増訂萬葉集全註釋三(卷の一・二)(1956.7.20)、639頁、480圓。
 
武田祐吉、角川書店、(1956年12月,昭和三十一年)初版、1969、7(6版)、改造社版、1949年(昭和24年)。
 
武田祐吉 増訂萬葉集全註釋 三 本文篇一(卷の一・二)
 
(1)  凡例
 
一、本書は、萬葉集の全部について註釋し、分冊して刊行する。この一冊から以下十冊は、その本文註釋の分で、各卷の註釋を順次分載する。
一、各條とも、初めに原文を掲げ、次に書き下し文、譯、構成、釋、評語、參考等に分かつて、これを註釋した。但し歌詞は見易いように、上部に書き下し文を掲げ、その下に原文を載せた。
一、原文は、主として定本萬葉集に依つたが、その後の研究に依つてこれを改めたところもすくなくない。定本萬葉集に依つたところは、本文研究に關する記事をそれに讓つて省いたものも多いが、改訂したものは一々これを記した。定本萬葉集は、西本願寺本を底本とし他本および諸説によつて改訂を加えた本である。今、異體字は、なるべく普通の字體に改めたが、尓祢弥?のような字形の相違の多いものは原形を殘した。但し解釋中に引用する場合は、便宜上、爾禰彌獵などの普通の字體によつた。原文は、漢文の部分には句讀點、返り點をつけ、歌謠の部分には、各句ごとに空白を置き、返り讀むべきものには返り點をつけ、漢字の右傍に片かなの訓をつけ、別の讀み方の參考とすべきもののある場合に限り、漢字の左傍にも訓をつけたものがある。
一 書き下し文も、主として定本萬葉集に依つたが、これも改めたところがすくなくない。殊に定本萬葉集に愼重を期して訓を缺いたものも、本書にはなるべく訓を下した。原文の簡易なものは、書き下し文を省略したものもある。歌の書き下し文の上にはその歌の番號を附した。この番號は國歌大觀の附けた(2)ものに依つたが、これは廣く行われているものである。歌詞の部分は、とくに行をわけて記し、これに相當する原文を、その行の下に掲げた。また」の記號を入れて、段落をあきらかにした。
一、譯は、歌謠に限り、現代語譯を附けた。なるべく逐語譯に從い、簡明に記したので、釋の部を參考してその意を得べきである。歌詞は、今日の口語に適譯を得られない場合があり、當らずといえども遠からずというべき程度のことも多い。たとえば、妹、吾妹子、君、ワガ夫子の如きも、妻か愛人か、二人稱か三人稱か、種々の用法があつて、現代語譯をすると、その一つに限定されて、誤解されるおそれのある場合も起る。そういう場合は、原語のままに殘さねはならないこともあるのである。枕詞、序詞の如きも、つとめて口譯したが、そのためにかえつて文意の通じないものができたかもしれない。
一、構成は、長歌に限つて、その段節の組織を説明した。
一.釋は、原文の語句、もしくは文を掲げて、その訓法と註釋とを記した。原文の語句、もしくは文の下にまず訓を掲げ、次に注意すべき異訓のあるものは、參考としてこれを掲げた。但し本書は、諸説を紹介するを目的とするものではないから、訓釋に問題のある句に限りこれを載せることとした。
一、評語は、歌について、批評鑑賞について記し、なおその他の事項にも及んだ。
一、參考は、歌の解釋鑑賞上、參考となるべきものを選んでこれを載せた。
一、かなづかいは、書き下し文、および引用の古文には、歴史的かなづかいを保存し、その他の部分は現代かなづかいに依つた。漢字は、特殊のもの以外はなるべく正體によつた。
一、引用した諸傳本および註釋書の名辭のうち、略號を使用したのは、次の通りである。
 桂  桂本               藍  藍紙本
(3) 金 金澤本              天  天治本
 元  元暦校本             嘉  嘉暦傳承本
 壬  傳壬生隆祐筆本          尼  尼崎本
 春  春日本              神  神田本(紀州本ともいう)
 冷  傳冷泉爲頼筆本          細  細井本
 西  西本願寺本            温  温故堂本
 矢  大矢本              文  金澤文庫本
 京  京都大學本            類  類衆古集
 古葉 古葉略類聚鈔           仙  萬葉集註釋(仙覺)
 管  萬葉集管見(下河邊長流)     拾  萬葉拾穗抄(北村季吟)
 代初 萬葉代匠記初稿本(契沖)     代精 萬葉代匠記精撰本(契沖)
 僻  萬葉僻案抄(荷田春滿)      童  萬葉童蒙抄(荷田信名)
 考  萬葉考(賀茂眞淵)        玉  萬葉集玉の小琴(本居宣長)
 槻  萬葉考槻落葉(荒木田久老)    略  萬葉集路解(橘千蔭)
 燈  萬葉集燈(富士谷御杖)      ? 萬葉集?解(香川景樹)
 攷  萬葉集攷證(岸本由豆流)     墨  萬葉集墨繩(橘守部)
 檜  萬葉集檜嬬手(橘守部)      私考 萬葉私考(不明)
 古義 萬葉集古義(拾鹿持雅澄)     札  萬葉集略解札記(岡本保孝)
(4) 美 萬葉集美夫君志(木村正辭)     補 萬葉集略解補正(木村正辭)
 註稿 萬葉集註稿木(關谷潜)      口譯 口譯萬葉集(折口信夫)
 註疏 萬葉集證疏(近藤芳樹)      新考 萬葉集新考(井上通泰)
 新訓 新訓萬葉集(佐佐木信綱)     全釋 萬葉集全釋(鴻巣盛廣)
 講義 萬葉集講義(山田孝堆)      定本 定本萬葉集(佐佐木信綱・武田祐吉)
 新校 新校萬葉集(澤瀉久孝・佐伯梅友) 私注 萬葉集私注(土屋文明)
なお、元朱、元赭、元墨、類墨、神朱などとあるのは、元暦校本、類聚古集、神田本等の諸本に、朱、代赭、別の墨で書いてあるものを示す。その他の諸本諸書を引用した場合は、その名稱を略書しても、ただちにその本その書と知れるように注意した。寫本、版本には、濁點句讀の無いものが多いが、今便宜濁點を附しまた句を切つたものもある。なお引用の歌文の下に括弧して出所を記したもののうち、萬葉集の歌文には、書名を略して、ただ卷數と歌の番號とを記すに留めた。古事記日本書紀の歌謠を引用した場合には、岩波文庫の記紀歌謠集でつけた歌謠の番號を記した。
一、目録は、原典では各卷の初めにあるが、本書では、まとめて各冊の初めに、目次としてその一冊の分を出し、その書き下し文の下には、歌の番號を括弧して入れ、その下方に本書のページ數とを記して?索に便にした。
 
(5) 目次
萬葉集卷の第一
 
雜歌
泊瀬《はつせ》の朝倉の宮に天の下知らしめしし天皇《すめらみこと》の代《みよ》
 天皇の御製歌(一)…………………………………………………………………二六
高市《たけち》の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 天皇の香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌(二)……四三
 天皇の内野に遊獵《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしひと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまる歌(三・四)……五二
 讃岐の國の安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王《おほきみ》の、山を見て作れる歌(五・六)………………………………………………………六三
明日香《あすか》の川原《かはら》の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 
萬葉集卷第一
雜歌
泊瀬朝倉宮御宇天皇代
 天皇御製歌
高市岡本宮御宇天皇代
 天皇登2香具山1望國之時御製歌
 天皇遊2?内野1之時 中皇命使2間人連老獻1歌
 幸2讃岐國安益郡1之時 軍王見v山作歌
明日香川原宮御宇天皇代
〔以下略〕
 
(21)萬葉集卷第一
 
(22)(白紙)
 
(23)萬葉集卷第一
 
 萬葉集の卷の一は、雜歌の卷であつて、雄略天皇の御製の歌から、奈良時代の初頭の歌まで八十四首(長歌十六首、短歌六十八首)を收めている。このうちに或る本の歌四首(うち長歌二首)を含む。木文のはじめに、雜歌の分類項目があり、以下、各天皇の時代毎に分かつて時代順に歌を配列してあるが、大寶元年以後は、年號を標記してその年の歌を收め、最後に寧樂の宮と標記して歌一首を收めて終つている。この編纂法は、卷の二もほぼ同樣である。
 文字使用法としては、表意文字としての用法と表音文字としての用法を併用し、特に訓假字の使用が比較的多量になされている。上代假字づかいの例外的な用字法としては、四能(四五、小竹)が指摘される。特殊の用字として、白土(五、知ラニ)、金野(秋ノ野)、葉(四七、黄葉ノ)、西渡(四八、傾キヌ)などがあり、また莫囂圓隣之の歌(九)、清明己曾の句(一五)は、難訓をもつて知られている。
 作品は、その古い時代のものにあつては、歌曲の詞章ふうの歌謠であるが、時代が降るに及んで、歌體も固定し、獨語的な性質を増加して行くさまが窺われる。額田の王、柿本の人麻呂等の代表的作品のほかに、逸名氏の作にもすぐれたものが見出され、全體の歌數は少いが、優秀な一卷である。
 傳本としては、仙覺本以外の系統の本には、元暦校本が大部分を傳えている外に、神田本、傳冷泉爲頼筆本があり、類聚古集、古葉略類聚鈔も、多數の歌を傳えている。以上の諸本における特異の傳來としては、神田本および古葉略類聚鈔が、藤原の宮の御井の歌(五二)を重ねて書いていることが注目される。また仙覺本系(24)統の本には、西本願寺本、大矢本、京都大學本、その他數種がある。
 
 雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。ザフノウタ、クサグサノウタ等の讀み方がある。相聞、挽歌等の、他の部類に入らぬ雜多の歌を集めたという意味に解せられる。しかし卷中にも、例えば額田の王と皇太子との贈答の歌の如きは、むしろ相聞に部類した方が適當と考えられる。一體卷の一に雜歌を録することは、編纂法として不審である。元暦校本、神田本にこの一行が無いが、これはこの標目の次に目録を插入したとも考えられ、本文のはじめに、この標目のあるのは、後人がまたこれを補い入れたかとも考えられる。元暦校本に、この場處に、赭で「萬葉集卷第一 雜歌」とあり、傳冷泉爲頼筆本には、この行の前に、萬葉集卷第一の一行がある。これらの事實については、今明解を下し難いが、原形を考える上に參考となるであろう。卷の五の本文の初めの雜歌の一行も、神田本、細井本には無く、春日本の殘簡にも無い。
 次に元暦校本の本文の初めの部分の寫眞を載せる。初めの二行は、目録の終りである。萬葉集は、もと卷物の形の本であつたので、目録につづいて本文が書かれたのを繼承した形を傳えている。第一行の下方、および最後の行の此の字の左にあるのは、飛雲《とびくも》といつて、紅と藍の色を紙に漉き込んだものである。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
 
【釋】泊瀬朝倉宮御宇天皇代 ハツセノアサクラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。古代は、天皇一代毎に皇居を改められたので、その宮號を稱して、いずれの御方であるかをあきらかにした。泊瀬の朝倉の宮は、雄略天皇の宮室の稱で、奈良縣磯城郡朝倉村の地であり、今の初瀬町の西、初瀬川に臨んで、(25)その地名を存している。日本書紀、雄略天皇即位前紀には、「十一月(安康天皇三年)壬子朔甲子、天皇命2有司1、設2壇於泊瀬朝倉1、即天皇位、遂定v宮焉。」とある。御宇は、馭宇(萬葉集)、御寓(日本書紀)とも書く。御は統治、制御の義、宇は屋宇の義から轉じて天の蔽える下意に使用する。日本靈異記序文に、輕嶋豐明宮御宇譽田天皇代とある訓釋に「御、乎左女多比之」、「字、阿米乃之多」とあつて、アメノシタヲサメタビシとも讀まれる。本集には天下治賜とあるもの二例あるに對して天の下シラスとあるもの九例あり、これに依つて、アメノシタシラシメシシと讀むこととする。僻案抄にはアメノシタシロシメスとあるが、本集には「天下《アメノシタ》 志良之賣師家類《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九八)等、假字書きのものは、すべてシラシになつている。天皇は、天平五年の唐の國書に、「日本國|主明樂美御コ《スメラミコト》」とあり、これに依つて、スメラミコトと讀むべきが如(26)くである。但し本集の歌詞には、天皇の文字を四音の處に當てて使用してあり、これはスメラミコトと讀むことは不適當である。このスメラは、統《ス》ブの體言スメに、他語との間を接續する性能を有する助詞ラが接續したものと考えられ、例えば、赤ラ孃子《おとめ》、淺ラ褻《け》などの如き語法であろう。ミコトは敬稱の體言で、尊、命の字を當てられるものと同語である。天皇の文字は、大陸古代の皇帝に天皇氏があり、唐代には一時、皇帝を天皇と稱したこともあつたが永續せず、もつぱら日本で使用する例になつた。その古い使用例には、推古天皇の朝の文章と考えられる法隆寺金堂の薬師佛の光?の銘文に、「池邊大宮治2天下1天皇」など見えている。
 大泊瀬稚武天皇 オホハツセワカタケノスメラミコト。雄略天皇の御事である。日本書紀には大泊瀬幼武天皇とある。いまだ漢風の謚號を奉らざる以前の文とおばしく、この稱號を以つて、泊瀬朝倉宮御宇天皇の説明としたのである。この御稱號は、國風の謚號のようであるが、確實なことは知れない。雄略天皇は、允恭天皇の第五皇子、御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》つ姫の皇后。皇兄安康天皇の後を承《う》け、眉輪《まよわ》の王等を誅して帝位におつきになつた。天皇、勇武にましまし、狩獵を好ませられた。葛城山に狩せられた時、一言主の大神に出合つたこと、その他の記事が傳わつている。しかも一面には歌詠の作を傳え、數篇の美しい歌物語が、古事記や日本書紀に傳わつている。これらは泊瀬《はつせ》の天皇《すめらみこと》の名のもとに語り傳えられた歌物語を、天皇の御事蹟の如く取り扱うようになつたと考えられる。天下を知ろしめすこと二十三年にして崩じた。後世漢風の謚號をたてまつつて雄略天皇と申す。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌 スメラミコトオホミウタ。御製歌、オホミウタ(西)、ミウタ(西)、ヨミタマヘルミウタ(僻)、ミヨミマセルオホミウタ(古義)。天皇は、泊瀬朝倉宮御宇天皇代の標目のもとにあるので、雄略天(27)皇にましますことあきらかである。御製歌をオホミウタと讀むのは、古事記下卷の大御歌とあるに依るものである。御製の歌の如く、御製を字音に讀んだかとも考えられる。御製は、漢文に皇帝の制作する所にいい、御製詩、御製文、御製書等の用例がある。御製歌と書くを。正とするのであるが、歌の前行に御製とあれば、それでも意を通ずる。本集では多く御製歌とあるが、卷の四、四八五の前行には、崗本天皇御製一首とある。
 雄賂天皇の御製と傳える歌は、古事記、日本書紀にもあるが、歌曲の詞章と見られるものが多く、それらは、傳來した詞章について、作者を英雄的な天皇に附託したもののようである。ここに傳えているところも、ほぼ同樣であつて、まだ確實性には乏しい。しかし古い時代から、天皇の名のもとに傳えられているものであるから、この意味において、歌詞に對して、天皇の御製歌という限定は、不可分のものとなつている。
 
1 籠《こ》もよ み《こ》籠持ち、
 掘串《ふくし》もよ  み掘串《ぶくし》持ち
 この岡に 莱|採《つ》ます兒《こ》。
 家聞かな。 名|告《の》らさね。」
 そらみつ 大和《やまと》の國は、
 おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ。
 しきなべて 吾こそ居れ。
 吾こそは 告《の》らめ。
 家をも名をも。」
 
 籠毛與《コモヨ》 美籠母乳《ミコモチ》
 布久思毛與《フクシモヨ》 美夫君志持《ミブクシモチ》
 此岳尓《コノヲカニ》 菜採須兒《ナツマスコ》
 家吉閑《イヘキカナ》 名告紗根《ナノラサネ》
 虚見津《ソラミツ》 山跡乃國者《ヤマトノクニハ》
 押奈戸手《オシナベテ》 吾許曾居《ワレコソヲレ》
 師吉名倍手《シキナベテ》 吾己曾座《ワレコソヲレ》
 我許背齒《ワレコソハ》 告目《ノラメ》
 家呼毛名雄毛《イヘヲモナオヲモ》
 
(28)【譯】お籠《かご》を持ち、掘串を持つてこの岡に菜を採んでいる娘さん。お家が聞きたい。名をおつしやい。この大和の國は總じてわたしの領國である。すべてがわたしの家である。わたしこそは言いましょう、家をも名をも。
【構成】第一段、名ノラサネまで。まず岡の邊に菜を採んでいる娘子に對して呼びかけて、家や名を聞きたいという希望を述べている。第二段、終りまで。轉じて作者自身の上を述べている。自分こそはこの國の主人である。家や名をもあきらかにしようと述べられている。
【釋】籠毛與美籠母乳 コモヨミコモチ。
   コモヨミコモチ (西)
   カタミモ、ヨミカタミモチ(代清)
   カタマモ、ヨミカタマモチ(僻)
   カタマモヨ、ミガタマモチ(考)
   カツマヨ、ミカツマモチ(註稿)
   コモヨ、ミコモチ(古義)
   ――――――――――
   籠毛與美籠母乳之《カタマモヨミカタマモタシ》(墨)
 籠をコと讀むのは、倭名類聚妙に、「唐韻云、籠、盧紅反、一音龍、又カ董反、古《コ》」とあるに依る。本集でも、訓假字として、「射等籠荷四間乃《イヲゴガシマノ》」(卷一、二三)など、コの音に使用している。正倉院文書(大日本古文書九ノ三一九)に「海藻三古」とある古も籠の意と推定される。代匠記にこれをカミと讀むのは、日本書紀卷の二、神代の下の本文に「無v間籠」とあるのを、同じく一書に「無v間堅間」としている。カタマに通ずるものとしてカタミと讀む。古事記上卷には「无v目勝間」とあり、倭名類聚紗には、??、四聲字苑云、??。零青二音、漢語抄云、加太美、小籠也」とある。コと讀むかカタマと讀むかでは、音節數の上に相違があるが、古歌には、「宇陀《うだ》の高城《たかぎ》に鴫羂《しぎわな》張る」(神武天皇御製、古事記一〇、日本書紀七)など、三音四音の句の例もかれこれと見え、(29)音節の數の制限からカタマの訓を採るべしというに至らない。本集および倭名類聚鈔に、籠をコと訓した例のあるに任せて、コと讀むによるべきである。竹で編んだ器である。モヨは助詞。籠に對して感動する意を表示する。モとヨとの接續による語である。「於岐毎慕與《オキメモヨ》 阿甫彌能於岐毎《アフミノオキメ》」(顯宗天皇御製、日本書紀八六))の例におけるモヨの用法は、今の用法に同じである。この句を、古事記には、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一三)と傳えており、モヤというも同じであることが知られる。なお、モヨの用例には、「阿波母與《アハモヨ》 賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》(古事記六)、「怒底喩羅倶慕與《ノデユラクモヨ》」(日本書紀八五)、「母智騰利乃《モチドリノ》 可々良波志母與《カカラハシモヨ》」(卷五、八〇〇)・「斯利比可志母與《シリヒカシモヨ》」(卷十四、三四三一)などある。ミは接頭語で、その添つている物件に對し、敬愛の情を感じている場合に使う。全然意味の無い接頭語では無い。まず籠モヨといつて、籠に對する感動をあらわし、これを受けて、お籠を持つてと續けている。次の掘串モヨミ掘串持チも同樣である。このようにまずその語を稱えて感動をあらわし、これを受けて、重ねてその語を擧げてこれを敍述するのは、「置目もよ、淡海の置目」(日本書紀八六)、「ま蘇我よ、蘇我の子らは」(同一〇三)等の例がある。「み吉野の吉野の鮎、鮎こそは島邊も宜き」(同一二六)の如きもこの例であつて、その他變化する所は多い。文字使用法についていえは、籠は表意文字、その他は表音文字で、毛與美母は字音假字、乳は訓假字である。
 布久思毛與美夫君志持 フクシモヨミブクシモチ。上の籠モヨミ籠持チの句に對して對句を成している。布久思は、倭名類聚鈔に、「唐韻云?、音讒一音暫、漢語抄云加奈布久之。犂鐵又土具也」とあつて、これは犂《すき》の如き土具で、その金屬製の品をいう。ここに布久思とあるは、木または竹を以つて製して、菜根を掘り採るヘラ?のものをいう。類聚名義抄には、槍にフクシの訓があり、伊呂波字類抄には、※[木+立]にフクシの訓がある。この歌詞を始め、以上の文獻いずれも清音の文字を使用しているから、フクシと清音に讀むべきである。今は、九州邊に殘つている方言では、フグシ、フグセなど言つている。美夫君志は、上記のフクシに接頭語ミの添つたもの。(30)夫は濁音ブの音を表示する文字である。接頭語ミの添う場合には連濁にはならないものとされているから、これによれは、文字にはよらずに、ミフクシと清音に讀むべきが如くである。しかし理論上連濁の現象を採らないものでも、口頭傳承の場合に、理窟を離れて連濁になることがあり得るであろう。例えば、山高みは、山と高ミとが、粘著してはいないと考えられるが、古事記には、夜麻陀加美、日本書紀には、椰摩娜箇彌に作つている。これは上句に、山田ヲワシセ(日本書紀には、山田ヲ作り)とあるに引かれたものであろうが、濁音のダが使用されている。この籠モヨの歌が、口頭に依る傳承を經たであろうということは、推測に難くない所であるから、この語も、音聲に任せて、美夫君志と寫したかとも考えられる。萬葉集の訓は、なるべく文字通りに讀まるべきであり、また言語現象があつての語法であるから、此處も、ミブクシと讀むを可とすべきであろう。殊にこの場合は、ハ行音であるので、文字表示に一層の動搖がなされたと見るべきである。
 此岳尓 コノヲカニ。倭名類聚鈔に、「嶽、字亦作v岳、訓與v丘同、未v詳」とある。漢文では、岳は嶽に通じ用いられているが、わが國では、丘に通じてヲカの義に使用される。この岡は、何處であるか知られない。ヲカは、サカ(坂)と同じ系列の語で、前面の高いところの義で、山よりは低いものをいう。
 菜採須兒 ナツマスコ。古くナツムスコと訓せられていたが、本居宣長に至つて、ナツマスコに改めた。ナは、魚類野菜に通じて食料となる物についていう語であつて、「多良志比賣《タラシヒメ》 可尾能美許等能《カミノミコトノ》 奈都良須等《ナツラスト》」(卷五、八六九)とある奈は、魚に用いている。ツマスは、動詞採ムの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、採ムの敬語法と解せられる。「乎登賣良我《ヲトメラガ》 春菜都麻須等《ワカナツマスト》」(卷十七、三九六九)の例がある。依つて、お採みになるの義をあらわすものであるが、元來敬語は、慣用されることに依つて、尊敬の意識無しにも使用されるものであつて、此處の用法はそれに近く「若干の親愛の情をあらわされる程度である。元來この語法は、ある動詞の準體言の形に、動作する意を表示する動詞スの接續したものが、國語接續の法則によつて、上の語(31)の語尾の音韻變化が行われたものに起原を有するが如く、自他を問わず使用したものが、他人のことにいう場合に敬意を感ずるに至つたのであろう。「御諸が上に、登り立ち、倭我彌細麼《わがみせば》、つぬさはふ磐余《いはれ》の池の、水下《みなした》ふ魚も上に出て歎く」(日本書紀九七、繼體天皇紀)のミセバは、自分のことについて、見ることをすればの意に使つているが如き、原形的な用法というべきだろう。「あり衣の三重の子が、佐々賀世流みづ玉盞に」(古事記下卷、一〇一)の佐々賀世流も、作者の位置におかれる三重の采女が、自分のことに使つている。萬葉集にも、「水縹《ミハナダノ》 絹帶尾《キヌノオビヲ》 引帶成《ヒキオビナス》 韓帶丹取爲《カラオビニトラシ》」(卷十六、三七九一)の取爲は、トラシと讀むべきが如く、自己の上に言つている。この外、神や天皇のような貴人の歌詞の中に、この語法はいくつも見出され、それらは、傳承者が、敬意を表示するために、この語法を使うものと解されているが、それらも再檢討を要するものがあるのだろう。「大宮能《オホミヤノ》 宇知爾毛刀爾毛《ウチニモトニモ》 比賀流麻泥《ヒカルマデ》 零須白雪《フラスシラユキ》 見禮杼安可奴可聞《ミレドアカヌカモ》」(卷十七、三九二六)の歌の零須は、フラスと讀まれ、白雪についていうものと解されるが、これも敬語法としては通じない。これを零流《フレル》の誤りとする説があるが、もちろん原形のままで解明が求められれば、これに越すことはない。菜採須兒の如き場合も、むしろこの方面から解説して行くべきものであろう。兒は、男にも女にも使用され、親愛の情をあらわしていう。小さいものに對していうのが本義の如く、轉じて下位の者に對しても、また親愛の情をあらわして使用される。此處の用法も、男にも女にも通じるのであるが、菜を採む、家や名を聞く等の附帶事項に依つて、女兒と推定するのである。この句は、呼格であつて、菜を採む娘さんと呼び掛けられるのである。「住吉《スミノエノ》 小田苅爲子《ヲダヲカラスコ》 賤鴨無《ヤツコカモナキ》」(卷七、一二七五)の例は、この用法に同じである。
 家吉閑 イヘキカナ。
   イヘキケ(元朱)
   イヘキカ(古葉)
(32)   イヘキカン(僻)
   イヘキカナ(美)
   ――――――――――   
   家告閇《イヘノラヘ》(考)
   家告勢《イヘノラセ》(古義)
   家吉閑名《イヘキカナ》(次句の名をこれに附ける、古典全書)
 家を聞きたいの意。古くは下の名の字をこの句に附けて、イヘキカナと讀んでいた。この後諸説が出たが、最近この訓に復歸しようとする説もある。それはn韻の字の終りの音をナとする例が固有名詞以外に無いとするによるものである(龜井孝氏 國語と國文學 昭和十八年四月)。しかしその説による時は、この句および次の句の訓は、イヘキカナ、ノラサネとなり、句形が、長句短句の形となつて、例外的な句形となる。また單に家のみを尋ねられることになつて、末尾の家ヲモ名ヲモの句と照應しなくなる。固有名詞以外に、n韻の字をナの韻であらわしている例は、「旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》」(卷二、一八八)があり、この旦覆は、アサグモリとも讀まれ、また旦は且であるかもしれないが、歌意としてはタナグモリと讀むことが適切のようである。また「百積船潜納《モモサカノフネカヅキイルル》」(卷十一、二四〇七)の百積は、モモヅミノとも讀まれているが、モモサカは、百尺讃嘆にも見える語であつて、百石の義なるべく、しからば積をサカに當てたのは字音假字と見るべきである。これはn韻の字ではないが、漢字字音の末尾をアの韻に當てて書く例になる。固有名詞におけるこの種の用字法は、かならずしも上の一音だけに當てたものでないことは、m韻の字とn韻の字とを使いわけていることによつても推考されるところである。これによつて、すくない例ではあつても、なお閑の字をカナと讀むにつくべきである。萬葉考にはこれを家告閉の誤りとして、家|告《の》ラヘと讀み、萬葉集古義は、家告勢の誤りとして家告ラセと讀んでいる。これらは誤字説であつて、そのような傳本は無く、他に恰好の説が無くやむを得ぬ場合で無い限り、採用することを得ない。家聞カナと讀むのは、木村正辭博士の説で、閑はn韻の字であるから、古代の國語でナ行の音に轉じて用いること、信濃のシナ、引佐《いなさ》のイナ等の例に同じであるとする。聞カナのナは、自己の希望をあらわす助詞で、「梅の花咲きたる苑の青柳を蘰にしつつ遊び暮らさな」(卷五、八二五)等の用例がある。(33)このナは、自己の希望をあちわす場合に限られて使用されるが、ただ給フに接續する場合に限り、他に對して囑望する意にも使用される。「毛呂毛呂須久比《モロモロスクヒ》 和多志多肺波奈《ワタシタマハナ》須久比多麻波奈《スクヒタマハナ》」(佛足跡歌碑)とあるが如き、度シ給フ、救ヒ給フは、先方の動作であるが、それを嘱望して助詞ナが使用されている。これは給フが自己に受け入れることを本義とする語である故に、かような例を見るに至つたものと考えられる。閑をカナと讀むことについては、字音辯證(木村正辭博士)に次のように記されている。
 「家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》は、家將v聞《イヘキカナ》、令2名告《ナノラサネ》1也。考、略解等にいへのらへ〔五字右○〕とよみて、注に、吉閑一本告閑とあり、閑は閇の誤にて、告閇とす、いへのらへ〔五字右○〕とよみて、住所をまをせ也、とあるは非也。版本又は古本どもいづれも告閑とありて、こゝに異同あることなし。さればもとのまゝにて、家吉閑《イヘキカナ》、名告沙根《ナノラサネ》とよむべきなり。閑は韻鏡第二十一轉山攝の字にて、漢音カヌ〔二字右○〕なれば、奈行の通にてカナ〔二字右○〕と轉用すべし。國名の信濃《シナノ》の信《シヌ》をシナ〔二字右○〕、因幡の因《イヌ》をイナ〔二字右○〕、郡名の引佐《イナサ》の引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲梯《ウナデ》の雲《ウヌ》をウナなどにあてたると同例なり。(中略)凡字音の韻の撥假字に三つの別あり。これを悉曇家【印度の音韻學】にては、喉内聲舌内聲唇内聲といふ。喉舌脣の三内といふ是也。喉内は、本邦にてウ〔右○〕と引音、唐音にてはン〔右○〕と撥る文字なり。舌内は、本邦の假字にて其韻をヌ〔右○〕又はン〔右○〕と書るす文字、脣内はム〔右○〕としるす字な。さて古へ本邦にて舌内聲の字の韻は、ナニヌネノ、ラリルレロ〔十字右○〕に轉用し、脣内聲の字の韻は、マミムメモ〔五字右○〕に轉用したり。此等の例は本居宣長翁の地名字音轉用例、又其細説は釋義門の男信《ナマシナ》、太田方の漢呉音圖、等に見えたれは、其書どもに就て見べし、義門の著書を男信《ナマシナ》と名づけたるは、上野(ノ)國利根(ノ)郡なる郷名にて、男は厚内聲なれは麻行の通音にて、ナム〔二字右○〕をナマ〔二字右○〕と轉じ、信は舌内聲なれは奈行の通にて、シヌ〔二字右○〕をシナ〔二字右○〕と轉じ用ゐたるなり。これ一の地名にて、舌内と脣内との別を證する事を得るは、いとおもしろし。かくて本文に出したる引佐《イナサ》は、遠江の郷名にて、和名抄に伊奈佐と訓じ、雲梯《ウナデ》は大和の郷名にて、同書に字奈天《ウナデ》と訓じたり。又伊勢の郷名に員辨ありて爲奈倍《ヰナベ》と訓ぜり。比等|引《イヌ》をイナ〔二字右○〕、雲《ウヌ》をウナ〔二字右○〕》、員《ヰヌ》をヰナ〔二字右○〕に用あたるなり。されは閑はカ(34)ナ〔三字右○〕に轉用する文字なる事を了解すべし。此他舌内聲の韻のニヌ〔二字右○〕をネノリル〔四字右○〕等に轉じ用ゐたるものあり。いづれも上にいへる書どもに精しく載たれば、往見すべし。」
 名告紗根 ナノラサネ。紗は、仙覺本系統には沙に作つている。いずれも集中、字音假字としてサの音を表示するために使用されている文字である。ナノラサネは、代匠記の訓による。ナは名の義。ノラサは動詞告ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したもので、上のツマスと同樣の語法である。その未然形ノラサに、他に對して希望する意を表示する助詞ネが接續してノラサネとなる。同じ語形に、「奈何名能良佐禰《ナガナノラサネ》」(卷五、八〇〇)「玉藻苅《タマモカル》 海未通等《アマノヲトメラ》 汝名告左禰《ナガナノラサネ》」(卷九、一七二六)などある。先方の動作告ルに對して、希望の助詞ネを添えている。上の家聞カナと竝んで對句となつて、第一段を結ぶ。
 虚見津 ソラミツ。古事記に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見通、虚見都、空見津の文字を使用し、ソラミツと讀まれるが、一例だけ「天爾滿《ソラニミツ》」(卷一、二九)と書いたものがあり、これはソラニミツと讀まれている。大和の枕詞。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「及d至饒速日命、乘2天磐船1、而翔2行太虚1也、睨2是郷1而降u之、故因目之、曰2虚空見日本國1矣」とあり、これによつて枕詞となつたと傳えている。本集中、多く虚見の文字を使用しているところを見ると、この起原説話が廣く信じられていたのであろう。天爾滿の一例は、元來四音の原形を、五音に整備して生じた形に文字を當てたものと考えられるから、これを以つて語義を解くわけにはゆかない。さて此處に神代の事と傳える起原説話のある枕詞を使用したのは、大和の國の提元を、莊重ならしめる上に大きな效果がある。ところで、虚空見ツの義と解せられていたとすると、ツは、下二段活用の助動詞であるから、これは終止形である。すなわち、ソラミツは、獨立文であつて、次のヤマトの語を修飾するものである。天ニ滿ツの場合も、滿ツは、四段活と考えられるから、終止か連體か不明である。獨立文が、次の詞句を修飾する例としては、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》 安里我欲比《アリガヨヒ》」(卷三、四七九)のハシキカモ、(35))「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)のコゴシカモの如きがあり、枕詞では、天カゾフ、カキ數フ、百足ラズなどがあげられる、四段活の動詞、また形容詞は、終止形も連體形も同じなので、獨立文であるか、連體句であるか、明白にされないが、「みつみつし久米の子」(古事記一一等)、「花ぐはし櫻のめで」(日本書紀六七)の、ミツミツシ、花グハシの如き、詠歎の氣分を感ずることから見ても、終止形のものであるようにも考えられる。體言の形を取る枕詞や助詞も同樣である。
 山跡乃國者 ヤマトノクニハ。ヤマトのヤマは、山岳の意のヤマとされるが、トについてはあきらかでない。野獣の通過した跡を、古くトという。アトというは、足の跡の義で、トとのみいうが原形であろう。アトの前略とするは當らぬようである。關係語に、跡見《とみ》、乾迹《からと》などがある。本集ではこの外に、日本、山常、倭、八間跡、夜麻登、夜麻等、夜末等、夜萬登、也麻等の字が當てられている。古事記下卷、石の比賣の命の御歌に、「つぎねふや山城川を、宮のぼりわが上《のぼ》れば、あをによし那良を過ぎ、をだて夜麻登を過ぎ、わが見がほし國は、葛城高宮、我家のあたり」(五九)とあるによれは、ヤマトは、もと奈良縣の一部分であつて、奈良と葛城との間であつたことが知られる。日本書紀の崇神天皇の卷に、大倭の大神を祀るに、神地を穴磯《あなし》の邑に定め大市の長岡の岬に祀り、大倭《やまと》の直《あたえ》の祖|長尾市《ながおち》の宿禰をして祭らしめたとある。これに依れば、穴磯の邊がヤマトの境に入つていたらしく、また續日本紀には、城下郡大和神山、延喜式神名には、山邊郡坐大國魂神社とあつて、もと磯城郡であつたのが、後に山邊郡に編入されたものと見られる。本集では、日本の青香具山、日本の宇陀などあり、また藤原の京あたりをもヤマトと言つている。語原については、太居宣長は、山處の義であろうといつているが、ヤマは山であるにしてもトに處の字を當てた文献は見當らない。賀茂眞淵の説に、「この國は四方みな山門より出入れば山門の國と名を負へるなり」とあるが、これは後の大和の國には適當であるが、その一部分の地名としては當らない。しかし山門の文字を當てたものには、播磨國風土記、美嚢《みなぎ》郡|志深《しじみ》の里の(36)條に、「針間國之山門領所v遣山部少楯」の句がある。また日本書紀神功皇后の卷にも山門縣の地名があり、これは筑後の國である。佳吉神社神代記には大和川を山門川と書いてある。この山門は、水門、河門、島門など同樣の語組織から推測するに、兩方から山の迫つている地形をいうものと考えられる。そういう地形の名稱から出發して、一定の地方をヤマトというようになり、更に他國からこの地名を呼ぶことに依つて、漸次その範圍が擴大して行つたものであろう。但し上代假字遣法において山門のトは甲類、山跡のトは乙類であることは、この説の難關である。この歌における大和の國の範圍は、嚴密なものでは無く、この郷土はぐらいの意味に使用されていると解される。クニは、天に對して、地上をいうが、多量に人文的要素を含んでいる。人の住む世界というような思想のもとに使用される。そうして一區域を何の國と呼ぶようになる。此處では後代いう如き行政上の區劃では無く、その地方という程度に使用されている。ここにいう大和の國は、今見えている全部の地域を含んでいるものであつて、ヤマトの起原的地方に限られてはいない。
 押奈戸手 オシナベテ。押は、力を加える意、ナベテは、從來靡かせての義と解せられていた。しかし本集における靡かせての意の押靡は「石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》」(卷一、四五)、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》(同)、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》(卷六、九四〇)、「秋野之《アキノノノ》 草花我末乎《ヲバナガウレヲ》 押靡而《オシナベテ》」(卷八、一五七七)、「我家戸之《ワガヤドノ》 麻花《ヲバナオシナベ》」(卷十、二一七二)、「秋穗乎《アキノホヲ》 之努爾押靡《シノニオシナベ》」(卷十、二二五六)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》」(卷十七、四〇一六)など、いずれも、植物の上にいい、それらを押し伏せての意に使用している。このナベテは、それらのナベとは違つて、「迦賀那倍弖《カガナベテ》 用邇波許々能用《ヨニハココノヨ》」(古事記二七)の那倍弖と同語として、竝べての義に解すべきである。この語は、本集では、多くマ行に轉じて、「友名目而《トモナメテ》 遊物尾《アソバムモノヲ》(卷六、九四八)、「宇麻奈米?《ウマナメテ》 宇知久知夫利乃《ウチクチブリノ》」(卷十七、三九九一)など、ナメテとなつてあらわれている。このオシナベテのオシは、ナベテの意味を強調するために、接頭語ふうに結合して、熟語を構成している。總じて、すべての意。「梅の花(37)それとも見えず。ひさかたのあまぎる雪のなべで降れれば」(古今和歌集卷の六)。
 吾許曾居 ワレコソヲレ。第一人稱の代名詞としてア、アレ、ワ、ワレがある。これは口語を寫音するに當つて、ア、アレとも、ワ、ワレとも、聞えるがままに記したものがもとになつているであろう。ワ、ワレと、ア、アレとは、古事記日本書紀、および萬葉集に竝んで使用されており、一首の中に兩方の表記のあるものもある。今これらの用例についてその使用囘數をあげれば下の表の通りである。この數字には、アゴ(吾子)、アセ(吾兄)、ワギヘ(我家)、ワギモ(吾妹)のような成語となつているものをも含む。古事記日本書紀は、歌謠のみについてあげた。
 下の表にあらわれた用例の數字、および個々の用法について知られるところを個條書きにすれば、次の通りである。
 一、古事記日本書紀の歌謠においては、ワ、ワレの方が壓倒的に多い。萬葉集でも、ワ、ワレの方が多いには多いが、その比率は、古事記日本書紀ほどではない。
 一、成語として、アに、アギ(吾君)、アゴ(吾子)、アセ(吾兄)があり、他語に直接に接續する。ワには、ワギヘ(吾が家)、ワギモ(吾が妹)、ワゴオホキミ(吾が大君)があり、助詞ガを伴なつて他語に接續する。
 一、一首の中に兩用しているもののうち、「わが見し子に……あが見し子に」
 
   記 紀 萬一 二 三 五 六 七 十一 十二 十三 十四十五十六十七十八
ワ  32 29 2 1 3 16 4 1 1  1 36 36 2 18 11     45
ワレ  5  9 2 1 3 18   1 1  1 39 37 2 23 16   9 68
ア  10 13      9      2   24 26   16  3 10 13
アレ  3  2      6         10  9   9  3 3 8
    記は古事記 紀は日本書紀 萬は萬葉集
 
(38)(古事記四三)、「あが思ふ妹……わが思ふ妹」(同九一)の如く對句に使つているものは、變化を求めるために意識して書かれたと考えられる。
 一、男女ともに、使つているが、大體、ア、アレは、うち解けた調子で親しみの情をあらわす場合に、しばしば使われる。「あれこそは世の長人」(古事記七三)は、この意味で例外的であるが、日本書紀では、ワレとしている。日本書紀では、播磨速待の「あれ養はむ」(四五)が例外的である。
 一、アは、助詞ガ、ヲを伴なうことが多く、助詞ハを伴なうものは一例あるのみである。ワの方は、ガ、ヲ以外の助詞を伴なうものが相當に多い。
 一、ア、ワは、他語との粘著力が強く、アレ、ワレは、それに比して弱いのは、アレ、ワレが、既に、ア、ワと、レの結合によつて成つているからである。
 以上の調査によつて、本集における吾我の類の字は、どちらにも讀み得るものであるが、ワ、ワレの方が歴史性の強いものと考えられるので、以下これによることとする。この句においては、ワ、ワレの兩訓が考えられるが、音調上、長い句の方が原則的であるから、ここには、アレ、ワレの類を採用すべきである。さてそのいずれを採るべきかというに、卷の一には、ワレの假字書きはあるが、アレは無い。依つて今、ワレと讀むこととする。居は、コソを受けて、已然形ヲレを以つて結ぶ。古くは、下の句の師を、この字に附けて、居師を以つてヲラシと讀んでいた。今、玉の小琴の説に依つて、師を下の句に屬せしめる。
 師吉名倍手
   シキナベテ(玉)
   ――――――――――
   告名倍手《ツケナヘテ》(西)
   告名倍手《ノリナバテ》(考)
 古くは、師を上の句に附け、吉を告に作るに依り、ツゲナベテ、ノリナベテなどと讀んでいた。玉の小琴に(39)至つて、師をこの句に附け、告を吉の誤として、シキナベテと讀むようになつた。シキは、一面に敷き行う意の動詞で、ナベテに對して接頭語として熟語を作り、ナベテの意を強調すること、上のオシナベテに同じである。總じての意。一體古く漢字の初畫を引き懸けて書く書風があつて、吉が告のように見え、それから告に誤つたものと見える。この外、比が此になり、枚が牧になるのも同樣の經過によるものである。吉が告のように見えるよい例は元暦校本の「朝裳よし」(卷一、五五)の歌の吉の字に見られる。上の圖を見られたい。
 吾己曾座 ワレコソヲレ。ワレコソヲラシ(西)、ワレコソマセ(略、宣長)。この座を普通にマセと讀んでいる。坐セは敬語であるが、天皇みずから敬語を用いる例は、日本書紀に雄略天皇の御製に、「鹿《しし》待つと吾《あ》がいませば、さ猪《ゐ》待つと吾が立たせば」等の例がある。しかし座をヲレと讀むことも、軍王見山の歌にも、「獨座吾衣手爾」(卷一、五)とあつて、座をヲルと讀むのであるから、不都合では無い。ワレコソヲレの同一句を重ねた方が古風である。上の、オシナベテ吾コソ居レに對して、シキナベテ吾コソ居レの句を以つて、對句としている。
 我許背齒告目 ワレコソハノラメ。ワニコソハノラメ(註稿)
(40)   ワレコソハノラメ(童喩)
   ――――――――――
   我許者背齒告目《ワレコソハセナニハツケメ》(西)
   我許曾者《ワレコソハ》背齒告目(代精)
   我許曾背齒告目《ワレヲコソセナトシノラメ》(僻)
   我許者|背齒告目《セトシノラメ》(考、春滿)
   我許者|背登齒告目《セトバノラメ》(考)
   我許曾背齒告目《ワヲコソセトハノラメ》(玉)
   我許者|背齒告目《セトハノラメ》(墨)
   我乎許曾背跡齒告目《アヲコソセトハノラメ》(古義)
   我許曾者背止齒告目《ワレコソハセトシノラメ》(美)
   我許背齒告自《ワレコソハノラジ》(新訓)
 通行本には我許者背齒告目とある。この者の字は元暦校本、類聚古集、古葉略類聚鈔、共に無いから省くべく、然らば、我許背齒をワレコソハと讀むべきである。萬葉代匠記には、許の下に曾の字脱として我許曾者背齒告目としている。又金澤文庫本にはその通りになつているが、金澤文庫本は仙覺本の一種であるから、この本一本のみの校異では直に本文を訂正するわけにゆかない。既に者の字が古寫本によつて省かれるのであるから、曾を補つても何にもならずまた補うわけにはゆかぬのである。告目は、このままならばノラメと讀んで、孃子の答を待たずに、自分こそ家をも名をも言おうの意になる。類聚古集には、目を自に作つている。これに依る時は、告自をノラジと讀んで、上に既にこの大和の國が居處なることをあきらかにしたのであるから、我は名告らないの意になる。それも一理あるが、類聚古集は、目を自に誤ること多く、次の歌の加萬目の目をも自に誤つているのであるから、この一本のみに依つて事を決するわけに行かない。上の吉の場合と同じく、目の初畫を誇張して書くことから自に誤つたものと解すべきであろう。
(41) 家呼毛名雄母 イヘヲモナヲモ。呼は、元暦校本等に依る。仙覺本には乎である。
【評語】この歌は、萬葉集中の最古の歌では無いが、仁コ天皇の皇后の御歌や、聖コ太子の御歌の短歌であるのに對して、かえつて古い傳誦の形體を備えているようであり、その意味でも、卷頭の歌としてふさわしいものがある。
 第一段、岡のべに菜を摘む孃子に呼び掛けられる部分は、あかるく和やかであり、和樂の氣に滿ちている。口語で、人を呼ぶには、その行爲の説明をしないのが通例であるが、この歌では籠や掘串《ふくし》を持つて、この岡に菜を摘む子と、こまかに説明している。これに依つて、その孃子の印象を明瞭にして非常に效果的である。しかもその持つている籠や掘串に對して、感愛の情をあらわして、籠モヨ、掘串モヨと歌つたのは、それらにも心が強く注がれていることを語る。かくして家聞カナと名告ラサネとが、語を變えて、對句として、上に説明した孃子に求められる所をあきらかにし、これに依つて心の集中點が元されている。
 第二段は、轉じて作者自身の上を説明され、ここには、莊重な表現に依つて、この國の帝王であることを示され、第一段とよい對照を成している。オシナベテ我コソ居レ、シキナベテ我コソ居レと、極めて類似した句を重ねて擧げているのは、強く指示する意志があらわれている。そうして、自分が名のろうとされる前提となつている。最後の家ヲモ名ヲモの一句は、上の家聞カナ名告ラサネの句を受けて、よく呼應した結末である。
 古代にあつては、人々は、名に對して特別の意味を感じていた。人に名を知られることは、その人に自己の全人格を支配されることである。それで孃子に名を問うことは、婚姻を申し入れることになり、孃子が名を答えることは、申し入れに應じたことになる。家を尋ねることも、訪問しようとする意志を表示するのであつて、特殊の關係を結ぼうというのである。この歌における家や名を尋ねることは、やはり特殊の關係を開こうとするにあつて、それ故に第二段の表白が力強く響くのである。泊瀬の天皇を主人公とした歌曲として宮廷に歌い(42)傳えられた歌の一つであろう。歌いものとしての性質が濃厚であつて、古事記などに傳わる幾篇の歌謠と同樣に、曲の形を失つて、歌詞のみが傳えられたのであろう。
 天皇と菜を採む娘子とを語る歌物語としては、古事記下卷に、仁コ天皇と吉備の黒日賣との物語が傳えられ、吉備の黒日賣が菜を採んであつものを奉つたとしている。その時に天皇が、黒日賣の菜をつむところにおいでになつて、「山|方《がた》にまける青菜も吉備人と共にしつめば樂しくもあるか」(古事記五五)の歌を詠まれたとしている。萬葉の籠モヨの歌にも、このような歌物語が成立していたのであろう。これはやがて仙女に出逢う物語に展開するであろうが、この歌自身、そこまで發展していたかどうかは不明である。
 形式は、短句を以つて歌い起し、長句がこれを承けて進行し、まだ五七調の定型に到達しないで、自由な格調を保つている。對句が多く使用され、いずれも有效に働いている。最後を五三七で結ぶのは、古長歌に往々ある格で、「うつせみも 嬬を 爭ふらしき」(卷一、一三)、「心無く 雲の 隱さふべしや」(卷一、一七)、「うらぐはし 山ぞ 泣く兒守る山」(卷十三、三二二二)などの例がある。これも五七七の定型に到達するまでの過渡的な形體である。
【參考】孃子に名を問う。
  丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の歌
 難波潟潮干に出でて玉藻苅る海孃子《あまをとめ》ども汝が名|告《の》らさね(卷九、一七二六)
  和《こた》ふる歌
 漁《あさり》する人とを見ませ。草枕旅ゆく人にわれは及《し》かなく(同、一七二七)
 紫は灰さすものぞ。海石榴《つば》市の八十《やそ》の衢《ちまた》に逢ひし兒や誰(卷十二、三一〇一)
 たらちねの母がよぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか〔同、三一〇二、以上二首問答)
(43) 雎鳩《みさご》ゐる磯廻《いそみ》に生ふる名乘藻《なのりそ》の名は告らしてよ。親は知るとも(卷三、三六二)
 雎鳩《みさご》ゐる荒磯《ありそ》に生ふる名乘藻《なのりモ》の名のりは告《の》らせ。親は知るとも(同、三六三)
 隼人《はやひと》の名に負ふ夜聲いちしろく吾が名は告りつ。妻と恃ませ(卷十一、二四九七 )
 
高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
 
【釋】 高市岡木宮御宇天皇代 タケチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。高市の岡本の宮は、舒明天皇の皇居。飛鳥の岡本の宮というのも同處である。日本書紀、舒明天皇二年十月、「壬辰朔癸卯、天皇遷2於飛鳥岡傍1。是謂2岡本宮1。」とあり、同八年の條に「六月、災2岡本宮1。天皇遷2居田中宮1。」とある。今、奈良縣高市郡高市村大字岡の地である。
 息長足日廣額天皇 オキナガタラシヒヒロヌカノスメラミコト。舒明天皇である。息長は、近江の國の地名、母方の祖母は、息長眞手の王の女であるから、その系統の名を負われたのであろう。足日は、充實せる神靈の意。廣額は、容貌の特色を稱えたのであろう。天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄の皇子の子、御母を糠手《ぬかで》姫の皇女という。推古天皇の次に即位せられ、大和の高市の岡本の宮に都せられた。帝位にあること十三年にして崩じ、押坂の内の陵に葬つた。はじめ息長足日廣額《おきながたらしひひろぬか》の天皇と申し、後に舒明天皇と申す。また宮號によつて岡本の天皇とも申す。萬葉集の歌は、舒明天皇の御代から後は、漸次數量も多くなつて、彼此の間に系統づけても語られるようになつた。殊に齊明天皇は、天皇の皇后であり、天智天皇天武天皇はそのお二方のあいだに生まれた皇子である。
 
天皇、登2香具山1望2國之時、御製歌
 
(44)天皇の、香具山に登りて望國《くにみ》したまひし時の御製の歌
 
【釋】天皇。舒明天皇。
 香具山 カグヤマ。歌中には、天の香具山とある。奈良縣磯城郡(もと十市郡)にある山。標高一四八メートルの小山であるが、古くから神聖な山として貴ばれ、古代の神事には、この山から採取した士で祭器を作り、この山の賢木を根こじにして祭場に据え、またこの山の鹿の骨を以つて神事の卜占をしたことなどが傳えられている。大和の國の中央平原の東方に位し、中央部の觀望に適している。香具山は古事記の歌詞に迦具夜麻、日本書紀に香山と書き、その自注に「香山、此云2介遇夜摩1」とある。萬葉では、高山、香山、香來山、芳山、芳來山とも書く。カグは、もと神靈の意で、卜占に使われる神聖な鹿も同語である。「天降《あも》りつく天の香具山」(卷三、二五七)の句などもあつて、天から降つて來た山だという。それでこれを神聖視して天の香具山ともいうのである。
 望國之時 クニミシタマヒシトキ。歌中には、國見乎爲者とある。國見は、高處に登つて國?を觀察するをいう。日本書紀、神武天皇三十一年四月の條に、「皇輿巡幸、因登2腋上?間丘《ワキハミノホヽマノヲカ》1、而廻2望國?1曰、妍哉乎《アナニヱヤ》、國之獲矣。雖2内木綿之眞?國《ウツユフノマサキクニ》1、猶如2蜻蛉之臀?《アキツノトナメ》1焉、由v是、始有2秋津洲之號1也。」これはやがてこの歌の中に見える秋津島の語の起原説話になつている。元來國?御視察の義があり、國土讃歎の歌または詞を傳えるのを常とする。この歌も、その意味の御製である。なお國見は、本來春の耕作の初めに當つて、その年に耕作すべ(45)き土地を選定することから起つたのであろう。それが後にはただ風光を觀るだけの意味にも使用されるようになつた。「雨間かけて國見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも」(卷十、一九七一)の如きは、そのような用例である。次に、本集の題詞には、作歌の場合を説明するに、時の字を以つて示すことが多い。その時に接する用言の連體形を、いかなる時間の語法で讀むべきかは、不明である。今「御獵立師斯時」(卷一、四九)などの例により、過去にあつた事實を示すものとして、過去の時を以つて讀むこととする。
 
2 大和には 群山《むらやま》あれど、
 とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》、
 登り立《だ》ち 國見をすれば、
 國原《くにはら》は 煙《けぶり》立ち立つ。
 海原《うなはら》は 鴎《かまめ》立ち立つ。」
 うまし國ぞ。
 蜻蛉島《あきづしま》 大和の國は。」
 
 山常庭《ヤマトニハ》 村山有等《ムラヤマアレド》
 取與呂布《トリヨロフ》 天乃香具山《アメノカグヤマ》
 騰立《ノボリダチ》 國見乎爲者《クニミヲスレバ》
 國原波《クニハラハ》 煙立龍《ケブリタチタツ》
 海原波《ウナハラハ》 加萬目立多都《カマメタチタツ》
 怜※[立心偏+可]國曾《ウマシクニゾ》
 蜻島《アキヅシマ》 八問跡能國者《ヤマトノクニハ》
 
【釋】この大和の國には、多くの山があるが、中にも見事なこの天の香具山よ。その山に登り立つて國見をすると、國の廣い所には煙があちらにもこちらにも立つている。水面には水鳥がそこにもここにも立つている。よい國だなあ、この大和の國は。
【構成】第一段、鴎立チ立ツまで。事實を敍述する。以下第二段、感想を述べる。かように第一段でまず事實を敍述し、第二段でそれを基礎とする主觀的敍述をするのは、古い長歌に、しばしば見られる所である。これは人間の心理現象の順序どおりの敍述法であつて、素朴感を有する表現である。三山の歌(卷一、一三)など、(46)この法に依つている。
【釋】 山常庭 ヤマトニハ。このヤマトは、大和の國一帶の義に用いられているが、それは行政區劃を意味する所の知識的なものでは無く、見渡される主要部を中心としていう言い方である。常をトの音韻に當てているのは、他に例も多く慣用となつているが、トコの下略であるとされている。しかし常影《とかげ》の如き用字例もあつてトに常久の義があつたものかとも考えられる。庭は、助詞ニハをあらわすために、訓假字として使用されている。この大和の國にはの意の句である。
 村山有等 ムラヤマアレド。村山は群山の義。山の多數なのをいう。等は、清音の字であるが、集中、濁音のドにもしばしは使われている。
 取與呂布 トリヨロフ。トリは、意を強めるために附ける接頭語の動詞。元來、手にするの意味を有するのであり、その意味が若干殘つていると見られる、トリ持ツ、トリ見ル、トリ佩クなどの例もあるが、また、トリ續ク、トリ装フなど、原意を離れての用例もある。ここは原義を離れての用法である。ヨロフは、身を守る、装甲するの意の動詞で、甲鐙をヨロヒというも、同語である。新譯華嚴經音義私記傍訓鈔に、甲および冑に、それぞれ與呂比と訓している。この歌では、天の香具山が、山としての雄姿を具備し、貴むべく賞すべくある意に、その修飾語として使用されている。
 天乃香具山 アメノカグヤマ。古事記中卷に、「阿米熊迦具夜麻《アメノカグヤマ》」とある。この山に限つて、天ノを冠らせるのは、古來神聖な山として仰がれていたためである。釋日本紀に引いた伊豫國風土記には、「倭在天加具山、自v天天降時、二分而、以2片端1天2降於倭國1、以2片璃1天2降於此土1、因謂2天山1也。」とある。本集にも、「天降付《アモリツク》 天之芳來山《アメノカグヤマ》」(卷三、二五七)とあつて、天から降つて來たという傳えのある山である。天ノは、アメノともアマノとも讀まれ、本集にも兩方の假字がきがある。天は、獨立語としてはアメであるが、他語の上に(47)直接に冠して熟語を作る場合にはアマとなる、これは、たとえばタケ(竹)が、タカムラ(篁、竹村)となり、フネ(船)が、フナビト(船人)となるのと同じ現象である。天が助詞ノを伴なう場合は、天に獨立語としての性質が強いときはアメノとなり、これに反してノおよびその下の語と粘着性が強い時にアマノとなる。天ノ下がアメノシタであるのは、漢語の翻譯で、その成立が新しいからであり、天ノ原、天ノ河が、それぞれアマノハラ、アマノガハであるのは、熟語として各語の粘着が強いからである。アマノは、本集ではこの外に、假字書きのものに、アマノヒツギ(安麻能日繼四〇八九等)がある。天ノ香具山の場合は、本集には假字書きはないが、熟語としての慣用が廣いと見るならは、アマノカグヤマである。古事記にアメノカグヤマと書いたのは、歴史的記載法によつたものと見られる。さてこの句は、呼格であつて、その山を呼びかけて讃嘆の意をあらわされている。助詞ニを補つて解すべしとする説もあるが、意味はそうでも、ここはまずその山を呼びあげたものとしなければならない。それで無くては、感激の意が感じられない。
 騰立 ノボリダチ。香具山に登り立つての意である。日本書紀、繼體天皇紀に、「美母慮我紆陪?《ミモロガウヘニ》 能朋梨陀致《ノボリダチ》」(九七)とあり、本集に、「高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》 上立《ノボリダチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》」(卷一、三八)とある。タチのタは、普通に清音に讀まれているが、上記日本書紀に能明梨陀致とあり、古事記下卷に、「淤斐陀弖流《オヒダテル》」(一〇一・一〇二、生ひ立てる)などあるに依れば、連濁として、タを濁音に讀むべきであろう。
 國見乎爲者 クニミヲスレバ。作者たる天皇御自身の行動を敍せられる。國見は、題詞の項に説明した。
 國原波 クニハラハ。クニハラは、下の海原を清音に讀むに倣つて清音に讀む。國の語に、廣平の處を意味する原の語の熟したもので、國土の廣く平なるをいう。原は草原に限らず、すべて廣く平な處をいう。ハルカ(遙)、ハロバロ(遙々)等のハル、ハロと同語で、その名詞形を採つたものと考えられる。ここは香具山から望見される大和の國土をいう。
(48) 煙立龍 ケブリタチタツ。
   ケフリタツタツ(冷)
   ケブリタチタツ(僻)
   ケムリタチコメ(考)
   ケブリタチタチ(?)
   ――――――――――
   煙立籠《ケフリタチコメ》(細)
 類聚古集に、龍を籠に作つている。元暦校本には、朱で竹冠を附けて籠に直している。細井本に籠に作つているのは、これらの系統を受けたもので、仙覺寛元本は籠に作り、文永本に至つて龍に改めたものらしい。次の加萬目立多都とある句と對する句であつて、それと同形であることは古風であり、また内容から言つても、煙立チ立ツの方が、動態を描いて、生き生きとしている。龍に作るに依るべきである。寛永版本に籠に作り、訓はタツになつているのは、本文は、細井本系統から來ており、訓はそれとは異種の文永本系統の本に依つて加えたので、かような矛盾した形を生じたのである。その成立經過は、今日では分明になつている。さて煙は人家の炊煙をいう。倭名類聚鈔に、「煙、於賢反、字亦作v烟介不利」とある。古事記、仁コ天皇の記に、「於v是、天皇、撃2高山1、見2四方之國1、詔之、於2國中1烟不v發、國皆貧窮1。」また「後見2國中1、於v國滿v烟。故爲2人民富1。」とある。民が富み榮えておれば、炊烟を擧げること多く、貧しければ、炊烟が乏しいとするのであつて、ここは、炊烟の多く立つことによつて、民の繁榮を知ろしめされたのである。煙は、「所v遊《アソバシシ》 我王矣《ワガオホキミヲ》 煙立《カスミタツ》 春日暮《ハルノヒグラシ》」(卷十三・三三二四)の如きは、煙霞の義に取つて、カスミとも讀めるが、ここはカスミでは適わない。タチタツは、同じ動詞を重ねて、その動作の繼續して行われるをいう語法。「在有而《アリアリテ》 後毛將v相登《ノチモアハムト》」(卷十二、三一一三)・「戀々而《コヒコヒテ》 相有物乎《アヒタルモノヲ》」(卷四、六六七)などの例である。煙があちらからもこちらからも、あとからあとから立ち昇る意である。この句は終止形であつて、下の加萬目立多都と對句になつている。
(49) 海原波 ウナハラハ。「宇奈波良《ウナハラ》」(卷五、八七四)などハは假字書きの例は清音である。防人の歌ではあるが、「宇乃波良《ウノハラ》」(卷二十、四三二八)の例もある。ウは海の義であるが、元來、大の義のある語で、ウミは大水の義であろう。海上をウナカミといい、ウシホ(海水)のウも同語であろう。依つてウミのミを略したものとするは當らず、もと大の義なるウに海の義を感じたとすべきである。ナはノに同じく接續領格の助詞。ヌナト(瓊な音)、ミナモト(水の源)、タナソコ(手の底)などの用例がある。ハラは、廣い處の義。海を原野にたとえていうのではなくして、海の廣い處であることをあらわした語である。この海原は、もと香具山の麓にあつた埴安の池をいう。飛鳥川は、今、畝傍山と耳梨山との中間を西北流しているが、當時は、更に東寄りに流れて、香具山の西麓において埴安の池に流入したものと思われる。今でも泣澤神社の森から北方一帶は、一段と低くなつており、池尻、池内などの村名も殘つている。埴安の池は、柿本の人麻呂の歌(卷二、二〇一)にもあり、また鴨の君足人の歌(卷三、二五七−二六〇)にも詠まれている。
 加萬目立多都 カマメタチタツ。加萬目は、?のことであるという。カモメは、羽の強い鳥で、隨分奧地まで入り來り、現に琵琶湖などでは常に見る所であるという。しかしこの歌としては、水禽の代表として、カモメを擧げたものと解すべく、これに依つて白い水鳥の群れ立つさまを想像すればよい。その白い鳥が、眞のカモメであるかどうかは、問題にならない。カモメのメは、スズメ、ツバクラメ、コガラメなどのメと同じく、女性の義なるべく、然らばカモメは、鴨女の義か。なお鴨の君足人の香具山の歌には「奧邊には鴨妻よばひ邊つ方《ベ》にあぢ群さわき」(卷三、二五七)と詠んでいる。タチタツは、上の煙立チ立ツと同樣、?が續いて立つをいう。以上第一段。
 怜※[立心偏+可]國曾 ウマシクニゾ。
    オモシロキクニソ(西)
   ――――――――――
   可怜國曾(僻)
(50)   ※[立心偏+可]怜國曾《ウマシクニソ》(考)
   可怜國曾《ウマシクニソ》(燈)
   ※[立心偏+可]怜國曾《オモシロキクニゾ》(墨)
怜※[立心偏+可]は、本集中他に所見が無いが、※[立心偏+可]怜は、「家有者《イヘニアラバ》 妹之手將v纏《イモガテマカム》 草枕《クサマクラ》 客爾臥有《タビニコヤセル》 此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)以下十一例がある。この※[立心偏+可]怜は、感嬬を※[女+感]嬬、鳳皇を鳳凰と書くが如き、漢字の連字扁旁を増す例で、可怜とあるべきを、怜の字に引かれて可を※[立心偏+可]に作つたものであつて、※[立心偏+可]は字書に無い字であるという。可怜は、日本書紀、神代の下に「可怜小汀」「可怜御路」、垂仁天皇紀に、「神風伊勢國、則常世之浪、重浪歸國也、傍國可怜國也」とある。※[立心偏+可]怜も、日本書紀にも遊仙窟にもあるので、漢土でも既に使用されていたものであろうとされている。依つて、此處に怜※[立心偏+可]とあるのは、※[立心偏+可]怜の誤りであろうという。訓は、日本書紀に、可怜小汀に註して「可怜、此云2于麻師1」とあるに依つて、ウマシと讀むべきである。但し本集における他の用例は、かならずしもウマシと讀むことが適切でなく、上掲の「此旅人※[立心偏+可]怜《コノタビトアハレ》」(卷三、四一五)、「吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《ワガコハモアハレ》」(卷四、七六一)、「※[立心偏+可]怜其水手《アハレソノカコ》」(卷七、一四一七)、「※[立心偏+可]怜其鳥《アハレソノトリ》」(卷九、一七五五)、「※[立心偏+可]怜吾妹子《アハレワギモコ》」(卷十一、二五九四)、「※[立心偏+可]怜登君乎《アハレトキミヲ》(卷十三、三一九七)の諸例の如きは、アハレと讀むべく、「如是※[立心偏+可]怜《カクオモシロク》 縫流嚢者《ヌヘルフクロハ》(卷四、七四六)、「痛※[立心偏+可]怜《アナオモシロ》 布當乃原《フタギノハラ》(卷六、一〇五〇)、「※[立心偏+可]怜《オモシロミ》 吾居袖爾《ワガヲルソデニ》」(卷七、一〇八一)・「秋山《アキヤマノ》 黄葉※[立心偏+可]怜《モミヂオモシロミ》」(卷七、一四〇九)の諸例の如きは、オモシロ(オモシロク、オモシロミ)と讀むべきである。また「※[立心偏+可]怜斷腸」(卷十六、三八三五)は、何と讀むべきか不明である。さてウマシは、物を賞美していう形容詞である。形容詞は、古くはその活用語尾シを以つて連體形としたので、ここもその連體法である。大和の國土を稱えて、良い國だとされたのである。もと食味の甘美を賞する語で、轉じて、すべて物を賞美するに使用される。「宇摩志阿斯訶備比古遲神《ウマシアシカビヒコヂノカミ》」(古事記上卷)の宇摩志などい、同じ語法、同じ意味に使用されている。この語は、後に(51)は、活用語尾キを以つて連體法とするに至つたが、竹取物語には、ウマシキという形が見えている。
 蜻島 アキヅシマ。上掲、日本書紀における神武天皇の、腋上《わきがみ》の?間《ほほま》の丘の國見の御詞に、蜻蛉《あきづ》の臀?《となめ》せるが如もあるかとあるに依つて、この國を蜻蛉島というとする起原説話がある。古事記雄路天皇の記には「その虻《あむ》を蜻蛉はや?《く》ひ、かくの如名に負はむと、そらみつ大和の國を、蜻蛉島とふ」(九八)とも詠まれている。そこには阿岐豆志麻と書かれているので、アキヅシマと讀むべきが如くである。この萬葉の歌では、大和の國の修飾語となり、枕詞として使用されている。なお本州を古事記には、大倭豐秋津島とし、日本書紀には、大日本豐秋津洲としているので、收穫のゆたかな國土の義にこの國土を稱えたのが本義であつて、後に蜻蛉島の義とする起原説話を生じたのであろうという。島は、水に面した美しい國土をいう語であつて、かならずしも水に圍まれた土地であることを要しない。なおアキヅは、明ツ神の明ツと同語で、アキヅシマは、現實にある美しの國土の義であるかも知れない。
 八間跡能國者 ヤマトノクニハ。この大和の國を提示して、主格を成している。これに對して上の、ウマシ國ゾが述語になる。
【評語】萬葉歌人の祖ともいうべき舒明天皇の御製として、萬葉集の歌の、最大多數の舞臺である大和の國の美を敍述された歌を見るのは、いかにもふさわしい。國土をほめる歌は、古くから數々あるが、この歌は高處から見下した特色が、よく煙立チ立ツ?立チ立ツの句に見えて、いかにも美しい古代大和の有樣が窺われる。まずトリヨロフ天ノ香具山と、その山を呼びあげて稱美され、さて國見された國土の?況の敍述に入る。殊に陸上水上の兩方面について、煙立チ立ツで、人民の繁榮を寫し、?立チ立ツで、自然の美を描かれている。短い句のあいだによく人事と自然との美を併せ有することを歌われている點は、實によくできている。香具山の上から御覽になつた風物は、種々であつたであろうが、その中から煙と?とを選定され、これに依つて印象を(52)あきらかにされた。その?は、水禽の代表としてあげられたものである。第一段において事實の敍述をなし、第二段に簡潔に總括された。主格を最後に置いて結末としたのもよく安定している。これも歌曲として傳えられた歌として認められ、歌いものらしい調子が感じられる。五七の句が既に整つており、末に至つて變化を生じているのは、古長歌の漸く整備に赴く過渡的な形である。
【參考】大和の國をほめた歌。
  大和は國のまほらま、疊なづく 青垣、山ごもれる 大和しうるはし。(日本書紀二二、景行天皇、古事記三一、倭建の命)
   正月元日讀歌
  そらみつ 大和の國は 神からか ありが欲しき。國からか 住みがほしき。ありが欲しき國は、あきづ島 大和(琴歌譜、景行天皇)
 
天皇、遊2?内野1之時、中皇命、使2間人連老獻1歌。
 
天皇、内野に遊?《みかり》したまひし時、中皇命《なかつすめらみこと》の、間人《はしびと》の連《むらじ》老《おゆ》をして獻らしめたまへる歌
 
【釋】天皇。前の歌に引き續いて、舒明天皇であることあきらかである。
 遊?。 下の之時と併せて、ミカリシタマヒシトキと讀む。射獵のために遊行する義である。?は獵に同じ。
 内野 ウチノ。奈良縣宇智郡の原野。吉野川の左岸、和歌山縣との縣境に近い處の地名。固有名詞としての野の名は、助詞ノを伴なつて何の野ともいい、また助詞無しに何野ともいつて一定しない。
 中皇命 ナカツスメラミコト。中皇命は、君之齒母(卷一、一〇)以下三首の題詞にも、「中皇命、往2于紀温泉1之時、御歌」と見えている。萬葉考には、皇の下に女の字脱としてナカツヒメミコと讀み、古義は、命(53)を女の誤りとしている。しかし女の字のある本、もしくは女に作つている本は無いのであるから、原文のままに解釋するを要する。近年喜田貞吉博士の中天皇考(萬葉學論纂所收)が出て、女性にして帝位につかれた方をいい、ナカツスメラミコトと讀むべしとした。この語の用例には次の如きがある。
 掛麻久毛新城大宮天下治給天皇。(續日本紀、神護景雲三年十月宣命)
 爾時近江宮御宇天皇秦、開髻墨刺刺、肩負v?、腰刺v斧、奉v爲奏、仲天皇奏、妾我?炊女而奉v造(大安寺縁起流記資財帳)
 喜田氏は、前の例文の中都天皇を元明天皇、後の例文の仲天皇を倭姫の皇后(天智天皇の皇后)の事としている。なお皇命の字面については、天皇命の字面が古事記上卷に、「故是以、至v于v今、天皇命等之御命不v長也」とあり、また出雲國造神賀詞、續日本紀宣命等に見えている。これに依つて、此處も、ナカツスメラミコトと讀み、舒明天皇の皇后で、後帝位につかれた皇極天皇の事と解すべきである。
 間人連老 ハシビトノムラジオユ。間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀、孝コ天皇の紀に、遣唐使の判官となつた中臣の間人の連老であろうとされる。日本書紀、その人に註して「老、此云2於喩1」とある。
 この歌は、中皇命の御歌か、間人の老の作歌かというに、中皇命の御歌ならば、御の字があるべきであるが、その字が無いこと、間人の老が、御歌の俊使しただけならば、かように題詞にその名を出すはずが無いこと、これらに依つて、中皇命の命に依つて間人の老の作つて獻つた歌と定むべきである。
 歌の作られた事情は、題詞によつてあきらかであるが、この遊獵は、いわゆる藥獵であつたことと思われる。藥獵は、五月五日に行われる行事である。この日は正陽の節日であつて、この日に採取した藥品は、特效があるとされる。よつて男子は鹿を獵して、その袋角を採り、女子は藥草を採る。狩獵ではあるが、一面遊樂的な行事として、派手に行われる。本集に「かきつばた衣に摺り著けますらをの服襲《きそ》ひ獵する月は來にけり」(卷(54)十七、三九二一)、「春日野の藤は散りにて何をかも御獵の人の折りて插頭《かざ》さむ」(卷十、一九七四)などと詠まれているのも、この故である。今、歌詞によるに、皇后も獵場近くにお出ましになつているようであり、また反歌にはその草深野とあつて、夏の歌であることを語つているなど、この獵の藥獵であることを證するに足りる。
 
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 朝《あした》には とり撫でたまひ
 夕《ゆふ》べ には い寄《よ》り立たしし、
 御執《みと》らしの 梓弓《あづさゆみ》の
 中|弭《はず》の 音すなり。」
 朝獵《あさかり》に 今立たすらし。
 暮獵《ゆふかり》に 今立たすらし。
 御執らしの 梓弓の
 中弭の 音すなり。」
 
 八隅知之《ヤスミシ》 我大王乃《ワガオホキミノ》
 朝庭《アシタニハ》 取撫賜《トリナデタマヒ》
 夕庭《ユフベニハ》 伊縁立之《イヨリダタシシ》
 御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》
 朝?尓《アサカリニ》 今立須良思《イマダタスラシ》
 暮?尓《ユフカリニ》 今他田渚良之《イマタタスラシ》
 御執能《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサユミノ》
 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈里《オトスナリ》
 
【譯】天下を知ろしめす天皇陛下の、朝には愛撫したまひ、夕べには傍にお寄り立ちになつた、御料の梓弓の中弭の音が致します。朝獵に今お出ましになると見えます。夕獵に今お出ましになると見えます。御料の梓弓の中弭の音が致します。
【構成】第一段、初めの中弭ノ音スナリまで。第二段、終りまで。第一段で、事實を敍述し、第二段で、その(55)事實に基づく推量を延べるが、第一段の後半部を繰り返して、事實の敍述を確めている。
【釋】 八隅知之 ヤスミシシ。集中、八隅知之の字面は、この例を併せて二十例あり、外に、安見知之六例、安美知之一例である、これと同語と認められるもの、古事記に夜須美斯志《ヤスミシシ》四例、日本書紀に、夜輸彌始之、野須瀰斯志、野須美矢矢、夜須彌志斯各一例、續日本紀に夜須美斯志一例であつて、これらの文獻に依つて、萬葉集のを、ヤスミシシと讀むのである。この語は、わが大君を修飾するを例とするもので、天皇の威コを稱える内容を有すると考えられるが、語義については、諸説があつて一定しない。それらの諸説を分類すると、ヤスミについて、八隅説を取るものは、釋日本紀、註釋(仙覺)、代匠記であり、安見説を取るものは、冠辭考、古事記傳、古義、美夫君志、正訓等である。今、その代表的なものとして、正訓の説を擧げれば、ヤスミは上一段動詞の未然形、上のシは、敬語の助動詞の連用形、下のシは時の助動詞の連體形と見るのであつて、安く治めなされたの意と解するのであり、語法の説明は、一往これで成立している。但しここに、安ミを、上一段動詞の活用と見るのは、文獻上の支持が無く、無理である。むしろ上一段動詞見ルに、形容詞安の冠せられたものと見るべきである。動詞の見ルに、敬語の助動詞スの接續した例は、「見之賜者」(卷一、五二)、「見之賜而」(卷六、九七一)などあり、假字書きの例としては、「和乎彌佐婆志理之」(常陸國風土記)がある。ただここに問題となり得るのは、萬葉集における多數の用例が、何故すべて知之の文字を用いているかである。これについてシシは知ラスの義であるとなす説がある。知ルの古語に、シスの如きものがあつたかも知れないが、まだその存在が證明されない。この語の解釋上、參考となるべきものとしては、萬葉集に、「日雙斯皇子命」(卷一、四九)、「日竝皇子尊」(卷二、一一〇題詞、一六七題詞)とある御方を、續日本紀に「日竝所知皇子尊」、粟原寺の鑪盤の銘に「日竝御宇東宮」とあることである。これによつて、知之を所知、御宇の義とするのであるが、しかしこの日竝皇子尊は、訓讀が決定しかねるので、これを以つて語義を證明するのは困難で(56)ある。また、母の枕詞タラチネノは本集において、「多羅知斯夜《タラチシヤ》」(卷五、八八六)、「多良知子能《タラチシノ》」(同、八八七)、「垂乳爲《タラチシ》」(卷十六、三七九一)の形を採るものがあり、また播磨國風土記に「多良知志吉備鐵《タラチシキビノマガネ》」とあつて、タラチシを以つて原形とするものの如くであるが、この語義は、足ラシシであろうかと考えられる。これによれは、八隅知之、安見知之の知之も、字音假字として、チシと讀むことも成立すべきである。しかし今しばらく舊訓のままに、ヤスミシシの訓を存置する。この句は、宮廷歌謠において傳誦せられ來たつた句であつて、早くからその語義が忘れられて使用され、或る場合には別の語原解釋をも生じたものと考えられる。かくしてこれを使用することによつて、歴史あり傳統ある皇威が感じられるようになつたのである。
 我大王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミノ(元朱)、ワゴオホキミノ(槻)。集中、オホキミの語を修飾する場合の我の語の假字書きとしては、和期大王五例、和期大皇二例、和其大王、吾期大王、和期於保伎美各一例あり、また和我於保伎美二例であつて、ワゴとあるものが斷然多い。しかもヤスミシシの語を受けているものは、すべてワゴの例中にある。この語は、歴史的に言えば、勿論ワガであるが、そのガがオホキミのオと結合して、音聲で聞く場合には、ワゴーホキミと聞えるのであつて、その寫音がワゴオホキミと記されるのである。これによれば、ここもワゴオホキミノと讀むべきであるが、吾大王の文字は、表意文字として使用されたものであつて、この場合、なるべく文字に即して書くを原則とすべきであるから、今なおワガオホキミノの訓によることとする。この句は、下の取リ撫デタマヒ、及びイ寄リ立タシシの句に對して主格をなすものであつて、大王は、舒明天皇を指し奉つている。オホキミは、本來、天皇に稱し奉る語。ここはその本義に使用され、時に親しみまつる意を以つてワガを冠している。
 朝庭 アシタニハ。アサニハニとする訓もあるが、「安志多爾波《アシタニハ》 可度爾伊?多知《カドニイヂタチ》 由布敝爾波《ユフベニハ》 多爾乎美和多之《タニヲミワタシ》」(卷十九、四二〇九)などの例に依つて、アシタニハと讀むべきである。庭は、助詞ニハをあらわす(57)訓假字として使用されている。下の夕庭も、これに倣うべきである。
 取撫賜 トリナデタマヒ。トリは手に取る意、ナデは愛撫する意の動詞で、熟語を作つているが、トリは接頭語となる傾向にあつて、ナデに意味の中心がある。タマヒは、敬語の助動詞。以上の二句は、下の、夕ベニハイ寄リ立タシシの句と對句をなしている。
 夕庭 ユフベニハ。朝庭の項參照。
 伊縁立之 イヨリダタシシ。
   イヨリタテリシ(元朱)
   イヨリタヽシシ(西)
   イヨセタテヽシ(神朱)
   イヨセタヽシシ(考)
   イヨシタテヽシ(?)
   イヨシタテシ(直好)
   イヨセタテシ(燈)
   イヨリタヽシ(攷)
   イヨシタヽシ(註稿)
   ――――――――――
   伊縁立坐《イヨセタテマス》(墨)
 講義(山田博士)には、緑に動詞としてヨスと讀むべき意義無しとしているが、集中、ヨスに當てて書いていると認められる例は多い。しかしここは、古事記雄略天皇の卷の「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀淤富岐美能《ワガオホキミノ》 阿佐斗爾波《アサトニハ》 伊余理陀多志《イヨリダタシ》 由布斗爾波《ユフトニハ》 伊余理陀多須《イヨリダタス》 和岐豆紀賀斯多能《ワキツキガシタノ》 伊多爾母賀《イタニモガ》 阿世袁《アセヲ》」の例などに依つて、イヨリタヽシヽの訓を採用すべきである。イは接頭語。ヨリは寄る意の動詞。タヽシは動詞立ツに敬語の助動(58)詞の接續したもの。下のシは時の助動詞である。古事記の例に依れは、タタシの上のタは、濁音なるべく、寄り立つを一の熟語と見るべきである。以上の二句は、上の朝ニハ取リ撫デタマヒの句と對句を成し、この句の下のシは、取り撫デタマヒとイ寄リ立タシとの雙方を受けて、下の御執ラシノ梓弓を修飾している。梓弓のもとにお立ち寄りになつた意味の句である。朝な夕なに、御愛撫になりまたはお立ち寄りになつたの意で、それを朝夕と對句に分かつたまでである。
 御執乃 ミトラシノ。ミは敬語の接頭語。トラシは、動詞取ルに敬語の助動詞スが接續して、名詞形を採つたもの、ここでは梓弓を修飾する。御手にお取りになるものの義である。弓をミトラシ、ミタラシというも、この語から出る。
 梓弓之 アヅサユミノ。梓の木で作つた弓、もとアヅサノユミノと、中にノを入れて讀んでいた。この句は、一首中に同句が二度出ていて、原文は前のは御執乃梓弓之とあり、後のは御執梓能弓之とあるので、後のに引かれて、前のをもアヅサノユミノと讀んでいたのである。然るに古事記日本書紀の假字書きの例を見ても、アヅサユミとはいうが、アヅサノユミとはいわない。ツキユミも同斷である。ただ一つ、當集に「安都佐能由美乃」(卷十四、三五六七)の一例があるのみである。これは短歌で、七音の句に當るので、ノを入れたもので、普通はアヅサユミといつたものと見ねばならぬ。古寫本では、元暦校本にこの後の方の句を御執能梓弓之としている。これは前の御執乃梓弓之ともよく一致した書き方である。故にこれに從つて、前をもノを入れずに讀むのである。アヅサの樹については、白井光太郎氏はヨグソミネバリまたはハンザであろうとし、萬葉集講義は方言にヅサと呼ぶ木の一種であろうとしている。
 奈加弭乃 ナカハズノ。
   ナカハスノ(西)
(59)   ナガハズノ(代)
 ――――――――――
   奈留弭乃《ナルハスノ》(考)
   奈加弦乃《ナカツルノ》(考)
   奈利弭乃《ナリハスノ》(玉)
   奈加?乃《ナカツカノ》(攷)
   奈利弦乃《ナリヅルノ》(古義、石原正明)
 奈加弭は、加は利の誤として鳴弭であるとし、長弭であるとも解していた。今萬葉隻講義(山田博士)に、弭は弓と弦または矢のくいあう所で、弓の上下を本弭末弭という。これに對して中間を中弭というとするに從う。弓弭の音については、高市の皇子の殯宮の時の歌に、「取り持てる弓弭《ユハズ》の騷、み雪降る冬の林に、飄風《つむじ》かもい卷き渡ると、思ふまで聞きの恐く」(卷二、一九九)という例がある。
 音爲奈利 オトスナリ。ナリは、強く指定する意の助動詞で、古くは、用言の終止形に接續する。以上第一段。梓弓の奈加弭の音の聞える處で詠んでいる歌意である。
 朝?尓 アサカリニ。朝獵夕獵と分けていうことは、「朝獵爾《アサカリニ》 鹿猪踐起《シシフミオコシ》 暮獵爾《ユフカリニ》 鶉雉履立《トリフミタテ》」(卷三、四七八)、「朝獵爾《アサカリニ》 十六履起之《シシフミオコシ》 夕狩爾《ユフカリニ》 十里※[足+搨の榜]立」(卷六、九二六)などの例がある。朝の狩獵にの意。
 今立須良思 イマタタスラシ。タタスは、動詞立ツに、敬語の助動詞スの接續したもの。ラシは、根據ある推量の助動詞。出發される意になる。以上二句は、下の暮?尓今他田渚良之に對して對句を成している。
 暮?尓 ユフカリニ。夕方の狩獵にの意。
 今他田渚良之 イマタタスラシ。上の今立須良之と同語から成つている。二句ずつから成る對句で、下の一句が同語から成るものには、日本書紀に「くはし女をありと聞きて、よろし女をありと聞きて」(九六、繼體天皇紀)、「あつ取りつま取りして、まくら取りつま取りして」(同)、「萬代にかくしもがも、千代にもかくしもがも」(一〇二、推古天皇紀)など例が多くある。
(60) 御執能梓弓之 ミトラシノアヅサユミノ。もと御執梓能弓之とする本に依つて、ミトラシノアヅサノユミノと讀まれていた。今、元暦校本による。この事は既に上に述べた。
 奈加弭乃音爲奈里 ナカハズノオトスナリ。以上四句。第一段の末の四句を繰り返している。かような例は、日本書紀に「級《しな》照る片岡山に、飯に飢《ゑ》て臥《こや》せる、その旅人あはれ。親無しに汝《なれ》なりけめや、さす竹の君はや無き。飯に飢て臥せる、その旅人あはれ」(一〇四、推古天皇紀)、「打橋のつめの遊びに出でませ子。玉代《たまで》の家《いへ》の八重子の刀自.出でましの悔はあらじぞ、出でませ子、玉代の家の八重子の刀自。」(一二四、天智天皇紀)などの例がある。
【評語】この歌は二段から成つており、それぞれ同一の句法を以つて結んで、重疊の調を成している。偶數句形式で、御執シノ梓弓ノ中弭ノ音スナリと、ほとんど同音數の短句を重ねて結んでいるのは雄勁な古格である。歌いものの正統を傳えたものと云つてよく、獵場で歌いあげたものと解せられる。朝ニハ夕ニハと對句を用い、朝獵ニ暮獵ニと、對句でこれを受けたのも、用意がある。しかし朝と夕と異なる時間を一首中に竝立させ、しかもそれを、今立タスラシと受けたのは、その今が、いずれの時であるかをあきらかにすることができない缺點がある。他の、長歌中に春と秋との景物を竝敍したのと共に、印象の集中を妨げる不利益がある。これは、歌いものとして、調子に乘つて、内容に多くを顧慮しなかつた傾向があり、そこから生じた缺點と、考えられる。
 
反歌
 
【釋】反歌 ヘニカ。カヘシウタ(拾)、タンカ(睡餘漫筆、安井息軒)、ミシカウタ(僻)、ハンカ(美)。普通字音でハンカと讀んでいるが、反は集中「可反流左爾見牟《カヘルサニミム》」(卷十五、三七〇六)、「波也可反里萬世《ハヤカヘリマセ》」(61)(同、三七四八)など、への音に使つているから、ヘニカと讀んだものだろう。前の長歌の反歌である。反歌は長歌のうちの一節が分離獨立したもので、普通短歌形式のものであるが、「み吉野の瀧もとどろに落つる白波、留まりにし妹に見せまく欲しき白浪」(卷十三、三二三三)の歌は旋頭歌である。反歌の數は一首から多いのは六首(卷五、八九七の長歌の反歌)に及んでいる。通例、前に反歌もしくは短歌と記して添えている。本來古代の長歌に、一部を反覆吟唱する性質があり、その歌末の繰り返しの部分がちぎれて獨立すべき素質があつた所に、漢文學中、たとえば、荀子の反辭、離騷の亂というようなものの影響を受けて、獨立したものである。長歌の内容に對して、これを補足し、その一部を繰り返し、別の方面から敍述し、作者の環境を敍するなどの性質を有し、長歌に比して一層詠歎の氣分を集中せしめる性能を有している。本集中でもごく古い長歌にはこれの無いものがあり、比較的新しい歌には毎歌これがある。カヘシウタと讀んで、歌いものの末節を歌い返したから起つたとする説もあつて、そういう性質のあることは認められる。短歌と題してある例(卷一、四六など)があり、何とも題せずに書いてある例(卷五、八一四など)もある。
 
4 たまきはる 字智《うち》の大野《おほの》に
 馬|雙《な》めて  朝踏ますらむ。
 その草深野《くさふかの》。
 
 玉刻春《タマキハル》 内乃大野尓《ウチノオホノニ》
 馬數而《ウマナメテ》 朝布麻須等六《アサフマスラム》
 其草深野《ソノクサフカノ》
 
【譯】大和の宇智の大野原に馬を竝べて、朝お踏み遊ばしてでございましよう。その草の深い野を。
【釋】玉刻春 タマキハル。假字書きの例には、多摩枳波流(卷五、八〇四)、多麻吉波流(卷十五、三七四四)、多末伎波流(卷十七、四〇〇三)、多摩岐波?(日本書紀、神功皇后紀)などある。その外、靈刻(卷四、(62)六七八)、玉切(卷八、一四五五)、玉刻(卷十九、四二一一)、等の字面をも、タマキハルと讀んでいる。靈寸春(卷十、一九一二)をもタマキハルと讀んでいるが、これは傳本に文字の相違あるものがあつて、文證としがたい。また類句としては、「年切《トシキハル》 及v世定《ヨマデサダメテ》 恃《タノメタル》 公依《キミニヨリテシ》 事繁《コトノシゲケク》」(卷十一、三二九八)というのがある。
 玉刻春をタマキハルと讀むにつけて、刻をキと讀むのは、訓キルの頭音を取つたので訓假字であるとされているが、靈刻、玉刻とあるものについては、それでは説明が困難である。玉切とも書いている所を見れば、キハルに刻切の意があるものの如くである。宇智の地に荒木神社があり、新撰姓氏録右京神別に、「玉祖宿禰、神牟須比命十三世孫建荒木命之後也」とあつて、玉を作る人の本居地であるので、玉を切る字智と續き、宮廷の意のウチにも冠し、また後にタマを靈に通わして、命、世にも冠するに至つたものか。眞淵は魂の極まるとし、雅澄は手纏佩くであるとし、他にも説があるが、いずれもまだ定説としがたい。枕詞として、内、命、世等を修飾する。
 内乃大野尓 ウチノオホノニ。字智の大野にである。
 馬數而 ウマナメテ。馬を竝べて。多くの騎乘で獵をされるをいう。數の字を使用しているのは、多數の義による。
 朝布麻須等六 アサフマスラム。フマスは、動詞踏ムに敬語の助動詞スの接續したもの。ラムは、現在推量の助動詞。その終止形である。ここに至つて、長歌に朝獵ニ暮獵ニといつたその夕べの方を消して、朝だけを出している。ここに時刻が明示されたのである。またラムを使用したので、作歌者の位置が、獵の現場で無いことを語つている。これは作者が、中皇命に代つて詠んでいるので、作歌者の位置としては、獵場では無いが、獵場に程近く中皇命の御座所が指定される。
(63) 其草深野 ソノクサフカノ。ソノは、上の朝踏マスラムを受けて、これを代理指示している。草深野は、草の深く生い茂つた野の意で、夏の獵場を描いている。
【評語】この歌は四句で切れ、一旦内容は完結する。五句は更に獨立した句で、草深い野を感歎したものと解すべきである。長歌には季節は無いが、反歌の草深野には、季節がある。夏五月のころ、藥獵を催された時のものと解せられる。推量が中心となつてはいるが、獵場の描寫は具體的であり、印象的なよい歌である。
 
幸2讃岐國安益郡1之時、軍王見v山作歌
 
讃岐の國|安益《あや》の郡に幸《い》でましし時、軍《いくさ》の王の山を見て作れる歌
 
【釋】幸 下の之時と併せて、イデマシシトキと讀む。後漢書、光武紀の註に「天子所v行、必有2恩幸1、故稱v幸」とある。ここに幸とあるは、舒明天皇の行幸をいう。しかし國史には、舒明天皇が讃岐に行幸されたことを傳えない。ただ天皇の十一年に、伊豫の温湯の宮に行幸されたことがあるので、その途中、此處に幸せられたのであろう。但し歌意によれば、行幸の時でなく、この題詞は誤つているかもしれない。遠神の釋參照。
 讃岐國安益部 サヌキノクニアヤノコホリ。安益部は、延喜式に阿野郡とある。今、綾歌郡に編入せられている。高松市より西方の地である。
 軍王 イクサノオホキミ 他に所見が無い。古語に將軍をイクサノキミと訓しているに依れば、大將軍の意であるかもしれない。
 
5 霞立つ 長き春日《はるび》の
 暮れにける わづきも知らず、
(64) 村肝《むらぎも》の 心を痛み
 ?子鳥《ぬえこどり》 うらなけ居《を》れば、
 珠襷《たまだすき》 懸けのよろしく、
 遠つ神 わが大王
 行幸《いでまし》の 山越す風の
 獨《ひとり》座《を》る わが衣手に
 朝夕《あさよひ》に 還《かへ》らひぬれば、
 丈夫《ますらを》と 思へる吾も
 草枕《くさまくら》 旅にしあれば、
 思ひ遣る たづきを知らに、
 網《あみ》の浦の 海處女《あまをとめ》らが
 燒く鹽《しほ》の 念ひぞ燒くる。
 わが下《した》ごころ。」
 
 霞立《カスミタツ》 長春日乃《ナガキハルビノ》
 晩家流《クレニケル》 和豆肝之良受《ワヅキモシラズ》
 村肝乃《ムラギモノ》 心乎痛見《ココロヲイタミ》
 奴要子鳥《ヌエコドリ》 卜歎居者《ウラナキヲレバ》
 珠手次《タマダスキ》 懸乃宜久《カケノヨロシク》
 遠神《トホツカミ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 行幸能《イデマシノ》 山越風乃《ヤマコスカゼノ》
 獨座《ヒトリヲル》 吾衣手爾《ワガコロモデニ》
 朝夕爾《アサヨヒニ》 還比奴禮婆《カヘラヒヌレバ》
 大夫登《マスラヲト》 念有我母《オモヘルワレモ》
 草枕《クサマクラ》 客爾之有者《タビニシアレバ》
 思遣《オモヒヤル》 鶴寸乎白土《タヅキヲシラニ》
 網能浦之《アミノウラノ》 海處女等之《アマヲトメラガ》
 燒鹽乃《ヤクシホノ》 念曾所燒《オモヒゾヤクル》
 吾下情《ワガシタゴコロ》。
 
【譯】霞の立つ長い春の日の、暮れて行つたほども知らずに、家戀しさに心が痛まれてヌエ鳥のように心中に歎いて居ると、ちようど家に還るということを口に出すのが好ましいと同じく、わが大君の行幸された山を越す風が、ひとりでいるわたしの衣服に、朝夕に吹き還るので、立派な男と思つているわたしも、草の枕の旅のことであるから、物思いをなくす手段を知らないで、網の浦の海人の娘子が燒く鹽のように、思いこがれるこ(65)とだ。わたしの心の中が。
【構成】全篇一文でできている。その用意で解すべきである。また枕詞を多く使用している。枕詞は、次の詞句を引き出すことをおもな任務とし、文義には直接の關係の無いのを普通とする。「網の浦の海處女らが燒く鹽の」は旅先の風光を使つて序として、次の燒クルを引き起している。
【釋】霞立 カスミタツ。その時の實際の情景を説明して春の枕詞としているので、全體の空氣を描く上に重要な意義を有している。枕詞でもあり、同時に實際の句でもある。
 長春日乃 ナガキハルビノ。日中の長い春の日の意で、次の暮レニケルに對して主語を成している。
 晩家流 クレニケル。助動詞ニに相當する文字は無いが、意を以つて添加して讀む。集中、かような文例は、はなはだ多い。暮れはててしまつた意である。
 和豆肝之良受 ワヅキモシラズ。
   ワツキモシラス(西)
   ――――――――――
   多豆肝之良受《タツキモシラズ》(玉)
   手豆肝之良受《タツキモシラズ》(古義)
   和肝之良受《ワキモシラズ》(古義)
 ワヅキは、他に所見の無い語である。玉の小琴には、和を多の誤とし、古義には、和を手の誤として、いずれもタヅキモシラズと讀んでいる。また古義の一説に、豆を衍として、ワキモシラズとしている。タヅキは、手段、方法の義で、ここには適わない。ワキは、區別で、ここに通ずるが、文字を衍入としなければならない。未詳の語という外は無い。
 村肝乃 ムラギモノ。群臓腑の義で、心の枕詞になつている。古代、臓腑の中に人の精神が宿つていると考えられていたので、この枕詞を生じた。「村肝之《ムラギモノ》 情摧而《ココロクダケテ》」(卷四、七二〇)など、心に冠する。
(66) 心乎痛見 ココロヲイタミ。「何(名詞)ヲ何(形容語)ミ」という語法上の型になるもので、心が痛くしての意をあらわす。風ヲイタミ、月ヲ清ミなど、この例である。痛ミは、動詞イタムのミ活用であつて、打撃を受ける意である。ヲは助詞であるが、月清ミなど、ヲ無くしても使用する。
 奴要子烏 ヌエコドリ。多くヌエドリと言つている。コは愛情をあらわして添えた語。鮎を「阿由故《アユコ》」(卷五、八五九)という類である。この鳥、フクロウ、コノハズクの類の夜鳴く鳥の總稱という。この説、是なるが如くである。また普通には、今、トラツグミという燕雀類の一種という。悲しげな聲で鳴くので、歎ク、ノドヨフなどの枕詞として使用される。
 卜歎居者 ウラナケヲレバ。ウラフレヲレハ(元墨)、ウラナケキヲレハ(元赭)、ウラナキヲレハ(西)、ウラナゲヲレバ(代初書入)。參考とすべき例としては、「奴延鳥之《ヌエドリノ》 裏歎座津《ウラナケマシツ》」(卷十、一九九七)、「奴延鳥《ヌエドリノ》 浦嘆居《ウラナケヲリト》 告子鴨《ヅゲムコモガモ》」(同、二〇三一)があり、裏歎、浦嘆を、四音に讀むべき場處に當てている。また「奴要鳥能《ヌエドリノ》 宇良奈氣之都追《ウラナケシツツ》」(卷十七、三九七八)の例があつて、宇良奈氣を以つて、名詞を作つている。動詞泣ク、鳴クは、普通に四段活として知られているが、「安乎禰思奈久流《アヲネシナクル》」(卷十四、三四七一)の如く、ナクルの形もあつて、二段活のあつたことが推測される。そうしてウラナケの如き名詞形のあるによれば、下二段活と見るべく、よつて此處も、ウラナケヲレバと讀むべきである。下二段活のナクは、使役の意になるものとされているが、それはやや新しい語法であり、古くはむしろ所能の意味になり、他の刺戟に依つて泣くことが餘義無くされる意と解せられる。ウラは、内面的で表面にあらわれないことをいう。ここは、表面にあらわれないで心中に泣いておれはの意である。
 珠手次 タマダスキ。タマは美稱。タスキは肩に懸けるものなので、懸クの枕詞となる。次をスキと讀むことは、日本書紀、天武天皇の紀に、齋忌次とあるに註して、「次、此云2須岐1。」と見えている。
(67) 懸乃宜久 カケノヨロシク。縣は元暦校本、神田本、類聚古集等による。懸と同意である。言葉にかけることが都合よくの意で、句を隔てて、下の朝夕ニ還ラヒヌレバに對して、副詞句となつている。還るという語は、大和に帰ることの意味を含む語であるから、口にすることが好ましいというのである。「子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山岸に霞たなびく」(卷十、一八一八)などある。また遠ツ神ワガ大王云々の内容を説明するものとも見られる。
 遠神 トホツカミ。天皇は神聖にして、凡人の境界に遠いのでいう枕詞と解せられている。しかしこれは、この長歌の大君を、現在の天皇と解することを基礎とした解釋であるが、もし過去の天皇の行幸をいうと解するならば、遠ツ神は、過去に出現して今は神となられた方の義に解すべく、語義からいえば、その方が自然である。「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の幸行《いでまし》處」(卷三、二九五)の用例も、過去の天皇の意に、ワガ大君を修飾している。題詞に、幸讃岐國安益部之時とあることが、どのくらいの權威を與えるかも、從つて問題となる。これが歌詞によつて作られた題詞で無いとも保證されない。一體、この歌の歌品は、もつと新しく、舒明天皇時代の作とは思えないので、この句にいうところも、昔の天皇の行幸を追想して詠んでいるのでは無かろうか。それも舒明天皇が、伊豫の熟田津に幸せられたことを想起して、行幸ノ山越ス風と歌つているのでは無いだろうか。
 吾大王乃 ワガオホキミノ。下の行幸に對して、領格を成している。
 行幸能 イデマシノ。行幸は、イデマシ、ミユキの二訓がある。イデマシは、假字書きの例は無いが、歌中、行幸、幸行、幸の諸字面を、多く四音の場處に使用しており、此處も四音の處に當ててあるので、イデマシと讀むべきが如くである。またミユキは、「君之三行者《キミガミユキハ》」(卷九、一七四九)の一例がある。
 山越風乃 ヤマコスカゼノ。
(68)   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマコスカゼノ(燈)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ヤマゴエノカゼノ(打聽)
   ヤマコシノカゼノ(西)
   ――――――――――
   山越風爾《ヤマコスカゼニ》(檜)
ヤマコシノカゼノとも讀まれるのは、反歌の詞によるのであるが、此處は七音に當る句であるから、ヤマコスカゼノと讀むがよい。この句は、下の還ラヒヌレバに對して主語となつている。
 獨座 ヒトリヲル。作者の動作で、次の句に對して修飾句を成している。
 吾衣手尓 ワガコロモデニ。衣手は、衣服をいう。テは接尾語で、衣服には手の部分(横に出ている部分)があるから、附けていう。「敷細乃《シキタヘノ》 衣手易而《コロモデカヘテ》」(卷四、五四六)など、全衣の義である。但し、衣袖、衣袂の字を當てているものもあつて、衣服の袖の義をも生じている。
 朝夕尓 アサヨヒニ。安佐欲比爾(卷十七、四〇〇六)など、アサヨヒニというが、アサユフニの例は無い。山越す風の吹き來る時刻を指示している。これはその常に吹くことを語るものであるが、しかし初めに、春の夕碁の敍述があるので、ここに朝夕にというのは、印象の集中を妨げる缺點がある。
 還比奴禮婆 カヘラヒヌレバ。カヘラヒは、動詞還ルの未然形に、その繼續進行をあらわす助動詞フの接續したもの。風が、衣に絶えず吹き飜ることを歌つている。この語法は、集中に例が多く、またそのフに當るところに、合、相の字を書いたものが多い。これはもと合フの語から出たものの如く、その動詞の内容が、たがいに行う意を元すもので、その意を殘していると認められるものもすくなくない。それからして繼續進行の意に展開したものである。
 大夫登念有我母 マスラヲトオモヘルワレモ。美夫君志に、大夫は、大丈夫の略であるとしているが、遊仙窟にも大夫の字を使用しているのを見れば、大夫に立派な男子の義ありとすべきである。これをマスラヲと讀(69)むのは、古くより慣用する訓である。マスラヲは、増荒男の義といい、集中、「益荒夫《マスラヲ》」(卷九、一八〇〇)、「益荒丁子《マスラヲノコ》」(同、一八〇一)の用例があり、また「健男《マスラヲ》」(卷十一、二三五四)、「建男《マスラヲ》」(同、二三八六)をもマスラヲと讀んでいる。マスラヲは、勇氣あり思慮ある男子の謂であつて、當時の男子の目標とする所である。マスラヲト念ヘル吾の句は、當時の男子の自負を語るものとして注意される。「大夫と念へる吾も敷細の衣の袖は通りて沾れぬ」(卷二、一三五)、「大夫と念へる吾をかくばかりみつれにみつれ片念ひをせむ」(卷四、七一九)、「大夫と念へる吾や水莖の水城《みづき》の上に涙|拭《のご》はむ」(卷六、九六八)、「大夫と念へる吾をかくばかり戀せしむるはあしくはありけり」(卷十一、二五八四)、「天地に少し至らぬ大夫と思ひし吾や雄心も無き」(卷十二、二八七五)など、マスラヲとしてあるまじきことを言い、いずれもマスラヲト念へル吾の自省が歌われている。
 草枕 クサマクラ。族の枕詞。古代の旅行には、草を枕とするよりいうとされる。
 客尓之有者 タビニシアレバ。客は、客旅の義に使用している。シは、強意の助詞。その上にある詞句の意を強調する。この句では、旅ニを強調している。
 思遣 オモヒヤル。思念を放しやる意。オモヒは動詞で、ヤルと結合して熟語を作つている。心の動作として、思念することの無い?態になるをいう。思いを遣るという言い方では無く、また後世の想像する義ではない。思ヒ亂ル、思ヒ止《や》ム、思ヒ忘ルなど、同樣のいい方である。假字書きの例には、「和賀勢故乎《ワガセコヲ》 見都追志乎禮婆《ミツツシヲレバ》 於毛比夜流《オモヒヤル》 許等母安利之乎《コトモアリシヲ》(卷十七、四〇〇八)などある。
 鶴寸乎白土 タヅキヲシラニ。鶴寸、および白土は、訓假字として使用されている。手著ヲ知ラニの義である。タヅキは、手段、方法。シラニのニは、打消の助動詞ヌの古い活用形で、その中止形である。このニは、自由な活動を失つて、わずかに、知ラニ、飽カニ、ガテニの如き、熟語的な用法においてのみ使用されていた。(70)この句は副詞句である。「雖v念《オモヘドモ》 田付乎白二《タヅキヲシラニ》」(卷四、六一九)などの用例がある。タヅキは、タドキともいう。「世武須便乃《セムスベノ》 多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》」(卷五、九〇四)などある。
 網能浦之 アミノウラノ。
   アミノウラノ(元墨)、
   ――――――――――
   綱能浦之《ツナノウラノ》(僻)
   綱能浦之《ツナノウラノ》(考)
   綾能浦之《アヤノウラノ》(古義、大町稻城)
 網の浦は、地名。所在未詳であるが、多分讃岐の安益の郡にある地名であろう。作者の現にいる地となすべきである。萬葉考に網を綱の誤としているが、そのような傳本は無い。
 海處女等之 アマヲトメラガ。海人中の苦い女のの義。處女は未通女とも書き、未婚の女子の義であるが、ヲトメの語は、かならずしも婚姻の有無に拘泥しない。つまりヲトメは、若い女の總稱で、その中に、處女、未通女の文字の當る者もあるのである。此處も外觀に依つていうので、處女の字に拘泥するに及ばない。鹽を燒く女たちを美しく言いあらわしたものと見るべきである。
 燒塵乃 ヤクシホノ。當時の製鹽法は、海藻に海水を浸ませ、これを蒸發せしめて鹽分の濃厚になつたものを燒いて鹽を採るという。それで燒くという。網ノ浦ノからこの句まで、次の念ヒゾ燒クルを引き出すための序である。燒く鹽の如く燒くると、譬喩に言つている。近邊の風物を敍して、一面には敍景的效果を期し、一面にはこれを利用して序としたのである。序には、本文の内容に關係あるもの、全然關係無く意外感を與えるもの、また同音韻を利用するもの等、種々の用法があるが、此處はその最初の類に相當する。
 念曾所燒 オモヒゾヤクル。オモヒソモユル(考)。本集における所の字の用法には數種あるが、そのもつとも廣く使用されるのは、受身の意をあらわすものであつて、此處もその用法である。「人不v見者《ヒトミズハ》 我袖用手《ワガソデモチテ》(71)將v隱《カクサムヲ》 所v燒乍可將v有《ヤケツツカアラム》 不v服而來來《キセズテキニケリ》(卷三、二六九)の所燒も、これと同樣の用法である。動詞燒クは、四段活用が普通であるが、受身の意味になる時に下二段活になる。依つて右の所燒乍可將有も、ヤケツツカアラムと讀まれる。假字書きのものには、「鶯能《ウグヒスノ》 奈久久良多爾々《ナククラタニニ》 宇知波米?《ウチハメテ》 夜氣波之奴等母《ヤケハシヌトモ》 伎美乎之麻多武《キミヲシマタム》」(卷十七、三九四一)がある。今の場合は、係助詞ゾを受けて連體形に讀むのであるから、ヤクルと讀む。思ヒ燒クの例は無いが、情ヤク、胸ヲヤクとはいう。「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》」(卷七、一三三六)、「吾妹兒爾《ワギモコニ》 戀爲便名鴈《コヒスベナカリ》 胸乎熱《ムネヲアツミ》 旦戸開者《アサドアクレバ》 所v見霧可聞《ミユルキリカモ》」(卷十二、三〇三四)。二個の動詞の中間に助詞ゾが插入される場合は、ゾは上の動詞の意を強調する性能を有するのであるが、意味は、上の動詞と下の動詞とを直に結合せしめて解すべきである。「呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》」(卷一、七〇)、「止曾金鶴《トメゾカネヅル》」(卷二、一七八)、「在曾金津流《アリゾカネヅル》」(卷四、六一三)の如き、その例である。この句は、終止形であつて、下の吾下情を主格として、それの動作を敍している。燒く鹽の燒くると云つて呼應するのであつて、燒をモユルと讀むべしとする説は否定される。
 吾下情 ワガシタゴコロ。ワガシヅゴコロ(考)。心の底、心裏の義。「吾屋前之《ワガニハノ》 毛桃之下爾《ケモモノシタニ》 月夜指《ツクヨサシ》 下心吉《シタゴコロヨシ》 菟楯頃者《ウタテコノゴロ》」(卷十、一八八九)。
【評語】この前に出ている數首の歌が、歌いものの系統を傳えて、短文を組み重ね、感動的な表現であるのに對して、この歌は、全篇一文から成り、順序を守つて進行するが如き敍述法を取つている。歌中にも獨居ル我ガ衣手とあるように、獨語性の歌であつて、文筆的作品としての性格が、確立している。枕詞を多數使用し、序をも使用して、詞句の修飾に苦心している跡が見え、これは煩わしくさえ感じられる。また副詞句が、數句を隔てて下の句を限定するなど、明快を缺く憾みが無いでもない。對句を使用しないのは、文筆作品たる傾向を強くする。前出の長歌に比して、滑らかさにおいて劣つているのは、知識者の文筆に依る創作であるからで(72)ある。形式は、長歌形式の定型に到達している。霞立つ長き春日のいつしか暮れはてた情景から説き起しているのは、全體の空氣を作る上に效果が多く、山を越して吹いて來る風に郷愁を催している心境も相當に描出されている。この歌は、舒明天皇の時代の作品として、配列されているけれども、文筆性の内容を有し、形式も整備して、作り歌である性質が濃厚であつて、實際の時代は、もつと降つて、藤原の宮時代以後のものではないかとも思われる。マスラヲト思ヘル吾の句や、歌中に長い序を有することなども、新しい時代の作品であることを語つているように見える。
 
反歌
 
6 山越しの 風を時じみ、
 寢《ぬ》る夜おちず
 家なる妹を 懸けて思《しの》ひつ。
 
 山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》
 寢夜不v落《ヌルヨオチズ》
 家在妹乎《イヘナルイモヲ》 懸而小竹櫃《カケテシノヒツ》
 
【譯】山を越して吹いて來る風が、時はずれに吹くので、寢る夜ごとに、家にいる妻を、心に懸けて戀い慕うことだ。
【釋】山越乃 ヤマゴシノ。長歌の、山越ス風の句を受けて、反歌を起している。長歌の詞句の一部を反歌に使うことは、例が多い。これは長歌と反歌との關係を深からしめる上に役立つものである。
 風乎時自見 カゼヲトキジミ。上に説明した心ヲ痛ミと同じ語法、風が時じくしての意、時ジは、時ジケ、時ジク、時ジキ・時ジミの用例を有し、形容詞と同樣の活用形を有する語と認められる。「河上乃《カハカミノ》 伊都藻之花乃《イツモノハナノ》 何時伊時《イツモイツモ》 來益我背子《キマセワガセコ》 時自異目八方《トキジケメヤモ》」(卷四・四九一)、「時自久曾《トキジクゾ》 雪者落等言《ユキハフルトイフ》」(卷一、二六)・「登(73)岐士玖能《トキジクノ》 迦玖能木實《カクノコノミ》(古事記中卷)、「冬木成《フユゴモリ》 時敷時跡《トキジキトキト》 不v見而往者《ミズテユカバ》 益而戀石見《マシテコホシミ》(卷三、三八二)。名詞に語尾ジが接續して形容詞類似の形態を作るものには二種がある。一種は、鴨ジモノ、犬ジモノの類であつて、ジは、その如きの意を成すようである。今一種は、この時ジであつて、このジは、打消の意味を有するものと考えられる。そこで、その時にあらざるの意味をあらわすのであるが、これを、斷えざるの意に解する説(代匠記等)と、時を定めずの意に解する説(考)と、その時ならざるの意に解する説(古事記傳)とが出ている。しかし上の語例のうち、河上ノ伊都藻ノ花の例、冬ゴモリ時ジキ時の例の如き、その時ならざる意に解すべきであつて、これを正説とすべきである。今の歌の意は、春の頃であつて、風の強く吹くべき時節ではないのに、しかも吹くのでの意で、相當の強風、もしくは寒風について歌つているであろう。以上二句は、下の三句に對して根據となることをあげている。
 寢夜不落 ヌルヨオチズ。寢る夜は落つることなくの意で、連夜である。「眼夜乎不v落《ヌルヨヲオチズ》 夢所v見欲《イメニミエコソ》」(卷十三、三二八三)などの例がある。
 家在妹乎 イヘナルイモヲ。イヘニアルイモヲ(元)、イヘナルイモヲ(考)。ニに相當する文字無く、在の字のみで、ニアリと讀むべき例は、「此間在而《ココニアリテ》 筑紫也何處《ツクシヤイヅク》」(卷四、五七四)、「玉緒《タマノヲノ》 念委《オモヒシナエテ》 家在矣《イヘニアラマシヲ》」(卷七、一二八〇)、「榜間《コグホドモ》 極太戀《ココダグコホシ》 年在如何《トシニアラバイカニ》」(卷十一、二四九四)など多くの例がある。ニアリは、約してナリともいい、兩方とも集中に假字書きされたものがある。ニアリは歴史的であり、ナリは表音的である。これは書き方の問題である。
 妹は、婦人に對する愛稱であつて、夫婦關係、兄弟關係、朋友關係等、いかなる關係においても使用され、また女子相互にも使用される。ここは夫婦關係で、妻をいう。この家は、わが家で、そこに妻と住んでいたものであろう。
(74) 懸而小竹櫃 カケテシノヒツ。カケテは、「妹登曰者《イモトイフハ》 無禮恐《ナメシカシコシ》 然爲蟹《シカスガニ》 懸卷欲《カケマクホシキ》 言爾有鴨《コトニアルカモ》」(卷十二、二九一五)の如きは、口にかけていう意であるが、ここは心にかけてであろう。「留有吾乎《トマレルワレヲ》 懸而小竹葉背《カケテシノハセ》」(卷九、一七八六)などの例がある。小竹は、訓を借りてシノの音を寫している。櫃も訓假字である。シノヒは、ハ行四段に活用し、活用語尾は、假字書きのものすべて清音である。シノフには數義がある。一、思慕する。「念思奈要而《オモヒシナエテ》 志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》(卷二、一三一)、二、想像する。「秋芽子之《アキハギノ》 上爾白露《ウヘニシラツユ》 毎v置《オクゴトニ》 見管曾思怒《ミツツゾシノフ》 君之光儀呼《キミガスガタヲ》」(卷十、二二五九)、三、賞美する。「黄葉乎婆《モミヂヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》」(卷一、一六)。ここは思慕する意であるが、元來この語は想像して思慕するのが本意であろう。なお忍耐する意のシノブは、上二段活用で、ノは乙類、ブは濁音で、この語とは別である。その用例、「和我世故我《ワガセコガ》 都美之手見都追《ツミシテミツツ》 志乃備加禰都母《シノビカネツモ》」(卷十五、三九四〇)。
【評語】この歌は、長歌の意をつめて、殊に眞意のあるところをあきらかにしたものである。長歌では、わずかに歸ることを口にかけることも好ましいといつただけで、他の憂憤は何によるのかあきらかにしてないが、この反歌に至つて、家ナル妹ヲカケテシノヒツと明言している。その直接衝動として、山越シノ風ヲ時ジミと敍したのも、有力な手法である。長歌には、やや冗漫の嫌があつたが、これは短歌であるだけにそういう弊も無く、長歌よりもよく纏まつている。
 
右檢2日本書紀1、無v幸2於讃岐國1。亦軍王未v詳也。但山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己己朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、云是時宮前在2二樹木1。此之二樹、班鳩此米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之、乃作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
 
(75)右は日本書紀を檢ふるに、讃岐の國に幸《い》でましし事なし。また、軍の王いまだ詳ならず。但し山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、天皇の十一年己亥の冬十二月の己巳の朔にして壬午の日、伊豫の温湯《ゆ》の宮に幸でましき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》比米《ひめ》二つの鳥|太《いた》く集れり。時に勅して多く稻穗をかけてこれを養ひたまふ。すなはち作れる歌云云といへり。けだし疑はくはこの便より幸《い》でまししか。
【釋】萬葉集には、歌の後に、作者または作歌事情等に關して記事を加えているものがある。攷證などには、後の人のしわざであるとしているが、その記事中には舊本ニヨリテナホコノ次ニ載ス等の文を有するものがあつて、本集の編纂に關與した人の筆のあることはあきらかである。中には後人の記事の、誤つて本文となつたものも絶無であるとは云い難いであろうが、さような證明の無い限りは、本集の成立當時からあつたものと見てよいであろう。
 日本書紀。續曰本紀の養老四年の條には、日本紀三十卷とあり、その他、古書に引く所は、多く日本紀とある。ここに日本書紀とあるは、書の字のある最古の文献である。但し本集にも、他には日本紀とするものもある。
 無幸於讃岐國。日本書紀には、舒明天皇の讃岐の國に行幸のあつたよしの記事が無い意である。
 亦軍王未詳也。また軍の王のいかなる人であるか知り難いよしである。これは日本書紀以外にもわたつての記事であろう。
 山上憶良 ヤマノウヘノオクラ。本集の歌人として著名の人である。續日本紀、大寶元年正月、粟田の朝臣眞人を遣唐執節使とし、無位山於の憶良を少録とすとあり、靈龜二年四月には、伯耆の守となり、養老五年正月には、退朝の後、東宮に侍せしめられた。本集では、天平二年に、筑前の守であつたことが知られ、その作(76)の沈痾自哀文(卷五)には、天平五年に年七十四であつたと記している。その年に病氣であつたことが傳えられ、その年以後の消息を傳えないところを見ると、まも無く死んだことと思われる。山上氏は、新撰姓氏録に、「山上朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦國忍人命之後也、日本紀合」とあるによれば、柿本氏と祖を同じくしている。
 大夫 マヘツギミ、ダイブ。歌中にあつては、マスラヲと讀み大丈夫の義に使用されるが、散文中では四位五位の人に對する敬稱として使用される。
 類聚歌林 ルズカリニ。集中九箇所にその名が見えている。書名及びその引用の記事によるに、古歌を分類輯録し、作歌事情等をも記載した書と考えられる。萬葉集には類聚歌林から歌を採録してはいない。これは萬葉集の編纂が、類聚歌林を一つの成書として尊重していたことを語る。この書、今傳わらない。平安時代には、永承五年四月二十六日の正子内親王歌合に、「おくらが歌林とかいふなるより、古萬葉集までは、心も及ばず」、藤原清輔の袋草子に、「山上憶良類聚歌林一本書也。在2同寶藏1云々」。同寶藏というは法成寺の寶藏である。和歌現在書目録の序に「憶良臣傳2舊聞1以集2歌林1。」同假字序に「奈良の御門萬葉をえらひ、憶良臣哥林をあつめしよりは、」同書の類聚家の條に、「類聚歌林憶良在平等院寶藏」、藤原俊成の古來風體抄に、「又そのかみはことに撰集などいふこともなかりけるにや、ただ山上憶良といひける人なむ類聚歌林といふ物をあつめたりけれど、勅事などにもあらざりければにや、殊にかきとどむる人もすくなくやありけん、代にもたへてつたはらず、みたる人もすくなかるべし。ただ萬葉集のことばに山上憶良が類聚歌林に曰などかきたるばかりにぞさる事ありけりと見えたる。宇治の平等院の寶藏にぞあなるときくとぞ、少納言入道通憲と申ものしりたりしものむかし鳥羽院にてものがたりのつゐでにかたり侍し」。しかし平等院にあるという噂ばなしだけで、見たという人も無く、その文を引用した書も無い。また正倉院文書の寫私雜書帳に、天平勝寶三年に、市原の王の歌林という(77)書を寫したことが傳えられている。これに關する記事は、次の通りである。
  六月三日來歌林七卷 玄蕃頭王書者 收水主
  七月二十九日進送書十四卷 七卷本七卷今寫用紙百廿八帳 見請紙二百張
 これによれば、七卷あつて用紙百二十八張を要したことが知られる。一卷平均十八張強に當るが、一張は大凡一尺七寸内外であるから相當の長卷であつて、内容も豐富であつたものと推考される。この歌林が、憶良の撰の類聚歌林と同書であるか否かはあきらかで無い。但し憶良の撰は、普通に類聚歌林という書と解せられているが、山上憶良大夫類聚歌林という句は、山上憶良が類聚せる歌林の義とも解せられる。本集に引用したうちの八箇所までは、山上憶良大夫類聚歌林、山上憶良臣類聚歌林、山上臣憶良類聚歌林等と記し、ただ一箇所、卷二、二〇二の歌の左註にのみ、類聚歌林とだけ記している。この下の曰の下が類聚歌林の文で、乃作歌までがその文である。
 記曰 キニイハク。類聚歌林の引用文であるが、記というのは、日本書紀のことであろうとされている。それは、この記の内容が、日本書紀の記事と一致するからである。攷證は、意を以つて記を紀に改めているが、紀に作つている本は無く、もとのままで日本書紀のこととすべきである。琴歌譜にも日本記とある。
 己巳朔壬午 ツチノトミノツキタチニシテミヅノエウマノヒ。干支を以つてその日を指示したもので、十二月の朔日が己巳で、それから數えて壬午に當る日の義。十四日に當る。
 伊豫温湯宮 イヨノユノミヤ。伊豫の國の温泉の涌出せる地の宮。今の松山市の道後温泉の地にあつた行宮である。
 云々 シカジカ。なおその文の續行するを下略する時に使用する。如是如是の義に依つて、シカジカと讀む。日本書紀の文は、別に續行するものが無いが、類聚歌林にはなお文のあつたのを中斷したのであろう。
(78) 一書 アルフミニ。これも類聚歌林に引用する所であつて、下の乃作歌までがその文である。この一書は、伊豫國風土記の謂であろうとされている。伊豫國風土記は逸書であるが、仙覺の萬葉集註釋に引く所は次の如くである。文は、伊豫の國の温泉に、天皇等の幸すること五度とする。その中の一度に關する記事である。「以2岡本天皇并皇后二躯1爲2一度1。于v時、於2大殿戸1有v椹云2臣木1、於v其集v上鵤與2比米鳥1。天皇爲2此鳥1、枝繋2穗等1養賜也。」この文は、此處の一書の文と一致しない。よつて、別書であろうとされる。但し、その文を引くに當つて、類聚歌林なり、萬葉集なりが、多少の變改を加え、意を取つて記しているかも知れない。
 是時 コノトキ。舒明天皇と皇后(後の皇極天皇)との行幸の時をいう。
 二樹木 フタツノキ。風土記の文によると、椹と臣の木とである。椹は、日本書紀、天武天皇紀に、「堪、此云2武矩1」とある。椋《むく》である。臣の木は、モミの古名と解せられている。山部赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の一節に、「み湯の上の樹群《こむら》を見れば、臣の木も生ひ繼ぎにけり、鳴く鳥の聲も變らず」(卷三、三二二)。
 斑鳩 イカルガ。風土記には鵤とある。鳴禽顆の一種。鳩ぐらいの大きさ。背および腹は灰色、翼および尾羽は黒色で青い光澤がある。
 比米 ヒメ。島名。倭名類聚鈔に、「陸詞、?音黔、又音琴、漢語抄云比米。白喙鳥也」とある。今の何の鳥であるかをあきらかにしない。但しこの比を、細井本大矢本系統には此に作る。今、元暦校本等の古本による。この島名、卷の十三、三二三九の歌にも出て、「下枝爾《シヅエニ》 比米乎懸《ヒメヲカケ》」また、「伊蘇婆比座與《イソバヒヲルヨ》 伊加流我等比米登《イカルガトヒメト》」とあり、その二つの比を、古本系統に比に作るに對して、仙覺本系統には此に作つている。これによつて、すべて此米とする説もあるが、萬葉集にあつては古本系統、風土記にあつては萬葉集註釋引用の文に、比米とあるものを、悉く此米の誤りとするは妄斷である。但し、此米という鳥もある。倭名類聚鈔に、「孫?曰、?音脂、漢(79)語抄云之女。小青雀也。」燕雀環の一種。雀よりやや大きい鳥である。
 若疑 ケダシウタガハクハ。以下、萬葉集の編者の按文である。
 從此便 コノタヅキヨリ。伊豫の國に行幸された便宜に、讃岐の國にも行幸されたのであろうという編者の意見である。此ヨリスナハチと讀む説もあるが、行幸を此の一字であらわしたとするは無理である。
 
 明日香川原宮御宇天皇代 天豐財重日足姫天皇
 
【釋】明日香川原宮 アスカノカハラノミヤ。日本書紀、齊明天皇紀に、「元年春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、即1天皇位於飛鳥板蓋宮1。」また「是冬、災2飛鳥板蓋宮1。故遷2居飛鳥川原宮1。」ここに遷居とあるによつて、明日香の川原の宮にましましたのは、齊明天皇の御代とされる。川原の地は、飛鳥川の左岸、川原寺などある附近であろう。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。皇極天皇の御事、日本書紀、皇極天皇紀に、この名を掲げて、「重日、此云2伊柯之比1」とある。天皇は、敏達天皇の曾孫、押坂の彦人大兄の皇子の子茅渟の王の王女で、舒明天皇の皇后となり、舒明天皇の崩後、即位せられ、これを皇極天皇と申し、後重祚して齊明天皇と申す。天智天皇、天武天皇の御母である。
 
額田王歌未v詳
 
【釋】額田王 ヌカダノオホキミ。日本書紀、天武天皇紀に、「天皇、初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1。」とある。鏡の王は、尾山篤二郎氏の研究(萬葉集大成作家研究篇)に、奈良縣北葛城郡の穴蟲から出土した金屬製の骨壺の銘文に、「卿(威名の大村)、諱大村、檜前五百野宮御宇天皇之四世、後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第(80)三子也」とあるのを證として、威奈の鏡の公のことであるとし、その威奈氏は、新撰姓氏録左京皇別に「爲名眞人。宣化天皇皇子火?王之後也。日本紀合」とあるのに合わせて、宣化天皇の四世の孫とし、額田の王は、その威奈の鏡の公の女で、姉に鏡の王女(藤原の鎌足の妻)があるとする。
 女王を王と書くことは、古事記に衣通の王等あり、本集にも丹生の王など、例の多いことである。額田は地名。奈良縣生駒郡。實名は、傳わらない。王をオホキミと讀むのは、「打麻乎《ウチソヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》」(卷一、二三)と、王を四音のところに書いてあるによる。平安時代にも、何のオホキミと稱することは殘つていた。額田の王、初め天武天皇の皇子にましました時代に召されて十市の皇女を生み、後、天智天皇の近江の大津の宮に召され、晩年は大和に歸つて持統天皇の御代に及んだ。豐麗な詞句に依つて純情を吐露される。萬葉時代初期を代表する歌人というべきである。
 未詳 イマダツバビラカナラズ。額田の王のいかなる方であるかについて未詳というのであろう。詳、類聚名義抄に、ツハヒラカニ、アキラカニの訓があり、よつて、未詳をイマダアキラカナラズとも讀まれる。
 
7 秋の野の み草《くさ》刈《か》り葺《ふ》き 宿れりし
 菟道《うぢ》の宮處《みやこ》の 假廬《かりほ》し念ほゆ。  
 
 金野乃《アキノノノ》 美草苅葺《ミクサカリフキ》 星杼禮里之《ヤドレリシ》
 兎道乃宮子能《ウヂノミヤコノ》 借五百磯所v念《カリホシオモホユ》
 
【譯】秋の野のススキを刈り取つて屋根に葺いて宿つていた、あの兎道の行宮の假小舍が、思い出される。
【釋】金野乃 アキノノノ。金をアキと讀むのは、中國の五行説にもとづいている書き方である。五行というのは、宇宙間のあらゆる事象を、木火土金水の五行に配當して説明する方法であつて、四季を五行に配當するに、木は春、火は夏、土は土用、金は秋、水は冬に當てる。それで金をアキと讀むのである。その他、五方、五色の配當は、次の如くである。
(81) 五行 木  火  土  金  水
   五方 東  南 中央  西  北
   五色 育  赤  黄  白  黒
   五時 春  夏 土用  秋  冬
本集には、しばしば五行に依つて文字を使用している。金を秋に當てているのは、「金待吾者《アキマツワレハ》(卷十、二〇〇五)、「金風《アキカゼ》」(卷十、二〇一三)、「金山《アキヤマ》」(卷十、二二三九)などがある。その他「白風《アキカゼ》」(卷十、二〇一六)、「シロ〓子《アキハギ》」(卷十、二〇一四)、「事毛告火《コトモツゲナム》」(卷十、一九九八)、「二二火四吾妹《シナムヨワギモ》」(卷十三・三二九八)。火をナムに用いたのは、南の義によるのである。
 美草苅葺 ミクサカリフキ。ヲハナカリフキ(元)、ミクサカリフキ(元赭)。美草は、延喜式に「以2黒木1爲v輿飾以2美草1」とあるが、その美草は、賢木、弓弦葉、日蔭蔓、檜葉の類をいうのであつて、ここにいうのとは關係が無い。ここはススキ、カヤのような立派な草の義である。刈り葺きは、刈り取つて屋根に葺く意。
 屋杼禮里之 ヤドレリシ。動詞宿ルに、助動詞リの連用形リが接續し、それにまた助動詞キの連體形シが接續した形。過去に宿つておつたことをあらわす語法。この語法の例は、集中に多い。宿レリのような接續は、四段、サ變の動詞に限つて、助動詞リの接續するものである。カ變動詞にも接續するが、變形なので、しばらく別として、そのほかの場合は、動詞の已然形に接續するとされていたが、カ行、ハ行、マ行に活用する動詞の場合、そのケ、ヘ、メは、いずれも甲類の音なので、これは已然形ではなく、いわゆる命令形であることが知られる。宿ルのようなラ行活用の場合は、レに甲乙の二類はないが、他に准じていえば、已然形とはいえないことになる。助動詞リは、動詞アリと祖語を同じくするものの如く、ここに音韻變化の基礎が存するものであろう。
(82) 兎道乃宮子能 ウヂノミヤコノ。兎道は、山城の國の宇治。左註にいうように、大和から近江に行幸の途次、ここに行宮を營まれたので宮子というのであろう。宮子は京の義。行宮にても皇居のある處、これをミヤコという。「瀧之宮子波《タギノミヤコハ》 見禮跡不v飽可聞《ミレドアカスカモ》」(卷一、三六)の宮子は、吉野の離宮を稱している。宇治は、宇治の稚郎子《わきいらつこ》が、宮作りしておられた地であるから、それでミヤコというかもしれない。「宇治若郎子宮所歌一首」(卷九、一七九五題)。
 借五百磯所念 カリホシオモホユ。カリホシソオモフ(元)、カリイホオモホユ(類)、カリイホシソオモフ(古葉)、カリホシシノハル(僻)、カリホシオモホユ(考)。カリホは、カリイホの約。假廬の義。イホは元來簡素な屋舍をいうのであるが、それに更に假の語を添えて、一時的の旅の小舍であることをあきらかにしている。シは強意の助詞。上出の「草枕旅にしあれば」のシに同じ。オモホユは、自分には思われるの義で、受身である。假字書きのものも多くオモホユと書かれているが、「波漏婆漏爾《ハロバロニ》 於忘方由流可母《オモハユルカモ》」(卷五、八六六)は、オモハユと書かれた一例である。ここのオモホユは、追憶される、想起されるの意。
【評語】ある時の樂しかつた行旅を思い出して、しかも樂しかつたとは口に出さずに、假小屋を作つたありさまを敍述して、これをあらわしている。實に巧みな表現である。初三句の具體的な敍述が、全體を生かしている。追憶の内容であるが、印象的な歌であつて、この人の才氣のほどを思わせる。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書、戊申年、幸2比良宮1大御歌。但紀曰、、天皇至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野1而肆宴焉。庚辰ム日、天皇幸2近江之平浦1。
 
右は山上の憶良の大夫の類衆歌林を檢ふるに曰はく、一書に戊申の年、比良の宮に幸《い》でましし大御歌(83)といへり。但し紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇紀の温湯より至りたまひき。三月戊寅の朔、天皇吉野の宮に幸でまして肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰のそれの日、天皇近江の平の浦に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】一書 アルフミニ。以下大御歌まで、類聚歌林の文である。この一書というも、何の書であるかをあきらかにしない。
 戊申年 ツチノエサルノトシ。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝コ天皇の大化四年、元明天皇の和銅元年等が相當するが、額田の王の年代からいえは、そのうちの大化四年が近い。比良の宮は、近江の比良と考えられるが、大化四年に行幸のあつたことは、他に傳わらない。
 大御歌 オホミウタ。上の戊申の年を大化四年とせば、大御歌は、孝コ天皇の御製である。ここに大御歌とあるは、別にその歌があつたのであつて、この金野乃云々の歌をさしていうのでは無い。作者に異傳があるが故に類聚歌林の文を檢したので無くして、近江に行幸のあつた事實を檢出して、兎道の宮子に行宮の營まれた年を證明しようとしたのである。
 紀曰 キニイハク。日本書紀の文を檢出して上の類聚歌林の文の參考としたのである。
 五年。以下日本書紀の文である。但し日本書紀には、ム日の二字が無い。この文は齊明天皇の五年である。
 幸吉野而。元暦校本、神田本には、而を宮に作つてあり、西本願寺本等には野の下に宮の字がある。今、類聚古集、古葉路類聚鈔、および傳冷泉爲頼筆本による。これは日本書紀の引用であるが、日本書紀には宮の字が無い。吉野の訓法については、三吉野之(二五)參照。
 肆宴焉 トヨノアカリキコシメシキ。御宴を催されたよしである。古事記に、豐明、豐樂、日本書紀に宴樂、宴會、宴饗などあり、いずれもトヨノアカリと讀んでいる。
(84) ム日 ソレノヒ。ムは某に同じ。これは三月だから、歌は、この行幸に關するものでは無い。
 
後岡本宮御宇天皇代 【天豐財重日足姫天皇位後即後岡本宮】
 
【釋】後岡本宮 ノチノヲカモトノミヤ。日本書紀、齊明天皇の二年、「是歳、於2飛鳥岡本1、更定2宮地1。(中略)遂起2宮室1、天皇乃遷、號曰2後飛鳥岡本宮1。」齊明天皇の宮號である。
 
額田王歌
 
8 熟田津《にぎたづ》に 船乘《ふなのり》せむと 月待てば、
 潮《しほ》もかなひぬ。
 今は榜《こ》ぎいでな。
 
 熟田津尓《ニギタヅニ》 船乘世武登《フナノリセムト》 月待者《ツキマテバ》
 潮毛可奈比沼《シホモカナヒヌ》
 今者許藝乞菜《イマハコギイデナ》
 
【譯】伊豫の熟田津で、船に乘つて航海をしようと、月の頃になるのを待つていると、月も滿ち、潮も船出に都合よくなつた。今は漕ぎ出ましようよ。
【釋】熟田津尓 ニギタヅニ。熟田津においての意。日本書紀、齊明天皇紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1」とあり、「熟田津、此云2?枳陀豆1」とある。當時は、今日よりも更に海が道後温泉の近くまで入り込んでいたとおぼしく、熟田津に温泉があつたので、熟田津の石湯の行宮と稱したのである。
 船乘世武登 フナノリセムト。船乘は、乘船して航海すること。假字書きのものには、「安胡乃字良爾《アゴノウラニ》 布奈能里須良牟《フナノリスレム》 乎等女良我《ヲトメラガ》」(卷十五、三六一〇)などある。熟田津に船乘せむとは、熟田津において出船しようとしての意。山部の赤人の伊豫の温泉で詠んだ歌の反歌に「ももしきの大宮人の飽田津《にぎたづ》に船乘しけむ年の知ら(85)なく(卷三、三二三)とある。
 月待者 ツキマテバ。潮は、滿月と新月のころに大潮となるので、船出をしようとして、大潮となるころを待つておればである。滿月と新月のいずれでもよいが、月待テバとある以上、滿月のころを待つとすべきである。日本書紀によるに、熟田津の石湯の行宮に泊せられたのは、正月十四日であるから、多分翌月の滿月のころの作であろう。これを月の出を待つ意とする解のあるのは誤りである。當時、事情に依つて夜間に船を進めることはあるが、普通に月の出を待つて夜間船を漕ぎ出すことは無い。
 潮毛可奈比沼 シホモカナヒヌ。潮モとあるので、月の滿月のころとなつたことが知られる。それと共に、潮も船出をするに都合よくなつた意である。句切。
 今者許藝乞菜 イマハコギイデナ。
   イマハコキコセ(神)
   イマハコギイデナ(代初)
   イマハコギテナ(僻)
   イマハコギコソナ(考)
   イマハコギコナ(攷)
   ――――――――――
   今者許藝?菜《イマハコギテナ》(玉、道麻呂)
   今者許藝手菜《イマハコギテナ》(燈)
   今者許藝天菜《イマハコギテナ》(札記師説)
   今者許藝出菜《イマハコギイデナ》(札記師説)
 乞は、「乞吾君《イデワガキミ》」(卷四、六六〇)、「乞如何《イデイカニ》」(卷十二、二八八九)、「乞吾駒《イデワガコマ》」(同、三一五四)等の例に依つてイデと讀み、出での義とする。ナは、自家の動作に關して希望する助詞で、動詞出ヅの未然形に接續している。「家聞かな」(卷一、一)のナに同じ。わが船は、今は漕ぎ出でたいことであると希望する語意である。
【評語】月待テバ潮モカナヒヌの句は、簡勁であつてよく意を盡している。名句というべきである。熟田津に停泊してやや時日を過したが、この行は新羅征討のための行旅であるので、兵船の装備を要するものがあつて(86)一處に長く碇泊されたのであろう。額田の王としては、出船を待ち遠に思つていた。その出船の時期の熟したよろこびを歌つたもので、よくその情をあらわしている。
 
右檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥崗本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸2于豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉、春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就2于海路1。庚戌、御船泊2于伊豫熟田津石湯行宮1。天皇御2覽昔日猶存之物1、當時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1、爲2之哀傷1也。即此歌者、天皇御製焉。但額田王歌者、別有2四首1。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに、曰はく、飛鳥《あすか》の岡本《をかもと》の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月己巳の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸したまひき。後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁西の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就きたまひき。庚戌、御船伊豫《いよ》の熟田津《にぎたづ》の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覽《みそなは》して、當時《そのかみ》忽に感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。すなはちこの歌は天皇の御製なり。但し額田の王の歌は別に四首あり。
 
【釋】飛鳥岡本宮御宇天皇。舒明天皇。以下爲之哀傷也まで、類聚歌林の文である。飛鳥の岡本の宮は、高市の岡本の宮に同じ。
 九年丁酉。日本書紀には、この九年の行幸の記事無く、十二年にその記事がある。干支は、十二年の方に合うのである。この記事は、下の齊明天皇の行幸に關する記事の伏線として掲げたのである。
(87) 大后 オホギサキ。皇后の御事。後の皇極天皇。
 壬寅。元暦校本等に丙寅に作つているが、丁酉の朔ではその月に丙寅の日は無い。
 昔日猶存之物 ムカシヨリナホノコレルモノ。昔、舒明天皇の御代に、皇后として天皇と御同列で行啓になつたその時の事物の今に至るまで遣存せるもの。
 感愛之情 メグシトオモホスミココロ。殊愛を感じたまう御心。
 哀傷。昔は舒明天皐と御同列にて御覽あり、今はひとり御覽になるので、哀傷の情を起されるのである。
 此歌者天皇御製焉。この熟田津ニの歌は、類聚歌林には、齊明天皇の御製としている、というのである。但し、この歌には、哀傷の意無く、七年の行幸の記事に適わない。哀傷の意を盛つた歌は、別にあつたのであろう。
 額田王歌者別有四首。類聚歌林には、額田の王のこの時の歌として、熟田津ニの歌ならざる歌四首を載せているというのである。その歌は今傳わらない。
 
幸2于紀温泉1之時、額田王作歌
 
紀の温泉に幸《い》でましし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】幸于紀温泉之時 キノユニイデマシシトキ。日本書紀、齊明天皇紀、四年、「冬十月庚戌朔甲子、幸2紀温湯1」とある。紀は紀伊であつて、和銅に至つて紀伊の二字としたのであろう。後の鉛山温泉の地という。この行幸に、額田の王が、御供にあつて詠んだか、または殘り留まつて詠んだかは、歌意が難解であつて、いずれとも決せられない。
 
9 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
(88) わが夫子《せこ》が い立たせりけむ
 五可新何本。
 
 莫囂圓風隣之大相七兄爪湯氣
 吾瀬子之 射立爲兼
 五可新何本
 
【釋】莫號圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本。齋明天皇が紀伊の國の温泉に行幸あらせられた時、額田の王の詠んだ歌で、この歌は、集中第一の難歌といわれている。それで古來多數の讀み方が傳わつているが、まだいずれも定説とはいえない。今日の研究も、それ以上多きを加えることを得ないが、もし第二句の湯氣が、ユケと讀むべきものならば、氣はケの乙類の字であるから、これは動詞行クの已然形と見るべく、それよりも上方に、助詞コソを含んでいるのでは無いかという推量がなされる。しかしどの字をコソに當てるかというと、大相七兄爪あたりのうちに求めるほかはあるまいが、ここに至つてまた行きつまらざるを得ない。校異としては、神田本に圓を國に作り、細井本西本願寺本等の仙覺本系統に、湯を謁に作つている。この歌は、仙覺の新點の歌百五十二首の最初の歌であつて、仙覺は、ユフツキノ云々の訓を附したのであるが、元暦校本神田本等にある訓のうちには、仙覺以前の訓があるようであり、仙覺は、これを見なかつたので、自分の訓を最初の訓と思つたらしい。元暦校本には、吾瀬子之射立爲兼五可(89)新何本の右に、赭でワカセコカイテタチシケムイツカシキカモとあり、神田本には、莫號國隣之の左に朱でナナクリノ、射立爲兼の左に朱でイテタチシケム、朔何本の左に朱でシテカモとある。今次に諸説を列擧する。
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ワカセコカイテタチシケムイツカシキカモ》(元赭)
   莫囂國隣之《ナナクリノ》大相七兄爪湯氣吾瀬子之|射立爲兼《イテタチシケム》五可|朔何本《シテカモ》(神朱)
   莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキノアフギテトヒシワガセコガイタヽセルネイツカハナム》(仙覺)
   莫囂圓隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフツキシオホヒナセソクモワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(代精)
   莫囂圖隣之大相七兄爪靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マガツリノオホヒナセソクモワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(緯、契沖)
   奠器國隣之大相七兄瓜湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフクレノヤマヤツイユキワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   奠器國隣之大相虎爪謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフキリノソラカキクレテワガセコガイタヽセリケンイツカシガモト》(僻)
   莫囂國隣之大相古兄?湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマコエテユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(考、春滿)
   莫囂國隣之《トツクニノ》(考)
   莫囂國隣之相大古兄?湯氣《イカノクニノアホコエテユケ》(選要抄)
   莫囂國隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(略、二句村田春海)
   莫囂國隣之霜木兄?湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《キノクニノヤマミツツユケワガセコガイタヽスガネイツカシガモト》(玉勝間)
   莫囂圓隣之大相士兄爪謁氣吾瀬子者射立爲兼五可新何本《ユフヅキノオホニテトヘバワガセコハイタヽセルガネイツカシガモト》(冠辭續貂)
   莫囂國隣之《アケクレノ》――――――――――(同、或説)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《カグヤマノクニミサヤケミワガセコガイタヽスガネイツカアハナモ》(信濃漫録)
   ――――――――――大相土見乍湯氣《ヤマミツヽユケ》(織錦舍隨筆)
   奠器圖隣弖美相嘉兒衣湯氣吾瀬子之射立爲兼五百可新何本《ヌサトリテミサカコエユケワガセコガイタヽスガネユツカシガモト》(織錦舍隨筆)
(90)   莫囂圓隣|支太相古曾湯氣《キホヒコソユケ》(書入本、粂川氏所引)
   莫囂圓隣之大相土无靄氣《ユフグレノヤマナクモリソ》吾瀬子之射立爲兼五可新何本(同)
   莫囂圓隣之大相古曾湯氣《ナゴマリシホヒコソユケ》(同)
   莫囂國隣之大相土見乍竭意吾瀬子之射立爲座吾斯何本《マツチヤマミツヽアカニトワガセコガイタヽシマサバワハコヽニナモ》(檜)
   奠器圓隣之大相土見乍湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ミモロノヤマミツヽユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(古義)
   莫囂國隣之大相土覽竭意吾瀬子之射立爲座五可期何本《キノクニノクニミアカニトワガセコガイタヽシマサバイツカハナモ》(橋本直香の私抄)
   三栖《ミス》山の檀《まゆみ》弦《つら》はけわが夫子《セコ》が射部《イメ》立たすもな。吾か偲《シノ》ばむ(口譯)
   莫囂圓隣之大堆七兄爪□□謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《マツチヤマミツヽコソユケワガセコガイタヽシケムイツカシガモト》(新考)
   草囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《サカドリノオホフナアサユケワガセコガイタヽセリケムイツカシガモト》(粂川定一氏、國語國文の祈究)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣《フケヒノウラニシヅメニタツ》吾瀬子之射立爲|兼五可新何本《ケムイツカシガモト》(宮嶋弘氏、萬葉雜記)
   莫囂圓隣之大相七里謁氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシカミナナリソネワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(土橋利彦氏、文學)
   莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《ユフヅキノカゲフミテタツワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
   莫囂四隣之《ミヨシノノ》大相七兄爪湯氣《ヤマミツツユケ・ヤマミツメユケ》吾瀬子之《ワガセコガ》射立爲兼《イタタスガネ・イタタスガネヲ》五可新何本《イツカアハナモ》(尾山篤二郎氏・國語と國文學)
   莫囂圓隣之大相七見謁爪氣吾瀬子之射立爲兼五可新何本《シヅマリシウラナミミサケワガセコガイタタセリケムイツカシガモト》(澤瀉久孝氏、萬葉)
   莫囂圓隣之大相七見爪湯氣《シヅマリシウラナミサワク(キ)》(同)
   莫囂圓隣之《ユフヅキノ》 大相七兄爪湯氣《カゲフミテタツ》 吾瀬子之《ワガセコガ》 射立爲兼《イタタセリケム》 五可新何本《イツカシガモト》(伊丹未雄氏、萬葉集難訓歌研究)
 以上の外にもなお諸説があろう。またもとより訓によつて解釋が違い、同訓でも説が分かれている。例えば五句イツカシガモトと訓しても、代匠記は「何時か己が許」の義とし、僻案抄は「巖石が本」の義とし、考は(91)「嚴橿が本」の義としている。しかし結局訓義共に未決というほかは無い。
 
中皇命、往2于紀温泉1之時御歌
 
中皇命の、紀の温泉に往《い》でましし時の御歌
 
【釋】中皇命 ナカツスメラミコト。前出(三題詞)。中天皇と同語とする説によれは、女帝である。當時齊明天皇の御代であるが、歌詞によれば、更に若くして夫君を有せられる方のようである。よつてこれを求めるに、天智天皇の皇后|倭姫《やまとひめ》の命であろうか。皇后は、古人大兄の皇子の御女、天智天皇の七年に皇后となり、天皇の崩ずるに當つて、後事を付囑せられたのであろうとされている。紀の温泉に往かれたのは、齊明天皇の行幸に從われたのであろう。
 
10 君が代《よ》も わが代も知るや
 磐代《いはしろ》の 岡の草根を いざ結びてな。
 
 君之齒母《キミガヨモ》 吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》
 磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》
 
【譯】あなたの壽命もわたしの壽命も支配している、この磐代の岡の草を、さあ結びましょうよ。
【釋】君之齒母 キミガヨモ。齒は齡の義。君の壽命もの意で、次のわが代に對して竝立格をなしている。君は夫君をさしている。ヨは、二つの點の中間をいう語で、人に取つては、生涯の意になる。
 吾代毛所知哉 ワガヨモシルヤ。
   ワカヨモシラス(元)
   ワカヨモシレヤ(元朱)
       シラレン(僻)
(92)   ワカヨモシルヤ(考)
   ワカヨモシラム(美)
   ――――――――――
   吾代毛|所知武《シラム》(略、宣長)
 講義に、哉をムと讀む證として、「雖v見不v飽有哉《ミレドアカザラム》」(卷四、四九九)、「鳴渡艮哉《ナキワタルラム》」(卷十、一九四八)、「雲隱良哉《クモガクルラム》」(同、二三一八) の諸例を擧げているが、これらの諸例の哉は、元暦校本等にはいずれも武に作つているので、哉をムと讀む證明にはならない。此處は、文字どおりに、ワガヨモシルヤと讀むべきである。所は何々する所の義の用法。ヤは、用言の連體形につく感動の助詞である。かような哉およびヤの用例は、「天有哉《アメナルヤ》 月日如《ツキヒノゴトク》 吾思有《ワガオモヘル》」(卷十三、三二四六)、「夕附日《ユフヅクヒ》 指哉河邊爾《サスヤカハベニ》 構屋之《ツクルヤノ》」(卷十六、三八二〇)などの例がある。君の壽命もわが壽命も預り知つている所の意で、下句の磐代の岡を修飾する。知ルは、知識として知る外に、語原的意義として、管理支配する意があり、「天知也《アメシルヤ》 日御影乃《ヒノミカゲノ》」(卷一、五二)の用例などはそれである。また知ラスの用例によつても知られる。「大野有《オホノナル》 三笠社之《ミカサノモリノ》 神思知三《カミシシラサム》(卷四、五六一)などその例である。ここに所知と書いたのは、その意を示すためであつたのだろう。
 磐代乃 イハシロノ。和歌山縣日高郡の地名。有間の皇子が松の枝を結んだ地として知られている。(卷二、一四一參照)。
 岡之草根乎 ヲカノクサネヲ。ネは接尾語で、その草の根を張つていることを表示するためにつける。土に生えている草をいう。事實は草の葉をいうので、草の根の意では無い。「磯之草根乃《イソノクサネノ》 干卷惜裳《カレマクヲシモ》」(卷三、四三五)、「春野之《ハルノノノ》 草根之繁《クサネノシゲキ》 戀毛爲鴨《コヒモスルカモ》」(卷十、一八九八)の草根、みな草葉の謂である。島根、垣板などの根の用法も同じである。
 去來結手名 イザムスビテナ。日本書紀、卷の一、竝に履中天皇紀に、「去來、此云2伊弉1」とある。イザは人を誘う語である。テは助動詞、ナは希望の助詞。さあ結びたいものであるの意。
(93)【評語】草を結ぶのは、古代の 民間信仰の一で、ムスブということにすべてを祝い籠める意があつた。卷の二にある有間の皇子が磐代の岡の松が枝を結ん幸福を祈られた歌は有名である。草を結ぶことについては、
  近江の海|水門《みなと》は八十をいづくにか君が船|泊《は》て草結びけむ(卷七、一一六九)
  妹が門行き過ぎかねて草結ぶ。風吹き解くな。またかへり見む(卷十二、三〇五六)
などの歌がある。かような信仰から、君ガ代モ我ガ代モ知ルという句が出て來たのである。磐代の岡は、特に震驗ある地とされていたのであろう。その岡のほとりの草葉を結んで、我等の運命を祝おうとする。しかしそれはごく輕い意味での、旅行中のある夕べなどの出來事であろう。君と共に旅行される親しい情愛をよくあらわしている。
 
11 わが夫子《せこ》は 借廬《かりほ》作らす 草《くさ》無くば、
 小松が下《した》の 草《くさ》を刈らさね。
 
 吾勢子波《ワガセコハ》 借廬作良須《カリホツクラス》 草無者《クサナクバ》
 小松下乃《コマツガシタノ》 草乎苅核《クサヲカラサネ》
 
 小松下乃 コマツガシタノ。コマツノモトノ(元)、コマツカシタノ(元朱)、コマツノシタノ(類)、コマツカモトノ(神)。コは愛稱。かならずしも若松の謂では無い。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神さび渡る」(卷十五、三六二一)。澤瀉博士の説に、モトは本と書くので、下の字は、すべてシタと讀むべしとする。
 草乎苅核 クサヲカラサネ。カラサネは、名告ラサネの語法に同じ。刈ルの敬語法に、他に對して希望を表示する助詞ネの接續したもの。
【評語】岡の上の小松のもとなどの草を刈つて、假小屋を作つて宿つた古代の旅行の心もちがよく出ている。借廬作ラス草無クバと云つて、次に近くの草叢を指示した調子が、そこに宿りの用意をしている男たちの傍に、口添えをしている婦人の姿を描き出している。
 
(94)12 わが欲《ほ》りし 野島《のじま》は見せつ。
 底深き 阿胡根《あごね》の浦の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ。
  或るは頭にいふ、 わが欲りし子島は見しを。
 
 吾欲之《ワガホリシ》 野島波見世追《ノジマハミセツ》
 底深伎《ソコフカキ》 阿胡根能浦乃《アゴネノウラノ》 珠曾不v拾《タマゾヒリハヌ》
  或頭云 吾欲 子鳥羽見遠
 
【譯】わたしがかねがね見たいと願つていた野島は見せてくださつた。しかし底の深い阿胡根の浦の美しい珠を拾いません。
【釋】吾欲之 ワガホリシ。ホリシは、動詞欲ルに、時の助動詞キの連體形の接續したもの。次句に見セツとあつて、見ることを欲していたの意であることが知られる。
 野島波見世追 ノジマハミセツ。野島は、和歌山縣日高郡鹽屋の浦の南にある野島の里であるという。これは島嶼では無い。ミセツは、見しめつの義。ミセは使役の他動詞。下二段活。句切。
 底深伎 ソコフカキ。次の阿胡根の浦を敍述説明する修飾句。この句で、水の澄んで美しい地であることを語つている。
 阿胡根能浦乃 アゴネノウラノ。玉勝間に、野島の里の附近に阿胡根の浦があるという。地名の語義は未詳である。
 珠曾不拾 タマゾヒリハヌ。本集では、拾フを、多くヒリフと書いている。假字書きの例には、「於伎都白玉《オキツシラタマ》 比利比弖由賀奈《ヒリヒテユカナ》」(卷十五、三六一四)、「比里比登里《ヒリヒトリ》 素弖爾波伊禮弖《ソデニハイレテ》」(同、三六二七)などある。東歌には「多麻等比呂波牟《タマトヒロハム》」(卷十四、三四〇〇)の例もあるが、これは東語であるから、多きについてヒリフとすべきである。タマゾは、珠を提示する意。珠は眞珠などの類で、服飾に用いたもの。古くは男女共に珠を飾りに使つたが、この集の時代では主として婦人の身の装飾である。その珠はまだ拾いません。だから、拾いに行(95)きたいという意である。珠を拾うは集中多く見受けられる事がらで、貝や石の珠とすべきを拾うことを云つている。
 或頭云 アルハハジメニイハク。或は、別の資料をいう。本集の例、類似の詞句を有する歌について、或云、或本、一本等として、本文との相違を擧げている。その別の資料は、稀に何の書であるかを察知し得るものもあるが、多くは不明である。此處も何の書とも知られないが、左註に擧げた類聚歌林であることも、有り得ないことでは無い。頭というは歌の初頭の意で、ここでは、初二句をさしている。「尼作2頭句1并大伴宿禰家持所v誂v尼續2末句等1和歌」(卷八、一六三五)、「或本歌頭云 人目多《ヒトメオホミ》 直者不v相《タダニハアハズ》」(卷十二、二九五八)、「或本歌頭句云、己母理久乃《コモリクノ》 波都世乃加波乃《ハツセノカハノ》 乎知可多爾《ヲチカタニ》 伊母良波多多志《イモラハタタシ》 己乃加多爾《コノカタニ》 和禮波多知?《ワレハタチテ》(卷十三、三二九九)、「一頭云 保等登藝須《ホトトギス》」(卷十八、四〇四三)。
【譯】あなたは旅の假小屋をお作りになる葺草がありませんでしたら、あの小松の下に生えている草をお刈りなさいませ。
【釋】吾勢子波 ワガセコハ。セは、男性に對して親しみいう語。コは親愛の情をあらわすためにつける。ワガセコは、男子相互間にもいうが、女子より男子をさしていう場合が多い。此處は夫君をいう。日本書紀に、「古者不v言2兄弟長幼1、女以v男稱v兄《セ》、男以v女稱v妹」(仁賢天皇紀)とあるが、用例は、男子どうし、女子どうしでも、男子に對してセ、女子に對してイモと云つている。
 借廬作良須 カリホツクラス。ツクラスは、動詞作ルに、助動詞スの接續したもので、敬意をあらわす。その連體形。採マス、立タスなどの語法に同じ。
 草無者 クサナクバ。クサナクハ(元)、カヤナクハ(元朱)。借廬を作る料の草が無いならは、カヤナクバとも讀む。尾根に葺く料としてはカヤであるとするのである。但し一首のうちに草をカヤとクサと二語に讀み(96)分けることは、なるべく避くべきであり、クサと讀んで、意を成さぬでも無い。
 吾欲子島羽見遠 ワガホリシコジマはミシヲ。前の歌の初二句が、このようにあつたというのである。子島は所在未詳。ヲは、上に述べた詞句の内容について、然れどもの如き意を表示するもの。感動の助詞から分化した。子島は見たがしかしの如き意味において、次の詞句を迎える。
【評語】風光のよい野島を、夫君と共に見たことを述べ、しかも阿胡根の浦の底深くして珠を拾うに至らないことを惜しむ情がよく描かれている。その浦に下り立たないことを、珠を拾わないことで表現しているのは、珠に關心を持つ婦人としてふさわしいあらわし方である。これに依つて歌そのものが美しくなつている。
 
右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
 
右は、山上の憶良の大夫の類聚歌林を檢ふるに曰はく、天皇の御製の歌云々といへり。
 
【釋】天皇御製歌。類聚歌林には、天皇の御製の歌としているよしで、本文に中皇命の御歌とすると、作者が相違しているから註記したのである。この天皇は、齊明天皇と考えられる。この記事は、右の歌三首のことか、最後の歌一首のみのことかについては、いずれとも解せられるが、特に一首と記していないのによれは、三首すべてにかかるのであろう。
 
中大兄近江宮御宇天皇三山歌
 
【釋】中大兄 ナカツオヒネ。天智天皇のこと。日本書紀、「天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也。母曰2天豐財重日足姫天皇1。」舒明天皇の第一皇子。ナカツは、中央中心を意味する語で、皇子皇女の名に使用されること多く、天の御中主の神の中も、同義である。長子末子に對して、比較的にいう中ではない。オヒネは、(97)文字通り、大兄の義で、長子をいう。スクネは、これに對して次の方の義であろう。大兄は、敬稱として附せられ、皇子等の語を添えないでもよいが、添えることもある。他に古人大兄の例などがある。ここは、天智天皇御即位以前のことであるから、この稱を用いたのであろう。
 近江宮御宇天皇 アフミノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコト。天智天皇の御事。中つ大兄の説明である。天皇は、近江の國の滋賀の大津に都されたので、かようにいう。
 三山歌 ミツノヤマノウタ。三山は、歌詞にある、畝火山、耳梨山、香具山の三山である。この三山は、大和の國の中央平野にあり、それぞれ孤立した山で、香具山は東に、畝火山は西に、耳梨山は北に立ち、鼎立の勢いを成している。歌は、御歌とあるべきであるが、資料のままに記したのであろう。天智天皇が、まだ皇子でおいでになつたころ、播磨の國において、大和の三山に關する傳説に基づいてお詠みになつた作。それは、播磨國風土記の、揖保郡の條に、「出雲國阿菩大神、聞2大倭國畝火香山耳梨三山相闘1、此欲2諫止1、上來之時、到2於比處1、乃聞2闘止1、覆2其所v乘之船1而坐之。故號2神阜1、阜形似v覆。」と見える。耳梨、畝火は、古代の城塞であつて、今でも石鏃が多く發見される。古代民族がこれらの山に據つて戰つたことが、傳説のもととなつたのであろう。
 
13 香具山は 畝火を愛《を》しと、
 耳梨と あひ爭ひき。」
 神代《かみよ》より かくなるらし。
 古昔《いにしへ》も しかなれこそ、
 うつせみも 妻を 爭ふらしき。」
 
 高山波《カグヤマハ》 雲根火雄男志等《ウネビヲヲシト》
 耳梨與《ミミナシト》 相諍競伎《アヒアラソヒキ》
 神代從《カミヨヨリ》 如v此《カク》尓有《ナル・ニアル》良之《ラシ》
 古昔母《イニシヘモ》 然《シカ》尓有《ナレ・ニアレ》許曾《コソ》
 虚蝉毛《ウツセミモ》 嬬乎《ツマヲ》 相挌良思吉《アラソフラシキ》
 
(98)【譯】香具山は、畝火山を愛して、耳梨山と闘つた。神代からこの通り、人を爭つて戰うということはあつたのだ。古代からこの通りであるからこそ、この今の自分も、妻を爭うのであろう。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第−段、アヒ爭ヒキまで。傳説の内容を敍する。以下第二段。第一段の事實を基礎として、推量をしている。
【釋】高山波 カグヤマハ。高は、kao の音の字であつて、カグと讀むべき字では無いのであるが、古音にカグと讀むべき音があつたか、または香字等の ng 韻の字に誤つて用いたかであろう。高をカガの音に使用した例は、美夫君志に擧げているように、日本書紀、孝コ天皇紀、白雉元年の條に、猪名公高見、天武天皇紀の上に、大紫韋那公高見とある人(額田の王の父と推考される人)は、その子大村の墓志には、紫冠威奈鏡とあると同人と認められ、高をカガに使用したことが知られる。この句は、下文に對して、主格を提示した句と考えられるが、これには異説もあり、その事は下に説明する。
 雲棍火雄男志等 ウネビヲヲシト。
   ウネヒヲヲシト(西)
   ウネヒヲ、ヲシト(?)
   ――――――――――
   雲根火雄曳志等《ウネヒヲヲシト》(古義)
 畝火山は大和の高市郡にある山で、三山の中では一番高く碓勁な山容をなしている。ヲシは、愛すべしの意の形容詞。古くは畝火を雄々しとしてと解していた。それによれは畝火山は男性で、香具山と耳梨山とは女性である。兩女性が一の男性を爭つて戰うこと、無いではないが珍しい。そこで、木下幸文と大神眞潮との説によつて、今の如く讀み改められた。また香具山をば、畝火と耳梨とで爭つたという説もあるが、反歌に香具山ト耳梨山トアヒシ時とあるは、闘爭の意に解すべきであるから、それも無理である。また風土記によれば、三山が互に相闘したとも解せられる。その場合は、三山とも男性で、一の女性(人間か)を爭つたものとすべき(99)であろう。なお澤瀉博士の萬葉古徑二には、香具山を女性、畝火と耳梨を男性とし、香具山は畝火を惜しとして耳梨山に背いて爭つたとしている。
 耳梨興 ミミナシト。大和の磯城都(もと十市部)にある。今、天神山と稱している。與は、漢文では二語の中間に置いてその竝立のものであることを示す辭であるが、これを竝立の助詞トの表示として、國語の語序に從つて、下に置いたのである。
 相諍競伎 アヒアラソヒキ。諍は、爭と通用する字で、諍競と熟して使用せられている。相は、國語アフを表示する文字として使用されている。アフは、相互にする意を表示するために、他の動詞に冠して使用される。アヒ思フ、アヒ見ルなど用例が多い。以上第一段。
 神代從 カミヨヨリ。神代は、わが國の古代を、神々の世界であつたとする思想から出る。神話時代の謂である。神代から人間の世界に續いているというので、後世の事物の起原を、神代に求める思想があつた。この歌においても、その思想が働いている。ヨリは、ユ、ヨに同じ。その時、もしくは點からずうつと引き續いての意を現す助詞。
 如此尓有島之 カクナルラシ。カカルニアラシ(西)、カカルナルラシ(僻)、シカナルラシ(考)、カクナルラシ(略)、カクニアルラシ(?)。上記の如くカクニアルラシとも讀まれているのは、尓は表音文字、有は表意文字として使用されているから、これを略體假字で表記する場合は、文字通りに書くのを至當とするのである。但し音聲としては約してナルとなるであろう。下の然尓有許曾の場合も同斷。第一段を受けて、神代からこの通りであると思われると推量している。ここで句切。以上、神代ヨリカクナルラシの二句は、次の古昔も然ナレコソと對句を成している。
 古昔母 イニシヘモ。イニシヘは、去《い》ニシ方《へ》の義と解せられる。古昔は、熟字として漢文にも使用せられ、(100)本集にも數個の用例がある。ここは遼遠の時代をいうが、「草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》」(卷一、四五)の用例は、わずかに數年前をさしている。上の神代ヨリに對する句。
 然尓有許曾 シカナレコソ。ナレコソは、ニアリの已然形に、係助詞コソが接續して已然條件法を作つたもの。後世ならば、已然形を、助詞バが受けて條件法を作る所であるが、古くはバ無くして條件法を作る。バをはぶいたものではなく、バの無い方が原形である。これに係助詞の無いものと、係助詞ゾ、ヤ、カ、コソの接續するものとがある。それぞれその形の出た所で説明する。コソの説續したものでラシで結ぶ例は、「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)がある。かくて以上の二句は、上の神代ヨリカクナルラシの句と對句を作つているが、神代ヨリカクナルラシの句は終止形であり、この句は下に説續する。かような形の對句は、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)など例が多い。元來對句は、一度歌い上げただけで滿足せず、更に立ち歸つて前句を反覆する所から出發したものであつて、その性質が遺存されて、かような形を採るものを見るのである。
 虚蝉毛 ウツセミモ。從來、ウツセミは、現シ身の義で現實に生ける身の意と説かれていた。この語を表示する文字としては、集中、宇都世美、宇都勢美、宇都蝉、打背見、空蝉、打蝉、鬱瞻、またウツソミとしては、宇都曾美、宇都曾見、宇都曾臣の字面が使用されている。この用例において、ミの音をあらわす文字として美見等が使用されているが、これらの文字は、上代假字遣のミの甲類美に屬する字であり、これに對して身を意味するミは、同じく乙類微に屬する音であつて、音韻が違うのである。またウツシミの原形が無くして、ウツセミ、ウツソミの轉音のみあるのも、現シ身説に不安を感じさせる。しかしこれに代るべき明解は無いが、一の私案を附記する。それは、古事記下卷、雄略天皇記に、葛城の一言主の大神について、「恐我大神、有2宇都(101)志意美1者、不v覺」とあることである。この宇都志意美も、現シ大身の義と説かれているが、同じくミの音を表示するに美を使用しており、音韻の相違が指摘される。萬葉集において、宇都曾臣の字を使用しているのは、四例あつて、いずれも柿本の人麻呂の作品中にあるが、オミの語が大身の義で無いとするならば、この臣の字などが當てられるのである。臣の語義については、後に述べる機會があることと思うが、連などと共に敬稱なるべく、一言主の大神に對して、宇都志意美あらむとは覺らざりきというのは、神の、現實の御方であることを意外とされたのであろう。然らば萬葉集のウツソミも亦、この義から出發して、現實に生ける人の義に使用したものと考えられる。その場合、ウツシオミが約してウツソミとなり、轉じてウツセミとなつたとすべきである。このミは、古代の神名人名の末尾にしばしば見られるミと同語であろう。しかしこの語は早く古語となつてその語義が忘れられ、空蝉、虚蝉の字面が、これに代つて登場すると共に、やがて無常思想の流布に伴なつて、はかないものの意識を感ずるに至つたのであろう。この世の人の意味に使用されている。枕詞としては、ウツセミの形を採り、人、世、命に係かるが、ここは普通語として使用されている。(以上大野晋氏同説)。なおミ及びオミの意義については、反歌の渡津海乃の條參照。
 嬬乎 ツマヲ。三音の一句。嬬は博雅に「妻謂2之嬬1、一曰妾」とある。ツマは配偶者の謂で、男子にも女子にもいう。
 相挌良思吉 アラソフラシキ。挌が木扁か手扁かの問題もあるが、古書では本扁と手扁とは區別はつかない。今普通に行われる所に依り、手扁とする。上の相諍競伎を受けて、アラソフラシキと讀むのがよいようである。助動詞ラシが係助詞のコソを受けてラシキと結ぶのは、古い語法であつて、「諾石社《ウベシコソ》 見人毎爾《ミルヒトゴトニ》 語嗣《カタリツギ》 偲家良思吉《シノヒケラシキ》」(卷六、一〇六五)の例がある。形容詞もコソを受けてはキで結ぶ。「己妻許増《オノガヅマコソ》 常目頬次吉《ツネメヅラシキ》」(卷十一、二六五一)、「野乎比呂美《ノヲヒロミ》 久佐許曾之既吉《クサコソシゲキ》」(卷十七、四〇一一)などある。
(102)【評語】この歌は相爭ヒキまで、傳説の内容を敍し、神代ヨリカクナルラシとこれを評し、その句を受けて、古モ然ナレコソと起して、今の作者の場合を敍したのである。理路整然.簡潔直截に自己の云おうとするところを盡している。結末五三七の音の句で留めたのは古法である。この歌の實際問題として、天皇と皇弟大海人の皇子(天武天皇)とのあいだに、額田の王が係爭せられ、これに關してこの歌が詠まれているという古人の説がある。額田の王は、はじめ大海人の皇子に召されて、十市の皇女を生み、後に天智天皇に召されて近江に下つたと傳えられている方である。しかしその事を詠んだとするは明證無く、一般的な世上の問題について歌われたとも解せられる。
 古人は、今の世は神代の延長であると考えていた。神代にあつた通り、神代にきめた通りの事が今の世に行われると思つている。この苦しい妻爭いは、やはり神代からあつた事だという、はかない自己慰安がそこに宿つている。
 
反歌
 
14 香具山と 耳梨山と 會《あ》ひし時、
 立ちて見に來《こ》し 印南《いなみ》國原。
 
 高山與《カグヤマト》 耳梨山與《ミミナシヤマト》 相之時《アヒシトキ》
 立見尓來之《タチテミニコシ》 伊奈美國波良《イナミクニハラ》
 
【譯】香具山と耳梨山とが戰つた時に、出雲の國の阿菩の大神が立つて見に來た、この印南の國原だ。
【釋】高山與耳梨山與 カグヤマトミミナシヤマト。二つのトは、香具山と耳梨とが、竝立格であることを表示している。
 相之時 アヒシトキ。兩山が出會つた時。アフには行き向かう義があるから、戰いの意になるのである。日(103)本書紀、神功皇后紀、熊之凝《くまのこり》の歌、「宇摩比等破《ウマヒトハ》 于摩譬苔奴知野《ウマヒトドチヤ》 伊徒姑播茂《イトコハモ》 伊徒姑奴池《イトコドチ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》 多摩岐波?《タマキハル》 于池能阿層餓《ウチノアソガ》 波邏濃知波《ハラヌチハ》 異佐誤阿例椰《イサゴアレヤ》 伊装阿波那和例波《イザアハナワレハ》。」(二八)の歌のアハナは、戰う意の動詞アフに、助詞ナの接續したものである。澤瀉博士の萬葉古徑二には、集中の用例により、アヒシを婚した意とし、女山の香具山と男山の耳梨山とが通じたのだとしている。
 立見尓來之 タチテミニコシ。阿菩の大神が、印南の國原まで、見に來たことをいうので、來シは連體形である。
 伊奈美國波良 イナミクニハラ。播磨の印南の平原をいぅ。政治上の區劃の一國ではなくて、一地方を國という。たとえは、大和の中でも、芳野の國、葛城の國などいう類である。播磨國風土記によれば、阿菩の大神が見に來たのは、揖保郡になつている。然るに、ここに印南國原とあるのは、印南郡の地方であろうから、地理的に合わない。多分印南地方にも、風土記にあるが如き傳説があつたのであろう。
【評語】この歌には主格が無い。ちよつと見ると印南國原が立つて見に來たようである。これは古歌の、稚拙なところで讀者の存在を豫想しないからであろう。香具山と耳梨山と戰つたというのだから、この兩山は男性らしい。しかし山の實際を見ると、畝火の方が男性的で、他の兩山は女性的のやさしい線の山である。
 
15 わたつみの 豐旗雲に 入日見し
 今夜の月夜 澄み明りこそ。
 
 渡津海乃《ワタツミノ》 豐旗雲尓《トヨハタグモニ》 伊理比弥之《イリヒミシ》
 今夜乃月夜《コヨヒノツクヨ》 清明己曾《スミアカリコソ》
 
【譯】海上の大きな旗雲に入日のさしているのを見た今夜の月は、澄み明るくあつて欲しいことだ。
【釋】三山の歌の反歌の二である。左註に反歌と思われないとあるが、今日では反歌として解釋している。萬葉集講義の説のように、長歌短歌ともに播磨の國での作とするので、長歌と前の反歌一首とは三山の相闘に就(104)いて歌い、この歌は、轉じて作歌當時の實況を詠んだものと解するのである。かように見る時に、三山の歌全體の構成の大きいこともよく知られるのである。
 渡津海乃 ワタツミノ。ワタツミは海神の義である。古事記上卷に綿津見の神とある。山の神をヤマツミというと同樣の語構成である。ワタは海の義であるが、語義未詳である。ツは體言を連結する助詞。ミは尊稱で、神靈の義である。古代の神名人名には、その固有名詞の部分をミで終るものが多い。天の忍穗耳の命、神沼河耳の命等の如く、ミミの形を採るもの、また日子穗々手見の命、鳥鳴海の神等の如くミの形を採るものがあり、これらのミはいずれも尊稱と解せられ、御方の意味を有するものの如くである。ワタツミのミも、これと同じであろう。また君、民、臣のミも、これと同語ではないかと考えられる。いずれもミの甲類美の音韻に屬している。臣の語も神名に使用せられるもの多く、それらの中には、ヌミ、トミの形を採つているものもある。オミのオは、大を意味するのであろう。さてワタツミは海神の義であるが、轉じて海洋の意に用いる。元來海に對しては、その神秘不可測の性質を感じてここに海神の思想が成立する。海そのものを海神として表現するのである。よつてワタツミの語によつて表示される海は、神秘不可測の性質を強く感じているのが、本義である。今海上の夕燒雲の神秘を描こうとして、この語を以つて海を表示したのである。單に海の大なるをいう場合には、大海の語が選擇される。
 豐旗雲尓 トヨハタグモニ。トヨは、豐葦原、豐玉毘賣など、美稱として使用され、形容詞としての性格を有している。元來トヨは、穀物の豐富を表示する語であつたが、後、他物の美稱にも轉用されるようになつた。旗雲は、旗の如き形?をした雲。ハタは、織布の機にいう語であつて、古代のハタは、長い形のものであつた。よつて旗雲というのは、長い形の雲と解すべきである。文コ天皇實録、天安二年六月の條に、「庚子早朝、有2白雲1、自v艮至v坤、時人謂2之旗雲1」などある。
(105) 入日弥之 イリヒミシ。弥之は、諸本に相違するものが多い。一、元暦校本、類聚古集に、弥之。二、神田本、秘府本萬葉集抄に、佐之。三、細井本に、沙之。四、西本願寺本、金澤文庫本等に、祢之である。仙覺は祢之を採用して、「ネシトイフハ、ヤハラクト云コトハナレハ、入日ヤハラヒテハ、可v屬2晴天1コト、殊ニソノイハレアヒカナヘル也」と釋しているが、その説は無理であるから、これは捨てられねばならない。弥之、佐之(または沙之)は、いずれにても意味は通ずる。弥之による時は、見シの義とすべく、そのシは時の助動詞の連體形、佐之による時は、射シの義とすべく、動詞射スの中止形と見るべきである。而してそのいずれによるべきかは、一、傳來の性格、二、一首全體の調和の二點から觀察しなければならない。そこで傳來の性格としては、元暦校本と類聚古集とが一致して弥之としていることは、相當尊重されねばならない。これに對して、神田本が佐之、細井本が沙之に作つて、よし訓は同一でも、字面がそれぞれに相違する孤立的の傳來であることは、傳來の性格において弥之に讓るものとすべきである。次に一首全體の問題としては、この歌は、特に第五句が問題であつて、その句の訓をまず決定しなければならないが、同時にそれはまたこの第三句の決定如何に依つて左石される相關性の問題でもある。よつてここにはむしろこの三句を決定しておいて五句に臨む方針を採ることとする。
 今夜乃月夜 コヨヒノツクヨ。假字書きの例には、「奴婆玉乃《ヌバタマノ》 己與比能都久欲《コヨヒノツクヨ》」(卷二十、四四八九)がある。月夜は、月を主とした云い方で、夜は接尾語ふうな用法である。夜を重ねた云い方で、「生く日の足る日」の如き形であるが、夜は、ただ添えたもので、意味は、今夜の月はというほどのことである。
 清明己曾 スミアカリコソ。諸説があつて、問題となつている句である。この句については、清明攷(澤瀉久孝氏、萬葉古徑)に詳説がある。今これによつて、從來の諸訓を擧げれば、次の如くである。
 スミアカクコソ(元暦校本以下ノ――京大本ヲ除ク――古寫本ヨリ寛永本ニ至ル諸本、秘府本萬葉集抄、仙(106)覺抄、詞林采葉抄、拾穗抄、管見、代匠記)
 スミアカリコソ(京大本)
 サヤケシトコソ(僻案抄)
 アキラケクコソ(考、古事記傳、略解、燈、攷證、墨繩、新考、註疏、私抄、美夫君志、井上氏新考、折口氏口譯、佐佐木氏選釋、窪田氏選、豐田氏新釋、次田氏新講、橋田氏傑作選、山田氏講義、鴻巣氏全釋、正宗氏總索引、菊地氏精考、斎藤茂吉氏説〔綜合研究第一輯〕、金子氏評釋、新校)
 サヤケクモコソ(楢の杣)
 キヨクテリコソ(「明〔右○〕ヲ照〔右○〕ノ誤トスルモノ」古義、花田氏私解、「明〔右○〕ニ照〔右○〕ノ義アリトスルモノ」次田氏改修版新講)
 キヨクテルコソ(伊藤左千夫氏新釋)
 サヤニテリコソ(佐佐木氏増訂版選釋)
 キヨクアカリコソ(新訓、武田氏新解)
 マサヤケクコソ(古泉千樫氏説〔アララギ、第十五卷 第一號 輪講茂吉曰ノ中〕、島木赤彦氏鑑賞及び其批評)
 マサヤケミコソ(品田太吉氏説〔香蘭第十卷 第八號〕)
 キヨラケクコソ(松岡氏日本古語大辭典、折口信夫氏説〔「萬葉集の鑑賞」中央公論昭和九年一月號〕)
 サヤケカリコソ(森本治吉氏説〔國語・國文第七卷 第一號〕)
 澤瀉博士は、これらの諸説を批評して、更に私按として、マサヤカニコソの訓を出しておられる。以上の諸訓は多樣であるが、これをコソの立場から分類すれば、係助詞として下に敍述部の省路があると見る見方と、(107)希望の助詞と見る見方とに分かれる。係助詞コソとして見る時は、將來を期待した意になり、三句までは、目前の實景になる。係助詞コソの下に敍述部を省略した例としては、「時風《トキツカゼ》 吹飯乃濱爾《フケヒノハマニ》 出居乍《イデヰツツ》 贖命者《アガフイノチハ》 妹之爲社《イモガタメコソ》」(卷十二、三二〇一)の如きがある。しかし清明を形容詞として讀む訓の難點は、やはり形容詞に直接コソの接續した例の無いことである。そこで、マサヤカニコソの如き、助詞を插入した訓が考慮されるが、これもあり得べき語法というのみで、的確な文證は存在しない。また清明をマサヤカと讀むことの證明は無いが、マサヤカニの語例としては「伊呂夫可久《イロブカク》 世奈我許呂母波《セナガコロモハ》 曾米麻之乎《ソメマシヲ》 美佐可多婆良婆《ミサカタバラバ》 麻佐夜可爾美無《マサヤカニミム》」(卷二十、四四二四)の一例があり、有力な説として見ることができる。但し係助詞のコソは、古くは強調の意が強いのに、マサヤカニコソの場合は、比較的に輕く使われている上に、その敍述部が省略されているというのは、後世ふうの言い方であつて、この時代の歌としては輕快に過ぎる感がある。次に、コソを希望の助詞と見る時は、上の清明を動詞と見るのであるが、かような用例は集中に多數あつて、訓法からいえば自然である。清明の字面については、古事記上卷に、「爾天照大御神詔、然者汝心之清明、何以知」、「我心清明、故我所v生之子、得2手弱女1。」日本書紀、敏達天皇紀、十年閏二月の條に、「清明心」とあるが、これらは、いずれも心の?態についていつているので、今の歌に、月についていうものとは違うのである。今これを動詞に讀むについても、諸訓があるが、京都大學本にスミアカリコソとあるのが、調子もよく整い、平易である。但し京大本の訓は、スミアカクコソとあるべきを、誤つてスミアカリコソとしたものであろう。清をスミと讀むことは、地名のスミノエに清江の文字を當てたものがある。月について澄む、明るという例の無いのはこの訓の弱點である。上にもいうようにこの句の訓は、三句の訓と併せて考うべきものであるが、三句を入日見シとするについては、それを連體形と見て、今假に五句を希望の語法とするによることとする。
【評語】この歌は、初二三句の敍述が、海上の夕燒の壯大な光景を描いている。五句の訓が難點ではあるが、(103)それはこの歌自身の缺點では無い。元來名歌と考えられるだけに、何とかして明解を得たいものである。
 
右一首歌、今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
 
右の一首の歌は 今|案《かむか》ふるに反歌に似ず。但し舊本この歌を反歌に載す。故《かれ》、今この次に載す。また紀に曰はく、天豐財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の天皇《すめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となしきといへり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。前掲の渡津海乃の歌一首をいう。ここに反歌ニ似ズというのは、海上の風物を詠んだ歌で、大和の三山の歌の反歌と見えないというのである。この事については、既に上に述べた通り、全部が播磨の國の海岸で詠まれたと解すべきである。
 舊本 モトノマキ。萬葉集は、漸次増益して今日の如き形になつたものと見られる。その前身をいうのであろう。今日の萬葉葉からいえば、資料となつたものである。舊本の語は、綜麻形乃(卷一、一九)の歌の左註にもある。また古本ともあり、それは、天離(卷二、二二七)、直不來(卷十三、三二五七)の歌の左註にある。舊本に、この歌を反歌としているから、そのままこの順序に載せておくという編纂者の説明で、後人の疑惑を避けるための注意である。
 亦紀曰 マタキニイハク。紀は、日本書紀をいう。以下三山の歌全體に關するもので、天智天皇の御事蹟について記している。
 天豐財重日足姫天皇先四年。皇極天皇の四年である。重祚された天皇であるから、先の四年という。
 立天皇。天皇は天智天皇。
 
(109)近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇、謚曰2天智天皇1
 
【釋】近江大津宮 アフミノオホツノミヤ。天智天皇の六年三月に都を近江に遷した。今の大津市の附近で、これを近江の大津の宮という。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇の稱號。多分、國風の謚號であろう。
 
天皇、詔2内大臣藤原朝臣1、競2春山萬花之艶秋山千葉之彩1時、額田王以v歌判之歌
 
天皇の、内の大臣藤原の朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競《あらそ》はしめたまひし時、額田の王の歌以ちてことわれる歌
 
【釋】天皇。天智天皇。
 内大臣 ウチノオホオミ。宮廷に奉仕する臣下の首班をいう、内臣の首席であつて、後の内大臣《ないだいじん》では無い。
 藤原朝臣 フヂハラノアソミ。藤原の鎌足。もと中臣氏であつたが、天智天皇の八年に藤原氏を賜い、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。それを前に溯らして書いている。名を書かないのは、鎌足に對して敬意を表したのである。
 春山萬花之艶、秋山千葉之彩 春の花と秋の黄葉の美を、對句として表現している。題の意は、花と黄葉との美を競わしめたのであるが、文雅の遊びとして、多分漢詩などを作らしめたのであろう。
 以歌判之歌 ウタモチテコトワレルウタ。額田の王は婦人であるから、特に歌を以つて、花黄葉の優劣を判定したのである。天智天皇が、内の大臣の藤原の鎌足に詔して、春山の多くの花の艶《におい》と、秋山の多くの黄葉の(110)彩と、どちらがよいか、ということを競わしめたもうた時に、額田の王が、歌にて、その判斷をなされたのである。
 
16 冬ごもり 春さり來れば、
 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ。
 咲《さ》かざりし 花も咲けれど、
 山を茂《しげ》み 入りても取らず、
 草深み 取りても見《み》ず。」
 秋山の 木の葉を見ては、
 黄葉《もみち》をは 取りてぞしのふ。
 青きをば 置きてぞ歎く。
 そこしうらめし。秋山、吾は。」
 
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 不v喧有之《ナカザリシ》 鳥毛來鳴奴《トリモキナキヌ》
 不v開有之《サカザリシ》 花毛佐家禮杼《ハナモサケレド》
 山乎茂《ヤマヲシゲミ》 入而毛不v取《イリテモトラズ》
 草深《クサフカミ》 執手母不v見《トリテモミズ》
 秋山乃《アキヤマノ》 木葉乎見而者《コノハヲミテハ》
 黄葉乎婆《モミチヲバ》 取而曾思努布《トリテゾシノフ》
 青乎者《アヲキヲバ》 置而曾歎久《オキテゾナゲク》
 曾許之恨之《ソコシウラメシ》 秋山吾者《アキヤマワレハ》
 
【譯】冬の終りから春になつてくると、今まで鳴かなかつた鳥も來て鳴いている。咲かなかつた花も咲いているが、山の木が茂さにはいつても取らない。草が深さに手に取つても見ない。しかし秋山の木の葉を見ては、黄葉を取つて愛する。黄葉せぬ青葉をは、うち置いて歎くのである。自分は秋山の方をまさつていると思う。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋される。第一段、草深ミ取リテモ見ズまで。春の花について論じている。以下第二段、秋の黄葉について論じ、最後に秋山を可として結んでいる。
【釋】冬木成 フユゴモリ。フユゴモリと讀むについては、美夫君志に、釋名釋言語に、「成盛也」とあるを引(111)いて、通用説を述べているのが廣く行われている。古書には或惑なども通用しているのであるから、この説も成立し得ることである。しかしまた、戍の字を、古書では戊の如く書くので、成と紛れ易く、現に戍とあるべきを成に作つている例もある。「如是爲哉《カクシテヤ》 猶八戍牛鳴《ナホヤマモラム》 大荒木之《オホアラキノ》 浮田之社之《ウキタノモリノ》 標爾不v有爾《シメナラナクニ》」(卷十一、二八三九)の戍牛鳴を、諸本に多く成牛鳴に作つている。これは牛鳴はムの假字であるべきであり、一首の歌意からいつても、マモラムでなければならず、現に神田本金澤文庫本には戍に作つている。これによれば、冬木成は、冬木戍の誤りであるかもしれない。但し集中に冬木成六例のほかに冬隱三例がある。モリ(戍)のモは甲類、コモリ(隱)のモは乙類で、音韻が違う。語意は、冬のまだ殘つていることをいうので、冬の終りから春に續く意味で、春さり來るの枕詞となつている。なお枕詞でない用法もある。「冬木成時じき時と見ずて行かば」(卷三、三八二)、「冬木成春べに戀ひて植ゑし木の」(卷九、一七〇五)などはそれである。王仁の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春べと咲くやこの花」の冬ごもりの用法も同樣である。この語と同樣の構成の語に「夜ごもり」があり、それは「夜はこもる」の如き形にもなつている。(言語篇、冬ごもり考參照)。
 春去來者 ハルサリクレバ。コ田淨氏の説として、動詞去ルは、進行移動を意味する語として、方向の如何を問わず使用される。春去ればというも同じであつて、ここは七音の句であるから、春去り來レバという。春になればの意。その他、朝、夕、秋等につけていう。「春之在者」(卷十、一八二六等)と書いたものがあつて、シアレバの約言サレバであるとする説もあるが、それは別語として、かように書いたものであろう。
 不喧有之 ナカザリシ。冬のあいだ鳴かなかつた意で、連體句。
 鳥毛來鳴奴 トリモキナキヌ。冬のあいだは鳴かなかつた鳥も、春になれば來て鳴く意。終止句。
 不開有之 サカザリシ。冬のあいだは咲かなかつたの意。連體句。
 花毛佐家禮杼 ハナモサケレド。サケレドは、動詞咲クに助動詞リの已然形が接續し、更に助詞ドが接續し(112)て、逆態條件法を作つている。上の鳴カザリシ鳥モ來鳴キヌに對して、咲カザリシ花モ咲ケレドは、對句となつているが、鳥モ來鳴キヌは、終止形を採り、この句は、後續の句に連續している。古い對句の一樣式である。三山の歌參照。
 山乎茂 ヤマヲシゲミ。「心を痛み」(卷一、五)の語法に同じ。山が茂くして、山の草木の繁茂せるをいう。萬葉考には、ヤマヲシミと讀んでいる。シミという語の有無については、講義には無いという。しかし、「之美佐備立有《シミサビタテリ》」(卷一、五二)、「美夜萬等之美禰《ミヤヤマトシミニ》」(卷十七、三九〇二)のシミ、「小屋之四忌屋爾《ヲヤノシキヤニ》」(卷十三、三二七〇)、「鬼之四忌手乎《シコノシキデヲ》」(同)、「爲支屋所v經《シキヤフル》」(卷十六、三七九一)のシキ、「打靡《ウチナビキ》 四時二生有《シジニオヒタル》」(卷四、五〇九)、「竹珠叫《タカダマヲ》 之自二貫垂《シジニヌキタリ》(卷十三、三二八六)等のシジ、「京思美彌爾《ミヤコシミニ》」(卷三、四六〇)、「枝毛思美三荷《エダモシミミニ》」(卷十、二一二四)等のシミミ等を綜合して考えれば、繁茂を意味する古語シが考えられそうでもある。しかし文證の確なのについて、ヤマヲシゲミと讀むに決すべきである。
 入而毛不取 イリテモトラズ。春は、山の草木が繁茂しているので、立ち入りても取らずの意。終止句。
 草深 クサフカミ。草が深く生えているのでの意。
 執手母不見 トリテモミズ。春は草が深くあるが故に、花を手に取りても見ずの意。上の山ヲ茂ミ入リテモ取ラズに對して、この草深ミ執リテモ見ズは對句となり、共に、花モ咲ケレドを受けてその説明をしている。以上第一段。春は鳥鳴き花咲く好季節であるが、その利用價値の少いことを難じている。
 秋山乃木葉乎見而者 アキヤマノコノハヲミテハ。以下秋葉について述べる。
 黄葉乎婆 モミチヲバ。モミチヲハ(元赭)、ソメシヲハ(僻)、モミヅヲハ(考)。草木の葉の、秋になつて變色したものをモミチといい、本集では、黄葉の字を多く使用している。ほかに紅葉と書いたもの一例(卷十、二二〇一)、赤葉と書いたもの一例(卷十三、三二二三)、動詞として赤を用いたものは二例である。これは本(113)集にあつては、廣く草木の葉の變色するのを愛したことを語つている。ここの黄葉は、名詞として使用されている。動詞として見る説もあるが、それは不可である。なお動詞としての用法については、その場合に述べることとする。モミチのチは、假字書きの例、知の字を用い、清音であつたと考えられる。
 取而曾思努布 トリテゾシノフ。手に取りて賞美する。シノフに數義あることは、山越乃(卷一、六)の歌の第五句の條に記した。ここはそのうちの賞美する、愛賞するの意に相當する用法。かような用法には、「百烏の來居て鳴く聲、春されは聞きのかなしも、いづれをか分きてしのはむ」(卷十八、四〇八九)、「初雪は千重に降り敷《し》け、戀ひしくの多かる吾は見つつしのはむ」(卷二十、四四七五)など。花については手に取つて愛することのできないのを缺點としたのに對して、黄葉については、手に取つて賞美し得ることを述べている。終止形の句。
 青乎者 アヲキヲバ。秋になつても黄葉しないのをばの意。
 置而曾歎 オキテゾナゲク。青くして殘れるをさし置いて歎息する意。上の、黄葉ヲバ取リテゾシノフに對して、青キヲバ置キテゾ歎クは、對句を成している。終止形の句。
 曾許之恨之 ツヨシウラメシ。
   ソコシウラメシ(管)
   ――――――――――
   曾許之怜之《ソコシオモシロシ》(玉)
   曾許之怜之《ソコシタヌシ》(古義)
 ソコは、それ、その點、その事などの意。上の青キヲバ置キテゾ歎クを受けている。シは強意の助詞。ウラメシは、恨まれる意の形容詞。終止形の句。
 秋山吾者 アキヤマワレハ。
   アキヤマワレハ(神)
(114)   アキヤマソワレハ(西)
   アキヤマヲワレハ(細)
   ――――――――――
   秋山曾吾者《アキヤマゾワレハ》(代初)
 吾は秋山を可とすの意。「秋山だ、吾は」の意で、秋山を指示している。この場合、秋山は、體言であつて、吾はに對しては述語となつている。以上は便宜上わかりよい説明をしたので、正しくいえは、秋山を提示するだけで、文は完成し、下の吾はは、それに對して主語を補足するものである。歌の末句として、強く言い放つている。
【評語】この歌、花と黄葉との優劣を論じ、春の花を抑えて秋の黄葉を擧げている。花黄葉の美を論ずるに、その本質的なものに觸れないで、手に取つて賞美することができるできないという二義的な理由によつて、判定を下しているのは、正しい議論とは言い難いが、とにかくかような議論的な内容を歌に詠みなした手腕は認めねばならない。歌が實生活の産物であつた性質から離れて、抽象的に花黄葉の美を取り扱うようになつたのは、文筆的作品としての地位を確保したことを語る。實生活以上の風雅の世界がここに開かれたもので、その先驅として意義の多い作品である。この作者に取つても、歌いものふうの他の長歌とは變わつて、かような理路の整つた作品を留めているのは、大陸文學の影響の大きく動いている時代の新傾向を示し、その才氣の非凡であつたことを語る。それだけに内容は抽象的で、描寫が無いのは缺點である。また初めの春の説明に力がはいつており、秋の部分がこれに比して特色の無いのは、元來この人が花黄葉の眞の美については、同等に感じていたことを、暗黙の間に語つている。結句の秋山吾はは、力強いいい方で、一首全體を引き締める效果がある。形は五七調がかなり整つているが、末節は七七である。文筆作品として見られるが、反歌を伴なつていない。これらは古い形の遺存している點である。この歌の成立時代については、この歌が、近江時代の最初にあり、また額田の王の近江に赴かれる時の歌よりも前にあるので、天皇のなお大和にましました頃の作であろう(115)とする説がある。しかし古い時代における歌の配列が、どの程度正確に年代に從つているかは不明であつて、これに依つて作歌年代を決することは危險である。
 春秋の季節を比較することは、古事記の神話にも、既に春山の霞|壯夫《おとこ》と秋山の下氷壯夫《したびおとこ》との對比がなされている。萬葉集に入つては、對句に春秋を對比することは常になされているが、しかしその優劣を判定することは、見えていない。そこにこの歌の歴史的意義が存在する。平安時代に入つては、春秋の優劣論は、しばしば見えている。今その二三を擧げる。
   ある所に春秋いづれかまされるととはせたまひけるに詠みて奉れる      紀の貫之
  はる秋におもひみだれてわきかねつ。時につけつつうつる心は
   元良のみこ、承香殿のとし子に、春秋いづれかまさると云ひ侍りければ、秋もをかしう侍りといひけれは、おもしろきさくらを、これはいかがといひて侍りければ
  大かたの秋に心はよせしかど花みる時はいづれともなし
   題しらず  よみ人しらず
  春はただ花のひとへに咲くばかりもののあはれは秋ぞまされる(拾遺和歌集卷の九雜下)
  こころから春まつ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ   秋好の中宮
  風に散る紅葉はかろし。春のいろを岩根の松にかけてこそみめ(源氏物語少女の卷)  紫の上
  祐子内親王藤壺に住み侍りけるに、女房うへ人などさるべきかぎり、物語して、春秋のあはれいづれにか心ひくなどあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ 菅原の孝標の女
  淺みどり花もひとつに霞みつつおぼろに見ゆる春の夜の月(新古今和歌集卷の一春上)
   豐主とふ
(116)  おもしろのめでたきことをくらぶるに春と秋とはいづれまされる
   黒主こたふ
  春はただ花こそは散れ。野邊ごとににしきを張れる秋はまされり(樹下集)
 
額田王、下2近江國1時作歌、井戸王即和歌
 
額田の王の、近江の國に下りし時作れる歌。井戸の王のすなはち和ふる歌
 
【釋】額田王下近江國時作歌井戸王即和歌。
  額田王下近江國時作歌一首并短歌(代精)
  大海人皇子命下近江國時御作歌(考)
  井戸王下近江國時作歌額田王即和歌(燈)
  大海人皇子命下近江國時御作歌并短歌一首(墨)
  額田王下近江國時作歌(古義)
 下2近江國1時。額田の王が近江の國に下られたのは、多分近江の大津に帝都が遷され、そこにましました天智天皇に召されたのであろう。その途中、奈良山で、故郷を望み見て詠まれた歌と解せられる。もし然りとせば、近江の國に上ると書かねばならないのに、下ルと書いたのは、この歌を記し留めた人々に、大和を中心とする思想があつて、かように書いたのであろう。天武天皇の御代以後になつて、この題詞が書かれたのであろう。額田の王の故郷は、生駒郡平端村大字額田部の地が、それに擬せられている。
 井戸王即和歌 ヰノヘノオホキミスナハチコタフルウタ。井戸の王は他に所見無く、傳記等未詳であり、名の讀み方も男王か女王かも不明である。奈良縣添上郡に井戸村があつて、今その平和村に井戸野の字があるが、(117)關係地かどうか、不明。上の額田王云々の文にすぐ續けてこれを書いたのは、題詞として異例である。和歌は、和フル歌で、唱和の歌の義である。その井戸の王の歌は、綜麻形乃云々の歌をさすと見るほかは無い。誤謬があるとする説も多いが、異例だから誤謬であるということも無い。本集には、隨分不統一のものがあり、それらは多く資材としたものからそのままに受け入れたためであろう。原文のままに解釋を求むべきである。
 
17 味酒《うまさけ》 三輪《みわ》の山、
 あをによし 奈良の山の、
 山の際《ま》に  い隱るまで、
 道の隈《くま》 い積るまでに、
 つばらにも 見つつ行かむを、
 しばしばも 見|放《さ》けむ山を、
 情《こころ》なく 雲の 隱さふべしや。」
 
 味酒《ウマサケ》 三輪乃山《ミワノヤマ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 奈良能山乃《ナラノヤマノ》
 山際《ヤマノマニ》 伊隱萬代《イカクルマデ》
 道隈《ミチノクマ》 伊積流萬代尓《イツモルマデニ》
 委曲毛《ツバラニモ》 見管行武雄《ミサケムヤマヲ》
 敷々毛《シバシバモ》 見放武八萬雄《ミサケムヤマヲ》
 情無《ココロナク》 雲乃《クモノ》 隱障倍之也《カクサフベシヤ》
 
【譯】あの三輪の山よ。奈良の山の間に、隱れるまで、道の曲角《まがりかど》が積り重るまでに、十分に見つつ行こうものを。しばしばも遠く望み見ようとする山であるを、心無く雲が隱すべきではありますまい。
【構成】全篇一文で、段落は無い。まず初二句で三輪の山を呼びかけ、その山を中心として、離れ去り難い情を述べている。
【釋】味酒 ウマサケ。ムマサケノ(元緒)、ムマサケ(古葉)、ウマサカノ(西)、ウマサケノ(細)、アチサケノ(古點)、ウマサケ(僻)。うまい酒の義で、三輪の枕詞になつている。倭名類聚鈔に、「神酒、日本紀私(118)記云、神酒美和」とあつて、酒の古語をミワという。日本書紀、崇神天皇紀に、「宇摩佐開《ウマサケ》 瀰和能等能能《ミワノトノノ》」とあり、本集には、「味酒《ウマサケ》 三室山《ミムロノヤマ》」(卷七、一〇九四)、「味酒《ウマサケ》 三輪乃祝之《ミワノハフリガ》(卷八、一五一七)などある。また「味酒呼《ウマサケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)、「味酒乎《ウマサケヲ》 神名火山《カムナビヤマノ》」(卷十三、三二六六)、「味酒之《ウマサケノ》 三毛侶乃山爾《ミモロノヤマニ》」(卷十一、二五一二)など、ウマサケヲ、ウマサケノと五音に讀むべき例も存している。これは元來四音であつたものが、歌の文筆的性格が濃厚になるに及んで、五音に整理されたものと考えられる。
 三輪乃山 ミワノヤマ。奈良縣磯城郡三輪町にある山。平野に面して俊秀な山容を成しているので、遠方からも注意をひく山である。山名については、古事記中卷、崇神天皇記に、陶津耳の女の活玉依毘賣のもとに、何者とも知れぬ壯士の通つたのを、父母が教えて、麻絲を針に貫いてその壯士の裾につけしめたところ、朝になつて見れば、その麻絲が戸の穴から拔け出して、遣れる絲はただ三輪のみだつた。その絲をたよつて尋ねて行つたら、三輪山に至つて神の社に留まつたという。これは山號の起原傳説として見るべきである。一方には、酒の古名をミワということ、前掲の倭名類聚鈔に見え、また土佐國風土記の逸文にも、「神川、訓2三輪川1」とあり、神の字をミワと讀ましめている。播磨國風土記、讃容郡の記事のうちに、「伊和村【本名。神酒】大神釀2酒此村1。故曰2神酒村1」とあり、この神酒もミワと讀むべきもののようである。伊和の方の起原説明は無いが、ミワが、ミとワとに分解され、ミは美稱の接頭語となるので、イワというも、酒の義であるのかもしれない。ワは、輪を意味し、輪に神秘な力があるとすることから、酒をワといぅに至つたとも見られる。「天|※[瓦+肆の左]和《みかわ》齋許母利?」(出雲の國造の神賀詞)の※[瓦+肆の左]和は、大きい輪で、やはり神聖な場處を意味するのだろう。さて三輪は山、大神《おほみわ》神社の神體であつて、三輪山の名は、恐らくは神山の義が本義であろう。また三諸山と呼ばれることも旁證とするに足りる。さてこの句は呼格として見るべきである。解釋上からは、假にヲを補つて見るのもよいが、それは便宜のことであつて、正解では無い。下文に、その山をの意味の語が含みになつていると見るのが正しい(119)見方である。
 青丹吉 アヲニヨシ。奈良の枕詞。語義未詳。古い歌いものから襲用されている枕詞で、用例として「阿袁邇余志《アヲニヨシ》 那良袁須疑《ナラヲスギ》」(古事記五九)、「阿烏珥預辭《アヲニヨシ》 儺羅烏輸疑《ナラヲスギ》」(日本書紀五四)、「婀嗚?與志《アヲニヨシ》 乃樂能婆娑摩?《ナラノハザマニ》」(同、九五)があり、本集での用字例には、安乎爾余之一例、安乎爾余志一例、安乎爾與之四例、安遠爾與之一例、阿乎爾與斯一例、阿遠爾與志二例、青丹余之二例、青丹余志一例、青丹與之一例、青丹吉十三例、緑青吉一例である。これによれば、通用語原として、青丹吉が意識に上つていたと考えられる。ヨシの語を伴なう枕詞としては、麻裳ヨシ、在根ヨシ、玉藻ヨシ、眞菅ヨシ、八百丹ヨシ等がある。このうち、眞菅ヨシについては、「眞菅吉《マスゲヨシ》 宗我乃河原爾《ソガノカハラニ》」(卷十二、三〇八七)に對して、「摩蘇餓豫《マソガヨ》 蘇餓能古羅破《ソガノコラハ》」(日本書紀一〇三)の如く、シの無い用例があり、八百丹ヨシについては、「夜本爾余志《ヤホニヨシ》 伊岐豆伎能美夜《イキヅキノミヤ》」(古事記一〇一)に對して、「八百丹《ヤホニ》 杵築宮爾《キヅキノミヤニ》」(出雲の國の造の神賀詞、但し八百丹は八百米ともされる。)の如く、ヨシの無い用例がある。これによつてヨは呼稱の助詞、シは強意の助詞であつたものと推定される。さてアヲニについては、奈良に蹈ミ平ラスの通用語原意識がありとすれば、ニはやはり土の義とすべく、アヲはその形容語とするを順當とすべきが故に、やはり青の義であつたであろうか。奈良の地をほめてこの語が使用されている。古事記中卷に、「櫟井《いちゐ》の、丸邇坂《わにさ》の丹《に》を、初土《はつに》は膚赤らけみ、底土《しはに》はか黒きゆゑ、三つ葉のその中つ丹《に》を、かぶつくま火にはあてず、眉《まよ》がき濃に書き垂れ」(四三)という句の歌があつて、丸邇坂の丹を、眉書きに使つたとしている。その丸邇坂は、春日の地と推考され、奈良山の南麓とも見られるから、奈良に關して青丹ヨシの枕詞が成立する理由もあるのだろう。なお、國内《くぬち》に係けて使用せられたもの一例(卷五、七九七)があり、これもその國土を稱美する意であろうと考えられる。
 奈良能山乃 ナラノヤマノ。奈良山は、奈良縣の北部、縣境を成す山。低い山であるが幅が廣い。大和から(120)山城への通路になつている。
 山際 ヤマノマニ。
   ヤマキハニ(元赭)
   ヤマノマニ(西)
   ヤマノハニ(附訓本)
   ヤマノカヒ(僻)
   ――――――――――
   山際從《ヤマノマユ》(考)
 山と山とのあいだに。山のあいだに。助詞ニに當る文字無く、讀み添えている。
 伊隱萬代 イカクルマデ。
   イコモルマテニ(元赭)
   イカクルヽマテ(西)
   イカクルマデ(古義)
   ――――――――――
   伊隱萬代爾《イカクルマテニ》(墨)
 イは接頭語。動詞について、イ行ク、イ取ルなど使う。隱ルは、四段活用として、連體形カクルを使つている。「比賀迦久良婆《ヒガカクラバ》」(古事記四)、「伊加久流袁加袁《イカクルヲカヲ》」(古事記一〇〇)など、四段に使用されている。マデは助詞。體言、および用言の連體形に接續する。防人の歌の中には、動詞|來《く》の終止形に接續するものがあるが、それは特例である。三輪山が奈良の山の山間に隱れるまでの意である。
 道隈 ミチノクマ。クマは曲り角の隅のところ、日本書紀卷の二に「隈、此云2矩磨?1」とある。山路であつて、曲り角である。
 伊積萬代尓 イツモルマデニ。イツモルマテニ(元赭)、イサカルマテニ(僻)。イは接頭語。上のイ隱ルと同じ語法。山路で、曲り角が多く隈が重なるのである。上の山ノ間ニイ隱ルマデに對して、この二句は對句を(121)成している。但しニは、上のイ隱ルマデと、このイ積ルマデとを併せ受けている。
 委曲毛 ツバラニモ。
   クハシクモ(元赭)
   マクハシモ(西)
   イクタヒモ(僻)
   ツバラニモ(考)
   ツブサニモ(考)
   ――――――――――
   委曲爾《ツバラカニ》(古義)
 ツバラは、委曲、詳細。「安佐比良伎《アサビラキ》 伊里江許具奈流《イリエコグナル》 可治能於登乃《カヂノオトノ》 都波良都波良爾《ツバラツバラニ》 吾家之於母保由《ワギヘシオモホユ》」(卷十八、四〇六五)などの用例がある。靈異記の訓釋に、「委曲 ツ波比良計苦」とある。
 見管行武雄 ミツツユカムヲ。三輪山を仔細に見ながら行こうものをの意、ヲは、何々なるが然れどもの意をあらわす助詞として使用されている。
 數々毛 シバシバモ。度數多くも。數は頻數の義である。
 見放武八萬雄 ミサケムヤマヲ。サケは、下二段動詞離クの連用形。離クは、遠く距離を作るをいう語で、見サクは、眼を放つて見るの意である。「語左氣《カタリサケ》 見左久流人眼《ミサクルヒトメ》 乏等《トモシミト》 於毛比志繁《オモヒシシゲシ》」(卷十九、四一五四)の見サクルは、眺める位の意に使われている。山は三輪山をいう。上のツバラニモ見ツツ行カムヲの句に對して、この二句は對句を成し、今行く奈良の山のあいだから三輪山を眺めながら行こうとするのにの意をあらわしている。このヲも、何々であるが然れどもの意を示している。
 情無 ココロナク。下の隱スに係かる語。無情にも、無理解にも。「ま遠くの野にもあはなむ己許呂奈久《こころなく》里のみ中に逢へる夫《せ》なかも」(卷十四、三四六三)、「心無き秋の月夜の物思ふと寐《い》の宿《ね》らえぬに照りつつもとな」(122)(卷十、二二二六)などの用例がある。
 雲乃 クモノ。三音の一句。下の隱サフに對して主格を成している。
 隱障倍之也 カクサフベシヤ。カクサフは、動詞隱スの未然形に、繼續の意を示す助動詞フの接續したもの。ベシは自然の助動詞。ヤは反語の助詞。ベシヤは、漢文の訓讀にいうベケムヤの意に同じ。隱すべきか隱すべきではないの意。
【評語】この歌は、まず味酒三輪の山と、なつかしの三輪山を呼びかける。住み馴れた故郷において、朝夕に見ていたその山を、顧みがちに山路をたどる心が、青丹ヨシ以下の句で描かれ、そのあいだに二個の對句を使用したのも、纏綿たる哀別の情を寫すに適している。シバシバモ見サケム山ヲは、希望の目標である山を出して、意味を強くしている。最後に障害となる雲に對して恨みの詞を述べている。結句が五三七で終るのは、古長歌に見られる所で、既に前に述べた。その五三七の五三の關係は、三七の關係よりも密接なものが多いが、この歌ではよく切れているのが特色である。元興寺縁起には、額田の王を采女としているが、召しに依つて故郷を離れて他國に赴く女性の心ぼそさがよく描かれている歌である。風格は歌いものふうで、各句の音數も不整のものが多く、感情中心に歌われ、前の花黄葉を論じた歌の理智的なのと、好對比をなしている。
 
反歌
 
18 三輪山を しかも隱すか。
 雲だにも 情《こころ》あらなむ。
 隱さふべしや。
 
 三輪山乎《ミワヤマヲ》 然毛隱賀《シカモカクスカ》
 雲谷裳《クモダニモ》 情有南畝《ココロアラナム》
 可苦佐布倍思哉《カクサフベシヤ》
 
(123)【譯】三輪山をそのようにも隱すことか。せめて雲だけでも心があつて欲しいことです。わたしが見ようと思うのに隱すべきでは無いでしよう。
【釋】然毛隱賀 シカモカクスカ。その通りにも隱すことよの意。カは感動詠嘆をあらわす助詞。句切。「三輪山をしかも隱すか春霞人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集、紀貫之)。
 雲谷裳 クモダニモ。ダニは、他の大きい事はしばらく別として、せめてこの小事でもの意をあらわす助詞。他に情無いものがあるが、せめては雲だけでもの意。「面忘れだにも得爲やと手握りて打てども懲りず戀といふ奴」(卷十一、二五七四)、「朝井手に來鳴く貌鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)。
 情有南畝 ココロアラナム。
   コヽロアラナム(元)
   コヽロアラナモ(講義)
   ――――――――――
   情有南武《ココロアラナム》(類)
 畝の字については諸説がある。まず傳來については、類聚古集に武に作り、西本願寺本等には、畝の左に武イとある。武に作るによれば、ココロアラナムとなり、意もよく通ずるが、元暦校本等に畝に作つているのを捨てるわけにも行かない。次に畝に作るによれは、ムとする説(古義、美夫君志等)と、モとする説(講義)とがある。古義には、「字彙に畝、莫厚切謀、俗作v畝非とあり、畝謀呉音ムなり、謀坂などいふを思ふべし」とある。謀は、本集にも「奈騰可聞妹爾《ナドカモイモニ》 不v告來二計謀《ノラズキニケム》(卷四、五〇九)の如く、ムに使つた例がある。講義には、畝の呉音モなりとし、誂の助詞ナムは、奈良時代にはナモであつたとしている。ナモの用例としては、「兒良波安波奈毛《コラハハナモ》」(卷十四、三四〇五)、「世奈波安波奈母《セナハアハナモ》」(同)の例があるが、これは東歌である。今、順當なるによつてココロアラナムとする。心があつて欲しいことだの意で、長歌の情無クに對して、逆の方面から説いている。終止形の句。心があるは、理解がある、同情があるの意。「鳩鳥の潜《かづ》く池水心あらば君にわが(124)戀ふる心示さね」(卷四、七二五)。
 可苦佐布倍思哉 カクサフベシヤ。長歌の末句を繰り返している。
【評語】長歌の末三句を受けて、これを變化させて作つている。長歌の末と短歌の末とが同一句から成るものは數々あることで、これに依つて兩者の關係を密接ならしめる。長歌と併せて味わうべきで、個々に離すべきではない。三個の短文を重ねて、特に詠嘆の氣味の多い歌である。雲ダニモ情アラナムと希望したことによつて、雲以外のもの、すなわち人は情無きものであることをあらわしている。それを直接に怨言を述べずに、雲に託して間接的に怨んでいるのは、女流の作としての特色を發揮しているものである。
【參考】ベシヤの語を使用せる短歌。
  大和戀ひ寐《い》の宿《ね》らえねに情無くこの渚埼みに鶴鳴くべしや(卷一、七一)
  出でて去なむ時しはあらむを故《ことさら》に妻戀しつつ立ちて去《い》ぬべしや(卷四、五八五)
  道の邊の草深百合の花ゑみに咲《ゑ》まししからに妻といふべしや(卷七、一二五七)
  海つ路のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや(卷九、一七八一)
  わが戀を妻は知れるを往く船の過ぎて來べしや。事も告げなむ(卷十、一九九八)
  戀ひしくはけ長きものを今だにも乏しむべしや。逢ふべき夜だに(同、二〇一七)
  さ宿《ね》そめていくだもあらねば白たへの帶乞ふべしや。戀も過ぎねば(同、二〇二三)
  戀ふる日はけ長きものを今夜だに乏しむべしや。逢ふべきものを(同、二〇七九)
  たらちねの母に障らばいたづらに汝《いまし》も吾も事成るべしや(卷十一、二五−七)
  おのれ故|罵《の》らえて居れば醜《あを》※[馬+總の旁]の面高夫駄に乘りて來べしや(卷十二、三〇九八)
   同、長歌
(125)  見が欲れば雲居に見ゆる、うつくしき鳥羽の松原、小子《わくご》どもいざわ出で見む。こと離《さ》けば國に離けなむ。こと離けば家に離けなむ。天地の神し恨し。草枕この旅のけに、妻離くべしや(卷十三、三三四六)
 
右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
 
右の二首の歌は、山上の憶良の大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江の國に遷しし時、三輪山を御覽《みそなは》せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅の春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
 
【釋】遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。以上、類聚歌林の文で、萬葉集と作者竝びに作歌事情の相違することを記したのである。ここに御歌とあるは、何人の御歌とも知り難いが、代匠記に天皇御製とし、古義には皇太子(天武天皇)の御歌としている。しかし歌意は、三輪山に別れを惜しむ情が強く、かつ雲ダニモ情アラナムと歌つているので、あらたに帝都を經營しようとする天皇の御製たるにふさわない。
 六年丙寅 以下日本書紀の文である。但し今の日本書紀には六年丁卯の年の事としている。この事については、美夫君志の別記に、詳論して、古本の日本書紀の年紀が今本と違うことを説いている。
 
19 綜麻縣《へそがた》の 林の始《さき》の さ野榛《のはり》の、
 衣《きぬ》に著《つ》くなす 眼に著くわが夫《せ》。
 
 綜麻形乃《ヘソガタノ》 林始乃《ハヤシノサキノ》 狹野榛能《サノハリノ》
 衣尓著成《キヌニツクナス》 目尓都久和我勢《メニツクワガセ》
 
【譯】綜麻の地方の林の先の野ハギが、著物を染めて色づくように、目につくあの方です。
【釋】前の題詞のうち、井戸王即和歌を、この歌の説明と見て解すべきである。但し左註には、和歌と思われ(126)ないよしを記している。和フル歌といつても、額田の王が、井戸の王に、歌を贈られたのではなく、たまたま井戸の王が、額田の王の歌を見て詠まれたものであろう。井戸の王が、その時、側近にいたかどうかも知られない。
 綜麻形乃 ヘソガタノ。ソマカタノ(西)、ヘソガタノ(代精)、ミワヤマノ(僻)綜麻をヘソと讀むことは、日本書紀崇神天皇紀にある大綜麻杵とある人を、新撰姓氏録には大閇蘇杵命と書いている。そうして形を縣の義とすれば、綜麻は地名ということになるが、それは何處とも知られない。滋賀縣栗太郡大寶村に綣《へそ》という地名があるというが、それがこの歌と關係があるとも思われない。ただそういう地名のあるべきことが推考されるだけである。倭名類聚鈔に、卷子を閇蘇と讀んでいるのは、績《う》んだ麻の圓く卷いたものの謂である。ガタはアガタの略。地方の義。この句、古くはソマカタノと讀んでいた。それでは意を成しがたい。僻案抄にはミワヤマノと讀んでいるが、その讀み方は無理である。ヘソガタの訓は代匠記の説である。
 林始乃 ハヤシノサキノ。ハヤシハシメノ(元赭)、ハヤシノサキノ(代初)、シケキカモトノ(僻)。林の先端の、林のとりつきのの義。
 狹野榛能 サノハリノ。サノハキノ(元赭)、サヌハリノ(僻)、サヌハギノ(考)。榛をハリと讀むか、ハギと讀むか、またはハンノ木かハギかについて問題が存する。榛は、新撰字鏡に、「叢生木曰v榛」とあつて灌木の叢生せるをいい、古事記下卷には、「天皇畏2其宇多岐1、登2坐榛上1」とあつて、その時の御製歌に「和賀爾宜能煩理斯《ワガニゲノボリシ》 阿理袁能《アリヲノ》 波理能紀能延陀《ハリノキノエダ》」とあり、榛のハリノキであることが知られる。本集では、榛は單獨にも用い、また榛原・眞榛と熱しても用いられている。その榛原と書いたものについては、「島之榛原《シマノハリハラ》 秋不v立友《アキタタズトモ》」(卷十、一九六五)の榛原の如きを、「蘇比乃波里波良《ワヒノハリハラ》」(卷十四、三四一〇)、「嶋針原《シマノハリハラ》 時二不v有鞆《トキニアラネドモ》」(卷七、一二六〇)の例によつて、ハリハラと讀むべきことが推考される。そのハンノキであるかハギであるかに(127)ついては、衣に摺るということ、秋立タズトモということ、「引馬野ににほふ榛原」(卷一、五七)、「白菅の眞野の榛原手折りて行かむ」(卷三、二八〇)の歌の如き、ハンノキでは風情をなさぬ歌のあること等によつて、ハギであることが確められる。しかし一方に、ハギは、波疑、波義の如く、假字書きにしたものがあつて、ハギであるが、古くハリとも言つたことは、播磨國風土記、揖保の郡萩原の里の條に、「右所3以名2萩原1者、息長帝日賣命、韓國還上之時、御船宿2於此村1、一夜之間、生2萩根1高一丈許、仍名2萩原1。即闢2御井1、故云2針間井1」とあることによつて證せられる。但しこの風土記の萩の字は、三條西家本には荻に作つているが、萬葉集註釋(卷の十四、イカホロノソヒノハリハラの條)に引いた文にはハギに作り、今も兵庫縣揖保郡揖保村に萩原の地名がある。よつてサノハリノと讀んで、サは接頭語、ノハリは野萩のこととすべきである。
 衣尓著成 キヌニツクナス。衣につくは、野ハギの花を採つて染料とし、これによつて衣を染めるをいう。ナスは、如くの意の動詞で、名詞または動詞の連體形に接續する。成スの義であろう。以上四句を序として、五句の目ニツクを引き出している。
 目尓都久和我勢 メニツクワガセ。目について忘れ難いわが君の意。ワガセは男性をさすことはあきらかであるが、何人をさすとも知られない。額田の王の思つておられる人をさすか、お召しになるところの天皇をさしているかである。
【評語】この歌は、作歌事情や讀み方に問題があつて、これを以つて、眞生命をあきらかにし得たとはいい難い所がある。しかし上四句は、畢竟譬喩で、主意は第五句にあるのだから、歌意においては、あまり讀み方に左右されない。下句の調子のよさは、何ともいえない。全く口で歌われる歌の調子を保有しているというべきである。一體詩歌に同音を利用するには、各種の方法があつて、それには種類もあるが、同音の詞句の所在についていえば、句頭にあるを頭韻、句末にあるを脚韻といい、これは從來もよく注意されたものである。しか(128)るにこの歌のは、句中にあつて、ツクの音を重ねており、しいて名を附けれは、腹韻ともいうべく、從來多く注意されなかつたものである。しかしこのために歌が一層諧調になるのは爭えない事實であるから、作歌の技術として、重視されねばならない。これは歌いものから來た所で、文筆作品になつて、發達しないでしまつた。「花ぐはし櫻のめで、ことめでは早くはめでず、わがめづる子ら」(日本書紀)の如きは、句中にメデの語を重ねた例である。
 
右一首歌、今案、不v似2和歌1。但舊本載2于此次1。故以猶載焉。
 
右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し舊本この次に載す。故、猶載す。
 
【釋】 不似和歌 コタフルウタニニズ。題に、井戸王即和歌とありながら、この歌の内容が、前の額田の王の歌に和したとも見られないことを指摘している。
 舊本。前出(一五左註)。この記事によつても、この一團の歌および題詞が、資料のままであることが推知される。
 載焉。元暦校本、古葉略類聚妙に焉載に作り、古葉略類聚妙には如集と注している。傳冷泉爲頼筆本に爲載とあるのも焉載を誤つたものであろう。焉は、字書に「然也」ともあり、類聚名義抄にもココニの訓を載せている。
 
天皇遊2?蒲生野1時、額田王作歌
 
天皇の、蒲生野に遊?したまひし時、額田の王の作れる歌
 
【釋】天皇。 天智天皇。
(129)遊?。 左註によるに、この?は、天皇の七年五月五日に催された藥?である。藥?のことは、既に三の歌に記した。
 蒲生野 カマフノ。滋賀縣蒲生郡の原野。今、武佐、市邊のあいだに内野、蒲生堂、野口などの地名が殘つている。
 
20 茜《あかね》さす 紫野《むらさきの》行き 標野《しめの》行き
 野守《のもり》は見ずや。
 君が袖振る。
 
 茜草指《アカネサス》 武良前野逝《ムラサキノユキ》 標野行《シメノユキ》
 野守者不v見哉《ノモリハミズヤ》
 君之袖布流《キミガソデフル》
 
【譯】 ムラサキの植えてある園に行き禁園に行きなどして、番人は見ているではありませんか。それなのに、あなたは袖を振つている。
【釋】茜草指 アカネサス。枕詞。アカネは、アカネ科の多年生草本。ムグラに似た草で、茎は蔓性である。その根から赤い染料を採る。紫色は赤味を帶びているので、紫の枕詞とする。
 武良好野逝 ムラサキノユキ。ムラサキは草の名。ムラサキ科の多年生草本。根から紫色の染料を採る。野生もあるであろうが、古くは諸國をして栽培せしめ、その紫草園は國司巡硯して、雜人の亂入を禁じたものである。これは、その染料を尊重したためであろう。ここの紫野も、その栽培してある紫草園をいうので、次の標野も、語を代えていつたに過ぎない。諸國における紫草園經營の一例を擧げると、正倉院文書、豊後國天平九年正税帳(大日本古文書二ノ四〇)に、球珠郡天平八年の國司の巡行を記して、「壹度蒔營紫草園【守一人從三人竝四人二日】單捌人、上貮人【守】、從陸人」「萱度掘紫草根【守一人從三人竝四人二日】單肆人、上貮人【守】、從陸人」とあり、他の郡にもこれが見える。
(130) 標野行 シメノユキ。標は、占有を表示するもので、雜人の亂入を防ぐために榜又は繩を以つて、その意志を表出するものである。シメノは、雜人の入ることを禁じた野。ここでは前の紫野と同じ野とも、また別の野とも解される。そのような禁園を行つてというのは、實際紫草園におられるので、それによつてこの句となつたのである。
 野守者不見裁 ノモリハミズヤ。野守は、紫草園また標野の番人をいぅ。禁斷の園なので、番人を置いて守らしめる。見ズヤは見ないか、見ているの意。ヤは反語になる助詞。この句は、以前は、獨立文で、君が袖ふるを野守は見ずやの意に解されていたが、澤瀉博士の説のように、上の三句を受けているものと解すぺきだろう。以上で、自分には番人のあることをいう。
 君之袖布流 キミガソデフル。袖は、衣の手を包む部分の、長く餘つているのをいう。袖を振るのは、合圖をするのである。皇太子が、野守の見ているのにもかかわらず、額田の王に對して、袖をふるのをとがめている。
【評語】この歌は、次の皇太子の御歌の意から推しても、天智天皇に寵愛されている額田の王の現在の身の上をも顧みずに、たとえば禁園にはいつて勝手な振舞をするが如きことのあつたのを説いているのであろう。紫野ユキ標野ユキと句を重ねて、藥獵の日のありさまをえがき、君が袖フルと野守の目にあまる光景をえがいて、巧みに人目を憚る心を寫している。美しい詞句によつて實況を寫し、しかもそれを利用して、情意を表現して(131)いる。越境を咎めるような語氣を用いながら、好意を寄せていることが感じられる。流麗であつて、言情兼ね備わり、最高度の作歌技術を盡している。名作というべきである。
 
皇太子答御歌【明日香宮御宇天皇、謚曰2天武天皇1】
 
皇太子の答へませる御歌【明月香の宮に天の下知らしめしし天皇、謚して天武天皇と申す。】
 
【釋】皇太子 ヒツギノミコ。舒明天皇の第二皇子。初め大海人の皇子といい、後、即位して天武天皇と申す。天智天皇の御代に、皇太弟として儲位にあつた。
 明日香宮 アスカノミヤ。天武天皇の明日香の淨御原の宮をいう。
 謚曰天武天皇 オクリナシテ天武天皇トマヲス。この註、古寫本にある。漢風の謚號は、天平勝寶三年の懷風藻に、文武天皇の御名が見え、天平寶字二年に、聖武天皇に勝寶感神聖武皇帝の稱號を奉り、同三年には、舍人の親王に崇道盡敬皇帝の追稱を奉つているから、その頃には既に上つたものと考えられる。よつて萬葉集にこれがあるのは、あえて恠しむに足らぬのである。歴代の天皇ことごとくに一度に奉つたものでなく、神武、天武、文武、聖武のような堂々たる稱號がまず奉られたのだろう。
 
21 紫草《むらさき》の にほへる妹を
 憎《にく》くあらば
 人妻《ひとづま》ゆゑに われ戀《こ》ひめやも。 
 
 紫草能《ムラサキノ》 尓保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》  尓苦久有者《ニククアラバ》人嬬故尓《ヒトヅマユユニ》 吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》
 
【譯】紫の色のように美しいあなたを、憎く思うならば、他人の妻であるのに、わたしは戀をしないことでしよう。
(132)【釋】紫草能 ムラサキノ。額田の王の歌の詞を取つて歌い起している。ここでは紫のようにニホフと解すべく、枕詞と見るべきである。紫の色に出ることから、ニホフの主格となつている。
 尓保敝類妹乎 ニホヘルイモヲ。ニホヘルは、動詞ニホフに、助動詞リの連體形の接續したもの。ニホフは、色または香のあらわれるをいう。この歌では、美しい意に使つている。この語は、花もしくは色についていうのが普通であつて、それ故に、紫ノニホヘルを以つて妹の修飾句とするのである。紫の色にあらわれたような妹の義にとる。これによつて、初句紫ノを以つて、ニホフの枕詞とする。また稀な例ではあるが、「筑紫奈留《》爾抱布兒由惠爾《ツクシナルニホフコユヱニ》」(卷十四、三四二七)の如く、花や色の主格なく、直にニホフを以つて、美しいことを表現する例もある。妹は、女性に對して親しみいう語、額田の王をいう。要するに、紫はニホフ、そのようにニホヘル妹の義であつて、ニホヘルを以つて兩方にかけて解すべきである。
 尓苦久有者 ニククアラバ。好ましからずあるならばの意。
 人嬬故尓 ヒトヅマユヱニ。人妻である、それだのに。次句の戀フを限定する。人妻に對しての戀の意に下に續くのである。
 吾戀目八毛 ワレコヒメヤモ。ヤは反語。戀をしようか、戀うことはしまいの意。結局、憎くない故に、人妻に對して戀をするの意である。
【評語】前の歌の紫草を受けて、初句を起している。答の歌には、前の歌の詞句を取ること常例である。但し紫草の語の用い方は違つている。前は紫草という草の名をさし、この歌では紫の色をさしている。初二句の美しい辭が全體を華やかにしている。額田の王の歌の婉曲に情意をいうのに對してこれはむしろ豪放率直に思う所を述べている。男性的な歌で、露骨になつているのはやむを得ない。人妻に對しては、集中の歌は、かなり嚴肅な倫理觀念を語つている。その良心の教えと、止み難い性の衝動との苦しい闘爭を語るものとして、注目(133)すべき作品となつている。
【參考】 人妻を歌つたもの。
  神樹《かむき》にも手は觸るといふをうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(卷四、五一七)
  人妻に吾もまじらむ。わが妻に人も言問へ(卷九、一七五九)
  赤らひくしきたへの子をしば見れば人妻ゆゑにわれ戀ひぬべし(卷十、一九九九)
  もみち葉の過ぎがてぬ子を人妻と見つつやあらむ。戀しきものを(同、二二九七)
  うち日さす宮道にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の思ひ亂れて寐る夜しぞ多き(卷十一、二三六五)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十二、二八六六)
  おぼろかにわれし思はば人妻にありといふ妹に戀ひつつあらめや(同、二九〇九)
  小竹《しの》の上に來居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑにわれ戀ひにけり(卷十二、三〇九三)
  息の緒にわが息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも(同、三一一五)
  つぎねふ山城|道《ぢ》を人づま(男)の馬より行くに(卷十三、三三一四)
  人妻とあぜか其《そ》をいはむ。然らばか隣《となり》の衣《きぬ》を借りて著なはも(卷十四、三四七二)
  崩岸《あず》の上に駒をつなぎて危《あやほ》かと人妻子ろを息にわがする(同、三五三九)
  崩岸邊《あずべ》から駒の行このす危《あやは》とも人妻子ろをま行かせらふも(同、三五四一)
  なやましけ人妻かもよ榜《こ》ぐ舟の忘れはせなな。いや思《も》ひ増すに(同、三五五七)
 
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及群臣、悉皆從焉。
 
(134)紀に曰はく、天皇の七年|丁卯《ひのとう》の夏五月五日、蒲生野に縱獵したまふ。時に大皇弟、諸王内臣、及び群臣、悉皆《ことごと》に從ひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇七年丁卯。天智天皇の七年である。但し今の日本書紀には、七年丙辰としてある。
 縱獵 ミカリシタマフ。藥獵であることは前に記した。
 大皇弟 スメイロト。天武天皇。
 諸王 オホキミタチ。皇族のうち、王と稱せられる方々を指す。
 内臣 ウチノオミ。日本書紀によるに、中臣の内の臣で、鎌足のこと。
 群臣 オミタチ。廣く地方官等をも含めていう。
 
明日香清御原宮天武天皇代【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1】
 
【釋】明日香清御原宮 アスカノキヨミハラノミヤ。元暦校本には、御の字が無い。この宮號、古事記の序文にも、飛鳥清原大宮とあり、かならずしも御の字を要しない。天武天皇の宮號であることは前に記した。
 天武天皇代。天武の二字は、元暦校本等による、宮の下に御宇の二字脱とする説があるが、無くても意をなさぬではない。漢風の謚號については前に記した。かように宮號の下に御稱號を擧げることに、卷の第二、一〇五の歌の前にある標目にも、「藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代」(元暦校本等)とあり、日本靈異記の序文にも、「輕島豐明宮御宇譽田天皇代」とある。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。日本書紀の註に、「渟中、此云2農難1。」とある、天武天皇の御事。國風の謚號であろう。その語意は、渟は靜水で、玉のような水。中は接續の助詞ノ(135)に同じと見られる。天ノ渟中原は、天上の美原の義であろう。瀛は、御名、大海人の皇子と申すに寄せたもの。眞人は、尊稱である。
 
十市皇女、參2赴於伊勢神宮1時、見2波多横山巖1吹※[草冠/欠]刀自作歌
 
十市《とをち》の皇女《ひめみこ》の伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山の巖《いはほ》を見て、吹?《ふふき》の刀自《とじ》の作れる歌
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女、御母は額田の王である。弘文天皇の妃となつて、葛野の王を生まれた。壬申の亂には、夫と父との戰爭という悲しむべき境遇に立たれた。戰後、天武天皇の宮中にあつたが、その七年に薨ぜられた。その時の事情を日本書紀に次の如く記している。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1卜之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1、由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」論者或るはいう、この祭祀は、壬申の年の戰に勝利を得たのを神祇に謝するにあり、これに當つて十市の皇女の急に薨ぜられたのは、みずから壽命を縮めさせられたのであるとしている。しかしそれは、推測に止まり、確論とするに至らない。この題詞に伊勢の神宮に參赴せられたとあるのは、日本書紀によるに、天武天皇の四年に、十市の皇女と阿閉の皇女(後の元明天皇)とが、伊勢の神宮に參詣せられたとある。その時にお供をした吹?の刀自が、波多の横山の巖を見て詠んだ歌である。お二方の御參詣であるが、題に十市の皇女のみを擧げたのは、この歌の内容または作者が十市の皇女に深い關係があるためであろう。
 波多横山 ハタノヨコヤマ。今の松坂市から、伊賀の伊勢地に越える途中に、八太村あり、延喜式にある波多神社もその附近にあつたのであろうという。波瀬《はぜ》川に沿つている通路である。横山は、長く横たわつている山勢をいう。卷の二十に多摩の横山の語がある。
(136) 吹?刀自 フフキノトジ。卷の四にも歌のある婦人であるが詳でない。?はフフキと訓んで植物のフキのことである。吹は餘分であるが、フの聲を助けるためにつけたものであろう。もとは吹黄とあつてフキと讀んでいたが、古寫本には大抵吹?とある。?を黄の草體と誤つて、吹黄としたものである。但し吹?は、名か姓氏か稱號か不明である。琴歌譜に「布々支乃乎止利」とあるフフキは、ウグイスのことのようであるから、ここもウグイスの意であるかもしれない。刀自は、一家の主婦の稱。わが兒の刀自、賞兒《めずご》の刀自など、若い女に用いた例もある。
 日本書紀に「戸母、此云2覩自1」(允恭天皇紀)とある。
 
22 河上《かはかみ》の 齋《ゆ》つ磐群《いはむら》に 草|生《む》さず、
 常《つね》にもがもな。
 常處女《とこをとめ》にて。
 
 河上乃《カハカミノ》 湯都盤村二《ユツイハムラニ》 草武左受《クサムサズ》
 常丹毛冀名《ツネニモガモナ》
 常處女煮手《トコヲトメニテ》
 
【譯】川の上流の神聖な岩村に草が生えないであるように、永久に若い女子として變ることなくありたいものでございます。
【釋】河上乃 カハカミノ。カハノヘノ(略)。講義に、カハノヘの語無しとして、カハカミノの訓を採つている。カハカミは、假字書きに、「多麻之末能《タマシマノ》 許能可波加美爾《コノカハカミニ》 伊返波阿禮騰《イヘハアレド》」(卷五・八五四)、「可波加美能《カハカミノ》 禰自路多可我夜《ネジロタカガヤ》」(卷十四、三四九七)の例がある。川中に對して、川の上岸をいうとの説もあるが、上流の義に使用しているものもあつて、「河上乃《カハカミノ》 列列椿《ツラツラツバキ》」(卷一、五六)の如きと共に、やはり川の上流の細く流れているあたりをさすと解すべきである。「河上爾《カハカミニ》 洗若菜之《アラフワカナノ》 流來而《ナガレキチ》」(卷十一、二八三八)の如き、カハカミを可とすと思われる例があるので、今、カハカミノとする。但しカハノヘも、「鴈我禰波《カリガネハ》 都可比爾許牟等《ツカヒニコムト》 佐和久(137)良武《サワクラム》 秋風左無美《アキカゼサムミ》 曾乃可波能倍爾《ソノカハノヘニ》」(卷十七、三九五三)の如き例があり、この倍が上の意味にも解せられることは、「多禮可有可倍志《タレカウカベシ》 佐加豆岐能倍爾《サカツキノヘニ》」(卷五・八四〇)、「波之太爾母《ハシダニモ》 和多之?安良波《ワタシテアラバ》 曾能倍由母《ソノヘユモ》 伊由伎和多良之《イユキワタヲシ》」(卷十八、四一二五)の如き用例の多いことによつて確められる。かくてカハノヘは、川中に對して川の岸上の義をなすであろう。
 湯都盤村二 ユツイハムラニ。ユツハノムラニ(類)、ユツイハムラニ(管)。盤は、磐に作つている本もある。盤磐は通用字であつて、巨石の義に使用せられている。盤村は、岩石群である。ユツは、從來五百ツのつづまれる言として、數の多いのをいうと説いている。しかしユツとイホツとは違うのである。イホツは、イホツノという時は五百箇ので、御統《みすまる》の玉、賢木《さかき》、野薦《のすすず》などに添うている。イホツから名詞につく時は、ツは助詞として解せられる。イホだけでは、五百引石、五百重浪、五百代小田、五百機などあるが、イホツの場合はユツと約せられるとして、イホだけの場合に、五百重をユヘともいわず、五百代をユシロともいわない。ユツは、眞椿、杜樹《かつら》などについている。古事記に伊耶那岐の命が火の神を斬つた條に、湯津磐村とあるを、日本書紀には五百箇磐石と書いてあるので、同語とも取れるが、これだけでは同語ともいわれまい。中臣の壽詞には、由都五百篁生出牟とあつてユツとイホとを重ねて、あきらかに別語であることを語つている。然らばユツの意義は何であるかというに、齋種《ゆだね》、齋笹《ゆざさ》、齋由《ゆぐし》、齋槻《ゆづき》等のユと同じで、齋忌の意とすべく、ツは體言と體言とを結ぶ助詞で、天ツ神、時ツ風、沖ツ浪の類のツであろうから、ユも體言であるべきで、意味は漢字に書く場合に多く宛て用いられている湯の義であろう。湯(熱水)は物を清潔にする力があると信じられ、神事に用いられる。熱湯を振りかけて、その物が神聖になると考えられていたものである。それで湯の字を書いているのは、訓を借りて用いたのでなくして、その字の内容にも、關連しているものであろう。この歌のユツイハムラは、神聖な磐石の群であつて、大巖石崇拜の意があらわれているものである。
(138) 草武左受 クサムサズ。ムスは草や苔の繁殖するに用いる。草については、「山行者《ヤマユカバ》 草牟須屍《クサムスカバネ》(卷十八、四〇九四)の用例がある。以上三句は、寓目の物を敍して、譬喩としている。草のむさずあるようにと解すべきである。副詞句。
 常丹毛冀名 ツネニモガモナ。ガが願望の助詞であつて、その上方にいう所の實現を願う意を表示する。その上方の詞句は、助詞モ、もしくはニモを伴なうを通例とする。ガで終止となるが、ガだけの場合もあり、またその下に、モ、モナ、モヤを伴なう場合もある。たとえば、鳥ニモガ、鳥ニモガモ、鳥ニモガモナ、鳥ニモガモヤなどいう。ここも常ニモガで意は通ずるのであるが、更にモナを添えて、詠嘆の意を強くする。永久であつて欲しいものだなあの意。モナの例、「
舒欝が粁肝伊野針ど譬空《アサヒサシマキラハシモナ》(卷十四、三四〇七)、「於登太可思母奈《オトダカシモナ》」(同、三五五五)。
 常處女煮手 トコヲトメニテ。トコは永久不變の意。常世、常夜、常宮・常闇など、他語を修飾して熟語を作る。ヲトメは、少女の義。若い婦人をいう。ここに處女の字を用い、また未通女の字も用いられているが、未婚の女子には限らない。ヲトコの語に對し、ヲは少の義、メは女性の義、トは接續の語であろう。常處女にて常にもありたきものだと、上の句の内容を限定する。
【評語】今見る所の、波多の横山の巖が、草も生えずあるようにと、嘱目の物を敍して、想を起している。四五句は、詠嘆の氣が強くあらわれている。壬申の亂後、その悲劇の中に處した十市の皇女は、鬱々として慰まない。その故に紛れるために、伊勢の神宮への參詣ともなり、吹?の刀自の、この歌ともなつたのだという説もある。この歌は、永く老いの至らないようにと願つた意であるから、ややその説に適しないであろうか。むしろ作者が、十市の皇女の、老のまさに至ろうとするのを嘆息されたのに同感して、詠んだものとすべきであろう。
 
(139)吹?刀自、未v詳也。但紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥聯丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
 
吹?の刀自は、いまだ詳ならず。但し紀に曰はく、天皇の四年乙亥、春二月乙亥の朔にして丁亥の日、十市の皇女、阿閉の皇女、伊勢の神宮に參赴《まゐむ》きたまひきといへり。
 
【釋】紀。日本書紀。
 天皇四年乙亥。天武天皇の四年。但し今本の日本書紀には、四年は丙子である。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。後、即位して元明天皇と申す。
 
麻績王、流2於伊勢國伊良虞島1之時、人哀傷作歌
 
麻績《をみ》の王の伊勢の國伊良虞の島に流さえし時に、ある人の哀傷して作れる歌
 
【釋】麻績王 ヲミノオホキミ。績、諸本に續に作る。績續は、古く通用している。系譜傳紀等未詳。この時代の王の稱は、縁故の地名または育てられた氏によるものが多い。麻績は地名によるか。次の二四の歌の左註にもあるように、日本書紀には、天武天皇の四年四月に、麻績の王が罪があつて、因幡に流され、一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されたという。何の罪であるか、不明。
 流 ナガサエシ。流刑に處せられた由である。
 伊勢國伊良虞島 イセノクニノイラゴノシマ。伊良虞は、今、愛知縣に屬し、三河の國の渥美半島の先端である。島嶼ではなくして押角であるが、往古は島嶼であつたともいう。しかし古語のシマは、水に臨んでいる(140)美土をいうので、かならずしも島嶼に限定しない。伊勢の國に近いので、その國から望み見て、伊勢の國と言つたのであろう。上にもいう如く、日本書紀には因幡に流されたといい、常陸國風土記、行方郡板來村の條には、「飛鳥淨見原天皇之世、遣麻績王居處之」とある。イラゴとイタコとは音が類似しているので、かような異傳を生ずるに至つたのであろう。地名は諸國に同名または類似の名が多い。また流謫の地が變更された等の事情があるかも知れない。
 人 アルヒトノ。この上に時の字の遺落したものとする説があるが、無くても意味の通ずる所である。當時の或る人の意であつて、誰であるか不明である。あるいは、上の句と合せ流さえし時の人の意であるかもしれない。
 
23 打麻《うちそ》を 麻績《をみ》の王《おほきみ》、
 白水郎《あま》なれや、
 伊良虞《いらご》が島の 珠藻苅ります。
 
 打麻乎《ウツシヲ》 麻績王《ヲミノオホキミ》
 白水郎有哉《アマナレヤ》
 射等籠荷四間乃《イラゴガシマノ》 珠藻苅麻須《タマモカリマス》
 
【譯】麻績の王は、漁夫であるのだろうか、伊良虞の島の藻を刈つておいでになる。
【釋】打麻乎 ウチソヲ。ウツアサヲ(西)、ウテルヲヲ(顛)、ウチヲヲ(代初)、ウチアサヲ(代初)、ウツノヲヲ(僻)、ウチソヲ(考)、ウツソヲ(古義)。打つた麻の義で、ヲは感動の助詞。打麻よというに同じ。打つた麻を苧《を》に績むと續く。績ムは、絲にするをいう。「打十八爲《ウチソヤシ》 麻績兒等《ヲミノコラ》」(卷十六、三七九一)の例があ(141)る。
 白水郎有哉 アマナレヤ。白水部は漁夫。倭名類聚鈔に、「辨色立成云、白水郎阿萬」とある。この文字は唐の元?の詩にも、「黄家賊用2〓刀1利、白水郎行2旱地1稀」とあつて、漢文に始まつた字面である。また泉郎とも書き、そのいずれがもとであるかについては、漢文にも兩説がある。白水は川の名、蜀から流れ出る。その河濱の住民よく漁るよりいうとする。また泉州の民よく漁るよりいうとも説く。二個の漢字を一字に合わせて書くものには、麻呂を麿と書く如きがある。本集において、泉郎を用いた例には、卷の十七、三九六一の左註漁夫之船人海浮瀾の右に、元暦校本の赭に、「復有泉郎船、浮漂波浪」とある。ナレヤはニアレヤに同じ。ヤは係助詞、疑問の意である。この句に對して、第五句が結になつている。動詞助動詞の已然形を受けるヤについては澤瀉博士の説、(萬葉集の作品と時代所收、「か」より「や」への推移)は、これを反語としている。この語法の例は、「眞野の浦の淀の繼橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる」(卷四、四九〇)、「朝井手に來鳴く容鳥汝だにも君に戀ふれや時終へず鳴く」(卷十、一八二三)、のように、輕く疑問の意をあらわしているものと、「玉藻刈る辛荷の島に島廻《しまみ》する鵜にしもあれや家念はざらむ」(卷六、九四三)、「しましくも獨あり得るものにあれや、島のむろの木離れてあるらむ」(卷十五、三六〇一)、のように、鵜ではないのに、獨あり得るものではないのにの意を基礎とするものとがあつて、まちまちである。口語としては、音の抑揚強弱によつて區別したかも知れないが、文字の上には、それはあらわれていない。助詞ヤは、感動の意が強いので、反語ふうな氣分をも生ずるのだから、一般的には、その意味で解すべきであろう。ここもそれで、海人ではないのだのにと、深く疑つている意の條件法と解される。下の「古《フリニシ》 人相和禮有《ヒトニワレアレ》哉」、(卷一、三二)も同樣である。
 射等籠荷四間乃 イラゴガシマノ。荷は、字音假字として、ガの音を表示している。次の歌には、伊良虞能島之とあり、伊良虞が島とも、伊良虞ガ島とも云つたらしい。但し荷は訓假字としては、普通ニの音を表示す(142)るに使用されているが、荷前をノザキともいう如く、ノの音を表示していると解せられないこともない。
 珠藻苅麻須 タマモカリマス。
   タマモカリマス(類)
   タマモカリヲス(燈)
   ――――――――――
   珠藻苅食《タマモカリヲス》(古義)
 珠藻は、藻の美稱。萬葉集の人々の、藻に對する愛好の情をよくあらわしている。カリマスのマスは敬語の助動詞。苅麻須はカリヲスとも讀まれる。次の答歌に、玉藻苅食とあつて、食に關しているので、この歌にも食することをいうとも考えられるが、白水都ナレヤに對しては、カリマスの方が適するようである。ヲスは、食する意の敬語。他人の食するにいう。自己の食するに用いた例を見ない。
【評語】日本書紀には、事件について、しばしば時人の歌というを載せている。多くの歌が、事件の當事者の立場で歌われているのに對して、時人の歌は、事件を客觀視し、第三者としての批判性が窺われる。この歌も、王の名を詠み入れている點など、そういう傾向がある。五句の珠藻苅リマスは、王の海濱生活の一端が具體的に敍せられている。勿論實際に珠藻を刈つておいでになるとまで解するに及ばないが、白水郎でもないのに、玉藻を刈つておられるという所に、同情が動いている。
 
麻績王、聞之感傷和歌
 
麻績の王の、聞きて感傷して和ふる歌
 
【釋】麻績の王が、前の時の人の歌を聞いて、悲み傷んで和せられた歌。
 
24 うつせみの 命を惜《を》しみ
(143) 浪に濡《ぬ》れ、
 伊良虞《いらご》の島の  玉藻《たまも》苅《か》り食《は》む。
 
 空蝉之《ウツセミノ》
 命乎惜美《イノチヲヲシミ》
 浪尓所濕《ナミニヌレ》
 伊良虞能島之《イラゴノシマノ》 玉藻苅食《タマモカリハム》
 
【譯】生ける命の惜しさに、浪にぬれて、伊良虞の島の玉藻を刈つて食べている。
【釋】空蝉之 ウツセミノ。枕詞として使われている。語義は、既出(卷一、一三)。
 命乎惜美 イノチヲヲシミ。命が惜しくして。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミ等と同じ語法。
 浪尓所濕 ナミニヌレ。所は被役の義。浪に濡らされて。
 玉藻刈食 タマモカリハム。タマモカリマス(西)、タマモカリヲス(考)、タマモカリハム(元赭)。萬葉考にタマモカリヲスと讀んでいるが、ヲスは、自家の食事に使用した例が無い。ハムは喫食するをいう。「宇利波米婆胡藤母意母保由久利波米婆麻斯堤斯農波由《ウリハメバコドモオモホユクリハメバマシテシヌハユ》(卷五、八〇二)。
【評語】前の歌には、どことなく輕い氣分が感じられたが、それは白水郎ナレヤあたりの疑問的ないい方に煩わされたものであろう。この歌は、それに對して、事件が自己の事に關するので、一層眞劍である。初二句は、命の惜しさにかような習わぬ事をもするの意をいうものとして、よく利いている。また三句の波ニ濡レも、具體的に荒い海濱における漁夫の生活を描いている。沈痛な作とすべきである。
 
右案2日本紀1曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻績王、有v罪流2于因幡1、一子流2伊豆島1、一子流2血鹿島1也。是云v配2于伊勢國伊良虞島1者、若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。
 
右は、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻績の王、(144)罪ありて因幡に流さえ、一の子は伊豆に流さえ、一の子は血鹿の島に流さえきといへり。ここに伊勢の國伊良虞の島に配さゆといへるは、若し疑はくは、後の人、歌の辭に縁りて誤り記せるか。
 
【釋】右案 ミギカムガフルニ。以下、編者の案文である。
 天皇四年 スメラミコトノヨトセ。天武天皇の四年。
 戊戌朔乙卯 ツチノエイヌノツキタチニテキノトウノヒ。十三日。但し今本の日本書紀は、甲戌朔乙卯としている。
 血鹿島 チカノシマ。血鹿は、今、値嘉の字を使う。九州の五島列島。
 是 ココニ。以下また編者の案文。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇御製歌。 天武天皇の御製である。作歌事情については、何の記載も無い、天武天皇、御名は大海人の皇子。舒明天皇の皇子。天智天皇の同母弟にまします。天智天皇の御代に東宮となられたが、天皇の御病あるにおよんで、疑いを避け辭して出家して大和の吉野に入られた。天皇崩じ、弘文天皇の御代となるに及び、兵を擧げて、遂に近江の朝廷を亡した。これを壬申の年の亂という。亂後、帝位に即《つ》き、大和の飛鳥《あすか》の淨原《きよみはら》の宮に都し、在位十四年にして崩じた。天の渟中原瀛《ぬなはらおき》の眞人《まひと》と申し、後に天武天皇と申す。皇后は天智天皇の皇女で、後に帝位に登られて持統天皇となられた方である。天武天皇の御製は、前の大津の宮の中にも額田の王の歌に答えたまう一首を載せた。
 
25 み吉野の 耳我《みみが》の嶺《みね》に、
(145) 時なくぞ 雪は降りける。
 間《ま》なくぞ 雨は降りける。」
 その雪の 時なきが如
 その雨の 問なきが如
 隈《くま》もおちず 念《おも》ひつつぞ來《く》る。
 その山道《やまみち》を。」
 
 三吉野之《ミヨシノノ》 耳我嶺尓《ミミガノミネニ》
 時無曾《トキナクゾ》 雪者落家留《ユキハフリケル》
 間無曾《マナクゾ》 雨者零計類《アメハフリケル》
 其雪乃《ソノユキノ》 時無如《トキナキガゴト》
 其雨乃《ソノアメノ》 間無如《マナキガゴト》
 隈毛不v落《クマモオチズ》 念乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【譯】吉野の耳我《みみが》の嶺《みね》に、何時《いつ》ともいわず雪は降つている。あいだも無く雨は降つている。その雪の何時という事の無いように、その雨のあいだの無いように、山道の曲りかどごとに、物思いをしながら來ることである。その山道よ。  
【構成】二段から成つている。第一段、間無クゾ雨ハ零リケルまで、吉野山中の光景を敍述して全體の空氣を描く。以下第二段、第一段の敍述に基づき、これを譬喩に用いて、自己の行爲について敍述している。
【釋】三吉野之 ミヨシノノ。ミは美稱。ミ熊野と同樣の云い方で、吉野が三地方ある謂では無い。吉野は、また多く芳野とも書いている。大和南部、主として吉野川を挿んだ南岸の地方の名。吉野の國ともいついている。三吉野は、古事記に、「美延斯怒」(九八)、日本書紀に「美曳之弩」(一二六)と書き、もとミエシノといつたようである。このエは、ヤ行のエで、良シの意の語のようであり、形容詞良シをも、「曳岐」(日本書紀、一二六)と書いている。萬葉集における假字音きは「与之怒河波《ヨシノガハ》(卷十八、四一〇〇)・「余思努乃美夜《ヨシノノミヤ》」(同、四〇九九)があるが、これは奈良中期の歌である。いつごろヨシノになつたかわからないから、今は、すべてヨシノと讀むこととする。
(146) 耳我嶺尓 ミミガノミネニ。次に載せた或る本の歌には、耳我山爾とある。ミミガノミネニと讀むべきが如くである。この歌の別傳ともいうべき歌には、「御金高爾《ミカネノタケニ》」(卷十三、三二九三)とあり、ミカネノタケとし、後世いう所の金の御嶽の事とする説もある。吉野山中の高峰をいうと思われる。
 時無曾 トキナクゾ。その時となく、定まりたる時無くで、絶えずの意になる。
 雪者降家留 ユキハフリケル。上の時無曾を受けて結んでいる。
 間無曾 マナクゾ。間隔摘無くで、やはり絶えずの意になる。假字書きの例には、「可保等利能《カホドリノ》 麻奈久之婆奈久《マナクシバナク》」(卷十七、三九七三)、「梶音乃《カヂノオトノ》 麻奈久曾奈良波《マナクゾナラハ》 古非之可利家留《コヒシカリケル》」(卷二十、四四六一)などある。
 雨者零計類 アメハフリケル。上の間無クゾを受けて結んでいる。時ナクゾ雪ハ降リケルに對して、この二句は對句をなし、高山に雨雪の絶え間なきことを述べている。以上第一段。
 其雪乃時無如 ソノユキノトキナキガゴト。第一段の、時ナクゾ雪ハ降リケルを受けて、これを譬喩に利用している。
 其雨乃問無如 ソノアメノマナキガゴト。これも第一段の、間ナクゾ雨ハ零リケルを受けて、譬喩としている。ソノ雪ノ時無キガ如と、ソノ雨ノ間無キガ如とは、對句となつて、下の隈モオチズ念ヒツツゾ來ルを修飾している。
 隈毛不落 クマモオチズ。クマは「味酒三輪の山」(卷一、十七)の歌の道の隈に同じ。オチズは、「山越乃風乎時自見《ヤマゴシノカゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌の落チズに同じく、遺すこと無く、ことごとくの意である。山路屈曲多く、隈が多數であるが、そのいずれの隈もの意で、絶えずの意になる。曲りかどごとに。
 念乍敍來 オモヒツツゾクル。物思いしつつその山路を通行する意である。講義に、下に其山道乎とあるに依つて、來をコシと讀むべしとし、クルならば、此山道乎とあるべきであるとしているが、それは理由の無い(147)説である。「妻ごみに八重垣つくる その八重垣を」の如き明證もあつて、現在形でさしつかえない、終止形の句。 
 其山道乎 ソノヤマミチヲ。ヲは感動の助詞。その山道なるよの意である.
【評語】第一段は、み吉野の耳我の嶺に雨雪の多いことを對句によつて成し、第二段は、その對句を受けて、また對句で起して單句で結んでいる。よく整つた樣式を有している。この歌は、天武天皇の皇子時代の御歌であろうとする説もあるが、その在位の時代に編入されているので、それによつて解く外は無い。元來作歌事情の記事を伴なわない歌で、從つて何時の御製とも傳えなかつたのであろう。歌の内容は、物思いのあることを中心としているが、次にも記す如く、別傳の多い歌であり、それは歌いものとして流傳されていたことを證するものであるから、かならずしも天皇の御製を始原とするとも斷定されない。天武天皇御自身も、歌物語中の英雄としての傳えを有せられていた。しかし諸傳來のうちでは、この歌が、もつとも原形に近いもののようだ。たぶん歌曲の詞章となつていたものだろう。
 
或本歌
 
或本歌 アルマキノウタ。集中に或本歌として載せてあるのは、本文の歌に對して、詞句の類似の多い歌、または作者、作歌事情の別傳などを、參考として載せるのである。或本というのは、本文以外の別の資料をいぅものと解される。その何の書をさしているかの知られるものには、古歌集(卷二、八九)柿木朝臣人麻呂歌集(卷三、二四四)がある。
 
26 み吉野の 耳我《みみが》の山に、
(148) 時じくぞ 雪は降るといふ。
 間なくぞ 雨は降るといふ。」
 その雪の 時じきが如《ごと》、
 その雨の 間なきが如、
 隈《くま》もおちず 思ひつつぞ來る。
 その山道を。」
 
 三芳野之《ミヨシノノ》 耳我山尓《ミミガノヤマニ》
 時自久曾《トキジクゾ》 雪者落《ユキハフル》等言《トイフ・トフ》
 無v間曾《マナクゾ》 雨者落《アメハフル》等言《トイフ・トフ》
 其雪《ソノユキノ》 不v時如《トキジキガゴト》
 其雨《ソノアメノ》 無v間如《マナキガゴト》
 隈毛不v墮《クマモオチズ》 思乍敍來《オモヒツツゾクル》
 其山道乎《ソノヤマミチヲ》
 
【釋】時自久曾 トキジクゾ。トキジは、「山越乃《ヤマゴシノ》 風乎時自見《カゼヲトキジミ》」(卷一、六)の歌で説明した。ここはその副詞形が出ている。雪の降るべき時ならずしての意。
 雪者落等言 ユキハフルトイフ。ユキハオツトイフ(元赭)、ユキハフルトイフ(類墨)、ユキハフルチフ(僻)、ユキハフルトフ(考)。人が雪の時ならず降ることをいう由である。本文の歌と相違する點は、自身その地にあらずして人傳てに聞く趣に歌つている。下の雨者落等言も同じ。これは傳承した形であることを語る。トイフは、トフとも讀むが、トイフは、歴史的、トフは表音的の書き方で、別ではない。國語の習性として、重母音の場合に、後の母音が省略されるので、各語獨立語としての意識が強い時は、重母音といえども、保存される。文末におけるトイフの假字書の例。「和我理許武等伊布」(卷十四、三五三六)、「可藝利奈之等伊布」(卷二十、四四九四)。
 不時如 トキジキガゴト。トキジキは、連體形で準體言。時ジキコトの義である。
 
右句々相換、因此重載焉。
 
(149)右は、句々あひ換れり。これに因りて重ねて載す。
 
【釋】右句々相換 ミギハククアヒカハレリ。前の本文の歌と詞句に相違があるとの意で、編者の注意として、この或る本の歌を載せた所以を説明している。
【參考】別傳。
  み吉野の 御金《みかね》の嶽《たけ》に 間無《まな》くぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その 雨の 間《ま》無きが如《ごと》 その雪の 時じきが如《ごと》 間《ま》も墮《お》ちず 吾はぞ戀ふる 妹が正香《ただか》に(卷十三、三二九三、反歌略)
    類型。
  小治田《をはりだ》の 愛智《あゆち》の水を 間無《まな》くぞ 人は?《く》むといふ 時じくぞ人は 飲《の》むといふ ?《く》む人の 間無《まな》きが如《ごと》 飲む人の 時じきが如《ごと》 香妹子に わが戀ふらくは やむ時もなし(卷十三、三二六〇、反歌略)
 
天皇、幸2于吉野宮1時、御製歌
 
天皇の、吉野の宮に幸でましし時の御製の歌
 
【釋】幸于吉野宮 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。天武天皇が、吉野の宮に幸せられた時の歌である。吉野の宮は、後出の吉野の宮をほめる歌によつてあきらかであるように、吉野川に添うた處にあつた。今宮瀧という地であろうと思われる。もつと上流の丹生の川上であるとする説があるが取ることはできない。
 
27 淑《よ》き人の よしとよく見て
 よしと言ひし 芳野《よしの》よく見よ。
 よき人よく見つ。
 
 淑人乃《ヨキヒトノ》 良跡吉見而《ヨシトヨクミテ》
 好常言師《ヨシトイヒシ》 芳野吉見與《ヨシノヨクミヨ》
 良人四來《ヨキヒトヨク》三《ミツ・ミ》
 
(150)【譯】昔のかしこい人が、良いと良く見て、良いといつた、この吉野をよく見よ。かしこい人はよく見たのである。
【釋】淑人乃 ヨキヒトノ。ヨキヒトは尊ぶべき人の意。淑人の字面は、佳字を選んだものと見るべく、詩經の鳩に、「淑人君子、其儀一兮」など見えている。佛足跡歌碑に「与伎比止乃《ヨキヒトノ》 麻佐米爾美祁牟《マサメニミケム》」などある。かつてありし善い人をいぅなるべく、本集に「古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(卷九、一七二五)とあると、同樣の人であろう。また懷風藻、藤原の不比等の吉野に遊ぶ詩の句に、「今之見2吉賓1」とある吉賓もよき人であつて、吉野を遊覽する高士の謂である。
 良跡吉見而好常言師 ヨシトヨクミテヨシトイヒシ。初句の淑き人の行動を敍している。
 芳野吉見与 ヨシノヨクミヨ。淑き人の良しと言つた芳野だから、皆もよく見よと歌われている。見ヨは命令彩。
 良人四來三 ヨキヒトヨクミツ。
   ヨキヒトヨキミ(類)
   ヨシトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミツ(僻)
   ヨキヒトヨクミ(墨)
   ――――――――――
   良人四來三四《ヨキヒトヨクミヨ》(玉或人説)
 良キ人良ク見ツの義で、良い人がよく見たの意に上の第二句を繰り返して、その意をたしかにする。良人は、初句の淑き人に同じ。かの淑き人は良く見しことぞとの意。この歌、歌經標式に載せて、この句を、与伎比等与倶美としている。澤潟博士の説に、そのミは命令形だろうという。
【評語】この歌は、詞句の頭にヨの音を用いること八個に及び、これによつて一首の調子を取つている。その(151)調子は、非常に輕く明快である。かかる頭韻の歌は往々試みられるが、この歌の頭韻に用いたヨの音は、やわらかな音であるから、これは重ねてあまり煩わしさを覺えない。天皇得意の境の御製で、多分帝位につかれて後、吉野遊覽の際の作品であろう。かような頭韻の歌は、愉快な内容を盛るに適している。文字も淑良好芳など變えて書いている。頭韻には二種類ある。一は同語を用いるもので、他は、異なつた語で、ただ上の音だけ同一のものを用いるものである。これに成音の同じなものと、子音だけ同じなものとがある。この歌では、ヨシといぅ一の形容詞を重ね用いたので、前項に屬するものであるが、ヨキ、ヨシ、ヨクの如く語尾の變化を利用して、重複の感を弱めている。別語を用いた例としては、「瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」(拾遺集、藤原公任)、子音だけ同じ例として、「甲斐の黒駒鞍著せば」(日本書紀雄略天皇の卷)の例がある。         
【參考】頭韻の歌。
  否といへど強ふる志斐能《しひの》が強語《しひがたり》この頃聞かずてわれ戀ひにけり(卷三、二三六) 
  來むといふも來ぬ時あるを來じといふを來むとは待たじ。來じといふものを(卷四、五二七)
  白珠は人に知らえず、知らずともよし。知らずとも吾し知れらば知らずともよし(第六、一〇一八)
  秋の野に咲ける秋はぎ秋風に靡ける上に秋の露置けり(卷八、一五九七)
  紀の國に止《や》まず通はむ。妻の社《もり》妻|寄《よ》し來《こ》せね。妻と云ひながら(卷九、一六七九)
  梓弓引きみ弛《ゆる》べみ來《こ》ずは來《こ》ず。來《こ》ばそそをなぞ來《こ》ずは來《こ》ばはそを(卷十一、二六四○)
【參考】別傳。   
  如2淨御原天皇御製歌1曰。
 美与旨能呼 一句 与旨止与倶美弖 二句 与旨等伊比旨 三句 与岐比等与旨能 四句 与岐比等与倶美 五句
(152) 毎句有v吉無v凶、 譬如3葉蝶聚2一處1、 故曰2聚蝶1爲v吉。(歌經標式)
 
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸2于吉野宮1。
 
紀に曰はく、八年己卯の五月庚辰の朔にしで甲申の日、吉野の宮に幸でましたまひきといへり。
 
【釋】紀曰。日本書紀に依つて、天武天皇の吉野の宮への行幸年月を註記している。
 
藤原宮御宇天皇代 【高天原廣野姫天皇、元年丁亥、十一年讓2位輕太子1、尊號曰2太上天皇1。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、元年は丁亥にして十一年位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇とまをす。】
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。持統天皇文武天皇二代の皇居で、宮址は、奈良縣高市郡鴨公村大字高殿にあり、耳梨山を背後にし、展望雄大な勝地である。持統天皇の四年十二月に天皇御觀察あり、六年五月から造營し、八年十二月に遷居された。但しこの宮號によつて持統天皇をさしているが、この御代の標目の下に遷都以前の歌及び文武天皇の御代の歌をも載せている。大寶以後、年號が繼續するようになつてからは、年號によつて歌を掲載するのであるが、その前の、文武天皇の無年號の時代は、別に標記することなく、この藤原の宮の時代に收められている。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。この御稱號、日本書紀、續日本紀に、共に見えているが、續日本紀文武天皇大寶三年十二月の條には、謚して、大倭根子天之廣野日女の尊と曰すと見えている。少名は鵜野の讃良の皇女、天智天皇の第二女にまします。天武天皇の皇后となり、その崩を受けて帝位につき、在位十年にして、草壁の皇太子の皇子である輕の皇子に讓位された。これを文武天皇とする。はじめ高天の原廣野姫の天皇と申し、後には持統天皇と申す。天皇の御代には柿本の人麻呂をはじめとし、(153)歌道の大才輩出して、空前の盛觀を成した。いゆる萬葉集の黄金時代といぅべきもの、この御代に起るのである。   
 輕太子 カルノヒツギノミコ。文武天皇。草壁の皇太子の皇子。
 
天皇御製歌
 
【釋】天皇。持統天皇。
 
28 春《はる》過《す》ぎて 夏|來《き》たるらし。
 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》乾したり。
 天《あめ》の香具山。
 
 春過而《ハルスギテ》 夏來良之《ナツキタルラシ》
 白妙能《シロタヘノ》 衣乾有《コロモホシタリ》
 天之香來山《アメノカグヤマ》
 
【譯】春が過ぎて夏が來たことと思われる。天の香具山のほとりでは、白い織物の衣がほしてある。
【釋】春過而夏來良之 ハルスギテナツキタルラシ。春の過ぎ去つて夏季の到れることを推量している。キタルは、來到るの略で、四段活。「武都紀多知《ムツキタチ》 波流能吉多良婆《ハルノキタラバ》」(卷五、八一五)の如く未然形にキタラがあり、「等利都都伎《トリツツキ》 意比久留母能波《オヒクルモノハ》 毛毛久爾《モモクサニ》 勢米余利伎多流《セメヨリキタル》」 (卷五、八〇四)の如く、終止形にキタルの形があるので、四段活用であることが認められる。ラシは推量の助動詞。根據のある推量に使う。
 白妙能 シロタヘノ。タへは植物性の織物、その白いのをシロタへといぅ。荒栲《アラタヘ》、敷栲《シキタヘ》などいう例である。妙は借字で、タへの音に假り用いている。コウゾの皮の繊維で織つた布が白栲であるが、白栲の麻衣などともいい麻布の方が實際に廣く行われたので、普通に麻布をも白栲という。此處は枕詞では無く、白布であるが、その材料は何でもよく、ただ色についていうだけである。 
(154) 衣乾有 コロモホシタリ。衣をほしてあるとの描寫である。句切。
 天之香具山 アメノカグヤマ。既出。白い衣のほしてある場處の指定である。天の香具山にの意味ではあるが、その山を呼んで稱美されており、語法上、呼格となつている。
【評語】天の香具山のほとりの住民が、白い衣服をほしている情景により、春の過ぎて夏の來たことを推察している。極めて印象約な敍述であつて、名歌というべきである。初夏の強い日光にさらされた白い衣服が、新緑の天の香具山の麓に懸かつている。藤原の宮の造營の時の歌よりも前に置かれてはいるが、多分藤原の宮に遷りたまうてからの御製であろう。天の香具山は、白衣のほされている場處を指示するものであるけれども、その山容が眺められる位置にあつて詠まれたものとして、その山に對する稱美の呼格となつている。これは歌全體の背景を語るものである。
 日本の文學にあつては、季節は重要な位置を占めている。日本の文學の生育地は、四季の循環の整然として推移する風土であり、自然に親しんで生活していた人々は、おのずからにしてこれに十分の關心を持つていた。しかしその四季のうちにも春と秋とは住み心地ょく、夏と冬とは、どちらかといえば好ましからぬ時期であつた。國文學が實生活以上の風雅を要求する時代にはいつても、それ故に春と秋との作品は多く、夏と冬との作品はすくなかつた。そうして春の來ることを喜ぶのは、冬の苛烈な寒氣から解放される喜びであつた。しかし時代は一轉して、ここに夏の來たことを、あかるい氣もちで迎えるようになつたのである。この歌の代表する藤原の宮時代は、萬葉の歌の完成した時代であり、ここにかような御製を見るに至つたのは、歌の歴史上、特記すべき事實とすべきである。
 この歌には、春や夏が概念として掲示されているが、三句以下は實景の敍述であつて、その敍景の上に歌の生命が存している。わが國の民族詩である歌は、祭の庭の如き民衆生活のあいだにおいて生育してきたので、(155)その主力はもつぱら人事詩の上に置かれて來た。人間相互の愛情が、そのまま歌の内容であつた。しかるにここに敍景詩を見るに至つたのは、やはり當時の歌が、實生活以上の線に到達し、言語の方向を自然に向けることの發達して來たことを語るものである。ここにもこの歌の有する歴史的意義が認められる。
 以上の如きは、藤原の宮時代における一般の傾向として指示せらるべきであつて、この歌のみの有する意義ではないけれども、この歌が、かような潮流の方向を指向する所の代表作であるとはいえる。この意味においてもこの歌の有する意義は大きいと言わねばならない。
 この歌は、小倉百人一首には、「春過ぎて夏來にけらししろたへの衣ほすてふあまの香具山」となつてはいつている。これは平安時代におけるこの歌の訓法を傳えたものであるが、衣ホステフでは、人のことばに聞くことになつて、原歌の生命を損ずる。どこまでも現に見る所によつて、敍述されたものとして解釋せねばならない。
【參考】季節の推移を歌うもの。
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》來るらし。朝日さす春日の山に霞たなびく(卷十、一八四四)
  寒《ふゆ》過ぎて暖《はる》し來たれば年月は新なれども人は古りゆく(同、一八八四)
  白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも。春霞たなびく野邊の鶯鳴くも(同、一八八八)
  春過ぎて夏來向へば、あしひきの山呼びとよめ、さ夜中に鳴く霍公鳥《ほととぎす》(下略、卷十九、四一八○)
 
過2近江荒都1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】過近江荒都時 アフミノアレタルミヤコヲスギシトキ。近江の荒都は、天智天皇の近江の大津の宮の荒(156)廢した跡である。この宮殿は、懷風藻の序文に、その朝廷の君臣の詩文の事を敍して、「時、亂離を經て悉く?燼に從ふ」(もと漢文)とあるによれば、壬申の年の亂に燒失したものと考えられる。柿本の人麻呂がこの地を過ぎてこの歌を詠んだのは、持統天皇の御代とのみで、その傳記中のいかなる時代であるとも知られない。また何のための旅行とも知られないが、官命を帶びて下つたことであろう。
 柿本朝臣人麻呂 カキノモトノアソミヒトマロ。柿本氏は、孝昭天皇の皇子|天押帶日子《あめおしたらしひこ》の命の子孫、春日氏(もと和邇氏という)と同祖、敏達天皇の朝に、その家門に柿の樹があつたので柿本氏という。はじめ臣の姓であつたが天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつた。春日氏は、代々皇室に、女子を奉ること多く、特に古事記、日本書紀の歌謡を中心とした歌物語と密接な關係がある。柿本氏もさような歌謠を傳えた家として考えられる。人麻呂の生歿年代はあきらかで無い。その作品は、持統天皇文武天皇二代のあいだのものがあり、溯つては、天武天皇の八年の作と推考されるものが、柿本朝臣人麻呂歌集の中にあり、降つては、その死去は奈良時代にはいつてからのことかとも考證されている。はじめ舍人として出仕し、のち他の官に移り、やがて地方官ともなつたらしい。紀伊の國にはすくなくも二囘は旅行した。そのうちの一囘は大寶元年の行幸に從つて赴いた。その他、山城の國を經て、近江の國に旅し、西の方は内海を航して、讃岐および筑紫に赴いた。晩年、石見の國にあり、そこから上京する作をも留めたが、遂にその國に歿した。その時の位は六位以下であつた。妻は數人あり、初めの妻は人麻呂に先だつて死に、後の妻は人麻呂の死を見送つた。作歌は、長歌、短歌共にこれをよくし、内容詞藻共に豐富である。固有の文學をよく傳えると共に、外來の文化をも攝取してすぐれた作風を成している。ひとりその時代を代表するはかりでなく、萬葉集中の第一人ともいうべく、また日本歌人中の第一人ともいうべきである。萬葉集の歌の大成者であり、その黄金時代の名譽を一身に負う作家でもあつた。その作品の傳來は、萬菓集におけるもののみ信ずべきであるが、それには、題詞に柿本人麻呂作とあるも(157)のの外に、柿本朝臣人麻呂歌集の所出のものがあり、また或云柿本人麻呂作の左註のあるものがある。柿本朝臣人麻呂歌集の性格については諸説があり、それはその集の名の出た所で、更に説かねばなるまいが、大體人麻呂の作品を中心にして集輯した書と考えられる。この近江の荒都を過ぎし時の歌は、その初期の作品であろうか。この歌をはじめ、人麻呂の作品中には或云として詞句の別傳の多いのは、これを傳唱するものが多かつたことを語る。現に天平八年の遣新羅使の一行も、船中にその作を吟じた。しかしかような事情のもとに、詞句の異傳が多くなつていることも事實である。朝臣は姓《かばね》。古寫本に多く麿の字を使用しているが、麿は麻呂の二字を合して一字としたもので、正倉院文書にも見られる所である。父祖を詳にしないが、日本書紀天武天皇紀に、柿木の臣佐留という人が見え、その名が猿を連想するので、人麻呂の近親ででもあるかとの推測もされている。
 
29 玉襷 畝火の山の
 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御代《みよ》ゆ【或るはいふ、宮ゆ。】
 生《あ》れましし 神のことごと、
 樛《つが》の木の いやつぎつぎに
 天《あめ》の下 知らしめししを【或るはいふ、めしける。】
 天《そら》にみつ 大和《やまと》を置きて、
 あをによし 奈良山を越え、【或るはいふ、そらみつ 倭を置き あをによし 奈良山越えて。】
 いかさまに 念ほしめせか、【或るはいふ、念ほしけめか。】
(158) 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 樂浪《ささなみ》の 大津の宮に、
 天の下 知らしめしけむ。
 天皇《すめろき》の 神の尊《みこと》の、
 大宮は 此處《ここ》と聞けども、
 大殿は 此處と云へども、
 春草の 茂く生ひたる、
 霞立つ 春日の霧《き》れる【或るはいふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる。】
 ももしきの 大宮|處《どころ》、
 見れば悲しも。」【或るはいふ、見ればさぶしも。】
 
 玉手次《タマダスキ》 畝火之山乃《ウネビノヤマノ》
 橿原乃《カシハラノ》 日知之御世從《ヒジリノミヨユ》【或云 自v宮】
 阿禮座師《アレマシシ》 神之盡《カミノコトゴト》
 樛木乃《ツガノキノ》 弥繼嗣尓《イヤツギツギニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之乎《シラシメシシヲ》【或云 食來】
 天尓滿《ソラニミツ》 倭乎置而《ヤマトヲオキテ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 平山乎超《ナラヤマヲコエ》【或云 虚見 倭乎違置 青丹吉 平山越而】
 何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》【或云 所念計米可】
 天離《アマザカル》 夷者雖v有《ヒナニハアレド》
 石走《イハバシル・イハバシリ》 淡海國乃《アフミノクニノ》
 樂浪乃《ササナミノ》 大津宮尓《オホツノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食兼《シラシメシケム》
 天皇之《スメロキノ》 神之御言能《カミノミコトノ》
 大宮者《オホミヤハ》 此間等雖v聞《ココトキケドモ》
 大殿者《オホトノハ》 此間等雖v云《ココトイヘドモ》
 春草之《ハルクサノ》 茂生有《シゲクオヒタル》
 霞立《カスミタツ》 春日之霧流《ハルビノキレル》【或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留】
 百礒城之《モモシキノ》 大宮處《オホミヤドコロ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》【或云 見者左夫思母】
 
【譯】神武天皇以來、御出現になつた歴代の天皇は、次々に天下を統治遊ばされた武天智天皇に至つて、何とおぼし召されたか、大和の國をさしおいて、奈良山を越え、田舍は方々にあるけれども、中にも近江の國の樂浪《ささなみ》の大津の宮に、天下を統治遊ばされた、天皇の尊い御方の、大宮は此處であると聞くけれども、大殿は此處と云うことであるが、ただ春草の茂く生い、春の日のぼんやりとしている大宮處は、見れば、悲しいことである。
(159)【構成】別に段落は無い。全篇一文として解釋すべきである。
【釋】玉手次 タマダスキ。既出。ここでは畝火に懸かつている。手次は頸《うなじ》に懸けるもので、頸に懸けることをウナグというので、采女、畝火等のウネを引き出すために使用されるとされている。
 畝火之山乃橿原乃日知之御世從 ウネビノヤマノカシハラノヒジリノミヨユ。畝火の山の橿原の日知の御世は、神武天皇の御代をいう。古事記に「畝火之白檮原宮」、日本書紀に、「橿原宮」とある。その地は畝火山の東南とされ、今の橿原神宮の地であるという。ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂に賢明の人をいい、古代、農耕のうえに暦日を知る人を尊んで言つた語と考えられる。暦のことをヒヨミというは、日を數える義であり、月のことをツクヨミというも、月數を數える義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であろう。漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用いられ、聖の字の意味に習合した。聖は、風俗通に「聖者聲也、聞v聲知v情、故曰v聖也」、尚書大禹謨傳に「聖無v所v不v通」、老子王注に「聖智才之善也」とあつて、事に通じてすぐれた人をいう。古事記下卷に、仁コ天皇の御世を稱えて、「故稱2其御世1、謂2聖帝世1也」、續日本紀天平十六年五月の詔に「飛鳥淨御原宮、大八洲所v知天皇命、天下治賜平賜比弖」など使用し、みなこれをヒジリと訓讀している。從は、それよりしての意味の助詞を表示していると解されるが、國語のその意味の助詞には、ユ、ユリ、ヨ、ヨリの四種がある。集中、假字書きの例には、ユ三十八、ユリ二、ヨ十六、ヨリ四十四であつて、ユリの二例は防人の歌であるから、これを除外して、他の三種のうちいずれを採るべきかを決定しなければならない。まず一音に讀むべきか、二音に讀むべきかを考えると、集中、助詞に當てていると考えられる從の用例は、百九十七個あつて、それを含んでいる句の音數を、五音もしくは七音として見ると、一音に相當するもの百九、二音に相當するもの七十五、一音に讀んでも音數の超過するもの十、二音に讀んでも音數の不足するもの三である。かように一音に相當するもの(160)と二音に相當するものとが、共に相當に多數である以上は、その訓をその一方のみに決定してしまうわけにゆかない。よつて、なるべく一句の音數を、五音もしくは七音に近いように讀む外はない。そこでこの歌の場合は、ヒジリノミヨ從であつて、從の字を一音に讀む時に、この句は七音になるものであるから、そこで、ユもしくはヨのうちの一つが、訓として採擇せらるべきである。集中における、假字書きの例は、ユは、由三十四、遊一、喩一、湯二、ヨは、欲十三、夜二、用一であつて、ユの方が多く、その使用の時代も概してユの方が古い。古事記の歌謠では、ヨを用いているが、今、本集の例について、ユを使用することとする。ユの用法には、
 イ、ある點よりこなたの意。時についていうもの。「天地の別れし時ゆ、神さびて高く貴き」(卷三、三一七)
 ロ、同前、處についていうもの。「こちごちの國のみ中ゆ、いで立てる不盡《ふじ》の高嶺は」(卷三、三一九)
 ハ、を通つての惠。「卷向の穴師の川ゆゆく水の」(卷七、一一〇〇)
 ニ、そこからの意。「あをによし奈良の都ゆ、おしてる難波に下り」(卷十九、四二四五)
 ホ、に由つての意。「まけ長く戀ふる心ゆ秋風に妹が音聞ゆ、紐ときまけな」(卷十、二〇一六)
 ヘ、比較を元すもの、「心あれかも常ゆけに鳴く」(卷十三、三三二八)
の諸法がある。元來、ある點から起つて、ずうつとこちらへ引き續いての意がもとで、それから他の用法に分化をとげたもののようである。この歌のは、天地ト別レシ時ユの用法と同じく、時間的に、その時からこなたた引き續いての意を表示している。そこでこの句の意は、神武天皇の御世から引き續いての意になる。
 或云自宮 アルハイフ、ミヤユ。本文の御世從に對する別傳である。これは別の資料によつたものと認められるが、詞句の相違の多い場合は、或本歌として別掲し、比較的すくない場合に、本文の中に割註として插入したようである。それで大體、以下の或云のすべてが、同一の一個の別傳から來ているものと見てよい。かような別傳を生じたのは、作者の兩案もあるべきであるが、人麻呂の場合は、傳誦されたために生じたものが多(161)いのであろう。そうして大抵の場合、本文の方が正傳であつて、或云の方は詞句の弛緩があり、また時に從つて意識的にその場に適うように變更することもあつた。ここの自宮も訛傳であつて、本文の方が意味がよく通じる。
 阿禮座師 アレマシシ。アレは、出現する意で生まれるをいう動詞、下二段活。神、天皇、御子など貴い方の出現、出生をいう語。マシは敬語の助動詞。その下のシは時の助動詞。アレマシシ神は、天皇をいう。天皇はその崩御によつて神として考えられる。ここは過去の天皇なのでかようにいう。
 神之盡 カミノコトゴト。
   カミノコトゴト(玉)
   ――――――――――
   神之書《カミノシルセル》(神)
   神之書《カミノアラハス》(仙)
   神之書《カミノシルシニ》(代精)
   神之御言《カミノミコトノ》(僻)
   神之書《カミノミコトノ》(攷)
 仙覺本に神之書としているので、諸説があつたが、元暦校本等に、神之盡とあるので、問題はなくなつた。コトゴトは、悉皆の義。御歴代天皇のすべての意。この句は、下の知ラシメシシの主格になつている。
 樛木乃 ツガノキノ。枕詞。音韻の類似に依つて、次のツギツギに懸かる。樛木は、詩經に「南有2樛木1」とあるが、それは枝の下勾せる木の意で、樹名では無い。しかるにわが國のツガにこの字を當てたのは、ツガには相當する漢名漢字が無いので、樹の特質より、この字を借用したのであろうという。本集では、「五百枝刺《イホエサシ》 繁生有《シジニオヒタル》 都賀乃樹乃《ツガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤヅギヅギニ》」(卷三、三二四)、「水枝指《ミヅエサシ》 四時爾生有《シジニオヒタル》 刀我乃樹能《トガノキノ》 彌繼嗣爾《イヤツギヅギニ》」(卷六、九〇七)、「可牟佐僻?《カムサビテ》 多?流都我能奇《タテルツガノキ》」(卷十七、四〇〇六)、「都我能木能《ツガノキノ》 伊也繼繼爾《イヤツギツギニ》」(卷十九、四二六(162)六)の如く、ツガノキともトガノキとも書いている。よつてツギの音に近くかつ例の多いのに任せてツガノキとするのである。
 弥繼嗣尓 イヤツギツギに。いよいよ次々に。副詞句として、下の知ラシメシシを修飾する。
 天下 アメノシタ。天空の下の義で、國土の意になる。この語は、天下の字を譯したものであろうという。
 所知食之乎 シラシメシシヲ。シラシは、知ルに敬語の助動詞スの接續したもので、統治するの意になる。天下の事を領知されるの謂である。本集假字書きの例に「安麻久太利《アマクダリ》 之良志賣之家流《シラシメシケル》」(卷十八、四〇九四)、「天下《アメノシタ》 志良之賣師家流《シラシメシケル》」(同、四〇九八)など、シラシメスとある。延喜式祝詞には「所知食、古語云2志呂志女須1」とあつて、後にはシロシメスに轉じた。メスは敬語の助動詞、語原は見スであろう。はじめ所知をシラスに當てて、知る所のの義を表示したものを、慣用によつて、メスの如き助動詞の接續する場合にも、シラシに所知の字を當てるようになつたものであろう。下のシは時の助動詞。ヲは逆轉の意を表示する助詞。知ろしめしたが、しかるにの意である。神武天皇以來の歴代の天皇が、天下を統治されたがの意であるが、下文の意味よりいえば、大和の國において統治されたがの意を語るものである。以上、下文に對して前提法をなしている。
 或云食來 アルハイフ、メシケル。本文の食之乎の別傳である。メシケルは、次の大和を修飾するが、これも本文の方がよい。
 天尓滿――ソラニミツ。大和の枕詞。この句、古事記、續日木紀に、蘇良美都、本集に、虚見、虚見都、虚見通、虚見津、空見津とあつて、いずれもソラミツと讀まれる。ニの加わつているのはこれのみである。これも元來四音の句であつたものが、歌が文筆的になるに及んで、ニを加えて五音の句となしたものと考えられる。
 倭乎置而 ヤマトヲオキテ。大和の國をさし置いて、この以前、歴代の皇居はおおむね大和の國にあつたの(163)を、天智天皇に及んで大和から出られたことをいう。
 青丹吉 アヲニヨシ。枕詞、既出。
 平山乎超 ナラヤマヲコエ。大和の國から奈良山を超えて、山城の國に出て、それから近江の國に向かわれたことをいう。平山は、大和の國の北部の山。既出。日本書紀、崇神天皇紀に、「官軍屯聚而?2?草木1、因以號2其山1、曰2奈羅山1【?2?此云2布瀰那羅須1。1」とある。踏み平《なら》したので、奈羅山といい、ここに平山の字を當てたのである。山容高からず廣がつているので、この山號となつたものであろう。
 或云虚見倭乎置青丹吉平山越而 アルハイフ、ソラミツヤマトヲオキアヲニヨシナラヤマコエテ。例によつて別傳であるが、本文の方が五七調が整い、この方は音數不整の句がある。平山乎超の句などは、本文の方が諧調である。
 何方御念食可 イカサマニオモホシメセカ。イカサマニは、いかなるさまに。オモホシは、思フに敬語の助動詞スの接續したオモハスの轉じたもの。メセは敬語の助動詞。カは疑問の助詞。思ホシメセバカの意で、條件法となり、係りの形になるが、實は獨立句として插入されたものと解すべきである。この種の用例は、數個あるが、同じ作者の一例をあげれば、「天つ水仰ぎて待つに、何方爾御念食可《イカサマニオモホシメセカ》、 つれも無き眞弓の岡に、宮柱太數きまし、みあらかを高知りまして、明言《あさごと》に御言問はさず、日月のまねくなりぬれ、そこゆゑに皇子の宮人、行く方《へ》知らずも」(卷二、一六七)語の順序から云えば、この句は上のソラニミツ大和を置キテの上にあるべきであるが、この句の内容を強調するために、ここに插入して、大和を捨てて近江に遷都された眞意の測りがたいことを敍したのである。
 或云所念計米可 アルハイフ、オモホシケメカ。木文の御念食可の別傳である。ケメは過去推量の助動詞。お考えになつたのであろうかの意で、插入句となることは本文に同じ。
(164) 天離 アマザカル。枕詞。地方は、天空のもとに遠く離れているというので、夷を修飾する。サカルは、遠く離れる意の動詞。ヒナが、日の彼方で、日の去り行く方を意味するとせは、天を遠く去る日と續くとも解せられる。
 夷者雖有 ヒナニハアレド。ヒナは、都に對して地方をいう。ニに相當する文字無くして者をニハと讀む例は、「眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》」(卷一、四七)などある。近江の國をさして、夷にはあれどという。大和の國から夷というのである。
 石走 イハバシル。イシハシリ(元赭)、イハハシル(西)、イハバシノ(考)。古くイハバシルと讀み、水の石の上を走る義としていた。萬葉考には、イハバシノとし、石橋の義としている。集中、ノに當る字を書いている例無く、假字書きのものに、「伊波婆之流 イハバシル》 多伎毛登杼呂爾《タキモトドロニ》」(卷十五、三六一七)の例のあるに任せて、イハバシルと讀む。ここは枕詞として、淡海の水《ミ》に懸かると解すべきである。石走り合フの義より、アフに懸かるとする説もある。
 淡海國乃 アフミノクニノ。アハウミ(淡海)の約アフミとなる。遠ツ淡海(遠江)に對して近ツ淡海ともいい、奈良時代の初めに至つて近江と書くようになつた。
 樂浪乃 ササナミノ。近江の國南方一帶の地名。本集では、志賀、大津、比良、連庫山等に冠している。日本書紀、孝コ天皇紀には、「近江狹々浪合坂山」とあり、古事記仲哀天皇記には、「出2沙々那美1、悉斬2其軍1」とある。樂浪の字は、「神樂聲浪《ササナミ》」(卷七、一三九八)「神樂浪《ササナミ》」(卷二、一五四)と書いたものがあり、これを略して樂浪と書いたもので、神樂のはやし詞にササというより起つたものである。この句を枕詞とする説のあるのは誤りである。
 大津宮尓 オホツノミヤニ。天智天皇の六年に近江の宮に遷居されたことをいう。
(165) 天下所知食兼 アメノシタシラシメシケム。エムは過去推量の助動詞で、その連體形。上の天尓滿からこの句まで、次の天皇の修飾句である。
 天皇之神之御言能 スメロキノカミノミコトノ。スメロキは、皇祖、皇神祖などの文字を當てたように、先の世の天皇をいい、轉じては現在の天皇をも併せいう。假字書きは須賣呂伎と書いたもの十例あり、キは清音である。ここは天智天皇の御事であるから、スメロキと讀むを可とする。先帝なるが故に神という。ミコトは尊稱、語義は御言の義で、御言を發する方の意から出で、多く命、尊の文字を當てる。ここは天智天皇の御上をいう。
 大宮者此間等雖聞 オホミヤハコココトキケドモ。天智天皇の大津の宮の址は比處であると聞くけれどもの意。その既に荒墟となつていることを語つている。
 大殿者此間等雖云 オホトノハココトイヘドモ。上の大宮は云々の句と對句を成しており、同じ内容を、言を變えていつたまでである。
 春草之茂生有 ハルクサノシゲクオヒタル。ハルクサノ(元赭)、ワカクサノ(矢)、ワカクサカ(代初)、ハルクサシ(玉)。下の大宮所を修飾する。宮殿のあとが荒れて、ただ春草のみ茂く生いたるよしである。
 雷立春日之霧流 カスミタツハルビノキレル。霞立をカスミタチと讀んで、實景のこととする説がある。しかしこの句は慣用句で、春を修飾し、しかも一面には實景の敍述でもあること、既に軍王見山の歌に釋せるが如くである。キレルは、動詞霧ルに、助動詞リの連體形の接續した形。霧ルは、水蒸氣の立ちこめて霞んでいるをいう。春季に霧ということは、「春山の霧にまどへる鶯」(卷十、一八九二)などの例がある。上の春草ノ茂ク生ヒタルの句に對して、この霞立ツ春日ノ霧レルの句は、對句を成して、共に竝んで下の大宮所を修飾している。なおこの對句をいずれも疑問の格とし、ここで句切とする説があるが、誤解である。この對句は共に(166)實景であつて、何等疑問の分子を含んでいない。
 或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留 アルハイフ、カスミタツハルビカキレル、ナツクサカシゲクナリヌル。本文の春草ノ茂ク生ヒタル以下の別傳である。春日香、夏草香の二つのカは、共に疑問の係助詞であつて、これを受ける霧流、および成奴留は共に連體形の終止句である。この別傳は、春と夏とに關して對句を構成しており、今がそのいずれの時であるかを明瞭にしない點、また疑問の辭を用いて、身の其處にあらざる趣に言いなしている點など、本文の傳來に比して劣るものである。この別傳が傳唱されたものであり、近江の大津の宮址にあらずして吟唱したものであることを語つている。
 百礒城之 モモシキノ。枕詞。大宮を修飾する。モモは多數の意。シキは石の築造物の意で、大宮の壯大にして堅固なのを稱美してその修飾句となる。古事記雄略天皇記に、「毛々志紀能《モモシキノ》 淤富美夜比登波《オホミヤヒトハ》」とあり、古い歌いものから來ていることを證している。
 大宮處 オホミヤドコロ。宮殿のある土地。ここでは古く大津の宮のあつた土地をいう。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。カナシは、感情が刺戟され激動する?態をいう形容詞で、古くは好愛の情にも悲哀の情にも使つている。ここは大津の宮の荒墟を哀悼せる意を表示している。モは感動の助詞。
 或云見者左夫思母 アルハイフミレバサブシモ。本文の見者悲毛の別傳である。サブシは、集中、不怜、不樂など書いたものをもかく讀んでいるように、心の樂しからざる貌である。後のサビシの原語であるが、ここには寂寥感は出ていない。
【評語】近江の大津の宮が、非常な抱負を以つて建設された皇居であり、新しい文化を採用した宮殿であつただけに、その荒廢したあとは、一層悲痛なものがある。湖上の春光はしずかに霞んで、この平和な、しかし寂寞の地上に臨んでいる。この間に立つ遊子の感懷は、この一篇の悲歌となつて傳えられる。天智天皇が、近江(167)に新京を建てられたのは、大和における舊い豪族の勢力から離脱しようとするにあつたと傳え、ここにそれらの大和における人々の不平も想像される。人麻呂は、その大和の國の住人の一人として、また遊子の一人として、この歌を作り、そういう氣分は、おのずからにこの歌の底の心となつている。畝火の山の橿原の御代から説き起した構成は、この歴史的な懷古の情を盛る歌として適切で、雄大感を與える。末に近く用いられた二個の對句も、それぞれに有效で、前の對句は、宮殿のあとを求める心があらわれ、後の對句は、季節の物を描いて、作者を包む空氣を作り成している。序詞のような冗漫な句も無く、全體によく纏まつている名作とすべきである。
 
反歌
 
【釋】反歌。以下二首とも、前の長歌の反歌である。
 
30 樂浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛碕《からさき》、幸《さき》くあれど、
 大宮人の 船待ちかねつ。
 
 樂浪之《ササナミノ》 思賀乃辛碕《シガノカラサキ》 雖2幸有1《サキクアレド》
 大宮人之《オホミヤビトノ》 舶麻知兼津《フネマチカネツ》
 
【譯】樂浪の志賀の辛碕は、變ることなく榮えてあるけれども、都が亡びてから、大宮人の船を待つことができなくなつた。
【釋】樂浪之思賀乃辛碕 ササナミノシガノカラサキ。近江の國の樂浪の思賀の地なる辛碕の意。第五句に對して主格であり、かつサキの音を引き出すに役立つている。
 雖幸有 サキクアレド。サキクは、無事幸福にある意の副詞。思賀の辛碕が、昔の大津の宮時代のままに變わらずにあれどもの意。第二句の末のサキの音を受けて、サキクと起している。かような例は、「樂浪乃《ササナミノ》 志(168)我能韓埼《シガノカラサキ》 幸有者《サキクアラバ》 又反見《マタカヘリミム》」(卷十三、三二四〇)の如きがある。なお、「はね蘰《かづら》今する妹をうら若み、いざ率《いざ》川の音のさやけさ」(卷七、一一一二)、「いにしへの倭文機帶《しづはたおび》を結び垂れ、誰とふ人も君には益さじ」(卷十一、二六二八)の如きもあつて、これらは序詞を受けて同音の語で起している。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人は、宮廷に奉仕する人々。男子のみならず、女子をも含んでいう。
 船麻知兼津 フネマチカネツ。カネは得ざる意の動詞。獨立語としても使用されるが、多く他の動詞に附して助動詞のように使用される。大宮人の船を待つているが、その目的を達し得ないの意。
【評語】思賀の辛碕は、風光明媚にして昔ながらに存しているけれども、もうこの地に船を漕ぎ寄せる大宮人も無い由を歌つている。天地は悠久であるけれども、時は移り人は去つて、また舊時の姿にあらざる感情が巧みに歌われている。前の長歌の内容と全く別方面に詞を起して、同じく都の荒れたのを悼む心に歸つている。これも反歌の一形式である。サキの音を重ねたのも有效に響いている。こういう音を重ねるのは、序歌の手法から出發したものであろう。
【參考】類想。
  やすみししわご大君の大御船待ちか戀ふらむ。志賀の辛碕(卷二、一五二)
 
31 樂浪の 志賀《しが》の【一は云ふ比良の。】大曲《おほわだ》
 淀《よど》むとも、
 昔の人に またも逢はめやも【一は云ふ 會はむと思へや。】
 
 左散難弥乃《ササナミノ》 志我能《シガノ》【一云比良乃】大和太《オホワダ》
 與杼六友《ヨドムトモ》
 昔人二《ムカシノヒトニ》 亦母相目八毛《マタモアハメヤモ》【一云將v會跡母戸八】
 
【譯】樂浪の志賀の大きな灣は、よし水が淀んでいるにしても、昔の大津の宮時代の人には、二度とあうことはあるまい。
(169)【釋】左散難弥乃志我能大和太 ササナミノシガノオホワダ。樂浪の志賀の大灣。ワダは、灣曲せる水域。曲灣。大津灣をいう。
 一云比良乃 アルハイフ、ヒラノ。本文の志我の別傳である。一云は或云に同じ。比良は、琵琶湖の西岸の地名であるが、比良の大わだと呼ぶには適しない。これも本文の方がよい。
 與杼六友 ヨドムトモ。ヨドムは、水の停滯して流通せざるをいう、集中しばしば不通の字を用いている。トモは假設條件法を示す助詞。たとえ淀んでいるにしても。このトモは、事實を認めつつ假定であらわす語法とする佐伯梅友氏の説がよい。
 昔人二 ムカシノヒトニ。大津の宮の時代の人に。
 亦母相目八毛 マタモアハメヤモ。ヤが反語の助詞。また逢うことがあろうか、否、そのような事は無いの意。
 一云將會跡母戸八 アルハイフ、アハムトモヘヤ。本文の亦母相目八毛の別傳。モヘは、動詞思フの已然形。オが省路されている。ヤは反語の助詞。アハメヤとアハムトモヘヤと、どう違うかというに、アハメヤはこれから先逢うことはあるまいの意。アハムトモヘヤは、これから先逢うだろうとは、今思わないの意。たとえば、忘レメヤは、將來も忘れないだろう。忘ルレヤは、不定時で今を主としていう。これらの例によつて、相違する所を知るべきである。
【評語】淀んでいるが、それはそれとしても、故人にはまたとあうまい。昔の榮華をこの地に見ることはできまいというのである。水を湛えて洋々たる琵琶湖の大觀に面して詠んだ歌であることを忘れてはならない。
 
高市古人、感2傷近江舊堵1作歌 或書云高市連黒人
 
(170)高市《たけち》の古人《ふるひと》の、近江の舊き堵《みやこ》を感傷して作れる歌【或る書にいふ、高市の連黒人】
 
【釋】高市古人 タケチノフルヒト。この人は他に所見無く、或る書にいう如く、高市の連黒人の誤りで、古人とあるは、歌詞の初句から誤つたものであろうといわれている。卷の九、一七一八の歌の前行には、高市歌一首とあり、かような形の資料を採り入れて、この歌の題詞の如きができたのであろう。
 近江舊堵 アフミノフルキミヤコ。大津の宮をいう。堵は、垣の義の字、轉じて都と通用している。
 或書云 アルフミニイフ。他の資料によつて作者の別傳を註している。その何の書であるかは知られていない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。高市氏は、天つ彦根の命の子孫。もと縣主の姓であつたが、天武天皇の十二年に連の姓を賜わつた。黒人は、大寶二年の太上天皇の參河の國への行幸に際して歌を傳え(卷l、五八)、また持統太上天皇の吉野の宮への行幸にも歌を傳えた。(卷一、七〇)その他、攝津、尾張、近江、越中等に旋行した時の歌を殘している。作品は短歌のみであるが、自然に接觸すること深く、よく獨自の歌境をなしている。また妻との贈答の歌もある。
 
32 古《ふ》りにし 人に我あれや、
 樂浪の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき。
 
 古《フリニシ》 人尓和禮有哉《ヒトニワレアレヤ》
 樂浪乃《ササナミノ》 故京乎《フルキミヤコヲ》 見者悲寸《ミレバカナシキ》
 
【譯】自分は古くなつた人でもないのに、この樂浪の古い都を見ると悲しくなる。
【釋】古人尓和禮有哉 フリニシヒトニワレアレヤ。イニシヘノヒトニワレアレヤ(類)、フルヒトニワレアルラメヤ(西)、フルヒナニワレハアレバヤ(代初)、イニシヘノヒトニワレアルヤ(僻)、フリニシヒトニワレアレヤ(新訓)。フリニシのニは完了の助動詞で、強意の用をしている。古びてしまつたの意で、次の句の(171)人を修飾する句。この句、イニシヘノとも讀まれているが、フリニシと讀むのは、「古之《フリニシ》 嫗爾爲而也《オミナニシテヤ》 如v此許《カクバカリ》 戀爾將v沈《コヒニシヅマム》 如2手童兒1《タワラハノゴト》」(卷二、一二九)、「古《フリニシ》 人乃令v食有《ヒトノヲサスル》 吉備能酒《キビノサケ》」(卷四、五五四)の如き、イニシヘノと讀むに適しない例があるからである。フリニシの假字書きの例としては、「大原乃《オホハラノ》 古爾之郷爾《フリニシサトニ》」(卷二、一〇三)、「香具山乃《カグヤマノ》 故去之里乎《フリニシサトヲ》」(卷三、三三四)の如きものがある。古リニシ人は、時代を經過した舊人の意である。ヒトニワレアレヤは、何々の人であろうかの意。初句を受けて、自分は既に古び去つた人であるからかの意を成している。アレヤは、既出、「白水郎有哉《アマナレヤ》」(卷一、二三)の例に同じ。ヤは係助詞、下の見レバ悲シキに懸かる。
 樂浪乃故京乎 ササナミノフルキミヤコヲ。大津の古き都をの意。
 見者悲寸 ミレバカナシキ。二句のアレヤを受けて結んでいる。
【評語】近江の舊都の地に到つて、悲哀の感の禁ずること能わざるは、自分が舊人である故かと歌つている。自己を顧みている所に、この歌の特色がある。同じ舊都を見ても、人麻呂は歴史の跡をしのび、黒人は自家の上を反省する。そこに兩者の相違が見出される。人麻呂の歌が萬人に理解せられ愛好せられると共に、黒人には、個性の表現があつて、現代人の指向する所に適うものがある。
 
33 樂浪《ささなみ》の 國つ御神《みかみ》の うらさびて
 荒《あ》れたる京《みやこ》、
 見《み》れば悲《かな》しも。
 
 樂浪乃《ササナミノ》 國都美神乃《クニツミカミノ》 浦佐備而《ウラサビテ》
 荒有京《アレタルミヤコ》
 見者悲毛《ミレバカナシモ》
 
【譯】近江の樂浪の地を守護する國の神の心が樂まなくなつて、それにより荒れはてた都を見れば悲しいことである。
(172)【釋】樂浪乃國都美神乃 ササナミノクニツミカミノ。クニツミカミは、國土の神靈。上のミは美稱。國つ神に同じ。天つ神に對して、國土に土著している神をいう。
 浦佐備而 ウラサビテ。ウラは、心の上にいう詞。表面に現れないことに用いる。ウラ樂シ、ウラ悲シなどいう。サビは荒涼として樂しまない意の動詞。「浦佐夫流《ウヲサブル》 情佐麻禰之《ココロサマネシ》」(卷一、八二)ともあり、上二段活である。樂浪の國の心が樂まず荒れた都と續く。
 荒有京 アレタルミヤコ。荒廢した帝都。
 見者悲毛 ミレバカナシモ。前の歌は、二句に係助詞ヤがあつたから、見レバ悲シキと結んだが、この歌にはさような特殊係助詞が無いから、悲シモと結んでいる。モは感動の助詞。
【評語】この歌は、荒廢した都を見て、そこから國土の神の心の荒れたことを感じている。眼前に國土の神を祭つた社があり、それが何となく荒涼たる樣に見えるにしても、思想的には、國土の神靈を感じている所に意義がある。荒廢している?態の敍述に特色のある歌である。神社の荒れている實況とする説もあるが、國ツミ神ノウラサビテといういい方は、そうは解し難い。
 
幸2于紀伊國1時、川島皇子御作歌 或云山上巨憶良作。
 
紀伊の國に幸《い》でましし時、川島《かはしま》の皇子《みこ》の作りませる御歌。【或るはいふ、山上巨憶良の作れる。】
 
【釋】幸于紀伊國時 キノクニニイデマシシトキ。歌の左註に日本紀を引いて、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也とある。この事、今の日本書紀には、朱鳥は元年のみで、その翌年からは年號無く、その四年九月の事としている。
 川島皇子 カハシマノミコ。天智天皇の第二の皇子。持統天皇の五年九月薨じた。年三十五(六五七−六九(173)一)。
 天武天皇の十年三月に、諸人に命じて帝紀及び上古の諸事を撰録せしめた時には、諸人の名の第一に擧げられ、また懷風藻に詩を傳えているなど、文學の人であつたことを語る。懷風藻には傳記もあり、それには、大津の皇子と親交があつて、しかも大津の皇子の叛を朝廷に告げたのは、河島の皇子だつたという。よつていまだ爭友の益を盡さずと論じている。
 或云山上臣憶良作 アルハイフ、ヤマノウヘノオミオクラノツクレル。作者に關する別傳である。この或云は、卷の九、一七一六の歌によるものと認められる。そこにはこの歌を載せて、題詞に山上歌一首とある。なお歌經標式には角の沙彌の歌としている。かように作者に異傳のあるのは、この歌が廣く傳唱されたことを語つている。
 
34 白浪の 濱松が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》、
 幾代までにか 年《とし》の經《へ》ぬらむ。
  一は云ふ 年の經にけむ。
 
 白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》 手向草《タムケグサ》
 幾代左右二賀《イクヨマデニカ》 年乃經去良武《トシノヘヌラム》
  一云 年者經尓計武
 
【譯】白濱のうち寄する濱の松が枝にかけた、手向の祭の幣《ぬさ》どもは、幾代までの久しい年を經ていることであろう。
【釋】白浪乃 シラナミノ。
   シラナミノ(類)
   ――――――――――
   白神乃《シラカミノ》(考)
   白良乃《シララノ》(考)
   白紙乃《シラカミノ》(燈)
(174)   磐白乃《イハシロノ》(墨)
 白浪のうち寄するという意で、印象的な云い方である。萬葉考には白神、又は白良《しらら》の誤りとして、地名としているが、誤りとするには及ばない。
 濱松之枝乃 ハママツガエノ。濱邊なる松の枝のの意。次句の手向草の懸かつている場處を説明している。この濱は、紀伊の國の海濱であろうが、何處とも知られない。
 手向草 タムケゲサ。タムケは、行路にあつて、無事であることを願つて神を祭ること。天神を招請して、邪惡の神を拂うのが原義で、ムケは征服の義。コトムケのムケと同語であろう。タは接頭語、手の意がある。それから轉じて、道路の惡神に、幣帛を捧げて、災禍を免れようとする思想に移つた。そこで手向として幣帛を獻ずる意になるのである。クサは料の義。タムケゲサは、手向の祭の材料。幣帛をいうので、實質としては、布、木綿、絲、紙等が數えられる。それらのものが、古くなつて松が枝に懸かつているのを見て、いつの代からの物かと疑うのが、この歌の意である。
 幾代左右二賀 イクヨマデニカ。いくばくの代までにかの意で、下の年ノ經ヌラムに對して係りになつている。カは疑問の係助詞。左右をマデと讀むのは、左石の手の義で、一方の手を片手といい、兩手をマデというからである。集中、左右の字面は多く、また左石手、二手、諸手などとも書いている。なおこの種の字面をマデと讀むに至つたことについては、石山寺縁起に一つの説話を載せている。源の順が萬葉集の歌に訓を下した時に、左右の字に至つて行きつまつた。そこで石山寺の觀音に參籠し、その訓を得ることを祈願した。參籠を終つて下向の日、大津で、馬方が片手で馬に荷を附けていたのを、荷主が罵つて、「までにて附けよ」と言つたので、左右をマデと讀むべきことを悟つたというのである。これは勿論一つの傳説に過ぎないが、古人が、萬葉集の訓讀事業について、興味をもつて語り傳えたことを示すものである。
(174) 年乃經去良武 トシノヘヌラム。年ノは主語。ヘは經過する意の動詞。ヌは完了の助動詞、ラムは現在推量の助動詞で、現在、年が經ているだろうと推量している。上に疑問の辭があるので、年の經過したことを、幾代までにかと疑つていることが知られる。しかしこれは、年の經たことを疑つているのでは無い。その經過の世代の數を疑つているのである。
 一云年者經尓計武 アルハイフ、トシハヘニケム。卷の九の歌詞によつている。第五句の別傳である。ニは完了の助動詞、ケムは過去推量の助動詞。既に幾代かを經過したことであろうの意。
【評語】持統天皇の御事蹟としてしばしは諸國に行幸または御幸あらせられたことが傳えられている。大和の國内では吉野の離宮には度々行幸された。その他では、四年九月の紀伊への行幸、六年三月の伊勢への行幸、大寶元年九月の紀伊への御幸などが傳えられている。かような行幸の度毎に、大宮人は供奉して歌を詠んだ。それは作歌修業に取つての絶好の道場となつたのである。
 この歌は、初二句の簡潔な云い方が、紀州海岸の特色をよく云い得ている。白波のうち寄せる濱邊の松が枝、それは行く人毎に、手向の祭をして行つた處である。手向の行事の無くなつた今日では、感懷も薄くなつたが、古人は、そこに追憶の盡きないものがあつたであろう。旅人の何人も感ずる心を歌い得たものといえる。
【參考】別傳。
   山上歌一首
  白那彌之《シラナミノ》 濱松之木乃《ハママツノキノ》 手酬草《タムケグサ》 幾世左右二箇《イクヨマデニカ》 年薄經濫《トシハヘヌラム》
    右一首、或云河島皇子御作歌(卷九、一七一六)
   如2角沙彌記濱哥1曰
  旨羅那美能一句 婆麻々都我延能二句 他牟氣倶佐三句 伊倶與麻弖爾可四句 等旨能倍爾計牟五句(歌經標(176)式)
 
日本紀曰、先島四年庚寅秋九月 天皇幸2紀伊國1也。
 
日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊の國に幸《い》でましたまひきといへり。
 
【釋】朱鳥四年 アカミドリノヨトセ。題詞のもとに記した通り、今の日本書紀では、無年號の四年になつている。日本書紀、天武天皇紀、朱鳥元年七月の條に、「戊午(二十二日)、改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥此云2阿※[言+可]美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。この朱鳥のことは、扶桑路記に、「十五年、大倭國進2赤雉1、仍七月改爲2朱鳥元年1」とある。
 
越2勢能山1時、阿閉皇女御作歌
 
勢《せ》の山を越えましし時、阿閉《あべ》の皇女《ひめみこ》の作りませる御歌
 
【釋】越勢能山時 セノヤマヲコエマシシトキ。勢能山は、和歌山縣伊都郡背山村にあり、紀の川の右岸にある。大和の國から紀伊の國にはいつての通路に當る。セの音は、男性を意味するので、しばしばそれに關して歌が詠まれており、また紀の川を隔てた對岸に、妹山を想定するようにもなつた。阿閉の皇女(後の元明天皇)がまだ帝位につかれなかつた前に、紀伊の國へ行かれた時、その途上、勢の山を越えられて詠まれた歌。この御旅行は、持統天皇四年九月の行幸に從われたものなるべく、皇女の夫君草壁の皇太子は、その前年四月に薨ぜられている。故に山に託して夫君を慕われる哀悼を寫されたものと見られる。
 阿閉皇女 アベノヒメミコ。元明天皇。天智天皇の第四女にまします。草壁の皇太子の妃となり、文武天皇を生み、慶雲四年文武天皇の崩御された後を承けて、帝位におつきになつた。和銅三年三月、始めて平城に都(177)を遷し、ここに七代の帝都をお開きになつた。靈龜元年讓位、養老五年、平城宮に崩ぜられた。壽六十一。
 
35 これやこの、
 倭《やまと》にしては わが戀ふる
 紀路にありといふ 名に負ふ勢の山
 
 此也是能《コレヤコノ》
 倭尓四手者《ヤマトニシテハ》 我戀流《ワガコフル》
 木路尓《キヂニ》有云《アリトイフ・アリトフ》 名二負勢能山《ナニオフセノヤマ》
 
【譯】これがまあ、大和の國に在つて自分の戀い慕つている、夫《せ》という名を持つた、紀伊の國へ行く路にありという、あの勢《せ》の山であるのだ。
【釋】此也是能 コレヤコノ。或る事物を指して、これがかの何々なるかと指示する語法。ヤは、感動の係助詞で、最後の名詞の下に、これを受けて結ぶ助動詞の省略された形である。これがか、この何々はの意である。本集には「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海孃子《あまをとめ》ども」(卷十五、三六三八)がある。
 倭尓四手者 ヤマトニシテハ。大和にありては、大和にありし時は。
 我戀流 ワガコフル。第五句のセを修飾する連體句。四句の紀路ニアリトイフは、名ニ負フと共に、この句と竝んで勢の山を修飾している。「わが戀ふる勢の山」、「紀路にありといふ勢の山」、「名に負ふ勢の山」の三文を、一文に要約した云い方である。
 木路尓有云 キヂニアリトイフ。キチニアリテフ(類)、キチニアリトイフ(西)、キチニアリチフ(僻)、キチニアリトフ(考)。キヂは、紀路。紀伊の國の國府に行く路である。元來、何路というのは、その土地に行く路をいうので、その土地なる道路の義では無い。たとえば、大和と九州とのあいだを通ずる同一の道路でも、九州から大和に向かう時は大和路であり、逆に大和から九州に向かう時は筑紫路である。「大和路の吉備の兒島を過ぎて行かは筑紫の兒島思ほえむかも」(卷六、九六七)。これは筑紫で詠んだ歌である。「筑紫路の可太《かだ》の(178)大島しましくも見ねば戀しき妹をおきて來ぬ」(卷十五、三六三四)。これは周防の國で詠んだ歌である。後世は、道路を、地圖の上などに見るように、概念的に取り扱つて、何の地の道路として解釋するけれども、古人は、自分の立脚點から他の地點に通ずる用として道路を見る。わが前に横たわる道路として見るので、何の地に行く路を何路というのである。それで、紀路は、紀伊の國の國府に行く路である。嚴密にいう時は、勢の山は紀伊の國の堺内であるけれども、大和から紀伊の國の中心的地方へ行く途に當つているので、かくいうのである。トイフは、トフともチフとも讀まれる。チフというのは中世以後の語である。紀伊の國にありと人のいう所のの意。
 名二負勢能山 ナニオフセノヤマ。前にもいう如く、大和にしては我が戀ふる勢の山、紀路にありという勢の山、名に負う勢の山というべきを、各句を受けて、ここに至つて、結ぶのである。名ニ負フは、名に背負い持つている義。セは男子の稱である。そのわが戀う夫という名を持つている山の義である。
【評語】夫の君の薨去の後、たまたま夫《せ》と名づけられた山に接して、無量の感慨を寄せられた歌である。勢の山の修飾句が、三個も重なつているのは、その山に對するさまざまの思いを一擧に言い盡そうとする氣もちをあらわしている。詠嘆の氣に滿ちた歌である。
 山の名をセというので、それを男子の稱に思いよせて趣向を立てているが、この外、この山については、こういう取り扱い方をした歌が多く存している。今その一二を擧げて見よう。
   丹比の眞人笠麻呂の、紀伊の國に往き、勢の山を越えし時に作れる歌一首
  栲領巾《たくひれ》の懸けまく欲しき妹が名をこの勢の山に懸けばいかにあらむ(卷三、二八五)
   春日の藏首老のすなはち和ふる歌一首
  よろしなへわが夫の君が負ひ來にしこの勢の山を妹とは呼はじ(同、二八六)
(179)遂には、川の北岸に勢の山があるので、對岸の山を妹の山と名づけるに至つた。「流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のあなう世の中」(古今和歌集)など、その地形をよく説明しているが、妹山は既に萬葉中にも見えている。
  勢の山に直《ただ》に對《むか》へる妹の山事|聽《ゆる》せやも打橋わたす(卷七、一一九三)
  紀の國の濱に寄るといふ鰒玉《あはびだま》拾はむと云ひて、妹の山勢の山越えて行きし君(下略、卷十三、三三一八)
 
幸2于吉野宮1之時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于吉野宮之時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。この題詞は、以下の長歌二篇(それぞれ反歌一首を含む)に係るものである。持統天皇は、吉野の宮を御愛好になり、その行幸は、日本書紀に傳えるだけでも三十度に及んでいる。そのうちのいずれの時とも知られない。またこの長歌二篇が、同時の作か別時の作かも知られない。人麻呂は妻に死別した時、石見の國から上京する時など、一つの題下に、しばしは二篇の長歌を作つている。その豐富な思想と詞藻とから考えても、一つの機會に、二篇の長歌を作ることもあり得るのである。
 
36 やすみしし わが大王《おほきみ》の
 聞《きこ》しめす 天《あめ》の下に、
 國はしも 多《さは》にあれども、
 山川の 清き河内《かふち》と、
 御心を 吉野の國の
(180) 花散らふ 秋津の野邊に、
 宮柱 太敷《ふとし》きませば、
 ももしきの 大宮人は、
 船|竝《な》めて 朝川渡り、
 舟競《ふなぎほ》ひ、夕河渡る。」
 この川の 絶ゆることなく
 この山の  いや高知らす、
 水《みな》ぎらふ 瀧《たぎ》の宮處《みやこ》は、
 見れど飽《あ》かぬかも。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 所v聞食《キコシメス》 天下尓《アメノシタニ》
 國者思毛《クニハシモ》 澤二雖v有《サハニアレドモ》
 山川之《ヤマカハノ》 清河内跡《キヨキカフチト》
 御心乎《ミコロヲ》 吉野乃國之《ヨシノノクニノ》
 花散相《ハナチラフ》 秋津乃野邊尓《アキヅノノベニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太敷座波《フトシキマセバ》
 百礒城乃《モモシキノ》 大宮人者《オホミヤビトハ》
 船竝?《フネナメテ》 旦川渡《アサカハワタリ》
 舟競《フナギホヒ》 夕河渡《ユフカハワタル》
 此川乃《コノカハノ》 絶事奈久《タユルコトナク》
 此山乃《コノヤマノ》 弥高思良珠《イヤタカシラス》
 水激《ミナギラフ》 瀧之宮子波《タギノミヤコハ》
 見禮跡不v飽可問《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の御統治遊ばされる天の下に、國は多くありますが、山や川の清き河内であるとして、吉野の國の秋津の野邊に、立派な宮殿をお作りになりますから、お仕え申す人々も、船を竝べては朝川を渡り、舟を競つては、夕川を渡ります。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く御座遊ばされる、水の激する宮處は、見れど飽きぬことであります。
【構成】この歌は、二段に分かつて解釋すべきである。第一段、舟競ヒ夕河渡ルまで。事實を敍する。以下第二段、第一段の事實を根據として作者の感想を述べる。表面吉野の離宮の景勝を稱えることになつているが、内意はその宮の永久に立ち榮えるだろうということを慶賀している。
【釋】八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。この歌では持統天皇をさす。所聞食に對して主(181)格となつている。
 所聞食 キヨシメス。キコシヲスとも讀まれている。本集における假字書きの例には、キコシメスに、「波乃海《ナニハノウミ》 於之弖流宮爾《オシテルミヤニ》 伎許之賣須奈倍《キコシメスナベ》」(卷二十、四三六一)があり、キコシヲスに、「企許斯遠周《キコシヲス》 久爾能麻保良敍《クニノマホラゾ》」(卷五、八〇〇)、「伎己之乎須《キコシヲス》 久爾熊麻保良爾《クニノマホラニ》」(卷十八、四〇八九)、「伎己之乎須《キコシヲス》 四方乃久爾欲里《ヨモノクニヨリ》」(卷二十、四三六〇)がある。かようにいずれも例がある上に、食の字はメスともヲスとも讀める字であるから訓法を決定し難いが、類似の内容を盛つた字面に所知食があり、これはシラシメスであつて、シラシヲスとは讀めないものであるから、それによつてキコシメスと讀むべきである。キコシは、動詞聞クの敬語。メスは敬語の助動詞である。天下の有樣をお聞きになるの義から、統治あらせられるの意になる。次句の天下に對して、連體形となつている。
 天下尓 アメノシタニ。既出。
 國者思毛 クニハシモ。このクニは地方の國の義。各地の謂である。シモは張意の助詞。
 澤二雖有 サハニアレドモ。サハは多數の意。數多くあるけれども。以上、澤山にあるけれどもと言つて、以下とくにその中の一つをあげる形式で、長歌にしばしば見られる表現樣式である。三二二、三八二、四〇〇〇など。
 山川之 ヤマカハノ。山と川との。
(182) 清河内跡 キヨキカフチト。カフチはカハウチの約言。アハウミをアフミという類である。河内は、川を中心とした一帶の土地をいう。古人の言語は、概念的に使用せず、發言者の視聽する所に隨つて使用するのであつて、この河内の語も、そのように解するのを本義とする。川邊に立つて見られる範圍を河内というので、川、兩岸、および眺望に入る所の山までを含むのである。ここでは吉野川を中心とした一帶をいう。流域、溪谷などの語に近いが、そういう概念的な云い方では無い。國名となつた河内も、大和川を中心とした地名であり、その他、現に地名として殘つている諸國の河内の地勢を見れば、この語の持つ意味がわかるであろう。「山川ノ清キ河内」の語は、かくしてよく理解される。川の曲つた處とする從來の解は、正しくない。「三吉野乃《ミヨシノノ》 多藝都河内之《タギツカフチノ》 大宮所《オホミヤドコロ》」(卷六、九二一)、「阿之我利能《アシガリノ》 刀比能可布知爾《トヒノカフチニ》 伊豆流湯能《イヅルユノ》」(卷十四、三三六八)の河内の如きもこれによつてよく理解される。但しそれはどこまでも川を中心にした語であり、また慣用の久しきに及んで、川中の如き用例をも生じていることは、注意されねばならない。トは、トシテの意。山や川の清らかな河内として。
 御心乎 ミココロヲ。枕詞。ヲは感動の助詞。御心は佳しの意に、吉野を修飾する。「味酒を三輪の祝《はふり》」(卷四、七一二)、「御佩《みはか》しを劍の池」(卷十三、三二八九)というが如きヲの用法である。この枕詞は、他に用例を見ない。人麻呂の創始であろうか。
 吉野乃國之 ヨシノノクニノ、クニは一地方の稱。泊瀬の國、葛城の國などという。
 花散相 ハナチラフ。チラフは、動詞散ルの連績動作をあらわす。次句に對する連體形の句。花の續いて散り亂れるをいう。この句は、この歌中において、季節を描いている唯一の句であつて、これによつてこの歌の作られた時節を示している。
 秋津乃野邊尓 アキヅノノベニ。秋津は、吉野の離宮のあつた處の地名。「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキヅノミヤハ》」(卷六、(183)(九〇七)、三芳野之《ミヨシノノ》 秋津乃川之《アキツノカハノ》」(同、九一一)、「秋津野爾《アキヅノニ》 朝居雲之《アサヰルクモノ》」(卷七、一四〇六)など見えている。今、宮瀧附近の吉野川岸に秋戸岸の名が殘つているという。地名の起原については、古事記下卷の雄略天皇記に、吉野に幸せられた時に、虻《あぶ》が御腕を食つたのを、蜻蛉が來てその虻を食つたので、御製の歌があり、その時からその野を名づけて阿岐豆野というと傳えている。
 宮柱大敷座波 ミヤバシラフトシキマセバ。フトは、シクの壯大なのを形容する。シクは、平面を領有する意の動詞。フトシクは、宮柱を堂々と建てる義で、宮殿を建立すること。マセは、敬語の助動詞。「眞弓乃岡爾《マユミノヲカニ》 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》」(卷二、一六七)など使用されている。古事記上卷に、「於2底津石根1宮柱|布刀斯理《フトシリ》、於2高天原1氷椽多迦斯理《ヒキタカシリ》」などあるによつて、フトシクとフトシルと同語とする説があるが、シクとシルとは違うのである。宮柱については、太敷クとも太知ルともいうが、高天ノ原ニ千木高シクとは云わないのを以つても、兩語の同じくないことを知るべきである。シクは、敷、布などの文字の意にちかく、平面を領有することであり。シルは、知の意で、廣く領有する意になるのである。以上條件法を成し、以下それに對する結語である。
 百磯城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトは。既出。以下の文に對する主格である。
 船竝?旦川渡 フネナメテアサカハワタリ。離宮に奉仕するために、大宮人は、朝は舟を竝べて、吉野川を渡ることを敍している。フネナメテは、舟を多く竝べてで、多數の人の出仕する有樣をいう。アサカハは、朝の川。、「未v渡《イマダワタラヌ》 朝川渡《アサカハワタル》」(卷二、一一六)などある。
 舟競夕河渡 フナギホヒユフカハワタル。船の進行を競つて夕の川を渡るの意。舟競は、「布奈藝保布《フナギホフ》 保利江乃可波乃《ホリエノカハノ》」(卷二十、四四六二)の用例がある。上の船竝メテ云々の句と對句をなし、大宮人の主格を、兩岐に受けて結んでいる。以上第一段。吉野の宮の造營と廷臣の奉仕とを説いている。
(184) 此川乃絶事奈久 コノカハノタユルコトナク。上の朝川夕河の二句を受けて、コノ河ノと起し、これを譬喩に使つている。この川の水の流れて止まないように、絶える事無しにの意で、絶ユルコト無クイヤ高知ラスと續く語脈である。
 弥高思良珠水激瀧之宮子波 イヤタカシラスミナギラフタギノミヤコハ。
   イヤタカシラスミツタヽク(古葉)
   イヤタカシラスミヅハシルタギノミヤコハ(新訓)
   ――――――――――
   彌高良思珠水激瀧之宮子波《イヤタカカラシタマミヅノタキノミヤコハ。》(西)
   彌高良之珠水激《イヤタカカラシタマミヅノ》(細)
   彌高有之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高加良之珠水激《イヤタカカラシイハハシル》(考)
   彌高良之隕水激《イヤタカカラシオチタギツ》(古義)
 思良珠は、元暦校本等による。流布本には思良を良之に作り、珠を下の句に附けて讀んでいるが、それでは意を成さない。珠をスと讀むは、「波太須珠寸《ハダススキ》」(卷八、十六三七)があり、地名の珠洲がある。タカシラスは山を受けて、高く立派に御座遊ばされるの意で、連體言である。この句は、遙に山川ノ清キ河内を受けて、上の此川乃云々の句と對句をなしているが、文脈は、絶ユルコト無クイヤ高シラスと績いて、次の瀧ノ宮處を修飾する。この山の高きが如くと、高を起している。イヤ高シラスは、いよいよ高大に御領有あらせられるの意。水激は、ミヅハシルとも、ミヅタギツとも讀まれるが、私注に、字鏡集に激にミナギルの訓があるによつてミナギラフと讀んだのがよかろう。水が霧る。水けむりが立つ意で、次のタギを修飾する。水の奔流するをいう。タギは、水の激しく流れる處、ミヤコは、宮室のある地。
 見禮跡不飽可問 ミレドアカヌカモ。どれほど見ても飽きないことであるの意。以上第二段。作者の感想を述べて一首を結んでいる。
(185)【評語】この歌は、初めに諸國の多い中に、特によい勝地として吉野川の流域を選擇し、その地に宮作りし、その川に大宮人の賑える有樣を敍逃し、これを前提として、その川のように、その山のようにと、雙頭に祝意を述べ、そのような勝地の宮室は、見れども飽きないことであると感激を敍している。徹頭徹尾、ほめ詞に終止したところ、この歌の特色ともいうべく、わずかに作者の感情を吐露した末の一句は、常套の成句であつて、特殊性は發揮していない。もつとも、この見レド飽カヌカモは、人麻呂の創始した句であるかも知れないが、あまりに模倣が多くなつている。吉野離宮の景勝をほめるという點からは、十分に、成功していると云えるであろう。
【參考】類句、見れど飽かぬかも。
  霞うつ安良禮《あられ》松原住吉の弟日孃子《おとひをとめ》と見れど飽かぬかも(卷一、六五)
  はだ薄久米の若子《わくご》がいましける三穗の石室《いはや》は見れど飽かぬかも(卷三、三〇七)
  (上略)駿河なる不盡《ふじ》の高嶺は見れど飽かぬかも(同、三一九)
  山高み白木綿《しらゆふ》花に落ちたぎつ激流《たぎ》の河内は見れど飽かぬかも(卷六、九〇九)
  神からか見がほしからむ。み吉野の激流の河内は見れど飽かぬかも(同、九一〇)
  (上略)御食《みけ》向ふ味原《あぢふ》の宮は見れど飽かぬかも(同、一〇六二)
  若狹なる三方の海の濱清みい往き還らひ見れど飽かぬかも(卷七、一一七七)
  吾妹子が業《なり》と作れる秋の田の早穗《わさほ》の蘰《かづら》見れど飽かぬかも(卷八、一六二五)
  百傳ふ八十の島廻《しまみ》を榜ぎ來れど粟の小島し見れど飽かぬかも(卷九、一七一一)
  古の賢《さか》しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも(同、一七二五)
  山高み白木綿花《しらゆふばな》に落ち激《たぎ》つ夏實の河門《かはと》見れど飽かぬかも(同、一七三六)
(186)  ももしきの大宮人の蘰《かづら》けるしだり柳は見れど飽かぬかも(卷十、一八五二)
  秋田刈る假廬の宿《やどり》にほふまで咲ける秋はぎ見れど飽かぬかも(同、二一〇〇)
  玉梓《たまづさ》の君が使のた折りけるこの秋はぎは見れど飽かぬかも(同、二一一一)
  白露を玉になしたる九月《ながつき》の有明の月夜《つくよ》見れど飽かぬかも(同、二二二九)
  あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(卷十五、三六〇二)
  大宮の内にも外《と》にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬかも(卷十七、三九二六)
  うるはしみわが思《も》ふ君はなでしこが花に擬《なぞ》へて見れど飽かぬかも(卷二十、四四五一)
  秋風の吹き扱《こ》き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(同、四四五三)
 
反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑《とこなめ》の、
 絶ゆることなく また還り見む。
 
 雖v見飽奴《ミレドアカヌ》 吉野乃河之《ヨシノノカハノ》 常滑乃《トコナメノ》
 絶事無久《タユルコトナク》 復遠見牟《マタカヘリミム》
 
【譯】見れども飽きない吉野の川の、なめらかな岩床のように、永久に絶える事なくまた立ち歸り見たいことであります。
【釋】雖見飽奴 ミレドアカヌ。長歌の末句の見レド飽カヌカモを取つて、反歌を起している。連體形で、次の句を修飾している。
 常滑乃 トコナメノ。トコナメは、從來、常に水に濕つて、苔など生え、常になめらかな處と解していた。井上通泰氏の萬葉葉新考の説に、頂の平な岩の列なつているものと云つている。同書に引いた柳田國男氏の説(187)に、トコナメは、天然にも人工にも、村境などに、神を祭る用の壇に磐石の竝べたのをいうとある。他の用語例に、「妹が門入り泉川の常滑にみ雪殘れり。いまだ冬かも」(卷九、一六九五)、「こもりくの豐泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑の恐《かしこ》き道ぞ。戀ふらくはゆめ」(卷十一、二五一一)の例がある。この歌および卷の十一の歌に、いずれも常滑の文字を使用している所を見れば、本集においては常になめらかなるものの義に使用されていたと解される。また山田孝雄博士の説に、中世の作庭の術語に、地中にさし出したる巨石を常滑という。これは古語の殘つたものであろうかとされている。澤瀉久孝博士の常滑考(萬葉古徑二)には、常滑のメと、床竝のメと、音韻の違うことを指摘し、これはどうしても滑の義であるとし、岩石の水苔などが生えてすべり易いものだとされている。その説く所詳細である。以上、目前の景物を敍して、絶ユルコトナクの序としたのである。吉野川の岸邊の大磐石を取つて、その恆久性により、絶えることのないようにの譬喩とした。
 絶事無久 タユルコトナク。常滑の如く絶ゆること無くと起している。下のマタ還リ見ムに對する副詞句。この句は、長歌の中の句を取り、その意を更に明確にしているものである。
 復還見牟 マタカヘリミム。またもこの他に來て、この勝景を見ようとの意である。
【評語】長歌の詞句を使つて、それと密接な關係を保つている。反歌の形態として原形的であり、長歌と不可分な性質をよく表示するものである。この關係は、次の長歌と反歌とにおいても保たれている。人麻呂の作品の音樂的な性格を語るものである。
【參考】類句、絶ゆることなくまたかへり見む。
  み吉野の秋津の川の萬代に絶ゆることなくまたかへり見む(卷六、九一一)
  卷向《まきむく》の病足《あなし》の川ゆ往く水の絶ゆることなくまたかへり見む(卷九、一一〇〇)
(188)  皀莢《かはらふぢ》に延ひおほどれる糞葛《くそかづら》絶ゆることなく宮仕せむ(卷十六、三八五五)
  ものゝふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつゝ見む(卷十八、四一〇〇)
 
38 やすみしし わが大王、
 神《かむ》ながら 神さびせすと、
 芳野川 激《たぎ》つ河内《かふち》に
 高殿を 高知りまして、
 登り立ち 國兄を爲《せ》せば、
 疊《たたな》はる 青垣山、
 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつき》と
 春べは 花かざし持ち、
 秋立ては 黄葉《もみち》かざせり。【一はいふ、もみち葉かざし。】
 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川の神も、
 大御食《おほみけ》に 仕へ奉《まつ》ると、
 上《かみ》つ瀬に 鵜川を立ち、
 下《しも》つ瀬に 小網《さで》さし渡す。」
 山川も 寄りて奉《まつ》れる
 神の御代かも。」
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 吉野川《ヨシノガハ》 多藝津河内尓《タギツカフチニ》
 高殿乎《タカドノヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 上立《ノボリタチ》 國見乎爲勢婆《クニミヲセセバ》
 疊有《タタナハル》 青垣山《アヲカキヤマ》
 山神乃《ヤマツミノ》 奉御調等《マツルミツキト》
 春部者《ハルベハ》 花插頭持《ハナカザシモチ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》【一云 黄葉如射之】
 逝副《ユキソフ》 川之神母《カハノカミモ》
 大御食尓《オホミケニ》 仕奉等《ツカヘマツルト》
 上瀬尓《カミツセニ》 鵜川乎立《ウカハヲタチ》
 下瀬尓《シモツセニ》 小網刺渡《サデサシワタス》
 山川母《ヤマカハモ》 依?奉流《ヨリテマツレル》
 神乃御代鴨《カミノミヨカモ》
 
(189)【譯】わが大君は、神であるままに、貴い行動をされると、芳野川の激流の峽谷に、高殿を高くお立てになつて、それに登り立ち國見を遊ばされると、疊まつている青い垣の山は、その山の神の奉る貢として、春の頃は花を插頭にし、秋が來れは、紅葉を插頭にしている。添つている吉野川の神も、御食膳にお仕え申し上げようと、上の方の瀬では鵜飼をし、下の方の瀬では、小網をさし渡して魚を取つております。山や川も寄り來つて、お仕え申し上げる神の御代であります。
【構成】第一段、下ツ瀬ニ小網サシ渡スまで。天皇が吉野の離宮の高閣に上つて御覽になれば山川の景勝はかくの如しと敍している。以下第二段、第一段の事實に基づいて作者の感想を述べる。この二段構成の樣式は前の長歌と同じである。
【釋】安見知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。この歌では持統天皇をさす。
 神長柄 カムナガラ。假字書きの例に、「可武奈可良《カムナガラ》 可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一三)などあり、表意文字としては、「神隨《カムナガラ》」(卷一、五〇等)、「神在隨《カムナガラ》」(卷十三、三二五三)とも書いている。日本書紀孝コ天皇紀には、惟神とあり、また隨在天神ともある、その惟神、隨在天神をもカムナガラと讀んでいる。この語と同一の意味を有すと考えられる語にカムカラがあつて、「神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》」(卷二、二二〇)、「見禮等母安可受《ミレドモアカズ》 加武賀良奈良之《カムカラナラシ》(卷十七、四〇〇一)など使用されている。また「蜻島《アキツシマ》 倭之國者《ヤマトノクニハ》 神柄跡《カムカラト》 言擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》(卷十三、三二五〇)に對して、別傳として擧げられた人麻呂歌集の歌には「葦原《アシハラノ》 水穗國者《ミヅホノクニハ》 神在隨《カムナガラ》 事擧不v爲國《コトアゲセヌクニ》」(卷十三、三二五三)とある。この神カラは、國カラ、山カラ、川カラ、オノヅカラ等と同樣の語構成を有するものと見られ、そのカラは、故の義であると考えられる。これに準じて、カムナガラのカラも故の義と見るべく、ナは接續の助詞と解すべきである。かくて「皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》」(卷二、一九九)、「山隨《ヤマナガラ》 如v此毛現《カクモウツシク》 海隨《ウミナガラ》 然眞有目《シカマコトナラメ》」(卷十三、三三三二)の皇子隨、山隨、海隨の隨もナガラとして、同樣の語と見るべ(190)く、その他の動詞に附くナガラも、同樣に考えられる。ここにおいて、「諾己曾《ウベシコソ》 吾大王者《ワガオホキミハ》 君之隨《キミナガラ》 所v聞賜而《キコシタマヒテ》(卷六、一〇五〇)の君之隨の如きも、君ナガラと讀んで、この類の語構成を有するものと考えられる。そしで神ナガラの語は、神の故、神の故に、神にましますが故に、神意のままに等の内容を有することが知られる。ここは、神にましますがままにと解すべく、神の思想の轉化して來たことを見るべきである。この句は、久の句の副詞句となつている。
 神佐備世須登 カムサビセスト。カムサビは、假字書きの例には」「可武佐備伊麻須《カムサビイマス》」(卷五、八一一、「可牟佐飛仁家理《カムサビニリ》」(同、八六七)などある。上二段動詞の名詞形。このサビは、體言についてその性質を發揮するをいう時に使用される。孃子《をとめ》サビ、男サビ、丈夫《ますらを》サビ、良人《うまびと》サピ、翁サビ等の用例がある。神サビは、神異である性質を發揮するをいう。普通でない行爲をすること。「乎止米止毛《ヲトメドモ》 乎止米佐比須止《ヲトメサビスト》 可良多萬乎《カラタマヲ》 多毛止爾萬伎弖《タモトニマキテ》 乎止女佐比須毛《ヲトメサビスモ》」(琴歌譜)、「麻周羅遠乃《マスラヲノ》 遠刀古佐備周等《ヲトコサビスト》 都流伎多智《ツルギタチ》 許志爾刀利波枳《コシニトリハキ》」(卷五、八〇四)のヲトメサビ、ヲトコサビなどについてその用法を知るべきである。セスは、神サビを受けて、それをすることをいう。動詞爲に、敬語の助動詞スの接績したもので、その終止形。この語は、セサ、セシ、セス、セセと活用するが、セス以外は用例が極めてすくない。セサの例、「安左乎良乎《アサヲラヲ》 達家爾布須左爾《ヲケニフスサニ》 宇麻受登毛《《ウマズトモ》 安須伎西佐米也《アスキセサメヤ》 伊射西乎騰許爾《イザセオヲトコニ》」(卷十四、三四八四)この第三四句は、「績《う》ますとも明日著せさめや」である。セシの例、「伊許藝都追《イコギツツ》 國看之勢志?《クニミシセシテ》」(卷十九、四二五四)、セスの例、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》(卷一、四五)、「草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》 古昔念而《イニシヘオモヒテ》(同)、セセの例は、この歌の、「國見乎爲勢婆」がそれである。神サビセストのトは、とて、としての意。下の離宮を御造營になり、上り立つて國見をされることの理由を説明している。
 多藝津河内尓 タギツカフチニ。タギツは、「瀧乃河内」(卷六、九一〇)ともいうよりして、タギを名詞、(191)ツを接續の助詞と見られる。また、「明日香川《アスカガハ》 春雨零而《ハルサメフリテ》 瀧津湍音乎《タギツセノトヲ》」(卷十、一八七八)、「雨零者《アメフレバ》 湍都山川《タギツヤマカハ》 於v石觸《イハニフレ》」(同、二三〇八)の如き用例があつて、これらのタギツは動詞と見るべきであるから、タギツ河内のタギツも動詞と見ることもできる。ここは水の激流する意に、タギを體言と見るべきだろう。河内は既出。この句は、離宮御造營の場處を指元している。
 高殿乎 タカドノヲ。タカドノは高閣をいう。日本靈異記の訓釋に、「楼閣、多加度野」、倭名類聚鈔に、「樓、太賀度能」とある。
 高知座而 タカシリマシテ。高殿ヲを受けて、高知リマシテという。空に高き宮殿を高く御占據遊ばされて。高は知る有樣の高大なのをいう。シルは、領知する、占有する。以上二句、離宮を壯大に御造營あらせられての意である。
 上立 ノボリタチ。その高殿に上り立つてである。舒明天皇の香具山の國見の御製の歌にあつた句。
 國見乎爲勢婆 クニミヲセセバ。
   ――――――――――
   國見乎爲波《クニミヲスレバ》(西)
   國見乎爲波《クニミヲセレバ》(?)
   國見之爲波《クニミシセレバ》(墨)
   國見勢爲波《クニミセスレバ》(古義)
 クニミは既出。高處において、國土の風景を觀望すること。セセバは、動詞爲の敬語法、爲スの已然形に、助詞バが附いたものである。原文、もと國見乎爲波とあつて、これをクニミヲスレバと讀んでいたのであるが、然る時は敬意を失して、天皇の行動を敍するにふさわしくない。作者の行動とする時は、高殿ヲ高知リマシテと天皇の事に敍して來た上の句を受けて、中途で唐突に主格が變ることになつて不都合である。古寫本を見る(192)と、冷泉本に爲の下に勢がある。元暦校本には爲の下に、※[(生+丸)/云]がある。この字は藝と勢との中間の字である。類聚古集等には、爲の下に藝がある。藝では訓法に困るから、冷泉本によることとした。元暦校本の字も、勢の誤りとも見られよう。セセバは他に用例は無いが、あるべき語法である。國見をなされれば。以下その國見の結果について述べる。
 疊有 タタナハル。古事記中卷に「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」とあり、本集にも、タタナヅクの例がある。ここに疊有とあり、古くタタナハルと讀んでいたが、古くは他にこの語の用例が無いとて、諸説に疊著の誤として、タタナヅクと讀ませた。しかし中世には髪の重なつているのをタタナハルといい、類聚名義抄には委をタダナハルと訓み、その委は積る意であるから、ここももとのままにタタナハルと讀むべきものであろう。疊の動詞は、後にはタタムとマ行に活用するが、「君我由久《キミガユク》 道乃奈我?乎《ミチノナガテヲ》 久里多多禰《クリタタネ》」(卷十五、三七二四)の例もあつて、古くはナ行に活用したもののようである。古くナ行に活用した動詞が、後にマ行に變わつた例は他にもある。語の意味は、疊まり重なつている意で、ここでは山岳の重疊をいう。なおタタナハルは、中世の物語の類には、多く見えている。「御ぐし、たたなはれたるいとめでたし」(宇津保物語、藏開上)、「みづら、かたはらにたゝなはりまるがし、かきいでたまへれば」(濱松中納言)、「髪のうちたたなはりて、ゆらゝかなる」(枕草子)。
 青垣山 アヲカキヤマ。青い墻壁をなしている山。古事記中卷に、「多々那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》」、播磨國風土記に「倭者青垣、々山投坐、市邊之天皇」の用例があり、青垣のみで、山の意を成すものである。この句、下の文に對して主格を成している。
 山神乃 ヤマツミノ。古事記上卷に、山の神、名は大山津見の神というとある。山の神靈の謂である。ツミは、海神をワタツミという。そのツミに同じ。
(193) 奉御調等 マツルミツキト。マツルは、奉獻の意。假字書きの例に、「萬調《ヨロヅツキ》 麻都流都可佐等《マツルツカサト》」(卷十八、四一二二)などある。ミツキは、人民より土宜を獻ずるをいう。ミは接頭語、穀物以外の國土の産物を貢するを調という。トはトシテの意。ここは山に花黄葉の飾れるを、山の神靈の奉る御調であると見立てたのである。
 春部者 ハルベハ。ベは方の義、ほど、頃。春の頃は。「春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミヂバカザシ》」(卷二、一九六)などの用例がある。
 花插頭持 ハナカザシモチ。カザシは髪插の義。その動詞としての用法である。花を頭插として持ち。古代、時の花を頭插にする風習があり、これを頭插といい、本集にもその用例が多い。春の山に花が咲くのを、擬人法により、山の神靈が花を頭插にすると敍している。これが山の神の御調であるとするのである。
 秋立者 アキタテバ。タテは、出發する意の動詞タツの已然形。タツは起つ、發するの意で、その事の始り、進行につくをいう。行路に臨むをミチダチ、海路に上るをフナダチなどという。そのタチもこれである。春立ツ、秋立ツというは、その義から出て、春になる、秋になるの意になる。
 黄葉頭刺理 モミチカザセリ。モミチ、既出。カザセリは、上にいう動詞カザスに助動詞リの接續したもの。句意は上の花插頭特に準じて知るべきである。上の春ベハ花カザシ持チに對して、この二句は對句を成している。前の山神の奉る御調としての句を對句に受けている。
 一云黄葉加射之 アルハイフ、モミチバカザシ。本文の黄葉頭刺理の別傳で、これは、中止形になつている。モミチバの假字書きには、「毛美知婆能《モミチバノ》 知良布山邊由《チラフヤマベユ》」(卷十五、三七〇四)、「毛美知婆波《モミチバハ》 伊麻波宇都呂布《イマハウツロフ》」(同、三七二二)があり、また毛美知葉とも書いている(卷十五、三六九三、三七〇〇)のを見ると、モミチは單に、黄變するにいう語と思われる。なおいずれも知を使つているのによれは、もと清音であつたと見られる。
(194) 逝副川之神母 ユキソフカハノカミモ。この句、從來遊副川乃神母とあつて、諸説のあつたところである。吉野山中にユフ川という川があるともいわれていた。しかし元暦校本には、遊を逝に作つているから、これによつて、改むべきである。宮殿の前を流れる吉野川を、逝キ副フ川といつている。その川の神も云々と、上の山神云々と、對している。川の神は川の神靈をいう。
 大御食尓 オホミケニ。ケは食物。オホミはその美稱。オホミも元來形容詞から出た動詞の古い連體形であろう。假字書きの例に「於保美氣爾《オホミケニ》 都加倍麻都流等《ツカヘマツルト》」(卷二十、四三六〇)がある。
 仕奉等 ツカヘマツルト。奉仕するとして。川の神の奉仕をいう。語例は前項に擧げてある。
 上瀬尓 カミツセニ。上流の方の瀬に。瀬は水の淺く騷いで流れるところ。
 鵜川乎立 ウカハヲタチ。鵜を使用して魚を漁するを鵜川という。後の鵜飼に同じ。タチは、鵜川を催すをいう。「字奈比河波《ウナヒカハ》 伎欲吉勢其等爾《キヨキセゴトニ》 宇加波多知《ウカハタチ》」(卷十七、三九九一)、「夜蘇登毛乃乎波《ヤソトモノヲハ》 宇加波多知家里《ウカハタチケリ》(同、四〇二三)、「和我勢故波《ワガセコハ》 宇可波多多佐禰《ウカハタタサネ》」(卷十九、四一九〇)などの用語例があつて、この場合のタツが四段活であることが知られる。この立ツは他動詞で、ここに鵜川を催して行う意味が確められる。
 下瀬尓 シモツセニ。下流の方の瀬に。
 小網刺渡 サデサシワタス。サデは小さい網。倭名類聚鈔に「文選注云、?【所買反、師説佐天】網如2箕形1、狹v後廣v前者也」とあり、本集にも「左手蝿師子之《サデハヘシコノ》 夢二四所v見《イメニシミユル》」(卷四、六六二)、「三川之《ミツカハノ》 淵瀬物不v落《フチセモオチズ》 左提刺爾《サデサスニ》 衣手潮《コロモデヌレヌ》 干兒波無爾《ホスコハナシニ》」(卷九、一七一七)などある。今も方言に殘つている語。サシは小網を河中にさし入れる行動。ワタスは、小網をして河を渡らせる義。サシワタスで小網を川に入れて漁獵をする意となる。ここにて段落となる。上ツ瀬ニ鵜川ヲ立チの句に對して、下ツ瀬ニ小網サシ渡スと對句になつている。勿論、上流や下流で、あるいは鵜川を行い、あるいは小網を渡しているということを對句表現に依つて分かつて言つたまで(195)である。ただ文章上の技術でかようにいう。上流でも下流でも、漁獵をしているのである。鵜川を立ち、小網さし渡すは、もとより人のすることであるのを、それが川の神の勤仕であると説いたのは、川の神が人をして漁獵せしめ、魚を得しめる意であつて、すべて神意に出でたものと解するのである。以上第一段、事實を敍述している。
 山川母 ヤマカハモ。山も川もで、第一段の山の神と川の神との行爲に關する敍述を受けて總括している。
 依?奉流 ヨリテマツレル。ヨリテタテマツル(元赭)、ヨリテマツレル(元赭)、ヨリテマツル(神)、ヨリテツカフル(西)、ヨリテツカヘル(考)。山の神も川の神も寄り來つて獻上物をする義。ヤツレルは、上の奉ル御調トのマツルに同じで、獻つているの意である。從來ツカフルと讀んでいるが、奉をツカフと讀むべき例が他に無い。また一首のうち、同一の字を別樣に讀むことは、なるべく避けた方がよい。
 神乃御代鴨 カミノミヨカモ。この御代は、あたかも神の御代の如きであると感嘆して文を終つている。カモは感動の助詞。天皇の御代は、神の御代では無い。しかるに帝コの宏大なことは、さながら神の御代のようであるというのを、文章上、譬喩表現を超越して、何は何なりというあらわし方をした。
【評語】この歌は、吉野の宮の勝景に筆を借りて、帝コの宏大なことを敍している。對句を重ね用い、堂々として敍述して來るところ、いかにも力強いところがある。ただ、春部ハ、秋立テバと、春秋を對句に用いて、作者現在の季節をあきらかにすることを逸している。頌コの賦として、名篇の一たるには違いはないが、やはり國民を代表して歌つているような、類型的のところがある。しかも凡小の作品に比して、山の神や川の神も寄つて奉仕するという規模の大きいところに、人麻呂の特色が認められる。
 
反歌
 
(196)39 山川も 寄りて奉《まつ》れる 神《かむ》ながら
 たぎつ河内《かふち》に 船出《ふなで》せすかも。 
 
 山川毛《ヤマカハモ》 因而奉流《ヨリテマツレル》 神長柄《カムナガラ》
 多藝津河内尓《タギツカフチニ》 船出《フナデ》爲《セス・スル》加母《カモ》
 
【譯】山の神も川の神も、慕い寄つて奉仕をする、神にましますがままに、激流の河中に船出をなされることであるなあ。
【釋】山川毛因而奉流 ヤマカハモヨリテマツレル。前の歌の末を受けている。山の神も川の神も寄り來つて奉仕する神ながらと、連體法で續くところである。
 神長柄 カムナガラ。長歌にある句。神にましますが故に。
 多藝津河内尓 タギツカフチニ。この句も長歌にある句。ここは狹く川中にの義に使つているが、やはり高殿に立つて御覽になるその視野の中にあることを敍している。
 船出爲加母 フナデセスカモ。フナテセムカモ(元)、フナテスルカモ(元朱)、フナテセシカモ(神)、フナデセスカモ(考)。前の三六の長歌に、モモシキノ大宮人は船竝メテ朝川渡リ舟競ヒ夕川渡ルの文意が、ここに出ていて、宮殿にお仕えする人たちが、神意を受けて、激流ではあるが船出をすると感歎したとも見られる。しかし船出セスカモと、敬意を含めて讀み、天皇の御行動とする説の方がよいようである。神ナガラは、天皇の性質をいう句であるから、それを受けては、天皇の行動とするのがもつともである。船出スルカモの訓でも、天皇の行動と解することもできる。
【評語】この反歌も、長歌の末を受けて歌つている。長歌には山川の奉仕を説き、それを受けて川中に船を浮べられることを説いて、全體の構想を完成している。高殿から御覽になつた吉野を中心としての大觀は、ここに至つて中心點をその中の一點に移した。長歌の概念的なのに比して描寫であるのが、長歌の缺陷を補つて(197)いる。
 
右日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸2吉野宮1、八月、幸2吉野宮1、四年庚寅二月、幸2吉野宮1、五月、幸2吉野宮1、五年辛卯正月、幸2吉野宮1、四月、幸2吉野宮1者、未2詳知1何月從駕作歌。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野の宮に幸《い》でましたまひき。八月、吉野の宮に幸でましたまひき。四年庚寅の二月、吉野の宮に幸でましたまひき。五月、吉野の宮に幸でましたまひき。五年辛卯の正月、吉野の宮に幸でましたまひき。四月、吉野の宮に幸でましたまひきといへれば、いまだ詳に知らず、いづれの月|從駕《おほみとも》にして作れる歌なるかを。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホヌギニイハク。以下日本書紀によつて、持統天皇の吉野の宮への行幸の數次にわたることを記し、この歌の作がそのいずれの度であるかを知らない旨を述べている。但し日本書紀によれば天皇の行幸は三十餘度に上つており、ここにはその一端を擧げたに過ぎない。
 
 者 トイヘレバ。テヘレバと讀む説があるが、古語でないことは、既に記した。
 從駕 オホミトモニシテ。駕は車駕の義。直接に天皇をいうを憚つて、その車乘をいうのである。唐制、天子の行を駕というとある。
 
幸2于伊勢國1時、留v京、柿本朝臣人麻呂作歌
 
伊勢の國に幸《い》でましし時、京に留まりて、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】幸于伊勢國時 イセノクニニイデマシシトキ。持統天皇の六年三月六日、天皇伊勢に幸し、二十日還御(198)された。この時、人麻呂の妻は、天皇に隨從して伊勢に赴き、人麻呂は京に留まり、行幸の地を思いやつてこの歌を詠んだと推考される。三首連作として解すべきである。なおこの伊勢の國に幸でましし時の句は、下の石上の大臣の歌にまで係かるのである。
 
40 嗚呼見《あみ》の浦《うら》に 船乘《ふなのり》すらむ
 孃子《をとめ》らが
 殊裳《たまも》の裾に 潮滿つらむか。
 
 嗚呼見乃浦尓《アミノウラニ》 船乘爲良武《フナノリスラム》
 ※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》
 殊裳乃須十二《タマモノスソニ》 四寶三都良武香《シホミツラムカ》
 
【釋】嗚呼見《あみ》の浦に、船に乘つているであろう孃子の、美しい裳の裾には、今ごろは潮が滿ちているであろうか。
【評】嗚呼見乃浦尓 アミノウラニ。この歌を卷の十五に載せたのには、初句を、「安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》」とし、左註に「柿本朝臣人麻呂歌曰安美能宇良」云々と記している。アゴは志摩の國の安虞であつて、嗚呼見とあるは、嗚呼兒の誤であろうという説がある。見と兒とはいかにも似た字であるから、或るいは誤る事もあり得よう。しかしアゴが正しいにしても、卷の十五の左註にもアミとあるから、この卷の一のは、古くからアミとなつていたものであろうという萬葉集講義の説に從つて、もとのままにしておく。熟田津ニ船乘セムト(卷一、八)の例の如く、嗚呼見の浦にと船乘していると思われる地點を指示している。
 船乘爲良武 フナノリスラム。船乘は既出。航海しようとして乘船すること。スは動詞爲。ラムは推量の助動詞の連體形で、第三句に續く。船乘をしているであろうの意。
 ※[女+感]嬬等之 ヲトメラガ。※[女+感]嬬の字は集中に多い。※[女+感]の字は字書に無く、萬葉集攷證に、感嬬と書くべきを、連字偏傍を増す習いによつて感にも女偏をつけたのであると云つている。すべて三音に相當する處に用いてあ(199)るので、ヲトメと讀むことが妥當と考えられる。卷の十五の別傳にも乎等女とあり、これについては別に左註を加えていないこともこの訓を證するに足りる。用例には、「※[女+感]嬬等之《ヲトメラガ》 珠篋有《タマクシゲナル》 玉櫛乃《タマクシノ》」(卷四、五二二)、「桃花《モモノハナ》 下照道爾《シタテルミチニ》 出立※[女+感]嬬《イデタツヲトメ》」(卷十九、四一三九)などある。等の字は、ただ一つのみにあらざることを表示する文字であつて、國語に訓讀するに當つては、ラ、タチ、ドモなどが當てられる。この歌の場合は、卷の十五の別傳に照らしてラと讀むべきことが推考される。ラは、助詞として他の助詞に接續して使用されるものと、接尾語として體言に接續して使用されるものがあるが、今の場合は、その後者である。その接續する體言は多種であるが、その中にはただ一個のみであることの確實なるものも存する。「今日良毛加《ケフラモカ》 鹿乃伏良武《シカノフスヲム》」(卷十六、三八八四)、「此夜等者《コノヨラハ》 沙夜深去良之《サヨフケヌラシ》」(卷十、二二二四)の如き、今日、此夜はただ一個のみの存在であるのに、接尾語ラがつけられている。人倫につけられる場合も同樣であつて、唯一人の場合でも、妹ラ、子ラ、妻ラなどいう。「見渡爾《ミワタシニ》 妹等者立志《モラハタタシ》 是方爾《コノカタニ》 吾者立而《ワレハタチテ》」(卷十三、三二九九)、「奈用竹乃《ナヨクケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》」(卷二、二一七)これらの妹ラ、子ラは唯一人の存在であることのあきらかなものである。ヲトメラの場合にあつては、少女一般をさすものと、特定の少女をさす場合とがあるが、複數に相違無いものは、かえつて見出されない。この歌の場合は、作者が行幸に供奉した※[女+感]嬬の一群を思つているか、または特定の人を思つているかが問題となるが、第三首に至つて妹の語を使用しているのによれは、それと關係あるものと見て、※[女+感]嬬のうちの或る一人を思つていると見るべきである。しかしそれを表示するにヲトメの語を使用したのは、客觀的な云い(200)方であつて、思つている人の特性をこれによつて表示しようとしたのである。それに意味の無い接尾語としてラが添加されたものであつて、これによつて、行幸に供奉した※[女+感]嬬たちの多數を想像するのは誤りである。大野ラ、夜ラなどの語によつて、ラの用法をよく見て置くことを要する。
 珠裳乃須十二 タマモノスソニ。裳は、腰部につける衣服である。珠はこれの美しきをほめていう。裾は衣類の下部をいう。
 四寶三都良武香 シホミツラムカ。潮が滿ちているであろうか。潮が滿ちて裳裾を濡らすであろうかというのである。
【評語】京にあつて、行幸にお供をした女官の有樣を想像して詠んでいる。二つのラムを取り除けば、かなりはつきりした描寫となるのは、作者が海邊の旅行を體驗していることを語る。婦人の衣服の下部が海水に濡れるをいうは、多少感覺的な氣もちがあろう。卷の十五の別傳は天平八年の遣新羅使の一行が、船中でこの歌を吟唱したのを傳えたものであるが、特に第四句を、赤裳の裾にしたのは、一層この感が強い。
【參考】別傳。
 安胡乃宇良爾《アゴノウラニ》 フナノリスラムヲトメラガアカモノスソニシホミツラムカ
    柿本朝臣人麻呂歌曰 安美能宇良《アミノウラ》 又曰 多麻母能須蘇爾《タマモノスソニ》(卷十五、三六一〇)
 
41 釧《くしろ》著《つ》く 手節《たふし》の埼《さき》に、
 今日もかも 大宮人の
 玉藻刈るらむ。
 
 釼著《クシロツク》 手節乃埼二《タフシノサキニ》
 今日毛可母《ケフモカモ》  大宮人之《オホミヤビトノ》
 玉藻苅良武《タマモカルラム》
 
【譯】志摩の國の手節の埼に、今日は、大宮人が、玉藻を刈つているだろうか。
(201)【釋】釼著 クシロツク。
   タチハキノ(西)
   クシロツク(美)
   ――――――――――
   釧著《クシロツク》(僻)
   鐶著《タマキツク》(僻)
   釵卷《クシロマク》(古義)
 釼は釧の異體字である。わが國の古書、多くこの字をクシロに使用している。これは元來釵の異體字であつて、これをクシロに通用したものらしい。古く出土品に銅や石の釧があり、古語に「佐久久斯呂伊須受能宮《サククシロイスズノミヤ》」(古事記上卷)あり、また同書に「女鳥王所v纏2御手1之玉釧」があつて、古く釧の使用されたことが知られる。本集には、「吾妹兒者《ワギモコハ》 久志呂爾有奈武《クシロニアラナム》 左手乃《ヒダリテノ》 吾奧手爾《ワガオクノテニ》 纏而去麻師乎《マキテイナマシヲ》」(卷九、一七六六)、「玉釼《タマクシロ》 卷宿妹《マキネシイモモ》」(卷十二、二八六五)がある。ここに釧を手につけるということから手節の埼のタの枕詞として使用されている。しかしそれは全然歌の内容と關係のないものではなくして、歌中に描寫されている大宮人の装身具として釧が取りあげられたのである。釧をつけることは、わが國の古風俗であつたであろうが、當時大陸風俗の影響を受けて、宮廷奉仕の女官たちが、釧をつけていたのであろう。作者は、その思う大宮人の一人を、この句によつて描寫し、かつこれを利用して枕詞としたものである。
 手節乃埼二 タフシノサキニ。タフシは今、答志の字を當てている。ここには釧著クの句を受けて手節の字を使つている。答志は島であつて、その岬角を想像している。
 今日毛可母 ケフモカモ。今日シモというが如く、モを強意に使用している。カモは疑問の係助詞で、五句の玉藻刈ルラムに懸かつている。分解すれば、カは疑問、モは感動で、カだけでも使用される。
 大宮人之 オホミヤビトノ。大宮人、既出。男子をも女子をもいい、此處は前の歌の※[女+感]嬬を、別の方面から描いている。「黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも」(卷七、一二一八)など、女子について、(202)大宮人という例である。この句は、次の句に對して主格を成している。
 玉藻苅良武 タマモカルラム。玉藻刈ルは既出。海藻を刈ることは、海人の女子の業とされているので、海人の業をする意味に、その代表作業として擧げている。大宮人が海人などのわざをしているであろうというのである。ラムは、推量の助動詞。
【評語】行幸に御供した大宮人の一人を想像している。その人は釧をつけた新風装の佳人であり、その人の海に遊ぶ?態を玉藻刈ルラムと推量している。美しい想像を描いている歌として見るべきものがある。
 
42 潮騷《しほさゐ》に 伊良處《いらご》の島邊《しまべ》 榜《こ》ぐ船に
 妹乘るらむか。
 荒き島廻《しまみ》を。
 
 潮左爲二《シホサヰニ》 五十等兒乃島邊《イラゴノシマベ》 榜船荷《コグフネニ》
 妹乘良六鹿《イモノルラムカ》
 荒島廻乎《アラキシマミヲ》
 
【譯】潮が騷ぐのに、伊良處の島邊を榜ぐ船に、わが思う人も乘つているであろうか。荒い島であるものを。
【釋】潮左爲二 シホサヰニ。シホサヰは、海水の立ち騷いでいるもの。潮流の衝突、または暗礁等があつて、ざわざわしているをいう。その潮の騷いでいる處にの意。「牛窓之《ウシマドノ》 浪乃鹽左猪《ナミノシホサヰ》 島響《シマトヨミ》」(卷十一、二七三一)。
 五十等兒乃島邊 イラゴノシマベ。伊良處の島、既出。五十を古語にイという。「五十日太《イカダ》」(筏、卷一、五〇)など、イの假字に多く用いられている。シマベは島のほとり。次の句の榜ぐ船の場所を指示している。
 榜船荷 コグフネニ。榜は、字書に進v船也とあり、動詞に使つて、船を漕ぎ進めるをいう。次句の乘ルを修飾する句。
 妹乘良六鹿 イモノルラムカ。イモは、女子に對する愛稱。一般の女子に對して妹の語を使用する例もあるが、多く對稱として使用し、獨語性の歌語にても、或る特定の一人をさしていうものが多い。ここも人麻呂の(203)想つている或一人をさしていると見るべきである。ラムカは、推量してこれを疑つている。
 荒島廻乎 アラキシマミヲ。ミは接尾語で、地文上の名辭に接續して、浦ミ、磯ミ、道ノ隈ミなどとなる。このミは、それらの地が灣曲せる地形であることをあらわす。その曲つた處の意ではなくして、それが曲つている性質のものであることを示すのである。これらのミをあらわすにしばしば使用される廻は、流布本には多く回に作つているが、古寫本ではすべて廻である。ヲは感動の助詞であるが、荒い島であるよ、それだのにの意を含むものとして解せられる。
【評語】第一首に※[女+感]嬬ラといい、第二首に大宮人と云つていたものが、ここに至つて、はつきり妹と稱している。わが愛人が荒海に舟を出しているであろうかと心もとなく思つているのである。三首を併せてその内容を觀るべきである。この愛人は、持統天皇に仕えた女官で、人麻呂の妻となつたが、人麻呂に先んじて死んだ人と考えられる。三首ともラムとカとを使用しており、推量と疑問の内容であるが、その想像が具體的であるのは、人については作者のよく親しんでいる人であり、地については作者の曾遊の地であることを思わしめる。
 美しい想像の歌として味わうべきである。日本書紀によれば、天皇歸京の後、挾杪《かじとり》(舟こぐ人)八人に、今年の調役を免したとあつて、天皇が行幸先で乘船されたことを示しており、そのような豫定がなされていたのだろう。
 
當麻眞人麻呂妻作歌
 
當麻の眞人麻呂が妻の作れる歌
 
【釋】當麻眞人麻呂 タギマノマヒトマロ。傳未詳。この歌は、卷の四にも出て、その題詞には、「幸2伊勢國1時當麻麻呂大夫妻作歌一首」(卷四、五一一)とある。當麻氏は、用明天皇の皇子麻呂子の王の子孫で、初(204)め公の姓であつたが、天武天皇の十三年に眞人の姓を賜わつた。ここには幸伊勢國時とは無いが、これは上の柿本の人麻呂の歌の題詞にあるのを受けているのである。その行幸に際して、當麻の麻呂は供奉し、妻は京に留まつてこの歌を詠んだのである。
 
43 わが夫子《せこ》は 何處《いづく》行《ゆ》くらむ。
 沖《おき》つ藻の 名張《なばり》の山を
 今日か越ゆらむ。
 
 吾勢枯波《ワガセコハ》 何所行良武《イヅクユクラム》
 巳津物《オキツモノ》 隱乃山乎《ナバリノヤマヲ》
 今日香越等六《ケフカコユラム》
 
【譯】わが夫の君は、何處を旅行しているでしょう。あの伊賀の國の名張の山を今日越えていることでしょうか。
【釋】吾勢枯波 ワガセコハ。ワガセコ、既出。次の句に對して主格をなしている。
 何所行良武 イヅクユクラム。今、何處を旅行しているのだろうと推量している。ここにて段落。
 巳津物 オキツモノ。巳の字は起の通用字として、その訓オキを取つて假字としている。沖の藻のの意で、沖の海藻が海水に隱れるというより、隱れるの古語ナバリと同音のナバリの枕詞となつている。
 隱乃山乎 ナバリノヤマヲ。ナバリは、伊賀の國の地名。普通に名張の字を當てるが、沖ツ藻ノの枕詞を冠している關係から、ここには隱の字を使用している。古語に、隱れることをナバルという。ナバルの語は、ヨナバリの地名を、吉隱とも書いており、また「忍照八《オシテルヤ》 難波乃小江爾《ナニハノヲエニ》 廬作《イホツクリ》 難麻理弖居《ナマリテヲル》 葦河爾乎《アシカニヲ》」(卷十六、三八八六)のナマリテも、ナバリテに同じく、隱れての義である。その名張の山は、大和と伊勢との通路に當る。
 今日香越等六 ケフカコユラム。今日か越えているならむと推量している。
(205)【評語】この歌、自問自答の形を採つて、旅に出ている夫の行動をかようにもあろうかと推量する心を描いている。その往路か歸路かは、詞句の上に出ていないが、これは勿論歸途の時分で、今日あたりは名張の山を越えて大和へ近づいているだろうかと待ちかねる心を詠んでいるのである。二句と五句とはラムを用いて、韻のようになつているのは、二句と五句とに同句を用いる古體から出發したものである。
【參考】別傳
   幸2伊勢國1時、當麻麻呂大夫妻作歌一首
  吾背子者《ワガセコハ》 何處將v行《イヅクユクラム》 巳津物《オキツモノ》 隱之山乎《ナバリノヤマヲ》 今日歟超良武《ケフカコユラム》(卷四、五一一)
 
石上大臣、從駕作歌
 
石上の大臣の從駕にして作れる歌
 
【釋】石上大臣 イソノカミノオホマヘツギミ。石上氏は饒速日の命の子孫、物部氏の支族で、天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜わつて物部の朝臣といい、その後、石上氏に改めたものである。持統天皇の行幸に從つたのは、石上の麻呂なるべく、麻呂は慶雲元年に右大臣、和銅元年に左大臣となつたので、前に廻らして大臣と書いたのであろう。養老元年(四一七)三月三日薨じた。
 從駕 オホミトモニシテ。既出。
 
44 吾妹子《わぎもこ》を 去來見《いざみ》の山を 高みかも、
 大和の見えぬ。
 國遠みかも。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 去來見乃山乎《イザミノヤマヲ》 高三香裳《タカミカモ》
 日本能不v所v見《ヤマトノミエヌ》
 國遠見可聞《クニトホミカモ》
 
(206)【譯】わが妻を、さあ見たいと思うが、國境の去來見の山が高い故か、大和が見えない。はたまた國が遠い故なのだろうか。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。ワガイモコを約してワギモコという。ワガセコが男子に對する敬愛の呼稱であるのに對して、これは女子に對する敬愛の呼稱である。吾妹子をさあ見ようという意にイザミに冠している。枕詞ではあるが、一首の内容に深い關係のある詞である。
 去來見乃山乎 イザミノヤマヲ。山の名と、いざ見とを懸け詞にしている。この山は、宮内黙藏先生の伊勢名勝志に、大和と伊勢とのあいだの高見山の一名としている。
 高三香裳 タカミカモ。山を高みかも大和の見えぬという文脈で、山が高い故か、故郷が見えないの意。カモは疑問の係助詞で、下の大和の見えぬに懸かつている。
 日本能不所見 ヤマトノミエヌ。日本の字を使つているが、大和の國である。日本の字を使うようになつたのは、大陸との交通が行われて、國書に使つたのが初めであろう。上のカを受けて、ヌは打消の助動詞の連體形で止めている。ここで段落である。
 國遠見可聞 クニトホミカモ。山ヲ高ミを受けて、いな國ヲ遠ミカと顧みて云つたのである。このカモは疑問の係助詞であるが、この形のままでも文を終結することができる。「春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなく。いと若みかも」(卷四、七八六)、「ほととぎす鳴く音はるけし。里遠みかも」(卷十七、三九八八)などある。何々の故であるかの意であるが、下に受ける語を備えていないものである。
【評語】山を高みか、國を遠みかと、幼く疑つている點に興味がある。小高い處に立ち登つて故郷の方を見たことでもあろうか。
【參考】類型。
(207) 河の瀬のたぎつを見れば玉もかも散り亂れたる。川の常かも(卷九、一六八五)
 玉藻刈る井手のしがらみ薄みかも戀のよどめる。わが心かも(卷十一、二七二一)
 
右日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以2淨廣肆廣瀬王等1、爲2留守官1。於v是、中納言三輪朝臣高市麻呂、脱2其冠位フ2上於朝1、重諌曰、農作之前、車駕未v可2以動1。辛未、天皇不v從v諫、遂幸2伊勢1。五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の曰、淨廣肆廣瀬の王等を留守の官としき。ここに中納言|三輪《みわ》の朝臣《あそみ》高市麻呂《たけちまろ》、その冠位を脱《ぬ》ぎて朝にフ上《ささ》げ、諫を重ねて曰《まを》さく、農作の前、車駕いまだ動きたまふべからずとまをす。辛未の日、天皇諌に從はずして遂に伊勢に幸でましたまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行宮《かりみや》に御《おはしま》しきといへり。
 
【釋】右日本紀曰。以下日本書紀に依つて伊勢の行幸を記している。終りまで日本書紀の文である。
 朱鳥六年壬辰 アカミドリノムトセミヅノエタツ。今の日本書紀には朱鳥六年無く無年號になつている。
 淨廣肆 キヨキヒロキヨツノクラヰ。天武天皇の十四年に制定された位階の名で、諸王以上の位に「明位二階、淨位四階、毎v階有2大廣1、併十二階」とある。その最下級である。
 廣瀬王 ヒロセノオホキミ。系譜未詳。小治田の廣瀬の王(卷八、一四六八)として歌がある。養老六年正月、正四位の下で卒した。
 留守官 ルスノツカサ。行幸の跡を守る役目の官。
 三輪朝臣高市麻呂 ミワノアソミタケチマロ。三輪氏は大國主の命の後、大神《おおみわ》氏ともいう。天武天皇の十三(208)年に朝臣の姓を賜はる。懷風藻に漢詩の作を留めている。この集には確實な作歌は無いが、大神の大夫の長門の守に任けられし時の歌のうち一首(卷九、一七七〇)は、この人の作であるかもしれない。歌經標式には、次の一首を載せている。
  白雲のたなびく山は見れど飽かぬかも。鶴《たづ》ならば朝飛び越えて夕《ゆふべ》來ましを
 脱其冠位 ソノカガフリヲヌギテ。當時は、冠に依つて位を授けたので、これを辭するに脱の字を使用したのである。下のフ上もこの意味で、位冠を捧持したのである。
 農作之前 ナリハヒノサキ。日本書紀には前を節に作つている。時は三月で、まさに農耕の事のいそがしくなる季節であるをいう。
 五月乙丑朔庚午御2阿胡行宮1 サツキノキノトウシノツキタチニシテカノエウマノヒ、アゴノカリミヤニオハシマシキ。六年三月の行幸は、三月二十日に遷幸になつたので、ここに五月に阿胡の行宮に御したというのは、萬葉集の編者が、日本書紀を讀み誤つたのである。これは五月の條に、三月の行幸の事に關する記事があるのを、直に五月の事としたのである。その文は、「五月乙丑朔庚午、御2阿胡行宮1時、進v贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等兄弟三戸、復2十年調役雜徭1、復免2挾杪八人今年調役1。」とある。阿胡の行宮は、人麻呂の歌に見える安虞の地における行宮である。
 
輕皇子、宿2于安騎野1時、柿本朝臣人麻呂作歌
 
輕の皇子の安騎の野に宿りたまひし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌
 
【釋】輕皇子 カルノミコ。續日本紀に「珂瑠皇子」とある。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の第二子である。持統天皇の十一年二月、皇太子となり、その八月、受禅して即位した。これを文武天皇と申す。御製の歌は、(209)本集には、「見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風乃《ヤマノアラシノ》」(卷一、七四)の歌の左註に「或云天皇御製歌」とあるだけであるが、懷風藻には、御製の詩數篇を留めている。
 宿于安騎野時 アキノノニヤドリタマヒシトキ。安騎野は、奈良縣宇陀郡の地名。延喜式に阿紀神社あり、その神社は、今、松山町附近の迫間村にある。その附近の野をいうのであろう。此處に宿られたのは、歌意に依るに、草壁の皇太子の薨後のことであり、その薨去は持統天皇の三年四月であるから、その以後、御即位以前のある年の冬であることが知られる。その時に人麻呂が御供して詠んだ歌で、長歌と反歌四首とから成つている。この野には、皇子の父君なる、今は亡き草壁の皇太子がかつて狩獵にお出になつたことがあるので、全篇の主想は、草壁の皇太子を慕い奉ることに懸かつている。
 
45 やすみしし わが大王《おほきみ》
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと、
 太數《ふとし》かす 京《みやこ》を置きて、
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は、
 眞木《まき》立つ 荒山道を、
 石《いは》が根《ね》 禁樹《さへき》おしなべ
 坂鳥の 朝越えまして、
 玉かぎる 夕さり來れば、
(210) み雪降る 阿騎《あき》の大野に
 旗薄《はたすすき》 小竹《しの》をおし靡《な》べ、
 草枕 旅宿《たびやどり》せす。
 古《いにしへ》念《おも》ひて。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》
 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》
 隱口乃《コモリクノ》 泊瀬山者《ハツセノヤマハ》
 眞木立《マキタツ》 荒山道乎《アラヤマミチヲ》
 石根《イハガネ》 禁樹押靡《サヘキオシナベ》
 坂鳥乃《サカドリノ》 朝越座而《アサコエマシテ》
 玉限《タマカギル》 夕去來者《ユフサリクレバ》
 三雪落《ミユキフル》 阿騎乃大野尓《アキノオホノニ》
 旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》
 草枕《クサマクラ》 多日夜取世須《タビヤドリセス》
 古昔念而《イニシヘオモヒテ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君、照り輝く日の皇子樣は、神にましますままに貴い御行動を遊ばされるとして、お住みになつている都を出て、かの泊瀬の山は、木立の繁り立つた荒い山道であるのに、岩や、塞いでいる樹を押し伏せて、朝お越えになり、夕方になれば、雪の降る阿騎の大野に、ススキやシノを押し伏せて、旅の宿りをなさいます。昔の事をお思いになつて。
【構成】この歌は、全篇一文であつて、別に段落は無い。
【釋】八隅知之吾大王 ヤスミシシワガオホキミ。既出。ここは輕の皇子をいう。元來天皇についていう語と考えられるが、皇子に對しては、集中、高市の皇子、新田部の皇子、弓削の皇子について云つている。
 高照日之皇子 タカテラスヒノミコ。タカクテル(元赭)、タカテラス(仙)、タカヒカル(代精)。古事記には、倭建の命に對して、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》 夜須美斯志《ヤスミシシ》 和賀意冨岐美《ワガオホキミ》」(中卷)とある。タカテラスは、このタカヒカルに同じく、高照らすの義で日の修飾語である。高は形容詞、照らす有樣の高大なのをいう。これを天の義とする説のあるは誤である。もし天の義とするならば、高知るに對する太敷くの太を何と解するかというに、これを事物とすることは出來ないのである。ヒノミコは、天つ日のようにある義。日によつて皇子をたたえる。日の御門《みかど》、日の御調《みつき》などの用例である。ヤスミシシワガ大君とこの高照ラス日ノ御子とは、同一の方をいう。ヤスミシシワガ大君である日の御子の意である。この歌では輕の皇子をさし奉つている。以上、(211)全篇の主格。
 神長柄神佐備世須登 カムナガラカムサビセスト。既出。以下の御行動に關する總括的な説明である。
 太敷爲 フトシカス。既出の宮柱太敷キマセバ(卷一、三六)の句で、大敷クを説明した。シカスはシクの敬語法。壯大に御占據になる義。連體形として次の句を修飾している。
 京乎置而 ミヤコヲオキテ。都をさし置いて。この京は、明日香の淨御原の宮か、藤原の宮か不明。
 隱口乃 コモリクノ。泊瀬に冠する枕詞。古事記下卷に「許母理久能《コモリクノ》 波都世能夜肺能《ハツセノヤマノ》」とあり、本集には假字書きに己母理久乃があり、その他、コモリクに、隱口、隱久、隱來、隱國等の文字を當てている。語義については、大和國風土記の逸文に、「長谷郷、古老傳云、此地兩山澗水相來而谷間甚長、故云2隱國長谷1也」とあり、こもれる國の義と解せられる。クは國、處の義。なおこもり國の語は、皇大神宮儀式帳に「許母理國、志多備乃國」とある。外に、泊瀬は、墳墓の地で、人の隱れる處であるからいうとする説があるが、信じがたい。
 泊瀬山者 ハツセノヤマハ。ハツセは、今の初瀬町を中心とする一帶の地域の稱。相當廣範圍にわたつている。この句は、主格であつて、下の荒山道ヲまでに懸かつている。
 眞木立 マキタツ。眞木は、樹木を稱美していう語。立派な木。たとえば松杉檜などのような堂々たる風格の樹木。その木の立てる意で、次の句を修飾する。
 荒山道乎 アラヤマミチヲ。アラは、粗野未開の意をあらわす形容詞。ここは山道の荊棘に蔽われ、熟路となつていないのをいう。ヲは、何々なるが、然るにの意の助詞。
 石根 イハガネ。地に固著せる岩。ガ、助詞。ネは、地中に根據あるを示す語。ガネで接尾語となつている。ネは別語だが、雁ガネの語など合わせ見るべきである。岩が根を張るということ、「石床《いはどこ》の根|延《は》へる門」(卷十(212)三、三三二九)などの云い方がある。
 禁樹押靡 サヘキオシナベ。
   フセキオシナミ(西)
   サヘキオシナベ(若沖)
   ――――――――――
   楚樹押靡《シモトオシナベ》(考)
   禁杖押靡《シモトオシナベ》(古義)
   繁樹押靡《シゲキオシナベ》(古義)
 考に、禁樹を楚樹の誤りとしてシモトと讀んでいるが、楚樹をシモトと讀むべき證も無い。禁の字は、本集に「往時禁八《ユクトキサヘヤ》」(卷十二、三〇〇六)などサヘの音に當てているものがあるので、今しばらく原文のままに、禁樹をサヘキと讀むこととし、障害をする樹木の謂とする。オシナベは押し伏せての意で、籠モヨ(卷一、一)の歌のオシナベテとは違う。この用例には、「不欲見野乃《イナミノノ》 淺茅押靡《アサヂオシナベ》 左宿夜之《サネシヨノ》」(卷六、九四〇)、「賣比能野能《メヒノノノ》 須々吉於之奈倍《ススキオシナベ》 布流由伎爾《フルユキニ》」(卷十七、四〇一六)など多い。この句のオシ靡ベは、石が根禁樹の兩方を處置する。
 坂鳥乃 サカドリノ。山を越える鳥の義で、次句の枕詞となつている。渡り鳥の朝早く山を越える習いのあるをいう。
 朝越座而 アサコエマシテ。皇子の一行の行動である。泊瀬の山は荒い山道なるが石が根禁樹を押し伏せて朝越えたまうと續く文脈である。
 玉限 タマカギル。タマキハル(元赭)、カギロヒノ(考「玉蜻の誤りとする」、攷證等)の諸説があるが、鹿持雅澄、木村正辭によつて、タマカギルに決定した。假字書きの例に、「多萬可妓留《タマカギル》 波呂可爾美縁弖《ハロカニミエテ》」(日本靈異記)、「朝影爾《アサカゲニ》 吾身成《ワガミハナリヌ》 玉垣入《タマカギル》 風所v見《ホノカニミニテ》 去子故爾《イニシコユヱニ》」(卷十一、二三九四)があり、この朝影の歌を「朝影爾《アサカゲニ》 吾身者成奴《ワガミハナリヌ》 玉蜻《タマカギル》 髣髴所v見而《ホノカニミニテ》 往之兒故爾《イニシコユヱニ》」(卷十二、三〇八五)とも書いている。その他、珠蜻、玉(213)蜻?とも書いている。この枕詞、夕、ほのか、はろか、石垣淵等を修飾するによれば、玉の微妙なる光彩を發つをいうと思われる。當時の玉は、普通貝や石を材料とするものであるから、光り輝くとまでは行かぬらしい。陽炎《かぎろひ》、蜻蛉《かぎろひ》などのカギロヒは、このカギルと同語から出たものなるべく、それらも、ほのかに發する意の名稱と思われる。玉かぎる岩垣淵などの句を作つては、しばしば序詞として使用されている。「珠蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》 隱耳《コモリノミ》 戀管在爾《コヒツツアルニ》」(卷二、二〇七)。
 夕去來者 ユフサリクレバ。夕方になれは。サリクレバは、既出、「春去來者《ハルサリクレバ》」(卷一、一六)の條に説明した。朝に泊瀬山を越えて、夕方になつて阿騎の大野に旋宿りをされるよしである。
 三雪落 ミユキフル。ミは美稱の接頭語。當時、冬の頃であつたので、この句を使用している。季節を語る句。
 阿騎乃大野尓 アキノオホノニ。阿騎の野の廣大な感じをあらわしている。
 旗須爲寸 ハタススキ。旗の如く靡いているススキ。積に出たススキである。次の句の小竹と竝べてある。なお集中「皮爲酢寸《ハダススキ》」(卷十、二二八三等)、「波太須酒伎《ハダススキ》」(卷十四、三五〇六等)など、濁音のダを用いているものは、別語と見るべきであろう。
 四能乎押靡 シノヲオシナベ。シノは小竹。但しノは怒の類の字を使用すべきに、能を用いているのは違例である。オシナベは、禁樹押靡のオシナベに同じ。旗すすきや小竹をおし伏せての意である。
 草枕 既出。
 多日夜取世須 タビヤドリセス。旋宿りをされる。セスは動詞爲の敬語法、既出。この句は終止形。
 古昔念而 イニシヘオモヒテ。上の旅宿リセスの理由を説明している。ここにイニシヘというのは、草壁の皇太子の上にいうので、わずかに數年前の事である。
(214)【評語】この長歌は、輕の皇子が、宇陀野においでになることを敍述する部分が發達している。全篇敍事から成つている。最後にただ一句、古思ヒテと、感慨の中心をあきらかにしたのは、一語の力を強くする上に相當效果がある。これは一篇の主題ともいうべきであるが、しかし單に古思ヒテだけでは、漠然として、故の草壁の皇太子の御上を思う心があらわれない。この主題は、反歌に至つてあきらかにされるが、作者が對手としている輕の皇子には、この意があきらかであり、從つてその句の效果をお收めになるであろう。讀者を制限した文藝、少數を目的とした文藝、そういう性質が、古い文學には多量にあつて、これもその一つであることが、自然こういう形を取つてあらわれたのである。歌中「み雪降る」、「旗薄」と、冬季の風物を用いたのは空氣を描く上に有效である。
 
短歌
 
【釋】短歌 タニカ。以下四首に題している。この四首は、前の長歌の反歌であるが、ここに短歌と題したのは、その詩形によるものである。下、五三、一九七、二〇〇、二〇八、二一一、二一四、二一八、二三一等の前にも短歌とある。
 
46 阿騎《あき》の野に 宿る旅人、
 うち靡き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも。
 古《いにしへ》おもふに
 
 阿騎乃野尓《アキノノニ》 宿旅人《ヤトルタビビト》
 打靡《ウチナビキ》 寐毛宿良目八方《イモヌラメヤモ》
 古部念尓《イニシヘオモフニ》
 
【譯】阿騎の野に宿《やどり》をする旅人は、打ち臥して、眠つていないことでありましょう。昔の事を思うので。
【釋】阿騎乃野尓 アキノノニ。原文もと阿騎乃尓とある。野は怒の類の音であるが、長歌に小竹を四能と書(215)いているから、ここも乃を野の假字に用いたものかも知れない。今は神田本に野の字あるにより、かつは諸家の論に從つて野の字を補つておく。
 宿旅人 ヤドルタビビト。皇子を始め一行の人々を旅人と云つている。
 打靡 ウチナビキ。横臥して眠る有樣を、ウチ靡キと形容したのである。ウチは接頭語、強めるために使われている。
 寐毛宿良目八方 イモヌラメヤモ。イは睡眠の名詞。ヌは、寐る意の動詞。ラメは助動詞ラムの已然形。ヌラメヤモは眠つていようや眠つていないの意で、反語になる。ヤが反語の助詞。一行の人々の眠られないのを推量している句。
 古部念尓 イニシヘオモフニ。長歌の末の、古思ヒテを受けて、往事を思うにと、睡眠しかねる理由を説明する句である。
【評語】反歌の第一首として、まず長歌との連繋を密接にしている。長歌の末の、旋宿リセス、古思ヒテとあるを受け、更に睡眠をしがたいことを敍して、一段と主題に立ち入つている。長歌の敍事中心に事を運んで來たのに對して、總括的な内容を盛つた一首である。
 
47 眞草《まくさ》刈る 荒野《あらの》にはあれど、
 黄葉《もみちば》の 過ぎにし君《きみ》が
 形見とぞ來《こ》し。
 
 眞草苅《マクサカル》 荒野者雖v有《アラノニハアレド》
 葉《モミチバノ》 過去君之《スギニシキミガ》
 形見跡曾來師《カタミトゾコシ》
 
【譯】草を刈り取るような荒野でありますが、ここは、かの黄葉の散りゆくようにお亡くなりなさつた方の形見の地として來たことであります。
(216)【釋】眞草苅 マクサカル。眞草は、立派な草らしい草というほどの意味の語で、眞木と同樣の云い方である。ススキ、カヤなどの堂々たる草。さような草を刈る荒野というのは、實際假屋を作るために草を刈るので、その目前の車實を使つたのである。
 荒野者雖有 アラノニハアレド。荒野は、人が手を入れることもなしに、自然のままに任せてある野。阿騎の野の荒涼たる風光をあらわしている。原文、荒野者雖有とあるので、諸家多くニを讀み添えて、アラノニハアレドと讀んでいる。この讀み添える例は集中に多い。上に「夷者雖v有」(卷一、二九)をヒナニハアレドと讀んだ例がある。
 葉 モミチバノ。原文、葉一字のみである。萬葉代匠記の説に、黄の字を脱したので、モミチバノと讀むべく、過ギニシの枕詞であると見えている。しかしもと黄葉とあつたかは問題であつて、黄の字のある傳本は無いのであるから、黄の字を補わないでおく。集中の文字使い、かならずしも讀むべくあるようにのみは書いていない。訓の一部分のみの文字表元は勿論多く、その中には暗示的な書き方もあつて、これらを誤脱とは定めがたいのである。この句、次の句の枕詞になつているが、その時しも黄葉の散り敷く頃であつたので、これが使用されたのである。
 過去君之 スギニシキミガ。スギニシは、過ぎ去つてしまつたの意で、死んだことをいう。「黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》」(卷二、二〇七)、「道爾布斯弖夜《ミチニフシテヤ》 伊能知周疑南《イノチスギナム》」(卷五、八八六)などの用例がある。君は草壁の皇太子。
 形見跡曾來師 カタミトゾコシ。カタミは記念物、遣物。この地を記念の地として來たの意。
【評語】前の歌を受けて、阿騎の野に來た理由を説いている。一歩ずつ主題に近づいて行く構成が看取される。「潮氣《しほけ》立つ荒磯《ありそ》にはあれど往く水のすぎにし妹が形見とぞ來し」(卷九、一七九七)は、同型の歌である。
 
(217)48 東《ひむがし》の 野《の》にかぎろひの 立つ見えて
 かへり見すれば 月|傾《かたぶ》きぬ。
 
 東《ヒムカシノ》 野炎《ノニカギロヒノ》 立所見而《タツミエテ》
 反見爲者《カヘリミスレバ》 月西渡《ツキカタブキヌ》
 
【譯】東方の野には、陽炎の立つのが見えて、西方を見ると、月が傾いて山にはいろうとしている。
【釋】東 ヒムカシノ。ヒムカシは東方をいう。日に向かう方の義。東に對して西をニシというは、日の去にし方の義なるべく、そのシは、東のシに通ずるものと考えられる。古事記中卷に、東方に向かつて戰うことについて、「吾者、爲2日神之御子1、向v日而故不v良」とある。筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(古事記上卷)という日向も、東方の義から出た地名である。本集では、「日向爾《ヒムカシニ》 行靡闕矣《ユキナムミヤヲ》」(卷十三、三二四二)の日向など、東方の義に使用されていると考えられる。
 野炎 ノニカギロヒノ。カギロヒは、水蒸氣のちらちらするをいう。朝東方に日が昇ろうとして明るくなつた野の末に、陽炎の動くのが見えるのである。火?の義とする説もあるが、同じ人麻呂の作品に、「蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野爾《モユルアラノニ》」(卷二、二一〇)という荒野の敍述があり、陽炎の義とするを可とする。このカギロヒノは、次の句の立ツに對して主格となつている。
 立所見而 タツミエテ。陽炎の立つのが見えて。所は被役の用法。
 反見爲者 カヘリミスレバ、。カヘリミは、後をふり返つて見ること。それをすればの意で、西の方を顧みればになる。
 月西渡 ツキカタブキヌ。西渡をカタブキヌと讀むのは、義訓である。月のまさにはいろうとするのを敍している。
【評語】この一群の歌の構成は、ここに至つて方向を轉じて原野の景を敍している。眠られなかつた一夜は明(218)けて、人々は曉の大觀に立つた。その雄大な情景は、巧みにこの一首に盛られており、また全體の一角としてすこぶる意義の多い位置を占めている。朝の荒野の宿の情景が巧みに描かれている歌である。
  菜の花や月は東に日は西に   蕪村
この句は、夕方の景であるが、東西の景を一句のうちに入れたところが、趣を同じゆうしている。
 この歌、初二句はわずかに三字を以つて書いてある。字數のすくないという點は、人麻呂集の書き方と共通している。一群のこの歌が人麻呂集から出たものであるかも知れない。上三句は、古くは、アヅマノノケブリノタテルトコロミテと讀まれていた。これを「東の野にかぎろひの立つ見えて」と讀み改めたのは、萬葉考で、まことに名訓というべきである。
 
49 日竝《ひな》みし 皇子《みこ》の尊《みこと》の
 馬《うま》竝《な》めて 御獵《みかり》立たしし
 時し來向《きむ》かふ。
 
 日雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》
 馬副而《ウマナメテ》 御?立師斯《ミカリタタシシ》
 時志來向《トキシキムカフ》
 
【譯】日竝みし皇子樣が、馬を竝べて、遊獵においでになつた、その時節は、今來つたことであります。
【釋】日雙期皇子命乃 ヒナミシミコノミコトノ。ヒナミセシ(元)、ヒナラヒシ(古葉)、ヒニナヘシ(神)、ヒナメセシ(西)、ヒナラメシ(菅)、ヒナメシ(代初)、ヒナメシノ(僻)。ヒナミシミコノミコトは、草壁の皇太子。他の記載では、本集卷の二に「日竝皇子」とあり、續曰本紀卷の一に「日竝知皇子」とあり、粟原寺の鑪盤の銘に、「日竝御宇東宮」とある。天つ日に竝んで天を統治せられる意で、日の竝びてあるの義と思われる。狩谷?齋の古京遺文に、日竝御宇をヒナミシとよんでいるによる。皇太子であつた草壁の皇太子を稱美していう語で、謚號であるかもしれない。ミコトは尊稱、既出(卷一、二九)この句は主格で、御獵立タシシま(219)でに懸かる。
 馬副而 ウマナメテ。既出(卷一、四)。副の字を書いたのは、主なるものに副えての字義から、馬を竝べる意をあらわしたのであろう。
 御?立師斯 ミカリタタシシ。タタシシは既出(卷一、三)。タタシは、立ツの敬語法。下のシは助動詞。狩獵にお立ちになつたの意の連體句。
 時志來向 トキシキムカフ。志は元暦校本による。諸本みな者である。歌意はいずれでも通ずるが、シと強く指摘する方が、歌としてすぐれているので、孤立した異文ではあるが、これを採つた。キムカフは來つて相對する義で、今や皇子の獵にお立ちになつた、その時節になつたというのである。亡き皇子の遺跡に來て、正に時を同じくした感慨を述べている。「春過而《ハルスギテ》 夏來向者《ナツキムカヘバ》」(卷十九、四一八〇)などの用例がある。
【評語】この長歌と反歌とは、輕の皇子の阿騎野においでになつて、亡き父皇子の御上を忍ばれることを骨子としている。最後の一首に至つて、日竝みし皇子の尊と御名をあきらかにしてあるのも、全體として統一のある手段である。反歌四首もそれぞれ事を敍し、景を述べ、または感慨を録しているのも、變化があつてよい。日竝みし皇子の命の薨去の際の舍人の挽歌の一に、
(220)  褻衣《けごろも》を時片|設《ま》けていでましし宇陀の大野は思ほえむかも(卷二、一九一)
というのがある。あたかもこの作の伏線となつているかの如き觀がある。人麻呂は、草壁の皇太子の殯宮に奉仕しており、今その遺子である輕の皇子の出遊に御供して無量の感慨があり、ここにこの作を成したので、その代表作の一である。
 
藤原宮之?民作歌
 
【釋】藤原宮 フヂハラノミヤ。既出。持統天皇の六年五月より御造營あり、八年十二月に遷居された。耳梨山を背後にした景勝の地で、今日發掘作業が行われ、その規模のすこぶる雄大であつたことが知られる。
 ?民 エニタツタミ。?は、役に同じ。當時の民、一年に十日間勞役に奉仕するをいう。ここは藤原の宮御造營のために、役に出で立つた民の義である。その民の作つた歌としてあるが、歌の實際を見るに、役民の勞働を見て、ある人の作つた歌で、組織の整美なのを見れば、相當の有識者の作と推察される。その人の名は不明である。柿本の人麻呂の作であろうとする説もあり、それは詞句、思想などによるので、若干の理由のあることであるが、まだ決定するに至らない。
 
50 やすみしし わが大王《おほきみ》、
 高照らす 日の皇子《みこ》、
 荒細《あらたへ》の 藤原が上《うへ》に、
 食《を》す國《くに》を 見したまはむと、
 大宮《おほみや》は 高知らさむと
(221) 神《かむ》ながら 念ほすなへに、
 天地も 寄りてあれこそ、
 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の國の
 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の
 眞木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を、
 もののふの 八十氏河《やそうぢがは》に
 玉藻なす 浮べ流せれ。」
 そを取《と》ると さはく御《み》民も、
 家忘れ 身もたな知らに、
 鴨じもの 水に浮きゐて、
 わが作る 日の御門に
 知らぬ國 寄り巨勢道《こせぢ》ゆ、
 わが國は 常世《とこよ》にならむ、
 圖負《ふみお》へる 神《くす》しき龜も
 新代《あらたよ》と 泉の河に
 持ち越《こ》せる 眞木《まぎ》の嬬手《つまで》を、
 百《もも》足らず 筏《いかだ》に作り 
(222) 泝《のぼ》すらむ 勤《いそ》はく見れば、
  神《かむ》ながらならし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王《ワガオホキミ》
 高照《タカテラス》 日乃皇子《ヒノミコ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 藤原我宇倍尓《フヂハラガウヘニ》
 食國乎《ヲスクニヲ》 賣之賜牟登《メシタマハムト》
 都宮者《オホミヤハ》 高所v知武等《タカシラサムト》
 神長柄《カムナガラ》 所v念奈戸二《オモホスナヘニ》
 天地毛《アメツチモ》 縁而有許曾《ヨリテアレコソ》
 磐走《イハバシル》 淡海乃國之《アフミノクニノ》
 衣手能《コロモデノ》 田上山之《タナカミヤマノ》
 眞木佐苦《マキサク》 檜乃嬬手乎《ヒノツマデヲ》
 物乃布能《モノノフノ》 八十氏河尓《ヤソウヂガハニ》
 玉藻成《タマモナス》 浮倍流禮《ウカベナガセレ》
 其乎取登《ソヲトルト》 散和久御民毛《サワクミタミモ》
 家忘《イヘワスレ》 身毛多奈不v知《ミモタナシラニ》
 鴨自物《カモジモノ》 水尓浮居而《ミヅニウキヰテ》
 吾作《ワガツクル》 日之御門尓《ヒノミカドニ》
 不v知國《シラヌクニ》 依巨勢道從《ヨリコセヂユ》
 我國者《ワガクニハ》 常世尓成牟《トコヨニナラム》
 圖負留《フミオヘル》 神龜毛《クスシキカメモ》
 新代登《アラタヨト》 泉乃河尓《イヅミノカハニ》
 持越流《モチコセル》 眞木乃都麻手平《マキノツマデヲ》
 百不v足《モモタラズ》 五十日太尓作《イカダニツクリ》
 泝須良牟《ノボスラム》 伊蘇波久見者《イソハクミレバ》
 神隨尓有之《カムナガラナラシ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤原の他に天下を知ろしめし、宮殿はお建てになろうと、神にましますがままにお考えになると共に、天地もお助け申しあげて、近江の國の田上山の、りつぱな檜の用材を宇治川に浮べ流します。それを陸上すると騷ぐ人民も、家を忘れ、身も悉く知らずに、水に浮いていて、(我等の作るりつぱな宮殿には知らぬ國も寄つて來いと思うが、その巨勢路から、わが國は常世になるであろう、甲に圖を負うた不思議な龜も、新しい世と祝つて出て來る。)その泉の川に運び越した、良い木の用材を、筏に作つて、上流へとのぼらせるのであろう、勤勞しているのを見ると、これは神樣の故であるらしい。
【構成】二段から成つている。第一段、玉藻ナス浮ベ流セレまで。藤原の宮造營の企圖から、用材のことに及んでいる。コソを含む獨立文をもつて、前提法をなしている。以下第二段、主として人民の勞役について敍し、最後に作者の感想を添えている。そのあいだ、序詞を以つて御代を賀している。かように二段にはなつているが、第一段から第二段へと、事件の敍述が進行するのであつて、照應等の構成によるものでは無い。
【釋】八隅知之吾大王高照日乃皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。既出。この歌では持統天皇。主格句。
 荒妙乃 アラタヘノ。タへは既出。「白妙能《シロタヘノ》」(卷一、二八)。アラタヘへは、手ざわりの荒い織布で、藤の皮の繊維で織つたものをいい、藤の枕詞になる。延喜式大嘗祭式に「麁妙服【神語所謂阿良多倍是也】」、古語拾遺に、織布の註に「古語阿良多倍」とある。
 藤原我宇倍尓 フヂハラガウヘニ。藤原は地名。次の歌には藤井ガ原とある。ガはノに同じく、接續の助(223)詞として使用され、その下方のものが上方のものに所屬することを示す語であるが、ノに比しては、熟語として慣用される語に多く使用される。ガの方が、いわゆるくだけた言葉なのであろう。ウヘは、上の義。原、野などにしばしば使用される。その地上にの意味である。「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《シカナカムヤマゾ》 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》」(卷一、八四)、「多可麻刀能《タカマトノ》 秋野乃宇倍能《アキノノウヘノ》 安佐疑里爾《アサギリニ》」(卷二十、四三一九)など、その用例である。
 食國乎 ヲスタニヲ。ヲスクニは、知ろしめす國土。ヲスは食するの敬語で、國土の産物を召しあがる義から、その國土をヲスクニというと思われる。「須賣呂伎熊《スメロキノ》 乎須久爾奈禮婆《ヲスクニナレバ》」(卷十七、四〇〇六)などの用例がある。
 賣之賜牟登 メシタマハムト。メシは、動詞見ルの未然形に、敬語の助動詞スの接續したミスの音の轉じたものである。見の字を使用した例には、藤原の宮の御井の歌に、「見之賜者《メシタマヘバ》」(卷一、五二)とある。また假字書きの例には、「賣之多麻比《メシタマヒ》 安伎良米多麻比《アキラメタマヒ》」(卷二十、四三六〇)、「於保吉美能《オホキミノ》 賣之思野邊爾波《メシシノベニハ》」(同、四五〇九)などある。
 都宮者 オホミヤハ。考にはミアラカハと讀んでいる。ミアラカは、御在處の義で、古語拾遺に、瑞殿の字に註して「古語、美豆能美阿良可」、延喜式、大殿祭祝詞に、「御殿、古語云2阿良可1」、本集に「御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》」(卷二、(224)一六七)とある。またオホミヤは、大御屋の義で、本集に「美與之努能《ミヨシノノ》 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》」(卷十八、四〇九八)とあり、その外、大宮と書いた例は多數ある。そのいずれを採るべきかというに、ミアラカについては、上記、御在香ヲ高知リマシテの用例のあるのは有力であるが、歌詞中にはこの語はただこの一例があるのみであり、一方、都宮と書いた字面も顧慮して、なおオホミヤと讀むべきである。ハは、ヲバの意に使用されている。
 高所知武等 タカシラサムト。タカシラスは既出(卷一、三六)。以上都宮ハ高知ラサムトは、食ス國ヲメシタマハムトに對して、對句を成し、共に竝んで下の思ホスナヘニに懸かつている。
 神長柄 カムナガラ。既出。
 所念奈戸二 オモホスナヘニ。この所の字の用法は、シラスを所知と書く時の所の用法に同じく、敬意をあらわすために使用せられているが、これはもと、何々する所のの、所の用法から出たのであろう。オモホスは、動詞思フの敬語オモハスの音の轉じたもの、キカス(聞かす)がキコス、シラス(知らす)がシロスになる類である。お思いになる。ナヘは、同時の意で、語義は、竝べであるというが、未詳。ナヘニの上の事と下の事とが同時に共に行われるを示す。たとえは、「鶯の音《おと》聞くなへに梅の花|吾家《わぎへ》の苑《その》に咲きて散る見ゆ」(卷五、八四一)は、鶯の音を聞くと、梅の花の散るが見えると、同時に行われるを示す。この歌では、天皇のおぼしめしと同時に、天地の神が寄つて、用材を宇治川に流すのである。
 天地毛縁而有許曾 アメツチモヨリテアレコソ。アメツチは、天地の神靈。その寄りてあるというのは、既出の吉野の宮の歌(卷一 三八)の山川も寄りて奉るというに同じく、心を寄せてあるの意である。アレコソは、「古昔毛《イニシヘモ》 然爾有許曾《シカニアレコソ》」(卷一、一三)のナレコソの語法に同じく、あればこその意である。このコソは係助詞で、下の浮ベ流セレに懸かる。
(225) 磐走淡海乃國之 イハバシルアフミノクニノ。既出(卷一、二九)。以下、天地モ寄リテアレコソの具體的事實を描く。
 衣手能 コロモデノ。コロモデは既出(卷一、五)。この句は枕詞。手に續く。
 田上山之 タナカミヤマノ。田上山は、滋賀縣栗太郡にある山の名。當時森林地帶で良材を産出したものと思われる。正倉院文書に、田上山工作所の名が見え、奈良時代に製材所が置かれてあつた。
 眞木佐苦 マキサク。眞木は既出。立派な木の意。サクは、拆クの意とする説と、幸《さ》クの意とする説とがある。しかしこの語は、「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(古事記一〇一)、「奔紀佐倶《マキサク》 避能伊陀圖塢《ヒノイタドヲ》」(日本書紀九六、繼體天皇紀)の如き例もあつて、ヒの一音に懸かるものであるから、このヒを檜と解するにおいては、眞木拆く檜と續くとする説は、意味の上からの難點がある。一方、幸ク説は、幸クという動詞の例證は無いが、花の咲くは、その語から出たものとも考えられる。また、日本書紀の訓註に、「幸魂、此云2佐枳彌多摩1」とあつて、幸の意のサキの語のあつたことが知られ、本集にも、「佐久安禮天《サクアレテ》 伊比之氣等婆是《イヒシケトバゼ》」(卷二十、四三四六)の例があつて、副詞幸クの存在したことが知られる。動詞榮ユも、この動詞幸クを根幹とするものであろう。花が咲く、物を裂くなどの動詞サクも、同じ祖語から分化して來たものであろう。「あぢかまの潟に左久奈美」(卷十四、三五五一)のサクは、波についていい、咲くと裂くとに通じるもののあることを語つている。よつてこの句は、眞木幸クの義で、立派な木として榮えるヒノキの意味に、ヒ(檜)の枕詞となつているのであろう。
 檜乃嬬手乎 ヒノツマデヲ。下文には眞木乃都麻手乎とある。ツマは、※[木+瓜]の字の義で、梭角のある材木をいう。嬬は借字である。手は、材木には普通枝があるので、附けていうのであろう。檜の嬬手は、檜の製材の義である。
(226) 物乃布能八十氏河尓 モノノフノヤソウヂガハニ。モノノフは、物の部の義で、モノはその掌つて奉仕するものを代名詞ふうに言いあらわした語。古くは文武官のすべてを稱し、その數の多きより、八十の語を引き出すに使う。「物部乃《モノノフノ》 八十乃心叫《ヤソノココロヲ》」(卷十三、三二七六)、「物部能《モノノフノ》 八十※[女+感]嬬等之《ヤソヲトメラガ》」(卷十九、四一四三)など、八十の枕詞としてモノノフノの語が使用されている。この歌にあつては、物の部は、多數の氏あるにより、物の部の八十氏というとすべく、これによつて、宇治川を引き出している。序詞として物の部の八十が使用されているとすべきである。その用例には、「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》」(卷三、二六四)、「物部乃《モノノフノ》 八十氏川之《ヤソウヂガハノ》 急瀬」《ハヤキセニ》(卷十一、二七一四)などある。氏河は、普通に宇治川と書かれる川で、琵琶湖から發して山城の國を流れて他の川と合して淀川となる。その上流は、田上山の附近を流れるので、製材をこの川に流し下すのである。
 玉藻成 タマモナス。玉藻、ナス、共に既出。次の句の浮ブの枕詞。藻のようにの意。
 浮倍流禮 ウカベナガセレ。上のアレコソを受けて、已然形で結んでいる。天地の神靂の力によつて、田上山の製材を宇治川に浮べ流しているというのである。以上第一段、天地の奉仕を説く。
 其乎取登 ソヲトルト。以下第二段にはいつて、人民の奉仕を説く。上にいう宇治川に浮べ流した材木を受けてソと云つている。其をソとのみ云う例は、「比登豆麻等《ヒトツマト》 安是可曾乎伊波牟」《アゼカソヲイハム》(卷十四、三四七二)など多い。
 佐和久御民毛 サワクミタミモ。サワクは、川に流して來た材木を取りあげるとてざわめく意である。この語は、今日の騷ぐであるが、集中の用字例、假字書きのものに、左和寸、左和伎、佐和伎、佐和吉、佐和久、散和久、散和口、※[馬+聚]祁などあり、キ、ク、ケにいずれも清音の字を使つているので、古くはこれらが清音であつたことが知られる。御民は、皇民の義に、民の語に接頭語ミを附して使用している。
(227) 家忘 イヘワスレ。わが家の事を忘れて。
 身毛多奈不知 ミモタナシラニ。ミモタナシラズ(元赭)。タナは、「身者田菜不v知《ミハタナシラズ》」(卷九、一七三九)、「身乎田名知而《ミヲタナシリテ》」(同、一八〇七)、「事者棚知《コトハタナシレ》」(卷十三、三二七九)、「許等波多奈由比《コトハタナユヒ》」(卷十七、三九七三)などの用例におけるタナと同じく、すべて、全くなどの意をあらわす接頭語で、タナ引ク、タナ曇ル、タナ霧《ギ》ラフのタナも同語であろう。シラニは既出(卷一、五)。上の家忘レの句と竝んで、下の水ニ浮キ居テに懸かつている。
 鴨自物 カモジモノ。ジモノは、犬ジモノ、鳥ジモノ、鵜ジモノなどの語例におけるが如く、何々の如きものの意に使用される。このジは、體言に接續して、これを形容詞とする性能を有する語で、ジモノの場合は、古い形容詞の活用の如く、ジを以つて連體形となつているものである。また「之寄島能《シキシマノ》 人者和禮自久《ヒトハワレジク》 伊波比?麻多牟《イハヒテマタム》」(卷十九、四二八〇)の我ジク、「此家自【久母】藤原乃卿【乎波】(續日本紀、第二五詔)の家ジクの如く、ジクの形を採つているものも同語であろう。さて鴨ジモノは、鴨の如き物の意で、次句の水ニ浮キ居テに懸かる枕詞である。
 水尓浮居而 ミヅニウキヰテ。宇治川の水に浮んでの意で、材木を取りあげるさまをいう。
 吾作 ワガツクル。我等の造營するの意で、連體形の句。以下、新世トまでの九句は、插入句で、泉ノ河を引き出すための序詞である。その九句の中にも、またこの句から「知らぬ國寄り」までは、巨勢の序詞となつている。その部分は、二重に序詞になつているのである。
 日之御門尓 ヒノミカドニ。古事記下卷、雄略天皇記に「麻紀佐久《マキサク》 比能美加度《ヒノミカド》」(一〇一)とある。日は日輪の義。天皇の宮殿を稱えてヒノミカドという。ミカドは、御門の義であるが、轉じて宮殿の義となり、また朝廷、政府、國家の義となり、また轉じて天皇の義となる。ここは宮殿、朝廷の義。元來この語は、外部か(228)ら皇居を仰ぎ見ていう語で、視聽する所から發する語であつたが、概念の發達により、多種の用法を派生したものである。
 不知國 シラヌクニ。まだ知識に入り來ない國の意。
 依巨勢道從 ヨリコセヂヨリ。コセは地名。今の奈良縣南葛城郡古瀬村の地である。その地名の巨勢を引き出すために、知ラヌ國寄リコセと言い懸けたのである。ヨリコセは、寄リコセで、寄り來よと希望する語法。コセは、希望の助動詞コスの命令形。寄つてほしい。「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ツマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)、「許余比太爾《コヨヒタニ》 都麻余之許西禰《ツマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などのコセの用法に同じ。從は、ユともヨリとも讀まれる。集中の例、一音に讀むべき處にも二音に讀むべき處にも、いずれも多く使用されている。今、七音の句であるから二音に讀むこととする。巨勢に行く道から龜が出るとする文脈である。 我國者 ワガクニハ。この日本の國は。
 常世尓成牟 トコヨニナラム。トコヨは、常世の文字の通り、恒久不變の世界をいう。古事記にしばしば見えており、一の理想郷である。古人がかような國を想像し、これを求めていたことは、常陸國風土記に、常陸の國を稱えて、「いはゆる常世の國とはこれか」と言つているのに依つても知られる。後、神仙思想が入り來るに及んで、神仙の住む世界、仙郷の意に使用されるに至つた。「吾妹兒者《ワギモコハ》 常世國爾《トコヨノクニニ》 住家良思《スミケラシ》 昔見從《ムカシミシヨリ》 變若益爾家利《ヲチマシニケリ》」(卷四、六五〇)、「伎彌乎麻都《キミヲマツ》 麻都良乃于良能《マツラノウラノ》 越等賣良波《ヲトメラハ》 等己與能久爾能《トコヨノクニノ》 阿麻越等賣可忘《アマヲトメカモ》」(卷五、八六五)の常世など、その用例である。さて、ワガ國ハ常世ニナラムは、插入句で、巨勢道ヨリ圖負ヘル神シキ龜モ新世ト出ヅの事實を批評している。
 圖負留神龜毛 フミオヘルクスシキカメモ。神龜は、漢籍の洛書の故事による。尚書洪範九疇の孔安國の註に「洛書者、禹治v水時、神龜負v文而出、列2於背1、有v數至v九、禹遂因而第v之、以成2九類1」とある。圖は(229)河圖の類で、天子受命の徴であるという。龜の甲に圖ある不思議の龜である。延喜式の祥瑞のうちに、神龜を大瑞としており、その出るを以つて吉祥とした。當時、巨勢道から、かような龜が出たのであろう。年號の靈龜、神龜、寶龜なども、龜の祥瑞の出現によつて改元されたものである。神は、アヤシとも讀む。クスシの例は「許己乎之母《ココヲシモ》 安夜爾久須之彌《アヤニクスシミ》」(卷十八、四一二五)がある。
 新代登 アラタヨト。古く新の意をアラタという。可惜の患にはアタラである。アラタヨは、新時代の義。龜が新時代として出でたというのである。以上、次の泉(出ヅに懸けてある)の序になつているが、この序を以つて御世を賀する意をあらわしている。而してその序の中に「わが作る日の御門に知らぬ國寄り」はまた巨勢の序をなし、「わが國は常世にならむ」は插入の一文である。今これを書き下せば、〔鴨じもの水に浮き居て『「わが作る日の御門に知らぬ國寄り(來せ)」巨勢路ゆ「わが國は常世にならむ」圖負へる神しき龜も、新代と(出づ)』泉の川に〕となる。
 泉乃河尓 イヅミノカハニ。今の木津川。伊賀の國より發し、山城の國を經て淀川に入る。鴨ジモノ水ニ浮キ居テ泉ノ河ニ持チ越セル眞木ノ嬬手と續く文脈である。宇治川から材木を取りあげて、陸路を經て遠からぬ泉川に持ち來り、今度はそれを筏に組んで溯上させる。それを奈良山に近き地點で揚陸し、奈良山を經て、藤原の宮の造營地に運搬するのである。
 持越流 モチコセル。宇治川から泉川に持ち越したの意。
 眞木乃都麻手乎 マキノツマデヲ。上の眞木サク檜ノ嬬手を約していう。
 百不足 モモタラズ。百に足りない意で、ここは、次の五十の枕詞になつている。「百不v足《モモタラズ》 八十隅坂爾《ヤソスミサカニ》」(卷三、四二七)などの用例がある。
 五十日太尓作 イカダニツクリ。イカダは筏。今度は泉川を溯上させるので、筏に編むのである。
(230) 泝須良牟 ノボスラム。ノボスは溯上させる、のぼらせる。ラムは推量の助動詞。終止形。
 伊蘇波久見者 イソハクミレバ。伊呂波字類抄では、爭競角を、いずれもイソフと讀んでいる。このイソフのイソは、イソグ、イソガシ、イソシ等のイソと同語と見られ、競爭する意の動詞と考えられる。イソハクは、その體言形で、競爭することの義になる。作者が川邊に立つて、筏に作る人民の爭い勵むのを見るのである。
 神隨尓有之 カムナガラナラシ。上の神ナガラ思ホスナヘニを、遙に受けて一首を結んでいる。これが神ながらであると思われるの意。ナラシは、ニアラシの約言。
【評語】藤原の宮の造營につき、天地の感動し、人々の働く?を寫して、人天合一の盛代を祝している。相當手腕ある人の作品であろう。途中に長大の序詞を插入しているので、解釋上疑惑を生じやすく、また敍述の率直を缺く恨みがある。しかしこれによつて御世を賀ぐのは、一の企畫であつて、そこに外來の知識を盛り込んでいるのは、作者の階級を思わしめるものがある。とにかく堂々たる風格の作品ということができる。
 
右日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1冬十二月庚戌朔乙卯、遷2居藤原宮1。
 
右は、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原の宮地に幸《い》でましたまひき。八年甲午の春正月、藤原の宮に幸でましたまひき。冬十二月庚戌の朔乙卯の日、藤原の宮に遷り居たまひきといへり。
 
【釋】朱鳥七年癸巳 アカミドリナナトセミヅノトミノトシ。しばしばいうように、今の日本書紀には朱鳥七年は無く、無年號の七年になつている。
 八年甲午 ヤトセノキノエウマノトシ。同じく無年號の八年である。
 
(231)從2明日香宮1、遷2藤原宮1之後、志貴皇子御作歌
 
明日香《あすか》の宮より、藤原《ふぢはら》の宮に遷《うつ》りましし後、志貴《しき》の皇子《みこ》の作りませる御歌
 
【釋】從明日香宮 アスカノミヤヨリ。明日香の淨御原の宮から。
 遷藤原宮之後 フヂハラノミヤニウツリマシシノチ。諸本に遷の下に居の字があるが、元暦校本に無いのがよい。
 志貴皇子 シキノミコ。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父。この系統は、代々歌をよくした。當時、シキノミコと稱せられた方が、天智天皇の皇子にも天武天皇の皇子にもあつたと傳えられている。まず天智天皇の皇子については、日本書紀、天智天皇の七年三月の條、立后の事を記すに附して「又有2越道君伊羅都賣1、生2施基皇子1」とあり、天武天皇の皇子については、日本書紀、天武天皇の二年正月の條、立后の事を記すに附して、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》姫娘、生2二男二女1。其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とある。以下日本書紀および續日本紀におけるシキノミコに關する記事を拾えは、次の如くで、
ある。
 一、日本書紀
  天武天皇八年五月庚辰朔乙酉
  天皇詔2皇后及草壁皇子尊大津皇子高市皇子河島皇子忍壁皇子芝基皇子1曰、云々。
  朱鳥元年八月己巳朔癸未
   芝基皇子磯城皇子各加2二百戸1。
  持統天皇三年六月壬午朔癸未
(232)  以2皇子施基1(中略)拜d撰2善言1司u
 二、續日本紀
  大寶三年九月辛卯
   賜2四品志紀親王近江國銭穴1。
  同冬十月丁卯
   四品志紀親王、爲2造御竃長官1。
  慶零元年正月丁酉
   二品長親王舍人親王穗積親王三品刑部親王益2封各二百戸1。三品新田部親王四品志紀親王各一首戸。
  慶雲四年六月壬午
   以2三品志紀親王(中略)等1、供2奉殯宮事1。
 これに次いで寶龜二年八月に志貴の親王薨去の記事がある。以上のうち、文字の同一なのをまとめれば、日本書紀の記事について、天武天皇紀に、皇子出生の條、竝に朱鳥元年八月の條に「磯城皇子」とあるを、同一人と見るが至當であり、よつて、天智天皇紀の皇子出生の條に、「施基皇子」、天武天皇八年五月、朱鳥元年八月の條に、「芝基皇子」、持統天皇三年六月の條に「皇子施基」とあるをまた同一人と見るを至當とする。而して磯城は訓讀文字であり、施基、芝基は字音假字である。また續日本紀においては、「志紀親王」「志貴親王」の文字が使用せられ、その位階も順次昇進しており、これも同一人であると考えられ、その薨去の條には天智天皇の皇子であることが明記されている。これによれは、天武天皇の皇子に磯城の皇子がいましたとしても、その事蹟として見るぺきは、朱鳥元年八月の條のみであつて、しかも朱鳥元年八月加封の際は、天武天皇八年五月の條に擧げられている六皇子にそれぞれ加封があつたもので、その以外のはただこの磯城の皇子のみであ(233)るから、この記事は、何かの混雜があるものと思われる。その他の記事はすべて天智天皇の皇子の志貴の皇子に關するものと考えられる。さて萬葉集には八出しているが、うち、「志貴皇子」とあるもの七、「志貴親王」とあるもの一で、シキの音には、みな志貴の文字が使用せられている。これまた同一人と見る外無く、その場合、文字使用の上からしても、天智天皇の皇子とするのが順當である。なおこの皇子の薨去の年月についても問題があるが、これについては、これに關する歌(卷二、二三〇)の條に記すこととする。ここの歌は、都うつしの後、たまたま舊都に來て詠まれたのであろう。
 
51 釆女《うねめ》の 袖吹きかへす 明日香《あすか》風、
 都《みやこ》を遠み いたづらに吹く。
 
 ?女乃《ウネメノ》 袖吹反《ソデフキカヘス》 明日香風《アスカカゼ》
 京都乎遠見《ミヤコヲトホミ》 無用尓布久《イタヅラニフク》
 
【譯】この地に都のあつた時分は、采女の袖を吹いた飛鳥の地の風が、都が遠くなつたので、采女の袖を吹くこともなく、むだに吹いている。
【釋】?女乃 ウネメノ。采女は、諸國の郡の少領(副郡長に當る)以上の姉妹子女の容姿端正なものを貢せしめて、供御に使うもの。日本書紀允恭天皇の紀四十二年十一月の條に「冬十一月、新羅弔使等、喪禮既?而還之、爰新羅人恒愛2京城傍耳成山畝傍山1、則到2琴引坂1、顧之曰、宇泥灯b椰、彌彌巴椰。是未v習2風俗之言語1、故訛2畝傍山1謂2字泥1、訛2耳成山1謂2彌彌1耳。時倭飼部從2新羅人1、聞2是辭1而疑之、以爲新羅人通2釆女1耳。乃返之、啓2于大泊瀬皇子1。皇子則悉禁2固新羅使者1而推間。時新羅使者啓之曰、無v犯2采女1。唯愛2京傍之兩山1而言耳。則知2虚言1皆原之」とあり、これによつて采女をウネメと言つたことが知られる。ウネメの語義は未詳であるが、元來天皇に奉仕する女性を地方から貢進する儀があり、後成文化するに及んで、釆(234)女の文字が當てられるに至つたものと考えられる。采女の文字は後漢に始まると傳えられる。わが國においては、日本書紀孝コ天皇紀に「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1」とあり、その性質が知られる。原文?女とあるは、采女と書くべきを、采に女扁をつけたものである。この?の文字は、佛教の經典にしばしば見える字で、金光明最勝王經にも見える。宮女の意の字である。本集卷の四に駿河の?女とあり、古事記、正倉院文書等にも見えている。この句は領格で、采女の袖と、次句に續く。
 袖吹反 ソデフキカヘス。次の明日香風の修飾句。袖を吹き反すのを習性としている意である。
 明日香風 アスカカゼ。飛鳥の地を吹く風。佐保風、泊瀬風等の例がある。明日香は地名、飛鳥に同じ。飛ぶ鳥のアスカというより、飛鳥と書いてアスカと讀ませるのは、春日のカスガというより、カスガの地名に春日と書くと同樣である。
 京都乎遠見 ミヤコヲトホミ。藤原の京に遷都して、この明日香の里は京都に遠くなつたのでの意。心ヲ痛ミ、山ヲ茂ミなどと同樣の語法。
 無用尓布久 イタヅラニフク。イタヅラニは、何の用にも立たずに。むだに。美人の袖を吹き飜すことも無いので、むだに吹いているの意である。
【評語】舊都の荒れたのを悼んだ歌は多いが、これは采女などの徘徊することもなくなつて、ただ風のみ昔のままに吹いていると歌つている。大津の宮を悼んだ歌には、壬申の年の悲劇を悲しむ情が強いが、飛鳥の京の棄てられたのは、藤原に新造の大宮ができたためで、悲痛な哀傷の情を伴なわない。この歌の、悼みながら明るい歌である所以である。詞句の美しい歌である。
 
藤原宮御井歌
 
(235)〔釋〕藤原宮御井歌 フヂハラノミヤノミヰノウタ。井は、飲料に供すべき清水を湛えてある處で、川にも池にもいい、また堀井、筒井など、今日いう井戸の類をもいう。古人は、井については深い信仰を有し、神靈の宿る處と考えていた。井のある處に宮殿は造營せられ、村邑は發達する。神話、傳説は、井に關して語り傳えられ、物語、歌謡は、水汲みに集まる人々に依つて傳えられた。ここにいう藤原の宮の御井は、歌詞によるに、埴安の池の一角であつて、すぐれた景勝のもとに、清らかな水を湛えていたのでる。これを他に求める説のあるのは不可である。この歌も、左註にもあるように、作者未詳であるが、藤原の宮の役民の歌と同じく、相當手腕のある有識階級者の作と考えられる。
 
52 やすみしし わご大王
 高照らす 日の皇子、
 荒細《あらたへ》の 藤井が原に
 大御門《おほみかど》 始めたまひて、
 埴安《はにやす》の 堤の上に
 あり立たし 見《め》したまへば、
 大和の 青香具山は、
 日の經《たて》の 大御門に
 春山と 繁《しみ》さびたてり。
 畝火《うねび》の この瑞山《みづやま》は、
(236) 日《ひ》の緯《よこ》の 大御門に、
 瑞山と 山さびいます。
 耳高の 青菅山《あをすがやま》は、
 背面《そとも》の 大御門に、
 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立てり。
 名ぐはし 吉野の山は、
 影面《かげとも》の 大御門ゆ
 雲居にぞ 遠くありける。」
 高知るや 天の御蔭《みかげ》、
 天知るや 日《ひ》の御影《みかげ》の
 水こそは 常にあらめ。
 御井の清水。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王《ワゴホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 麁妙乃《アラタヘノ》 藤井我原尓《フヂヰガハラニ》
 大御門《オホミカド》 始賜而《ハジメタマヒテ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 堤上尓《ツツミノウヘニ》
 在立之《アリタタシ》 見之賜者《メシタマヘバ》
 日本乃《ヤマトノ》 青香具山者《アヲカグヤマハ》
 日經乃《ヒニタテノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 春山跡《ハルヤマト》 之美佐備立有《シミサビタテリ》
 畝火乃《ウネビノ》 此美豆山者《コノミヅヤマハ》
 日緯能《ヒノヨコノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 弥豆山跡《ミヅヤマト》 山佐備伊座《ヤマサビイマス》
 耳高之《ミミタカノ》 青菅山者《アヲスガヤマハ》
 背友乃《ソトモノ》 大御門尓《オホミカドニ》
 宜名倍《ヨロシナヘ》 神佐備立有《カムサビタテリ》
 名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》
 影友乃《カゲトモノ》 大御門從《オホミカドユ》
 雲居尓曾《クモヰニゾ》 遠久有家留《トホクアリケル》
 高知也《タカシルヤ》 天之御蔭《アメノミカゲ》
 天知也《アマシルヤ》 日之御影乃《ヒノミカゲノ》
 水許曾婆《ミヅコソハ》 常爾有米《ツネニアラメ》
 御井之清水《ミヰノシミヅ》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君は、藤井が原に、大宮をお始めになつて、埴安の池の堤の上に、お立ちになつて御覽になれば、天の香具山は、東方の御門に、春の山と木立が繁く森々として立つている。畝傍の瑞々しい山は、西方の御門に、瑞山と、山の威コを備えて立つている。耳高の山スゲの青い山は、北方の御門に、よろしくも、神のけはいに立つている。名のよい吉野の山は、南方の御門から天の一方に遠くあつた。この立派な宮殿の水こそは永久にあるであろう。この御井の清水は。
(237)【構成】埴安の池の堤の上に立つて、天皇の御覽になつた光景を描く形で歌つている。この點、三八の吉野の宮の歌と同じ構想である。以下その光景を東西南北の四方に分けて、對句の樣式を以つて敍している。第一段、遠クアリケルまで、井を圍む四方の山々を敍し、以下第二段で、總括的に御井を稱えている。布置整然たる作品である。
【釋】八隅知之和期大王高照日之皇子 ヤスミシシワゴオホキミタカテラスヒノミコ。既出。但しこの歌では、和期大王と書いてある。これは本來ワガオホキミであるが、歌われる時にガとオとが結合して、ゴーと聞えるのを、そのままに寫したものであるが、漢字による音韻表示では、ゴーという表示が困難であるから、かような文字表示となつたものである。それ故に厳密にいえば、ガがゴに轉じたものでは無い。ガとオとが結合してゴーとなつたものである。かような書き方は古事記日本書紀には無く、續日本紀、聖武天皇の御製に「夜須美斯志《ヤスミシシ》 和己於保支美波《ワゴホキミハ》」とある。本集には「和期於保伎美《ワゴオホキミ》 余思努乃美夜乎《ヨシノノミヤヲ》 安里我欲比賣須《アリガヨヒメス》《卷十八、四〇九九》のほか、和基大王一、都期大王六、和期大皇二、吾期大王一である。ただしこれを以つて、この歌が歌われたとする證明にはならない。ただこの句が、歌われた歌から來ていることを語るだけである。ワガオホキミと書いたものは、その歴史的表記法で、讀む時には、ワゴーホキミと讀んだのだろう。於によつてオの長音を表記する例は、琴歌譜の譜中に見られる。主格句。持統天皇をさす。
(238) 麁妙乃 アラタヘノ。既出(卷一、五〇)。枕詞。
 藤井我原尓 フヂヰガハラニ。藤原の地をここには藤井が原と言つている。御井の歌であるからこの名を併用したのであろう。
 大御門 オホミカド。オホは雄大性を稱美する形容詞。ミカドは既出(卷一、五〇)。ここは宮殿の意。
 始賜而 ハジメタマヒテ。御創始になつて。
 埴安乃 ハニヤスノ。香具山の西麓の地名。當特大きな池があつた。山常庭(卷一、二)の歌參照。
 堤上尓 ツツミノウヘニ。ツツミは、水を包んでいる土地。ここには池の語は省略されているが、埴安の池の堤である。ツツミは、人工によるものでなくてもいう。
 在立之 アリタタシ。アリは存在を意味する動詞で、接頭語として他の動詞に冠して使用されている。本集には、アリ通フ、アリ去ル、アリタモトホル、アリ慰ム、アリ隻《な》ム、アリ待ツ、アリ廻《めぐ》ル、アリ渡ルなどの用例がある。タタシは、立ツの敬語法。お立ちになつて。
 見之賜者 メシタマヘバ。メシは、既出(卷一、五〇)。見ルの敬語法。ここは御覽になるの意に使用している。この語、古くはミスと云つたものなるべく、常陸國風土記に「和乎彌佐婆志理之《ワヲミサバシリシ》」がある。本集には敬語法のミスの假字書きは無く、メスの假字書きは、「美與之努《ミヨシノノ》能 許乃於保美夜爾《コノオホミヤニ》 安里我欲比《アリガヨヒ》 賣之多麻布良之《メシタマフラシ》(卷十八、四〇九八)などあるが、いずれも卷の十八以後のみであるから、古くはミスと言つたかも知れない。以上前提句で、以下の御覽になつた結果の敍敍を起している。
 日本乃 ヤマトノ 日本の字は既出(卷一、四四)。ヤマトは、もと大和の國の東方山嶽地方をいう。ここはその狹義の用法であつて、香具山の所在を示している。
 青香具山者 アヲカグヤマハ。アヲは文字通り青の義。形容詞で、香具山の青々と茂つているのを稱えて(239)いる。
 日經乃 ヒノタテノ。この次に日の緯の語が出てくる。漢籍の周禮の天官の疏に、「南北の道」、謂2之經1、東西之道、謂2之緯1、」とある。然るに、日本では、太陽の通路を標準にして縦横を定める。日本書紀の成務天皇の卷に、「因以2東西1爲2日縱1南北爲2日横1山陽曰2影面1山陰曰2背面1」とある。經は縱で、緯は横だから、漢籍と日本とでは、經緯が逆になつている。また高橋氏文の佚文に、「日竪日横陰面背面乃諸國人乎割移天」とある。この文では、日竪日横を、東と西との意に使つているようである。今のこの歌の日の經も、實際の地形上、東方をさすものであるから、高橋氏文のと、同じ使いざまと見える。
 大御門尓 オホミカドニ。ここのミカドは、宮殿の御門をいう。
 春山跡 ハルヤマト。春山として。
 之美佐備立有 シミサビタテリ。シミは、繁茂の意の古語。「烏梅乃花《ウメノハナ》 美夜萬等之美爾《ミヤマトシミニ》 安里登母也《アリトモヤ》」(卷十七、三九〇二)の用例がある。この語の重語と考えられるものに、シミミがある。サビは既出(卷一、三八)。サビは體言について動詞とするもので、その體言の性能を發揮するをいう。神サブ、男サブ、孃子《をとめ》サブ、丈夫《ますらを》サブなど例がある。この歌にも山サビの例がある。森々として繁茂の?態で立つている意。 畝火乃此美豆山者 ウネビノコノミヅヤマハ。コノは畝火山を指摘している。ミヅは、生々として嘉氣あるをいう。瑞穗、瑞枝、瑞籬な(240)ど、多く植物性の物に附していうが、また、瑞寶、瑞玉盞などともいう。ここは山の生々としているのを稱えていう。
 日緯熊 ヒノヨコノ。ヒノヌキノ(元墨)、ヒノヨコノ(考)。日の經の條にいう如く、西方をいう。
 弥豆山跡 ミヅヤマト。ミヅヤマは、上の美豆山とあるに同じ。瑞山として。
 山佐備伊座 ヤマサビイマス。山としての性能を發揮している意。イマスは、存在を意味する敬語の動詞。
 耳高之 ミミタカノ。
   ミミタカノ (元朱)
   ――――――――――
   耳爲之《ミミナシノ》(考)
   耳無之《ミミナシノ》(古義)
 高は爲の字の誤で、ミミナシノと讃み、耳梨山をいうといわれている。いかにも山は耳梨に相違ないが、ミミナシの語意は、平野の中に耳のような形を成している山の意であるとすれは、これをミミタカと言わないとも限らない。しいて文字を改めるには及ばない。耳高の語は、出雲の國造の神賀詞に、馬について「振立【流】耳【能】彌高【爾】」と見えている。耳梨山の山名は、日本書紀には耳成、耳梨の字を使用し、本集では耳梨、無耳の字を使用している。多分耳成が正字で耳を成している義であろう。そうすれは耳高も縁の無い語では無くなる。
 青菅山者 アヲスガヤマハ。アヲは、青香具山の青に同じ。スガはヤマスゲで、熟語となる時にスガの形を取る。「阿多良須賀波良《アタラスガハラ》」(古事記六五)などある。青々として山菅の生えている山はの意。
 背友乃 ソトモノ。日の經の條に擧げた成務紀の文に山陽を影面《かげとも》といい、山陰を背面《そとも》というとある。山を中心として、日の當る方が南面で影面といい、日の當らない北方を背面という。ソトモはソツオモで、背の方の面の義である。それで、山を中心としないでも北方を背面といい、南方を影面というのである。背友の友は借字、トモの音をあらわすだけである。
(241) 宜名倍 ヨロシナヘ。よい具合に。好都合にの意の副詞。ナヘは、既出の思ホスナヘニのナヘと同じであろう。「之可禮許曾《シカレコソ》 神乃御代欲理《カミノミヨヨリ》 與呂之奈倍《ヨロシナヘ》 此橘乎《コノタチバナヲ》 等伎自久能《トキジクノ》 可久能木實等《カクノコノミト》 名附家良之母《ナヅケケラシモ》」(卷十八、四一一一)、「宜名倍《ヨロシナヘ》 吾背乃君之《ワガセノキミガ》 負來爾之《オヒキニシ》」(卷三、二八六)など使用例がある。
 神佐備立有 カムサビタテリ。カムサブは既出(卷一、三八)。耳梨山が神山として立つている意である。山に神さぴというは、富士山、立山、生駒山など、例が多い。
 名細 ナグハシ。クハシは、精妙なる意の形容詞。クハシ女《め》、クハシ矛《ほこ》などいう。ここは名のりつぱなの意。「名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》」(卷二、二二〇)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷三、三〇三)。形容詞は、古くは、シの形を以つて連體形としたので、この句は、次の句に對する連體形の句である。
 影友乃 カゲトモノ。背面の條にいう如く、南方をいう。カゲツオモの約で、日の當る方の面である。カゲは光をいう。
 大御門從 オホミカドユ。前の三山は近い山だから大御門にといい、吉野は遠いからユを用いて、分けてある。南方の大御門を通しての意。
 雲居尓曾 クモヰニゾ。ヰは接尾語。動かない雲を雲居という。遠方の意。
 遠久有家留 トホクアリケル。上のゾを受けて連體形で結んでいる。以上第一段。
 高知也 タカシルヤ。タカシルは既出。建築物の高く聳え立つ意をあらわす。ヤは拍子詞で、感動の助詞の一種。「おしてるや難波」「天なるや月日の如く」 の如く連體法につく。「石見のや高角山」の如き例のヤも同樣である。かようなヤは、歌われる場合に添えて歌うので、文筆に記録する場合には、多く省略される。それが文筆作品になるに及んで、五音七音に一句の音數を整理するために、助詞として登場したのである。高知ル天ノ御蔭の意に、次の句に續く。天を修飾する。
(242) 天之御蔭 アメノミカゲ。天から隱れるところの義で、宮殿をいう。祈年祭の祝詞に、「皇神《すめがみ》の敷《し》き坐《ま》す下つ磐板《いはね》に、宮柱|大《ふと》知り立て、高天《たかま》の原に千木《ちぎ》高知りて、皇御孫《すめみま》の命《みこと》の瑞《みづ》の御舍《みあらか》を仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隱り坐して」云々とある。
 天知也 アマシルヤ。天知ルは、高く聳える形容。次句の修飾句。ヤは高知也の條參照。
 日之御影乃 ヒノミカゲノ。日から隱れる處の宮殿の意。天之御蔭の條參照。
 水許曾婆 ミヅコソハ。御井の水、すなわち埴安の池の水を提示している。この宮殿の井の水はと、コソを以つて強く提示している。
 常尓有米 ツネニアラメ。
   ツネニアルラメ(神)     
   トキハニアラメ(神朱)
   トコシヘナラメ(考)
   ツネニアラメ(?)
   ――――――――――
   常磐爾有米《トキハニアラメ》(古義)
 水の恒久にあるべきことを云つて、この宮の久しく榮えることを祝つている。メはムのコソを受けた終止法である。
 御井之清水 ミヰノシミヅ。最後に、更に御井の清水を擧げて、一篇を統制している。
【評語】 この歌は、一篇の構成が整美を盡している。今その句法を表示すれは次の通りである。ミヰノシミヅハ(僻)、ミヰノマシミヅ(考)などの訓があるが、しいて七音にしないでもよい。
(前提部)やすみししわご大王、高照らす日の皇子、荒栲の藤井が原に、大御門始めたまひて、埴安の堤の上に、あり立たし見したまへば、
(243)(敍述部)〔四行の上に括弧〕
  大和の青香具山は、日の經の大御門に、春山と繁さびたてり。
  畝火のこの瑞山は、日の緯の大御門に、瑞山と山さびいます。
  耳高の青菅山は、背面の大御門に、よろしなへ神さび立てり。
  名ぐはし吉野の山は、影友の大御門ゆ、雲居にぞ遠くありける。
(感想部)高知るや天の御蔭
     天知るや日の語影(二行に括弧)の水こそは常にあらめ、御井の清水。
 一篇の結構、實に雄大に堂々としている。漢籍の賦の影響を受けて、宮殿の景勝をほめたものと思われるが、四方の山の美を稱えて、その中の水に云い來つたところは、大手腕である。三方に近い山をいい、最後に南方吉野の遠山を點出し來つたのも、活力がある。この歌、藤原の宮の四山の美を描くのに、作者が見る所と云わずに、天皇が御覽になれは云々と云つているのは、一つの手段であつて、人麻呂の吉野の宮での歌の一つにもこれが出ている。山の如き自然物がその性を盡して、奉仕する意味で、歌として莊重を加える所以である。
 
短歌
 
【釋】短歌。右の藤原の御井の歌の反歌である。
 
53藤原の  大宮|仕《つか》へ、
 生《あ》れ着くや  孃子《をとめ》が伴《とも》は、
(244) ともしきろかも。
 
 藤原之《フヂハラノ》 大宮都加倍《オホミヤツカヘ》
 安禮衝哉《アレツクヤ》  處女之友者《ヲトメガトモハ》
 乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》
 
【譯】藤原の宮の宮仕えに、生れてくる孃子の人々はうらやましいことである。
【釋】大宮都加倍 オホミヤツカヘ。藤原の宮に奉仕すること。名詞の句であつて、主題を提示している。「内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤツカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》(卷十三、三二三四)の用例がある。
 安禮衝哉 アレツクヤ。
   アレツケヤ(神) 
   アレツクヤ(古義)
   アレツガム (美)
   ――――――――――
   安禮衝武《アレツガム》(僻)
哉を武の誤とし、また原文のままに、共にアレツガムと讀む説があるが非である。哉をムと讀むことが無理であることは、既に「吾代毛所v知哉《ワガヨモシルヤ》」(卷一、一〇)の項に説明した。また衝の字は清音のツクであり、これを繼グの義に用いたとするも無理である。このままにアレツクヤと讀むべきである。アレツクは、「八千年爾《ヤチトセニ》 安禮衝之乍《アレツカシツヅ》 天下《アメノシタ》 所v知食跡《シラシメサムト》」(卷六、一〇五三)の用例があり、生れ著くの義で、この世に生まれ到る意と解せられる。ヤは感動の助詞。上記の「吾代毛所知哉」の句のヤに同じ。この句は、連體形の句で、次の處女ガ友を修飾する。
 處女之友者 ヲトメガトモハ。トモは、人々の意。多數の人をいう。マスラヲノ伴、佞人ノ伴などの用例がある
 乏吉呂賀聞 トモシキロカモ。諸本に乏吉召賀聞に作つているが、田中道麻呂の説に乏吉呂賀聞の誤とするによる。但し召は元暦校本等には呂に作つている。トモシはうらやましい意の形容詞。ロは意味無しに使(245)われる接尾辭である。微能佐加理?登《ミノサカリビト》 登母志岐呂加母《トモシキロカモ》」(古事記九六)、「多布刀伎呂可?《タフトキロカム》」(卷五、八一三)などの用例がある。
【評語】宮仕の人々のふるまいをうらやましいものと見ている。宮仕えのために生まれ來る孃子の伴というのは、主として諸國から上つて來る釆女たちをさしているのであろう。長歌では主として藤原の宮の自然美を描いたから反歌ではこれを補つて、人間の美を描くのである。
【參考】井を詠んだ歌の數首。
  山の邊《べ》の御井《みゐ》を見がてり神風《かむかぜ》の伊勢孃子《いせをとめ》どもあひ見つるかも(卷一、八一)
  落ち激《たぎ》つ走井《はしりゐ》の水の清くあれば廢《す》てては吾は去《ゆ》きがてぬかも(卷七、一一二七)
  馬酔木《あしび》なす榮えし君が掛《ほ》りし井の石井《いはゐ》の水は飲めど飽かぬかも(同、一一二八)
  春霞井の上《へ》ゆ直《ただ》に道はあれど君に逢はむとたもとほり來《く》も(同、一二五六)
  葛飾《かつしか》の眞間《まま》の井を見れば立ちならし水汲ましけむ手兒奈《てこな》し思ほゆ(卷九、一八〇八)
  山の邊の五十師《いし》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(卷十三、三二三五)
  鈴が音《ね》の驛馬驛家《はゆまうまや》の包井《つつみゐ》の水を賜へな妹が直《ただ》手よ(卷十四、三四三九)
  もののふの八十孃子等《やそをとめら》が汲《く》み亂《まが》ふ寺井の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花(卷十九、四一四三)
 
右歌、作者未v詳
 
右の歌は、作者いまだ詳ならず
【釋】右歌 ミギノウタ。前の藤原の宮の御井の歌の長歌、および短歌をさして、その作者の知られないことを註している。
 
(246)大寶元年辛丑秋九月、太上天皇、幸2于紀伊國1時歌
 
大寶元年辛丑の秋九月、太上天皇の、紀伊の國に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大寶元年 ダイホウノハジメノトシ。文武天皇の五年三月、元を立てて大寶という。これより前にも年號を立てたことはあつたが、しばしは中斷せられて無年號の年もあつた。大寶より後は、引き續いて年號を定められ、無年號の年は無くなつた。これから下は、文武天皇の御代の歌と推考される。元來本卷には、何々宮御宇天皇代の標目を掲げて歌を記載する例であつたが、ここに至つて年號を以つてこれに代えている。またこれから以下、多く左註によつて作者を記しているのも、前の記載法と相違する所である。思うにこれよりして別の資料によるものがあるのであろう。以下或る本の歌を加えれば三首の題である。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。御孫なる文武天皇に讓位して、太上天皇としてましました。太上天皇は、漢土で皇帝の父を太上皇というに始まる。正倉院文書に帝上天皇と書いたもの(天平勝寶九歳五月二日生江臣家道女等貢經文)があつて、字音でも讀んだことが推知される。
 幸于紀伊國時歌 キノクニニイデマシシトキノウタ。この時のこと、續日本紀には、大寶元年九月十八日の條に、「天皇幸2紀伊國1、」十月八日「車駕至2武漏温泉1、」十九日「車駕自2紀伊1至」とあつて文武天皇の行幸を傳えている。この時の歌は、卷の二、卷の九にも載せているが、卷の九には「大寶元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸2紀伊國1時歌」と題し、持統太上天皇、文武天皇御同列での行幸および御幸であつたことが知られる。
 
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿、
(247) つらつらに 見つつ思《しの》はな
 巨勢《こせ》の春野を。
 
 巨勢山乃《コセヤマノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 見乍思奈《ミツツシノハナ》
 許湍乃春野乎《コセノハルノヲ》
 
【譯】巨勢山の竝んで生えているツバキ、よく見ながら思い見たいものです。巨勢の春野のありさまを。
【釋】巨勢山之 コセヤマノ。巨勢は既出(卷一、五〇)。奈良縣南葛城郡の地名。藤原の京から紀伊の國に赴く通路に當る。
 列々椿 ツラツラツバキ。ツラツラは、列なつていることをいう語であるが、同時に、ツバキの葉の光澤があつて光つていることにも懸けていうと思われる。ツバキの語も光澤のある葉の樹の義であつて、ツラにもさような意味があるものであろう。以上二句、この歌の中心を成す句であるが、これを序に利用して、次のツラツラニを引き出すに役立てている。
 都良々々尓 ツラツラニ。心をこめて十分に視る有樣にいう副詞。新撰字鏡に、「※[目+鳥]、熟視也、豆良々々彌留」とあり、本集に、「
アシヒキノヤツヲノツバキツラツラニミトモアカメヤウヱテケルキミ」(卷二十、四四八一)とある。
 見乍思奈 ミツツシノハナ。ミツツオモフナ(元)、ミツツオモハナ(攷證)、ミツツシヌバナ(古義)。オモフナのナは、感動の助詞であつて、「阿斯用由久那《アシヨユクナ》」(古事記三六)、「吾乎禰之奈久奈《アヲネシナクナ》」(卷十四、三三六二)の如き用例があるが、多くは助動詞ムに接續して、戀ヒムナの如き形を採つており、動詞にただちに接續する例は、右に擧げた以外には見當らない。この訓による時は、現にツバキを見つつ、春野の景色を愛賞することであるの意になる。またシノハナの訓につけば、ナは希望の助詞となり、思慕したいものだの意味になる。これによれは旅行の出發に當つて、巨勢の野を通過することを豫定して詠んだことになる。ナを感動の助詞とす(248)ることは、この集の用例が稀少であるから、今シノハナとするによる。思は、オモフともシノフとも讀まれるが、春野を愛賞し思慕する意については、シノフと讀む方が適切である。
 許湍乃春野乎 コセノハルノヲ。コセは、初句の巨勢に同じ。四句のシノフの目的格としてこの句を置いている。短歌の末句が、何々ヲで留まる場合、そのヲは、古くは感動の助詞として使用されるのが通例であるが、この歌に至つては、目的格を示す助詞としての性格が濃厚となり、しかも一面には、なお感動の意の殘つていることが看取される。過渡的な使用法というべきである。
【評語】同音韻を利用した詞句のなめらかさは、全くすばらしい。躍動的な快調子が漲つている。秋の歌であつて、春にあこがれを感じている。あかるい内容の歌である。九月の御幸の歌であつて、しかも歌中春季に係けているので、ここの題詞を誤りとする説もある。しかしこのままでよく理解されるのである。
 
右一首、坂門人足
 
【釋】坂門人足 サカトノヒトタリ。傳記未詳。饒速日の命の天降の時に從い降つた神の子孫であるという。「うましものいづく飽かじを尺度等《さかとら》が角のふくれにしぐひあひにけむ」(卷十六、三八二一)という兒部《こべ》の女王の歌の尺度も、同氏であろう。
 
55 朝裳《あさも》よし 紀人《きびと》ともしも。
 亦打山《まつちやま》 行來《ゆきく》と見らむ
 紀人ともしも。
 
 朝毛吉《アサモヨシ》 木人乏母《キビトトモシモ》
 亦打山《マツチヤマ》 行來跡見良武《ユキクトミラム》
 樹人友師母《キビトトモシモ》
 
【譯】 この紀伊の國の人はうらやましいなあ、亦打山を行く時にも見、來る時にも見ているだろうが、この紀(249)伊の國の人はうらやましいなあ。
【釋】朝毛吉 アサモヨシ。集中、麻毛吉一、麻裳吉一、朝毛吉二、朝裳吉二の例がある。アサモは、アサに朝の字を書いたものは、朝、裳を着るということに興味をもつているだろう。また麻の字をあてたものは、材料について感じているだろう。ヨシは、青丹吉(卷一、一七)の條に説いたように、語原は感動の助詞であり、轉じて、佳良の意味の形容詞として考えられるに至つたものであろう。アサ裳、それを著るという意味に、キの枕詞となる。
 木人乏母 キビトトモシモ。キビトは紀の國の人。難波人、宇治人、東人、阿陀人、須磨人、奈良人、飛驛人などいう例である。トモシはうらやましい意の形容詞。モは感動の助詞。句切。以上第一段。
 亦打山 マツチヤマ。亦打は、マタウチを約めてマツチの音をあらわしている。大和から紀伊にはいるところの吉野川の右岸にある。眞土山とも書く。この山を越えて、紀伊の國の國府の方へ行くのである。句意は、眞土山をと、ヲを添えて解すべきである。
 行來跡見良武 ユキクトミラム。ユキクは、行くと來ると。往復の意。トは行くとして來るとしての意。「葦屋之《アシノヤノ》 宇奈比處女之《ウナヒヲトメノ》 奧槨乎《オクツキヲ》 往來跡見者《ユキクトミレバ》 哭耳之所v泣《ネノミシナカユ》」(卷九、一八二〇)の用例がある。ミラムは、ラムは助動詞、後の語法ではミルラムというべきを、この集では、一段活の動詞に限り、ミラムの如くいうのである。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムムマツラノ》」(卷五、八六二)などの用例がある。往來共に見るであろうの意で、次の句に懸かる連體形の句。以上ミラムに關する説明は、普通の説によつたのであるが、これにはなお問題が存するのである。「白菅乃《シラスゲノ》 眞野之榛原《マノノハリハラ》 往左來左《ユクサクサ》 君社見良目《キミコソミラメ》 眞野乃榛原《マノノハリハラ》」(卷三・二八一)。これは高市の黒人の妻の歌であるが、夫の黒人が京に上るのに對して、往還の路すがらに君こそは見らめというので、このミラメは、あきらかに將來を推量している。この、「往くさ來さ君こそ見らめ」は、「往來と見らむ」と同樣(250)の意を有するものと考えられる時に、「往來と見らむ」の解は、考え直されねばならない。「石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》 滷無等《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》」(卷二、一三一)。この例のミラメのように、かならずしも現在の人の心を推量しているはかりではなく、不定時についても、その時の現在の推量をあらわすのである。もちろん一方には、現在の時についてもいう。「比等未奈能《ヒトミナノ》 美良武麻都良能《ミラムマツラノ》 多麻志末乎《タマシマヲ》 美受弖夜和禮波《ミズテヤワレハ》 故飛都々遠良武《コヒツツヲラム》」(卷五、八六二)、「麻都良河波《マツラガハ》 多麻斯麻能有良爾《タマシマノウラニ》 和可由都流《ワカユツル》 伊毛良遠美良牟《イモラヲミラム》 比等能等母斯佐《ヒトノトモシサ》」(同、八六三)、「鹽早三《シホハヤミ》 礒廻荷居者《イソミニヲレバ》 入潮爲《アサリスル》 海人鳥屋見濫《アマトヤミラム》 多比由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷七、一二三四)、「之路多倍能《シロタヘノ》 藤江能宇良爾《フヂエノウラニ》 射射里須流《イザリスル》 安麻等也見良武《アマトヤミラム》 多妣由久和禮乎《タビユクワレヲ》」(卷十五、三六〇七)。これらは普通のラムの用法によつて解釋し得るものである。ミラムは、古い語法の殘存するものであつて、ラムの古い意義が、見られるのであろうと考えられる。それは現在の時に限るものでもないということである。
 樹人友師母 キビトトモシモ。第二句を更に繰り返して一首を終つている。
【評語】この歌は、二句と五句とに同一の句を繰り返している。これは古代の歌いものとしての短歌が、二句と五句とを句切とすることから來ているもので、音樂的な遺風を感じさせるものである。文筆作品時代にはいつては、二句切が無くなるのと、同音を重ねることの意義が薄弱になるのとで、この形は衰亡する。この集でも古い部分に比較的多いのは、その故である。なお二句と五句とに類形の句を用いたものは更にすくない。
【參考】二句と五句とに同一の句を重ねる歌。
  大和邊に往くは誰が夫《つま》。隱水《こもりづ》の下よ延へつつ往くは誰が夫《つま》(古事記五七)
  多遲比野に寢むと知りせは防壁《たつごも》も持ち來ましもの。寢むと知りせば(同七六)
  うるはしとさ寢しさ寢てば刈薦の亂れば亂れ。さ寢しさ寢てば(同八一)
  朝じもの御木《みけ》のさを橋、前つ君い渡らすも。御木のさを橋(日本書紀二四)
(251)  ぬば玉の甲斐の黒駒、鞍着せば命死なまし。甲斐の黒駒(同八一)
  枚方《ひらかた》ゆ笛吹き上《のぼ》る。近江のや毛野《けな》の若子い笛吹き上る(同九八)
  道の邊のはりとくぬ木としなめくもいふなるかもよ。はりとくぬ木と(琴歌譜)
  孃子ども孃子さびすも。唐玉を手本に纏きて孃子さびすも(本朝月令。琴歌譜には第二句を、「孃子さびすと」としている。)
  吾はもや安見兒得たり。皆人の得がてにすとふ安見兒得たり(卷二、九五)
  あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ。山のしづくに(同、一〇七)
  櫻田へ鶴《たづ》鳴きわたる。年魚市《あゆち》潟潮干にけらし。鶴鳴きわたる(卷三、二七一)
  白菅の眞野の榛原《はりはら》。行くさ來さ君こそ見らめ。眞野の榛原(同、二八一)
  大野山覇立ち渡る。わが嘆く息嘯《おきそ》の風に霧立ち渡る(卷五、七九九)
  梅の花今盛りなり。思ふとちかざしにしてな。今盛りなり(同、八二〇)
  豐國の香春《かはる》は我家《わぎへ》。紐の兒にい交《つが》り居れば香春は我家(卷九、一七六七)
  天の川|棚橋《たなはし》渡せ。織女《たなばた》のい渡らさむに棚橋渡せ(卷十、二〇八一)
  秋はぎに置ける白露。朝な朝な珠としぞ見る。おける白露(同、二一六八)
  人妻にいふは誰が言。さ衣のこの紐とけといふは誰が言(卷十一、二八六六)
  葛飾の眞間の手兒奈を眞《まこと》かもわれによすとふ。眞間の手兒奈を(卷十四、三三八四)
  庭に立つ麻手小衾。今夜だに夫《つま》よし來せね。麻手小衾(同、三四五四)
  明日香川塞くと知りせばあまた夜も率《ゐ》寐て來ましを。塞くと知りせば(同、三五四五)
  天にはも五百《いほ》つ綱|延《は》ふ。萬代に國知らさむと五百つ綱延ふ(卷十九、四二七四)
 
(252)右一首、調首淡海
 
【釋】調首淡海 ツキノオビトアフミ。壬申の年の天武天皇の擧兵に當り、初めから從つた二十餘人のうちの一人で、その時のこの人の日記が調連淡海の記として釋日本紀に引用されている。初め首の姓で、後に連の姓となつた。和銅二年に從五位の下を授けられた。應神天皇の御代に歸化した百濟の努理の使主《おみ》の子孫である。
 
或本歌
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の坂門の人足の歌と、詞句の類似が多いので、別の資料にあつた歌を載せたのである。その本の何であるかは知られない。なおこれは大寶元年九月の行幸の題には關係しない。
 
56 河|上《かみ》の つらつら椿、
 つらつらに 見れども飽《あ》かず。
 巨勢《こせ》の春野《はるの》は。
 
 河上乃《カハカミノ》 列々椿《ツラツラツバキ》
 都良々々尓《ツラツラニ》 雖v見安可受《ミレドモアカズ》
 巨勢能春野者《コセノハルノハ》
 
【譯》巨勢山につらなり生えている椿を、十分によく見るけれども飽きないことだ。この巨勢の春野は。
【釋】河上乃 カハカミノ。既出(卷一、二二)。
 巨勢能春野者 コセノハルノハ。第四句に對して、主格を提示している。
【評語】この歌は、前の坂門の人足の歌と詞句が類似しているので、萬葉集の編者が、特に附載したものである。いつ作られたものであるかは、わからないが、たがいに關係のある歌と考えられる。しかし歌の内容は、彼とは全く別個の獨立した歌として存立し得られる。この歌は、巨勢の春野に、現に對しており、前の歌は、(253)巨勢の春野に當面していないと見られることは、自然この歌の表現の方が、すなおになつた。それでむしろこの歌の方が本歌であるように思われる。「つら/\椿つら/\に」の句の如きは、「大君は神にしませば」の句などと同樣、いわゆる名句であつて、誰かが歌い出すと、他の人がこれを襲用して、時に應じた替歌を作るのである。これは歌が、古くは歌いものとしての傳來を有しているので、民衆の共有物としての性格があり、まだ個人の創作とする意識が發達していなかつたためである。
 
右一首、春日藏首老
 
【釋】春日藏首老 カスガノクラビトオユ。もと僧で辨基と稱した。學術あるによつて、大寶元年特に還俗して姓名を賜い、官吏に登用された。本集になお作歌があり、懷風藻に詩を傳えている。この時代、僧中出身の名家には、山田の史三方、吉田の連宜等があり、後に出る。
 
二年壬寅、太上天皇、幸2于參河國1時歌
 
二年壬寅、太上天皇の、參河《みかは》の國に幸でましし時の歌
 
【釋】二年壬寅 フタトセミヅノエトラノトシ。大寶二年。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。
 幸于參河國時歌 ミカハノクニニイデマシシトキノウタ。續日本紀によると、大寶二年十月十日、參河の國に幸すとあり、十一月、尾張、美濃、伊勢、伊賀の諸國を經て、二十五日にお還りになつた。以上は、「大夫之《マスラヲノ》」(卷一、六一)に至るまで五首の題である。歌の作者については、初めの二首は、左註に記事があり、後の三首は、歌の前に題している。これはそれぞれ別種の資料を受け入れているからであろう。
 
(254)57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》、
 入《い》り亂《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ。
 旅のしるしに。
 
 引馬野尓《ヒクマノニ》 仁保布榛原《ニホフハリハラ》
 入亂《イリミダレ》 衣尓保波勢《コロモニホハセ》
 多鼻能知師尓《タビノシルシニ》
 
【譯】引馬野に、ハギの花が咲き盛つている原に、入り亂れて、衣をハギの花の色に染めておいでなさい。旅行の記念として。
【釋】引馬野尓 ヒクマノニ。ヒクマノは、靜岡縣濱名郡、濱松市の北方に、今、曳馬村の名が殘つている。十六夜日記に「こよひはひくまのしゆくといふ所にとどまる。ここのおほかたの名をば濱松とぞいひし」と見える。この地は遠江の國なので、參河の國に幸せられた時の歌に、この地のあるのは不審として、久松博士は、愛知縣寶飯郡御津町字御馬下佐脇附近をこれに擬している。しかしこの歌は、出發に際して、御供に立つ人に贈つた内容であつて、當時、濱名湖のある遠江の國まで幸せられる計畫があつたものとも考えられる。敢えて不審とするに及ばない。
 仁保布榛原 ニホフハリハラ。ニホフハキハラ(元朱)、ニホフハリハラ(略、枝直)。ニホフは、花色の映發するをいう。ハリハラはハギ原である。ハンノ木の原の説があるが、この歌では、特にハギ原で無くては、歌意を成さない。ハギをハリということは、既に記した(卷一、一九)ニホフハリ原にの意味であるが、歌の中心としてハリ原を提示している。
 入亂 イリミダレ。イリミダレ(元墨)、イリミダリ(考)。動詞亂ルは、下二段活であるが、古くは四段に活用したと解せられている。本集には四段活の明證は無い。ここは自動詞として下二段活のままでよい。ハギ原の中に分け入つて徘徊する意である。
(255) 衣尓保波勢 コロモニホハセ。ニホハセは、におわしめる意の命令形。ハギの花を染料として衣服を染めよの意であるが、歌意としては、ハギの咲き亂れている野に分け入つて、そのハギの花の色が衣服に染みつくまでにせよの意である。紅葉の山に分け入れば、その紅葉の色に衣服が染まるかのように歌つている類である。「草枕旅行く人も往き觸れはにほひぬべくも咲けるはぎかも」(卷八、一五三二)とある歌意である。また黄葉については、「わが夫子が白栲ごろも行き觸ればにはひぬべくももみつ山かも」(卷十、二一九二)などある。當時の人々が、無色の衣を著しているので、はぎ原や紅葉の中を分けて行くと、一層その色に染まりそうに感ずるのである。
 多鼻能知師尓 タビノシルシニ。シルシは、記念。旅行したかいに、旅行の記念にの意。上の句意を限定している。
【評語】この歌の時節については、古來種々の説があるが、それは、作者も御幸の御供をして、引馬野にて作つたとするから、問題になつて、ハギの無い時だとの説も出る。御幸には留守をしていたので、御供に行く人に與えた作であるから、多分、ハギの花咲く頃に御幸が決定し、供奉の人々も定められた準備時代の作であろう。作者は、引馬野の秋をよく知つていて、この歌を成したと思われる。その地での作ではないが、白衣の人々の、ハギ原の中に入り亂れる美しい旅の風情が思いやられる。
 
右一首、長忌寸奧麻呂
 
【釋】長忌寸奧麻呂 ナガノイミキオキマロ。奧麻呂は、意吉麻呂とも書く。この人も傳が詳でないが、大寶二年の持統天皇の參河の國への行幸に、歌を詠んでいるから、まず高市の黒人と同時にいた人とされる。この人の作品は、短歌のみで、その作品は行幸の御供に從つた明るい作品のほかに、多數の物を題として一首の中(256)に詠み、また變わつた題材を取り扱うなど、遊戯的な方面にもその才を伸ばしている。この時代の歌にこのような一面のあつたこと、また見過せないところである。
 
58 何所《いづく》にか 船泊《ふなはて》すらむ。
 安禮《あれ》の埼 こぎ廻《た》み行きし
 棚無《たなな》し小舟《をぶね》。
 
 何所尓可《イヅクニカ》 船泊爲良武《フナハテスラム》
 安禮乃埼《アレノサキ》 榜多味行之《コギタミユキシ》
 棚無小舟《タナナシヲブネ》
 
【譯】何處に船泊りをすることだろうか。安禮の埼を漕ぎ廻つて行つた、横板も無いようなあの小さな舟は。
【釋】何所尓可 イヅクニカ。カは疑問の係助詞。次の句に懸かる。
 船泊爲良武 フナハテスラム。フナハテは、船の碇泊すること。ハツは終るの意の動詞の名詞形である。スラムは、動詞|爲《す》に助動詞ラムの接績した、その終止形。今は何處に船を停めることであろうかと、見えなくなつた船について推量し、時に拘わらずにその動作を推量している。
 安禮乃埼 アレノサキ。所在未詳。遠江の新居の埼であろうともいうが、臆説に過ぎない。サキは埼が正しい。流布本に崎に作るのは誤りである。
 榜多味行之 コギタミユキシ。タミは、迂廻する意の動詞。類聚名義抄に、迂廻にタミメクレルの訓がある。木集では、「礒前《イソノサキ》 榜手廻行者《コギタミユケバ》」(卷三、二七三)など、手廻の字をタミに當てて書いている。シは時の助動詞で、過去のことであるを示す。次の句に對する連體形の句。
 棚無小舟 タナナシヲブネ。タナは、横たえた板の義、ここはフナダナに同じ。フナダナは、新撰字鏡、類聚名義抄に舷の字に訓し、倭名類聚鈔に、※[木+世]の字に訓している。舷の上に、舷を丈夫にし、舟人の通行にも便するように附けた板。それも無いようなちいさな舟を、棚無し小舟という。安禮の埼を漕いで廻つて行つた舟、(257)實際に棚の無いことまで見屆けていうのではない。ただ粗末なちいさな舟という心を十分にあらわそうがために、具體的に、棚無シ小舟というのである。
【評語】旅の夕暮の歌である。暮れない前に、安禮の埼で見た光景を想起し、その行く先を案じている。しかしそれは表面にあらわれた所であつて、眞實は、作者自身の旅情が詠まれている。棚無し小舟の泊てる處を案じた裏には、御幸の御供とはいえ、自分たちの旅情が、ひしと迫つている。旅の日暮の心細さを、景物に託して歌つたもので、表面に露骨にいわないところに、かえつて無限の哀情がある。
【參考】同語、棚無し小舟。
  四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隱る棚無し小舟(卷三、二七二)
  海孃子《あまをとめ》棚無し小舟漕ぎ出《づ》らし。旅のやどりに?の音《と》聞ゆ(卷六、九三〇)
 
右一首、高市連黒人
 
【釋】高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出(卷一、三二題詞)。
 
譽謝女王作歌
 
【釋】譽謝女王 ヨサノオホキミ。系譜未詳。屬日本紀、慶雲三年の條に「六月癸西朔丙申、從四位下與謝女王卒」とある。この歌、大寶二年の御幸の時に、夫君を思つて詠まれたと見られるが、その夫君の何方であるかも不明である。作者はこの時京に留まつて、御幸に供奉した夫君を思つて詠まれたのであろう。しかし歌の表では、作者が供奉したとも見られる。
 
(258)59 ながらふる 妻吹く風の 寒き夜《よ》に、
 わが夫《せ》の君は ひとりか寐《ぬ》らむ。
 
 流經《ナガラフル》 妻吹風之《ツマフクカゼノ》 寒夜尓《サムキヨニ》
 吾勢能君者《ワガセノキミハ》 獨香宿良武《ヒトリカヌラム》
 
【譯】この世に生きながらえている妻を吹く風の寒い晩に、夫の君はひとりお寐《やす》みなされることでありましようか。
【釋】流經 ナガラフル。ナガレフル(檜)。動詞流ルをハ行下二段に再活用せしめた語で、もとの動詞の連續する意味をあらわす。その用法には、一、形體ある物の流れ行く。雨、雪、花など。「天之四具禮能《アメノシグレノ》 流相見者《ナガラフミレバ》」(卷一、八二)、「沫雪香《アワユキカ》 薄太禮爾零登《ハダレニフルト》 見左右二《ミルマデニ》 流倍散波《ナガラヘチルハ》 何物之花其毛《ナニノハナゾモ》」(卷八、一四二〇)、「櫻花《サクラバナ》 散流歴《チリナガラフル》」(卷十、》八六六)。二、時間を經過する。「至v今爾《イママデニ》 流經者《ナガラヘヌルハ》 妹爾相曾《イモニアハムトゾ》」(卷八、一六六二)、「於v君合常《キミニアハムト》 流經度《ナガラヘワタル》」(卷十、二三四五)、「月日《ツキヒハ》 攝友久《カハレドモヒサニ》 流經《ナガラフル》 三諸之山《ミモロノヤマノ》 礪津宮地《トツミヤドコロ》」(卷十三、三二三〇、「俗中波《ヨノナカハ》 常無毛能等《ツネナキモノト》 語續《カタリツギ》 奈我良倍伎多禮《ナガラヘキタレ》」(卷十九、四一六〇)。そこでこの歌のナガラフが、そのいずれであるかであるが、語を隔てて風を修飾すると見る説もある。直接に妻を修飾すると見て不可解ならばそれもやむを得ないが、流らえる妻でも意味を成すのであるから、そのように解するのが順當である。すなわち時を過している妻の意になる。待ちあぐねている情を寫していると見られるのである。
 妻吹風之 ツマフクカゼノ。雪吹風之《ユキフクカゼノ》(略、久老)。ツマは、代匠記に衣のつまなりといい、荒木田久老は、妻を雪の誤りとしている。これは文字通り配偶者の意に解すべきで、作者自身をいうのである。
 寒夜尓 サムキヨニ。この御幸は、十一月にわたつているので、この句となつている。
 吾勢能君者 ワガセノキミハ。夫君をさしている。次の句の主格をなす句。
 獨香宿良武 ヒトリカヌラム。カは疑問の係助詞。ヌは動詞。ラムは推量の助動詞。お一人でか寐たまうな(259)らむと推量している。
【評語】初二句は御自身の上を客觀的に敍せられている。それは寒い夜風のもとに孤影悄然たる作者を描寫する句として效果的である。その自分を吹く風の寒い晩に、わが君もまた獨寐をするだろうか。さぞお寒いことであろうと推量している。寒き夜の一語が中心をなしている歌である。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。續日本紀、靈龜元年(七一五)六月の條に「甲寅、二品長親王薨、天武天皇第四之皇子也」とある。前の歌と同じ御幸の時に、長の皇子が、御供に從つたある婦人を思つて詠まれた歌で、皇子は、その時京に留まられたと見られる。
 
60 暮《よひ》に逢ひて 朝《あした》面無《おもな》み、
 名張《なばり》にか 日《け》長く妹が 廬《いほり》せりけむ。
 
 暮相而《ヨヒニアヒテ》 朝面無美《アシタオモナミ》
 隱尓加《ナバリニカ》 氣長妹之《ケナガクイモガ》 廬利爲里計武《イホリセリケム》
 
【譯】昨夜は逢つて、今朝ははずかしさに隱れようとする。(その隱れることは、古語でナバルというが)あの名張山の邊に、幾日も幾日もわが思う妻は、廬していたのだろうか。
【釋】暮相而朝南無美 ヨヒニアヒテアシタオモナミ。この二句は、名張というための序詞である。ヨヒは前夜。夜、男に逢つて、朝ははずかしいので隱れるというのでナバリに懸かる。面無ミは、顔が無さにで、はずかしさにの意となる。
 隱尓加 ナバリニカ。ナバリは既出(卷一、四三)。古語に隱れるをナバルというので、伊賀の國の名張の地名に懸けている。名張は、伊勢と大和との通路に當る。カは疑問の係助詞。五句の廬セリケムに懸かつてい(260)る。
 氣長妹之 ケナガクイモガ。ケナガキイモガ(元朱)、ケナガクイモガ(神)。ケは、ある時間の長さをいう。ケナガクは、衣通の王の歌に、「岐美加由岐《キミガユキ》 氣那賀久那理奴《ケナガクナリヌ》」(古事記八九)・「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリヌ》」(卷五、八六七)など使用している。時の長くある意である。ケナガキと讀んで妹を修飾するとする説があり、「等之乃古非《トシノコヒ》 氣奈我使古良河《ケナガキコラガ》 都麻度比能欲曾《ツマドヒノヨゾ》」(卷十八、四一二七)など使用されているが、それは兒ら自身の戀う時の久しいのをいうので、此處には適わない。ここは、ケナガクと讀んで、五句を修飾する副詞とすべきである。妹は、作者の思つている女性をいう。その妹が、時長く廬していたであろうというのである。
 廬利爲里計武 イホリセリケム。イホリは、假屋を作つて宿ること。セリはしてあるをいう。ケムは過去推量の助動詞。御幸に從つた妹が歸つて來た時の歌とする萬葉集精考(菊池壽人氏)の説がよい。
【評語】暮ニ逢ヒテ朝面無ミは、序であるが、名張を引き出す句として、非常に巧みな句というべきである。妹を思う歌であるから、この句がある。それから轉じて、主題にはいつて、待ち切れなかつた情を歌つているはずであるが、この序が巧みすぎるので、幾分餘裕が感じられる。もつともこの序詞は、やはり何人かが云い出すと皆が感心して襲用しているほどの句であつて、他にも用いられている。
 暮《よひ》に逢ひて朝《あした》面無《おもな》み名張野のはぎは散りにき黄葉はや繼げ(卷八、一五三六)
 
舍人娘子、從駕作歌
 
舍人の娘子の、從駕《おほみとも》にして作れる歌
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。舍人は氏であろう。この氏は、新撰姓氏録に、百濟の國の人利加志貴王の(261)後であるとしている。娘子は、若い女をいう。イラツメと讀むべしという説があるが、やはりヲトメと讀むがよい。イラツメは、身分のよい婦人にいう語であつて、この集の娘子は、イラツメと呼ばれるほどの身分でない人が多く、この舍人の娘子も、さして身分のよい人とも思われない。何々の娘子とあるは、すべて若い女性をいう。舍人の娘子は、卷の二に舍人の皇子と歌を贈答している。
 從駕 オホミトモニシテ。既出(卷一、三九左註)。この歌まで、大寶二年の御幸の時の作である。
 
61 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立《た》ち向ひ 射る圓形《まとかた》は、
 見るに清《さや》けし、
 
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手插《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカヒ》 射流圓方波《イルマトカタハ》
 見尓清潔之《ミルニサヤケシ》
 
【譯】勇士が狩矢を腋ばさんで、立ち向つて的を射る、その圓方の浦は、見るに清らかである。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出(卷一、五)。立派な男子。
 得物矢手插 サツヤタバサミ。サツヤは、動物に對してこれを支配する靈威の力をサチという。そのサチのある矢。サツ弓、サツ雄、サツ人などの用例がある。タは接頭語。威力ある矢をさしはさんで。
 立向 タチムカヒ。立ち向かつて射ると、次の句に續く。
 射流圓方波 イルマトカタハ。初句の丈夫ノからこの句の射ルまで、圓(的)というための序である。圓方は伊勢の國の浦の名。延喜式神名帳に、伊勢國多氣郡に、服部麻刀方神社がある。その地であろうという。今は海岸ではなくなつている。伊勢國風土記の逸文(參考欄參照)に、當時(奈良時代初めか)既に江湖となつたと見えている。圓方の名は圓形の灣であるからいう。
 見尓清潔之 ミルニサヤケシ。サヤケシは、清明にあるをいう。本集には、山川の景にこの語を使うことが(262)多い。「河見者《カハミレバ》 左夜氣久清之《サヤケクキヨシ》(卷十三、三二三四)など。
【評語】この歌は序歌としてよくできている。主たる内容は、圓方の浦は清らかであるというに過ぎない。そのマトというために、長い序を持つて來たので、その序の内容、武士が矢をさしはさんで的に立ち向かうという、いかにも颯爽たる氣分で、主たる内容の印象を助けている。内容とは無關係であつて、しかも序と主文との氣分に共通の點がある。後の連歌、俳諧の興味は、これらの序歌の味から發育したもので、單に形を變えたものに過ぎないと考えられる。
【參考】別傳。
  的形浦者、此浦地形似v的。故爲v名也。【今已跡絶成2江湖1也。】。天皇行2幸濱邊1、歌曰、麻須良遠能 佐都夜多波佐美 牟加比多知 伊流夜麻度加多 波麻乃佐夜氣佐(伊勢國風土記【萬葉集註釋所引】))
 
三野連名闕、入唐時、春日藏首老作歌
 
三野《みの》の連《むらじ》【名闕けたり、】入唐の時、春日《かすが》の藏首老《くらびとおゆ》の作れる歌
 
【釋】三野連名關 ミノノムラジ、ナカケタリ。單に三野の連とのみで、その名が傳わらないというのである。萬葉集編纂の當時、その資料としたものに、名を傳えていなかつたものと見える。しかし萬葉集の西本願寺本等の胥入に、「國史云、大寶元年正月、遣唐使民部卿粟田眞人朝臣已下百六十人乘2船五隻1、小商監從七位下中宮小進美奴連岡麻呂」とあり、また明治五年に奈良縣平群郡からこの人の墓誌が掘り出され、それにも大寶元年五月唐に使したこと、神龜五年十月六十七で死んだことが見えている。三野の連は、この美努の連に同じく、新撰姓氏録に、角凝魂《つのごりむすび》の神の後と傳えている。その美努の連岡麻呂が唐に遣された時に、春日の老の作つた歌で、岡麻呂の作ではなく、また他にも岡麻呂の作歌は、傳わらない。
(263) 入唐時 ニフタウノトキ。遣唐使の一人として唐に赴いた時の意。入唐とは、唐を主としていう云い方で、日本からいえば、當を失している。元來、漢文の書き方は、大陸から來た人が教え、自分の方を中心として教えたので、かような書き方を生じて、怪しまなかつたのである。日本から公式に、中國に便を遣されたのは、推古天皇の十五年に、小野の妹子を隋に遣されたのが初めである。その後、囘を重ねて使を出發せしめ、平安朝に至つて寛平年間に菅原の道眞の建議によつて廢せられるまで、引き續き行われた。かの地は、初めは隋の朝であつたが、まもなく唐の朝となつたので、これを遣唐使と稱する。文武天皇の大寶元年の發遣以來、奈良朝盛期の遣唐は最大規模に行われた。遣唐使の目的は、かの土の文化をわが朝に移入することであり、留學生僧侶等を從わしめたのもこれがためである。かくて歸朝したものは重く用いられるのを常とした。しかし、萬里の波濤を凌いで行くこととて、途中に困難が多く、愉快な旅でないことは無論である。萬葉集としては、遣唐關係では、行を送る歌が大部分を占めている。ここに入唐の時とあるのは、文武天皇の大寶年間の時のことである。大寶元年に出發することになつて筑紫に赴いたが、風波のために後れて、二年六月にその地を出發して唐に渡つた。
 春日藏首老 カスガノクラビトオユ。既出(卷一、五六)。美努の岡麻呂に贈つて、その行途の無事にして早く還らむことを歌つている。
 
62 在根《ありね》よし 對馬《つしま》の渡《わたり》、
 海《わた》なかに 幣《ぬさ》取り向けて、
 早《はや》還《かへ》り來《こ》ね
 
 在根良《アリネヨシ》 對馬乃渡《ツシマノワタリ》
 渡中尓《ワタナカニ》 幣取向而《ヌサトリムケテ》
 早還許年《ハヤカヘリコネ》
 
【譯】山の姿のよいかの對馬の海峽の海の途中で、幣を神に奉つて祭をして、早く還つていらつしやい。
(264)【釋】 在根良 アリネヨシ。
   アリネヨシ(類)
   アリネラ(札)
   アラネヨシ(美、秋成)
   ――――――――――
   百船能《モモフネノ》(考)
   百都舟《モモツネ》(考)
   布根竟《フネハツル》(玉、大平)
   大夫根之《オホフネノ》(古義)
 青丹吉、朝毛吉などと同型の枕詞である。アリネは攷證には荒根の義といい、その他、誤字説もあるが從いがたい。アリは、「阿理袁《アリヲ》」(古事記九九)のアリに同じく、そこに存在する意をあらわす語なるべく、ネは、嶺の義とすべきである。對馬はうち見た島山の姿の宜しき島とて、この枕詞を生じたのであろう。
 對馬乃渡 ツシマノワタリ。對馬は、古事記上卷に津島とあり、舟|著《つ》きの島の義である。對馬の文字は、日本書紀に見え、また、古く漢籍の魏志倭人傳に見えている。日本から大陸に渡る交通の要衝に當つていることは、いうまでもない。ワタリは、河でも海でも渡るべき處にいう。野山にも渡るべき地形にはワタリという。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十一、二三七九)の渡は、陸上にいうと解せられる。「大舟之《オホフネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》」(卷一、一三五)の渡も普通名詞とすべきである。ここの對馬の渡は、勿論海上で、對馬に渡るべき海上をいう。大陸に赴く途中、風波の烈しい處として知られているので、これを擧げて、無事に通過することを願つている。
 渡中尓 ワタナカニ。ワタは、渡に同じ。古語に、海洋をワタというのは、渡るべきものであるからいうのであろう。對馬に渡る海上においての意。ワタリワタナカニと、ワタの音を重ねて、調子をなめらかにしている。
 幣取向而 ヌサトリムケテ。ヌサは、手向の祭に使用する布麻絲絹紙の類をいう。トリムケテは、それを神(265)に手向けての意。旅行の途上、手向の祭をして、無事を願つたことは、「白浪乃《シラナミノ》」(卷一、三四)の歌で説明した。ここは海上で手向の祭を行うことをいう。
 早還詐年 ハヤカヘリコネ。コネは來ねで、來よと希望する語法。
【評語】當時、旅行の困難な時代にあつて、殊に大陸へ渡るのは、非常な冒險であつた。その中にも、海の荒いので有名な朝鮮海峽で、神を祭つて無事に行つていらつしやいと歌つたのである。旅に行く人を送るに、かように祭をするようにと心づけた歌はいくつもある。送別の一の儀禮のようにもなつている。初句の枕詞も、對馬の印象を描くに役立つものである。二三句の續きは、ワタリワタナカニと同音を利用しており、この歌そのものは、序歌では無いが、いくらか序歌的な氣分を感じさせる。
 
山上臣憶良、在2大唐1時、憶2本郷1作歌
 
山上《やまのうへ》の臣《おみ》憶良《おくら》の、大唐にありし時、本郷を憶ひて作れる歌
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 在大唐時 モロコシニアリシトキ。前と同じく文武天皇の大寶元年に、憶良は遣唐少録となつて、大使粟田の眞人に從つて唐に渡り、翌々年慶雲元年六月に歸朝した。その唐にあるあいだに詠んだ作である。大唐と書いたのは、尊んで書いたので、大陸崇拜の思想があらわれている。大唐はモロコシと讀むが、集中にモロコシと讀むべき明證は存しない。
 本郷 モトツクニ。本居である郷土をいう。ここは、大陸から日本をさしていう。
 
63 いざ子ども はやく日本《やまと》へ。
(266) 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の濱松、待ち戀ひぬらむ。
 
 去來子等《イザコドモ》 早日本邊《ハヤクヤマトヘ》
 大伴乃《オホトモノ》 御津乃濱松《ミツノハママツ》 待戀奴良武《マチコヒヌラム》
 
【譯】さあ人々よ、早く日本へ歸りましよう。大伴の御津の濱邊の松も待ち戀うていることでしょう。
【釋】去來子等 イザコドモ。去來をイザと讀むのは、この字に移動をうながす意味の用法があるからであろう。イザは誘いかけた詞。子は若いもの、または部下に對して、親しみいう詞、ドモは等の意。ここでは舟子從人等を總括していう。
 早日本邊 ハヤクヤマトヘ。ハヤヒノモトヘ(元)、ハヤクヤマトヘ(類墨)、ハヤモヤマトヘ(略)、ハヤヤマトベニ(古義)。日本は、枕詞の場合には、ヒノモトと讀むが、地名としてはヤマトである。この句で一段落となる。下に詞を省略してある云い方である。
 大伴乃 オホトモノ。オホトモは地名。集中、御津に冠するもの多く、また、「大伴乃《オホトモノ》 高師能濱《タカシノハマ》」(卷一、六六)とも見えており、大阪灣に面する一帶の總名であつたようである。この地名は大伴氏の本居であるので、出たものなるべく、日本書紀欽明天皇紀には、「大伴金村大連、居2住吉宅1、稱v疾而不v朝」とある。河内の國の伴林は、その名を殘しているものであろう。
 御津乃濱松 ミツノハママツ。御津は、難波の御津で、ミは津に對して敬意をもつてつける。今の大阪の邊にあつたと考えられる。遣唐使の船もその地から船出をするので、忘れがたいその地の濱松を擧げて、次の句の主格としたものである。
 待戀奴良武 マチコヒヌラム 四句の松を受けて、マチコフと起している。ヌラムは確にそうであろうと推量する語法。
(267)【評語】船出をした地の濱松を擧げて、それに對する戀情を、逆に松が待ち戀うているだろうと歌つている。故郷戀しい心が巧みに描かれている。集中の歌は四千五百餘首に及び遣唐使遣新羅使に關する歌もすくなくないが、しかも海外にあつて作つた歌は、これ一つである。そういう點で、後に安倍の仲麻呂が、明州で月を見て作つたと傳える、「あをうなはらふり放《さ》け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と共に、珍しい作品と稱すべきである。
【參考】同句、いざ子ども。
  いざ子ども大和へ早く白管の眞野の榛原手折りて行かむ(卷三、二八〇)
  (上略)いざ子どもあへて榜ぎ出む。海上《には》もしづけし(同、三八八)
  いざ子ども香椎の滷に白栲《しろたへ》の袖さへ沾《ぬ》れて朝菜採みてむ(卷六、九五七)
  白露を取らば消ぬべし。いざ子ども露にきほひてはぎの遊せむ(卷十、二一七三)
  いざ子どもたはわざなせそ。天地の固めし國ぞ。大和島根は(卷二十、四四八七)
   御津の濱松待ち戀ひぬらむ。
  ぬばたまの夜明しも船は榜ぎ行かな。御津の濱松待ち戀ひぬらむ(卷十五、三七二一)
 
慶雲三年丙午、幸2于難波宮1時、志貴皇子御作歌
 
慶雲三年丙午、難波の宮に幸でましし時、志貴《しき》の皇子の作りませる御歌
 
【釋】慶雲三年丙午 キヤウウニノミトセヒノエウマノトシ。慶雲は、文武天皇の年號。この年九月二十五日、難波の宮に幸せられ、十月十二日に還幸せられた。
 幸于難波宮時 ナニハノミヤニイデマシシトキ。難波には、古くは仁コ天皇、孝コ天皇の皇居もあつた。こ(268)こは離宮である。これは以下二首の題詞である。
 
志貴皇子 シキノミコ。既出。
 
64 葦邊《あしべ》ゆく 鴨の羽交《はがひ》に 霜|零《ふ》りて
 寒き夕《ゆふべ》は、
 倭《やまと》し念ほゆ。
 
 葦邊行《アシベユク》 鴨之羽我比尓《カモノハガヒニ》 霜零而《シモフリテ》
 寒暮夕《サムキユフベハ》
 倭之所v念《ヤマトシオモホ》
 
【譯】 葦邊を行く鴨の羽交に霜が降つて、寒い夕べは、大和のわが家のことが思われる。
【釋】 葦邊行 アシベユク。アシベは、アシの生えている岸邊。この句は、寫實ではない、鴨の棲息?態を描いて鴨を説明している。更にこれを約言すればアシガモの語となる。
 鴨之羽我比尓 カモノハガヒニ。ハガヒは、羽の重なり合う義で、鳥の翼の疊まれているをいう。鴨の羽交は、部分を擧げて全體の印象をあきらかにするもので、鴨に霜が降るというべきを、鴨の羽交に霜が降ると云つたのである。
 霜零而 シモフリテ。以上、次句の寒き夕べの有樣を具體的に描寫している。
 寒暮夕 サムキユフベハ。暮夕は、同義の字を重ねている。この句、寒い夕べにはの意である。
 倭之所念 ヤマトシオモホユ。倭は、元暦校本等による。仙覺本には和に作つている。ヤマトに和の字を使用するのは、古事記にも本集にも、例はあるが、古くは倭の字を使うのが通例である。この句のヤマトは、帝都を中心として云つている。シは強意の助詞。
【評語】海邊の寒夜の情景に筆を起して、故郷を思う心を適切にあらわしている。鴨の羽交に霜が降るとは、その動物を憐む心から出發して、自己の旅情を顧みているのである。寒夜の景況を、具體的に描寫し、霜のふ(269)る場處を、葦邊行ク鴨ノ羽交ニとまでこまかく指定しているのが、極めて效果的である。家郷を思う歌も多いが、代表的なすぐれた歌である。
 鴨に霜の降ることによつて寒夜の情を寫している歌には、高橋蟲麻呂歌集から出た歌に、
  埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる。おのが尾に零り置ける霜を拂ふとにあらし(卷九、一七四四)
がある。
 
長皇子御歌
 
【釋】 長皇子 ナガノミコ。既出。
 
65 霰うつ 安良禮《あられ》松原、
 住吉《すみのえ》の 弟日孃子《おとひをとめ》と
 見れど飽かぬかも。
 
 霰打《アラレウツ》 安良禮松原《アラレマツバラ》
 住吉乃《スミノエノ》 弟日娘與《オトヒヲトメト》
 見禮常不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》
 
【譯】 霞のはらはらと打ちつけるこの安良禮松原よ、住吉の弟日孃子と共に見ていても、飽きることを知らないことだなあ。
【釋】 霰打 アラレウツ。ミゾレフリ(元朱)、ミゾレフル(京赭)、アラレフル(仙)、アラレウツ(代初)、アラレウチ(古義)。文字通りアラレウツと讀む。霰の強くたばしる有樣が描かれている。古事記下卷に、「佐佐波爾《ササハニ》 宇都夜阿良禮能《ウツヤアラレノ》」(八〇)とある。次の句に對する連體句。
 安良禮松原 アラレマツバラ。萬葉集古義に、新撰姓氏録攝津國諸蕃の荒荒公、日本紀略の「延喜三年癸丑五月十九日、授2攝津國荒荒神從五位下1」などの證を擧げて、アララの地名あることをいい、それが轉じてア(270)ラレとも言つたものとしている。そのアララは、もと松のまばらに立つているより出た名であろう。
 住吉乃 スミノエノ。この地名、本集に、須美乃延、須癸乃江など書かれている。今、大阪市の一部になつている。
 弟日娘與 オトヒヲトメト。オトヒは、オトヒメ(弟姫)のオトヒと同じで、若い人の意であろう。實名ではないようである。肥前國風土記に、「大伴狹手彦連、即娉2篠原村弟日姫子1成v婚」とある。トは、弟日娘子と共にの意に解するを順當とする。あられ松原と弟日娘と二つ竝べての意とする説は、無理で、さようにしないでも解せられる。
 見禮常不飽香聞 ミレドアカヌカモ。既出(卷一、三六)。
【評語】霰うつ安良禮松原は、聞くからに清らかな松原の情景である。アラレを重ねたのも、調子を快調にしている。その松原を、孃子と共に見ていると、何時までも飽きないという、松原を讃した歌である。しかし、内意は、孃子とともに見ているから、飽きないので、内容の中心は、この方にあるのである。すぐれた歌である。
 
太上天皇、幸2于難波宮1時歌
 
太上天皇の、難波の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】太上天皇、持統天皇。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。持統天皇が、太上天皇として難波の宮に行幸のあつたことは傳わらない。持統天皇は、大寶二年十二月に崩御されたので、慶雲三年の難波の宮の行幸の時の歌の次にこれを載せているのは、順序について疑問がある。この時の歌は、前の歌とは別の資料から出ていると(271)見られるので、事實は大寶二年よりも前の事と考えられている。この題詞は、以下四首に懸かつている。
 
66 大伴の 高師《たかし》の濱の 松が根を、
 枕《まくら》に寐《ぬ》れど 家し偲《しの》はゆ。
 
 大伴乃《オホトモノ》 高師能濱乃《タカシノハマノ》 松之根乎《マツガネヲ》
 枕宿杼《マクラニヌレド》 家之所v偲由《イヘシシノハユ》
 
【譯】大伴の高師の濱の松の根を枕として寐るけれども、わが家が戀い慕われる。
【釋】大伴乃 オホトモノ。既出(卷一、六三)。
 高師能濱乃 タカシノハマノ。高師の濱は、大阪府泉北郡の地名。和泉の國に屬している。日本書紀には高脚の海がある。
 松之根乎 マツガネヲ。次句にこれを枕とすることが見え、ここは松樹の根と解すべきである。
 枕宿杼 マクラニヌレド。
   マクラニヌレド(元)
   マクラニネヌト(仙)
   マクラニヌルトモ(代初)
   マキテシヌレド(考)
   マキテサヌレド(燈)
   マキテイヌレド(燈)
   マクラキヌレド(講義)
   ――――――――――
   枕宿夜《マキテヌルヨハ》(玉)
 枕の字を、どのように讀むかに問題が存するのである。枕の字を、動詞マク、及びマクラクに當てて讀むことは、例もあり、以上の訓は、いずれも可能とされる。そこでいずれがもつとも妥當であるかというに、まず(272)マクラクの語は、名詞マクラを活用したものと見るべく、その用例は、天平以後のみであつて、古い語と見られず、この歌に適當であるとは言いがたい。マキテシと讀むのは、テシを讀み添えるものであつて、枕の一字に對しては、他の讀み方があれば避くべきである。マクラと讀む例はもつとも多く、ニを讀み添えるだけで濟み、訓法としてもおだやかである。松が根を枕として寐れどの意である。ドはドモの意であるが、このドは、何々の事ではあるが、それはそれとしての意をあらわすものである。たとえは「小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ。別れ來ぬれば」(卷二、一三三)の如き、小竹の葉は騷いでいる。それとは別にの意を、ドモであらわしている。かような意味の用法におけるドである。
 家之所偲由 イヘシシノハユ。家はわが家。シは助詞。所偲に由を書き添えたのは、讀み方を確にするためである。わが家が思い慕われるの意。
【評語】松が根を枕として寐るという所に、海濱に旅寐する風情がよくあらわれている。しかもそういう風雅も家郷戀しさの念を如何ともすることができない。そこにまたこの歌の風情が生ずるのである。
 
右一首、置始東人
 
【釋】置始東人 オキソメノアヅマビト。傳未詳。
 
67 旅《たび》にして 物戀《ものこほ》しきに、
 鶴《たづ》が音《ネ》も 聞えざりせば
 戀《こ》ひて死《し》なまし。
 
 旅尓之而《タビニシテ》 物戀之《モノコホシ》□
 □鳴毛《ネモ》 不v所v聞有世者《キコエザリセバ》
 孤悲而死萬思《コヒテシナマシ》
 
【譯】旅に出て、何となく家戀しさに堪えないのに、もしも鶴の鳴く聲も聞えなかつたら、戀い死にに死ぬこ(273)とだろう。
【釋】旅尓之而 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありての意。
 物戀之□鳴毛 モノコホシ□ネモ。大矢本系統の本には、物戀之伎乃鳴事毛とし、モノコヒシキノナクコトモと訓し、諸説おおむねこれに從つている。しかしこの字面は、諸種の傳來を集めたもので、伎乃、および事の字は古い傳來には無く、闕脱してあつたものと認められる。すなわち西本願寺本には、本文は、物戀鳴毛とあつて、その戀鳴の中間の右に之の字、左に伎乃の字を補い書き、頭書には別筆で、「伎乃多本無v之。但法性寺殿御自筆本有v之」とある。また鳴毛の中間の左に「事、六條本有之」とある。元暦校本、類聚古集等には、本文を、物戀之鳴毛とし、元暦校本には、右に伎および朱で事を補つている。これらを綜合して考えるに、この句は、古來脱落があつて、數字を失つたものと認められる。これを補うのに多種の本から集め來ることは宜しくない。よつて今本文は、元暦校本の傳來のままにしておく。そのいかなる字が脱落しているかというに、これを推定することは困難であるが、「客爲而《タビニシテ》 物戀敷爾《モノコホシキニ》」(卷三、二七〇)などの例があつて、物戀シキニとあつたのであろうかとは考えられる。しかしこれに鳥の鴫を懸けて言つたというが、そうい(274)う例は他に見えない。その下の字は、鳴の字が、これも集中に例のあるように、ネと讀まれるので、その上に鶴、もしくは雁の如き鳥名を脱したとも見られ、これを聞いて慰むという歌意よりして、しばらく鶴の字脱として、鶴《タヅ》ガ音《ネ》モの訓を想定し得られる。以上はもとより臆説であつて、ただちに定訓とはしがたいが、今これを參考までに掲げておく、物戀シとは、何事となしに戀しい?態である。
 不所聞有世者 キコエザリセバ。これは音聲本位の訓法であつて、文字としては、キコユズアリセバである。聞えなかつたならばという假設法。
 孤悲而死萬思 コヒテシナマシ。マシは、不可能であることのわかつているむだな希望、または假設の推量で、實際に反することを想像していう助動詞。ここは假設の推量。もし何々であつたならば、戀をして死んだであろう。しかし死ななかつたの意である。旅の寂しい心を、せめて鳥の聲にまぎれている意。
【評語】この歌は問題の歌である。從來の、物戀しきに鴫を懸けたという解は首肯できないが、さりとてそれに代るべき名解も無い。なお他の歌には、鶴が音の聞えるために旅情を増すという内容のものがある。ここにも右の假訓が落ちつかない理由がある。
 
右一首、高安大島
 
【釋】高安大島 タカヤスノオホシマ。傳未詳。目録には作者未詳歌とある。
 
68 大伴の 御津《みつ》の濱なる 忘《わす》れ貝《がひ》、
 家なる妹を 忘れて念《おも》へや。
 
 大伴乃《オホトモノ》 美津能濱《ミツノハマ》尓有《ナル・ニアル》 忘貝《ワスレガヒ》
 家《イヘ》尓有《ナル・ニアル》妹乎《イモヲ》 忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》
 
【譯】この大伴の御津の濱にある貝は、忘れ貝という名だが、さて家に殘して來た妻は、忘れることはできな(275)いなあ。
【釋】大伴乃美津能濱尓有 オホトモノミツノハマナル。大伴の美津の濱は既出(卷一、六三)。尓有は、尓は表音文字、有は表意文字であるから、ニアルとすべきであるが、音聲としてはナルである。かなをつけるに當つて、歴史的に書くか、表音式によるかの違いである。次句に對する連體句。
 忘貝 ワスレガヒ。貝の主が、忘れ去つたもぬけの貝がらをいうのだろう。「和須禮我比《ワスレガヒ》 與世伎弖於家禮《ヨセキテオケレ》オキツシラナミ
」(卷十五、三六二九)の如き、その意である。また「
ワスレガヒヒリヘドイモハ」(卷十二、三一七五)ともいう。「海處女《アマヲトメ》 潜取云《カツギトルトイフ》 忘貝《ワスレガヒ》」(卷十二、三〇八四)の例があつて、海中にはいつて取ると歌つているが、これは京人が貝がらについて歌つたもので、かならずしも實際では無いだろう。今忘れ貝という貝は、ハマグリに似て、穀は白く、縱に紫褐色の條斑及び横にこまかい斑がある。かような特殊の貝をいうとするが、歌の意は、そのような特殊の貝ではないようである。貝の名を忘れ貝というが、その名に反して忘れることはできないの意を歌つている。なおこの類の語には、忘れ草がある。
 家尓有妹乎 イヘナルイモヲ。家にある妻をの意である。
 忘而念哉 ワスレテオモヘヤ。ワスレテオモフは、思い忘れるの意であつて、忘れてまた思うの謂ではない。ヤは反語。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)の條に説明した。思い忘れることが無いの意である。
【評語】目前に横たわる貝を見て旅情を述べている。忘れ貝の名に寄せて、名に實の伴なわないことを歌つている。名に實の伴なわないことをいうのは常套手段であつて、忘れ草、名草山などに寄せて、しばしば歌つている。歌の趣からも、忘れ貝を一種の貝とするよりも、貝のぬしの忘れて行つた貝として見る方が、興が深い。
【參考】わすれ貝。
  わが夫子に戀ふれば苦し。暇あらは拾ひて行かむ。戀わすれ貝(卷六、九六四、大伴坂上の郎女)
(276)  暇あらば拾ひに往かむ。住吉の岸に寄るといふ戀わすれ貝(卷七、一一四七)
  住吉に往くといふ道に昨日見し戀わすれ貝言にしありけり(同、一一四九)
  手に取るがからに忘ると海人の云ひし戀わすれ貝言にしありけり(同、一一九七)
  木の國の飽等《あくら》の濱のわすれ貝我は忘れじ。年は經ぬとも(卷十一、二七九五)
  海處女潜き取るといふわすれ貝代にも忘れじ。妹が姿は(卷十二、三〇八四)
  若の浦に袖さへ沾れてわすれ貝拾へど妹は忘らえなくに(同、三−七五)
  秋さらばわが船泊てむ。わすれ貝寄せ來て置けれ。沖つ白波(卷十五、三六二九)
  わが袖は手本《たもと》とほりて沾れぬとも戀わすれ貝取らずは行かじ(同、三七一一)
 
右一首、身入部王
 
【釋】身入部王 ムトベノオホキミ。系譜未詳。續日本紀に六人部の王とある人と同人とすれば、和銅三年正月に從四位の下、その後順次昇進して天平元年正月に正四位の上となつて卒している。藤原武智麻呂傳に、當時の風流の侍從をあげた中に六人部の王がある。
 
69 草枕 旅行く君と 知らませば、
 岸の埴生《はにふ》に にほはさましを。
 
 草枕《クサマクラ》 客去君跡《タビユクキミト》 知麻世波《シラマセバ》
 崖之埴布尓《キシノハニフニ》 仁寶播散麻思乎《ニホハサマシヲ》
 
【譯】草の枕の旅をなさる御方と存じておりましたなら、岸邊の埴生で、お召しものをお染め致しましたでしようものを。
【釋】草枕 クサマクラ。既出。枕詞。
(277) 客去君跡 タビユクキミト。左註に依るに、君は長の皇子をさす。
 知麻世波 シラマセバ。マセは假設推量の助動詞マシの未然形で、この句は、もし知つておつたならばの意をあらわす。これを受けて、下に多くマシを以つて受けている「可久婆可里《カクバカリ》 古非牟等可禰弖《コヒムトカネテ》 之良末世婆《シラマセバ》 伊毛乎婆美受曾《イモヲバミズゾ》 安流倍久安里家留《アルベクアリケル》」(卷十五・三七三九)。これは下にマシで受けない例である。
 崖之埴布尓 キシノハニフニ。ハニフは、埴のある地。ハニは土。「白浪の千重に來寄する住吉の岸の黄土《はにふ》ににほひて行かな」(卷六、九三二)など、住吉の岸の埴生は、衣を染めることに關して歌われている。フは、通例植物の生地にいう例である。茅生、萱生など。崖は、山の邊際でキシである。
 仁寶播散麻思乎 ニホハサマシヲ。ニホハサは、ニホハスの未然形。色に染めるをいう。マシは不可能の希望の助動詞。ヲは感動の助詞。色に染めたかつたものを、知らなかつたので染めなかつたの意。
【評語】深く思い入つたというほどの歌ではない。孃子の口をついて出たような、なめらかさのある歌で、歌いものとして口馴れた歌を歌つたまでのようである。
 
右一首、清江娘子、進2長皇子1 姓氏未v詳
 
右の一首は、清江《すみのえ》の娘子《をとめ》の、長の皇子に進《たてまつ》れる。【姓氏いまだ詳ならず。】
 
【釋】清江娘子 スミノエノヲトメ。スミノエは地名と考えられる。住吉に同じであろう。この娘子はいかなる人とも知られない。前の長の皇子の御歌に見える住吉の弟日娘と同人であるかも知れない。その身分は、多分遊行女婦ででもあろう。
 進 タテマツレル。獻上した意。
 
(278)太上天皇、幸2于吉野宮1時、高市連黒人作歌
 
太上天皇の、吉野の宮に幸《い》でましし時、高市の連黒人の作れる歌
 
【釋】太上天皇。持統天皇。
 幸于吉野宮時。持統太上天皇の吉野の宮に御幸ありし時。何年の事とも傳えない。
 高市連黒人 タケチノムラジクロヒト。既出。
 
70 倭には 嶋きてか來《く》らむ。
 呼子鳥《よぶこどり》、
 象《きさ》の中山 呼びぞ越ゆなる。
 
 倭尓者《ヤマトニハ》 鳴而歟來良武《ナキテカクラム》
 呼兒鳥《ヨブコドリ》
 象乃中山《キサノナカヤマ》 呼曾越奈流《ヨビゾコユナル》
 
【譯】都の方では、ちようどこの喚子鳥が、鳴いて來ていることであろうか。今この吉野山中では、象の中山を鳴きながら都の方へ飛んで行くのだ。
【釋】倭尓者 ヤマトニハ。ヤトlは、大和の國の中央部、すなわち藤原の都の地方を指す。
 鳴而歟來良武 ナキテカクラム。カは疑問の係助詞。ラムは推量の助動詞。句切。都の方を思いやつているので、吉野の方から鳴きつつ來るだろうかと推量している。
 呼兒鳥 ヨブコドリ。人を呼ぶ鳥の義で、兒は愛稱である。その鳴く聲が人を呼ぶようなので、この名があるのであろう。これによつて何の鳥であるかを定むべきである。集中では三月から五月にわたつて歌に詠まれている。萬葉考には、かつこう鳥のことだという。その鳥の鳴く聲が、あたかも人を呼ぶように聞えるので、呼子鳥に當てられている。歌には常に、寂しがつて人を呼ぶという所から思いを起して、戀の歌に用いられて(279)いる。
 象乃中山 キサノナカヤマ。吉野の離宮の址と考えられる宮瀧の地の南方に聳える山。象は、倭名類聚鈔に、和名岐佐とある。象はわが國にはいないが、經典その他で、この巨獣のことを知り、大宮人などが、キサの地名にこの巨獣の字を當てたのであろう。この山を詠んだ歌には、「三吉野乃《ミヨシノノ》 象山際乃《キサヤマノマノ》 木末爾波《コヌレニハ》 幾許毛散和口《ココダモサワク》 鳥之聲可聞《トリノコヱカモ》」(卷六、九二四)がある。中山は、山中を、山を主にしていう。他に、象の小川とも云つている。
 呼曾越奈流 ヨビゾコユナル。呼ビ越ユナリの意で、ゾは強意のために入れただけ。しかしこれを受けて連體形のナルで結んでいる。
【評語】作者は吉野山中に來て、家郷なる藤原のあたりを戀しく思つている。それで、彼方にいる人は、この呼子鳥を、聞いているだろうかの情を下に托している。表面に妻を思うと露骨にいわない所に、深い趣が存する。吉野山中を鳴き渡る鳥によつて家郷を思いやつた歌である。
【參考】同句、大和には鳴きてか來らむ。
  大和には鳴きてか來らむ。霍公鳥《ほととぎす》汝《な》が鳴く毎に亡き人念ほゆ(卷十、一九五六)
    よぶこどり。
  神奈備《かむなび》の石瀬《いはせ》の社《もり》の喚子島いたくな鳴きそ。わが戀まさる(卷八、一四一九、鏡の王女)
  よのつねに聞くは苦しき喚子鳥聲なつかしき時にはなりぬ(同、一四四七、大伴坂上の郎女)
  瀧の上の三船の山ゆ秋津邊に來鳴きわたるは誰喚子島(卷九、一七一三)
  わが夫子を莫越《なこせ》の山の喚子鳥君喚びかへせ。夜の更けぬとに(卷十、一八二二)
  春日なる羽買の山ゆ佐保の内へ鳴き往くなるは誰喚子鳥(同、一八二七)
(280)  答へぬにな呼びとよめそ。喚子鳥佐保の山邊をのぼりくだりに(卷十、一八二八)
  朝霧にしののに沾れて喚子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(同、一八三一)
  朝霞八重山越えて喚子鳥鳴きや汝が來る。宿もあらなくに(同、一九四一)
 
大行天皇、幸2于難波宮1時歌
 
大行天皇の難波の宮に幸《い》でましし時の歌
 
【釋】大行天皇 サキノスメラミコト。文武天皇。漢籍にて、皇帝の崩じてまだ謚號をたてまつらない以前を、大行皇帝という。史記の服虔の註に「天子死未v有v謚曰2大行1」とある。逝きて反らざるゆえに、大行というのである。しかるにわが國では、謚號を上つた後でも、先帝の御事を大行天皇という。天平勝寶八歳六月二十一日の東大寺獻物帳に、「藤原宮御宇太上天皇」の次に、「藤原宮御宇大行天皇」とあり、また「大行天皇即位之時、便獻2大行天皇1、崩時亦賜2大臣1」とあり、これらの大行天皇はいずれも文武天皇をさしている。また天平二年十一月に記した、美努連岡萬の基志には、「藤原宮御宇大行天皇御世、大寶元年歳次辛丑五月」また「平城宮治天下大行天皇御世靈龜二年」とも記され、ここには、文武天皇、および元正天皇のことをさしている。それ故に、今、この題詞に大行天皇とあるは、まだ謚號を上らぬ以前に書かれたとする説は成立しないのである。
 幸于難波宮時歌 ナニハノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、文武天皇の難波の宮への行幸を傳えたのは、無年號の三年正月と慶雲三年九月との兩度であつて、これはそのいずれの度であるかをあきらかにしない。慶雲三年のは、上に載せてあるが、これは記載書式を異にしているので、別の資料から出たものと考えられる。萬葉集編纂當時、既に年代をあきらかにしなかつたものであろう。
 
(281)71 倭|戀《こ》ひ 寐《い》の宿《ね》らえぬに、
 情《こころ》なく この渚埼廻《すさきみ》に
 鶴《たづ》鳴くべしや。
 
 倭戀《ヤマトコヒ》 寐之不v所v宿尓《イノネラエヌニ》
 情無《ココロナク》 比渚埼未尓《コノスサキミニ》
 多津鳴倍思哉《タヅナクベシヤ》
 
【譯】大和を思つて、眠られないのに、心無しにも、この渚の岬の邊で、鶴が鳴くべきではないのだ。
【釋】倭戀 ヤマトコヒ。このヤマトは、藤原の京を含む大和の國の中心地方をいう。
 寐之不所宿尓 イノネラエヌニ。イは睡眠の名詞。ネラエヌは、眠られないの意。所の字は被役の用法。
 情無 ココロナク 既出(卷一、一七)無情に、同情心無く、つれなく。
 此渚埼未尓 コノスサキミニ。未は、元暦校本等による。仙覺本系統の本にはこの字が無い。スサキは、沙洲の先端。ミは接尾語。地形の名詞に附してその灣曲せるを示す。
 多津鳴倍思哉 タヅナクベシヤ。タヅは鶴。多豆、多頭と書いたものが多數であつて、ツは濁音であることが知られる。倭名類聚鈔に、「鶴、四聲字苑云、鶴何各反、都流。似v鵠、長喙高脚。唐韵云、※[零+鳥]音零、揚氏漢語抄云、太豆。」とある。鶴類の總稱である。集中、表音文字としては、「伊勢處女等《イセヲトメドモ》 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》」(卷一、八一)等、助動詞のツルに鶴の字を當てているものが多數であるが、歌詞には、假字書きにしたものにツルは無く、タヅは多數である。これを以つて見れば、タヅは上品の語であり、ツルはやや新しい口語ふうの語であつたのであろう。ベシヤは既出(卷一、一七)。ベシは適當をあらわす助動詞、ヤは反語の助詞、鶴の鳴くのは不適當である。鳴くべきではないの意。
【評語】家郷を思つて戀々として眠りをなしかねている時に、海濱の洲先の方に鶴の鳴く聲が聞える。夜沈々として鶴唳を聞く旅情を歌つている。鶴に呼びかけているような語氣が感じられるのは、旅人としての寂寥の(282)心を、この生物に寄せているからである。
 
右一首、忍坂部乙麻呂
 
【釋】忍坂部乙麻呂 オサカベノオトマロ。傳未詳。オサカベは日本書紀には、忍壁、押坂部、刑部等の文字を當てている。
 
72  玉藻刈る 奧《おき》へ は榜《こ》がじ。
 敷栲《しきたへ》の 枕せし邊人《つま》 忘れかねつも。
 
 玉藻苅《タマモカル》 奧敝波不v榜《オキヘハコガジ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕《マクラ》之邊人《セシツマ・ノベノヒト》 忘可祢津藻《ワスレカネツモ》
 
【譯】玉藻を刈るような沖の方は舟を漕ぐまい。かの枕を共にした妻が忘れ難いことだ。
【釋】玉藻苅 タマモカル。既出(卷一、四一)。沖の方の情景を描いている。實際に玉藻を刈つていてもいないでも、そんなことはどうでもよい。
 奧敝波不榜 オキヘハコガジ。ヘは、助詞と見る説と、邊の意の名詞と見る説とがある。しかし沖邊を於伎敝、於枳敝、於吉敝と書いた例があり、沖の方とする説(澤瀉博士)がよいのだろう。
 敷妙乃 シキタヘノ。シキタヘは、織布の一種。シキは繁密の義で、繊目のこまかなのをいう。また年々隨筆(石原正明)には、下に敷く織物なればいうとある。枕詞。袖、衣、枕等に冠する。
 枕之邊人 マクラセシツマ。人は元暦校本等多數の本にあり、ただ細井本のみに無い。五句に忘れかねるというより見ても、この字ある方が、人を目標とすることがあきらかになつて可である。さて種々の訓が考えられる。枕を名詞に讀むか動詞に讀むか。之を字音假字としてシと讀むか助詞ノを表示するとするか。邊人を文字に即して讀むか義を取つて讀むか等の諸問題があり、これらは相互に關連する所であつて、いまだ定訓を得(283)がたい。今案ずるに、邊人は、周邊の人の義によつてツマと讀まれるので、枕之をその修飾語としてマクラセシと讀む。また文字どおりについて讀めば、マクラノベノヒトであるが、八字であることが、この場合、難點である。
 忘可祢津藻 ワスレカネツモ。カネは不得の意の動詞であるが、助動詞として使用されている。下二段活。モは感動の助詞。
【評語】この歌は古本によつて人の字を補うことによつて確に生きて來る。「枕のあたり」というような漠然たる云い方より一歩進めて、しつかりと忘れかねる對象を明元し得るからである。妻に別れて海上を行く心が、感情をこめて歌われている。
 
右一首、式部卿藤原宇合
 
【釋】式部卿 ノリノツカサノカミ。藤原の宇合が式部卿に補せられた年代はあきらかで無いが、文武天皇の御代より後であることは否めない。ここにはそれを前に溯らして書いている。
 藤原宇合 フヂハラノウマカヒ。藤原の不比等の第三子で、正三位式部卿に至り、天平九年八月に薨じた(六九四−七三七)。懷風藻に年四十四と傳え詩六首を留めている。宇合は漢詩を善くし、諸人の作と違つて大陸かぶれのした思想を詠んでいる。尊卑分脈に集二卷ありとあるは、詩文の集であろうが今傳わらない。常陸國風土記の文章が、華麗な漢文でできているのも、彼が常陸の守時代にできた故であろうといわれている。この人の名、續日本紀には、はじめ馬養とあり、宇合とするは、その反名で、ウマカヒのウとカヒとをこの字であらわしたのである。合は字音カフであるのを轉じてカヒに當てたのである。大伴の旅人の名を淡等と書く類である。この人、天平九年に年四十四で薨じたとすれば、慶雲三年の頃は、十四歳のはずであつて、この歌(284)の作者として不適當である。ここの官氏名は、後人の記入であるのかも知れない。目録には作主未詳とある。目録を作つた時には、この官氏名は、無かつたもののようである。
 
長皇子御歌
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。
 
76 吾妹子《わぎもこ》を はやみ濱風《はまかぜ》、
 倭なる 吾《われ》待つ椿
 吹かざるな、ゆめ。
 
 吾妹子乎《ワギモコヲ》 早見濱風《ハヤミハマカゼ》
 倭有《ヤマトナル》 吾松椿《ワレマツツバキ》
 不v吹有勿勤《フカザルナユメ》
 
【譯】わが妻を早く見たいと思う、その早く吹く濱邊の風よ、大和の國に置いて來た、わたしを待つているあのツバキさんを、おとずれて吹いてくださいよ。きつと。
【釋】吾妹子乎 ワギモコヲ。枕詞。吾妹子を早く見たいという意味に、早見に懸かる。但し作者に妻を早く見たいと思う心があつて、この枕詞となつたのである。「吾妹子をいざ見の山」(卷一、四四)の用法に同じ。ワギモコの解も同項に記した。
 早見濱風 ハヤミハマカゼ。吾妹子を早く見たいということと、早い濱風ということとを兼ねて云つている。ハヤミは、淨み原、赤み鳥などの例と同じく、連體形である。風についていうは、勁風の意である。
 倭有 ヤマトナル。大和にあるの意。家郷にあることを意味している。
 吾松椿 ワレマツツバキ。ツバキは、作者の妻、すなわち歌中の吾妹子を、美しい譬喩であらわしたもの。松は、待ツの借字、ツバキに譬えたので、特にこの字を使つた。待ツの語から、樹木の松を連想して、このツ(285)バキの語を引き出している。古人はツバキを愛し、集中にもしばしばこれを詠んでいる。「しが下に生ひ立てる、葉廣ゆつ眞椿、しが花の照りいまし、しが葉の廣りいますは、大君ろかも」(古事記五八)は、ツバキを以つて天皇の昏喩としている。「わが門の片山椿まこと汝《なれ》わが手觸れなな土に落ちもかも」(卷二十、四四一八)も、愛人をツバキに譬えている。ツパキの下に、助詞ヲを補つて解すべき句。
 不吹有勿動 フカザルナユメ。吹かずにあるな、決しての意。故郷の妻戀しさに、今自分の吹かれている濱邊の風に、故郷の妻のもとにも吹いて行つてくれと、嘱望するのである。ユメは、動詞忌ムの命令形を語原とし、慣用語として、努めて、決して等の意をあらわす。日本書紀に努力、本集に謹、勤の字をユメと讀んでいる。
【評語】自分を吹く風が、妹にも觸れよというが如き思想は、例歌もある。例えは「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が手本にい行き觸れぬか」(卷十、二三二〇)など。この歌の興味は、妻をツバキと云い放つた處にあろう。ここに意外感があり、目ざましさを覺えるのである。しかし、ツバキは古人の愛した植物で、ツバキに依つて思いを愛人に寄せている歌は、古事記以來、しばしば見受ける所であつて、そういう古歌の知識があらわれたものともいわれよう。
 
大行天皇、幸2于吉野宮1時歌
 
大行天皇の、吉野の宮に幸でましし時の歌
 
【釋】幸于吉野宮時歌 ヨシノノミヤニイデマシシトキノウタ。續日本紀に、大寶二年七月の吉野の離宮への行幸を傳えているが、その時の事であるか否かをあきらかにしない、以下二首の題詞である。
 
(286)74 み吉野《よしの》の 山の下風《あらし》の 寒けくに、
 はたや今夜《こよひ》も わがひとり寐む。
 
 見吉野乃《ミヨシノノ》 山下風之《ヤマノアラシノ》 寒久尓《サムケクニ》
 爲當也今夜毛《ハタヤコヨヒモ》 我獨宿牟《ワガヒトリネム》
 
【譯】吉野の山の風が寒く吹くのに、今夜も、わたしは獨寐をすることだろうかなあ。
【釋】見吉野乃 ミヨシノノ。既出(卷一、二五)。見は借字、訓を借りてミの音を寫す。
 山下風之 ヤマノアラシノ。ヤマシタカゼノ(類)、ヤマノアラシノ(僻)。下風をアラシと讀むのは、「左夜深跡《サヨフクト》 阿下乃吹者《アラシノフケバ》」(卷十三、三二八一)の如く阿下と書いた例があるので、確められる。山から吹きおろす風が荒いので、下風と書くのであろう。アラシは、荒い風の義。
 寒久尓 サムケクニ。サムケクは、寒くあることの義の名詞。形容詞寒シのケ活用に、名詞を作るクが接續したもの。長ケク、戀シケクなどと同じ語法である。寒くあることなるにの意で、下の獨寐を修飾する。
 爲當也今夜毛 ハタヤコヨヒモ。爲當は、漢文に使用される熟字で、日本書紀欽明天皇十六年二月の條にも「於v是許勢臣、問2王子惠1曰、爲當欲v留2此間1、爲當欲v向2本郷1」など使用されている。これは國語のハタに相當するのであるが、ハタは、マタに近く更に感動の意の強いものである。「痩々母《ヤスヤスモ》 生有者將v在乎《イケラバアヲムヲ》 波多也波多《ハタヤハタ》 武奈伎乎漁取跡《ムナギヲトルト》 河爾流勿《カハニナガルナ》」(卷十六、三八五四)など使用例がある。ヤは感動の係助詞。下の獨寐に懸かつている。この句のハタヤは、それにしてもやつぱりなあの意味を有するのであろう。
 我獨宿牟 ワガヒトリネム。上のヤを受けて、獨寐をすることよと嘆いている。但し獨寐をすることは決定的であり、これを疑つてはいない。
【評語】何等人目をひくほどのことは無いが、すらすらと隙なくできている。歌に慣れた人の作のようであるが、この形のものが、歌われて流傳していて、固有名詞などを變えてこの歌となつたのだろう。
 
(287)右一首、或云、天皇御製歌
 
【釋】或云天皇御製歌 アルハイフ、スメラミコトノオホミウタ。右の歌は、作者を記さないが、ここに別傳として、天皇の御製であるという。天皇は文武天皇である。しかし歌の内容を按ずるに、ワガ獨ネムとあつて、天皇の御製としてふさわしくない歌であるから、多分行幸に御供した臣下の作であろう。文武天皇。既出。天武天皇の皇孫、草壁の皇太子の皇子。少名は珂瑠《かる》の皇子。御祖母持統天皇の讓位を受けて即位せられ、慶雲四年六月十五日崩御、寶算二十五。懷風藻に御製の詩を留められている。歌は、この或ルハイフの一首のほかには傳わらない。
 
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風さむし。
 旅にして 衣《ころも》借《か》すべき
 妹もあらなくに。
 
 宇治間山《ウヂマヤマ》 朝風寒之《アサカゼサムシ》
 旅尓師手《タビニシテ》 衣應v借《コロモカスベキ》
 妹毛有勿久尓《イモモアラナクニ》
 
【譯】宇治間山には朝風が寒く吹いている。自分は旅先のことであつて、衣を貸してくれるような妻も無いことである。
【釋】宇治間山 ウヂマヤマ。飛鳥地方から吉野の上市に越える途中の山であるという。
 朝風寒之 アサカゼサムシ。句切。
 旅尓師手 タビニシテ。ニシテは助詞。旅にありて。
 衣應借 コロモカスベキ。集中、借の字は、カルともカスとも讀んでいる。「妹立待而《イモタチマチテ》 宿將v借鴨《ヤドカサムカモ》」(卷七、一二四二)、「獨去兒爾《ヒトリユクコニ》 屋戸借申尾《ヤドカサマシヲ》」(卷九、一七四三)など、借の字をカスに當てている例である。衣を貸し(288)てくれるべきの意。當時は、男女の衣服の制、殊に下著は同樣であつたと見え、しばしは貸借することを歌つている。「秋風の寒き朝明を佐農の岡超ゆらむ公に衣借さましを」(卷三、三六一)などある。
 妹毛有勿久尓 イモモアラナクニ。妹は妻、愛人。アラナクは、あらぬことの意。クは助詞で、動詞、助動詞、形容詞に接續して、それらを體言化する用をする。ニは感動の助詞であるが、輕く添えている。妻も無きことよと嘆じている。
【評語】衣服に寄せて妻を戀う心情を歌つている。山風の寒い朝の旅心が、よく描かれている。平凡な内容の歌であるが、實情はあらわれている。
 
右一首、長屋王
 
【釋】長屋王 ナガヤノオホキミ。天武天皇の孫、高市の皇子の子である。聖武天皇の御代に正二位左大臣に至つたが、天平元年二月私に左道を學び國家を傾けんとすと讒する者があつて遂に自盡を命ぜられた。その室吉備の内親王、男、膳夫《かしわで》の王、桑田の王、葛木《かづらき》の王、鈎取《かぎとり》の王等も同じくみずから縊れた。長屋の王の年は、懷風藻に詩を傳え、年五十四とも四十六とも傳えている。その宅を作寶樓と稱し、賓客を迎えて詩文の會を催したことなどの事蹟がある。
 
和銅元年戊申、天皇御製歌
 
【釋】和銅元年戊申 ワドウノハジメノトシツチノエサルノトシ。元明天皇の御世、慶雲五年正月、武藏の國から銅を獻つたので、元號を改めて和銅といつた。
 天皇。元明天皇。天智天皇の皇女、御名は阿閉の皇女。草壁の皇太子の妃、文武天皇の御母。文武天皇の崩(289)後、即位された。靈龜元年九月讓位、養老五年十二月崩ず、壽六十一。天皇は慶雲四年に帝位につかれたので、和銅元年はその翌年である。しかるにあたかも蝦夷が叛いたので、和銅二年三月に征討軍を出した。前年にその兵を練る物聲をお聞きになつて、御代の初に事あるを歎かせられた御製である。
 
76 丈夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《おと》すなり。
 もののふの 大臣《おほまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも。
 
 大夫之《マスラヲノ》 鞆乃音爲奈利《トモノオトスナリ》
 物部乃《モノノフノ》 大臣《オホマヘツギミ》 楯立良思母《タテタツラシモ》
 
【譯】勇士たちが矢を放つ音がする。軍部の大臣が楯を立てて練兵をしていることと見える。
【釋】大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。勇氣あり思慮ある男兒の稱。
 鞆乃音爲奈利 トモノオトスナリ。鞆は國字。獣革にて袋の形に作り、中には獣毛など(290)を入れる。これを左の手腕に附けて、矢を射る時、弓弦が反つてこれに當るようにする。その弓弦の當つた音が、鞆の音である。スナリは爲《す》の強い語法である。この句で一段落、勇士が矢を放つ音がすると、事實を敍したのである。
 物部乃 モノノフノ。モノノベノ(類)、モノノフノ(元)。モノノフは既出(卷一、五〇)。ここは主として武官をいう。
 大臣 オホマヘツギミ。大前つ君の義。廷臣をマヘツギミという。その大官をいう。以上二句、武官の大臣の義で、將軍をいう。
 楯立良思母 タテタツラシモ。楯は立てて敵の矢を防ぐにより名づく。ラシは事實にもとづく推定の助動詞。モは感動の助詞。楯立ツラシモは、軍備を整えていることと思われるよしである。
【評語】この歌、表面には別に感情をあらわす語が見えない。將軍が武備を整えているというだけで、むしろいさましい語氣である。かように感情を表面に露出しないのは、古歌の趣で、力強い朴直な線が、ここから生まれるのである。楯立ツは、タ行音を重ねて、音聲上からも強い言い方で、内容にふさわしい表現である。
 
御名部皇女、奉v和御歌
 
【釋】御名部皇女 ミナベノヒメミコ。天智天皇の皇女。元明天皇の同母の御姉。
 奉和 コタヘマツレル。前記の元明天皇の御製の歌に對して唱和し奉つたのである。
 
77 わが大君《おほきみ》 ものな念ほし。
 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる
(291) 吾《われ》無《な》けなくに
 
 吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》
 須賣神乃《スメガミノ》 嗣而賜流《ツギテタマヘル》
 吾莫勿久尓《ワレナケナクニ》
 
【譯】わが大君は、物をお案じなさいますな。天の神樣が天皇のさしそえとして、この世にお下しになつたわたくしという者もございます。
【釋】吾大王 ワガオホキミ。御名部の皇女から天皇を指し奉つている。
 物莫御念 モノナオモホシ。モノは、代名詞ふうに或る事の意をいう語。ナは、勿かれの意の助詞。動詞がこれを受けて連用形を取り、その動作を禁止する意味になる。その下に更に助詞ソの接續するを通例とするが、古くはその無いものもある。これはその無い例で、「安禮奈之等《アレナシト》 奈和備和我勢故《ナワビワガセコ》」(卷十七、三九九七)などの例がある。オモホシは、お思いになる。すなわち、物をお考えになりますな、御心配あそばしますなの意になる。モノ、ナオモホシと解するのが原形であるが、ナは、その上に他語がくる場合は、その方に接著する性質があつて、モノナ、オモホシのように切るようになる。前の歌に、天皇の練兵の物音を聞いて、御胸を惱ませたまう意、ここにあきらかとなる。ここにて一段落。
 須賣神乃 スメガミノ。スメは統御する意で、神の範圍を限定するもの。スメガミは統治者たる神、すなわち皇祖神をいう。轉じては、ただ神の尊稱としても使用される。「ちはやぶる金のみ埼を過ぎぬとも吾は忘れじ。牡鹿《しか》の須賣神」(卷七、一二三〇)の如きは、轉用の例である。
 嗣而賜流 ツギテタマヘル。天皇の副人《そえびと》として、補佐すべくこの世に下し賜わつたの意で、賜フの主格は皇神である。天皇に續いて皇神の下し賜えるの義である。神田本、金澤文庫本には、嗣を副に作つており、これによれば、ソヘテタマヘルで、解釋は一層やすらかである。古寫本では、嗣と副とは、しばしば混同しているので、いずれが是なるかを定め難い。
(292) 吾莫勿久尓 ワレナケナクニ。ナケもナクも打消の無で、打消が二重になるので、あることになる。ナケのケは、形容詞の古い活用形で、普通に用言の未然形と稱するものに相當する。助詞バの受けた形、無ケバ、助動詞ムの受けた形、無ケムなどの用例がある。ナクは否定の助動詞ヌに事の意のクがついたのである。ニは助詞で、言意を丁寧にするだけの用である。假字書きの例には「多婢等伊倍婆《タビトイヘバ》 許登爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》 須久奈久毛《スクナクモ》 伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》 須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》」(卷十五、三七四三)などがある。
【評語】強い語法を用いて、天皇の御憂鬱をお慰め申し上げている。しかし類型の歌があり、かような形の古歌が歌い傳えられていたようである。
【參考】類型。
  わが夫子《せこ》は物なおもほし。事しあらば火にも水にも吾無けなくに(卷四、五〇六)
 
和銅三年庚戌春二月、從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時、御輿停2長屋原1廻2望古郷1御作歌 一書云、太上天皇御製
 
和銅三年庚戌の春二月、藤原の宮より寧樂《なら》の宮に遷《うつ》りましし時、御輿を長屋《ながや》の原《はら》に停《とど》めて、古郷《ふるさと》を廻望《かへりみ》たまひて作りませる御歌【一書にいふ、太上天皇の御製】
 
【釋】和銅三年庚戌春二月 ワドウノミトセ、カノエイヌノハルキサラギ。平城の京は、和銅元年に造營を始められ、その三年三月十日、始めて都を平城に遷した。この題詞は、この歌の作られた年月について記している。
 寧樂宮 ナラノミヤ。ナラは地名で、もと平坦を意味する。平城の字面は、これに依るが、ここには、好字を選んで寧樂の字を用いてある。これは當時、廣く行われた字面である。今の奈良市の西方に、宮址がある。
(293) 御輿 ミコシ。輿は乘輿。この歌の作者の乘物である。
 長屋原 ナガヤノハラ。所在未詳。藤原の京と平城の京との中間にあるべきは勿論である。今の朝和村永原であるという説がある。
 廻望 カヘリミタマヒテ。藤原の京の方を顧望したまうのである。西本願寺本等には、廻を?に作つている。?はハロカニである。
 古郷 フルサト。歌詞によるに、今は舊都となつた明日香の里をいうであろう。
 御作歌 ツクリマセルミウタ。集中、いかなる作者について、この字を用いているかというに、川島の皇子、阿閉の皇女、志貴の皇子、磐姫の皇后、大伯の皇女、大津の皇子、但馬の皇女、倭の大后、高市の皇子、穗積の皇子、聖コ太子、藤原の大后についてである。これに依れば、皇后、皇子、皇女に限られ、ここにこの歌の作者の範圍も、これらのうちであることが知られる。しかしここにはそのいずれの御方とも指定されていないのは、遺脱であるが、もとからかくの如き形になつていたものであろう。
 一書云 アルフミニイフ。作者に關する別傳であるが、何の書とも知られない。
 太上天皇。和銅三年には、太上天皇はおられない。歌詞に明日香の里ヲ置キテ去ナバとあるにより、明日香の京から遷居の歌とすれば、その時の天皇で、後に太上天皇と仰がれた持統天皇の御事になる。また題詞によつて平城の京に還居された時の御方とすれば、後に太上天皇と仰がれた元明天皇の御事になる。漠然たる書き方で、いずれの方とも決定しがたい。
 
78 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の里を
 置きて去《い》なば、
(294) 君が邊《あたり》は 見えずかもあらむ。
 【一は云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ。】
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香能里乎《アスカノサトヲ》
 置而伊奈婆《オキテイナバ》
 君之當者《キミガアタリハ》 不v所v見香聞安良武《ミエズカモアラム》
 【一云、君之當乎不v見而香毛安良牟】
 
【譯】あの明日香の里をさし置いて、寧樂の宮に遷り行つたならば、わたしのなつかしくお慕い申し上げている君のあたりも、見えなくなることであろうか。
【釋】飛鳥 トブトリノ。枕詞。明日香に冠する。日本書紀、天武天皇の朱鳥元年七月の條に、「改v元曰2朱鳥元年1【朱鳥、此云2阿訶美苔利1】仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。これは朱鳥の祥瑞によつて宮號に飛鳥を冠せられたものであり、ここに飛ぶ鳥の明日香ということが始まつたと考えられる。後、慣用するに及んで直にアスカに、飛鳥の文字を使用し、本集古事記等にもこれを見るに至つた。東大寺要録に載せた天平勝寶四年四月十日に元興寺の僧の獻つた歌には、「度布夜度利《トブヤトリ》 阿須加乃天良乃《アスカノテラノ》 宇太々天萬都留《ウタタテマツル》」とある。
 明日香能里乎 アスカノサトヲ。明日香は、奈良縣高市郡飛鳥村附近一帶の總名。大體香具山の西南に當る。ここにいう明日香の里は、それを總括的にいうと思われる。これを明日香の淨御原の宮とすれば、明日香から藤原に宮遷りされた時の歌とも解せられ、題詞に信をおくとすれば、明日香と藤原とは隣近の地であるから、明日香の地を顧望せられていうとも解せられる。美夫君志、講義の説の如く、後者に解するを順當とする。
 置而伊奈婆 オキテイナバ。オキテは、「倭乎置而《ヤマトヲオキテ》」(卷一、二九)、「京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(同、四五)のオキテに同じく、さしおいて、うち捨てての意。イナバ、往なば。
 君之當者 キミガアタリハ。君のいる邊はの意。君は何人をさすか不明であるが、明日香の里に住む人をさしていると解せられる。
 不所見香聞安良武 ミエズカモアラム。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。「置目(295)もや淡海の置目明日よりはみ山がくりて美延受加母阿良牟《ミエズカモアラム》」(古事記一一三)。
 一云君之當乎不見而香毛安良牟 アルハイフ、キミガアタリヲミズテカモアラム。この一云は、多分題詞の一書云と同じもので、太上天皇御製とある資料によつて、この歌詞の別傳をも記したのであろう。本文の歌詞は、君があたりを主格として敍し、この別傳は、作者自身を主格として敍している點に相違がある。
【評語】作者は不明であるが、多分女性の作と考えられる。住み馴れた土地に愛惜を感じて、低徊去り難い心がよくあらわれている。顧望の情をつくした歌というべきである。
 
或本、從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
 
或る本、藤原の京より寧樂の宮に遷りし時の歌
 
【釋】或本 アルマキ。上記の歌に對して、同じ時の歌として、別の資料にあつた歌を掲げている。特に或本と記したのは、既に本文の記事があつて、後にこれを加えたことを語る。第一次的な編纂の場合ならば、或本とことわる必要が無い。
 
79 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》かしこみ、
 柔《にき》びにし 家をはなち
 こもりくの 泊瀬《はつせ》の川に
 ?《おほき》浮けて わがゆく河の、
 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず、
 萬度《よろづたび》、顧みしつつ
(296) 玉桙《たまほこ》の 道行き暮らし、
 あをによし 奈良《なら》の京《みやこ》の、
 佐保川に い行き到りて、
 わが宿《ね》たる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ、
 朝月夜《あさづくよ》 さやかに見れば、
 栲《たへ》の穗《ほ》に 夜《よる》の霜降り、
 磐床《いはどこ》と 川の水|凝《こ》り、
 冷《さむ》き夜を 息《やす》むことなく
 通ひつつ 作れる家に、
 千代まで 來ませ大君よ。
 吾も通はむ。」
 
 天皇乃《オホキミノ》 御命畏美《ミコトカシコミ》
 柔備尓之《ニキビニシ》 家乎擇《イヘヲハナチ》
 隱國乃《コモリクノ》 泊瀬乃川尓《ハツセノカハニ》
 ?浮而《オホキウケテ》 吾行河乃《ワガユクカハノ》
 川隈之《カハクマノ》 八十阿不v落《ヤソクマオチズ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲乍《カヘリミシツツ》
 玉桙乃《タマホコノ》 道行晩《ミチユキクラシ》
 青丹吉《アヲニヨシ》 楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》
 佐保川尓《サホガハニ》 伊去至而《イユキイタリテ》
 我宿有《ワガネタル》 衣乃上從《コロモノウヘユ》
 朝月夜《アサヅクヨ》 清尓見者《サヤカニミレバ》
 栲乃穗尓《タヘノホニ》 夜之霜落《ヨルノシモフリ》
 磐床等《イハドコト》 川之水凝《カハノミヅコリ》
 冷夜乎《サムキヨヲ》 息言無久《ヤスムコトナク》
 通乍《カヨヒツツ》 作家尓《ツクレルイヘニ》
 千代二手《チヨマデ》 來座多公與《キマセオホキミヨ》
 吾毛通武《ワレモカヨハム》
 
【譯】天皇の仰せを恐れ懼《かしこ》み、馴れ親しんでいた家を解いて、かの泊瀬の川に材木を浮べて、わたしの行く川の、數多い曲り角毎に、何度も顧みながら一日中道を行き暮らして、奈良の都の佐保川に行き至つて、野宿をした衣の上に、明け方の月がさやかに照り渡れば、眞白な霜が降つて、岩床のように川の水が氷つて、寒い晩でも休むことなく通いながら作つた家には、千代までもおいでなさいませ、大君よ。わたくしも通おうと思つております。
【釋】天皇乃御命畏美 オホキミノミコトカシコミ。天皇は、皇祖をも含めて絶括的の場合にはスメロキとい(297)い、現在の天皇の場合にはオホキミという。集中の例、ミコトカシコミの場合には、現在についてオホキミという例である。假字書きの例に、「於保伎美乃《オホキミノ》 美己等可思古美《ミコトカシコミ》 可奈之伊毛我《カナシイモガ》 多麻久良波奈禮《タマクラハナレ》 欲太知伎努可母《ヨダチキノカモ》」(卷十四、三四八〇)、「憶保枳美能《オホキミノ》 彌許等可之古美《ミコトカシコミ》 安之比奇能《アシヒキノ》 夜麻野佐波良受《ヤマノサハラズ》 安麻射可流《アマザカル》 比奈毛乎佐牟流《ヒナモヲサムル》」(卷十七、三九七三)などある。ミコトは勅命。カシコミは、動詞カシコムの活用形。恐悚する?態にある意である。ミコトカシコミは、月清ミ、山深ミなどの語法に同じく、勅命の畏さに、仰せ言に恐懼して。この句、集中用例多く、二十二例を數える。馴れた家を捨てて新しい京に邸宅を構築する原因を説く副詞句となる。
 柔備尓之 ニキビニシ。柔は柔和の義で、剛(アラ)に對して古語のニキに相當する。ニキは、和柔の意の語。ニキビはその動詞の連用形。ニシは助動詞。和み賑いてありし意の連體形の句。假字書きの例に、「白妙之《シロタヘノ》 手本矣別《タモトヲワカレ》 丹杵火爾之《ニキヒニシ》 家從裳出而《イヘユモイデテ》」(卷三、四八一)などある。
 家乎擇 イヘヲハナチ。
   イヘヲエラビテ(神)
   イヘヲワカレテ(攷)
   イヘヲオキテ(講義)
   ――――――――――
   家乎釋《イヘヲオキテ》(僻)
   家毛放《イヘヲモサカリ》(考)
   家乎釋《イヘヲオキ》(古義)
   家乎放《イヘヲサカリ》(古義)
(298)右にあげたように諸説がある。柔ビニシ家に對して、離れ、または捨てる意であるべきは勿論と思われる。擇は、選擇の義の字で、良いものを取つて惡いものを捨てる意がある。類聚名義抄に、エラブ、ハナツの兩訓があり、また同書に、捨、舍、廢、釋、放、毀等にハナツの訓がある。今、これによつて、イヘヲハナチと讀み、家を解體する意とする。これは下の?浮而の訓と關連するものである。その條參照。
 隱國乃 コモリクノ。既出(卷一、四五)枕詞。隱國と書いているのは、この語の正字であろう。
 泊瀬乃川尓 ハツセノカハニ。泊瀬川は、泊瀬の山間から出で、西北流して佐保川等と合して大和川となる。その川の流下する勢いを利用したと見られる。
 ?浮而 オホキウケテ。?は、類聚古集、神田本に拱に作るによる。元暦校本はこの部分を傳えない。拱は、手をこまぬく意の字で、ここには適わない。古寫本に木扁を常に手扁に作るにより、?の字と定める。?は、柱の上方の木で、棟木を受ける材の字であるが、新撰字鏡には、材大者也とあつて、家屋構成の巨材をいうものと思われる。今、奈良に遷都されたに伴なつて、そこに家屋を新築するのであるが、藤原の京の家が不用になるので、それを解體してその巨材を水運を利して運ぶものと解せられる。續日本紀天平十五年十二月の條に(299)は、「初壞2平城大極殿并歩廊1、遷2造於恭仁宮1」とあり、宮殿でも舊材を遷し作るので、一般の家では、勿論この事が行われたであろう。また泊瀬川から水運を利して奈良に運ぶのに、舟では困難であるが、材木を引いて行く分には可能である。この歌の家は、どのくらいのものかわからないが、相當の邸宅であつたのだろうし、また家財なども、つけているだろう。仙覺本に?に作るのは、?の字義を理解し得ないで何人かが改めたものであろう。ウケは浮クの下二段活。他動詞として使用される。浮かべてである。藤原の京から水運を利用して、家屋の用材を運ぶ趣である。
 吾行河乃 ワガユクカハノ。河は泊瀬の川をいう。
 川隈之 カハクマノ。上に道の隈の語があつた(卷一、一七)。川隈は、川の曲つて生ずる隅をいう。
 八十阿不落 ヤソクマオチズ。ヤソクマは、多數の隈。多くの隈毎にの意。「此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》 萬段《《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》」(卷二、一三一)なと使用している。
 萬段 ヨロヅタビ。多くの度數の意。「與呂頭多妣《ヨロヅタビ》 可弊里見之都追《カヘリミシツツ》」(卷二十、四四〇八)。
 玉桙乃 タマホコノ。枕詞。道を修飾する。假字書きの例に、「多麻保許能《タマホコノ》 道乎多騰保美《ミチヲタドホミ》」(卷十七、三九五七)などある。假字書き以外にはタマホコに玉桙、珠桙、玉戈の字を使つているので、これらがこの語の正字で、立派な桙の義と解せられる。その道に懸かる所以はあきらかでないが、この詞の修飾する道の語は、チに中心思想があつて、ミは美稱の接頭語と解せられ、そのチは、靈威の意の語から出るとすれば、玉桙にチを感じて、枕詞となつたものだろう。古代の桙は、ちいさい幡を附けるための鈎《ち》があるので、道のチに懸かるとする説は信じがたい。
 通行晩 ミチユキクラシ。日暮に至るまで道を行く意で、川に沿つて行くのである。
 楢乃京師乃 ナラノミヤコノ。楢は借字、平城に同じ。
(300) 佐保川尓 サホガハニ。佐保川は、平城の京を流れ南下して泊瀬川に合流する。水量すくなく當時にても舟運の便があつたとは考えられないが、浮べた物を引くことは、或る地點までは可能だろう。
 伊去至而 イユキイタリテ。上のイは接頭語。行き到つての意。
 我宿有 ワガネタル。既に夜にはいつて川邊に寐たのである。その場處は、陸上かどこか不明である。
 衣乃上從 コロモノウヘユ。屋根無き處に寐るので、横たわれる作者の衣服の上を通してといつている。衣の上ゆ見ればと下の句に懸かる。
 朝月夜 アサヅクヨ。朝の月。ヨは接尾語。月は夜の物であるから附ける。月を月夜ということは、上にも例があり(卷一、一五)、また「去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》 雖v照《テラセドモ》」(卷二、二一一)などある。
 清尓見者 サヤカニミレバ。朝月のもとに明白に見れば。サヤカは明白の意。この見た結果が、次の夜ノ霜フリと川ノ水凝りになるのである。
 栲乃穗尓 タヘノホニ。栲はコウゾで、その皮の繊維の純白なのを特色とする。ホは物のすぐれたのをいう。紅色を丹の穗という類に、純白色をタヘノホという。「
ウチヒサスミヤノトネリモタヘノホニアサギヌケルハ」(卷十三、三三二四)の雪穗も、タヘノホニと讀む。この句は次の夜ノ霜フリに懸かつている。栲は別字、樹名オウチのことである。
 夜之霜落 ヨルノシモフリ。夜のほどに降る霜なので、夜の霜という。
 磐床等 イハドコト。イハドコは、岩石の地に固定して床を成しているもの。トはトシテの意。次の水の凝る?態を説明している。
 川之水凝 カハノミヅコリ。
   カハノコホリテ(僻)
(301)   カハノミヅコリ(燈)
   ――――――――――
   川之氷凝《カハノヒコゴリ》(考)
   川之氷凝《カハノヒコリテ》(西)
   川之氷凝《カハノヒコホリ》(檜)
 神田本等には、水を氷に作つている。凝は凝固で、國語のコルに當るが、上の磐床トを受けており、磐床と凝るの意であるから、水でも氷でも通ずるとせねばならない。氷とするに依らばヒと讀むべく、凝をコリと讀めば、この句六音の句となり、七音とするにはテを讀み添えねばならない。これにより傳本の確なるに依つて水とするに從う。以上、〓ノ穗ニ夜ノ霜フリに對して、磐床ト川ノ水凝リの句が對句を成している。
 冷夜乎 サムキヨヲ。サユルヨヲ(西)。上の數句の敍述に依り、寒キと讀むことが適切である。
 息言無久 ヤスムコトナク。イコフコトナク(僻)。息は憩に通じて使用されるが、集中イコフの假字書きは無い。休息すること無くの意である。
 通乍 カヨヒツツ。藤原の京から此處に通いつつである。しばしば來たことを云している。
 作家尓 ツクレルイヘニ。上の句を受けて、辛苦して作つた家にの意。新しい京に、住宅を經營するのである。
 千代二手 チヨマデ。二手は、左石の手で、マテと讀むのは、眞手の義である。「幾代左右二賀」(卷一、三四)の條參照。
 來座多公與 キマセオホキミヨ。與は、表意文字としてはトと讀まれ、字音假字としてはヨと讀まれる。ここはいずれにても意を成す所である。但し次の、吾モ通ハムの句に對しては、千代マデ來マセ多公ヨを命令文として見ることが自然である。多公は大君の意で、皇族のある方をさすものと思われる。千代マデ來マセは、永久に來たまえの意。その大君に對して歌つている。
 吾毛通武 ワレモカヨハム。吾も大君と共にこの家に通おうの意。自分の作つた家に客を迎えようとしてい(302)る。
【評語】遷都に伴なつて、新しい京に住宅を作る辛苦と、樂しい希望とが歌われている。歌として珍しい資料を取り扱つており、敍述されている辛吉そのものに對する興味もあるが、たどたどしい所があり、歌作に慣れない人の歌のようである。その家が、どういう家か、十分にわからないので、終りの部分の意が明白にされないのは遺憾であるが、作者は、これでよしとしたのであろう。大君のために別宅でも移したのだろうか。
 
反歌
 
80 あをによし 寧樂《なら》の家には
 萬代に 吾も通はむ。
 忘ると念《おも》ふな。
 
 青丹吉《アヲニヨシ》 寧樂乃家尓者《ナラノイヘニハ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 吾母將v通《ワレモカヨハム》
 忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
 
【譯】美しい寧樂の京なる家には、萬代までに、わたしも通おうと思います。わたしが忘れるとはお思いくださいますな。
【釋】寧樂乃家尓者 ナラノイヘニハ。長歌を受けて、今造つたこの平城の新宅にはの意。
 萬代尓 ヨロヅヨニ。長歌に千代マデと云つたのを受けて、語を變えている。千代でも萬代でも、内容は同じで、多くの世代をいう。多分、、千代の語が先にでき、更に強調する意味に萬代の語ができたのであろう。
 吾母將通 ワレモカヨハム。長歌の末句を使用している。句切。
 忘跡念勿 ワスルトオモフナ。わがこの家に通うことを忘るとは思うな。かならず吾も通おうの意。ナは禁止の助詞。「人事《ヒトゴトヲ》 茂君《シゲミトキミニ》 玉梓之《タマヅサノ》 使不v遣《ツカヒモヤラズ》 忘跡思名《ワスルトオモフナ》」(卷十一、二五八六)。
(303)【評語】長歌の内容を受けて、この家に變ることなく來り通おうとする心を歌つている。よい歌とも考えられないが、一往よく纏まつている。
 
右歌、作主未v詳
 
【右歌】 ミギノウタ。右の長歌と反歌とをさしている。
 作主未詳 ツクリヌシイマダツマビラカナラズ。右の歌の作者があきらかでないという、編者の註である。この歌の作者は、皇族の家臣で、その邸宅を作るに從つていた者ででもあろうか。
 
和銅五年壬子夏四月、遣2長田王于伊勢齋宮1時、山邊御井作歌
 
和銅五年壬子の夏四月、長田の王を伊勢の齋《いつき》の宮に遣しし時、山邊の御井にて作れる歌
 
【釋】長田王 ナガタノオホキミ。續日本紀、和銅四年四月、從五位の上から正五位の下を授けられ、以下歴任して天平九年六月に至つて「散位正四位下長田王卒」とある方と、同じく天平十二年十月、從四位の下長田の王に從四位の上を授くとある方とがあり、三代實録、貞觀元年十月二十三日の條に、「尚侍從三位廣井女王薨。廣井者、二品長親王之後也。曾祖二世從四位上長田王、祖從五位上廣川王、父從五位上雄河王」とある長田の王は長の親王の御子であるが、位階から云えば、天平十二年の記事に見える方らしい。ここの長田の王は、そのいずれであるかを詳にしない。
 伊勢齋宮 イセノイツキノミヤ。皇大神宮に奉仕する内親王の宮殿をいう。また「渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤユ》 神風爾《カミカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》」(卷二、一九九)とある齋の宮は、皇大神宮そのものをさしている。ここは内親王の宮殿の方である。そこに朝命を以つて遣されたものと見られる。〔次改行せよ〕
(304) 山邊御井 ヤマノペノミヰ。玉勝間に、三重縣鈴鹿郡の山邊であるといい、講義に、御鎭座本紀に豐受の大神の伊勢に遷りましし時の順路をいう中に「次山邊行宮御一宿【今號壹志郡新家村是也】」とあるを引いて壹志郡新家村であるとしている。卷の十三の歌に「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃原爾《イシノハラニ》 内日刺《ウチヒサス》 大宮都可倍《オホミヤヅカヘ》 朝日奈須《アサヒナス》 目細毛《マグハシモ》 暮日奈須《ユフヒナス》 浦細毛《ウラグハシモ》」(三二三四)、また、「山邊乃《ヤマノベノ》 五十師乃御井者《イシノミヰハ》 自然《オノヅカラ》 成錦乎《ナレルニシキヲ》 張流山可母《ハレルヤマカモ》」(同、三二三五)とあつて、大宮のあつたことが知られ、また五十師の御井の名でも傳えられているものと同處であろう。その地に離宮、行宮などがあつて、その井を御井と言つたのであろう。
 
81 山邊《やまのべ》の 御井《みゐ》を見がてり、
 神風《かむかぜ》の 伊勢孃子《いせをとめ》ども
 相見《あひみ》つるかも。
 
 山邊乃《ヤマノベノ》 御井乎見我弖利《ミヰヲミガテリ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢處女等《イセヲトメドモ》
 相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
 
【譯】山邊の御井を見るついでに、おりよくも伊勢の國の孃子たちに出逢つたことだつた。
【釋】山邊乃御井乎見我弖利 ヤマノベノミヰヲミガテリ。山邊の御井は、題詞參照。山邊は、固有名詞となつているであろうが、その地勢は、用語通り、山のほとりなのであろう。ガテリは、加えての意を示す助詞で、傍《かたわら》の語意に近い。この語の上にある部分を主とし、それに加えてこうもしたということを、その下方に敍述する。ガテラともいう。いずれが原形であるかはあきらかでないが、使用の年代はガテラの方が新しい。例は參考の欄に出す。
 神風乃 カムカゼノ。古い枕詞で、伊勢に冠する。「加牟加是能《カムカゼノ》 伊勢能宇美能《イセノウミノ》」(古事記一四)、「伽牟伽筮能《カムカゼノ》 伊齊能于瀰能《イセノウミノ》」(日本書紀八)、など使用されている。伊勢を修飾するについては、冠辭考に、神風の吹息の義で、イの一音に懸かるとしている。しかし、伊勢の國號は、大和の國よりして背の國とするにあるべく、(305)イは輕く添えた語であるようであるから、それに懸かるというに無理があり、またこの枕詞が、他のイに始まる語に懸かつた例を見ないのも、吹息説は、不安定である。この語は、日本書紀神功皇后紀の神語に「神風伊勢國之、百傳度逢縣之、折鈴五十鈴宮所居神」とあり、古い神語にしばしば使用されており、祭祀の詞から出たものであることを思わしめる。なお伊勢國風土記の逸文(萬葉集註釋所引)に、神武天皇御東征のみぎり、天の日別の命をして伊勢の國を平治せしめた所、伊勢津彦が國土を天孫に獻じ、大風を起して東方に去つたことをいい、古語に「神風の伊勢の國は常世の浪の寄する國なり」とは、この謂なりと傳えている。
 伊勢處女等 イセヲトメドモ。地名に處女の語を接續せしめて、その地の處女であることをあらわす例は、泊瀬處女、常陸處女、出雲處女など例が多い。ドモは多數の意をあらわす。井に水を汲むのは若い女の業とされていた。「葛飾の眞間の井を見れば立ち平《なら》し水汲ましけむ手兒名《てこな》し思はゆ」(卷九、一八〇八)、「もののふの八十※[女+感]嬬等《やそをとめら》が汲みまがふ寺井の上の堅香子《かたかご》の花」(卷十九、四一四三)など見える。御井とあるによれば、齋宮の仕女でもあるべきであるが、それに限定すべきでもない。
 相見鶴鴨 アヒミツルカモ。動詞に冠するアヒは、雙方がその動作をする意をあらわす。アヒ思フ、アヒ語ル等である。ここは作者が伊勢處女を見たことに感興を催しているのは勿論であるが、その伊勢處女も自分を認めたことを含んでいる。
【評語】御井のほとりで、美しい伊勢の孃子どもに逢つた。旅先での愉快な出來事である。孃子に對する興味を中心として歌つている。この御井に水を汲みに集まる孃子たちの明るい美しさを讃えている。道具のよく備つている歌である。
【參考】山邊の五十師《いし》の御井。
  やすみししわご大君、高照らす日の御子の、聞し食《め》す御食《みけ》つ國、神風の伊勢の國は、國見ればしも、山見(306)れば高く貴し、河見ればさやけく清し、水門なす海も廣し、見渡しの島も名高し、ここをしもま細《ぐは》しみかも、かけまくもあやに畏《かしこ》き、山邊の五十師《いし》の原に、うち日さす大宮仕へ、朝日なすまぐはしも、夕日なすうらぐはしも、春山のしなひ榮えて、秋山の色なつかしき、ももしきの大宮人は、天地日月と共に、萬代にもが(卷十三、三二三四)
   反歌
  山邊の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(同、三二三五)
    がてり・がてら。
  雨ふらずとの曇る夜の濡れしかど戀ひつつ居りき。君待ちがてり(卷三、三七〇)
  わが舟は奧ゆな離《さか》り。迎へ舟片待ちがてり浦ゆ榜ぎ會はむ(卷七、一二〇〇)
  梅の花咲き散る園に吾行かむ。君が使を片待ちがてり(卷十、一九〇〇。【卷十八、四〇四一に重出、末句を可多麻知我底良としている。】)
  能登の海に釣する海人のいざり火の光にい往け。月待ちがてり(卷十二、三一六九)
  秋の田の穩向見がてりわが夫子がふさ手折りける女郎花かも(卷十七、三九四三)
  吾妹子が形見がてらと、紅の八人《やしほ》に染めて(卷十九、四一五六)
 
82 うらさぶる 情《こころ》さまねし。
 ひさかたの 天《あめ》の時雨《しぐれ》の
 流らふ見れば。
 
 浦佐夫流《ウラサブル》 情佐麻祢之《ココロサマネシ》
 久堅乃《ヒサカタノ》 天之四具禮能《アメノシグレノ》
 流相見者《ナガラフミレバ》
 
【譯】荒涼たる心で一杯である。おりしも大空から時雨の雨が流れ降るのに逢つて。
【釋】浦佐夫流 ウラサブル。心の樂しまない意味の動詞。既出、「浦佐備而《ウラサビテ》 荒有京《アレタルミヤコ》」(卷一、三三)のウラ(307)サビの連體形。
 情佐麻祢之 ココロサマネシ。祢は、諸本に弥とあるが、弥では意を成し難いので、代匠記の説に依つて、稱の誤りとする。サマネシのサは接頭語、マネシは度數多く、その事のみあるの意を示す形容詞。サマネシの用例は、「見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》 孤悲思家牟可母《コヒシケムカモ》」(卷十七、三九九五)、「月可佐禰《ツキカサネ》 美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》」(卷十八、四一一六)などあり、マネシは「眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》」(卷二、二〇七)、「可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》 都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》」(卷十七、四〇一二)などある。アマネシもこれと語原を同じくしている。うらさぶる心が一杯に行きわたつているの意。句切。
 久堅乃 ヒサカタノ。古い枕詞で、天に懸かる。「比佐迦多能《ヒサカタノ》 阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》」(古事記二八)など使用されている。語義は諸説があり、冠辭考には、匏形の義といい、久老は日のさす方の義としている。ノを助詞とするに異説は無かるべく、ヒサカタについては、集中、字音假字以外には、久方、久堅の字を使用している。これに依れば、ヒサに久遠の意を感じていたとすべきである。形容詞ヒサシは、時間の經過すること多きをいう。カタは不明というほかは無いが、やはり形容詞カタシであるかも知れない。天の悠久性を感じていう詞とする平凡な見方が穩當なのであろう。カタが、もし方角の意であるとすれば、日のさす方か。
 天之四具禮能 アメノシグレノ。アメノは、時雨が天から降るものであるからいう。「久堅乃《ヒサカタノ》 天露霜《アメノツユジモ》 置二家里《オキニケリ》」(卷四、六五一)などの例がある。シグレは、倭名類聚鈔に、※[雨/衆]雨に當て、本集では暮秋の頃に降る雨に言つている。しかるに題詞には夏四月とあつて、この詞に合わない。興に乘じて他の歌を吟詠したのであろうとされる所以である。
 流相見者 ナガラフミレバ。ナガラフは、流ルの連續?態をあらわす語。既出(卷一、五九)。ここは時雨の降る?を言つている。ナガラフは終止形である。流れること、それを見ればの意で、上のウラサブル情サマネ(308)シの條件法になる句である。
【評語】旅に出て憂鬱な心で一杯であると、まず心中を敍して、その動機を下の句で更にこまかに敍している。ヒサカタノ天ノ時雨は、いかにも大空はるかな所から降つて來る雨の感じをよく出して、荒涼たる旅情を一層深く感じさせる。よい歌である。
 
83 海《わた》の底 沖つ白浪 立田山
 いつか越えなむ。
 妹があたり見《み》む。
 
 海底《ワタノソコ》 奧津白浪《オキツシラナミ》 立田山《タツタヤマ》
 何時鹿越奈武《イツカコエナム》
 妹之當見武《イモガアタリミム》
 
【譯】今自分の船は、遠く海上に出ているが、その海の沖邊では白波が立ち騷いでいる。白波の立つというのに縁のある、あの難波から大和へ越えて行く立田山を、はたしていつになつたら越えて行つて、妻のいる邊を見ることができるだろうか。
【釋】海底 ワタノソコ。オキに懸かる枕詞で、「和多能曾許《ワタノソコ》 意枳都布可延乃《オキツフカエノ》」(卷五、八一三)、「綿之底《ワタノソコ》 奧己具舟乎《オキゴゲフネヲ》」(卷七、一二二三)など使用されている。オキに懸かるについては、ソコに海中の深處をいうのみでなく、水上遙なる處をもいう意ありとする説もあるが、むしろオキの方に深處をもいう意があるので、この語を冠するとすべきである。「海底《ワタノソコ》 奧乎深目手《オキヲフカメテ》」(卷四、六七六)、「海底《ワタノソコ》 奧在玉乎《オキナルタマヲ》」(卷七、一三二七)など、その用例に乏しくない。ここは、海上の意であるから、枕詞からいえば、轉接の類である。以上の二句は、立ツというための序詞。左註にもあるように、海上で歌つた歌なので、海の縁を以つて序としたのであろう。
 立田山 タツタヤマ。生駒山脈中、大和川の北岸に近い山。大和から難波の御津に通う要路となつていた。(309)從つて西方から來る者もこの山を越えて大和にはいるのである。
 何時鹿越奈武 イツカコエナム。カは疑問の係助詞。ナムは、豫想をあらわす助動詞。分けていえばナは完了、ムが豫想である。句切。
 妹之當見武 イモガアタリミム。イモガアタリは、わが妻の家の邊。上に「君があたり」の句(卷一、七八)があつた。「秋山に落つる黄葉しましくはな散り亂れそ。妹があたり見む」(卷二、一三七)。
【評語】船の廻りに立つ波を使つて序としている。まずそれを呼びかけて、これを序に轉用したのである。海上の旅情のよく出ている歌である。左註に山邊の御井の邊で作つたらしくないという。いかにももつともである。當時吟誦した古歌かというが、多分その通りであろう。
【參考】類句。
  風吹けば沖つ白波立田山夜半にや君がひとり越ゆらむ(古今和歌集、伊勢物語)
  風吹けば雲の蓋《きぬがさ》立田山いとにほはせる朝顔の花(歌經標式)
 
右二首、今案不v似2御井所1v作、若疑當時誦之古歌歟。
 
右の二首は、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。編者の考えをいう。
 若疑 ケダシウタガハクハ。若は、モシともケダシとも讀まれるが、集中の例では、二音に相當する處に使用したものは、「君之往《キミガユキ》 若久爾有婆《モシヒサナラバ》」(卷十九、四二三八)の例があるのみで、これはモシとも讀まるべく、しかもモシの語例も外には見當らない。これに反してケダシは用例多く、また若を三音に當てて書いているものも、「松陰爾《マツカゲニ》 出曾見鶴《イデテゾミツル》 若君香跡《ケダシキミカト》」(卷十一、二六五三)、「若雲《ケダシクモ》 君不2來益1者《キミキマサズハ》 應2辛苦1《クルシカルベシ》」(卷十二、二九(310)二九)、「若人見而《ケダシヒトミテ》 解披見鴨《トキアケミムカモ》」(卷十六、三八六八)などある。依つてケダシと讀むのが順當であろう。疑は、ハ行四段の活用であるから、その未然形を受けてクが接續して、ウタガハクとなる。
 誦之 ヨメリシ。誦は、暗誦、また吟誦の義の字で、ここは節を附けて吟誦した意であろう。
 古歌 フルウタ。これより前に作り傳えられた歌を、總じて古歌という。興に乘じて古歌を吟誦した例は、卷の十五、三五七八の題詞に、「當所誦詠之古歌」、卷の十八、四〇三二の題詞に、「爰作新歌、并便誦古詠」など見える。
 
寧樂宮
 
長皇子與2志貴皇子1、於2佐紀宮1倶宴歌
 
寧樂の宮、長の皇子と志貴の皇子と、佐紀《さき》の宮《みや》にて供に宴《うたげ》せる歌
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。これは時代の標示であるから、上の和銅三年の題詞の前にあるべしとする説がある。それにしても寧樂宮とのみあるは略書であつて、前に例が無い。前半の編者と人を異にしているのであろうか。
 佐紀宮 サキノミヤ。佐紀は、奈良縣の北端、生駒郡に屬している。そこに別邸などがあつたのであろう。
 
84 秋さらば 今も見る如《ごと》、
 妻ごひに 鹿《か》鳴《な》かむ山ぞ。
 高野原《たかのはら》の上《うへ》。
 
 秋去者《アキサラバ》 今毛見如《イマモミルゴト》
 妻戀尓《ツマゴヒニ》 鹿將v鳴山曾《カナカムヤマゾ》
 高野原之宇倍《タカノハラノウヘ》
 
【譯】秋になつたならば、今も見るように、妻を戀い慕つて、鹿の鳴く山であろう、この高野原の上は。
【釋】秋去者 アキサラバ。サルは既出(卷一、一六)。秋にならば。 今毛見如 イマモミルゴト。目前にあるようにの意であるから、次の句の内容が、目前にあることになる。「於母布度知《オモフドチ》 可久思安蘇婆牟《カクシアソバム》 異麻母見流其等《イマモミルゴト》」(卷十七、三九九一)、「和期大皇波《ワゴオホキミハ》 伊麻毛見流其等《イマモミルゴト》」(卷十八、四〇六三)、「都禰爾伊麻佐禰《ヅネニイマサネ》 伊麻母美流其等《イマモミルゴト》」(卷二十、四四九八)などある。
 嬬戀尓 ツマゴヒニ。妻に戀うためにの意。
 鹿將鳴山曾 カナカムヤマゾ。鹿は、シカと讀むのが通例であるか、「妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》」(卷八、一六〇〇)、「妻戀爾《ヅマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)など、妻戀ニを受けては、カナクという例であるから、ここもカと讀むべきだろう。鹿をカの一言に讀むと思われるのは、以上のほかには、「秋〓子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》」(卷九、一七九〇)があるだけである。初句の秋サラバを受けて、鹿の鳴かむ山ぞと言つている。ゾは、名詞を強く指示する助詞。句切。
 高野原之宇倍 タカノハラノウヘ。高野原は、佐紀の地勢をいう。ウヘは野原についてしばしばいう。前にも「藤原が上に」(卷一、五〇)とある。
【評語】この歌は、初句に秋サラバとあつて、現に秋でないことが知られるのに、二句以下に、今も見る如くに鹿の鳴くべき山だと歌つているので、不審とされ、誤字説なども出ている。歌詞によるに、妻戀に鹿の鳴くことを今も見るというのであつて、宴席にさような作り物か繪畫などがあつたとすべきである。宴席に作り物などをすることは、卷の六、一〇一六の左註に、歌を白紙に書いて屋壁に懸け、卷の十九、四二三一の題詞に、「于v時積v雪彫2成重巖之起1、奇巧綵2發草樹之花1」など例がある。かような飾物に屬目して思いを自然の秋に寄せたのであろう。敍述がやや説明的であるが、高原の秋景色を思わしめるものがある。酒宴即興の歌としては、上乘の作とすべきであろう。澤瀉博士の説に、歌の作られた時が秋で、今も見るように、また秋になつ(312)たらの意とする。これは情趣を得た解のようである。
 
右一首、長皇子
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。前の歌の作者を註したのであるが、題詞には、長の皇子と志貴の皇子と宴を倶にされたと見え、目録には、元暦校本等にこの次に「志貴皇子御歌」の一行があるによれば、もと志貴の皇子の御歌のあつたのが遣落したのでもあろう。
 
萬葉集卷第一            2009.4.24(金)午前9時30分、入力終了
 
 
(313)萬葉集卷第二
 
(315) 萬葉集卷第二
 
 卷の二は、卷の一と共に集中において一團をなしていると考えられている。それは、卷の一は雜歌、卷の二は相聞と挽歌とであつて、部類の點において一往纏まつていることと、またこの二卷は、何々天皇代の標目を掲げて、その下に歌を記載していることとによる。しかし萬葉集は一の原形から成長して現在の形に到達したものと考えられるので、上記の解釋は、二卷の或る部分において考えられることであつて、現在の形においてこの二卷全部が特別に纏められたとは考えられない。
 歌數は次表の通りである。
        長歌    短歌    合計
  相聞     三    五三    五六
  挽歌    一六    七八    九四
  計     一九   一三一   −五〇
 歌の番號は、八五番から二三四番に至り、この卷は或本歌まで番號に入れてあるから、歌の實敷とよく一致する。
 作品の時代は、相聞は仁コ天皇の御代から柿本の人麻呂の妻の歌に及び、挽歌は齊明天皇の御代から奈良時代の靈龜元年(七一五)九月志貴の親王の薨去の時の歌に及んでいる。結局仁コ天皇の時代から元明天皇の時代に至つており、その仁コ天皇の時代の歌は集中最古の歌ということになるが、それがはたしてその時代のも(316)のであるか否かは問題の存する所である。
 作品としては特に柿本の人麻呂の諸作が目立つている。高市の皇子の殯宮の時の作は、集中第一の長篇で雄渾無比の名作であり、その他、石見の國から妻に別れて上京する時の歌、皇子皇女の殯宮の歌など、傑作に富んでいる。その他では大伯《おおく》の皇女の御歌も短歌ではあるが名品である。
 文字は、表意文字に表音文字を交え用い、かなり複雜で、資料の多種であつたことを思わしめる。傳本としては、仙覺本系統の諸本以外には、元暦校本が一部を傳え、金澤本が小部分あり、天治本は斷簡があるに過ぎない。神田本は全卷あり、類聚古集、古葉略類聚鈔は、例に依つて相當數の歌を傳えている。仙覺本系統では、西本願寺本、細井本、大矢本、京都大學本等が、いずれも全卷を傳えている。
 
相聞
 
【釋】相聞 サウモニ。雜歌、挽歌と共に、本集の三大部門の一である。この字面は、漢文から來ている。文選、曹子建與2呉季重1書に、口授不v悉、往來數相聞とあり、註に聞問也とある、?況を問う意であり、その他漢籍に用例がある。たがいに交通して親愛の情を通ずる意に用いられる。木集では、この卷、及び卷の四、八、九、十、十一、十二、十三、十四の各卷にこの部門を立て、卷の十一、十二、十四では、相聞往來歌と稱している。文中では、卷の四の七二七の歌の題詞の下に、「離2絶數年1復會相聞往來」など見えている。この部門の歌は、男女間の情を歌つたものが多數であるが、中には朋友關係、兄弟關係、親族關係等の場合の作もあり、元來男女關係には限らぬ性質のものである。これは歌謠が古く懸け合わせたものから出發し、それが文字を得るに及んで、文筆によつて贈答するに至つたものであるが、本集にあつても、かならずしも文筆によつたものには限られない。この部門を立てて歌を分類することは、當時の歌の作られる實際に照らして適當であ(317)ると考えられるが、本集では別に問答歌の目を立てている卷もあり、それとの關係は、明瞭に區別されない。相聞の歌は、その性質上、對手を豫想して作られるので、その内容は概して單純であつて種類がすくない。そうして修辭の上に特に技巧の用いられることが多く、譬喩や序詞なども巧妙にかつ多量に使用される。またその用語は、主として會話性言語によつているが、柿本の人麻呂の妻に別れて上京する時の作品の如きは、獨語的な作といえる。この部類は、萬葉集以前、既に柿本朝臣人麻呂歌集あたりに使用されていたようである。それは、卷の十一における柿本朝臣人麻呂歌集の所出の歌の調査によれば、その歌の分類および排列法は、人麻呂歌集から受け繼いでいるものと考えられ、そこには相聞往來の歌を、正述心緒と寄物陳思とに分け、その寄物陳思の歌は、寄託した事物について秩序ある排列がなされているが、それは原典たる人麻呂歌集から持ち越したものと考えられる。然らばその分類および排列の大綱である相聞往來という部門もまた同じく人麻呂歌集から持ち越したものと考えられるからである。相(318)聞は、考にアヒギコエ、古義にシタシミウタと訓したが、今日では字音で讀む説が有力になつている。田邊正男氏の説に、相はngの音の字であるから、サガモニと讀むべきだという。サガミ(相摸)、サガラカ(相樂)などの例によるものである。前ページの寫眞は、金澤本萬葉集の目録から本文に移る所で、初め二行は目録の終りである。このように目録からすぐ本文に續いて書かれているのは、もと卷物の形であつたものから來ているものと見られる。
 
難波高津宮御宇天皇代 【大鷦鷯天皇謚曰2仁コ天皇1】
 
【釋】難波高津宮御宇天皇代 ナニハノタカツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。仁コ天皇の元年正月、難波に都し、これを高津の宮と言つた。今の大阪市、大阪城の南方東高津のあたりであろうという。當時海岸であり、角麻呂の歌、「ひさかたの天の探女《さぐめ》が石船《いはふね》の泊《は》てし高津は淺《あ》せにけるかも」(卷三、二九二)の歌によつて、奈良時代に既に陸地となりつつあつたことが知られる。かようにこの標目は、仁コ天皇の御代を標記したもので、そのもとに仁コ天皇の皇后なる磐の姫の皇后の御歌四首、および附載の歌二首を收めている。
 大鷦鷯天皇 オホサザキノスメラミコト。仁コ天皇の御事。日本書紀に大鷦鷯の尊、古事記に大雀の命とある。御名の由來については、日本書紀仁コ天皇元年正月の條に、「初天皇生日、木菟入2于産殿1。明旦譽田天皇喚2大臣武内宿禰1語之曰、是何瑞也。大臣對言、吉祥也。復當2昨日臣妻産時1、鷦鷯入2于産屋1、是亦異焉。爰天皇曰、今朕之子與2大臣之子1同曰共産、竝有v瑞、是天之表焉。以爲取2其烏名1各相易名v子、爲2後葉之契1也。則取2鷦鷯名1以名2太子1曰2大鷦鷯皇子1、取2木菟名1號2大臣之子1曰2木菟宿禰1、是平群臣之始祖也」とある。鷦鷯は小鳥、ミソサザイである。
(319) 謚曰仁コ天皇 オクリナシテニトクテニワウトマヲス。仁コ天皇とは漢風の謚號である。萬葉集において漢風の謚號の記事のあるのに不思議の無いことは、既に卷の一において述べた所である。
 
磐姫皇后、思2天皇1御作歌四首
 
【釋】磐姫皇后 イハノヒメノオホギサキ。仁コ天皇の皇后。古事記に「葛城之曾都?古之女、石之日賣命」(下卷)とある。葛城の曾都?古は、日本書紀に葛城の襲津彦とあり、武内の宿禰の子である。履中天皇、反正天皇、允恭天皇等の御母であり、天皇に先だつて崩御された。古事記および日本書紀に、天皇とのあいだに相聞の御歌を中心とする歌物語を傳えている。皇后は、天皇の嫡妻で、國語にオホギサキという。古事記に皇后を大后と書いてあるのはこの故である。その御歌は、卷の四の卷初にある「難波天皇妹、奉d上在2山跡1皇兄u御歌一首」(四八四)と共に、本集における最古の作とされている。しかし實際、これが最古の作と見られるかというと、疑問である。これらの歌は、歌體は短歌形體で、整備された段階に到達しており、仁コ天皇時代の歌謠として記紀に記載されているものと比較して見ても、多くはそれよりも後のものと見なされる。また用語も同じく後の品らしく至つて平明である。今日においては、この題詞のままに、傳説的な歌謠として取り扱われなければならない。それにしても萬葉集中では、古い時代の作に屬するものである。
 思天皇御作歌 スメラミコトヲシノヒマシテツクリマセルミウタ。歌詞によるに、天皇の行幸の御留守に當つて詠まれた歌である。いかなる場合の歌とも知られない。
 
85 君が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ。
 山尋《やまたづ》ね 迎へか行かむ。
(320) 待ちにか待たむ。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長成奴《ケナガクナリヌ》
 山多都祢《ヤマタヅネ》 迎加將v行《ムカヘカユカム》
 待尓可將v待《マチニカマタム》
 
【譯】わが君がお出ましになつて、時久しくなりました。山を尋ねてお迎えに行きましようか。または待つておりましようか。
【釋】君之行 キミガユキ。君は天皇。ユキは、行くことの意で、體言になつている。どこかに行幸になつたものと思われる。
 氣長成奴 ケナガクナリヌ。ケは時間である。ケナガクは、「氣長妹之」(卷一、六〇)など、既に出ている。句切。「枳美可由伎《キミガユキ》 氣那我久奈理奴《ケナガクナリス》」(卷五、八六七)はここと同文である。この句、おいでになつてから、日數を歴た心をあらわしている。
 山多都祢 ヤマタヅネ。山を尋ねて行つて。古事記の同歌には「夜麻多豆能」と書いている。歌い傳えているうちに別傳を生じたものと見るべきである。
 迎加將行 ムカヘカユカム。迎えにか行こうの意。句切。
 待尓可將待 マチニカマタム。上の迎ヘカ行カムの句と對句をなし、迎えに行こうか待ちに待とうかと動搖する心を描いている。
【評語】二句および四句で切れて、三段になつているのは、古歌として正格の形である。初めに君が行幸されてから、やや日數を重ねたという事實を述べて、それから、戀しさに堪えやらぬ焦慮が歌われている。迎えに行こうか、それとも待つていようかという、途方にくれ、考えに惑う婦人の氣もちがよく出ている。
 この歌は古事記にも出ている。その古事記の歌は、下に出ているが、允恭天皇の皇子の木梨の輕の太子の跡を、衣通《そとおし》の王が戀慕に堪えずして、追つてお出でになつた時の御歌としており、三句以下が違つて、「君が行け(321)長くなりぬ。山たづの迎へを行かむ。待つには待たじ」となつてゐる。迎ヘヲ行カムというのは、強い意志のあらわれている句で、是非迎えに行こうと決意されたことをあらわしている。そうして、次の句は、待つていられないという意味を元している。かように、詞句は、似ているけれども、衣通の王の御歌の方は、非常に強い意氣込みが出ている。これに對して、皇后の御歌の方は、どうしたらよかろうかという、いても立つてもいられない氣もちが歌われている。
 
右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
 
【釋】山上憶良臣類聚歌林載焉 ヤマノウヘノオクラノオミノルズカリニニノセタリ。山上の憶良も類聚歌林も、卷の一に出ている。類聚歌林によつて採録したかどうかはわからないが、類聚歌林の所傳が、この本文の通りであつたことは、下に古事記の文を引いて、その左註に、古事記と類聚歌林と説く所同じからず、歌主も亦異なりと言つており、その類聚歌林の所傳とは、この本文をさすものであることによつて推知される。作者等について類聚歌林の所傳が相違しているとせば、ここにその相違を擧げるはずであるが、それが無いのを見れば、同一であつたと見なされる。
 
86 かくばかり 戀ひつつあらずは、
 高山の 磐根《いはね》し枕《ま》きて
 死なましものを。
 
 如v此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》
 死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》
 
【譯】これほどまでに、戀をしていないで、いつそ死んでしまつたろうものを。
【釋】如此許 カクバカリ。戀している程度を、かほどまでにと言つている。
(322) 戀乍不有者 コヒツツアラズハ。打消の助動詞ズに、語勢の助詞ハの接續したものとされている。戀いつつあらずにと同じで、戀をしていないでこのままという意に譯されている。「後れ居て戀ひつゝあらずは紀の國の妹背の山にあらましものを」(卷四、五四四)の如き類歌があり、この集では、常に出る語法である。
 高山之磐根四卷手 タカヤマノイハネシマキテ。死んで高山の墓に横たわるという意味をあらわす。磐を枕にして寐るということから、死んで葬られることをいうのである。磐根のネは接尾語。シは強意の助詞。マキテは、枕とする意。
 死奈麻死物乎 シナマシモノヲ。死んでしまつた方がよかつたと、殘念がる意味である。
【評語】君が遠く旅にお出になつてから、ひとり後に殘つて、戀にのみ日を過している。しかしもう堪えきれない。こんな苦しい戀をしているくらいなら、むしろ死んだ方がましだつたという、戀の苦しみを詠まれている。死ぬことを敍して、高山の磐根を枕くというのは、具體的ないい方で、歌の内容がはつきりと出てくる。作者が死というものを、正面に考えていることを示している。死の實感のあらわれる句である。石田の王の卒去の時の歌に、「高山の石穗《イハホ》の上に君が臥《こや》せる」(卷三、四二一)とあるも、同樣の表現である。マシの語は、不可能であることを知つている希望を表示する語で、作者は生きているのだが、死んだ方がましだという氣もち。しかし死ぬにも死ねない氣もちをこの語であらわしている。ここにも戀に迷う苦しみが見えるところである。
 
87 ありつつも 君をば待たむ。
 うち靡く わが黒髪に
 霜の置くまでに。
 
 在管裳《アリツツモ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 打靡《ウチナビク》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜乃置萬代日《シモノオクマデニ》
 
(323)【譯】やはりいくら苦しくても、このままでお待ち申し上げましよう。なよなよとしたわたしの黒髪に霜が置くまでも。
 
【釋】在管裳 アリツツモ。このままにありつつの意。生きながらえてである。
 君乎者將待 キミヲバマダム。句切。
 打靡 ウチナビク。黒髪の形容で、髪のなよなよと、風に靡くが如くにある?態をいう。作者が婦人であり、美しい髪をもつている御方であることが知られる。
 霜乃置萬代日 シモノオクマデニ。黒髪に霜が置くというのは、實際に夜遲く戸外に、寒夜をお待ち申しあげているので、霜が降るというのである。後世の歌ならば、白髪になるというだけに解いてよいのであるが、古歌では、寛際に霜が置くと見る方がよい。
【評語】上謁の、君が行け長くなりぬの歌では、お迎えに行こうか、はたまたお待ちしようかという迷う心が歌われていたが、この歌では、一途に變わる心なく、お待ち申し上げようとする情が歌われている。夕べになれば、今やお歸りになるかと、戸外に出ては、お待ち申し上げる。いつしか夜も更けて、うち靡くわが黒髪に大空から霜が冷く降りついてくる。それほどまでにもして、お待ち申し上げようとするひたすらな心が歌われている。類歌としては、「君待つと庭のみ居ればうち靡くわが黒髪に霜ぞ置きにける」(卷十二、三〇四四)がある。解釋上參考とするに足りよう。
 
88 秋の田の 穗の上に霧らふ 朝霞、
 何方《いづへ》の方に わが戀ひやまむ。
 
 秋田之《アキノタノ》 穗上尓霧相《ホノヘニキラフ》 朝霞《アサガスミ》
 何時邊乃方二《イヅヘノカタニ》 我戀將v息《ワガコヒヤマム》
 
【譯】秋の田の稻標の上に立ちこめている朝霞。ああどちらの方に行つたらわたしは戀がやむでしょう。
(324)【釋】秋田之 アキノタノ。秋のみのつた水田のである。
 穗上尓霧相 ホノヘニキラフ。ホは稻の穗。その上に立ち籠めている。キラフは、動詞霧《き》ルに、助動詞フが接續して、その連續せる動作を描く。水蒸氣が籠つている意である。「打靡春去來者《ウチナビクハルサリクレバ》 然爲蟹《シカスガニ》 天雲霧相《アマグモキラヒ》 雪者零管《ユキハフリツツ》」(卷十、一八三二)、「奈良山乃《ナラヤマノ》 峯尚霧合《ミネナホキラフ》」(同、二三一六)など、使用されている。ここは連體形で、次の朝霞を修飾する。
 朝霞 アサガスミ。朝の霞で、以上霞を説明しこれを呼びかけている。霞は、後には春のものと定まつたが、この集では秋にも霞という。「朝霞《アサガスミ》 鹿火屋之下爾《カビヤガシタニ》 鳴蝦《ナクカハヅ》」(卷十、二二六五)など詠まれている。以上秋の田の上に、一面に水蒸氣が立ちこめていることを敍し、さてどちらがどちらともわからない意を寓して次の句を引き出している。
 何時邊乃方二 イヅヘノカタニ。イヅヘは、どちらの方。イヅはイヅカタなどのイヅ。もとイツ(何時)と同語だろうが、ここは何時の字を借りているのだろう。へによつて方向を示すようである。へは方の意。「霍公鳥《ホトトギス》 伊頭敝能山乎《イヅヘノヤマヲ》 鳴可將v超《ナキカコユラム》」(卷十九、四一九五)の例がある。どちらの方にで、いかにしてかの意をあらわす。
 我戀將息 ワガコヒヤマム。何方に向かつて行つたら、わが戀がやむだろうか、その方角を知らないことである。
【評語】君をお待ちして、遂に君の來ぬ空しい夜は、ほのぼのと明け渡つた。ずうつと見渡されるはずの門田には、おりしも秋の末で、稻の穗が熟して、波をうつている。その一望の田の上には、すつかり霧がかかり、今朝はほのぐらいまでに感じられる。どちらがどちらとも知られずに、行き迷うほどである。自分の戀もまたかようなものである。途方にくれ、どういうようにしたら、どちらの方に行つたら自分の戀がやむだろうか、(325)この苦しい戀が。初三句に景を敍し、それから抒情に移つて行くあたり、説明に落ちないでよく妙趣を發揮している。以上四首、講義には一團の歌として見るべしと説いている。そう見ると、この歌の如き、一層よく生きて來るようである。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前出八七番の在管裳の歌の類歌として、參考に掲げてある歌である。前の歌を本文として、これを別の本から採録した意味で、或る本の歌と稱している。その或る本というのは、左註によれは古歌集であることが知られる。萬葉集で古歌集というのは一の定まつた集をいう。何人の集録とも知られないが、大體奈良時代初期の作品が收められてある。卷の九の古集中出とあるも、同じく古歌集の謂のようであるが、その歌には題詞のあるものがある。上代の書は卷物であつて、棒?を成しているから本という。
 
89 居|明《あ》かして 君をば待たむ。
 ぬばたまの わが黒髪に
 霜は降るとも。
 
 居明而《ヰアカシテ》 君乎者將v待《キミヲバマタム》
 奴婆珠乃《ヌバタマノ》 吾黒髪尓《ワガクロカミニ》
 霜者零騰文《シモハフルトモ》
 
【譯】ここに、いたままで夜を明かして、わが君をお待ち申しましよう。わたしの黒い髪によし霜は降るとも。
【釋】居明而 ヰアカシテ。いたままに夜をあかして。徹夜して。代匠記に「乎里安加之母《ヲリアカシモ》 許余比波能麻牟《コヨヒハノマム》」(卷十八、四〇六八)を證として、ヲリアカシテと讀むべきかと言つているが、「橘之《タチバナノ》 花乎居合v散《ハナヲヰチラシ》」(卷九、一七五五)など、居散ラシのような語もあるから、ヰアカシテでよいであろう。
(326) 君乎者將待 キミヲバマタム。句切。
 奴婆珠乃 ヌバタマノ。ヌバタマは、アヤメ科の宿根草本ヒオウギの實をいう。その實を愛玩したのである。集中、夜干玉、野干玉、烏玉、黒玉などの字をあてている。その實は、黒いので、黒、夜などの枕詞になる。本草に射干とあり射の音ヤなので、通じて野干、夜干と書く。この枕詞、古事記八千矛の神の相聞歌中に見え、古い枕詞である。
 霜者零騰文 シモハフルトモ。家の外に出て君の來るのを待つているので、黒髪によし霜が降るともというのである。髪が白髪になることも含んでいるとも取られるが、この場合は、そう取らぬ方がよさそうである。八七參照。
【評語】この歌は待つている有樣を説明しているところに特色がある。また黒髪に特に枕詞を冠したのも印象的であつて、霜は降ルトモとよく對照している。この場合、率直に實際の霜の降ることを言つていると見るべきである。これを白髪になるまでと解すると、技巧におちて、かえつてしんみりした味が失われる。
 
右一首、古歌集中出
 
【釋】古歌集中出 コカシフノウチニイヅ。古歌集のことは上記或本歌曰の項參照。なお古歌集の名は、このほか、卷の七、九、十一等に見え、出と書いているのはいずれもその集から歌を採録していることを示す。卷の七、九にある古集の名も、同じものをさすであろう。
 
古事記曰、輕太子?2輕太郎女1、故其太子流2於伊豫湯1也。此時、衣通王、不v堪2戀慕1而追往時歌曰
 
(327)古事記に曰はく、輕の太子、輕の太郎女《おほいらつめ》に?《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊豫の湯に流されき。この時|衣通《そとほし》の王、戀慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく、
 
【釋】古事記曰 コジキニイハク。以下、「君之行」(八五)の歌の參考として、萬葉集の編者が古事記の文および歌を掲げたものである。その文は節略し、歌も文字を書き改めてある。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。允恭天皇の皇太子木梨の輕の皇子である。御母は忍坂の大中つ比倍の命である。
 輕太郎女 カルノオホイラツメ。古事記に「輕太郎女、亦名衣通郎女、御名所3以負2衣通王1者、其身之光自v衣通出也」(下卷)とある。輕の太子の同母妹。
 伊豫湯 イヨノユ。伊豫の温泉で、今の松山市の道後温泉である。有名な温泉で、單に伊豫の湯というのはこのほかには無い。
 衣通王 ソトホシノオホキミ。輕の太郎女の別名。前掲古事記の文參照。衣通は、古今和歌集の序文には、「そとほりひめ」とある。日本書紀には、允恭天皇の皇后忍坂の大中つ姫の命の妹の藤原の郎姫《いらつめ》を衣通の郎姫というとする。この方のことを、古事記に、藤原の琴節の郎女と書いている。その琴節は、コトフシと讀まれるが、これは、ソトホシを訛つたものだろうという。よつて今、ソトホシとする。身の光が衣服を通すというのは、美人の表現で、傳説上の美人として語られていたのである。竹取物語のかぐや姫は、この傳説の系統をひく。
 
90 君が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ。
 山たづの 迎へを行かむ。
(328) 待つには待たじ。
   ここに山|多豆《たづ》といへるは、今《いま》の造木なり。
 
 君之行《キミガユキ》 氣長久成奴《ケナガクナリヌ》
 山多豆乃《ヤマタヅノ》 迎乎將v往《ムカヘヲユカム》
 待尓者不v待《マツニハマタジ》
   此云2山多豆1者是今造木者也
 
【譯】君がお出ましになつて、時久しくなりました。山タヅのようにお迎えに參りましよう。お待ちはしておりますまい。
【釋】君之行氣長久成奴 キミガユキケナガクナリヌ。以上は、八五の歌と同じである。
 山多豆乃 ヤマタヅノ。枕詞で、迎えに係かると見られるが、意味には諸説がある。註に「此云2山多豆1者、是今造木者也」と記しているが、これは古事記にもある註である。しかし折角の説明だが、その造木のいかなるものであるかがあきらかでないので、説明にならない。新撰字鏡には造木に女貞と註している。女貞は、モクセイ科の常緑木で、タマツバキ、ネズミモチなどいう植物である。また山釿ノで斧の類であるといい、加納諸平はミヤツコギで今のニワトコであると言つている。これは倭名類聚鈔に、「接骨木、和名美夜都古木」とある等、諸書にその名が見えている。ニワトコは、スイカズラ科の落葉灌木で、枝葉が相對して出るので、向きあうことから迎フの枕詞としたものだと言われている。本集に「山多頭能《ヤマタヅノ》 迎參出六《ムカヘマヰデム》」(卷六、九七一)の用例がある。
 迎乎將往 ムカヘヲユカム。ヲは感動の助詞で、強意の性能を有する。「
イマナルホドハタノシクヲアラナ」(卷三、三四九)、「保等登藝須 《ホトトギス》 許々爾知可久乎《ココニチカクヲ》 伎奈伎弖余《キナキテヨ》」(卷二十、四四八三)等の用例がある。かならず迎えに行こうといぅ強い語氣である。
 侍尓者不待 マツニハマタジ。上の迎ヘヲ行カムの意を、別の方面から敍している。マタジは、否定の意志をあらわしている。
(329) 此云山多豆者是今造木者也 ココニヤマタヅトイヘルハイマノミヤツコギナリ。歌中の山多豆を説明している註で、古事記の文章のままである。
【評語】前の磐の姫の皇后の御歌として擧げられた歌の、懊惱の氣もちの濃いのに對して、これははなはだしく強い意志が表示されている。いずれが原形であるかはわからないが、傳來のあいだに氣分の轉換する所を味わうべきである。
【參考】古事記原文。
   故後亦不v堪2戀慕1而、追往時歌曰、
  岐美賀由岐 氣那賀久那理奴 夜麻多豆能 牟加閇袁由加牟 麻都爾波麻多士此云2山多豆1者是今造木者也(古事記下卷)
 
右一首歌、古事記與2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉
 
右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌の主また異なり。
 
【釋】右一首歌 ミギノヒトツノウタハ。九〇の君之行の歌を受けているが、遠く八五の君之行の歌をこれと同歌と見て併わせ言つている。この歌が、古事記と類聚歌林とで、作歌事情や、作者が相違していることを説いている。類聚歌林の所説というのは、八五の方の傳來をいう。
 
因?2日本紀1曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇語2皇后1納2八田皇女1將v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后1云云。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其(330)處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1聞3天皇合2八田皇女1大恨之云々。
 
因りて日本紀を?《かむか》ふるに曰はく、難波の高津の宮に天の下知らしめしし大鷦鷯《おほさざき》の天皇の二十二年の春正月、天皇皇后に語りて、八田《やた》の皇女を納《い》れて妃とせむとしたまふ。時に皇后|聽《う年なる》さず。ここに天皇歌もちて皇后に乞ひたまひき云々。三十年の秋九月乙卯の朔乙丑の日、皇后紀伊の國に遊行《いでま》して熊野の岬に到り、其處《そこ》の御綱葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后のいまきざるを伺ひて、八田の皇女に嬰《あ》ひて宮の中に納《い》れたまひき。時に皇后難波の濟《わたり》に到りて、天皇、八田の皇女を合《め》しつと聞きて、いたく恨みたまひき云々といへり。
 
【釋】因?日本紀曰 ヨリテニホニギヲカムガフルニイハク。古事記と類聚歌林とが所傳を異にするので、これを判斷するために日本書紀を?したのである。以下日本書紀の文は、仁コ天皇紀と允恭天皇紀とにわたつている。上に掲げたのは、その仁コ天皇紀の文で、これを簡略にして引用している。
 八田皇女 ヤタノヒメミコ。應神天皇の皇女。仁コ天皇の異母妹。
 皇后 オホギサキ。磐の姫の皇后。
 不聽 ウナヅルサズ。日本書紀の古訓に、ウナヅルサズとある。ウナヅキ許サズの義で、承知しなかつたの意。
 御鋼葉 ミツナガシハ。延喜式に三津野柏、皇大神宮儀式帳に、御角柏とある。葉が三尖形を成しているので、三角柏の義であろう。神事に際して酒などを盛るに使用する。カエデ科の常緑喬木カクレミノの葉だという。
 
(331)亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通、乃悒懷少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1蓋親々相?乎云々。仍移2太娘皇女於伊與1者、今案2二代二時1、不v見2此歌1也。
 
また曰はく、遠《とほ》つ飛鳥《あすか》の宮に天の下知らしめしし雄朝嬬稚子《をあさづまわくご》の宿稱《すくね》の天皇の二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨《きなし》の輕《かる》の皇子を太子としたまひき。容姿佳麗にして見る者おのづから愛《め》づ。同母妹《いろも》輕の太娘《おほいらつめ》の皇女、また艶妙《かほよ》し云々。遂に竊に通ひ、すなはち悒懷少しく息《や》みぬ。二十四年の夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷と作《な》れり。天皇|異《あや》しみてその故を卜《うらな》はす。卜ふ者曰はく、内の亂あり。けだし親親相|?《たは》くるかといへり云々。よりて太娘の皇女を伊與に移しきといへれば、今二つの代二つの時を案ふるに、この歌を見ざるなり。
 
【釋】亦曰 マタイハク。この下、日本書紀允恭天皇紀の文を要約している。
 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇 トホツアスカノミヤニアメノシタシラシメシシヲアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト。允恭天皇。
 伊與 イヨ。伊豫に同じ。今の愛媛縣。伊豫の温泉の地であろう。ここまで日本書紀の引用である。
 二代二時 フタツノヨフタツノトキ。仁コ天皇の代と允恭天皇の代と、二代のそれぞれの時の意。
 
近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇謚曰2天智天皇1
 
(332)【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。卷の一に出ている。天智天皇の御代。
 天命開別天皇 アメノミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇、賜2鏡王女1御歌一首
 
天皇の、鏡の王女に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 鏡王女 カガミノヒメミコ。藤原の鎌足の妻となり、天武天皇の十二年七月薨じた。威奈の鏡の公の女で、額田の王の姉と推定される。額田の王(卷の一、七題詞)參照。
 御歌 オホミウタ。御製歌とあるべきであるが、御歌とあるは、資料のままであろう。この卷、一〇三の題詞にも例があを。次の鏡の王女の歌によれは、多分天皇は近江の國にましまして、大和の國に歸ろうとする鏡の王女に賜わつたものと考えられる。
 
91 妹が家も 繼ぎて見ましを。
 大和なる 大島の嶺《ね》に
 家もあらましを。
   【一は云ふ、妹があたり繼ぎても見むに。一は云ふ、家居らましを】
 
 妹之家毛《イモガイヘモ》 繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》
 山跡有《ヤマトナル》 大島嶺尓《オホシマノネニ》
 家母宥猿尾《イヘモアラマシヲ》
  【一云、妹之當繼而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
 
【譯】あなたの家も續いて見たいものだが、あの大和の國の大島の嶺に、わたしの家があつたらよかつたろうに。
(333)【釋】妹之家毛 イモガイヘモ。妹は、女子に對する愛稱であつて、ここでは鏡の王女をさして呼ばれる。この語はいかなる關係においても同等以下の女性ならば使用される。これによつて天皇と鏡の王女とのあいだに戀愛關係ありとするのは誤りである。
 繼而見麻思乎 ツギテミマシヲ。ツギテは、引き續いてで、絶えずの意になる。ミマシヲは、不可能の希望の語法で、見たいものだがの意を成す。句切。
 山跡有 ヤマトナル。次の句の大島の嶺の所在を説明する。これによつて、天皇が大和以外にましましたことが知られる。
 大島嶺尓 オホシマノネニ。大和の國の中であろうが所在不明である。日本後紀大同三年九月の條に、平城天皇が神泉苑に幸し、平群《へぐり》の朝臣|賀是麻呂《かぜまろ》に勅して歌を作らしめたが、その歌は「伊賀爾布久《イカニフク》 賀是爾阿禮婆可《カゼニアレバカ》 於保志萬乃《オホシマノ》 乎波奈能須惠乎《ヲバナノスヱヲ》 布岐牟須悲太留《フキムスビタル》」という。この平群氏の本居は、大和の國の平群郡の地であるべきであつて、その歌中の於保志萬も同地なるべく、從つて大島の嶺も同じく平群郡だろうと言われている。
 家母有猿島 イヘモアラマシヲ。この家は、作者目身の家である。大島の嶺に自分の家もあつたら妹の家が續けて見られるだろうにというのである。
 妹之當繼而毛見武爾 イモガアタリツギテモミムニ。初二句の別傳である。これによれば、二句で文が切れない。五句に作者の家もというのだから、初句は妹があたりの方がよい。
 家居麻之乎 イヘヲラマシヲ。五句の別傳である。これは作者自身が家居していたいの意で、イヘヲルで家居するの意味になる。上の初二句の別傳と同じ一首であろう。これによれば、「妹があたり繼ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを」となる。
(334)【評語】二段から成つており、なつかしさのあまりに、王女が大和に歸つても、その住む家を見たいという御心を繰り返されている。情味の溢れた御製である。大和ナル大島ノ嶺と場所を指定したのが、歌意をはつきりさせていてよい。
 
鏡王女、奉v和2御歌1一首
 
鏡の王女の、御歌に和へまつれる一首
 
【釋】奉和御歌 オホミウタニコタヘマツレル。御歌は、天皇の御製歌をいう。但し他の例によるに、和者の作の意として御の字が無く和シマツレル歌と讀まれる例であるが、ここはもとの資料からあつたものであろう。本集では、王、女王の作には御歌とは云わない例である。
 
92 秋山の 樹《こ》の下がくり 逝《ゆ》く水の、
 われこそ益さめ。
 御念《おも》ほすよりは。
 
 秋山之《アキヤマノ》 樹下隱《コノシタガクリ》 逝水乃《ユクミヅノ》、
 吾許會益目《ワレコソマサメ》
 御念從者《オモホスヨリハ》
 
【譯】秋山の樹の下がくれに行く水のように、私こそ益つて居りましよう。御心よりは。
【釋】樹下隱 コノシタガクリ。動詞隱ルは、古く四段活であつたので、カクリという。樹の下に隱れてで、次の句の逝く水を説明している。
 逝水乃 ユクミヅノ。以上三句は序詞で、次の句の益すを起している。逝く水のように益さるというのである。
 御念從者 オモホスヨリは。ミオモヒヨリハ(元)、オモホスヨリハ(元御本)、オモホサムヨハ(古義)。(335)御念は、オモホスともミオモヒとも讀まれるが。「吾大王《ワガオホキミ》 物莫御念《モノナオモホシ》」(卷一、七七)、「平城京乎《ナラノミヤコヲ》 御念八君《オモホスヤキミ》」(卷三、三三〇)などの例は、まさしく御念をオモホシ、オモホスに當てていると見られるから、證のある方についてオモホスと讀む。ヨリハは、比較を示してそれよりもの意をあらわしている。「賢跡《サカシミト》 物言從者《モノイフヨリハ》」(卷三、三四一)の如き用法である。
【評語】上三句は、益スというための序であるが、天皇御製が大島の嶺を云われているので、それに引かれて、その住むべき里の景を敍し、それを以つて序としているのである。前の歌に記したように、吾コソ益サメというのは、別かれて後に物思いが益すだろうというのである。この歌は、主文としては下二句だけであつて、陛下のお思い遊ばすよりは、わたしの方が思いまさるでしようというだけの内容であるが、序の美しさによつてもつている歌ということができよう。秋山ノ樹ノ下ガクリ逝クというのは、單に水の説明だけで、益スということには關係のないのも、古歌らしい歌いぶりであり、理くつのついていないのがよい。
 
内大臣藤原卿、婚2鏡王女1時、鏡王女、贈2内大臣1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女を娉《つまど》ひし時に、鏡の王女の、内の大臣に贈れる歌一首。
 
【釋】内大臣 ウチノオホオミ。既出(卷一、一六題詞)。宮廷に動仕する臣下の棟梁。
 藤原卿 フヂハラノマヘツギミ。藤原の鎌足。卿の字は、大臣か、三位以上に使う例であるが、本集では、大納言中納言にも使うことがある。
 娉鏡王女時 カガミノヒメミコヲツマドヒシトキニ。娉は禮を以つて妻となることを請う義。鏡の王女は、鎌足の正夫人と傳えられている。
 
(336)93 玉匣《たまくしげ》 覆《おほ》ふを易み、明《あ》けて行かば
 君が名はあれど
 わが名し惜しも。
 
 玉匣《タマクシゲ》 覆乎安美《オホフヲヤスミ》 開而行者《アケテユカバ》
 君名者雖v有《キミガナハアレド》
 吾名之惜裳《ワガナシヲシモ》
 
【譯】玉匣の蓋を蔽うのはたやすいが、その蓋をあけるというように、夜が明けてから出て行つたら、あなたの名はさておいて、わたくしの名が惜しいことです。
【釋】玉匣覆乎安美 タマクシゲオホフヲヤスミ。明ケテと言うがための序である。玉匣は、婦人の大事にしている手箱で、蓋を覆うものであるから、フタ、開クなどの枕詞にしばしば使われている。この歌では、玉匣に蓋をするのはたやすくしてという意から、明クにかかつている。
 開而行者 アケテユカバ。アケテは、玉匣のふたをあけることと、夜が明けることとをかけ詞にしている。鎌足が來て泊つて、夜が明けてから出て行つたらばの意である。
 君名者雖有 キミガナハアレド。君は鎌足をいう。鎌足が來て泊つたら、さぞ二人のうわさが立つであろう。その際、君の名の立つのはともかくもとしての意である。アレドは、それはあるがの意。
 吾名之惜裳 ワガナシヲシモ。シは強意の助詞。わが名の立つことが惜しいの意。
【評語】鎌足が王女のもとを訪れて婚姻を申し入れたのであるが、夜が明けて出て行つたら、二人の名が立つので、それが憚られるという歌である。この歌は、あなたの名はどうでもよいが、自分の名の立つのが惜しいと歌つている點が他の普通の歌と違うところで、この自己中心的な言い方がおもしろいのである。この君と我とが入れ違つているとして直す説もあるが、それでは全く平凡に落ちてしまうのである。あなたの名の事もあるけれども、自分の名の立つのが、何とも迷惑であると歌つているところに、率直な心があらわれている。鎌(337)足は既に、大臣として地位もあり、相當の年齡にも達していたものであろう。この歌と反對に歌つているものに、「わが名はも千名《ちな》の五百名《いほな》に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け」(卷四、七三一、大伴坂上の大孃)がある。
 
内大臣藤原卿、報2贈鏡王女1歌一首
 
内の大臣藤原の卿の、鏡の王女に報《こた》へ贈れる歌一首
 
【釋】報贈 コタヘオクレル。前掲の鏡の王女の歌に對して、鎌足の答え贈つた歌である。
 
94 玉くしげ 見む圓山《まとやま》の さな葛《かづら》、
 さ寐《ね》ずは遂に ありかつましじ。
  或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山の。
 
 玉匣《タマクシゲ》 將v見圓山乃《ミムマトヤマノ》 佐名葛《サナカヅラ》
 佐不v寐者遂尓《サネズハツヒニ》 有勝麻之自《アリカツマシジ》
  或本歌曰、玉匣三室戸山乃
 
【譯】玉匣のように、見ようとする圓山のさな葛のように、寐ないでは結局あり得られまい。
【釋】玉匣 タマクシゲ。鏡の王女の歌詞を取つて答歌を起しているが、ここでは玉匣を譬喩として見ムを起している。玉匣の身からミの音に冠するという説は、見は甲類のミであつて、音が違うからよくない。
 將見圓山乃 ミムマトヤマノ。ミムロノヤマノ(童)。ミムロノヤマノと讀むのは、將見圓をミムマロとし、ムマを約めてムとするのであろうが無理である。文字通りならばミムマトヤマノと讀むほかは無い。別傳に三室戸山乃とあるによれば、ミムロトヤマノとあつたものを誤傳したのだろうか。ミムロトヤマは、神殿のある山の義であり、各地に同名の山があつて、そのいずれであるかは決定し難いが、鏡の王女の家が平群郡であるとすれば、そこから見える三輪山だろう。
(338) 狹名葛 サナカヅラ。サネカヅラともいう。モクレン科の蔓性植物。南五味子の字を當てる。ビナンカズラという。以上三句は、次句のサネを引き出すための序詞となつている。
 佐不寐者遂尓 サネズハツヒニ。サは接頭語。鏡の王女の歌に、夜を明かして行くことを拒否されたので、それに對して、寐ずしてはと言つている。ツヒニははてはの意で、次の句を修飾する。
 有勝麻之自 アリカツマシジ。古く、アリカテマシモ、アリカテマシヲなど讀まれていたが、橋本進吉博士の説により、アリカツマシジと讀み改められた。アリは、存在の意の動詞。カツは、可能の意の助動詞。「多誤辭珥固佐摩《タゴシニコサバ》 固辭介?務介茂《コシカテムカモ》」(日本書紀一九、崇神天皇紀)の例の如く、カテムの形があり、下二段活と推考される。マシジは打消の推量の助動詞で、後にマジとなつた語である。假字書きの例には「阿良多麻能《アラタマノ》 伎倍乃波也之爾《キベノハヤシニ》 奈乎多?天《ナヲタテテ》 由吉可都麻思自《ユキカツマシジ》 移乎佐伎太多尼《イヲサキダタネ》」(卷十四、三三五三)の如きがある。「豫?麻志士枳《ヨルマシジキ》 箇破能區莽愚莽《カハノクマグマ》」(日本書紀五六、仁コ天皇紀)の例の如く、マシジキの形も傳えられている。
 玉匣三室戸山乃 タマクシゲミムロトヤマノ。初二句の別傳である。
【評語】あなたは夜が明けてから出て行つてはいけないと言われるが、自分の氣もちとしては、どうしても泊らないでは行くわけに行かないのであるという情を述べている。序詞がかなり調子に乘つている感があつて、全體として熱情の歌であるべきであつて、しかも、それほどに響いていない。序詞から主文に續くつづき方が同音の法によつているためでもあろう。畢竟作者が、理智の人であることを、反映していると見られるのである。
 
内大臣藤原卿、娶2采女安見兒1時、作歌一首
 
内の大臣藤原の卿の采女安見兒《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時に作れる歌一首
 
(339)【釋】娶采女安見兒時 ウネメヤスミコニアヒシトキニ。采女は、卷の一、五一參照。その出身の國名または郡名を冠して呼ばれるのが通例で、駿河の采女、三重の采女などのように呼ばれる。ここに安見兒とあるのは、その名であるが、この采女の出身の郷土は知られない。采女は、天皇に側近奉仕する職にあり、これと通ずるが如きは嚴に禁止される。しかるにここに鎌足が采女安見兒を得たというのは、特に勅旨を以つて賜わつたものと推考され、この歌は、多分その席上で歌つたものと考えられる。
 
95 吾はもや 安見兒《やすみこ》得《え》たり。
 皆人の 得《え》がてにすとふ
 安見兒得たり。
 
 吾者毛也《ワハモヤ》 安見兒得有《ヤスミコエタリ》
 皆人乃《ミナヒトノ》 得難尓爲云《エガテニストフ》
 安見兒衣多利《ヤスミコエタリ》
 
【譯】自分はあの安見兒を得た。皆が得がたいといつている、あの安見兒を得たことだ。
【釋】吾者毛也 ワハモヤ。モヤは感動の助詞で、吾はというに同じ、古事記上卷、須勢理?賣の歌に、「阿波母與《アハモヨ》 賣爾斯阿禮婆《メニシアレバ》」(三)とあるが、モヨもモヤに同じである。モヤの例は、古事記下卷、顯宗天皇記に、「意岐米母夜《オキメモヤ》 阿布美能淤岐米《アフミノオキメ》」(一一三)とあり、この初句は、置目という名の老媼を呼びかけたもので、置目もやと言い、この同じ句を、日本書紀には「於岐毎慕與」と傳えている。「籠毛與」(卷一、一)參照。
 安見兒得有 ヤスミコユタリ。安見兒は采女の名である。ヤスミは形容詞の古い連體形で、後のヤスキ兒というに同じである。清ミ原《はら》、赤ミ鳥《とり》、高ミ座《くら》等、皆同法である。兒は親愛の情を含んでいう。得タリは、わが物とした意である。句切。
 皆人乃 ミナヒトノ。皆の人の。集中、人皆とも皆人とも用いている。
 得難尓爲云 エガテニストフ。得難いものにするという。ガテニは、ガテは勝つ、堪う、能くする等の意、(340)ニは打消の助動詞で、得ガテニは、得ることのできない意の副詞句である。ガテはもと清音であるが、連濁で濁音に轉じ、また難しの語根と混雜して考えられ、ニが否定の意を忘れるようになつた。これは打消の助動詞ニが古語になつて、特殊の熟語にのみ殘るようになり、一方助詞のニが發達して、副詞を作る場合にしばしば使用されるに至つたからである。それで文字としても、ここに見るように難尓のような字面を見るに至つたのである。ガテニは、集中、「宇具比須能《ウグヒスノ》 麻知迦弖爾勢斯《マチガテニセシ》 宇米我波奈《ウメガハナ》」(卷五、八四五)、「加波度爾波《カハトニハ》 阿由故佐婆斯留《アユコサバシル》 吉美麻知我弖爾《キミマチガテニ》」(同、八五九)の如く、假字書きの例があつて、ガテニと讀むことに定められている。これによれは、ガテは下二段活と見るべきであるが、古くは四段活であつたかとも思われる。それは古事記中卷に、「宇倍那宇倍那《ウベナウベナ》 岐美麻知賀多爾《キミマチガタニ》 和賀祁勢流《ワガケセル》 意須比嚢須蘇爾《オスヒノスソニ》」(二九)の如く、ガタニの形があり、本集にも、「吾者干可太奴《ワレハカレガタヌ》 相日待爾《アハムヒマツニ》」(卷十、二〇三)、「玉垂之《タマダレノ》 小簀之垂簾乎《ヲスノタレスヲ》 往褐《ユキガチニ》 寐者不v眠友《イハナサズトモ》 君者通速爲《キミハカヨハセ》」(卷十一、二五五六)の如く、ガタヌ、ガチニの例がある。ガチニは、ガツの名詞形に助詞ニの添つたものと見るのである。この句は、連體句で、次の句の安見兒を修飾している。難は、カタシに慣用される字であるから、この句も、エガタニであるかも知れないが、今しばらく舊訓のままとする。勝の字をあてたものも同樣である。
 安見兒衣多利 ヤスミコエタリ。第二句と同じ句を繰り返している。
【評語】この歌、二句と五句とに同一の句を重ねて、安見兒を得た滿足の情をあらわしている。二句と五句とに同一の句を用いるのは、記紀の歌には多いことであるが、この集には、あまり見受けない。短歌が古く二句と五句とで切れたことを、よくあらわすものとして意義がある。これは歌いものから來た形であり、鎌足が特に采女安見兒を得て、得意になつて歌いあげた?況が髣髴として浮んで來る。なお二句と五句とに同句を繰り返す歌の例は、卷の一の五五の條に掲げた。
 
(341)久米禅師、娉2石川郎女1時歌五首
 
久米の然師の、石川の郎女を娉《つまど》ひし時の歌五首
 
【釋】久米禅師 クメノゼシ。傳未詳。久米は氏であろう。禅師は、名か、法師の義か不明である。卷の五、八二一の歌の下の註文に、笠の沙彌とあるは、滿誓のことで、笠氏の沙彌の義であるから、久米氏の禅師ということもあり得るのである。
 娉石川郎女時 イシカハノイラツメヲツマドヒシトキニ。石川の郎女は傳未詳。郎女は、日本書紀景行天皇紀に、「郎姫、此云2異羅菟刀sイラツメ》1」とあるに準じてイラツメと讀む。イラは、イロハ(母)、イロセ(兄弟)などのイロと同語なのであろう。ツは助詞、メは女性の意。婦人の尊稱と考えられ、男子に對しては郎子《いらつこ》の語が存している。
 
96 み薦《こも》刈る 信濃《しなの》の眞弓 わが引かば、
 うま人《びと》さびて 否《いな》と言はむかも。禅師
 
 水薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 吾引者《ワガヒカバ》
 宇眞人佐備而《ウマビトサビテ》 不欲常將v言可聞《イナトイハムカモ》禅師
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の國から出た弓を引くように、わたしが引いたならば、お上品ぶつていやですというでしようね。
【釋】水薦苅 ミコモカル。ミクサカル(仙覺)、ミスズカル(童蒙抄)の諸訓がある。考に薦の字は?の誤りであるという説があるが、誤字説は採用し得ない。薦は本集普通コモと讀む字であり、從つて此處もミコモカルと讀むべきである。信濃の枕詞であつて、同時にその地の實際を語る句になつている。
 信濃乃眞弓 シナノノマユミ。マユミは木の名、ニシキギの屬であるが、この樹は弓を作るに適している。(342)その眞弓を以つて弓の代表としたのである。信濃は弓を多く産した國で、梓弓を貢したことが國史等に見えている。此處に信濃の眞弓を提出しているのは、弓の産地として代表的な地方であり、またその國の弓が實際作者の附近にあつたものでもあろう。
 吾引者 ワガヒカバ。弓を引くことから引き起している。これに自分の方へ靡き寄れと誘うことを懸けている。以上、弓を引くように、あなたを誘つたらと譬喩に言つている。
 宇眞人佐備而 ウマビトサビテ。ウマビトは、身分のよい人をいう。サビは神サブ、男サブ等の語のサブと同じく、そのものの性能を發揮することをいう。ウマビトサビは貴人としての性質をあらわす意である。われわれが申し入れても、貴人としての立場においてことわるだろうという意味になる。
 不欲常將言可聞 イナトイハムカモ。申し入れるのをいやというであろうかの意。
【評語】相聞の歌として、溌剌たる才氣の感じられる巧みな歌であるが、譬喩による序を使用しただけに、し(343)んみりした情味は出ていない。
 
97 み薦《こも》刈《か》る 信濃の眞弓 引かずして
 あなさるわざを 知《し》ると言はなくに。  郎女
 
 三薦苅《ミコモカル》 信濃乃眞弓《シナノノマユミ》 不v引爲而《ヒカズシテ》
 強佐留行事乎《アナサルワザヲ》 知跡言莫君二《シルトイハナクニ》  郎女
 
【譯】水邊のコモを刈る信濃の眞弓をお引きにもならないで、まあそんなしわざを私は存じませんよ。
【釋】三薦苅信濃乃眞弓 ミコモカルシナノノマユミ。前の歌の句を取つている。弓を提示した句。
 不引爲而 ヒカズシテ。引きもしないで、以上、弓を引きもしないでで、自分を妻にと申し入れもなくての意の譬喩になる。
 強佐留行事乎 アナサルワザヲ。
   シヒサルワサヲ(元)
   ――――――――――
   強作留行事乎《シヒサルワサヲ》(西)
   弦作留行事乎《ツルハグルワザヲ》(代初)
   弦作留行事乎《ヲツクルワザヲ》(童)
   弦作留行事乎《ヲハグルワザヲ》(考)
 弦作留行事乎とする系統の説には、弓を引かないで弦を附けるという矛盾がある。また古く強佐留行事乎に作つているによれは、弦作留行事乎とするために二字直さなくてはならない。よつて原文のままに讀むべきである。佐留行事を、サルワザと讀むとすれば、強は、それを限定している副詞なるべく、副詞とすれば、古語拾遺に、強女を於須女と訓しているのによつて、オソ(鈍)とも讀まれるが、オスメのオスとオソと、はたして同語であるかは不安である。よつて今、類聚名義抄、強にアナガチニの訓のあるのによつて、アナとする。(344)アナガチニは、しいて、おしての意で、副詞アナを基礎としてできているのだろう。アナは驚嘆の意をあらわす。ああ、引きもしないでさような業を我は知るとは言わないの意になる。
 知跡言莫君二 シルトイハナクニ。イハナクニは言わないことの義。ニは感動の助詞。
【評語】以上二首、信濃の眞弓を材料として、譬喩として問答を交わしている。前の歌に女の心を見透したようなところがあり、、後の歌にも巧みに言い返した口調がある。巧みなやり取りだが、これもまた譬喩に囚われている。すべりがよいのも、かえつて口先だけのやりとりのような感を與える原因になる。
 
98 梓弓 引かばまにまに よらめども、
 後の心を 知りがてぬかも。 郎女
 
 梓弓《アヅサユミ》 引者隨意《ヒカバマニマニ》 依目友《ヨラメドモ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知勝奴鴨《シリガテヌカモ》 郎女
 
【譯】梓弓を引くようにお引きになるならば、お心通りになりましようけれども、將來の心を知りかねることでございます。
【釋】》梓弓 アヅサユミ。引クの枕詞。前から信濃の眞弓を材料にして歌つているので、重ねてこの句を出している。
 引者隨意 ヒカバマニマニ。男が女を誘うことを引クと言つている。弓を引くように男が自分を引くならばその心のままにの意。
 依目友 ヨラメドモ。依らむなれども、御意に從いましようけれどもの意。
 後心乎 ノチノココロヲ。後は將來をいう。今は君の心に從うべきも、君の將來の心を知らずというのである。
 知勝奴鴨 シリガテヌカモ。ガテヌはできないことをあらわす。知ることが、できないことだというのであ(345)る。但し、勝は普通四段活の動詞に使われる字であるから、この文字からは、シリガタヌカモと讀むべきではないかと思われることは、「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)の條に説いた通りであるが、これもしばらく舊訓による。
【評語】女に、男の言に應じたいが、將來を危む心があり、それがこの歌となつている。これは平常に見られる心であり、それが歌を事務的なものにしているのは、やむを得ないところである。
 
99 梓弓 弦緒《つらを》とり著《は》け 引く人は、
 後《のち》の心を 知る人ぞ引く。 禅師
 
 梓弓《アヅサユミ》 都良弦取波氣《ツラヲトリハケ》 引人者《ヒクヒトハ》
 後心乎《ノチノココロヲ》 知人曾引《シルヒトゾヒク》 禅師
 
【譯】梓弓に弦を取りつけて引く人は、將來の心を知る人が引くのですよ。
【釋】梓弓 アヅサユミ。この歌では單に枕詞でなく、歌全體に關する譬喩として使つている。
 都良弦取波氣 ツラヲトリハケ。ツラヲは弦緒で、弓弦の緒である。トリハケは、弓に弦をつけることを言う。トリは接頭語。
 引人者 ヒクヒトは。自分のことを言つている。
 後心乎知人曾引 ノチノココロヲシルヒトゾヒク。他の人にあらず、將來を知る人が引くというのである。
【評語】前の歌に後の心を知りかねると言つたので、それを辯解している。譬喩に弓を使つたのは前からの縁であるが、すこしそれにこだわり過ぎたような感がある。
 以上は弓を引くということを譬喩に使つているが、かような譬喩は、他にも見えている。すなわち次の如くである。
  陸奧《みちのく》の吾田多良《あだたら》眞弓|絃《つる》はけて引かばか人の吾《わ》を言成さむ(卷七、一三二九)
(346)  梓弓引きみゆるべみ來ずは來ず來ばぞそをなぞ來ずは來ば其《そ》を(卷十一、二六四〇)
  梓弓|弓束《ゆづか》卷き易《か》へ中見さし更に引くとも君がまにまに(同、二八三〇)
 
100 東人《あづまびと》の 荷前《のさき》の篋《はこ》の 荷の緒《を》にも、
 妹が心に 乘りにけるかも。 禅師
 
 東人之《アヅマビトノ》 荷向篋乃《ノサキノハコノ》 荷之緒尓毛《ニノヲニモ》
 妹《イモガ・イモハ》情尓《ココロニ》 乘尓家留香聞《ノリニケルカモ》 禅師
 
【譯】東人の貢物を入れた箱の荷の緒のようにも、わたしはあなたの心に乘つたことです。
【釋】東人之 アヅマビトノ。東人は、東國の人のこと。特に遠い處から馬に貢物の荷をつけて來る人の感じがある。
 荷向篋乃 ノサキノハコノ。荷前《のさき》は、馬や船に積んだ荷物の先に乘せるものの義で、貢物のお初穗をいう。祈年祭の祝詞に「荷前は皇大神《すめおほかみ》の御前に、横山の如うち積み置きて、殘りをば平けく聞しめさむ」などある。荷前の箱は、荷前の貢物を納めて運送して來る箱をいう。
 荷之緒尓毛 ニノヲニモ。荷前の荷物を馬に附ける荷の緒で、箱に乘るので、妹が心に乘るの序になつている。
 妹情尓乘尓家留香聞 イモガココロニノリニケルカモ。妹情尓の句は、イモガココロニ(元)、イモハココロニ(考)の兩訓がある。心ニノルは、心に思う對象となることをいうので、殊に思われるということが、普通でないとして、妹が自分の心に乘つた意として、イモハココロニの訓が行われている。この二句はこのほかになお五首に使われているが、イモガココロニの部分の文字は、殊心四例、妹情一例で、いずれも助詞を補讀しなくてはならない。助詞ハは、補讀を要する場合がすくなく、妹心、妹情とある文字は、漢文ふうには、妹が心、妹の心、と解するのが普通であるから、今、イモがココロニとする。心ニ乘ルは、心に思われる、心に(347)問題になるの意。「あぜせろと心に乘りて」(卷十四、三五一七)は、どうしようとてか、氣にかかつてくらいの意である。妹が自分の心に乘るというので、心に思われることをいう。相手が自分の心に乘るというので、全面的に思うことをあらわした句である。イモガココロニと讀めば、妹に思われることを誇る意味になる。
【評語】序歌であるが、この二人の間に東人の荷前の箱は何か縁故があるであろう。前に信濃の眞弓といい、今また東人の荷前といい、東國に縁故のあるものと考えられる。妹ガ心ニ乘リニケルカモは、しばしば用いられる句で、譬喩を變えては詠まれている。一種の名句で、妹にとやかく思われ、問題にされることを滿足している句として、流行したのであろう。人麻呂歌集にもあり、どれが本歌であるかわからない。
【參考】心に乘る。
  ももしきの大宮人は多かれど心に乘りて思ほゆる妹(卷四、六九一)
  春されはしだり柳のとををにも妹が心に乘りにけるかも(卷十、一八九六)
  宇治川の瀬々の敷浪しくしくに妹が心に乘りにけるかも(卷十一、二四二七)
  大船に葦荷刈り積みしみみにも妹が心に乘りにけるかも(同、二七四八)
  漁する海人の楫の音ゆくらかに妹が心に乘りにけるかも(卷十二、三一七四)
  (上略)思ひ妻心に乘りて、高山の嶺のたをりに(下略)(卷十三、三二七八)
  白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乘りてここば悲しけ(卷十四、三五一七)
 
大伴宿称、娉2巨勢郎女1時歌一首【大伴宿称、諱曰2安麻呂1也。難波朝右大臣大紫大伴長コ卿之第六子、平城朝任2大納言兼大將軍1薨也。】
 
大伴の宿祢の、巨勢の郎女を娉《つまど》ひし時の歌一首【大伴の宿禰は、諱を安麻呂と曰ふ。難波の朝の右の大臣大柴大伴の長コの卿の第六子にして、平城の朝に、大納言兼大將軍に任けられて薨りき。】
 
【釋】大伴宿祢 オホトモノスクネ。下の註にあるように、大伴の安麻呂である。安麻呂は長コの第六子で、(348)大納言兼大將軍に至り、和銅七年五月に薨じた。旅人の父である。 巨勢郎女 コセノイラツメ。次の歌の題詞の註に「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。巨勢の人(日本書紀に巨勢の比等)の女である。下文一二六の歌の題詞の下の註に、大伴の田主の母は巨勢の郎女であると見えている。旅人の母については所傳が無いが、やはり巨勢の郎女であるかも知れない。
 難波朝 ナニハノミカドノ。孝コ天皇の御代をいう。天皇は難波の長柄の豐崎の宮においでになつた。
 大紫 ダイシ。位冠の名。孝コ天皇大化五年の制によれば、織、繍、紫、錦、山、乙、建の七種があつて、それぞれ大小の二階があり、そのうち錦山乙の三種には、またそれぞれ上中下があつて、併わせて十九階になつている。大紫は上から五番目の位である。
 大伴長コ卿 オホトモノナガトコノマヘツギミ。咋子《くいこ》の子、字を馬飼という。
 平城朝 ナラノミカドニ。平城の朝廷で、元明天皇以下七代の御代の謂であるが、ここは元明天皇の御代である。
 
101 玉葛《たまかづら》 實《み》ならぬ樹には
 ちはやぶる 神ぞ著《つ》くといふ。
 成《な》らぬ 樹ごとに
 
 玉葛《タマカヅラ》 實不v成樹尓波《ミナラヌキニハ》
 千磐破《チハヤブル》 神曾著《カミゾツク》常云《トイフ・トフ》
 不v成樹別尓《ナラヌキゴトニ》
 
【譯】實の成らない樹には、おそろしい神がつくということです。實の成らない樹毎に。
【釋】玉葛 タマカヅラ。枕詞。玉は美稱であるが、玉葛という以上は玉のような實が成る葛とするのが妥當である。そこで次の句のミ一字に懸るのである。
 實不成樹尓波 ミナラヌキニハ。實の成らない樹にはで、男に嫁せぬ女に譬えている。「山菅乃《ヤマスゲノ》 實不v成事(349)乎《ミナラヌコトヲ》」(卷四、五六四)く これは眞實の無いことをである。
 千磐破 チハヤブル。枕詞。日本書紀に、殘賊強暴をチハヤブルと訓している。猛威をふるう義であつて、神を恐怖する意から出た語である。この歌でも、神を恐るべきものとして、この詞を冠していると見られる。しかし、後には、ただ機械的に神を修飾する語になつている。本集では、知波夜夫流、知波夜布留、千羽八振、千早振、千速振、千石破、千葉破、千磐破、血速舊など書いている。ほかにチハヤビトの語もあつて、チハヤで一つの思想をあらわし、チは靈威、ハヤは勇猛の意の語で、ブルは、その性質のあらわれる意に動詞化するものと思われる。それを、チハに千石、ヤブルに破の字をあてた系統の字面は、たくさんの岩石を破壞するといぅ字面に興味を感じて通用語原となつているのだろう。なお卷の二、一九九など枕詞でない用法もある。
 神曾著常云 カミゾツクトイフ。實の成らない樹には恐るべき神がつきものするの義である。トイフは、トフともいう。この句で文が切れる。
 不成樹別尓 ナラヌキゴトニ。實の成らぬ樹毎にというべきを、繰り返して言うので實を略している。
【評語】實の成らない樹には神の降りつくという信仰があつた。それで相手に向かつて男と結婚しないような女には恐ろしい神樣がつくぞと言つておどかしている。譬喩の歌であるが變つた材料を用いているところがおもしろいのである。最後の句に、成らない樹にはかならずの意を含めているのも力強い表現である。實の成るということに戀の成るという意をかけて言う例は多い。
 
巨勢郎女、報贈歌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
 
巨勢の郎女の、報へ贈れる歌一首【すなはち近江の朝の大納言巨勢の人の卿の女なり。】
 
(350)【釋】巨勢郎女 コセノイラツメ。前の歌の題詞に見えている。
 報贈歌 コタヘオクレルウタ。大伴の安麻呂の歌に應じて贈つたのである。
 近江朝 アフミノミカドノ。天智天皇の御代をいう。
 巨勢人 コセノヒト。名は、日本書紀に比等ともある。大納言に至り、壬申の乳に、配流せられた。
 
102 玉葛 花のみ咲きて 成らざるは
 誰《た》が戀ならめ。
 わが戀《こ》ひ念《も》ふを。
 
 玉葛《タマカヅラ》 花耳開而《ハナノミサキテ》 不v成有者《ナラザルハ》
 誰戀尓有目《タガコヒナラメ》
 吾孤悲念乎《ワガコヒモフヲ・ワハコヒオモフヲ》
 
【譯】玉葛のように花ばかり咲いて實の成らないのは、どなたの戀でもありません、あなたの戀です。わたくしは戀しく思つておりますのに。
【釋】玉葛 タマカヅラ。ここでも枕詞に使つている。但しその實の成らないのを取り立てて言つている。
 花耳開而 ハナノミサキテ。先方が言のみ巧みであることを諷している。
 不成有者 ナラザルハ。實の成らないのと戀の實意の無いのとをかけている。
 誰戀尓有目 タガコヒナラメ。コソが無くても誰がという語に對してメと結んで反語になる。誰の戀でもない。あなたの戀だ。「不v所v見十方《ミエズズトモ》 熟不v戀有米《タレコヒザラメ》」(卷三、三九三)などの例がある。
 吾孤悲念乎 ワガコヒモフヲ。轉じて自分のことを歌つている。ヲは感動の助詞で、それだのにの意を寓している。孤悲の文字は、字音假字であるが、集中戀の語の表示に慣用されている。吾は、ワハとも讀まれるが、ハに當る字がないからワガとする。
【評語】前の歌に對して同じ玉葛を使つて答としている。内容をあらわすのに一杯であつて情趣には乏しい歌(351)である。答歌の常としてやむを得ないところであろう。すべて贈答の歌は贈る歌の方が自由に題材を選擇することができるので、有利な事情に立つている。
 
明日香清御原宮御宇天皇代【天渟中原營眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
【釋】明日香清御原宮御宇天皇 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、二二題詞)。天武天皇の御代。
  天渟中原營眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
天皇、賜2藤原夫人1御歌一首
 
天皇の、藤原の夫人に賜へる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天武天皇。
 藤原夫人 フヂハラノオホトジ。夫人は、令制に「妃二員、夫人三員、嬪四員」とあつて、後宮に奉仕する職である。字音ではブニンと讀む。オホトジと讀むのは、卷の八、藤原の夫人(一四六五題)の自註に、大原の大刀自というとあるによる。刀自は主婦の稱。藤原の夫人は、日本書紀天武天皇紀に、「夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五首重娘生2新田部皇子1」とあり、いずれも藤原の鎌足の女である。そのいずれかというに、卷の八夏の雜歌に、藤原の夫人に註して、「明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1。即新田部皇子之母也」とあり、新田部の皇子の母なる五百重娘を大原の大刀自と稱しているので、その方であろうと考えられる。
 
(352)103 わが里に 大雪降れり。
 大原の 古りにし里に
 降らまくは後。
 
 吾里尓《ワガサトニ》 大雪落有《オホユキフレリ》
 大原乃《オホハラノ》 古尓之郷尓《フリニシサトニ》
 落卷者後《フラマクハノチ》
 
【譯】わたしの住んでいる里には、大雪が降つている。あなたの住んでいる、大原の古くなつた里に、降ろうとするのはこれから後ですよ。
【釋】吾里尓 ワガサトニ。ワガサトは、皇居である明日香の清御原の地をさして仰せられている。
 大雪落有 オホユキフレリ。句切。
 大原乃 オホハラノ。大原は、奈良縣高市郡飛鳥村小原のうちで、今も大原の字が殘つているところ。ここは、鎌足の生地で、その邸址がある。そこに住まれて居つたのであろう。
 古尓之郷尓 フリニシサトニ。フリニシサトは、人の住むこともすくなくなつて荒廢した里をいう。「鶉鳴《ウヅラナク》 故郷從《フリニシサトユ》 念友《オモヘドモ》」(卷四、七七五)、「人毛無《ヒトモナキ》 古郷爾《フリニシサトニ》 有人乎《アルヒトヲ》」(卷十一、二五六〇)など使用されている。ここは夫人の住んでいる里に對してたわむれに惡口を言われたのである。(353)「大原《オホハラノ》 古郷《フリニシサトニ》 妹置《イモヲオキテ》 吾稻金津《ワレイネカネツ》 夢所v見乞《イメニミエコソ》」(卷十一、二五八七)
 落卷者後 フラマクハノチ。フラマクは、降らむこと。雪の降ることは後であろうの意。
【評語】雪を賞美して、たわむれにそちらにはまだ降るまいと仰せられている。大雪、大原とオホの音を重ね、また降レリ、古リニシ、降ラマクとフルの音を重ねて、これによつて歌品をあかるくしている。吟誦のあいだから生まれ出た形態の作であつて、よく内容と表現とが一致している。天皇の御製には、「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ」(卷一、二七)の如きもあつて、それも同音の重疊の點に特色を有している。
 
藤原夫人、奉v和歌一首
 
藤原の夫人の、和へまつれる歌一首
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。天皇の賜える歌に對して唱和した歌である。
 
104 わが岡の ?神《おかみ》に言ひて
 降らしむる、
 雪の推《くだけ》し、其處《そこ》に散りけむ。
 
 吾岡之《ワガヲカノ》 於可美尓言而《オカミニイヒテ》
 令v落《フラシムル・フラシメシ》
 雪之推之《ユキノクダケシ》 彼所尓塵家武《ソコニチリケム》
 
【譯】わたくしの住んでいる岡の、水を司る神に申し附けて、降らせます雪の、推《くだ》けたのが、貴方樣の里に散つたことでございましよう。
【釋】吾岡之 ワガヲカノ。わが岡は夫人の住んでいる大原の里をいう。この地は丘陵の地形である。
 於可美尓言而 オカミニイヒテ。 オカミは、日本書紀卷の一伊弉諾の尊が火神を斬る條に「從2劍頭1垂血、(354)激越爲v神、號曰2闇?《クラヲカミ》1」とあり、その自註に、「?、此云2於箇美1、音力丁反」とある。この字は、龍神の義である。なお古事記に闇淤加美《くらおかみ》の神があり、豐後國風土記には蛇?とあつて、於箇美《オカミ》と註している。國語のオカミも、蛇體の神であつて、水を掌り、雨雪をも掌ると信じられていたのであろう。オカミは低級の神で、岡の地主神ぐらいの感であつたと思われる。水の神であるから、その神に申して、雪を降らしめるというのである。
 令落 フラシムル。シムルは使役の助動詞、連體形。フラシメシとも讀まれているが、明日香と大原とは近接地で、雪は今降りつつあるのだろう。
 雪之推之 ユキノクダケシ。クダケは破片の意の體言。シは強意の助詞。
 彼所尓塵家武 ソコニチリケム。ソコは清御原の宮をさす。大雪降レリと仰せられたが、それはこちらで降らせる雪の破片が散つたのでしようというのである。
【評語】天皇の賜歌に對して反撥的に歌つている。これは相聞の歌が、歌の懸け合いから發達したものであつて、才を爭う氣分が傳わつたものである。そこに贈答問答の歌のおもしろさがある。しかしやはり贈つた歌の方が、歌境を選定する自由があり、歌品も大きくすぐれている。答歌は、その與えられた範圍内で詠むので、才氣のほどは窺われるが、理くつつぽくなつているのはやむを得ない所である。
 
藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代【天皇謚曰2持統天皇1、元年丁亥十一年讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1也。】
 
藤原の宮に天の下知らしめしし高天の原廣野姫の天皇の代【天皇謚を持統天皇と曰《まを》す。元年は丁亥にして十一年に位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
【釋】藤原宮御宇高天原廣野姫天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシタカマノハラヒロノヒメノスメラミコトノミヨ。高天の原廣野姫の天皇は、既出(卷一、二八題詞)。持統天皇の國風の謚號である。宮號(355)御宇の下に御稱號を加えるのは、これも卷の一、二二の歌の前に、「明日香清御原宮天武天皇代」の如き形があり、ここは更に御宇の二字が加わつている。これは違例ではあるが、文證の無いものではなく、統制の完全でない萬葉集としては、これを誤りとするわけにはゆかない。
 輕太子 カルノヒツギノミコ。天武天皇の皇孫、草壁の皇子の御子。後に文武天皇と申す。
 
大津皇子、竊下2於伊勢神宮1、上來時、大伯皇女御作歌二首
 
大津《おほつ》の皇子《みこ》の、竊に伊勢の神宮に下《くだ》りて、上り來ましし時、大伯《おほく》の皇女《ひめみこ》の作りませる歌二首
 
【釋】大津皇子 オホツノミコ。天智天皇の皇女の太田の皇女と鵜野の讃良《さらら》の皇女とは、竝に天武天皇の後宮にはいつた。鵜野の讃良の皇女は皇后に立ち、天皇の崩後、帝位につかれた。すなわち持統天皇である。太田の皇女は、大伯の皇女と大津の皇子とを生まれたが、早く亡くなられた。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じて、大津の皇子は、竊に姉の大伯の皇女が齋宮として赴いておられた伊勢の神宮に下つたが、京に歸ると、十月三日謀反の罪によつて殺された。時に年二十四。妃山邊の皇女、被髪徒跣して難に赴いて殉死した。皇子は文武の才幹があり、この集に作歌があるほか、懷風藻に詩を留めているが、刑戮にあつて死せられたのは惜しむべきである。
 伊勢神宮 イセノカムミヤ。三重縣伊勢市に鎭座する皇大神宮。
 大伯皇女 オホクノヒメミコ。天武天皇の皇女。また大來の皇女とも書く。日本書紀齊明天皇紀に「七年春正月丁酉朔、甲辰、御船到2於大伯海1時、大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。この大伯は、岡山縣の邑久《おおく》である。皇女は、天武天皇の二年に十四歳で、伊勢の皇大神宮に奉仕する齊宮となり、翌年十月伊勢に下り、持統天皇の朱鳥元年十一月に解任して京に還つた。この歌は、伊勢にあつて弟の大津の皇子の京(356)に還るのを見送つて詠まれた歌である。
 
105 わが夫子《せこ》を 大和へ遣《や》ると、
 さ夜《よ》更《ふ》けて
 曉《あかとき》露に わが立ち濡《ぬ》れし。
 
 吾勢枯乎《ワガセコヲ》 倭邊遣登《ヤマトヘヤルト》
 佐夜深而《サヨフケテ》
 鷄鳴露尓《アカトキツユニ》 吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》
 
【譯】わたくしの弟を京へ歸し遣るとして、夜が更けて明るくなろうとする頃の露に、わたくしは立つていて濡れたことです。
【釋】吾勢枯乎 ワガセコヲ。セは男子に對して親しみいう語。コは親愛をあらわす語。ここは、弟に對して用いられている。
 倭邊遣登 ヤマトヘヤルト。ヤマトは、京のある大和の國。ヤルは、自分のものを放して出し遣る意。トは、としての意。
 佐夜深而 サヨフケテ。サは接頭語。フケテは深くして。夜の深きうちに伊勢を出發されるのである。立チ濡レシを修飾している。
 鷄鳴露尓 アカトキツユニ。アカトキは明時の義で、夜の明けゆく頃をいう。鷄鳴は、漢籍にて未明の時をいう語。それを借りてアカトキに當てている。ここはアカトキツユを一の熟語としている。「高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋芽子《ノベノアキハギ》 比日之《コノゴロノ》 曉露爾《アカトキツユニ》 開兼可聞《サキニケムカモ》」(卷八、一六〇五)など使用されている。
 吾立所霑之 ワガタチヌレシ。上に、ゾヤカ等の係助詞無くして連體形に留めることは、古歌に往々にして見られるところである。これは、立ち霑れしことぞのような意味であつて、しかも既にそのようにいう必要の無い場合に使用される。「阿斯波良能《アシハラノ》 志祁去岐袁夜邇《シケコキヲヤニ》 須賀多々美《スガタタミ》 伊夜佐夜斯岐立《イヤサヤシキテ》 和賀布多理泥斯《ワガフタリネシ》」(古(357)事記中卷)、「大船之《オホフネノ》 津守之占爾《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》 益爲爾知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》」(卷二、一〇九)など、この語法である。
【評語】弟を思われる眞の情がよく描出されている。集中、人を待つて露に濡れたという歌は多いが、見送つて濡れたことを歌つたものは稀である。夜深く皇子の出發されるのが、世に隱れるためであり、別れては再會を期しがたい危さが、この歌の生命となつたものである。
 
106 二人行けど
 行き過ぎがたき 秋山を、
 いかにか君が ひとり越ゆらむ。
 
 二人行杼《フタリユケド》
 去過難寸《ユキスギガタキ》 秋山乎《アキヤマヲ》、
 如何君之《イカニカキミガ》 獨《ヒトリ》越武《コユラム・コエナム》。
 
【譯】二人で行つてもさびしくて行き過ぎかねる秋山を、弟は、どのようにして越えていることでしよう。
【釋】二人行杼 フタリユケド。二人して行けどもの意で、過去の體驗を擧げていう所である。この二人は、一人に對していうので、かならずしも二の實敷に拘泥すべきでないのは勿論である。
 去過難寸 ユキスギガタキ。秋山の荒涼として越えるのが、おそろしいのをいう。
 如何君之 イカニカキミガ。イカニカは、大津の皇子の越える?態を、どのようにかと疑つている。君は大津の皇子。
 獨越武 ヒトリコユラム。ヒニトリコユラム(舊訓)として現在の山行の?を推量する意に讀む説と、ヒトリコエナムと、これから越えようとする樣を思いやる意に讀む説(考)とある。前の歌に、弟の皇子の出發を見送つて、影が見えなくなるまでも立ちつくして、曉の露に濡れたとあるに、時間の經過があり、今これに依つて、コユラムとする。
(358)【評語】皇女の御身として、秋山のものおそろしさをいたく感じておられる。それを最愛の弟が、いかにして獨り越えておられるかと案じて詠まれた御歌である。情味のこもつた歌というべきである。この二首、連作として、并せて讀むと、相互におのずから關連する所があつて、一層感銘を深くする。
 
大津皇子、贈2石川郎女1御歌一首
 
大津の皇子の、石川の郎女に贈れる御歌一首
 
【釋】石川郎女 イシカハノイラツメ。傳未詳。既出九六の題詞にある久米の禅師の歌を贈つた石川の郎女とは別人であろうか。下の、一〇九、一二九の石川の女郎とは同人なるべく、さすれば、一一〇、一二六等の石川の女郎とも同人であろうと考えられる。
 
107 あしひきの 山の雫に、
 妹待つと、吾《われ》立ち沾《ぬ》れぬ。
 山の雫に。
 
 足日木乃《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 妹待跡《イモマツト》 吾立所v沾《ワレタチヌレヌ》
 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 
【譯】この山の樹々のしずくに、あなたを待つとしてわたしは立ち濡れた。この山の樹々のしずくに。
【釋】足日木乃 アシヒキノ。古事記、日本書紀にも見える枕詞で、山に冠して使われているが、語義は不明である。文字は、古事記に、阿志比紀能、日本書紀に、阿資臂紀能、脚日木、萬葉集に、アシヒキについて、安之比奇、安之比紀、安志比寄、安志比紀、安思比奇、安思必寄、阿之比奇、足日木、足比木、足比奇、足檜木、足氷木、足引、足曳、足檜、足病、惡氷木、蘆檜木、葦引の字を使つている。ヒはいずれも甲類の清音、キは、紀、木、奇、寄は乙類、引、曳、病の場合のキは、四段動詞引クの連用形と見られるから甲類である。(359)ノは、助詞として誤りなかるべく、キは古きについて乙類とすれば、木、城などの語が當てられる。しかし城の字を使つたものはないから、やはり木として解すべきだろうか。アシは足か。ヒは、足を用言化する語尾か、不明である。後に足引とする通用語原意識を生じたようである。
 山之四付二 ヤマノシヅクニ。樹々から滴り落ちる露である。
 妹待跡 イモマツト。イモは石川の郎女をさす。トは、としての意。
 吾立所沾 ワレタチヌレヌ。句切。
 山之四附二 ヤマノシヅクニ。二句を繰り返している。
【評語】郎女の來るのを待つて、山の樹々の雫に濡れたというだけの歌であるが、初句に枕詞を使つて、大きく言つて來ている。いかにも、しつとり濡れた氣分が出ている。五句に、上の句を繰り返しているのも確である。枕詞を使つているが、しかも隙間のない歌ということができよう。
 
石川郎女、奉v和歌一首
 
石川の郎女の、和へまつれる歌一首
 
108 吾《わ》を待つと 君が沾《ぬ》れけむ
 あしひきの 山の雫に、
 ならましものを。
 
 吾乎待跡《ワヲマツト》 君之沾計武《キミガヌレケム》
 足日木能《アシヒキノ》 山之四附二《ヤマノシヅクニ》
 成益物乎《ナラマシモノヲ》
 
【譯】皇子樣は、わたくしをお待ちくださるとて山の樹々の雫にお濡れになつたそうですが、わたくしは、その樹々の雫になりたいものでございます。
(360)【釋】君之沾計武 キミガヌレケム。ケムは過去推量の助動詞のその連體形。
 成益物乎 ナラマシモノヲ。なりたいが、なり得ない心である。
【評語】内容はやはり簡單であるが、平易に敍して自分の思う心をあらわしている。平易で趣のある歌というべきである。
 
大津皇子、竊婚2石川女郎1時、津守連通、占2露其事1、皇子御作歌一首
 v
 
大津の皇子の、竊に石川の女郎に婚《あ》ひし時に、津守《つもり》の連《むらじ》通《とほる》、その事を占《うら》へ露《あらは》ししかば、皇子の作りませる御歌一首 【いまだ詳ならず。】
 
【釋】竊婚石川女郎時 ミソカニイシカハノヲミナニアヒシトキニ。石川の女郎は、前二首の石川の郎女と同人であろう。竊婚は、その婚すべくもなかつた人であることを語る。いかなる境遇にあつたとも知られない。
 津守連通 ツモリノムラジトホル。陰陽道をもつて知られた人である。養老五年正月には陰陽の道によつて賞賜を受け、七年正月には從五位の上を授けられている。藤原の武智麻呂の傳に、當時の人物を列記した中に、陰陽には津守の連通とある。陰陽道は、陰陽の二氣のありさまをしらべる學問で、これによつて事象の眞相を知り、併わせて將來の動きを豫測しようとする。そこで、占いがおもな職掌になる。新撰姓氏録に、津守氏は、天の香《かぐ》山の命の後であるというが、天の香山の命は、占いの神である。
 占露 ウラヘアラハシシカバ。皇子の密婚のことを、占いあらわしたのである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が明白でないというのかわからない。竊婚云々の事情であろうか。
 
(361)109 大|船《ぶね》の 津守の占《うら》に 告《の》らむとは、
 正《まさ》しに知りて わが二人|宿《ね》し。
 
 大船之《オホブネノ》 津守之占尓《ツモリノウラニ》 將v告登波《ノラムトハ》
 益爲尓知而《マサシニシリテ》 我二人宿之《ワガフタリネシ》
 
【譯】大きい船の泊る、その津守の占ないに出ようとは、まさしく知つてわたしは二人で寢たのだ。
【釋】大船之 オホブネノ。津守の枕詞であるが、この句があつて全體の調子を巧みに救つている。内容がかなりきわどいことであるに係わらず、歌らしさを與える所以である。
 津守之占尓 ツモリノウラニ。津守の通の占にの意。この占は、多分龜甲を燒く占法であろう。津守氏の祖神と傳えられる天の香山の命は、卜庭《うらば》の神とされている。
 將告登波 ノラムトハ。占に出ることをノルという。告はツゲとも讀めるが、「夕卜爾毛《ユフケニモ》 占爾毛告有《ウラニモノレル》 今夜谷《コヨヒダニ》 不v來君乎《キマサヌキミヲ》 何時將v待《イツトカマタム》」(卷十一、二六一三)の歌の告有は、ノレルと讀むべく、占については、ノルというもののようである。但し嘉暦傳承本には、この告有を吉有に作つているが、ノレルの方が諧調である。津守の通の占法により、我等二人の關係があらわれようとはの意。日本書紀允恭天皇の二十四年六月の條に、「夏六月、御膳羮汁凝以作v氷。天皇異之、卜2其所由1。卜者曰、有2内亂1、蓋親々相?乎」とあり、この時にもかような類の事でもあつたのであろう。
 益爲尓知而 マサシニシソテ。マサシニは、正にの意の副詞であろう。シは、タタシ(縱)、ヨコシ(横)、ヒムカシ(東)などのシで、方向の意をあらわす語であろうか。その他諸説があるが從いがたい。占いに出ることは、あらかじめ知つていてである。
 我二人宿之 ワガフタリネシ。ゾヤカの係助詞無くして、ネシと連體形に留めている。上記「吾立所v霑之《ワガタチヌレシ》」(卷二、一〇五)參照。
(362)【評語】人に知られて驚くような戀では無いという、強い意志があらわれている。大膽不敵の歌で、才氣の溢れるばかりな、人を人とも思わない所の性格がよく窺われる。終りを善くしなかつた所以もこの邊にもとづくものがあるのであろう。
 
日竝皇子尊、贈2賜石川女郎1御歌一首女郎字曰2大名兒1
 
日竝みし皇子の尊の、石川の女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名兒と曰へり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコトノ。既出「曰雙斯《ヒナミシ》 皇子命乃《ミコノミコトノ》」(卷一、四九)。天武天皇の皇子、草壁の皇子。天武天皇の十年二月、皇太子となり、持統天皇の三年四月薨じた。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。前に出た大津の皇子の相聞の歌の對手の石川の郎女と同人であろうと考えられる。但し彼には郎女とも女郎ともあつて、これには女郎とある。本集では郎女と女郎とは書き分けている。大伴の坂上の郎女、巨勢の郎女、藤原の郎女は、すべて郎女であり、安倍の女郎、石川の賀係の女郎、大神の女郎、笠の女郎、紀の女郎、紀の少鹿の女郎、久米の女郎、中臣の女郎、平群氏の女郎は、すべて女郎である。ただ大伴の郎女に別に大伴の女郎があり、石川の郎女に別に石川の女郎がある。大伴の郎女については、大伴の旅人の妻は大伴の郎女であるが、卷の四の五一九の歌の題詞には大伴の女郎があり、これに註して「今城王之母也。今城王後賜2大原眞人氏1也」とある。これは大伴の郎女とは、別人のようである。さて郎女と書いてあるのは、身分のよい人に敬意を表して書いているようで、イラツメと讀むのが妥當と考えられる。これに對して女郎の文字は、女子であることを示すだけで、別にたいして敬意を拂つてはいないようである。その用法を見ると、「右四月五日、從2留女之女郎1所v送也」(卷十九、四一八四左註)、「右爲v贈2留女之女郎1所v誂2家婦1作也。女郎者即大伴家持之妹」(同、四一九八左註)とあるは、いずれも大伴の家持の妹であり、その文は(363)家持の手記を資料としていると考えられる。かくの如く、郎女と女郎とには區別があり、郎女をイラツメと讀むべくば、女郎はこれと區別して讀むことを要する。依つて今ヲミナの訓を定めた次第である。但しこの石川の女郎の場合は、石川の都女と同人とすれば、特別の例として、資料のままに掲記したためにかような形を採るに至つたものであろう。
 女郎字曰大名兒也 ヲミナ、ナヲオホナコトイヘリ。字は世に稱する所の名である。歌詞に、大名兒とあるので、この註を加えて誤解無きを期したのであろう。
 
110 大名兒《おほなこ》、
 彼方野邊《をちかたのべ》に 刈る草の、
 束《つか》の間《あひだ》も
 われ忘れめや。
 
 大名兒《オホナコ》
 彼方野邊尓《ヲチカタノベニ》 刈草乃《カルクサノ》
 束之間毛《ツカノアヒダモ》 吾忘目八《ワレワスレメヤ》
 
【譯】大名兒よ、川むこうの野邊で刈る草のように、つかのまもわたしは忘れはしないぞ。
【釋】大名兒 オホナコ。オホナコガ(元)、オホナコヲ(仙)、オホナコ(代精)。女郎の名をさして大名兒よと呼びかける語法である。
 彼方野邊尓苅草乃 ヲチカタノベニカルクサノ。ツカと言わんがための序である。ヲチカタは、延喜式神名に彼方にヲチカタと訓している。長谷川源司君の説(青垣)に、地名だろうとする説がある。地名として知られているのは、京都府久世郡宇治にあつて、宇治の彼方神社がある。この他は、宇治川の右岸で、大和の方から行くと宇治川の對岸になる。日本書紀神功皇后紀に、武内の宿禰が山背から宇治川の北岸に陣したのに對して、忍熊の王の軍の熊の凝《こり》が歌つた歌に「彼方のあらら松原、松原に渡り行きて」云々と歌つたのは、川を渡つて川向こうに行こうとする意であるが、この彼方は、宇治の彼方とされている。また大阪府南河内郡に彼方(364)の地があり、これは石川の右岸で、國府の方から行けは、川の對岸である。本集においては「こもりくの泊瀬の川の、乎知可多に妹らは立たし、この方に吾は立ちて」(卷十三、三二九九或本)は、あきらかに川の對岸であり、「今だにもにほひに行かな、越方人に」(卷十、二〇一四)は、七夕の歌であつて、ヲチカタ人は、對岸の人をさしている。「彼方の二綾裏沓」(卷十六、三七九一)は地名とも解せられるが、「彼方の赤土《はにふ》の小屋に小雨ふり袖さへ濡れぬ。身にそへ、吾妹」(卷十一、二六八三)は、地名とも解しにくい。元來この語は、ヲチとカタとに分解され、ヲチは、遠稱の指示代名詞とされるが、コチ、アチ、ソチなどは、コレ、ソレ、アレなどともなるのに、ヲチは、ヲレともいわないから、別系統の語と見られる。川の對岸をヲチカタというより見れば、ヲチは、多分もとに返る意の動詞ヲツの連用形だろう。川を渡つて戻つてくべき所、すなわちヲチカタであつて、地名の意味もここに出るもののようである。諸國に多い地名のヲチ(越智)も同樣の地形から出るもののようである。この歌の彼方野邊も、宇治あたりの地名を出すというのは、唐突であるから、普通名詞として、川向こうの野邊とすべきである。その野邊で刈る草ので、その草の束とつづく。
 束之間毛 ツカノアヒダモ。ごくわずかのま。古代の寸法を計る單位に、尋《ひろ》と束《つか》とがある。ヒロは、人が左右に手をひろげただけの寸法で、大きな間隔を計る單位として用い、ツカは、人がつかんだ幅を言うので、短いものを計る單位に用いる。
【評語】大名兒と呼びかけて、途中に序の詞を入れた行き方が、歌の調子を整えて、趣深くしている。但し、途中に序を入れたために、巧みになり過ぎて、切に思うという感じはやや遠くなつている。
 
幸2于吉野宮1時、弓削皇子、贈2與額田王1歌一首
 
吉野の宮に幸《い》でましし時、弓削《ゆげ》の皇子の、額田《ぬかだ》の王に贈與《おく》りたまへる歌一首
 
(365)【釋】幸于吉野宮時 ヨシノノミヤニイデマシシトキ。持統天皇の吉野の宮への行幸は數十囘あり、そのいずれの時なるかを知らない。但し歌中にホトトギスが詠まれており、初夏の頃であつたことが知られる。
 弓削皇子 ユゲノミコ。天武天皇の第六皇子。文武天皇の三年七月薨。
 額田王 ヌカダノオホキミ。卷の一以來作歌の見えた方。この三首が、その名の見える最後である。この女王は、天武天皇に召された方であるから、弓削の皇子は、それを思つて歌を贈與されたのである。
 
111 古《いにしへ》に 戀《こ》ふる鳥かも、
 弓弦葉《ゆづるは》の 御井の上より
 鳴きわたり行く。
 
 古尓《イニシヘニ》 戀流鳥鴨《コフルトリカモ》
 弓弦葉乃《ユヅルハノ》 三井能上從《ミヰノウヘヨリ》
 鳴濟遊久《ナキワタリユク》
 
【譯】昔を慕つている鳥でしようか、この吉野山中の弓弦葉の御井の上を通つて鳥が鳴いて渡つて行く。
【釋】古尓 イニシヘニ。イニシヘは、この歌を贈る先方の額田の王の往時で、かつてこの吉野に來た時の事を想起している。本集では、動詞戀フは、助詞ニを受けるのが常型であり、ここもニを受けている。戀フの動作の目標をこれによつて表示するのである。
 戀流鳥鴨 コフルトリカモ。鳥は、何の鳥とも説明されていない。次の歌にいう所が當つているとすればホトトギスである。鳥の鳴き渡るのを、古に戀うて鳴くかと推量している。カモは感動の助詞であるが、係りにもなつている。
 弓弦葉乃三井能上從 ユヅルハノミヰノウヘヨリ。ユヅルハは、タカトウダイ科の常緑喬木。今普通にユズリハという。ミヰは井を稱えていう。御井の義。井そのものの靈威を感じていう。ユズリハの木のある御井で、吉野の宮の用水を湛えているのであろう。その御井の上を通つて鳥が鳴いて行くのである。
(366) 鳴濟遊久 ナキワタリユク。鳴いて飛んで行くのである。
【評語】古ニ戀フル鳥カと感嘆し、三句以下、その鳥の鳴いてゆくことを具體的に描いている。よい歌である。昔、額田の王は、天武天皇との關係も淺からず、この吉野の宮などにもしばしばお出でになつたのであろう。弓削の皇子は、今、この他に遊んで、靜に老いを養つている額田の王を思つて、鳥が昔に戀うて鳴いて渡つているのであろうかと歌つて贈られた。情を鳥に託して歌つているが、勿論、昔を思い出しておられるのは弓削の皇子である。それを鳥に託して歌われたのである。
 
額田王、奉v和歌一首2倭京1進入
 
額田の王の、和へまつれる歌一首【倭の京より進《たてまつ》れる】
 
【釋】奉和歌 コタヘマツレルウタ。前掲の弓削の皇子の御歌に對して唱和應答した歌である。
 從倭京進入 ヤマトノミヤコヨリタテマツレル。持統天皇の八年十二月に、明日香の清御原の宮から藤原の宮に遷居されたので、この歌は、その前後、いずれであるか不明である。よつて額田の王が、當時大和の京に居られたことは知られるが、それが何の地であつたかは不明である。大津の皇子、草壁の皇子關係の歌に次いで配列されているによれば、まだ明日香の清御原の宮に皇居のあつた頃とも考えられる。進入は、進上の意の敬語である。
 
112 古《いにしへ》に 戀《こ》ふらむ鳥《とり》は、ほととぎす、
 けだしや鳴きし。
 わが念《おも》へる如《ごと》。
 
 古尓戀良武鳥者《イニシヘニコフラムトリハ》 霍公鳥《ホトトギス》、
 蓋哉鳴之《ケダシヤナキシ》
 吾念流碁騰《ワガオモヘルゴト》
 
(367)【譯】昔を慕つているでしようその鳥は、ホトトギスでしよう。きつとわたくしと同じ心で鳴いたことでございましよう。わたくしが昔を戀しく思つておりますように。
【釋】古尓戀良武鳥者 イニシヘニコフラムトリハ。弓削の皇子の、古ニ戀フル鳥カモの句を受けている。その古に戀うているでしょう鳥はの意に主格を提示している。
 霍公鳥 ホトトギス。霍公鳥の字面は漢籍から來ているであろうが、まだその用例を見出さない。本集では、ホトトギスにこれを使用しているが、霍氏鳥とも書いている(卷十九、四一八二、元暦校本)があるによれば、霍公は人名であつて、霍は姓であろう。霍は鳥の羽音を示す字であるから、それを姓に擬したものか。この句は、初二句に對して述語となり、同時に四五句に對して主語となつている。ホトトギスにしての如き意になつている。
 蓋哉鳴之 ケダシヤナキシ。益哉鳴之《マシテヤナキシ》(元)。ケダシは、推量の意の副詞。恐らくは、多分。ヤは疑問の係助詞で、これを受けてナキシと結んでいる。
 吾念流碁騰 ワガオモヘルゴト。吾戀流其騰《ワガコフルゴト》(西)。上の鳴キシの語に對して、副詞句としてこれを説明している。けだしわが思つている如く鳴いたのだろうの意である。自分は古に戀うている。鳥も多分その如くに鳴いたのであろうというのである。
【評語】複雜な内容を、よく一首に纏めている。それだけに文章構成も複雜であり、曲折混雜が感じられる。これはこの歌が、文筆に依つて作られた智的成立に依るためであつて、自由にのびのびとした所が感じられな(368)いのもこのためである。既に情熱の方面を失い、理智の方面のみ殘つた才媛の晩年としての額田の王を、ここに見るのである。
 
從2吉野1、折2取蘿生松柯1遣時、額田王奉入歌一首
 
吉野より、蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて、遣しし時に、額田の王の奉入《たてまつ》れる歌一首
 
【釋】蘿生松柯 コケムセルマツガエヲ。蘿は、倭名類聚鈔に、「松蘿、一名女蘿【和名萬豆乃古介、一名佐流乎加世】」とある。今もサルオガセといい、地衣類松蘿屬に屬し、松その他の樹枝に懸かつて長く垂れる植物である。そのついている松の枝である。柯は枝に同じ。
 遣時 ツカハシシトキニ。何人が遣したとも記されていないが、前の續きで、多分弓削の皇子が遣されたのであろうか。持統天皇とする見方もある。
 奉入歌 タテマツレルウタ。奉入は進上の意の敬語である。
 
113 み吉野《よしの》の 玉松が枝《え》は
 愛《は》しきかも 君が御言《みこと》を
 持ちて通はく。
 
 三吉野乃《ミヨシノノ》 玉松之枝者《タママツガエハ》
 波思吉香聞《ハシキカモ》 君之御言乎《キミガミコトヲ》
 持而加欲波久《モチテカヨハク》
 
【譯】吉野山の美しい松の枝は、おなつかしい君の御言葉を持つて、通うことでございます。
【釋】三吉野乃 ミヨシノノ。贈られた松が枝の産地を説明している。
 玉松之枝者 タママツガエハ。タマは美稱。松が枝をほめていう。
 波思吉香聞 ハシキカモ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。「波之吉佐寶山《ハシキサホヤマ》」(卷三、四七四)、「波之伎(369)和我勢枯《ハシキワガセコ》」(卷十九、四一八九)など用例は多い。この句は、ここで切つて、上の玉松が枝を敍述するものとも解せられるが、「波之吉可聞《ハシキカモ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》」(卷三、四七九)、「許其志可毛《コゴシカモ》 伊波能可牟佐備《イハノカムサビ》」(卷十七、四〇〇三)などのように、次の句を修飾する用法があるので、ここも三句切とするよりは、次の君の御言を修飾するものと見るべきだろう。この場合、カモは、愛しきことよ、君の御言という意に、感動を表示する。獨立文として修蝕句となつている。
 君之御言乎 キミガミコトヲ。キミは、この松が枝を贈つた人。ミコトは文字通り御言葉である。
 持而加欲波久 モチテカヨハク。カヨハクは、通うことの意。松が枝が御言を持つて通うとなすのである。
【評語】上古まだ文字の無かつた時代には、使者を遣わすに、草木の枝などを持たせて遣わした。使者は、その持參した物に寄せて口上を述べたので、これが寄物陳思、乃至序詞、枕詞の起原になるのである。後世になつて文を通わすようになつても、これを草木の枝につけることが殘り、漸次手紙の方が圭になつても、正月の懸想文などは花の枝につけたのであつた。今、吉野から玉松の枝が君の御言を持つて通つたというのは、その枝に御言が寄せられて來たことをいう。文が松が枝につけられてあつたという解釋は、かならずしも誤りではないが、松が枝をほめた本意はそこには無い。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、思2穗積皇子1御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、穗積の皇子を思《しの》ひて作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女 タヂマノヒメミコノ。天武天皇の皇女、母は藤原の鎌足の女|氷上《ひかみ》の娘《いらつめ》。和銅元年六月薨。
 在高市皇子宮時 タケチノミコノミヤニイマシシトキニ。高市の皇子は、天武天皇の皇子。御母は、胸形《むなかた》の君コ善が女尼子の娘。持統天皇の四年に太政大臣となり、十年七月に薨じた。但馬の皇女がその宮にあつたの(370)は、妃としてであつたと考えられる。當時異母の兄妹の婚姻は、普通に行われた。
 思穗積皇子 ホヅミノミコヲシノヒテ。穗積の皇子も天武天皇の皇子。母は蘇我の赤兄の女|大?《おほの》の娘。靈龜元年七月に薨じた。
 
114 秋の田の 穗向《ほむき》のよりの 異縁《ことよ》りに 
 君によりなな。
 言痛《こちた》かりとも。
 
 秋田之《アキノタノ》 標向乃所縁《ホムキノヨリノ》 異所縁《コトヨリニ》
 君尓因奈名《キミニヨリナナ》
 事痛有登母《コチタカリトモ》
 
【譯】秋の田では、稻の穗が一方を向いて寄つている。その中で違う方へ寄るように、わたしも寄りたいと思う。よし人の口が繁くあつても。
【釋】標向乃所縁 ホムキノヨリノ。ホムケノヨスル(元)、ホムキノヨレル(代精)。ホムキは、稻穗が實つて一方に向くこと。所縁は、次句に異所縁とあり、その所縁と同語に讀みたい所である。從來ヨレルと讀んでいたが、それでは次句の讀み方と協調しない。依つて今ヨリノと讀み、次句の所縁をヨリニと讀む。以上二句は、次の句の異所縁を引き起すための序である。
 異所縁 コトヨリニ。カタヨリニ(元)、コトヨリシ(童)。この歌と類似の字面を有する歌に、「秋田之《アキノタノ》 穗向之所依《ホムムキノヨリノ》 片縁《カタヨリニ》 吾者物念《ワレハモノオモフ》 都禮無物乎《ヅレナキモノヲ》」(卷十、二二四七)があり、そこでは第三句をカタヨリニと讀んで、片寄りにの義に解している。その歌は、カタヨリニでよく通るが、この歌はカタヨリニではなく、また、異の字をカタと讀むべくもない。ここは、別の方に寄る意であるから、文字通りコトヨリニと讀む。以上、譬喩。
 君尓因奈名 キミニヨリナナ。キミは穗積の皇子をさす。上のナは、完了の助動詞ヌの未然形であるが、か(371)ような場合は、意味を強くするために用いられており、下のナは、時分がこうしたいという希望をあらわす助詞。自分が君に寄りたいという意味の句である。「和禮左倍爾《ワレサヘニ》 伎美爾都吉奈那《キミニツキナナ》 多可禰等毛比?《タカネトモヒテ》」(卷十四、三五一四)の用例がある。但し、「禰爾波都可奈那《ネニハツカナナ》(卷十四、三四〇八)の如く、動詞の未然形を受けるナナは別であつて禁止希望になる。混同しないことを要する。句切。
 事痛有登母 コチタカリトモ。コトイタクアリトモの約言。事痛は、「人事乎《ヒトゴトヲ》 繁美許知多美《シゲミコチタミ》」(卷二、一一六)のように、假字書きの例もあつて、コチタクと讀まれている。コチタクは、コチタシの副詞形。この語は、事痛(一三四三、二五三五)、言痛(五三八、二五三五、二八九五)、辭痛(七四八)の如く、コトに當る部分に事の字を使つたものと、言、辭の字を使つたものとがある。しかし事痛の例でも「言故《ワレユヱニ》 人爾事痛《ヒトニコチタク》 所云物乎《イハレシモノヲ》」(卷十一、二五三五)の如く、言語に關して使われているものがあるから、文字に拘泥するわけにゆかない。イタシは、ひどくあるをいう。人の言葉がうるさくあつても。
【評語】ひたすらに寄りたいと思う心を、おりしも秋の稻の熟する頃なので、穗向キノ寄りの句を構えて序詞とした。下三句は、相當露骨に歌つているが、それが上二句の序詞で緩和されている。ひたぶるな心を言い出すためには、序を用いることが、なかなかに有效であることが知られる。
 
勅2穗積皇子1、遣2近江志賀山寺1時、但馬皇女御作歌一首
 
穗積の皇子に勅《みことのり》して、近江の志賀の山寺に遣しし時に、但馬の皇女の作りませる御歌一首
 
【釋】近江志賀山寺 アフミノシガノヤマデラ。天智天皇の建立で、本名を崇福寺といい、後、園城寺に合せた。
 
(372)115 後《おく》れゐて 戀ひつつあらずは
 追《お》ひ及《し》かむ。
 道の隈廻《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へわが夫。
 
 遺居而《オクレヰテ》 戀管不v有者《コヒツツアラズハ》
 追及武《オヒシカム》
 道之阿廻尓《ミチノクマミニ》標結吾勢《シメユヘワガセ》
 
【譯】後に殘つて戀をしていないで、後を追つて追いつきたいものです。どうか、道の曲り角に印をつけておいて下さい。
【釋】遣居而戀管不有者 オクレヰテコヒツツアラズハ。オクレヰテは、人の旅行などに出たあとに殘りいるをいう。「於久禮居而《オクレヰテ》 吾波哉將v戀《ワレハヤコヒム》」(卷九、一七七二)などある。アラズハは、あらずしての意。「如此許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアヲズハ》」(卷二、八六)參照。
 追及武 オヒシカム。後を追つてその人のもとに至ろう。追いつこうの意。句切。
 道之阿廻尓 ミチノクマミニ。クマミは、曲り角。ミは地形語につける接尾語。「道乃久麻尾爾《ミチノクマミニ》」(卷五、八八六)。
 標結吾勢 シメユヘワガセ。標繩を結えの意。ここはしるしをつけよである。ワガセは、穗積の皇子をさしていう。
【評語】跡を慕つて追つて行こうという強い意志が歌われている。想において、既出の迎へヲ行カムの歌(卷二、九〇)に類し、強い意志の表現においても、またそれに匹敵している。
 
但馬皇女、在2高市皇子宮1時、竊接2穗積皇子1、事既形而御作歌一首
 
但馬の皇女の、高市の皇子の宮に在《いま》しし時に、竊に穗積の皇子に接《まじは》り、事既に形《あらは》れ作りませる御歌一首
 
(373)【釋】但馬皇女在高市皇子宮時 タヂマノヒメミコノタケチノミコノミヤニイマシシトキニ。既出(卷二、一一四)參照。
 竊接 ミソカニマジハリ。接は説文に交也とある。交接の義である。
 既形而 スデニアラハレテ。形の字は、形にあらわれるをいう。露顯するのである。
 
116 人言《ヒトゴト》を しげみ言痛《こちた》み、
 おのが世に いまだ渡らぬ
 朝川渡る。
 
 人事乎繁美許知痛美《ヒトゴトヲシゲミコチタミ》
 己世尓《オノガヨニ》 未v渡《イマダワタラヌ》
 朝川渡《アサカハワタル》
 
【譯】人がさまざまにうるさいことを言うので、そのために、わたしの生涯にまだ渡つたことのない、朝の川渡りをすることです。
【釋】人事乎繁美許知痛美 ヒトゴトヲシゲミコチタミ。ヒトゴトは、人の言。皇女たちの關係についていうこと。シゲミコチタミは、人言が繁く、また言がひどくしてで、熟語句として慣用されている。コチタミはコトイタミの約言。「ヒトゴトヲシゲミコチタミワギモコニイニシツキヨリイマダアハヌカモ」(卷十二、二八九五)など用例がある。以上二句は、下三句の事實に對する理由として擧げられている。
 己世尓 オノガヨニ。ヨは生涯。自分の世にの義で、皇女の經驗をいう。
 未渡朝川渡 イマダワタラヌアサカハワタル。事の現れたのに依つて、朝川を渡ることがあつたのだろう。
【評語】穗積の皇子との仲のために、かような事をも敢えてするという強い心の出ている歌。イマダ渡ラヌ朝川渡ルと、わたるの語を重ね、具體的に敍したのが強い心を表現している。この皇女の御歌は、いずれも強い表現の歌で、作者が情の人であつたことを語つている。
 
(374)舍人皇子御歌一首
 
舍人の皇子の御歌一首
 
【釋】舍人皇子 トネリノミコ。天武天皇の第三皇子。御母は新田部の皇女。養老四年知太政官事、同年日本書紀を撰進し、天平七年十一月薨じた。養老四年に、日本紀三十卷を奏上した人として知られている。
 御歌 ミウタ。他の例は、御作歌とある。ここに作の字の無いのは、資料のままであろう。卷の九、一七〇六の前行にも舍人皇子御歌一首とある。何人に與えたとも題していないが、次の歌によつて舍人の娘子を目標として詠まれていることが知られる。
 
117 丈夫《ますらを》や 片戀せむと、嘆けども、
 醜《しこ》の丈夫《ますらを》 なほ戀ひにけり。
 
 大夫哉片戀將爲跡《マスラヲヤカタコヒセムト》 嘆友《ナゲケドモ》
 鬼乃益卜雄《シコノマスラヲ》 尚戀二家里《ナホコヒニケリ》
 
【譯】丈夫は片戀などはしないものである、と歎くけれども、しかし、このみにくい丈夫は、やはり戀をしたことだ。
【釋】大夫哉片戀將爲跡 マスラヲヤカタコヒセムト。マスラヲは既にしばしば出た。りつぱな男兒の稱。ヤは疑問の係助詞で、反語に使われている。カタコヒは、こちらでのみ戀をする一方的な物思い。男兒は片戀をしないものとの意。
 。ナゲケは、長嘆息をする意の動詞。
 鬼乃益卜雄 シコノマスラヲ。初句のマスラヲを受けている自嘲の語。シコは、「宇禮多伎也《ウレタキヤ》 志許霍公鳥《シコホトトギス》」(卷八、一五〇七)、「慨哉《ウレタキヤ》 四去霍公鳥《シコホトトギス》」(卷十、一九五一)、「意冨伎美乃《オホキミノ》 之許乃美多弖等《シコノミタテト》」(卷二十、四三(375)七三)など見え、これらは嘲罵、もしくは自嘲の語として使用されている。その語義は、日本書紀卷の一、泉津醜女の自註に「醜女、此云2志許賣1」とあり、醜をシコに當てているが、この字は説文に「可v惡也」、玉篇に「貌惡也」とあつて、好ましからざるものをいう字である。鬼の字を當てるのは、醜女を黄泉の鬼とするに出たものなるべく、本集になお「萱草《ワスレグサ》 吾下紐爾《ワガシタヒモニ》 著有跡《ツケタレド》 鬼乃志許草《シコノシコグサ》 事二思安利家理《コトニシアリケリ》」(卷四、七二七)、「萱草《ワスレグサ》 垣毛繁森《カキモシシミミニ》 雖2殖有1《ウヱタレド》 鬼之志許草《シコノシコグサ》 猶戀爾家利《ナホコヒニケリ》」(卷十二、三〇六二)などある。シコノマスラヲとは、自分は丈夫であると思えども、この良からざる丈夫の意である。
 ナホは、それでもやはりの意。
【評語】男子の情熱をあらわした歌として、強い風格をもつている。丈夫は片戀をしないということは、他にも歌われていて、當時の人の修養の一則となつていた。みずから丈夫をもつて任ずることは、この集の男子の自信を高めている。それは知つているけれども、なおやむを得ないというところに熱情が示されるのである。
 
舍人娘子、奉v和歌一首
 
舍人の娘子の、和へまつれる歌一首
 
【釋】舍人娘子 トネリノヲトメ。既出(卷一、六一)。舍人は氏の名であつて、舍人氏の娘子の意と見られる。舍人の皇子の名が、乳母の氏を負うておられるとすれば、その乳母方の娘子であろう。
 
118 歎きつつ 丈夫《ますらをのこ》の 戀ふれこそ、
 わが結ふ髪の 漬《ひ》ぢてぬれけれ。
 
 歎管《ナゲキツツ》 丈夫之《マスラヲノコノ》 戀禮許曾《コフレコソ》
 吾結髪乃《ワガユフカミノ》 漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》
 
【譯】丈夫が嘆息しながら戀をしているので、わたくしの結つてある髪がずるずると落ちかかるのでございま(376)しよう。
【釋】嘆管 ナゲキツツ。三句の戀フレコソを修飾している。
 大夫之戀禮許曾 マスラヲノコノコフレコソ。
   マスラヲノコノコフレコソ(西)
   ――――――――――
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノカクコフレコソ》(元)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲノコヒミダレコソ》(神)
   大夫之戀亂許曾《マスラヲガコヒミダレコソ》(童)
大夫は通例マスラヲと讀んでいるが、ここは音數の都合上、マスラヲノコと讀む。その例には、「念度知《オモフドチ》 大夫能《マスラヲノコノ》 許乃久禮《コノクレノ》 繁思乎《シゲキオモヒヲ》」(卷十九、四一八七)の如きがあり、また、「古之《イニシヘノ》 益荒丁子《マスラヲノコノ》 各競《アヒキホヒ》 妻問爲祁牟《ツマドヒシケム》」(卷九、一八〇一)の歌の益荒丁子もマスラヲノコノと讀むべきものと考えられる。この歌では舍人の皇子をさしている。コフレコソは、已然條件法で、戀フレバコソに同じ。
 吾結髪乃 ワガユフカミノ。
   ワカユフカミノ(元)
   ――――――――――
   吾髪結乃《ワガモトユヒノ》(京赭)
結髪は、元暦校本による。他本多く髪結であつてワガモトユヒノと讀む説が廣く行われている。モトユヒは、髪を結う絲をいう。皇大神宮儀式帳には、「紫本結糸」「紫御本結糸」など見え、また「御加美結紫八條 長條別三尺」とも見えているが、ヒヂテヌルとあるのは、髪であつて、モトユヒでは無い。
 漬而奴禮計禮 ヒヂテヌレケレ。上のコソを受けてケレと已然形で結んでいる。ヒヂテは濡れて。ヌレは、結つた髪のぬるぬるとさがるのをいう。水に濡れることではない。「多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》 妹之髪《イモガカミ》」(卷二、一二三)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可婆奴流奴流《ヒカバヌルヌル》」(卷十四、三三七八)、「伊波爲都良《イハヰヅラ》 比可波奴禮都追《ヒカバヌレツツ》」(同、三四一六)など使用されている。
(377)【評語】男に思われると、わが身にその反應のあらわれるとする思想が歌われている。唱和の歌であるだけに、理窟つぽさのあるのはやむを得ないが、髪のずるずるさがるにつけて詠んでいるのが、情趣をなしている。
 
弓削皇子、思2紀皇女1御歌四首
 
弓削の皇子の、紀の皇女をしのひませる御歌四首
 
【釋】紀皇女 キノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は穗積の皇子に同じく蘇我の赤兄の女である。卷の十二、三〇九八の歌の左註に、高安の王と通じたことが見えている。
 
119 芳野川《よしのがは》 行《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み、
 しましくも 不通《よど》むことなく
 在《あ》りこせぬかも。
 
 芳野河《ヨシノガハ》 逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》
 須臾毛《シマシクモ》 不v通事無《ヨドムコトナク》
 有巨勢濃香問《アリコセヌカモ》
 
【譯】この吉野川の流れ行く瀬の早いこと、そのように、わたしたちの仲もすこしも停滞することなくあつてほしいものだ。
【釋】逝瀬之早見 ユクセノハヤミ。ハヤミは、早いことの意の體言。瀬ヲ早ミのような形は普通であるが、かように助詞ノを受けて體言となる形もある。「夏野之《ナツノノノ》 繁見丹開有《シゲミニサケル》 姫由理乃《ヒメユリノ》」(卷八、一五〇〇)、「波流乃野能《ハルノノノ》 之氣美登妣久久《シゲミトビクク》 鶯《ウグヒスノ》 音太爾伎加受《コエダニキカズ》」(卷十七、三九六九)のシゲミの如きはこれである。以上二句、第三四句の、シマシクモヨドムコトナクを引き出すための序詞として用いられている。
 須臾毛 シマシクモ。文字通り寸時もである。
 不通事無 ヨドムコトナク。ヨドムは通じない、停滞する意の動詞。ここは兩者間の交通の杜絶することな(378)くの意の句である。
 有巨勢濃香聞 アリコセヌカモ。コセは、助動詞コスの未然形。アリコスは、あつてくれるの意。ヌは打消の助動詞。カモは感動の助詞。ヌカモで、ないかなあ、あつてほしいことだの希望の意になる。「吾背子者《ワガセコハ》 千年五百歳《チトセイホトセ》 有巨勢奴香聞《アリコセヌカモ》」(卷六、一〇二五)。コセの例には、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》 妻常言長柄《ヅマトイヒナガラ》」(卷九、一六七九)などある。
【評語】初二句は、實景であるが、それを序に使つている。川瀕の早いことから續いて、ヨドムコトナクを引き起しているので、景から情に移る工合がよく出ている。
 
120 吾妹子《わぎもこ》に 戀《こ》ひつつあらずは、
 秋《あき》はぎの 咲《さ》きて散《ち》りぬる
 花《はな》ならましを。
 
 吾妹兒尓《ワギモコニ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》
 秋〓之《アキハギノ》 咲而散去流《サキテチリヌル》
 花《ハナ》尓有《ナラ・ニアラ》猿尾《マシヲ》
 
【譯】あなたに戀をしていないで、あの秋ハギのように咲いて、やがて散つてしまう花であろうものを。
【釋】戀乍不有者 コヒツツアラズハ。戀をしていないで。「如此許 《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》」(卷二、八六)參照。
 秋〓之 アキハギノ。本集では、多く芽子、もしくは芽の字を、ハギに當てて書いている。これは類聚名義抄に「〓、音護、ハギ」とある。〓は〓に同じであるが、字體が似ているので、芽に誤つたのであろう。この歌については、元暦校本、金澤本にも、芽に作つているが、神田本などには別のところに〓に作つている卷もある。圖は卷の十の一部である。また本草にいう牙子に艸冠を加えたものであろうともいう。牙子は、本草和名に、和名宇末都奈岐とある。その葉は三葉一蒂であるので、ハギにこの字を借りたのだとする。今本書では、〓とする説による。
(379) 咲而散去流花尓有猿尾 サキテチリヌルハナナラマシヲ。咲いてまもなく散つた花でありたいものだの意。
【評語】秋萩のもろく散り亂れる姿を眼前に見て、物思いのあまり、その花のように散つてしまつたら物思いも無いだろうというのである。もろくしてしかも美しく散り亂れる花に比している點に趣がある。「長き夜を君に戀ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを」(卷十、二二八二)は同じ趣を詠んだ歌である。
 
121 夕さらば 潮《しほ》滿ち來なむ。
 住吉《すみのえ》の 淺鹿《あさか》の浦に 玉藻刈りてな。
 
 暮去者《ユフサラバ》 鹽滿來奈武《シホミチキナム》
 住吉乃《スミノエノ》 淺鹿乃浦尓《アサカノウラニ》 玉藻苅手名《タマモカリテナ》
 
【譯】夕碁になつたら潮が滿ちて來るだろう。この住吉の淺鹿の浦で今のうちに玉藻を刈りたいものだ。
【釋】暮去者ユフサラバ。夕方にならば。
 鹽滿來奈武 シホミチキナム。シホは潮。潮の滿ちくることを豫想している。句切。
(380) 住吉乃淺鹿乃浦尓 スミノエノアサカノウラニ。淺鹿の浦は、住吉神社の南方を淺香という、その地の浦。何かの縁故のある地であるか不明であるが、次の歌にも大船ノ泊ツルトマリが詠まれているので、その地で詠まれたものかも知れない。
 玉藻苅手名 タマモカリテナ。テは助動詞ツの未然形。ナは希望の助詞。藻を刈りたいものだの意。
【評語】全體が譬喩から成つている。玉藻を刈るといぅところに、先方の女性を手に入れる意味がかくされている。二句の來ナムは、連體句として、下に續くとも見られ、語法上からは、それも成立するのであるが、歌意の上からいえば、二句で切つた方がよく、形も古い姿とすべきであろう。
 
122 大船《おほぶね》の 泊《は》つる泊《とまり》の たゆたひに、
 物念《ものおも》ひ痩《や》せぬ。
 人《ひと》の兒《こ》ゆゑに。
 
 大船之《オホブネノ》 泊流登麻里能《ハツルトマリノ》 絶多日二《タユタヒニ》
 物念痩奴《モノオモヒヤセヌ》
 人能兒故尓《ヒトノコユヱニ》
 
【譯】大船が港に碇泊して、なおたゆたつているように、どうしたらよいか迷つて、物思いに痩せた。それもあの子のゆえに。
【釋】大船之泊流登麻里能。 オホブネノハツルトマリノ。ハツルは、航海を終る義で、碇泊するをいう。トマリは、船の碇泊する處。大船の碇泊するは、進むでもなく、波のままに落ちつかないものであるからいう。
 絶多日二 タユタヒニ。タユタヒは、猶豫動搖する意の動詞タユタフの名詞形。「常不v止《ツネヤマズ》 通之君我《カヨヒシキミガ》 使不v來《ツカヒコズ》 今者不v相跡《イマハアハジト》 絶多比奴良思《タユタヒヌラシ》」(卷四・五四二)、「垣穗成《カキホナス》 人辭聞而《ヒトゴトキキテ》 我背子之《ワガセコガ》 情多由多比《ココロタユタヒ》 不v合頃日《アハヌコノゴロ》」(同、七一三)など見えている。以上譬喩で、物思ヒヤセヌを修飾している。
 物念痩奴 モノオモヒヤセヌ。物思いによつて痩せた由である。句切。
(381)人能兒故尓 ヒトノコユヱニ。ヒトノコは、人である子で、人の愛稱。愛人をいう。妹というよりは、客觀性の強い語である。ユヱは理由禰據の意。それであるのにの意を下に含んでいう。「海原乃《ウナハラノ》 路爾乘哉《ミチニノレレヤ》 吾戀居《ワガコヒヲラム》 大舟之《オホブネノ》 由多爾將v有《ユタニアルラム》 人兒由惠爾《ヒトノコユユニ》」(卷十一、二三六七)、「珍海《チヌノウミノ》 濱邊小松《ハマベノコマツ》 根深《ネフカメテ》 吾戀度《ワガコヒワタル》 人子?《ヒトノコユヱニ》」(同、二四八六)、「足檜之《アシヒキノ》 山川水之《ヤマカハミヅノ》 音不v出《オトニイデズ》 人之子?《ヒトノコユヱニ》 戀渡青頭鷄《コヒワタルカモ》」(卷十二、三〇一七)。
【評語】この四首の歌は、いずれも詞が整つて美しい歌である。これを連作と見る説もあるが、第一首に芳野川を詠み、第三、四首に海邊を詠んでいて、作者自身に連作の意志は無かつたものというべきである。
 
三方沙弥、娶2園臣生羽之女1、未v經2幾時1、臥v病作歌三首
 
三方《みかた》の沙弥《さみ》の、園《その》の臣《おみ》生羽《いくは》の女に娶《あ》ひて、いまだ幾時《いくだ》も經ず、病に臥して作れる歌三首
 
【釋】三方沙弥 ミカタノサミ。傳未詳。諸書に多く、もと僧侶で新羅に留學し、後還俗した山田の史御形のこととしているが、その證は無い。講義には、續日本紀、天平十九年十月の條に見える御方の大野、延暦三年正月の條に見える三方の宿禰廣名という人名をあげて、御方氏、また三方氏のあつたことを述べ、それらの氏の沙彌たりし人ならむとしている。沙彌は、佛法の戒を受けて修行のまだ熟しない比丘の稱で、在家のまま持戒している者などをいぅ。卷の五に滿誓を笠の沙彌と言つているによれは、三方を氏とする説は妥當である。
 園臣生羽之女 ソノノオミイクハノムスメ。傳未詳。園の臣は、孝靈天皇の皇子稚武彦の命の後である。
 三首 ミツ。歌の下に作者の名あり、うち一首は娘子の作である。
 
123 たけばぬれ たかねば長き
 妹が髪、
(382) この頃見ぬに 掻《か》き入《れ》つらむか。
    三方の沙彌
 
 多氣婆奴禮《タケバヌレ》 多香根者長寸《タカネバナガキ》
 妹之髪《イモガカミ》
 比來不v見尓《コノゴロミヌニ》 掻入津良武香《カキレツラムカ》
   三方沙弥
 
【譯】束ね上げればぬるぬるして、束ね上げなければ長0いあなたの髪は、この頃見ないのだが、掻き入れてあるだろうか。
【釋】多氣婆奴禮 タケバヌレ。タクは、「小放《をはなり》に髪たくまでに」(卷九、一八〇九)、「振分《ふりわけ》の髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ」(卷十一、二五四〇)の如き用例がある。「孃子等《をとめら》が織る機の上を眞櫛もちかかげたく島浪の間ゆ見ゆ」(卷七、一二三三)も動詞タクと島の名タクとを懸け詞にしている。つかねる意である。(タグと濁るは別語である。)ヌレは、ぬらぬらとすべる意で、上の、「漬而奴禮計禮《ヒヂテヌレケレ》」(卷二、一一八)の項に例を出しておいたが、なお髪については、「ぬばたまのわが黒髪を引きぬらし亂れて更に戀ひわたるかも」(卷十一、二六一〇)の用例がある。タケバヌレは、束ね上げれば、ぬるぬると垂れさがる意で、髪の豐富なことを描いている。
 多香根者長寸 タカネバナガキ。タカネバは、束ねなければの意。束ねないで置けば。長く垂れていれば。
 妹之髪 イモガカミ。愛人の髪を呼びあげている。
 比來不見尓 コノゴロミヌニ。比來は、漢文でこの頃の意の熟字。病氣となつてこの頃は見ないのに。男子が、その妻を訪う風習を語つて、病氣の時は行かれないので會わないのである。
 掻入津良武香 カキレツラムカ。カキレは掻キ入レで、コキイレ(扱き入れ)を、コキレという類である。「蘇泥尓毛古伎禮《ソデニモコキレ》」(卷十八、四一一一)。亂れほつれている髪を、櫛を以つて掻き入れておさめてあるだろうかの意。ツは、完了の助動詞。カは疑問の助詞。この句、從來諸説があり、誤字説もあるが、このままでよく(383)わかる。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈つた歌である。
【評語】髪によつて愛人を描いており、これに依つて美しい歌を成している。感覺的な歌であつて、相聞の歌として言辭を弄するだけのものでない點がよい。
 
124 人は皆 今は長しと たけと言へど、
 君が見し髪 亂れたりとも。娘子
 
 人者皆《ヒトハミナ》 今波長跡《イマハナガシト》 多計登雖言《タケトイヘド》
 君之見師髪《キミガミシカミ》 亂有等母《ミダレタリトモ》娘子
 
【譯】人は皆、今は髪が長くなつたから束ね上げよといいますが、君が見し髪は、亂れてあつても、そのままにしておきます。
【釋】人者皆 ヒトハミナ。仙覺本系統には、人皆者に作つている。人皆とある方が普通であるが、古本のままでもさしつかえない所である。
 今波長跡 イマハナガシト。今は長しといえどと續く語法である。
 多計登雖言 タケトイヘド。タケは束ねる意の動詞タクの命令形。前の歌のタケバヌレを受けている。イヘドは、今は長シト、タケトの兩方を受けている。女兒が成長して髪が長くなると、幼時垂髪であつた髪を束ね上げるので、このようにいつている。
 君之見師髪 キミガミシカミ。かつて君が見しわが髪である。
 亂有等母 ミダレタリトモ。亂れてあつても、そのままにして、姿容を變えない意である。この下に詞句を省略した語法。
 娘子 ヲトメ。作者の名を註している。三方の沙彌の贈歌に對して答えた歌である。
(384)【評語】詞句を省略して十分に言い切らない語法で、餘情を含んでいるの女子の歌として優婉な氣分が釀し出されている。贈歌の力に壓倒されない、實によいやりとりである。この三方の沙彌とその妻との、髪を題材とした問答は、婚後まだ幾日をも經ない心がよく出ている。伊勢物語の筒井筒の條は、これとやや事情は異なるが、髪を材料として相思の男女が詠みかわした歌には、共通の感情が含まれている。次に參考として掲げておく。
【參考】伊勢物語。
  昔田舍わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりけれは、男も女もはぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ひ、女もこの男をこそと思ひつゝ、親のあはすることも聞かでなむありける。さてこのとなりの男のもとよりかくなむ。
  筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな。いも見ざるまに。
  女かへし
  くらべこしふり分け髪も肩すぎぬ。君ならずして誰かあぐべき。
 かくいひいひて、つひに本意《ほい》のごとくあひにけり。
 
125 橘の 蔭踏む路《みち》の 八衢《やちまた》に
 ものをぞ念ふ。
 妹に逢はずて。三方の沙彌
 
 橘之《タチバナノ》 蔭履路乃《カゲフムミチノ》 八衢尓《ヤチマタニ》
 物乎曾念《モノヲゾオモフ》
 妹尓不相而《イモニアハズテ》三方沙弥
 
【譯】橘の蔭を踏む道の、四方に通じるように、いろいろに心を惱ますことだ。わが妻に逢わないので。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は、垂仁天皇の勅に依つて、田道間守が常世の國から持つて來た樹と傳えられて(385)いる。その果實は、香氣高く、他の果實の無い冬季に熟するので、「時じくの香《かく》の木の實」と稱して愛賞されていた。
 蔭履路乃 カゲフムミチノ。當時、京城の市邊の道路には、菓樹を植えたので、橘も、街路樹として植えられたと考えられる。日本書紀雄略天皇紀に見える「餌香市邊橘本」とあるのもそれであろう。類聚三代格に載せた天平寶字七年の乾政官符に、「右東大寺普照法師奉?稱、道路百姓來去不v絶、樹在2其傍1、足v息2疲乏1。夏則就v蔭避v熱、飢則摘v子?v之。伏願城外道路兩邊、栽2種菓子樹木1者、奉v勅依v奏」とあるは、これを城外にも及ぼしたものである。ここに、橘ノ蔭フム道というのも、このような街路樹のもとをいうものと見られる。
 八衢尓 ヤチマタニ。ヤは數の多いのをいうので、かならずしも八個に限るわけではない。チマタは道岐の義。ヤチマタは道路の多數にわかれる處をいう。古事記上卷に、天之八衢とあり、道饗祭の祝詞に、八衢比古、八衢比賣とある。八衢ニ物思フとは、樣々に物を思うことを、譬喩に依つて表現したものである。この句まで譬喩。上の橘ノ蔭フム路ノを受け、同時に、わが物思いの、幾樣にも分れ行くことを敍している。
 物乎曾念 モノヲゾオモフ。娘子を戀うて物思いをする意。句切。
 妹尓不相而 イモニアハズテ。病のために訪い得ないのである。上の物ヲゾ念フの理由を説明している。
 三方沙弥 ミカタノサミ。作者の名を註したものである。
【評語】譬喩の美しい歌。主たる内容は、妹に逢わないで千々に物が思われるというにある。橘の蔭ふむ路は、妹がり行く戀の通い路として、ふさわしい美しい句である。この歌は、參考の欄に記すように、吟誦されても傳えられた。いかにも美しい歌だからである。なおこの作者の歌としては、雪の歌(卷十九、四二二七)も、變つた形の歌で、同じく吟誦されている。
(386)【參考】別傳。
  橘の本に道踏み八衢に物をぞ念ふ。人に知らえず。
  右の一首は、右大辨高橋の安麻呂の卿《まへつぎみ》語りていはく、故《もと》の豐島《としま》の采女が作れるといふ。但《ただ》し或る本にいはく、三方の沙彌の、妻|苑《その》の臣《おみ》に戀ひて作れる歌なりといふ。然らば、豐島の采女、當時《そのかみ》、その所にてこの歌を口吟《くちずさ》めるか。(卷六、一〇二七)
 
石川女郎、贈2大伴宿祢田主1歌一首【即佐保大納言大伴卿之第二子、母曰2巨勢朝臣1也。】
 
石川の女郎の、大伴の宿禰田主に贈れる歌一首【すなはち佐保の大納言大伴の卿の第二子なり。母を巨勢の朝臣といへり。】
 
【釋】石川女郎 イシカハノヲミナ。傳未詳。下一二九の歌の題詞にも石川の女郎があり、それと同人でないともいえないが、何とも知られない。作歌事情は左註に詳である。
 大伴宿禰田主 オホトモノスクネタヌシ。下の註に依れば、佐保の大納言、すなわち大伴の安麻呂の第二子で、母を巨勢の朝臣というとある。巨勢の朝臣は、玉葛(卷二、一〇二)の歌の作者である。田主は他に所見が無い。若くして死んだのであろう。
 
126 遊士《みやびを》と 吾は聞けるを、
 屋戸《やど》借さず 吾を還せり。
 おその風流士《みやびを》。
 
 遊士跡《ミヤビヲト》 吾者聞流乎《ワレハキケルヲ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 吾乎還利《ワレヲカヘセリ》
 於曾能風流士《オソノミヤビヲ》
 
【譯】文雅な方と聞いていましたが、宿を借さないでわたくしを還しました。にぶい文雅人ですね。
【釋】遊士跡 ミヤビヲト。遊士は、五句の風流士と同語なるべく、共にミヤビヲと讀まれる。ミヤビの語は、(387)「烏梅能波奈《ウメノハナ》 伊米爾加多良久《イメニカタラク》 美也備多流《ミヤビタル》 波奈等阿例母布《ハナトアレモフ》 左氣爾于可倍許曾《サケニウカベコソ》」(卷五、八五二)の如く、動詞に使用した例がある。これは宮の語に、接尾語ビが附隨したもので、宮廷ふうを意味するものである。かような語構成には、都ビ、鄙ビ、神ビ等がある。ミヤビヲは、宮廷ふうの男子の謂で、雅事を解する人の意に使用されている。遊士の文字は、實生活以上の餘裕ある男子の義である。
 吾者聞流乎 ワレハキケルヲ。田主を雅事を解する人として聞いていたがの意。ヲは、しかるにの意を寓している。
 屋戸不借 ヤドカサズ。ヤドはここでは宿處の意に使用されている。借は貸と同樣に使用されている。ヤドは、本來家の戸口の義であつて、屋内の人からいえば、出入口であり屋外でもある。それを屋外からいうと、それを通して人の居住するところの家屋の意にもなる。ヤドに草木を植えるともいうし、ヤド貸すともいう次第である。
 吾乎還利 ワレヲカヘセリ。宿を貸さないで、自分を還した。句切。
 於曾能風流士 オソノミヤビヲ。オソは、遲しのオソに同じく、愚鈍なのをいう。「常世邊《トコヨベニ》 可v住物乎《スムベキモノヲ》 劔刀《ツルギタチ》 己之行柄《ヲノガワザカヲ》 於曾也是君《オソヤコノキミ》」(卷九、一七四一)とあるオソも同語である。風流は、漢文に使用される熟字であるが、ここでは文雅の意に使用されている。集中の用例、「足引乃《アシヒキノ》 山二四居者《ヤマニシヲレバ》 風流無三《ミヤビナミ》 吾爲類和射乎《ワガスルワザヲ》 害目賜名《トガメタマフナ》」(卷四、七二一)があり、同じくミヤビと讀まれる。文章では、この歌の左註にもあり、また、「海原之《ウナハラノ》 遠渡乎《トホキワタリヲ》 遊士之《ミヤビヲノ》 遊乎將v見登《ミヤビヲミムト》 莫津左比曾來之《ナヅサヒゾコシ》」(卷六、一〇一六)の左註に、「右一首、書2白紙1懸2著屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化嚢蘰、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉」とある。これらに依つてその意を知るべきである。この一句、上四句を受けて總括的に批判を下している。
【評語】風流人という、實生活を離れた生活樣式の求められていたことが示されている。その規格にはまらな(388)い人だといぅことを罵倒した、それだけの歌である。
 
大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者、靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1、自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書、未v逢2良信1。爰作2方便1、而似2賤嫗1、己提2堝子1而到2寢側1、哽音?足、叩v戸諮曰、東隣貧女、將v取v火來矣。於v是仲郎、暗裏非v識2冒隱之形1、慮外不v堪2拘接之計1、任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈謔戯焉。
 
大伴の田主、字《あざな》を仲郎といへり。容姿《かほ》佳艶《よ》くして、風流《みやび》秀絶《すぐ》れたり。見る人聞く者、歎息せずといふことなし。時に石川の女郎といふ者あり。みづから雙栖の感を成し、恒に獨守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲《おも》ひて、いまだ良信に逢はず。ここに方便《たばかり》をなして、賤しき嫗に似せて、おのれ堝子《なべ》を提げて、寢側に到り、哽音?足して戸を叩きて諮ひて曰はく、東隣の貧女、火を取らむとして來れりといふ。ここに仲郎、暗き裏《うち》に冒隱の形を知らず、慮の外《ほか》に拘接の計に堪《あ》へず。念《おもひ》のまにまに火を取り跡に就き歸り去にき。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、また心契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以ちて贈り謔戯としき。
 
【譯】大伴の田虫は字を仲郎と言つた。姿が美しくして風流なことが勝れている。見る人も聞く者も歎息しない者は無かつた。時に石川の女郎という者があつて、自然に戀愛の情を起し、しかも常にひとりいる心に堪えかねていた。心に手紙を贈ろうと思つてもまだ良い便りに逢わなかつた。そこで計略をめぐらして、賤しい老婆の眞似をして、自分から火入れを提げて田主の寢屋のあたりに行き、喉聲で拔き足して戸を叩いて語つて言(389)うには、東隣の貧しい女が火を取ろうと思つて來ましたと言つた。そこで田主が暗い中で變装している形を知らないで、それを引き留めることは思いもよらず、思う通りに火を取つて、來た道から歸つて行つた。夜が明けてから後、女郎は既に自分から仲立したことを恥じ思い、しかも心に願つたことが果さなかつたことを恨んで、そこでこの歌を作つて、贈り戯れたということである。
【釋】字曰仲郎 アザナヲチユウラウトイヘリ。字は、名の義を取つてつけるのが本義であり、一般の稱呼にこれを用いた。當時わが國でもこれに模して、文字を知る者のうちにこれをつけることが行われたのである。本集では、卷の三、二七八の左註に「右今案、石川朝臣君子、號曰2少郎子1也」とあるのも、字であろう。仲郎は田主が第二子であるゆえに選んでいる。訓讀してはナカツコと讀まれるが、漢風に擬したのであるから、多分音讀したのであろう。
 容姿佳艶 カホヨクシテ。容姿は、容貌姿態で、表にあらわれたところをいう。佳艶は、美なるをいう。
 風流秀絶 ミヤビスグレタリ。容姿佳艶に對して對句を成していると見られる。風流は風格の意に解せられる。秀絶は他に比類無くすぐれているをいう。
 雙栖之感 ナラビスムコトノオモヒ。雙栖は夫婦として住むこと。感は思いである。夫婦である思い。
 獨守之難 ヒトリマモルコトノカタキ。ひとり空牀を守ることの苦しみをいう。
 未逢良信 イマダヨキツカヒニアハズ。信は使者をいう。
 爰作方便 ココニタバカリヲナシ。方便は佛教語。巧みに諸法を用い、機に臨んで物を利するをいう。
 似賤嫗 イヤシキオミナニニセテ。嫗は老女をいぅ。卑賤の老嫗に扮装して。
 己提堝子 オノレナベヲヒサゲテ。堝子は土の鍋である。倭名類聚鈔瓦器類に、「辨色立成云堝【古禾反、奈閉。今案金謂2之鍋1、瓦謂2之堝1、字或相通。】」とある。ここは火を入れる料にこれを持つたのである。
(390) 哽音?足 ノドヨヒシジマヒ。哽音は聲のからまるのをいう。老女の聲に似せていうのである。?足は足の進まないのをいう。老女の足もとのおぼつかないのに似せたのである。
 諮曰 トヒテイハク。諮は、玉篇に「謀也、問也」とある。ここは問い求める意である。
 將取火來矣 ヒヲトラムトシテキタレリ。火を作ることの困難な當時にあつては、火の既にある處について火を乞うのである。
 暗裏 クラキウチニ。暗黒の中にである。
 冒隱之形 カクレタルカタチ。冒は、玉篇に「覆也」とある。物に隱れた姿である。
 拘接之計 マジラヒノハカリゴト。拘接は關係し交接すること。引き留めて夫婦の交りをする計略をいう。
 任念 オモヒノマニマニ。思う通りに、思いのままに。
 就跡歸去也 アトニツキテカヘリイニキ。跡は、歩みのあとをいう。來た跡につきてで、もと來た通りに歸つて行つた。
 恥自媒之可愧 ミヅカラナカダチスルコトノハヅベキヲハヂ。男女が夫婦となるは、媒介する者があつて行うを禮とするに、今みずから進んでこれをすることの恥ずべきを知つて。
 復恨心契之弗果 マタチギリノハタサザルコトヲウラミ。しかも一方、心に期せしことのはたし得なかつたことを遺憾として。
 謔戯焉 タハブレトシキ。謔は、新撰字鏡に「太波夫留」と註している。謔戯二字で熟字を成している。
 
大伴宿祢田主、報贈歌一首
 
大伴の宿祢田主の報《こた》へ贈れる歌一首
 
(391)【釋】 報贈歌 コタヘへオクレルウタ。石川の女郎の贈つた歌に答え贈つた歌である。
 
127 遊士《みやびを》に 吾はありけり。
 屋戸《やど》かさず 還《かへ》ししわれぞ、
 風流士《みやびを》にはある。
 
 遊士尓吾者有家里《ミヤビヲニワレハアリケリ》
 屋戸不v借《ヤドカサズ》 令v還吾曾《カヘシシワレゾ》
 風流士者有《ミヤビヲニハアル》
 
【譯】私は文雅人だつたのですよ。宿を貸さないで還したわたしこそは文雅人ですよ。
【釋】遊士尓吾者有家里 ミヤビヲニワレハアリケリ。石川の女郎の、遊士ト吾ハ聞ケルヲの句を受けている。この句は、わたしこそは眞のミヤビヲだの意に言つている。
 屋戸不借 ヤドカサズ。石川の女郎の歌の句を受けている。次の還シシを修飾する。
 令還吾曾 カヘシシワレゾ。還したわたしこそは、ゾは係助詞。
 風流士者有 ミヤビヲニハアル。これも眞の風流人であるといつている。ゾを受けて、連體形で留めている。
【評語】女から贈つた歌の形を利用して、詞を入れ替えて詠んでいる。自分が風流人であることを主張するに急で、餘裕が見受けられない。返歌としてはやむを得ないであろう。
 
同石川女郎、吏贈2大伴田主中郎1歌一首
 
同じ石川の女郎の更に大伴の田主中郎に贈れる歌一首
 
【釋】同 オヤジ。この語、本集ではオヤジともオナジとも書いてある。オヤジの用例には「麻乎其母能《マヲゴモノ》 於夜自麻久良波《オヤジマクラハ》 和波麻可自夜毛《ワハマカジヤモ》」(卷十四、三四六四)、「妹毛吾毛《イモモワレモ》 許己呂波於夜自《ココロハオヤジ》」(卷十七、三九七八)、毛等母延毛《モトモエモ》 於夜自得伎波爾《オヤジトキハニ》」(同・四〇〇六)、「京師乎母《ミヤコヲモ》 此間毛於夜自等《ココモオヤジト》」(卷十九・四一五四)があり、(392)オナジの用例には、「於奈自許等《オナジコト》 於久禮弖乎禮杼《オクレテヲレド》」(卷十五、三七七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自久爾奈里《オナジクニナリ》」(卷十八、四〇七三)、「都奇見禮婆《ツキミレバ》 於奈自伎左刀乎《オナジキサトヲ》」(同、四〇七六)とある。日本書紀天智天皇紀には、「陀麻爾農矩騰岐《タマニヌクトキ》 於野兒弘爾農倶《オヤジヲニヌク》」とあつて、もとオヤジと言つたものが、後オナジに轉じたものであろう。ここに同とあるは、この石川の女郎が前の兩者の相聞の主と同人であることを意味する。
 中郎。前の文に仲郎とあるに同じ。
 
128 わが聞きし 耳によく似る、
 葦《あし》の若末《うれ》の 足ひくわが夫《せ》、
 努《つと》めたぶべし。
 
 吾聞之《ワガキキシ》 耳尓好似《ミミニヨクニル》
 葦若末乃《アシノウレノ》 足痛吾勢《アシヒクワガセ》
 勤多扶倍思《ツトメタブベシ》
 
【譯】わたしの聞いた通り、アシの若葉のような足の病氣に惱んでいる貴方は、どうかよく御養生ください。
【釋】吾聞之耳尓好似 ワガキキシミミニヨクニル。ミミは耳で、自分の聞いたことをいう。ミミニヨクニルは、聞いた通り、聞くが如くにの意。「言云者《コトニイヘバ》 三々二田八酢四《ミミニタヤスシ》」(卷十一、二五八一)のミミも聞くことの意に使用されている。この句、終止形とする説もあるが連體形とするを可とする。
 葦若末乃 アシノウレノ。枕詞。ウレは、者い伸びた先をいう。ヒシノウレ、ハギノウレなどいう。同音によつて、次の句の足に懸かつている。若末の文字は、この語の意をよくあらわしている。これは「暮去者《ユフサレバ》 小松之若末爾《コマツガウレニ》」(卷十、一九三七)にも使用されている。
 足痛吾勢 アシヒクワガセ。足痛は諸訓のある所である。字に即して讀むものに、アシイタ(古點)、アシナヘ(考)、アシイタム(岡本保孝)があり、義讀するものに、アナヘク(仙覺)、アシヒク(京都大學本代赭)、アナヤム(古義)がある。集中「足疾乃《アシヒキノ》 山寸隔而《ヤマキヘナリテ》 不v遠國《トホカラナクニ》」(卷四、六七〇)、「足病之《アシヒキノ》 山海石榴開《ヤマツバキサク》 八岑(393)越《ヤツヲコエ》 (卷七、一二六二)の如く、足疾、足病をアシヒキと讀ましめている例があり、この歌の左註にも足疾とあるによつて、今アシヒクと讀む。足の病である。ワガセは、田主をさしている。
 勤多扶倍思 ツトメタブベシ。ツトメは療養に努める義。タブベシはタマフペシと同じく、タブは先方に對する敬語。そうなされるがよいの意味。養生に努められるがよいでしょう。
【評語】讀み方に問題はあるが、輕い氣もちで病を問うた心はわかる。アシノウレノの枕詞が多少揶揄的な氣分があつておもしろい。耳ニヨク似ルというのは、當時言い慣れた語であろうが、變わつた言い方である。
 
右依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也
 
右は中郎の足の疾に依り、この歌を贈りて問訊《とぶら》へるなり。
 
【釋】足疾 アシノヤマヒ。ここは體言である。どのような病か知らないが、田主はまだ若かつたようであるから、脚氣などであろう。
 問訊也 トブラヘルナリ。訊も問う義の字である。見舞の歌である。
【評語】この物語は、實話というよりもむしろ一箇の作り物語であるようだ。文章も事實を説明する以上に、文を飾つて書いている。歌の贈答ぐらいはあつたかも知れないが、事件はすこし奇拔すぎる。また大伴の田主は他に所見が無い。或いは旅人の假名であるかも知れない。
 
大津皇子宮侍石川女郎、贈2大伴宿祢宿奈麻呂1歌一首
                【女郎字曰2山田郎女1也。宿奈麻呂宿祢者大納言兼大將軍卿之第三子也】
 
(394)大津の皇子の宮の侍《まかたち》、石川の女郎の、大伴の宿祢|宿奈麻呂《すくなまろ》に贈れる歌一首
                【女郎、字を山田の郎女と曰へり。宿奈麻呂の宿禰は、大納言兼大將軍の卿の第三子なり】
【釋】大津皇子 オホツノミコ。元暦校本に、津の右に朱で、「伴一本」とあり、西本願寺等の仙覺本は伴に作つている。大伴の皇子とすれば、天智天皇の皇子の大友の皇子(弘文天皇)のことになる。石川の女郎は既に相當の年のようであるから、弘文天皇の侍女であつたということもあり得ないことではないが、今は元暦校本の本文によつて津とするによる。
 宮侍 ミヤノマカタチ。侍は侍女の義。大津の皇子の宮の女房である。
 石川女郎 イシカハノヲミナ。題下の註に依れば、字を山田の郎女といつたという。山田は地名で、飛鳥の山田であろう。前の一〇七の題詞の石川の郎女と同人とすれば、この註は前のところにあつて然るべきが如何。また大伴の田主に歌を贈つた石川の女郎と同人であるか否かも知られない。この歌を贈つた時、既に相當の年配に達していたようである。
 大伴宿祢宿奈麻呂 オホトモノスクネスクナマロ。註にあるように大伴の安麻呂の第三子である。この人、養老三年七月に、安藝周防の按察使に任ぜられ、神龜元年二月には從四位の下に敍せられている。歿年未詳。
 
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや、
 かくばかり 戀に沈まむ。
 手童《たわらは》の如。
  一は云ふ、戀をだに忍びかねてむ、手童《たわらは》の如
 
 古之《フリニシ》 嫗尓爲而也《オミナニシテヤ》
 如此許《カクバカリ》 戀尓將v沈《コヒニシヅマム》
 如2手童兒1《タワラハノゴト》
  一云、戀乎太尓忍金手武 多和良波乃如
 
【譯】年を取つた女なのだのに、これほどまでに子どものように戀に沈むことでしようか。
(395)【釋】古之 フリニシ。古くなつた意味で、年を經た由である。オミナの語が既に老女であるが、それに更にこの句を冠して古びはててしまつた由をあらわしている。
 嫗尓爲而也 オミナニシテヤ。自分は老女であるのにそれにしてもかの義で、ヤは疑問の係助詞。こんな老女であるのにそれでも戀をするのかとみずから怪しんでいる。もつとも古リニシ嫗というのは、どれほどの年齡をさしているかは分からない。やや盛りを過ぎた頃の年輩であろう。
 如此許 カクバカリ。現在の?態をさしてカクといい、それほどにの意をあらわしている。
 戀尓將沈 コヒニシヅマム。戀の思いに沈むことよの意。ヤを受けて結んでいる。句切。
 如手童兒 タワラハノゴト。タは接頭語。タワラはは幼童。ここは若い女をさして言つているであろう。年端も行かない女ならは戀に沈むのももつともであるが、自分のような年輩の女で、なおかつ戀に沈むものかというのである。
 戀乎太尓忍金手武 コヒヲダニシノビカネテム。戀だけも堪えることができないでいるだろうの意。シノビは耐える意。
 多和良波乃如 タワラハノゴト。これは本文と同一である。
【評語】盛り過ぎた女の、少女のような物思いに沈むのをみずから歎いた歌として、上二句の仰山な物言いがよくきいている。勿論本氣で歌つているのではないだろう。あまり趣のない歌である。
【參考】類想。
  あづきなく何の狂言《たはごと》、今更に小童言《わらはごと》する。老人にして(巻十一、二五八二)
 
長皇子、與2皇弟1御歌一首
 
(396)長の皇子の皇弟に與へたまへる御歌一首
 
【釋】長皇子 ナガノミコ。既出(卷一、六〇)。天武天皇の皇子。
 與皇弟歌 スメイロセニアタヘタマフウタ。皇弟は何人か不明。日本書紀天武天皇紀に、「妃大江皇女、生3長皇子與2弓削皇子1」とあり、同母弟ならは弓削の皇子である。
 
130 丹生《にふ》の河 瀬《せ》は渡《わた》らずて
 ゆくゆくと 戀痛《こひた》し、吾弟《わおと》、
 いで通《かよ》ひ來《こ》ね。
 
 丹生乃河《ニフノカハ》 瀬者不渡而《セハワタラズテ》
 由久遊久登《ユクユクト》 戀痛吾弟《コヒタシワオト》
 乞通來祢《イデカヨヒコネ》
 
【譯】丹生の河の瀬を渡らないで、わたしの心は落ちつかず、戀がひどい。弟よ。さあ通つておいでなさい。
【釋】丹生乃河 ニフノカハ。吉野川の上流、丹生の地を流れる時の稱。
 瀬者不渡而 セハワタラズテ。瀬をば渡らないで。以上その地にいて實際にその川を渡らないことをいい、戀痛シの理由?態になるが、同時に次句のユクユクトを引き起す序になつている。
 由久遊久登 ユクユクト。他に用例は無いが、「大船乃《オホフネノ》 由久良由久良爾《ユクラユクラニ》 思多呉非爾《シタゴヒニ》 伊都可聞許武等《イツカモコムト》」(卷十七、三九六二)などの、ユクラユクラニと同語であろうと言われている。それによれば、大船の波のまにまに動搖するように、心の落ちつかず定まらないことをいう副詞と考えられる。
 戀痛吾弟 コヒタシワオト。コヒタシは、コヒイタシの約、戀のはなはだしいのをいう形容詞。「凡有者《オホナラバ》 左毛右毛將v爲乎《カモカモセムヲ》 恐跡《カシコミト》 振痛袖乎《フリタキソデヲ》 忍而有香聞《シノビテアルカモ》」(卷六、九六五)。この歌の振痛シと同樣の語構成と見られる。イタシは詰つてタシと聞えるのだろう。その終止形。コヒタキとして連體形ともされる。ワオトは、皇帝を呼び懸けている。
(397)乞通來祢 イデカヨヒコネ。乞はイデともコチとも讀まれ、いずれにても通ずる所である。イデは、さあと誘う語。「伊田何《イデイカニ》 極太甚《ココダハナハダ》」(卷十一、二四〇〇)など使われている。「壓乞、此云2異提1」(允恭天皇紀)とあつて、強く乞う意である。コチは此方の義で、こちらへ通つていらつしやいの意。コネは動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語】實際を描いて序に應用した所が、巧みである。言葉の表示する内容の種類が多く、すこしごたごたして感じられる。「丹生の河瀬は渡らずて」「ゆくゆくと戀痛し」「吾弟いで通ひ來ね」とすくなくも三部にわたることが一首に含められているのである。
 
柿本朝臣人麻呂、從2石見國1別v妻上來時歌一首并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國より妻を別かれて上り來し時の歌一首【短歌并はせたり】
 
【釋】從石見國 イハミノクニヨリ。人麻呂が石見の國にあつたのは、多分國司として掾《じよう》、目《さかん》、史生《しぞう》などの地位にあつたものなるべく、その晩年のことと見られる。
 別妻上來時歌 ツマヲワカレテノボリコシトキノウタ。動詞別カルは、その動作の目標となるものについては、助詞ヲを以つて受ける慣である。「久夜之久妹乎《タヤシクイモヲ》 和可禮伎爾家利《ワカレキニケリ》」(卷十五、三五九四)、「多良知禰乃《タラチネノ》 波々乎和加例弖《ハハヲワケレテ》」(卷二十、四三四八)の如くである。「父母爾《チチハハニ》 啓別而《マヲシワカレテ》」(卷十九、四二一一)の例は、助詞ニを受けているが、これは、啓が受けているのである。この妻は、人麻呂の後妻であるが、人麻呂の死んだ時に歌を詠んだ依羅《よさみ》の娘子であろう。その人は國府から一里餘を隔てた角《つの》の里におり、人麻呂は、その地に通つたものと考えられる。妻と別かれて上京したとあるは、轉任では無く、朝集使などになつて上京したものであろう。朝集使は、朝集帳をもつて諸國から庶政を報告する使で、畿内は十月二日に、地方は十一月一日に奉る。(398)石見の國から輸税の時の行程は、延喜式によるに、上廿九日下十五日であるから、十月の初めに石見の國を發したであろう。
 并短歌 ミジカウタアハセタリ。長歌に反歌がつけられてある場合に、卷の一では、長歌の題詞には何とも記さないであるが、この卷以下は、みな并短歌とことわつてある。并は、併合の意の字で、竝とは別。長歌に短歌が合わせてある意である。代匠記に菅原家ではアハセタリと讀むそうだという。今これによる。ナラビニと讀むのは非。寛永本に竝に作るのも誤りである。
 
131 石見《いはみ》の海 角《つの》の浦廻《うらみ》を
 浦なしと 人こそ見らめ。
 潟《かた》なしと【一は云ふ。礒無しと。】 人こそ見らめ。
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし 潟は【一は云ふ。礒は。】無くとも、
 鯨魚取《いさなと》り、海邊《うみべ》をさして、
 渡津《わたづ》の 荒礒《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻、
 朝羽振《あさはふ》る 風こそ寄らめ。
 夕羽振る 浪こそ來寄れ。
 浪の共《むた》 か寄りかく寄り
(399) 玉藻なす 寄り宿し妹を、【一は云ふ、はしきよし妹が手本を。】
 露霜《つゆじも》の 置《お》きてし來《く》れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬《よろづ》たび 顧みすれど、
 いや遠に 里は放《さか》りぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。
 夏草の 思ひ萎《しな》えて
 思《しの》ふらむ 妹が門見む。
 靡けこの山。
 
 石見乃海《イハミノウミ》 角乃浦廻乎《ツノノウラミヲ》
 浦無等《ウラナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 滷無等《カタナシト》【一云、磯無登】 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 能咲八師 ヨシヱヤシ浦者無友 ウラハナクトモ
 縱畫屋師《ヨシヱヤシ》 滷者《カタハ》【一云、礒者】 無鞆《ナクトモ》
 鯨魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
 和多豆乃《ワタヅノ》 荒礒乃上尓《アリソノウヘニ》
 香青生《カアヲナル》 玉藻息津藻《タマモオキツモ》
 朝羽振《アサハフル》 風社依米《カゼコソヨラメ》
 夕羽振《ユフハフル》 浪社來縁《ナミコソキヨレ》
 浪之共《ナミノムタ》 彼縁此依《カヨリカクヨリ》
 玉藻成《タマモナス》 依宿之妹乎《ヨリネシイモヲ》【一云、波之伎余思妹之手本乎】
 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
 此道乃《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
 彌遠尓《イヤトホニ》 里者放奴《サトハサカリヌ》
 益高尓《イヤタカニ》 山毛越來奴《ヤマモコエキヌ》
 夏草之《ナツクサノ》 念思奈要而《オモヒシナエテ》
 志怒布良武《シノフラム》 妹之門將v見《イモガカドミム》
 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海の角の浦を、浦は無いと人は見もしよう。潟は無いと人は見もしよう。よし浦は無くとも、よし潟は無くとも、クジラを取る海邊をさして、渡海をする津の荒礒の上に、まつ青《さお》な玉藻や沖つ藻に、朝吹く風が吹き寄ろう。夕方に寄せる浪がうち寄せよう。浪と共に、あちらへ寄りこちらへ寄り、玉藻のように寄り添つて寐たわが妻を、露霜のようにうち置いて來ると、この邊の多い曲り角毎に、何遍も何遍も顧みるけれども、段々遠く里は離れた。いよいよ高く山も越えて來た。思いしおれて思つているであろうわが妻の門を見ようと思う。この山よ、たいらになれ。
【構成】この歌は、三段四節から成つている。
 第一段 石見の海岸の描寫「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
  第一節 石見の海の總敍。「滷無しと人こそ見らめ」まで。
(400)  第二節 海岸の特色。「夕はふる浪こそ來寄れ」まで。
 第二段 作者の行動の敍述。「いや高に山も越え來ぬ」まで。
 第三段 作者の希望の敍述。「なびけこの山」まで。
【釋】石見乃海 イハミノウミ。石見の國の海を擧げて、次の句に
冠している。石見の語義は、石の多い海の義かも知れないが、既に地名となつているので、重ねていうこと淡海の海の如き例による。
 角乃浦廻乎 ツノノウラミヲ。角は地名。反歌に高角山とある角、一三八の歌に角の里とある。みな同地で(401)ある。島根縣那賀郡津農町附近の稱である。妻の住んでいる地であるから、この地を擧げて、その風土の説明をしようとするのである。ウラミのミは接尾語。地形をいう語に附して、その地形の彎曲せるものなることをあらわす。ヲは、下の見ラメの處置格を示す。ウラは彎入せる水面をいう。
 浦無等人社見良目 ウラナシトヒトコソミラメ。社をコソと讀むのは、神社に對しては願望をするので、願望のコソに當て、轉じて係助詞にも使用するに至つたものとされている。ミラメは、「行來跡見良武《ユキクトミラム》」(巻一、五五)參照。動詞見ルに、推量の助動詞ラムの接續したものである。ラムは動詞の終止形を受けるのを通例とするが、古くは上一段動詞に限り、ミラムの如き形を取るのである。その意は、世人は、浦無しと見もしようというにある。不定時の現在推量である。
 滷無等人社見良目 カタナシトヒトコソミラメ。カタは水中の渚、潮干ればあらわれるような處。但し日本海方面では、八郎潟、象潟など、海に續いている湖をカタといぅ。ここもその意であろうとする説もある。以上、角ノ浦ミには、實際浦や滷の見るべきものが無いことを、對句で言つている。角ノ浦ミというのは、浦があるようにも取れるが、それは大局についていい、浦無シ滷無シの方は、部分的について言つているらしい。以上第一段の第一節、まず石見の海岸の大勢を敍している。
 一云磯無登 アルハイフ、イソナシト。イソは石の累積せる處。滷無等の別傳である。
 能咲八師 ヨシヱヤシ。ヨシは許容の意で、たとい何々であつてもの意をあらわす。よしやというに同じ。ヱおよびヤシは、共に感動の助詞。ヤシは、ハシキヤシなどのヤシに同じ。ヨシの例は、「雪寒三《ユキサムミ》 咲者不v開《サキニハサカズ》 梅花《ウメノハナ》 縦比來者《ヨシコノゴロハ》 然而毛有金《シカモアルガネ》」(卷十、二三二九)、ヨシヱの例は、「足千根乃《タラチネノ》 母爾不v所v知《ハハニシラエズ》 吾持留《ワガモテル》 心者吉惠《ココロハヨシヱ》 君之隨意《キミガマニマニ》」(卷十一、二五三七)、ヨシヱヤシの例は「爭者《アラソヘバ》 神毛惡爲《カミモニクマス》 縱咲八師《ヨシヱヤシ》 世副流君之《ヨソフルキミガ》 惡有莫君爾《ニクカラナクニ》」(同、二六五九)など。
(402) 浦者無友 ウラハナクトモ。假設前提法で、よし浦は無いとしてもの意。
 縱畫屋師滷者無鞆 ヨシヱヤシカタハナクトモ。上の二句に對して對句を成している。講義にここで段落であるように説いているのは誤りである。
 一云礒者 アルハイフ、イソハ。滷者に對する別傳である。この別傳は、上の一云礒無登とある別傳と同一の傳來であることが知られる。この傳來には、共に滷に代うるに礒とあつたので、照應をしている。かように一首の中には、同一の傳來による別傳が記入されているので、それらの一を採つて本文を改めるが如きことは、避けねばならぬことである。
 鯨魚取 イサナトリ。枕詞。鯨魚を取る義で、海に冠する。クジラをイサナということは、壹岐國風土記の逸文に「鯨伏、昔者鮨鰐追v鯨、鯨走來隱伏、故云2鯨伏1。鰐竝鯨竝化2爲石1、相去一里。俗云v鯨爲2伊佐1」(萬葉集註釋所引)とある。「異舍灘等利《イサナトリ》 宇瀰能波麻毛能《ウミノハマモノ》」(日本書紀允恭天皇紀)。
 海邊乎指而 ウミベヲサシテ。ウミベは海岸。海岸を目ざして海藻を寄せると、下文に續く。
 和多豆乃 ワタヅノ。ワタヅは渡津で、航海する船の發著地である。或る本の歌(一三八)のこの句に相當する處には、柔田津乃とあるので、ここをもニキタヅノと讀む説(仙)があるが、その方はよい傳來でないから、これを證としないがよい。
 荒礒乃上尓 アリソノウヘニ。アリソは、アライソの約言。荒い礒で、浪や岩が大きく、豪壯の感を與える礒をいう。ウヘは、その上であるが、荒礒にというに同じ。
 香青生 カアヲナル。カは接頭語。色については、「蚊黒爲髪尾《カグロシカミヲ》」(卷十六、三七九一)の例がある。次の句を修飾している。
 玉藻息津藻 タマモオキツモ。玉藻と沖の藻であるが、同物を語を變えて言つた。この句は、玉藻沖つ藻を(403)呼びあげている。さてそれに風や浪が寄るというのである。
 朝羽振 アサハフル。ハフルは、鳥の羽を振つて飛ぶ意。後の夕羽振流とあるを、ユフハフルと讀むのに照らして、アサハフルと讀んでいる。鳥の羽ぶきのように風の吹くを譬えたのである。類聚名義抄に、※[者/羽]にハフルの訓がある。この字は飛びのぼる意の字。
 風社依米 カゼコソヨラメ。依米は、略解にヨセメと讀んでいる。依をヨスと讀むことは、「奧波《オキツナミ》 依流荒礒之《ヨスルアリソノ》 名告藻者《ナノリソハ》」(卷七、一三九五)、「汝乎曾母《ナレヲゾモ》 吾丹依云《ワレニヨストフ》 吾叫毛曾《ワレヲモゾ》 汝丹依云《ナレニヨストフ》」(卷十三、三三〇五)等、例が多い。ここはヨセメでよく通ずるが、動詞寄スは、下二段活であるから、下の浪社來縁の句については、ナミコソキヨスレと言わなければならず、それは極めて不調であつて、あり得べくも思われない。これは、上の玉藻沖つ藻の句は、玉藻沖つ藻を呼び懸けたもので、強いて言えば、玉藻沖つ藻あり、それに風や浪が寄るというのであろう。實際に歌い上げる場合には、そのあいだに若干の詞句が挿入されるから、格別不合理を感じないであろう。但し四段活の例もある。「妹慮豫嗣爾《メロヨシニ》」(日本書紀三)、「都麻余之許西禰《ヅマヨシコセネ》」(卷十四、三四五四)などそれで、人麻呂歌集所出の、「妻依來西尼《ツマヨシコセネ》」(卷九、一六七九)も、上記の例によつてツマヨシコセネと讀まれるから、人麻呂の作品に、四段活に使われていたとしても不思議はない。ただ下のカヨリカクヨリに對しては、やはりヨラメとあるべきだろう。
 夕羽振流浪社來緑 ユフハフルナミコソキヨレ。上の朝羽振風社依米に對して對句を成している。これも上の句と同樣に解すべきである。朝風、夕浪と分けて詠んでいるが、これも、ただ朝夕に風や浪が寄るというべきを、格調上分けたまでである。段落で、以上、第一段の第二節。目前の景によつて想を構えて、以下の、浪ノ共、玉藻ナスの二句を起す序としている。
 浪之共 ナミノムタ。ムタは共の意の古語で、助詞ノもしくはガを受ける。「可是能牟多《カゼノムタ》 與世久流奈美爾《ヨセクルナミニ》」(404)(卷十五、三六六一)の例がある。上の風コソ寄ラメの句を受けている。
 彼縁此依 カヨリカクヨリ。カヨリカクヨル(古義)。カもカクも、それとさす體言である。カモカクモ、カニモカクニモ、カ行キカク行キなど、用例が廣い。ここは、あのようにもこのようにも寄るの意。下の寄リ宿シを修飾する。カヨリカクヨルと讀むのは、ただちに次の玉藻を修飾するとするのであるが、調子の上からは、カヨリカクヨリがすぐれている。
 玉藻成 タマモナス。玉藻のようにある。上の玉藻沖ツ藻の句と照應している。
 依宿之妹乎 ヨリネシイモヲ。寄り添い寢た妻をである。妹は女子の愛稱。妻というと客觀性が強くなるが、妹というと、三人稱に使用されても、その人を思う情味が感じられる。
 一云波之伎余思妹之手本乎 アルハイフ、ハシキヨシイモガタモトヲ。上の玉藻ナス寄リ宿シ妹ヲの句に對する別傳であるが、これでは、上の浪ノムタカ寄リカク寄リの句に、接續しない。本文の方が可である。ハシキヨシは、ハシキヤシともいう。ハシキは愛すべくある意の形容詞。ヤシは感動の助詞。タモトは手の上部、腕。
 露霜乃 ツユジモノ。枕詞。置クに冠する。ツユジモは、露と霜とであるとする見解と、一種のものであるとする見解とがあるが、これはたとえば、山川の如き語について、山と川とも、また、山中の川とも解せられるようなもので、兩立し得る解である。ここは十月のはじめごろとする季節によつて、ツユジモとし、露からなかば、霜になつたものとすべきだろう。「烏玉之《ヌバタマノ》 吾黒髪爾《ワガクロカミニ》 落名積《フリナヅム》 天之露霜《アメノツユジモ》 取者消乍《トレバケニツツ》(卷七、一一一六)、「夢戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊之《カナクヤマベノ》 秋※[草冠/互]子者《アキハギハ》 露霜寒《ツユジモサムミ》 盛須疑由君《サカリスギユク》」(卷八、一六〇〇)の如き例は、この用法である。
 置而之來者 オキテシクレバ。妹を置いて來ればで、シは強意の助詞。
(405) 此道乃八十隈毎 コノミチノヤソクマゴトニ。今通行している道路なので、この道という。八十隈は、多數の曲りかどの隅。山路であつて、隈が多いのである。
 萬段顧爲騰 ヨロヅタビカヘリミスレド。ヨロヅタビは度數の多いことをいう。
 弥遠尓里者放奴 イヤトホニサトハサカリヌ。イヤトホニは、いよいよ遠くの意の副詞句。サトは、別れて來た妻の住んでいる里である。サカリは離れる意の動詞。句切。
 益高尓山毛越來奴 イヤタカニヤマモコエキヌ。上のイヤ遠ニ里ハサカリヌの句と對句を成している。いよいよ高く山も越えて來たの意で、句切。以上第二段。作者が山路につき、妻の住む里から、遠ざかつたことを敍している。「道前《チノクマ》 八十阿毎《ヤソクマゴトニ》 嗟乍《ナゲキツツ》 吾過往者《ワガスギユケバ》 爾遠丹《イヤトホニ》 里離來奴《サトサカリキヌ》 禰高二《イヤタカニ》 山文越來奴《ヤマモコエキヌ》」(卷十三、三二四〇)の如き類型の句がある。
 夏草之 ナツクサノ。枕詞。夏の草は、日に萎えるものであるから、次のシナエテに冠する。
 念思奈要而 オモヒシナエテ。シナエテは、なえなえとしての意。「於v君戀《キミニコヒ》 之奈要浦觸《シナエウラブレ》」(卷十、二二九八)等の例に依り、シナユの語があることが知られる。下二段活。
 志怒布良武 シノフラム。このシノフは、思慕する意に使用されている。別かれた後の妻の樣子を想像している句で、連體形である。布は、シノフの清音であつたことを語る。
 妹之門將見 イモガカドミム。妻が家の門を見ようの意。句切。
 靡此山 ナビケコノヤマ。邪魔になるこの山に對して、靡き伏せと命じている。この山が無くば、妹の門が見えるだろうというのである。勿論それは構想であつて、山が無くても遠く來たので見えるわけは無いのだがそれを山に對してたいらになれと言う所に、妻を思う情があらわれている。「惡木山《アシキヤマ》 木末悉《コヌレコトゴト》 明日從者《アスヨリハ》 靡有社《ナビキタリコソ》 妹之當將v見《イモガアタリミム》」(卷十二、三一五五)の歌は、類想の歌である。「靡得《ナビケト》 人雖v跡《ヒトハフメドモ》 如此依等《カクヨレト》 人雖v衝《ヒトハツケドモ》 (406)無v意《ココロナキ》 山之《ヤマノ》 奧礒山三野之山《オキソヤマミノノヤマ》」(卷十三、三二四二)の歌は山を邪魔にしている。以上第三段、作者の希望を述べて力強く結んでいる。
【評語】前半に何か事を敍して、それを譬喩として、中心内容に移る手段は、古事記あたりの古歌謠に常に見られるところであるが、この歌は、その形を受けている。はじめに石見の海の?況を敍したのは、山路を分け行くことに對して無關係のようであるが、これは角の里から、妻に別かれて山にさしかかり、そこから石見の海岸線が見渡される。その縁によつてこれを敍したので、間接ではあるが身邊の敍景になるのである。その矚目の物に筆を起して、カヨリカクヨリ靡キ寐シ妹を起す序としている。主題は最後の一句、靡ケコノ山にあるであろうが、そこに至るまでに、敍述を十分に盡して、準備を重ねている。これによつて、最後の一句が力強くなるのである。
 
反歌二首
 
132 石見《いはみ》のや 高角《たかつの》山の 木《こ》の間《ま》より、
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見乃也《イハミノヤ》 高角山之《タカツノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 我振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹見都良武香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の國の高角山の木の間から、わたしの振る袖を、わが妻は見ただろうか。
【釋】石見乃也 イハミノヤ。ヤは、感動の助詞であつて、意味にあつては、石見の高角山というに同じ。このヤの助詞ノに接續する例は、「阿符美能野《アフミノヤ》 ※[立心偏+豈]那能倭倶吾伊《ケナノワクゴイ》」(日本書紀九八、繼體天皇紀)の例がある。本集には、動詞助動詞の連體形に按績する例は多いが、助詞ノに接續する例は、「淡海之哉《アフミノヤ》 八橋乃小竹乎《ヤバセノシノヲ》」(卷七、−三五〇)の例があるだけである。「美奈刀能《ミナトノ》 安之我奈可那流《アシガナカナル》 多麻古須氣《タマコスゲ》」(卷十四、三四四五)の初(407)句、美奈刀能の下に、仙覺本には也の字があるが、元暦校本等には無い。元來このヤは、歌いあげる時に、詞句の末につける感動の語から來たもので、琴歌譜の語中の歌詞を見ると、多數使用されており、しかもそれが別に歌詞として整理される場合には、大抵省路されて記録されない。ところが一句の音節數が固定するに及んで、五音もしくは七音の數に合わせるために、これが記録される場合を生ずる。この石見ノヤの如きもその一例であつて、歌われる歌に存する特有のものが、文筆作品としての記録形態を完成するために、使用されたものである。助詞ノに接續する場合は、その遊離性が強いために、廣く行われるに至らなかつたものであろう。なお、「吾はもや」のヤの如きも、同樣の經路により、發達したものと考えられる。萬葉後期においては、熟語的に使用されるもの以外には、かような形はほとんど行われなくなつた。
 高角山之 タカツノヤマノ。高角山は、角の里から上京の途上にある山で、角の地の山であるから角山といい、これに形容詞高を添えて高角山という。
 木際從 コノマヨリ。樹の間を通して、樹間から。木ノ間ヨリワガ振ル袖と次句に續くのであつて、見ツラムカに續くのではない。
 我振袖乎 ワガフルソデヲ。袖を振るは、合圖をするためであつて、この場合は、別れを惜しむために振る。袖は、手の部分を蔽うものであるから、畢竟手を振ることである。集中例は多い。別れに際して振ることをいうものに、「倭道者《ヤマトヂハ》 雲隱有《クモガクリタリ》 雖v然《シカレドモ》 余振袖乎《ワガフルソデヲ》 無禮登母布奈《ナメシトモフナ》」(卷六、九六六)、「汝戀《ナガコフル》 妹命者《イモノミコトハ》 飽足爾《アクマデニ》 袖振所v見都《ソデフルミエツ》 及2雲隱《クモガクルマデ》1」(卷十、二〇〇九)などがある。
 妹見都良武香 イモミツラムカ。カは疑問の助詞。妹見ツを推量し、これを疑問としている法である。わが妻は見たであろうかと推量している。妹が木の間より見つらむかの意であるとする説は非である。語句の順序から見ても、それは穩當でない。
(408)【評語】道を行き進み、山を登りつつ、顧みがちに袖を振つた。山が邪魔になり、道の隈が重なつても、見えないと知りながら、妹を思つて袖を振つた心である。石見の國府から、實際袖を振るのが見える位置に、高角山を求めるのは間違いである。
 
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山もさやに 騷《さや》げども
 われは妹おもふ。
 別れ來ぬれば。
 
 小竹之葉者《ササノハハ》 三山毛清尓《ミヤマモサヤニ》 亂友《サヤゲドモ》
 吾者妹思《ワレハイモオモフ》
 別來禮婆《ワカレキヌレバ》
 
【譯】小竹《ささ》の葉は、山もさやさやと風に騷ぐけれども、自分はただわが妻を思う。別れ來たのであるから。
【釋】小竹之葉者 ササノハハ。ササガハハ(代)。小竹は、ササともシノとも讀むが、この歌では、ササと讀むがよい。小竹《ささ》、サヤニ、騷《さや》ゲドモと、サを頭韻としたために、全山ささと鳴る感じが出るのである。古事記上卷自註に、「訓2小竹1云2佐々1」とある。「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》 奈々弁加流《ナナヘカル》 去呂毛爾麻世流《コロモニマセル》 古侶賀波太波毛《コロガハダハモ》」(卷二十、四四三一)。
 三山毛清尓 ミヤマモサヤニ。ミは接頭語。山を賞美して、山の山たる所をあらわす。いかにも山だという氣分でいる。サヤニは、音や色が他に紛れない?態をいう副詞。ここに清爾の字を當て、他にも多く清の字を當てているのは、サヤが清明の意であるに由るものであろう。ここでは、次の句の騷ぐ?態を、ミ山モサヤニと限定指向している。山もさやかに騷ぐというのである。「足引之《アシヒキノ》 御山毛清《ミヤマモサヤニ》 落多藝都《オチタギツ》 芳野河之《ヨシノノカハノ》」(卷六、九二〇)の、ミ山モサヤニと同樣の用法である。
 亂友 サヤゲドモ。ミダレドモ(舊訓)、マガヘドモ(代匠記一説、攷證)、サヤゲドモ(檜嬬手)等の諸訓がある。サヤゲドモと讀むのは、「佐左賀波乃《ササガハノ》 佐也久志毛用爾《サヤクシモヨニ》」(卷二十、四四三一)とある例による。この(409)語は日本書紀神武天皇紀に「聞喧擾之響焉、此云2左揶霓利那離《サヤゲリナリ》1」とあり、本集に「葦邊在《アシベナル》 荻之葉左夜藝《ヲギノハサヤギ》」(卷十、二一三四)とあつて、喧擾の聲を立てるをいう。ドモは逆態前提法を示す助詞であるが、ここでは、小竹の葉は騷ぐけれども、それには拘わらずにの如き意味を成している。「タカシマノアトカハナミハサワケドモワレハ
家思《イヘオモフ》 宿加奈之彌《ヤドリカナシミ》」(卷九、一六九〇)の騷ケドモは、これと同樣の用法であり、一首の形も似ている歌である。
 吾者妹思 ワレハイモオモフ。初句の小竹の葉に對し、吾ハと時に提示している。句切。
 別來禮婆 ワカレキヌレバ。上の吾ハ妹思フの理由を説明している。
【評語】滿山の小竹が秋風に鳴る中を、妻に別れて行く氣分がよく描かれている。諸種の訓法があるが、サを頭韻とする訓がすぐれているようだ。高宕な風格の出ている作品である。
 
或本反歌曰
 
或る本の反歌に曰はく
 
【釋】或本反歌 アルマキノヘニカ。或る本には、次の歌が反歌として傳えられているというのであるが、これは、石見ノヤの歌に代わるものである。この或る本というのは、いかなるものとも記されていないが、多分本文の歌中に一云とあるものと同一の傳來であつて、その一云の歌詞を本文とするものに、この反歌が添えられてあつたのであろう。
 
134 石見なる 高角山《たかつのやま》の 木の間ゆも
 わが袖振るを 妹見けむかも
 
 石見《イハミ》尓有《ナル・ニアル》 高角山乃《タカツノヤマノ》 木間從文《コノマユモ》
 吾袂振乎《ワガソデフルヲ》
 妹見監鴨《イモミケムカモ》
 
(410)【譯】石見の國なる高角山の木の間を通して私が袖を振るのを、わが妻は見たであろうか。
【釋】石見尓有 イハミナル。尓有の漢字を假字に飜す時にはニアルであるが、音聲としてはナルである。次の高角山の所在を示している。しかし石見ナルという言い方は説明的で、石見ノヤの句に比して、石見に對して親しみを持つていない。後人の吟誦のあいだに轉訛したものであろう。
 木間從文 コノマユモ。モは感動をあらわす助詞で、木の間を通してというに同じ。
 吾袂振乎 ワガソデフルヲ。これは動作が主になつている。
 妹見監鴨 イモミケムカモ。後になつてはたして見たであろうかと推量する語法を使つている。
【評語】後人傳承のあいだに轉訛を生じた歌と思われる。本文の歌に及ばない所以である。
 
135 つのさはふ 石見の海の
 言《こと》さへく 韓《から》の埼なる
 海石《いくり》にぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる。
 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生ふる。」
 玉藻なす 靡き寐《ね》し兒を
 深海松の 深めて思へど、
 さ宿《ね》し夜は いくだもあらず、
 延《は》ふ蔦《つた》の 別れし來《く》れば
 肝《きも》向ふ 心を痛み、
(411) 思ひつつ 顧みすれど、
 大舟の 渡《わた》りの山の
 黄葉《もみちば》の 散りのまがひに
 妹が袖 さやにも見ず。
 嬬隱《つまごも》る 屋上《やかみ》の 【一は云ふ、室上《むろかみ》山の、】 山の
 雲間より 渡らふ月の
 惜しけども 隱《かく》らひ來れば、
 天《あま》づたふ 入日さしぬれ、
 丈夫《ますらを》と 念へる吾も、
 敷細《しきたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 通りて濡《ぬ》れぬ。」
 
 角障經《ツノサハフ》 石見之海乃《イハミノウミノ》
 言佐敝久《コトサヘク》 辛乃埼有《カラノサキナル》
 伊久里尓曾《イクリニゾ》 深海松生流《フカミルオフル》
 荒礒尓曾《アリソニゾ》 玉藻者生流《タマモハオフル》
 玉藻成《タマモナス》 靡寐之兒乎《ナビキネシコヲ》
 深海松乃《フカミルノ》 深目手思騰《フカメテオモヘド》
 左宿夜者《サネシヨハ》 幾毛不v有《イクダモアラズ》
 延都多乃《ハフツタノ》 別之來者《ワカレシクレバ》
 肝向《キモムカフ》 心乎痛《ココロヲイタミ》
 念乍《オモヒツツ》 顧爲騰《カヘリミスレド》
 大舟之《オホブネノ》 渡乃山之《ワタリノヤマノ》
 黄葉乃《モミチバノ》 散之亂尓《チリノマガヒニ》
 妹袖《イモガソデ》 清尓毛不v見《サヤニモミズ》
 妻隱有《ツマゴモル》 屋上乃《ヤカミノ》【一云、室上山】山乃《ヤマノ》
 自2雲間《クモマヨリ》1 渡相月乃《ワタラフツキノ》
 雖v惜《ヲシケドモ》 隱比來者《カクラヒクレバ》
 天傳《アマヅタフ》 入日刺奴禮《イリヒサシヌレ》
 大夫跡《マスラヲト》 念有吾毛《オモヘルワレモ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 衣袖者《コロモノソデハ》
 通而沾奴《トホリテヌレヌ》
 
【譯】この石見の海の韓の埼なる、海中の石に深海松は生えている。玉藻は生えている。その玉藻のように、寄り添つて寢た妻を、深海松のように、深い心から思うけれども、寢た晩は何ほどもなく、這うツタのように別れて來れば、心が痛さに、思いつつ顧みするけれども、目の前の山の黄葉が散り亂れるので、妻の袖をはつきりとも見ない。妻のこもるといぅ屋上の山の雲間から、大空を渡り行く月のように、惜しいけれども、隱れて行けば、今日も夕方になつて、夕日がさしたから、立派な男と思つている自分も、衣の袖は、涙に裏まで濡れ通つた。
(412)【構成】二段から成つている。荒礒ニゾ玉藻ハ生フルまで第一段。旅行している石見の海の風物を敍述する。以下終りまで第二段、妻に別れて上京する作者の行動について敍述する。この歌には、特に主觀を敍する部分は無い。
【釋】角障經 ツノサハフ。枕詞。石に冠する。日本書紀に、「菟恕瑳破赴《ツノサハフ》 以破能臂謎餓《イハノヒメガ》」(五八、仁コ天皇紀)、「都奴婆播符《ツヌサハフ》 以簸例能伊開能《イハレノイケノ》」(九七、繼體天皇紀)などあり、古い枕詞であることが知られる。語義は、冠辭考に、ツヌサはツナで、ツタの這うであるといい、荒木田久老はツヌはツタで、サハフはサハハフの約言であると云つている。しかしツヌサの語は無く、またサハハフの説も首肯されない。この枕詞は、集中五出しているが、いずれも角障經の文字を使用しており、他に明解が無いとせば、この字面は相當考慮されて然るべきである。すなわちツノは角であり、突出部を意味するものなるべく、サハフは、障ハフで、障フの連續?態をあらわすものと解される。角が障害になる義で、石を修飾説明する枕詞になつているのであろう。
 言佐敝久 コトサヘク。枕詞。下に、「言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》」(卷二、一九九)とあり、韓、百濟の枕詞となつている。コトは言語の義であり、サヘクは、從來騷ぐと同じで、言語の騷々しい意とされていた。しかしサヘクがサワクと同語であるといぅ證明は無い。むしろ、障フと關係あるものと見るべく、言語の通じない意を以つて、韓、百濟に冠するものと見るべきである。
 辛乃埼有 カラノサキナル。島根縣邇摩郡宅野村の海上に辛島があり、それに對する海濱の岬角であろうという。
 伊久里尓曾 イクリニゾ。イクリは、海中の岩礁をいう。「由良熊斗能《ユラノトノ》 斗那賀能《トナカノ》 伊久理爾《イクリニ》 布禮多都《フレタツ》 那豆能紀能《ナヅノキノ》 佐夜佐夜《サヤサヤ》」(古事記七五)、「淡路乃《アハヂノ》 野島之海子乃《ノジマノアマノ》 海底《ワタノソコ》 奧津伊久利二《オキツイクリニ》 鰒珠《アハビタマ》 左盤爾潜出《サハニカヅキデ》」(卷六、九三三)など使用されている。「曉之《アカトキノ》 寐覺爾聞者《ネザメニキケバ》 海石之《イクリノ》 鹽干乃共《シホヒノムタ》」(卷六、一〇六二)の海石も(413)イクリと讀むべきであろう。海中の暗礁をいうとする説があるが、暗礁に限定しないでもよいのだろう。
 深海松生流 フカミルオフル。ミルは海松。倭名類聚鈔海菜類に「水松?如v松而無v葉【和名美流】楊氏漢語抄云海松【和名上同俗用之】」とある。海中の深い處に生えるもので、深海松という。句切。下の深海松ノ深メテの句を引き起すためにこの句を出している。
 荒礒尓曾玉藻者生流 アリソニゾタマモハオフル。上の海石ニゾ深海松生フルの句と對句を成し、次の玉藻ナスを引き起す準備をしている。以上第一段、石見の海の風物を敍して、第二段を引き出す序としている。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。靡クに冠する。上の玉藻ハ生フルの句を受けている。
 靡寐之兒乎 ナビキネシコヲ。ナビキは、妻の樣子を説明している。コは愛稱。妻のこと。
 深海松乃 フカミルノ。枕詞。深メテに冠している。上の深海松生フルの句を受けている。
 深目手思騰 フカメテオモヘド。心を深めて、心の底から思うけれども。
 左宿夜者 サネシヨハ。サは接頭語。
 幾毛不有 イクダモアラズ。イクダは幾何の意。「佐禰斯欲能《サネシヨノ》 伊久陀母阿羅禰婆《イクダモアラネバ》」(卷五、八〇四)、「左尼始而《サネソメテ》 何太毛不v在者《イクダモアラネバ》」(卷十、二〇二三)などある。また「年月毛《トシツキモ》 伊久良母阿良奴爾《イクラモアラヌニ》」(卷十七、三九六二)
の如くイクラともいう。ここは古きに從つてイクダと讀む。ココダの如きも、本集ではココダであるが、後にはココラになつている。結婚して久しくないのであろう。
 延都多乃 ハフツタノ。枕詞。ツタの枝の分岐するより別レの枕詞となる。
 別之來者 ワカレシクレバ。シは強意の助詞。
 肝向 キモムカフ。枕詞。古人は精神は腹中にあると信じていた。人の腹中には臓腑が澤山あつて相對している。臓腑はすべてキモだから、肝向フ心と續くのである。
(414) 心乎痛 ココロヲイタミ。心が痛くして。心が惱ましくて。
 念乍顧爲騰 オモヒツツカヘリミスレド。妻を思いつつ顧みるけれども。
 大舟之 オホブネノ。枕詞。大船で渡るということから、渡りに冠する。
 渡乃山之 ワタリノヤマノ。ワタリは、此處から向こうへ渡れる處をいう。「見度《ミワタセバ》 近渡乎《チカキワタリヲ》 廻《タモトホリ》 今哉來座《イマヤキマスト》 戀居《コヒツツゾヲル》」(卷十、二三七九)。渡りの山は、わが前に立つている山をいう。山の名とするは誤りである。
 黄葉乃散之亂尓 モミチバノチリノマガヒニ。チリノミタレニ(温)。散り亂れることをチリマガフという。マガフは、他物と紛れる意に使つているが、區別がつかないので、亂れるの意になるのだろう。「毛美知葉能《モミチバノ》 知里熊麻河比波《チリノマガヒハ》」(卷十五、三七〇〇)、「春花乃《ハルバナノ》 知里能麻可比爾《チリノマガヒニ》」(卷十七、三九六三)などある。「秋〓之《アキハギノ》 落乃亂爾《チリノマガヒニ》 呼立而《ヨビタテテ》」(卷八、一五五〇)は、ここと同樣の用字法である。この句は實景で、おりしも秋から冬へかけての頃であつたことを語つている。
 妹袖清尓毛不見 イモガソデサヤニモミズ。散り亂れる黄葉に紛れて、妻の袖を明瞭にも見ずの意で、下の惜シケドモ隱ラヒ來レバの句に接續する。
 嬬隱有 ツマゴモル。枕詞。妻の籠るの意に屋に冠する。「妻隱《ツマゴモル》 矢野神山《ヤノノカミヤマ》」(卷十、二一七八)。
 屋上乃山乃 ヤカミノヤマノ。島根縣那賀郡淺利村附近の高仙《タカセン》山のことであるという。因幡の八上郡の山ともいうが、因幡と石見とのあいだには出雲の國があるので、遠すぎよう。
 一云室上山 アルハイフ、ムロカミヤマノ。屋上乃山乃の句の別傳であろうが、その山は所在未詳である。
 自雲間渡相月乃 クモマヨリワタラフツキノ。ワタラフは、渡ルの續いて行われるをいう。雲のあいだを渡る月で、たちまち隱れて見えなくなるので、次の惜シケドモ隱ラヒ來レバを引き起している。これは實景ではなかろう。以上、嬬ゴモル以下この句まで序詞。
(415) 雖惜隱比來者 ヲシケドモカクラヒクレバ。上の、思ヒツツ顧ミスレド、妹ガ袖サヤニモ見ズを受けて、妻のあたりは惜しいが隱れて來るのでと續けている。
 天傳 アマヅタフ。枕詞。天空を傳う意で日に冠する。假字書きの例は無く、皆、天傳と書いている。「天傳《アマヅタフ》 日笠浦《ヒガサノウラニ》 波立見《ナミタテリミユ》」(卷七、一一七八)。
 入日刺奴禮 イリヒサシヌレ。入日がさしたからという意の條件法である。日が暮れて、入日のさしわたる頃となつたから。「あしひきの山邊をさして、夕闇と隱りましぬれ、言はむ術せむ術知らに」(下略)(卷三、四六〇)、「ひさかたの天知らしぬれ、こいまろびひづち泣けども爲《せ》む術《すべ》も無し」(同、四七五)など、この語法である。バを補つて、入日さしぬれば、知らしぬればというように解してよい。
 大夫跡念有吾毛 マスラヲトオモヘルワレモ。既出(卷一、五)。立派な男兒と思つている自分も。當時の自負をあらわしていを句。マスラヲトオモヘルワレ、五、七一九、九六八、二五八四。マスラヲトオモヒシワレ、二八七五。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。既出。
 衣袖者 コロモノソデハ。衣服の袖は。
 通而沾奴 トホリテヌレヌ。涙のために、裏まで通つて濡れたの意。「吾衣袖裳《ワガコロモデモ》 通手沾沼《トホリテヌレヌ》」(卷十三、三二五八)、「和我袖波 《ワサソデハ》 多毛登等保里弖《タモトトホリチ》 奴禮奴等母《ヌレヌトモ》」(卷十五、三七一一)など類句がある。
【評語】この長歌は、前の靡ケコノ山の長歌と構成を等しくしている。すなわち、行路の屬目である石見の海の風物に筆を起して、さてそれを序として、玉藻ナス、深海松ノの兩句を呼び、ここに本題にはいつて、妻との別れの情を敍している。前の歌の結句のような強さは見られないが、旅情の敍述は、この方が詳審である。同じ題材、同じ構造のもとに、全く別箇の長歌を成したことは、作者の手腕によるものであろう。前の歌と同(416)時の作であるか否かは不明であるが、人麻呂は、吉野の宮に幸でましし時、妻の死りし時など、同題のもとに、しばしば二篇の長歌を留めているから、ここでも、同時に二篇の長歌を作つたとも考えられる。
 
反歌二首
 
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み、
 雲居にぞ 妹があたりを
 過ぎて來にける。
    一は云ふ、あたりは隱り來にける
 
 青駒之《アヲゴマノ》 足掻乎速《アガキヲハヤミ》
 雲居曾《クモヰニゾ》 妹之當乎《イモガアタリヲ》
 過而來計類《スギテキニケル》
    一云、當者隱來計留
 
【譯】わたしの乘つている青駒の歩みの速さに、雲のように遠く、わが妻の家のあたりを、過ぎて來てしまつた。
【釋】青駒之 アヲゴマノ。アヲゴマは、倭名類聚鈔に?を釋して、漢語抄に?青馬也とあるを引き、青白雜毛馬也とあるから、青と白とまじつた毛の馬をいう。白馬節會をアヲウマノセチヱというのは、平安時代以後のことであるが、その白馬も、本來は純白の馬ではなくて、青白い馬を見たものであろう。コマはもと小馬の義だが、コは愛稱の接頭語となつて、ちいさい意は無い。
 足掻乎速 アガキヲハヤミ。アガキは、馬の足の運びをいう。それが速くして。「赤駒之《アカゴマノ》 足我枳速者《アガキハヤケバ》 雲居爾毛《クモヰニモ》 隱往序《カクリユカムゾ》 袖巻吾妹《ソデマケワギモ》」(巻十一、二五一〇)。
 雲居曾 クモヰニゾ。クモヰ、天空遠き處の雲。ヰは接尾語。遠くの空に、遠方にの意。
 妹之當乎 イモガアタリヲ。妻の住む家の附近を。
(417) 過而來計類 スギテキニケル。ゾを受けて、連體形で結んでいる。
 一云當者隱來計留 アルハイフ、アタリハカクリキニケル。本文の四句の後半からの別傳である。これに依れば、妹があたりは、雲居に隱れて來たということになる。
【評語】長歌の隱ラヒ來レバを受けて、別の方面から説明している。長歌の意を補足するものというべきである。長歌には、悲痛の感情を露骨にあらわしているが、これは單に事を敍するだけなのが、反歌として賢明な行き方で、これによつて感慨がいつそう高められる。「遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く到らむ。歩め黒駒」(巻七、一二七一、人麻呂集)は、これと反對に妹の家に近づくことを歌つている。いずれも馬上の陳思である。
 
137 秋山に 落つる黄葉《もみちば》
 須臾《しましく》は な散り亂《まが》ひそ。
 妹があたり見む。
    一は云ふ、散りな亂れそ
 
 秋山尓《アキヤマニ》 落黄葉《オツルモミチバ》
 須臾者《シマラクハ》 勿散《ナチリ》亂《マガヒ・ミダレ》曾《ソ 》
 妹之當將v見《イモガアタリミム》
    一云、知里勿亂曾
 
【譯】秋山に落ちる黄葉よ、暫くは散り亂れることなかれ。わが妻の家の邊を見よう。
【釋】秋山尓落黄葉 アキヤマニオツルモミチバ。黄葉の散るをオツということは、「和我世故我《ワガセコガ》 之米家牟毛美知《シメケムモミチ》 都知爾於知米也毛《ツチニオチメヤモ》」(巻十九、四二二三)など例がある。この句、黄葉を呼び懸けている。古義には落をチラフと讀んでいるが、ここはフに相當する字が無いから、オツルとする。地上に落下する意である。
 須臾者 シマシクハ。シマシクは、文字通り寸時である。ちよつとの間は。
 勿散亂曾 ナチリマガヒソ。ナは禁止の意の助詞。亂は、ミダレとも讀まれるが、この歌は長歌の句によつ(418)ていると見られるので、そのチリノマガヒニを受けてナチリマガヒソと讀む。ソは助詞。句切。
 妹之當將見 イモガアタリミム。妹が家のあたりを見ようの意。獨立文。
 一云知里勿亂曾 アルハイフ、チリナミダレソ。かようにナを動詞のあいだに入れていうこともあつたのである。この場合、ナは、散りの方に密接していると見られる。「須與者《シマシクハ》 落莫亂會《チリナミダレソ》」(卷九、一七四七)は、これと同句である。
【評語】この反歌は、前の長歌の、黄葉ノ散リノマガヒニの句と、妹ガアタリの句とを取つて、これを主題として、一首を構成している。情意なき黄葉に對して、心ある動作をするよう命じたのは、作者の構想である。妹を見ようと思う心の切なのが、ここに及んでいるのである。挽歌の「秋山の木の葉を茂み」も、黄葉の散亂するために亡き妻が求められない意に歌つており、これと共通するものがある。その間あまり年月を隔てていないのだろう。以上の歌は、旅中の獨語の作で、相聞の部に收めてあるけれども、妻のもとに贈つたものではないようだ。
 
或本歌一首 并2短歌1
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。前出の一三一の歌の別傳である。その歌は、本文中にも詞句の別傳を傳えていたから、併わせて三種の傳來があることになる。これは前掲の歌と、詞句の相違が相當に多いので、別掲したのであろう。
 
138 石見《いはみ》の海《うみ》 津の浦を無み、
 浦無しと 人こそ見らめ。
(419) 潟無しと 人こそ見らめ。」
 よしゑやし 浦は無くとも、
 よしゑやし  潟は無くとも
 勇魚取《いさなと》り 海邊《うみべ》を指《さ》して
 柔田津《にきたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に、
 か青なる 玉藻|奧《おき》つ藻《も》、
 明《あ》けくれば 浪《なみ》こそ來寄《きよ》れ。
 夕されば 風こそ來寄れ。
 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り
 玉藻《たまも》なす 靡き吾が宿《ね》し、
 敷細《しきたへ》の 妹が手本《たもと》を、
 露霜の 置きてし來れば、
 この道の 八十隈毎《やそくまごと》に
 萬度《よろづたび》 かへりみすれど、
 いや遠に 里|放《さか》り來《き》ぬ。
 いや高に 山も越え來ぬ。」
 はしきやし わが嬬《つま》の兒《こ》が
(420) 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて
 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む。
 靡《なび》け、この山《やま》。
 
 石見之海《イハミノウミ》 津乃浦乎無美《ツノウラヲナミ》
 浦無跡《ウラナミト》 人社見良米《ヒトコソミラメ》
 滷無跡《カタナシト》 人社見良目《ヒトコソミラメ》
 吉咲八師《ヨシヱヤシ》 浦者雖v無《ウラハナクトモ》
 縱惠夜思《ヨシヱヤシ》 滷者雖v無《カタハナクトモ》
 勇魚取《イサナトリ》 海邊乎指而《ウミベヲサシテ》
 柔田津乃《ニキタヅノ》 荒磯之上尓《アリソノウヘニ》
 蚊青生《カアヲナル》 玉藻息都藻《タマモオキツモ》
 明來者《アケクレバ》 浪己曾來依《ナミコソキヨレ》
 夕去者《ユフサレバ》 風己曾來依《カゼコソキヨレ》
 浪之共《ナミノムタ》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 玉藻成《タマモナス》 靡吾宿之《ナビキワガネシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 妹之手本乎《イモガタモトヲ》
 露霜乃《ツユジモノ》 置而之來者《オキテシクレバ》
 此道之《コノミチノ》 八十隈毎《ヤソクマゴトニ》
 萬段《ヨロヅタビ》 顧雖v爲《カヘリミスレド》
 弥遠尓《イヤトホニ》 里放來奴《サトサカリキヌ》
 益高尓《イヤタカニ》 山毛超來奴《ヤマモコエキヌ》
 早敷屋師《ハシキヤシ》 吾嬬乃兒我《ワガツマノコガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 思志萎而《オモヒシナエテ》
 將v嘆《ナゲクラム》 角里將v見《ツノノサトミム》
 靡此山《ナビケコノヤマ》
 
【譯】石見の海には津の浦が無く、それを浦が無いと人が見もしよう。潟が無いと人が見もしよう。よしや浦が無くとも、よしや潟が無くとも、海岸を指して柔田津の荒磯の上にまつ青な美しい沖の藻よ、夜が明けて來れば浪が來寄せる。夕べになれば風が來寄せる。その浪と共にあちらに寄りこちらに寄り玉藻のように靡いて私の寢たやわらかい妻の腕を、露霜のように置いて來れば、この道の數々の曲り角毎に何遍でも振り返つて見るけれども、いよいよ遠く里は離れて來た。いよいよ高く山も越えて來た。いとしのわが妻が夏草のように思いにうち萎れて嘆いているであろう角の里を見よう。たいらになれ、この山よ。
【構成】段落は、前の一三一の歌と同樣である。「夕されば風こそ來寄れ」まで第一段、石見の海岸の風物を敍す。うち、「滷無しと人こそ見らめ」まで第一節、總敍。以下第二節、特性を敍する。「いや高に山も越え來ぬ」まで第二段、作者の行動を敍する。以下終まで第三段、希望を敍して結んでいる。
【釋】津乃浦乎無美 ツノウラヲナミ。前出の歌には角乃浦廻乎とあり、その方がよく通る。これはそれを訛傳したのであろう。これでは下の句との按續がわるい。これを誤字ありとする説があるが、かような形において傳えられたものと解すべきである。
 柔田津乃 ニキタヅノ。前の歌では和多豆乃とあつた。此處に柔田津とあるのに依れば地名とすべきであろう。かの和多豆をもニキタヅと讀めというのは、この字面に依つているのである。しかし恐らくはもと和多豆乃とあつたものをニキタヅと讀み誤つて、この字面を生じたものであろう。
(421) 明來者浪己曾來依 アケクレバナミコソキヨレ。前の歌には、朝羽振風社依米とあつて、朝羽振は風を修飾していた。この傳來では、夜が明けて來ればと敍している。また浪が先になつている。
 夕去者風己曾來依 ユフサレバカゼコソキヨレ。これも前の歌には、夕羽振流浪社來縁となつていた。
 靡吾宿之 ナビキワガネシ。前の歌では、依宿之妹乎となつており、玉藻ナスは、妻の修飾になつていた。この傳來では、作者自身が靡いて寢たと言つている。しかし男子が靡キ宿シというのはおかしいことであり、また玉藻のように靡くということは、人麻呂の歌には常に婦人の上にいうことであつて、自分が靡いて寢たというのはまさしく傳え誤つたものと認められる。また下の句に對して靡キ吾ガ寢シ妹ガ手本ヲではよく續かないのである。
 敷妙之妹之手本乎 シキタヘノイモガタモトヲ。この句は、前の歌には相當する句が無く、以上の四句を併せて玉藻成依宿之妹乎になつているのである。前の歌の歌詞中の一云に、波之伎余思妹之手本乎とあるは、この或る本の傳來と關係があるのであろう。
 里放來奴 サトサカリキヌ。前の歌には、里者放奴とあり、これもその方がよい。
 早敷屋師吾嬬乃兒我 ハシキヤシワガツマノコガ。前の歌には、この句が無い。この或る本の傳來では、下が角ノ里見ムとあるので、この句のあるを要する。ハシキヤシは、愛すべきの意で、ヤシは感動の助詞。ツマノコは妻をいう。コは愛稱。「波之吉余之《ハシキヨシ》 曾能都末能古等《ソノツマノコト》 安沙余比爾《アサヨヒニ》 惠美々惠末須毛《ヱミミヱマズモ》」(卷十八、四一〇六)、「佐穗度《サホワタリ》 吾家之上二《ワギヘノウヘニ》 鳴鳥之《ナクトリノ》 音夏可思吉《コヱナツカシキ》 愛妻之兒《ハシキツマノコ》」(卷四、六六三)など、用例がある。
 將嘆 ナゲクラム。前の歌には、志恕布良武とあつた。シノフは内面的であり、ナゲクは外形にあらわれている。いずれでもよいが、シノフの方が奧行が深い。
 角里將見 ツノノサトミム。前の歌には、妹之門將見とあつた。この歌では、上の、ハシキヤシワガ妻ノ兒(422)ガの句があるから、角の里と言つている。これも妹ガ門の方が、欲する所が集中されていてよい。
【評語】以上註釋の欄に記したように、前の歌の方がおおむね正説と認められる。傳承のあいだに訛傳を生じたものであろう。しかしこれに依つて、この歌が當時の人々のあいだに愛誦されたことが知られる。
 
反歌一首
 
139 石見《いはみ》の海 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の際《ま》より。
 わが振る袖を 妹見つらむか。
 
 石見之海《イハミノウミ》 打歌山乃《ウツタノヤマノ》 木際從《コノマヨリ》
 吾振袖乎《ワガフルソデヲ》 妹將v見香《イモミツラムカ》
 
【譯】石見の海の打歌の山の木のあいだからわたしの振る袖を妹は見たであろうか。
【釋】石見之海 イハミノウミ。次の打歌山の所在を示している。しかし長歌の方は角ノ浦ミであるから石見の海と言つてよいのだが、打歌の山の所在を石見の海というのは無理である。
 打歌山乃 ウツタノヤマノ。地名であろうが所在未詳。しかし前出の高角山の誤傳と認められる。これも高角山とあつた高を打歌と書いたのから誤つたものであろう。
【評語】この歌も前出の一三二の歌の別傳である。しかし初句二句はあきらかに誤傳であることを語つている。それにしてもこの歌も、一三二、一三四、及びこの一三九の如く數種の傳來を有しているのは、廣く愛誦されて居たことを語るものとして注意される。他人の歌を集める歌集の編集も行われていたであろう。
 
右、歌體雖v同、句々相替、因v此重載。
 
右は、歌の體同じといへども、句々相替れり。これに因りて重ねて載す。
 
(423)【釋】右 ミギハ。一三八、一三九の二首を指している。それを載せるについての説明である。
 歌體 ウタノカタチ。體は、形體の意であろう。歌經標式には歌體三ありとして、求韵、査體、雜體の三を擧げている。
 
柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子、與2人麻呂1相別歌一首
 
柿木の朝臣人麻呂が妻の依羅の娘子の、人麻呂と相別るる歌一首
 
【釋】柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子 カキノモトノアソミヒトマロガメノヨサミノヲトメ。依羅は氏であろう。配偶者があつても、娘子の文字を使用することは、「娘子臥聞2夫君之歌1」(卷十六、三八〇五題詞)、「時有2娘子1、夫君見v棄、改2適他氏1也」(同、三八一五左註)など例が多い。若い婦人というだけで結婚していると結婚していないとに關しない。この人は、後に、「柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首」(卷二、二二四題詞)とあつて、人麻呂の死んだ時に、歌を詠んでいるから、その後妻であることはあきらかである。石見の國にいた娘子で、人麻呂が上京に際して別れを悲しんで歌を詠んだのも、この人に對してであろう。その他いかなる人とも知られないが、京より伴ない下つたという徴證も無く、部内の娘子を娶つたのでもあろうかと考えられる。
 
140 な念《おも》ひと 君は言《い》へども、
 逢はむ時 いつと知りてか、
 わが戀ひざらむ。
 
 勿念跡《ナオモヒト》 君者雖v言《キミハイヘドモ》
 相時《アハムトキ》 何時跡知而加《イツトシリテカ》
 吾不v戀有牟《ワガコヒザラム》
 
【譯】もの思いをするなと貴方はおつしやるが、お目にかかる時を何時と知つてかわたしが戀をしないでおら(424)れましよう。
【釋】勿念跡 ナオモヒト。ナが禁止の副詞。下に助詞ソが無くていうのは、古い形である。「木間從《コノマヨリ》 出來月爾《イデクルツキニ》 雲莫棚引《クモナタナビキ》」(卷七、一〇八五)、「比可婆奴流奴留《ヒカバヌルヌル》 安乎許等奈多延《アヲコトナタエ》」(卷十四、三五〇一)。
 相時 アハムトキ。別れに臨んで詠んでいるので、やがてまた逢うだろう時と言つている。
 何時跡知而加 イツトシリテカ。カは疑問の係助詞。
 吾不戀有牟 ワガコヒザラム。わたしが戀いずにいようの義で、上のイツト知リテカを受けるので反語になる。逢う時を何時と知つたならば戀をしないでもいられよう、しかし逢う時を知らないので戀をしている意である。
【評語】今別れてまた逢う時のはかりがたいのを歎いている。初二句が説明に傾いているのは、歌がらを平板にしている。若い人であつたのだろう。
 
挽歌
 
【釋】挽歌 メニカ。雜歌、相聞に對する部類の一つで、人の死を傷む歌をいい、後世の歌集における哀傷歌に相當する。この名目は、漢籍に出ている。晉書の樂志に、「挽歌、出2于漢武帝役氏之勞1、歌聲哀切、遂以爲2送終之禮1。」崔豹の古今注に「薤露蒿里、竝喪歌也。出2田横門人1。横自殺、門人傷之、爲2之悲歌1言、人命如3薤上之露易2晞滅1也。亦謂、人死魂魄歸2乎蒿里1。故有2二章1。至2孝武時1、李延年乃分爲2二曲1、薤露送2王公貴人1、蒿里送2士大夫庶人1、使2挽v柩者歌1v之、世呼爲2挽歌1。」すなわち、挽歌は、柩車を挽く時の歌の義である。わが國にても遂葬の時に歌を歌つたことは、古事記中卷に、倭建《やまとたける》の命の妃の歌を録して、「是四歌者、皆歌2其御葬1也。故至v今、其歌者、歌2天皇之大御葬1也」とある。本集においては、これを廣義に取り、ただに送葬(425)の時の歌のみならず、傷亡の歌は勿論、その後の追悼の歌に及び、またまさに死のうとする時の歌をも含めている。挽歌は、訓讀すればカナシミウタであろうが、音讀すれば、呉音に依らばメンカであるが、普通にバンカと讀んでいる。この卷のほかに、部類の標目としては、卷の三、七、九、十三、十四の諸卷に見えている。この標目も、多分柿本朝臣人麻呂歌集から出たものなるべく、人麻呂の作において、挽歌は格別に發達している。本集における部類の標目に、賀歌が無くして挽歌があるのも、さような特殊の關係から來ているものなるべく、當時の歌の分類の標目としてその必要が感じられたのであろう。
 
後岡本宮御宇天皇代【天豐財重日足姫天皇讓v位後即後岡本宮】
 
後の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の代【天豐財重日足姫の天皇、位を讓りたまひし後、すなはち後の岡本の宮なり。】
 
【釋】後岡本宮御宇天皇代 ノチノヲカモトノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。既出(卷一、八標目)。齊明天皇の御代。以下その御代の歌を收めるのであるが、それは有間の皇子の歌だけで、長の意吉麻呂以下の歌は、後の時代の作を便宜附收している。
 天豐財重日足姫天皇 アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト。齊明天皇。
 讓位後即後岡本宮 ミクラヰヲユヅリタマヒシノチスナハチノチノヲカモトノミヤナリ。この天皇は重祚されたのであつて、一旦讓位の後、再度即位したまいしが後の岡本の宮なりという意味に書かなければならないのであるが、この文ではそうは解せられず、讓位の後、前帝としてましましたのが後の岡本の宮であるというように解せられるのは不備である。卷の一の後の岡本の宮の御代の標目の下には、「位後即後岡本宮」とあり、仙覺本には、この即の下にも位の字がある。
 
(426)有間皇子、自傷結2松枝1歌二首
 
有間の皇子の、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
 
【釋】有間皇子 アリマノミコ。孝コ天皇の皇子。孝コ天皇が崩じて齊明天皇重祚されるに及んで、その三年九月に、紀伊の國の牟婁の湯に往き、國の體勢を觀、わずかにその地を觀るに病おのずから瘉えたと申したので、天皇悦んでその地を見ようとし、四年十月、紀の温湯に行幸あり、十一月、有間の皇子に謀反の企圖ありと聞いて召し寄せ、皇太子(天智天皇)みずから問われた。皇子は行宮を出て京に上る途上、藤白の坂において縊り殺された。日本書紀によるに、有間の皇子は、十一月九日に捕えられて紀伊の國に送られ、皇太子の尋問を經て十五日に殺された。京から行宮まで、普通五六日の日程である。
 自傷結松枝歌 ミヅカライタミテマツガエヲムスブウタ。皇子が召されて牟婁の行宮に行く途上、磐白の地で詠んだ歌である。自傷とあるのは、この行、生還を期しがたい事情にあつたので、みずから哀傷されたのをいう。松が枝を結ぶことについては、古人は、結ぶことに信仰を有していたことが根柢になつている。そのことは、既に、「磐代乃《イハシロノ》 岡之草根乎《ヲカノクサネヲ》 去來結手名《イザムスビテナ》」(卷一、一〇)の條に記した所である。松が枝を結ぶのは、まじないで、壽命を結び留めまた無事にその處に立ち還ろうとする心である。物を結ぶことは、わが魂を結び留めるという意味であつて、後にまた、結んだものにめぐりあう事ができるとしていた。これが松が枝を結ぶ、草を結ぶ、衣の紐を結ぶ、菅の根を結ぶ等の行事となつて(427)あらわれている。中にも行人が松の枝や草葉を結ぶのは、これより先に旅行してもまた此處に無事に立ち歸るという意味があり、みずから祝うまじないである。有間の皇子に限らず何人でもする風習である。後世結び松をもつて不吉な事のように感じているのは、有間の皇子の故事があるからであつて、松を結ぶというその事自身には、さような不吉な内容は全然無く、松の木の性質上、むしろ將來を祝う氣もちがあることは、例歌に依つて知られる所である。
 
141 磐白《イハシロ》の 濱松が枝《え》を 引き結び、
 ま幸《さき》くあらば、またかへりみむ。
 
 磐白乃《イハシロノ》 濱松之枝乎《ハママツガエヲ》 引結《ヒキムスビ》
 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦還見武《マタカヘリミム》
 
【譯】紀伊の國の磐白の濱邊にある松の枝を引き結んで、幸であつたならば、またここに立ち歸り見よう。
【釋】磐白乃 イハシロノ。磐白は既出(卷一、一〇)。和歌山縣日高郡の海岸の地名で、牟婁の温泉に赴く途中にある。
 濱松之枝乎 ハママツガエヲ。濱邊の松が枝をで、前にも、「白浪乃《シラナミノ》 濱松之枝乃《ハママツガエノ》」(卷一、三四)の例がある。
 引結 ヒキムスビ。松が枝を結ぶのであるから、その若い枝を結んだに相違なく、一四六の歌には、子松ガウレとある。一本の枝を輪に結ぶのか、二本の枝を合わせて結ぶのか不明である。また繩か緒の如き他物を以つて結ぶかとも考えられるが、衣の紐や草の葉などは、それ自身を結ぶものであろう。
 眞幸有者 マサキクアラバ。マは接頭語。サキクは、幸運にある意の形容詞。「吾命之《ワガイノチシ》 眞幸有者《マサキクアラバ》 亦毛將v見《マタモミム》 志賀乃大津爾《シガノオホツニ》 縁流白浪《ヨスルシラナミ》」(卷三、二八八)など使用され、また好去の文字をもマサキクと讀んでいる。「好去而《マサキクテ》 亦還見六《マタカヘリミム》 大夫乃《マスラヲノ》 手二卷持在《テニマキモテル》 鞆之浦廻乎《トモノウラミヲ》」(卷七、一一八三)。
(428) 亦還見武 マタカヘリミム。またこの結べる松を還り來て見むの意。「妹門《イモガカド》 去過不v得而《ユキスギカネテ》 草結《クサムスブ》 風吹解勿《カゼフキトクナ》 又將v顧《マタカヘリミム》」(卷十二、三〇五六)とあるのは、草を結んだのについて、マタ顧ミムと言つている。
【評語】この歌は、紀伊の牟婁《むろ》の行宮への途上での作であるが、歌意は、みずから祝つて詠んでいる。しかし皇子は、もとよりその不幸な運命を豫感されていたので、おのずから底に潜む哀情が痛切に響いているのである。不幸にして有間の皇子は、その歸途に殺された。その殺されたのは藤白で、藤白は磐白よりも京に近い處であるから、磐白の結び松の處までは、ともかく無事に歸り得たのである。または歸途の作であろうか。後人の哀悼歌は、いずれも、またこの結び松を見なかつたように詠んでいる。この歌、死生のあいだに臨んで、しかも、よく落ち著いている。哀情が潜むように感じられるのは、皇子の不運な運命を、先に承知していて讀むから、そう思われるのであろう。題詞というものは、一個の全作品の一部をなすもので、切り離しがたいものである。
【參考】松が枝を結ぶ。草を結ぶ(卷一、一〇參照)。
  たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ(卷六、一〇四三)
  八千種《やちぐさ》の花はうつろふ常磐《ときは》なる松の小枝《さえだ》を我は結ばな(卷二十、四五〇一)
 
142 家にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を、
 草枕 旅にしあれば 椎《しひ》の葉に盛る。
 
 家有者《イヘニアレバ》 笥尓盛飯乎《ケニモルイヒヲ》
 草枕《クサマクラ》 旅尓之有者《タビニシアレバ》 椎之葉尓盛《シヒノハニモル》
 
【譯】家にいる時には器に盛つて食う飯を、旅のことであるから、シイの葉を重ねて、それに盛つて食うことである。
【釋】家有者 イヘニアレバ。家にいる時にはの意。既定の事實として已然形による。
(429) 笥尓盛飯乎 ケニモルイヒヲ。笥は、玉篇に「笥、盛v飯方器也」とあり、倭名類聚鈔に、「禮記注云笥【思吏反和名介】盛v食器也」とある。笥に盛るを習とする飯をの意。當時の飯は、米を甑《こしき》に入れて蒸したものである。
 草枕旅尓之有者 クサマクラタビニシアレバ。シは強意の助詞。
 椎之葉尓盛 シヒノハニモル。シイの葉を重ねて飯を盛るというので、旅中、事に簡なる樣子である。
【評語】單なる旅の歌であるが、縁によつて併わせ掲げたものと見える。不自由がちな旅の生活をよく敍している。草枕の枕詞も非常によく利いている。シイの葉に盛るというのは、印象的な句であるが、ここでは路傍の樹葉を取つて飯を盛つたのであつて、實際のシイの葉であつてもなくてもどうでもよい。それを具體的にシイの葉と指摘したのが利いたのである。
【參考】植物の葉に飲食を盛る。
  すめろきの遠御代御代はい敷き折り酒飲むといふぞこの厚朴《ほほがしは》(卷十九、四二〇五)
 
長忌寸意吉麻呂、見2結松1哀咽歌二首
 
長《なが》の忌寸意吉麻呂《いみきおきまろ》の、結び松を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
 
【釋】長忌寸意吉麻呂 ナガノイミキオキマロ。既出(卷一、五七)。卷の一には、名を奧麻呂としているが同人である。卷の一には大寶二年の歌があり、文武天皇時代の人である。即興の作に長じ、特殊の題材を歌にする手腕をもつている。この歌は何時の作であるか不明であるが、大寶元年の紀伊の國の行幸の時と假定すれば、有間の皇子の死後、四十三年後の作である。
 見結松 ムスビマツヲミテ。當時、有間の皇子の結んだ松樹が現存していたものと見える。多分枝が結ばれたままに成長し、これは有間の皇子が結んだのだという傳説を生じたのであろう。事實としては、有間の皇子(430)は、歸途此處を通過され、藤白の坂で殺されたのだから、多分結びを解いて無事を祝われたであろう。
 哀咽歌 アイエツセルウタ。咽は、咽喉がつまつて聲の出ない?をいう動詞。訓讀では、カナシミムセブウタと讀む。
 
143 磐代《いはしろ》の 崖《きし》の松が枝《え》、
 結びけむ 人《ひと》は還《かへ》りて
 また見けむかも。
 
 磐代乃《イハシロノ》 崖之松枝《キシノマツガエ》
 將v結《ムスビケム》 人者反而《ヒトハカヘリテ》
 復將v見鴨《マタミケムカモ》
 
【譯】磐白の岡の松が枝を結んだ方は、無事に立ち歸つて、また見たことであろうか。
【釋】崖之松枝 キシノマツガエ。崖は、諸本に岸に作つている。崖は、元暦校本等による。崖は高地の端で切り取つたような地形をいう。肥前國風土記の古寫本等にこの字を岸の意味に用いている。
 將結 ムスビケム。ケムは過去推量の助動詞。その連體形。
 人者反而 ヒトハカヘリテ。ヒトは有間の皇子。カヘリテは、行宮に行つての歸りである。
 復將見鴨 マタミケムカモ。上の結ビケムを受けているので、將見をミケムと讀む。カモは疑問と感動の助詞。
【評語】この歌は、はたして結び松に驗あつて、有間の皇子がまた見たであろうかどうかということを、疑つている語調であるが、裏面には、二度と見ることを得なかつたことを思つてこれを悼んでいるものである。それを疑問の語であらわしたところに、無限の哀愁が生ずる。
 
144 磐白の 野中に立てる 結《むす》び松《まつ》、
(431) 情も解けず いにしへ念ほゆ。
     いまだ詳ならず
 磐代之《イハシロノ》 野中尓立有《ノナカニタテル》 結松《ムスビマツ》
 情毛不v解《ココロモトケズ》 古所v念《イニシヘオモホユ》
     未v詳
 
【譯】磐白の野中に立つている結び松、見るわが心も悲しく昔の事が思われる。
【釋】野中尓立有 ノナカニタテル。磐白の濱松が枝といい、崖の松が枝といい、今またここに野中に立てると言つているが、この結び松のある處は、磐白の坂から海濱に出た處なるべく、多少うち開いた地形なので、野中ともいぅのであろう。
 結松 ムスビマツ。これによれは、結び松と稱して名木となつていたのであろう。それを呼びあげた語法。
 情毛不解 ココロモトケズ。松も結ばれたままであり、わが心も解けずにで、心の快活でないのをいう。
 古所念 イニシヘオモホユ。有間の皇子の時代が思われるよしである。
 未詳 イマダツマビラカナラズ。何が未詳なのであるかあきらかでない。事によると、この一首は、長の意吉麻呂の作ということに、疑問が存したのであろうか。
【評語】結ビ松心モ解ケズと、心も結ばれていることを語つているのは、巧みであるが、同時に時代の降つて來たことを思わせる。結び松が、枝を結ばれたままに育つていることを語つている。
 
山上臣憶良追和歌一首
 
山上の臣憶良の、追ひて和ふる歌一首
 
【釋】山上臣憶良 ヤマノウヘノオミオクラ。既出。
 追和歌 オヒテコタフルウタ。後に唱和した歌。和歌は、前に歌があつて、それに對して唱和する歌である。(432)ここでは、内容から考えて、長の意吉麻呂の歌に唱和したものと見られる。
 
145 かけるなす あり通《がよ》ひつつ
 見らめども、
 人こそ知らね、松は知るらむ。
 
 鳥翔成《カケルナス》 有我欲比管《アリガヨヒツツ》
 見良目杼母《ミラメドモ》
 人社不v知《ヒトコソシラネ》 松者知良武《マツハシルラム》
 
【譯】皇子の御魂は、鳥の飛ぶように、消えないで通いつつこの松を見ておいでになるでしようが、人は知らないでも、松は知つておりましよう。
【釋】鳥翔成 カケルナス。トリハナス(舊訓)、アスカナシ(童)、ツバサナス(考)、カケルナス(攷)、等の諸訓がある。翔は鳥の飛ぶをいい、ナスは、のようにあるの意であるから、鳥の飛ぶように靈魂が飛翔しての意と解すべきであるのに、ツバサは鳥の飛ぶ道具であつて飛ぶことでないから、ツバサナスアリガヨヒツツでは、意を成さない。いま攷證に、鳥翔をカケルとするによる。カケルは、鳥の飛ぶにいう語で、「二上《フタカミノ》 山登妣古要底《ヤマトビコエテ》 久母我久理《クモガクリ》 可氣理伊爾伎等《カケリイニキト》」(卷十七、四〇一一)は、鷹についていい、その他、翔の字をカケルと讀んでいる例は多い。また動詞にナスの接續する例は、「木都能余須奈須《コツノヨスナス》」(卷十四、三五四八)、「衣爾著成《キヌニツクナス》」(卷一、一九)がある。ヨスは、古くは四段活であろうから、その連體形にナスが接續したことになる。鳥の飛ぶようにある意で、次の句を修飾する。
 有我欲比管 アリガヨヒツツ。アリは他の動詞と熟して、存在しつつ、生存しつつの意をあらわす。有り經ル、有リ慰ムなどの例である。繼績して通う意になる。
 見良目杼母 ミラメドモ。動詞見ルは、古くはミから助動詞ラムに接續した。卷の一、五五參照。ラメドモは、推量の助動詞ラムの逆態條件法である。次の二句を修飾する。
(433)人社不知 ヒトコソシラネ。「人こそ……松は……」という語法に、人は知らないだろうが、しかし松はという意味が生じてくる。知ラネのネは、打消の助動詞がコソを承けた結びである。
 松者知良武 マツハシルラム。ラムは推量の助動詞。松の心を推量している。
【評語】人間は肉體と靈魂とから成り立つて、死はその分離であると古人は考えていた。だから死んでも靈魂は亡びないと思つていたのである。それを人間は知らないが、松のような草木非情の者が、却つて靈界に通ずるとしている。作者の山上の憶良は、佛教を信じていたと思われるが、この歌については、その影響があるかどうかは疑問である。佛教思想に關係なしにでも解けるのである。憶良壯年の作であろう。現地に臨まないで、他の人の作を見て詠んだのかもしれない。
 
右件歌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2挽歌類1焉。
 
(434)右の件の歌等は、柩を挽く時に作れるにあらざれども、歌の意に准擬《なぞ》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
 
【釋】右件歌等 ミギノクダリノウタドモハ。紙上、これより右に記した歌を指すのであるが、ここでは有間の皇子の歌からをいうのであろう。
 雖不挽柩之時所作 ヒツギヲヒクトキニツクレルニアラザレドモ。挽歌は、柩車を挽く時の歌であるが、右に掲げた歌は、さような送葬の時の作でないけれどもの意。中にも家ニアレバの歌の如きは、純然たる旅の歌である。
 准擬 ナゾヘテ。純粹の挽歌ではないが、歌の内容によつて挽歌に準ずるというのである。
 故以載挽歌類焉 カレメニカノタグヒニノス。以上、葬式の時の歌ではないが、歌の内容から推して、挽歌の類に入れたという、編者の注意書きである。挽歌とは、輓歌ともいい、柩車を引く時の歌の意であるが、廣く哀傷の歌の意に用いられているから特にここにことわるまでも無いことである。この左註は後人の書き入れだという説もあるが、むしろかなり古い編次の時にはいつたものと見たいと思う。
 
大寶元年辛丑、幸2于紀伊國1時、見2結松1歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也
 
大寶元年辛丑、紀伊《き》の國に幸でましし時、結び松を見る歌一首 【柿本の朝臣人麻呂の歌の集の中に出づ。】
 
【釋】大寶元年辛丑 ダイホウノハジメノトシカノトウシノトシ。文武天皇の御代。この年九月十八日、天皇紀伊の國に幸し、十月十九日、紀伊から遷幸された。この時の歌は、卷の一に「大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌」(五四題詞)、卷の九に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸2紀伊國1時歌十三首」(一六六七題詞)として載せ、持統太上天皇の御幸もあつたことを傳えている。
 見結松歌 ムスビマツヲミルウタ。有間の皇子の結ばれたという傳説のある松を見て詠んだ歌である。
(435) 柿本朝臣人麻呂歌集中出也 カキノモトノアソミヒトマロノウタノシフノナカニイヅ。次の歌が人麻呂歌集から出たとするのである。人麻呂歌集からは、集中、多數の歌を載せ、その名は、この外に、卷の三、七、九、十、十一、十二、十三、十四の諸卷に見えている。人麻呂歌集は、人麻呂自身の作を中心とし、他人の作をも收載していると考えられるが、婦人の作と見なすべきものの如き特殊の事情あるもの以外、大體人麻呂の作と認めてよいようである。
 
146 後《のち》見むと 君が結べる
 磐白《いはしろ》の 小松《こまつ》が末《うれ》を
 また見けむかも。
 
 後將見跡《ノチミムト》 君之結有《キミガムスベル》
 磐代乃《イハシロノ》 子松之宇禮乎《コマツガウレヲ》
 又將v見香聞《マタミケムカモ》
 
【譯】後に見ようと祝いこめて、皇子の結ばれた、この磐白の岡の小松の枝先を、また御覽になつたことだろうか。
【釋】後將見跡 ノチミムト。彼方に旅行して、後また歸り來たつてこの松を見ようとである。
 君之結有 キミガムスベル。君は有間の皇子をさす。ムスベルは連體形。
 子松之宇禮乎 コマツガウレヲ。有間の皇子が松を結ばれた齊明天皇の四年から、大寶元年までには四十三年を經ている。それでかなり大きな松をも小松と云つたであろうとされている。「わが命を長門の島の小松原幾代を經てか神《かむ》さびわたる」(卷十五、三六二一)、「君に戀ひいたも術《すべ》無み平《なら》山の小松がもとに立ち嘆くかも」(卷四、五九三)の如きもあつて、松には隨分大樹老樹もあるから、それらに對して、比較的ちいさいのを小松とも云つたものであろう。コは愛稱であるが、ちいさい感じは含まれている。ウレは、木草の若く伸びた枝先をいう。樹の最高處はウレであるのが普通だがかならずしもそうばかりではない。この歌のウレも松の枝の(436)伸びたところで、高處ではない。木ヌレというは木のウレの義である。その他、ハギのウレ、ヒシのウレ等が用いられている。
 又將見香聞 マタミケムカモ。ケムは過去の推量の助動詞で、有間の皇子の御行動を推量している。カモは、疑問を含んだ感動の助詞である。
【評語】長の忌寸意吉麻呂以下の歌は、いずれも藤原時代の歌と思われるが、その頃には、この磐白の岡に結び松という一本の名松ができていたのであろう。松を結ぶのは、有間の皇子特別の事でなく、行路の人が常にすることである。
 前に右件の歌等云々の左註があつて、その後にこの人麻呂歌集の歌が載つているので、この歌が、前の左註よりは後に入れられたものであろうということが考えられる。しかしそれもあまり後のことではあるまい。やはり萬葉集の結集時代のある時であつたのであろう。萬葉考は、前の意吉麻呂の第一首の歌の唱え誤りであるとしてこの歌を削り去つているが、それは武斷に過ぎる。
 
近江大津宮御宇天皇代 【天命開別天皇謚曰2天智天皇1。】
 
近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天命開別の天皇、謚して天智天皇と曰す。】
 
【釋】近江大津宮御宇天皇代 アフミノオホツノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ 天智天皇の御代。以下、その御代の歌を載せているが、天皇崩後の歌をも收めている。
 天命開別天皇 アメミコトヒラカスワケノスメラミコト。天智天皇。
 
天皇聖躬不豫之時、大后奉御歌一首
 
(437)天皇、聖躬《おほみ》不豫《やくさ》みたまひし時、大后《おほぎさき》の奉れる御歌一首
 
【釋】天皇 スメラミコト。天智天皇。
 聖窮不豫之時 オホミミヤクサミタマヒシトキ。聖躬は、天皇の大御身をいう。不豫は、不安の意で、御病氣をいう。ヤクサミは、古訓である。天皇は、その十年八、九月の頃に御病にかかり、十二月三日に崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天智天皇の皇后。大后は皇后の義であつて、皇太后の義ではない。皇后は倭姫《やまとひめ》と申し、天皇の庶兄古人大兄の御女である。
 
147 天《あま》の原 ふり放《さ》け見れば、
 大王《おほきみ》の 御壽《みいのち》は長く 天足《あまた》らしたり。
 
 天原《アマノハラ》 振放見者《フリサケミレバ》
 大王乃《オホキミノ》 御壽者長久《ミイノチハ》 天足有《ナガクアマタラシタリ》
 
【譯】天上を仰いで見ると、陛下の御壽命は、永久に天に充滿しております。
【釋】天原 アマノハラ。廣い天の義。ハラは、廣くたいらなところをいう。これは天空をいうのであつて、古人は靈界として天空を信じ、そこに天皇の御壽命の保有されてあることを言おうとして、この句を起したのである。
 振放見者 フリサケミレバ。フリは他の動詞に冠して、勢いよくする意味を加えている。放クは距離を作ることで、フリサケミルは遠方を見るに用いる。天上、または山、海などを見る場合に用いる。
 大王乃 オホキミノ。オホキミは、天皇をいう。
 御壽者長久天足有 ミイノチハナガクアマタラシタリ。天皇の御壽命は、あの廣い天に一杯に滿ちている。長久であつて、いつを限りとも知れぬと祝いこめて歌われている。タラシは足ルの敬語法。充滿している意。(438)ナガクは御壽命だから長くと用いたので、天足ラスに對しては、適切に限定していない。
【評語】天を信ずる人々に取つては、人命を支配するものは天であるとした。それで天を仰いで、御壽命の充滿していることを感じて、御病の平癒を期待されたのである。平癒を祈願して神を祭つた際に詠まれたもののようで、祝の心に詠まれている。しかし本集には結果よりして、これを挽歌の類に收めたのである。
【參考】同句、天の原ふりさけ見れば。
  天の原振り放け見れは白眞弓張りて懸けたり。夜路は吉けむ(卷三、二八九)
  (上略)天の原ふり放け見れば、渡る日の影も陰らひ、照る月の光も見えず(下略)(同、三一七)
  天の原ふり放け見れば天の川霧立ち渡る。君は來ぬらし(卷十、二〇六八)
  わが夫子《せこ》は待てど來まきず、天の原ふり放け見れば、ぬばたまの夜も更けにけり(下略)(卷十三、三二八〇)
  天の原ふり放け見れば夜ぞ更けにける。よしゑやし獨|寐《ぬ》る夜は明けば明けぬとも(卷十五、三六六二)
  (上略)天の原ふり放け見れば、照る月も盈※[日/仄]《みちかけ》しけり(卷十九、四一六〇)
 
一書曰、近江天皇聖體不豫、御病急時、大后奉獻御歌一首
 
一書に曰はく、近江の天皇聖體不豫みたまひ、御病|急《すみやか》なりし時、大后の奉獻《たてまつ》れる御歌一首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。前の歌と同じ事情のもとに詠まれた歌を、一書によつて記載したのである。その一書は、何の書であるか知りがたいが、用字法から見ても別の資料であることが知られる。なおこの題詞を、次の歌に懸かるものにあらずとし、誤脱などがあつたとする説があるが、それは誤りで、まさしく、この一事曰は、次の歌に懸かるものである。
 近江天皇 アフミノスメラミコト。天智天皇。卷の四、四八八の題詞にも見えている。
(439) 聖體不豫 オホミミヤクサミタマヒ。聖體は聖躬に同じ。
 御病急時 ミヤマヒスミヤカナリシトキ。御危急の?態にましました時。
 
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上を 通《かよ》ふとは、
 目には見れども ただに會はぬかも。
 
 青旗乃木旗能上乎《アヲハタノコハタノウヘヲ》 賀欲布跡羽《カヨフトハ》
 目尓者雖v視《メニハミレドモ》 直尓不v相香裳《タダニアハヌカモ》
 
【譯】青い旗の旗の上を、御魂は通うとは、目には見るけれども、直接に玉體を、拜することができないことか。
【釋】青旗乃木旗能上乎 アヲハタノコハタノウヘヲ。アヲハタは、白い旗であるとする説と、實際に青い旗であるとする説とある。白とするのは、白雲をアヲグモといい、青雲の白肩の津という例もあるといつている。青とするのは青馬、青雲も、やはり青い馬、青い雲であるという。この御歌は、御病急なりし時の御歌で、大葬の用意をなすべきではないが、麻の旗を立てたのを、青みを帶びているのでアヲハタというのだろう。青旗の例は、他に「青旗の葛城山」(卷四、五〇九)、「青幡の忍坂の山」(卷十三、三三三一)がある。木旗は、木につけるハタの義で、旗に同じ。元來ハタは、織物の稱で、普通は衣服の材料であるから、木につけるハタであることを示すためにコハタという。「許久波母知《コクハモチ》 宇知斯淤富泥《ウチシオホネ》」(古事記六二)コクハは、木鍬で、木の柄をつけた鍬である。地名説もあるが、地理的にも無理である。青旗の木旗とは、重語で、生く日の足る日の如く、青旗である木旗をいう。御病の急なのを留めようとして、旗を立てて祭をされたものと考えられる。
 賀欲布跡羽 カヨフトハ。古人は、人は肉體と靈魂とより成り、死はその分離であると考えていた。それゆえ天皇の御魂が、玉體から離れて、庭上の青旗の邊を通われることを信じている。
 目尓者雖視 メニハミレドモ。靈魂の遊行は目には見えないはずであるけれども、旗の動きによつて靈魂の(440)遊行を目に見るのである。また實際信仰上からは、目に見えるとも信じられよう。
 直尓不相香裳 タダニアハヌカモ。直接生けるこの世の御姿に接することができないのかと歎かれたのである。
【評語】御病急にして、御魂は、今や庭上の旗のほとりを通過せられていることが感じられている。今一目お見あげ申したい意味が痛切に歌われている。既出の鳥翔ナス云々の歌(卷二、一四五)と共に、靈魂の不滅の信仰を證するよい歌である。
 
天皇崩後之時、倭大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし後の時、倭の大后の作りませる御歌一首
 
【釋】天皇崩後之時 スメラミコノカムアガリタマヒシノチノトキ。天智天皇の崩ぜられた後。
 倭大后 ヤマトノオホギサキ。倭姫の皇后。
 
149 人はよし 思ひ止《や》むとも、
 玉蘰《たまかづら》 影《かげ》に見えつつ 忘らえぬかも。
 
 人者縱《ヒトハヨシ》 念息登母《オモヒヤムトモ》
 玉蘰《タマカヅラ》 影尓所v見乍《カゲニミエツツ》 不v所v忘鴨《ワスラエヌカモ》
 
【譯】ほかの人はよし思いやむにしても、わたしだけは、この玉蘰のように面影に見えて忘れられないことです。
【釋】人者縱 ヒトハヨシ。ヒトは、一般の人をさす。ヨシは、よし何々するともの意に、次の句に懸かる、
 念息登母 オモヒヤムトモ 思わなくなつても。思うことが止んでも。この句の下に、吾はの意の句を省略している。
(441) 玉蘰 タマカヅラ。タマは、美稱であるとする説と、實際に玉の飾りのあるとする説とある。日本書紀に天武天皇の崩御せられた際に「以2華蘰1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあつて、華蘰を殯宮に獻ることがある。この華蘰は美しい蘰の義と思われ、それを御蔭と言つたことが知られるので、この歌にいう玉蘰もそれを言つたものであろう。さてカゲの枕詞として使われている。以上大體講義の説による。
 影尓所見乍 カゲニミエツツ。カゲは面影で、その人のあらずして姿の見えるのを言う。
 不所忘鴨 ワスラエヌカモ。忘られぬかもに同じ。忘れられないの意である。
【評語】外の人が忘れ去つても、自分だけは忘れられない心を歌つている。玉蘰影ニ見エツツの句が、殯宮の物を材料とした美しい句でありながら、巧みに情景を描いている。
 
天皇崩時、婦人作歌一首 姓氏未v詳
 
天皇の崩りたまひし時、婦人の作れる歌一首【姓氏いまだ審ならず。】
 
【釋】天皇崩時 スメラミコトノカムアガリタマヒシトキニ。天智天皇の崩じたまいし時。
 婦人 ヲミナメ。宮人であろうが、下の註の如く、何人とも知られないが、後宮に仕える女子であろう。卷の十六、三八三五の左註には、新田部の親王の家の婦人のことが記されている。
 
150 うつせみし 神にあへねば、
 離《さか》り居て 朝嘆く君、
 放《さか》り居て わが戀ふる君、
 玉ならば 手に卷き持ちて、
(442) 衣《きぬ》ならば ぬぐ時もなく、
 わが戀ふる 君ぞ、昨《きぞ》の夜
 夢《いめ》に見えつる。
 
 空蝉師《ウツセミシ》 神尓不v勝者《カミニアヘネバ》
 離居而《サカリヰテ》 朝嘆君《アサナゲクキミ》
 放居而《サカリヰテ》 吾戀君《ワガコフルキミ》
 玉有者《タマナラバ》 手尓卷持而《テニマキモチテ》
 衣有者《キヌナラバ》 脱時毛無《ヌクトキモナク》
 吾戀《ワガコフル》 君曾伎賊乃夜《キミゾキゾノヨ》
 夢所v見鶴《イメニミエツル》
 
【譯】この生けるわたくしが身は、神樣にお仕え申しあげることができませんから、離れていて、朝も歎いておりまする君。離れていてわたくしの戀う君。もしこれが玉であるならは手に卷いて持つて、もし衣であるならばぬぐ時もなく、そのように身につけて、すこしの隙もなく、わたくしのお慕い申しあげる君が、昨夜は夢に見えました。
【構成】全篇一文。ワガ戀フル君まで、亡くなられた君を提示し、以下、その君が夢に見えたことを述べる。
【釋】空蝉師神尓不勝者 ウツセミシカミニアヘネバ。ウツセミは、既出(卷一、一三)。普通に、現し身の義として解せられているが、身の意のミと、蝉のミとは、音韻が違うとされ、現し身の義とはしがたいとされている。空蝉の字は、音韻をあらわすだけの假字である。シは強意の助詞。アヘネバは、堪えねばに同じ。貴人の靈魂は、天に上つて神と成られる。自分はこの土の人で、神樣に直接奉仕するに堪えないの思想を歌つている。
 離居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)。下の放居而と共に、いずれもサカリヰテともハナレヰテとも讀まれる。しかし離のハナレと讀むべきは、集中「玉之裏《タマノウラ》 離小島《ハナレコジマノ》 夢石見《イメニシミユル》」(卷七、一二〇二)の一例のみであるから、サカリヰテと讀むこととする。天皇の神靈より遠ざかりいての意である。
 朝嘆君 アサナゲクキミ。朝は、この歌の詠まれた時を示す。キミは、ナゲクの目的であつて、君のことを嘆く意である。
(443) 放居而 サカリヰテ。ハナレヰテ(神)と上のサカリヰテに對して、語を變えて讀む説もある。しかし同一の句を繰り返すのが古歌の風格である。
 吾戀君 ワガコフルキミ。以上二句は、離リ居テ朝嘆ク君の句と對句を成している。共に呼びあげて堤示する句。
 玉有者 タマナラバ。上の君の語を受けて、その君が、もし玉であるならばという譬喩である。
 手尓卷持而 テニマキモチテ。玉ならば緒に貫いて手に卷き持ちての意。
 衣有者脱時毛無 キヌナラバヌグトキモナク。キヌは、同じく君を受けている。この二句は、玉ナラバ手ニ卷キ持チチの句と對句を成している。
 吾戀 ワガコフル。ワガコヒム(玉)。現在も未來も含んでいるのだから、不定時がよい。
 君曾伎賊乃夜 キミゾキゾノヨ。上のゾ、係助詞。キゾノヨは、昨夜であるが、いま朝に明けたその夜をいう。「孤悲天香眠良武《コヒテカヌラム》 伎曾母許余比毛《キゾモコヨヒモ》」(卷十四、三五〇五)など、しばしは今夜と對して用いている。
 夢所見鶴 イメニミエツル。夢は古語にイメという。イは眠りで、メは見ることであると解せられている。假字書きのものは、伊米など多數で、ユメと書いたものはない。ツルは、ゾを受けて連體形で結んでいる。鶴は歌詞ではタヅであるが、假字としては、ツルの音を表示するに使用され、口語でツルと言つたと考えられている。
【評語】この歌は、神に對する畏敬の念が強くあらわれており、みだりに人の近づけないものと考えたことがよくわかる。初めの數句に、この歌の興味がある。前の歌と同じようにまた對句の疊出に依つて、哀情の去りがたい心を敍したあたりを、よく味わうべきである。
 
(444)天皇大殯之時歌二首
 
天皇の大殯の時の歌二首
 
【釋】天皇大殯之時歌 スメラミコトノオホアラキノトキノウタ。天智天皇の大葬の時の歌である。殯は、人の死してまだ葬らない前に行う祭をいう。説文に、「死在v棺、將v遷2葬柩1、賓2遇之1」とある。アラキは新城の義で、葬殿をいう。日本書紀に、天智天皇の十年十二月の條に「癸亥朔乙丑、天皇崩2于近江宮1、癸酉殯2于新宮1」とある。歌の作者は、各歌の下に記している。
 
151 かからむの 懷《こころ》知りせば、
 大御船 泊《は》てし泊《とまり》に
 標繩《しめ》結《ゆ》はましを。 額田の王
 
 如是有乃懷知勢婆《カカラムノココロシリセバ》
 大御船《オホミフネ》 泊之登萬里人《ハテシトマリニ》
 標結麻思乎《シメユハマシヲ》 額田王
 
【譯】こういう心になると思い知つておつたならば、大御船の泊つた船著き場に標繩を結つて置きましたものを。
【釋】如是有乃懷知勢婆 カカラムノココロシリセバ。
   カカラムトオモヒシリセバ(金)
   ――――――――――
   如是有乃豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(西)
   如是有刀豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(代)
   如是有登豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
   如是有及豫知勢婆《カカラムトカネテシリセバ》(童)
乃は、諸本みな同じで異博は無い。依つてこれを刀の誤として、初句をカカラムトと讀む説が有力である。(445)しかし刀はトの甲類の字で、これを助詞トに使用した例は無い。さりとて童蒙抄のように、登の誤りとするも從いがたい。そこで原形のままにカカラムノと讀むことが、はたして成立し得ないかが考慮される。次に懷は、仙覺本系統には豫であるが、豫は、初句を古くカカラムトと讀むことに引かれた字面とも考えられ、古本系統の懷を否定すべき材料は無い。懷の字義は、思であり、安であるが、類聚名義抄に、多數の訓を載せて、その最初に、ココロとある。そこで次に、カカラムノココロシリセバの訓が、成立すべきかどうかである。助詞ノが助動詞ムを受けた例は、「丹波道之《タニハヂノ》 大江乃山之《オホエノヤマノ》 眞玉葛《マタマヅラ》 絶牟乃心《タエムノココロ》 我不v思《ワガオオモハナクニ》」(卷十二、三〇七一)、「多爾世婆美《タニセバミ》 彌年爾波比多流《ミネニハヒタル》 多麻可豆良《タマカヅラ》 多延武能己許呂《タエムノココロ》 和我母波奈久爾《ワガオモハナクニ》」(卷十四、三五〇七)があり、語法として、例のあることが確められる。このタエムノココロは、絶えようとする心の意と推考されるから、これに準ずれば、カカラムノココロは、かようにあろうとする心の意となり、この歌の場合は、天皇の大殯にいて哀傷しようとする心と解せられる。なお懷は、集中の歌中には「垂乳爲《タラチシ》 母所v懷《ハハニウダカエ》」(卷十六、三九七一)の例があるだけのようであるが、それは、こことは用法が違つている。シリセバのセは、時の助動詞キの未然形。
 大御船 オホミフネ。天皇の御船である。
 泊之登萬里人 ハテシトマリニ。天皇の大御船の碇泊した船著き場にである。
 標結麻思乎 シメユハマシヲ。標を結うは、繩を張つて病魔等の入り來ないようにすること、そのようにもしたならば御病にかからせられることが無かつたであろうが、そうしなかつたので殘念であるよしである。
 額田王 ヌカタノオホキミ。作者の名を記したのである。額田の王は既出。
【評語】歌詞によると、大御船の碇泊した處に標を張つたらよかつたものをと言つている。これによれば、多分船に召して湖上を遊覽されることなどがあつて、還幸の後に御病を得られたものであるようである。災禍を(446)なす魔物が湖上から大御船の後を慕つて襲つて來たように考えて歌つている。手ぬかりをしたことを殘念に思う氣持がよく出ている。
 
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おはみふね》
 待ちか戀ふらむ。
 志賀の辛埼。 舍人の吉年
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾期大王乃《ワゴオホキミノ》 大御船《オホミフネ》
 待可將v戀《マチカコフラム》
 四賀乃辛埼《シガノカラサキ》 舍人吉年
 
【譯】わが天皇陛下の大御船を待ち慕つていることであろう。志賀の辛埼は。
【釋】八隅知之 ヤスミシシ。既出(卷一、三)。枕詞。
 吾期大王乃 ワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。ワガ大君というべきであるが、歌いものに歌われる時に聞えを音聲のままに字を書いたものである。
 待可將戀 マチカコフラム。マチカコヒナム(西)。待つてか戀い慕つているであろうの義。
 志賀乃辛埼 シガノカラサキ。既出(卷一、三〇)。琵琶湖に臨んだ風光明媚の地。辛埼が心があつて待つているように歌つている。
 舍人吉年 トネリエトシ。作者であるが、傳未詳。田部の忌寸櫟子と贈答している歌(卷四、四九二)によれば婦人であろうか。舍人は氏であろう。吉年は何と讀むべきか不明。エトシか、ヨシトシか。
【評語】此處にも、志賀の辛埼に大御船を寄せることが、歌われている。しばしば船を出して、この地を遊覽されることがあつたのであろう。風光昔ながらにして、人はもはや、訪れることもなくなつた悲しみを寫している。
 
(447)大后歌一首
 
【釋】大后御歌 オホギサキノミウタ。倭姫の皇后の御歌で、天智天皇崩後の御作である。
 
153 鯨魚《イサナ》取り 淡海《あふみ》の海を、
 沖放《おきさ》けて 榜《こ》ぎくる船、
 邊つきて 榜ぎくる船、
 沖つ櫂《かい》 いたくな撥《は》ねそ。
 邊つ櫂 いたくな撥ねそ。」
 若草の 妻の 思ふ鳥立つ。」
 
 鯨魚取《イサナトリ》 淡海乃海乎《アフミノウミヲ》
 奧放而《オキサケテ》 榜來船《コギクルフネ》
 邊附而《ヘツキテ》 榜來船《コギクルフネ》
 奧津加伊《オキツカイ》 痛勿波祢曾《イタクナハネソ》
 邊津加伊《ヘツカイ》 痛莫波祢曾《イタクナハネソ》
 若草乃《ワカクサノ》 嬬之《ツマノ》 念鳥立《オモフトリタツ》
 
【譯】近江の湖上を、沖の方に離れて榜ぐ船よ、岸邊に近くついて榜ぐ船よ。沖の方で水を打つ櫂、岸の方で水を打つ櫂を、強く撥ねないようにしてください。若草のような妻のわたくしの愛する鳥が、驚いて立ちます。
【構成】第一段、邊ツ櫂イタクナハネソまで、湖上の船を歌う。以下第二段、鳥によせて思いを述べる。
【釋】鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。琵琶湖は、淡水湖で、鯨はいないが、大きな湖水なので、慣用句として次句の海に冠して使用されている。
 淡海乃海乎 アフミノウミヲ。琵琶湖をで、大津の宮から望見されたのである。
 奧放而 オキサケテ。沖の方に離れてで、下の榜ぎ來るを修飾している。
 榜來船 コギクルフネ。榜は、船を進める意の字。
(448) 邊附而 ヘツキテ。岸邊について。
 榜來船 コギクルフネ。以上二句は、奧サケテ榜ギ來ル船の句と對句をなし、湖上を漕ぐ船を呼びあげて提示している。以下その船に對して希望を述べられる形で進行する。
 奧津加伊 オキツカイ。上の沖サケテ榜ギ來ル船について、沖ツ櫂と言つている。ツは接綾の助詞。カイは櫂で、船を進める具。倭名類聚鈔に「釋名云、在v旁撥v水曰v櫂【直教反、字亦作v棹、楊氏漢語抄云加伊】櫂2於水中1且進櫂也」とある。オキツカイは沖行く船の櫂である。
 痛勿波祢曾 イタクナハネソ。イタクは、甚しく。ナは禁止の助詞。ハネは、動詞撥ヌの連用形。
 邊津加伊痛莫波祢曾 ヘツカイイタクナハネソ。上の邊ツキテ榜ギ來ル船を受けている。以上二句、沖ツ櫂イタクナ撥ネソの句と對句を成している。
 若草乃 ワカクサノ。枕詞。やわらかい意に、ツマ(配遇者)に冠する。
 嬬之 ツマノ。ツマは配偶者。嬬の字は、婦人をいう。皇后である作者自身を客觀的に敍している。但し夫の意で、天皇をいうとする説もある。男子の配偶者の意に、嬬の字を使つた例は、「若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》」(卷二、二一七)の如きがある。
 念鳥立 オモフトリタツ。作者は、亡き天皇の遣愛の鳥として、湖上に浮ぶ鳥に、親しみを寄せている。その鳥の驚き立つのを恐れる心である。それは結局、作者自身を驚かすことをあらわす。
【評語】遺愛の物について、哀情を述べるのは、古い挽歌の常である。この歌にしても、もし作られた時の事情が知られなかつたなら、挽歌とも取られないかも知れない。悲しいといわず、歎くといわず、別るといわず、涙といわない。ただ湖上の鳥を驚かさないようにと歌われた、そこに盡《つき》せぬ涙が感じられる。歌がらも、對句を以つて敍述し來つて、これを五三七と止めたところ、整齊な古長歌の風格を存している。一事を語を換えて(449)云つたような對句は、對句として初期のもので、特に纏綿たる情緒を訴えるに適している。この歌の對句の如き、この感じのよく現われているものである。
 
石川夫人歌一首
 
【釋】石川夫人 イシカハノオホトジ。天智天皇の後宮には、四嬪のうちに、蘇我の山田の石川麻呂の女なる遠智娘、姪娘の二人があるが、父の名によつて石川の夫人と言つたとも考えられない。夫人というは、嬪より上で、臣下から後宮に入る者の最上の稱號である。
 
154 ささなみの 大山守《おほやまもり》は、
 誰《た》がためか 山に標繩《しめ》結《ゆ》ふ。
 君もあらなくに。
 
 神樂浪乃《ササナミノ》 大山守者《オホヤマモリハ》
 爲v誰可《タガタメカ》 山尓標結《ヤマニシメユフ》
 君毛不v有國《キミモアラナクニ》
 
【譯】樂狼の大山の番人は誰のために山に標を結つているのか、君もおいでにならないのに。
【釋】神樂浪乃 ササナミノ。ササナミは、既出(卷一、二九)。近江の國南方一帶の地名。
 大山守者 オホヤマモリハ。宮城のある山の番人の義で、大山守という。雜人を入らしめないために番人を置くのである。
 爲誰可 タガタメカ。今は君もましまさぬのに誰のためにかの意。
 山尓標結 ヤマニシメユフ。標繩を張つて人を入らしめないようにすることをいう。句切。
 君毛不有國 キミモアラナクニ。キミモマサナクニ(類)。わが君も既に崩御されて、主君もないことであるのにの義。
(450)【評語】君は既に崩御されたのに、大山守はなおありし日の如くに宮城の山を守つている。それを憐れむ形で、悲哀の情を歌つている。すべてがありし日のままに殘つているのが、悲しみを誘うのである。
 
從2山科御陵1退散之時、額田王作歌一首
 
山科の御陵より退散《あらけまか》りし時に、額田の王の作れる歌一首
 
【釋】從山科御陵 ヤマシナノミハカヨリ。山科の御陵は、天智天皇の山陵をいう。歌詞に山科の鏡の山といい、今、京都市東山區に入る。御陵は、ミササギともいうが、歌中には、ミハカと讀むように見える。
 退散之時 アラケマカリシトキニ。御陵に奉仕することを終わつて退出した時である。
 
155 やすみしし わご大君の
 かしこきや 御陵《みはか》つかふる
 山科《しな》の 鏡の山に、
 夜《よる》はも 夜のことごと、
 晝はも 日のことごと、
 哭《ね》のみを 泣きつつありてや、
 ももしきの 大宮人は、
 行き別かれなむ。
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》
 恐也《カシコキヤ》 御陵奉仕流《ミハカツカフル》
 山科乃《ヤマシナノ》 鏡山尓《カガミノヤマニ》
 夜者毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 畫者母《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 哭耳呼《ネノミヲ》 泣乍在而哉《ナキツツアリテヤ》
 百磯城乃《モモシキノ》大宮人者《オホミヤビトハ》
 去別南《ユキワカレナム》
 
【譯】天下を知ろしめすわが大君の、恐れ多い御陵を奉仕する山科の鏡の山に、夜は夜どおし、晝は一日中、(451)泣いてばかりいてか大宮の人々は行き別れることでしよう。
【釋】八隅知之吾期大王之 ヤスミシシワゴオホキミノ。既出(卷一、五二)。
 恐也 カシコキヤ。ヤは用言の連體形に附く感動の助詞。かしこき御墓と續く語法である。カシコキは恐縮に堪えない。おそれおおい。
 御陵奉仕流 ミハカツカフル。御陵に奉仕する義。
 山科乃鏡山尓 ヤマシナノカガミノヤマニ。京都市東山區の地で、もと鏡の山と言つた。
 夜者毛 ヨルハモ。モは感動の助詞で、夜はということを感動的に述べている。
 夜之盡 ヨノコトゴト。コトゴトは悉くで夜の悉くである。一夜中の意。
 畫者母日之盡 ヒルハモヒノコトゴト。晝は晝中。上の夜ハモ夜ノコトゴトと對句になつている。
 哭耳呼 ネノミヲ。ネは泣く聲をいう。聲を出してのみ泣くというのであるが、哭泣ク、哭ニ泣ク、哭ノミ泣ク等、皆熟語句で、ただ泣くことをいう。ここでは外のことはせずに泣いてばかりの義に使つている。
 泣乍在而哉 ナキツツアリテヤ。ヤは疑問の係助詞。かように泣いてか大宮人は去き別れることであろうと言つている。
 百礒城乃大宮人者 モモシキノオホミヤビトハ。既出。
 去別南 ユキワカレナム。おのおの退出して別れるのだろうと名殘を惜しんでいる。
【評語】大宮人が御陵に奉仕しつつただ晝も夜も泣いてばかりいて、しかも時日が過ぎ去るままに別るべき時期の來たことを歌つている。御陵の地を説明し來つて、これを「夜はも夜のことごと畫はも日のことごと」と對句で受けた歌い方は古風な歌いものの調子をよく出している。單純な内容だけにかえつて悲哀の情が強く響いている。
 
(452)明日香清御原宮御宇天皇代 【天渟中原瀛眞人天皇謚曰2天武天皇1。】
 
明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし天皇の代 【天の渟中原瀛の眞人の天皇。謚して天武天皇と曰す。】
 
【釋】明日香清原宮御宇天皇代 アスカノキヨミハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラノミコトノミヨ。天武天皇の御代。その御代の歌を載せているが、崩後八年九月九日の天皇の御ための御齋會の夜の歌をも收めていること、前例の如くである。
 天渟中原瀛眞人天皇 アメノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト。天武天皇。
 
十市皇女薨時、高市皇子尊御作歌三首
 
十市《とをち》の皇女の薨《かむさ》りたまひし時、高市《たけち》の皇子の尊の作りませる御歌三首
 
【釋】十市皇女 トヲチノヒメミコ。天武天皇の皇女。御母は額田の王。弘文天皇の妃として葛野の王を生んだ。壬申の亂後、大和に歸つて居られたが、天武天皇の七年四月に薨じた。既出(巻一、二二左註)。
 薨時 カムサリタマヒシトキニ。天武天皇の七年、天神地祇を祭ろうとして、齋宮を倉梯《くらはし》の河上に立てた。四月朔日に、天皇、その齋宮に幸しようとして日を占《うら》なうに、七日が占に合《かな》つた。その日朝早く、行列が既に整い、今や宮を出でようとした時に當つて、十市の皇女は、俄に病が起つて宮中に薨じた。これによつて行幸を止め、ついに神祇をお祭りにならなかつた。この神祇を祭ろうとされたのは、壬申の亂に勝つたお禮の意味であろうという。この時に當つて十市の皇女の急な薨去に會したのは深い意味があろうと云われている。
 高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷一、一一四)。十市の皇女の異母の兄弟であるが、それ以上の事情は知られない。持統天皇の三年四月、皇太子草壁の皇子薨じ、その後、高市の皇子が儲位にましました(453)ものと見えて、後の皇子の尊という。本集題詞左註において、皇子の尊と記しているのは、「日竝皇子尊」(草壁の皇子)とこの皇子とだけである。
 
156 こ三諸の 神の神杉、
 去年《こぞ》のみを 夢《いめ》には見つつ
 いねぬ夜ぞ多き。
 
 三諸之《ミモロノ》 神之神須疑《カミノカムスギ》
 己具耳矣《コゾノミヲ》 自得見監乍《イメニハミツツ》
 共不v寝夜敍多《イネヌヨゾオホキ》
 
【譯】三諸山の神木の杉のように、去年ばかりを夢には見ながら近づくことができないで、ねない夜が多いことだ。
【釋】三諸之神之神須疑 ミモロノカミノカムスギ。ミモロは、神のよりつくところ。假字書きのものには、「美母呂」(古事記六一、九三、九五)、「三毛侶」(巻七、一〇九三)とあり、ミは甲類、ロは乙類の音である。ミは敬稱の接頭語であろうが、モロは不明である。從來ムロ(室)に同じとされていたが、室は、紀伊の國の地名に、牟漏、牟婁を室とも書き、樹名に、牟漏を室とも書いているのによれば、ロは甲類と見られ、三諸山を、三室山ともいうようであるが、語としては別語であろう。ミモロは、山名にもいい、山に関しては、「三諸著《ミモロツク》 鹿脊山《カセヤマ》」(巻六、一〇五九)、「三諸就《ミモロツク》 三輪山《ミワヤマ》」(巻七、一〇九五)ともいい、神ナビノ三諸ノ山(三二二七、三二二八)とも、三諸ノ神ナビ山(三二四、一七六一、三二六八)ともいう。「春日野爾《カスガノニ》 伊都久三諸乃《イツクミモロノ》 梅花《ウメノハナ》」(巻十九、四二四一)によれば神社形態であるようにも解せられ、「祝部等之《ハフリラガ》 齋三諸乃《イハフミモロノ》 犬馬鏡《マソカガミ》」(卷十二、二九八一)、木綿懸而《ユフカケテ》 祭三諸乃《マツルミモロノ》 神佐備而《カムサビテ》」(巻七、一三七七)も同じく神職の祭祀行爲の造作物と解せられる。鏡をかけ木綿をかけるのは、大小にもよらないが、「吾屋戸爾《ワガヤドニ》 御諸乎立而《ミモロヲタテテ》 枕邊爾《マクベニ》 齋戸乎居《イハヒベヲスヱ》」(巻三、四二〇)とあるのは、形?が限定されよう。屋戸は、枕邊に對して、家の出入口と解せられ、三(454)諸は、そこに立てられる工作物であつたことが知られる。神社と譯せられそうでもあるが、しかしたとえば、春日の三諸というように、地名、神名に助詞ノをつけてすぐ接續することはない。音韻からすれば、「神籬、此云2比莽呂岐1」(日本書紀、崇神天皇紀)のモロと一致する。これは、「立2磯堅城神籬1」とあるもので、樹木を材料とする工作物であるように考えられる。それならば、山や森にいい、また屋戸に立てるというにもふさわしいものである。今のこの歌では、三諸の神とつづくので、特定の神境をいうようである。そこの御神木の杉をいうのであろう。この時行おうとされた祭典の場所と關係があるかどうか、不明である。
 已具耳矣自得見監乍共 古くから難讀の句として、まだ明解を得ない。この歌、仙覺の新點の歌であつて、仙覺は、イクニヲシトミケムツヽトモとしたが、それでは意を成さない。管見には、スグニヲシトミケムツヽトモ。代匠記には、イクニヲシトミケムツヽムタ。またイクニヲシミミツヽトモニ。その他の諸家、多く誤字ありとして字を改めている。今、その、二三を擧げれば、
  童蒙抄  已冥耳笑自得見監乍共《イメニノミミエケムナガラモ》
  考    已免乃美耳得見管本名《イメノミニミエツツモトナ》
  檜嬬手  已具耳之日影見盈乍《スギシヨリカゲニミエツツ》
  古義   如是耳荷有得之監乍《カクノミニアリトシミツツ》
  美夫君志 已目耳矣自將見監爲共《イメニヲシミムトスレドモ》
  新考   已賣耳多耳將見念共《イメニダニミムトモヘドモ》
 次に臆説に過ぎないが私案を記す。具は、集中、其を誤つたと見られるものが往々にある。「具穗船乃」(卷十、二〇八九)、「本葉裳具世丹」(同)、「眞福在與具」(卷十三、三二五四)など。依つてここも其の誤りとし、已其耳矣をコゾノミヲと讀む。去年のみをの意である。これは音韻も一致する。次に自得見を、文字どおり、(455)おのずから見ることを得る意として、夢の義とする。助詞ニハを讀み添え、監乍を、ミツツと讀み、共は、五句につけてこれをイネヌヨゾオホキとする。歌意は、三諸の神の神杉は、目には見るけれども近づきかねる意の譬喩とし、去年の事のみは夢に見えるけれども、共に寐ない夜が多く續くの意とする。もとよりこれを以つて原歌に復るとする自信は無く、ただかく讀めば、一首の歌となるという程度である。以下二首の歌意によるに、この程度の事情は、あり得たであろう。
 
157 神《かむ》山の 山邊眞蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》、
 かくのみからに 長くと思ひき。
 
 神山之《カムヤマノ》 山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》 短木綿《ミジカユフ》
 如此耳故尓《カクノミカラニ》 長等思伎《ナガクトオモヒキ》
 
【譯】神を祭る場《にわ》の、山邊に懸けてある、麻の木綿《ゆう》は短い木綿であつた。こんなことであるはかりだのに、長くあれかしと願つたことであつた。
【釋】神山之 カムヤマノ。舊訓ミワヤマノとあるが、この山は、三輪山には限らないのであるから、カムヤマノと讀むべきである、何處の神山とも指定されない。
 山邊眞蘇木綿 ヤマベマソユフ。マは接頭語、ソはアサヲ(麻苧)の約言と見られる。「眞佐麻乎《ヒタサヲヲ》 裳者織服而《モニハオリキテ》」(卷九、一八〇七)の佐麻もそれである。麻で作つた苧の謂である。ユフは、豐後國風土記、速見郡の條に、「柚富郷、此郷之中、栲樹多生。常取2栲皮1以造2木綿1、因曰2柚冨郷1」とある。コウゾの皮の晒したものであるが、アサによるものを含んでいうと解せられる。神事に使用するアサを、ここでは擧げている。
 短木綿 ミジカユフ。木綿は、長いのも短いのもあるが、その短いのを取り出したのは、皇女の命の短いのを言おうとしてである。眞蘇木綿は、重ね言葉で、眞蘇木綿である短木綿の意で、譬喩に引かれている。
 如此耳故尓 カクノミカラニ。舊訓カクノミユヱニとあるが、ユヱは、助詞ガを受ける以外は、他の助詞を(456)受ける例が無い。カラは、「伴之伎與之《ハシキヨシ》 加久乃未可良爾《カクノミカラニ》」(卷五、七九六)の例がある。二人の中は短かつたのを、カクノミと言つている。
 長等思伎 ナガクトオモヒキ。上の短木綿を受けて皇女の御命の短かつたものを、長くあれかしと願つたことであつたの意。
【評語】神事を以つて序としているのは、神を祭る用意をして、まさに行幸になろうとした時に、皇女が薨じたからその神祭の頼み難くあつたことを諷している。二句三句の續き方など、調子のすぐれている歌である。
 
158 款冬《ヤマブキ》の 立ち儀《よそ》ひたる 山清水、 
 汲《く》みに行かめど 道の知らなく。
 
 山振之《ヤマブキノ》 立儀足《タチヨソヒタル》 山清水《ヤマシミヅ》
 酌尓雖v行《クミニユカメド》 道之白鳴《ミチノシラナク》
 
【譯】款冬の花の飾つている山の清水を、汲みに行きたいけれども、道を知らないことだ。
【釋】山振之 ヤマブキノ。振は、後にフルというが、古語ではフクという。古事記上卷に、「爾拔d所2御佩1之十拳劍u而、於2後手1布伎都々逃來」とある。ヤマブキは、植物の名。本集では假字書きのものの外に、山吹とも山振とも書いている。皇女の薨去は、四月であるから、實際にヤマブキが咲いていたのである。
 立儀足 タチヨソヒタル。タチは接頭語として添えられている。ヨソヒは、装フで、装飾している意。ヤマブキの花の咲きにおつているをいう。
 山清水 ヤマシミヅ。以上三句、皇女の御墓の邊の描寫であるが、ヤマブキの花は黄色なので、その花の咲いている泉とは、黄泉の譯であるという。黄泉は、漢文で人の死んでから行く地下の國である。さような意を寓しているとも解せられる。
 酌尓雖行 クミニユカメド。メドは、推量の助動詞ムの已然形に、助詞ドの添つた逆態條件法である。
(457) 道之白鳴 ミチノシラナク。シラナクは、知らぬことの意。
【評語】黄泉を譯して、ヤマブキノ立チ儀ヒタル山清水といつたのは巧みで、殊に春おかくれになつた皇女の御墓にふさわしいあらわし方である。死者に逢おうと願つて、しかもその行く處を訪い得ないという思想は、柿本の人麻呂の、「秋山の黄葉を茂みまどひぬる妹を求めむ山道知らずも」(卷二、二〇八)にも歌われており、いずれもその墓所に行く道を知らないという形であらわされている。
 
紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。
 
紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朔にして癸巳の日、十市の皇女、卒然《にはか》に病發りて、宮の中に薨《かむさ》り給ひきといへり。
 
【釋】紀曰 キニイハク。紀は、日本書紀をいぅ。その卷の二十九、天武天皇の七年の條に次の文があり、それを摘記したのである。「是春、將v祠2天神地祇1、而天下悉祓禊之、竪2齋宮於倉梯河上1。夏四月丁亥朔、欲v幸2齋宮1、卜之、癸巳食v卜。仍取2平且時1、警蹕既動、百寮成v列、乘輿命v蓋、以未v及2出行1、十市皇女、卒然病發、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣。」これによれば倉梯河のほとりに齋宮を建て、天皇これに幸して親祭しようとし、行幸の出發する時に當つて、十市の皇女が急病で薨去され、ついに祭を行わなかつたのである。
 丁亥朔癸巳 ヒノトヰノツキタチニシテミヅノトミノヒ。七日。
 
天皇崩之時、大后御作歌一首
 
天皇の崩りたまひし時、大后の作りませる御歌
 
(458)【釋】天皇崩之時 スメラミコトノカムサリタマヒシトキ。天武天皇の崩御の時である。天皇は、朱鳥元年九月九日崩ぜられた。
 大后 オホギサキ。天武天皇の皇后。天智天皇の皇女で、初めの名は、鵜野の讃良《さらら》の皇女。後、即位されて持統天皇と申す。
 
159 やすみしし わが大王の、
 夕されば 見《め》したまふらし、
 明けくれば 問ひたまふらし、
 神岳《かむをか》の 山の黄葉《もみち》を、
 今日もかも 問ひたまはまし。
 明日もかも 見《め》したまはまし。」
 その山を 振り放《さ》け見つつ
 夕されは あやに悲しみ、
 明けくれば うらさび暮《くら》し、
 荒細《あらたへ》の 衣《ころも》の袖は、
 乾《ふ》る時もなし。」
 
 八隅知之《ヤスミシシ》 我《ワガ・ワゴ》大王之《オホキミノ》
 暮去者《ユフサレバ》 召賜良之《メシタマフラシ》
 明來者《アケクレバ》 問賜良志《トヒタマフラシ》
 神岳乃《カムヲカノ》 山之黄葉乎《ヤマノモミチヲ》
 今日毛鴨《ケフモカモ》 問給麻思《トヒタマハマシ》
 明日毛鴨《アスモカモ》 召賜萬旨《メシタマハマシ》
 其山乎《ソノヤマヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 暮去者《ユフサレバ》 綾哀《アヤニカナシミ》
 明來者《アケクレバ》 裏佐備晩《ウラサビクラシ》
 荒妙乃《アラタヘノ》 衣之袖者《コロモノソデハ》
 乾時文無《フルトキモナシ》
 
【譯】天下を知ろしめす大君の、夕になれば御覽遊ばされ、夜が明けてくればお尋ねになると思われる、あの神岳の山の黄葉を、今日はお尋ねになるだろうか。明日は御覽になるだろうか。果してそうであろうか。その(459)山をながめやりながら、夕べになると誠に悲しくなり、夜が明けて來れば、心が慰まずに日を暮らし、荒い喪服の袖は、涙でかわく時もない。
【構成】二段から成つている。明日モカモ見シタマハマシまで第一段、神岳の山の黄葉を材料として、亡き天皇について想像を廻らしている。以下第二段、轉じて作者自身の行動について敍している。
【釋】八隅知之我大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。既出。ここでは天武天皇についていう。
 暮去者召賜良之 ユフサレバメシタマフラシ。メシは、見ルの敬語ミスの連用形ミシの轉音。ラシは根據ある推量の助動詞で、ここにこれを用いたのは、天皇なおいますが如き感じをあらわすためである。この句は、下の問ヒタマフラシの句と共に、連體形の句として、神岳の山の黄葉を修飾する。
 明來者問賜良之 アケクレバトヒタマフラシ。上の暮サレバ召シタマフラシの句と對句を成して、次の神岳を修飾している。句切ではない。
 神岳之 カムヲカノ。神岳は、明日香の清御原の宮から眺められる山と推定される。「登2神岳1山部宿禰赤人作歌」(卷三、三二四)と同地なるべく「勢能山爾《セノヤマニ》 黄葉常敷《モミヂツネシク》 神岳之《カムヲカノ》 山黄葉者《ヤマモミヂハ》 今日散濫《ケフカチルラム》」(卷九、一六七六)とある神岳も、同地であろう。その山は、日本紀略天長六年三月の條に「大和國高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社、遷2同郡同郷鳥形山1、依2神託宣1也」とあつて、飛鳥神社の舊鎭座地で、飛鳥の甘南備と呼ばれた山である。
 山之黄葉乎 ヤマノモミチヲ。天武天皇の崩御されたのは、九月九日であり、山の黄葉するにまの無い頃であり、その後その色づくに伴なつてこの歌が詠まれている。
 今日毛鴨問給麻思 ケフモカモトヒタマハマシ。ケフモのモは強意。カモは疑問の係助詞。御在世にましまさば、今日はかお尋ねになるのであろうの意。句切。
(460) 明日毛鴨召賜萬旨 アスモカモメシタマハマシ。上の今日モカモ問ヒタマハマシの句と對句を成している。句切。以上第一段。神岳の山の黄葉に寄せて、亡き天皇の御上を想像している。
 其山乎 ソノヤマヲ。その山は神岳をいう。
 振放見乍 フリサケミツツ。既出(卷二、一四七)。
 暮去者綾哀 ユフサレバアヤニカナシミ。アヤニは、驚嘆する意の副詞。感動詞のアヤが、副詞となつたもの。
 明來者裏佐備晩 アケクレバウラサビクラシ。ウラサビは、上二段動詞で、心の樂まずあるをいう。ウラサビクラシは、鬱々として日を暮すをいう。
 荒妙乃 アラタヘノ。アラタヘは既出。フジの皮で織つた粗野の織物。喪中なので、荒栲の衣を召されている、その描寫である。ここは枕詞ではない。
 衣之袖者 コロモノソデハ。御衣の袖はの意。
 乾時文無 フルトキモナシ。動詞乾ルは、もと上一段動詞とされていたが、近年、橋本博士によつて古くは上二段に活用していたことが證明された。それは本集に「吾屋戸之《ワガヤドノ》 草佐倍思《タササヘオモヒ》 浦乾來《ウラブレニケリ》」(卷十一、二四六五}の如く、乾をフレの假字として使用していると見られるもののあること、また日本書紀景行天皇紀に、人名の市乾鹿文に註して、「乾、此云v賦」とあることなどによるものである。この句は、涙のために、衣の袖のかわく時無きことを敍せられている。
【評語】この歌は、山の黄葉を中心として、天皇を思う情を述べられたもの。初めに、夕サレバ、明ケ來レバと、對句に起し、後にまたこれを受けて、完整した形を留めている。中間の、今日モカモ問ヒタマハマシ、明日モカモ見シタマハマシと、深い疑惑の情に迷つていることを示して、なおいますか、はたしていまさぬかと(461)思う情をあらわしている。この歌も對句の重疊に依つて纏綿たる情があらわされている點に深く注意すべきである。
 
一書曰、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
 
一書に曰はく、天皇の崩りましし時に、太上天皇の御製の歌二首
 
【釋】一書曰 アルフミニイハク。同じ作歌事情にある歌を一書によつて擧げたのである。歌は全然別なのであるから、一書曰とするにも及ばないのであるが、一次の編纂の後に加えられたので、かような形を呈するに至つたのであろう。一書は何の書か不明である。
 天皇崩之時 スメラミコトノカムサリマシシトキニ。天武天皇の崩御の時。
 太上天皇 オホキスメラミコト。持統天皇。後に太上天皇にましましたのを、前に及ぼして書いている。
 
160 燃ゆる火も 取りて裹《つつ》みて
 嚢《ふくろ》には 入ると言はずや。
 面知《おもし》らなくも。
 
 燃火物《モユルヒモ》 取而裹而《トリテツツミテ》
 福路庭《フクロニハ》 入澄不v言八《イルトイハズヤ》
 面智男雲《オモシラナクモ・モシルトイハナクモ》
 
【譯】燃える火も、取つて包んで、嚢には入れるというではないか。わかりかねることです。
【釋】燃火物 モユルヒモ。モユルヒは、火の特性を説明している。ただ火もでよいのだが、モユルを冠するので、その?態が描寫されている。
 取而裹而 トリテツツミテ。火を取つて包んでで、できかねることをいう。
 福賂庭 フクロニハ。フクロは嚢。物を入れるために作つたもの。福路の二字は字音假字として使用されて(462)いる。
 入澄不言八面智男雲 イルトイハズヤオモシラナクモ。
   イルナイハズヤモチヲノコクモ (西)
          オモシルナクモ (管)
   イルテウコトハオモシロナクモ (童)
   ――――――――――
   面智男雲《オモシルナクモ》 (代初)
   入登不言八面知白男雲《イルトフコトヤモチシラナクモ》(童)
   入騰不言八面知曰男雲《イルトイハズヤモシルトイハナクモ》(考)
   入登不言八面知日雲《イルトイハズヤアハンヒナクモ》(檜)
 澄は、トの假字に用いた例を見ない。古葉略類聚鈔には、この歌を重出しているが、そのいずれにも登に作つている。イルトイハズヤは、嚢には入れるといぅではないかの意で、句切。以上は火のようなものも、包んで嚢に入れるそうだの意で、不可能と思われることでもできるの譬喩に言つているらしい。次に五句は、考には、面を上の句につけ、智を知曰の誤として、シルトイハナクモと讀んでいる。これによれば、知るとは言わないことだの意になり、火でも嚢にはいるというのに、君の崩御のことは、了解に苦しむの意となる。原文のままならば、オモシラナクモと讀むほかは無い。オモシルは、集中、「如v神《カミノゴト》 所v聞瀧之《キコユルタキノ》 白浪乃《シラナミノ》 面知君之《オモシルキミガ》 不v所v見比日《ミエヌコノゴロ》」(卷十二、三〇一五)、「
ミヅグキノヲカノクズハヲフキカヘシオモシルコラガミエヌコロカモ」(同、三〇六八)の用例があり、知り合いの意に使用されている。それでオモシラナクモは、親しみの無いことだ、了解し得ないことだの意になるのであろう。
【評語】上四句は、出來にくいことを言つているようで、興味をひく詞句であるが、五句に難關があり、十分に鑑賞されないのは惜しむべきである。
 
161 北山に たなびく雲の 青雲の
(463) 星|離《さか》り行き 月を離りて。
 
向南山《キタヤマニ》 陳雲之《タナビククモノ》 青雲之《アヲグモノ》
星離去《ホシサカリユキ》 月矣離而《ツキヲサカリテ》
 
【譯】北山に續いている雲の青雲が、星を離れ行き、月をも離れて、大空に向かうことである。
【釋】向南山 キタヤマニ。向南山は、義を以つて北山に當てる。天武天皇の明日香の眞神が原の山陵は、南面しており、南方からこれを見そなわして詠まれたのであろう。
 陳雲之 タナビククモノ。陳は細井本に陣に作つている。陳陣は、もと同字であつて、義においては同じである。陳は玉篇に「列也、布也」とあるに依つて、雲についていうので、タナビクと讀むが、ツラナルとも讀まれる。意は御陵の山にたなびいている雲である。
 青雲之 アヲグモノ。アヲグモは、青天をいう。「
アヲグモノタナビクハミシラクモノオリヰムカブスカギリ」(祈年祭祝詞)、「
シラクモノタナビククニノアヲグモノムカブスクニノ」(卷十三、三三二九)、「
アヲグモノタナビクヒラコサメソボフル」(卷十六、三八八三)などがある。たなびく雲の青雲とは疊語で、同じ雲である。青雲ノ、下の句に對して主格を成している。
 星離去月矣離而 ホシサカリユキツキヲサカリテ。
   ホシサリユクツキヲハナレテ(神)
   ――――――――――
   星離去月乎離而《ホシサカリユクツキヲハナレテ》(類)
   星離去月牟離而《ホシワカレユキツキモワカレテ》(西)
   星離去月牟離而《ホシハナレユキツキモハナレテ》(童)
   星離去月牟離而《ホシサカリユキツキモサカリテ》(玉)
   日毛離去月毛離而《ヒモサカリユキツキモサカリテ》(新考)
星を離れてゆき、月を離れてというは、竝立の云い方で、星や月を離れてということになる。意は、青雲が(464)星や月を離れて天空高く昇るというので、天皇の神靈についていうのであろう。但し訓解ともに諸説が多いのは、結局一通りでは解釋に苦しむからである。星を日毛の誤とする新考の説は、通りがよい。
【評梧】この歌、以上の如く解しておいたが、これも難解の歌で、正しい解釋を知らない。大陸思想の影響を容れているともいわれるが、それも確でない。
 
天皇崩之後、八年九月九日、奉爲御齋會之夜、夢裏習賜御歌一首
                       古歌集中出
 
天皇の崩《かむさ》りましし後、八年の九月九日に、奉爲《おほみため》にせし御齋會の夜に、夢の裏に習ひたまへる御歌一首
                     【古歌集の中に出づ。】
 
【釋】天皇崩之後 スメラミコトノカムサリタマヒシノチ。天武天皇の崩後。
 八年九月九日 ヤトセノナガツキノココノカ。天武天皇は朱鳥元年の九月九日に崩御されたので、八年は、八年を經過したものとすれは、持統天皇の八年であり、九月九日はその御忌日である。
 奉爲 オホミタメニセシ。奉爲は、漢籍から來た字面で、奉は敬意をあらわす。二字オホミタメと讀み、ニセシを讀み添える。天武天皇御冥福の御爲にの意である。
 御齋會之歌 オホミヲガミノヨ。齋を設けて佛事を修するを齋會という。天武天皇の御冥福に資せんがために行われた御齋會の夜である。御齋會は、ゴサイヱともいう。
 夢裏習賜御歌 イメノウチニナラヒタマヘルミウタ。習は、しばしば繰り返すをいう。夢の中にして自然に得させたまう御歌の義。この歌、作者を傳えないのは、夢中に得られた歌だからであつて、その夢の主は、持統太上天皇にましますであろう。御製といわないのは、夢裡に得られたからであつて、神佛のお告げというが(465)如き信仰があるからである。夢のうちに歌をよむことは、本集では、「荒城田乃《アラキダノ》 子師田乃稻乎《シシダノイネヲ》」(卷十七、三八四八)の歌の左註に「右歌一首、忌部黒麻呂、夢裏作2此戀歌1、贈v友、覺而令2誦習1如v前」とある。
 
162 明日香の 清御原《きよみはら》の宮に
 天の下 知らしめしし
 やすみしし わが大王
 高照らす 日の皇子、
 いかさまに 念ほしめせか、
 神風の 伊勢の國は、
 奧《おき》つ藻も 靡《な》みたる波に、
 潮氣《しほけ》のみ 香《かを》れる國に、
 味凝《うまごり》 あやにともしき
 高照らす日の皇子。
 
 明日香能《アスカノ》 清御原乃宮尓《キヨミハラノミヤニ》
 天下《アメノシタ》 所v知食之《シラシメシシ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》大王《オホキミ》
 高照《タカテラス》 日之皇子《ヒノミコ》
 何方尓《イカサマニ》 所v念食可《オモホシメセカ》
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國者《イセノクニハ》
 奧津藻毛《オキツモモ》 靡足波尓《ナミタルナミニ》
 潮氣能味《シホケノミ》 香乎禮流國尓《カヲレルクニニ》
 味凝《ウマコリ・アジコリ》 文尓乏寸《アヤニトモシキ》
 高照《タカテラス》 日之御子《ヒノミコ》
 
【譯】明日香の清御原の宮で天下を知ろしめした、八方を知ろしめすわが大君、照り輝く日の御子樣は、どのように思しめされてか、神風の吹く伊勢の國は、沖の海藻も靡いている波に、潮の香の立ち昇る國に、まことに貴い照り輝く日の御子樣。
【構成】別に段落は無い。
(466)【釋】明日香能清御原乃宮尓 アスカノキヨミハラノミヤニ。天武天皇の皇居である。宮號によつて、その天皇をさす所をあきらかにするは古文の例である。
 天下所知食之 アメノシタシラシメシシ。下のシは時の助動詞キの連體形。
 八隅知之吾大王高照日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカテラスヒノミコ。ヒノミコは、既出。貴い御子の義に、日ノを冠するのだろう。「高光《タカヒカル》 日御朝庭《ヒノミカド》」(卷五、八九四)、「日之御調等《ヒノミツキト》」(卷六、九三三)。ここは天武天皇。以上天武天皇を呼び懸けている。
 何方尓所念食可 イカサマニオモホシメセカ。近江の荒都を過ぎし時の歌(卷一、二九)に「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」とある。オモホシメセカは、オモホシメセバカの意で、疑問の條件法であるが、獨立句として插入されていて、結びが無い。意外の事だという感じをあらわすに使用する常用の句である。
 伊勢能國者 イセノクニハ。下の句に對する主格の提示。
 奧津藻毛 オキツモモ。海上の藻も。
 靡足波尓 ナミタルナミニ。舊訓ナビキシナミニと讀んでいるが、足を助動詞シに當てた例は、他に無い。助詞シに當てた例も無い。「級照《シナテル》 片足羽河之《カタシハガハノ》」(卷九、一七四二)、「日倉足者《ヒグラシハ》 時常雖v鳴《トキトナケドモ》」(卷十、一九八二)の例は、上の音がア段の音で、アシのアを吸收したものと見られる。靡をナミと讀むのは、「旗須爲寸《ハタススキ》 四能乎押靡《シノヲオシナベ》」(卷一、四五)の如く、押靡と書いた例多く、それはオシナベと讀んでおり、下二段活と見られるが、四段活用としては「麻都能氣乃《マツノケノ》 奈美多流美禮婆《ナミタルミレバ》 伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(卷二十、四三七五)があり、この奈美多流は、普通に竝みたるの義として、解せられているが、歌意よりすれば、靡みたると解するを可とするようである。また足は、助動詞タルに使用することは多く、上の一五八にも使用している。歌意よりしても過去のこととするは無理であるから、かたがたナミタルナミニと讀むべきであつて、海(467)上の藻の靡いている波にの意とすべきであろう。この句の意は、靡みたる波にてありの意で、下の鹽氣ノミカヲレルの句と對している。
 鹽氣能味 シホケノミ。シホケは、潮の氣で、潮の發する氣をいう。ノミは、それの特にはなはだしく、他物無き?をいう。「鹽氣立《シホケタツ》 荒礒丹者雖v在《アリソニハアレド》 往水之《ユクミヅノ》 過去妹之《スギニシイモガ》 方見等曾來《カタミトゾコシ》」(卷九、一七九七)。
 香乎禮流國尓 カヲレルクニニ。カヲレルは、霧霞などの立ち煙るをいう。日本書紀神代の上に「伊弉諾尊曰我所v生之國、唯有2朝霧1而、薫滿之哉」とある。その國に、日の皇子はとつづく語法。
 味凝 ウマコリ。枕詞、ウマキオリの約言で、上等の織物の義に、アヤ(綾)に懸かるのであろうとされているが、ウマオリ、ウマシオリならばともかく、ウマキオリの形が、古くあるようには思えない。「味凍《ウマコリ》 綾丹乏敷《アヤニトモシク》」(卷六、九一三)とも書かれていて、共にアヂコリとも讀まれる。倭名類聚鈔に、凝海藻にコルモハの訓があり、凝結のために使う海藻だろうから、ニコゴリのような食物があつて、それをウマコリと言い、驚嘆のアヤに冠したのだろう。もしくはコリは凍結で、アヂコリと讀んで、たくさんの氷の意か。
 文尓乏寸 アヤニトモシキ。アヤニは驚嘆すべくある意の副詞。トモシキは、ここは賞美すべく慕わしい意に使用されている。
 高照日之御子 タカテラスヒノミコ。上に提示した句を繰り返して結んでいる。
【評語】夢裡の歌であつて、言い足らない詞句のあるのはやむを得ない所である。沖ツ藻モ靡ミタル波ニ、また鹽氣ノミカヲレル國ニと言つて、その歸結をつけずに轉じているが如きはそれである。また歌いものとして傳えられていた歌の成句を使用することの多いのも、夢裡の歌である特色を備えている。これによつて内容が一層神秘になつている。高照ラス日ノ御子と伊勢の國との關係は明瞭でないが、天武天皇の神靈が伊勢の國に赴かれるように解せられ、その伊勢の國を稱える詞句に重點が置かれている。古事記の序文に、天武天皇の擧(468)兵について、夢ノ歌ヲ聞キテ業ヲ纂ガムコトヲ想ホシとあり、前兆として夢の歌があつたと見られ、その歌は不明であるが、この歌に関係があるかも知れない。また作者は、天武天皇の擧兵の際、共に伊勢に赴かれた。そういうことも自然關係して來ているであろう。なお人が死んで、その靈が伊勢に赴くことは、後世の俚謠にその證があり、當時もそういう信仰があつたかも知れない。
 
藤原宮御宇天皇代
讓2位輕太子1尊號曰2太上天皇1。
 
藤原の宮の天の下知らしめしし天皇の代 【高天の原廣野姫の天皇、天皇の元年は丁亥の年にして、十一年、位を輕の太子に讓りたまひ、尊號して太上天皇と曰す。】
 
(469)【釋】藤原宮御宇天皇代 フヂハラノミヤニアメノシタシラシメシシスメラミコトノミヨ。藤原の宮は、持統天皇文武天皇二代の宮室であるが、下の註は持統天皇のみを擧げている。實際は、二代にわたつて歌を載せており、終りの部分は寧樂の宮にはいつているものもあるかも知れない。
 高天原廣野姫天皇 タカマノハラヒロノヒメノスメラミコト。持統天皇。以下の文は、巻の一、二八の歌の前にも、大同小異の文が載せてある。
 
大津皇子薨之後、大來皇女、從2伊勢齋宮1上v京之時、御作歌二首
 
大津の皇子の薨《かむさ》りたまひし後に、大來の皇女の、伊勢の齋の宮より京に上りたまひし時に、作りませる御歌二首
 
【釋】大津皇子薨之後 オホツノミコノカムサリタマヒシノチニ。大津の皇子のことは、既出(巻二、一〇五)。その薨去に関することもそこに記した。
 大來皇女 オホクノヒメミコ。大伯の皇女に同じ。既出(卷二、一〇五)。大津の皇子の同母の姉。
 從伊勢齋宮上京之時 イセノイツキノミヤヨリミヤコニノボリタマヒシトキニ。伊勢の齋の宮は、皇大神宮に奉仕する皇女の宮殿をいう。三重縣多氣郡櫛田村にあつた。大來の皇女は、朱鳥元年十一月十六日に、伊勢の齋の宮から還京された。大津の皇子の死んだ十月三日から四十日ばかり後である。その頃に詠まれた歌である。
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢の國にも あらましを。
 いかにか來《き》けむ。
(470) 君もあらなくに。
 
 神風乃《カムカゼノ》 伊勢能國尓母《イセノクニニモ》 有益乎《アラマシヲ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 君毛不v有尓《キミモアラナクニ》
 
【譯】伊勢の國におつたらよかつたものを。何しに來たことだろう。君もおいでにならないのに。
【釋】神風乃 カムカゼノ。枕詞。既出。
 伊勢能國尓母 イセノクニニモ。作者の齋宮の皇女としてましました伊勢の國のことを述べられている。その國から上京されたのである。
 有益乎 アラマシヲ。マシは不可能の希望であるから、皇女は都に上られたが、伊勢の國にあつたならという意をあらわしている。ヲは感動の助詞。句切。
 奈何可來計武 イカニカキケム。ナニニカキケム(舊訓)、ナニシカキケム(金)。歌經標式にも次の歌の同句にナニニカキケムとあるが、集中、奈何は多くイカニと讀むべき處に使用し、ナニと讀むべき例を見ない。「栲領巾乃《タクヒレノ》 懸卷欲寸《カケマクホシキ》 妹名乎《イモガナヲ》 此勢能山爾《コノセノヤマニ》 懸者奈何將v有《カケバイカニアラム》」(卷三、二八五)の類である。ケムは、過去推量の助動詞。上り來た心を、自分ながら、いかにしてか來たことぞ、と悔いる心である。句切。
 君毛不有尓 キミモアラナクニ。君は大津の皇子。アラナクはあらぬこと、ニは助詞。
【評語】はるばると伊勢から上京したが愛弟の既に死んでいるくやしさがえがかれている。何だつて來たのだろうと悔む心が痛切に感じられる。この歌は、連作の第一首として、次の歌を呼び起す含みを存して、總括的に歌つているが、悲痛の情はよく出ている。
 
164 見まく欲《ほ》り わがする君も
 あらなくに。
(471) いかにか來けむ
 馬疲らしに。
 
 欲v見《ミマクホリ》 吾爲君毛《ワガスルキミモ》
 不v有尓《アラナクニ》
 奈何可來計武《イカニカキケム》
 馬疲尓《ウマツカラシニ》
 
【譯】見たいと思う君も、おいでにならないのに、何しに來たことでしょう。馬を疲れさせるだけだのに。
【釋】欲見ミマクホリ。ミマクは、見むことの意の體言、ホリは欲する意の動詞。假字書きの例に、「見麻久保里《ミマクホリ》 念間爾《オモフアヒダニ》」(卷十《ミマクホリ》七、三九五七)、「見麻久保里《ミマクホリ》 於毛比之奈倍爾《オモヒシナヘニ》」(卷十八、四一二〇)がある。同型の語例には、「奈久許惠乎《ナクコエヲ》 伎可麻久保理登《キカマクホリト》」(卷十九、四二〇九)がある。
 吾爲君毛 ワガスルキミモ。わが見まく欲りする君もの意であるが、句の都合に依つてかように置かれている。
 奈何可來計武 イカニカキケム。前の歌と同じ位置に置いてある。句切。
 馬疲尓 ウマツカラシニ。舊訓ウマツカラシニとあり、玉の小琴にウマツカルルニと讀み改めた。これは歌經標式に、宇麻都可羅旨尓とあるによつて、ウマツカラシニと讀むべきである。馬を疲らせることなるにの意である。齋宮の下向上京は、後世は輿に依られたが、當時は、馬上であつたのであろう。日本書紀、天武天皇の擧兵のために伊勢に赴かれた時の記事に「是(472)日、發途入2東國1。事急不v待v駕而行之。?遇2縣犬養連大伴鞍馬1、因以御駕。乃皇后載v輿從之」とあり、また「到2川曲坂下1而日暮也。以2皇后疲1之、暫留v輿而息」ともあり、この後の文は、鈴鹿の山道を越えられた際の記事である。輿によられたとしても、下司竝に荷駄に多數の馬を使用したであろう。
【評語】この二首は、皇女が、弟の身の上を氣遣つて京に上つたが、その效《かい》の無かつたことを歌われている。連作であつて、同じ型を用いて、層を重ねて意味を強調して行く形になつている。殊にこの歌に、皇女御自身の疲勞を歌わないで、馬の上を憐まれているのは、皇女の御作としてふさわしい表現である。
【參考】別傳。
  如d大納(伯)内親王至v自2齋宮1戀2大津親王1歌u曰、
 美麻倶保利《ミマクホリ》一句 和我母不岐美母《ワガモフキミモ》二句 阿羅那倶尓《アラナクニ》三句 那尓々可岐計牟《ナニニカキケム》四句 宇麻都可羅旨尓《ウマツカラシニ》五句
 
移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時、大來皇女、哀傷御作歌二首
 
大津の皇子の屍《かばね》を、葛城《かづらき》の二上山に移《うつ》し葬《はふ》りし時に、大伯《おほく》の皇女の、哀傷して作りませる御歌二首
 
【釋】移葬大津皇子屍於葛城二上山之時 オホツノミコノカバネヲカヅラキノフタガミヤマニウツシハフリシトキニ。移葬は、屍柩を殯所から墓所に移し葬るをいう。假寧令の集解に、改葬を釋して「釋云、改2埋舊屍1。古記曰、改葬謂殯2埋舊屍柩1改移之類」とある。これによれば、一旦葬つたものを移葬するのではないが、ここにいう所と違うだろう。屍は、日本靈異記訓釋に「屍骸、二合死ニカバネ」(中卷一條)とあるが、本集に三音に當てて書いている。葛城の二上山は、葛城山中の二上山で、大阪府と奈良縣との堺、大和川の南方にあり、二峰から成つている山である。その峰に近い處に大津の皇子の墓と傳えるものがある。
 
(473)165 うつそみの 人なる吾や、
 明日よりは
 二上山《ふたがみやま》を兄弟《いろせ》とわが見む。
 
 宇都曾見乃《ウツソミノ》 人尓有吾哉《ヒトナルワレヤ》
 從明日者《アスヨリハ》
 二上山乎《フタガミヤマヲ》 弟世登吾將見《イロセトワガミム》
 
【譯】生きているこの自分は、明日からは、あの二上山をわが親しい弟と見るのだろうか。
【釋】宇都曾見乃 ウツソミノ。ウツソミは、ウツセミに同じ。もしこの語義が、ウツシオミの義であるならば、この方が原形ということになる。集中の用例は、「天地之《アメツチノ》 初時從《ハジメノトキユ》 宇都曾美能《ウツソミノ》 八十伴男者《ヤソトモノヲハ》」(卷十九、四二一四)の一例が大伴の家持の作である以外は、柿本の人麻呂の作品中に見られる。ここでは、この世の人である意に、次句の人を修飾している。
 人尓有吾哉 ヒトナルワレヤ。ナルは、歴史的にはニアルである。ヤは疑問の係助詞。
 從明日者 アスヨリハ。今日二上山に移葬したので、明日以後のことを言つている。
 弟世登吾將見 イロセトワガミム。イロセは、同母の兄弟をいう語。古事記上卷、須佐《すさ》の男《お》の神の詞に、「吾者、天照大御神之伊呂勢者也」、中卷、神武天皇記に「其伊呂兄五瀬命」とある。イロ(474)は、肉親を意味し、この語を使用した熟語には、イロハ(母)、イロネ(姉)、イロモ(妹)等がある。セは、男性の稱である。上のもを受けて結んでいる句。
【評語】この歌は生ける身にして、かの山をわが弟と見ようか。さりとて山は物言わずつれないものをの意が含まれている。ウツソミノ人ナル吾の句には、生ける人としての自覺がよくあらわれている。何故皇子の屍を葛城の二上山の如き高處に葬つたかというに、その説明は無いが、皇子の神靈を畏怖したのではないかとも考えられる。高貴の人を高い山に葬ることは例があるが、それもその神靈を尊んでの事であつて、刑死した皇子に對しても特にそぅいう思想を生ずるに至つたのであろう。
【參考】同句、うつせみの人なる吾。
  (上略)うつせみの人なる我や、何すとか一日一夜も、離《さか》り居て嘆き戀ふらむ(下略)(卷八、一六二九)
  (上略)うつせみの世の人吾も、此處をしもあやに奇《くす》しみ(下略)(卷十八、四一二五)
 
166 礒《いそ》の上《うへ》に 生ふる馬醉木《あしび》を
 手折《たを》らめど、
 見すべき君が ありといはなくに。
 
 礒之於尓《イソノウヘニ》 生流馬醉木乎《オフルアシビヲ》
 手折目杼《タヲラメド》
 令v視倍吉君之《ミスベキキミガ》 在常不v言尓《アリトイハナクニ》
 
【譯】礒の上に生えているアシビを手折りもしようが、お目に懸くべき君が、この世にあると誰もいう人が無いことです。
【釋】礒之於尓 イソノウヘニ。イソは石の群りある處。ウヘは、その處。野の上などと同じ言い方で、礒ニ生フルアシビでよいのだが、所在を明確にするために、礒の上と言つている。
 生流馬醉木乎 オフルアシビヲ。アシビは、今いうアセボであるといぅ。アセボは、シヤクナゲ科アセボ屬(475)の常緑灌木で、春の初めに白い房形の垂り花をつける。清楚な、どちらかというと寂しい氣味の花である。馬の毒で馬は食わないので馬醉木という。これをアシビと讀むのは、「安志妣《あしび》なす樂えし君」(卷七、一一二八)等があつて、安志妣すなわち馬醉木であるとするのであるが、「池水に影さへ見えて咲きにほふ安之婢の花」(卷二十、四五一二)、「礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける安之婢」(同、四五一三)の如く華やかなものとして、適切な歌もあつて、今日いうアセボでは適しない點がある。また早春の花とする證明もない。そこで美夫君志にはボケのこととしている。まず馬醉木とアシビと同物か異物かが問題になり、次にそれがいずれにしても今日の何に相當するかが問題になる。馬醉木の字面は、馬の醉うことを意味するであろうが、これによれば赤い花であるかも知れない。アセボは毒のある植物であるが、馬はこれを喰わないから、これによつて馬が醉うとする從來の解釋は成立しない。毒の有無には拘わらなくてよいのである。しかし今明解を得ないから、訓は從來のものによる。
 手折目杼 タヲラメド。タは接頭語。メドは、助動詞ムと、助詞ドと結合して、逆態條件法を作つている。手折りもしようがの意。
 令視倍吉君之 ミスベキキミガ。ミスは、使役の語法。見しむべき。お見せすべき。君は大津の皇子。
 在常不言尓 アリトイハナクニ。イハナクは、言わないこと、ニは助詞。誰も、君がありとは言わないことだの意。
【評語】花または自然の景色などを、人に見せたいという内容の(476)歌は多いが、これほどに緊張した歌はすくない。事情が事情だからでもあるが、やはり作者の人がらに依る所が多い。この歌は、初二句の具體的な指摘が、非常に役立つている。
 
右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
 
右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷|哀咽《あいえつ》して、この歌を作りませるか。
 
【釋】今案 イマカムガフルニ。以下、編者の意見である。しかし、移葬の時が、たまたまアシビの花咲く頃であつて、それを眺めて詠まれたものとして、何の不都合も無い。アシビが何の木であるにしても、卷の八には春の部に入り、卷の十三にはツバキと組み合わされていて春咲く花木と考えられ、皇女の上京は、十一月であるから、季節から言つても、上京の時の作とは考えられない。
 
日竝皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
日竝みし皇子の尊の殯《あらき》の宮の時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】日竝皇子尊 ヒナミシミコノミコト。既出(卷二、一一〇)。天武天皇の皇子、御母は皇后(持統天皇)。天武天皇の十年、皇太子となり、持統天皇の三年四月、薨去、御年二十八。
 殯宮之時 アラキノミヤノトキ。人の死してまだ葬らない前に祭を行うを殯という。殯宮は、その祭を行う宮殿。皇子の御墓所は、奈良縣高市郡の眞弓の岡にあり、そこにまず宮殿を新設して殯を行われたのである。しかし本集では、墓前の祭をも殯というらしい。作者柿本の人麻呂は、皇子の生前、舍人として奉仕し、殯宮(477)にも奉仕してこの歌を作つたと考えられる。
 
167 天地の 初めの時、
 ひさかたの 天《あま》の河原に、
 八百萬《やほよろづ》 千萬神《ちよろづがみ》の、
 神集《かむつど》ひ 集《つど》ひいまして、
 神分《かむわか》ち 分ちし時に、
 天照らす  日女《ひるめ》の命《みこと》、【一は云ふ、さしのぼる日女の命。】
 天をば 知らしめせと、
 葦原の 瑞穗の國を、
 天地の 寄り合ひの極《きは》み、
 知らしめす 神の命《みこと》と、
 天雲《あまぐも》の 八重かき別きて、【一は云ふ、天雲の八重雲別きて。】
 神下《かむくだ》し 坐《いま》せまつりし
 高照らす 日の皇子《みこ》は、
 飛ぶ鳥の 淨《きよ》みの宮に
 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして、
 天皇《すめろき》の 敷きます國と、
(478) 天の原 石門《いはと》を開き
 神上《かむあが》り 上り坐《いま》しぬ。」【一は云ふ、神登りいましにしかば。】
 わが大王 皇子の命の、
 天の下 知らしめしせば、
 春花の 貴からむと、
 望月《もちづき》の 滿《たた》はしけむと、
 天の下【一は云ふ、食す國の。】四方《よも》の人の、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 天《あま》つ水 仰ぎて待つに、
 いかさまに 念ほしめせか、
 由縁《つれ》もなき 眞弓《まゆみ》の岡に、
 宮柱 太敷きまし、
 御殿《みあらか》を 高知りまして、
 明言《あさごと》に 御言《みこと》問はさず、
 日月《ひつき》の 數多《まね》くなりぬれ、
 そこ故に 皇子の宮人
 行く方知らずも。」【一は云ふ、さす竹の皇子の宮人、行く方知らにす。】
 
 天地之《アメツチノ》 初時《ハジメノトキ》
 久堅之《ヒサカタノ》 天河原尓《アマノガハラニ》
 八百萬《ヤホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》
 神集《カムツドヒ》 集座而《ツドヒイマシテ》
 神分《カムワカチ》 分之時尓《ワカチシトキニ》
 天照《アマテラス》 日女之命《ヒルメノミコト》【一云指上日女之命】
 天乎婆《アメヲバ》 所v知食登《シラシメセト》
 葦原乃《アシハラノ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 天地之《アメツチノ》 依相之極《ヨリアヒノキハミ》
 所v知行《シラシメス》 神之命等《カミノミコトト》
 天雲之《アマグモノ》 八重掻別而《ヤヘカキワキテ》【一云天雲之八重雲別而】
 神下《カムクダシ》 座奉之《イマセマツリシ》
 高照《タカテラス》 日之皇子波《ヒノミコハ》
 飛鳥之《トブトリノ》 淨之宮尓《キヨミノミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 太布座而《フトシキマシテ》
 天皇之《スメロキノ》 敷座國等《シキマスクニト》
 天原《アマノハラ》 石門乎開《イハトヲヒラキ》
 神上《カムアガリ》 上座奴《アガリイマシヌ》【一云、神登座尓之可婆】
 吾王《ワガオホキミ》 皇子之命乃《ミコノミコトノ》
 天下《アメノシタ》 所v知食世者《シラシメシセバ》
 春花之《ハルバナノ》 貴在等《タフトカラムト》
 望月乃《モチツキノ》 滿波之計武跡《タタハシケムト》
 天下《アメノシタ》【一云、食國】 四方之人乃《ヨモノヒトノ》
 大船之《オホブネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 天水《アマツミヅ》 仰而待尓《アフギテマツニ》
 何方尓《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》
 由縁母無《ツレモナキ》 眞弓乃岡尓《マユミノヲカニ》
 宮柱《ミヤバシラ》 太布座《フトシキマシ》
 御在香乎《ミアラカヲ》 高知座而《タカシリマシテ》
 明言尓《アサゴトニ》 御言不2御問1《ミコトトハサズ》
 日月之《ヒツキノ》 數多成塗《マネクナリヌレ》
 其故《ソコユヱニ》 皇子之宮人《ミコノミヤビト》
 行方不v知毛《ユクヘ》《シラズ》《モ》【一云、刺竹之皇子宮人歸途不知尓爲】
 
(479)【譯】天地の開け始めたときに、高天の原の天の河原に、多數の神樣がお集まりになつて、方々の世界を分けた時に、天照らす大神は高天の原をば知ろしめせと定め、また葦原の瑞穗の國をば、天地が依り合つている限り永久に知ろしめす神樣として、天雲の八重を掻き分けてお下し申した輝く日の皇子樣は、飛ぶ鳥の淨みの宮に神にましますがままに御座遊ばされて、その後御歴代の天皇のまします國として、天の原の岩戸を押し開いてお登りになりました。かくてわが大君と仰ぐ皇子樣が、天下を御統治遊ばされましたなら、春の花のように貴いことでありましょうと、また秋の滿月のように滿ち足りてあるでしょうと、天下の四方の人々が大船のように頼みに思つて、天から降る雨露を仰ぐように仰いで待つていましたところ、どのようにお思いになつてか、縁故も無い眞弓の岡に宮柱をお建て遊ばされ、御殿を御建造遊ばされて、朝の御言葉をお下しにならず、過ぎ行く月日も多くなつて行きましたので、それゆえにわが皇子の宮の人々は、何とも途方に暮れていることであります。
【構成】この歌は二段から成つている。初めから「神上り上り坐しぬ」まで第一段、天地開闢以來の事から敍し、天武天皇の上までを敍している。わが大君以下第二段、ここに草壁の皇子の薨去せられ御墓の前に殯宮を造つて、お祭り申し上げることを敍している。第二段に中心があり、第一段は準備的敍述である。
【釋】天地之初時 アメツチノハジメノトキ。アメツチは、天と地で、世界、宇宙の意をあらわす。元來アメに對しては、クニの語が對語として使用されていた。クニは、人文的な意味において地上をいう語であるが、大陸から天地の熟字が渡來するに及んで、物質的な意味に、アメツチの譯語が採擇された。その初めの時とは、宇宙の始期をいい、古事記の天地初發の時というのと同じである。
 天河原尓 アマノガハラニ。アマノガハラは、天上にあるという川の河原。古事記に安の河原という。
 八百萬千萬神之 ヤホヨロヅチヨロヅガミノ。ヤホヨロヅもチヨロヅも、極めて多數の義にいい、疊語を以(480)つて表現している。「五百萬《イホヨロヅ》 千萬神之《チヨロヅガミノ》」(卷十三、三二二七)というも同じである。
 神集集座而 カムツドヒツドヒイマシテ。神の動作を述べる動詞に、カムの語をつけていうことは、續いて神分チ分チシ時ともいい、「神留坐」(祈年祭祝詞)、「神問【志爾】問志賜、神拂掃賜【比?】(大祓の詞)など用例が多い。カムツドヒイマスとは、神の集合される意であつて、「是以、八百萬神、於2天安之河原1、神集々而【訓v集云2都度比1】」(古事記上卷)とあると同意である。
 神分分之時尓 カムワカチワカチシトキニ。カムハカリハカリシトキニ(舊訓)、カンクハリクハリシトキニ(童)、カムアガチアガチシトキニ(古義)等の諸訓がある。カムワカチワカチシトキニは、代匠記の一説である。分をハカルと讀むのは、議するの意によるものであるが、分をハカルと讀むのは無理であつて、ワカツと讀むことの正常なのに及ばない。ワカツとは、神々をそれぞれの國土に配分して領知せしめる義であつて、天地の初めに、かようなことがなされたことは、古事記日本書紀の記事には見えないが、古くはさような神話もあつたことと考えられる。その例證としては、日本書紀、垂仁天皇紀、一云に、「是時、倭大神、著2穗積臣遠祖大水口宿禰1而誨之曰、太初之時、期曰、天照大神、悉治2天原1、皇御孫尊、專治2葦原中國之八十魂神1、我親治2大地官1者、言已訖焉」とある。これは倭の大神の託宣の詞であるが、その内容は、よくこの人麻呂の歌にいう所と一致する。かような神話があつて、託宣の詞ともなつたものなるべく、この神話は、古事記日本書紀の結成に當つては、異端として削り去られたのであろぅ。柿本氏は、倭の大神を祭る大和神社の鎭座する處から遠くない地に住み、かような神話を傳えて、この歌ともなつたのであろう。この歌は、古事記日本書紀の成立以前に作られたので、かような傳えによつたと見るべく、すべて文字に表示されていることに基いて訓詁はなさるべきである。すなわち神々が天の河原に集合されて、領知すべき世界を分かつた時に、天照らす大神には高天の原、皇御孫の尊には葦原の水穗の國を配當されたというのである。
(481) 天照日女之命 アマテラスヒルメノミコト。天照らす大神に同じ。日本書紀神代の上に、「於v是共生2日神1、號2大日〓貴1【大日〓貴、此云2於保比?灯\武智1】」とあり、その一書に「天照天日〓尊」とある。日の女神の義である。
 一云指上 アルハイフ、サシノボル。サシノボルは枕詞。日に冠する。
 天乎婆所知食登 アメヲバシラシメセト。天照らす大神に、天を統治したまえと定められたの意。トは、上文を受けて、文を中止し、またの意に次の文につづく。
 葦原乃水穗之國乎 アシハラノミヅホノクニヲ。以下別の事になるから、句の上に、マタの如き語を補つて解すべきである。葦原の水穗の國は日本の別名で、古事記日本書紀にもしばしば見えている。古事記天孫降臨の段には「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」とあり、日本書紀神代の下には、これを漢譯して「葦原千五百秋之瑞穗國」とある。葦原とは、アシの自生している原野をいい、やがて開發して豐穣な美田とすべき素質の地であることを表示する。千秋の長五百秋、もしくは千五百秋とは、永久の年數をいい、秋とは穀物の成熟する季節であつて、これを以つて年の意味を表示する。水穗もしくは瑞穗とは、生々たる穀物の穗であり、それはイネを代表としてアワその他の穀物をも含んでいう。永久に穀物の生々として成熟する國の義である。これに葦原ノを冠するのは、葦原の地で永久に穀物の成熟する國の意である。それを略して葦原の水穗の國というのである。契沖の萬葉代匠記には、「舊事記ヲ初テ及ヒ此集ニ至ルマテ、只、葦原瑞穗國ト云ヒ、此集第二ニハ、人麿歌ニ、葦原トモ云ハスシテ、水穗國トノミモヨマレタレハ、稻穗ニハアラス」とて、古く稻の穗について稱美する詞とされているのを否定し、葦原を美《ホ》めたので、アシの穗の瑞穗の國であるとしている。しかしなお穀物の穗についていうとすべきである。これは日本の國土をいい、その國土を知ろしめすために、天孫が降下されるとする思想である。
 天地之依相之極 アメツチノヨリアヒノキハミ。永久の意味を、具體的にあらわしていることは、「天地乃(482)依會限《アメツチノヨリアヒノカギリ》 萬世丹《ヨロヅヨニ》 榮將v往迹《サカエユカムト》」(卷六、一〇四七)、「天地之《アメツチノ》 依相極《ヨリアヒノキハミ》 玉緒之《タマノヲノ》 不v絶常念《タエジトオモフ》 妹之當見津《イモガアタリミツ》」(卷十一、二七八七)などの例に徴してもあきらかである。語義については、一旦分かれた天地が、遠く久しい世のはてにふたたび合體しよう時までと解せられている。この語の參考としては、「天雲乃《アマグモノ》 曾久敝能極《ソクヘノキハミ》(卷三、四二〇)の語があるが、これは天雲の退く方を限界とする意に解せられ、これに準じて考えるとすれば、天地の寄り合いを限界とする意に解すべきである。これを將來天地の寄り合うのを限界とする意に解しようとするは無理である。天地がたがいに寄り合つて、宇宙を構成している、その寄り合いの解けないあいだはの意とすべきである。
 所知行 シラシメス。この行の字の用法は古事記に、看行(中卷)、見行(下卷)、續日本紀に、所見行、所知行須などある例であつて、おこなう意に添えるといわれている。御統治になる意に、次の句の神の命を修飾する。
 神之命等 カミノミコトト。ミコトは尊稱。神樣として。
 天雲之八重掻別而 アマグモノヤヘカキワキテ。高天の原から葦原の水穗の國にお降りになる?を説く。ヤヘは、天の雲の幾重ともなくかさなつているをいう。「押2分天之八重多那雲1而、伊都能知和岐知和岐弖、於2天津橋1、早岐士麻理蘇理多々斯弖、天2降坐于筑紫日向高千穗之久士布流多氣1」(古事記上卷)。「且排2分天八重雲1、稜威之道別道別而、天2降於日向襲之高千構峯1矣」(日本書紀、神代下)など傳えている。
 天雲之八重雲別而 アマグモノヤヘグモワキテ。本文の句と同じ意味を、語を變えて傳えている。
 神下座奉之 カムクダシイマセマツリシ。神々が、天孫をお降し申しての意。イマセは、敬語の使役法で、そうおさせ申すの意になる。高天の原からこの國に下したというのは、歴史的にいえば、天孫瓊々杵の尊であるが、下の句にこれを受けて、飛ブ鳥ノ淨ミノ宮ニ神ナガラ太敷キマシとあるによれば、その宮にましました(483)方、すなわち天武天皇(もしくは日竝みし皇子の尊)ということになる。この國に御出現御降誕になつたことを、天から降られたという思想で表現しているのである。以上葦原ノ水穗ノ國からこの句まで、次の高照ラス日ノ皇子の修飾句になつている。
 高照日之皇子波 タカテラスヒノミコハ。この句は、天照ラス日女ノ命の句と竝んで、上の神分チ分チシ時ニを受けており、その意味でいえば、天孫の意になるが、それは思想としてであつて、實際的には、次の飛ぶ鳥の淨みの宮にいました方をさしている。文章の上からいえば、時代錯誤が行われている。
 飛鳥之淨之宮尓 トブトリノキヨミノミヤニ。トブトリノキヨミノミヤは、天武天皇の宮室である明日香の淨御原の宮である。日本書紀、天武天皇紀に、朱鳥元年七月の條に、「戊午、改v元曰2朱鳥元年1、仍名v宮曰2飛鳥淨御原宮1」とある。飛ぶ鳥の明日香といつた、その飛鳥の字を用いてただちにアスカの地名にも當て、本集にもアスカと讀むべきものがあるが、このあたりの歌中にはアスカの地名には、常に明日香とのみ書いているから、澤瀉博士の説によつて、トブトリノと讀むがよかろう。キヨミは淨み原のキヨミで體言になる。
 神隨 カムナガラ。既出(卷一、三八)。神なるがゆえに。
 太布座而 フトシキマシテ。既出(卷一、三六)。フトは雄大性を示す接頭語。シキは占有、領有の意の動詞。かく飛ぶ鳥の淨みの宮を御占有になるという敍述は、天武天皇の御事をいうと考えられる。この歌の主たる日竝みし皇子の歌について述べようとして、まず先帝の御上を敍したものである。但し卷の一、輕の皇子が安騎の野に出遊された時の歌に、太敷カス都ヲ置キとあるは、輕の皇子の事であるから、ここの太敷キマシテも、日竝みし皇子の尊に關することとしても解せられる。
 天皇之 スメロキノ。この天皇の語は、汎稱として使用せられ、主として、前の代の天皇をいう。
 敷座國等 シキマスクニト。領有せられる國として。クニは、高天の原をいう。トは、としての意。天皇は、(484)統治の事終れば、天に還りたまうという思想である。
 天原石門乎開 アマノハライハトヲヒラキ。イハトは、堅固な門の義。イハは、岩石の義であるが、堅固の意に使われる。磐船などの例である。高天の原の入口に門戸ありとする思想である。日本書紀卷の二、神代の下、天孫降臨の章の第四の一書に、「引2開天磐戸1、排2分天八重雲1以奉v降之」とあるは、降下の記事であるが、磐戸を引きあけて降したとある。これは、墳墓の入口に岩を立てる風習と結合して、石門を開いて墳墓に入ることを、石門を開いて天に上るという形で表現するようになつたのである。そうして高天の原の入口に石門ありとする思想を生じたと見られる。
 神上上座奴 カムアガリアガリイマシヌ。神としての行動なので、神あがりという。アガリは天に昇る意。以上第一段、皇子の薨去のことを言おうとして、まず神話時代から説き起し、天武天皇の崩御にまで及んでいる。
 神登座尓之可婆 カムノボリイマシニシカバ。この別傳によれば、段落とならずに、以下の文に繼續することになる。この別傳では、上の高照らす日の皇子を以つて、日竝みし皇子の尊の事とする解釋は成立しない。これに依つても、第一段は、天武天皇の事を敍したとするを正解とすべきことが知られよう。
 吾王皇子之命乃 ワガオホキミミコノミコトノ。ワガオホキミは、皇子の命を修飾する。わが大君にまします皇子の命の意である。この皇子の命は、日竝みし皇子の尊をさす。
 天下所知食世者 アメノシタシラシメシセバ。天下を統治せられるとせばの意の假設條件法。皇子は皇太子であり、朱鳥元年九月天武天皇の崩御後即位せらるべきであつたが、その後四年目の四月に薨去されたのである。
 春花之 ハルバナノ。枕詞。譬喩によつて貴カラムを修飾している。春の花のように貴くあるだろうの意で(486)ある。
 貴在等 タフトカラムト。天皇として仰ぐことが貴いだろうとの意で、下の思ヒ憑ミテに續く。
 望月乃 モチヅキノ。枕詞。十五夜の滿月のようにの意に、譬喩として、次の滿ハシに冠する。
 滿波之計武跡 タタハシケムト。タタハシは、滿ち足りてある意の形容詞で、動詞湛フから轉成したものである。靈異記に、偉にタタハシクの訓詁があり、本集に、「十五月之《モチヅキノ》 多田波思家武登《タタハシケムト》」(卷十三、三三二四)の用例がある。タタハシケまでが形容詞で、シケは形容詞の活用形である。ムは助動詞。以上二句は、春花ノ貴カラムトの句と對句を成して、下の思ヒ憑ムに接續している。
 食國 ヲスクニノ。上の天ノ下の別傳である。御領土の意。本文の天ノ下の方が大きい。
 四方之人乃 ヨモノヒトノ。天下の諸方の人の意。
 大船之 オホブネノ。枕詞。大船は、安心せられ頼みになるので、憑ムに冠する。
 思憑而 オモヒタノミテ。心に信頼し思つて。
 天水 アマツミヅ。枕詞。天の水の義で、雨雪露の類をいい、その天から降るものなのにつけて、譬喩として仰グに冠する。「彌騰里兒能《ミドリゴノ》 知許布我其等久《チコフガゴトク》 安麻都美豆《アマツミヅ》 安布藝弖曾麻都《アフギテゾマヅ》」(卷十八、四一二二)。
 仰而待尓 アフギテマツニ。御即位になることを仰いで待つ所にの意。事實としては、天武天皇の崩後、適當の時期に、この皇子が即位せらるべきに定まつておつた。それが急速に運ばないで、母君なる皇后(持統天皇)が政務を見られたのは、大津の皇子の謀反があり、その他にも異腹の皇兄があつて、皇子の急速な即位を不便とする情勢にあつたものと考えられる。
 何万尓御念食可 イカサマニオモホシメセカ。既出(卷一、二九、卷二、一六二)。副詞句であるが、獨立句としての性質を感じて使用されたらしい。この句は、下の明言ニ御言問ハサズまでに懸かる。
(486) 由縁母無 ツレモナキ。下に「所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊爾《サダノヲカベニ》」(卷二、一八七)とあり、假字書きには、「都禮毛奈吉《ツレモナキ》 佐保乃山邊爾《サホノヤマベニ》」(卷三、四六〇)、「津禮毛無《ツレモナキ》 城上宮爾《キノヘノミヤニ》」(卷十三、三三二六)などある。ツレは、由縁、所由の文字通り、縁故、關係の義で、縁の無い、ゆかりの無いの意に、次の句の眞弓ノ岡を修飾する。由縁は、字に即してはヨシと讀まれる。
 眞弓乃岡尓 マユミノヲカニ。眞弓の岡は、奈良縣高市郡越智岡にあり、そこに皇子の墓が築かれているのであるが、この歌によれは、まずその地に殯宮が設けられたのである。
 宮柱太布座 ミヤバシラフトシキマシ。宮柱太シクとは、宮殿建造を壯大にするの意の熟語句。卷の一、三六參照。みずから宮殿を營まれる意に、敬語の助動詞マシを使用している。
 御在香乎 ミアラカヲ。ミアラカは、御在處の意で、宮殿をいう。ここは殯宮のこと。
 高知座而 タカシリマシテ。タカシリは、宮殿の高大を稱える動詞。宮殿を高々と御造營になる意である。この二句、上の宮柱太シキマシの句と對句になつている。
 明言尓 アサゴトニ。
   アサゴトニ(神)
   アラゴトニ(新考)
   ――――――――――
   明暮爾《アケクレニ》(童)
 明の字を朝の意に使つたのは、下に、「明者《アシタハ》」(卷二、二一七)の例がある。よつてこのままでアサゴトニと讀む。朝毎にの意であるとする説があるが、次に「御言不2御問1《ミコトトハサズ》」の句があるよりしてみれば、毎の意とせずして、言辭の義と解するを妥當とする。また原文のままにアカゴトニと讀むことも考えられる。アカは、曉《あかとき》、明星などのアカと同じく、明るい意であるが、明言と熟しては、明白な言語の意になるであろう。ニは、明言の性質にての意。しかし今、例のあるによることとする。
(487)御言不御問 ミコトトハサズ。御言を仰せられずの意。次の日月ノマネクナリヌレを修飾している。以上下のマネクナリヌレと共に上のオモホシメセカを受けている。
 日月之 ヒツキノ。この日月は、時間の上にいう日月である。
 數多成塗 マネクナリヌレ。マネクは度數の多いことをいう。ナリヌレは、ナリヌレバの意の條件法。段落ではない。
 其故 ソコヱニ。ソコは、その點の意に、上の句を受けている。「所虚故《ソコヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》」(卷二、一九四)などある。
 皇子之宮人 ミコノミヤビト。皇子の宮殿に奉仕していた人々。
 行方不知毛 ユクヘシラズモ。ユクヘは、行くべき方。それを知らないは、途方に暮れる意である。この種の用例としては、「埴安乃《ハニヤスノ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》」(卷二、二〇一)などある。「物乃部能《モノノフノ》 八十氏河乃《ヤソウヂガハノ》 阿白木爾《アジロギニ》 不知代經浪乃《イサヨフナミノ》 去邊白不母《ユクヘシラズモ》」(卷三、二六四)の用例などは、これと違う用法で、形あるものについて言つている。モは感動の助詞。以上第二段、皇子の薨去を敍し、奉仕した人々の上に及んでいる。
 刺竹 サスタケノ。枕詞。宮、大宮に冠するが、その所以をあきらかにしない。假字書きのものの一例を除いては、皆サスタケに刺竹の文字を使用しているのは、その字義を感じて使用していたのであろう。以下は、本文のソコユヱニ以下の別傳である。「佐須陀氣能《サスダケノ》 枳瀰波夜那祇《キミハヤナキ》」(日本書紀一〇四)の例は、聖コ太子の御歌と傳えるもので、君を修飾しているが、これを本義とすれば、ここも皇子、もしくは宮人に冠するものであろう。語意は、立ツ竹ノで、貴人の姿を竹にたとえるのだろうか。竹を貴人の譬喩に使うことは、ナヨ竹のトヲヨル皇子、ナヨ竹ノカグヤ姫などの例がある。
(488) 歸邊不知尓爲 ユクヘシラニス。ニは、打消の助動詞ヌの連用形であるが、この形で副詞を構成している。「得難爾爲云《エガテニストフ》」(卷二、九五)などと同樣、動詞|爲《す》がこれを受けている。
【評語】この歌は、神話時代から説き來つて雄大を極めている。人麻呂が皇子の薨去を悼む歌は、古代から説き起すを常としているが、これもその一である。これはこの皇子が皇太子として帝位に上るべき御方であつただけに、高天の原からお降りになつたお方である義をあきらかにしようとして、古來の傳えを歌つたものである。しかし先帝天武天皇が高天の原からお降りになつたことを説くあたりは、時代の混亂があり、詞句表現が不備であつて、豫備知識無しには思想を完全に解し得ないだろう。人がこの皇子に期待することが多かつたのに、これに添わなかつた有樣はよく描かれている。結末は、皇子の宮人の途方に暮れることを概括的に敍しており、作者としての感想は、むしろ反歌において現わされているのである。
 
反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見るごとく
 仰ぎ見し
 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒れまく惜しも。
 
 久堅乃《ヒサカタノ》 天見如久《アメミルゴトク》
 仰見之《アフギミシ》
 皇子乃御門之《ミコノミカドノ》 荒卷惜毛《アレマクヲシモ》
 
【譯】かの大空を見るように仰いで見たわが皇子の御殿の、荒れようとするのが擁念である。
【釋】天見如久 アメミルゴトク。天を見るようにの意に、次の句を修飾している。
 仰見之 アフギミシ。連體形の句で、次の句に接續している。宮殿の高大なのを感じさせている。
 皇子乃御門之 ミコノミカドノ。ミカドは、宮殿の御門であり、これを以つて宮殿を象徴代表している。
(489)荒卷惜毛 アレマクヲシモ。アレマクは荒れむこと。皇子ましまさずして、その宮殿の荒廢するを惜しんでいる。
【評語】長歌の、天ツ水仰ギテ待ツニを受けて、しかも、御門を仰ぎ見る意に轉用している。その宮殿は、下の舍人等の歌には、橘ノ島ノ宮と歌つている。それらの舍人等の作の中にも、同じ思想の歌があつて、その宮殿に奉仕した人々の悲哀をよく語つている。
 
169 茜《あかね》さす 日は照らせれど、
 ぬばたまの 夜《よ》渡る月の
 隱《かく》らく惜しも。
 
 茜刺《アカネサス》 日者雖2照有1《ヒハテラセレド》
 鳥玉之《ヌバタマノ》 夜渡月之《ヨワタルツキノ》
 隱良久悟毛《カクラクヲシモ》
 
【譯】赤々と日は照らしているけれども、暗い夜を渡る月の隱れることが殘念である。
【釋】茜刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。ここは赤色を帶びる意に日に冠している。
 日者雖照有 ヒハテラセレド。日は照り渡つているが。逆態條件法。
 烏玉之 ヌバタマノ。既出(卷二、八九)。枕詞。
 夜渡月之 ヨワタルツキノ。ワタルは經過するをいう。夜空を渡る月の意で、月は皇子を譬えている。
 隱良久惜毛 カクラクヲシモ。カクラクは隱れること。皇子の薨去を、月の隱れることに譬えている。前の歌の末句と同形を用いている。
【評語】譬喩の形式に依つて、皇子の薨去を、お悼み申し上げている。内容の思想的な點に特色のある作品である。日竝みし皇子の尊の御稱號は、天皇の御もとにあつて皇太子としてましましたことを、日に竝んでおいでになる御方といぅ意味に申し上げたので薨後の謚號のようである。この歌でも「日は照らせれど」で、天皇(490)の嚴としてましますことを述べ、これに對して月とも仰がれる皇子のお隱れになつたことを悼んでいる。その譬喩は適切であるが、一面、日は照つているが、月の隱れるのが惜しいという、實際に起らないことを譬喩とした點には、無理がある。
 
或本、以2件歌1、爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也。
 
或る本に、件の歌を、後の皇子の尊の殯の宮の時の歌の反とせり。
 
【釋】或本 アルマキニ。右の歌の性質に關する別傳であるが、いかなる書とも知られない。
 以件歌 クダリノウタヲ。右の茜サスの歌をいぅ。
 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子。草壁の皇子に對して後の皇子の尊という。
 歌反 ウタノカヘシ。反歌に同じと見られるが、歌の反歌の略稱であるか、または國語にカヘシと言つたかは不明である。
 
或本歌一首
 
【釋】或本歌 アルマキノウタ。上の日竝みし皇子の尊の殯宮の時に柿本の朝臣人麻呂の作れる歌という題詞を受けて、別の書から、同じ作歌事情のもとにある歌を録したと認められる。或る本にこれを前の長歌の反歌として載せている意味であるか否か不明である。またその或る本のいかなる書であるかも知られない。
 
170 島の宮 勾《まがり》の池の 放ち鳥、
 人目に戀ひて 池に潜《かづ》かず。
 
 島宮《シマノミヤ》 勾乃池之《マガリノイケノ》 放鳥《ハナチドリ》
 人目尓戀而《ヒトメニコヒテ》 池尓不v潜《イケニカヅカズ》
 
(491)【譯】島の宮の勾の池の放し飼いにしてある鳥は、人目を戀しがつて、池に潜《くぐ》らない。
【釋】島宮 シマノミヤ。皇子の宮殿である。下に「橘之《タチバナノ》 島宮爾波《シマノミヤニハ》](巻二、一七九)とある。橘は、今、奈良縣高市郡、飛鳥川の左岸にある地で、その地に皇子の宮殿が造營されたのであろう。シマは、庭園、林泉の義で、島の宮は、庭園を作り成した宮殿の義である。
 勾乃池之 マガリノイケノ。マガリノイケは、池の形のまがつているによつていう。まがつている形の餅をマガリということを經由している譬喩だろう。島の宮の御池である。
 放鳥 ハナチドリ。放し飼いにしてある鳥で、池ニ潜カズともあり、水鳥であることが知られる。
 人目尓戀而 ヒトメニコヒテ。皇子の薨去により、人氣うとくなつたので、鳥もさびしげにある意である。
 池尓不潜 イケニカヅカズ。鳥も水に潜らず、悄然としてあるをいう。
【評語】皇子無き跡の宮殿の寂寥を描いている。悲哀を露骨に言わないで、よくその情を寫している。下の、「島の宮池の上なる放ち鳥」(卷二、一七二)の歌と、同じ題材により、しかもこの方が趣が深い。
 
皇子尊宮舍人等、慟傷作歌二十三首
 
皇子の尊の宮の舍人等の、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
 
【釋】 皇子尊宮舍人等 ミコノミコトノミヤノトネリラ。ミコノミコトは、日竝みし皇子の尊をいう。この前に柿本の人麻呂の皇子を悼んだ長歌とその反歌とがあつて、その題詞に、日竝みし皇子の尊と御名をあらわしてあるので、ここに單に皇子の尊とのみ書いたのである。その日竝みし皇子の薨逝を悼み悲しんで詠んだ歌である。舍人は、職名で、護衛、雜仕、宿直等に當る。東宮には六百人の舍人が置かれた。當時の制、官仕しようとする者を、まず舍人としたので、その位置は低いが、有爲の青年もこれにはいつている。柿本の人麻呂の(492)如きも、この皇子の舍人であつたように考えられる。その作歌二十三首は、一人の作か、多數の人の作か、不明である。人麻呂も加わつているかも知れず、全部人麻呂の作とする説もあるが、それも確認しがたい。
 
171 高光る わが日の皇子《みこ》の
 萬代に 國知らさまし
 島の宮はも。
 
 高光《タカヒカル》 我日皇子乃《ワガヒノミコノ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 國所v知麻之《クニシラサマシ》
 島宮波毛《シマノミヤハモ》
 
【譯】日のように輝く御子なる、わが皇子樣の、萬世に國家を、御統治遊ばすべきであつた、この島の宮はなあ。
【釋】 高光 タカヒカル。枕詞。高大に照り輝く意に、日に冠する。古事記中卷に、「多迦比迦流《タカヒカル》 比能美古《ヒノミコ》」(二九)とあるを初めとし、古歌に例證があり、歌いものから來た語であることが知られる。
 我日皇子乃 ワガヒノミコノ。親愛の意を以つてワガに冠する。ヒノミコは、日のような尊い御子の意に、日竝みし皇子の尊をさす。
 萬代尓國所知麻之 ヨロヅヨニクニシラサマシ。マシは不可能の希望をいうので、萬代に國を領すべきであつたが、事實そうではなかつたことをあらわす。この句は下に續く蓮體法である。
 島宮波毛 シマノミヤハモ。島の宮は、前の歌參照。ハモは、提示し感歎する意の助詞。別けていえは、ハは提示、モは感動。ハで言い出して、モで感動をあらわした言い方で、感迫つて言うに堪えず、言うに及ばない時に使用される。古事記中卷、弟橘比賣の命の歌に、「さねさし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(二五)などある。
【評語】上の方を雄大に敍し、末句に至つて、それを逆轉急折する表現法である。上の方が雄大であればある(493)ほど效果が多い。下の、「天地と共に終へむと思ひつつ」の歌(卷二、一七六)の如きも、同型の歌である。この歌、マシの一語を除けば、祝賀の意となり、千代かけて君の國家を統治せらるべき宮をほめる意となる。その然らざる所以は、實にマシにそうあるべくしてあり得なかつたの意があるからである。マシはみだりに祝賀の歌に使うべからざる所以である。賀茂の眞淵の新築を成つて詠んだ歌に「飛騨匠《ひだたくみ》ほめて作れる眞木柱たてし心は動かざらまし」というのがあるが、この歌など、マシの用法を誤つたもので、動かないことを望むが、動いてしまつたの意になるのである。
 
172 島の宮 上の池なる 放《はな》ち鳥、
 荒《あら》びな行きそ 君|坐《ま》さずとも。
 
 島宮《シマノミヤ》 上池有《ウヘノイケナル》 放鳥《ハナチドリ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》 君不v坐十方《キミマサズト》
 
【譯】島の宮の上の池に飼つてある放ち鳥よ、荒び行くな。よし君がおいでならなくても。
【釋】上池有 ウヘノイケナル。上にも下にも池があつて、段々に水が流れ下るのであろう。萬葉考は、池の上なるの誤りとし、現に神田本に「池上有」に作つているが、訂正するにも及ぶまい。一七〇の歌に勾の池とあるも、この池であろう。 放鳥 ハナチドリ。既出(卷二、一七〇)。
 荒備勿行 アラビナユキソ。ナは禁止の助詞。君無くとも、すさび行くなかれの意。
 君不座十方 キミマサズトモ。君は日竝みし皇子の尊。
【評語】遺愛の鳥に、思いを寄せている。倭姫の皇后の御歌、「若草の嬬の念ふ鳥立つ」の歌とも通う所のある歌である。上掲の島ノ宮勾ノ池ノ放チ鳥の歌と、同人の作とも見れば見られる歌である。
【參考】類想。
(494)  御立せし島をも家と住む鳥も荒びな行きそ。年かはるまで(卷二、一八〇)
 
173 高光る わが日の皇子《みこ》の 坐《イマ》しせば、
 島の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを。
 
 高光《タカヒカル》 吾日皇子乃《ワガヒノミコノ》 伊座世者《イマシセバ》
 島御門者《シマノミカドハ》 不v荒有益乎《アレザラマシヲ》
 
【譯】日のように光り輝く、わが皇子樣が、おいで遊ばされたなら、この島の宮殿は、荒れなかつたろうものを。
【釋】高光吾日皇子乃 タカヒカルワガヒノミコノ。一七一參照。
 伊座世者 イマシセバ。イマシは、動詞イマスの體言形。座はマスとも讀むので、特に伊の字を書き添えたのであろう。
 島御門者 シマノミカドハ。ミカドは宮殿。シマノミカドは、島の宮に同じ。音數の關係で島の御門といつている。
 不荒有益乎 アレザラマシヲ。ヲは感動の助詞。荒れなかつたろうものを。
【評語】高光ルワガ日ノ御子の語は、歌いものから來た熟語であるが、しかし、これに依つて皇子の高大性がよく表現せられ、この歌の如きにおいて、特にそれが有力に響いている。もし君がいましたらというはかない希望の云い方は、挽歌に常に見られる所であるが、この歌では、類型的な感じを抱かせないのは、他の詞句が多く具體的に敍述しているからである。島ノ御門の語も、高光ルワガ日ノ御子の語に對應して一首の内容を壯大にしている。
 
174 外《ヨソ》に見し 眞弓の岡も
(495) 君|坐《ま》せば、
 常《とこ》つ御《み》門《かど》と 侍宿《とのゐ》するかも。
 
 外尓見之《ヨソニミシ》檀乃岡毛《マユミノヲカモ》
 君座者《キミマセバ》
 常都御門跡《トコツミカドト》 侍宿爲鴨《トノヰスルカモ》
 
【譯】今までは外《よそ》に見ておつた、この眞弓《まゆみ》の岡も、わが皇子の殯宮となつたので、宿直をすることである。
【釋】外尓見之 ヨソニミシ。從來、關係無き地として見ていたの意。
 檀乃岡毛 マユミノヲカモ。マユミは、樹名。マユミノヲカは、眞弓の岡に同じ。御墓所であるが、この歌では、まだ殯宮が置かれてあつて、それについて歌つているのであろう。
 君座者 キミマセバ。亡き皇子を、いますが如くに取り扱つている。
 常都御門跡 トコツミカドト。トコは、恒久不變の意。ツは助詞。トコツミカドは、永久の宮殿。下のトは、としての意。御墓所に殯宮を作るので、常ツ御門という。
 侍宿爲鴨 トノヰスルカモ。侍宿は、漢文から來た熟字で、宮殿に宿泊して非常に備えるをいう。舍人たちは、今はこの殯宮に侍宿するのである。
【評語】亡き人の生前と變わつた生活をするようになつたことを歌つている。これも挽歌の一格であつて、他にも例が多い。この一連の中にも、一七五、一七九、一九三の如きは、この種の歌である。從來何のゆかりも無かつた眞弓の岡が、今は君の御座所となり、そこに宿直するという、舍人としての深い感慨が歌われている。
 
175 夢《いめ》にだに 見ざりしものを、
 おほほしく 宮|出《で》もするか。
 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を。
 
 夢尓谷《イメニダニ》 不v見在之物乎《ミザリシモノヲ》
 鬱悒《オホホシク》 宮出毛爲鹿《ミヤデモスルカ》
 佐日之隈廻乎《サヒノクマミヲ》
 
(496)【譯】夢にも思わなかつたものを、鬱々として、出仕をすることだなあ。この佐日の曲り道を。
【釋】夢尓谷 イメニダニ。ダニは、他はおいてこれだけもの意をあらわす助詞。現實はいうまでもなく、夢にもの意。
 不見在之物乎 ミザリシモノヲ。かように檜隈を通つて出勤するとは、夢にも見なかつたの意で、意外の心をあらわしている。
 鬱悒 オホホシク。假字書きの例には、於保保思久、於煩保之久、意保々斯久、大欲寸など書いてある。これによれば、清音に讀むべきことが知られる。煩は、韻鏡外轉第二十二合、脣濁に屬しているが、また字書に符袁切ともあつて、清音にも通じたのである。集中、能煩流、保呂煩散牟など濁音に用い、また於煩呂加爾など清音にも用いている。表意文字として鬱悒は、漢文から來た文字であり、また鬱、不明、不清などの文字に、この語を當てて訓としている。語義は、オホオホシの約言なるべく、明白でない意から、心中の鬱々として晴れがたきをいう。「海未通女《アマヲトメ》 伊射里多久火能《イザリタクヒノ》 於煩保之久《オホホシク》 都努乃松原《ツノノマツバラ》 於母保由流可聞《オモホユルカモ》」(巻十七、三八九九)の如きは、ぼんやりと見えるのを形容している。心情に関しては心中の鬱々として晴れ難く慰め難きをいう。「多良知子能《タラチシノ》 波々何目美受提《ハハガメミズテ》 意保々斯久《オホホシク》 伊豆知武伎提可《イヅチムキテカ》 阿我和可留良武《アガワカルラム》」(巻五、八八七)の如きその用例で、ここもそれに同じである。
 宮出毛爲鹿 ミヤデモスルカ。ミヤデは、宮中に出ること、出動。「左夫流兒爾《サブルコニ》 佐度波須伎美我《サドハスキミガ》 美夜泥之理夫利《ミヤデシリブリ》」(巻十八、四一〇八)の例は、宮出の後姿を、ミヤデシリブリと言つている。カは感動の助詞。句切。
 佐日之隈廻乎 サヒノクマミヲ。サは接頭語で、日の隈は地名である。意は、檜の生い茂つている山の曲つた隈をいうのであろう。突出した地形が埼であるに對して、入り込んだ地形が隈である。ミはその彎曲してい(497)ることを示す接尾語。この地、普通に檜隈と書く。奈良縣高市郡眞弓村の南方の地名。「佐檜乃熊《サヒノクマ》 檜隈川之《ヒノクマガハノ》 瀬乎早《セヲハヤミ》」(卷七、一一〇九)「佐檜隈《サヒノクマ》 檜隈河爾《ヒノクマガハニ》 駐v馬《ウマトドメ》」(巻十二、三〇九七)など詠まれている。眞弓の岡に赴くに通過した地である。
【評語】ここにも皇子の薨去によつて、意外のことをするようになつたことが敍せられている。孤影悄然として眞弓の岡に通う作者の姿が、よく描き出されている。
 
176 天地と 共に終《を》へむと 念《おも》ひつつ
 仕へまつりし 情《こころ》違《たが》ひぬ。
 
 天地與《アメツチト》 共將終登《トモニヲヘムト》 念乍《オモヒツツ》
 奉仕之《ツカヘマツリシ》 情違奴《ココロタガヒヌ》
 
【譯】天地のある間、これと共に終始しようと思いながら、お仕え申し上げていた心が違つてしまつた。
【釋】天地與共將終登 アメツチトトモニヲヘムト。ヲヘムは、動詞ヲフに將來をいう助動詞ムの添つたもの。天地が無くばやむを得ない。天地のあるあいだはこれと共に終ろうの意で、永久の意味を、具體的な想像によづてあらわしている。天地は變わらないものとする前提のもとに立つている思想である。
 奉仕之 ツカヘマツリシ。皇子に奉仕した意で、連體形。
 情違奴 ココロタガヒヌ。思うところに違つたの意である。
【評語】これも一氣に永久奉仕の信念を描き、最後に至つてそれが期待にはずれたことを述べている。天地と共に終ろうと思いつつ仕え奉つたというのが、いかにも大きな言い方である。
 
177 朝日照る 佐太《さだ》の岡邊に
 群《む》れゐつつ、
 わが哭《な》く涙 やむ時もなし。
 
 朝日弖流《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 群居乍《ムレヰツツ》
 吾等哭涙《ワガナクナミタ》 息時毛無《ヤムトキモナシ》
 
(498)【譯】日の照る佐太の岡のほとりに、群がつていて、吾等の泣く涙は、やむ時も無い。
【釋】朝日弖流 アサヒテル。實景を敍した句で、次の佐太の岡邊を修飾している。
 佐太乃岡邊尓 サダノヲカベニ。佐太の岡は、眞弓の岡に隣接しており、そこに奉仕の舍人等の控所があつたものと考えられる。下の一八七、一九二にもこの岡の名が見えている。
 群居乍 ムレヰツツ。殯宮奉仕の舍人等が群がつているのである。
 吾等哭涙 ワガナクナミタ。上の群レヰツツを受けて、ワガと言つている。ワガに吾等の字をあててある。訓讀では、吾でも吾等でも變りは無いが、上に群レヰツツとあるので、原文に吾等と用いたものである。吾等をワガと讀むものは、他にも例がある。そして事實は複數の吾であることを語つている。「野島我埼爾《ノジマガサキニ》 伊保里爲吾等者《イホリスワレハ》」(卷三、二五〇)、「何野邊爾《イヅレノノベニ》 廬將v爲吾等者《イホリセムワレ》」(卷六、一〇一七)、「水名沫如《ミナワノゴトシ》 世人吾等者《ヨノヒトワレハ》」(卷七、一二六九)。涙は、古事記に那美多、日本書紀に那彌多とあり、いずれもタは清音である。本集では、那美多(卷五、七九八)、奈美太(卷二十、四三九八、四四〇八)とある。
 息時毛無 ヤムトキモナシ。悲涙の絶えず流れるをいう。
【評語】朝日の光のもとに、白い喪服を著た多勢の壯士の泣くのは、悲壯である。夜の勤番を終えてか、または、これからの奉仕かは記述されていないが、多數の壯士が、ここに集合して、そのどの人も慟哭している。東宮の舍人は、有爲の青年が多くはいつていると考えられるが、それらの群衆慟哭を描いた、珍しい作品である。
 
178 御立《みたち》せし 島を見る時、
 行潦《にはたづみ》 流るる涙 止《と》めぞかねつる。
 
 御立爲《ミタチセシ》 島乎見時《シマヲミルトキ》
 庭多泉《ニハタヅミ》 流涙《ナガルルナミタ》 止曾金鶴《トメゾカネツル》
 
(499)【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を見る時、流れる涙は止めがたい。
【釋】御立爲 ミタチセシ。この句は、下の一八〇、一八一にもあり、同一の字面を使用し、一八八には、御立之と書いている。ミタチセシは舊訓であるが、ミタタシシ(考)、ミタタシノ(講義)等の諸訓がある。ミタタシシのタタシシは、用言であるから、それに接頭語ミの附著することなく成立しない。ミタタシノは、「御執乃《ミトラシノ》 梓弓能《アヅサユミノ》」(卷一、三)の例もあるが、それは現在の性質をいうのであつて、ここに過去の事實をいうに合わない。よつて舊訓をよしとする。ミタチは、ミユキ(行幸、御幸)と同一組織の語であつて、本集には、「舶騰毛爾《フナトモニ》 御立座而《ミタチイマシテ》」(卷十九、四二四五)があり、それも、ミタチイマシテと讀まれる。また垂仁天皇の山陵を、古事記に、菅原の御立野の中にありとし、高市の皇子の御墓の所在を三立の岡といい、播摩國風土記に「御立阜、品太天皇登2於此阜1覽v國。故曰2御立岡1」、古事記下卷、仁コ天皇記に「爾天皇、御2立其大后所v坐殿戸1」とあるなどミタチと讀まれる例が多く、この語の存在し使用されたことが證明される。皇子の生前、お立ちになつた島の意に、次の句の島を修飾する。
 島乎見時 シマヲミルトキ。シマは、林泉庭園の義。いわゆる島の宮と呼ばれる宮殿の島である。
 庭多泉 ニハタヅミ。枕詞。流れるに冠する。倭名類聚砂に、「唐韻云、潦、和名爾波大豆美、雨水也」とあり、本集に「甚多毛《ハナハダモ》 不v零雨故《フラヌアメユヱ》 庭立水《ニハタヅミ》 大莫逝《イタクナユキソ》 人之應v知《ヒトノシルベク》」(卷七、一三七〇)、「爾波多豆美《ニハタヅミ》 流H等騰未可禰都母《ナガルルナミダトドミカネツモ》」(卷十九、四一六〇)など使用せられている。雨が降つて急に出る水であるが、語義については、ニハを、俄の義とする説と、前庭の義とする説とがある。いずれとも決しかねるが、庭の字を書いているのは、そういぅ語原意識があつたとも取れる。タツミのタツは、ユフダチ(夕立)のタツと關係あるべく、古義に、夕立などの際に庭に水の流れるのを、タツミガハシルという方言があると言つている。
 流涙 ナガルルナミタ。慟哭して落ちる涙であるが、自動的に流れるように敍している。
(500) 止曾金鶴 トメゾカネツル。トメは、停止する意の動詞の連用形。ゾは係助詞。カネは得ざる意の動詞。ゾを受けてツルと結んでいる。トドメカネツともいうべきを、中間にゾを入れていう例は、「奈麻強爾《ナマジヒニ》 常念弊利《ツネニオモヘリ》 在曾金津流《アリゾカネツル》」(卷四、六一三)の如きがあり、他の助詞を入れるものには、「君之使乎《キミガツカヒヲ》 待八兼手六《マチヤカネテム》」(同、六一九)の如きがある。
【評語】前の歌の、ワガ泣ク涙止ム時モ無シの率直雄勁なのにくらべて、流ルル涙止メゾカネツルには、曲折があり、止めようとしても止まらないさまが寫されている。ニハタヅミの語は、枕詞ではあるが、多く出る水の語義から、涙の多量であることを描くに役立つている。これは個人の立場で詠んだ歌である。
 
179 橘の 島の宮には 飽《ア》かねかも、
 佐太《さだ》の岡邊に 侍宿《とのゐ》しに行く。
 
 橘之《タチバナノ》 島宮尓者《シマノミヤニハ》 不v飽鴨《アカネカモ》
 佐田乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 侍宿爲尓往《トノヰシニユク》
 
【譯】橘の島の宮には飽きないのに、佐太の岡邊に侍宿しに往くことであるか。
【釋】橘之 タチバナノ。橘は地名、島の宮の所在地奈良縣高市郡飛鳥の地で飛鳥川の左岸に當る。その川を隔てた對岸の島莊村が、島の宮の舊址に擬せられているが、その邊を含めて橘と言つたか、または島の宮の舊址を他に求むべきかは、問題とされる。日本書紀推古天皇紀に、蘇我の馬子について、「家2於飛鳥河之傍1、庭中開2小池1、仍興2小島於池中1、故時人曰2島大臣1」とあり、飛鳥川の水を利用して池を作つたことが傳えられている。今の島の宮が、その蘇我の馬子の邸地であつたか否かは不明であるが、池の造られたのは、やはり飛鳥川の水が利用されたのであろう。然らば飛鳥川に接して構成されたものなるべく、その河邊を橘と稱したことが推考される。
 不飽鴨 アカネカモ。アカネは、飽き足らない、不十分の意。ネは打消の助動詞ヌの已然形。アカネバカの(501)意で、カモは疑問の係助詞。ネバに、已然順態條件法のと、逆態條件法にヌニの意に解すべきがある如く、このネバは、ヌニと解すべき方である。すなわち飽きないのにかと譯すべきである。飽きないのに侍宿しに行くことかの意。島の宮での奉仕は滿足しないのにか。
 佐田乃岡邊尓 サダノヲカベニ。既出(卷二、一七七)。そこに舍人等の奉仕すべき宿舍があつたようである。
 侍宿爲尓往 トノヰシニユク。トノヰは既出(卷二、一七四)。そのために行くのである。
【評語】これも薨後意外の勤仕をする意味が歌われている。橘は地名であるが、この語を冠して島の宮の印象を深くしている。その美しい宮殿を捨てて何の希望も無い佐太の岡に侍宿しに行く寂寥感が歌われている。
 
180 御立《みたち》せし 島をも家と 住む鳥も、
 荒《あら》びな行きそ。
 年|易《かは》るまで。
 
 御立爲之《ミタチセシ》 島乎母家跡《シマヲモイヘト》 住鳥毛《スムトリモ》
 荒備勿行《アラビナユキソ》
 年替左右《トシカハルマデ》
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園を、わが家として住む鳥も、野性に歸つて行くな、年が變わるまでも。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(卷二、一七八)。
 島乎母家跡住鳥毛 シマヲモイヘトスムトリモ。この宮の林泉をも、おのが家として住む鳥もで一七二の歌にあつた放ち鳥の水鳥をいう。
 荒備勿行 アラビナユキソ。既出(卷二、一七二)。
 年替左石 トシカハルマデ。トシカハルは、翌年になるをいう。左石をマデと讀むのは、左右手の義である。既出(卷一、三四)。
(502)【評語】遺愛の鳥につけて思いを述べている。一七二と類想の歌。ありし日の姿のままにその鳥を眺めて、亡き君を思おうとする心が歌われている。
 
181 御立《みたち》せし 島の荒礒《ありそ》を 今見れば、
 生《お》ひざりし草 生ひにけるかも。
 
【譯】皇子のお立ち遊ばされた庭園の荒い岩組を、今見れば、御在世の時には生えなかつた草も、長く生えたことだなあ。
【釋】御立爲之 ミタチセシ。既出(巻二、一七八)。
 島之荒礒乎 シマノアリソヲ。シマは庭園林泉の義。アリソはアライソの約で、イソは、岩石の重なりあつている處。アラはその形容で、けわしい氣分に用いる。荒礒は、後には海についた處にのみ用いちれているが、古くは庭園にも、川などにも用いる例である。
 今見者 イマミレバ。眞弓の岡の方へ行つており、しばらく見なかつたことが、この句であらわされている。
 不生有之草 オヒザリシクサ。以前御在世の時は、草なども生えなかつたものであるがの意に、生ヒザリシ草といつている。
 生尓來鴨 オヒニケルカモ。今は既に生えていることを歎息している。
【評語】四五句に、オヒを重ねて用いたのは、感慨の調子を深くするに足りる。從來生えなかつた草が生えたといつてはいるが、それは畢竟氣分の問題で、目前に生えている草に荒涼の氣を感じたのである。皇子の薨去には關係無く、草は生えるのであるが、それを今は荒涼たるものに感ずるので、荒涼たるは、自然にあらずして、作者の心に發する所である。「はしきかも皇子の命のあり通ひ見しじ活道の路は荒れにけり」(卷三、四七(503)九)の歌の如きも同樣に、君去つて山路の荒れたのを歎じている。人の死後に、すべてが變わつて感じられる心が歌われている。
 
182 鳥〓《トクラ》立て 飼ひし雁の兒、
 巣立ちなば、
 眞弓の岡に 飛び歸り來《こ》ね。
 
 鳥〓立《トクラタテ》 飼之雁乃兒《カヒシカリノコ》
 栖立去者《スダチナバ》
 檀岡尓《マユミノヲカニ》 飛反來年《トビカヘリコネ》
 
【譯】鳥小舍を立てて、飼ひ育てたカリが、巣立つて飛べるようになつたならば、御墓所の檀の岡に飛んで來るがよい。
【釋】鳥〓立 トクラタテ。〓は、美夫君志に栖の俗字としている。しかし下に栖の字が使われているから、別字とするのがおだやかである。トクラは、倭名類聚鈔に、「孫?切韻云、穿v垣栖v鷄曰v塒。音時、和名止久良」とある。鳥を据えておく所で、鳥座すなわち、鳥の居場所の義である。集中「枕附《マクラツク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須恵?曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(巻十八、四一五四)とある。タテは、それを設ける意。
 飼之雁乃兒 カヒシカリノコ。カリノコは雁で、コは愛稱であるが、カリを育てるということ、無いでもあるまい。カリというのも水鳥の汎稱で、生育して放ち鳥にするものと解せられる。枕の草子にカリノコというのは、アヒルのことというが、ここでは、カモ、オシドリなどだろう。代匠記には、鷹の古字に雁があつて、雁の字と極めてよく似ているとて、※[麻垂/雁の中]《たか》の誤りとしている。鳥座を立てて鷹を飼うことは、前項の巻の十七の例にもあり、狩獵に用いるためとしてあり得ることである。
 栖立去者 スダチナバ。鳥の雛が、巣から飛べるようになるのを、巣立つという。生長して自分で飛べるようになつたならば。
(504) 檀岡尓 マユミノヲカニ。皇子の御墓所なる眞弓の岡に。
 飛反來年 トビカヘリコネ。トビカヘリは、飛びひるがえる義で、飛翔するに同じ。コネは、動詞來に、希望の助詞ネの接續したもの。
【評語】これも遣愛の鳥について歌つている。鳥に對して歌つている形を採つているのは、古歌にしばしば見る所で、自然に寄せる歌人の心のあらわれである。
 
183 わが御門《みかど》、
 千代とことばに 榮えむと、
 念《おも》ひてありし 吾《われ》し悲しも。
 
 吾御門《ワガミカド》
 千代常登婆尓《チヨトコトバニ》 將v榮等《サカエムト》
 念而有之《オモヒテアリシ》 吾志悲毛《ワレシカナシモ》
 
【譯】このわたしのお仕え申しあげる御殿は、永久に榮えるであろうと思つていた、そのわたしは悲しいことだ。
【釋】吾御門 ワガミカド。ワガは、親愛の意の表示として冠している。わが國などいう場合のワガに同じ用法である。ミカドは宮殿をいう。島の宮をさしていう。
 千代常登婆尓 チヨトコトバニ。チヨは千代で、永い年月をいう。トコトバは、舊説にトコツイハの約でトコトハとハを清音に讀むべく、トコは常久の意、イハは磐石であるといつている。しかし然らば、トコチはというべきに常登婆と書き、佛足跡歌碑にも、止己止婆と書いてあるから、この説は疑わしく、れを濁音に讀むべきである。語の意味が、常久であることは變わらない。
 將榮等念而有之 サカエムトオモヒテアリシ。皇子が生存しておいで遊ばされたらば、自然この宮殿も榮えるので、そうあるであろうと、將來の榮華を期待している意で、連體形の句である。トは、初句から榮エムま(505)でを受けている。
吾志悲毛 ワレシカナシモ。上のシは強意の助詞。期待にそむいて、皇子が薨去されたので、みずから悲しむ意である。モは感動の助詞。
【評語】これも上から大きく敍し、最後に逆折する表現法の歌である。初句は、二三句に對する主格であるが、まず提示して全體の主題であることを示している。みずから顧みて心中を敍している。
 
184 東《ひむかし》の 激流《たぎ》御門に 候《さもら》へど、
 昨日も今日も 召すことも無し。
 
 東乃《ヒムカシノ》 多藝能御門尓《タギノミカドニ》 雖伺侍《サモラヘド》
 昨日毛今日毛《キノフモケフモ》 召言無毛《メスコトモナシ》
 
【譯】東方の水の落ちる處にある御門に、伺候しているけれども、昨日も今日も、お召しになることがない。
【釋】東乃 ヒムカシノ。ヒムカシは、日に向かう方の義で、東方の意。
 多藝能御門尓 タギノミカドニ。タギは、水の激し流れるところ。今いう直角的に落下する水の謂ではない。ミカドは、この歌では御門で、門を守つている意である。この御門は、島の宮の御門で、池の水などの近く流れ落ちる處にある門である。この水は、多分飛鳥川の方へ落ちるものなるべく、これに依つて、島の宮が、飛鳥川の西岸にあつたことが考えられる。
 雖伺侍 サモラヘド。伺候して待つているけれども。サモラフは、動詞守ルの連續?態を示すモラフに、接頭語サが附いたのである。その動詞守ルは、元來、目で注意する、注視するの意の語であり、そこに注意し緊張して伺候する本意が存している。
 昨日毛今日毛召言毛無 キノフモケフモメスコトモナシ。生前はお召しになることも多かつたが、薨去の後は、毎日何等のお召しもない物足りなさが敍せられている。
(506)【評語】舍人としての奉仕が、初三句に具體的に描かれているのがよい。四五句は、皇子が薨去されて、自然御用無く、手持無沙汰に寂寥の念を禁じ得ない?を寫している。直接に皇子の薨去をいわず、自己の悲哀を語らず、ただ身上を敍述したのみで、しかも悲哀をよく表出している。
【參考】類想。
  はしきやし榮えし君の坐《いま》しせば昨日も今日も吾《わ》を召さましを(巻三、四五四)
 
185 水|傳《つた》ふ 礒の浦廻《うらみ》の 石躑躅《いはつつじ》、
 茂《も》く咲く道を またも見むかも。
 
 水傳《ミヅツタフ》 礒乃浦廻乃《イソノウラミノ》 石上乍自《イハツツジ》
 木丘開道乎《モクサクミチヲ》 又將v見鴨《マタモミムカモ》
 
【譯】水邊の岩の多い浦めぐりの石《いわ》ツツジ、茂く咲く道をまた見ることもあろうか。
【釋】水傳 ミヅツタフ。水に沿う意で、次の礒の説明修飾の句。水邊の意。
 礒乃浦廻乃 イソノウラミノ。池について、石の多い浦をさしている。ミは接尾語。
 石上乍白 イハツツジ。倭名類聚鈔に、「陶隱居曰、羊躑躅 擲直二音以波都々之」と見えている。石上の二字をイハに當てている。
 木丘開道乎 モクサクミチヲ。コクサクミチヲ(拾)、森閑道乎《シジニサクミチヲ》(考)。モクは茂くの意の形容詞。日本書紀神代の上に、扶疏にシキモシ、應神天皇紀に、芳草※[草冠/會]蔚にモクシゲシの古訓があつて、モシという形容詞のあつたことが知られる。ここは花の繁く咲く形容に使用されている。
 又將見鴨 マタモミムカモ。マタミナムカモ(考)。またも見ようか、疑わしいの意。
【評語】皇子薨去の後は、この宮に來ることもなくなるから、二度と見る機會もあるであろうかと疑つている。ツツジの花の盛りに、島の宮に別れを告げる寂しい心が味わわれる。
 
(507)186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし
 東の 大き御門《みかど》を 入りがてぬかも。
 
 一日者《ヒトヒニハ》 千遍參入之《チタビマヰリシ》
 東乃《ヒムカシノ》 大寸御門乎《オホキミカドヲ》 入不v勝鴨《イリガテヌカモ》
 
【譯】かつては一日に千度も參入した、東方の大きい御門を入るに堪えないことである。
【釋】一日者 ヒトヒニハ。皇子生前のある一日には。
 千遍參入之 チタビマヰリシ。チタビは、度數の多いのをいう。マヰリは、マヰイリの約言。宮門に入るをいう。御用によつて、出入をするので、自然數多く參入した意である。
 大寸御門乎 オホキミカドヲ。タキノミカドヲ(西)。註疏にオホキミカドニと讀んだのがよい。オホキは、大きい意の形容詞。ミカドは、宮門をいう。タギノミカドヲと讀む説があるが、それには寸の下に字を補わねばならない。前にタギノ御門はあつたが、この歌では、門を入るという所に主題があるから、大きい門と視覺に訴えた方がよいのである。但しその門は、前の、タギノ御門と同じ門である。
 入不勝鴨 イリガテヌカモ。ガテヌは、可能の意の助動詞カツに、打消の助動詞ヌの接續したもの。入ることができないなあ、入るに堪えないなあの意。ガテヌの假字書きの例には、「比等國爾《ヒトクニニ》 須疑加弖奴可母《スギガテヌカモ》 意夜能目遠保利《オヤメヲホリノ》」(巻五、八八五)、道乃長道波《ミチノナガヂハ》 由佳加弖奴加毛《ユキガテヌカモ》」(巻二十、四三四一)などある。
【評語】同じ東の御門にしても、伺候していて昨日も今日も召すこともなしという時には、水聲の耳につくことを歌つて、激流の御門といい、今その門前に來て逡巡することを敍しては、大き御門と歌つている。自然にして最適切なる語が選定されている點に注意すべきである。
 
187 由縁《つれ》も無き 佐太《さだ》の岡邊に
(508) 反《かへ》り居ば、
 島の御階《みはし》に 誰《たれ》か住まはむ。
 
 所由無《ツレモナキ》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》
 反居者《カヘリヰバ》
 島御橋尓《シマノミハシニ》 誰加住?無《タレカスマハム》
 
【譯】何の縁故もない佐太の岡のほとりに、移りいたならば、かのお庭の御階《みはし》には、誰が住むだろうか。
【釋】所由無 ツレモナキ。縁故、由縁の無い。もと無かつたのであつて、今は墓所となつているのであるが、概括的に由縁モ無キといつたのである。この句もヨシモナキと讀むべきか。
 反居者 カヘリヰバ。カヘリは、本來おるべき處に移るをいう。今は御墓の邊をわが勤め處とすれば、そこに移りいるならばとである。今たまたま島の宮に來て詠んでいる立場である。
 島御橋尓 シマノミハシニ。シマは庭園で、島の宮の庭園をいう。ミハシはミは接頭語。ハシは階段の意で、御殿から、庭上におりる階段のもとに、舍人は伺候していたのであるが、今吾等がかく墓所に移つたならば、何人がその階段に伺候するであろうかの意である。
 誰加住?無 タレカスマハム。住?は、二字でスマハの音を表示している。スマハムは、佳ムの連続?態を示す住マフの未然形に助動詞ムの接續したもの。誰が住むならむか、誰も住む人はあるまいの意。
【評語】これも島の宮に別れを惜しみ、その人無き宮殿として荒れることを悲しんでいる。舍人として感慨無量の所である。
 
188 たな曇り 日の入りぬれば、
 御立《みたち》せし 島におり居て
 嘆きつるかも。
 
 旦覆《タナグモリ》 日之入去者《ヒノイリヌレバ》
 御立之《ミタチセシ》 島尓下座而《シマニオリヰテ》
 嘆鶴鴨《ナゲキツルカモ》
 
(509)【譯】空一面にかき曇つて、日が隱れたから、生前お立ち遊ばされた庭園に立つて、嘆息をしたことである。
【釋】旦覆 タナグモリ。童蒙抄には、アサグモリと讀み、美夫君志には、タナグモリと讀んでいる。旦は字書 n の韻だからナとなるのである。日の入るということ、朝とするよりタナの方が適している。覆は、蔽う意の字であるので、クモリに使用している。タナグモリは、一面に曇ること。
 日之入去者 ヒノイリヌレバ。ヒノイリユケバ(西)。日の雲に隱れた意に、皇子の薨去をたとえている。但し同時に、今この宮殿に來た時の實景でもあるであろう。すなわち實景を敍して譬喩としたと見るべきである。
 御立之 ミタチセシ。前に御立爲之とあつたのと同じく、ミタチセシと讀むべきである。ミタタシノではない。
 島尓下座而 シマニオリヰテ。庭園におり立つて。
 嘆鶴鴨 ナゲキツルカモ。嘆息をしたことであるよの意。ナゲクは長い息をつくこと。ツルカモに鶴鴨の字をあてている。
【評語】實景を敍して譬喩とし、巧みに嘆クの伏線としている。舊殿の林泉に立つて、亡き君を慕う情がよく描かれている。内容の豊富な作である。
 
189 朝日照る 島の御門《みかど》に
 おほほしく 人音《ひとおと》もせねば、
 まうら悲《がな》しも。
 
 旦日照《アサヒテル》 島乃御門尓《シマノミカドニ》
 鬱悒《オホホシク》 人音毛不v爲者《ヒトオトモセネバ》
 眞浦悲毛《マウラガナシモ》
 
【譯】朝日の照り渡る島の御殿に、鬱々として、人の物音もしないから、悲しいことである。
(510)【釋】旦日照 アサヒテル。實景である。
 島乃御門尓 シマノミカドニ。一七三の島の御門と同じく、島の宮をいう。このミカドは宮殿の意である。
 鬱悒 オホホシク。既出(巻二、一七五)。
 人音毛不爲者 ヒトオトモセネバ。ヒトオトは、人の發する音聲。物の音など。しんとして人の住むようすが無いのである。人がいないのではない。いても悲しみにとざされて何等の物音も立てないのである。
 眞浦悲毛 マウラガナシモ。マは、完全性をあらわす接頭語。ウラは表面にあらわれない心中のことをいうに使う。表に出ては泣きもしないけれども、心中の悲哀に打たれたことを示している。
【評語】大きな宮殿の中に、朝日が照り渡つて、人音もしない寂しさを歌つている、。朝日の照るは、實景であろうが、悲哀感を大きくするのに役立つものである。男性的な悲哀がよく描寫されている。末句の、マウラ悲シモと言い切つたのも強い言い方である。
 
190 眞木柱《まきばしら》 太《ふと》き心は ありしかど、
 このわが心 しづめかねつも。
 
 眞木柱《マキバシラ》 太心者《フトキココロハ》 有之香杼《アリシカド》
 此吾心《コノワガココロ》 鎭目金津毛《シヅメカネツモ》
 
【譯】この眞木柱のような、ふといしつかりした心があつたのだが、今は、このわが心をしずめかねたことだ。
【釋】眞木柱 マキバシラ。枕詞。マキは、立派な木。その柱で、太キを修飾する。皇子の宮殿にあつて、目前にふとい宮柱を見、これを採つて枕詞に利用している。それゆえにただ次の句を引き起す任務のみでなく、一方には、敍述の性格をも有している。
 太心者 フトキココロは。フトキココロは、物に動かされないしつかりした心である。集中、他に用例を見ない。
(511) 有之香杼 アリシカド。かつてはあつたけれども。
 此吾心 コノワガココロ。上の太キ心を受けて、その立派な心であつたわが心と、強く指摘している。
 鎭目金津毛 シヅメカネツモ。鎭靜することができなかつた。皇子の薨去にあつて、心の動搖するのを抑制し得なかつたの意である。
【評語】男子としては、物に動ぜぬ、驚かない心、悲喜を表面に出さない心、そういう心をよしとしていたことが知られる。その心が、情に負けて亂れることを敍した點に、悲涙がある。宮殿にあつて眞木柱を眼前に見、それをただちに枕詞として使用して歌を起しているのは、巧みであり、效果的である。
 
191 褻衣《けごろも》を 時《とき》片設《かたま》けて 幸《い》でましし
 宇陀《うだ》の大野《おほの》は
 思ほえむかも。
 
 毛許呂裳遠《ケゴロモヲ》 春冬片設而《トキカタマケテ》 幸之《イデマシシ》
 宇陀乃大野者《ウダノオホノハ》
 所v念武鴨《オモホエムカモ》
 
【譯】狩獵の時節を待つて、おいでになつた、あの宇陀の大野は思われることであろうなあ。
【釋】毛許呂裳遠 ケゴロモヲ。枕詞。語義は、ケゴロモを毛衣の義とし、獣皮で製した衣服であろうとされている。しかしそれはカハゴロモの語があり、ケゴロモとはいわない。これは、褻衣で、著古した衣服をいうものと思われる。この語は、本集には無いが、神樂歌の弓立の歌に、「すめ神はよき日祭れば明日よりはあけの衣をけごろもにせむ」、賀茂保憲女集に「ふるさとへ秋はかへりぬ。ぬさひける山の錦をけごろもにして」などある。さて著古した衣を解くというので、次句のトキに冠する。「橡之《ツルバミノ》 衣解洗《キヌトキアラヒ》 又打山《マツチヤマ》」(巻十二、三〇〇九)、「由布佐禮婆《ユフサレバ》 安伎可是左牟思《アキカゼサムシ》 和伎母故我《ワギモコガ》 等伎安良比其呂母《トキアラヒゴロモ》 由伎弖波也伎牟《ユキテハヤキム》」(巻十五、三六六六)など、古衣を解く意の歌がある。
(512) 春冬片設而 トキカタマケテ。
   ハルフユカケテ(神)
   ハルフユマケテ(西)
   ハルフユカタマケテ(代)
   ――――――――――
   春冬取設而《ハルフユトリマケテ》(考)
   春片設而《ハルカタマケテ》(新考)
 片設而を、カタマケテと讀むべしとせば、春冬の二字には二音が配當される。よつてその一字が傍書から誤つてはいつたのだとする説もあるが、それは證の無いことである。よつてここには二字を合わせてトキと讀む。時節の意である。春冬の二字を書いたのは、生前の御事蹟について述べているのであるから、實際、春季および冬季に宇陀の野に出遊せられたことがあつて、それを想起しているのであろう。カタマケテは、時に關する語に附して使用せられ、その意は、攷證に、方儲にてその時を待ち設けたのであるといい、新考には、自動詞で、近づいてという意であろうと言つている。集中の例、「秋田《アキノタノ》 吾苅婆可能《ワガカリバカノ》 過去者《スギヌレバ》 雁之喧所v聞《カリガネキコユ》 冬片設而《フユカタマケテ》」(巻十、二一三三)などは、自動詞としても聞えるが、この歌の如きは、春冬をいかに讀むとも、近づきての意としては解し難い。やはり待ち設ける意とするを可とする。なお時片設クの例には「鶯之《ウグヒスノ》 木傳梅乃《コヅタフウメノ》 移者《ウツロヘバ》 櫻花之《サクラノハナノ》 時片設奴《トキカタマケヌ》」(巻十、一八五四)がある。
 幸之 イデマシシ。出遊されたことをいう。下のシは時の助動詞。この出遊は、狩獵の目的であろう。
 宇陀乃大野者 ウダノオホノは。宇陀ノ大野は、奈良縣宇陀郡大野で、卷の一に輕の皇子の出遊された安騎野なども、その一部である。何の年に出遊されたかは不明である。
 所念武鴨 オモホエムカモ。動詞オモホユの未然形に助動詞ムと感動の助詞カモとが接續している。思われるだろうなあ。
【評語】後はたして日竝みし皇子の御子である輕の皇子(文武天皇)が宇陀の大野の一部の安騷野に宿られる(513)ことがあり、柿本の人麻呂がそこで往時を追憶して歌を詠んでいる。その中の一首、「日竝みし皇子の尊《みこと》の馬竝めて御獵《みかり》立たしし時し來向かふ」(卷一、四九)は、直接にこの歌と照應するものである。人麻呂は、この日竝みし皇子の尊の出遊にも隨行していたのであろう。またこの事は、この一連が、人麻呂の作であろうとする説の一の根據にもなるものである。
 
192 朝日照る 佐太の岡邊に 鳴く鳥の、
 夜鳴《よなき》かはらふ。
 この年ごろを。
 
 朝日照《アサヒテル》 佐太乃岡邊尓《サダノヲカベニ》 鳴島之《ナクトリノ》
 夜嶋變布《ヨナキカハラフ》
 此年己呂乎《コノトシゴロヲ》
 
【譯】朝日の照る佐太の岡のほとりに鳴く鳥の、夜鳴く聲が變わつている。この年頃を。
【釋】鳴島之 ナクトリノ。次の句に對して主格になつている。朝鳴く鳥で、小鳥の類である。ここまでを序詞と見る説は誤りである。
 夜鳴變布 ヨナキカハラフ。その鳥が、夜は鳴き聲が變わるというのである。カハラフは、動詞變ルの連續?態をあらわす語。朝日のもとに鳴く鳥が、夜は聲を變えて鳴くことを敍している。皇子の御墓となつたので、その隣の佐太の岡でも、鳥が夜になると、悲しい聲で鳴くの意。句切。
 此年己呂乎 コノトシゴロヲ。コロは、時のあいだをいう。コノゴロの語が數日をいうに徴すれば、トシゴロは數年の意になるが、實際には、翌年にかけてもいうので、ここも翌年にわたつてである。ヲは、なるものをの意の格助詞である。
【評語】夜間、御墓所に詰めていると、天地の寂寞たる中に、鳥の聲のみ、悲しげに鳴くのが聞える。その鳥は勿論悲しくて鳴くのではないが、聞く人の心が悲痛に沈んでいるので、鳥の聲までも悲しく聞える。朝鳴く(514)鳥とは鳥が違うのであるが、それを鳥も夜になると一層悲しげに鳴くという所に、歌人の心がある。鳥の聲に悲しみがあるのではなくて、聞く人の心に悲しみがあるのである。
 
193 畑子《はたこ》らが 夜晝《よるひる》といはず 行く路《みち》を、
 われはことごと 宮道《みやぢ》にぞする。
 
 八多籠良我《ハタコラガ》 夜畫登不云《ヨルヒルトイハズ》 行路乎《ユクミチヲ》
 吾者皆悉《ワレハコトゴト》 宮道敍爲《ミヤヂニゾスル》
 
【譯】農夫等が、夜とも畫ともいわず、行く路であつたものを、今は自分が全く出仕する道とする。
【釋】八多籠良我 ハタコラガ。從來ヤタコラガと讀まれ、ヤタコは、ヤツコの轉で、ヤツコは、家つ子の義で、家に屬する人の意から、奴婢の意に轉じたと考えられていた。しかしヤツコをヤタコというとするのは難點である。またハタゴラガと讀み、ハタゴは旅籠で、旅行用の食物などを運ぶ籠だともいうが、これは二句への續きがわるい。今橋本四郎氏の説(萬葉)によつて、ハタコラガと讀み、ハタコは畑子で、はたけにはたらく人、農夫の意であるとするによる。ラは、接尾語。
 夜畫登不云 ヨルヒルトイハズ。夜となく晝となく。晝夜を分たず。次の句の行クを修飾している。
 行路乎 ユクミチヲ。行く道なるをの意で、通行すべしとも思わなかつた道路の意である。「夢にだに見ざりしものをおほほしく宮出もするか。さ檜の隈みを」(巻二、一七五)の歌と、同様の思想を歌つている。
 吾者皆悉 ワレハコトゴト。コトゴトは、文字通り皆悉。悉皆で、體言の形を採つているが、次の句に對して副詞となつている。このコトゴトは、「月累《ツキカサネ》 憂吟比《ウレヘサマヨヒ》 許等許等波《コトコトハ》 斯奈奈等思騰《シナナトオモヘド》」(巻五、八九七)の例は助詞ハを伴なつているが、下の詞句を限定する點においては同じである。講義に、我等悉くがの意としているのは誤りである。
 宮道敍爲 ミヤヂニゾスル。ミヤデは、宮に行く道。ここは、御墓所の傍の勤仕の屋所を、宮といつて、出(515)勤の道というほどに用いている。
【評語】この歌、皇子の薨去によつて、思いもしなかつたことをするようになつたことを述べている。農夫の通常通行する道を宮路にするというので、非常の?態をえがく。以上日竝みし皇子を悼んだ舍人等の歌は、中には意味に疑問のあるのもあるが、大體においては、よくそろつた歌である。内容の傾向は、遣物について思いをやるものと、薨去によつて從來思わなかつた變わつた生活をすることを敍したものとがある。而して長い別れとなつてまた見るを得ないという意味のものがないのは、作者が臣下である關係から、親しくいうことを憚つたのでもあろう。一面に、古の挽歌に、そういう意味のものの無いことも考えられる。死によつて、人格の消滅しないことを信ずるに由るものであろう。
 
右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未、薨。
 
右は、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未の朔にして乙未の日、薨りましき。
 
【釋】右日本紀曰 ミギハニホニギニイハク。以下日本書紀持統天皇紀の文を要約して記している。日本書紀の原文は、「夏四月癸未朔」とありて、他の記事があり、次に、「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」とある。乙未は十三日である。
 
柿本朝臣人麻呂、獻2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌一首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、泊瀬部《はつせべ》の皇女《ひめみこ》、忍坂部《おさかべ》の皇子《みこ》に獻《たてまつ》れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】泊瀬部皇女 ハツセベノヒメミコ。天武天皇の皇女。日本書紀、天武天皇紀下に「次宍人臣大麻呂女※[木+疑]媛娘、生2二男二女1、其一曰2忍壁皇子1、其二曰2磯城皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基皇女1」とあるに(516)よれば、忍壁の皇子の妹であるが如くであるが、この題詞に「泊瀬部皇女忍坂部皇子」と序したのは、皇女の方が御姉であるのであろうか。この皇女は天平十三年三月に薨じた。歌は傳わらない。左註の或る本に、河島の皇子の薨去に際して泊瀬部の皇女に獻つたとあるによれば、河島の皇子の妃であつたのであろう。この題詞にはいかなる時に獻つたとも記されていないが、これも、左註の或る本にいうように、河島の皇子の薨去の時の歌と見るべきであろう。
 忍坂部皇子 オサカベノミコ。本集、また日本書紀に、忍壁の皇子とも記し、続日本紀に刑部の親王とあるも同人である。泊瀬部の皇女と同母の所生である。天武天皇の十年三月、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられた人々の中に入り、後、律令の撰定にも參加された。慶雲二年五月に薨じた。この歌が、河島の皇子の薨去の際の歌とすれば、どのような關係で、この皇子の名がここに記されているか不明であるが、特に親密の關係があつて、その葬事に關與されたものかも知れない。
 
194 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 生ふる玉藻は、
 下《しも》つ瀬に 流れ觸らふ。」
 玉藻なす か寄りかく寄り
 靡かひし 嬬《つま》の命《みこと》の
 たたなづく 柔膚《にきはだ》すらを、
 劍刀《つるぎたち》 身に副《そ》へ寐《ね》ねば、
 ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒るらむ。」【一は云ふ、荒れなむ。】
(517) そこ故に 慰めかねて 
 けだしくも 逢ふやと念ひて、【一は云ふ、公も逢へやと。】
 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野の
 朝露に 玉藻はひづち、
 夕霧に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて、
 草枕 旅宿《たびね》かもする。
 逢はぬ君ゆゑ。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬尓《カミツセニ》 生玉藻者《オフルタマモハ》
 下瀬尓《シモツセニ》 流觸經《ナガレフラフ》
 玉藻成《タマモナス》 彼依此依《カヨリカクヨリ》
 靡相之《ナビカヒシ》 嬬乃命乃《ツマノミコトノ》
 多田名附《タタナヅク》 柔膚尚乎《ニキハダスラヲ》
 釼刀《ツルギタチ》 於v身副不v寐者《ミニソヘネネバ》
 鳥玉乃《ヌバタマノ》 夜床母荒艮無《ヨドコモアルラム》【一云、阿禮奈牟】
 所虚故《ソコユヱニ》 名具鮫兼天《ナグサメカネテ》
 氣田敷藻《ケダシクモ》 相屋常念而《アフヤトオモヒテ》【一云、公毛相哉登】
 玉垂乃《タマダレノ》 越乃大野之《ヲチノオホノノ》
 且露尓《アサツユニ》 玉裳者?打《タマモハヒヅチ》
 夕霧尓《ユフギリニ》 衣者沾而《コロモハヌレテ》
 草枕《クサマクラ》 旅宿鴨爲留《タビネカモスル》
 不v相君故《アハヌキミユヱ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に生えている玉藻は、下流の瀬に流れて觸れています。亡くなられた皇子様は、その玉藻のように、寄り添つて寝た妻の君の、丸まつている柔膚すらを、身に副えて寝ないのでありますから、暗い夜の床も荒れているのでありましよう。それゆえにあなたはお氣を安めかねて、もしや逢うこともありましようかと、越智《をち》の大野の、朝露に美しい裳は濡れ、夕霧に衣は濡れて、逢わない君ゆえに、草の枕の旅寝をなさいますことか。
【構成】三段から成つている。下ツ瀬ニ流レ觸ラフまで第一段、明日香川の水草を敍して次の段の伏線とする。ヌバ玉ノ夜床モ荒ルラムまで第二段、妃を殘して薨逝した人の上を想像している。以下終りまで第三段、殘された妃の悲痛を敍している。
【釋】飛鳥 トブトリノ。既出(巻一、七八)。枕詞、明日香に冠する。明日香の清御原の上を瑞鳥の飛翔したことがあつて、稱呼として明日香に冠するに至つたものである。
 明日香乃河之 アスカノカハノ。アスカノカハは、飛鳥川のこと。鷹取山から發して、明日香の地を流れ、(518)廣瀬川、初瀬川、佐保川、生駒川などと合して大和川となる。當時の流域は、今日とは變わつていたようであるが、上流ではほぼ同じだろう。
 上瀬尓 カミツセニ。上方の瀬に。
 生玉藻者 オフルタマモは。タマモは、藻の美稱。水草の類をいう。
 下瀬尓 シモツセニ。下方の瀬に。
 流觸經 ナガレフラフ。フラフは、觸ルの連續的?態をあらわす語。下つ瀬に玉藻がかかつて搖れている有樣である。「本都延能《ホツエノ》 延能宇良婆波《エノウラバハ》 那加都延爾《ナカツエニ》 淤知布良婆閇《オチフラバヘ》」(古事記一〇一)によれは、ナガレフラバヘか。ここで段落で、ここまでは、下の玉藻ナスを起す序となつている。何故に、明日香川について言い出したかは不明であるが、泊瀬部の皇女の居處、すなわち、河島の皇子の宮殿がその川のほとりにあつたのであろう。
 玉藻成 タマモナス。枕詞。次句の寄りの語を修飾している。
 彼依此依 カヨリカクヨリ。既出(卷二、一三一)。あち寄りこち寄りして。次句の靡カヒシを修飾する。
 靡相之 ナビカヒシ。水草の波に靡くように、また草木の風に靡くように、やわらかに寄り臥すをいう。ナビカフは靡クの連續動作をあらわす動詞の連用形。シは時の助動詞の連體形。
 嬬乃命乃 ツマノミコトノ。ツマノミコトは、この歌を獻つた皇女をいう。命ノは所有格である。以上、既出の「浪のむたか寄りかく寄り、玉藻なす寄り寐し妹を」(卷二、一三一)と同樣の敍述である。
 多田名附 タタナヅク。疊まりつく意で、青垣山の修飾にも用いられる。身を折り屈めてある意。本集に、「立名附《タタナヅタ》 青垣隱《アヲガキゴモリ》」(卷六、九二三)、「立名附《タタナヅク》 青垣山之《アヲガキヤマノ》」(卷十二、三一八七)、古事記に、「多多那豆久《タタナヅク》 阿袁加岐《アヲカキ》 夜麻碁母禮流《ヤマゴモレル》 夜麻登志宇流波斯《ヤマトシウルハシ》」(三一)など用例がある。この語は、青垣(山)の説明修蝕の語と(519)して、歌いものに使用されていたのを、人體の説明に應用したのであろう。
 柔膚尚乎 ニキハダスラヲ。柔軟なる膚、それすらもで、それだけでもの意。
 劍刀 ツルギタチ。太刀は身より放さぬもの故に、身ニ副フの枕詞とする。
 於身副不寐者 ミニソヘネネバ。皇子は薨去されて、妻の柔膚をも身に副えては寐ず、ただひとり御墓の中に寐るよしである。
 烏玉乃 ヌバタマノ。既出。枕詞。
 夜床母荒良無 ヨドコモアルラム。薨去した皇子の柩中の寢床を推量して、妻を伴なわないから、荒涼としているだろうの意。ここで段落で、ここまで亡くなつた皇子の現在を推量している。
 一云阿禮奈牟 アルハイフ、アレナム。上のアルラムの別傳で、荒れるだろうと推量している。本文のアルラムの方がよい。
 所虚故 ソコユヱニ。それゆえに、ソコはその事、その處と、體言に指示する詞。上の推量の敍述を受けている。
 名具鮫兼天 ナグサメカネテ。以下三句は、仙覺本に名具鮫兼天氣留敷藻相屋常念而とあつて、ナゲサメテケルシキモアフヤドトオモヒテと讀んでいた。今荒木田久老の説により、古寫本を援引して、魚を兼とし、留を田とするによる。この句は皇女の御心に安んじ得ずしての意。
 氣田敷藻 ケダシクモ。ケダシクは、ケダシの體言形で、副詞の用をなす。推し量り見ることの意の語であるが、ここでは、もしやの意が強い。「氣太之久毛《ケダシクモ》 安布許等安里也等《アフコトアリヤト》」(卷十七、四〇一一)などの用例がある。
 相屋常念而 アフヤトオモヒテ。君に逢うこともあろうかと思つて。皇女の心中を敍している。
(520) 公毛相哉登 キミモアヘヤト。キミは、亡き皇子。公も逢うかとしての意。
 玉垂乃 タマダレノ。枕詞。クマダレは、玉を緒に貫いて垂れるのをいう。簾は、玉を緒に貫いて下げるので、簾に冠する。ここは緒の意に、次句のヲの音に冠している。
 越乃大野之 ヲチノオホノノ。越は字音でヲチの音をあらわしている。ヲチは地名。左註に越智野とある。奈良縣高市郡越智岡村附近。そこに河島の皇子の御墓が設けられるのであろう。但しこの歌の作られた當時は、その地に殯宮が設けられてあつたのであろう。
 旦露尓 アサツユニ。下の夕霧にと共に、朝夕の露や霧に濡れることを分ち敍したまでであるが、玉裳はヒヅチとあるは、露に縁がある。
 玉裳者?打 タマモハヒヅチ。タマモは、裳の美稱。裳は婦人の下半身に纏う衣裳。ヒヅチは、水に濡れる意の動詞。
 夕霧尓衣者沾而 ユフギリニコロモハヌレテ。上の朝露ニ王裳はヒヅチの句と對句を成している。コロモは裳に對しては、上半身を蔽う衣裳をいう。下半身に纏う裳には露といい、衣には霧と言つている。
 草枕 クサマクラ。枕詞。
 旅宿鴨爲留 タビネカモスル。カモは、疑問の係助詞であるが、感動の意が強くなつている、旅寝をすることかまあというほどの意。ここは皇女が亡き夫君を求めて、旅寝をされることを敍している。事實としては、夫君の御墓のほとりに假舍を作つて、お仕えなされることを、あたかも、夫君を尋ね求められるように歌うのである。
 不相君故 アハヌキミユヱ。上の、ケダシクモ會フヤト念ヒテを受けて、しかも遂にめぐり逢わない君ゆえにと、−結、例によつて力強い句である。
(521)【評語】この歌は、夫を失つた皇女に獻つた歌として、その亡くなられた皇子の荒涼たる現?を推量するに美しい詞を連ねている。明日香川の玉藻の序も、人麻呂の作の通例のことではあるが、婦人を敍する起句として適切である。最後の段で、送葬に立たれた皇女の、露霧に濡れることを云つて、喪中の情を表出している。夫を失つた方として、この歌を讀まれた時には、定めて涙を新にせられたことであウたろう。
 
反歌一首
 
195 敷細《しきたへ》の 袖|交《か》へし君、
 玉垂《たまだれ》の 越智野《をちの》過ぎ行《ゆ》く。
 またも逢はめやも。【一は云ふ、をち野に過ぎぬ。】。
 
 敷妙乃《シキタヘノ》 袖易之君《ソデカヘシキミ》
 玉垂之《タマダレノ》 越野過去《ヲチノスギユク》
 亦毛將v相八方《マタモアハメヤモ》【一云ふ、乎知野尓過奴】
 
【譯】生前袖を交して親まれた君は、越智野に過ぎ行かれました。またもお目にかかれましようか。お逢いすることはできますまい。
【釋】敷妙乃 シキタヘノ。既出。目のこまかい織物の義で、袖、衣、枕等の枕詞。
 袖易之君 ソデカヘシキミ。袖をかわして諸寢をした君。皇女に代つて詠んでいる語法である。男女が、袖をたがいにかえて寢ることは、「白細之《シロタヘノ》 袖指可倍?《ソデサシカヘテ》 靡寐《ナビキヌル》 吾黒髪乃《ワガクロカミノ》」(巻三、四八一)・「白細乃《シロタヘノ》 袖指代而《ソデサシカヘテ》 佐寐之夜也《サネシヨヤ》 常爾有家類《ヅネニアリケル》」(巻八、一六二九)など、しばしば詠まれている。
 玉垂之 タマダレノ。枕詞。長歌の中に見える句。
 越野過去 ヲチノスギユク。越智野に葬つたことを、越智野を過ぎて、何方へか行くように歌つている。句切。
(522) 亦毛將相八方 マタモアハメヤモ。ヤモは反語の助詞。またと逢おうや、逢わないの意。
 乎知野尓過奴 ヲチノニスギヌ。第四句の別傳である。越智野において、過ぎたの意。これも本文の方がよい。
【評語】皇女に代わつて詠んでいる。特に越智野に衣装もそぼぬれて君を求める心が寫されているのがよい。
 
右或本日、葬2河島皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀云、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川島薨。
 
右は或る本に曰はく、河島の皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部の皇女に獻りし歌なりといへり。日本紀に云はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔にして丁丑の日、淨大參皇子川島薨りましきといへり。
【釋】或本 アルマキ。何の書とも知られないが、歌詞中の別傳と同じものとすれば、よい傳來ではない。
 河島皇子 カハシマノミコ 天智天皇の皇子。天武天皇の十年三月、帝紀および上古の諸事を記し定めしめ給うた人々のうちの首席であつた。懷風藻に漢詩があり、小傳がある。
 朱鳥五年 アカミドリノイツトセ。日本書紀には持統天皇の五年とし、朱鳥元年からは六年に當る。
 淨大參 キヨキオホキミツノクラヰ。位階の名稱。
 
明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
明日香の皇女の木※[瓦+缶]《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】明日香皇女 アスカノヒメミコ。天智天皇の皇女、御母は阿部の倉橋麻呂の女橘姫。文武天皇の四年四月に薨去されたのであつて、この歌以下は、文武天皇の御代の作に係かる。
(523) 木※[瓦+缶]殯宮 キノヘノアラキノミヤ。木※[瓦+缶]は地名。下の、「高市皇子尊城上殯宮之時」(卷二、一九九)とある城上と同地。奈良麻北葛城郡|馬見《まみ》村の地という。殯宮は既出(卷二、一六七題詞)。城上が皇女の墓所であり、そこに殯宮が設けられたのである。
 
196 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の
 上《かみ》つ瀬に 石橋《いははし》渡し、【一は云ふ、石竝。】
 下《しも》つ瀬に 打橋《うちはし》渡す。」
 石橋に【一は云ふ、石竝。】 生ひ靡ける
 玉藻もぞ 絶ゆれば生《お》ふる。
 打橋に 生ひををれる
 川藻もぞ 枯るれば生《は》ゆる。」
 何しかも わが王《おほきみ》の、
 立たせば 玉藻のもころ、
 臥《こや》せば 川藻の如く
 靡かひし 宜《よろ》しき君の、
 朝宮を 忘れたまふや。
 夕宮を 背《そむ》きたまふや。」
 うつそみと 念ひし時、
(524) 春べは 花折りかざし、
 秋立てば 黄葉《もみちば》かざし、
 敷細《しきたへ》の 袖|携《たづさ》はり、
 鏡なす 見れども飽かに、
 望月《もちづき》の いやめづらしみ、
 念ほしし 君と時々、
 いでまして 遊び賜ひし、
 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮を、
 常宮《とこみや》と 定め賜ひて、
 あぢさはふ 目言《めごと》も絶えぬ。」
 然れかも【一は云ふ、そこをしも。】 あやに悲しみ、
 ぬえ鳥の 片戀づま【一は云ふ、しつつ。】
 朝鳥の【一は云ふ、朝霧の】 通はす君が、
 夏草の 念ひ萎《しな》えて、
 夕星《ゆふづつ》の かゆきかく行き、
 大船の たゆたふ見れば、
 慰もる 情《こころ》もあらず。」
(525)そこ故に 術《すべ》知らましや
 音《おと》のみも 名のみも絶えず、
 天地の いや遠長く
 思《しの》ひ行かむ み名に懸《カ》かせる
 明日香河、萬代までに、
 愛《は》しきやし わが王の
 形見かここを。」
 
 飛鳥《トブトリノ》 明日香乃河之《アスカノカハノ》
 上瀬《カミツセニ》 石橋渡《イシハシワタシ》【一云、石浪】
 下瀬《シモツセニ》 打橋渡《ウチハシワタス》
 石橋《イハハシニ》【一云、石浪】 生靡留《オヒナビケル》
 玉藻毛敍《タマモモゾ》 絶者生流《タユレバオフル》
 打橋《ウチハシニ》 生乎爲禮流《オヒヲヲレル》
 川藻毛敍《カハモモゾ》 干者波由流《カルレバハユル》
 何然毛《ナニシカモ》 吾王能《ワガオホキミノ》
 立者《タタセバ》 玉藻之母許呂《タマモノモコロ》
 臥者《コヤセバ》 川藻之如久《カハモノゴトク》
 靡相之《ナビカヒシ》 宜君之《ヨロシキキミノ》
 朝宮乎《アサミヤヲ》 忘賜哉《ワスレタマフヤ》
 夕宮乎《ユフミヤヲ》 背賜哉《ソムキタマフヤ》
 宇都曾臣跡《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキ》
 春部者《ハルベハ》 花折插頭《ハナヲリカザシ》
 秋立者《アキタテバ》 黄葉插頭《モミチバカザシ》
 敷妙之《シキタヘノ》 袖携《ソデタヅサハリ》
 鏡成《カガミナス》 雖v見不v厭《ミレドモアカニ》
 三五月之《モチヅキノ》 益目頬染《イヤメヅラシミ》
 所v念之《オモホシシ》 君與時々《キミトトキドキ》
 幸而《イデマシテ》 遊賜之《アソビタマヒシ》
 御食向《ミケムカフ》 木※[瓦+缶]之宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮跡《トコミヤト》 定賜《サダメタマヒテ》
 味澤相《アヂサハフ》 目辭毛絶奴《メゴトモタエヌ》
 然有鴨《シカレカモ》【一云、所己乎之毛】 綾尓憐《アヤニカナシミ》
 宿兄鳥之《ヌエドリノ》 片戀嬬《カタコヒヅマ》【一云、爲乍】
 朝鳥《アサドリノ》【一云、朝霧】 往來爲君之《カヨハスキミガ》
 夏草乃《ナツクサノ》 念之萎而《オモヒシナエテ》
 夕星之《ユフヅツノ》 彼往此往《カユキカクユキ》
 大船《オホブネノ》 猶預不定見者《タユタフミレバ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛不v《ココロモアラズ》
 其故《ソコユエニ》 爲便知之也《スベシラマシヤ》
 音耳母《オトノミモ》 名耳毛不v絶《ナノミモタエズ》
 天地之《アメツチノ》 弥遠長久《イヤトホナガク》
 思將v往《シノヒユカム》 御名尓懸世流《ミナニカカセル》
 明日香河《アスカガハ》 及2萬代1《ヨロヅヨマデニ》
 早布屋師《ハシキヤシ》 吾王乃《ワガオホキミノ》
 形見河此焉《カタミカココヲ》
 
【譯】飛ぶ鳥の明日香川の上流の瀬に石橋を渡し、下流の瀬に打橋を渡してあります。その石橋に生えて靡いている玉藻も、水に取り去られるとまた生えます。打橋に生えてしなつている川藻も、枯れればまた生えます。何とてわが皇女樣の、お立ちになれは玉藻のように、お休みになれば川藻のように、お靡きになつた、よろしい方の朝宮をお忘れなさいますか。夕宮をお背《そむ》きになりますか。生ける人と思いました時に、春の頃は花を折つて髪に指し、秋になれば黄葉を髪に插し、やわらかい袖を連ねて、鏡のように見れども飽きず、滿月のようにますます愛すべくお思いになつた方と、おりにふれておいで遊ばされて、お遊びになつた城上の宮を、永久の御殿とお定めになつて、まのあたり物言われることも絶えました。そうですからか、誠に悲しく、ぬえ鳥《どり》のように片戀をしつつお通いになる方が、夏草のように思いになえなえと、夕べの星のようにあちら行きこちら行き、大船のようにたゆたつておられるのを見ますと、慰まれる心もございません。それ故に手段を知らないことはありません。音ばかりも、名ばかりも絶えずに、天地と共に、いよいよ遠く長く、お慕い申しあぐべき御名前にお懸けになつている、この明日香川は、萬代までに、愛するわが皇女樣の形見でありますなあ、比處(526)は。
【構成】この歌は五段から成つている。川藻モゾ枯ルレバ生ユルまで第一段、全體の總敍として明日香川について敍し次の段の準備としている。夕宮ヲ背キタマフヤまで第二段、皇女の薨去を敍す。アヂサハフ目言モ絶エヌまで第三段、生前の追憶から引き続いて殯宮に入られたことを敍する。慰モル心モアラズまで第四段、殘つた君の悲痛を見て慰める術も無いことを述べる。以下終りまで第五段、皇女を永く慕うべきことを敍している。
【釋】飛鳥明日香乃河之 トブトリノアスカノカハノ。一九四の歌に見えている。
 上瀬 カミツセニ。同前。
 石橋渡 イハハシワタシ。イハハシは、川中に、石を竝べ置いて、それを踏み石として渡るものをいう。後世いう石で作つた橋のような立派なものではない。その石橋を川中に入れることを渡すという。「直不v來《タダニコズ》 自v此巨勢道柄《コユコセヂカラ》 石椅跡《イハハシフミ》 名積序吾來《ナヅミゾワガクル》 戀天窮見《コヒテスベナミ》」(巻十三、三二五七)の石椅も同語である。
 一云石浪 アルハイフ、イハナミ。イハナミは石竝び、石橋に同じ。浪の字を書いたのは借字である。「安麻能河波《アマノカハ》 伊之奈彌於可婆《イシナミオカバ》 都藝弖見牟可母《ツギテミムカモ》」(巻二十・四三一〇)の例は、イシナミとあるが、ここは石橋の別傳であるからなおイハナミと讀むべきであろう。
(527) 内橋渡 ウチハシワタス。ウチハシは、板を兩岸のあいだに懸け渡した橋を言う。日本書紀神代の下に「於2天安河1、亦造2打橋1」、本集に「千鳥鳴《チドリナク》 佐保乃河門乃《サホノカハトノ》 瀬乎廣彌《セヲヒオロミ》 打橋渡須《ウチハシワタス》 奈我來跡念者《ナガクトオモヘバ》」」(巻四・五二八)、「機《ハタモノノ》 ?木持往而《フミキモチユキテ》 天漢《アマノガハ》 打橋度《ウチハシワタス》 公之來爲《キミガコムタメ》」(竿、二〇六二)などある。句切。以上第−段の第一節で、まず明日香川の上流下流の事を述べ、次の第二節の準備としている。
 生靡留 オヒナビケル。生えて水のまにまに靡いている。川中の蹈石に生えているのである。
 玉藻毛敍 タマモモゾ。下の川藻モゾと對して、玉藻も川藻もの意である。ゾは係助詞。
 絶者生流 タユレバオフル。水勢に搖れて斷ち流されれば、また後より生える。上のゾを受けて生フルと結んでいる。段落。藻はまた生えるが、人は逝きて歸らないという心を含めている。
 生乎爲禮流 オヒヲヲレル。乎爲禮流をヲヲレルと讀むことは、「山邊爾波《ヤマベニハ》 花咲乎爲里《ハナサキヲヲリ》」(卷三、四七五)、「春山之《ハルヤマノ》 開乃乎爲里爾《サキノヲヲリニ》」(巻八、一四二一)、「開乎爲流《サキヲヲレル》 櫻花者《サクラノハナハ》」(巻九、一七四七)「開乎爲流《サキヲヲル》 櫻花乎《サクラノハナヲ》」(同、−七五二)等の例に依つて確められるが、爲をヲと讀むことについては、まだ明解を得ない。誤字説もあるが従い難く、また萬葉集字音辨證には、爲にヲの音ありとしている。この語に限つて爲の字を使用するのは、慣用に依るものであろう。ヲヲルは枝などのたわむことで、花咲キヲヲルなどいう。ここは、それに助動詞リの接續したもので、川藻の水に搖れてたわんだように見えるのをいう。
 川藻宅敍 カハモモゾ。カハモは、上の玉藻を語を代えて言つている。
 干者波由流 カルレバハユル。枯れればまた生える。上の川藻モゾのゾを受けて生ユルという。生ユルの原文波由流と書いてあるのは、假字づかいを證するものである。ここにも人生無常の意が寓せられているのであろう。以上第一段の第二節、石橋に生ヒ靡ケル玉藻モゾ絶ユレバ生フルと、打橋ニ生ヒヲヲレル川藻モゾ枯ルレバ生ユルとは、對句をなし、明日香川の水草について敍している。この一段は、次の段を引き起す序として(528)構成されている。
 何然毛 ナニシカモ。シは、強意の助詞。何とてかの意で、下の忘レタマフヤ、背キタマフヤに懸つている。カモは係助詞。
 吾王能 ワガオホキミノ。ワガ大君は、皇女を指している。以下、靡カヒシまで皇女に關する敍述である。
 立者 タタセバ。タチタレバ(神)、タタセレバ(代精)、タタスレバ(考)、タタセバ(略)。皇女の行動である。タタセバと讀めば、敬語になる。下の臥者をコヤセバと讀むとすると、これも動詞コユ(倒れる)の敬語になるから、對句としてタタセバがよいのであろう。以下靡カヒシまで、皇女の柔軟な姿體を藻に譬えて敍している。
 玉藻之母許呂 タマモノモコロ。上の玉藻モゾの句を受けている。仙覺本には、以下二句、玉藻之如許呂臥者となつて、玉藻ノ如クコロブセバと讀んでいた。然るに橋本進吉博士の説として、コロブスという動詞は他に自伏とある字を讀んでいるだけで、假字書きの證が無く、金澤本には如を母としているので、今の如く讀み改められたものである。(山田孝雄博士も同説を發表された。)モコロは、如しといぅ意味の古語で、この集にも、「於吉爾須毛《オキニスモ》 乎加母乃母己呂《ヲカモノモコロ》」(巻十四、三五二七)、「伊波妣等乃《イハビトノ》 和例乎美於久流等《ワレヲミオクルト》 多々理之母己呂《タタリシモコロ》」(巻二十、四三七五)、またそのような男という場合に、「母許呂乎」というのもある。
 臥者 コヤセバ。横たわれば。フセバとも讀まれるが、フスは、下向きになることをいうので、ここには適しない。
 川藻之如久 カハモノゴトク。上の川藻モゾの句を受けている。以上二句は、立タセバ玉藻ノモコロの句と對句を成して、次の句の靡カヒシを修飾している。
 靡相之 ナビカヒシ。ナビカヒは、靡くの連續?態をいう動詞。玉藻のように、川藻のように靡カヒシと續(529)く。靡き寄り寢たの意である。
 宜君之 ヨロシキキミノ。ヨロシは足り備つていることの形容。君は皇女の配偶者をいう。その夫君は誰方か不明である。その君の朝宮夕宮と續く語法である。
 朝宮乎 アサミヤヲ。下の夕宮と共に、例の一事を朝夕に分けて敍する法。朝宮夕宮の語は、宮殿の朝夕の生活を想像させる。
 忘賜哉 ワスレタマフヤ。上の何シカモを受けて、お忘れになるのかと結ぶ。ヤは添えていう感動の助詞で、無くて意は通ずるところである。下同じ。句切。
 夕宮乎背賜哉 ユフミヤヲソムキタマフヤ。上の朝宮云々の句と對句を成している。ここで段落である。以上皇女の薨去されたことを、詰問するように敍している。
 宇都曾臣跡念之時 ウツソミトオモヒシトキ。ウツソミは既出(巻二、一六五)。ウツソミトオモヒシトキは、現實の人と思つた時で、皇女の御生前をいう。この句は、孰語句で、生前の意に使用される。「打蝉等《ウツセミト》 念之時爾《オモヒシトキニ》 【一云、宇都曾臣等念之】」(卷二、二一〇)。以下生前の追憶に入る。
 春部者 ハルベハ。ベはその方向をいう。春の頃は。
 花折插頭 ハナヲリカザシ。花を折つて插頭にし。カザシは既出(卷一、三八)。髪に插して飾りとすること。
 秋立者 アキタテバ。秋になることを秋立つという。このタツは始まる意の動詞である。秋になれば。
 黄葉插頭 モミチバカザシ。既出、「秋立者《アキタテバ》 黄葉頭刺理《モミチカザセリ》」(卷一、三八)。以上二句、春ベハ花折リカザシと對句になつている。
 敷妙之 シキタヘノ。枕詞。
(530) 袖携 ソデタヅサハリ。タヅサハリは、携えある?をいう動詞。袖を列ねて。
 鏡成 カガミナス。枕詞。鏡のようにの意に、見るに冠する。
 雖見不厭 ミレドモアカニ。ミレドモアカズ(西)。アカニは飽きないで。ニは打消。知ラニのニに同じ。
 三五月之 モチヅキノ。三五は十五の意に書いている。十五夜の月で、モチヅキと讀む。枕詞。滿月の賞美すべくあるより、メヅラシに冠する。
 益目頬染 イヤメヅラシミ。イヤは、一層。メヅラシは愛すべくあるをいう。珍奇ではない。愛しみ思うで、いよいよ愛すべく思われたという意。染の字は、シミの音をあらわすために借りている。
 所念之 オモホシシ。皇女のお思い遊ばされた。連體形。
 君與時々 キミトトキドキ。キミトヨリヨリ(代初書入)。君は皇女の夫君をいう。鏡のように見ても飽かずいよいよ愛しみ思われた君と、皇女から見た夫君を敍している。時々はおりにふれ時につけて。
 幸而 イデマシテ。おいで遊ばされて。
 遊賜之 アソビタマヒシ。遊覽遊ばされた意で、連體形。枕詞を隔てて木※[瓦+缶]を修飾する。
 御食向 ミケムカフ。御食物として供える酒の意に、キの枕詞としている。
 木※[瓦+缶]之宮乎 キノヘノミヤヲ。生前に遊覽されたこの木※[瓦+缶]の宮を。題詞の解にいうように、城上と書くも同じ。皇女の御墓が、この他に設けられたのである。
 常宮跡定賜 トコミヤトサダメタマヒテ。トコミヤは永久の御殿の意で、御墓所をいう。但し御墓所に限らず、宮殿を稱えてもいう。「朝毛吉《アサモヲシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》」(巻二、一九九)の例は墓所であるが、「安見知之《ヤスミシシ》 和期大王之《ワゴオホキミノ》 常宮等《トコミヤト》 仕奉流《ツカヘマツレル》 左日鹿野由《サヒカノユ》」(巻六、九一七)の例は、離宮である。永久の宮殿とお定めになつて、御墓所をお占めになつて。薨去された方御自身に御選定遊ばされたように敍しているのは、(531)貴人は自葬するとする思想からである。
 味澤相 アヂサハフ。枕詞。語義未詳。冠辭考に、アヂは味鳧で水禽の名、サハフは多經で、多く群居し、群《メ》に懸かるというが信じかねる。鹿持雅澄は、ウマサハフと讀んで、味のよい粟田《あはふ》の義で群生《むらはえ》に懸かると云つているが、これも信じられない。集中五處に出で、皆文字を味澤相と書いてある。うち四つはメに懸かり、一つは夜晝知ラズに懸かつている。アヂは、多數にあることをいう語で、アヂサヰなど、植物にもいう。よつて多數の植物の多く生えているところの義で、メ(芽)に冠するか。
 目辭毛絶奴 メゴトモタエヌ。メゴトはまのあたり逢つて物いうこと。「海山毛《ウミヤマモ》 隔莫國《ヘダタラナクニ》 奈何鴨《イカニカモ》 目言乎谷裳《メゴトヲダニモ》 幾許乏寸《ココダトモシキ》」(巻四、六八九)、「東細布《ヨコグモノ》 從v空延越《ソラユヒキコシ》 遠見社《トホミコソ》 目言疎良米《メコトウトカラメ》 絶跡間也《タユトヘダツヤ》」(卷十一、二六四七)など使用されている。以上第三段、皇女生前の御事蹟から起して、ふたたび薨去に及び、殯宮に鎭まりましたことまでを敍している。
 然有鴨 シカレカモ。シカアレカモで、然あればにやの意。カモは係助詞。上の敍述を受けて、下の、アヤニ悲シミに懸かる。
 所己乎之毛 ソコヲシモ。ソコは上を受けている。シモは強意の助詞。
 綾尓憐 アヤニカナシミ。アヤニは、驚歎の意をあらわす副詞。この句は、下の通ハス君の心中の描寫で、これによつて、お通いになるのを修飾する。
 宿兄鳥之 ヌエドリノ。枕詞。ヌエドリは、既出(巻一、五)。梟など夜鳴く鳥をいうが、普通にはトラツグミであるという。啼き聲がうめくようであるから、ノドヨヒ、ウラ泣クの枕詞とし、その鳴く心を求めて片戀の枕詞としている。
 片戀嬬 カタコヒヅマ。カタコヒは、一方からのみの戀をいう。今皇女は薨去して、殘された夫君のみ戀を(632)している故に、片戀という。ツマは配偶者で、嬬の字を使用したのは婦人の意であるが、ここは男性で、皇女の夫君をいう。片戀をしている夫君で、下の通ハス君と、語を變えて言つている。
 一云爲乍 アルハイフ、シツツ。上の片戀ヅマの句が、別傳には、片戀シツツとあるというのである。これは通ハス君の敍述である。
 朝鳥 アサドリノ。朝、鳥は往來する故に通フの枕詞とする。
 一云朝霧 アルハイフ、アサギリノ。上の朝鳥の別傳である。これも枕詞。朝霧が通うとは、霧の動態を描いて巧みな句である。
 往來爲君之 カヨハスキミガ。通ハスは、お通いになる、皇女の殯宮へお通いになる意。君は、片戀ヅマ、すなわち夫君をさす。
 夏草乃念之萎而 ナツクサノオモヒシナエテ。既出(巻二、一三一)。
 夕星之 ユフヅツノ。枕詞。ユフヅツは、金星をいう。倭名類聚鈔に「兼名苑云、大白星、一名長庚【此間云2由布都々1。】暮見2於西方1、爲2長庚1耳」とある。この星は、朝夕について、人の世界から見る位置を異にするより、カ行キカク行キの枕詞とする。本集には、「夕星乃《ユフヅツノ》 由布弊爾奈禮婆《ユフベニナレバ》」(巻五、九〇四)、「夕星毛《ユフヅツモ》 往來天道《カヨフアマヂヲ》」(巻十・二〇一〇)の用例があるが、巻の十のは、枕詞ではない。
 彼往此往 カユキカクユキ。カ寄リカク寄リの類で、あちらに行き、こちらに行き、一定の方向の無いのにいい、次のタユタフを修飾する。
 大船 オホブネノ。枕詞。ここでは、船が浪のままに動搖して安定しないので、タユタフに冠している。
 猶預不定見者 タユタフミレバ。タユタフは、猶豫してしかとおちつかないのをいう。ためらう、やすらう等の意がある。ここは夫君の爲《せ》む術を知らずに、迷われるをいう。見レバは作者人麻呂の見ること。
(533) 遣悶流 ナグサモル。遣悶は義を以つて書いている。此の句、夫君の心を慰めるの意とすれば、ナグサムルであるが、次句以下、自身について言つていると見られるので、自動詞として、ナグサモルとする。「名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(巻四、五〇九)。
 情毛不在 ココロモアラズ。夫君の悲しみの餘り、事も手につかない、で猶豫しておられるを見れば、我等も慰める心もないというのである。以上第四段。殘された夫君が殯宮に通われることを敍し、作者として何と慰むべき法もないことを敍している。
 其故 ソコユエニ。既出(巻二、一六七)。上を受けてソコという。
 爲便知之也 スベシラマシヤ。
   スヘモシラシヤ(西)
   スベモシラジヤ(代)
   スベシラマシヤ(考)
   ――――――――――
   セムスベシラニ(玉)
   爲便知良爾《セムスベシラニ》(槍)
 知之也は、文字表示が不完全で、讀み方が問題になる。シラマシヤと讀むのは、考の説である。これと同形かと思われるものに、「沼名河之《ヌナカハノ》 底奈流玉《ソコナルタマ》 求而《モトメテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》 拾而《ヒリヒテ》 得之玉可毛《エマシタマカモ》」(巻十三、三二四七)があり、その得之も、エマシと讀むべきかと考えられる。マシヤの例は、「惜v不v登2筑波山1歌一首 筑波根爾《ヅクハネニ》 吾行利世波《ワガユケリセバ》 霍公鳥《ホトトギス》 山妣兒令v響《ヤマビコトヨメ》 鳴麻志也其《ナカマシヤソレ》」(巻八、一四九七)がある。このナカマシヤは、不可能希望の助動詞マシに反語の助詞ヤが接線したものであつて、アラメヤなどの形のものから類推すれば、反語のヤはマシの不可能の要素を否定して可能の意を示すものと考えられる。筑波山にわたしが行つたとしたなら、ホトトギスはきつと鳴いたろうの意になる。今、シラマシヤをこれに準じて考えれば、知つていたらなあの否定でよく知つているの意になる。すなわち、次の句以下のことが、そのスベに相當するものである。以上二句、獨(534)立文で、以下の準備となる。
 吾耳母名耳毛不絶 オトノミモナノミモタエズ。オトは皇女の御上につきて言うことを聞くをいい、ナは皇女の御名をいう。正身はいまさずとも、せめて音ばかり名ばかりも絶えずに、慕い行こうと續く。
 天地之弥遠長久 アメツチノイヤトホナガク。天地の如くいよいよ遠く良くで、永久にの意。副詞句として挿入されている。參考として、「天地與《アメツチト》 彌遠長爾《イヤトホナガニ》 萬代爾《ヨロヅヨニ》 如此毛欲得跡《カクシモガモト》」(卷三、四七八)の如き表現がある。
 思將往 シノヒユカム。このシノヒは、思慕する意に使用している。さてこの句は、終止としても解せられるが、五七調の正格からいえば、連體形であつて、次の句の御名を修飾するものと見るべきである。
 御名尓懸世流ミナニカカセル。カカセルは、動詞懸クの敬語カカスに、助動詞リの連體形の添つたもの。明日香の皇女と申すより、明日香をさしてかくいう。皇女の御名前にお懸けになつている。
 明日香河 アスカガハ。迄に冒頭の明日香の河に應じている。
 及萬代 ヨロヅヨマデニ。萬代までに、この川を形見かの文脈である。
 早布屋師 ハシキヤシ。親愛の?態にある意の形容詞ハシキに、感動の助詞ヤシの接續したもの。既出のハシキヨシ(卷二、一三一)に同じ。ハシキわが大君と續く意である。
 吾王乃 ワガオホキミノ。ワガオホキミは明日香の皇女をさす。
 形見河此焉 カタミカココヲ。形見であることかなと嘆息したのである。ココヲは、更に川を指示して意を強める。明日香川を、皇女の御形見としてお慕い申し上げようとである。以上第五段、作者の感想を敍している。
【評語】皇女の薨逝を悼んで、御名に因んだ明日香川の藻を以つて筆を起している。このこといかにも皇女の(535)婦人としての姿容を髣髴せしめる敍述である。高市の皇子の殯宮の歌に戰闘を敍した作者は、この歌について皇女と夫君との交渉を細述している。全篇美しい詞句が多くて、まことに皇女を悼んだ歌として適切に感じられる。この歌は、前出の、泊瀬部の皇女と忍坂部の皇子とに獻る歌(卷二、一九四)と、同樣の構成を有している。まず明日香川についてその水草を敍し、これを以つてそれぞれ婦人の姿體を形容するに用立て、次に君の薨去を敍し、殘された方の上に及んでいる。そうしてこの歌は、更に作者の感想を添えている。後の作だけに、この歌の方が一層複雜に巧妙に出來ているが、熱情においては、前の歌の方に一日の長がある。比較してその相似と相違とを味わうべきである。
 
短歌二首
 
197 明日香《あすか》川 しがらみ渡し
 塞《せ》かませば、
 流るる水も  長閑《のど》にかあらまし。
   一は云ふ、水のよどにかあらまし。
 
 明日香川《アスカガハ》 四我良美渡之《シガラミワタシ》
 塞益者《セカマセバ》
 進留水母《ナガルルミヅモ》
 能杼尓賀有萬志《ノドニカアラマシ》
   一云、水乃與杼尓加有益
 
【譯】明日香川に柵を懸け渡して、水を堰いたなら、流れる水も、平穩にあるでありましようものを。
【釋】明日香川 アスカガハ。長歌に、全篇の構想として、明日香川について記述しているのを受ける。
 四我良美渡之 シガラミワタシ。シガラミは、水中に柵を設けて、流れ來る水を支えて深くし、または塵芥などを堰き留めるもの。語義は、シは不明であるが、カラミは、動詞カラムと推定される。それを川中に渡しての意。「明日香川《アスカガハ》 湍瀬爾玉藻者《セゼニタマモハ》 雖2生有1《オヒタレド》 四賀良美有者《シガラミアレバ》 靡不v相《ナビキアハナクニ》」(卷七、一三八〇)。また動詞として(536)は、「※[草冠/互]乃枝乎《ハギノエヲ》 石辛見散之《シガラミチラシ》 狹男壯鹿者《サヲシカハ》 妻呼令v動《ツマヨビトヨメ》」(卷六、一〇四七)がある。
 塞益者 セカマセバ。セカは、動詞塞クの未然形。流れる水を抑え止める意である。マセバは、マシの末然條件法(卷一、六九)。塞きもしたならば。實際は塞かなかつたのであるが、もし塞き得たとしたらの意。
 進留水母 ナガルルミヅモ。進をナガルと讀むのは、水の進むは流れるのであるからである。
 能杼尓賀有萬思 ノドニカアラマシ。ノドは、のどか、平穩。カは疑問の係助詞。アラマシは、不可能希望の語法。
 水乃與杼尓加有益 ミヅノヨドニカアラマシ。本文第四句の水モノドニカ、以下の別傳である。ヨドは、よどみ、水の停滯するところ。この別傳、ヨドは、川淀であるから、流れる水が淀であるだろうというのは、意を成さない。
【評語】長歌を受けて、明日香川を以つて譬喩を構成している。長歌に附隨する歌として、その意を見るべき作である。
 
198 明日香川
 明日《アス》だに【一は云ふ、さへ。】見むと 念《おも》へやも、【一は云ふ、念へかも。】 
 わが大君《おほきみ》の み名忘れせぬ。
   一は云ふ、御名忘らえぬ。
 
 明日香川《アスカガハ》
 明日谷《アスダニ》【一云、左倍】 將v見等《ミムト》 念八方《オモヘヤモ》【一云、念香毛】
 吾王《ワガオホキミノ》 御名忘世奴《ミナワスレセヌ》
    一云、御名不v所v志
 
【譯】この明日香川というように、明日だけでも見ましようとは思つていますからでしょうか、わが皇女樣の御名前を忘れないことでございます。
【釋】明日香川 アスカガハ。これも長歌の句を受けている。この歌の主題の明日香川を提示して、ここは單(537)に枕詞としている。そうして同音を利用して次のアスを起している。
明日谷將見等 アスダニミムト。遠き將來は知らず、せめて明日だけでも見ようと。ミムトは、明日香の皇女を見ようとである。
 一云左倍 アルハイフ、サヘ。第二句のダニの別傳で、それには、アスサヘミムトとあるというのである。アスサヘは、今日はもとより、明日までもの意で、本文の意味とは相違する。
 念八方 オモヘヤモ。ヤモは疑問の係助詞。明日だけでもと思つているのだろうか、そうではないのだがの意。ヤモは、もと終助詞として、「等虚辭陪邇《トコシヘニ》 枳彌母阿閇椰毛《キミモアヘヤモ》 異舍儺等利《イサナトリ》 宇彌能波摩毛能《ウミノハマモノ》 余留等枳等枳弘《ヨルトキドキヲ》」(日本書紀六八)のように、文末に使用されていたが、ついで條件法を生じたと解せられる。本集では「?干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 沾衣乎《ヌレギヌヲ》 家者夜良奈《イヘニハヤラナ》 ?印《タビノシルシニ》」(卷九、一六八八)、「?干《アブリホス》 人母在八方《ヒトモアレヤモ》 家人《イヘビトノ》 春雨須良乎《ハルサメスラヲ》 間使爾爲《マヅカヒニスル》」(同、一六九八)の二例は、いずれも人麻呂集所出の歌で、同じく「名木河作歌」の題があつて、多分同一人同時の作と考えられるものである。しかもここには同一の「あぶりほす人もあれやも」の句が使われているが、その前者は、それで一文を成し、後者は、條件法として、次の三句でこれを受けて結んでいる。ここにこの條件法成立の經過が見られる。そうして更に「勢能山爾《セノヤマニ》 直向《タダニムカヘル》 妹之山《イモノヤマ》 事聽屋毛《コトユルセヤモ》 打橋渡《ウチハシワタス》」(卷七、一一九三)になると、反語の意でなくして、單なる疑問の條件法になつている。この明日香川の歌のこの句の別傳として「一云念香毛」とあるのも、既に反語としての用法を忘れるに至つて、たやすく歌い代えられたものであろう。ヤモは、助詞ヤに、感動の助詞モの接續したものと解せられるから、以上の經過は、ヤを單用するものにあつても、ほぼ同樣であろう。
 一云念香毛 アルハイフ、オモヘカモ。上の第三句の別傳である。前項參照。
 吾王 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、皇女をさす。
(538) 御名忘世奴ミナワスレセヌ。上の念ヘヤモのヤを受けて、忘レセヌと連體形に結んでいる。
 御名不所忘 ミナワスラエヌ。第五句の別傳である。忘レセヌの方は、自然に忘れることがないの意であり、これはどうしても忘れられないの意である。以上一首のうちに一云が三個あり、これを同一の別傳から來たものとすれば、「明日香川明日さへ見むと念へかもわが大君の御名忘らえぬ」となる。
【評語】これも明日香川に寄せて、皇女の御名の忘れ難いことを歌つている。長歌の末尾を特に受けて結んだ構成である。この長歌竝に短歌は、終始明日香川を使つて思を述べており、その構想は巧みであるが、ややこれに拘泥し過ぎる感がある。この點、巧思に墮したものともいえよう。
 
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
高市の皇子の尊の城上《きのへ》の殯の宮の時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】高市皇子尊 タケチノミコノミコト。既出(卷二、一一四)。天武天皇の皇子。草壁の皇太子の薨後を受けて後の皇子の尊とも呼ばれる。持統天皇の四年七月、太政大臣となり、十年七月十日、薨去された。天武天皇の諸皇子のうちでは、皇長子と考えられるが、生母の身分が低く、ただちに皇太子とはなれなかつた。持統天皇の十年七月後、間も無い頃の作であろうから、順序からいえば、明日香の皇女の殯宮の作より前にあるべきである。
 
城上 キノヘ。既出の木※[瓦+缶](卷二、一九六)と同地。
 
199 かけまくも ゆゝしきかも。【一は云ふ、ゆゆしけれども。】
 言はまくも あやに畏《かしこ》き
(539) 明日香の 眞神《まがみ》が原に
 ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を
 かしこくも 定めたまひて、
 神《かむ》さぶと 磐《いは》がくります
 やすみしし わが大王《おほきみ》の
 きこしめす 背面《そとも》の國の
 眞木《まき》立つ 不破《ふは》山越えて
 高麗劍《こまつるぎ》 和?《わざみ》が原の
 行宮《かりみや》に 天降《あも》りいまして、
 天の下 治めたまひ【一は云ふ、拂ひたまひて。】
 食《を》す國《くに》を 定めたまふと
 鷄《とり》が鳴く 吾妻《あづま》の國の
 御車士《みいくさ》を 召《め》したまひて
 ちはやぶる 人を和《やは》せと、
 服從《まつろ》はぬ 國を治めと、【一は云ふ、拂へと。】
 皇子《みこ》ながら 任《ま》け賜へば、
 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取《と》り佩《は》かし、
(540) 大御手《おほみて》に 弓取り持たし、
 御車士《みいくさ》を 率《あとも》ひたまひ、
 齊《ととの》ふる 鼓の音《おと》は、
 雷《かづち》の 聲と聞くまで、
 吹き響《な》せる 小角《くだ》の音も、【一は云ふ、笛の音は。】
 敵《あた》みたる 虎か吼《ほ》ゆると
 諸人《もろびと》の おびゆるまでに、【一は云ふ、聞きまどふまで。】
 捧《ささ》げたる 幡《はた》の靡《なび》きは、
 冬ごもり 春さり來れば、
 野ごとに 著きてある火の【一は云ふ、冬ごもり春野燒く火の。】
 風の共《むた》 靡かふ如く、
 取り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騷《さわき》、
 み雪降る 冬の林に【一は云ふ、木綿の林。】
 飄風《つむじ》かも い卷き渡ると
 思ふまで 聞《きき》の恐《かしこ》く、【一は云ふ、諸人の見まどふまでに。】
 引き放つ 箭の繁《しげ》けく、
 大雪の 亂れて來《きた》れ、【一は云ふ、霰なすそちよりくれば。】
(541) まつろはず 立ち向ひしも、
 露霜の 消《け》なば消ぬべく、
 去《ゆ》く鳥の 競《あらそ》ふ間《はし》に、
  一は云ふ、朝霜の消《け》なば消ぬとふに、うつせみと爭ふはしに。
 渡會《わたらひ》の 齋《いつき》の宮《みや》ゆ
 神風に い吹き惑《まど》はし、
 天雲を 日の目も見せず
 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて、
 定めてし 瑞穗の國を
 神《かむ》ながら 太敷き坐《ま》して、
 やすみしし わが大王《おほきみ》の、
 天の下 申《まを》したまへば、
 萬代に 然しもあらむと、【一は云ふ、かくもあらむと。】
 木綿花《ゆふはな》の 榮ゆる時に、
 わが大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門を【一は云ふ、さす竹の皇子の御門を。】
 神宮に 装《よそ》ひまつりて、
 つかはしし 御門の人も、
(542) 白細《しろたへ》の 麻衣《あさごろも》著《き》、
 埴安《はにやす》の 御門の原に
 茜《あかね》さす 日のことごと、
 鹿《しし》じもの い匍《は》ひ伏しつつ、
 ぬばたまの 夕《ゆふべ》になれば、
 大殿を ふり放《さ》け見つつ、
 鶉《うづら》なす い匍ひもとほり
 侍《さもら》へど 侍ひ得ねば、
 春鳥の さまよひぬれば、
 嘆《なげ》きも いまだ過ぎぬに、
 憶《おもひ》も いまだ盡きねば、
 言《こと》さへく 百濟《くだら》の原ゆ
 神葬《かむはふ》り 葬りいまして、
 朝裳《あさも》よし 城上《きのへ》の宮を
 常宮《とこみや》と 高くし奉りて、
 神ながら 鎭《しづ》まりましぬ。」
 然れども わが大王の、
(543) 萬代と 念ほしめして
 作らしし 香具山の宮、
 萬代に過ぎむと念へや。
 天の如 ふり放《さ》け見つつ、
 玉襷《たまだすき》 かけて思《しの》はむ。
 恐《かしこ》かれども。」
 
 挂文《カケマクモ》 忌之伎鴨《ユユシキカモ》
 言久母《イハマクモ》 綾尓畏伎《アヤニカシコキ》
 明日香乃《アスカノ》 眞神之原尓《マガミガハラニ》
 久堅能《ヒサカタノ》 天都御門乎《アマツミカドヲ》
 懼母《カシコクモ》 定賜而《サダメタマヒテ》
 神佐扶跡《カムサブト》 磐隱座《イハガクリマス》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王乃《ワガオホキミノ》
 所v聞見爲《キコシメス》 背友乃國之《ソトモノクニノ》
 眞木立《マキタツ》 不破山越而《フハヤマコエテ》
 狛劍《コマツルギ》 和射見我原乃《ワザミガハラノ》
 行宮尓《カリミヤニ》 安母理座而《アモリイマシテ》
 天下《アメノシタ》 治賜《オサメタマヒ》【一云、掃賜而】
 食國乎《ヲスクニヲ》 定賜等《サダメタマフト》
 鷄之鳴《トリガナク》 吾妻乃國之《アヅマノクニノ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 喚賜而《メシタマヒテ》
 千磐破《チハヤブル》 人乎和爲跡《ヒトヲヤハセト》
 不2奉仕1《マツロハヌ》 國乎治跡《クニヲヲサメト》【一云、掃部等】
 皇子隨《ミコナガラ》 任賜者《マケタマヘバ》
 大御身尓《オホミミニ》 大刀取帶之《タチトリハカシ》
 大御手尓《オホミテニ》 弓取持之《ユミトリモタシ》
 御軍士乎《ミイクサヲ》 安騰毛比賜《アトモヒタマヒ》
 齊流《トトノフル》 鼓之音者《ツヅミノオトハ》
 雷之《イカヅチノ》 聲登聞麻低《コヱトキクマデ》
 吹響流《フキナセル》 小角乃音母《クダノオトモ》【一云、笛乃音波】
 敵見有《アタミタル》 虎可叫吼登《トラカホユルト》
 諸人之《モロビトノ》 恊流麻低尓《オビユルマデニ》【一云、聞或麻泥】
 指擧有《ササゲタル》 幡之靡者《ハタノナビキハ》
 冬木成《フユゴモリ》 春去來者《ハルサリクレバ》
 野毎《ノゴトニ》 著而有火之《ツキテアルヒノ》【一云、冬木成春野燒火乃】
 風之共《カゼノムタ》 靡如久《ナビカフゴトク》
 取持流《トリモテル》 弓波受乃驟《ユハズノサワキ》
 三雪落《ミユキフル》 冬乃林尓《フユノハヤシニ》【一云、由布乃林】
 飄可母《ツムジカモ》 伊卷渡等《イマキワタルト》
 念麻低《オモフマデ》 聞之恐久《キキノカシコク》【一云、諸人見或麻低爾】
 引放《ヒキハナツ》 箭之繁計久《ヤノシゲケク》
 大雪乃《オホユキノ》 亂而來禮《ミダレテキタレ》【一云、霰成曾知余里久禮婆】
 不2奉仕1《マツロハズ》 立向之毛《タチムカヒシモ》
 露霜之《ツユジモノ》 消者消倍久《ケナバケヌベク》
 去鳥乃《ユクトリノ》 相競端尓《アラソフハシニ》
    一云、朝霜之消者消言尓、打蝉等安良蘇布波之尓
 渡會乃《ワタラヒノ》 齋宮從《イツキノミヤニ》
 神風尓《カムカゼニ》 伊吹或之《イフキマドハシ》
 天雲乎《アマグモヲ》 日之目毛不v令v見《ヒノメモミセズ》
 常闇尓《トコヤミニ》 覆賜而《オホヒタマヒテ》
 定之《サダメテシ》 水穗之國乎《ミヅホノクニヲ》
 神隨《カムナガラ》 太敷座而《フトシキマシテ》
 八隅知之《ヤスミシシ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 天下《アメノシタ》 申賜者《マヲシタマヘバ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 然之毛將v有登《シカシモアラムト》【一云、如是毛安良無等】
 木綿花乃《ユフバナノ》 榮時尓《サカユルトキニ》
 吾大王《ワガオホキミ》 皇子之御門乎《ミコノミカドヲ》【一云、刺竹皇子御門乎】
 神宮尓《カムミヤニ》 装束奉而《ヨソヒマツリテ》
 遣使《ツカハシシ》 御門之人毛《ミカドノヒトモ》
 白妙乃《シロタヘノ》 麻衣著《アサゴロモキ》
 埴安乃《ハニヤスノ》 御門之原尓《ミカドノハラニ》
 赤根刺《アカネサス》 日之盡《ヒノコトゴト》
 鹿自物《シシジモノ》 伊波比伏管《イハヒフシツツ》
 烏玉能《ヌバタマノ》 暮尓至者《ユフベニナレバ》
 大殿乎《オホトノヲ》 振放見乍《フリサケミツツ》
 鶉成《ウヅラナス》 伊波比廻《イハヒモトホリ》
 雖2侍候1《サモラヘド》 佐母良比不v得者《サモラヒエネバ》
 春鳥之《ハルトリノ》 佐麻欲比奴禮者《サマヨヒヌレバ》
 嘆毛《ナゲキモ》 未v過尓《イマダスギヌニ》
 憶毛《オモヒモ》 未不v盡者《イマダツキネバ》
 言左敝久《コトサヘク》 百濟之原從《クダラノハラユ》
 神葬《カムハフリ》 葬伊座而《ハフリイマシテ》
 朝毛吉《アサモヨシ》 木上宮乎《キノヘノミヤヲ》
 常宮等《トコミヤト》 高之奉而《タカクシマツリテ》
 神隨《カムナガラ》 安定座奴《シヅマリマシヌ》
 雖v然《シカレドモ》 吾大王之《ワガオホキミノ》
 萬代跡《ヨロヅヨト》 所v念食而《オモホシメシテ》
 作良志之《ツクラシシ》 香來山之宮《カグヤマノミヤ》
 萬代尓《ヨロヅヨニ》 過牟登念哉《スギムトオモヘヤ》
 天之如《アメノゴト》 振放見乍《フリサケミツツ》
 玉手次《タマダスキ》 懸而將v偲《カケテシノハム》
 恐有騰文《カシコカレドモ》
 
【譯】言に出して云うのは憚られることであります。申そうにも誠に恐れ多い、明日香の眞神の原に壯大な宮殿をお定めになつて、神樣となられるとして、磐戸の中にお隱れになつた、わが天武天皇の、治められる北方の國の、美濃の國の木の茂り立つ不破山を越えて、和※[斬/足]《わざみ》が原の行宮にお下《くだ》りになつて、天下を治め、領國をお定めになると、東方の國の軍卒をお召しになり、亂暴な人を平和にせよ、服從せぬ國を治めよと、高市の皇子に、皇子にましますが故に任命されましたから、皇子は、御身に太刀をお佩きになり、御手に弓をお持ちになり、軍卒を率《ひき》いたまい、調子を正す太鼓の音は、雷の音と聞くまで、吹き立てる小角《くだ》の笛の音も、敵對した虎が吼えるのかと、衆人の恐怖するまでに、捧げた幡の靡きは、冬が終つて春になつて來ると、野毎についている火が、風と共に靡くように、持つている弓弭の騷ぐ音は、雪の降る冬の林に、飄風《つむじかぜ》が卷き渡るかと思うまで、聞くもおそろしく、引き放つ矢の繁きことは、大雪のように亂れて來れば、服從しないで立ち向かつた者も、露霜のように、今にも消えそうにして、行く鳥のように先を爭つているおりに、伊勢の神宮から、神風が吹き惑わし、日の光も見せず天雲を以つて、眞闇に覆いなされて、平定されたこの日本の國を、神樣にあるままに、領有遊ばされて、わが高市の皇子の、天下の政をお執りになるから、萬代までも、この通りにあろうと、作り(544)花のように榮える時に、思いもかけず、わが皇子の宮殿を、祭りの場と装飾し奉つて、お使いになつていた宮の人も、白い麻衣を著て、埴安の御殿の原に、終日、鹿猪のように匍い伏しつつ、夕方になれは、大殿を仰ぎ見ながら鶉のように葡ひ彷徨して、伺候しているけれども、それにも堪えかねて、嘆きの聲が出されるから、嘆きもまだ過ぎず、思いもまだ盡きないのに、百濟《くだら》の原から、葬り申し上げて、城上《きのへ》の宮を、永久の宮とお定め申し上げて、神樣としてお成りになりました。しかしながら、わが皇子樣の、萬代にもとお思いになつてお作りになつた、香具山の宮は、萬代に棄てて行こうと思いましようや。天のように仰ぎ見つつ心にかけてお慕い申しあげましよう。恐れ多いことではありますけれども。
【構成】この歌は、二段から成つている。初めから終りに近い常宮ト高クシ奉リテ神ナガラ鎭マリマシヌまで第一段。先帝天武天皇の御事蹟から説き起して、皇子の御事蹟に入り、更にその薨去して殯宮に鎭まるまでに及んでいる。これは事實を敍述する部分であるが、特にそれが長大に發達して重要な記事となつている。以下終りまで第二段、故宮について作者の感想を敍している。主觀を敍する部分である。第一段、百三十六句、第二段、十三句、以つてその構成を見るべきである。
【釋】挂文 カケマクモ。以下、皇子ナガラ任ケ賜ヘバまでは、皇子の御父にまします天武天皇の御事蹟を敍す。その天武天皇の御事を言おうとして、恐懼に堪えない意を、以下の四句であらわしている。カケマクは、懸けむことの意で、體言である。この語は、心に懸ける、言語に懸けるの兩方面がある。元來どちらも含んでいようが、ここは言葉に懸ける方が主になつている。神や貴人のことを、たやすく、口に懸け心に懸けることを忌み憚る心である。
 忌之伎鴨 ユユシキカモ。ユユシは、忌むべくある意の形容詞。カモは感動の助詞。憚られることであるかなの意。以上一文を成しており、次の、言ハマクモアヤニ畏キと對句になつて、下文に續いている。對句の前(545)半は、終止形で切り、後半が連體形になつて、後の文に接續するもので、「鳴かざりし鳥も來鳴きぬ。咲かざりし花も咲けれど」(卷一、一六)などと同型である。この形式の對句は、古體の歌に多く、後衰える。
 由遊志計禮杼母 ユユシケレドモ。ユユシキカモの句の別傳で、これによれば、文は切れない。この歌には、歌詞中に別傳を多く有しているが、これらは、同一の別傳から來ているのであろう。
 言久母 イハマクモ。イハマクは、言わむことの義。
 綾尓畏伎 アヤニカシコキ。以上、句を隔てて、ワガ大君を修飾している。「挂卷母《カケマクモ》 綾爾恐之《アヤニカシコシ》 言卷毛《イハマクモ》 齋忌志伎可物《ユユシキカモ》」(卷三、四七五)。
 明日香乃眞神之原尓 アスカノマガミガハラニ。明日香の眞神が原は、大口の眞神が原ともいう。マガミノハラとも讀まれるが、下に、ワザミガ原とある。大口ノを冠した場合、ガの方が調子がよい。マガミはオオカミ。日本書紀欽明天皇紀に、狼について貴神《カシコキカミ》と稱
している。「大口能《オホクチノ》 眞神之原爾《マガミガハラニ》 零雪者《フルユキハ》 甚莫零《イタクナフリソ》 家母不v有國《イヘモアラナクニ》」(卷八、十六三六)、「三諸之《ミモロノ》 神奈備山從《カムナビヤマユ》 登能陰《トノグモリ》 雨者落來奴《アメハフリキヌ》 雨霧相《アマギラヒ》 風左倍吹奴《カゼサヘフキヌ》 大口乃《オホクチノ》 眞神之原從《マガミガハラユ》 思管《シノヒツツ》 還爾之人《カヘリニシヒト》 家爾到伎也《イヘニイタリキヤ》」(卷十三、三二六八)と詠まれている地で、三諸の神奈備山との關係が見えるが、その三諸の神奈備山は、明日香の神奈備山で、もと飛鳥神社の鎭座していた舊地である。また日本書紀、崇峻天皇の紀の、元年の條に、(546)「壞2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1、始作2法興寺1、此地名2飛鳥眞神原1、亦名2飛鳥苫田1」とある。その法興寺は飛鳥寺ともいい、今の安居院の地である。安居院は、高市郡飛鳥の南にあるから、その邊が眞神が原ということになる。天武天皇の山陵は、檜隈の大内の陵といい、高市村野口にあり、安居院からは、飛鳥川を隔てて東南十町ほどの處にある。その山陵へは、眞神が原を通過して行くので、ここに眞神ガ原ニ云々と擧げたのであろう。天ツ御門ヲ定メタマヒテ神サブト磐ガクリマスという敍述は、山陵に鎭まりますこととする以外の解は成立しない。
 久堅能 ヒサカタノ。枕詞。
 天都御門乎 アマツミカドヲ。アマツは、天上の義で、天武天皇の神としての宮殿の意に、冠している。ミカドは宮殿、宮室。神としての御座所をの意。天つ宮といぅも同義で、弓削の皇子の薨去した時の歌に「久堅乃《ヒサカタノ》 天宮爾《アマツミヤニ》 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》」(卷二、二〇四)の例がある。また天の御門ともいい、「可之故伎也《カシコキヤ》 安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》 可氣都禮婆《カケツレバ》 禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》 安佐欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》」(卷二十、四四八〇)の例があつて、これも天武天皇の山陵を指している。
 懼母定賜而 カシコクモサダメタマヒテ。カシコクモは、定メタマヒテの限定詞。恐れ多くも。御陵を眞神が原に、天皇御自身にお定めになつたように敍している。
 神佐扶跡 カムサブト。カムサブは既出(卷一、三八)。神樣としての行爲を遊ばされると。
 磐隱座 イハガクリマス。陵墓は、石を以つて構築し、入口には、石戸を立てるので、その中に隱れたまうの義である。連體形の句。明日香の以下、次のワガ大君の修飾句として、山陵に鎭まりたまうことを敍している。
 八隅却之吾大王乃 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、天武天皇を指し奉る。下の任ケタマヘバ(547)までに對する主格となつている。
 所聞見爲 キコシメス。キコシはお聞きになるの義、メスは敬語の助動詞。統治したまうの意になる。シラシメスに同じ。次の背友の國の修飾句である。
 背友乃國之 ソトモノクニノ。ソトモは、既出(卷一、五二)。背つ面の義で、北方をいう。ソトモノクニは、下の不破山を説明しており、美濃の國である。
 眞木立 マキタツ。既出(卷一、四五)。立派な木の立つ意に、不破山を修飾する。
 不破山越而 フハヤマコエテ。以下壬申の年の亂に關する記事に入る。不破山は、岐阜縣不破郡の山で、不破の關のある處を越えてである。事實は伊勢の國から美濃に入られたのであるが、ここは不破山のあなたにの意にかように言つている。
 狛釼 コマツルギ。枕詞。高麗の釼の義で、高麗ふうの釼は、柄頭に輪があるから、ワの枕詞となる。代匠記にいう。「コマは、高麗ナリ。高麗ノ釼ニハ柄頭ニ環ヲ著ルカ。環ノ類ヲワトイヘバ、ワト云詞マウケムトテカクハツツクルニヤ。戰國策云、軍之所v出矛戟折鐶鉉絶【鐶刀鐶。補云、鉉銚、本作v弦。】古樂府云、藁砧今何在【藁砧調之?假?爲v夫】山上更有v山【山上山意出也。】何曰大刀頭【釼柄頭有v鐶假v鐶以爲v還。】破鏡飛上v天【破鏡初月也。?如2鏡片1。】」。
 和射見我原乃 ワザミガハラノ。美濃の國であろうが、所在未詳である。今の青野が原附近であろうという。日本書紀天武天皇紀に、「天皇於v茲、行宮興2野上1而居焉。(中略)戊子、天皇往2於和?1?2?軍事1而還」とある、和?はこの和射見に同じ。
 行宮尓 カリミヤニ。行宮の文字は、漢文から來た文字で文選に見える。
 安母理座而 アモリイマシテ。アモリはアマオリの約。天から降ること。ここでは都から地方に行かれたことを敍している。イマシテは敬語。
(548) 天下治賜 アメノシタヲサメタマヒ。ヲサメは、あるべき形に整えるをいう。統治する義。
 掃賜而 ハラヒタマヒテ。本文の治賜の別傳である。下の國平治跡の別傳にも掃部等とあり、この別傳は、治を掃としている。ハラフは、邪惡を除去する意である。ここには、天下を拂除して定めたまうと續く意であろうが、助詞テを使用しているのは、上に天降り坐してとあるにかさなり、調子が整わない。
 食國乎定賜等 ヲスクニヲサダメタマフト。ヲスクニは既出(卷一、五〇)。御領國。サダメは平定するの意。
 鷄之鳴 トリガナク。枕詞。東國《あづま》に冠する。アの音に冠する枕詞には、「しなが鳥、安房」(卷九、一七三八)があり、シナガ鳥は、尻長鳥でニワトリのこととされ、アに績くのは、その鳴聲によるものとされる。「飛ぶ鳥の、アスカ」は、別の説明がなされているが、鳴聲にも關係があるかもしれない。ここのトリは、鷄の字が書かれて、ニワトリと推考されるので、鳴聲によつてアの音に冠するのだろう。
 吾妻乃國之 アヅマノクニノ。日本武の尊が、その妃弟橘姫を思つて、碓氷の坂の上で、吾妻《あづま》ハヤと仰せられてから、東方の諸國をアヅマというとする地名起原傳説がある。ツマが、單行、または熟語の一部として、地名となつているものは諸國に多く、殊に、上妻《かみづま》、下妻《しもづま》のような地名の多いことを見ても、ツマは、地形語で、別廓をなしている地をさすようである。屋内でも隅のところを、ツマという方言が殘つている。アは、アチ(彼方)のアで、遠方のツマの義であろう。しかるに、人間の配偶者をツマというよりして、妻の字をあて、また地名起原説話をも生じたのであろう。この時は、東海東山の兵士を召されたので、吾妻の國の御軍士といとう。
 御軍士乎 ミイクサヲ。イクサは軍卒をいう。戰をイクサというは後のことである。
 喚賜而 メシタマヒテ。東海東山の軍卒を召集したまいて。
(549)千破磐 チハヤブル。この語は、チ、ハヤ、ブルの三部に分解することができる。チは、靈威の義の語で、ィチシロシ、ウチハヤシなどのイチ、ウチも同語であろう。ハヤは、勇猛果敢の意の體言で、建速須佐の男の命、隼人などのハヤに同じ。ブルは體言について、これを動詞に轉成する性質の語である。「知波夜比登《チハヤビト》 宇遲能和多理爾《ウヂノワタリニ》」(古事記五二)、「千早人《チハヤビト》 氏川浪乎《ウヂガハナミヲ》 清可毛《キヨミカモ》」(卷七、一一三九)などのチハヤビトのチハヤは、この語のチハヤに同じくして、その語は、勇猛な人の意に使用される。「如此《カク》、宇治方夜伎時《ウチハヤキトキニ》 身命《ミイノチヲ》 不v惜之天《ヲシマズシテ》」(續日本紀宣命)のウチハヤキ時は、同じく世情の險惡な時の意に使用している。また、「御心《ミココロ》 一速《イチハヤヒ》 給波志止?《タマハジトシテ》」(鎭火祭祝詞)にイチハヤビとあつて、この語が上二段に使用され、荒ブなどと同樣の語構成であることが知られる。さてこの語は、強く暴い意味の語で、常には神の枕詞に用いられるが、ここでは、強暴な人の意に、チハヤブル人と稱している。これはこの語の本義による用法で、古事記上卷に「道速振荒振國神」とあると同じく、日本書紀神代の下に「殘賊強暴横惡之神」に訓して、チハヤブルアラブルカミとしているのも同義である。これが畏怖すべき神の意から進んで神の枕詞として常用されるに及んでは、その神威の烈しい意が發達して、貴い神の意にまで展開した。ここを初めとして、本集には千磐破の文字を使用しているのは、借字であるが、その猛威を感じている表現である。
 人乎和爲跡 ヒトヲヤハセト。ヤハセは、ヤハスの命令形。和スは平和にする、穩にするの意味の動詞。天武天皇が高市の皇子に向かつて、亂暴な人を平げよと命ぜられるのである。マツロハヌ國ヲ治メトと竝んで、下の任ケ給ヘバに懸かる。ヤハスの語は、「言直、【古語云夜波志】座?」(延喜式大殿祭祝詞)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神乎許等牟氣《カミヲコトムケ》 麻都呂倍奴《マツロハヌ》 比等乎母夜波之《ヒトヲモヤハシ》」(卷二十、四四六五)などの用例がある。
 不奉仕 マツロハヌ。マツロフは、奉仕し服從する意の動詞で、その打消の形である。「東方十二道之荒夫流神及摩都樓波奴人等」(古事記景行天蓋)、「大君爾《オホキミニ》 麻都呂布物能等《マツロフモノト》」(卷十八、四〇九四)など用例があ(550)る。マツロフは、日本書紀に「波賦武志謀《ハフムシモ》 飫〓枳瀰?麼都羅符《オホキミニマツラフ》」(七五)の如く、マツラフと書かれたものがあり、マツル(奉)の連續動作を表示するマツラフから轉じたもののようである。
 國乎治跡 クニヲヲサメト。ヲサムは、乱れたものを整理する義で、國を秩序正しくするをいう。ヲサメはその命令法。この句も人ヲ和セトの句と共に、皇子に命ぜられるのである。
 掃部等 ハラヘト。上の句の治跡の別傳である。
 皇子隨 ミコナガラ。ナガラは、のゆえにの意。神ながら(巻一、三八)參照。ミコナガラは、皇子なるから、皇子にいますままに。皇子を征討の大將軍とするは古風である。
 任賜者 マケタマヘバ。ヨサシタマヘバ(代初書入)、マケタマヘバ(攷)、「仕奉太政官之政【乎波】誰任【之加母】罷伊麻」(續日本紀宣命)の例によれば、任をヨサシと讀むべきが如くであるが、ヨサスは、寄スの敬語であつて、「吾孫將v知食國天下與佐麻爾麻爾《ワガミマノシラサムヲスクニアメノシタトヨサシマツリシマニマニ》」(續日本紀宣命)、「皇神等依【左志】奉奧津御年《スメガミタチノヨサシマツラムオキツミトシヲ》a(延喜式祈年祭祝詞)などの如く、事物を寄せる意に使用されるのが本義であるから、ここには適當でない。依つて攷證にマケタマヘバと讀んだのに依るべきである。「大王之《オホキミノ》 任乃隨意《マケノマニマニ》」(巻三、三六九)に相當する句を「安麻射加流《アマザカル》 比奈乎佐米爾等《ヒナヲサメニト》 大王能《オホキミノ》 麻氣乃麻爾末爾《マケノマニマニ》」(巻十七、三九五七)、「大王能《オホキミノ》 麻氣能麻爾麻爾《マケノマニマニ》」(同、三九六二)など多くマケノマニマニと書いている。語原は不明であるが、任ずる、用意するの意のマクの他動詞であるようで、委任する意に使用されている。以上、天武天皇の御事蹟を歌つて、以下の皇子の御事蹟に移る準備としている。
 大御身尓 オホミミニ。オホミは稱美の詞、皇子の御身に。以下は高市の皇子が任を受けての行動を敍するのであるから、ここで主格が變更する。よつて、この句の上に、高市の皇子はの意味の句を置くべきであるが、元來この歌は、皇子の殯宮で歌われた歌で、その事をいう必要が無いので、これを省略している。
(551) 大刀取帶之 タチトリハカシ。タチトリオバシ(考)。トリは添えて調子を張る詞。ハカシは佩クの敬語の中止形。太刀を腰にお帶びになつて。
 大御手尓 オホミテニ。皇子の御手に。
 弓取持之 ユミトリモタシ。モタシは持ツの敬語の中止形。以上二句、大御身ニ大刀トリ帶カシの句と對句になつている。
 安騰毛比賜 アトモヒタマヒ。アトモフは誘い率いる義。「足利思代《アトモヒテ》 榜行舟薄《コギユクフネハ》」(卷九、一七一八)、「三船子呼《ミフナコヲ》 阿騰母比立而《アトモヒタテテ》 喚立而《ヨビタテテ》 三船出者《ミフネイデナバ》」(同、一七八〇)、「阿麻夫禰爾《アマブネニ》 麻可治加伊奴吉《マカヂカイヌキ》 之路多倍能《シロタヘノ》 蘇泥布里可邊之《ソデフリカヘシ》 阿登毛比弖《アトモヒテ》 和賀己藝由氣婆《ワガコギユケバ》」(卷十七、三九九三)、「安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美波《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)等のアトモヒは、皆この語である。但し、「璞《アラタマノ》 年之經往者《トシソヘユケバ》 阿跡念登《アトモフト》 夜渡吾乎《ヨワタルワレヲ》 問人哉誰《トフヒトヤタレ》」(卷十、二一四〇)、「安杼毛敝可《アドモヘカ》 阿自久麻夜末乃《アジクマヤマノ》 由豆流波乃《ユヅルハノ》 布敷麻留等伎爾《フフマルトキニ》 可是布可受可母《カゼフカズカモ》」(卷十四、三五七二)のアトモフ、アドモヘは別語で、何ト思フの義であるから、混同してはならない。以上、大御身ニ以下この句まで、皇子の直接の行動を敍している。
 齊流 トトノフル。整理する。軍隊の進退を正しくする意である。「網引爲跡《アビキスト》 網子調流《アゴトトノフル》 海人之呼聲《アマノヨビゴヱ》」(卷三、二三八)は、網子の進退を整理するのである。太鼓を以つて軍隊の動作を規定するので、連體形である。以下、皇子の軍隊の威力のことについて述べる。そのうち、諸人ノオビユルマデニの句は、軍樂について述べている。
 鼓之著者 ツヅミノオトハ。ツヅミは軍鼓で今の太鼓である。軍陣に鼓を用いたことは、軍防令に、「凡軍團、各置2鼓二面大角二口小角四口1」、また、「凡私家、不v得v有2鼓鉦弩牟?具装大角小角及軍幡1。但樂鼓不(552)v在2禁限1」とある。
 雷之聲登聞麻低 イカヅチノコヱトキクマデ。イカヅチは、倭名類聚鈔に、雷公に註して、「和名奈流加美、一名以加豆知」とあり、佛足跡歌碑に、「伊加豆知乃《イカヅチノ》 比加利乃期止岐《ヒカリノゴトキ》」とある。軍鼓の音は、雷の鳴る音と聞えるまでで、その聲のおびただしいのをいう。
 吹響流 フキナセル。フキトヨムル(新訓)。日本書紀に、笛について「肝企儺須《フキナス》 美母慮我紆陪?《ミモロガウヘニ》」(九七)とあり、響は、本集にも、「足引之《アシヒキノ》 山河之瀬之《ヤマガハノセノ》 響苗爾《ナルナヘニ》」(卷九、一〇八八)など、ナルと讀んでいる。よつてフキナセルと讀む。また集中「霍公鳥《ホトトギス》 鳴響奈流《ナキトヨムナル》 聲之遙佐《コヱノハロケサ》」(卷八、一四九四)、「山妣姑乃《ヤマビコノ》 相響左右《アヒトヨムマデ》 妻戀爾《ツマゴヒニ》 鹿鳴山邊爾《カナクヤマベニ》」(同、一六〇二)等、多く使用され、これらは「保等登藝須《ホトトギス》 毛能毛布等伎爾《モノモフトキニ》 伎奈吉等余牟流《キナキトヨムル》」(卷十五、三七八〇)、「安之比奇能《アシヒキノ》 山妣故等余米《ヤマヒコトヨメ》 佐乎思賀奈君母《サヲシカナクモ》」(卷十五、三六八〇)等の、トヨムル、トヨメに相當するものと考えられる。トヨムは、響き渡る意の動詞で、下二段活である。
 小角乃音母 クダノオトモ。クダは軍陣に用いる笛の名。前に掲げた軍防令の文の中に、大角小角と見える。倭名類聚紗に、「楊氏漢語抄云、大角【波良乃布江】小角【久太能布江】」。獣角を笛としたことから起つて、獣角の形に摸して作つた笛。歌のことであるから、小角を擧げて大角を略したものである。
 笛乃音波 フエノオトハ。小角ノ音モの別傳である。小角ということ、耳馴れぬので、笛と傳えたものと見える。笛というも、軍樂の吹奏樂器のことで、大角小角に同じ。
 敵見有 アタミタル。アタミは、敵對する意の動詞で、新撰字鏡に、怏に阿大牟の訓がある。動詞アタムの連用形に助動詞タリの連體形がついたので、敵對するの意。怒つて反抗の意を示していることとする。また字について、敵見タルとし、敵を見たとも解せられる。
 虎可叶吼登 トラカホユルト。カは、疑問の係助詞。虎がか、吠えるのはの意。倭名類聚鈔に、吠に註して、(553)保由とし、犬の鳴聲なりとしているが、しかし犬の鳴くをいう動詞である。
 諸人之恊流麻低尓 モロヒトノオビユルマデニ。恊は、脅に同じ。新撰字鏡に「恊【今作脅、虚業反怯也於比也須】」とあり、日本靈異記上卷の訓註に「脅オヒユ」とある。驚いて精神を失うをいう。以上、諸人の恐怖するまでに軍樂の奏されるをいう。
 聞或麻泥 キキマドフマデ。脅ユルマデニの別傳である。
 指擧有 ササゲタル。サシアゲタルの約言で、旗を高く擧げること。佛足跡歌碑に「乃知乃保止氣爾《ノチノホトケニ》 由豆利麻都良牟《ユヅリマツラム》 佐々義麻宇佐牟《ササゲマウサム》」とある。以下風ノムタ靡カフ如クまで皇子の軍隊の旗旒について敍している。
 幡之靡者 ハタノナビキハ。ハタは軍用の幢で、幡を多く立て、敵を恐れさせるのである。その風に靡くことの意。これを野を燒く火※[火+餡の旁]に譬えているところを見ると、赤旗であつたろうという(萬葉集攷證)。古事記の序文に、「絳旗耀v兵」とあるも、天武天皇の軍について敍しているのであるが、その絳旗も紅旗である。
 冬木成春去來者 フユゴモリハルサリクレバ。既出(卷一、一六)。
 野毎著而有火之 ノゴトニツキテアルヒノ。野はおおむね春の初めに燒くものであるから、春サリ來レバを受けている。「立向《タチムカフ》 高圓山爾《タカマトヤマニ》 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》 燎火乎《モユルヒヲ》」(卷二、二三〇)、「冬隱《フユゴモリ》 春乃大野乎《ハルノオホノヲ》 燒人者《ヤクヒトハ》 燒不v足香文《ヤキタラネカモ》 吾情熾《ワガココロヤク》航c卷七、二二三六)などある。
 冬木成春野燒火乃 フユゴモリハルノヤクヒノ。上の冬ゴモリ春サリ來レバ野ゴトニ著キテアル火ノの四句の別傳であつて、これによれば二句すくなくなる。しかしフユゴモリは、その語義から見ても、春になることの枕詞であつて、直に春野に冠するのは轉用である。これから見ても、本文の方がよい。
 風之共 カゼノムタ。ムタは共にの意の古語。體言であつて、副詞を構成する。野火が風と共に靡くよしである。
(554) 靡如久 ナビカフゴトク。ナヒクカコトク(神)、ナビケルゴトク(考)。野火が、風のまにまに横に流れるようにの意。この下に、あり、見ゆる等の意の語が省略されている。
 取持流 トリモテル。持つている。モテルは持ちあるの義。以下大雪ノ亂レテ來タレまで、皇子の軍隊の弓矢に就いて敍している。
 弓波受乃驟 ユハズノサワキ。既出。「御執乃《ミトラシノ》 梓弓之《アヅサノユミノ》 奈加弭乃《ナカハズノ》 音爲奈利《オトスナリ》」(卷一、三)は、矢を射る時に、弓の弦の鳴るを歌つていると解せられる。ここもそれに準じて、大勢の軍卒が矢を射るので、その弓の中弭が大きな音を立てると解すべきである。ユハズは、その本末の弦と合う處をいうが、ここでは中間の矢と合う處をいうであろう。サワキは、形および音聲の雜然たるをいう。
 三雪落 ミユキフル。ミは接頭語。冬の景をあらわすために置いた句。
 冬乃林尓 フユノハヤシニ。ハヤシは樹林の義。
 由布乃林 ユフノハヤシニ。冬ノ林ニの句の別傳である。雪の積つた林を、木綿で作つた林と譬喩したのであろう。ユフはコウゾの皮の繊維をさらしたもの。白色を以つて知られている。木綿を雪の譬喩に用いたのは巧みすぎる。本文の素朴に及ばない所である。
 飄可母伊卷渡等 ツムジカモイマキワタルト。ツムジは急に強く吹く風。旋風。カモは係助詞。下のイ卷キ渡ルに懸かる。イは接頭語。飄風が吹き卷いて渡ることかと思うまでという文脈。
 念麻低聞之恐久 オモフマデキキノカシコク。弓弭の騷ぎを飄風の吹き渡るかと思うほどに、聞くことのおそろしくあることの意。
 諸人見或麻低尓 モロヒトノミマドフマデニ。上の念フマデ聞キノカシコクの別傳である。しかし弓弭云々は物音についていうのであるから、見マドフは適しない。またこれによれは、前の諸人ノ聞キマドフマデと對(555)句になつている。
 引放箭之繁計久 ヒキハナツヤノシゲケク。弓弦を引いて放つ矢が數多く飛び來ることをいう。シゲケクは、體言で、繁くあることの意。形容詞に、體言を作る助詞クの接續したもの。副詞ではない。
 大雪乃 オホユキノ。譬喩で、大雪の如くの意である。
 亂而來禮 ミダレテキタレ。キタレは、條件法であつて、ここで段落になるのではなく、下文に對して、大雪のように矢が亂れて來るからの意となる。集中、例の多いことであるが、たとえば、「天づたふ入日さしぬれ、ますらをと思へる吾も」(卷二、一三五)の如きがある。以上皇子の軍隊の威武を敍し、これに對して、以下敵方の樣子の敍述に移る。
 霰成曾知余里久禮婆 アラレナスソチヨリクレバ。本文の、大雪ノ亂レテ來タレの別傳である。アラレナスは枕詞。霞のようにの意。箭の繁くあることを霞に譬えたのは適切である。この枕詞は、意を以つてソチヨリ來レバに冠するのであろう。ソチは其方の義であろうが、集中他に用例を見ない。彼方の意に使用して、霰のように、あちらから來ればとしたのであろう。これも本文の方を可とする。
 不奉仕立向之毛 マツロハズタチムカヒシモ。以下敵方、すなわち近江の朝廷方の樣子である。タチムカヒシモは、立ち向かつた者もの意。
 露霜之 ツユジモノ。既出(卷二、一三一)。枕詞。露から霜に置きかわる頃の消え易い霜のようにの意に、消ユに冠する。
 消者消倍久 ケナバケヌベク。消えなば消えぬべくで、消えるなら消えもしようとの意に、命の消え易いのをいう慣用句。「朝霜《アサジモノ》 消々《ケナバケヌベク》 念乍《オモヒツツ》 何此夜《イカニコノヨヲ》 明鴨《アカシナムカモ》」(卷十一、二四五八)、「朝露之《アサヅユノ》 消者可v消《ケナバケヌベク》 戀久毛《コヒシクモ》 知久毛相《シルクモアヘル》 隱都麻鴨《コモリヅマカモ》」(卷十三、三二六六)の用例があり、その變化した形に、「零雪乃《フルユキノ》 消者消香二《ケナバケヌカニ》 戀云吾(556)妹《コフトフワギモ》」(卷四、六二四)、「降露乃《オクツユノ》 消者雖v消《ケナバケヌトモ》 色出目八方《イロニデメヤモ》」(卷八、一五九五)がある。これらはいずれも、露霜雪の如き、消え易いものを枕詞として冠している。
 去鳥乃 ユクトリノ。枕詞。空飛ぶ鳥は、先を爭うように見えるので、爭フに冠している。
 相競端尓 アラソフハシニ。空行く鳥のように、先を爭つて、消えようとしている時にの意。消えるように爭う意である。ハシは、間《あいだ》で、消えを爭つているあいだにの意。ハシは、中途で、進行の中間であることをいうのだろう。端のハシと同語か。「波之奈流兒良師《ハシナルコラシ》 安夜爾可奈思母《アヤニカナシモ》」(卷十四、三四〇八)
 朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓 アサジモノケナバケヌトフニウツセミトアラソフハシニ。本文の露霜ノ以下の四句の別傳である。アサジモノは枕詞。ケナバケヌトフニは、消えるなら消えるというにの意に、爭フに懸かるのであろうか。ウツセミトは、うつせみの如きはかないものとしての意であろうか。難解の詞句の多い別傳で、よい傳來とは思われない。
 渡會乃齋宮從 ワタラヒノイツキノミヤユ。度會は伊勢の國の皮會郡、皇大神宮の鎭座せる地。イツキノミヤは、天照らす大神を齋き奉れる宮の義で、齋の内親王の宮を齋の宮ということとは別である。ユは、其處より此方に通じて。伊勢の神宮から。
 神風尓 カムカゼニ。神明の吹かせる風を神風という。伊勢の神宮から吹き起した風に。
 伊吹或之 イフキマドハシ。イは接頭語。敵軍を吹き惑わすのである。
 天雲乎日之自毛不令見常闇尓覆賜而 アマグモヲヒノメモミセズトコヤミニオホヒタマヒテ。アマグモは、天の雲。ヒノメは、日の面。天雲を以つて、日の光も見せずに常闇に覆われたよしである。トコヤミは永久の闇。皇子の軍の勢力によつて天日をも覆つての意である。壬申の亂の戰中、急に暴風吹き來つて、叢雲忽に起り、天日をも蔽ひ隱した事實があつたのであろう。雲を以つて天日を隱すということ、正義の軍の敍述として(557)は適切でない。天日を以つて弘文天皇に譬え、雲霞にも譬えつべき不義の戰を起してこれに打ち捷つた意を寓するものとも、言わばいうべきものであるが、個人としてのわたくしの追憶でなく、皇子の殯宮で歌われたものとしては、そのような意に解することはできない。
 定之 サダメテシ。上の食ス國ヲ定メタマフトと同じ意に、國を安定されたことをいう。
 水穗之國乎 ミヅホノクニヲ。ミヅホノクニは既出(卷二、一六七)。日本國を葦原の瑞穗の國というその略號である。ミヅは生々としてある意の稱美の詞。ホは物の秀でたのをいう。禾本に就いては、花果の稱である。
 神隨太敷座而 カムナガラフトシキマシテ。既出。この成句は上の一六七の歌にも見えている。フトシクは、見事に壯大に御占據遊ばされる意。天武天皇の御事をいうとも取れるが、やはり高市の皇子の御事として見るべきであろう。皇子にフトシクの語を使用することは、「神長柄《カムナガラ》 神佐備世須登《カムサビセスト》 太敷爲《フトシカス》 京乎置而《ミヤコヲオキテ》」(卷一、四五)の例がある。
 八隅知之吾大王之 ヤスミシシワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子をさす。この句は、天の下申すの主格になつている。
 天下申賜者 アメノシタマヲシタマヘバ。アメノシタマヲスは、熟語句で、天皇に對して天下の事を奏上する意から、政治を執るの意に使用せられ、大臣、大納言級の人に使用する。高市の皇子は、太政大臣であつたから、この句が使用される。「余呂豆余爾《ヨロヅヨニ》 伊麻志多麻比提《イマシタマヒテ》 阿米能志多《アメノシタ》 麻乎志多麻波禰《マヲシタマハネ》 美加度佐良受弖《ミカドサラズテ》」(卷五、八七九)、「神奈我良《カムナガラ》 愛能盛爾《メデノサカリニ》 天下《アメノシタ》 奏多麻比志《マヲシタマヒシ》 家子等《イヘノコト》 撰多麻比天《エラビタマヒテ》」(同、八九四)。
 然之毛將有登 シカシモアラムト。下のシは張意の助詞。然もあらむと、その通りにあろうと。
 如是毛安良無等 カクモアラムト。然しもあらむとの別傳である。これは調子が落ちつかない。本文の八音(558)に強くいうのに及ばない。
 木綿花乃 ユフバナノ。枕詞。木綿で作つた花。造り花。木綿は、木の皮の繊維をさらしたもの。川や海の白く立つ波をよく木綿花に譬えている。「山高三《ヤマタカミ》 白木綿花《シラユフバナニ》 落多藝追《オチタギツ》 瀧之河内者《タキノカフチハ》 雖v見不v飽香聞《ミレドアカヌカモ》」(卷六、九〇九)、「泊瀬女《ハツセメノ》 造木綿花《ツクルユフバナ》 三吉野《ミヨシノノ》 瀧乃水沫《タギノミナワニ》 開來受屋《サキニケラズヤ》」(同、九一二)。この句、譬喩として榮ユルに冠している。
 榮時尓 サカユルトキニ。皇子の御勢いの榮える時にの意であるが、この下、思いもよらないの意を含めている。ここまでは、皇子生前の御事蹟を敍している。この下にゆくりなく薨去された旨を補つて解すべきである。
 吾王皇子之御門乎 ワガオホキミミコノミカドヲ。わが大君なる皇子と續く。ミカドは宮殿。
 刺竹皇子御門乎 サスタケノミコノミカドヲ。ワガ大君皇子ノ御門ヲの句の別傳である。サスタケノは既出(卷二、一六七)。枕詞。語義未詳であるが、刺す竹の語意を感じていたらしい。宮に冠する。ここではミカドに冠している。
 神宮尓 カムミヤニ。カムミヤは、神靈を祭る宮殿をいう。皇子の薨去に依り、その宮殿を殯宮とするのである。
 装束奉而 ヨソヒマツリテ。神宮として装備し奉つて。
 遣使 ツカハシシ。ツカハシは、使うの敬語の連用形。使役せられる。下のシは過去をあらわす助動詞の連體形。皇子のお使いになつた。
 御門之人毛 ミカドノヒトモ。御殿に使われていた人も。
 白妙乃麻衣著 シロタヘノアサゴロモキ。シロタヘは白い織物の義であるが、ここではただ白色の意に用い(559)ている。白妙の雪などいう時の用法に同じである。白衣を著るは、神に仕える人の服装で、清淨を貴ぶからである。アサゴロモは麻で織つた衣。天平十六年に、安積の皇子の薨去された時の大伴の家持の歌中にも、「白細爾《シロタヘニ》 舍人装束而《トネリヨソヒテ》 和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》」(卷三、四七五)とある。
 埴安乃御門之原尓 ハニヤスノミカドノハラニ。埴安は香具山のふもとで、皇子の御殿のあつた處。下に香具山の宮とある。ミカドは御門宮殿をいう語であるが、ここは、御門前の原の意に使用しているのであろう。その原にいて大殿をふりさけ見ると歌つている。
 赤根刺 アカネサス。既出(卷一、二〇)。枕詞。日は赤いので枕詞としてこれを冠している。
 日之盡 ヒノコトゴト。既出(卷二、一五五)。一日中、終日。
 鹿自物 シシジモノ。シシは、獣肉の義から、肉を食料とする獣、鹿猪の類をいう。ジモノは、既出、「鴨自物《カモジモノ》」(卷一、五〇)。ジは體言について、これを形容詞風にする性質の語。鹿猪は、膝を折つて坐するので、次の句の枕詞とする。
 伊波比伏管 イハヒフシツツ。イは接頭語。匍匐し平伏しつつ。下のイ這ヒモトホリの句に續いて、サモラヘドサモラヒ得ネバを修飾している。
 烏玉能 ヌバタマノ。既出。
 暮尓至者 ユフベニナレバ。夕方になれば。この二句は、アカネサス日ノコトゴトの句と對句になつているが、事實としては、日ノコトゴトイ這ヒ伏シツツから進行して行く敍述である。
 大殿乎振放見乍 オホトノヲフリサケミツツ。フリサケミルは既出(卷二、一四七)。天や山のような遠方または高いところを見るにいう。目を放つて遠く見る義。ここでは皇子の宮殿の高壯なことを表わして、この句を用いている。
(560) 鶉成 ウヅラナス。枕詞。鶉は、一處を徘徊するようにあるので、鶉のようにの意に、イ這ヒモトホリに冠している。
 伊波比廻 イハヒモトホリ。イは接頭語。モトホリは徘徊低徊する。
 雖侍候 サモラヘド。既出「雖2伺侍1《サモラヘド》」(卷二、一八四)。伺候し侍坐し居れども。動詞|守《モ》ルの連續的動作をあらわすモラフに接頭語サのついたのがサモラフである。これが轉じてサムラフになり、サムラヒ(侍者、武士)の語が出來、又サウラフ(候ふ)の語となる。次の句が假字書きの例になる。
 佐母良比不得者 サモラヒエネバ。悲痛の餘、侍候するにも堪えかねて。
 春鳥之 ハルトリノ。枕詞。新撰字鏡に※[春+鳥]をウグヒスと讀んでいるによれは、ウゲヒスノとも讀むべきもののようであるが、サマヨフの枕詞となつているのであるから、春の鳥一般の習性としてハルトリノと文字通り讀む説による。
 佐麻欲比奴禮者 サマヨヒヌレバ。サマヨフは、新撰字鏡に※[口+屎]を釋して、「許伊反、出v氣息v心也、坤吟也、惠奈久、又佐萬與不、又奈介久」、呻を釋して、「舒神反、吟也、歎也、佐萬與不、又奈介久」とある。息を出して呻吟する意で、悲歎のあまり、呻吟されるのである。サ迷フ、彷徨するの意ではない。木集では、迷うを、マドフと言つている。「春鳥乃《ハルトリノ》 己惠乃佐麻欲比《コヱノサマヨヒ》 之路多倍乃《シロタヘノ》 蘇?奈伎奴良之《ソデナキヌラシ》」(卷二十、四四〇八)。
 嘆毛未過尓 ナゲキモイマダスギヌニ。ナゲキは、ナガイキで、長い息をする、溜息をつくこと。その嘆きもまだ過ぎやらぬに。
 憶毛未不盡者 オモヒモイマダツキネバ。このネバは、ずしての如き意味で、ヌニというに近く、次の句に對する理由根據の義は稀薄になる。「奉v見而《ミマツリテ》 未時太尓《イマダトキダニ》 不v更者《カハラネバ》 如2年月1《トシツキノゴト》 所v念君《オモホユルキミ》」(卷四、五七九)など用例が多くある。用言の已然形は、已然の語意に拘泥すべきでなくむしろ既定というほどの意になるので、(561)この種の用法がなされるのである。
 言左徹久 コトサヘク。既出(卷二、一三五)。枕詞。言語の通じない意に、ここは百濟に冠する。
 百濟原從 クダラノハラユ。百濟の原は、奈良縣北葛城部百濟村の地。「百濟野乃《クダラノノ》 〓古枝爾《ハギノフルエニ》 待v春跡《ハルマツト》 居之鶯《ヲリシウグヒス》 鳴爾鷄鵡鴨《ナキニケムカモ》」(卷八、一四三一)の百濟野も同じ。皇子の御殿のある香具山と殯宮の城上とを繋ぐ線上、城上に近い處にある。ユは、を通つて。
 神葬葬伊座而 カムハワリハワリイマシテ。貴人の薨去を、神になると考えたので、神の行動に準じて神葬りと云つたのである。神の集まることを神集ヒ、神の相談するを神謀リというように、神の葬《はふ》りという意に神葬りといつたのである。ハフリは、放り遣る義で、生ける時の家から野山に出すことをいう。しかしその語義は忘れられて、みずから鎭まりたまう意に、イマシテの敬語を附している。
 朝毛吉 アサモヨシ。既出(卷一、五五)。朝の裳の意で、キに冠するのであろう。
 木上宮乎 キノヘノミヤヲ。キノヘは、題詞に城上とあるに同じ。御墓もその地の三立の岡である。
 常宮等 トコミヤト。トコミヤは、永久の宮殿。常宮としての意。「常都御門跡《トコツミカドト》」(卷二、一七四)。
 高之奉而 タカクシマツリテ。
   タカクマツリテ(神)
   タカクシタテテ(西)
   タカクシマツリテ(私考)
   タカシリタテテ(攷)
   ――――――――――
   高之奉而《タカクシタテテ》(童)
   高知座而《タカシリマシテ》(考)
   定奉而《サダメマツリテ》(玉)
 この句の讀み方には諸説があるが、誤字説は採用しかねるとして、この文のままでは、タカクマツリテ、タカクシマツリテの二訓が考慮の價値がある。之は措辭として、直接に訓を當てないでもよい場合は、古事記日(562)本書紀には例の多いことであるが、本集には明確な例が無い。之を讀むとすれは、この場合、字音假字としてシと讀むほかはない。よつてタカクシマツリテと讀むべきである。そのシの性質は、講義の説の如くサ行變格の動詞とすることは無理で、強意の助詞と見るべきものである。形容詞の副詞形に、強意の助詞シの添つた例は、「爲部母奈久《スベモナク》 寒之安禮婆《サムクシアレバ》」(卷五、八九二)、「氣奈我久之安禮婆《ケナガクシアレバ》 古非爾家流可母《コヒニケルカモ》」(卷十五、三六六八)など多くある。マツリテは奉仕して。常宮として高壯に奉仕しての意と解せられる。
 神隨安定座奴 カムナガラシヅマリマシヌ。神にいます故に鎭座ましました。皇子みずから鎭まります意に歌つている。以上第一段、事實を敍述している。先帝天武天皇の御事から説き起し、皇子の御事蹟に及び、城上の宮に鎭まりますに至つて止めている。堂々たる敍事の詞章である。以下これを受けて、主として作者の主觀を述べる。
 雖然 シカレドモ。以上皇子の事蹟を敍逃し來つたのを受けて、ここに一轉語を下して、作者の感慨を述べるのである。
 吾大王之 ワガオホキミノ。ワガオホキミは、高市の皇子。
 萬代跡所念食而 ヨロヅヨトオモホシメシテ。永久に住もうと思しめされて。
 作良志之 ツクラシシ。御造営になつた。
 香來山之宮 カゲヤマノミヤ。皇子の宮殿。上に埴安の御門の原にとあり、また反歌に埴安の池を歌つているので、香具山のふもと、埴安もしくはその附近にあつたことが知られる。
 萬代尓過牟登念哉 ヨロヅヨニスギムトオモヘヤ。スギムは、徒に過ぎむの意。思ヘヤは、ヤは反語、思おうや、思わないの意。「將v會跡母戸八《アハムトモヘヤ》」(卷一、三一)參照。久しき代までもいたずらに過ぎ去るべしとは思わないの意。句切。
(563) 天之如振放見乍 アメノゴトフリサケミツツ。この皇子の宮を形見として、大空の如くふり仰ぎ見つつ。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。手次を懸ける意に、次句の懸ケテに冠している。
 懸而將偲 カケテシノハム。心に懸けてお慕い申し上げよう。句切。
 恐有騰文 カシコカレドモ。われらが心にかけることは、おそろしいことであれどもの意。神靈を恐れる心持である。上の懸ケテ偲ハムの内容を限定している條件法の句。以上第二段、作者の中心に就いて敍している。
【評語】以上一百四十九句、萬葉集中第一の長い歌である。壬申の亂の描寫にその大部分を費し、期待にそむいて薨去に接したことを次に述べ、最後に十三句を以つて作者の感慨を敍している。秩序整然として、長くして紊れない。人麻呂の作品として恥じないものである。部分的の缺點はやむを得ないが、天雲を以つて日を蔽つて天下を定めたという譬喩は、この歌の疵であろう。しかし戰闘の記事の詳細にして巧妙なのは、殊にこの歌の光を増す所以である。敍事の部分が發達しているので敍事詩と見る説もあるが、それは正しくない。全體としては皇子の薨去を悼む敍情が中心である。なおかような殯宮の歌は、靈前において實際に誦詠されたものと考えられる。それでその神靈の御事蹟に關して頌する意味に敍事がされるのである。主格の省略されることなども、神靈に對していう所に理由が存するのであろう。
 
短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あま》知らしぬる
 君ゆゑに、
 日月《ひつき》も知らに 戀ひわたるかも。
 
 久堅之《ヒサカタノ》 天《アマ・アメ》所v知流《シラシヌル》
 君故尓《キミユヱニ》
 日月毛不v知《ヒツキモシラニ》 戀渡鴨《コヒワタルカモ》
 
(564)【譯】神となつて天をお治めになつた君であるものを、日月の過ぎるのも知らないで、戀いつつ過すことであります。
【釋】久堅之 ヒサカタノ。枕詞。既出。
 天所知流 アマシラシヌル。歴史的にいえばアメシラスであろうが、アマテラスなど他の語例によるに熟語としてアマシラスであろう。おかくれになることを、神となつて天を領せられるように云つている。シラシは知ルの敬語の連用形。統治する、領有する意。「和豆香山《ワヅカヤマ》 御輿立之而《ミコシタタシテ》 久堅乃《ヒサカタノ》 天所知奴禮《アマシラシヌレ》 展轉《コイマロビ》 ?打雖v泣《ヒヅチナケドモ》 將v爲須便毛奈思《セムスベモナシ》」(卷三、四七五)、「吾王《ワガオホキミ》 天所v知牟登《アマシラサムト》 不v思者《オモハネバ》」(同、四七六)。これらの例は、大伴の家持の作で、人麻呂のこの歌から詞句を得ているらしい。
 君故尓 キミユヱニ。君は高市の皇子。その君の事によつての意。
 日月毛不知 ヒツキモシラニ。日や月の過ぎることも知らずに、ニは、打消の助動詞。
 戀渡鴨 コヒワタルカモ。コヒは、亡き君に對する思慕の意の動詞。ワタルは、時を經過する、世を渡る、日を渡る等の義で、戀いつつ月日を過ぎゆくことかなと嘆息したのである。
【評語】長歌の敍事的なのに對して、主觀的に述べている。壯大な詞句が選まれているのは、皇子の薨去を悼む挽歌としてふさわしい。
 
201 埴安《はにやす》の 池の堤《つつみ》の 隱沼《こもりぬ》の、 行《ゆ》く方《へ》を知らに 舍人《とねり》は惑《まど》ふ。
 
 埴安乃《ハニヤスニ》 池之堤之《イケノツツミノ》 隱沼乃《コモリヌノ》
 去方乎不v知《ユクヘヲシラニ》 舍人者迷惑《トネリハマドフ》
 
【譯】埴安の池の堤のこもつている沼の水のように、どうしてよいかわからないで、舍人は迷つております。
【釋】埴安乃池之堤之 ハニヤスノイケノツツミノ。皇子の香具山の宮の地にある景物を取つて歌を起してい(565)る。ツツミは、水を包んである土。埴安の池は今殘つていないが、香具山の西北のふもとにあつたと推定される。
 隱沼乃 コモリヌノ。コモリヌは土などに圍まれて、水の流れて出る口の見えない沼をいう。以上、行ク方ヲ知ラニというための序で、この歌は序歌である。隱沼の用例には、「隱沼《コモリヌノ》 從v裏戀者《シタユコフレバ》 無v乏《スベヲナミ》」(卷十一、二四四一)、「許母利奴能《コモリヌノ》 之多由孤悲安麻里《シタユコヒアマリ》 志良奈美能《シラナミノ》 伊知之路久伊泥奴《イチシロクイデヌ》 比登乃師流倍久《ヒトノシルベク》」(卷十七、三九三五)などある。
 去方乎不知 ユクヘヲシラニ。「行方不v知毛《ユタヘシラズモ》」(卷二、一六七)參照。行く方、爲《せ》む術を知らずにの意から、どうしてよいかわからないで、途方に暮れての意になる。
 舍人者迷惑 トリネハマドフ。集中、迷または感をマドフと讀んでいる。迷惑と續け書いたのは、他には無い。皇子にお仕え申し上げていた舍人等は、惑うことである。
【評語】人麻呂も舍人の一人としてお仕えしていたものと思われる。それによつて、長歌の末の感慨の部分も生きてくるし、この反歌の末句、舍人は惑フの句も、自分等の心もちに關することとして見るがよい。多くの舍人等の心を代表する氣持で、人麻呂は皇子の殯宮に歌つているものと見るべきである。
 
或書反歌一首
 
【釋】或書反歌一首 アルフミノヘニカヒトツ。或る書には、次の歌を、反歌として載せているというのである。或る書とはいかなる書であるか不明であるが、左註には、類聚歌林には、作者に關して別傳のあることを記しているから、類聚歌林でないことは知られる。
 
(566)202 哭澤《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ
 ?《こ》ひ祈《の》めど、
 わが大王《おほきみ》は 高日知らしぬ。
 
 哭澤之《ナキサハノ》 神社尓三輪須惠《モリニミワスヱ》
 雖2?祈1《コヒノメド》
 我王者《ワガオホキミハ》 高日所v知奴《タカヒシラシヌ》
 
【譯】泣澤の神社に御酒の甕を据えてお祈りをしたけれども、わが皇子樣は、天にお上りになつてしまいました。
【釋】哭澤之神社尓三輪須惠 ナキサハノモリニミワスヱ。哭澤の神社は、古事記上卷に「故爾伊耶那岐命詔之、愛我那邇妹命乎、謂d易2子之一木1乎u、乃葡2匐御枕万1、匍2匐御足方1而、哭時、於2御涙1所v成神、坐2香山之畝尾木本1、名泣澤女神」とあつて、伊弉諾の尊の御涙によつて成れる泣澤女の神を祭つた處である。ナキサハというのは、水音のする澤の義であろう。この神社は、香具山の西麓の小高い處にあり、森林を本體とし、拜殿のみあつて本殿は無く、北方は一段低くなつて、當時の埴安の池の一部をなしていると推定される。この神は埴安の池の水神で、その水源の地に祭られ、涙によつて成つたという傳説を有しているのである。神社をモリと讀むのは、森林を神座として崇敬するにもとづく。森林に標して、神の處とし、從つて神社のもととなつたのである。ミワは神酒。「土佐國風土記云、神河、訓2三輪川1、源出2北山之中1、屆2于伊豫國1。水清、故爲2大神1釀v洒也、用2此河水1、故爲2河名1也」(萬葉集註釋所引)。ミワスヱとは、神酒を釀した甕を据える意で神に酒を獻つて祈?をしようとするのである。「五十串立《イクシタテ》 神酒座奉《ミワスヱマツル》 神主部之《カムヌシノ》 雲聚玉蔭《ウズノラマカゲ》 見者乏文《ミレバトモシモ》」(卷十三、三二二九)。
 雖?祈 コヒノメド。イノレドモ(金)、コヒノメド(玉)、ノマメドモ(古義)。イノレドモについては、古語のイノルは、神をイノルという語法であるから、ここに適しない。助けていえば、神社に神酒すえ、神を(567)イノレドというべきを、神ヲの處置格を省略したものと見るべきである。コヒノムは熟語で用例が多い。これは本來、神ニとニを受くべき語法のもので、「刀奈美夜麻《トナミヤマ》 多牟氣能可昧爾《タムケノカミニ》 奴佐麻都里《ヌサマツリ》 安我許比能麻久《アガコヒノマク》」(卷十七、四〇〇八)、「知波夜夫流《チハヤブル》 神社爾《カミノヤシロニ》 ?流鏡《テルカガミ》 之都爾等里蘇倍《シツニトリソヘ》 己比能美底《コヒノミテ》 安我麻都等吉爾《アガマツトキニ》」(同、四〇一一)の如き、この歌とほぼ同じ形式のもとに用いた例がある。コヒノムは神コの發揮を願う意味の語である。分けていえば、コフは神の出現を乞う意、ノムは稽首禮拜する意であろう。
 我王者 ワガオホキミは。ワガオホキミは高市の皇子。
 高日所知奴 タカヒシラシヌ。タカヒは、日の美稱。日を知らすというは、前出の天知ラスと同じ思想で、貴人の薨去をいう。
【評語】四五句の言い方は大きいが、初三句の敍述は、左註にいうように、檜隈の女王の御歌とするに適している。反歌としても、長歌と關係が薄く、むしろ獨立の作として見るべき性質の歌である。
 
右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1云、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
 
右の一首は、類聚歌林に曰はく、檜隈の女王の、泣澤の神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申の秋七月辛丑の朔にして庚戌の日、後の皇子の尊薨りましきといへり。
 
【釋】檜隈女王 ヒノクマノオホキミ。父祖は知られない。天平九年に從四位の上に敍せられた方で、多分高市の皇子の妃であろう。
 十年 トトセ。持統天皇の十年である。
 辛丑朔庚戌 カノトウシノツキタチニシテカノエイヌノヒ。七月十日。
(568) 後皇子尊 ノチノミコノミコト。高市の皇子のこと。
 
但馬皇女薨後、穗積皇子、冬日雪落、遙望2御墓1、悲傷流涕御作歌一首
 
但馬の皇女薨りたまひし後に、穗積の皇子の、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み悲傷流涕して作りませる御歌一首
 
【釋】但馬皇女薨後 タヂマノヒメミコノカムサリタマヒシノチニ。但馬の皇女と穗積の皇子との關係は、既出一一四の歌の題詞のもとに記した。但馬の皇女は、和銅元年六月十五日に薨去した。
 御墓 ミハカ。但馬の皇女の御墓は、歌詞によつて、吉隱の猪養の岡にあつたことが知られる。吉隱は、奈良縣磯城郡にあり、今は初瀬町に屬している。
 
203 零《ふ》る雪は あはにな降りそ。
 吉隱《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡の 塞《サハリ》せまくに。
 
 零雪者《フルユキハ》 安播尓勿落《アハニナフリソ》
 吉隱之《ヨナバリノ》 猪養乃岡之《ヰカヒノヲカノ》 塞爲卷尓《サハリセマクニ》
 
【譯】降る雪は多く降るな。皇女の御墓のある、吉隱《よなばり》の猪養の岡のさまたげをするだろう。
【釋】零雪者安播尓勿落 フルユキハアハニナフリソ。アハは未詳である。近江美濃飛驛越後などにて、雪崩のことをアワというそうであるが、この歌には適しない。ナ降リソは、ナに勿かれの意がある。雪は多量に降るなの意であることは察せられる。雪に對して言い懸けている語法。句切。
 吉隱之猪養乃岡之 ヨナバリノヰカヒノヲカノ。吉隱の猪養の岡は、皇女の御墓のあつた處と考えられる。今何處の地點とも知られない。ヰは家猪で、豚をいう。猪養部にちなんだ地名であろう。
(569) 塞爲卷尓 サハリセマクニ。
   セキニセマクニ(類)
   セキニナラマクニ(童)
   セキナラマクニ(考)
   セキナサマクニ(古義)
   セキトナラマクニ(新考)
   セキタラマクニ(定本)
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   寒有卷爾《サムカラマクニ》(檜)
 檜嬬手に、塞爲を寒有の誤とし、サムカラマクニと讀んでいるのは、皇女の御墓に對する愛情が描かれる。金澤本にも墓を寒に作つている。サムカラマクニは、寒くあろうよの意である。しかしそれは、爲を有の誤りとしなければならない。原文のままで訓を下すとすれば、爲は、集中動詞ナスに當てて使用した例はなく、動詞助動詞においては、ス(その活用を含む)に使用したものが普通で、その外には、ナリに使用したかと思われる「朝霧《アサギリノ》 髣髴爲乍《オホニナリツツ》」(卷三、四八一)の如きがある。よつてここも、爲卷爾をセマクニと讀むのが順當であるが、そうすれば塞を三音に讀まねはならない。塞は、名詞セキ、動詞セクに讀むのが通例であるが、ここでは助詞を添えては適當でないので、類聚名義抄に、塞にフサク、ヘダツ等の訓がある中から選擇するとせば、ヘダテと讀むほかはあるまい。遙に御墓を望んで詠まれた歌だから、セキよりもヘダテの方が適當であるともいえよう。しかしその訓にも無理があつて決定し得ない。爲をナリと讀む例につけば、セキナラマクニと讀めるが、この場合のナラは、助動詞で、爲の訓としては不適當である。また爲をタリと讀むことは、確證が無く、わずかに、「其枕《ソノマクラニハ》 苔《コケ》生負爲」(卷十一、二五一六)があるが、この歌の訓は、問題があつて證據にはならない。墓は、ふさがり、へだての意の字であつて、本集では、「跡座浪之《トヰナミノ》 塞|道麻《ミチヲ》」(卷十三、三三三五)、「風吹(570)者《カゼフケバ》 浪之《ナミノ》塞 海道者不v行《ウミヂハユカジ》」(卷十三、三三三八)の塞は、サハレルと讀むぺく、これによつて、ここは三音にサハリと讀み、じやまになるものの義とすべく、この句は、サハリセマクニとして、じやまをするだろうにの意と解せられる。
【評語】但馬の皇女は、はじめ高市の皇子の宮にあつて、既に穗積の皇子との關係を生じ、面倒な事もあつたようである。卷の二にある「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、穗積の皇子を思ひて作りませる歌」、「穗積の皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣しし時、但馬の皇女の作りませる歌」、「但馬の皇女、高市の皇子の宮にいましし時、竊《しの》びて穗積の皇子に接り給ひし事|露《あらは》れて後に作りませる歌」等の題詞が、これを語つている。この歌、生けるが如く御墓に對して、雪のふさぐことの無いようにと思いやつている。哀情の切な歌である。
 
弓削皇子薨時、置始東人作歌一首 并2短歌1
 
弓削の皇子の薨りましし時、置始の東人の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】弓削皇子 ユゲノミコ。既出(卷二、一一一)。天武天皇の皇子、文武天皇の三年七月二十一日薨じた。
 置始東人 オキソメアヅマビト。既出(卷一、六六)。傳未詳。
 
204 やすみしし わが大王、
 高光る 日の皇子《みこ》、
 ひさかたの 天つ宮に
 神ながら 神といませば、
(571)そこをしも あやにかしこみ、
 晝はも 日のことごと
 夜はも 夜のことごと、
 臥《ふ》し居《ゐ》嘆けど 飽き足らぬかも。
 
 安見知之《ヤスミシシ》 吾《ワガ・ワゴ》王《オホキミ》
 高光《タカヒカル》日之皇子《ヒノミコ》
 久堅乃《ヒサカタノ》天宮尓《アマツミヤニ》
 神隨《カムナガラ》 神等座者《カミトイマセバ》
 其乎霜《ソコヲシモ》 文尓恐美《アヤニカシコミ》
 晝波毛《ヒルハモ》 日之盡《ヒノコトゴト》
 夜羽毛《ヨルハモ》 夜之盡《ヨノコトゴト》
 臥居雖v嘆《フシヰナゲケド》 飽不v足香裳《アキタラヌカモ》
 
【譯】御威光あまねきわが日の皇子樣は、かの天上の御殿に、神にましますがままに神樣としておいでになるので、晝間は一日中、夜は夜通し、臥したり坐つたりして嘆くけれどもまだ嘆き足らないことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】安見知之吾王高光日之皇子 ヤスミシシワガオホキミタカヒカルヒノミコ。既出。ここでは弓削の皇子を指している。この句は元來天皇の事にいう句であつたと思われるが、轉じて皇子の上にもいうようになり、その例もかれこれ見えている。
 久堅乃 ヒサカタノ。枕詞。
 天宮尓 アマツミヤニ。既出の、「天都御門」(卷二、一九九)と同意の語で、天上の宮殿をいい、薨去して昇天せられたとする思想をあらわしている。
 神隨神等座者 カムナガラカミトイマセバ。貴人は死んで神となるとする思想に基づいて、神であるがゆえに神としてましますのでの意を歌つている。
 其乎霜 ソコヲシモ。ソコは、上の敍述を受けて指示している。シモは強く指示する助詞。
 文尓恐美 アヤニカシコミ。誠に恐縮に思つて。
 畫波毛日之盡夜羽毛夜之盡 ヒルハモヒノコトゴトヨルハモヨノコトゴト。既出(卷二、一五五)。畫間は(572)一日、夜は終夜。
 臥居雖嘆 フシヰナゲケド。臥したり居たりして嘆くけれども。
 飽不足香裳 アキタラヌカモ。十分滿足しない事かな。嘆くことに飽き足りないの意で、嘆かないようになりたいの希望を含んでいる。
【評語】大部分が、歌いものから來た成句でできている。他人の錦衣を借著して盛装したような歌である。
 
反歌一首
 
205 王《おほきみ》は 神にしませば、
 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に
 隱《かく》りたまひぬ。
 
 王者《オホキミハ》 神西座者《カミニシマセバ》
 天雲之《アマグモノ》 五百重之下尓《イホヘガシタニ
 隱賜奴《カクリタマヒヌ》
 
【譯】皇子榛は神樣だから、天の雲の幾重にもかさなつている下にお隱れになつた。
【釋】王者神西座者 オホキミハカミニシマセバ。オホキミは、天皇をいうが、ここでは弓削の皇子をさしている。シは強意の助詞。この句も成句として古歌から來ているものと考えられる。文獻的には、本集に壬申の年の平定後の歌(卷十九、四二六〇、四二六一)とあるのが古い。この句は、普通、大君の神性を讃嘆する意に使用されるが、ここに薨去した皇子の上にいうのは、轉用であろう。その薨去によつて、神にいますとする思想を表現している。なお現在の方についていう場合は、卷三、二三五の歌に見えている。
 天雲之五百重之下尓 アマグモノイホヘガシタニ。イホヘは、無數にかさなつていること。五百重浪などという。雲のかさなり合つている下というので、雲中の意にいう。人の死を雲隱るといふことも前に出た。
(573) 隱賜奴 カクリタマヒヌ。雲中に隱れるといふ形で薨去したことを敍している。
【評語】これも古歌の成句を使つている。單に詞句を見れば、堂々たる風格の歌であるが、作者の悲痛にはすこしも觸れていない。
【參考】大君は神にし坐せば。
  大君は神にし坐せば天雲の雷の上に廬するかも(卷三、二三五)
  大君は神にし坐せば雲隱るいかづち山に宮敷きいます(同、或本)
  大君は神にし坐せば眞木の立つ荒山中に海をなすかも(同、二四一)
  大君は神にし坐せば赤駒のはらばふ田ゐを都となしつ(卷十九、四二六〇)
  大君は神にし坐せば水鳥のすだく水沼《みぬま》を都となしつ(同、四二六一)
 
又短歌一首
 
【釋】又短歌一首 マタミジカウタヒトツ。前と同じく、弓削の皇子の薨去の時に置始東人が、前の歌とは別にこの短歌一首を詠んだというのである。
 
206 樂浪の 志賀さざれ波、
 しくしくに 常にと君が
 念《おも》はせりける。
 
 神樂浪之《ササナミノ》 志賀左射禮浪《シガサザレナミ》
 敷布尓《シクシクニ》 常丹跡君之《ツネニトキミガ》
 所v念有計類《オモホセリケル》
 
【譯】樂浪の志賀のさざ波のように、重ね重ね常にありたいと君は思つておいでであつた。
【釋】神樂浪之 ササナミノ。ササナミは既出(卷一、三〇)。地名で、志賀に冠している。神樂浪と書いた(574)のは、この地名に樂浪の字を當てる根據を示している。「神樂聲浪乃《ササナミノ》」(卷七、一三九八)と書いた例もある。
 志賀左射禮浪 シガサザレナミ。志賀は、樂浪の地の一部の名。琵琶湖南岸の地名。その地のさざれ浪で、琵琶湖の波をいう。サザレナミはちいさい波。以上、波が次々に寄せるの意に、重ね重ねの意なるシクシクに對する序詞となつている。
 敷布尓 シクシクニ。シクはかさなる意の動詞。重ね重ねの意の副詞を作つている。
 常丹跡君之 ツネニトキミガ。ツネニトは、永久に不變にとの意。キミは弓削の皇子。命の恒久ならむことを、君がの意。
 所念有計類 オモホセリケル。平常思つて居られたの意。
【評語】弓削の皇子は、生前常に壽命の永久を念として居られたらしい。天武天皇の第六皇子として文武天皇の三年に薨去されたのは、長壽とは見られず、事によると病身であつたのかも知れない。この歌、歌は平凡であるが、何故に樂浪の志賀サザレ浪を以つて序としたのか、その關係は不明である。皇子には、吉野で無常を歎かれた歌(卷三、二四二)があるが、志賀に關してもさような歌があつたのであろう。
 
柿本朝臣人麻呂、妻死之後、泣血哀慟作歌二首 并2短歌1
 
柿本の朝臣人麻呂の、妻の死りし後、泣血哀慟して作れる歌二首【短歌并はせたり。】
 
【釋】妻死之後 メノミマカリシノチ。人麻呂に先立つて死んだその妻は、歌詞によるに、輕の里を本居としていたことはあきらかである。この人は、持統天皇に奉仕し、その行幸御幸にも御供し、才媛で、歌をもよくした人であつたようである。その死んだのは、藤原の宮の時代であろうか。歌中に、羽貝の山に、妻を求めて彷徨する旨があり、その山は、春日にあるのであるが、どういう縁故で、その山が歌われているのか不明であ(573)る。
 泣血哀慟作歌二首 キフケチアイドウシテツクレルウタフタツ。泣血は、詩經小雅、雨無正の章に「鼠思泣血」とあり、その意は、韓非子卞和篇に、「和乃抱2其璞1而哭2於楚山之下1、三日三夜、泣盡而繼v之以v血」とあるように、涙が盡きて血の出る悲しみである。二首は、長歌二首をいう。これについて別の妻の死んだ時とする説もあるが、同時の歌と見て支障はない。
 
207 天飛ぶや 輕《かる》の路は、
 吾妹子が 里にしあれば、
 ねもころに 見まく欲《ほ》しけど、
 止まず行かば 人目を多み、
 まねく行かば 人知りぬべみ、
 さね葛《かづら》 後も逢はむと、
 大船の 思ひ憑《たの》みて、
 玉かぎる 磐垣《いはがき》淵の
 隱《こも》りのみ 戀ひつつあるに、
 渡る日の 暮れ去《ゆ》くが如、
 照る月の 雲隱《くもがく》る如、
 沖つ藻の 靡《なび》きし妹は、
(576) 黄葉《もみちは》の 過ぎてい去《ゆ》くと、
 玉|梓《づさ》の 使の言へば、
 梓弓 聲《おと》に聞きて、【一は云ふ、聲のみ聞きて。】
 言はむすべ 爲《せ》むすべ知らに、
 聲《おと》のみを 聞きてあり得ねば、
 わが戀ふる 千重の一重も
 慰もる 情《こころ》もありやと、
 吾妹子が やまず出で見し
 輕の市に わが立ち聞けば、
 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山に
 鳴く鳥の 音《こゑ》も聞えず、
 玉|桙《ほこ》の 道行く人も
 一人だに 似るが行かねば、
 すべをなみ 妹が名|喚《よ》びて、
 袖ぞ振りつる。【或る本に、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり。
 
 天飛也《アマトブヤ》 輕路者《カルノミチハ》
 吾妹兒之《ワギモコガ》 里尓思有者《サトニシアレバ》
 懃《ネモコロニ》 欲v見騰《ミマクホシケド》
 不v已行者《ヤマズユカバ》 人目乎多見《ヒトメヲオホミ》
 眞根久往者《マネクユカバ》 人應v知見《ヒトシリヌベミ》
 狹根葛《サネカヅラ》 後毛將v相等《ノチモアハムト》
 大船之《オホフネノ》 思憑而《オモヒタノミテ》
 玉蜻《タマカギル》 磐垣淵之《イハガキブチノ》
 隱耳《コモリノミ》 戀管在尓《コヒツツアルニ》
 度日乃《ワタルヒノ》 晩去之如《クレユクガゴト》
 照月乃《テルツキノ》 雲隱如《クモガクルゴト》
 奧津藻之《オキツモノ》 名延之妹者《ナビキシイモハ》
 黄葉乃《モミチバノ》 過伊去等《スギテイユクト》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乃言者《ツカヒノイヘバ》
 梓弓《アヅサユミ》 聲尓聞而《オトニキキテ》【一云、聲耳聞而】
 將v言爲便《イハムスベ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 聲耳乎《オトノミヲ》 聞而有不v得者《キキテアリエネバ》
 吾戀《ワガコフル》 千重之一隔毛《チヘノヒトヘモ》
 遣悶流《ナグサモル》 情毛有八等《ココロモアリヤト》
 吾妹子之《ワギモコガ》 不v止出見之《ヤマズイデミシ》
 輕市尓《カルノイチニ》 吾立聞者《ワガタチキケバ》
 玉手次《タマダスキ》 畝火乃山尓《ウネビノヤマニ》
 喧鳥之《ナクトリノ》 音母不v所v聞《コヱモキコエズ》
 玉桙《タマホコノ》 道行人毛《ミチユクヒトモ》
 獨谷《ヒトリダニ》 似之不v去者《ニルガユカネバ》
 爲便乎無見《スベヲナミ》 妹之名喚而《イモガナヨビテ》
 袖曾振鶴《ソデゾフリツル》【或本有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
 
【譯】輕の路は、わが妻の里であるから、心から見たいと思うけれども、やまずに行つたなら人目が多いために、度多く行つたなら人が知るであろうから、さね葛のように後にも逢おうと大船のように思い頼んで、玉の(577)光のさす岩垣淵のように、忍んでのみ戀うているに、空渡る日の暮れるように、照る月の雲に隱れる如く、水中の藻のように靡き寄つた妻は、黄葉のように死んで行くと、使がいうから、梓弓の音のように耳にばかり聞いて、いう術もする術も知らないで、耳にばかり聞いてあることができないから、自分の戀う千が一も、慰まれる心もあろうかと、わが妻の始終出て見た輕の市に、立ち出でて開けば、かの畝火の山に鳴く鳥の聲も聞えず、道を行く人も、一人ばかりも似ている者がないので、爲方《しかた》が無さに、妻の名を喚んで袖を振つたことである。
【構成】段落は無く、全篇一文から成つている。
【釋】天飛也 アマトブヤ。枕詞。ヤは感動の助詞。天を飛ぶ雁の意に、次句の輕に冠している。この句は元來、「阿麻陀牟《アマダム》 加流乃袁登賣《カルノヲトメ》」(古事記八四)の如く、四音の句であつたものが、歌の記録時代にはいつて、感動のヤを添えて五吾に調整されたものである。古事記にはアマダムと記されているが、これはアマトブと同語で、歌いものから來た枕詞であることを語つている。
 輕路者 カルノミチハ。輕は、奈良縣高市郡、畝傍山の東南の地である。下にユカバとあり、道路を通うことが重要な内容になつているので、ミチの語を以つて提示している。
 吾妹兒之里尓思有者 ワギモコガサトニシアレバ。ワギモコは女子の愛稱、ここでは亡き妻である。サトは人の住む家の集團であるが、ここで吾妹子の里と言つたのは、その妻の本居で、その妻は多分輕氏であつたのであろう。出でて持統天皇に仕え、いつのころからか、多分輕の里にいて、そこで死んだのであろう。
 懃 ネモコロニ。ネモコロは、今のネンゴロの古語であるが、本集では、假字書きのものの外には、懃、慇懃、懃懇、惻隱の字が、ネモコロ、もしくはネモコロニと讀むべきものとされている。その意は、委曲、丁寧、懇切 心から等の意で、用例によつて多少の相違がある。ここは心からの意である。
(578) 欲見騰 ミマクホシケド。ミマクは見むこと、ホシケドは、欲しい意の形容詞ホシケに、助詞ドの接續したもの。見たいと思うけれどもの意。同樣の語例には、「多摩枳波流《タマキハル》 伊能知遠志家騰《イノチヲシケド》 世武周弊母奈斯《セムスベモナシ》」(卷五、八〇四)などある。
 不已行者人目乎多見 ヤマズユカバヒトメヲオホミ。絶えず行つたら人目が多くして。作者は、宮中もしくは皇子の宮殿などに宿泊しているものと考えられるので、人目を憚るように歌つているのであろう。藤原の宮からとすれは、輕のいずれの邊かは不明であるが、約一里ほどあるであろう。
 眞根久往者人應知見 マネクユカバヒトシリヌベミ。マネクは度數多く。上のヤマズ行カバ人目ヲ多ミの句と對句となつている。
 狹根葛 サネカヅラ。「狹名葛」(卷二、九四)に同じ。枕詞。蔓草の名、ビナンカズラ。蔓の這い別れてまた會うゆえに、後逢フの枕詞とする。
 後毛將相等 ノチモアハムト。人目を憚つて、後日にも逢おうとして。
 大船之思憑而 オホブネノオモヒタノミテ。既出(卷二、一六七)。心に頼みを懸けて。
 玉蜻 クマカギル。既出(卷一、四五)。玉の光を發する意に、夕、ほのか等に冠するが、ここでは磐垣淵に冠しているのは、その微光を發するよりいうのであろう。磐垣淵に續く例は、「眞祖鏡《マソカガミ》 雖v見言哉《ミトモイハメヤ》 玉限《タマカギル》 石垣淵乃《イハガキブチノ》 隱而在?《コモリタルツマ》」(卷十一、二五〇九)、「玉蜻《タマカギル》 石垣淵之《イハガキブチノ》 隱庭《コモリニハ》 伏以死《フシテシヌトモ》 汝名羽不v謂《ナガナハノラジ》」(同、二七〇〇)がある。玉蜻と書いたのは、蜻(トンボ)をカギロヒというので、カギルの音を表示する爲に借りたのである。舊訓カケロヒノと讀み、考にカギロヒノと讀んでいたが、鹿持雅澄に至つて玉蜻考を著して、タマカギルと讀むべしとした。
 磐垣淵之 イハガキブチノ。イハガキブチは、岩で圍まれた淵をいう。以上二句は、次のコモリと言うため(579)の序詞で、磐垣淵は、水の流れ出る處が知れないから、コモリを引き出すに使用される。前項に擧げた例もコモリの序として使用されている。
 隱耳戀管在尓 コモリノミコヒツツアルニ。表に出さず、心中でのみ戀いつつあるに。
 度日乃 ワタルヒノ。天空を通過する日か。
 晩去之如 クレユクガゴト。クレヌルガゴト(考)。天を通る太陽の暮れ行くように。妻の死んだことに對する譬喩である。
 照月乃雲隱如 テルツキノクモガクルゴト。渡ル日ノ暮レユクガ如の句と對句として、妻の死の譬喩となつている。
 奧津藻之 オキツモノ。枕詞。海上の藻のようにの意に、靡キシに冠する。海藻を以つて婦人の姿體を描く人麻呂の修辭の特色が、ここにも出ている。
 名延之妹者 ナビキシイモハ。ナビキシは、妻の姿態についていう。なよよかに寄り添つた意である。イモは婦人の愛稱。
 黄葉乃 モミチバノ。枕詞。黄葉は散り過ぐるので、過グの語に冠する。この句は、この歌中において唯一の季節語であるが、反歌にも、二首とも黄葉を歌い、殊にその第二首において黄葉と共に散つたと歌つているによれば、妻の死は、黄葉の散る頃であつて、この句が選定されたと考えられる。
 過伊去等 スギテイユクト。スギテイニキト(攷)。スギテは、この世を通過する意に死ぬことをいう。イユクは、妻がみずから行くとする現わし方である。イは接頭語。伊去はイニキとも讀まれているが、この字面からすればイユクと讀むのが順當である。
 玉梓之 タマヅサノ。枕詞。タマヅサは、假字書きものの二例(卷十七、三九五七、三九七三)を除いては、(580)すべて玉梓と書いている。梓はアヅサで、そのアがタマに結合して、タマヅサと讀まれる。タマは、他語に冠する場合は、美稱と、靈魂の義と、珠玉の義とがあるが、ここはそのどれであろうか。珠玉の義ではないらしい。アヅサは樹名。アヅサユミ(卷一、三)參照。タマが樹名に冠するは、「玉松が枝」(卷二、一一三)があり、これは美稱である。枕詞としては、使に冠するもの多く、その他では、「玉梓乃《タマヅサノ》 人曾言鶴《ヒトゾイヒツル》」(卷三、四二〇)、「玉梓乃《タマヅサノ》 事太爾不v告《コトダニツゲズ》」(同、四四五)、「玉梓能《タマヅサノ》 妹者珠氈《イモハタマカモ》(卷七、一四一五)、「玉梓之《タマヅサノ》 妹者花可毛《イモハハナカモ》」(同・一四一六)が異例である。語義については、古くは使者が梓の木に玉をつけたのを携えたのであろうといい(玉の小琴)、また丈部が梓の杖を携えたからであると言つている(講義)が、それでは玉梓の妹という績き方は、説明できない。何か特殊の風習があつたのであろうが、今これをあきらかにするを得ない。代匠記に、玉梓は梓弓のことであるとし、これについて、粂川定一氏は、弓のツカ(束)から使につづくのだろうとしている。梓は、金澤本、類聚古集には、桙に作つており、これの外の例も、古寫本に、桙に作るものがあつて、これによれば、タマホコノで、突くから、ツカヒに冠するとしてよく通ずる。但し「多麻豆佐能《タマヅサノ》 使乃家禮婆《ツカヒノケレバ》」(卷十七、三九五七)、「多麻豆佐能《タマヅサノ》 都可比多要米也《ツカヒタエメヤ》」(同、三九七三)の例があつて、假字書きにしているのでただちに玉桙の誤りとするわけにゆかない。
 使乃言者 ツカヒノイヘバ。ツカヒは動詞使フの名詞形。使用人の義であるが、普通使用人を使者に使うので、多くその意に使用される。妻の死んだことを使がいうのである。今日の常識から言えば、夫が妻の死ぬ時に居合わせないというのは不可解のように感じられるが、當時の夫婦關係は、女は自家にあり、男がこれに通う場合が多く、かような事情も生じたのであろう。人麻呂の場合は、その旅中に起つたこととも考えられる。後に人麻呂が石見の國で死に臨んだ時にも、その國の人と考えられる妻は、居合わさず、人麻呂は、自分の死ぬのを妻は知らずに待つているだろうと歌つて死んだ。
(581) 梓弓 アヅサユミ。枕詞。梓の木で作つた弓。弓を引けば音がするから、聲の枕詞とする。
 聲尓聞而 オトニキキテ。使のいう言葉で聞いて。
 聲耳聞而 オトノミキキテ。聲ニ聞キテの句の別傳であるが、下に聲ノミヲ聞キテアリ得ネバの句があり、それと重複してよくない。
 將言爲便世武爲便不知尓 イハムスベセムスベシラニ。スベは、手段、方法。ニは打消の助動詞。不知でシラニと讀まれるが、誤讀を避けるために特に尓の字を添えている。言うべき手段も爲すべき手段も知らずで、途方に暮れる意の副詞になつている。熟語句として集中に用例が多い。
 聲耳乎聞而有不得者 オトノミヲキキテアリエネバ。人の云うことのみを聞いただけでは、いることができないから。
 吾戀千重之一隔毛 ワガコフルチヘノヒトヘモ。ワガコヒノチヘノヒトヘモ(神)、ワガコフルチヘノヒトヘモ(考)。これも慣用句である。自分の戀の幾重とも重なれる中の一重も、千が一も。「吾戀流《ワガコフル》 千重乃一隔母《チヘノヒトヘモ》 名草漏《ナグサモル》 情毛有哉跡《ココロモアリヤト》」(卷四、五〇九)、「吾戀之《ワガコヒノ》 千重之一重裳《チヘノヒトヘモ》 名具佐米七國《ナグサメナクニ》」(卷六、九六三)、「名草山《ナグサヤマ》 事西在來《コトニシアリケリ》 吾戀千重一重《ワガコフルチヘノヒトヘモ》 名草目名國《ナグサメナクニ》」(卷七、一二一三)、「吾戀流《ワガコフル 》 千重乃一重母《チヘノヒトヘモ》 人不v令v知《ヒトシレズ》 本名也戀牟《モトナヤコヒム》」(卷十三、三二七二)。ワガコフルとも、ワガコヒノともいうことが知られる。ここはノに當る字が無いので、ワガコフルと讀む。
 遣悶流 ナゲサモル。既出(卷二、一九六)。オモヒヤル(西)と讀む説もあるが、前項の例、千重ノ一重モの句を受けては、皆ナグサムの語を以つてしているのは、慣用があるであろう。この語の連體形、集中の例は、奈具佐牟流、奈具佐牟留、奈具佐無流、那具左牟流、名草武類等、ナゲサムルとするものと、名草漏の如くナゲサモルとするものとがあり、なお名草溢はナグサフルとも讀まれる。ナグサモルは自動、自分の心がな(582)ぐさまれる意。
 情毛有八等 ココロモアリヤト。ヤは疑問の終助詞。みずから慰める心もあるかと。
 不止出見之 ヤマズイデミシ。ヤマズは絶えず、始終。生前わが妻の常に出で見たの意で、次の輕の市を修飾する。
 輕市尓 カルノイチニ。輕の地に開かれる市に。市は物を賣買するところで、古の市は、日を定めて諸方から人が集まつて、開くのである。日本書紀天武天皇十年十月の條に「唯親王以下及群卿、皆居2于輕市1、而?2校装束鞍馬1」。
 吾立聞者 ワガタチキケバ。輕の市に立ち出でて聞けば。
 玉手次 タマダスキ。既出(卷一、二九)。枕詞。玉は美稱。頸《うなじ》に懸けるものであるから、畝火の枕詞とする。
 畝火乃山尓 ウネビノヤマニ。輕の地から畝火山は近く仰がれる。
 喧鳥之音母不所聞 ナクトリノコヱモキコエズ。鳥が鳴かないのではなく、鳴く鳥の聲も耳に入らぬので、かように敍している9
 玉桙 タマホコノ。玉は美《ほ》める辭。桙は突く用の武器。桙の身というより道の枕詞とするという。しからばミと續くものもあり得べきに、常にミチに冠し、また身のミと道のミとは音聲が違う。これは桙の靈威の意にチに冠するのだろう。道そのものを靈威ありとした。この枕詞は、「遠有跡《トホクアレド》 公衣戀流《キミニゾコフル》 玉桙乃《タマホコノ》 里人皆爾《サトビトミナニ》 吾戀八方《ワレコヒメヤモ》」(卷十一、二五九八)を例外として、他はすべてミチに冠している。
 獨谷似之不去者 ヒトリダニニルガユカネバ。ヒトリダニニテシユカネハ(神朱)。一人だけもわが妻に似たのが行かないから。「河風《カハカゼノ》 寒長谷乎《サムキハツセヲ》 歎乍《ナゲキツツ》 公之阿流久爾《キミガアルクニ》 似人母逢耶《ニルヒトモアヘヤ》」(卷三、四二五)は、これと同樣(583)思想である。
 爲便乎無見 スベヲナミ。手段無くして。
 妹之名喚而袖曾振鶴 イモガナヨビテソデゾフリツル。不在の人の名を呼ぶのは、その人の生死に拘わらず大事とされていた。死者の名を呼べば、その靈が黄泉の國から來るが、魔物が附隨して來ると恐れていたのである。しかしここでは戀しさに堪えやらずして遂にその名を呼んだのである。袖を振るのは、吾ここにありと注意を求めるためで、集中に例が多い。
 或本有謂之名耳聞而有不得者句 アルマキニナノミヲキキテアリエネバトイヘルクアリ。或る本に名ノミヲ云々の句があるというのであるが、この句は、スベヲ無ミの句の下にあつたものと見られる。これも蛇足で本文に無い方がよい。
【評語】特に終りの方が良い。生前十分に逢わなかつた妻の幻影を追つて、畝火山を仰ぎ、輕の市に立ちさまようあたり、悲痛の心がよく出ている。
 
短歌二首
 
208 秋山の 黄葉《もみち》を茂み 迷《まど》ひぬる
 を求めむ 山道《ぢ》知らずも。【一は云ふ、路知らずして】
 
 秋山之《アキヤマノ》 黄葉乎茂《モミチヲシゲミ》 迷流《マドヒヌル》
 妹乎將v求《イモヲモトメム》 山道不v知母《ヤマヂシラズモ》【一云、路不v知而】
 
【譯】秋山の黄葉の茂きがために、道を迷つて、歸つて來ない妻を求めようとするが、山道を知らないことである。
【釋】秋山之黄葉乎茂 アキヤマノモミチヲシゲミ。秋山の黄葉が多くして。次のマドヒヌルの理由を示す句。(584)茂くして妹を求めむ山道を知らずというのではない。
 迷流 マドヒヌル。黄葉のために道に迷つて歸られないとするのである。以上、次の妹の語を修飾する。
 殊乎將求 イモヲモトメム。イモは妻をいう。連體形の句。
 山道不知母 ヤマヂシラズモ。妻を求むべき山道を知らないの意。モは感動の助詞。
 路不知而 ミチシラズシテ。第五句の別傳である。これは下に省略のある云い方であるが、調子もわるく拙い傳來である。
【評語】黄葉の散り亂れる中に、道を失つて歸つて來られないのであろうと歌つている。亡き人がみずから山路にはいつたとする思想のもとに、もしや山中に迷つているのではないかと思う人情を言い得ている。求めようとして遂に求められない人が描かれている。
 
209 黄葉《もみちば》の 落《ち》り去《ゆ》くなへに
 玉|梓《づさ》の 使を見れば、
 逢ひし日念《おも》ほゆ。
 
 黄葉之《モミチバノ》 落去奈倍尓《チリユクナヘニ》
 玉梓之《タマヅサノ》 使乎見者《ツカヒヲミレバ》
 相日所v念《アヒシヒオモホユ》
 
【譯】黄葉の散つて行く、そのおりしも、使の來るのを見ると、生前逢つた日のことが思われる。
【釋】黄葉之落去奈倍尓 モミチバノチリユクナヘニ。モミチバノチリヌルナヘニ(代初書入)。ナヘニは、上の詞句と下の詞句と共に行われるをあらわす。黄葉の散り行くそれと共に使の來るのを見ればの意。
 使乎見者 ツカヒヲミレバ。妻の家から來た使を見れば。妻の死を告げにきた使を見ると。
 相日所念 アヒシヒオモホユ。生前妻と逢つた日のことが思われる。
【評語】生前の追憶を歌つている。長歌に、使が來て妻の死を報じたことを歌つているのを受けて、別の方面(585)から歌つている。この反歌二首、黄葉を歌材として、よく長歌の内容を補足している。但し長歌には、妻の幻影を追つて輕の市を徘徊することが主になり、これは更に前に溯つて、使の來た時の感情を敍している。時處があちこちして一に集中していないのは缺點である。
 
210 うつせみと 念ひし時に、【一は云ふ、うつそみと思ひし。】
 取り持ちて わが二人見し
 走出《はしりで》の 堤に立てる
 槻《つき》の木の こちごちの枝《え》の
 春の葉の 茂きが如く、
 念へりし 妹にはあれど、
 憑めりし 兒らにはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃る荒野に
 白|細《たへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちいまして、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形身に置ける
 若兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
(586) 取り與ふ 物し無ければ、
 鳥穗《とりほ》じもの 腋挾み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬星《つまや》の内に、
 晝はも うらさび暮し、
 夜《よる》はも 息づき明し、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ因《よし》を無み、
 大鳥の 羽貝《はがひ》の山に
 わが戀ふる 妹は坐《いま》すと 人の言へば、
 石根《いはね》さくみて なづみ來《こ》し、
 吉《よ》けくもぞなき。
 うつせみと 念ひし妹が、
 玉かぎる ほのかにだにも
 見えぬ思へば。
 
 打蝉等《ウツセミト》 念之時尓《オモヒシトキニ》【一云、宇都曾臣等念之】
 取持而《トリモチテ》 吾二人見之《ワガフタリミシ》
 ?出之《ハシリデノ》 堤尓立有《ツツミニタテル》
 槻木之《ツキノキノ》 己知碁知乃枝之《コチゴチノエノ》
 春葉之《ハルノハノ》 茂之如久《シゲキガゴトク》
 念有之《オモヘリシ》 妹者雖v有《イモニハアレド》
 憑有之《タノメリシ》 兒等尓者雖v有《コラニハアレド》
 世間乎《ヨノナカヲ》 背之不v得者《ソムキシエネバ》
 蜻火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白妙之《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊麻之弖《アサタチイマシテ》
 入日成《イリヒナス》 隱去之鹿齒《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 若兒乃《ミドリコノ》 乞泣毎《コヒナクゴトニ》
 取與《トリアタフ》 物之無者《モノシナケレバ》
 鳥穗自物《トリホジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二人吾宿之《フタリワガネシ》
 枕付《マクラヅク》 嬬屋之内尓《ツマヤノウチニ》
 晝羽裳《ヒルハモ》 浦不樂晩之《ウラサビクラシ》
 夜者裳《ヨルハモ》 氣衝明之《イキヅキアカシ》
 嘆友《ナゲケドモ》 世武爲便不v知尓《セムスベシラニ》
 戀友《コフレドモ》 相因乎無見《アフヨシヲナミ》
 大鳥乃《オホトリノ》 羽貝乃山尓《ハガヒノヤマニ》
 吾戀流《ワガコフル》 妹者伊座等《イモハイマスト》 人云者《ヒトノイヘバ》
 石根左久見手《イハネサクミテ》 名積來之《テナヅミコシ》
 吉雲曾無寸《ヨケクモゾナキ》
 打蝉跡《ウツセミト》 念之妹之《オモヒシイモガ》
 珠蜻《タマカギル》 髣髴谷裳《ホノカニダニモ》
 不v見思者《ミエヌオモヘバ》
 
【譯】生ける人と思つていた時に、連れ立つて我等二人の見た、突き出ている堤に立つている、槻《つき》の木の、あちらこちらの枝の、春の葉の茂きが如くに、茂く思つて居つた妻ではあるが、頼みとして居た妻ではあるが、(587)世の中の習いを背くことができないから、陽炎の立つ荒野に、領巾《ひれ》のような白い雲に隱れて、鳥のように朝立ちをして、入日のように隱れてしまつたから、わが妻の形見に置いた若い兒の乳を乞うて泣く毎に、與うべき物がないから、鳥が穗をくわえているように、腋に挾んで、わが妻と二人して寢た、寢室の内に、晝は鬱々として暮らし、夜は太息をついて明かし、嘆けども、すべき手段を知らず、戀うけれども逢う方法が無さに、かの羽貝の山に、自分の戀うる妻はいると、人が言うので、石根を踏み割つて困難して來たが、別によいこともない。生ける人と思つた妻が、ほのかにも見えないのを思えば。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。
【釋】打蝉等念之時尓 ウツセミトオモヒシトキニ。ウツセミトオモヒシトキは、熟語句で、生前の意になる。この世に生きている人と思つていた時の意である。
 字都曾臣等念之 ウツソミトオモヒシ。本文のウツセミトオモヒシの別傳である。ただウツセミがウツソミに變つているだけである。この語のことは前に記した。ウツソミの方が原形であるかも知れない。臣の字を書いたのはオミの音に借りたのであるが、そのオは上のソの音に吸收されている。なおこの歌には、この別傳だけを記すに留めているが、これは下に或本歌曰として全部擧げてあるもの(卷二、二一三)によつて記したもので、兩者の相違が相當に多いので、詞句のあいだに別傳を記しかけて、一句だけでそれをやめて、後に別提することにしたものであろう。
 取持而吾二人見之 トリモチテワガフタリミシ。下の槻ノ木ノコチゴチノ枝に懸かるので、二人して槻の枝を取り持つて見たのである。但し或る本には携手吾二見之とあり、それは、二人が連れ立ち伴つての意になる。歌意から言えばその別傳の方がよいようである。
 ?出之 ハシリデノ。?は廣韻に、「俗趨字」と註している。日本書紀雄略天皇紀には、「擧暮利矩能《コモリクノ》 播都(583)制能野麼播《ハツセノヤマハ》 伊底柁智能《イデタチノ》 與慮斯企野麼《ヨロシキヤマ》 和斯里底能《ワシリデノ》 與慮斯企夜麼能《ヨロシキヤマノ》 據暮利矩能《コモリクノ》 播都制能夜麻播《ハツセノヤマハ》」」(七七)とあり、本集に「隱來之《コモリクノ》 長谷之山《ハツセノヤマ》 青幡之《アヲハタノ》 忍坂山者《オサカノヤマハ》 走出之《ハシリデノ》 宜山之《ヨロシキヤマノ》 出立之《イデタチノ》 妙山敍《クハシキヤマゾ》」(卷十三、三三三一)とある。ハシリデは、山の姿の走り出たようにあるということで、イデタチと對語になつていることに依つても知られる。これを、門口から走り出た處に近くあるとするのは誤りである。
 堤尓立有 ツツミニタテル。ツツミは水を包んでいる土地をいうが、何處の堤であるか不明である。藤原の京で詠んだとすれは、埴安の池の堤でもあり得るが、それはわからない。
 槻木之 ツキノキノ。ツキは、欅に似た落葉喬木。
 己知碁知乃枝之 コチゴチノエノ。コチは此方で、同語を重ねて、あちらこちらの意をあらわしている。嘗時まだアチの語が成立していなかつたのである。古事記に「久佐加辨能《クサカベノ》 許知能夜麻登《コチノヤマト》 多多美許母《タタミコモ》 幣具理能夜麻能《ヘグリノヤマノ》 許知碁知能《コチゴチノ》 夜麻能賀比爾《ヤマノカヒニ》」(九二、雄略天皇記)。本集に「奈麻余美乃《ナマヨミノ》 甲斐乃國《カヒノクニ》 打縁流《ウチヨスル》 駿河能國與《スルガノクニト》 己知其智乃《コチゴチノ》 國之三中從《クニノミナカユ》」(卷三、三一九)など使用されている。
 春葉之茂之如久 ハルノハノシゲキガゴトク。以上、繁くあることの譬喩に歌い起している。ここに春の葉を出したのは、追憶のことであるから、作歌の時節に、關係無くてよいのであるが、反歌に、去年見テシ秋ノ月夜ハの句があつて、實際、妻の死んだ翌年の春になつて詠んだので、自然この句が成されたものと考えられる。
 念有之妹者雖有 オモヘリシイモニハアレド。繁く思つていた妻ではあるが。
 憑有之兒等尓者雖有 タノメリシコラニハアレド。タノメリシは、妻として頼み思つていた意。コラは妻をいう。複數ではない。「兒等之家道《コラガイヘヂ》 差間遠焉《ヤヤマドホキヲ》」(卷三、三〇二)など用例は多い。以上二句、上の、念ヘリシ妹ニハアレドと對句を成している。妹すなわち兒ラである。
(589) 世間乎背之不得者 ヨノナカヲソムキシエネバ。ヨノナカは、ここでは世の中の通例をいう。人生無常の世間の道を背くことができないから。シは強意の助詞。
 蜻火之 カギロヒノ。カギロヒは陽炎をいう。しずかに暖かい日光のもとに、地上の水分が上昇し、その先にある風物が動搖して見える現象をいう。ここは實際である。
 燎流荒野尓 モユルアラノニ。モユルは、カギロヒの立つをいう。アラノは曠野で、妻の葬列の行つた處。
 白妙之天領巾隱 シロタヘノアマヒレガクリ。ヒレは、婦人の服飾で、肩から掛ける白い織物をいう。倭名類聚鈔に、「領巾【日本紀私記云比禮】婦人項上飾也」とある。天領巾は、天の領巾の義で、雲霧の類を領巾に譬えたのである。「秋風《アキカゼノ》 吹漂蕩《フキタダヨハス》 白雲者《シラクモハ》 織女之《タナバタツメノ》 天津領巾毳《アマツヒレカモ》」(巻十、二〇四一)の天つ領巾は、白雲を歌つている。ここの句は、白い雲に隱れての意であるが、妻の火葬の煙に思い寄せているようで、火葬の煙と共に去つたというとも解せられる。なおヒレの咒力の方面については、松浦の佐用媛の物語(卷五、八七一前行文)參照。
 鳥自物 トリジモノ。枕詞。鳥のように。
 朝立伊麻之弖 アサタチイマシテ。イマスは行クの敬語。尼理願の死を悼む歌にも「佐保河乎《サホカハヲ》 朝河渡《アサカハワタリ》 春日野乎《カスガノヲ》 背向爾見乍《ソガヒニミツツ》 足氷木乃《アシヒキノ》 山邊乎指而《ヤマベヲサシテ》 晩闇跡《ユフヤミト》 隱益去禮《カクリマシヌレ》」(卷三、四六〇)とあつて、葬儀は、實際に、朝その家を出たものと考えられる。
 入日成 イリヒナス。枕詞。入日のように。朝、家を出た葬儀が、夜に至つて火葬を終るのでこの句がある。
 隱去之鹿齒 カクリニシカバ。この世から隱れたから。以上の敍述は、死者みずから家を出て隱れたように敍している。
 吾妹子之形見尓置 ワギモコガカタミニオケル。わが妻の形見として殘しておいた。
(590) 若兒乃 ミドリコノ。ワカキコノ(古書)。別掲の或本歌(卷二、二一三)には「緑兒之」とある。倭名類聚鈔に、孩に註して「辨色立成云、嬰兒、美都利古、始生小兒也」とあり、本集に「緑子之《ミドリコノ》 若子蚊見庭《ワクゴガミニハ》」(卷十六、三七九一)などある。幼兒を何故ミドリコというかは不明であるが、看護することをトリミルというので、同樣の意にミトリというのでもあろうか。漢語の緑兒の直譯であるかもしれない。若兒は、ワカキコとも讀まれる字面である。人麻呂の死んだ妻が、子を殘したことが知られる。
 乞泣毎 コヒナクゴトニ。幼兒が食物を乞うて泣く度に。
 取與物之無者 トリアタフモノシナケレバ。アタフは古く四段に活用している。與えるべき物がないから。
 鳥穗自物 トリホジモノ。
   トリホシモ(神)
   トリシモノ(拾)
   トボシモノ(童)
   ――――――――――
   烏穗自物《ヲホジモノ》(代精)
   烏コ自物《ヲトコジモノ》(考)
 この儘ではトリホジモノと讀むほかはない。ジモノは犬ジモノ、鳥ジモノなどの例で、の如くの意であるとして、穗や花を嘴に挾んでいる鳥の圖案を思つて、鳥の持てる穗のようにして、下の腋挾ミ持チに懸かるものと見るべきである。解を誤字説に求めるとすれば、別傳の或る本の歌には、「男自物腋挾持」(卷二、二一三)とあるので、萬葉考はこれによつて烏コ自物の誤とし、ヲトコジモノと讀み、爾來多くこの説に從つている。この場合のジモノは、犬ジモノや、鳥ジモノのジモノとは意味が違つて、デアルノニの意に解する。男子であるものをの意となつて、枕詞ではなくなる。「腋挾《ワキバサム》 兒乃泣毎《コノナクゴトニ》 雄自毛能《ヲノコジモノ》 負見抱見《オヒミウダキミ》」(卷三、四八一)、「小豆鳴《アヅキナク》 男士物屋《ヲノコジモノヤ》 戀乍將v居《コヒツツヲラム》」(卷十一、二五八〇)。
 腋挾持 ワキバサミモチ。子を脇に抱えて持つ意。かかえるように抱《いだ》く。古語拾遺に「天照らす大神、吾勝《あかつ》(591)の尊《みこと》を育《ひた》し、特に甚《いた》く鍾愛《めぐ》みたまひ、常に腋の下に懷きたまひ、稱へて腋子と曰ふ」とある。  吾妹子與二人吾宿之 ワギモコトフタリワガネジ。妻と二人で宿た意に、下の嬬屋を修飾する。
 枕付 マクラヅク。枕詞。枕の置かれてある意に、嬬屋を説明修飾する「摩久良豆久《マクラヅク》 都摩夜佐夫斯久《ツマヤサブシク》 於母保由倍斯母《モホユベシモ》」(卷五、七九五)、「枕附《マクラヅク》 都麻屋之内爾《ツマヤノウチニ》 鳥座由比《トクラユヒ》 須惠?曾我飼《スヱテゾワガカフ》 眞白部乃多可《マシラフノタカ》」(卷十九・四一五四)。
 嬬屋之内尓 ツマヤノウチニ。ツマヤは、對の屋の義。附屬の小室をいう。多く妻の居室として使用されていたので、妻の屋の語意を感じていたのであろう。前項に擧げた、卷の十九の例では、家持が鷹部屋にしている。
 浦不樂晩之 ウラサビクラシ。既出(卷二、一五九)。ウラは心裏の義。サビは不樂の文字の示すように、憂鬱に沈みいること。クラシは、日を暮らすことで、終日鬱々として夕に至るのである。
 氣衝明之 イキヅキアカシ。イキヅキは嘆息をすること。愁の止み難く眠り難くして、息をついて天明に至る。以上二句、晝はウラサビクラシと對句になつている。
 世武爲便不知尓 セムスベシラニ。既出(卷二、二〇七)。爲さむ手段をも知らず。何とも致し方無く。
 戀友相因乎無見 コフレドモアフヨシヲナミ。戀うけれども逢うわけが無くして。以上二句、嘆ケドモ爲ムスベ知ラニと對句になつている。
 大鳥乃 オホトリノ。枕詞。大鳥の羽がいの意に羽貝の山に冠する。
 羽貝乃山尓 ハガヒノヤマニ。「春日有《カスガナル》 羽買之山從《ハガヒノヤマユ》 狹帆之内敝《サホノウチヘ》 鳴往成者《ナキユクナルハ》 孰喚子鳥《タレヨブコトリ》」(卷十、一八二七)の羽買の山と同山と考えられ、依つて春日にあることが知られる。以下妻をその山に求める由に歌つているが、その關係は不明である。甚所説があるが、反歌に、引手ノ山ニ妹ヲ置キテとあり、引手の山との關係が問題に(592)なる。或る本の歌には、その求める妻が灰である由に歌つているから、もしそれをこの歌の原形とすれば、火葬地であつたのであろう。妻の死が、既に奈良時代にはいつているのであろうか。
 吾戀流 ワガコフル。妹を修飾している。
 妹者伊座等 イモハイマスト。イマスは、いる意の敬語。
 人云者 ヒトノイヘバ。他の人がいぅので。
 石根左久見手 イハネサクミテ。イハネは、岩石、ネは接尾語。サクミテは、「磐根木根履佐久彌 弖 《イハネキネフミサクミテ》」(延喜式祈年祭祝詞)。「五百隔山《イホヘヤマ》 伊去割見《イユキサクミ》」(卷六、九七一)などの用例があり、山や岩石、木の根などを踏破する意に使用されている。サクは、花の開く、物を裂くなど、裂開する意があるから、そのようにするをサクムというのであろう。卷の六の例に割見と書いているのは、サクに割くの意味が感じられているのであろう。さすれば岩を踏み開く意に解せられる。
 名積來之 ナヅミコシ。ナヅミは、艱難勞苦する意の動詞。コシは連體形で、難儀をして來たがしかしの如き意となる。
 吉雲曾無寸 ヨケクモゾナキ。ヨケクは、形容詞ヨシのヨケの形にコトの意のクの接續した體言で、よい事、よい點などの意になる。ヨケクの例は、「安志家口毛《アシケクモ》 與家久母見武登《ヨケクモミムト》」(卷五、九〇四)、「余家久波奈之爾《ヨケクハナシニ》」(同)などである。ゾを受けてナキと結んでいる。句切。
 打蝉跡念之妹之 ウツセミトオモヒシイモガ。生きていると思つた妻が。遙に冒頭の、うつせみと念ひし時にの句と呼應している。
 珠蜻 タマカギル。既出(卷二、二〇八)。枕詞。ここではホノカに冠している。
 髣髴谷裳不見思者 ホノカニダニモミエヌオモヘバ。明白になどとは勿論、ぼんやりとだけも見えないのを(593)思えば。上の、吉ケクモゾ無キを修飾限定している。
【評語】生前の事から筆を起してその死に及び、また前の歌と同じく、その跡を求めて山路に徘徊することを歌つている。槻の枝の思い出を譬喩に使用して來たのは巧みといえよう。今は亡き妻の形見である幼兒を抱き、ひとり空閨に困惑するあたりもよく描かれている。さて眠りをなし難い夜は明けて、羽買の山に亡き妻を求める敍述も悲痛である。最後の、妻を求め得ない敍述は、概念的ですこし物足りなさが感じられ、他の作におけるが如き力強さが見られない。
 
短歌二首
 
211 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《つくよ》は
 照らせども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋乃月夜者《アキノツクヨハ》
 雖v照《テラセドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 弥年放《イヤトシサカル》
 
【譯】去年妻と共に見た秋の月夜は、照らしているが、共に見たわが妻は、いよいよ時を隔ててゆく。
【釋】去年見而之 コゾミテシ。コゾは昨年をいう。「許序能秋《コゾノアキ》 安比見之末爾末《アヒミシマニマ》」(卷十八、四一一七)はその假字書きの例である。シは時の助動詞の連體形。
 秋乃月夜者 アキノツクヨハ。ツクヨは、ここでは月に重點があり、ヨは接尾語として使用されている。
 雖照 テラセドモ。テラセレド(考)。月は今年も照らしているけれども。字面からすれば、テラセレドの訓は採り難い。
 相見之妹者 アヒミシイモハ。その月を共に見た妻は。
(594) 弥年放 イヤトシサカル。いよいよ年が經過する。サカルは離れる意で、年サカルは、年を隔てる意である。妻が死んでから、年が變つたことをいう。
【評語】人は死し去つて、ただ舊物のみ存している。この感慨は、どのような人にも存し、いかなる物につけても云われることであるが、殊に月に對して故人を思うことは、漢詩や和歌に例が多い。日や星に對していうことなく、月のみにこの事あるは、月の光は、人の感傷を誘うところが多いからであろう。
 
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山に 妹を置きて、
 山路を行けば 生《い》けりともなし。
 
 衾道乎《フスマヂヲ》 引手乃山尓《ヒキテノヤマニ》 妹乎置而《イモヲオキテ》
 山徑往者《ヤマヂヲユケバ》 生跡毛無《イケリトモナシ》
 
【譯】衾道にある引手の山に妻を葬つて、山路を行けば、自分は生きて居るようにも思われない。
【釋】衾道乎 フスマヂヲ。フスマは地名であろうが所在未詳である。フスマヂは、衾の地に行く道。ヲは感動の助詞で、「味酒呼《ウマザケヲ》 三輪之祝我《ミワノハフリガ》」(卷四、七一二)のヲの類である。攷證には、フスマは大きな被服の義で、夜寢るに夜具とするものである。ヂは道を書いたのは借字で、手の意で、今いう羽織のチの如く、衾に手がかりに絲紐布の類をつけておいたのであつて、それを引くより、引手の枕詞としたものであろうというが、ヂの解が無理で採用し難い。
 引手乃山尓 ヒキテノヤマニ。ヒキテノヤマは、所在未詳。大和志に、中村の東に在る龍王山であるとしている。この山は、山邊郡朝和村にある山であるが、その地は、人麻呂の妻のかつて住んでいたと思われる卷向山の麓に近く、柿本氏の本居と考えられる櫟本の南一里ほどの地である。その山に妻を葬つたとすることも有り得ないことでもない。
 妹乎置而 イモヲオキテ。妻を葬つたことをいう。
(595) 山徑往者 ヤマヂヲユケバ。このヤマヂは、長歌を受けて、羽買の山の山路を言つている。
 生跡毛無 イケリトモナシ。卷の十九に、「伊家流等毛奈之」(四一七〇)と假字書きにしたのがあるので、ここもイケルトモナシと讀むべく、さて生ける利も無しの義であるという説がある。しかし集中十數個の例は、トに利をあてたもの一も無く、皆假字の用法と見えるから、十九の例は、連體形の下に語を略したものとして、ここはイケリトモナシと讀み、リを助動詞、トを助詞と見るがよい。自分は、生きているとも無い。生きているようにもない。心を空に悲しみに閉されている。なお下の或本歌「生刀毛無」(卷二、二一五)參照。
【評語】地理の上に問題は殘るが、それは解釋上のことであつて、歌としては、悲しみに沈んで山路を彷徨する情がよく描かれている。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。前の歌の別傳であるが、この傳來は長歌一首反歌三首から成り、その全部を掲げている。前にも記したように、一々の詞句について相違を記すには、相當に相違が多くしてそれに堪えられなかつたのであろう。この或る本のいかなるものであるかは知られない。
 
213 うつそみと 念ひし時に
 携はり わが二人見し、
 出で立ちの 百足《ももだ》る槻《つき》の木、
 こちごちに 枝《えだ》させる如、
 春の葉の 茂きが如、
(596) 念へりし 妹にはあれど、
 恃《たの》めりし 姉《なね》にはあれど、
 世の中を 背《そむ》きし得ねば、
 かぎろひの 燃ゆる荒野に
 白細《しろたへ》の 天領巾隱《あまひれがく》り、
 鳥じもの 朝立ちい行きて、
 入日なす 隱りにしかば、
 吾妹子が 形見に置ける
 緑兒《みどりこ》の 乞ひ泣く毎に、
 取り委《まか》す 物しなければ、
 男じもの 腋挾《わきばさ》み持ち、
 吾妹子と 二人わが宿《ね》し
 枕づく 嬬屋《つまや》の内に、
 晝は うらさび暮らし、
 夜《よる》は 息衝《いきづ》き明かし、
 嘆けども せむすべ知らに、
 戀ふれども 逢ふ縁《よし》を無み、
(597) 大鳥の 羽易《はがひ》の山に
 汝《な》が戀ふるゝ 妹は坐《いま》すと
 人の云へば、石根《いはね》さくみて なづみ來し、
 好《よ》けくもぞ無き。
 うつそみと 念ひし妹が
 灰にて坐せば。
 
 宇都曾臣等《ウツソミト》 念之時《オモヒシトキニ》
 携手《タヅサハリ》 吾二見之《ワガフタリミシ》
 出立《イデタチノ》 百足槻木《モモダルツキノキ》
 虚知期知尓《コチゴチニ》 枝刺有如《エダサセルゴト》
 春葉《ハルノハノ》 茂如《シゲキガゴト》
 念有之《オモヘリシ》 妹庭雖v在《イモニハアレド》
 恃有之《タノメリシ》 姉庭雖v有《ナネニハアレド》
 世中《ヨノナカヲ》 背不v得者《ソムキシネネバ》
 香切火之《カギロヒノ》 燎流荒野尓《モユルアラノニ》
 白栲《シロタヘノ》 天領巾隱《アマヒレガクリ》
 鳥自物《トリジモノ》 朝立伊行而《アサタチイユキテ》
 入日成《イリヒナス》 隱西加婆《カクリニシカバ》
 吾妹子之《ワギモコガ》 形見尓置有《カタミニオケル》
 緑兒之《ミドリコノ》 乞哭別《コヒナクゴトニ》
 取委《トリマカス》 物之無者《モノシナケレバ》
 男自物《ヲノコジモノ》 腋挾持《ワキバサミモチ》
 吾妹子與《ワギモコト》 二吾宿之《フタリワガネシ》
 枕附《マクラヅク》 嬬屋内尓《ツマヤノウチニ》
 日者《ヒルハ》 浦不怜晩之《ウラサビクラシ》
 夜者《ヨルハ》 息衝明之《イキヅキアカシ》
 雖v嘆《ナゲケドモ》 爲便不v知《セムスベシラニ》
 雖v戀《コフレドモ》 相縁無《アフヨシヲナミ》
 大鳥《オホトリノ》 羽易山尓《ハガヒノヤマニ》
 汝戀《ナガコフル》 妹座等《イモハイマスト》
 人云者《ヒトノイヘバ》 石根割見而《イハネサクミテ》 奈積來之《ナヅミコシ》
 好雲敍無《ヨケクモゾナキ》
 字都曾臣《ウツソミト》 念之妹我《オモヒシイモガ》
 灰而座者《ハヒニテマセバ》
 
【構成】本文の歌と同じく、全篇一文である。
【釋】宇都曾臣等念之時 ウツソミトオモヒシトキニ。二一〇の歌參照。助詞ニに當る字は無いが、この歌は、助詞に當る字を略することが多く、かつ前の歌にもトキニとあるから補つて讀む。
 携手 タヅサハリ。テタヅサヒ(代初書入)、タヅサハリ(攷)、テタヅサヘ(札)。妻と手を携えて。妻と共に。「萬世《ヨロヅヨニ》 携手居而《タヅサハリヰテ》」(卷十、二〇二四人麻呂集)。
 出立 イデタチノ。本文にはハシリデノとあつた。イデタチノの例もその條に掲げた。山の出で立てる?であるのをいうが、ここでは槻の木について言つている。
 百足槻木 モモダルツキノキ。モモダルは、枝の繁つて充足している形容。「爾比那閇夜爾《ニヒナヘヤニ》 淤斐陀弖流《オヒダテル》 毛々陀流《モモエダル》 都紀賀延波《ツキガエハ》」(古事記一〇一)。木について足るというは、「東《ヒムカシノ》 市之殖木乃《イチノウエキノ》 木足左右《コタルマデ》」(卷三、三一〇)とも使用している。但し仙覺本には、この句、「百枝槻木」とあり、モモエツキノキと讀んでおり、それでも意味は通じる。「百枝槐社」(出雲國風土記、出雲郡)。
 虚知期知尓枝刺有如 コチゴチニエダサセルゴト。あちこちに枝を張つているように。次の春ノ葉ノ茂キカ(598)如と竝んで、譬喩をなしている。
 恃有之姉庭雖有 タノメリシナネニハアレド。ナネは、婦人の愛稱。仙覺本には、やはり妹に作つている。「如是許《カクバカリ》 名姉之戀曾《ナネガコフレゾ》 夢爾所v見家留《イメニミエケル》」(卷四、七二四)。この卷の四のナネは、大伴坂上の郎女が、その女に對して使用している。
 取委 トリマカス。本文の歌には取與とある。このマカスは四段活であつて、連體形である。
 男自物 ヲノコジモノ。本文の歌には、鳥穗自物とある。ヲノコジモの例竝びに解は、その條に記した。
 灰而座者 ハヒニテマセバ。灰にているというのは、火葬して灰となつてあつたのをいう。火葬は、天武天皇の四年三月に、道昭和尚を粟原に火葬したに始まるという。妻を火葬した地を訪れた意であつて、妻の骨灰がその時にあつたかどうかという論のあるのは、無用の論である。【評語】大體本文の歌に同じであるが、末に至つて灰ニテマセバというのが異なつている。この方が痛切であるが、いずれが原形であるかは分き難い。反歌によれば、この方が傳誦を經たものであろうか。
 
短歌二一首
 
214 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《ツクヨ》は 渡れども、
 相見し妹は いや年さかる。
 
 去年見而之《コゾミテシ》 秋月夜者《アキノツクヨハ》 雖v渡《ワタレドモ》
 相見之妹者《アヒミシイモハ》 益年離《イヤトシサカル》
 
【釋】雖度 ワタレドモ。空を通過するけれども、前には、照ラセドモとあつた。その方が感慨が深い。
 
215 衾路《ふすまぢ》を 引出の山に 妹を置きて、
(599) 山路|念《おも》ふに 生《い》けるともなし。
 
 衾路《フスマヂヲ》 引出山《ヒキデノヤマニ》 妹置《イモヲオキテ》
 山路念迩《ヤマヂオモフニ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【釋】山路念迩 ヤマヂオモフニ。前の歌には、山道ヲ行ケバとあつて、長歌とよく呼應していた。これでは長歌と別々になる。また羽買の山が引手の山であるならば、別名を使用しないで、ここも、大鳥の羽買の山に妹を置きてとあるべきである。この傳來は、吟誦の間に誤を生じたのであろう。
 生刀毛無 イケルトモナシ。イケリトモナシ(類)、イケルトモナシ(代)。上掲の歌の、「生跡毛無」(二一三)の句に相當する句であるが、刀はトの甲類の字であつて、助詞とは解せられず、これは利の義で、利心、すなわちはたらく心とすべきである。この二種は、集中に兩用されており、この種の例には「念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》」(卷二、二二七)、「吾情利乃《ワガココロドノ》 生戸裳名寸《イケルトトナキ》」(卷十一、二五二五)の如きは、これである。また「夷爾之乎禮婆《ヒナニシヲレバ》 伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》」(卷十九、四一七〇)の如きは、この雨者の混雜があるものと見られる。
 
216  家に來て わが屋を見れば、
 玉床《たまどこ》の 外に向きけり。
 妹が木枕《こまくら》。 
 
 家來而《イヘニキテ》 吾屋乎見者《ワガヤヲミレバ》
 玉床之《タマドコノ》 外向來《ホカニムキケリ》
 妹木枕《イモガコマクラ》
 
【譯】歸つて來てわが家を見ると、妻の寢ていた床の外に向いていた。わが妻の木枕は。
【釋】家來而 イヘニキテ。イヘはわが家で、歸つて來てというに同じ。
 吾屋乎見者 ワガヤヲミレバ。初句に、家ニ來テといい、重ねてワガ家というのは重複である。
 玉床之 タマドコノ。タマドコは、床の美稱。寢處である。「明日從者《アスヨリハ》 吾玉床乎《ワガタマドコヲ》 打拂《ウチハラヒ》 公常不v宿《キミトハネズテ》 孤可母寐《ヒトリカモネム》」{卷十、二〇五〇)。靈床で、靈位を祭つた床であるとする説があるが採用しがたい。
 外向來 ホカニムキケリ。床の外方に枕が向いていたの意。床の主なる妻無くして、枕の位置の亂れている(600)のである。
 妹木枕 イモガコマクラ。コマクラは、木で作つた枕。「黄楊枕《ツゲマクラ》(卷十一、二五〇三)とも見える。
【評語】葬儀から歸つて來て詠んだような作であつて、これも長歌の内容と合わない。初二句にも重複弛緩が見られる。他の挽歌が、傳誦の間に結び著いたのであろう。
 
吉備津采女死時、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
吉備の津の采女の死りし時に、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首 【短歌并はせたり。】
 
【釋】吉備津采女死時 キビノツノウネメノミマカリシトキニ。采女は既出(卷一、五一)。諸國から、郡の少領以上の子女の容貌端正なものを貢せしめるもので、出身の國名郡名を冠して呼ぶ習いである。それで、吉備の津は、講義の説に、備中の都宇郡で、もと津とのみ云つたのであろうという。「美濃津子娘」(日本書紀、持統天皇紀)。いかなる人とも知られないが、歌詞によれば、夫があり、反歌によれば近江の志我に縁があるようである。その死んだのも、何時の頃とも知られない。
 
217 秋山の したぶる妹
 なよ竹の とをよる子らは、
 いかさまに 念ひ居《を》れか、
 栲紲《たくなは》の 長き命を
 露こそは 朝《あした》に置きて
 夕《ゆふべ》は 消ゆといへ、
(601) 霧こそは 夕に立ちて
 朝は 失《う》すと言へ、
 梓弓 音聞くわれも
 髣髴《ほの》に見し 事悔しきを、
 敷細《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》きて
 劍刀《つるぎたち》 身に副へ寐《ね》けむ
 若草の その夫《つま》の子は、
 さぶしみか 念ひて寐《ぬ》らむ。
 悔しみか 念ひ戀ふらむ。
 時ならず 過ぎにし子らが、
 朝露の如。
 夕霧の如。
 
 秋山《アキヤマノ》 下部留妹《シタブルイモ》
 奈用竹乃《ナヨタケノ》 騰遠依子等者《トヲヨルコラハ》
 何方尓《イカサマニ》 念居可《オモヒヲレカ》
 栲紲之《タクナハノ》 長命乎《ナガキイノチヲ》
 露己曾婆《ツユコソハ》 朝尓置而《アシタニオキテ》
 夕者《ユフベハ》 消等言《キユトイヘ》
 霧己曾婆《キリコソハ》 夕立而《ユフベニタチテ》
 明者《アシタハ》 矢等言《ウストイヘ》
 梓弓《アヅサユミ》 音聞吾母《オトキクワレモ》
 髣髴見之《ホノニミシ》 事悔敷乎《コトクヤシキヲ》
 布栲乃《シキタヘノ》 手纏枕而《タマクラマキテ》
 釼刀《ツルギタチ》 身二副寐價牟《ミニソヘネケム》
 若草《ワカクサノ》 其嬬子者《ソノツマノコハ》
 不怜弥可《サブシミカ》 念而寐良武《オモヒテヌラム》
 悔弥可《クヤシミカ》 念戀良武《オモヒコフラム》
 時不v在《トキナラズ》 過去子等我《スギニシコラガ》
 朝露乃如也《アサヅユノゴト》
 夕霧乃如也《ユフギリノゴト》
 
【譯】秋山の紅葉のような紅顔の孃子、なよなよした竹のようにしなやかなあの娘は、何と思つてか、栲繩のような長い命を、それは露こそは朝に置いて夕べには消えるという、霧こそは夕べに立つて朝には失せるというが、梓弓のようにその死んだことを人づてに聞くわたしも、生前ほのかに見たことが殘念であるのを、柔かな手枕を身に纏いて、釼太刀のように自分が身に副えて寢たでしようその夫の人は、鬱々として思い寢ていることであろう。殘念がつてか思い慕つていることであろう。その時にあらずして死んで行つてしまつた人であ(602)つた。本當に朝露のように、夕霧のように。
【構成】別に段落というべきものは無いが、單に文章として終止形を取つているものがある。消ユトイヘ、失ストイヘ、念ヒテ寐ラム、念ヒ戀フラムは、いずれも終止形の句である。
【釋】秋山 アキヤマノ。枕詞。次の句の下ぶるの主體を示す意味に冠している。
 下部留妹 シタブルイモ。シタヘルイモ(神)。シタブルは、紅色を呈する意の動詞・上二段活。「秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》」(古事記中卷)、「金山《アキヤマノ》 舌日下《シタビガシタニ》 鳴鳥《ナクトリノ》 音谷聞《コヱダニキカバ》 何嘆《ナニカナゲカム》」(卷十、二二三九)のシタビは、その名詞形である。語義は、下葉がまず色づくので、下に動詞に轉成する接尾語ブが接續すること、荒ビ等の例に同じであろう。「鶯乃《ウグヒスノ》 來鳴春部者《キナクハルベハ》 巖者《イハホニハ》 山下耀《ヤマシタヒカリ》 錦成《ニシキナス》 花咲乎呼里《ハナサキヲヲリ》」(卷六、一〇五三)の如き例があつて、山下の語が、既に紅葉を意味する如くであり、また春にもいうことが知られる。そこで、シタブルイモで、紅顔の女子をあらわすことになる。、
 奈用竹乃 ナヨタケノ。枕詞。なよなよと撓う竹の意に、トヲヨルに冠する。「名湯竹乃《ナユタケノ》 十縁皇子《トヲヨルミコ》」(卷三、四二〇)のナユタケノも同じ。
 騰遠依子等者 トラヨルコラハ。トヲヨルは、トヲヲに撓み寄る意で、その采女の姿態を描寫している。前項の例の外に、「安治村《アヂムラノ》 十依海《トヲヨルウミニ》 船浮《フネウケテ》(卷七、一二九九)がある。これは味鴨の群が弧形を成して寄る海の意に解せられる。コラは、その人の愛稱。秋山ノシタブル妹、すなわちトヲヨル子ラで、以下の二句を以つて、主格を提示している。
 何方尓念居可 イカサマニオモヒヲレカ。既出の、「何方《イカサマニ》 御念食可《オモホシメセカ》」(卷一、二九)の句の類で、どのように思い居ればかの意。カは疑問の係助詞であるが、この二句は挿入句の如き取り扱いを受けて、その結びが明白にされていない。これは他の同種の類句においても同樣である。
(603) 栲紲之 タクナハノ。枕詞、栲で作つた繩のようにの意に、譬喩として長きに冠する。タクはコウゾの樹。その繊維で作つた繩である。
 長命乎 ナガキイノチヲ。長い壽命であるのを、しかるにの意。この下に、句を隔てて、時ナラズ過ギニシに接續するもので、その中間の句は、插入文であると見る説があるが、梓弓音聞ク吾モホノニ見シ事悔シキヲの句があつて、既にその死を受けているのであるから、さように見るのは無理である。この句を受けて、朝露、夕霧の句があり、それで死去を暗示しているのであろうが、表現が不十分であるというべきである。
 露己曾婆朝尓置而夕者消等言 ツユコソハアシタニオキテユフベハキユトイヘ。露の朝に置いて夕方に消えるものであることを説いて、無常の譬喩としている插入文である。露コソのコソは係助詞であつて、已然形を以つて受けるはずであり、露コソ消ユレと言わねばならぬのであるが、かような場合には、習慣上、言フの方を已然形にして結んでいる。「相而後社《アヒテノチコソ》 悔二破有跡五十戸《クイニハアリトイヘ》」(卷四、六七四)、「秋芽子乎《アキハギヲ》 妻問鹿許曾《ツマドフカコソ》 一子二《ヒトリゴニ》 子持有跡五十戸《コモテリトイヘ》」(卷九、一七九〇)の如き、その例である。
 霧己曾婆夕立而明者矢等言 キリコソハユフベニタチテアシタハウストイヘ。上の露の文と對句をしている。文の組織も同樣で、ただ用語に相違があるだけである。この句の下に、時ならずして死んだ意味の詞句があつて然るべきであるが、それが無いのは、傳來の間に遺失したものか、または不用意にして落したものか、不明である。
 梓弓 アヅサユミ。枕詞。
 音聞吾母 オトキクワレモ。采女の死んだということを、人の話によつて聞いたのである。
 髣髴見之事悔敷乎 ホノニミシコトクヤシキヲ。オホニミシコトクヤシキヲ(考)。ホノニは、ほのかにある意の副詞であるが、ここでは、しかとも見なかつたことをいう。生前にほのかにのみ見たのを殘念とするの(604)である。オホニミシと讀むのは、「於保爾見敷者《オホニミシクハ》(卷二、二一九)の例によるものであるが、髣髴は、多くホノ、ホノカに當てて書かれている。
 布栲乃 シキタヘノ。枕詞。枕に冠する。
 手枕纏而 タマクラマキテ。その女子の手を枕として身に纏つて。
 釼刀 ツルギタチ。既出(卷二、一九四)。枕詞。釼は、身に帶びるものであるから、身ニ副フの枕詞としている。
 身二副寐價牟 ミニソヘネケム。その采女を妻として身に副えて寐たであろうの意で、下の嬬の子に冠する修飾句。
 若草 ワカクサノ。枕詞。柔いものであるので、ツマに冠する。
 其嬬子者 ソノツマノコハ。嬬は妻の義であるが、ここでは夫である。コは愛稱で、ツマノコで夫のことになる。采女は、夫を有せざるはずであるのに、ここにその夫のことを詠んでいるのは、前の采女であつて、その任を離れて後婚姻したものと推考される。
 不怜弥可 サブシミカ。サブシは、樂しまない意の形容詞。カは疑問の係助詞。鬱々としてか。
 念而寐良武 オモヒテヌラム。ラムは推量の助動詞の終止形。
 悔弥可念戀良武 クヤシミカオモヒコフラム。上のサブシミカ念ヒテ寐ラムと對句になつている。これも句切。
 時不在過去子等我 トキナラズスギニシコラガ。トキナラズは、死ぬべき時ならずして。采女が年若くして死んだのであろう。スギニシは、この世を經過したの意で、死んだことをいう。コラは采女をいう。ガは主格を示す助詞。丈部の龍麻呂が自殺した時に大伴の三中の詠んだ歌に「鬱瞻乃《ウツセミノ》 惜此世乎《ヲシキコノヨヲ》 露霜《ツユジモノ》 置而往監《オキテユキケム》 時(605)爾不v在之天《トキニアラズシテ》」(卷三、四四三)とあるはここと似ている。それでこの采女の死をも自殺かとする説があるが、その證は無い。
 朝露乃如也 アサツユノゴト。也は、焉などと同じく、ただ添えて書いたのみで、讀まない。集中「細谷川之《ホソタニガハノ》 音之清也《オトノサヤケサ》」(卷七、一一〇二)、「春菜採兒乎《ハルナツムコヲ》 見之悲也《ミルガカナシサ》(卷八、一四四二)、「隱野乃《ナバリノノ》 芽子者散去寸《ハギハチリニキ》 黄葉早續也《モミヂハヤツゲ》」(同、一五三六)などの例がある。この句は、時ナラズ過ギニシ子ラガ朝露の如くにありの意で、遙に上の露こそは云々の句を受けている。句切。
 夕霧乃如也 ユフギリノゴト。朝露ノ如と泣んで、對句となつて、上の時ナラズ過ギニシ子ラガの句を受けて結んでいる。これも、霧コソは云々の句を受けている。
【評語】全體の構成は、露と霧とを材料として、これにはかなさを思い寄せて詠み成して、その譬喩は、よく全體の空氣を統制している。最初の婦人の美を描いた句も、非常に印象的で、いかにもその采女の美しい人であつたことを描き出している。内容としては、婦人の死を悼む挽歌の常として、ここにも殘された夫の上を思つて一首を結んでいる。對句の使いざまが目立つて調子を整えている歌である。しかし中途に脱漏かと思われる表現の不完全な點のあるのは惜しいことである。反歌によれば、人麻呂の近江時代の作らしく、比較的初期に屬する作品であろう。
 
短歌二首
 
218 樂浪《ささなみ》の 志我津《しがつ》の子らが 【一は云ふ、志我の津の子が。】 罷道《まかりぢ》の
 川瀬の道を 見ればさぶしも。
 
 樂浪之《ササナミノ》 志我津子等何《シガツノコラガ》 【一云、志我乃津之子我】 罷道之《マカリヂノ》
 川瀬道《カハセノミチヲ》 見者不怜毛《ミレバサブシモ》
 
(606)【譯】樂浪の志我津の采女の死んで行く道なる川瀬の道を見れば悲しいことである。
【釋】樂浪之志我津子等何 ササナミノシガツノコラガ。樂浪の志我津は地名で、近江の國の志賀の大津である。此處で問題になるのは、題には吉備の津の采女とあることであつて、題と一致しないことであるが、作者人麻呂が近江の國にいた時分に、その地で詠んだ歌であつて、吉備の津はその生國をいい、志我津ノ子ラは生前に住んでいた處をさすのであろう。
 志我乃津之子我 シガノツノコガ。第二句の別傳である。志我津というよりも、志我の津という方が無理が無い。
 罷道之 マカリヂノ。マカルは退出するをいう動詞で、ここでは、この世から退き去る意に、死んで行く道をマカリヂと言つている。この語は、續日本紀藤原永手の死を悼む宣命に、「美麻之大臣乃罷道宇之呂輕」と見えている。
 川瀬道 カハセノミチヲ。川瀬を通る道をの意で、死んだ采女の送葬の道が、實際に川瀬の道を通つたのであろう。
 見者不怜毛 ミレバサブシモ。見れば鬱々として慰まないよしである。
【評語】格別のことは無いが、よく纏まつている。初二句の固有名詞は、その人を知つている人に取つては意味があろうが、後の讀者としては興味がすくなく、むしろ具體的にその人を描寫することが望ましかつた。
 
219 天數《あまかぞ》ふ 凡津《おほしつ》の子が 逢ひし日に
 おほに見しくは、
 今ぞ悔《くや》しき。
 
 天數《アマカゾフ》 凡津子之《オホシツノコガ》 相日《アヒシヒニ》
 於保尓見敷者《オホニミシクハ》
 今敍悔《イマゾクヤシキ》
 
(607)【譯】この凡津の子が、生前逢つた日になおざりに見たことは、今になつて殘念なことだ。
【釋】天數 アマカゾフ。枕詞。天は廣大であるので、天を數えるの意に、オホに冠するのであろうか。他に用例を見ないが、類似したものには、「可伎加蘇布《カキカゾフ》 敷多我美夜麻爾《フタガミヤマニ》」(卷十七、四〇〇六)があり、下二段活と考えられるカゾフが、この形で枕詞となつていることが知られる。用言の終止形で結んだ文が、他に對して修飾句となる例である。
 凡津子之 オホシツノコガ。
   オフシツノコガ(西)
   オヨソツノコガ(代精)
   オホツノコガ(童)
   オホシツノコガ(攷)
   ――――――――――
   凡津子等之《オホツノコラガ(考)
 凡津は、オホツと讀むべきであるが、それでは音が足りず調子が整わない。凡は、凡河内の直などの場合にオホシと讀むが、そのオホは、大の義で、すべての意に河内に冠しているのだろう。日本書紀宣化天皇の卷には、大河内稚子媛の人名があり、この大河内もオホシカフチと讀むべきである。依つて今攷證に依つてオホシツノコガと讀む。オホシツは、大津に同じ。近江の大津である。前の歌の志我津の子を、語を變えて云つている。
 相日 アヒシヒニ。生前出逢つた時に。
 於保尓見敷者 オホニミシクハ。舊訓オホニミシカバで、異説は無い。敷の字は、動詞としては、「珠敷益乎《タマシカマシヲ》」(卷六、二〇一三)などの如く、シカと讀ませている字であるから、これを以つて助動詞キの已然形シカに當てたとしてシカと讀むことはできる。しかし用言の未然形を音聲とする訓假字は、あるにしてもすくなく、(608)また敷をシカに當てた例は、「湯々敷有跡《ユユシカラムト》」(卷六、九四八)の如き一例があるだけである。そうして一方には、シクの音聲に當てたと見られる例は相當に多い。「今敷者《イマシクハ》 見目屋跡念之《ミメヤトオモヒシ》(卷七、一一〇三)、「彌常敷爾《イヤトコシクニ》 吾反將v見《ワレカヘリミム》」(同、一一三三)の如きは、その例である。ここもシクの音聲に當てたものとしてオホニミシクハと讀むを順當とする。ミシクは見し事の意で、クは、用言に接續して體言を作る助詞である。時の助動詞キに接しては、シクの形を作る。「馬立而《ウマタテテ》 玉拾之久《タマヒリヒシク》」(卷七、一一五三)、「背向爾宿之久《ソガヒニネシク》 今思悔裳《イマシクタシモ》(同・一四一二)、「來之久毛知久《コシクモシルク》 相流君可聞《アヘルキミカモ》」(卷八、一五七七)などはその例である。
 今敍悔 イマゾクヤシキ。その死に接しておろそかに見たことを殘念とするのである。
【評語】長歌の、ホノニ見シ事悔シキヲの句意を、一首に纏めている。長歌と呼應しているだけで、特に補足するだけの内容はない。
 
讃岐狹岑島、視2石中死人1、柿本朝臣人麻呂作歌一首 并2短歌1
 
讃岐の狹岑の島に、石中の死れる人を見て、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首【短歌并はせたり。】
 
【釋】讃岐狹岑島 サヌキノサミネノシマニ。狹岑の島は、香川縣仲多度郡に屬する鹽飽諸島中の沙彌島である。人麻呂は、讃岐の國の中の湊から出航して、風波に遭つてこの島に船がかりしてこの歌を詠んだ。その島は、坂出町の海上にあり、海路上京の途中にある。歌の中にも狹岑の島とあり、反歌には佐美の山とあるから、サミネは、佐美の嶺の義であろう。
 
220 玉藻よし 讃岐の國は、
 國《くに》からか 見れども飽かぬ。
(609) 神《かむ》からか ここだ貴き。」
 天地 日月とともに
 滿《た》りゆかむ 神の御面《みおも》と
 繼ぎ來《きた》る 中の水門《みなと》ゆ、
 船浮けて わが榜《こ》ぎ來れば、
 時つ風 雲居に吹くに、
 沖見れば とゐ浪立ち、
 邊《へ》見れば 白浪さわく。」
 鯨魚《いさな》取り 海を恐《かしこ》み
 行く船の 楫《かぢ》引きをりて、
 をちこちの 島は多けど、
 名ぐはし 狹岑の島の
 荒礒面《ありそも》に 廬《いほ》りて見れば、
 浪の音《と》の 繁き濱邊を
 敷細《しきたへ》の 枕にして
 荒床《あらどこ》に こい臥す君が、
 家知らば 行きても告げむ。
(610)妻知らば 來も問はましを。
玉|桙《ほこ》の 道だに知らず、
 鬱悒《おほほ》しく 待ちか戀ふらむ。
 愛《は》しき妻らは。」
 
 玉藻吉《タマモヨシ》 讃岐國者《サヌキノクニハ》
 國柄加《クニカラカ》 雖v見不v飽《ミレドモアカヌ》
 神柄加《カムカラカ》 幾許貴寸《ココダタフトキ》
 天地《アメツチ》 日月與共《ヒツキトトモニ》
 滿將v行《タリユカム》 神乃御面跡《カミノミオモト》
 次來《ツギキタル》 中乃水門從《ナカノミナトユ》
 船浮而《フネウケテ》 吾榜來者《ワガコギクレバ》
 時風《トキツカゼ》 雲居尓吹尓《クモヰニフクニ》
 奧見者《オキミレバ》 跡位浪立《トヰナミタチ》
 邊見者《ヘミレバ》 白浪散動《シラナミサワク》
 鯨魚取《イサナトリ》 海乎恐《ウミヲカシコミ》
 行船乃《ユクフネノ》 梶引折而《カヂヒキヲリテ》
 彼此之《ヲチコチノ》 島者雖v多《シマハオホケド》
 名細之《ナグハシ》 狹岑之島乃《サミネノシマノ》
 荒礒面尓《アリソモニ》 廬作而見者《イホリテミレバ》
 浪音乃《ナミノトノ》 茂濱邊乎《シゲキハマベヲ》
 敷妙乃《シキタヘノ》 枕尓爲而《マクラニシテ》
 荒床《アラドコニ》 自伏君之《コイフスキミガ》
 家知者《イヘシラバ》 往而毛將v告《ユキテモツゲム》
 妻知者《ツマシラバ》 來毛問益乎《キモトハマシヲ》
 玉桙之《タマホコノ》 道太尓不v知《ミチダニシラズ》
 鬱悒久《オホホシク》 待加戀良武《マチカコフラム》
 愛伎妻等者《ハシキツマラハ》
 
【譯】玉藻の打ち寄せる讃岐の國は、國の良いゆえか見ても飽きないことである。その國の神ゆえか、非常に尊いことである。天地日月のあらむ限り幾久しく榮え行くべき靈ある國の表面として、繼ぎ來たつた中の水門の中から、船を浮べてわたしが榜いで來ると、時を得て吹く風が大空に吹き渡れば、沖を見るに騷ぐ波が立ち、岸邊を見れば白浪が亂れている。荒海のおそろしさに行く船の楫を曲げて、あちこちに島は多いけれども名前の立派な狹岑の島の荒礒に廬りをして見れば、浪の音の繁き濱邊を親しむべき枕として、荒い床にころび臥す君の家を知つていたなら、行つても告げようものを。妻が知つたなら來ても尋ねるであろうものを。來ようとする道をも知らずに、鬱々として待ちてか戀い慕つているであろう。そのいとしい妻は。
【構成】三段に分けて考えられる。ココダ貴キまで第一段、讃岐の國について概説して、總序としている。白浪サワクまで第二段、船を出して風波に逢うことを敍する。以下第三段、狹岑の島に船を寄せて石中の死人を見、その家に殘した妻の上を推量して終つている。
【釋】玉藻吉 タマモヨシ。枕詞。玉藻は、既出、藻の美稀。ヨシは、「青丹吉《アヲニヨシ》」(卷一、七)參照。もと感動の助詞で、後に、形容詞ヨシの意識に移つたと考えられる。海上を描寫して讃岐の國に冠する。讃岐の國の海上を歌う作であるので、特にこの句を構成したものである。
 讃岐國者 サヌキノクニハ。讃岐の國は、四國の北部に位置し今香川縣となつている。
(611) 國柄加 クニカラカ、カラは故の意の體言。カは疑問の係助詞。國土の故か。下の神からかと對を成して、古歌謡から來ている。「正月元日余美歌、蘇良美豆《ソラミツ》 夜萬止乃久爾波《ヤマトノクニハ》 可无可良可《カムカラカ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾可良可《クニカラカ》 須美可保之支《スミガホシキ》 阿利可保之支《アリガホシキ》 久爾波《クニハ》 阿伎豆之萬《アキツシマ》 也萬止《ヤマト》」(琴歌譜)、「三芳野之《ミヨシノノ》 蜻蛉乃宮者《アキツノミヤハ》 神柄香《カムカラカ》 貴將v有《タフトカルラム》 國柄鹿《クニカラカ》 見欲將v有《ミガホシカラム》」(卷六、九〇七)。
 雖見不飽 ミレドモアカヌ。上のカを受けて結んでいる。句切。以上二句、讃岐の國の形體の方面の美を稱えている。
 神柄加 カムカラカ。神靈の故にか。國土そのものを神靈として感じている思想である。
 幾許貴寸 ココダタフトキ。ココダは許多の義に使用されている。假字書きの例には「許々陀母麻我不《ココダモマガフ》 烏梅能波奈可毛《ウメノハナカモ》」(卷五、八四四)などある。タフトキは上のカを受けて連體形で結んでいる。この二句、讃岐の國の靈的な方面について述べ、上の國からか見れども飽かぬと竝んで、讃岐の國を説明している。以上第一段、讃岐の國のよい國であることを説く。
 天地日月與共 アメツチヒツキトトモニ。天地日月は、永久不變の存在として擧げられており、それらと共にで、永久にの意を現わしている。「天地之《アメツチノ》 遠我如《トホキガゴト》 日月之《ヒツキノ》 長我如《ナガキガゴト》」(卷六、九三三)、「天地《アメツチ》與2日月1共《ヒツキトトモニ》 萬代爾母我《ヨロヅヨニモガ》」(卷十三、三二三四)、「天地《アメツチ》 日月等登聞仁《ヒツキトトモニ》 萬世爾《ヨロヅヨニ》 記續牟曾《シルシツガムゾ》」(卷十九、四二五四)など、この用法である。
 滿將行 タリユカム。充足して行くべき。連體形の句で、次の神のみ面を修飾する。
 神乃御面跡 カミノミオモト。カミノミオモは、讃岐の國の神靈の御顔の義で、海上から眺めた讃岐の國の姿をいう。古事記上卷、大八島出現の段に、四國の出現を語つて、「次生2伊豫之二名嶋1、此嶋者、身一而有2面四1。毎v面有v名。故伊豫國謂2愛比賣1、讃岐國謂2飯依比古1、粟國謂2大宜都比賣1、土左國謂2建依別1」とある。(612)トは、としての意。國土の神靈を信ずる思想から、出來ている句である。
 次來 ツギキタル。昔から續いて來たの意で、連體形。
 中乃水門從 ナカノミナトユ。ナカノミナトは、香川縣仲多度郡の中津であろうという。昔は那珂郡に屬していた。ミナトは、文字通り水門で、海上から陸地へ入り込む門戸、港口、河口、江口などの謂である。神の御面として續き來た中の水門というので、海上から眺めた體勢で歌つていることが確められる。ユは、そこを通つて。
 船浮而 フネウケテ。ウケテは、下二段活用の浮クに、助詞テの接續したもの。浮かしめて、船を出したこと。
 吾榜來者 ワガコギクレバ。自分の乘つた船が榜いで來れば。以上讃岐の國から出航したことをいう。
 時風 トキツカゼ。ツは助詞。吹くべき時に當つて吹く風。「時風《トキツカゼ》 應v吹成奴《フクベクナリヌ》 香椎滷《カシヒガタ》 潮干※[さんずい+内]爾《シホヒノウラニ》 玉藻苅而名《タマモカリテナ》」(卷六、九五八)の歌は、時つ風の吹くべきを豫想している。「時風《トキツカゼ》 吹麻久不v知《フカマクシラニ》 阿胡乃海之《アゴノウミノ》 朝明之潮爾《アサケノシホニ》 玉藻苅奈《タマモカリテナ》(卷七、一一五七)の歌は、朝であるが、時つ風が吹くかも知れないと歌つている。處により風の吹く時間は一定しているので、その時に吹く風をいう。
 雲居尓吹尓 クモヰニフクニ。クモヰは、動かない雲をいうが、ここでは遠い天空の意に使用している。
 奧見者 オキミレバ。オキは、岸から遠い海上。
 跡位波立 トヰナミタチ。アトヰナミタチ(神)、アトクラナミタチ(代初)、シキナミタチ(考)。トヰナミは、「惶八《カシコキヤ》 神之渡者《カミノワタリハ》 吹風母《フクカゼモ》 和者不v吹《ノドニハフカズ》 立浪母《タツナミモ》 疎不v立《オホニハタタズ》 跡座浪之《トヰナミノ》 塞道麻《サハレルミチヲ》」(卷十三、三三三五)ともあり、風が強く吹くに連れて立つ浪であることが知られる。トヰは、トヲ(撓)の語と關係あるべく、大きく盛りあがる浪をトヰナミというのであろう。古事記中卷、伊須氣余理比賣の命の御歌「宇泥備夜麻《ウネビヤマ》 比流波久(613)毛登葦《ヒルハクモトヰ》 由布佐禮婆《ユフサレバ》 加是布加牟登曾《カゼフカムトゾ》 許能波佐夜牙流《コノハサヤゲル》」(二二)のトヰは、その動詞形で、クモトヰは、雲が動いていることをいうのであろう。この解に依つて、風雲の急を告げる意味に、歌われているこの歌の内容が、明瞭にされる。從來の解のように、雲がいるよしでは、語法上の説明成立せず、歌意も不徹底になるのである。
 邊見者 ヘミレバ。へは、岸に近い處をいう。
 白浪散動 シラナミサワク。散動の文字は、「御獵人《ミカリビト》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》 散動而有所v見《サワキタリミユ》」(卷六、九二七)、「鮪釣等《シビツルト》 海人船散動《アマフネサワキ》 鹽燒等《シホヤクト》 人曾左波爾有《ヒトゾサハニアル》」(同、九三八)とあり、いずれも視覺に訴える場合に使用されている。これをサワクと讀むのは、サワクの語が、音のみならず、形についてもいう語であるからである。以上第二段、船を榜ぎ出して、風波に遭うことを述べている。
 鯨魚取 イサナトリ。既出(卷二、一三一)。枕詞、海に冠する。
 海乎恐 ウミヲカシコミ。海がおそろしくして。
 行船乃梶引折而 ユクフネノカヂヒキヲリテ。カヂは、本集では、船を進行させる具の名として使用される。ヒキヲリは、引きたわませる意で、これによつて船の航路を曲げての意である。「大船爾《オホブネニ》 末加伊之自奴伎《マカイシジヌキ》 安佐奈藝爾《アサナギニ》 可故等登能倍《カコトトノヘ》 由布思保爾《ユフシホニ》 可知比伎乎里《カヂヒキヲリ》 安騰母比弖《アトモヒテ》 許藝由久伎美《コギユクキミハ》」(卷二十、四三三一)に同語が使用されている。
 彼此之島者雖多 ヲチコチノシマハオホケド。ヲチコチは、あちらこちら。航路上に島の多い中に、狹岑の島に船を寄せる由を述べている。
 名細之 ナグハシ。クハシは精妙なる意の形容詞。讀立文で、次の詞句を修飾する。狹岑の島の名のよいことを稱えている。「名細《ナグハシ》 吉野乃山者《ヨシノノヤマハ》」(卷一、五二)、「名細寸《ナグハシキ》 稻見乃海之《イナミノウミノ》」(卷二、三〇三)と使用されて(614)いる。
 狹岑之島乃 サミネノシマノ。題詞にいう狹岑の島である。
 荒礒面尓 アリソモニ。アリソモは、文字通り荒礒の面で、海に面せる方である。
 廬作而見者 イホリテミレバ。イホリツクリテミレバ(矢)、イホリシテミレバ(細)、イホリテミレバ(代初書入)。イホリは、廬入りで、イホに入る、イホリをする意の動詞。荒礒の面に、借廬を作つて、さて見れば。
 浪音乃茂濱邊乎 ナミノトノシゲキハマベヲ。浪の音の茂くうち寄せる濱邊を。
 敷妙乃 シキタヘノ。枕詞。
 枕尓爲而 マクラニシテ。マクラニナシテ(西)。濱邊を枕とする意。爲は、動詞ナスに當てた確な例が無い。
 荒床 アラドコニ。アラドコは、荒らかな床の義で、礒をいう。その荒床に寄リ伏ス君と續く。舊訓アラトコトと讀んでいる。その訓によれば、荒床としての意になるが、それならば、何を荒床としたかの、何をに相當する句があるべきである。上の茂キ濱邊ヲの句は、枕にしてで收まつているので、ここは考に、アラドコニと讀んだのがよい。
 自伏君之 コイフスキミガ。コロフスキミガ(西)、ヨリフスキミガ(拾)、コヒフスキミガ(新考)。ヨリフスは、床に寄りて伏すの意とするのであるが、ヨリ(自)のヨは乙類、ヨリ(寄)のヨは甲類で、音聲が違う。よつてコロフスとすべしとする。(大野晋氏。)自伏は、死者が自分から横たわる意に書いたものとして、意を以つてコイフスと讀む。キミは死者をいう。死んでいるのであるが、寢ているというように歌つている。
コイは、ころぶ意の動詞コユの連用形である。コイフスは、「等計自母能《トケジモノ》 宇知許伊布志提《ウチコイフシテ》」(卷五、八八六)(615)など數出している。
 家知者往而毛將告 イヘシラバユキテモツゲム。死人の家を、もし知つていたら、行つて告げてやろう。句切。
 妻知者來毛問益乎 ツマシラバキモトハマシヲ。夫がここに臥していると、その妻が知つたならば、來ても問うであろう。然るにの意。句切。上の家知ラバ云々と對句になつているが、家知ラバは家を知らばであり、妻知らばは、妻が知らばで、語法は別である。
 道太尓不知 ミチダニシラズ。妻は、此處に來るべき道をだに知らずに。主格は最後に置かれている。
 待加戀良武 マチカコフラム。カは疑問の係助詞。待ちてか、戀い居るならむ。句切。
 愛伎妻等者 ハシキツマラハ。ハシキは、愛すべくある意の形容詞。ラは接尾語。ツマラは複數ではない。この句、上の玉桙ノ以下の主格として提示されている。
【評語】讃岐の國の貴い國であることから説き起しているのは、雄大な構成であるが、石中の死人を悼む歌としては、必要でなく、ただ序としての意味を有するだけである。作者が荒い海上に船を浮かべて來た由來を説くものとしては意義があろう。かくて風波の荒いのに遇つて狹岑の島にこれを免れるあたりは、その島の死人を見る用意として十分力を盡くして敍述されている。家知ラバ、妻知ラバの對句が、一は作者自身のことを言い、一は死人の妻のことを言うのは、すこしく讀者を惑わしめるものがある。かような對句の使い方は、古歌には常に見る所であるが、ここで急に歌われている對象が變化した點は唐突である。妻知ラバ以下反歌の第一首に至るまで、死人の妻を中心にして歌つている。この部分がこの歌の中心的内容をなすものである。この場合、作者も自分の妻を故郷に置いて來ていることを思い、またこの風波に遇つて、或るいは自分もこの死人と同じ運命に置かれたかも知れないことを思つている。そこにこの歌の意義が存するのである。
 
(616)反歌二首
 
221 妻もあらは 採みて食《た》げまし。
 佐美《さみ》の山 野《の》の上のうはぎ
 過ぎにけらずや。
 妻毛有者《ツマモアラバ》 採而多宜麻之《ツミテタゲマシ》
 作美乃山《サミノヤマ》 野上乃字波疑《ノノウヘノウハギ》
 過去計良受也《スギニケラズヤ》
 
【譯】もし妻がいるならば、摘んでさし上げたでありましようものを。そうは無くて、この作美の山の野邊のウハギはむだに時節を過してしまつたではないか。
【釋】妻毛有者 ツマモアラバ。このアラバは、この處にあらばの意。この死人の妻が、ここに居たならば。
 採而多宜麻之 ツミテタゲマシ。タゲは、手擧の義で、食物としてさしあげる意であろうが、轉じてただ食するだけの意味にも使用された。「伊波能杯?《イハノヘニ》 古佐?渠梅野倶《コサルコメヤク》 渠梅多?母《コメダニモ》 多礙底騰褒※[口+羅]栖《タゲテトホラセ》 歌麻之々能鳥膩《カマシシノヲヂ》(日本書紀、皇極天皇の御紀)、「伊我留我乃《イカルガノ》 止美能井乃美豆《トミノヰノミヅ》 伊加奈久爾《イカナクニ》 多義?麻之母乃《タゲテマシモノ》 止美乃井能美豆《トミノヰノミヅ》」(上宮聖コ法王帝説)。これらのタグは、さしあげる意に使用されている。然るに「左奈都良能《サナツラノ》 乎可爾安波麻伎《ヲカニアハマキ》 可奈之伎我《カナシキガ》 古麻波多具等毛《コマハタグトモ》 和波素登毛波自《ワハソトモハジ》」(卷十四、三四五一)の例は、駒ハタグトモとあり、單に食する意に使用されている。ここはなお古意で、妻があらば、採んでさしあげたであろうものをの意。句切。この死人は、溺死したものではなく、狹岑の島に漂著して、餓死したものと判斷されたのであろう。
 作美乃山 サミノヤマ。狹岑の島の山をいう。
 野上乃字波疑 ノノウヘノウハギ。野の上は、野の面をいう。「藤原我宇倍爾《フヂハラガウヘニ》」(卷一、五〇)參照。ウハギ(617)は、本草和名に「薺蒿菜、和名於波岐」とあり、倭名類聚鈔に、「薺菜、和名於八木」とあるもので、ヨメナである。當時も勿論、食料としたものと考えられる。「春日野爾《カスガノニ》 煙立所v見《ケブリタツミユ》 ※[女+感]嬬等四《ヲトメラシ》 春野之菟芽子《ハルノノウハギ》 採而煮良思文《ツミテニラシモ》」(卷十、一八七九)。
 過去計良受也 スギニケラズヤ。度合を過ぎてしまつたではないかの意。食うべき時が過ぎて堅くなつたのをいう。ケラズは過去の助動詞ケリの未然形に、打消の助動詞ズが附いたものである。ヤは反語。
【評語】長歌の末の部分を受けて詠みなしている。長歌から切り離しても、獨立して生命を有している。死人を哀み、その邊に日の光を浴びて伸び過ぎている嫁菜の姿に、感慨を催した?が能く出ている。
 
222 沖《おき》つ波 來《き》よる荒礒《ありそ》を
 敷妙《しきたへ》の 枕とまきて 寐《な》せる君かも。
 
 奧波《オキツナミ》 來依荒礒乎《キヨルアリソヲ》
 色妙乃《シキタヘノ》 枕等卷而《マクラトマキテ》 奈世流君香聞《ナセルキミカモ》
 
【譯】沖邊の浪の來り寄する荒礒を、親むべき枕と身に纏いて寐て居られる君だな。
【釋】奧波來依荒礒乎 オキツナミキヨルアリソヲ。平凡な敍述であるが、死人の臥している荒礒を描いている。
 色妙乃 シキタヘノ。枕詞。色は字音を使用している。
 枕等卷而 マクラトマキテ。トは、としての意。マキテは身に卷いてで、枕としてである。
 奈世流君香聞 ナセルキミカモ。ナセルは、動詞寐に、敬語の助動詞スが接續して、ナスが出來、それに、存在の助動詞リが接續した、その連體形である。ナスは、「毛毛那賀邇《モモナガニ》 伊波那佐牟遠《イハナサムヲ》」(古事記上卷)、「和我比良可武爾《ワガヒラカムニ》 伊利伎弖奈佐禰《イリキテナサネ》」(卷十四、三四六七)、「吾乎麻都等《アヲマツト》 奈須良牟妹乎《ナスラムイモヲ》 安比?早見牟《アヒテハヤミム》」(卷十七、三九七八)などある。ここに奈世流と假字書きにしたのは、この語の文獻として貴重である。
(618)【評語】長歌の、浪ノ音ノ茂キ濱邊ヲ、シキタヘノ枕ニシテ、荒床トコヤセル君のあたりを採つて、一首に纏めている。すべてみずからしたように歌つているのは、靈の存在を信じていた當時の思想の、自然な表現である。全體の構成としては、反歌の第一首に特殊の場面を描き、その第二首に總括的な敍述をして結んでいる。練達堅固の手法である。
 
柿本朝臣人麻呂、在2石見國1臨v死時、自傷作歌一首
 
柿本の朝臣人麻呂の、石見の國にありて死なむとせし時に、みづから傷《いた》みて作れる歌一首
 
【釋】在石見國 イハミノクニニアリテ。石見の國は、山陰道の西方、日本海に面し、今、出雲の國と共に島根縣となつている。人麻呂が石見の國にあつたのは、その國の役人としてであつたろうが、石見の國は中國であるから、たとい守であつても、六位である。しかし恐らくは、その以下であつたろう。
 臨死時 シナムトセシトキニ。死と書くのは、六位以下の人に對する文字で、五位以上には卒、三位以上には薨と書くのである。これによつて人麻呂が低い官位に終つたことが知られる。死ぬべくなつた時に、自分で傷んで詠んだ歌。多分この時に死んだのであろうが、それは何時であつたか知られない。ここに藤原の宮時代の最後に載せてあるに依れば、藤原の宮時代の終りごろと見るべきであるが、その作品中の地名に、春日なる羽貝の山があり、その歌集中にも春日野その他があり、地名に近江の文字が使用されているなど、奈良時代に懸かつているのではないかの疑問もあつて、まだ決定するに至らない。
 
223 鴨山の 磐根《いはね》し纏《ま》ける 吾をかも
 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
 鴨山之《カモヤマノ》 磐根之卷有《イハネシマケル》 吾乎鴨《ワレヲカモ》
 不v知等妹之《シラニトイモガ》 待乍將v有《マチツツアラム》
 
【譯】鴨山の磐を枕に横たわつている私をか、知らずにわが妻は待つているだろう。
【釋】鴨山之 カモヤマノ。鴨山は、人麻呂の墓所となるべき處と推定されるが、所在未詳である。岡熊臣の柿本人麻呂事蹟考辨に、石見の國美濃郡高津浦の沖にある鴨島であるとするが、その地は國府の所在より西南十里の遠隔地であり、その根據は、その高津を以つて人麻呂の作中の高角山と同地とする誤解から出ているので、誤りであることあきらかである。藤井宗雄の石見國名跡考には、那賀都濱田町の舊城山の龜山とし、大日本地名辭典には、那賀郡|神村《かむら》の山としているが、いずれも根據ある説ではない。斎藤茂吉博士は、邑智郡濱原村の龜であるとしているが、これも根據の無い説である。とにかく石見の國にあつて、國府の附近に求むべく、人麻呂も死ねば其處に葬られるに定まつていた地と考えられる。當時の國府は、今の濱田市附近にあつたのだから、鴨山もその附近であるはずである。下の丹比の眞人が、人麻呂に代つて詠んだ歌に、荒浪ニ寄リ來ル珠ヲ枕ニ置キとあるを、その儘に墓所の説明とすべしとすれば、海岸の地と見るべきである。但し丹比の眞人が、都にいて追和したとすれば、その地の實?にうといこともあり得るので、確證とはしがたい。
 磐根之卷有 イハネシマケル。イハネは、岩に同じ。ネは、地中に根據あるを現わす接尾語。シは助詞。マケルは、手を廻らして卷き抱えるようにすること。生ける身ならば妻を纏くべきに、磐根を纏けるというところに、死を現わしている。死んで墓中にある意の熟語句。「如比許《カクバカリ》 戀乍不v有者《コヒツツアラズハ》 高山之《タカヤマノ》 磐根四卷手《イハネシマキテ》 死奈死奈麻死物乎《シナマシモノヲ》」(卷二、八六)。
 吾乎鴨 ワレヲカモ。カモは疑問の係助詞。分けていえば、カは疑問、モは感動。我をか待ちつつあらむの意に五句に懸かる。
 不知跡妹之 シラニトイモガ。シラニは、その下に、アリ、爲等の動詞の省略された語法。トは、上の詞句を受ける助詞で、トシテの意を現わす。「宇迦々波久《ウカガハク》 斯良爾等《シラニト》 美麻紀伊理毘古波夜《ミマキイリビコハヤ》」(古事記中卷)、「多豆(620)佐波里《タヅサハリ》 和可禮加弖爾等《ワカレガテニト》 比伎等騰米《ヒキトドメ》 之多比之毛能乎《シタヒシモノヲ》」(卷二十、四四〇八)。妹は、人麻呂の妻。かつて石見の國から京に上る時に、高角山で歌つた歌の妻であつて、國府からやや離れた處に居て、死期に接しなかつたのであろう。次の歌主、依羅の娘子であろう。 待乍將有 マチツツアラム。人麻呂の訪い來るを待ちつつあらむと推量している。
【評語】人麻呂が、石見の國の何處で死んだかは明記は無いが、多分國府の地であつたものと思われる。そこからさして遠隔の地でもない角の里にいたはずの妻が、その夫の死をも知らずに待つているだろうというのは、前に、人麻呂がその妻の死を悼んだ歌の條にも記したように、當時の婚姻の風習によるものである。妻は、その家に留まり、訪い來る夫を待つているのであつて、その訪い來る男が一定しているという點において夫妻關係が成立しているのである。この歌などによつて、人麻呂が國府の地を離れて死んだとするのは、僻説である。上は草壁の皇子、高市の皇子の尊貴より、下は路傍の人に至るまで、數多くの人の死を傷んで、挽歌の名篇を殘した作者も、かくしてみずから弔うに至つたのである。おしなべてすべて死んだであろう萬葉歌人のうち、人麻呂、旅人、憶良のように、その死について何か傳えられているものは、殊に悼ましい。赤人、蟲麻呂のように、いつ死んだとも知られずに、美しい歌のみを留めている人は、仙人のようにも思われる。憶良が病氣に苦しむのは、釋迦が涅槃を示し、維摩が病床に就くようなもので、歌を殘すための方便に、大慈悲を垂れたものとも考えられるが、歌聖人麻呂が、病にかかるのは、人間苦の味が悲痛に感じられる。しかしこの死の歌によつて、人間としての人麻呂は完成されたとも云い得よう。
 
柿本朝臣人麻呂死時、妻依羅娘子作歌二首
 
柿本の朝臣人麻呂の死《みまか》りし時に、妻の依羅《よさみ》の娘子の作れる歌二首
 
(621)【釋】死時 ミマカリシトキニ。前の歌にも記したように、何時死んだとも知られない。前の歌を詠んで間も無くのことであつたろう。
 妻依羅娘子 メノヨサミノヲトメ。前に、人麻呂が石見の國から妻に別れて上り來る時の歌を載せ、それに續いて、柿本の朝臣人麻呂が、妻の依羅の娘子の人麻呂とあい別れる歌を載せている。これによつてこの妻が石見の國の角の里にいた人であつたことはあきらかである。この人が京にいたとする説(考など)は誤りである。
 
224 今日今日《けふけふ》と わが待つ君は、
 石川の 貝に【一は云ふ、谷に。】交《まじ》りて
 ありといはずやも。
 
 且今日々々々《ケフケフト》 吾待君者《ワガマツキミハ》
 石水之《イシカハノ》 貝尓《カヒニ》【一云谷尓】 交而《マジリテ》
 有登不v言八方《アリトイハズヤモ》
 
【譯】今日は今日はと、わたくしの待つている方は、石川の貝の中に交つているというではありませんか。
【釋】且今日々々々 ケフケフト。一日一日を徒に待ち盡くす口調である。その氣分を表現して且今日且今日と、且の字を入れて書いている。これと同じ字面は、「且今日且今日《ケフケフト》 吾待君之《ワガマツキミガ》 船出爲等霜《フナデスラシモ》(卷九、一七六
五)、「出去者《イデテイナバ》 天飛雁之《アマトブカリノ》 可v泣美《ナキヌベミ》 且今日且今日云二《ケフケフトイフニ》 年曾經去家類《トシゾヘニケル》」(卷十、二二六六)がある。
 吾待君者 ワガマツキミハ。キミは人麻呂を指す。
 石水之 イシカハノ。水をカハと讀むのは、集中、「此水之湍爾《コノカハノセニ》」(卷七、一一一〇)などある。石川は、石見の國にあり鴨山を廻つている川で多分火葬地であろう。
 貝尓交而 カヒニマジリテ。石川のほとりに葬つたので、貝ニ交リテというのである。
 一云谷尓 アルハイフ、タニニ。上の貝にの別傳である。谷に交るということ、意を成さず。貝ニ交リテの(622)眞實なのに及ばない。
 有登不言八方 アリトイハズヤモ。ヤモは、反語の助詞。反語のヤと感動のモとが結合したもの。ありといわないてあろうか、ありと人がいうの意。「隱口乃《コモリクノ》 泊瀬越女我《ハツセヲトメガ》 手二纏在《テニマケル》 王者亂而《タマハミダレテ》 有不v言八方《アリトイハズヤモ》」(卷三・四二四)。
【評語】待つていた夫は遂に來らず、しかも世界を異にして石川の貝に交つているという、悲痛の情を披瀝している。石川のほとりで火葬にしたのを、貝ニ交ルで表現しているのかも知れない。次の歌にも雲立チ渡レとあるのは、それを語つているようだ。
 
225 直《ただ》に逢《あ》ふは 逢ひかつましじ。
 石川に 雲立ち渡れ。
 見つつ偲《しの》はむ。
 
 直相者《タダニアフハ》 相不勝《アヒカツマシジ》
 石川尓《イシカハニ》 雲立渡禮《クモタチワタレ》
 見乍將偲《ミツツシノハム》
 
【譯】直接にお目に懸かることは出來ますまい。せめて石川に雲も立ち渡つたならば、君とも見つつお慕い申しましよう。
【釋】直相者 タダニアフハ。タタニア<ハ(金)、タダノアヒハ(玉)。タダは直接の意。直接に逢うことは。玉の小琴に、タダノアヒハの訓を出しているが、タダは、そのまま他語に冠し、またはタダニの形を採つており、助詞ノを伴なつた例は一も無い。よつてタダニアフハと讀むべきである。
 。この訓は新考による。カツマシジは既出(卷二、九四)。逢い得まいの意。句切。
 石川尓雲立渡禮 イシカハニクモタチワタレ。君がありという石川に、雲よ、立ち渡れの意。石川は火葬の地であつたであろう。火葬の煙を雲に見立てたことは、卷の三の四二八、四四四等、例が多い。句切。
(623) 見乍將偲 ミツツシノハム。その雲を見て、形見とも見て、思い起そうの意。
【評語】この世でじかに逢うことは、遂に斷念せざるを得なくなつた。しかもせめて石川に立つ雲を見て、君を偲ぼうという、慰め切れない心持である。二首とも、すぐれた歌ではないが、地方に居住する娘子として、相當の才氣のあつたことが知られる。この歌によつても、依羅の娘子が、石川から立つ雲を見得られる地に住んでいたことがわかる。
 
丹比眞人【名闕】擬2柿本朝臣人麻呂之意2報歌一首
 
丹比《たぢひ》の眞人《まひと》の【名闕けたり】柿本の朝臣人麻呂の意《こころ》に擬《よそ》へて報《こた》ふる歌一首
 
【釋】丹比眞人名闕 タヂヒノマヒトノ、ナカケタリ。丹比は氏、眞人は姓《かばね》。註して名闕けたりとあつて、その名を傳えない。石見の國府にいた國司の一人ででもあろうか。丹比の眞人とあるもの、ほかに卷の八、一六〇九、卷の九の一七二六があり、丹比の大夫とあるもの、卷の十五の三六二五、三六二六がある。
 擬柿本朝臣人麻呂之意報歌 カキノモトノアソミヒトマロノココロニヨソヘテコタフルウタ。前掲の依羅の娘子の歌に對して、死んだ人麻呂の心中に擬して應答した歌。
 
226 荒浪に 寄りくるまを 枕に置き、
 吾ここにありと 誰《たれ》か告げけむ。
 
 荒浪尓《アラナミニ》 縁來玉乎《ヨリクルタマヲ》 枕尓置《マクラニオキ》
 吾此間有跡《ワレココニアリト》 誰將v告《タレカツゲケム》
 
【譯】荒い浪に寄つて來る玉を頭の方に置いて、自分は此處に寐ていると、誰か妹に告げたのだろうか。
【釋】荒浪尓縁來玉乎 アラナミニヨリクルタマヲ。石川の地が海岸近いことが知られる。玉が寄つて來るというのは、玉の材料なる貝や石が寄ることである。
(624) 枕尓置 マクラニオキ。マクラは、枕頭、頭の方という意。「父母波《チチハハハ》 枕乃可多爾《マクラノカタニ》 妻子等母波《メコドモハ》 足乃方爾《アトノカタニ》 圍居而《カクミヰテ》 憂吟《ウレヘサマヨヒ》」(卷五、八九二)のマクラで、アト(足邊)と對立する。「まくらよりあとより戀の迫め來ればせむ方なみぞ床中に居る」(古今和歌集)。人麻呂の墓が、海岸にあつたことが證明される。
 吾此間有跡 ワレココニアリト。ワレは人麻呂に代つて言つている。ココは墓所。
 誰將告 タレカツゲケム。文字表示は十分でないが、意を以つて讀む。カは疑問の係助詞。ケムは過去を推量する助動詞。
【評語】依羅の娘子の、石川ノ貝ニ交リテアリトイハズヤモという歌の意に和したので、人麻呂がこの石川の浪のよする地に埋められたと誰が告げたであろうかといぶかつている。これによれはやはりかくし妻であつたので、臨終にも立ち合うべくも無かつた娘子であろう。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。いかなる本とも知られないが、或る本に次の歌が載せてあるというのである。やはり人麻呂の死に關する歌として傳えたのであろう。なお左註にこれを載せた理由に就いて記している。
 
227 天離《あまざか》る 夷《ひな》の荒野に 君を置きて、
 念《おも》ひつつあれば 生《い》けるともなし。
 
 天離《アマザカル》 夷之荒野尓《ヒナノアラノニ》 君乎置而《キミヲオキテ》
 念乍有者《オモヒツツアレバ》 生刀毛無《イケルトモナシ》
 
【譯】この片いなかの荒野に、君を置いて念つていると、わたくしは生きている心もございません。
【釋】天離 アマザカル。既出(卷一、二九)。枕詞。天のような遠隔の地という意に、ヒナに冠する。
(625) 夷之荒野尓 ヒナノアラノニ。ヒナは既出(卷一、二九)。地方、田舍。アラノは、曠野。
 君乎置而 キミヲオキテ。埋葬したことをいう。
 念乍有者 オモヒツツアレバ。君のことを思いつつ居れば。
 生刀毛無 イケルトモナシ。既出(卷二、二一五)。生きている心利も無い。
【評語】既出の、「衾路を引手の山に妹を置きて山路を行けば生けりともなし」(卷二、二一二)と同じ構成の歌である。人麻呂の妻か、友人か親しいあいだにあつた人の作であろうが、天ザカル夷ノ荒野ニというは、京に居た人の歌のように考えられる。
 
右一首歌、作者未v詳。但古本、以2此歌1載2於此次1也。
 
右の一首の歌は、作者いまだ詳ならず。但し古本、この歌をこの次《つぎて》に載せたり。
 
【釋】古本 フルキマキ。編纂に際して資料とした文獻であろうが、如何なる書とも知られない。その古本に、この歌をこの順序に載せてあるというのである。
 
寧樂宮
 
【釋】寧樂宮 ナラノミヤ。以下、寧樂に都のあつた時代の歌という意に標示してある。卷の一の八四の歌の題詞の前にも、同樣の標示がある。この以前は、何々宮御宇天皇と標し、ここに至つてただ寧樂宮とのみ漂しているのは、例に違うのである。しかし既に、藤原宮御宇天皇代の標目の條にもいう如く、藤原の宮の御宇の天皇も二代あり、しばらくその一を擧げているが、寧樂の宮も數代に亙り、寧樂宮御宇天皇ということが、意を成さぬためであつたのであろう。また萬葉集の編纂は、一次に成つたものでもなく、後の編者が、以下寧(626)樂の京にあつた時代の歌なのに氣づいてこの標示をしたものとも考えられる。以下は、年代を掲記しているので、ここにこの標目をおいたのだろう。
 
和銅四年歳次2辛亥1、河邊宮人、姫島松原見2孃子屍1悲嘆作歌二首
 
和銅四年|歳《ほし》の辛亥《かのとゐ》に次《やど》れる年、河邊《かはべ》の宮人《みやびと》の、姫島の松原に孃子の屍を見て悲嘆して作れる歌二首
 
【釋】 和銅四年歳次辛亥 ワドウノヨトセ、ホシノカノトヰニヤドレルトシ。これと同樣の題詞は、卷の三の四三四の歌の前行にもあつて、それには、「和銅四年辛亥、河邊宮人、見2姫島松原美人屍1、哀慟作歌四首」とある。しかもこの題は、卷の二も卷の三も、歌意に合わない。卷の二の第一首はともかくも、第二首は、沈んだ女子の屍を見るだろうことはつらいというので、美人の屍を見るというに合わない。卷の三のは、これも第一首はともかくも、第二第三第四の三首は、全く別の事を歌つている。よつてこれらの題に誤りがあるのであろうという説があるが、しかしこれは、一の物語中の歌と認むべきであつて、その意味で見ればよくわかるのである。姫島の松原は、傳説のある地であり、河邊の宮人も假託の人と見られるのである。その物語の筋は不明であるが、ある娘子の水死を語るものと考えられる。當時娘子の水死を語る物語は多數あつて、葦の屋の菟原娘子、勝鹿の眞間の娘子、蔓兒等の物語となつて殘つている。それらと同樣のものであつたであろう。和銅四年というのも假託の年か、またはこの物語の作られた年か、この物語の種となつた事實のあつた年かも不明である。
 河邊宮人 カハベノミヤビト。人名説があるが、そうではなく、河邊の宮に奉仕する人の意であろう。河邊の宮は、日本書紀、孝コ天皇紀に、「倭飛鳥河邊行宮」とあり、これは齊明天皇紀に、「飛鳥川原宮」とあると同處である。卷の三の第四首に、淨の川とあるは、飛鳥川なるべく、この河邊の宮人は、その飛鳥の河邊の宮(627)の人であることが推定される。孝コ天皇は、難波の長柄の豐碕の宮にましまし、飛鳥の河邊の宮を行宮とされたのであるが、齊明天皇は、その飛鳥の川原の宮にましました。これは物語中の人物として河邊の宮人の名に假託したものであろう。
 姫島松原 ヒメシマノマツバラニ。姫島の松原は、攝津國風土記に、「比賣島松原、古輕島豐阿岐羅宮御宇天皇世、新羅國有2女神1、遁2去夫1來、暫住2筑紫國伊波比乃比賣島1、乃曰、此島者、猶不2是遠1、若居2此島1、男神尋來、乃更遷來遂停2此島1。故取2本所v住之地名1、以爲2島號1」(萬葉集註釋所引)とある。この風土記の説話は、古事記應神天皇記にある天の日矛の説話と同じ事であろう。その地は現在の大阪市のうちであろうが、いずれの邊であるかについては、諸説があつて決定しない。
 見孃子屍 ヲトメノカバネヲミテ。歌意にはこの題意に合わないもののあること前述の通りである。物語の中心となる所を擧げたか、または第一首のみに係かるか、いずれかであろう。
 
228 妹が名は 千代に流れむ。
 姫島の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに。
 
 妹之名者《イモガナハ》 千代尓將流《チヨニナガレム》
 姫島之《ヒメシマノ》 子松之末尓《コマツガウレニ》 蘿生萬代尓《コケムスマデニ》l
 
【譯】この孃子の名は千代までも傳わるであろう。姫島の小松の枝先に苔が生えるまでにも。
【釋】妹之名者 イモガナハ。死んだ娘子の名はである。イモは、その娘子に對して親愛の情を以つて呼んでいる。
 千代尓將流 チヨニナガレム。千代かけて長く傳わるであろうの意。歌經標式にもナガレムと讀んでいる。句切。
 姫島之、ヒメシマノ。題詞にある姫島である。
(628) 子松之末尓 コマツガウレニ。コマツガウレは既出(卷二、一四六)。コマツは、松の愛稱。ウレは、若い枝先。
 蘿生萬代尓 コケムスマデニ。コケは、「蘿生松柯」(卷二、一一三題詞)參照。コケは松の枝に懸かれる植物の類で、サルオガセ等をいう。その生い茂るまでにで、年數の長いことをあらわしている。姫島ノ以下三句は、第二句の千代に流れむの説明である。この位の長い時代までにの意。
【評語】孃子の屍を見て、その場處の姫島の小松を材料として歌つている。その人の死を憫み、その物語に、長く傳わるべき性質のあることを歌つている。物語が亡びたので、歌の感じがすこしく淺くなつているのはやむを得ない。歌經標式に、角の沙彌の作とするを信ずべしとせば、この物語の作者になるのだろう。
【參考】別傳。
   如2角沙彌美人名譽歌1曰。
  伊母我那婆《イモガナハ》一句 知與爾那我禮牟《チヨニナガレム》二句 比賣旨麻爾《ヒメシマニ》三句 古麻都我延陀能《コマツガエダノ》四句 己氣牟須麻弖爾《コケムスマデニ》五句
 
229 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》なありそね。
 沈みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を
 見まく苦しも。
 
 難波方《ナニハガタ》 鹽干勿有曾祢《シホヒナアリソネ》
 沈之《シヅミニシ》 妹之光儀乎《イモガスガタヲ》
 見卷苫流思母《ミマククルシモ》
 
【譯】この難波潟には潮が干ないでほしい。沈んでしまつたあの孃子の姿を見るのがつらいから。
【釋】難波方 ナニハガタ。カタは淺渚で、潮が滿てば隱れ、潮がひれば現われる程度の地形。淀河の河口なる難波の海の性質をよく言い得ていると共に、この歌の意にも適合している。
 鹽干勿有曾稱 シホヒナアリソネ。ナは禁止の助詞。潮干ることなかれ。句切。
(629) 沈之 シヅミニシ。海に沈んだ。その沈んだ事情は説明されていないが、入水自殺であろう。
 妹之光儀乎 イモガスガタヲ。光儀は、漢文に用いられている熟字で、光景容儀の義である。本集では多數使用せられ、いずれもスガタの訓が當てられている。
 見卷苦流思母 ミマククルシモ。ミマクは見むこと。モは感動の助詞。見むことの苦しさを言つている。
【評語】この歌は、美人の屍を見ての作ではなく、水にはいつたのを悲しんでの作意である。孃子の入水死のことは、實際にもしばしばあつたと見えて、いくつかの歌物語が傳えられている。葦の屋の菟原《うない》娘子、勝鹿の眞間の娘子、鬘兒《かずらこ》などそうであり、人麻呂の歌にも水死した娘子を詠んだものがある。これらの悲しい事件を取り扱つて美しい歌物語を作ることは、當時の文雅人のあいだに往々にして行われたのであろう。ここにもその一つを見ることができるのである。ただ歌のみを留めて物語の失われたのは、その孃子の死を一層美化するものがある。從來の誤傳説を破つて、新しい立場において鑑賞すべき作品である。
【參考】同題。
  和銅四年辛亥、河邊の宮人の、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟《かな》しみて作れる歌四首
  風早《かざはや》の美保《みほ》の浦廻の白つつじ見れどもさぶし亡き人念へば 或るは云ふ、見れば悲しも亡き人思ふに(卷三、四三四)
  みつ/\し久米の若子がい觸れけむ礒《いそ》の草根の枯れまく惜しも(同、四三五)
  人言の繁きこの頃玉ならば手に纏き持ちて戀ひずあらましを(同、四三六)
  妹も吾も清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ(同、四三七)
 
靈龜元年歳次2乙卯1秋九月、志貴親王薨時作歌一首 并2短歌1
 
(630)靈龜元年|歳《ほし》の乙卯《きのとう》に次《やど》れる年の秋|九月《ながつき》、志貴《しき》の親王《みこ》の薨りたまひし時に、作れる歌一首【短歌并せたり。】
 
【釋】靈龜元年歳次乙卯 レイキノハジメノトシ、ホシノキノトウニヤドレルトシ。この年九月二日、元正天皇即位して和銅八年を靈龜と改元した。
 志貴親王薨時 シキノミコノカムサリタマヒシトキニ。續日本紀には、靈龜二年八月の條に、「甲寅《(十一日)》、二品志貴親王薨。遣2從四位下六人部王、正五位下縣犬養宿禰筑紫1、監2護喪事1。親王、天智天皇第七之皇子也。寶龜元年、追奪稱d御2春日宮1天皇u」とあり、この題詞に、靈龜元年九月とあると、年月に相違がある。これについて、攷證には、靈龜元年九月が實際の薨去の年月であるが、この時は元正天皇即位の時であるので、憚つてその薨奏を翌年にしたのであろうという。しかし一年も後に延期し、薨去の年月をも變更することは、考えられない事實である。また古義は、代匠記の説を受けて、この題詞の志貴の親王は、天武天皇の皇子の磯城の皇子で、その薨去は、續日本紀に遺脱したのであろうという。この同名異人説については、卷の一に既に記した。(五一題詞)。天武天皇の皇子に磯城の皇子があるというのは何かの誤りであろう。よつてこの題詞の志貴の親王を以つて、天武天皇の皇子であるとは考えられないことになる。元來この歌は、左註にもあるように、笠の朝臣金村の歌集を出所とするものであるが、金村の歌集は、歌の製作年月を掲記する特色を有している。これは作者金村の律氣な性質から來ているものと推察されるのであるが、この題詞の年月も、同じくその歌集から來ているのであろう。しかしまた萬葉集の編者がこれを採録するに當つて一年の誤解を生じなかつたとも斷言し難い。續日本紀寶龜二年五月の條に「甲寅、始設2由原天皇八月九日忌齋於川原寺1」とあつて、續日本紀の記事と日は違うが、忌月が八月であることは決定的である。萬葉集に九月とあるは、歌詞に依るに葬儀の月であつたのであろう。
 なおここに親王とあるは、大寶令繼嗣令に「凡皇兄弟皇子、皆爲2親王1」とあるによるものなるべく、本集(631)では多く皇子の文字を使用し「安積親王」「舍人親王」「新田部親王」「穩積親王」などに親王の文字を使用している。
 
230 梓弓 手に取り持ちて
 丈夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手插《たばさ》み
 立ち向かふ 高圓《たかまと》山に、
 春野燒く  野火と見るまで、
 燎《も》ゆる火を いかにと問へば、
 玉|桙《ほこ》の 道|來《く》る人の
 泣く涙 ??《こさめ》に降り、
 白|細《たへ》の 衣《ころも》濕《ひづ》ちて、
 立ち留《と》まり 吾に語らく、
 何しかも もとな言ふ。
 聞けば 哭《ね》のみし泣かゆ。
 語れば 心ぞ痛き。
 天皇《すめろき》の 神の御子《みこ》の
 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光ぞ、
 幾許《ここだ》照りたる。」
 
 梓弓《アヅサユミ》 手取持而《テニトリモチテ》
 大夫之《マスラヲノ》 得物矢手挾《サツヤタバサミ》
 立向《タチムカフ》 高圓山尓《タカマトヤマニ》
 春野燒《ハルノヤク》 野火登見左右《ノビトミルマデ》
 燎火乎《モユルヒヲ》 何如問者《イカニトトヘバ》
 玉桙之《タマホコノ》 道來人乃《ミチクルヒトノ》
 泣涙《ナクナミダ》 ??《コサメ・ヒサメ》尓落《ニフリ》
 白妙之《シロタヘノ》 衣?漬而《コロモヒヅチテ》
 立留《タチトマリ》 吾尓語久《ワレニカタラク》
 何鴨《ナニシカモ》 本名言《モトナイフ》
 聞者《キケバ》 泣耳師所v哭《ネノミシナカユ》
 語者《カタレバ》 心會痛《ココロゾイタキ》
 天皇之《スメロキノ》 神之御子之《カミノミコノ》
 御駕之《イデマシノ》 手火之光曾《タビノヒカリゾ》
 幾許照而有《ココダテリタル》
 
(632)【譯】梓弓を手に持つて、勇士が獵の矢を手はさんで立ち向かう、その高圓山に、春の日の野を燒いていると見るまでに火が見えるのは、、どうした事かと問えば、道來る人が、泣く涙が雨のように落ちて白い著物もしぼるばかりなのをおさえて立ち留まつて、わたしに語ることには、何だつてほんとにそんなふうに言うのですか、開けば泣かれてしかたがありません。お話をすれば心が痛い。あれはおかくれになつた皇子樣の御葬送のお供にたくたいまつの光の澤山に照つているのですよ。
【構成】段落は無く、全篇一文でできている。高圓山に火の見えるのを、道行く人に問うたところ、道ゆく人の答えるには云々という構成を持つているので、何シカモ以下末までが、すべて道ゆく人の答になつている。解釋上注意を要する所である。
【釋】梓弓手取持而 アヅサユミテニトリモチテ。丈夫が、梓弓を手に取り持ち、得物矢を手挾んで立ち向かうという意味で、句の都合上、主格たる丈夫より前に置かれている。以下立チ向カフまで、マトの序詞になつている。
 大夫之 マスラヲノ。マスラヲは既出。立チ向カフに對する主格句。
 得物矢手挾 サツヤタバサミ。既出(卷一、六一)。サツヤは、鳥獣を支配する靈力のある矢。
 立向 タチムカフ。初句からこの句までは、序詞で、次の句のマト(的)に懸る。
 高圓山尓 タカマトヤマニ。高圓山は、奈良市の東、春日山の南にある山。志貴の皇子の御墓は、奈良縣添上郡田原村にあり、田原の西陵と稱せられる。皇子の御邸の春日から、その墓所をさして、葬列は高圓山の中腹をめぐつて行くのである。
 春野燒野火登見左右 ハルノヤクノビトミルマデ。葬列の火の譬喩。夜に入つて通過されると見える。
 燎火乎 モユルヒヲ。モユルヒは、葬列の火である。但し何の火かあきらかでないよしに詠んでいる。
(633)何如問者 イカニトトヘバ。道行く人に對して設問したことになつている。
 玉桙之 タマホコノ。枕詞。道に冠する。
 這來人乃 ミチクルヒトノ。かなた高圓山の方から來る人の意。
 泣涙※[雨/脉]?尓落 ナクナミダコサメニフリ。??は、漢文からの熟字で、詩經文選等に見え、小雨の義で、本集には「吾妹子之《ワギモコガ》 赤裳裙之《アカモノスソノ》 將2染?1《シミヒヂム》 今日之??爾《ケフノコサメニ》 吾共所v沾名《ワレサヘヌレナ》」(卷七、一〇九〇)、「彼方之《ヲチカタノ》 赤土少屋爾《ハニフノヲヤニ》 ??零《コサメフリ》 床共所v沾《トコサヘヌレヌ》 於v身副我妹《ミニソヘワギモ》」(卷十一、二六八三)とも使用されている。また?一字のみでは、「伊夜彦《イヤヒコ》 於能禮神佐備《オノレカムサビ》 青雲乃《アヲグモノ》 田名引日良《タナビクヒラニ》 ?曾保零《コサメソホフル》」(卷十六、三八八三)とある。これらはいずれもコサメと訓し小雨の義である。但し、字義はそうであつても、この歌や、二六八三の歌などでは、大雨の義に誤用したかとも見られる。そう見ればヒサメと讀むべきである。「文字集路云、霈。大雨也。日本紀私記云、大雨【比佐女】」(倭名累聚鈔)ここでは泣く涙が雨の如くに降りの義で、譬喩である。
 白妙之衣?漬而 シロタヘノコロモヒヅチテ。シロタヘは白色の織物であるが、ここも實寫と見える。葬儀に關係する人を描いている。ヒヅチテは、水にびたびたになるをいい、ここは涙のために、衣服も濡れるので、上の泣ク涙小雨ニ降リを受けている。
 立留 タチトマリ。上の、道來る人の動作である。
 吾尓語久 ワレニカタラク。カタラクは、語ることの意。上の、イカニト問ヘバを受けている。
 何鴨本名言 ナニシカモモトナイフ。イツシカモモトノナトヒテ(西)、ナニシカモモトナイヒツル(考)、ナニシカモモトナイヘル(玉)、ナニシカモモトナイフ(新考)。以下終りまで、道來る人の言として、火光の説明に借りて皇子の葬儀のことを説く。心ゾ痛キまで六句、二句ずつでおのおの一文を成している。シは強意の助詞。カモは疑問の係助詞。イフがこれを受ける。モトナは、根據無く、わけも無く、よしなく、みだりに(634)などの意の副詞で、何とてよしなく尋ねたまうぞの意(母等奈考山田孝雄氏)、とされていたが、モトナは、この意では解し切れないものがある。「於毛比都追《オモヒツツ》 奴禮婆可毛等奈《ヌレバカモトナ》 奴婆多麻能《ヌバタマノ》 比等欲毛意知受《ヒトヨモオチズ》 伊米尓之見由流《イメニシミユル》」(卷十五、三七三八)、「水咫衝石《ミヲツクシ》 心盡而《ココロツクシテ》 念鴨《オモヘカモ》 此間毛本名《ココニモモトナ》 夢西所v見《イメニシミユル》」(卷十二、三一六二)などのように、よしなくというような消極的な氣分でなく、積極的な氣もちをモトナと批評しているものがある。すべての例を集めて考えるに、モトは、根本、根幹の意。ナは、無ではなく、語勢の助詞であるようであつて、使用された場所によつて、切に、切實に、心からとも、またよしなくとも釋すべきものと推考される。ここは、何シカモ言フの意を、ほんとに困つたことだぐらいに強調する。句切。
 聞者泣耳師所哭 キケバネノミシナカユ。この事に關して言うを聞けは泣かれるばかりである。キケバは、問を起されたのに對していう。ネノミシナカユは、熟語句、泣かれてしかたがないの意で、集中用例が多い。句切。
 語者心曾痛寸 カタレバココロゾイタキ。これについて語れば、心が悲まれる。上の、聞ケパ音ノミシ泣カユの句と對句を成しているが、句形が變わつていて形式的でないのがよい。句切。
 天皇之 スメロキノ。スメロキは、天皇の汎稱で、ここは前代の天皇、天智天皇をさす。
 神之御子之 カミノミコノ。カミノミコは、薨去に依つて神となつた御子の義で、志貴の皇子のこと。
 御駕之 イデマシノ。駕は乘り物の義で、イデマシは、葬儀の行をいうい
 手火之光曾 タビノヒカリゾ。タビは、日本書紀神代の上に「秉炬、此云2多妣1」とある。手に持つ火の義で葬列の人の炬火である。ゾは係助詞。
 幾許照而有 ココダテリタル。ココダは許多。上の、高圓山に燃ゆる火に不審を起して問うさまに構想したのを受けて、これを説明している。
(635)【評語】高圓山の火を見て問を起し、これに答えるさまを以つてした全體の構成は、よく效果を收めていを。答の部分に、何シカモ以下短文を重ねて急迫した感情を描き、これを受けて送葬の火であることをあきらかにした手段も非凡といえる。人麻呂の敍事詩風なすぐれた挽歌以外に、別の境地をひらいた作というべきである。
 
短歌二首
 
231 高圓《たかまと》の 野邊の秋はぎ、
 いたづらに 咲きか散るらむ。
 見る人無しに。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊秋※[草冠/互]子《ノベノアキハギ》
 徒《イタヅラニ》 開香將v散《サキカチルラム》
 見人無尓《ミルヒトナシニ》
 
【譯】今は皇子もおいでにならないので、高圓山の野邊に咲きほこる秋ハギの花も、見て愛する人もなくて、いたずらに散つてしまうのであろうか。
【釋】高圓之野邊秋〓子 タカマトノノベノアキハギ。長歌の高圓山を受けているが、ここではおりからの風物としてこれを出している。
 徒 イタヅラニ。無用に、かいも無くの意の副詞。
 開香將散 サキカチルラム。カは係助詞。咲くことをしてか今は散るならむの意。「和我夜度乃《ワガヤドノ》 波奈多知婆奈波《ハナタチバナハ》 伊多都良爾《イタヅラニ》 知利可須具良牟《チリカスグラム》 見流比等奈思爾《ミルヒトナシニ》」(卷十五、三七七九)などと同樣の語法である。句切。
 見人無尓 ミルヒトナシニ。ミルヒトは、皇子をさす。愛賞する人無しにの意。
【評語】君無くしては、自然の存在も意義のないことが歌われている。長歌の内容とは別の方面が歌われてい(636)るのは、一手段である。
 
232 御笠山 野邊《のべ》行く道は、
 許多《こきだく》も 繁く荒れたるか。
 久《ひさ》にあらなくに。
 
 御笠山《ミカサヤマ》 野邊往道者《ノベユクミチハ》
 己伎太雲《コキダクモ》 繁荒有可《シゲクアレタルカ》
 久尓《ヒサニ》有《アラ・ナラ》勿國《ナクニ》
 
【譯】春日の御笠山を行く野邊の道は人も通らないので、日數も多く經つていないのに、非常に草繁り荒れている事であるよ。
【釋】御笠山 ミカサヤマ。春日神社の背後の山で、高圓山の北に當る。志貴の皇子は、後の謚號を、春日の宮の天皇と申し、宮殿が春日にあつたと推考されるので、附近の御笠山が堤示されたのであろう。
 野邊往道者 ノベユクミチハ。御笠山の在る野邊を行く道で、皇子の生前御通行になつた道をいう。
 己伎太雲 コキダクモ。コキダクは、許多の意のコキダに、體言であることを示すクが接續したもの。更に助詞モが接續して副詞となつている。雲は訓クモに借りている。コキダの例は、本集に他にはない。
 繁荒有可 シゲクアレタルカ。シジニアレタルカ(略)、シゲリアレタルカ(新考)。シゲクは、草の繁茂せる?をいう。カは感動の助詞。草繁くして荒廢したることよの意。句切。
 久尓有勿國 ヒサニアラナクニ。ヒサは久しき時。久しい時ではないのだ。皇子の生前の時からまだ久しくたたないのだ。薨後、送葬の頃になつて詠んだ歌であることが知られる。
【評語】これも長歌と別の方面について歌い、前の歌と同じ思想を詠んでいる。皇子の御在世と薨去とによつて、野邊ゆく道の變化を説いているが、それはただ主觀上の問題であつて、荒廢を感じているのは、作者の心のことである。皇子無くして山野も荒廢して感じられる由を詠んでいる。
 
(637)右歌、笠朝臣金村歌集出
 
右の歌は、笠の朝臣金村の歌の集に出づ。
 
【釋】右歌 ミギノウタハ。前出の靈龜元年云々の題下の長歌一首短歌二首をさす。
 
 笠朝臣金村歌集出 カサノアソミカナムラノウタノシフニイヅ。笠の朝臣金村の歌集は、この外、卷の三、六、九にも見え、萬葉集の編者は、その集から歌を採録している。その集の歌は、おおむね金村の作と見てよく、ただ贈答の場合などは、他人の作をも記載していると認められる。また本集中、題詞に笠の朝臣金村の作と記したものも、おおむねその歌集から採録したものの如くである。この事は、柿本の人麻呂の場合などに準じても考えられることである。その集には天平五年の作まであり、ここにその集の歌を載せているのは、勿論その後の探録であつて、ここにも本卷も數次の編に成つていることが考えられる。
 
或本歌曰
 
【釋】或本歌曰 アルマキノウタニイハク。以下二首が、前掲の二三一、二三二の歌に似ているので、或る本によつて摘記している。その或る本というのがいかなる書であるかは不明である。また次の二首が、同じく志貴の皇子の薨去の時の作としていたかどうかも不明であるが、別の時の作とするならば、その旨を註記したであろう。同じ時の作としているか、または作歌事情に關して説明が無いかであろう。
 
233 高圓の 野邊《のべ》の秋はぎ な散りそね。
 君が形見に 見つつ偲《しぬ》はむ。
 
 高圓之《タカマトノ》 野邊乃秋〓子《ノベノアキハギ》 勿散祢《ナチリソネ》
 君之形見尓《キミガカタミニ》 見管思奴播武《ミツツシヌハム》
 
(638)【譯】高圓の野邊の秋ハギよ、散つてはいけない。君の形見として見つつお慕い申しあげよう。
【釋】勿散祢 ナチリソネ。ナは禁止の助詞。句切。
 君之形見尓 キミガカタミニ。君の形見として。記念の遣物として。
 見管思奴播武 ミツツシヌハム。シヌハムは、思慕しよう。シノフのシの下の菅は、怒の類の文字を以つて表示すべき音韻であるのに、ここに奴を使用したのは違例である。これは時代がやや後れてこれを記載したためででもあろう。
【評語】二三一の歌の參考として掲げた歌であるが、三句以下の相違は相當に多く、別の歌として見るべきである。遣物に對して、變化しないようにと希望した歌は多く、内容は常套であるが、哀情は描かれているようである。
 
234 三笠山 野邊ゆ行く道、
 許多《こきだくも》も 荒れにけるかも。
 久にあらなくに。
 
 三笠山《ミカサヤマ》 野邊從遊久道《ノベユユクミチ》
 己伎太久母《コキダクモ》 荒尓計類鴨《アレニケルカモ》
 久尓有名國《ヒサニアラナクニ》
 
【譯】三笠山の野邊を通つて行く道は荒れたことだなあ。久しくは無いのだが。
【釋】三笠山 ミカサヤマ。御笠山に同じ。三の義はなく、ミは美稱である。
 野邊從遊久道 ノベユユクミチ。ノベユは、野邊を經過して。
 己伎太久母 コキダクモ。卷二、二三二參照。
 荒尓計類鴨 アレニケルカモ。荒れてしまつたことを歎いている。句切。
(639) 久尓有名國 ヒサニアラナクニ。卷二、二三二參照。
【評語】二三二の歌の別傳で、二句と四句とに相違がある。野邊ユ行ク道の句は、三笠山を目標として野邊を通つて行く道の説明がよく出ている。四句も詠嘆の氣分が強く感じられる。
 
萬葉集卷第二
    〔2009年9月29日(火)午後4時20分、巻二入力終了、2015年2月12日(木)午前11時5分、全巻校正終了〕
 
増訂萬葉集全註釋 四 卷の三、479頁、480円、角川書店、1957.2.0(1958.3.20.2p)
 
〔目次省略〕
 
萬葉集卷第三
 
(17) 卷の一と二とが、何天皇の代という標示をかかげ、また年號を立てて、雜歌、相聞、挽歌の三類の歌を集め、一往の體制を完成しているのに對して、卷の三以下は年號を立てることはあるが、御宇の標示なく、ただほぼ時代の古いものから順次に歌を掲載している。そうして卷の三に雜歌、譬喩歌、挽歌、卷の四に相聞の類を立て、この二卷で、またほぼ體制を完成している。御宇の標目を立てなかつたのは、何の御代の歌とすべきか明瞭でないものが多かつたからであろう。卷の三の卷頭の歌の如きも、天皇御遊雷岳之時云々の題詞があるが、いずれの天皇の御事蹟とも明確に指示しがたいのは、資料のままで、時代を判斷することが困難であつたのだろう。
 卷の三の歌は、國歌大觀の番號によれば、二三五から四八三までであるが、ほかに或本歌、一本歌の完全なもので番號のないのが三首あつて、歌數は合わせて二百五十二首である(一首の全き形を備えないものは數に入れない)。その類別による計數は次の通りである。
  雜歌   長歌一四  短歌一四四
  譬喩歌        短歌 二五
  挽歌   長歌 九  短歌 六〇
  合計     二三    二二九
 歌の時代は、挽歌の初めにある聖コ太子の御歌がもつとも古いが、そのような古い歌はその一首だけで、他(18)は持統天皇の御代以後の歌であり、奈良時代の歌が大多數を占めている。一番新しい歌と見られるのは、挽歌の最後にある、七月二十日の作という高橋某の歌であるが、しかしその年は、天平十六年であるか否か、明白でない點もあるので、これを除外すれば、その前にある大伴の家持の天平十六年三月の歌が、明白なものの最後になる。
 文字使用法は、表意文字を主とし、これに交えるに、特殊の語や助詞、助動詞などに當てて表音文字を使用している。その表音文字は、字音假字が多く、訓假字は主として慣用のものを使用している。わりあいに文字を惜しまずに丁寧に書いているが、それでも難讀のものがあり、それらは、おもにすくない文字で書かれたものであつて、それは資料のままにその書き方を傳えているようである。
 この卷は、仙覺本系統以外の傳本が極めてすくない。元暦校本は全くなく、わずかに金澤本が小部分を存しているに過ぎない。そのほかには、神田本と細井本の一部とがある。細井本は普通の卷の三のほかに、また卷の四の後半の代わりにこの卷の三の三三七の青山之嶺乃白雲の歌以後を收め、その部分は、仙覺本系統以外に屬する。今これを細井本の二種と稱する。類聚古集と古葉略類聚鈔とは、例によつて若干の歌を載せ、貴重な校勘資料となつている。
 有名な作家には、柿本の人麻呂、大伴の旅人、山部の赤人などがあり、大伴の坂上の郎女、大伴の家持も擡頭して來た。無名作家にも相當の名作を傳えたものがあるが、一方に平凡な類型的な歌もようやく多くなつている。わずかに一角に口誦文藝たる歌謠の面影を存しているだけで、大體は既に文筆作品の世界となつている。
 
雜歌
 
【釋】雜歌 ザフカ。クサグサノウタ。既に卷の一の卷頭の雜歌の項に述べたように、相聞、挽歌等の他の部(19)類に入らない歌を集めている。この卷には譬喩歌の類も立ててあるので、その類も雜歌には入れないことと思われる。この雜歌の一行の存否については、これをもたない傳來はないが、これは、この卷が古本系統の本を傳えないために、最古の姿と思われるものが窺われない。文獻的にはこの一行を否定すべき根據をもたないのである。
 
天皇、御2遊雷岳1之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
 
天皇の雷《いかづち》の岳《をか》に御遊《い》でましし時、柿本の朝臣人麻呂の作れる歌一首。
 
【釋】天皇 スメラミコト。何天皇の代という標記がないから、いずれの御方とも定めがたい。ただ柿本の人麻呂の作であることと、配列の順序とによつて推測を下すまでである。人麻呂の作品中、時代のあきらかなものは、持統天皇の御代以後であり、人麻呂歌集の作中では、天武天皇の八年の作と推考されるもの(卷十、二〇三三)がもつとも古い。配列の順序からいえば、ほぼ時代順になつていると考えられる雜歌の最初にあつて、長の意吉麻呂等の歌の前に置かれている。これらの事情を綜合すれば、天武天皇または持統天皇の御事とすべきである。持統天皇の御事とする説は、次の歌の天皇が、志斐の嫗との問答であるから持統天皇であるとすることが考慮に入れられるが、それは確説とはしがたく、要するに未詳とするほかはない。歌の内容からすれば、むしろ天武天皇の御事とすべきが如くである。いずれにしても、明日香の宮に皇居のあつた時代のことであろう。
 御遊雷岳之時 イカヅチノヲカニイデマシシトキ。御遊は、天皇の行幸であるから御の字を附ける。遊は遊幸の義。行幸と同じに讀んでよい。雷岳は、歌詞に「雷之上爾」とあり、左註の歌に「伊加土山爾」とあつて、雷をイカヅチと讀むべく、岳は、岳本天皇など、この字の使用例によつて、ヲカと讀むべきである。日本書紀(20)雄略天皇七年七月の紀に「天皇、小子部《ちひさこべ》の?贏《すがる》に詔して曰はく、朕《われ》三諸《みもろ》の岳《をか》の神の形を見まく欲《おも》ふ。【或るは云ふ、この山の神を大物主の神となせり。或るは云ふ、菟田の墨坂の神なり】」とて、これを捕えしめたが、その威あるをもつて岳に放たしめ、よつて改めて名を賜わつて雷《いかづち》としたとある。この記事における三諸の岳は、三輪山と解せられるようであるが、この説話は、日本靈異記にも載せていて、その記事によれば、雄略天皇の朝、小子部の栖輕(?贏に同じ。字が違うだけである)に命じて雷を捕えしめたので、栖輕が宮から退出して、額《ぬか》に緋《あけ》の蘰《かづら》を著《つ》け、赤い幡桙《はたほこ》をフ《ささ》げ、馬に乘つて、阿部の山田の道を通つて輕《かる》の諸越《もろこし》の衢《ちまた》に至つたが、雷は、豐浦寺《とよらでら》と飯岡《いひをか》とのあいだに落ちた。その落ちた處を、今雷の岡と呼び、それは古京の小治田《をはりだ》の宮の北にあるとしている。これは雷の岳の所在を語るものとして有力な資料であ