七月に薨じた。但馬の皇女がその宮にあつたの(370)は、妃としてであつたと考えられる。當時異母の兄妹の婚姻は、普通に行われた。
 思穗積皇子 ホヅミノミコヲシノヒテ。穗積の皇子も天武天皇の皇子。母は蘇我の赤兄の女|大?《おほの》の娘。靈龜元年七月に薨じた。
 
114 秋の田の 穗向《ほむき》のよりの 異縁《ことよ》りに 
 君によりなな。
 言痛《こちた》かりとも。
 
 秋田之《アキノタノ》 標向乃所縁《ホムキノヨリノ》 異所縁《コトヨリニ》
 君尓因奈名《キミニヨリナナ》
 事痛有登母《コチタカリトモ》
 
【譯】秋の田では、稻の穗が一方を向いて寄つている。その中で違う方へ寄るように、わたしも寄りたいと思う。よし人の口が繁くあつても。
【釋】標向乃所縁 ホムキノヨリノ。ホムケノヨスル(元)、ホムキノヨレル(代精)。ホムキは、稻穗が實つて一方に向くこと。所縁は、次句に異所縁とあり、その所縁と同語に讀みたい所である。從來ヨレルと讀んでいたが、それでは次句の讀み方と協調しない。依つて今ヨリノと讀み、次句の所縁をヨリニと讀む。以上二句は、次の句の異所縁を引き起すための序である。
 異所縁 コトヨリニ。カタヨリニ(元)、コトヨリシ(童)。この歌と類似の字面を有する歌に、「秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムムキノヨリノ》 片縁《カタヨリニ》 吾者物念《ワレハモノオモフ》 都禮無物乎《ヅレナキモノヲ》」(卷十、二二四七)があり、そこでは第三句をカタヨリニと讀んで、片寄りにの義に解している。その歌は、カタヨリニでよく通るが、この歌はカタヨリニではなく、また、異の字をカタと讀むべくもない。ここは、別の方に寄る意であるから、文字通りコトヨリニと讀む。以上、譬喩。
 君尓因奈名 キミニヨリナナ。キミは穗積の皇子をさす。上のナは、完了の助動詞ヌの未然形であるが、か(371)ような場合は、意味を強くするために用いられており、下のナは、時分がこうしたいという希望をあらわす助詞。自分が君に寄りたいという意味の句である。「和禮左倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》」(卷十四、三五一四)の用例がある。但し、「禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》(卷十四、三四〇八)の如く、動詞の未然形を受けるナナは別であつて禁止希望になる。混同しないことを要する。句切。
 事痛有登母 コチタカリトモ。コトイタクアリトモの約言。事痛は、「人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知多美《シゲミコチタミ》」(卷二、一一六)のように、假字書きの例もあつて、コチタクと讀まれている。コチタクは、コチタシの副詞形。この語は、事痛(一三四三、二五三五)、言痛(五三八、二五三五、二八九五)、辭痛(七四八)の如く、コトに當る部分に事の字を使つたものと、言、辭の字を使つたものとがある。しかし事痛の例でも「言故《ワレユヱニ》 人爾事痛《ヒトニコチタク》 所云物乎《イハレシモノヲ》」(卷十一、二五三五)の如く、言語に關して使われているものがあるから、文字に拘泥するわけにゆかない。イタシは、ひどくあるをいう。人の言葉がうるさくあつても。
【評語】ひたすらに寄りたいと思う心を、おりしも秋の稻の熟する頃なので、穗向キノ寄りの句を構えて序詞とした。下三句は、相當露骨に歌つているが、それが上二句の序詞で緩和されている。ひたぶるな心を言い出すためには、序を用いることが、なかなかに有效であることが知られる。
 
勅2穗積皇子1、遣2近江志賀山寺1時、但馬皇女御作歌一首
 
穗積の皇子に勅《みことのり》して、近江の志賀の山寺に遣しし時に、但馬の皇女の作りませる御歌一首
 
【釋】近江志賀山寺 アフミノシガノヤマデラ。天智天皇の建立で、本名を崇福寺といい、後、園城寺に合せた。
 
(372)115 後《おく》れゐて 戀ひつつあらずは
 追《お》ひ及《し》かむ。
 道の隈廻《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へわが夫。
 
 遺居而《オクレヰテ》 戀管不v有者《コヒツツアラズハ》
 追及武《オヒシカム》
 道之阿廻尓《ミチノクマミニ》標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
【譯】後に殘つて戀をしていないで、後を追つて追いつきたいものです。どうか、道の曲り角に印をつけておいて下さい。
【釋】遣居而戀管不有者 オクレヰテコヒツツアラズハ。オクレヰテは、人の旅行などに出たあとに殘りいるをいう。「於久禮居而《オクレヰテ》 吾波哉將v戀《ワレハヤコヒム》」(卷九、一七七二)などある。アラズハは、あらずしての意。「如此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアヲズハ》」(卷二、八六)參照。
 追及武 オヒシカム。後を追つてその人のもとに至ろう。追いつこうの意。句切。
 道之阿廻尓 ミチノクマミニ。クマミは、曲り角。ミは地形語につける接尾語。「道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》」(卷五、八八六)。
 標結吾勢 シメユヘワガセ。標繩を結えの意。ここはしるしをつけよである。ワガセは、穗積の皇子をさしていう。
【評語】跡を慕つて追つて行こうという強い意志が歌われている。想において、既出の迎へヲ行カムの歌(卷二、九〇)に類し、強い意志の表現においても、またそれに匹敵している。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、竊接2穗積皇子1、事既形而御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、竊に穗積の皇子に接《まじは》り、事既に形《あらは》れ作りませる御歌一首
 
(373)【釋】但馬皇女在高市皇子宮時 タヂマノヒメミコノタケチノミコノミヤニイマシシトキニ。既出(卷二、一一四)參照。
 竊接 ミソカニマジハリ。接は説文に交也とある。交接の義である。
 既形而 スデニアラハレテ。形の字は、形にあらわれるをいう。露顯するのである。
 
116 人言《ヒトゴト》を しげみ言痛《こちた》み、
 おのが世に いまだ渡らぬ
 朝川渡る。
 
 人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》
 己世尓《オノガヨニ》 未v渡《イマダワタラヌ》
 朝川渡《アサカハワタル》
 
【譯】人がさまざまにうるさいことを言うので、そのために、わたしの生涯にまだ渡つたことのない、朝の川渡りをすることです。
【釋】人事乎繁美許知痛美 ヒトゴトヲシゲミコチタミ。ヒトゴトは、人の言。皇女たちの關係についていうこと。シゲミコチタミは、人言が繁く、また言がひどくしてで、熟語句として慣用されている。コチタミはコトイタミの約言。「ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ」(卷十二、二八九五)など用例がある。以上二句は、下三句の事實に對する理由として擧げられている。
 己世尓 オノガヨニ。ヨは生涯。自分の世にの義で、皇女の經驗をいう。
 未渡朝川渡 イマダワタラヌアサカハワタル。事の現れたのに依つて、朝川を渡ることがあつたのだろう。
【評語】穗積の皇子との仲のために、かような事をも敢えてするという強い心の出ている歌。イマダ渡ラヌ朝川渡ルと、わたるの語を重ね、具體的に敍したのが強い心を表現している。この皇女の御歌は、いずれも強い表現の歌で、作者が情の人であつたことを語つている。
 
(374)舍人皇子御歌一首
 
舍人の皇子の御歌一首
 
【釋】舍人皇子 トネリノミコ。天武天皇の第三皇子。御母は新田部の皇女。養老四年知太政官事、同年日本書紀を撰進し、天平七年十一月薨じた。養老四年に、日本紀三十卷を奏上した人として知られている。
 御歌 ミウタ。他の例は、御作歌とある。ここに作の字の無いのは、資料のままであろう。卷の九、一七〇六の前行にも舍人皇子御歌一首とある。何人に與えたとも題していないが、次の歌によつて舍人の娘子を目標として詠まれていることが知られる。
 
117 丈夫《ますらを》や 片戀せむと、嘆けども、
 醜《しこ》の丈夫《ますらを》 なほ戀ひにけり。
 
 大夫哉片戀將爲跡《マスラヲヤカタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》
 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
【譯】丈夫は片戀などはしないものである、と歎くけれども、しかし、このみにくい丈夫は、やはり戀をしたことだ。
【釋】大夫哉片戀將爲跡 マスラヲヤカタコヒセムト。マスラヲは既にしばしば出た。りつぱな男兒の稱。ヤは疑問の係助詞で、反語に使われている。カタコヒは、こちらでのみ戀をする一方的な物思い。男兒は片戀をしないものとの意。
 。ナゲケは、長嘆息をする意の動詞。
 鬼乃益卜雄 シコノマスラヲ。初句のマスラヲを受けている自嘲の語。シコは、「宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》」(卷八、一五〇七)、「慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》」(卷十、一九五一)、「意冨伎美乃《オホキミノ》 之許乃美多弖等《シコノミタテト》」(卷二十、四三(375)七三)など見え、これらは嘲罵、もしくは自嘲の語として使用されている。その語義は、日本書紀卷の一、泉津醜女の自註に「醜女、此云2志許賣1」とあり、醜をシコに當てているが、この字は説文に「可v惡也」、玉篇に「貌惡也」とあつて、好ましからざるものをいう字である。鬼の字を當てるのは、醜女を黄泉の鬼とするに出たものなるべく、本集になお「萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》」(卷四、七二七)、「萱草《ワスレグサ》 垣毛繁森《カキモシシミミニ》 雖2殖有1《ウヱタレド》 鬼之志許草《シコノシコグサ》 猶戀爾家利《ナホコヒニケリ》」(卷十二、三〇六二)などある。シコノマスラヲとは、自分は丈夫であると思えども、この良からざる丈夫の意である。
 ナホは、それでもやはりの意。
【評語】男子の情熱をあらわした歌として、強い風格をもつている。丈夫は片戀をしないということは、他にも歌われていて、當時の人の修養の一則となつていた。みずから丈夫をもつて任ずることは、この集の男子の自信を高めている。それは知つているけれども、なおやむを得ないというところに熱情が示されるのである。
 
舍人娘子、奉v和歌一首
 
舍人の娘子の、和へまつれる歌一首
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。既出(卷一、六一)。舍人は氏の名であつて、舍人氏の娘子の意と見られる。舍人の皇子の名が、乳母の氏を負うておられるとすれば、その乳母方の娘子であろう。
 
118 歎きつつ 丈夫《ますらをのこ》の 戀ふれこそ、
 わが結ふ髪の 漬《ひ》ぢてぬれけれ。
 
 歎管《ナゲキツツ》 丈夫之《マスラヲノコノ》 戀禮許曾《コフレコソ》
 吾結髪乃《ワガユフカミノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
【譯】丈夫が嘆息しながら戀をしているので、わたくしの結つてある髪がずるずると落ちかかるのでございま(376)しよう。
【釋】嘆管 ナゲキツツ。三句の戀フレコソを修飾している。
 大夫之戀禮許曾 マスラヲノコノコフレコソ。
   マスラヲノコノコフレコソ(西)
   ――――――――――
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノカクコフレコソ》(元)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノコヒミダレコソ》(神)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲガコヒミダレコソ》(童)
大夫は通例マスラヲと讀んでいるが、ここは音數の都合上、マスラヲノコと讀む。その例には、「念度知《オモフドチ》 大夫能《マスラヲノコノ》 許乃久禮《コノクレノ》 繁思乎《シゲキオモヒヲ》」(卷十九、四一八七)の如きがあり、また、「古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲノコノ》 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》」(卷九、一八〇一)の歌の益荒丁子もマスラヲノコノと讀むべきものと考えられる。この歌では舍人の皇子をさしている。コフレコソは、已然條件法で、戀フレバコソに同じ。
 吾結髪乃 ワガユフカミノ。
   ワカユフカミノ(元)
   ――――――――――
   吾髪結乃《ワガモトユヒノ》(京赭)
結髪は、元暦校本による。他本多く髪結であつてワガモトユヒノと讀む説が廣く行われている。モトユヒは、髪を結う絲をいう。皇大神宮儀式帳には、「紫本結糸」「紫御本結糸」など見え、また「御加美結紫八條 長條別三尺」とも見えているが、ヒヂテヌルとあるのは、髪であつて、モトユヒでは無い。
 漬而奴禮計禮 ヒヂテヌレケレ。上のコソを受けてケレと已然形で結んでいる。ヒヂテは濡れて。ヌレは、結つた髪のぬるぬるとさがるのをいう。水に濡れることではない。「多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》」(卷二、一二三)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》」(卷十四、三三七八)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》」(同、三四一六)など使用されている。
(377)【評語】男に思われると、わが身にその反應のあらわれるとする思想が歌われている。唱和の歌であるだけに、理窟つぽさのあるのはやむを得ないが、髪のずるずるさがるにつけて詠んでいるのが、情趣をなしている。
 
弓削皇子、思2紀皇女1御歌四首
 
弓削の皇子の、紀の皇女をしのひませる御歌四首
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は穗積の皇子に同じく蘇我の赤兄の女である。卷の十二、三〇九八の歌の左註に、高安の王と通じたことが見えている。
 
119 芳野川《よしのがは》 行《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み、
 しましくも 不通《よど》むことなく
 在《あ》りこせぬかも。
 
 芳野河《ヨシノガハ》 逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》
 須臾毛《シマシクモ》 不v通事無《ヨドムコトナク》
 有巨勢濃香問《アリコセヌカモ》
 
【譯】この吉野川の流れ行く瀬の早いこと、そのように、わたしたちの仲もすこしも停滞することなくあつてほしいものだ。
【釋】逝瀬之早見 ユクセノハヤミ。ハヤミは、早いことの意の體言。瀬ヲ早ミのような形は普通であるが、かように助詞ノを受けて體言となる形もある。「夏野之《ナツノノノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》 姫由理乃《ヒメユリノ》」(卷八、一五〇〇)、「波流乃野能《ハルノノノ》 之氣美登妣久久《シゲミトビクク》 鶯《ウグヒスノ》 音太爾伎加受《コエダニキカズ》」(卷十七、三九六九)のシゲミの如きはこれである。以上二句、第三四句の、シマシクモヨドムコトナクを引き出すための序詞として用いられている。
 須臾毛 シマシクモ。文字通り寸時もである。
 不通事無 ヨドムコトナク。ヨドムは通じない、停滞する意の動詞。ここは兩者間の交通の杜絶することな(378)くの意の句である。
 有巨勢濃香聞 アリコセヌカモ。コセは、助動詞コスの未然形。アリコスは、あつてくれるの意。ヌは打消の助動詞。カモは感動の助詞。ヌカモで、ないかなあ、あつてほしいことだの希望の意になる。「吾背子者《ワガセコハ》 千年五百歳《チトセイホトセ》 有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》」(卷六、一〇二五)。コセの例には、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ヅマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)などある。
【評語】初二句は、實景であるが、それを序に使つている。川瀕の早いことから續いて、ヨドムコトナクを引き起しているので、景から情に移る工合がよく出ている。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に 戀《こ》ひつつあらずは、
 秋《あき》はぎの 咲《さ》きて散《ち》りぬる
 花《はな》ならましを。
 
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 秋〓之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》
 花《ハナ》尓有《ナラ・ニアラ》猿尾《マシヲ》
 
【譯】あなたに戀をしていないで、あの秋ハギのように咲いて、やがて散つてしまう花であろうものを。
【釋】戀乍不有者 コヒツツアラズハ。戀をしていないで。「如此許 《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》」(卷二、八六)參照。
 秋〓之 アキハギノ。本集では、多く芽子、もしくは芽の字を、ハギに當てて書いている。これは類聚名義抄に「〓、音護、ハギ」とある。〓は〓に同じであるが、字體が似ているので、芽に誤つたのであろう。この歌については、元暦校本、金澤本にも、芽に作つているが、神田本などには別のところに〓に作つている卷もある。圖は卷の十の一部である。また本草にいう牙子に艸冠を加えたものであろうともいう。牙子は、本草和名に、和名宇末都奈岐とある。その葉は三葉一蒂であるので、ハギにこの字を借りたのだとする。今本書では、〓とする説による。
(379) 咲而散去流花尓有猿尾 サキテチリヌルハナナラマシヲ。咲いてまもなく散つた花でありたいものだの意。
【評語】秋萩のもろく散り亂れる姿を眼前に見て、物思いのあまり、その花のように散つてしまつたら物思いも無いだろうというのである。もろくしてしかも美しく散り亂れる花に比している點に趣がある。「長き夜を君に戀ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを」(卷十、二二八二)は同じ趣を詠んだ歌である。
 
121 夕さらば 潮《しほ》滿ち來なむ。
 住吉《すみのえ》の 淺鹿《あさか》の浦に 玉藻刈りてな。
 
 暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》
 住吉乃《スミノエノ》 淺鹿乃浦尓《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
【譯】夕碁になつたら潮が滿ちて來るだろう。この住吉の淺鹿の浦で今のうちに玉藻を刈りたいものだ。
【釋】暮去者ユフサラバ。夕方にならば。
 鹽滿來奈武 シホミチキナム。シホは潮。潮の滿ちくることを豫想している。句切。
(380) 住吉乃淺鹿乃浦尓 スミノエノアサカノウラニ。淺鹿の浦は、住吉神社の南方を淺香という、その地の浦。何かの縁故のある地であるか不明であるが、次の歌にも大船ノ泊ツルトマリが詠まれているので、その地で詠まれたものかも知れない。
 玉藻苅手名 タマモカリテナ。テは助動詞ツの未然形。ナは希望の助詞。藻を刈りたいものだの意。
【評語】全體が譬喩から成つている。玉藻を刈るといぅところに、先方の女性を手に入れる意味がかくされている。二句の來ナムは、連體句として、下に續くとも見られ、語法上からは、それも成立するのであるが、歌意の上からいえば、二句で切つた方がよく、形も古い姿とすべきであろう。
 
122 大船《おほぶね》の 泊《は》つる泊《とまり》の たゆたひに、
 物念《ものおも》ひ痩《や》せぬ。
 人《ひと》の兒《こ》ゆゑに。
 
 大船之《オホブネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》
 物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》
 人能兒故尓《ヒトノコユヱニ》
 
【譯】大船が港に碇泊して、なおたゆたつているように、どうしたらよいか迷つて、物思いに痩せた。それもあの子のゆえに。
【釋】大船之泊流登麻里能。 オホブネノハツルトマリノ。ハツルは、航海を終る義で、碇泊するをいう。トマリは、船の碇泊する處。大船の碇泊するは、進むでもなく、波のままに落ちつかないものであるからいう。
 絶多日二 タユタヒニ。タユタヒは、猶豫動搖する意の動詞タユタフの名詞形。「常不v止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不v來《ツカヒコズ》 今者不v相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》」(卷四・五四二)、「垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》 我背子之《ワガセコガ》 情多由多比《ココロタユタヒ》 不v合頃日《アハヌコノゴロ》」(同、七一三)など見えている。以上譬喩で、物思ヒヤセヌを修飾している。
 物念痩奴 モノオモヒヤセヌ。物思いによつて痩せた由である。句切。
(381)人能兒故尓 ヒトノコユヱニ。ヒトノコは、人である子で、人の愛稱。愛人をいう。妹というよりは、客觀性の強い語である。ユヱは理由禰據の意。それであるのにの意を下に含んでいう。「海原乃《ウナハラノ》 路爾乘哉《ミチニノレレヤ》 吾戀居《ワガコヒヲラム》 大舟之《オホブネノ》 由多爾將v有《ユタニアルラム》 人兒由惠爾《ヒトノコユユニ》」(卷十一、二三六七)、「珍海《チヌノウミノ》 濱邊小松《ハマベノコマツ》 根深《ネフカメテ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 人子?《ヒトノコユヱニ》」(同、二四八六)、「足檜之《アシヒキノ》 山川水之《ヤマカハミヅノ》 音不v出《オトニイデズ》 人之子?《ヒトノコユヱニ》 戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》」(卷十二、三〇一七)。
【評語】この四首の歌は、いずれも詞が整つて美しい歌である。これを連作と見る説もあるが、第一首に芳野川を詠み、第三、四首に海邊を詠んでいて、作者自身に連作の意志は無かつたものというべきである。
 
三方沙弥、娶2園臣生羽之女1、未v經2幾時1、臥v病作歌三首
 
三方《みかた》の沙弥《さみ》の、園《その》の臣《おみ》生羽《いくは》の女に娶《あ》ひて、いまだ幾時《いくだ》も經ず、病に臥して作れる歌三首
 
【釋】三方沙弥 ミカタノサミ。傳未詳。諸書に多く、もと僧侶で新羅に留學し、後還俗した山田の史御形のこととしているが、その證は無い。講義には、續日本紀、天平十九年十月の條に見える御方の大野、延暦三年正月の條に見える三方の宿禰廣名という人名をあげて、御方氏、また三方氏のあつたことを述べ、それらの氏の沙彌たりし人ならむとしている。沙彌は、佛法の戒を受けて修行のまだ熟しない比丘の稱で、在家のまま持戒している者などをいぅ。卷の五に滿誓を笠の沙彌と言つているによれは、三方を氏とする説は妥當である。
 園臣生羽之女 ソノノオミイクハノムスメ。傳未詳。園の臣は、孝靈天皇の皇子稚武彦の命の後である。
 三首 ミツ。歌の下に作者の名あり、うち一首は娘子の作である。
 
123 たけばぬれ たかねば長き
 妹が髪、
(382) この頃見ぬに 掻《か》き入《れ》つらむか。
    三方の沙彌
 
 多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》
 妹之髪《イモガカミ》
 比來不v見尓《コノゴロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》
   三方沙弥
 
【譯】束ね上げればぬるぬるして、束ね上げなければ長0いあなたの髪は、この頃見ないのだが、掻き入れてあるだろうか。
【釋】多氣婆奴禮 タケバヌレ。タクは、「小放《をはなり》に髪たくまでに」(卷九、一八〇九)、「振分《ふりわけ》の髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ」(卷十一、二五四〇)の如き用例がある。「孃子等《をとめら》が織る機の上を眞櫛もちかかげたく島浪の間ゆ見ゆ」(卷七、一二三三)も動詞タクと島の名タクとを懸け詞にしている。つかねる意である。(タグと濁るは別語である。)ヌレは、ぬらぬらとすべる意で、上の、「漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》」(卷二、一一八)の項に例を出しておいたが、なお髪については、「ぬばたまのわが黒髪を引きぬらし亂れて更に戀ひわたるかも」(卷十一、二六一〇)の用例がある。タケバヌレは、束ね上げれば、ぬるぬると垂れさがる意で、髪の豐富なことを描いている。
 多香根者長寸 タカネバナガキ。タカネバは、束ねなければの意。束ねないで置けば。長く垂れていれば。
 妹之髪 イモガカミ。愛人の髪を呼びあげている。
 比來不見尓 コノゴロミヌニ。比來は、漢文でこの頃の意の熟字。病氣となつてこの頃は見ないのに。男子が、その妻を訪う風習を語つて、病氣の時は行かれないので會わないのである。
 掻入津良武香 カキレツラムカ。カキレは掻キ入レで、コキイレ(扱き入れ)を、コキレという類である。「蘇泥尓毛古伎禮《ソデニモコキレ》」(卷十八、四一一一)。亂れほつれている髪を、櫛を以つて掻き入れておさめてあるだろうかの意。ツは、完了の助動詞。カは疑問の助詞。この句、從來諸説があり、誤字説もあるが、このままでよく(383)わかる。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈つた歌である。
【評語】髪によつて愛人を描いており、これに依つて美しい歌を成している。感覺的な歌であつて、相聞の歌として言辭を弄するだけのものでない點がよい。
 
124 人は皆 今は長しと たけと言へど、
 君が見し髪 亂れたりとも。娘子
 
 人者皆《ヒトハミナ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》
 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有等母《ミダレタリトモ》娘子
 
【譯】人は皆、今は髪が長くなつたから束ね上げよといいますが、君が見し髪は、亂れてあつても、そのままにしておきます。
【釋】人者皆 ヒトハミナ。仙覺本系統には、人皆者に作つている。人皆とある方が普通であるが、古本のままでもさしつかえない所である。
 今波長跡 イマハナガシト。今は長しといえどと續く語法である。
 多計登雖言 タケトイヘド。タケは束ねる意の動詞タクの命令形。前の歌のタケバヌレを受けている。イヘドは、今は長シト、タケトの兩方を受けている。女兒が成長して髪が長くなると、幼時垂髪であつた髪を束ね上げるので、このようにいつている。
 君之見師髪 キミガミシカミ。かつて君が見しわが髪である。
 亂有等母 ミダレタリトモ。亂れてあつても、そのままにして、姿容を變えない意である。この下に詞句を省略した語法。
 娘子 ヲトメ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈歌に對して答えた歌である。
(384)【評語】詞句を省略して十分に言い切らない語法で、餘情を含んでいるの女子の歌として優婉な氣分が釀し出されている。贈歌の力に壓倒されない、實によいやりとりである。この三方の沙彌とその妻との、髪を題材とした問答は、婚後まだ幾日をも經ない心がよく出ている。伊勢物語の筒井筒の條は、これとやや事情は異なるが、髪を材料として相思の男女が詠みかわした歌には、共通の感情が含まれている。次に參考として掲げておく。
【參考】伊勢物語。
  昔田舍わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりけれは、男も女もはぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ひ、女もこの男をこそと思ひつゝ、親のあはすることも聞かでなむありける。さてこのとなりの男のもとよりかくなむ。
  筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな。いも見ざるまに。
  女かへし
  くらべこしふり分け髪も肩すぎぬ。君ならずして誰かあぐべき。
 かくいひいひて、つひに本意《ほい》のごとくあひにけり。
 
125 橘の 蔭踏む路《みち》の 八衢《やちまた》に
 ものをぞ念ふ。
 妹に逢はずて。三方の沙彌
 
 橘之《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢尓《ヤチマタニ》
 物乎曾念《モノヲゾオモフ》
 妹尓不相而《イモニアハズテ》三方沙弥
 
【譯】橘の蔭を踏む道の、四方に通じるように、いろいろに心を惱ますことだ。わが妻に逢わないので。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は、垂仁天皇の勅に依つて、田道間守が常世の國から持つて來た樹と傳えられて(385)いる。その果實は、香氣高く、他の果實の無い冬季に熟するので、「時じくの香《かく》の木の實」と稱して愛賞されていた。
 蔭履路乃 カゲフムミチノ。當時、京城の市邊の道路には、菓樹を植えたので、橘も、街路樹として植えられたと考えられる。日本書紀雄略天皇紀に見える「餌香市邊橘本」とあるのもそれであろう。類聚三代格に載せた天平寶字七年の乾政官符に、「右東大寺普照法師奉?稱、道路百姓來去不v絶、樹在2其傍1、足v息2疲乏1。夏則就v蔭避v熱、飢則摘v子?v之。伏願城外道路兩邊、栽2種菓子樹木1者、奉v勅依v奏」とあるは、これを城外にも及ぼしたものである。ここに、橘ノ蔭フム道というのも、このような街路樹のもとをいうものと見られる。
 八衢尓 ヤチマタニ。ヤは數の多いのをいうので、かならずしも八個に限るわけではない。チマタは道岐の義。ヤチマタは道路の多數にわかれる處をいう。古事記上卷に、天之八衢とあり、道饗祭の祝詞に、八衢比古、八衢比賣とある。八衢ニ物思フとは、樣々に物を思うことを、譬喩に依つて表現したものである。この句まで譬喩。上の橘ノ蔭フム路ノを受け、同時に、わが物思いの、幾樣にも分れ行くことを敍している。
 物乎曾念 モノヲゾオモフ。娘子を戀うて物思いをする意。句切。
 妹尓不相而 イモニアハズテ。病のために訪い得ないのである。上の物ヲゾ念フの理由を説明している。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註したものである。
【評語】譬喩の美しい歌。主たる内容は、妹に逢わないで千々に物が思われるというにある。橘の蔭ふむ路は、妹がり行く戀の通い路として、ふさわしい美しい句である。この歌は、參考の欄に記すように、吟誦されても傳えられた。いかにも美しい歌だからである。なおこの作者の歌としては、雪の歌(卷十九、四二二七)も、變つた形の歌で、同じく吟誦されている。
(386)【參考】別傳。
  橘の本に道踏み八衢に物をぞ念ふ。人に知らえず。
  右の一首は、右大辨高橋の安麻呂の卿《まへつぎみ》語りていはく、故《もと》の豐島《としま》の采女が作れるといふ。但《ただ》し或る本にいはく、三方の沙彌の、妻|苑《その》の臣《おみ》に戀ひて作れる歌なりといふ。然らば、豐島の采女、當時《そのかみ》、その所にてこの歌を口吟《くちずさ》めるか。(卷六、一〇二七)
 
石川女郎、贈2大伴宿祢田主1歌一首【即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也。】
 
石川の女郎の、大伴の宿禰田主に贈れる歌一首【すなはち佐保の大納言大伴の卿の第二子なり。母を巨勢の朝臣といへり。】
 
【釋】石川女郎 イシカハノヲミナ。傳未詳。下一二九の歌の題詞にも石川の女郎があり、それと同人でないともいえないが、何とも知られない。作歌事情は左註に詳である。
 大伴宿禰田主 オホトモノスクネタヌシ。下の註に依れば、佐保の大納言、すなわち大伴の安麻呂の第二子で、母を巨勢の朝臣というとある。巨勢の朝臣は、玉葛(卷二、一〇二)の歌の作者である。田主は他に所見が無い。若くして死んだのであろう。
 
126 遊士《みやびを》と 吾は聞けるを、
 屋戸《やど》借さず 吾を還せり。
 おその風流士《みやびを》。
 
 遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》
 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
【譯】文雅な方と聞いていましたが、宿を借さないでわたくしを還しました。にぶい文雅人ですね。
【釋】遊士跡 ミヤビヲト。遊士は、五句の風流士と同語なるべく、共にミヤビヲと讀まれる。ミヤビの語は、(387)「烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊米爾加多良久《イメニカタラク》 美也備多流《ミヤビタル》 波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》 左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》」(卷五、八五二)の如く、動詞に使用した例がある。これは宮の語に、接尾語ビが附隨したもので、宮廷ふうを意味するものである。かような語構成には、都ビ、鄙ビ、神ビ等がある。ミヤビヲは、宮廷ふうの男子の謂で、雅事を解する人の意に使用されている。遊士の文字は、實生活以上の餘裕ある男子の義である。
 吾者聞流乎 ワレハキケルヲ。田主を雅事を解する人として聞いていたがの意。ヲは、しかるにの意を寓している。
 屋戸不借 ヤドカサズ。ヤドはここでは宿處の意に使用されている。借は貸と同樣に使用されている。ヤドは、本來家の戸口の義であつて、屋内の人からいえば、出入口であり屋外でもある。それを屋外からいうと、それを通して人の居住するところの家屋の意にもなる。ヤドに草木を植えるともいうし、ヤド貸すともいう次第である。
 吾乎還利 ワレヲカヘセリ。宿を貸さないで、自分を還した。句切。
 於曾能風流士 オソノミヤビヲ。オソは、遲しのオソに同じく、愚鈍なのをいう。「常世邊《トコヨベニ》 可v住物乎《スムベキモノヲ》 劔刀《ツルギタチ》 己之行柄《ヲノガワザカヲ》 於曾也是君《オソヤコノキミ》」(卷九、一七四一)とあるオソも同語である。風流は、漢文に使用される熟字であるが、ここでは文雅の意に使用されている。集中の用例、「足引乃《アシヒキノ》 山二四居者《ヤマニシヲレバ》 風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》 害目賜名《トガメタマフナ》」(卷四、七二一)があり、同じくミヤビと讀まれる。文章では、この歌の左註にもあり、また、「海原之《ウナハラノ》 遠渡乎《トホキワタリヲ》 遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》 莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》」(卷六、一〇一六)の左註に、「右一首、書2白紙1懸2著屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化嚢蘰、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉」とある。これらに依つてその意を知るべきである。この一句、上四句を受けて總括的に批判を下している。
【評語】風流人という、實生活を離れた生活樣式の求められていたことが示されている。その規格にはまらな(388)い人だといぅことを罵倒した、それだけの歌である。
 
大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者、靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作2方便1、而似2賤嫗1、己提2堝子1而到2寢側1、哽音?足、叩v戸諮曰、東隣貧女、將v取v火來矣。於v是仲郎、暗裏非v識2冒隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈謔戯焉。
 
大伴の田主、字《あざな》を仲郎といへり。容姿《かほ》佳艶《よ》くして、風流《みやび》秀絶《すぐ》れたり。見る人聞く者、歎息せずといふことなし。時に石川の女郎といふ者あり。みづから雙栖の感を成し、恒に獨守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲《おも》ひて、いまだ良信に逢はず。ここに方便《たばかり》をなして、賤しき嫗に似せて、おのれ堝子《なべ》を提げて、寢側に到り、哽音?足して戸を叩きて諮ひて曰はく、東隣の貧女、火を取らむとして來れりといふ。ここに仲郎、暗き裏《うち》に冒隱の形を知らず、慮の外《ほか》に拘接の計に堪《あ》へず。念《おもひ》のまにまに火を取り跡に就き歸り去にき。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、また心契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以ちて贈り謔戯としき。
 
【譯】大伴の田虫は字を仲郎と言つた。姿が美しくして風流なことが勝れている。見る人も聞く者も歎息しない者は無かつた。時に石川の女郎という者があつて、自然に戀愛の情を起し、しかも常にひとりいる心に堪えかねていた。心に手紙を贈ろうと思つてもまだ良い便りに逢わなかつた。そこで計略をめぐらして、賤しい老婆の眞似をして、自分から火入れを提げて田主の寢屋のあたりに行き、喉聲で拔き足して戸を叩いて語つて言(389)うには、東隣の貧しい女が火を取ろうと思つて來ましたと言つた。そこで田主が暗い中で變装している形を知らないで、それを引き留めることは思いもよらず、思う通りに火を取つて、來た道から歸つて行つた。夜が明けてから後、女郎は既に自分から仲立したことを恥じ思い、しかも心に願つたことが果さなかつたことを恨んで、そこでこの歌を作つて、贈り戯れたということである。
【釋】字曰仲郎 アザナヲチユウラウトイヘリ。字は、名の義を取つてつけるのが本義であり、一般の稱呼にこれを用いた。當時わが國でもこれに模して、文字を知る者のうちにこれをつけることが行われたのである。本集では、卷の三、二七八の左註に「右今案、石川朝臣君子、號曰2少郎子1也」とあるのも、字であろう。仲郎は田主が第二子であるゆえに選んでいる。訓讀してはナカツコと讀まれるが、漢風に擬したのであるから、多分音讀したのであろう。
 容姿佳艶 カホヨクシテ。容姿は、容貌姿態で、表にあらわれたところをいう。佳艶は、美なるをいう。
 風流秀絶 ミヤビスグレタリ。容姿佳艶に對して對句を成していると見られる。風流は風格の意に解せられる。秀絶は他に比類無くすぐれているをいう。
 雙栖之感 ナラビスムコトノオモヒ。雙栖は夫婦として住むこと。感は思いである。夫婦である思い。
 獨守之難 ヒトリマモルコトノカタキ。ひとり空牀を守ることの苦しみをいう。
 未逢良信 イマダヨキツカヒニアハズ。信は使者をいう。
 爰作方便 ココニタバカリヲナシ。方便は佛教語。巧みに諸法を用い、機に臨んで物を利するをいう。
 似賤嫗 イヤシキオミナニニセテ。嫗は老女をいぅ。卑賤の老嫗に扮装して。
 己提堝子 オノレナベヲヒサゲテ。堝子は土の鍋である。倭名類聚鈔瓦器類に、「辨色立成云堝【古禾反、奈閉。今案金謂2之鍋1、瓦謂2之堝1、字或相通。】」とある。ここは火を入れる料にこれを持つたのである。
(390) 哽音?足 ノドヨヒシジマヒ。哽音は聲のからまるのをいう。老女の聲に似せていうのである。?足は足の進まないのをいう。老女の足もとのおぼつかないのに似せたのである。
 諮曰 トヒテイハク。諮は、玉篇に「謀也、問也」とある。ここは問い求める意である。
 將取火來矣 ヒヲトラムトシテキタレリ。火を作ることの困難な當時にあつては、火の既にある處について火を乞うのである。
 暗裏 クラキウチニ。暗黒の中にである。
 冒隱之形 カクレタルカタチ。冒は、玉篇に「覆也」とある。物に隱れた姿である。
 拘接之計 マジラヒノハカリゴト。拘接は關係し交接すること。引き留めて夫婦の交りをする計略をいう。
 任念 オモヒノマニマニ。思う通りに、思いのままに。
 就跡歸去也 アトニツキテカヘリイニキ。跡は、歩みのあとをいう。來た跡につきてで、もと來た通りに歸つて行つた。
 恥自媒之可愧 ミヅカラナカダチスルコトノハヅベキヲハヂ。男女が夫婦となるは、媒介する者があつて行うを禮とするに、今みずから進んでこれをすることの恥ずべきを知つて。
 復恨心契之弗果 マタチギリノハタサザルコトヲウラミ。しかも一方、心に期せしことのはたし得なかつたことを遺憾として。
 謔戯焉 タハブレトシキ。謔は、新撰字鏡に「太波夫留」と註している。謔戯二字で熟字を成している。
 
大伴宿祢田主、報贈歌一首
 
大伴の宿祢田主の報《こた》へ贈れる歌一首
 
(391)【釋】 報贈歌 コタヘへオクレルウタ。石川の女郎の贈つた歌に答え贈つた歌である。
 
127 遊士《みやびを》に 吾はありけり。
 屋戸《やど》かさず 還《かへ》ししわれぞ、
 風流士《みやびを》にはある。
 
 遊士尓吾者有家里《ミヤビヲニワレハアリケリ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 令v還吾曾《カヘシシワレゾ》
 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
【譯】私は文雅人だつたのですよ。宿を貸さないで還したわたしこそは文雅人ですよ。
【釋】遊士尓吾者有家里 ミヤビヲニワレハアリケリ。石川の女郎の、遊士ト吾ハ聞ケルヲの句を受けている。この句は、わたしこそは眞のミヤビヲだの意に言つている。
 屋戸不借 ヤドカサズ。石川の女郎の歌の句を受けている。次の還シシを修飾する。
 令還吾曾 カヘシシワレゾ。還したわたしこそは、ゾは係助詞。
 風流士者有 ミヤビヲニハアル。これも眞の風流人であるといつている。ゾを受けて、連體形で留めている。
【評語】女から贈つた歌の形を利用して、詞を入れ替えて詠んでいる。自分が風流人であることを主張するに急で、餘裕が見受けられない。返歌としてはやむを得ないであろう。
 
同石川女郎、吏贈2大伴田主中郎1歌一首
 
同じ石川の女郎の更に大伴の田主中郎に贈れる歌一首
 
【釋】同 オヤジ。この語、本集ではオヤジともオナジとも書いてある。オヤジの用例には「麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》」(卷十四、三四六四)、「妹毛吾毛《イモモワレモ》 許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》」(卷十七、三九七八)、毛等母延毛《モトモエモ》 於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》」(同・四〇〇六)、「京師乎母《ミヤコヲモ》 此間毛於夜自等《ココモオヤジト》」(卷十九・四一五四)があり、(392)オナジの用例には、「於奈自許等《オナジコト》 於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》」(卷十五、三七七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》」(卷十八、四〇七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自伎左刀乎《オナジキサトヲ》」(同、四〇七六)とある。日本書紀天智天皇紀には、「陀麻爾農矩騰岐《タマニヌクトキ》 於野兒弘爾農倶《オヤジヲニヌク》」とあつて、もとオヤジと言つたものが、後オナジに轉じたものであろう。ここに同とあるは、この石川の女郎が前の兩者の相聞の主と同人であることを意味する。
 中郎。前の文に仲郎とあるに同じ。
 
128 わが聞きし 耳によく似る、
 葦《あし》の若末《うれ》の 足ひくわが夫《せ》、
 努《つと》めたぶべし。
 
 吾聞之《ワガキキシ》 耳尓好似《ミミニヨクニル》
 葦若末乃《アシノウレノ》 足痛吾勢《アシヒクワガセ》
 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
【譯】わたしの聞いた通り、アシの若葉のような足の病氣に惱んでいる貴方は、どうかよく御養生ください。
【釋】吾聞之耳尓好似 ワガキキシミミニヨクニル。ミミは耳で、自分の聞いたことをいう。ミミニヨクニルは、聞いた通り、聞くが如くにの意。「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミミニタヤスシ》」(卷十一、二五八一)のミミも聞くことの意に使用されている。この句、終止形とする説もあるが連體形とするを可とする。
 葦若末乃 アシノウレノ。枕詞。ウレは、者い伸びた先をいう。ヒシノウレ、ハギノウレなどいう。同音によつて、次の句の足に懸かつている。若末の文字は、この語の意をよくあらわしている。これは「暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマツガウレニ》」(卷十、一九三七)にも使用されている。
 足痛吾勢 アシヒクワガセ。足痛は諸訓のある所である。字に即して讀むものに、アシイタ(古點)、アシナヘ(考)、アシイタム(岡本保孝)があり、義讀するものに、アナヘク(仙覺)、アシヒク(京都大學本代赭)、アナヤム(古義)がある。集中「足疾乃《アシヒキノ》 山寸隔而《ヤマキヘナリテ》 不v遠國《トホカラナクニ》」(卷四、六七〇)、「足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑(393)越《ヤツヲコエ》 (卷七、一二六二)の如く、足疾、足病をアシヒキと讀ましめている例があり、この歌の左註にも足疾とあるによつて、今アシヒクと讀む。足の病である。ワガセは、田主をさしている。
 勤多扶倍思 ツトメタブベシ。ツトメは療養に努める義。タブベシはタマフペシと同じく、タブは先方に對する敬語。そうなされるがよいの意味。養生に努められるがよいでしょう。
【評語】讀み方に問題はあるが、輕い氣もちで病を問うた心はわかる。アシノウレノの枕詞が多少揶揄的な氣分があつておもしろい。耳ニヨク似ルというのは、當時言い慣れた語であろうが、變わつた言い方である。
 
右依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也
 
右は中郎の足の疾に依り、この歌を贈りて問訊《とぶら》へるなり。
 
【釋】足疾 アシノヤマヒ。ここは體言である。どのような病か知らないが、田主はまだ若かつたようであるから、脚氣などであろう。
 問訊也 トブラヘルナリ。訊も問う義の字である。見舞の歌である。
【評語】この物語は、實話というよりもむしろ一箇の作り物語であるようだ。文章も事實を説明する以上に、文を飾つて書いている。歌の贈答ぐらいはあつたかも知れないが、事件はすこし奇拔すぎる。また大伴の田主は他に所見が無い。或いは旅人の假名であるかも知れない。
 
大津皇子宮侍石川女郎、贈2大伴宿祢宿奈麻呂1歌一首
                【女郎字曰2山田郎女1也。宿奈麻呂宿祢者大納言兼大將軍卿之第三子也】
 
(394)大津の皇子の宮の侍《まかたち》、石川の女郎の、大伴の宿祢|宿奈麻呂《すくなまろ》に贈れる歌一首
                【女郎、字を山田の郎女と曰へり。宿奈麻呂の宿禰は、大納言兼大將軍の卿の第三子なり】
【釋】大津皇子 オホツノミコ。元暦校本に、津の右に朱で、「伴一本」とあり、西本願寺等の仙覺本は伴に作つている。大伴の皇子とすれば、天智天皇の皇子の大友の皇子(弘文天皇)のことになる。石川の女郎は既に相當の年のようであるから、弘文天皇の侍女であつたということもあり得ないことではないが、今は元暦校本の本文によつて津とするによる。
 宮侍 ミヤノマカタチ。侍は侍女の義。大津の皇子の宮の女房である。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。題下の註に依れば、字を山田の郎女といつたという。山田は地名で、飛鳥の山田であろう。前の一〇七の題詞の石川の郎女と同人とすれば、この註は前のところにあつて然るべきが如何。また大伴の田主に歌を贈つた石川の女郎と同人であるか否かも知られない。この歌を贈つた時、既に相當の年配に達していたようである。
 大伴宿祢宿奈麻呂 オホトモノスクネスクナマロ。註にあるように大伴の安麻呂の第三子である。この人、養老三年七月に、安藝周防の按察使に任ぜられ、神龜元年二月には從四位の下に敍せられている。歿年未詳。
 
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや、
 かくばかり 戀に沈まむ。
 手童《たわらは》の如。
  一は云ふ、戀をだに忍びかねてむ、手童《たわらは》の如
 
 古之《フリニシ》 嫗尓爲而也《オミナニシテヤ》
 如此許《カクバカリ》 戀尓將v沈《コヒニシヅマム》
 如2手童兒1《タワラハノゴト》
  一云、戀乎太尓忍金手武 多和良波乃如
 
【譯】年を取つた女なのだのに、これほどまでに子どものように戀に沈むことでしようか。
(395)【釋】古之 フリニシ。古くなつた意味で、年を經た由である。オミナの語が既に老女であるが、それに更にこの句を冠して古びはててしまつた由をあらわしている。
 嫗尓爲而也 オミナニシテヤ。自分は老女であるのにそれにしてもかの義で、ヤは疑問の係助詞。こんな老女であるのにそれでも戀をするのかとみずから怪しんでいる。もつとも古リニシ嫗というのは、どれほどの年齡をさしているかは分からない。やや盛りを過ぎた頃の年輩であろう。
 如此許 カクバカリ。現在の?態をさしてカクといい、それほどにの意をあらわしている。
 戀尓將沈 コヒニシヅマム。戀の思いに沈むことよの意。ヤを受けて結んでいる。句切。
 如手童兒 タワラハノゴト。タは接頭語。タワラはは幼童。ここは若い女をさして言つているであろう。年端も行かない女ならは戀に沈むのももつともであるが、自分のような年輩の女で、なおかつ戀に沈むものかというのである。
 戀乎太尓忍金手武 コヒヲダニシノビカネテム。戀だけも堪えることができないでいるだろうの意。シノビは耐える意。
 多和良波乃如 タワラハノゴト。これは本文と同一である。
【評語】盛り過ぎた女の、少女のような物思いに沈むのをみずから歎いた歌として、上二句の仰山な物言いがよくきいている。勿論本氣で歌つているのではないだろう。あまり趣のない歌である。
【參考】類想。
  あづきなく何の狂言《たはごと》、今更に小童言《わらはごと》する。老人にして(巻十一、二五八二)
 
長皇子、與2皇弟1御歌一首
 
(396)長の皇子の皇弟に與へたまへる御歌一首
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。天武天皇の皇子。
 與皇弟歌 スメイロセニアタヘタマフウタ。皇弟は何人か不明。日本書紀天武天皇紀に、「妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1」とあり、同母弟ならは弓削の皇子である。
 
130 丹生《にふ》の河 瀬《せ》は渡《わた》らずて
 ゆくゆくと 戀痛《こひた》し、吾弟《わおと》、
 いで通《かよ》ひ來《こ》ね。
 
 丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》
 由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒタシワオト》
 乞通來祢《イデカヨヒコネ》
 
【譯】丹生の河の瀬を渡らないで、わたしの心は落ちつかず、戀がひどい。弟よ。さあ通つておいでなさい。
【釋】丹生乃河 ニフノカハ。吉野川の上流、丹生の地を流れる時の稱。
 瀬者不渡而 セハワタラズテ。瀬をば渡らないで。以上その地にいて實際にその川を渡らないことをいい、戀痛シの理由?態になるが、同時に次句のユクユクトを引き起す序になつている。
 由久遊久登 ユクユクト。他に用例は無いが、「大船乃《オホフネノ》 由久良由久良爾《ユクラユクラニ》 思多呉非爾《シタゴヒニ》 伊都可聞許武等《イツカモコムト》」(卷十七、三九六二)などの、ユクラユクラニと同語であろうと言われている。それによれば、大船の波のまにまに動搖するように、心の落ちつかず定まらないことをいう副詞と考えられる。
 戀痛吾弟 コヒタシワオト。コヒタシは、コヒイタシの約、戀のはなはだしいのをいう形容詞。「凡有者《オホナラバ》 左毛右毛將v爲乎《カモカモセムヲ》 恐跡《カシコミト》 振痛袖乎《フリタキソデヲ》 忍而有香聞《シノビテアルカモ》」(卷六、九六五)。この歌の振痛シと同樣の語構成と見られる。イタシは詰つてタシと聞えるのだろう。その終止形。コヒタキとして連體形ともされる。ワオトは、皇帝を呼び懸けている。
(397)乞通來祢 イデカヨヒコネ。乞はイデともコチとも讀まれ、いずれにても通ずる所である。イデは、さあと誘う語。「伊田何《イデイカニ》 極太甚《ココダハナハダ》」(卷十一、二四〇〇)など使われている。「壓乞、此云2異提1」(允恭天皇紀)とあつて、強く乞う意である。コチは此方の義で、こちらへ通つていらつしやいの意。コネは動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語】實際を描いて序に應用した所が、巧みである。言葉の表示する内容の種類が多く、すこしごたごたして感じられる。「丹生の河瀬は渡らずて」「ゆくゆくと戀痛し」「吾弟いで通ひ來ね」とすくなくも三部にわたることが一首に含められているのである。
 
柿本朝臣人麻呂、從2石見國1別v妻上來時歌一首并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國より妻を別かれて上り來し時の歌一首【短歌并はせたり】
 
【釋】從石見國 イハミノクニヨリ。人麻呂が石見の國にあつたのは、多分國司として掾《じよう》、目《さかん》、史生《しぞう》などの地位にあつたものなるべく、その晩年のことと見られる。
 別妻上來時歌 ツマヲワカレテノボリコシトキノウタ。動詞別カルは、その動作の目標となるものについては、助詞ヲを以つて受ける慣である。「久夜之久妹乎《タヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》」(卷十五、三五九四)、「多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワケレテ》」(卷二十、四三四八)の如くである。「父母爾《チチハハニ》 啓別而《マヲシワカレテ》」(卷十九、四二一一)の例は、助詞ニを受けているが、これは、啓が受けているのである。この妻は、人麻呂の後妻であるが、人麻呂の死んだ時に歌を詠んだ依羅《よさみ》の娘子であろう。その人は國府から一里餘を隔てた角《つの》の里におり、人麻呂は、その地に通つたものと考えられる。妻と別かれて上京したとあるは、轉任では無く、朝集使などになつて上京したものであろう。朝集使は、朝集帳をもつて諸國から庶政を報告する使で、畿内は十月二日に、地方は十一月一日に奉る。(398)石見の國から輸税の時の行程は、延喜式によるに、上廿九日下十五日であるから、十月の初めに石見の國を發したであろう。
 并短歌 ミジカウタアハセタリ。長歌に反歌がつけられてある場合に、卷の一では、長歌の題詞には何とも記さないであるが、この卷以下は、みな并短歌とことわつてある。并は、併合の意の字で、竝とは別。長歌に短歌が合わせてある意である。代匠記に菅原家ではアハセタリと讀むそうだという。今これによる。ナラビニと讀むのは非。寛永本に竝に作るのも誤りである。
 
131 石見《いはみ》の海 角《つの》の浦廻《うらみ》を
 浦なしと 人こそ見らめ。
 潟《かた》なしと【一は云ふ。礒無しと。】 人こそ見らめ。
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし 潟は【一は云ふ。礒は。】無くとも、
 鯨魚取《いさなと》り、海邊《うみべ》をさして、
 渡津《わたづ》の 荒礒《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻、
 朝羽振《あさはふ》る 風こそ寄らめ。
 夕羽振る 浪こそ來寄れ。
 浪の共《むた》 か寄りかく寄り
(399) 玉藻なす 寄り宿し妹を、【一は云ふ、はしきよし妹が手本を。】
 露霜《つゆじも》の 置《お》きてし來《く》れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬《よろづ》たび 顧みすれど、
 いや遠に 里は放《さか》りぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。
 夏草の 思ひ萎《しな》えて
 思《しの》ふらむ 妹が門見む。
 靡けこの山。
 
 石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》
 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 滷無等《カタナシト》【一云、磯無登】 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 能咲八師 ヨシヱヤシ浦者無友 ウラハナクトモ
 縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云、礒者】 無鞆《ナクトモ》
 鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
 和多豆乃《ワタヅノ》 荒礒乃上尓《アリソノウヘニ》
 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》
 朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨラメ》
 夕羽振《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨレ》
 浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨリ》
 玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云、波之伎余思妹之手本乎】
 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
 此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
 彌遠尓《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》
 益高尓《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》
 夏草之《ナツクサノ》 念思奈要而《オモヒシナエテ》
 志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》
 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海の角の浦を、浦は無いと人は見もしよう。潟は無いと人は見もしよう。よし浦は無くとも、よし潟は無くとも、クジラを取る海邊をさして、渡海をする津の荒礒の上に、まつ青《さお》な玉藻や沖つ藻に、朝吹く風が吹き寄ろう。夕方に寄せる浪がうち寄せよう。浪と共に、あちらへ寄りこちらへ寄り、玉藻のように寄り添つて寐たわが妻を、露霜のようにうち置いて來ると、この邊の多い曲り角毎に、何遍も何遍も顧みるけれども、段々遠く里は離れた。いよいよ高く山も越えて來た。思いしおれて思つているであろうわが妻の門を見ようと思う。この山よ、たいらになれ。
【構成】この歌は、三段四節から成つている。
 第一段 石見の海岸の描寫「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
  第一節 石見の海の總敍。「滷無しと人こそ見らめ」まで。
(400)  第二節 海岸の特色。「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
 第二段 作者の行動の敍述。「いや高に山も越え來ぬ」まで。
 第三段 作者の希望の敍述。「なびけこの山」まで。
【釋】石見乃海 イハミノウミ。石見の國の海を擧げて、次の句に
冠している。石見の語義は、石の多い海の義かも知れないが、既に地名となつているので、重ねていうこと淡海の海の如き例による。
 角乃浦廻乎 ツノノウラミヲ。角は地名。反歌に高角山とある角、一三八の歌に角の里とある。みな同地で(401)ある。島根縣那賀郡津農町附近の稱である。妻の住んでいる地であるから、この地を擧げて、その風土の説明をしようとするのである。ウラミのミは接尾語。地形をいう語に附して、その地形の彎曲せるものなることをあらわす。ヲは、下の見ラメの處置格を示す。ウラは彎入せる水面をいう。
 浦無等人社見良目 ウラナシトヒトコソミラメ。社をコソと讀むのは、神社に對しては願望をするので、願望のコソに當て、轉じて係助詞にも使用するに至つたものとされている。ミラメは、「行來跡見良武《ユキクトミラム》」(巻一、五五)參照。動詞見ルに、推量の助動詞ラムの接續したものである。ラムは動詞の終止形を受けるのを通例とするが、古くは上一段動詞に限り、ミラムの如き形を取るのである。その意は、世人は、浦無しと見もしようというにある。不定時の現在推量である。
 滷無等人社見良目 カタナシトヒトコソミラメ。カタは水中の渚、潮干ればあらわれるような處。但し日本海方面では、八郎潟、象潟など、海に續いている湖をカタといぅ。ここもその意であろうとする説もある。以上、角ノ浦ミには、實際浦や滷の見るべきものが無いことを、對句で言つている。角ノ浦ミというのは、浦があるようにも取れるが、それは大局についていい、浦無シ滷無シの方は、部分的について言つているらしい。以上第一段の第一節、まず石見の海岸の大勢を敍している。
 一云磯無登 アルハイフ、イソナシト。イソは石の累積せる處。滷無等の別傳である。
 能咲八師 ヨシヱヤシ。ヨシは許容の意で、たとい何々であつてもの意をあらわす。よしやというに同じ。ヱおよびヤシは、共に感動の助詞。ヤシは、ハシキヤシなどのヤシに同じ。ヨシの例は、「雪寒三《ユキサムミ》 咲者不v開《サキニハサカズ》 梅花《ウメノハナ》 縦比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《シカモアルガネ》」(卷十、二三二九)、ヨシヱの例は、「足千根乃《タラチネノ》 母爾不v所v知《ハハニシラエズ》 吾持留《ワガモテル》 心者吉惠《ココロハヨシヱ》 君之隨意《キミガマニマニ》」(卷十一、二五三七)、ヨシヱヤシの例は「爭者《アラソヘバ》 神毛惡爲《カミモニクマス》 縱咲八師《ヨシヱヤシ》 世副流君之《ヨソフルキミガ》 惡有莫君爾《ニクカラナクニ》」(同、二六五九)など。
(402) 浦者無友 ウラハナクトモ。假設前提法で、よし浦は無いとしてもの意。
 縱畫屋師滷者無鞆 ヨシヱヤシカタハナクトモ。上の二句に對して對句を成している。講義にここで段落であるように説いているのは誤りである。
 一云礒者 アルハイフ、イソハ。滷者に對する別傳である。この別傳は、上の一云礒無登とある別傳と同一の傳來であることが知られる。この傳來には、共に滷に代うるに礒とあつたので、照應をしている。かように一首の中には、同一の傳來による別傳が記入されているので、それらの一を採つて本文を改めるが如きことは、避けねばならぬことである。
 鯨魚取 イサナトリ。枕詞。鯨魚を取る義で、海に冠する。クジラをイサナということは、壹岐國風土記の逸文に「鯨伏、昔者鮨鰐追v鯨、鯨走來隱伏、故云2鯨伏1。鰐竝鯨竝化2爲石1、相去一里。俗云v鯨爲2伊佐1」(萬葉集註釋所引)とある。「異舍灘等利《イサナトリ》 宇瀰能波麻毛能《ウミノハマモノ》」(日本書紀允恭天皇紀)。
 海邊乎指而 ウミベヲサシテ。ウミベは海岸。海岸を目ざして海藻を寄せると、下文に續く。
 和多豆乃 ワタヅノ。ワタヅは渡津で、航海する船の發著地である。或る本の歌(一三八)のこの句に相當する處には、柔田津乃とあるので、ここをもニキタヅノと讀む説(仙)があるが、その方はよい傳來でないから、これを證としないがよい。
 荒礒乃上尓 アリソノウヘニ。アリソは、アライソの約言。荒い礒で、浪や岩が大きく、豪壯の感を與える礒をいう。ウヘは、その上であるが、荒礒にというに同じ。
 香青生 カアヲナル。カは接頭語。色については、「蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》」(卷十六、三七九一)の例がある。次の句を修飾している。
 玉藻息津藻 タマモオキツモ。玉藻と沖の藻であるが、同物を語を變えて言つた。この句は、玉藻沖つ藻を(403)呼びあげている。さてそれに風や浪が寄るというのである。
 朝羽振 アサハフル。ハフルは、鳥の羽を振つて飛ぶ意。後の夕羽振流とあるを、ユフハフルと讀むのに照らして、アサハフルと讀んでいる。鳥の羽ぶきのように風の吹くを譬えたのである。類聚名義抄に、※[者/羽]にハフルの訓がある。この字は飛びのぼる意の字。
 風社依米 カゼコソヨラメ。依米は、略解にヨセメと讀んでいる。依をヨスと讀むことは、「奧波《オキツナミ》 依流荒礒之《ヨスルアリソノ》 名告藻者《ナノリソハ》」(卷七、一三九五)、「汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾叫毛曾《ワレヲモゾ》 汝丹依云《ナレニヨストフ》」(卷十三、三三〇五)等、例が多い。ここはヨセメでよく通ずるが、動詞寄スは、下二段活であるから、下の浪社來縁の句については、ナミコソキヨスレと言わなければならず、それは極めて不調であつて、あり得べくも思われない。これは、上の玉藻沖つ藻の句は、玉藻沖つ藻を呼び懸けたもので、強いて言えば、玉藻沖つ藻あり、それに風や浪が寄るというのであろう。實際に歌い上げる場合には、そのあいだに若干の詞句が挿入されるから、格別不合理を感じないであろう。但し四段活の例もある。「妹慮豫嗣爾《メロヨシニ》」(日本書紀三)、「都麻余之許西禰《ヅマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などそれで、人麻呂歌集所出の、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》」(卷九、一六七九)も、上記の例によつてツマヨシコセネと讀まれるから、人麻呂の作品に、四段活に使われていたとしても不思議はない。ただ下のカヨリカクヨリに對しては、やはりヨラメとあるべきだろう。
 夕羽振流浪社來緑 ユフハフルナミコソキヨレ。上の朝羽振風社依米に對して對句を成している。これも上の句と同樣に解すべきである。朝風、夕浪と分けて詠んでいるが、これも、ただ朝夕に風や浪が寄るというべきを、格調上分けたまでである。段落で、以上、第一段の第二節。目前の景によつて想を構えて、以下の、浪ノ共、玉藻ナスの二句を起す序としている。
 浪之共 ナミノムタ。ムタは共の意の古語で、助詞ノもしくはガを受ける。「可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》」(404)(卷十五、三六六一)の例がある。上の風コソ寄ラメの句を受けている。
 彼縁此依 カヨリカクヨリ。カヨリカクヨル(古義)。カもカクも、それとさす體言である。カモカクモ、カニモカクニモ、カ行キカク行キなど、用例が廣い。ここは、あのようにもこのようにも寄るの意。下の寄リ宿シを修飾する。カヨリカクヨルと讀むのは、ただちに次の玉藻を修飾するとするのであるが、調子の上からは、カヨリカクヨリがすぐれている。
 玉藻成 タマモナス。玉藻のようにある。上の玉藻沖ツ藻の句と照應している。
 依宿之妹乎 ヨリネシイモヲ。寄り添い寢た妻をである。妹は女子の愛稱。妻というと客觀性が強くなるが、妹というと、三人稱に使用されても、その人を思う情味が感じられる。
 一云波之伎余思妹之手本乎 アルハイフ、ハシキヨシイモガタモトヲ。上の玉藻ナス寄リ宿シ妹ヲの句に對する別傳であるが、これでは、上の浪ノムタカ寄リカク寄リの句に、接續しない。本文の方が可である。ハシキヨシは、ハシキヤシともいう。ハシキは愛すべくある意の形容詞。ヤシは感動の助詞。タモトは手の上部、腕。
 露霜乃 ツユジモノ。枕詞。置クに冠する。ツユジモは、露と霜とであるとする見解と、一種のものであるとする見解とがあるが、これはたとえば、山川の如き語について、山と川とも、また、山中の川とも解せられるようなもので、兩立し得る解である。ここは十月のはじめごろとする季節によつて、ツユジモとし、露からなかば、霜になつたものとすべきだろう。「烏玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》 取者消乍《トレバケニツツ》(卷七、一一一六)、「夢戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋※[草冠/互]子者《アキハギハ》 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須疑由君《サカリスギユク》」(卷八、一六〇〇)の如き例は、この用法である。
 置而之來者 オキテシクレバ。妹を置いて來ればで、シは強意の助詞。
(405) 此道乃八十隈毎 コノミチノヤソクマゴトニ。今通行している道路なので、この道という。八十隈は、多數の曲りかどの隅。山路であつて、隈が多いのである。
 萬段顧爲騰 ヨロヅタビカヘリミスレド。ヨロヅタビは度數の多いことをいう。
 弥遠尓里者放奴 イヤトホニサトハサカリヌ。イヤトホニは、いよいよ遠くの意の副詞句。サトは、別れて來た妻の住んでいる里である。サカリは離れる意の動詞。句切。
 益高尓山毛越來奴 イヤタカニヤマモコエキヌ。上のイヤ遠ニ里ハサカリヌの句と對句を成している。いよいよ高く山も越えて來たの意で、句切。以上第二段。作者が山路につき、妻の住む里から、遠ざかつたことを敍している。「道前《チノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過往者《ワガスギユケバ》 爾遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 禰高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》」(卷十三、三二四〇)の如き類型の句がある。
 夏草之 ナツクサノ。枕詞。夏の草は、日に萎えるものであるから、次のシナエテに冠する。
 念思奈要而 オモヒシナエテ。シナエテは、なえなえとしての意。「於v君戀《キミニコヒ》 之奈要浦觸《シナエウラブレ》」(卷十、二二九八)等の例に依り、シナユの語があることが知られる。下二段活。
 志怒布良武 シノフラム。このシノフは、思慕する意に使用されている。別かれた後の妻の樣子を想像している句で、連體形である。布は、シノフの清音であつたことを語る。
 妹之門將見 イモガカドミム。妻が家の門を見ようの意。句切。
 靡此山 ナビケコノヤマ。邪魔になるこの山に對して、靡き伏せと命じている。この山が無くば、妹の門が見えるだろうというのである。勿論それは構想であつて、山が無くても遠く來たので見えるわけは無いのだがそれを山に對してたいらになれと言う所に、妻を思う情があらわれている。「惡木山《アシキヤマ》 木末悉《コヌレコトゴト》 明日從者《アスヨリハ》 靡有社《ナビキタリコソ》 妹之當將v見《イモガアタリミム》」(卷十二、三一五五)の歌は、類想の歌である。「靡得《ナビケト》 人雖v跡《ヒトハフメドモ》 如此依等《カクヨレト》 人雖v衝《ヒトハツケドモ》 (406)無v意《ココロナキ》 山之《ヤマノ》 奧礒山三野之山《オキソヤマミノノヤマ》」(卷十三、三二四二)の歌は山を邪魔にしている。以上第三段、作者の希望を述べて力強く結んでいる。
【評語】前半に何か事を敍して、それを譬喩として、中心内容に移る手段は、古事記あたりの古歌謠に常に見られるところであるが、この歌は、その形を受けている。はじめに石見の海の?況を敍したのは、山路を分け行くことに對して無關係のようであるが、これは角の里から、妻に別かれて山にさしかかり、そこから石見の海岸線が見渡される。その縁によつてこれを敍したので、間接ではあるが身邊の敍景になるのである。その矚目の物に筆を起して、カヨリカクヨリ靡キ寐シ妹を起す序としている。主題は最後の一句、靡ケコノ山にあるであろうが、そこに至るまでに、敍述を十分に盡して、準備を重ねている。これによつて、最後の一句が力強くなるのである。
 
反歌二首
 
132 石見《いはみ》のや 高角《たかつの》山の 木《こ》の間《ま》より、
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹見都良武香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の國の高角山の木の間から、わたしの振る袖を、わが妻は見ただろうか。
【釋】石見乃也 イハミノヤ。ヤは、感動の助詞であつて、意味にあつては、石見の高角山というに同じ。このヤの助詞ノに接續する例は、「阿符美能野《アフミノヤ》 ※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》」(日本書紀九八、繼體天皇紀)の例がある。本集には、動詞助動詞の連體形に按績する例は多いが、助詞ノに接續する例は、「淡海之哉《アフミノヤ》 八橋乃小竹乎《ヤバセノシノヲ》」(卷七、−三五〇)の例があるだけである。「美奈刀能《ミナトノ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》」(卷十四、三四四五)の初(407)句、美奈刀能の下に、仙覺本には也の字があるが、元暦校本等には無い。元來このヤは、歌いあげる時に、詞句の末につける感動の語から來たもので、琴歌譜の語中の歌詞を見ると、多數使用されており、しかもそれが別に歌詞として整理される場合には、大抵省路されて記録されない。ところが一句の音節數が固定するに及んで、五音もしくは七音の數に合わせるために、これが記録される場合を生ずる。この石見ノヤの如きもその一例であつて、歌われる歌に存する特有のものが、文筆作品としての記録形態を完成するために、使用されたものである。助詞ノに接續する場合は、その遊離性が強いために、廣く行われるに至らなかつたものであろう。なお、「吾はもや」のヤの如きも、同樣の經路により、發達したものと考えられる。萬葉後期においては、熟語的に使用されるもの以外には、かような形はほとんど行われなくなつた。
 高角山之 タカツノヤマノ。高角山は、角の里から上京の途上にある山で、角の地の山であるから角山といい、これに形容詞高を添えて高角山という。
 木際從 コノマヨリ。樹の間を通して、樹間から。木ノ間ヨリワガ振ル袖と次句に續くのであつて、見ツラムカに續くのではない。
 我振袖乎 ワガフルソデヲ。袖を振るは、合圖をするためであつて、この場合は、別れを惜しむために振る。袖は、手の部分を蔽うものであるから、畢竟手を振ることである。集中例は多い。別れに際して振ることをいうものに、「倭道者《ヤマトヂハ》 雲隱有《クモガクリタリ》 雖v然《シカレドモ》 余振袖乎《ワガフルソデヲ》 無禮登母布奈《ナメシトモフナ》」(卷六、九六六)、「汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》 飽足爾《アクマデニ》 袖振所v見都《ソデフルミエツ》 及2雲隱《クモガクルマデ》1」(卷十、二〇〇九)などがある。
 妹見都良武香 イモミツラムカ。カは疑問の助詞。妹見ツを推量し、これを疑問としている法である。わが妻は見たであろうかと推量している。妹が木の間より見つらむかの意であるとする説は非である。語句の順序から見ても、それは穩當でない。
(408)【評語】道を行き進み、山を登りつつ、顧みがちに袖を振つた。山が邪魔になり、道の隈が重なつても、見えないと知りながら、妹を思つて袖を振つた心である。石見の國府から、實際袖を振るのが見える位置に、高角山を求めるのは間違いである。
 
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山もさやに 騷《さや》げども
 われは妹おもふ。
 別れ來ぬれば。
 
 小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清尓《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》
 吾者妹思《ワレハイモオモフ》
 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
【譯】小竹《ささ》の葉は、山もさやさやと風に騷ぐけれども、自分はただわが妻を思う。別れ來たのであるから。
【釋】小竹之葉者 ササノハハ。ササガハハ(代)。小竹は、ササともシノとも讀むが、この歌では、ササと讀むがよい。小竹《ささ》、サヤニ、騷《さや》ゲドモと、サを頭韻としたために、全山ささと鳴る感じが出るのである。古事記上卷自註に、「訓2小竹1云2佐々1」とある。「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》 奈々弁加流《ナナヘカル》 去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》 古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》」(卷二十、四四三一)。
 三山毛清尓 ミヤマモサヤニ。ミは接頭語。山を賞美して、山の山たる所をあらわす。いかにも山だという氣分でいる。サヤニは、音や色が他に紛れない?態をいう副詞。ここに清爾の字を當て、他にも多く清の字を當てているのは、サヤが清明の意であるに由るものであろう。ここでは、次の句の騷ぐ?態を、ミ山モサヤニと限定指向している。山もさやかに騷ぐというのである。「足引之《アシヒキノ》 御山毛清《ミヤマモサヤニ》 落多藝都《オチタギツ》 芳野河之《ヨシノノカハノ》」(卷六、九二〇)の、ミ山モサヤニと同樣の用法である。
 亂友 サヤゲドモ。ミダレドモ(舊訓)、マガヘドモ(代匠記一説、攷證)、サヤゲドモ(檜嬬手)等の諸訓がある。サヤゲドモと讀むのは、「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》」(卷二十、四四三一)とある例による。この(409)語は日本書紀神武天皇紀に「聞喧擾之響焉、此云2左揶霓利那離《サヤゲリナリ》1」とあり、本集に「葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》」(卷十、二一三四)とあつて、喧擾の聲を立てるをいう。ドモは逆態前提法を示す助詞であるが、ここでは、小竹の葉は騷ぐけれども、それには拘わらずにの如き意味を成している。「タカシマノアトカハナミハサワケドモワレハ
家思《イヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》」(卷九、一六九〇)の騷ケドモは、これと同樣の用法であり、一首の形も似ている歌である。
 吾者妹思 ワレハイモオモフ。初句の小竹の葉に對し、吾ハと時に提示している。句切。
 別來禮婆 ワカレキヌレバ。上の吾ハ妹思フの理由を説明している。
【評語】滿山の小竹が秋風に鳴る中を、妻に別れて行く氣分がよく描かれている。諸種の訓法があるが、サを頭韻とする訓がすぐれているようだ。高宕な風格の出ている作品である。
 
或本反歌曰
 
或る本の反歌に曰はく
 
【釋】或本反歌 アルマキノヘニカ。或る本には、次の歌が反歌として傳えられているというのであるが、これは、石見ノヤの歌に代わるものである。この或る本というのは、いかなるものとも記されていないが、多分本文の歌中に一云とあるものと同一の傳來であつて、その一云の歌詞を本文とするものに、この反歌が添えられてあつたのであろう。
 
134 石見なる 高角山《たかつのやま》の 木の間ゆも
 わが袖振るを 妹見けむかも
 
 石見《イハミ》尓有《ナル・ニアル》 高角山乃《タカツノヤマノ》 木間從文《コノマユモ》
 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》
 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
(410)【譯】石見の國なる高角山の木の間を通して私が袖を振るのを、わが妻は見たであろうか。
【釋】石見尓有 イハミナル。尓有の漢字を假字に飜す時にはニアルであるが、音聲としてはナルである。次の高角山の所在を示している。しかし石見ナルという言い方は説明的で、石見ノヤの句に比して、石見に對して親しみを持つていない。後人の吟誦のあいだに轉訛したものであろう。
 木間從文 コノマユモ。モは感動をあらわす助詞で、木の間を通してというに同じ。
 吾袂振乎 ワガソデフルヲ。これは動作が主になつている。
 妹見監鴨 イモミケムカモ。後になつてはたして見たであろうかと推量する語法を使つている。
【評語】後人傳承のあいだに轉訛を生じた歌と思われる。本文の歌に及ばない所以である。
 
135 つのさはふ 石見の海の
 言《こと》さへく 韓《から》の埼なる
 海石《いくり》にぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる。
 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生ふる。」
 玉藻なす 靡き寐《ね》し兒を
 深海松の 深めて思へど、
 さ宿《ね》し夜は いくだもあらず、
 延《は》ふ蔦《つた》の 別れし來《く》れば
 肝《きも》向ふ 心を痛み、
(411) 思ひつつ 顧みすれど、
 大舟の 渡《わた》りの山の
 黄葉《もみちば》の 散りのまがひに
 妹が袖 さやにも見ず。
 嬬隱《つまごも》る 屋上《やかみ》の 【一は云ふ、室上《むろかみ》山の、】 山の
 雲間より 渡らふ月の
 惜しけども 隱《かく》らひ來れば、
 天《あま》づたふ 入日さしぬれ、
 丈夫《ますらを》と 念へる吾も、
 敷細《しきたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 通りて濡《ぬ》れぬ。」
 
 角障經《ツノサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》
 言佐敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》
 伊久里尓曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミルオフル》
 荒礒尓曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》
 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》
 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテオモヘド》
 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛不v有《イクダモアラズ》
 延都多乃《ハフツタノ》 別之來者《ワカレシクレバ》
 肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》
 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
 大舟之《オホブネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》
 黄葉乃《モミチバノ》 散之亂尓《チリノマガヒニ》
 妹袖《イモガソデ》 清尓毛不v見《サヤニモミズ》
 妻隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤカミノ》【一云、室上山】山乃《ヤマノ》
 自2雲間《クモマヨリ》1 渡相月乃《ワタラフツキノ》
 雖v惜《ヲシケドモ》 隱比來者《カクラヒクレバ》
 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》
 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》
 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
【譯】この石見の海の韓の埼なる、海中の石に深海松は生えている。玉藻は生えている。その玉藻のように、寄り添つて寢た妻を、深海松のように、深い心から思うけれども、寢た晩は何ほどもなく、這うツタのように別れて來れば、心が痛さに、思いつつ顧みするけれども、目の前の山の黄葉が散り亂れるので、妻の袖をはつきりとも見ない。妻のこもるといぅ屋上の山の雲間から、大空を渡り行く月のように、惜しいけれども、隱れて行けば、今日も夕方になつて、夕日がさしたから、立派な男と思つている自分も、衣の袖は、涙に裏まで濡れ通つた。
(412)【構成】二段から成つている。荒礒ニゾ玉藻ハ生フルまで第一段。旅行している石見の海の風物を敍述する。以下終りまで第二段、妻に別れて上京する作者の行動について敍述する。この歌には、特に主觀を敍する部分は無い。
【釋】角障經 ツノサハフ。枕詞。石に冠する。日本書紀に、「菟恕瑳破赴《ツノサハフ》 以破能臂謎餓《イハノヒメガ》」(五八、仁コ天皇紀)、「都奴婆播符《ツヌサハフ》 以簸例能伊開能《イハレノイケノ》」(九七、繼體天皇紀)などあり、古い枕詞であることが知られる。語義は、冠辭考に、ツヌサはツナで、ツタの這うであるといい、荒木田久老はツヌはツタで、サハフはサハハフの約言であると云つている。しかしツヌサの語は無く、またサハハフの説も首肯されない。この枕詞は、集中五出しているが、いずれも角障經の文字を使用しており、他に明解が無いとせば、この字面は相當考慮されて然るべきである。すなわちツノは角であり、突出部を意味するものなるべく、サハフは、障ハフで、障フの連續?態をあらわすものと解される。角が障害になる義で、石を修飾説明する枕詞になつているのであろう。
 言佐敝久 コトサヘク。枕詞。下に、「言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》」(卷二、一九九)とあり、韓、百濟の枕詞となつている。コトは言語の義であり、サヘクは、從來騷ぐと同じで、言語の騷々しい意とされていた。しかしサヘクがサワクと同語であるといぅ證明は無い。むしろ、障フと關係あるものと見るべく、言語の通じない意を以つて、韓、百濟に冠するものと見るべきである。
 辛乃埼有 カラノサキナル。島根縣邇摩郡宅野村の海上に辛島があり、それに對する海濱の岬角であろうという。
 伊久里尓曾 イクリニゾ。イクリは、海中の岩礁をいう。「由良熊斗能《ユラノトノ》 斗那賀能《トナカノ》 伊久理爾《イクリニ》 布禮多都《フレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)、「淡路乃《アハヂノ》 野島之海子乃《ノジマノアマノ》 海底《ワタノソコ》 奧津伊久利二《オキツイクリニ》 鰒珠《アハビタマ》 左盤爾潜出《サハニカヅキデ》」(卷六、九三三)など使用されている。「曉之《アカトキノ》 寐覺爾聞者《ネザメニキケバ》 海石之《イクリノ》 鹽干乃共《シホヒノムタ》」(卷六、一〇六二)の海石も(413)イクリと讀むべきであろう。海中の暗礁をいうとする説があるが、暗礁に限定しないでもよいのだろう。
 深海松生流 フカミルオフル。ミルは海松。倭名類聚鈔海菜類に「水松?如v松而無v葉【和名美流】楊氏漢語抄云海松【和名上同俗用之】」とある。海中の深い處に生えるもので、深海松という。句切。下の深海松ノ深メテの句を引き起すためにこの句を出している。
 荒礒尓曾玉藻者生流 アリソニゾタマモハオフル。上の海石ニゾ深海松生フルの句と對句を成し、次の玉藻ナスを引き起す準備をしている。以上第一段、石見の海の風物を敍して、第二段を引き出す序としている。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。靡クに冠する。上の玉藻ハ生フルの句を受けている。
 靡寐之兒乎 ナビキネシコヲ。ナビキは、妻の樣子を説明している。コは愛稱。妻のこと。
 深海松乃 フカミルノ。枕詞。深メテに冠している。上の深海松生フルの句を受けている。
 深目手思騰 フカメテオモヘド。心を深めて、心の底から思うけれども。
 左宿夜者 サネシヨハ。サは接頭語。
 幾毛不有 イクダモアラズ。イクダは幾何の意。「佐禰斯欲能《サネシヨノ》 伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》」(卷五、八〇四)、「左尼始而《サネソメテ》 何太毛不v在者《イクダモアラネバ》」(卷十、二〇二三)などある。また「年月毛《トシツキモ》 伊久良母阿良奴爾《イクラモアラヌニ》」(卷十七、三九六二)
の如くイクラともいう。ここは古きに從つてイクダと讀む。ココダの如きも、本集ではココダであるが、後にはココラになつている。結婚して久しくないのであろう。
 延都多乃 ハフツタノ。枕詞。ツタの枝の分岐するより別レの枕詞となる。
 別之來者 ワカレシクレバ。シは強意の助詞。
 肝向 キモムカフ。枕詞。古人は精神は腹中にあると信じていた。人の腹中には臓腑が澤山あつて相對している。臓腑はすべてキモだから、肝向フ心と續くのである。
(414) 心乎痛 ココロヲイタミ。心が痛くして。心が惱ましくて。
 念乍顧爲騰 オモヒツツカヘリミスレド。妻を思いつつ顧みるけれども。
 大舟之 オホブネノ。枕詞。大船で渡るということから、渡りに冠する。
 渡乃山之 ワタリノヤマノ。ワタリは、此處から向こうへ渡れる處をいう。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十、二三七九)。渡りの山は、わが前に立つている山をいう。山の名とするは誤りである。
 黄葉乃散之亂尓 モミチバノチリノマガヒニ。チリノミタレニ(温)。散り亂れることをチリマガフという。マガフは、他物と紛れる意に使つているが、區別がつかないので、亂れるの意になるのだろう。「毛美知葉能《モミチバノ》 知里熊麻河比波《チリノマガヒハ》」(卷十五、三七〇〇)、「春花乃《ハルバナノ》 知里能麻可比爾《チリノマガヒニ》」(卷十七、三九六三)などある。「秋〓之《アキハギノ》 落乃亂爾《チリノマガヒニ》 呼立而《ヨビタテテ》」(卷八、一五五〇)は、ここと同樣の用字法である。この句は實景で、おりしも秋から冬へかけての頃であつたことを語つている。
 妹袖清尓毛不見 イモガソデサヤニモミズ。散り亂れる黄葉に紛れて、妻の袖を明瞭にも見ずの意で、下の惜シケドモ隱ラヒ來レバの句に接續する。
 嬬隱有 ツマゴモル。枕詞。妻の籠るの意に屋に冠する。「妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤノノカミヤマ》」(卷十、二一七八)。
 屋上乃山乃 ヤカミノヤマノ。島根縣那賀郡淺利村附近の高仙《タカセン》山のことであるという。因幡の八上郡の山ともいうが、因幡と石見とのあいだには出雲の國があるので、遠すぎよう。
 一云室上山 アルハイフ、ムロカミヤマノ。屋上乃山乃の句の別傳であろうが、その山は所在未詳である。
 自雲間渡相月乃 クモマヨリワタラフツキノ。ワタラフは、渡ルの續いて行われるをいう。雲のあいだを渡る月で、たちまち隱れて見えなくなるので、次の惜シケドモ隱ラヒ來レバを引き起している。これは實景ではなかろう。以上、嬬ゴモル以下この句まで序詞。
(415) 雖惜隱比來者 ヲシケドモカクラヒクレバ。上の、思ヒツツ顧ミスレド、妹ガ袖サヤニモ見ズを受けて、妻のあたりは惜しいが隱れて來るのでと續けている。
 天傳 アマヅタフ。枕詞。天空を傳う意で日に冠する。假字書きの例は無く、皆、天傳と書いている。「天傳《アマヅタフ》 日笠浦《ヒガサノウラニ》 波立見《ナミタテリミユ》」(卷七、一一七八)。
 入日刺奴禮 イリヒサシヌレ。入日がさしたからという意の條件法である。日が暮れて、入日のさしわたる頃となつたから。「あしひきの山邊をさして、夕闇と隱りましぬれ、言はむ術せむ術知らに」(下略)(卷三、四六〇)、「ひさかたの天知らしぬれ、こいまろびひづち泣けども爲《せ》む術《すべ》も無し」(同、四七五)など、この語法である。バを補つて、入日さしぬれば、知らしぬればというように解してよい。
 大夫跡念有吾毛 マスラヲトオモヘルワレモ。既出(卷一、五)。立派な男兒と思つている自分も。當時の自負をあらわしていを句。マスラヲトオモヘルワレ、五、七一九、九六八、二五八四。マスラヲトオモヒシワレ、二八七五。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。既出。
 衣袖者 コロモノソデハ。衣服の袖は。
 通而沾奴 トホリテヌレヌ。涙のために、裏まで通つて濡れたの意。「吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》」(卷十三、三二五八)、「和我袖波 《ワサソデハ》 多毛登等保里弖《タモトトホリチ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》」(卷十五、三七一一)など類句がある。
【評語】この長歌は、前の靡ケコノ山の長歌と構成を等しくしている。すなわち、行路の屬目である石見の海の風物に筆を起して、さてそれを序として、玉藻ナス、深海松ノの兩句を呼び、ここに本題にはいつて、妻との別れの情を敍している。前の歌の結句のような強さは見られないが、旅情の敍述は、この方が詳審である。同じ題材、同じ構造のもとに、全く別箇の長歌を成したことは、作者の手腕によるものであろう。前の歌と同(416)時の作であるか否かは不明であるが、人麻呂は、吉野の宮に幸でましし時、妻の死りし時など、同題のもとに、しばしば二篇の長歌を留めているから、ここでも、同時に二篇の長歌を作つたとも考えられる。
 
反歌二首
 
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み、
 雲居にぞ 妹があたりを
 過ぎて來にける。
    一は云ふ、あたりは隱り來にける
 
 青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》
 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》
 過而來計類《スギテキニケル》
    一云、當者隱來計留
 
【譯】わたしの乘つている青駒の歩みの速さに、雲のように遠く、わが妻の家のあたりを、過ぎて來てしまつた。
【釋】青駒之 アヲゴマノ。アヲゴマは、倭名類聚鈔に?を釋して、漢語抄に?青馬也とあるを引き、青白雜毛馬也とあるから、青と白とまじつた毛の馬をいう。白馬節會をアヲウマノセチヱというのは、平安時代以後のことであるが、その白馬も、本來は純白の馬ではなくて、青白い馬を見たものであろう。コマはもと小馬の義だが、コは愛稱の接頭語となつて、ちいさい意は無い。
 足掻乎速 アガキヲハヤミ。アガキは、馬の足の運びをいう。それが速くして。「赤駒之《アカゴマノ》 足我枳速者《アガキハヤケバ》 雲居爾毛《クモヰニモ》 隱往序《カクリユカムゾ》 袖巻吾妹《ソデマケワギモ》」(巻十一、二五一〇)。
 雲居曾 クモヰニゾ。クモヰ、天空遠き處の雲。ヰは接尾語。遠くの空に、遠方にの意。
 妹之當乎 イモガアタリヲ。妻の住む家の附近を。
(417) 過而來計類 スギテキニケル。ゾを受けて、連體形で結んでいる。
 一云當者隱來計留 アルハイフ、アタリハカクリキニケル。本文の四句の後半からの別傳である。これに依れば、妹があたりは、雲居に隱れて來たということになる。
【評語】長歌の隱ラヒ來レバを受けて、別の方面から説明している。長歌の意を補足するものというべきである。長歌には、悲痛の感情を露骨にあらわしているが、これは單に事を敍するだけなのが、反歌として賢明な行き方で、これによつて感慨がいつそう高められる。「遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く到らむ。歩め黒駒」(巻七、一二七一、人麻呂集)は、これと反對に妹の家に近づくことを歌つている。いずれも馬上の陳思である。
 
137 秋山に 落つる黄葉《もみちば》
 須臾《しましく》は な散り亂《まが》ひそ。
 妹があたり見む。
    一は云ふ、散りな亂れそ
 
 秋山尓《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミチバ》
 須臾者《シマラクハ》 勿散《ナチリ》亂《マガヒ・ミダレ》曾《ソ 》
 妹之當將v見《イモガアタリミム》
    一云、知里勿亂曾
 
【譯】秋山に落ちる黄葉よ、暫くは散り亂れることなかれ。わが妻の家の邊を見よう。
【釋】秋山尓落黄葉 アキヤマニオツルモミチバ。黄葉の散るをオツということは、「和我世故我《ワガセコガ》 之米家牟毛美知《シメケムモミチ》 都知爾於知米也毛《ツチニオチメヤモ》」(巻十九、四二二三)など例がある。この句、黄葉を呼び懸けている。古義には落をチラフと讀んでいるが、ここはフに相當する字が無いから、オツルとする。地上に落下する意である。
 須臾者 シマシクハ。シマシクは、文字通り寸時である。ちよつとの間は。
 勿散亂曾 ナチリマガヒソ。ナは禁止の意の助詞。亂は、ミダレとも讀まれるが、この歌は長歌の句によつ(418)ていると見られるので、そのチリノマガヒニを受けてナチリマガヒソと讀む。ソは助詞。句切。
 妹之當將見 イモガアタリミム。妹が家のあたりを見ようの意。獨立文。
 一云知里勿亂曾 アルハイフ、チリナミダレソ。かようにナを動詞のあいだに入れていうこともあつたのである。この場合、ナは、散りの方に密接していると見られる。「須與者《シマシクハ》 落莫亂會《チリナミダレソ》」(卷九、一七四七)は、これと同句である。
【評語】この反歌は、前の長歌の、黄葉ノ散リノマガヒニの句と、妹ガアタリの句とを取つて、これを主題として、一首を構成している。情意なき黄葉に對して、心ある動作をするよう命じたのは、作者の構想である。妹を見ようと思う心の切なのが、ここに及んでいるのである。挽歌の「秋山の木の葉を茂み」も、黄葉の散亂するために亡き妻が求められない意に歌つており、これと共通するものがある。その間あまり年月を隔てていないのだろう。以上の歌は、旅中の獨語の作で、相聞の部に收めてあるけれども、妻のもとに贈つたものではないようだ。
 
或本歌一首 并2短歌1
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。前出の一三一の歌の別傳である。その歌は、本文中にも詞句の別傳を傳えていたから、併わせて三種の傳來があることになる。これは前掲の歌と、詞句の相違が相當に多いので、別掲したのであろう。
 
138 石見《いはみ》の海《うみ》 津の浦を無み、
 浦無しと 人こそ見らめ。
(419) 潟無しと 人こそ見らめ。」
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし  潟は無くとも
 勇魚取《いさなと》り 海邊《うみべ》を指《さ》して
 柔田津《にきたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻《も》、
 明《あ》けくれば 浪《なみ》こそ來寄《きよ》れ。
 夕されば 風こそ來寄れ。
 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り
 玉藻《たまも》なす 靡き吾が宿《ね》し、
 敷細《しきたへ》の 妹が手本《たもと》を、
 露霜の 置きてし來れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬度《よろづたび》 かへりみすれど、
 いや遠に 里|放《さか》り來《き》ぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。」
 はしきやし わが嬬《つま》の兒《こ》が
(420) 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて
 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む。
 靡《なび》け、この山《やま》。
 
 石見之海《イハミノウミ》 津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》
 浦無跡《ウラナミト》 人社見良米《ヒトコソミラメ》
 滷無跡《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖v無《ウラハナクトモ》
 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖v無《カタハナクトモ》
 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
 柔田津乃《ニキタヅノ》 荒磯之上尓《アリソノウヘニ》
 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》
 明來者《アケクレバ》 浪己曾來依《ナミコソキヨレ》
 夕去者《ユフサレバ》 風己曾來依《カゼコソキヨレ》
 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 玉藻成《タマモナス》 靡吾宿之《ナビキワガネシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》
 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧雖v爲《カヘリミスレド》
 弥遠尓《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》
 益高尓《イヤタカニ》 山毛超來奴《ヤマモコエキヌ》
 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》
 將v嘆《ナゲクラム》 角里將v見《ツノノサトミム》
 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海には津の浦が無く、それを浦が無いと人が見もしよう。潟が無いと人が見もしよう。よしや浦が無くとも、よしや潟が無くとも、海岸を指して柔田津の荒磯の上にまつ青な美しい沖の藻よ、夜が明けて來れば浪が來寄せる。夕べになれば風が來寄せる。その浪と共にあちらに寄りこちらに寄り玉藻のように靡いて私の寢たやわらかい妻の腕を、露霜のように置いて來れば、この道の數々の曲り角毎に何遍でも振り返つて見るけれども、いよいよ遠く里は離れて來た。いよいよ高く山も越えて來た。いとしのわが妻が夏草のように思いにうち萎れて嘆いているであろう角の里を見よう。たいらになれ、この山よ。
【構成】段落は、前の一三一の歌と同樣である。「夕されば風こそ來寄れ」まで第一段、石見の海岸の風物を敍す。うち、「滷無しと人こそ見らめ」まで第一節、總敍。以下第二節、特性を敍する。「いや高に山も越え來ぬ」まで第二段、作者の行動を敍する。以下終まで第三段、希望を敍して結んでいる。
【釋】津乃浦乎無美 ツノウラヲナミ。前出の歌には角乃浦廻乎とあり、その方がよく通る。これはそれを訛傳したのであろう。これでは下の句との按續がわるい。これを誤字ありとする説があるが、かような形において傳えられたものと解すべきである。
 柔田津乃 ニキタヅノ。前の歌では和多豆乃とあつた。此處に柔田津とあるのに依れば地名とすべきであろう。かの和多豆をもニキタヅと讀めというのは、この字面に依つているのである。しかし恐らくはもと和多豆乃とあつたものをニキタヅと讀み誤つて、この字面を生じたものであろう。
(421) 明來者浪己曾來依 アケクレバナミコソキヨレ。前の歌には、朝羽振風社依米とあつて、朝羽振は風を修飾していた。この傳來では、夜が明けて來ればと敍している。また浪が先になつている。
 夕去者風己曾來依 ユフサレバカゼコソキヨレ。これも前の歌には、夕羽振流浪社來縁となつていた。
 靡吾宿之 ナビキワガネシ。前の歌では、依宿之妹乎となつており、玉藻ナスは、妻の修飾になつていた。この傳來では、作者自身が靡いて寢たと言つている。しかし男子が靡キ宿シというのはおかしいことであり、また玉藻のように靡くということは、人麻呂の歌には常に婦人の上にいうことであつて、自分が靡いて寢たというのはまさしく傳え誤つたものと認められる。また下の句に對して靡キ吾ガ寢シ妹ガ手本ヲではよく續かないのである。
 敷妙之妹之手本乎 シキタヘノイモガタモトヲ。この句は、前の歌には相當する句が無く、以上の四句を併せて玉藻成依宿之妹乎になつているのである。前の歌の歌詞中の一云に、波之伎余思妹之手本乎とあるは、この或る本の傳來と關係があるのであろう。
 里放來奴 サトサカリキヌ。前の歌には、里者放奴とあり、これもその方がよい。
 早敷屋師吾嬬乃兒我 ハシキヤシワガツマノコガ。前の歌には、この句が無い。この或る本の傳來では、下が角ノ里見ムとあるので、この句のあるを要する。ハシキヤシは、愛すべきの意で、ヤシは感動の助詞。ツマノコは妻をいう。コは愛稱。「波之吉余之《ハシキヨシ》 曾能都末能古等《ソノツマノコト》 安沙余比爾《アサヨヒニ》 惠美々惠末須毛《ヱミミヱマズモ》」(卷十八、四一〇六)、「佐穗度《サホワタリ》 吾家之上二《ワギヘノウヘニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音夏可思吉《コヱナツカシキ》 愛妻之兒《ハシキツマノコ》」(卷四、六六三)など、用例がある。
 將嘆 ナゲクラム。前の歌には、志恕布良武とあつた。シノフは内面的であり、ナゲクは外形にあらわれている。いずれでもよいが、シノフの方が奧行が深い。
 角里將見 ツノノサトミム。前の歌には、妹之門將見とあつた。この歌では、上の、ハシキヤシワガ妻ノ兒(422)ガの句があるから、角の里と言つている。これも妹ガ門の方が、欲する所が集中されていてよい。
【評語】以上註釋の欄に記したように、前の歌の方がおおむね正説と認められる。傳承のあいだに訛傳を生じたものであろう。しかしこれに依つて、この歌が當時の人々のあいだに愛誦されたことが知られる。
 
反歌一首
 
139 石見《いはみ》の海 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の際《ま》より。
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見之海《イハミノウミ》 打歌山乃《ウツタノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹將v見香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の海の打歌の山の木のあいだからわたしの振る袖を妹は見たであろうか。
【釋】石見之海 イハミノウミ。次の打歌山の所在を示している。しかし長歌の方は角ノ浦ミであるから石見の海と言つてよいのだが、打歌の山の所在を石見の海というのは無理である。
 打歌山乃 ウツタノヤマノ。地名であろうが所在未詳。しかし前出の高角山の誤傳と認められる。これも高角山とあつた高を打歌と書いたのから誤つたものであろう。
【評語】この歌も前出の一三二の歌の別傳である。しかし初句二句はあきらかに誤傳であることを語つている。それにしてもこの歌も、一三二、一三四、及びこの一三九の如く數種の傳來を有しているのは、廣く愛誦されて居たことを語るものとして注意される。他人の歌を集める歌集の編集も行われていたであろう。
 
右、歌體雖v同、句々相替、因v此重載。
 
右は、歌の體同じといへども、句々相替れり。これに因りて重ねて載す。
 
(423)【釋】右 ミギハ。一三八、一三九の二首を指している。それを載せるについての説明である。
 歌體 ウタノカタチ。體は、形體の意であろう。歌經標式には歌體三ありとして、求韵、査體、雜體の三を擧げている。
 
柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子、與2人麻呂1相別歌一首
 
柿木の朝臣人麻呂が妻の依羅の娘子の、人麻呂と相別るる歌一首
 
【釋】柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子 カキノモトノアソミヒトマロガメノヨサミノヲトメ。依羅は氏であろう。配偶者があつても、娘子の文字を使用することは、「娘子臥聞2夫君之歌1」(卷十六、三八〇五題詞)、「時有2娘子1、夫君見v棄、改2適他氏1也」(同、三八一五左註)など例が多い。若い婦人というだけで結婚していると結婚していないとに關しない。この人は、後に、「柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首」(卷二、二二四題詞)とあつて、人麻呂の死んだ時に、歌を詠んでいるから、その後妻であることはあきらかである。石見の國にいた娘子で、人麻呂が上京に際して別れを悲しんで歌を詠んだのも、この人に對してであろう。その他いかなる人とも知られないが、京より伴ない下つたという徴證も無く、部内の娘子を娶つたのでもあろうかと考えられる。
 
140 な念《おも》ひと 君は言《い》へども、
 逢はむ時 いつと知りてか、
 わが戀ひざらむ。
 
 勿念跡《ナオモヒト》 君者雖v言《キミハイヘドモ》
 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》
 吾不v戀有牟《ワガコヒザラム》
 
【譯】もの思いをするなと貴方はおつしやるが、お目にかかる時を何時と知つてかわたしが戀をしないでおら(424)れましよう。
【釋】勿念跡 ナオモヒト。ナが禁止の副詞。下に助詞ソが無くていうのは、古い形である。「木間從《コノマヨリ》 出來月爾《イデクルツキニ》 雲莫棚引《クモナタナビキ》」(卷七、一〇八五)、「比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》」(卷十四、三五〇一)。
 相時 アハムトキ。別れに臨んで詠んでいるので、やがてまた逢うだろう時と言つている。
 何時跡知而加 イツトシリテカ。カは疑問の係助詞。
 吾不戀有牟 ワガコヒザラム。わたしが戀いずにいようの義で、上のイツト知リテカを受けるので反語になる。逢う時を何時と知つたならば戀をしないでもいられよう、しかし逢う時を知らないので戀をしている意である。
【評語】今別れてまた逢う時のはかりがたいのを歎いている。初二句が説明に傾いているのは、歌がらを平板にしている。若い人であつたのだろう。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。雜歌、相聞に對する部類の一つで、人の死を傷む歌をいい、後世の歌集における哀傷歌に相當する。この名目は、漢籍に出ている。晉書の樂志に、「挽歌、出2于漢武帝役氏之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1。」崔豹の古今注に「薤露蒿里、竝喪歌也。出2田横門人1。横自殺、門人傷之、爲2之悲歌1言、人命如3薤上之露易2晞滅1也。亦謂、人死魂魄歸2乎蒿里1。故有2二章1。至2孝武時1、李延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1。」すなわち、挽歌は、柩車を挽く時の歌の義である。わが國にても遂葬の時に歌を歌つたことは、古事記中卷に、倭建《やまとたける》の命の妃の歌を録して、「是四歌者、皆歌2其御葬1也。故至v今、其歌者、歌2天皇之大御葬1也」とある。本集においては、これを廣義に取り、ただに送葬(425)の時の歌のみならず、傷亡の歌は勿論、その後の追悼の歌に及び、またまさに死のうとする時の歌をも含めている。挽歌は、訓讀すればカナシミウタであろうが、音讀すれば、呉音に依らばメンカであるが、普通にバンカと讀んでいる。この卷のほかに、部類の標目としては、卷の三、七、九、十三、十四の諸卷に見えている。この標目も、多分柿本朝臣人麻呂歌集から出たものなるべく、人麻呂の作において、挽歌は格別に發達している。本集における部類の標目に、賀歌が無くして挽歌があるのも、さような特殊の關係から來ているものなるべく、當時の歌の分類の標目としてその必要が感じられたのであろう。
 
後岡本宮御宇天皇代【天豐財重日足姫天皇讓v位後即後岡本宮】
 
後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代【天豐財重日足姫の天皇、位を讓りたまひし後、すなはち後の岡本の宮なり。】
 
【釋】後岡本宮御宇天皇代 ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、八標目)。齊明天皇の御代。以下その御代の歌を收めるのであるが、それは有間の皇子の歌だけで、長の意吉麻呂以下の歌は、後の時代の作を便宜附收している。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。齊明天皇。
 讓位後即後岡本宮 ミクラヰヲユヅリタマヒシノチスナハチノチノヲカモトノミヤナリ。この天皇は重祚されたのであつて、一旦讓位の後、再度即位したまいしが後の岡本の宮なりという意味に書かなければならないのであるが、この文ではそうは解せられず、讓位の後、前帝としてましましたのが後の岡本の宮であるというように解せられるのは不備である。卷の一の後の岡本の宮の御代の標目の下には、「位後即後岡本宮」とあり、仙覺本には、この即の下にも位の字がある。
 
(426)有間皇子、自傷結2松枝1歌二首
 
有間の皇子の、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
 
【釋】有間皇子 アリマノミコ。孝コ天皇の皇子。孝コ天皇が崩じて齊明天皇重祚されるに及んで、その三年九月に、紀伊の國の牟婁の湯に往き、國の體勢を觀、わずかにその地を觀るに病おのずから瘉えたと申したので、天皇悦んでその地を見ようとし、四年十月、紀の温湯に行幸あり、十一月、有間の皇子に謀反の企圖ありと聞いて召し寄せ、皇太子(天智天皇)みずから問われた。皇子は行宮を出て京に上る途上、藤白の坂において縊り殺された。日本書紀によるに、有間の皇子は、十一月九日に捕えられて紀伊の國に送られ、皇太子の尋問を經て十五日に殺された。京から行宮まで、普通五六日の日程である。
 自傷結松枝歌 ミヅカライタミテマツガエヲムスブウタ。皇子が召されて牟婁の行宮に行く途上、磐白の地で詠んだ歌である。自傷とあるのは、この行、生還を期しがたい事情にあつたので、みずから哀傷されたのをいう。松が枝を結ぶことについては、古人は、結ぶことに信仰を有していたことが根柢になつている。そのことは、既に、「磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の條に記した所である。松が枝を結ぶのは、まじないで、壽命を結び留めまた無事にその處に立ち還ろうとする心である。物を結ぶことは、わが魂を結び留めるという意味であつて、後にまた、結んだものにめぐりあう事ができるとしていた。これが松が枝を結ぶ、草を結ぶ、衣の紐を結ぶ、菅の根を結ぶ等の行事となつて(427)あらわれている。中にも行人が松の枝や草葉を結ぶのは、これより先に旅行してもまた此處に無事に立ち歸るという意味があり、みずから祝うまじないである。有間の皇子に限らず何人でもする風習である。後世結び松をもつて不吉な事のように感じているのは、有間の皇子の故事があるからであつて、松を結ぶというその事自身には、さような不吉な内容は全然無く、松の木の性質上、むしろ將來を祝う氣もちがあることは、例歌に依つて知られる所である。
 
141 磐白《イハシロ》の 濱松が枝《え》を 引き結び、
 ま幸《さき》くあらば、またかへりみむ。
 
 磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》
 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
【譯】紀伊の國の磐白の濱邊にある松の枝を引き結んで、幸であつたならば、またここに立ち歸り見よう。
【釋】磐白乃 イハシロノ。磐白は既出(卷一、一〇)。和歌山縣日高郡の海岸の地名で、牟婁の温泉に赴く途中にある。
 濱松之枝乎 ハママツガエヲ。濱邊の松が枝をで、前にも、「白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》」(卷一、三四)の例がある。
 引結 ヒキムスビ。松が枝を結ぶのであるから、その若い枝を結んだに相違なく、一四六の歌には、子松ガウレとある。一本の枝を輪に結ぶのか、二本の枝を合わせて結ぶのか不明である。また繩か緒の如き他物を以つて結ぶかとも考えられるが、衣の紐や草の葉などは、それ自身を結ぶものであろう。
 眞幸有者 マサキクアラバ。マは接頭語。サキクは、幸運にある意の形容詞。「吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將v見《マタモミム》 志賀乃大津爾《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》」(卷三、二八八)など使用され、また好去の文字をもマサキクと讀んでいる。「好去而《マサキクテ》 亦還見六《マタカヘリミム》 大夫乃《マスラヲノ》 手二卷持在《テニマキモテル》 鞆之浦廻乎《トモノウラミヲ》」(卷七、一一八三)。
(428) 亦還見武 マタカヘリミム。またこの結べる松を還り來て見むの意。「妹門《イモガカド》 去過不v得而《ユキスギカネテ》 草結《クサムスブ》 風吹解勿《カゼフキトクナ》 又將v顧《マタカヘリミム》」(卷十二、三〇五六)とあるのは、草を結んだのについて、マタ顧ミムと言つている。
【評語】この歌は、紀伊の牟婁《むろ》の行宮への途上での作であるが、歌意は、みずから祝つて詠んでいる。しかし皇子は、もとよりその不幸な運命を豫感されていたので、おのずから底に潜む哀情が痛切に響いているのである。不幸にして有間の皇子は、その歸途に殺された。その殺されたのは藤白で、藤白は磐白よりも京に近い處であるから、磐白の結び松の處までは、ともかく無事に歸り得たのである。または歸途の作であろうか。後人の哀悼歌は、いずれも、またこの結び松を見なかつたように詠んでいる。この歌、死生のあいだに臨んで、しかも、よく落ち著いている。哀情が潜むように感じられるのは、皇子の不運な運命を、先に承知していて讀むから、そう思われるのであろう。題詞というものは、一個の全作品の一部をなすもので、切り離しがたいものである。
【參考】松が枝を結ぶ。草を結ぶ(卷一、一〇參照)。
  たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(卷六、一〇四三)
  八千種《やちぐさ》の花はうつろふ常磐《ときは》なる松の小枝《さえだ》を我は結ばな(卷二十、四五〇一)
 
142 家にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を、
 草枕 旅にしあれば 椎《しひ》の葉に盛る。
 
 家有者《イヘニアレバ》 笥尓盛飯乎《ケニモルイヒヲ》
 草枕《クサマクラ》 旅尓之有者《タビニシアレバ》 椎之葉尓盛《シヒノハニモル》
 
【譯】家にいる時には器に盛つて食う飯を、旅のことであるから、シイの葉を重ねて、それに盛つて食うことである。
【釋】家有者 イヘニアレバ。家にいる時にはの意。既定の事實として已然形による。
(429) 笥尓盛飯乎 ケニモルイヒヲ。笥は、玉篇に「笥、盛v飯方器也」とあり、倭名類聚鈔に、「禮記注云笥【思吏反和名介】盛v食器也」とある。笥に盛るを習とする飯をの意。當時の飯は、米を甑《こしき》に入れて蒸したものである。
 草枕旅尓之有者 クサマクラタビニシアレバ。シは強意の助詞。
 椎之葉尓盛 シヒノハニモル。シイの葉を重ねて飯を盛るというので、旅中、事に簡なる樣子である。
【評語】單なる旅の歌であるが、縁によつて併わせ掲げたものと見える。不自由がちな旅の生活をよく敍している。草枕の枕詞も非常によく利いている。シイの葉に盛るというのは、印象的な句であるが、ここでは路傍の樹葉を取つて飯を盛つたのであつて、實際のシイの葉であつてもなくてもどうでもよい。それを具體的にシイの葉と指摘したのが利いたのである。
【參考】植物の葉に飲食を盛る。
  すめろきの遠御代御代はい敷き折り酒飲むといふぞこの厚朴《ほほがしは》(卷十九、四二〇五)
 
長忌寸意吉麻呂、見2結松1哀咽歌二首
 
長《なが》の忌寸意吉麻呂《いみきおきまろ》の、結び松を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
 
【釋】長忌寸意吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。既出(卷一、五七)。卷の一には、名を奧麻呂としているが同人である。卷の一には大寶二年の歌があり、文武天皇時代の人である。即興の作に長じ、特殊の題材を歌にする手腕をもつている。この歌は何時の作であるか不明であるが、大寶元年の紀伊の國の行幸の時と假定すれば、有間の皇子の死後、四十三年後の作である。
 見結松 ムスビマツヲミテ。當時、有間の皇子の結んだ松樹が現存していたものと見える。多分枝が結ばれたままに成長し、これは有間の皇子が結んだのだという傳説を生じたのであろう。事實としては、有間の皇子(430)は、歸途此處を通過され、藤白の坂で殺されたのだから、多分結びを解いて無事を祝われたであろう。
 哀咽歌 アイエツセルウタ。咽は、咽喉がつまつて聲の出ない?をいう動詞。訓讀では、カナシミムセブウタと讀む。
 
143 磐代《いはしろ》の 崖《きし》の松が枝《え》、
 結びけむ 人《ひと》は還《かへ》りて
 また見けむかも。
 
 磐代乃《イハシロノ》 崖之松枝《キシノマツガエ》
 將v結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》
 復將v見鴨《マタミケムカモ》
 
【譯】磐白の岡の松が枝を結んだ方は、無事に立ち歸つて、また見たことであろうか。
【釋】崖之松枝 キシノマツガエ。崖は、諸本に岸に作つている。崖は、元暦校本等による。崖は高地の端で切り取つたような地形をいう。肥前國風土記の古寫本等にこの字を岸の意味に用いている。
 將結 ムスビケム。ケムは過去推量の助動詞。その連體形。
 人者反而 ヒトハカヘリテ。ヒトは有間の皇子。カヘリテは、行宮に行つての歸りである。
 復將見鴨 マタミケムカモ。上の結ビケムを受けているので、將見をミケムと讀む。カモは疑問と感動の助詞。
【評語】この歌は、はたして結び松に驗あつて、有間の皇子がまた見たであろうかどうかということを、疑つている語調であるが、裏面には、二度と見ることを得なかつたことを思つてこれを悼んでいるものである。それを疑問の語であらわしたところに、無限の哀愁が生ずる。
 
144 磐白の 野中に立てる 結《むす》び松《まつ》、
(431) 情も解けず いにしへ念ほゆ。
     いまだ詳ならず
 磐代之《イハシロノ》 野中尓立有《ノナカニタテル》 結松《ムスビマツ》
 情毛不v解《ココロモトケズ》 古所v念《イニシヘオモホユ》
     未v詳
 
【譯】磐白の野中に立つている結び松、見るわが心も悲しく昔の事が思われる。
【釋】野中尓立有 ノナカニタテル。磐白の濱松が枝といい、崖の松が枝といい、今またここに野中に立てると言つているが、この結び松のある處は、磐白の坂から海濱に出た處なるべく、多少うち開いた地形なので、野中ともいぅのであろう。
 結松 ムスビマツ。これによれは、結び松と稱して名木となつていたのであろう。それを呼びあげた語法。
 情毛不解 ココロモトケズ。松も結ばれたままであり、わが心も解けずにで、心の快活でないのをいう。
 古所念 イニシヘオモホユ。有間の皇子の時代が思われるよしである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が未詳なのであるかあきらかでない。事によると、この一首は、長の意吉麻呂の作ということに、疑問が存したのであろうか。
【評語】結ビ松心モ解ケズと、心も結ばれていることを語つているのは、巧みであるが、同時に時代の降つて來たことを思わせる。結び松が、枝を結ばれたままに育つていることを語つている。
 
山上臣憶良追和歌一首
 
山上の臣憶良の、追ひて和ふる歌一首
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 追和歌 オヒテコタフルウタ。後に唱和した歌。和歌は、前に歌があつて、それに對して唱和する歌である。(432)ここでは、内容から考えて、長の意吉麻呂の歌に唱和したものと見られる。
 
145 かけるなす あり通《がよ》ひつつ
 見らめども、
 人こそ知らね、松は知るらむ。
 
 鳥翔成《カケルナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》
 見良目杼母《ミラメドモ》
 人社不v知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
【譯】皇子の御魂は、鳥の飛ぶように、消えないで通いつつこの松を見ておいでになるでしようが、人は知らないでも、松は知つておりましよう。
【釋】鳥翔成 カケルナス。トリハナス(舊訓)、アスカナシ(童)、ツバサナス(考)、カケルナス(攷)、等の諸訓がある。翔は鳥の飛ぶをいい、ナスは、のようにあるの意であるから、鳥の飛ぶように靈魂が飛翔しての意と解すべきであるのに、ツバサは鳥の飛ぶ道具であつて飛ぶことでないから、ツバサナスアリガヨヒツツでは、意を成さない。いま攷證に、鳥翔をカケルとするによる。カケルは、鳥の飛ぶにいう語で、「二上《フタカミノ》 山登妣古要底《ヤマトビコエテ》 久母我久理《クモガクリ》 可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》」(卷十七、四〇一一)は、鷹についていい、その他、翔の字をカケルと讀んでいる例は多い。また動詞にナスの接續する例は、「木都能余須奈須《コツノヨスナス》」(卷十四、三五四八)、「衣爾著成《キヌニツクナス》」(卷一、一九)がある。ヨスは、古くは四段活であろうから、その連體形にナスが接續したことになる。鳥の飛ぶようにある意で、次の句を修飾する。
 有我欲比管 アリガヨヒツツ。アリは他の動詞と熟して、存在しつつ、生存しつつの意をあらわす。有り經ル、有リ慰ムなどの例である。繼績して通う意になる。
 見良目杼母 ミラメドモ。動詞見ルは、古くはミから助動詞ラムに接續した。卷の一、五五參照。ラメドモは、推量の助動詞ラムの逆態條件法である。次の二句を修飾する。
(433)人社不知 ヒトコソシラネ。「人こそ……松は……」という語法に、人は知らないだろうが、しかし松はという意味が生じてくる。知ラネのネは、打消の助動詞がコソを承けた結びである。
 松者知良武 マツハシルラム。ラムは推量の助動詞。松の心を推量している。
【評語】人間は肉體と靈魂とから成り立つて、死はその分離であると古人は考えていた。だから死んでも靈魂は亡びないと思つていたのである。それを人間は知らないが、松のような草木非情の者が、却つて靈界に通ずるとしている。作者の山上の憶良は、佛教を信じていたと思われるが、この歌については、その影響があるかどうかは疑問である。佛教思想に關係なしにでも解けるのである。憶良壯年の作であろう。現地に臨まないで、他の人の作を見て詠んだのかもしれない。
 
右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2挽歌類1焉。
 
(434)右の件の歌等は、柩を挽く時に作れるにあらざれども、歌の意に准擬《なぞ》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
 
【釋】右件歌等 ミギノクダリノウタドモハ。紙上、これより右に記した歌を指すのであるが、ここでは有間の皇子の歌からをいうのであろう。
 雖不挽柩之時所作 ヒツギヲヒクトキニツクレルニアラザレドモ。挽歌は、柩車を挽く時の歌であるが、右に掲げた歌は、さような送葬の時の作でないけれどもの意。中にも家ニアレバの歌の如きは、純然たる旅の歌である。
 准擬 ナゾヘテ。純粹の挽歌ではないが、歌の内容によつて挽歌に準ずるというのである。
 故以載挽歌類焉 カレメニカノタグヒニノス。以上、葬式の時の歌ではないが、歌の内容から推して、挽歌の類に入れたという、編者の注意書きである。挽歌とは、輓歌ともいい、柩車を引く時の歌の意であるが、廣く哀傷の歌の意に用いられているから特にここにことわるまでも無いことである。この左註は後人の書き入れだという説もあるが、むしろかなり古い編次の時にはいつたものと見たいと思う。
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊國1時、見2結松1歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也
 
大寶元年辛丑、紀伊《き》の國に幸でましし時、結び松を見る歌一首 【柿本の朝臣人麻呂の歌の集の中に出づ。】
 
【釋】大寶元年辛丑 ダイホウノハジメノトシカノトウシノトシ。文武天皇の御代。この年九月十八日、天皇紀伊の國に幸し、十月十九日、紀伊から遷幸された。この時の歌は、卷の一に「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌」(五四題詞)、卷の九に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首」(一六六七題詞)として載せ、持統太上天皇の御幸もあつたことを傳えている。
 見結松歌 ムスビマツヲミルウタ。有間の皇子の結ばれたという傳説のある松を見て詠んだ歌である。
(435) 柿本朝臣人麻呂歌集中出也 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフノナカニイヅ。次の歌が人麻呂歌集から出たとするのである。人麻呂歌集からは、集中、多數の歌を載せ、その名は、この外に、卷の三、七、九、十、十一、十二、十三、十四の諸卷に見えている。人麻呂歌集は、人麻呂自身の作を中心とし、他人の作をも收載していると考えられるが、婦人の作と見なすべきものの如き特殊の事情あるもの以外、大體人麻呂の作と認めてよいようである。
 
146 後《のち》見むと 君が結べる
 磐白《いはしろ》の 小松《こまつ》が末《うれ》を
 また見けむかも。
 
 後將見跡《ノチミムト》 君之結有《キミガムスベル》
 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》
 又將v見香聞《マタミケムカモ》
 
【譯】後に見ようと祝いこめて、皇子の結ばれた、この磐白の岡の小松の枝先を、また御覽になつたことだろうか。
【釋】後將見跡 ノチミムト。彼方に旅行して、後また歸り來たつてこの松を見ようとである。
 君之結有 キミガムスベル。君は有間の皇子をさす。ムスベルは連體形。
 子松之宇禮乎 コマツガウレヲ。有間の皇子が松を結ばれた齊明天皇の四年から、大寶元年までには四十三年を經ている。それでかなり大きな松をも小松と云つたであろうとされている。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神《かむ》さびわたる」(卷十五、三六二一)、「君に戀ひいたも術《すべ》無み平《なら》山の小松がもとに立ち嘆くかも」(卷四、五九三)の如きもあつて、松には隨分大樹老樹もあるから、それらに對して、比較的ちいさいのを小松とも云つたものであろう。コは愛稱であるが、ちいさい感じは含まれている。ウレは、木草の若く伸びた枝先をいう。樹の最高處はウレであるのが普通だがかならずしもそうばかりではない。この歌のウレも松の枝の(436)伸びたところで、高處ではない。木ヌレというは木のウレの義である。その他、ハギのウレ、ヒシのウレ等が用いられている。
 又將見香聞 マタミケムカモ。ケムは過去の推量の助動詞で、有間の皇子の御行動を推量している。カモは、疑問を含んだ感動の助詞である。
【評語】長の忌寸意吉麻呂以下の歌は、いずれも藤原時代の歌と思われるが、その頃には、この磐白の岡に結び松という一本の名松ができていたのであろう。松を結ぶのは、有間の皇子特別の事でなく、行路の人が常にすることである。
 前に右件の歌等云々の左註があつて、その後にこの人麻呂歌集の歌が載つているので、この歌が、前の左註よりは後に入れられたものであろうということが考えられる。しかしそれもあまり後のことではあるまい。やはり萬葉集の結集時代のある時であつたのであろう。萬葉考は、前の意吉麻呂の第一首の歌の唱え誤りであるとしてこの歌を削り去つているが、それは武斷に過ぎる。
 
近江大津宮御宇天皇代 【天命開別天皇謚曰2天智天皇1。】
 
近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天命開別の天皇、謚して天智天皇と曰す。】
 
【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ 天智天皇の御代。以下、その御代の歌を載せているが、天皇崩後の歌をも收めている。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇聖躬不豫之時、大后奉御歌一首
 
(437)天皇、聖躬《おほみ》不豫《やくさ》みたまひし時、大后《おほぎさき》の奉れる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 聖窮不豫之時 オホミミヤクサミタマヒシトキ。聖躬は、天皇の大御身をいう。不豫は、不安の意で、御病氣をいう。ヤクサミは、古訓である。天皇は、その十年八、九月の頃に御病にかかり、十二月三日に崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天智天皇の皇后。大后は皇后の義であつて、皇太后の義ではない。皇后は倭姫《やまとひめ》と申し、天皇の庶兄古人大兄の御女である。
 
147 天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば、
 大王《おほきみ》の 御壽《みいのち》は長く 天足《あまた》らしたり。
 
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 大王乃《オホキミノ》 御壽者長久《ミイノチハ》 天足有《ナガクアマタラシタリ》
 
【譯】天上を仰いで見ると、陛下の御壽命は、永久に天に充滿しております。
【釋】天原 アマノハラ。廣い天の義。ハラは、廣くたいらなところをいう。これは天空をいうのであつて、古人は靈界として天空を信じ、そこに天皇の御壽命の保有されてあることを言おうとして、この句を起したのである。
 振放見者 フリサケミレバ。フリは他の動詞に冠して、勢いよくする意味を加えている。放クは距離を作ることで、フリサケミルは遠方を見るに用いる。天上、または山、海などを見る場合に用いる。
 大王乃 オホキミノ。オホキミは、天皇をいう。
 御壽者長久天足有 ミイノチハナガクアマタラシタリ。天皇の御壽命は、あの廣い天に一杯に滿ちている。長久であつて、いつを限りとも知れぬと祝いこめて歌われている。タラシは足ルの敬語法。充滿している意。(438)ナガクは御壽命だから長くと用いたので、天足ラスに對しては、適切に限定していない。
【評語】天を信ずる人々に取つては、人命を支配するものは天であるとした。それで天を仰いで、御壽命の充滿していることを感じて、御病の平癒を期待されたのである。平癒を祈願して神を祭つた際に詠まれたもののようで、祝の心に詠まれている。しかし本集には結果よりして、これを挽歌の類に收めたのである。
【參考】同句、天の原ふりさけ見れば。
  天の原振り放け見れは白眞弓張りて懸けたり。夜路は吉けむ(卷三、二八九)
  (上略)天の原ふり放け見れば、渡る日の影も陰らひ、照る月の光も見えず(下略)(同、三一七)
  天の原ふり放け見れば天の川霧立ち渡る。君は來ぬらし(卷十、二〇六八)
  わが夫子《せこ》は待てど來まきず、天の原ふり放け見れば、ぬばたまの夜も更けにけり(下略)(卷十三、三二八〇)
  天の原ふり放け見れば夜ぞ更けにける。よしゑやし獨|寐《ぬ》る夜は明けば明けぬとも(卷十五、三六六二)
  (上略)天の原ふり放け見れば、照る月も盈※[日/仄]《みちかけ》しけり(卷十九、四一六〇)
 
一書曰、近江天皇聖體不豫、御病急時、大后奉獻御歌一首
 
一書に曰はく、近江の天皇聖體不豫みたまひ、御病|急《すみやか》なりし時、大后の奉獻《たてまつ》れる御歌一首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。前の歌と同じ事情のもとに詠まれた歌を、一書によつて記載したのである。その一書は、何の書であるか知りがたいが、用字法から見ても別の資料であることが知られる。なおこの題詞を、次の歌に懸かるものにあらずとし、誤脱などがあつたとする説があるが、それは誤りで、まさしく、この一事曰は、次の歌に懸かるものである。
 近江天皇 アフミノスメラミコト。天智天皇。卷の四、四八八の題詞にも見えている。
(439) 聖體不豫 オホミミヤクサミタマヒ。聖體は聖躬に同じ。
 御病急時 ミヤマヒスミヤカナリシトキ。御危急の?態にましました時。
 
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上を 通《かよ》ふとは、
 目には見れども ただに會はぬかも。
 
 青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》
 目尓者雖v視《メニハミレドモ》 直尓不v相香裳《タダニアハヌカモ》
 
【譯】青い旗の旗の上を、御魂は通うとは、目には見るけれども、直接に玉體を、拜することができないことか。
【釋】青旗乃木旗能上乎 アヲハタノコハタノウヘヲ。アヲハタは、白い旗であるとする説と、實際に青い旗であるとする説とある。白とするのは、白雲をアヲグモといい、青雲の白肩の津という例もあるといつている。青とするのは青馬、青雲も、やはり青い馬、青い雲であるという。この御歌は、御病急なりし時の御歌で、大葬の用意をなすべきではないが、麻の旗を立てたのを、青みを帶びているのでアヲハタというのだろう。青旗の例は、他に「青旗の葛城山」(卷四、五〇九)、「青幡の忍坂の山」(卷十三、三三三一)がある。木旗は、木につけるハタの義で、旗に同じ。元來ハタは、織物の稱で、普通は衣服の材料であるから、木につけるハタであることを示すためにコハタという。「許久波母知《コクハモチ》 宇知斯淤富泥《ウチシオホネ》」(古事記六二)コクハは、木鍬で、木の柄をつけた鍬である。地名説もあるが、地理的にも無理である。青旗の木旗とは、重語で、生く日の足る日の如く、青旗である木旗をいう。御病の急なのを留めようとして、旗を立てて祭をされたものと考えられる。
 賀欲布跡羽 カヨフトハ。古人は、人は肉體と靈魂とより成り、死はその分離であると考えていた。それゆえ天皇の御魂が、玉體から離れて、庭上の青旗の邊を通われることを信じている。
 目尓者雖視 メニハミレドモ。靈魂の遊行は目には見えないはずであるけれども、旗の動きによつて靈魂の(440)遊行を目に見るのである。また實際信仰上からは、目に見えるとも信じられよう。
 直尓不相香裳 タダニアハヌカモ。直接生けるこの世の御姿に接することができないのかと歎かれたのである。
【評語】御病急にして、御魂は、今や庭上の旗のほとりを通過せられていることが感じられている。今一目お見あげ申したい意味が痛切に歌われている。既出の鳥翔ナス云々の歌(卷二、一四五)と共に、靈魂の不滅の信仰を證するよい歌である。
 
天皇崩後之時、倭大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし後の時、倭の大后の作りませる御歌一首
 
【釋】天皇崩後之時 スメラミコノカムアガリタマヒシノチノトキ。天智天皇の崩ぜられた後。
 倭大后 ヤマトノオホギサキ。倭姫の皇后。
 
149 人はよし 思ひ止《や》むとも、
 玉蘰《たまかづら》 影《かげ》に見えつつ 忘らえぬかも。
 
 人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》
 玉蘰《タマカヅラ》 影尓所v見乍《カゲニミエツツ》 不v所v忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
【譯】ほかの人はよし思いやむにしても、わたしだけは、この玉蘰のように面影に見えて忘れられないことです。
【釋】人者縱 ヒトハヨシ。ヒトは、一般の人をさす。ヨシは、よし何々するともの意に、次の句に懸かる、
 念息登母 オモヒヤムトモ 思わなくなつても。思うことが止んでも。この句の下に、吾はの意の句を省略している。
(441) 玉蘰 タマカヅラ。タマは、美稱であるとする説と、實際に玉の飾りのあるとする説とある。日本書紀に天武天皇の崩御せられた際に「以2華蘰1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあつて、華蘰を殯宮に獻ることがある。この華蘰は美しい蘰の義と思われ、それを御蔭と言つたことが知られるので、この歌にいう玉蘰もそれを言つたものであろう。さてカゲの枕詞として使われている。以上大體講義の説による。
 影尓所見乍 カゲニミエツツ。カゲは面影で、その人のあらずして姿の見えるのを言う。
 不所忘鴨 ワスラエヌカモ。忘られぬかもに同じ。忘れられないの意である。
【評語】外の人が忘れ去つても、自分だけは忘れられない心を歌つている。玉蘰影ニ見エツツの句が、殯宮の物を材料とした美しい句でありながら、巧みに情景を描いている。
 
天皇崩時、婦人作歌一首 姓氏未v詳
 
天皇の崩りたまひし時、婦人の作れる歌一首【姓氏いまだ審ならず。】
 
【釋】天皇崩時 スメラミコトノカムアガリタマヒシトキニ。天智天皇の崩じたまいし時。
 婦人 ヲミナメ。宮人であろうが、下の註の如く、何人とも知られないが、後宮に仕える女子であろう。卷の十六、三八三五の左註には、新田部の親王の家の婦人のことが記されている。
 
150 うつせみし 神にあへねば、
 離《さか》り居て 朝嘆く君、
 放《さか》り居て わが戀ふる君、
 玉ならば 手に卷き持ちて、
(442) 衣《きぬ》ならば ぬぐ時もなく、
 わが戀ふる 君ぞ、昨《きぞ》の夜
 夢《いめ》に見えつる。
 
 空蝉師《ウツセミシ》 神尓不v勝者《カミニアヘネバ》
 離居而《サカリヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》
 放居而《サカリヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》
 玉有者《タマナラバ》 手尓卷持而《テニマキモチテ》
 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌクトキモナク》
 吾戀《ワガコフル》 君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》
 夢所v見鶴《イメニミエツル》
 
【譯】この生けるわたくしが身は、神樣にお仕え申しあげることができませんから、離れていて、朝も歎いておりまする君。離れていてわたくしの戀う君。もしこれが玉であるならは手に卷いて持つて、もし衣であるならばぬぐ時もなく、そのように身につけて、すこしの隙もなく、わたくしのお慕い申しあげる君が、昨夜は夢に見えました。
【構成】全篇一文。ワガ戀フル君まで、亡くなられた君を提示し、以下、その君が夢に見えたことを述べる。
【釋】空蝉師神尓不勝者 ウツセミシカミニアヘネバ。ウツセミは、既出(卷一、一三)。普通に、現し身の義として解せられているが、身の意のミと、蝉のミとは、音韻が違うとされ、現し身の義とはしがたいとされている。空蝉の字は、音韻をあらわすだけの假字である。シは強意の助詞。アヘネバは、堪えねばに同じ。貴人の靈魂は、天に上つて神と成られる。自分はこの土の人で、神樣に直接奉仕するに堪えないの思想を歌つている。
 離居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)。下の放居而と共に、いずれもサカリヰテともハナレヰテとも讀まれる。しかし離のハナレと讀むべきは、集中「玉之裏《タマノウラ》 離小島《ハナレコジマノ》 夢石見《イメニシミユル》」(卷七、一二〇二)の一例のみであるから、サカリヰテと讀むこととする。天皇の神靈より遠ざかりいての意である。
 朝嘆君 アサナゲクキミ。朝は、この歌の詠まれた時を示す。キミは、ナゲクの目的であつて、君のことを嘆く意である。
(443) 放居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)と上のサカリヰテに對して、語を變えて讀む説もある。しかし同一の句を繰り返すのが古歌の風格である。
 吾戀君 ワガコフルキミ。以上二句は、離リ居テ朝嘆ク君の句と對句を成している。共に呼びあげて堤示する句。
 玉有者 タマナラバ。上の君の語を受けて、その君が、もし玉であるならばという譬喩である。
 手尓卷持而 テニマキモチテ。玉ならば緒に貫いて手に卷き持ちての意。
 衣有者脱時毛無 キヌナラバヌグトキモナク。キヌは、同じく君を受けている。この二句は、玉ナラバ手ニ卷キ持チチの句と對句を成している。
 吾戀 ワガコフル。ワガコヒム(玉)。現在も未來も含んでいるのだから、不定時がよい。
 君曾伎賊乃夜 キミゾキゾノヨ。上のゾ、係助詞。キゾノヨは、昨夜であるが、いま朝に明けたその夜をいう。「孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》」(卷十四、三五〇五)など、しばしは今夜と對して用いている。
 夢所見鶴 イメニミエツル。夢は古語にイメという。イは眠りで、メは見ることであると解せられている。假字書きのものは、伊米など多數で、ユメと書いたものはない。ツルは、ゾを受けて連體形で結んでいる。鶴は歌詞ではタヅであるが、假字としては、ツルの音を表示するに使用され、口語でツルと言つたと考えられている。
【評語】この歌は、神に對する畏敬の念が強くあらわれており、みだりに人の近づけないものと考えたことがよくわかる。初めの數句に、この歌の興味がある。前の歌と同じようにまた對句の疊出に依つて、哀情の去りがたい心を敍したあたりを、よく味わうべきである。
 
(444)天皇大殯之時歌二首
 
天皇の大殯の時の歌二首
 
【釋】天皇大殯之時歌 スメラミコトノオホアラキノトキノウタ。天智天皇の大葬の時の歌である。殯は、人の死してまだ葬らない前に行う祭をいう。説文に、「死在v棺、將v遷2葬柩1、賓2遇之1」とある。アラキは新城の義で、葬殿をいう。日本書紀に、天智天皇の十年十二月の條に「癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2于新宮1」とある。歌の作者は、各歌の下に記している。
 
151 かからむの 懷《こころ》知りせば、
 大御船 泊《は》てし泊《とまり》に
 標繩《しめ》結《ゆ》はましを。 額田の王
 
 如是有乃懷知勢婆《カカラムノココロシリセバ》
 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》
 標結麻思乎《シメユハマシヲ》 額田王
 
【譯】こういう心になると思い知つておつたならば、大御船の泊つた船著き場に標繩を結つて置きましたものを。
【釋】如是有乃懷知勢婆 カカラムノココロシリセバ。
   カカラムトオモヒシリセバ(金)
   ――――――――――
   如是有乃豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(西)
   如是有刀豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(代)
   如是有登豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
   如是有及豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
乃は、諸本みな同じで異博は無い。依つてこれを刀の誤として、初句をカカラムトと讀む説が有力である。(445)しかし刀はトの甲類の字で、これを助詞トに使用した例は無い。さりとて童蒙抄のように、登の誤りとするも從いがたい。そこで原形のままにカカラムノと讀むことが、はたして成立し得ないかが考慮される。次に懷は、仙覺本系統には豫であるが、豫は、初句を古くカカラムトと讀むことに引かれた字面とも考えられ、古本系統の懷を否定すべき材料は無い。懷の字義は、思であり、安であるが、類聚名義抄に、多數の訓を載せて、その最初に、ココロとある。そこで次に、カカラムノココロシリセバの訓が、成立すべきかどうかである。助詞ノが助動詞ムを受けた例は、「丹波道之《タニハヂノ》 大江乃山之《オホエノヤマノ》 眞玉葛《マタマヅラ》 絶牟乃心《タエムノココロ》 我不v思《ワガオオモハナクニ》」(卷十二、三〇七一)、「多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガオモハナクニ》」(卷十四、三五〇七)があり、語法として、例のあることが確められる。このタエムノココロは、絶えようとする心の意と推考されるから、これに準ずれば、カカラムノココロは、かようにあろうとする心の意となり、この歌の場合は、天皇の大殯にいて哀傷しようとする心と解せられる。なお懷は、集中の歌中には「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三九七一)の例があるだけのようであるが、それは、こことは用法が違つている。シリセバのセは、時の助動詞キの未然形。
 大御船 オホミフネ。天皇の御船である。
 泊之登萬里人 ハテシトマリニ。天皇の大御船の碇泊した船著き場にである。
 標結麻思乎 シメユハマシヲ。標を結うは、繩を張つて病魔等の入り來ないようにすること、そのようにもしたならば御病にかからせられることが無かつたであろうが、そうしなかつたので殘念であるよしである。
 額田王 ヌカタノオホキミ。作者の名を記したのである。額田の王は既出。
【評語】歌詞によると、大御船の碇泊した處に標を張つたらよかつたものをと言つている。これによれば、多分船に召して湖上を遊覽されることなどがあつて、還幸の後に御病を得られたものであるようである。災禍を(446)なす魔物が湖上から大御船の後を慕つて襲つて來たように考えて歌つている。手ぬかりをしたことを殘念に思う氣持がよく出ている。
 
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おはみふね》
 待ちか戀ふらむ。
 志賀の辛埼。 舍人の吉年
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》
 待可將v戀《マチカコフラム》
 四賀乃辛埼《シガノカラサキ》 舍人吉年
 
【譯】わが天皇陛下の大御船を待ち慕つていることであろう。志賀の辛埼は。
【釋】八隅知之 ヤスミシシ。既出(卷一、三)。枕詞。
 吾期大王乃 ワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。ワガ大君というべきであるが、歌いものに歌われる時に聞えを音聲のままに字を書いたものである。
 待可將戀 マチカコフラム。マチカコヒナム(西)。待つてか戀い慕つているであろうの義。
 志賀乃辛埼 シガノカラサキ。既出(卷一、三〇)。琵琶湖に臨んだ風光明媚の地。辛埼が心があつて待つているように歌つている。
 舍人吉年 トネリエトシ。作者であるが、傳未詳。田部の忌寸櫟子と贈答している歌(卷四、四九二)によれば婦人であろうか。舍人は氏であろう。吉年は何と讀むべきか不明。エトシか、ヨシトシか。
【評語】此處にも、志賀の辛埼に大御船を寄せることが、歌われている。しばしば船を出して、この地を遊覽されることがあつたのであろう。風光昔ながらにして、人はもはや、訪れることもなくなつた悲しみを寫している。
 
(447)大后歌一首
 
【釋】大后御歌 オホギサキノミウタ。倭姫の皇后の御歌で、天智天皇崩後の御作である。
 
153 鯨魚《イサナ》取り 淡海《あふみ》の海を、
 沖放《おきさ》けて 榜《こ》ぎくる船、
 邊つきて 榜ぎくる船、
 沖つ櫂《かい》 いたくな撥《は》ねそ。
 邊つ櫂 いたくな撥ねそ。」
 若草の 妻の 思ふ鳥立つ。」
 
 鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》
 奧放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》
 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》
 奧津加伊《オキツカイ》 痛勿波祢曾《イタクナハネソ》
 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波祢曾《イタクナハネソ》
 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
【譯】近江の湖上を、沖の方に離れて榜ぐ船よ、岸邊に近くついて榜ぐ船よ。沖の方で水を打つ櫂、岸の方で水を打つ櫂を、強く撥ねないようにしてください。若草のような妻のわたくしの愛する鳥が、驚いて立ちます。
【構成】第一段、邊ツ櫂イタクナハネソまで、湖上の船を歌う。以下第二段、鳥によせて思いを述べる。
【釋】鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。琵琶湖は、淡水湖で、鯨はいないが、大きな湖水なので、慣用句として次句の海に冠して使用されている。
 淡海乃海乎 アフミノウミヲ。琵琶湖をで、大津の宮から望見されたのである。
 奧放而 オキサケテ。沖の方に離れてで、下の榜ぎ來るを修飾している。
 榜來船 コギクルフネ。榜は、船を進める意の字。
(448) 邊附而 ヘツキテ。岸邊について。
 榜來船 コギクルフネ。以上二句は、奧サケテ榜ギ來ル船の句と對句をなし、湖上を漕ぐ船を呼びあげて提示している。以下その船に對して希望を述べられる形で進行する。
 奧津加伊 オキツカイ。上の沖サケテ榜ギ來ル船について、沖ツ櫂と言つている。ツは接綾の助詞。カイは櫂で、船を進める具。倭名類聚鈔に「釋名云、在v旁撥v水曰v櫂【直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊】櫂2於水中1且進櫂也」とある。オキツカイは沖行く船の櫂である。
 痛勿波祢曾 イタクナハネソ。イタクは、甚しく。ナは禁止の助詞。ハネは、動詞撥ヌの連用形。
 邊津加伊痛莫波祢曾 ヘツカイイタクナハネソ。上の邊ツキテ榜ギ來ル船を受けている。以上二句、沖ツ櫂イタクナ撥ネソの句と對句を成している。
 若草乃 ワカクサノ。枕詞。やわらかい意に、ツマ(配遇者)に冠する。
 嬬之 ツマノ。ツマは配偶者。嬬の字は、婦人をいう。皇后である作者自身を客觀的に敍している。但し夫の意で、天皇をいうとする説もある。男子の配偶者の意に、嬬の字を使つた例は、「若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》」(卷二、二一七)の如きがある。
 念鳥立 オモフトリタツ。作者は、亡き天皇の遣愛の鳥として、湖上に浮ぶ鳥に、親しみを寄せている。その鳥の驚き立つのを恐れる心である。それは結局、作者自身を驚かすことをあらわす。
【評語】遺愛の物について、哀情を述べるのは、古い挽歌の常である。この歌にしても、もし作られた時の事情が知られなかつたなら、挽歌とも取られないかも知れない。悲しいといわず、歎くといわず、別るといわず、涙といわない。ただ湖上の鳥を驚かさないようにと歌われた、そこに盡《つき》せぬ涙が感じられる。歌がらも、對句を以つて敍述し來つて、これを五三七と止めたところ、整齊な古長歌の風格を存している。一事を語を換えて(449)云つたような對句は、對句として初期のもので、特に纏綿たる情緒を訴えるに適している。この歌の對句の如き、この感じのよく現われているものである。
 
石川夫人歌一首
 
【釋】石川夫人 イシカハノオホトジ。天智天皇の後宮には、四嬪のうちに、蘇我の山田の石川麻呂の女なる遠智娘、姪娘の二人があるが、父の名によつて石川の夫人と言つたとも考えられない。夫人というは、嬪より上で、臣下から後宮に入る者の最上の稱號である。
 
154 ささなみの 大山守《おほやまもり》は、
 誰《た》がためか 山に標繩《しめ》結《ゆ》ふ。
 君もあらなくに。
 
 神樂浪乃《ササナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》
 爲v誰可《タガタメカ》 山尓標結《ヤマニシメユフ》
 君毛不v有國《キミモアラナクニ》
 
【譯】樂狼の大山の番人は誰のために山に標を結つているのか、君もおいでにならないのに。
【釋】神樂浪乃 ササナミノ。ササナミは、既出(卷一、二九)。近江の國南方一帶の地名。
 大山守者 オホヤマモリハ。宮城のある山の番人の義で、大山守という。雜人を入らしめないために番人を置くのである。
 爲誰可 タガタメカ。今は君もましまさぬのに誰のためにかの意。
 山尓標結 ヤマニシメユフ。標繩を張つて人を入らしめないようにすることをいう。句切。
 君毛不有國 キミモアラナクニ。キミモマサナクニ(類)。わが君も既に崩御されて、主君もないことであるのにの義。
(450)【評語】君は既に崩御されたのに、大山守はなおありし日の如くに宮城の山を守つている。それを憐れむ形で、悲哀の情を歌つている。すべてがありし日のままに殘つているのが、悲しみを誘うのである。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作歌一首
 
山科の御陵より退散《あらけまか》りし時に、額田の王の作れる歌一首
 
【釋】從山科御陵 ヤマシナノミハカヨリ。山科の御陵は、天智天皇の山陵をいう。歌詞に山科の鏡の山といい、今、京都市東山區に入る。御陵は、ミササギともいうが、歌中には、ミハカと讀むように見える。
 退散之時 アラケマカリシトキニ。御陵に奉仕することを終わつて退出した時である。
 
155 やすみしし わご大君の
 かしこきや 御陵《みはか》つかふる
 山科《しな》の 鏡の山に、
 夜《よる》はも 夜のことごと、
 晝はも 日のことごと、
 哭《ね》のみを 泣きつつありてや、
 ももしきの 大宮人は、
 行き別かれなむ。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》
 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》
 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山尓《カガミノヤマニ》
 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 畫者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 哭耳呼《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》
 百磯城乃《モモシキノ》大宮人者《オホミヤビトハ》
 去別南《ユキワカレナム》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の、恐れ多い御陵を奉仕する山科の鏡の山に、夜は夜どおし、晝は一日中、(451)泣いてばかりいてか大宮の人々は行き別れることでしよう。
【釋】八隅知之吾期大王之 ヤスミシシワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。
 恐也 カシコキヤ。ヤは用言の連體形に附く感動の助詞。かしこき御墓と續く語法である。カシコキは恐縮に堪えない。おそれおおい。
 御陵奉仕流 ミハカツカフル。御陵に奉仕する義。
 山科乃鏡山尓 ヤマシナノカガミノヤマニ。京都市東山區の地で、もと鏡の山と言つた。
 夜者毛 ヨルハモ。モは感動の助詞で、夜はということを感動的に述べている。
 夜之盡 ヨノコトゴト。コトゴトは悉くで夜の悉くである。一夜中の意。
 畫者母日之盡 ヒルハモヒノコトゴト。晝は晝中。上の夜ハモ夜ノコトゴトと對句になつている。
 哭耳呼 ネノミヲ。ネは泣く聲をいう。聲を出してのみ泣くというのであるが、哭泣ク、哭ニ泣ク、哭ノミ泣ク等、皆熟語句で、ただ泣くことをいう。ここでは外のことはせずに泣いてばかりの義に使つている。
 泣乍在而哉 ナキツツアリテヤ。ヤは疑問の係助詞。かように泣いてか大宮人は去き別れることであろうと言つている。
 百礒城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトハ。既出。
 去別南 ユキワカレナム。おのおの退出して別れるのだろうと名殘を惜しんでいる。
【評語】大宮人が御陵に奉仕しつつただ晝も夜も泣いてばかりいて、しかも時日が過ぎ去るままに別るべき時期の來たことを歌つている。御陵の地を説明し來つて、これを「夜はも夜のことごと畫はも日のことごと」と對句で受けた歌い方は古風な歌いものの調子をよく出している。單純な内容だけにかえつて悲哀の情が強く響いている。
 
(452)明日香清御原宮御宇天皇代 【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天の渟中原瀛の眞人の天皇。謚して天武天皇と曰す。】
 
【釋】明日香清原宮御宇天皇代 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラノミコトノミヨ。天武天皇の御代。その御代の歌を載せているが、崩後八年九月九日の天皇の御ための御齋會の夜の歌をも收めていること、前例の如くである。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市《とをち》の皇女の薨《かむさ》りたまひし時、高市《たけち》の皇子の尊の作りませる御歌三首
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は額田の王。弘文天皇の妃として葛野の王を生んだ。壬申の亂後、大和に歸つて居られたが、天武天皇の七年四月に薨じた。既出(巻一、二二左註)。
 薨時 カムサリタマヒシトキニ。天武天皇の七年、天神地祇を祭ろうとして、齋宮を倉梯《くらはし》の河上に立てた。四月朔日に、天皇、その齋宮に幸しようとして日を占《うら》なうに、七日が占に合《かな》つた。その日朝早く、行列が既に整い、今や宮を出でようとした時に當つて、十市の皇女は、俄に病が起つて宮中に薨じた。これによつて行幸を止め、ついに神祇をお祭りにならなかつた。この神祇を祭ろうとされたのは、壬申の亂に勝つたお禮の意味であろうという。この時に當つて十市の皇女の急な薨去に會したのは深い意味があろうと云われている。
 高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷一、一一四)。十市の皇女の異母の兄弟であるが、それ以上の事情は知られない。持統天皇の三年四月、皇太子草壁の皇子薨じ、その後、高市の皇子が儲位にましました(453)ものと見えて、後の皇子の尊という。本集題詞左註において、皇子の尊と記しているのは、「日竝皇子尊」(草壁の皇子)とこの皇子とだけである。
 
156 こ三諸の 神の神杉、
 去年《こぞ》のみを 夢《いめ》には見つつ
 いねぬ夜ぞ多き。
 
 三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカムスギ》
 己具耳矣《コゾノミヲ》 自得見監乍《イメニハミツツ》
 共不v寝夜敍多《イネヌヨゾオホキ》
 
【譯】三諸山の神木の杉のように、去年ばかりを夢には見ながら近づくことができないで、ねない夜が多いことだ。
【釋】三諸之神之神須疑 ミモロノカミノカムスギ。ミモロは、神のよりつくところ。假字書きのものには、「美母呂」(古事記六一、九三、九五)、「三毛侶」(巻七、一〇九三)とあり、ミは甲類、ロは乙類の音である。ミは敬稱の接頭語であろうが、モロは不明である。從來ムロ(室)に同じとされていたが、室は、紀伊の國の地名に、牟漏、牟婁を室とも書き、樹名に、牟漏を室とも書いているのによれば、ロは甲類と見られ、三諸山を、三室山ともいうようであるが、語としては別語であろう。ミモロは、山名にもいい、山に関しては、「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山《カセヤマ》」(巻六、一〇五九)、「三諸就《ミモロツク》 三輪山《ミワヤマ》」(巻七、一〇九五)ともいい、神ナビノ三諸ノ山(三二二七、三二二八)とも、三諸ノ神ナビ山(三二四、一七六一、三二六八)ともいう。「春日野爾《カスガノニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》」(巻十九、四二四一)によれば神社形態であるようにも解せられ、「祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミモロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》」(卷十二、二九八一)、木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》」(巻七、一三七七)も同じく神職の祭祀行爲の造作物と解せられる。鏡をかけ木綿をかけるのは、大小にもよらないが、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(巻三、四二〇)とあるのは、形?が限定されよう。屋戸は、枕邊に對して、家の出入口と解せられ、三(454)諸は、そこに立てられる工作物であつたことが知られる。神社と譯せられそうでもあるが、しかしたとえば、春日の三諸というように、地名、神名に助詞ノをつけてすぐ接續することはない。音韻からすれば、「神籬、此云2比莽呂岐1」(日本書紀、崇神天皇紀)のモロと一致する。これは、「立2磯堅城神籬1」とあるもので、樹木を材料とする工作物であるように考えられる。それならば、山や森にいい、また屋戸に立てるというにもふさわしいものである。今のこの歌では、三諸の神とつづくので、特定の神境をいうようである。そこの御神木の杉をいうのであろう。この時行おうとされた祭典の場所と關係があるかどうか、不明である。
 已具耳矣自得見監乍共 古くから難讀の句として、まだ明解を得ない。この歌、仙覺の新點の歌であつて、仙覺は、イクニヲシトミケムツヽトモとしたが、それでは意を成さない。管見には、スグニヲシトミケムツヽトモ。代匠記には、イクニヲシトミケムツヽムタ。またイクニヲシミミツヽトモニ。その他の諸家、多く誤字ありとして字を改めている。今、その、二三を擧げれば、
  童蒙抄  已冥耳笑自得見監乍共《イメニノミミエケムナガラモ》
  考    已免乃美耳得見管本名《イメノミニミエツツモトナ》
  檜嬬手  已具耳之日影見盈乍《スギシヨリカゲニミエツツ》
  古義   如是耳荷有得之監乍《カクノミニアリトシミツツ》
  美夫君志 已目耳矣自將見監爲共《イメニヲシミムトスレドモ》
  新考   已賣耳多耳將見念共《イメニダニミムトモヘドモ》
 次に臆説に過ぎないが私案を記す。具は、集中、其を誤つたと見られるものが往々にある。「具穗船乃」(卷十、二〇八九)、「本葉裳具世丹」(同)、「眞福在與具」(卷十三、三二五四)など。依つてここも其の誤りとし、已其耳矣をコゾノミヲと讀む。去年のみをの意である。これは音韻も一致する。次に自得見を、文字どおり、(455)おのずから見ることを得る意として、夢の義とする。助詞ニハを讀み添え、監乍を、ミツツと讀み、共は、五句につけてこれをイネヌヨゾオホキとする。歌意は、三諸の神の神杉は、目には見るけれども近づきかねる意の譬喩とし、去年の事のみは夢に見えるけれども、共に寐ない夜が多く續くの意とする。もとよりこれを以つて原歌に復るとする自信は無く、ただかく讀めば、一首の歌となるという程度である。以下二首の歌意によるに、この程度の事情は、あり得たであろう。
 
157 神《かむ》山の 山邊眞蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》、
 かくのみからに 長くと思ひき。
 
 神山之《カムヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》
 如此耳故尓《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
【譯】神を祭る場《にわ》の、山邊に懸けてある、麻の木綿《ゆう》は短い木綿であつた。こんなことであるはかりだのに、長くあれかしと願つたことであつた。
【釋】神山之 カムヤマノ。舊訓ミワヤマノとあるが、この山は、三輪山には限らないのであるから、カムヤマノと讀むべきである、何處の神山とも指定されない。
 山邊眞蘇木綿 ヤマベマソユフ。マは接頭語、ソはアサヲ(麻苧)の約言と見られる。「眞佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》」(卷九、一八〇七)の佐麻もそれである。麻で作つた苧の謂である。ユフは、豐後國風土記、速見郡の條に、「柚富郷、此郷之中、栲樹多生。常取2栲皮1以造2木綿1、因曰2柚冨郷1」とある。コウゾの皮の晒したものであるが、アサによるものを含んでいうと解せられる。神事に使用するアサを、ここでは擧げている。
 短木綿 ミジカユフ。木綿は、長いのも短いのもあるが、その短いのを取り出したのは、皇女の命の短いのを言おうとしてである。眞蘇木綿は、重ね言葉で、眞蘇木綿である短木綿の意で、譬喩に引かれている。
 如此耳故尓 カクノミカラニ。舊訓カクノミユヱニとあるが、ユヱは、助詞ガを受ける以外は、他の助詞を(456)受ける例が無い。カラは、「伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」(卷五、七九六)の例がある。二人の中は短かつたのを、カクノミと言つている。
 長等思伎 ナガクトオモヒキ。上の短木綿を受けて皇女の御命の短かつたものを、長くあれかしと願つたことであつたの意。
【評語】神事を以つて序としているのは、神を祭る用意をして、まさに行幸になろうとした時に、皇女が薨じたからその神祭の頼み難くあつたことを諷している。二句三句の續き方など、調子のすぐれている歌である。
 
158 款冬《ヤマブキ》の 立ち儀《よそ》ひたる 山清水、 
 汲《く》みに行かめど 道の知らなく。
 
 山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》
 酌尓雖v行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
【譯】款冬の花の飾つている山の清水を、汲みに行きたいけれども、道を知らないことだ。
【釋】山振之 ヤマブキノ。振は、後にフルというが、古語ではフクという。古事記上卷に、「爾拔d所2御佩1之十拳劍u而、於2後手1布伎都々逃來」とある。ヤマブキは、植物の名。本集では假字書きのものの外に、山吹とも山振とも書いている。皇女の薨去は、四月であるから、實際にヤマブキが咲いていたのである。
 立儀足 タチヨソヒタル。タチは接頭語として添えられている。ヨソヒは、装フで、装飾している意。ヤマブキの花の咲きにおつているをいう。
 山清水 ヤマシミヅ。以上三句、皇女の御墓の邊の描寫であるが、ヤマブキの花は黄色なので、その花の咲いている泉とは、黄泉の譯であるという。黄泉は、漢文で人の死んでから行く地下の國である。さような意を寓しているとも解せられる。
 酌尓雖行 クミニユカメド。メドは、推量の助動詞ムの已然形に、助詞ドの添つた逆態條件法である。
(457) 道之白鳴 ミチノシラナク。シラナクは、知らぬことの意。
【評語】黄泉を譯して、ヤマブキノ立チ儀ヒタル山清水といつたのは巧みで、殊に春おかくれになつた皇女の御墓にふさわしいあらわし方である。死者に逢おうと願つて、しかもその行く處を訪い得ないという思想は、柿本の人麻呂の、「秋山の黄葉を茂みまどひぬる妹を求めむ山道知らずも」(卷二、二〇八)にも歌われており、いずれもその墓所に行く道を知らないという形であらわされている。
 
紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。
 
紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朔にして癸巳の日、十市の皇女、卒然《にはか》に病發りて、宮の中に薨《かむさ》り給ひきといへり。
 
【釋】紀曰 キニイハク。紀は、日本書紀をいぅ。その卷の二十九、天武天皇の七年の條に次の文があり、それを摘記したのである。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜之、癸巳食v卜。仍取2平且時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」これによれば倉梯河のほとりに齋宮を建て、天皇これに幸して親祭しようとし、行幸の出發する時に當つて、十市の皇女が急病で薨去され、ついに祭を行わなかつたのである。
 丁亥朔癸巳 ヒノトヰノツキタチニシテミヅノトミノヒ。七日。
 
天皇崩之時、大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし時、大后の作りませる御歌
 
(458)【釋】天皇崩之時 スメラミコトノカムサリタマヒシトキ。天武天皇の崩御の時である。天皇は、朱鳥元年九月九日崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天武天皇の皇后。天智天皇の皇女で、初めの名は、鵜野の讃良《さらら》の皇女。後、即位されて持統天皇と申す。
 
159 やすみしし わが大王の、
 夕されば 見《め》したまふらし、
 明けくれば 問ひたまふらし、
 神岳《かむをか》の 山の黄葉《もみち》を、
 今日もかも 問ひたまはまし。
 明日もかも 見《め》したまはまし。」
 その山を 振り放《さ》け見つつ
 夕されは あやに悲しみ、
 明けくれば うらさび暮《くら》し、
 荒細《あらたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 乾《ふ》る時もなし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 我《ワガ・ワゴ》大王之《オホキミノ》
 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマフラシ》
 明來者《アケクレバ》 問賜良志《トヒタマフラシ》
 神岳乃《カムヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》
 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》
 其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》
 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》
 乾時文無《フルトキモナシ》
 
【譯】天下を知ろしめす大君の、夕になれば御覽遊ばされ、夜が明けてくればお尋ねになると思われる、あの神岳の山の黄葉を、今日はお尋ねになるだろうか。明日は御覽になるだろうか。果してそうであろうか。その(459)山をながめやりながら、夕べになると誠に悲しくなり、夜が明けて來れば、心が慰まずに日を暮らし、荒い喪服の袖は、涙でかわく時もない。
【構成】二段から成つている。明日モカモ見シタマハマシまで第一段、神岳の山の黄葉を材料として、亡き天皇について想像を廻らしている。以下第二段、轉じて作者自身の行動について敍している。
【釋】八隅知之我大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。ここでは天武天皇についていう。
 暮去者召賜良之 ユフサレバメシタマフラシ。メシは、見ルの敬語ミスの連用形ミシの轉音。ラシは根據ある推量の助動詞で、ここにこれを用いたのは、天皇なおいますが如き感じをあらわすためである。この句は、下の問ヒタマフラシの句と共に、連體形の句として、神岳の山の黄葉を修飾する。
 明來者問賜良之 アケクレバトヒタマフラシ。上の暮サレバ召シタマフラシの句と對句を成して、次の神岳を修飾している。句切ではない。
 神岳之 カムヲカノ。神岳は、明日香の清御原の宮から眺められる山と推定される。「登2神岳1山部宿禰赤人作歌」(卷三、三二四)と同地なるべく「勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミヂツネシク》 神岳之《カムヲカノ》 山黄葉者《ヤマモミヂハ》 今日散濫《ケフカチルラム》」(卷九、一六七六)とある神岳も、同地であろう。その山は、日本紀略天長六年三月の條に「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷2同郡同郷鳥形山1、依2神託宣1也」とあつて、飛鳥神社の舊鎭座地で、飛鳥の甘南備と呼ばれた山である。
 山之黄葉乎 ヤマノモミチヲ。天武天皇の崩御されたのは、九月九日であり、山の黄葉するにまの無い頃であり、その後その色づくに伴なつてこの歌が詠まれている。
 今日毛鴨問給麻思 ケフモカモトヒタマハマシ。ケフモのモは強意。カモは疑問の係助詞。御在世にましまさば、今日はかお尋ねになるのであろうの意。句切。
(460) 明日毛鴨召賜萬旨 アスモカモメシタマハマシ。上の今日モカモ問ヒタマハマシの句と對句を成している。句切。以上第一段。神岳の山の黄葉に寄せて、亡き天皇の御上を想像している。
 其山乎 ソノヤマヲ。その山は神岳をいう。
 振放見乍 フリサケミツツ。既出(卷二、一四七)。
 暮去者綾哀 ユフサレバアヤニカナシミ。アヤニは、驚嘆する意の副詞。感動詞のアヤが、副詞となつたもの。
 明來者裏佐備晩 アケクレバウラサビクラシ。ウラサビは、上二段動詞で、心の樂まずあるをいう。ウラサビクラシは、鬱々として日を暮すをいう。
 荒妙乃 アラタヘノ。アラタヘは既出。フジの皮で織つた粗野の織物。喪中なので、荒栲の衣を召されている、その描寫である。ここは枕詞ではない。
 衣之袖者 コロモノソデハ。御衣の袖はの意。
 乾時文無 フルトキモナシ。動詞乾ルは、もと上一段動詞とされていたが、近年、橋本博士によつて古くは上二段に活用していたことが證明された。それは本集に「吾屋戸之《ワガヤドノ》 草佐倍思《タササヘオモヒ》 浦乾來《ウラブレニケリ》」(卷十一、二四六五}の如く、乾をフレの假字として使用していると見られるもののあること、また日本書紀景行天皇紀に、人名の市乾鹿文に註して、「乾、此云v賦」とあることなどによるものである。この句は、涙のために、衣の袖のかわく時無きことを敍せられている。
【評語】この歌は、山の黄葉を中心として、天皇を思う情を述べられたもの。初めに、夕サレバ、明ケ來レバと、對句に起し、後にまたこれを受けて、完整した形を留めている。中間の、今日モカモ問ヒタマハマシ、明日モカモ見シタマハマシと、深い疑惑の情に迷つていることを示して、なおいますか、はたしていまさぬかと(461)思う情をあらわしている。この歌も對句の重疊に依つて纏綿たる情があらわされている點に深く注意すべきである。
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
一書に曰はく、天皇の崩りましし時に、太上天皇の御製の歌二首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。同じ作歌事情にある歌を一書によつて擧げたのである。歌は全然別なのであるから、一書曰とするにも及ばないのであるが、一次の編纂の後に加えられたので、かような形を呈するに至つたのであろう。一書は何の書か不明である。
 天皇崩之時 スメラミコトノカムサリマシシトキニ。天武天皇の崩御の時。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。後に太上天皇にましましたのを、前に及ぼして書いている。
 
160 燃ゆる火も 取りて裹《つつ》みて
 嚢《ふくろ》には 入ると言はずや。
 面知《おもし》らなくも。
 
 燃火物《モユルヒモ》 取而裹而《トリテツツミテ》
 福路庭《フクロニハ》 入澄不v言八《イルトイハズヤ》
 面智男雲《オモシラナクモ・モシルトイハナクモ》
 
【譯】燃える火も、取つて包んで、嚢には入れるというではないか。わかりかねることです。
【釋】燃火物 モユルヒモ。モユルヒは、火の特性を説明している。ただ火もでよいのだが、モユルを冠するので、その?態が描寫されている。
 取而裹而 トリテツツミテ。火を取つて包んでで、できかねることをいう。
 福賂庭 フクロニハ。フクロは嚢。物を入れるために作つたもの。福路の二字は字音假字として使用されて(462)いる。
 入澄不言八面智男雲 イルトイハズヤオモシラナクモ。
   イルナイハズヤモチヲノコクモ (西)
          オモシルナクモ (管)
   イルテウコトハオモシロナクモ (童)
   ――――――――――
   面智男雲《オモシルナクモ》 (代初)
   入登不言八面知白男雲《イルトフコトヤモチシラナクモ》(童)
   入騰不言八面知曰男雲《イルトイハズヤモシルトイハナクモ》(考)
   入登不言八面知日雲《イルトイハズヤアハンヒナクモ》(檜)
 澄は、トの假字に用いた例を見ない。古葉略類聚鈔には、この歌を重出しているが、そのいずれにも登に作つている。イルトイハズヤは、嚢には入れるといぅではないかの意で、句切。以上は火のようなものも、包んで嚢に入れるそうだの意で、不可能と思われることでもできるの譬喩に言つているらしい。次に五句は、考には、面を上の句につけ、智を知曰の誤として、シルトイハナクモと讀んでいる。これによれば、知るとは言わないことだの意になり、火でも嚢にはいるというのに、君の崩御のことは、了解に苦しむの意となる。原文のままならば、オモシラナクモと讀むほかは無い。オモシルは、集中、「如v神《カミノゴト》 所v聞瀧之《キコユルタキノ》 白浪乃《シラナミノ》 面知君之《オモシルキミガ》 不v所v見比日《ミエヌコノゴロ》」(卷十二、三〇一五)、「
ミヅグキノヲカノクズハヲフキカヘシオモシルコラガミエヌコロカモ」(同、三〇六八)の用例があり、知り合いの意に使用されている。それでオモシラナクモは、親しみの無いことだ、了解し得ないことだの意になるのであろう。
【評語】上四句は、出來にくいことを言つているようで、興味をひく詞句であるが、五句に難關があり、十分に鑑賞されないのは惜しむべきである。
 
161 北山に たなびく雲の 青雲の
(463) 星|離《さか》り行き 月を離りて。
 
向南山《キタヤマニ》 陳雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲグモノ》
星離去《ホシサカリユキ》 月矣離而《ツキヲサカリテ》
 
【譯】北山に續いている雲の青雲が、星を離れ行き、月をも離れて、大空に向かうことである。
【釋】向南山 キタヤマニ。向南山は、義を以つて北山に當てる。天武天皇の明日香の眞神が原の山陵は、南面しており、南方からこれを見そなわして詠まれたのであろう。
 陳雲之 タナビククモノ。陳は細井本に陣に作つている。陳陣は、もと同字であつて、義においては同じである。陳は玉篇に「列也、布也」とあるに依つて、雲についていうので、タナビクと讀むが、ツラナルとも讀まれる。意は御陵の山にたなびいている雲である。
 青雲之 アヲグモノ。アヲグモは、青天をいう。「
アヲグモノタナビクハミシラクモノオリヰムカブスカギリ」(祈年祭祝詞)、「
シラクモノタナビククニノアヲグモノムカブスクニノ」(卷十三、三三二九)、「
アヲグモノタナビクヒラコサメソボフル」(卷十六、三八八三)などがある。たなびく雲の青雲とは疊語で、同じ雲である。青雲ノ、下の句に對して主格を成している。
 星離去月矣離而 ホシサカリユキツキヲサカリテ。
   ホシサリユクツキヲハナレテ(神)
   ――――――――――
   星離去月乎離而《ホシサカリユクツキヲハナレテ》(類)
   星離去月牟離而《ホシワカレユキツキモワカレテ》(西)
   星離去月牟離而《ホシハナレユキツキモハナレテ》(童)
   星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》(玉)
   日毛離去月毛離而《ヒモサカリユキツキモサカリテ》(新考)
星を離れてゆき、月を離れてというは、竝立の云い方で、星や月を離れてということになる。意は、青雲が(464)星や月を離れて天空高く昇るというので、天皇の神靈についていうのであろう。但し訓解ともに諸説が多いのは、結局一通りでは解釋に苦しむからである。星を日毛の誤とする新考の説は、通りがよい。
【評梧】この歌、以上の如く解しておいたが、これも難解の歌で、正しい解釋を知らない。大陸思想の影響を容れているともいわれるが、それも確でない。
 
天皇崩之後、八年九月九日、奉爲御齋會之夜、夢裏習賜御歌一首
                       古歌集中出
 
天皇の崩《かむさ》りましし後、八年の九月九日に、奉爲《おほみため》にせし御齋會の夜に、夢の裏に習ひたまへる御歌一首
                     【古歌集の中に出づ。】
 
【釋】天皇崩之後 スメラミコトノカムサリタマヒシノチ。天武天皇の崩後。
 八年九月九日 ヤトセノナガツキノココノカ。天武天皇は朱鳥元年の九月九日に崩御されたので、八年は、八年を經過したものとすれは、持統天皇の八年であり、九月九日はその御忌日である。
 奉爲 オホミタメニセシ。奉爲は、漢籍から來た字面で、奉は敬意をあらわす。二字オホミタメと讀み、ニセシを讀み添える。天武天皇御冥福の御爲にの意である。
 御齋會之歌 オホミヲガミノヨ。齋を設けて佛事を修するを齋會という。天武天皇の御冥福に資せんがために行われた御齋會の夜である。御齋會は、ゴサイヱともいう。
 夢裏習賜御歌 イメノウチニナラヒタマヘルミウタ。習は、しばしば繰り返すをいう。夢の中にして自然に得させたまう御歌の義。この歌、作者を傳えないのは、夢中に得られた歌だからであつて、その夢の主は、持統太上天皇にましますであろう。御製といわないのは、夢裡に得られたからであつて、神佛のお告げというが(465)如き信仰があるからである。夢のうちに歌をよむことは、本集では、「荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》」(卷十七、三八四八)の歌の左註に「右歌一首、忌部黒麻呂、夢裏作2此戀歌1、贈v友、覺而令2誦習1如v前」とある。
 
162 明日香の 清御原《きよみはら》の宮に
 天の下 知らしめしし
 やすみしし わが大王
 高照らす 日の皇子、
 いかさまに 念ほしめせか、
 神風の 伊勢の國は、
 奧《おき》つ藻も 靡《な》みたる波に、
 潮氣《しほけ》のみ 香《かを》れる國に、
 味凝《うまごり》 あやにともしき
 高照らす日の皇子。
 
 明日香能《アスカノ》 清御原乃宮尓《キヨミハラノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之《シラシメシシ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》大王《オホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 何方尓《イカサマニ》 所v念食可《オモホシメセカ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》
 奧津藻毛《オキツモモ》 靡足波尓《ナミタルナミニ》
 潮氣能味《シホケノミ》 香乎禮流國尓《カヲレルクニニ》
 味凝《ウマコリ・アジコリ》 文尓乏寸《アヤニトモシキ》
 高照《タカテラス》 日之御子《ヒノミコ》
 
【譯】明日香の清御原の宮で天下を知ろしめした、八方を知ろしめすわが大君、照り輝く日の御子樣は、どのように思しめされてか、神風の吹く伊勢の國は、沖の海藻も靡いている波に、潮の香の立ち昇る國に、まことに貴い照り輝く日の御子樣。
【構成】別に段落は無い。
(466)【釋】明日香能清御原乃宮尓 アスカノキヨミハラノミヤニ。天武天皇の皇居である。宮號によつて、その天皇をさす所をあきらかにするは古文の例である。
 天下所知食之 アメノシタシラシメシシ。下のシは時の助動詞キの連體形。
 八隅知之吾大王高照日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。ヒノミコは、既出。貴い御子の義に、日ノを冠するのだろう。「高光《タカヒカル》 日御朝庭《ヒノミカド》」(卷五、八九四)、「日之御調等《ヒノミツキト》」(卷六、九三三)。ここは天武天皇。以上天武天皇を呼び懸けている。
 何方尓所念食可 イカサマニオモホシメセカ。近江の荒都を過ぎし時の歌(卷一、二九)に「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」とある。オモホシメセカは、オモホシメセバカの意で、疑問の條件法であるが、獨立句として插入されていて、結びが無い。意外の事だという感じをあらわすに使用する常用の句である。
 伊勢能國者 イセノクニハ。下の句に對する主格の提示。
 奧津藻毛 オキツモモ。海上の藻も。
 靡足波尓 ナミタルナミニ。舊訓ナビキシナミニと讀んでいるが、足を助動詞シに當てた例は、他に無い。助詞シに當てた例も無い。「級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》」(卷九、一七四二)、「日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖v鳴《トキトナケドモ》」(卷十、一九八二)の例は、上の音がア段の音で、アシのアを吸收したものと見られる。靡をナミと讀むのは、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》」(卷一、四五)の如く、押靡と書いた例多く、それはオシナベと讀んでおり、下二段活と見られるが、四段活用としては「麻都能氣乃《マツノケノ》 奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》 伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(卷二十、四三七五)があり、この奈美多流は、普通に竝みたるの義として、解せられているが、歌意よりすれば、靡みたると解するを可とするようである。また足は、助動詞タルに使用することは多く、上の一五八にも使用している。歌意よりしても過去のこととするは無理であるから、かたがたナミタルナミニと讀むべきであつて、海(467)上の藻の靡いている波にの意とすべきであろう。この句の意は、靡みたる波にてありの意で、下の鹽氣ノミカヲレルの句と對している。
 鹽氣能味 シホケノミ。シホケは、潮の氣で、潮の發する氣をいう。ノミは、それの特にはなはだしく、他物無き?をいう。「鹽氣立《シホケタツ》 荒礒丹者雖v在《アリソニハアレド》 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》 方見等曾來《カタミトゾコシ》」(卷九、一七九七)。
 香乎禮流國尓 カヲレルクニニ。カヲレルは、霧霞などの立ち煙るをいう。日本書紀神代の上に「伊弉諾尊曰我所v生之國、唯有2朝霧1而、薫滿之哉」とある。その國に、日の皇子はとつづく語法。
 味凝 ウマコリ。枕詞、ウマキオリの約言で、上等の織物の義に、アヤ(綾)に懸かるのであろうとされているが、ウマオリ、ウマシオリならばともかく、ウマキオリの形が、古くあるようには思えない。「味凍《ウマコリ》 綾丹乏敷《アヤニトモシク》」(卷六、九一三)とも書かれていて、共にアヂコリとも讀まれる。倭名類聚鈔に、凝海藻にコルモハの訓があり、凝結のために使う海藻だろうから、ニコゴリのような食物があつて、それをウマコリと言い、驚嘆のアヤに冠したのだろう。もしくはコリは凍結で、アヂコリと讀んで、たくさんの氷の意か。
 文尓乏寸 アヤニトモシキ。アヤニは驚嘆すべくある意の副詞。トモシキは、ここは賞美すべく慕わしい意に使用されている。
 高照日之御子 タカテラスヒノミコ。上に提示した句を繰り返して結んでいる。
【評語】夢裡の歌であつて、言い足らない詞句のあるのはやむを得ない所である。沖ツ藻モ靡ミタル波ニ、また鹽氣ノミカヲレル國ニと言つて、その歸結をつけずに轉じているが如きはそれである。また歌いものとして傳えられていた歌の成句を使用することの多いのも、夢裡の歌である特色を備えている。これによつて内容が一層神秘になつている。高照ラス日ノ御子と伊勢の國との關係は明瞭でないが、天武天皇の神靈が伊勢の國に赴かれるように解せられ、その伊勢の國を稱える詞句に重點が置かれている。古事記の序文に、天武天皇の擧(468)兵について、夢ノ歌ヲ聞キテ業ヲ纂ガムコトヲ想ホシとあり、前兆として夢の歌があつたと見られ、その歌は不明であるが、この歌に関係があるかも知れない。また作者は、天武天皇の擧兵の際、共に伊勢に赴かれた。そういうことも自然關係して來ているであろう。なお人が死んで、その靈が伊勢に赴くことは、後世の俚謠にその證があり、當時もそういう信仰があつたかも知れない。
 
藤原宮御宇天皇代
讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1。
 
藤原の宮の天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、天皇の元年は丁亥の年にして、十一年、位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
(469)【釋】藤原宮御宇天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。藤原の宮は、持統天皇文武天皇二代の宮室であるが、下の註は持統天皇のみを擧げている。實際は、二代にわたつて歌を載せており、終りの部分は寧樂の宮にはいつているものもあるかも知れない。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。以下の文は、巻の一、二八の歌の前にも、大同小異の文が載せてある。
 
大津皇子薨之後、大來皇女、從2伊勢齋宮1上v京之時、御作歌二首
 
大津の皇子の薨《かむさ》りたまひし後に、大來の皇女の、伊勢の齋の宮より京に上りたまひし時に、作りませる御歌二首
 
【釋】大津皇子薨之後 オホツノミコノカムサリタマヒシノチニ。大津の皇子のことは、既出(巻二、一〇五)。その薨去に関することもそこに記した。
 大來皇女 オホクノヒメミコ。大伯の皇女に同じ。既出(卷二、一〇五)。大津の皇子の同母の姉。
 從伊勢齋宮上京之時 イセノイツキノミヤヨリミヤコニノボリタマヒシトキニ。伊勢の齋の宮は、皇大神宮に奉仕する皇女の宮殿をいう。三重縣多氣郡櫛田村にあつた。大來の皇女は、朱鳥元年十一月十六日に、伊勢の齋の宮から還京された。大津の皇子の死んだ十月三日から四十日ばかり後である。その頃に詠まれた歌である。
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢の國にも あらましを。
 いかにか來《き》けむ。
(470) 君もあらなくに。
 
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國尓母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 君毛不v有尓《キミモアラナクニ》
 
【譯】伊勢の國におつたらよかつたものを。何しに來たことだろう。君もおいでにならないのに。
【釋】神風乃 カムカゼノ。枕詞。既出。
 伊勢能國尓母 イセノクニニモ。作者の齋宮の皇女としてましました伊勢の國のことを述べられている。その國から上京されたのである。
 有益乎 アラマシヲ。マシは不可能の希望であるから、皇女は都に上られたが、伊勢の國にあつたならという意をあらわしている。ヲは感動の助詞。句切。
 奈何可來計武 イカニカキケム。ナニニカキケム(舊訓)、ナニシカキケム(金)。歌經標式にも次の歌の同句にナニニカキケムとあるが、集中、奈何は多くイカニと讀むべき處に使用し、ナニと讀むべき例を見ない。「栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》 此勢能山爾《コノセノヤマニ》 懸者奈何將v有《カケバイカニアラム》」(卷三、二八五)の類である。ケムは、過去推量の助動詞。上り來た心を、自分ながら、いかにしてか來たことぞ、と悔いる心である。句切。
 君毛不有尓 キミモアラナクニ。君は大津の皇子。アラナクはあらぬこと、ニは助詞。
【評語】はるばると伊勢から上京したが愛弟の既に死んでいるくやしさがえがかれている。何だつて來たのだろうと悔む心が痛切に感じられる。この歌は、連作の第一首として、次の歌を呼び起す含みを存して、總括的に歌つているが、悲痛の情はよく出ている。
 
164 見まく欲《ほ》り わがする君も
 あらなくに。
(471) いかにか來けむ
 馬疲らしに。
 
 欲v見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》
 不v有尓《アラナクニ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 馬疲尓《ウマツカラシニ》
 
【譯】見たいと思う君も、おいでにならないのに、何しに來たことでしょう。馬を疲れさせるだけだのに。
【釋】欲見ミマクホリ。ミマクは、見むことの意の體言、ホリは欲する意の動詞。假字書きの例に、「見麻久保里《ミマクホリ》 念間爾《オモフアヒダニ》」(卷十《ミマクホリ》七、三九五七)、「見麻久保里《ミマクホリ》 於毛比之奈倍爾《オモヒシナヘニ》」(卷十八、四一二〇)がある。同型の語例には、「奈久許惠乎《ナクコエヲ》 伎可麻久保理登《キカマクホリト》」(卷十九、四二〇九)がある。
 吾爲君毛 ワガスルキミモ。わが見まく欲りする君もの意であるが、句の都合に依つてかように置かれている。
 奈何可來計武 イカニカキケム。前の歌と同じ位置に置いてある。句切。
 馬疲尓 ウマツカラシニ。舊訓ウマツカラシニとあり、玉の小琴にウマツカルルニと讀み改めた。これは歌經標式に、宇麻都可羅旨尓とあるによつて、ウマツカラシニと讀むべきである。馬を疲らせることなるにの意である。齋宮の下向上京は、後世は輿に依られたが、當時は、馬上であつたのであろう。日本書紀、天武天皇の擧兵のために伊勢に赴かれた時の記事に「是(472)日、發途入2東國1。事急不v待v駕而行之。?遇2縣犬養連大伴鞍馬1、因以御駕。乃皇后載v輿從之」とあり、また「到2川曲坂下1而日暮也。以2皇后疲1之、暫留v輿而息」ともあり、この後の文は、鈴鹿の山道を越えられた際の記事である。輿によられたとしても、下司竝に荷駄に多數の馬を使用したであろう。
【評語】この二首は、皇女が、弟の身の上を氣遣つて京に上つたが、その效《かい》の無かつたことを歌われている。連作であつて、同じ型を用いて、層を重ねて意味を強調して行く形になつている。殊にこの歌に、皇女御自身の疲勞を歌わないで、馬の上を憐まれているのは、皇女の御作としてふさわしい表現である。
【參考】別傳。
  如d大納(伯)内親王至v自2齋宮1戀2大津親王1歌u曰、
 美麻倶保利《ミマクホリ》一句 和我母不岐美母《ワガモフキミモ》二句 阿羅那倶尓《アラナクニ》三句 那尓々可岐計牟《ナニニカキケム》四句 宇麻都可羅旨尓《ウマツカラシニ》五句
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時、大來皇女、哀傷御作歌二首
 
大津の皇子の屍《かばね》を、葛城《かづらき》の二上山に移《うつ》し葬《はふ》りし時に、大伯《おほく》の皇女の、哀傷して作りませる御歌二首
 
【釋】移葬大津皇子屍於葛城二上山之時 オホツノミコノカバネヲカヅラキノフタガミヤマニウツシハフリシトキニ。移葬は、屍柩を殯所から墓所に移し葬るをいう。假寧令の集解に、改葬を釋して「釋云、改2埋舊屍1。古記曰、改葬謂殯2埋舊屍柩1改移之類」とある。これによれば、一旦葬つたものを移葬するのではないが、ここにいう所と違うだろう。屍は、日本靈異記訓釋に「屍骸、二合死ニカバネ」(中卷一條)とあるが、本集に三音に當てて書いている。葛城の二上山は、葛城山中の二上山で、大阪府と奈良縣との堺、大和川の南方にあり、二峰から成つている山である。その峰に近い處に大津の皇子の墓と傳えるものがある。
 
(473)165 うつそみの 人なる吾や、
 明日よりは
 二上山《ふたがみやま》を兄弟《いろせ》とわが見む。
 
 宇都曾見乃《ウツソミノ》 人尓有吾哉《ヒトナルワレヤ》
 從明日者《アスヨリハ》
 二上山乎《フタガミヤマヲ》 弟世登吾將見《イロセトワガミム》
 
【譯】生きているこの自分は、明日からは、あの二上山をわが親しい弟と見るのだろうか。
【釋】宇都曾見乃 ウツソミノ。ウツソミは、ウツセミに同じ。もしこの語義が、ウツシオミの義であるならば、この方が原形ということになる。集中の用例は、「天地之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 宇都曾美能《ウツソミノ》 八十伴男者《ヤソトモノヲハ》」(卷十九、四二一四)の一例が大伴の家持の作である以外は、柿本の人麻呂の作品中に見られる。ここでは、この世の人である意に、次句の人を修飾している。
 人尓有吾哉 ヒトナルワレヤ。ナルは、歴史的にはニアルである。ヤは疑問の係助詞。
 從明日者 アスヨリハ。今日二上山に移葬したので、明日以後のことを言つている。
 弟世登吾將見 イロセトワガミム。イロセは、同母の兄弟をいう語。古事記上卷、須佐《すさ》の男《お》の神の詞に、「吾者、天照大御神之伊呂勢者也」、中卷、神武天皇記に「其伊呂兄五瀬命」とある。イロ(474)は、肉親を意味し、この語を使用した熟語には、イロハ(母)、イロネ(姉)、イロモ(妹)等がある。セは、男性の稱である。上のもを受けて結んでいる句。
【評語】この歌は生ける身にして、かの山をわが弟と見ようか。さりとて山は物言わずつれないものをの意が含まれている。ウツソミノ人ナル吾の句には、生ける人としての自覺がよくあらわれている。何故皇子の屍を葛城の二上山の如き高處に葬つたかというに、その説明は無いが、皇子の神靈を畏怖したのではないかとも考えられる。高貴の人を高い山に葬ることは例があるが、それもその神靈を尊んでの事であつて、刑死した皇子に對しても特にそぅいう思想を生ずるに至つたのであろう。
【參考】同句、うつせみの人なる吾。
  (上略)うつせみの人なる我や、何すとか一日一夜も、離《さか》り居て嘆き戀ふらむ(下略)(卷八、一六二九)
  (上略)うつせみの世の人吾も、此處をしもあやに奇《くす》しみ(下略)(卷十八、四一二五)
 
166 礒《いそ》の上《うへ》に 生ふる馬醉木《あしび》を
 手折《たを》らめど、
 見すべき君が ありといはなくに。
 
 礒之於尓《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》
 手折目杼《タヲラメド》
 令v視倍吉君之《ミスベキキミガ》 在常不v言尓《アリトイハナクニ》
 
【譯】礒の上に生えているアシビを手折りもしようが、お目に懸くべき君が、この世にあると誰もいう人が無いことです。
【釋】礒之於尓 イソノウヘニ。イソは石の群りある處。ウヘは、その處。野の上などと同じ言い方で、礒ニ生フルアシビでよいのだが、所在を明確にするために、礒の上と言つている。
 生流馬醉木乎 オフルアシビヲ。アシビは、今いうアセボであるといぅ。アセボは、シヤクナゲ科アセボ屬(475)の常緑灌木で、春の初めに白い房形の垂り花をつける。清楚な、どちらかというと寂しい氣味の花である。馬の毒で馬は食わないので馬醉木という。これをアシビと讀むのは、「安志妣《あしび》なす樂えし君」(卷七、一一二八)等があつて、安志妣すなわち馬醉木であるとするのであるが、「池水に影さへ見えて咲きにほふ安之婢の花」(卷二十、四五一二)、「礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける安之婢」(同、四五一三)の如く華やかなものとして、適切な歌もあつて、今日いうアセボでは適しない點がある。また早春の花とする證明もない。そこで美夫君志にはボケのこととしている。まず馬醉木とアシビと同物か異物かが問題になり、次にそれがいずれにしても今日の何に相當するかが問題になる。馬醉木の字面は、馬の醉うことを意味するであろうが、これによれば赤い花であるかも知れない。アセボは毒のある植物であるが、馬はこれを喰わないから、これによつて馬が醉うとする從來の解釋は成立しない。毒の有無には拘わらなくてよいのである。しかし今明解を得ないから、訓は從來のものによる。
 手折目杼 タヲラメド。タは接頭語。メドは、助動詞ムと、助詞ドと結合して、逆態條件法を作つている。手折りもしようがの意。
 令視倍吉君之 ミスベキキミガ。ミスは、使役の語法。見しむべき。お見せすべき。君は大津の皇子。
 在常不言尓 アリトイハナクニ。イハナクは、言わないこと、ニは助詞。誰も、君がありとは言わないことだの意。
【評語】花または自然の景色などを、人に見せたいという内容の(476)歌は多いが、これほどに緊張した歌はすくない。事情が事情だからでもあるが、やはり作者の人がらに依る所が多い。この歌は、初二句の具體的な指摘が、非常に役立つている。
 
右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
 
右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷|哀咽《あいえつ》して、この歌を作りませるか。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。以下、編者の意見である。しかし、移葬の時が、たまたまアシビの花咲く頃であつて、それを眺めて詠まれたものとして、何の不都合も無い。アシビが何の木であるにしても、卷の八には春の部に入り、卷の十三にはツバキと組み合わされていて春咲く花木と考えられ、皇女の上京は、十一月であるから、季節から言つても、上京の時の作とは考えられない。
 
日竝皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
日竝みし皇子の尊の殯《あらき》の宮の時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコト。既出(卷二、一一〇)。天武天皇の皇子、御母は皇后(持統天皇)。天武天皇の十年、皇太子となり、持統天皇の三年四月、薨去、御年二十八。
 殯宮之時 アラキノミヤノトキ。人の死してまだ葬らない前に祭を行うを殯という。殯宮は、その祭を行う宮殿。皇子の御墓所は、奈良縣高市郡の眞弓の岡にあり、そこにまず宮殿を新設して殯を行われたのである。しかし本集では、墓前の祭をも殯というらしい。作者柿本の人麻呂は、皇子の生前、舍人として奉仕し、殯宮(477)にも奉仕してこの歌を作つたと考えられる。
 
167 天地の 初めの時、
 ひさかたの 天《あま》の河原に、
 八百萬《やほよろづ》 千萬神《ちよろづがみ》の、
 神集《かむつど》ひ 集《つど》ひいまして、
 神分《かむわか》ち 分ちし時に、
 天照らす  日女《ひるめ》の命《みこと》、【一は云ふ、さしのぼる日女の命。】
 天をば 知らしめせと、
 葦原の 瑞穗の國を、
 天地の 寄り合ひの極《きは》み、
 知らしめす 神の命《みこと》と、
 天雲《あまぐも》の 八重かき別きて、【一は云ふ、天雲の八重雲別きて。】
 神下《かむくだ》し 坐《いま》せまつりし
 高照らす 日の皇子《みこ》は、
 飛ぶ鳥の 淨《きよ》みの宮に
 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして、
 天皇《すめろき》の 敷きます國と、
(478) 天の原 石門《いはと》を開き
 神上《かむあが》り 上り坐《いま》しぬ。」【一は云ふ、神登りいましにしかば。】
 わが大王 皇子の命の、
 天の下 知らしめしせば、
 春花の 貴からむと、
 望月《もちづき》の 滿《たた》はしけむと、
 天の下【一は云ふ、食す國の。】四方《よも》の人の、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 天《あま》つ水 仰ぎて待つに、
 いかさまに 念ほしめせか、
 由縁《つれ》もなき 眞弓《まゆみ》の岡に、
 宮柱 太敷きまし、
 御殿《みあらか》を 高知りまして、
 明言《あさごと》に 御言《みこと》問はさず、
 日月《ひつき》の 數多《まね》くなりぬれ、
 そこ故に 皇子の宮人
 行く方知らずも。」【一は云ふ、さす竹の皇子の宮人、行く方知らにす。】
 
 天地之《アメツチノ》 初時《ハジメノトキ》
 久堅之《ヒサカタノ》 天河原尓《アマノガハラニ》
 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》
 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》
 神分《カムワカチ》 分之時尓《ワカチシトキニ》
 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云指上日女之命】
 天乎婆《アメヲバ》 所v知食登《シラシメセト》
 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》
 所v知行《シラシメス》 神之命等《カミノミコトト》
 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワキテ》【一云天雲之八重雲別而】
 神下《カムクダシ》 座奉之《イマセマツリシ》
 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》
 飛鳥之《トブトリノ》 淨之宮尓《キヨミノミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》
 天皇之《スメロキノ》 敷座國等《シキマスクニト》
 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》
 神上《カムアガリ》 上座奴《アガリイマシヌ》【一云、神登座尓之可婆】
 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》
 天下《アメノシタ》 所v知食世者《シラシメシセバ》
 春花之《ハルバナノ》 貴在等《タフトカラムト》
 望月乃《モチツキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》
 天下《アメノシタ》【一云、食國】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》
 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 天水《アマツミヅ》 仰而待尓《アフギテマツニ》
 何方尓《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》
 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓乃岡尓《マユミノヲカニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》
 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 明言尓《アサゴトニ》 御言不2御問1《ミコトトハサズ》
 日月之《ヒツキノ》 數多成塗《マネクナリヌレ》
 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》
 行方不v知毛《ユクヘ》《シラズ》《モ》【一云、刺竹之皇子宮人歸途不知尓爲】
 
(479)【譯】天地の開け始めたときに、高天の原の天の河原に、多數の神樣がお集まりになつて、方々の世界を分けた時に、天照らす大神は高天の原をば知ろしめせと定め、また葦原の瑞穗の國をば、天地が依り合つている限り永久に知ろしめす神樣として、天雲の八重を掻き分けてお下し申した輝く日の皇子樣は、飛ぶ鳥の淨みの宮に神にましますがままに御座遊ばされて、その後御歴代の天皇のまします國として、天の原の岩戸を押し開いてお登りになりました。かくてわが大君と仰ぐ皇子樣が、天下を御統治遊ばされましたなら、春の花のように貴いことでありましょうと、また秋の滿月のように滿ち足りてあるでしょうと、天下の四方の人々が大船のように頼みに思つて、天から降る雨露を仰ぐように仰いで待つていましたところ、どのようにお思いになつてか、縁故も無い眞弓の岡に宮柱をお建て遊ばされ、御殿を御建造遊ばされて、朝の御言葉をお下しにならず、過ぎ行く月日も多くなつて行きましたので、それゆえにわが皇子の宮の人々は、何とも途方に暮れていることであります。
【構成】この歌は二段から成つている。初めから「神上り上り坐しぬ」まで第一段、天地開闢以來の事から敍し、天武天皇の上までを敍している。わが大君以下第二段、ここに草壁の皇子の薨去せられ御墓の前に殯宮を造つて、お祭り申し上げることを敍している。第二段に中心があり、第一段は準備的敍述である。
【釋】天地之初時 アメツチノハジメノトキ。アメツチは、天と地で、世界、宇宙の意をあらわす。元來アメに對しては、クニの語が對語として使用されていた。クニは、人文的な意味において地上をいう語であるが、大陸から天地の熟字が渡來するに及んで、物質的な意味に、アメツチの譯語が採擇された。その初めの時とは、宇宙の始期をいい、古事記の天地初發の時というのと同じである。
 天河原尓 アマノガハラニ。アマノガハラは、天上にあるという川の河原。古事記に安の河原という。
 八百萬千萬神之 ヤホヨロヅチヨロヅガミノ。ヤホヨロヅもチヨロヅも、極めて多數の義にいい、疊語を以(480)つて表現している。「五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》」(卷十三、三二二七)というも同じである。
 神集集座而 カムツドヒツドヒイマシテ。神の動作を述べる動詞に、カムの語をつけていうことは、續いて神分チ分チシ時ともいい、「神留坐」(祈年祭祝詞)、「神問【志爾】問志賜、神拂掃賜【比?】(大祓の詞)など用例が多い。カムツドヒイマスとは、神の集合される意であつて、「是以、八百萬神、於2天安之河原1、神集々而【訓v集云2都度比1】」(古事記上卷)とあると同意である。
 神分分之時尓 カムワカチワカチシトキニ。カムハカリハカリシトキニ(舊訓)、カンクハリクハリシトキニ(童)、カムアガチアガチシトキニ(古義)等の諸訓がある。カムワカチワカチシトキニは、代匠記の一説である。分をハカルと讀むのは、議するの意によるものであるが、分をハカルと讀むのは無理であつて、ワカツと讀むことの正常なのに及ばない。ワカツとは、神々をそれぞれの國土に配分して領知せしめる義であつて、天地の初めに、かようなことがなされたことは、古事記日本書紀の記事には見えないが、古くはさような神話もあつたことと考えられる。その例證としては、日本書紀、垂仁天皇紀、一云に、「是時、倭大神、著2穗積臣遠祖大水口宿禰1而誨之曰、太初之時、期曰、天照大神、悉治2天原1、皇御孫尊、專治2葦原中國之八十魂神1、我親治2大地官1者、言已訖焉」とある。これは倭の大神の託宣の詞であるが、その内容は、よくこの人麻呂の歌にいう所と一致する。かような神話があつて、託宣の詞ともなつたものなるべく、この神話は、古事記日本書紀の結成に當つては、異端として削り去られたのであろぅ。柿本氏は、倭の大神を祭る大和神社の鎭座する處から遠くない地に住み、かような神話を傳えて、この歌ともなつたのであろう。この歌は、古事記日本書紀の成立以前に作られたので、かような傳えによつたと見るべく、すべて文字に表示されていることに基いて訓詁はなさるべきである。すなわち神々が天の河原に集合されて、領知すべき世界を分かつた時に、天照らす大神には高天の原、皇御孫の尊には葦原の水穗の國を配當されたというのである。
(481) 天照日女之命 アマテラスヒルメノミコト。天照らす大神に同じ。日本書紀神代の上に、「於v是共生2日神1、號2大日〓貴1【大日〓貴、此云2於保比?灯\武智1】」とあり、その一書に「天照天日〓尊」とある。日の女神の義である。
 一云指上 アルハイフ、サシノボル。サシノボルは枕詞。日に冠する。
 天乎婆所知食登 アメヲバシラシメセト。天照らす大神に、天を統治したまえと定められたの意。トは、上文を受けて、文を中止し、またの意に次の文につづく。
 葦原乃水穗之國乎 アシハラノミヅホノクニヲ。以下別の事になるから、句の上に、マタの如き語を補つて解すべきである。葦原の水穗の國は日本の別名で、古事記日本書紀にもしばしば見えている。古事記天孫降臨の段には「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」とあり、日本書紀神代の下には、これを漢譯して「葦原千五百秋之瑞穗國」とある。葦原とは、アシの自生している原野をいい、やがて開發して豐穣な美田とすべき素質の地であることを表示する。千秋の長五百秋、もしくは千五百秋とは、永久の年數をいい、秋とは穀物の成熟する季節であつて、これを以つて年の意味を表示する。水穗もしくは瑞穗とは、生々たる穀物の穗であり、それはイネを代表としてアワその他の穀物をも含んでいう。永久に穀物の生々として成熟する國の義である。これに葦原ノを冠するのは、葦原の地で永久に穀物の成熟する國の意である。それを略して葦原の水穗の國というのである。契沖の萬葉代匠記には、「舊事記ヲ初テ及ヒ此集ニ至ルマテ、只、葦原瑞穗國ト云ヒ、此集第二ニハ、人麿歌ニ、葦原トモ云ハスシテ、水穗國トノミモヨマレタレハ、稻穗ニハアラス」とて、古く稻の穗について稱美する詞とされているのを否定し、葦原を美《ホ》めたので、アシの穗の瑞穗の國であるとしている。しかしなお穀物の穗についていうとすべきである。これは日本の國土をいい、その國土を知ろしめすために、天孫が降下されるとする思想である。
 天地之依相之極 アメツチノヨリアヒノキハミ。永久の意味を、具體的にあらわしていることは、「天地乃(482)依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》 萬世丹《ヨロヅヨニ》 榮將v往迹《サカエユカムト》」(卷六、一〇四七)、「天地之《アメツチノ》 依相極《ヨリアヒノキハミ》 玉緒之《タマノヲノ》 不v絶常念《タエジトオモフ》 妹之當見津《イモガアタリミツ》」(卷十一、二七八七)などの例に徴してもあきらかである。語義については、一旦分かれた天地が、遠く久しい世のはてにふたたび合體しよう時までと解せられている。この語の參考としては、「天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》(卷三、四二〇)の語があるが、これは天雲の退く方を限界とする意に解せられ、これに準じて考えるとすれば、天地の寄り合いを限界とする意に解すべきである。これを將來天地の寄り合うのを限界とする意に解しようとするは無理である。天地がたがいに寄り合つて、宇宙を構成している、その寄り合いの解けないあいだはの意とすべきである。
 所知行 シラシメス。この行の字の用法は古事記に、看行(中卷)、見行(下卷)、續日本紀に、所見行、所知行須などある例であつて、おこなう意に添えるといわれている。御統治になる意に、次の句の神の命を修飾する。
 神之命等 カミノミコトト。ミコトは尊稱。神樣として。
 天雲之八重掻別而 アマグモノヤヘカキワキテ。高天の原から葦原の水穗の國にお降りになる?を説く。ヤヘは、天の雲の幾重ともなくかさなつているをいう。「押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖、於2天津橋1、早岐士麻理蘇理多々斯弖、天2降坐于筑紫日向高千穗之久士布流多氣1」(古事記上卷)。「且排2分天八重雲1、稜威之道別道別而、天2降於日向襲之高千構峯1矣」(日本書紀、神代下)など傳えている。
 天雲之八重雲別而 アマグモノヤヘグモワキテ。本文の句と同じ意味を、語を變えて傳えている。
 神下座奉之 カムクダシイマセマツリシ。神々が、天孫をお降し申しての意。イマセは、敬語の使役法で、そうおさせ申すの意になる。高天の原からこの國に下したというのは、歴史的にいえば、天孫瓊々杵の尊であるが、下の句にこれを受けて、飛ブ鳥ノ淨ミノ宮ニ神ナガラ太敷キマシとあるによれば、その宮にましました(483)方、すなわち天武天皇(もしくは日竝みし皇子の尊)ということになる。この國に御出現御降誕になつたことを、天から降られたという思想で表現しているのである。以上葦原ノ水穗ノ國からこの句まで、次の高照ラス日ノ皇子の修飾句になつている。
 高照日之皇子波 タカテラスヒノミコハ。この句は、天照ラス日女ノ命の句と竝んで、上の神分チ分チシ時ニを受けており、その意味でいえば、天孫の意になるが、それは思想としてであつて、實際的には、次の飛ぶ鳥の淨みの宮にいました方をさしている。文章の上からいえば、時代錯誤が行われている。
 飛鳥之淨之宮尓 トブトリノキヨミノミヤニ。トブトリノキヨミノミヤは、天武天皇の宮室である明日香の淨御原の宮である。日本書紀、天武天皇紀に、朱鳥元年七月の條に、「戊午、改v元曰2朱鳥元年1、仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。飛ぶ鳥の明日香といつた、その飛鳥の字を用いてただちにアスカの地名にも當て、本集にもアスカと讀むべきものがあるが、このあたりの歌中にはアスカの地名には、常に明日香とのみ書いているから、澤瀉博士の説によつて、トブトリノと讀むがよかろう。キヨミは淨み原のキヨミで體言になる。
 神隨 カムナガラ。既出(卷一、三八)。神なるがゆえに。
 太布座而 フトシキマシテ。既出(卷一、三六)。フトは雄大性を示す接頭語。シキは占有、領有の意の動詞。かく飛ぶ鳥の淨みの宮を御占有になるという敍述は、天武天皇の御事をいうと考えられる。この歌の主たる日竝みし皇子の歌について述べようとして、まず先帝の御上を敍したものである。但し卷の一、輕の皇子が安騎の野に出遊された時の歌に、太敷カス都ヲ置キとあるは、輕の皇子の事であるから、ここの太敷キマシテも、日竝みし皇子の尊に關することとしても解せられる。
 天皇之 スメロキノ。この天皇の語は、汎稱として使用せられ、主として、前の代の天皇をいう。
 敷座國等 シキマスクニト。領有せられる國として。クニは、高天の原をいう。トは、としての意。天皇は、(484)統治の事終れば、天に還りたまうという思想である。
 天原石門乎開 アマノハライハトヲヒラキ。イハトは、堅固な門の義。イハは、岩石の義であるが、堅固の意に使われる。磐船などの例である。高天の原の入口に門戸ありとする思想である。日本書紀卷の二、神代の下、天孫降臨の章の第四の一書に、「引2開天磐戸1、排2分天八重雲1以奉v降之」とあるは、降下の記事であるが、磐戸を引きあけて降したとある。これは、墳墓の入口に岩を立てる風習と結合して、石門を開いて墳墓に入ることを、石門を開いて天に上るという形で表現するようになつたのである。そうして高天の原の入口に石門ありとする思想を生じたと見られる。
 神上上座奴 カムアガリアガリイマシヌ。神としての行動なので、神あがりという。アガリは天に昇る意。以上第一段、皇子の薨去のことを言おうとして、まず神話時代から説き起し、天武天皇の崩御にまで及んでいる。
 神登座尓之可婆 カムノボリイマシニシカバ。この別傳によれば、段落とならずに、以下の文に繼續することになる。この別傳では、上の高照らす日の皇子を以つて、日竝みし皇子の尊の事とする解釋は成立しない。これに依つても、第一段は、天武天皇の事を敍したとするを正解とすべきことが知られよう。
 吾王皇子之命乃 ワガオホキミミコノミコトノ。ワガオホキミは、皇子の命を修飾する。わが大君にまします皇子の命の意である。この皇子の命は、日竝みし皇子の尊をさす。
 天下所知食世者 アメノシタシラシメシセバ。天下を統治せられるとせばの意の假設條件法。皇子は皇太子であり、朱鳥元年九月天武天皇の崩御後即位せらるべきであつたが、その後四年目の四月に薨去されたのである。
 春花之 ハルバナノ。枕詞。譬喩によつて貴カラムを修飾している。春の花のように貴くあるだろうの意で(486)ある。
 貴在等 タフトカラムト。天皇として仰ぐことが貴いだろうとの意で、下の思ヒ憑ミテに續く。
 望月乃 モチヅキノ。枕詞。十五夜の滿月のようにの意に、譬喩として、次の滿ハシに冠する。
 滿波之計武跡 タタハシケムト。タタハシは、滿ち足りてある意の形容詞で、動詞湛フから轉成したものである。靈異記に、偉にタタハシクの訓詁があり、本集に、「十五月之《モチヅキノ》 多田波思家武登《タタハシケムト》」(卷十三、三三二四)の用例がある。タタハシケまでが形容詞で、シケは形容詞の活用形である。ムは助動詞。以上二句は、春花ノ貴カラムトの句と對句を成して、下の思ヒ憑ムに接續している。
 食國 ヲスクニノ。上の天ノ下の別傳である。御領土の意。本文の天ノ下の方が大きい。
 四方之人乃 ヨモノヒトノ。天下の諸方の人の意。
 大船之 オホブネノ。枕詞。大船は、安心せられ頼みになるので、憑ムに冠する。
 思憑而 オモヒタノミテ。心に信頼し思つて。
 天水 アマツミヅ。枕詞。天の水の義で、雨雪露の類をいい、その天から降るものなのにつけて、譬喩として仰グに冠する。「彌騰里兒能《ミドリゴノ》 知許布我其等久《チコフガゴトク》 安麻都美豆《アマツミヅ》 安布藝弖曾麻都《アフギテゾマヅ》」(卷十八、四一二二)。
 仰而待尓 アフギテマツニ。御即位になることを仰いで待つ所にの意。事實としては、天武天皇の崩後、適當の時期に、この皇子が即位せらるべきに定まつておつた。それが急速に運ばないで、母君なる皇后(持統天皇)が政務を見られたのは、大津の皇子の謀反があり、その他にも異腹の皇兄があつて、皇子の急速な即位を不便とする情勢にあつたものと考えられる。
 何万尓御念食可 イカサマニオモホシメセカ。既出(卷一、二九、卷二、一六二)。副詞句であるが、獨立句としての性質を感じて使用されたらしい。この句は、下の明言ニ御言問ハサズまでに懸かる。
(486) 由縁母無 ツレモナキ。下に「所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》」(卷二、一八七)とあり、假字書きには、「都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》」(卷三、四六〇)、「津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》」(卷十三、三三二六)などある。ツレは、由縁、所由の文字通り、縁故、關係の義で、縁の無い、ゆかりの無いの意に、次の句の眞弓ノ岡を修飾する。由縁は、字に即してはヨシと讀まれる。
 眞弓乃岡尓 マユミノヲカニ。眞弓の岡は、奈良縣高市郡越智岡にあり、そこに皇子の墓が築かれているのであるが、この歌によれは、まずその地に殯宮が設けられたのである。
 宮柱太布座 ミヤバシラフトシキマシ。宮柱太シクとは、宮殿建造を壯大にするの意の熟語句。卷の一、三六參照。みずから宮殿を營まれる意に、敬語の助動詞マシを使用している。
 御在香乎 ミアラカヲ。ミアラカは、御在處の意で、宮殿をいう。ここは殯宮のこと。
 高知座而 タカシリマシテ。タカシリは、宮殿の高大を稱える動詞。宮殿を高々と御造營になる意である。この二句、上の宮柱太シキマシの句と對句になつている。
 明言尓 アサゴトニ。
   アサゴトニ(神)
   アラゴトニ(新考)
   ――――――――――
   明暮爾《アケクレニ》(童)
 明の字を朝の意に使つたのは、下に、「明者《アシタハ》」(卷二、二一七)の例がある。よつてこのままでアサゴトニと讀む。朝毎にの意であるとする説があるが、次に「御言不2御問1《ミコトトハサズ》」の句があるよりしてみれば、毎の意とせずして、言辭の義と解するを妥當とする。また原文のままにアカゴトニと讀むことも考えられる。アカは、曉《あかとき》、明星などのアカと同じく、明るい意であるが、明言と熟しては、明白な言語の意になるであろう。ニは、明言の性質にての意。しかし今、例のあるによることとする。
(487)御言不御問 ミコトトハサズ。御言を仰せられずの意。次の日月ノマネクナリヌレを修飾している。以上下のマネクナリヌレと共に上のオモホシメセカを受けている。
 日月之 ヒツキノ。この日月は、時間の上にいう日月である。
 數多成塗 マネクナリヌレ。マネクは度數の多いことをいう。ナリヌレは、ナリヌレバの意の條件法。段落ではない。
 其故 ソコヱニ。ソコは、その點の意に、上の句を受けている。「所虚故《ソコヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》」(卷二、一九四)などある。
 皇子之宮人 ミコノミヤビト。皇子の宮殿に奉仕していた人々。
 行方不知毛 ユクヘシラズモ。ユクヘは、行くべき方。それを知らないは、途方に暮れる意である。この種の用例としては、「埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》」(卷二、二〇一)などある。「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》」(卷三、二六四)の用例などは、これと違う用法で、形あるものについて言つている。モは感動の助詞。以上第二段、皇子の薨去を敍し、奉仕した人々の上に及んでいる。
 刺竹 サスタケノ。枕詞。宮、大宮に冠するが、その所以をあきらかにしない。假字書きのものの一例を除いては、皆サスタケに刺竹の文字を使用しているのは、その字義を感じて使用していたのであろう。以下は、本文のソコユヱニ以下の別傳である。「佐須陀氣能《サスダケノ》 枳瀰波夜那祇《キミハヤナキ》」(日本書紀一〇四)の例は、聖コ太子の御歌と傳えるもので、君を修飾しているが、これを本義とすれば、ここも皇子、もしくは宮人に冠するものであろう。語意は、立ツ竹ノで、貴人の姿を竹にたとえるのだろうか。竹を貴人の譬喩に使うことは、ナヨ竹のトヲヨル皇子、ナヨ竹ノカグヤ姫などの例がある。
(488) 歸邊不知尓爲 ユクヘシラニス。ニは、打消の助動詞ヌの連用形であるが、この形で副詞を構成している。「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)などと同樣、動詞|爲《す》がこれを受けている。
【評語】この歌は、神話時代から説き來つて雄大を極めている。人麻呂が皇子の薨去を悼む歌は、古代から説き起すを常としているが、これもその一である。これはこの皇子が皇太子として帝位に上るべき御方であつただけに、高天の原からお降りになつたお方である義をあきらかにしようとして、古來の傳えを歌つたものである。しかし先帝天武天皇が高天の原からお降りになつたことを説くあたりは、時代の混亂があり、詞句表現が不備であつて、豫備知識無しには思想を完全に解し得ないだろう。人がこの皇子に期待することが多かつたのに、これに添わなかつた有樣はよく描かれている。結末は、皇子の宮人の途方に暮れることを概括的に敍しており、作者としての感想は、むしろ反歌において現わされているのである。
 
反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見るごとく
 仰ぎ見し
 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒れまく惜しも。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》
 仰見之《アフギミシ》
 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
【譯】かの大空を見るように仰いで見たわが皇子の御殿の、荒れようとするのが擁念である。
【釋】天見如久 アメミルゴトク。天を見るようにの意に、次の句を修飾している。
 仰見之 アフギミシ。連體形の句で、次の句に接續している。宮殿の高大なのを感じさせている。
 皇子乃御門之 ミコノミカドノ。ミカドは、宮殿の御門であり、これを以つて宮殿を象徴代表している。
(489)荒卷惜毛 アレマクヲシモ。アレマクは荒れむこと。皇子ましまさずして、その宮殿の荒廢するを惜しんでいる。
【評語】長歌の、天ツ水仰ギテ待ツニを受けて、しかも、御門を仰ぎ見る意に轉用している。その宮殿は、下の舍人等の歌には、橘ノ島ノ宮と歌つている。それらの舍人等の作の中にも、同じ思想の歌があつて、その宮殿に奉仕した人々の悲哀をよく語つている。
 
169 茜《あかね》さす 日は照らせれど、
 ぬばたまの 夜《よ》渡る月の
 隱《かく》らく惜しも。
 
 茜刺《アカネサス》 日者雖2照有1《ヒハテラセレド》
 鳥玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》
 隱良久悟毛《カクラクヲシモ》
 
【譯】赤々と日は照らしているけれども、暗い夜を渡る月の隱れることが殘念である。
【釋】茜刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。ここは赤色を帶びる意に日に冠している。
 日者雖照有 ヒハテラセレド。日は照り渡つているが。逆態條件法。
 烏玉之 ヌバタマノ。既出(卷二、八九)。枕詞。
 夜渡月之 ヨワタルツキノ。ワタルは經過するをいう。夜空を渡る月の意で、月は皇子を譬えている。
 隱良久惜毛 カクラクヲシモ。カクラクは隱れること。皇子の薨去を、月の隱れることに譬えている。前の歌の末句と同形を用いている。
【評語】譬喩の形式に依つて、皇子の薨去を、お悼み申し上げている。内容の思想的な點に特色のある作品である。日竝みし皇子の尊の御稱號は、天皇の御もとにあつて皇太子としてましましたことを、日に竝んでおいでになる御方といぅ意味に申し上げたので薨後の謚號のようである。この歌でも「日は照らせれど」で、天皇(490)の嚴としてましますことを述べ、これに對して月とも仰がれる皇子のお隱れになつたことを悼んでいる。その譬喩は適切であるが、一面、日は照つているが、月の隱れるのが惜しいという、實際に起らないことを譬喩とした點には、無理がある。
 
或本、以2件歌1、爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也。
 
或る本に、件の歌を、後の皇子の尊の殯の宮の時の歌の反とせり。
 
【釋】或本 アルマキニ。右の歌の性質に關する別傳であるが、いかなる書とも知られない。
 以件歌 クダリノウタヲ。右の茜サスの歌をいぅ。
 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子。草壁の皇子に對して後の皇子の尊という。
 歌反 ウタノカヘシ。反歌に同じと見られるが、歌の反歌の略稱であるか、または國語にカヘシと言つたかは不明である。
 
或本歌一首
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の日竝みし皇子の尊の殯宮の時に柿本の朝臣人麻呂の作れる歌という題詞を受けて、別の書から、同じ作歌事情のもとにある歌を録したと認められる。或る本にこれを前の長歌の反歌として載せている意味であるか否か不明である。またその或る本のいかなる書であるかも知られない。
 
170 島の宮 勾《まがり》の池の 放ち鳥、
 人目に戀ひて 池に潜《かづ》かず。
 
 島宮《シマノミヤ》 勾乃池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》
 人目尓戀而《ヒトメニコヒテ》 池尓不v潜《イケニカヅカズ》
 
(491)【譯】島の宮の勾の池の放し飼いにしてある鳥は、人目を戀しがつて、池に潜《くぐ》らない。
【釋】島宮 シマノミヤ。皇子の宮殿である。下に「橘之《タチバナノ》 島宮爾波《シマノミヤニハ》](巻二、一七九)とある。橘は、今、奈良縣高市郡、飛鳥川の左岸にある地で、その地に皇子の宮殿が造營されたのであろう。シマは、庭園、林泉の義で、島の宮は、庭園を作り成した宮殿の義である。
 勾乃池之 マガリノイケノ。マガリノイケは、池の形のまがつているによつていう。まがつている形の餅をマガリということを經由している譬喩だろう。島の宮の御池である。
 放鳥 ハナチドリ。放し飼いにしてある鳥で、池ニ潜カズともあり、水鳥であることが知られる。
 人目尓戀而 ヒトメニコヒテ。皇子の薨去により、人氣うとくなつたので、鳥もさびしげにある意である。
 池尓不潜 イケニカヅカズ。鳥も水に潜らず、悄然としてあるをいう。
【評語】皇子無き跡の宮殿の寂寥を描いている。悲哀を露骨に言わないで、よくその情を寫している。下の、「島の宮池の上なる放ち鳥」(卷二、一七二)の歌と、同じ題材により、しかもこの方が趣が深い。
 
皇子尊宮舍人等、慟傷作歌二十三首
 
皇子の尊の宮の舍人等の、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
 
【釋】 皇子尊宮舍人等 ミコノミコトノミヤノトネリラ。ミコノミコトは、日竝みし皇子の尊をいう。この前に柿本の人麻呂の皇子を悼んだ長歌とその反歌とがあつて、その題詞に、日竝みし皇子の尊と御名をあらわしてあるので、ここに單に皇子の尊とのみ書いたのである。その日竝みし皇子の薨逝を悼み悲しんで詠んだ歌である。舍人は、職名で、護衛、雜仕、宿直等に當る。東宮には六百人の舍人が置かれた。當時の制、官仕しようとする者を、まず舍人としたので、その位置は低いが、有爲の青年もこれにはいつている。柿本の人麻呂の(492)如きも、この皇子の舍人であつたように考えられる。その作歌二十三首は、一人の作か、多數の人の作か、不明である。人麻呂も加わつているかも知れず、全部人麻呂の作とする説もあるが、それも確認しがたい。
 
171 高光る わが日の皇子《みこ》の
 萬代に 國知らさまし
 島の宮はも。
 
 高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》
 島宮波毛《シマノミヤハモ》
 
【譯】日のように輝く御子なる、わが皇子樣の、萬世に國家を、御統治遊ばすべきであつた、この島の宮はなあ。
【釋】 高光 タカヒカル。枕詞。高大に照り輝く意に、日に冠する。古事記中卷に、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》」(二九)とあるを初めとし、古歌に例證があり、歌いものから來た語であることが知られる。
 我日皇子乃 ワガヒノミコノ。親愛の意を以つてワガに冠する。ヒノミコは、日のような尊い御子の意に、日竝みし皇子の尊をさす。
 萬代尓國所知麻之 ヨロヅヨニクニシラサマシ。マシは不可能の希望をいうので、萬代に國を領すべきであつたが、事實そうではなかつたことをあらわす。この句は下に續く蓮體法である。
 島宮波毛 シマノミヤハモ。島の宮は、前の歌參照。ハモは、提示し感歎する意の助詞。別けていえは、ハは提示、モは感動。ハで言い出して、モで感動をあらわした言い方で、感迫つて言うに堪えず、言うに及ばない時に使用される。古事記中卷、弟橘比賣の命の歌に、「さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(二五)などある。
【評語】上の方を雄大に敍し、末句に至つて、それを逆轉急折する表現法である。上の方が雄大であればある(493)ほど效果が多い。下の、「天地と共に終へむと思ひつつ」の歌(卷二、一七六)の如きも、同型の歌である。この歌、マシの一語を除けば、祝賀の意となり、千代かけて君の國家を統治せらるべき宮をほめる意となる。その然らざる所以は、實にマシにそうあるべくしてあり得なかつたの意があるからである。マシはみだりに祝賀の歌に使うべからざる所以である。賀茂の眞淵の新築を成つて詠んだ歌に「飛騨匠《ひだたくみ》ほめて作れる眞木柱たてし心は動かざらまし」というのがあるが、この歌など、マシの用法を誤つたもので、動かないことを望むが、動いてしまつたの意になるのである。
 
172 島の宮 上の池なる 放《はな》ち鳥、
 荒《あら》びな行きそ 君|坐《ま》さずとも。
 
 島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不v坐十方《キミマサズト》
 
【譯】島の宮の上の池に飼つてある放ち鳥よ、荒び行くな。よし君がおいでならなくても。
【釋】上池有 ウヘノイケナル。上にも下にも池があつて、段々に水が流れ下るのであろう。萬葉考は、池の上なるの誤りとし、現に神田本に「池上有」に作つているが、訂正するにも及ぶまい。一七〇の歌に勾の池とあるも、この池であろう。 放鳥 ハナチドリ。既出(卷二、一七〇)。
 荒備勿行 アラビナユキソ。ナは禁止の助詞。君無くとも、すさび行くなかれの意。
 君不座十方 キミマサズトモ。君は日竝みし皇子の尊。
【評語】遺愛の鳥に、思いを寄せている。倭姫の皇后の御歌、「若草の嬬の念ふ鳥立つ」の歌とも通う所のある歌である。上掲の島ノ宮勾ノ池ノ放チ鳥の歌と、同人の作とも見れば見られる歌である。
【參考】類想。
(494)  御立せし島をも家と住む鳥も荒びな行きそ。年かはるまで(卷二、一八〇)
 
173 高光る わが日の皇子《みこ》の 坐《イマ》しせば、
 島の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを。
 
 高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》
 島御門者《シマノミカドハ》 不v荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
【譯】日のように光り輝く、わが皇子樣が、おいで遊ばされたなら、この島の宮殿は、荒れなかつたろうものを。
【釋】高光吾日皇子乃 タカヒカルワガヒノミコノ。一七一參照。
 伊座世者 イマシセバ。イマシは、動詞イマスの體言形。座はマスとも讀むので、特に伊の字を書き添えたのであろう。
 島御門者 シマノミカドハ。ミカドは宮殿。シマノミカドは、島の宮に同じ。音數の關係で島の御門といつている。
 不荒有益乎 アレザラマシヲ。ヲは感動の助詞。荒れなかつたろうものを。
【評語】高光ルワガ日ノ御子の語は、歌いものから來た熟語であるが、しかし、これに依つて皇子の高大性がよく表現せられ、この歌の如きにおいて、特にそれが有力に響いている。もし君がいましたらというはかない希望の云い方は、挽歌に常に見られる所であるが、この歌では、類型的な感じを抱かせないのは、他の詞句が多く具體的に敍述しているからである。島ノ御門の語も、高光ルワガ日ノ御子の語に對應して一首の内容を壯大にしている。
 
174 外《ヨソ》に見し 眞弓の岡も
(495) 君|坐《ま》せば、
 常《とこ》つ御《み》門《かど》と 侍宿《とのゐ》するかも。
 
 外尓見之《ヨソニミシ》檀乃岡毛《マユミノヲカモ》
 君座者《キミマセバ》
 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
【譯】今までは外《よそ》に見ておつた、この眞弓《まゆみ》の岡も、わが皇子の殯宮となつたので、宿直をすることである。
【釋】外尓見之 ヨソニミシ。從來、關係無き地として見ていたの意。
 檀乃岡毛 マユミノヲカモ。マユミは、樹名。マユミノヲカは、眞弓の岡に同じ。御墓所であるが、この歌では、まだ殯宮が置かれてあつて、それについて歌つているのであろう。
 君座者 キミマセバ。亡き皇子を、いますが如くに取り扱つている。
 常都御門跡 トコツミカドト。トコは、恒久不變の意。ツは助詞。トコツミカドは、永久の宮殿。下のトは、としての意。御墓所に殯宮を作るので、常ツ御門という。
 侍宿爲鴨 トノヰスルカモ。侍宿は、漢文から來た熟字で、宮殿に宿泊して非常に備えるをいう。舍人たちは、今はこの殯宮に侍宿するのである。
【評語】亡き人の生前と變わつた生活をするようになつたことを歌つている。これも挽歌の一格であつて、他にも例が多い。この一連の中にも、一七五、一七九、一九三の如きは、この種の歌である。從來何のゆかりも無かつた眞弓の岡が、今は君の御座所となり、そこに宿直するという、舍人としての深い感慨が歌われている。
 
175 夢《いめ》にだに 見ざりしものを、
 おほほしく 宮|出《で》もするか。
 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を。
 
 夢尓谷《イメニダニ》 不v見在之物乎《ミザリシモノヲ》
 鬱悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》
 佐日之隈廻乎《サヒノクマミヲ》
 
(496)【譯】夢にも思わなかつたものを、鬱々として、出仕をすることだなあ。この佐日の曲り道を。
【釋】夢尓谷 イメニダニ。ダニは、他はおいてこれだけもの意をあらわす助詞。現實はいうまでもなく、夢にもの意。
 不見在之物乎 ミザリシモノヲ。かように檜隈を通つて出勤するとは、夢にも見なかつたの意で、意外の心をあらわしている。
 鬱悒 オホホシク。假字書きの例には、於保保思久、於煩保之久、意保々斯久、大欲寸など書いてある。これによれば、清音に讀むべきことが知られる。煩は、韻鏡外轉第二十二合、脣濁に屬しているが、また字書に符袁切ともあつて、清音にも通じたのである。集中、能煩流、保呂煩散牟など濁音に用い、また於煩呂加爾など清音にも用いている。表意文字として鬱悒は、漢文から來た文字であり、また鬱、不明、不清などの文字に、この語を當てて訓としている。語義は、オホオホシの約言なるべく、明白でない意から、心中の鬱々として晴れがたきをいう。「海未通女《アマヲトメ》 伊射里多久火能《イザリタクヒノ》 於煩保之久《オホホシク》 都努乃松原《ツノノマツバラ》 於母保由流可聞《オモホユルカモ》」(巻十七、三八九九)の如きは、ぼんやりと見えるのを形容している。心情に関しては心中の鬱々として晴れ難く慰め難きをいう。「多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》 意保々斯久《オホホシク》 伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》 阿我和可留良武《アガワカルラム》」(巻五、八八七)の如きその用例で、ここもそれに同じである。
 宮出毛爲鹿 ミヤデモスルカ。ミヤデは、宮中に出ること、出動。「左夫流兒爾《サブルコニ》 佐度波須伎美我《サドハスキミガ》 美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》」(巻十八、四一〇八)の例は、宮出の後姿を、ミヤデシリブリと言つている。カは感動の助詞。句切。
 佐日之隈廻乎 サヒノクマミヲ。サは接頭語で、日の隈は地名である。意は、檜の生い茂つている山の曲つた隈をいうのであろう。突出した地形が埼であるに對して、入り込んだ地形が隈である。ミはその彎曲してい(497)ることを示す接尾語。この地、普通に檜隈と書く。奈良縣高市郡眞弓村の南方の地名。「佐檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》 瀬乎早《セヲハヤミ》」(卷七、一一〇九)「佐檜隈《サヒノクマ》 檜隈河爾《ヒノクマガハニ》 駐v馬《ウマトドメ》」(巻十二、三〇九七)など詠まれている。眞弓の岡に赴くに通過した地である。
【評語】ここにも皇子の薨去によつて、意外のことをするようになつたことが敍せられている。孤影悄然として眞弓の岡に通う作者の姿が、よく描き出されている。
 
176 天地と 共に終《を》へむと 念《おも》ひつつ
 仕へまつりし 情《こころ》違《たが》ひぬ。
 
 天地與《アメツチト》 共將終登《トモニヲヘムト》 念乍《オモヒツツ》
 奉仕之《ツカヘマツリシ》 情違奴《ココロタガヒヌ》
 
【譯】天地のある間、これと共に終始しようと思いながら、お仕え申し上げていた心が違つてしまつた。
【釋】天地與共將終登 アメツチトトモニヲヘムト。ヲヘムは、動詞ヲフに將來をいう助動詞ムの添つたもの。天地が無くばやむを得ない。天地のあるあいだはこれと共に終ろうの意で、永久の意味を、具體的な想像によづてあらわしている。天地は變わらないものとする前提のもとに立つている思想である。
 奉仕之 ツカヘマツリシ。皇子に奉仕した意で、連體形。
 情違奴 ココロタガヒヌ。思うところに違つたの意である。
【評語】これも一氣に永久奉仕の信念を描き、最後に至つてそれが期待にはずれたことを述べている。天地と共に終ろうと思いつつ仕え奉つたというのが、いかにも大きな言い方である。
 
177 朝日照る 佐太《さだ》の岡邊に
 群《む》れゐつつ、
 わが哭《な》く涙 やむ時もなし。
 
 朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 群居乍《ムレヰツツ》
 吾等哭涙《ワガナクナミタ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
(498)【譯】日の照る佐太の岡のほとりに、群がつていて、吾等の泣く涙は、やむ時も無い。
【釋】朝日弖流 アサヒテル。實景を敍した句で、次の佐太の岡邊を修飾している。
 佐太乃岡邊尓 サダノヲカベニ。佐太の岡は、眞弓の岡に隣接しており、そこに奉仕の舍人等の控所があつたものと考えられる。下の一八七、一九二にもこの岡の名が見えている。
 群居乍 ムレヰツツ。殯宮奉仕の舍人等が群がつているのである。
 吾等哭涙 ワガナクナミタ。上の群レヰツツを受けて、ワガと言つている。ワガに吾等の字をあててある。訓讀では、吾でも吾等でも變りは無いが、上に群レヰツツとあるので、原文に吾等と用いたものである。吾等をワガと讀むものは、他にも例がある。そして事實は複數の吾であることを語つている。「野島我埼爾《ノジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》」(卷三、二五〇)、「何野邊爾《イヅレノノベニ》 廬將v爲吾等者《イホリセムワレ》」(卷六、一〇一七)、「水名沫如《ミナワノゴトシ》 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》」(卷七、一二六九)。涙は、古事記に那美多、日本書紀に那彌多とあり、いずれもタは清音である。本集では、那美多(卷五、七九八)、奈美太(卷二十、四三九八、四四〇八)とある。
 息時毛無 ヤムトキモナシ。悲涙の絶えず流れるをいう。
【評語】朝日の光のもとに、白い喪服を著た多勢の壯士の泣くのは、悲壯である。夜の勤番を終えてか、または、これからの奉仕かは記述されていないが、多數の壯士が、ここに集合して、そのどの人も慟哭している。東宮の舍人は、有爲の青年が多くはいつていると考えられるが、それらの群衆慟哭を描いた、珍しい作品である。
 
178 御立《みたち》せし 島を見る時、
 行潦《にはたづみ》 流るる涙 止《と》めぞかねつる。
 
 御立爲《ミタチセシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》
 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミタ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
(499)【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を見る時、流れる涙は止めがたい。
【釋】御立爲 ミタチセシ。この句は、下の一八〇、一八一にもあり、同一の字面を使用し、一八八には、御立之と書いている。ミタチセシは舊訓であるが、ミタタシシ(考)、ミタタシノ(講義)等の諸訓がある。ミタタシシのタタシシは、用言であるから、それに接頭語ミの附著することなく成立しない。ミタタシノは、「御執乃《ミトラシノ》 梓弓能《アヅサユミノ》」(卷一、三)の例もあるが、それは現在の性質をいうのであつて、ここに過去の事實をいうに合わない。よつて舊訓をよしとする。ミタチは、ミユキ(行幸、御幸)と同一組織の語であつて、本集には、「舶騰毛爾《フナトモニ》 御立座而《ミタチイマシテ》」(卷十九、四二四五)があり、それも、ミタチイマシテと讀まれる。また垂仁天皇の山陵を、古事記に、菅原の御立野の中にありとし、高市の皇子の御墓の所在を三立の岡といい、播摩國風土記に「御立阜、品太天皇登2於此阜1覽v國。故曰2御立岡1」、古事記下卷、仁コ天皇記に「爾天皇、御2立其大后所v坐殿戸1」とあるなどミタチと讀まれる例が多く、この語の存在し使用されたことが證明される。皇子の生前、お立ちになつた島の意に、次の句の島を修飾する。
 島乎見時 シマヲミルトキ。シマは、林泉庭園の義。いわゆる島の宮と呼ばれる宮殿の島である。
 庭多泉 ニハタヅミ。枕詞。流れるに冠する。倭名類聚砂に、「唐韻云、潦、和名爾波大豆美、雨水也」とあり、本集に「甚多毛《ハナハダモ》 不v零雨故《フラヌアメユヱ》 庭立水《ニハタヅミ》 大莫逝《イタクナユキソ》 人之應v知《ヒトノシルベク》」(卷七、一三七〇)、「爾波多豆美《ニハタヅミ》 流H等騰未可禰都母《ナガルルナミダトドミカネツモ》」(卷十九、四一六〇)など使用せられている。雨が降つて急に出る水であるが、語義については、ニハを、俄の義とする説と、前庭の義とする説とがある。いずれとも決しかねるが、庭の字を書いているのは、そういぅ語原意識があつたとも取れる。タツミのタツは、ユフダチ(夕立)のタツと關係あるべく、古義に、夕立などの際に庭に水の流れるのを、タツミガハシルという方言があると言つている。
 流涙 ナガルルナミタ。慟哭して落ちる涙であるが、自動的に流れるように敍している。
(500) 止曾金鶴 トメゾカネツル。トメは、停止する意の動詞の連用形。ゾは係助詞。カネは得ざる意の動詞。ゾを受けてツルと結んでいる。トドメカネツともいうべきを、中間にゾを入れていう例は、「奈麻強爾《ナマジヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》 在曾金津流《アリゾカネツル》」(卷四、六一三)の如きがあり、他の助詞を入れるものには、「君之使乎《キミガツカヒヲ》 待八兼手六《マチヤカネテム》」(同、六一九)の如きがある。
【評語】前の歌の、ワガ泣ク涙止ム時モ無シの率直雄勁なのにくらべて、流ルル涙止メゾカネツルには、曲折があり、止めようとしても止まらないさまが寫されている。ニハタヅミの語は、枕詞ではあるが、多く出る水の語義から、涙の多量であることを描くに役立つている。これは個人の立場で詠んだ歌である。
 
179 橘の 島の宮には 飽《ア》かねかも、
 佐太《さだ》の岡邊に 侍宿《とのゐ》しに行く。
 
 橘之《タチバナノ》 島宮尓者《シマノミヤニハ》 不v飽鴨《アカネカモ》
 佐田乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 侍宿爲尓往《トノヰシニユク》
 
【譯】橘の島の宮には飽きないのに、佐太の岡邊に侍宿しに往くことであるか。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は地名、島の宮の所在地奈良縣高市郡飛鳥の地で飛鳥川の左岸に當る。その川を隔てた對岸の島莊村が、島の宮の舊址に擬せられているが、その邊を含めて橘と言つたか、または島の宮の舊址を他に求むべきかは、問題とされる。日本書紀推古天皇紀に、蘇我の馬子について、「家2於飛鳥河之傍1、庭中開2小池1、仍興2小島於池中1、故時人曰2島大臣1」とあり、飛鳥川の水を利用して池を作つたことが傳えられている。今の島の宮が、その蘇我の馬子の邸地であつたか否かは不明であるが、池の造られたのは、やはり飛鳥川の水が利用されたのであろう。然らば飛鳥川に接して構成されたものなるべく、その河邊を橘と稱したことが推考される。
 不飽鴨 アカネカモ。アカネは、飽き足らない、不十分の意。ネは打消の助動詞ヌの已然形。アカネバカの(501)意で、カモは疑問の係助詞。ネバに、已然順態條件法のと、逆態條件法にヌニの意に解すべきがある如く、このネバは、ヌニと解すべき方である。すなわち飽きないのにかと譯すべきである。飽きないのに侍宿しに行くことかの意。島の宮での奉仕は滿足しないのにか。
 佐田乃岡邊尓 サダノヲカベニ。既出(卷二、一七七)。そこに舍人等の奉仕すべき宿舍があつたようである。
 侍宿爲尓往 トノヰシニユク。トノヰは既出(卷二、一七四)。そのために行くのである。
【評語】これも薨後意外の勤仕をする意味が歌われている。橘は地名であるが、この語を冠して島の宮の印象を深くしている。その美しい宮殿を捨てて何の希望も無い佐太の岡に侍宿しに行く寂寥感が歌われている。
 
180 御立《みたち》せし 島をも家と 住む鳥も、
 荒《あら》びな行きそ。
 年|易《かは》るまで。
 
 御立爲之《ミタチセシ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》
 年替左右《トシカハルマデ》
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を、わが家として住む鳥も、野性に歸つて行くな、年が變わるまでも。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(卷二、一七八)。
 島乎母家跡住鳥毛 シマヲモイヘトスムトリモ。この宮の林泉をも、おのが家として住む鳥もで一七二の歌にあつた放ち鳥の水鳥をいう。
 荒備勿行 アラビナユキソ。既出(卷二、一七二)。
 年替左石 トシカハルマデ。トシカハルは、翌年になるをいう。左石をマデと讀むのは、左右手の義である。既出(卷一、三四)。
(502)【評語】遺愛の鳥につけて思いを述べている。一七二と類想の歌。ありし日の姿のままにその鳥を眺めて、亡き君を思おうとする心が歌われている。
 
181 御立《みたち》せし 島の荒礒《ありそ》を 今見れば、
 生《お》ひざりし草 生ひにけるかも。
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園の荒い岩組を、今見れば、御在世の時には生えなかつた草も、長く生えたことだなあ。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(巻二、一七八)。
 島之荒礒乎 シマノアリソヲ。シマは庭園林泉の義。アリソはアライソの約で、イソは、岩石の重なりあつている處。アラはその形容で、けわしい氣分に用いる。荒礒は、後には海についた處にのみ用いちれているが、古くは庭園にも、川などにも用いる例である。
 今見者 イマミレバ。眞弓の岡の方へ行つており、しばらく見なかつたことが、この句であらわされている。
 不生有之草 オヒザリシクサ。以前御在世の時は、草なども生えなかつたものであるがの意に、生ヒザリシ草といつている。
 生尓來鴨 オヒニケルカモ。今は既に生えていることを歎息している。
【評語】四五句に、オヒを重ねて用いたのは、感慨の調子を深くするに足りる。從來生えなかつた草が生えたといつてはいるが、それは畢竟氣分の問題で、目前に生えている草に荒涼の氣を感じたのである。皇子の薨去には關係無く、草は生えるのであるが、それを今は荒涼たるものに感ずるので、荒涼たるは、自然にあらずして、作者の心に發する所である。「はしきかも皇子の命のあり通ひ見しじ活道の路は荒れにけり」(卷三、四七(503)九)の歌の如きも同樣に、君去つて山路の荒れたのを歎じている。人の死後に、すべてが變わつて感じられる心が歌われている。
 
182 鳥〓《トクラ》立て 飼ひし雁の兒、
 巣立ちなば、
 眞弓の岡に 飛び歸り來《こ》ね。
 
 鳥〓立《トクラタテ》 飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》
 栖立去者《スダチナバ》
 檀岡尓《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビカヘリコネ》
 
【譯】鳥小舍を立てて、飼ひ育てたカリが、巣立つて飛べるようになつたならば、御墓所の檀の岡に飛んで來るがよい。
【釋】鳥〓立 トクラタテ。〓は、美夫君志に栖の俗字としている。しかし下に栖の字が使われているから、別字とするのがおだやかである。トクラは、倭名類聚鈔に、「孫?切韻云、穿v垣栖v鷄曰v塒。音時、和名止久良」とある。鳥を据えておく所で、鳥座すなわち、鳥の居場所の義である。集中「枕附《マクラツク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須恵?曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(巻十八、四一五四)とある。タテは、それを設ける意。
 飼之雁乃兒 カヒシカリノコ。カリノコは雁で、コは愛稱であるが、カリを育てるということ、無いでもあるまい。カリというのも水鳥の汎稱で、生育して放ち鳥にするものと解せられる。枕の草子にカリノコというのは、アヒルのことというが、ここでは、カモ、オシドリなどだろう。代匠記には、鷹の古字に雁があつて、雁の字と極めてよく似ているとて、※[麻垂/雁の中]《たか》の誤りとしている。鳥座を立てて鷹を飼うことは、前項の巻の十七の例にもあり、狩獵に用いるためとしてあり得ることである。
 栖立去者 スダチナバ。鳥の雛が、巣から飛べるようになるのを、巣立つという。生長して自分で飛べるようになつたならば。
(504) 檀岡尓 マユミノヲカニ。皇子の御墓所なる眞弓の岡に。
 飛反來年 トビカヘリコネ。トビカヘリは、飛びひるがえる義で、飛翔するに同じ。コネは、動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語】これも遣愛の鳥について歌つている。鳥に對して歌つている形を採つているのは、古歌にしばしば見る所で、自然に寄せる歌人の心のあらわれである。
 
183 わが御門《みかど》、
 千代とことばに 榮えむと、
 念《おも》ひてありし 吾《われ》し悲しも。
 
 吾御門《ワガミカド》
 千代常登婆尓《チヨトコトバニ》 將v榮等《サカエムト》
 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
【譯】このわたしのお仕え申しあげる御殿は、永久に榮えるであろうと思つていた、そのわたしは悲しいことだ。
【釋】吾御門 ワガミカド。ワガは、親愛の意の表示として冠している。わが國などいう場合のワガに同じ用法である。ミカドは宮殿をいう。島の宮をさしていう。
 千代常登婆尓 チヨトコトバニ。チヨは千代で、永い年月をいう。トコトバは、舊説にトコツイハの約でトコトハとハを清音に讀むべく、トコは常久の意、イハは磐石であるといつている。しかし然らば、トコチはというべきに常登婆と書き、佛足跡歌碑にも、止己止婆と書いてあるから、この説は疑わしく、れを濁音に讀むべきである。語の意味が、常久であることは變わらない。
 將榮等念而有之 サカエムトオモヒテアリシ。皇子が生存しておいで遊ばされたらば、自然この宮殿も榮えるので、そうあるであろうと、將來の榮華を期待している意で、連體形の句である。トは、初句から榮エムま(505)でを受けている。
吾志悲毛 ワレシカナシモ。上のシは強意の助詞。期待にそむいて、皇子が薨去されたので、みずから悲しむ意である。モは感動の助詞。
【評語】これも上から大きく敍し、最後に逆折する表現法の歌である。初句は、二三句に對する主格であるが、まず提示して全體の主題であることを示している。みずから顧みて心中を敍している。
 
184 東《ひむかし》の 激流《たぎ》御門に 候《さもら》へど、
 昨日も今日も 召すことも無し。
 
 東乃《ヒムカシノ》 多藝能御門尓《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》
 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言無毛《メスコトモナシ》
 
【譯】東方の水の落ちる處にある御門に、伺候しているけれども、昨日も今日も、お召しになることがない。
【釋】東乃 ヒムカシノ。ヒムカシは、日に向かう方の義で、東方の意。
 多藝能御門尓 タギノミカドニ。タギは、水の激し流れるところ。今いう直角的に落下する水の謂ではない。ミカドは、この歌では御門で、門を守つている意である。この御門は、島の宮の御門で、池の水などの近く流れ落ちる處にある門である。この水は、多分飛鳥川の方へ落ちるものなるべく、これに依つて、島の宮が、飛鳥川の西岸にあつたことが考えられる。
 雖伺侍 サモラヘド。伺候して待つているけれども。サモラフは、動詞守ルの連續?態を示すモラフに、接頭語サが附いたのである。その動詞守ルは、元來、目で注意する、注視するの意の語であり、そこに注意し緊張して伺候する本意が存している。
 昨日毛今日毛召言毛無 キノフモケフモメスコトモナシ。生前はお召しになることも多かつたが、薨去の後は、毎日何等のお召しもない物足りなさが敍せられている。
(506)【評語】舍人としての奉仕が、初三句に具體的に描かれているのがよい。四五句は、皇子が薨去されて、自然御用無く、手持無沙汰に寂寥の念を禁じ得ない?を寫している。直接に皇子の薨去をいわず、自己の悲哀を語らず、ただ身上を敍述したのみで、しかも悲哀をよく表出している。
【參考】類想。
  はしきやし榮えし君の坐《いま》しせば昨日も今日も吾《わ》を召さましを(巻三、四五四)
 
185 水|傳《つた》ふ 礒の浦廻《うらみ》の 石躑躅《いはつつじ》、
 茂《も》く咲く道を またも見むかも。
 
 水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦廻乃《イソノウラミノ》 石上乍自《イハツツジ》
 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將v見鴨《マタモミムカモ》
 
【譯】水邊の岩の多い浦めぐりの石《いわ》ツツジ、茂く咲く道をまた見ることもあろうか。
【釋】水傳 ミヅツタフ。水に沿う意で、次の礒の説明修飾の句。水邊の意。
 礒乃浦廻乃 イソノウラミノ。池について、石の多い浦をさしている。ミは接尾語。
 石上乍白 イハツツジ。倭名類聚鈔に、「陶隱居曰、羊躑躅 擲直二音以波都々之」と見えている。石上の二字をイハに當てている。
 木丘開道乎 モクサクミチヲ。コクサクミチヲ(拾)、森閑道乎《シジニサクミチヲ》(考)。モクは茂くの意の形容詞。日本書紀神代の上に、扶疏にシキモシ、應神天皇紀に、芳草※[草冠/會]蔚にモクシゲシの古訓があつて、モシという形容詞のあつたことが知られる。ここは花の繁く咲く形容に使用されている。
 又將見鴨 マタモミムカモ。マタミナムカモ(考)。またも見ようか、疑わしいの意。
【評語】皇子薨去の後は、この宮に來ることもなくなるから、二度と見る機會もあるであろうかと疑つている。ツツジの花の盛りに、島の宮に別れを告げる寂しい心が味わわれる。
 
(507)186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし
 東の 大き御門《みかど》を 入りがてぬかも。
 
 一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》
 東乃《ヒムカシノ》 大寸御門乎《オホキミカドヲ》 入不v勝鴨《イリガテヌカモ》
 
【譯】かつては一日に千度も參入した、東方の大きい御門を入るに堪えないことである。
【釋】一日者 ヒトヒニハ。皇子生前のある一日には。
 千遍參入之 チタビマヰリシ。チタビは、度數の多いのをいう。マヰリは、マヰイリの約言。宮門に入るをいう。御用によつて、出入をするので、自然數多く參入した意である。
 大寸御門乎 オホキミカドヲ。タキノミカドヲ(西)。註疏にオホキミカドニと讀んだのがよい。オホキは、大きい意の形容詞。ミカドは、宮門をいう。タギノミカドヲと讀む説があるが、それには寸の下に字を補わねばならない。前にタギノ御門はあつたが、この歌では、門を入るという所に主題があるから、大きい門と視覺に訴えた方がよいのである。但しその門は、前の、タギノ御門と同じ門である。
 入不勝鴨 イリガテヌカモ。ガテヌは、可能の意の助動詞カツに、打消の助動詞ヌの接續したもの。入ることができないなあ、入るに堪えないなあの意。ガテヌの假字書きの例には、「比等國爾《ヒトクニニ》 須疑加弖奴可母《スギガテヌカモ》 意夜能目遠保利《オヤメヲホリノ》」(巻五、八八五)、道乃長道波《ミチノナガヂハ》 由佳加弖奴加毛《ユキガテヌカモ》」(巻二十、四三四一)などある。
【評語】同じ東の御門にしても、伺候していて昨日も今日も召すこともなしという時には、水聲の耳につくことを歌つて、激流の御門といい、今その門前に來て逡巡することを敍しては、大き御門と歌つている。自然にして最適切なる語が選定されている點に注意すべきである。
 
187 由縁《つれ》も無き 佐太《さだ》の岡邊に
(508) 反《かへ》り居ば、
 島の御階《みはし》に 誰《たれ》か住まはむ。
 
 所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 反居者《カヘリヰバ》
 島御橋尓《シマノミハシニ》 誰加住?無《タレカスマハム》
 
【譯】何の縁故もない佐太の岡のほとりに、移りいたならば、かのお庭の御階《みはし》には、誰が住むだろうか。
【釋】所由無 ツレモナキ。縁故、由縁の無い。もと無かつたのであつて、今は墓所となつているのであるが、概括的に由縁モ無キといつたのである。この句もヨシモナキと讀むべきか。
 反居者 カヘリヰバ。カヘリは、本來おるべき處に移るをいう。今は御墓の邊をわが勤め處とすれば、そこに移りいるならばとである。今たまたま島の宮に來て詠んでいる立場である。
 島御橋尓 シマノミハシニ。シマは庭園で、島の宮の庭園をいう。ミハシはミは接頭語。ハシは階段の意で、御殿から、庭上におりる階段のもとに、舍人は伺候していたのであるが、今吾等がかく墓所に移つたならば、何人がその階段に伺候するであろうかの意である。
 誰加住?無 タレカスマハム。住?は、二字でスマハの音を表示している。スマハムは、佳ムの連続?態を示す住マフの未然形に助動詞ムの接續したもの。誰が住むならむか、誰も住む人はあるまいの意。
【評語】これも島の宮に別れを惜しみ、その人無き宮殿として荒れることを悲しんでいる。舍人として感慨無量の所である。
 
188 たな曇り 日の入りぬれば、
 御立《みたち》せし 島におり居て
 嘆きつるかも。
 
 旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》
 御立之《ミタチセシ》 島尓下座而《シマニオリヰテ》
 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
(509)【譯】空一面にかき曇つて、日が隱れたから、生前お立ち遊ばされた庭園に立つて、嘆息をしたことである。
【釋】旦覆 タナグモリ。童蒙抄には、アサグモリと讀み、美夫君志には、タナグモリと讀んでいる。旦は字書 n の韻だからナとなるのである。日の入るということ、朝とするよりタナの方が適している。覆は、蔽う意の字であるので、クモリに使用している。タナグモリは、一面に曇ること。
 日之入去者 ヒノイリヌレバ。ヒノイリユケバ(西)。日の雲に隱れた意に、皇子の薨去をたとえている。但し同時に、今この宮殿に來た時の實景でもあるであろう。すなわち實景を敍して譬喩としたと見るべきである。
 御立之 ミタチセシ。前に御立爲之とあつたのと同じく、ミタチセシと讀むべきである。ミタタシノではない。
 島尓下座而 シマニオリヰテ。庭園におり立つて。
 嘆鶴鴨 ナゲキツルカモ。嘆息をしたことであるよの意。ナゲクは長い息をつくこと。ツルカモに鶴鴨の字をあてている。
【評語】實景を敍して譬喩とし、巧みに嘆クの伏線としている。舊殿の林泉に立つて、亡き君を慕う情がよく描かれている。内容の豊富な作である。
 
189 朝日照る 島の御門《みかど》に
 おほほしく 人音《ひとおと》もせねば、
 まうら悲《がな》しも。
 
 旦日照《アサヒテル》 島乃御門尓《シマノミカドニ》
 鬱悒《オホホシク》 人音毛不v爲者《ヒトオトモセネバ》
 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
【譯】朝日の照り渡る島の御殿に、鬱々として、人の物音もしないから、悲しいことである。
(510)【釋】旦日照 アサヒテル。實景である。
 島乃御門尓 シマノミカドニ。一七三の島の御門と同じく、島の宮をいう。このミカドは宮殿の意である。
 鬱悒 オホホシク。既出(巻二、一七五)。
 人音毛不爲者 ヒトオトモセネバ。ヒトオトは、人の發する音聲。物の音など。しんとして人の住むようすが無いのである。人がいないのではない。いても悲しみにとざされて何等の物音も立てないのである。
 眞浦悲毛 マウラガナシモ。マは、完全性をあらわす接頭語。ウラは表面にあらわれない心中のことをいうに使う。表に出ては泣きもしないけれども、心中の悲哀に打たれたことを示している。
【評語】大きな宮殿の中に、朝日が照り渡つて、人音もしない寂しさを歌つている、。朝日の照るは、實景であろうが、悲哀感を大きくするのに役立つものである。男性的な悲哀がよく描寫されている。末句の、マウラ悲シモと言い切つたのも強い言い方である。
 
190 眞木柱《まきばしら》 太《ふと》き心は ありしかど、
 このわが心 しづめかねつも。
 
 眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》
 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
【譯】この眞木柱のような、ふといしつかりした心があつたのだが、今は、このわが心をしずめかねたことだ。
【釋】眞木柱 マキバシラ。枕詞。マキは、立派な木。その柱で、太キを修飾する。皇子の宮殿にあつて、目前にふとい宮柱を見、これを採つて枕詞に利用している。それゆえにただ次の句を引き起す任務のみでなく、一方には、敍述の性格をも有している。
 太心者 フトキココロは。フトキココロは、物に動かされないしつかりした心である。集中、他に用例を見ない。
(511) 有之香杼 アリシカド。かつてはあつたけれども。
 此吾心 コノワガココロ。上の太キ心を受けて、その立派な心であつたわが心と、強く指摘している。
 鎭目金津毛 シヅメカネツモ。鎭靜することができなかつた。皇子の薨去にあつて、心の動搖するのを抑制し得なかつたの意である。
【評語】男子としては、物に動ぜぬ、驚かない心、悲喜を表面に出さない心、そういう心をよしとしていたことが知られる。その心が、情に負けて亂れることを敍した點に、悲涙がある。宮殿にあつて眞木柱を眼前に見、それをただちに枕詞として使用して歌を起しているのは、巧みであり、效果的である。
 
191 褻衣《けごろも》を 時《とき》片設《かたま》けて 幸《い》でましし
 宇陀《うだ》の大野《おほの》は
 思ほえむかも。
 
 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬片設而《トキカタマケテ》 幸之《イデマシシ》
 宇陀乃大野者《ウダノオホノハ》
 所v念武鴨《オモホエムカモ》
 
【譯】狩獵の時節を待つて、おいでになつた、あの宇陀の大野は思われることであろうなあ。
【釋】毛許呂裳遠 ケゴロモヲ。枕詞。語義は、ケゴロモを毛衣の義とし、獣皮で製した衣服であろうとされている。しかしそれはカハゴロモの語があり、ケゴロモとはいわない。これは、褻衣で、著古した衣服をいうものと思われる。この語は、本集には無いが、神樂歌の弓立の歌に、「すめ神はよき日祭れば明日よりはあけの衣をけごろもにせむ」、賀茂保憲女集に「ふるさとへ秋はかへりぬ。ぬさひける山の錦をけごろもにして」などある。さて著古した衣を解くというので、次句のトキに冠する。「橡之《ツルバミノ》 衣解洗《キヌトキアラヒ》 又打山《マツチヤマ》」(巻十二、三〇〇九)、「由布佐禮婆《ユフサレバ》 安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》 和伎母故我《ワギモコガ》 等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》 由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》」(巻十五、三六六六)など、古衣を解く意の歌がある。
(512) 春冬片設而 トキカタマケテ。
   ハルフユカケテ(神)
   ハルフユマケテ(西)
   ハルフユカタマケテ(代)
   ――――――――――
   春冬取設而《ハルフユトリマケテ》(考)
   春片設而《ハルカタマケテ》(新考)
 片設而を、カタマケテと讀むべしとせば、春冬の二字には二音が配當される。よつてその一字が傍書から誤つてはいつたのだとする説もあるが、それは證の無いことである。よつてここには二字を合わせてトキと讀む。時節の意である。春冬の二字を書いたのは、生前の御事蹟について述べているのであるから、實際、春季および冬季に宇陀の野に出遊せられたことがあつて、それを想起しているのであろう。カタマケテは、時に關する語に附して使用せられ、その意は、攷證に、方儲にてその時を待ち設けたのであるといい、新考には、自動詞で、近づいてという意であろうと言つている。集中の例、「秋田《アキノタノ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 雁之喧所v聞《カリガネキコユ》 冬片設而《フユカタマケテ》」(巻十、二一三三)などは、自動詞としても聞えるが、この歌の如きは、春冬をいかに讀むとも、近づきての意としては解し難い。やはり待ち設ける意とするを可とする。なお時片設クの例には「鶯之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》」(巻十、一八五四)がある。
 幸之 イデマシシ。出遊されたことをいう。下のシは時の助動詞。この出遊は、狩獵の目的であろう。
 宇陀乃大野者 ウダノオホノは。宇陀ノ大野は、奈良縣宇陀郡大野で、卷の一に輕の皇子の出遊された安騎野なども、その一部である。何の年に出遊されたかは不明である。
 所念武鴨 オモホエムカモ。動詞オモホユの未然形に助動詞ムと感動の助詞カモとが接續している。思われるだろうなあ。
【評語】後はたして日竝みし皇子の御子である輕の皇子(文武天皇)が宇陀の大野の一部の安騷野に宿られる(513)ことがあり、柿本の人麻呂がそこで往時を追憶して歌を詠んでいる。その中の一首、「日竝みし皇子の尊《みこと》の馬竝めて御獵《みかり》立たしし時し來向かふ」(卷一、四九)は、直接にこの歌と照應するものである。人麻呂は、この日竝みし皇子の尊の出遊にも隨行していたのであろう。またこの事は、この一連が、人麻呂の作であろうとする説の一の根據にもなるものである。
 
192 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の、
 夜鳴《よなき》かはらふ。
 この年ごろを。
 
 朝日照《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 鳴島之《ナクトリノ》
 夜嶋變布《ヨナキカハラフ》
 此年己呂乎《コノトシゴロヲ》
 
【譯】朝日の照る佐太の岡のほとりに鳴く鳥の、夜鳴く聲が變わつている。この年頃を。
【釋】鳴島之 ナクトリノ。次の句に對して主格になつている。朝鳴く鳥で、小鳥の類である。ここまでを序詞と見る説は誤りである。
 夜鳴變布 ヨナキカハラフ。その鳥が、夜は鳴き聲が變わるというのである。カハラフは、動詞變ルの連續?態をあらわす語。朝日のもとに鳴く鳥が、夜は聲を變えて鳴くことを敍している。皇子の御墓となつたので、その隣の佐太の岡でも、鳥が夜になると、悲しい聲で鳴くの意。句切。
 此年己呂乎 コノトシゴロヲ。コロは、時のあいだをいう。コノゴロの語が數日をいうに徴すれば、トシゴロは數年の意になるが、實際には、翌年にかけてもいうので、ここも翌年にわたつてである。ヲは、なるものをの意の格助詞である。
【評語】夜間、御墓所に詰めていると、天地の寂寞たる中に、鳥の聲のみ、悲しげに鳴くのが聞える。その鳥は勿論悲しくて鳴くのではないが、聞く人の心が悲痛に沈んでいるので、鳥の聲までも悲しく聞える。朝鳴く(514)鳥とは鳥が違うのであるが、それを鳥も夜になると一層悲しげに鳴くという所に、歌人の心がある。鳥の聲に悲しみがあるのではなくて、聞く人の心に悲しみがあるのである。
 
193 畑子《はたこ》らが 夜晝《よるひる》といはず 行く路《みち》を、
 われはことごと 宮道《みやぢ》にぞする。
 
 八多籠良我《ハタコラガ》 夜畫登不云《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》
 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮道敍爲《ミヤヂニゾスル》
 
【譯】農夫等が、夜とも畫ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。
【釋】八多籠良我 ハタコラガ。從來ヤタコラガと讀まれ、ヤタコは、ヤツコの轉で、ヤツコは、家つ子の義で、家に屬する人の意から、奴婢の意に轉じたと考えられていた。しかしヤツコをヤタコというとするのは難點である。またハタゴラガと讀み、ハタゴは旅籠で、旅行用の食物などを運ぶ籠だともいうが、これは二句への續きがわるい。今橋本四郎氏の説(萬葉)によつて、ハタコラガと讀み、ハタコは畑子で、はたけにはたらく人、農夫の意であるとするによる。ラは、接尾語。
 夜畫登不云 ヨルヒルトイハズ。夜となく晝となく。晝夜を分たず。次の句の行クを修飾している。
 行路乎 ユクミチヲ。行く道なるをの意で、通行すべしとも思わなかつた道路の意である。「夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか。さ檜の隈みを」(巻二、一七五)の歌と、同様の思想を歌つている。
 吾者皆悉 ワレハコトゴト。コトゴトは、文字通り皆悉。悉皆で、體言の形を採つているが、次の句に對して副詞となつている。このコトゴトは、「月累《ツキカサネ》 憂吟比《ウレヘサマヨヒ》 許等許等波《コトコトハ》 斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》」(巻五、八九七)の例は助詞ハを伴なつているが、下の詞句を限定する點においては同じである。講義に、我等悉くがの意としているのは誤りである。
 宮道敍爲 ミヤヂニゾスル。ミヤデは、宮に行く道。ここは、御墓所の傍の勤仕の屋所を、宮といつて、出(515)勤の道というほどに用いている。
【評語】この歌、皇子の薨去によつて、思いもしなかつたことをするようになつたことを述べている。農夫の通常通行する道を宮路にするというので、非常の?態をえがく。以上日竝みし皇子を悼んだ舍人等の歌は、中には意味に疑問のあるのもあるが、大體においては、よくそろつた歌である。内容の傾向は、遣物について思いをやるものと、薨去によつて從來思わなかつた變わつた生活をすることを敍したものとがある。而して長い別れとなつてまた見るを得ないという意味のものがないのは、作者が臣下である關係から、親しくいうことを憚つたのでもあろう。一面に、古の挽歌に、そういう意味のものの無いことも考えられる。死によつて、人格の消滅しないことを信ずるに由るものであろう。
 
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未、薨。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未の朔にして乙未の日、薨りましき。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホニギニイハク。以下日本書紀持統天皇紀の文を要約して記している。日本書紀の原文は、「夏四月癸未朔」とありて、他の記事があり、次に、「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」とある。乙未は十三日である。
 
柿本朝臣人麻呂、獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、泊瀬部《はつせべ》の皇女《ひめみこ》、忍坂部《おさかべ》の皇子《みこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】泊瀬部皇女 ハツセベノヒメミコ。天武天皇の皇女。日本書紀、天武天皇紀下に「次宍人臣大麻呂女※[木+疑]媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とあるに(516)よれば、忍壁の皇子の妹であるが如くであるが、この題詞に「泊瀬部皇女忍坂部皇子」と序したのは、皇女の方が御姉であるのであろうか。この皇女は天平十三年三月に薨じた。歌は傳わらない。左註の或る本に、河島の皇子の薨去に際して泊瀬部の皇女に獻つたとあるによれば、河島の皇子の妃であつたのであろう。この題詞にはいかなる時に獻つたとも記されていないが、これも、左註の或る本にいうように、河島の皇子の薨去の時の歌と見るべきであろう。
 忍坂部皇子 オサカベノミコ。本集、また日本書紀に、忍壁の皇子とも記し、続日本紀に刑部の親王とあるも同人である。泊瀬部の皇女と同母の所生である。天武天皇の十年三月、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられた人々の中に入り、後、律令の撰定にも參加された。慶雲二年五月に薨じた。この歌が、河島の皇子の薨去の際の歌とすれば、どのような關係で、この皇子の名がここに記されているか不明であるが、特に親密の關係があつて、その葬事に關與されたものかも知れない。
 
194 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 生ふる玉藻は、
 下《しも》つ瀬に 流れ觸らふ。」
 玉藻なす か寄りかく寄り
 靡かひし 嬬《つま》の命《みこと》の
 たたなづく 柔膚《にきはだ》すらを、
 劍刀《つるぎたち》 身に副《そ》へ寐《ね》ねば、
 ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒るらむ。」【一は云ふ、荒れなむ。】
(517) そこ故に 慰めかねて 
 けだしくも 逢ふやと念ひて、【一は云ふ、公も逢へやと。】
 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野の
 朝露に 玉藻はひづち、
 夕霧に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて、
 草枕 旅宿《たびね》かもする。
 逢はぬ君ゆゑ。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬尓《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》
 下瀬尓《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラフ》
 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》
 多田名附《タタナヅク》 柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》
 釼刀《ツルギタチ》 於v身副不v寐者《ミニソヘネネバ》
 鳥玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒艮無《ヨドコモアルラム》【一云、阿禮奈牟】
 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》
 氣田敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云、公毛相哉登】
 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホノノ》
 且露尓《アサツユニ》 玉裳者?打《タマモハヒヅチ》
 夕霧尓《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》
 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》
 不v相君故《アハヌキミユヱ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に生えている玉藻は、下流の瀬に流れて觸れています。亡くなられた皇子様は、その玉藻のように、寄り添つて寝た妻の君の、丸まつている柔膚すらを、身に副えて寝ないのでありますから、暗い夜の床も荒れているのでありましよう。それゆえにあなたはお氣を安めかねて、もしや逢うこともありましようかと、越智《をち》の大野の、朝露に美しい裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、逢わない君ゆえに、草の枕の旅寝をなさいますことか。
【構成】三段から成つている。下ツ瀬ニ流レ觸ラフまで第一段、明日香川の水草を敍して次の段の伏線とする。ヌバ玉ノ夜床モ荒ルラムまで第二段、妃を殘して薨逝した人の上を想像している。以下終りまで第三段、殘された妃の悲痛を敍している。
【釋】飛鳥 トブトリノ。既出(巻一、七八)。枕詞、明日香に冠する。明日香の清御原の上を瑞鳥の飛翔したことがあつて、稱呼として明日香に冠するに至つたものである。
 明日香乃河之 アスカノカハノ。アスカノカハは、飛鳥川のこと。鷹取山から發して、明日香の地を流れ、(518)廣瀬川、初瀬川、佐保川、生駒川などと合して大和川となる。當時の流域は、今日とは變わつていたようであるが、上流ではほぼ同じだろう。
 上瀬尓 カミツセニ。上方の瀬に。
 生玉藻者 オフルタマモは。タマモは、藻の美稱。水草の類をいう。
 下瀬尓 シモツセニ。下方の瀬に。
 流觸經 ナガレフラフ。フラフは、觸ルの連續的?態をあらわす語。下つ瀬に玉藻がかかつて搖れている有樣である。「本都延能《ホツエノ》 延能宇良婆波《エノウラバハ》 那加都延爾《ナカツエニ》 淤知布良婆閇《オチフラバヘ》」(古事記一〇一)によれは、ナガレフラバヘか。ここで段落で、ここまでは、下の玉藻ナスを起す序となつている。何故に、明日香川について言い出したかは不明であるが、泊瀬部の皇女の居處、すなわち、河島の皇子の宮殿がその川のほとりにあつたのであろう。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。次句の寄りの語を修飾している。
 彼依此依 カヨリカクヨリ。既出(卷二、一三一)。あち寄りこち寄りして。次句の靡カヒシを修飾する。
 靡相之 ナビカヒシ。水草の波に靡くように、また草木の風に靡くように、やわらかに寄り臥すをいう。ナビカフは靡クの連續動作をあらわす動詞の連用形。シは時の助動詞の連體形。
 嬬乃命乃 ツマノミコトノ。ツマノミコトは、この歌を獻つた皇女をいう。命ノは所有格である。以上、既出の「浪のむたか寄りかく寄り、玉藻なす寄り寐し妹を」(卷二、一三一)と同樣の敍述である。
 多田名附 タタナヅク。疊まりつく意で、青垣山の修飾にも用いられる。身を折り屈めてある意。本集に、「立名附《タタナヅタ》 青垣隱《アヲガキゴモリ》」(卷六、九二三)、「立名附《タタナヅク》 青垣山之《アヲガキヤマノ》」(卷十二、三一八七)、古事記に、「多多那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》 夜麻碁母禮流《ヤマゴモレル》 夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》」(三一)など用例がある。この語は、青垣(山)の説明修蝕の語と(519)して、歌いものに使用されていたのを、人體の説明に應用したのであろう。
 柔膚尚乎 ニキハダスラヲ。柔軟なる膚、それすらもで、それだけでもの意。
 劍刀 ツルギタチ。太刀は身より放さぬもの故に、身ニ副フの枕詞とする。
 於身副不寐者 ミニソヘネネバ。皇子は薨去されて、妻の柔膚をも身に副えては寐ず、ただひとり御墓の中に寐るよしである。
 烏玉乃 ヌバタマノ。既出。枕詞。
 夜床母荒良無 ヨドコモアルラム。薨去した皇子の柩中の寢床を推量して、妻を伴なわないから、荒涼としているだろうの意。ここで段落で、ここまで亡くなつた皇子の現在を推量している。
 一云阿禮奈牟 アルハイフ、アレナム。上のアルラムの別傳で、荒れるだろうと推量している。本文のアルラムの方がよい。
 所虚故 ソコユヱニ。それゆえに、ソコはその事、その處と、體言に指示する詞。上の推量の敍述を受けている。
 名具鮫兼天 ナグサメカネテ。以下三句は、仙覺本に名具鮫兼天氣留敷藻相屋常念而とあつて、ナゲサメテケルシキモアフヤドトオモヒテと讀んでいた。今荒木田久老の説により、古寫本を援引して、魚を兼とし、留を田とするによる。この句は皇女の御心に安んじ得ずしての意。
 氣田敷藻 ケダシクモ。ケダシクは、ケダシの體言形で、副詞の用をなす。推し量り見ることの意の語であるが、ここでは、もしやの意が強い。「氣太之久毛《ケダシクモ》 安布許等安里也等《アフコトアリヤト》」(卷十七、四〇一一)などの用例がある。
 相屋常念而 アフヤトオモヒテ。君に逢うこともあろうかと思つて。皇女の心中を敍している。
(520) 公毛相哉登 キミモアヘヤト。キミは、亡き皇子。公も逢うかとしての意。
 玉垂乃 タマダレノ。枕詞。クマダレは、玉を緒に貫いて垂れるのをいう。簾は、玉を緒に貫いて下げるので、簾に冠する。ここは緒の意に、次句のヲの音に冠している。
 越乃大野之 ヲチノオホノノ。越は字音でヲチの音をあらわしている。ヲチは地名。左註に越智野とある。奈良縣高市郡越智岡村附近。そこに河島の皇子の御墓が設けられるのであろう。但しこの歌の作られた當時は、その地に殯宮が設けられてあつたのであろう。
 旦露尓 アサツユニ。下の夕霧にと共に、朝夕の露や霧に濡れることを分ち敍したまでであるが、玉裳はヒヅチとあるは、露に縁がある。
 玉裳者?打 タマモハヒヅチ。タマモは、裳の美稱。裳は婦人の下半身に纏う衣裳。ヒヅチは、水に濡れる意の動詞。
 夕霧尓衣者沾而 ユフギリニコロモハヌレテ。上の朝露ニ王裳はヒヅチの句と對句を成している。コロモは裳に對しては、上半身を蔽う衣裳をいう。下半身に纏う裳には露といい、衣には霧と言つている。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 旅宿鴨爲留 タビネカモスル。カモは、疑問の係助詞であるが、感動の意が強くなつている、旅寝をすることかまあというほどの意。ここは皇女が亡き夫君を求めて、旅寝をされることを敍している。事實としては、夫君の御墓のほとりに假舍を作つて、お仕えなされることを、あたかも、夫君を尋ね求められるように歌うのである。
 不相君故 アハヌキミユヱ。上の、ケダシクモ會フヤト念ヒテを受けて、しかも遂にめぐり逢わない君ゆえにと、−結、例によつて力強い句である。
(521)【評語】この歌は、夫を失つた皇女に獻つた歌として、その亡くなられた皇子の荒涼たる現?を推量するに美しい詞を連ねている。明日香川の玉藻の序も、人麻呂の作の通例のことではあるが、婦人を敍する起句として適切である。最後の段で、送葬に立たれた皇女の、露霧に濡れることを云つて、喪中の情を表出している。夫を失つた方として、この歌を讀まれた時には、定めて涙を新にせられたことであウたろう。
 
反歌一首
 
195 敷細《しきたへ》の 袖|交《か》へし君、
 玉垂《たまだれ》の 越智野《をちの》過ぎ行《ゆ》く。
 またも逢はめやも。【一は云ふ、をち野に過ぎぬ。】。
 
 敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》
 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチノスギユク》
 亦毛將v相八方《マタモアハメヤモ》【一云ふ、乎知野尓過奴】
 
【譯】生前袖を交して親まれた君は、越智野に過ぎ行かれました。またもお目にかかれましようか。お逢いすることはできますまい。
【釋】敷妙乃 シキタヘノ。既出。目のこまかい織物の義で、袖、衣、枕等の枕詞。
 袖易之君 ソデカヘシキミ。袖をかわして諸寢をした君。皇女に代つて詠んでいる語法である。男女が、袖をたがいにかえて寢ることは、「白細之《シロタヘノ》 袖指可倍?《ソデサシカヘテ》 靡寐《ナビキヌル》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》」(巻三、四八一)・「白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》 佐寐之夜也《サネシヨヤ》 常爾有家類《ヅネニアリケル》」(巻八、一六二九)など、しばしば詠まれている。
 玉垂之 タマダレノ。枕詞。長歌の中に見える句。
 越野過去 ヲチノスギユク。越智野に葬つたことを、越智野を過ぎて、何方へか行くように歌つている。句切。
(522) 亦毛將相八方 マタモアハメヤモ。ヤモは反語の助詞。またと逢おうや、逢わないの意。
 乎知野尓過奴 ヲチノニスギヌ。第四句の別傳である。越智野において、過ぎたの意。これも本文の方がよい。
【評語】皇女に代わつて詠んでいる。特に越智野に衣装もそぼぬれて君を求める心が寫されているのがよい。
 
右或本日、葬2河島皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀云、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨。
 
右は或る本に曰はく、河島の皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部の皇女に獻りし歌なりといへり。日本紀に云はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔にして丁丑の日、淨大參皇子川島薨りましきといへり。
【釋】或本 アルマキ。何の書とも知られないが、歌詞中の別傳と同じものとすれば、よい傳來ではない。
 河島皇子 カハシマノミコ 天智天皇の皇子。天武天皇の十年三月、帝紀および上古の諸事を記し定めしめ給うた人々のうちの首席であつた。懷風藻に漢詩があり、小傳がある。
 朱鳥五年 アカミドリノイツトセ。日本書紀には持統天皇の五年とし、朱鳥元年からは六年に當る。
 淨大參 キヨキオホキミツノクラヰ。位階の名稱。
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
明日香の皇女の木※[瓦+缶]《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】明日香皇女 アスカノヒメミコ。天智天皇の皇女、御母は阿部の倉橋麻呂の女橘姫。文武天皇の四年四月に薨去されたのであつて、この歌以下は、文武天皇の御代の作に係かる。
(523) 木※[瓦+缶]殯宮 キノヘノアラキノミヤ。木※[瓦+缶]は地名。下の、「高市皇子尊城上殯宮之時」(卷二、一九九)とある城上と同地。奈良麻北葛城郡|馬見《まみ》村の地という。殯宮は既出(卷二、一六七題詞)。城上が皇女の墓所であり、そこに殯宮が設けられたのである。
 
196 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 石橋《いははし》渡し、【一は云ふ、石竝。】
 下《しも》つ瀬に 打橋《うちはし》渡す。」
 石橋に【一は云ふ、石竝。】 生ひ靡ける
 玉藻もぞ 絶ゆれば生《お》ふる。
 打橋に 生ひををれる
 川藻もぞ 枯るれば生《は》ゆる。」
 何しかも わが王《おほきみ》の、
 立たせば 玉藻のもころ、
 臥《こや》せば 川藻の如く
 靡かひし 宜《よろ》しき君の、
 朝宮を 忘れたまふや。
 夕宮を 背《そむ》きたまふや。」
 うつそみと 念ひし時、
(524) 春べは 花折りかざし、
 秋立てば 黄葉《もみちば》かざし、
 敷細《しきたへ》の 袖|携《たづさ》はり、
 鏡なす 見れども飽かに、
 望月《もちづき》の いやめづらしみ、
 念ほしし 君と時々、
 いでまして 遊び賜ひし、
 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮を、
 常宮《とこみや》と 定め賜ひて、
 あぢさはふ 目言《めごと》も絶えぬ。」
 然れかも【一は云ふ、そこをしも。】 あやに悲しみ、
 ぬえ鳥の 片戀づま【一は云ふ、しつつ。】
 朝鳥の【一は云ふ、朝霧の】 通はす君が、
 夏草の 念ひ萎《しな》えて、
 夕星《ゆふづつ》の かゆきかく行き、
 大船の たゆたふ見れば、
 慰もる 情《こころ》もあらず。」
(525)そこ故に 術《すべ》知らましや
 音《おと》のみも 名のみも絶えず、
 天地の いや遠長く
 思《しの》ひ行かむ み名に懸《カ》かせる
 明日香河、萬代までに、
 愛《は》しきやし わが王の
 形見かここを。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イシハシワタシ》【一云、石浪】
 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》
 石橋《イハハシニ》【一云、石浪】 生靡留《オヒナビケル》
 玉藻毛敍《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》
 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》
 川藻毛敍《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》
 何然毛《ナニシカモ》 吾王能《ワガオホキミノ》
 立者《タタセバ》 玉藻之母許呂《タマモノモコロ》
 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》
 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミノ》
 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》
 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》
 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》
 春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミチバカザシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》
 鏡成《カガミナス》 雖v見不v厭《ミレドモアカニ》
 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》
 所v念之《オモホシシ》 君與時々《キミトトキドキ》
 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》
 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》
 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》
 然有鴨《シカレカモ》【一云、所己乎之毛】 綾尓憐《アヤニカナシミ》
 宿兄鳥之《ヌエドリノ》 片戀嬬《カタコヒヅマ》【一云、爲乍】
 朝鳥《アサドリノ》【一云、朝霧】 往來爲君之《カヨハスキミガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》
 夕星之《ユフヅツノ》 彼往此往《カユキカクユキ》
 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛不v《ココロモアラズ》
 其故《ソコユエニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》
 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不v絶《ナノミモタエズ》
 天地之《アメツチノ》 弥遠長久《イヤトホナガク》
 思將v往《シノヒユカム》 御名尓懸世流《ミナニカカセル》
 明日香河《アスカガハ》 及2萬代1《ヨロヅヨマデニ》
 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》
 形見河此焉《カタミカココヲ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に石橋を渡し、下流の瀬に打橋を渡してあります。その石橋に生えて靡いている玉藻も、水に取り去られるとまた生えます。打橋に生えてしなつている川藻も、枯れればまた生えます。何とてわが皇女樣の、お立ちになれは玉藻のように、お休みになれば川藻のように、お靡きになつた、よろしい方の朝宮をお忘れなさいますか。夕宮をお背《そむ》きになりますか。生ける人と思いました時に、春の頃は花を折つて髪に指し、秋になれば黄葉を髪に插し、やわらかい袖を連ねて、鏡のように見れども飽きず、滿月のようにますます愛すべくお思いになつた方と、おりにふれておいで遊ばされて、お遊びになつた城上の宮を、永久の御殿とお定めになつて、まのあたり物言われることも絶えました。そうですからか、誠に悲しく、ぬえ鳥《どり》のように片戀をしつつお通いになる方が、夏草のように思いになえなえと、夕べの星のようにあちら行きこちら行き、大船のようにたゆたつておられるのを見ますと、慰まれる心もございません。それ故に手段を知らないことはありません。音ばかりも、名ばかりも絶えずに、天地と共に、いよいよ遠く長く、お慕い申しあぐべき御名前にお懸けになつている、この明日香川は、萬代までに、愛するわが皇女樣の形見でありますなあ、比處(526)は。
【構成】この歌は五段から成つている。川藻モゾ枯ルレバ生ユルまで第一段、全體の總敍として明日香川について敍し次の段の準備としている。夕宮ヲ背キタマフヤまで第二段、皇女の薨去を敍す。アヂサハフ目言モ絶エヌまで第三段、生前の追憶から引き続いて殯宮に入られたことを敍する。慰モル心モアラズまで第四段、殘つた君の悲痛を見て慰める術も無いことを述べる。以下終りまで第五段、皇女を永く慕うべきことを敍している。
【釋】飛鳥明日香乃河之 トブトリノアスカノカハノ。一九四の歌に見えている。
 上瀬 カミツセニ。同前。
 石橋渡 イハハシワタシ。イハハシは、川中に、石を竝べ置いて、それを踏み石として渡るものをいう。後世いう石で作つた橋のような立派なものではない。その石橋を川中に入れることを渡すという。「直不v來《タダニコズ》 自v此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシフミ》 名積序吾來《ナヅミゾワガクル》 戀天窮見《コヒテスベナミ》」(巻十三、三二五七)の石椅も同語である。
 一云石浪 アルハイフ、イハナミ。イハナミは石竝び、石橋に同じ。浪の字を書いたのは借字である。「安麻能河波《アマノカハ》 伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》 都藝弖見牟可母《ツギテミムカモ》」(巻二十・四三一〇)の例は、イシナミとあるが、ここは石橋の別傳であるからなおイハナミと讀むべきであろう。
(527) 内橋渡 ウチハシワタス。ウチハシは、板を兩岸のあいだに懸け渡した橋を言う。日本書紀神代の下に「於2天安河1、亦造2打橋1」、本集に「千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣彌《セヲヒオロミ》 打橋渡須《ウチハシワタス》 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》」」(巻四・五二八)、「機《ハタモノノ》 ?木持往而《フミキモチユキテ》 天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》 公之來爲《キミガコムタメ》」(竿、二〇六二)などある。句切。以上第−段の第一節で、まず明日香川の上流下流の事を述べ、次の第二節の準備としている。
 生靡留 オヒナビケル。生えて水のまにまに靡いている。川中の蹈石に生えているのである。
 玉藻毛敍 タマモモゾ。下の川藻モゾと對して、玉藻も川藻もの意である。ゾは係助詞。
 絶者生流 タユレバオフル。水勢に搖れて斷ち流されれば、また後より生える。上のゾを受けて生フルと結んでいる。段落。藻はまた生えるが、人は逝きて歸らないという心を含めている。
 生乎爲禮流 オヒヲヲレル。乎爲禮流をヲヲレルと讀むことは、「山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》」(卷三、四七五)、「春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里爾《サキノヲヲリニ》」(巻八、一四二一)、「開乎爲流《サキヲヲレル》 櫻花者《サクラノハナハ》」(巻九、一七四七)「開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花乎《サクラノハナヲ》」(同、−七五二)等の例に依つて確められるが、爲をヲと讀むことについては、まだ明解を得ない。誤字説もあるが従い難く、また萬葉集字音辨證には、爲にヲの音ありとしている。この語に限つて爲の字を使用するのは、慣用に依るものであろう。ヲヲルは枝などのたわむことで、花咲キヲヲルなどいう。ここは、それに助動詞リの接續したもので、川藻の水に搖れてたわんだように見えるのをいう。
 川藻宅敍 カハモモゾ。カハモは、上の玉藻を語を代えて言つている。
 干者波由流 カルレバハユル。枯れればまた生える。上の川藻モゾのゾを受けて生ユルという。生ユルの原文波由流と書いてあるのは、假字づかいを證するものである。ここにも人生無常の意が寓せられているのであろう。以上第一段の第二節、石橋に生ヒ靡ケル玉藻モゾ絶ユレバ生フルと、打橋ニ生ヒヲヲレル川藻モゾ枯ルレバ生ユルとは、對句をなし、明日香川の水草について敍している。この一段は、次の段を引き起す序として(528)構成されている。
 何然毛 ナニシカモ。シは、強意の助詞。何とてかの意で、下の忘レタマフヤ、背キタマフヤに懸つている。カモは係助詞。
 吾王能 ワガオホキミノ。ワガ大君は、皇女を指している。以下、靡カヒシまで皇女に關する敍述である。
 立者 タタセバ。タチタレバ(神)、タタセレバ(代精)、タタスレバ(考)、タタセバ(略)。皇女の行動である。タタセバと讀めば、敬語になる。下の臥者をコヤセバと讀むとすると、これも動詞コユ(倒れる)の敬語になるから、對句としてタタセバがよいのであろう。以下靡カヒシまで、皇女の柔軟な姿體を藻に譬えて敍している。
 玉藻之母許呂 タマモノモコロ。上の玉藻モゾの句を受けている。仙覺本には、以下二句、玉藻之如許呂臥者となつて、玉藻ノ如クコロブセバと讀んでいた。然るに橋本進吉博士の説として、コロブスという動詞は他に自伏とある字を讀んでいるだけで、假字書きの證が無く、金澤本には如を母としているので、今の如く讀み改められたものである。(山田孝雄博士も同説を發表された。)モコロは、如しといぅ意味の古語で、この集にも、「於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》」(巻十四、三五二七)、「伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(巻二十、四三七五)、またそのような男という場合に、「母許呂乎」というのもある。
 臥者 コヤセバ。横たわれば。フセバとも讀まれるが、フスは、下向きになることをいうので、ここには適しない。
 川藻之如久 カハモノゴトク。上の川藻モゾの句を受けている。以上二句は、立タセバ玉藻ノモコロの句と對句を成して、次の句の靡カヒシを修飾している。
 靡相之 ナビカヒシ。ナビカヒは、靡くの連續?態をいう動詞。玉藻のように、川藻のように靡カヒシと續(529)く。靡き寄り寢たの意である。
 宜君之 ヨロシキキミノ。ヨロシは足り備つていることの形容。君は皇女の配偶者をいう。その夫君は誰方か不明である。その君の朝宮夕宮と續く語法である。
 朝宮乎 アサミヤヲ。下の夕宮と共に、例の一事を朝夕に分けて敍する法。朝宮夕宮の語は、宮殿の朝夕の生活を想像させる。
 忘賜哉 ワスレタマフヤ。上の何シカモを受けて、お忘れになるのかと結ぶ。ヤは添えていう感動の助詞で、無くて意は通ずるところである。下同じ。句切。
 夕宮乎背賜哉 ユフミヤヲソムキタマフヤ。上の朝宮云々の句と對句を成している。ここで段落である。以上皇女の薨去されたことを、詰問するように敍している。
 宇都曾臣跡念之時 ウツソミトオモヒシトキ。ウツソミは既出(巻二、一六五)。ウツソミトオモヒシトキは、現實の人と思つた時で、皇女の御生前をいう。この句は、孰語句で、生前の意に使用される。「打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》 【一云、宇都曾臣等念之】」(卷二、二一〇)。以下生前の追憶に入る。
 春部者 ハルベハ。ベはその方向をいう。春の頃は。
 花折插頭 ハナヲリカザシ。花を折つて插頭にし。カザシは既出(卷一、三八)。髪に插して飾りとすること。
 秋立者 アキタテバ。秋になることを秋立つという。このタツは始まる意の動詞である。秋になれば。
 黄葉插頭 モミチバカザシ。既出、「秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》」(卷一、三八)。以上二句、春ベハ花折リカザシと對句になつている。
 敷妙之 シキタヘノ。枕詞。
(530) 袖携 ソデタヅサハリ。タヅサハリは、携えある?をいう動詞。袖を列ねて。
 鏡成 カガミナス。枕詞。鏡のようにの意に、見るに冠する。
 雖見不厭 ミレドモアカニ。ミレドモアカズ(西)。アカニは飽きないで。ニは打消。知ラニのニに同じ。
 三五月之 モチヅキノ。三五は十五の意に書いている。十五夜の月で、モチヅキと讀む。枕詞。滿月の賞美すべくあるより、メヅラシに冠する。
 益目頬染 イヤメヅラシミ。イヤは、一層。メヅラシは愛すべくあるをいう。珍奇ではない。愛しみ思うで、いよいよ愛すべく思われたという意。染の字は、シミの音をあらわすために借りている。
 所念之 オモホシシ。皇女のお思い遊ばされた。連體形。
 君與時々 キミトトキドキ。キミトヨリヨリ(代初書入)。君は皇女の夫君をいう。鏡のように見ても飽かずいよいよ愛しみ思われた君と、皇女から見た夫君を敍している。時々はおりにふれ時につけて。
 幸而 イデマシテ。おいで遊ばされて。
 遊賜之 アソビタマヒシ。遊覽遊ばされた意で、連體形。枕詞を隔てて木※[瓦+缶]を修飾する。
 御食向 ミケムカフ。御食物として供える酒の意に、キの枕詞としている。
 木※[瓦+缶]之宮乎 キノヘノミヤヲ。生前に遊覽されたこの木※[瓦+缶]の宮を。題詞の解にいうように、城上と書くも同じ。皇女の御墓が、この他に設けられたのである。
 常宮跡定賜 トコミヤトサダメタマヒテ。トコミヤは永久の御殿の意で、御墓所をいう。但し御墓所に限らず、宮殿を稱えてもいう。「朝毛吉《アサモヲシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》」(巻二、一九九)の例は墓所であるが、「安見知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 常宮等《トコミヤト》 仕奉流《ツカヘマツレル》 左日鹿野由《サヒカノユ》」(巻六、九一七)の例は、離宮である。永久の宮殿とお定めになつて、御墓所をお占めになつて。薨去された方御自身に御選定遊ばされたように敍しているのは、(531)貴人は自葬するとする思想からである。
 味澤相 アヂサハフ。枕詞。語義未詳。冠辭考に、アヂは味鳧で水禽の名、サハフは多經で、多く群居し、群《メ》に懸かるというが信じかねる。鹿持雅澄は、ウマサハフと讀んで、味のよい粟田《あはふ》の義で群生《むらはえ》に懸かると云つているが、これも信じられない。集中五處に出で、皆文字を味澤相と書いてある。うち四つはメに懸かり、一つは夜晝知ラズに懸かつている。アヂは、多數にあることをいう語で、アヂサヰなど、植物にもいう。よつて多數の植物の多く生えているところの義で、メ(芽)に冠するか。
 目辭毛絶奴 メゴトモタエヌ。メゴトはまのあたり逢つて物いうこと。「海山毛《ウミヤマモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》 奈何鴨《イカニカモ》 目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》 幾許乏寸《ココダトモシキ》」(巻四、六八九)、「東細布《ヨコグモノ》 從v空延越《ソラユヒキコシ》 遠見社《トホミコソ》 目言疎良米《メコトウトカラメ》 絶跡間也《タユトヘダツヤ》」(卷十一、二六四七)など使用されている。以上第三段、皇女生前の御事蹟から起して、ふたたび薨去に及び、殯宮に鎭まりましたことまでを敍している。
 然有鴨 シカレカモ。シカアレカモで、然あればにやの意。カモは係助詞。上の敍述を受けて、下の、アヤニ悲シミに懸かる。
 所己乎之毛 ソコヲシモ。ソコは上を受けている。シモは強意の助詞。
 綾尓憐 アヤニカナシミ。アヤニは、驚歎の意をあらわす副詞。この句は、下の通ハス君の心中の描寫で、これによつて、お通いになるのを修飾する。
 宿兄鳥之 ヌエドリノ。枕詞。ヌエドリは、既出(巻一、五)。梟など夜鳴く鳥をいうが、普通にはトラツグミであるという。啼き聲がうめくようであるから、ノドヨヒ、ウラ泣クの枕詞とし、その鳴く心を求めて片戀の枕詞としている。
 片戀嬬 カタコヒヅマ。カタコヒは、一方からのみの戀をいう。今皇女は薨去して、殘された夫君のみ戀を(632)している故に、片戀という。ツマは配偶者で、嬬の字を使用したのは婦人の意であるが、ここは男性で、皇女の夫君をいう。片戀をしている夫君で、下の通ハス君と、語を變えて言つている。
 一云爲乍 アルハイフ、シツツ。上の片戀ヅマの句が、別傳には、片戀シツツとあるというのである。これは通ハス君の敍述である。
 朝鳥 アサドリノ。朝、鳥は往來する故に通フの枕詞とする。
 一云朝霧 アルハイフ、アサギリノ。上の朝鳥の別傳である。これも枕詞。朝霧が通うとは、霧の動態を描いて巧みな句である。
 往來爲君之 カヨハスキミガ。通ハスは、お通いになる、皇女の殯宮へお通いになる意。君は、片戀ヅマ、すなわち夫君をさす。
 夏草乃念之萎而 ナツクサノオモヒシナエテ。既出(巻二、一三一)。
 夕星之 ユフヅツノ。枕詞。ユフヅツは、金星をいう。倭名類聚鈔に「兼名苑云、大白星、一名長庚【此間云2由布都々1。】暮見2於西方1、爲2長庚1耳」とある。この星は、朝夕について、人の世界から見る位置を異にするより、カ行キカク行キの枕詞とする。本集には、「夕星乃《ユフヅツノ》 由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》」(巻五、九〇四)、「夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》」(巻十・二〇一〇)の用例があるが、巻の十のは、枕詞ではない。
 彼往此往 カユキカクユキ。カ寄リカク寄リの類で、あちらに行き、こちらに行き、一定の方向の無いのにいい、次のタユタフを修飾する。
 大船 オホブネノ。枕詞。ここでは、船が浪のままに動搖して安定しないので、タユタフに冠している。
 猶預不定見者 タユタフミレバ。タユタフは、猶豫してしかとおちつかないのをいう。ためらう、やすらう等の意がある。ここは夫君の爲《せ》む術を知らずに、迷われるをいう。見レバは作者人麻呂の見ること。
(533) 遣悶流 ナグサモル。遣悶は義を以つて書いている。此の句、夫君の心を慰めるの意とすれば、ナグサムルであるが、次句以下、自身について言つていると見られるので、自動詞として、ナグサモルとする。「名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(巻四、五〇九)。
 情毛不在 ココロモアラズ。夫君の悲しみの餘り、事も手につかない、で猶豫しておられるを見れば、我等も慰める心もないというのである。以上第四段。殘された夫君が殯宮に通われることを敍し、作者として何と慰むべき法もないことを敍している。
 其故 ソコユエニ。既出(巻二、一六七)。上を受けてソコという。
 爲便知之也 スベシラマシヤ。
   スヘモシラシヤ(西)
   スベモシラジヤ(代)
   スベシラマシヤ(考)
   ――――――――――
   セムスベシラニ(玉)
   爲便知良爾《セムスベシラニ》(槍)
 知之也は、文字表示が不完全で、讀み方が問題になる。シラマシヤと讀むのは、考の説である。これと同形かと思われるものに、「沼名河之《ヌナカハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》 拾而《ヒリヒテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》」(巻十三、三二四七)があり、その得之も、エマシと讀むべきかと考えられる。マシヤの例は、「惜v不v登2筑波山1歌一首 筑波根爾《ヅクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》」(巻八、一四九七)がある。このナカマシヤは、不可能希望の助動詞マシに反語の助詞ヤが接線したものであつて、アラメヤなどの形のものから類推すれば、反語のヤはマシの不可能の要素を否定して可能の意を示すものと考えられる。筑波山にわたしが行つたとしたなら、ホトトギスはきつと鳴いたろうの意になる。今、シラマシヤをこれに準じて考えれば、知つていたらなあの否定でよく知つているの意になる。すなわち、次の句以下のことが、そのスベに相當するものである。以上二句、獨(534)立文で、以下の準備となる。
 吾耳母名耳毛不絶 オトノミモナノミモタエズ。オトは皇女の御上につきて言うことを聞くをいい、ナは皇女の御名をいう。正身はいまさずとも、せめて音ばかり名ばかりも絶えずに、慕い行こうと續く。
 天地之弥遠長久 アメツチノイヤトホナガク。天地の如くいよいよ遠く良くで、永久にの意。副詞句として挿入されている。參考として、「天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如此毛欲得跡《カクシモガモト》」(卷三、四七八)の如き表現がある。
 思將往 シノヒユカム。このシノヒは、思慕する意に使用している。さてこの句は、終止としても解せられるが、五七調の正格からいえば、連體形であつて、次の句の御名を修飾するものと見るべきである。
 御名尓懸世流ミナニカカセル。カカセルは、動詞懸クの敬語カカスに、助動詞リの連體形の添つたもの。明日香の皇女と申すより、明日香をさしてかくいう。皇女の御名前にお懸けになつている。
 明日香河 アスカガハ。迄に冒頭の明日香の河に應じている。
 及萬代 ヨロヅヨマデニ。萬代までに、この川を形見かの文脈である。
 早布屋師 ハシキヤシ。親愛の?態にある意の形容詞ハシキに、感動の助詞ヤシの接續したもの。既出のハシキヨシ(卷二、一三一)に同じ。ハシキわが大君と續く意である。
 吾王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミは明日香の皇女をさす。
 形見河此焉 カタミカココヲ。形見であることかなと嘆息したのである。ココヲは、更に川を指示して意を強める。明日香川を、皇女の御形見としてお慕い申し上げようとである。以上第五段、作者の感想を敍している。
【評語】皇女の薨逝を悼んで、御名に因んだ明日香川の藻を以つて筆を起している。このこといかにも皇女の(535)婦人としての姿容を髣髴せしめる敍述である。高市の皇子の殯宮の歌に戰闘を敍した作者は、この歌について皇女と夫君との交渉を細述している。全篇美しい詞句が多くて、まことに皇女を悼んだ歌として適切に感じられる。この歌は、前出の、泊瀬部の皇女と忍坂部の皇子とに獻る歌(卷二、一九四)と、同樣の構成を有している。まず明日香川についてその水草を敍し、これを以つてそれぞれ婦人の姿體を形容するに用立て、次に君の薨去を敍し、殘された方の上に及んでいる。そうしてこの歌は、更に作者の感想を添えている。後の作だけに、この歌の方が一層複雜に巧妙に出來ているが、熱情においては、前の歌の方に一日の長がある。比較してその相似と相違とを味わうべきである。
 
短歌二首
 
197 明日香《あすか》川 しがらみ渡し
 塞《せ》かませば、
 流るる水も  長閑《のど》にかあらまし。
   一は云ふ、水のよどにかあらまし。
 
 明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》
 塞益者《セカマセバ》
 進留水母《ナガルルミヅモ》
 能杼尓賀有萬志《ノドニカアラマシ》
   一云、水乃與杼尓加有益
 
【譯】明日香川に柵を懸け渡して、水を堰いたなら、流れる水も、平穩にあるでありましようものを。
【釋】明日香川 アスカガハ。長歌に、全篇の構想として、明日香川について記述しているのを受ける。
 四我良美渡之 シガラミワタシ。シガラミは、水中に柵を設けて、流れ來る水を支えて深くし、または塵芥などを堰き留めるもの。語義は、シは不明であるが、カラミは、動詞カラムと推定される。それを川中に渡しての意。「明日香川《アスカガハ》 湍瀬爾玉藻者《セゼニタマモハ》 雖2生有1《オヒタレド》 四賀良美有者《シガラミアレバ》 靡不v相《ナビキアハナクニ》」(卷七、一三八〇)。また動詞として(536)は、「※[草冠/互]乃枝乎《ハギノエヲ》 石辛見散之《シガラミチラシ》 狹男壯鹿者《サヲシカハ》 妻呼令v動《ツマヨビトヨメ》」(卷六、一〇四七)がある。
 塞益者 セカマセバ。セカは、動詞塞クの未然形。流れる水を抑え止める意である。マセバは、マシの末然條件法(卷一、六九)。塞きもしたならば。實際は塞かなかつたのであるが、もし塞き得たとしたらの意。
 進留水母 ナガルルミヅモ。進をナガルと讀むのは、水の進むは流れるのであるからである。
 能杼尓賀有萬思 ノドニカアラマシ。ノドは、のどか、平穩。カは疑問の係助詞。アラマシは、不可能希望の語法。
 水乃與杼尓加有益 ミヅノヨドニカアラマシ。本文第四句の水モノドニカ、以下の別傳である。ヨドは、よどみ、水の停滯するところ。この別傳、ヨドは、川淀であるから、流れる水が淀であるだろうというのは、意を成さない。
【評語】長歌を受けて、明日香川を以つて譬喩を構成している。長歌に附隨する歌として、その意を見るべき作である。
 
198 明日香川
 明日《アス》だに【一は云ふ、さへ。】見むと 念《おも》へやも、【一は云ふ、念へかも。】 
 わが大君《おほきみ》の み名忘れせぬ。
   一は云ふ、御名忘らえぬ。
 
 明日香川《アスカガハ》
 明日谷《アスダニ》【一云、左倍】 將v見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云、念香毛】
 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》
    一云、御名不v所v志
 
【譯】この明日香川というように、明日だけでも見ましようとは思つていますからでしょうか、わが皇女樣の御名前を忘れないことでございます。
【釋】明日香川 アスカガハ。これも長歌の句を受けている。この歌の主題の明日香川を提示して、ここは單(537)に枕詞としている。そうして同音を利用して次のアスを起している。
明日谷將見等 アスダニミムト。遠き將來は知らず、せめて明日だけでも見ようと。ミムトは、明日香の皇女を見ようとである。
 一云左倍 アルハイフ、サヘ。第二句のダニの別傳で、それには、アスサヘミムトとあるというのである。アスサヘは、今日はもとより、明日までもの意で、本文の意味とは相違する。
 念八方 オモヘヤモ。ヤモは疑問の係助詞。明日だけでもと思つているのだろうか、そうではないのだがの意。ヤモは、もと終助詞として、「等虚辭陪邇《トコシヘニ》 枳彌母阿閇椰毛《キミモアヘヤモ》 異舍儺等利《イサナトリ》 宇彌能波摩毛能《ウミノハマモノ》 余留等枳等枳弘《ヨルトキドキヲ》」(日本書紀六八)のように、文末に使用されていたが、ついで條件法を生じたと解せられる。本集では「?干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》 ?印《タビノシルシニ》」(卷九、一六八八)、「?干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使爾爲《マヅカヒニスル》」(同、一六九八)の二例は、いずれも人麻呂集所出の歌で、同じく「名木河作歌」の題があつて、多分同一人同時の作と考えられるものである。しかもここには同一の「あぶりほす人もあれやも」の句が使われているが、その前者は、それで一文を成し、後者は、條件法として、次の三句でこれを受けて結んでいる。ここにこの條件法成立の經過が見られる。そうして更に「勢能山爾《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》 事聽屋毛《コトユルセヤモ》 打橋渡《ウチハシワタス》」(卷七、一一九三)になると、反語の意でなくして、單なる疑問の條件法になつている。この明日香川の歌のこの句の別傳として「一云念香毛」とあるのも、既に反語としての用法を忘れるに至つて、たやすく歌い代えられたものであろう。ヤモは、助詞ヤに、感動の助詞モの接續したものと解せられるから、以上の經過は、ヤを單用するものにあつても、ほぼ同樣であろう。
 一云念香毛 アルハイフ、オモヘカモ。上の第三句の別傳である。前項參照。
 吾王 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、皇女をさす。
(538) 御名忘世奴ミナワスレセヌ。上の念ヘヤモのヤを受けて、忘レセヌと連體形に結んでいる。
 御名不所忘 ミナワスラエヌ。第五句の別傳である。忘レセヌの方は、自然に忘れることがないの意であり、これはどうしても忘れられないの意である。以上一首のうちに一云が三個あり、これを同一の別傳から來たものとすれば、「明日香川明日さへ見むと念へかもわが大君の御名忘らえぬ」となる。
【評語】これも明日香川に寄せて、皇女の御名の忘れ難いことを歌つている。長歌の末尾を特に受けて結んだ構成である。この長歌竝に短歌は、終始明日香川を使つて思を述べており、その構想は巧みであるが、ややこれに拘泥し過ぎる感がある。この點、巧思に墮したものともいえよう。
 
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
高市の皇子の尊の城上《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷二、一一四)。天武天皇の皇子。草壁の皇太子の薨後を受けて後の皇子の尊とも呼ばれる。持統天皇の四年七月、太政大臣となり、十年七月十日、薨去された。天武天皇の諸皇子のうちでは、皇長子と考えられるが、生母の身分が低く、ただちに皇太子とはなれなかつた。持統天皇の十年七月後、間も無い頃の作であろうから、順序からいえば、明日香の皇女の殯宮の作より前にあるべきである。
 
城上 キノヘ。既出の木※[瓦+缶](卷二、一九六)と同地。
 
199 かけまくも ゆゝしきかも。【一は云ふ、ゆゆしけれども。】
 言はまくも あやに畏《かしこ》き
(539) 明日香の 眞神《まがみ》が原に
 ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を
 かしこくも 定めたまひて、
 神《かむ》さぶと 磐《いは》がくります
 やすみしし わが大王《おほきみ》の
 きこしめす 背面《そとも》の國の
 眞木《まき》立つ 不破《ふは》山越えて
 高麗劍《こまつるぎ》 和?《わざみ》が原の
 行宮《かりみや》に 天降《あも》りいまして、
 天の下 治めたまひ【一は云ふ、拂ひたまひて。】
 食《を》す國《くに》を 定めたまふと
 鷄《とり》が鳴く 吾妻《あづま》の國の
 御車士《みいくさ》を 召《め》したまひて
 ちはやぶる 人を和《やは》せと、
 服從《まつろ》はぬ 國を治めと、【一は云ふ、拂へと。】
 皇子《みこ》ながら 任《ま》け賜へば、
 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取《と》り佩《は》かし、
(540) 大御手《おほみて》に 弓取り持たし、
 御車士《みいくさ》を 率《あとも》ひたまひ、
 齊《ととの》ふる 鼓の音《おと》は、
 雷《かづち》の 聲と聞くまで、
 吹き響《な》せる 小角《くだ》の音も、【一は云ふ、笛の音は。】
 敵《あた》みたる 虎か吼《ほ》ゆると
 諸人《もろびと》の おびゆるまでに、【一は云ふ、聞きまどふまで。】
 捧《ささ》げたる 幡《はた》の靡《なび》きは、
 冬ごもり 春さり來れば、
 野ごとに 著きてある火の【一は云ふ、冬ごもり春野燒く火の。】
 風の共《むた》 靡かふ如く、
 取り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騷《さわき》、
 み雪降る 冬の林に【一は云ふ、木綿の林。】
 飄風《つむじ》かも い卷き渡ると
 思ふまで 聞《きき》の恐《かしこ》く、【一は云ふ、諸人の見まどふまでに。】
 引き放つ 箭の繁《しげ》けく、
 大雪の 亂れて來《きた》れ、【一は云ふ、霰なすそちよりくれば。】
(541) まつろはず 立ち向ひしも、
 露霜の 消《け》なば消ぬべく、
 去《ゆ》く鳥の 競《あらそ》ふ間《はし》に、
  一は云ふ、朝霜の消《け》なば消ぬとふに、うつせみと爭ふはしに。
 渡會《わたらひ》の 齋《いつき》の宮《みや》ゆ
 神風に い吹き惑《まど》はし、
 天雲を 日の目も見せず
 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて、
 定めてし 瑞穗の國を
 神《かむ》ながら 太敷き坐《ま》して、
 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 天の下 申《まを》したまへば、
 萬代に 然しもあらむと、【一は云ふ、かくもあらむと。】
 木綿花《ゆふはな》の 榮ゆる時に、
 わが大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門を【一は云ふ、さす竹の皇子の御門を。】
 神宮に 装《よそ》ひまつりて、
 つかはしし 御門の人も、
(542) 白細《しろたへ》の 麻衣《あさごろも》著《き》、
 埴安《はにやす》の 御門の原に
 茜《あかね》さす 日のことごと、
 鹿《しし》じもの い匍《は》ひ伏しつつ、
 ぬばたまの 夕《ゆふべ》になれば、
 大殿を ふり放《さ》け見つつ、
 鶉《うづら》なす い匍ひもとほり
 侍《さもら》へど 侍ひ得ねば、
 春鳥の さまよひぬれば、
 嘆《なげ》きも いまだ過ぎぬに、
 憶《おもひ》も いまだ盡きねば、
 言《こと》さへく 百濟《くだら》の原ゆ
 神葬《かむはふ》り 葬りいまして、
 朝裳《あさも》よし 城上《きのへ》の宮を
 常宮《とこみや》と 高くし奉りて、
 神ながら 鎭《しづ》まりましぬ。」
 然れども わが大王の、
(543) 萬代と 念ほしめして
 作らしし 香具山の宮、
 萬代に過ぎむと念へや。
 天の如 ふり放《さ》け見つつ、
 玉襷《たまだすき》 かけて思《しの》はむ。
 恐《かしこ》かれども。」
 
 挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》
 言久母《イハマクモ》 綾尓畏伎《アヤニカシコキ》
 明日香乃《アスカノ》 眞神之原尓《マガミガハラニ》
 久堅能《ヒサカタノ》 天都御門乎《アマツミカドヲ》
 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》
 神佐扶跡《カムサブト》 磐隱座《イハガクリマス》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 所v聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》
 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》
 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》
 行宮尓《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》
 天下《アメノシタ》 治賜《オサメタマヒ》【一云、掃賜而】
 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》
 鷄之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》
 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》
 不2奉仕1《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲヲサメト》【一云、掃部等】
 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》
 大御身尓《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》
 大御手尓《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》
 齊流《トトノフル》 鼓之音者《ツヅミノオトハ》
 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》
 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》【一云、笛乃音波】
 敵見有《アタミタル》 虎可叫吼登《トラカホユルト》
 諸人之《モロビトノ》 恊流麻低尓《オビユルマデニ》【一云、聞或麻泥】
 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 野毎《ノゴトニ》 著而有火之《ツキテアルヒノ》【一云、冬木成春野燒火乃】
 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビカフゴトク》
 取持流《トリモテル》 弓波受乃驟《ユハズノサワキ》
 三雪落《ミユキフル》 冬乃林尓《フユノハヤシニ》【一云、由布乃林】
 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》
 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》【一云、諸人見或麻低爾】
 引放《ヒキハナツ》 箭之繁計久《ヤノシゲケク》
 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》【一云、霰成曾知余里久禮婆】
 不2奉仕1《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》
 露霜之《ツユジモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》
 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端尓《アラソフハシニ》
    一云、朝霜之消者消言尓、打蝉等安良蘇布波之尓
 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤニ》
 神風尓《カムカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》
 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不v令v見《ヒノメモミセズ》
 常闇尓《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》
 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 然之毛將v有登《シカシモアラムト》【一云、如是毛安良無等】
 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》【一云、刺竹皇子御門乎】
 神宮尓《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》
 遣使《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》
 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 御門之原尓《ミカドノハラニ》
 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》
 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》
 烏玉能《ヌバタマノ》 暮尓至者《ユフベニナレバ》
 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》
 雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》
 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》
 嘆毛《ナゲキモ》 未v過尓《イマダスギヌニ》
 憶毛《オモヒモ》 未不v盡者《イマダツキネバ》
 言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》
 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》
 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》
 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》
 雖v然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 萬代跡《ヨロヅヨト》 所v念食而《オモホシメシテ》
 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》
 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》
 玉手次《タマダスキ》 懸而將v偲《カケテシノハム》
 恐有騰文《カシコカレドモ》
 
【譯】言に出して云うのは憚られることであります。申そうにも誠に恐れ多い、明日香の眞神の原に壯大な宮殿をお定めになつて、神樣となられるとして、磐戸の中にお隱れになつた、わが天武天皇の、治められる北方の國の、美濃の國の木の茂り立つ不破山を越えて、和※[斬/足]《わざみ》が原の行宮にお下《くだ》りになつて、天下を治め、領國をお定めになると、東方の國の軍卒をお召しになり、亂暴な人を平和にせよ、服從せぬ國を治めよと、高市の皇子に、皇子にましますが故に任命されましたから、皇子は、御身に太刀をお佩きになり、御手に弓をお持ちになり、軍卒を率《ひき》いたまい、調子を正す太鼓の音は、雷の音と聞くまで、吹き立てる小角《くだ》の笛の音も、敵對した虎が吼えるのかと、衆人の恐怖するまでに、捧げた幡の靡きは、冬が終つて春になつて來ると、野毎についている火が、風と共に靡くように、持つている弓弭の騷ぐ音は、雪の降る冬の林に、飄風《つむじかぜ》が卷き渡るかと思うまで、聞くもおそろしく、引き放つ矢の繁きことは、大雪のように亂れて來れば、服從しないで立ち向かつた者も、露霜のように、今にも消えそうにして、行く鳥のように先を爭つているおりに、伊勢の神宮から、神風が吹き惑わし、日の光も見せず天雲を以つて、眞闇に覆いなされて、平定されたこの日本の國を、神樣にあるままに、領有遊ばされて、わが高市の皇子の、天下の政をお執りになるから、萬代までも、この通りにあろうと、作り(544)花のように榮える時に、思いもかけず、わが皇子の宮殿を、祭りの場と装飾し奉つて、お使いになつていた宮の人も、白い麻衣を著て、埴安の御殿の原に、終日、鹿猪のように匍い伏しつつ、夕方になれは、大殿を仰ぎ見ながら鶉のように葡ひ彷徨して、伺候しているけれども、それにも堪えかねて、嘆きの聲が出されるから、嘆きもまだ過ぎず、思いもまだ盡きないのに、百濟《くだら》の原から、葬り申し上げて、城上《きのへ》の宮を、永久の宮とお定め申し上げて、神樣としてお成りになりました。しかしながら、わが皇子樣の、萬代にもとお思いになつてお作りになつた、香具山の宮は、萬代に棄てて行こうと思いましようや。天のように仰ぎ見つつ心にかけてお慕い申しあげましよう。恐れ多いことではありますけれども。
【構成】この歌は、二段から成つている。初めから終りに近い常宮ト高クシ奉リテ神ナガラ鎭マリマシヌまで第一段。先帝天武天皇の御事蹟から説き起して、皇子の御事蹟に入り、更にその薨去して殯宮に鎭まるまでに及んでいる。これは事實を敍述する部分であるが、特にそれが長大に發達して重要な記事となつている。以下終りまで第二段、故宮について作者の感想を敍している。主觀を敍する部分である。第一段、百三十六句、第二段、十三句、以つてその構成を見るべきである。
【釋】挂文 カケマクモ。以下、皇子ナガラ任ケ賜ヘバまでは、皇子の御父にまします天武天皇の御事蹟を敍す。その天武天皇の御事を言おうとして、恐懼に堪えない意を、以下の四句であらわしている。カケマクは、懸けむことの意で、體言である。この語は、心に懸ける、言語に懸けるの兩方面がある。元來どちらも含んでいようが、ここは言葉に懸ける方が主になつている。神や貴人のことを、たやすく、口に懸け心に懸けることを忌み憚る心である。
 忌之伎鴨 ユユシキカモ。ユユシは、忌むべくある意の形容詞。カモは感動の助詞。憚られることであるかなの意。以上一文を成しており、次の、言ハマクモアヤニ畏キと對句になつて、下文に續いている。對句の前(545)半は、終止形で切り、後半が連體形になつて、後の文に接續するもので、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)などと同型である。この形式の對句は、古體の歌に多く、後衰える。
 由遊志計禮杼母 ユユシケレドモ。ユユシキカモの句の別傳で、これによれば、文は切れない。この歌には、歌詞中に別傳を多く有しているが、これらは、同一の別傳から來ているのであろう。
 言久母 イハマクモ。イハマクは、言わむことの義。
 綾尓畏伎 アヤニカシコキ。以上、句を隔てて、ワガ大君を修飾している。「挂卷母《カケマクモ》 綾爾恐之《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》」(卷三、四七五)。
 明日香乃眞神之原尓 アスカノマガミガハラニ。明日香の眞神が原は、大口の眞神が原ともいう。マガミノハラとも讀まれるが、下に、ワザミガ原とある。大口ノを冠した場合、ガの方が調子がよい。マガミはオオカミ。日本書紀欽明天皇紀に、狼について貴神《カシコキカミ》と稱
している。「大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷八、十六三六)、「三諸之《ミモロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノグモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマギラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マガミガハラユ》 思管《シノヒツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》」(卷十三、三二六八)と詠まれている地で、三諸の神奈備山との關係が見えるが、その三諸の神奈備山は、明日香の神奈備山で、もと飛鳥神社の鎭座していた舊地である。また日本書紀、崇峻天皇の紀の、元年の條に、(546)「壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1」とある。その法興寺は飛鳥寺ともいい、今の安居院の地である。安居院は、高市郡飛鳥の南にあるから、その邊が眞神が原ということになる。天武天皇の山陵は、檜隈の大内の陵といい、高市村野口にあり、安居院からは、飛鳥川を隔てて東南十町ほどの處にある。その山陵へは、眞神が原を通過して行くので、ここに眞神ガ原ニ云々と擧げたのであろう。天ツ御門ヲ定メタマヒテ神サブト磐ガクリマスという敍述は、山陵に鎭まりますこととする以外の解は成立しない。
 久堅能 ヒサカタノ。枕詞。
 天都御門乎 アマツミカドヲ。アマツは、天上の義で、天武天皇の神としての宮殿の意に、冠している。ミカドは宮殿、宮室。神としての御座所をの意。天つ宮といぅも同義で、弓削の皇子の薨去した時の歌に「久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》」(卷二、二〇四)の例がある。また天の御門ともいい、「可之故伎也《カシコキヤ》 安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》 可氣都禮婆《カケツレバ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》 安佐欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》」(卷二十、四四八〇)の例があつて、これも天武天皇の山陵を指している。
 懼母定賜而 カシコクモサダメタマヒテ。カシコクモは、定メタマヒテの限定詞。恐れ多くも。御陵を眞神が原に、天皇御自身にお定めになつたように敍している。
 神佐扶跡 カムサブト。カムサブは既出(卷一、三八)。神樣としての行爲を遊ばされると。
 磐隱座 イハガクリマス。陵墓は、石を以つて構築し、入口には、石戸を立てるので、その中に隱れたまうの義である。連體形の句。明日香の以下、次のワガ大君の修飾句として、山陵に鎭まりたまうことを敍している。
 八隅却之吾大王乃 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、天武天皇を指し奉る。下の任ケタマヘバ(547)までに對する主格となつている。
 所聞見爲 キコシメス。キコシはお聞きになるの義、メスは敬語の助動詞。統治したまうの意になる。シラシメスに同じ。次の背友の國の修飾句である。
 背友乃國之 ソトモノクニノ。ソトモは、既出(卷一、五二)。背つ面の義で、北方をいう。ソトモノクニは、下の不破山を説明しており、美濃の國である。
 眞木立 マキタツ。既出(卷一、四五)。立派な木の立つ意に、不破山を修飾する。
 不破山越而 フハヤマコエテ。以下壬申の年の亂に關する記事に入る。不破山は、岐阜縣不破郡の山で、不破の關のある處を越えてである。事實は伊勢の國から美濃に入られたのであるが、ここは不破山のあなたにの意にかように言つている。
 狛釼 コマツルギ。枕詞。高麗の釼の義で、高麗ふうの釼は、柄頭に輪があるから、ワの枕詞となる。代匠記にいう。「コマは、高麗ナリ。高麗ノ釼ニハ柄頭ニ環ヲ著ルカ。環ノ類ヲワトイヘバ、ワト云詞マウケムトテカクハツツクルニヤ。戰國策云、軍之所v出矛戟折鐶鉉絶【鐶刀鐶。補云、鉉銚、本作v弦。】古樂府云、藁砧今何在【藁砧調之?假?爲v夫】山上更有v山【山上山意出也。】何曰大刀頭【釼柄頭有v鐶假v鐶以爲v還。】破鏡飛上v天【破鏡初月也。?如2鏡片1。】」。
 和射見我原乃 ワザミガハラノ。美濃の國であろうが、所在未詳である。今の青野が原附近であろうという。日本書紀天武天皇紀に、「天皇於v茲、行宮興2野上1而居焉。(中略)戊子、天皇往2於和?1?2?軍事1而還」とある、和?はこの和射見に同じ。
 行宮尓 カリミヤニ。行宮の文字は、漢文から來た文字で文選に見える。
 安母理座而 アモリイマシテ。アモリはアマオリの約。天から降ること。ここでは都から地方に行かれたことを敍している。イマシテは敬語。
(548) 天下治賜 アメノシタヲサメタマヒ。ヲサメは、あるべき形に整えるをいう。統治する義。
 掃賜而 ハラヒタマヒテ。本文の治賜の別傳である。下の國平治跡の別傳にも掃部等とあり、この別傳は、治を掃としている。ハラフは、邪惡を除去する意である。ここには、天下を拂除して定めたまうと續く意であろうが、助詞テを使用しているのは、上に天降り坐してとあるにかさなり、調子が整わない。
 食國乎定賜等 ヲスクニヲサダメタマフト。ヲスクニは既出(卷一、五〇)。御領國。サダメは平定するの意。
 鷄之鳴 トリガナク。枕詞。東國《あづま》に冠する。アの音に冠する枕詞には、「しなが鳥、安房」(卷九、一七三八)があり、シナガ鳥は、尻長鳥でニワトリのこととされ、アに績くのは、その鳴聲によるものとされる。「飛ぶ鳥の、アスカ」は、別の説明がなされているが、鳴聲にも關係があるかもしれない。ここのトリは、鷄の字が書かれて、ニワトリと推考されるので、鳴聲によつてアの音に冠するのだろう。
 吾妻乃國之 アヅマノクニノ。日本武の尊が、その妃弟橘姫を思つて、碓氷の坂の上で、吾妻《あづま》ハヤと仰せられてから、東方の諸國をアヅマというとする地名起原傳説がある。ツマが、單行、または熟語の一部として、地名となつているものは諸國に多く、殊に、上妻《かみづま》、下妻《しもづま》のような地名の多いことを見ても、ツマは、地形語で、別廓をなしている地をさすようである。屋内でも隅のところを、ツマという方言が殘つている。アは、アチ(彼方)のアで、遠方のツマの義であろう。しかるに、人間の配偶者をツマというよりして、妻の字をあて、また地名起原説話をも生じたのであろう。この時は、東海東山の兵士を召されたので、吾妻の國の御軍士といとう。
 御軍士乎 ミイクサヲ。イクサは軍卒をいう。戰をイクサというは後のことである。
 喚賜而 メシタマヒテ。東海東山の軍卒を召集したまいて。
(549)千破磐 チハヤブル。この語は、チ、ハヤ、ブルの三部に分解することができる。チは、靈威の義の語で、ィチシロシ、ウチハヤシなどのイチ、ウチも同語であろう。ハヤは、勇猛果敢の意の體言で、建速須佐の男の命、隼人などのハヤに同じ。ブルは體言について、これを動詞に轉成する性質の語である。「知波夜比登《チハヤビト》 宇遲能和多理爾《ウヂノワタリニ》」(古事記五二)、「千早人《チハヤビト》 氏川浪乎《ウヂガハナミヲ》 清可毛《キヨミカモ》」(卷七、一一三九)などのチハヤビトのチハヤは、この語のチハヤに同じくして、その語は、勇猛な人の意に使用される。「如此《カク》、宇治方夜伎時《ウチハヤキトキニ》 身命《ミイノチヲ》 不v惜之天《ヲシマズシテ》」(續日本紀宣命)のウチハヤキ時は、同じく世情の險惡な時の意に使用している。また、「御心《ミココロ》 一速《イチハヤヒ》 給波志止?《タマハジトシテ》」(鎭火祭祝詞)にイチハヤビとあつて、この語が上二段に使用され、荒ブなどと同樣の語構成であることが知られる。さてこの語は、強く暴い意味の語で、常には神の枕詞に用いられるが、ここでは、強暴な人の意に、チハヤブル人と稱している。これはこの語の本義による用法で、古事記上卷に「道速振荒振國神」とあると同じく、日本書紀神代の下に「殘賊強暴横惡之神」に訓して、チハヤブルアラブルカミとしているのも同義である。これが畏怖すべき神の意から進んで神の枕詞として常用されるに及んでは、その神威の烈しい意が發達して、貴い神の意にまで展開した。ここを初めとして、本集には千磐破の文字を使用しているのは、借字であるが、その猛威を感じている表現である。
 人乎和爲跡 ヒトヲヤハセト。ヤハセは、ヤハスの命令形。和スは平和にする、穩にするの意味の動詞。天武天皇が高市の皇子に向かつて、亂暴な人を平げよと命ぜられるのである。マツロハヌ國ヲ治メトと竝んで、下の任ケ給ヘバに懸かる。ヤハスの語は、「言直、【古語云夜波志】座?」(延喜式大殿祭祝詞)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》 麻都呂倍奴《マツロハヌ》 比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》」(卷二十、四四六五)などの用例がある。
 不奉仕 マツロハヌ。マツロフは、奉仕し服從する意の動詞で、その打消の形である。「東方十二道之荒夫流神及摩都樓波奴人等」(古事記景行天蓋)、「大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》」(卷十八、四〇九四)など用例があ(550)る。マツロフは、日本書紀に「波賦武志謀《ハフムシモ》 飫〓枳瀰?麼都羅符《オホキミニマツラフ》」(七五)の如く、マツラフと書かれたものがあり、マツル(奉)の連續動作を表示するマツラフから轉じたもののようである。
 國乎治跡 クニヲヲサメト。ヲサムは、乱れたものを整理する義で、國を秩序正しくするをいう。ヲサメはその命令法。この句も人ヲ和セトの句と共に、皇子に命ぜられるのである。
 掃部等 ハラヘト。上の句の治跡の別傳である。
 皇子隨 ミコナガラ。ナガラは、のゆえにの意。神ながら(巻一、三八)參照。ミコナガラは、皇子なるから、皇子にいますままに。皇子を征討の大將軍とするは古風である。
 任賜者 マケタマヘバ。ヨサシタマヘバ(代初書入)、マケタマヘバ(攷)、「仕奉太政官之政【乎波】誰任【之加母】罷伊麻」(續日本紀宣命)の例によれば、任をヨサシと讀むべきが如くであるが、ヨサスは、寄スの敬語であつて、「吾孫將v知食國天下與佐麻爾麻爾《ワガミマノシラサムヲスクニアメノシタトヨサシマツリシマニマニ》」(續日本紀宣命)、「皇神等依【左志】奉奧津御年《スメガミタチノヨサシマツラムオキツミトシヲ》a(延喜式祈年祭祝詞)などの如く、事物を寄せる意に使用されるのが本義であるから、ここには適當でない。依つて攷證にマケタマヘバと讀んだのに依るべきである。「大王之《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》」(巻三、三六九)に相當する句を「安麻射加流《アマザカル》 比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》 大王能《オホキミノ》 麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》」(巻十七、三九五七)、「大王能《オホキミノ》 麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》」(同、三九六二)など多くマケノマニマニと書いている。語原は不明であるが、任ずる、用意するの意のマクの他動詞であるようで、委任する意に使用されている。以上、天武天皇の御事蹟を歌つて、以下の皇子の御事蹟に移る準備としている。
 大御身尓 オホミミニ。オホミは稱美の詞、皇子の御身に。以下は高市の皇子が任を受けての行動を敍するのであるから、ここで主格が變更する。よつて、この句の上に、高市の皇子はの意味の句を置くべきであるが、元來この歌は、皇子の殯宮で歌われた歌で、その事をいう必要が無いので、これを省略している。
(551) 大刀取帶之 タチトリハカシ。タチトリオバシ(考)。トリは添えて調子を張る詞。ハカシは佩クの敬語の中止形。太刀を腰にお帶びになつて。
 大御手尓 オホミテニ。皇子の御手に。
 弓取持之 ユミトリモタシ。モタシは持ツの敬語の中止形。以上二句、大御身ニ大刀トリ帶カシの句と對句になつている。
 安騰毛比賜 アトモヒタマヒ。アトモフは誘い率いる義。「足利思代《アトモヒテ》 榜行舟薄《コギユクフネハ》」(卷九、一七一八)、「三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》」(同、一七八〇)、「阿麻夫禰爾《アマブネニ》 麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥布里可邊之《ソデフリカヘシ》 阿登毛比弖《アトモヒテ》 和賀己藝由氣婆《ワガコギユケバ》」(卷十七、三九九三)、「安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美波《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)等のアトモヒは、皆この語である。但し、「璞《アラタマノ》 年之經往者《トシソヘユケバ》 阿跡念登《アトモフト》 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》」(卷十、二一四〇)、「安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》」(卷十四、三五七二)のアトモフ、アドモヘは別語で、何ト思フの義であるから、混同してはならない。以上、大御身ニ以下この句まで、皇子の直接の行動を敍している。
 齊流 トトノフル。整理する。軍隊の進退を正しくする意である。「網引爲跡《アビキスト》 網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》」(卷三、二三八)は、網子の進退を整理するのである。太鼓を以つて軍隊の動作を規定するので、連體形である。以下、皇子の軍隊の威力のことについて述べる。そのうち、諸人ノオビユルマデニの句は、軍樂について述べている。
 鼓之著者 ツヅミノオトハ。ツヅミは軍鼓で今の太鼓である。軍陣に鼓を用いたことは、軍防令に、「凡軍團、各置2鼓二面大角二口小角四口1」、また、「凡私家、不v得v有2鼓鉦弩牟?具装大角小角及軍幡1。但樂鼓不(552)v在2禁限1」とある。
 雷之聲登聞麻低 イカヅチノコヱトキクマデ。イカヅチは、倭名類聚鈔に、雷公に註して、「和名奈流加美、一名以加豆知」とあり、佛足跡歌碑に、「伊加豆知乃《イカヅチノ》 比加利乃期止岐《ヒカリノゴトキ》」とある。軍鼓の音は、雷の鳴る音と聞えるまでで、その聲のおびただしいのをいう。
 吹響流 フキナセル。フキトヨムル(新訓)。日本書紀に、笛について「肝企儺須《フキナス》 美母慮我紆陪?《ミモロガウヘニ》」(九七)とあり、響は、本集にも、「足引之《アシヒキノ》 山河之瀬之《ヤマガハノセノ》 響苗爾《ナルナヘニ》」(卷九、一〇八八)など、ナルと讀んでいる。よつてフキナセルと讀む。また集中「霍公鳥《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》 聲之遙佐《コヱノハロケサ》」(卷八、一四九四)、「山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)等、多く使用され、これらは「保等登藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》」(卷十五、三七八〇)、「安之比奇能《アシヒキノ》 山妣故等余米《ヤマヒコトヨメ》 佐乎思賀奈君母《サヲシカナクモ》」(卷十五、三六八〇)等の、トヨムル、トヨメに相當するものと考えられる。トヨムは、響き渡る意の動詞で、下二段活である。
 小角乃音母 クダノオトモ。クダは軍陣に用いる笛の名。前に掲げた軍防令の文の中に、大角小角と見える。倭名類聚紗に、「楊氏漢語抄云、大角【波良乃布江】小角【久太能布江】」。獣角を笛としたことから起つて、獣角の形に摸して作つた笛。歌のことであるから、小角を擧げて大角を略したものである。
 笛乃音波 フエノオトハ。小角ノ音モの別傳である。小角ということ、耳馴れぬので、笛と傳えたものと見える。笛というも、軍樂の吹奏樂器のことで、大角小角に同じ。
 敵見有 アタミタル。アタミは、敵對する意の動詞で、新撰字鏡に、怏に阿大牟の訓がある。動詞アタムの連用形に助動詞タリの連體形がついたので、敵對するの意。怒つて反抗の意を示していることとする。また字について、敵見タルとし、敵を見たとも解せられる。
 虎可叶吼登 トラカホユルト。カは、疑問の係助詞。虎がか、吠えるのはの意。倭名類聚鈔に、吠に註して、(553)保由とし、犬の鳴聲なりとしているが、しかし犬の鳴くをいう動詞である。
 諸人之恊流麻低尓 モロヒトノオビユルマデニ。恊は、脅に同じ。新撰字鏡に「恊【今作脅、虚業反怯也於比也須】」とあり、日本靈異記上卷の訓註に「脅オヒユ」とある。驚いて精神を失うをいう。以上、諸人の恐怖するまでに軍樂の奏されるをいう。
 聞或麻泥 キキマドフマデ。脅ユルマデニの別傳である。
 指擧有 ササゲタル。サシアゲタルの約言で、旗を高く擧げること。佛足跡歌碑に「乃知乃保止氣爾《ノチノホトケニ》 由豆利麻都良牟《ユヅリマツラム》 佐々義麻宇佐牟《ササゲマウサム》」とある。以下風ノムタ靡カフ如クまで皇子の軍隊の旗旒について敍している。
 幡之靡者 ハタノナビキハ。ハタは軍用の幢で、幡を多く立て、敵を恐れさせるのである。その風に靡くことの意。これを野を燒く火※[火+餡の旁]に譬えているところを見ると、赤旗であつたろうという(萬葉集攷證)。古事記の序文に、「絳旗耀v兵」とあるも、天武天皇の軍について敍しているのであるが、その絳旗も紅旗である。
 冬木成春去來者 フユゴモリハルサリクレバ。既出(卷一、一六)。
 野毎著而有火之 ノゴトニツキテアルヒノ。野はおおむね春の初めに燒くものであるから、春サリ來レバを受けている。「立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマトヤマニ》 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》」(卷二、二三〇)、「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》航c卷七、二二三六)などある。
 冬木成春野燒火乃 フユゴモリハルノヤクヒノ。上の冬ゴモリ春サリ來レバ野ゴトニ著キテアル火ノの四句の別傳であつて、これによれば二句すくなくなる。しかしフユゴモリは、その語義から見ても、春になることの枕詞であつて、直に春野に冠するのは轉用である。これから見ても、本文の方がよい。
 風之共 カゼノムタ。ムタは共にの意の古語。體言であつて、副詞を構成する。野火が風と共に靡くよしである。
(554) 靡如久 ナビカフゴトク。ナヒクカコトク(神)、ナビケルゴトク(考)。野火が、風のまにまに横に流れるようにの意。この下に、あり、見ゆる等の意の語が省略されている。
 取持流 トリモテル。持つている。モテルは持ちあるの義。以下大雪ノ亂レテ來タレまで、皇子の軍隊の弓矢に就いて敍している。
 弓波受乃驟 ユハズノサワキ。既出。「御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》」(卷一、三)は、矢を射る時に、弓の弦の鳴るを歌つていると解せられる。ここもそれに準じて、大勢の軍卒が矢を射るので、その弓の中弭が大きな音を立てると解すべきである。ユハズは、その本末の弦と合う處をいうが、ここでは中間の矢と合う處をいうであろう。サワキは、形および音聲の雜然たるをいう。
 三雪落 ミユキフル。ミは接頭語。冬の景をあらわすために置いた句。
 冬乃林尓 フユノハヤシニ。ハヤシは樹林の義。
 由布乃林 ユフノハヤシニ。冬ノ林ニの句の別傳である。雪の積つた林を、木綿で作つた林と譬喩したのであろう。ユフはコウゾの皮の繊維をさらしたもの。白色を以つて知られている。木綿を雪の譬喩に用いたのは巧みすぎる。本文の素朴に及ばない所である。
 飄可母伊卷渡等 ツムジカモイマキワタルト。ツムジは急に強く吹く風。旋風。カモは係助詞。下のイ卷キ渡ルに懸かる。イは接頭語。飄風が吹き卷いて渡ることかと思うまでという文脈。
 念麻低聞之恐久 オモフマデキキノカシコク。弓弭の騷ぎを飄風の吹き渡るかと思うほどに、聞くことのおそろしくあることの意。
 諸人見或麻低尓 モロヒトノミマドフマデニ。上の念フマデ聞キノカシコクの別傳である。しかし弓弭云々は物音についていうのであるから、見マドフは適しない。またこれによれは、前の諸人ノ聞キマドフマデと對(555)句になつている。
 引放箭之繁計久 ヒキハナツヤノシゲケク。弓弦を引いて放つ矢が數多く飛び來ることをいう。シゲケクは、體言で、繁くあることの意。形容詞に、體言を作る助詞クの接續したもの。副詞ではない。
 大雪乃 オホユキノ。譬喩で、大雪の如くの意である。
 亂而來禮 ミダレテキタレ。キタレは、條件法であつて、ここで段落になるのではなく、下文に對して、大雪のように矢が亂れて來るからの意となる。集中、例の多いことであるが、たとえば、「天づたふ入日さしぬれ、ますらをと思へる吾も」(卷二、一三五)の如きがある。以上皇子の軍隊の威武を敍し、これに對して、以下敵方の樣子の敍述に移る。
 霰成曾知余里久禮婆 アラレナスソチヨリクレバ。本文の、大雪ノ亂レテ來タレの別傳である。アラレナスは枕詞。霞のようにの意。箭の繁くあることを霞に譬えたのは適切である。この枕詞は、意を以つてソチヨリ來レバに冠するのであろう。ソチは其方の義であろうが、集中他に用例を見ない。彼方の意に使用して、霰のように、あちらから來ればとしたのであろう。これも本文の方を可とする。
 不奉仕立向之毛 マツロハズタチムカヒシモ。以下敵方、すなわち近江の朝廷方の樣子である。タチムカヒシモは、立ち向かつた者もの意。
 露霜之 ツユジモノ。既出(卷二、一三一)。枕詞。露から霜に置きかわる頃の消え易い霜のようにの意に、消ユに冠する。
 消者消倍久 ケナバケヌベク。消えなば消えぬべくで、消えるなら消えもしようとの意に、命の消え易いのをいう慣用句。「朝霜《アサジモノ》 消々《ケナバケヌベク》 念乍《オモヒツツ》 何此夜《イカニコノヨヲ》 明鴨《アカシナムカモ》」(卷十一、二四五八)、「朝露之《アサヅユノ》 消者可v消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コヒシクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隱都麻鴨《コモリヅマカモ》」(卷十三、三二六六)の用例があり、その變化した形に、「零雪乃《フルユキノ》 消者消香二《ケナバケヌカニ》 戀云吾(556)妹《コフトフワギモ》」(卷四、六二四)、「降露乃《オクツユノ》 消者雖v消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニデメヤモ》」(卷八、一五九五)がある。これらはいずれも、露霜雪の如き、消え易いものを枕詞として冠している。
 去鳥乃 ユクトリノ。枕詞。空飛ぶ鳥は、先を爭うように見えるので、爭フに冠している。
 相競端尓 アラソフハシニ。空行く鳥のように、先を爭つて、消えようとしている時にの意。消えるように爭う意である。ハシは、間《あいだ》で、消えを爭つているあいだにの意。ハシは、中途で、進行の中間であることをいうのだろう。端のハシと同語か。「波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》」(卷十四、三四〇八)
 朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓 アサジモノケナバケヌトフニウツセミトアラソフハシニ。本文の露霜ノ以下の四句の別傳である。アサジモノは枕詞。ケナバケヌトフニは、消えるなら消えるというにの意に、爭フに懸かるのであろうか。ウツセミトは、うつせみの如きはかないものとしての意であろうか。難解の詞句の多い別傳で、よい傳來とは思われない。
 渡會乃齋宮從 ワタラヒノイツキノミヤユ。度會は伊勢の國の皮會郡、皇大神宮の鎭座せる地。イツキノミヤは、天照らす大神を齋き奉れる宮の義で、齋の内親王の宮を齋の宮ということとは別である。ユは、其處より此方に通じて。伊勢の神宮から。
 神風尓 カムカゼニ。神明の吹かせる風を神風という。伊勢の神宮から吹き起した風に。
 伊吹或之 イフキマドハシ。イは接頭語。敵軍を吹き惑わすのである。
 天雲乎日之自毛不令見常闇尓覆賜而 アマグモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ。アマグモは、天の雲。ヒノメは、日の面。天雲を以つて、日の光も見せずに常闇に覆われたよしである。トコヤミは永久の闇。皇子の軍の勢力によつて天日をも覆つての意である。壬申の亂の戰中、急に暴風吹き來つて、叢雲忽に起り、天日をも蔽ひ隱した事實があつたのであろう。雲を以つて天日を隱すということ、正義の軍の敍述として(557)は適切でない。天日を以つて弘文天皇に譬え、雲霞にも譬えつべき不義の戰を起してこれに打ち捷つた意を寓するものとも、言わばいうべきものであるが、個人としてのわたくしの追憶でなく、皇子の殯宮で歌われたものとしては、そのような意に解することはできない。
 定之 サダメテシ。上の食ス國ヲ定メタマフトと同じ意に、國を安定されたことをいう。
 水穗之國乎 ミヅホノクニヲ。ミヅホノクニは既出(卷二、一六七)。日本國を葦原の瑞穗の國というその略號である。ミヅは生々としてある意の稱美の詞。ホは物の秀でたのをいう。禾本に就いては、花果の稱である。
 神隨太敷座而 カムナガラフトシキマシテ。既出。この成句は上の一六七の歌にも見えている。フトシクは、見事に壯大に御占據遊ばされる意。天武天皇の御事をいうとも取れるが、やはり高市の皇子の御事として見るべきであろう。皇子にフトシクの語を使用することは、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(卷一、四五)の例がある。
 八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子をさす。この句は、天の下申すの主格になつている。
 天下申賜者 アメノシタマヲシタマヘバ。アメノシタマヲスは、熟語句で、天皇に對して天下の事を奏上する意から、政治を執るの意に使用せられ、大臣、大納言級の人に使用する。高市の皇子は、太政大臣であつたから、この句が使用される。「余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》 阿米能志多《アメノシタ》 麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》 美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》」(卷五、八七九)、「神奈我良《カムナガラ》 愛能盛爾《メデノサカリニ》 天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》 家子等《イヘノコト》 撰多麻比天《エラビタマヒテ》」(同、八九四)。
 然之毛將有登 シカシモアラムト。下のシは張意の助詞。然もあらむと、その通りにあろうと。
 如是毛安良無等 カクモアラムト。然しもあらむとの別傳である。これは調子が落ちつかない。本文の八音(558)に強くいうのに及ばない。
 木綿花乃 ユフバナノ。枕詞。木綿で作つた花。造り花。木綿は、木の皮の繊維をさらしたもの。川や海の白く立つ波をよく木綿花に譬えている。「山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》 瀧之河内者《タキノカフチハ》 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》」(卷六、九〇九)、「泊瀬女《ハツセメノ》 造木綿花《ツクルユフバナ》 三吉野《ミヨシノノ》 瀧乃水沫《タギノミナワニ》 開來受屋《サキニケラズヤ》」(同、九一二)。この句、譬喩として榮ユルに冠している。
 榮時尓 サカユルトキニ。皇子の御勢いの榮える時にの意であるが、この下、思いもよらないの意を含めている。ここまでは、皇子生前の御事蹟を敍している。この下にゆくりなく薨去された旨を補つて解すべきである。
 吾王皇子之御門乎 ワガオホキミミコノミカドヲ。わが大君なる皇子と續く。ミカドは宮殿。
 刺竹皇子御門乎 サスタケノミコノミカドヲ。ワガ大君皇子ノ御門ヲの句の別傳である。サスタケノは既出(卷二、一六七)。枕詞。語義未詳であるが、刺す竹の語意を感じていたらしい。宮に冠する。ここではミカドに冠している。
 神宮尓 カムミヤニ。カムミヤは、神靈を祭る宮殿をいう。皇子の薨去に依り、その宮殿を殯宮とするのである。
 装束奉而 ヨソヒマツリテ。神宮として装備し奉つて。
 遣使 ツカハシシ。ツカハシは、使うの敬語の連用形。使役せられる。下のシは過去をあらわす助動詞の連體形。皇子のお使いになつた。
 御門之人毛 ミカドノヒトモ。御殿に使われていた人も。
 白妙乃麻衣著 シロタヘノアサゴロモキ。シロタヘは白い織物の義であるが、ここではただ白色の意に用い(559)ている。白妙の雪などいう時の用法に同じである。白衣を著るは、神に仕える人の服装で、清淨を貴ぶからである。アサゴロモは麻で織つた衣。天平十六年に、安積の皇子の薨去された時の大伴の家持の歌中にも、「白細爾《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》」(卷三、四七五)とある。
 埴安乃御門之原尓 ハニヤスノミカドノハラニ。埴安は香具山のふもとで、皇子の御殿のあつた處。下に香具山の宮とある。ミカドは御門宮殿をいう語であるが、ここは、御門前の原の意に使用しているのであろう。その原にいて大殿をふりさけ見ると歌つている。
 赤根刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。日は赤いので枕詞としてこれを冠している。
 日之盡 ヒノコトゴト。既出(卷二、一五五)。一日中、終日。
 鹿自物 シシジモノ。シシは、獣肉の義から、肉を食料とする獣、鹿猪の類をいう。ジモノは、既出、「鴨自物《カモジモノ》」(卷一、五〇)。ジは體言について、これを形容詞風にする性質の語。鹿猪は、膝を折つて坐するので、次の句の枕詞とする。
 伊波比伏管 イハヒフシツツ。イは接頭語。匍匐し平伏しつつ。下のイ這ヒモトホリの句に續いて、サモラヘドサモラヒ得ネバを修飾している。
 烏玉能 ヌバタマノ。既出。
 暮尓至者 ユフベニナレバ。夕方になれば。この二句は、アカネサス日ノコトゴトの句と對句になつているが、事實としては、日ノコトゴトイ這ヒ伏シツツから進行して行く敍述である。
 大殿乎振放見乍 オホトノヲフリサケミツツ。フリサケミルは既出(卷二、一四七)。天や山のような遠方または高いところを見るにいう。目を放つて遠く見る義。ここでは皇子の宮殿の高壯なことを表わして、この句を用いている。
(560) 鶉成 ウヅラナス。枕詞。鶉は、一處を徘徊するようにあるので、鶉のようにの意に、イ這ヒモトホリに冠している。
 伊波比廻 イハヒモトホリ。イは接頭語。モトホリは徘徊低徊する。
 雖侍候 サモラヘド。既出「雖2伺侍1《サモラヘド》」(卷二、一八四)。伺候し侍坐し居れども。動詞|守《モ》ルの連續的動作をあらわすモラフに接頭語サのついたのがサモラフである。これが轉じてサムラフになり、サムラヒ(侍者、武士)の語が出來、又サウラフ(候ふ)の語となる。次の句が假字書きの例になる。
 佐母良比不得者 サモラヒエネバ。悲痛の餘、侍候するにも堪えかねて。
 春鳥之 ハルトリノ。枕詞。新撰字鏡に※[春+鳥]をウグヒスと讀んでいるによれは、ウゲヒスノとも讀むべきもののようであるが、サマヨフの枕詞となつているのであるから、春の鳥一般の習性としてハルトリノと文字通り讀む説による。
 佐麻欲比奴禮者 サマヨヒヌレバ。サマヨフは、新撰字鏡に※[口+屎]を釋して、「許伊反、出v氣息v心也、坤吟也、惠奈久、又佐萬與不、又奈介久」、呻を釋して、「舒神反、吟也、歎也、佐萬與不、又奈介久」とある。息を出して呻吟する意で、悲歎のあまり、呻吟されるのである。サ迷フ、彷徨するの意ではない。木集では、迷うを、マドフと言つている。「春鳥乃《ハルトリノ》 己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇?奈伎奴良之《ソデナキヌラシ》」(卷二十、四四〇八)。
 嘆毛未過尓 ナゲキモイマダスギヌニ。ナゲキは、ナガイキで、長い息をする、溜息をつくこと。その嘆きもまだ過ぎやらぬに。
 憶毛未不盡者 オモヒモイマダツキネバ。このネバは、ずしての如き意味で、ヌニというに近く、次の句に對する理由根據の義は稀薄になる。「奉v見而《ミマツリテ》 未時太尓《イマダトキダニ》 不v更者《カハラネバ》 如2年月1《トシツキノゴト》 所v念君《オモホユルキミ》」(卷四、五七九)など用例が多くある。用言の已然形は、已然の語意に拘泥すべきでなくむしろ既定というほどの意になるので、(561)この種の用法がなされるのである。
 言左徹久 コトサヘク。既出(卷二、一三五)。枕詞。言語の通じない意に、ここは百濟に冠する。
 百濟原從 クダラノハラユ。百濟の原は、奈良縣北葛城部百濟村の地。「百濟野乃《クダラノノ》 〓古枝爾《ハギノフルエニ》 待v春跡《ハルマツト》 居之鶯《ヲリシウグヒス》 鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》」(卷八、一四三一)の百濟野も同じ。皇子の御殿のある香具山と殯宮の城上とを繋ぐ線上、城上に近い處にある。ユは、を通つて。
 神葬葬伊座而 カムハワリハワリイマシテ。貴人の薨去を、神になると考えたので、神の行動に準じて神葬りと云つたのである。神の集まることを神集ヒ、神の相談するを神謀リというように、神の葬《はふ》りという意に神葬りといつたのである。ハフリは、放り遣る義で、生ける時の家から野山に出すことをいう。しかしその語義は忘れられて、みずから鎭まりたまう意に、イマシテの敬語を附している。
 朝毛吉 アサモヨシ。既出(卷一、五五)。朝の裳の意で、キに冠するのであろう。
 木上宮乎 キノヘノミヤヲ。キノヘは、題詞に城上とあるに同じ。御墓もその地の三立の岡である。
 常宮等 トコミヤト。トコミヤは、永久の宮殿。常宮としての意。「常都御門跡《トコツミカドト》」(卷二、一七四)。
 高之奉而 タカクシマツリテ。
   タカクマツリテ(神)
   タカクシタテテ(西)
   タカクシマツリテ(私考)
   タカシリタテテ(攷)
   ――――――――――
   高之奉而《タカクシタテテ》(童)
   高知座而《タカシリマシテ》(考)
   定奉而《サダメマツリテ》(玉)
 この句の讀み方には諸説があるが、誤字説は採用しかねるとして、この文のままでは、タカクマツリテ、タカクシマツリテの二訓が考慮の價値がある。之は措辭として、直接に訓を當てないでもよい場合は、古事記日(562)本書紀には例の多いことであるが、本集には明確な例が無い。之を讀むとすれは、この場合、字音假字としてシと讀むほかはない。よつてタカクシマツリテと讀むべきである。そのシの性質は、講義の説の如くサ行變格の動詞とすることは無理で、強意の助詞と見るべきものである。形容詞の副詞形に、強意の助詞シの添つた例は、「爲部母奈久《スベモナク》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》」(卷五、八九二)、「氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》 古非爾家流可母《コヒニケルカモ》」(卷十五、三六六八)など多くある。マツリテは奉仕して。常宮として高壯に奉仕しての意と解せられる。
 神隨安定座奴 カムナガラシヅマリマシヌ。神にいます故に鎭座ましました。皇子みずから鎭まります意に歌つている。以上第一段、事實を敍述している。先帝天武天皇の御事から説き起し、皇子の御事蹟に及び、城上の宮に鎭まりますに至つて止めている。堂々たる敍事の詞章である。以下これを受けて、主として作者の主觀を述べる。
 雖然 シカレドモ。以上皇子の事蹟を敍逃し來つたのを受けて、ここに一轉語を下して、作者の感慨を述べるのである。
 吾大王之 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子。
 萬代跡所念食而 ヨロヅヨトオモホシメシテ。永久に住もうと思しめされて。
 作良志之 ツクラシシ。御造営になつた。
 香來山之宮 カゲヤマノミヤ。皇子の宮殿。上に埴安の御門の原にとあり、また反歌に埴安の池を歌つているので、香具山のふもと、埴安もしくはその附近にあつたことが知られる。
 萬代尓過牟登念哉 ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ。スギムは、徒に過ぎむの意。思ヘヤは、ヤは反語、思おうや、思わないの意。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)參照。久しき代までもいたずらに過ぎ去るべしとは思わないの意。句切。
(563) 天之如振放見乍 アメノゴトフリサケミツツ。この皇子の宮を形見として、大空の如くふり仰ぎ見つつ。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。手次を懸ける意に、次句の懸ケテに冠している。
 懸而將偲 カケテシノハム。心に懸けてお慕い申し上げよう。句切。
 恐有騰文 カシコカレドモ。われらが心にかけることは、おそろしいことであれどもの意。神靈を恐れる心持である。上の懸ケテ偲ハムの内容を限定している條件法の句。以上第二段、作者の中心に就いて敍している。
【評語】以上一百四十九句、萬葉集中第一の長い歌である。壬申の亂の描寫にその大部分を費し、期待にそむいて薨去に接したことを次に述べ、最後に十三句を以つて作者の感慨を敍している。秩序整然として、長くして紊れない。人麻呂の作品として恥じないものである。部分的の缺點はやむを得ないが、天雲を以つて日を蔽つて天下を定めたという譬喩は、この歌の疵であろう。しかし戰闘の記事の詳細にして巧妙なのは、殊にこの歌の光を増す所以である。敍事の部分が發達しているので敍事詩と見る説もあるが、それは正しくない。全體としては皇子の薨去を悼む敍情が中心である。なおかような殯宮の歌は、靈前において實際に誦詠されたものと考えられる。それでその神靈の御事蹟に關して頌する意味に敍事がされるのである。主格の省略されることなども、神靈に對していう所に理由が存するのであろう。
 
短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あま》知らしぬる
 君ゆゑに、
 日月《ひつき》も知らに 戀ひわたるかも。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天《アマ・アメ》所v知流《シラシヌル》
 君故尓《キミユヱニ》
 日月毛不v知《ヒツキモシラニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(564)【譯】神となつて天をお治めになつた君であるものを、日月の過ぎるのも知らないで、戀いつつ過すことであります。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。既出。
 天所知流 アマシラシヌル。歴史的にいえばアメシラスであろうが、アマテラスなど他の語例によるに熟語としてアマシラスであろう。おかくれになることを、神となつて天を領せられるように云つている。シラシは知ルの敬語の連用形。統治する、領有する意。「和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天所知奴禮《アマシラシヌレ》 展轉《コイマロビ》 ?打雖v泣《ヒヅチナケドモ》 將v爲須便毛奈思《セムスベモナシ》」(卷三、四七五)、「吾王《ワガオホキミ》 天所v知牟登《アマシラサムト》 不v思者《オモハネバ》」(同、四七六)。これらの例は、大伴の家持の作で、人麻呂のこの歌から詞句を得ているらしい。
 君故尓 キミユヱニ。君は高市の皇子。その君の事によつての意。
 日月毛不知 ヒツキモシラニ。日や月の過ぎることも知らずに、ニは、打消の助動詞。
 戀渡鴨 コヒワタルカモ。コヒは、亡き君に對する思慕の意の動詞。ワタルは、時を經過する、世を渡る、日を渡る等の義で、戀いつつ月日を過ぎゆくことかなと嘆息したのである。
【評語】長歌の敍事的なのに對して、主觀的に述べている。壯大な詞句が選まれているのは、皇子の薨去を悼む挽歌としてふさわしい。
 
201 埴安《はにやす》の 池の堤《つつみ》の 隱沼《こもりぬ》の、 行《ゆ》く方《へ》を知らに 舍人《とねり》は惑《まど》ふ。
 
 埴安乃《ハニヤスニ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》
 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
【譯】埴安の池の堤のこもつている沼の水のように、どうしてよいかわからないで、舍人は迷つております。
【釋】埴安乃池之堤之 ハニヤスノイケノツツミノ。皇子の香具山の宮の地にある景物を取つて歌を起してい(565)る。ツツミは、水を包んである土。埴安の池は今殘つていないが、香具山の西北のふもとにあつたと推定される。
 隱沼乃 コモリヌノ。コモリヌは土などに圍まれて、水の流れて出る口の見えない沼をいう。以上、行ク方ヲ知ラニというための序で、この歌は序歌である。隱沼の用例には、「隱沼《コモリヌノ》 從v裏戀者《シタユコフレバ》 無v乏《スベヲナミ》」(卷十一、二四四一)、「許母利奴能《コモリヌノ》 之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》 志良奈美能《シラナミノ》 伊知之路久伊泥奴《イチシロクイデヌ》 比登乃師流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十七、三九三五)などある。
 去方乎不知 ユクヘヲシラニ。「行方不v知毛《ユタヘシラズモ》」(卷二、一六七)參照。行く方、爲《せ》む術を知らずにの意から、どうしてよいかわからないで、途方に暮れての意になる。
 舍人者迷惑 トリネハマドフ。集中、迷または感をマドフと讀んでいる。迷惑と續け書いたのは、他には無い。皇子にお仕え申し上げていた舍人等は、惑うことである。
【評語】人麻呂も舍人の一人としてお仕えしていたものと思われる。それによつて、長歌の末の感慨の部分も生きてくるし、この反歌の末句、舍人は惑フの句も、自分等の心もちに關することとして見るがよい。多くの舍人等の心を代表する氣持で、人麻呂は皇子の殯宮に歌つているものと見るべきである。
 
或書反歌一首
 
【釋】或書反歌一首 アルフミノヘニカヒトツ。或る書には、次の歌を、反歌として載せているというのである。或る書とはいかなる書であるか不明であるが、左註には、類聚歌林には、作者に關して別傳のあることを記しているから、類聚歌林でないことは知られる。
 
(566)202 哭澤《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ
 ?《こ》ひ祈《の》めど、
 わが大王《おほきみ》は 高日知らしぬ。
 
 哭澤之《ナキサハノ》 神社尓三輪須惠《モリニミワスヱ》
 雖2?祈1《コヒノメド》
 我王者《ワガオホキミハ》 高日所v知奴《タカヒシラシヌ》
 
【譯】泣澤の神社に御酒の甕を据えてお祈りをしたけれども、わが皇子樣は、天にお上りになつてしまいました。
【釋】哭澤之神社尓三輪須惠 ナキサハノモリニミワスヱ。哭澤の神社は、古事記上卷に「故爾伊耶那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、謂d易2子之一木1乎u、乃葡2匐御枕万1、匍2匐御足方1而、哭時、於2御涙1所v成神、坐2香山之畝尾木本1、名泣澤女神」とあつて、伊弉諾の尊の御涙によつて成れる泣澤女の神を祭つた處である。ナキサハというのは、水音のする澤の義であろう。この神社は、香具山の西麓の小高い處にあり、森林を本體とし、拜殿のみあつて本殿は無く、北方は一段低くなつて、當時の埴安の池の一部をなしていると推定される。この神は埴安の池の水神で、その水源の地に祭られ、涙によつて成つたという傳説を有しているのである。神社をモリと讀むのは、森林を神座として崇敬するにもとづく。森林に標して、神の處とし、從つて神社のもととなつたのである。ミワは神酒。「土佐國風土記云、神河、訓2三輪川1、源出2北山之中1、屆2于伊豫國1。水清、故爲2大神1釀v洒也、用2此河水1、故爲2河名1也」(萬葉集註釋所引)。ミワスヱとは、神酒を釀した甕を据える意で神に酒を獻つて祈?をしようとするのである。「五十串立《イクシタテ》 神酒座奉《ミワスヱマツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノラマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》」(卷十三、三二二九)。
 雖?祈 コヒノメド。イノレドモ(金)、コヒノメド(玉)、ノマメドモ(古義)。イノレドモについては、古語のイノルは、神をイノルという語法であるから、ここに適しない。助けていえば、神社に神酒すえ、神を(567)イノレドというべきを、神ヲの處置格を省略したものと見るべきである。コヒノムは熟語で用例が多い。これは本來、神ニとニを受くべき語法のもので、「刀奈美夜麻《トナミヤマ》 多牟氣能可昧爾《タムケノカミニ》 奴佐麻都里《ヌサマツリ》 安我許比能麻久《アガコヒノマク》」(卷十七、四〇〇八)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神社爾《カミノヤシロニ》 ?流鏡《テルカガミ》 之都爾等里蘇倍《シツニトリソヘ》 己比能美底《コヒノミテ》 安我麻都等吉爾《アガマツトキニ》」(同、四〇一一)の如き、この歌とほぼ同じ形式のもとに用いた例がある。コヒノムは神コの發揮を願う意味の語である。分けていえば、コフは神の出現を乞う意、ノムは稽首禮拜する意であろう。
 我王者 ワガオホキミは。ワガオホキミは高市の皇子。
 高日所知奴 タカヒシラシヌ。タカヒは、日の美稱。日を知らすというは、前出の天知ラスと同じ思想で、貴人の薨去をいう。
【評語】四五句の言い方は大きいが、初三句の敍述は、左註にいうように、檜隈の女王の御歌とするに適している。反歌としても、長歌と關係が薄く、むしろ獨立の作として見るべき性質の歌である。
 
右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1云、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
 
右の一首は、類聚歌林に曰はく、檜隈の女王の、泣澤の神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申の秋七月辛丑の朔にして庚戌の日、後の皇子の尊薨りましきといへり。
 
【釋】檜隈女王 ヒノクマノオホキミ。父祖は知られない。天平九年に從四位の上に敍せられた方で、多分高市の皇子の妃であろう。
 十年 トトセ。持統天皇の十年である。
 辛丑朔庚戌 カノトウシノツキタチニシテカノエイヌノヒ。七月十日。
(568) 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子のこと。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子、冬日雪落、遙望2御墓1、悲傷流涕御作歌一首
 
但馬の皇女薨りたまひし後に、穗積の皇子の、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み悲傷流涕して作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女薨後 タヂマノヒメミコノカムサリタマヒシノチニ。但馬の皇女と穗積の皇子との關係は、既出一一四の歌の題詞のもとに記した。但馬の皇女は、和銅元年六月十五日に薨去した。
 御墓 ミハカ。但馬の皇女の御墓は、歌詞によつて、吉隱の猪養の岡にあつたことが知られる。吉隱は、奈良縣磯城郡にあり、今は初瀬町に屬している。
 
203 零《ふ》る雪は あはにな降りそ。
 吉隱《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡の 塞《サハリ》せまくに。
 
 零雪者《フルユキハ》 安播尓勿落《アハニナフリソ》
 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》 塞爲卷尓《サハリセマクニ》
 
【譯】降る雪は多く降るな。皇女の御墓のある、吉隱《よなばり》の猪養の岡のさまたげをするだろう。
【釋】零雪者安播尓勿落 フルユキハアハニナフリソ。アハは未詳である。近江美濃飛驛越後などにて、雪崩のことをアワというそうであるが、この歌には適しない。ナ降リソは、ナに勿かれの意がある。雪は多量に降るなの意であることは察せられる。雪に對して言い懸けている語法。句切。
 吉隱之猪養乃岡之 ヨナバリノヰカヒノヲカノ。吉隱の猪養の岡は、皇女の御墓のあつた處と考えられる。今何處の地點とも知られない。ヰは家猪で、豚をいう。猪養部にちなんだ地名であろう。
(569) 塞爲卷尓 サハリセマクニ。
   セキニセマクニ(類)
   セキニナラマクニ(童)
   セキナラマクニ(考)
   セキナサマクニ(古義)
   セキトナラマクニ(新考)
   セキタラマクニ(定本)
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   寒有卷爾《サムカラマクニ》(檜)
 檜嬬手に、塞爲を寒有の誤とし、サムカラマクニと讀んでいるのは、皇女の御墓に對する愛情が描かれる。金澤本にも墓を寒に作つている。サムカラマクニは、寒くあろうよの意である。しかしそれは、爲を有の誤りとしなければならない。原文のままで訓を下すとすれば、爲は、集中動詞ナスに當てて使用した例はなく、動詞助動詞においては、ス(その活用を含む)に使用したものが普通で、その外には、ナリに使用したかと思われる「朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《オホニナリツツ》」(卷三、四八一)の如きがある。よつてここも、爲卷爾をセマクニと讀むのが順當であるが、そうすれば塞を三音に讀まねはならない。塞は、名詞セキ、動詞セクに讀むのが通例であるが、ここでは助詞を添えては適當でないので、類聚名義抄に、塞にフサク、ヘダツ等の訓がある中から選擇するとせば、ヘダテと讀むほかはあるまい。遙に御墓を望んで詠まれた歌だから、セキよりもヘダテの方が適當であるともいえよう。しかしその訓にも無理があつて決定し得ない。爲をナリと讀む例につけば、セキナラマクニと讀めるが、この場合のナラは、助動詞で、爲の訓としては不適當である。また爲をタリと讀むことは、確證が無く、わずかに、「其枕《ソノマクラニハ》 苔《コケ》生負爲」(卷十一、二五一六)があるが、この歌の訓は、問題があつて證據にはならない。墓は、ふさがり、へだての意の字であつて、本集では、「跡座浪之《トヰナミノ》 塞|道麻《ミチヲ》」(卷十三、三三三五)、「風吹(570)者《カゼフケバ》 浪之《ナミノ》塞 海道者不v行《ウミヂハユカジ》」(卷十三、三三三八)の塞は、サハレルと讀むぺく、これによつて、ここは三音にサハリと讀み、じやまになるものの義とすべく、この句は、サハリセマクニとして、じやまをするだろうにの意と解せられる。
【評語】但馬の皇女は、はじめ高市の皇子の宮にあつて、既に穗積の皇子との關係を生じ、面倒な事もあつたようである。卷の二にある「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、穗積の皇子を思ひて作りませる歌」、「穗積の皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣しし時、但馬の皇女の作りませる歌」、「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、竊《しの》びて穗積の皇子に接り給ひし事|露《あらは》れて後に作りませる歌」等の題詞が、これを語つている。この歌、生けるが如く御墓に對して、雪のふさぐことの無いようにと思いやつている。哀情の切な歌である。
 
弓削皇子薨時、置始東人作歌一首 并2短歌1
 
弓削の皇子の薨りましし時、置始の東人の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。既出(卷二、一一一)。天武天皇の皇子、文武天皇の三年七月二十一日薨じた。
 置始東人 オキソメアヅマビト。既出(卷一、六六)。傳未詳。
 
204 やすみしし わが大王、
 高光る 日の皇子《みこ》、
 ひさかたの 天つ宮に
 神ながら 神といませば、
(571)そこをしも あやにかしこみ、
 晝はも 日のことごと
 夜はも 夜のことごと、
 臥《ふ》し居《ゐ》嘆けど 飽き足らぬかも。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》王《オホキミ》
 高光《タカヒカル》日之皇子《ヒノミコ》
 久堅乃《ヒサカタノ》天宮尓《アマツミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》
 其乎霜《ソコヲシモ》 文尓恐美《アヤニカシコミ》
 晝波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 臥居雖v嘆《フシヰナゲケド》 飽不v足香裳《アキタラヌカモ》
 
【譯】御威光あまねきわが日の皇子樣は、かの天上の御殿に、神にましますがままに神樣としておいでになるので、晝間は一日中、夜は夜通し、臥したり坐つたりして嘆くけれどもまだ嘆き足らないことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】安見知之吾王高光日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ。既出。ここでは弓削の皇子を指している。この句は元來天皇の事にいう句であつたと思われるが、轉じて皇子の上にもいうようになり、その例もかれこれ見えている。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
 天宮尓 アマツミヤニ。既出の、「天都御門」(卷二、一九九)と同意の語で、天上の宮殿をいい、薨去して昇天せられたとする思想をあらわしている。
 神隨神等座者 カムナガラカミトイマセバ。貴人は死んで神となるとする思想に基づいて、神であるがゆえに神としてましますのでの意を歌つている。
 其乎霜 ソコヲシモ。ソコは、上の敍述を受けて指示している。シモは強く指示する助詞。
 文尓恐美 アヤニカシコミ。誠に恐縮に思つて。
 畫波毛日之盡夜羽毛夜之盡 ヒルハモヒノコトゴトヨルハモヨノコトゴト。既出(卷二、一五五)。畫間は(572)一日、夜は終夜。
 臥居雖嘆 フシヰナゲケド。臥したり居たりして嘆くけれども。
 飽不足香裳 アキタラヌカモ。十分滿足しない事かな。嘆くことに飽き足りないの意で、嘆かないようになりたいの希望を含んでいる。
【評語】大部分が、歌いものから來た成句でできている。他人の錦衣を借著して盛装したような歌である。
 
反歌一首
 
205 王《おほきみ》は 神にしませば、
 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に
 隱《かく》りたまひぬ。
 
 王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》
 天雲之《アマグモノ》 五百重之下尓《イホヘガシタニ
 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
【譯】皇子榛は神樣だから、天の雲の幾重にもかさなつている下にお隱れになつた。
【釋】王者神西座者 オホキミハカミニシマセバ。オホキミは、天皇をいうが、ここでは弓削の皇子をさしている。シは強意の助詞。この句も成句として古歌から來ているものと考えられる。文獻的には、本集に壬申の年の平定後の歌(卷十九、四二六〇、四二六一)とあるのが古い。この句は、普通、大君の神性を讃嘆する意に使用されるが、ここに薨去した皇子の上にいうのは、轉用であろう。その薨去によつて、神にいますとする思想を表現している。なお現在の方についていう場合は、卷三、二三五の歌に見えている。
 天雲之五百重之下尓 アマグモノイホヘガシタニ。イホヘは、無數にかさなつていること。五百重浪などという。雲のかさなり合つている下というので、雲中の意にいう。人の死を雲隱るといふことも前に出た。
(573) 隱賜奴 カクリタマヒヌ。雲中に隱れるといふ形で薨去したことを敍している。
【評語】これも古歌の成句を使つている。單に詞句を見れば、堂々たる風格の歌であるが、作者の悲痛にはすこしも觸れていない。
【參考】大君は神にし坐せば。
  大君は神にし坐せば天雲の雷の上に廬するかも(卷三、二三五)
  大君は神にし坐せば雲隱るいかづち山に宮敷きいます(同、或本)
  大君は神にし坐せば眞木の立つ荒山中に海をなすかも(同、二四一)
  大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ田ゐを都となしつ(卷十九、四二六〇)
  大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼《みぬま》を都となしつ(同、四二六一)
 
又短歌一首
 
【釋】又短歌一首 マタミジカウタヒトツ。前と同じく、弓削の皇子の薨去の時に置始東人が、前の歌とは別にこの短歌一首を詠んだというのである。
 
206 樂浪の 志賀さざれ波、
 しくしくに 常にと君が
 念《おも》はせりける。
 
 神樂浪之《ササナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》
 敷布尓《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》
 所v念有計類《オモホセリケル》
 
【譯】樂浪の志賀のさざ波のように、重ね重ね常にありたいと君は思つておいでであつた。
【釋】神樂浪之 ササナミノ。ササナミは既出(卷一、三〇)。地名で、志賀に冠している。神樂浪と書いた(574)のは、この地名に樂浪の字を當てる根據を示している。「神樂聲浪乃《ササナミノ》」(卷七、一三九八)と書いた例もある。
 志賀左射禮浪 シガサザレナミ。志賀は、樂浪の地の一部の名。琵琶湖南岸の地名。その地のさざれ浪で、琵琶湖の波をいう。サザレナミはちいさい波。以上、波が次々に寄せるの意に、重ね重ねの意なるシクシクに對する序詞となつている。
 敷布尓 シクシクニ。シクはかさなる意の動詞。重ね重ねの意の副詞を作つている。
 常丹跡君之 ツネニトキミガ。ツネニトは、永久に不變にとの意。キミは弓削の皇子。命の恒久ならむことを、君がの意。
 所念有計類 オモホセリケル。平常思つて居られたの意。
【評語】弓削の皇子は、生前常に壽命の永久を念として居られたらしい。天武天皇の第六皇子として文武天皇の三年に薨去されたのは、長壽とは見られず、事によると病身であつたのかも知れない。この歌、歌は平凡であるが、何故に樂浪の志賀サザレ浪を以つて序としたのか、その關係は不明である。皇子には、吉野で無常を歎かれた歌(卷三、二四二)があるが、志賀に關してもさような歌があつたのであろう。
 
柿本朝臣人麻呂、妻死之後、泣血哀慟作歌二首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、妻の死りし後、泣血哀慟して作れる歌二首【短歌并はせたり。】
 
【釋】妻死之後 メノミマカリシノチ。人麻呂に先立つて死んだその妻は、歌詞によるに、輕の里を本居としていたことはあきらかである。この人は、持統天皇に奉仕し、その行幸御幸にも御供し、才媛で、歌をもよくした人であつたようである。その死んだのは、藤原の宮の時代であろうか。歌中に、羽貝の山に、妻を求めて彷徨する旨があり、その山は、春日にあるのであるが、どういう縁故で、その山が歌われているのか不明であ(573)る。
 泣血哀慟作歌二首 キフケチアイドウシテツクレルウタフタツ。泣血は、詩經小雅、雨無正の章に「鼠思泣血」とあり、その意は、韓非子卞和篇に、「和乃抱2其璞1而哭2於楚山之下1、三日三夜、泣盡而繼v之以v血」とあるように、涙が盡きて血の出る悲しみである。二首は、長歌二首をいう。これについて別の妻の死んだ時とする説もあるが、同時の歌と見て支障はない。
 
207 天飛ぶや 輕《かる》の路は、
 吾妹子が 里にしあれば、
 ねもころに 見まく欲《ほ》しけど、
 止まず行かば 人目を多み、
 まねく行かば 人知りぬべみ、
 さね葛《かづら》 後も逢はむと、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 玉かぎる 磐垣《いはがき》淵の
 隱《こも》りのみ 戀ひつつあるに、
 渡る日の 暮れ去《ゆ》くが如、
 照る月の 雲隱《くもがく》る如、
 沖つ藻の 靡《なび》きし妹は、
(576) 黄葉《もみちは》の 過ぎてい去《ゆ》くと、
 玉|梓《づさ》の 使の言へば、
 梓弓 聲《おと》に聞きて、【一は云ふ、聲のみ聞きて。】
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 聲《おと》のみを 聞きてあり得ねば、
 わが戀ふる 千重の一重も
 慰もる 情《こころ》もありやと、
 吾妹子が やまず出で見し
 輕の市に わが立ち聞けば、
 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山に
 鳴く鳥の 音《こゑ》も聞えず、
 玉|桙《ほこ》の 道行く人も
 一人だに 似るが行かねば、
 すべをなみ 妹が名|喚《よ》びて、
 袖ぞ振りつる。【或る本に、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり。
 
 天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》
 吾妹兒之《ワギモコガ》 里尓思有者《サトニシアレバ》
 懃《ネモコロニ》 欲v見騰《ミマクホシケド》
 不v已行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》
 眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》
 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將v相等《ノチモアハムト》
 大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》
 隱耳《コモリノミ》 戀管在尓《コヒツツアルニ》
 度日乃《ワタルヒノ》 晩去之如《クレユクガゴト》
 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》
 奧津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》
 黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》
 梓弓《アヅサユミ》 聲尓聞而《オトニキキテ》【一云、聲耳聞而】
 將v言爲便《イハムスベ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不v得者《キキテアリエネバ》
 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》
 吾妹子之《ワギモコガ》 不v止出見之《ヤマズイデミシ》
 輕市尓《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》
 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山尓《ウネビノヤマニ》
 喧鳥之《ナクトリノ》 音母不v所v聞《コヱモキコエズ》
 玉桙《タマホコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》
 獨谷《ヒトリダニ》 似之不v去者《ニルガユカネバ》
 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》
 袖曾振鶴《ソデゾフリツル》【或本有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
 
【譯】輕の路は、わが妻の里であるから、心から見たいと思うけれども、やまずに行つたなら人目が多いために、度多く行つたなら人が知るであろうから、さね葛のように後にも逢おうと大船のように思い頼んで、玉の(577)光のさす岩垣淵のように、忍んでのみ戀うているに、空渡る日の暮れるように、照る月の雲に隱れる如く、水中の藻のように靡き寄つた妻は、黄葉のように死んで行くと、使がいうから、梓弓の音のように耳にばかり聞いて、いう術もする術も知らないで、耳にばかり聞いてあることができないから、自分の戀う千が一も、慰まれる心もあろうかと、わが妻の始終出て見た輕の市に、立ち出でて開けば、かの畝火の山に鳴く鳥の聲も聞えず、道を行く人も、一人ばかりも似ている者がないので、爲方《しかた》が無さに、妻の名を喚んで袖を振つたことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】天飛也 アマトブヤ。枕詞。ヤは感動の助詞。天を飛ぶ雁の意に、次句の輕に冠している。この句は元來、「阿麻陀牟《アマダム》 加流乃袁登賣《カルノヲトメ》」(古事記八四)の如く、四音の句であつたものが、歌の記録時代にはいつて、感動のヤを添えて五吾に調整されたものである。古事記にはアマダムと記されているが、これはアマトブと同語で、歌いものから來た枕詞であることを語つている。
 輕路者 カルノミチハ。輕は、奈良縣高市郡、畝傍山の東南の地である。下にユカバとあり、道路を通うことが重要な内容になつているので、ミチの語を以つて提示している。
 吾妹兒之里尓思有者 ワギモコガサトニシアレバ。ワギモコは女子の愛稱、ここでは亡き妻である。サトは人の住む家の集團であるが、ここで吾妹子の里と言つたのは、その妻の本居で、その妻は多分輕氏であつたのであろう。出でて持統天皇に仕え、いつのころからか、多分輕の里にいて、そこで死んだのであろう。
 懃 ネモコロニ。ネモコロは、今のネンゴロの古語であるが、本集では、假字書きのものの外には、懃、慇懃、懃懇、惻隱の字が、ネモコロ、もしくはネモコロニと讀むべきものとされている。その意は、委曲、丁寧、懇切 心から等の意で、用例によつて多少の相違がある。ここは心からの意である。
(578) 欲見騰 ミマクホシケド。ミマクは見むこと、ホシケドは、欲しい意の形容詞ホシケに、助詞ドの接續したもの。見たいと思うけれどもの意。同樣の語例には、「多摩枳波流《タマキハル》 伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》 世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》」(卷五、八〇四)などある。
 不已行者人目乎多見 ヤマズユカバヒトメヲオホミ。絶えず行つたら人目が多くして。作者は、宮中もしくは皇子の宮殿などに宿泊しているものと考えられるので、人目を憚るように歌つているのであろう。藤原の宮からとすれは、輕のいずれの邊かは不明であるが、約一里ほどあるであろう。
 眞根久往者人應知見 マネクユカバヒトシリヌベミ。マネクは度數多く。上のヤマズ行カバ人目ヲ多ミの句と對句となつている。
 狹根葛 サネカヅラ。「狹名葛」(卷二、九四)に同じ。枕詞。蔓草の名、ビナンカズラ。蔓の這い別れてまた會うゆえに、後逢フの枕詞とする。
 後毛將相等 ノチモアハムト。人目を憚つて、後日にも逢おうとして。
 大船之思憑而 オホブネノオモヒタノミテ。既出(卷二、一六七)。心に頼みを懸けて。
 玉蜻 クマカギル。既出(卷一、四五)。玉の光を發する意に、夕、ほのか等に冠するが、ここでは磐垣淵に冠しているのは、その微光を發するよりいうのであろう。磐垣淵に續く例は、「眞祖鏡《マソカガミ》 雖v見言哉《ミトモイハメヤ》 玉限《タマカギル》 石垣淵乃《イハガキブチノ》 隱而在?《コモリタルツマ》」(卷十一、二五〇九)、「玉蜻《タマカギル》 石垣淵之《イハガキブチノ》 隱庭《コモリニハ》 伏以死《フシテシヌトモ》 汝名羽不v謂《ナガナハノラジ》」(同、二七〇〇)がある。玉蜻と書いたのは、蜻(トンボ)をカギロヒというので、カギルの音を表示する爲に借りたのである。舊訓カケロヒノと讀み、考にカギロヒノと讀んでいたが、鹿持雅澄に至つて玉蜻考を著して、タマカギルと讀むべしとした。
 磐垣淵之 イハガキブチノ。イハガキブチは、岩で圍まれた淵をいう。以上二句は、次のコモリと言うため(579)の序詞で、磐垣淵は、水の流れ出る處が知れないから、コモリを引き出すに使用される。前項に擧げた例もコモリの序として使用されている。
 隱耳戀管在尓 コモリノミコヒツツアルニ。表に出さず、心中でのみ戀いつつあるに。
 度日乃 ワタルヒノ。天空を通過する日か。
 晩去之如 クレユクガゴト。クレヌルガゴト(考)。天を通る太陽の暮れ行くように。妻の死んだことに對する譬喩である。
 照月乃雲隱如 テルツキノクモガクルゴト。渡ル日ノ暮レユクガ如の句と對句として、妻の死の譬喩となつている。
 奧津藻之 オキツモノ。枕詞。海上の藻のようにの意に、靡キシに冠する。海藻を以つて婦人の姿體を描く人麻呂の修辭の特色が、ここにも出ている。
 名延之妹者 ナビキシイモハ。ナビキシは、妻の姿態についていう。なよよかに寄り添つた意である。イモは婦人の愛稱。
 黄葉乃 モミチバノ。枕詞。黄葉は散り過ぐるので、過グの語に冠する。この句は、この歌中において唯一の季節語であるが、反歌にも、二首とも黄葉を歌い、殊にその第二首において黄葉と共に散つたと歌つているによれば、妻の死は、黄葉の散る頃であつて、この句が選定されたと考えられる。
 過伊去等 スギテイユクト。スギテイニキト(攷)。スギテは、この世を通過する意に死ぬことをいう。イユクは、妻がみずから行くとする現わし方である。イは接頭語。伊去はイニキとも讀まれているが、この字面からすればイユクと讀むのが順當である。
 玉梓之 タマヅサノ。枕詞。タマヅサは、假字書きものの二例(卷十七、三九五七、三九七三)を除いては、(580)すべて玉梓と書いている。梓はアヅサで、そのアがタマに結合して、タマヅサと讀まれる。タマは、他語に冠する場合は、美稱と、靈魂の義と、珠玉の義とがあるが、ここはそのどれであろうか。珠玉の義ではないらしい。アヅサは樹名。アヅサユミ(卷一、三)參照。タマが樹名に冠するは、「玉松が枝」(卷二、一一三)があり、これは美稱である。枕詞としては、使に冠するもの多く、その他では、「玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」(卷三、四二〇)、「玉梓乃《タマヅサノ》 事太爾不v告《コトダニツゲズ》」(同、四四五)、「玉梓能《タマヅサノ》 妹者珠氈《イモハタマカモ》(卷七、一四一五)、「玉梓之《タマヅサノ》 妹者花可毛《イモハハナカモ》」(同・一四一六)が異例である。語義については、古くは使者が梓の木に玉をつけたのを携えたのであろうといい(玉の小琴)、また丈部が梓の杖を携えたからであると言つている(講義)が、それでは玉梓の妹という績き方は、説明できない。何か特殊の風習があつたのであろうが、今これをあきらかにするを得ない。代匠記に、玉梓は梓弓のことであるとし、これについて、粂川定一氏は、弓のツカ(束)から使につづくのだろうとしている。梓は、金澤本、類聚古集には、桙に作つており、これの外の例も、古寫本に、桙に作るものがあつて、これによれば、タマホコノで、突くから、ツカヒに冠するとしてよく通ずる。但し「多麻豆佐能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》」(卷十七、三九五七)、「多麻豆佐能《タマヅサノ》 都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》」(同、三九七三)の例があつて、假字書きにしているのでただちに玉桙の誤りとするわけにゆかない。
 使乃言者 ツカヒノイヘバ。ツカヒは動詞使フの名詞形。使用人の義であるが、普通使用人を使者に使うので、多くその意に使用される。妻の死んだことを使がいうのである。今日の常識から言えば、夫が妻の死ぬ時に居合わせないというのは不可解のように感じられるが、當時の夫婦關係は、女は自家にあり、男がこれに通う場合が多く、かような事情も生じたのであろう。人麻呂の場合は、その旅中に起つたこととも考えられる。後に人麻呂が石見の國で死に臨んだ時にも、その國の人と考えられる妻は、居合わさず、人麻呂は、自分の死ぬのを妻は知らずに待つているだろうと歌つて死んだ。
(581) 梓弓 アヅサユミ。枕詞。梓の木で作つた弓。弓を引けば音がするから、聲の枕詞とする。
 聲尓聞而 オトニキキテ。使のいう言葉で聞いて。
 聲耳聞而 オトノミキキテ。聲ニ聞キテの句の別傳であるが、下に聲ノミヲ聞キテアリ得ネバの句があり、それと重複してよくない。
 將言爲便世武爲便不知尓 イハムスベセムスベシラニ。スベは、手段、方法。ニは打消の助動詞。不知でシラニと讀まれるが、誤讀を避けるために特に尓の字を添えている。言うべき手段も爲すべき手段も知らずで、途方に暮れる意の副詞になつている。熟語句として集中に用例が多い。
 聲耳乎聞而有不得者 オトノミヲキキテアリエネバ。人の云うことのみを聞いただけでは、いることができないから。
 吾戀千重之一隔毛 ワガコフルチヘノヒトヘモ。ワガコヒノチヘノヒトヘモ(神)、ワガコフルチヘノヒトヘモ(考)。これも慣用句である。自分の戀の幾重とも重なれる中の一重も、千が一も。「吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(卷四、五〇九)、「吾戀之《ワガコヒノ》 千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》 名具佐米七國《ナグサメナクニ》」(卷六、九六三)、「名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》 吾戀千重一重《ワガコフルチヘノヒトヘモ》 名草目名國《ナグサメナクニ》」(卷七、一二一三)、「吾戀流《ワガコフル 》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不v令v知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》」(卷十三、三二七二)。ワガコフルとも、ワガコヒノともいうことが知られる。ここはノに當る字が無いので、ワガコフルと讀む。
 遣悶流 ナゲサモル。既出(卷二、一九六)。オモヒヤル(西)と讀む説もあるが、前項の例、千重ノ一重モの句を受けては、皆ナグサムの語を以つてしているのは、慣用があるであろう。この語の連體形、集中の例は、奈具佐牟流、奈具佐牟留、奈具佐無流、那具左牟流、名草武類等、ナゲサムルとするものと、名草漏の如くナゲサモルとするものとがあり、なお名草溢はナグサフルとも讀まれる。ナグサモルは自動、自分の心がな(582)ぐさまれる意。
 情毛有八等 ココロモアリヤト。ヤは疑問の終助詞。みずから慰める心もあるかと。
 不止出見之 ヤマズイデミシ。ヤマズは絶えず、始終。生前わが妻の常に出で見たの意で、次の輕の市を修飾する。
 輕市尓 カルノイチニ。輕の地に開かれる市に。市は物を賣買するところで、古の市は、日を定めて諸方から人が集まつて、開くのである。日本書紀天武天皇十年十月の條に「唯親王以下及群卿、皆居2于輕市1、而?2校装束鞍馬1」。
 吾立聞者 ワガタチキケバ。輕の市に立ち出でて聞けば。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。玉は美稱。頸《うなじ》に懸けるものであるから、畝火の枕詞とする。
 畝火乃山尓 ウネビノヤマニ。輕の地から畝火山は近く仰がれる。
 喧鳥之音母不所聞 ナクトリノコヱモキコエズ。鳥が鳴かないのではなく、鳴く鳥の聲も耳に入らぬので、かように敍している9
 玉桙 タマホコノ。玉は美《ほ》める辭。桙は突く用の武器。桙の身というより道の枕詞とするという。しからばミと續くものもあり得べきに、常にミチに冠し、また身のミと道のミとは音聲が違う。これは桙の靈威の意にチに冠するのだろう。道そのものを靈威ありとした。この枕詞は、「遠有跡《トホクアレド》 公衣戀流《キミニゾコフル》 玉桙乃《タマホコノ》 里人皆爾《サトビトミナニ》 吾戀八方《ワレコヒメヤモ》」(卷十一、二五九八)を例外として、他はすべてミチに冠している。
 獨谷似之不去者 ヒトリダニニルガユカネバ。ヒトリダニニテシユカネハ(神朱)。一人だけもわが妻に似たのが行かないから。「河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久爾《キミガアルクニ》 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》」(卷三、四二五)は、これと同樣(583)思想である。
 爲便乎無見 スベヲナミ。手段無くして。
 妹之名喚而袖曾振鶴 イモガナヨビテソデゾフリツル。不在の人の名を呼ぶのは、その人の生死に拘わらず大事とされていた。死者の名を呼べば、その靈が黄泉の國から來るが、魔物が附隨して來ると恐れていたのである。しかしここでは戀しさに堪えやらずして遂にその名を呼んだのである。袖を振るのは、吾ここにありと注意を求めるためで、集中に例が多い。
 或本有謂之名耳聞而有不得者句 アルマキニナノミヲキキテアリエネバトイヘルクアリ。或る本に名ノミヲ云々の句があるというのであるが、この句は、スベヲ無ミの句の下にあつたものと見られる。これも蛇足で本文に無い方がよい。
【評語】特に終りの方が良い。生前十分に逢わなかつた妻の幻影を追つて、畝火山を仰ぎ、輕の市に立ちさまようあたり、悲痛の心がよく出ている。
 
短歌二首
 
208 秋山の 黄葉《もみち》を茂み 迷《まど》ひぬる
 を求めむ 山道《ぢ》知らずも。【一は云ふ、路知らずして】
 
 秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミチヲシゲミ》 迷流《マドヒヌル》
 妹乎將v求《イモヲモトメム》 山道不v知母《ヤマヂシラズモ》【一云、路不v知而】
 
【譯】秋山の黄葉の茂きがために、道を迷つて、歸つて來ない妻を求めようとするが、山道を知らないことである。
【釋】秋山之黄葉乎茂 アキヤマノモミチヲシゲミ。秋山の黄葉が多くして。次のマドヒヌルの理由を示す句。(584)茂くして妹を求めむ山道を知らずというのではない。
 迷流 マドヒヌル。黄葉のために道に迷つて歸られないとするのである。以上、次の妹の語を修飾する。
 殊乎將求 イモヲモトメム。イモは妻をいう。連體形の句。
 山道不知母 ヤマヂシラズモ。妻を求むべき山道を知らないの意。モは感動の助詞。
 路不知而 ミチシラズシテ。第五句の別傳である。これは下に省略のある云い方であるが、調子もわるく拙い傳來である。
【評語】黄葉の散り亂れる中に、道を失つて歸つて來られないのであろうと歌つている。亡き人がみずから山路にはいつたとする思想のもとに、もしや山中に迷つているのではないかと思う人情を言い得ている。求めようとして遂に求められない人が描かれている。
 
209 黄葉《もみちば》の 落《ち》り去《ゆ》くなへに
 玉|梓《づさ》の 使を見れば、
 逢ひし日念《おも》ほゆ。
 
 黄葉之《モミチバノ》 落去奈倍尓《チリユクナヘニ》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》
 相日所v念《アヒシヒオモホユ》
 
【譯】黄葉の散つて行く、そのおりしも、使の來るのを見ると、生前逢つた日のことが思われる。
【釋】黄葉之落去奈倍尓 モミチバノチリユクナヘニ。モミチバノチリヌルナヘニ(代初書入)。ナヘニは、上の詞句と下の詞句と共に行われるをあらわす。黄葉の散り行くそれと共に使の來るのを見ればの意。
 使乎見者 ツカヒヲミレバ。妻の家から來た使を見れば。妻の死を告げにきた使を見ると。
 相日所念 アヒシヒオモホユ。生前妻と逢つた日のことが思われる。
【評語】生前の追憶を歌つている。長歌に、使が來て妻の死を報じたことを歌つているのを受けて、別の方面(585)から歌つている。この反歌二首、黄葉を歌材として、よく長歌の内容を補足している。但し長歌には、妻の幻影を追つて輕の市を徘徊することが主になり、これは更に前に溯つて、使の來た時の感情を敍している。時處があちこちして一に集中していないのは缺點である。
 
210 うつせみと 念ひし時に、【一は云ふ、うつそみと思ひし。】
 取り持ちて わが二人見し
 走出《はしりで》の 堤に立てる
 槻《つき》の木の こちごちの枝《え》の
 春の葉の 茂きが如く、
 念へりし 妹にはあれど、
 憑めりし 兒らにはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃る荒野に
 白|細《たへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちいまして、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形身に置ける
 若兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
(586) 取り與ふ 物し無ければ、
 鳥穗《とりほ》じもの 腋挾み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬星《つまや》の内に、
 晝はも うらさび暮し、
 夜《よる》はも 息づき明し、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ因《よし》を無み、
 大鳥の 羽貝《はがひ》の山に
 わが戀ふる 妹は坐《いま》すと 人の言へば、
 石根《いはね》さくみて なづみ來《こ》し、
 吉《よ》けくもぞなき。
 うつせみと 念ひし妹が、
 玉かぎる ほのかにだにも
 見えぬ思へば。
 
 打蝉等《ウツセミト》 念之時尓《オモヒシトキニ》【一云、宇都曾臣等念之】
 取持而《トリモチテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》
 ?出之《ハシリデノ》 堤尓立有《ツツミニタテル》
 槻木之《ツキノキノ》 己知碁知乃枝之《コチゴチノエノ》
 春葉之《ハルノハノ》 茂之如久《シゲキガゴトク》
 念有之《オモヘリシ》 妹者雖v有《イモニハアレド》
 憑有之《タノメリシ》 兒等尓者雖v有《コラニハアレド》
 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不v得者《ソムキシエネバ》
 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》
 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》
 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》
 鳥穗自物《トリホジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》
 枕付《マクラヅク》 嬬屋之内尓《ツマヤノウチニ》
 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》
 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》
 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》
 大鳥乃《オホトリノ》 羽貝乃山尓《ハガヒノヤマニ》
 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》
 石根左久見手《イハネサクミテ》 名積來之《テナヅミコシ》
 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》
 打蝉跡《ウツセミト》 念之妹之《オモヒシイモガ》
 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》
 不v見思者《ミエヌオモヘバ》
 
【譯】生ける人と思つていた時に、連れ立つて我等二人の見た、突き出ている堤に立つている、槻《つき》の木の、あちらこちらの枝の、春の葉の茂きが如くに、茂く思つて居つた妻ではあるが、頼みとして居た妻ではあるが、(587)世の中の習いを背くことができないから、陽炎の立つ荒野に、領巾《ひれ》のような白い雲に隱れて、鳥のように朝立ちをして、入日のように隱れてしまつたから、わが妻の形見に置いた若い兒の乳を乞うて泣く毎に、與うべき物がないから、鳥が穗をくわえているように、腋に挾んで、わが妻と二人して寢た、寢室の内に、晝は鬱々として暮らし、夜は太息をついて明かし、嘆けども、すべき手段を知らず、戀うけれども逢う方法が無さに、かの羽貝の山に、自分の戀うる妻はいると、人が言うので、石根を踏み割つて困難して來たが、別によいこともない。生ける人と思つた妻が、ほのかにも見えないのを思えば。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。
【釋】打蝉等念之時尓 ウツセミトオモヒシトキニ。ウツセミトオモヒシトキは、熟語句で、生前の意になる。この世に生きている人と思つていた時の意である。
 字都曾臣等念之 ウツソミトオモヒシ。本文のウツセミトオモヒシの別傳である。ただウツセミがウツソミに變つているだけである。この語のことは前に記した。ウツソミの方が原形であるかも知れない。臣の字を書いたのはオミの音に借りたのであるが、そのオは上のソの音に吸收されている。なおこの歌には、この別傳だけを記すに留めているが、これは下に或本歌曰として全部擧げてあるもの(卷二、二一三)によつて記したもので、兩者の相違が相當に多いので、詞句のあいだに別傳を記しかけて、一句だけでそれをやめて、後に別提することにしたものであろう。
 取持而吾二人見之 トリモチテワガフタリミシ。下の槻ノ木ノコチゴチノ枝に懸かるので、二人して槻の枝を取り持つて見たのである。但し或る本には携手吾二見之とあり、それは、二人が連れ立ち伴つての意になる。歌意から言えばその別傳の方がよいようである。
 ?出之 ハシリデノ。?は廣韻に、「俗趨字」と註している。日本書紀雄略天皇紀には、「擧暮利矩能《コモリクノ》 播都(583)制能野麼播《ハツセノヤマハ》 伊底柁智能《イデタチノ》 與慮斯企野麼《ヨロシキヤマ》 和斯里底能《ワシリデノ》 與慮斯企夜麼能《ヨロシキヤマノ》 據暮利矩能《コモリクノ》 播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ》」」(七七)とあり、本集に「隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山敍《クハシキヤマゾ》」(卷十三、三三三一)とある。ハシリデは、山の姿の走り出たようにあるということで、イデタチと對語になつていることに依つても知られる。これを、門口から走り出た處に近くあるとするのは誤りである。
 堤尓立有 ツツミニタテル。ツツミは水を包んでいる土地をいうが、何處の堤であるか不明である。藤原の京で詠んだとすれは、埴安の池の堤でもあり得るが、それはわからない。
 槻木之 ツキノキノ。ツキは、欅に似た落葉喬木。
 己知碁知乃枝之 コチゴチノエノ。コチは此方で、同語を重ねて、あちらこちらの意をあらわしている。嘗時まだアチの語が成立していなかつたのである。古事記に「久佐加辨能《クサカベノ》 許知能夜麻登《コチノヤマト》 多多美許母《タタミコモ》 幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》 許知碁知能《コチゴチノ》 夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》」(九二、雄略天皇記)。本集に「奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》」(卷三、三一九)など使用されている。
 春葉之茂之如久 ハルノハノシゲキガゴトク。以上、繁くあることの譬喩に歌い起している。ここに春の葉を出したのは、追憶のことであるから、作歌の時節に、關係無くてよいのであるが、反歌に、去年見テシ秋ノ月夜ハの句があつて、實際、妻の死んだ翌年の春になつて詠んだので、自然この句が成されたものと考えられる。
 念有之妹者雖有 オモヘリシイモニハアレド。繁く思つていた妻ではあるが。
 憑有之兒等尓者雖有 タノメリシコラニハアレド。タノメリシは、妻として頼み思つていた意。コラは妻をいう。複數ではない。「兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠焉《ヤヤマドホキヲ》」(卷三、三〇二)など用例は多い。以上二句、上の、念ヘリシ妹ニハアレドと對句を成している。妹すなわち兒ラである。
(589) 世間乎背之不得者 ヨノナカヲソムキシエネバ。ヨノナカは、ここでは世の中の通例をいう。人生無常の世間の道を背くことができないから。シは強意の助詞。
 蜻火之 カギロヒノ。カギロヒは陽炎をいう。しずかに暖かい日光のもとに、地上の水分が上昇し、その先にある風物が動搖して見える現象をいう。ここは實際である。
 燎流荒野尓 モユルアラノニ。モユルは、カギロヒの立つをいう。アラノは曠野で、妻の葬列の行つた處。
 白妙之天領巾隱 シロタヘノアマヒレガクリ。ヒレは、婦人の服飾で、肩から掛ける白い織物をいう。倭名類聚鈔に、「領巾【日本紀私記云比禮】婦人項上飾也」とある。天領巾は、天の領巾の義で、雲霧の類を領巾に譬えたのである。「秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》」(巻十、二〇四一)の天つ領巾は、白雲を歌つている。ここの句は、白い雲に隱れての意であるが、妻の火葬の煙に思い寄せているようで、火葬の煙と共に去つたというとも解せられる。なおヒレの咒力の方面については、松浦の佐用媛の物語(卷五、八七一前行文)參照。
 鳥自物 トリジモノ。枕詞。鳥のように。
 朝立伊麻之弖 アサタチイマシテ。イマスは行クの敬語。尼理願の死を悼む歌にも「佐保河乎《サホカハヲ》 朝河渡《アサカハワタリ》 春日野乎《カスガノヲ》 背向爾見乍《ソガヒニミツツ》 足氷木乃《アシヒキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》 晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》」(卷三、四六〇)とあつて、葬儀は、實際に、朝その家を出たものと考えられる。
 入日成 イリヒナス。枕詞。入日のように。朝、家を出た葬儀が、夜に至つて火葬を終るのでこの句がある。
 隱去之鹿齒 カクリニシカバ。この世から隱れたから。以上の敍述は、死者みずから家を出て隱れたように敍している。
 吾妹子之形見尓置 ワギモコガカタミニオケル。わが妻の形見として殘しておいた。
(590) 若兒乃 ミドリコノ。ワカキコノ(古書)。別掲の或本歌(卷二、二一三)には「緑兒之」とある。倭名類聚鈔に、孩に註して「辨色立成云、嬰兒、美都利古、始生小兒也」とあり、本集に「緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワクゴガミニハ》」(卷十六、三七九一)などある。幼兒を何故ミドリコというかは不明であるが、看護することをトリミルというので、同樣の意にミトリというのでもあろうか。漢語の緑兒の直譯であるかもしれない。若兒は、ワカキコとも讀まれる字面である。人麻呂の死んだ妻が、子を殘したことが知られる。
 乞泣毎 コヒナクゴトニ。幼兒が食物を乞うて泣く度に。
 取與物之無者 トリアタフモノシナケレバ。アタフは古く四段に活用している。與えるべき物がないから。
 鳥穗自物 トリホジモノ。
   トリホシモ(神)
   トリシモノ(拾)
   トボシモノ(童)
   ――――――――――
   烏穗自物《ヲホジモノ》(代精)
   烏コ自物《ヲトコジモノ》(考)
 この儘ではトリホジモノと讀むほかはない。ジモノは犬ジモノ、鳥ジモノなどの例で、の如くの意であるとして、穗や花を嘴に挾んでいる鳥の圖案を思つて、鳥の持てる穗のようにして、下の腋挾ミ持チに懸かるものと見るべきである。解を誤字説に求めるとすれば、別傳の或る本の歌には、「男自物腋挾持」(卷二、二一三)とあるので、萬葉考はこれによつて烏コ自物の誤とし、ヲトコジモノと讀み、爾來多くこの説に從つている。この場合のジモノは、犬ジモノや、鳥ジモノのジモノとは意味が違つて、デアルノニの意に解する。男子であるものをの意となつて、枕詞ではなくなる。「腋挾《ワキバサム》 兒乃泣毎《コノナクゴトニ》 雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》」(卷三、四八一)、「小豆鳴《アヅキナク》 男士物屋《ヲノコジモノヤ》 戀乍將v居《コヒツツヲラム》」(卷十一、二五八〇)。
 腋挾持 ワキバサミモチ。子を脇に抱えて持つ意。かかえるように抱《いだ》く。古語拾遺に「天照らす大神、吾勝《あかつ》(591)の尊《みこと》を育《ひた》し、特に甚《いた》く鍾愛《めぐ》みたまひ、常に腋の下に懷きたまひ、稱へて腋子と曰ふ」とある。  吾妹子與二人吾宿之 ワギモコトフタリワガネジ。妻と二人で宿た意に、下の嬬屋を修飾する。
 枕付 マクラヅク。枕詞。枕の置かれてある意に、嬬屋を説明修飾する「摩久良豆久《マクラヅク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》 於母保由倍斯母《モホユベシモ》」(卷五、七九五)、「枕附《マクラヅク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須惠?曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(卷十九・四一五四)。
 嬬屋之内尓 ツマヤノウチニ。ツマヤは、對の屋の義。附屬の小室をいう。多く妻の居室として使用されていたので、妻の屋の語意を感じていたのであろう。前項に擧げた、卷の十九の例では、家持が鷹部屋にしている。
 浦不樂晩之 ウラサビクラシ。既出(卷二、一五九)。ウラは心裏の義。サビは不樂の文字の示すように、憂鬱に沈みいること。クラシは、日を暮らすことで、終日鬱々として夕に至るのである。
 氣衝明之 イキヅキアカシ。イキヅキは嘆息をすること。愁の止み難く眠り難くして、息をついて天明に至る。以上二句、晝はウラサビクラシと對句になつている。
 世武爲便不知尓 セムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。爲さむ手段をも知らず。何とも致し方無く。
 戀友相因乎無見 コフレドモアフヨシヲナミ。戀うけれども逢うわけが無くして。以上二句、嘆ケドモ爲ムスベ知ラニと對句になつている。
 大鳥乃 オホトリノ。枕詞。大鳥の羽がいの意に羽貝の山に冠する。
 羽貝乃山尓 ハガヒノヤマニ。「春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 狹帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコトリ》」(卷十、一八二七)の羽買の山と同山と考えられ、依つて春日にあることが知られる。以下妻をその山に求める由に歌つているが、その關係は不明である。甚所説があるが、反歌に、引手ノ山ニ妹ヲ置キテとあり、引手の山との關係が問題に(592)なる。或る本の歌には、その求める妻が灰である由に歌つているから、もしそれをこの歌の原形とすれば、火葬地であつたのであろう。妻の死が、既に奈良時代にはいつているのであろうか。
 吾戀流 ワガコフル。妹を修飾している。
 妹者伊座等 イモハイマスト。イマスは、いる意の敬語。
 人云者 ヒトノイヘバ。他の人がいぅので。
 石根左久見手 イハネサクミテ。イハネは、岩石、ネは接尾語。サクミテは、「磐根木根履佐久彌 弖 《イハネキネフミサクミテ》」(延喜式祈年祭祝詞)。「五百隔山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》」(卷六、九七一)などの用例があり、山や岩石、木の根などを踏破する意に使用されている。サクは、花の開く、物を裂くなど、裂開する意があるから、そのようにするをサクムというのであろう。卷の六の例に割見と書いているのは、サクに割くの意味が感じられているのであろう。さすれば岩を踏み開く意に解せられる。
 名積來之 ナヅミコシ。ナヅミは、艱難勞苦する意の動詞。コシは連體形で、難儀をして來たがしかしの如き意となる。
 吉雲曾無寸 ヨケクモゾナキ。ヨケクは、形容詞ヨシのヨケの形にコトの意のクの接續した體言で、よい事、よい點などの意になる。ヨケクの例は、「安志家口毛《アシケクモ》 與家久母見武登《ヨケクモミムト》」(卷五、九〇四)、「余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》」(同)などである。ゾを受けてナキと結んでいる。句切。
 打蝉跡念之妹之 ウツセミトオモヒシイモガ。生きていると思つた妻が。遙に冒頭の、うつせみと念ひし時にの句と呼應している。
 珠蜻 タマカギル。既出(卷二、二〇八)。枕詞。ここではホノカに冠している。
 髣髴谷裳不見思者 ホノカニダニモミエヌオモヘバ。明白になどとは勿論、ぼんやりとだけも見えないのを(593)思えば。上の、吉ケクモゾ無キを修飾限定している。
【評語】生前の事から筆を起してその死に及び、また前の歌と同じく、その跡を求めて山路に徘徊することを歌つている。槻の枝の思い出を譬喩に使用して來たのは巧みといえよう。今は亡き妻の形見である幼兒を抱き、ひとり空閨に困惑するあたりもよく描かれている。さて眠りをなし難い夜は明けて、羽買の山に亡き妻を求める敍述も悲痛である。最後の、妻を求め得ない敍述は、概念的ですこし物足りなさが感じられ、他の作におけるが如き力強さが見られない。
 
短歌二首
 
211 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《つくよ》は
 照らせども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》
 雖v照《テラセドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 弥年放《イヤトシサカル》
 
【譯】去年妻と共に見た秋の月夜は、照らしているが、共に見たわが妻は、いよいよ時を隔ててゆく。
【釋】去年見而之 コゾミテシ。コゾは昨年をいう。「許序能秋《コゾノアキ》 安比見之末爾末《アヒミシマニマ》」(卷十八、四一一七)はその假字書きの例である。シは時の助動詞の連體形。
 秋乃月夜者 アキノツクヨハ。ツクヨは、ここでは月に重點があり、ヨは接尾語として使用されている。
 雖照 テラセドモ。テラセレド(考)。月は今年も照らしているけれども。字面からすれば、テラセレドの訓は採り難い。
 相見之妹者 アヒミシイモハ。その月を共に見た妻は。
(594) 弥年放 イヤトシサカル。いよいよ年が經過する。サカルは離れる意で、年サカルは、年を隔てる意である。妻が死んでから、年が變つたことをいう。
【評語】人は死し去つて、ただ舊物のみ存している。この感慨は、どのような人にも存し、いかなる物につけても云われることであるが、殊に月に對して故人を思うことは、漢詩や和歌に例が多い。日や星に對していうことなく、月のみにこの事あるは、月の光は、人の感傷を誘うところが多いからであろう。
 
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山に 妹を置きて、
 山路を行けば 生《い》けりともなし。
 
 衾道乎《フスマヂヲ》 引手乃山尓《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》
 山徑往者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
【譯】衾道にある引手の山に妻を葬つて、山路を行けば、自分は生きて居るようにも思われない。
【釋】衾道乎 フスマヂヲ。フスマは地名であろうが所在未詳である。フスマヂは、衾の地に行く道。ヲは感動の助詞で、「味酒呼《ウマザケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)のヲの類である。攷證には、フスマは大きな被服の義で、夜寢るに夜具とするものである。ヂは道を書いたのは借字で、手の意で、今いう羽織のチの如く、衾に手がかりに絲紐布の類をつけておいたのであつて、それを引くより、引手の枕詞としたものであろうというが、ヂの解が無理で採用し難い。
 引手乃山尓 ヒキテノヤマニ。ヒキテノヤマは、所在未詳。大和志に、中村の東に在る龍王山であるとしている。この山は、山邊郡朝和村にある山であるが、その地は、人麻呂の妻のかつて住んでいたと思われる卷向山の麓に近く、柿本氏の本居と考えられる櫟本の南一里ほどの地である。その山に妻を葬つたとすることも有り得ないことでもない。
 妹乎置而 イモヲオキテ。妻を葬つたことをいう。
(595) 山徑往者 ヤマヂヲユケバ。このヤマヂは、長歌を受けて、羽買の山の山路を言つている。
 生跡毛無 イケリトモナシ。卷の十九に、「伊家流等毛奈之」(四一七〇)と假字書きにしたのがあるので、ここもイケルトモナシと讀むべく、さて生ける利も無しの義であるという説がある。しかし集中十數個の例は、トに利をあてたもの一も無く、皆假字の用法と見えるから、十九の例は、連體形の下に語を略したものとして、ここはイケリトモナシと讀み、リを助動詞、トを助詞と見るがよい。自分は、生きているとも無い。生きているようにもない。心を空に悲しみに閉されている。なお下の或本歌「生刀毛無」(卷二、二一五)參照。
【評語】地理の上に問題は殘るが、それは解釋上のことであつて、歌としては、悲しみに沈んで山路を彷徨する情がよく描かれている。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前の歌の別傳であるが、この傳來は長歌一首反歌三首から成り、その全部を掲げている。前にも記したように、一々の詞句について相違を記すには、相當に相違が多くしてそれに堪えられなかつたのであろう。この或る本のいかなるものであるかは知られない。
 
213 うつそみと 念ひし時に
 携はり わが二人見し、
 出で立ちの 百足《ももだ》る槻《つき》の木、
 こちごちに 枝《えだ》させる如、
 春の葉の 茂きが如、
(596) 念へりし 妹にはあれど、
 恃《たの》めりし 姉《なね》にはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃ゆる荒野に
 白細《しろたへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちい行きて、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形見に置ける
 緑兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
 取り委《まか》す 物しなければ、
 男じもの 腋挾《わきばさ》み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬屋《つまや》の内に、
 晝は うらさび暮らし、
 夜《よる》は 息衝《いきづ》き明かし、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ縁《よし》を無み、
(597) 大鳥の 羽易《はがひ》の山に
 汝《な》が戀ふるゝ 妹は坐《いま》すと
 人の云へば、石根《いはね》さくみて なづみ來し、
 好《よ》けくもぞ無き。
 うつそみと 念ひし妹が
 灰にて坐せば。
 
 宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキニ》
 携手《タヅサハリ》 吾二見之《ワガフタリミシ》
 出立《イデタチノ》 百足槻木《モモダルツキノキ》
 虚知期知尓《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》
 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴト》
 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖v在《イモニハアレド》
 恃有之《タノメリシ》 姉庭雖v有《ナネニハアレド》
 世中《ヨノナカヲ》 背不v得者《ソムキシネネバ》
 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》
 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》
 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》
 男自物《ヲノコジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》
 枕附《マクラヅク》 嬬屋内尓《ツマヤノウチニ》
 日者《ヒルハ》 浦不怜晩之《ウラサビクラシ》
 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》
 雖v嘆《ナゲケドモ》 爲便不v知《セムスベシラニ》
 雖v戀《コフレドモ》 相縁無《アフヨシヲナミ》
 大鳥《オホトリノ》 羽易山尓《ハガヒノヤマニ》
 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》
 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》
 好雲敍無《ヨケクモゾナキ》
 字都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》
 灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
【構成】本文の歌と同じく、全篇一文である。
【釋】宇都曾臣等念之時 ウツソミトオモヒシトキニ。二一〇の歌參照。助詞ニに當る字は無いが、この歌は、助詞に當る字を略することが多く、かつ前の歌にもトキニとあるから補つて讀む。
 携手 タヅサハリ。テタヅサヒ(代初書入)、タヅサハリ(攷)、テタヅサヘ(札)。妻と手を携えて。妻と共に。「萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》」(卷十、二〇二四人麻呂集)。
 出立 イデタチノ。本文にはハシリデノとあつた。イデタチノの例もその條に掲げた。山の出で立てる?であるのをいうが、ここでは槻の木について言つている。
 百足槻木 モモダルツキノキ。モモダルは、枝の繁つて充足している形容。「爾比那閇夜爾《ニヒナヘヤニ》 淤斐陀弖流《オヒダテル》 毛々陀流《モモエダル》 都紀賀延波《ツキガエハ》」(古事記一〇一)。木について足るというは、「東《ヒムカシノ》 市之殖木乃《イチノウエキノ》 木足左右《コタルマデ》」(卷三、三一〇)とも使用している。但し仙覺本には、この句、「百枝槻木」とあり、モモエツキノキと讀んでおり、それでも意味は通じる。「百枝槐社」(出雲國風土記、出雲郡)。
 虚知期知尓枝刺有如 コチゴチニエダサセルゴト。あちこちに枝を張つているように。次の春ノ葉ノ茂キカ(598)如と竝んで、譬喩をなしている。
 恃有之姉庭雖有 タノメリシナネニハアレド。ナネは、婦人の愛稱。仙覺本には、やはり妹に作つている。「如是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》 夢爾所v見家留《イメニミエケル》」(卷四、七二四)。この卷の四のナネは、大伴坂上の郎女が、その女に對して使用している。
 取委 トリマカス。本文の歌には取與とある。このマカスは四段活であつて、連體形である。
 男自物 ヲノコジモノ。本文の歌には、鳥穗自物とある。ヲノコジモの例竝びに解は、その條に記した。
 灰而座者 ハヒニテマセバ。灰にているというのは、火葬して灰となつてあつたのをいう。火葬は、天武天皇の四年三月に、道昭和尚を粟原に火葬したに始まるという。妻を火葬した地を訪れた意であつて、妻の骨灰がその時にあつたかどうかという論のあるのは、無用の論である。【評語】大體本文の歌に同じであるが、末に至つて灰ニテマセバというのが異なつている。この方が痛切であるが、いずれが原形であるかは分き難い。反歌によれば、この方が傳誦を經たものであろうか。
 
短歌二一首
 
214 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《ツクヨ》は 渡れども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜者《アキノツクヨハ》 雖v渡《ワタレドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
【釋】雖度 ワタレドモ。空を通過するけれども、前には、照ラセドモとあつた。その方が感慨が深い。
 
215 衾路《ふすまぢ》を 引出の山に 妹を置きて、
(599) 山路|念《おも》ふに 生《い》けるともなし。
 
 衾路《フスマヂヲ》 引出山《ヒキデノヤマニ》 妹置《イモヲオキテ》
 山路念迩《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【釋】山路念迩 ヤマヂオモフニ。前の歌には、山道ヲ行ケバとあつて、長歌とよく呼應していた。これでは長歌と別々になる。また羽買の山が引手の山であるならば、別名を使用しないで、ここも、大鳥の羽買の山に妹を置きてとあるべきである。この傳來は、吟誦の間に誤を生じたのであろう。
 生刀毛無 イケルトモナシ。イケリトモナシ(類)、イケルトモナシ(代)。上掲の歌の、「生跡毛無」(二一三)の句に相當する句であるが、刀はトの甲類の字であつて、助詞とは解せられず、これは利の義で、利心、すなわちはたらく心とすべきである。この二種は、集中に兩用されており、この種の例には「念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》」(卷二、二二七)、「吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケルトトナキ》」(卷十一、二五二五)の如きは、これである。また「夷爾之乎禮婆《ヒナニシヲレバ》 伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》」(卷十九、四一七〇)の如きは、この雨者の混雜があるものと見られる。
 
216  家に來て わが屋を見れば、
 玉床《たまどこ》の 外に向きけり。
 妹が木枕《こまくら》。 
 
 家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》
 玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》
 妹木枕《イモガコマクラ》
 
【譯】歸つて來てわが家を見ると、妻の寢ていた床の外に向いていた。わが妻の木枕は。
【釋】家來而 イヘニキテ。イヘはわが家で、歸つて來てというに同じ。
 吾屋乎見者 ワガヤヲミレバ。初句に、家ニ來テといい、重ねてワガ家というのは重複である。
 玉床之 タマドコノ。タマドコは、床の美稱。寢處である。「明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》 公常不v宿《キミトハネズテ》 孤可母寐《ヒトリカモネム》」{卷十、二〇五〇)。靈床で、靈位を祭つた床であるとする説があるが採用しがたい。
 外向來 ホカニムキケリ。床の外方に枕が向いていたの意。床の主なる妻無くして、枕の位置の亂れている(600)のである。
 妹木枕 イモガコマクラ。コマクラは、木で作つた枕。「黄楊枕《ツゲマクラ》(卷十一、二五〇三)とも見える。
【評語】葬儀から歸つて來て詠んだような作であつて、これも長歌の内容と合わない。初二句にも重複弛緩が見られる。他の挽歌が、傳誦の間に結び著いたのであろう。
 
吉備津采女死時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
吉備の津の采女の死りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】吉備津采女死時 キビノツノウネメノミマカリシトキニ。采女は既出(卷一、五一)。諸國から、郡の少領以上の子女の容貌端正なものを貢せしめるもので、出身の國名郡名を冠して呼ぶ習いである。それで、吉備の津は、講義の説に、備中の都宇郡で、もと津とのみ云つたのであろうという。「美濃津子娘」(日本書紀、持統天皇紀)。いかなる人とも知られないが、歌詞によれば、夫があり、反歌によれば近江の志我に縁があるようである。その死んだのも、何時の頃とも知られない。
 
217 秋山の したぶる妹
 なよ竹の とをよる子らは、
 いかさまに 念ひ居《を》れか、
 栲紲《たくなは》の 長き命を
 露こそは 朝《あした》に置きて
 夕《ゆふべ》は 消ゆといへ、
(601) 霧こそは 夕に立ちて
 朝は 失《う》すと言へ、
 梓弓 音聞くわれも
 髣髴《ほの》に見し 事悔しきを、
 敷細《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》きて
 劍刀《つるぎたち》 身に副へ寐《ね》けむ
 若草の その夫《つま》の子は、
 さぶしみか 念ひて寐《ぬ》らむ。
 悔しみか 念ひ戀ふらむ。
 時ならず 過ぎにし子らが、
 朝露の如。
 夕霧の如。
 
 秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》
 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》
 何方尓《イカサマニ》 念居可《オモヒヲレカ》
 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》
 露己曾婆《ツユコソハ》 朝尓置而《アシタニオキテ》
 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》
 霧己曾婆《キリコソハ》 夕立而《ユフベニタチテ》
 明者《アシタハ》 矢等言《ウストイヘ》
 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》
 髣髴見之《ホノニミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》
 布栲乃《シキタヘノ》 手纏枕而《タマクラマキテ》
 釼刀《ツルギタチ》 身二副寐價牟《ミニソヘネケム》
 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》
 不怜弥可《サブシミカ》 念而寐良武《オモヒテヌラム》
 悔弥可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》
 時不v在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》
 朝露乃如也《アサヅユノゴト》
 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
【譯】秋山の紅葉のような紅顔の孃子、なよなよした竹のようにしなやかなあの娘は、何と思つてか、栲繩のような長い命を、それは露こそは朝に置いて夕べには消えるという、霧こそは夕べに立つて朝には失せるというが、梓弓のようにその死んだことを人づてに聞くわたしも、生前ほのかに見たことが殘念であるのを、柔かな手枕を身に纏いて、釼太刀のように自分が身に副えて寢たでしようその夫の人は、鬱々として思い寢ていることであろう。殘念がつてか思い慕つていることであろう。その時にあらずして死んで行つてしまつた人であ(602)つた。本當に朝露のように、夕霧のように。
【構成】別に段落というべきものは無いが、單に文章として終止形を取つているものがある。消ユトイヘ、失ストイヘ、念ヒテ寐ラム、念ヒ戀フラムは、いずれも終止形の句である。
【釋】秋山 アキヤマノ。枕詞。次の句の下ぶるの主體を示す意味に冠している。
 下部留妹 シタブルイモ。シタヘルイモ(神)。シタブルは、紅色を呈する意の動詞・上二段活。「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」(古事記中卷)、「金山《アキヤマノ》 舌日下《シタビガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》」(卷十、二二三九)のシタビは、その名詞形である。語義は、下葉がまず色づくので、下に動詞に轉成する接尾語ブが接續すること、荒ビ等の例に同じであろう。「鶯乃《ウグヒスノ》 來鳴春部者《キナクハルベハ》 巖者《イハホニハ》 山下耀《ヤマシタヒカリ》 錦成《ニシキナス》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》」(卷六、一〇五三)の如き例があつて、山下の語が、既に紅葉を意味する如くであり、また春にもいうことが知られる。そこで、シタブルイモで、紅顔の女子をあらわすことになる。、
 奈用竹乃 ナヨタケノ。枕詞。なよなよと撓う竹の意に、トヲヨルに冠する。「名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》」(卷三、四二〇)のナユタケノも同じ。
 騰遠依子等者 トラヨルコラハ。トヲヨルは、トヲヲに撓み寄る意で、その采女の姿態を描寫している。前項の例の外に、「安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミニ》 船浮《フネウケテ》(卷七、一二九九)がある。これは味鴨の群が弧形を成して寄る海の意に解せられる。コラは、その人の愛稱。秋山ノシタブル妹、すなわちトヲヨル子ラで、以下の二句を以つて、主格を提示している。
 何方尓念居可 イカサマニオモヒヲレカ。既出の、「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」(卷一、二九)の句の類で、どのように思い居ればかの意。カは疑問の係助詞であるが、この二句は挿入句の如き取り扱いを受けて、その結びが明白にされていない。これは他の同種の類句においても同樣である。
(603) 栲紲之 タクナハノ。枕詞、栲で作つた繩のようにの意に、譬喩として長きに冠する。タクはコウゾの樹。その繊維で作つた繩である。
 長命乎 ナガキイノチヲ。長い壽命であるのを、しかるにの意。この下に、句を隔てて、時ナラズ過ギニシに接續するもので、その中間の句は、插入文であると見る説があるが、梓弓音聞ク吾モホノニ見シ事悔シキヲの句があつて、既にその死を受けているのであるから、さように見るのは無理である。この句を受けて、朝露、夕霧の句があり、それで死去を暗示しているのであろうが、表現が不十分であるというべきである。
 露己曾婆朝尓置而夕者消等言 ツユコソハアシタニオキテユフベハキユトイヘ。露の朝に置いて夕方に消えるものであることを説いて、無常の譬喩としている插入文である。露コソのコソは係助詞であつて、已然形を以つて受けるはずであり、露コソ消ユレと言わねばならぬのであるが、かような場合には、習慣上、言フの方を已然形にして結んでいる。「相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四)、「秋芽子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)の如き、その例である。
 霧己曾婆夕立而明者矢等言 キリコソハユフベニタチテアシタハウストイヘ。上の露の文と對句をしている。文の組織も同樣で、ただ用語に相違があるだけである。この句の下に、時ならずして死んだ意味の詞句があつて然るべきであるが、それが無いのは、傳來の間に遺失したものか、または不用意にして落したものか、不明である。
 梓弓 アヅサユミ。枕詞。
 音聞吾母 オトキクワレモ。采女の死んだということを、人の話によつて聞いたのである。
 髣髴見之事悔敷乎 ホノニミシコトクヤシキヲ。オホニミシコトクヤシキヲ(考)。ホノニは、ほのかにある意の副詞であるが、ここでは、しかとも見なかつたことをいう。生前にほのかにのみ見たのを殘念とするの(604)である。オホニミシと讀むのは、「於保爾見敷者《オホニミシクハ》(卷二、二一九)の例によるものであるが、髣髴は、多くホノ、ホノカに當てて書かれている。
 布栲乃 シキタヘノ。枕詞。枕に冠する。
 手枕纏而 タマクラマキテ。その女子の手を枕として身に纏つて。
 釼刀 ツルギタチ。既出(卷二、一九四)。枕詞。釼は、身に帶びるものであるから、身ニ副フの枕詞としている。
 身二副寐價牟 ミニソヘネケム。その采女を妻として身に副えて寐たであろうの意で、下の嬬の子に冠する修飾句。
 若草 ワカクサノ。枕詞。柔いものであるので、ツマに冠する。
 其嬬子者 ソノツマノコハ。嬬は妻の義であるが、ここでは夫である。コは愛稱で、ツマノコで夫のことになる。采女は、夫を有せざるはずであるのに、ここにその夫のことを詠んでいるのは、前の采女であつて、その任を離れて後婚姻したものと推考される。
 不怜弥可 サブシミカ。サブシは、樂しまない意の形容詞。カは疑問の係助詞。鬱々としてか。
 念而寐良武 オモヒテヌラム。ラムは推量の助動詞の終止形。
 悔弥可念戀良武 クヤシミカオモヒコフラム。上のサブシミカ念ヒテ寐ラムと對句になつている。これも句切。
 時不在過去子等我 トキナラズスギニシコラガ。トキナラズは、死ぬべき時ならずして。采女が年若くして死んだのであろう。スギニシは、この世を經過したの意で、死んだことをいう。コラは采女をいう。ガは主格を示す助詞。丈部の龍麻呂が自殺した時に大伴の三中の詠んだ歌に「鬱瞻乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテユキケム》 時(605)爾不v在之天《トキニアラズシテ》」(卷三、四四三)とあるはここと似ている。それでこの采女の死をも自殺かとする説があるが、その證は無い。
 朝露乃如也 アサツユノゴト。也は、焉などと同じく、ただ添えて書いたのみで、讀まない。集中「細谷川之《ホソタニガハノ》 音之清也《オトノサヤケサ》」(卷七、一一〇二)、「春菜採兒乎《ハルナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》(卷八、一四四二)、「隱野乃《ナバリノノ》 芽子者散去寸《ハギハチリニキ》 黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》」(同、一五三六)などの例がある。この句は、時ナラズ過ギニシ子ラガ朝露の如くにありの意で、遙に上の露こそは云々の句を受けている。句切。
 夕霧乃如也 ユフギリノゴト。朝露ノ如と泣んで、對句となつて、上の時ナラズ過ギニシ子ラガの句を受けて結んでいる。これも、霧コソは云々の句を受けている。
【評語】全體の構成は、露と霧とを材料として、これにはかなさを思い寄せて詠み成して、その譬喩は、よく全體の空氣を統制している。最初の婦人の美を描いた句も、非常に印象的で、いかにもその采女の美しい人であつたことを描き出している。内容としては、婦人の死を悼む挽歌の常として、ここにも殘された夫の上を思つて一首を結んでいる。對句の使いざまが目立つて調子を整えている歌である。しかし中途に脱漏かと思われる表現の不完全な點のあるのは惜しいことである。反歌によれば、人麻呂の近江時代の作らしく、比較的初期に屬する作品であろう。
 
短歌二首
 
218 樂浪《ささなみ》の 志我津《しがつ》の子らが 【一は云ふ、志我の津の子が。】 罷道《まかりぢ》の
 川瀬の道を 見ればさぶしも。
 
 樂浪之《ササナミノ》 志我津子等何《シガツノコラガ》 【一云、志我乃津之子我】 罷道之《マカリヂノ》
 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
(606)【譯】樂浪の志我津の采女の死んで行く道なる川瀬の道を見れば悲しいことである。
【釋】樂浪之志我津子等何 ササナミノシガツノコラガ。樂浪の志我津は地名で、近江の國の志賀の大津である。此處で問題になるのは、題には吉備の津の采女とあることであつて、題と一致しないことであるが、作者人麻呂が近江の國にいた時分に、その地で詠んだ歌であつて、吉備の津はその生國をいい、志我津ノ子ラは生前に住んでいた處をさすのであろう。
 志我乃津之子我 シガノツノコガ。第二句の別傳である。志我津というよりも、志我の津という方が無理が無い。
 罷道之 マカリヂノ。マカルは退出するをいう動詞で、ここでは、この世から退き去る意に、死んで行く道をマカリヂと言つている。この語は、續日本紀藤原永手の死を悼む宣命に、「美麻之大臣乃罷道宇之呂輕」と見えている。
 川瀬道 カハセノミチヲ。川瀬を通る道をの意で、死んだ采女の送葬の道が、實際に川瀬の道を通つたのであろう。
 見者不怜毛 ミレバサブシモ。見れば鬱々として慰まないよしである。
【評語】格別のことは無いが、よく纏まつている。初二句の固有名詞は、その人を知つている人に取つては意味があろうが、後の讀者としては興味がすくなく、むしろ具體的にその人を描寫することが望ましかつた。
 
219 天數《あまかぞ》ふ 凡津《おほしつ》の子が 逢ひし日に
 おほに見しくは、
 今ぞ悔《くや》しき。
 
 天數《アマカゾフ》 凡津子之《オホシツノコガ》 相日《アヒシヒニ》
 於保尓見敷者《オホニミシクハ》
 今敍悔《イマゾクヤシキ》
 
(607)【譯】この凡津の子が、生前逢つた日になおざりに見たことは、今になつて殘念なことだ。
【釋】天數 アマカゾフ。枕詞。天は廣大であるので、天を數えるの意に、オホに冠するのであろうか。他に用例を見ないが、類似したものには、「可伎加蘇布《カキカゾフ》 敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》」(卷十七、四〇〇六)があり、下二段活と考えられるカゾフが、この形で枕詞となつていることが知られる。用言の終止形で結んだ文が、他に對して修飾句となる例である。
 凡津子之 オホシツノコガ。
   オフシツノコガ(西)
   オヨソツノコガ(代精)
   オホツノコガ(童)
   オホシツノコガ(攷)
   ――――――――――
   凡津子等之《オホツノコラガ(考)
 凡津は、オホツと讀むべきであるが、それでは音が足りず調子が整わない。凡は、凡河内の直などの場合にオホシと讀むが、そのオホは、大の義で、すべての意に河内に冠しているのだろう。日本書紀宣化天皇の卷には、大河内稚子媛の人名があり、この大河内もオホシカフチと讀むべきである。依つて今攷證に依つてオホシツノコガと讀む。オホシツは、大津に同じ。近江の大津である。前の歌の志我津の子を、語を變えて云つている。
 相日 アヒシヒニ。生前出逢つた時に。
 於保尓見敷者 オホニミシクハ。舊訓オホニミシカバで、異説は無い。敷の字は、動詞としては、「珠敷益乎《タマシカマシヲ》」(卷六、二〇一三)などの如く、シカと讀ませている字であるから、これを以つて助動詞キの已然形シカに當てたとしてシカと讀むことはできる。しかし用言の未然形を音聲とする訓假字は、あるにしてもすくなく、(608)また敷をシカに當てた例は、「湯々敷有跡《ユユシカラムト》」(卷六、九四八)の如き一例があるだけである。そうして一方には、シクの音聲に當てたと見られる例は相當に多い。「今敷者《イマシクハ》 見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》(卷七、一一〇三)、「彌常敷爾《イヤトコシクニ》 吾反將v見《ワレカヘリミム》」(同、一一三三)の如きは、その例である。ここもシクの音聲に當てたものとしてオホニミシクハと讀むを順當とする。ミシクは見し事の意で、クは、用言に接續して體言を作る助詞である。時の助動詞キに接しては、シクの形を作る。「馬立而《ウマタテテ》 玉拾之久《タマヒリヒシク》」(卷七、一一五三)、「背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクタシモ》(同・一四一二)、「來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)などはその例である。
 今敍悔 イマゾクヤシキ。その死に接しておろそかに見たことを殘念とするのである。
【評語】長歌の、ホノニ見シ事悔シキヲの句意を、一首に纏めている。長歌と呼應しているだけで、特に補足するだけの内容はない。
 
讃岐狹岑島、視2石中死人1、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
讃岐の狹岑の島に、石中の死れる人を見て、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】讃岐狹岑島 サヌキノサミネノシマニ。狹岑の島は、香川縣仲多度郡に屬する鹽飽諸島中の沙彌島である。人麻呂は、讃岐の國の中の湊から出航して、風波に遭つてこの島に船がかりしてこの歌を詠んだ。その島は、坂出町の海上にあり、海路上京の途中にある。歌の中にも狹岑の島とあり、反歌には佐美の山とあるから、サミネは、佐美の嶺の義であろう。
 
220 玉藻よし 讃岐の國は、
 國《くに》からか 見れども飽かぬ。
(609) 神《かむ》からか ここだ貴き。」
 天地 日月とともに
 滿《た》りゆかむ 神の御面《みおも》と
 繼ぎ來《きた》る 中の水門《みなと》ゆ、
 船浮けて わが榜《こ》ぎ來れば、
 時つ風 雲居に吹くに、
 沖見れば とゐ浪立ち、
 邊《へ》見れば 白浪さわく。」
 鯨魚《いさな》取り 海を恐《かしこ》み
 行く船の 楫《かぢ》引きをりて、
 をちこちの 島は多けど、
 名ぐはし 狹岑の島の
 荒礒面《ありそも》に 廬《いほ》りて見れば、
 浪の音《と》の 繁き濱邊を
 敷細《しきたへ》の 枕にして
 荒床《あらどこ》に こい臥す君が、
 家知らば 行きても告げむ。
(610)妻知らば 來も問はましを。
玉|桙《ほこ》の 道だに知らず、
 鬱悒《おほほ》しく 待ちか戀ふらむ。
 愛《は》しき妻らは。」
 
 玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》
 國柄加《クニカラカ》 雖v見不v飽《ミレドモアカヌ》
 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》
 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》
 滿將v行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》
 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》
 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》
 時風《トキツカゼ》 雲居尓吹尓《クモヰニフクニ》
 奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《トヰナミタチ》
 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミサワク》
 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》
 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキヲリテ》
 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖v多《シマハオホケド》
 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》
 荒礒面尓《アリソモニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》
 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕尓爲而《マクラニシテ》
 荒床《アラドコニ》 自伏君之《コイフスキミガ》
 家知者《イヘシラバ》 往而毛將v告《ユキテモツゲム》
 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》
 玉桙之《タマホコノ》 道太尓不v知《ミチダニシラズ》
 鬱悒久《オホホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》
 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
【譯】玉藻の打ち寄せる讃岐の國は、國の良いゆえか見ても飽きないことである。その國の神ゆえか、非常に尊いことである。天地日月のあらむ限り幾久しく榮え行くべき靈ある國の表面として、繼ぎ來たつた中の水門の中から、船を浮べてわたしが榜いで來ると、時を得て吹く風が大空に吹き渡れば、沖を見るに騷ぐ波が立ち、岸邊を見れば白浪が亂れている。荒海のおそろしさに行く船の楫を曲げて、あちこちに島は多いけれども名前の立派な狹岑の島の荒礒に廬りをして見れば、浪の音の繁き濱邊を親しむべき枕として、荒い床にころび臥す君の家を知つていたなら、行つても告げようものを。妻が知つたなら來ても尋ねるであろうものを。來ようとする道をも知らずに、鬱々として待ちてか戀い慕つているであろう。そのいとしい妻は。
【構成】三段に分けて考えられる。ココダ貴キまで第一段、讃岐の國について概説して、總序としている。白浪サワクまで第二段、船を出して風波に逢うことを敍する。以下第三段、狹岑の島に船を寄せて石中の死人を見、その家に殘した妻の上を推量して終つている。
【釋】玉藻吉 タマモヨシ。枕詞。玉藻は、既出、藻の美稀。ヨシは、「青丹吉《アヲニヨシ》」(卷一、七)參照。もと感動の助詞で、後に、形容詞ヨシの意識に移つたと考えられる。海上を描寫して讃岐の國に冠する。讃岐の國の海上を歌う作であるので、特にこの句を構成したものである。
 讃岐國者 サヌキノクニハ。讃岐の國は、四國の北部に位置し今香川縣となつている。
(611) 國柄加 クニカラカ、カラは故の意の體言。カは疑問の係助詞。國土の故か。下の神からかと對を成して、古歌謡から來ている。「正月元日余美歌、蘇良美豆《ソラミツ》 夜萬止乃久爾波《ヤマトノクニハ》 可无可良可《カムカラカ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾可良可《クニカラカ》 須美可保之支《スミガホシキ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾波《クニハ》 阿伎豆之萬《アキツシマ》 也萬止《ヤマト》」(琴歌譜)、「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香《カムカラカ》 貴將v有《タフトカルラム》 國柄鹿《クニカラカ》 見欲將v有《ミガホシカラム》」(卷六、九〇七)。
 雖見不飽 ミレドモアカヌ。上のカを受けて結んでいる。句切。以上二句、讃岐の國の形體の方面の美を稱えている。
 神柄加 カムカラカ。神靈の故にか。國土そのものを神靈として感じている思想である。
 幾許貴寸 ココダタフトキ。ココダは許多の義に使用されている。假字書きの例には「許々陀母麻我不《ココダモマガフ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》」(卷五、八四四)などある。タフトキは上のカを受けて連體形で結んでいる。この二句、讃岐の國の靈的な方面について述べ、上の國からか見れども飽かぬと竝んで、讃岐の國を説明している。以上第一段、讃岐の國のよい國であることを説く。
 天地日月與共 アメツチヒツキトトモニ。天地日月は、永久不變の存在として擧げられており、それらと共にで、永久にの意を現わしている。「天地之《アメツチノ》 遠我如《トホキガゴト》 日月之《ヒツキノ》 長我如《ナガキガゴト》」(卷六、九三三)、「天地《アメツチ》與2日月1共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》」(卷十三、三二三四)、「天地《アメツチ》 日月等登聞仁《ヒツキトトモニ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 記續牟曾《シルシツガムゾ》」(卷十九、四二五四)など、この用法である。
 滿將行 タリユカム。充足して行くべき。連體形の句で、次の神のみ面を修飾する。
 神乃御面跡 カミノミオモト。カミノミオモは、讃岐の國の神靈の御顔の義で、海上から眺めた讃岐の國の姿をいう。古事記上卷、大八島出現の段に、四國の出現を語つて、「次生2伊豫之二名嶋1、此嶋者、身一而有2面四1。毎v面有v名。故伊豫國謂2愛比賣1、讃岐國謂2飯依比古1、粟國謂2大宜都比賣1、土左國謂2建依別1」とある。(612)トは、としての意。國土の神靈を信ずる思想から、出來ている句である。
 次來 ツギキタル。昔から續いて來たの意で、連體形。
 中乃水門從 ナカノミナトユ。ナカノミナトは、香川縣仲多度郡の中津であろうという。昔は那珂郡に屬していた。ミナトは、文字通り水門で、海上から陸地へ入り込む門戸、港口、河口、江口などの謂である。神の御面として續き來た中の水門というので、海上から眺めた體勢で歌つていることが確められる。ユは、そこを通つて。
 船浮而 フネウケテ。ウケテは、下二段活用の浮クに、助詞テの接續したもの。浮かしめて、船を出したこと。
 吾榜來者 ワガコギクレバ。自分の乘つた船が榜いで來れば。以上讃岐の國から出航したことをいう。
 時風 トキツカゼ。ツは助詞。吹くべき時に當つて吹く風。「時風《トキツカゼ》 應v吹成奴《フクベクナリヌ》 香椎滷《カシヒガタ》 潮干※[さんずい+内]爾《シホヒノウラニ》 玉藻苅而名《タマモカリテナ》」(卷六、九五八)の歌は、時つ風の吹くべきを豫想している。「時風《トキツカゼ》 吹麻久不v知《フカマクシラニ》 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 朝明之潮爾《アサケノシホニ》 玉藻苅奈《タマモカリテナ》(卷七、一一五七)の歌は、朝であるが、時つ風が吹くかも知れないと歌つている。處により風の吹く時間は一定しているので、その時に吹く風をいう。
 雲居尓吹尓 クモヰニフクニ。クモヰは、動かない雲をいうが、ここでは遠い天空の意に使用している。
 奧見者 オキミレバ。オキは、岸から遠い海上。
 跡位波立 トヰナミタチ。アトヰナミタチ(神)、アトクラナミタチ(代初)、シキナミタチ(考)。トヰナミは、「惶八《カシコキヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和者不v吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 疎不v立《オホニハタタズ》 跡座浪之《トヰナミノ》 塞道麻《サハレルミチヲ》」(卷十三、三三三五)ともあり、風が強く吹くに連れて立つ浪であることが知られる。トヰは、トヲ(撓)の語と關係あるべく、大きく盛りあがる浪をトヰナミというのであろう。古事記中卷、伊須氣余理比賣の命の御歌「宇泥備夜麻《ウネビヤマ》 比流波久(613)毛登葦《ヒルハクモトヰ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 加是布加牟登曾《カゼフカムトゾ》 許能波佐夜牙流《コノハサヤゲル》」(二二)のトヰは、その動詞形で、クモトヰは、雲が動いていることをいうのであろう。この解に依つて、風雲の急を告げる意味に、歌われているこの歌の内容が、明瞭にされる。從來の解のように、雲がいるよしでは、語法上の説明成立せず、歌意も不徹底になるのである。
 邊見者 ヘミレバ。へは、岸に近い處をいう。
 白浪散動 シラナミサワク。散動の文字は、「御獵人《ミカリビト》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》 散動而有所v見《サワキタリミユ》」(卷六、九二七)、「鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトゾサハニアル》」(同、九三八)とあり、いずれも視覺に訴える場合に使用されている。これをサワクと讀むのは、サワクの語が、音のみならず、形についてもいう語であるからである。以上第二段、船を榜ぎ出して、風波に遭うことを述べている。
 鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。枕詞、海に冠する。
 海乎恐 ウミヲカシコミ。海がおそろしくして。
 行船乃梶引折而 ユクフネノカヂヒキヲリテ。カヂは、本集では、船を進行させる具の名として使用される。ヒキヲリは、引きたわませる意で、これによつて船の航路を曲げての意である。「大船爾《オホブネニ》 末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)に同語が使用されている。
 彼此之島者雖多 ヲチコチノシマハオホケド。ヲチコチは、あちらこちら。航路上に島の多い中に、狹岑の島に船を寄せる由を述べている。
 名細之 ナグハシ。クハシは精妙なる意の形容詞。讀立文で、次の詞句を修飾する。狹岑の島の名のよいことを稱えている。「名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》」(卷一、五二)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷二、三〇三)と使用されて(614)いる。
 狹岑之島乃 サミネノシマノ。題詞にいう狹岑の島である。
 荒礒面尓 アリソモニ。アリソモは、文字通り荒礒の面で、海に面せる方である。
 廬作而見者 イホリテミレバ。イホリツクリテミレバ(矢)、イホリシテミレバ(細)、イホリテミレバ(代初書入)。イホリは、廬入りで、イホに入る、イホリをする意の動詞。荒礒の面に、借廬を作つて、さて見れば。
 浪音乃茂濱邊乎 ナミノトノシゲキハマベヲ。浪の音の茂くうち寄せる濱邊を。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。
 枕尓爲而 マクラニシテ。マクラニナシテ(西)。濱邊を枕とする意。爲は、動詞ナスに當てた確な例が無い。
 荒床 アラドコニ。アラドコは、荒らかな床の義で、礒をいう。その荒床に寄リ伏ス君と續く。舊訓アラトコトと讀んでいる。その訓によれば、荒床としての意になるが、それならば、何を荒床としたかの、何をに相當する句があるべきである。上の茂キ濱邊ヲの句は、枕にしてで收まつているので、ここは考に、アラドコニと讀んだのがよい。
 自伏君之 コイフスキミガ。コロフスキミガ(西)、ヨリフスキミガ(拾)、コヒフスキミガ(新考)。ヨリフスは、床に寄りて伏すの意とするのであるが、ヨリ(自)のヨは乙類、ヨリ(寄)のヨは甲類で、音聲が違う。よつてコロフスとすべしとする。(大野晋氏。)自伏は、死者が自分から横たわる意に書いたものとして、意を以つてコイフスと讀む。キミは死者をいう。死んでいるのであるが、寢ているというように歌つている。
コイは、ころぶ意の動詞コユの連用形である。コイフスは、「等計自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》」(卷五、八八六)(615)など數出している。
 家知者往而毛將告 イヘシラバユキテモツゲム。死人の家を、もし知つていたら、行つて告げてやろう。句切。
 妻知者來毛問益乎 ツマシラバキモトハマシヲ。夫がここに臥していると、その妻が知つたならば、來ても問うであろう。然るにの意。句切。上の家知ラバ云々と對句になつているが、家知ラバは家を知らばであり、妻知らばは、妻が知らばで、語法は別である。
 道太尓不知 ミチダニシラズ。妻は、此處に來るべき道をだに知らずに。主格は最後に置かれている。
 待加戀良武 マチカコフラム。カは疑問の係助詞。待ちてか、戀い居るならむ。句切。
 愛伎妻等者 ハシキツマラハ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。ラは接尾語。ツマラは複數ではない。この句、上の玉桙ノ以下の主格として提示されている。
【評語】讃岐の國の貴い國であることから説き起しているのは、雄大な構成であるが、石中の死人を悼む歌としては、必要でなく、ただ序としての意味を有するだけである。作者が荒い海上に船を浮かべて來た由來を説くものとしては意義があろう。かくて風波の荒いのに遇つて狹岑の島にこれを免れるあたりは、その島の死人を見る用意として十分力を盡くして敍述されている。家知ラバ、妻知ラバの對句が、一は作者自身のことを言い、一は死人の妻のことを言うのは、すこしく讀者を惑わしめるものがある。かような對句の使い方は、古歌には常に見る所であるが、ここで急に歌われている對象が變化した點は唐突である。妻知ラバ以下反歌の第一首に至るまで、死人の妻を中心にして歌つている。この部分がこの歌の中心的内容をなすものである。この場合、作者も自分の妻を故郷に置いて來ていることを思い、またこの風波に遇つて、或るいは自分もこの死人と同じ運命に置かれたかも知れないことを思つている。そこにこの歌の意義が存するのである。
 
(616)反歌二首
 
221 妻もあらは 採みて食《た》げまし。
 佐美《さみ》の山 野《の》の上のうはぎ
 過ぎにけらずや。
 妻毛有者《ツマモアラバ》 採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》
 作美乃山《サミノヤマ》 野上乃字波疑《ノノウヘノウハギ》
 過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
【譯】もし妻がいるならば、摘んでさし上げたでありましようものを。そうは無くて、この作美の山の野邊のウハギはむだに時節を過してしまつたではないか。
【釋】妻毛有者 ツマモアラバ。このアラバは、この處にあらばの意。この死人の妻が、ここに居たならば。
 採而多宜麻之 ツミテタゲマシ。タゲは、手擧の義で、食物としてさしあげる意であろうが、轉じてただ食するだけの意味にも使用された。「伊波能杯?《イハノヘニ》 古佐?渠梅野倶《コサルコメヤク》 渠梅多?母《コメダニモ》 多礙底騰褒※[口+羅]栖《タゲテトホラセ》 歌麻之々能鳥膩《カマシシノヲヂ》(日本書紀、皇極天皇の御紀)、「伊我留我乃《イカルガノ》 止美能井乃美豆《トミノヰノミヅ》 伊加奈久爾《イカナクニ》 多義?麻之母乃《タゲテマシモノ》 止美乃井能美豆《トミノヰノミヅ》」(上宮聖コ法王帝説)。これらのタグは、さしあげる意に使用されている。然るに「左奈都良能《サナツラノ》 乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》」(卷十四、三四五一)の例は、駒ハタグトモとあり、單に食する意に使用されている。ここはなお古意で、妻があらば、採んでさしあげたであろうものをの意。句切。この死人は、溺死したものではなく、狹岑の島に漂著して、餓死したものと判斷されたのであろう。
 作美乃山 サミノヤマ。狹岑の島の山をいう。
 野上乃字波疑 ノノウヘノウハギ。野の上は、野の面をいう。「藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》」(卷一、五〇)參照。ウハギ(617)は、本草和名に「薺蒿菜、和名於波岐」とあり、倭名類聚鈔に、「薺菜、和名於八木」とあるもので、ヨメナである。當時も勿論、食料としたものと考えられる。「春日野爾《カスガノニ》 煙立所v見《ケブリタツミユ》 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟芽子《ハルノノウハギ》 採而煮良思文《ツミテニラシモ》」(卷十、一八七九)。
 過去計良受也 スギニケラズヤ。度合を過ぎてしまつたではないかの意。食うべき時が過ぎて堅くなつたのをいう。ケラズは過去の助動詞ケリの未然形に、打消の助動詞ズが附いたものである。ヤは反語。
【評語】長歌の末の部分を受けて詠みなしている。長歌から切り離しても、獨立して生命を有している。死人を哀み、その邊に日の光を浴びて伸び過ぎている嫁菜の姿に、感慨を催した?が能く出ている。
 
222 沖《おき》つ波 來《き》よる荒礒《ありそ》を
 敷妙《しきたへ》の 枕とまきて 寐《な》せる君かも。
 
 奧波《オキツナミ》 來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》
 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
【譯】沖邊の浪の來り寄する荒礒を、親むべき枕と身に纏いて寐て居られる君だな。
【釋】奧波來依荒礒乎 オキツナミキヨルアリソヲ。平凡な敍述であるが、死人の臥している荒礒を描いている。
 色妙乃 シキタヘノ。枕詞。色は字音を使用している。
 枕等卷而 マクラトマキテ。トは、としての意。マキテは身に卷いてで、枕としてである。
 奈世流君香聞 ナセルキミカモ。ナセルは、動詞寐に、敬語の助動詞スが接續して、ナスが出來、それに、存在の助動詞リが接續した、その連體形である。ナスは、「毛毛那賀邇《モモナガニ》 伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》」(古事記上卷)、「和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎弖奈佐禰《イリキテナサネ》」(卷十四、三四六七)、「吾乎麻都等《アヲマツト》 奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》 安比?早見牟《アヒテハヤミム》」(卷十七、三九七八)などある。ここに奈世流と假字書きにしたのは、この語の文獻として貴重である。
(618)【評語】長歌の、浪ノ音ノ茂キ濱邊ヲ、シキタヘノ枕ニシテ、荒床トコヤセル君のあたりを採つて、一首に纏めている。すべてみずからしたように歌つているのは、靈の存在を信じていた當時の思想の、自然な表現である。全體の構成としては、反歌の第一首に特殊の場面を描き、その第二首に總括的な敍述をして結んでいる。練達堅固の手法である。
 
柿本朝臣人麻呂、在2石見國1臨v死時、自傷作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國にありて死なむとせし時に、みづから傷《いた》みて作れる歌一首
 
【釋】在石見國 イハミノクニニアリテ。石見の國は、山陰道の西方、日本海に面し、今、出雲の國と共に島根縣となつている。人麻呂が石見の國にあつたのは、その國の役人としてであつたろうが、石見の國は中國であるから、たとい守であつても、六位である。しかし恐らくは、その以下であつたろう。
 臨死時 シナムトセシトキニ。死と書くのは、六位以下の人に對する文字で、五位以上には卒、三位以上には薨と書くのである。これによつて人麻呂が低い官位に終つたことが知られる。死ぬべくなつた時に、自分で傷んで詠んだ歌。多分この時に死んだのであろうが、それは何時であつたか知られない。ここに藤原の宮時代の最後に載せてあるに依れば、藤原の宮時代の終りごろと見るべきであるが、その作品中の地名に、春日なる羽貝の山があり、その歌集中にも春日野その他があり、地名に近江の文字が使用されているなど、奈良時代に懸かつているのではないかの疑問もあつて、まだ決定するに至らない。
 
223 鴨山の 磐根《いはね》し纏《ま》ける 吾をかも
 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
 鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷有《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》
 不v知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將v有《マチツツアラム》
 
【譯】鴨山の磐を枕に横たわつている私をか、知らずにわが妻は待つているだろう。
【釋】鴨山之 カモヤマノ。鴨山は、人麻呂の墓所となるべき處と推定されるが、所在未詳である。岡熊臣の柿本人麻呂事蹟考辨に、石見の國美濃郡高津浦の沖にある鴨島であるとするが、その地は國府の所在より西南十里の遠隔地であり、その根據は、その高津を以つて人麻呂の作中の高角山と同地とする誤解から出ているので、誤りであることあきらかである。藤井宗雄の石見國名跡考には、那賀都濱田町の舊城山の龜山とし、大日本地名辭典には、那賀郡|神村《かむら》の山としているが、いずれも根據ある説ではない。斎藤茂吉博士は、邑智郡濱原村の龜であるとしているが、これも根據の無い説である。とにかく石見の國にあつて、國府の附近に求むべく、人麻呂も死ねば其處に葬られるに定まつていた地と考えられる。當時の國府は、今の濱田市附近にあつたのだから、鴨山もその附近であるはずである。下の丹比の眞人が、人麻呂に代つて詠んだ歌に、荒浪ニ寄リ來ル珠ヲ枕ニ置キとあるを、その儘に墓所の説明とすべしとすれば、海岸の地と見るべきである。但し丹比の眞人が、都にいて追和したとすれば、その地の實?にうといこともあり得るので、確證とはしがたい。
 磐根之卷有 イハネシマケル。イハネは、岩に同じ。ネは、地中に根據あるを現わす接尾語。シは助詞。マケルは、手を廻らして卷き抱えるようにすること。生ける身ならば妻を纏くべきに、磐根を纏けるというところに、死を現わしている。死んで墓中にある意の熟語句。「如比許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》」(卷二、八六)。
 吾乎鴨 ワレヲカモ。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。我をか待ちつつあらむの意に五句に懸かる。
 不知跡妹之 シラニトイモガ。シラニは、その下に、アリ、爲等の動詞の省略された語法。トは、上の詞句を受ける助詞で、トシテの意を現わす。「宇迦々波久《ウカガハク》 斯良爾等《シラニト》 美麻紀伊理毘古波夜《ミマキイリビコハヤ》」(古事記中卷)、「多豆(620)佐波里《タヅサハリ》 和可禮加弖爾等《ワカレガテニト》 比伎等騰米《ヒキトドメ》 之多比之毛能乎《シタヒシモノヲ》」(卷二十、四四〇八)。妹は、人麻呂の妻。かつて石見の國から京に上る時に、高角山で歌つた歌の妻であつて、國府からやや離れた處に居て、死期に接しなかつたのであろう。次の歌主、依羅の娘子であろう。 待乍將有 マチツツアラム。人麻呂の訪い來るを待ちつつあらむと推量している。
【評語】人麻呂が、石見の國の何處で死んだかは明記は無いが、多分國府の地であつたものと思われる。そこからさして遠隔の地でもない角の里にいたはずの妻が、その夫の死をも知らずに待つているだろうというのは、前に、人麻呂がその妻の死を悼んだ歌の條にも記したように、當時の婚姻の風習によるものである。妻は、その家に留まり、訪い來る夫を待つているのであつて、その訪い來る男が一定しているという點において夫妻關係が成立しているのである。この歌などによつて、人麻呂が國府の地を離れて死んだとするのは、僻説である。上は草壁の皇子、高市の皇子の尊貴より、下は路傍の人に至るまで、數多くの人の死を傷んで、挽歌の名篇を殘した作者も、かくしてみずから弔うに至つたのである。おしなべてすべて死んだであろう萬葉歌人のうち、人麻呂、旅人、憶良のように、その死について何か傳えられているものは、殊に悼ましい。赤人、蟲麻呂のように、いつ死んだとも知られずに、美しい歌のみを留めている人は、仙人のようにも思われる。憶良が病氣に苦しむのは、釋迦が涅槃を示し、維摩が病床に就くようなもので、歌を殘すための方便に、大慈悲を垂れたものとも考えられるが、歌聖人麻呂が、病にかかるのは、人間苦の味が悲痛に感じられる。しかしこの死の歌によつて、人間としての人麻呂は完成されたとも云い得よう。
 
柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首
 
柿本の朝臣人麻呂の死《みまか》りし時に、妻の依羅《よさみ》の娘子の作れる歌二首
 
(621)【釋】死時 ミマカリシトキニ。前の歌にも記したように、何時死んだとも知られない。前の歌を詠んで間も無くのことであつたろう。
 妻依羅娘子 メノヨサミノヲトメ。前に、人麻呂が石見の國から妻に別れて上り來る時の歌を載せ、それに續いて、柿本の朝臣人麻呂が、妻の依羅の娘子の人麻呂とあい別れる歌を載せている。これによつてこの妻が石見の國の角の里にいた人であつたことはあきらかである。この人が京にいたとする説(考など)は誤りである。
 
224 今日今日《けふけふ》と わが待つ君は、
 石川の 貝に【一は云ふ、谷に。】交《まじ》りて
 ありといはずやも。
 
 且今日々々々《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》
 石水之《イシカハノ》 貝尓《カヒニ》【一云谷尓】 交而《マジリテ》
 有登不v言八方《アリトイハズヤモ》
 
【譯】今日は今日はと、わたくしの待つている方は、石川の貝の中に交つているというではありませんか。
【釋】且今日々々々 ケフケフト。一日一日を徒に待ち盡くす口調である。その氣分を表現して且今日且今日と、且の字を入れて書いている。これと同じ字面は、「且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミガ》 船出爲等霜《フナデスラシモ》(卷九、一七六
五)、「出去者《イデテイナバ》 天飛雁之《アマトブカリノ》 可v泣美《ナキヌベミ》 且今日且今日云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》」(卷十、二二六六)がある。
 吾待君者 ワガマツキミハ。キミは人麻呂を指す。
 石水之 イシカハノ。水をカハと讀むのは、集中、「此水之湍爾《コノカハノセニ》」(卷七、一一一〇)などある。石川は、石見の國にあり鴨山を廻つている川で多分火葬地であろう。
 貝尓交而 カヒニマジリテ。石川のほとりに葬つたので、貝ニ交リテというのである。
 一云谷尓 アルハイフ、タニニ。上の貝にの別傳である。谷に交るということ、意を成さず。貝ニ交リテの(622)眞實なのに及ばない。
 有登不言八方 アリトイハズヤモ。ヤモは、反語の助詞。反語のヤと感動のモとが結合したもの。ありといわないてあろうか、ありと人がいうの意。「隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》 王者亂而《タマハミダレテ》 有不v言八方《アリトイハズヤモ》」(卷三・四二四)。
【評語】待つていた夫は遂に來らず、しかも世界を異にして石川の貝に交つているという、悲痛の情を披瀝している。石川のほとりで火葬にしたのを、貝ニ交ルで表現しているのかも知れない。次の歌にも雲立チ渡レとあるのは、それを語つているようだ。
 
225 直《ただ》に逢《あ》ふは 逢ひかつましじ。
 石川に 雲立ち渡れ。
 見つつ偲《しの》はむ。
 
 直相者《タダニアフハ》 相不勝《アヒカツマシジ》
 石川尓《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》
 見乍將偲《ミツツシノハム》
 
【譯】直接にお目に懸かることは出來ますまい。せめて石川に雲も立ち渡つたならば、君とも見つつお慕い申しましよう。
【釋】直相者 タダニアフハ。タタニア<ハ(金)、タダノアヒハ(玉)。タダは直接の意。直接に逢うことは。玉の小琴に、タダノアヒハの訓を出しているが、タダは、そのまま他語に冠し、またはタダニの形を採つており、助詞ノを伴なつた例は一も無い。よつてタダニアフハと讀むべきである。
 。この訓は新考による。カツマシジは既出(卷二、九四)。逢い得まいの意。句切。
 石川尓雲立渡禮 イシカハニクモタチワタレ。君がありという石川に、雲よ、立ち渡れの意。石川は火葬の地であつたであろう。火葬の煙を雲に見立てたことは、卷の三の四二八、四四四等、例が多い。句切。
(623) 見乍將偲 ミツツシノハム。その雲を見て、形見とも見て、思い起そうの意。
【評語】この世でじかに逢うことは、遂に斷念せざるを得なくなつた。しかもせめて石川に立つ雲を見て、君を偲ぼうという、慰め切れない心持である。二首とも、すぐれた歌ではないが、地方に居住する娘子として、相當の才氣のあつたことが知られる。この歌によつても、依羅の娘子が、石川から立つ雲を見得られる地に住んでいたことがわかる。
 
丹比眞人【名闕】擬2柿本朝臣人麻呂之意2報歌一首
 
丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の【名闕けたり】柿本の朝臣人麻呂の意《こころ》に擬《よそ》へて報《こた》ふる歌一首
 
【釋】丹比眞人名闕 タヂヒノマヒトノ、ナカケタリ。丹比は氏、眞人は姓《かばね》。註して名闕けたりとあつて、その名を傳えない。石見の國府にいた國司の一人ででもあろうか。丹比の眞人とあるもの、ほかに卷の八、一六〇九、卷の九の一七二六があり、丹比の大夫とあるもの、卷の十五の三六二五、三六二六がある。
 擬柿本朝臣人麻呂之意報歌 カキノモトノアソミヒトマロノココロニヨソヘテコタフルウタ。前掲の依羅の娘子の歌に對して、死んだ人麻呂の心中に擬して應答した歌。
 
226 荒浪に 寄りくるまを 枕に置き、
 吾ここにありと 誰《たれ》か告げけむ。
 
 荒浪尓《アラナミニ》 縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》 枕尓置《マクラニオキ》
 吾此間有跡《ワレココニアリト》 誰將v告《タレカツゲケム》
 
【譯】荒い浪に寄つて來る玉を頭の方に置いて、自分は此處に寐ていると、誰か妹に告げたのだろうか。
【釋】荒浪尓縁來玉乎 アラナミニヨリクルタマヲ。石川の地が海岸近いことが知られる。玉が寄つて來るというのは、玉の材料なる貝や石が寄ることである。
(624) 枕尓置 マクラニオキ。マクラは、枕頭、頭の方という意。「父母波《チチハハハ》 枕乃可多爾《マクラノカタニ》 妻子等母波《メコドモハ》 足乃方爾《アトノカタニ》 圍居而《カクミヰテ》 憂吟《ウレヘサマヨヒ》」(卷五、八九二)のマクラで、アト(足邊)と對立する。「まくらよりあとより戀の迫め來ればせむ方なみぞ床中に居る」(古今和歌集)。人麻呂の墓が、海岸にあつたことが證明される。
 吾此間有跡 ワレココニアリト。ワレは人麻呂に代つて言つている。ココは墓所。
 誰將告 タレカツゲケム。文字表示は十分でないが、意を以つて讀む。カは疑問の係助詞。ケムは過去を推量する助動詞。
【評語】依羅の娘子の、石川ノ貝ニ交リテアリトイハズヤモという歌の意に和したので、人麻呂がこの石川の浪のよする地に埋められたと誰が告げたであろうかといぶかつている。これによれはやはりかくし妻であつたので、臨終にも立ち合うべくも無かつた娘子であろう。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。いかなる本とも知られないが、或る本に次の歌が載せてあるというのである。やはり人麻呂の死に關する歌として傳えたのであろう。なお左註にこれを載せた理由に就いて記している。
 
227 天離《あまざか》る 夷《ひな》の荒野に 君を置きて、
 念《おも》ひつつあれば 生《い》けるともなし。
 
 天離《アマザカル》 夷之荒野尓《ヒナノアラノニ》 君乎置而《キミヲオキテ》
 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【譯】この片いなかの荒野に、君を置いて念つていると、わたくしは生きている心もございません。
【釋】天離 アマザカル。既出(卷一、二九)。枕詞。天のような遠隔の地という意に、ヒナに冠する。
(625) 夷之荒野尓 ヒナノアラノニ。ヒナは既出(卷一、二九)。地方、田舍。アラノは、曠野。
 君乎置而 キミヲオキテ。埋葬したことをいう。
 念乍有者 オモヒツツアレバ。君のことを思いつつ居れば。
 生刀毛無 イケルトモナシ。既出(卷二、二一五)。生きている心利も無い。
【評語】既出の、「衾路を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」(卷二、二一二)と同じ構成の歌である。人麻呂の妻か、友人か親しいあいだにあつた人の作であろうが、天ザカル夷ノ荒野ニというは、京に居た人の歌のように考えられる。
 
右一首歌、作者未v詳。但古本、以2此歌1載2於此次1也。
 
右の一首の歌は、作者いまだ詳ならず。但し古本、この歌をこの次《つぎて》に載せたり。
 
【釋】古本 フルキマキ。編纂に際して資料とした文獻であろうが、如何なる書とも知られない。その古本に、この歌をこの順序に載せてあるというのである。
 
寧樂宮
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。以下、寧樂に都のあつた時代の歌という意に標示してある。卷の一の八四の歌の題詞の前にも、同樣の標示がある。この以前は、何々宮御宇天皇と標し、ここに至つてただ寧樂宮とのみ漂しているのは、例に違うのである。しかし既に、藤原宮御宇天皇代の標目の條にもいう如く、藤原の宮の御宇の天皇も二代あり、しばらくその一を擧げているが、寧樂の宮も數代に亙り、寧樂宮御宇天皇ということが、意を成さぬためであつたのであろう。また萬葉集の編纂は、一次に成つたものでもなく、後の編者が、以下寧(626)樂の京にあつた時代の歌なのに氣づいてこの標示をしたものとも考えられる。以下は、年代を掲記しているので、ここにこの標目をおいたのだろう。
 
和銅四年歳次2辛亥1、河邊宮人、姫島松原見2孃子屍1悲嘆作歌二首
 
和銅四年|歳《ほし》の辛亥《かのとゐ》に次《やど》れる年、河邊《かはべ》の宮人《みやびと》の、姫島の松原に孃子の屍を見て悲嘆して作れる歌二首
 
【釋】 和銅四年歳次辛亥 ワドウノヨトセ、ホシノカノトヰニヤドレルトシ。これと同樣の題詞は、卷の三の四三四の歌の前行にもあつて、それには、「和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首」とある。しかもこの題は、卷の二も卷の三も、歌意に合わない。卷の二の第一首はともかくも、第二首は、沈んだ女子の屍を見るだろうことはつらいというので、美人の屍を見るというに合わない。卷の三のは、これも第一首はともかくも、第二第三第四の三首は、全く別の事を歌つている。よつてこれらの題に誤りがあるのであろうという説があるが、しかしこれは、一の物語中の歌と認むべきであつて、その意味で見ればよくわかるのである。姫島の松原は、傳説のある地であり、河邊の宮人も假託の人と見られるのである。その物語の筋は不明であるが、ある娘子の水死を語るものと考えられる。當時娘子の水死を語る物語は多數あつて、葦の屋の菟原娘子、勝鹿の眞間の娘子、蔓兒等の物語となつて殘つている。それらと同樣のものであつたであろう。和銅四年というのも假託の年か、またはこの物語の作られた年か、この物語の種となつた事實のあつた年かも不明である。
 河邊宮人 カハベノミヤビト。人名説があるが、そうではなく、河邊の宮に奉仕する人の意であろう。河邊の宮は、日本書紀、孝コ天皇紀に、「倭飛鳥河邊行宮」とあり、これは齊明天皇紀に、「飛鳥川原宮」とあると同處である。卷の三の第四首に、淨の川とあるは、飛鳥川なるべく、この河邊の宮人は、その飛鳥の河邊の宮(627)の人であることが推定される。孝コ天皇は、難波の長柄の豐碕の宮にましまし、飛鳥の河邊の宮を行宮とされたのであるが、齊明天皇は、その飛鳥の川原の宮にましました。これは物語中の人物として河邊の宮人の名に假託したものであろう。
 姫島松原 ヒメシマノマツバラニ。姫島の松原は、攝津國風土記に、「比賣島松原、古輕島豐阿岐羅宮御宇天皇世、新羅國有2女神1、遁2去夫1來、暫住2筑紫國伊波比乃比賣島1、乃曰、此島者、猶不2是遠1、若居2此島1、男神尋來、乃更遷來遂停2此島1。故取2本所v住之地名1、以爲2島號1」(萬葉集註釋所引)とある。この風土記の説話は、古事記應神天皇記にある天の日矛の説話と同じ事であろう。その地は現在の大阪市のうちであろうが、いずれの邊であるかについては、諸説があつて決定しない。
 見孃子屍 ヲトメノカバネヲミテ。歌意にはこの題意に合わないもののあること前述の通りである。物語の中心となる所を擧げたか、または第一首のみに係かるか、いずれかであろう。
 
228 妹が名は 千代に流れむ。
 姫島の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに。
 
 妹之名者《イモガナハ》 千代尓將流《チヨニナガレム》
 姫島之《ヒメシマノ》 子松之末尓《コマツガウレニ》 蘿生萬代尓《コケムスマデニ》l
 
【譯】この孃子の名は千代までも傳わるであろう。姫島の小松の枝先に苔が生えるまでにも。
【釋】妹之名者 イモガナハ。死んだ娘子の名はである。イモは、その娘子に對して親愛の情を以つて呼んでいる。
 千代尓將流 チヨニナガレム。千代かけて長く傳わるであろうの意。歌經標式にもナガレムと讀んでいる。句切。
 姫島之、ヒメシマノ。題詞にある姫島である。
(628) 子松之末尓 コマツガウレニ。コマツガウレは既出(卷二、一四六)。コマツは、松の愛稱。ウレは、若い枝先。
 蘿生萬代尓 コケムスマデニ。コケは、「蘿生松柯」(卷二、一一三題詞)參照。コケは松の枝に懸かれる植物の類で、サルオガセ等をいう。その生い茂るまでにで、年數の長いことをあらわしている。姫島ノ以下三句は、第二句の千代に流れむの説明である。この位の長い時代までにの意。
【評語】孃子の屍を見て、その場處の姫島の小松を材料として歌つている。その人の死を憫み、その物語に、長く傳わるべき性質のあることを歌つている。物語が亡びたので、歌の感じがすこしく淺くなつているのはやむを得ない。歌經標式に、角の沙彌の作とするを信ずべしとせば、この物語の作者になるのだろう。
【參考】別傳。
   如2角沙彌美人名譽歌1曰。
  伊母我那婆《イモガナハ》一句 知與爾那我禮牟《チヨニナガレム》二句 比賣旨麻爾《ヒメシマニ》三句 古麻都我延陀能《コマツガエダノ》四句 己氣牟須麻弖爾《コケムスマデニ》五句
 
229 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》なありそね。
 沈みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を
 見まく苦しも。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干勿有曾祢《シホヒナアリソネ》
 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 見卷苫流思母《ミマククルシモ》
 
【譯】この難波潟には潮が干ないでほしい。沈んでしまつたあの孃子の姿を見るのがつらいから。
【釋】難波方 ナニハガタ。カタは淺渚で、潮が滿てば隱れ、潮がひれば現われる程度の地形。淀河の河口なる難波の海の性質をよく言い得ていると共に、この歌の意にも適合している。
 鹽干勿有曾稱 シホヒナアリソネ。ナは禁止の助詞。潮干ることなかれ。句切。
(629) 沈之 シヅミニシ。海に沈んだ。その沈んだ事情は説明されていないが、入水自殺であろう。
 妹之光儀乎 イモガスガタヲ。光儀は、漢文に用いられている熟字で、光景容儀の義である。本集では多數使用せられ、いずれもスガタの訓が當てられている。
 見卷苦流思母 ミマククルシモ。ミマクは見むこと。モは感動の助詞。見むことの苦しさを言つている。
【評語】この歌は、美人の屍を見ての作ではなく、水にはいつたのを悲しんでの作意である。孃子の入水死のことは、實際にもしばしばあつたと見えて、いくつかの歌物語が傳えられている。葦の屋の菟原《うない》娘子、勝鹿の眞間の娘子、鬘兒《かずらこ》などそうであり、人麻呂の歌にも水死した娘子を詠んだものがある。これらの悲しい事件を取り扱つて美しい歌物語を作ることは、當時の文雅人のあいだに往々にして行われたのであろう。ここにもその一つを見ることができるのである。ただ歌のみを留めて物語の失われたのは、その孃子の死を一層美化するものがある。從來の誤傳説を破つて、新しい立場において鑑賞すべき作品である。
【參考】同題。
  和銅四年辛亥、河邊の宮人の、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟《かな》しみて作れる歌四首
  風早《かざはや》の美保《みほ》の浦廻の白つつじ見れどもさぶし亡き人念へば 或るは云ふ、見れば悲しも亡き人思ふに(卷三、四三四)
  みつ/\し久米の若子がい觸れけむ礒《いそ》の草根の枯れまく惜しも(同、四三五)
  人言の繁きこの頃玉ならば手に纏き持ちて戀ひずあらましを(同、四三六)
  妹も吾も清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(同、四三七)
 
靈龜元年歳次2乙卯1秋九月、志貴親王薨時作歌一首 并2短歌1
 
(630)靈龜元年|歳《ほし》の乙卯《きのとう》に次《やど》れる年の秋|九月《ながつき》、志貴《しき》の親王《みこ》の薨りたまひし時に、作れる歌一首【短歌并せたり。】
 
【釋】靈龜元年歳次乙卯 レイキノハジメノトシ、ホシノキノトウニヤドレルトシ。この年九月二日、元正天皇即位して和銅八年を靈龜と改元した。
 志貴親王薨時 シキノミコノカムサリタマヒシトキニ。續日本紀には、靈龜二年八月の條に、「甲寅《(十一日)》、二品志貴親王薨。遣2從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫1、監2護喪事1。親王、天智天皇第七之皇子也。寶龜元年、追奪稱d御2春日宮1天皇u」とあり、この題詞に、靈龜元年九月とあると、年月に相違がある。これについて、攷證には、靈龜元年九月が實際の薨去の年月であるが、この時は元正天皇即位の時であるので、憚つてその薨奏を翌年にしたのであろうという。しかし一年も後に延期し、薨去の年月をも變更することは、考えられない事實である。また古義は、代匠記の説を受けて、この題詞の志貴の親王は、天武天皇の皇子の磯城の皇子で、その薨去は、續日本紀に遺脱したのであろうという。この同名異人説については、卷の一に既に記した。(五一題詞)。天武天皇の皇子に磯城の皇子があるというのは何かの誤りであろう。よつてこの題詞の志貴の親王を以つて、天武天皇の皇子であるとは考えられないことになる。元來この歌は、左註にもあるように、笠の朝臣金村の歌集を出所とするものであるが、金村の歌集は、歌の製作年月を掲記する特色を有している。これは作者金村の律氣な性質から來ているものと推察されるのであるが、この題詞の年月も、同じくその歌集から來ているのであろう。しかしまた萬葉集の編者がこれを採録するに當つて一年の誤解を生じなかつたとも斷言し難い。續日本紀寶龜二年五月の條に「甲寅、始設2由原天皇八月九日忌齋於川原寺1」とあつて、續日本紀の記事と日は違うが、忌月が八月であることは決定的である。萬葉集に九月とあるは、歌詞に依るに葬儀の月であつたのであろう。
 なおここに親王とあるは、大寶令繼嗣令に「凡皇兄弟皇子、皆爲2親王1」とあるによるものなるべく、本集(631)では多く皇子の文字を使用し「安積親王」「舍人親王」「新田部親王」「穩積親王」などに親王の文字を使用している。
 
230 梓弓 手に取り持ちて
 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立ち向かふ 高圓《たかまと》山に、
 春野燒く  野火と見るまで、
 燎《も》ゆる火を いかにと問へば、
 玉|桙《ほこ》の 道|來《く》る人の
 泣く涙 ??《こさめ》に降り、
 白|細《たへ》の 衣《ころも》濕《ひづ》ちて、
 立ち留《と》まり 吾に語らく、
 何しかも もとな言ふ。
 聞けば 哭《ね》のみし泣かゆ。
 語れば 心ぞ痛き。
 天皇《すめろき》の 神の御子《みこ》の
 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光ぞ、
 幾許《ここだ》照りたる。」
 
 梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカフ》 高圓山尓《タカマトヤマニ》
 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》
 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》
 玉桙之《タマホコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》
 泣涙《ナクナミダ》 ??《コサメ・ヒサメ》尓落《ニフリ》
 白妙之《シロタヘノ》 衣?漬而《コロモヒヅチテ》
 立留《タチトマリ》 吾尓語久《ワレニカタラク》
 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイフ》
 聞者《キケバ》 泣耳師所v哭《ネノミシナカユ》
 語者《カタレバ》 心會痛《ココロゾイタキ》
 天皇之《スメロキノ》 神之御子之《カミノミコノ》
 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》
 幾許照而有《ココダテリタル》
 
(632)【譯】梓弓を手に持つて、勇士が獵の矢を手はさんで立ち向かう、その高圓山に、春の日の野を燒いていると見るまでに火が見えるのは、、どうした事かと問えば、道來る人が、泣く涙が雨のように落ちて白い著物もしぼるばかりなのをおさえて立ち留まつて、わたしに語ることには、何だつてほんとにそんなふうに言うのですか、開けば泣かれてしかたがありません。お話をすれば心が痛い。あれはおかくれになつた皇子樣の御葬送のお供にたくたいまつの光の澤山に照つているのですよ。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。高圓山に火の見えるのを、道行く人に問うたところ、道ゆく人の答えるには云々という構成を持つているので、何シカモ以下末までが、すべて道ゆく人の答になつている。解釋上注意を要する所である。
【釋】梓弓手取持而 アヅサユミテニトリモチテ。丈夫が、梓弓を手に取り持ち、得物矢を手挾んで立ち向かうという意味で、句の都合上、主格たる丈夫より前に置かれている。以下立チ向カフまで、マトの序詞になつている。
 大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。立チ向カフに對する主格句。
 得物矢手挾 サツヤタバサミ。既出(卷一、六一)。サツヤは、鳥獣を支配する靈力のある矢。
 立向 タチムカフ。初句からこの句までは、序詞で、次の句のマト(的)に懸る。
 高圓山尓 タカマトヤマニ。高圓山は、奈良市の東、春日山の南にある山。志貴の皇子の御墓は、奈良縣添上郡田原村にあり、田原の西陵と稱せられる。皇子の御邸の春日から、その墓所をさして、葬列は高圓山の中腹をめぐつて行くのである。
 春野燒野火登見左右 ハルノヤクノビトミルマデ。葬列の火の譬喩。夜に入つて通過されると見える。
 燎火乎 モユルヒヲ。モユルヒは、葬列の火である。但し何の火かあきらかでないよしに詠んでいる。
(633)何如問者 イカニトトヘバ。道行く人に對して設問したことになつている。
 玉桙之 タマホコノ。枕詞。道に冠する。
 這來人乃 ミチクルヒトノ。かなた高圓山の方から來る人の意。
 泣涙※[雨/脉]?尓落 ナクナミダコサメニフリ。??は、漢文からの熟字で、詩經文選等に見え、小雨の義で、本集には「吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將2染?1《シミヒヂム》 今日之??爾《ケフノコサメニ》 吾共所v沾名《ワレサヘヌレナ》」(卷七、一〇九〇)、「彼方之《ヲチカタノ》 赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》 ??零《コサメフリ》 床共所v沾《トコサヘヌレヌ》 於v身副我妹《ミニソヘワギモ》」(卷十一、二六八三)とも使用されている。また?一字のみでは、「伊夜彦《イヤヒコ》 於能禮神佐備《オノレカムサビ》 青雲乃《アヲグモノ》 田名引日良《タナビクヒラニ》 ?曾保零《コサメソホフル》」(卷十六、三八八三)とある。これらはいずれもコサメと訓し小雨の義である。但し、字義はそうであつても、この歌や、二六八三の歌などでは、大雨の義に誤用したかとも見られる。そう見ればヒサメと讀むべきである。「文字集路云、霈。大雨也。日本紀私記云、大雨【比佐女】」(倭名累聚鈔)ここでは泣く涙が雨の如くに降りの義で、譬喩である。
 白妙之衣?漬而 シロタヘノコロモヒヅチテ。シロタヘは白色の織物であるが、ここも實寫と見える。葬儀に關係する人を描いている。ヒヅチテは、水にびたびたになるをいい、ここは涙のために、衣服も濡れるので、上の泣ク涙小雨ニ降リを受けている。
 立留 タチトマリ。上の、道來る人の動作である。
 吾尓語久 ワレニカタラク。カタラクは、語ることの意。上の、イカニト問ヘバを受けている。
 何鴨本名言 ナニシカモモトナイフ。イツシカモモトノナトヒテ(西)、ナニシカモモトナイヒツル(考)、ナニシカモモトナイヘル(玉)、ナニシカモモトナイフ(新考)。以下終りまで、道來る人の言として、火光の説明に借りて皇子の葬儀のことを説く。心ゾ痛キまで六句、二句ずつでおのおの一文を成している。シは強意の助詞。カモは疑問の係助詞。イフがこれを受ける。モトナは、根據無く、わけも無く、よしなく、みだりに(634)などの意の副詞で、何とてよしなく尋ねたまうぞの意(母等奈考山田孝雄氏)、とされていたが、モトナは、この意では解し切れないものがある。「於毛比都追《オモヒツツ》 奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 比等欲毛意知受《ヒトヨモオチズ》 伊米尓之見由流《イメニシミユル》」(卷十五、三七三八)、「水咫衝石《ミヲツクシ》 心盡而《ココロツクシテ》 念鴨《オモヘカモ》 此間毛本名《ココニモモトナ》 夢西所v見《イメニシミユル》」(卷十二、三一六二)などのように、よしなくというような消極的な氣分でなく、積極的な氣もちをモトナと批評しているものがある。すべての例を集めて考えるに、モトは、根本、根幹の意。ナは、無ではなく、語勢の助詞であるようであつて、使用された場所によつて、切に、切實に、心からとも、またよしなくとも釋すべきものと推考される。ここは、何シカモ言フの意を、ほんとに困つたことだぐらいに強調する。句切。
 聞者泣耳師所哭 キケバネノミシナカユ。この事に關して言うを聞けは泣かれるばかりである。キケバは、問を起されたのに對していう。ネノミシナカユは、熟語句、泣かれてしかたがないの意で、集中用例が多い。句切。
 語者心曾痛寸 カタレバココロゾイタキ。これについて語れば、心が悲まれる。上の、聞ケパ音ノミシ泣カユの句と對句を成しているが、句形が變わつていて形式的でないのがよい。句切。
 天皇之 スメロキノ。スメロキは、天皇の汎稱で、ここは前代の天皇、天智天皇をさす。
 神之御子之 カミノミコノ。カミノミコは、薨去に依つて神となつた御子の義で、志貴の皇子のこと。
 御駕之 イデマシノ。駕は乘り物の義で、イデマシは、葬儀の行をいうい
 手火之光曾 タビノヒカリゾ。タビは、日本書紀神代の上に「秉炬、此云2多妣1」とある。手に持つ火の義で葬列の人の炬火である。ゾは係助詞。
 幾許照而有 ココダテリタル。ココダは許多。上の、高圓山に燃ゆる火に不審を起して問うさまに構想したのを受けて、これを説明している。
(635)【評語】高圓山の火を見て問を起し、これに答えるさまを以つてした全體の構成は、よく效果を收めていを。答の部分に、何シカモ以下短文を重ねて急迫した感情を描き、これを受けて送葬の火であることをあきらかにした手段も非凡といえる。人麻呂の敍事詩風なすぐれた挽歌以外に、別の境地をひらいた作というべきである。
 
短歌二首
 
231 高圓《たかまと》の 野邊の秋はぎ、
 いたづらに 咲きか散るらむ。
 見る人無しに。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊秋※[草冠/互]子《ノベノアキハギ》
 徒《イタヅラニ》 開香將v散《サキカチルラム》
 見人無尓《ミルヒトナシニ》
 
【譯】今は皇子もおいでにならないので、高圓山の野邊に咲きほこる秋ハギの花も、見て愛する人もなくて、いたずらに散つてしまうのであろうか。
【釋】高圓之野邊秋〓子 タカマトノノベノアキハギ。長歌の高圓山を受けているが、ここではおりからの風物としてこれを出している。
 徒 イタヅラニ。無用に、かいも無くの意の副詞。
 開香將散 サキカチルラム。カは係助詞。咲くことをしてか今は散るならむの意。「和我夜度乃《ワガヤドノ》 波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》 伊多都良爾《イタヅラニ》 知利可須具良牟《チリカスグラム》 見流比等奈思爾《ミルヒトナシニ》」(卷十五、三七七九)などと同樣の語法である。句切。
 見人無尓 ミルヒトナシニ。ミルヒトは、皇子をさす。愛賞する人無しにの意。
【評語】君無くしては、自然の存在も意義のないことが歌われている。長歌の内容とは別の方面が歌われてい(636)るのは、一手段である。
 
232 御笠山 野邊《のべ》行く道は、
 許多《こきだく》も 繁く荒れたるか。
 久《ひさ》にあらなくに。
 
 御笠山《ミカサヤマ》 野邊往道者《ノベユクミチハ》
 己伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シゲクアレタルカ》
 久尓《ヒサニ》有《アラ・ナラ》勿國《ナクニ》
 
【譯】春日の御笠山を行く野邊の道は人も通らないので、日數も多く經つていないのに、非常に草繁り荒れている事であるよ。
【釋】御笠山 ミカサヤマ。春日神社の背後の山で、高圓山の北に當る。志貴の皇子は、後の謚號を、春日の宮の天皇と申し、宮殿が春日にあつたと推考されるので、附近の御笠山が堤示されたのであろう。
 野邊往道者 ノベユクミチハ。御笠山の在る野邊を行く道で、皇子の生前御通行になつた道をいう。
 己伎太雲 コキダクモ。コキダクは、許多の意のコキダに、體言であることを示すクが接續したもの。更に助詞モが接續して副詞となつている。雲は訓クモに借りている。コキダの例は、本集に他にはない。
 繁荒有可 シゲクアレタルカ。シジニアレタルカ(略)、シゲリアレタルカ(新考)。シゲクは、草の繁茂せる?をいう。カは感動の助詞。草繁くして荒廢したることよの意。句切。
 久尓有勿國 ヒサニアラナクニ。ヒサは久しき時。久しい時ではないのだ。皇子の生前の時からまだ久しくたたないのだ。薨後、送葬の頃になつて詠んだ歌であることが知られる。
【評語】これも長歌と別の方面について歌い、前の歌と同じ思想を詠んでいる。皇子の御在世と薨去とによつて、野邊ゆく道の變化を説いているが、それはただ主觀上の問題であつて、荒廢を感じているのは、作者の心のことである。皇子無くして山野も荒廢して感じられる由を詠んでいる。
 
(637)右歌、笠朝臣金村歌集出
 
右の歌は、笠の朝臣金村の歌の集に出づ。
 
【釋】右歌 ミギノウタハ。前出の靈龜元年云々の題下の長歌一首短歌二首をさす。
 
 笠朝臣金村歌集出 カサノアソミカナムラノウタノシフニイヅ。笠の朝臣金村の歌集は、この外、卷の三、六、九にも見え、萬葉集の編者は、その集から歌を採録している。その集の歌は、おおむね金村の作と見てよく、ただ贈答の場合などは、他人の作をも記載していると認められる。また本集中、題詞に笠の朝臣金村の作と記したものも、おおむねその歌集から採録したものの如くである。この事は、柿本の人麻呂の場合などに準じても考えられることである。その集には天平五年の作まであり、ここにその集の歌を載せているのは、勿論その後の探録であつて、ここにも本卷も數次の編に成つていることが考えられる。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。以下二首が、前掲の二三一、二三二の歌に似ているので、或る本によつて摘記している。その或る本というのがいかなる書であるかは不明である。また次の二首が、同じく志貴の皇子の薨去の時の作としていたかどうかも不明であるが、別の時の作とするならば、その旨を註記したであろう。同じ時の作としているか、または作歌事情に關して説明が無いかであろう。
 
233 高圓の 野邊《のべ》の秋はぎ な散りそね。
 君が形見に 見つつ偲《しぬ》はむ。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋〓子《ノベノアキハギ》 勿散祢《ナチリソネ》
 君之形見尓《キミガカタミニ》 見管思奴播武《ミツツシヌハム》
 
(638)【譯】高圓の野邊の秋ハギよ、散つてはいけない。君の形見として見つつお慕い申しあげよう。
【釋】勿散祢 ナチリソネ。ナは禁止の助詞。句切。
 君之形見尓 キミガカタミニ。君の形見として。記念の遣物として。
 見管思奴播武 ミツツシヌハム。シヌハムは、思慕しよう。シノフのシの下の菅は、怒の類の文字を以つて表示すべき音韻であるのに、ここに奴を使用したのは違例である。これは時代がやや後れてこれを記載したためででもあろう。
【評語】二三一の歌の參考として掲げた歌であるが、三句以下の相違は相當に多く、別の歌として見るべきである。遣物に對して、變化しないようにと希望した歌は多く、内容は常套であるが、哀情は描かれているようである。
 
234 三笠山 野邊ゆ行く道、
 許多《こきだくも》も 荒れにけるかも。
 久にあらなくに。
 
 三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ノベユユクミチ》
 己伎太久母《コキダクモ》 荒尓計類鴨《アレニケルカモ》
 久尓有名國《ヒサニアラナクニ》
 
【譯】三笠山の野邊を通つて行く道は荒れたことだなあ。久しくは無いのだが。
【釋】三笠山 ミカサヤマ。御笠山に同じ。三の義はなく、ミは美稱である。
 野邊從遊久道 ノベユユクミチ。ノベユは、野邊を經過して。
 己伎太久母 コキダクモ。卷二、二三二參照。
 荒尓計類鴨 アレニケルカモ。荒れてしまつたことを歎いている。句切。
(639) 久尓有名國 ヒサニアラナクニ。卷二、二三二參照。
【評語】二三二の歌の別傳で、二句と四句とに相違がある。野邊ユ行ク道の句は、三笠山を目標として野邊を通つて行く道の説明がよく出ている。四句も詠嘆の氣分が強く感じられる。
 
萬葉集卷第二
    〔2009年9月29日(火)午後4時20分、巻二入力終了、2015年2月12日(木)午前11時5分、全巻校正終了〕
 
増訂萬葉集全註釋 四 卷の三、479頁、480円、角川書店、1957.2.0(1958.3.20.2p)
 
〔目次省略〕
 
萬葉集卷第三
 
(17) 卷の一と二とが、何天皇の代という標示をかかげ、また年號を立てて、雜歌、相聞、挽歌の三類の歌を集め、一往の體制を完成しているのに對して、卷の三以下は年號を立てることはあるが、御宇の標示なく、ただほぼ時代の古いものから順次に歌を掲載している。そうして卷の三に雜歌、譬喩歌、挽歌、卷の四に相聞の類を立て、この二卷で、またほぼ體制を完成している。御宇の標目を立てなかつたのは、何の御代の歌とすべきか明瞭でないものが多かつたからであろう。卷の三の卷頭の歌の如きも、天皇御遊雷岳之時云々の題詞があるが、いずれの天皇の御事蹟とも明確に指示しがたいのは、資料のままで、時代を判斷することが困難であつたのだろう。
 卷の三の歌は、國歌大觀の番號によれば、二三五から四八三までであるが、ほかに或本歌、一本歌の完全なもので番號のないのが三首あつて、歌數は合わせて二百五十二首である(一首の全き形を備えないものは數に入れない)。その類別による計數は次の通りである。
  雜歌   長歌一四  短歌一四四
  譬喩歌        短歌 二五
  挽歌   長歌 九  短歌 六〇
  合計     二三    二二九
 歌の時代は、挽歌の初めにある聖コ太子の御歌がもつとも古いが、そのような古い歌はその一首だけで、他(18)は持統天皇の御代以後の歌であり、奈良時代の歌が大多數を占めている。一番新しい歌と見られるのは、挽歌の最後にある、七月二十日の作という高橋某の歌であるが、しかしその年は、天平十六年であるか否か、明白でない點もあるので、これを除外すれば、その前にある大伴の家持の天平十六年三月の歌が、明白なものの最後になる。
 文字使用法は、表意文字を主とし、これに交えるに、特殊の語や助詞、助動詞などに當てて表音文字を使用している。その表音文字は、字音假字が多く、訓假字は主として慣用のものを使用している。わりあいに文字を惜しまずに丁寧に書いているが、それでも難讀のものがあり、それらは、おもにすくない文字で書かれたものであつて、それは資料のままにその書き方を傳えているようである。
 この卷は、仙覺本系統以外の傳本が極めてすくない。元暦校本は全くなく、わずかに金澤本が小部分を存しているに過ぎない。そのほかには、神田本と細井本の一部とがある。細井本は普通の卷の三のほかに、また卷の四の後半の代わりにこの卷の三の三三七の青山之嶺乃白雲の歌以後を收め、その部分は、仙覺本系統以外に屬する。今これを細井本の二種と稱する。類聚古集と古葉略類聚鈔とは、例によつて若干の歌を載せ、貴重な校勘資料となつている。
 有名な作家には、柿本の人麻呂、大伴の旅人、山部の赤人などがあり、大伴の坂上の郎女、大伴の家持も擡頭して來た。無名作家にも相當の名作を傳えたものがあるが、一方に平凡な類型的な歌もようやく多くなつている。わずかに一角に口誦文藝たる歌謠の面影を存しているだけで、大體は既に文筆作品の世界となつている。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。クサグサノウタ。既に卷の一の卷頭の雜歌の項に述べたように、相聞、挽歌等の他の部(19)類に入らない歌を集めている。この卷には譬喩歌の類も立ててあるので、その類も雜歌には入れないことと思われる。この雜歌の一行の存否については、これをもたない傳來はないが、これは、この卷が古本系統の本を傳えないために、最古の姿と思われるものが窺われない。文獻的にはこの一行を否定すべき根據をもたないのである。
 
天皇、御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
天皇の雷《いかづち》の岳《をか》に御遊《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】天皇 スメラミコト。何天皇の代という標記がないから、いずれの御方とも定めがたい。ただ柿本の人麻呂の作であることと、配列の順序とによつて推測を下すまでである。人麻呂の作品中、時代のあきらかなものは、持統天皇の御代以後であり、人麻呂歌集の作中では、天武天皇の八年の作と推考されるもの(卷十、二〇三三)がもつとも古い。配列の順序からいえば、ほぼ時代順になつていると考えられる雜歌の最初にあつて、長の意吉麻呂等の歌の前に置かれている。これらの事情を綜合すれば、天武天皇または持統天皇の御事とすべきである。持統天皇の御事とする説は、次の歌の天皇が、志斐の嫗との問答であるから持統天皇であるとすることが考慮に入れられるが、それは確説とはしがたく、要するに未詳とするほかはない。歌の内容からすれば、むしろ天武天皇の御事とすべきが如くである。いずれにしても、明日香の宮に皇居のあつた時代のことであろう。
 御遊雷岳之時 イカヅチノヲカニイデマシシトキ。御遊は、天皇の行幸であるから御の字を附ける。遊は遊幸の義。行幸と同じに讀んでよい。雷岳は、歌詞に「雷之上爾」とあり、左註の歌に「伊加土山爾」とあつて、雷をイカヅチと讀むべく、岳は、岳本天皇など、この字の使用例によつて、ヲカと讀むべきである。日本書紀(20)雄略天皇七年七月の紀に「天皇、小子部《ちひさこべ》の?贏《すがる》に詔して曰はく、朕《われ》三諸《みもろ》の岳《をか》の神の形を見まく欲《おも》ふ。【或るは云ふ、この山の神を大物主の神となせり。或るは云ふ、菟田の墨坂の神なり】」とて、これを捕えしめたが、その威あるをもつて岳に放たしめ、よつて改めて名を賜わつて雷《いかづち》としたとある。この記事における三諸の岳は、三輪山と解せられるようであるが、この説話は、日本靈異記にも載せていて、その記事によれば、雄略天皇の朝、小子部の栖輕(?贏に同じ。字が違うだけである)に命じて雷を捕えしめたので、栖輕が宮から退出して、額《ぬか》に緋《あけ》の蘰《かづら》を著《つ》け、赤い幡桙《はたほこ》をフ《ささ》げ、馬に乘つて、阿部の山田の道を通つて輕《かる》の諸越《もろこし》の衢《ちまた》に至つたが、雷は、豐浦寺《とよらでら》と飯岡《いひをか》とのあいだに落ちた。その落ちた處を、今雷の岡と呼び、それは古京の小治田《をはりだ》の宮の北にあるとしている。これは雷の岳の所在を語るものとして有力な資料である。この岡は、奈良縣高市郡飛鳥村にあり、飛鳥川の東岸の小丘である。歌詞に廬するとあり、家屋があつたことと思われるが、離宮であるか否かを詳にしない。イカヅチのイカは、イカメシのイカに同じく、嚴威を意味し、ツチは、迦具士《かぐつち》、野椎《のづち》などのツチに同じく、神靈を意味する。よつて雷電を尊んでイカヅチという。
 
235 皇《おほきみ》は 神にしませば、
 天雲《あまぐも》の雷《いかづち》の上に
 廬《いほり》するかも。
 
 皇者《オホキミハ》 神二四座者《カミニシマセバ》
 天雲之《アマグモノ》 雷之上尓《イカヅチノウヘニ》
 廬爲流鴨《イホリスルカモ》
 
【譯】わが大君は神樣でおいでになるので、大空の雲の中なる雷の上に廬を遊ばされることである。
【釋】皇者神二四座者 オホキミハカミニシマセバ。既出(卷二、二〇五)。天皇は、本質的に神ではないが、それを超越してただちに神であると感ずる思想を表示する。シは強意の助詞。異常な内容を語る條件法の句。
 天雲之 アマグモノ。アマグモは、天空における雲の謂であつて、雲を生態的に言つている。次句の雷に對(21)する修飾句。
 雷之上尓 イカヅチノウヘニ。事實は、雷の岡の上にであるが、その雷の岡を、ここでは實物の雷に取りなしている。
 廬爲流鴨 イホリスルカモ。イホリセルカモ(槻)。イホリスルは、假屋を作つて入る意。イホリセルカモ、イホラセルカモ等の讀み方もあるが、イホリスルカモが、字についた順當な讀み方で、しいて異を求めるに及ばない。天皇の御行動であるが、歌中では敬語を附けない言い方もあり、その方が率直感を現わすのである。「大君は神にし坐《ま》せば赤駒《あかごま》のはらばふ田居《たゐ》を都となしつ」(卷十九、四二六〇)等、敬語を使つていない。
【評語】大君は神ニシマセバの句の下には、普通の人のなし得ないことをなされる意味のことを述べるのが通例である。この歌では、雷の岳という名の岡に行幸せられたことを、その雷の名からして、仰山に雷の上に廬をなされると歌つた所が、大げさな感じを與えるのである。勿論それは言語上の遊戯感が強くあるけれども、驚いたように一氣に歌い下した所に力強さのほどが窺われる。しかもその岡は雷神の落ちた處であつて、その神靈が宿つていると信じられているのであるから、その上に廬をすることは、異常の威力でなければならない。大君ハ神ニシマセバの句は、既に壬申の年の平定の後の歌として二首まで傳えられており、人麻呂の創始とは云いがたく、歌いあげられる歌の名句として流傳した句と推測される。その句を使用して、即座に帝コ讃嘆の意を歌つたものなるべく、歌いものふうの性格の存する歌である。
 
右或本云、獻2忍壁皇子1也。其歌曰、
 
王《オホキミハ》 神座者《カミニシマセバ》 雲隱《クモガクル》 伊加土山尓《イカヅチヤマニ》 宮敷座《ミヤシキイマス》
 
右は或る本にいふ、忍壁の皇子に獻れるなりといへり。その歌に曰はく、
 
(22)王は 神にし坐せば、雲隱る 伊加土山に 宮敷きいます。
 
【釋】或本云 アルマキニイフ。別の資料によつて、類似の歌詞より成る歌を註している。或る本と稱する中には、柿本朝臣人麻呂歌集をも含んでいることは、この下の「三吉野之《ミヨシノノ》」(卷三、二四四)の歌によつても證せられる。ここに獻忍壁皇子とあるのは、人麻呂歌集所出の「常之倍爾《トコシヘニ》」(卷九、一六八二)の歌にも同例があり、またこの歌がすくない字數で書かれていることは、人麻呂歌集の用字法と一致している。以上の諸點からいえば、ここに或る本というのは、柿本朝臣人麻呂歌集のことであろうかとも考えられる。
 忍壁皇子 オサカベノミコ。天武天皇の皇子。慶雲二年五月薨去であるから、その以前の作歌である。
 王神座者 オホキミハカミニシマセバ。上の本文の歌に照らして、讀み方は決定的であるが、これによれば、助詞ハ、ニ、シを讀み添えることになり、字數のすくない歌を讀む上の一指針を與える。
 雪隱 クモガクル。舊訓クモガクレ、童蒙抄にクモガクリ、槻落葉にクモガクルと讀んでいる。動詞隱ルは、古くは四段活であつたから、中止形クモガクリ、連體形クモガクルである。クモガクリと讀めば、五句の宮敷キイマスに懸かることになり、忍壁の皇子の行爲になつて、皇子の薨去を意味する。薨去を雲隱ルというは、「百傳《ももづた》ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨《かも》を今日のみ見てや雪隱りなむ」(卷三、四一六)は大津の皇子の御歌で、御自身の死のうとすることを、雲隱リナムという。また「大君の命かしこみ大荒城《おほあらき》の時にはあらねど雲隱ります」(卷三、四四一)は、長屋の王の薨去を歌つている。これによれは、忍壁の皇子が薨去せられて、伊加土山に御墓を作られたことを歌つたことになる。又皇子の親しい方の薨去された時に、皇子に獻つた歌とも解せられるが、伊加土山に墓所を設けると見るべき點は同一である。然るに伊加土山は、木文の雷の岡と同處と見るべく、さような雷の神靈があると信じられている處に墓を築くことはあり得ない。このゆえに、クモガクルと讀んで、次の句の伊加土に對する修飾句とすべきである。これは本文における天雲ノ雷というと同樣の形態で、この點か(23)らも適當と考えられる。
 伊加土山尓 イカヅチヤマニ。他に聞えた山なく、木文題詞の雷の岡と同じ山と考えられる。本文には雷として取り扱つているが、ここには山名を出しており、壯大感において劣り、眞實感において勝つている。
 宮敷座 ミヤシキイマス。シキは、平面を占據するにいう動詞。イマスは御座あるの意。宮殿を構築されるをいう。
【評語】本文の歌に比して、率直に云つている點に落ちつきがある。この歌の方が原形で、後にこれを歌い改めて彼の天雲ノ雷ノ上ニの壯大な句を得たように見られる。そうとすれば彼の歌の方がこれよりも後ということになるが、これは推測に過ぎないことはいうまでもない。
 
天皇、賜2志斐嫗1御歌一首
 
天皇の、志斐の嫗《おみな》に賜へる御歌一首。
 
【釋】天皇 この天皇もいずれの御方か不明である。前の歌の天皇と同じ方であるか否かも決せられない。從來多く持統天皇の御事と解しているのは、事が志斐の嫗との問答であるからであるが、老女と問答されたから女帝であるとはいえない。次の長の意吉麻呂は、大寶二年の持統太上天皇の參河行幸の時の歌を傳えており、その頃の人と知られるが、それによれば、溯れば天武天皇、それから持統天皇、降れば文武天皇の三代のうちであろう。
 志斐嫗 シヒノオミナ。次の歌の題詞の下に「嫗名未詳」とあり、名が未詳であるとすれば、志斐は氏か稱號(地名、通稱など)かであるが、まず氏であろう。氏とすれば、當時、志斐を氏とするものに、中臣の志斐の連と阿部の志斐の連とがある。中臣の志斐の連は、元明天皇の和銅二年の賜姓であるから、それを溯らせて(24)ここに記したとは考えられない。阿部の志斐の連は、大彦の命の後であるが、その氏名について、新撰姓氏録に、「阿部の名代、天武天皇の御世、楊花を獻る。勅したまはく、何の花ぞ。名代奏して曰はく、辛夷花《こぶし》なり。群臣奏して曰はく、こは楊花なり。名代なほ強《し》ひて辛夷花と奏す。因りて阿部の志斐の連を賜ひき」と見える。ヤナギの花を獻じてしいてコブシの花と奏したので志斐の氏を賜わつたというは、志斐の嫗の強語と縁故があるかも知れない。嫗はオミナ。老女の義である。
 御歌 オホミウタ。天皇の御製であるから、御歌とあるは、例に違う。しかし古事記などには御歌とあり、これも資料のままを踏襲したものであろう。誤りとするに至らない。
 
236 否といへど 強《し》ふる志斐のが 強語《しひがたり》、
 このごろ聞かずて われ戀ひにけり。
 
 不v聽跡雖v云《イナトイヘド》 強流志斐能我《シフルシヒノガ》 強語《シヒガタリ》
 此者不v聞而《コノゴロキカズテ》 朕戀尓家里《ワレコヒニケリ》
 
【譯】否というのに、無理に強いる話をする志斐のが、強い話を、このごろは聞かないので、聞きたく思うようになつた。
【釋】不聽跡雖云 イナトイヘド。聽は聽許の義。不聽で、欲しない意をあらわす。志斐の嫗の強語を聞くことを欲しないというのである。イナは、集中、多く不欲の字を書いているが、ここはとくに不聽の字を用いたのだろう。
 強流志斐能我 シフルシヒノガ。シフルは、上二段活の動詞強フの連體形。強要する意である。次の句の強語を修飾する語。シヒノは、志斐は氏の名。ノは、附け添えた接尾語。親愛の意をあらわす。「夫《せ》なのが袖もさやに振らしつ」(卷十四、三四〇二)、「妹《いも》のらに物云はず來にて思ひかねつも」(同、三五二八)等がある。この語あるいは俗語であろう。なお「級離《しなざか》る越の君らと」(卷十八、四〇七一)も、通行本には吉美能登となつ(25)ているが、この能は古本に良とある方がよいので、この語の證にはならない。
 強語 シヒガタリ。他の欲すると否とに拘らず、強いてする物語。この嫗が話ずきで話をしてやまないのをいう。その強語の内容は不明である。傳承した古い物語とも解し得るが、それには限定されない。語の字は、本集ではコトとも讀むが、多くはカタリと讀んでいる。若干の内容を有する言語の意に使用されている。
 比者不聞而 コノゴロキカズテ。コノゴロは、集中、比者、比日と書く。比に此の字を用いる本もあり、ここもそうであるが、これは誤りで、皆古本によつて修正される。
 朕戀尓家里 ワレコヒニケリ。朕の字は、漢土では古く一般の第一人稱に用いられていたが、秦の始皇帝に至つて、皇帝の自稱と定め、爾來それによつている。志斐の嫗の物語を聽かないこと久しくして、それを戀しく思うとの御心を述べられている。
【評語】この歌の二三句は、シを頭韻としている。シは發音しにくい音であるから、わずかに三箇であるが、強い效果を生じている。志斐の嫗に對して輕く揶揄される御心が、頭韻を利用してよく表現されている。頭韻の例は卷の一、二七の歌の條參照。
 
志斐嫗奉v和歌一首 嫗名未v詳
 
志斐の嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 【嫗の名はいまだ詳ならず。】
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。既出(卷一、七七)。天皇に對して敬意を表して奉和と書いている。和は唱和の義。
 嫗名未詳 オミナノナハイマダツマビラカナラズ。萬葉集の編者の加えた註記であろう。
 
(26)237 否《いな》といへど
 語れ語れと 詔《の》らせこそ、
 志斐いは奏《まを》せ。
 強語《しひがたり》と詔《の》る。
 
 不v聽雖v謂《イナトイヘド》
 話禮話禮常《カタレカタレト》 詔許曾《ノラセコソ》
 志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》
 強話登《シヒガタリト》言《ノル・イフ》
 
【譯】申し上げませんというのに、語れ語れと仰せになればこそ、この志斐は申し上げるのでございます。しかるに強語《しいがたり》と仰せになるのは、さかさまでございます。
【釋】不敢雖謂 イナトイヘド。敢は神田本による。他本は聽に作つている。不聽でも訓に變化はないが、ここのイナは、承諾しないではなく、進んで事をしない義であつ(27)て、不敢とある方が、よくその意にかなう。前の御歌の初めを取つている。贈られた歌の詞句を取り用いるのは、返し歌の原則である。しかし意味は違つて、申し上げまいと申せどの意になつている。
 話禮話禮常 カタレカタレト。カタレは話をせよの意。重ねたのは、強《し》いる意をあらわしている。天皇こそお強い遊ばすの意を含めている。
 詔許曾 ノラセコソ。ノラセは、動詞ノルの敬語ノラスの活用で、コソを伴なつて條件法になる。詔らせばこその意。仰せになればこそ。但し、バを略したものではない。便宜上バを補つて解するまでである。「然爾有許曾《シカナレコソ》」(卷一、一三)の條參照。
 志斐伊波奏 シヒイハマヲセ。志斐は作者の氏。イは助詞で語勢でつける。本集における例を擧げると、「紀《き》の關守《せきもり》い留《とど》めなむかも」(卷四、五四五)、「後れたる菟原壯士《うなひをとこ》い、天仰ぎ叫びおらび」(卷九、一八〇九)、「過ぎにし戀《こひ》い亂れこむかも」(卷十二、二九二七)、「家なる妹いおほほしみせむ」(同、三一六一)、「わが戀ふる公《きみ》いかならず逢はざらめやも」(卷十三、三二八七)、「母い守れども魂《たま》ぞ會ひにける」(卷十四、三三九三)。なお、イをもつて主格を示す助詞と見る説があるが、次の如き用例のあるによれば、語勢によつてつける助詞で、主格につくことが多いものとすべきである。「玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》」(卷三、四八一)。マヲセは、コソを受けて、已然形で止めている。マヲスは、下位の者から言上するにいう。句切。
 強話登言 シヒガタリトノル。前の歌の三句を受けている。言は、天皇の仰せとする意によつてノルと讀むが、イフとも讀まれる。澤瀉博士にイフと讀むべしとする説がある(萬葉)。それにはノルが、かならずしも敬語ではないことを論じている。
【評語】お互にそちらが強いるのであると云いあつた、仲のよい戯《ざ》れ言である。志斐の嫗の歌は、強いて歌にした傾きがあつて、多少窮屈なところがあるのは、返歌としてやむを得まい。
 
(28)長忌寸意吉麻呂、應v詔歌一首
 
長の忌寸意吉麻呂の、詔に應ふる歌一首。
 
【釋】長忌寸意吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。既出(卷一、五七)。藤原の宮時代の人。即興の歌をよくした人。この人の名は、卷の一(五七)、また下(卷三、二六五)、卷の十六(三八二四左註)には、奧麻呂と書いている。姓名を書くに當つて、古人は、文字に拘泥しなかつた。かような例は數多くある。
 應詔歌 ミコトノリニコタフルウタ。應詔は、海犬養宿禰岡麻呂應詔歌一首(卷六、九九六)以下十數出している。天皇の詔命に應答する意である。その場合に、多數の人が歌を詠んでいるのは、歌を作れとの詔命であるが、然らざる君命に對しても、即興の歌をもつて御答え申しあげることはあつたのである。長の意吉麻呂は、大寶年間の作歌を傳えている人であるが、この詔は、文武天皇の詔であるか否かをあきらかにしない。歌意によるに、海濱の離宮での作のようであり、文武天皇慶雲三年の難波の宮への行幸の時とする説があるが、決定しがたいことである。何天皇の御世にもせよ、海濱の離宮で海濱の物聲について御下問があつたのに對して、意吉麻呂が即興の作をもつて御答え申しあげたものと解せられる。類聚古集、西本願寺本等、詔の上に一字分の空白のあるのは、闕字《けつじ》の禮である。
 
238 大宮の 内まで聞ゆ。
 網引《あびき》すと
 網子《あご》ととのふる 海人《あま》の呼|聲《ごゑ》。
 
 大宮之《オホミヤノ》 内二手所v聞《ウチマデキコユ》
 網引爲跡《アビキスト》
網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》
 
【譯】網引きをするとて、網ひく人どもを整えている、海人の呼ぶ聲が、大宮のうちまで聞えます。
(29)【釋】大宮之 オホミヤノ。オホミヤは、皇居の義であり、この場合、全一首の内容から推して、海濱の宮殿であることが知られ、當時は大和の國に帝都のあつた時代であるから、離宮または行宮であることが推測される。
 内二手所聞 ウチマデキコユ。二手をマデと讀むことについては、「幾代左石二賀《イクヨマデニカ》」(卷一、三四)の條に記した。二手の字面も、既に「千代二手《チヨマデ》」(卷一、七九)の句に見えている。二手は左右の手で、眞手《マデ》の義から、助詞のマデをあらわすために借りたのである。句切。
 網引爲跡 アビキスト。アビキは網を引くこと。今日の地曳網《ぢびきあみ》の漁法と同じであろう。綱引きをするとて。
 網子調流 アゴトトノフル。アゴは網を引く人。トトノフルは、調整する。網引く人を適當に指揮する意。
 海人之呼聲 アマノヨビゴヱ。網子を整えるために發する海人の發聲。指導の位置に立つ者の發聲である。綱引きをするとて網子を調整する漁人の呼聲である。體言の文。大宮の内まで聞えると上に述べたことの説明。
【評語】早曉と思われる海濱の離宮の光景が、髣髴《ほうふつ》として浮んで來る。意吉麻呂作品中の傑作であろう。大伴の家持に「朝|床《どこ》に聞けばはろけし、射水《いみづ》川朝|榜《こ》ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(卷十九、四一五〇)があるが、規模は、はるかにこの歌に及ばない。詔に應じて即座に詠んだ歌と認められる。アの頭韻が全體の空氣を明るくしている。
 
右一首
 
【釋】右一首 ミギノヒトツ。本集には、しばしば左註において、作者、作歌事情、出處、別傳等に關して記事を成していることは、既に多數の例の出たことである。ここも何かそのような記事があるべきであつて、しかもいまだその記事を作るに至らずしてやんだものと思われる。ほかに、題詞がなくして作歌事情などの相違する場合に、統計的に右何首と書くこともあるが、此處は前後も題詞があつて、他の歌との紛れはないのであ(30)るから、そういう意味での右一首ではないであろう。
 
長皇子、遊2?路池1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
長《なが》の皇子《みこ》の、獵路《かりぢ》の池に遊《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。天武天皇の皇子。靈龜元年六月薨。
 遊 イデマシシ。出で遊ぶ意。この下に獵の字を脱すとする説(槻落葉)があるが、なくて意を成す所である。歌詞によれば、狩獵にお出ましになつたのである。
 ?路池 カリヂノイケ。奈良縣磯城郡の南端、多武《たむ》の峯の山中なる鹿路《ろくろ》の地であるという。歌詞には獵路の小野とある。
 
239 やすみしし わが大王《おほきみ》
 高光る わが日の皇子の、
 馬|竝《な》めて み獵《かり》立たせる
 弱薦《わかごも》を 獵路《かりぢ》の小野に、
 鹿猪《しし》こそは い匍《は》ひ拜《をろが》め。
 鶉《うづら》こそ い匍《は》ひもとほれ。」
 猪鹿《しし》じもの い匍《は》ひ拜《をろが》み、
 鶉なす い匍ひもとほり、
 かしこみと 仕へ奉《まつ》りて、
(31) ひさかたの 天《あめ》見るごとく、
 まそ鏡 仰ぎて見れど、
 春草の いやめづらしき
 わが大王かも。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高光《タカヒカル》 吾日乃皇子乃《ワガヒノミコノ》
 馬竝而《ウマナメテ》 三獵立流《ミカリタタセル》
 弱薦乎《ワカゴモヲ》 獵路乃小野尓《カリヂノヲヌニ》
 十六社者《シシコソハ》 伊波比拜目《イハヒヲロガメ》
 鶉已曾《ウヅラコソ》 伊波比廻禮《イハヒモトホレ》
 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》
 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》
 恐等《カシコミト》 仕奉而《ツカヘマツリテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》
 眞十鏡《マソカガミ》 仰而雖v見《アフギテミレド》
 春草之《ハルクサノ》 益目頬四寸《イヤメヅラシキ》
 吾於冨吉美可聞《ワガオホキミカモ》
 
【譯】いとも尊いわが大君、輝く日の皇子樣が、馬を列ねて御狩にお立ち遊ばされる、若いコモの青々とした獵路《かりじ》の小野に、猪鹿は這つてお辭儀をし、鶉は這い廻つております。その猪鹿のように這つてお辭儀をし、鶉のように這つて廻り、謹み畏まつてお仕え申し上げて、あの廣々とした大空を見るように、澄んだ鏡を見るように仰いで見ても、若草のように一層めで奉るべきわが大君樣でいらつしやいます。
【構成】二段から成つている。第一段、鶉コソイ匍ヒモトホレまで。皇子の出獵のことから起して獵路の小野の?況を敍する。以下第二段、第一段の敍述を利用して皇子の仰ぐべきことを述べる。主眼は第二段にあり、第一段は敍述と第二段の準備をする任務を持つている。同じ作者の石見の國から上つて來る時の歌(卷二、一三一)などと同じ組織である。
【釋】八隅知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出(卷一、三)。ここでは長の皇子を指す。
 高光吾日乃皇子乃 タカヒカルワガヒノミコノ。既出(卷二、一七一)。日ノ皇子は、上のワガ大王の語に同じく、長の皇子を指す。ワガは親しみの意をもつて添えている。下のノは、主格をあらわし、馬竝メテミ獵立タセルに對している。
 馬竝而 ウマナメテ。既出(卷一、四)。
 三?立流 ミカリタタセル。ミカリタタスは、「御獵立師斯《ミカリタタシシ》」(卷一、四九)の句で説明した。タタセルは、(32)立ツの敬語法タタスに助動詞リの接續したその連體形で、下の獵路ノ小野に懸かる。
 弱薦乎 ワカゴモヲ。枕詞であつて插入句である。若いコモを刈る義で、獵路に懸かつている。獵路の池の邊に生えているコモを材料として使つているが、この句と下の春草ノの二句は、季節のものを用いたのであり、この御狩が春のころであつた事を語るもののようである。
 ?路乃小野尓 カリヂノヲノニ。題詞には、獵路の池とあるが、ここには狩獵の場處という處から小野と言つている。ヲは美稱。小野は、大野に對する語ではあるが、狹小の野とは限らない。
 十六社者 シシコソハ。シシは肉の義の語で、轉じて肉の食える獣をいひ、集中、鹿猪の字を當てている。十六は、算術の九九に四四十六というよりして、シシの音聲をあらわすために借りて書いている。「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》」(卷六、九二六)、「所v射十六乃《イユシシノ》 意矣痛《ココロヲイタミ》」(卷九、一八〇四)ともあり、その他、「二二火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三、三二九八)、「不知二五寸許瀬《イサトヲキコセ》」(卷十一、二七一〇)、「八十一里喚?《ククリツツ》 叉物逢登曰《マタモアフトイヘ》」(卷十三、三三三〇)など、いずれも九九を應用した書き方である。社をコソに當てているのは、社には祈願するから、希望のコソから轉じて係助詞にも使用するに至つたものである。
 伊波比拜目 イハヒヲロガメ。イは接頭語、ヲロガメは、動詞ヲロガムの已然形。上のコソを受けて已然形で結んでいる。ヲロガムは、「烏呂餓瀰弖《ヲロガミテ》 菟伽倍摩都羅武《ツカヘマツラム》」(日本書紀一〇二)とあり、禮拜の意の動詞である。鹿猪の有樣を頭を下げて禮拜しているようにと言つたのであつて、皇子に對して鹿猪までも敬意を表しているの意を、下に寓している。下の猪鹿ジモノイ匐ヒ拜ミの句を引き出す役をなしている。
 鶉己曾 ウヅラコソ。上の鹿猪に對して鳥類の代表として鶉を出している。下には「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)とあつて、鹿猪と鶉雉とを對せしめている。このコソも係助詞である。
 伊波比廻禮 イハヒモトホレ。同じくイは接頭語。モトホレは徘徊する意味の動詞で、コソを受けて終止法(33)となつている。これも下の鶉ナスイ匐ヒモトホリを引き出している句である。以上第一段。
 四時自物 シシジモノ。ジモノは、既出。「鴨自物《カモジモノ》」(卷一、五〇)參照。鹿猪たる物のようにの意の枕詞。
 伊波比拜 イハヒヲロガミ。以上二句、上の鹿猪コソハイ匐ヒ拜メの句を受けている。
 鶉成 ウヅラナス。ナスは既出。「玉藻成《タマモナス》」(卷一、五〇)參照。鶉のようにの意の枕詞。
 伊波比毛等保理 イハヒモトホリ。以上二句、上の鶉コソイ匐ヒモトホレの句を受けている。
 恐等 カシコミト。謹み畏まつての意味である。カシコミは、形容詞カシコシのミ活で、山ヲ高ミなどの如く、「−ヲ−ミ」の形の、−ミの部分と同じ形である。わが大君の畏さゆえにとの如き語感がある。トは、引用文を受ける助詞。
 仕奉而 ツカヘマツリテ。人麻呂等の皇子に仕え奉りての意で、下の仰ギテ見レドに續く文脈である。
 久堅乃 ヒサカタノ。既出(卷一、八二)。枕詞。
 天見如久 アメミルゴトク。天を仰ぎて見るが如く。皇子を天に譬えた言い方である。「天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》」(卷二、一九九)。
 眞十鏡 マソカガミ。集中、字音假字で書いたものに、末蘇可我彌、麻蘇可我美があり、その他、麻蘇鏡、眞素鏡、眞祖鏡、眞十鏡、眞鏡、清鏡、白銅鏡、銅鏡、喚犬追馬鏡、犬馬鏡などの字面をマソカガミと讀んでいる。語義については、「眞墨乃鏡《マスミノカガミ》」(卷十六、三八八五)、「眞十見鏡《マソミカガミ》」(卷十三、三三一四)があつて、マソミ鏡の路であり、マソミは、眞澄みの義であると考えられる。鏡を見るというところから、見ルの枕詞になる。
 仰而雖見 アフギテミレド。天見る如く皇子を仰ぎて見れどの意。
 春草之 ハルクサノ。メヅラシに懸かる枕詞。これも季節語を使用している。
 益目頬四寸 イヤメヅラシキ。イヤは、愈の義。いよいよまさつて、メヅラシは、愛《め》づべくある意の形容詞。(34)「伊夜米豆良之岐《イヤメヅラシキ》 烏梅能波奈加母《ウメノハナカモ》」(卷五、八二八)などの用例がある。
 吾於冨吉美可聞 ワガオホキミカモ。皇子を讃嘆して一首を結んでいる。ワガは親愛の意をあらわしている。カモは感動の助詞。
【評語】この歌はまず皇子の狩におでましになつた事を敍し、次にその狩場の光景を敍し、もつて畏み畏みもお仕え申し上げてその尊容を仰ぐ旨を詠んでいる。狩場の即興の歌として、鹿猪や鶉等を材料として侍臣の奉仕している?をよく描きなしている。一二の枕詞で季節の感じを出している點は、矚目の物を利用するものとして注意すべきである。
 
反歌一首
 
240 ひさかたの 天《あま》行く月を 網《あみ》に刺し、
 わが大王《おほきみ》は 蓋《きぬがさ》にせり。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天歸月乎《アマユクツキヲ》 網尓刺《アミニサシ》
 我大王者《ワガオホキミハ》 蓋尓爲有《キヌガサニセリ》
 
【譯】かの大空を行く月を網に刺し取つて、わが皇子樣は衣笠とされておいでになる。
【釋】天歸月乎 アマユクツキヲ。アメユクツキヲ(西)。天空を渡り行く月をの意。歸の字は往の義によつている。この歌、歌經標式に載せて、この句を「阿麻由倶都紀呼《アマユクツキヲ》」としている。アマトブ(天飛ぶ)の例によつて、アマユクと讀むべきである。天に動詞が接續する場合に、各語が獨立語としての意識が強い時には、天をアメと讀むこと、たとえば天知ラスの如きであり、反對に成語として慣用される場合には、天をアマと讀む。
 網尓刺 アミニサシ。萬葉考に、網は綱の誤りであるといつて、ツナニサシと讀んでいる。しかし古本には一つも綱としている本はない。また古寫本では普通、網は〓、綱は〓と書くので、極めて誤りやすい文字では(35)ない。攷證の説により、歌經標式を參考として本のままにあるべきである。網をかけることを網さすというのは、「ほととぎす夜聲なつかし網刺《あみさ》さば花は過ぐとも離《か》れずか鳴かむ」(卷十七、三九一七)、「二上《ふたがみ》の彼面此面《をてもこのも》に網さして吾が待つ鷹を夢《いめ》に告げつも」(同、四〇一三)等見えている。ここは大空を渡る月を網で刺し取る意で、月に網をかけたというのである。
 我大王者 ワガオホキミハ。長歌の末句を受けている。長の皇子をさしていること勿論である。
 蓋尓爲有 キヌガサニセリ。歌經標式によつてキヌガサニセリと讀む。キヌガサは衣笠の義。倭名類聚鈔に、寶蓋を岐沼加散《キヌカサ》と訓し、また「兼名苑(ノ)注(ニ)云(フ)、蓋、岐沼加散《キヌカサ》。黄帝征(チシ)2蚩尤(ヲ)1時、當(リテ)2帝(ノ)頭上(ニ)1有(リ)2五色(ノ)雲1、因(リテ)2其(ノ)形(ニ)1所v造(レル)也」とある。織物にて製し、柄を附けて、貴人の後よりさし掛ける傘である。皇子の行くままに動く月を衣笠に見立(36)てている。セリはしている意。皇子の御行動について敍述した句。
【評語】獵に日が暮れて、君の行かれる處、何處にても月の伴なう?を敍して壯大である。月に網を掛けて衣笠にしたというのは、衣笠の織物であること、網などが用いられていることに深い聯想がある。ヒサカタノという枕詞も、大空を渡る月の廣大な姿をよくあらわしている。壯大の氣を有する歌というべきである。
【參考】別傳、歌經標式。
   如d柿本若子賦2長親王1哥u曰
  比佐可他能《ヒサカタノ》一句 阿麻由倶都紀呼《アマユクツキヲ》二句 阿美爾佐旨《アミニサシ》三句 和我於保岐美婆《ワガオホキミハ》四句 岐努何佐爾是利《キヌガサニセリ》五句
 
或本反歌一首
 
【釋】或本反歌一首 アルマキノヘニカヒトツ。或る本には、前の長歌の反歌として、次の歌がつけられているというのである。この或る本が何であるか、またその性質等は、不明である。また前のヒサカタノ云々の歌の代わりにこれがあるのか、ヒサカタノの歌と竝んでこれが反歌とされているのかも不明である。
 
241 皇《おほきみ》は 神にしませば、
 眞木の立つ 荒山中に
 海をなすかも。
 
 皇者《オホキミハ》 神尓之坐者《カミニシマセバ》
 眞木之立《マキノタツ》 荒山中尓《アラヤマナカニ》
 海成可聞《ウミヲナスカモ》
 
【譯】皇子樣は神樣でおいでになるのでか、見事な木の立つ荒い山中に海をお作りになることですなあ。
【釋】皇者神尓之坐者 オホキミハカミニシマセバ。既出(卷二、二〇五)。
 眞木乃立 マキノタツ。既出(卷一、四五)。ここには助詞ノを入れて、五音の句に調整している。
(37) 荒山中尓 アヲヤマナカニ。人氣《ひとけ》のまばらな山中に。
 海成可聞 ウミヲナスカモ。ウミナセルカモ(攷)。海は獵路の池をいう。ナスは作り成すの意。
【評語】皇子の威光によつて、かような山中にも海を見ると歌つている。そこに皇子の異常な威光に對する讃嘆がある。しかしその海の存在が、皇子の威光によるとなすことには、不自然な感じがあり、衣笠ニセリの歌の壯大に及ばないのである。あるいは、反歌としてまずこの歌を得、これに不滿足を感じて、後に衣笠ニセリの歌を得たのででもあろうか。
 
弓削皇子、遊2吉野1時御歌一首
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。既出(卷二、一一一)。文武天皇の三年七月に薨じたから、その前の歌であることあきらかである。
 吉野 ヨシノ。歌意によるに、ここにいう所が吉野の離宮附近の地であることが知られる。
 
242 瀧《たぎ》の上の 三船の山に 居る雲の、
 常にあらむと わが念はなくに。
 
 瀧上之《タギノウヘノ》 三船乃山尓《ミフネノヤマニ》 居雲乃《ヰルクモノ》
 常將v有等《ツネニアラムト》 和我不v念久尓《ワガモハナクニ》
 
【譯】激流の上に臨んでいる三船の山に懸かつている雲のように、何時までも生きていようとはわたしは思わないことだ。
【釋】瀧上之 タギノウヘノ。タギは既出(卷一、三六)。激流の義。吉野の離宮のある地の激流をいう。タギノウヘノは、その激流に臨んでいる意である。
 三船乃山尓 ミフネノヤマニ。ミは接頭語。船形をしている山。「瀧《たぎ》の上の御舟《みふね》の山に、水枝《みづえ》さし繁《しじ》に生ひ(38)たる、栂《とが》の樹のいやつぎつぎに」(卷六、九〇七)など詠まれ、吉野の離宮の地から、目立つて仰がれる山であることが知られる。
 居雲乃 ヰルクモノ。山に懸かつている雲をいう。ヰルは停止している意。以上三句は眼前の光景を敍して、次句を引き起す序としている。の如くの語が省かれている形である。
 常將有等 ツネニアラムト。ツネは恒久不變の意。山にいる雲は、變化極りないもので恒久性のものでない。雲と同樣に常久であろうとは思わないと、次句に續く。
 和我不念久尓 ワガオモハナクニ。オモハナクは、思わないことの意。ニは輕く添えた感動の助詞。この句は、下の二四四の歌を初め、多數使用されており、熟語句のようになつて慣用されている。
【評語】山に立つ雲を望み見れば、たちまちにして變化して止まるところを知らない。その雲の變幻極まりないのを見て、人生をこれになぞらえている。眼前の風光を見て思いを寄せたところに生命がある。佛教の無常觀は、當時知識として行き渡つており、そこでこの山中の光景に對して轉變を感じられたものであろう。この皇子が、無常を感じておられたことは、置始《おきそめ》の東人《あずまひと》の歌(卷二、二〇六)にも見えている。短命であつたようだから、病身でおいでになつたのかもしれない。
 
春日王、奉v和歌一首
 
【釋】春日王 カスガノオホキミ。この前後、春日の王と呼ばれる方が數人ある。一は、日本書紀に、持統天皇の三年四月に薨じた方があるが、時代が上り過ぎているので、關係はない。二は、績日本紀に文武天皇三年六月に淨大肆をもつて薨じた方があるが、これは時代が合う。三は、續日本紀、天平十七年四月に、散位正四位の下をもつて卒した方があり、卷の四、天平頃の歌の序列の中にある「春日王歌一首」に自註として「志貴(ノ)(39)皇子之子、母(ヲ)曰(ヘリ)2多紀(ノ)皇女(ト)1也」(六六九)とあるは、多分この方であろうと考えられる。さすれば、ここの春日の王と卷の四のとは別の方ということになり、ここの春日の王の系統は、不明になる。
 
243 王《おほきみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ。
 白雲も
 三船の山に 絶ゆる日あらめや。
 
 王者《オホキミハ》 千歳爾麻佐武《チトセニマサム》
 白雲毛《シラクモモ》
 三船乃山尓《ミフネノヤマニ》 絶日安良米也《タユルヒアラメヤ》
 
【譯】皇子樣は永久においでになるでございましよう。白雲も三船の山に絶える日はありますまい。
【釋】王者 オホキミハ。弓削の皇子を指している。
 千歳二麻佐武 チトセニマサム。マサムは坐さむに同じ。坐スは、在りの敬意を含んでいる動詞。前の歌の常にあらむとは思はずとあるのを受けて慰めている。句切。
 白雲毛 シラクモモ。以下、前の歌の語を受けている。モは、初句の王ハに對して、これもの意に使用されている。
 絶日愛良米也 タユルヒアラメヤ。ヤは反語の助詞。白雲も恒久に、三舟の山に絶える日はあるまいの意。
【評語】前の歌に對して、君はさように山の雲の無常をお感じになられるが、しかしあなたは千歳に坐しますであろう。かの山の雲も絶える日はないであろうと言つている。王ハと決定的に言い、白雲モとこれを證明するかのように歌つている。よく纏まつている歌である。しかし一首の姿としては、前の歌の一氣に歌いなしたのに及ばないであろう。
 
或本歌一首
 
(40)【釋】或本歌 アルマキノウタ。左註によつて、この或る本は、柿本の朝臣人麻呂歌集であることが知られる。一往、或る形の成立の後、或る人が、人麻呂集をもつてこの記事を作つたと考えられる。いうまでもなく、二四二の弓削の皇子の歌に對して、詞句の類似があるによつて參考として掲げたのである。
 
244 み吉野《よしの》の 三船の山に 立つ雲の、
 常にあらむと わが思はなくに。
 
 三吉野之《ミヨシノノ》 御船乃山尓《ミフネノヤマニ》 立雲之《タツクモノ》
 常將v在跡《ツネニアラムト》 我思莫苦二《ワガオモハナクニ》
 
【譯】御船乃山尓 ミフネノヤマニ。美稱の接頭語ミを、ここには御の字で表示している。
 立雲之 タツクモノ。雲についてタツというは、起る意で、涌き登る氣味を語る。「八雲《やくも》たつ出雲八重垣《イヅモヤヘガキ》」(古事記一)など。以上三句、眼前の光景を敍して四句以下の序としたことは、本文の歌に同じ。
 常將在跡我思莫苦二 ツネニアラムトワガオモハナクニ。本文の四五句に同じく、ただ文字を異にしているばかりである。
【評語】本文の歌とほとんど同じで、かような歌が傳誦されていたことを語つている。居る雲の方が、無常觀に對しては密接な關係に立つが、立つ雲の方は、雲の動態を寫して、眼前の光景が躍如としている。歌としては、立つ雲の方がすぐれている。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集出
 
右の一首は、柿本の朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 
【釋】柿本朝臣人麻呂之歌集 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフ。既出(卷二、一四六)。右の歌が、人麻呂の作であるかどうかはわからないが、人麻呂集にも、作者に關する記事はなかつたのだろう。
 
(41)長田王、被v遣2筑紫1、渡2水島1之時歌二首
 
長田の王の、筑紫に遣はされて、水島に渡りし時の歌二首。
 
【釋】長田王 ナガタノオホキミ。既出(卷一、八一題詞)。
 被遣筑紫 ツクシニツカハサレテ。筑紫は、九州北方をいう。筑紫に遣はされるとは、太宰府に赴く場合が多いと考えられるが、あながちそれとも決しがたい。ここは大宰府の役人が接待している趣であつて、多分大宰府に遣はされたのであろう。被遣は、被役の動詞は、古くはヤ行に活用するようであるが、この語については「唐能《モロコシノ》 遠境爾《トホキサカヒニ》 都加播佐禮《ツカハサレ》 麻加利伊麻勢《マカリイマセ》」(卷五、八九四)の如き假字書きの例があるので、ツカハサレテと讀む。
 渡水島之時 ミヅシマニワタリシトキ。水島は、日本書紀、景行天皇紀、十八年四月の條に「海路より葦北《あしきた》の小島に泊《は》てて進食《みをし》す。時に山部の阿弭古《あびこ》が祖《おや》小左《をひだり》を召して冷水《さむきみもひ》を進《たてまつ》らしむ。たまたまこの時島中に水無し。所爲《せむすべ》を知らず。すなはち仰ぎて天神地祇に祈るに、たちまち、寒泉《しみづ》崖《がけ》の傍より涌き出づ。すなはち酌みて獻りき。故《かれ》、その島に號《なづ》けて水島といふ。その泉、なほ今に水島の崖にあり」(もと漢文)。これは諸國にある清泉説話の一種で、清泉の由來を、貴人・高僧・英雄・佳人等に附託するものであるが、かような清泉の涌出する島が、古くから知られていたのである。その水島は、今|八代《やつしろ》郡に屬する周圍五六間の小島がそれであるという。そこはもと葦北郡に屬していたのであろう。但し水島に渡るということ、さような小島を目標とすることに疑問がある。また日本書紀の文によるに、葦北の小島に泊《は》つとあり、その小島が水島であるようである。さすればもつと大きい他の島に求むべきであるかも知れない。
 
(42)245 聞くがごと まこと貴《たふと》く、
 奇《くす》しくも 神《かむ》さび居《を》るか。
 これの水島。
 
 如v聞《キクガゴト》 眞貴久《マコトタフトク》
 奇母《クスシクモ》 神左備居賀《カムサビヲルカ》
 許禮能水島《コレノミヅシマ》
 
【譯】聞いた通り、ほんとうに貴く不思議にも神々しいことだ。この水島は。
【釋】如聞 キクガゴト。キキシゴト(類)、キクガゴト(代精)。聞くことは過去のことであるから、キキシゴトと過去に讀むべしとする説がある。しかし聞いて現に承知していることであり、過去を表示する語に相當する文字もないのであるから、不定時に讀んでよい。「墓上之《ツカノウヘノ》 木枝靡有《コノエナビケリ》 如v聞《キクガゴト》 陳奴壯士爾之《チヌヲトコニシ》 依家良信母《ヨリニケラシモ》」(卷九、一八一一)。ゴトは、そのようにある意を表わす體言が原形で、形容詞類似の形を採つて活用もする。これを形容詞の語幹として説明するのは、本末を失した言い方である。
 眞貴久 マコトタフトク。マコトは眞寶の意を有する副詞。「たらちねの母を別れてまことわれ旅の借廬《かりほ》に安く寐むかも」(卷二十、四三四八)。
 奇母 クスシクモ。アヤシクモ(類)、クスシクモ(略)。クスシは、靈妙不思講の意の形容詞。延喜式|大殿祭《おおとのほがい》の祝詞、寄護言の自註に「古語(ニ)云(フ)2久須志伊波比許登《クスシイハヒコトト》1」とある。
 神左備居賀 カムサビヲルカ。カムサビは既出(卷一、三八)。神としての性能を發揮するをいう。ここでは水島が神聖神秘にあるをいう。カは感動の助詞。居ることかなの意。
 許禮能水島 コレノミヅシマ。コレノは、コノに同じく、更に感嘆の調子の多いことを覺えるのは、これと指摘する意が強いからであろう。「草枕旅の丸寐《まるね》の紐《ひも》絶《た》えば吾《あ》が手と附《つ》けろこれの針《はる》持《も》し」(卷二十、四四二〇)。
【評語】水島を擧げて讃嘆する意が強く出ている。貴ク奇シクと形容詞を二つ重ねて、神さび居る?態を説明(43)しているのも有力に聞える。自然の神秘に感動した心がよく描かれている。
 
246 葦北《あしきた》の 野坂の浦ゆ 船出《ふなで》して、
 水島に行かむ。
 波立つなゆめ。
 
 葦北乃《アシキタノ》 野坂乃浦從《ノサカノウラユ》 船出爲而《フナデシテ》
 水島尓將v去《ミヅシマニユカム》
 波立莫動《ナミタツナユメ》
 
【譯】葦北の野坂の浦から船出して、水島に行こうとするのである。どうか波よ立つな。
【釋】葦北乃野坂乃浦從 アシキタノノサカノウラユ。葦北の野坂の浦は、今、熊本縣葦北郡の田浦《たのうら》であるという。葦北は大地名、葦北なる野坂の浦の意である。ユは既出(卷一、二九)。ここは野坂の浦の中を通つての意である。
 水島尓將去 ミヅシマニユカム。水島に向つて航海しようの意。句切。
 浪立莫勤 ナミタツナユメ。下のナは禁止の助詞。ユメは勤めよ、努力せよの意に、勤の字を書いている。既出(卷一、七三)。
【評語】前の歌は、水島を見て感嘆したのであるが、この歌は、いよいよ船出して水島に行こうとした時の歌で、順序からいえばこの方が先であろう。但しこれには石川某の和した歌があるので、この順序に配列したのであろうか。内容は格別の事はない。ただ感じのよい地名を使つて、その情趣を出している。何という事なしに、その時の氣分は窺われる。
 
石川大夫、和歌一首 名闕
 
石川の大夫の、和《こた》ふる歌一首 名闕けたり。
 
(44)【釋】石川大夫 イシカハノマヘツギミ。下に名闕とあり、誰であるかを詳にしない。左註には、宮麻呂か吉美侯かと言つている。大夫は、本集の例、四位・五位の人に敬意を表していう。多分大宰府の役人であろう。
 
247 奧《おき》つ浪 邊《へ》浪立つとも、
 わが夫子《せこ》が 御船《みふね》の泊《とまり》、
 浪立ためやも。
 
 奧浪《オキツナミ》 邊波雖v立《ヘナミタツトモ》
 和我世故我《ワガセコガ》 三船乃登麻里《ミフネノトマリ》
 瀾立目八方《ナミタタメヤモ》
 
【譯】沖の浪や岸邊の浪が立つても、あなたのお船の停る處には、浪は立たないでしよう。
【釋】奧浪 オキツナミ。オキは、岸邊より遠い處。ツは體言を連結する助詞で、ノに近いが、その方向を指示する意が濃厚である。「奧津白浪《オキツシラナミ》」(卷一、八三)。
 邊波雖立 ヘナミタツトモ。奧ツ波に對しては邊ツ波と言いたい處であるが、音數の關係でヘナミという。岸邊の波である。「一(ハ)云(フ)、奧津浪《オキツナミ》 邊浪布敷《ヘナミシクシク》 縁來登母《ヨリクトモ》」(卷七、一二〇六)などその例である。タツトモは、假設條件法。
 和我世故我 ワガセコガ。ワガセコは、長田の王に對していう。男子間に言つている。
 三船乃登麻里 ミフネノトマリ。ミは美稱の接頭語。トマリは停泊する處。留まる處の義である。
 瀾立目八方 ナミタタメヤモ。ヤは反語の助詞。波の立つことがあろうかの意。
【評語】航海しようとする人に對する平凡な贈歌である。波の語を三度出しているのは、出船に際して波に關心をもつて歌われたことを語るものであろう。
 
右今案、從四位下石川宮麻呂朝臣、慶雲年中任2大貳1。又正五位(45)下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2小貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
 
右は今案ふるに、從四位の下石川の宮麻呂の朝臣、慶雲年中に大貳に任《ま》けらる。また正五位の下石川の朝臣吉美侯、神龜年中に少貳に任けらる。兩人誰かこの歌を作れるを知らず。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。以下、題詞に石川の大夫とある人の何人であるかを考證している。
 石川宮麻呂朝臣 イシカハノミヤマロノアソミ。名の下に朝臣の姓を書いたのは、四位の人に對する敬意の表示である。下の石川の朝臣吉美侯の姓氏名の書き方と對比される。續日本紀によるに、宮麻呂は、慶雲二年十一月、大貳に任ぜられ、和銅元年三月、右大辨に轉じ、和銅六年十二月、從三位をもつて薨じている。
 大貳 オホキスケ。大宰府の第二等の官名。次官。平安時代には音讀していた。
 石川朝臣吉美侯 イシカハノアソミキミコ。本集竝に續日本紀に、石川の朝臣君子とある人。少貳に任ぜられたことは、他に見えない。
 小貳 スナキスケ。大宰府の第三等官。小少は古く通用している。
 不知兩人誰作此歌焉 フタリノヒトタレカコノウタヲツクレルヲシラズ。宮麻呂か吉美侯か、兩人の中、いずれがこの歌の作者であるかを知らないというのである。但しこの卷における長田の王の歌の配列の位置、また卷の一に和銅三年の長田の王の歌を載せていることから推して、和銅元年まで大宰の大貳であつたという宮麻呂の方がその人らしいと思われる。
 
又長田王作歌一首
 
【釋】又長田王作歌 マタナガタノオホキミノツクレルウタ。前に水島に渡つた時の歌があつて、それに對し(46)てここに又といつている。これも同じ旅行の作と見られる。
 
248 隼人《はやひと》の 薩摩の迫門《せと》を
 雲居《くもゐ》なす 遠くもわれは
 今日見つるかも。
 
 隼人乃《ハヤヒトノ》 薩摩乃迫門乎《サツマノセトヲ》
 雲居奈須《クモヰナス》 遠毛吾者《トホクモワレハ》
 今日見鶴鴨《ケフミツルカモ》
 
【譯】遠い薩摩の海峽を、今日こそは天の一方はるかな處に眺めやつた事である。
【釋】隼人乃 ハヤヒトノ。九州南方、隼人の住んでいる地方を、ハヤヒトと稱したことは、續日本紀大寶二年の條に、唱更國司の語が見え、これをハヤヒトの國司と讀んでいることによつて證せられる。唱更と書いたのは、夜を守る人の義によるのだろう。本集には「隼人乃《ハヤヒトノ》 湍門乃磐母《セトノイハホモ》(卷六、九六〇)とあり、隼人が地名であることが確かめられる。隼人は、勇猛な人の意味で、昔九州の南方、薩摩大隅の方面に繁殖していた人々をいう。その人々の住んでいる土地という意味で、地名に使われている。蕃人の住むという感じに近いものがあつて、遠い世界の氣持をあらわしている。
 薩麻乃迫門乎 サツマノセトヲ。サツマは地名。セトは、水の塞《せ》かれるところの義で、海峽をいう。この迫門は、鹿兒島縣|出水《いずみ》郡、九州の本土と長島とのあいだの海峽で、今、黒瀬戸《くろせと》という。前項に擧げた隼人の迫門の巖の例歌は、大伴の旅人の作であるが、同じくこの迫門を詠んでいる。
 雲居奈須 クモヰナス。雲居は動かない雲で、遠方の意。ナスは、何々の如くにあるという語。
 遠毛吾者 トホクモワレは。作者は、この迫門を遠望したのである。
 今日見鶴鴨 ケフミツルカモ。今日しも見たの意で、今日は相當に意味を持つている。
【評語】いまだ文化に浴する事の淺い地方を、此處に來つて遠望した。わが國の王土のはてを遠望したという(47)感じを出している歌である。自分も隨分遠くまで來たものだ。あすここそは、隼人の住むという薩摩の迫門だな、という心のあらわれている歌である。
 
柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首
 
柿本の朝臣人麻呂の羈旅の歌八首。
 
【釋】羈旅歌 タビノウタ。羈旅は、漢文に使用する熟字で、旅行に同じ。古本では羇羈通用している。卷の七には羈旅作、羈旅歌があり、卷の十二に羈旅發思歌があり、それらの中には小項目として擧げられているものもある。ここには柿本の人麻呂の作歌八首を載せている。この八首に詠まれている地名を擧げると、三津の埼、敏馬《みぬめ》、野島が埼、藤江の浦、稻日野《いなひの》、可古の島、明石の門、飼飯《けひ》の海であつて、飼飯の海には問題があるが、他は全部大阪灣から瀬戸内海での地名であり、飼飯の海も、多分淡路島の津名の郡の地名であろうから、これも同樣に考えられる。人麻呂には、別に海路を北九州に下る歌があり、また讃岐の國から船出をして狹岑《さみね》の島に船がかりをする歌がある。この羈旅の歌八首が、そのいずれかの海路の往復の作であるか否かは不明であるが、一度の往復の作としてもさしつかえはなく、また播磨の國以西の地名がなく、かつ淡路島の飼飯の海をも系統の中に入れるとすれば、むしろ四國への海路往還の旅の作と見るべきである。人麻呂の生涯を、在京時代と地方時代とに分けられるならば、配列の順序からいえば、地方時代の初期に屬するとも見られる。但し卷の二における讃岐の國の狹岑の島での作は、石見の國で死のうとした時の歌の直前にあるから、配列の順序を資料としては、この作歌の時期は、まだ明瞭にするを得ないことに屬する。
 
249 三津《みつ》の埼 浪をかしこみ、
(48) 隱江《こもりえ》の 舟人《ふなびと》公《きみ》が
 宣《の》りぬ、島べに。
 
 三津埼《ミツノサキ》 波矣恐《ナミヲカシコミ》
 隱江乃《コモリエノ》 舟公《フナビトキミガ》
 宣奴島尓《ノリヌシマベニ》
 
【譯】三津の埼の浪がおそろしくして、かくれた江の船人である君は、無事を祈つた。島のあたりで。
【釋】三津埼 ミツノサキ。ミツは難波の御津。既出(卷一、六三)。その地の岬角《こうかく》。大阪灣に流入する淀川の河口で、奔流する水の急なことによつて知られており、そこで次の句が生まれる。
 浪矣恐 ミヲカシコミ。何ヲ何ミの形。浪がおそろしいので。
 隱江乃 コモリエノ。コモリエは、入り込んだ入江の義。
 舟公宣奴島尓 フナビトキミガノリヌシマベニ。この歌の四五句に相當する部分と考えられるが、まだ定訓を得ない。この歌は、仙覺新點の歌であるが、仙覺は、これをフネコクキミカユクカノシマニと訓じた。その後諸説が出たが、今、校本萬葉集によつてこれを述べれば、代匠記初稿本に、舟公をフナキミと訓じ、公の下脱字あるかとし、また、奴島をヌジマとも訓じた。童蒙抄に、公は泊の誤り、宣は宿の誤り、訓フネコキトメテヤトレとした。考に、舟令寄敏馬埼爾の誤りとし、訓フネハヨセナムミヌメノサキニとした。玉の小琴に、舟八毛何時寄奴島爾の誤りとし、訓フネハモイツカヨセムヌジマニとした。槻落葉に、宣は不通の誤り、島の下埼の字脱とし、訓フネハモユカズヌシマノサキニとした。攷證に、もとのままで訓フネコグキミガノルカヌシマニとした。檜嬬手《ひのつまで》に、舟八也何時泊奴島爾の誤りとし、訓フネハヤイツカハテムヌシマニとした。古義に、舟寄金津奴島埼爾の誤りとし、訓フネヨセカネツヌシマノサキニとした。略解補正に、訓フネコクキミハカヨフとした。以上の中、多くの誤字説のある中に、攷證や略解補正が誤字説を採らなかつた見識は多とするに足りる。さりとて原文のままで明解を得る見こみもない。舟公は、諸説多くフネコグキミと讀み、これに助詞ハ(49)またはガを添えているが、さような讀み方は不可能ではない。宣は海事に關しては、「海神《ワタツミノ》 持在白玉《モテルシラタマ》 見欲《ミマクホリ》 千遍告《チタビゾノリシ》 潜爲海子《カヅキスルアマ》」(卷七、一三〇二)、「底清《ソコキヨミ》 沈有玉乎《シヅケルタマヲ》 欲v見《ミマクホリ》 千遍曾告之《チタビゾノリシ》 潜爲白水郎《カヅキスルアマ》」(同、一三一八)の如き歌があり、それらの告とこの歌の宣とを同語と見る場合に、ノルの訓が浮かびあがる。奴はヌの音の字だから、宣奴をもつてノリヌと讀むことはできる。奴島をノシマ、またはヌシマと讀む説は、淡路の野島に思い寄せての訓と見られるが、野島の野の音韻は、奴の字で表示される音韻とは違うので、この點に不安定があり、また三津の埼と野島との關係も、地理上離れ過ぎている。古葉略類聚鈔に、奴の上に美の字があるが、美奴島爾では意をなさず、島を馬の誤りとすればミヌメニであるが、それも地理的に離れている。今、舟公を、訓を補つてフナビトキミガと讀む。さて宣奴島尓は何とも讀みがたいが、宣奴をノリヌとし島にべを讀み添えて、島尓をシマベニとする。以上、本文および訓の檢討を試みたまでであつて、要するに未詳の句とするほかはない。
【評語】前述の如く、四五句が難解であつて、從つて評語を下すべき餘地がない。
 
250 玉藻苅る 敏馬《みぬめ》を過ぎて、
 夏草の 野島《のじま》が埼に
 船近づきぬ。
 
 玉藻苅《タマモカル》 敏馬乎過《ミヌメヲスギテ》
 夏草之《ナツクサノ》 野島之埼尓《ノジマガサキニ》
 船近著奴《フネチカヅキヌ》
 
【譯】珠藻を刈る敏馬の埼を通つて、我等の舟は夏草の青々としている、淡路の野島が埼に近づいた。
【釋】珠藻苅 タマモカル。タマモは美しい藻。海邊の習いとして、玉藻を刈りなどするより、敏馬に冠したのである。寶際その時に、海人が作業をしていても、いないでも、海邊の感じをあらわすためにいうまでである。この句で、敏馬の地の、むしろ女性的な、明媚ともいうべき風光が描かれている。
(50) 敏馬乎過 ミヌメヲスギテ。敏馬は地名。大阪灣に臨んだところで、今の神戸市の東方である。その突角を過ぎてとは、舟で通過するのである。
 夏草之 ナツクサノ。實景と見るべきである。この一句は、一首全體をあかるく印象を鮮明にする效果を有している。「那都久佐能《ナツクサノ》 阿比泥能波麻能《アヒネノハマノ》 加岐加比爾《カキカヒニ》 阿斯布麻須那《アシフマスナ》 阿加斯弖杼冨禮《アカシテトホレ》」(古事記八八)の歌において、夏草の萎《ナ》ユということから、寐《ネ》に懸かるというので、人麻呂の歌におけるこの句を、同じく野島の野《ノ》の一音に懸かる枕詞と見る説がある。人麻呂がかような古歌に通じており、そのような典故のある古詞が念頭に浮かぶことはあり得ることであるが、その用法に至つては、新しい意義をもつて活用したとすべきである。
 野島之埼尓 ノジマガサキニ。野島は、淡路島の北端の地名。その地の岬角にである。左註の一本に野島我埼爾とあり、ノジマガサキニと讀んでいたことが知られる。
 舟近著奴 フネチカヅキヌ。舟は、作者人麻呂の乘船。大阪灣を航行して、淡路島の一角に作者の舟の近づいたことを敍している。
【評語】作者の乘つている舟が、敏馬の埼を通り過ぎて、野島が埼に近づいたという、ただそれだけである。それを、玉藻刈ルという美しい句をもつて、敏馬を修飾し、夏草ノという印象的な句をもつて、野島が埼を修飾し、よつて一首の光彩としている。一首の主題は、舟近ヅキヌにあるが、生き生きした力を與えるのは、夏草の一句にあろう。
 
一本云、處女乎過而《ヲトメヲスギテ》 夏草乃《ナツクサノ》 野島我埼尓《ノジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》
 
一本に云ふ、處女《をとめ》を過ぎて 夏草の 野島が埼に いほりす、われは。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。天平八年の遣新羅使の一行は、興に乘じて船中で古歌を吟誦したが、その中(51)には、この人麻呂の羇旅の歌八首のうち四首まではいつている。同一の航路の歌なので、特に興を感じたのであろう。それらは、卷の十五に記載されているが、その卷の十五の所傳によつて、本文の詞句と相違する所を、ここに註記したのである。また卷の十五の方にも、この卷の三の所載によつて詞句の相違を註記している。他卷の記事を一本として取り扱つたものである。以下、その卷の十五の記事は、參考の欄に載せる。
 處女乎過而 ヲトメヲスギテ。ヲトメは、本文には敏馬とある。敏馬は、敏馬の浦ともいい、海に面した地名であつて、その方が歌として適切である。それを處女に代えたのは、故意であるか、記憶の不正確からであるか不明である。處女は、菟名負《うなひ》處女の塚のあることから起つた地名であろう。その塚のある地を海上から望見して、かつての旅行を想起して、この名に代えたとも考えられる。
 伊保里爲吾等者 イホリスワレハ。この句によれば、作者は、今野島が埼に廬してこの歌を成したことになる。玉藻刈る處女を過ぎたことが、四五句の敍述から全く離れてしまつた觀がある。原作の、動態を描いて、一首が渾然として纏まつているのに遠く及ばないところである。
【參考】別傳。
   當v所誦詠古歌
  多麻藻可流《タマモカル》 乎等女乎須疑弖《ヲトメヲスギテ》 奈都久佐能《ナツクサノ》 野島我左吉爾《ノジマガサキニ》 伊保里須和禮波《イホリスワレハ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、敏爲乎須疑弖《ミヌメヲスギテ》。又曰、布禰知可豆伎奴《フネチカヅキヌ》(卷十五、三六〇六)
 
251 淡路《あはぢ》の 野《の》島が埼の 濱風に、
 妹が結びし 紐吹きかへる。
 
 粟路之《アハヂノ》 野島之前乃《ノジマガサキノ》 濱風尓《ハマカゼニ》
 妹之結《イモガムスビシ》 紐吹《ヒモフキ》返《カヘル・カヘス》
 
【譯】淡路の野島が埼の濱風に、家で妹が結んだ衣の紐が吹きひるがえつている。
(52)【釋】粟路之 アハヂノ。アハヂは淡路に同じ。この地名は、日本書紀に、伊弉諾《いざなぎ》の尊、伊弉冉《いざなみ》の尊が、大八島を生み成される時に、この島をもつて胞《え》となしたこと、御心に悦びざる所なれは、吾耻《あはぢ》と稱したという地名起原説話を載せているが、それはただ興味本位の説に過ぎないであろう。ここに粟路と記しているのは、恐らくはその本義であろうか。古事記に粟の國を大宜都比賣《おほげつひめ》というとあり、阿波の國の名は、粟の國の義であると考えられる。その粟への通路であるから、粟路の名が出たのであろう。四音の一句。
 濱風尓 ハマカゼニ。ハマカゼは、濱邊の風。この歌の作られた時間は夕方であると思われるから、海上から吹く風である。
 妹之結 イモガムスビシ。イモは妻をいう。その妻の結びし紐と、次の句を修飾する。「神佐夫等《カムサブト》 不許者不v有《イナニハアラズ》 秋草乃《アキクサノ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 解者悲哭《トクハカナシモ》」(卷八、一六一二)、「菅根《スガノネノ》 惻隱君《ネモコロキミガ》 結爲《ムスビテシ》 我紐緒《ワガヒモノヲヲ》 解人不v有《トクヒトハアラジ》」(卷十一、二四七三)、「二爲而《フタリシテ》 結之紐乎《ムスビシヒモヲ》 一爲而《ヒトリシテ》 吾者解不v見《ワレハトキミジ》 直相及者《タダニアフマデハ》」(卷十二、二九一九)等、ムスビシヒモといい、「兒良我牟須敝流《コラガムスベル》 比毛等久奈由米《ヒモトクナユメ》」(卷二十、四三二四)には、ムスベルヒモと言つている。ここは過去の追憶を主としていうのである。ムスブということについて、古人は信仰的な思想を持つていた。それは靈魂を結びこめることであり、ここに結んだ人と結ばれた物との再會が約束される。草を結ぶことについては、「岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の歌において記し、松が枝を結ぶことについては、「磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママヅガエヲ》 引結《ヒキムスビ》」(卷二、一四一)の歌において記した。男女の會合においては、妻が夫の衣の紐を結ぶ。そこに再會を約する誓が立てられる。これは旅人が松が枝を結び、草の葉を結ぶのと、同じ信仰から出ている。
 ?吹返 ヒモフキカヘル。?は、集中ヒモの場合に、諸寫本多くこの字を使つている。尼寅の反ヂンで、紐とは別字である。類聚名義抄にも、?にヒモの訓がある。以下釋には紐の字を使うこととする。ヒモは衣の紐である。往時、衣服の左右の褄を合わせるために紐をもつてしたのである。歌に詠まれるのは、下衣の紐も多(53)いが、ここは濱風に吹き返されるので上衣の紐である。この紐を主語と見る時は、吹返をフキカヘルと讀むべく、客語と見ればフキカヘスと讀むが、この場合、主語として、ワレはの如き句の省略されたものと見るのである。濱風に吾は衣の紐を吹きかえすとするのである。「采女《うねめ》の袖吹き反《かへ》す明日香風都を遠みいたづらに吹く」(卷一、五一)の歌では、反の字をカヘスと讀んでいる。ここは濱風ニを受けていくるのであるからカヘルの方が順當であろう。
【評語】しずかな大阪灣を航して、海上の第一日は、夕方に至つて淡路島に近づいた。一行は舟を停めて、一夜の假泊をする。とうとうなつかしい家を離れて、遙かな行程に上つた感が深く、おりしも吹き寄せる濱邊の風に旅衣の紐が吹き返るのも、旅情を催す種である。その紐こそは、家を出る時に、再會を約して妻の結んだ紐である。海路第一日の夕方の旅情が、ゆたかな詞藻によつて歌われている。この歌、家なる妹を忘れない。しかも表面に出して、家なる妹し忘れかねつもというふうにいわないで、ただその人の結んだ紐の風にひるがえることを云つている。情趣の盡きない所以である。藤原の定家の
  旅人の袖吹きかへす秋風に夕日さびしき山のかけはし(新古今集)
は有名な歌であるが、枯渇した寂しさであり、この歌のゆたかな旅情には遠く及ばない。
【參考】紐を結ぶ。
  我が紐を妹が手もちて結八《ゆふや》川またかへり見む。萬代までに(卷七、一一一四)
  妹が紐|結八川内《ゆふやかふち》を古の人さへ見きとここを誰知る(同、一一一五)
  神さぶと否《いな》にはあらず。秋草の結びし紐を解くは悲しも(卷八、一六一二)
  吾妹子が結《ゆ》ひてし紐を解かめやも。絶えば絶ゆとも直《ただ》にあふまでに(卷九、一七八九)
  妹が紐解くと結びて立田山今こそ黄葉《もみち》始めてありけれ(卷十、二二一一)
(54)  愛《うつく》しと思へりけらし。な忘れと結びし紐の解くらく念へば(卷十一、二五五八)
  結《ゆ》ひし紐解かむ日遠み敷栲《しきたへ》のわが木枕《こまくら》は蘿《こけ》生《む》しにけり(同、二六三〇)
  二人して結びし紐を一人して吾は解き見じ。直にあふまでは(卷十二、二九一九)
  海石榴市《つばいち》の八十の衢《ちまた》に立ち平《なら》し結びし紐を解かまく惜しも(同、二九五一)
  高麗錦《こまにしき》紐の結びも解きさけず、齋《いは》ひて待てど驗無きかも(同、二九七五)
  京邊《みやこべ》に君は去《い》にしを誰解けかわが紐の緒の結ぶ手|懈《う》きも(同、三一八三)
  會津嶺《あひづね》の國をさ遠みあはなはば忍びにせもと紐結ばさね(卷十四、三四二六)
  筑紫なるにほふ兒ゆゑに陸奧《みちのく》の可刀利《かとり》娘子の結ひし紐解く(同、三四二七)
  旅にても喪《も》無く早|來《こ》と我妹子が結びし紐は褻《な》れにけるかも(卷十五、三七一七)
  天ざかる鄙《ひな》に月經ぬ。然れども結《ゆ》ひてし紐を解きもあけなくに(卷十七、三九四八)
  家にして結ひてし紐を解きさけず思ふ心は誰か知らむも(同、三九五〇)
  初秋風涼しきゆふべ解かむとぞ紐は結びし。妹に會はむため(卷二十、四三〇六)
  海原を遠く渡りて年|經《ふ》とも兒らが結べる紐解くなゆめ(同、四三三四)
  家《いは》の妹ろ吾《わ》を慕《しの》ふらし。ま結《ゆす》ひに結《ゆす》ひし紐の解くらく思《も》へば(同、四四二七)
 
252 あらたへの 藤江の浦に 鱸《すずき》釣《つ》る
 白水郎《あま》とか見らむ。
 旅行く吾を。
 
 荒栲《アラタヘノ》 藤江之浦尓《フヂエノウラニ》 鈴寸釣《スズキツル》
 白水郎跡香將v《アマトカミラム》 旅去吾乎《タビユクワレヲ》
 
【譯】この藤江の浦にスズキを釣る漁夫と見るであろうか、旅をしているわたしなのに。
(55)【釋】荒梓 アラタヘノ。既出(卷一、五〇)。枕詞。藤を修飾する。
 藤江之浦尓 フヂエノウラニ。藤江の浦は、兵庫縣明石郡の地名。今の明石市の西にその名が殘つている。山部の赤人の歌に「荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》 鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》」(卷六、九三八)とあり、その反歌に「奧浪《オキツナミ》 邊波安実《ヘツナミヤスミ》 射去爲登《イザリスト》 藤江乃浦爾《フヂエノウラニ》 船曾動流《フネゾサワケル》」(同、九三九)とあるによれば、また藤井の浦とも云つたことが知られる。
 鈴寸釣 スズキツル。スズキは魚名、硬骨類。鱸。今もスズキと言つている。次句の白水郎の修飾句。この魚は、夏季に川に入り、秋になつて海に出る。
 白水郎跡香將見 アマトカミラム。白水郎は既出(卷一、二三)。カは疑問の係助詞。ミラムは、ミは動詞見ルの活用形。ラムは推量の助動詞。後の文法では、ラムは、動詞の終止形(ラ行變格は連體形)に接續するのであるから、ミルラムというべきであるが、古くは上一段動詞は、連用形にラムが接續している。「春野之菟芽子《ハルノノウハギ》 採而煮良思文《ツミテニラシモ》」(卷十、一八七九)の煮良思も、ニラシであるらしい。さてミラムの例は、「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》」(卷五、八六二)、「「和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》」(同、八六三)などある。句切。
 旅去吾乎 タビユクワレヲ。旅をして行く吾なるものを。ヲは助詞。何々なるが、しかるにの意に使用されている。
【評語】 スズキは、秋季に海に出るので、おりしも波間に躍る魚を見て、鱸釣ルの一句を成している。白水郎の修飾句であるが、海上の光景をよく描いている。玉藻刈ルの女性的なのに比して、男子の漁業を敍して活氣がある。旅行をすることについては、公人としての自負があり、しかも他人がそれを知らないで漁夫と見ているであろうという所には、寂寥感が潜んでいる。
(56)【參考】類想。
  網引する海人《あま》とや見らむ。飽《あく》の浦の清き荒磯《ありそ》を見に來し吾を(卷七、一一八七、人麻呂集)
  濱清み礒にわが居れば見る人は漁人《あま》とか見らむ。釣もせなくに(同、一二〇四)
  潮早み礒廻《いそみ》に居ればあさりする海人《あま》とや見らむ。旅行く吾を(同、一二三四)
  藤波を假廬《かりほ》に作り灣廻《うらみ》する人とは知らに海人《あま》とか見らむ(卷十九、四二〇二)
 
一本云、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦尓《フヂエノウラニ》 伊射利爲流《イザリスル》
 
一本に云ふ、白栲の 藤江の浦に いざりする。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。前と同じく、卷の十五によつて初句の相違を註している。なお第四句にも相違があるが、ここには擧げていない。
 白栲乃 シロタヘノ。荒栲は、藤の皮の繊維で織るから藤の枕詞になるのであるが、白栲はアサ、コウゾを材料とするのであるから、藤の枕詞にはならない。記憶の粗漏というべきである。
 伊射利爲流 イザリスル。イザリは漁業。「伊射理須流《イザリスル》 安麻能乎等女波《アマノヲトメハ》」(卷十五、三六二七)などの用例がある。
【參考】別傳。
  之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、安良多倍乃《アラタヘノ》、又曰、須受吉都流 《スズキツル》 安麻登香見良武《アマトカミラム》(卷十五、三六〇七)
 
253 稻日野《いなびの》も 行き過ぎがてに 思へれば、
(57) 心|戀《こほ》しき 可古《かこ》の島見ゆ。
 
 稻日野毛《イナビノモ》 去過難尓《ユキスギガテニ》 思有者《オモヘレバ》
 心戀敷《ココロコホシキ》 可古能島所v見《カコノシマミユ》
 
【譯】稻日野も行き過ぎ得ないで、思つていると、心に戀しい可古の島が見える。
【釋】稻日野毛 イナビノモ。イナビノは、兵庫縣印南郡地方の野。但し事實上もつと廣範圍にいうと考えられる。下の可古ノ島見ユの項參照。イナビは、古くから印南の字が慣用され、本集、日本書紀、播磨國風土記にも、それが使用されている。ミビ音通で、イナビともいい、古事記中卷に「針間之伊那?《ハリマノイナビ》」とあるのも、これである。稻日の字面も、「稻日都麻《イナビヅマ》 浦箕乎過而《ウラミヲスギテ》」(卷四、五〇九)に使用されている。
 去過難尓 ユキスギガテニ。ガテニは既出(卷二、九五)。動詞に可能の意の助動詞カテ、および打消の助動詞ニが接續して、副詞句を構成する。何々するのが困難であることを意味する。ガテニは、一の熟語となつて、できない、できずにの意をもつて使用されている。ここでは、家郷を思い戀々として慰まず、船の進行がもどかしくはかどらないのを、行き過ぎることが困難であるとしたのである。
 思有者 オモヘレバ。思ヘリの已然條件法。思つて居れば。家郷を戀しく思いいるのである。
 心戀敷 ココロコホシキ。コホシは、思慕される?態をいう形容詞。「枳瀰我梅能《キミガメノ》 姑褒之枳舸羅爾《コホシキカラニ》」(日本書紀一二〇)、「毛々等利能《モモトリノ》 己惠能古保志枳《コヱノコホシキ》」(卷五、八三四)等の例があり、また卷の十五以下には、「安可等伎能《アカトキノ》 伊敝胡悲之伎爾《イヘゴヒシキニ》」(卷十五、三六四一)、「古非之久伎美我《コヒシクキミガ》 於毛保要婆《オモホエバ》」(卷十七、三九二八)等、コヒシとも書いている。これは古くコホシであり、後コヒシに轉じたものと考えられる。心戀シキは、心の何物かを要求する?態にあるをいう。稻日野も通過しがたいまでに思いおれば、早く見たいと願つている加古の島が見えると、次の句を修飾する。
 可古能島所見 カコノシマミユ。カコは、兵庫縣加古郡の名に殘つている。加古郡は、印南郡の東にあるの(58)で、稻日野を通過して可古の島が見えるというこの歌は、西方から上京して來る時の歌と解せられている。しかし古くは、印南の名は廣範圍にわたつていたとおぼしく、本集に「稻見野能《イナミノノ》 大海乃原笶《オホウミノハラノ》 荒妙《アラタヘノ》 藤井乃浦爾《フヂヰノウラニ》」(卷六、九三八)とある藤井の浦は、藤江の浦と同處で、稻日野に面しているが如く、「伊奈美嬬《イナミヅマ》 辛荷乃島之《カラニノシマノ》」(同、九四二)によれば、伊奈美嬬、すなわち辛荷の島であるようである。これらによれば、稻日野を通過して可古の島を見るのは、かならずしも東上の途とは決定しがたく、從つて可古の島も、印南郡より東方に求めるに及ばない。加古郡より西、印南、揖保《いぼ》の海上にある諸島も、これに擬せられる。但しシマは、四面水に圍まれた陸地に限らず、水に面せる美土を、水上から眺めていう語であるから、加古の地を海上より見て、可古の島と言つたと解してよいのであり、加古川の河口の地もかように呼ばれるであろう。行き過ぎがたく感ずるのは、地理上よりすればむしろ明石郡あたりの海上なるべく、主觀的の立場からいへば、京に上る途上とすることも考えられる。いずれにしても可古の島の見えたことが、旅中の憂悶を破る事件として、歌の主眼となつている。
【評語】表現が不十分の感があつて、明快な印象を與えない。心戀シキの一句に、作者の意圖するところが十分にあらわれていないのである。從つて結句の可古ノ島見ユが、強く浮び出して來ないのが遺憾である。實際地理上の解釋も明瞭にならないが、これは作者の責任でないにしても、歌を理解する上に障害となつている。
 
一云、湖見《ミナトミユ》
 
【釋】一云 アルハイフ。これは、本文の末句の別傳と考えられるが、それは何によつたものか詳でない。卷の十五にもこの歌は吟誦された中に入つていない。
 湖見 ミナトミユ。本文第五句を、この別傳には可古能湖見とあつたのであろう。湖は、説文解字に大(ナル)坡《ツツミ》(59)也とあり、水を圍む土である。「吾舟者《ウガフネハ》 明石之湖爾《アカシノミナトニ》 榜泊牟《コギハテム》」(卷七、一二二九)、「吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖爾《ヒラノミナトニ》 榜將v泊《コギハテム》」(卷三、二七四)の例はミナトに當てて書いているようである。よつて今ミナトと讀む。水門の義である。カコノミナトは、日本書紀應神天皇紀に「ここに天皇、西を望《みそな》はすに、數十の麋鹿《おほしか》海に浮きて來り、便ち播磨の鹿子《かこ》の水門《みなと》に入る」とあり、これは加古川の河口をいうであろう。
 
254 ともしびの 明石大門《あかしおほと》に 入らむ日や、
 榜《こ》ぎ別れなむ。
 家のあたり見ず。
 
 留火之《トモシビノ》 明大門尓《アカシオホトニ》 入日哉《イラムヒヤ》
 榜將v別《コギワカレナム》
 家當不v見《イヘノアタリミズ》
 
【譯】かの明石海峽に榜ぎ進む日には、家のあたりも見ずに榜ぎ別れることでもあろう。
【釋】留火之 トモシビノ。枕詞。燭火のあかるいというところから、次句の明石を修飾する。淡路島のほとりに舟を泊めて、明石海峽にはいろうとする前夜、かなたを望み見れば、漁火が點々として闇を照らしている。その眼前の事物によつて句を起している。
 明大門尓 アカシオホトニ。アカシは、兵庫縣の明石。その明石の海峽に。オホトは、兩方から陸地の出ていて、人家の門戸の如き形を成せる地形。そのあいだを狹いと感ずればセト(迫門)といい、廣いと感ずればオホト(大門)という。狹いも廣いもその人の感じで、定まつた語ではない。だから中世以後は、明石の迫門《せと》とも云つている。トに關しては、この外に、島門《しまと》、鳴門《なると》、水門《みなと》、小門《をと》等の語がある。
 入日哉 イラムヒヤ。かの海峽に漕ぎ入らむ日にや。ヤは疑問の係助詞。次句に懸かつている。
 榜將別 コギワカレナム。家郷のあたりのある島山と漕ぎ別れるであろう。ナムは將來を豫想する助動詞。分ければナとムになる。句切。
(60) 家當不見 イヘノアタリミズ。海上から見る大和の山々。そのあたりにわが家もあるので、家のあたりと言つている。わが家のあたりの島山も見ずにと、上の漕ギ別レナムの句の内容を説明している句。「ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも。海原の八十島《やそしま》の上ゆ妹があたり見む」(卷十五、三六五一)。
【評語】この歌、まだ明石海峽にはいらない前の作である。難波津を出帆して海路第一日の夜は、淡路島の島陰に宿るであろう。前途を望み見れば明石の海峽が大きな口をあけてわが船を呑もうとしているようである。その海峽の彼方には、はてしも知らぬ大海が續いている。おりしも海人の漁火が波間に隱見するので、感慨を起して、ともし火の句は成り、この一首が作り成された。無量の感慨を盛つた作である。
 
255 天《あま》ざかる 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 戀ひ來《く》れば、
 明石の門《と》より 大和島見ゆ。
 
 天離《アマザカル》 夷之長道從《ヒナノナガヂユ》 戀來者《コヒクレバ》
 自2明門1《アカシノトヨリ》 倭島所v見《ヤマトシマミユ》
 
【譯】地方からの長い道中のあいだを、戀い思つて來れば、今こそ、明石の海峽のあいだから、大和の山々が見える。
【釋】天離 アマザカル。既出(卷一、二九)。枕詞。天のように離れている意に、夷を修飾する。
 夷之長道從 ヒナノナガヂユ。ヒナは地方。邊鄙の地。その長い道中のあいだを通じて。
 戀來者 コヒクレバ。わが家のある大和の山々を戀しく思つて來ればの意。
 自明門 アカシノトヨリ。明石海峽の間から。この歌では明石大門、と言わないのは、その海峽の雄大性を描く必要がないからである。
 倭島所見 ヤマトシマミユ。ヤマトシマは、海上より望み見た大和の山々をいう。寶際に、明石海峽のあいだから大和河内の國境をなす山々、南から數えて、金剛、葛城、二上《ふたかみ》、信貴《しぎ》、生駒《いこま》の連嶺が見える。そのなつ(61)かしい山容は、わが家のあるあたりの山である。シマは水に臨んだ美土の謂である。この大和島を、淡路島の北端にある小島とする説は、僻説であつて、それでは歌が死んでしまうのである。次の歌の大和島は、みな大和の山々である。「名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隱りぬ。大和島根は」(卷三、三〇三)、「海原の沖邊にともしいざる火は明《あか》してともせ。大和島見む」(卷十五、三六四八)。但し、轉じて日本の國をいうこともある。次の歌の如きはその例である。「いざ子どもたはわざなせそ。天地の固めし國ぞ大和島根は」(卷二十、四四八七)。また大和の國をいうこともある。
【評語】永い永い地方の生活をして、上京して來た時、懷しい家郷の山々が、いよいよ海の上に浮かんで見えて來た喜びである。今日太平洋を歸り來る人の、遙かに富士の嶺を望み見た喜びにもたとえられよう。しかも音信の便のなかつた上代には、京と地方との距離は、それにも増して遠かつたのである。
 
一本云、家門《ヤドノ・イヘノ》當所v見《アタリミユ》
 
一本に云ふ、家門のあたり見ゆ。
 
【釋】一本云 アルマキニイフ。これも卷の十五にある吟誦歌によつて詞句の相違を記している。なお第二句にも相違がある。
 家門當所見 ヤドノアタリミユ。ヤドは家の戸口が本義であろうが、轉じて、わが家の意味になる。この歌では、宿のあたりでは、視野が接近して狹くなる。大和島見ユの壯大に遠く及ばない。但し卷の十五には、伊敝乃安多里見由とある。それを誤記したものであろう。またヤドを家門と書く例はないから、家門の二字でイヘノと讀むかもしれない。
【參考】別傳。
(62)  安麻射可流《アマザカル》 比奈乃奈我道乎《ヒナノナガヂヲ》 孤悲久禮婆《コヒクレバ》 安可思能門欲里《アカシノトヨリ》 伊敝乃安多里見由《イヘノアタリミユ》
   柿本朝臣人麻呂歌曰、夜麻等思麻見由《ヤマトシマミユ》(卷十五、三六〇八)
 
256 飼飯《けひ》の海の 海上《には》好くあらし。
 苅薦《かりごも》の 亂れ出づ見ゆ。
 海人《あま》の釣船《つりぶね》。
 
 飼飯海乃《ケヒノウミノ》 庭好有之《ニハヨクアラシ》
 苅薦乃《カリゴモノ》 亂出所v見《ミダレイヅミユ》
 海人釣船《アマノツリブネ》
 
【譯】飼飯の海の海上はおだやかだと見える。刈つた薦のように海人の釣舟の亂れて出るのが見える。
【釋】飼飯海乃 ケヒノウミノ。ケヒは諸國に同名の地があるが、兵庫縣津名郡、淡路島の西海岸にある地とするのが、前の詩歌の地名との關係から見て自然であろう。これによれば、讃岐の國への往還の途上の作とされる。
 庭好有之 ニハヨクアラシ。ニハは、わが前の廣場をいう。古語は話者の立場から使うものであつて、自然、わが前に展開される廣場をいうことになる。そこで地上でも海上でも、たいらな面をいう。庭園の義に使うのは、人家の前には、農作物を取り入れなどする必要から、廣い平地を置き、自然その一隅に樹などを植えもしたことから生じたことである。ここでは海面をいう。ニハヨクは、海面に風波のないこと。アラシはアルラシで、推定の辭。段落である。
 苅薦乃 カリゴモノ。枕詞。刈り取つたコモの亂れることから、亂ルを修飾する。刈つたコモは亂れやすくもあろうが、これを編んで蓆《むしろ》にする料なので、亂れて迷惑をする經驗から生まれた語であろう。
 亂出所見 ミダレイヅミユ。亂レ出ヅは終止形である。見ユは用言の終止形を受けて、以上のことが見えるという。中世以後の作では、擬古の作を除いては、見ユを用いないで、景物の敍述に筆を止める。見ユは、自(63)然が、作者たる吾に交渉する經路であるが、これを省いて、客觀的に自然を敍することになるのである。かような「見ゆ」の用例は、參考の欄に擧げたが、ここには假字書きの例を擧げる。「思路多倍乃《シロタヘノ》 許呂母能素低乎《コロモノソデヲ》 麻久良我欲《マクラガヨ》 安麻許伎久見由《アマコギクミユ》 奈美多都奈由米《ナミタツナユメ》」(卷十四、三四四九)、「和多都美能《ワタツミノ》 於伎津之良奈美《オキツシラナミ》 多知久艮思《タチクラシ》 安麻乎等女等母《アマヲトメドモ》 思麻我久流見由《シマガクルミユ》」(卷十五、三五九七)。句切。
 海人釣船 アマノツリブネ。海上に海人の釣船の多く散在している意で、亂レ出ヅの主格。
【評語】作者は、船を礒邊に留めて、寢ての翌朝この歌を詠んだ。今日は海上もおだやからしい。快い航海を續けて行くことが出來るという氣特が溢れている。
 
一本云、
 
武庫乃海能《ムコノウミノ》 尓波好有之《ニハヨクアラシ》 伊射里爲流《イザリスル》 海部乃釣船《アマノツリブネ》 浪上從所v見《ナミノウヘユミユ》
 
一本に云ふ、
 
武庫《むこ》の海の 海上《には》好《よ》くあらし。漁《いざり》する 海人《あま》の釣船《つりぶね》、浪の上《うへ》ゆ見ゆ。
 
【譯】武庫の海の海上は穩やかであると見える。漁りをする漁夫の釣船が、浪の上を通して見える。
【釋】一本云 アルマキニイフ。卷の十五に載せた歌によつて記している。詞句の相違が相當に多いので、一首全體を載せている。以下諸本に混雜がある。今、西本願寺本を代表として擧げると、次のとおりである。
  武庫乃海舳尓波有之伊射里爲流海部乃釣舩浪上從所見
 舳は類聚古集等に舶になつている方がわかりよいが、それでも舶尓波有之は意をなさない。神田本には次のように四行に書いている。
(64)  一本云武庫乃舟尓波有之伊射
  一本云武庫乃海納尓時好有之伊射里爲流
  皇爲流海都乃釣舩浪上從所見
  海部乃釣舩浪上從所見又本説也
この文字の切り方を見るに、第三行は第一行に續き、第四行は第二行に續いていると見られる。卷の十五に、初二句を「武庫能宇美能尓波余久安良之」としているのによつて考える時は、神田本の第二行第四行の文が、誤字とおぼしきものはあるが、正傳に近いと見るべきである。
 武庫乃海能 ムコノウミノ。諸本に能を船に作るのは誤りである。ムコノウミノの句に、武庫乃海と、上のノに字を當てながら下のノに字を當てないのは違例である。今、神田本による。武庫は、神戸と大阪との中間の地名。本文には飼飯の海とあるが、卷の十五においては、遣新羅使の一行が、自分たちの通過する地名に改めて吟誦したのであろう。
 海部乃釣船 アマノツリブネ。海部は漁業をする部族。古事記應神天皇の御記に「この御世に、海部《あまべ》、山部《やまべ》、山守部《やまもりべ》、伊勢部《いせべ》を定めたまひき」とある。
 浪上從所見 ナミノウヘユミユ。波上を通して見えるの意。
【評語】本文の歌を歌いくずしている。二句の海上ヨクアラシの根據としては、刈薦ノ亂レ出ヅ見ユがよいのであつて、波の上を通して海人の釣船が見えるでは、海上の穩かなことを證明するに足りない。初二句と三四五句とが別になつてしまうのである。
【參考】別傳。
  武庫能宇美能《ムコノウミノ》 爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》 伊射里須流《イザリスル》 安麻能都里船《アマノツリブネ》 奈美能宇倍由見由《ナミノウヘユミユ》
(65)  柿本朝臣人麻呂歌曰 氣比乃宇美能《ケヒノウミノ》。又曰 可里許毛能《カリコモノ》 美太禮弖出見由《ミダレテイヅミユ》 安麻能都里船《アマノツリブネ》(卷十五、三六〇九)
   類句、用言の終止形を受ける「見ゆ」
  旅にして物|戀《こほ》しきに「山下《やました》の赤《あけ》のそは船《ぶね》沖に榜《こ》ぐ」見ゆ(巻三、二七〇)
  「み吉野の高城《たかぎ》の山に白雲は行き憚りてたな引けり」見ゆ(同、三五三)
  鶯の吾《おと》聞くなへに「梅の花|吾家《わぎへ》の園に咲きて散る」見ゆ(巻五、八四一)
  海孃子《あまをとめ》玉求むらし。「沖つ浪|恐《かしこ》き海に船出せり」見ゆ(巻六、一〇〇三)
  御饌《みけ》つ國|志摩《しま》の海人《あま》ならし。「眞熊野《まくまの》の小船に乘りて沖邊榜ぐ」見ゆ(同、一〇三三)
  「天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隱る」見ゆ(巻七、一〇六八)
  難波潟|潮干《しほひ》に立ちて見わたせば「淡路の島に鶴《たづ》渡る」見ゆ(同、一一六〇)
  年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし。「知多《ちた》の浦に朝榜ぐ船も沖に寄る」見ゆ(同、一一六三)
  印南野《いなみの》は行き過ぎぬらし。「天づたふ日笠《ひがさ》の浦に浪立てり」見ゆ(同、一一七八)
  海人小胎《あまをぶね》帆かも張れると見るまでに「鞆《とも》の浦廻《うらみ》に浪立てり」見ゆ(同、一一八二)
  藻刈《もかり》船沖榜ぎ來らし。「妹が島|形見《かたみ》の浦に鶴《たづ》翔《かけ》る」見ゆ(同、一一九九)
  礒に立ち沖邊を見れば海藻刈《めかり》船|海人《あま》榜ぎ出《づ》らし。「鴨|翔《かけ》る」見ゆ(同、一二二七)
  「朝づく日向かひの山に月立てり」見ゆ。遠妻《とほづま》を持ちたる人や見つつ偲《しの》はむ(同、一二九四)
  「春日野に時雨降る」見ゆ。明日よりは黄葉《もみち》かざさむ。高圓《たかまと》の山(巻八、一五七一)
  さ夜中と夜は深《ふ》けぬらし。「雁が吾《ね》の聞ゆる空ゆ月渡る」見ゆ(巻九、一七〇一)
  樂浪《ささなみ》の比良《ひら》山風の湖《うみ》吹けば「釣する海人《あま》の袂《そで》かへる」見ゆ(同、一七一五)
(66)  「朝霧にしののに濡れて喚子鳥三船の山ゆ鳴き渡る」見ゆ(巻十、一八三一)
  「春日野に煙立つ」見ゆ。孃子等《をとめら》し春野《はるの》の菟※[草がんむり/互]子《うはぎ》採《つ》みて煮《に》らしも(同、一八七九)
  「天の海に月の船浮け桂?《かつらかぢ》懸《か》けて榜ぐ」見ゆ。月人|壯子《をとこ》(同、二二二三)
  「しろたへの衣の袖をまくらがよ海人《あま》榜ぎ來」見ゆ。浪立つなゆめ(巻十四、三四四九)
  わたつみの沖つ白濱立ち來らし。「海人孃子《あまをとめ》ども島隱る」見ゆ(巻十五、三五九七)
  「柄臼《かるうす》は田廬《たぶせ》のもとにわが夫子《せこ》はにふぶに笑みて立ちませり」見ゆ(巻十六、三八一七)
  わが夫子《せこ》を我《あ》が松原よ見渡せば「海孃子《あまをとめ》ども玉藻刈る」見ゆ(巻十七、三八九〇)
  東《あゆ》の風いたく吹くらし。「奈呉《なご》の海人《あま》の釣する小舟榜ぎ隱る」見ゆ(同、四〇一七)
  十月《かむなづき》時雨の常か「わが夫子《せこ》が屋戸《やど》の黄葉《もみちば》散りぬべし」見ゆ(巻十九、四二五九)
 
鴨君足人、香具山歌一首 并2短歌1
 
鴨の君足人の、香具山の歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】鴨君足人 カモノキミタルヒト。傳未詳。鴨氏は、彦坐《ひこいます》の命の後。君は、かばね。天平寶字三年に君の字を公に改めた。今藤原の宮の址の發掘されているのは、奈良縣高市郡|鴨公《かもきみ》村の地内、鴨公小學校およびその南方であつて、その地は、この鴨氏の本居であつたと考えられる。多分藤原の宮の遷都當時にもその他に住んでおつて、その舊都となつてさびれ行くのに、悲哀の感を催して、この作となつたのであろう。
 香具山歌 カグヤマノウタ。香具山そのものを詠んだのではなくして、左註にあるように、藤原の宮から寧樂へ遷都された後、その附近の荒れて行くのを悼んだ歌である。なお香具山は、藤原の宮址から數町の近距離にあり、その麓にあつてこの歌に詠まれている埴安《はにやす》の池は、藤原の宮の御井としても、歌に詠まれそいる(巻(67)一、五二參照)。
 
257 天降《あも》りつく 天の香具山、
 霞立つ 春に至れば、
 松風に 池浪立ちて、
 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しげ》に
 沖邊《おきべ》には 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ、
 邊つ方《べ》に あぢむらさわき、
 ももしきの 大宮人の
 退《まか》り出《で》て 遊ぶ船には、
 楫《かぢ》棹《さを》も 無くてさぶしも
 榜ぐ人なしに。
 
 天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》
 霞立《カスミタツ》 春尓至婆《ハルニイタレバ》
 松風尓《マツカゼニ》 池浪立而《イケナミタチテ》
 櫻花《サクラバナ》 木晩茂尓《コノクレシゲニ》
 奧邊波《オキベニハ》 鴨妻喚《カモツマヨバヒ》
 邊津方尓《ヘツベニ》 味村左和伎《アヂムラサワキ》
 百磯城之《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》
 退出而《マカリデテ》 遊船尓波《アソブフネニハ》
 梶棹尾《カヂサヲモ》 無而不v毛《ナクテサブシモ》
 己具人奈四二《コグヒトナシニ》
 
【譯】天から降つたという天の香具山、霞の立つ春になると、松の風に池の浪が立つて、櫻の花が木暗く一杯に咲き、沖の方では鴨が妻を呼んでおり、岸邊の方では味鴨が騷ぎ、宮廷に仕える人の退出して遊ぶ船には、櫂や棹がなくてさびしいことだ。漕ぐ人がなくて。
【構成】全篇一文から成つていて、段落はない。
【釋】天降付 アモリツク。アモリは、天から降るをいう。アマオリの約言。語例は、「狛釼《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》 行宮爾《カリミヤニ》 安母理座而《アモリマシテ》」(卷二、一九九)、「伊許藝都追《イコゴツツ》 國看之勢志?《クニミシセシテ》 安母里麻之《アモリマシ》 掃平《ハラヒコトムケ》」(巻十九、四二五四)(68)などある。アモリツクは、天から降下して著到した意。伊豫國風土記の逸文(釋日本紀所引)に、「倭《やまと》なる天の加具山《かぐやま》、天より天降《あも》りし時に、二つに分かれて、片端《かたはし》をば倭の國に天降《あまくだ》し、片端をば、この土《くに》に天降しき。因《かれ》、天山《あめやま》といふ本なり」とあつて、香具山が天から降りついた山であるという傳説のあつたことが知られる。なお下の神乃香山《カミノカグヤマ》(巻三、二六〇)の條參照。次の句の芳來山に對して連體形を採つている。
 天之芳來山 アメノカグヤマ。芳は、香氣であり、訓カを使用している。「天芳山《アメノカグヤマ》」(巻十、一八一二)とも書いている。以上二句、まず香具山を提示している。以下その山の説明になるのであるが、中心を埴安の池の説明に置いている。
 霞立 カスミタツ。枕詞。春の説明をしている。「可須美多都《カスミタツ》 春初乎《ハルノハジメヲ》」(巻二十、四三〇〇)。
 春尓至婆 ハルニイタレバ。その季節になること。「露霜乃《ツユジモノ》 安伎爾伊多禮波《アキニイタレバ》」(巻十七、四〇一一)、「美由伎布流《ミユキフル》 冬爾伊多禮婆《フユニイタレバ》」(巻十八、四一一一)の如き例があり、春ニイタレバと讀んでよい。
 松風尓 マツカゼニ。松を吹く風に。
 池浪立而 イケナミタチチ。池は埴安の池をいう。松吹く風のために池の浪が立つのである。
 木乃晩茂尓 コノクレシゲニ。コノクレは、木の葉が茂つて暗くなること。シゲニは、茂くして。木の晩茂にありの意。「多胡乃佐伎《タゴノサキ》 許能久禮之氣爾《コノクレシゲニ》 保登等藝須《ホトトギス》 伎奈伎等余米婆《キナキトヨメバ》 波太古非米夜母《ハダコヒメヤモ》」(巻十八、四〇五一)。ここは櫻花の咲き滿ちたために、木暗く茂くある意である。
 奧邊波 オキベニハ。邊は、字音を取つてヘニの音をあらわしている。ニハは助詞。「葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》」(巻三、三五二)、「圓方之《マトカタノ》 湊之渚鳥《ミナトノスドリ》 浪立也《ナミタテヤ》 妻唱立而《ツマヨビタテテ》 邊近著毛《ヘニチカヅクモ》」(巻七、一一六二)、「足氷木乃《アシヒキノ》 清山邊《キヨキヤマベニ》 蒔散漆《マケバチリスル》」(同、一四一五)の如き例における邊の字は、いずれもヘニの音をあらわしていると考えられる。
 鴨妻喚 カモツマヨバヒ。カモメヨバヒテ(西)、カモノツマヨビ(西)、カモツマヨバヒ(代精)。鳥が妻を(69)喚ぶことは、集中例が多い。前項の一一六二の歌もそれであり、その他「都麻欲夫等《ツマヨブト》 須騰埋浪佐和久《スドリハサワク》」(巻十七、四〇〇六)、「奈呉乃江爾《ナゴノエニ》 都麻欲妣可波之《ツマヨビカハシ》 多豆左波爾奈久《タヅサハニナク》」(同、四〇一八)などがある。ヨバヒは、呼ぶの連續動作をあらわす語法。
 邊津方尓 ヘツベニ。埴安の池の岸邊の方には。
 味村左和伎 アヂムラサワキ。アデは小鴨の類。群棲するのでアヂムラという。その群れ飛ぶ有樣を、サワキという。「山羽爾《ヤマノハニ》 味村驂《アヂムラサワキ》 去奈禮騰《ユクナレド》」(巻四、四八六)、「奈藝左爾波《ナギサニハ》 安遲牟良佐和伎《アヂムラサワキ》」(巻十七、三九九一)。以上二句、上の沖邊ニハ鴨妻喚バヒの句に對して對句となつている。
 百磯城之大宮人乃 モモシキノオホミヤビトノ。既出(巻一、二九、三〇)。ここには藤原の宮に奉仕する人々をいう。
 退出而 マカリデテ。藤原の宮から退出して。「百師木之《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》 退出而《マカリデテ》 遊今夜之《アソブコヨヒノ》 月清左《ツキノサヤケサ》」(巻七、一〇七六)。
 遊船尓波 アソブフネニハ。船は、池上にある船をいう。
 梶棹毛 カヂサヲモ。カヂは、船を漕ぎ進める具で、今の櫂の大形のもの。サヲは棹。
 無而不樂毛 ナクテサブシモ。サブシは心の樂しくないのをいう形容詞。この歌のサブシは寂寥に近いことが注意される。句切。
 己具人奈四二 コグヒトナシニ。池上の船のむだにあることを説明している。
【評語】都が遠く遷り去つて、埴安の池に遊ぶ大宮人もない寂しさを敍している。一往事を敍して感慨の足りないのは、作者が作歌に慣れていないことを語つている。
 
(70)反歌二首
 
258 人|榜《こ》がず あらくも著《しる》し。
 潜《かづき》する 鴛鴦《をし》と高部《たかべ》と、
 船の上に住む。
 
 人不v榜《ヒトコガズ》 有雲知之《アラクモシルシ》
 潜爲《カヅキスル》 鴦與高部共《ヲシトタカベト》
 船上住《フネノヘニスム》
 
【譯】人の榜がないであることも知れる。水に潜る鴛鴦と高部とが船の上に住んでいる。
【釋】人不榜 ヒトコガズ。長歌の大宮人云々の句を受けているが、ここには廣く一般的に人をさしていう。次のアラクを修飾する。
 有雲知之 アラクモシルシ。雲の字は、クモの音を表示するために使用されている。アラクは、あること(71)の意。クはコトの意。シルシは、明瞭である意の形容詞。句切。
 潜爲 カヅキスル。カヅキは、水に潜入すること。水鳥の習性を説明する修飾句。
 鴦與高部共 ヲシトタカベト。ヲシは、本草和名に「鴛鴦、和名|乎之《ヲシ》」とあり、タカベは、倭名類聚鈔に「爾雅(ノ)集注(ニ)云(フ)、?音彌一音施、漢語抄云、多加閉。一(ノ)名(ハ)沈鳥、貌似(テ)v鴨(ニ)而小(ク)、背(ノ)上(ニ)有(リ)v文」とある。いずれも水鳥である。二つのトは、竝立格を示す助詞。
 船上住 フネノウヘニスム。人氣がないので、水鳥が船の上に棲息するよしである。
【評語】短歌であるだけによく纏まつている。上二句はすこし説明的である。人氣疎くなつた池上の光景は、三句以下によく描かれている。漠然と水鳥と言わないで、美しい鴛鴦や高部を出したのは、效果が多い。
 
259 何時《いつ》の間《ま》も 神《かむ》さびけるか。
 香具山の 鉾椙《ほこすぎ》が本《もと》に 
 薛《こけ》生《む》すまでに。
 
 何時問毛《イツノマモ》 神左備祁留鹿《カムサビケルカ》
 香山之《カグヤマノ》 鉾椙之本尓《ホコスギガモトニ》
 薛生左右二《コケムスマデニ》
 
【譯】何時の間に神々しくなつたのだろう。香具山の鉾の形の杉に薛《こけ》が生えるまでになつて。
【釋】何時間毛 イツノマモ。イツノマニモの意。次の句の疑問の助詞カと併わせて、何時の間にであろうかの意を成している。
 神左備祁留鹿 カムサビケルカ。カムサビは動詞で、助動詞ケルが接續している。カは疑問の助詞であるが、多分に詠嘆の要素を含んでいる。句切。
 香山之 カグヤマノ。香はg音を含む字であるから、一字でカグの音を表示している。
 鉾椙之本尓 ホコスギガモトニ。椙は杉樹の意に用いられる。ホコスギは、杉の性質として、直幹であつて(72)鉾《ほこ》に類しているのでいう。モトは樹木の下部である。
 薛生左右二 コケムスマデニ。薛は、類聚名義抄にコケの訓がある。
【評語】香具山の杉の樹立、物古りて久しき時を經過したことを語つている。前の歌と同様、初二句は概觀し、三句以下具體的に敍している。
 
或本歌云
 
【釋】或本歌云 アルマキノウタニイフ。木文の歌の別傳を記載している。その或る本の何であるかは不明である。
 
260 天降《あも》りつく 神の香具山、
 うち靡く 春さり來れば、
 櫻花 木《こ》の闇《くれ》茂《しげ》に、
 松風に 池浪立ち、
 邊《へ》つべには あぢむらさわき、
 沖邊《おきべ》には 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばふ。」
 ももしきの 大宮人の
 退《まか》り出《で》て 榜《こ》ぎける舟は、
 棹《さを》楫《かぢ》も 無くてさぶしも。
(73) 榜《こ》がむと思へど。
 
 天降就《アモリツク》 神乃香山《カミノカグヤマ》
 打靡《ウチナビク》 春去來者《ハルサリクレバ》
 櫻花《サクラバナ》 木晩《コノクレ》茂《シゲニ。シゲミ》
 松風丹《マツカゼニ》 池浪《イケナミ》?《タチ・サワギ》
 邊津返者《ヘツベニハ》 阿遲村《アヂムラ》動《サワキ・トヨミ》
 奧邊者《オキベニハ》 鴨妻喚《カモツマヨバフ》
 百式乃《モモシキノ》 大宮人乃《オホミヤビトノ》
 去出《マカリイデテ》 榜來舟者《コギケルフネハ》
 竿梶母《サヲカヂモ》 無而佐夫之毛《ナクテサブシモ》
 榜與雖v思《コガムトモヘド》
 
【譯】天から降りついた神樣の香具山、草木の靡く春になれは、櫻の花が木も暗く茂く咲いて、松吹く風に池の波が立ち、岸邊の方では味鴨が騷ぎ、沖の方では鴨が妻を呼んでいる。大宮づかえをする人の退出して漕いだ船には、棹や楫もなくてさびしい。漕ごうと思うのだが。
【構成】第一段、鴨妻喚バフまで。池の大體について敍述する。以下第二段、棄てられた船を中心として敍述している。
【釋】天降就 アモリツク。二五七の天降付の句に同じ。この句は、普通次句の香具山を修飾すると説かれているが、次句の神に懸かると見ることもできる。一般に山には神靈があり、その神靈は天から降下するとすることが考えられる。神の天降は、改めて説くまでもないが、山に關しては、「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山際爾《カセヤマノマニ》」(卷六、一〇五九)、「三諸就《ミモロツク》 三輪山見者《ミワヤマミレバ》」(卷七、一〇九五)などあり、そのミモロツクは、神座の降りつく義であり、結局神の降りつくことを意味すると考えられる。
 神乃香山 カミノカグヤマ。天の香具山と云わないで、特に神ノを冠しているのは、前項にいうような意味があるであろう。山の神性をいう句。
 打靡 ウチナビク。枕詞。ウチは接頭語。春は草木の生い出て靡くより、春の枕詞となる。「有知奈?久《ウチナビク》 波流能也奈宜等《ハルノヤナギト》」(卷五、八二六)、「宇知奈妣久《ウチナビク》 春初波《ハルノハジメハ》」(巻二十、四三六〇)など。
 春去來者 ハルサリクレバ。既出(卷一、一六)。春になれば。
 木暗茂 コノクレシゲニ。助詞ニに相當する文字はないが、本文の歌と同じと見て、コノクレシゲニと讀む。文字については、コノクレシゲミとも讀まれる。
(74) 池浪? イケナミタチ。?は暴風をいう字である。池の浪に暴い風が渡るという意味に、本文の歌詞を參考としてイケナミタチと讀む。
 邊都遍者 ヘツベニハ。遍は、字音によつてヘニの音を表示している。
 阿遲村動 アヂムラサワキ。動は、サワクともトヨムとも讀まれる。サワクは、音聲のみならず形體の上にもいい、トヨムは音響の上にいう。味鴨については、「奈藝左爾波《ナギサニハ》 安遲牟良佐和伎《アチムラサワキ》」(卷十七、三九九一)など、常にサワキと言つている。トヨムは、動物の聲にもいうが、鹿、雁、ホトトギスなど、聲が大きく、またはするどいものにいう。
 去出 マカリデテ。本文の歌詞により、意をもつてマカリデテと讀む。朝廷を退出しての意。
 榜來舟者 コギケルフネハ。コギクルフネハ(神)、コギコシフネハ(西)、コギケルフネハ(童)。本文には、遊ブ船ニハとあり、不定時に述べているが、ここには過去の事としている。内容からいえば、この方が順當である。
【評語】本文に立てた歌よりも、この方がよく整つている。二段に切つてあるのが、この所傳の特質であり、これによつて調子も引き立ち、引き締つて來る。内容も二段に切つた方がよい。作者については、何とも記していないが、それには別傳がなかつたのかも知れない。
 
右今案、遷2都寧樂1之後、怜v舊作2此歌1歟
 
右は今案ふるに、都を寧樂に遷しし後、舊りにしを怜《あはれ》みて、この歌を作れるか。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。前の二五七以下の歌四首に關している。歌の内容によつて、寧樂遷都以後の作と見たのはもつともである。
(75) 怜舊 フリニシヲアハレミテ。怜は、好愛の情を動かすをいう。ここは感傷しての意に使用している。舊は、古くなつたことをいう。
 
柿本朝臣人麻呂、獻2新田部皇子1歌一首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、新田部《にひたべ》の皇子《みこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】獻新田部皇子歌 ニヒタベノミコニタテマツレルウタ。獻――皇子歌という題詞の形、またこの歌がすくない字數で書かれていることも、人麻呂歌集の特色であつて、これが人麻呂歌集を資料としているとも考えられる基礎になる。新田部の皇子は、天武天皇の第七皇子、天平七年九月薨ず。卷の十六に、勝間田《かつまだ》の池に出遊した時の婦人の歌を傳えている。皇子の作品はない。
 
261 やすみしし わが大王
 高ひかる 日の皇子、
 しげりいます 大殿の上に、
 ひさかたの 天傳ひ來る
 白雪《ゆき》じもの 往きかよひつつ、
 いや常世《とこよ》まで。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》大王《オホキミ》
 高《タカ》輝《ヒカル・テラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 茂座《シゲリイマス》 大殿於《オホトノノウヘニ》
 久方《ヒサカタノ》 天傳來《アマヅタヒクル》
 白雪仕物《ユキジモノ》 往來乍《ユキカヨヒツツ》
 益及2常世1《イヤトコヨマデ》
 
【譯】いと尊きわが大君、輝く日の皇子樣、御座遊ばされる御殿の上に、遙かな大空から傳い來る白雪のように、往きかよいつつ何時の世までもましませ。
(76)【構成】全篇一章。
【釋】八隅知之吾大王高輝日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ。高輝は、神田本にタカテル、西本願寺本にタカテラス、代初書入にタカヒカルとある。輝は、類聚名義抄にヒカルの訓があるにより、高輝をタカヒカルと讀む。以上の句、ここでは新田部の皇子をさす。次の句に對して主格であるが、これを提示して威コを仰ぐ格である。
 茂座 シゲリイマス。シケクマス(舊訓)、シキマセル(代)、サカエマス(童)、シキマス(略)等の諸訓がある。古事記上卷に、「次に左の手に成りませる神の名は志藝山津見《しぎやまつみ》の神【志藝の二字は音をもちてす】」とあつて、この志藝は繁茂の義なるべく、この志藝はシギで、シゲシ(茂し)の語幹をなすものと考えられる。しかしこれによつて茂をシキと讀み、動詞敷クの義とすることには疑問がある。貴人のいます有樣を修飾する語例には「斯賀波那能《シガハナノ》 弖理伊麻斯《テリイマシ》 芝賀波能《シガハノ》 比呂理伊麻須波《ヒロリイマスハ》 淤富岐美呂迦母《オホキミロカモ》」(古事記五八)の如く、テリイマス、ヒロリイマスがあり、これに準じて、さかんにいます意に、シゲリイマスといつたのだろう。連體句。
 大殿於 オホトノノウヘニ。於の字は、上に同じく用いられる。「濱松之於《ハママツノウヘニ》 雲棚引《クモトタナビク》」(卷三、四四四)などの用例があり、山上の憶良を續日本紀には山於の憶良と書いている。大殿は皇子の宮殿をいう。
 天傳來 アマヅタヒクル。天空を傳うことを天傳フという。
 白雪仕物 ユキジモノ。ジモノは既出(卷一、五〇)。何々のような物の義で、多く枕詞を構成する。以上實景を敍してこの句となり、次の往來乍の句のユキを引き出す序としている。
 往來乍 ユキカヨヒツツ。往來の二字を、義をもつてユキカヨヒと讀む。皇子がこの宮殿に往來しつつの義である。
 益及常世 イヤトコヨマデ。イヤは、いよいよの義に他語に冠していい、「枝爾霜雖v降《エダニシモフレド》 益常葉之樹《イヤトコハノキ》」(卷(77)六、一〇〇九)、「奈弖之故我《ナデシコガ》 伊夜波都波奈爾《イヤハツハナニ》」(卷二十、四四四三)など、名詞に接續して使用されてもいる。常世は、既出(卷一、五〇)。永久不變の世界をいう。いや常世までましますの如き意である。いつまでも永久までにもの意である。
【評語】長歌としては短い形を採つているが、雪によつて永く往來しようとする意を引き出し、この宮殿の永く榮えむことを賀している。多分即興の作なるべく、簡潔に意をつくしているのは、作者としては晩年圓熟の境に入つていることが思われる。これが奈良時代に入つての作なるべきことは、次の歌において述べる。
 
反歌一首
 
262 矣駒山《いこまやま》 木立《こだち》も見えず 落《ふ》り亂《まが》ひ、
 雪の騷《さわ》ける 朝《あした》樂《たの》しも。
 
 矣駒山《イコマヤマ》 木立不v見《コダチモミエズ》 落《フリ》亂《マガヒ・ミダレ》
 雲驟《ユキノサワケル》 朝樂毛《アシタタノシモ》
 
【譯】矣駒山の木立も見えずに降り亂れて、雪の騷いでいる朝は愉快でございます。
【釋】矣駒山 イコマヤマ。諸本には多く矢釣山となつている。矢釣ならば奈良縣高市郡飛鳥村である。しかし細井本に矢を矣とし、また類聚古集、細井本等に釣を駒としている。奈良の西なる唐招提寺《とうしようだいじ》の戒院は、新田部《にいたべ》の親王の舊宅を施して寺としたものであるといわれており、その宮殿で矣駒山を望み見て詠んだ歌と考えられるので、今、古本の傳來を尊重して矣駒山とする。矣駒山は、多く生駒山の文字を使用し、大和河内の國境をなす山(標高六四二メートル)である。
 木立不見 コダチモミエズ。次の落亂を修飾している。雪が降りしきるので、木立も見えない意である。
 落亂 フリマガヒ。亂は、マガフともミダレとも讀まれる。「秋山尓《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミチバ》 須臾者《シマシクハ》 勿散亂曾《ナチリマガヒソ》 妹之當(78)將v見《イモガアタリミム》」(卷二、一三七)の歌で、チリマガフの訓を取つたのであるから、それに準じてフリマガヒとし、中止句とする。木立も見えないまでに雪のふり混亂する意である。
 雪驟 ユキノサワケル。驟は類聚古集による。この句、舊訓ユキノウサキマと讀んでいるのは、雪驢とあるによるものであろうか。現に神田本には雪驢に作つている。仙覺本には雪驪に作り、ユキモハタラニとしている。しかし雪驢や雪驪では、意を成しかねるのであつて、雪驟に作るによるほかはないのである。講義がこれによつて、ユキニウクツクと讀んだのは、耳馴れない古語を?出したものというべきである。驟は、馬の疾歩するをいう字であるが、集中「佐保川爾《サホガハニ》 小驟千鳥《サバシルチドリ》」(卷七、一一二四)とあるものを除けは、すべてサワクと讀んで通ずるものである。その一二を擧げれば「取持流《トリモテル》 弓波受乃驟《ユハズノサワキ》」(卷二、一九九)、「夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサハク》」(卷三、三二四)、「高島之《タカシマノ》 阿渡川波者《アトカハナミハ》 驟鞆《サワケドモ》」(卷九、一六九〇)、「?手折《フサタヲリ》 多武山霧《タムノヤマギリ》 茂鴨《シゲミカモ》 細川瀬《ホソカハノセニ》 波驟祁留《ナミノサワケル》」(同、一七〇四)。サワクは、普通物音の亂れてあるにいうが、波のサワクは、視覺をも併わせているのであつて、雪のサワクということも、無理ではないと考えられる。この句を、ユキノサワケルとして次句の朝の修飾句とする時は、極めて自然に解釋される。
 朝樂毛 アシタタノシモ。マヰテクラクモ(舊訓)、マヰリクラクモ(考)、マヰリタヌシモ(槻)等の諸訓があるが、四句をユキノサワケルと讀む以上、アシタタノシモと讀んで、よく通ずるのである。
【評語】この歌は問題の多い歌であるが、この訓の如く讀めば、非常にすぐれた歌であることが見出される。長歌では、はるかな大空から皇子の宮殿の上に降りかかり來る雪を材料として、皇子の永久に榮えたまうべき?を敍し、反歌では轉じて山の木立も見えず降り亂れて舞い騷げる朝の樂しさを敍している。朝樂シモの句中には、この皇子の御殿にいる事を喜びとする趣が示されている。長歌と相待つて降り亂れる雪のおもしろさを十分に描き出している。各種の説もあるが、歌の生命はかように讀むことによつてはじめて發揮されるのであ(79)る。
 
從2近江國1上來時、刑部垂麻呂作歌一首
 
近江の國より上り來し時、刑部の垂麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】從近江國上來時 アフミノクニヨリノボリコシトキ。次の歌にも同じ句が見え、この句と作者の名との位置が、これとは反對になつている。次の題詞の形が普通で、この方が違例であるが、集中の題詞の書式は、かならずしも統一されていない。歌詞によるに、何かの任にあつて、日限のある旅行をしたものと考えられる。ノボルは、帝都のある大和の國へ行くをいう。
 刑部垂麻呂 オサカベノタリマロ。傳未詳。卷一、七一の作者に忍坂部の乙麻呂という人があつた。刑部、また忍坂部とも書き、同氏である。
 
263 馬ないたく 打ちてな行きそ。
 け竝《なら》べて 見てもわが行く
 志賀《しが》にあらなくに。
 
 馬莫疾《ウマナイタク》 打莫行《ウチテナユキソ》
 氣竝而《ケナラベテ》 見弖毛和我歸《ミテモワガユク》
 志賀爾安良七國《シガニアラナクニ》
 
【譯】馬をつよく打つて行くな。時間をかけて見て行く、志賀ではないのだ。
【釋】馬莫疾 ウマナイタク。
   ウマナイタク(仙覺)
   ウマナトク(代初書入)
ナは、禁止の助詞と見られるが、次の句にも、ナがあるので問題になる。用言の上に置かれる禁止の助詞ナ(80)は、その用言に密接して置かれるが、その上に體言のある場合には、語勢上はその體言に接續して發聲されるようである。たとえば「吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》」(卷一、七七)の場合は、モノ、ナオモホシではなくて、モノナ、オモホシと、ナの下にちいさい呼吸があると解せられる。この歌の場合は、馬と、イタク打チテと重ねて置かれたので、馬の方にも、ナを附けたものであろう。疾は、禁止のナを修飾する場合は、イタクが多く使用されているから、ここもイタクでよいであろうが、トクとも讀まれる。講義は、集中に形容詞トシの例なしとしているが、「黒玉之《ヌバタマノ》 夜去來者《ヨルサリクレバ》 卷向之《マキムクノ》 川音高之母《カハトタカシモ》 荒足鴨疾《アラシカモトキ》」(卷七、一一〇一)の疾の字の如き、トキと讀むことが自然である。
 打莫行 ウチテナユキソ。ナは禁止の助詞。動詞の上方にあるものは、その動詞の下に、助詞ソを附するを通例とし、また助詞ソのない場合もある。ここは音數の都合上、ソを讀み添える。馬を急ぎ打つて行くことなかれの意。句切。
 氣竝而 ケナラベテ。ケは時間。「氣長妹久《ケナガクイモガ》」(卷一、六〇)、「孤悲之家久《コヒシケク》 氣乃奈我家牟曾《ケノナガケムゾ》」(卷十七、四〇〇六)なせ用例がある。ケナラベテは時を竝べて。幾日も。ケを來經《キヘ》の約言とする説は當らない。二日、三日などいう時のカの、獨立語としての形であろう。
 見弖毛和我歸 ミテモワガユク。次句の志賀に懸かる修飾句。
 志賀尓安良七國 シガニアラナクニ。シガは、近江の國南方の地名。アラナクニは、あらぬことの意。上の時を竝べて見て行くを否定している。
【評語】公務を帶びて往來するものは、その遠近によつて日限が定められていた。この作者は、その制限のもとに旅行しており、せめて今日だけでも琵琶湖の佳景を樂しみたいと思う心を詠んでいる。第二句は、從者などに對して言い懸ける形を採つている。自然を愛する心から、この歌を成している。
 
(81)柿本朝臣人麻呂、從2近江國1上來時、至2宇治河邊1作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、近江の國より上り來し時、宇治河の邊に至りて作れる歌一首。
 
【釋】從近江國上來時 前の歌の題詞に同じ。人麻呂が近江の國にあつたことは、既に卷の一、二九の歌に見え、下の二六六の歌にも見える。地方官としてか、その他の役目でかはわからないが、公務を帶びて行つたものと考えられる。
 至宇治河邊 ウヂガハノベニイタリテ。宇治河は、琵琶湖から流出する瀬田川の下流、山城の國の宇治のあたりを流れるをいう。大和と近江との通路に當つている。人麻呂歌集から出た卷の九の一六九九、一七〇〇の二首の題詞にも、宇治河作歌二首とある。
 
264 もののふの 八十氏河《やそうぢがは》の 網代木《あじろぎ》に、
 いさよふ波の 行《ゆ》く方《へ》知らずも。
 
 物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木尓《アジロギニ》
 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》
 
【譯】この宇治川の、網代《あじろ》の料の木に流れ來て躊躇する波の、行く先を知らないことだ。
【釋】物乃部能八十氏河乃 モノノフノヤソウヂガハノ。モノノフノヤソウヂガハは、既出(卷一、五〇)。モノノフは文武の官人。その多數の氏の義により、モノノフノヤソをもつて宇治川の序詞とする。
 阿白木尓 アジロギニ。アジロは、普通、網代の字を當てる。川中に網の形に木竹を編んで立て、その下に簀《す》を當てて魚を捕える漁法。宇治川では、氷魚《ひお》、鮎などを漁する。アジロギは、その網代の料の木材。
 不知代經浪乃 イサヨフナミノ。イサヨフは、猶豫躊躇する意。集中、伊佐欲比、射左欲比、伊佐夜歴、伊佐欲布など書いているので、サの清音であることが知られる。網代木のもとに漂いためらう浪である。
(82) 去邊白不母 ユクヘシラズモ。ユクヘは、行く方。不の字は、助動詞ズに當てていると考えられるが、多くは漢文ふうに動詞の上に書くのに、ここに白不と書いたのは珍しい。この二字で、知ラズの語をあらわしている。モは感動の助詞。この句、上(卷二、一六七)にも出ている。また次の如きも波について語つている。「大伴の三津の濱邊をうちさらし寄り來る波の行く方知らずも」(卷七、一一五一)。
【評語】この歌、人麻呂が川中の波を見て、あとからあとから流れ來て、流れ去つて行く方を知らないのに興を催して、童心に詠んだ作か、または何等かの寓意のある作かということが問題になる。寓意といえば、無常を喩えたものとされる。人麻呂集所出の歌に「卷向《まきむく》の山邊とよみて行く水の水沫《みなわ》の如し、世の人|吾等《われ》は」(卷七、一二六九)の如きもあつて、人麻呂の作品にも、大陸傳來の無常思想が入つていないとはいわれない。無常を詠んだとすれば、沙彌滿誓《さきみまんぜい》の「世の中を何に譬《たと》へむ。朝びらき榜ぎにし船の跡無きが如」(卷三、三五一)の露骨なのに比して、これは含蓄の多い歌い方である。モノノフノ八十氏の序は、宇治河の急流に對して連想のある語であろうが、無常觀を内容とするものとすれば、不似合な詞である。當時人麻呂が無常を感ずべき境涯にいたかということは、下の「淡海の海夕浪千鳥」(二六六)の歌で述べることとする。また人麻呂の作品には、「そこ故に皇子《みこ》の宮人、行く方《ヘ》知らずも」(巻二、一六七)、「埴安《はにやす》の池の堤の隱沼《こもりぬ》の行く方を知らに舍人《とねり》はまとふ」(同、二〇一)の如く、行ク方知ラズの句を、どうしてよいかわからない意に使つている。これによれば、この歌も、イサヨフ浪ノまでは、實景に即した序詞で、悲歎に暮れる心をこれによつて描いたものと解せられる。その意を解せずして雜歌に收めたものと思われるが、しかし前掲の「大伴の三津の濱邊を」の歌もあることとて、今しばらく舊解を存しておく。
 
長忌寸奧麻呂歌一首
 
(83)265 苦しくも 零《ふ》り來る雨か。
 神《みわ》が埼 狹野《さの》のわたりに
 家もあらなくに。
 
 苦毛《クルシクモ》 零來雨可《フリクルアメカ》
 神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡尓《サノノワタリニ》
 家裳不v有國《イヘモアラナクニ》
 
【譯】困つたことに降つて來る雨だな。神《みわ》が埼の佐野の渡りには、家もないのだ。
【釋】苦毛 クルシクモ。クルシは、困苦の?態にいう形容詞。「須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》」(卷十五、三七六三)など使用されている。
 零來雨可 フリクルアメカ。カは感動の助詞。カモというに同じ。句切。
 神之埼 ミワガサキ。神は、ミワともカミとも讀む。ミワと讀むのは、大和の大神神社の大神をオホミワと讀み、氏の大神を大三輪とも書く。また土佐國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に「神河、訓(ム)2三輪川(ト)1」とあることによつて證せられる。またカミとも讀まれることは、集中「大埼乃《オホサキノ》 神乃小濱者《カミノヲバマハ》 雖v小《チサケドモ》」(卷六、一〇二三)、「恐耶《カシコキヤ》 神之三坂爾《カミノミサカニ》」(卷九、一八〇〇)、「恐耶《カシコキヤ》 神之渡乃《カミノワタリノ》 敷浪乃《シキナミノ》 寄濱部丹《ヨスルハマベニ》」(卷十三、三三三九)等、地形語に冠せる神之の字は、いずれもカミノと讀むを至當とし、神のいる義に使用されると考えられる。今の歌の場合は、兩樣に讀まれるが、ミワガサキという地名があるというによつて、ミワガサキとして、次句の狹野の渡に固有名詞を冠して、兩者の關係ある地勢にあることを示したものとする。またこの歌は、神のあることには關係のない歌である。但し類似の文字を有する「神前《ミワガサキ》 荒石毛不v所v見《アリハモミエズ》 浪立奴《ナミタチヌ》 從2何處1將v行《イヅクユユカム》 與奇道者無荷《ヨキヂハナシニ》」(卷七、一二二六)の場合は、神のある埼の義とも解せられる。さてこの神が埼は何處であるかというに、大和説と紀伊説とがある。大和ならば、三輪山のあたりとするのであるが、狹野の渡りについては證明がない。紀伊には、今新宮市に三輪崎があり、その隣に佐野という地もある。すこしく南方に過ぎ、當時(84)に旅行する機會のすくない地と思われるが、意吉麻呂がその地に旅行しなかつたという反證はない。
 狹野乃渡尓 サノノワタリニ。狹野は、上記の佐野で、日本書紀、神武天皇紀に「遂に狹野《さの》を越えて、熊野の神の邑《むら》に到ります」とある地であろう。ワタリは、河海の渡るべき場處をいうが、野山についてもいう。陸では、向こうに見渡される處をいう。「大舟の渡《わたり》の山」(卷二、一三五)、「見渡せば近き渡りをたもとほり今や來ますと戀ひつつぞ居る」(卷十一、二三七九)などの例である。ここはいずれにも解せられる。
 家裳不有國 イヘモアラナクニ。アラナクニはあらぬことの意。雨を避くべき家もないのである。「大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷八、一六三六)の歌は、雪について言つている。
【評語】古人の衣服は、植物性であつて、雨に對して反撥力がないので、雨に逢うことを非常に苦しく感じている。雨ヅツミ、雨ザハリなど雨に關していい、濡れた衣服を厭う歌の多いのはこのゆえである。旅中に雨に逢つて困苦しながらこの歌を口ずさんだ作者の生活は味わうべきものがある。歌を樂しむ日本の人々のゆたかな心が窺われる。
 この歌は、藤原の定家の
  駒とめて袖うちはらふ影もなし。佐野のわたりの雪のゆふぐれ(新古今集)
の本歌として有名である。意吉麻呂の作には、實際行路に雨に逢つた困惑があらわれているが、定家のは、さして雪に困つているとも見えない。袖ウチハラフ影などという、やさしいことを云つたためであろう。なお、源の實朝に次の如き一首がある。
  涙こそゆくへも知らね。みわの埼|狹野《さの》のわたりの雨のゆふぐれ(金槐集)
 
柿本朝臣人麻呂歌一首
 
(85)266 淡海の海 夕浪千鳥、
 汝が鳴けば、
 心もしのに いにしへ思ほゆ。
 
 淡海乃海《アフミノウミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》
 汝鳴者《ナガナケバ》
 情毛思努尓《ココロモシノニ》 古所v念《イニシヘオモホユ》
 
【譯】琵琶湖上の夕の浪に飛ぶ千鳥よ、そなたが鳴くと、心もなえなえと、亡びはてた大津の宮時代の事が思われる。
【釋】淡海乃海 アフミノウミ。アフミは、文字通り淡海の義で、海の語を含んではいるが、固有名詞となつているので、更にノウミを添えて、その地の湖水、すなわち琵琶湖を表示する。この句は淡海の海のというほどの意味であるが、下のノを省くことによつて、呼格として感動の情を強くする效果を生じている。
 夕浪千鳥 ユフナミチドリ。夕の浪に群れ飛ぶ千鳥というべきを、助詞や動詞を省き、體言を積み重ねている。「濱松之枝《ハママツガエ》」(卷一、三四)、「山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》」(卷二、一五七)、「片山雉《カタヤマキギシ》」(卷十二、三二一〇)などの類はあるが、かように大膽にしかも美しい句を造り成した例はない。チドリは、水邊に群棲する習性を有する一種の鳥をいう。集中、多數の鳥の義にも使用せられるが、ここは特殊の鳥である。この句は、そ(86)の千鳥に呼び懸けた語法。
 汝鳴者 ナガナケバ。ナは第二人稱で、千鳥に對していう。
 情毛思努尓 ココロモシノニ。シノは、萎《シナ》ユの語根と同語。熟語句で、心もなえなえと、心も萎《しお》れるまでにの意を成す。用例は、參考の欄參照。
 古所念 イニシヘオモホユ。イニシヘは、去《い》にし方《へ》の義の語で、遠い古昔の意にも、またわずかに數年前のことにもいう。「古家丹《イニシヘニ》 妹等吾見《イモトワガミシ》 黒玉之《ヌバタマノ》 久漏牛方乎《クロウシガタヲ》 見佐府下《ミレバサブシモ》」(卷九、一七九八、人麻呂集所出)の如きは、自身の過去をいつた例である。人麻呂には、近江の荒れた都を悲傷した歌(卷一、二九)があり、高市の古人《ふるひと》および黒人にも近江の舊都の歌(卷一、三二・三三、卷三、三〇五)があるので、ここのイニシヘオモホユをもつて、近江時代の興亡を追憶したものとするのである。また人麻呂の近江の國から上り來る時の歌(卷三、二六四)には無常觀が詠まれているとして、近江の國に在任の時代に、大和において妻を失い、そのありし日を思つて詠んだかとも考えられる。
【評語】初二句は體言を積み重ねて、情景を描寫している。短小の形式に、多くの内容を盛る有力な手段である。千鳥の聲を聞いて、人麻呂の感慨は、古代の興亡に赴いている。民族の過去を追うところに、彼の歌の民衆的な氣分が充ちている。初二句の大膽な造句は美しいが、圖案的だともいえる。それを受けて汝ガ鳴ケバと千鳥に歌いかけた所に生氣が生じる。千鳥を親しいものとして取り扱つた所にまなぶべきものがある。旅にあつて千鳥のような生物にも呼びかけたい寂寥の感が感じられる。
【參考】換骨奪胎。
  飫宇《おう》の海の河原の千鳥|汝《な》が鳴けばわが佐保《さほ》河の思ほゆらくに(門部の王、卷三、三七一)
    類句、心もしのに。
(87)  夕月夜《ゆふづくよ》心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀《こほろぎ》鳴くも(卷八、一五五二)
  海原の沖つ繩海苔《なはのり》うち靡《なび》き心もしのに思ほゆるかも(卷十二 二七七九)
  (上略)刈薦《かりごも》の心もしのに人知れずもとなぞ戀ふる。氣《いき》の緒《を》にして(卷十三、三二五五)
  あらたまの年かへるまであひ見ねは心もしのに思ほゆるかも(卷十七、三九七九)
  (上略)うちなびく心もしのに其《そこ》をしもうら戀しみと(下略、同、三九九三)
  (上略)雲居《くもゐ》なす心もしのに、立つ霧の思ひすぐさず、ゆく水の音もさやけく、萬代に云ひ繼ぎ行かむ。川し絶えずは(同、四〇〇三)
  夜ぐたちに寐ざめて居れば川瀬|尋《と》め心もしのに鳴く千鳥かも(卷十九、四一四六)
  梅の花|香《か》をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ(卷二十、四五〇〇)
 
志貴皇子御歌一首
 
【釋】志貴皇子 シキノミコ。既出(卷一、五一)。
 
267 むささびは 木末《こぬれ》求むと、
 あしひきの 山の獵夫《さつを》に
 あひにけるかも。
 
 卑佐佐婢波《ムササビハ》 木末求跡《コヌレモトムト》
 足日木乃《アシヒキノ》 山能佐都雄尓《ヤマノサツヲニ》
 相尓來鴨《アヒニケルカモ》
 
【譯】ムササビは、木の若い枝先に餌を得ようとして、かえつて山の獵師に會つてしまつたなあ。
【釋】牟佐々婢波 ムササビハ。ムササビは、森林の中に住む獣類の一で、前肢と後肢との間に皮膜があつて翼の如き用をなし、樹間を飛び渡ることができる。ムササビはこの歌の主格であるが、これをもつて、ある憐(88)むべき者を暗示したと思われる。
 木末求跡 コヌレモトムト。コヌレは、木ノウレの約で、ウレは若く伸びた部分をいう。「※[草がんむり/互]子《はぎ》のうれ」(卷十、二一〇九)、「菱《ひし》のうれ」(卷十六、三八七六)などともいう。生長しつつある樹木について、その若い枝先をいうわけで、樹の末梢には限らない。木末求ムとは、ムササビが木末に餌として小鳥などを求める意である。ムササビは肉食動物で、小鳥や小獣を襲うものである。この歌では、木末をもつて若い婦人の家の譬喩とし、あるムササビの如き者が、盲動せずにおればよいものを、なまなか木末などに食を得ようとしての意に解せられる。もともと暗喩の歌のようであり、譬えている内容は不明であるが、あるいは他の政治上の動作を諷刺したものであるかも知れない。
 足日木乃 アシヒキノ。既出(卷二、一〇七)。山に冠する枕詞。原義未詳。本集には、アシヒキを、足日木、足氷木、足檜木、足檜、蘆檜木、足引、足疾、足病、足曳、惡氷木、その他假字書きにしている。これらの字面に頼つて説を立てるものも多い。大體ヒキを樹木とするか、曳引の意とするかの二つに分かれる。前説ではアシの解に骨が折れる。後説では、山が裾を引いている形體上から冠すという説と、足の病氣で跛足である意で、病のヤマに懸かるという説とある。ヒは清音である。
 山能佐都雄尓 ヤマノサツヲニ。サツヲは獵師。サツは、既出の得物矢《さつや》(卷一、六一)のサツに同じく、動物を支配する威力をサチといい、その他語に接して熟語を作る形である。ヲは男子。サツヒト(獵人)の語も(89)ある。「山邊爾《ヤマノベニ》 射去薩雄者《イユクサツヲハ》 雖2大有1《オホカレド》 山爾文野爾文《ヤマニモノニモ》 沙小壯鹿鳴母《サヲシカナクモ》」(卷十、二一四七)、「山邊庭《ヤマベニハ》 薩雄乃爾良比《サツヲノネラヒ》 恐跡《カシコケド》 小壯鹿鳴成《ヲジカナクナリ》 妻之眼乎欲焉《ツマノメヲホリ》」(同、二一四九)。
 相尓來鴨 アヒニケルカモ。ニケルは助動詞。この句、感動深く言いあらわす語法で、逢つたことを強く表現している。
【評語】雜歌の中に部類されているが、譬喩の氣分が濃厚に感じられる。それは五句の大がかりに感動した云い方などが、それを助けている。もし寓意のある歌とすれば、他人の上を諷したのは本集としては珍しい。その寓意の内容が、婦人に關することにせよ.政治その他に關することにせよ、ムササビに譬えているのは、或る人を憐みかつ嘲る意味のものとして解せられる。しかし單純にムササビの獵人に狩せられたことを燐んだ歌であるかも知れない。
 
長屋王故郷歌一首
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。既出(卷一、七五)。天武天皇の皇孫、高市の皇子の子。天平元年自殺。
 故郷歌 フルサトノウタ。フルサトは、古き都をいう。左註には、明日香から藤原に遷都の後の作かとしている。明日香の里をさして故郷といつていることはあきらかである。
 
268 わが夫子が 古家《ふるへ》の里の 明日香《あすか》には、
 千鳥鳴くなり。
 島待ちかねて。
 
 吾吉子我《ワガセコガ》 古家乃里之《フルヘノサトノ》 明日香庭《アスカニハ》
 乳鳥鳴成《チドリナクナリ》 島待不v得而《シママチカネテ》
 
【譯】あなたの舊宅のある里の明日香では千鳥が鳴いております。あなたがお歸りになつて庭園を作るのを待(90)ちかねて。
【釋】吾背子我 ワガセコガ。ワガセコは、男子に對していうが、その何人をさすか、あきらかでない。
 古家乃里之 フルヘノサトノ。フルヘは、文字通り古い家の義。住み馴れた家で、その家のある里、すなわち明日香の里をいう。「人事乎《ヒトゴトヲ》 繁跡君乎《シゲミトキミヲ》 鶉鳴《ウヅラナク》 人之古家爾《ヒトノフルヘニ》 相語而遣都《カタラヒテヤリツ》」(巻十一、二七九九)。
 明日香庭 アスカニハ。ニハは助詞。明日香の里では。
 乳鳥鳴成 チドリナクナリ。チドリは千鳥。水邊に群棲する鳥で、明日香川にしばしば詠まれている。ナリは、動詞の終止形に接續して強く指示する助動詞。この語の本義は、推定ではない。
 島待不得而 シママチカネテ。
   シママチカネテ(類)
   シママツカネニ(西)
   ――――――――――
   君待不得而《キミマチカネテ》(考)
   師待不得而《キミマチカネテ》(攷)
 句意やや解しがたいので、考には島を君の誤りとしている。しかし講義のいうように島のままで解せられないわけでもない。シマは、林泉、庭園の義のある語で、君が舊宅に歸つて庭園を經營するのを、千鳥は待ちかねて鳴いているというのであろう。この句、第四句の内容を制限し説明している。
【評語】詞句が十分に内容を表現し得ない傾向がある。誤字説のある所以である。作者の享年、績日本紀に四十六歳とし、懷風藻に五十四歳としているが、いずれにしても明日香から藤原に遷都された頃は、若年であり、歌作に練達していなかつたので、かような作を留めたのであろう。作歌の時代は、もつと後であるかもしれないが。
 
右今案、從2明日香1遷2藤原宮1之後、作2此歌1歟。
 
(91)右は、今案ふるに、明日香より藤原の宮に遷りましし後、この歌を作れるか。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。萬葉集の編者の見解である。
 
阿倍女郎屋部坂歌一首
 
阿倍の女郎の、屋部坂の歌一首。
 
【釋】阿倍女郎 アベノヲミナ。阿倍氏は、孝元天皇の皇子|大彦《おおひこ》の命の後、また安倍とも書く。阿倍の女郎は、集中、卷の四にその名が見えて、歌がある。卷の八には、大伴の家持が久邇の京から歌を贈つており(一六三一)、時代が下るので、別人であろうとされる。同人ならば老境に入つてのことである。女郎は、既出(卷二、一〇九)。女子に對する稱號である。
 屋部坂 ヤベサカ。日本後紀、大同元年三月、桓武天皇崩御の條に、天皇龍潜の日の童謠として、「於保美野邇《オホミヤニ》 多太仁武賀倍流《タダニムカヘル》 野倍能佐賀《ヤベノサカ》 伊太久那布美蘇《イタクナフミソ》 都知仁波阿利登毛《ツチニハアリトモ》」の歌を載せている。この大宮ニ直ニ向カヘル野倍ノ坂が、ここにいう屋部坂であろうとされている。一方、三代實録、元慶四年十月の條には、「天武天皇、高市の郡夜部村に遷し立てて、號《なづ》けて高市《たけち》の大官寺といひ、封七百戸を施入したまふ」とあつて、その高市の大官寺は、高市郡飛鳥村の地にあつたので、かの童謠にいう大宮は、藤原の宮であり、それに直ニ向カヘル野倍ノ坂は、この飛鳥村の夜部であろうとされている。
 
269 人見ずは わが袖もちて 隱さむを、
 燒けつつかあらむ。
 著《き》せずて來にけり。
 
 人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》 將v隱乎《カクサムヲ》
 所v燒乍可將v有《ヤケツツカアラム》
 不v服而來々《キセズテキニケリ》
 
(92)【譯】人が見ないなら、わたしの袖で隱しましようものを、燒けていることでしよう。著せないで來てしまつた。
【釋】人不見者 ヒトミズハ。ヒトミズハ(類)、シノビニハ(西)、シヌビナバ(考)。仙覺は義訓を下してシノビニハと讀んだが、さように讀むべき必要を見ない。文字通りに讀んで、人が見て居らぬならばと解すべきである。
 我袖用手 ワガソデモチテ。ソデは衣服の手を蔽う部分をいう。
 將隱乎 カクサムヲ。屋部坂を隣んで、袖をもつて隱そうというのは、下句によるに、山が燒けているのに同情したのである。ヲは、何々なるがしかるにの意の用法。
 所燒乍可將有 ヤケツツカアラム。モエツツカアラム(槻)。屋部坂の歌であるから、山が燒けつつあるならむの意に解すべきである。所は被役の用法で、燒かれる意である。所燒乍をモエツツとし、胸の思いの燃えることとする説は、かえつて歌を難解に導くものである。カは疑問の係助詞。句切。
 不服而來々 キセズテキニケリ。
   キズテキニケリ(類)
   キテキザリケリ(童)
   キモセザリケリ(童)
   ――――――――――
   不服而坐來《キズテヲリケリ》(考)
   不服而座來《キズテマシケリ》(槻)
   不服而有來《キズテアリケリ》(檜)
 衣服を著せないで來てしまつたという意で、隱すべき袖のある衣服を著せなかつた意である。著セズという場合には、令の字を書く例であつて、不服のままでキセズと讀むのは異例であるが、歌意を按ずるに、かように讀む以外はなかろう。使役の字を使わないで使役に言つている例には、「妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》」(卷九、一八〇〇)の如きがある。
(93)【評語】第四句まではよくわかるが、第五句が文字表示不十分で、訓讀に不安の感のあるを免れがたい。類想のない特殊の歌のようでありながら、鑑賞が行き屆き得ないのは惜しいことである。
 
高市連黒人羈旅歌八首
 
高市の連黒人の、羇旅の歌八首。
 
【釋】高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出(卷一、三二)。長の意吉麻呂と時代を等しくした、すぐれた歌人である。
 
羈旅歌八首 タビノウタヤツ。既出(卷三、二四九)。この八首は、櫻田、年魚市潟、四極山、笠縫の島、近江の海、枚《ひら》の湖、高島の勝野の原、三河の二見、山背の高《たか》等の地名を含んでおり、これらの地名は、數地方にわたると見られるので、自然一度の旅行の作でないことが知られる。そのうち近江の國の地名を含む歌が三首あるのは、或るいは同一の旅行の作ででもあろう。
 
270 旅にして 惣|戀《こほ》しきに、
 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船《ぶね》
 沖に榜《こ》ぐ見ゆ。
 
 客爲而《タビニシテ》 物戀敷尓《モノコホシキニ》
 山下《ヤマシタノ》 赤乃曾保船《アケノソホブネ》
 奧榜所v見《オキニコグミユ》
 
【譯】旅にあつて何かにつけて戀しく思われるのに、おりしも沖の方を、赤く塗つた大きな役所の船の漕いで行くのが見える。
【釋】客爲而物戀敷尓 タビニシテモノコホシキニ。既出(巻一、六七)。タビニシテは、旅先にありての意。モノは、ある物の意をあらわす。何につけても、何とはなしにの意。モノ悲シ、モノ寂シなど、すずろに萬物(94)につけて悲しく、またはさびしく思われるのである。モノ戀シもその類で、旅に出ているので、心情慰めがたく、ただ人戀しく家戀しく思われるのである。コホシは古い形。「君が目の枯〓之伎《コホシキ》からに」(日本書紀一二〇)。
 山下 ヤマシタノ。枕詞。赤を修飾する(宣長の説)。語意はなお未詳のところがある。宣長は朝備《あしたび》で、秋山の紅葉を、朝空の赤きに譬えたのであると云つている。語例を求めれば、古事記に「秋山|下氷壯夫《したびをとこ》」があり、本集には「秋山下部留妹《アキヤマノシタブルイモ》(卷二、二一七)、「鶯の來鳴く春べは、巖は山下|耀《ひか》り、錦成《にしきな》す花咲きををり」(卷六、一〇五三)、「秋山の舌日《したび》が下に鳴く鳥」(卷十、二二三九)、「あしひきの山下光る黄葉《もみちば》の」(卷十五、三七〇〇)等がある。以上の例を見るに、卷の十の舌日と書いたのは借字であろうが、その他にすべて下の字を書いたのは、やはりこの字固有の意義を含むものと見てよいであろう。以上のほかに、「山下とよみ」「山下|羅《ひかげ》」「山下|影日賣《かげひめ》」の如き山の下方と解すべき例もあつて、區別する必要がないのかも知れぬ。すなわち山の下の方は、黄葉の色も美しく殘るので、赤の枕詞としたものであろう。シタビのビは、方、邊の意で濱備《ほまび》の例がある。しかし「秋山の下部留妹《したぶるいも》」のシタブルを、その活用とせねばならぬが、本來體言から出發した語であるべきことだけは見當がつく。なお後考を要する語である。山の下方で、アケノソホ船の位置を示すとする説もあるが、それでは、五句の沖ニ榜グとの關係が解決しがたい。山下であり、かつ沖であるという二重の存在は無理である。
 赤乃曾保船 アケノソホブネ。アケは、赤の名詞形で、高についてタケ、深についてフケという類である。ソホは赤い染料の土。「眞金吹《まがねふ》く丹生《にふ》の眞赭土《まそほ》の色に出て」(卷十四、三五六〇)。ソホ船は、赤く塗つた船で、「そほ船の艫《とも》にも舳《へ》にも」(卷十、二〇八九)ともあつて、ソホ船だけで、赤く塗つた船をあらわしている。これにアケノを冠したのは、赤い色の印象を強くするために添えたのである。赤く塗るのは、魔よけの意味から出ており、當時官船を赤く塗つた。普通の船に比して、大きく、整つた感じを含んでいる。これについては、(95)「沖ゆくや赤ら小船《をぶね》に裹《つと》やらば」(卷十六、三八六八)とあり、この赤ら小船は、官船を詠んでいる。なお「引き登る赤《あけ》のそほ船、そほ船に綱《つな》取り繋《か》け」(卷十三、三三〇〇)、そのほか「さ丹塗《にぬり》の小船」などの語がある。
 奧榜所見 オキニコグミユ。オキニコグは、沖の方にて漕いでいる意で、終止形。それが見えるというのである。見ユ(卷三、二五六)參照。
【評語】赤ノソホ船は美しい語である。その語の表現するところは官船であつて、自然官人も乘つているであろう。都から來た船か、都へ行く船か、この歌では説明していないが、作者の旅情に刺戟を與えて、悠々と沖を榜いでいる。作者は岸邊を通行しているか、客館にいるかであろうが、ここに旅寢して、物戀しさに堪えやらぬ人があるとも、知らず顔に、官船が榜いでいる。目前の景を敍して、深い旅情を寫している。沖邊に官船の行くのを見ると、大和が思われるというのは、常套な手法であるが、沖ニ榜グ見ユと留めたところにいいしれぬ深さが感じられる。描寫のたしかなことは、この作者の有する特色である。
 
271 櫻田へ 鶴《たづ》鳴きわたる。
 年魚市潟《あゆちがた》 潮《しほ》干《ひ》にけらし。
 鶴《たづ》鳴きわたる
 
 櫻田部《サクラダヘ》 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 年魚市方《アユチガタ》 鹽干二家良進《シホヒニケラシ》
 鶴鳴渡《タヅナキワタル》
 
【譯】櫻田へ鶴が鳴いて渡る。年魚市潟の潮が干たそうな。鶴が鳴いて渡る。
【釋】櫻田部 サクラダヘ。櫻田は、年魚市潟に臨んでいる一の地名。倭名類聚鈔に、尾張の國愛智郡|作良《さくら》とある。今、愛知縣愛知郡に屬している。その地の田であろうという。しかしここでは、櫻田が地名で、田のことは歌の内容には關係はない。
 鶴鳴渡 タヅナキワタル。鶴は歌語にはタヅという。潮の干た方へ鳴いて渡るので、餌を求めて移動するの(96)である。句切。
 年魚市方 アユチガタ。年魚市は地名。この地のこと、日本書紀に、「尾張國吾湯市村《ヲハリノクニノアユチノムラ》」(卷一)、「尾張國年魚市郡熱田社《ヲハリノクニノアユチノコホリノアツタノヤシロ》」(卷七)とある。その地の潟である。今日の名古屋灣、熱田《あつた》附近の海をいう。往時は、海がもつと入り込んでいたといわれる。カタは、海中の淺い洲をいう。潮干れば現われ、潮滿てば隱れるほどの地形。「年魚市潟《あゆちがた》潮干にけらし。知多《ちた》の浦に朝榜ぐ船も沖に寄る見ゆ」(卷七、一一六三)。
 鹽干二家良之 シホヒニケラシ。シホは潮汐。ニケラシは、助動詞。ニは強意に使用する完了の助動詞。ケラシは、ケルラシの約言とされているが、このケは、おそらくは、ケム、ケリのケで、ケルラシを經ていないのだろう。ケルラシの文獻のないことが、このような考えかたを證するようである。潮が乾たらしいと確かな推量を下している。
【評語】櫻田も年魚市潟も美しい地名である。この用語の美しさが、前の歌におけると同樣に、この歌の美しさを助けている。また二句と五句とに同じ句を用いたのも音樂的である。この形の歌は、卷の一、五五に出しておいた。この歌は、二句、四句、五句の三段に切れ、短い文の連續から成つているので、齒切れがよい。内容は、かの赤人の「若の浦に潮滿ち來れば潟《かた》を無《な》み葦邊をさして鶴《たづ》鳴き渡る」(卷六、九一九)の反對に、潮の干たのを歌つている。潮の淺い處に餌を求めて渡る鶴の習性をよく描いている。
 
272 四極山《しはつやま》 うち越え見れば、
 笠縫の 島|榜《こ》ぎかくる。
 棚無し小船《をぶね》。
 
 四極山《シハツヤマ》 打越見者《ウチコエミレバ》
 笠縫之《カサヌヒノ》 島榜隱《シマコギカクル》
 棚無小船《タナナシヲブネ》
 
【譯】四極《しはつ》山を越えて見ると、笠縫の島を榜ぎ隱れるちいさい舟が見える。
(97)【釋】四極山 シハツヤマ。攝津の國とも參河の國ともいう。日本書紀の雄略天皇の卷に「呉《くれ》の客の道のために、磯齒津路《しはつぢ》を通じ、呉坂《くれさか》と名づく」とあり、本集にも「茅渟《ちぬ》みより雨ぞ降り來る、四八津《しはつ》の海人《あま》網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり、濡れあへむかも」(卷六、九九九)があるによれば、攝津の國であり、その地の山とされる。また參河の國とするのは、倭名類聚鈔に、參河の國|幡豆《はづ》郡磯伯、之波止《しはと》とあつて、伯は泊の誤りであろうとする。しかし笠縫の島は、難波に縁があり、攝津の國とすべきが如くである。
 打越見者 ウチコエミレバ。ウチは接頭語として使用された動詞。意味はない。
 笠縫之島榜隱 カサヌヒノシマコギカクル。笠經の島は、延喜式の内匠寮の式に、「御輿《みこし》の中子《なかご》の菅蓋《すげがさ》一具菅の骨并はせて料材は、攝津の國より笠縫氏參來て作る」とあるにより、攝津の國に笠縫氏があつて、その本居で、昔その名の島があつたとしている。難波は菅の産地として知られ、本集にも難波菅笠など見えている。菅で笠を作ることを笠を縫うという。「眞野《まの》の池の小菅《こすげ》を笠に繼《つ》がずして」(卷十一、二七七二)など見えている。その島に榜ぎ隱れる船を詠んでいるので、コギカクルは終止形で、ここで文が切れる。
 棚無小船 タナナシヲブネ。既出(卷一、五八)。それも黒人の歌であつた。竅sふなだな》のないような小さな舟。粗末な舟である。島榜ギ隱ルの主格を提示する。
【評語】極めて靜かな海上を望見した歌である。縫經の島というは、結局菅の生えているような低い島を感じさせる。その島に榜ぎ隱れる棚なし小舟という、粗末な舟を點出して風光を生かして來る。勿論その舟に棚のありなしを見究めたわけではない。ただ粗末な小舟の感じを、この語で表現したのである。これがしはつ山ぶりとして歌いものに殘つたのは、平安時代人の靜寂な好みに合うものがあつたためであろう。また難波あたりのあそびめが唱い傳えたのかも知れない。
【參考】別傳、しはつ山ぶり。
(98)  しはつ山うち出て見れば笠ゆひの島こぎかくるたななし小舟(古今和歌集、卷二十)
 
273 礒の崎 榜《こ》ぎ廻《た》み行けば、
 近江《あふみ》の海 八十《やそ》の湊に
 鵠《たづ》多《さは》に鳴く。
 
 礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》
 近江海《アフミノミ》 八十之湊尓《ヤソノミナトニ》
 鵠佐波二鳴《タヅサハニナク》
 
【譯】礒の岬を傍いで廻つて行くと、琵琶湖の方々の湊に鶴がたくさんに鳴いている。
【釋】礒前 イソノサキ。イソは、石の多い處をいう。「礒の上に生ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど」(卷二、一六六)など、もとかならずしも水邊に限らなかつたようであるが、後、主として水邊群石の地にいうようになつた。サキは岬角、突出せる地形。ここは埼であり礒である地形をいう。
 榜手廻行者 コギタミユケバ。タミは、めぐる、迂廻する。この句で、作者の船の、外海へと礒の岬角を廻つて移動して行くことを敍している。
 近江海 アフミノウミ。既出(卷三、二六六)。琵琶湖のこと。近江の文字は、奈良時代の初めに、地名に好字を當てるに及んで使用したもの。本來、近江の海の礒の埼を漕いで廻つて行けばと、歌全體を總括すべき句であるが、内容上八十の湊の近くに附けておく必要があるので、此處に入れたのである。これによつて、礒の埼を栲ぎ廻み行つた結果として、以下の句によつて表示される景が展開したことを示すのである。
 八十之湊尓 ヤソノミナトニ。ヤソは多數をいう。八十の實敷には拘泥しない。ミナトは、元來水門の義で、兩方から陸地が出て、門戸のような形をしているところをいう。河口、江口、灣口などの謂である。そういう水門の中は舟泊に適するので、水上からいう語として、ミナトを港灣の意とするのである。湊は輻湊の義の字であるが、船の集まる處として、ミナトの語に當てている。琵琶湖には、さような水門が多いというところか(99)ら、この句が生まれている。なお「近江之海《アフミノウミ》 湘者八十《ミナトハヤソチ》 何爾加《イヅクニカ》 君之舟泊《キミガフネハテ》 草結兼《クサムスビケム》」(卷七、一一六九)、「近江之海《アフミノウミ》 泊八十有《トマリヤソアリ》 八十島之《ヤソシマノ》 島之埼耶伎《シマノサキザキ》」(卷十三、三二三九)などの例がある。この八十の湊を、特定の地名とする解があるが僻説である。
 鵠佐波二鳴 タヅサハニナク。鵠は、本來鶴とは違う鳥であるが、上代には、ツルをも、クグイをも、コウノトリをも通じて、タヅと呼んだのである。足の長い大きな水禽の総名と心得てよい。多に鳴くのは、たくさんいて鳴くことである。事實としては、かならずしも鶴に限らぬのであるが、その多種の水禽の代表として形の大きな鶴を點出したので、景が生きている。同じ水鳥でも、ここでは、千鳥しば鳴くの如きでは、歌がらが非常にちいさくなるのである。
【評語】礒の突角を漕いで廻つて行くにつれて、眼界が開けて、湖上の大觀が視野にはいつて來た景が、巧みに描かれている。殊に八十の湊とあちこちの水門が見え、それに鶴のような大きな鳥が澤山いて鳴いていることを云つている。讀んでいて胸も開けるような大景が歌われている。同じ作者に「住吉《すみのえ》の榎名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ出づる船人《ふなびと》」(卷三、二八三)というのがあつて、これも大阪灣の眺望の大景を詠んでいるが、この近江の海の歌の方が、作者の位置の動くにつれて、景の開けることが歌われ、かつそれに鶴を配したのが動的で、いかにもおもしろい。
 
274 わが船は 比良の水門《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ。
 沖へな放《さか》り さ夜《よ》更《ふ》けにけり。
 
 吾船者《ワガフネハ》 枚乃湖尓《ヒラノミナトニ》 榜將v泊《コギハテム》
 奧部莫避《オキヘナサカリ》
 左夜深去來《サヨフケニケリ》
 
【譯】わたしの乘つている舟は、枚《ひら》の水門に榜いで留りましよう。沖へ行かないようにしてください。夜も更(100)けました。
【釋】吾船者 ワガフネは。作者は、湖上を舟行している。わが船は、自分の乘つている船をいう。
 枚乃湖尓 ヒラノミナトニ。ヒラは普通比良と書く。比良は、近江の國の滋賀郡の地名。琵琶湖の西岸に當る。今山に比良の名を留めている。その地の水門にである。滋賀郡の木戸の灣、大谷川、比良川の河口などをいうのであろう。
 榜將泊 コギハテム。ハテムは、動詞ハツの未然形に助動詞ムの接續したものである。ハツは、終る、泊る、停るの意。句切。
 奧部莫避 オキヘナサカリ。ナは、なかれの意の助詞。サカリは離るの意の連用形。船人に命じた云い方である。句切。
 左夜深去來 サヨフケニケリ。サは接頭語。フケは、夜の深くなる意。ニケリは助動詞。夜が深くなつてしまつたの意。
【評語】舟行の人は、夕方になると、船を岸邊に停めて假泊する。今や日が暮れて、水上は漸く闇黒に包まれて行く。船人はむしろ平氣で豫定の地へ船を進めているが、舟客は旅の心ぼそさが募るばかりである。そこで船人に告げて早く船を岸邊に寄せさせようとする。その旅情がこの歌を成している。短文を重ねて、船人に命ずる氣分をよく出している。
【參考】類歌。
  わが船は明石の湖《みと》に榜《こ》ぎ泊《は》てむ。沖へな放《さか》り。さ夜|更《ふ》けにけり(卷七、一二二九)
   類想。
  夏麻《なつそ》引《ひ》く海上潟《うなかみがた》の沖つ洲《す》に船は留めむ。さ夜更けにけり(巻十四、三三四八)
 
(101)275 何處《いづく》にか われは宿らむ。
 高島の 勝野《かちの》の原に
 この日暮れなば。
 
 何處《イヅクニカ》 吾將v宿《ワレハヤドラム》
 高島乃《タカシマノ》 勝野原尓《カチノノハラニ》
 此日暮去者《コノヒクレナバ》
 
【譯】どこに自分は宿ろうか。高島の勝野の原に、この日が暮れたならば。
【釋】何處 イヅクニカ。イヅクニ(槻)、イヅクニカ(略)。ニカは助詞。文字はないが、讀み添えている。
 吾將宿 ワレハヤドラム。旅の宿りをしようの意。假廬を作ることにも、民家に宿を借りることにも、また野宿をすることにもいう。ここはいずれであるかわからない。三句以下の内容によれは、山野に假寐をする意であるようだ。
 高島乃勝野原尓 タカシマノカチノノハラニ。高島の勝野は、琵琶湖の西岸の地名。比良より北方である。高島は大地名。そのうちの勝野の原である。當時この地方は、樹海ともいうべき?態であつたらしい。行けども行けどもはてのない感じが、この地名で出ているであろう。
 此日暮去者 コノヒクレナバ。コノヒは、今日の日を指示している。そのまだ暮れやらぬ日について、この句を成している。未然の條件法で、初二句の内容の理由を語つている。
【評語】當代の旅行は、後世に比して困難が多かつたが、宿處の乏しいのは、その最とすべきものであろう。旅に行き暮れて宿を求めがたい心細さは、けだし今日の人の想像以上のものがあつたであろう。
【參考】類想。
  しなが鳥|猪名野《ゐなの》を來れは有間山夕霧立ちぬ。宿《やどり》は無くて(卷七、一一四〇)
 
(102)276 妹も吾も 一つなれかも、
 三河なる 二見の道ゆ
 別れかねつる。
 
 妹母吾母《イモモワレモ》 一有加母《ヒトツナレカモ》
 三河有《ミカハナル》 二見自v道《フタミノミチユ》
 別不v勝鶴《ワカレカネツル》
 
【譯】あなたもわたしも一身であればか、この三河の二見の道から別れかねたことだ。
【釋】妹母我母 イモモワレモ。題詞はないが、歌意から見て、作者が、その妻に對して與えた歌であることが知られる。ここに妹というは、その妻である。
 一有加母 ヒトツナレカモ。兩人でありながら、一體であるかと疑つている。ナレカモは、已然條件法。ナレバカの意。カモは疑問の係助詞で、五句に對して懸かつている。
 三河有 ミカハナル。三河は、次句の二見に冠する地名として、國名とすべきであろう。「三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手潮《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》」(卷九、一七一七)の三河は、河川の名と考えられるが、それでは二見に冠するに不似合である。
 二見自道 フタミノミチユ。二見は地名であろうが、所在未詳。ミチユは、二見の道を通つての意。
 別不勝鶴 ワカレカネツル。カネは、できにくい意の助動詞。ツルは、完了の助動詞。上の係助詞カモを受けて、連體形をもつて結んでいる。
【評語】多分地方官として任地にあり、公務を帶びて旅行をするので妻と別れることがあつたのであろう。次の歌によれは、妻も別れて旅行をするようである。ある處まで送つて來たものであろう。次の一本の歌は、この歌に對する妻の答歌と見られる。この歌は、一つ、三河、二見と數字を重ねて縁語としている。妻に與える歌であるので、輕い諧謔の氣もちをこれで表現している。自然觀照にすぐれている作家として知られるこの人(103)に、かような技巧的な歌のあるのは愉快である。またこの時代に、かような歌があるのは、長《なが》の意吉麻呂《おきまろ》の奇巧の歌と併わせて、歌の歴史の上からも興味のあることである。日本の歌の、あかるい好笑的な方向を受け繼ぐものとして注意される作である。趣は變わるが、數字を多く詠み入れた歌としては「一二の目のみにあらず、五六三四さへありけり。雙六《すぐろく》の采《さえ》」(卷十六、三八二七)や、また歌の内容ではないが、文字に數字を多く使用して書いた「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミミニタヤスシ》 小九毛《スクナクモ》 心中二《ココロノウチニ》 我念勿奈九二《ワガオモハナクニ》」(卷十一、二五八一)、また望月《もちづき》を三五月と書き、ククリを八十一里と書いたものと併わせて、數字に對する古人の興味が窺われる。
 
一本云、
 
水河乃《ミカハノ》 二見之自v道《フタミノミチユ》 別者《ワカレナバ》 吾勢毛吾文《ワガセモワレモ》 獨可文將v去《ヒトリカモユカム》
 
一本に云ふ、
 
三河の 二見の道ゆ 別れなは、わが夫《せ》も吾《われ》も 獨かも行かむ。
 
【譯】三河の二見の道を通つて別れましたならば、あなたもわたくしも、ひとりでか行くでございましよう。
【釋】一本云 アルマキニイフ。一本は、他の資料を指すことと思われるが、歌の内容から見れば、前の歌に對する黒人の妻の答歌である。別の資料には、この歌を載せており、それによつてこれを補つたものであろう。
水河乃二見之自道 ミカハノフタミノミチユ。前の歌の初二句を採つている。答歌の常型である。
 吾勢毛吾文 ワガセモワレモ。前の歌の妹モ吾モを、形を變えて出している。
 獨可文將去 ヒトリカモユカム。前の歌の一ツナレカモを受けている。カモは、疑問の係助詞。ひとりになつてか行くであろうと推量している。
(104)【評語】前の歌を受けてやはり、三河、二見、一人ということを興味の中心としている。しかし前の歌には獨創があり、これはそれを受けているのはやむを得ない。黒人の妻は、傳記未詳である。黒人は、その妻を任地に伴なつていたであろう。「吾妹子に猪名野《ゐなの》は見せつ」(卷三、二七九)、「いざ子ども大和へ早く」(同、二八〇)の答歌など、その趣である。
 
277 疾《と》く來ても 見てましものを。
 山城の 高の槻村《つきむら》
 散りにけるかも。
 
 速來而母《トクキテモ》 見手益物乎《ミテマシモノヲ》
 山背《ヤマシロノ》 高槻村《タカノツキムラ》
 散去奚留鴨《チリニケルカモ》
 
【譯】早く來て見たらよかつたものを。山城の國の高の地の槻の木の群は、皆葉が散つてしまつたことだ。
【釋】速來而母 トクキテモ。トクは、早く、これより前に。
 見手益物乎 ミテマシモノヲ。テは完了の助動詞から出て、強意に使用される。マシは不可能の希望の助動詞。その連體形で、モノに接續している。モノヲは、何々である、しかるにの意をあらわしている。
 山背 ヤマシロノ。山背は國名。次句に冠している。ここにこの語を冠したのは、他國から越えて來たことを示すもので、差別性を語つている。
 高槻村 タカノツキムラ。タカは、生田耕一氏の説によつて、地名とすべきである。その地は山城の國、綴喜《つづき》郡の多賀《たか》郷の地であるとされている。從來、山城の高槻の村として地名としていた。また木立の高い槻の群とも解せられるが、なお地名とするがおだやかであろう。槻は、欅《けやき》の一種であるが、本集の用語は、總稱にいうのであつて、狹義の槻に限定されない。槻も黄葉すれば美しい。殊に高大な木の群立であるから、その黄葉も美しかつたであろう。
(105) 散去奚留鴨 チリニケルカモ。散つたことを感嘆した云い方。
【評語】早く來て見たかつたものをというのは、滿地に錦を敷いた黄葉に感嘆したのである。旅行く人としても、自然を愛することを忘れなかつた。その精神生活は、味わうべきものがある。
 
石川少郎歌一首
 
【釋】石川少郎 イシカハノセウラウ。左註にあるように、石川の君子であろう。君子は、既出(二四七左註)。神龜年間に大宰の少貳となつているから、その縁でこの志可の海人の歌を作つたのであろう。少郎は、左註に、君子は號を少郎子と云つたとある。ここに號というのはいかなる性質のものとも知られないが、唐風の號の謂であるかとも見られる。それならば字音に讀んでよいであろう。訓讀ならば、ヲトコかワクゴかであるが、果していずれであるかを知らない。
 
278 志可《しか》の海人《あま》は、
 軍布《め》刈り鹽燒き 暇《いとま》無《な》み
 櫛梳《くしげ》の小櫛《をぐし》 取りも見なくに。
 
 然之海人者《シカノアマハ》
 軍布苅鹽燒《メカリシホヤキ》 無v暇《イトマナミ》
 髪梳乃少櫛《クシゲノヲグシ》 取毛不v見久尓《トリモミナクニ》
 
【譯】志可の島の海人は、海藻を刈つたり鹽を燒いたりして暇がないので、櫛笥の中の櫛を手に取つて見ないことだ。
【釋】然之海人者 シカノアマは。シカは地名。福岡縣、博多灣の灣頭にある志可の地と考えられる。この地は、北九州方面に旅行する人の詠にしばしばはいつている。舟行の人の定まつて船がかりをする處であるからであろう。アマは、漁業をする人であるが、この歌では、その女子を指している。
(106) 軍布苅鹽燒 メカリシホヤキ。メカリとシホヤキと二つを擧げて、海人の業の代表としている。軍布は、海藻をいうと思われるが、軍布と書く所以はわからない。代匠記に、軍は昆に通じて昆布かといい、攷證に、軍は葷に通じ臭菜の義としている。布は、和布《にぎめ》、荒布《あらめ》など、海藻類に使用する字である。布の連想があつて、幅のある海藻の謂である。軍布をメと讀むのは、他の文字の讀法が、カリシホヤキと讀むほかはないので、この字に對して、ただ一音が當てられてメと讀むほかはないことが知られる。メカリは、若布を刈るをいい、玉藻刈るなどの語で、多く表現されている。鹽燒くは、既出(卷一、五)。
 無暇 イトマナミ。イトマは間暇。暇がなくして。
 髪梳乃少櫛 クシゲノヲグシ。カミケツリノヲクシ(類)、ツゲノヲグシヲ(西)、クシケノヲゲシ(細)、クシノヲグシ(代匠記)、ユスルノヲゲシ(田中道麿)、カミスキノヲグシ(新訓)、ケヅリノヲグシ(講義)等の諸訓がある。髪梳は、髪を梳る義で、小櫛を修飾している。今義をもつてクシゲと讀むによる。櫛笥の義である。クシラノヲグシと讀むのは、仙覺の新點であるが、その根據とするところは、大隅國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に「大隅の郡|串卜《くしら》の郷、昔《むかし》國造らしし神、使者《つかひ》を勒《うなが》してこの村に遣はし、消息《ありかた》を見しめたまひしに、使者報道して髪梳《くしら》の神ありとまをししかば、髪梳の村と謂ふべしとのりたまひき。因りて久四良《くしら》の郷と曰へり。【髪梳は、隼人の俗語に、久四良、今改めて串卜の郷といへり。】」とあるによつて、ここに隼人の俗語に、髪梳をクシラというとするのである。かような隼人の俗語が、この歌に使用されているとするは、疑問である。また奈良縣南葛城郡葛城山の東麓大正村に字|櫛羅《くしら》があり、櫛羅神社もあるが、このクシラは、櫛卜でクシによる占いの義であろう。講義にケヅリノヲグシと讀んでいるのは、倭名類聚鈔などの古い辭書に、梳にケヅルの訓があるによる。但しケヅリというは、けずつた物をいうが如く、けずることをいうとすることは、まだ文證を得ない。句意は、頭髪を梳くに使用する櫛で、ヲは美稱の接頭語である。
(107) 取毛不見久爾 トリモミナクニ。トリは、手にすること。ミナクニは、見ないことの意。櫛を手にしないのは、容《かたち》づくらぬことをいう。
【評語】志可の海人の孃子が勞働に從事して、容姿を繕《つくろ》わぬことを詠んでいる。たまたま海人を見てかような歌を詠んだか、また海人に代わつて、自分が容づくらぬことを辯解したものとも取れる。非常に調子のよい歌である。二句から三句にかかる邊に滑らかな移りが感じられる。詞句の音韻も調子がよい。
 
右今案、石川朝臣君子、號曰2少郎子1也。
 
右は、今案ふるに、石川の朝臣君子、號《な》を少郎子と曰へり。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。題詞の石川の少郎とあるについての編者の考證である。資料としたものに石川の少郎とあつたことが知られる。
 
高市連黒人歌二首
 
279 吾妹子に 猪名野は見せつ。
 名次《なすき》山 角の松原
 いつか示さむ。
 
 吾妹兒二《ワギモコニ》 猪名野者令v見都《ヰナノヌハミセツ》
 名次山《ナスキヤマ》 角松原《ツノノマツバラ》
 何時可將v示《イツカシメサム》
 
【譯】あなたに猪名野は見せた。名次山や角の松原は、何時見せられるだろう。
【釋】吾妹兒二 ワギモコニ。妻に對して歌つていると考えられるので、ここにワギモコというは、妻をさしていることが知られる。
(108) 猪名野者令見都 ヰナノハミセツ。猪名野は、今兵庫縣川邊郡に屬し、伊丹市の西に稻見の名を留めている。往時大原野であつたと思われる。「志長鳥《シナガドリ》 居名野乎來者《ヰナノヲクレバ》 有間山《アリマヤマ》 夕霧立《ユフギリタチヌ》 宿者無而《ヤドリハナクテ》」(卷七、一一四〇)の歌は有間山への途中であつたことを語つている。ミセツは見しめたの意。ミセは使役の他動詞。「吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ノジマハミセツ》」(卷一、一二)のミセツに同じ。妻を伴なつて猪名野に到つたことが知られる。句切。
 名次山 ナスキヤマ。延喜式神名に攝津の國武庫郡に名次《なすき》神社があり、今、廣田神社の攝杜《せつしや》として廣田神社の西にありという。その神社の所在の丘をいうのであろう。また住吉大社神代記には「明石郡|魚次《なすき》濱一處」とあり、その記事によるに、藤江の濱のことである。歌意からいえば、この方が當つているようである。
 角松原 ツノノマツバラ。所在未詳。兵庫縣西宮市今津町附近の津門《つと》であろうという説があるが、從いがたい。しかし名次山附近の海岸または川岸などに求むべきであろう。以上二句は竝立格で、好風景の地として擧げられたものであろう。
 何時可將示 イツカシメサム。いずれの時か妻を同伴して見せることが出來るだろうというのである。
【評語】猪名野まで妻を伴なつて行つたらしい。それは前の事か今の事かわからないが、名次山、角の松原には伴なう機會を得ないことを遺憾としている。情熱の歌ではないが、人生の同伴たる妻に對する愛情の窺われる歌である。
 
280 いざ兒《こ》ども 大和へ早く、
 白菅《しらすげ》の 眞野《まの》の榛原《はりはら》
 手折《たを》りて行かむ。
 
 去來兒等《イザコドモ》 倭部早《ヤマトヘハヤク》
 白菅乃《シラスゲノ》 眞野乃榛原《マノノハリハラ》
 手折而將v歸《タヲリテユカム》
 
【譯】さあ皆の衆、大和へ早く行こうよ。白菅の生えている眞野のハギ原のハギの花を手折つて行こうよ。
(109)【釋】去來兒等 イザコドモ。既出(卷一、六三)。イザは人を誘う詞。コドモは、部下從人等をいう。
 倭部早 ヤマトヘハヤク。ヤマトは大和の國。ハヤクの下に行かむの語が省略されている。五句に續けないで、此處で句切と見るべきである。
 白菅乃 シラスゲノ。シラスゲは地名説もあるが、植物と見るべきである。白菅はカヤツリグサ科の草本植物で、水邊濕地に自生し、高さ一尺ぐらいで莖葉柔軟である。その白菅の生える意に、次の句に懸かる。「白菅の眞野の榛原《はりはら》心ゆも思はぬ吾し衣に摺《す》りつ」(卷七、一三五四)、また「眞野の池の小菅を笠に繼《つ》がずして」(卷十一、二七七二)とあるも白菅であろう。
 眞野乃榛原 マノノハリハラ。眞野は、諸國に同名の地があるが、前の歌に攝津の國の地名が詠まれており、それと關聯あるものとせば、その國の西邊、今神戸市長田區に眞野町の名が殘つて居る地であろう。その地にはもと池もあつたといわれ、眞野の池と詠まれている例歌にもよく適う。この歌は、その眞野より西方で詠まれたことになる。榛原は既出(卷一、五七)。ハリハラと讀み、ハギの原と解すべきである。ハンノ木では手折リテ行カムが情趣を成さない。
 手折而將歸 タヲリテユカム。榛原を受けているが、眞野のハギ原で、ハギの花を手折つて行こうの意である。
【評語】時しも秋を迎えて、戀しい大和へ、樂しい旅に出で立とうとする心が詠まれている。この歌にも白菅の眞野の榛原という美しい地名があり、その名によつて、その地の好風光が思い出されている。
 
黒人妻答歌一首
 
【釋】黒人妻 クロヒトガメノ。黒人の妻は、いかなる人とも知られない。夫に伴なつてその任地にあつたと(110)考えられるだけである。
 
281 白菅の 眞野《まの》の榛原、
 往《ゆ》くさ來《く》さ 君こそ見らめ。
 眞野の榛原
 
 白管乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マノノハリハラ》
 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》
 眞野之榛原《マノノハリハラ》
 
【譯】白菅の生えている眞野のはぎ原は、行く途にも歸る途にも、あなたが御覽になることでしよう。あの眞野のはぎ原は。
【釋】白菅乃眞野之榛原 シラスゲノマノノハリハラ。黒人の歌の句を取つている。その野に呼びかけた語法である。
 往左來左 ユクサクサ。假字書きの例には、「由久左久佐《ユクサクサ》 都々牟許等奈久《ツツムコトナク》 布禰波波夜家無《フネハハヤケム》」(卷二十、四五一四)がある。このサは、サマ(方向)の義であり、「往方毛來方毛《ユクサモクサモ》 舶之早兼《フネノハヤケム》(卷九、一七八四)は、サに方の字を當てている。ユクサは行く方向、クサは來る方向で、それぞれの途中の意をあらわし、ほかにカヘルサ(歸途)も同樣の語構成である。このサは、體言の性質を有する接尾語であるから、その上にある動詞は、連體形であるべきであり、クサの場合、動詞來がクの形において連體形を取つていることが注意される。これは「美豆久白玉《ミヅクシラタマ》 等里弖久麻弖爾《トリテクマデニ》」(卷二十、四三四〇)、「阿例波伊波々牟《アレハイハハム》 加倍理久麻泥爾《カヘリクマデニ》」(同、四三五〇)の如く、助詞マデに接續する場合にもあらわれている。しかも一方、「可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》」(卷十五、三六六一)の如く、クルの形を連體形としているものもあるのである。動詞來が、連體形として、ク、クルの二形を有していることは、同じく終止形としても、ク、クルの二形を有していることを併わせて考えるべき問題で、この語の活用が動搖していたことを示している。
(111) 君社見良目 キミコソミラメ。キミは黒人をさし、それを特に提示するために、コソを使用し、コソに對して、ミラメと結んでいる。ラメは推量の助動詞。動詞見ルが助動詞ラムに接續する場合は、ミラムの形を取る(卷一、五五)。ところで、問題になるのは、この歌におけるラムの用法である。ラムは、現在の?態を推量する語として解せられているが、それによると、この句の意は、君こそ見ているであろうの意となり、黒人が旅行に出た後に、この歌が詠まれたことになる。しかし三句の行クサ來サの意を按ずるに、それは往と還とにわたつているのであつて、現在推量では、その兩方のいずれに懸かるかがあきらかにされない。行く道にも還る道にも見ているであろうでは、意を成さぬのである。黒人の歌は、その出發に際して歌われたものと見られ、この歌は、それに對して、同じく出發の前に詠まれたものとすれば、ここにラムの用法の再考が要求される。ここは從來の諸解釋が、無反省に解釋していたように、往還の度に見るでありましようと解するのが、やはり正しいのであろう。これによれば、「眞土山|往來《ゆきく》と見らむ紀人《きびと》ともしも」(卷一、五五)も、往來トの句があるので、同樣に解すべきが如くである。すなわち不定時において、その現在を想像する用法である。これはラムの本義に關する注意すべき用例というべきである。
【評語】黒人の妻は、大和からは眞野の榛原よりも遠い處にいたと解せられる。三河ノ二見ノ道ユ別レナバの作者と同一人と考えるのが順當であり、相當の才人であつたらしい。二句と五句とに同形の句を用い、歌いものとしての性格を有している歌である。
 
春日藏首老歌一首
 
【釋】春日藏首老 カスガノクラビトオユ。既出(卷一、五六)。この歌は、大和で詠まれている。
 
(112)282 つのさはふ 磐余《いはれ》も過ぎず。
 泊瀬山《はつせやま》 いつかも越えむ。
 夜《よ》は更《ふ》けにつつ。
 
 角障經《ツノサハフ》 石村毛不v過《イハレモスギズ》
 泊瀬山《ハツセヤマ》 何時毛將v超《イツカモコエム》
 夜者深去通都《ヨハフケニツツ》
 
【譯】まだ磐余も過ぎていない。泊瀬山を何時か越えられよう。夜はふけて行つたのに。
【釋】角障經 ツノサハフ。既出(卷二、一三五)。枕詞。次句のイハに懸かる。
 石村毛不過 イハレモスギズ。イハレは地名、磐余とも書く。村は古語にフレというより、この地名に石村の字を當てる。その地は、香具山の東、山間から泊瀬川の流れ出たあたりにかけていうらしい。この句、まだその地を通過しないことを述べている。句切。
 泊瀬山 ハツセヤマ。泊瀬川に沿つて上る道から東方に見える一帶の山をいう。卷の一、四五の歌にも、泊瀬山を越えて宇陀《うだ》に到ることが詠まれていた。
 何時毛將超 イツカモコエム。何時越えるのだろうかと疑つている。道のはかどらない氣もちをあらわしている。句切。
 夜者深去通都 ヨハフケニツツ。フケは、夜の深くなるをいう動詞。ニは助動詞で、強意に使用されている。ツツは進行を示す助詞。
【評語】泊瀬山を越えて行こうとする作者が、夜すでに遲くなつているのに、まだ磐余の地をも過ぎない焦燥の氣分を詠んでいる。三段に切つて短い文を重ねた言い方も、よくその焦躁の表現を助けている。
 
高市連黒人歌一首
 
283 住吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立ちて 見渡せば、
 武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ 出づる船人。
 
 墨吉乃《スミノエノ》 得名津尓立而《エナツニタチテ》 見渡者《ミワタセバ》
 六兒乃泊從《ムコノトマリユ》 出流船人《イヅルフナビト》
 
【譯】住吉の得名津に立つて見渡すと、武庫の泊から船に乘つて出る人が見える。
【釋】墨吉乃 スミノエノ。墨吉は、住吉に同じ。
 得名津尓立而 エナツニタチテ。得名津は、堺市の北、住吉に近い處と言われる。當時海岸であつたであろう。その津に立つたのである。
 見渡者 ミワタセバ。海上を見渡したのである。
 六兒乃泊從 ムコノトマリユ。ムコは武庫。講義の説に、武庫川の河口とするのがよいであろう。住吉から海上三里ほどという。トマリは、船の碇泊する處。ユは、そこの中からの意を表示する。
 出流船人 イヅルフナビト。船の出るのが見えるのであるが、特に船人と言つたのは、その船中の人まで指示のできることを示している。
【評語】大阪灣頭の大觀が敍せられている。船が出るといわず、船人が出るといつたのは、描寫が精細な所以である。例によつて、作者の位置が明示されている。
 
春日藏首老歌一首
 
284 燒津邊《やきつべ》に わが行きしかば、
 駿河なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に
 逢ひし兒《こ》らはも。
 
 燒津邊《ヤキツベニ》 吾去鹿齒《ワガユキシカバ》
 駿河奈流《スルガナル》 阿倍乃市道尓《アベノイチヂニ》
 相之兒等羽裳《アヒシコラハモ》
 
(114)【譯】燒津の邊に自分が行つたからして、駿河なる阿部の市に行く道に出會つた孃子は、思い出される。
【釋】燒津邊 ヤキツベニ。燒津は、三四句に駿河ナル阿倍ノ市道とあり、駿河の國の燒津と考えられる。日本書紀に、日本武の尊が、駿河の國において賊徒をお討ちになる際に、野を燒かれたので、燒津というとする地名起原説話が傳えられている。今、燒津《やいず》の名が殘つている。邊は、字音を取つてヘニと讀む。ニに當る文字を略したのではない。ヘは方向を意味することから、附近をいうようになつたのであろう。
 吾去鹿齒 ワガユキシカバ。シカは、時の助動詞キの已然形。わたしが行つたのでの意。
 駿河奈流 スルガナル。駿河の國名。ナルはニアルの約言。阿倍の市の所在を示す句。
 阿倍乃市道尓 アベノイチヂニ。阿倍は、今、郡名川名などに殘つている。市《いち》は、日を定めて人々が集まつて、交易賣買をすることをいい、やがてその場處をいう。場處の意の方が先かもしれない。今の靜岡市のあたりは、もと國の役所の所在地であつたので、その邊に市が立つたのであろう。さすれば、燒津の北方約三里に當る。市道は、市に行く道路である。
 相之兒等羽裳 アヒシコラハモ。コは若い人などに對し親愛の情をもつていう語。ラは接尾語。複數には限らず、その周圍を含んでいると思われるが、複數でもあり得る。ここもとくに目立つ一人をいうのだろう。このコラは、歌意よりして娘子と推量される。ハモは、感動の助詞。
【評語】旅先で娘子にあうことが、旅の寂寥感を紛らしてくれる。それに歌詞には露骨に出ていないが、輕い心おどりがあるのである。駿河ナルと國名を冠したのは、作者が遠く他國からこの國に入り來つたことを語る。その國の人ならば、國名を冠するに及ばぬのである。今日しも市の定日で、その娘子は著飾つていたであろう。他國から來て土地の娘子を見た喜びが感じられる。
  山の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢娘子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
(115)の歌は、同じ趣を詠んでいる。旅人が、娘子に逢うことに感激を覺える氣もちに、通じているものがある。
 
丹比眞人笠麻呂、往2紀伊國1超2勢能山1時作歌一首
 
丹比の眞人笠麻呂の、紀伊の國に往きて、勢の山を超えし時に作れる歌一首。
 
【釋】丹比眞人笠麻呂 タヂヒノマヒトカサマロ。傳未詳。卷の四に筑紫の國に下つた時の長歌(五〇九)があり、その地に赴いたことのあるのが、知られるだけである。
 
285 栲領巾《たくひれ》の 懸けまく欲《ほ》しき 妹が名を、
 この勢の山に 懸けばいかにあらむ。
 
 栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》
 此勢能山尓《コノセノヤマニ》 懸者奈何將v有《カケバイカニアラム》
 
【譯】白い領巾を頭に懸けるように、言葉に懸けたいと思う妻の名を、この勢の山に懸けたらどうだろうか。
【釋】栲領巾乃 タクヒレノ。タクは栲。その繊維で織つた領巾《ひれ》が、タクヒレである。領巾は、頸から懸ける白布。女子の服飾である。この句は枕詞。領巾を懸けると續く。
 懸卷欲寸 カケマクホシキ。カケマクは、かけむことの義。懸けるは、心に懸けると、言葉に懸けるとあるが、ここは言葉に懸けむことの意である。次の句に對する修飾句。
 妹名乎 イモガナヲ。妹は、女子に對する愛稱。ここは妻である。下句、および次の答歌によるに、妹という語をの意に解せられる。
 此勢能山尓 コノセノヤマニ。勢能山は、既出(卷一、三五)。紀の川の右岸にあり、大和から紀伊の國に入り、その國府に赴く途上に越える山である。山名のセは、男子に對する愛稱なので、そのセの語をイモの語に代えたらというのである。但し初めから男子の山の義で附けられた名であるか否かは不明である。
(116) 懸者奈何將有 カケバイカニアラム。カケバは言葉に懸けるの未然條件法。妹という語を、この勢の山に懸けたら、どうであろうの意。
【評語】勢の山の名に寄せて、思いつきを詠んだ歌である。次の作者も同行していたらしく、旅中の即興作というべきである。
 
一云、可倍波伊香尓安良牟《カヘバイカニアラム》
 
一はいふ、代《力》へばいかにあらむ。
 
【釋】可倍波伊香尓安良牟 カヘバイカニアラム。上のカケバイカニアラムの句の換句である。カヘバは、代えたらばで、勢の山の名を、妹山と代えたら如何というのである。二句に、懸ケマク欲シキの句があり、本文の懸ケバは、それに照應しているのであつて、本文の方がすぐれている。それを歌い傳えてこの別傳を生じたものであろう。
 
春日蔵首老、即和歌一首
 
春日の藏首老の、すなはち和《こた》ふる歌一首。
 
【釋】即和歌 スナハチコタフルウタ。このスナハチは、即時の意で、前の歌に對して、即時に唱和した歌であり、この作者の同行していたことを語つている。歌中の、コノ勢ノ山の句も、これを證している。
 
286 宜《よろ》しなへ わが夫《せ》の君が 負《お》ひ來《き》にし、
 この勢の山を 妹とは喚《よ》ばじ。
 
 宜奈倍《ヨロシナヘ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來尓之《オヒキニシ》
 此勢能山乎《コノセノヤマヲ》 妹者不v喚《イモトハヨバジ》
 
(117)【譯】あなたがよい都合に名として持つている、この勢の山を、妹とは呼びますまい。
【釋】宜奈倍 ヨロシナヘ。既出(巻一、五二)。ヨロシとナヘとの結合した熱語句と見られる。よい具合に、都合よく、ちようどよくの意で、三句の負ヒ來ニシに懸かる副詞句。
 吾勢乃君之 ワガセノキミガ。セは男子の愛稱。ワガは、親愛の意をもつて冠している。ワガセノキミは笠麻呂をいう。次の句に對する主格句。
 負來尓之 オヒキニシ。名として負つて來たの意で、次句のセを修飾する。
 此勢能山乎 コノセノヤマヲ。前の歌の語を取つている。セという名の山をいうべきを、略してかように言つている。
 妹者不喚 イモトハヨバジ。前の歌を受けて、せつかく勢の山というのを、今更妹の山とはいいますまいの意である。
【評語】紀の川を隔てて、對岸に、妹山と呼ぶ山ができたのは、勢の山に對しての名であるが、この歌によれば、この時はまだ妹山の名がなかつたのであろう。この歌は理くつをいつているだけで、時の興を助ける以上、何の味もない歌である。
 
幸2志賀1時、石上卿作歌一首 名闕
 
志賀に幸でましし時に、石上の卿の作れる歌一首 名闕けたり。
 
【釋】幸志賀時 シガニイデマシシトキニ。志賀は、近江の國の地名で、しばしば出た。その地に行幸のあつた時というのは、次の二八七、二八八の二首に懸かるのであるが、その左註に行幸の年月を詳にせずとあつて、何時の行幸の時とも傳えていない。しかしこの歌は、藤原時代の終りから奈良時代の初めにかけての歌と見て、(118)この處に置かれたのであろう。その頃の志賀への行幸としては、大寶二年十月の持統太上天皇の參河の國への御幸、養老元年九月の元正天皇の美濃の國への行幸があり、その途次、いずれも近江の國を通過されたはずである。そのいずれかであろうと考えられる。
 石上卿 イソノカミノマヘツギミ。題下の註に名闕とあつて、誰であるかをあきらかにしていない。本集において卿の字は、四位以上の人に使うのであるが、當時、石上氏で卿と呼はるべき人に、次の三人がある。
  石上麻呂   養老元年三月薨
  石上豐庭   養老二年五月卒
  石上乙麻呂  天平勝寶二年九月薨
 この人々の薨卒の年代をもつて考えるに、大寶二年の御幸ならば麻呂、養老元年の行幸ならば豐庭、乙麻呂のうちである。しかるに、麻呂は養老元年三月に薨じているのであるから、養老元年九月の行幸の際には、その子乙麻呂は喪中にあり、行幸に從わないはずである。そうすればここに石上の卿とあるのは、麻呂、豐庭のうちとすべく、麻呂は左大臣にもなつて卷の一に作歌あり、豐庭は作歌を傳えないので、いずれかといえば、麻呂らしくもある。
 名闕 ナカケタリ。上の石上の卿とのみ傳えて、名の傳わらないのを斷つたのである。もと敬意を表して名を書かなかつたものであろう。
 
287 此處《ここ》にして 家やもいづく。
 白雲の たなびく山を
 越えて來にけり。
 
 此間爲而《ココニシテ》 家八方何處《イヘヤモイヅク》
 白雲乃《シラクモノ》 棚引山乎《タナビクヤマヲ》
 超而來二家里《コエテキニケリ》
 
(119)【譯】この處で、わが家は何處だろう。白い雲のたなびいている山を越えて來たなあ。
【釋】此間爲而 ココニシテ。シテは、助詞になるが、この句に爲而の文字を使つているのは、語原意識が殘つていることを示している。この處での意である。「大御語爲而《オホミコトトシテ》」(天平十九年法隆寺縁起)。
 家八方何處 イヘヤモイヅク。イヘは、わが家。大和の國の家である。ヤモは疑問の係助詞。イヅクナラムなどいうべき意の體言止め。句切。
 白雲乃 シラクモノ。次句の棚引に對して主格をなしている。
 棚引山乎 タナビクヤマヲ。タナビクは、棚のように引いている義である。集中、ヒクに引、曳の字を當てているものが多く、また、タナ曇ルの如き類型の語があるので、タナにヒクの接續して熟語となつたものであることが知られる。ナビクに接頭語タの接續したものではない。たなびく山の語で、高い山の意を現している。
 超而來二家里 コエテキニケリ。ケリは時の助動詞であるが、感動を含んでいる。
【評語】初二句で切れ、續いて白雲ノと起して來て、高い山を越えて來たことを歌つている。遠く旅に出て家郷を望み見て詠んだ歌で、調子の高く、感慨の深い歌である。大伴の旅人の、比處《ここ》にありて筑紫や何處《いづく》、白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、五七四)の歌は、類型の歌であるが、それは都のわが家に歸つて、旅にあつて過した方を望み見ている。この歌の方が感が深いのは、五句の越エテ來ニケリの句が、詠嘆を久しくする氣分があるからである。
 
穗積朝臣老歌一首
 
【釋】穗積朝臣老 ホヅミノアソミオユ。前の幸2志賀1時の句は、この題詞にまで冠している。穗積の老は、續日本紀の大寶三年の條に、正八位の上として山陽道に遣はされたことが見える。天平六年正月、乘輿を指斥(120)するに座して斬刑に處せられたのを、皇太子の奏によつて、死一等を降して佐渡に流された。天平十二年六月の大赦によつて入京し、また官仕した。天平勝寶元年八月二十六日子の刻に卒したことが、古寫の維摩詰經《ゆいまきつぎよう》の奧書によつて知られる。
 
288 わが命《いのち》し 眞幸《まさき》くあらば またも見む。
 志賀の大津に 寄する白浪。
 
 吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將v見《マタモミム》
 志賀乃大津尓《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》
夕月月
 
【譯】わたしの命が無事だつたならば、またこの志賀の大津にうち寄せる白浪を見ることだろう。
【釋】吾命之 ワガイノチシ。シは張意の助詞。次の句に對する主格句。
 眞幸有者 マサキクアラバ。この句、既出(卷二、一四一)。サキクに接頭語マの接した形容詞。サキクは、榮えてある有樣を形容する。幸福であるならば。ここには、命の完全にあらむことを想像している。
 亦毛將見 マタモミム。ふたたび此處に來て見ようの意。句切。
 志賀乃大津尓 シガノオホツニ。志賀の大津は地名であるが、元來大津は、大きな船著きの義であり、地形によつて名となつたものであつて、此處には、その本義たる地形が感じられている。
 縁流白浪 ヨスルシラナミ。琵琶湖畔にうち寄せる白浪に呼びかけている。
【評語】志賀の大津に打ち寄せる白浪の美しさ、それをまた見ることもあろうかと歌つている。三句で一度切れて、その目的物を四五句で敍述し、名詞止めにした行き方は、特に感慨を深からしめる敍述である。その白浪に對して非常に感じている趣があらわれている。この作者はかつて罪があり、越前に流されているので、この歌の内容から推しても、その流罪の途上で詠んだものであろうといわれているが、石上の卿の歌と竝んでいるのであり、流罪の時の詠とするのは臆測に止まるものというべきである。
 
右今案、不v審2幸行年月1
 
右は今案ふるに、幸行の年月を審にせず。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。萬葉集の編者の意見である。
 不審幸行年月 イデマシノトシツキヲツマビラカニセズ。幸行は、行幸に同じく天子の出行をいう。古事記にも例が多い。前の歌の題詞、幸志賀時の説明である。
 
間人宿祢大浦、初月歌二首
 
間人の宿禰大浦の、初月の歌二首。
 
【釋】間人宿祢大浦 ハシヒトノスクネオホウラ。傳未詳。間人の宿禰は、新撰姓氏録に、仲哀天皇の皇子|譽屋別《ほむやわけ》の命の後と見える。
 初月 ミカヅキ。初月は、月の初めの月をいう。古くこれをミカヅキと訓しているのは、卷の六に、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)初月(ノ)歌一首の題下に「月立而《ツキタチテ》 直三日月之《タダミカヅキノ》 眉根掻《マヨネカキ》 氣長戀之《ケナガクコヒシ》 君爾相有鴨《キミニアヘルカモ》」(九九三)の歌があつて三日月と詠んでいるによるのであろう。しかし初月は、三日月には限らず、またこの歌詞の白眞弓張リテ懸ケタリというは、三日月よりは更に月齡の多い望《もち》以前の月をいう意と見えるが、慣用によづてミカヅキというのだろう。むしろユフヅキと讀むべきかとも思われる。ユフヅキは、朝月に對して初夜に照る月をいう。「由布豆久欲《ユフヅクヨ》 可氣多知與里安比《カゲタチヨリアヒ》 安麻能我波《アマノガハ》 許具布奈妣等乎《コグフナビトヲ》 見流我等母之佐《ミルガトモシサ》」(卷十五、三六五八)の例があつて、七日の月を詠んでいる。
 
(122)289 《あま》天の原 ふりさけ見れば、
 白眞弓《しらまゆみ》 張りて懸けたり。
 夜路《よみち》は吉《よ》けむ。
 
 天原《アマノハラ》 振離見者《フリサケミレバ》
 白眞弓《シラマユミ》 張而懸有《ハリテカケタリ》
 夜路者將v吉《ヨミチハヨケム》
 
【譯】大空を仰ぎ見れば、月は、白い眞弓を張つて懸けたようだ。夜路は良いだろう。
【釋】天原振離見者 アマノハラフリサケミレバ。既出(卷二、一四七)。アマノハラは、天空。廣々とした天をいう。フリサケミレバは、遠望すれば、目を放つて見れば。
 白眞弓 シラマユミ。檀の材で作つた弓を眞弓といい、その材は白いので、他の材で作つた弓に對比して白眞弓という。「白檀弓《シラマユミ》 靱取負而《ユキトリオヒテ》」(卷九、一八〇九)、「白檀《シラマユミ》 挽而隱在《ヒキテカクセリ》 月人壯子《ツクヒトヲトコ》」(卷十、二〇五一)などの例がある。二〇五一の例は七夕の歌で、七日の月を詠んでいる。
 張而縣有 ハリテカケタリ。弓の弦を引いて空に懸けてあるの意で、月を譬喩によつて表現している。ここに弓を張つて懸けたというので、三日月よりも後の月であるべきことが推量され、また次句の夜路は吉ケムもこれを證している。句切。
 夜路者將吉 ヨミチハヨケム。ヨミチは、夜間の行路、ヨケムは、形容詞ヨケに助動詞ムの接續した形である。ヨカラムの約言とするは誤りである。「阿箇悟馬能《アカゴマノ》 以喩企波々箇?《イユキハバカル》 麻矩儒播羅《マクズハラ》 奈爾能都底擧騰《ナニノツテゴト》多?尼之曳鷄武《タダニシエケム》」(日本書紀一二八)とある歌を、本集では「赤駒之《アカゴマノ》 射去羽計《イユキハバカル》 眞田葛原《マクズハラ》 何傳言《ナニノツテゴト》 直將v吉《タダニシエケム》」(卷十二、三〇六九)と書いている。形容詞ヨシを古くはエシと言つたので、これはエケムの形が出ている。
【評語】夜行をしようとして天空を仰ぎ、弦月の光を見た初二句も大きく、また月をいわないで、白眞弓を張リテ懸ケタリと敍したのも、壯快な調である。
 
(123)290 倉橋の 山を高みか、
 夜《よ》ごもりに 出で來《く》る月の
 光ともしき。
 
 椋橋乃《クラハシノ》 山乎高可《ヤマヲタカミカ》
 夜隱爾《ヨゴモリニ》 出來月乃《イデクルツキノ》
 光乏寸《ヒカリトモシキ》
 
【譯】倉橋の山が高いのでか、夜遲く出て來る月の光がすくないことだ。
【釋】椋橋乃 クラハシノ。椋橋は、奈良縣磯城郡に、今、倉橋の名が殘つている。その東方にある音羽《おとは》山あたりを椋橋の山というのであろう。椋の字は樹名に使用し、普通ムクと讀んでいる。これをクラと讀むのは、「暮去者《ユフサレバ》 小倉乃山爾《ヲグラノヤマニ》」(卷八、一五一一)の歌を「暮去者《ユフサレバ》 小椋山爾《ヲグラノヤマニ》」(卷九、一六六四)と書き、「倉橋部女王」(卷三、四四一)を「椋橋部女王」(卷八、一六一三左註)と書いているなど、證が多い。これについては、日本靈異記に直椋家長公とあるについて、狩谷?齋の攷證に「谷川氏曰はく、椋、倉と同訓、字書いまだその義を得ず。説文、廩の圓を京といふ、けだしこれに據るなり。按ずるに京の倉たる、京都の字と混ず。故に木傍を加へて、分かつなり」とある。地名にはクラの語を有するもの多く、このクラも、それと共に谿谷の義なるべく、ハシは階梯の義で、段になつている意であろう。
 山乎高可 ヤマヲタカミカ。山ヲ高ミは、山が高くして、カは疑問の係助詞。五句に懸かる。
 夜隱尓 ヨゴモリニ。ヨゴモリは、夜の深くある頃をいう。宵からいえば、夜の遲くなつた頃であり、曉からいえば、夜のまだ深く殘つている頃をいう。この語は、集中「倉橋之《クラハシノ》 山乎高歟《ヤマヲタカミカ》 夜牢爾《ヨゴモリニ》 出來月之《イデクルツキノ》 片待難《カタマチガタキ》(卷九、一七六三)、「許能久禮罷《コノクレヤミ》 四月之立者《ウヅキシタテバ》 欲其母理爾《ヨゴモリニ》 鳴霍公鳥《ナクホトトギス》」(卷十九、四一六六)があり、卷の九のは、この歌とほとんど同じである。そのほか、動詞としては、「戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》 月四有者《ツキシアレバ》 夜波隱良武《ヨハコモルラム》 須臾羽蟻待《シマシハアリマテ》」(卷四、六六七)の用例がある。後の歌ではあるが、この語の意味をよく示しているものに(124)「しののめにあしたの原を分け行けばまだ夜ごもれるこゝちこそすれ」(重之集)がある。「夜をこめて」という表現は、他動詞としての用法であつて、夜深きうちからの意である。なお類語に、冬ゴモリ、月《ツ》ゴモリがある。
 出來月乃 イデクルツキノ。夜深くして山から出て來る月の意で、次の句に對して主格句となつている。
 光乏寸 ヒカリトモシキ。このトモシは、乏少の意で、上の、山ヲ高ミカを受けて、光のすくないことを敍している。係助詞カを受けて、連體形をもつて結んでいる。
【評語】この歌、從來正解を得ないで、諸説紛々としていた。初月の歌二首の題詞をも疑い、下弦の月かとするに至つている。しかし題詞のままに解するのを順當とすべく、その月は上弦の月でも、月齡の多くなつた頃の月で、倉橋山が高いゆえに、夜深くして出て來るのである。倉橋の山の近くにあつて、月が出てもあたりのあかるくならないのを詠んだ歌である。月に關心を持つた生活が傳えられているが、前の天ノ原フリサケ見レバの歌には及ばない。
【參考】別傳。
   沙彌の女王の歌一首
  倉橋の山を高みか夜ごもりに出で來る月の片待ち難き
    右の一首は、間人の宿禰大浦の歌の中に既に見えたり。但し末の一句あひ換り、また作れる歌に兩の主ありて、正しく指し敢へず。因りて累ね載す。(卷九、一七六三)
 
小田事、勢能山歌一首
 
【釋】小田事 ヲダノツカフ。傳未詳。事の讀み方もあきらかでない。古今六帖に、この歌を載せて作者を(125)「をだのことぬし」としているが、その根據を知らない。類聚名義抄に、事に、コト、ワザ、ツカフ、コトヽス、ツカマツル、サシハサム、アツマルの訓がある。
 勢能山 セノヤマ。紀伊の國の勢の山である。
 
291 眞木の葉の 撓《しな》ふ勢の山、
 偲《しの》はずて わが越えゆけば、
 木《こ》の葉知りけむ。
 
 眞木葉乃《マキノハノ》 之奈布勢能山《シナフセノヤマ》
 之奴波受而《シノハズテ》 吾超去者《ワガコエユケバ》
 木葉知家武《コノハシリケム》
 
【譯】木の葉の撓つている勢の山、わたしがもの思いをしないで越えて行くので、木の葉が知つたのだろう。
【釋】眞木葉乃 マキノハノ。マキは、松杉檜などの堂々たる樹木をいう。
 之奈布勢能山 シナフセノヤマ。シナフは、撓み繁つているをいう。「春山之《ハルヤマノ》 四名比盛而《シナヒサカエテ》」(卷十三、三二三四)は、花葉の繁つて撓むをいい、「多知之奈布《タチシナフ》 伎美我須我多乎《キミガスガタヲ》」(卷二十、四四四一)、「秋※[草がんむり/互]子之《アキハギノ》 四搓二將v有《シナヒニアラム》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》」(卷十、二二八四)は、男女の容儀のしなやかなのを言つている。これらによれば、勢の山の眞木の葉の、繁茂して撓つているのをいうと解せられる。この句は呼格。その山をわが越え行けばの意にはなるが、語格としては、勢の山に呼びかけたのである。
 之努波受而 シノハズテ。上のシナフを受けて、同音聲に起している。シノフは、思慕する意の動詞。堪え忍ぶ意のシノブは、別語で、ノおよびフの音韻が別とされる。そこでこの句は、もの思いをしないでの意となり、作者があかるい氣もちで旅行していることを語るものとされる。
 吾超去者 ワガコエユケバ。勢の山を越えて行けばであるが、どちらに向かつてであるかは不明である。多分家に向かつているのだろう。
(126) 木葉知家武 コノハシリケム。眞木の葉のしなうのを見れば、わが物思いをしないでいるのを、木の葉が知つたのであろうの意。
【評語】眞木の葉のしなつているのを見て、あかるい氣もちになつている。木の葉もわが心を知つたのであろうの意であるが、歌としては感情が十分にあらわれていない。この歌の解には諸説があるが、今、講義のシナフの解によつた。但し勢の山の格の解は、講義の説と違う。
 
角麻呂歌四首
 
【釋】角麻呂 ツノノマロ。傳未詳。角は氏、麻呂は名である。角氏は、古事記中卷に、木の角の宿禰は都奴の臣の祖なりとある。代匠記には、?の兄麻呂の誤りとしているが、臆説に過ぎない。正倉院文書に、寫經生の?の惠万呂を、角の惠万呂とも書いているから、ロクであるかも知れない。また角万呂の名も見えるが、これは別人であろう。この四首は、いずれも難波あたりの歌と見られ、同じ行の作と考えられる。
 
292 ひさかたの 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の
 泊《は》てし高津《たかつ》は、
 淺《あ》せにけるかも。
 
 久方乃《ヒサカタノ》 天之探女之《アマノサグメガ》 石船乃《イハフネノ》
 泊師高津者《ハテシタカツハ》
 淺尓家留香裳《アセニケルカモ》
 
【譯】遠い天から來た天の探女の石棺の碇泊したこの難波の高津は、すつかり淺せはててしまつたなあ。
【釋】久方乃 ヒサカタノ。既出。枕詞。この句で遠い天から天の探女が降りて來たことを感じさせている。
 天之探女之 アマノサグメガ。日本書紀卷の二に「その雉《きぎし》飛び降りて、天稚彦《あめわかひこ》が門前《かど》に植《た》てる湯津杜木《ゆつかつら》の杪《すゑ》に止まる時、天《あま》の探女《さぐめ》見て天稚彦にいひて曰はく、奇《あや》しき鳥來て杜の杪に居り」とあり、その註に「天探女、(127)此をは阿摩能左愚謎《あまのさぐめ》と曰ふ」とある。古事記には天佐具賣《あまのさぐめ》とある。また倭名類聚鈔神靈類に「日本紀私記云、天(ノ)探女 阿萬乃佐久女《アマノサクメ》、俗(ニ)云(フ)2安萬佐久女《アマサクメト》1」とある。これらによらば、アマノサグメと讀むべきである。天が助詞ノを伴なう場合は、アメノ、アマノの兩樣の假字書きがあり、熟語としては、アマノとしていると考えられる。ここはアマノと傳えているのである。天の探女は、神話では天孫降臨にさき立つて、天から降つて來た天若日子《あめわかひこ》に附いて來た神と傳えられている。天若日子が大國主の命の女の下照比賣《したてるひめ》を妻として、天下平定の功を奏しなかつたので、雉子を遣して詰問せしめたのを、探女が天若日子に勸めて射殺させたと傳えている。探女は事の吉凶を探る女の義で、鳥の鳴聲や夢等を判斷して、その吉凶を説く女である。事の眞相を探る女という意味であろう。一種の巫女《ふじよ》で、往時その靈力が信じられていたものと考えられる。そういう女は不思議な力を持つているので、天から降つて來た者という傳説を生ずるのである。
 石船乃 イハフネノ。日本書紀卷の二に「嘗天《むかし》神の子ましまして、天の磐船に乘りて天より降り止まる。號を櫛玉饒速日《くしたまにぎはやひ》の命と曰ふ」、本集に「蜻島《アキヅシマ》 山跡國乎《ヤマトノクニヲ》 天雲爾《アマグモニ》 磐船浮《イハフネウカベ》 等母爾倍爾《トモニヘニ》 眞可伊繁貫《マカイシジヌキ》 伊許藝都追《イコギツツ》 國看之勢志?《クニミシセシテ》 安母里麻之《アモリマシ》 掃平《ハラヒコトムケ》」(卷十九、四二五四)とあり、天から降る神の乘物と傳えられる。イハは堅固の意に冠している。岩戸、岩|座《くら》など、同樣の用法である。
 泊師高津者 ハテシタカツは。ハテシは、碇泊した意。高津は地名、難波の高津で、今大阪市に屬している。もと地形から出た名稱なるべく、高臺で、ただちに津をなしていたものと考えられる。昔大阪灣は更に灣入しており、漸次陸地となつて行つたのであるが、この歌の作られた當時、既に淺くなつていたのであろう。
 淺尓家留香裳 アセニケルカモ。淺の字は、動詞として使用されていると見られる。これを下二段動詞と見て、アセと讀んでいる。色の薄くなるをアスという。それと同語で、ここは海の淺くなるをいうのであろう。但し古くは、下二段活の文獻はなく、「阿佐受袁勢《アサズヲセ》 佐佐《ササ》」(古事記四〇)、「安禮乎多能米弖《アレヲタノメテ》 安佐麻之物能乎《アサマシモノヲ》」(128)(卷十四、三四二九)など、四段活と見られる例がある。これによらば、この句も、アシニケルカモであろうが、耳慣れないので、アセニケルカモの訓を存しておく。高津の海が淺くなつて、たとえば洲なども露出するに至つたのであろう。
【評語】天の探女は傳説中の人物であるが、そのする業は、當時までも殘つていて、これを繼承する巫女があつたらしい。此處には角の麻呂の歌によつて、その神秘な傳説が歌われている。その傳説を使つて、昔と今と土地の變化した?を描いた。初句の枕詞も神秘な感じを出すために役立つている。一氣に歌い下した調子が内容に一致して、神秘な世界に人を誘つて行く。
【參考】天の探女。
 かれここに天照らす大御神、高御産巣日《たかみむすび》の神、また諸の神たちに問ひたまひしく、「天若日子、久しく復奏《かへりごと》まをさず、またいづれの神を遣はしてか、天若日子が久しく留まれる所由《よし》を問はしめむ」と問ひたまひき。ここに諸の神たち、また思金《おもひかね》の神白さく、「雉《きぎし》名《な》鳴女《なきめ》を遣はしてむ」とまをす時に、詔りたまひしく、「汝《いまし》行きて天若日子に問はむ?《きま》は、汝を葦原の中つ國に遣はせる所以《ゆゑ》は、その國の荒ぶる神どもを言趣《ことむ》け平《やは》せとなり。何ぞは八年になるまで、復奏《かへりごと》まをさざると問へ」とのりたまひき。かれここに鳴女《なきめ》、天より降《お》り到《つ》きて、天若日子が門なる湯津楓《ゆつかつら》の上に居て、委曲《まつぶさ》に天つ神の詔命《おほみこと》のごとのりき。ここに天《あま》の佐具賣《さぐめ》、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて、「この鳥は鳴く音《こゑ》甚《いと》惡し。かれ射《い》たまはね」といひ進めけれは、すなはち天若日子、天つ神の賜へりし天の波士弓《はじゆみ》天の加久矢《かくや》をもちて、その雉を射殺しつ。ここにその矢、雉の胸より通りて、逆《さかさま》に射上げられて、天の安の河の河原にまします天照らす大御神|高木《たかぎ》の神の御所《みもと》に逮《いた》りき。この高木の神は、高御産巣日《たかみむすび》の神のまたの名なり。(古事記上卷)
 
(129)293 鹽《しほ》干の 三津の海女《あまめ》の、
 くぐつ持ち 玉藻苅るらむ。
 いざ行きて見む。
 
 鹽干乃《シホヒノ》 三津之海女乃《ミツノアマノ》
 久具都持《クグツモチ》 玉藻將v苅《タマモカルラム》
 率行見《イザユキテミム》
 
【譯】潮の干ている三津の海女が、籠を持つて海藻を刈つているだろう。さあ行つて見よう。
【釋】盟干乃 シホヒノ。シホカレノ(類)、シホヒノ(代初)。シホヒは、潮の干てあるを名詞に言つている。「難波潟|鹽干《しほひ》に出でて玉藻刈る海處女《あまをとめ》ども汝《な》が名|告《の》らさね」(卷九、一七二六)も名詞として使用している。次の三津を修飾している。四音の句。
 三津之海女乃 ミツノアマメノ。ミツノアマメノ(西)、ミツノアマノ(古義)。三津は、難波の御津。アマは、海女とある如く、海人の女子。アマは、男女ともにいう語であるが、ここには女子をいうので、特に海女の文字を使用している。アマは男女に共通していう語であるから、その女子をアマメというのであろう。以上二句、次の二句に對する主格句。
 久具都持 クグツモチ。クグツは、和歌童蒙抄に「くぐつはかたみをいふ也」とあり、そのカタミは籠である。袖中抄には「顯昭云、くぐつとは、わらにてふくろのやうにあみたるものなり。それに藻などをもいるなり」とある。またうつぼ物語には「きぬあやをいとのくぐつに入れて」とある。講義には「こは恐らくは、クグといふ草(海濱に生ずるカヤツリグサ科の植物にして今もクグといひ、それにて繩をつくりてクグナハといふ。この草の名は新撰字鏡にも和名鈔にも見ゆ)の繩にて編みつくれる籠の如きものにして、童蒙抄に「かたみ」といへるは、そをつくる材料は違へど、形と用とを同じくせるよりの名にて、顯昭がわらにてつくるといへるはその材料をくはしく知らざりしか、若くは當時藁にてつくれるものもありしならむ」と言つている。こ(130)れはクグガヤツリのことである。ここは採取した藻を入れるために、クグツを持つので、「籠もよ み籠持ちふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜採ます兒」(卷一、一)と同樣の言い方である。
 玉藻將苅 タマモカルラム。玉藻刈ルは、しばしば出た。海人の女子の業として知られている。ここは潮干の海岸に出て海藻を刈るのであるが、刈ルは、廣く採取するをいうのである。ラムは推量の助動詞。將の字は、しばしばラムと讀まるべき處に使用されている。句切。
 率行見 イザユキテミム。率は、日本書紀崇神天皇紀に、その率《いざ》川の宮について、「率川、此(ヲバ)云(フ)2伊社箇波《イザカハト》1」とある。イザナフの意に使用せられ、人を誘う辭としてイザの語にこれを當てたのであろう。海女の玉藻を刈つているのを、行つて見ようというのである。
【評語】藻刈り鹽燒く海人の女子に心をひかれて歌つていることは「玉藻刈る海處女《あまをとめ》ども見に行かむ船?《ふなかぢ》もがも。浪高くとも」(卷六、九三六)などがあり、海のない大和の國の人々の、海に對する特殊の關心が窺われる。初句が字足らずと推量されることは、不確實ではあるが、もし然りとせば、歌いものの風格を存しているであろう。
 
294 風を疾《いた》み 奧《おき》つ白浪 高からし。
 海人《あま》の釣船 濱に歸りぬ。
 
 風乎疾《カゼヲイタミ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 高有之《タカカラシ》
 海人釣船《アマノツリブネ》 濱眷奴《ハマニカヘリヌ》
 
【譯】風がひどいので沖の白波は高いようだ。海人の釣船が、濱邊に歸つた。
【釋】風乎疾 カゼヲイタミ。疾は、講義には、ハヤミと讀むのがよいとしている。字書に、速也、急也とある字で、本集に「宇良未欲里《ウラミヨリ》 許藝許之布禰乎《コギコシフネヲ》 風波夜美《カゼハヤミ》 於伎都英宇良爾《オキツミウラニ》 夜杼里須流可毛《ヤドリスルカモ》(卷十五、三六四六)とある。風が速くしての意である。しかし「風緒痛《カゼヲイタミ》 甚振浪能《イタブルナミノ》」(卷十一、二七三六)の風緒痛は、カゼ(131)ヲイタミであつて、カゼヲハヤミとは讀まれない。また假字書きにも「可是乎伊多美《カゼヲイタミ》 都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》」(卷十四、三三八〇)の例があり、「安由乎伊多美可聞《アユヲイタミカモ》」(卷十八、四〇九三)もこれに準ずるもので、しかも一方にこれによつて「安由乎疾美《アユヲイタミ》」(卷十九、四二一三)も、アユヲイタミと讀むべきである。よつてここもカゼヲイタミと讀むべきものと推考される。イタミは、はなはだしくある意で、風の強烈であるのをいう。
 奧津白浪 オキツシラナミ。沖の方の白波である。
 高有之 タカカラシ。タカクアルラシの約言。下の四五句を根據として、推量を下している。風が強くて浪の立つのが高いのであろうというのである。句切。
 海人釣船 アマノツリブネ。海人の乘つて釣する船である。
 濱眷奴 ハマニカヘリヌ。眷は、眷顧と熟して使用される字で、顧みる義があるによつてカヘリと讀まれている。
【評語】海濱の光景を敍して、淡々たる中に風趣がある。風の吹き出して來た動的な情景が描寫されている。
 
295 住吉《すみのえ》の 野木の松原、
 遠つ神 わが王《おほきみ》の
 幸行處《いでましどころ》。
 
 清江乃《スミノエノ》 野木笶松原《ノギノマツバラ》
 遠神《トホツカミ》 我王之《ワガオホキミノ》
 幸行處《イデマシドコロ》
 
【譯】住吉の、野の木立である松原、此處は、昔の神樣の天皇の行幸された處だ。
【釋】清江乃 スミノエノ。スミノエは、大阪市の住吉。清江と書いた例は、卷の一、六九の左註に、清江の娘子とある。
 野木笶松原 ノギノマツバラ。野は、神田本によつて加えた。もと木笶松原とあるについて、キシノマツバ(132)ラと讀んでいた。しかし集中、笶は、假字としては「見芳野乃《ミヨシノノ》 飽津之小野笶《アキツノヲノノ》 野上者《ノノヘニハ》 跡見居置而《トミスヱオキテ》」(卷六、九二六)など、すべてノの音を寫すに使用されている。また攷證には「又考ふるに、笶は和名抄に夜と訓て矢の俗字にて、矢は皆篠を以て製する事、本集七【三十四丁】に八橋乃小竹乎不造矢而云々などあるが如くなれば、その意もて笶をしのゝ假名に用ひしにもあるべし」と云つているが、笶の訓シノのノは、古代假字遣いの怒の類の音であつて、助詞ノの音とは相違する。既に笶をノと讀むべしとせば、木の上に野の字のある神田本によるを妥當とする。野木の語は、「吉名張乃《ヨナバリノ》 野木爾零覆《ノギニフリオホフ》 白雪乃《シラユキノ》」(卷十、二三三九)がある。野生の樹の意。この句、野木の松原を提示している。
 遠神 トホツカミ。既出(卷一、五)。昔の時代の神である意に、わが大君を修飾する。
 我王之 ワガオホキミノ。ここは前代の天皇をいう。ワガは親しみの情をもつて冠している。事實としては、持統天皇、文武天皇あたりを思つているのだろう。
 幸行處 イデマシドコロ。かつて行幸のあつた處であるの意。下にナリの如き語が略されている。
【評語】これも淡々たる敍述のうちに、住吉の松原の佳景を稱えている。以上この人の作四首、いずれも傑作とは言いがたいが、平凡なうちに、よく情趣を得ている。
 
田口益人大夫、任2上野國1時、至2駿河淨見埼1作歌二首
 
田口《たぐち》の益人《ますひと》の大夫《まへつぎみ》の、上野《かみつけの》の國に任《ま》けられし時、駿河の淨見《きよみ》の埼に至りて作れる歌二首。
 
【釋】田口益人大夫 タグチノマスヒトノマヘツギミ。續日本紀によるに、田口の益人は、和銅元年三月に上野の守に任ぜられ、翌二年十一月に右兵衛の率《かみ》に轉じている。題詞によるに、その任ぜられた時に詠んだ歌である。新撰姓氏録に、田口の朝臣は、武内の宿禰の子孫、推古天皇の世に、大和の國高市郡の田口村に家し、(133)よつて田口を氏とするとある。大夫は、四位五位の人にいう文字。
 上野國 カミツケノノクニ。國とのみあるが、國司である。司を補うに及ばない。國司は、國の役人。守介|掾《じよう》目《さかん》の總稱であるが、田口の益人は、そのうち守に任ぜられたこと、前項の通りである。
 駿河淨見埼 スルガノキヨミノサキ。靜岡縣|庵原《いばら》郡|興津《おきつ》町附近の突出地の名。今、清見寺《せいけんじ》の寺名を留めている。陸路、その地を通過したものと解せられる。東山道の國に赴任するのだが、東海道を通つている。
 
296 廬原《いほはら》の 清見の埼の 三保の浦の
 寛《ゆた》けき見つつ もの思ひもなし。
 
 廬原乃《イホハラノ》 淨見乃埼乃《キヨミノサキノ》 見穗之浦乃《ミホノウラノ》
 寛見乍《ユタケキミツツ》 物念毛奈信《モノオモヒモナシ》
 
【譯】廬原の清見の埼から見た三保の浦の、ゆつたりとしたのを見ながら物思いもないことである。
【釋】廬原乃淨見乃埼乃見穗之浦乃 イホハラノキヨミノサキノミホノウラノ。廬原は郡名。今、庵原の字を用い、イハラと呼んでいる。作者は、淨見の埼にあつて、そこから眺めた三保の浦を詠んでいる。廬原の淨見の埼における三保の浦の義である。三保の浦は、突出している三保の松原の抱いている入海をいう。ある地點から見た地名の表現に、「水尾崎《ミヲガサキ》 眞長乃浦乎《マナガノウラヲ》 又顧津《マタカヘリミツ》」(卷九、一七三三)の如きがあり、これも、水尾が埼から眞長の浦を見た意である。
 寛見乍 ユタケキミツツ。海の廣々としているのを、ユタケキという。形容詞ユタケシの名詞形である。海上の寛々として迫らない?である。「海原乃《ウナハラノ》 由多氣伎見都々《ユタケキミツツ》 安之我知流《アシガチル》 奈爾渡爾等之波《ナニハニトシハ》 倍奴倍久於毛保由《ヘヌベクオモホユ》」(卷二十、四三六二)などある。
 物念毛奈信 モノオモヒモナシ。海上の大景を見ては物思いもないの意である。
【評語】駿河の國廬原郡にある淨見の埼から見た三保の浦の意で、作者が淨見の埼にあつて眺めた地を呼びあ(134)げている。地名の原形的な呼び方である。助詞を重ねて初句から三句まで歌い下しているが、この地名を重ねて來た調子も、この場合に適して、作者の見る角度をあきらかにして行く。かような海上のゆたかな景に對して、一切の煩悶をも忘れる氣持が尊いのである。
 
297 晝見れど 飽かぬ田兒の浦
 大王の 命かしこみ、
 夜見つるかも。
 
 晝見騰《ヒルミレド》 不v飽田兒浦《アカヌタゴノウラ》
 大王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 夜見鶴鴨《ヨルミツルカモ》
 
【譯】晝見ても飽きない田兒の浦を、大君の仰せ言を承わつて急いで行くので、夜見たことである。
【釋】晝見騰不飽田見浦 ヒルミレドアカヌタゴノウラ。田兒の浦の絶景は、白晝に見ても飽きることなきを、の意。國司の任地に往復するには、その遠近によつて日限が定められている。延喜式によれば、京都(山城の平安京)から上野の國まで、下り十四日、上り二十九日と定められてある。この日程は東山道の行程であるが、今は平易について海道を通つている。上りは貢物を運ぶために日數を要するのである。題詞によるに、今は任地に赴くのであり、淨見の埼を過ぎて夜に入つたのであろう。田兒の浦は、山部の赤人の作によるに富士山の見える處に求めらるべきであるが、續日本紀天平勝寶二年三月の條に「駿河の國の守從五位の下|楢原《ならはら》の造《みやつこ》東人《あづまひと》等、部内の廬原の郡|多胡《たご》の浦の濱に黄金を獲て、練金一分沙金一分を獻りぬ」とあり、廬原郡のうちであつたことが知られる。興津《おきつ》町より東方の海上を廣くいうなるべく、國府(靜岡市)を發して蒲原《かんばら》に入る頃既に夜になつていたのであろう。途中でたとえば雨などにあつて日數を費すと、夜行もしなければならなくなる。この句、田兒の浦をという内容であるが、語氣は例によつて、田兒の浦に呼び懸けている。
 大王之命恐 オホキミノミコトカシコミ。オホキミは天皇、ミコトは御言の義、命令、詔勅。カシコミは、(135)畏さに、畏くしての意。ミコトカシコミは、山ヲ茂ミと同じ格で、助詞ヲのない例である。天皇の仰せの尊さにの意。ここは特別の命令ではないが、法令に規定されている所を尊重していう。この句は、副詞句として慣用され、集中、この例を初めとして二十三出している。假字書きの例には、「於保伎美能《オホキミノ》 美許等可之故美《ミコトカシコミ》 於保夫禰能《オホブネノ》 由伎能麻爾末爾《ユキノマニマニ》 夜杼里須流可母《ヤドリスルカモ》」(卷十五、三六四四)などある。
 夜見鶴鴨 ヨルミツルカモ。夜に入つて田兒の浦を見たことを言つている。
【評語】作者は、今通過する田兒の浦の風光を知り、その羽衣傳説なども十分に知つているようである。それを夜中に經過する物足りなさが詠まれている。歌としては格別の事はないが、特殊の場合の歌で、既出の「馬ないたく打ちてな行きそ。け竝《なら》べて見てもわが行く志賀《しが》にあらなくに」(卷三、二六三)と趣は異なるが、同樣の事情のもとに詠まれている。
【參考】羽衣傳説。
 風土記を案《かんが》ふるに、古老傳へて言はく、昔、神女あり。天より降り來りて、羽衣を松が枝に曝《きら》しき。漁人、拾ひ得て見るに、その輕く軟きこと言ふべからず。いはゆる六銖《しゆ》の衣か、織女が機中の物か。神女乞ひしかども漁人與へざりき。神女、天に上らむとすれども羽衣なし。ここに、遂に漁人と夫婦となりき。蓋し已《や》むを得ざるなり。その後、一旦《あるひ》、女羽衣を取り、雲に乘りて去り、その漁人も登仙《とうせん》したりといふ。(本朝神社考)
 
辨基歌一首
 
【釋】辨基 ベニキ。左註にいうように、春日の老の法師の時の名であろう。春日の老は既出(卷一、五六)。續日本紀によれば、春日の老は、僧名を辨紀と云つた。大寶元年三月、還俗《げんぞく》せしめ、代わりに一人を度《ど》し、姓を春日の藏首、名を老と賜わり、位を授け、官に就《つ》かしめたとある。藏首の姓を賜わつたのは、算數が上手だ(136)つたので、出納記帳をつかさどらしめたのだろう。懷風藻にその詩一首を傳えている。藤原の宮の時代(持統文武兩天皇の御代)に、僧侶の中に材能ある人を發見すると、これを還俗せしめて役人に登用し、代わりに他の人を僧としたことがしばしば行われた。これは國家の政治を重視し、僧侶は佛の給仕人であるとしたことをあらわすものである。集中の作家として、春日の藏首老、山田の史三方、吉田《よしだ》の連|宜《よろし》等は、この時代の僧中出身の士である。
 
298 眞土《まつち》山 夕越え行きて、
 廬前《いほざき》の 角太河原《すみだがはら》に
 ひとりかも寐《ね》む。
 
 亦打山《マツチヤマ》 暮越行而《ユフコエユキテ》
 廬前乃《イホザキノ》 角太河原爾《スミダガハラニ》
 獨可毛將v宿《ヒトリカモネム》
 
【譯】眞土山を夕暮に越えて行つて、廬前の角太河原に、今夜はひとり寐ることであろうか。
【釋】亦打山 マツチヤマ。既出(卷一、五五)。大和の國から紀伊の國へ行く途上にある山で、吉野川の紀伊の國にはいつたところの右岸にある。亦打山、又打山、信士山などと書く。亦打は、マタウチの約言マツチで、借字である。卷の一にも亦打山と書いてあつた。
 暮越行而 ユフコエユキテ。夕方に眞土山を越えて行つてである。
 廬前乃 イホザキノ。廬前は、地名であろうが、所在未詳である。眞土山および角太河原が紀伊の國なるべきにより、これも同地であろうとされる。
 角大河原尓 スミダガハラニ。大和の國から紀伊の國にはいつて間もなく、今、橋本市に隅田《すだ》がある。紀の川の、その地を過ぎるあたりの河原を、角大河原と言つているのであろう。カハラは、川邊の原である。このガを助詞とする説があるが、原文に河の字を用いてあるによるべきものと思われる。また契沖は駿河としてい(137)るが、これは當らない。
 獨可毛將宿 ヒトリカモネム。ひとりでか寐ることであろうと推量している。カモは疑問の係助詞。その上のヒトリを疑つている。
【評語】僧侶として、旅行しているので、妻もなく寐ることを歌つている。眞土山を越えつつ、夕暮の色の迫つて來る寂しさが痛切に感じられて、前を案じてこの歌となつている。古人の旅行には困難が多く、殊に宿泊についてもつとも苦念の聲をなしている。前に出した「いづくにか吾は宿らむ。高島の勝野の原にこの日暮れなば」(卷三、二七五)といい、「しなが鳥|猪名野《ゐなの》を來れば有間山夕霧立ちぬ宿《やどり》は無くて」(卷七・一一四〇)の如き、皆同歎の聲である。
【參考】類句、ひとりかもねむ。
  春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月夜にひとりかも寐む (卷四、七三五)
  沫雪《あわゆき》の庭に零《ふ》り敷《し》き寒き夜を手枕|纏《ま》かずひとりかも寐む (卷八、一六六三)
  わが戀ふる妹は逢はさず。玉の浦に衣片敷きひとりかも寐む (卷九、一六九二)
  玉くしげ明けまく惜しきあたら夜を衣手《ころもで》離《か》れてひとりかも寐む (同、一六九三)
  明日よりはわが玉床《たまどこ》を打ち弗ひ君と宿《ね》ずしてひとりかも寐む (卷十、二〇五〇)
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長永《ながなが》し夜をひとりかも寐む (卷十一、二八〇二或本歌)
  衣手にあらしの吹きて寒き夜を君來まさずはひとりかも寐む (卷十三、三二八二)
  (上略)別れにし妹が著せてし馴れ衣袖片數きてひとりかも寐む (卷十五、三六二五)
 
右或云、辨基者、春日藏首老之法師名也。
 
(138)右は或るは云ふ、辨基は、春日の藏首老の法師の名なりといへり。
【釋】右或云 ミギハアルハイフ。作者の辨基について或る人の説を擧げている。
 法師名 ホフシノナ。法師としての名の意。還俗しなかつた前の名である。
 
大納言大伴卿歌一首 未v詐
 
【釋】大納言大伴卿 オホキモノマヲシノツカサ、オホトモノマヘツギミ。大納言は太政官の次官、天皇に侍從し、庶政に參畫し、大臣あらざる時は、代わつて政事を奏する官。大伴氏で大納言であつたものは、望陀《まくた》、御行、安麻呂、旅人がある。澤瀉久孝博士の説に、この卷の歌の配列の順序から見て、旅人以前とし、大伴の安麻呂であろうとしている。安麻呂は、既出(卷二、一〇一)。長コの第六子、文武天皇の慶雲二年に大納言兼大宰の帥となり、和銅七年五月、正三位大納言兼大將軍をもつて薨じ、從二位を贈られた。旅人の父である。大納言であるので、敬意を表して卿と記してある。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。上の大納言大伴の卿の、何人であるか未詳であるとしたのである。
 
299 奧山の 菅《すが》の葉|凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪の、
 消《け》なば惜しけむ。
 雨な零《ふ》りそね。
 
 奧山之《オクヤマノ》 菅葉凌《スガノハシノギ》 零雪乃《フルユキノ》
 消者將v惜《ケナバヲシケム》
 雨莫零行年《アメナフリソネ》
 
【譯】深い山の菅の葉を壓して降る雪が、消えたら惜しいだろう。雨よ降らないでくれ。
【釋】奧山之 オクヤマノ。深い山の奧ので、次の菅の葉の所在を示す。
 菅葉凌 スガノハシノギ。本集でスゲというのは、葉の長い草の總稱である。用途からいえば、笠、ムシロ、(139)マクラなどにするもので、カヤツリグサ科のカサスゲは、その代表とされる。この類の根は、塊莖《かいけい》で、しばしば長しと歌われるのに合わない。しかし山に生えているものをヤマスゲとはいうであろう。一方、「妹爲《イモガタメ》 菅實採《スガノミトリニ》 行吾《ユクワレヲ》」(卷七、一二五〇)など、實を愛用するものは、ユリ科のジヤノヒゲの類で、その紫色球形の異實を愛する。これは、本草和名に「麥門冬 和名|也末須介《ヤマスゲ》」とあり、倭名類聚鈔にも「麥門冬 和名|也末須介《ヤマスゲ》」とある。これも根は鱗莖《りんけい》である。根の長いのを愛するものは、また別で、アヤメ科などの種類であろう。シノグは、「高山之《タカヤマノ》 菅葉之努藝《スガノハシノギ》 零雪之《フルユキノ》 消跡可v曰毛《ケヌトイフベシモ》 戀乃繁鷄鳩《コヒノシゲケク》」(卷八、一六五五)、「伊波世野爾《イハセノニ》 秋芽子之努藝《アキハギシノギ》 馬竝《ウマナメテ》 始鷹獵太爾《ハツトガリダニ》 不v爲哉將v別《セズヤワカレム》」(卷十九、四二四九)など假字書きがあり、その他、凌の字をシノギと讀んでいる。凌は凌駕で、雪についていうのは、雪が植物などを押し伏せての意と解せられる。この句、次の雪の降る有樣を説明している。
 消者將惜 ケナバヲシケム。動詞消は、假宇書きの例としては、「宇梅能半奈《ウメノハナ》 半也久奈知利曾《ハヤクナチリソ》 由吉波氣奴等勿《ユキハケヌトモ》」(卷五、八四九)の如く、ケの形のものがあり、ほかに「小竹葉爾《ササノハニ》 薄太禮零覆《ハダレフリオホヒ》 消名羽鴨《ケナバカモ》 將v忘云者《ワスレムトイヘバ》 益所v念《マシテオモホユ》」(卷十、二三三七)の如き、消名羽をケナバと讀むべしと推考されるものがある。これによつて消者をケナバと讀んでいる。このケは、キエの約言と解せられているが、はたして然りや否やは不明である。「多知夜麻乃《タチヤマノ》 由吉之久良之毛《ユキシクラシモ》」(卷十七、四〇二四)は、「立山の雪し消らしも」であるとする説があり、もし然りとせば、この動詞に、ケ、クの二活用形が證明されることになるが、これは疑問である。なお假字書きの例はないが、消をキユ、キエ、消流をキユルと讀んでいるものが存している。ケナバのナは、完了の助動詞であるが、強意に用いられており、この句は、未然條件法になつている。ヲシケムは、形容詞惜シの活用形ヲシケに、助動詞ムの接續したもの。句切。
 雨莫零行年 アメナフリソネ。代匠記に、行年は去年の義でコソの借字としているが、禁止のナを受けて願(140)望のコソを使用した例はない。宣長の説に、行年を所年の誤りとしソネと讀んでいる。かような行年の字面は、このほかに四出している。「風莫吹行年《カゼナフキソネ》」(卷七、一三一九)、「言勿絶行年《コトナタエソネ》」(同、一三六三)、「雨莫零行年《アメナフリソネ》」(卷十、一九七〇)、「犬莫吠行年《イスナホエソネ》」(卷十三、三二七八)がそれである。これらの行年を、すべて所年の誤りとするのは首肯されない。禁止のナを受けてソネという例は、「都奈波多由登毛《ツナハタユトモ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》」(卷十四、三三八〇)など假字書きの例があり、行年をソネと讀む理由は不明であるが、なおソネと讀むによるべきである。このソネは助詞で、上の雪ナフリの内容を更に懇請するような氣分を有している。
【評語】奧山の菅の葉に降り積む雪のおもしろさを愛している。これも格別の歌ではないが、自然を愛する氣もちには、純粹のものが感じられる。しいて風流ぶつて雪を賞したものではないようである。
 
長屋王、駐2馬寧樂山1作歌二首
 
長屋《ながや》の王《おほきみ》の、馬を寧樂山《ならやま》に駐《とど》めて作れる歌二首。
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。既出(卷一、七五)。高市の皇子の子、天平元年歿。
 寧樂山 ナラヤマ。既出(卷一、一七)。大和の國から山城の國に赴くに當つて越える低い連山。
 
300 佐保過ぎて 寧樂《なら》の手祭《たむけ》に 置く幣《ぬさ》は、
 妹を目|離《か》れず 相見しめとぞ。
 
 佐保過而《サホスギテ》 寧樂乃手祭尓《ナラノタムケニ》 置幣者《オクヌサハ》
 妹乎目不v離《イモヲメカレズ》 相見染跡衣《アヒミシメトゾ》
 
【譯】佐保を過ぎて、寧樂山の高い處に置く幣は、わが妻を目を放たずに、見せよとて置くのである。
【釋】佐保過而 サホスギテ。佐保は地名。古の平城《なら》の都から、佐保を通つて寧樂山にさしかかるのである。今の歌姫越えである。
(141) 寧樂乃手祭尓 ナラノタムケニ。寧樂山の手向の祭をする場處での意。手向の祭をする場處は一定している。山越えではその道の高い處であることもあり、山腹であることもある。タムケは、旅人が災禍を免れるために道路の神を祭ることをいい、ここではそれより轉じて手向の祭をする處をいう。峠は手向の轉であるという説があるが、今では別の語で「たわ越え」の約言とされている。手向の祭をする場處の意に用いたものでは、「畏《かしこ》みと告《の》らずありしをみ越路のたむけに立ちて妹が名|告《の》りつ」(卷十五、三七三〇)などある。
 置幣者 オクヌサハ。ヌサは既出(卷一、六二)。麻、布、絲、絹、または紙の切つたものなどで、手向の祭をする時に用いるものである。手向の場《にわ》に置くから、置く幣という。幣を置く意は、もとは旅行の吉凶を占い、惡氣を拂うためであつたろうと思われるが、後には道路の神に獻上する物の意に轉化している。
 妹乎目不離 イモヲメカレズ。妹は親愛の婦人をいう。カレズは目の離れることなく。妻を目の離れることなくの意。次の句に對して修飾している。句切ではない。
 相見染跡衣 アヒミシメトゾ。アヒは相互的の意に接頭語となつている。逢うではない。シメは使役の助動詞の命令形。ゾは指定の助詞。幣を置く理由を説明している句。「奈泥(142)之故我《ナデシコガ》 波奈乃佐可里爾《ハナノサカリニ》 阿比見之米等曾《アヒミシメトゾ》」(卷十七、四〇〇八)。
【評語】道路の惡神を鎭めて手向の祭をするのは、わが家に置いて來た妻に再會を期するためである。佐保過ギテと初句を置いたのは、簡單ではあるが、道行の氣分が描かれている。山上の風懷を敍した歌である。
【參考】類想。
  玉久世の清き河原に身禊《みそぎ》して齋《いは》ふ命も妹がためこそ (卷十一、二四〇三)
 
301 磐《いは》が根の 凝《こご》しき山を 越えかねて、
 哭《ね》には泣くとも 色に出でめやも。
 
 磐金之《イハガネノ》 凝敷山乎《コゴシキヤマヲ》 超不v勝而《コエカネテ》
 哭者泣友《ネニハナクトモ》 色尓將v出八方《イロニイデメヤモ》
 
【譯】巖石の峨々たる山を越えかねて、泣くようなことがあつても、顔色には出しますまい。
【釋】磐金之 イハガネノ。岩が根のの意で、金は借字。イハは、岩石、ガ、助詞。ネは地に占據しているものにいう。この場合、ガネは接尾語になる。垣根、草根、木根などいう。岩、垣というに同じく、ただその物の性質が、地に根據を占めていることをあらわすに過ぎない。磐が根は、磐根というに同じ。
 凝敷山乎 コゴシキヤマヲ。コゴシは、凝り固まつている?態をいう形容詞。
 超不勝而 コエカネテ。カネは得ざる意。動詞にも助動詞にも使う。越えることができないで。
 哭者泣友 ネニハナクトモ。ネは泣く聲の名詞、ナクは泣く意の動詞である。哭ニ泣クとは、たとえば眠《イ》ヲ眠《ヌ》ルという如く、一つのことを重ねていうのである。さて元來哭ニ泣クとは、聲に出して泣く意であるが、かく熟語となつて後に、原意を失つて、ただ泣くことを廣く意味するに至つた。この句では、よしや泣くともの意で、下の色ニ出デメヤモによれば、むしろ心中に泣くほどの意に用いている。
 色尓將出八方 イロニイデメヤモ。イロは顔色。イロニイヅは、表面にあらわれるをいう。ヤモは反語の助(143)詞。顔色に出そうや、出すまいの意。
【評語】この歌は、かなり嶮しい山を越える時の歌として適切である。寧樂山はむしろ平易な山と思われるが、その山を越える時に、興に乘じてこの歌を詠まれたので、初三句は戀の譬喩に用いられたのであろう。
 
中納言安倍廣庭卿歌一首
 
【釋】中納言安倍廣庭卿 ナカノモノマヲシノツカサ、アベノヒロニハノマヘツギミ。中納言は令外《りようげ》の官で、大納言の下にある。安倍の廣庭は御主人《みうし》の子、神龜四年に中納言となり、天平四年二月、中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事をもつて薨じた。
 
302 兒《こ》らが家道《いへぢ》 やや間遠《まどほ》きを、
 ぬばたまの 夜《よ》渡る月に
 競《きほ》ひあへむかも。
 
 兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠焉《ヤヤマドホキヲ》
 野干子乃《ヌバタマノ》 夜渡月尓《ヨワタルツキニ》
 競敢六鴨《キホヒアヘムカモ》
 
【譯】あの子の家へ行く道はかなり距離があるが、夜空を渡る月に競爭することが出來るだろうか。
【釋】兒等之家道 コラガイヘヂ。コラは、親愛の意をあらわしていうが、一人の愛人をさしていい、ラは接尾語で、複數ではない。イヘヂは、家に至る道路である。
 差間遠焉 ヤヤマドホキヲ。
   ヤヤマドホキヲ(西)
   ヤヤアヒダトホシ(新訓)
   ――――――――――
   差母遠烏《ヤヤモトホキヲ》(槻)
ヤヤは、他と比較していう語。「裏儲《ウラマケテ》 吾爲裁者《ワガタメタタバ》 差大裁《ヤヤオホニタテ》」(卷七、一二七八)とある。マドホキは、間隔の(144)あつて、程遠きをいう。焉は、古寫本に〓と書く。烏をも、焉をもかような字形に書く。烏は、字音假字としては「烏梅能波奈《ウメノハナ》」(卷五、八一六)等の如く、ウの音を寫すに使用されているので、此處には不適當である。焉は、文の結辞として訓ヲが當てられ、轉じて他の助詞にも使用される。「甚毛《ハナハダモ》 夜深勿行《ヨフケテナユキ》 道邊之《ミチノベノ》 湯小竹之於爾《ユザサガウヘニ》 霜降夜焉《シモノフルヨヲ》」(卷十、二三三六)の如きは、ヲの訓を寫すに使用されている例である。よつてここも焉の字の異體とし、ヲと讀むべきである。なお焉は、文末の辭として、訓に關せずに置かれている例もあり、それによらば、この句、ヤヤアヒダトホシと讀んで句切とすべきであるが、歌調からいえば、なお下に續くを可とするようである。相當に間遠くあるがの意。
 野干子乃 ヌバタマノ。枕詞。夜に懸かる。ヌバタマは、カラスオウギの實で、その草の名を射干と書くより、音通で、野干とも夜干とも書く。子は實の義。野干の實の意である。野干子と書いた唯一の例である。
 夜渡月尓 ヨワタルツキニ。ワタルは、甲の點から乙の點に移動するをいう。夜空を渡り行く月にの意。
 競敢六鴨 キホヒアヘムカモ。キホヒは、競爭する意。アヘムは、できるだろう。アヘは動詞アフの未然形。うち勝つ、できるの意。カモは、疑問の助詞であるが、感動の意を含んでいる。
【評語】愛人の家に赴こうとして、天空に月を眺めて、月光のあるうちに行くことができるだろうかと歌つている。急いで行く氣持があらわれている。
 
柿本朝臣人麻呂、下2筑紫國1時 海路作歌二首
 
柿本の朝臣人麻呂の、筑紫の國に下《くだ》りし時、海路にて作れる歌二首。
 
【釋】下筑紫國時 ツクシノクニニクダリシトキ。筑紫の國は、九州の北部、筑前筑後地方の古名。人麻呂が瀬戸内海を航海した時の歌は前に出たが、筑紫に下つたことは他に所見がない。
 
(145)303 名ぐはしき 印南《いなみ》の海の 沖《おき》つ浪、
 千重に隱《かく》りぬ。
 大和島根は。
 
 名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》 奧津浪《オキツナミ》
 千重尓隱奴《チヘニカクリヌ》
 山跡島根者《ヤマトシマネハ》
 
【譯】名のりつぱな稻見の海の沖の方に立つ浪よ、家郷の大和の山々は、幾重もの浪のあなたに隱れた。
【釋】名細寸 ナゲハシキ。クハシは、精妙なるの意の形容詞で、佳人をクハシメといい、また花グハシなどの語もある。ナグハシは、名の精巧なる、名のりつぱな。集中、他に名グハシ吉野、名グハシ狹岑ノ島の例がある。名グハシキと、キを備えたのはこの歌のみである。たとえば、ウツシという形容詞を「宇都志意美《ウツシオミ》」(古書記下卷)とも「宇都志伎青人草《ウツシキアヲヒトグサ》」(同上卷)ともいう例であるが、シの形をもつて連體形を作る方が古い。
 稻見乃海之 イナミノウミノ。稻見は、播磨の國の地名、印南に同じ。その地の海ので、次の句に懸かる。
 奧津浪 オキツナミ。沖の方の浪に呼び懸けている。
 千重尓隱奴 チヘニカクリヌ。浪の重なり立つのを、千重にと形容している。隱ルは、古く四段活用であつたので、カクリヌと讀む。句切。
 山跡島根者 ヤマトシマネハ。ヤマトシマネは、ヤマトシマに同じ。海上より望見する大和の山々をいう。葛城、生駒の連嶺である。ネは接尾語。その山々が地中に根據を有することをあらわす。草根といつて、地中に根を張つている草をいうに同じ。「天ざかる鄙《ひな》の長路《ながぢ》ゆ戀ひ來れは明石の門《と》より大和島見ゆ」(卷三、二五五)の歌の大和島に同じ。その歌は、西方より東上し、今この歌は東方より西下するのである。上の千重ニ隱リヌの主格句である。
【評語】家郷の山々を顧みがちに航行して來た。しかも今や印南の海の千重に立つ浪のために、その山々も隱(146)れてしまつた。沖つ浪と呼びかけて詠嘆の意をあらわし、大和島根はその浪の千重の底に隱れたと歌つている感慨のよくあらわれている名作である。
 
304 大君《おほきみ》の 遠《とほ》の御門《みかど》と あり通《がよ》ふ
 島門《しまと》を見れば、
 神代《かみよ》し念《おも》ほゆ。
 
 大王之《オホキミノ》 遠乃朝庭跡《トホノミカドト》 蟻通《アリガヨフ》
 島門乎見者《シマトヲミレバ》 神代之所v念《カミヨシオモホユ》
 
【譯】わが天皇陛下の御門として、人々のありつつ通行する、島の海峽を見ると、これを作つた神代の事が思われる。
【釋】大王之遠乃朝庭跡 オホキミノトホノミカドト。オホキミは、天皇。ミカドは、御門を本義とし、轉じて、宮殿、朝廷、政府、國家等の意に使用される。これに、トホノという限定詞をつけたのは、その所在が中央より遠いことを示す。ここにはミカドに朝庭の字を當ててあり、これによれは、トホノミカドは、遠方の朝廷、すなわち地方廳の義となる。しかし、遠ノミカドトアリ通フ島門の語、および海路にて作れるという題詞によれば、本義通り遠方の御門の義に解すべきものと思われる。トは、としての意。なお下の島門の解を參照されたい。
 蟻通 アリガヨフ。アリは接頭語。アリ立タシ、アリ待ツなど例がある。存在する意で、ありつつ通う義である。連體形の句。
 島門乎見者 シマトヲミレバ。シマトは、島のあいだの海峽をいう。但し島はかならずしも島嶼でなくて、水に面している地形ならばよいのであつて、實際としては、半島などでもあり得るのである。その島門を、大君の遠方の御門と見立てたのである。大君の遠方の御門として人々の通う島の海峽を見ればの意である。
(147) 神代之所念 カミヨシオモホユ。カミヨは既出(卷一、一三)。神々の活動された時代。シは強意の助詞。オモホユは思われるの意。神代にもかくの如くであつたろうと、その神代のことが思われるの意である。
【評語】雄大な想像力があらわれている。神代のままを人の世に見出す、この作者の思想が窺われる。
【參考】遠のみかど。
  大君の遠のみかどと、しらぬひ筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして(下略、卷五、七九四)
  食國《をすくに》の遠のみかどに、汝等《いましら》しかく罷《まか》りなば、平《たひら》けくわれは遊ばむ(下略、卷六、九七三)
  大君の遠のみかどと思へれど日《け》長くしあれは戀ひにけるかも(卷十五、三六六八)
  すめろきの遠のみかどと、韓國《からくに》に渡るわが夫《せ》は(下略、卷十五、三六八八)
  大君の遠のみかどぞ、み雪降る越《こし》と名に負《お》へる、天ざかる鄙《ひな》にしあれば(下略、卷十七、四〇一一)
  大君の遠のみかどと、任《ま》き給ふ官《つかさ》のまにま、み雪ふる越《こし》に下《くだ》り來(下略、卷十八、四一一三)
  すめろきの遠のみかどと、しらぬひ筑紫の國は、賊《あた》守る押への城《き》ぞと(下略、卷二十、四三三一)
 
高市連黒人、近江舊都歌一首
 
【釋】近江舊都 アフミノフルキミヤコ。天智天皇の近江の大津の宮をいう。黒人の近江の舊都の歌については、卷の一に「高市古人(ノ)感2傷(シテ)近江(ノ)舊(キ)堵(ヲ)1作(レル)歌二首」(三二、三三)があつて、その題下に「或(ル)書(ニ)云(フ)、高市(ノ)連黒人」とある。それと關係のあるものであろう。
 
305 かく故《ゆゑ》に 見じといふものを、
 樂浪《ささなみ》の 舊《ふる》き都を
(148) 見せつつ、もとな。
 
 如v是故尓《カクユヱニ》 不v見跡云物乎《ミジトイフモノヲ》
 樂浪乃《ササナミノ》 舊都乎《フルキミヤコヲ》
 令v見乍本名《ミセツツモトナ》
 
【譯】これゆえに見まいというものを、樂浪の古い都をわたくしに見せてくだすつて、ほんとに悲しいことです。
【釋】如是故尓 カクユヱニ。カクは、このようにの意で、副詞として取り扱われるが、カクノ如など、體言としての使用もあり、それでユヱに接續する。カクノ如の例は、「加久能碁登《カクノゴト》 那爾於波牟登《ナニオハムト》」(古事記九八)などあり、クに體言を構成する要素があるものと考えられる。次の句のイフモノヲを限定している。この舊都を見て悲しい心になつたのをさして、如是といつている。
 不見跡云物乎 ミジトイフモノヲ。ミジだけがトの受ける詞になつている。悲しい心に浸されることが豫想されたので、舊都を訪れることを一往拒絶したものと見える。
 樂浪乃 ササナミノ。ササナミは既出(卷一、二九)。近江の國南部の地名。
 舊都乎 フルキミヤコヲ。フルキミヤコは、大津の宮をいう。
 令見乍本名 ミセツツモトナ。セは、使役の助動詞。ある人が作者を誘つて見せたことが知られる。モトナは、せつに、切實に、よしなく等の語意の副詞。「何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイフ》」(卷二、二三〇)參照。ここは、たいへんにの意。見せてくれてしかたがないことだ。
【評語】理くつつぽいのは、同行の人に與えて、一拶を試みたからであろう。人に誘われたところを見ると、國の役人としてではなく、使者として下つているようである。モトナは、本集における特殊の用語であるが、用例のうち、次に助詞ツツに關するもののみをあげる。
【參考】類句、――つつもとな。
(149)  さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわび居《を》る時に鳴きつつもとな (卷四、六一八)
  朝戸あけて物思ふ時に白露の置ける秋|※[草がんむり/互]子《はぎ》見えつつもとな (卷八、一五七九)
  春されは妻を求むと鶯の木末《こぬれ》を傳ひ鳴きつつもとな (卷十、一八二六)
  黙然《もだ》もあらむ時も鳴かなむ。茅蜩《ひぐらし》の物思ふ時に鳴きつつもとな (同、一九六四)
 心 無き秋の月夜《つくよ》の物思ふと寢《い》の宿《ね》らえぬに照りつつもとな (同、二二二六)
  咲けりとも知らずしあらば黙然《もだ》もあらむ。この秋※[草がんむり/互]子《あきはぎ》を見せつつもとな (同、二二九三)
  蟋蟀《こほろぎ》のわが床《とこ》の隔《へ》に鳴きつつもとな、起き居つつ君に戀ふるに寐《い》ねがてなくに (同、二三一〇)
  今更に君が手枕|纏《ま》き宿《ね》めや。わが紐の緒の解けつつもとな (卷十一、二六一一)
  葦邊行く鴨の羽音の聲《おと》のみに聞きつつもとな戀ひわたるかも (卷十二、三〇九〇)
  咲けりとも知らずしあらば黙然《もだ》もあらむ。この山吹を見せつつもとな (卷十七、三九七六)
  ほととぎすなほも鳴かなむ。もとつ人かけつつもとな吾《あ》を哭《ね》し泣くも (卷二十、四四三七)
   類句、もとな――つつ。
  暫時《しまらく》は宿《ね》つつもあらむを、夢《いめ》のみにもとな見えつつ吾《あ》を哭《ね》し泣くる (卷十四、三四七一)
  松の花|花數《はなかず》にしも我《わ》が夫子《せこ》が思へらなくにもとな咲きつつ (卷十七、三九四二)
  (上略)面影にもとな見えつつ、かく戀ひば老いづく我《あ》が身|蓋《けだ》し堪《あ》へむかも(卷十九、四二二〇)
 
右歌、或本曰、小辨作也。未v審2此小辨者1也
 
右の歌は、或る本に曰はく小辨が作れるなりといへり。いまだこの小辨といふ者を審にせず。
 
【釋】或本曰 アルマキニイハク。本文の歌とは、別の資料である所の或る本によつて、この記事を作つてい(150)るが、それが何であるかは不明である。但し下の小辨作とある、その小辨というのは、特殊の書き方であるが、卷の九、一七三四にも小辨歌一首という題詞があり、それはその題詞の書法からして、前後の歌と共に、一團として一の資料から來ているものであろうと考えられる。よつてここの或る本というのも、さような資料をさすものと考えられる。
 小辨 セウベニ。何人であるか不明であり、讀み方もわからない。左少辨右少辨の少辨の意か、または僧名ででもあるか、それも不明である。
 
幸2伊勢國1之時、安貴王作歌一首
 
伊勢の國に幸でましし時、安貴の王の作れる歌一首。
 
【釋】幸伊勢國之時 イセノクニニイデマシシトキ。藤原時代から奈良時代に懸けて、伊勢の國に、行幸御幸のあつたのは、持統天皇の六年の行幸、大寶二年の持統太上天皇の參河の國への御幸、養老二年の美濃の國への行幸、天平十二年の行幸等が數えられる。歌の配列の順序を見ると、人麻呂黒人の作に續いているによれば、大寶二年の度とすべきであるが、養老二年の度と考えられぬこともない。
 安貴王 アキノオホキミ。皇胤紹運録《こういんしよううんろく》に「天智天皇−施基皇子−春日王−安貴王−市原王−春原五百枝」とあり、本集に「市原(ノ)王(ノ)宴(ニ)?(ク)2父(ノ)安貴(ノ)王(ヲ)1歌一首」の題詞(卷六、九八八)があつて、市原の王の父君であつたことが知られる。春日の王は、同名異人もあるが、本集卷の四、六六九の題詞「春曰(ノ)王(ノ)歌一首」とある自註に「志貴(ノ)皇子之子、母(ヲ)曰(ヘリ)2多紀(ノ)皇女(ト)1也」とあるによれば、皇胤紹運録の記事は信ずべきが如くである。績日本紀、天平十七年正月、從五位の下阿貴の王に從五位の上を授くとあるは、この王であろう。本集卷の四、六四三の題詞に「紀(ノ)女郎(ノ)怨恨(ノ)歌三首」とある自註に「鹿人(ノ)大夫之女、名(ヲ)曰(ヘリ)2小鹿(ト)1也、安貴(ノ)王之妻也」とあり、また同卷(151)五三五の左註に、因幡の八上の采女を娶つたとも傳えている。
 
306 伊勢の海の 奧《おき》つ白浪 花にもが。
 包みて妹が 家づとにせむ。
 
 伊勢海之《イセノウミノ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 花尓欲得《ハナニモガ》
 裹而妹之《ツツミテイモガ》 家裹爲《イヘヅトニセム》
 
【譯】この伊勢の海の奧つ白浪の美しさよ。これが手に取る事のできる花であつたらよいが。そしたらばこれを包み持つて、わが妻のもとへ家づととして、持つて行つてやりたいものである。
【釋】花尓欲得 ハナニモガ。ガが願望の助詞で、ここで句切である。花にもあれと願う意である。「石竹之《ナデシコノ》 其花爾毛我《ソノハナニモガ》 朝旦《アサナアサナ》 手取持而《テニトリモチテ》 不v戀日將v無《コヒヌヒナケム》」(卷三、四〇八)などあり、欲得の字面は、「霍公鳥《ホトトギス》 汝始音者《ナガハツコヱハ》 於v吾欲得《ワレニモガ》 五月之珠爾《サツキノタマニ》 交而將v貫《マジヘテヌカム》」(卷十、一九三九)など例が多く、モガ、モガモなどの訓が當てられている。
 裹而妹之家裹爲 ツツミテイモガイヘヅトニセム。イモガイヘヅトは、妹のためにの家裹である。イヘヅトは、家に持參する包物の義。みやげ物。品物を包むのでツトという。「伊敝豆刀爾《イヘヅトニ》 可比乎比里布等《カヒヲヒリフト》」(卷十五、三七〇九)などある。
【評語】花ニモガと、三句で切れており、また包ミテで切らないで、妹ガ家裹の語が中途で切れ四五句に跨つている。かように調子がくずれて來たのは、時代の降つたことを思わしめる。歌いものから傳えて來た調子を忘れたのである。ひとり家を離れて、おもしろい處に遊び、そこの珍しい風物をおみやげに持つて行きたいという、旅人としては常に詠まれる内容であるが、初めに、伊勢ノ海ノ奧ツ白浪と呼びあげて、花ニモガと希望をあらわし、轉じて希望をあきらかにした順序は、隙間のない表現である。
 
(152)博通法師、往2紀伊國1見2三穗石室1作歌三首
 
博通法師の、紀伊の國に往きて、三穗の石室を見て作れる歌三首。
 
【釋】博通法師 ハクツウホワシ。傳未詳。博通という名の僧である。
 三穗石室 ミホノイハヤ。三穗は、和歌山縣日高郡三尾村。イハヤは石窟。今も御坊市より西、日の御崎に行く途中に一大岩窟があるそうである。倭名類聚紗居宅類に「説文(ニ)云(フ)、窟和名、伊波夜《イハヤ》 土(ノ)屋也。一(ニ)云(フ)、掘(リテ)v地(ヲ)作(ル)v之(ヲ)」とある。
 
307 はだ薄《すすき》 久米の若子《わくご》が 坐《いま》しける 【一は云ふ、けむ】
 三穗の石室《いはや》は
 見れど飽かぬかも。 【一は云ふ、あれにけるかも。】
 
 皮爲酢寸《ハダススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》【一云、家牟】
 三穗乃石室者《ミホノイハヤハ》 
 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》 【一云、安禮尓家留可毛】
 
【譯】昔久米の若子の居られた、はだ薄の生えている三穗の石室は、どれほど見ても飽きないなあ。
【釋】皮爲酢寸 ハダススキ。この語、日本書紀神功皇后の卷に「幡荻穗出吾也《ハタススキホニデシワレナリ》」、出雲國風土記に「波多須須支穗振別而《ハタススキホフリワケテ》」、本集に「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎推靡《シノヲオシナベ》」(卷一、四五)、「旗荒《ハタススキ》 本葉裳具世丹《モトハモソヨニ》」(卷十、二〇八九)があり、ハタススキとタを清音に讀むべきが如く、旗の如く靡くススキの義と解せられる。しかるに一方、皮は膚に同じく、ハダとタを濁音にいう語であり、本集中、ここと同一の文字を使用したものに、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 相坂山之《アフサカヤマノ》 皮爲酢寸《ハダススキ》 穗庭開不v出《ホニハサキイデズ》 戀度鴨《コヒワタルカモ》」(卷十、二二八三)、「皮爲酢寸《ハダススキ》 穗庭開不v出《ホニハサキイデヌ》 戀乎吾爲《コヒヲワガスル》」(同、二三一一)がある。その他、「波太須珠寸《ハダススキ》 尾花逆葺《ヲバナサカフキ》(卷八、一六三七)、「波太須酒伎《ハダススキ》 穗爾弖之伎美我《ホニデシキミガ》」(卷十四、(153)三五〇六)、「波太須酒伎《ハダススキ》 宇良野乃夜麻爾《ウラノノヤマニ》」(同、三五六五)、「波太須酒吉《ハダススキ》 穗出秋乃《ホニヅルアキノ》」(卷十七、三九五七)等は、いずれもタに濁音の字を使つている。これらによれは、ハダススキと讀むべきが如くである。太の字は清音の處にも使つているが、濁音と見るのが順當である。多く穗ニ出ヅに冠しているので、ススキの穗がまだあらわれないで皮を被つているについていい、また尾花と竝べているのであろう。さて上記の諸例のうち、枕詞として使用されたものは、穗に懸かつているので、この歌においても、句を隔てて三穗に懸かるものと見られる。ハダは表皮、ススキは、手ざわりのするどい感じの草の義であろう。それで穗のまだ出ないで、はらんでいるススキにいうと見える。それは目前にハダススキを見、それを呼び懸けて初句を起し、句を隔てて枕詞に利用したものと見るべきである。
 久米能若子我 クメノワクゴガ。クメは氏の名か否か不明である。ワクゴは、「思寐能和倶吾《シビノワクゴ》」(日本書紀九五)、「ト那能倭倶吾《ケナノワクゴ》」(同九八)、「等能乃和久胡我《トノノワクゴガ》」(卷十四、三四五九)等があり、日本書紀顯宗天皇の卷には、天皇の更《また》の名、來目《くめ》の稚子《わくご》とある。若い人の義であろうが、歌經標式には、柿本の人麻呂を、柿本の若子と記している。さて久米の若子は、顯宗天皇の御事だろうとする説(古事記傳)があり、この地方にも顯宗天皇の新室賞《にいむろほぎ》の傳説と類似の傳説があつたかも知れない。また久米の仙人などかという説(代匠記)もある。要するに傳説中の人物で、顯宗天皇のこととする傳來もあるのだろうが、今は不明というほかはない。
 伊座家留 イマシケル。居られたの意を、過去の事實として表現している。
 一云家牟 アルハイフ、ケム。本文のイマシケルの句が、別傳にはイマシケムとあつたというのである。ケムは過去推量の助動詞。ケルと同樣に、次の句に對する修飾句。以上二句、次の三穗の石室を説明している。
 三穗乃石室者 ミホノイハヤハ。題詞のもとに説明した。
 雖見不飽鴨 ミレドアカヌカモ。既出(卷一、三六)。本集の慣用句の一。見ても飽くことなしの意。稱美の(154)詞。
 一云安禮尓家留可毛 アルハイフ、アレニケルカモ。別傳には、荒廢してしまつたとしているのである。本文の意と異なる。この一云は、三句の一云家牟とあつた別傳と同じ傳えで、三句にイマシケムとある方は、五句アレニケルカモとあつたのであろう。
【評語】以下三首は、連作として見るべきものである。この歌は、まず總論的な性質を有する。初句に、目前の風物について、ハダ薄と敍したのは、石室を詠歎した歌として效果が多い。連作の一としては、まず見レド飽カヌカモと稱美した方がよい。次の歌にケルが使用されているので、三句も本文のケルの方がよい。
【參考】久米の若子。
   和銅四年辛亥、河邊《かはべ》の宮人《みやひと》の、姫島《ひめじま》の松原の美人の屍を見て哀慟して作れる歌
  みつみつし久米の若子《わくご》がい觸《ふ》れけむ礒の草根の枯れまく惜しも(卷四、四三五)
 
308 常磐《ときは》なす 石室《いはや》は今も ありけれど、
 住みける人ぞ 常なかりける。
 
 常磐成《トキハナス》 石室者今毛《イハヤハイマモ》 安里家禮騰《アリケレド》
 住家類人曾《スミケルヒトゾ》 常無里家留《ツネナカリケル》
 
【譯】變らぬ岩を成して石窟は今もあるけれども、住んでいた人は、永久ではなかつた。
【釋】常磐成 トキハナス。トキハはトコイハで、恒久不變の磐石。ナスは何々を成しての意。恒久の岩石を成しての意で、石室を修飾する。「等伎波奈周《トキハナス》 迦久斯母何母等《カクシモガモト》 意母閉騰母《オモヘドモ》」(卷五、八〇五)などの用例がある。
 石室者今毛安里家禮騰 イハヤハイマモアリケレド。三穗の石室の今なお存していることを敍して、下句の伏線としている。
(155) 住家類人曾 スミケルヒトゾ。この石室に住んでおつた人で、久米の若子をいう。
 常無里家留 ツネナカリケル。常なしは、佛教の無常觀をいう。それを過去の事實としてケルを使用している。「うつせみの代は常なしと知るものを秋風寒み偲《しの》ひつるかも」(卷三、四六五)など、無常思想を詠んだ例は多い。上のゾを受けて連體形で結んでいる。
【評語】第一首における石室の提示を受けて、石室は昔ながらにして、人の常なきを詠じている。常に見られる思想であるが、率直に敍して理くつにならぬ點を取るべきである。
 
309 石室戸《いはやど》に 立てる松の樹、
 汝《な》を見れば、
 昔の人を 相見るごとし。
 
 石室戸尓《イハヤドニ》 立在松樹《タテルマツノキ》
 汝乎見者《ナヲミレバ》
 昔人乎《ムカシノヒトヲ》 相見如之《アヒミルゴトシ》
 
【譯】石窟の入口に立つている松の樹よ、お前を見ると、昔の久米の若子を見るようだ。
【釋】石室戸尓 イハヤドニ。トは門戸で、イハヤドは、石窟の入口である。次の句の立テル松ノ樹の所在を、示している。
 立在松樹 タテルマツノキ。松の樹を提示し、これを呼びあげている。
 汝乎見者 ナヲミレバ。松の樹を呼んで汝としている。人間ならざる者に汝ということ、上(卷三、二六六)に見えた。親しみをあらわしたいい方である。
 昔人乎 ムカシノヒトヲ。久米の若子を指して昔の人といつている。
 相見如之 アヒミルゴトシ。アヒは接頭語であるが、ほとんど意味を感じていない。ゴトシは、ゴトの形でも終止するが、シを添えて形容詞類似形をとり、ゴトシともいう。「年月波《トシツキハ》 奈何流々其等斯《ナガルルゴトシ》」(卷五、八〇四)(156)は、その假字書きの例である。
【評語】第三首に至つて、松の樹を敍して、古人を思う情をあきらかにしている。以上三首、提示、感慨、追憶の三部から成り、整然たる體制を成している。連作としてよく味わうべきである。ただ作者は、久米の若子について知るところがあり、その事を敍していないので、今人はそれを知ることが出來ない。理解に缺けるところのあるのは已むを得ない。
【參考】類想――松を見て人を思う。
  松の樹《け》の竝《な》みたる見れば家人《いはびと》のわれを見送ると立たりしもころ (卷二十、四三七五、下野の國の防人物部の眞島《ましま》)
 
門部王、詠2束市之樹1作歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
 
門部《かどべ》の王《おほきみ》の、東《ひむかし》の市の樹を詠《なが》めて作れる歌一首【後、姓大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】門部王 カドベノオホキミ。題下の註によれば、後に大原の眞人の氏を賜わつて、大原の眞人門部と稱したという。同樣の註は、卷の六、一〇一三の左註にも見える。本集には「出雲(ノ)守門部(ノ)王」(卷三、三七一題詞)、「彈正(ノ)尹門部(ノ)王」(卷六、一〇一三題詞)とあつて、出雲の守、彈正の尹であつたことが知られる。ところで今續日本紀について、門部王および大原の眞人門部に關する記事を拾うと、次の通りである。
  和銅三年正月 无位門部の王に從五位の下を授く。
    六年正月 无位門部の王に從四位の下を授く。
  養老元年正月 從五位の下門部の王に從五位の上を授く。
    三年七月 伊勢の國の守門部の王に伊賀志摩二國を管せしむ。
(157)  五年正月 正五位の下を授く。
  神龜元年二月 正五位の上を授く。
    五年五月 從四位の下を授く。
  天平三年正月 從四位の上を授く。
     十二月 この頃、治部の卿從四位の上。
    六年二月 この頃從四位の下。天平六年の聖武天皇勅旨寫經御願文には、「寫經司治部卿從四位上門部王」。
   九年十二月 從四位の下門部の王を右京の大夫とす。
   十四年四月 從四位の下大原の眞人門部に從四位の上を授く。
   十七年四月 大藏の卿從四位の上大原の眞人門部卒す。
これによれば、從四位の下、從四位の上を授けられたこと、各二出し、二人の門部の王があつたようでもある。しかし、和銅六年に无位から從四位の下を授けられたというも不審である。よつて續日本紀における位階の記事には、何等かの誤謬ありとすべく、門部の王に同名異人ありとすること、まだ定説としがたい。大原の眞人の氏を賜わつたことは、天平九年から十四年の間なるべく、高安の王に大原の眞人を賜わつたのは、天平十一年四月であるから、多分同時であつたろう。系統については、新撰姓氏録に、大原の眞人は、敏達天皇の孫百濟の王より出るとある。
 詠東市之樹作歌 ヒムカシノイチノキヲナガメテツクレルウタ。東の市は、平城の京に東西の市があつた、その東方の市で、今の奈良市|辰市《たつのいち》がその遺跡であろうといわれる。道路には當時果樹を植えたので、市にも植えたのであろう。詠は、字鏡集、伊呂波字類抄にナガムの訓がある。或る事物を見てこれを歌に作る意である。(158)詠――歌の例は、集中「詠(メル)2故(ノ)大政大臣藤原(ノ)家之山池(ヲ)1歌」(卷三、三七八題詞)、「詠(メテ)2思泥(ノ)埼(ヲ)1作(レル)歌」(卷六、一〇三一左註)などある。
 
310 ひむかしの 市の植木の 木足《こだ》るまで
 逢はず久しみ、うべ戀ひにけり。
 
 東《ヒムカシノ》 市之殖木乃《イチノウヱキノ》 木足左右《コダルマデ》
  不v相久美《アハズヒサシミ》 宇倍戀尓家利《ウベコヒニケリ》
 
【譯】東の市にある植木の繁茂するまで、逢わないで久しくなつたので、まことに戀をしたことである。
【釋】東市之殖木乃 ヒムカシノイチノウヱキノ。東の市は、題詞の條參照。ウヱキは、移し植えた樹木。「わが屋戸の植木《うゑき》橘、花に散る時をまだしみ、來鳴かなくそこは怨《うら》みず」(卷十九、四二〇七)。殖は、本集では、植に通じて移植の義に常に使用している。
 木足左右 コダルマデ。コダルは、代匠記に木垂る義としているによれば、足の字はタルの訓を借りたのである。しかし枝が垂るとはいうが、樹木について木が垂るとはいうべくもない。「百足《モモタル》 槻木《ツキノキ》」(巻二、二一三)とあるが如く、樹木の枝葉の充足している意で、足を正字とすべきである。「多伎木許流《タキギコル》 可麻久良夜麻能《カマクラヤマノ》 許太流木乎《コダルキヲ》 麻都等奈我伊波婆《マツトナガイハバ》 古非都追夜安良牟《コヒツツヤアラム》」(卷十四、三四三三)の例がある。植木は、移植と共に一時衰えるものであるが、それが恢復して繁茂するまでの意で、永い時間の經過をあらわしている。
 不相久美 アハズヒサシミ。逢わないで久しくしての意。次の句に對する副詞句。
 宇倍戀尓家利 ウベコヒニケリ。西本願寺本等には、宇倍の下に吾の字があるが、今、神田本、類聚古集によつて、これを除く。ウベは肯定する意の副詞。「今造《イマツクル》 久邇乃王都者《クニノミヤコハ》 山河之《ヤマカハノ》 清見者《サヤケキミレバ》 宇倍所v知良之《ウベシラスラシ》」(巻六、一〇三七)など使用されて居り、また助詞モを添えて、ウベモともいつている。
【評語】久しい時間を描くのに、特殊の物を持ち來つた所に特色がある。街路樹の下に立つて詠んだ歌で、都(159)會生活に觸れている。
【參考】西の市の歌。
  西の市にただ一人出て眼竝《めなら》べず買へりし絹の商《あき》じこりかも(卷七、一二六四)
 
※[木+安]作村主益人、從2豐前國1上v京時作歌一首
 
※[木+安]作の村主益人の、豐前の國より京に上る時の歌一首。
 
【釋】※[木+安]作村主益人 クラツクリノスグリマスヒト。卷の六、一〇〇四の左註に、内匠寮の大|屬《さかん》であつたことが知られるほかは、傳未詳である。※[木+安]は、木製の鞍をいう字。※[木+安]作の村主は、坂上系圖に引いた新撰姓氏録に、後漢の靈帝の後であるという。
 豐前國 トヨノミチノクチノクニ。豐國を分かつて前後の二國とした、その前の國である。
 上京時 ミヤコニノボルトキ。いかなる時に上京したのかわからない。歌詞に特に豐國の國名を擧げているによれば、やはり大和人で任に豐前の國にあつたものであろうか。
 
311 梓弓 引き豐國《とよくに》の 鏡山、
 見ず久ならば 戀《こほ》しけむかも。
 
 梓弓《アヅサユミ》 引豐國之《ヒキトヨクニノ》 鏡山《カガミヤマ》
 不v見久有者《ミズヒサナラバ》 戀敷牟鴨《コホシケムカモ》
 
【譯】梓弓を引き響《とよ》める、その豐國の鏡山は、見ないで久しくなつたなら、戀しいだろうなあ。
【釋】梓弓引豐國之 アヅサユミヒキトヨクニノ。梓弓を引き響《とよ》めるということから、豐國を引き出していると解せられる。梓弓引キまでは、序詞である。このような序詞の續き方に「光神《ヒカルカミ》 鳴渡多※[女+感]嬬《ナリハタヲトメ》」(卷十九、四二三六)の例がある。豐國は、豐前、豐後のまだ分かれなかつた以前の國名である。
(160) 鏡山 カガミヤマ。福岡縣田川郡にある山の名。その山を呼びあげている。
 不見久有者 ミズヒサナラバ。見ずして久しくあらば。「奈加奈可爾《ナカナカニ》 之奈婆夜須家牟《シナバヤスケム》 伎美我目乎《キミガメヲ》 美受比佐奈良婆《ミズヒサナラバ》 須敝奈可流倍思《スベナカルベシ》」(卷十七、三九三四)など例がある。
 戀敷牟鴨 コホシケムカモ。敷は、シケの音に借りている。コホシケは、形容詞の活用形。それに助動詞ムが接續している。カモは詠歎の助詞。
【評語】鏡の山を眺めて詠んでいる。その地から他に轉任して去る時の歌のようである。その山を朝夕に眺めて暮らした日頃が思い出されている。
 
式部卿藤原宇合卿、被v使v改2造難波堵1之時作歌一首
 
式部の卿藤原の宇合の卿の、難波の堵《みやこ》を改め造らしめられし時に作れる歌一首。
 
【釋】式部卿藤原宇合卿 ノリノツカサノカミ、フヂハラノウマカヒノマヘツギミ。式部の卿藤原の宇合は既出。不比等の第三子。神龜元年、式部卿となり、天平九年薨ず。卿は宇合に對して敬意を表して使用している。
 被使改造難波堵之時 ナニハノミヤコヲアラタメツクラシメラレシトキ。難波の堵は、孝コ天皇の難波の長柄の豐前の宮が、その後離宮の地となつていた處であろう。それを改造したことについては、神龜三年十月、式部卿從三位藤原宇合を知造難波宮事《ちぞうなにわぐうじ》としたことが見える。天平四年三月に至つて、「知造難波宮事藤原宇合已下仕丁已上に物を賜ふこと差あり」というのは、その事のほぼ成就したのを賞せられたものと見える。この歌は、その成就した頃の作であろう。堵は都に通じて用いられる。既出(卷一、三二題詞)。改造は、從來あつたものを更に規模を新たにしたものと見られる。
 
(161)312 昔こそ 難波田舍《なにはゐなか》と 言はれけめ。
 今は京《みやこ》引《ひ》き 都びにけり。
 
 昔者社《ムカシコソ》 難波居中跡《ナニハヰナカト》 所v言奚米《イハレケメ》
 今者京引《イマハミヤコヒキ》 都備仁鷄里《ミヤコビニケリ》
 
【譯】昔こそは、難波田舍といわれたであろう。今は京を引いて來て、都らしくなつた。
【釋】昔者社 ムカシコソ。昔者は、漢文に使用せられる熟字。社をコソに當てること、既出(卷二、一三一)。この集でムカシというのは、遠い往時にもいい、自身の過去にもいう。ここは作者の經過している往時をいうであろう。コソは係助詞。
 難波居中跡 ナニハヰナカト。ヰナカは、今昔物語集卷二十七、於2播磨(ノ)國印南野(ニ)1殺(ス)2野猪(ヲ)1語第三十六に田居中《たゐなか》の語があり、その上略とする説があるが、田居のヰは接尾語であるから、それだけが殘つたとすることはできない。居之所の義とするは首肯できるが、それは宮または宮處に對して、それに出仕する大宮人が家居する處をいつたのであろう。倭名類聚鈔に「田舍人、楊氏漢語抄(ニ)云(フ)、田舍兒偉那迦比斗《ヰナカヒト》」とあり、田舍の字が當てられるのも、鄙住みの家居をいうゆえに、選擇された文字なのであろう。ここには邊鄙の地の意に使用されている。往時は、難波田舍と目されていたとするのである。
 所言奚米 イハレケメ。ケメは、過去推量の助動詞。コソを受けて已然形で結んでいる。ここでは言われた内容について推量している。句切であるが、係助詞コソなしに已然形を用いている文は前提文になるものが多く、これもそれである。
 今者京引 イマハミヤコヒキ。今者は、漢文に現時をいう熟字であり、上の昔者に對して使用されているともいえるが、集中の例、今者は、すべてイマハと讀むべきであり、殊に今を提示して昔者と區別したとも見られるので、イマハと讀むがよいであろう。ミヤコヒキは、京を引き移す義で、「思へりし大宮すらを、恃《たの》めりし(162)奈良の京《みやこ》を、新世《あらたよ》の事にしあれば、大君の引《ひ》きのまにまに、春花のうつろひ易《か》はり」(卷六、一〇四七)にも遷都の意にヒキの語を使用している。ここは遷都ではないが、引き移す意である。
 都備仁鷄里 ミヤコビニケリ。ミヤコビは、京めいた、京の形を備えたの意の動詞。ビは體言を動詞化するもので、「石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカムスギ》 神備西《カムビニシ》 吾八更更《ワレヤサラサラ》 戀爾相爾家留《コヒニアヒニケル》」(卷十、一九二七)には神ビと使用されている。その他、宮ビは用例が多いが、古くは他の活用形を見ない。京ふうになつたの意。
【評語】難波田舍ト言ハレケメと都ビニケリとを對比している。難波の都を作る長官としての得意の?が見える作である。
 
土理宣令歌一首
 
【釋】土理宣令 トリノセニリヤウ。卷の八、一四七〇の題詞には刀理の宣令とある。續日本紀に、養老五年正月、從七位の下刀利の宣令等をして退朝の後、東宮に侍せしむ。懷風藻に、正六位の上伊豫の椽刀利の宣令年五十九として詩二首があり、經國集に刀利宣令對策文二首がある。系統未詳であるが、歸化人系統らしい氏名である。
 
313 み吉野《よしの》の 瀧《たぎ》の白浪、
 知らねども 語りし繼げば、
 いにしへ念《おも》ほゆ。
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 瀧乃白浪《タギノシラナミ》
 雖v不v知《シラネドモ》 語之告者《カタリシツゲバ》
 古所v念《イニシヘオモホユ》
 
【譯】この吉野の激流の白浪は、昔の事は知らないが、語り傳えたので、その昔の事が思われる。
【釋】見吉野之瀧乃白浪 ミヨシノノタギノシラナミ。タギノは、白浪の所在を示す。タギツ白浪ともいう。(163)瀧の白浪を呼びあげて、次の句のシラを引き出す序詞としている。
 雖不知 シラネドモ。何を知らないとも説明していないが、四五句より推すに、古の事であり、この勝地における昔物語をいうと考えられる。理くつからいえば語り繼いで知つているのだが、自分の經歴以前の事でよく知らないというのであろう。
 語之告者 カタリシツゲバ。カタリの内容は、やはり古の事である。シは強意の助詞。告は借字、繼ゲバで、語り繼げばの意。告の字を繼の義に借り用いた例には、「語告《カタリツギ》 言繼將v往《イヒツギユカム》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》」(卷三、三一七)、「人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ツギテシオモヘバ》」(卷十、二〇〇二)がある。
 古所念 イニシヘオモホユ。ここに古というは、何時の頃のことか不明である。
【評語】勝地について、その歴史に興味を感じて歌つている。勝地の勝地たる所以は、その物質的條件のみに留まらないとするのである。
  古《いにしへ》への事は知らぬを、われ見ても久しくなりぬ。天《あめ》の香久山(卷七、一〇九六)
 香具山にも古い物語がある。その物語の内容は知らないが、物語のあるということだけは知つている。そうして眺めた山の姿に、神秘性を感じている。それと同じ心が、ここにも歌われているのである。
 
波多朝臣小足歌一首
 
【釋】波多朝臣小足 ハタノアソミヲタリ。傳未詳。波多の朝臣は武内の宿禰の後である。
 
314 さざれ波 礒巨勢道《いそこせぢ》なる 能登湍河《のとせがは》、
 音のさやけさ。
(164) たぎつ瀬ごとに。
 
 小浪《サザレナミ》 礒越道有《イソコセヂナル》 能登湍河《ノトセガハ》
 音之清佐《オトノサヤケサ》
 多藝通瀬毎尓《タギツセゴトニ》
 
【譯】さざれ浪が礒を越す、その巨勢路にある能登湍川の音のさやけさよ。水の激しく流れる瀬の何處でもそうである。
【釋】小浪礒越道有 サザレナミイソコセヂナル。サザレナミは、小さい浪。「神樂浪之《ササナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》(卷二、二〇六)など使用されている。サザレナミイソは、小さい浪が礒を越す能登湍川の實景をもつて、地名の巨勢を引き出す序詞としている。コセは、普通巨勢と書く。奈良縣南葛城郡の地名。既出(卷一、五〇)。大和から紀伊に赴く通路に當るので、しばしば歌詠にあらわれている。コセヂは、巨勢に赴く道。以上二句、能登湍川の所在を示す。
 能登湍河 ノトセガハ。今所在が知られない。巨勢に赴く道路には、蘇我川の上流を通るものが多く、その川あたりに求めらるべきであろう。この川については、今一首「高湍《こせ》にある能登瀬の河の後もあはむ。妹にはわれは今にあらずとも」(卷十二、三〇一八)がある。この句、能登湍河を提示している。
 音之清左 オトノサヤケサ。サヤケサは、形容詞サヤケシの語幹に接尾語サを添えて、これを體言としたもの。これをもつて文を終結する語法である。本集中、サヤケは、假字書きのもののほかに、清の字を當て、その他、清潔、淨、明、亮等の文字もまたこの語に當てているようであり、これらをもつて、その意を知るべきである。音聲のみならず、視る所についても使用されている。句切。
 多藝通瀬毎尓 タギツセゴトニ。能登湍河の激流の瀬ごとに音のさやけさよと、上の句を補う語意である。タギツセは、激流の瀬。セは淺く騷ぎ流れる處。
【評語】古人は川瀬の音を愛して、これをサヤカの語をもつて表現した。「いざ率去《いざ》川の音のさやけさ」(卷七、(165)一一一二)など、その例ははなはだ多い。この歌も同じく、川音の清いのを詠んでいる。どの瀬もどの瀬もというので、その川について旅行している趣が知られる。その川音の敍述を、序であらわしているのも巧みである。川音の美を愛して、これを、サヤカの語で現した人生は、その語の通り清らかな人生であつたといえる。
 
暮春之月、幸2芳野離宮1時、中納言大伴卿、奉v勅作歌一首 并2短歌1、未v逕2奏上1歌
 
暮春の月、芳野の離宮に幸しし時、中納言大伴の卿の、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首【短歌并はせたり。いまだ2奏上を經ざる歌なり。】
 
【釋】暮春之月 クレノハルノツキ。暮春は、三月のこと。字音で讀んでいたかも知れない。竹取の翁の歌(卷十六、三七九一)の序文には、季春之月とある。何年のこととも知られないが、神龜元年三月、芳野行幸のこと傳えられ、その頃、大伴の旅人は中納言であつたから、その年であるかも知れない。
 芳野離宮 ヨシノノトツミヤ。トツミヤは、外つ宮の義。「月日《ツキヒハ》 攝友久《カハレドモヒサニ》 流經《ナガラフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》」(卷十三、三二三一)。
 中納言大伴卿 ナカノモノマヲシノツカサ、オホトモノマヘツギミ。大伴の旅人と解せられる。旅人は、安麻呂の子、養老二年三月に中納言に任じ、神龜五年のころ、大宰の帥となつて赴任し、天平二年十月ごろ、兼大納言となり、十二月上京、翌三年七月薨じた。懷風藻に詩一首を傳え、年六十七とある。大伴氏は天の忍日《おしひ》の命の子孫、代々軍事をもつて仕え、大族であつた。旅人も大將軍として邊征に從事したことがある。作品は長歌はこの一首のみで、他は短歌である。作風清雅で誦すべきものが多い。漢詩文にも通じ、老莊思想の影響が見受けられる。
 未逕奏上歌 イタダマヲシアゲルコトヲヲヘザルウタナリ。逕は、經に通じて使用されている。勅命によつて作つたが、いまだ奏上せずして止んだ由である。この文によるに、恐らくは作者自身の手記を資料としてい(166)るのであろう。
 
315 み吉野の 吉野の宮は、
 山からし 貴くあらし。
 川からし さやけくあらし。」
 天地と 長く久しく、
 萬代に 變はらずあらむ、
 いでましの宮。」
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 芳野乃宮者《ヨシノノミヤハ》
 山可良志《ヤマカラシ》 貴有師《タフトクアラシ》
 水可良思《カハカラシ》 清有師《サヤケクアラシ》
 天地與《アメツチト》 長久《ナガクヒサシク》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 不v改將有《カハラズアラム》
 行幸之宮《イデマシノミヤ》
 
【譯】吉野にある吉野の離宮は、山のゆえに貴くあるのであろう。川のゆえに清らかであるのであろう。天地と共に永久に、萬世に變わらないであろう、行幸の宮である。
【構成】第一段、清ケクアラシまで。吉野の宮の?態を敍している。以下第二段、祝意を表して離宮を説明している。
【釋】見吉野之芳野乃宮者 ミヨシノノヨシノノミヤハ。上の見吉野は所在を示し、下の芳野ノ宮は宮號であるが、同語を重ねて調子を整えている。「ま蘇我《そが》よ、蘇我の子らは」(日本書紀一〇三)など、同語を重ねるいい方に類している。
 山可良志 ヤマカラシ。カラは故、シは強意の助詞。山のゆえにの意。「玉藻よし讃岐《さぬき》の國は、國からか見れども飽かぬ、神からかここだ貴き」(卷二、二二〇) のカラの用法に同じ。
 貴有師 タフトクアラシ。タフトカルラシ(西)、タフトクアラシ (代精)。アラシはアルラシの約言。吉野の宮の尊貴である理由を推量している。句切。
(167) 水可良思 カハカラシ。カハに水の字を使用しているのは、山水の字を分かつて使用したのである。上にも「石水」(卷二、二二四)の文字をイシカハと讀むのがあつた。カラシは、山カラシのカラシに同じ。
 清有師 サヤケクアラシ。川の?態をサヤケクと形容している。アラシは上に同じ。句切で、以上二句は、上の「山からし貴くあらし」に對して對句をなしている。以上第一段。
 天地與 アメツチト。トは、と共にの意。「天地とあひ榮えむと大宮を仕へまつれば貴くうれしき」(卷十九、四二七三)、「天地と久しきまでに萬代に仕へまつらむ黒酒《くろき》白酒《しろき》を」(同、四二七五)。
 長久 ナガクヒサシク。ナガクとヒサシクと。永久の意味を語を變え重ねて言つている。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。ヨロヅヨは、永代の意に使用されていること、他の例に同じてある。
 不改將有 カハラズアラム。現?のままにあるだろうの意。連體形の句。
 行幸之宮 イデマシノミヤ。天皇行幸の離宮であることをあきらかにして終つている。
【評語】極めて短い歌であり、敍述も概念的で特色に乏しい。儀禮的な歌に過ぎない。
 
反歌
 
316 昔見し 象《きさ》の小河《をがは》を 今見れば、
 いよよ清《さや》けく なりにけるかも。
 
 昔見之《ムカシミシ》 象乃小河乎《キサノヲガハヲ》 今見者《イマミレバ》
 弥清《イヨヨサヤケク》 成尓來鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】昔見た象の小河を今見れば、いよいよ清らかになつたことである。
【釋】昔見之 ムカシミシ。何時の事か知れないが、曾遊を思い起している。
 象乃小河乎 キサノヲガハヲ。吉野に象の山のあることは、卷の一、六などに見えるが、象の字に拘泥すれ(168)ば、山名がもとであり、その附近の川を象の小川といつたことになる。しかしキサの地名がもとからあつて、それに後になつて象の字を當てたのだろう。吉野川の一支流と考えられる。
 今見者 イマミレバ。初句の昔見シに對している。
 弥清 イヨヨサヤケク。昔に對して今は一層さやかにある由である。サヤケクは、形容詞サヤケシの副詞形。
 成尓來鴨 ナリニケルカモ。なつたことを詠嘆して結んでいる。
【評語】風光のいよいよ新たなるを覺える由を敍している。長歌に比すれば、象の小河と一處に集中した點に、特色が認められる。しかし象の小川の描寫のないのは惜しい。
 
山部宿祢赤人、望2不盡山1歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、不盡《ふじ》の山を望める歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】山部宿祢赤人 ヤマベノスクネアカヒト。神龜から天平にかけて、行幸に供奉して歌を詠んでおり、その最終のものとしては、天平八年の吉野の離宮での作が傳えられている。そのほか、地方での作として、東方は葛飾の眞間の娘子の墓、不盡の山を詠み、西方は、伊豫の温泉を詠んでおり、その地に旅行したことが知られる。官位を傳えないので、低い地位であつたと考えられる。山部氏は、播磨の國で、顯宗仁賢兩天皇を見出し奉つた伊與部《いよべ》の小楯の子孫で、もと連姓であつたが、天武天皇の十三年に宿禰の姓を賜わつた。
 望不盡山歌 フジノヤマヲノゾメルウタ。不盡山は富士山に同じ。不盡は字音假字であるが、本卷の次の歌にも、また卷の十四にも使用され、慣用の文字であつたことが知られる。それゆえに不盡の字義を感じて使用したと考えられ、多分その煙が盡きない意に使用したものであつて、これに關聯ある漢文の竹取の翁の説話などから來ているのであろう。なお望不盡山の下に、通例、作歌とあるべきであるが、ここには作の字がない。(169)初めからなかつたものであろう。
 
317 天地の 分かれし時ゆ
 神さびて 高く貴き、
 駿河なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を、
 天の原 ふり放《さ》け見れば、
 渡る日の 影も隱《かく》らひ、
 照る月の 光も見えず、
 白雲も い行き憚《はばか》り、
 時じくぞ 雪は降りける。」
 語り繼ぎ 言ひ繼ぎ行かむ
 不盡の高嶺は。」
 
 天地之《アメツチノ》 分時從《ワカレシトキユ》
 神左備手《カムサビテ》 高貴寸《タカクタフトキ》
 駿河有《スルガナル》 布士能高嶺乎《フジノタカネヲ》
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 度日之《ワタルヒノ》 陰毛隱比《カゲモカクラヒ》
 照月乃《テルツキノ》 光毛不v見《ヒカリモミエズ》
 白雲母《シラクモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》
 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》
 語告《カタリツギ》 言繼將v往《イヒツギユカム》
 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 
【譯】天地の分かれた時からこの方、神威を發揮して高く貴い、駿河なる富士の高嶺を、天上はるかに仰ぎ見れば、渡る日の影も隱れ、照る月の光も見えない。白雲も行くに躊躇し、時節ならずして雪が降つている。次次に語り傳えて行こうよ、この富士の高嶺は。
【構成】第一段、時ジクゾ雪ハ降リケルまで、事實を敍述する。以下第二段、感想を述べる。多くの歌に見出される二段構成である。
【釋】天地之分時從 アメツチノワカレシトキユ。昔天地は渾沌としておつたが、そのすめるものは上つて天(170)となり、濁れるものは下つて地となつたという天地開闢説によつている。この思想は、日本書紀に見えているが、歌では、人麻呂歌集所出の歌に、「天地等《アメツチト》 別之時從《ワカレシトキユ》 自?《オノガツマ》 然敍手而在《シカゾテニアル》 金待吾者《アキマツワレハ》」(卷十、二〇〇五)とある。元來、天と地と對立する思想は外來思想らしく、わが國では、古くは天を人文的存在と考えて、これに對するにクニ(國)の語をもつてした。これによれば、天地の別かれたということも、大陸の宇宙創生説話にもとづくものであろう。ユは、その時から引き續いてこちらへの意で、ここでは、時間的にいつている。天と地との別かれた時以來の意で、神サビテ高ク貴キまでに懸かる。
 神左備手 カムサビテ。富士山が、神としての性能を發揮しているをいう。神靈のある所として感じられるのである。カムサビは、既出(卷一、三八)。
 高貴寸 タカクタフトキ。タカクは、山の雲際にそびえているのをいうが、同時に崇高の義をも含んでいる。元來形容詞タカシには、實際に高くある意と、崇敬すべくある意とを含んでおり、後にはこの二義が分化をとげて使用されるが、古意は、その二義を併わせていうのである。タフトキは、尊貴である性質をいう。形容詞タフトシは、フトシ(太)に接頭語タの添つたのを語原とするのであろう。この句、下の富士ノ高嶺を修飾する。
 駿河有 スルガナル。富士山の所在を説明している。作者が他國の人であるから、この國名を冠して説明する。
 布士能高嶺乎 フジノタカネヲ。富士山を取り上げている。天ノ原フリサケ見レバに對する處置格である。
 天原振放見者 アマノハラフリサケミレバ。既出(卷二、一四七)。ここは富士山を天際に望見すれはの意。
 度日之 ワタルヒノ。ワタルは、天空を移動するをいう。空わたる太陽の意。
 陰毛隱比 カゲモカクラヒ。カゲモカクロヒ(西)、カゲモカクラヒ(總索引)。カゲは光“カクラヒは、隱(171)ルの連續して行われるにいう語。山高くして日光もこれに隱れる由である。
 照月乃 テルツキノ。照り輝く月のである。
 光毛不見 ヒカリモミエズ。山高くして照る月の光も隱れて見えないのである。句切。以上二句、渡ル日ノ影モ隱ラヒに對して對句をなしている。
 白雲母伊去波伐加利 シラクモモイユキハバカリ。イは接頭語。ハバカリは、躊躇逡巡する意。山高くして雲も行くことをためらうのである。
 時自久曾 トキジクゾ。トキジは、既出(卷一、二六)。その時節ならざるをいう。トキジクは、その副詞形。ゾは係助詞。
 雪者落家留 ユキハフリケル。ゾに對して、連體形ケルをもつて結んでいる。以上第一段。
 語告 カタリツギ。語り繼ぎの意であるが、告は、通告の義の文字であつて、これに當てられる國語ツグは下二段活であるから、ツギの活用形はないのであるが、ここにツギ(繼續)の音をあらわすに借りたのは、異例とされる。告を繼續の意に借り用いたのは、このほかに「語之告者《カタリシヅゲバ》」(卷三、三一三)、「乏嬬《トモシヅマ》 人知爾來《ヒトシリニケリ》 告思者《ヅギテシオモヘバ》」(卷十、二〇〇二)、「里人毛《サトビトモ》 語告我禰《カタリツグガネ》」(卷十二、二八七三)があり、卷の十の例は、ここと同じく、告をツギと讀んでいる。これは、語り繼ぐの語に語告と書いたのが移つて、カタリツギの場合にも及んだのだとされているが、かような文字の用法はほかにない。これはツグの語が、元來、言語をもつて他に傳繼する意であつて、それが後に分化をとげ、通告する意の方は下二段活用となり、繼續する意の方は四段活用となつたものと見るべきである。それは告グは、ある内容を言語をもつて他に傳繼する意に使用されて、發音する意の言フと區別せられ、繼グは、言ヒ繼グ、語リ繼グ、聞キ繼グなど、言語關係の語と熟して使用されることが多いことによつて推考される。そこでカタリツグの意は、言語をもつて傳繼するにあつて、ツグの古意には言語(172)をもつてする意があるから、告の字を使用したものと考えられる。
 言繼將往 イヒツギユカム。イヒツギも、言語をもつて傳繼する意である。ユカムは、その引き續いて行おうとする意を示す。次々にと言語をもつて現在の人にも後の世の人にも傳え行こうというのである。句切。
 不盡能高嶺者 フジノタカネハ。最後に語り繼ギ言ヒ繼ギ行カムの主格を提示して終つている。富士の高嶺をばの意であるが、提示の意を強く示すために、ハを使用している。
【評語】この赤人の富士山の歌は、有名な作品であるが、いかにもその名聲にそむかない。天地ノ分カレシ時と、天地開闢の時から説き來つたのも、富士山のような偉大なものを歌うに適している。かように歴史的に敍し來るのは、赤人の特色なる追憶の表現の一樣式であつて、この場合にも、富士山の崇高な性質を説明するに極めて有效である。第二段の感想も、これに應じて時間的に述べている。また富士の特質を記すに、日月と雲雪をもつてしたのも、適切である。形はさして長大ではないが、よくこの高山の實相を説いており、精神的な名作ということが出來る。
 
反歌
 
318 田兒《たご》の浦ゆ うち出でて見れば、
 眞白《ましろ》にぞ
 不盡の高嶺に 雪は零《ふ》りける。
 
 田兒之浦從《タゴノウラユ》 打出而見者《ウチイデテミレバ》
 眞白衣《マシロニゾ》
 不盡能高嶺尓《フジノタカネニ》 雪波零家留《ユキハフリケル》
 
【譯】田兒の浦の中を、うち出でて見れば、眞白く、富士の高嶺に雪は降つてあつた。
【釋】田兒之浦從 タゴノウラユ。田兒の浦は既出(卷三、二九七)。それには晝見レド飽カヌ田兒ノ浦と詠ま(173)れて、勝景の地であることが知られる。これは興津《おきつ》町より東の海面であつて、富士山を主題とした大景が眺められる。ウラの語は、水面をいうが、ここでは海濱である。ユは、その處からこちらへという意であるから、次句にうち出でてとあつても、田兒の浦から、他に離れ去るのではない。なお田兒の浦で、眺望のきく廣場に出るのである。長歌では、ユを時間的に使つているが、ここでは空間的に使つている。田兒の浦の中をの意である。このユは、「おしてる難波の埼よ、いで立ちてわが國見れば」(古事記五四)のヨの用法に同じ。
 打出而見者 ウチイデテミレバ。ウチイヅは、ウチは接頭語。イヅに中心の意味がある。廣々とした處に出るにいう。「相坂《あふさか》をうち出でて見れば淡海《あふみ》の海|白木綿《しらゆふ》花に波立ちわたる」(卷十三、三二三八)の歌は、相坂山から湖畔に出ることを歌つている。湖畔に打出の濱の名を留めているのも、山中から開いた處に出た意である。
 眞白衣 マシロニゾ。マシロは、「麻之路能鷹乎《マシロノタカヲ》」(卷十九、四一五五)の例がある。ゾは係助詞。
 雪波零家留 ユキハフリケル。ゾに對して、連體形をもつて結んでいる。富士の高嶺に、既に雪の降つてあることを敍している。雪を戴く富士山が描かれている。
【評語】田兒の浦の海濱から、富士山を仰ぎ見た旅人の嘆美の聲である。長歌に、概論的に富士の高大美を説いて、反歌には、作者の位置をあきらかにして、人間との交渉を説明しかつ富士山を描寫したのも、常套手段ではあるが、整つた形である。小倉百人一首に「田兒の浦にうち出でて見ればしろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ」としたのは、平安時代に於ける誤讀である。殊にフリツツはわるい。今降つているのでは白雪を戴いた妙峰の姿は、描かれず、雲中に隱れて見えないことになる。
 
詠2不盡山1歌一首 并2短歌1
 
不盡の山を詠める歌一首【短歌并はせたり。】
 
(174)【釋】詠不盡山歌 フジノヤマヲヨメルウタ。前に山部の赤人の不盡の山を望める歌を載せた縁で、これを載せたのであろう。作者未詳である。目録には、題下に註して「笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌(ノ)中(ニ)之出(ヅ)」とあるが、その根據を知らない。また金村の作とも思われない。三二一の歌の左註により、高橋の蟲麻呂の作とする説もあるが、それも首肯されない。
 
319 なまよみの 甲斐の國、
 うち寄する 駿河の國と、
 こちごちの 國のみ中ゆ
 出で立てる 不盡《ふじ》の高嶺は、
 天雲も い行き憚《はばか》り、
 飛《と》ぶ鳥も 翔《と》びも上《のぼ》らず。
 燎《も》ゆる火を 雪もち消《け》ち、
 降る雪を 火もち消《け》ちつつ、
 言ひもかね 名つけも知らず、
 靈《くす》しくも 坐《いま》す神かも。」
 石花《せ》の海と 名づけてあるも、
 その山の 包める海ぞ。
 不盡《ふじ》河と 人の渡るも
(175) その山の 水のたぎちぞ。
 日《ひ》の本《もと》の 大和の國の
 鎭《しづめ》とも 坐す神かも。
 寶とも 成れる山かも。」
 駿河なる 不盡の高峯《たかね》は、
 見れど飽かぬかも。
 
 奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》
 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》
 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》
 出立有《イデタテル》 不盡能高嶺者《フジノタカネハ》
 天雲毛《アマグモモ》 伊去波伐加利《イユキハバカリ》
 飛鳥毛《トブトリモ》 翔毛不v上《トビモノボラズ》
 燎火乎《モユルヒヲ》 雪以滅《ユキモテケチ》
 落雪乎《フルユキヲ》 火用消通都《ヒモチケチツツ》
 言不v得《イヒモカネ》 名《ナヅケモ》不v知《シラズ・シラニ》
 靈母《クスシクモ》 座神香聞《イマスカミカモ》
 石花海跡《セノウミト》 名付而有毛《ナヅケテアルモ》
 彼山之《ソノヤマノ》 堤有海曾《ツツメルウミゾ》
 不盡河跡《フジガハト》 人乃渡毛《ヒトノワタルモ》
 其山之《ソノヤマノ》 水之當焉《ミヅノタギチゾ》
 日本乃《ヒノモトノ》 山跡國乃《ヤマトノクニノ》
 鎭十方《シヅメトモ》 座祇可聞《イマスカミカモ》
 寶十方《タカラトモ》 成有山可聞《ナレルヤマカモ》
 駿河有《スルガナル》 不盡能高峯者《フジノタカネハ》
 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】甲斐の國や駿河の國の、あちこちの國の眞中から、出で立つている富士の高嶺は、空ゆく雲も行くをはばかり、飛ぶ鳥も飛びあがらない。噴火の火を雪で消し、降る雪をその火で消して、言うことも名づけることも知らず、靈妙にまします神である。石花《せ》の海と名づけてあるのも、その山の包んでいる湖水である。富士川といつて人の渡るのも、その山の水の流れである。この日本の國の、鎭護ともまします神である。寶とも成つている山である。駿河にある富士の高嶺は、見ても飽きないなあ。
【構成】初めから出デ立テル不盡ノ高嶺はまでは、提示部であり、以下靈シクモ座ス神カモまでその提示部を受けて説明している。以上第一段。更に、寶トモ成レル山カモまで、重ねてその提示部を説明している。以上第二段。第一段、第二段併わせて富士山を敍述しこれを讃嘆する。以下第三段、富士山を見ても飽きないことを述べて總括をなしている。
【釋】奈麻余美乃 ナマヨミノ。枕詞であろうが、語義未詳である。諸説があるが信頼すべきものを見ない。強いて釋すれば、同音韻の古語を當て試みる外はないであろう。すなわち、ナマは、本集に「奈麻強《ナマシヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》」(卷四、六一三)、古事記に「ここにややにその御琴を取り依せて、那摩那摩邇《なまなまに》控《ひ》き坐す」(中卷仲哀天皇の(176)卷)により、よく熟せざる意に解せられる。ヨミは佳良の義でもあろうか。ノは助詞。それで熟せざる好味の意で、貝と同一音の北方の國を説明しているのであろうか。それにしても牽強附會たるを免れまい。
 甲斐乃國 カヒノクニ。甲斐は、字音假字である。語義は、峽《かひ》の國の義であろう。
 打縁流 ウチヨスル。枕詞、駿河を修飾する。この國は海に面しており、中央との交通路は、海濱によつているので、浪のうち寄する義を取つているのであろう。
 駿河能國與 スルガノクニト。與は、字の義によつて、トと讀まれている。甲斐の國と駿河の國とを竝立し(177)て、トで受けている。
 己知其智乃 コチゴチノ。既出(卷二、二一〇)。此方此方のの義で、あちこちのという意に同じ。ここでは、甲斐と駿河とをさしている。
 國之三中從 クニノミナカユ。ミは接頭語。ミナカは眞中に同じ。ユは、其處からで、ここは空間的に使用されている。富士山が國境線上、空中に聳起していることを描いている。
 出立有 イデタテル。あちこちの國の中から、空中に向かつて立つていることを敍している。以上、初句からこの句まで、次の不盡の高嶺の修飾句である。
 不盡能高嶺者 フジノタカネハ。出デ立テルまでの諸句を受けて、文主を提示している。この句に對して、靈シクモ坐ス神カモで形式的に一旦終結し、別にこれを受けて、鎭トモ坐ス神カモ、寶トモ成レル山カモで雙脚に結んでいる。
 天雲毛伊去波伐加利 アマグモモイユキハバカリ。上の赤人の歌に白雲モイ行キ憚リとある。いずれかがもとで、高山を敍する名句であるので、他がこれを受けているのであろう。
 飛鳥母翔毛不上 トブトリモトビモノボラズ。上をトブ鳥といつてあるので、翔をトビと讀む。山高くして、空行く鳥も怖れて飛び上らないよしである。句切。
 燎火乎 モユルヒヲ。當時、富士山が噴火していたことは、本集に「妹が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺《たかね》の燃えつつわたれ」(卷十一、二六九七)の歌があり、國史の類に天應元年、延暦十九年等の爆發を傳えている。その噴火を、ここにモユルといつている。
 雪以滅 ユキモチケチ。動詞モツの中止形には、モチとモテとの兩形がある。モチは、「籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》」(卷一、一)、「夜保許毛知《ヤホコモチ》 麻爲泥許之《マヰデコシ》」(卷十八、四一一一)、「投矢毛知《ナグヤモチ》 千尋射和多之《チヒロイワタシ》」(卷十九、四一六(178)四)、「伊斯都都伊母知《イシツツイモチ》 宇知弖斯夜麻牟《ウチテシヤマム》」(古事記一一)、「許久波母知《コクハモチ》 宇知斯淤冨泥《ウチシオホネ》」(同・六二)等多數の例があり、またモテは、「奈爾毛能母弖加《ナニモノモテカ》 伊能知都我麻之《イノチツガマシ》」(卷十五、三七三三)、「宇萬爾布都麻爾《ウマニフツマニ》 於保世母天《オホセモテ》 故事部爾夜良波《コシベニヤラバ》」(卷十八、四〇八一)の例がある。このモチは四段活と見られる。モテは例もすくなくかつ新しいのであつて、おくれて成立した形と見られるのであるが、モツル、モツレの如き形を見ないのであるから、下二段活用と見るよりも、むしろモチテの約言と見るべきである。
 落雪乎火用消通都 フルユキヲヒモチケチツツ。上の燎ユル火ヲ雪モチ消チに對して對句を成している。火は、噴火である。
 言不得 イヒモカネ。イヒモカネ(代初)、イヒモエズ(略)。不得は、カネともエズとも讀まれる。カネと讀むべき例は、「乘西情《ノリニシココロ》 忘不v得裳《ワスレカネツモ》」(卷七、一三九九)、「歩吾來《カチユワガクル》 汝念不v得《ナヲオモヒカネ》」(卷十一、二四二五)などあり、またエズと讀むべき例は、「雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)、「留不v得《トドメエヌ》 壽爾之在者《イノチニシアレバ》」(卷三、四六一)などある。今の場合はいずれにも讀み得るのであり、助詞モを受けるものも、「多弖麻都流《タテマヅル》 御調寶波《ミツキタカラハ》 可蘇倍衣受《カゾヘエズ》 都久之毛可禰都《ツクシモカネツ》」(卷十八、四〇九四)、「冬夜之《フユノヨノ》 明毛不v得呼《アカシモエヌヲ》」(卷九、一七八七)の如く、兩方の例があつて、決定は困難であるが、今假字書きの證のあるに任せ、また舊訓により、カネと讀むこととする。いかにいつてよいか、いうことが困難である意である。
 名不知 ナヅケモシラニ。ナヅケモシラズ(代初)、ナヅケモシラニ(略)。下文に、「言毛不得《イヒモカネ》 名付毛不v知《ナヅケモシラズ》」(卷三、四六六)とあるにより、名をナヅケと讀むべく、不知は、シラニとも讀まれるが、シラニは多く熟語句に使用されているので、ここは假字書きの例の多いのに任せて、シラズと讀む。上の言ヒモカネに對して對句をなし、下文に對して副詞句をなしている。いかに名づくべきか、それを知らない意である。
 靈母 クスシクモ。アヤシクモ(西)、クスシクモ(槻)。クスシは、靈妙神秘である意をあらわす形容詞。(179)山の神靈をクスシと形容し、次の句のイマスに對して副詞句となつている。
 座神香聞 イマスカミカモ。富士山を神と稱えている。山そのものを神と感ずる思想である。以上第一段、富士山の高大性を敍述している。
 石花海跡 セノウミト。石花は、海底動物。古くセといい、今セイ、またカメノテという。倭名類聚鈔に「厖蹄子《バウテイシ》、崔禹《サイウ》食經(ニ)云(フ)、厖蹄子、勢《セ》。貌似(テ)2犬(ノ)蹄(ニ)1、而附(キテ)v石(ニ)生(ズル)者也。兼名苑(ノ)注(ニ)云(フ)、石花、二三月(ニ)皆舒(ベ)2紫(ノ)花(ヲ)1、附(キテ)v石(ニ)而生(ズ)。故(ニ)以(テ)名(ヅク)v之(ヲ)」とある。色葉字類抄にも「厖蹄子セイ石花同」とある。セノウミは、富士山北の湖水をいう。三代實録、貞觀六年六月十七日の條に「甲斐の國言す、駿河の國の富士の大山、忽暴火ありて崗巒を燒き碎き草木焦燒す。土|鑠《と》け石流れて、八代の郡の本栖《もとす》また?《せ》兩つの水海を埋む」。また貞觀七年十二月九日の條に「駿河の國の富士の大山、西の峯忽燒火あり、巖を燒き碎く(中略)。然れども異火の變、今にいまだ止まず。使者をして檢察せしむるに、?《せ》の海を埋むこと、千許町なり」とある?の海が、ここのセノウミとされる。今日山北の湖水は、東から、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖といい、その西湖と精進湖とは、もと一湖であつたのが、噴出物によつて兩分されたものといわれる。
 名付而有毛 ナヅケテアルモ。セノウミと名づけてある湖水もの意。
 彼山之 ソノヤマノ。富士山のの意。
 堤有海曾 ツツメルウミゾ。ツツメルは、土をもつて水を圍んでいる意。富士山が、山麓の湖水を包有しているとしている。句切。
 不盡河跡 フジガハト。富士川は、釜無《かまなし》川、笛吹川等を集めて南下して海に入るが、富士山とは直接の關係はない。しかしその下流からは富士山を望み見るので、この稱があり、この歌にもその山より流下するように歌つたのであろう。東海道を旅行して富士山を眺めて、この句をなしただろう。
(180) 人乃渡毛 ヒトノワタルモ。ワタルは渡河するをいう。東海道における富士川について述べている。
 其山之 ソノヤマノ。富士山の。
 水乃當焉 ミヅノダギチゾ。當は、ngの音を有する字で、タギの音をあらわす假字として常に用いられている。「當麻《タギマ》」(古事記中卷)、「布當乃宮《フタギノミヤ》」(卷六、一〇五〇)などその例である。ここは、この字によつてタギの音を表わし、チに當る字はないが、タギチと讀むべきが如くである。かように字音假字をもつて或る語を表示するに當り、その音韻の一部分に相當する文字を缺く例は、「飫海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》」(卷三、三七一)の如きがある。オウという海の名であるが、そのオに當る飫の字だけあつて、ウに當る字を省略してある。焉は、文末に置く字であり、その意味でここに書かれている。ゾに相當する文字ではないが、文意を按じてゾと讀むのである。このゾは終助詞。句切。以上、セノ海ト云々と、不盡川ト云々とをもつて對句をなしている。この部分は、獨立せる二個の文として、富士山の雄大な地理を敍している。
 日本之 ヒノモトノ。本集では日本の字を、多くヤマトと讀むのであるが、ここでは次に山跡國乃とあるに冠しているので、文字通りヒノモトと讀まれる。枕詞で、次の句の山跡を説明している。日の本つ國の義とされる。續日本後紀にある興福寺の僧の長歌にも「日本乃《ヒノモトノ》 野馬臺乃國遠《ヤマトノクニヲ》」とある。
 山跡國乃 ヤマトノクニノ。このヤマトは、大きく、日本の國という意味に使用されている。
 鎭十方 シヅメトモ。シヅメは、國の鎭護の義である。山をもつて國の鎭とする思想は、漢文にもある。
 座祇可聞 イマスカミカモ。祇は地祇の義の字。句切。
 寶十方 タカラトモ。この句も、上の日ノ本ノ大和ノ國ノの句を受けている。富士山をもつて國の寶とするのである。
 成有山可聞 ナレルヤマカモ。ナレルは、寶として出現せるの意である。寶と化したの意のナルではない。句切。日ノ本ノ大和ノ國ノを受けて、鎭トモ坐ス神カモと寶トモ成レル山カモとが、二本の脚をなして結んでいる。形式からいえば、鎭トモ坐ス神カモの句を、形を變えて繰り返したとも見られる。以上第二段で、富士山の山容を述べ、その性質を論じている。
 駿河有不盡能高峯者 スルガナルフジノタカネハ。提示部にある不盡ノ高嶺はの句を、多數の句を隔てて繰り返している。これは、この歌の主題であるので、終に臨んでふたたびこれを出して、結語の意を強くするのである。駿河ナルと冠しているのは、作者が駿河方面からこの山を見ているためである。
 雖見不飽香聞 ミレドアカヌカモ。卷の一、三六以來しばしば出ている句。本集獨得の讃嘆の句である。
【評語】赤人の不盡山の歌が、歴史的時間的に述べられているのに對して、この歌は、地理的空間的に敍している點に特色がある。その山の神秘にして雄大な性質は、流暢整備の句法によつて、十分に表現されている。噴火と降雪との相剋を敍したのも壯大であり、國の鎭、國の寶と觀た思想も雄偉である。日本の國民の、この山に對する感想は、これらの句によくつくされている。修辭の上からは、對句が多く使用されているのが目立つて巧みであり、主題の重出も有力である。今、この歌の構成を表示すれば、次の通りである。
 
【なまよみの甲斐の國・うち寄する駿河の國】とこちごちの國のみ中ゆ出で立る《以上主題の修飾句》不盡の高嶺は《主題提示》【天雲もい行き憚り《以下第一の敍述》・飛ぶ鳥も翔びも上らず】【燎ゆる火を雪もち消ち・降る雪を火もち消ち】つつ【言ひもかね・名づけも知らに】靈しくもいます神かも。【石花の海と《以下第二の敍述》名づけてあるもその山の包める海ぞ・不盡河と人の渡るもその山の水のたぎちぞ】日の本の《以下第三の敍述》大和の國の【鎭ともいます神かも。・寶とも成れる山かも。】駿河なる不盡の高峯は《主題の再出》見れど飽かぬかも。
 
(182)反歌
 
320 不盡の嶺に 零《ふ》りおく雪は、
 六月《みなづき》の 十五日《もち》に消《け》ぬれば
 その夜零りけり。
 
 不盡嶺尓《フジノネニ》 零置雪者《フリオクユキハ》
 六月《ミナヅキノ》 十五日消者《モチニケヌレバ》
 其夜布里家利《ソノヨフリケリ》
 
【譯】富士山に降つてある雪は、六月の十五日に消えれば、その夜またも降ることだ。
【釋】不盡嶺尓 フジノネニ。ネは山の高い部分をいうこと、この歌では重要である。
 零置雪者 フリオクユキハ。フリオケルユキハ(類)、フリオクユキは(京)。講義に、置はオケルとも讀んでいるが、置の下に、在、有、流等の字がないから、この卷の例に任せて、オクと讀むがよいといつている。降り積む雪はの意である。
 六月十五日消者 ミナヅキノモチニケヌレバ。陰暦四五六の三月を夏とするが、事實は六月が極暑である。「六月《みなづき》の土さへ裂《さ》けて照る日にも」(卷十、一九九五)の歌も、六月を極暑の月としている。その十五日というので、一年中の極熱の日の意をあらわす。仙覺の萬葉集註釋に「富士ノ山ニハ雪ノフリツモリテアルガ、六月十五日ニソノ雪ノキエテ、子ノ時ヨリシモニハ又フリカハルト、駿河國風土記ニ見エタリト云ヘリ」とある。
 其夜布里家利 ソノヨフリケリ。十五日の夜にまた雪の降ることをいう。
【評語】一年中消えないというよりも、極熱の一日には消えるが、その夜には降るといういい方の方が效果的である。但しそういうことは、風土記にも見えるというから、その國でそういうのであろう。この無名氏の不盡山を詠める一篇は、傑作であるが、赤人の作と比較するに、赤人の作には天ノ原フリサケ見レバの敍述があ(183)り、またその反歌には具體的な敍述があつて、全體を生かしているが、この無名氏の作は、すべて一般的な敍述であつて、具體的な敍述は、わずかに、見レド飽カヌカモの一句に過ぎず、それも常套手段であつて特色がない。不朽の傑作で、よくこの神山の特質を描き、思想的方面にもわたつてはいるが、生氣を感ずる點においては、赤人の作を上位に置かざるを得ないのである。歌は生きた人間の生活記録であつて、地理風土の説明ではないことを銘記すべきである。富士山についても、下の世界から仰ぎ見て詠むのが本道であり、上から概念的に敍述すべきものではない。この歌は、漢文の賦の影響を受けて、かような整備した概念的な作を成すに至つたのであろう。
 
321 不盡の嶺を 高みかしこみ、
 天雲も
 い行き憚り たなびくものを。
 
 布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》
 天雲毛《アマグモモ》
 伊去羽斤《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》
 
【譯】富士山が高く恐るべくあるので、天ゆく雲も、行くのを躊躇してたなびいている。
【釋】布士能嶺乎高見恐見 フジノネヲタカミカシコミ。タカミとカシコミとは、共に不盡ノ嶺ヲを受けている。高く且つ恐るべくあるので。
 田奈引物緒 タナビクモノヲ。タナビクは既出(卷三、二八七)。引クに接頭語タナの冠したものと解せられる。モノヲは、詠嘆の語法。ヲは感動の助詞。
【評語】左註にあるように、類をもつて載せた歌であり、もと長歌の反歌であつたものを、これだけ離して出したようである。これでは大體の敍述に止まり、蟲麻呂の特色があらわれていない。
 
(184)右一首、高橋連蟲麻呂之歌中出焉。以v類載v此。
 
右の一首は、高橋の連蟲麻呂の歌の中に出でたり。類をもちて此に載す。
 
【釋】右一首 ミギノヒトツハ。本集の例、右一首とあるは、その接せる一首のみをさすのであつて、數首をさす場合は、右何首と指定する。ここに右の一首とあるは、布土能嶺乎の一首をさすことはあきらかであり、從つて、高橋の連蟲麻呂の歌中から出たというも、その一首をいうのである。
 高橋連蟲麻呂之歌中出焉 タカハシノムラジムシマロノウタノナカニイデタリ。これに類似の文は、卷の八、九にも見えており、次の如くである。「右一首、高橋連蟲麻呂之歌中出」(卷八、一四九七左註)、「石五首、高橋連蟲麻呂之歌集中出」(同、一八一一左註)。これによれば、高橋連蟲麻呂之歌集という歌の集録のあつたことが知られる。ここと卷の八とには集の字はないが、同物をさすものと見てよかろう。その集録から出た歌は、作者の名を記さないが、すべて蟲麻呂の作と認められる。布士能嶺乎の歌が、その集録の中に出ているという意である。高橋の蟲麻呂は、その作品によつて、奈良時代の初めに常陸の國に官仕していたものと推測され、天平四年に藤原の宇合が西海道の節度使となつた時には、京にいたものと考えられる。正倉院文書(大日本古文書八ノ一五四)に次のような文書がある。
  秦調曰佐酒入 年三五 山背國葛野郡橋頭里戸主秦調曰佐堅万呂戸口
   淨行一十五年
    天平十四年十二月十三日少初位上高橋虫麿貢
 これは、高橋の蟲麻呂という人が、東大寺に、佛道を修行した人を貢した文書である。この文には姓《かばね》が書い(185)てないが、姓を書かないことは、大伴の家持その他にも常に見られるところであり、また名を虫麿と書いているが、古人は文字には拘泥しなかつたから、蟲麻呂に同じと見てよい。高橋の蟲麻呂の作品は、天平四年のものが知られており、天平十四年は、その十年後であるから、年代においてもさしつかえはない。同名異人ということもあり得るが、現在のところ別人とすべき理由はなく、位の低いこと、相當のくらしをしていたらしいことは、同人らしい材料である。この文書をもし歌人の高橋の蟲麻呂のものとすれば、その乏しい傳記資料に新しいものを加えることになる。天平十四年に少初位の上であつたというから、常陸の國の役人としても史生であつたのだろう。殊にその自筆の書?が傳わつたことになつて、彼のような大歌人の筆跡を見ることもできようというものである。その筆蹟が寫眞になる日を待つている。
 以類載此 タグヒヲモチテコヽニノス。同じく富士山の歌であるから、ここに載せるとの意であるが、その歌詞に、天雲モイ行キ憚リの句があるので、特に載せたのであろう。
【參考】富士山を詠める歌。
  吾妹子に逢ふよしを無み駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ(卷十一、二六九五)
  妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燒《も》えつつ渡れ
   或る歌に曰はく、君が名も妾《わ》が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燒えつつも居れ(同、二六九七)
  天の原富士の柴山|木《こ》の暗《くれ》の時|移《ゆつ》りなば逢はずかもあらむ(卷十四、三三五五)
  富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへば日《け》に及《よ》ばず來ぬ(同、三三五六)
  霞ゐる富士の山傍《やまび》にわが來なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ(同、三三五七)
  さ寢《ぬ》らくは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高嶺の鳴澤《なるさは》の如
   一本の歌に曰はく、逢へらくは玉の緒しけや戀ふらくは富士の高嶺に降る雪|如《な》すも(同、三三五八)
 
(186)山部宿祢赤人、至2伊豫温泉1作歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、伊豫の温泉に至りて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】至伊豫温泉 イヨノユニイタリテ。伊豫の温泉は、既出(卷一、六左註)。今の松山市道後の温泉である。この温泉は、神代に始まり、景行天皇以降齊明天皇に至るまで、行幸五度に及んだことは、伊豫國風土記に見える。その文は參考の欄に載せた。この歌は、これらの行幸のことを追慕しているが、特に齊明天皇の御事蹟を中心にして歌つている。至は、赤人がこの地に旅行したことを語る。
 
322 皇神祖《すめろき》の 神の命《みこと》の
 敷きます 國のことごと、
 湯はしも 多《さは》にあれども、
 島山の 宜しき國と、
 凝《こご》しかも 伊豫の高嶺の
 射狹庭《いさには》の 岡に立ちて、
 うち思《しの》ひ 辭思《ことしの》ひせし
 み湯の上の 樹群《こむら》を見れば、
 おみの木も 生《お》ひ繼ぎにけり。
 鳴く鳥の 聲も變らず。」
(187) 遠き代に 神《かむ》さびゆかむ
 行幸處《いでましどころ》。」
 
 皇神祖之《スメロキノ》 神乃御言乃《カミノミコトノ》
 敷座《シキマス》 國之盡《クニノコトゴト》
 湯者霜《ユハシモ》 左波尓雖v在《サハニアレドモ》
 島山之《シマヤマノ》 宜國跡《ヨロシキクニト》
 極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》
 射狹庭乃《イサニハノ》 岡尓立而《ヲカニタチテ》
 敲思《ウチシノヒ》 辭思爲師《コトシノヒセシ》
 三湯之上乃《ミユノウヘノ》 樹村乎見者《コムラヲミレバ》
 臣木毛《オミノキモ》 生繼尓家里《オヒツギニケリ》
 鳴鳥之《ナクトリノ》 音毛不v更《コヱモカハラズ》
 遐代尓《トホキヨニ》 神左備將v往《カムサビユカム》
 行幸處《イデマシドコロ》
 
【譯】昔の天皇の知ろしめす國の悉くに、温泉はたくさんあるけれども、中にも島山のよろしい國と、嶮岨な伊豫の高嶺の射狹庭の岡に立つて、おほめになつた温泉のほとりの樹林を見れば、樅の木も昔のように生え繼いでいる。鳴く鳥の聲も昔に變わらない。末長き世に貴くあるであろう、この行幸の處は。
【構成】第一段、鳴ク鳥ノ聲モ變ラズまで。敍述する。以下第二段、推量を述べた總括的な記事で終つている。
【釋】皇神祖之神乃御言乃 スメロキノカミノミコトノ。皇神祖をスメロキと讀むことは、「須賣呂伎能《スメロキノ》 可未能美許登能《カミノミコトノ》」(卷十八、四〇八九)、「須賣呂伎能《スメロキノ》 神乃美許等能《カミノミコトノ》」(同、四〇九四)等の證がある。スメロキは、天皇の汎稱。現在の天皇をも含んでいうが、ここは神の命という限定があつて、過去の天皇に限られる。カミノミコトは、神にまします御方。ミコトは御言が本義で敬稱になり、尊、命の字が當てられる。既出「天皇之《スメロキノ》 神之御言能《カミノミコトノ》」(卷一、二九)。この句は、次の敷キマスに對して主格となつている。
 敷座 シキマス。シキは占據を意味する動詞。マスは敬語の助動詞。
 國之盡 クニノコトゴト。「日のことごと」「夜のことごと」などと同樣のいい方で、國のすべてをいう。
 湯者霜 ユハシモ。ユは温泉をいう。わが國には温泉多く、古來これを靈異あるものとして信仰的に見ている。シモは強意の助詞。
 左波尓雖在 サハニアレドモ。サハは多數をいう。「天下爾《アメノシタニ》 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》」(卷一、三六)、「天下《アメノシタ》 八島之中爾《ヤシマノウチニ》 國者霜《クニハシモ》 多雖v有《オホクアレドモ》 里者霜《サトハシモ》 澤爾雖v有《サハニアレドモ》」(卷六、一〇五〇)など、例が多い。温泉は多數にあるが、その中でもの意に、サハニアレドモといい、下文のミ湯を起している。
(188) 島山之宜國跡 シマヤマノヨロシキクニト。シマヤマは、島である山の義で、島は山を限定している。そのシマは、水に臨んだ美しい土地を、水上の方面から眺めていう。島山は、さような性質の山である。「島山乎《シマヤマヲ》 射往廻流《イユキモトホル》 河副乃《カハゾヒノ》 丘邊道從《ヲカベノミチユ》 昨日己曾《キノフコソ》 吾超來牡鹿《ワガコエコシカ》」(卷九、一七五一)、「淡海《アフミノウミ》 奧島山《オキツシマヤマ》」(卷十一、二四三九)、「淡海之海《アフミノウミ》 奧津島山《オキツシマヤマ》」(同、二七二八)、「登夫佐多?《トブサタテ》 船木伎流等伊布《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》」(卷十七、四〇二六)、「島山爾《シマヤマニ》 安可流橘《アカルタチバナ》 宇受爾指《ウズニサシ》」(卷十九、四二六六)、「島山爾《シマヤマニ》 照在橘《テレルタチバナ》 宇受爾左之《ウズニサシ》」(同、四二七六)等の用例、皆そうであり、その他、安倍島山、玉津島山、深津島山等、すべてこれに準じて解すべきである。ここでは、海上から眺めた島山の姿のよい國としての義で、海上から見た伊豫の國をいう。
 極此疑 コゴシカモ。
   コゴシキ(細)
   コゴシカモ(考)
   ――――――――――
   極此凝《コゴシキ》(西)
 疑は、西本願寺本には凝に作り、神田本には敷に作つている。疑は細井本の字面である。凝では訓を下しがたく、敷ならはこの句、コゴシキと讀まれるが、疑のままで意をなす處である。疑は「押照《オシテル》 難波穿江之《ナニハホリエノ》 葦邊者《アシベニハ》 鴈宿有疑《カリネタルカモ》 霜乃零爾《シモノフラクニ》」(卷十、二一三五)の如く、カモと讀まれる例があり、また疑意をカモに當てた例もある。コゴシは既出(卷三、三〇一)。凝り固まつている?態をいう形容詞。嶮岨の意になる。極此は、字音をもつてコゴシに當てている。形容詞が、シの活用形から助詞カモに接續する例は、「久夜斯可母《クヤシカモ》 可久斯良摩世婆《カクシラマセバ》」(卷五、七九七)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)などがある。これは、こごしき事かなと詠嘆したのである。
 伊豫能高嶺乃 イヨノタカネノ。イヨノタカネは、石槌山をいう。四國第一の高山で、一九二一メートルあり、殊に内海方面より望み見た形が雄偉である。山腹以上は巖石|崢エ《そうこう》として、コゴシカモというにふさわしい(189)山容を成している。
 射狹庭乃岡尓立而 イサニハノヲカニタチテ。射狹庭の岡は、伊豫國風土記に「湯の岡の側に碑文を立つ。その碑文を立てし處を伊社邇波《いさには》の岡といへり。伊社邇波と名づくる所以は、當士の諸人等、その碑文を見まく欲りして、いざなひ來る。因《かれ》、伊社邇波といひ來れり」とある伊社邇波の岡に同じ。イサニハの語義は、古事記中卷、神功皇后の神がかりの條にある沙庭《さには》に等しく、神を申し下す神聖なる場處の義であろうという。道後の地は石槌山から遠く、從つてこの岡も直接連繋はないが、大局より觀て、伊豫の高嶺の伊狹庭の岡といういい方をしたのだろう。その岡は、道後温泉の附近であろう。立而は、神田本、西本願寺本等による。細井本には立之而に作つている。立而は、タチテと讀み、作者自身の行動と解すべく、下の見者に接續する語氣である。また立之而は、タタシテと讀み、敬語法であつて、往時行幸のあつた天皇の御行動となり、下のウチ思ヒ辭思ヒセシに接續する。いずれにしても意をなすが、ここに作者の行動を敍したとする方が、下文の見レバが突然でなくてよいのである。上の極此疑には、細井本を採つて、神田本、西本願寺本をしりぞけ、これは神田本、西本願寺本を採つて細井本をしりぞけることには、矛盾が(190)あるが、上は神田本と西本願寺本とが一致しないし、ここは一致しているのであるから、今、立而とするによることとする。
 敲思辭思爲師 ウチシノヒコトシノヒセシ。敲は、諸本みな歌に作つている。訓は、歌思を、管見にウタオモヒ、考にウタシヌビと讀んでいる。この地で歌を詠まれたことは、卷の一に引いてある類聚歌林の文によつても知られるが、歌を思うということは、集中に例がなく不安定である。他の例を檢するに、「月立之《ツキタチシ》 日欲里《ヒヨリ》 乎伎都追《ヲキツツ》 敲自努比《ウチシノヒ》 麻泥騰伎奈可奴《マテドキナカヌ》 霍公鳥可母《ホトトギスカモ》」(卷十九、四一九六)の敲を、元暦校本、類聚古集には歌に作つている。よつて思うに、ここの歌の字も、敲の誤りとすべきが如くである。今これによつて敲とし、敲思の二字を、かの卷の十九の例に任せて、ウチシノヒと讀むこととする。ウチは接頭語、シノヒは、思慕追憶することの意である。辭思爲師は、コトシノハシシとも讀まれる。しかし爲師と書いてある爲を訓假字としてシと讀むことには難點がある。今「御立爲之《ミタチセシ》」卷二、一七八、一八〇、一八一)をミタチセシと讀む例に準じて、コトシノヒセシと讀む。これはかつて行幸ありし天皇の御行動であり、この訓は敬語にはならないが、天皇の御行動を敍するに敬語をもつてしないこともあるのは、「天雲之《アマグモノ》 雷之上爾《イカヅチノウヘニ》 廬爲流鴨《イホリスルカモ》」(卷三、二三五)の如きがあり、皇女の上には「草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》」(卷二、一九四)の如きがあつて、敢えて異とするに足りない。コトシノヒも他に用例がないが、言語をもつて思慕追憶されることと解せられる。これはとくに、齊明天皇の御事蹟をいうものとされる。この二句は、次句のミ湯ノ上ノ樹群を修飾している。
 三湯之上乃 ミユノウヘノ。ミは美稱。ミユは温泉。ウヘは、温泉の上に蔽いかぶさつている樹林についてその位置をいう。
 樹村乎見者 コムラヲミレバ。コムラは、樹木の群の意。倭名類聚鈔、木具類に「纂要(ニ)云(フ)、兩(ノ)樹枝相交(ハレル)陰下(ヲ)曰(フ)v?(ト) 音越、禹月(ノ)反、和名|古無良《コムラ》」とある。これによれば、コムラは、樹枝の下陰をいうようであるが、ここは樹(191)林そのものをさす。この句は、勿論作者の行動であつて、上の射狹庭ノ岡ニ立チテを受けている。
 臣木毛生繼尓家里 オミノキモオヒツギニケリ。オミノキは、伊豫國風土記に「岡本天皇また皇后の二躯をもちて一度となす。時に大殿戸に椹《むく》と臣木《おみのき》とあり。その木に鵤《いかるが》と比米《ひめ》の鳥と集止《とま》れり。天皇この鳥のために、枝に穗等を繋けて養ひたまひき」(萬葉集註釋所引)とある。その臣木をさすのであるが、それは今の何の樹に當るかは不明である。代匠記にはモミであるとしている。その當時の樹は枯損して他の樹が生え代わつたというのである。天武天皇の十三年十月に大地震があつて、温泉も埋もれて湧出しなくなつたというので、轉變の樣が推知される。この句、句切であるが、中止の氣味に下文に接している。
 鳴鳥之音毛不更 ナクトリノコヱモカハラズ。前項に引いた風土記の文にある鵤《いかるが》と比米《ひめ》とをさしている。鳥の聲も昔に變わらず聞えるというのである。上の臣ノ木モ云々と對句をなし、ミ湯ノ上ノ樹群ヲ見レバを受けて、文を結んでいる。句切。以上第一段。事實を敍述している。
 遐代尓 トホキヨニ。トホキヨは、過去にも將來にも、現在より遠隔なる時代をいう。ここは將來のはるかな時代をいう。「永代爾《ナガキヨニ》 標將v爲跡《シルシニセムト》 遐代爾《トホキヨニ》 語將v繼常《カタリツガムト》」(卷九、一八〇九)の例は同じく、將來の意に使用している。
 神左備將往 カムサビユカム。神性を發揚し行くだろうの意で、次句に對して連體形となつている。
 行幸處 イデマシドコロ。代々の天皇の行幸ありし(192)處の意であるが、上文に照らすに、主として齊明天皇の御事蹟を思つている。
【評語】この歌にも、事物に對して時間的に觀る作者の特性があらわれている。同人の富士山の歌と比較して、その一致せる所に注意すべきである。すなわち過去の事實を囘顧し、將來に期しているのであつて、全く同一手段に出ている。詞句も美しくよく、整備されている。殊に樹木と鳥聲との現?を描寫した句は、美しくかつ效果が多い。これも赤人の名作の一である。
【參考】
 伊豫國風土記に曰はく、湯の郡、大穴持《おほなもち》の命、悔い恥ぢたまひて、宿奈?古那《すくなびこな》の命を活かさまく欲《おもほ》して、大分《おほきた》と速見《はやみ》との湯を、下樋《したび》より持ち度《わた》り來て、宿奈?古奈の命に漬浴《あ》むししかは、しまらくありて活きて起ち居たまひき。しかして詠《なが》めしたまひて「ましましも寢たるかも」と宣《の》りたまひて、踐《ふ》み健《たけ》びし跡處《あとどころ》、今も湯の中の石の上にあり。おそ湯の貴く奇《く》しきは、神世の時のみにはあらず、今の世にも、疹痾《やまひ》に染《そ》める萬生《ひとびと》、病を除《いや》し身を存《いか》す要藥《くすり》とす。天皇等、湯に幸行《みゆき》して降り坐すこと五度なり。大帶日子《おほたらしひこ》の天皇と大后|八坂入姫《やさかいりひめ》の命と二躯《ふたはしら》を一度とし、帶中日子《たらしなかひこ》の天皇と大后|息長帶姫《おきながたらしひめ》の命と二躯を一度とし、上の宮の聖コの皇子を一度とす。また高麗《こま》の惠總僧《ゑそうほふし》、葛城《かづらき》の臣《おみ》等|侍《さもら》ひき。時に、湯の岡の側《かたはら》に碑文《いしぶみ》を立てて記しつらく、「法興の六年十月|歳《ほし》は丙辰にあり。わが法王大王、惠總法師また葛城の臣と、夷與《いよ》の村に逍遥したまひ、正しく神井を觀て世の妙驗を歎じ、意《こころ》を敍《の》べまくして、いささか碑文一首を作りたまふ。惟ふに、それ日月は上に照りて私せず、神井は下に出でて給《あた》へずといふことなし。萬機|所以《このゆゑ》に妙應し、百姓所以に潜扇す。かく、照給して偏私なし。何ぞ壽國に異ならむ。華臺に隨ひて開合し、神井に沐して疹《やまひ》を癒《いや》す。?《なに》ぞ落花の池に升《のぼ》りて化溺せざらむ。山岳の巖?を窺ひ望みて、反りては子平のよく往くことを冀《ねが》ふ。椿樹は相|?《しげ》りて穹窿し、實に五百の張蓋を想ふ。臨朝《あした》に鳥啼きて戯れ?《さへづ》る、何ぞ亂音の耳に聒《かしま》しきを曉《さと》らむ。丹花葉を卷《かさ》ねて映照し、玉菓|葩《はな》に彌《み》ちて井に垂る。その下(193)を經過して優遊すべし。あに、洪灌霄庭を悟らむや。意と才と拙くして實《まこと》に七歩に慚《は》づ。後定の君子、幸に嗤咲《しせう》することなかれ」といへり。岡本の天皇と皇后と二躯を一度とし、後の岡本の天皇、近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇、淨御原の宮に天の下知らしめしし天皇三躯を一度とす。こを幸行《いでま》せること五度といふなり。(釋日本紀、もと漢文)
 伊豫國風土記に云はく(中略)、湯の岡の傍に碑文を立つ。その碑文を立てし處を、伊社邇波《いさには》の岡と謂《い》ふ。所を伊社邇波と名づくる由《ゆゑ》は、その土《くに》の諸人《ひとびと》、其の碑文を見むと欲《おも》ひて、いざなひ來《け》り。因《よ》りて伊社邇波《いさには》と謂《い》ふ本《もと》なり、云々。岡本の天皇、また皇后二躯を一度とす。時に大|殿戸《とのど》に椹《むく》と臣の木とあり。その木にいかるがとひめの鳥と集止《とま》れり。天皇、この鳥のために、枝に穗等をかけて養《か》ひたまひき。(萬葉集註釋、もと漢文。中略の部分は、前掲の釋日本紀に引いた文の一部分に同じ。)
 
反歌
 
323 ももしきの 大宮人の、
 飽田津《にぎたづ》に 船乘《ふなのり》しけむ
 年の知らなく。
 
 百式紀乃《モモシキノ》 大宮人之《オホミヤビトノ》
 飽田津尓《ニギタヅニ》 船乘將v爲《フナノリシケム》
 年之不v知久《トシノシラナク》
 
【譯】朝廷の臣下等が、この飽田津に船に乘つたであろう年は、いつの昔か知らぬことである。
【釋】百式紀乃 モモシキノ。既出(卷一、二九)。式は字音シキであるが、その下に更に紀の字を添えて讀み方をあきらかにしている。枕詞。多くの建造物の義と解され、大宮に冠せられる。
 大宮人之 オホミヤビトノ。長歌にいう行幸に供奉した宮廷奉仕の人々をさしている。三四句に對する主格(194)句。
 飽田津尓 ニギタヅニ。飽田津は、既出(卷一、八)の熟田津と同地と解せられる。伊豫の温泉附近にあつた般若《はんにや》の津である。古書に、ニギの語に饒の字を多く當てて居り、その意からして、ここには飽の字を當てたのであろう。
 船乘將爲 フナノリシケム。フナノリは、乘船航海の意。將爲は、ここでは過去推量の歌意よりしてシケムと讀む。次の句に對する連體句である。
 年之不知久 トシノシラナク。トシノは、シラナクに對して、領格をなしている。シラナクは、知らぬことの意で、體言になつている。年の不明よというが如き語氣である。かような語法は、「山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》 酌爾雖v行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》」(卷二、一五八)などある。
【評語】隨分遠い昔だという感を、その年を知らないことであらわしている。熟田津に船乘したということについては、額田の王の「熟田津に船乘せむと」(卷一、八)の歌あたりを思つているらしい。仙覺の萬葉集註釋には、「伊豫風土記云、後岡本天皇御歌曰、美枳多頭爾、波弖丁美禮婆云々」と見え、それらの歌の作り出す華やかな追憶が、この歌の背景となつている。
 
登2神岳1、山部宿祢赤人作歌一首 并2短歌1
 
神岳に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】登神岳 カムヲカニノボリテ。神岳は、既出(卷二、一五九)。歌意によつて、明日香にある岡なることは確かである。岡の上からは、明日香川を展望すべく、また一五九の歌によれば、淨御原の宮から近く見える山で、「その山をふり放《さ》け見つつ」とあつて、相當の山であることが知られる。またその名によつて、神を祭つ(195)た岡であると考えられ、今の雷の岡の西方の山だろうという。なおこの山については、歌詞の解中にも記事がある。神の語は、熟語としては神風《かむかぜ》、神名備《かむなび》等、カムとなるから、ここもカムヲカと讀むべきであろう。その岡に登つて、明日香の古帝京を展望して詠んだ歌である。
 
324 三諸《みもろ》の 神名備《かむなび》山に
 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生ひたる
 つがの木の いやつぎつぎに、
 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく、
 ありつつも 止まず通はむ
 明日香の 舊き京師《みやこ》は、
 山高み 河とほしろし。
 春の日は 山し見が欲《ほ》し。
 秋の夜は 河し清《さや》けし。
 朝雲に 鶴《たつ》は亂れ
 夕霧に 河蝦《かはづ》はさわく。」
 見るごとに 哭《ね》のみし泣かゆ。
 古思へば。」
 
 三諸乃《ミモロノ》 神名備山尓《カムナビヤマニ》
 五百枝刺《イホエサシ》 繋生有《シジニオヒタル》
 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 玉葛《タマカヅラ》 絶事無《タユルコトナク》
 在管裳《アリツツモ》 不v止將v通《ヤマズカヨハム》
 明日香能《アスカノ》 舊京師者《フルキミヤコハ》
 山高三《ヤマタカミ》 河登保志呂之《カハトホシロシ》
 春日者《ハルノヒハ》 山四見容之《ヤマシミガホシ》
 秋夜者《アキノヨハ》 河四清之《カハシサヤケシ》
 旦雲二《アサグモニ》 多頭羽亂《タヅハミダレ》
 夕霧丹《ユフギリニ》 河津者驟《カハヅハサワク》
 毎v見《ミルゴトニ》 哭耳所v泣《ネノミシナカユ》
 古思者《イニシヘオモヘバ》
 
【譯】この三諸の神奈備山に、多くの枝を出して繁つている栂の樹の名のように、いよいよ次々に絶えること(196)なく世にありつつ、やまず通うへき、飛鳥の古い都は、山が高くして河が大きく流れている。春の日は山が見るに好ましく、秋の夜は河がさやかな音を立てる。朝の雲に鶴は亂れ、夕の霧に河蝦《かわず》は騷ぎ立てる。見るごとに、古のことが思われて泣かれることだ。
【構成】第一段、夕霧ニ河蝦ハ騷クまで。明日香ノ舊キ京師ハまでは提示部、以下はこれを受けて、敍述している。そのあと第二段、感慨を述べている。
【釋】三諸乃神名備山尓 ミモロノカムナビヤマニ。三諸の神名備山は、題に神岳とあると同山であることは明白である。ミモロは、ミムロともいい、御室の義で、神の居處をいうと解されているがこれは疑わしい。ミモロは、古事記に「実母呂」(六一、九三、九五)と書き、本集に「三毛侶」(卷七、一〇九三)と書くなど、そのロは乙類の音であるに對して、ミムロは、古事記に「淤冨牟盧夜」(一一)、日本書紀に「於朋務露夜」とあるなど、そのロは甲類である。しかし今日では、これに代わるべき明解はない。ミモロは、十九例あり、うち三毛侶二例、三諸十六例、御諸一例であつて、他に見諸戸山と書いたもの一例がある。ミモロの例の中には、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(卷三、四二〇)、「木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》」(卷七、一三七七)、「祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミモロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》」(卷十二、二九八一)、「春日野爾《カスガノニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》」(卷十九、四二四一)の如き、この語の解釋に資すべき例も含んでいる。この語が神座を意味することは疑いもないが、どのような形のものであるかはわからない。カムナビは、神座である山や森をいう。出雲の國造の神賀詞に、「おのが命の和魂を、八咫《やた》の鏡に取り託《つ》けて、倭《やまと》の大物圭|櫛※[瓦+肆の左]玉《くしみかたま》の命と名を稱へて、大御和《おほみわ》の神奈備《かむなび》に坐せ、己が命の御子|阿遲須伎高孫根《あぢすきたかひこね》の命の御魂を、葛木《かづらき》の鴨の神名備に坐せ、事代主の命の御魂を、字奈堤《うなて》に坐せ、賀夜奈流美《かやなるみ》の命の御魂を、飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫《すめみま》の命の近き守り神と貢りり置きて」云々と見える。三諸の神奈備山は、三諸である所の神奈備山の意と解せられ、神奈備の三諸の山という逆な言い方もある(卷十三、(197)三二二七)。その山もこの三諸の神奈備山と同じ山であることは、その歌中には「神奈備の三諸の神の帶にせる明日香の川」とあつて、明日香川との關係を語ることによつて推定される。またその歌詞に「釼大刀齋《つるぎたちいは》ひまつれる神にし坐せば」とあり、その反歌には「神奈備の三諸の山に齋《いは》ふ杉」「み幣取り三輪すゑ祭る神主の」といつて、神社鎭座の山であつたことが知られる。これがやがて明日香の神名備であつて、古く飛鳥神社の鎭座しておつた山であろうと考えられる。飛鳥神社は、後に今の位置に移したものである。
 五百枝刺 イホエサシ。イホは多數の義。熟語として、五百夜、五百歳、五百|機《はた》などの例がある。イホエは、多數の枝である。「あしひきのこの片山の、もむ楡《にれ》を五百枝|剥《は》ぎ垂《た》り」(卷十六、三八八六)。サシは、枝の張つているをいう。「虚知期知爾《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》」(卷二、二一三)、「水枝指《ミズエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》」(卷六、九〇七)など用例がある。
 繁生有 シジニオヒタル。シジは、密接して繁くあること。樹枝の密生のさまをいう。「大船に眞?《まかぢ》しじ貫き」(卷三、三六八等多數)、「竹珠《たかだま》をしじに貫《ぬ》き垂《た》り」(卷三、三七九)、「ももしきの大宮人も、をちこちにしじにしあれば」(卷六、九二〇)など使用されている。
 都賀乃樹乃 ツガノキノ。ツガノキは、今もツガという。「刀我乃樹《トガノキ》」(卷六、九〇七)とも書いている。以上、今登つている神奈備山の風物を敍して、次のイヤツギツギニの序詞としたもので、「瀧《たぎ》の上の三船の山に、水枝さししじに生ひたる、刀我《とが》の樹のいやつぎつぎに、萬代にかくし知らさむ、み吉野の蜻蛉《あきつ》の宮は」(卷六、九〇七)と全く同じ手段である。
 弥繼嗣尓 イヤツギツギニ。既出(卷一、二九)。いよいよ次々にで、下の止マズ通ハムを修飾する。
 在管裳 アリツツモ。我、この世に存命しつつもの意。
 不止將通 ヤマズカヨハム。ヤマズは、絶えることなく、引き續きの意。カヨハムは、此處に通つて來よう(198)の意。連體の句で、明日香ノ古キ都を修飾する。
 明日香能舊京師者 アスカノフルキミヤコは。明日香の地は、遠く允恭天皇以來、度々帝都となつたが、ここでは作者は、主として天武天皇の明日香の淨御原《きよみはら》の宮を追憶していると考えられる。この歌の作られた時代は、奈良時代なるべく、それで明日香の里を古き都といつている。以上提示部で、山上から眺めた明日香の古帝京を示している。以下は、この提示された主格の説明である。
 山高三 ヤマタカミ。山が高くして。明日香の古き都の風光を、山と川とに分けて敍述する、その山の方面である。この山は、次に「春の日は山し見がほし」とある山であるから、神岳から眺められる周圍の山である。倉梯《くらはし》、多武、高取の連山が、東から南に懸けて、明日香の地を圍繞している。
 河登保志呂之 カハトホシロシ。河は、明日香川をいう。トホシロシについては、橋本進吉博士の「とほしろし考」(奈良文化第十七號、また萬葉集論考所收)に詳細な説がある。この語の文獻としては、日本書紀卷の二「集2大小之魚1」の大の訓にトヲシロキとあり、應永年間の書寫の日本紀私記に「大小之|止乎之呂久知比左岐《トヲシロクチヒサキ》」とある。石山寺所藏大唐西域記の長寛元年の訓點に「人骸偉大」に訓してホネトヲシロシとある。これによつて、偉大なりの意とすべく、またロの音韻表示に呂の文字を使用しており、白のロは漏の類であるから、古代假字遣法の見地から、トホシロシは遠白シの義ではないとされる。これに對して、山田孝雄博士の「萬菓集講義」は、古代におけるロの音韻表示に二種の別を認めずとして、これを否定している。今日からいえば、ロの音その他ある種の音に、古代において二種の別があつたということは、否足しがたいのであるから、橋本博士の説に從うべく、山田博士の擧げた二種の文字の混用は、別の方面すなわち時代の降下による混亂として解決されねばならない。山高ミ河トホシロシの二句は、明日香ノ古キ都ハを受けて、まずこれを總括説明している。これより以下河蝦ハサワクまで、更にその山と河とを具體的に細分して説明している。
(199) 春日者山四見容之 ハルノヒハヤマシミガホシ。ヤマシのシは、強意の助詞。ミガホシは、見ガ欲シで、見ることの望ましい意。容は、容顔の義をもつて、カホの音に當てている。この語、「和賀美賀本斯久邇波《ワガミガホシクニハ》」(古事記五九)の例あり、また本集に「幾許毛《ココダクモ》 開有可毛《サキニタルカモ》 見我欲左右二《ミガホシマデニ》」(卷十、二三二七)など、ミに見、ホシに欲の字を、多く使用しているので、その語義が知られる。なお本集にアリガホシ、琴歌語にスミガホシがあつて、同樣の語構成を有している。
 秋夜者河四清之 アキノヨハカハシサヤケシ。カハシのシは、強意の助詞。サヤケシは、清明にある意の形容詞で、河については、その形勢にも音聲にもいう。上の春ノ日ハ山シ見ガホシに對して對句をなしている。
 旦雲二 アサグモニ。朝は、山に雲の湧くこと多く、またその雲には特色がある。その雲を描いている。
 多頭羽亂 タヅハミダレ。タヅは鶴の類の總稱である。朝の雲に點じて鶴の亂れ飛んでいる樣である。この朝雲ニ鶴ハ亂レの句は、天空を仰いで言つていて、これは山そのものの性質ではないが、河に對しては、山に代わるものである。
 夕霧丹 ユフギリニ。夕方は、河から霧の湧くことが多い。それで河の特色を描くためにこの句をなしている。
 河津者驟 カハヅハサワク。カハヅは、「詠蝦」(卷十、二一六一題詞)の如く、蝦と書いたもの、「不v所v念《オモホエズ》 來座君乎《キマシシキミヲ》 佐保川乃《サホガハノ》 河蝦不v令v聞《カハヅキカセズ》 還都流香聞《カヘシツルカモ》」(卷六、一〇〇四)の如く、河蝦と書いたものがある。集中、河についてその鳴くことをいい、また夕暮、夜にかけて鳴くことを歌つており、卷の十には秋に部類している。今のカジカをいうと思われるが、「朝霞|鹿火屋《かひや》が下に鳴く蝦《かはづ》」(卷十、二二六五)の如く、かならずしもカジカに限らず、他の蛙類にわたつているものもあるであろう。しかし名義よりいえば、河津に棲むものの義があると考えられる。サワクは、その衆口をもつて鳴き立てるをいう。この夕霧ニ河蝦ハサワクの句は、勿論河につ(200)いていい、上の朝雲ニ鶴ハ亂レの句に對して對句をなしている。春ノ日ハ以下は提示部を受け、かつ山高ミ河トホシロシの意を四個の對句をもつて、具體的に敍述している。以上第一段、事實を敍述する。
 毎見 ミルゴトニ。神奈備山から展望するたびにの意で、度々此處に來たことを語つている。朝雲夕霧の句は、これから出ているのであろう。
 哭耳所泣 ネノミシナカユ。この句、既出(卷二、二三〇)。そこには、「泣耳師所哭」と哭泣の字が、こことは反對になつている。假字書きの例は集中に多い。ネは哭泣の體言。シは強意の助詞。泣くことのみ泣かれるの意。
 古思者 イニシヘオモヘバ。ここに古というは、明日香に帝都のあつた時代をいう。
【評語】この歌も、赤人の追憶思想が中心になつている。但しここには歴史的敍述なく、美しい詞句をもつて、舊都の風光を描いている。神奈備山の茂樹から説き起した手段は、この作者の獨創ではないであろうが、やはり有效である。山高ミ河トホシロシ以下三個の對句をもつて、眼前に展開する古帝京の描寫をしたのは、形態の上からも整齊の美があり、詞句そのものも華麗である。朝雲夕霧の對句は、水分の多い風土の美を巧みに寫している。ただ春の日をもつて秋の夜に對したのは、内容の集中を妨げ、概念的に説明した弊に陷つているが、上に、アリツツモ止マズ通ハムといひ、下に見ルゴトニ哭ノミシ泣カユと歌つているによれば、一度のみならず、この山に登つているので、自然この敍述が出たのであろう。人麻呂の近江の舊都の歌のような哀痛の情には缺けるが、それは明日香の里が歴史の上の悲哀事なく、ただ置き忘られた地というだけのさびしさであるからであろう。しかも人ことごとく去つて、風物の往時に變わらないところ、この詩人の哀情を促すに足るものがあつたのである。山川秀美の勝景は、時を經て變易しないが、人はそこに歴史を築き、またみずからそれを消して行くのである。
 
(201)反歌
 
325 明日香《あすか》河 川淀さらず 立つ霧の、
 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに。
 
 明日香河《アスカガハ》 川余藤不v去《カハヨドサラズ》  立霧乃《タツキリノ》
 念應v過《オモヒスグベキ》 孤悲尓不v有國《コヒニアラナクニ》
 
【譯】飛鳥川の、川淀のどこにも立つ霧のように、わたしの心から過ぎ去つて行く戀ではないことである。
【釋】明日香河 アスカガハ。神奈備山からの展望のうち、中心をなす明日香川に呼び掛けている。この川があつて、神奈備山から見た明日香の里の風光は生きるのである。
 川余藤不去 カハヨドサラズ。カハヨドは、河水の流れることの緩なる處である。水の淀む處の義。サラズは、毎にの意で、「鹿脊之山《カセノヤマ》 樹立矣繁三《コダチヲシゲミ》 朝不v去《アササラズ》 寸鳴響爲《キナキトヨモス》 鶯之音《ウグヒスノコヱ》」(卷六、一〇五七)、「三空往《ミソラユク》 月讀壯士《ツクヨミヲトコ》 夕不v去《ユフサラズ》 目庭雖v見《メニハミレドモ》 因縁毛無《ヨルヨシモナシ》」(卷七、一三七二)等、この意のサラズである。何故にサラズが、毎にの意となるかというに、たとえば、寐ル夜オチズが、どの寐る夜もかかさずの意から、寐る夜毎にの義をなすように、どの川淀も離れ去ることなくのような意から、熟語となつて毎にの意を成すのであろう。明日香川のどの川淀でもの意で、次の句の立ツに對して副詞句をなしている。
 立霧乃 タツキリノ。川から立ち昇る霧を描いて、以上三句をもつて、次の句を引き出す序詞としている。
 念應過 オモヒスグベキ。下に「石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》 思過倍吉《オモヒスグベキ》 君爾有名國《キミニアラナクニ》」(卷三、四二二)の例があり、杉村ノまでが序となつて、思ヒスグベキを引き起しているが、それはスギに懸かつていることはあきらかである。ここもこれに準じて、立ツ霧ノは、この句のスグを引き起していると見られる。オモヒスグは思慮の通過する義であつて、思わなくなる意である。この語は「神南備《カムナビノ》 神依板爾《カミヨリイタニ》 爲杉乃《スルスギノ》 念母不v過《オモヒモスギズ》 戀之茂(202)爾《コヒノシゲキニ》」(卷九、一七七三)の如く、オモヒとスギとのあいだに、助詞モの插入されている例があり、この歌においても、念應過と、念と過との間に、ベキに相當する字を置いているので、オモヒスギという熟語が成立しているものとは見られない。しかしオモヒスギズの如き場合は、オモヒは體言であるが、オモヒスグベキの場合は、オモヒは動詞であるから、やがてオモヒスグの如き熟語の成立に近づいているものというべきである。
 孤悲尓不有國 コヒニアラナクニ。コヒは、普通に戀の字の當てられる語であるが、ここは古帝京の盛時に對する思慕の情と解せられる。長歌の見ル毎ニ哭ノミシ泣カユを受けて、その悲哀の情を、思い失うべき哀情でないといつている。
【評語】この歌は、序歌であるが、眼前の景を描いているので、印象が稀薄にならない。川淀サラズ立ツ霧ノの句も、高處から見下した光景を敍して妙である。長歌に春秋、朝夕に對して敍し來つたもの、ここに夕霧が主題であることをあきらかにしている。
 
門部王、在2難波1見2漁父燭光1作歌一首 後賜2姓大原眞人氏1也
 
門部の王の、難波にありて、漁父の燭光を見て作れる歌一首【後、姓大原の眞人の氏を賜へり。】。
 
【釋】門部主 カドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。
 漁父燭光 アマノトモシビ。漁父は、漁人の長の義で、漢文に使用される。倭名類聚鈔に「漁父、楚辭(ニ)云(フ)、漁父皷(シテ)v?(ヲ)而去(ル)」とあり、無良岐美《ムラキミ》の訓を傳えている。しかしここは漁人と同じと見てアマと讀まれる。燭光は、「鈴寸取《スズキトル》 海部之燭火《アマノトモシビ》 外谷《ヨソニダニ》 不v見人故《ミヌヒトユヱニ》 戀比日《コフルコノゴロ》」(卷十一、二七四四)とある燭火と同じ意と見て、トモシビと讀まれる。漁火の意である。
 
(203) 326 見渡せば 明石の浦に 燒《た》ける火の、
 秀《ほ》にぞ出でぬる。
 妹に戀ふらく。
 
 見渡者《ミワタセバ》 明石之浦尓《アカシノウラニ》 燒火乃《タケルヒノ》
 保尓會出流《ホニゾイデヌル》
 妹尓戀久《イモニコフラク》
 
【譯】難波から見渡すと、明石の浦の方に、漁夫のともす漁火が見えるが、あのようにかの君に戀うことは色にあらわれたことだ。
【釋】見渡者 ミワタセバ。難波から、海上を通じて見渡したことを敍している。
 明石之浦尓 アカシノウラニ。明石は、兵庫縣の明石である。ウラは、潜入せる水面をいうが、ここは明石の海上である。
 燒火乃 タケルヒノ。タケルヒノ(類)、トモスヒノ(管)。燒は燃燒の義をもつてタケルと讀む。この火は、漁火である。「海未通女《アマヲトメ》 伊射里多久火能《イザリタクヒノ》」(卷十七、三八九九)。以上、實景を敍して、次の句を引き起す序詞としている。
 保尓曾出流 ホニゾイデヌル。ホは事物について、その秀起せる部分をいう。稻の穗、ほのほ(炎)、船の帆など、皆同じ。イデヌルは、ヌに當る文字はないが、意をもつて添えて讀む。火の色に出ていることをいい、わが戀の表面に現われたことを敍している。そのあらわれた内容は、五句に述べている。
 妹尓戀久 イモニコフラク。コフラクは、戀うことの意。クは、用言に接續して、その事の意をなす語。戀フは、助詞ニを受けるので、妹にといつている。妻に戀うことの意である。
【評語】都を離れて難波の邊に旅寐を重ねて、わが家戀しさの情の募つて來るのを、實景に託して歌つた。日も夕暮の海濱に、遠い海上の漁火を望み見た旅情が掬せられる。
 
(204)或娘子等、贈2裹乾鰒1、戯請2通觀僧之咒願1時、通觀作歌一首
 
或る娘子《をとめ》等の、裹《つつ》める乾鰒を贈りて、戯《たはむれ》に通觀僧の咒願《かじり》を請ひし時に、通觀の作れる歌一首。
 
【釋】或娘子等 アルヲトメラノ。いかなる娘子とも知られない。
 裹乾鰒 ツツメルホシアハビヲ。ツツメルは、物に包んだ、裹にしたの意。ホシアハビは乾した鰒。鰒の肉の乾したもので、貴重な食料である。倭名類聚鈔に「四聲字苑(ニ)云(フ)、鰒、魚(ノ)名、似(テ)v蛤(ニ)偏(ニ)著(ク)v石(ニ)、肉乾(シテ)可(シ)v食(フ)。出(ヅ)2青州(ノ)海中(ニ)1矣。本草(ニ)云(フ)、鮑、一(ノ)名(ハ)鰒、鮑音(ハ)抱、阿波比《アハビ》。」とある。
 通觀僧之咒顧 ツグワニホフシノカジリ。通觀は、傳未詳。咒願は、念佛誦經し法語をとなえて利益を願求すること。ここは戯ニ請フとあり、また歌意より推すに、乾した鰒を贈つて、咒願によつてこれを活かすことを請うたものと見られる。
 
327 海若《わたつみ》の 奧《おき》に持ち行きて 放つとも、
 うれむぞこれが 死《し》に還《かへ》り生《い》かむ。
 
 海若之《ワタツミノ》 奧尓持行而《オキニモチユキテ》 雖v放《ハナツトモ》
 宇禮牟曾此之《ウレムゾコレガ》 將2死還生1《シニカヘリイカム》
 
【譯】大海の沖の方へ持つて行つて放つても、これが生き返るということは決してないのです。
【釋】海若之 ワタツミノ。ワタツミは海神の義から、轉じて海洋の意に使用する。海若の文字も海神の義である。
 奧尓持行而 オキニモチユキテ。この乾鰒を、海上の沖に持つて行つての意。
 雖放 ハナツトモ。水中に放しやつてもの意。
 宇禮牟曾此之 ウレムゾコレガ。ウレムゾは、このほかに「平山《ナラヤマノ》 子松末《コマツガウレノ》 有廉敍波《ウレムゾハ》 我思妹《ワガオモフイモニ》 不v相止者《アハズヤミナム》」(205)(卷十一、二四八七)の用例があるだけで、從つて語義なども不明であるが、大體、いかんぞ、なんぞ等の語意のあるものと考えられている。ゾは多分助詞であろう。コレは乾鰒をさしている。
 將死還生 シニカヘリイカム。上のウレムゾを受けて、決して生きかえらないと反語の意になる。なお「千遍曾吾者《チタビゾワレハ》 死變益《シニカヘラマシ》」(卷四、六〇三)、「我身千遍《ワガミハチタビ》 死反《シニカヘラマシ》」(卷十一、二三九〇)の例によれば、死んで生き返ることをシニカヘルというから、ここもシニカヘリイカムの訓が考えられる。なお義をもつてヨミガヘリナムと讀むのは、ヨミは、死者の行く世界であり、そこに往つて歸つて來ることをヨミガヘルという。蘇生するの意である。
【評語】當時、佛徒のあいだに地獄歸りの説話の行われていたことは、日本靈異記などによつて推察されるところである。この通觀法師も、そんな話をしたことであろう。また當時の僧侶が呪願などをしていたことが知られておもしろい。歌はただ詞を歌にしたというまでであるが、ウレムゾコレガなどいうところは、當時としても四角ばつたいい方なのであろうと思う。そんなところに僧侶の歌らしいところがあるのであろう。
 
大宰少貳小野老朝臣歌一首
 
大宰の少式小野の老の朝臣の歌一首。
 
【釋】大宰少式 オホキミコトモチノツカサノスナキスケ。大宰府の官吏中、第二番目の役名である。
 小野老朝臣 ヲノノオユノアソミ。小野の老は、續日本紀によるに、養老三年正月、正六位の下から從五位の下に進み、同四年十月に右少辨、天平元年三月、從五位の上、同三年正月に正五位の下、五年三月に正五位の上、六年正月に從四位の下、九年六月に大宰の大貳從四位の下小野の朝臣老卒すとある。正倉院文書正集第十七卷所收の天平十年の駿河國正税帳に「依(リテ)v病(ニ)下(ル)2下野(ノ)國那須(ノ)湯(ニ)1、從四位(ノ)下小野(ノ)朝臣【上一口從十二口】六郡別(ニ)一日(ノ)食、爲(ス)2(206)單※[(さんずい+ヒ)/木]拾捌日(ト)1【上六口從七十二口】」とあり、同じく正集第三十五卷所收の同年の周防國正税帳に「(七月)廿四日下傳使【大宰故大貳從四位下小野朝臣骨送使對馬嶋史生從八位下白氏子虫將從三人合四人四日食稻五束二把酒三升二合鹽三合二勺】」とある。これらの正税帳は、天平十年のものであるから、その記事は天平九年の事に係かると見られるが、その年に小野の老は大宰の大貳であつて、病のために下野の國の那須の湯に行き、どこで死んだかわからないが、白骨と化して、その七月に周防の國を西下した。多分大宰府に赴いたのであろう。これは續日本紀に、天平九年六月に卒したというに合うのである。橋本進吉博士は、南京遺芳解説において、この正税帳によつて、小野の老の卒去を天平十年とし、續日本紀の記事と一年の差違のあることを述べられたが、これは十年の正税帳の記事であるから、その前年の事に係かるとする説を是とするのである。なお小野の老の、大宰の少貳になつた年は傳えていないが、天平二年正月の梅花の宴の歌には、小貳小野の大夫とあつて、當時少貳で(207)あつたことが知られる。小野の老の朝臣という書き方は、四位の人に對する書法であるが、それは嚴密に行われていないらしく、四位になつてからこの題詞が書かれたとは斷定されない。
 
328 あをによし 寧樂《なら》の京師《みやこ》は、
 咲く花の 薫《にほ》ふがごとく 今盛りなり。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃京師者《ナラノミヤコハ》
 咲花乃《サクハナノ》 薫如《ニホフガゴトク》 今盛有《イマサカリナリ》
 
【譯】美しい寧樂の都は、咲く花の華やかなように今さかんである。
【釋】青丹吉 アヲニヨシ。既出。寧樂の枕詞。語義不明であるが、この語を使用することによつて、寧樂の都の美しさを表示するものと考えられる。
 寧樂乃京師者 ナラノミヤコハ。元明天皇の和銅三年に、大和の國の北部の地に都を遷されたのが、寧樂の都である。この歌の主題として、その都を擧げている。寧樂は、佳字を選んだもので、平城、奈良などとも書いている。
 咲花乃 サクハナノ。花は、植物の花の汎稱であるが、ただ花とのみいう場合に、その觀念の中心をなすものは、櫻の花である。「うち靡く春さりぬれば、山邊には花咲きををり」(卷三、四七五)、「あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如きわが大君かも」(同、四七七)の花の如き、いずれも櫻の花と解すべく、「能登《のと》河の水底《みなそこ》さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも」(卷十、一八六一)の如きも、花の語はないが、なお櫻の花である。今ここに咲く花というも、その中心思想をなすものは、櫻の花と解される。
 薫如 ニホフガゴトク。ここは色を主としてニホフという。ニホフは、色の發するをいう。以上二句、譬喩で、副詞句となつている。
 今盛有 イマサカリナリ。今、寧樂の都の繁華全盛のよしを敍している。慣用句として、しばしば使用され(208)ている。
【評語】元明天皇が、和銅三年三月、始めて都を大和の國の平城《なら》の地にお遷しになつてから、聖武天皇の天平十二年十二月に、山城の國の恭仁《くに》に遷都されたが、同十六年にまた寧樂を都とされて、桓武天皇の御代に至るまで、七代七十五年間の都であつた。聖武天皇の御代の初めは、この都の榮え極まつた時代と思われる。都會生活の形象と情趣とは、ここに發育をとげた。その時代の帝都の榮華を、歌いつくした一首である。わずかに三十一字であるが、寧樂の都の榮えを歌いつくしている。咲ク花ノニホフガ如シといつた譬喩も、極めて適切であるし、今盛リナリと結んだ五句も、直説法を用いて、力張い。都會をほめた歌として、古今この歌に匹敵するものを見ない。
【參考】類句、今盛りなり。
  梅の花今盛りなり。思ふどち插頭《かざし》にしてな。今盛りなり(卷五、八二〇)
  梅の花今盛りなり。百鳥《ももとり》の聲の戀しき春來るらし(同、八三四)
  雪の色をうばひて咲ける梅の花今盛りなり。見む人もがも(同、八五〇)
  茅花《ちばな》拔《ぬ》く津茅が原のつぼ菫《すみれ》今盛りなり。わが戀ふらくは(卷八、一四四九)
  わが夫子《せこ》にわが戀ふらくは奧山の馬醉木《あしび》の花の今盛りなり(卷十、一九〇三)
  沙額田《さぬかだ》の野邊の秋《あき》はぎ時しあれは今盛りなり。折りてかざさむ(同、二一〇六)
  櫻花今盛りなり。難波の海おし照る宮に聞しめすなへ(卷二十、四三六一)
 
防人司佑大伴四綱歌二首
 
【釋】防人司佑 サキモリノツカサノスケ。大宰府に屬する防人司という官署の役人。防人司は、防人に關す(209)ることをつがさどる。佑は、その正に次ぐ役の名。
 大伴四綱 オホトモノヨツナ。この人、このほかに卷の四、八に作歌があるだけで、傳記未詳である。ただ天平十年四月のものと推定される上階官人歴名(大日本古文書二十四、七四)に、大和の國の少|椽《じよう》であつたことが見えている。
 
329 やすみしし わが大君《おほきみ》の 敷きませる
 國の中には 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》 敷座在《シキマセル》
 國中者《クニノウチニハ》 京師所v念《ミヤコシオモホユ》
 
【譯】わが天皇陛下の御統治になつている地方の中では、とくに都が思われることだ。
【釋】安見知之吾王乃 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。ここは天皇をいう。
 敷座在 シキマセル。御領有になつているの意。
 國中者 クニノウチニハ。國の多くある、その中ではの意。クニはここでは分國、地方の意に使つている。
 京師所念 ミヤコシオモホユ。ミヤコの語には、京をも京師をも當てているが、オモホユの接續する假字書きの例には「鳴蝉乃《ナクセミノ》 許惠乎之伎氣婆《コヱヲシキケバ》 京師之於毛保由《ミヤコシオモホユ》」(卷十五、三六一七)、「許具布禰能《コグフネノ》 可治等流間奈久《カヂトルマナク》 京師之於母保由《ミヤコシオモホユ》」(卷十七、四〇二七)の如く、助詞シを有しているので、ここも京師をミヤコシと讀むがよい。この京師は、寧樂の都である。
【評語】理においては、王土は邊陲《へんすい》の地であつても、樂しい土地であるべきであるが、しかも情においては、京師の戀しいことを歌つている。交通の不便な時代に、遠く地方官として出ている人の僞らない感情である。
 
330 藤根の 花は盛りに なりにけり。
(210) 平城《なら》の京を 思ほすや、君。
 
 藤浪之《フヂナミノ》 花者盛尓《ハナハサカリニ》 成來《ナリニケリ》
 平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》
 
【譯】藤の花は今は盛りになりました。あなたはあの平城の京をお思いになるでしようね。
【釋】藤浪之 フヂナミノ。フヂナミは、假字書きにしたもの以外に、藤浪と書いたもの十例である。冠辭考に藤竝、藤波など書いているというが、さような例はない。また冠辭考に、藤靡の義で、藤はしない靡くものだからいうとあるが、浪の字を多く使用しているによれは、すくなくも波濤を感じていたものと考えられる。その廣く枝葉の伸びたものに風の渡る時、波濤を思わせるものがあるので、この名を生じたのであろう。
 花者盛尓成來 ハナハサカリニナリニケリ。來は、動詞ケに助動詞リの接續したケリの形をもつて、助動詞ケリに當てた訓假字として使用されている。その上のニは讀み添える。このことは既に上(卷三、二六九)に出た。藤の花の盛期になつたことを敍している。句切。
 平城京乎 ナラノミヤコヲ。上來しばしば見えた寧樂の都に、ここは平城の字を使用している。この字は當時正式に使用された字で、續日本紀、和銅三年三月の條にも「始(メテ)遷(ス)2都(ヲ)于平城(ニ)1」とある。元來ナラの地名は、平坦を意味するので、その帝都を平城と稱したのであろう。山については、平山の字が見えている。
 御念八君 オモホスヤキミ。御念は先方の思念なので御の字を附ける。既出(卷一、二九)。他には「御覧」(卷六、九三八)、「御食」(卷八、一四六〇)などの用字例がある。ヤは、疑問の助詞で、設問の形を採つている。キミは、この歌を贈つた相手をいう。その相手は誰であるかわからない。次に續いて大伴の旅人の平城の京に關する作があり、旅人をさすかも知れないが、旅人の作中には、これに應じた歌と見るべきものはない。
【評語】平城の京を思う縁として、藤の花の盛りになつたことを敍している點がすぐれている。平城の京は藤の花の多い地であつた。今多分筑紫にいてその地の藤の花につけて、都を思うだろうと尋ねているのである。(211)上三句をもつて十分に藤の花の盛りを詠じ、これを基礎として平城ノ京ヲと起している。三句と四句との連絡が唐突のようであるが、それだけにかえつて詠嘆の氣分が強いのである。
 
帥大伴卿歌五首
 
【釋】帥大伴脚 カミノオホトモノマヘツギミ。帥は大宰の帥。ソチともいうは、古く大宰率の文字を使用した時代の稱が殘つたのである。大宰府の長官で、九州および壹岐、對馬の二島を總管する。大伴の卿は大伴の旅人。三位以上に對し敬意を表して卿という。旅人は既出(卷三、三一五)。旅人が大宰の帥になつたことは、續日本紀には傳えないが、本集によるに、神龜五年ごろに大宰の帥として任地に赴いたものとおぼしく、天平二年十一月に大納言兼大宰の帥となつて、その十二月に歸京の途についた。ここの五首は、筑紫にあつて大和の國を思慕する作で、前掲の小野の老、大伴の四綱の歌と關係があるらしく、同時の作であるかも知れない。
 
331 わが盛り また變若《を》ちめやも。
 ほとほとに
 寧樂《なら》の京《みやこ》を 見ずかなりなむ。
 
 吾盛《ワガサカリ》 復將v變八方《マタヲチメヤモ》
 殆《ホトホトニ》
 寧樂京乎《ナラノミヤコヲ》 不v見歟將v成《ミズカナリナム》
 
【譯】自分はもう若がえることはあるまい。ほとんど奈良の都を見ないでしまうだろうか。
【釋】吾盛 ワガサカリ。サカリは、ここでは人としての盛時で、元氣旺盛の時代をいう。
 復將變八方 マタヲチメヤモ。下に「和我佐可理《ワガサカリ》 伊多久々多知奴《イタククタチヌ》 久毛爾得夫《クモニトブ》 久須利波武等母《クスリハムトモ》 麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》」(卷五、八四七)の歌があり、ここと同句が使用されている。ヲチは動詞、上二段の未然形である。もとに返るの意から、若きに返る、若がえるの意に使用される。變の字は、變若の意に書いたので、「吾妹兒者《ワギモコハ》 (212)常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)、「從v古《イニシヘユ》 人之言來流《ヒトノイヒケル》 老人之《オイビトノ》 變若云水曾《ヲツトイフミヅゾ》 名爾負瀧之瀬《ナニオフタギノセ》」(卷六、一〇三四)、「石綱乃《イハツナノ》 又變若反《マタヲチカヘリ》 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良乃都乎《ナラノミヤコヲ》 又將v見鴨《マタミナムカモ》」(同、一〇四六)など、變若の文字を使用し、「吾手本《ワガタモト》 將v卷跡念牟《マカムトオモハム》 大夫者《マスラヲハ》 變水定《ヲチミヅサダメ》 白髪生二有《シラガオヒニタリ》」(卷四、六二七)、「白髪生流《シラガオフル》 事者不v念《》 變水者《コトハオモハズヲチミヅハ》 鹿煮藻闕二毛 《カニモカクニモ》 求而將v行《モトメテユカム》」(同、六二八)などは、變だけを使用している。ヤは反語。句意は、二度と若がえることはないの意。句切。
 殆 ホトホトニ。ホトホトは、ホトンドの原形。今一歩で、ある事になろうとするをあらわす副詞。集中、ホトホト、ホトホトシクの形があるが、ここは助詞ニを添えて讀む。「可敝里家流《カヘリケル》 比等伎多禮里等《ヒトキタレリト》 伊比之可婆《イヒシカバ》 保等保登之爾吉《ホトホトシニキ》 君香登於毛比弖《キミカトオモヒテ》」(卷十五、三七七二)、「三幣帛取《ミヌサトル》 神之祝我《カミノハフリガ》 鎭齋杉原《イハフスギハラ》 燎木伐《タキギコリ》 殆之國《ホトホトシクニ》 手斧所v取奴《テヲノトラエヌ》」(卷七、一四〇三)。
 寧樂京乎 ナラノミヤコヲ。思慕の中心を描いている。
 不見歟將成 ミズカナリナム。カは疑問の係助詞。上のホトホトニを受けて、ほとんど見ないでしまうだろうの意をあらわす。ナリナムは、そうなつてしまうだろう。
【評語】地方にあつて京師を慕う情が、切實に歌われている。作者は、大宰府にあつて、京師から同伴した妻を喪つた。この歌は、その後に詠まれたものなるべく、京師思慕の情の、やみがたいものが存するのである。初二句には、大陸から入り來たつた不老不死の仙藥を求める思想が影響しているようである。奈良時代の初期は、大陸の神仙思想を受け入れて、不老不死の靈藥が、何處かにあるように思われた時代であつた。その靈藥を服用すれば、若がえり得るように思つていたが、天平期に入るに及んで、人々は失望せねばならなくなつた。この歌にも、自然にその影がさしているのである。
 
(213)332 わが命も 常にあらぬか。
 昔見し 象《きさ》の小河《をがは》を
 行きて見むため。
 
 吾命毛《ワガイノチモ》 常有奴可《ツネニアラヌカ》
 昔見之《ムカシミシ》 象小河乎《キサノヲガハヲ》
 行見爲《ユキテミムタメ》
 
【譯】わたしの壽命も、永久にないかなあ。昔見たあの象の小河を行つて見るために。
【釋】吾命毛 ワガイノチモ。イノチは、生命、壽命である。
 常有奴可 ツネニアラヌカ。ツネは、恒久、永久。ヌは打消の助動詞。カは疑問の助詞で、ヌカは、打消の疑問であるが、反語となつて、希望の意になる。ないか、あつて欲しいの意。「ひさかたの雨も降らぬか」(卷四、五二〇)、「黒馬《くろま》の來る夜は年にもあらぬか」(同、五二五)など用例が多く、またモを添えて、ヌカモともいう。永久にないかなあ、あつて欲しいの意である。句切。
 昔見之 ムカシミシ。往時かつて見たの意で、次の句の象ノ小河を修飾する。上出の、暮春の月、吉野の離宮に幸しし時に、中納言大伴の卿の、勅を奉りて作れる歌の反歌「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよさやけくなりにけるかも」(卷三、三一六)の歌にも、既に昔見シ象ノ小河とあり、それらの數度の遊覽を囘想している。
 象小河乎 キサノヲガハヲ。吉野山中の小川をさしている。
 行見爲 ユキテミムタメ。タメは、目的を示すに使用する語。以上三句は、初二句のワガ命モ常ニアラヌカの目的を語つている。
【評語】吉野の勝景は、常に胸臆を離れず、しかも身は既に老境に入つて、再遊期しがたきが如くである。特に象の小河を點出したのは、かの暮春の月の遊覽の歌が、なつかしい思出の中心となつているからである。
 
(214)333 淺茅原《あさぢはら》
 つばらつばらに もの念へば、
 故《ふ》りにし郷《さと》し 念ほゆるかも。
 
 淺茅原《アサヂハラ》
 曲曲二《ツバラツバラニ》 物念者《モノオモヘバ》
 故郷之《フリニシサトシ》 所v念可聞《オモホユルカモ》
 
【譯】淺茅原という言のように、つばらかに物を思えば、あの住み古した里が思われることである。
【釋】淺茅原 アサヂハラ。茅草は、丈が低いので、アサヂといい、その原をアサヂハラという。淺は深草に對する語で、草の丈の低いのをいう。茅花をツバナという如く、この句、アサツバラといつたのだろう。次の句のツバラと音が接近しているので懸かつている枕詞。「飛ぶ鶴のたづたづしかも」(卷十一、二四九〇)などいう類である。
 曲曲二 ツバラツバラニ。曲は、委曲の意。つまびらかに、詳細に。それからそれへと、物思の至らぬくまなきをいうために、副詞として使用している。「安佐妣良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都波良爾《ッバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》」(卷十八、四〇六五)。
 物念者 モノオモヘバ。何となしに。さまざまに物を思えばの意。
 故郷之 フリニシサトシ。フリニシサトは、住み古した里で、次の歌の故リニシ里と同じく、少年時代の故郷をいう。香具山のほとりに大伴氏の舊邸があつて、その所在地をさしていると思われる。下のシは張意の助詞。
 所念可聞 オモホユルカモ。思われることかなと詠嘆している。
【評語】淺茅原は、枕詞であるが、自然、故郷の風物の一として、思慕の中心となつているのであろう。それから二句のツバラツバラに續くのは、同音を利用しているので、歌が輕快になり、あかるくはなるが、沈痛で(215)あり得ない。しかしこの調子のよさが、旅人の特色で、そこに上品な歌風が生まれるのである。
 
334 萱草《わすれぐさ》 わが紐に著《つ》く。
 香具山の 故《ふ》りにし里を
 忘れぬがため。
 
 萱草《ワスレグサ》 吾?二付《ワガヒモニツク》
 香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》
 不v忘之爲《ワスレヌガタメ》
 
【譯】忘草を、わたしの著物の紐につける。香具山の住み古した郷里を忘れないので。
【釋】萱草 ワスレグサ。ユリ科の植物の名、カンゾウ。倭名類聚鈔に「兼名宛(ニ)云(フ)、萱草、一名忘憂萱音喧、漢語抄云和須禮久佐《ワスレグサ》、俗(ニ)云(フ)如(シ)2環藻二音1」とあり、?康《けいこう》の養生論に「合歡|?《ノゾキ》v念(ヲ)、萱草忘(ル)v憂(ヲ)、愚智(ノ)所2共(ニ)知(ル)1也」とある。憂いを忘れしめる草というので、わすれ草の名が出たものと解せられる。
 吾?二付 ワガヒモニツク。紐は、本卷二五一參照。ヒモは、衣服の紐であるが、上衣の紐か袴の紐か、ここには明示されていない。「萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》」(卷四、七二七)の歌は、萱草を下紐につけるとある。忘草を身邊につけることによつて、憂いを忘れようとするのである。句切。
 香具山乃 カグヤマノ。大和の天の香具山で、次の故リニシ里の所在を示す。明日香時代、藤原時代に、大伴氏の舊宅が、香具山のほとりにあつたのであろう。
 故去之里乎 フリニシサトヲ。フリニシサトは、住(216)み古した里。住人なども多く離散して荒廢に近い里である。
 不忘之爲 ワスレヌガタメ。ワスレヌは、忘れないの意の體言の法。自分は忘れない、それゆえにの意の句である。忘れないがゆえに、それを忘れたいと思つて忘草を衣の紐につけるというのである。
【評語】忘草は、本來漢土の忘憂の説から出たものであるが、これを忘草と呼ぶのは、忘貝と同樣の稱呼であり、これによつて憂愁を忘れ得るとしたのである。この草を衣服につけることは、漢土には所見はないが、茱萸《ぐみ》を摘み、蘭を佩びることはあり、これもそれに準じて、さような風習があつたものとも考えられる。忘草を衣袴の紐につけて、かえつて香具山の古りにし郷を思う情の切なるを歌つている。ゆたかな詩情の世界である。
 
335 わが行《ゆ》きは 久にはあらじ。
 夢《いめ》の囘淵《わだ》
 瀬にはならずて 淵にあらむも。
 
 吾行者《ワガユキハ》 久者不v有《ヒサニハアラジ》
 夢乃和太《イメノワダ》
 湍者不v成而《セニハナラズテ》 淵有毛《フチニアラムモ》
 
【譯】わたしの行くのは、久しいことではないだろう。あの夢のわだは、瀬にならないで、淵のままであるだろう。
【釋】吾行者 ワガユキハ。ユキは體言で、行くことである。「和我由伎乃《ワガユキノ》 伊伎都久之可婆《イキツクシカバ》」(卷二十、四四二一)など、使用されている。
 久者不有 ヒサニハアラジ。ヒサは、久しいことで、ここは將來についていう。永い將來ではあるまいの意。
 夢乃和犬 イメノワダ。夢は、本集では、伊米、伊目、伊昧など書いており、イメといつていた。ワダは、地形の名、曲灣、曲淵の義。「志賀の大わだ」(卷一、三一)の名稱がある。夢ノワダは、吉野の勝地で、吉野川の一部分の名と解せられる。懷風藻、吉田の宜の從2駕吉野宮1の詩に「今日夢(ノ)淵(ノ)上 遣響千年(ニ)流(ル)」の句があ(217)り、吉野の宮附近の地であつたことが知られる。どうしてこのような名がつけられたかはわからないが、萬葉人の詩想を語るものとして扱われる。
 湍者不成而 セニハナラズテ。セは、水の淺く流れる處。夢ノワダは、淵であるが、それが瀬にならないでというのである。
 淵有毛 フチニアラムモ。
   フチトアリトモ(西)
   フチニテアルモ(童)
   フチニテアレモ(槻)
   フチニアルカモ(略)
   フチニテアルカモ(攷)
   フチニシアラモ(新訓)
   フチニテアラモ(總索引)
   ――――――――――
   淵有也毛《フチニアレヤモ》(代精)
   淵有毳《フチニアレカモ》(槻、魚彦)
   淵有也毛《フチニテアレヤモ》(檜)
   淵有乞《フチニアリコソ》(古義、大神景井)
 字數すくなく書いてあるので、定訓を得難く、古來數種の訓がある。歌意を按ずるに、久しからずして見るべき夢のわだの有樣を想像するにあるので、文字に即してフチニアラムモと讀むべきである。助動詞ムに感動の助詞モの接續した例は、「玉櫛乃《タマグシノ》 神家武毛《クスバシケムモ》 妹爾阿波受有者《イモニアハズアレバ》」(卷四、五二二)、「夜麻爾可禰牟毛《ヤマニカネムモ》 夜杼里波奈之爾《ヤドリハナシニ》」(卷十四、三四四二)、「念意緒《オモフココロヲ》 多禮賀思良牟母《タレカシラムモ》」(卷十七、三九五〇)などある。淵のままにてあるだろうと推量している。
【評語】作者は、當時既に年六十を越えていたらしい。老境に入つて、曾遊の地を思い、行くこと久しきにあらじと焦慮の心を描いている。この作者は、天平二年の終りに大和の國に歸つたが、吉野へは行くことなく、(218)夢のわだの勝景は、ふたたびこの人を迎えなかつたようである。
 
沙弥滿誓、詠v綿歌一首 造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也
 
沙彌滿誓の、綿を詠める歌一首【造筑紫觀音寺別當、俗の姓は笠の朝臣麻呂なり。】
 
【釋】沙弥滿誓 サミマニゼイ。沙彌は、梵語の音譯であつて、出家して十戒を受けた男子の、修行のまだ熱しない者の稱である。滿誓は、在俗の時の名を笠の朝臣麻呂という。續日本紀によれば、慶雲元年正月に從五位の下となり、慶雲三年、美濃の守となる。和銅元年にも美濃の守となる記事がある。政務上の都合で重任したものかも知れない。同二年、その政績をほめて、田十町、穀二百|斛《こく》、衣一|襲《かさね》を賜わつた。七年二月、木曾路を通じた功をもつて、封七十戸、田六町を賜わつた。靈龜元年、兼尾張の守となつた。養老三年、按察使を置かれるに當り、尾張、參河、信濃三國を管せしめられた。四年、右大辨となり、五年、太上天皇(元正)のために出家入道することを請うて許され、滿誓と稱した。養老七年二月の條には「僧滿誓【俗の名從四位の上に笠の朝臣麻呂】に勅して、筑紫觀世音寺を造らしむ」とある。觀世音寺は、天智天皇の勅願であるが、久しくして成らなかつたのを、この人を簡拔してその功をとげしめたのである。滿誓、在俗の時は吏材(219)があつて、政績を擧げていたので、しばしば褒賞重用されたことがある。美濃の國多度山の美泉に、養老の靈氣ありとして、天皇の行幸を仰ぎ、遂に養老と改元するに至つたのも、その美濃の守時代であつた。かくて觀世音寺にあつた時に、大伴の旅人は大宰の帥として赴任し、歌道の交わりをもなした。
 詠綿歌 ワタヲヨメルウタ。この綿は、歌中に筑紫の綿とあるものであるが、これについては、木綿説と繭綿説とがある。しかし木綿は、延暦十八年七月に、參河の國に漂著した昆崙《こんろん》人の船中にあつた種をもととして各地に種耕せしめたといい、また當時大宰府から繭綿を貢上した徴證があるので、繭綿とするによるべきである。作者が、大宰府にあつて、その綿を見て詠んだ歌である。
 造筑紫觀音寺別當 ザウツクシクワニオニジノカミ。沙彌滿誓の項參照。觀音寺は、觀世音寺の略稱。別當は長官である。
 
336 しらぬひ 筑紫の綿は、
 身につけて いまだは著《き》ねど、
 暖《あたたか》に見ゆ。
 
 白縫《シラヌヒ》 筑紫乃綿者《ツクシノワタハ》
 身著而《ミニツケテ》 未者伎祢杼《イマダハキネド》
 暖所v見《アタタカニミユ》
 
【譯】この九州産の綿は、まだ身につけて著て見ないが、暖かそうに見える。
【釋】白縫 シラヌヒ。用例として「斯良農比《シラヌヒ》 筑紫國爾《ツクシ/クニニ》」(卷五、七九四)、「之良奴日《シラヌヒ》 筑紫國波《ツクシノクニハ》」(卷二十、四三三一)とあり、シラヌヒと四音に讀むべきである。筑紫の國に冠する枕詞と解せられる。語義は、知らぬ火の義で、日本書紀の景行天皇紀に、主知らぬ火を見て、御船を寄せた地を火の國というとの記事があり、それから起るという。しかし上代の假字遣の法において、本集に使用されている比日の類は、火の假字と違うとされ、今日では、知らぬ火とする説は認められていない。之良奴日と書いた字面に意味ありとせば、之良奴の(220)三字は字音假字、日は訓讀であつて、之良奴と日との二部分からなると見るべく、その場合、ヌは打消の助動詞である可能性が多い。然らば、知らぬ日の義とすべきか。ここに白縫と書いたのは、綿の縁で、選まれた文字であろう。
 筑紫乃綿者 ツクシノワタハ。筑紫は筑前、筑後二國の古名であり、また九州の總名にも使用する。ここは總名の方である。九州が綿の産地であつたことは、續日本紀、神護景雲三年三月の條に「毎年大宰府の綿廿萬屯を運びもちて京庫に輸《いた》す」とあるによつても知られる。
 身著而 ミニツケテ。綿は、身體に接著するものであるからいう。
 未者伎祢杼 イマダハキネド。イマダは、「吾屋戸之《ワガヤドノ》 若木乃梅毛《ワカキノウメモ》 未含有《イマダフフメリ》」(卷四、七九二)の如く、打消でなく受ける例もあるが、大多數は打消で受けている。ここも打消の助動詞ネで受けている。
 暖所見 アタタカニミユ。この綿を身につけたらあたたかそうに見えるというのである。
【評語】視覺に映じた綿を詠んで、よくその特質を描いている。攷證に「一首の意、明らかなれど、この歌譬喩の歌にて、滿誓、女など見られて、たはぶれに詠れたるにて、この綿を積かさねなどしたるが暖げに見ゆるを、女をよそへられたるにもあるべし」といつている。滿誓は、造筑紫觀世音寺別當となつてから、その寺の賤女赤須に通じて子を生ませたことが傳えられ、また戀の歌もあるところを見ると、この説もあながちに否定はできない。その解によれは、巧みに譬喩を使用したといえる。その子を生ませたことに關する資料は、參考の欄に載せておく。
【參考】滿誓の子孫に關する太政官の處分。
  (貞觀八年三月)四日庚辰、大宰府|解《げ》していはく、觀音寺の講師傳燈大法師位性忠申牒していはく、寺の家人《けにん》清貞貞雄宗主等三人は、從五位の下笠の朝臣麻呂の五代の孫なり。麻呂は、天平年中造寺使とな(221)る。麻呂寺の家女赤須に通じて清貞等を生む。すなはち母に隨ひて家人となる。清貞の祖父夏麻呂、太政官また大宰府に向ひて、しきりに披訴を經れども、いまだ裁許を蒙らず。夏麻呂死去し、清貞等の愁ひなほいまだ止むことあらずといへり。寺家覆察するに、事虚妄にあらず。望み請はくは格の旨に准據し、良に從ひて筑後の國竹野の郡に貫附せむと申す。太政官處分して、請に依れといへり。(三代實録)
 
山上憶良臣、罷v宴歌一首
 
山上の憶良の臣の、宴を罷る歌一首。
 
【釋】山上憶良臣 ヤマノウヘノオクラノオミ。山上の憶良の臣という書き方は、四位の人に對する書式であるが、五位のはずである憶良に對して、敬意を表してかように書いたのであろう。
 罷宴歌 ウタゲヲマカルウタ。マカルは、退出する意。この語が、助詞ヲを受けることは、「如v是許《カクバカリ》 難御門乎《カタキミカドヲ》 退出米也母《マカリデメヤモ》」(卷十一、二五六八)の例證がある。憶良は、天平二年ごろまで、筑前の守であり、この歌の前後、大宰府關係の歌であるから、これもその地の宴で詠んだ歌であろう。その宴を、中途に退出しようとして歌つた歌と解せられる。
 
337 憶良らは 今は罷らむ。
 子哭くらむ。
 それその母も 吾《わ》を待つらむぞ。
 
 憶良等者《オクララハ》 今者將v罷《イマハマカラム》
 子將v哭《コナクラム》
 其彼母毛《ソレソノハハモ》 吾乎將v待曾《ワヲマツラムゾ・ワレヲマタムゾ》
 
【譯】わたくし山上憶良は、今は退出いたしましよう。宅では子が泣いておりましよう。そもそも、その子の母親も、わたくしを待つておりましよう。
(222)【釋】憶良等者 オクララは。作者自身、名を稱している。ラは、複數ではなく、ただ漠然としてその方面をさす接尾語。「奴婆多麻乃《ヌバタマノ》 久路加美之伎弖《クロカミシキテ》 奈我伎氣遠《ナガキケヲ》 麻知可母戀牟《マチカモコヒム》 波之伎都麻良波《ハシキツマラハ》」(卷二十、四三三一)の例における都麻良のラの用法に同じ。
 今者將罷 イマハマカラム。マカラムは、動詞マカルに助動詞ムの接續した形。マカルは退去する、退出する意。宴の中途で、今はもうお先に失禮いたしましようというので、ここで句切である。
 子將哭 コナクラム。自分の子が家庭で待つているでしようと推量する意。この一句も句切である。なお上の罷ラムは、動詞罷ルに、助動詞ムがついたもの。これは動詞泣クに、助動詞ラムがついたもの。上は意志をあらわし、これは推量をあらわす。形は似ているが、構成を異にしている。
 其彼母毛 ソレソノハハモ。ソノカノハハモ(西)、ソモソノハハモ(槻)。古葉略類聚鈔に、其子母毛とあつて、ソノコノハハモと讀んである。今は「筑波根爾《ツクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》」(卷八、一四九七)の歌に、其をソレと讀んでいるのに合わせて、其をソレと讀み、また集中彼はすべてソノと讀んでいるので、ソレソノハハモと讀む説による。ソレは副詞として、調子を強めるために添える詞。その母は、上の子哭クラムを受けて、その子の母をいう。
 吾乎將待曾 ワヲマツラムゾ。ワレヲマタムゾ(西)、ワヲマツラムゾ(槻)。ラムは推量の助動詞。ゾは終助詞で、強く指定している。ワレヲマタムゾの訓も心を引かれるが、上の將哭をナクラムと讀む上は、將待も、やはりマツラムと讀まれる。
【評語】 ラ行音を多く使用し、また短文を重ねてラムが脚韻のようになつている。聲調のよく整つた歌である。憶良は、宴會の席から退出する時に、この歌を高吟して座興を催したのであろう。歌の内容は、彼が社會人であつたと共に、家庭人でもあつたことを語つており、よく情を盡くして、名作たるを失わない。但し彼が天平(223)三年に書いた沈痾自哀文には、その年に七十四歳であつたというから、この歌がもし旅人の大宰の帥時代の作であるとすれば、既に七十を越していたことになり、歌詞に子哭クラムというに合わない。そこで自哀文における年齡を誤りとする説も出るのであるが、それは證明のないことである。この歌は、もつと以前の作であつたとするか、または歌中の子が孫であるとするかに解決を求むべきであろう。そうすれば、その子の母というのは、彼の妻ではなくして、孫の母になり、歌の気分がまた別のものになる。妻といわないで、その子の母と(224)いつたのには意味があろう。その邊に問題は殘るが、歌の中心をなすところの家庭愛そのものには變化はない。
 
大宰帥大伴卿、讃v酒歌十三首
 
大宰の帥大伴の卿の、酒を讃むる歌十三首。
 
【釋】大宰帥 オホキミコトモチノカミ。大宰府の長官である。大伴の旅人が大宰の帥となつたのは何年かわからない。その大宰府に赴いたのは神龜五年なるべく、天平二年まで三年間その地にあつた。
 大伴卿 オホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。
 讃酒歌 サケヲホムルウタ。酒コを讃嘆した歌である。この十三首、連作をもつて見るべきであるが、全體としての組織はない。ただ第一首は總括的な意味があり、また直接酒に觸れていない作もあつて、彼此あい待つて一の内容を構成するが如き意味はある。また一の内容を種々に試みたかと思われる點もある。旅人は、神龜五年任地に下つて間もなく妻を喪い、その憂悶のあいだに、この作をなしたと考えられる。
 
338 驗《しるし》なき 物を念はずは、
 一抔《ひとつき》の 濁れる酒を
 飲むべくあるらし。
 
 驗無《シルシナキ》 物乎不v念者《モノヲオモハズハ》
 一坏乃《ヒトツキノ》 濁酒乎《ニゴレルサケヲ》
 可v飲有良師《ノムベクアルラシ》
 
【譯】效《かい》のない物思いをせずに、一杯の濁れる酒を飲むべきであろう。
【釋】驗無物乎不念者 シルシナキモノヲオモハズハ。シルシは、效果、かい。もと動詞シルスの名詞形から出たものと考えられ、顯し著ける意から、效果の義を生じたのであろう。驗ありとも、驗なしとも使う。「橘を屋前《には》に植ゑ生《おほ》し立ちて居て後に悔ゆとも驗《しるし》あらめやも」(卷四、四一〇)、「御民《みたみ》われ生《い》ける驗あり」(巻六、(225)九九六)は驗のある方の例であり、「驗なき戀をもするか」(卷十一、二五九九)、「立ち歸り泣けどもわれは驗なみ思ひわぶれて寢る夜しぞ多き」(卷十五、三七五九)は驗のない方の例である。この歌では、形は驗なき物と續いているが、物を思つてもその效果がないという意味である。ズハは既出(卷二、八六)。物を思わないでの意。ハは輕く添えた助詞。
 一坏乃 ヒトツキノ。坏は、土器の酒盃。それに一もりの意である。
 濁酒乎 ニゴレルサケヲ。ニゴレルサケは、清澄でない酒をいう。清酒に比して下級の酒である。
 可飲有良師 ノムベクアルラシ。ラシは、推量の助動詞であるが、ここなどは、ナリといつてもよいほどのものを、ラシというのは強いていい切らないまでの語氣である。飲む方がよさそうだぐらいの意と解される。
【評語】古事記、日本書紀に傳えられている酒の歌が、愉快な内容の歌であるのは、酒宴の席上で歌われるものであるからである。それらに比べると、この酒を讃むる歌は、沈痛な氣の潜んでいるのを否みがたい。それはこの作者が知識人であつて、酒に對する批判的な態度が出ている文筆的作品であると共に、彼がこの作をなすに至つた大きな衝動として、妻を喪つた孤獨の生活が指摘されるからである。この意をもつて、この一聯の歌を見なければならない。作者が、驗なき物を思はむよりはといつたのも、亡き妻を戀う心をいうものであろう。悶々の情を酒に慰めようとする、この高貴な一老人の哀憐すべき生活が描き出されている。理性に敗れて、自棄に導かれつつある思想の徑路を考えると、この以下の歌も、あながちに單なる享樂主義をもつて評すべきでない。
【參考】酒の古歌(一部)
  この御酒《みき》はわが御酒ならず、酒《くし》の神《かみ》常世《とこよ》にいます、石《いは》立たす少御神《すくなみかみ》の、神|?《ほ》き?《ほ》きくるほし、豐?き?きもとほし、まつり來し御酒ぞ、あさず飲《を》せ、ささ(古事記四〇)
(226)  この御酒《みき》を釀《か》みけむ人は、その鼓《つづみ》臼に立てて、歌ひつつ釀《か》みけれかも、舞ひつつ釀みけれかも、この御酒の、あやにうた樂し、ささ(同四一)
  白擣《かし》の生《ふ》に横臼《よくす》を作り、横臼に釀《か》みし大御酒、うまらに聞《き》こしもち飲《を》せ、まろが父《ち》(同四九)
  須須許里《すすこり》が釀《か》みし御酒にわれ醉ひにけり、事|和酒《なぐし》咲酒《ゑぐし》にわれ醉ひにけり(同五〇)
  この御酒《みき》はわが御酒ならず、大和なす大物主《おほものぬし》の、釀みし御酒、幾久幾久《いくひさいくひさ》(日本書紀一五)  梅の花夢に語らくみやびたる花と吾《あれ》思《も》ふ酒に浮かべこそ(卷五、八五二)
  燒大刀の稜《かど》うち放ちますらをのほく豐御酒《とよみき》にわれ醉ひにけり(卷六、九八九)
  官《つかさ》にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも。散りこすなゆめ(卷八、一六五七)
 中臣のふと祝詞言《のりとごと》いひ祓《はら》へあがふ命も誰がために汝《なれ》(酒を造る歌、卷十七、四〇三一)
  すめろきの遠御代御代はい布《し》き折り酒《さけ》飲むといふぞこのほほがしは (卷十九、四二〇五)
  天地と久しきまでに萬代に仕へまつらむ。黒酒《くろき》白酒《しろき》を(同、四二七五)
 
339 酒の名を 聖《ひじり》と負《おほ》せし、
 古《いにしへ》の 大き聖の
 言《こと》のよろしさ。
 
 酒名乎《サケノナヲ》 聖跡負師《ヒジリトオホセシ》
 古昔《イニシヘノ》 大聖之《オホキヒジリノ》
 言乃宜左《コトノヨロシサ》
 
【譯】酒の名を聖人と名づけた、古の大聖人の言葉のよろしいことである。
【釋】酒名乎聖跡負師 サケノナヲヒジリトオホセシ。魏志の徐?《じよばく》傳に「魏の國初に、?《ばく》、尚書郎《しやうしよらう》となる。時に禁酒を科す。しかるに?私かに飲んで沈醉するに至れり。校事趙達、問ふに曹事をもつてせしに、?曰はく、聖人に中《あ》てらると曰へり。達、これを太祖に白《まを》す。太祖甚怒る、渡遼《とれう》將軍|鮮于輔《せんうほ》進んで曰はく、平日醉客、酒(227)の清めるを謂ひて聖人となし、濁《にご》れるを賢人となす。?性修愼、偶《たまたま》醉言すらくのみと。竟《つひ》に坐して刑を免るるを得たり」とあるによる。酒を稱して聖人といつたの意。
 古昔大聖之 イニシヘノオホキヒジリノ。初二句を受けて古昔の大聖といつているので、徐?をさすが如くである。他にかような言をなした大聖人のあることは知られない。
 言乃宜左 コトノヨロシサ。言の宜しきことよの意。ヨロシサは、形容詞ヨロシに、助詞サが接續して體言を作る。「妹らを見らむ人のともしさ」(卷五、八六三)など、例が多い語法である。
【評語】以下漢土の故事を引くこと多く、作者が知識人であつたことを語つている。この歌の如き、その知識に溺れた傾向が濃厚である。
 
340 いにしへの 七《なな》の賢《さか》しき 人|等《ども》も、
 欲《ほ》りせしものは、酒にしあるらし。
 
 古之《イニシヘノ》 七賢《ナナノサカシキ》 人等毛《ヒトドモモ》
 欲爲物者《ホリセシモノハ》 酒西有良師《サケニシアルラシ》
 
【譯】昔在つたといふ、七人の賢人等も、欲しがつたものは、酒であつたと思われる。
【釋】古之七賢人等毛 イニシヘノナナノサカシキヒトドモモ。古の七の賢しき人どもは、晉の竹林の七賢をいう。世説に「陳留の阮籍《げん叶き》、?《せう》國の?康《けいかう》、河内の山濤《さんたう》三人、年皆相比し、康年少くしてこれに亞《つ》げり。この契に預る者、沛《はい》國の劉伶《りうれい》、陳留の阮咸《げんかん》、河内の向秀《しやうしう》、琅邪《らうや》の王戎《わうじゆう》なり。七人竹林の下に集り、意を肆《ほしいまま》にして酣暢《かんちやう》す。故に世に竹林の七賢と謂ふ」とある。この七人は、琴詩酒を携へて竹林に集まり、清談を事としたということである。
 欲爲物者 ホリセシモノハ。ホリスルモノは(西)、ホリセシモノは(槻)。竹林の七賢は、物欲を有していないが、ただ酒のみを欲したという。上に古ノ七ノ賢シキ人といつているから、ホリセシと過去に讀むがよい(228)であろう。
 酒西有良師 サケニシアルラシ。上のシは、強意の助詞。酒であると見えるぐらいの意である。
【評語】前の歌と竝んで、古人を引合に出している。清談虚無の徒の行蹟が、興味をもつて迎えられている。
 
341 賢《さか》しみと 物いふよりは、
 酒飲みて 醉哭《ゑひなき》するし まさりたるらし。
 
 賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》
 酒飲而《サケノミテ》 醉哭爲師《ヱヒナキスルシ》
 益有良之《マサリタルラシ》
 
【譯】賢がつて物をいうよりは、酒を飲んで、醉い泣きするが、勝《まさ》つていると思われる。
【釋】賢跡 サカシミト。賢明であるとしての意。みずから賢しとしてである。「多麻豆左能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》 宇禮之美登《ウレシミト》 安我麻知刀敷爾《アガマチトフニ》」(卷十七、三九五七)のウレシミトと同樣の語法である。
 物言從者 モノイフヨリハ。このヨリは、比較をあらわす。物を言うよりは、何々がまさつていると五句に續く。
 酒飲而醉哭爲師 サケノミテヱヒナキスルシ。ヱヒナキは、醉つて泣くこと。シは強意の助詞。次の句に對して主格をなしている句。
 益有良之 マサリタルラシ。まさつているようだと推量している。
【評語】醉哭の語は、下の三四七、三五〇の歌にも見え、この一聯の歌中の主要な位置を占めている。亡妻を忘れようとして忘れられず、醉中にも泣くのであつて、いたずらに泣くのではない意を酌むべきである。なまなかに悟つたようなことをいうよりも、酒に醉つて泣く方がましだというところに、悲痛な感情が宿つている。
 
(229)342 言はむすべ せむすべ知らに
 極《きは》まりて 貴《たふと》きものは
 酒にしあるらし。
 
 將v言爲便《イハムスベ》 將v爲便不v知《セムスベシラニ》
 極《キハマリテ》 貴物者《タフトキモノハ》
 酒西有良之《サケニシアルラシ》
 
【譯】言いようもなく、しようもないまでに、極めて貴いものは、酒であると思われる。
【釋】將言爲便將爲便不知 イハムスベセムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。スベは、手段、方法。言うすべもするすべも知らないでの意の副詞句。言語手段を絶した意の慣用句である。將爲便は、爲の字が一字略されている。言語以上、方法以上の。シラニのニは、打消の助動詞ヌの一活用。これは、中世以後行われなくなる。
 極貴物者 キハマリテタフトキモノハ。キハマリテは極限の意で、これ以上ないのをいう。
 酒西有良之 サケニシアルラシ。三四〇の歌に見えている句。
【評語】この歌は、抽象的に酒の貴いことを敍している。上述の如く、言ハムスベセムスベ知ラニは、慣用された句であるが、その用例は皆長歌であつて、このように短歌に用いられたのは、これのみであつて珍しいものである。
 
343 なかなかに 人とあらずは
 酒壺《さかつぼ》に なりにてしかも、
 酒に染《し》みなむ。
 
 中々尓《ナカナカニ》 人跡不v有者《ヒトトアラズハ》
 酒壺二《サカツボニ》 成而師鴨《ナリニテシカモ》
 酒二染甞《サケニシミナム》
 
【譯】なまじいに人とあらずに、むしろ酒壺になりたいものである。そうもしたら酒に染《し》みることであろう。
(230)【釋】中々尓 ナカナカニ。このナカは、中途半端の意で、なまなかにの意になる。ナカナカニで起してズハで受けた例、「なかなかに君に戀ひずは枚《ひら》の浦の白水郎《あま》ならましを玉藻刈りつつ」(卷十一、二七四三)、「なかなかに人とあらずは桑子《くはこ》にもならましものを玉の緒ばかり」(卷十二、三〇八六)など使用されている。
 人跡不有者 ヒトトアラズハ。人とあらずしての意。人とあるは、人間となつてあるの意である。前掲の「驗無き物を思はずは」(三三八)と同じ語法である。
 酒壺二成而師鴨 サカツボニナリニテシカモ。サカツボニナリテシカモ(槻)。シカは願望の助詞で、サカツボニナリニテを希望している。モは感動を添える助詞。シカは清音である。これを願望の助詞ガと混同してカを濁音とするのは誤りである。「山之末爾《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》 外爾見而思香《ヨソニミテシカ》」(卷三、三九三)、「多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》 阿遠爾與志《アヲニヨシ》 奈良乃美夜古爾《ナラノミヤコニ》 由吉帝己牟丹米《ユキテコムタメ》」(卷五、八〇六)など、用例は多い。この語は、元來助動詞シに助詞カが接續して成つたものであつて、用例は終止が多いが、カおよびカモの性質上、係助詞にもなりうるものである。「安麻等夫夜《アマトブヤ》 可里乎都可比爾《カリヲツカヒニ》 衣弖之可母《エテシカモ》 奈良能彌夜古爾《ナラノミヤコニ》 許登都礙夜良武《コトツゲヤラム》」(卷十五、三六七六)の例の如き、雁を使に得ることが條件になつて、四句を修飾している。よつてここも、この句で切らないで、條件法として、シカモを係助詞として見るべきである。この酒壺になりたいということは、中國三國時代の呉の鄭泉《ていせん》の故事によつている。講義に?玉集《ちようぎよくしゆう》を引いて、「鄭泉、字は文淵、陳郡の人なり。孫權の時、大中大夫となる。性たる、酒を好む。すなはち嘆きて曰はく、願はくは三百の※[百+升]船を得て、酒をその中に滿し、四時の甘?《かんかう》を兩頭安に置き、升升傍にあり、隨ひて減ずれば隨ひて益し、方に一生を足すべきのみと。死に臨みし日、その子に勅して曰はく、我死なば、窯の側に埋むべし。數百年の後、化して土と成り、覬取《きしゆ》して酒瓶とならば、心願を獲たりと。呉書に出づ」とある。
 酒二染甞 サケニシミナム。酒にしみつくだろうの意。甞は訓を借りている。
(231)【評語】酒壺になつても、愁いを忘れようとする、作者の心には、實に哀れむべきものがあろう。都を離れて遠地にいる不平か。それもあろう。しかしそのもつとも大きい原因としては、やはり亡妻を戀う情が、殊に他に慰めるすべもない邊地にいる身の上に、ひしと迫つている。それを紛らそうとしての享樂沙汰であろう。
 
344 あな醜《みにく》、
 賢《さか》しらをすと 酒飲まぬ
 人をよく見れば、
 猿にかも似る。
 
 痛醜《アナミニク》
 賢良乎爲跡《サカシラヲスト》 酒不v飲《サケノマヌ》
 人乎熟見者《ヒトヲヨクミレバ》
 猿二鴨似《サルニカモニル》
 
【譯】ああ醜いことである。賢人ぶつて酒を飲まぬ人をよく見れば、猿に似ていることだ。
【釋】痛醜 アナミニク。痛は、痛切、痛恨など、熟字となる字で、甚しの義によつて、アナの語を寫している。「痛足河《アナシガハ》 河浪立奴《カハナミタチヌ》」(卷七、一〇八七)など、アナの音に借りている。アナは、甚の意の副詞。古語拾遺に「事之甚(ダ)切(ナル)、皆稱(フ)2阿那《アナト》1」とある。ミニクは、醜惡の意。日本書紀卷の三神武天皇紀の訓註に「大醜、此(ヲバ)云(フ)2鞅奈彌邇句《アナミニクト》1」とある。この句は、第二句以下の内容を總括批評している。
 賢良乎爲跡 サカシラヲスト。サカシラは、賢しげにあるをいう。三五〇の歌にも使用されている。形容詞に接尾語ラの接續した形で、「小金門爾《ヲカナドニ》 物悲良爾《モノカナシラニ》 念有之《オモヘリシ》 吾兒乃刀自緒《ワガコノトジヲ》」(卷四、七二三)の如く、モノガナシラなどの用例がある。賢明の樣をするとて。
 酒不飲 サケノマヌ。連體の句。
 人乎熱見者 ヒトヲヨクミレバ。ヒトヲヨクミバ(代初)、ヒトヲヨクミレバ(略)。熟見は、つらつら見る意で、義をもつてヨクミルと讀んでいる。「朝戸出乃《アサトデノ》 君之儀乎《キミガスガタヲ》 曲不v見而《ヨクミズテ》」(卷十、一九二五)の歌に使用(232)している曲の字は、やはり委曲の義をもつて、ヨクに當てている。ヒトヲヨクミバと讀むとすれば、五句はサルニカモニムとなるのだが、ヨクミレバと決定的にいう方がよい。
 猿二鴨似 サルニカモニル。サルニカモニル(類)、サルニカモニム(代初)。カモは疑問の係助詞。猿にか似ているの意。何かに似ている、ああ猿にかなという語氣。
【評語】公平に見たところ、酒を飲む人の方が、猿に近いようではある。しかし當時作者の近くに、賢人ぶつて酒を飲まない人で、猿に似た人がいて、それを暗にさしていると見るとおもしろい。
 
345 價《あたひ》無《な》き 寶といふとも、
 一抔《ひとつき》の 濁れる酒に
 あにまさめやも。
 
 價無《アタヒナキ》 寶跡言十方《タカラトイフトモ》
 一杯乃《ヒトツキノ》 濁酒尓《ニゴレルサケニ》
 豈益目八方《アニマサメヤモ》
 
【譯】價の知られない寶と云つても、一杯の濁れる酒に益すものはあるまい。
【釋】價無寶跡言十方 アタヒナキタカラトイフトモ。アタヒは、價値。匹敵相當するものの義である。價無きは、價格に律せられないもので、無價値のものか、または價値莫大で評價し得ないものをいう。價無き寶は、價格を超越して、その測りがたく無限の價ある寶をいう。法華經、大般若經等に佛法を譬えて無價寶珠という。それによつたものであろう。イフトモは、假に價無き寶があるとしてもの意。
 一杯乃濁酒尓 ヒトツキノニゴレルサケニ。前出。
 豈益目八方 アニマサメヤモ。アニは、何ぞ、どうしてか等の意の副詞。下に反語または打消をもつて結ぶ。すぐ次の歌にもあり、その他「わが戀にあに益さらじか」(卷四、五九六)、「豈《あに》くやしづしそのかほよきに」(卷十四、三四一一)、「豈《あに》もあらぬおのが身のから」(卷十六、三七九九)、「圍《かく》み屋《や》たりは豈《あに》よくもあらず」(233)(日本書紀四九)などある。マサメヤモは反語法であつて、益さろうや益さりはせまいの義である。「多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須敝毛奈久《スベモナク》 久流思伎多婢毛《クルシキタビモ》 許等爾麻左米也母《コトニマサメヤモ》」(卷十五、三七六三)の如き用例があり、これ以上はあるまいの意に使用されている。
【評語】無價寶珠といえども、一杯の濁酒に及《し》かずと歌つているのは、暗に佛教を蔑視している。後出の作と共に、この作者の思想の、文學的であつたことを窺うに足りるものがある。
 
346 夜《よる》光《ひか》る 玉といふとも、
 酒飲みて 情《こころ》を遣《や》るに
 あに若《し》かめやも。
 
 夜光《ヨルヒカル》 玉跡言十方《タマトイフトモ》
 酒飲而《サケノミテ》 情乎遣尓《ココロヲヤルニ》
 豈若目八方《アニシカメヤモ》
 
【譯】夜光る玉というとも、酒を飲んで思いを放ちやるに及ぶものではない。
【釋】夜光玉跡言十方 ヨルヒカルタマトイフトモ。漢土に珠玉の優れたるものをいう。史記に「隋公祝元暢、因りて齊《せい》に之《ゆ》くに、道の上《ほとり》に一の蛇の死なむとするを見、遂に水を洒《そそ》ぎ神藥を摩傅して去りぬ。忽一夜、中庭に皎然《かうぜん》として光あり、意《こころ》に賊ありと謂《おも》ひ、遂に劍を案じて視るに、すなはち一の蛇の珠を啣《ふふ》みて地に在りて往くを見る。故に、前の蛇の感報なることを知りぬ。珠の光、能く夜を照らすをもちての故に、夜光と曰ふ」、述異記に「南海に珠あり、すなはち鯨目《けいもく》なり。夜もつて鑒《み》つべし、これを夜光と謂ふ」とあり、また戰國策にも「張儀、秦の爲に從を破して連横し、楚王に説く。楚王、使百乘をして駭?《がいけい》の犀《さい》、夜光の璧《たま》を秦王に獻ぜしむ」とある。
 酒飲而情乎遣尓 サケノミテココロヲヤルニ。情を遣るは、思いを遣ると同じで、心を放ち棄て去つて、物思いを忘れる義である。「忘哉《ワスルヤト》 語《モノガタリシテ》 意遣《ココロヤリ》 雖v過不v過《スグセドスギズ》 猶戀《ナホコヒニケリ》」(卷十二、二八四五)。
(234) 豈若目八方 アニシカメヤモ。シクは及ぶ意。及ぶものはあるまいの義である。通行本には豈若目八目とあつて、下に小字に一云八方とある。しかし、目をモと讀むことはほかに例がないのであるから、類聚古集等に八方に作り、かつ一云八方のないのを可とするのである。
【評語】前の無價寶珠の歌と竝んで一對をなし、知識を基礎とする作品であることを語つている。それで理くつつぽくなつているのはやむを得ぬところである。しかし作者が酒に遊ぶのは畢竟憂鬱を紛らそうためであること、この歌の情ヲ遣ルニアニ若カメヤモの句にもあらわれている。
 
347 世のなかの 遊びの道に
 すずしきは、
 醉哭《ゑひなき》するに あるべくあるらし。
 
 世間之《ヨノナカノ》 遊道尓《アソビノミチニ》
 冷者《スズシキハ》
 醉泣爲尓《ヱヒナキスルニ》 可v有良師《アルベクアルラシ》
 
【譯】世間の遊興の道の中にも、心のすがすがしいものは、酒に醉つて泣くことであろう。
【釋】世間之 ヨノナカノ。ヨノナカは、人間の生活する世界をいう。
 遊道尓 アソビノミチニ。アソビは、歌舞音樂文事など、すべての遊樂をいう。ミチは、事または業を、抽象的にいう語で、もとわが國にない言い方であつたが、漢語の道が入り來たつてから、その意味に使用するようになつたのである。「世間乃道《ヨノナカノミチ》」(卷五、八九二)、「伎欲吉曾能美知《キヨキソノミチ》」(卷二十、四四六九)などは、この意の用例である。アソビノミチは、遊藝道というが如き意で、ここには、すべての意味に使用している。
 冷者 スズシキハ。この二字、古來難訓とされたところである。舊訓にマシラハヽ、代匠記にオカシキハ、童蒙抄にスサメルハ、考にサブシクハ、玉の小琴に怜者の誤りとしてタヌシキは、古義に洽者の誤りとしてアマネキハと讀んでいる。これらの諸訓、いずれも無理か、または不通であつて落ちつかない。「萬葉集難語難(235)訓攷」(生田耕一氏)に、スズシキハと讀み、平安時代の歌文の例を引いて荒涼たるはの意に解している。講義には、生田氏の訓を採り、漢語の冷の字義によるものとして、漢籍を證として、心情の清々《すがすが》しく和《なご》やかなるさまをいうとしている。あそびの道の中において冷しきは醉哭にありとなすのである。今しばらくこの説による。
 醉泣爲尓 ヱヒナキスルニ。醉哭することにの意。
 可有良師 アルベクアルラシ。有の下に今一つ有の字があつて然るべきであるが略したのであろう。あるべきであると思われるの意。
【評語】三四一の賢シミトの歌と同じような表現である。この一連のうち、四句に「醉哭するに」を用いた歌が三首あるが、三首とも第五句の相違していることが注意される。
 
348 この代《よ》にし 樂《たの》しくあらば、
 來《こ》む生《よ》には
 蟲に鳥にも 吾はなりなむ。
 
 今代尓之《コノヨニシ》 樂有者《タノシクアラバ》
 來生者《コムヨニハ》
 蟲尓鳥尓毛《ムシニトリニモ》 吾羽成奈武《ワレハナリナム》
 
【譯】この今の世に樂しくあるならば、次の世では蟲にでも鳥にでも自分はなるであろう。
【釋】今代尓之 コノヨニシ。今代は、今夜を、コヨヒ、今身をコノミと讀むに合わせてコノヨと讀む。下の來生に對する語である。但しイマノヨとも讀まれている。佛説によつて、生々流轉して生まれかわり死にかわつてゆくとすることから、この今の生命を、この代と稱している。シは、強意の助詞。
 樂有者 タノシクアラバ。この歌には、酒に關する語がないが、この句によつて飲酒の快樂を暗示している。
 來生者 コムヨニハ。コムヨは佛説にいう死んで後に生まれる生命である。來生は、未來の生の義である。
 蟲尓鳥尓毛 ムシニトリニモ。この代でよいことをすれば次の世で善く生まれつき、この世でわるいことを(236)すれば、次の世は畜生道にも落ちる。その畜生の道に落ちてもの意で、蟲と鳥とを持つて來ている。蟲にも鳥にもの義であるが、上のモを攝して、下のモに含ませているのは、音數上の制限によるものである。「門爾屋戸爾毛《カドニヤドニモ》 珠敷益乎《タマシカマシヲ》」(卷六、一〇一三)の如き用例がある。
 吾羽成奈武 ワレハナリナム。吾は蟲にも鳥にもなりなむの意。句の都合から、主格をこの句に持ち來たつている。
【評語】この歌には佛説の因果應報の教を取り扱つている。しかしそれは知識としてであつて、作者はむしろ自棄の態度をもつてこれに對している。作者の教養時代が、老莊思想崇信の時であつたに根ざすものか。彼の精神上の不幸は佛教をもつて救うことができなかつたのであろう。しかもこの歌には、彼がこれに對して無關心であり得なかつたことをあらわしている。以下二首は、直接酒に關してはいないが、連作の一として、酒に樂しもうとする内容上、ここに列記したものであろう。
 
349 生《う》まるれば 遂にも死ぬる
 ものにあれば、
 今なる間《ほど》は 樂《たの》しくをあらな。
 
 生者《ウマルレバ》 遂毛死《ツヒニモシヌル》
 物尓有者《モノニアレバ》
 今在間者《イマナルホドハ》 樂乎有名《タノシクヲアラナ》
 
【譯】生まれれば、ついにも死ぬものであるから、今の世の間は、樂しくありたいものである。
【釋】生者 ウマルレバ。イケルヒト(累)、イケルモノ(童)、ウマルレバ(略)。大涅槃經に見える「生者必滅 會者定離」の句によつて詠んでいると思われるから、ウマルレバを可とするであろう。
 遂毛死物尓有者 ツヒニモシヌルモノニアレバ。初句を受けて、生者必滅の理を説いている。大伴の坂上の郎女の、尼理願の死を悼む歌に「生者《ウマルレバ》 死云事爾《シヌトイフコトニ》 不v免《マヌカレ又》 物爾之有者《モノニシアレバ》」(卷三、四六〇)ともある。
(237) 今在間者 イマナルホドハ。底本等、今の下に、生の字がある。舊訓これによつてコノヨナルマハと讀み、槻落葉またイマイケルマハと讀んでいる。今、神田本、類聚古集によつて生の字を除く。古本の形と思われるからである。間を二音の語に當てるのは、前項に引いた歌にも「草枕《クサマクラ》 客有間爾《タビナルホドニ》」(卷三、四六〇)とあり、その他にも例が多い。今の世にあるあいだはの意。
 樂乎有名 タノシクヲアラナ。ヲは感動の助詞。なくても意は通ずる。「保等登藝須《ホトトギス》 許々爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》」(卷十九、四四三八)などの用法である。アラナは、自分がありたいと希望する語法。
【評語】前の歌と共に、この歌にも酒に關する語がない。そうして佛説の知識を運用して、今生の快樂を求めている。知識者の歌の特性を發揮している。
 
350 黙然《もだ》居《を》りて 賢《さか》しらするは、
 酒飲みて 醉泣《ゑひなき》するに なほ及《し》かずけり。
 
 黙然居而《モダヲリテ》 賢良爲者《サカシラスルハ》
 飲v酒而《サケノミテ》 醉泣爲尓《ヱヒナキスルニ》
 尚不v如來《ナホシカズケリ》
 
【譯】じつとしていて、利巧ぶつているよりは、酒を飲んで醉泣するに、やはり及ばないことであつた。
【釋】黙然居而 モダヲリテ。モダは、止黙の義であるが、何もせずにあることにいう。ここは副詞として、すましこんでいることをいうのであろう。
 賢良爲者 サカシラスルハ。サカシラは、上の三四四の歌に出た。ここは賢しげをするはの意である。
 飲酒而醉泣爲尓 サケノミテヱヒナキスルニ。上の三四一の歌に出ている。
 尚不如來 ナホシカズケリ。ズケリは古い語法で、中世以後にはない。なお及ばぬことであつたの意。同じ作者の歌に「隼人《はやひと》の追門《せと》の巖《いはは》も鮎走る吉野の瀧になほ及《し》かずけり」(卷六、九六〇)などある。
(238)【評語】以上十三首、とりどりに酒を讃めているが、老妻との死別の悲しみを、酒に紛らしている心情は見のがしてはならない。それが底を流れて個々の歌の基調をなしているのである。また多く知識的に詠まれているのは、彼の教養から來るものであり、經史の知識、老莊思想、佛説にわたつているのは、その時代の思潮を語るものがある。知識者が知識によつて安心を得ず、わずかに醉哭することによつて、痛心の事を紛らそうとした心の記録と見るべき作品である。作者を目して、單なる享樂主義者とするは、當らぬことである。
 
沙弥滿誓歌一首
 
351 世間《よのなか》を 何に譬へむ。
 朝びらき 榜《こ》ぎ去《い》にし船の
 跡なきがごと。
 
 世間乎《ヨノナカヲ》 何物尓將v譬《ナニニタトヘム》
 旦開《アサビラキ》 榜去師船之《コギイニシフネノ》
 跡無如《アトナキガゴト》
 
【譯】この世の中を何に譬えよう。たとえば朝船出をして榜いで行つた船の跡のないようなものだ。
【釋】世間乎何物尓將譬 ヨノナカヲナニニタトヘム。ナニは、意を取つて何物と書いてある。「流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)、「何物乎鴨《ナニヲカモ》 不v云言此跡《イハズイヒシト》 吾將v竊食《ワガヌスマハム》」(卷十一、二五七三)など使用されている。この二句、設問であり、これに應じて三句以下が詠まれている。すなわち自問自答の形になつている。
 旦開 アサビラキ。碇泊した船が、朝になつて漕ぎ出すをいう。「安佐妣良伎《アサビラキ》 許藝弖天久禮婆《コギデテクレバ》 牟故能宇良能《ムコノウラノ》 之保非能可多爾《シホヒノカタニ》 多豆我許惠須毛《タヅガコエスモ》」(卷十五、三五九五)、「珠洲能宇美爾《ススノウミニ》 安佐妣良伎之弖《アサビラキシテ》 許藝久禮婆《コギクレバ》」(卷十七、四〇二九)などの用例がある。體言として、次の句を修飾する。朝びらきをしての意である。
 榜去師船之 コギイニシフネノ。コギイニシは、漕いで去つた意で、シは過去の助動詞。
(239) 跡無如 アトナキガゴト。アトナキガゴト(類)、アトナキゴトシ(槻)。ゴトは、終止形としては、ゴトともゴトシともいう。ゴトの場合は體言で、ゴトアリの意と解せられるが、本來體言であつて、終止にも使用されるものである。「古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾念流碁騰貴《ワガオモヘルゴト》」(卷二、一一二)の如く、逆に下方に置くものからして、終止をなすものに進んだようである。終止形の例としては、「佐奴良久波《サヌラクハ》 多麻乃緒婆可里《タマノヲバカリ》 古布良久波《コフラクハ》 布自能多可禰乃《フジノタカネノ》 奈流佐波能其登《ナルサハノゴト》」(卷十四、三三五八)の如きがある。またゴトシの例には、既出「相見如之《アヒミルゴトシ》」(卷三、三〇九)がある。
【評語】無常を詠じた歌として、古來有名である。どのような時に作られたものとも知られないが、あるいは妻を失つた大伴の旅人に贈つたものででもあろう。萬葉集に始めて訓點を附けた源順の歌集に、「應和元年七月十一日に、よつなる女子をうしなひて、同年の八月六日に又いつゝなるをのこごを失ひて、無常の思ひ事にふれておこる。かなしびの涙かわかず、古萬葉集の中に、沙彌滿誓がよめる歌の中に、世の中を何にたとへむといへることをとりて、かしらにおきてよめる歌十首」を載せている。今その第一首を載せよう。
  世の中を何にたとへむ、あかねさす朝日まつ間の萩の上の露
【參考】無常の歌(一部)
  うつせみの世は常無しと知るものを秋風寒みしのひつるかも(卷三、四六五)
  世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(卷五、七九三)
  (上略)丈夫《ますらを》の壯士《をとこ》さびすと、劔大刀腰に取り佩《は》き、獵弓《さつゆみ》を手握《たにぎ》り持ちて、赤駒に倭文鞍《しつくら》うち置き、はひ乘りて遊びあるきし、世の中や常にありける(下略、卷五、八〇四)
  世の中を常なきものと今ぞ知る。奈良の都のうつろふ見れば(卷六、一〇四五)
  卷向の山邊とよみて行く水の水沫《みなわ》の如し。世の人われは(卷七、一二六九)
(240)  こもりくの泊瀬《はつせ》の山に照る月は盈※[日/仄]《みちかけ》しけり。人の常無き(同、一二七〇)
  水の上に數書く如きわが命を妹にあはむとうけひつるかも(卷十一、二四三三)
  生死《しやうじ》の二つの海を厭《いと》はしみ潮干の山をしのひつるかも(卷十六、三八四九)
  いさなとり海や死《しに》する山や死する。死ぬれこそ海は潮|乾《ひ》て山は枯すれ(同、三八五二)
  世の中は數なきものか。春花の散りのまがひに死ぬべき思へば(卷十七、三九六三)
  うつせみは數なき身なり。山河の清《さや》けき見つつ道を尋ねな(卷二十、四四六八)
   世間の常無きを悲しむ歌一首【短歌并はせたり。】
  天地の遠き始よ、世の中は常無きものと、語り續ぎ流らへ來れ、天の原ふりさけ見れば、照る月も盈昃《みちかけ》しけり、あしひきの山の木ぬれも、春されば花咲きにほひ、秋づけは露霜負ひて、風まじり黄葉《もみち》散りけり、うつせみもかくのみならし、紅の色もうつろひ、ぬばたまの黒髪變はり、朝のゑみ暮《ゆふべ》かはらひ、吹く風の見えぬが如く、逝《ゆ》く水の留らぬ如く、常も無くうつろふ見れば、にはたづみ流るる涙、留めかねつも
  言《こと》問《と》はぬ木すら春咲き秋づけば黄葉《もみち》散らくは常を無みこそ 一は云ふ、常無けむとぞ
  うつせみの常無き見れば世の中に情《こころ》つけずて念ふ日ぞ多き 一は云ふ、嘆く日ぞ多き(卷十九、四一六〇−四一六二)
 
若湯座王歌一首
 
【釋】若湯座王 ワカユヱノオホキミ。傳未詳。若湯座は、古事記中卷に「御母《みおも》を取り、大湯坐《おほゆゑ》、若湯坐《わかゆゑ》を定めて、日足《ひた》しまつるべし」とあり、兒に湯を浴《あ》びせる職の人をいい、後、氏の名となつた。この王、その氏人を乳人《ちひと》として人となつたのであろう。
 
(241)352 葦邊《あしべ》には 鶴《たづ》が音《ね》鳴きて
 湖風《みなとかぜ》 寒く吹くらむ
 津乎《つを》の埼はも。
 
 葦邊波《アシベニハ》 鶴之哭鳴而《タヅガネナキテ》
 湖風《ミナトカゼ》 寒吹良武《サムクフクラム》
 津乎能埼羽毛《ツヲノサキハモ》
 
【譯】津乎の埼では、葦邊では鶴が鳴いており、海の入口の風が寒く吹いているのであろうなあ。
【釋】葦邊波 アシベニハ。邊は、ヘニの假字に使つている。アシベは、岸近い處をいう。
 鶴之哭鳴而 タヅガネナキテ。タヅガネは、鶴の鳴聲の義であるが、雁をカリガネというように、鶴そのものをいう。これは鶴や雁などは、鳴くものであるから、ガネ(之鳴)を接尾語として使用するのである。たとえば、巖石をイハガネというが如き語法である。但し鶴をかようにいう場合は、その語義上、鳴くことをいう場合に多く使用される。また鶴の鳴聲の意に使用される例もある。「多頭我鳴乃《タヅガネノ》 今朝鳴奈倍爾《ケサナクナヘニ》」(卷十、二一三八)、「春霞《ハルガスミ》 之麻米爾多知弖《シマメニタチテ》 多頭我禰乃《タヅガネノ》 悲鳴婆《カナシミナケバ》」(卷二十、四三九八)の如きは、鶴の意に使用している。
 湖風 ミナトカゼ。湖の字をミナトに當てることは、既に「一云、湖見《ミナトミユ》」(卷三、二五三)に見えている。ミナトは、水門。水上から陸地に入り込む門戸である。ミナトカゼは、その地の風で、水上から吹き來る風である。
 寒吹良武 サムクフクラム。ラムは推量の語であるが、初句から寒ク吹クまでを推量し、次の句に對して連體形をなしている。
 津乎能埼羽毛 ツヲノサキハモ。津乎の埼は所在未詳。仙覺は、伊豫の國野間の郡にありといつている。ハモは、事物を提示してそれを詠嘆する助詞。
【評語】津乎の埼を想像して詠んだ歌である。如何に荒涼たる風物である事かと、歎息されている。あるいは(242)作者は女王で、思う人の旅行している土地を詠まれたのであるかも知れない。
 
釋通觀歌一首
 
【釋】釋通觀 サカノツグワニ。釋は、悉達太子の出家した後の稱號を漢語に釋迦という。その釋の字を取つて、佛徒が姓の如くに使用する。通觀は、既出(卷三、三二七)。
 
353 み吉野の 高城《たかき》の山に
 白雲は
 行きはばかりて たなびけり、見ゆ。
 
 見吉野之《ミヨシノノ》 高城乃山尓《タカキノヤマニ》
 白雲者《シラクモハ》
 行憚而《ユキハバカリテ》 棚引所v見《タナビケリミユ》
 
【譯】吉野の高城の山に、白雲は行くのをためらつて棚引いているのが見える。
【釋】見吉野之高城乃山尓 ミヨシノノタカキノヤマニ。高城の山は、吉野山中の高峯であろうが、今いずれの山か不明である。大和志に、山中の東方の山であるという。
 白雲者行憚而 シラクモハユキハバカリテ。高山に對して、雲の行くを憚ることは、山部の赤人の不盡山の歌などに見えている。
 棚引所見 タナビケリミユ。見ユは、動詞助動詞の終止形を受けることは、既に上に記した(卷三、二五六)。
【評語】高城の山を望見して詠んだ歌で、作者の創意のすくない歌である。單純な内容であるだけに、清素の氣を感じる。
 
日置少老歌一首
 
(243)【釋】日置少老 ヘキノヲオユ。傳未詳。日置氏は、古事記中卷に「この大山守の命は、土形《ひぢかた》の君、幣岐《へき》の君、榛原《はりはら》の君等が祖なり」とある。少老は、スクナオユとも讀まれるが、名としては、それでは落ちつかない。ヲオユと讀む方がよい。
 
354 繩《なは》の浦に 鹽燒く煙、
 夕されば
 行き過ぎかねて 山に棚引く。
 
 繩乃浦尓《ナハノウラニ》 鹽燒火氣《シホヤクケブリ》
 夕去者《ユフサレバ》
 行過不v得而《ユキスギカネテ》 山尓棚引《ヤマニタナビク》
 
【譯】繩の浦で鹽を燒いている煙が、夕方になれば、遠くへ散り行くことができずに出に棚引いている。
【釋】繩乃浦尓 ナハノウラニ。繩の浦は、兵庫縣赤樺郡の那波《なは》の江であろうという。また平安時代の歌いものに、ナハノ海、ナハノツブラ江などあると同地で、難波の浦であろうというが、しかし本集にも他の古典にも、難波をナハといつたと見るべき證明はない。
 鹽燒火氣 シホヤクケブリ。鹽を採取するために海藻を燒く煙である。ケブリに火氣の字を當てるのは、講義に、河野多麻氏の説として、説文に「煙、火氣也」とあるによるとしている。
 夕去者 ユフサレバ。夕になれば。
 行過不得而 ユキスギカネテ。行き過ぎて去ることを得ないでの意。不得は、既出(卷三、三一九)。
 山尓棚引 ヤマニタナビク。煙が、山に懸かつて横に引いているよしである。
【評語】内海の夕凪ぎが、よく描かれている。作者はその地に晝間からいたのであるが、夕方になつて、鹽燒く煙が失せないで、山に懸かつて見えるのである。平易な敍述のうちに海岸の夕方の景色が描かれている。
 
(244)生石村主眞人歌一首
 
【釋】生石村主眞人 オヒシノスグリマヒト。傳未詳。村主は姓、眞人は名である。續日本紀、天平勝寶二年正月の條に、正六位の上大石の村主眞人に外の從五位の下を授くとあると同人であろう。「意斐志爾《オヒシニ》」(古事記一四)とあるオヒシは、大石とも生石とも解せられるが、これによつてこの生石をオヒシと讀むことにする。
 
355 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなびこな》の いましけむ、
 志都《しつ》の石室《いはや》は 幾代經にけむ。
 
 大汝《オホナムチ》 小彦名乃《スクナビコナノ》 將v座《イマシケム》
 志都乃石室者《シツノイハヤハ》 幾代將v經《イクヨヘニケム》
 
【譯】大汝の命と少彦名の命とのおいでになつた、この志都の石室は、幾代經たことだろう。
【釋】大汝 オホナムチ。古事記に大穴牢遲神、日本書紀に大己貴神とあり、日本書紀の訓註に、「大己貴、此《コヲバ》云(フ)2於褒婀娜武智《オホアナムチト》1」とあつて、もとオホアナムチといつた。しかしこれは歴史的かなづかいで、音聲としては、重母音を約してオホナムチと云つたのだろう。これは表音かなづかいになる。本集には「於保奈牟知《オホナムチ》 須久奈比古奈野《スクナヒコナノ》 神代欲里《カミヨヨリ》」(卷十七、四一〇六)、古語拾遺に「大己貴神 古語於保那武智神」、新撰姓氏録に「大奈牟智神」とあつて、音聲にはオホナムチといつたと考えられる。名義は、オホは偉大性をあらわす形容詞、ナは尊稱の代名詞、ムチは敬語である。大國主の神の別名と傳えられ、天の下を造つた神として尊崇された。
 小彦名乃 スクナビコナノ。古事記に少名?古那神とある。小少は、古く通じて使用され、類聚名義抄には、小にもスクナシの訓がある。スクナは次位、ヒコは男性、ナは尊稱と解せられる。この神は矮小であるが、智惠多く、快活であり、海を渡つて來たり海を渡つて去つた。大己貴の神と力を協わせて、天下を經營したと傳えられ、二神の事蹟は、古事記、日本書紀、風土記等に多く傳えられている。それで諸國に、この二神に關す(245)る傳説を多く存し、この歌の志都の石室も、そのような傳説地の一であると考えられる。
 將座 イマシケム。過去のことを推量するので、將の字をケムと讀む。連體形の句。
 志都乃石室者 シツノイハヤハ。志都は、多分地名であろう。本居宣長の玉勝間に「石見國|邑知《おほち》郡岩屋村といふに、いと大きなる岩屋あり、里人しつ岩屋といふ。出雲備後のさかひに近きところにて、濱田より廿里あまり東の方いと山深き所にて、濱田の主の領《しら》す地なり。此岩屋、高さ卅五六間もある大岩屋なり。又その近きほとりにも大きなるちひさき岩屋あまた有、いにしへ大穴牟遲少彦名二神のかくれ給ひし岩屋也とむかしより里人語りつたへたり。さていにしへはやがて此岩屋を祭りしに、中ごろよりその外に別に社をたてゝ祭る。志津權現と申すとぞ。此事かの國の小篠の御野がもとより、ただにかの里人に逢てくはしくとひきゝつる也とていひおこせたるなり」とあるものが候補地として知られている。
 幾代將經 イクヨヘニケム。將經の訓については、ヘヌラム(舊訓)とヘニケム(槻落葉)と兩説がある。文證としては「幾世左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》 一云、年者經爾計武」(卷一、三四)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》 多末伎波流《タマキハル》 伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》」(卷十七、四〇〇三)の兩證があつて、いずれにも讀み得て意をなすのであるが、既に三句の將座をイマシケムと讀む以上は、同樣の用字法であるからここもヘニケムと讀む方が順當である。現に見ている事物についても、その過去を推量してケムを用いることは、上の例によつて、まさしく證せられるところである。
【評語】古人は、石窟について、神の住宅であるとする信仰を有していた。それは上に出た三穗の石室の歌にも窺われる。この歌は、そういう信仰の世界から生まれた歌として、簡單な表現ではあるが趣の深いものがある。
 
(246)上古麻呂歌一首
 
【釋】上古麻呂 カミノコマロ。傳未詳。新撰姓氏録によれば、上氏に數系あるが、上の村主は、魏の武帝の男陳思王曹植の後、上の勝は、百濟の國の人多利須須の後、上の曰佐は、百濟の國の人久爾能古の使主の後であり、いずれも蕃別である。この古麻呂は、いずれであるか不明である。
 
356 今日もかも、明日香の河の、
 夕さらず 河蝦《かはづ》なく瀬の、
 さやけかるらむ。
 
 今日可聞《ケフモカモ》  明日香河乃《アスカノカハノ》
 夕不v離《ユフサラズ》 川津鳴瀬之《カハヅナクセノ》
 清有良武《サヤケカルラム》
 
【譯】今日はなあ、あの明日香川の夕方ごとに河蝦の鳴く瀬は、すがすがしくあるだろう。
【釋】今日可聞 ケフモカモ。モに當る字はないが讀み添える。モは強意。カモは疑問の係助詞で、遙かに五句のサヤケカルラムに懸かる。今日はか、何々だろうの意である。それと同時に、次句の明日の語を引き出す役を演じている。
 明日香河乃 アスカノカハノ。明日香河で、四句の河蝦鳴ク瀬に對して領格をなしている。
 夕不離 ユフサラズ。サラズは既出(卷三、三二五)。夕方毎にの意。これを夕べになるの意のユフサルと混同するのは誤りである。
 川津鳴瀬之 カハヅナクセノ。カハヅは河蝦。川に住む蛙類。
 清有良武 サヤケカルラム。川瀬の音のさやかであろうと推量している。
【評語】明日香川の河蝦鳴く瀬のさやけさを推量している。川瀬の音を愛した心が歌われているが、歌として(247)は初句と二句とのかかり方の技巧に興味があつたのであろう。この初二句は、興に乘じているが、かえつて歌そのものを不純ならしめている。この點、次の別傳の方がすなおでよい。
 
或本歌發句云、明日香川《アスカガハ》 今毛可毛等奈《イマモカモトナ》
 
或る本の歌の發句に云ふ、明日香川 今もかもとな。
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。別の資料によつて記していると見られるが、そのいかなるものであるかは知られない。またそれにも作者を同人としているか否かも不明である。
 發句云 ハジメノクニイフ。發句は、歌の初めの方の句をいう。ここでは初二句を言つている。卷の八に「官爾毛《ツカサニモ》 縱賜有《ユルシタマヘリ》 今夜耳《コヨヒノミ》 將v飲酒可毛《ノマムサケカモ》 散許須奈由米《チリコスナユメ》」(一六五七)の歌を載せ、その左註に「右(ハ)酒(ハ)者、官禁制(シテ)?(ハク)、京中(ノ)閭里、不(レ)v得2集宴(スルコトヲ)1、但親々一二飲樂(スルハ)聽許(ストイヘレバ)者、縁(リテ)v此(ニ)和(フル)人作(レリ)2此(ノ)發(ノ)句(ヲ)1焉」など使用されている。萬葉集において、句の意識の存在することを證するものである。
 明日香川今毛可毛等奈 アスカガハイマモカモトナ。初二句の別傳である。モトナは、既出(卷二、二三〇)。ここでは、ほんとにというくらいに、調子に乘つて插入するだけで、内容を強めるために使用される。
 
山部宿祢赤人歌六首
 
【釋】山部宿祢赤人歌六首 ヤマベノスクネアカヒトノウタムツ。六首とも羇旅の作と見られるが、地名は四個あり、うち二つは大阪灣地方であるが、いずれも同時の旅の作であるかどうかをあきらかにしがたい。
 
357 繩の浦ゆ 背向《そがひ》に見ゆる
(248) 奧《おき》つ島
 榜《こ》ぎ廻《み》る舟は 釣《つり》をすらしも。
 
 繩浦從《ナハノウラユ》 背向尓所v見《ソガヒニミユル》
 奧島《オキツシマ》
 榜廻舟者《コギミルフネハ》 釣爲良下《ツリヲスラシモ》
 
【譯】繩の浦を通して横の方斜に見える奧つ島よ、その島を榜ぎ廻つて行く舟は、釣をしているようだ。
【釋】繩浦從 ナハノウラユ。繩ノ浦は既出(卷三、三五四)。兵庫縣の那波の浦という。ユは、それを通しての意。繩の浦の海上を通じての意である。
 背向尓所見 ソガヒニミユル。ソガヒは、背向の字が當てられ、また「吾背子乎《ワガセコヲ》 何處行目跡《イヅクユカメト》 辟竹之《サキタケノ》 背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクヤシモ》」(卷七、一四一二)の如き用例もあつて、背後の意と解せられる。しかしソガヒに見るという用法が多く、全然背後を見るわけには行かないので、ふり返つて見るぐらいの方向に、この語を使用しているようである。繩の浦から後方に見えるの意で、正面でないことを示すものと解される。同じ作者の歌に「左日鹿野由《サヒガノユ》 背匕爾所v見《ソガヒニミユル》 奧島《オキツシマ》 清波瀲爾《キヨキナギサニ》」(卷六、九一七)の用例がある。
 奧島 オキツシマ。沖の方の島。固有名詞ではない。その島を提示し呼び懸けている。
 榜廻舟者 コギミルフネハ。コギタムフネハ(西)。コギミルは、有坂秀世博士(國語音韻史の研究)による。「宇知徴流《ウチミル》 斯麻能佐岐邪岐《シマノサキザキ》 加岐微流《カキミル》 伊蘇能佐岐淤知受《イソノサキオチズ》」(古事記六)の微が、乙類のミであるから、甲類のミであるべき見の義とすることができないので、別語として廻るの義とするのである。榜ぎ廻る意。「安禮乃埼《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》 棚無小舟《タナナシヲブネ》」(卷一、五八)、「礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)などの例によつて、コギタムと讀むことも考えられるが、廻る意のタムは、「許伎多武流《コギタムル》 浦乃盡《ウラノコトゴト》」(卷六、九四二)の如く、連體形はタムルであるから、ここもコギタムルと讀まねばならなくなり、それでは調子がわるくなる。
 釣爲良下 ツリヲスラシモ。玉の小琴にツリセスラシモ、古義にツリシスラシモと讀んでいるが、舊訓のま(249)まに讀むのが順當であろう。推量の助動詞ラシに、感動の助詞モが接續している。
【評語】繩の浦の海上の風光がよく描かれている。初めに繩の浦から見える奧つ島を呼び起し、また殊に、榜ギ廻ル舟ハ釣ヲスラシモの動的描寫によつて、全景が活きている。よく纏まつている作品である。
 
358 武庫《むこ》の浦を 榜《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》。
 粟島を 背向《そがひ》に見つつ
 ともしき小舟。
 
 武庫涌乎《ムコノウラヲ》 榜轉小舟《コギミルヲブネ》
 粟島矣《アハシマヲ》 背尓見乍《ソガヒニミツツ》
 乏小舟《トモシキヲブネ》
 
【譯】武庫の浦を榜ぎ廻る小舟よ、粟島を後方に見つつ、うらやましい小舟よ。
【釋】武庫浦乎 ムコノウラヲ。武庫の浦は、攝津の武庫川の河口の海上である。
 榜轉小舟 コギミルヲブネ。轉は、歎囘の意で使つている。コギミルは、前の歌に出ている。句切。
 粟島矣 アハシマヲ。粟島は、今日のいずれの島であるかあきらかでないとされていた。古事記下卷に、仁コ天皇の難波を出ての御製に「阿波志麻《アハシマ》 淤能碁呂志摩《オノゴロシマ》 阿遲麻佐能《アヂマサノ》 志痲母美由《シマモミユ》」(五四)とあり、大阪灣から見える位置にあることはあきらかである。本集では丹比の笠麻呂の筑紫の國に下つた時の作歌に、「天さがる夷《ひな》の國邊に、直向《ただむ》かふ淡路を過ぎ、粟島を背向《そがひ》に見つつ、朝なぎに水手《かこ》の聲よび、夕なぎに梶の音しつつ、浪の上をい行きさぐくみ、磐《いは》の間をい行きもとほり、稻日都麻《いなびづま》浦みを過ぎて、鳥じものなづさひ行けば、家の島荒礒の上に、うち靡きしじに生ひたる、なのり藻《そ》がなどかも妹に、告《の》らず來にけむ」(卷四、五〇九)とあり、淡路島、粟島、稻日都麻、家の島の順になつている。この稻日都麻は、問題があるが、だいたい加古川の河口とされ、家の島は、今の家島であるとすれば、粟島は、その間に求められねばならない。また「粟島に榜ぎ渡らむと思へども明石の門浪《となみ》いまだ騷けり」(卷七、一二〇七)の歌によれは、明石海峽を渡つて行くべき處にな(250)つている。しかしこれを今日の地理に照らすに、その島に當るべき地を見ない。難波で詠まれた歌に「眉《まよ》の如雲居に見ゆる阿波の山懸けて榜ぐ舟|泊《とまり》知らずも」(卷六、九九八)の歌における阿波の山は、四國のうちの阿波のことと考えられるが、それと今の歌とを併わせ見るに、共通する所があり、粟島の名も、四國の阿波の方面をいうと思われる。武庫の浦は、大阪灣に面した處であり、その浦を榜ぎ廻る小舟の背景としての粟島は、大阪灣頭に求むべく、しかもまた一方には、淡路島を過ぎてから粟島が歌われている。阿波の國は、古事記に大宜都比賣《おおげつひめ》の名によつて呼ばれ、古く粟の耕作地として傳えられていた。それを島というのは、水上から見た大和の山々を大和島といい、九州北部を筑紫の島というが如きもので、水上から見た四國を粟島といつたと考えられる。九州について筑紫の島というように、四國には他に伊豫の二名の島の名があるが、東部については、粟島の名が、實にそれに該當するものと考えられるのである。かように解釋すれば、この歌における粟島の位置も明瞭になり、歌の内容も活きて來るのである。
 乏小舟 トモシキヲブネ。トモシは、うらやましい意。わが舟とは反對に、都の方をさして上るのがうらやましいのである。
【評語】佳景にうかぶ小舟をうらやんでいる。二句と五句とに小舟を配して、對句としているのは、その小舟に集中する心をよくあらわしている。粟島を背景として、武庫の浦を轉囘している小舟が、いきいきとして描かれている。作者は、四國に向かつて航行しているのであろう。そこで四國を背後に見る小舟がうらやましいのである。
 
359 阿倍の島
 鵜の住む石《いは》に 寄する浪、
(251) 間《ま》なくこのごろ 大和し念《おも》ほゆ。
 
 阿倍乃島《アベノシマ》
 宇乃住石尓《ウノスムイハニ》 依浪《ヨスルナミ》
 間無比來《マナクコノゴロ》 日本師所v念《ヤマトシオモホユ》
 
【譯】阿倍の島の鵜の住む岩に寄せる浪、そのようにひまもなくこのごろは大和が思われる。
【釋】阿倍乃島 アベノシマ。所在未詳。攝津の國とする説のあるのは、前の歌に引かれての説であるが、根據はない。
 宇乃住石尓 ウノスムイハニ。ウは鳥名、鵜で、水邊に住み、魚を捕食する。石は、從來イソと讀んでいるが、イハと讀むべきである。イソは、本集中多く礒の字を當てているので、特に石の字を當てているのは、岩石の義によるとすべきである。正倉院文書に、許知荒石《こちのありは》という人の名を安利芳と書いたものがあり、アリハ(荒石)の語があり、石をイハと讀んだことが知られる。その他、地名のイハレに石村の字を當てているなど、石の字を、イハと讀むのは自然である。鵜の住む岩は、荒い海濱を想像せしめる。大阪灣附近の地ではなさそうである。
 依浪 ヨスルナミ。依は、集中、ヨスルと讀む例も多い。以上三句、海岸の岩に寄る浪を呼びあげて、次の句を引き起す序としている。
 間無比來 マナクコノゴロ。寄する浪のひまなきが如く、ひまもなくである。比來は熟字で、比者とも書いている。
 日本師所念 ヤマトシオモホユ。ヤマトは、大和の國で、家郷の方である。シは強意の助詞。
【評語】この歌は、目に觸れる光景を敍して序としている。鵜の住む岩に寄する浪の句は、いかにも荒海の礒を描寫して、望郷の句の序とするに足りる。大和が思われるという歌は多いが、この歌などはその中でも上乘の作であろう。
 
(252)360 潮《しほ》干《ひ》なば 玉藻刈り藏《をさ》め。
 家の妹が 濱《はま》づと乞はば、
 何を示さむ。
 
 鹽于去者《シホヒナバ》 玉藻苅藏《タマモカリヲサメ》
 家妹之《イヘノイモガ》 濱裹乞者《ハマヅトコハバ》
 何矣示《ナニヲシメサム》
 
【譯】潮が干たならば、玉藻を刈りておさめよ。家にある妻が、濱の土産を乞うたならば何を示そうか。
【釋】鹽干去者 シホヒナバ。シホは、潮水。
 玉藻苅藏 タマモカリヲサメ。美しい藻を刈りて納めおけよの意。命令法で二句切である。玉藻は美しいから土産にしようの意であるが、當時食用にも供したもので、ここもその意味である。
 家妹之 イヘノイモガ。家にある愛人で、妻をいう。
 濱裹乞者 ハマヅトコハバ。ハマヅトは、濱からの裹で、海岸のみやげである。
 何矣示 ナニヲシメサム。何を濱裹として示そうの意。
【評語】海濱に旅して、何か妻のために求めたいと思う心を描いている。しかもほかに何物もなく、せめて玉藻を濱裹にしようと歌つている。その命令の相手は、下人であろうが、歌としては、自己に命じている氣もちである。「伊勢の海の沖つ白浪花にもが裹《つつ》みて妹が家裹《いへづと》にせむ」(卷三、三〇六)の歌と通ずる所が多い。
 
361 秋風の 寒き朝明《あさけ》を、
 佐農《さぬ》の岡 越ゆらむ公に
 衣《きぬ》貸《か》さましを。
 
 秋風乃《アキカゼノ》 寒朝開乎《サムキアサケヲ》
 佐農能岡《サヌノヲカ》 將v超公尓《コユラムキミニ》
 衣借益矣《キヌカサマシヲ》
 
【譯】秋風の寒い朝明けに、佐農の岡を越えているのであろう君に、衣を貸してやりましようものを。
(253)【釋】秋風乃寒朝開乎 アキカゼノサムキアサケヲ。秋風の寒く吹く朝あけをで、アサケは、假字書きには、安佐氣とあり、表意文字としては、朝明、旦開、旦明と書かれている。夜の明けて朝になりつつある頃をいう。時間をあらわす語につけていうヲは、その時間の全體にわたつていい、かつその時なるをの如き意を含んでいる。
 佐農能岡 サヌノヲカ。所在未詳。既出の「神之埼《ミワガサキ》 狹野乃渡爾《サノノワタリニ》」(卷三、二六五)とある狹野と同地であろうというが、不明。
 將超公尓 コユラムキミニ。將超は、コエナムとも讀まれる。第五句に衣貸サマシヲとあるのは衣を貸さなかつたことになるのであるから、現に越えているのを推量しているとするを可とするであろう。コエナムとすれば、これから越えようとする君の意になり、衣を貸すこともできるので、五句との關係が都合がわるい。ここに公とあるから赤人の妻の作であるとする説もあるが、男子どうし、朋友關係で公ということは普通であつて、これだけでは赤人の作であることを否定し得ない。
 衣借益矣 キヌカサマシヲ。衣を貸してやろうものをで、マシは、假説であるから、貸さなかつたことになる。ヲは感動の助詞。
【評語】往時は、夫婦間たがいに衣服を貸し合つた。しかしここはむしろ男子どうしの交遊と見る方がよい。作者自身も、旅にあつて秋の朝寒の身に迫るのを感じて、この歌をなしたのである。第四句を、越エナム公ニと讀んで、衣服を貸したいが、旅先で貸すべき衣服がなくて、殘念だの意にも解せられる。
 
362 みさごゐる 礒《いそ》みに生《お》ふる
 名乘藻《なのりそ》の、
(254) 名は告《の》らしてよ。
 親は知るとも。
 
 美砂居《ミサゴヰル》 石轉尓生《イソミニオフル》
 名乘藻乃《ナノリソノ》
 名者告志弖余《ナハノラシテヨ》
 親者知友《オヤハシルトモ》
 
【譯】雎鳩のいる礒ほとりに生えている名乘藻の、そのように名はお名のりなさい。たとえ親は知るとても。
【釋】美沙居 ミサゴヰル。ミサゴは、猛禽類の一種、背は褐色で腹は白い。水邊にいて魚を捕らえて食う。荒礒の懸崖などに巣を作つているので、これで荒礒の敍述としている。
 石轉尓生 イソミニオフル。イソミは、礒で、ミは灣曲せる地形であることを示す接尾語。次の句に對する連體形の句。
 名乘藻乃 ナノリソノ。ナノリソは海藻の名。倭名類聚鈔に「本朝式(ニ)云(フ)、莫鳴菜|奈乃利曾《ナノリソ》、漢語抄(ニ)云(フ)、神馬藻、今按(ニ)本文未詳、但神馬莫(カレ)v騎(ル)義也」とあり、日本書紀允恭天皇紀に「時の人濱藻《はまも》を號けて奈能利曾毛《ナノリソモ》と謂ふ」とある。今のホンダワラであるという。以上三句、海岸の品物を敍して、次句の序詞としている。
 名者告志弖余 ナハノラシテヨ。ノラシは、告ルの敬語法。テヨは希望の助詞。語義をいえば、テは時の助動詞ツの命令形、ヨは助詞。句切で、相手に名を告れと希望している。
 親者知友 オヤハシルトモ。名を名告るために事情を相手の親が知るとしてもの意。
【評語】名告藻の名告ると績くのは、常用手段である。羇旅の作とすれば、荒い海岸などで娘子を見て歌いかけたものであろうか。
 
或本歌曰
 
或る本の歌に曰はく
 
(25)363 みさごゐる 荒礒《ありそ》に生ふる 名乘藻《なのりそ》の、
 よし名は告《の》らせ。親は知るとも。
 親は知るとも。
 
 美沙居《ミサゴヰル》 荒磯尓生《アリソニオフル》 名乘藻乃《ナノリソノ》
 吉名者告世《ヨシナハノラセ》 父母者知友《オヤハシルトモ》
 父母者知友《オヤハシルトモ》
 
【譯】ミサゴのいる荒礒に生えている名乘藻の、そのようによし名はお名のりなさい。親は知るとても。
【釋】荒磯尓生 アリソニオフル。荒礒は、假字書きのものに、安里蘇、安利蘇、有礒、在衣等と書いているから、アリソと讀むべきである。荒涼たる礒である。
 吉名者告世 ヨシナハノラセ。吉は、諸本に告に作つており、これによつてナノリハツケヨ(西)、ナノリハノラセ(新訓)とも讀まれているが、ナノリを告名と書いたとすることには無理がある。これは吉の字を、初畫を増強して告の如く書いたものと考えられ、ヨシと讀むべきものと考えられる。ヨシは、放任の義で、他に對して許容する意である。よろしいなどの意に當る。
 
笠朝臣金村、鹽津山作歌二首
 
【釋】笠朝臣金村 カサノアソミカナムラ。既出(卷二、二三二左註)。この人の歌、題詞にその作歌とあるものと、註に笠朝臣金村歌集中出とあるものがあり、ここは題詞にあるものの初出である。その年代のあきらかなものは、靈龜元年九月から天平五年閏三月に至つている。
 鹽津山 シホツヤマ。鹽津は、滋賀縣伊香郡の地名で、琵琶湖の最北端にある。湖上を水路によつてこの地に來たり、それから山を越えて越前の敦賀に出る。作者が、この道を通つて詠んだ歌で、次の角鹿の津で乘船の時の作も、この時の詠と考えられる。
 
(256)364 丈夫《ますらを》の
 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し 射つる夫を、
 後《のち》見む人は、語り繼ぐがね。
 
 大夫之《マスラヲノ》
 弓上振起《ユズヱフリオコシ》 射都流失乎《イツルヤヲ》
 後將v見人者《ノチミムヒトハ》 語繼金《カタリツグガネ》
 
【譯】勇士が弓末を振り起して射た矢を、後に見る人は語り繼ぐことであろう。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは、既出(卷一、五)。
 弓上振起 ユズヱフリオコシ。弓上は、弓の上方であるが、義をもつてユズヱと讀む。振リ起シは、勢よく弓を立てることの形容。振起をフリタテと讀む説もある。古事記に「弓腹振立《ユハラフリタテ》」とあるによるのであるが、今は本集に「梓弓《アヅサユミ》 須惠布理於許之《スヱフリオコシ》」(卷十九、四一六四)とあるによる。
 射都流矢乎 イツルヤヲ。次句の見ムに對して處置格になつている。
 後將見人者 ノチミムヒトハ。ノチは、將來をいう。
 語繼金 カタリツグガネ。カタリツグは既出(卷三、三一七)。次々に語り傳える意。ガネは、將來しかあるべきを豫想し希望する意の助詞。「余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊比都具可禰等《イヒヅグガネト》」(卷五、八一三)、「大夫者《マスラヲハ》 名乎之立倍之《ナヲシタヅぺシ》 後代爾《ノチノヨニ》 聞繼人毛《キキツグヒトモ》 可多里都具我禰《カタリヅグガネ》」(卷十九、四一六五)などの例によつて、その意を知るべきである。后《キサキ》ガネ、聟《ムコ》ガネ、ミ襲衣《オスヒ》ガネ等のガネも、もと同語であろうが、體言に附くものは、候補者、材料等の意になつている。
【評語】前代の英雄または巨人などの矢を放つた跡の殘つているのを見て詠んだ歌である。作者の一行が、矢を射たのかもしれない。古義に「古、たけき男は、道路の大木などに矢を射入れて、弓勢を末代の者に示しけるなるべし。中昔に崇コ天皇白川殿を落させ賜ふときに、八郎爲朝上矢の鏑《かぶら》筋をとりて、末代の者に弓勢の(257)ほどを示さむとて、寶莊職院の門の柱に射留め置きし事あり。此類なり。又建久四年、曾我兄弟、親の敵を討たむ爲に富士の狩倉へ行くとて、箱根路の湯本の矢立の杉に矢を射立て置きし事もあり。近く寶暦九年の比、日向國の杣にて伐り出せる杉の大木を船につみ運びて、備前國岡山府にて、船材に割きけるに鏃《やじり》三枚木中より出でけりと備前の國人土肥經平が春湊浪話に記せり。これも昔健士の射入れたるなるべし」。講義に曾我物語の記事を掲げ、なお諸國に矢立《やたて》の杉などあることをいい、「これは、ある特定の由來あるに止まらず、古くは旅行するものが、その旅中の安全を請ひ、又は卜するが爲に、山路などにかかる際、ある著しき杉などの樹に矢を射立つることのありしならむ」といつている。
 
365 鹽津山 うち越え行けば、
 わが乘れる 馬ぞつまづく。
 家戀ふらしも。
 
 鹽津山《シホツヤマ》 打越去者《ウチコエユケバ》
 我乘有《ワガノレル》 馬曾爪突《ウマゾツマヅク》
 家戀良霜《イヘコフラシモ》
 
【譯】鹽津山を越えて行けば、わが乘れる駒が躓く。彼も家を戀うているものと思わレる。
【釋】打越去者 ウチコエユケバ。ウツ、カク、トル、ヒク、アフ等、他の動詞の上について熟語をなすものは、上の動詞の意味は薄められて、下の動詞の意味を強めるだけの作用をするに過ぎない。ウチ消ス、ウチ見ル、カキ結ブ、カキ連ヌ、トリ置ク、トリマカナフ等の例である。
 馬曾爪突 ウマゾツマヅク。ツマヅクは、足を路面にひつ懸けることである。歩行に蹉躓《さち》するのは、物を思うしるしである。ここで句切である。
 家戀良霜 イヘコフラシモ。霜は、シモの音に借りている。ラシは、推量の助動詞。モは、感動の助詞。馬も家を慕つていると見えると、馬の爪突いた事實にもとづいて、その心中を推量している。馬の心を推して、(258)實は作者自身の家に對する戀を歌つたものであると解せられる。文章からいえば上記の如く解するのが順當であるが、家人が戀うれば、馬がつまずくという諺があつたのであろうとする説もあり、これも一理のあることで、「衣手乃《コロモデノ》 名木之川邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》」(卷九、一六九六)の如き歌があり、この歌の第五句は、家では思つているだろうかの意であることはあきらかである。これと參考欄に擧げた、卷の七の一一九一、卷の十一の二四二一の歌とを併わせ考えれば、家戀フラシモの句は、家では戀うているだろうの意とも解せられるのである。今は文章の上からする前の解によつた。
【評語】作者は多分北に向かつて馬を進めているのであろう。その馬に託して旅愁が歌われている。その心を乘せて、馬も山路に惱んでいるのであろう。これもよい歌である。
【參考】類想。
  妹が門《かど》出入《いでいり》の河の瀬を速み吾が馬|爪《つま》づく。家思ふらしも(卷七、一一九一)
  白栲ににほふ眞土《まつち》の山川にわが馬なづむ。家戀ふらしも(同、一一九二)
  木幡路《こはたぢ》は石《いは》踏む山のなくもがも。わが待つ君が馬爪づくを(卷十一、二四二一)
 
角鹿津乘v船時、笠朝臣金村作歌一首 并2短歌1
 
角鹿の津にして船に乘りし時に、笠の朝臣金村の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】角鹿津乘船時 ツノガノツニシテフネニノリシトキニ。角鹿の津は、今の敦賀港である。日本書紀垂仁天皇紀に、「一書に云ふ、御間城《みまき》の天皇の世に、額《ぬか》に角《つの》有《お》ひたる人、一の船に乘りて越《こし》の國の笥飯《けひ》の浦に泊《は》つ。故《かれ》其處を號《なづ》けて角鹿といふ」とある。その津から乘船して北陸のいずれかの國に赴いたのであろう。角鹿は、古事記には都奴賀とあり、ツヌガであつたが、本集では、角を都努とも書いている。「多久都怒能《タクツノノ》」(卷二十、(259)四四〇八)、「都努乃松原《ツノノマヅバラ》」(卷十七、三八九九)の都怒、都努の語に相當するものを角とも書いている。
 
366 越《こし》の海の 角鹿《つのが》の濱ゆ、
 大船に 眞楫《まかぢ》貫《ぬ》き下《おろ》し、
 いさなとり 海路《うみぢ》に出でて、
 喘《あへ》きつつ わが榜《こ》ぎ行けば、
 丈夫《ますらを》の 手結《たゆひ》が浦に
 海未通女《あまをとめ》 鹽燒くけぶり、
 草枕 旅にしあれば、
 ひとりして 見る驗《しるし》無み、
 海神《わたつみ》の 手に卷かしたる、
 玉襷《たまだすき》 懸けて思《しの》ひつ。
 大和島根を。
 
 越海之《コシノウミノ》 角鹿乃濱從《ツノガノハマユ》
 大舟尓《オホブネニ》 眞梶貫下《マカヂヌキオロシ》
 勇魚取《イサナトリ》 海路尓出而《ウミヂニイデテ》
 阿倍寸管《アヘキツツ》 我榜行者《ワガコギユケバ》
 大夫乃《マスラヲノ》 手結我浦尓《タユヒガウラニ》
 海未通女《アマヲトメ》 鹽燒炎《シホヤクケブリ》
 草枕《クサマクラ》 客之有者《タビニシアレバ》
 獨爲而《ヒトリシテ》 見知師無美《ミルシルシナミ》
 綿津海乃《ワタツミノ》 手二卷四而有《テニマカシタル》
 珠手次《タマダスキ》 懸而之努櫃《カケテシノヒツ》
 日本島根乎《ヤマトシマネヲ》
 
【譯】越の海の角鹿の濱から、大船に櫓櫂を十分に取りつけて、鯨を捕る海路に出て、息を切らして漕いで行くと、手結が浦に海人の娘子の鹽を燒く煙が立つているが、旅のことであるから、ひとりで見て效《かい》がなく、海神の御手に纏いている珠をつけた襷《たすき》を懸けることのように、心に懸けて思慕したことである。かの大和の國土を。
【構成】全篇一段。
(260)【釋】越海之 コシノウミノ。越は、北陸の總稱。古事記に高志の國、日本書紀に越の洲とある。越の海は、日本海をいう。
 角鹿乃濱從 ツノガノハマユ。ユはそこを通つての意に使つている。
 眞梶貫下 マカヂヌキオロシ。マは接頭語。完全性をあらわす。カヂは船漕ぐ道具、艪櫂の類。マカヂは、船の兩舷の櫓擢。ヌキオロシは、船に取りつける意。
 勇魚取 イサナトリ。海に冠する枕詞。勇の字はイサの音に借りているが、クジラについて勇ましい魚の意を感じこの字を使つたのだろう。
 海路尓出而 ウミヂニイデテ。ウミヂは海上の航路。
 阿倍寸管 アヘキツツ。アヘキは、呼吸をいそがしくする。息を切らすの意。次の句の、榜ぎ行く?態を説明しているが、船人の骨を折つて漕ぐ?である。喘キツツワガ榜ギ行ケバとあつても、作者自身があえぐのではない。
 大夫乃 マスラヲノ。枕詞として使用されている。大夫が手結をするということから、地名の手結を修飾している。
 手結我浦尓 タユヒガウラニ。手結ガ浦は、福井縣敦賀郡東浦村|田結《たゆう》の水面。延喜式神名に越前國敦賀郡に田結神社がある。敦賀の北方近い處である。タユヒは、足結に準じて考えれば、男子が活動を便利にするために、衣類の袖を結ぶことと思われ、それでマスラヲノの枕詞を附するのであろう。
 海未通女 アマヲトメ。未通女は、若い女の意に使用している。
 鹽燒炎 シホヤクケブリ。既出(卷三、三五四)。炎は煙炎の義によつて、ケブリと讀む。
 草枕客之有者 クサマクラタビニシアレバ。既出(卷一、五)。海路ではあるが、草枕の枕詞を使用している。
(261) 獨爲而 ヒトリシテ。妻と共にでないのをヒトリといつている。船中、他に人なき次第ではない。
 見知師無美 ミルシルシナミ。シルシは、效果。見る驗がないので。「驗無《シルシナキ》」(卷三、三三八)參照。
 綿津海乃 ワタツミノ。ワタツミは海神。既出(卷一、一五)。轉じて海洋の義にいうが、ここは海神である。但し海そのものの神靈を感じていう。
 手二卷四而有 テニマカシタル。マカシは、纏クの敬語法。海神が、手に珠を纏いて持つているとするのである。海底に眞珠などのよい珠があるのを、海神の手纏の珠とするのである。「海神《ワタツミノ》 手纏持在《テニマキモテル》 玉故《タマユヱニ》 石浦廻《イソノウラミニ》 潜爲鴨《カヅキスルカモ》」(卷七、一三一〇一)、「和多都美能《ワタツミノ》 多麻伎能多麻乎《タマキノタマヲ》 伊敝都刀爾《イヘヅトニ》 伊毛爾也良牟等《イモニヤラムト》」(卷十五、三六二七)など見えている。以上二句、次句の珠手次の珠の序詞であるが、海路のことゆえ、特にこの序を作つている。
 珠手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。美しい手次で、次句の懸ケテに冠する。
 縣而之努櫃 カケテシノヒツ。既出(卷一、六)。懸ケテは、心に懸けて。シノヒツは思慕したの意。
 日本島根乎 ヤマトシマネヲ。ヤマトシマネは、内海方面から大和の國を見ていうのが普通であるが、ここでは海上から大和の國の方を望見して、思想的にいつている。原義から離れた用法である。その地が見える次第ではない。この句は、上の懸ケテシノヒツの處置格となつている。
【評語】秩序よく整備され、一往思うところをつくしているが、それだけで、生氣に乏しい。それは説明にもつぱらであつて、感激の描寫がないからである。先人によつて既に開かれた道を無意味に踏襲するばかりだからである。
 
反歌
 
(262)367 越《こし》の海の 手結《たゆひ》が浦を、
 旅にして 見ればともしみ、
 大和|思《しの》ひつ。
 
 越海乃《コシノウミノ》 手結之浦矣《タユヒガウラヲ》
 客爲而《タビニシテ》 見者乏見《ミレバトモシミ》
 日本思櫃《ヤマトシノヒツ》
 
【譯】越の海の手結が浦を、旅にあつて見ればよい處なので、大和を思つたことだ。
【釋】見者乏見 ミレバトモシミ。このトモシは、賞美すべくある意。
【評語】勝景を見て、家に在る人と共に見たいと思うと歌つているが、四五句の關係は、いい足らないものがある。長歌の内容を要約しただけの反歌である。
 
石上大夫歌一首
 
【釋】石上大夫 イソノカミノマヘツギミ。誰であるか不明であるが、左註によれは、石上の乙麻呂であろうという。この歌は、笠の朝臣金村の歌集から出た歌なので、原本に、かように書いてあつたのであろう。乙麻呂は、石上の麻呂の子、續日本紀によるに、神龜元年二月、正六位の下から從五位の下に進み、天平四年正月、從四位の下左大辨、天平十一年三月、久米の若賣《わかめ》に通じたことによつて土佐の國に流され、天平十三年ごろ大赦によつて歸京したものとおぼしく、同十五年五月、從四位の上、十六年西海道の巡察使、十八年四月、常陸の守正四位の下、九月、右大辨、二十年二月、從三位、天平勝寶元年七月、中納言に任ぜられ、二年九月に薨じた。懷風藻に詩があり、土佐の國に配流せられていた時の詩を集めた※[行の中に含]悲藻《かんひそう》二卷があつたと傳えている。左註にいう越前の守に任ぜられたことは他書に傳えないが、越前の國でこの歌を詠み、笠の金村と唱和したものと考えられる。大夫は既出。五位六位ほどの人に對する敬稱。
 
(263)368 大船に 眞楫《まかぢ》繋貫《しじぬ》き、
 大王《おほきみ》の 命《みこと》かしこみ、
 礒廻《いそみ》するかも。
 
 大船二《オホブネニ》 眞梶繋貫《マカヂシジヌキ》
 大王之《オホキミノ》 御命恐《ミコトカシコミ》
 礒廻爲鴨《イソミスルカモ》
 
【譯】大船に、櫓櫂を十分に取り附けて、大君の仰せのかしこさに礒めぐりをすることだ。
【釋】眞梶繁貫 マカヂシジヌキ。「於保夫禰爾《オホブネニ》 麻可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(卷十五、三六一一)、「於保夫禰爾《オホブネニ》 眞可治之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(同、三六二七)、「志富夫禰爾《シホブネニ》 麻可知之自奴伎《マカヂシジヌキ》」(卷二十、四三六八)の例により、マカヂシジヌキと讀む。マカヂは、前の歌にあるに同じ。シジヌキは、密に船に取りつけて。ヌクは、船にカヂをとりつけるさまが、舟の内外に貫徹するのでいう。
 大王之御命恐 オホキミノミコトカシコミ。既出(卷一、七九)。勅命の畏さにの意。
 礒廻爲鴨 イソミスルカモ。イソメグルカモ(類)、アサリスルカモ(西)、イソミスルカモ(童)、イサリスルカモ(考)。礒廻は、集中普通に地形をいう語に使用されているが、ここは、舟行の義に使用されていると解せられる。この意味における用法には、「鹽干者《シホフレバ》 共滷爾出《トモニカタニイデ》 鳴鶴之《ナクタヅノ》 音遠放《コヱトホザカル》 礒廻爲等霜《イソミスラシモ》」(卷七、一一六四)がある。そのほか、類似の字面には、島廻、灣廻があり、「玉藻苅《タマモカル》 辛荷乃島爾《カラニノシマニ》 島廻爲流《シマミスル》 水烏二四毛有哉《ウニシモアレヤ》 家不v念有六《》イヘオモハザラム」(卷六、九四三)、「島廻爲等《シマミスト》 礒爾見之花《イソニミシハナ》 風吹而《カゼフキテ》 波者雖v縁《ナミハヨルトモ》 不v取不v止《トラズハヤマジ》」(卷七、一一一七)、「灣廻爲流《ウラミスル》 人等波不》v知爾《ヒトトハシラニ》」(卷十九、四二〇二)の用例がある。これらの語は、いずれも動詞|爲《す》が接績しており、ある行動であることがあきらかである。迂廻することをタムといい、そのタは接頭語と見られるから、ミに迂廻の義があるものと見られる。地形をいう場合のミもこれと同語と考えられる。上に擧げた卷の七の歌と類似の句を、また「朝入爲等《アサリスト》 礒爾吾見之《イソニワガミシ》 莫告藻乎《ナノリソヲ》 誰島之《イヅレノシマノ》 白水郎可將v苅《アマカカルラム》」(卷七、一一六七)とも書(264)いており、ここにはかの島廻に相當する語を朝入と書いている。その朝入は、アサリと讀むべく、なお、「阿佐里須流《アサリスル》 阿末能古等母等《アマノコドモト》 比得波伊倍騰《ヒトハイヘド》」(卷五、八五三)、「朝入爲流《アサリスル》 海未通女等之《アマヲトメラガ》 袖通《ソデトホリ》 沾西衣《ヌレニシコロモ》 雖v干跡不v乾《ホセドカワカズ》」(卷七、一一八六)、「黒牛乃海《クロウシノウミ》 紅丹穗經《クレナヰニホフ》 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人四《オホミヤビトシ》 朝入爲良霜《アサリスラシモ》」(同、一二一八)など使用されている。この歌の礒廻も、これらの灣廻、島廻と共に、アサリと讀むべきであるともされている。この歌では、國司として舟行することを、イソミスルといつている。
【評語】大船を艤装して北海を航行することが歌われている。第四句までは堂々たる格調であつて、五句に至つて島廻の語を使つて具體的に敍しているのもよい。「大船に眞梶しじぬき」「大君の命かしこみ」など、慣用句を多く使用しているのは、類型的なのを免れない。
 
右今案、石上朝臣乙麻呂、任2越前國守1。蓋此大夫歟。
 
右は、今案ふるに、石上の朝臣乙麻呂、越前の國の守に任《ま》けらえき。けだしこの大夫か。
 
【釋】右今案 ミギハイマカムガフルニ。題詞の石上の大夫とあるに對する萬葉集の編者の私案である。
 越前國守 コシノミチノクチノクニノカミ。乙麻呂が越前の守に任命されたことは、他に傳わらない。
 
和歌一首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。前の石上の大夫の歌に唱和した歌。左註に笠の朝臣金村の歌の中に出づとあるによれば、金村の作であろう。
 
369 もののふの 臣《おみ》の壯士《をとこ》は、
(265) 大王《おほきみ》の 任《ま》けのまにまに
 聞くといふものぞ。
 
 物部乃《モノノフノ》臣之壯士者《オミノヲトコハ》
 大王之《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》
 聞跡云物曾《キクトイフモノゾ》
 
【譯】官仕の臣下の壯士は、大君の仰せのままに從うということです。
【釋】物部乃 モノノフノ。モノノフは、既出(卷一、五〇)。文武の官僚の意。
 臣之壯士者 オミノヲトコハ。臣下である壯士は。
 任乃隨意 マケノマニマニ。ヨサシノママニ(西)、マケノマニマニ(代初書入)。マケは、ある事をゆだね任すをいう。任命のままに。「大王能《オホキミノ》、麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》」(卷十七、三九五七)等、用例が多い。マケは、他に對して寄託する義である。下二段活の動詞|任《マ》クの連用形。
 聞跡云物曾 キクトイフモノゾ。キクは聽從の義に使用している。初句から聞クまでを、トで受けている。世間で、かようにいつていることだの意。
【評語】前の歌が、石上の大夫の北國に國守たることをみずから隣れむ意であるとすれば、この歌は、それを慰めたことになる。また前の歌がこの作者に同情しているとすれば、これは自慰の情を述べたと見られる。臣道の倫理を説いたような歌で、抽象的であるだけに風趣に乏しい。
 
右作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
 
右は作者いまだ審ならず。但し笠の朝臣金村の歌の中に出づ。
 
【釋】笠朝臣金村之歌中出也 カサノアソミカナムラノウタノナカニイヅ。これによつて笠の金村の名における歌の集録のあつたことが知られる。笠の朝臣金村の歌中とあるは、卷の六、九にもあり、笠の朝臣金村の歌(266)集とあるは、卷の二にある。特に指定のないのは、金村の作歌と見られるものであり、題詞に笠朝臣金村作歌とあるものも、その集録から採取したものと考えられる。それは、題詞に金村作歌とあるものと、歌中また歌集に出づとあるものとの、書式用字法の研究により、推考されるところである。
 
安倍廣庭卿歌一首
 
【釋】安倍廣庭卿 アベノヒロニハノマヘツギミ。既出(卷三、三〇二)。
 
370 雨|零《ふ》らず との曇《ぐも》る夜の うるほへど、
 戀ひつつをりき。
 君待ちがてり。
 
 雨不v零《アメフラズ》 殿雲流夜之《トノグモルヨノ》 潤濕跡《ウルホヘド》
 戀乍居寸《コヒツツヲリキ》
 君待香光《キミマチガテリ》
 
【譯】雨が降らないですつかり曇つている夜で、じめじめしていましたけれども、戀しておりました。あなたを待つ一方には。
【釋】雨不零 アメフラズ。言葉の通り雨が降らないで。次の句を修飾している。
 殿雲流夜之 トノグモルヨノ。トノゲモルは、タナグモルともいう。すつかりかき曇る意。「等乃具母利《トノグモリ》 安米能布流日乎《アメノフルヒヲ》」(卷十七、四〇一一)、「許能見油流《コノミユル》 安麻能之良久母《アマノシラクモ》 和多都美能《ワタツミノ》 於枳都美夜敝爾《オキツミヤベニ》 多知和多里《タチワタリ》 等能具毛利安比弖《トノグモリアヒテ》 安米母多麻波禰《アメモタマハネ》」(卷十八、四二一二)、「許能美由流《コノミユル》 久毛保妣許里弖《クモホビコリテ》 等能具毛理《トノグモリ》 安米毛布良奴可《アメモフラヌカ》 己許呂太良比爾《ココロダラヒニ》」(同、四一二三)など見えている。この句は、次の句の理由として曇つた夜であつての意と解せられる。
 潤濕跡 ウルホヘド。疑問の句であつて、諸訓がある。誤字説は別として、このままでは、舊訓にヌレヒテト、(267)代匠記にヌレヒツト、童蒙抄にシメジメトかとある。潤は、「未通女等《ヲトメラガ》 赤裳下《アカモノスソノ》 閏將v往見《ヌレユカムミム》」(卷七、一二七四)の歌に閏をヌレと讀んでおり、潤閏は同字であるからこれもヌレと讀むべきである。濕は、「浪爾所v濕《ナミニヌレ》」(卷一、二四)の如く、これもヌレと讀んでいる。濕をヒヅと讀む説が多いが、ヒヅは水に浸る意の語であるから、濕には適わない。さて潤濕は、同意の字を重ねて意をあらわすもので、本卷にも集聚(四七八)などの例がある。また跡を助詞ドに當てることは集中例多く、助動詞を讀み添えることも「石根蹈《イハネフミ》 夜道不v行《ヨミチユカジト》 念跡《オモヘレド》 妹依者《イモニヨリテハ》 忍金津毛《シノヒカネツモ》」(卷十一、二五九〇)の如き、念跡をオモヘレドと讀んでいる如きがある。類聚名義抄には、潤、濕ともにウルフと訓しているので、今ウルホヘドと讀む。くもつた夜の濕氣の多いことをいうのだろう。
 戀乍居寸 コヒツツヲリキ。この戀は、五句の待つ君に對する戀で、男子どうしの戀であろう。句切。
 君待香光 キミマチガテリ。ガテリは既出(卷一、八一)。かたわらの意の語で、君を待ちながらと解すべきである。上四句に對する副詞句である。
【評語】第三句が疑問の句であつて、歌意明解を缺く。こんなしめつぽい夜であつても、君がおいでになるだろうかと待つていたというのだろう。その來た人に與えた歌のようである。
 
出雲守門部王、思v京歌一首 後賜2大原眞人氏1也
 
出雲の守門部の王の、京を思《しの》ふ歌一首【後、大原の眞人の氏を賜へり。】
 
【釋】出雲守門部王 イヅモノカミカドベノオホキミ。既出(卷三、三一〇)。この人、出雲の守に任ぜられたことは、他書に見えない。
 思京歌 ミヤコヲシノフウタ。京は、歌詞に佐保川の思われることをいつているによつても、平城の京であることが確かめられる。出雲の任地にあつて詠んだ歌である。
 
(268)371 飫宇《おう》の海の 河原の千鳥、
 汝《な》が鳴けば、
 わが佐保河の 念《おも》ほゆらくに。
 
 飫海乃《オウノウミノ》 河原之乳鳥《カハラノチドリ》
 汝鳴者《ナガナケバ》
 吾佐保河乃《ワガサホガハノ》 所v念國《オモホユラクニ》
 
【譯】飫宇の海の河原の千鳥よ、お前が鳴けば、わたしの故郷の佐保川が思われることである。
【釋】飫海乃 オウノウミノ。飫は、オの音に當る字で、ウに當る字がないが、出雲の國の意宇《おう》郡の海であろう。同じ作者の作に「飫宇能海之《オウノウミノ》 鹽干乃鹵之《シホヒノカタノ》」(卷四、五三六)と書いたものがあり、ここには、ウに當る字を省略したものと解せられる。當時の國府は意宇郡にあり、その郡は今の八束《やつか》郡と能義《のぎ》郡とに當り、國府は今の中の湖に面した地とされているから、飫宇の海というのは、今の中の湖と解せられる。萬葉集攷證には、飫を食の過多なる義に取つてオホと讀み、出雲の椽《じよう》安宿《あすかべ》の奈杼麻呂《などまろ》の歌「大君の命かしこみ於保乃宇良《おほのうら》を背向《そがひ》に見つつ都へのぼる」(卷二十、四四七二)の於保の浦と同地としているが、なお意宇の海とすべきである。
 河原之乳鳥 カハラノチドリ。飫宇の海の河原というのは、海に注ぐ河口の河原である。チドリは千鳥。水邊に群棲する鳥。その鳥に呼びかけている。
 汝鳴者 ナガナケバ。千鳥に對して汝と呼んでいる。上の二六六の歌にも出ている句。
 吾佐保河乃 ワガサホガハノ。佐保川は、平城の京を流れる川の名。それに親しみを感じてワガと冠している。佐保川に千鳥を詠み合わせた歌は多い。
 所念國 オモホユラクニ。念われることだの意。クはコトの意。ニは助詞。
【評語】旅に出て孤獨の感に堪えかねて河原の千鳥に呼びかけている。既出の「淡海乃海《アフミノウミ》 夕浪千鳥《ユフナミチドリ》」(卷三、二六六)の歌と、同巧の作というべきである。この歌も初二句を名詞で連ねて、呼びかける氣分を濃厚にして(269)いる。望郷の作は多いが、中にも孤獨感がよくあらわれ、故郷のなつかしさも見えるすぐれた作である。
 
山部宿祢赤人、登2春日野1作歌一首 并2短歌1
 
山部の宿禰赤人の、春日野に登りて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】登春日野 カスガノニノボリテ。春日野は、平城京東方の原野をいう。この歌によれは、主として三笠山が詠まれており、ここに登とあるは、その山に登つたことと考えられる。さすれば、その山をも含めて春日野といつたのであろう。
 
372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山の
 高座《たかくら》の  三笠の山に、
 朝さらず 雲居たな引き、
 容鳥《かほどり》の 間《ま》なく數《しば》鳴く。」
 雲居なす 心いさよひ、
 その鳥の 片戀のみに、
 畫はも 日のことごと、
 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと、
 立ちて居て 念ひぞわがする。
 逢はぬ兒ゆゑに。」
 
 春日乎《ハルヒヲ》 春日山乃《カスガノヤマノ》
 高座之《タカクラノ》 御笠乃山尓《ミカサノヤマニ》
 朝不v離《アササラズ》 雲居多奈引《クモヰタナヒキ》
 容鳥能《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》
 雲居奈須《クモヰナス》 心射左欲比《ココロイサヨヒ》
 其鳥乃《ソノトリノ》 片戀耳二《カタコヒノミニ》
 畫者毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 立而居而《タチテヰテ》 念會吾爲流《オモヒゾワガスル》
 不v相兒故荷《アハヌコユヱニ》
 
(270)【譯】春の日の霞んでいる春日山中の高い位置にある三笠の山に、朝毎に雲が懸かつて棚引き、容鳥は間斷なくしきりに鳴いている。その雲のように心が落ちつかず、その鳥のように片戀ばかりに、晝間は一日中、夜は一夜中、立つたり居たりして物思いをわたしはする。逢わないあの子ゆえに。
【構成】第一段、容鳥ノ間ナク數鳴クまで。三笠の山の光景を敍し、第二段の詞句を引き出す。以下第二段、第一段の敍述を使つて詞句を起し、日夜物思いをすることを述べている。
【釋】春日乎 ハルヒヲ。枕詞。春の日が霞むというので、春日《かすが》に懸かる。日本書紀には「播?比能《ハルヒノ》 箇須我嗚須擬《カスガヲスギ》」(九四)、「播?比能《ハルヒノ》 柏{我能倶??《カスガノクニニ》」(九六)とある。ここにハルヒヲとあるヲは、感動の助詞で、春日を呼びかける意味に使用されている。「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)とも「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)ともいう類である。この句は枕詞ではあるが、時あたかも春であつて、この枕詞を置いたと見るべきである。春でもないのにかような枕詞を使用したとすれば、一首の統制を妨害する。作歌に習熟していると考えられるこの人は、さような愚を敢えてしないであろう。歌中の容鳥の語も、時の春であつたことを語つている。
 春日山乃 カスガノヤマノ。春日は、平城東方の總稱で、その東方の山彙を春日山という。日本書紀開化天皇紀に「春日、此《コヲバ》云(フ)2箇酒鵞《カスガト》1」とある。枕詞に「春日《はるひ》の」というよりして、春日の字を當てるに至つたもので、飛ブ鳥ノ明日香というよりして、アスカに飛鳥の文字を當てるに至つたと同樣である。
 高座之 タカクラノ。反歌には、高?之と書いてある。このほかに使用例はない。國語のクラは、座席、鞍、倉庫、溪谷等の數義があるが、そのうちのいずれであろうか。從來タカクラをもつて高御座の義とし、高御座の御蓋の意に枕詞となつていると解していたのは、高座の文字によるものであろう。しかし高御座をタカクラという例なく、ここにそれを使用するのも突然の感がなきを得ない。言葉通り、春日山中において高い位置を(271)占める三笠の山の意に解して然るべきであろう。
 御笠乃山尓 ミカサノヤマニ。春日神社の東方の山をいう。今いう若草山のことではない。ミは接頭語、美稱。三の意ではない。
 朝不離 アササラズ。朝ごとに。「川余藤不v去《カハヨドサラズ》」(卷三、三二五)參照。
 雲居多奈引 クモヰタナヒキ。ヰは、接尾語としても使用されるが、ここは動詞として使用され、雲が動かずに懸かつているをいう。
 容鳥能 カホドリノ。容鳥は、問題の鳥で、今日の何鳥に當るかあきらかでない。賀茂の眞淵は、かつほう鳥という鳥で、その聲がカホウカホウと聞えるからいうとしている。これは、今日カツコウという鳥のことであるが、これは推論である。この鳥名、集中になお、「炎乃《カギロヒノ》 春爾之成者《ハルニシナレバ》 春日山《カスガヤマ》 御笠之野邊爾《ミカサノノベニ》 櫻花《サクラバナ》 木晩?《コノクレガクリ》 貌鳥者《カホドリハ》 間無數鳴《マナクシバナク》」(卷六、一〇四七)、「朝井代爾《アサヰデニ》 木鳴杲鳥《キナクカホドリ》 汝谷文《ナレダニモ》 君丹戀八《キミニコフレヤ》 時不v終鳴《トキヲヘズナク》(卷十、一八二三)、「容鳥之《カホドリノ》 間無數鳴《マナクシバナク》 春野之《ハルノノノ》 草根乃繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(同、一八九八)、「夜麻備爾波《ヤマビニハ》 佐久良婆奈知利《サクラバナチリ》 可保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナグ》」(卷十七、三九七三)の例がある。これらの例によれば、春鳴く鳥であり、山邊にも水邊にも歌われている。多く容鳥、貌鳥の字が使われているのは、カホに容貌の義を感じていたと見るべく、これを鳥名の語義とすれば、視覺よりの名と考えられ、美しい鳥が想像される。これに類する語に、カホバナ(容花、貌花)があり、それと合わせ考えて、美しい鳥の義とすべきだろう。
 間無數鳴 マナクシバナク。マナクは間斷なく、シバナクは、しきりに鳴くの意。容鳥の間なくしば鳴くことは、前に掲げた例に見えている。以上第一段で、三笠山の情景を敍しており、第二段の、雲居ナス、ソノ鳥ノを引き出す役目をしている。
 雲居奈須 クモヰナス。このヰは接尾語で、クモヰは、動かない雲をいうが、ここではただ雲の意になる。(272)ナスは、その如くの意。第一段の、雲居タナビキの句を受けている。次の句の枕詞。
 心射左欲比 ココロイサヨヒ。イサヨヒは、躊躇し逡巡する意。心がいさようは、心の定著しない意で、おちつかないのである。
 其鳥乃 ソノトリノ。上の容鳥を受けている。次の句の枕詞。
 片戀耳二 カタコヒノミニ。カタコヒは、一方的にする戀をいう。鳥の鳴くを、片戀に鳴くと解している。
 晝者毛日之盡夜者毛夜之盡 ヒルハモヒノコトゴトヨルハモヨノコトゴト。既出(卷二、一五五)。晝間は一日のことごとく、夜間は一夜のことごとくの意で、日夜とも始終である。
 立而居而 タチテヰテ。立つて、またいてで、ここは立つてもいてもの意。
 念曾吾爲流 オモヒゾワガスル。思いをわたしがするの意で、句切。この思いは、上の片戀を受けて、片戀ゆえに思いをするよしである。
 不相兒故荷 アハヌコユヱニ。アハヌは、逢わない。コは愛人をいう。その人に對して片戀をしているのである。この句は、上のオモヒゾワガスルの内容を説明している。
【評語】第一段の三笠山の春の敍述は、あい變わらず美しい。それから第二段を引き出す手段は、常型であるが巧みである。第一段の春の野の敍述と、第二段の日夜を片戀に明かし暮らすということとは、矛盾感がありしつくりと落ちつかない。傑作ではないが、清楚な小品である。
 
反歌
 
373 高?《たかくら》の 三笠の山に 鳴く鳥の、
(273) 止《や》めば繼がるる 戀《こひ》もするかも。 
 
 高?之《タカクラノ》 三笠乃山尓《ミカサノヤマニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》
 止者繼流《ヤメバツガルル》 戀哭爲鴨《コヒモスルカモ》
 
【譯】高い處にある三笠の山に鳴く鳥のように、やめばまた繼がれる戀もすることだ。
【釋】高?之三笠乃山尓鳴鳥之 タカクラノミカサノヤマニナクトリノ。以上三句、次の句を引き出す序詞。
 止者繼流 ヤメバツガルル。鳥の鳴くことがやめば、また自然に鳴き繼がれて間がないということから、わが戀もかくの如しの意に詠んでいる。連體形の句。
 戀哭爲鴨 コヒモスルカモ。哭をモと讀むことは、「在杲石《アリガホシ》 住吉里乃《スミヨシサトノ》 荒樂苦惜哭《アルラクヲシモ》」(卷六、一〇五九)、「奧浪《オキツナミ》 驂乎聞者《サワクヲキケバ》 數悲哭《アマタカナシモ》」(卷七、一一八四)などの例がある。何故に哭がその音を表示するかはあきらかでないが、喪には哭するものであるから、哭をもつて喪の意を表わしたと言われている。説文には、喪をもつて哭と亡との會意の字としているのによれば、古く哭の形をもつて、喪の意に使用したものであろう。
【評語】長歌の形體と内容とを要約した歌で、特に鳥に集中している。序詞も器用に使われている。「君が著る三笠の山に居る雲の立てば繼がるる戀もするかも」(卷十一、二六七五)の歌は、この歌の鳥を雲に代えているが、同巧の類歌というべきである。
 
石上乙麻呂朝臣歌一首
 
374 雨|零《ふ》らば 蓋《き》むと念《おも》へる 笠の山、
 人にな蓋《き》しめ
 霑《ぬ》れはひづとも。
 
 雨零者《アメフラバ》 將v蓋跡念有《キムトオモヘル》 笠乃山《カサノヤマ》
 人尓莫令v蓋《ヒトニナキシメ》
 霑者漬跡裳《ヌレハヒヅトモ》
 
【譯】雨が降つたら著ようと思つている笠の山を、ほかの人には著せるな。びつしより濡れても。
(274)【釋】雨零者 アメフラバ。次の句のキムに對する未然の條件法になつている。
 將蓋跡念有 キムトオモヘル。わが著ようと思つているの意で、以上二句、次の句の笠を説明している。
 笠乃山 カサノヤマ。三笠の山をいう。講義には、式上郡(今磯城郡に屬する)の笠村の山であろうという。
 人尓莫令蓋 ヒトニナキシメ。ヒトは、他の人をいう。キシメは、連用形。上のナを受けて、著せるなの意になる。句切。
 霑者漬跡裳 ヌレハヒヅトモ。ヌレハヒヅは、濡れて水びたりになる意である。よし他の人は濡れて水びたりになつても、この笠を著せるなの歌意である。
【評語】背の山という山名が、男性の山の義と同音であるよりして、常にそれに思い寄せて歌つているように、笠の山の名によつて、興を催して詠んでいる。笠の山を眺めて詠んだ歌と思われる。歌としては、山名に拘泥しているだけに、格別の事はない。
 
湯原王、芳野作歌一首
 
湯原の王の、芳野にて作れる歌一首。
 
【釋】湯原王 ユハラノオホキミ。日本後紀、延暦二十四年十一月、大納言正三位兼彈正尹|壹志濃《いちしの》の王の薨去の時の記事に、田原の天皇の孫、湯原の親王の第二子とある。田原の天皇は、天智天皇の皇子志貴の皇子である。湯原の王は、何時世を去られたか未詳である。作歌は、短歌ばかり十七首傳わつている。その歌の製作時代もあきらかでないが、大體天平時代の歌の中にはいつている。その歌品は、集中でも新しい方面を代表しており、清新の氣に滿ちているので注意される。
 
(275_)375 吉野《よしの》なる 夏實《なつみ》の川の 川淀に
 鴨ぞ鳴くなる。
 山かげにして。
 
 吉野尓有《ヨシノナル》 夏實之河乃《ナツミノカハノ》 川余杼尓《カハヨドニ》
 鴨曾鳴成《カモゾナクナル》
 山影尓之弖《ヤマカゲニシテ》
 
【譯】吉野なる夏實の川の、川の淀みに鴨が鳴いている。ちようど山陰であつて。
【釋》吉野尓有夏實之河乃 ヨシノナルナツミノカハノ。爾有は、爾は表音文字、有は表意文字であるから、歴史的かなづかいとしてはニアルと書く。約してナルという。夏實は、吉野山中の地名。宮瀧の上流|中莊《なかしよう》村の地に、今、菜摘《なつみ》の名が殘つている。夏實の川は、吉野川の、その地を通過する邊をいう。
 川余杼尓 カハヨドニ。カハヨドは既出(卷三、三二五)。川の淀みで、水の停滞している處である。
 鴨曾鳴成 カモゾナクナル。ナルは、指定の助動詞。ゾを受けて連體形をもつて結んでいる。
 山影尓之弖 ヤマカゲニシテ。鴨の鳴く處を指示している。ヤマカゲは山の陰で、山のために日光が遮られて陰になつている場處である。
【評語】しずかな山中の情景を寫した、よい歌である。吉野川の山陰の淵に鴨が鳴いている。それだけであるが、いかにも物靜けさを見透した歌である。そうしてこの歌の表現技術が、直敍法によらずして、第四句で切り、第五句は囘顧の手段に出たのは、集中でも新しい時代の作者としての特色がある。
 
湯原王、宴席歌二首
 
【釋】宴席歌 ウタゲノウタ。當時、宴席では、興に乘じて歌が吟誦された。そういう意味の歌である。
 
(276)376 蜻蛉羽《あきづば》の 袖振る妹を、
 珠匣《たまくしげ》 奧に念《おも》ふを
 見たまへ。吾君《わぎみ》。
 
 秋津羽之《アキヅバノ》 袖振妹乎《ソデフルイモヲ》
 珠匣《タマクシゲ》 奧尓念乎《オクニオモフヲ》
 見賜吾君《ミタマヘワギミ》
 
【譯】美しい娘子が薄物の袖を翻して舞つている。自分はその娘子を心から思うのであるが、その事を君は知つていられるか。
【釋】秋津羽之 アキヅバノ。アキヅバは、トンボの羽で、ここでは薄い透き通つた衣服の袖をいおうとしてこの句を起している。次の句の袖を説明する句。「秋都葉爾《アキツバニ》 々寶敝流衣《ニホヘルコロモ》 吾者不v服《ワレハキジ》 於v君奉者《キミニマツラバ》 夜毛著金《ヨルモキルガネ》(卷十、二三〇四)の歌の、秋都葉ニニホヘル衣は、ニホヘルの語が受けており、かつ秋の部にはいつていることを思えば、このアキヅバと違うもので、秋の黄葉の色のような美しい衣服をいうのであろう。
 袖振妹乎 ソデフルイモヲ。ソデは、衣服の、手を蔽つている部分をいう。手よりも長目になつている。袖振ルは、ここでは舞をすることと解せられる。妹は、婦人に對する愛稱。ここでは宴席に侍した女をいう。
(277) 珠匣 タマクシゲ。枕詞。美しい匣。匣の中の意に、次の奧に懸かる。女子について歌うので、特にこの枕詞を使用している。珠匣は、婦人が物を秘藏する箱で、しばしば呪禁の意のある靈物を藏している。
 奧尓念乎 オクニオモフヲ。オクは心の底深い處をいう。心に深く思うをの意。「長門有《ナガトナル》 奧津借島《オキツカリシマ》 奧眞經而《オクマヘテ》 吾念君者《ワガオモフキミハ》 千歳爾母我毛《チトセニモガモ》」(卷六、一〇二四)の歌の、奧マヘテワガ念フというは、この奧ニ念フと同じ意である。
 見賜吾君 ミタマヘワギミ。ミタマヘは、わが心中を見たまえの意。ワギミは、わが君の義で、ワガは親愛の情をもつて冠している。宴席に同座する人をいう。
【評語】宴席に舞う娘子を見て、興に乘じて詠んでいる。秋津羽ノ袖フル妹、珠匣など、美しい語を使用しているのが、歌意にふさわしい。
 
377 青山の 嶺の白雲、
 朝にけに 常に見れども
 めづらし。吾君《わぎみ》。
 
 青山之《アヲヤマノ》 嶺乃白雲《ミネノシラクモ》
 朝尓食尓《アサニケニ》 恒見杼毛《ツネニミレドモ》
 目頬四吾君《メヅラシワギミ》
 
【譯】青々とした山に白雲のたなびいている景色を常に見ていても飽きないように、朝夕に常に見ても、飽く事なく、愛すべきあなただ。
【釋】青山之嶺乃白雲 アヲヤマノミネノシラクモ。アヲヤマは、山には普通に草木が茂つていて青く見えるからいう。馬を赤駒という類で、ただ山の意と心得てよいが、青山の語を使うことによつて、その山が印象的に感じられる。ミネは、山の高い處。ミネノシラクモは、嶺に懸かつている雲である。次の朝ニケニを引き出す序詞になつている。
(278) 朝尓食尓 アサニケニ。食の字は、訓を借りてケの音を表示している。ケは、ケ長シなどのケと同じで、時の意の語である。來經の約言とすることは、證明のないことである。この句は、朝に時にで、始終の意の副詞。このケニは、日ニケニのケニとは別。日ニケニは、日ニ異ニで、そのケは甲類、時の意のケは乙類の音である。
 恒見杼毛 ツネニミレドモ。ツネニは、絶えずの意。
 目頬四吾君 メヅラシワギミ。メヅラシは、賞すべくある意の形容詞。珍奇の意ではない。終止形。ワギミ(279)は、前の歌と同じく宴席に同座せる人をいう。
【評語】譬喩を用いているが、歌全體が暗喩になつていないで、初二句だけが譬喩の句になつており、その如くにの意で下句に續いている。青山の嶺の白雲と大きく出て、吾君を常に見ても飽きないという、自然を人事に應用したところに趣がある。青山の嶺の白雲は、美しく色彩の鮮明な句である。
 
山部宿祢赤人、詠2故太政大臣藤原家之山地1歌一首
 
山部の宿禰赤人の、故《もと》の太政大臣藤原の家の山の池を詠める歌一首。
 
【釋】詠故太政大臣藤原家之山池歌 モトノオホキオホマヘツギミフヂハラノイヘノヤマノイケヲヨメルウタ。故は、物故の義で、死者に冠して使用する。ここに特にこの字を使用したのは、資料から來ているのであろう。太政大臣藤原の家は、藤原の不比等。不比等は、鎌足の第二子、慶雲五年に右大臣となり、養老四年八月に薨、十月に正一位太政大臣を贈られた。されば贈太政大臣と書くべきであるが、本集、また續日本紀、懷風藻にも、贈の字を附けないで書かれている。家は、その家の義。山池は熟字で、ここは不比等の邸宅の庭の池をいう。山を配した池であつたであろう。
 
378 昔者《いにしへ》の 舊き堤は、
 年深み、
 池の渚《なぎさ》に 水草《みくさ》生《お》ひにけり。
 
 昔者之《イニシヘノ》 舊堤者《フルキツツミハ》
 年深《トシフカミ》
 池之瀲尓《イケノナギサニ》 水草生尓家里《ミクサオヒニケリ》
 
【譯】昔の古い堤は、年が多く積つたために、池の渚に水草が生い茂つた。
【釋】昔者之 イニシヘノ。昔者は熟字で、古昔の意に使用されている。ここでは不比等の生前をいう。
(280) 舊堤者 フルキツツミハ。ツツミは、水を包む土木をいう。多分、土を盛《も》つて池堤を造つたのであろう。その古びたのを擧げている。
 年深 トシフカミ。年が經過したことを、年深シという。「根毛許呂爾《ネモコロニ》 君之聞四手《キミガキコシテ》 年深《トシフカク》 長四云者《ナガクシイヘバ》」(卷四、六一九)、「一松《ヒトツマツ》 幾代可歴流《イクヨカヘヌル》 吹風乃《フクカゼノ》 聲之清者《コエノキヨキハ》 年深香聞《トシフカミカモ》」(卷六、一〇四二)、「根乎延而《ネヲハヘテ》 年深有《トシフカカラシ》 神左備爾家里《カムサビニケリ》」(卷十九、四一五九)等の用例がある。
 池之瀲尓 イケノナギサニ。ナギサは、浪の寄する水邊をいう。
 水草生尓家里 ミクサオヒニケリ。ミクサは文字通り水草である。ニケリは詠嘆の語法。
【評語】その人のさかんな時代には、草も生えないが、その人が亡くなつて、庭園の荒れたことを、水草生ヒニケリの一句にあらわし、故人を思う情を寄せている。赤人は、不比等の恩顧を蒙つたことがあつて、そのコを追憶しているのであろう。「み立《たち》せし島の荒橘《ありそ》を今見れば生《お》ひざりし草生ひにけるかも」(卷二、一八一)の歌は、草壁の皇子の薨後、その宮の舍人《とねり》の詠んだ歌であるが、この歌と同巧である。その歌は、表面から説明して歌つているが、赤人のこの歌は、感情の表出がすくなく、内に藏しているところが多い。よく味わえば、かえつて感銘する所が深い。
 
大伴坂上郎女、祭v神歌一首 并2短歌1
 
大伴の坂上の郎女の、神に祭る歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】大伴坂上部女 オホトモノサカノウヘノイラツメ。卷の四、五二八の歌の左註に「右、郎女は、佐保の大納言の卿の女なり。初め一品穗積の皇子に嫁《ゆ》き、寵《うつく》しまるること儔《たぐひ》なかりき。皇子薨りたまひし後、藤原の麻呂の大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女は、坂上の里に家せり。よりて族氏《やから》號《なづ》けて坂上の郎女といへり」とある。(281)佐保の大約言の卿は、大伴の安麻呂で、その女であつて、旅人の妹に當る。母は石川の内命婦である。坂上の里にいたので、坂上の郎女という。坂上は、奈良縣生駒郡|三郷《みさと》村立野の東北の地、今、坂上《さかね》という。郎女は、女子の敬稱。日本書紀、景行天皇紀に「稻日稚郎姫《イナビノワカイラツメ》、郎姫、此《コヲバ》云《イフ》2異羅菟刀sイラツメト》1」とある。はじめ穗積の皇子に嫁し、寵せられることたぐいがなかつたが、皇子の薨じた後、藤原の麻呂が娉《つまど》うた。麻呂は不比等の子である。坂上の郎女には、大伴の坂上の大孃等の女があり、その坂上の大孃は、後に家持の妻となつたが、この人は大伴の宿奈麻呂の女であるというから、坂上の郎女は、宿奈麻呂とも婚したこととなる。天平の初めには、旅人に從つて、大宰府にあり、天平二年に歸京して後は、佐保の宅等にあつて晩年を送つたものとおぼしく、天平勝寶二年に、その女坂上の大孃に與えた歌を最後として、その後の消息を傳えない。坂上の郎女は、婦人の身をもつて神龜天平間の男子のあいだに伍して遜色のない歌を詠んでいる。短歌に巧みな婦人は、ほかにも見受けるが、坂上の部女は、長歌をもよくし數篇の作を留めている。その作品といい閲歴といい、才色兼備をもつて評するにふさわしい人である。古の額田の王と併わせて、萬葉を代表すべき女流歌人とすべきである。
 祭神歌 カミニマツルウタ。左註によれば天平五年十一月に、大伴氏の氏神を祭つた時の歌ということである。大伴氏の神は、その祖先神と信じられている天の忍日《おしひ》の命で、神武天皇の御東征に從つた道の臣の命も祭られているであろうし、ほかにも大伴氏の守護神が配祀されているであろう。藤原氏の例によれは、その祖先神たる天の兒屋の命、比賣神のほかに、經津主《ふつぬし》の命、建甕槌《たけみかづち》の命が氏神として祭られている。氏神は、その氏の本據とする地に、神社として定祀せられ、その處において祭祀が行われ、また邸宅内においても祭られた。大伴氏の神社は、古くは河内の國にあり、今の伴林《ばんばやし》神社がその社であるとされている。この歌は、そのいずれで作られたかは不明であるが、歌詞に、祭神を招請する意があり、邸宅における祭であるかと思われる。祭は、マツルと讀む。マツルは、物を捧げて奉仕する意の語で、神に對して、物をマツルという。よつてここも神ニ(282)マツル歌と讀む。神に奉仕する意である。
 
379 ひさかたの 天の原より
 生《あ》れ來《き》たる 神の命《みこと》。
 奧山の 賢木《さかき》の枝に、
 白香《しらか》著《つ》け 木綿《ゆふ》とりつけて、
 齋戸《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居《す》ゑ、
 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り、
 鹿猪《しし》じもの 膝折り伏せ、
 手弱女《たわやめ》の 襲衣《おすひ》取り懸け、
 かくだにも われは祈《こ》ひなむ。
 君に逢はぬかも。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天原從《アマノハラヨリ》
 生來《アレキタル》 神之命《カミノミコト》
 奧山乃《オクヤマノ》 賢木之枝尓《サカキノエダニ》
 白香付《シラカツケ》 木緜取付而《ユフトリツケテ》
 齋戸乎《イハヒベヲ》 忌穿居《イハヒホリスヱ》
 竹玉乎《タカダマヲ》 繁尓貫垂《シジニヌキタリ》
 十六自物《シシジモノ》 膝折伏《ヒザヲリフセ》
 手弱女之《タワヤメノ》 押日取懸《オスヒトリカケ》
 如v此谷裳《カクダニモ》 吾者祈奈牟《ワレハコヒナム》
 君尓不v相可聞《キミニアハヌカモ》
 
【譯】天から御出現になる神樣よ。奧山の榊の枝に白香や木綿を取り付けて、齋戸を地上に据え立て、竹玉を繁く貫き垂れ、獣のように膝を折り伏せ、婦人の襲衣を懸けて、かようにもわたくしは祈りましよう。それでも君にあわないのでございましょうか。
【構成】別に段落と見るべきものはない。初めに神を呼び、それに對して祭祀を行うことを敍し、最後の一句に祈願の主旨をあらわしている。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。天に懸かる。
(283) 天原從 アマノハラヨリ。從は、ユとも讀まれるが、「阿米欲里由吉能《アメyリユキノ》 那何列久流加母《ナガレクルカモ》」(卷五・八二二)の如く、ヨリは、ある地點からの動作をいう場合に、多く使用されているので、今ヨリとするによる。アマノハラは、廣い性質を有する天を表示する語。高天の原ともいう。實物の天をいい、またそれが神の常在の世界であるとする思想的解釋を含めていう。ここはその思想的解釋の濃厚な用法で、今は神の常在の世界として擧げている。
 生來 アレキタル。アレは、出現するの意の動詞。出生の意に使うのは、神秘を感じていうのである。「橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》」(卷一、二九)、「阿禮將v座《アレマサム》 御子之嗣繼《ミコノツギツギ》」(卷六、一〇四七)など使用されている。この句は、次の句に對する連體形の句で、天の原より生れ來たる神の命というが、すなわち大伴の氏神のことで、今の祭の場に招請した神をいう。これらの神は、高天の原におられるが、今そこから降つて、この祭の場に出現する意に、アレキタルというのである。これを、祖神の天の忍日の命が、高天の原から降下した事蹟と解する説があるが、それならば、過去の形をもつていわねばならぬのである。
 神之命 カミノミコト。既出(卷一、二九)。ミコトは尊稱。今この祭の場に招請した大伴の氏神をいい、それを呼び懸けている。
 奧山乃賢木之枝尓 オクヤマノサカキノエダニ。サカキは、神事に使用する樹で、賢は借字、榮樹の義であろう。古事記上卷、岩屋戸の段に、天の香具山の五百箇の眞賢木を根こじにこじてとある。何の樹であるかについては、「龍眼木、佐賀岐《サカキ》」(倭名類聚鈔、祭祀具類)、「日本紀私記云、天(ノ)香山之|眞坂樹《マサカキ》、佐加木《サカキ》、漢語抄、榊(ノ)字本朝式(ニハ)用(ヰル)2賢木(ノ)二字(ヲ)1、本草(ニ)云(フ)、龍眼、一名益智、佐賀岐乃美《サカキノミ》」(同、木類)、「龍眼、和名、佐加岐乃美《サカキノミ》」(本草和名)とあるが、今の何の樹であるかを知りがたい。久老は、シキミであるという。今、神事に使用する樹は、地方によつて相違があつて一定しない。古語にも、ユツ眞椿、ユツ杜樹《かつら》の語があり、神聖なる樹とするものは、か(284)ならずしも一定していなかつた。しかし繁茂した常緑木とすることは一定であり、それを神聖視して、神靈の宿る處と考えていた。ここに奧山のと説明しているのは、それが人間の汚濁に觸れないものであるとする意である。
 白香付 シラカツケ。神事關係のシラカは、このほかに、「白香付《シラカツク》 木綿者花物《ユフハハナモノ》 事社者《コトコソハ》 何時之眞枝毛《イツノマエダモツネ》 常不v所v忘《ツネワスラエネ》」(卷十二、二九九六)、「四舶《ヨツノフネ》 早還來等《ハヤカヘリコト》 白香著《シラカツケ》 朕裳裙爾《ワガモノスソニ》 鎭而將v待《イハヒテマタム》」(卷十九、四二六五)があり、いずれも白香の文字を使用している。これについては、仙覺が「白香は、シラカミノ四手也。コレスナハチシラニギテナルベシ」と釋してから、白紙とすることには異説を見ない。しかし紙はカミであつて、カとのみは言わない。紙は、外來文化の産物であつて、古代の祭祀には使用されるはずがなく、幣にもはじめアサ、コウゾの類が使用され、後に至つて紙が交え用いられるに至つた。紙を一定の形に切つてさげるのは、アサ、コウゾなどの形に模してさげるのであつて、紙が、アサ、コウゾよりも安價になつてからの事である。大祓の詞には、天つ菅麻《すがそ》を八針に取りさくことがあり、アサ、コウゾの類を細く裂いて白髪のようにして神事に使用したと考えられる。白髪と同語で、神事に使用するものを白香と書いたのであろう。
 木綿取付而 ユフトリツケテ。木綿《ゆふ》は、アサ、コウゾの皮のさらしたもの。主としてコウゾをいうが、アサをも含んで言われる。白香と木綿とは、同物であるが、白香は細く裂いたもの、木綿は、裂くにも至らないものであろう。賢木の枝に木綿の類を取り付けることは、その神性を増すためと考えられる。古事記岩屋戸の段に、賢木《さかき》に白丹寸手《しらにぎて》青丹寸手《あをにぎて》を取りつけるとあるに同じである。
 齋戸乎 イハヒベヲ。イハヒベは、集中、伊波比倍、以波比弊、齋戸、齋忌戸、忌戸の文字が使用されている。齋をイハヒと讀むは、日本書紀卷の二の訓註に「齋主、此《コヲバ》云(フ)2伊幡?《イハヒト》1」また「顯齋、此(ヲバ)云(フ)2于圖詩怡破?《ウヅシイハヒト》1」とあり、齋戸をイハヒベと讀むことには、異議はない。これを齋瓮《いはひべ》とすることは、仙覺の萬葉集註釋に「イハ(285)ヒヘヲイハヒホリスヱトは、御酒ヲ釀瓶也」とあるよりして、定説になつてゐる。しかし本集には、べに戸の字を當てており、瓶もしくは類似の意の字を當てたものは一もない。齋戸のいかなるものであるかを考察すべき資料としては、本集にしばしは齋戸ヲイハヒホリスヱの句があり、地を掘つて据えるものであることが知られる。その場處は、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(卷三、四二〇)、「伊波比倍須惠郡《イハヒベスヱツ》 安我登許能敝爾《アガトコノベニ》」(卷十七、三九二七)、「伊波比倍乎《イハヒベヲ》 等許敝爾須惠弖《トコベニスヱテ》」(卷二十、四三三一)の例によつて、枕邊、床邊であつたことが知られる。また「齋戸爾《イハヒベニ》 木綿取四手而《ユフトリシデテ》」(卷九、一七九〇)の例によつて、木綿を垂れることが知られる。もしイハヒベが酒瓶であつて、地を掘つて据えたとしたならば、これに若干の長さを有する木綿を垂れることは不可能である。「於保伎美能《オホキミノ》 美許等爾作例波《ミコトニサレバ》 知々波々乎《チチハハヲ》 以波比弊等於枳弖《イハヒベトオキテ》 麻爲弖枳爾之乎《マヰテキニシヲ》」(卷二十、四三九三)の歌は、解釋上問題もあるが、父母をイハヒベとして置いて來たというなるべく、この場合も齋瓮と解することは、情において無理がある。かくの如く、イハヒベは、齋瓮と解すべき根據としては、日本書紀崇神天皇紀に忌瓮の字があり、イハヒベと讀まれているのがあるのによるものである。いまこれに代わるべき解があるかというに、延喜式に、鎭2御魂齋戸1祭などの如く、齋戸の文字が使用されている。これは、一の神座であつて、神靈の宿る所であり、宮中の齋院にこれを置く。神靈の宿る所の義によつて、戸の字を使用しているのであろう。元來イハヒは、一の神事であつて、神を祭り、その威力によつて穢惡の起らないようにするをいう。そこで、イハヒベは、神聖なる神座の意になるのである。その構造等については不明であるが、奧山ノ賢木ノ枝ニ白香付ケ木綿取リ付ケテを、齋戸ヲイハヒ掘リスヱの準備工作とすれば、地を掘つて、その賢木の枝を立てることをするとも思われ、かの齋戸ニ木綿取リ垂デテというのも、結局、賢木の枝に木綿をつけるをいうとも考えられる。それは單に賢木のみでなく、鏡なども使用されるであろうが、賢木を立てることは、重要な位置を占め、更に木綿、竹玉などを垂れる等の工作がなされるのであろう。
(286) 忌穿居 イハヒホリスヱ。前項に説いたように、齋戸を掘り据えるのであり、それはイハヒの行事として清らかにしてするので、特にイハヒホリスヱという。例も前項に出した。
 竹玉乎 タカダマヲ。仙覺の萬葉集註釋に「竹玉乎繁爾貫垂トハ、陰陽家ニ、祭ノ次第ヲトヒ侍シカバ、祭詞中に、異國ヨリナラヒツタエタル祭モアリ、我朝ニ、モトヨリマツリキタル作法モアリ。タカタマト云ヘルハ、我朝ノ祭中ニ、昔ハ、竹ヲ玉ノヤウニキサミテ、神供ノ中ニ懸莊レルコトアリトナム申ス。サテソレヲハ、タカタマト云ケルカ、タケタマト云ケルカト問ヒ侍リシカハ、タカタマト云ト申侍リシナリ」とある。正倉院文書に、天平十年に、正税をもつて、白玉、紺玉、縹《はなだ》玉、緑玉、赤玉、赤|勾《まが》玉、丸玉、竹玉、勾縹玉を買つたことが見え、竹玉二枚の値が、稻三把四分であつたと傳えている。この竹玉は、竹のような形の玉と考えられる。もと神事に、竹を切つて玉として使用することがあり、後その形の玉をもいうようになつたのであろう。竹は神秘な植物として考えられていたので、これを切つて管玉としたものと思われる。
 繁尓貫垂 シジニヌキタリ。竹玉を緒に貫いて密に垂れるので、これは齋戸に垂れるものと推考される。以上、祭場の施設について敍している。
 十六自物 シシジモノ。既出(卷三、二三九)。十六をシシと讀むことも、同じ歌に見えている。枕詞。鹿猪のような物の意。次の句の膝を折り伏せる?を説明している。
 膝折伏 ヒザヲリフセ。神前に跪坐《きざ》禮拜をする?である。
 手弱女之 タワヤメノ。タワヤメは、本集に「多和也女能《タワヤメノ》 於毛比美太禮弖《オモヒミダレテ》」(卷十五、三七五三)など、タワヤメといつている。柔軟なる女性の義。この句は、われは手弱女なるが、手弱女としてなどの意で、次の句の主格句である。
 押日取懸 オスヒトリカケ。オスヒは、古事記上卷に「多知賀遠母《タチガヲモ》 伊麻陀登加受弖《イマダトカズテ》 淤須比遠母《オスヒヲモ》 伊麻陀(287)登加泥婆《イマダトカネバ》」(二)、中卷に「那賀祁勢流《ナガケセル》 意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》 都紀多知邇祁理《ツキタチニケリ》」(二八)、「和賀祁勢流《ワガケセル》 意須比能須蘇爾《オスヒノスソニ》 都紀多多那牟余《ツキタタナムヨ》」(二九)とあり、皇太神宮儀式帳に「帛|御意須比《ミオスヒ》八端【長各二丈五尺弘二幅】」とある。上に著るものの意で、旅行または神事に際し、衣服の上に被る衣裳であるが、その製法は知られない。
 如此谷裳 カクダニモ。ダニは、他事はおいてもこれだけはの意をあらわす助詞。上を受けて、かようにだけもというのは、心の中に切願するをばおいて、形だけでもかくの如しというのである。
 吾者祈奈牟 ワレハコヒナム。反歌には、吾波乞嘗と書いてある。コヒは、祈願の意の動詞。ナムは、ノム(祈)であるともいうが、ノムをナムという例證はない。やはり助動詞として解すべきである。すなわち、われはかくの如く祈願をしよう。君ニアハヌカモとの意とすべきである。
 君尓不相可聞 キミニアハヌカモ。舊訓、キミニアハジカモとあるが、槻落葉にキミニアハヌカモと讀んだのがよい。この句、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 開秋芽子《サケルアキハギ》 散過而《チリスギテ》 實成及丹《ミニナルマデニ》 於v君不v相鴨《キミニアハヌカモ》」(卷十、二二八六)の如き例がある。君は誰をさすか、知られない。アハヌカモは、逢わないかなあ、逢いたいものだの意で、希望をあらわす語法。
【評語】初めに、祭神を呼び懸けた手段はよい。それからの祭祀の敍述は、類型的で、この作者の創作ではない。終りに希望を述べているのが、この歌の主題であるが、前に何の用意もなく、突然たるを免れない。
 
反歌
 
380 木綿疊《ゆふだたみ》 手に取り持ちて、
 かくだにも 吾は祈《こ》ひなむ。
(288) 君に逢はぬかも。
 
 木綿疊《ユフダタミ》 手取持而《テニトリモチテ》
 如v此谷母《カクダニモ》 吾波乞甞《ワレハコヒナム》
 君尓不v相鴨《キミニアハヌカモ》
 
【譯】木綿疊を手に取り持つて、かようにもわたくしは祈りましよう。それでも君に逢うことができませんでしようか。
【釋】木綿疊 ユフダタミ。木綿で作つた疊。タタミは、疊まれるものをいう。木綿を編んで疊としたものと解せられる。「木綿裹《ユフヅツミ》【一云疊】白月山之《シラツキヤマノ》 佐奈葛《サナカヅラ》」(卷十二、三〇七三)の例によれば、白いものであることが知られる。
 手取持而 テニトリモチテ。木綿疊を手に持つて神を祭るのである。神事には、種々の物を手に持つことが傳えられている。古事記に小竹葉、本集に鏡、菅などある。手に織物を持つことは、「一手《ひとて》には木綿《ゆふ》取り持ち、一手には和粗布《にぎたへ》奉《まつ》り、平けく眞幸《まきき》く坐《ま》せと、天地の神社《かみ》を乞《こ》ひ?《の》み」(卷三、四四三)などある。
 如此谷母吾波乞甞君尓不相鴨 カクダニモワレハコヒナムキミニアハヌカモ。長歌の末三句を繰り返している。
【評語】初二句は、長歌に漏れたことを敍し、下三句は、長歌の末を繰り返している。長歌と密接な關係にある歌である。この神に祭る歌は、當時の神祭の?態が詳述されている點で注意される。祭るのは、普通に婦人の任務とされていたので、集中特に婦人の作が多い。
 
右歌者、以2天平五年冬十一月1、供2祭大伴氏神1之時、聊作2此歌1、故曰2祭v神歌1。
 
右の歌は、天平五年の冬十二月をもちて、大伴の氏の神に供《つか》へ祭りし時、聊《いささか》この歌を作りき。故《かれ》神に祭る歌といふ。
 
(289)【釋】右歌者 ミギノウタハ。以下、祭神歌の製作に關する記事であるが、その年月を明記し、また御の字のあることなどが注意される。これは作者、またはその親近の者の記録が材料となつているであろう。元來この卷は、作歌年代のあきらかでない歌を集めるのが建前であると認められるのに、この歌以後、往々にして年月の明記のあるものを載せたのは、第二次の増編によるものと考えられる。
 冬十一月 フユシモツキ。諸氏の氏神の祭は、年二囘、春は二月または四月、冬は十一月に行われる。この時期は、耕作の始終と關係があると考えられる。十一月は、新嘗祭の行われる月で、この氏神の祭にも、新穀を供進するものであろう。民間に於ける新嘗の祭と見てよい。
 供祭大伴氏神之時 オホトモノウヂノカミニツカヘマツリシトキ。大伴の氏神は、題詞のもとに記した。供祭は、祭祀を奉仕するをいう。
【參考】祭祀行爲の敍述ある歌。
  (上略)天雲の退方《そくへ》の極、天地の至れるまでに、杖つきも突《つ》かずも行きて、夕占《ゆふけ》問ひ石卜《いしうら》もちて、わが屋戸《やど》に御諸《みもろ》を立てて、枕邊に齋戸《いはひべ》をすゑ、竹玉を間《ま》なく貫《ぬ》き垂り、木綿《ゆふ》たすき臂《かひな》に懸けて、天なるささらの小野の、七相管《ななふすげ》手に取り持ちて、ひさかたの天の河原に、出で立ちて禊《みそ》ぎてましを(下略、卷三、四二〇)
  (上略)たらちねの母の命は、齋忌戸《いはひべ》を前にすゑ置きて、一手には木綿《ゆふ》取り持ち、一手には和紬布《にぎたへ》奉《まつ》り、平けくま幸《きき》くませと、天地の神を乞ひ?《の》み(下略、同、四四三)
  (上略)せむすべのたどきを知らに、しろたへのたすきを懸け、まそ鏡手にとり持ちて、天つ神仰ぎ乞ひ?《の》み、國つ神伏して額《ぬか》づき、かからずもかかりも、神のまにまにと、立ちあざりわが乞《こ》ひ?《の》めど(下略、卷五、九〇四)
  秋はぎを妻どふ鹿《カ》こそ、獨子《ひとりご》に子もてりといへ、鹿兒《かこ》じものわが獨子の、草枕旅にし行けば、竹玉をしじ(290)に貫《ぬ》き垂り、齋戸《いはひべ》に木綿とり垂《し》でて、いはひつつわが思ふ吾子《あこ》、ま幸《きき》くありこそ(卷九、一七九〇)
  菅《すが》の根のねもころごろに、わが念へる妹によりては、言《こと》の禁《いみ》も無くありこそと、齋戸《いはひべ》をいはひ掘りすゑ、竹玉を間《ま》なく貫《ぬ》き垂《た》り、天地の神祇《かみ》をぞわが祈《こ》ふ、いたも術《すべ》なみ(卷十三、三二八四)
  玉だすき懸けぬ時なく、わが念へる君によりては、倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて、竹玉《たかだま》をしじに貫き垂り、天地の神をぞわが乞ふ、いたも術《すべ》なみ(同、三二八六)
  大船の思ひたのみて、さなかづらいや遠長く、わが念へる君によりては、言の故も無くありこそと、木綿《ゆふ》だすき肩に取り懸け、忌戸《いはひべ》をいはひほりすゑ、天地の神祇《かみ》にぞわが祈《の》む、いたもすべ無み(同、三二八八)
  草枕旅ゆく君を幸くあれと齋戸すゑつ我《あ》が床《とこ》の邊《べ》に(卷十七、三九二七)
  (上略)言はむすべ爲むすべ知らに、木綿だすき肩に取り懸け、倭文幣《しづぬさ》を手に取り持ちて、な離《さ》けそとわれは?《の》めども(下略、卷十九、四二三六)
 
筑紫娘子、贈2行旅1歌一首 娘子字曰2兒島1
 
筑紫の娘子の、行旅に贈れる歌一首【娘子、字を兒島といふ。】
 
【釋】筑紫娘子 ツクシノヲトメ。筑紫の國の娘子の義。下に字《な》を兒島というとあり、卷の六に、大伴の旅人が大納言となつて、京に上ろうとした時に送つた遊行女婦の、名を兒島というのがある。その人である。
 行旅 タビビト。誰とも知られない。多分京から下つた官人であろう。
 
381 家思ふと こころ進むな。
 風守《かざまも》り 好《よ》くしていませ。
(291) 荒し。その路《みち》。
 
 思v家登《イヘオモフト》 情進莫《ココロススムナ》
 風候《カゼマモリ》 好爲而伊麻世《ヨクシテイマセ》
 荒其路《アラシソノミチ》
 
【譯】わが家を思うとて、お急ぎなさいますな。風のもようをよく見ていらつしやい。荒いその道ですから。
【釋】思家登 イヘオモフト。家は、その旅人の自宅をいう。トは、としての意。
 情進莫 ココロススムナ。サカシラスルナ(代初)、サカシラナセソ(考)。ココロススムは、心の急ぎ、はやるをいう。ナは禁止の助詞。情進は、「オホキミノツカハサナクニココロスシニユキシアラヲラオキニソデフル」
(卷十六、三八六〇)の使用例がある。句切。
 風候 カゼマモリ。風の樣子を見守ること。當時の航行は、帆もしくは艪櫂によつたので、風の順逆が、重要な條件になる。
 好爲而伊麻世 ヨクシテイマセ。風見を十分にして行けの意。イマセは、行けの意の敬語法。句切。
 荒其路 アラシソノミチ。アラキソノミチとも讀まれる。しかしアラシと切つた方が、歌意が荒いことに集中されてよい。アラキでは、單にその道の説明になるのである。このミチは、海路をいう。
【評語】三段に短文を重ねたのは、切實感を與える。行旅の人に贈る類型的な内容であるが、三句以下、具體的にいつているのがよい。「周防《すは》にある磐國《いはくに》山を越えむ日は手向《たむけ》よくせよ、荒しその道」(卷四、五六七)の歌は、陸路について歌つているが、同樣の内容の歌である。
 
登2筑波岳1、丹比眞人國人作歌一首 并2短歌1
 
筑波岳に登りて、丹比の眞人國人の作れる歌【短歌并はせたり。】
 
【釋】登筑波岳 ツクハヤマニノボリテ。筑波山は、茨城縣にある著名な山で、標高八七六メートルある。筑(292)波とあるもののほかに、都久波(古事記二六、本集卷十四、卷二十)、築羽(卷三)、菟玖波(日本書紀二五)と書いており、今は、ツクバといつているが、上代にはツクハであつたと推考される。男女の雙峰を有し、平野に臨んでいる山であつて、常陸國風土記には、登攀する者の多いことを記し、この集にも登山の歌が數首ある。
 丹比眞人國人 タヂヒノマヒトクニヒト。續日本紀によれは、天平八年正月、正六位の上より從五位の下に進み、十年閏七月に民部の少輔、天平勝寶三年正月に從四位の下、天平實字二年六月に攝津の大夫となり、七月には、遠江の守として伊豆の國に配流されたことが見えている。常陸の國に赴いたことは、他書に傳わらない。
 
382 鷄《とり》が鳴く 東《あづま》の國に
 高山は 多《さは》にあれども、
 明《あき》つ神《かみ》の 貴《たふと》き山の
 竝《な》み立ちの 見が欲《ほ》し山と、
 神代より 人の言ひつぎ
 國見する 筑波《つくは》の山を、
 冬ごもり 時じき時と
 見ずて行かば まして戀《こほ》しみ、
 雪|消《げ》する 山道すらを、
(293) なづみぞわが來《け》る。
 
 ?之鳴《トリガナク》 東國尓《アヅマノクニニ》
 高山者《タカヤマハ》 左波尓雖v有《サハニアレドモ》
 明神之《アキツカミノ》 貴山乃《タフトキヤマノ》
 儕立乃《ナミタチノ》 見※[日/木]石山跡《ミガホシヤマト》
 神代從《カミヨヨリ》 人之言嗣《ヒトノイヒツギ》
 國見爲《クニミスル》 築羽乃山矣《ツクハノヤマヲ》
 冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》
 不v見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコホシミ》
 雪消爲《ユキゲスル》 山道尚矣《ヤマミチスラヲ》
 名積敍吾來煎《ナヅミゾワガケル》
 
【譯】鷄の鳴く東方の國に、高い山はたくさんあるが、神樣として貴い山で、竝び立つさまの眺めたい山と、神代から人の言い傳えて、國土を見る筑波山を、今はまだ冬の中で、登山の時期ではないとして、見ないで行つたら、一そう戀しいので、雪消のする山道だのに、骨をおつて來ることだ。
【構成】別に段落はない。國見スルまでは、筑波山を説明している。以下その山に登ることを敍している。
【釋】?之鳴 トリガナク。既出(卷二、一九九)。枕詞。東の國を修飾する。
 東國尓 アヅマノクニニ。既出(卷二、一九九)。東方の諸國をアヅマというは、日本武の尊の「吾妻《あづま》はや」と仰せられたによるとする地名起原説話がある。
 高山者佐波尓雖有 タカヤマハサハニアレドモ。サハは多數。「國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》」(卷一、三六)、「湯者霜《ユハシモ》 左波爾雖v在《サハニアレドモ》」(卷三、三二二)など、多數あることをいつて、その中でもと主題を引き出す手段は多い。
 明神之 アキツカミノ。
   アキツカミノ(西)
   ――――――――――
   朋神之《トモガミノ》(童)
   朋神之《フタガミノ》(考)
 アキツカミは、現實に見られる神をいう。天皇の性質を説明する常用語であるが、ここでは神靈の實在の形體としての山を説明している。童蒙抄に、明を朋の誤りとしてトモガミノと訓し、考もこれによつてフタガミノと訓しており、後これに從う説も多いが、定説とはしがたい。
 貴山乃 タフトキヤマノ。貴い山の見ガホシ山の意に接續する。貴い山で、見ガホシ山であるの意である。
 儕立乃 ナミタチノ。ナミタチは、竝立の意。筑波山は、二峰竝立の山容であるのでいう。
(294) 見杲石山跡 ミガホシヤマト。ミガホシは、既出(卷三、三二四)。見ることの望ましい意の形容詞。※[日/木]は、音カウであり。何故カホの音に當てられるか不明である。果に作つている本も多いが、それにしてもカホに當てられる理由は不明である。ミガホシの形で連體形をとつている。見ることの望ましい山としての意。トは、明ツ神ノ以下を受けている。
 神代從人之言嗣 カミヨヨリヒトノイヒツギ。神代から人々が、明ツ神ノ貴キ山ノ竝ミ立チノ見ガホシ山と言い繼いでいる由である。
 國見爲 クニミスル。クニミは、既出(卷一、二)。國土を視察すること。人々が國見をする風習になつている由で、以上筑波の山の説明である。
 築羽乃山矣 ツクハノヤマヲ。下の見ズテ行カバの句に接續する。
 冬木成 フユゴモリ。冬の終頃の季節をいう語。枕詞としての用例は、前に出た(卷一、一六)。語意はその條參照。ここは實際の季節をいう。冬の内の意である。
 時敷時跡 トキジキトキト。トキジは既出(卷一、六)。その時節でない意の語で、形容詞類似の活用をする。登山すべき時にあらずとしての意。以上二句、諸家に誤脱等の説があるのは、詞句の正解を得ないためである。
 不見而往者 ミズテユカバ。上の筑波の山を受けて、登山に適せずとして見ずて行かばの意である。
 益而戀石見 マシテコホシミ。マシテは、現在にも益して。コホシミは、形容詞。戀しくして。
 雪消爲 ユキゲスル。まだ冬なので、雪消のするという。
 山道尚矣 ヤマミチスラヲ。スラは、雪解する山道だけを擧げていう語法で、これにより他を推察せしめる。
 名積敍吾來煎 ナヅミゾワガケル。
   ――――――――――
   名積敍吾來前一《ナヅミゾワガクルニ》(西)
(295)   名積敍吾來竝二《ナヅミゾワガコシ》(代精)
   名積敍吾來竝二《ナヅミゾワレコシ》 (童)
 ナヅミは、難澁、困難の意。動詞の名詞形。煎は、神田本に竝に作り、西本願寺本等に「前一」に作つているのにより、意をもつて改める。訓イルの上略である。煎を訓假字として使用した例は「津煎裳無《ツレモナキ》」(卷十三、三三四一)などある。竝二とするのは、二を竝べた意で、四の義として、シの音を表示したとしているのである。ケルは、動詞來に助動詞リの接続したもの、ゾを受けて連體形で留めている。ケルの訓は、反歌にケルを來有と書くによるもので、澤瀉博士の訓である。
【評語】筑波山の説明に多少の特色があるが、敍事に專であつて、佳品とは云いがたい。雪消の山道を敢えて登る部分を、もつと具體的に敍すべきであつた。
 
反歌
 
383 筑波嶺《つくはね》を
 よそのみ見つつ ありかねて、
 雪消《ゆきげ》の道を なづみ來《け》るかも。
 
 筑波根矣《ツクハネヲ》
 ※[廿+廿]耳見乍《ヨソノミミツツ》 有金手《アリカネテ》
 雪消乃道矣《ユキゲノミチヲ》 名積來有鴨《ナヅミケルカモ》
 
【譯】筑波山を、よそ事にばかり見てはあり得ないので、雪消の道を骨を折つて來ることだ。
【釋】築羽根矣 ツクハネヲ。ツクハネは、筑波山に同じ。「相模禰《サガムネ》」(卷十四、三三六二)、「伊香保禰《イカホネ》」(同、三四二一)などの例がある。
 ※[廿+廿]耳見乍 ヨソノミミツツ。ヨソは、自分に關係のない外事の意。※[廿+廿]は、四十の義であるが、十のソは、甲(296)類である。ほかの場所の意のヨソのソは乙類の音であるのに、ここに甲類のソを使つたのは假字ちがいである。
 有金手 アリカネテ。カネは、困難の意。
 雪消乃道矣 ユキゲノミチヲ。長歌の、雪消スル山道スラヲの句を、要約して言つている。
 名積來有鴨 ナヅミケルカモ。ケルは、來有の文字通り、キアリの約言と見るべく、難儀して來た意である。
【評語】長歌の後半部の意を要約している。説明的な歌である。
【參考】一 筑波山を詠んだ歌は多數であるから、歌の所在卷數、および番號のみを載せる。
 卷の八、一四九七
 卷の九、一七一二、一七五三、一七五四、一七五七、一七五八、一七五九、一七六〇
 卷の十四、三三五〇、三三五一、三三八八、三三八九、三三九〇、三三九一、三三九二、三三九三、三三九四、三三九五、三三九六
 卷の二十、四三六七、四三六九、四三七一
 二 福慈筑波の傳説。
  古老の曰はく、昔、祖《みおや》の神の尊、諸神《もろがみ》の處に巡り行《い》でまししに、駿河の國の福慈《ふじ》の岳《やま》に到りたまひて、卒《にはか》に日の暮に遇ひ、寓宿《やどり》を請《こ》ひ欲《ね》ぎたまひき。この時、福慈《ふじ》の神、答へて申さく、「新粟《わせ》の初嘗《にひなめ》して、家内《やぬち》諱忌《ものいみ》せり。今日の間は、冀《ねが》はくは許しあへじ」と申しき。ここに、祖の神の尊恨み泣きて罵告《の》りたまはく「汝《いまし》が親を何《な》ぞは宿さまく欲りせぬ。汝が居《す》める山は、生涯《いのち》の極《きはみ》、冬も夏も雪霜ふり、冷寒|重襲《かさな》り、人民《ひと》も登らず、飲食《をしもの》も奠《まつ》る者|無《な》けむ」と宣りたまひき。更に筑波《つくは》の岳に登りて、また容止《やどり》を請ひたまひき。この時、筑波の神答へて申さく「今夜は新粟嘗《にひなめ》すれども、敢へて尊旨《みこと》に違ひ奉らじ」と申しき。ここに飲食を設《ま》け、敬拜《をろが》み祗承《つか》へ奉りき。ここに祖の神の尊、歡然《よろこ》びて歌ひたまひしく、
(297)                      (下段は原文)
  愛《は》しきかも、わが胤《みこ》。      愛乎我胤
  巍《たか》きかも、神宮。           巍哉神宮
  天地の竝齊《むた》、             天地竝齊
  日月の共同《むた》、             日月共同
  人民《たみくさ》集《つど》ひ賀《ことほ》ぎ、 人民集賀
  飲食《みきみけ》富豐《ゆたか》に       飲食富豐
  代のことごと、                代代無v絶
  日に日に彌《いや》榮えむ。          日日彌榮
  千秋萬歳《ちよよろづよ》に、         千秋萬歳
  遊樂《たのしみ》窮《きはま》らじ。      遊樂不v窮
 と宣りたまひき。ここをもちて、福慈《ふじ》の岳《やま》は常に雪ふりて、登臨《のぼ》ることを得ず。その筑波の岳は、往き集ひ歌ひ舞ひ、飲み喫《く》ひすること、今に至るまで絶えざるなり。(常陸國風土記、もと漢文)
 
山部宿祢赤人歌一首
 
384 わが屋戸《やど》に 韓藍《からあゐ》蒔《ま》き生《おほ》し
 枯れぬれど、
 懲《こ》りずて亦も 蒔かむとぞ念ふ。
 
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 幹藍種生之《カラアヰマキオホシ》
 雖v干《カレヌレド》
 不v懲而亦毛《コリステマタモ》 將v蒔登曾念《マカムトゾオモフ》
 
(298)【譯】わたしの宿に韓藍を蒔いて生《はや》して、枯れたけれども懲りないでまたも蒔こうと思う。
【釋】吾屋戸尓 ワガヤドニ。ヤドは、文字通り家屋の戸が本義である。話者は、それに對してヤドの語を使用するので、屋内にいる時に家屋の戸口の意になるが、屋前の意にもなり、戸外にある時に住宅の意になる。ここは屋前の意に使つている。
 韓藍種生之 カラアヰマキオホシ。カラアヰは本草和名に「鷄冠草、和名|加良阿爲《カラアヰ》」とあり、今のケイトウである。種は、西本願寺本等に蘓に作つているが、蘓では意をなしかねるので、類聚古集等に種に作るによる。五句に「將蒔登曾念」とあり、それに照應するものとして、種生之をマキオホシと讀む。種は、下にも「春日野爾《カスガノニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》」(卷三、四〇五)とあり、種有をマケリと讀んでいる。韓藍を蒔いて生育させたのである。
 雖干 カレヌレド。干は、ここでは枯損の意のカレに使用している。
 不懲而亦毛 コリズテマタモ。枯れたけれども、それには懲りないで、またもの意。
 將蒔登曾念 マカムトゾオモフ。また種を蒔こうと思うの意。
【評語】何か寓意がありそうであるとの説が多いが、この卷には、譬喩歌の項目が別に立てられているので、編纂の當時、雜歌として解せられていたことは確かである。カラアイは、その花の汁を染料にするために栽培したもので、その苗の育たなかつたのを恨んだ歌と、單純に解しても、若干の興味は懸けられる。
 
(299)仙柘枝歌三首
 
【釋】仙柘枝歌 ヤマヒメツミノエノウタ。仙は、次の歌の左註に、柘の枝の仙媛とあり、仙媛の義と見られる。從來ヤマビトと讀まれているが、仙媛であるからヤマヒメと讀むべきである。柘は樹名、新撰字鏡に「豆美乃木《ツミノキ》」とし、倭名類聚鈔に「豆美《ツミ》」とある。クワの類である。これについて脇屋眞一君の來書に、
  昨日は、母校の恩師(蠶絲學擔當)を訪ね、數年ぶりにいろいろな教へを受けることができましたが、その中で、柘のことについて、學名はCudrania triloba, Hance といひ、和名はハリクワ。原産地は、支那、印度。日本への渡來時期は不詳であるが、昔の養蠶に用ゐたものは、あるいは柘であつたかも知れない。桑科の喬木で、樹高五〜七米に達し、節毎に鋭刺があるのでハリクワといふ。葉は全縁、無毛で厚くグミ(300)の葉に似て大なるもの、あるいは、柿の葉に似て、小なるもの、といへる。葉の先端が三裂することが往々にしてある爲、學名を triloba といふ。賈思?の著した、齊民要術といふ本に記事がある。云々とのことでした。柘蠶《シヤサン》といふ蠶は好食するが、普通の蠶はあまり食べないさうですが、これを食べさせると、絲質を向上させる由でございます。齊民要術といふ本を持ちませんので、これ以上のことはわかりません。なほ、森林家必携といふ本を見ますと、ハリグワと掲出し、別名をドシヤ、學名を C、tricuspidata, Bureau. としてをり、植栽と話してゐるのは、野生なしといふ意味と解せられます。これには中華原産としてあります。
 仙覺の萬葉集註釋に、ツミは、トゲのあるクワであるとするのは、これに合うようである。柘枝は、下に引く屬日本後紀の長歌に、柘之枝とあるによつて、ツミノエと讀む。この柘の枝の仙媛に關する説話は、古く吉野川の附近に傳えられたと見られるのであるが、今はその纏まつた説話を傳えない。ただ萬葉集のこの三首の歌、續日本後紀の長歌、および懷風藻の詩句によつて、その大體が推測されるだけである。績日本後紀のは、仁明天皇の嘉祥二年三月に、興福寺の大法師等が、天皇の四十の寶算を賀し奉るとて、佛像、陀經尼を奉り、これに作り物と長歌とを添えて奉つたのであるが、その作り物のことを敍して「吉野(ノ)女、眇《ハルカニ》通(ヒテ)2上天(ニ)1而來(リ)且去(ル)等(ノ)像」とあり、長歌の中には「然禮度毛《シカレドモ》 世之理《ヨノコトワリト》 歡之《ヨロコビシ》 春介利《ハルニアリケリ》 何志弖《イカニシテ》 帝之御世《ミカドノミヨヲ》 萬代《ヨロヅヨニ》 重《カサネカザリテ》 奉 v令v榮《サカエシメタテマツラムト》 柘之枝《ツミノエノ》 由求禮波《ヨシモトムレバ》 佛許曾《ホトケコソ》 願成志多倍《ネガヒナシタベ》 聖而已《ヒジリノミ》 驗伊萬世《シルシハイマセ》」、また、「三吉野《ミヨシノニ》 有熊志禰《アリシクマシネ》 天女《アマヲトメ》(301) 來通《キタリカヨヒテ》 其後《ソノノチハ》 蒙v譴《セメカガフリテ》 ?禮衣《ヒレゴロモ》 著爾支度云《キテトビニキトイフ》 是亦《コレモマタ》 此之嶋根《コレノシマネノ》 人爾詐曾《ヒトニコソ》 有岐度那禮《アリキトイフナレ》」とある。これによれば、吉野におつた熊志禰《くましね》という者のもとに、天女が來通つたが、後には譴《とがめ》を蒙つて、?禮《ひれ》衣を著て飛び去つたというのである。萬葉集の歌によれば、吉野人|味稻《うましね》が、簗《やな》を打つて魚を漁しておつた處に、柘の枝が流れ下り、それを取り上げたように解せられる。この味稻が續日本後紀にいう熊志禰であり、懷風藻に美稻《うましね》とある人である。そうして柘の枝の仙媛というによれば、持ち歸つた柘の枝が、女に化して味稻と通じたものなるべく、それは、天女が柘の枝に化して流れ下つたとすべきである。なおこの説話に關係ありと見られる懷風藻の詩句を擧げれは、紀の男人の「遊(ブ)2吉野川(ニ)1」の詩に「萬丈(ノ)崇巖削(リ)成(シテ)秀(デ)千尋(ノ)素濤逆折(シテ)流(ル) 欲(ス)v訪(ハムト)鍾池越潭(ノ)跡 留連(ス)美稻逢(フ)v槎(ニ)洲」、丹※[土+穉の旁]《たじひ》の廣成の「遊(ブ)2吉野川(ニ)1」の詩に「栖(ミ)2心(ヲ)佳野(ノ)域(ニ)1 尋(ネ)2問(フ)美稻(ノ)津(ヲ)1」、同人の「吉野之作」の詩に「鍾池越潭豈凡類(ナラムヤ) 美稻逢v仙(ニ)月冰(ノ)洲」、藤原の史《ふひと》(不比等)の「遊(ブ)2吉野(ニ)1」の詩に「漆姫控(キテ)v鶴(ヲ)擧(リ) 柘媛接(リテ)v魚(ニ)通(フ)」、高向の諸足の「從2駕(ス)吉野(ノ)宮(ニ)1」の詩に「在昔釣魚(ノ)》士 方今留(ムル)v鳳(ヲ)公 彈(ジテ)v琴(ヲ)與v仙戯(レ)投(ジテ)v江(ニ)將《ト》v神通(フ) 柘(ノ)歌泛(ビ)2寒渚(ニ)1 霞景飄(ル)2秋風(ニ)1 誰(カ)謂(フ)姑射(ノ)嶺 駐(メテ)v蹕(ヲ)望(ム)2仙宮(ヲ)1」、中臣の人足の「遊(ブ)2吉野宮(ニ)1」の詩に「一朝(ニ)逢(フ)2柘民(ニ)1 風波|轉《ウタテ》入(ル)v曲(ニ)」等がある。これらは多少違つた傳えを詠んだものもあるであろう。この説話は、神婚説話の一種であつて、浦島説話と三輪山説話との連鎖をなす中間的存在として、重要な位置を占めている。ここに仙柘枝歌三首と題したのは、その柘の枝の仙媛の物語に關する歌三首の謂である。
 
385 霰|零《ふ》り 吉志美《きしみ》が嶽《たけ》を
 嶮《さか》しみと、
 草取り放《はな》ち、 妹が手を取る。
 
 霰零《アラレフリ》 吉志美我高嶺乎《キシミガタケヲ》
 險跡《サカシミト》
 草取〓奈知《クサトリハナチ》 妹手乎取《イモガテヲトル》
 
【譯】霰が降つてきしむ、その吉志美が嶽が嶮岨なので、つかんだ草を放して、妻の手を取ることだ。
(302)【釋】霰零 アラレフリ。枕詞。霰が降つてきしむというので、吉志美に懸かるとされている。なお霰が降つてかしましいというので、鹿島にも冠せられている。
 吉志美我高嶺乎 キシミガタケヲ。吉志美が嶽は、吉野山中の一嶺と考えられるが、今のいずれであるかあきらかでない。タケは、高くあるものの義から、高嶺を讀んでいる。
 險跡 サカシミト。嶽ヲ險シミの形で、高嶺が嶮しくしての意になる。
 草取?奈知 クサトリハナチ。
   クサトリハナチ(定本)
   ――――――――――
   草取可奈和《クサトルカナワ》(細一種)
   草取可奈和《クサトルカナヤ》(矢)
   草取可奈和《クサトリカナヤ》(玉)
   草取可禰手《クサトリカネテ》(槻)
 神田本には、草取可奈知に作つている。集中の例を按ずるに、ハと讀むべき處に、可を用いた例として、「之可夫可比《シハブカヒ》」(卷五、八九二)の如きがある。この上の可は?の誤りかと推測されるので、今?に作つて、この句をクサトリハナチと讀む。トリは接頭語で、下の動詞の意を強調する。手にした草を放しての意。?を字音假字として使用した例には「不v思人?《オモハズヒトハ》 雖v有《アラメドモ》」(卷十三、三二五六)がある。この字は、不可の意の字で、音ハである。
 妹手乎取 イモガテヲトル。イモは、ここでは、同行した女子をいう。愛人というほどの意である。
【評語】この歌は、民謠として流布していたらしく、類歌が傳えられている。妹と呼ばれる人と共に山に登るという特殊な内容は、山中において催される歌垣などの場處での發生であることを語つている。
【參考】一 別傳。
(303)  此の歌、肥前國風土記に見えたり。杵島《きしま》郡、縣の南二里に一の孤山あり。坤《ひつじさる》より艮《うしとら》を指して三峰あひ連る。是の名を杵島と曰ふ。坤なるは比古《ひこ》神と曰ひ、中なるは比賣《ひめ》神と曰ひ、艮なるは御子神と曰ふ。【一の名は軍神、ウゴクときは兵興る。】郷閭の士女、酒を提げ琴を抱き、歳毎の春秋、手を携へて登り望み、樂飲し歌舞し、曲盡きて歸る。歌詞に曰はく、霰降る杵島が嶽を嶮《さか》しみと草取りかねて妹が手を取る【是は杵島曲なり。】(萬葉集註釋)
 二 類歌。
  梯立《はしだて》の倉梯《くらはし》山を嶮しみと岩かきかねてわが手取らすも(古事記七〇)
 
右一首、或云、吉野人味稻、與2柘枝仙媛1歌也。但見2柘枝傳1、無v有2此歌1。
 
右の一首は、或るは云ふ、吉野人味稻の、柘の枝の仙媛に與へし歌なりといへり。但し柘枝傳を見るに、この歌あることなし。
 
【釋】或云 アルハイフ。何によつているか、また何人の言であるか、不明である。下の與柘枝仙媛歌也までをさしている。
 吉野人味稻 ヨシノビトウマシネ。柘の枝の説話中の人物。味稻は、懷風藻に美稻、續日本後紀に熊志禰とあり、ウマシネと讀まれる。語義は、神事にそなえる神聖な稻の義である。吉野川で簗《やな》を打つており、漁者と解せられ、この點、海幸山幸の説話、浦島の説話の男主人公と共通するものがある。
 與柘枝仙媛歌 ツミノエノヤマヒメニアタヘシウタ。柘の枝の仙媛は、柘の枝に化した仙女の義。この説話は、元來わが國の古傳説が、外來の神仙思想を取り入れて神仙譚化したものと考えられる。もと天女というが如き思想であつたものが、仙女として取り扱われるに至つたものであろう。吉野人味稻が、その柘の枝の仙媛(304)に與えた歌であると、或る人がいうのである。
 柘枝傳 サシデニ。柘の枝の説話を取り扱つた文章、または書籍の名であろうが、他に何の文獻もないので、一切不明である。その柘枝傳を見るに、この歌がないというのである。丹後國風土記の逸文には、伊預部《いよべ》の馬養《うまかひ》に、浦島の説話を書いた文がありといい、その風土記自身も、その説話を取り扱つて歌物語を構成している。奈良時代初期前後の文人が、在來の説話を素材としてかような神仙譚を作り成したものは、相當の數に上るべく、柘枝傳もそのようなものの一つであつたであろう。しかしその柘枝傳に、この歌がないにしても、他の傳えには、民謠として傳えられたこの歌を取り入れたものがあつたのであろう。
 
386 この暮《ゆふべ》
 柘《つみ》のさ枝の 流れ來《こ》ば、
 簗《やな》は打たずて 取らずかもあらむ。
 
 此暮《コノユフベ》
 柘之左枝乃《ツミノサエダノ》 流來者《ナガレコバ》
  者不v打而《ヤナハウタズテ》 不v取香聞將v有《トラズカモアラム》
 
【譯】 この夕方、柘の小枝が流れて來たら、簗《やな》は打たないで、取らないでかあるだろう。
【釋】此暮 コノユフベ。この歌の詠まれた時が夕暮であるので、かくいうが、柘の枝の説話に、柘の枝の流れ來たのも、夕暮であつたのであろう。
 柘之左枝乃 ツミノサエダノ。サは接頭語。本義は狹小であろうが、愛稱としてつける。サ霧、サ夜など。「明來者《アケクレバ》 柘之左枝爾《ツミノサエダニ》 暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマヅガウレニ》」(卷十、一九三七)の例は、同じく柘の左枝と言つている。
 流來者 ナガレコバ。假設條件法。
 ?者不打而 ヤナハウタズテ。ヤナは、日本書紀神武天皇紀に「梁、此《コヲバ》云《イフ》2椰奈《ヤナト》1」とあり、倭名類聚鈔に「毛詩(ニ)云(フ)、梁、音良、夜奈《ヤナ》、魚(ノ)梁也」とある。木材を使用するので、?の字を使用する。今日でも行われる漁法(305)で、著者は、長野縣伊那で、天龍川に施設したものを見た。川中に杭を打ち、たいらに簀《す》を張つて、河水はすべてその箕の上に流れ落ち、共に流れ下る魚だけがその箕の上に殘るようにしたてたものであつて、落點を漁していた。杭を打つので、簗を打つという。簗を打つて置かないでの意。
 不取香聞將有 トラズカモアラム。流れ下る柘の枝を取らないでかあらむの意。カモは疑問の係助詞。
【評語】仙媛の化した柘の枝の流下するを、取らないであろうかという、假設の歌である。ある夕つ方、河を眺めてこの古説話を想い起して詠んだ歌である。吉野での作であろう。その説話に寄せた好奇の心が窺われる。五句は、運命に左右される所を感じている。次の歌は、桑の枝の流れることを歌つており、川のほとりには、この種の説話が傳わつていたもののようである。「つのさはふ磐《いは》の姫が、おほろかに聞《きこ》さぬうら桑の木。よるましじき川のくまぐま、よろぼひゆくかも。うら桑の木」(日本書紀五六)。
 
右一首
 
【釋】右一首 ミギノヒトツ。前の歌の作歌事情などについて説明するはずであつたのであろうが、その記事を作るに至らずしてやんだものである。何人か吉野川に遊んで、古説話を想つて詠んだ歌と解せられる。細井本(第一種)にこの下に「此下無v詞、諸本同」とあるは、後人の書入れである。
 
387 古に 簗《やな》打つ人の なかりせば、
 此間《ここ》もあらまし 柘の枝はも。
 
 古尓《イニシヘニ》 ?打人乃《ヤナウツヒトノ》 無有世伐《ナカリセバ》
 此間毛有益《ココモアラマシ》 柘之枝羽裳《ツミノエダハモ》
 
【譯】昔、簗を打つ人がなかつたら、今ここにもあつたろう柘の枝がなあ。
【釋】古尓 イニシヘニ。昔の柘の枝の説話の事件のあつた時代をイニシヘといつている。勿論、何時の時代(306)とも知られない。
 ?打人乃 ヤナウツヒトノ。簗を施設する人ので、吉野人味稻をいう。
 無有世伐 ナカリセバ。なかつたならばの假設條件法。
 此間毛有益 ココモアラマシ。此間は、場處についていう。この處の意である。ココニモと讀むと、他の處にもこの處にもの意になつて不可である。アラマシは、不可能の希望で、あつたらなあの意。これは連體形で、次の句に續く。マシの連體形の例は、「高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》 島宮波母《シマノミヤハモ》」(卷二、一七一)、「馬名目而《ウマナメテ》 往益里乎《ユカマシサトヲ》」(卷六、九四八)などある。
 柘之枝羽裳 ツミノエダハモ。ハモは、或る事物を提示して感嘆する意を表示する助詞。ハの下に省略のある感じで、含蓄を深くする。
【評語】昔の人が簗を打つて、柘の枝を取り上げたので、今はなくなつたのを惜しむ心である。これもその仙女に好奇心を寄せている。前の歌に對する唱和の作のように考えられる。
 
右一首、若宮年魚麻呂作
 
【釋】若宮年魚麻呂 ワカミヤノアユマロ。傳未詳。作歌はこの一首のみであるが、誦した歌というのには、次の羈旅の歌があり、卷の八の櫻花の歌がある。多分歌手として知られた人であつて、それらの歌を吟誦したのであろう。柘の枝の説話の如きをも語り傳えたのかも知れない。
 
羈旅歌一首 并2短歌1
 
羈旅の歌一首【短歌并はせたり。】
 
(307)【釋】羈旅歌 タビノウタ。旅中で作つた歌の由である。歌詞によるに、淡路島の北部の海岸で作つたらしい。
 
388 海若《わたつみ》は 靈《くす》しきものか。
 淡路島 中に立て置きて、
 白浪を 伊與《いよ》に廻《めぐ》らし、
 座待月《ゐまちづき》 明石《あかし》の門《と》ゆは、
 夕されば 汐を滿たしめ、
 明けされば 潮《しほ》を干《ひ》しむ。」
 潮騷《しほさゐ》の 浪を恐《かしこ》み
 淡路島 礒隱《いそがく》りゐて、
 何時《いつ》しかも この夜の明けむと、
 さもらふに 寐《い》の宿《ね》がてねば、
 瀧《たぎ》の上の 淺野の雉《きぎし》
 明けぬとし 立ち響《とよ》むらし。」
 いざ兒《こ》ども 敢《あ》へて榜《こ》ぎ出《で》む。
 にはも靜けし。」
 
 海若者《ワタツミハ》 靈寸《クスシキ・アヤシキ》物香《モノカ》
 淡路島《アハヂシマ》 中尓立置而《ナカニタテオキテ》
 白浪乎《シラナミヲ》 伊與尓《イヨニ》廻之《メグラシ・モトホシ》
 座待月《ヰマチヅキ》 開乃門從者《アカシノトユハ》
 暮去者《ユフサレバ》 鹽乎令v滿《シホヲミタシメ》
 明去者《アケサレバ》 鹽乎令v干《シホヲヒシム》
 鹽左爲能《シホサヰノ》 浪乎恐美《ナミヲカシコミ》
 淡路島《アハヂシマ》 礒隱居而《イソガクリヰテ》
 何時鴨《イツシカモ》 此夜乃將v明跡《コノヨノアケムト》
 待從尓《サモラフニ》 寢乃不v勝v宿者《イノネガテネバ》
 瀧上乃《タギノウヘノ》 淺野之雉《アサノノキギシ》
 開去歳《アケヌトシ》 立《タチ》動《トヨム・サワク》良之《ラシ》
 率兒等《イザコドモ》 安倍而榜出牟《アヘテコギデム》
 尓波母之頭氣師《ニハモシヅケシ》
 
【譯】海の神は神秘なものだ。淡路島を中に立てておいて、白浪を伊豫に廻し、座待《いまち》月の光さす明石の海峽か(308)らは、夕方になれは汐を滿たしめ、夜が明けて來れば潮を干させる。その潮の騷ぐ處の浪が恐しいので、淡路島の礒に隱れていて、何時になつたらこの夜が明けるだろうと、見守つておれば眠りをしかねるのに、瀧のほとりの淺い野の雉が、夜が明けたと鳴くようだ。さあ皆の者、進んで榜ぎ出そう。海上もしずかだ。
【構成】三段から成つている。明ケサレバ潮ヲ干シムまで第一段、海の神秘を説き、殊に明石海峽の潮流を語る地理的總説の部分である。明ケヌトシ立チ響ムラシまで第二段。淡路島の礒に隱れて夜明けを待つたことを敍している。作者の行動の敍述である。以下第三段、これからの行動について述べる。
【釋】海若者 ワタツミハ。海若は、漢文で海神の義である。ワタツミは海の神、古事記に綿津見の神と記し、また海洋の義にもいうが、ここは海の神性についていう。
 靈寸物香 クスシキモノカ。クスシは、神秘靈妙の意の形容詞。カは感動の助詞。以上二句で一文を成している。以下の明ケサレバ潮ヲ干シムまでに對する總評である。
 淡路島中尓立置而 アハヂシマナカニタテオキテ。ナカは、中央、中心の意。この一節は、海を主として地理的に、瀬戸内海東部の形勢を敍しているので、まずここに淡路島を中に立て置いてというのである。以下、潮ヲ干シムまで、主格は海神である。
 伊與尓廻之 イヨニメグラシ。イヨニメグラシ(西)、イヨニモトホシ(槻)。メグルは、周廻する意の動詞。同じく海神が白浪を伊豫に周廻させの意。遠く伊豫を點出したのは、内海の大觀を敍するためであるが、この作者が伊豫の方面から船を榜ぎ出して來たので、自然この地名が擧げられたのであろう。但し、古事記には、四國を伊與の二名《ふたな》の島というので、四國の代表名としての意もあると見られる。
 座待月 ヰマチヅキ。枕詞。寐ずして坐して待つ月の意で、十七夜以後の月にいう。その月はあかるいので、明石の枕詞となつている。
(309) 開乃門從者 アカシノトユハ。アカシノトは明石の海峽。開の字は、アカシの音をあらわすのに借用している。ユは、そこを通しての意を示す。
 暮去者鹽乎令滿 ユフサレバシホヲミタシメ。シホは海水。明石の海峽を通じて海水を滿たしめるの意で、同じく海神が、さようにさせるとしている。
 明去者鹽乎令干 アケサレバシホヲヒシム。上の夕サレバ汐ヲ滿タシメに對して對句をなしている。夜があけてくれば潮を干しめるの意。但し夕と夜明けとに分けていつているのは、單に對句表現であつて、夕方は滿潮、朝は干潮に限つている次第ではない。瀬戸内海の潮流は、外洋の滿潮時に紀伊水道から入り、明石海峽を西方に向かつて流れ、干潮時にそれと逆に明石海峽を東方に向かつて流れる。その潮流の盛んな時には、相當に急調で、當時の船舶にとつては、航行に大きな影響を與えるものである。一般的?勢を語つてはいるが、小船航行の經驗あるものにして、始めていい得るところである。ここまで第一段で、すべて海神を主格として、その行動を敍している趣に、内海の地理を説いている。
 鹽左爲能 シホサヰノ。シホサヰは海水の騷ぎ。第一段に、明石海峽の潮流が、滿干によつて變化することを説いたのを受けて、この句を起しており、第二段の敍述の位置は、明石海峽に近い淡路島の海岸であることが知られる。以下作者自身の行動の敍述である。
 浪乎恐美 ナミヲカシコミ。浪は潮騷による浪であるが、實際は、やや風波が強かつたらしい。浪がおそろしくして。
 礒隱居而 イソガクリヰテ。礒は淡路島の礒で、その礒に船を寄せて、風波の難を避けていてである。
 何時鴨 イツシカモ。シは強意の助詞、カモは疑問の係助詞で、明ケムに懸かる。何時か何々であろうの意になるが、何時か何時かと待つ意が強くなる。
(310) 此夜乃將明跡 コノヨノアケムト。ここに礒がかりをしたのが夜であることがあきらかにされる。夜間は航行を中止して礒邊に假泊するのである。
 待從尓 サモラフニ。
   マツヨリニ(西)
   マツカラニ(代初)
   マツママニ(考)
   ――――――――――
   侍從爾《サフラフニ》(細二種)
   待候爾《マチマツニ》(玉)
   待候爾《サモラフニ》(玉)
   侍候爾《サモラフニ》(槻)
   待候爾《マモラフニ》(?)
 細井本に、待を侍に作つているのは、原形であるかも知れないが、他本の支持はない。これはもと侍從爾とあつたものを、從の字の形に惹かれて、上の侍の字を待に作るに至つたものと見るべきである。かような例は、感嬬と書くべくして※[女+感]嬬と書き、俳諧と書くべくして誹諧と書くが如き類である。侍從は侍候する意で、サモラフと讀む。「雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》」(卷二、一九九)などの例がある。句の意は、風波の成行を注意しているにの意である。
 寐乃不勝宿者 イノネガテネバ。イは睡眠、ネはその動詞。ガテネは困難なるをいう語。眠りがなしがたいのにの意。このネバは、ヌニというに同じ意になる。
 瀧上乃 タギノウヘノ。タギは激流。溪谷の上方の意である。
 淺野之雉 アサノノキギシ。淡路島の北端から二里ばかりの地に淺野の地名があるが、ここは普通名詞として、その野の?をいうと見るがよい。草の淺く生えた野である。雉は、古語にキギシという。その鳥の鳴聲によつて名となつたものであろう。
(311) 開去歳 アケヌトシ。トは文詞を受ける助詞。シは強意の助詞。キジは夜明けに鳴く習性を有しているので、時にこの句がある。
 立動良之 タチトヨムラシ。動は、サワクともトヨムとも讀まれている。サワクとトヨムとの相違については、集中、騷、驟、諷、散動、※[足+參]の如き字をサワキと讀み、響の字をトヨムと讀んでいる。これによれば、サワクは、音響と形?とについていい、トヨムは音響のみについていうと解せられる。キジについては、いずれにもいい得るが、「阿遠夜麻爾《アヲヤマニ》 奴延波那伎《ヌエハナキ》 佐恕都登里《サノツトリ》 岐藝斯波登與牟《キギシハトヨム》」(古事記二)、「?播都等利《ニハツトリ》 柯稽?儺倶《カケハナク》 恕都等利《ノツトリ》 枳蟻矢播等金武《キギシハトヨム》」(日本書紀九六)の例に、キギシハトヨムとあるにより、ここもタチトヨムラシと讀む。鳴聲、羽ばたきなどを併わせいうと見られる。ラシは、その物音を立てる理由を、夜が明けたと騷ぐのだろうと推量している。以上第二段。風波を避けて淡路島の礒邊に船がかりし、夜明けを迎えたことを敍している。
 率兒等 イザコドモ。イザは誘う語。コドモは船人たちをいう。呼び懸けている語法である。
 安倍而榜出牟 アヘテコギデム。アヘテは、押しての意。困難をもおかしてする氣持である。進んで榜ぎ出そうとするのである。句切。
 尓波母之頭氣師 ニハモシヅケシ。ニハは海上。礒邊から見た海上がしずかであると敍している。「飼飯海乃《ケヒノウミノ》」(卷三、二五六)の歌參照。以上第三段、船人に呼び懸けて、出帆の決意を語つている。
【評語】相當の長篇であるが、整然として歌われ、詞句も弛緩していない。まず海神の神秘を稱え、地理的構成を敍したあたり、堂々たる風格である。これによつて規模を大ならしめている。それから自身の敍述に入つて、假泊して夜明けを待つ有樣を敍し、最後に出航の決意を語つて、海上のしずかなよしを歌い、全體を結んでいるが、連絡もあり、照應もあつて、名作とするに足りる。
 
(312)反歌
 
389 島傳ひ
 敏馬《みぬめ》の埼を 榜《こ》ぎ廻《み》れば、
 大和|戀《こほ》しく 鶴《たづ》さはに鳴く。
 
 島傳《シマヅタヒ》
 敏馬乃埼乎《ミヌメノサキヲ》 許藝廻者《コギミレバ》
 日本戀久《ヤマトコホシク》 鶴左波尓鳴《タヅサハニナク》
 
【譯】島づたいして敏馬の埼を榜いで廻つて行けば、大和が戀しく鶴がたくさん鳴いている。
【釋】島傳 シマヅタヒ。島づたいしての意で、下の榜ギ廻レバを修飾する。ここにシマというのは、敏馬の埼附近の、海に面した地をいう。このシマを島嶼だとし、この附近に島嶼なしなどいう解は誤りである。「二梶貫《マカヂヌキ》 礒榜廻乍《イソコギミツツ》 島傳《シマヅタヒ》 雖v見不v飽《ミレドモアカズ》 三吉野乃《ミヨシノノ》 瀧動々《タギモトドロニ》 落白浪《オツルシラナミ》」(卷十三、三二三二)の例における島傳は、ここと同じく水に臨める山に添い行く意である。そのほか、「宇都久之氣《ウツクシケ》 麻古我弖波奈利《マコガテハナリ》 之末豆多比由久《シマヅタヒユク》」(卷二十、四四一四)など用いられている。
 敏馬乃埼乎 ミヌメノサキヲ。敏馬の埼は、今の神戸の東部附近の岬角である。
 許藝廻者 コギミレバは。榜いで廻れば。ミレバは、迂廻して行けばの意。「榜廻舟者《コギミルフネハ》」(卷三、三五七)參照。
 日本戀久 ヤマトコホシク。ヤマトは大和の國をいう。次の句の、鶴の鳴くわけを説明している。「榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)參照。
 鶴左波尓鳴 タヅサハニナク。サハニは、鶴の多數なのをいう。「鵠左波二鳴《タヅサハニナク》」(卷三、二七三)參照。鶴も大和を戀しく思つて鳴いていると歌つている。
【評語】長歌を受けて、淡路島を出航して進行した結果を歌つている。長歌の内容から前進しているので、か(313)ような反歌の歌い方は、たとえば、輕の皇子の安騎野に出遊せられた時の柿本の人麻呂の作歌(卷一、四五−四九)にも見られる。鶴が大和戀しく鳴いているというのは、作者の情を、鳥に托しているのであつて、景中に情を托したいい方である。これも佳作とするに足りる。
 
右歌、若宮年魚麻呂誦之。但未v審2作者1
 
右の歌は、若宮の年魚麻呂|誦《よ》めり。但しいまだ作者を審にせず。
 
【釋】誦之 ヨメリ。誦は、吟誦の意にも、暗誦の意にも使用される字であるが、ここは吟誦の意である。集中、宴席などで誦することがしばしば傳えられ、その方法は不明であるが、相當の技術を要したものであろう。これが古くから歌いものとして歌われた歌との關係は、未詳であるが、それとは違つた特別の吟誦法であつたのではないかと考えられる。
 未審作者 イマダヨミビトヲツマビラカニセズ。萬葉集の編者が、上の羇旅の歌の作者の未詳なのを註記したのである。上の若宮年魚麻呂誦之の筆者と同人であるとすれば、多分大伴の家持であろう。
 
譬喩歌
 
【釋】譬喩歌 ヒユカ。譬喩を主なる表現方法とする歌の謂で、この卷には、短歌のみ二十五首を收めている。一首全體が譬喩になつているものが多いが、一部に本意の露出しているものも若干ある。譬喩に用いた材料としては、植物が斷然多く十四首に上り、内容としては、おおむね男女間の戀情を歌つたものと推考される。贈答相聞の歌である旨を題したもの十一首あり、この點では、大體相聞の歌の一分野であることが知られる。卷の一二の兩卷には、譬喩をその主成分とする歌もありながら、譬喩歌の項目を立てずに、雜歌、相聞、挽歌の(314)三類としているのに、ここに至つてこの項目を立てたのは、編纂の方針の相違を示すものであり、從つて編纂者の相違ということも考慮される。なおこの卷以外に、譬喩歌の項目を立てたのは、卷の七、十一、十三、十四の諸卷であり、卷の十には、春の雜歌、夏の雜歌、秋の相聞に、それぞれ譬喩歌を附收している。元來譬喩歌は、修辭の上から立てた分類であつて、雜歌、相聞、挽歌等と、分類上の性質を異にするものであるが、歌の修辭としてこれが目立つところから、立てられたのであろう。譬喩は、本意を露出することに躊躇もしくは困難を感ずる時に、使用されるものであつて、これによつて婉曲なる表現を得、もしくは理解を容易ならしめ得るのである。現代の作歌道では、これを作爲的であるとして忌避するのであるが、それは相聞贈答の用途がすくなくなつたためであつて、相聞贈答のさかんに行われた上代にあつては、これが有力な表現方法であつたのである。古事記日本書紀の歌謠にあつては、譬喩を用いたものが、とくに多數である。
 
紀皇女御歌一首
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。天武天皇の皇女、穗積の皇子の御妹。「於能禮故《オノレユヱ》 所v罵而居者《ノラエテヲレバ》 ?馬之《アヲウマノ》 面高夫駄爾《オモタカブダニ》 乘而應v來哉《ノリテクべシヤ》」(卷十二、三〇九八)の左註に「右の一首は、平群《へぐり》の文屋《ふみや》の朝臣益人傳へ云ふ、昔聞きしくは、紀の皇女の竊に高安の王に嫁《とつ》ぎて、嘖めらえし時に、この歌を作りたまひき。但し高安の王は、左降して伊與《いよ》の國の守《かみ》に任《ま》けらえきといへり」とあり、この歌も、その當時の作であろうかという。續日本紀、養老三年七月の條に「伊豫(ノ)國(ノ)守從五位(ノ)上高安(ノ)王」とあるから、その前の事になる。
 
390 輕《かる》の池の ?《うら》み往き轉《み》る 鴨すらに、
 玉藻の上に ひとり宿《ね》なくに。
 
 輕池之《カルノイケノ》 ?廻往轉留《ウラミユキミル》 鴨尚尓《カモスラニ》
 玉藻乃於丹《タマモノウヘニ》 獨宿名久二《ヒトリネナクニ》
 
(315)【譯】輕の池の浦を行きめぐる鴨でも、美しい藻の上に、ひとりでは寐ないのです。
【釋】輕池之 カルノイケノ。輕は奈良縣高市郡畝傍町東南方の地名。輕の池は、應神天皇の十一年にこれを作らしめられたが、今、大輕の地に現存している。當時皇女の居處が、その附近にあつたのであろう。
 ?廻往轉留 ウラミユキミル。
   イリエメグレル(西)
   ウラミユキメグル(定本)
   ――――――――――
   納廻往轉留《イリエメグレル》(類)
   納囘往轉留《イリエユキメグル》(代初)
   納囘往轉留《ウラワユキメグル》(代初書入)
   ?囘往轉留《ウラワユキメグル》(考)
   ?囘往轉留《ウラミユキメグル》(考)
   納囘往轉留《ウラミユキタムル》(槻)
   ?囘往轉留《ウラミモトホル》(槻)
   ?囘往轉留《ウラマユキメグル》(攷)
 ?は、水の隈曲《わいきよく》をいう字で、國語のウラに當る。ミは接尾語。ウラの彎曲せる地形であることを示す。ユキミルは有坂秀世博士の説による。「榜廻舟者《コギミルフネハ》」(卷三、三五七)參照。
 鴨尚尓 カモスラニ。スラは、一を擧げて他を類推させる助詞。スラニの用例、「加苦思?也《カクシテヤ》 安良志乎須良爾《アラシヲスラニ》奈氣枳布勢良武《ナゲキフセラム》」(卷十七、三九六二)。鴨ですらかくの如し、いわんや人はの如き意を寓している。
 玉藻乃於丹 タマモノウヘニ。於は上と同じくウヘの語に當てて使用されている。玉藻は、藻の美稱。
 獨宿名久二 ヒトリネナクニ。ネナクは、寐ぬことの意。ニは助詞。輕く添えている。
【評語】切な物思いを鴨に寄せて歌つている。直接に思う所を述べては露骨に過ぎ、粗野に陷るのを、譬喩を(316)使つて詠み出したところに、間接的な效果を生じて來る。鴨が玉藻の上に獨寐をしないということは、結局作者自身のことについて述べているので、獨寐を欲しない意であるが、それが露骨にならないところがよいのである。譬喩歌として代表的な作品ということができよう。
 
造筑紫觀世音寺別當沙弥滿誓歌一首
 
【釋】造筑紫觀世音寺別當沙弥滿誓 ザウツクシクワニゼオニジノカミサミマニゼイ。既出(卷三、三三六)。
 
391 鳥總《トブサ》立て 足柄山に 船木《ふなぎ》伐《き》り、
 樹に伐り行きつ。
 あたら船材《ふなぎ》を。
 
 鳥總立《トブサタテ》 足柄山尓《アシガラヤマニ》 船木伐《フナギキリ》
 樹尓伐歸都《キニキリユキツ》
 安多良船材乎《アタラフナギヲ》
 
【譯】樹の葉先を立てて、足柄山に船材を伐る。そのように材木として伐つて行つた。惜しい船材であつた。
【釋】鳥總立 トブサタテ。「登夫佐多?《トブサタテ》 船木伎流等伊布《フナギキルトイフ》 能登乃島山《ノトノシマヤマ》」(卷十七、四〇二六)の「登夫佐多?《トブサタテ》」と同語と認められる。トブサは數説あるが、顯昭の袖中抄に、木の末をいうとする説が有力である。字鏡集に、朶にトフサの訓があり、朶は、枝葉の茂つている樹梢をいう。「わが思ふ都の花のとふさゆゑ君もしづえのしづ心あらじ」(後拾遺集卷十三、大中臣の輔親)、「卯の花も神のひもろぎかけてけりとふさもたわにゆふかけて見ゆ」(堀川百首、源の俊頼)のトフサも、この意である。この句は、樹木を伐つて、その伐り跡に樹梢の枝葉を伐つて插す風習があるにより、第三句の、船木伐リの説明となつていると解せられている。これは山の神に奉る意味のもので、延喜式の大殿祭の祝詞に「今奧山大峽小峽《イマオクヤマノオホカヒヲカヒニタテルキヲ》、齋部齋斧以《イムベノイムヲノヲモチ》、伐採?《キリトリテ》、本末乎波山神?《モトスヱヲバヤマノカミニマツリテ》、中間持出來?《ナカホドヲモチデキテ》」とあるのも、この意であるとされる。以上は講義の説く所によつたのである(317)が、今日ではこの説が穩當とされる。ほかには、トブサを斧の義とする説があり、樹を伐る時に、斧を立てる風習があるといつている。
 足柄山尓 アシガラヤマニ。足柄山は、神奈川縣と靜岡縣との縣境の山で、古くから船材の産地として知られていた。この歌では、ただ船材の産地として擧げられただけで、特別の關係があるのではなかろう。
 船木伐 フナギキリ。フナギは、船材。當時、船材としては巨樹を要したので、巨樹を伐る意になる。
 樹尓伐歸都 キニキリユキツ。キニは、船材としての意。樹木を船材として伐つて行つたの意。句切。
 安多良船材乎 アタラフナギヲ。アタラは、惜しいの意の語で、副詞である。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)、「安多良佐可里乎《アタラサカリヲ》 須具之弖牟登香《スグシテムトカ》」(卷二十、四三一八)などの用例がある。ヲは感動の助詞で、フナギヲは、船材なるかなの如き意である。氣分としては、上の敍述を顧みる意があるが、船材を伐り行きつとして片づけるのは不可である。まだ古いヲの用法が殘つていると見るべきである。
【評語】寓意はあきらかで、ある女を船材の樹木に比したと見られる。作者が僧侶であるから、かような戀の歌があるべきでないとして、在俗の時の作であろうともいい、また戀の歌ではないとして解釋する説(代匠記)もあるが、それは當つていないであろう。滿誓が觀世音寺に住してから、寺に屬する女子に通じたことは、三三六の歌の條に記した。この歌はその事件と關係があるかないかは知れないが、この人に戀の歌があつたとして何の不思議もない。また沙彌の語は、在家のままで剃髪している人にもいうのであつて、戒律嚴重の僧とは違う所がある。形だけは佛徒の姿をし誦經などを事としても、生活その他は一般人とあまり相違しなかつたのであろう。靈異記には、出家をして、一方には妻子をもち、家事をいとなんでいた生活を語つているものがある。これは特殊のことではない。後世の書であるが、元亨釋書に「國俗、不v全(クセ)2梵儀(ヲ)1、有(ル)2妻子1者(ノ)在(ルヲ)v家(ニ)、稱(ス)2沙彌(ト)1」とある。歌の調子は、歌いものふうなところがあり、詠嘆これを久しうしたという氣分が出ている。(318)ひそかに目がけていた女を、人が手をつけてしまつた。既に老境にはいつていたであろう作者の、それを見せつけられた氣特が歌われていると見られる。
 
大宰大監大伴宿祢百代梅歌一首
 
【釋】大宰大監 オホキミコトモチノオホキマツリゴトビト。大宰府の官名で、上から、帥、大貳、小貳、大監、小監、大典、小典の順になつている。大監は、職員令に、府内を糺判し、文案を審署し、非違を察することを掌るとある。
 大伴宿祢百代 オホトモノスクネモモヨ。系統不明。天平二年頃に大宰の大監であつた。續日本紀には、大伴の宿禰百世とあり、天平十年閏七月に、外從五位の下をもつて兵部の少輔となり、十三年八月に美作の守、十五年十二月に、筑紫鎭西府の副將軍、十八年四月に從五位の下、九月に豐前の守、十九年正月に正五位の下となつている。
 
392 ぬばたまの その夜《よ》の梅を、
 た忘れて 折らず來にけり。
 思ひしものを。
 
 烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》
 手忘而《タワスレテ》 不v折來家里《ヲラズキニケリ》
 思之物乎《オモヒシモノヲ》
 
【譯】あの晩の梅を、忘れて折らないで來てしまつた。思つていたのだが。
【釋】烏珠之 ヌバタマノ。既出(卷二、一六九)。枕詞。ヌバタマはカラスオウギ草の實。黒いので、黒、夜の枕詞になつている。ここは夜に懸かつている。
 其夜乃梅乎 ソノヨノウメヲ。ソノヨは、特に指示する夜で、宴會などの事があつたのであろう。梅は、そ(319)の宴席などに侍した女をいう。
 手忘而 タワスレテ。タは接頸語。タが動詞に接續するものには、タヲル、タモトホル等がある。
 不折來家里 ヲラズキニケリ。梅を折らずに來たというので、かの女子を手に入れなかつたことを寓している。句切。
 思之物乎 オモヒシモノヲ。ヲは感動の助詞。上の敍述を顧みる氣特がある。折ろうと思つていたのだがの意。
【評語】その夜に見た女子を、手に入れなかつたことを後になつて殘念がつている。忘れて折らなかつたというのだから、一時的な興味だつたのであろう。格別の歌ではない。
 
滿誓沙弥月歌一首
 
393 見えずとも 誰《たれ》戀ひざらめ。
 山の末《は》に いさよふ月を
 よそに見てしか。
 
 不v所v見十方《ミエズトモ》 孰不v戀有米《タレコヒザラメ》
 山之末尓《ヤマノハニ》 射狹夜歴月乎《イサヨフツキヲ》
 外見而思香《ヨソニミテシカ》
 
【譯】見えないでも誰も戀いずにはいられない。山の端にためらつている月を、よそながらも見たいものだ。
【釋】不所見十方 ミエズトモ。まだ山を出ないで、視界にはいらない月を、よし見えないでもの意で、トモは雖である。
 孰不戀有米 タレコヒザラメ。タレの如き疑問の語を受けて、已然形をもつて結んで、反語になる。誰か戀せぬ者あらんやの意である。月は見えないでも戀せずにはいられないの意で、ある女子を月に比している。この語法には「玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》 誰戀爾有目《タガコヒニアラメ》 吾孤悲念乎《ワガコヒオモフヲ》」(卷二、一〇二)の如き例がある。
(320) 山之末尓 ヤマノハニ。ヤマノハは、山の端で、ここは月の出る處をいう。「山之葉爾《ヤマノハニ》 不知世經月乃《イサヨフツキノ》」(卷六、一〇〇八)、「山乃波爾《ヤマノハニ》 月可多夫氣婆《ヅキカタブケバ》」(卷十五、三六二三)など、この意である。
 射狹夜歴月乎 イサヨフツキヲ。イサヨフは躊躇徘徊する意。出ようとしてためらつている月をの意。十六夜の月を、イサヨヒノ月というは、出る時間がやや遲いからいうのである。
 外見而思香 ヨソニミテシカ。ヨソニは、よそながらの意。ミテシカは、見たい意の希望の語法。シカが希望の助詞。シは時の助動詞キの連體形、カは疑問の助詞であろうが、熟語となつて、希望の意を生ずる。「眞ソカガミミシカトオモフイモモアハヌカモ
 
」(卷十一、二三六六)の如きは、動詞に直にシカが接續している。しかしテシカの例の方が多い。テシカの例には、「多都能馬母《タツノマモ》 伊麻勿愛弖之可《イマモエテシカ》」(卷五、八〇六)、「霍公鳥《ホトトギス》 無流國爾毛《ナカルクニニモ》 去而師香《ユキテシカ》」(卷八、一四六七)等がある。このシカは清音で、このカを、希望の助詞ガ(モガなどのガ)とするのは、語原的には同じであるかもしれないが、分化をとげたものとしては別である。
【評語】作者の前にあらわれようとしている女子を思つて詠んでいる。話に聞いているその女子の美しさにあこがれている氣持である。
 
余明軍歌一首
 
【釋】余明軍 ヨノマウグニ。人名。余は、百濟王族の氏で、同氏の中には、百濟氏となつたものもある。但し西本願寺本等には、金に作つているが、金氏は新羅王族の氏である。明軍は、大伴の旅人の薨去の時の歌(卷三、四五八)の左註に資人とあり、大伴の旅人の資人であつた。
 
394 標《しめ》結《ゆ》ひて わが定めてし、
(321) 住吉《すみのえ》の 濱の小松は、
 後もわが松。
 
 印結而《シメユヒテ》 我定義之《ワガサダメテシ》
 住吉乃《スミノエノ》 濱乃小松者《ハマノコマツハ》
 後毛吾松《ノチモワガマツ》
 
【譯】標繩を結んで、わたしのきめておいた住吉の濱の小松は、將來もわたしの松だ。
【釋】印結而 シメユヒテ。シメユフは既出(卷二、一五四)。占有のしるしの繩を結う意。自分のものとするしるしを附けること。
 我定義之 ワガサゲメテシ。わが定めておいたの意で、連體形。義之をテシと讀むのは、玉の小琴に、王羲之の羲之を誤つたもので、王羲之は書道の聖だから、手師《てし》の義によつてテシに當てたのであつて、「結大王《ムスビテシ》 白玉之緒《シラケマノヲ》」(卷七、一三二一)の如き大王の文字をテシに當てたのも、王羲之のことであるとしている。この説は確説として從うべきであるが、羲之とあつたのを誤つたものか、もとから義之と書かれていたものかは不明である。
 住吉乃濱乃小松者 スミノエノハマノコマツハ。ある女子を小松に譬えている。この住吉も、この内(322)容に直接關係のない地名であつて、松の多くある地として擧げられたのであろう。
 後毛吾松 ノチモワガマツ。ノチは、後來の時、將來である。將來もわが物であるの意を寓している。
【評語】譬喩の意はあきらかである。住吉の濱の小松は、その地の娘子などについて歌つているかも知れないが、多分、小松の名所として取り上げられているのであろう。白浪のうち寄せる愛すべき濱邊の小松の意が示されている。前の足柄山などと共に、作者に直接關係のない地名が、詠み入れられたものとすれば、後世の歌に、名所を詠み込むことの先蹤をなすものである。ある事物の名所としての歌枕の成立が指摘される。
 
笠女郎、贈2大伴宿祢家持1歌三首
 
笠の女郎の、大伴の宿禰家持に贈れる歌三首。
 
【釋】笠女郎 カサノヲミナ。笠氏の女子であるが、系譜未詳。笠の金村の歌が本集にはいつているのによれば、金村の縁者であるかもしれない。金村には女子があつたようだ。この歌のほかに、卷の四に二十四首、卷の八に二首あり、いずれも大伴の家持に贈つた歌であつて、兩者間の關係が窺われる。
 大伴宿祢家持 オホトモノスクネヤカモチ。家持は、本集に關係の深い人であるが、その名の出たのはこれを初見とする。その傳記については、下の作歌(四〇三)の條に記すこととする。笠の女郎は、家持の身邊近くにもおり、また別れても住んでいたようである。
 
395 託馬野《たくまの》に 生《お》ふる紫草《むらさき》
 衣《きぬ》に染《し》め、
 いまだ著ずして 色に出でにけり。
 
 託馬野尓《タクマノニ》 生流紫《オフルムラサキ》
 衣尓染《キヌニシメ》
 未v服而《イマダキズシテ》 色尓出來《イロニイデニケリ》
 
(323)【譯】 託馬野に生えている紫は、衣服に染めつけて、まだ著ないのに、人に知られてしまつた。
【釋】託馬野尓 タクマノニ。託馬野は、從來ツクマノと讀み、近江の筑摩の地としていたが、講義には、地名に訓を使用せずとして、音によつて、タクマ、またはタカマであり、肥後の國の託麻《たくま》郡だろうとしている。託は、類聚名義抄にツクの訓があり、また地名に訓を使用することは、蒲生野等の例も多くあり、ツクマでも成立しない次第ではないが、馬は、但馬、對馬など、字音をもつてマの音韻を表示するに使用される字であるから、託も字音假字とするを可とするであろう。よつて今、講義の説によることとする。
 生流紫 オフルムラサキ。ムラサキは、柴草。その根より紫色の染料を作る。野生もあり栽培もする。オフルというと、野生のようであるが、決定はしかねる。柴草に呼びかけている語氣である。
 衣尓染 キヌニシメ。紫を衣に染めての意。深く思い入つたことを譬えている。
 未服而 イマダキズシテ。思い入つた人をまだわが物としないことを譬えている。
 色尓出來 イロニイデニケリ。色に出るは、あらわれる、人に知られることをいう。ここでは、紫で衣を染めることの縁語として、この語が選ばれている。
【評語】イマダ著ズシテまでが譬喩で、五句は譬喩を脱している。この點、前の數首と違う所がある。色に出るは、染色の縁語であるが、衣ニ染メとは、矛盾が感じられ、鑑賞を妨げるものがある。色ニ出ニケリは、常用される句であるが、この歌では、染色を譬喩としているだけに、あまりに縁が深くて、類型的な感が強い。(324)しかし、初二句は美しい句で、紫草に呼びかけているのも感じがよい。紫は、當時高貴な染料として寵用された。それを譬喩に使つたのは、相手が貴公子だからであつて、それがこの歌の空氣を花やかなものにしている。
 
396 陸奧《みちのく》の 眞野《まの》の草原《かやはら》 遠けども、
 面影にして 見ゆといふものを。
 
 陸奧之《ミチノクノ》 眞野乃草原《マノノカヤハラ》 雖v遠《トホケドモ》
 面影爲而《オモカゲニシテ》 所v見云物乎《ミユトイフモノヲ》
 
【譯】はるかな道の涯《はて》の眞野の草原は遠いけれども、それでも面影に立つて見えるということです。
【釋】陸奧之 ミチノクノ。ミチノクは、道路の奧の義で、東山道の最奧の國である。後、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奧の諸國に分かたれた。
 眞野乃草原 マノノカヤハラ。眞野は、今福島縣相馬郡眞野村附近の地である。カヤは、家根に葺く料の草をいう。古くからカヤハラと讀みなれている。以上二句、遠方の地の意に掲げている。
 雖遠 トホケドモ。トホケは、形容詞の活用形。それに助詞ドモが接續している。遠いけれどもの意。眞野の草原は遠いけれどもの意に、君と我とのあいだは遠いけれどもの意をかねていう。
 面影爲而 オモカゲニシテ。オモカゲは、眼前にその實物なくして見える幻像をいう。「暮去者《ユフサレバ》 物念益《モノオモヒマサル》 見之人乃《ミシヒトノ》 言問爲形《コトトフスガタ》 面景爲而《オモカゲニシテ》」(卷四、六〇二)、「夜之穗杼呂《ヨノホドロ》 吾出而來者《ワガイデテクレバ》 吾妹子之《ワギモコガ》 念有四九四《オモヘリシクシ》 面影二三湯《オモカゲニミユ》」(同、七五四)、「燈之《トモシビノ》 陰爾蚊峨欲布《カゲニカガヨフ》 虚蝉之《ウツセミノ》 妹蛾咲?思《イモガヱマヒシ》 面影爾所v見《オモカゲニミユ》」(卷十一、二六四二)など用例の多い語である。ニシテは、としての意に使用されている。
 所見云物乎 ミユトイフモノヲ。トは、初句から、この句のミユまでを受けている。世間ではいう、世の人々はいうの意である。モノヲは、ものだが、それでの意。モノヲには二樣あり、ものだの意に肯定するものと、(325)ものだがしかしの意に反撥するものとがある。「布士能嶺乎《フジノネヲ》 高見恐見《タカミカシコミ》 天雲毛《アマグモモ》伊去羽斤《イユキハバカリ》 田菜引物緒《タナビクモノヲ》(卷三、三二一)は、前者の例であり、「烏珠之《ヌバタマノ》 其夜乃梅乎《ソノヨノウメヲ》 手忘而《タワスレテ》 不v折來家里《ヲラズキニケリ》 思之物乎《オモヒシモノヲ》」(同、三九二)は、後者の例である。ここはそのいずれであるかというに、後者としては、面影にも見えないということになつて、不似合であるから、前者の意に解すべきである。遠いけれども、君の姿が面影に見えるという意になる。
【評語】この場合、陸奧の眞野の草原は、ただ遠い地名であるというだけに持ち出されたものであろう。これに託して、よし遠くにおつても面影は通つて見えるものであるという意味を歌つている。譬喩歌として、美しい詞の中に、何か奧深いものを感じさせる。作者は、恐らくは遠く隔つておつて、人の思つてくれないことを恨んでいるようである。思うならばどれほど遠くとも面影に立つて見えるはずだの意味を託しているのであろう。美しい詞の奧にひそむ情趣を愛すべきである。詞の魅力を感じさせる歌である。
 
397 奧山の 磐本管《いはもとすげ》を
 根深めて 結びしこころ
 忘れかねつも。
 
 奧山之《オクヤマノ》 磐本管乎《イハモトスゲヲ》
 根深目手《ネフカメテ》 結之情《ムスビシココロ》
 忘不v得裳《ワスレカネツモ》
 
【譯】奧山の巖のもとの菅の根を深い心の底から約束した心は、忘れかねます。
【釋】奧山之磐本管乎 オクヤマノイハモトスゲヲ。奧山の巖のもとに生えている菅をで、スゲは山菅(ジヤノヒゲ)の類である。菅を結ぶと、第四句に懸かる。
 根深目手 ネフカメテ。根深くして。フカメテは、深い?態になつての意。「海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》 吾念有《ワガオモヘル》」(卷四、六七六)、「深海松之《フカミルノ》 深目思子等遠《フカメシコラヲ》」(卷十三、三三〇二)、「猪名川之《ヰナガハノ》 奧乎深目而《オキヲフカメテ》 吾念有來《ワガオモヘリケル》」(卷十六、三八〇四)などの例がある。心の底からである。
(326) 結之情 ムスビシココロ。ムスビは契約する意。「玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》」(卷三、四八一)の結など、この例である。第二句の菅を受けるのであるが、菅を結ぶことは、「足引《アシヒキノ》 名負山菅《ナニオフヤマスゲ》 押伏《オシフセテ》 君結《キミシムスババ》 不v相有哉《アハザラメヤモ》」(卷十一、二四七七)などの例がある。
 忘不得裳 ワスレカネツモ。モは感動の助詞。
【評語】山菅が、しばしば根について歌われているのは、特にそれをもてあそぶ風習があつたのであろう。この歌は、菅を結ぶことと、心から契ることとを第四句に懸けて、その句以下は、本意を露出している。この三首、事情は、それぞれ相違しており、一時一處の作ではないようである。卷の四には、一時の作ではないと斷つて、この作者の歌二十四首を載せているが、そういう中から譬喩の歌として拔き出されたものらしい。
 
藤原朝臣八束梅歌二首 八束、後名眞楯、房前第二子。
 
藤原の朝臣八束の梅の歌二首【八束は、後の名は眞楯、房前の第二の子なり。】
 
【釋】藤原朝臣八束 フヂハラノアソミヤツカ。八束は、房前の第三子、一時、從兄惠美の押勝のために忌まれ、病と稱して家居したが、後ふたたび出仕し、天平寶字四年には、從三位に敍せられ、名を眞楯と賜わつた。天平神護二年、大納言兼式部の卿となり、三月薨じた。時に年五十二。この集には、八束の名のみ見えている。
 房前第二子 フササキノダイニノコナリ。房前の子は、鳥養、永手、眞楯、清河等があつて、續日本紀によれば、眞楯は天平神護二年(七六六)薨、年五十二、永手は寶龜二年(七七一)薨、年五十八であるから、永手の方が一年先に生まれたことになり、永手が第二子、眞楯が第三子であるとするのが正しいことになる。
 
398 妹が家に 咲きたる梅の、
(327) 何時《いつ》も何時《いつ》も
 なりなむ時に 事は定めむ。
 
 妹家尓《イモガイヘニ》 開有梅之《サキタルウメノ》
 何時毛々々々《イツモイツモ》
 將v成時尓《ナリナムトキニ》 事者將v定《コトハサダメム》
 
【譯】あなたの家に咲いた梅の花が、何時にても實になる時に、事は定めましよう。
【釋】妹家尓 イモガイヘニ。妹家は、「伊母我陛邇《イモガヘニ》 由岐可母不流登《ユキカモフルト》 彌流麻提爾《ミルマデニ》」(卷五、八四四)、「伊毛我敝爾《イモガヘニ》 伊都可伊多良武《イツカイタラム》」(卷十四、三四四一)などの例によれば、イモガヘと讀むべく、また「遊吉須宜可提奴《ユキスギガテヌ》 伊毛我伊敝乃安多里《イモガイヘノアタリ》」(卷十四、三四二三)、「安我毛布紀毛我《アガモフイモガ》 伊敝乃安多里可聞《イヘノアタリカモ》」(同、三五四二)の如く、イモガイヘとする例もある。訓としては、イモガイヘの略せざるによるべく、音聲に發する場合には、イモガヘとのみ聞えることもあるのである。妹は愛人をいう。その人に與えた歌と考えられる。
 開有梅之 サキタルウメノ。第三句を隔てて第四句に接續する。
 何時毛々々々 イツモイツモ。何時にてもの意を、同語を重ねて強調している。「河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時々々《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》」(卷四・四九〇、「道邊乃《ミチノベノ》 五柴原能《イツシバハラノ》 何時毛々々々《イツモイツモ》 人之將v縱《ヒトノユルサム》 言乎思將v待《コトヲシマタム》」(卷十一、二七七〇)など、使用されている。
 將成時尓 ナリナムトキニ。ナリナムは、梅の結實しようとするをいう。これは兩者の關係の成立を譬えていう。
 事者將定 コトハサダメム。事は夫婦の約束をいう。永き契りを結ぼうというのである。
【評語】梅は、早春に開花し、かつ清楚可憐な感じを伴なうものであるから、若い娘子の春を知る頃に譬える傾向がある。この歌の相手、妹と呼ばれる人も、そういう人らしい。この歌の内容には、貴族的な思いあがつた所があり、誠意を強いる冷やかさが感じられる。
 
(328)399 妹が家に 咲きたる花の 梅の花、
 實にしなりなば かもかくもせむ。
 
 妹家尓《イモガイヘニ》 開有花之《サキタルハナノ》 梅花《ウメノハナ》
 實之成名者《ミニシナリナバ》 左右將v爲《カモカクモセム》
 
【譯】あなたの家に咲いた梅の花が、實になつたなら、どのようにもしましよう。
【釋】開有花之梅花 サキタルハナノウメノハナ。咲いた花である梅の花の意で、花の語を重ねて、強く指示している。
 實之成名者 ミニシナリナバ。シは張意の助詞。關係の成就を結實に譬えている。
 左右將爲 カモカクモセム。カモカクモは、「可毛可久母《カモカクモ》 伎美我麻爾末爾《キミガマニマニ》」(卷十四、三三七七)などあり、とにもかくにも、どのようにもの意である。左右の字は、左石の兩樣の義に使用したものなるべく、類聚名義抄には、トニカクニの訓がある。
【評語】前の歌の内容を、詞を變えて歌つたような歌である。第二三句に、花の語を重ねたのは、相當に效果を持つているが、やはり相手を見下した態度があるのは、不愉快である。
 
大伴宿祢駿河麻呂梅歌一首
 
【釋】大伴宿祢駿河麻呂 オホトモノスクネスルガマロ。卷の四、六四九の歌の左註に、「右、坂上の郎女は、佐保の大納言の卿の女なり。駿河麻呂はこの高市の大卿の孫なり。兩卿は兄弟の家、女孫姑姪の族なれば、これをもちて歌を題し、送答し、起居を相問へり」とある。その佐保の大納言は安麻呂であるが、高市の大卿は、誰であるかあきらかでないが御行であるかもしれない。古寫本の書き入れに、道足の子とするものがあるが、道足は馬來田《まくた》の子で、馬來田は安麻呂の兄弟ではないから、卷の四の左註に一致しない。駿河麻呂は、天平十(329)五年五月に從五位の下、十八年九月に越前の守となつたが、天平寶字元年八月、廢立を圖つたという件に坐して罪せられ、後復活して、寶龜二年十一月、從四位の下、三年九月、陸奧の按察使となり正四位の下を授けられ、四年八月、陸奧の國の鎭守將軍、六年九月、參議、十一月、叛賊を討治歸服させた功勞によつて、正四位の上勲三等を授けられ、七年七月、薨じて從三位を贈られ、?三十疋、布一百端を賜わつた。駿河麻呂は、大伴の坂上の家の二孃、すなわち宿奈麻呂の女を妻としたと考えられ、この歌も、それに關するものと見られている。
 
400 梅の花 咲きて散りぬと
 人は云へど、
 わが標《しめ》結《ゆ》ひし 枝ならめやも。
 
 梅花《ウメノハナ》 開而落去登《サキテチリヌト》
 人者雖v云《ヒトハイヘド》
 吾標結之《ワガシメユヒシ》 枝將v有八方《エダナラメヤモ》
 
【譯】梅の花は、咲いて散つたと人がいうけれども、わたしの印をつけた枝ではないだろう。
【釋】開而落去登 サキテチリヌト。梅の花が咲いてから散つたというので、わが思う人が、既に他人の有となつたことを寓している。
 人者雖云 ヒトハイヘド。人は、世人ぐらいの意味に使つている。
 吾標結之 ワガシメユヒシ。シメユフは、標繩を結ぶで、占有の意を表示するをいう。作者の約束したことを譬えている。
 枝將有八方 エダナラメヤモ。ヤモは反語の助詞。枝は、思う人を寓意している。
【評語】わが思う子が、他人の有になつたと聞いて、それを眞實かと危んでいる。「瞿麥《なでしこ》は咲きて散りぬと人は言へどわが標《し》めし野の花にあらめやも」(卷八、一五一〇)は、大伴の家持が紀の女郎に贈つた歌であるが、(330)この歌に學んでいるらしい。
 
大伴坂上郎女、宴2親族1之日吟歌一首
 
大伴の坂上の郎女の、親族と宴せし日に吟へる歌一首。
 
【釋】宴親族之日 ウカラトウタゲセシヒニ。親族は、日本書紀に「不負於族、此《コヲバ》云《イフ》2宇我邏磨概茸《ウカラマケジト》1」とあり、ウカラの訓が當てられる。宴をウタゲというは、ウチアゲの約言とされる。卷の八、一六五六にも、坂上の郎女が親族と宴する歌があつて、それにも梅花が詠まれているから、同時の作であるかも知れない。
 吟歌 ウタヘルウタ。吟は、新撰字鏡に「語也、呻也、嘆也、歌也」とある。その歌也の意である。當時歌を吟誦したことは、前に記した。卷の十六、三八二〇の左註には「右(ノ)歌二首、小鯛(ノ)》王宴居之日、取(ル)v琴(ヲ)登時《ソノトキ》必(ズ)先(ヅ)吟2詠《ウタヘリ》此(ノ)歌(ヲ)1也」など見えている。
 
401 山守《ヤマモリ》の ありける知らに、
 その山に 標《しめ》結《ゆ》ひ立てて、
 結《ゆひ》の辱《はぢ》しつ。
 
 山守之《ヤマモリノ》 有家留不v知尓《アリケルシラニ》
 其山尓《ソノヤマニ》 標結立而《シメユヒタテテ》
 結之辱爲都《ユヒノハヂシツ》
 
【譯】山番のあつたのを知らずに、その山に標繩を結い立てて、恥をかきました。
【釋】山守之 ヤマモリノ。ヤマモリは、山の番人。みだりに人の入るを禁ずるために置かれる者。
 有家留不知尓 アリケルシラニ。ありけることを知らずの意。ニは打消の助動詞。不知だけでシラニと讀まれるのであるが、讀み方を確かにするために爾の字を添えてある。「世武爲便不v知爾《セムスベシラニ》」(卷三 二〇七)などの例がある。
(331) 其山尓 ソノヤマニ。その山は、初句を受けて、山守のあるその山の意である。
 標結立而 シメユヒタテテ。標繩を結ひ立てて。しるしを附けて。タテは、特にその事をする意に使用する。言い立てるなどの立てに同じ。「大伴乃《オホトモノ》 等保追可牟於夜能《トホツカムオヤノ》 於久都奇波《オクツキハ》 之流久之米多弖《シルクシメタテ》 比等能之流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十八、四〇九六)のシメタテも、占有のしるしを強くせよの意である。
 結之辱爲都 ユヒノハヂシツ。結う事の恥辱、それをしたの意。ハヂは恥辱。日本書紀卷の一に、淡路の島名を説明して、吾恥《あはぢ》の義とする地名起原説話を傳えている。「辱尾忍《ハヂヲシノビ》 辱尾黙《ハヂヲモダシテ》 無v事《コトモナク》 物不v言先丹《モノイハヌサキニ》 我者將v依《ワレハヨリナム》」(卷十六、三七九五)と使用している。
【評語】次の答歌その他の事情を綜合するに、駿河麻呂に、既に配偶者のあつたことを知らないで、わが女を與えようとして恥を見たというのであろう。よく意を寓し得た歌とはいえるが、それだけに、詩趣に乏しいのはやむを得ない。
 
大伴宿祢駿河麻呂、即和歌一首
 
【釋】即和歌 スナハチコタフルウタ。既出(卷一、一七)。唱和した歌。坂上の郎女の吟誦した歌に應じて、これも吟誦したものであろう。
 
402 山主《やまぬし》は けだしありとも、
 吾妹子が 結《ゆ》ひてむ標《しめ》を
 人|解《と》かめやも。
 
 山《ヤマ》主《ヌシ・モリ》者《ハ》 蓋雖v有《ケダシアリトモ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 將v結標乎《ユヒテムシメヲ》
 人將v解八方《ヒトトカメヤモ》
 
【譯】山の主は、恐らくはあるとしても、あなたが結ぶでしょう標繩を、人は解きはしないでしょう。
(332)【釋】山主者 ヤマヌシハ。ヤマヌシは、文字による。坂上の郎女の歌に山守とあるのに應じた歌であるから、ヤマモリと讀んでもよいであろう。
 蓋雖有 ケダシアリトモ。ケダシは、もし、恐らく等の意の副詞。ここは兩樣に解せられるが、蓋の字を使用しているから、恐らくはの意に解すべきであろう。恐らく約束した人があるとしてもの意で、この場合、語を濁しているようである。ケダシの用例のうちでは、この種の方が多い。「古爾《イニシヘニ》 戀良武鳥者《コフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》」(卷二、一一二)など、この例である。またもしの意に解するとならば、もしあつたとしてもの意で、山守のある云々は訛傳だとするのである。
 吾妹子之 ワギモコガ。ワギモコは、坂上の郎女をさしていう。駿河麻呂と坂上の郎女とは、親族關係があり、特に親しかつたので、この語をもつて呼んでいる。六四八の歌にも、駿河麻呂は、坂上の郎女に對して吾妹といつている。
 將結標乎 ユヒテムシメヲ。ユヒテムシメヲは舊訓であるが、童蒙抄以下多くユヒケムシメヲとしている。前の歌によるに、まだ標を結わぬ前と解すべきであるから、ユヒテムとするによるべきである。
 人將解八方 ヒトトカメヤモ。人は他の人。ヤモは反語。
【評語】坂上の郎女の意に應ずる心をあきらかにしている。恐らくは既に約束した人があり、しかも更に坂上の郎女の女子を得ようとしているらしい。これも達意の歌であつて、興趣に缺けている憾みがある。
 
大伴宿祢家持、贈2同坂上之大孃1歌一首
 
大伴の宿禰家持の、同じ坂上の大孃に贈れる歌一首。
 
【釋】大伴宿祢家持 オホトモノスクネヤカモチ。大伴の家持は、安麻呂の孫、旅人の子である。はじめ安積《あさか》(333)の親王の内舍人として身を起し、天平十八年六月には越中の守となつて任地に赴き、天平勝寶三年七月には少納言に轉じて歸京し、天平寶字元年の橘の奈良麻呂の亂に、大伴氏の人々多く連坐したにも拘わらず、かえつて榮任に就いた。これは彼と惠美の押勝との姻戚關係に基づくものと見られるが、天平寶字の末に押勝がようやく勢威を失うに當り、家持まず左遷されて薩摩の守となり、光仁天皇が即位されてからは、官位も次第に進んで從三位參議左大辨兼春宮の大夫に至つたが、延暦元年、氷上《ひがみ》の川繼の叛に坐するをもつて官位を除かれた。幸に同年五月に赦されて原官に復し、更に進んで中納言兼春宮の大夫持節征夷將軍となつて、延暦四年八月に薨じた。しかも彼が長逝していまだ葬られず、二十餘日の時、大伴の繼人、竹良等は、長岡の新造宮の處において中納言藤原の種繼を射殺した。繼人、竹良等は次いで誅せられ、事家持に關するとして彼は官位を奪われ、實は皇太子|早良《さわら》の親王の意に出たものであるとして、やがて早良の親王も廢せられるに至つた。以上略記した彼の經歴を見るに、亡び行く名族の最後の一人として、踏み留まろうとして、留まり得なかつた趣が見える。萬葉集の歌は、天平寶字三年正月、すなわち家持が因幡の守となつた翌年(334)の、國の廳での宴の歌に止まつている。その後の彼の作品は、殘つていないので、萬葉集に載つているのが、彼の作品として殘つている全部である。彼の作品は、初期のものは模倣の分子に富んでいる習作であつて、文學としての價値に乏しい。越中から都に歸つて後の短歌の作には、ようやくその特殊の境地を開いたものが見受けられる。清らかな、しかしさびしい味を出して來たのである。平板から歩み進んで、ある深さに到達した。好んで長歌をも作つているが、長歌は長大の作もあるが、類型的で、熱に缺けているのは遺憾である。彼の歌は、父の旅人、姑の坂上の郎女の感化によるものであろう。先人として柿本の人麻呂、山上の憶良の作品に傾倒していて、題材、手法、詞句の各方面にわたつて、多くの影響を受けている。
 贈同坂上之大孃歌 オナジサカノウヘノオホヲトメニオクレルウタ。同は、大伴に同じの意。坂上家は、奈良縣生駒郡立野の東北なる坂上の里にある家で、大伴の宿奈麻呂の妻なる坂上の郎女の家である。坂上の大孃は、坂上の郎女の女、父は宿奈麻呂で、後、家持の妻となつた。大孃は、オホイラツメと讀む説があるが、母の郎女をイラツメという以上は、オホイラツメと讀んでは、それよりも長上の意に解せられるから、多分そうはいわなかつたであろう。よつてオホヲトメと讀む。
 
403 朝にけに 見まく欲《ほ》りする その玉を、
 いかにすれかも 手ゆ離《か》れざらむ。
 
 朝尓食尓《アサニケニ》 欲v見《ミマクホリスル》 其玉乎《ソノタマヲ》
 如何爲鴨《イカニスレカモ》 從v手不v離有牟《テユカレザラム》
 
【譯】朝から一日中、見たいと思うその玉を、どうしたならば、手から離れないでいられるだろう。
【釋】朝尓食尓 アサニケニ。既出(卷三、三七七)。ケは時の意。食の字は訓を借りている。朝にも時にもで、朝を初めとし何の時でも。
 欲見 ミマクホリスル。見むことを欲するの意。
(335) 其玉乎 ソノタマヲ。愛人なる坂上の大孃を玉に譬えている。
 如何爲鴨 イカニスレカモ。類聚古集以下、イカニシテカモと讀んでいる。カモは、疑問の係助詞。どのようにしてかの義とされる。同句は、「大船乃《オホブネノ》 絶多經海爾《タユタフウミニ》 重石下《イカリオロシ》 何如爲鴨《イカニスレカモ》 吾戀將v止《ワガコヒヤマム》」(卷十一、二七三八)にも見えている。爲の字を使つてシテの語を表示する場合は、多く爲而と書いているが、爲の一字だけで而を添えない例も、數個ある。「身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチモ》 妹爲《イモガタメコソ》」(卷十一、二四〇三)、「人皆《ヒトミナノ》 如v去見耶《ユクゴトミメヤ》 手不v纏爲《テニマカズシテ》」(卷十二、二八四三)、「照日《テルヒニモ》 乾哉吾袖《ヒメヤワガソデ》 於v妹不v相爲《イモニアハズシテ》」(同、二八五七)、「手向爲《タムケシテ》 吾越往者《ワガコエユケバ》」(卷十三、三二四〇)は、その例である。それでイカニシテカモの訓は成立するのであるが、新訓としてイカニスレカモの訓も成立するのではないだろうか。スレは已然形であるが、イカニ、カモの如き疑問の辭を伴なうことによつて、假設法を構成して、どのようにしたならの意を表示するのだろう。たとえば「水鳥二四毛有我《ウニシモアレヤ》 家不v念有六《イヘオモハザラム》(卷六、九四三)は、作者が鵜でないことは明白であるが、鵜であつたとしたら、家を思わないだろうかの意を表示している。「妹與吾《イモトワレ》 何事在曾《ナニゴトアレゾ》 紐不v解在牟《ヒモトカザラム》」(卷十、二〇三六)は、何事があつたらの假設の意を、ナニゴトアレゾで表示している。
 從手不離有年 テユカレザラム。テユは、手から。カレザラムは、離れずにあらむで、上のカモを受けて反語になつている。
【評語】玉は、しばしば愛人の譬喩に使用されている。この歌もそれで、しかもその玉の説明も平凡である。年代は不明であるが、家持初期の作である。
 
娘子、報2佐伯宿祢赤麻呂贈歌1一首
 
娘子の、佐伯の宿禰赤麻呂の贈れる歌に報ふる一首。
 
(336)【釋】娘子 ヲトメ。何人とも知られない。卷の四、六二七に同じく佐伯の赤麻呂と歌を贈つている娘子と同人であろう。
 報佐伯宿祢赤麻呂贈歌 サヘキノスクネアカマロノオクレルウタニコタフル。佐伯の宿禰赤麻呂は、傳未詳。この歌より先に、赤麻呂の贈つた歌があつたはずであるが、それは傳わらない。その歌には、春日野の神社のことが詠まれていたのであろう。それに應じて、娘子の詠んだ歌である。
 
404 ちはやぶる 神の社し なかりせば、
 春日《かすが》の野邊《のべ》に 粟蒔かましを。
 
 千磐破《チハヤブル》 神之社四《カミノヤシロシ》 無有世伐《ナカリセバ》
 春日之野邊《カスガノノベニ》 粟種益乎《アハマカマシヲ》
 
【譯】威力の強い神の社がなかつたら、春日の野邊に粟を蒔きましようものを。
【釋】千磐破 チハヤブル。既出(卷二、一〇一)。枕詞。神に冠する。語義は、猛威ある義で、ブルは荒ブルのブルと同じく、體言を動詞化する接尾語。ここに千磐破と書いているのは借字であるが、他にも使用されており、この語の内容から選ばれた字面であろう。
 神之社四 カミノヤシロシ。ヤシロは、家代の義で、家屋のあるべき土地をいう。神靈の宿る地。下のシは強意の助詞。今の春日神社は、稱コ天皇の神護景雲二年に勸請されたと傳えているが、本集卷の十九、天平勝寶三年の歌に「春日(ニテ)祭(リシ)v神(ヲ)之日(ニ)、藤原(ノ)大后(ノ)御作歌一首」(四二四〇)があり、續いて藤原の清河の歌として「春日野にいつく三諸《みもろ》の」(四二四一)の歌を傳えており、當時既に藤原氏の氏神がまつられていたことと考えられる。さすれば、ここに神の社というのも、同じく春日神社の前身とも見ることができる。
 無有世伐 ナカリセバ。ナクアリセバの約言で、打消假設の條件法。事實既に社のあつたことを語つている。セは、時の助動詞キの未然形とされる。
(337) 春日之野邊 カスガノノベニ。邊は、字音假字として、ヘニの二音を表示している。神の社の所在を語つている。
 粟種益乎 アハマカマシヲ。アハは、穀物の粟であるが、逢うと同音であるので、それを懸けている。粟蒔クで、逢うことの素を作るの意を寓している。マシヲは、そうしたろうものを、しかししないの意をあらわしている。
【評語】神を、おそろしいものとし、その社があるので、逢うことの憚られる由に歌つている。思想上、注意される歌である。粟を蒔くは譬喩であるが、同音を利用することに譬喩の根據を置いている點が特異である。
 
佐伯宿祢赤麻呂、更贈歌一首
 
【釋】更贈歌 サラニオクレルウタ。前に赤麻呂から贈つた歌があつて、ここにまた更に贈つたので、更贈歌という。
 
405 春日野《かすがの》に 粟蒔けりせば、
 鹿待《ししま》ちに 繼ぎて行かましを。
 社しうらめし。
 
 春日野尓《カスガノニ》 粟種有世伐《アハマケリセバ》
 待v鹿尓《シシマチニ》 繼而行益乎《ツギテユカマシヲ》
 社師怨焉《ヤシロシウラメシ》
 
【譯】春日野に粟が蒔いてあつたら、鹿を狩しに續いて行きましようものを。神社のあるのは殘念です。
【釋】春日野尓粟種有世伐 カスガノニアハマケリセバ。前の娘子の歌の、春日ノ野邊ニ粟蒔カマシヲを受けて、もし春日野に粟を蒔いてあつたとしたらの意に、假設している。
 待鹿尓 シシマチニ。諸説があるが、今、古義の訓による。鹿猪の類をシシというは、肉を食料にする獣の(338)稱である。シシマチの語は、「足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑越《ヤツヲコエ》 鹿待君之《シシマツキミガ》 伊波比嬬可聞《イハヒヅマカモ》」(卷七、一二六二)、「白栲《シロタヘノ》 袖纏上《ソデマキアゲテ》 宍待我背《シシマヅワガセ》」(同、一二九二)など見えている。粟を食いに來る鹿を待つことで、これを獵しようとである。
 繼而行益乎 ツギテユカマシヲ。ツギテは引き續いて。マシヲは假設の語法。
 社師怨焉 ヤシロシウラメシ。
   ヤシロシウラメシ(槻)
   ――――――――――
   社師留焉《モリシトドメバ》(類)
   社師留烏《ヤシロハシルヲ》(西)
   社師留烏《モリハシルカラ》(童)
   社師留烏《ヤシロシシルヲ》(考)
   社師留烏《ヤシロシトムルヲ》(略)
   社師留戸母《ヤシロシルトモ》(玉)
   社師有侶《ヤシロシアリトモ》(古義)
   社師留焉《ヤシロシトドムル》(攷)
 社シ留ムルは、繼ぎて行くことを社が禁止するの意となすべきであろうが、既に粟を蒔いたのではないのだから、社が留めるは意をなさない。神田本によつて社師怨焉としウラメシとするによるべきである。その意はあきらかである。
【評語】娘子が逢おうとしないのを怨んでいる。譬喩が複雜であり、對手の歌に應じて作歌しているので窮屈になつて、暢達の氣を缺くものがある。鹿待ちの如き材料を使つたのは、おもしろいが、それが活用されていないのは惜しむべきである。
 
(339)娘子、復報歌一首
 
【釋】復報歌 マタコタフルウタ。前の報フル歌についで、赤麻呂の贈歌に對してまた返答をしたので、マタ報フル歌という。
 
406 わが祭る 神にはあらず。
 丈夫《ますらを》に 認《つな》げる神ぞ、
 よく祀《まつ》るべき。
 
 吾祭《ワガマツル》 神者不v有《カミニハアラズ》
 大夫尓《マスラヲニ》 認有神曾《ツナゲルカミゾ》
 好《ヨク》應v祀《マツルベキ・マツルベシ》
 
【譯】わたくしの祭つている神樣ではございません。あなたに關係のある神樣です。よくお祭りになつたらいいでしよう。
【釋】吾祭神者不有 ワガマツルカミニハアラズ。赤麻呂が、社シウラメシといつたのを受けて、その神を説明している。君がうらむところの神は、自分の祭るところにはあらずといつている。句切。
 大夫尓 マスラヲニ。マスラヲは、赤麻呂をいう。
 認有神曾 ツナゲルカミゾ。ツナゲルカミゾ(考)、シメタルカミゾ(槻)、ツキタルカミゾ(古義)。諸説があり、特に認の字の訓が問題になるが、この字は、本集には、他に「所v射鹿乎《イユシシヲ》 認河邊之《ツナグカハベノ》 和草《ニコクサノ》 身若可倍爾《ミワカキガヘニ》 佐宿之兒等波母《サネシコラハモ》」(卷十六、三八七四)とあるのみであつて、その認がツナグと讀むべきであることは、この字の訓を定める上に有力な資料である。すなわちこれによつて、考にツナゲルカミゾと讀んだのが妥當とされる。但しその解としては、考に「つなぎとゞめて離れぬ神有といへり」とあるは、適解とは思われない。ツナグは、連絡、連係の意の動詞であるから、丈夫に關係ある神と釋すべく、佐伯氏は武士の家であり、春日野に祭れる(340)神が、武威ある神として信仰されていたことについていうのであろう。ゾは、從來係助詞として説かれていた。これは提示句であつて、句切の語氣になるものであるが、次の句に對しては、係助詞となる。すなわち、君に關係ある神ですぞの意である。「玉梓之《タマヅサノ》 君之使乎《キミガツカヒヲ》 待之夜乃《マチシヨノ》 名凝其今毛《ナゴリゾイマモ》 不v宿夜乃大寸《イネヌヨノオホキ》」(卷十二、二九四五)。
 好應祀 ヨクマツルベキ。ヨクマツルベキ(類)、ヨクマツルベシ (考)。第四句のゾを終助詞として句切とすれば、この句は、これのみで獨立文となる。祭祀をよくせよの意。
【評語】赤麻呂の歌を受けて、その神を説明している。どうも娘子の方が、口達者のようだ。しかしやはり獨立した歌としての興趣はすくない。
 
大伴宿祢駿河麻呂、娉2同坂上家之二孃1歌一首
 
大伴の宿禰駿河麻呂の、同じ坂上の家の二孃を娉《つまど》へる歌一首。
 
【釋】娉同坂上家之二孃歌 オヤジサカノウヘノイヘノオトヲトメヲツマドヘルウタ。坂上家の二孃は、大伴の坂上の家の第二孃で、坂上の大孃の妹、同母の所生と考えられる。娉はツマドフ。婚を求める意である。
 
407 春霞 春日《かすが》の里の 殖子水葱《うゑこなぎ》、
 苗なりといひし、
 柄《え》はさしにけむ。
 
 春霞《ハルガスミ》 春日里之《カスガノサトノ》 殖子水葱《ウヱコナギ》
 苗有跡云師《ナヘナリトイヒシ》
 柄者指尓家牟《エハサシニケム》
 
【譯】春霞のかかつている春日の里の植えたコナギは、苗だといつたが、柄がのびたであろう。
【釋】春霞 ハルガスミ。枕詞。霞むということから春日に冠する。しかしこの歌の季節を描寫しているもの(341)で、これによつて春日の里の情景が想見される。
 春日里之 カスガノサトノ。春日は、平城の京の東方の地名。當時、坂上家の二孃が、その地にいたのであろう。
 殖子水葱 ウヱコナギ。ウヱは、植竹、植木橘などいうと同じく、人爲をもつて植えたものであることを示す語。コナギは、ナギの愛稱で、コは愛稱。別にコナギという種類の植物があるわけではない。ミズアオイ科の一年生草本。葉柄が長い。食用植物。本草和名に「薊菜、一名水葱、和名|奈岐《ナギ》」、倭名類聚鈔藻類に「水葱、奈岐《ナギ》」とある。
 苗有跡云師 ナヘナリトイヒシ。苗なりと云いしがの意。二孃のまだ幼少であつたことをいう。
 柄者指尓家牟 エハサシニケム。エは柄、ナギは葉柄が長いので、その葉柄の出るをいう。サシは、水枝サシなどあり、柄を張るをいう。
【評語】初三句の提示部は、相當美しく、娘子の家のあたりを思わせるものがある。四五句は、やや窮屈な感じである。ナギは、唐突に持ち出されたものでなく、前にどちらからかこれに寄せていう所があつたのであろう。
 
大伴宿祢家持、贈2同坂上家之大孃1歌一首
 
(342)大伴の宿禰家持の、同じ坂上の家の大孃に贈れる歌一首。
 
【釋】大伴宿祢家持贈同坂上家之大孃歌 オホトモノスクネヤカモチノオナジサカノウヘノオホヲトメニオクレルウタ。上、四〇三に全く同文の題詞が出ている。
 
408 石竹《なでしこ》の その花にもが。
 朝なさな 手に取り持ちて
 戀ひぬ日無けむ。
 
 石竹之《ナデシコノ》 其花尓毛我《ソノハナニモガ》
 朝旦《アサナサナ》 手取持而《テニトリモチテ》
 不v戀日將v無《コヒヌヒナケム》
 
【譯】瞿麥の花でもありたいものだ。そうしたら毎朝手に持つて愛さない日はないだろう。
【釋】石竹之 ナデシコノ。石竹は瞿麥に同じく、漢文でもこの字を使用している。
 其花尓毛我 ソノハナニモガ。瞿麥の花を特に指定して、その花といつている。ガは願望の助詞。その花にもありたしの意。句切。
 朝旦 アサナサナ。ナは、體言について、副詞を作る助語。同語を重ねることによつて、その意を強くし、決定しての意をあらわす。諾ナ諾ナ、朝ナ夕ナなどの用例がある。ここは朝ナを重ねることによつて、毎朝の意となる。假字書きの例には「奈泥之故我《ナデシコガ》 波奈爾毛我母奈《ハナニモガモナ》 安佐奈々々見牟《アサナサナミム》」(卷十七、四〇一〇)、「阿佐奈佐奈《アサナサナ》 安我流比婆理爾《アガルヒバリニ》 奈里弖之可《ナサテシカ》」(卷二十、四四三三)があり、アサナサナとなつているのは、下のアが、上のナに吸收されたのである。歴史的にはアサナアサナであり、これを音聲に換算する時にアサナサナと聞えるのである。ナは、ニの轉音であるとする説があるが、「朝魚夕菜爾《アサナユフナニ》」(卷十一、二七九八)の如く、アサナユフナニとする例があるのを見れば、ニの轉音とはしがたい。
 手取持而 テニトリモチテ。手中に把持しての意。
(343) 不戀日將無 コヒヌヒナケム。この戀フは、思慕する意ではなくして、愛賞する意に使用されている。この頃の用例として、講義に擧げたものは、「櫻花《サクラバナ》 時者雖v不v過《トキハスギネド》 見人之《ミルヒトノ》 戀盛常《コヒノサカリト》 今之將v落《イマシチルラム》」(卷十、一八五五)、「朝露爾《アサツユニ》 仁保敝流花乎《ニホヘルハナヲ》 毎v見《ミルゴトニ》 念者不v止《オモヒハヤマズ》 戀志繁母《コヒシシゲシモ》」(卷十九、四一八五)、「鳴鳥能《ナクトリノ》 許惠乃孤悲思吉《コヱノコヒシキ》 登岐波伎爾家里《トキハキニケリ》」(卷十七、三九八七)等である。ナケムは、なからむの意。戀をせぬ日はないだろう。愛賞しない日はないだろうの意である。
【評語】愛人を花に譬えることからして、既に類型的である。これも家持の初期の作として、特色のない歌である。花であつたらというところに譬喩があり、その點、他の譬喩歌と相違するものがある。
 
大伴宿祢駿河麻呂歌一首
 
409 一日《ひとひ》には
 千重《ちへ》浪|頻《しき》に 思へども、
 何《な》ぞその玉の 手に卷きがたき。
 
 一日尓波《ヒトヒニハ》
 千重浪敷尓《チヘナミシキニ》 雖v念《オモヘドモ》
 奈何其玉之《ナゾソノタマノ》 手二卷難寸《テニマキガタキ》
 
【譯】一日の間には、千重に寄せる波のように、重ね重ね思うけれども、どうしてその玉が手に卷きがたいのだろう。
【釋】一日尓波 ヒトヒニハ。ある一日にはの意。
 千重浪敷尓 チヘナミシキニ。チヘナミは、幾重にもかさなり寄る波。シキニを修飾している。千重浪のようにシキニである。シキは、かさなる意の動詞から出た名詞、ニは助詞で、シキニで、重ね重ねの意の副詞になり、次の句を修飾している。
(344) 雖念 オモヘドモ。次の句によつて、玉を思う意であることが知られる。玉すなわち愛人である。
 奈何其玉之 ナゾソノタマノ。ナゾは何ぞに同じ。その玉は、愛人を譬えていう。坂上家の二孃であろう。講義には、二句の千重浪の縁語に玉といつているとしている。
 手二卷難寸 テニマキガタキ。玉を手に卷くを習いとするので、手に入れがたいことを譬えいう。上のナゾに對して連體形をもつて留めている。
【評語】愛人を玉に譬えることも、古人として常用の手段である。もつとも平凡な譬喩で、歌としても格別の作ではない。
 
大伴坂上郎女、橘歌一首
 
【釋】橘歌 タチバナノウタ。タチバナは、垂仁天皇の御代に、田道間守《たじまもり》が常世の國から將來したと傳え、舶載の樹として、庭園にも街路にも植えて愛賞した。この歌は、作者が、その女を人に許すについて、これを最前に育てた橘に譬えている。
 
410 橘を 屋前《には》に植ゑ生《おほ》し、
 立ちて居て 後《のち》に悔ゆとも
 驗《しるし》あらめやも。
 
 橘乎《タチバナヲ》 屋前尓殖生《ニハニウヱオホシ》
 立而居而《タチテヰテ》 後雖v悔《ノチニクユトモ》
 驗將v有八方《シルシアラメヤモ》
 
【譯】橘を屋前に植え生してからは、立つたりいたりして、後悔してもかいのないことです。
【釋】橘乎 タチバナヲ。題詞の條にいう如く、おのが女をタチバナに譬えていると見られる。
 屋前尓殖生 ニハニウヱオホシ。ヤドニウエオホシ(類)、ニハニウヱオホシ(攷)。屋前は、倭名類聚鈔に(345)「考聲切韻(ニ)云(フ)、庭定丁(ノ)反、和名、爾波《ニハ》屋(ノ)前也」とあるによつて・ニハと讀む。ニハは、わが前にある廣場の謂で、海上にもいう。屋前をニハと讀むことは攷證の説である。その他舊訓多くヤドと讀んでいるが、ヤドは屋戸の義であつて、屋戸にも木草を植えたことが歌われている。しかし「我屋戸前乃《ワガニハノ》 花橘爾《ハナタチバナニ》 霍公鳥《ホトトギス》 今社鳴米《イマコソナカメ》 友爾相流時《トモニアヘルトキ》」(卷八、一四八一)の如く、屋戸前と書かれた例があり、これは屋戸の前の義であつて、屋戸と屋前とに相違のあることを語つている。假字でニハと書いた例も若干あり、庭の字を使用したものは多數である。ウヱオホシは、植え生しで、移植するをいう。この庭は、相手の家の庭で、わが女子を人に與えて、その家の人とすることを譬えていう。
 立而居而 タチテヰテ。立つて、またいてで、立つてもいてもの意。以下は作者の心境をいう。
 後雖悔 ノチニクユトモ。人に與えて後にそれを悔いてもである。
 驗將有八方 シルシアラメヤモ。そのかいがあろうや、ないの意。
【評語】最愛の娘を人に與えようとする母親の不安が歌われている。タチバナは、愛賞されていた花で、多分自分の女を、相手がタチバナに譬えることがあつてこの歌となつたのだろう。元來タチバナの名は、大刀花で、トゲのあることから出た名であろうから、その意をもつて、謙遜して人に與えた歌であるかもしれない。同じこの作者の「玉主《たまぬし》に玉は授けてかつがつも枕と吾はいざ二人寐む」(卷四、六五二)の歌は、娘を人に與えた後のさびしさが歌われているとされているが、これのみならず、この人の母性愛は、しばしば歌われている。危虞不安の氣持がよく歌われている。橘は郎女の屋前に實際にあつたのだろう。
 
和歌一首
 
【釋】和歌 コタフルウタ。前の大伴の坂上の郎女の歌に唱和した歌であるが、何人の作とも傳えない。坂上(346)の郎女の女子を娶つた人としては、大伴の家持と駿河麻呂との二人が擧げられるが、二人のうちとしては駿河麻呂であろう。それは歌中にある吾妹子の語は、坂上の郎女をさすものと考えられるが、家持は坂上の郎女を姑として尊重して吾妹子とは呼ばない。駿河麻呂は、歌中においてしばしば吾妹子と呼んでいる(卷三、四〇二、卷四、六四八)。これによつて駿河麻呂の作と推定すべく、坂上家の二孃を娶ることに關する歌と考えられる。駿河麻呂の年齡は、坂上の郎女に匹敵していたのであろう。
 
411 吾妹子が 屋前《には》の橘、
 いと近く、植ゑてしからに
 成らずは止《や》まじ。
 
 吾妹兒之《ワギモコガ》 屋前之橘《ニハノタチバナ》
 甚近《イトチカク》 殖而師故二《ウヱテシカラニ》
 不v成者不v止《ナラズハヤマジ》
 
【譯】あなたのお庭の橘は、極めて近く植えた以上は、實がならないではおきません。
【釋】吾妹兒之 ワギモコガ。ワギモコは、坂上の郎女をさしていう。
 屋前之橘 ニハノタチバナ。坂上の郎女の庭前の橘で、それをわが庭に移し植えることに譬えている。橘は、坂上家の二孃をいう。この句は、坂上の郎女の歌の詞によつて歌つている。
 甚近 イトチカク。わが身に近くで、わが家の庭に移植するについていう。
 殖而師故二 ウヱテシカラニ。植えたそれゆえにの意。植えたので、植えたからぐらいの意になる。カラニは、それにもとづくことをいう。故の字を、カラと讀むべき例になる。
 不成者不止 ナラズハヤマジ。橘の結實することに、夫婦關係の完成を懸けてナルといつている。成し遂げないではおかないの意。
【評語】新しい妻の母親の不安に對して夫婦關係の完遂を誓約して慰めている。五句は強いいい方であるが、(347)慣用句としてしばしはあらわれており、類型的な句である。
 
市原王歌一首
 
【釋】市原王 イチハラノオホキミ。既出の春日の王(卷三、二四三)の孫、安貴の王(同・三〇六)の子。天平の頃、寫經司の舍人となり、後、玄蕃の頭となり、天平勝寶元年四月に、東大寺大佛造營の功によつて從五位の上を、同二年十二月には同じ功によつて正五位の下を授けられ、天平寶字七年正月、攝津の大夫、同四月、造東大寺長官に任ぜられた。室能登の内親王とのあいだに、五百井の女王、五百枝の王の二子がある。本集には、父安貴の王を?ぐ歌、獨子を悲しむ歌などがあり、よいお人柄であつた。正倉院文書のうちには、自筆の書?などを傳え、また歌林七卷を書寫せしめられたことが傳えられている。
 
(348)412 頂《いなだき》に 著統《きす》める玉は
 二つ無し。
 かにもかくにも 君がまにまに。
 
 伊奈太吉尓《イナダキニ》 伎須賣流玉者《キスメルタマハ》
 無v二《フタツナシ》
 此方彼方毛《カニモカクニモ》 君之隨意《キミガマニマニ》
 
【譯】頭上に大切に藏している玉は二つはない。そのように、いかようにもひたすらにあなたの仰せられる通りであります。
【釋】伊奈太吉尓 イナダキニ。イナダキは、イタダキに同じとされている。別にそういう證明はないが、ナの音とダの音とは、古く通用することが多いから、さようにもいえるであろう。頂上の意。
 伎須賣流玉者 キスメルタマハ。キスメルは、標註播磨國風土記の賀毛郡の條に「伎須美《きすみ》野、右、伎須美野と號《なづ》くるは、品太《ほむだ》の天皇の世に、大伴の連等、此の處を請ひし時、國造黒田別を喚《め》して地《くに》の?《かたち》を問ひたまひき。爾《その》時《とき》對へて曰はく、衣を縫ひて櫃《き》の底に藏《きす》みしが如し。故《かれ》伎須美野といふ」(もと漢文)の本文についてこの歌を擧げ、「今據(リテ)2風土記(ニ)1考(フルニ)v之(ヲ)、伎須美《キスミ》之言(ハ)藏也。倭姫(ノ)世記(ニ)有(リ)2國太摩伎志賣留國《クニタマキシメルクニ》之語1、亦與2伎須美(ト)1同言(ナリ)」とある。これによつて、藏せるの意とすべきである。頂ニキスメルは、佛説にいう所の髪中の明珠をもつて佛法を譬えいうによるものであろう。「阿母刀自母《アモトジモ》 多麻爾母賀母夜《タマニモガモヤ》 伊多太伎弖《イタダキテ》 美都良乃奈可爾《ミヅラノナカニ》 阿敝麻可麻久母《アヘマカマクモ》」(卷二十、四三七七)の歌にいう所も、また同じ趣である。
 無二 フタツナシ。唯一不二であるの意の句切。
 此方彼方毛 カニモカクニモ。コナタカナタモ(西)、カニモカクニモ(玉)。「處女墓《ヲトメヅカ》 中爾造置《ナカニツクリオキ》 壯士墓《ヲトコヅカ》 此方彼方二《コナタカナタニ》 造置有《ツクリオケル》 故縁聞而《ユヱヨシキキテ》」(卷九、一八〇九)の例があり、此方彼方の字面は、コナタカナタとも讀まれるが、歌意を按ずるに、いかようにもの意であるから、カニモカクニモの方が適當である。
(349) 君之隨意 キミガマニマニ。君は誰をさすか不明である。マニマニは、集中、「末支太末不《マキタマフ》 官乃末爾末《ツカサノマニマ》」(卷十八、四一一三)の如く、マニマの例があるによれば、マニマに助詞ニの添つたものであろう。しかし慣用の上から、マニの連語のように感じられている。
【評語】思う人を、髪中の明珠に譬え、自分は、そのただ一つの明珠の意のままであるよしを歌つている。上三句に、ただ一つの玉を頂いている事をいい、その玉のように、君をのみ大切に頂いているというふうに歌つている。譬喩を用いている歌であるが、下二句は本心をそのままにいう。いかにも、ただ一人の方を大切に思うというに、適した譬喩である。
 
大網公人主、宴吟歌一首
 
大網の公人主の、宴に吟へる歌一首。
 
【釋】大網公人主 オホアミノキミヒトヌシ。傳未詳。大網の公は、崇神天皇の皇子|豐城入彦《とよきいりひこ》の命の後である。
 宴吟歌 ウタゲニウタヘルウタ。宴席で吟誦した歌で、自作であるか否か不明である。
 
413 須磨の海人《あま》の 鹽燒衣《しほやきぎぬ》の 藤服《ふぢごろも》、
 ま遠《どほ》にしあれは  いまだ著穢《きな》れず。
 
 須麻乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 藤服《フヂゴロモ》
 間遠之有者《マドホニシアレバ》 未2著穢1《イマダキナレズ》
 
【譯】須磨の海人が、鹽を燒く著物の藤の織物は、織目が粗いので、まだ著よごしをしないことだ。
【釋】須麻乃海人之 スマノアマノ。須麻は、神戸市の西部、淡路島に面せる海岸の地。その地の海人は、古くから鹽を燒くを業として知られていた。
 鹽燒衣乃 シホヤキギヌノ。シホヤキギヌは、鹽を燒く時に著る衣で、鹽氣のため、また火を焚くために、(350)特によごれることが激しい。「爲間乃海人之《スマノアマノ》 鹽燒衣乃《シホヤキギヌノ》 奈禮名者香《ナレナバカ》 一日母君乎《ヒトヒモキミヲ》 吾而將v念《ワスレテオモハム》」(卷六、九四七)など歌われている。ノは、鹽燒衣であるの意に次の句に續く。
 藤服 フヂゴロモ。フヂの繊維で織つた衣。粗末な織物である。フヂは花の美しい藤に限らず、蔓性植物を廣くいう。
 間遠之有者 マドホニシアレバ。藤の織物は、粗末で、織目が荒いので、間遠といつている。同時にこの語には、逢うことの間隔あるを含めている。シは強意の助詞。逢うこと稀なればの意である。
 未著穢 イマダキナレズ。衣服を著用して汚垢のために穢れるのをキナルという。ナレギヌ、キナレノコロモなどいう。ここはまだ著古さないのである。
【評語】調子よく巧みに譬喩を使用している。四五句は、逢うこと稀にして愛人と馴れるに至らないことを歌つているが、間遠、著穢レズなどは、藤ゴロモの縁で使用しているのであつて、織目があらいから著穢れないという理くつではない。どこまでも譬喩に即して解すると誤解を生じるのである。古歌を吟誦したのであろうという説があるが、そういうことも考えられる歌である。
 
大伴宿祢家持歌一首
 
414 あしひきの 岩根|凝《こご》しみ、
 菅《すが》の根を 引かば難《かた》みと、
 標《しめ》のみぞ結ふ。
 
 足日木能《アシヒキノ》 石根許其思美《イハネコゴシミ》
 菅根乎《スガノネヲ》 引者難三等《ヒカバカタミト》
 標耳曾結焉《シメノミゾユフ》
 
【譯】山の岩が嶮しくて、山菅の根を引くのは困難なので、繩を張つておくだけにする。
(351)【釋】足日木能 アシヒキノ。山の枕詞であるが、ここはこれを山の意に代用している。「足引乃《アシヒキノ》 許乃間立八十一《コノマタチクク》 霍公鳥《ホトトギス》」(卷八、一四九五)、「足檜乃《アシヒキノ》 下風吹夜者《アラシフクヨハ》」(卷十一、二六七九)、「安之比奇能《アシヒキノ》 乎?母許乃毛爾《ヲテモコノモニ》」(卷十七、四〇一一)など、この用法である。
 石根許其思美 イハネコゴシミ。イハネは、岩に同じ。ネは接尾語。コゴシミは、凝つているのでの意。
 菅根乎 スガノネヲ。スガノネは、山菅の根である。
 引者難三等 ヒカバカタミト。菅の根を引くは、これを採取するをいう。「石二生《イハニオフル》 菅根取而《スガノネトリテ》 之努布草《シノフグサ》 解除而益乎《ハラヘテマシヲ》」(卷六、九四八)というによれは、何かまじない事に使用したらしい。菅の根の長いということは多く歌われており、人生に親しいものがあつたのである。ここは、引いて採取するのが困難であるとしての意。
 標耳曾結焉 シメノミゾユフ。標を結うは、占有の意を表示する。取ることができなくて占有の意だけをあらわしておくというのである。
【評語】いかなる事情のもとに詠まれたか不明であるが、ある女を手に入れようとして、困難な事情があり、わがものと定めておくだけに留める意味に歌つている。やや複雜な内容を、よく譬喩をもつて描いている。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。柩車を引く時の歌であるが、本集では廣く人の死を哀悼する歌の意に使用している。既に卷の二に見え、また卷の五、七、九、十五等にも見えている。
 
上宮聖コ皇子、出2遊竹原井1之時、見2寵田山死人1、悲傷御作歌一首 【小墾田宮御宇天皇代。墾田宮御宇者、豐御食炊屋姫天皇也。諱額田、謚推古。】
 
(352)上の宮の聖コの太子の、竹原《たかはら》の井《ゐ》に出遊《いでま》しし時に龍田山《たつたやま》の死人を見て悲《かな》しみて作りませる御歌一首【小墾田の宮に天の下知らしめしし天皇の代。墾田の宮に天の下知らしめししは、豐御食炊屋姫の天皇なり。諱は額田、謚は推古と申す。】
 
【釋】上宮聖コ皇子 ウヘノミヤノシヤウトコノミコ。用明天皇の皇子で、推古天皇の御代に攝政となられた。上の宮というのは、日本書紀に「父の天皇|愛《め》でて、宮南《おほみや》の上殿《かむつみや》に居《はべ》らしむ。故《かれ》その名を稱《たた》へて上《うへ》の宮《みや》の厩戸《うまやど》の豐聽耳《とよとみみ》の太子と謂ふ」とあり、また「この皇子、初め上の宮にましましき。後に斑鳩《いかるが》に移りたまふ」とある。聖コというは、謚號《しごう》であろう。
 竹原井 タカハラノヰ。大阪府中河内郡柏原町高井田の地で、奈良時代には行宮があつた。大和川の沿岸にあり、大和から河内に越える道に當る。その地は大和川に面しているので、今の龜が瀬の清流をいうのだろう。
 龍田山 タツタヤマ。大和の國から河内に越える通路に當る山。この時、皇子は何處にましましたか不明であるが、斑鳩にましましたのででもあろう。
 死人 ミマカリシヒト。路上に死んだ者をいう。歌詞によるに、旅に出て死んだのである。
 小墾田宮御宇天皇代 ヲハリダノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。推古天皇の御代をい(353)い、聖コ太子の時代を註したものと見られる。小墾田は、奈良縣高市部、飛鳥の地である。下文に、墾田とあるは、小の字を脱したのだろう。
 諱額田謚推古 タダノミナハヌカダ、オクリナハスヰコ。諱は、實名。日本書紀、推古天皇の卷に「幼(キトキ)曰(フ)2額田部(ノ)皇女(ト)1」とある。
 
415 家にあらば 妹が手|纏《ま》かむ。
 草枕 旅に臥《こや》せる
 この旅人《たびと》あはれ。
 
 家有者《イヘニアラバ》 妹之手將v纏《イモガテマカム》
 草枕《クサマクラ》 客尓臥有《タビニコヤセル》
 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》
 
【譯】家にあつたならば、妻の手を枕としようものを。旅に出て臥しているこの旅人は、氣の毒なことである。
【釋】家有者 イヘニアラバ。この旅人が、もしその家にあらばの意である。
 妹之手將纏 イモガテマカム。イモは、その妻をいう。日本書紀の仁賢天皇の卷の本註に、「古老《いにしへ》兄弟長幼と言はず、女は男を以ちて兄《せ》と稱《い》ひ、男は女をもちて妹《いも》と稱ふ」とあるが、兄弟に限らず、また男でも女でも、相手が男なら兄《せ》といい、女なら妹《いも》といつたものである。この歌で妹というは、臥している旅人の妻をいう。纏クは、妻の手をもつて枕とする、身に纏くこと。句切。
 客尓臥有 タビニコヤセル。旅にして臥しているの意。連體形の句。
 此旅人※[立心偏+可]怜 コノタビトアハレ。この旅人は、死者を指していう。タビビトを約めてタビトという。※[立心偏+可]怜は本來可怜と書くべきを、下の字の扁が上にも及んだものである。感動をあらわす字で、ほめるのが本意であるから、アハレ、オモシロシ、ウマシなどと讀んでいる。日本書紀にこの歌を載せて、ソノ旅人アハレ(阿波禮)とあるのでここでもアハレと讀んでいる。アハレは感動の聲である。
(354)【評語】この歌は諸書に見えているが、日本書紀に載つているのが、そのもとであろう。それは二段から成る一種の歌體であつたものを、この集には短歌の形として傳えたのである。短歌形式が歌體の大部分を占めるようになつてから、かく形を變えるに至つたものであろう。昔の旅行が困難であつて、しばしば行路に死ぬ者があつたことは、かの十人行けば五人は留めたという類の傳説が諸國にあり、また本集中にも行路の死人を悼んだ歌を留めているのでも知られる。聖コ太子のこの御歌は、一切の衆生を憐みたまう博愛の心がよく窺われる。
【參考】(一)片岡山の歌。
(推古天皇二十一年の冬十二月)庚午の朔《つきたち》の日、皇太子片岡に遊行したまひき。時に飢《う》ゑたるもの、道の垂《ほとり》に臥《こや》せり。よりて姓名を問はせども言《まを》さず。皇太子視たまひて飲食を與へ、すなはち衣裳を脱ぎて、飢ゑたるものに覆《おほ》ひて安《やす》らに臥《こや》せと宣《の》りたまひき。歌よみしたまひしく、
  しなてる片岡山に、飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人《たびと》あはれ。親《おや》無しに汝《なれ》成《な》りけめや、さすたけの君はや無き。飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人《たびと》あはれ(日本書紀一〇四)
(二)山路に死人を悼む。
   柿本の朝臣人麻呂の、香具山の屍を見て、悲慟しみて作れる歌一首。
  草枕旅の宿《やどり》に誰が夫《つま》か國忘れたる。家待たまくに(卷三、四二六)
   足柄の坂を過ぎて、死《みまか》りし人を見て作れる歌一首。
  小垣内《をかきつ》の 麻を引き干《ほ》し 妹なねが 作り著《き》せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重|結《ゆ》ふ 帶を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 國に罷《まか》りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鳥が鳴く 東《あづま》の國の 恐《かしこ》きや神の御坂《みさか》に 和靈《にきたま》の 衣《ころも》寒らに ぬばたまの 髪は亂れて 國問へど 國をも告《の》らず 家問へど 家をも言はず 丈夫の 行きの進《すす》みに 此處《ここ》に臥《こや》せる(卷九、一八〇〇)
 
(355)大津皇子、被v死之時、磐余池般、流涕御作歌一首。
 
大津の皇子の、被死《みまか》らしめらえし時に、磐余《いはれ》の池の般《つつみ》にして、流涕《かな》しみて作りませる御歌一首。
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。既出(卷二、一〇五)。天武天皇の皇子。天皇の崩後、謀反の罪によつて死を賜わつた。朱鳥元年九月九日天皇崩じ、十月三日に死んだ。
 被死之時 ミマカラシメラエシトキニ。日本書紀には賜死とあり、ミマカラシムと訓している。死を命ぜられたのである。
 磐余池般 イハレノイケノツツミニシテ。磐余の池は、履中天皇の二年十一月に作られた池で、奈良縣磯城郡のうちであろうが、今所在未詳である。般は、代匠記に、史記封禅書に「鴻漸(ス)2于般(ニ)1 漢書音義(ニ)曰(フ)、般(ハ)水涯(ノ)堆也」とあるを引いている。堤の義である。目録には陂とある。日本書紀によれば、皇子の邸は譯語田《おさだ》にあり、この池は、その邸に近かつたのであろう。
 流涕 カナシミテ。泣くことであるが、意をとつてカナシミテと讀む。
 
416 百傳《ももづた》ふ 磐余《いはれ》の池に 鳴く鴨を
 今日のみ見てや、雲|隱《がく》りなむ。
 
 百傳《モモヅタフ》 磐余池尓《イハレノイケニ》 鳴鴨乎《ナクカモヲ》
 今日耳見哉《ケフノミミテヤ》 雲隱去牟《クモガクリナム》
 
【譯】あの磐余の池に鳴く鴨を、親しく見るのは今日だけで、自分は死んで行くのであろうか。
【釋】百傳 モモヅタフ。枕詞。八十《やそ》、五十《いそ》、三十《みそ》等を修飾するのは、百になる途中の意である。その五十をイというより、地名の磐余のイに懸かるのである。
 磐余池尓 イハレノイケニ。題詞の條參照。
(356) 鳴鴨乎 ナクカモヲ。皇子の死は、陰暦十月三日であるから、當時既に鴨が下りていたのである。
 今日耳見哉 ケフノミミテヤ。ヤは、疑問の係助詞。鴨を見るのも今日ばかりかと疑つている。
 雲隱去年 クモガクリナム。貴人は死して天に上ると信じられていた。ナムは、動詞の連用形について、將來にいう助動詞。去ナムを語原としている。死の意味の雲隱るの例「大君は神にし坐《ま》せば天雲の五百重《いほへ》が下《した》に隱《かく》りたまひぬ」(卷二、二〇五)、「大君の命《みこと》かしこみ大殯《おほあらき》の時にはあらねど雲隱ります」(卷三、四四一)、「留め得ぬ命《いのち》にしあれば敷栲《しきたへ》の家ゆは出でて雲隱りにき」(同、四六一)。
【評語】死に臨んで、從容として池上に鳴く鴨に別れを惜しんでいる。古人の、自然を愛する情、至れるものがあるというべきである。現存せる最古の詩集である懷風藻に、大津の皇子の臨終の詩一絶を載せている。詩歌をよくした才人であつたが、終りをよくしなかつたのは惜しむべきである。ただ姉に大伯《おおく》の皇女があり、皇子に關して哀絶の詞を傳え、妃に山邊の皇女があり、被髪徒跣して死に殉じたという。純情の人々に圍まれていたのはせめてもの幸福であつた。
【參考】(一)大津の皇子の最後。
  (朱鳥元年十月)庚午(三日)、皇子大津を譯語田《をさだ》の舍に賜死《みまか》らしむ。時に年廿四。妃の皇女山邊、髪《みぐし》を被《くだ》し徒跣《すあし》にして、奔赴《ゆ》きて殉《ともにし》ぬ。見る者皆|歔欷《なげ》く。皇子大津は、天の淳中原瀛《ぬなはらおき》の眞人の天皇の第三子なり。容止墻岸《みかほたかくさかしく》、音辭《みことば》俊れ朗かなり。天命開別《あめのみことひらかすわけ》の天皇のために愛《めぐ》まれたまふ。長となるに及びて辨《わいわい》しくて才學《かど》有り、尤も文筆を愛む。詩賦の興、大津より始まれり。(日本書紀持統天皇紀)
(二)五言、臨終一絶。
 金烏臨(ミ)2西舍(ニ)1 鼓聲催(ス)2短命(ヲ)1 泉路無(シ)2賓主1 此(ノ)夕離(レテ)v家(ヲ)向(フ)(懷風藻)
 
(357)右、藤原宮朱鳥元年冬十月
 
【釋】藤原宮朱鳥元年 フヂハラノミヤノアカミドリハジメノトシ。朱鳥元年は、天武天皇の治世の最後の年であり、持統天皇の治世の最初の年である。藤原の宮は、持統天皇の八年に遷都された地であつて、當時はまだ明日香の淨御原《きよみはら》の宮の時代であるが、持統天皇の朱鳥元年の意味に、ここに藤原の宮と冠したのであろう。
 
河内王、葬2豐前國鏡山1之時、手持女王作歌三首
 
河内の王を、豐前の國の鏡の山に葬りし時に、手持《たもち》の女王の作れる歌三首。
 
【釋】河内王 カフチノオホキミ。系統未詳。持統天皇の三年閏八月に淨廣肆河内の王を筑紫の大宰の帥とすること見え、同八年四月には、淨大肆を筑紫の大宰の率河内の王に贈り賻物《はふりもの》を賜うことが見えているから、その頃に薨去したものと考えられる。
 豐前國鏡山 トヨノミチノクチノクニノカガミノヤマ。既出(卷三、三一一)。河内の王の墓は、今もその山の西に存している。
 手持女王 タモチノオホキミ。系統未詳。河内の王の室であろう。この歌三首は、連作であつて、三首をもつて一の内容を構成する。
 
(358)417 大王《おほきみ》の 親魄《むつたま》合《あ》へや、
 豐國《とよくに》の 鏡の山を
 宮と定むる。
 
 王之《オホキミノ》 親魄相哉《ムツタマアヘヤ》
 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山乎《カガミノヤマヲ》
 宮登定流《ミヤトサダムル》
 
【譯】河内の王の御心にかなつてか、豐國の鏡の山を御墓とお定めになることです。
【釋】王之 オホキミノ。オホキミは、天皇また皇子、王にもいう。ここは河内の王をさす。
 親魄相哉 ムツタマアヘヤ。ムツタマは、河内の王の靈魂をいう。ムツは、親睦の意にタマに冠している。延喜式祝詞に「皇親神魯岐神魯美之命《スメムツカムロキカムロミノミコト》」「皇睦神漏岐命神漏彌命《スメムツカムロキノミコトカムロミノミコト》」などある皇親また皇睦をスメムツ、またはスメラガムツと讀んでいる。魄は、説文に「陰神也」とあるが、靈魂と同義に使用していると見られる。ムツタマは、親しみ睦ばれる御魂の意。アヘヤは、合ヘバニヤの意の前提條件法で、ヤは疑問の係助詞である。タマアフということ、熟語として、心が合う、心に協う、氣に入る、よしとする意を成す。「靈合者《タマアヘバ》 相宿物乎《アヒネムモノヲ》 小山田之《ヲヤマダノ》 鹿猪田禁如《シシダモルゴト》 母之守爲裳《ハハシモラスモ》」(卷十二、三〇〇〇)、「玉相者《タマアハバ》 君來益八跡《キミキマスヤト》 吾嗟《ワガナゲク》 八尺之嗟《ヤサカノナゲキ》」(卷十三、三二七六)、「波播已毛禮杼母《ハハイモレドモ》 多麻曾阿比爾家留《タマゾアヒニケル》」(卷十四、三三九三)など用例がある。
 宮登定流 ミヤトサダムル。鏡の山を御墓として鎭まりましたことを、王の心から選定したというように敍している。「あさもよし城上《きのへ》の宮を、常宮《とこみや》と高くし奉りて」(卷二、一九九)の例がある。上のヤを受けて、連體形で結んでいる。
【評語】連作の第一首として、まず墓所の選定を歌つている。疑問の條件法によつて、どうしてこのような處を宮とされるかの語氣が感じられる。
 
(359)418 豐國の 鏡の山の 石戸《いはと》立て
 隱《こも》りにけらし。
 待てど來《き》まさず。
 
 豐國乃《トヨクニノ》 鏡山之《カガミノヤマノ》 石戸立《イハトタテ》
 隱尓計良思《コモリニケラシ》
 雖v待不2來座1《マテドキマサズ》
 
【譯】豐前の國の鏡の山に、御墓づくりをし、その入口に石戸を立て、お籠り遊はされたそうな。待つていてもおいでがない。
【釋】石戸立 イハトタテ。上代の墳墓は、中央に棺を置く室があり、それから道が出てその入口に岩石を立ててある。その入口の岩石を岩戸という。墳墓の入口に岩戸を立てる意である。勿論葬儀に從事する人が立てるのであるが、それを王自身が岩戸を立てて隱れると敍している。
 隱尓計良思 コモリニケラシ。墳墓にこもつたと見えると、推量の語で歌つている。句切。
 雖待不來座 マテドキマサズ。王を待つてもおいでにならないの意である。
【評語】第一首を受けて、待てども來ぬ理由を推量している。順序のよい進行ぶりである。
 
419 石戸《いはと》破《わ》る 手刀《たぢから》もがも。
 手弱《たよわ》き 女《をみな》にしあれば
 術《すべ》の知らなく。
 
 石戸破《イハトワル》 手力毛欲得《タヂカラモガモ》
 手弱寸《タヨワキ》 女有者《ヲミナニシアレバ》
 爲便乃不v知苦《スベノシラナク》
 
【譯】御墓の石戸を打ち破る力も欲しいなあ。わたしは弱々しい女子のことだから、せむすべを知らないことです。
【釋】石戸破 イハトワル。前の歌の石戸を受けて、それを破ることを歌つている。連體形の句。
(360) 手力毛欲得 タヂカラモガモ。タヂカラは、手の力、腕力。ガは願望の助詞。欲得は、意をもつて書いている。ここではガモに當るように見えるが、「花爾欲得《ハナニモガ》」(卷三、三〇六)の例では、モガに當り、「令v服兒欲得《キセムコモガモ》」(卷七、一三四四)の例では、モガモに當つている。この句は、手力が欲しいことだの意で、假字書きの例には「乎里?加射佐武《ヲリテカザサム》 多治可良毛我母《タヂカラモガモ》」(卷十七、三九六五)がある。句切。
 手弱寸 タヨワキ。タは接頭語。四音の句で、連體形である。
 女有者 ヲミナニシアレバ。ヲミナは、若い女の謂であつたが、ここでは女性の汎稱になつている。シは強意の助詞。メニシアレバと讀む説は、「阿波母與《アハモヨ》 賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」(古事記六)によるものである。
 爲便乃不知苦 スベノシラナク。スベは手段、方法。シラナクは、知らぬことの意の體言。
【評語】初二句、非常に力強い。死し去つた人を呼び迎えるために、かの墓所の石戸をも打ち破りたく思う情をあらわしている。三句の字足らずも、珍しいものであるが、かえつて力が強い。死の前に力のない人間の身の弱さを歌つている。一首としても立派な歌であるが、前から漸次急迫して行くところを味わうべきである。この力強い一首をもつて、この連作の結末としているのは、もつとも效果的な行き方である。
 
石田王卒之時、丹生王作歌一首 并2短歌1
 
石田の王の卒りし時に、丹生の王の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】石田王 イハタノオホキミ。傳未詳。歌詞によるに男王なるべく、また次に養老七年二月に卒した山前の王作の挽歌があるから、その以前に卒去されたものと考えられる。山前の王は、忍壁の皇子の子であるから、山前の王の弟であるかもしれない。
 卒之時 ミマカリシトキニ。卒は、五位以上および皇親の死に使用する文字である。
(361) 丹生王 ニフノオホキミ。傳未詳。歌詞に、みずから祭祀を行うが如き記事があるによれば女王なるべく、卷の四、卷の八に丹生の女王とあると同人かと考えられる。女王を王とのみ書くことは、額田の王以下、例があり、古事記にもその例がすくなくない。
 
420 なゆ竹の とをよる皇子《みこ》、
 さにつらふ わが大王は、
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山に
 神《かむ》さびに 齋《いつ》き坐《いま》すと、
 玉|梓《づさ》の 人ぞ言ひつる。
 妖言《およづれ》か わが聞きつる。
 狂言《たはごと》か わが聞きつるも。」
 天地に 悔しき事の
 世間《よのなか》の 悔しきことは、
 天雲の 遠隔《そくへ》の極《きは》み、
 天地の 至れるまでに、
 杖|策《つ》きも 衝《つ》かずも行きて、
 夕占《ゆふけ》問ひ 石占《いしうら》もちて、
 わが屋戸《やど》に 御諸《みもろ》を立てて、
(362)枕邊に 齋戸《イハヒベ》を居《す》ゑ、
 竹玉《たかだま》を 間《ま》なく貫《ぬ》き垂《た》り、
 木綿襷《ゆふだすき》 臂《かひな》に懸けて 、
 天なる 左佐羅《ささら》の小野の
 七符菅《ななふすげ》 手に取り持ちて、
 ひさかたの 天の川原に
 出で立ちて 禊《みそ》ぎてましを、
 高山の 巖《いはほ》の上に
 坐《いま》せつるかも。」
 
 名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》
 狹丹頬相《サニツラフ》 吾大王者《ワガオホキミハ》
 隱久乃《コモリクノ》 始瀬乃山尓《ハツセノヤマニ》
 神左備尓《カムサビニ》 伊都伎座等《イツキイマスト》
 玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》
 於余頭禮可《オヨヅレカ》 吾聞都流《ワガキキツル》
 狂言加《タハゴトカ》 我聞都流母《ワガキキツルモ》
 天地尓《アメツチニ》 悔事乃《クヤシキコトノ》
 世間乃《ヨノナカノ》 悔言者《クヤシキコトハ》
 天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》
 天地乃《アメツチノ》 至流左右二《イタレルマデニ》
 枚策毛《ツヱツキモ》 不v衝毛去而《ツカズモユキテ》
 夕衢占問《ユフケトヒ》 石卜以而《イシウラモチテ》
 吾屋戸尓《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》
 枕邊尓《マクラベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》
 竹玉乎《タカダマヲ》 無v間貫垂《マナクヌキタリ》
 木綿手次《ユフダスキ》 可此奈尓懸而《カヒナニカケテ》
 天有《アメナル》 左佐羅能小野之《ササラノヲノノ》
 七相菅《ナナフスゲ》 手取持而《テニトリモチテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天川原尓《アマノカハラニ》
 出立而《イデタチテ》 潔身而麻之乎《ミソギテマシヲ》
 高山乃《タカヤマノ》 石穗乃上尓《イハホノウヘニ》
 伊座都流香物《イマセツルカモ》
 
【譯】しなしなとした竹のように撓み寄る皇子樣、紅顔のわが大君。あの泊瀬《はつせ》の山に神としてお祭り申しあげていると、人々がいいました。それは人惑わしの言葉でしようか、わたしは聞きました。ふざけた言葉でしようか、わたしは聞きました。この天地のあいだに悔しい事の限りは、大空の雲の遠くさがつている極み、天地の續いている處まで、杖をついたりつかなかつたりして行つて、夕占などをして、わたしの屋戸に祭壇を設けて、枕邊に神座をすえ、竹の玉をいつぱいに貫いてさげ、木綿《ゆう》の襷を腕にかけて、天にあるという左佐羅《ささら》の野の長い菅を手に取り持つて、天の川原に出で立つて禊《みそぎ》をしましようものを、そうしなかつたばかりに、高山の巖の上にわが君をお住ませ申してしまつた。
【構成】この歌は、二段になつている。狂言カワガ聞キツルモまで第一段、王の訃を人が告げ、自分がそれを(363)聞いた感想を述べている。以下第二段、祭や、禊をしなかつたために死なせたことを歌つている。
【釋】名湯竹乃 ナユタケノ。吉備津《きびつ》の采女《うねめ》の死んだ時の挽歌に、「奈用竹乃《ナヨケケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)とある。なよなよとした竹の義で、譬喩になつている。
 十縁皇子 トヲヨルミコ。トヲヨルは、撓寄るの義で、しなやかに寄りそう意。「安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミ》」(卷七、一二九九)。この敍述は、次の句のサ丹ツラフワガ大王の句と共に、女子の説明として適當なようであるが、しかし石田の王は、次の山前の王の作の挽歌、ならびにその左註によるに、男王のようである。これは少年であつたので、このような敍述となつたのだろう。石田の王と丹生の王との關係は、夫婦關係と見るべき何等の證明もないから、あるいは兄弟關係、母子關係であつて、丹生の王が母姉であるかも知れない。それでかような敍述があるものとも考えられる。
 狹丹頬相 サニツラフ。サは接頭語、ニは、やや黄を含んだあかるい赤色をいう名詞。ツラフは、「引豆良比《ヒコヅラヒ》 有雙雖v爲《アリナミスレド》 曰豆良賓《イヒヅラヒ》 有雙雖v爲《アリナミスレド》」(卷十三、三三〇〇)のヒコヅラヒ、イヒヅラヒのヅラヒに同じく、ある事の連續して行われる意の動詞を作る接尾語とされている。次の句に對して修飾語となつている。サニツラフワガ大王とは、紅顔の王子というが如く、その血色の美しいのを稱えている。「左丹頬經《サニツラフ》 妹乎念登《イモヲオモフト》」(卷十、一九一一)の例は、女子についていい、「左耳通良布《サニツラフ》 君之三言等《キミガミコトト》」(卷十六、三八一一)、「散追良布《サニツラフ》 君爾依而曾《キミニヨリテゾ》」(三八一三)の例は男子について言つている。その他、「狹丹頬相《サニツラフ》 紐解不v離《ヒモトキサケズ》」(卷四、五〇九)、「左丹頬合《サニツラフ》 紐開不v離《ヒモアケサケズ》」(卷十二・三一四四)は紐を修飾し、「狹丹頬歴《サニツラフ》 黄葉散乍《モミヂチリツツ》」(卷六、一〇五三)は黄葉を修飾している。
 吾大王者 ワガオホキミハ。オホキミは、石田の王をいう。ナユ竹ノトヲヨル皇子、すなわちサニツラフワガ大王で、姿體と容顔の兩方面からこの王を敍述している。
(361) 隱久乃 コモリクノ。既出(卷一、四五)。枕詞。初瀬に冠する。隱れた國の義であろう。
 始瀬乃山尓 ハツセノヤマニ。この王の墓所の所在をいうが、今いずれの地とも知られない。
 神佐備尓 カムサビニ。カムサビは、神としての性質をあらわすことの意の體言。神性をあらわす事にの意の句。
 伊都伎坐等 イツキイマスト。祭り申すとの意で、下のイヒツルに接續する。イツキは、大切に祭る意の助詞。イマスはいられる意の敬語。助動詞。
 玉梓乃 タマヅサノ。既出(卷二、二〇七)。枕詞。使者に冠するが、ここは使者を略して人に懸かつている。
 人曾言鶴 ヒトゾイヒツル。人は、王の訃報を告げた使の者をいう。
 於余頭禮可吾聞都流 オヨヅレカワガキキツル。オヨヅレは、日本書紀、天智天皇紀に妖僞、天武天皇紀に妖言を、いずれもオヨヅレと讀んでいる。人まどわしの作り言の義であろう。假字書きの例には、「於與豆禮加母《オヨヅレカモ》、多波許止乎加母《タハコトヲカモ》」(績日本紀、寶龜二年二月、藤原永手の薨去の時の宣命)、「於與豆禮加毛《オヨヅレカモ》、年高多流麻之奴止《トシタカクナリタルワレヲオキテマカリマシヌト》」(同天應元年二月能登の内親王の薨去の時の宣命)、「於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多波許登等可毛《タハコトトカモ》」(卷十七、三九五七)などある。またこの文と類似しているものには、「枉言哉《タハゴトヤ》 人之云都流ヒトノイヒツル》 逆言乎《オヨヅレヲ》 人之告都流《ヒトノツゲツル》」(卷十九、四二一四)がある。この二句は、獨立の一文を成し、カが係助詞で、ツルで結んでいる。
 狂言加我聞都流母 タハゴトカワガキキツルモ。狂言は、神田本等による。西本願寺本等には枉言に作つている。この字面は、集中數出しており、その多くに異傳が存する。今それを表示すると次の通りである。
卷數  番號 枉言(【枉語を含む以下同じ】) 抂言   狂言  その他
卷三、四二〇 西本願寺本          大矢本  神田本 類聚古集「柱」
(365)   細井本一種          温古堂本      細井本二種「任」
       京都大學本
〔省略〕
(366)〔省略〕
 かように諸種の傳來があり、區々であつて、歸趨するところを知らない。殊に卷の七の例は、すべて狂言に作り、卷の十一の例は、すべて枉言または抂言に作つている。狂言と枉言とは字形が似ているので、どちらかであつたかも知れず、いずれか一が誤傳であるとすれば、從來の諸説のいう如く、狂言とするを穩當とする。それは、この歌の反歌「逆言之《オヨヅレノ》 狂言等可聞《タハゴトトカモ》 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上爾《イハホノウヘニ》 君之臥有《キミガコヤセル》」(卷三、四二一)は、長歌の句を多く取つているので、問題の字面も、長歌の字面と同一なるべく、しかもその歌は、卷の七の「狂語香《タハゴトカ》 逆言哉《オヲヅレゴトカ》 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山爾《ハツセノヤマニ》 庵爲云《イホリストイフ》」(卷七、一四〇八)と類型の歌である。また卷の十一の「小豆奈九《アヅキナク》 何狂言《ナニノタハゴト》 (367)今更《イマサラニ》 小童言爲流《ワラハゴトスル》 老人二四手《オイビトニシテ》」(卷十一、二五八二)の例は、すべて枉語、抂語に作つている例であるが、この歌の内容は、マガゴトでは意をなさない。よつて今、狂言に作るにより、タハゴトと讀むによる。タハゴトは、「於餘豆禮能《オヨヅレノ》 多波許登等可毛《タハコトトカモ》」(卷十七・三九五七)の例がある。タハは、タハワザなどの用例もあり、タハブルのタハと同語で、妄誕の言語の義と解せられる。なお枉言に作るによらば、枉は字書に邪曲也とあり、延喜式御門祭の祝詞に「天麻我都比云神言武惡事《アメノマガツヒトイフカミノイハムマガゴトニ》」とある惡事の自註に「古語(ニ)云(フ)2麻我許登《マガゴトト》1」とあるによつて、マガゴトと讀むぺく、災禍を招く言語の意に解するのである。この二句は、上の妖言カワガ聞キツルの句と對句をなし、ただ感動の助詞モを添えて形を變えている。連體形に感動の助詞モの接續する例は、「奈曾許己波《ナゾココバ》 伊能禰良要奴毛《イノネラエヌモ》」(卷十五、三六八四)。ここまで第一段。王の訃報を敍し、これを妖言か狂言かと疑つている。
 天地尓悔事乃 アメツチニクヤシキコトノ。この天地間におけるくやしい事にしての意。最大級に悔しい事をいう。
 世間乃悔言者 ヨノナカノクヤシキコトハ。天地にくやしい事であつて、世の中でのくやしい事はの意で、上の句と併わせて、最大級にくやしい事を擧げている。
 天雲乃曾久敝納極 アマグモノソクヘノキハミ。ソクヘは、退ク方の義で、天なる雲の彼方に退きいる終局をいう。かなた雲際の終りまでで、地上の極地をいう。ソキヘともいう。「天雲能《アマグモノ》 曾伎敝能伎波美《ソキヘノキハミ》」(卷十九、四二四七)。この句以下、ミソギテマシヲまで、くやしい事の説明で、かようにしなかつたのが殘念だというのである。
 天地乃至流左右二 アメツチノイタレルマデニ。天地の際限までもの意で、上の天雲ノ退ク方ノ極ミの句と共に、何處までもの意を強調する。
(368) 杖策毛 ツヱツキモ。杖を突いてもの意。枚も策も、ツヱともツキとも讀まれる字である。次の句のユキテに接續する。
 不衝毛去而 ツカズモユキテ。ツカズモは、枚を突かずしてもで、上に遠距離のことを述べ、いかようにしても行《い》つての意である。以上、石占モチテまでに懸かる。
 夕衝占問 ユフケトヒ。ユフケは、文字通り夕方に衢に出て卜占をするをいう。夕占をすることは、「玉桙之《タマホコノ》 道爾出立《ミチニイデタチ》 夕卜乎《ユフウラヲ》 吾問之可婆《ワガトヒシカバ》 夕卜之《ユフウラノ》 吾爾告良久《ワレニツグラク》」(卷十三、三三一八)の例があり、これは、夕卜をユフウラと讀んでいるが、同じ事であると考えられる。ユフケの語は、「可度爾多知《カドニタチ》 由布氣刀比都追《ユフケトヒツツ》」(卷十七、三九七八)など見えている。その方法は、道行く人の言語を聞いて、これによつて判斷をするのである。卜占をすることを、ウラドフ、ウラヲトフというは、靈界の眞意を問訊する意である。
 石卜以而 イシウラモチテ。石は重量のあるものであるが、これを擧げ試みて、案外輕く感ずるか否かによつて、吉凶を判斷したものと考えられる。日本書紀景行天皇紀に、天皇、碩田《おはきた》の國(豐後)に至りたまい、柏峽《かしはを》の大野において、土蜘蛛を討ち得むとならば、柏の葉の如く輕く揚がれと、その野の大石を蹶《ふ》みしに、石は柏の葉の如く輕く揚がつたということが見える。石の輕く擧がるをもつて吉とするのである。モチテは、石占をもつて判斷する由であるが、判斷する意の語は略されている。いかなる遠隔の地までも行つて、夕占や石占を行い、これによつて、災禍の起るべき所以を知ろうとするのである。次の句以下、その災禍の起るべき所以を除去しようとする行事を敍する。
 吾屋戸尓 ワガヤドニ。ヤドは、家の戸口で、屋外と書いたものに同じと見られる。ここでは家屋の外部をいう。家の出入口であろう。
 御諸乎立而 ミモロヲタテテ。ミモロは既出(卷三、三二四)。神座。ここは、御諸を立てる場處を、わが屋(369)戸と説明しているのが注意される。
 枕邊尓 マクラベニ。齋戸をすえる場處を示している。この枕邊は、作者の就寢する枕頭とすべきである。「伊波比倍須惠都《イハヒベスヱツ》 安我登許能敝爾《アガトコノベニ》」(卷十七、三九二七)、「伊波比倍乎《イハヒベヲ》 等許敝爾須惠弖《トコベニスヱテ》」(卷二十、四三三一)の如く、床邊にすえる例があるのであるから、この枕邊も床邊に準じて考うべきである。
 齋戸乎居 イハヒベヲスヱ。既出(卷三、三七九)。神靈の宿るべき處を地をほつてすえるのである。
 竹玉乎無間貫垂 タカダマヲマナクヌキタリ。既出(卷三、三七九)。マナクは、間隔なくで、竹玉を垂れる程度を説明している。以上ワガ屋戸ニ以下、祭壇の用意である。
 木綿手次 ユフダスキ。木綿で作つた手次。神事を行うに當つては、手次を懸ける。古事記上卷、石屋戸の段に、宇受賣の命が、天の香具山のヒカゲカヅラを手次にするよしが見えている。
 可比奈尓懸而 カヒナニカケテ。カヒナは、新撰字鏡に、肱に註して「臂也、丁也、肩也、可比奈《カヒナ》」とある。
 天有左佐羅能小野之 アメナルササラノヲノノ。ササラノヲノは、天上にあると考えられた野の名。「天爾有哉《アメニアルヤ》 神樂良能小野爾《ササラノヲノニ》 茅草苅《チガヤカリ》」(卷十六、三八八七)とも見えている。「山葉《ヤマノハノ》 左佐良榎壯子《ササレヲトコ》 天原《アマノハラ》 門度光《トワタルヒカリ》 見艮久之好藻《ミラクシヨシモ》」(卷六、九八三)の歌の左註に「右の一首の歌は、或るは云はく、月の別《また》の名を佐散良衣壯士《ささらえをとこ》と曰ふといふ。この辭に縁《よ》りて此の歌を作りき」とあり、そのササラも同語であろう。ここに天上の野を持ち出したのは、神事に使用する菅の産地の神聖なわけを言おうとしてである。
 七相菅 ナナフスゲ。諸説があるが、七節もある疊を織り得べき長い菅のことであろうという。神事には、植物性のものを手にして執行するを常としている。
 手取持而 テニトリモチテ。七相菅を手に持つて。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
(370) 天川原尓 アマノカハラニ。アマノカハラは、天上にあるという川原。何處かの川に出てみそぎをすべきであるが、ここは想像をめぐらしているので、神聖な川原の意に、天の川原を取り上げている。
 出立而 イデタチテ。家を發して他處に赴くをいう。
 潔身而麻之乎 ミソギテマシヲ。ミソギは、水で滌いで心身を清淨にする神道行事をいう。「君爾因《キミニヨリ》 言之繁乎《コトノシゲキヲ》 古郷之《フルサトノ》 明日香河爾《アスカノカハニ》 潔身爲爾去《ミソギシニユク》 一尾云、龍田超《タツタコエ》 三津之濱邊爾《ミツノハマベニ》 潔身四二由久《ミソギシニユク》」(卷四、六二六)、「玉久世《タマクセノ》 清川原《キヨキカハラニ》 身祓爲《ミソギシテ》 齋命《イハフイノチハ》 妹爲《イモガタメコソ》」(卷十一、二四〇三)など用例あり、潔身、身祓など書かれているので、身を滌ぐ義であると推定される。マシヲは不可能希望の語法で、そうしなかつたのをくやむ意がある。禊によつて來ようとする災禍を拂わないで殘念だつたというのである。以上、天地ニ悔シキ事ノ、世ノ中ノ悔シキ事を受けて、そうしなかつたのをくやんでいる。なお、天地ニ悔シキ事ノ世ノ中ニ悔シキ事は、高山ノ巖ノ上ニ坐セツルカモの意であるとする説があるが、そうではない。占いをし、祭をし、それから河原に出て禊をすることをしなかつたのが殘念だとするのである。
 高山乃石穗乃上尓 タカヤマノイハホノウヘニ。泊瀬ノ山ニ神サビニ齋キ坐スを受けている。高山の墓所に鎭まり坐す意を述べるのである。イハホは巖石、ホは接尾語、巖石の突出せるものをいう。
 伊座都類香物 イマセツルカモ。イマスは、坐すの敬語。居させたことであるの意。墓所に葬つたことを、その君をいさせたことだという形であらわしている。以上第三段、神事によつて災禍の來ようとするのを拂うことを怠つて、王の死を致したことを歎いている。
【評語】内容から見て、いかにも女性の作らしく、女性の中では母の歌らしい。表現としては、第一段の終りに懸けて、同形の句を繰り返したのが、有效に響いている。また悔しきことの句を重ねるなど、同形の句を繰り返して感情の強い表出に成功している。くやしい事の描寫も具體的なところがよい。
 
(371)反歌
 
421 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも、
 高山の 巖の上に
 君が臥《こや》せる。
 
 逆言之《オヨヅレノ》 狂言等可聞《タハゴトトカモ》
 高山之《タカヤマノ》 石穗乃上尓《イハホノウヘニ》
 君之臥有《キミガコヤセル》
 
【譯】それは妖言の狂言であるか、君はかの高山の巖の上に臥しておいでになるという。
【釋】逆言之 オヨヅレノ。長歌の用語を採つて詠んでいると見られるので、逆言をオヨヅレと讀む。妖言に同じである。ノは、逆言であるとの意。
 狂言等可聞 タハゴトトカモ。狂言は、長歌の條參照。トカモは、としてかの意で、カモは疑問の係助詞。
 高山之石穗乃上尓 タカヤマノイハホノウヘニ。この句は、長歌の句を使用している。
 君之臥有 キミガコヤセル。石田の王の、山上の墓所に臥せるをいう。カモを受けて連體形で結んでいる。
【評語】長歌の意を要約し、その詞句を多く使用して詠んでいる。類型的な思想および形體であるだけによく纏まつている。
 
422 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の山なる 杉|群《むら》の、
 思ひ過ぐべき 君にあらなくに。
 
 石上《イソノカミ》 振乃山有《フルノヤマナル》 杉村乃《スギムラノ》
 思過倍吉《オモヒスグベキ》 君尓有名國《キミニアラナクニ》
 
【譯】石の上の布留の山にある杉の群のように、吾が心の中から過ぎ去るべき君ではない事である。
【釋】石上 イソノカミ。地名。奈良縣天理市の東方。石上の郷の中に布留の地がある。
(372) 振乃山有 フルノヤマナル。フルは、地名。普通布留の字を當てている。石上の郷の中にある地名。延喜式神名帳に、大和の國山邊の郡に「石上坐布留御魂《いそのかみにますふるのみたま》神社」があり、今、石上神宮と稱している。その布留の地の山なるの意である。この神社の杉は著名であつて、「石上《イソノカミ》 振乃神杉《フルノカムスギ》」(卷十、一九二七)、「石上《イソノカミ》 振神杉《フルノカムスギ》」(卷十一、二四一七)など歌われている。それでこの地名を出したのであろう。また石田の王、もしくは丹生の王に關係のある地名であるかも知れない。
 杉村乃 スギムラノ。スギムラは、杉の群。以上三句は、序詞で、次句の過グベキを引き出すために置かれている。
 思過倍吉 オモヒスグベキ。既出(卷三、三二五)。思い通過すべきで、心からなくなるべきの意である。
 君尓有名國 キミニアラナクニ。君は石田の王をさす。君ではないことだの意。
【評語】前の歌とは別の方面から敍して、長歌の意味を補充している。石上布留の山は、何等か關係のある山であるかも知れないが、反歌としては突然である。また調子がなめらかなので、悲痛の情をうすくしている。
 
同石田王卒之時、山前王哀傷作歌一首
 
同じ石田の王の卒《みまか》りし時に、山前の王の哀傷して作れる歌一首。
 
【釋】同 オヤジ。前の歌と同じ場合なので、同と題してある。
(372) 山前王 ヤマクマノオホキミ。續日本紀天平寶字五年三月、茅原の王を多〓《たね》が島に流した時の記事に、「茅原(ノ)王(ハ)者、三品忍壁(ノ)親王之孫、從四位(ノ)下山前(ノ)王之男(ナリ)」とあり、山前の王は、天武天皇の孫で、忍壁の皇子の子であることが知られる。慶雲二年十二月に无位より從四位の下を授けられ、養老七年十二月に卒した。懷風藻には、從四位の下刑部の卿山前の王として五言の詩一首を載せている。
 
423 つのさはふ 磐余《いはれ》の道を、
 朝さらず 行きけむ人の、
 念ひつつ 通ひけまくは、
 ほととぎす 鳴く五月《さつき》には、
 あやめ草 花たちはなを
 玉に貫《ぬ》き【一は云ふ、貫き交へ、】 蘰《かづら》にせむと、
 九月《たがつき》の 時雨の時は、
 黄葉《もみちば》を 折り插頭《かざ》さむと、
 延《は》ふ葛《くず》の いや遠永く【一は云ふ、葛の根のいや遠永に、】
 萬世に 絶えじと念ひて、【一は云ふ、大船の念ひたのみて、】
 通ひけむ 君をは明日《あす》ゆ【一は云ふ、君を明日ゆは、】
 外《よそ》にかも見む。
 
 角障經《ツノサハフ》 石村之道乎《イハレノミチヲ》
 朝不v離《アササラズ》 將v歸人乃《ユキケムヒトノ》
 念乍《オモヒツツ》 通計萬四波《カヨヒケマクハ》
 霍公鳥《ホトトギス》 鳴五月者《ナクサツキニハ》
 菖蒲《アヤメグサ》 花橘乎《ハナタチバナヲ》
 玉尓貫《タマニヌキ》【一云、貫交】 蘰尓將v爲登《カヅラニセムト》
 九月能《ナガツキノ》 四具禮能時者《シグレノトキハ》
 黄葉乎《モミチバヲ》 折插頭跡《ヲリカザサムト》
 延葛乃《ハフクズノ》 彌遠永《イヤトホナガク》【一云、田葛根乃 彌遠長尓】
 萬世尓《ヨロヅヨニ》 不v絶等念而《タエジトオモヒテ》【一云、大船 之念憑而】
 將v通《カヨヒケム》 君乎婆明日從《キミヲバアスユ》【一云、君乎從2明日1香】
 外尓可聞見牟《ヨソニカモミム》
 
【譯】この磐余の道を朝毎に行かれた、かの石田の王の、此處をお通いになりながら思われた事は、ホトトギ(374)スの來て鳴く五月のころは、菖蒲や、花橘等を玉として緒に貫いて蘰《かずら》にしようと思い、九月の時雨の降る頃は、黄葉を折つて插頭にしようと思い、何時の世までも永久にやめまいと思つて、通われたのであるが、その君を明日からは、この世のよそに見る事であろうか。
【構成】全篇一文であつて、段落はない。
【釋】角障經 ツノサハフ。既出(卷二、一三五)。枕詞。角がさまたげとなる意で、岩に冠する。
 石村之道乎 イハレノミチヲ。イハレは地名、既出(卷三、二八二)。泊瀬溪谷の入口に近い地名である。石田の王は、その道を朝毎に通われたというのは、その邊に邸宅があつて、藤原の宮にでも通われたのであろう。
 朝不離 アササラズ。既出(卷三、三七二)。朝毎に。
 將歸人乃 ユキケムヒトノ。ヒトは、石田の王をさす。
 念乍 オモヒツツ。下に掲げる蘰ニセムト、折リ插頭サムト、絶エジトの三項を念いつつの意になつている。
 通計萬口波 カヨヒケマクハ。通つたであろうことはの意。マクは、ムコトの意。次の敍述の内容を念いつつ通つたであろうとする。
 霍公鳥 ホトトギス。集中多くこの文字を使用している。
 鳴五月者 ナクサツキニハ。霍公鳥は、五月に鳴くものとされている。
 菖蒲花橘乎 アヤメグサハナタチバナヲ。菖蒲と橘の花とをの意である。菖蒲は、五月の節に使用する香草の名であるが、本集卷の十八あたりに、安夜女具佐の文字を慣用しているによれば、アヤメは漢女の義なるべく、その花の美しいのから出たものと思われる。よつて花アヤメのことだろう。
 玉尓貫 タマニヌキ。玉として緒に貫いて。
 一云貫交 アルハイフ、ヌキマジヘ。この歌には、一云が四個に及んであるが、それらの一云とあるものは、(375)同一の別傳の詞句であろうと考えられる。その出所は不明であるが、左註に或云柿本朝臣人麻呂作とあるによれば、人麻呂作とする別傳であつたようである。概して一云の方が意もよく通つて佳である。ヌキマジヘは、菖蒲や橘の花を交えて緒に貫いての意。
 蘰尓將爲登 カヅラニセムト。菖蒲や橘の花を緒に貫いて、蘰にしようと思つての意で、遙かに下のオモヒテに接續する。蘰は、植物を輪にして飾りとして頭髪の上に戴くもので、五月五日の節には、菖蒲を蘰にして頭髪の飾りとしたものである。續日本紀、天平十九年五月の條に「太上天皇詔して曰はく、昔者《むかし》五日の節には、常に菖蒲《あやめ》を用ゐて蘰《かづら》と爲す。比來《このどろ》已に此の事を停《や》めぬ。今よりして後、菖蒲《あやめ》の鬘に非ざる者をば、宮中に入るる事なかれ」とあり、本集に「安夜女具佐《アヤメグサ》 波奈多知婆奈爾《ハナタチバナニ》 奴吉麻自倍《ヌキマジヘ》 可頭良爾世餘等《カヅラニセヨト》」(卷十八、四一〇一)など見えている。
 九月能四具禮能時者 ナガツキノシグレノトキハ。シグレは、秋冬の交に空かき曇つて降る雨であるが、本集では常に秋季にいつている。九月は晩秋で、しぐれの雨の降る時節としている。
 黄葉乎折插頭跡 モミチバヲヲリカザサムト。上の蘰ニセムトの句に對して、ムに當る字はないが、讀み添える。五月と九月とに對句に作つているが、句數は不同である。この句は、同じく下のオモヒテに接續する。
 延葛乃 ハフクズノ。枕詞。クズは蔓草であつて長いから、次の永久に冠する。
 弥遠永 イヤトホナガク。イヤは一層。トホナガクは、永久、永遠に。
 一云田葛根乃弥遠長尓 アルハイフ、クズノネノイヤトホナガニ。クズは古く栽培もしたので、田葛の字を使用するに至つたのだろうという。その根は長いものであるから、同じく長久の枕詞とする。
 萬世尓不絶等念而 ヨロヅヨニタエジトオモヒテ。蘰にせむと思い、折り插頭さむと思い、かくて萬世に絶えじと思つてと、オモヒテがすべてを收束している。
(376) 一云大舟之念憑而 アルハイフ、オホブネノオモヒタノミテ。既出(卷二、一六七)。大舟ノは枕詞。大きい船は、頼みになるので、憑ミテに冠する。萬世ニ絶エジト念ヒテの別傳である。
 將通 カヨヒケム。遥かに上の通ヒケマクハに應じている。連體形の句。
 君乎婆明日從 キミヲバアスユ。石田の王をば明日より先はの意。
 一云君乎從明日者 アルハイフ、キミヲアスユは。上の君ヲバ明日ユの別傳である。者は、西本願寺本等には香に作つている。次の句にカがあるのであるから、この句はカでない方がよい。
 外尓可聞見牟 ヨソニカモミム。カモは疑問の係助詞。わが世のよそにか見むの意。
【評語】美しい想像が中心になつている。しかし特に石田の王の特色があらわれているわけではない。どういう御方とも知られないが、いずれの歌にも男女関係に及んだものがなく、また官位も傳わらないところを見ると、比較的年少の御方であつたらしい。そうとすれば、この歌の蘰や插頭の敍述も、一層似つかわしいものというべきである。
 
右一首、或云、柿本朝臣人麻呂作
 
【釋】或云 アルハイフ。どういう材料であつたか不明である。從つて人麻呂の作であるとすることの當否もわからない。作柄からいつても、それを否定するだけの材料もない。人麻呂が、山前の王に代わつて作ることもないとはいえない。
 
或本反歌二首
 
【釋】或本反歌二首 アルマキノヘニカフタツ。前の長歌は、反歌を伴なわないものであつたが、或る本には、(377)その反歌として以下二首の歌を添えてあるというのである。その或る本のいかなるものであるかは不明である。人麻呂の作とする傳えであるかもしれない。
 
424 隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》をとめが 手に纏《ま》ける 玉は亂れて ありといはずやも。
 
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》
 玉者亂而《タマハミダレテ》 有不v言八方《アリトイハズヤモ》
 
【譯】かの泊瀬娘子の手に纏いていた玉は、緒が切れて亂れてあるというではないか。
【釋】隱口乃 コモリクノ。既出。枕詞。泊瀬に冠する。
 泊瀬越女我 ハツセヲトメガ。越は、字音ヲツであるが、これを借りて、ヲトに當てている。泊瀬の地の娘子で、地名を冠していう例は多い。左註によれば、紀の皇女の薨去の時の歌とする説明もあるのだから、この娘子は、かならずしも亡き石田の王の愛人とするに至らない。
 手二纏在 テニマケル。當時、女子は、玉を緒に貫いて手に卷いて飾りとしていた。その手に纏ける玉をいう。
 玉者亂而 タマハミダレテ。亂ルは、自動詞の時は、下二段活用であつたと考えられる。玉の緒が切れて玉の散亂する由で、娘子の思つていた方の死を譬えている。
 有不言八方 アリトイハズヤモ。あると人がいうではないか。アリは、上を受けて、亂れてありの意。ヤモは反語。「且今日々々々《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》 石水之《イシカハノ》 貝爾交而《カヒニマジリテ》 有登不v言八方《アリトイハズヤモ》」(巻二、二二四)などある。
【評語】思う方の死なれたのを、娘子の手に纏ける玉が亂れていたと、人が語つたというあらわし方をしている。非常に綺麗に、如何にも相愛の人の死を悼むにふさわしい歌である。「彦星の頭插《かざし》の玉の妻戀に亂れにけらし。この川の瀬に」(巻九、一六八六)の歌は、挽歌ではないが、かざしの玉の亂れたことを譬喩に使つている。
 
(378)425 河風の 寒き長谷《はつせ》を
 歎きつつ 君が歩《ある》くに
 似る人も 逢《あ》へや。
 
 河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》
 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久尓《キミガアルクニ》
 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》
 
【譯】河風の寒く吹く長谷の道を、悲歎に暮れながら君が行かれるのに似た人も逢わないなあ。
【釋】河風 カハカゼノ。泊瀬川の河風である。
 寒長谷乎 サムキハツセヲ。長谷は泊瀬に同じ。泊瀬は、長い溪谷であるので、長谷の字を使用する。
 歎乍 ナゲキツツ。亡くなられた石田の王の通行される?を説明している。
 公之阿流久尓 キミガアルクニ。キミは石田の王をいう。公の字は、男性に使用する。但し左註の或云によれば、紀の皇女のことになる。アルクは、歩行する。今も使用している語。集中「阿迦胡麻爾《アカゴマニ》 志都久良字知意伎《シヅクラウチオキ》 波比能利堤《ハヒノリテ》 阿蘇比阿留伎斯《アソビアルキシ》」(卷五、八〇四)など使用している。
 似人母逢耶 ニルヒトモアヘヤ。ヤは反語の助詞で、已然形に附して、その反對の意をあらわす。似る人も逢わないの意。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)、「袖振川之《ソデフルカハノ》 將v絶跡念倍也《タエムトオモヘヤ》」(卷十二、三〇二二)など、用例も多い。
【評語】亡くなつた君がさびしそうな形で、川風の寒き泊瀬を通つておられる。そう見えるような人も逢えかしという、情のよく通つている歌である。よい歌である。
 
右二首者、或云、紀皇女薨後、山前王、代2石田王1作之也
 
右の二首は、或るはいふ、紀の皇女の薨りましし後に、山前の王の、石田の王に代はりて作れるなり(379)といへり。
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。既出(卷二、一一九)。天武天皇の皇女、歿年未詳。
 代石田王 イハタノオホキミニカハリテ。これによれば代作である。集中にも人に代わつて詠んだ例はすくなくない。卷の四、五八六には、坂上の郎女が、弟稻公に代わつて歌を詠み、卷の十九には、大伴の家持が、妻に代わつて歌を詠んでいる。また代作というのでなくして、その人のために代わつて情を述べた歌も多い。これも、その類であろう。紀の皇女の歿年は不明であるが、奈良時代になつてからであろうと考えられるので、その薨後に、石田の王に代わつて作つたというのは、不審である。
 
柿本朝臣人麻呂、見2香具山屍1、悲慟作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、香具山の屍を見て悲慟《かな》しみて作れる歌一首。
 
【釋】見香具山屍 カグヤマノカバネヲミテ。歌詞によるに、旅に出て、香具山のほとりに倒れて死んでいた屍體を見たのである。
 悲慟 カナシミテ。既出(卷三、四一五)。
 
426 草枕 旅の宿《やどり》に、
 誰《た》が夫《つま》か 國忘れたる。
 家持たまくに。
 
 草枕《クサマクラ》 羈宿尓《タビノヤドリニ》
 誰嬬可《タガツマカ》 國忘有《クニワスレタル》
 家待莫國《イヘマタマクニ》
 
【譯】草の枕の旅中の宿に、誰の配偶者《つれあい》であろうか、國を忘れている。家では待つているだろうに。
【釋】羈宿尓 タビノヤドリニ。旅中の宿舍にての意であるが、ここではその人の倒れている香具山の山野を(380)いう。
 誰嬬可 タガツマカ。ツマは男子にも女子にもいう。配偶者の意。嬬の字は妻妾の義の字であるが、旅に死んでいるのだからここは夫であろう。嬬の字の用例中、男子の配偶者をいうと見られる例は多い。女子でも旅行をしない限りはなく、香具山は、藤原の京の近くであるから、女子でないとも限らず、文字通りに解せられるものは、それによるのが解釋の正道であるが、しばらく普通の説に從つておく。カは疑問の係助詞。誰の妻かと疑つている。
 國忘有 クニワスレタル。ここに臥せるは、國を忘れたためであるとしている。上のカを受けてタルと結んでいる。句切。
 家待眞國 イヘマタマクニ。家にては待たむことよの意。單に家とのみいつて、家がの意を示す例は、「衣手乃《コロモデノ》 名木之川邊乎《ナギノカハベヲ》 春雨《ハルサメニ》 吾立沾等《ワレタチヌルト》 家念良武可《イヘオモフラムカ》」(卷九、一六九六)の如きがある。
【評語】人麻呂の作品としては、特にすぐれたものではない。當時旅先で死んでも、家郷との連絡の法がなくして、家郷では知らないでいる場合が多いのであろう。既出の聖コ太子の御詠にも、さような旨が窺われる。
 
田口廣麻呂死之時、刑部垂麻呂作歌一首
 
【釋】田口廣麻呂 タグチノヒロマロ。傳未詳。續日本紀、慶雲二年十二月の條に、從五位の下に敍せられた田口の朝臣廣麻呂があるが、その人だろう。資料に具書してなかつたのだろう。
 刑部垂麻呂 オサカベノタリマロ。既出(卷三、二六三)。
 
427 百足《ももた》らず 八十隅坂《やそすみさか》に 手向《たむけ》せば、
(381) 過ぎにし人に 蓋《けだ》し逢はむかも。
 
 百不v足《モモタラズ》 八十隅坂尓《ヤソスミサカニ》 手向爲者《タムケセバ》
 過去人尓《スギニシヒトニ》 蓋相牟鴨《ケダシアハムカモ》
 
【譯】あの墨坂で、手向の祭をしたならば、死んでしまつた人に恐らく逢うことが出來るのだろうか。
【釋】百不足 モモタラズ。既出(卷一、五〇)。枕詞。百に足らぬ意で、八十、五十の枕詞になつている。
 八十隅坂尓 ヤソスミサカニ。この訓は舊訓であるが、攷證は、ヤソクマサカニと讀んでいる。隅は、スミともクマとも讀まれる文字であるが、本集では、クマと讀むべき例はない。「往隱《ユキカクル》 島乃埼々《シマノサキザキ》 隅毛不v置《クマモオカズ》 憶曾吾來《オモヒゾワガクル》」(卷六、九四二)の隅は、クマと讀むべきが如くであるが、それも、元暦校本、神田本、西本願寺本には隈に作つており、それを可とするであろう。集中、ヤソクマの語があり、古事記上卷に、大國主の神の語中、百《もも》足らず八十?手《やそくまで》の語があるによつて、ヤソクマということは考えられるが、ヤソクマサカを攷證に黄泉平坂《よもつひらさか》のこととするは無理である。講義には國境の坂とするが、それならばスミサカの平易なのに及ばない。古事記中卷崇神天皇記に、墨坂と大坂との神に、赤色黒色の楯《たて》矛《ほこ》を奉ることが見えているが、この二つの坂は、大和の國の中心地にはいろうとする東西の要衝に當り、その坂の神に武器を奉つたのは、これによつて邪惡の神の入り來たるを防ごうとする思想にもとづく。これすなわち手向の祭であつて、ここには歌詞の制約の上から、その一方を擧げたものであろう。すなわちスミサカは宇陀の墨坂で、大和の中心地より東方の坂路である。百足ラズ八十までが序詞で、それから多數の隅の意に墨坂に接續するものと考えられる。「もののふの八十氏川」(卷一、五〇)。
 手向爲者 タムケセバ。タムケは既出(卷一、三四)。道路において祭祀を行い、荒ぶる神の暴威を拂おうとする行事である。これによつて邪惡の神を退け得たならば、死者も蘇生するだろうとするのである。
 過去人尓 スギニシヒトニ。スギニシは、この世から經過し去つた意で、死んだことをいう。ここは田口の(382)廣麻呂をいう。
 蓋相牟鴨 ケダシアハムカモ。もし逢うことを得むかの意。カモは、感動の助詞であるが、ケダシを受けて、疑問の原意が相當に強く出ている。
【評語】死に對する思想の一端が窺われる。神に取り去られるとする考え方で、荒ぶる神の暴威を信ずることを中心としている。もしやとする思想が歌われている。
 
土形娘子、火2葬泊瀬山1時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
土形の娘子を、泊瀬山に火葬りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】土形娘子 ヒヂカタノヲトメ。土形氏の娘子であろうが、いかなる人とも知られない。土形氏は、應神天皇の皇子大山守の命の子孫に土形の君がある。
 火葬 ヤキハフリ。これは講義の訓であるが、字音で稱したものかも知れない。わが國における火葬は、文武天皇の四年三月に、僧道照を火葬したに始まるという。
 
428 隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山の 山の際《ま》に
 いさよふ雲は 妹にかもあらむ。
 
 隱口能《コモリクノ》 泊瀬山之《ハツセノヤマノ》 山際尓《ヤマノマニ》
 伊佐夜歴雲者《イサヨフクモハ》 妹鴨有牟《イモニカモアラム》
 
【譯】隱れ國の泊瀬の山の山の間に、漂つている雲は、あの子でかあるのだろう。
【釋】山際尓 ヤマノマニ。ヤマノマは、山と山との間。
 伊佐夜歴雲者 イサヨフクモハ。イサヨフは、躊躇しためらう意の動詞。雲が山の間を離れかねて消えやらずにいるをいう。その雲を、火葬の煙の立ち昇つたものと見たのである。
(383) 妹鴨有牟 イモニカモアラム。イモは、女子に對していう愛稱であるが、三人稱に使用するのは、愛情を表現するためである。カモは疑問の係助詞。
【評語】その娘子が一片の煙と化したことについて感慨の情を表わしている。常時火葬が珍しかつたので、特にこの歌を成したのであろう。集中、火葬を詠んだ歌も多少あるが、多く煙を雲によそえているのは、自然の感じから來ているものである。
【參考】類歌。
  こもりくの泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ(卷七、一四〇七)
 
溺死出雲娘子、火2葬吉野1時、柿本朝臣人麻呂作歌二首
 
溺れ死にし出雲の娘子を、吉野に火葬《はふ》りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌二首。
 
【釋】溺死出雲娘子 オボレシニシイヅモノヲトメヲ。出雲は、地名か氏名かあきらかでない。出雲氏は、天の菩比《ほひ》の神の子孫として知られている。いかなる人とも知られないし、溺死した子細も不明であるが、歌詞によれば、吉野川に溺死したものであつて、吉野の宮に奉仕していた際のことであろう。
 
429 山の際《ま》ゆ 出雲《いづも》の兒《こ》らは 霧なれや、
 吉野の山の 嶺に棚引く。
 
 山際從《ヤマノマユ》 出雲兒等者《イヅモノコラハ》 霧有哉《キリナレヤ》
 吉野山《ヨシヌノヤマノ》 嶺霏?《ミネニタナビク》
 
【譯】山の間から出る雲のように、あの出雲の娘子は霧だからか、吉野の山の嶺に棚引いている。
【釋】山際從 ヤマノマユ。枕詞。山の間からの意で、出雲に冠している。出雲は、文字通り出る雲の意が感じられていたことは、その意味に説く地名起原説話もあり、また常に出雲の字が當てられていることによつて(384)も察知される。また山のあいだから雲の立ち出ることは、自然に親しんで生活していた當時の人々の熟知するところであるから、この枕詞は、出雲まで懸かつていると見るがよい。山のあいだから出るとだけでは、歌の情趣が成立しない。
 出雲兒等者 イヅモノコラハ。コは愛稱。ラは接尾語で、複數を意味しない。「兒等之家道《コラガイヘヂ》」(卷三、三〇二)參照。
 霧有哉 キリナレヤ。ナレヤは、ナレパニヤの意で、ヤは疑問の係助詞。疑問條件法をなす句。集中「白水郎有哉《アマナレヤ》 射等龍荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》」(卷一、二三)以下、例の多い語法である。火葬の煙を霧かと疑つている。
 嶺霏? ミネニタナビク。三句を受けて、霧だからか嶺にたなびくと結んでいる。霏?をタナビクと讀むことについては、講義に説があるから、參考の欄に摘記する。
【評語】前の歌と同樣に、火葬の煙を霧かと疑つている。前の歌にあつては、五句に愛情が窺われたが、この歌では、火葬そのものの興味が中心になつているように感じられる。あまりに客觀性が強いためである。
【參考】霏?の訓について。
  「霏?」の字は、その本義による時は、「霏」は説文に「雨雪貌」といひ、「?」は集韻に「小雨也」とある如く、雨などの降るにいふものなるが、ここはその原義にては通ぜざるに似たり。原義のまゝにては、この二字を、「タナビク」とよむことは首肯せらるべきにあらぬに諸家多くこれを看過せり。ひとり攷證は説をなして「義訓也」といひたれど、その理由をいはず。文選なる謝靈運の石壁精舍還湖中の詩に「雲霞收夕霏」の注に「善曰、霏雲飛貌」といひ「濟曰、霏曰氣也」といひたれば、説文の意より離れて「たなびく」とよみうべき意あり。然るに「?」は集韻(宋)に見えて、後世の造字なるが如く、その本字は微なりといへり。その微字(385)は説文に小雨也とあり。されど「霏?」と熟せる例は本集以外には未だ見ざる所なり。よりて思ふに、これは或は「霏微」といふ熟字に基づくにあらざるか。「霏微」の字面は杜甫の詩(曲江對酒)に「水晶宮殿轉霏微」徐鉉の詩に「江證齊色霧霏微」など見え、分類に「霏微、烟霧※[白/ハ]」、注に「霏微者煙霧蔽之則不明矣」と見ゆ。六朝頃の例は未だ見出てず。されど、なほ六朝頃に行はれしを本邦にも用ゐしことならむか。而して本來下字は「微」字なるを上字に傚ひて雨を冠し、「?」とせしにあらざるか。若しこの事ありしものとせば、「霏」は上の文選の例によるべく、「微」はその雲霧のさまをいふ爲に添へしものならむ。かくて二字にてたなびくの訓も生ぜしか。類聚名義抄には「霏?」に「タナビク」の訓あり。これを以て見れば、萬葉集以外にもこの熟字を用ゐたるもの存したりしならむ。(「萬葉集講義」卷第三、八二三頁)
 
430 八雲《やくも》さす 出雲の子らが 黒髪は、
 吉野の川の 奧《おき》になづさふ。
 
 八雲刺《ヤクモサス》 出雲子等《イヅモノコラガ》 黒髪者《クロカミハ》
 吉野川《ヨシノノカハノ》 奧名豆颯《オキニナヅサフ》
 
【譯】山の雲が立ち昇る、その出雲の娘子の黒髪は、吉野川の沖で、水にもまれている。
【釋】八雲刺 ヤクモサス。枕詞。ヤクモタツに同じ。日本書紀、崇神天皇紀にある「揶句毛多菟《ヤクモタツ》 伊頭毛多鷄流蛾《ウヅモタケルガ》 波鷄流多知《ハケルタチ》」(二〇)の歌を、古事記、景行天皇記に載せて、「夜都米佐須《ヤツメサス》 伊豆毛多祁流賀《イヅモタケルガ》 波祁流多知《ハケルタチ》」(二四)としている。そのヤツメサスは、ヤクモタツの訛傳であろうと云われる。本集では、普通にウチヒサスと書かれている枕詞を「打久津《ウチヒサツ》」(卷十三、三二九五)とも書いている。音聲としてタツともサスとも動搖するのであろう。多くの雲の涌き立つ意で、出雲の地名の意味を説明している。
 奧名豆颯 オキニナヅサフ。オキは、岸から遠い處をいう。颯は、入聲合韻の字で、音蘇合(ノ)切であるので、サフの音に借りている。ナヅサフは、ナヅサヒ、ナヅサフの形において、集中十三出しているが、いずれも假(386)字書きであり、そのほかに表意文字を使用したものでこの語が當てられると見られるものは、「足沾」(卷十一、二四九二)がそれかともされている。この語は表音文字ではあらわしにくい意を有するものと考えられる。それらの用例は、すべて水に關して使用されており、水の表面につかる、水面をわける等の意味なるが如く、ナヅム(難澁する、困難する)の語と關係ありと見て、水の抵抗を排除する意があるのであろう。また、「由良能斗能《ユラノトノ》 斗那賀能《トナカノ》 伊久理爾布禮多都《イクリニフレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)の那豆能紀も、これと關係ある語とすれば、水につかりもまれる意が一層明白になる。次にこの語の使用の例二三を擧げる。「鳥自物《トリジモノ》 魚津左比去者《ナヅサヒユケバ》」(卷四、五〇九)、「遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》 莫都左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》」(卷六、一〇一六)、「暇有者《イトマアラバ》 魚津柴比渡《ナヅサヒワタリ》 向峯之《ムカツヲノ》 櫻花毛《サクラノハナモ》 折末思物緒《ヲラマシモノヲ》」(卷九、一七五〇)。
【評語】この歌も客觀性が強くして、娘子の死を傷む意が薄くなつている。順序から云えは、前の歌よりも前にあるべきだが、別に連作というわけでもなかろうから、順序はどちらでもよい。しかし前の歌が山について歌い、この歌が川について歌つているのは、意識して作られたのであろう。
 
過2勝鹿眞間娘子墓1時、山部宿祢赤人作歌一首【并2短歌1、東俗語云、可豆思賀能麻末乃弖胡】
 
勝鹿の眞間の娘子の墓を過ぎし時に、山部の宿禰赤人の作れる歌一首【短歌并はせたり。東の俗の語に云はく、かづしかのままのてご。】
 
【釋】過勝鹿眞間娘子墓時 カツシカノママノヲトメノハカヲスギシトキニ。勝鹿は、下總の國葛鹿郡の地名。ここに勝鹿、歌中また卷の九に勝牡鹿(一八〇七)と書き、その他「可都思加」(卷十四、三三八四)とも書いているので、カツシカと讀むべく、なお「可豆思加」(卷十四、三三四九)、「可豆思賀」(同、三三八五)とも書いているによれば、カヅシカとも發音されたようである。眞間は、その郡内の地名。今、江戸川沿岸にその名を殘している。往時は、海岸であつたと見え、歌にはその趣に歌つている。ママは、全國方言辭典に(一)(387)堤などのくずれた所。(二)えぐれてくぼんでいる所。(三)崖、がけ。(四)土堤、どて。(五)急傾斜地。(六)草などの生えている畦畔。(七)石垣の諸解があつて、關東では(三)(四)の解によつて使われている。今、國府臺《こうのだい》丘陵の傾斜地が、その地に擬せられているのは、だいたいこれに合う。ママノヲトメは、その地の娘子の意で、歌中には、眞間の手兒名と書いている。作者赤人は、その地に赴き、親しく娘子の墓を見て、この歌を詠んだので、不盡の山を望む歌も、多分その同じ旅行の作であろう。なお「詠(メル)2勝鹿(ノ)眞間(ノ)娘子(ヲ)1歌」(卷九、一八〇七、一八〇八)は、高橋連蟲麻呂歌集の歌であるが、同じく、この娘子を取り扱つている。また卷の十四にも、これに關する歌がある。それらを綜合するに、この娘子は、漁村の女子で、美しかつたので人々にいい騷がれたが、結局、入水して死んだものと考えられる。
 東俗語云可豆思賀能麻末乃弖胡 アヅマノヨノヒトノコトニイハク、カヅシカノママノテゴ。この文は、諸本にあり、類聚古集にもあつて、文献上、もとからあつたものと見られる。歌中に「越(ノ)俗語東風(ヲ)、謂(ヘリ)2之安由乃可是(ト)1也」(卷十七、四〇一七)の如き註を加えた例もあり、それは作者の自註であろうが、ここは編者の註であろう。但しその編者と、卷の十七の作者(大伴の家持)との關係は、また別途の問題となる。弖胡は、歌詞には、手兒名とあり、その手兒と同語で、ナは愛稱の接尾語である。テゴについては、「比等未奈乃《ヒトミナノ》 許等波多由登毛《コトハタユトモ》 波爾思奈能《ハニシナノ》 伊思井乃手兒我《イシヰノテゴガ》 許登奈多延曾禰《コトナタエソネ》」(卷十四、三三九八)の如き用例もある。手兒の字面は、その語義を表示するものとすれば、古事記に技藝ある人を手人というに照らして、技塾ある兒とすべく、テは手の意の接頭語と解せられる。上代において機織等の技藝ある娘子を尊重したことは、タナバタツメなどの語感によつても知られるところである。テゴは、かような語義から轉じて、娘子の愛稱となつたものと考えられる。眞間の手兒奈の時代については、歌中に、古昔の事としているが、いつごろの世の人とも知られない。その事蹟に關して傳説があつたのだろう。かくて平安時代に入つて、「まろがをぢにて治部の卿なる人のてこ、(388)兵部の少輔かたちいとよく」(落窪物語卷二)、「みつぎいとてこらが布をさらせると見えしは花のさかりなりけり」(好忠集)の如き用例を見るに至つた。
 
431 古《いにしへ》に ありけむ人の、
 倭文幡《しづはた》の 帶解き交《か》へて、
 廬屋《ふせや》立て 妻問《つまどひ》しけむ、
 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の手兒名《てごな》が
 奧津城《おくつき》を 此處《ここ》とは聞けど、
 眞木《まき》の葉や 茂くあるらむ。
 松が根や 遠く久しき。」
 言《こと》のみも 名のみも、吾は、
 忘らゆましじ。」
 
 古昔《イニシヘニ》 有家武人之《アリケムヒトノ》
 倭文幡乃《シヅハタノ》 帶解替而《オビトキカヘテ》
 廬屋立《フセヤタテ》 妻問爲家武《ツマドヒシケム》
 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞間之手兒名之《ママノテコナガ》
 奧槨乎《オクツキヲ》 此間登波聞杼《ココトハキケド》
 眞木葉哉《マキノハヤ》 茂有良武《シゲクアルラム》
 松之根也《マツガネヤ》 遠久寸《トホクヒサシキ》
 言耳毛《コトノミモ》 名耳母吾者《ナノミモワレハ》
 不v所v忘《ワスラエナクニ》
 
【譯】古にいつたという人が、倭文幡の帶に解きあらためて小舍を立てて婚姻の申込をしたという、葛飾の眞間の手兒名の、墓所を此處とは聞くけれども、眞木の葉などが茂つたのであろう、松の木が遠く久しい代を經たためであろう。この物語だけも、娘子の名だけも、わたしは忘られまい。
【構成】二段になつている。松ガ根ヤ遠ク久シキまで第一段、娘子の墓を尋ねて、その久しい時を經たことを敍している。以下第二段、その人が忘れがたいと感想を述べている。
【釋】古昔有家武人之 イニシヘニアリケムヒトノ。昔、この眞間の娘子に妻問をしたという人を點出してい(389)る。倭文幡ノ帶解キ替ヘテ廬屋立テ妻問シケムまでに懸かる主格である。
 倭文幡乃 シヅハタノ。シヅは、日本書紀神代下の自註に「倭文神、此《コヲバ》云《イフ》2斯圖梨能俄未《シヅリノカミト》1」、天武天皇紀に「倭文、此《コヲバ》云《イフ》2之頭於利《シヅオリト》1」とある。倭の文の義で、本邦固有の文樣を織り出したものである。シヅハタは、その倭文の織物の意で、この句は、次の帶の材料を説明している。「去家之《イニシヘノ》 倭文旗帶乎《シヅハタオビヲ》 結垂《ムスビタレ》」(卷十一、二六二八)の歌に倭文旗とあるも同じ。
 帶解替而 オビトキカヘテ。古びた帶を解いて、倭文幡の帶に解き替えてで、文字通りに解せられる。
 廬屋立 フセヤタテ。フセヤは、伏せたような家屋。陋屋であるが、ここではただ小舍ぐらいに解せられる。婚姻をするために新たに家を建てるのである。以上三句は、妻問をするための準備である。
 妻問爲家武 ツマドヒシケム。ツマドヒは、婚姻を申し入れること。妻として問い寄る意である。上の古ニアリケム人を受けて、シケムといつている。連體形の句。
 勝壯鹿乃眞間之手兒名之 カツシカノママノテゴナガ。題詞の條參照。テゴナは、人名ではなく、娘子の義である。ナは親愛の意を表する接尾語。「字倍兒奈波《ウベコナハ》 和奴爾故布奈毛《ワヌニコフナモ》」(卷十四、三四七六)、「和努等里都伎弖《ワノトリツキテ》 伊比之古奈波毛《イヒシコナハモ》」(卷二十、四三五八)など、兒ナの用例がある。
 奧榔乎 オクツキヲ。槨は、棺を蔽うものの義であるが、奧槨の二字をもつて墳墓の意をあらわしている。オクツキ、奧つ城の義で、キは建造物、オクは深奧の意をあらわし、ツは助詞である。オクツキは、集中、奧城、奧津城、奧墓等の文字を使用している。
 此間登波聞杼 ココトハキケド。此處が墳墓の地であるとは聞けどの意で、そのさだかでないことをいおうとして、キケドといつている。
 眞木葉哉 マキノハヤ。マキは樹木をほめていう。ヤは疑問の係助詞。
(390) 茂有良武 シゲクアルラム。シゲクアルラム(西)、シゲリタルラム(略)、シゲミタルラム(古義)。現にその處を見ておりながら、疑問推量の語法を用いているのは、手兒名が死んで墓に葬つてから、時久しくなつて眞木の葉などが茂つたのであろうかというのである。墓所がただ樹叢になつていたのであろう。句切。
 松之根也遠久寸 マツガネヤトホクヒサシキ。マツガネは、松が根の義であるが、そのガネは、接尾語として根を張つていることをいうだけで、松の木をいう。イハガネ(岩が根)の例に同じ。「神左備而《カムサビテ》 巖爾生《イハホニオフル》 松根之《マツガネノ》 君心者《キミガココロハ》 忘不v得毛《ワスレカネツモ》」(卷十二、三〇四七)のマツガネもこれに同じ用法である。ヤは疑問の係助詞。トホクヒサシキは、時間の經過の多いことをいう。かの手兒名の時代から、久しい時を經過して松の木も長大になつたのであろうといい、結局墓所のしかとしないことを語つているようである。この二句、上の眞木ノ葉ヤ茂リタルラムに對して對句になつている。以上第一段。眞間の手兒名の墓を訪れて、その久しき時を經て、眞木の葉が茂り、松の木の古くなつたことを敍している。
 言耳毛 コトノミモ。コトは、手兒名の事跡をいい傳える言語。ノミは特にその言を指定する意味に添えている。モは竝立の意。
 名耳母吾者 ナノミモワレハ。ナは、手兒名の名のこと。ノミモは、前項に同じ。
 不可忘 ワスラユマシジ。可は、神田本、類聚古葉等による。西本願寺本、細井本二種等には所に作り、舊訓は、ワスラレナクニとし、考にワスラエナクニとしている。可に作るによれば、ワスラエナクニとは讀まれない。本集中、不可の字面は、「首代爾母《モモヨニモ》 不v可v易《カハルマシジキ》 大宮處《オホミヤドコロ》」(卷六、一〇五三)、「埋木之《ウモレギノ》 不v可v顯《アラハルマシジキ》 事爾不v有君《コトニアラナクニ》」(卷七、一三八五)等の用例があり、不可の文字の意を國語に求めれば、マシジの語が相當すると考えられる。忘れることはあり得ない、あるまいの意である。
【評語】赤人の眞間の手兒名の歌は、墓所を見たのを基礎として、墓所の敍述は精細であるが、手兒名の身上(391)については、ただ反歌に玉藻刈リケムといつて、その働く女であることを示しただけである。云い寄つた人についても、一般的で、特に手兒名の美を歌つていない。手兒名の物語を誰でもが知つているものとしての前提の上に立つているので、みずから傳説の語り手であろうとする蟲麻呂の態度と相違を來している。ここにも赤人の時間的に物を考える特色が出て、墓所の久しい時を經たことをいい、また第二段は、富士山の歌の末段と同樣の思想が窺われる。
 
反歌
 
432 われも見つ。人にも告げむ。
 葛飾の 眞間の手兒名が
 奧津城處《おくつきどころ》。
 
 吾毛見都《ワレモミツ》 人尓毛將v告《ヒトニモツゲム》
 勝壯鹿之《カツシカノ》 間々能手兒名之《ママノテゴナガ》
 奧津城處《オクツキドコロ》
 
【譯】わたしも見た、人にも告げましよう。葛飾の眞間の手兒名の墓のある處です。
【釋】吾毛見都 ワレモミツ。ワレモは、下のヒトニモに對して、自分もまたの意を述べている。句切。
 人尓毛將告 ヒトニモツゲム。初句に對して對句をなしている。句切。次句以下、ミツとツゲムとの内容を語つている。
 奧津城處 オクツキドコロ。墳墓の處の意。
【評語】よく纏まつている。初句二句に短文を重ね、三句以下、その内容を示して、よく諧調の歌をなしている。しかしその墓所の特色が具體的に擧げられていないのは弱點である。
 
(392)433 葛飾の 眞問の入江に うち靡く
 玉藻刈りけむ 手兒名し念ほゆ。
 
 勝壯鹿乃《カツシカノ》 眞々乃入江尓《ママノイリエニ》 打靡《ウチナビク》
 玉藻苅兼《タマモカリケム》 手兒名志所v念《テゴナシオモホユ》
 
【譯】葛飾の眞間の入江に靡いている玉藻を刈つたであろう、あの手兒名のことが思われる。
【釋】眞々乃入江尓 ママノイリエニ。眞々は、眞間に同じ。イリエは、海河などから陸地に入り込んでいる部分をいう。蟲麻呂の手兒名の歌の歌詞には、浪ノ音ノ騷ク湊ノ奧津城の語があつて、當時眞間の邊まで海であつたと考えられる。
 打靡 ウチナビク。次句の玉藻の?態を説明している。
 玉藻苅兼 タマモカリケム。玉藻刈ルは、既に數出した。海人の女子の業である。ケムは過去推量の助動詞。連體形の句。
 手兒名志所念 テゴナシオモホユ。シは強意の助詞。
【評語】とにかくここに至つて手兒名がわずかに説明されている。海人の女子としての手兒名が描かれたのである。手兒名のことを、既知の事實として、歴史的追憶に浸つている赤人の風格が、この作品のすべてにわたつてよくあらわれている。
 
和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首
 
和銅の四年辛亥の歳、河邊の宮人の、姫島の松原の美人の屍を見て、哀慟《かな》しみて作れる歌四首。
 
【釋】和銅四年辛亥 ワドウノヨトセカノトヰノトシ。この題詞、卷の二に「和銅四年歳次2辛亥1、河邊(ノ)宮人(ノ)、姫島(ノ)松原(ニ)、見(テ)2孃子(ノ)屍(ヲ)1悲歎(ミテ)作(レル)歌二首」(二二八、二二九)として出ている。
(393) 河邊宮人 カハベノミヤビト。氏名ではない。河邊の宮に仕える人の義である。これは創作と考えられるから、その河邊の宮というも何處ということはないが、日本書紀孝コ天皇紀に「倭飛鳥河邊行宮《ヤマトノアスカノカハベノカリミヤ》」があり、これは飛鳥の川原の宮のことであつて、これを意味しているらしい。
 見姫島松原美人屍 ヒメジマノマツバラノヲトメノカバネヲミテ。姫島の松原は、攝津の國で、今の大阪市のうちとされるが、今の何處であるかは、諸説があつて一定しない。ここに美人の屍を見てと題し、しかも歌詞が、それに關係のないことが問題とされているが、これは、一の物語中の歌の摘録であつて、その物語の中心として、姫島の松原における美人の屍體が存するものと見るべきである。その物語の筋は不明であるが、ある娘子の水死を中心としているものなるべく、他にも眞間の娘子、菟原《うなひ》娘子、鬘兒《かづらこ》の説話など、娘子の水死を傳える説話は多く數えられ、それらと共通する所があるものの如くである。
 
434 風速《かざはや》の 美保《みほ》の浦《うら》みの 躑躅《しらつつじ》、
 見れども不怜《きぶ》し。
 亡《な》き人思へば。
 
 加麻?夜能《カザハヤノ》 美保乃浦廻之《ミホノウラミノ》 白管仕《シラツツジ》
 見十方不v怜《ミレドモサブシ》
 無人念者《ナキヒトオモヘバ》
 
【譯】風速の美保の浦の白躑躅は、見ても樂しくない。亡き人を思うので。
【釋】加麻?夜能 カザハヤノ。麻は、上下みな字音假字と見られる中に介在して、これをも字音で讀むとすれば、カマハヤノとなり、意義をなさぬようである。「風早之《カザハヤノ》 三穗乃浦廻乎《ミホノウラミヲ》 榜舟之《コグフネノ》」(卷七、一二二八)の例に照らして、カザハヤノと讀むべしとすれば、麻を誤字とするか、または訓アサの上略とするかのほかはない。またカザハヤノにしても、その解釋には問題があつて決定しがたい。今、風速の浦(卷十五、三六一五)の地名があるによつて、地名とする説による。それも何處であるか不明であるが、これについては、次の句の(394)項に述べる。
 美保乃浦廻之 ミホノウラミノ。美保は、地名であろうが、請國に同名の地が多い。次の歌に久米の若子があるので、「皮爲酢寸《ハダススキ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》 伊座家留《イマシケル》 三穗乃岩室者《ミホノイハヤハ》 雖v見不v飽鴨《ミレドアカヌカモ》」(卷三、三〇七)の三穗と同地とすれば、和歌山縣日高郡である。その地に風速の地名はないが、海岸地で風の強い處であるから、その句を冠したとも考えられる。ウラミのミは接尾語。浦の地形の彎曲性であることを示す。
 白管仕 シラツツジ。白色の躑躅である。「細比禮乃《タクヒレノ》 鷺坂山《サギサカヤマノ》 白管自《シラツツジ》」(卷九、一六九四)、「姫部思《ヲミナヘシ》 咲野爾生《サキノニオフル》 白管自《シラツヅジ》」(卷十、一九〇五)など詠まれている。
 見十方不怜 ミレドモサブシ。サブシは、樂しからぬ意の形容詞。不怜のほかに、不樂の字をサブシと讀んでいるので、その意を知るべきである。句切。
 無人念者 ナキヒトオモヘバ。ナキヒトは、死んだ人の意であるが、物語中の娘子をいうのであろう。四句の意を説明している。
【評語】物語中の歌と考えられるが、物語中の人物の歌であるか、時の人もしくは後の人の歌の形を採つているものか不明である。物語中の人物とすれば、娘子と交りのあつた男子の作として、その意味で解すべきであろう。白躑躅に對する觀賞が出ており、文雅の士の作品であることが確かめられる。
 
或云、見者悲霜《ミレバカナシモ》 無人思丹《ナキヒトオモフニ》
 
或るは云ふ、見れば悲しも 無き人思ふに。
 
【釋】或云見者悲霜無人思丹 アルハイフミレバカナシモナキヒトオモフニ。別傳であるが、いかなる資料によつたものか不明である。本文の四五句の別傳であるが、意はあまり變わつていない。
 
(395)435 みつみつし 久米の若子《わくご》が
 い觸《ふ》れけむ
 礒の草根の 枯れまく惜しも。
 
 見津見津四《ミツミツシ》 久米能若子我《クメノワクゴガ》
 伊觸家武《イフレケム》
 礒之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》
 
【譯】威勢のよい久米氏、その久米の若人の觸れたであろう礒の草の枯れるのは惜しいなあ。
【釋】見津見津四 ミツミツシ。枕詞。古事記中卷に「美都美都斯《ミツミツシ》 久米能古賀《クメノコガ》」(一一)等、數出しており、日本書紀にも出ている。本集にはこれ一つである。ミツは、稜威をイツというと關係ある語と認められ、それを重ねて形容詞としたもので、シの形で連體形をなし、枕詞となつたものである。威勢のよい意で、久米ノ若子を修飾している。
 久米能若子我 クメノワクゴガ。久米の若子は、本卷三〇七の歌に見えているものと同人であろう。久米氏の若人で、傳説中の人物と考えられる。それが多分この物語に主役として語られていたのであろう。
 伊觸家武 イフレケム。イは接頭語。フレは、觸ルの活用で、「伎美我手敷禮受《キミガテフレズ》」(卷十七、三九六八)など、集中多く下二段に活用している(澤瀉博士の説)。四段活として使用された例には「伊蘇爾布理《イソニフリ》 宇乃波良和多流《ウノハラワタル》」(卷二十、四三二八)がある。また「霍公鳥《ホトトギス》 鳴羽觸爾毛《ナクハブリニモ》」(卷十九、四一九三)の羽觸の如きは、ハブレではなさそうであり、古くは四段に活用していたものだろう。ケムは過去推量の助動詞で、その連體形。
 礒之草根乃 イソノクサネノ。クサネは、草をいう。ネは接尾語。
 干卷惜裳 カレマクヲシモ。枯れむことの惜しさよ。モは感動の助詞。
【評語】草のような、年を越さないものについて、手を觸れたあとをなつかしがつているのは、その人が去つてまだいくばくもない事情にあることを語る。この久米の若子が、物語中の人物として登場し、この歌の作者(396)は、時の人の如き立場にあつて、これを詠んでいるものと考えられる。礒邊の草について、人を思う、そこに風情の感じられる歌である。
 
436 人言《ひとごと》の 繁きこの頃、
 玉ならば
 手に卷き持ちて 戀ひずあらましを。
 
 人言之《ヒトゴトノ》 繁比日《シゲキコノゴロ》
 玉有者《タマナラバ》
 手尓卷以而《テニマキモチテ》 不v戀有益雄《コヒズアラマシヲ》
 
【譯】人の口のうるさいこの頃は、玉であつたなら手に卷いていて戀いないであろうものを。
【釋】人言之 ヒトゴトノ。人の言語の。ヒトは、周圍の人々をいう。
 繁比日 シゲキコノゴロ。シゲキは、言葉の多くしてうるさいのをいう。この頃、二人の間が、人の噂に上つて問題にされている由で、集中多く詠まれている事である。
 玉有者 タマナラバ。わが思う人が玉であつたならというのである。その人は男子とも女子ともないが、人を玉に譬えることも、男女ともに例がある。
 手尓卷以而 テニマキモチテ。手に卷いて持つてで、わが身を離さずにの意になる。
 不戀有益雄 コヒズアラマシヲ。マシヲは假設推量。戀いずにありたいものを、そうでなくて殘念だの意になる。
【評語】類型的な内容であり、表現も平凡である。民間に流布していた歌が、物語中に取り上げられたような性質が見える。男子の歌にも女子の歌にも融通するのも、そういう民話の性質に適うものである。
 
437 妹もわれも
(397) 清《きよみ》の河《かは》の 河|岸《ぎし》の、
 妹が悔ゆべき 心は持たじ。
 
 妹毛吾毛《イモモワレモ》
 清之河乃《キヨミノカハノ》 河岸之《カハギシノ》
 妹我可v悔《イモガクユベキ》 心者不v持《ココロハモタジ》
 
【譯】あなたもわたしもきよらかで、清の河の河岸のように、あなたが悔いるような心は持つていない。
【釋】妹毛吾毛 イモモワレモ。イモは、相手の女をさすことは、いうまでもないが、その妹に與えた歌か、獨語的に詠まれた歌かは不明である。妹の本義からいえば、その愛人に與えた歌と見るのを順當とする。この句は、二人とも清しの意に、次の句の枕詞になつていると見るべきである。
 清之河乃 キヨミノカハノ。キヨミノカハは、明日香の清御原の宮を、「飛鳥之《トブトリノ》 淨之宮《キヨミノミヤ》」(卷二、一六七)というよりして、キヨミを地名と見、その地の川、すなわち明日香川の一部の名稱と考えられる。これを出したのは、この物語がその地に關係あるものであり、題詞の河邊の宮人が、明日香の川原の宮人であることも確かめられる。
 河岸之 カハギシノ。明日香川の川岸ので、以上三句は、川岸の崩《ク》ユということから、次句の悔ユベキを引き起す序になつている。「可麻久良乃《カマクラノ》 美胡之能佐吉能《ミゴシノサキノ》 伊波久叡乃《イハクエノ》 伎美我久由倍伎《キミガクユベキ》 己許呂波母多自《ココロハモタジ》」(卷十四、三三六五)の歌も、三句まで序で、クユベキを引き起している點は同樣である。
 妹我可悔 イモガクユベキ。相手の女子が悔いるようなの意。自分と契りを結んだことを悔いとするようなの意に、次の句を修飾する。
 心者不持 ココロハモタジ。ココロは、作者の心であつて、信頼に値せぬ心は持たないというにある。このジは、強く否定する語氣である。
【評語】これも物語中の歌としてふさわしい内容の歌である。上に擧げた卷の十四の鎌倉の見越の埼の歌と、(398)形が似ており、これも民謠性の歌であつたものと推察される。
 
右案2年紀并所處乃娘子屍作v歌人名1、已見v上也。但歌辭相違、是非難v別。困以累2載於茲次1焉。
 
右は、年紀并はせて所處、また娘子の屍、歌を作りし人の名を案ふるに、已に上に見えたり。但し歌の辭相違ひ、是非《よきあしき》別き離し。因りてこの次に累ね載す。
 
【釋】右案年紀并所處乃娘子屍作歌人名 ミギハトシナミアハセテトコロマタヲトメノカバネウタヲツクリシヒトノナヲカムガフルニ。以下の文は、編者の註であつて、以上四首の題詞と同じ内容の題詞が、既に卷の二に見えていることについて説明を加えたのである。年紀は、和銅四年云々の年紀をいう。所處は、姫島の松原。娘子の屍は、題詞には、美人の屍とある。作歌の人名は、河邊の宮人とあるという。これを氏名と誤解していたらしい。乃は代匠記に及の誤りとしているが、上を承ける辭であるからこのままでよい。
 已見上也 スデニカミニミエタリ。同じ内容の題詞が、卷の二の二二八の前に出ているのをいう。
 歌辭相違 ウタノコトアヒタガヒ。卷の二とここのと、歌詞の相違せるをいう。
 是非離別 ヨキアシキワキガタシ。卷の二とここのと、いずれが可なるを知らずというのである。編者も既にこれらの歌の性質について無知であつたらしく、それは資料とする所が、現に見るが如きものになつていたためであると考えられる。
 因以累載於茲次焉 ヨリテコノツギテニカサネノス。よつてこの順序に重ねて載せるというのである。以上、編者の注意であつて、後の誤解を避けるために、これを記しつけたものである。現行の萬葉集の原形において、既にこの記事があつたものと見るべく、これを後人の書き入れとするは誤りである。
 
(399)神龜五年戊辰、大宰帥大伴卿、思2戀故人1歌三首
 
神龜の五年戊辰の歳、大宰の帥大伴の卿の、故《もと》つ人を思戀《しの》ふ歌三首。
 
【釋】神龜五年戊辰、シニキノイツトセツチノエタツノトシ。以下三首の製作の年紀であるが、事實は初めの一首だけで、後の二首は天平二年の作である。
 大宰帥大伴榔 オホキミコトモチノカミオホトモノマヘツギミ。大伴の旅人。旅人は、大宰の帥として、赴任してから、その行に從つて來た妻は九州について間もなく死去した。これは神龜五年の夏の頃のことと思われる。これがために、九州における旅人の生活は、一層さびしいものになり、常に妻を慕い、故郷を戀い、また酒を愛するようになつた。以下の歌は、その妻が死んでからの作である。旅人の妻は、やはり大伴氏であるが、誰人の女とも知られない。「神龜五年戊辰、大宰(ノ)帥大伴卿之妻、大伴(ノ)郎女、遇(ヒテ)v病(ニ)長逝(セリ)焉」(卷八、一四七二左註)。
 思戀故人歌 モトツヒトヲシノフウタ。故人は、死去した人。ここは旅人の妻大伴の郎女。
 
438 愛《うつく》しき 人の纏《ま》きてし
 敷栲《しきたへ》の わが手枕を、
 纏《ま》く人あらめや。
 
 愛《ウツクシキ》 人之纏而師《ヒトノマキテシ》
 敷細之《シキタヘノ》 吾手枕乎《ワガタマクラヲ》
 纏人將v有哉《マクヒトアラメヤ》
 
【譯】わたしの愛する人の卷いた、わたしの手枕を、また卷いて寢る人はあろうや、もうないことである。
【釋】愛 ウツクシキ。ウツクシは、愛すべくある意の形容詞。「妻子美禮婆《メコミレバ》 米具斯宇都久志《メグシウツクシ》」(卷五、八〇〇)など使用されている。次句の人を修飾する。
(400) 人之纏而師 ヒトノマキテシ。ヒトは、亡き妻をいう。マキテシは、身に纏いたの意で、次句の手枕を修飾している。
 敷細之 シキタヘノ。枕詞。枕、袖に冠する。シキタヘは、織目の繁き織物の義から出て、ここでは枕詞として手枕に冠している。
 吾手枕乎 ワガタマクラヲ。タマクラは、タは接頭語。枕のこと。枕の愛稱。
 纏人將有哉 マクヒトアラメヤ。妻が死んで後、また他に纏く人はないの意。ヤは反語の助詞。
【評語】故人を思慕する歌ではあるが、作者自身の寂寥感が主になつている。この年、旅人は、年六十四と傳える。閨中の孤情、描き出して、その老齡を忘れるものがある。
 
右一首、別去而經2數旬1作歌
 
右の一首は、別れ去《い》にて數旬を經て作れる歌。
 
【釋】經數旬 トヲカアマリヲヘテ。旬は十日をいう。妻が死んで、數十日を經て作つた歌というのである。
 
439 還《かへ》るべく 時は成りけり。
 京師《みやこ》にて
 誰《た》が手本をか わが枕かむ。
 
 應v還《カヘルベク》 時者成來《トキハナリケリ》
 京師尓而《ミヤコニテ》
 誰手本乎可《タガタモトヲカ》 吾將v枕《ワガマクラカム》
 
【譯】時は今や京に歸るべき時になつた。しかし妻のない自分は、京において、誰人の腕を、枕とすることだろうか。
【釋】應還 カヘルベク。京に還るべくなつたの意。大宰府の任が終つて、歸京すべき時機の到達したことを(401)いう。天平二年十月に、大納言に任ぜられた當時の作であろう。
 時者成來 トキハナリケリ。時は、還るべくなつたの意。句切。
 京師尓而 ミヤコニテ。京において。京に還つてから。
 誰手本乎可 タガタモトヲカ。タモトは、手の本。手の上膊、腕。妻なくして、何人の腕をかの意。
 吾將枕 ワガマクラカム。名詞マクラを動詞としマクラクとし、その未然形に、助動詞ムが接續してマクラカムとなる。誰の腕をか枕とせむの意である。
【評語】旅人は、大宰府にあつて、京を戀しく思つていたのであるが、今やその久戀の京に還るべき時節が來た。しかもその地において、共に棲むべき妻をもたないさびしさは、思いやつても身にせまるものがある。ここにも旅人は、妻のない自己の寂寥を思つているのである。
 
440 京師《みやこ》なる荒れたる家に ひとり宿《ね》ば、
 旅に益《ま》さりて 苦しかるべし。
 
 在2京師1《ミヤコナル》 荒有家尓《アレタルイヘニ》 一宿者《ヒトリネバ》
 益v旅而《タビニマサリテ》 可2辛苦1《クルシカルベシ》
 
【譯】京にある荒れた家に歸つて、ただひとり寐るならば、旅よりも一層まさつて、心が苦しいことであろう。
【釋】在京師荒有家尓 ミヤコナルアレタルイヘニ。大伴氏は、平城の京に邸宅を有していた。吉田《きだ》の宜の歌に「奈良路なる山齋《しま》の木立も神さびにけり」(卷五、八六七)とあるは、旅人の邸を詠んだものであつて、奈良路にその邸があつたことが知られる。大伴の坂上の郎女の歌に見える佐保にあつた大伴氏の家というのが、それであろう。この邸は、旅人は妻と共に經營し、大宰府に赴くに當つては、殘して行つたので、京なる荒れたる家といつている。
 一宿者 ヒトリネバ。妻なくしてひとり寐ることとならば。
(402) 益旅而 タビニマサリテ。旅中にして亡き妻を思つて苦しいよりもまさつての意。
 可辛苦 クルシカルベシ。歸京しての生活の苦しさを想像している。
【評語】亡妻を慕う情を中心とした旅の心境は、同情される。いずれも殘される自分の寂寥、つまらなさを主として歌つているのは、貴族らしいわがままな點があつておもしろい。彼の性格として、自己中心の生活を要求する心があらわれているのである。歸京の後の苦しさを想像しているのが悲痛である。下の「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」(卷三、四五一)の歌は、これと照應するものである。
 
右二首、臨v近2向v京之時1作歌
 
右の二首は、京に向ふ時に近づくに臨みて作れる歌。
 
【釋】臨近向京之時 ミヤコニムカフトキニチカヅクニノゾミテ。天平二年十月に、大納言に任ぜられて上京すべき時の近づくに當つての意。これによつてその頃の作であることが知られる。これを神龜五年の題下に收めたのは、前の歌によつて、年紀を記し、同じ作歌事情の歌をこれに附收したためであろう。
 
神色六年己巳、左大臣長屋王、賜死之後、倉橋部女王作歌一首
 
神龜の六年己巳の歳、左大臣長屋の王の、賜死《みまか》らしめらえし後に、倉橋部の女王の作れる歌一首。
 
【釋】神龜六年己巳 シニキノムトセツチノトミノトシ。この年八月に改元して天平元年となつた年。長屋の王の賜死は二月であつたので、神龜六年と題している。
 左大臣長屋王 ヒダリノオホマヘツギミナガヤノオホキミノ。天武天皇の孫、高市の皇子の子。天平元年二月、讒にあつて自盡し、妃吉備の内親王以下王子等、その難に殉じた。
(403) 倉橋部女王 クラハシベノオホキミ。傳未詳。卷の八、一六一三の歌の左註に見える椋橋部の女王と同人であろう。
 
441 大君《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み、
 大殯《おほあらき》の 時にはあらねど
 雲がくります。
 
 大皇之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 大荒城乃《オホアラキノ》 時尓波不v有跡《トキニハアラネド》
 雲隱座《クモガクリマス》
 
【譯】天皇の詔の恐れ多さに、死ぬべき時ではないが、わが長屋の王はおかくれになることです。
【釋】大皇之命恐 オホキミノミコトカシコミ。既出(卷一、七九)。慣用句。天皇の勅命のかしこさに。死を命ぜられたことをいう。
 大荒城乃時尓波不有跡 オホアラキノトキニハアラネド。オホは美稱。アラキは新墓の意である。大殯ノ時ニハアラネドというは、新しく御墓づかえすべき時ではないがで、自然に壽命盡きて死ぬべき時ではないのにの意をあらわしている。オホアラキは「如v是爲哉《カクシテヤ》 猶八戍牛鳴《ナホヤマモラム》 大荒木之《オホアラキノ》 浮田之社之《ウキタノモリノ》 標爾不v有爾《シノニアラナクニ》」(卷十一、二八三九)の用例がある。
 雲隱座 クモガクリマス。クモガクルは既出(卷三、四一六)。人の死を天上に昇る形であらわしている。マスは敬語。
【評語】ただ事を敍しただけで、特殊性がない。作者が歌に慣れない人であることを語るものであろう。
 
悲2傷膳部王1歌一首
 
【釋】膳部主 カシハデノオホキミ。長屋の王の子で、母は吉備の内親王である。天平元年二月、長屋の王の(404)賜死の時に、自盡した。續日本紀に、長屋の王の室吉備の内親王、男膳夫の王、桑田の王、葛木の王、鈎取の王等も目縊《じい》したとある、その膳夫の王のことである。
 
442 世間《よのなか》は 空《むな》しきものと あらむとぞ、
 この照る月は 滿《み》ち闕《か》けしける。
 
 世間者《ヨノナカハ》 空物跡《ムナシキモノト》 將v有登曾《アラムトゾ》
 此照月者《コノテルツキハ》 滿闕爲家流《ミチカケシケル》
 
【譯】世の中は空しいものであることを示すために、この照る月は、滿ち闕けしたことである。
【釋】世間者 ヨノナカハ。ヨノナカは、人間世界の意。人生に同じ。滿誓の歌(卷三、三五一)の世間に同じである。
 空物跡 ムナシキモノト。空虚のものとして。世間の常なきをいう。「余能奈可波《ヨノナカハ》 牟奈之伎母乃等《ムナシキモノト》 志流等伎子《シルトキシ》 伊與余麻須萬須《イヨヨマスマス》 加奈之可利家理《カナシカリケリ》」(卷五、七九三)。
 將有登曾 アラムトゾ。空しいものなることを現ぜむとしての意。アラムは、その如くにてあらむの意に使用されている。ゾは、係助詞。
 此照月者滿闕爲家流 コノテルツキハミチカケシケル。月の滿ち闕けることは、世間の無常を現ぜむとしてであるとしている。
【評語】月の滿ち闕けすることは、不安定の表現としてふさわしい譬喩である。集中にも同樣の思想を歌つたものとして、「こもりくの泊瀬の山に照る月は滿ち闕《か》けしけり人の常なき」(卷七、一二七〇)、「天の原ふりさけ見れば照る月も滿ち闕けしけり」(卷十九、四一六〇、悲2世問無常1歌)など見えている。無常の概念を歌つた歌であつて、歌としては感激に乏しい。
 
(405)右一首、作者未v詳
 
【釋】作者未詳 ツクリヒトイマダツマビラカナラズ。同時に多數の人の死んだ中に、特に膳部の王を悲傷しているのは、その王に關係のある人であろうが、今にしていかなる人とも知りがたい。
 
天平元年己巳、攝津國班田史生丈部龍麻呂、自經死之時、判官大伴宿祢三中作歌一首 并2短歌1
 
天平の元年己巳の歳、攝津の國の田を班《わ》かつ史生丈部の龍麻呂のみづから經《わな》ぎ死にし時に、判官大伴の宿禰三中の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】天平元年己巳 テニピヤウノハジメノトシツチノトミノトシ。神龜六年八月に改元して天平元年とした。前の事件と同年である。
 攝津國班田史生 ツノクニノタヲワカツフミヒト。攝津の國は、もと津の國といい、攝津の國の文字を使用するに至つても、なおもとの稱を用いている。攝津の國の文字は、既に日本書紀にも見えている。班田は、令制によつて、人民に口分田《くぶんでん》を班かち給するをいう。畿内には班田使をもつてこれに當らしめるので、班田の史生は、その班田使の史生である。史生は、文書を掌る人で書記に當る。
 丈部龍麻呂 ハセツカベノタツマロ。傳未詳。
 自經死之時 ミヅカラワナギシニシトキ。經は縊に同じ。何故に自殺したかは不明である。
 判官 マツリゴトビト。班田使の第三等の官名。事務を處理する重い任務の職。史生の上官である。
 大伴宿称三中 オホトモノスクネミナカ。系譜未詳。天平八年に遣新羅使の副使となり、天平十五年六月に(406)兵部の少輔、十六年九月に山陽道の巡察使、十七年六月に大宰の少貳、十八年四月に長門の守、十九年三月に刑部省の大判事に任ぜられている。本集卷の十五の前半は、天平八年の遣新羅使一行の歌の記録であるが、それは副使であつた三中の手記になるものと考えられる。
 
443 天雲の 向伏《むかぶ》す國の
 武士《もののふ》と 云はゆる人は、
 皇祖《すめろき》の 神の御門《みかど》に
 外の重《へ》に 立ち候《さもら》ひ、
 内の重に 仕へ奉《まつ》り、
 玉葛《たまかづら》 いや遠長く、
 祖《おや》の名も 繼ぎゆくものと、
 母父《おもちち》に 妻に子《こ》どもに
 語らひて 立ちにし日より、
 たらちねの 母の命《みこと》は、
 齋戸《いはひべ》を 前に坐《す》ゑ置きて、
 一手《かたて》には 木綿《ゆふ》取り持ち、
 一手には 和細布《にきたへ》奉《まつ》り、
 平《たひら》けく ま幸《さき》く坐《ま》せと、
(407) 天地の 神祇《かみ》を乞《こ》ひ?《の》み、
 如何《いか》ならむ 歳月日にか、
 茵花《つつじばな》 にほへる公《きみ》が、
 引く網《あみ》の なづさひ來むと、
 立ちてゐて 待ちけむ人は、
 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み、
 おし光《て》る 難波の國に、
 あらたまの 年經るまでに
 白細《しろたへ》の 衣《ころも》も干《ほ》さず、
 朝夕《あさよひ》に ありつる君は、
 いかさまに 念ひ坐《ま》せか、
 うつせみの 惜しきこの世を、
 露霜《つゆじも》の 置きて往きけむ。
 時にあらずして。
 
 天雲之《アマグモノ》 向伏國《ムカブスクニノ》
 武士登《モノノフト》 所v云人者《イハユルヒトハ》
 皇祖《スメロキノ》 神之御門尓《カミノミカドニ》
 外重尓《トノヘニ》 立侯《タチサモラヒ》
 内重尓《ウチノヘニ》 仕奉《ツカヘマツリ》
 玉葛《タマカヅラ》 彌遠長《イヤトホナガク》
 祖名文《オヤノナモ》 繼往物與《ツギユクモノト》
 母父尓《オモチチニ》 妻尓子等尓《ツマニコドモニ》
 語而《カタラヒテ》 立西日從《タチニシヒヨリ》
 帶乳根乃《タラチネノ》 母命者《ハハノミコトハ》
 齋忌戸乎《イハヒベヲ》 前座置而《マヘニスヱオキテ》
 一手者《カタテニハ》 木綿取持《ユフトリモチ》
 一手者《カタテニハ》 和細布奉《ニキタヘマツリ》
 平《タヒラケク》 間幸座與《マサキクマセト》
 天地乃《アメツチノ》 神祇乞?《カミヲコヒノミ》
 何在《イカナラム》 歳月日香《トシツキヒニカ》
 茵花《ツツジバナ》 香君之《ニホヘルキミガ》
 牛留鳥《ヒクアミノ》 名津匝來與《ナヅサヒコムト》
 立居而《タチテヰテ》 待監人者《マチケムヒトハ》
 王之《オホキミノ》 命恐《ミコトカシコミ》
 押光《オシテル》 難波國尓《ナニハノクニニ》
 荒玉之《アラタマノ》 年經左右二《トシフルマデニ》
 白栲《シロタヘノ》 衣不v干《コロモモホサズ》
 朝夕《アサヨヒニ》 在鶴公者《アリツルキミハ》
 何方尓《イカサマニ》 念座可《オモヒマセカ》
 鬱蝉乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》
 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテユキケム》
 時尓不v在之天《トキナラズシテ》
 
【譯】天の雲がかなたに伏している遠い國の武士と言われる人は、皇祖の神樣の御門に、外の垣に伺候し、内の垣に奉仕して、玉葛のようにいよいよ末永く、祖先の名を繼ぎ行くものと、兩親にも妻子にも話をして立ち出た日から、育てた母君は、齋戸を前に据えておいて、片手には木綿を持ち、片手には和細布をささげ、平安(408)に幸にいませと、天地の神に祈願をして、どういう年月日にか、ツツジの花のように美しい君が、引く網のように苦勞して來るだろうと、立つてもいても待つていた人は、天皇の勅命をかしこみ、海のかがやく難波の國に、あらたまり行く年を經るまでに、白い布の衣服を乾さずに、朝晩にあつた君は、どう思われてか、惜しいこの世を、露霜のように置いて行つたのでしよう、死ぬべき時ではなくして。
【構成】段落はない。初めに丈部の龍麻呂の出發を語り、次に母が祭をして待つことを敍し、終りにその時ならずして死んだことを敍している。
【釋】天雲之向伏國 アマグモノムカブスクニノ。空行く雲の、はるか彼方に、此方を向いて伏せる國のの義で、地上のはるかな國までもの意になる。延喜式祈年祭の祝詞に「白雲墮坐向伏限《シラクモノオリヰムカブスカギリ》」の句から出た句で、本集にも「阿麻久毛能《アマクモノ》 牟迦夫周伎波美《ムカブスキハミ》」(卷五、八〇〇)、「青雲之《アヲグモノ》 向伏國乃《ムカブスクニノ》」(卷十三、三三二九)の用例がある。
 武士登 モノノフト。モノノフは、文武官の絶稱であるが、ここでは武士に當てている。丈部の龍麻呂その人が、兵士として出て來た人であつたからであろう。
 所云人者 イハユルヒトハ。イハレシヒトハ(西)、イハルルヒトハ(細二種)。所は、被役の意をあらわす字。世上でいう意である。このヒトは、すべての人にわたつていうのであるから、イハユルと不定形に讀むがよい。
 皇祖神之御門尓 スメロキノカミノミカドニ。スメロキは、天皇の概念をいう語であるが、ここには神の御門とあるので、文字通り皇祖と解すべきである。ミカドは宮殿の意。皇祖である神を祭つた宮殿で、宮廷内の神殿をいう。これを天皇の宮廷と解していたのは、語義上無理であつて、それでは、神の御門が解釋されない。同じ字面は「皇祖乃《スメロキノ》 神御門乎《カミノミカドヲ》 懼見等《カシコミト》 侍從時爾《サモラフトキニ》 相流公鴨《アヘルキミカモ》」(卷十一、二五〇八)があり、それと同意であ(409)る。神の御門の語は、古事記中卷に「參2入(リテ)伊勢(ノ)大御神宮(ニ)1、拜(ム)2神(ノ)朝庭(ヲ)1」(景行天皇の卷)とある、神の朝庭と同語であつて、神を祭つた宮殿をいうのである。
 外重尓 トノヘニ。ヘは、隔てで、塀垣壁の如きをいう。トノヘは、外圍の垣壁で、外門のある處に伺候するをいうためにこれを擧げている。
 立候 タチサモラヒ。タチは接頭語。伺候する。
 内重尓 ウチノヘニ。ウチノヘは、内部の垣壁で、中門のある處に伺候するをいうためにこれを擧げている。「海若《ワタツミノ》 神之宮乃《カミノミヤノ》 内隔之《ウチノヘノ》 細有殿爾《タヘナルトノニ》」(卷九、一七四〇)の用例がある。
 仕奉 ツカヘマツリ。以上二句、外(ノ)重ニ立チ候ヒに對して對句をなしている。外の重、また内の重に、あるいは伺候し、あるいは奉仕するという意を、句を切つて敍述したまでで、外の重内の重について任務が異なるわけではない。
 玉葛 タマカヅラ。枕詞。カヅラの美稱で、カヅラは長いものであるから、絶えることなく、また遠長くなどに冠している。
 弥遠長 イヤトホナガク。時間のいよいよ永く久しきに及ぶを形容している。永久にの意。
 祖名文 オヤノナモ。オヤは、兩親ばかりでなく、祖先をもいう。
 繼往物與 ツギユクモノト。祖先以來の名を繼いで、これを汚さずに繼ぎゆくものとしての意。「人子者《ヒトノコハ》 祖名不v絶《オヤノナタタズ》 大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》」(卷十八、四〇九四)など、人の子として父祖の名を繼承して行くべきを歌つている。初句の天雲ノ向伏ス國ノ以下、この句の繼ギユクモノまでを、助詞トで受けて、下に續く文脈である。遠方の國の武士といわれる人は、神殿を護衛して先祖以來の名を繼承するものであるとしての意である。この挽歌に歌われている主人公丈部の龍麻呂は、地方から兵士として召された人であるので、その武士た(410)る性質を、以上、龍麻呂の語を借りて説明している。
 母父尓妻尓子等尓 オモチチニツマニコドモニ。オモは母をいう。日本書紀神武天皇紀に「初め孔舍衛《くさゑ》の戰に、人有り、大樹に隱れて難を免るることを得たり。よりてその樹を指して曰はく、恩母の如し。時の人因りてその地を號《なづ》けて母木《おもき》の邑《むら》といふ。今、飫悶廼奇《おものき》と云ふは訛れるなり」(もと漢文)とある。オモチチの語は、本集に「伊波布伊能知波《イハフイノチハ》意毛知々我多米《オモチチガタメ》」(卷二十、四四〇二)とある。母父の文字も卷の十三に見えている。母父に、妻に、子どもには、竝立の格で、家族の者たちの意にこれを擧げている。
 語而 カタラヒテ。祖ノ名モ繼ギユクモノト語ラヒテと續く文脈である。
 立西日從 タチニシヒヨリ。タチニシは、家郷を出立したことをいう。
 帶乳根乃 タラチネノ。母の枕詞として知られている。帶をタラに當てているのは、古事記の序文に「亦於2姓日下1、謂2玖沙訶1、於2名帶字1、謂2多羅斯1、如v是之類、隨v本不v改」とあつて、古くから帶の字をタラシと讀んでいた。そのシを略して、タラの音に當てたのである。この句、集中では、このほか、多良知禰乃、多良知禰能、垂乳根乃、垂乳根之、足千根、足千根乃、足千根之、足乳根乃、足乳根之、帶乳根笶、足常等の字を使用して居り、これらは、タラチネノと讀まれるが、なお「多羅知斯夜《タラチシヤ》 波々何手波奈例《ハハガテハナレ》」(卷五、八八六)、「多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》」(同、八八七)、「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三七九一)の諸例があつて、これらは、タラチシヤ、タラチシノ、タラチシの形において、母の語に冠している。そのタラチシヤについては、ヤは、感動の助詞と認められるから、タラチシの形で、母の語を修飾する語であつたと考えられ、その語はまた、播磨國風土記の新室の詠辭に「多良知志《タラチシ》 吉備鐵《キビノマガネノ》 狹?持《サクハモチ》」ともあつて、ここには吉備の鐵に冠している。この多良知志は、吉備の鐵を賞美している句と考えられるものであつて、古代語において、タ行サ行相通すること多きにより、多分タラシシの轉で、足らししの義であろうかと考えられる。すなわち足ルの使役の語タラ(411)シ(充足せしめる)に、時の助動詞シの接續したものと見るのである。子を育てることをヒタスというのは、日本書紀に、養の日などにヒタスの訓があるが、これも日足スの義であつて、日を充足する意であろうか。萬葉集には「何時可聞《イツシカモ》 日足座而《ヒタラシマシテ》」(卷十三、三三二四)の例があつて、日足を生育するの義に書いて、ヒタラシもしくはヒタシの語にあてていると見られる。かくて、タラシシ、タラチシ、タラチシヤから、タラチシノを生じ、別に轉じてタラチネの語を生じたものと見られ、ネは、「如v是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》」(卷四、七二四)、「妹名根之《イモナネガ》 作服異六《ツクリキセケム》」(卷九、一八〇〇)のナネ、イモナネのネに同じく、婦人に對する親愛の意の接尾語と考えられる。かくてタラチネノは、育て上げた御方なるの義において、母の枕詞となつているのであろう。
 母命者 ハハノミコトハ。ミコトは尊稱。以下、母が留守宅で、旅行者の無事を祈つて祭をすることを敍している。
 齋忌戸乎 イハヒベヲ。既出、齋戸とあるに同じ(卷三、三七九)。
 前坐置而 マヘニスヱオキテ。齋戸については、イハヒホリスヱの句をもつて受けるものが多く、ここにスヱオキテとあるも、その意と解せられる。マヘニは、母親が、その前にである。
 一手者 カタテニハ。ヒトテニハ(西)、カタテニハ(細二種)。一手は、片方の手の義をもつてカタテと讀む。マテ(二手)に對する語である。
 木綿取持 ユフトリモチ。一方の手には木綿を持ち。木綿は、コウゾ、アサの繊維。植物性の物を持つて祭事を行うのが通例である。
 一手者和細布奉 カタテニハニキタヘマツリ。ニキタヘは、柔い布繊物。マツリは、神に奉る意である。以上、二つの一手ニハ云々の句をもつて對句をなしている。
 平 タヒラケク。わが子平安にとの意。
(412) 間幸座與 マサキクマセト。マサキクは、無事に榮えてある意の形容詞。マセは、居るの敬語で、その命令形。
 天地乃神社乞? アメツチノカミヲコヒノミ。天地の神を招請して祈願をする意。アメツチノカミは、天つ神と、國つ神とであるが、多くの神々の意になる。「安米都知乃《アメツチノ》 可未乎許比能美《カミヲコヒノミ》」(卷二十、四四九九)。
 何在歳月日香 イカナラムトシツキヒニカ。如何ならむ時にかの意。どのような年月または日にかの意に、トシツキヒといつている。下のナヅサヒコムに接續する。
 茵花 ツツジバナ。本草和名に「茵芋、和名|爾都々之《ニツツジ》、一名|乎加都々之《ヲカツツジ》」とあつて、ここでは茵をツツジにあてている。次の句のニホヘルの枕詞。「茵花《ツツジバナ》 香未通女《ニホエヲトメ》」(卷十三、三三〇五)ともある。茵は、敷物の一種をいう字であるが、ツツジに借用したものであろう。
 香君之 ニホヘルキミガ。ニホヘルは、色のうつくしきをいう。キミは、龍麻呂をいう。
 牛留鳥 ヒクアミノ。
   ヒクアミノ(西)
   クルトリノ(細二種)
   クロトリノ(補)
   ――――――――――
   牽留鳥《ヒクアミノ》(考)
   爾富鳥《ニホトリリノ》(槻)
「中々二《ナカナカニ》 君二不v者《キミニコヒズハ》  留牛浦乃《ナハノウラノ》 海部爾有益男《アマナラマシヲ》 玉藻苅々《タマモカルカル》」(卷十一、二七四三或本歌)の留牛馬浦をナハノウラと讀まれるに照らして、留鳥をアミと讀むべく、牛は、義をもつてヒクと讀むべきである。留鳥の字を用いてはいるが、意は漁業の網で、ヒクアミノは、曳く網のの意をもつて、次の句のナヅサヒの枕詞になつている。
 名豆匝來與 ナヅサヒコムト。匝は入聲合韻の字で、字音をもつて、サヒの音を表示している。ナヅサヒは(413)既出(卷三、四三〇)。水面に浸つてその抵抗を排する意の動詞で、船、鳥、網などが、水の抵抗を排除するに使う。ここでは、引く網のように勞を費して來むとの意で、骨をおつて來る、困難に堪えて來るだろうとの意に用いている。
 立居而 タチテヰテ。立ちて待ち、いて待ちの意で、次の句に懸かる。立つてもいてもである。
 待監人者 マチケムヒトハ。ヒトは龍麻呂をさす。その人も死んで、待つていたことは、既に過去の事となつたので、ケムを使用している。
 王之命恐 オホキミノミコトカシコミ。天皇の勅命をかしこみ承つて。
 押光 オシテル。枕詞。難波に冠する。語義については、「我屋戸爾《ワガヤドニ》 月押照有《ツキオシテレリ》」(卷八、一四八〇)、「春日山《カスガヤマ》 押而照有《オシテラセル》 此月者《コノツキハ》」(卷七、一〇七四)の如き例があつて、月光についていつているので、オシテルも、光の照る義と解すぺく、オシは強意の接頭語と見るべきである。難波に冠するについては、「直超乃《タダゴエノ》 此徑爾弖師《コノミチニテシ》 押照哉《オシテルヤ》 難波乃海跡《ナニハノウミト》 名附家良思蒙《ナヅケケラシモ》」(卷六、九七七)の歌があり、これは草香山(生駒山)を越えて詠んだ作であつて、その徑において、おしてる難波と名づけたのだろうといつている。これによれば、草香山から難波の海を見下して、その日に輝いているのを見て、おしてる難波と稱したとすべく、もしこれが本義でないとすれば、當時既に本義が忘れられて、かような解が試みられたとすべきである。この枕詞は、古く「淤志弖流夜《オシテルヤ》 那邇波能佐岐用《ナニハノサキヨ》」(古事記五四)、「於辭??《オシテル》 那珥破能瑳耆能《ナニハノサキノ》」(日本書紀四八)の例もあり、歌いものから來た枕詞であることが知られる。
 難波國尓 ナニハノクニニ。クニは一地方をいう。日本書紀神武天皇紀にも浪速の國といい、古く難波地方の稱として使用された。龍麻呂は、班田の史生として、難波の地方に下つていたので、その地名を擧げている。
 荒玉之 アラタマノ。枕詞。年に冠している。この文字のほか、安良多末乃、安良多未能、安良多麻乃、安(414)良多麻餞、阿良多麻能、荒玉、荒玉乃、荒玉能、荒玉之、荒珠、荒珠乃、荒環能、麁玉、璞、璞之、未玉之等の文字を使用している。以上のうち表音文字を使用したと認められるものを除いては、いずれもまだ琢磨しない珠玉の義を有しており、それが語義であると考えられる。倭名類聚鈔にも、璞に阿良太萬《アラタマ》の訓がある。これをトシに冠するについては、砥《と》の義にトの一音に懸かるとされている。これも古く古事記にも見えている。
 年經左右二 トシフルマデニ。トシフルは、年を經過する意であるが、單に翌年になるだけにもいう。すくなくも翌年にわたつたのであろう。永い時間を經るまでにの意。
 白栲 シロタヘノ。タヘはコウゾの皮の繊維で織つた布。しかし材料にかかわらず、白い織物をシロタヘという。實際、麻織物をもシロタヘという。ここは龍麻呂の常用の衣の説明である。當時、身分の低い人は、多く染色しない衣服をつけておつた。その敍述である。
 衣不干 コロモモホサズ。コロモカハカズ(西)、コロモモホサズ(槻)、コロモデホサズ(新考)。汗ばみ穢れた衣服を乾すこともなくで、多忙であつた説明である。同時に、他郷に出て、衣類を管理する妻もなく、孤棲した生活を送つたことも考えられよう。
 朝夕在鶴公者 アサヨヒニアリツルキミハ。衣服を乾すこともなく、朝から晩まで、その穢れた衣服でいた君はの意。
 何方尓念座可 イカサマニオモヒマセカ。どのように思つておられたかの意。マセカは、イマセバカの意の條件法で、カは疑問の係助詞。「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」(卷一、二九、卷二、一六七)と同樣の語法で、插入句。
 鬱蝉乃 ウツセミノ。鬱は字音、蝉は訓で、共に假字である。命、世などの枕詞。ここは世に冠している。語義は、現し身のであるとされているが、上代假字遣法において、蝉のミは甲類、身のミは乙類で、音が違う。「空蝉之《ウツセミノ》」(卷一、二四)參照。
(415) 惜此世乎 ヲシキコノヨヲ。下の置キテに接續する句。
 露霜 ツユジモノ。既出(卷二、一三一)。枕詞。置キテに冠する。ツユジモは、露から霜にふりかわる頃のとけやすい霜。
 置而往監 オキテユキケム。この世を置いて行つたのだろうと推量している。上のイカサマニ念ヒマセカを受けて結んでいる。句切。
 時尓不在之天 トキニアラズシテ。死ぬべき時にあらずしての意で、上の文を補足している。この句で、自殺の意をあらわしている。
【評語】文筆作品として長大な形に發達した長歌は、平凡な内容を長々と敍述する弊に陷り、活氣を失うに至つた。この作の如きも既にそういう傾向にあるものである。一往事情を敍してはいるが、感激が足りないで、締りがない。いたずらに形式を追う者の弊に墮したのである。
 
反歌
 
444 昨日こそ 公《きみ》はありしか。
 思はぬに
 濱松が上に 雲に棚引く。
 
 昨日社《キノフコソ》 公者在然《キミハアリシカ》
 不v思尓《オモハヌニ》
 濱松之於《ハママツガウヘニ》 雲棚引《クモニタナビク》
 
【譯】昨日こそ公はおられた。意外にも濱松の上に雲としてたなびいている。
【釋】昨日社公者在然 キノフコソキミハアリシカ。係助詞コソに對して、時の助動詞キの已然形シカと結んでいる。前日までその人の存在したことをいつている。句切で、前提をなしている。
(416) 不思尓 オモハヌニ。思わぬことに。意外にも。
 濱松之於 ハママツガウヘニ。難波で死去したので、濱松は實景である。於は上の意を有する字。
 雲棚引 クモニタナビク。雲となつて棚引くの意。「卷而寐之《マキテネシ》 妹之手本者《イモガタモトハ》 雲爾多奈妣久《クモニタナビク》」(卷十九、四二三六)の例がある。火葬の煙が、松の上に棚引いているのを、雲としてと稱している。
【評語】四五句の描寫が、具體的でよい。濱邊の松のもとで火葬をする有樣が哀れである。全體としてすこし堅い感じを與えるのは、上三句が事を述べるに急であつて、描寫に及ばないゆえであろう。
 
445 いつしかと 待つらむ妹に、
 玉|梓《づさ》の 言《こと》だに告げず 往《い》にし公かも。
 
 何時然跡《イツシカト》 待牟妹尓《マツラムイモニ》
 玉梓乃《タマヅサノ》 事太尓不v告《コトダニツゲズ》 往公鴨《イニシキミカモ》
 
【譯】何時かと待つているでしよう妻に、言つてだけもしないで死んでしまつた公だ。
【釋】何時然跡 イツシカト。シは強意の助詞であるが、これを入れると、何時であるか早く早くとその時を待つ氣持が強くなる。
 待牟妹尓 マツラムイモニ。イモは、婦人の愛稱。ツマというよりも情愛が浮かび出る。長歌では主として母の待つことを歌い、この反歌では妻を出しているのは、照應がない。
 玉梓乃 タマヅサノ。使者に冠する枕詞であるが、ここでは轉じて、ただちに使者の意に使用している。既出、「玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」(卷三、四二〇)と同樣の用法である。
 事太尓不告 コトダニツゲズ。コトは言辭である。言をだに告げないでの意。次の句を修飾している。終止ではない。
 往公鴨 イニシキミカモ。イニシは、死去した意。カモは感動の助詞。
(417)【評語】家郷の妻のことを歌つているのは、長歌に漏らしたことを補う意であるかも知れないが、突然であつて、長歌との連絡がない。内容も平凡である。
 
天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿、向v京上道之時作歌五首
 
天平の二年庚午の冬十二月、大宰の帥大伴の卿の、京に向きて上道《みちだち》せし時に作れる歌五首。
 
【釋】天平二年庚午冬十二月 テニピヤウノフタトセカノエウマノフユシハス。大伴の旅人は、この年十月に、大納言に任ぜられ、十二月に大宰府を出發して京に向かつた。その途上である。
 向京上道之時 ミヤコニムキテミチダチセシトキニ。上道は、出發して行程につくをいう。以下の五首は、旅人が京に歸る途上、風物なお往路の如くにして、しかも伴なつて下つた妻を任地に失つてひとり歸る寂寥を歌つている。すなわち遺物なお存して、人はいない悲哀を題材としたものである。旅人は海路によつて上京している。
 
446 吾妹子が 見し鞆《とも》の浦の ?《むろ》の木は、 常世《とこよ》にあれど、 見し人ぞ無き。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 見師鞆浦之《ミシトモノウラノ》 天木香樹者《ムロノキハ》
 常世有跡《トコヨニアレド》 見之人曾奈吉《ミシヒトゾナキ》
 
【譯】わが妻の見た鞆の浦の?の木は、永久に變わらずあるけれど、これを見た人は今はこの世にいないのである。
【釋】吾妹子之 ワギモコガ。吾妹子は、亡き妻をいう。作者は、かつてその人と同伴して九州に下つたのである。
 見師鞆浦之 ミシトモノウラノ。見シは、次の句のムロノ木に接續する。鞆の浦は、廣島縣沼隈郡鞆町の海(418)灣で圓形の灣であるから、鞆の浦の名を得たものと思われる。風光絶佳の地として知られ、内海航行の要津をなしている。
 天木香樹者 ムロノキハ。天木香樹は、次の二首の歌の室木と同じく、ムロノキと讀まれる。天木香の文字は、卷の十六にも「詠2玉掃鎌天木香棗1歌」の題詞があつて「玉掃《タマハハキ》 苅來鎌麻呂《カリコカママロ》 室乃樹與《ムロノキト》 棗本《ナツメガモトヲ》 可吉將v掃爲《カキハカムタメ》」(三八三〇)の歌があり、それにも室乃樹と記されている。この樹は、本草和名に「赤?、一名?乳木中(ノ)脂也 和名|牟呂乃岐《ムロノキ》」とあり、新撰字鏡に「?、川夜奈支《カハヤナギ》、又|牟呂乃木《ムロノキ》也」また「※[木+慈]※[木+(草がんむり+総の旁)]、二字|牟呂乃木《ムロノキ》、?上(ニ)同(ジ)、又|加豆良《カヅラ》」とある。このムロノ木は、今、トシヨウ、またネズミサシという樹で、わが國の山野に自生し、檜に似て葉が杉のようであり樹心に香氣ある脂がある樹とされ、また海岸に白生するハイネズをもいうとされる。ここのは、そのハイネズの方であろうという。古くは、樹名は、その種の樹を總稱していうので、ムロというのも、葉が杉のようであつて柔軟な樹を組稱していうと考えられる。鞆の浦の礒には、ムロの老樹があつて、航行者の注意をひいたとおぼしく、集中、この歌のほかにもこれを詠んだ歌がある。よほどの巨樹であつたものと見える。
 常世有跡 トコヨニアレド。常世は既出(卷一、五〇)。永久不變の世界の謂であるが、ここでは、永久の意に使用されている、ムロノ木は、變わらずにあれどもである。
(419) 見之人曾奈吉 ミシヒトゾナキ。見シ人は、亡き妻をいう。
【評語】風物は昔ながらにして、人は既に去つてこの世にない感慨を歌つている。よく見られる思想であるが、鞆の浦のムロノ木を出したところに特色がある。なおそのムロノ木の措寫があれはよかつたと思う。以下三首、同じ題材を取り扱つている。多少連絡があるものと見られる。
【參考】礒の?の樹を詠んだ歌。
  離《はな》れ礒《そ》に立てる?《むろ》の木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも(卷十五、三六〇〇)
  しましくもひとりあり得るものにあれや島の?の木離れてあるらむ(同、三六〇一)
  礒の上に立てる?の木心いたく何に深めて思ひ始めけむ(卷十一、二四八八)
 
447 鞆の浦の 礒の?の木、
 見む毎《ごと》に、
 相見し妹は 忘らえめやも。
 
 鞆浦之《トモノウラノ》 礒之室木《イソノムロノキ》
 將v見毎《ミムゴトニ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 將v所v忘八方《ワスラエメヤモ》
 
【譯】鞆の浦の礒のむろの木を見る毎に、共に見た妻は、忘れることが出來ないだろう。
【釋】將見毎 ミムゴトニ。見むたびにで、見む時にはきまつての意をあらわしている。
(420) 相見之妹者 アヒミシイモハ。アヒミシは、普通、自分と妹とあうにいうが、ここは、妹と共に、このムロノ木を見し意に使用している。
 將所忘八方 ワスラエメヤモ。所は被役の意をあらわしている。ヤモは反語。忘れられようや、忘れられないの意。
【評語】これもゆかりの物に寄せて、亡き妻を憶つている。亡き妻の忘れがたい情は、よく寫されている。
 
448 磯の上《うへ》に 根蔓《ねば》ふ?の木、
 見し人を いづらと問はば
 語り告げむか。
 
 礒上丹《イソノウヘニ》 根蔓室木《ネバフムロノキ》
 見之人乎《ミシヒトヲ》 何在登問者《イヅラトトハバ》
 語將v告可《カタリツゲムカ》
 
【譯】礒の上に根を張つているむろの木は、かつて見た人を、何處にいるかと問うたならば、語り告げるであろうか。
【釋】根蔓室木 ネバフムロノキ。ネバフは、根が延びる意で、根を長く張つているをいう。この句は、語ルの主格。「礒上之《イソノウヘノ》 都萬麻乎見者《ツママヲミレバ》 根乎延而《ネヲハヘテ》 年深有之《トシフカカラシ》 神左備爾家里《カムサビニケリ》」(卷十九、四一五九)。
 見之人乎 ミシヒトヲ。前々歌、および前歌のミシを受けている。旅人の亡き妻。
 何在登問者 イヅラトトハバ。イヅコトトハバ(西)、イカナリトトハバ(矢)、イヅラトトハバ(考)。イヅラは何處にあるの意の語。本集に「伊敝妣等乃《イヘビトノ》 伊豆良等和禮乎《イヅラトワレヲ》 等婆波伊可爾伊波牟《トハバイカニイハム》」(卷十五、三六八九)
の例がある。トフは作者がムロノ木に問うのである。
 語將告可 カタリツゲムカ。ムロノ木は、我に語り告げるだろうかの意。カは疑問の助詞。
【評語】「鳥翔《かける》なすありがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(卷二、一四五)の歌は、有間の皇(421)子の靈の通うことを、松は知つているだろうと歌つている。同樣に、ここでは、ムロの木が、わが亡き妻の所在を知つているだろうというのである。草木非情の者が、かえつて靈界の事に通じているとする。天地の何處かの隈にわが妻を見出そうとする心が歌われている。根バフムロノ木の句は、主格ではあるが、それを呼びかけている語氣が、多量に感じられる。蔽い切れない寂寥感を、せめてそれに紛らそうとする氣もちである。講義には、ムロノ木が何在と問わば、吾は語り告げむかの意としているが、蓋し誤りであつて、作者は、妻の所在を求める意とすべきである。
 
右三首、過2鞆浦1日作歌
 
右の三首は、鞆の浦を過ぎし日に作れる歌。
 
【釋】過鞆浦日 トモノウラヲスギシヒニ。海路上京の途上、舟を鞆の浦に進めた日に詠んだことを註している。
 
449 妹と來《こ》し 敏馬《みぬめ》の埼を、
 還《かへ》るさに ひとりして見れば、
 涕《なみだ》ぐましも。
 
 與v妹來之《イモトコシ》 敏馬能埼乎《ミヌメノサキヲ》
 還左尓《カヘルサニ》 獨而見者《ヒトリシテミレバ》
 涕具末之毛《ナミダグマシモ》
 
【譯】妻と共に來た敏馬の埼を、歸り途にひとりして見れば、涙が催される。
【釋】與妹來之 イモトコシ。亡き妻と共に來た意で、連體形の句。旅人は妻と共に、海路九州に赴いたのである。その追憶を語つている。
 敏馬能埼乎 ミヌメノサキヲ。敏馬の埼は、神戸市東方の岬角。
(422) 還左尓 カヘルサニ。カヘルサは、歸る方で、歸途である。「可敝流散爾《カヘルサニ》 伊母爾見勢武爾《イモニミセムニ》」(卷十五、三六一四)など例がある。サは、往クサ、來サなどのサに同じく、方向を示す語。
 獨而見者 ヒトリシテミレバ。今は妻なくしてひとりして見ればの意。
 涕具末之毛 ナミダグマシモ。ナミダグムという動詞を、形容詞に轉成してナミダグマシという。涙の含まれ催されてある樣である。「阿賀勢能岐美波《アガセノキミハ》 那美多具麻志母《ナミダグマシモ》(古事記六三)、「和餓齊烏瀰例麼《ワガセヲミレバ》 那瀰多愚摩辭母《ナミダグマシモ》」(日本書紀五五)の例があるが、本集には例はない。
【評語】二人行つて一人歸る悲哀が、よく描かれている。船は故郷に近づきつつ、見る物につけて、無限の感慨が涌くのを如何ともしがたく、この數首の歌をなしている。
 
450 往《ゆ》くさには 二人わが見しこの埼を、
 ひとり過ぐれば こころ悲しも。
 
 去左尓波《ユクサニハ》 二吾見之《フタリワガミシ》 此埼乎《コノサキヲ》
 獨過者《ヒトリスグレバ》 情悲裳《ココロカナシモ》
 
【譯】行く際には、妻と二人で自分の見たこの敏馬の埼を、今ひとりして過ぎれば、心が悲しいことである。
【釋】去左尓波 ユクサニハ。ユクサは、カヘルサと同樣の語構成を有し、行く途の意をあらわす。往路である。
 二吾見之 フタリワガミシ。妻と二人で見たの意。フタリは、「吾背兒與《ワガセコト》 二有見麻世波《フタリミマセバ》」(卷八、一六五八)と書いた例があり、その有は、リの假字に借りたとすべきであるが、結局は、二有が語義であろうと考えられる。
 此埼乎 コノサキヲ。コノサキは、敏馬の埼をいう。
 獨過者 ヒトリスグレバ。獨行して通過すれば。
(423) 情悲裳 ココロカナシモ。モは感動の助詞。心悲しさよとである。
【評語】前の歌と同じ内容を、詞句を變えて歌つたまでの歌である。この敏馬の埼の二首は、連作ではなく、一首だけでは心が足らず、重ねてまた歌い試みたようである。五句の情悲シモは、概念的であるが、一ハ云フの方は、眺めることもなし得ない悲しさがよく出ていて情が深い。
 
一云、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》
 
一は云ふ、見もさかず來ぬ。
 
【釋】一云見毛左可受伎濃 アルハイフミモサカズキヌ。本文第五句の別傳であるが、いかなる材料によつたか、あきらかでない。恐らくは、作者が兩案を存したのであろうか。サカズは、離けずで、ミモサカズは、眺めやらず、見ることなしの意。離クは、普通下二段であるが、ここにサカズとあるのは、やはりもと四段に活用したことを語つている。
 
右二首、過2敏馬埼1日作歌
 
【釋】過敏馬埼日 ミヌメノサキヲスギシヒニ。船は、敏馬の埼にさしかかつた。故郷に近づくにつれて感慨いよいよ無限なものがあつて、この歌を詠んでいる。
 
還2入故郷家1即作歌三首
 
【釋】還入故郷家 フルサトノイヘニカヘリイリテ。フルサトノイヘは、寧樂の舊宅をいう。故郷は、もと住んでおつた里の義に使用している。長途の旅を終つて、住み古した家に還り入つて作つた歌であつて、作者は、(424)いうまでもなく大伴の旅人である。
 
451 人もなき 空《むな》しき家は、
 草枕 旅にまさりて
 苦しかりけり。
 
 人毛奈吉《ヒトモナキ》 空家者《ムナシキイヘハ》
 草枕《クサマクラ》 旅尓益而《タビニマサリテ》
 辛苦有家里《クルシカリケリ》
 
【譯】人もないからつぽの家は、草の枕の旅より一層苦しいものであつた。
【釋】人毛奈吉空家者 ヒトモナキムナシキイヘハ。留守にして人のいないからつぽの家はである。寧樂の都に住み捨てておいた家である。
 旅尓益而 タビニマサリテ。旅の苦しさに増さつて。旅の苦しさは、故郷の戀しさ等、心情を惱ます一切の苦勞をいう。
 辛苦有家里 クルシカリケリ。家に還つて辛苦を味わつたので、苦しかつたといつている。
【評語】京に歸ろうとして詠んだ、「京都《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば旅にまさりて苦しかるべし」(四四〇)の歌に照應する作である。人モナキと空シキとは、同意の語を重ねて、妻なき空虚の思いを描いている。周圍の人々はあつても、妻のいないさびしさが、苦しさの中心となつているので、この敍述が重要になつて來る。三句の枕詞もよく利いており、その以下の詠嘆も有效である。
 
452 妹として 二人作りし わが山齋《しま》は、
 木高《こだか》く繁く なりにけるかも。
 
 與v妹爲而《イモトシテ》 二作之《フタリツクリシ》 吾山齋者《ワガシマハ》
 木高繋《コダカクシゲク》 成家留鴨《ナリニケルカモ》
 
【譯】わが妻と二人で作つたわが庭園は、木も高く茂くなつたことである。
(425)【釋】與妹爲而 イモトシテ。イモは旅人の亡き妻をいう。妹と共にしての意。
 二作之 フタリツクリシ。妹と共に二人で作つたの意。旅人の家は、奈良の都作りと共に、その附近に移し作られたものと思われるから、ちようど旅人とその妻と二人で、相談して經營したものであろう。
 吾山齋者 ワガシマハ。山齋は、庭園をいう。齋は、韻會に「燕居之室也」とあつて屋舍の義であり、書齋などもその義で使用され、山齋は、山林の屋舍の義であるが、本集では「屬2目(シテ)山齋(ニ)1作(レル)歌」(卷二十、四五一一題詞)など、使用されている。この山齋は、中臣の清麻呂の邸の山齋であるが、賓客の一人なる御方の王の歌に、「乎之能須牟《ヲシノスム》 伎美我許乃之麻《キミガコノシマ》 家布美禮婆《ケフミレバ》 安之婢乃波奈毛《アシビノハナモ》 左伎爾家流可母《サキニケルカモ》」(卷二十、四五一一)とあつて、山齋をシマと讀むべきことが確かめられる。シマは、元來、水に臨んだ美しい土地をいう語であり、よつて庭園林泉の意にも使用するのである。
 木高繁成家留鴨 コダカクシゲクナリニケルカモ。コダカクは、樹木の生長した有樣を敍している。數年間任地にあつたあいだに、樹木の生い繁つたことを詠嘆している。
【評語】旅人の邸宅については、吉田の宜の「君が行き日《け》長くなりぬ。奈良路なる山齋《しま》の木立も神さびにけり」(卷五、八六七)などもあつて、やはり任中に樹木の生長したことを歌つている。當時の大族の主人であるから、宏壯な林泉を構えていたものであろう。
 
453 吾妹子が 植ゑし梅の樹
 見る毎《ごと》に、
 こころ咽《む》せつつ 涕《なみだ》し流る。
 
 吾妹子之《ワギモコガ》 殖之梅樹《ウエシウメノキ》
 毎v見《ミルゴトニ》
 情咽都追《ココロムセツツ》 涕之流《ナミダシナガル》
 
【譯】わが妻の植えた梅の樹を見る毎に、情がむせんで涙が流れる。
(426)【釋】殖之梅樹 ウヱシウメノキ。妻の植えた梅の樹の意。當時梅を愛賞したので、特に移植したのであろう。
 情咽都追 ココロムセツツ。咽は音エツ、聲の塞《つま》るをいう。情が迫つて聲の出ないのをいう。
 涕之流 ナミダシナガル。シは張意の助詞。
【評語】妻の遺愛の樹に想いを寄せている。その人去つて、風物ひとり存している悲しみは、ここにも歌われている。
【參考】土佐日記は、紀の貫之が、土佐守の任が終つて、京に歸る時の紀行文であるが、貫之も、伴ない下つた女の兒を、任地に失つている。今その故郷の家に歸り入つた際の文を記す。
  家に至りて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。(中略)さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、片枝は無くなりにけり。今生ひたるぞまじれる。大方の皆荒れにたれば哀《あはれ》とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ戀しきがうちに、此の家にて生《うま》れし女子《をんなご》の、もろともに歸らねば、いかがは悲しき。舟人も皆子|抱《だ》かりてのゝしる。かゝるうちになほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人々いへりける歌。
  生《うま》れしも歸らぬものを吾が宿に小松のあるを見るが悲しさ
とぞいへる。なほ飽かずやあらむ、又かくなむ。
  見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別せましや
 
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿薨之時歌六首
 
天平の三年辛未の秋七月、大納言大伴の卿の薨りし時の歌六首。
 
(427)【釋】天平三年辛未秋七月 テニピヤウノミトセカノトヒツジノアキフミツキ。大伴の旅人の薨去の日については、續日本紀、天平三年の條に「秋七月辛未、大納言從二位大伴の宿禰旅人薨りぬ。難波の朝の右大臣大紫長コが孫、大納言贈從二位安麻呂の第一の子なり」とある。七月の辛未は二十五日である。懷風藻に、年六十七とあるは、享年と見られる。その薨じた時の歌六首であるが、資人余の明軍の歌五首と、縣の犬養の宿禰人上の歌一首とである。
 
454 はしきやし 榮えし君の 坐《いま》しせば、
 昨曰《きのふ》も今日も 吾《わ》を召さましを。
 
 愛八師《ハシキヤシ》 榮之君乃《サカエシキミノ》 伊座勢婆《イマシセバ》
 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 吾乎召麻之乎《ワヲメサマシヲ》
 
【譯】親愛なる榮えたわが君がおいでになつたならば、昨日も今日もわたくしをお召しになつたろうものを、今はお召しになることもない。
【釋】愛八師 ハシキヤシ。形容詞ハシキに、感動の助詞ヤシの接續したもので、ハシキヨシ、ハシケヤシとあるも同語である。元來ハシキ何々と、連體形の句として、その修飾すべき語に冠するものであるが、慣用されては、獨立句として、讃嘆の意を表示するに至るものである。そこで自然、ある詞句を隔てて、その修飾すべき語をいう場合も多くなる。ここの例も、そういう形を採つて、榮エシを隔てて君を修飾している。ハシキ君と續くべき語法ではあるが、愛しきかな、榮えし君が云々の語氣になつているのである。「波之吉也思《ハシキヤシ》 吾家乃毛桃《ワギヘノケモモ》 本繁《モトシゲク》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成在目八方《ナラズアラメヤモ》」(卷七、一三五八)、「波之寸八師《ハシキヤシ》 志賀在戀爾毛《シカアルコヒニモ》 有之鴨《アリシカモ》 君所v遺而《キミニオクレテ》 戀敷念者《コホシキオモヘバ》」(卷十二、三一四〇)の如き、かような用法の例である。
 榮之君乃 サカエシキミノ。君は大伴の旅人をさす。世に榮えた君がの意である。「安志妣成《アシビナス》 榮之君之《サカエシキミガ》 穿之井之《ホリシヰノ》 石井之水者《イハヰノミヅハ》 雖v飲不v飽鴨《ノメドアカヌカモ》」(卷七、一一二八)の用例がある。
(428) 伊座勢婆 イマシセバ。イマシは存在の意の動詞の體言法。セは動詞|爲《す》の未然形。おられたならばの意の條件法。
 吾乎召麻之乎 ワヲメサマシヲ。マシヲは、不可能の希望で、そうしたかつたのに、できなかつたの意。
【評語】あらわし方は素朴であるが、それだけに平凡で、何等の味もない歌である。この作者が、歌に練達した人でないことを語るものであろう。
【參考】類想。
  東《ひむかし》の激流《たぎ》の御門《みかど》にさもらへど昨日も今日も召すこともなし(卷二、一八四)
 
455 かくのみに ありけるものを、
 はぎが花 咲きてありやと
 問ひし君はも。
 
 如v是耳《カクノミニ》 有家類物乎《アリケルモノヲ》
 〓子花《ハギガハナ》 咲而有哉跡《サキテアリヤト》
 問之君波母《トヒシキミハモ》
 
【譯】かようにあつたものを、ハギの花は咲いているかとお尋ねになつた君は、ああ。
【釋】如是耳 カクノミニ。旅人の死んだことを指してカクといつている。かような事ばかりでの意。
 有家類物乎 アリケルモノヲ。あつたものを、然るにの意の句。
 〓子花 ハギガハナ。〓子は既出(卷二、一二〇)。ハギの花である。
 咲而有哉跡 サキテアリヤト。ヤは疑問の助詞。
 問之君波母 トヒシキミハモ。君は旅人をいう。ハモは、詠嘆の助詞。君はといつて、感動の助詞モでこれを受けて、言おうと欲して情の迫つた意をあらわしている。
【評語】旅人は、天平二年の十二月に大宰府を發して上京したが、三年の夏には、既に病床の人となり、その(429)少壯時代を過した明日香の故郷を慕いながら死んで行つた。奈良時代前期までの代表的歌人で、死去の年月のあきらかなのは、この人のみである。旅人が死ぬ年の秋に作つた歌に「さすすみの栗栖《くるす》の小野のはぎが花散らむ時にし往きて手向けむ」(卷六、九七〇)というのがある。ハギの花の散る頃にもならば、故郷の栗栖の小野にも行つて見ようと心構えしながら、その秋七月に、自分の方が脆くも死んでしまつた。明軍がハギガ花咲キテアリヤト問ヒシ君というに合わせて、ハギを愛したことが知られる。ウメを愛し、またハギを愛した風流な生涯は、ここに終つたのである。この明軍の歌は、そのハギを愛したことを材料として詠んでいる。五首のうちで、もつとも情趣に滿ちた作である。
 
456 君に戀ひ いたもすべ無み、
 蘆鶴《あしたづ》の 哭《ね》のみし泣かゆ。
 朝夕《あさよひ》にして。
 
 君尓戀《キミニコヒ》 痛毛爲便奈美《イタモスベナミ》
 蘆鶴之《アシタヅノ》 哭耳所v泣《ネノミシナカユ》
 朝夕四天《アサヨヒニシテ》
 
【譯】君に戀うて、大變に術なく、蘆中にいる鶴のように、泣きにのみ泣かれる。朝も夕方も。
【釋】君尓戀 キミニコヒ。君は旅人をさす。コヒは、死者に對する思慕である。集中、動詞戀フは、助詞ニを受けるのを通例とする。これは、ある方向に對して、戀フの動作が行われる意味である。
 痛毛爲便奈美 イタモスベナミ。イタは、甚大の意の體言。スベは手段、方法。はなはだ手段なくして。
 蘆鶴之 アシタヅノ。タヅは、蘆の中に棲息するを習いとするので、アシタヅという。蘆鴨、蘆蟹の類で、別に一種の鶴があるわけではない。この語によつて、鶴の棲息?態が想像される。この句は、譬喩として次の句を引き出す枕詞になつている。
 哭耳所泣 ネノミシナカユ。既出(卷二、二三〇)。シは強意の助詞。泣かれてしかたがない意の慣用句。句(430)切。
 朝夕四天 アサヨヒニシテ。シテは、ありて、おいての意。朝に夕に泣かれる由である。朝に夕にで、結局、始終の意になる。
【評語】思慕の情を述べている。蘆鶴の譬喩を用いたほかに、特色のない歌である。初二句は、「君に戀ひいたもすべなみ奈良山の小松がもとに立ち嘆くかも」(卷四、五九三)の如き歌があり、類型的な句であつて、通行の歌詞を流用したものであろう。
 
457 遠長く 仕へむものと 念《おも》へりし
 君|坐《いま》さねば、
 心神《こころど》もなし。
 
 遠長《トホナガク》 將v仕物常《ツカヘムモノト》 念有之《オモヘリシ》
 君不v座者《キミイマサネバ》
 心神毛奈思《ココロドモナシ》
 
【譯】永久にお仕えしようと思つていた君がいられないので、精神もないことだ。
【釋】遠長 トホナガク。時間についていうので、長い時間の形容になる。
 將仕物常 ツカヘムモノト。君に奉仕しようものと。
 念有之 オモヘリシ。オモヘリに、助動詞シの接續したもの。作者が思つていたのである。
 君不座者 キミイマサネバ。君は旅人をいう。仕ヘムトワガ思ヘリシ君の意で、君が思つていたのでないことは勿論である。
 心神毛奈思 ココロドモナシ。心神の文字は、「山菅之《ヤマスゲノ》 不v止而公乎《ヤマズテキミヲ》 念可母《オモヘカモ》 吾心神之《ワガココロドノ》 頃者名寸《コノゴロハナキ》」(卷十二、三〇五五)ともあり、いずれも形容詞無しによつて説明されている。これは「伊泥多々武《イデタタム》 知加良乎奈美等《チカラヲナミト》 許母里爲弖《コモリヰテ》 伎彌爾故布流爾《キミニコフルニ》 許己呂度母奈思《ココロドモナシ》」(卷十七、三九七二)、「一眠《ヒトリヌル》 夜算跡《ヨヲカゾヘムト》 雖v思《オモヘドモ》 戀茂二《コヒノシゲキニ》 (431)情利文梨《ココロドモナシ》」(卷十三、三二七五)の例によつて、ココロドと讀まれる。集中、ココロドの語は、以上のほかに、情利、情度、情神等の文字が、これに當てて考えられている。この語は體言であつて、多くはなしの語によつて説明されているが、「比者之《コノゴロノ》 吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケルトモナキ》」(卷十一、二五二五)、「吾情度乃《ワガココロドノ》 奈具流日毛無《ナグルヒモナシ》」(卷十九、四一七三)の例は、他語をもつて説明している。その語原は不明であるが、情利の文字を使用したものがあり、また、和《な》グの語をもつて説明しているものがあるによれば、トの音に、利《と》しの意を感じて使用しているものもあつたようである。一般には文字通り、心神、情神の意に解すべく、この句としても、情神を失つたとすべきである。
【評語】永久の奉仕の目標とした人を失つた、落膽の心が描かれている。「天地と共に竟《を》へむと思ひつつ仕へ奉りし心違ひぬ」(卷二、一七六)の歌に比して、感激が弱く、表現がたどたどしい。遠く及ばない作である。
 
458 若子《みどりご》の 匍匐徘徊《はひたもとほ》り、
 朝|夕《よひ》に 哭《ね》のみぞわが泣く。
 君なしにして。
 
 若子乃《ミドリゴノ》 匍匐多毛登保里《ハヒタモトホリ》
 朝夕《アサヨヒニ》 哭耳曾吾泣《ネノミゾワガナク》
 君無二四天《キミナシニシテ》
 
【譯】幼兒のように這い廻つて、朝晩泣いてばかりいます。君がいないので。
【釋】若子乃 ミドリゴノ。ミドリゴは既出(卷二、二一〇)。幼兒をいう。この句は、次の句のハヒに對して、譬喩による枕詞になつている。
 匍匐多毛登保里 ハヒタモトホリ。既出「十六社者《シシコソハ》 伊波比拝目《イハヒヲロガメ》 鶉己曾《ウヅラコソ》 伊波比廻禮《イハヒモトホレ》 四時自物《シシジモノ》 伊波比拜《イハヒヲロガミ》 鶉成《ウヅラナス》 伊波比毛等保理《イハヒモトホリ》」(卷三、二三九)の例は、ヲロガムと、ハヒモトホルとが對になつており、このハヒモトホルが、匍匐の禮をいうと解せられる。この歌のハヒタモトホリも、同義なるべく、ハヒは文字通り(432)匍匐、タモトホリは、タは接頭語で、徘徊する意と見られる。旅人の靈前において匍匐跪坐して禮拜を行うことを敍しているのであろう。
 朝夕 アサヨヒニ。朝に夕にで、常にの意になる。
 哭耳曾吾泣 ネノミゾワガナク。泣きに泣いて、他事なしの意。句切。
 君無二四天 キトナシニシテ。君は旅人。旅人なくして。
【評語】旅人死後の?を描いている。表現が露骨なので、餘情に乏しいのは、やむを得ないところである。
 
右五首、資人余明軍、不v勝2犬馬之慕1、心中感緒作歌
 
右の五首は、資人余の明軍が、犬馬の慕《しのひ》に勝《あ》へず、心の中に感緒《かな》しびて作れる歌。
 
【釋】資人 ツカヒビト。高位もしくは顯職にある人に對して、護衛駈使のために朝廷より賜わる者。位について賜うを位分の資人といい、職について賜うを職分の資人という。職分の資人は、太政大臣に三百人、左右大臣に二百人、大納言に一百人で、旅人は大納言としての職分の資人、一百人、從二位としての位分の資人八十人を賜わつたはずである。資人は、六位以下の子および庶人の文武の才に堪えた者を採る。
 余明軍 ヨノマウグニ。既出(卷三、三九四)。ここにも神田本等に余に作り、西本願寺本等に金に作つている。
 不勝犬馬之慕 イヌウマノシノヒニアヘズ。犬馬の慕は、犬馬が主人を慕うの意で、臣從が主人を慕うことを、謙遜していう。文選に「不v勝《ヘ》2犬馬戀(フル)v主(ヲ)之情(ニ)1」(曹子建上2責v躬應v詔詩1表)とある。アヘズは、それに堪えずの意。作者の文をもととして書いた註の文であろう。
 心中感緒 ココロノウチニカナシビテ。感緒は、感情の緒の如く續くをいい、心緒、戀緒、悲緒などと同樣(433)の造字例である。元來體言であろうが、ここには動詞として使用されている。
 
459 見れど飽かず いましし君が、
 黄葉《もみちば》の 移りい行けば、
 悲しくもあるか。
 
 見禮杼不v飽《ミレドアカズ》 伊座之君我《イマシシキミガ》
 黄葉乃《モミチバノ》 移伊去者《ウツリイユケバ》
 悲喪有香《カナシクモアルカ》
 
【譯】見ても飽きることなくおいでになつた君が、黄葉のように移り行つたので、悲しいことです。
【釋】見禮杼不飽 ミレドアカズ。次の句のイマシシを限定する修飾句。集中、事物を讃嘆するに、しばしば用いられる語。
 伊座之君我 イマシシキミガ。イマシシは、動詞イマスに、助動詞シが接續している。
 黄葉乃 モミチバノ。譬喩による枕詞で、ウツリに冠している。
 移伊去者 クツリイユケバ。ウツリは、この世から移り去る意。イは接頭語。死去したことをいう。
 悲喪有香 カナシクモアルカ。下のカは、感動の助詞。悲しくあるなあの意。
【評語】説明的な歌で、感興に乏しい。黄葉を使つたのは、氣が利いているが、時節は七月で、黄葉の時期でなく、突然であり、形式を追つてこれを使用したに過ぎない。儀禮的な作品に過ぎないからであろう。
 
右一首、勅2内禮正縣犬養宿祢人上1、使v檢2護卿病1。而醫藥無v驗、逝水不v留。因v斯悲慟、即作2此歌1。
 
右の一首は、内禮正|縣《あがた》の犬養《いぬかひ》の宿禰《すくね》人上《ひとかみ》に勅して、卿の病を?護せしむ。しかも醫藥は驗なく、逝く水は留まらず。これに因りて悲慟《かな》しみてすなはち此の歌を作れり。
 
(434)【釋】内禮正 ウチノヰヤノカミ。中務省の被管なる内禮司の長官。正六位の上相當の官。内禮司は、宮中の禮儀、及び非違を?察することを掌る役所。
 縣犬養宿祢人上 アガタノイヌカヒノスクネヒトカミ。傳未詳。
 使檢護卿病 マヘツギミノヤマヒヲケミゴセシム。醫疾令の逸文に、五位以上の病患には、奏上して醫藥を賜う規定がある。これによつて、旅人に對しても、醫藥を賜い、この人をして、その事を檢?し看護せしめられたのであろう。
 逝水不留 ユクミヅハトドマラズ。水の流れ去つて停止しないことをもつて、人の死をあらわしている。漢籍に出典がある。
 
七年乙亥、大伴坂上郎女、悲2嘆尼理願死去1作歌一首 并2短歌1
 
七年乙亥、大伴の坂上の郎女の、尼理願の死去《みまか》れるを悲しみ嘆きて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】七年乙亥 ナナトセキノトヰノトシ。前に續いて天平七年である。
 尼理願 アマリグワニ。新羅の國から來た尼僧で、この歌の左註に記事のあるほか、その傳は知られない。卷の八に「尼、頭の句を作り、并はせて大伴の宿禰家持の、尼に誂らへらえて末の句等を續ぎて和ふる歌一首」(一六三五)とある尼は、一首の歌を纏め得なかつたことに照らしても、この尼であるかも知れない。
 
460 たくづのの 新羅《しらぎ》の國ゆ
 人言を よしと聞《きこ》して、
 問ひ放《さ》くる 親族《うから》兄弟《はらから》
(435) 無き國に 渡り來まして、
 大皇《おほきみ》の 敷《し》き坐《ま》す國に、
 うち日さす 京《みやこ》しみみに
 里家は 多《さは》にあれども、
 いかさまに 念ひけめかも、
 つれもなき 佐保の山邊に
 哭く兒《こ》なす 慕ひ來まして、
 敷細《しきたへ》の 宅《いへ》をも造り、
 あらたまの 年の緒長く
 住まひつつ 坐ししものを、
 生《うま》るれば 死ぬとふことに
 免《まぬか》れぬ ものにしあれば、
 憑《たの》めりし 人の盡《ことごと》
 草枕 旅なるほどに、
 佐保河を 朝川渡り、
 春日野を 背向《そがひ》に見つつ、
 あしひきの 山邊を指《さ》して、
(436)晩闇《ゆふやみ》と 隱《かく》りましぬれ、
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 徘徊《たもとほ》り ただひとりして、
 白細《しろたへ》の 衣手|干《ほ》さず
 嘆きつつ わが泣く涙、
 有間山 雲居棚引き
 雨に降《ふ》りきや。
 
 栲角乃《タクヅノノ》 新羅國從《シラギノクニユ》
 人事乎《ヒトゴトヲ》 吉跡所v聞而《ヨシトキコシテ》
 問放流《トヒサクル》 親族兄弟《ウカラハラカラ》
 無國尓《ナキクニニ》 渡來座而《ワタリキマシテ》
 太皇之《オホキミノ》 敷座國尓《シキマスクニニ》
 内日指《ウチヒサス》 京思美彌尓《ミヤコシミミニ》
 里家者《サトイヘハ》 左波尓雖v在《サハニアレドモ》
 何方尓《イカサマニ》 念鷄目鴨《オモヒケメカモ》
 都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊尓《サホノヤマベニ》
 哭兒成《ナクコナス》 慕來座而《シタヒキマシテ》
 布細乃《シキタヘノ》 宅乎毛造《イヘヲモツクリ》
 荒玉乃《アラタマノ》 年緒長久《トシノヲナガク》
 住乍《スマヒツツ》 座之物乎《イマシシモノヲ》
 生者《ウマルレバ》 死云事尓《シヌトフコトニ》
 不v免《マヌカレヌ》 物尓之有者《モノニシアレバ》
 憑有之《タノメリシ》 人乃盡《ヒトノコトゴト》
 草枕《クサマクラ》 客有間尓《タビナルホドニ》
 佐保河乎《サホガハヲ》 朝川渡《アサカハワタリ》
 春日野乎《カスガノヲ》 背向尓見乍《ソガヒニミツツ》
 足氷木乃《アシヒキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》
 晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》
 將v言爲便《イハムスベ》 將v須敝不v知尓《セムスベシラニ》
 徘徊《タモトホリ》 直獨而《タダヒトリシテ》
 白細之《シロタヘノ》 衣袖不v干《コロモデホサズ》
 嘆乍《ナゲキツツ》 吾泣涙《ワガナクナミダ》
 有間山《アリマヤマ》 雲居輕引《クモヰタナビキ》
 雨尓零寸八《アメニフリキヤ》
 
【譯】かの新羅の國から、人のいう言をよいとお聞きになつて、相談をする親族兄弟もない國に渡つておいでになつて、天皇の統治する國に、花やかな京いつぱいに、里家はたくさんにあるけれども、何と思つたのであろうか、縁もない佐保の山邊に、泣く兒のように慕つておいでになつて、住みよい家をも作り、年月永く住んでおいでになつたものを、生まれれば死ぬという事に免れないものであるから、頼みにした人がすべて、草の枕の旅であるあいだに、佐保川を朝川渡りし、春日野をうしろに見つつ、山邊をさして、夕方の闇のうちに隱れてしまつたので、言おうにもしようにも途方に暮れて、あちこちまごついて、ただひとりで、白い織物の袖も乾かずに、嘆きながらわたくしの泣く涙で、有間山に雲がたなびき、雨と降つたでしょうか。
【構成】全篇一文で段落はない。曉闇ト隱リマシヌレまでは、尼の經歴から死までを敍し、それを前提として、以下作者自身の悲嘆を敍している。
【釋】拷角乃 タクヅノノ。枕詞、新羅に冠する。タクはコウゾ。ツノは綱。タクヅノは、コウゾの繊維の綱で、白いので、シラに懸かる。本集に「多久頭努能《タクヅノノ》 之良比氣乃宇倍由《シラヒゲノウヘユ》」(卷二十、四四〇八)、古事記上卷に(437)「多久豆怒能《タクヅノノ》 斯路岐多陀牟岐《シロキタダムキ》」(四)とある。なお、栲衾、栲領巾ノの枕詞もあつて、いずれも白に懸かつている。
 新羅國從 シラギノクニユ。朝鮮半島においては、近江朝時代頃に、新羅の勢力が強大となり、これを統一した。その國からの意で、下の渡リ來マシテに接續する。
 人事乎吉跡所聞而 ヒトゴトヲヨシトキコシテ。ヒトゴトは、人のいう言。キコシテは、聞きての敬語法。聞クの敬語は、原形はキカスで、轉じてキコスとなつた。キカスは古事記にあるが、本集には、假字書きの例は、すべてキコスである。日本の國は佛法崇信の國で、僧尼を優遇しているというような人の言をよしと聞いたのであろう。
 問放流 トヒサクル。見サク、語リサクなどと同樣の語構成で、問いやるの意である。本集に「石木乎母《イハキヲモ》 刀比佐氣斯良受《トヒサケシラズ》」(卷五、七九四)、續日本紀に「朕大臣《アガオホオミ》、誰爾加毛《タレニカモ》、我語佐氣《アガカタラヒサケム》、孰爾加毛《タレニカモ》、我問佐氣牟止《アガトヒサケムト》」とある。これを、言問して憂いを放ちやる意とするのは、無理である。
 親族兄弟 ウカラハラカラ。親族と兄弟とで、すべて一族關係にある人をいう。
 大皇之 オホキミノ。大皇は、天皇に同じ。
 敷座國尓 シキマスクニニ。シキは、平面を占有するにいう動詞。マスは、イマスに同じ。敬語の助動詞。
 内日指 ウチヒサス。假字書きの例には、宇知比左須、宇知比左受、宇知日佐須などある。枕詞。宮、京などに冠する。ヒは日輪、サスは射すの義と解せられるが、ウチについては、本集の字面に見るも、打、撃の字と、内の字との兩系統がある。打、撃の義とすれは、打日ということは意義をなさず、またヒサスに接頭語として附著したとするも異樣の語法である。そうかといつて、内日の義とするも落ちつかない。ウチハヤシなどのウチと同語で、ウチヒは、威力ある日輪の義か。さてその日の光のさす義で、天皇の稜威のかがやく意に、(438)宮、京を修飾するのであろう。中については、宮に懸かるのを本義とし、轉じて京にも懸かるに至つたと見るぺく、その花やかに榮えている有樣を稱えた句と考えられる。
 京思美弥尓 ミヤコシミミニ。シミミは、繁茂の意の體言シミを重ねた語で、シミミニは、いつぱいにある意の形容。
 里家者左波尓雖在 サトイヘハサハニアレドモ。里は、五十戸を一里とするが、ここは屋戸の多數の意に使用している。サハニアレドモは、慣用句で、多數の中から特に一を抽出する場合の條件前提として愛用されている。
 何方尓念鷄目鴨 イカサマニオモヒケメカモ。カモは疑問の係助詞。尼理願が、何と思つたことかと推量している。この係りは、泣ク兒ナス慕ヒ來マシテに懸かつているが、獨立句としての性質が多くなつている。
 都禮毛奈吉 ツレモナキ。既出(卷二、一六七)。由縁、縁故もないの意。
 佐保乃山邊尓 サホノヤマベニ。佐保は、平城の京東方の地名。大伴氏の邸宅が、その地にあつたことは、他の歌にも見えている。大伴の安麻呂を佐保の大納言というよりすれば、當時から此處におつたものと見える。
 哭兒成 ナクコナス。枕詞。泣く兒のように。
 慕來座而 シタヒキマシテ。マシは、敬語の助動詞。
 布細乃 シキタヘノ。既出(卷一、七二)。枕詞。袖、枕等に冠する。ここでは宅に冠している。シキタヘは、柔かい布なので、馴れ親しまれる家の義で、修飾するのであろう。「柔備爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》」(卷一、七九)と同樣のあらわし方である。
 宅乎毛造 イヘヲモツクリ。大伴氏の邸内に、この尼の住む家を作つたのである。
 荒玉乃 アラタマノ。枕詞。年に冠する。
(439) 年緒長久 トシノヲナガク。ヲは、長く續く性質のものにいう語。玉ノ緒、氣ノ緒などいう。年は、續くものであるから、年の緒という。左註に、この尼が來てから、既に數紀を經たりとあり、數十年を經過したことと思われる。
 住乍座之物乎 スマヒツツイマシシモノヲ。モノヲは、何々である、しかるにの語氣がある。切れないで、敍述の進行をする。
 生者死云事尓 ウマルレバシヌトフコトニ。生者必滅の理法によつて歌つている。「生者《ウマルレバ》 逐毛死《ツヒニモシヌル》」(卷三、三四九)參照。
 不免物尓之有者 マヌカレヌモノニシアレバ。人としてその理法に免れ得ぬものだから。
 憑有之人乃盡 タノメリシヒトノコトゴト。尼の頼つていた人の全部。坂上の郎女の母なる大伴の大家などをいう。
 客有間尓 タビナルホドニ。タビニアルマニ(西)、タビナルマニ(考)、タビナルホドニ(略)。有間の温泉に行つていたあいだのことである。
 佐保河乎朝河渡 サホガハヲアサカハワタリ。佐保の地内を流れる佐保川を、朝に川渡りして。以下、葬儀の敍述である。朝、佐保川を渡つて、春日の山邊に赴いたのである。
 春日野乎背向尓見乍 カスガノヲソガヒニミツツ。春日野を背後に見なして、山邊の方に赴くのである。ソガヒニミツツは既出(卷三、三五七)。
 足氷木乃 アシヒキノ。枕詞、山に冠する。
 山邊乎指而 ヤマベヲサシテ。何處に葬つたか不明であるが、東方の山邊に向かつたらしい。
 晩闇跡 ユフヤミト。ユフヤミは、月のない夕方をいう。トは、と共にの意。朝、佐保川を渡つて、山邊に(440_)至つて、夕方になつて火葬したので、この句があるものと考えられる。晩闇の如くとする解は、無理であろう。
 隱益去禮 カクリマシヌレ。カクリは、この世から隱れ去る意。ヌレは、已然條件法で、ヌレバと、バを補つて解すべきである。句切ではない。
 將言爲便將爲須敝不知尓 イハムスベセムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。慣用句で、言うべき手段もなすべき手段も知らず。何ともしかたがなくして、途方に暮れての意。
 徘徊 タモトホリ。葬儀のために徘徊奔走するをいう。
 直獨而 タダヒトリシテ。一家中のおもなものは、旅行して、坂上の郎女ただひとり、事に當つたのをいう。
 白細之衣袖不干 シロタヘノコロモデホサズ。シロタヘノコロモは、實際の描寫と考えられる。高市の皇子の薨去に際して、舍人等が白栲の麻衣を著た(卷二、一九九)によれば、尼の死去に際して、特に白い衣を著たのであろう。ホサズは、下の嘆キツツワガ泣クに懸かる。涙に濡れたのを乾さずの意。
 嘆乍吾泣涙 ナゲキツツワガナクナミダ。ナゲキは、長歎息する意の動詞。歎息をしつつ泣く涙である。
 有間山 アリマヤマ。神戸市の有間温泉地の山。母の石川の大家等が、有間の温泉に行つたので、その地の山を出している。
 雲居輕引 クモヰタナビキ。クモヰは雲に同じ。ヰは接尾語。輕引は、「春霞《ハルガスミ》 輕引時二《タナビクトキニ》 事之通者《コトノカヨヘバ》」(卷四、七八九)以下數出している。この字面は、漢籍から來ているものであろう。雲は輕くたなびくものであるから使用されると思われる。涙が、雲と棚引いての意。
 雨尓零寸八 アメニフリキヤ。雨として降りしかという意で、ヤは疑問の助詞。
【評語】長篇であるが、敍事が冗長で生氣がなく、感激に乏しい。わずかに部分的に、女の歌らしいこまかな點があり、それが親しさを示している。例えば、問ヒサクル親族兄弟無キ國とか、泣ク兒ナス慕ヒ來マシテと(441)かいう句には、それが感じられる。葬儀の描寫もよい。最後の、わが涙が有間山に雲とたなびいて雨として降つたかという構想もよい。これがあつて、さすがに終りがよくなつている。生マルレバ死ヌトイフコトニの一節は、尼の死ではあるが、理くつつぽくて無い方がよくなる。とにかく婦人としてこれだけの大作をまとめた力量は、認められねばならない。また當時の世相を語るものとしては、歸化尼僧の一生を傳え、その方面に相當に意義がある。
 
反歌
 
461 留め得ぬ 壽《いのち》にしあれば、
 しきたへ の 家ゆは出でて
 雲隱りにき。
 
 留不v得《トドメエヌ》 壽尓之在者《イノチニシアレバ》
 敷細乃《シキタヘノ》 家從者出而《イヘユハイデテ》
 雲隱去寸《クモガクリニキ》
 
【譯】留めることの出來ない壽命ですから、住み馴れた家から出て天に登りました。
【釋】留不得 トドメエヌ。引き留めることの出來ない意で、次句の壽を修飾する。
 壽尓之在者 イノチニシアレバ。シは強意の助詞。既定の事實として説明している。
 敷細乃 シキタヘノ。枕詞。長歌の、シキタヘノ家ヲモ作りの句を受けている。なごやかな住みよい意に、家に冠している。
 家從者出而 イヘユハイデテ。家から出て。葬儀の家から出たことをいう。
 雲隱去寸 クモガクリニキ。人の死するを雲ガクルという。天上の雲に隱れる意で、既に前に出た。
【評語】初二句は、やはり理くつが出ている。三四句は、長歌を受けているが、枕詞を使つて馴れ住んだ家を(442)描いている。なおこの歌のみのことではないが、死人を人が葬るといわないで、死者がみずからこの世を去るというふうに歌つている。これは神靈の存在を信じた當時の思想から出ており、表現としても事務的でなくてよい。本人が、みずから住み馴れた家を出て行く。そういう感じを與えるのであつて、そこに抗し得ない運命が描かれ、靈に對する敬意も感じられる。
 
右、新羅國尼、名曰2理願1也。遠感2王コ1、歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1、忽沈2運病1、既趣2泉界1。於v是大家石川命婦、依2餌藥事1、往2有間温泉1、而不v會2此喪1。但郎女獨留、葬2送屍柩1既訖。仍作2此歌1贈2入温泉1。
 
右は、新羅の國の尼、名を理願といへり。遠く王コに感けて聖朝に歸化《まゐ》けり。時に大納言大將軍大伴の卿の家に寄住し、既に數紀を經たり。ここに天平七年乙亥をもちて、急に運病に沈み、はやく泉の界に赴く。ここに大家石川の命婦、餌藥の事によりて有間の温泉に往きて、喪に會はず、ただ郎女ひとり留まりて屍柩を葬り送ること既に訖りぬ。よりてこの歌を作りて温泉に贈り入れき。
 
【釋】遠感王コ トホクオホキミノミウツクシビニカマケテ。新羅の國にあつて、遙かにわが天皇の御コに感じて。
 歸化聖朝 ミカドニマヰケリ。歸化は、コ化に歸服してその國の人となるをいう。
 大納言大將軍大伴卿家 オホキモノマヲシノツカサ、オホキイクサノキミ、オホトモノマヘツギミノイヘ。大伴安麻呂の家。安麻呂は、和銅七年五月に薨じているから、その前から來ていたのであろう。
 既逕數紀焉 スデニアマタノトシヲヘタリ。逕は經に同じ。數紀は、十二年を一紀とするので、數十年の意(443)である。
 運病 ヤマヒ。連命を決する病の義か。
 泉界 ヨミノサカヒ。泉は黄泉、界は、その境界。死者の行く世界。
 大家 オホトジ。婦人の尊稱。タイコと讀むのは、中世の讀みくせだろう。
 石川命婦 イシカハノヒメトネ。婦人で、五位以上を帶びる者を内命婦といい、五位以上の者の妻を外命婦という。卷の四、大伴坂上の郎女の歌二首(六六六、六六七)の左註に「大伴(ノ)坂上(ノ)郎女之母石川(ノ)内命婦」とあり、坂上の郎女の母で、内命婦であつた石川氏の婦人であつたことが知られる。
 依餌藥事 ニヤクノコトニヨリテ。餌藥は、藥を服すること。病氣療養の爲に。
 有間温泉 アリマノユ。神戸市兵庫區有馬の地の温泉。古くから知られて、舒明天皇などの行幸もあつた。
 贈入温泉 ユニオクリイレキ。温泉に在る母のもとに贈つたの意。
 
十一年己卯夏六月、大伴宿祢家持、悲2傷亡妾1作歌一首
 
十一年己卯の夏六月、大伴の宿禰家持の、亡《す》ぎにし妾《をみなめ》を悲傷《かな》しみて作れる歌一首。
 
【釋】十一年己卯夏六月 トヲマリヒトトセツチノトウノナツミナツキ。前に續いて天平十一年である。
 亡妻 スギニシヲミナメ。妾は、傍妻をいう。倭名類聚鈔に「和名、乎無奈女《ヲムナメ》」とある。ここに死んだというその人は、どういう人とも知られないが、四六七の歌によれは、子を生んだことが知られる。
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを
 いかにかひとり 長き夜《よ》を宿《ね》む。
 
 從v今者《イマヨリハ》 秋風寒《アキカゼサムク》 將v吹焉《フキナムヲ》
 如何獨《イカニカヒトリ》 長夜乎將v宿《ナガキヨヲネム》
 
(444)【譯】今からは秋風が寒く吹くだろうが、どのようにしてわたしはひとりで、この長い夜を寐よう。
【釋】從今者 イマヨリハ。妾の死んだのが六月で、すぐ七月から秋に入るから、今からはといつている。
 將吹焉 フキナムヲ。焉は、ヲの假字に使つている。吹くだろう、然るにの意。
 如何獨 イカニカヒトリ。次の書特の歌によるに、以下家持自身の上を歌つている。よつてこのヒトリも、作者目身のことである。共に寐る人もなくて寂しいとの意である。
 長夜乎將宿 ナガキヨヲネム。秋の夜は長いのを、半夜に夢さめて寂しいだろうの意である。
【評語】平凡な表現であるが、さすがにさびしい氣もちは歌われている。三句までの思想は、類型的であり、文雅ふうな考え方であるが、この歌では、相當に有效に響いている。
 
弟大伴宿祢書持、即和歌一首
 
【釋】弟大伴宿称書持 オトトオホトモノスクネフミモチ。家持の弟であるから、旅人の子に當る。天平十八年九月二十五日に、家持は、この人の死を、越中において聞いて歌を詠んでいるからその月の十日前後に死んだのだろう。性質として、花樹花草を好んで、多く前庭にこれを植えたよしが、その歌に見えている。歌はうまくないが、愛好していたようである。
 
463 長き夜《よ》を ひとりや宿《ね》むと
 君がいへば、
 過ぎにし人の 念ほゆらくに。
 
 長夜乎《ナガキヨヲ》 獨哉將v宿跡《ヒトリヤネムト》
 君之云者《キミガイヘバ》
 過去人之《スギニシヒトノ》 所v念久尓《オモホユラクニ》
 
【譯】長い夜を、ひとりでか寐ようとあなたがいうので、亡くなつた人が思われることです。
(445)【釋】長夜乎獨哉將宿跡 ナガキヨヲヒトリヤネムト。家持の歌の、イカニカヒトリ長キ夜ヲ寐ムの句によつて詠んでいる。但しすこし語を變えて、ひとりでか寐ようとしている。
 君之云者 キミガイヘバ。君は家持をさす。
 過去人之 スギニシヒトノ。スギニシは死んでこの世を過ぎ去つたの意。
 所念久尓 オモホユヲクニ。思われることよの意。
【評語】格別の事はなく、すなおな歌である。書特の作は、多くたどたどしさがあるが、これにはそういう弊はない。すなおなだけに、無事な作というべきである。
 
又家持、見2砌上瞿麥花1作歌一首
 
また家持の、砌の上の瞿麥の花を見て作れる歌一首。
 
【釋】又 マタ。上の亡妾を悲傷して作れる歌を受けて、同じ事情のもとに詠まれた歌であることを示している。
 砌上瞿麥花 ミギリノウヘノナデシコノハナヲ。砌は、階甃の義の字で、軒下に敷く石だたみである。倭名類聚鈔に「兼名苑(ニ)云(フ)、砌、千計(ノ)切、訓|美岐利《ミギリ》、階(ノ)砌也」とある。階前の砌のほとりの瞿麥花である。瞿麥はナデシコ。今のカワラナデシコである。
 
464 秋さらば 見つつ思《しの》へと
 妹が植ゑし
 屋前《には》の 石竹《なでしこ》 咲きにけるかも。
 
 秋去者《アキサラバ》 見乍思跡《ミツツシノヘト》
 妹之殖之《イモガウヱシ》
 屋前乃石竹《ニハノナデシコ》 開家流香聞《サキニケルカモ》
 
(446)【譯】秋になつたら、見て愛玩してくださいと、かの女の植えた庭前の瞿麥は、咲いたことだ。
【釋】秋去者 アキサラバ。秋になつたならば。
 見乍思跡 ミツツシノヘト。シノヘは、賞美せよ、愛賞せよの意に使つている。トは、秋さらばからシノヘまでを、受けている。
 妹之殖之 イモガウヱシ。妹は、亡妾をさす。
 屋前乃石竹 ニハノナデシコ。屋前は既出(卷三、四一〇)。石竹は既出(卷三、四〇八)。庭前の瞿麥である。
 開家流香聞 サキニケルカモ。花の咲いたことを感歎している。
【評語】淡々たる敍述であるが、悲歎の語が露出していないので、趣がある。題材を亡き人の追憶に取つているのは、自然である。
 
移v朔而後、悲2嘆秋風1、家持作歌一首
 
朔《つき》移りて後に、秋風に悲嘆《かな》しみて家持の作れる歌。
 
【釋】移朔而後 ツキウツリテノチニ。朔は月初で、それを移すとは、翌月になるをいう。六月に妾を亡い、七月にはいつて詠んだ歌である。
 
465 うつせみの 代は常なしと
 知るものを、
 秋風寒み 思《しの》ひつるかも。
 
 虚蝉之《ウツセミノ》 代者無v常跡《ヨハツネナシト》
 知物乎《シルモノヲ》
 秋風寒《アキカゼサムミ》 思努妣都流可聞《シノヒツルカモ》
 
(447)【譯】現實のこの世は無常だとは知つているが、しかし秋の風が寒いので、亡き人を思つたことだ。
【釋】虚蝉之 ウツセミノ。枕詞。ここでは世に冠している。世に對する説明をしている枕詞である。
 代者無常跡 ヨハツネナシト。佛説にいう無常觀によつている。
 知物乎 シルモノヲ。知つているがしかしの意。
 秋風寒 アキカゼサムミ。秋風が寒くして。
 思努妣都流可聞 シノヒツルカモ。シノヒは、思慕の意に使用されている。その人を思つて、その美點を思う意に、賞美する意と共通するものがあるのであろう。妣は、濁音の字であるが、通用したのであろう。
【評語】道理においては知つているが、感情はそれに伴なわないことを歌つている。理くつの出ている點があきたらない。平凡な作である。
 
又家持作歌一首 并2短歌1
 
466 わが庭前《には》に 花ぞ咲きたる。
 そを見れど 情《こころ》も行かず。」
 愛《は》しきやし 妹がありせば、
 み鴨なす 二人雙《なら》び居
 手折《たを》りても 見せましものを、
 うつせみの 借れる身なれば、
 露霜《つゆじも》の 消《け》ぬるが如く
(448)あしひきの 山道《やまぢ》を指して、
 入日なす 隱りにしかば、
 其《そこ》思ふに 胸こそ痛き。」
 言ひもかね 名づけも知らに、
 跡もなき 世間《よのなか》にあれば、
 爲《せ》むすべもなし。」
 
 吾屋前尓《ワガニハニ》 花曾咲有《ハナゾサキタル》
 其乎見杼《ソヲミレド》 情毛不v行《ココロモユカズ》
 愛八師《ハシキヤシ》 妹之有世婆《イモガアリセバ》
 水鴨成《ミカモナス》 二人雙居《フタリナラビヰ》
 手折而毛《タヲリテモ》 令v見麻思物乎《ミセマシモノヲ》
 打蝉乃《ウツセミノ》 借有身在者《カレルミナレバ》
 露霜乃《ツユジモノ》 消去之如久《ケヌルガゴトク》
 足日木乃《アシヒキノ》 山道乎指而《ヤマヂヲサシテ》
 入日成《イリヒナス》 隱去可婆《カクリニシカバ》
 曾許念尓《ソコモフニ》 ※[匈/月]己所痛《ムネコソイタメ》
 言毛不v得《イヒモカネ》 名付毛不v知《ナヅケモシラニ》
 跡無《アトモナキ》 世間尓有者《ヨノナカニアレバ》
 將v爲須辨毛奈思《セムスベモナシ》
 
【譯】わたしの庭前に花が咲いた。それを見ても滿足しない。愛すべきかの女が居つたなら、鴨のように二人竝んでいて、手折つても見せたろうものを、借りている身體だから、露霜の消えたように、山道をさして入日のように隱れてしまつたから、それを思うと胸が痛い。言うことも出來ず、名づけることも知らず、跡もない世間のこととて、爲すべき方がない。
【構成】三段になつている。情モ行カズまで第一段、花を見ても慰まないことを敍している。ソコ思フニ胸コソ痛キまで第二段、死を悼んでいる。以下第三段、この世の常法として致し方なしの意を述べている。
【釋】吾庭前尓花曾咲有 ワガニハニハナゾサキタル。秋になつてナデシコなどの草花の咲いたことを敍している。句切。
 其乎見杼情毛不行 ソヲミレドココロモユカズ。その花を見れども心も慰まない由である。ユカズは、心ののびのびとならないのをいい、慰まない、滿足しないことを述べている。以上第一段。
 愛八師 ハシキヤシ。既出(卷三、四五四)。ここでは直接妹を修飾している。愛すべきの意。
 妹之有世婆 イモガアリセバ。妹は亡妻をいう。その人が死なずして、ここにありせばの意。
(449) 水鴨成 ミカモナス。ミカモは、文字通り水に居る鴨。ナスは、の如くの意。鴨は常に雌雄伴なつているので、二人雙ビ居の枕詞となつている。
 二人雙居 フタリナラビヰ。妹と自分と二人竝んでいてである。
 手折而毛令見麻思物乎 タヲリテモミセマシモノヲ。咲いた花を折つても見せたろうものを。マシモノヲは、そうもしたろうものを、しかるにの意。
 打蝉乃 ウツセミノ。枕詞として借れる身を説明している。枕詞でないとする説もあるが、元來この語は、本來の語義を失つて使用されているので、慣用句と見るべく、從つて語義は、直接に感じていないと解すべきである。
 借有身在者 カレルミナレバ。この肉身は虚假であつて、眞實の體にあらずとする佛説によつている。假の身であつて、永久性のないものとしている。
 露霜乃消去之如久 ツユジモノケヌルガゴトク。譬喩の句で、露霜の消えゆくが如くの意である、露霜は消えやすいものであるから、譬喩に使つている。
 山道乎指而 ヤマヂヲサシテ。亡き人の葬儀が、山道をさして行つたことを敍している。
 入日成 イリヒナス。入日のようにの意で、枕詞になつている。
 隱去可婆 カクリニシカバ。山道に隱れ去つたからで、死去し葬送したことをいう。
 曾許念尓 ソコモフニ。上の葬送を受けてソコと指示している。ソコは、ソレに同じ。
 ※[匈/月]己所痛 ムネコソイタキ。胸が痛い。悲痛おく方なき敍述である。「安我牟禰伊多之《アガムネイタシ》 古非能之氣吉爾《コヒノシゲキニ》」(卷十五、三七六七)などの例がある。形容詞は、古くはコソを受けて、キの形で結んでいた。「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)の類である。以上第二段、妾を失つたことを述べている。
(450) 言毛不得名付毛不知 イヒモカネナヅケモシラニ。富士山の歌(卷三、三一九)に見えている句。この句は、ここには適しているとも思われない。先行の歌の成句を取つて用いたためであろう。言うこともできず、名づけることも知らずの意で、次の跡モナキ世間ニアレバを修飾している。
 跡無世間尓有者 アトモナキヨノナカニアレバ。何も殘らない世間だからの意。無常觀から出ている。
 將爲須辨毛奈思 セムスベモナシ。なすべき手段もなしの意。しばしば出ている熟語句。
【評語】初めの、花の咲いたことから敍した起りはよい。それから愛惜に入るのも順序だが、第三段に入つて、概念的に事を敍して行つたのが失敗になつている。先行の歌の成句を多く使用したのも、歌が浮薄になり、弱くなつている原因である。
 
反歌
 
467 時はしも いつもあらむを、
 こころ哀《いた》く いゆく吾味《わぎも》か。
 若子《みどりご》を置きて。
 
 時者霜《トキハシモ》 何時毛將v有乎《イツモアラムヲ》
 情哀《ココロイタク》 伊去吾妹可《イユクワギモカ》
 若子乎置而《ミドリゴヲオキテ》
 
【譯】死ぬ時はいくらもあろうのに、悲しくも死んで行くお前だな、若い子を置いて。
 
【釋】時者霜 トキハシモ。シモは強意のために添えた助詞。
 何時毛將有乎 イツモアラムヲ。何時の時でもあろう、しかるにの意。死ぬべき時は、他にもあろうものをである。
 情哀 ココロイタク。長歌の、胸コソ痛キの意に同じく、ただそれを副詞句の形にしている。心痛きことに(451)も去つたの意である。
 伊去吾妹可 イユクワギモカ。吾妹は、その人に對していう語であるが、ここには第三者に使つている。親愛の情の汲まれる語である。カは感動の助詞。
 若子乎置而 ミドリゴヲオキテ。ワカキコヲオキテ(類)、ミドリゴヲオキテ(西)、ワクゴヲオキテ(玉)。上のイ行ク吾妹カの句を修飾している。この人は子を生んで、それがまだ幼かつたのである。
【評語】時もあろうのにという氣もちは、意外な事に接して常に起る所である。死ぬべき時というもないはずであるが、若くして死んだ人に對しては、かような心が感じられる。「出でて行かむ時しはあらむをことさらに妻戀しつつ立ちて行くべしや」(卷四、五八五)の歌は、大伴の坂上の郎女の歌であるが、多分大伴の家持に與えた歌らしい。それを受けているかどうかわからないし、また事情も相違するが、共通したところはある。「何しかも時しはあらむを」(卷十七、三九五七、卷十九、四二一四)というのも、同じく人の死に際して、意外の時にの意をあらわしている句である。この歌、若子を出したのが特に目に立つ。しかし家持は、實際に幼兒を抱えて困る身分でなかつたので、あまりその方の描寫がないのであろう。
 
468 出でて行く 道知らませば、
 あらかじめ
 妹を留めむ 關も置かましを。
 
 出行《イデテユク》 道知未世波《ミチシラマセバ》
 豫《アラカジメ》
 妹乎將v留《イモヲトドメム》 塞毛置末思乎《セキモオカマシヲ》
 
【譯】出て行く道を知つていたならば、前からかの女を留める關も置いたろうものを。
【釋】出行道知末世波 イデヲユクミチシラマセバ。かの女子の、この家を出て行く道を知つておつたら。イデテユクは、死に赴くことを、その人の出て行くという形であらわしている。マセバは、助動詞マシの未然條(452)件法で、知つていたかつたが、事實知らなかつたと、不可能であつたことを希望する。
 豫 アラカジメ。前からかねての意の副詞。假字書きの例はない。類聚名義抄には、預にアラカジメの訓がある。この語義は、アラクハジメで、あることの始めの意であろう。
 妹乎將留 イモヲトドメム。その人を留むべきの意で、連體形の句。
 塞毛置末思乎 セキモオカマシヲ。セキは、關所で、道行く人を塞き留める所である。當時は道路の要衝に關を置いて、通行人を?察し、手形のなき者の通行を禁止した。
【評語】 マセバの前提のもとに、マシヲと結ぶ形は、類型的な表現法で、卷の一、六九以下例が多い。すべて假設していう言い方である。それゆえに悔いる意の表現に適している。これもそれが用いられている。關を置いて大切なものを留めようという思想は、「ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山邊に關もあらぬかも」(卷七、一〇七七)の歌があり、これは月を留めたいと言つている。「燒大刀を利波《となみ》の關に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ」(卷十八、四〇八五)の歌は、同じく家持の作で、僧の平榮の京に上るを惜しんでいる。
 
469 妹が見し 屋前《には》に花咲き
 時は經《へ》ぬ。
 わが泣く涙 いまだ干なくに。
 
 妹之見師《イモガミシ》 屋前尓花咲《ニハニハナサキ》
 時者經去《トキハヘヌ》
 吾泣涙《ワガナクナミダ》 未v干尓《イマダヒナクニ》
 
【譯】かの女の見た庭前に花が咲いて、時はたつた。わたしの泣く涙はまだ乾かないことだ。
【釋】妹之見師屋前尓花咲 イモガミシニハニハナサキ。その女子の生前に見た庭上には、秋が來て花が咲いた。次の句の時は經ぬに對する修蝕句で、別?はない。
 時者經去 トキハヘヌ。死んだのは六月であつたが、既に月も變わつた。句切。
(453) 吾泣涙 ワガナクナミダ。これも別?のない句である。
 未干尓 イマダヒナクニ。ナクはヌコトの意。ニは助詞。
【評語】花は咲いて時は經過したけれども、涙はまだ乾かない。この庭上も、亡き人のかつて見し處かと思えば、また新たなる愁いに鎖される。忘れがたい悲哀が描かれている。反歌第三首、ここに至つて長歌の最初の句を受けて結んでいる。さすがにその構成には見るべきものがある。
 
悲緒未v息、更作歌五首
 
悲緒いまだ息まず、更に作れる歌五首。
 
【釋】悲緒未息 カナシミイマダヤマズ。悲緒は、感緒、戀緒などと同じく、悲哀の緒の如く續くをいう。
 更作歌 サラニツクレルウタ。前出のものに加えて、更に作つた歌である。
 
470 かくのみに ありけるものを、
 妹もわれも
 千歳の如く 憑《たの》みたりける。
 
 如v是耳《カクノミニ》 有家留物乎《アリケルモノヲ》
 妹毛吾毛《イモモワレモ》
 如2千歳1《チトセノゴトク》 憑有來《タノミタリケル》
 
【譯】こんな事であつたものを、かの女もわたしも千年も生きられるように頼みに思つたことだつた。
【釋】如是耳有家留物乎 カクノミニアルケルモノヲ。既出(卷三、四五五)。妾の死んだことをかくのみと言つている。こんな事だつたのに、しかるにの意。
 如千歳 チトセノゴトク。千年も生きられるかのように。永い年月をかけての意。
 憑有來 タノミタリケル。頼みに思つていたことだつた。信頼しておつた。ゾ、ヤ、カの如き特殊の係助詞(454)なくして、連體形で結ぶことは、極めて稀であるが、「宇良賣之久《ウラメシク》 伎美波母安流加《キミハモアルカ》 夜度乃烏梅能《ヤドノウメノ》 知利須具流麻?《チリスグルマデ》 美之米受安利家流《ミシメズアリケル》」(卷二十、四四九六)の如き例が、なくもない。これは、見しめずありけることよ
の意になる。今ここもこれに倣つて、タノミタリケルと讀んでいる。
【評語】千歳の契りも、結局はかなかつたことを敍している。これも平語で格別の事はない。
 
471 家|離《さか》り 坐《いま》す吾妹《わぎも》を 停《とど》めかね、
 山隱しつれ、 情神《こころど》もなし。
 
 離v家《イヘサカリ》 伊麻須吾味乎《イマスワギモヲ》 停不得《トドメカネ》
 山隱都禮《ヤマガクシツレ》 情神毛奈思《ココロドモナシ》
 
【譯】家を離れて亡くなつたかの女を停め得ないで、埋葬したので、しつかりした心もなくなつた。
【釋】離家伊麻須吾妹乎 イヘサカリイマスワギモヲ。家を離れていますで、死して葬儀するをいう。ワギモは、亡き妾をいうこと前に同じ。
 停不得 トドメカネ。トドメカネ(類)、トドミカネ(玉)。動詞留ムは、普通下二段活で、本集にもその例證があるが、一方トドミカネの形もある。「等伎能佐迦利乎《トキノサカリヲ》 等々尾迦禰《トドミカネ》 周具斯野利都禮《スグシヤリツレ》」(卷五、八〇四)、「由久布禰遠《ユクフネヲ》 布利等騰尾加禰《フリトドミカネ》」(同、八七五)などこれである。これはトドミの形のみ殘つているが、古くは四段活であつたものの如くである。意は留め得ずしてに同じ。
 山隱都禮 ヤマガクシツレ。ヤマガクスは、山邊に送葬したことをいう。上に吾妹をとあるので、山隱シツレと讀む。ツレは、ツレバの意の已然條件法である。この語法は、長歌には多く見られるが、短歌の例は、これのみである。句切ではない。
 情神毛奈思 ココロドモナシ。既出(卷三、四五七)の心神モナシに同じ。
【評語】留め得なかつた痛惜が、十分に表出されていない憾みがある。やはり情神モナシと言つたような類型(455)的なあらわし方が難をなしている。
 
472 世間《よのなか》し 常《つね》かくのみと かつ知れど、
 痛き情《こころ》は 忍《しの》びかねつも。
 
 世間之《ヨノナカシ》 常如v此耳跡《ツネカクノミト》 可都知跡《カツシレド》
 痛情者《イタキコロハ》 不v忍都毛《シノビカネツモ》
 
【譯】世間の通例は、かような事だと、一方では知つているが、悲しい心は堪えられないことだ。
【釋】世間之 ヨノナカシ。ヨノナカノ(類)、ヨノナカシ(略)。シは強意の助詞。世間を強く指定している。
 常如此耳跡 ツネカクノミト。ツネは、通常、通例の意。世の中は、通例かくの如しとの意。カクは、妾の死んだことをいう。
 可都知跡 カツシレド。カツは、一方では、一面では。傍の意。「秋風之《アキカゼノ》 寒比日《サムキコノゴロ》 下爾將v服《シタニキム》 妹之形見跡《イモガカタミト》 可都毛思努播武《カツモシノハム》(卷八、一六二六)の如く使用されている。
 痛情者 イタキココロハ。イタキは、心の打撃を受けた?態。悲痛の心はの意。
 不忍都毛 シノビカネツモ。シノビは、忍耐の意。不忍は、義によつて、シノビカネと讀む。得の字を略した書き方である。
【評語】概念的な物の言い方をしている。女々しい歌である。「うつせみの世は常無しと知るものを」(四六五)の歌の内容を、別の方面から敍したような歌である。
 
473 佐保山に 棚引く霞 見るごとに、
 妹を思ひ出《で》 泣かぬ日は無し。
 
 佐保山尓《サホヤマニ》 多奈引霞《タナビクカスミ》 毎v見《ミルゴトニ》
 妹乎思出《イモヲオモヒデ》 不v泣日者無《ナカヌヒハナシ》
 
【譯】佐保山にたなびいている霞を見る毎に、かの女を思い出して泣かない日はない。
(456)【釋】佐保山尓多奈引霞 サホヤマニタナビクカスミ。次の歌によれば、佐保山は、その女人の墓所のある山。家持の家は佐保にあつて、その眺められる位置にあつたのであろう。この霞は、秋にして詠んでいる。
 妹乎思出 イモヲオモヒデ。亡き人を思い出して。
 不泣日者無 ナカヌヒハナシ。毎日泣いている由である。
【評語】その山の霞を詠んでいるのは、具體的でよい。三句以下は、平語であつて、興趣が少ない。
 
474 昔こそ 外《よそ》にも見しか。
 吾妹子が 奧津城《おくつき》と念へば、
 愛《は》しき佐保山。
 
 昔許曾《ムカシコソ》 外尓毛見之加《ヨソニモミシカ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 奧槨常念者《オクツキトオモヘバ》
 波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》
 
【譯】以前はよそにも見ていた。今はかの女の墓所と思えば、愛すべき佐保山である。
【釋】昔許曾 ムカシコソ。このムカシは、自分の經歴の上にいう。以前というほどの意である。
 外尓毛見之加 ヨソニモミシカ。自分に何のかかわりもないものに見ていた。シカは、時の助動詞キの已然形。コソに對して結となつている。
 奧槨常念者 オクツキトオモヘバ。オクツキは、墳墓をいう。
 波之吉佐寶山 ハシキサホヤマ。愛すべき佐保山であるの意。佐寶は、懷風藻に作寶とあり、好字を選んでいる。
【評語】從來縁故のなかつた地が、愛人の墳墓の地となつたので、特別のなつかしさを生じたことを詠んでいる。「よそに見し眞弓の岡も君坐せば常《とこ》つ御門と侍宿《とのゐ》するかも」(卷二、一七四)と同樣の心境である。率直に歌つた點に、多少の愛すべきふしがないでもないが、説明に過ぎているのはあきたらぬところである。
 
(457)十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舍人大伴宿祢家持作歌六首
十六年甲申の春二月、安積の皇子の薨りましし時、内の舍人大伴の宿禰家持の作れる歌六首。
 
【釋】十六年甲申春二月 トヲマリムトセ、キノエサルノハルキサラギ。前に續いて、天平十六年である。續日本紀によれば、安積の親王の薨去したのは、天平十六年閏正月十三日のことになつている。ここに二月とあるは、薨去の月でなくして、初三首の詠まれた二月三日を意味するのであろう。そうとすれば、六首とあるは、三月の作歌をも含むことになるが、これは初めの作歌の月によつて年月を掲げたので、前に旅人の上京の時の歌詞にもその例がある。このような書き方は、家持自身の文でないことを思わせる。
 安積皇子 アサカノミコ。聖武天皇の皇子、御母は夫人正三位縣の犬養の宿禰廣刀自である。天平十六年閏正月十一日、天皇、難波の宮に幸し、この日、安積の親王、脚病によつて櫻井の頓宮《かりみや》から還り、十三日に薨じた。御年十七。藤原氏の所生でなかつたので、皇太子に立たれなかつた。
 内舍人 ウチノトネリ。宮中に在つて、側近奉仕警衛するを任とする。
 
475 かけまくも あやにかしこし。
 言はまくも ゆゆしきかも。
 わが王《おほきみ》 皇子の命《みこと》、
 萬代に 食《め》したまはまし
 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は、
 うち靡く 春さりぬれば、
(458) 山邊には 花咲き撓《をを》り、
 河瀬には 年魚子《あゆこ》さ走り、
 いや日《ひ》けに 榮ゆる時に、
 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも、
 白細《しろたへ》に 舍人|装《よそ》ひて、
 和豆香《わづか》山 御輿《みこし》立たして、
 ひさかたの 天知らしぬれ、
 展轉《こいまろ》び 沾《ひづ》ち泣けども、
 せむすべもなし。
 
 掛卷母《カケマクモ》 綾尓爾恐之《アヤニカシコシ》
 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》
 吾王《ワガオホキミ》 御子乃命《ミコノミコト》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 食賜麻思《メシタマハマシ》
 大日本《オホヤマト》 久邇乃京者《クニノミヤコハ》
 打靡《ウチナビク》 春去奴禮婆《ハルサリヌレバ》
 山邊尓波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》
 河湍尓波《カハセニハ》 年魚小狹走《アユコサバシリ》
 彌日異《イヤヒケニ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 逆言之《オヨヅレノ》 狂言登加聞《タハゴトトカモ》
 白細尓《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》
 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天所v知奴禮《アメシラシヌレ》
 展轉《コイマロビ》 ?打雖v泣《ヒヅチナケドモ》
 將v爲須便毛奈思《セムスベモナシ》
 
【譯】口の端に懸けむことも恐れ多い。言おうことも憚りがある。わが大君なる皇子樣の、永久に知ろしめすべきであつた日本の國の久邇の京は、草木も靡く春になれば、山邊には花が咲きたわみ、河瀬には鮎が走つて、日にまし榮える時に、まよわしのたわぶれであるか、白い衣に舍人は装束し、和豆香《わずか》山に御輿がお立ちになつて、天にお昇りになつたので、ころび廻り泣き濡れるけれども、どうしようもない。
【構成】段落はないが、初めの四句は總序として獨立文をなし、言うも憚られることを敍している。以下皇子の薨去と展轉し慟哭することを敍している。
【釋】挂卷母綾尓恐之 カケマクモアヤニカシコシ。カケマクは、口に懸けむこと。アヤニは、誠にの意の副詞。貴い方の御上を、口に懸けて述べるのも恐れ多いとするのである。句切。
 言卷毛齋忌志伎可物 イハマクモユユシキカモ 言語に言わむことも憚りあるかな。ユユシは、忌むべくあ(459)る意の形容詞。前の二句に對して對句をなしている。句切。以上の歌い起しは、高市の皇子の薨去の際の柿本の人麻呂の長歌の冒頭、「かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き」(卷二、一九九)の句などを受けている。
 吾王御子乃命 ワガオホキミミコノミコト。わが大君にまします皇子の命の意。ミコトは尊稱。次の、萬代ニ食シタマハマシの主格であるが、皇子に呼び懸ける氣持に歌つている。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。永久に。
 食賜麻思 メシタマハマシ。メシは、御覽になるの義から、知ろしめすの意になつている。マシ、不可能の希望の助動詞、知ろしめすべかりし意をあらわしている。このマシは連體形であつて、次の久邇の都に接續する。「萬代爾《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》 島宮波母《シマノミヤハモ》」(卷二、一七一)
 大日本 オホヤマト。日本の國の意に、久邇の京に冠している。オホは、ヤマトの美稱として、接頭語となつている。續日本紀に大養コ恭仁の大宮というと見える。大日本久邇の大宮に同じである。
 久邇乃京者 クニノミヤコハ。久邇の京は、京都府相樂郡木津町の地にあつて、山城の國に屬する地。天平十二年二月に急に遷都され、この歌の當時帝都であつた。天平十六年二月に難波に遷都されたので、この後間もなく遷られたことになる。
 打靡 ウチナビク。枕詞。草木の靡く意で、春の枕詞になる。ウチは、強意の接頭語。
 春去奴禮婆 ハルサリヌレバ。ハルサリは、春になる。春になつたのでの意。二月の作であるから、かように述べている。
 花咲乎爲里 ハナサキヲヲリ。ヲヲリは、既出、「打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》川藻毛敍《カハモモゾ》」(卷二、一九六)の如く、撓む意の動詞。花が咲き滿ちて枝がたわむのである。爲の字がヲと讀まれる理由は見出せないが、以上のほか、(460)「春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里爾《サキノヲヲリニ》」(卷八、一四二一)など、三箇所に使用されている、特殊の用字法が一定している語である。
 年魚小狹走 アユコサバシリ。アユコは點の愛稱。コは接尾語。「波流佐禮婆《ハルサレバ》 和伎覇能佐刀能《ワギヘノサトノ》 加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻和我※[人偏+弖]爾《キミマチガテニ》」(卷五、八五九)などの例がある。サは接頭語。鮎の勢いよく泳いでいることを敍している。以上、山邊ニハ云々、河瀬ニハ云々と、對句をなして、久邇の春の美觀を敍している。
 弥日異 イヤヒケニ。イヤヒニケニというに同じ。ケは時の意。いよいよ日毎に。
 逆言之狂言登加聞 オヨヅレノタハゴトトカモ。既出(卷三、四二一)。カモは疑問の係助詞で、下の天知ラシヌレまでに懸かつている。
 白細尓舍人装束而 シロタヘニトネリヨソヒテ。舍人が白衣に装いての意。皇子の薨去に遭い、その神祭に奉仕する爲に白衣に装うのである。
 和豆香山 ワヅカヤマ。久邇の京の東北にある山。そこに御葬送のことが行われたのである。
 御輿立之而 ミコシタタシテ。ミコシは、舁く乘物。タタシテは、立ちての敬語法。皇子の葬送をいうのであるが、皇子みずからお立ちになつたように敍している。
 天所知奴禮 アメシラシヌレ。アメシラシは、天を知ろしめすの意で、薨去して昇天されるをいう。「ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに戀ひわたるかも」(卷二、二〇〇)の歌は、高市の皇子の薨去を歌つているが、その歌あたりから來ているであろう。ヌレは、已然形の條件法。天知らしぬればの意になる。
 展轉 コイマロビ。展轉は、詩經周南關雎の詩に「悠(ナル)哉悠(ナル)哉、輾轉反側(ス)」とある輾轉に同じく、反轉し倒れ伏する意の文字である。コイは、上二段活用の動詞コユの連用形。ここは悲痛のあまり、ころげ廻るをいう。「等許爾許伊布之《トコニコイフシ》」(卷十七、三九六二)。
(461) ?打雖泣 ヒヅチナケドモ。ヒヅチは、濡れる意の動詞。涙に泣き濡れるのである。
 將爲須便毛奈思 セムスベモナシ。何とも爲方なしの意の慣用句。
【評語】柿本人麻呂の高市の皇子の薨去の時の歌などを參考として作つている。よく纏まつているが、先行の歌の成句を多く使用しているので、作りものの感がある。ほとんど毎句、出典が指摘されるのは、作者の名譽ではない。今この歌の詞句について、先行の歌と思われるものから、同一もしくは類似の詞句を擧げて見よう。この歌を上段に擧げる。下段は、先行の歌の詞句である。 
  かけまくあやに畏し    かけまくもゆゆしきかも
  言はまくもゆゆしきかも  言はまくもあやに畏き(卷二、一九九)
  わが大君皇子の命     わが大君皇子の命の (同、一六七)
  萬代に食し賜はまし    萬代に國知らさまし(同、一七一)
  大日本久邇の京は     山城の久邇の京は(卷十七、三九〇七)
  うち靡く春さりぬれば   うち靡く春さりくれば(卷三、二六〇)
  山邊には花咲きををり   春されば花咲きををり(卷十七、三九〇七)
  河瀬には年魚子さ走り   河門には年魚子さ走る(卷五、八五九)
  いや日けに榮ゆる時に   木綿花の榮ゆる時に(卷二、一九九)
  逆言の狂言とかも     逆言の狂言とかも(卷三、四二一)
  白栲に舍人装ひて     白栲の麻衣著て(卷二、一九九)
  和豆香山御輿立たして   
  ひさかたの天知らしぬれ  ひさかたの天知らしぬる(卷二、二〇〇)
(462)  こいまろびひづち泣けども こいまろびひづち泣けども(卷十三、三三二六)
  せむすべもなし      せむすべもなし(卷五、八〇四)
 
反歌
 
476 わが王《おほきみ》 天《あめ》知らさむと 思はねば、
 凡《おほ》にぞ見ける 和豆香杣山《わづかそまやま》。
 
 吾王《ワガオホキミ》 天所v知牟登《アメシラサムト》 不v思者《オモハネバ》
 於保尓曾見谿流《オホニゾミケル》 和豆香蘇麻山《ワヅカソマヤマ》
 
【譯】わが大君は昇天されようとは思わなかつたので、なおざりに見ていた、この和豆香の杣山は。
【釋】天所知牟登 アメシラサムト。長歌の句を採つている。天を領有されようとはの意。薨去されようとは。
 於保尓曾見谿流 オホニゾミケル。オホほ、おおよそ、なおざりの意。氣にも留めずに見ていた意である。
オホニミルは、既出、「天數《アマカゾフ》 凡津子之《オホシツノコガ》 相日《アヒシヒニ》 於保爾見敷者《オホニミシクハ》 今敍悔《イマゾクヤシキ》」(卷二、二一九)。終止形の句。
 和豆香杣山 ワヅカソマヤマ。長歌にあつた和豆香山である。杣山は、木材を伐り出す山。
【評語】天知ラサムと和豆香杣山との關係が突然である。その山が、御葬送に際して由縁を生じたことを敍すべきであつた。これも人麻呂の凡ニ見シクハの歌の影響を受けているらしい。
 
477 あしひきの 山さへ光り 咲く花の
 散りぬる如き わが王《おほきみ》かも。
 
 足檜木乃《アシヒキノ》 山左倍光《ヤマサヘヒカリ》 咲花乃《サクハナノ》
 散去如寸《チリヌルゴトキ》 吾王香聞《ワガオホキミカモ》
 
【譯】山までも光つて咲く花の散つたような皇子樣だなあ。
【釋】山左倍光 ヤマサヘヒカリ。花のかがやきによつて山までも光るというので、次の咲ク花の修飾句にな(463)つている。
 咲花乃 サクハナノ。花は櫻花をいう。
 散去如寸 チリヌルゴトキ。散去は、チリニシとも讀まれるが、ここは過去に讀まない方が、目に見る感が深い。
【評語】御年十七歳で薨去された皇子を悼んで、山も照りかがやいて咲く花の散るのに譬えている。絢爛の中に無限の哀愁を宿した歌で、家持の作中でも屈指の名品である。譬喩が成功したのは、その敍述が具體的で、しかもその目的とぴつたり一致したからである。花を譬喩に用いた歌には、小野の老の「あをによし寧樂の都は」の歌もあるが、それにも劣らない作品である。
 
右三首、二月三日作歌
 
【釋】二月三日 キサラギノミカ。天平十六年の二月三日で、薨去の翌月に當る。
 
478 かけまくも あやにかしこし。
 わが王 皇子の命、
 もののふの 八十件《やそとも》の男を
 召し集《つど》へ 率《あとも》ひ賜ひ、
 朝獵に 鹿猪《しし》踐《ふ》み起し、
 暮《ゆふ》獵に 鶉雉《とり》履み立て、
 大御爲《おほみま》の 口|抑《お》し駐《とど》め、
(464)御心を見《め》し明らめし
 活道山《いくぢやま》 木立の繁《しげ》に、
 咲く花も 移ろひにけり。」
 世の中は かくのみならし。
 丈夫《ますらを》の 心振り起し、
 劔刀《つるぎたち》 腰に取り佩《は》き、
 梓弓 靱《ゆき》取り負ひて、
 天地と いや遠長に
 萬代に かくしもがもと、
 憑《たの》めりし 皇子の御門の
 五月蠅《さばへ》なす 騷く舍人《とねり》は、
 白細《しろたへ》に 服《ころも》取り著《き》て、
 常なりし咲《ゑま》ひふるまひ、
 いや日《ひ》けに 變らふ見れば、
 悲しきろかも。」
 
 掛卷毛《カケマクモ》 文尓恐之《アヤニカシコシ》
 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命《ミコノミコト》
 物乃負能《モノノフノ》 八十伴男乎《ヤソトモノヲヲ》
 召集《メシツドヘ》 聚率比賜比《アトモヒタマヒ》
 朝獵尓《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》
 暮獵尓《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》
 大御馬之《オホミマノ》 口押駐《クチオシトドメ》
 御心乎《ミココロヲ》 見爲明米之《メシアキラメシ》
 活道山《イクヂヤマ》 木立之繁尓《コダチノシゲニ》
 咲花毛《サクハナモ》 移尓家里《ウツロヒニケリ》
 世間者《ヨノナカハ》 如v此耳奈良之《カクノミナラシ》
 大夫之《マスラヲノ》 心振起《ココロフリオコシ》
 劔刀《ツルギダチ》 腰尓取佩《コシニトリハキ》
 梓弓《アヅサユミ》 靱取負而《ユギトリオヒテ》
 天地與《アメツチト》 彌遠長尓《イヤトホナガニ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 如v此毛欲得跡《カクシモガモト》
 憑有之《タノメリシ》 皇子之御門乃《ミコノミカドノ》
 五月蠅成《サバヘナス》 驟騷舍人者《サワクトネリハ》
 白栲尓《シロタヘニ》 服取着而《コロモトリキテ》
 常有之《ツネナリシ》 咲比振麻比《ヱマヒフルマヒ》
 彌日異《イヤヒケニ》 更經見者《カハラフミレバ》
 悲呂可毛《カナシキロカモ》
 
【譯】口の端に懸けようも誠に恐れ多い。わが大君なる皇子樣、お仕えする多くの人々を召し集め、御引率になり、朝獵に鹿や猪を踐み起し、夕獵に鶉や雉を踏み立て、御馬の轡を抑えて、御心に御賞美になつた活道山(465)は、木立も繁く咲く花も衰えてしまつた。世の中はかような事であるらしい。男兒の心を振り起し劍大刀を腰に佩び、梓弓と靱とを背負つて、天地と共にいよいよ永久に、萬代にかようにありたいと頼みにしていた皇子の御殿の、夏の蠅のように騷ぐ舍人は、白い衣服を著て、平常の華やぎやふるまいが、日毎に變わるのを見ると、悲しいなあ。
【構成】二段から成つていると見られる。咲ク花モ移ロヒニケリまで第一段。皇子の生前、狩獵にお出ましになつたことを敍し、その薨去に及んでいる。そのうち最初の、カケマクモアヤニ畏シは獨立文である。以下第二段、御殿にお仕えしていた舍人たちの生活が、前に變わつたことを敍して、悲しみの情を述べて終る。やはりそのうち初めの二句、世ノ中ハカクノミナラシは獨立文である。
【釋】挂卷毛文尓恐之 カケマクモアヤニカシコシ。既出安積の皇子薨去の第一の長歌(卷三、四七五)の冒頁と全く同一の文である。獨立文で、これら皇子の御上をいおうとして、言い起した句。
 吾王皇子之命 ワガオホキミコノミコト。この句も第一の長歌にあつた。次の句以下に對して意は主格であるが、まず皇子を呼びかけている。
 物乃負能、モノノフノ。モノノフは、文武の官僚をいう。ここは主として武士である。
 八十伴男乎 ヤソトモノヲヲ。ヤソは數の多いことを示す。トモノヲは、古事記上卷に伴緒と書き、トモは人々、ヲは緒のように續くものをいい、部隊、部族をいうと解せられる。本集では、假等書きのもののほか、伴緒とある一例(卷六、一〇四七)を除いては、伴雄、伴男、友能壯、友之雄の文字を用い、ヲに男子の意を感じていたと思われる。しかし男子の意が語原でないことは、古事記の五伴の緒の中には、伊斯許理度賣、宇受賣の如き女神があつて、女子をも古くは含んでいたものと解せられる。古事記傳には、部族の長としているが、長であるという文證はない。ここは集團を成して朝廷に奉仕する多くの男子をいう。
(466) 召集聚 メシツドヘ。召し集められる意。
 率比賜比 アトモヒタマヒ。アトモヒは、引率し誘う意の動詞。「御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》」(卷二、一九九)。
 朝?尓鹿猪踐起 アサカリニシシフミオコシ。シシは、食うべき獣肉をいい、そのおもなものについて鹿猪の文字を使用している。以下四句は「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフカリニ》 十里〓立《トリフミタテ》」(卷六、九二六) の例があり、それらを受けているらしい。
 暮?尓鶉雉履立 ユフカリニトリフミタテ。獵の獲物の鳥として、おもなものについて鶉雉の文字を使用している。
 大御馬之 オホミマノ。オホミは、皇子に對する尊稱として、冠している。
 口抑留 クチオシトドメ。馬の口を抑えて、進行を止める意で、中止形。「馬之歩《ウマノアユミ》 押止駐余《オサヘトドメヨ》 住吉之《スミノエノ》 岸乃黄土《キシノハニフニ》 爾保比而將v去《ニホヒテユカム》」(卷六、一〇〇二)。
 御心乎 ミココロヲ。次の句の明ラメシの客語となつている。
 見爲明米之 メシアキラメシ。メシは、見るの敬語。メシテ御心ヲアキラメシというべきを、句の都合で、かように言つている。メシアキラメと續く例は、「加久之許曾《カクシコソ》 賣之安伎良米晩《メシアキラメメ》 阿伎多都其等爾《アキタヅゴトニ》」(卷二十、四四八五)、御心を明らめるということは、「美知能久之《ミチノクノ》 小田在山爾《ヲダナルヤマニ》 金有等《クガネアリト》 麻宇之多麻敝禮《マウシタマヘレ》 御心乎《ミココロヲ》 安吉良米多麻比《アキラメタマヒ》」(卷十八、四〇九四)。アキラメシは、御心を明朗愉快にされたの意。
 活道山 イクヂヤマ。久邇の京附近の山であろうが、今所在を知らない。
 木立之繁尓 コダチノシゲニ。コダチノシミニ(神)、コダチノシジニ(西)、コダチノシゲニ(細二種)。木立の繁茂にで、咲く花を修飾する。花が密に咲いたのである。
 咲花毛 サクハナモ。花は、前の歌の花に同じく、櫻花である。
(467) 移尓家里 ウツロヒニケリ。ウツロフは、盛りの過ぎたのをいう。散つたのである。花の散つたことをもつて、皇子の薨去に譬えている。以上第一段。生前狩獵に出で立たれて眺めやられた山の花も散つたというのである。
 世間者如此耳奈良之 ヨノナカハカクノミナラシ。上を受けて、世の中は、こんなことだつたと詠嘆している。ナラシはニアルラシで、かようにあると見えるの意。「世間波《ヨノナカハ》 迦久乃尾奈良志《カクノミナヲシ》」(卷五、八八六)の例がある。世の中は無常であると嘆ずるのである。獨立文。
 大夫之心振起 マスラヲノココロフリオコシ。男兒としての心を振り起し。丈夫として皇子に奉仕する心を發起して。以下その具體的説明になる。
 劔刀腰尓取佩 ツルギタチコシニトリハキ。劔刀を腰に佩いて。トリは接頭語。
 梓弓靱取負而 アヅサユミユキトリオヒテ。梓弓と靱とを背負つてのように見えるが、句の都合によつてこうなつたので、梓弓を手に持ち、靱を背負うてである。靱は、獣革で作り矢を入れて背負う武具。
 天地與弥遠長尓 アメツチトイヤトホナガニ。天地と共にいよいよ永久に。上のトは、と共にの意。
 萬代尓如此毛欲得跡 ヨロヅヨニカクシモガモト。シは強意の助詞。これに當る文字はないが、例によつて讀み添える。ガは願望の助詞。かくもあれと欲するのである。奉仕することの永久であることを願つている。「豫呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 ※[言+可]勾志茂餓茂《カクシモガモ》」(日本書紀一〇二)。
 憑有之 タノメリシ。頼みにしていた。
 皇子乃御門乃 ミコノミカドノ。ミカドは、宮門によつて、その宮殿を表示する語。皇子の宮殿であるが、舍人は宮門に奉仕するのであるから、特に御門の語が生きて來る。
 五月蠅成 サバヘナス。夏五月の蠅のようにで、枕詞として、騷クに冠する。サは五月をサツキというサに(468)同じ。語義は未詳であるが、稻苗と關係があるらしく、それから夏の意に導かれるらしい。
 聚驂舍人者 サワクトネリは。サワクは、舍人が多く集つて物音多く動作も繁くあるをいう。
 白栲尓服取著而 シロタヘニコロモトリキテ。薨去にあつて祭事をするので、特に白色の衣服に集うのである。高市の皇子の殯宮の歌(卷二、一九九)にも舍人が白栲の麻衣を服ることが詠まれている。
 常有之 ツネナリシ。平常であつたの意で、連體形の句。
 咲比振麻比 ヱマヒフルマヒ。ヱマヒは笑顔で愉快な?態。フルマヒは擧動、動作。
 弥日異 イヤヒケニ。いよいよ日毎に。
 更經見者 カハラフミレバ。カハラフは、引き繼いて變わつている意。變わることを見ればの意。
 悲呂可聞 カナシキロカモ。ロは接尾語、「處女之友者《ヲトメガトモハ》 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》」(卷一、五三)などの用例がある。
【評語】第一段の狩獵の敍述から花の散つたことをもつて皇子の薨去を描いているのは巧みである。前の二月三日に作つた歌のうち、アシヒキノ山サヘ光りの歌が、作者も得意で、重ねて語を變えてその譬喩を使つたらしい。第二段の構成も、第一段と同樣に出來ている。すべて前の長歌よりは良く出來ていると云えよう。
 
反歌
 
479 愛《は》しきかも、皇子《みこ》の命《みこと》の、
 あり通《がよ》ひ 見《め》しし活道《いくぢ》の
 路《みち》は荒れにけり。
 
 波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》
 安里我欲比《アリガヨヒ》 見之活道乃《メシシイクヂノ》
 路波荒尓鷄里《ミチハアレニケリ》
 
【譯】なつかしい皇子樣の通いつつ御覽になつた活道の路は、荒れてしまつたなあ。
(469)【釋】波之吉可聞 ハシキカモ。カモは、感動の助詞で、親愛すべきかなの意の獨立文になるが、それは皇子の命を讃嘆するものであつて、結局、愛《は》しき皇子の命というに同じになる。獨立文をもつて修飾句とする。それは、ハシキヤシなどの句から、かような形を生ずるに至つたのであろう。類似の語形には、「極此疑《コゴシカモ》 伊豫能高嶺乃《イヨノタカネノ》 射狹庭乃《イサニハノ》 岡爾立而《ヲカニタチテ》」(卷三・三二二)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》 多末伎波流《タマキハル》 伊久代經爾家牟《イクヨヘニケム》」(卷十七、四〇〇三)の如きがある。
 皇子之命乃 ミコノミコトノ。安積の皇子の。
 安里我欲比 アリガヨヒ。アリは存在の意の接頸語。繼續する意に使用される。往來されての意。
 見之活道乃 メシシイクヂノ。長歌の、見シ明メシ活道山の句によつている。メシシは、御覽になつたの意で、下のシは、時の助動詞の連體形。
 路波荒尓鷄里 ミチハアレニケリ。皇子なくして荒涼を感じたのである。
【評語】志貴の皇子の薨去の時の歌に、「三笠山野邊ゆゆく道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに」(卷二、二三四)というのがあり、似ている歌である。皇子いまさずして道が荒廢するという理くつはないのであつて、荒れたと觀ずるのは、ただ作者自身の心よりほかにはない。すべてのものの荒廢を感ずるところに、頼む所を失つた張合のない生活が描かれる。
 
480 大伴の 名に負《お》ふ靱《ゆき》帶《お》びて、
 萬代に 憑《たの》みし心、
 何處《いづく》か 寄せむ。)
 
 大伴之《オホトモノ》 名負靱帶而《ナニオフユキオビテ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 憑之心《タノミシココロ》
 何所可將v寄《イヅクカヨセム》
 
【譯】大伴の名に持つている靱を身に帶びて、萬代にと頼みにした心を、今は何處に寄せよう。
(470)【釋】大伴之 オホトモノ。大伴は、作者の氏であるが、これは本來多數の人を意味する。この家は、祖先の天の忍日の命以來、多人數の部族として奉仕し來つたのである。
 名負靱帶而 ナニオフユキオビテ。ナニオフは、名として負い持ちている意。大伴氏が、靱負の名を有していたことは、新撰姓氏録に「初め天孫彦火の瓊々杵の尊の神駕の降りますとき、天の押日の命、大來目部、御前に立たして、日向の高千穗の峯に降ります。然る後大來目部をもちて天の靱負部となす。天の靱負の號《な》ここより起れり」とある。オビテは、身に帶することをいう。靱は背に負うものであるが、上にオフの語があるので、これを避けたものと思われる。、
 萬代尓憑之心 ヨロヅヨニタノミシココロ。長歌に、萬代ニカクシモガモト憑メリシ云々とあるを受けている。永久に奉仕しようと頼みにした心である。
 何所可將寄 イヅクカヨセム。その頼みにした心を、今は何處を頼みとして寄せようとである。
【評語】ひたすらに思い込んだ心の目標のなくなつた落膽が歌われている。大伴氏の自負のほども窺われて、よい作ということが出來る。「靱懸《ゆきか》くる伴の緒廣き大伴に國榮えむと月は照るらし」(卷七、一〇八六)の壯大には及ばないが、調子も力強く、内容も舍人の失望を歌つたものとして、よく纏まつている。
 
右三首、三月二十四日作歌
 
【釋】題詞には二月とあるが、これは月を踰えて三月になつて作つたのである。これらの作歌月日の明記されているのは、作者の手記に出たことを證している。
 
悲2傷死妻1作歌一首 并2短歌1
 
(471)死《す》ぎにし妻を悲傷《かな》しみて作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】悲傷死妻 スギニシメヲカナシミテ。妻の死を悼んで詠んだ歌で、作者は高橋の朝臣某であることが、左註によつて知られる。この死妻の下に、西本願寺本等には、高橋朝臣の四字があるが、類聚古集、細井本二種には、その四字がないから、古くはなかつたものと考えられる。なお神田本にはこの一行がなくして、どちらの傳來であるとも知られない。左註に七月二十日とあり、前からの續きでは天平十六年の七月の作のようであるが、歌中に、山城の相樂《さがらか》山に葬つたよしにいい、久邇の京時代のことと思われる。天平十六年二月に難波を皇都と定められたが、その月から翌年五月まで天皇は紫香樂《しがらき》の宮にましました。紫香樂は、近江の國に屬し、久邇の京より更に山を分けてはいつた所である。この歌の作者は、車膳の男子といい、側近に侍していたと思われるから、天平十六年七月に久邇の京にいたとは決しかねる。よつて、作歌年代はまだ決定し得ないのである。
 
481 白細の 袖さし交《か》へて
 靡き寐《ぬ》る わが黒髪の
 ま白髪《しらか》に 成らむ極《きは》み、
 新世《あらたよ》に 共にあらむと、
 玉の緒の 絶えじい妹と、
 結びてし 言は果さず、
 思へりし 心は遂げず、
 白細の 手本《たもと》を別かれ
(472) 和《にき》びにし 家ゆも出でて、
 緑子の 泣くをも置きて、
 朝霧の 髣髴《おほ》になりつつ、
 山城《やましろ》の 相樂山《さがらかやま》の
 山の際《ま》に 往き過ぎぬれば、
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 吾妹子と さ宿《ね》し妻屋に
 朝《あした》には 出で立ち思《しの》ひ、
 夕《ゆふべ》には 入り居嘆かひ、
 腋挾《わきばさ》む 兒の泣く毎に、
 男じもの 負ひみ抱《うだ》きみ、
 朝鳥の 音《ね》のみ哭《な》きつつ、
 戀ふれども 効《しるし》を無みと、
 言問はぬ ものにはあれど、
 吾妹子が 入りにし山を、
 所縁《よすが》とぞ念ふ。
 
 白細之《シロタヘノ》 袖指可倍弖《ソデサシカヘテ》
 靡寢《ナビキヌル》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》
 眞白髪尓《マシラカニ》 成極《ナラムキハミ》
 新世尓《アラタヨニ》 共將v有跡《トモニアラムト》
 玉緒乃《タマノヲノ》 不v絶射妹跡《タエジイイモト》
 結而石《ムスビテシ》 事者不v果《コトハハタサズ》
 思有之《オモヘリシ》 心者不v遂《ココロハトゲズ》
 白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》
 丹杵火尓之《ニキビニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》
 緑兒乃《ミドリゴノ》 哭乎毛置而《ナクヲモオキテ》
 朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《ホノニナリツツ》
 山代乃《ヤマシロノ》 相樂山乃《サガラカヤマノ》
 山際《ヤマノマニ》 往過奴禮婆《ユキスギヌレバ》
 將v云爲便《イハムスベ》 將v爲便不v知《セムスベシラニ》
 吾妹子跡《ワギモコト》 左宿之妻屋尓《サネシツマヤニ》
 朝庭《アシタニハ》 出立偲《イデタチシノヒ》
 夕尓波《ユフベニハ》 入居嘆合《イリヰナゲカヒ》
 腋挾《ワキバサム》 兒乃泣母《コノナクゴトニ》
 雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》
 朝鳥之《アサドリノ》 啼耳哭管《ネノミナキツツ》
 雖v戀《コフレドモ》 効矣無跡《シルシヲナミト》
 辭不v問《コトトハヌ》 物尓波在跡《モノニハアレド》
 吾妹子之《ワギモコガ》 入尓之山乎《イリニシヤマヲ》
 因鹿跡敍念《ヨスガトゾオモフ》
 
【譯】白い衣服の袖をさしかわして、靡いて寢るわたしの黒髪が、眞白になつてしまうまでも、新しい時代に、(473)共にいようと言い、玉の緒のように切れない、わが妻よと、約束した事は果さず、思つていた心は成しとげず、白い衣服を著た手を別れて、馴れ住んでいた家からも出て、幼兒の泣くのも捨てて、朝霧のようにぼうつとなつて、山城の相樂山の山のあいだに行き過ぎてしまつたので、何とも云いようなく、わが妻と寐た對の屋に、朝になると立ち出でて思い、夕方になると、入りいて嘆き、腋に挾む子の泣く毎に、男のように背負つたり抱いたりして朝鳥のように泣いてばかりいて、戀うけれどもそのかいがないので、口をきかないものではあるけれども、わが妻のはいつた山を、そのゆかりと思うことだ。
【構成】段落はなく、全篇一文で成つている。初めに、夫婦の契りを交わしたことを述べ、次に妻の死を歌い、終りに思慕の情を述べている。
【釋】白細之袖指可倍弖 シロタヘノソデサシカヘテ。白い織物の袖をさし交えてで、サシは接頭語。共に寢るので、お互に袖をかわすのである。シロタヘは、實際に白い衣服を著ていたのである。
 靡寐 ナビキヌル。ナビキネシ(西)。なよなよと靡いて寢るで、次句の黒髪の形容である。ナビキネシと讀んで、妻が自分に靡いて寢たとする解があるが、それでは、次のわが黒髪の句に績かない。「うち靡くわが黒髪に霜のおくまでに」(卷二、八七)、「夜干玉之《ヌバタマノ》 妹之黒髪《イモガクロカミ》 今夜毛加《コヨヒモカ》 吾無床爾《ワレナキトコニ》 靡而宿良武《ナビケテヌラム》」(卷十一、二五六四)などがある。
 吾黒髪乃 ワガクロカミノ。このワガは、作者の自稱と見るべきである。
 眞白髪尓 マシラカニ。マは接頭語。白髪は、致證に、「延喜式に多志良加といふ器を手白髪とも書たれば、かは清てよむべし」と言つている。マシラカは、純白の髪の義。
 成極 ナラムキハミ。白髪になるのを極限としての意。キハミは、それを最後の處とする意。
 新世尓 アラタヨニ。アラタヨは、新しくなる世界で、新時代。次々に新たになつてゆく世界。(卷一、五(474)〇參照。)
 共將有跡 トモニアラムト。夫と共にあらむとの意。初句から共にあらむまでをトで受けている。以上、作者の約束の言と解すぺく、このトを受けて、結ビテシ言ハ果サズと續くのである。
 玉緒乃 タマノヲノ。タマノヲは、玉を緒に貫いたものをいう。この句は、枕詞で、譬喩として絶エジに懸かつている。玉の緒は人命をもいい、さように解せられないこともないが、それでは、下のノの解が無理である。
 不絶射妹跡 タエジイイモト。タエジヤイモト(西)、タエジイイモト(玉)。タエジは、夫婦間の關係についていう。射は問題の字であるが、字音假字として、不絶射をタエザルとも讀まれるが、それでは妹に接續して解釋が困難であり、やはりイと讀むほかはあるまいと思われる。そうしてこのイは、語勢の助詞と見られるのであるが、元來イは、體言、もしくは用言の連體形に接續するもので、かような用法は特殊の例ではない。西大寺本金光明最勝王經の古點に「寒きい時に」と讀まれているのは、形容詞の連體形に接續した例である。「志斐伊波奏《シヒイハマヲセ》」(卷三、二三七)參照。妹は、婦人の愛稱。玉ノ緒ノ絶エジイ妹までを、トで受けて、やはり結ビテシに續く。これも作者たる男子高橋某の言である。まず新世の誓いを擧げ、次に生命の句を擧げて、その雙方を受けて、結ビテシ言ハ果サズと續くのである。
 結而石事者不果 ムスビテシコトハハタサズ。ムスビは契約をいう。たがいに約束した言を果さずとである。
 思有之心者不遂 オモヘリシココロハトゲズ。言のみならず、心に思つていたこともなしとげずの意で、切らずに、次の死去の敍述に對して修飾するものと見る。結ビテシ言ハ果サズの句と對句を成し、間接に夫妻の言を受けている。
 白妙之 シロタヘノ。白い織物の義で、實際に著ていた衣服であるが、それが次の手本の説明になつている。(475)白い衣服を著ている手本の意である。
 手本矣別 タモトヲワカレ。タモトは腕。ワカレは助詞ヲを受ける。「久夜之久妹乎《クヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》」(卷十五、三五九四)、「多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワカレテ》」(卷二十、四三四八)などの例がある。但しここの用法は、少し相違があつて、手本を別つてというほどの意に解せられる。妻が、その手本を別ち去つてというのである。
 丹杵火尓之 ニキビニシ。柔びにしの意で、馴れ柔らいでいた家の意になる。「柔備爾之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》」(卷一、七九)と同意の句である。
 家從裳出而 イヘユモイデテ。家からも出て。和らぎ睦びてあるのに、そこからもの意である。
 緑兒乃 ミドリゴノ。ミドリゴは既出(卷二、二一三)。嬰兒をいう。緑兒の譯語であろう。
 哭乎毛置而 ナクヲモオキテ。オキテ。オキテは、さし置いて。うち捨てての意。
 朝霧 アサギリノ。枕詞で、次の句のオホに冠するが、既出の尼理願の死を悼む歌によれば、葬儀は朝家を出ると思われるから、特に朝霧と言つたのであろう。
 髣髴爲乍 オホニナリツツ。ホノメカシツツ(西)、ホノカニシツツ(細二種)、ホノカニナリツツ(童)、ホノニナリツツ(考)、オホニナリツツ(玉)。オホニは、明瞭ならざる形容。ぼんやりと、ぼうつと。朝霧を受けて、霧の中の風物のように、さだかになくなるのをいう。
 山代乃相樂山乃 ヤマシロノサガラカヤマノ。京都府相樂郡の山である。何處とも知られないが特にそういう名の山があるわけではあるまい。その地の山を漠然と言つているであろう。久邇の京も相樂郡にあるので、その京の時代の事と推定される。
 山際往過奴禮婆 ヤマノマニユキスギヌレバ。妻の屍柩が、その山間に行き過ぎたから。
 將云爲便將爲便不知 イハムスベセムスベシラニ。しばしば出た慣用句。將爲便は、爲の字を一字省略して(476)いる。
 左宿之妻屋尓 サネシツマヤニ。サは接頭語。ツマヤは既出(卷二、二一〇)。對の屋で、主屋に對して、左右に出ている家屋。妻の住む室。
 朝庭出立偲 アシタニハイデタチシノヒ。その妻屋に、朝には出て立つて妻を思慕する由である。朝夕にかくかくするを、朝には夕にはと對句に分けていうので、勿論朝に限つて出で立ちしのぶのではないが、朝は、寢處から出るので、特にこの句が選擇されている。
 夕尓波入居嘆會 ユフベニハイリヰナゲカヒ。夕暮にはその妻屋に入りいて嘆息をしの意。これも夕方に限つたわけではないが、日の暮には、室内に入るので、この句が選擇されている。
 腋挾 ワキバサム。腕で腋に抱える意。「若兒乃《ミドリゴノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》 取與《トリアタハウ》 物之無者《モノシナケレバ》 鳥穗自物《トリホジモノ》 脇挾持《ワキバサミモチ》」(卷二、二一〇)。次の句の兒の説明の句。
 兒乃泣毎 コノナクゴトニ。兒の泣く度にの意。
 雄自毛能 ヲノコジモノ。男子は、物を負うゆえに、負フに冠している。このジモノは、男子たる者の意になつているが如く、自分は男子であるが、その男子たる者としての意に解せられる。この點、「鴨自物《カモジモノ》 水爾浮居而《ミヅニウキヰテ》」(卷一、五〇)、「伊奴時母能《イヌジモノ》 道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》」(卷五、八八六)など、その物にあらずして譬喩にいう場合と相違しているようである。
 負見抱見 オヒミウダキミ。負うたり抱いたりして。負いもし抱きもする意で、「咲見慍見《ヱミミイカリミ》 著四紐解《ツケシヒモトク》」(卷十一、二六二七)、「梓弓《アヅサユミ》 引見弛見《ヒキミユルベミ》」(同、二六四〇)などの用例があり、後世、雨について降りみ降らずみというも同樣の語法である。
 朝鳥之 アサドリノ。朝の鳥で、よく鳴くものゆえ、音ニナクの枕詞としている。
(477) 啼耳哭管 ネノミナキツツ。聲にばかり泣いて。泣くことを強調して、ネナク、ネニナク、ネノミナクなどいう。
 雖戀 コフレドモ。亡き妻に對して戀うけれども。
 效矣無跡 シルシヲナミト。その效がなくしてと。このトは、トシテの意。作者の行爲の理由を説明している。
 辭不問 コトトハヌ。物を言わない。
 入尓之山乎 イリニシヤマヲ。亡き妻の葬儀の入つた山をであるが、妻その人が、みずからはいつたように言つている。
 因鹿跡敍念 ヨスガトゾオモフ。ヨスガは、縁故、寄るべ。妻の縁あるものとなつかしく思うのである。
【評語】亡き妻の遺した兒を持ち扱つている點が中心となつている作で、困つている有樣がよく描かれている。全體としては、重複の個所もあり冗長の感もある。人麻呂の、妻に死なれて詠んだ歌の影響を受けているようである。末尾は平凡だが、初めの夫婦の誓言のあたりは、よく詠まれていて、それが全部にわたつてよい空氣を作つている。
 
反歌
 
482 うつせみの 世の事にあれば、
 外《よそ》に見し 山をや今は
 所縁《よすが》と思はむ。
 
 打背見乃《ウツセミノ》 世之事尓在者《ヨノコトニアレバ》
 外尓見之《ヨソニミシ》 山矣耶今者《ヤマヲヤイマハ》
 因香跡思波牟《ヨスガトオモハム》
 
(478)【譯】現實の世の事だから、外處に見た山をか、今は縁故のものと思おう。
【釋】打背見乃 ウツセミノ。現實の義で、世の性質を説明する枕詞になつている。
 世之事尓在者 ヨノコトニアレバ。この世の事だから。死ぬのは世間の常だからの意。
 外尓見之 ヨソニミシ。既出。
 山矣耶今者 ヤマヲヤイマハ。ヤは疑問の係助詞。山ヲヤ所縁ト思ハムと續く。この山は、亡き妻の葬儀のはいつた相樂山である。
 因香跡思波牟 ヨスガトオモハム。縁故のものと思おうの意。
【評語】長歌の末尾を受けて、やや語を變えて作つている。その山を、せめてゆかりの地と見る心があわれである。
 
483 朝鳥の 音のみし泣かむ。
 吾妹子に
 今また更に 逢ふよしを無み。
 
 朝鳥之《アサドリノ》 啼耳鳴六《ネノミシナカム》
 吾妹子尓《ワギモコニ》
 今亦更《イママタサラニ》 逢因矣無《アフヨシヲナミ》
 
【譯】朝鳥のように泣いてばかりいよう。わが妻に今はもう逢うわけがないので。
【釋】朝鳥之 アサドリノ。枕詞。長歌に出ている句。
 啼耳鳴六 ネノミシナカム。ネノミヤナカム(類)、ネノミシナカム(古義)。泣きにばかり泣こうの意。句切。
 今亦更 イママタサラニ。今はまた、ふたたびの意。
 逢因矣無 アフヨシヲナミ。逢う子細がなくして。ヨシは、理由。「戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》」(卷二、二一〇)。
(479)【評語】これも長歌の末尾に近くある句を受けている。思想の順序からいえば、この方が反歌の第一で、ウツセミの歌が第二に置かれる方が、整つて來る。しかしこの亂れた形もまた一案であろうか。
 
右三首、七月廿日、高橋朝臣作歌也。名字未v審、但云2奉膳之男子1焉。
右の三首は、七月廿日、高橋の朝臣の作れる歌なり。名字いまだ審ならず。但し奉膳の男子といへり。
 
【釋】七月廿日 フミヅキノハツカ。前からの續きによれば、天平十六年であるべきだが、そうともきめられないことは題詞のもとに記した。
 高橋朝臣 タカハシノアソミ。孝元天皇の皇子大彦の命の子孫である。ここに名字いまだ審ならずとあるように、何という人か知られない。高橋の連蟲麻呂とは別系である。
 奉膳 カシハデノカミ。宮内省の内膳司の長官。高橋の朝臣は、代々御膳に奉仕するを職とした。
 
萬葉集卷第三