玉勝間 本居宣長著  
  入力者説明、捨てがなのカタカナは底本では漢文の送りがなのように小書きになっていますが、()でくくりました。異体字及び旧字体の一部は通用の字体に変えました。いおり点は「「」で代用しました。2行割り注は【】でくくりました。岩波文庫村岡典嗣校訂『玉勝間』(上1934.6.15の1969.2.20.9刷、下1934.9.15の1969.2.20.8刷)を底本にしました。誤植が大変多いのですが、なおしたのもありそのままのもあります。
 
第 一 編 (自一の卷 至三の卷)
玉賀都萬一の卷
言草のすゞろにたまる玉がつま
    つみてこゝろを野べのすさびに
    初 若 菜 一
此言草よ、なにくれと數おほくつもりぬるを、いとくだ/\しけれど、やりすてむもさすがにて、かきあつめむとするを、けふはむ月十八日、子(ノ)日なれば、よし有ておぼゆるまゝに、まづこの卷の名、かく物しつ、次々のも、又そのをり/\思ひよらんまゝに、何ともかともつけてむとす。
かたみとはのこれ野澤の水ぐきの
    淺くみじかきわかなゝりとも
本 居 宣 長
 
中 臣 壽 詞
大嘗會の中臣壽詞《ナカトミノヨゴト》といふ文あり、宇治(ノ)左大臣頼長公の台記の、康治元年の大嘗會別記に載せられたり、其文、現御神【止】《アキツミカミト》大八嶋國所知食【須】《オホヤシマクニシロシメス》大倭根子天皇【我】《オホヤマトネコスメラガ》御前【仁】《ミマヘニ》、天神【乃】《アマツカミノ》壽詞【遠】《ヨゴトヲ》稱辭定奉【良久止】《タヽヘコトサダメマツラクト》申【須】《マヲス》、高天原【仁)《タカマノハラニ》神留坐【須】《カムツマリマス》、皇親神漏岐神漏美【乃】《スメラガムツカムロギカムロミノ》命【遠】《ミコトヲ》持【天】《モチテ》、八百萬【乃】《ヤホヨロヅノ》神等【遠】《カミタチヲ》集【倍】《ツドヘ》賜【天】《タマヒテ》、皇孫尊【波】《スメミマノミコトハ》、高天原【仁】《タカマノハラニ》事始【天】《コトハジメテ》、豐葦原【乃】瑞穂【乃】國【遠】《トヨアシハラノミヅホノクニヲ》、安國【止】《ヤスクニト》平【介久】《タヒラケク》所知食【天】《シロシメシテ》、天都日嗣【乃】《アマツヒツギノ》天都高御座【仁】《アマツタカミクラニ》御坐【天】《マシ/\テ》、天都御膳【遠】長御膳【乃】遠御膳【止】《アマツミケノナガミケノトホミケト》、千秋【乃】五百秋【仁】《チアキノイホアキニ》、瑞穂【遠】《ミヅホヲ》平【介久】安【介久】《タヒラケクヤスケク》、由庭【仁】所知食【止】《ユニハニキコシメセト》、事依【志】奉【弖】《コトヨサシマツリテ》、天降坐之後【仁】《アマクダリマシヽノチニ》、中臣【乃】遠【都】祖天兒屋根命《ナカトミノトホツオヤアマノコヤネノミコト》、皇御孫尊【乃】御前【仁】奉仕【弖】《スメミマノミコトノミマヘニツカヘマツリテ》、天忍雲根神【遠】《アメノオシクモネノカミヲ》、天【乃】二上【仁】奉上【弖】《アメノフタガミニタテマツリアゲテ》、神漏岐神漏美命【乃】前【二】《カムロギカムロミノミコトノマヘニ》、受給【波里】申【仁】《ウケタマハリマヲシニ》、皇御孫尊【乃】御膳都水【波】《スメミマノミコトノミケツミヅハ》、宇都志國【乃】水【了】《ウツシクニノミヅニ》、天都水【遠】加【立】奉【牟止】申【遠里】《アマツミヅヲクハヘテタテマツラムトマヲセト》、事教給【志仁】依【弖】《コトヲシヘタマヒシニヨリテ》、天忍雲根神《アメノオシクモネノカミ》、天【乃】浮雲【仁】乘【弖】《アメノウキクモニノリテ》、天【乃】二上【仁】上坐【弖】《アメノフタガミニノボリマシテ》、神漏岐神漏美命【乃】前【仁】申世【波】《カムロギカムロミノミコトノマヘニマヲセバ》、天【乃】玉櫛【遠】事依奉【弖】《アメノタマクシヲコトヨサシマツリテ》、此玉櫛【遠】刺立【弖】《コノタマクシヲサシタテテ》、自夕日至朝日照【萬弖】《ユフヒヨリアサヒテルニイタルマデ》.天都詔戸【乃】大詔刀言【遠】以【弖】告【禮】《アマツノリトノフトノリトゴトヲモテノレ》、如此告【波】《カクノラバ》、麻知波弱韮【仁】《マチハワカヒルニ》、由都五百篁生出【牟】《ユツタカムラオヒイデム》、自其下天【乃】八井出【牟】《ソノモトヨリアメノヤヰイデム》、此【遠】持【天】《コヲモチテ》、天都水【止】所聞食【止】《アマツミヅトキコシメセト》、事依奉【支】《コトヨサシマツリキ》、如此奉【志】任々【仁】所聞食由庭【乃】瑞穂【遠】《カクヨサシマツリシマニマニキコシメスユニハノミヅホヲ》、四國卜部等《ヨクニノウラベドモ》、太兆【仁】卜事【遠】持【弖】奉仕【留】《フトマニノウラゴトヲモチテツカヘマツリテ》、悠紀【仁】近江國野洲《ユキニアフミノクニノヤス》、主基【仁】丹波國氷上【遠】齋定【弖】《スキニタニハノクニノヒカミヲイハヒサダメテ》、物部【乃】人等《モノヽフノヒトドモ》、酒造兒酒波粉走灰燒薪採相候稻實公等《サカツコサカナミコバシリハヒヤキカマギコリアヒヅクリイナノミノキミラ》、大嘗會【乃】齋場【仁】《オホニヘノミヤノユニハニ》、持齋【波利】參來【弖】《モチユマハリマヰキテ》、今年十一月中【都】卯日【仁】《コトシノシモツキノナカツウノヒニ》、由志理伊都志理持《ユシリイヅシリモチ》、恐【美】恐【美母】清麻波利【仁】奉仕【利】《カシコミカシコミモキヨマハリニツカヘマツリ》、月内【仁】日時【遠】撰定【弖】獻【留】《ツキノウチニヒトキヲエラビサダメテタテマツル》、悠紀主基【乃】黒木白木【乃】大御酒【遠】《ユキスキノクロキシロキノオホミキヲ》、大倭根子天皇【我】天都御膳【乃】長御膳【乃】遠御膳【止】《オホヤマトネコスメラガアマツミケノナガミケノトホミケト》、汁【仁毛】實【仁毛】《シルニモミニモ》、赤丹【乃】穗【仁毛】所聞食【弖】《アカニノホニモキコシメシテ》、豐明【仁】明御坐【弖】《トヨノアカリニアカリマシテ》、天都神【乃】壽詞【遠】《アマツカミノヨゴトヲ》、稱辭定奉【留】《タヽヘコトサダメマツル》、皇神等【母】《スメカミタチモ》、千秋五百秋【乃】相嘗【仁】《チアキイホアキノアヒニヘニ》、相宇豆乃【比】奉【利】《アヒウヅノヒマツリ》、堅磐常磐【仁】齋奉【利弖】《カキハトキハニイハヒマツリテ》、伊賀志御世【仁】榮【志女】奉【利】《イカシミヨニサカエシメマツリ》、自康治元年始【弖】《カウヂノハジメノトシヨリハジメテ》、與天地月日共《アメツチツキヒトトモニ》、照【志】明【良志】御坐事【仁】《テラシアカラシマサムコトニ》、本末不傾《モトスヱカタブケズ》、茂槍【乃】中執持【弖】奉仕【留】中臣《イカシホコノナカトリモチテツカヘマツルナカトミ》、祭主正四位上行神祇大副大中臣朝臣清親《イハヒヌシオホイヨツノクラヰノカミツシナカミヅカサノオホイスケオホナカトミノアソミキヨチカ》、壽詞【遠】稱辭定奉【久止】申《ヨゴトヲタヽヘコトサダメマツラクトマヲス》、又申【久】《マタマヲサク》、天皇朝廷【仁】奉仕【留】親王等王等諸臣百官人等《スメラガミカドニツカヘマツルミコタチオホキミタチオミタチモヽノツカサノヒトタチ》、天下四方國【乃】百姓諸諸《アメノシタヨモノクニノオホミタカラモロモロ》、集侍【弖】《ウゴナハリハヘリテ》、見食【倍】尊食【倍】《ミタベタフトミタベ》、歡食【倍】聞食【倍】《ヨロコビタベキヽタベ》、天皇明庭【仁】茂世【仁】《スメラガミカドニイカシミヨニ》、八桑枝【乃】立榮奉仕【留倍支】祷【乎】所聞食【止】《ヤクハエノタチサカエツカヘマツルベキホキコトヲキコシメセト》、恐【美】恐【美毛】申給【波久止】申《カシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス》、これ也、此文、ふるくめでたき事多きを、世にしれる人まれなる故に、今寫し出せり、ところ/”\文字の誤(リ)おほかるを、今は三四本を合せ見て、たがひによきあしき中に、よしとおぼしきをえらびてしるしつ、されど猶誤(リ)と見ゆる所々なきにあらず、なほ善本《ヨキマキ》をえて正すべき也、さて今古言を考へて、訓をも加《クハ》へたるついでに、いさゝかことの意をもとくべし、第六行なる天都御膳【遠】の遠(ノ)字は、かならず乃《ノ》なるべし、遠《ヲ》にても聞ゆるが如くなれども、さては次に瑞穂【遠】《ミヅホヲ》とある遠《ヲ》と重なれり、由庭【仁】《ユニハニ》所知食の知(ノ)字は、聞なるべし、第十行の天(ノ)忍雲根(ノ)神(遠《ヲ》)天【乃《ノ》】云々、受給【波里】申(シ)【仁《ニ》】、これは天(ノ)忍雲根(ノ)神【遠《ヲ》】、神漏岐紳漏美(ノ)命【乃《ノ》】前【仁】、受給【波里】)申(シ)【仁《ニ》】、天【乃】二上【仁】奉上【弖】と、語を次第《ツイデ》て見れば、よく聞ゆる也、字都志國【乃】水【了】の了字は、尸とも加ともあり、皆誤也、かならず仁《ニ》なるべし、天都水【遠】加【立】の立(ノ)字ハ、弖《テ》を誤れる也、申【遠里】は心得ず、かならず申【世止】《マヲセト》と有べきところ也、麻知波弱韮【仁】は、何事にか聞えがたし、但し麻知《マチ》は、神名帳に、左京二條(ニ)坐神二座、大詔戸《フトノリト》(ノ)命(ノ)神、久慈眞智(ノ)命(ノ)神とある、眞智《マチ》よしありげ也、太詔戸(ノ)命と並び坐し、又此二神|相嘗《アヒニヘ》に預り給ふこと、下にいふを合せ考ふべし、韮は、もしくは蒜《ヒル》を誤れるにて、晝《ヒル》の借字ならむか、弱晝《ワカヒル》とは、正午時《マヒル》より前をいふべければ、上に至(ル)2朝日照(ルニ)1萬弖《マデ》とあるつゞきの時刻なるべし、由都五百とは、同言重なりていかゞ、由都《ユツ》はすなはち五百箇《イホツ》といふことなれば也、八井は、神武天皇の御子の御名に、日子八井《ヒコヤヰノ》命又|神八井耳《カムヤヰミヽノ》命と申すおはせり、八井の意同じことにや、如此奉【志】は、奉の上に依《ヨサシ》(ノ)字|脱《オチ》たるなるべし、四國(ノ)卜部は、大祓(ノ)詞の終りに、四【毛】國(ノ)卜部等とあれども、卜部は、伊豆壹伎對馬の三國にかぎりて出ることにて、四方の國より出るものにあらざれば、毛(ノ)字は、後の人のさかしらに加へたるにて、かれもここも四箇國《ヨクニ》をいふ也、それにとりて、四國は、右の三國と、いま一國はいづれの國ならむ、いふかし、太兆【仁】の仁(ノ)字は、乃《ノ》を誤れるなるべし、奉仕【留】の留(ノ)字は、弖《テ》なるべし、氷上の下に、一本には郡(ノ)字あり、もしそれによらば、上なる野洲の下にも、その字あるべき也、相候は、儀式には相仕、大嘗祭式には共作《アヒツクリ》とあり、これらを合せて思ふに、仕も候も誤にて、相作《アヒヅクリ》なるべし、由志理伊都志理は、由《ユ》は齋《ユ》、伊都《イヅ》は嚴《イヅ》にて、共に齋清《イミキヨ》めたること、志理《シリ》は、齋《ユ》まはり清まはりの、まはりの如き、辭と聞えたり、日時【遠】撰定、こはいつも定まれる事なるを、かく申すは、上代には、其度々撰て定めしにや、さて其代の詞のまゝに、後までも申せるか、赤丹【乃】穗【仁毛】の毛(ノ)字は衍《アヤマリ》也、後(ノ)人、此言の意をしらず、たゞ上に二(ツ)仁毛《ニモ》とあるにならひて、みだりにこゝにも加《クハ》へたる物なるべし、明御座【弖】の弖は、かならず止《ト》と有べきところ也、相嘗は、阿比爾閇《アヒニヘ》と唱ふべし、爾閇《ニヘ》を牟倍《ムベ》と唱ふるは、後(ノ)世の音便にくづれたる唱(ヘ)也、大嘗も、大爾閇《オホニヘ》なるを、大牟倍《オホムベ》といふと同じ、さて此|相嘗《アヒニヘ》は、天皇と相伴《アヒトモ》に、新餐《ニヘ》し奉る意の名にて、俗《ヨ》にいはゆる相伴《シヤウバン》のこゝろばへなり、さる故に此祭は、必しも其神社の尊き卑きにもよらず、必(ズ)預り給ふべく思はるゝ神にも、預り給はぬ多し、これ殊に故有て、預り給ふは預り給ふなるべし.其神七十一座おはしまして、四時祭式に見えたり、其中に、上に引たる左京二條(ニ)坐(ス)二座(ノ)神は、大社の列《ツラ》にだに入給はざるに、此祭に預かり給ふことは、新嘗に殊なるゆゑある神なるべし、明【良志】は、理《リ》を延(へ)て良志《ラシ》といへるにて、阿加里《アカリ》也、事【仁】《コトニ》は、下の奉仕【留】《ツカヘマツル》といふへつゞく辭也、食【倍】はみな多倍《タベ》と訓(ム)べし、給へといふこと也、さて聞食【倍】《キヽタベ》の下に、弖《テ》といふ辭を添て心得べし、天皇明庭の明(ノ)字は、朝の誤也、祷【乎】所開食【止】は、一本には稱辭竟奉【久止】《タヽヘコトヲヘマツラクト》とあり、これもあしからず、さて天(ノ)忍雲根(ノ)神云々の事、伊勢の外宮の書どもに、天(ノ)村雲(ノ)命の事として記せり、同神にやあらむ、さて此壽詞を申すことは、辰(ノ)日豐樂院に幸《イデマ》し、悠紀(ノ)帳に御す、神祇官の中臣、賢木《サカキ》を笏に執《トリ》そへて、南門より入(リ)、版位につき跪て、天(ツ)神の壽詞《ヨゴト》を奏すと、大嘗祭式に見えたり、わすれたり、大嘗會【乃】齋場とある會(ノ)字は、宮を誤れるなるべし、
 
      大 安 殿
天武紀に、天皇御2大安殿(ニ)1云々といへること、所々に見え、續紀にも多く見えたり、大安殿は、意冨夜須美杼能《オホヤスミドノ》と訓(ム)べし、すなはち大極殿のこと也、又天智紀に、西(ノ)安殿、天武紀に、向(ノ)安殿.内(ノ)安殿、外(ノ)安殿、舊宮(ノ)安殿、文武紀に、東(ノ)安殿などもある、みなやすみどの也、やすみは、古き歌に、やすみしゝわが大きみとよみて、これ安《ヤス》らけくて天の下を見し給ふ意、見し給ふとは、しろしめすこと也、されば天皇のまします殿をば皆、やすみどのと申せる也、いたく後の物なれど、西行が撰集抄に、崇徳天皇の御陵に參りて、その御事を申せる所に、清涼紫宸の間にやすみし給ひて、百官にいつかれさせ給ひ云々といへるは、たま/\古言の殘れりしなるべし、さて皇極紀天武紀に、大極殿を、おほあむどのと訓《ヨミ》、天智紀に、西小殿とあるを、にしのこあどのとよみ、上に出せる天武紀の内(ノ)安殿を、うちのあむどのと訓(メ)るなどは、何れもやすみどのと訓《ヨマ》しめむために、傍《カタハラ》に安ドノと書たるを見て、誤りて安を音によめるひがこと也、又かたはらに晏(ノ)字を書る所もある、これもかの安を音によむことゝひが心得して、あむと訓(マ)しめむとて也、大極殿は、第一の正殿なるが故に、おほやすみどのと云るを、やがて大安殿《オホヤスミドノ》とも書れたる也、續紀に、大極殿と大安殿とは、別《コト》なるが如く聞ゆる所もあれど然らず、同じこと也、
 
立 田 川
古今集秋下に、神なびの山を過て、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるをよめる、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる、此神なび山は、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡にて、同集別(ノ)部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、とあると同所也、さて源(ノ)重行集に、山崎川を立田川といふを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出しより後くやしきは船路なりけりと有(リ)、然れば立田川といふも、山崎のあなた、津(ノ)國嶋上(ノ)郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道也、大和(ノ)國の立田とは別也、然るを、神なび山といふも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和(ノ)國のとのみ思へり、契冲も然心得て、神なび山は高市(ノ)郡、立田は平群(ノ)郡にて、はるかにへだゝれゝば、其山の紅葉の、立田川に流るべきことわりなし、といひて疑ひたり、されど詞書に、歌ぬしのみづから、其山をこえ、其川を渡りてよめるとあれば、誤(リ)とはいひがたし、然るを吾師は、もとよりかの歌をひがことゝして、詞書をさへ、撰者の作れるがごといはれたるは、いひ過しなりけり、たとひ歌はひが心得してよむこともありとも、さる詞書までを作るべき物かは、そも/\大和の立田は、萬葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれも/\山をのみよみて、川をよめるは一(ツ)も見えず、その外の古書にも、立田は山とのみこそあれ、川はあることなし、立田川とよめるは、みな今の京になりての歌にて、右にいふ山崎のあなたなる也、「もみぢみだれて流るめりの歌は、もしまことにならの帝の御(ン)ならば、平城天皇なるべし、又「もみぢ葉ながる神なびのといふ歌は、飛鳥川とあるかた正しくて、大和なるべし、かの山崎のあなたなるは、神なびとはいへど、みむろの山とはいふまじければ也、然るに拾遺集物(ノ)名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれるとあるは、はやくかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、かくはよみ合せた(ン)めり、其後々の歌どもはさらなり
 
あがたゐのうしは古(ヘ)學のおやなる事
からごゝろを清くはなれて、もはら古(ヘ)のこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居(ノ)大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古(ヘ)言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古(ヘ)ぶりの文などをさへ、かきうることゝなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、たゞおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御蔭《ミカゲ》によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典《イニシヘノミフミ》をうかゞふにも、漢意《カラゴヽロ》にまどはされず、まづもはら古(ヘ)言を明らめ、古(ヘ)意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そも/\かゝるたふとき道を、ひらきそめられたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、
 
悠 紀 主 紀
大嘗の悠紀主基《ユキスキ》の主基の事、書紀の私記に、師説(ニ)、次(クナリ)2於|齋忌《ユキニ》1也、といへるより、今に至るまで、人皆此意とのみ心得ためれど、ひがこと也、かの説は、天武紀に、齋忌此(ヲ)云2踰既《ユキト》1、次此(ヲ)云2須岐《スキト》1、とあるによれるなれども、齋忌こそ此字の意なれ、次《スキ》は借字《カリモジ》にして、此字の意にはあらず、古(ヘ)はすべて言だに同じければ、字は、意にはかゝはらず、借(リ)て書るに、次《ツギ》を須岐ともいへるから、言の同じきまゝに、借(リ)て書ならへるを、そのまゝに書れたる物也、次の意にあらずといふゆゑは、悠紀と主基とは、何事も二方全く同じさまにして、一事もいさゝかのおとりまさりあることなければ、次といふべきよしさらになし、天武紀なるは、借(リ)字なること、疑ひなき物をや、主基《スキ》は禊《ミソキ》の曾岐《ソキ》と同言にして、濯《スヽキ》といふことなり、みそきも身濯《ミソヽキ》にて、そゝくとすゝくと同じきを、共につゞめて、曾岐《ソキ》とも須岐《スキ》ともいへる也、さればこれも齋忌《ユキ》と同じさまの名にして、濯《スヽ》き清めたるよしなるぞかし、
 
水 莖 の 岡
水莖の岡とつゞきたる水莖は、みな岡の枕詞にして、地(ノ)名にはあらず、然るを昔より、枕詞なることをしれる人なくして、或は筑前、或は近江の地名と心得來つるは、ひがこと也、水ぐきは、みづ/\しき莖といふことにて、草木の莖也、さてくきといへば、即(チ)木の事にも、草のことにもなれり、木(ノ)神を久々能智《クヽノチ》といふにて心得べし、さて岡とつゞくるは、稚《ワカ》の意也、和《ワ》と乎《ヲ》と通ふ例、わなゝくをのゝく、わかづるをこづる、たわやめたをやめなど、猶多き中に、神樂の取(リ)物(ノ)歌に、天にますとよ岡姫のとあるをとりて、源氏物語のをとめの卷の歌には、天にますとよわか姫とよめる、これ正《マサ》しく岡と若《ワカ》と通ふ例也、さればみづ/\しき木の稚《ワカ》しといふ意にて、みづぐきの岡とはつゞくるなり、又萬葉六に、水城《ミヅキ》とつゞけたるは、やがてみづ/\しき莖のみづ木と、重ねたるなり、七に水莖の崗水門《ヲカノミナト》とよめるは、筑前(ノ)國|遠賀《ヲカノ》郡にて、風土記に塢舸水門《ヲカノミナト》と見えて、たゞ岡といふ地名也、此歌の外に、筑前に水ぐきの岡といふこと、古書に見えたることなし、仲哀紀に洞《クキノ》海といふあるを思ひて、洞《クキ》を、水ぐきと一(ツ)かと思ふも、ひがこと也、洞(ノ)海は、をかのみなとゝは別《コト》所也、又水ぐきの岡、近江に有(リ)といふも、よしなきこと也、十に、水ぐきの岡とのみにて、水門《ミナト》といはざる歌あるは、前後みな大和の地名をよめる歌の中なれば、筑前にはあらで、大和なるべし、高市(ノ)郡飛鳥の岡を、今も岡といひ、岡寺といふもあれば、此所ならむか、十二にも見えたるは、いづくにもあれ岡にて、地名にはあらざるか、又古今集大歌所の歌、水ぐきぶりに、みづぐきの岡の屋がたとよめるは、岡屋縣《ヲカノヤガタ》にて、和名抄に、山城(ノ)國宇治(ノ)郡岡屋(ハ)乎加乃也《ヲカノヤ》とある所也、後に岡(ノ)屋(ノ)關白と申しゝがおはせしも、此地名也、縣をがたといふは、山縣《ヤマガタ》方縣《カタガタ》などの如し、然るにこれをも、水ぐきの岡といふ地名と思ひ、やがたを屋形と心得たるは、みなひがこと也、屋形といふ物は、船などにこそあれ、家を屋形といふことは、古(ヘ)にはなきことなるをや、さて水ぐきぶりといふは、樂府《ウタマヒノツカサ》にていふ《ナ》にて、その歌のはじめの詞をとりてつけたる物にて、地名に限れることにはあらず、此|某《ナニ》ぶりといふ名の事は、古事記傳に、ひなぶりの下にくはしくいへり、さて又せうそこ書《ブミ》をみづくきといふは、玉づさといふと同じくて、これもみづ/\しき木といふこと也、そはまづ上古には、人の許へ使をやるには、梓木《アヅサノキ》に玉をつけたるを持せて、使のしるしとせし也、玉梓《タマヅサ》の使とつねにいふは此事也、それよりうつりて、せうそこ文をも、同じく玉梓《タマヅサ》といひ、又かの玉つけたる梓をさして、みづ/\しき木といふ意にて、みづぐきといへるより、これもうつりて、書《フミ》をも然いへる也、かくて又うつりては、かならずしも人の許へやる書ならでも、手跡の事をも、水ぐきといふことゝなれるなり、
    
わたくしに記せる史
よにおほやけの史にはあらで、私に御代/\の事を記せる書、これかれとおほかるを、むかしの皇國人は、佛をたふとばぬは一人もなかりしかば、かゝる書にさへ、ともすればえうなきほとけざたのまじりて、うるさく、今見るには、かたはらいたきことおほし、又さかしら心に、神代にはあやしき事のみ多くして、からめかぬをいとひて、おほくは神武天皇より始めてしるして、神代のほどをばはぶけるは、から國のむね/\しき書に、さるたぐひのあるを、よきことゝ思ひて、ならへる物也、そも/\外《トツ》國々は、その王のすぢ、定まれる事なくして、よゝにかはれば、心にまかせて、いづれのよゝり記さむも難《ナム》なきを、御國の皇統は、さらに外《トツ》國の王のたぐひにはましまさず、天照大御神の天津日嗣にまし/\て、天地とゝもに、とこしへに傳はらせ給ふを、その本のはじめをはぶきすてゝ、なからより記してよからめや、よろづをから國にならふも、事によりては、心すべきわざぞかし、
 
     家隆卿のことば
いへたかの二位のいはれしは、歌はふしぎの物にて候也、きとうち見るに、おもしろくあしからずおぼえ候へども、次の日又々見候へば、ゆゝしく見ざめのし候、これをよしと思ひ候けるこそふしぎに候へ、などおぼゆる物にて候云々、とぞいはれける、まことにさることなり、
 
     儒者の皇國の事をばしらずとてある事
儒者に皇國の事をとふには、しらずといひて、恥とせず、から國の事をとふに、しらずといふをば、いたく恥と思ひて、しらぬことをもしりがほにいひまぎらはす、こはよろづをからめかさむとするあまりに、其身をも漢人めかして、皇國をばよその國のごともてなさむとするなるべし、されどなほから人にはあらず、御國人なるに、儒者とあらむものゝ、おのが國の事しらであるべきわざかは、但し皇國の人に對ひては、さあらむも、から人めきてよか(ン)めれど、もし漢國人のとひたらむには、我は、そなたの國の事はよくしれゝども、わが國のことはしらずとは、さすがにえいひたらじをや、もしさもいひたらむには、己が國の事をだにえしらぬ儒者の、いかでか人の國の事をはしるべきとて、手をうちて、いたくわらひつべし、
 
     古書どもの事
ふるきふみどもの、世にたえてつたはらぬは、萬(ヅ)よりもくちをしく歎かはしきわざ也、釋日本紀仙覺が萬葉の抄などを見るに、そのほどまでは、國々の風土記も、大かたそなはりて、傳はれりと見えたり、釋に引たる上宮記といふ物は、いさゝかばかりなれど、そのさま古事記よりも、今一きはふるく見えたるは、まことに上宮わたりの物にや有けむ、又風土記は、いとたふとき物なるに、今はたゞ出雲一國のゝみ、またくてはのこりて、ほかはみな絶ぬるは、かへす/\もくちをし、さるは應仁よりこなた、うちつゞきたるみやこのみだれに、ふるき書どもゝ、みなやけうせ、あるはちりぼひうせぬるなるべし、そも今の世のごと、國々にも學問するともがら多く、書どもえうじもたるものおほからましかば、むげにたえはつることはあらじを、そのかみはいまだゐなかには、學問するともがらもいと/\まれにして、京ならでは、をさ/\書どもゝなかりしが故なめり、されどから國のふるきふみどもはしも、これかれとゐなかにも殘れるがあるは、むねとからを好むよのならひなるが故也、かくて風土記も、今の世にもかれこれとあるは、はじめの奈良の御代のにはあらず、やゝ後の物にて、そのさま古きとはいたくかはりて、大かたおかしからぬもの也、其中に、豐後國のは、奈良のなれど、たゞいささかのこりて、全からず、そも/\かくはじめのよきはたえて、後のわろきがのこれるは、いかなるゆゑにかと思ふに、これはた世人の心、おしなべてからざまにのみなれるから、ふるくてからめかぬをば好まず、後のいさゝかもからざまに近きをよろこべる故なるべし、神代(ノ)卷も、日本紀のをのみたふとみて、古事記のをば、えうぜぬをもてなずらへしるべし、さてしかもとの風土記はみな絶ぬる中に、國はしも多かるに、出雲のゝこれることは、まがことの中のいみしきさきはひ也、又日本紀はもとよりたゆまじきことわりなるを、古事記萬葉集のたま/\にたえでのこれるは、ことにいみしき後の世のさきはひ也、大かた今の世にして、古(ヘ)のすがたをしることは、もはら此二ふみのみたまになむ有ける、
 
     ま  た
書紀の今の本は、もじの誤(リ)もところ/”\あり、又訓も、古言ながら多くは今の京になりてのいひざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいとふるくめづらかにたふときこともまじれるを、その訓おほくは全からず、あるはなかばかけ、或はもじあやまりなど、すべてうるはしからず、しどけなきは、いと/\くちをしきわざ也,板本一つならでは世になく、古き寫し本はたいとまれなれば、これかれをくらべ見て、直すべきたよりもなく、すべて今これをきよらにうるはしく、改め直さむことは、いと/\かたきわざ也、今の世の物しり人、おのれ古(ヘ)のこゝろ詞をうまらに明らめえたりと思ひがほなるも、なほひがことのみおほかれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこなひぞ多かるべき、されば今これをゑり改めむとならば、文字の誤(リ)をのみたゞして、訓をば、しばらくもとのまゝにてあらむかたぞ、まさりぬべき、
 
ま  た
續紀よりつぎ/\の史典も、今の本は、いづれもよろしからず、文字の誤(リ)ことにおほく、脱《オチ》たることなどもあり、そも/\書紀は、訓大事なれば、たやすく手つけがたきを、續紀よりこなたの史は、宣命のところをおきてほかすべては、訓にことなることなく、たゞよのつねのから書《ブミ》の訓のごとくにてよろしければ、今いかで三代實録までを、皆古きよき本を、これかれ、よみ合せて、よきをえらびて、うるはしきゑり板を成しおかまほしきわざなり、
 
萬のふみども、すり本《マキ》と寫し本《マキ》との、よさあしさをいはむに、まづすり本《マキ》の、えやすくたよりよきことは、いふもさら也、しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本のよきあしきをもえらばずてゑりたるは、さらにもいはず、物しり人の手をへて、えらびたるも、なほひがことのおほかるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬれば、もろ/\の寫(シ)本は、おのづからにすたれて、たえ/”\になりて、たゞ一つにさだまる故に、誤(リ)のあるを、他本《アダシマキ》もてたゞさむとすれども、たやすくえがたき、こはすり本《マキ》あるがあしき也、皇朝の書どもは、大かた元和寛永のころより、やう/\に板にはゑれるを、いづれも本あしく、あやまり多くして、別によき本を得てたゞさゞれば、物の用にもたちがたきさへおほかるは、いとくちをしきわざなりかし、然るにすり本ならぬ書どもは、寫し本はさま/”\あれば、誤(リ)は有ながらに、これかれを見あはすれば、よきことを得る、こは寫本にて傳はる一つのよさ也、然はあれども、寫本はまづはえがたき物なれば、廣からずして絶やすく、又寫すたびごとに、誤(リ)もおほくなり、又心なき商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、こゝかしこひそかにはぶきなどもして、物するほどに、全くよき本はいとまれにのみなりゆくめり、さればたとひあしくはありとも、なほもろ/\の書は、板にゑりおかまほしきわざなり、誠に貞觀儀式西宮記北山抄などのたぐひ、そのほかも、いにしへのめでたき書どもの、なほ寫本のみにてあるが多きは、いかで/\みないたにゑりて、世にひろくなさまほしきわざ也、家々の記録ぶみなども、つぎ/\にゑらまほし、今の世大名たちなどにも、ずゐぶんに古書をえうじ給ふあれど、たゞ其家のくらにをさめて、あつめおかるゝのみにて、見る人もなく、ひろまらざれば、世のためには何のやくなく、あるかひもなし、もしまことに古書をめで給ふ心ざしあらば、かゝるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、其道の人に仰せて、あだし本どもをもよみ合せ、よきをえらばせて、板にゑらせて、世にひろめ給はむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功《イサヲ》なるべし、いきほひ富《トメ》る人のうへにては、かばかりの費《ツヒエ》は、何ばかりの事にもあらで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世までのこるわざぞかし、かへす/”\こゝろざしあらむ人もがな、
 
ま た
めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いと/\心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、にはかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくとゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も/\同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ人の、よに多き物ぞかし
 
ま  た
人にかりたる本に、すでによみたるさかひに、をりめつくるは、いと心なきしわざなり、本にをりめつけたるは、なほるよなきものぞかし、
 
中御門宣胤卿の記
中御門(ノ)權大納言宣胤(ノ)卿(ノ)記にいはく、文明十二年正月一日【壬午】小朝拜元三(ノ)御藥、亂中至(マデ)2于今(ニ)1十餘年停止、節會諸社(ノ)祭諸公事、悉(ク)以(テ)十餘年停止、またいはく、同十日、室町殿(ヘ)年始(ノ)參賀、毎年式日也、云々攝家清花、亂前(ハ)悉(ク)乘車也、今(ハ)悉(ク)板輿也、不可説(ノ)之|爲躰《テイタラク》、末世至極無(キ)v力者歟、またいはく、二月廿一日、今日春日祭也、亂中亂後、諸社(ノ)祭悉(ク)停止、雖v然(ト)於(テ)2此祭(ニ)1者《ハ》、爲《シテ》2寺門(ト)1、上卿并(ニ)諸司等(ニ)致(シ)2下行(ヲ)1、毎年兩度、于《ニ》v今無2懈怠1、またいはく、三月廿六日、今日縣召(ノ)除目初夜也、亂中一箇度【文明七】被《ル》v行(ハ)、今度依(テ)2宰相中將殿御昇進(ニ)1、爲《シテ》2武家(ト)1被《ルヽ》2申(シ)行(ハ)1者也、公卿殿上人悉(ク)被《ル》v付2少分之訪(ヒヲ)1、但(シ)用脚未v到(ラ)之間、各可(シト)v爲2半分1云々《ナリ》、關白五千疋、【但半減歟】執筆二千疋、其外(ノ)公卿殿上人各三百疋、【但半分也】惣用三萬疋(ト)云々《ナリ》、いく疋とあるはみな錢也、又いはく、同四月十五日、依(テ)v召(ニ)參内(ス)、風雅集可2書(キ)進(ズ)1之由、以2民部卿忠富(ノ)中將(ヲ)1被2仰下1、御本料紙【十六帖】被v下v之(ヲ)、またいはく、九月二日、參内云々、唐鏡有2校合1、また、十月三日、今日禅閤參内、被《ルト》v談(シ)2申(サ)江次第(ヲ)1云々《ナリ》、同十日、爲《タメニ》2新關停廢(ノ)1、土一揆蜂起(シテ)、塞(キ)2通路(ヲ)1、北白川(ノ)邊(ニ)集會(シテ)、燒2拂關所(ヲ)1、號(シ)2内裏修理料(ト)1、亂後七日所々(ニ)被《ル》v立2新關(ヲ)1也、武家自用(ノ)之外、於(テハ)2修理(ニ)1者不v及1沙汰(ニ)1、諸人(ノ)之所v歎(ク)也、また、十三日、參内云々、同參(リ)會(ヒ)河海抄|被《ル》2校合(セ)1、またいはく、同十二月二十日云々、于時皇居土御門殿也、亂後有(テ)2修理1、去年十二月七日、自2日野侍從政資(ノ)亭1還幸、また、文龜二年正月一日【乙亥】節會、世(ノ)亂以後、至(ルマデ)2長享三年(ニ)1、廿二年退轉(ス)、延徳二年再興、近年又退轉(ス)、當年依(テ)2代始(ナルニ)1、所2御再興(アル)1也、去年(ハ)依(テ)2諒闇(ナルニ)1爲(リ)2平座1、また、同二日、去(ル)夜勸修寺中納言、以2囘覧(ノ)折紙(ヲ)1、年始歳末(ノ)禮、令(ル)2不參(セ)1者(ノハ)、知行可(キ)v有2覺悟1之由、室町殿仰(ニ)候(ト)、當代大略不參(ノ)之間、及(ブ)2此御沙汰(ニ)1、この年始歳末(ノ)禮は、室町殿へ、公卿たちの參らるゝ事也、可(シ)v有(ル)2覺悟1とは、今(ノ)世の語にも、覺悟せられよといふと同じ、又いはく、同二月十日、去年下(シ)2遣(ス)越前(ニ)1使者、今日上(レリ)、遲々以(テノ)外(ノ)事也、河合(ノ)莊【内裏御料所】御年貢三千疋、知行(ノ)分杣山(ノ)莊(ノ)分三千疋、【亂以前請切萬四千疋也】到來(ス)などあり、これらは、書どもよむとて、ふと心にとゞまるふし共のあるを、これかれと、いさゝかづゝぬき出て書る也、みだれたりし世のほど、何事もいたくおとろへたりしさましるせるをよめば、いとかなしくて、ほと/\涙もおちぬかし、今云々とかけるに二やう有(リ)、そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所にかけるを、中昔より近き世の物には、となりといへりなどいふべき所にかけり、されば今もろ/\の記録などの語をぬき出てかくに、本にある云々は皆、となりといへりなどいふべきところなる故に、かたはらにその假字をつけて分ち、今私に語を略きて書る所にかけるは、假字を附(ケ)ず、その心もて見べし、
 
     吉田兼倶卿日本紀御談義の事
同じ記にいはく、文明十二年十月廿一日、今日於(テ)2禁裏(ニ)1日本紀(ノ)御談義、兼倶(ノ)卿申(ス)v之(ヲ)、云々|頃之《シバラクシテ》兼倶卿參(テ)、先(ヅ)有2御談義1、【日本紀卷本】次(ニ)於(テ)2黒戸(ニ)1有2御談義1、西面(ノ)上壇、主上(ノ)御座、【南面】次(ノ)壇(ノ)中程(ニ)、兼倶卿候(フ)、【北面】日本紀【草紙本】置(テ)2小机上(ニ)1讀2申(ス)之(ヲ)1、先(ヅ)兼倶卿參(テ)之後(ニ)、聽衆參進、【此間公卿たちの名略けり】等同間(ニ)左右相分參(レテ)候、殿上人【名ども略く】等在2下壇(ニ)1也、自(リ)2御前1不(ル)v見(エ)所也、直垂(ノ)衆(ハ)於(テ)2西(ノ)小庭(ニ)1聽聞、云々兼倶卿候(フ)所(ノ)事、兼(テ)而可(キノ)v爲(ル)2簀(ノ)子1之由|被《ルヽノ》v定(メラ)之處、以列〔左○〕申(スノ)2所存(ヲ)1之間、臨(テ)v期(ニ)被《ルヽ》v改(メ)者也、今日|端《ハシ》四五行可(キ)v申(ス)分、致(スノ)2文字讀(ヲ)1之處、不慮(ニ)經(ルノ)v刻(ヲ)之間、日本書紀卷第一神代上、此(ノ)十字許(リ)申(ス)v之、また、同十一月廿六日、今日日本書紀(ノ)御談義也、劔(ノ)段也、先(ヅ)中臣祓御傳受、他人不v聞v之、また、十二月十四日、今日日本紀講尺結願也、云々就(テ)2神秘御傳授(ニ)1、今日被(ル)2仰(セ)賞(セ)1、【從二位】またいはく、文龜二年正月十七日、參(ル)2桃華坊(ニ)1、日本紀(ノ)【神代下卷】談義也、侍從二位兼倶卿申(ス)v之(ヲ)、同廿日、參(ル)2一條殿(ニ)1、日本紀(ノ)談義、今日終v功、【下卷以上三ケ度】神道(ノ)事等多(ク)以(テ)申(ス)v之(ヲ)、など見えたり、そのかみ兼倶卿の日本紀を講じ申されけむほど思ひやられたり
 
     三社の託宣といふ物
同記にいはく、文龜二年二月十日、侍從二位【兼倶卿】所望(ノ)之三社(ノ)託宣、并(ニ)天神(ノ)名號、云々以上今日書(キ)v之(ヲ)遣(ハス)之また、同十七日、三社(ノ)託宣一幅、兼永(ノ)朝臣(ノ)所望(ニテ)書v之(ヲ)、
 
     神拜口傳といふ事
同記(ニ)云(ク)、文明十二年十二月二日、參1詣(ス)吉田(ノ)社(ニ)1、兼倶卿(ノ)宿所咫尺(ノ)之間、立寄(テ)賀(ス)2日本紀(ノ)御談義(ニ)參(レル)事(ヲ)1、對面相語(テ)云(ク)、神拜口傳(ノ)事、諸家競(テ)有2御尋1、然(ルニ)此(ノ)六七十年以來(ハ)、一向(ニ)無(シ)2被《ルヽ》v問(ハ)事1、諸家無(キ)2敬神1歟《カト》云々《ナリ》、余敬神異(ナレハ)2于他(ニ)1、以2來(レル)次(テヲ)1可(シト)v授(ク)云々《イヘリ》、則口2傳(ス)之(ヲ)1、三日、遣(ハス)2状(ヲ)於吉田(ノ)神主(ニ)1、昨日(ノ)面談、爲2千載(ノ)一遇1候、殊(ニ)神拜御口傳(ノ)事、深(ク)秘(シ)2心中(ニ)1候、恩許不v知2手足(ノ)之舞踏(ヲ)1候、欣悦(ノ)之餘(リ)、重(テ)可(キノ)2參申(ス)1之處、遲々先(ヅ)獻2短章(ヲ)1候、何樣連々(ニ)神道(ノ)事、可(ク)v仰(ク)2御指南(ヲ)1候、恐々謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿、
 
     歌の御會のめぐらし文
甘露寺(ノ)權大納言元長(ノ)卿(ノ)記(ニ)云、永正五年正月十四日、和歌(ノ)御會書2廻文(ヲ)1、以2釜殿(ヲ)1遣(ス)v之(ヲ)、※[(貝+貝)/鳥]有2慶(ヒノ)音1、右(ノ)御題、來(ル)十九日可(シ)v有2披講1、可(キ)d令(メ)2豫參1給(フ)u由、被《レ》2仰下1候也、正月十四日、元長、中御門(ノ)大納言殿、【此所同じつらに廿三人の名あり】【袖書】尅限可(キ)爲(ル)2午(ノ)一點1也、丞相(ハ)別紙(ニ)以2折紙(ヲ)相2觸(ル)之(ヲ)1、
 
     鎌倉右大臣の名みかどより給へる事
愚管抄にいはく、千萬御前、元服せさせて、實朝といふ名も、京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて將軍宣下申(シ)くだして云々、
 
     もろこしぶみをもよむべき事
から國の書をも、いとまのひまには、ずゐぶんに見るぞよき、漢籍も見ざれば、其外(ツ)國のふりのあしき事もしられず、又古書はみな漢文もて書たれば、かの國ぶりの文もしらでは、學問もことゆきがたければ也、かの國ぶりの、よろづにあしきことをよくさとりて、皇國《ミクニ》だましひだにつよくして、うごかざれば、よるひるからぶみを見ても、心はまよふことなし、然れども、かの國ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理をつくしたるやうに、こまかに論ひ、よさまに説《トキ》なせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつりやすく、まどひやすきならひなれば、から書見むには、つねに此ことをわするまじきなり、
 
     學問して道をしる事
がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意《カラゴヽロ》をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古(ヘ)の意はしりがたく、古(ヘ)のこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける、そも/\道は、もと學問をして知ることにはあらず、生れながらの眞心《マゴヽロ》なるぞ、道には有りける、眞心《マゴヽロ》とは、よくもあしくも、うまれつきたるまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、眞心をばうしなひはてたれば、今は學問せざれば道をしらざるにこそあれ、
 
     がくもん
世(ノ)中に學問といふは、からぶみまなびの事にて、皇國の古(ヘ)をまなぶをば、分て神學倭學國學などいふなるは、例のから國をむねとして、御國をかたはらになせるいひざまにて、いと/\あるまじきことなれ共、いにしへはたゞから書學びのみこそ有けれ、御國の學びとては、もはらとする者はなかりしかば、おのづから然いひならふべき勢ひ也、しかはあれども、近き世となりては、皇國のをもはらとするともがらもおほかれば、からぶみ學びをば、分て漢學儒學といひて、此皇國のをこそ、うけばりてたゞに學問とはいふべきなれ、佛學なども、他《ホカ》よりは分て佛學といへども、法師のともは、それをなむたゞに學問とはいひて、佛學とはいはざる、これ然るべきことわり也、國學といへば、尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり、世の人の物いひざま、すべてかゝる詞に、内外《ウチト》のわきまへをしらず、外(ツ)國を内になしたる言のみ常に多かるは、からぶみをのみよみなれたるからの、ひがことなりかし、
 
     からごゝろ
漢意《カラゴヽロ》とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非《ヨサアシサ》を論ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍《カラブミ》の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意《コヽロ》世(ノ)中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理《シカアルベキコトワリ》也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そも/\人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなければ、別《コト》に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞《マ》心にあらず、かれが是《ヨシ》とする事、實の是《ヨキ》にはあらず、非《アシ》とすること、まことの非《アシキ》にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなしともいふべからず、又|當然之理《シカアルベキコトワリ》とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、
 
     おかしとをかしと二つある事
田中(ノ)道麻呂が考へけるは、物をほめていふおかしは、おむかしのつゞまりたるにて、おの假字也、又笑ふべき事をいふをかしは、をこといふ言のはたらきたるにて、をの假字也、さればこは本より二つにて、異言《コトコトバ》なるを、假字づかひみだれて、一つに書《カク》から、同言のごと心得たるは、誤也といへる、まことにさることにて、いとよきかむかへなり、ほむるとわらふとは、其意大かたうらうへなるを、いかでか同じ言を通はし用ふることのあらむ、おむかしは、古(ヘ)言にて、書紀に徳(ノ)字また欣感などを、おむかしみすとよみ、續紀の宣命には、うむかし共見え、萬葉の歌には、おをはぶきて、むかし共よめり、此道まろといひしは、美濃(ノ)國多藝(ノ)郡|榛木《ハリノキ》村の人にて、後は尾張の名兒屋に住て、またなくふることを好み、人にも教へて、ことに萬葉集を深く考へ得たる人になむ有ける、年はやゝこのかみなりしかども、宣長が弟子《ヲシヘノコ》になりて、二たび三たびはこゝにも來《キ》、つねはしば/\ふみかよはしてなむ有けるを、今はむかしの人になむなりぬる、大かたかの名兒屋に、いにしへ學びする人々の出來しは、此おきながみちびきよりぞはじまりける、
 
     東宮をたがひにゆづりて
此里に、これも宣長がをしへ子に、須賀(ノ)直見といひしは、いときなかりしほどより、からやまとの書をこのみよみて、いとよく學びて、歌をもよくよみ、物のさとりもいとかしこかりけるを、まだ四十にもならで、はやくみまかりぬるは、いとあたらしきをのこになむ有ける、それがいへりしは古今集の序の細註に、東宮をたがひにゆづりてとあるは、たれもいと心得ぬいひざまなる、こは、東宮とにぞ有けむを、ともじとをもじとよく似たれば、見誤りて書(キ)つたへたる物なるべし、宇治(ノ)稚郎子をさして、東宮とは申せる也とぞいへりし、此考へにてよくきこえたり、
 
    平 戸 記
平戸記にいはく、仁治三年正月十六日云々、凡空位及(フコト)2數日(ニ)1、偏(ヘニ)是(レ)關東(ノ)所爲也、十七日云々、阿波院(ノ)宮、依(テ)2武士(ノ)縁(ニ)1、一定御出立之由、世以(テ)風聞(ス)、使〔左○〕縁(トハ)者、前(ノ)内府(ノ)(定通公)妻(ハ)、泰時重時|等《ラガ》姉妹也、如(クノ)v此(ノ)之間、私(ニ)差2遣(シ)使者(ヲ)於關東(ニ)1、有(リト)2慇懃(ノ)之旨1云、十九日云々、巷説(ニ)云(ク)、關東(ノ)飛脚、此(ノ)申(ノ)剋許(リ)着(クト)2武家(ニ)1云、以2此(ノ)由(ヲ)1且(ツ)申(スト)2一條殿(ニ)2云、依(テ)v是(ニ)京中物※[公/心](シト)云、抑此事、關東計(ヒ)申(スノ)之條、雖v知(ルト)2末世(ノ)之至(リト)1、極(メテ)可(シ)v悲(ム)可(シ)v悲、十善帝位之運、更(ニ)非(ズ)2凡夫愚賤(ノ)之所(ニ)1v思(フ)、而(ルニ)依(テ)d令(メ)v順(ハ)2時儀(ニ)1給(フニ)u歟《カ》、一旦雖v被《ルト》2仰(セ)合(サ)1、憖(ヒニ)以2凡卑(ノ)之下愚(ヲ)1、計(ヒ)2立(ルノ)帝位(ヲ)1之條、未曾有(ノ)事也、我朝(ハ)者神國也、不v似2異域(ノ)之風(ニ)1、自(テ)v茲(ニ)天地開(ケテヨリ)之後、國(ノ)常立(ノ)尊以降、皆先主令(メ)2計(ヒ)立(テ)1給(フ)、至(テハ)2不慮(ノ)之事(ニ)1者、非2此(ノ)限(ニ)1、至(テ)2光仁光孝(ノ)二代(ニ)1、群臣(ノ)議定歟、然(シテ)而其(ノ)趣、偏(ヘニ)爲(メナリ)v安2天下(ヲ)1也、今非2群議(ニ)1、以2異域蠻類(ノ)之身(ヲ)1、計(ヒ)2申(スノ)此事(ヲ)1之條、宗廟(ノ)之冥慮如何、尤可(シ)v恐々(シ)v々(ル)またいはく、寛元三年二月十日云々、神事興行(ノ)事、祈年祈年穀月次(ノ)祭已下、諸社(ノ)祭禮等、皆可(シ)v有2起行(ノ)之儀1者《テヘリ》、先(ヅ)幣物裹物庭積等、於(テ)v今(ニ)者《ハ》無實也、皆悉(ク)可(シ)v有2尋(ネ)沙汰1、而(シテ)件(ノ)事等、臨(テ)2末代(ニ)1難治歟、可(クハ)v守(ル)2式(ノ)數(ヲ)1者、其物今(ハ)者多(ク)以(テ)無實也、仍(テ)文治(ノ)意見(ニ)、光長(ノ)卿議定(シテ)言(ク)、無實(ノ)物等、可(ク)v被《ル》v定(メ)2其(ノ)代物(ヲ)1、可(キ)v被《ル》v立2新式(ヲ)1歟《カト》云(リ)、此議可(キノ)v然(ル)之由有(テ)2沙汰1、於2記録所(ニ)1被《ル》v定v之(ヲ)、然(シテ)而終(ニ)無(シ)2施行1、建暦(ノ)末建保(ノ)初(メ)、又及(ビ)2此沙汰1、已(ニ)雖v被《ルト》v定2其奉行等(ノ)人數(ヲ)1、終(ニ)又無(シ)2施行1、近者《チカゴロ》仁治此(ノ)沙汰、子細同(ジ)v前(ニ)云々、有封之神事、於(テハ)v今(ニ)者封戸無實云々、またいはく、同年三月八日、被《ル》v行(ハ)2小除目(ヲ)1、中務(ノ)丞清原(ノ)行眞云々、中務(ノ)丞(ノ)名字(ハ)【行眞】者、後白河院(ノ)御法名也、如何《イカヾト》云、職事(ノ)云(ク)、上卿執筆等不(ル)2存知(セ)1歟《カ》、又執柄(モ)無(キ)2御覺悟1歟《カ》、不審々々、後(ニ)聞(ク)、經(テ)2數日(ヲ)1此(ノ)沙汰出來、追(テ)被《ルト》v改(メ)云(リ)、
 
    四條(ノ)天皇御謚のさだ
同記(ニ)云(ク)、仁治三年正月十九日、先帝御謚號(ノ)之事、群臣議定(ス)、或(ハ)申(ス)四條院、或(ハ)申(ス)後六條院、或(ハ)申(ス)五條院、或(ハ)申(ス)後鳥羽院云々、四條(ハ)者、可(キ)v被《ル》v移(サ)2御喪所(ヲ)1於(テ)2右大將(ノ)亭(ニ)1【三條西(ノ)洞院】四町(ノ)之内也、可(キ)有(ル)2其寄(セ)l歟《カト》云(リ)、
 
    後鳥羽(ノ)天皇御謚のさだ
同記(ニ)云(ク)、同年六月廿六日云々、今日殿下御物語(ニ)云(ク)、順徳院(ノ)謚號、可(ク)v被《ル》v改(メ)、可(シト)v奉(ル)v號(シ)2後鳥羽(ト)1云(リ)、此(ノ)事、前(ノ)内府申(シ)行(フ)歟《カ》、案(スルニ)此(ノ)事、我朝無(キ)v例|歟《カ》、漢朝(ニハ)者一兩度相存(スルノ)之由、大府卿申(セリ)v之(ヲ)、又御改名(ノ)之儀、太(タ)不v得2其心(ヲ)1、何故(ゾト)云(フニ)、不(ハ)v叶(ハ)2冥慮(ニ)1者、又如何、
 
    順徳天皇の御事
同記(ニ)云(ク)、同年十月六日、早旦或(ル)者(ノ)來(テ)告(テ)云(ク)、佐渡(ノ)院去月十二日(ニ)崩逝(ト)云(リ)、去夜飛脚到來(スト)、八日、遠所(ノ)御使、今日到著(スト)云(リ)、十三日(ニ)有(リト)2御葬禮(ノ)事1云(リ)、十日云々、彼(ノ)御脳、太(タ)非(スト)2大事(ニ)1云《ナリ》、只都(テ)不(シテ)v聞(シ)2食(サ)供御(ヲ)1渉(ル)2數日(ヲ)1、九月九日可(キノ)v終(ル)2御命1之由、兼(テ)有(リト)2御祈請1云【ナリ】、人不v知v之(ヲ)、追(テ)案(シ)2得(タリト)其事(ヲ)1云《ナリ》、而(ルニ)件(ノ)日猶不v叶、及(ヘル)2十二日(ニ)1也、御歸京(ノ)事、思(シ)食(シ)絶(タルノ)之故(ト)云《ナリ》、就(テ)v之(ニ)存命太(タ)無益(ノ)之由、有(リト)2叡慮1云《ナリ》、燒(テ)2燒石(ヲ)1、偸(カニ)令(メ)v宛《アテ》2御|蚊觸(カブレノ)之上(ヘニ)1給(フ)、人不(ル)v知v之|歟《カ》、二箇日如《キ》v此(ノ)之間、小(サキ)物御増(シ)、次第(ニ)御身躰※[瓦+王]弱(ニ)令(メ)v成(ラ)給(フ)、兩左衛門(ノ)大夫康光盛實、御臨終已前(ニ)、出家(シテ)着(シ)2法衣(ヲ)1、祗2候(シテ)御前(ニ)1、相互(ニ)令(メ)v唱(ヘ)2高聲念佛(ヲ)1給(フ)、如(ク)v眠(ルカ)御氣絶(タリト)云《ナリ》、女房右衛門督別當(ノ)局已下、八人出家(ス)、十三日(ニ)御喪禮、兼(テ)皆|被《ルト》2仰(セ)置1云《ナリ》、十一月一日、今日佐渡(ノ)院御中陰已(ニ)滿(チ)、四十九日也、於(テ)2遠所(ニ)1無(シ)2御佛事1、京都(モ)又同前、御骨入洛(ノ)之後、可(シト)v被《ル》行(ハ)云《ナリ》、是(レ)御遺誡也、然(シテ)而非v可(キニ)v待(ツ)2其事(ヲ)1、懇志(ノ)之餘(リ)、自2去月廿二日1始(テ)、修(ス)2萬々遍(ノ)念佛(ヲ)1、【家中(ノ)輩結番(シテ)、晝夜修(ス)v之(ヲ)、其外勸化(ノ)人、其人數已(ニ)多(シ)、然(レトモ)而猶不v滿2彼(ノ)數(ニ)1、仍(テ)猶到(テ)2百日(ニ)1可v修(ス)也】、雖v未(ダ)v滿v數(ニ)、今日且(ツ)可(シ)2結願(ス)1、又可(シ)v奉v供2奉(シ)佛經(ヲ)1、御佛(ハ)圖繪阿彌陀如來(ノ)像也、【裏(ニ)押(ス)2宸筆(ヲ)1件(ノ)宸筆(ハ)、當初御在位(ノ)之時】、經(ハ)妙華經一部、摺2寫(ス)之(ヲ)1、件(ノ)料紙(ハ)、遠所(ノ)之後、女房(ノ)奉書已下、取(リ)具(シ)漉《スキテ》2反古(ヲ)1、色紙(ニ)用v之、云々此(ノ)上(ヘ)紺紙金字(ノ)阿彌陀經一卷、別(ニ)供2養(ス)之(ヲ)1、件(ノ)經料紙、又宸筆也、猶爲(メニ)v奉(ラム)v見2其字(ヲ)1、淺色(ニ)染(ム)v之(ヲ)、以2字(ノ)方(ヲ)1爲v裏(ト)、去(ル)八月最後(ノ)御音信(ヲ)、續(ク)2奥(ノ)枚(ニ)1、日來《ヒゴロ》手自書2寫(セリ)之(ヲ)1也、
 
    服《ブク》ぬぎの次第
同記(ニ)云(ク)、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿令(メ)v除2四條院(ノ)御服(ヲ)l給(フ)云々、於(テ)2川原(ニ)1可(キノ)2令(メ)v除給(フ)1之處、御蚊觸(ノ)事出來、雖v有(ト)2御減1、忽(チ)御2河原(ニ)1之條、如何(ノ)之由、醫師計(ヒ)申(スノ)間、只出2御門外(ニ)1也、召(シ)2吉服(ノ)御直衣(ヲ)1、駕2御車(ニ)1、出2門外(ニ)1、向2吉方(ニ)1、令(メ)v除給(フ)也、政所獻(ス)2先日(ノ)御帶(ヲ)1、先v是(ヨリ)召2吉服(ノ)御装束(ヲ)1、令(メ)v駕2御車(ニ)l給(ヒ)、其後獻2御帶(ヲ)1【傳獻(ノ)之人不v聞v之(ヲ)、可v尋、】召v之一結ニテ給(フ)v之(ヲ)【或説(ニ)、除服(ノ)之時、又不(ト)v召v之云(リ)、忌2吉方1歟、慥(ニ)可v尋】鈍色(ノ)御直衣一襲(ヲ)、置2陰陽師(ノ)前(ニ)1、御車向2吉方(ニ)1、立v榻、次(ニ)修(ス)v禊(ヲ)、次(ニ)家司兼教(ノ)朝臣傳(ヘ)2獻(ス)大麻(ヲ)1、便(チ)撤(ス)2御贖物(ヲ)1、陰陽師切(テ)2御帶(ヲ)1、遣(リ)2河原(ニ)1流(シ)棄(ツ)也、
 
    天皇禮服御冠のさだ
同記(ニ)云(ク)、仁治三年三月十日、御即位(ノ)禮服御覧、去(ル)八日也、而(ルニ)御冠破損(シテ)、無(シ)v實、今日内々猶可(シト)v有2沙汰1云《ナリ》、御冠堅固(ニ)無(シ)v實、金銅珠玉(ノ)之類(ハ)者、先年爲(メニ)2盗人(ノ)1被(タル)2盗取(ラ)1歟、一切(ニ)不v見(エ)、只御冠(ノ)羅、少々許(リ)相殘(レリ)、又珠玉少分落殘(テ)、不(ルノ)v及2其正體(ニ)1之由、云々仍(テ)申(ス)2其由(ヲ)1、此上(ヘ)難治(ノ)事也、東大寺(ノ)寶藏(ニ)、天子(ノ)御冠二額相殘(レル)歟、若(シ)可(クハ)v模者、可(クヤ)v被《ル》2召出(サ)1哉、年序久(ク)隔(レハ)、慥(ニ)不2覺悟(セ)1、然(レトモ)而大旨(ハ)者相似(ム)歟(ノ)之由所v覺(ル)也、云々但(シ)佐保(ノ)朝廷(ノ)【聖武歟】禮冠(ノ)圖、納(レル)2御冠(ノ)之納物(ニ)1歟、同|被《ルヽ》v下《サ》之間、於(テ)2燈下(ニ)1見v之、イトモ不(ルノ)2覺悟(セ)1之由所v申(ス)也、前(ノ)内府歸出(テ)仰(セニ)云(ク)、東大寺(ノ)御冠(ノ)事、不(ルノ)2思(シ)食(シ)寄(ラ)1之處、今|令《ル》v申(サ)旨、尤所2感(シ)思(シ)食(ス)1也、十四日、傳(ヘ)聞(ク)、一昨日右少辨時繼申(シ)2拜賀(ヲ)1、即向(フト)2東大寺(ニ)1云《ナリ》、今朝已(ニ)上洛(ト)云《ナリ》、御冠到來、但(シ)太上天皇(ノ)御冠、并(ニ)前帝(ノ)御冠、不(ル)v可v被v取(リ)2入(レ)内裏(ニ)1歟、云々就(テ)v中(ニ)以2太上天皇(ノ)御冠(ヲ)1爲2本樣(ト)1、已(ニ)被《ルト》v遣2入道相國(ノ)許(ニ)1云《ナリ》、此條殊驚(キ)聞(ク)、云々、所(ノ)v殘御冠、又有2數頭1、被《レ》v取2出(サ)之(ヲ)1見給(フ)、又禮服(ノ)御裳(ノ)事|被《ル》2仰(セ)出(サ)1、即被v取2出(サ)之(ヲ)1、所(ノ)v殘(ル)之御裳、遣(ス)v召(シニ)2内藏寮(ニ)1、暫(ク)祗候(シテ)可(キノ)v見(ル)之由|被《ル》v仰(セ)、然而藏人佐云(ク)、於(テハ)v今(ニ)者、女帝(ノ)禮服、前(ノ)皇后太子(ノ)禮服、童帝者又短小(ノ)之禮服許(リ)也、不(ル)v及v見(ルニ)歟《カト》云《ナリ》、十七日、云々御冠已(ニ)出來了(ヌ)、只今令(ムト)v餝(ラ)云《ナリ》、
 
    加賀國白山社の祭
同記(ニ)云(ク)、同年四月六日戊午云々、今日加賀(ノ)國白山(ノ)社(ノ)御祭也、仍(テ)予并(ニ)國司、今朝早旦行水(シテ)修(シ)2解除《ハラヒヲ》1、爲《タリ》2神事1、月水(ノ)者(ノハ)出(ス)v之(ヲ)、重輕服(ノ)輩、不v入(レ)2門内(ニ)1、於(テハ)2魚喰(ニ)1者不v憚(ラ)、如(シ)2去年(ノ)十一月(ノ)1、但(シ)至(テハ)2鳥兎(ノ)之類(ニ)1者、深(ク)以禁2斷(ス)之(ヲ)1、社(ノ)例(ト)云《ナリ》、とあり、中昔までも、然るべき神社の祭には、その國司もかくのごとくなりき、しかるに今の世は、亂世《ミタレヨ》のまゝにて、國々にても、神事いとおろそか也、
 
    漢  意
漢國には、おほよそ人の禍福《サキハヒワザハヒ》、國の治亂《ミダレヲサマル》など、すべて世(ノ)中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊《タフト》く畏《オソ》るべき物とぞすなる、さるはすへて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そも/\天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊《タフト》み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿《ミヤトノ》をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外(ツ)國には、萬(ヅ)は神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有(リ)ながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外(ツ)國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬(ヅ)の事にその理(リ)をのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、こと/”\しくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説《ツクリコト》にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典《ミフミ》をとくともがら、もはらこれらの理(リ)をもて説《トク》なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがごとなるをば、えさとらず、其|垣内《カキツ》を出(テ)はなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小《チヒサ》き理(リ)にかゝはり泥《ナヅ》みて、まことの道の、微妙《タヘ》なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にまし/\て、その御孫《ミマノ》命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其|理(リ)は測《ハカ》りしらるべききはにあらず、おのが智《サトリ》もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小《チヒサ》きからごゝろなるをや、
 
    又
漢國にも、神あることを、むげにしらざるにもあらず、尊みもし祀《マツ》りもすめるは、まことの傳への、かたはしは有しならむ、然れ共此天地をはじめ給ひ、國土《クニツチ》萬(ノ)物を造りなし給ひ、人の道をも萬の事をも始め給ひ、世(ノ)中のよろづの事をしり行ひ給ふ神たちのましますことをば、すべてえしらずして、これらの重《オモ》く大きなる事には、たゞ天をのみいひて、たゞかたはらなる小《チヒサ》き事にのみ、神をばいひて、此世を照し給ふ日(ノ)大御神をすら、かろ/”\しく、ことなることもなき物のごとくして、此神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだにしらざるは、いとあさましきわざなりかし、
 
    漢國に殷人鬼神をたふとむといへる事
殷人は鬼神をたふとめりとて、かの代には、神を尊むことの過たるごといへるは、周の人の言にて、そは殷の過たるにはあらず、周の神を尊む事のたらざるにこそあれ、まことの道より見れば、殷の代も猶たらざりけむを、過たりとしもいへるは、聖人のさかしらの増長《イヤマシ》て、神をかろしめたる也けり、
 
    言をもじといふ事
歌のみそぢひともじを、近きころ古學するともがらは、字といふことをきらひて、卅一言といひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみいふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、いにしへよりかくいへり、すべてもじといふは、文字の字の音にて、御國言にはあらざれども、もんじといはずして、もじといへば、字の音共聞えず、御國言めきてきこゆる、此外にも、ほうしせにふみなどのたぐひ、字の音をなほして、やがて御國言に用ひたる例多かり、されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばといひてわろき所をば、もじといへることおほし、のもじをもじなどいふ類也、これらをも、近く古學の輩の、のゝ語をの語などいふなるは、中々にからめきてぞ聞ゆる、源氏物語などには、別《ワカレ》といふことをすら、わかれといふもじといひ、葵(ノ)卷には、今はさるもじいませ給へなどあるも、さる詞といふこと也、かく詞といひてもよきをだに、もじといへることあれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、さら也、
 
    あらたなる説を出す事
ちかき世、學問の道ひらけて、大かた萬(ヅ)のとりまかなひ、さとくかしこくなりぬるから、とり/”\にあらたなる説を出す人おほく、其説よろしければ、世にもてはやさるゝによりて、なべての學者、いまだよくもとゝのはぬほどより、われおとらじと、よにことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひ也、其中には、ずゐぶむによろしきことも、まれにはいでくめれど、大かたいまだしき學者の、心はやりていひ出ることは、たゞ人にまさらむ勝《カタ》むの心にて、かろ/”\しく、まへしりへをもよくも考へ合さず、思ひよれるまゝにうち出る故に、多くはなか/\なるいみしきひがことのみ也、すべて新なる説を出すは、いと大事也、いくたびもかへさひおもひて、よくたしかなるよりどころをとらへ、いづくまでもゆきとほりて、たがふ所なく、うごくまじきにあらずは、たやすくは出すまじきわざ也、その時には、うけばりてよしと思ふも、ほどへて後に、いま一たびよく思へば、なほわろかりけりと、我ながらだに思ひならるゝ事の多きぞかし、
 
    からぶみよみのことば
漢籍《カラブミ》をよむに、よのつねにことなる語の多きは、いとふるくよりよみ來つるまゝの古語なるが、後に音便にくづれたる也、曰をのたうまくとよむは、のたまはくの音便也、又のたばくにても有べし、古言に、たまふをたぶ共いふ故に、萬葉の歌に、のたまはくを、のたばく共よめればなり、故をかるがゆゑにとよむは、かゝるがゆゑになるを、かを一つはぶける也、これは音便といふにはあらず、然而をしかうしてとよむは、しかしてに、うを添たるにて、八日《ヤカ》をやうか、女房《ニヨバウ》をにようばうといふ類也、是以をこれをもてとよまずして、こゝをもてとよむは、古言のまゝ也、古言には、これといふべきを、こゝといへることつねに多し、さて以をもつてとひきつめてよむは、例のいやしき音便也、慮をおもんはかる、以をおもんみるとよむは、おもひはかる、おもひみる也、垂をなん/\とすとよむは、なりなむとす也、然るをなん/\たりともよむはひがこと也、欲をほつすとよむは、ほりす也、件をくだんのとよむは、くだりの也、親をしたしんず、重をおもんず、賤をいやしんずとよむたぐひは、したしみす、おもみす、いやしみすにて、皆古言の格也、又好をよみんず、惡をにくみんずとよむなどは、よみすにくみすにて、これも同じ古言の格なるに、んを添(ヘ)たる也、ときはをときんば、ずはをずんばといふ類も同じ、涙をなんだ、成りぬをなんぬ、畢(ヲハ)りぬををはんぬ、遂《トゲ》にしをとげんじ、成(リ)にしをなりんじとよむたぐひ、音便にんといふこと、猶くさ/”\多し、
 
    音 便 の 事
古語の中にも、いとまれ/\に音便あれども、後の世のとはみな異なり、後(ノ)世の音便は、奈良の末つかたより、かつ/”\みえそめて、よゝをふるまゝに、やう/\におほくなれり、そは漢字三音考の末にいへるごとく、おのづから定まり有て、もろ/\の音便五くさをいでず、抑此音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などをよむには、一つもまじふべきにあらざるを、後(ノ)世の物しり人、その本(ノ)語をわきまへずして、よのつねにいひなれたる音便のまゝによむは、なほざりなること也、すべて後(ノ)世には、音便の言いとく多くして、まどひやすし、本(ノ)語をよく考へて、正しくよむべき也、中にもんといふ音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、こと/”\く後の音便也とこゝろうべし、さてその音便のんの下は、本(ノ)語は清(ム)音なるをも、濁《ニゴ》らるゝ音なれば、皆かならず濁る例也、たとへばねもころといふ言を、後にはねんごろといふがごとし、んの下のこもじ、本(ノ)語は清(ム)音なるを、上のもをんといふにひかれて濁る、みな此格なり、然るを世の人、その音便のときの濁(リ)に口なれて、正しくよむときも、ねもごろと、こをにごるはひがこと也、此例多し、心得おくべし、
 
    官 名 の 事
もろ/\の官名の中に、上つ代より、まさしく官職の名にて有しに、漢字を後にあてたるもあり、又名はふるくて、まさしく官名になれるは後なるもあり、又漢字をもて、新につくりて、それに訓をつけたるもあり、今これらのわきためをいさゝかいはむに、まづ大臣は、いにしへは意富於美《オホオミ》と唱へて、臣《オミ》といふ尸《カバネ》に、大《オホ》といふ言を加《クハ》へて、たふとみたる號也、さる故に此號は、臣《オミ》の尸なる姓の人にかぎれり、大連《オホムラジ》も同じことにて、連《ムラジ》の尸の姓の人に賜ひし號也、然るに古(ヘ)の大臣大連を、官と心得たるはたがへり、大臣をまさしく官名とせられしは、孝徳天皇の御世にて、始めて左右の大臣をおかれたり、これより臣《オミ》の姓に限らず、他尸《アダシカバネ》の姓の人もなれり、さて天智天皇の御世に、内大臣又太政大臣はじまる、そはもと大臣《オホオミ》といへる古(ヘ)の號を、やがて用ひられたる官名なるに、左といひ右といひ、太政といふは、みな漢のにならひたるなづけざまにして、古(ヘ)ざまにはあらず、さて和名抄に、太政大臣は於保萬豆利古止乃於保萬豆岐美《オホマツリゴトノオホマツギミ》とあるは、字につきてまうけられたる訓也、中昔の書どもには、おほきおほいまうちぎみ、又はおほきおとゞなどいへるは、右の訓あまり長き故に、政の字をのぞきたる訓也、また左右大臣は、於保伊萬宇智岐美《オホイマウチギミ》とあるも、官名につきてまうけられたる訓也、但し萬豆岐美《マツギミ》、萬宇智岐美《マウチギミ》は、古(ヘ)の稱にて、麻閇都岐美《マヘツギミ》なるを、音便に然いふ也、まへつぎみといふこと、書紀の景行(ノ)卷の歌に見えたり、さて和名抄には、右のごとく萬宇智岐美《マウチギミ》とあるを、北山抄江次第などに、末布知君《マフチギミ》萬不地起牟多地《マフチキンダチ》など書れたるは、布《フ》不《フ》は假字たがひたり、すべて音便に宇《ウ》と唱ふるは、みな宇《ウ》の假字なりと心得べし、大納言中納言參議少納言、みな漢字を以てつけられたる官にて、訓は字につきてまうけたる也、辨は於保止毛比《オホトモヒ》、これは上つ代よりの官名と聞えたり、意はいかなるにか、いまだ考へ得ず、字もいかなる意をもてあてられたるにか、さだかならず、西宮記北山抄小右記などに、大鞆火之官《オホトモヒノツカサ》と書れたるは借(リ)字也、外記内記大史少史史生官掌など、皆漢ざまなり、もろ/\のつかさの長官を、加美《カミ》といふは古(ヘ)也、次官を須氣《スケ》といふも古きか、判官を萬豆利古止比止《マツリゴトビト》といふは、まうけたる訓也、佐官は訓見えず、佐宇官《サウクワン》といふは、音便に佐《サ》を引ていふ也、八省の中に、大藏は古(ヘ)なり、宮内省《ミヤノウチノツカサ》も古きか、民部兵部はいかならむ、中務式部治部刑部などは漢ざま也、彈正もからざま也、諸職の中に、大膳《オホカシハデ》ふるし、諸寮の中に、大舍人|内藏掃部《ウチノクラカムモリ》大炊|主殿《トノモリ》など古(ヘ)也、内藏《ウチノクラ》は、つねにはたゞ久良《クラ》と唱るは、禁中にていひなれたるまゝ也、掃部はもと蟹守《カニモリ》なるを、加牟毛里《カムモリ》とあるは音便なり、今(ノ)世にかもんといふは、いみしき訛也、諸司の中には、内膳《ウチノカシハデ》造酒《サケ》主水《モヒトリ》などいにしへなり、主水は水取《モヒトリ》也、和名抄にも毛比止里《モヒトリ》とあり、今(ノ)世にもんどゝいふは、いみしき訛なり、近衛兵衛衛門みな漢ざま也、靭負《ユゲヒ》といふは古(ヘ)也、こは由介比《ユゲヒ》とあるを、今(ノ)世にゆきへといふは訛なり、太宰《オホミコトモチ》ふるし、侍從は於毛止比止女宇知岐美《オモトヒトメウチギミ》とある、女(ノ)字いかゞ、中務省侍從は、於毛止比止萬知岐美《オモトヒトマチギミ》、北山抄には、於毛止末布知君《オモトマフチギミ》とあり、右の外にも、官名になれるは後なれど、名は古くして、漢ざまにはあらざる猶多し、又もとより漢字を以てつけられたるは、其名のさまをもてわきまへしるべし、
 
    位階の正從の訓の事
位階の正從の訓、正を於保伊《オホイ》といひ、從を比呂伊《ヒロイ》といふ、こは天武紀十四年に、更(ニ)改(メ)2爵位(ノ)之號(ヲ)1云々、毎(ニ)v階有(リ)2大廣1云々とある、此(ノ)大と廣との訓を、うつし用ひられたる也、これらももとは、於保伎《オホキ》比呂伎《ヒロキ》とぞ唱へけむを、ともに伎《キ》を伊《イ》といふは、彼の音便なり、古今集(ノ)序に、柿本(ノ)人まろを、おほきみつのくらゐとあるは、心得ぬことながら、おほいとかゝずして、おほきと書るは、ふるきにかなへり、
 
    濁る音なき歌
古今集に、同じもじなき歌といふあり、そのたぐひにていはゞ、にごるこゑなき歌もまゝあるもの也、「音羽山おとにきゝつゝ相坂の關のこなたに年をふるかな「こむ世にもはやなりなゝむめのまへにつれなき人を昔と思はむ、など也、なほ有べし、
 
    からうたのよみざま
童蒙抄に、ある人北野にまうでゝ、東行南行雲眇々、二月三月日遲々、といふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはる/”\、きさらぎやよひ日うら/\、とこそ詠ずれと仰られけり云々とあり、むかしは詩をも、うるはしくはかくさまにこそよみあげけめ、詠《ナガ》むるはさらなり、いにしへはすべてからぶみをよむにも、よまるゝかぎりは、皇國言《ミクニコトバ》によめるは、字音《モジゴヱ》は聞にくかりしが故也、然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇國言よりは、字音なるをうるはしきことにし、書よむにも、よまるゝかぎりは、字音によむをよきことゝすなるは、からぶみまなびのためには、字音によむかたよろしき故もあればぞかし、
 
    古今集の長歌の事
古今集の長歌、はじめにのせたるは、いと/\つたなし、其歌に、なにしかも人をうらみむといへること、上下にあひあづからざること也、此二句をのぞきてよけん、又一うたのうちに、思といふ詞九つ有て、いと耳かしましき中に、けなばけぬべく思へどもといへることさへ、二所に重なりてあるはいかにぞや、思へどもといふ句は、猶今一つあり、又思ひは深しといへる句、又とぢめの二句などは、ちからなく聞えて|たゞよは《漂》し、次に貫之の歌、目録ならんからに、事のつゞきざま、むげにことわりなし、忠岑は、一ふし有て聞ゆ、躬恒、なにのふしもなし、伊勢は中によろし、そも/\かくあげつらふは、いとおふけなけれど、なほえあらでなん、
 
    大神宮の茅茸《カヤブキ》なる説
伊勢の大御神の宮殿《ミアラカ》の茅葺なるを、後世に質素を示す戒(メ)なりと、ちかき世の神道者といふものなどのいふなるは、例の漢意にへつらひたる、うるさきひがこと也、質素をたふとむべきも、事にこそはよれ、すべて神の御事に、質素をよきにすること、さらになし、御殿《ミアラカ》のみならず、獻る物なども何も、力のたへたらんかぎり、うるはしくいかめしくめでたくするこそ、神を敬ひ奉るにはあれ、みあらか又獻り物などを、質素にするは、禮《イヤ》なく心ざし淺きしわざ也、そも/\伊勢の大宮の御殿の茅ぶきなるは、上つ代のよそひを重《オモ》みし守りて變《カヘ》給はざる物也、然して茅葺ながらに、その莊麗《イカメシ》きことの世にたぐひなきは、皇御孫《スメミマノ》命の、大御神を厚く尊み敬ひ奉り給ふが故也、さるを御《ミ》みづからの宮殿《ミアラカ》をば、美麗《ウルハシ》く物し給ひて、大御神の宮殿をしも、質素にし給ふべきよしあらめやは、すべてちかき世に、神道者のいふことは、皆からごゝろにして、古(ヘ)の意にそむけりと知べし、
 
    から國の官神事と喪事とをかね行ふ事
周禮といふから書を見れば、大祝小祝の官、もろ/\の神祇祭祀の事をあづかり掌り、又喪事をもあづかり掌るよしいへり、生《イキ》たると死《シニ》たると、淨《キヨ》きと穢《キタナ》きとのわきなくして、皇國のこゝろより見れば、いとも/\穢《ケガ》らはしき國俗《クニワザ》なりけり、
 
    後京極(ノ)攝政の御歌
千五百番の歌合に後京極殿、「雲はるゝ雪の光やしろたへの衣ほすてふ天のかぐ山、持統天皇の大御歌の上二句をかへたるのみなれども、めづらしくとりなし給へる故に、耳にもたゝず、めでたく聞ゆる也、されば判者も難ずることなかりき、
 
    頼朝卿(ノ)靜をめして舞はせられし事
文治二年四月八月、二品并(ニ)御臺所、鶴岡(ノ)宮に參り給ふついでに、靜《シヅカ》女を廻廊にめし出て、舞曲を施さしめ給ふ、去ぬるころより度々仰らるといへども、かたくいなみ申せり、今日座に臨みても、猶いなみ申しけるを、貴命再三に及びければ、仰せにしたがひて、舞曲せり、左衛門(ノ)尉祐經つゞみをうち、畠山次郎重忠銅拍子たり、靜まづ歌を吟出していはく、「よし野山峯の白雪ふみ分て入にし人の跡ぞ戀しき、次に別物(ノ)曲をうたひて後、又和歌を吟じていはく、「しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな、二品仰せにいはく、尤關東の萬歳を祝すべきところに、聞食(ス)ところを憚らず、反逆の義經をしたひ、別(レノ)曲をうたふ事奇怪也とて、御けしきあしかりしに御臺所は、貞烈の心ばせを感じ給ふによりて、二品も御けしき直りにけり、しばしありて、簾中より卯花重(ネ)の御衣をおし出して、纏頭せられけり、上の件は東鑑に見えたり、
 
   同 卿 の 旗
同書(ニ)云(ク)、文治五年六月廿四日、奥州(ノ)泰衡日來隱2容(ス)與州(ヲ)1、科《トガ》已(ニ)軼2叛逆(ニ)1也、仍(テ)爲(メニ)v征v之(ヲ)1、可(キノ)d令(メ)2發向1給(フ)u之間、御旗一流、可2調進1之由、被《ル》v仰(セ)2常胤(ニ)1、絹(ハ)者、朝政依(テ)v召(ニ)獻v之、同七月八日、千葉(ノ)介常胤獻2新調(ノ)御旗(ヲ)1、其長(ケ)任(セテ)2入道將軍家(ノ)【頼義】御旗(ノ)寸法(ニ)1、一丈二尺二幅也、又有2白絲(ノ)縫物1、上(ノ)方(ニ)伊勢大神宮、八幡大菩薩(ト)云々《イヘリ》、下(ニ)縫(ヘリ)2鳩二羽(ヲ)1【相對】云々、
 
   同卿二所莊を建禮門院に奉らるゝ事
同書云、文治三年二月一日、二品以2沒官領(ノ)内二箇所(ヲ)1、可v被v避《サケ》2于建禮門院(ニ)1之由、有2其沙汰1、是(レ)攝津(ノ)國眞井嶋屋兩庄也、元(ハ)者八條(ノ)前(ノ)内府知行(ト)云々《イヘリ》、依(テ)v被(ルニ)v訪(ヒ)2申(サ)彼(ノ)御幽栖(ヲ)1也、
 
    五十日《イカ》百日《モヽカ》の事
同書に、十一月廿九日、新誕若君|五十日《イカ》百日《モヽカノ》儀|也《ナリ》、といへることあり、若君とは實朝公をいへり、此君は、其年の八月九日に生れ給ひて、十一月廿九日は、百十日にあたれり、今の世にも、兒の生れて百十日をいはふは、むかしのいかもゝかの祝(ヒ)なるべし、さて五十日《イカ》と百日《モヽカ》とは別にて、おのおのそのあたれる日にいはへることなりしを、こゝに一度の事にいへるは、そのかみあはせて百十日にあたる日に、一度にいはひたるならはしの有しにこそ、
 
    むかしは錢すくなかりし事
おなじ書に、上品(ノ)八丈絹六匹、代百廿文、【各廿文】紺布二反、【無文】代四文とあり、むかしは錢のいと/\すくなかりしほど、これにてしるべし、又同書に、工藤(ノ)庄司景光着(シ)2佐與美《サヨミノ》水干(ヲ)1、といふこと見ゆ、今の世に、布に細目《サイメ》といふがあるは、此さよみの訛れる名なるべし、
 
    實名をよぶをなめしとする事
同じ書に、平(ノ)政子が頼家を諌めたる語に、源氏等(ハ)者幕下(ノ)之一族、北條(ハ)者我(ガ)親戚也、仍(テ)先人頻(リニ)被《レ》v施(サ)2芳情(ヲ)1、常(ニ)令(メ)v招2座右(ニ)1給(ヘリ)、而(ルニ)今於(テ)2彼(ノ)輩等(ニ)1、無(ク)2優賞1、剰(ヘ)皆令(メ)v喚(ハ)2實名(ヲ)1給(フ)之間、各以(テ)貽(スノ)v恨(ヲ)之由、有(リ)2其聞(エ)1、とあり、人の實名をよぶことをば、無禮《ナメ》しとすること、これにても知べし、
 
    年(ノ)始に病を歡樂といふ事
同書(ニ)云(ク)、承元二年正月十一日云々、依(テ)2將軍(ノ)家御歡樂(ニ)1、延(テ)及2今日(ニ)1、今の世にも、年のはじめには、病といふことをいみて、御歡樂といふならはしのこれり、
 
    清水寺の敬月ほうしが歌の事
承久のみだれに、清水寺の敬月法師といひけるほうし、京の御方にて、官軍にくはゝり、宇治におもむきけるを、かたきにとらはれて、殺さるべかりけるに、歌をよみて、敵泰時に見せける、「勅なれば身をばすてゝきものゝふの八十宇治川の瀬にはたゝねど、かたき此歌にめでゝ、命ゆるして、遠流にぞしたりける、此事も同じ書に見ゆ、
 
    鎌倉中酒壺の數
同書に、建長四年九月卅日、鎌倉中所々、可(キノ)v禁2制(ス)沽(ルコトヲ)1v酒(ヲ)之由、仰(ス)2保々(ノ)奉行人等(ニ)1、仍(テ)於(テ)2鎌倉中所々(ノ)民家(ニ)1、所v註(ス)之酒壺、三萬七千二百七十四口(ト)云々《イヘリ》、
 
    北條時頼がいまはの詞
同書に、弘長三年十一月廿二日、北條(ノ)時頼入道、最明寺におきて身まかりける時の頌とて、葉鏡高(ク)懸(リ)、三十七年、一槌打碎(キテ)、大道坦然(タリ)、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重とあり、北條足利の世のほどは、たかきもみじかきも、人みな殊に禅法にまどへりしかば、死なむとするきはに、かゝるさとりがましきいつはり言《ゴト》するを、いみしきわざに思ひためり、いとうるさく、かつはをこなるわざなりけり、
 
    宗尊(ノ)親王の北の方を御息所と申せし事
同じ書に、鎌倉の宗尊(ノ)親王の北の方を、みな御息所と記せり、そのかみさぞ申しけむ、そも/\御息所とは、皇子皇女をうみ奉り給へる女御更衣などをこそ申しつれ、親王の北(ノ)方をしも申せりしは、いたく轉《ウツ》り來ぬる稱《ナ》なりかし、又東宮の妃《ミメ》を御息所と申すことゝ心得たるも、後世のこと也、
 
 
玉かつま二の卷
 
     櫻の落葉二
 
なが月の十日ごろ、せんざいの櫻の葉の、色こくなりたるが、物がなしきゆふべの風に、ほろほろとおつるを見て、よめる
    花ちりし同じ梢をもみぢにも
        又ものおもふ庭ざくらかな
これをもひろひいれて、やがて卷の名としつ、
 
     御即位後奉幣諸神祝詞
小右記(ノ)、長和五年のところに云く、御即位(ノ)後、奉2幣(ノ)天下(ノ)諸神(ニ)1祝詞、天皇【我】詔旨【登】《スメラガオホミコトラマト》、皇神等廣前《スメカミタチノヒロマヘ》【に】、稱辭言奉申給【久】《タヽヘコトヲヘマツリマヲシタマハク》、高天原【爾】神留坐【タカマノハラニカムツマリマス】、皇親神漏伎神漏美【乃】命以《スメラガムツカムロギカムロミノミコトモテ》、事寄給【部流】《コトヨサシタマヘル》、豐葦原瑞穂【乃】國【乃】《トヨアシハラノミヅホノクニノ》、天【乃】日嗣高御座【乃】《アマノヒツギタカミクラノ》次々、自《ヨリ》2去四月廿八日《イニシウヅキノハツカアマリコヽノカノヒ》1、食國天下之政《ヲスクニアメノシタノマツリゴト》依《ヨリテ》2所聞食《キコシメスニ》1、其状申給【止】《ソノサママヲシタマフト》、散位正六位上大中臣(ノ)朝臣高邦【を】差使【弖】《サシツカハシテ》、禮代幣帛《ヰヤシロノミテグラ》【を】令《シメテ》2捧持《サヽゲモタ》1奉給【布】《タテマツリタマフ》、天皇御命《スメラガオホミコト》【を】、申給【久】《マヲシタマハク》と申《マヲス》、今案、件(ノ)文(ハ)祝詞也、非(ズ)2宣命(ニ)1とあり、稱辭言奉申給ハ、言(ノ)字は竟の誤なるべし、言(ノ)字あまりて、竟《ヲヘ》といふことたらざれば也、又申といふ言もあまれり、奉《マツリ》v申《マウシ》かとも思へど、それも古(ヘ)には例なきこと也、さて又次々も聞えず、次隨々《ツイデノマニ/\》など有けむが、字の落たるなるべし、四月廿八日は、正月廿九日の誤(リ)也、これらは、善本《ヨキマキ》には然ぞあるべき、そも/\祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎ/\につたなくなりて、大かた語のとゝのはで、ことわり聞えがたきこともおほかるを、こまかにさだする人もなきは、古意にうとく、古言をしらざるが故也、これらは詞にあやをなせる物にて、古(ヘ)のはみないとめでたかりしものを、かくのみなほざりになりゆくがうれたさに、今ことのついでに、いさゝかおどろかしおく也、同じ記のつゞきに又いはく、天慶九年四月十五日(ノ)外記(ノ)日記(ニ)云(ク)、天皇即位、仍(テ)爲(メニ)v奉(ラムカ)2五畿内七道諸國(ノ)天神地祇(ニ)幣帛(ヲ)1、【五畿内(ハ)、以2諸司(ノ)物(ヲ)1宛用、諸國(ハ)、以2當正税(ヲ)1宛用之、】使毎(ニ)v道|差《サス》2神祇(ノ)中臣齋部等(ヲ)1、【各給2驛鈴一口(ヲ)1但(シ)不v給2畿内(ノ)使(ニハ)】また奉2幣(ノ)五畿七道諸國(ノ)諸神(ニ)1日、廢務有(リ)無(シノ)事、天緑元年三月廿日辛酉、終日雨降(ル)、上卿不參、仍(テ)無(シ)v政也、今日被《ル》v發d遣(セ)天皇御即位(ノ)之後(ノ)、依(テ)2先例(ニ)1五畿七道諸國(ノ)諸名神(ニ)奉幣(ノ)之使(ヲ)u也、件(ノ)使等、依(テ)2神祇官先日差(シ)申(スニ)1、以2大中臣齋部等(ヲ)1爲2其官(ト)1、符(ヲ)給2諸國(ニ)1、但(シ)從(リ)2神祇官1立(ツ)2件(ノ)使等(ヲ)1、また、畿内七道(ノ)使(ノ)官符八枚、七道(ノ)幣料、以2正税(ヲ)1可(キ)v宛v之(ニ)官符五枚等也、合(セテ)十五枚、と見えたり、此記は、後(ノ)小野(ノ)宮(ノ)右大臣實資公の日記也、
 
    圓融太上天皇紫野御子日の事
同じ記に云く、永觀三年二月十三日戊子、巳(ノ)時許(リ)參(ル)v院(ニ)、今日御子日也、御(シ)2御車(ニ)1令(メ)v向(ハ)2紫野(ニ)1給(フ)、左右丞相大納言爲光朝光【大將】、濟時【大將】、中納言範文【途中布衣】忠清顯光重光保光、右近(ノ)權中將義懷【散三位布衣】、參議忠清【右衛門督布衣】公季【布衣】、右近(ノ)中將道隆【散三位布衣】、公卿皆騎馬、着2直衣(ヲ)1着2下重(ヲ)1、以v纓(ヲ)柏※[手偏+乘の八のないの](ニス)、左大臣追(テ)候2野口(ニ)1、太上皇於2野口(ニ)1乘2御御馬(ニ)1、右衛門(ノ)尉惟風左馬(ノ)允親平等、爲2御馬(ノ)※[有+龍](ト)1、殿上(ノ)侍臣皆悉(ク)布衣、京路野邊、見物車如(シ)□、即御(ス)2御在所(ニ)1、其御装束、立v幄(ヲ)敷2板敷(ヲ)1、又立2簾臺(ヲ)1懸2御簾(ヲ)1、其中(ニ)立2輕幄(ヲ)1、【南向】其東(ヲ)爲2公卿(ノ)座(ト)1、【南向】其幄東又立v幄、【子午妻】爲2侍臣(ノ)座(ト)1、御前(ノ)四方立2屏幔(ヲ)1、御前(ニ)植2小松(ヲ)1、御在所(ノ)幄(ノ)後(ニ)立2膳所(ノ)幄(ヲ)1、御厨子所供2御膳(ヲ)1、【懸盤】陪膳權中納言顯光、【顯光重光保光着2布袴(ヲ)l】次(ニ)居2公卿及(ビ)侍臣(ノ)衝重(ヲ)1、一巡(ノ)之後、大納言爲光以下侍從等、起(テ)v坐(ヲ)執2籠物十捧及折櫃四本(ヲ)1、列2御前(ニ)1、左大臣於2御前(ニ)1問曰、各稱v名|云々《トイヘリ》、【左大臣所v儲也、】次(ニ)居2檜破子(ヲ)於御前(ニ)1、左大將并(ニ)正清懷遠時通下官等(カ)所2調儲1也、召2和歌(ノ)人(ヲ)於御前(ニ)1【先(ヅ)給v座、】兼盛(ノ)朝臣、時文(ノ)朝臣、元輔(ノ)眞人、重之(ノ)朝臣、曾禰(ノ)善正、中原(ノ)重節等也、公卿達稱(シテ)v無(シト)2指(セル)召(シ)1、追2立(ツ)善正重節等(ヲ)1、時通(ノ)曰(ク)、善正(ハ)已(ニ)在2召人内(ニ)1云々《トイヘリ》、召(テ)2兼盛(ヲ)1、左大臣仰(ス)d可v獻2和歌(ノ)題(ヲ)1之由(ヲ)u、即獻(テ)曰(ク)於(テ)2紫野(ニ)1翫(フ)2子日(ノ)松(ヲ)1者《テヘリ》、以2兼盛(ヲ)1令v獻2和歌(ノ)序(ヲ)1、此(ノ)間(ニ)有2蹴鞠(ノ)事1、左大將左衛門督源中約言兩三位藤宰相余及(ビ)殿上(ノ)侍臣等蹴鞠(ノ)事、及(ブ)2黄昏(ニ)1、仰(ニ)曰(ク)、至(テハ)2于和歌(ニ)1、於(テ)v院(ニ)可獻序置和歌等各者、秉燭(ニ)還2御本院(ニ)1、召2公卿(ヲ)於御前(ニ)1、有2歌遊(ノ)之事1、召(テ)v余(ヲ)爲2和歌(ノ)講師(ト)1、右大臣以下獻2和歌(ヲ)1、左大臣不v獻、如何々々、左右(ノ)兩丞相(ニ)賜2御衣(ヲ)1、納言以下(ニハ)賜2白※[衣+卦](ヲ)1、侍臣(ニハ)疋絹、又給2御隨身1、深更各々分散、御2紫野(ニ)1之間、從(リ)v内使(トシテ)2右近少將信輔(ヲ)1有2御訪(ヒ)1、即召(シ)2御簾(ノ)外(ニ)1、給(テ)2圓座(ヲ)1申(ス)2御消息(ヲ)1、余執(テ)v録(ヲ)被(ク)v之(ヲ)、拜舞(ノ)之間、失禮太(ハタ)多(シ)、今日四位五位六位皆着(ル)2綾羅(ヲ)1、如何《イカヾ》、下官着2白襖薄色(ノ)狩袴(ヲ)1也、
 
    長保元年女御入内料(ノ)屏風(ノ)歌事
同記(ニ)云(ク)、長徳五年十月廿八日、彼(レ)此(レ)云(ク)、昨(フ)於(テ)2左府(ニ)1撰2定(ス)和歌(ヲ)1、是(レ)入内女御料(ノ)屏風(ノ)歌(ナリ)、花山(ノ)院(ノ)法皇、右衛門(ノ)督公任、左兵衛督高遠、宰相中將齊信、源宰相俊賢、皆有2和歌1、上達部依(テ)2左府(ノ)命(ニ)1獻(ルコト)2和歌(ヲ)1、往古不(ル)v聞事|也《ナリ》、何況(ンヤ)於(テヲヤ)2法皇(ノ)御製(ニ)1哉、又有(ト)2主人(ノ)和歌(モ)1云々《イヘリ》、今夕有(リ)d被《ルヽノ》v催(サ)2和歌(ヲ)1之御消息u、令(メヌ)v申(サ)2不堪(ノ)由(ヲ)1、定(メテ)有(ンカ)2不快(ノ)之色1歟、此(ノ)事不(ル)2甘心(セ)1事|也《ナリ》、云々同卅日云々、右大辨行成書2屏風(ノ)色紙形(ヲ)1、華山(ノ)法皇主人(ノ)相府右大將右衛門督宰相中將源宰相(ノ)和歌、書2色紙形(ニ)1、皆書v名(ヲ)、後代已(ニ)失(ヘリ)2面目(ヲ)1、但(シ)法皇(ノ)御製(ハ)不v知(ラ)2讀人1、左府(ノ)歌(ハ)書2左大臣(ト)1、件(ノ)事奇怪(ノ)事也とあり、左府は御堂關白道長公にて、御女上東門院の入内のをりの事也、
 
    内裏燒神鏡燒損事
寛弘二年十一月十五日子(ノ)刻許(リ)云々、内裏燒亡|者《テヘリ》云々、火起(ル)v自2温明殿1、神鏡【所謂恐所】大刀契啓不v能2取(リ)出(スコト)1云々《トイヘリ》、云々十七日云々、定(メ)2申(ス)神鏡燒損(ノ)事(ヲ)1、云々、神鏡大刀并(ニ)契書燒亡(ス)、鏡僅(ニ)有v蔕、自余(ハ)燒損(シテ)無(シ)2圓※[矢+見]1、失(ヘリ)2鏡形(ヲ)1云々、村上(ノ)御記(ニ)云(ク)、天徳四季九月廿四日燒亡云々、廿四日、重光(ノ)朝臣申(テ)云(ク)、罷(リ)2到(テ)温明殿(ニ)1所v求(ル)、見(ル)3瓦(ノ)上(ニ)在(ルヲ)2鏡一面1、【其鏡徑八寸、頭(ニ)雖v有(ト)2一(ノ)疵1、專無(ク)v損(スルコト)2圓※[矢+見]并(ニ)蔕等(ヲ)1、甚以分明(ニ)露出(シテ)、縁2破瓦之上(ニ)1、見(ル)v之(ヲ)者(ノ)無(シ)v不(ルコト)2驚(キ)威《オヂ》1云々、廿五日、清遠伊陟等合申(ス)、又求(メ)2得(タリ)燒鏡一面(ヲ)1云々、故殿(ノ)御日記(ニ)云(ク)、恐所《カシコドコロ》雖v在(ト)2火灰燼(ノ)之中(ニ)1、曽(テ)不2燒損(セ)1云々、【鏡三面(ノ)中、伊勢(ノ)大神、紀伊(ノ)國(ノ)日前國懸云々、如(キハ)2件(ノ)説(ノ)1似(タリ)2三面(ニ)1云々、十二月九日、左(ノ)頭(ノ)中將來(テ)乍(ラ)v立(チ)云(ク)、今日酉(ノ)刻、神鏡自2太政官1奉(ル)v移(シ)2東三條院(ニ)1可(シ)v供2奉(ス)其事(ニ)1者《テヘリ》云々、十日頭(ノ)中將示(シ)送(テ)云(ク)、神鏡、昨奉(ル)v移(シ)、但(シ)開(キ)2舊(キ)御韓櫃(ヲ)1持(テ)、奉(ルノ)v納(メ)2新辛櫃(ニ)1之間、忽然有(リ)v如(キコト)2日光(ノ)照耀(スルカ)1、内侍女官等同(ク)見(ル)、神驗猶新(タナリ)、最是足(レリ)2恐驚(クニ)1者《テヘリ》、と同記に見えたり、
 
    四角四堺(ノ)祭の事
同記(ニ)云(ク)、長和四年四月廿七日、來月一日四角四堺(ノ)祭(ノ)事、依(テ)2光榮(ノ)朝臣(ノ)上奏(ニ)1所v被《ルヽ》v行(ハ)也云々、五月六日、今夜吉平奉2仕(ス)四角(ノ)祭(ヲ)1、枇杷殿(ノ)四角|者《テヘリ》云々、九日、今日公家|被《ル》v行(ハ)2四堺(ノ)祭(ヲ)1、
 
    賀茂行幸の時の宣命
同記に、寛仁元年十一月廿五日、賀茂行幸(ノ)時の宣命、天皇【我】詔旨【止】《スメラガオホミコトラマト》、掛畏【岐】賀茂皇大神【乃】廣前【爾】《カケマクモカシコキカモノスメオホカミノヒロマヘニ》、恐【見】恐【見毛】申賜【倍止】申【久】《カシコミカシコミモマヲシタマヘトマヲサク》、年來【乃】間《トシゴロノアヒダ》、令《シメ》2祈願《イノリネガハ》1給【倍留】事在《タマヘルコトア》【り】、然【毛】驗【久】《シカモシルク》冥助|相通【天】《アヒカヨヒテ》、其驗《ソノシルシ》昭然【奈《ナ》り】、恐由【乎】《カシコキヨシヲ》報賽|【世之女】給【者牟止】《セシメタマハムト》所念行【天奈牟】《オモホシメシテナム》、故是以《カレコヽヲモテ》吉日良辰【を】撰定【天】《エラビサダメテ》、金銀【乃《ノ》】御幣【仁】《ミテグラニ》、錦蓋※[金+芳]《ニシキノキヌガサカザリタテ》釼平釼|唐組平緒《カラクミヒラヲ》、御弓御箭御桙御鏡《ミユミミヤミホコミカヾミ》、并【ニ】種々神寶(クサグサノカムダカラ)、音樂|走馬《ハシリウマ》東遊《アヅマアソビ》等【を】相(ヒ)並(ヘ)而《テ》、唱|進【利天】《タテマツリテ》、行幸給【布】《イデマシタマフ》、又前年【仁】《マタサキツトシニ》、愛宕《オタギノ》郡|一郡【奈加《ヒトコホリナガ》ら】、可(キ)v奉(ル)v寄(セ)之由【を】、令(メ)2祈(リ)申(サ)1給【依利】《タマヘリ》、而(ルニ)件(ノ) 郡(ノ)内【爾《ニ》】所《トコ》v在《アル》【呂《ロ》】、或(ハ)帝王(ノ)城都、或(ハ)明神(ノ)領地、是(レ)萬代相傳(ノ)之處【奈利《ナリ》】、曾(テ)非《アラ》2一人自由(ノ)之地(ニ)1【須《ズ》】、仍(テ)南【者《ハ》】皇城【乃《ノ》】北【乃《ノ》】大路【乃《ノ》】同〔左○〕末【を】限(リ)【天《テ》】、東【波《ハ》】郡(ノ)界(ニ)至(ル)【末天《マデ》】、西【波《ハ》】大宮【乃《ノ》】東(ノ)大路【乃《ノ》】同〔左○〕末【乎《ヲ》】限(リ)【天《テ》】、北【波《ハ》】郡(ノ)界【仁《ニ》】至(ル)【末天《マデ》】、奉(リ)v寄(セ)給【布】《タマフ》、但(シ)此(ノ)内【仁《ニ》】、有《ア》2凌室藏氷(ノ)之邑1【リ】是(レ)又百王(ノ)之職事【奈禮バ】、難(シ)v致(シ)2一時(ノ)改易(ヲ)1之、縱《タトヒ》在(リ)2神郡(ノ)内(ニ)1【止毛《トモ》】、可(シ)v除(ク)2此(ノ)一邑(ヲ)1之、抑上下【乃《ノ》】御社《ミヤシロ》【仁《ニ》】、件(ノ)郡【乎《ヲ》】平均【仁《ニ》】奉(リ)v分(ケ)給(フ)【倍之《ベシ》】、然而【毛】《シカレドモ》、田圃郷邑【乃《ノ》】數【須】《カズ》、忽(チ)以(テ)難(シ)v決(シ)、追(テ)以2後日(ヲ)1【天《テ》】、各可v奉(ル)v界(ヒ)【之《シ》】、皇大神此状《スメオホカミコノサマ》【を】、平【久】安【久】《タヒラケクヤスク》聞(シ)食(シ)【天《テ》】、彌《イヨ/\》垂2感應(ヲ)1【禮天《レテ》】、天皇朝庭《スメラガミカド》【を】、寶(ノ)位無v動(キ)【久《ク》】、常盤堅盤【仁】《トキハカキハニ》、夜守日守【仁】《ヨノマモリヒノマモリニ》、護幸【倍】《マモリサキハヘ》奉(リ)給【比《ヒ》】、四海清平【(仁《ニ》】、萬民安樂【爾之天《ニシテ》】、水旱飢疫【乃《ノ》】難【を】、未兆【仁《ニ》】拂退【介】《ハラヒソケ》、農圃蠶養(ノ)之|業《ワザ》【を】、毎v事【爾】豐(ニ)登【之女天《シメテ》】、唐堯【仁《ニ》】同(ク)v徳(ヲ)之《シ》、漢文【仁《ニ》】)比(ヘ)v名(ヲ)天【《テ》】、叡慮【乃《ノ》】尅念【仁《ニ》】無v違(フコト)【久《ク》】、必然【爾《ニ》】護(リ)惠(ミ)奉(リ)給【倍止】《タマヘト》、恐【見】恐【見毛】申賜【波久止】《カシコミカシコミモマヲシタマハクト》申(ス)、辭別【天】《コトワケテ》申(シ)賜【波久止】《タマハクト》申(サ)【久《ク》】、皇大后【毛《モ》】同【久《ク》】共【爾《ニ》】參《マヰリ》給(へリ)、冥助不v空《ムナシカラ》【須《ズ》】、感應暗(ニ)至(リ)【天《テ》】后※[門/韋](ノ)之月長(ク)明(カ)【仁《ニ》】、母儀(ノ)之風|彌芳【之天】《イヨ/\ハシクシテ》、萬歳千秋【末天仁《マデニ》】、夜(ノ)守(リ)日(ノ)守(リ)【爾《ニ》】、護幸【倍】奉給《マモリサキハヘマツリタマ》【へと】、恐【(見《ミ》】恐【見毛《ミモ》】申(シ)賜【波久《ハク》】と申(ス)、寛仁元年十一月、
 
    御蔭山また桂葵をとる山の事
同記に、寛仁二年十一月廿五日、被《ルヽ》v奉(ラ)v寄(セ)2賀茂上下(ニ)1郷々(ノ)事、可(キ)v定(メ)申(ス)也、栗栖野小野二郷、上下(ノ)社司各申(ス)、但(シ)昨日下(ノ)社司久清進(ル)2解文(ヲ)1、可〔左○〕尋(ルニ)2舊記(ヲ)1、皇大神初(メテ)天2降(リ)給(フ)小野(ノ)郷大原(ノ)御蔭山(ニ)1也|云々《トイヘリ》)、亦栗栖野(モ)、可(シ)v爲(ル)2下(ノ)社(ノ)之山1、有(ルノ)d採(ル)2桂葵(ヲ)1山u之由、先年給(ヘリ)1官符(ヲ)1、仍(テ)件(ノ)小野并(ニ)栗栖野(ノ)郷、可(シ)v爲(ル)2下(ノ)社(ノ)領1者《テヘリ》、
 
    天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命
同記に、天皇【我】詔旨【止】《スメラガオホミコトラマト》、掛畏【岐】其山陵【爾】《カケマクモカシコキソノミハカニ》申(シ)賜【へ止】申(サ)【久《ク》】、公卿議奏【久】《マヘツギミドモハカリマヲサク》、明年【波】《コムトシハ》、天皇【加】御藏《スメラガミトシ》、漸【久】冠年【爾】近給【布倍之】《ヤウヤクカウフリシ玉ハムトシニチカヅキタマフベシ》、 冠者《カウブリハ》成人(ノ)之始【女《メ》】、盛禮【乃《ノ》】嘉事【奈《ナ》り】、來年月【乃《ノ》】吉日良辰【爾《ニ》】、元服【乎《ヲ》】奉(リ)v加(ヘ)【天《テ》】、人望【爾】可(シ)v叶【止《ト》】奏《マヲ》(セリ)、掛畏【支】《カケマクモカシコキ》山陵【乃】廣(キ)助(ケ)【爾《ニ》】依(リ)【天《テ》】、平(ケ)【久《ク》】安(ケク)令2果(シ)行(ハ)1【女《メ》】給【布倍之《フベシ》】、故是以《カレコヽヲモテ》此(ノ)状《サマ》【乎《ヲ》】、官位姓名【乎《ヲ》】差使【天】《サシツカハシテ》、恐【見】恐【見毛】《カシコミカシコミモ》申(シ)賜【波久止《ハクト》】奏《マヲス》、寛仁元年十二月十九日
 
    寛仁二年十月立后節會の夜太閤御歌の事
同記に、寛仁二年十月十六日乙已、今日以2女御藤原(ノ)威子(ヲ)1、立(ツ)2皇后(ニ)2云々、太閤招2呼(テ)下官(ヲ)1云、欲(ス)v讀(マムト)2和歌(ヲ)1、必可(シ)v和(ス)者《テヘリ》、答(テ)云(ク)、何(ゾ)不(ン)v奉v和(シ)乎、又云、誇《ホコリ》【たる】歌【になむ】有【る】、但(シ)非(ズ)2宿搆(ニ)1者《テヘリ》、此(ノ)世【乎ば】、我世【とぞ】思(フ)、望月【乃】、虧【たる】事【も】、無(シ)【と】思(ヘバ)、余申(シテ)云(ク)、御歌優美也、無(シ)v方《カタ》2酬答(セム)1、滿座只可(シ)v誦(ス)2此(ノ)御歌(ヲ)1、元※[禾+眞](カ)菊(ノ)詩、居易不v和(セ)、深(ク)賞歎(シテ)、終日吟詠(スト)、諸卿響2應(シテ)余言(ニ)1、數度吟詠(ス)、太閤和解(シテ)、殊(ニ)不v責(メ)v和(ヲ)とあり、此記、又の名は野府記とも、續水心記ともいふ、水心といふよしは、御祖父大臣の謚の、清慎の二字の偏《ヘン》をとりたる也、
 
又立田川
立田川といふは、前の卷にいへるごとく、山崎川の事なるを、そは今いづれの川ならむ、かのわたりの事、よくもしらで、としごろいふかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかへるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、此川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつもなし、さてつら/\考るに、水無瀬川といふは、後の名にて、此河ぞいにしへの立田川なるべき、此川、山崎と水無瀬とのさかひにあり、山城(ノ)國と津(ノ)國との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津(ノ)國嶋(ノ)上(ノ)郡になん有ける、今は狹《セバ》き河なれど、かなたこなたの堤たかくて、水はよろしきほどの流れなるを思ふに、古(ヘ)はやゝひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくはなしつるなるべし、さて立田川によみ合せたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城(ノ)國乙訓(ノ)郡、自(リ)2玉手1祭(リ)來(ル)酒解(ノ)神社、【名神大月次新嘗】これを續後記又臨時祭式などに、山崎(ノ)神ともあれは、此神社によりたる名にて、すなはち山崎山のことにぞあるべき、此社は、すなはち今の山崎天王なりともいへり、然るに今水無瀬の里を過て、はるかにあなたに、神内《カウナイ》村といふ有て、そのほとりに、ちひさき森のかたも有て、これなむ神なびのもりなるといふなれど、そこにては、古の歌どもにかなはず、其ちかきほどには川もなし、思ふに、神内《カウナイ》といふは、後に地《トコロ》をうつして、古(ヘ)の名をのこしたる物にやあらん、かの森のかたは、さて後につくりたるにも有べし、古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云々とあるは、山崎をはなれて、あなたなるやうに聞ゆるは、同じ山ざきの内ながら、其里よりかの森までといふなるべし、
 
    水 無 瀬 川
いにしへにみなせ川といひしは、一つの川の名にはあらず、いづれにまれ、水のなき川といふことにて、あるは砂の下を水はとほりて、うはべに水なき川をもいへり、萬葉四に、「戀にもぞ人はしにする水瀬《ミナセ》川下ゆわれ瘠《ヤス》月に日にけに、十一に、「こちたくは中はよどませ水無《ミナシ》河たゆとふことをありこすなゆめ、又「うらぶれてものは思はじ水無瀬川有ても水はゆくちふ物を、古今集戀二に、「ことに出ていはぬばかりぞみなせ川下に通ひて戀しき物を、戀五に、「逢見ねば戀こそまされ水無瀬河なにゝふかめて思ひそめけむ、又「みなせ河有てゆく水なくはこそつひに我身をたえぬと思はめなどある、皆其意也、又萬葉十に、「久かたの天のしるしと水無河へだてゝおきし神代し恨めし、これは天の川をいへるにて、まさしく水のなきよし也、然るに右の歌どもを皆、かの山崎のあなたなる水無瀬川と心得たるは、ひがこと也、山ざきのあなたなるは、古(ヘ)は山崎川とも、立田川ともいへりしこと、上(ノ)件にいへるがごとくにて、みなせ河といふは、古今集などのころよりは後の名也、そは類聚國史に延暦弘仁のころ、天皇|水成《ミナシ》野に遊獵有し事、たび/\見えて、水成《ミナシ》村ともあり、すなはち今の水無瀬也、然れば此地(ノ)名によりて、後にかの川の名にもなれるなりけり、さて水成と書るは、みなしとよむべき也、萬葉に水無川と書るも、然よむべし、成無などは、なせとはよみがたければ也、されどかの地(ノ)名も、又川にいへるもともに、古(ヘ)よりみなし共みなせとも、通はしいへりと聞えたり、
 
    兩部唯一といふ事
天下の神社のうち、神人のみつかふる社を、俗《ヨ》に唯一といひ、法師のつかふる社を、兩部といふ、又兩部神道とて教ふる一ながれもあり、兩部とは、佛の道の密教の、胎藏界金剛界の兩部といふことを、神の道に合せたるを、兩部習合の神道といへり、かの兩部を以て、神道に合せたるよし也、部(ノ)字にて心得べし、神と佛とをさしていふ兩にはあらず、さて又唯一といふは、兩部神道といふものゝあるにつきて、その兩部をまじへざるよし也、されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は、兩部神道有ての後也、然るに此名を、兩部に對へたるにはあらず、天人唯一の義也といひなせるは、いみしきひがこと也、天と人とひとつ也とは、いかなることわりぞや、そはたゞ天をうへもなくいみしき物にすなる、漢意よりいひなしたることにて、いたく古(ヘ)の意にそむけり、抑天は、天つ神たちのまします御國にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ、世の物しり人みな、古ヘのこゝろをえさとらず、ひたぶるに漢意にまどへるから、何につけても、ことわり深げなることを説むとて、しひてかゝることをもいふにぞ有ける、
 
    道にかなはぬ世中のしわざ
道にかなはずとて、世に久しく有(リ)ならひつる事を、にはかにやめむとするはわろし、たゞそのそこなひのすぢをはぶきさりて、ある物はあるにてさしおきて、まことの道を尋ぬべき也、よろづの事を、しひて道のまゝに直しおこなはむとするは、中々にまことの道のこゝろにかなはざることあり、萬の事は、おこるもほろぶるも、さかりなるもおとろふるも、みな神の御心にしあれば、さらに人の力もて、えうごかすべきわざにはあらず、まことの道の意をさとりえたらむ人は、おのづから此ことわりはよく明らめしるべき也、
 
    道をおこなふさだ
道をおこなふことは、君とある人のつとめ也、物まなぶ者のわざにはあらず、もの學ぶ者は、道を考へ尋ぬるぞつとめなりける、吾はかくのごとぐ思ひとれる故に、みづから道をおこなはむとはせず、道を考へ尋ぬることをぞつとむる、そも/\道は、君の行ひ給ひて、天の下にしきほどこし給ふわざにこそあれ、今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこゝろにあらず、下なる者はたゞ、よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ、古(ヘ)の道を考へ得たらんからに、私に定めて行ふべきものにはあらずなむ、
 
    宗祇ほうしが生れし所
宗祇法師が生れし家の跡とて、紀の國在田(ノ)郡藤並(ノ)庄下津野村の、民どもの屋どころの内に、五十間に四十間ばかりの地ありと、かの國の事どもしるせる物にしるしたり、
 
    から國聖人の世の瑞といふもの
もろこしの國に、いにしへ聖人といひし者の世には、その徳にめでて、麒麟鳳凰などいひて、こと/”\しき鳥けだ物いで、又くさ/”\めでたきしるしのあらはれし事をいへれども、さるたぐひのめづらしき物も、たゞ何となく、をり/\は出ることなるべきを、たま/\出ぬれば、徳にめでて、天のあたへたるごといひなして、聖人のしるしとして、世の人に、いみしき事に思はせたるもの也、よろづにかゝるぞ、かの國人のしわざなりける、
 
    姓 氏 の 事
今の世には姓《ウヂ》しられざる人のみぞおほかる、さるはいかなるしづ山がつといへども、みな古(ヘ)の人の末にてはあるなれば、姓のなきはあらざ(ン)なる事なるを、中むかしよりして、いはゆる苗字をのみよびならへるまゝに、下々なるものなどは、こと/”\しく姓と苗字とをならべてなのるべきにもあらざるから、おのづから姓はうづもれ行て、世々をへては、みづからだにしらずなれる也、さて後になりのぼりて、人めかしくなれる者などは、姓のなきを、物げなくあかぬ事に思ひては、あるは藤原、あるは源平など、おのがこのめるを、みだりにつくこといと多し、すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏たゞしからず、皆いとみだりがはしくぞなれりける、その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平也、そはいにしへのもろ/\の氏々は絶て、此三氏《ミウヂ》のかぎり多くのこれるにやと思へば、さにはあらず、中昔よりして、此三うぢの人のみ、つかさ位高きは有て、他《ホカ》のもろ/\の氏人どもは、皆すぎ/\にいやしくのみなりくだれるから、其人は有(リ)ながら、其姓はおのづからかくれゆきて、をさ/\しる人もなく、絶たるがごとなれる也、又ひとつには、近き世の人は、古(ヘ)のもろ/\の姓をば、しることなくして、姓はたゞ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古(ヘ)のもろ/\の姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬる也、又古(ヘ)の名高くすぐれたる人をしたひては、その子孫ぞといひなして、學問するものは、菅原大江などになり、武士は多く源になるたぐひあり、すべて近き世は、よろしきほどの人々も、たゞ苗字をなんむねとはして、姓はかへりて、おもてにはたゝざるならひなる故に、おのが心にまかせて物する也、さて又ちかき年ごろ、萬葉ぶりの歌をよみ、古學をする輩は、又ふるき姓をおもしろく思ひて、世の人のきゝもならはぬ 、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢學者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐひにて、いとうるさく、その人の心のをさなさの、おしはからるゝわざぞかし、いにしへをしたふとならば、古(ヘ)のさだめを守りて、殊にさやうに、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日(ノ)前の探湯《クカダチ》をもおそれざ(ン)なるは、まことに古(ヘ)を好むとはいはるべしやは、そも/\姓は、先祖より傳はる物にこそあれ、上より賜はらざらむかぎりは、心にまかせて、しかわたくしにすべき物にはあらず、まことに其姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおほぢ父の世より、なのり來《キ》てあらんは、なほさても有べきを、おのがあらたに物せむことは、いと/\あるまじきわざになむ、姓しられざらんには、たゞ苗字をなのりてあらむに、なでふことかはあらん、すべて古(ヘ)をこのまむからに、よろづをあながちに古(ヘ)めかさむとかまふるは、中々にいにしへのこゝろにはあらざるものをや、
 
    又
よに源平藤橘とならべて、四姓といふ、源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さもいひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬるは、いかなるよしにかあらむ、おもふに嵯峨(ノ)天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓のことは、もろこしぶみにさへいへる、そはむかしこゝの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるした(ン)なるを、かしこまでしられたることゝ、よにいみしきわざにぞ思ふめる、すべて何事にまれ、こゝの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしきことにおもふなるは、いとおろかなることなり、すべてかの國の書には、その國々の人の、語れる事を、きけるまゝにしるせれば、なにのめづらしくいみしきことかはあらむ、
 
    苗  字
藤原源などは、世に同じ氏の人、數ならずおほかれば、その内を苗字して分ざれば、いとまぎらはしきまゝに、つねにその苗字をのみよびならひて、むねとなれる、これおのづから必しかるべきいきほひにして、今は此苗字ぞ、姓の如くなれりければ、姓のしられざらん人などは、苗字を正しく守るべきわざなりかし、さてこの苗字の苗(ノ)字は、よしなきこと也、こはもと名字なりけむを、然書ては、名又あざなにまぎるゝ故に、かきかへたる物なるべし、名字とかゝむも、あたれるにはあらざれども、中昔には、名をも又姓と名とをつらねても、ひろく常に名字といひつれば、姓の小分《コマワケ》をも、同く然いひならへりし也、又今の人、おのが子のことをも、父の事をも、同苗といふ、これもゝと同名にて、同姓のよしなり、
 
    あざ名といふ物の事
あざ名といふもの、かの文琳菅三平仲などのたぐひのみにもあらず、古(ヘ)より、正しき名の外によぶ名を、字《アザナ》といへること多し、中むかしには、今のいはゆる俗名をも、字といへることあり、其外にも田地の字、何の字くれの字などいふも、皆正しく定まれる名としもなくて、よびならへるをいへり、いづれも漢國人の字とはこと/\也、そが中に、今の俗名をいへるは、漢人の字とこゝろばへ似たり、
 
    歌書の註を抄となづくる事
むかしより、歌ぶみの註を抄といひて、其名をもおほく某《ナニ》抄とつくる、抄の字は、註釋にはあたらざれども、もろこしよりして、佛ぶみには、其書のさまにかゝはらで、記とも集とも抄とも名けたる、つねの事なれば、歌ぶみの註を抄といふも、もと佛書の名どもにならへるものなるべし、
 
    久安五年忠通公任太政大臣宣命
兵範記にいはく、久安五年十月廿五日云々、今日任2太政大臣1云々、節會如(シ)v例(ノ)、右大臣爲(リ)2内辨1、左宰相中將經宗(ノ)朝臣爲(リ)2宣命使1、其文(ニ)云(ク)、天皇【我】詔旨《スメラガオホミコトラマ》【と】勅御命【乎】《ノリタマフオホミコトヲ》、親王諸王諸臣百官人等、天(ノ)下(ノ)民衆聞食《オホタカラモロ/\キコシメセ》【と】宜《ノル》、攝政從一位藤原(ノ)朝臣|者《ハ》、宗門相(ヒ)繼(キ)【天《テ》】、國【乃《ノ》】賢佐【奈《ナ》リ】忠貞【乃《ノ》】心【を】持【天《テ》】、先々【乃】御世《サキ/”\ノミヨ》守【リ】、天(ノ)下【乃《ノ》】政【を】相穴【奈比】《アヒアナナヒ》、助(ケ)奉【る】事【も】久【之《シ》】、因(リ)v茲(ニ)【天《テ》】太上天皇【乃《ノ》】傳國【乃《ノ》】詔命【爾《オホミコトニ》も】、攝政(ノ)之職【に】治賜《ヲサメタマヒ》【つる】事在(リ)【之加《シカ》ば】、朕【加《ワガ》】踐祚(ノ)乃始(メ)、萬磯【を】□折【之者】功績□古(タリ)、加之《シカノミナラズ》襁褓|爾【《ニ》】在(リ)之【《シ》】時【與《ヨ》リ】輔導保護|仕奉《ツカヘマツル》【古《コ》と】年久(シ)、君臣(ノ)之道【乎《ヲ》】雖v存(スト)【も】、孫祖(ノ)之義尤厚【之《シ》】、頃年《トシゴロ》【も】、舊例|【乃《ノ》】任《マヽ》爾【《ニ》】早【久《ク》】太政大臣【乃《ノ》】官【仁《ニ》】上《アゲ》賜【はむと】念御座《オモホシマシ》【シを】、謙損【乃《ノ》】心|増《マス/\》深《久《ク》シ天《テ》》、先朝【乃《ノ》】御宇【爾《ニ》】、件(ノ)官【を】辭退【せり】、而(レトモ)有(リ)v所v思(フ)【天《テ》】、太政大臣【乃《ノ》】官【爾《ニ》】上《アゲ》給【比《ヒ》】治《ヲサメ》賜【ふと】勅《ノリタマ》【ふ】、但(シ)攝政(ノ)之職(ハ)、今【も】彌益【爾】《イヤマス/\ニ》勤仕奉【禮】《ツトメツカヘマツレ》【と】勅御命《ノリタマフオホミコト》【を】、衆聞食《モロ/\キコシメセ》【と】宣《ノル》、久安五年十月月廿五日 作者大内記長光
 
    行成記書寫の事
同記(ニ)云(ク)、久安五年十一月廿六日、依(テ)v召(ニ)早(ク)參(ル)2鳥羽殿(ニ)1、法皇御(ス)2于北殿(ニ)1、權辨以下執筆(ノ)輩十餘人、同(ク)應(ジテ)v召參候也、權大納言行成(ノ)記、正暦以後五十餘卷、於(テ)2御所(ノ)近邊(ニ)1、被《ル》v書2寫(セ)之(ヲ)1、時々出2御簾中(ニ)1、經2叡覧(ヲ)1、終日書寫、或(ハ)晩頭(ニ)退出(ス)、下官本新共(ニ)返2上(シテ)御所(ニ)1退出(シ)了(ヌ)、廿七日、早旦參2鳥羽殿(ニ)1云々、今日下官十五枚書(キ)了(ヌ)、返上(シテ)、晩頭歸(ル)v京(ニ)、廿八日、早朝參2鳥羽殿(ニ)1、書寫(ノ)功如(シ)2昨日(ノ)l云々、
 
    六條攝政基實公の棺の事
同記(ニ)云(ク)、仁安元年九月廿三日云々、棺(ノ)料(ノ)板四枚、賜(テ)2直《アタヒノ》物(ヲ)1令(メ)2交易(セ)1、仰(セテ)2左近(ニ)1令(ム)2造始(メ)1、寸法、長六尺、弘(サ)二尺、高(サ)一尺六寸、敷(キ)物練絹長(サ)六尺、三幅五卷、野草衣、同絹長(サ)八尺四幅兩卷、【可v書2眞言(ノ)梵字(ヲ)1、】棺(ノ)生絹八尺四幅、黄幡(ノ)科(ノ)白生絹一丈、こは六條(ノ)攝政基實(ノ)おとゞの御料也
 
    神典のときざま
中昔よりこなた、神典《カミノフミ》を説《トク》人ども、古(ヘ)の意言《コヽロコトバ》をばたづねむ物とも思ひたらず、たゞひたぶるに、外國《トツクニ》の儒佛の意にすがりて、其理をのみ思ひさだして、萬葉を見ず、むげに古(ヘ)の意言《コヽロコトバ》をしらざるが故に、かのから意《ゴヽロ》のことわりの外に、別にいにしへの旨《ムネ》ありて、明らかなることをえしらず、これによりて古(ヘ)のむねはこと/”\くうづもれて、顯れず、神の御《ミ》ふみも、皆から意になりて、道明らかならざる也、かくておのが神の御書をとく趣は、よのつねの説どもとはいたく異にして、世々の人のいまだいはざることどもなる故に、世の學者、とり/”\にとがむることおほし、されどそはたゞ、さきの人々の、ひたすら漢意にすがりて説《トキ》たる説《コト》をのみ聞なれて、みづからも同じく、いまだからごゝろのくせの清くさらざるから、そのわろきことをえさとらざるもの也、おのがいふおもむきは、こと/”\く古事記書紀にしるされたる、古(ヘ)の傳説《ツタヘゴト》のまゝ也、世の人々のいふは、みなそのまどひ居る漢意に説曲《トキマゲ》たるわたくしごとにて、いたく古(ヘノ)傳(ヘ)説《ゴト》と異也、此けぢめは、古事記書紀をよく見ば、おのづから分るべき物をや、もしおのが説をとがめむとならば、まづ古事記書紀をとがむべし、此|御典《ミフミ》どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむることえじ、
 
    神祇の歌
風雅集の神祇(ノ)部に、「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりも何かくるしきといふ歌有て、これは和泉式部熊野にまうでたりけるに、さはりにて、奉幣かなはざりけるに、「晴やらぬ身のうき雲のたな引て月のさはりとなるぞかなしき、とよみてねたりける夜の夢に、告させ給ひけるとなんとあり、これいたく道の意にかなはず、佛の意也、中むかしより、なべて世のならひ、として、此和泉式部なども、ほうしのいふことをのみ、つねに聞なれて、佛意《ホトケゴヽロ》の心にそみつきたりしより、さる夢をも見たるにこそ有けめ、神はいかでかかゝる御心ならむ、塵《チリ》にまじはるなどいふことも、からぶみの老子といふに、和光同塵といへることのあるをとりていひ出たるみだりごとにこそあれ、さらに神の御うへになきこと也、ゆめかうやうのひがことにまどひて、神をな穢《ケガ》し奉りそ、又同じ集同じ部に、度會(ノ)朝棟といふ人の歌に、「かたそぎの千木は内外にかはれども誓《チカヒ》はおなじいせの神風と有(リ)、此歌のみならず、すべて神に、誓(ヒ)といひ、あるは跡たれてなどいふ事をよむは、みなひがごと也、中昔よりこなた、ひたすら佛の道の意をもて、神の御事をもよむは、かの本地垂跡の説にまどひて、神も本地はみな佛ぞと心得たるより、いひならひて、伊勢の宮の神づかさなる人さへ、かゝるひがことはせしぞかし、かの佛菩薩のやうなる、誓(ヒ)また垂(ル)v跡(ヲ)などいふことは、すべて神の御うへには、よしもなきことなるをや、又世に何がしの神の御歌ぞ、くれがしの社の御詠ぞなどいふがあるは、おほくはほうしのともがらの、世の人を、おのが道に引入れむ料に、いつはり作れる物也、さるによりさやうの歌は、神の道の意にはかなはず、皆佛意なるぞかし、すべてむかしより僧《ホウシ》の、人をいざなふに、そらごとすることをはゞからぬは、かの釋迦といひし人の、方便といふことにならひてなるべし、
 
    古今集月の歌の事
月をば、秋の題とすることなれども、古今集には、月の歌は雜(ノ)部にいれり、秋(ノ)部にはたゞ五首入て、そは秋といふことある歌、又雁をよみいれたるなどのみなり、
 
    風雅集の歌
風雅集に、後宇多(ノ)天皇の大御歌、「天つ神國つやしろをいはひてぞわがあし原の國はをさまる、これぞ道の意にはよくかなへる大御歌なりける、人の國のごと、くさ/”\こちたきわざはせさせ給はざりしかども、たゞ神をいつきまつり給ひて、天の下のいとよく治まりつるは、神の御國のすぐれたるにて、上つ代はまことにしかこそ有しか、同集賀(ノ)部に、花山(ノ)院(ノ)前(ノ)内大臣、「我君のやまと嶋根を出る月はもろこしまでもあふがざらめや、これも道の意にかなへるうた也、
 
    ふみよむことのたとへ
須賀(ノ)直見がいひしは、廣く大きなる書をよむは、長き旅路をゆくがごとし、おもしろからぬ所もおほかるを經《ヘ》行ては、又おもしろくめさむるこゝちする浦山にもいたる也、又あしつよき人は、はやく、よわきはゆくことおそきも、よく似たり、とぞいひける、おかしきたとへなりかし、
 
    あらたにいひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事
大かたよのつねにことなる、新しき説をおこすときには、よきあしきをいはず、まづ一わたりは、世中の學者にゝくまれそしらるゝものなり、あるはおのがもとよりより來つる説と、いたく異なるを聞ては、よきあしきを味ひ考ふるまでもなく、始めよりひたぶるにすてゝ、とりあげざる者もあり、あるは心のうちには、げにと思ふゝしもおほくある物から、さすがに近き人のことにしたがはむことのねたくて、よしともあしともいはで、たゞうけぬかほして過すたぐひもあり、あるはねたむ心のすゝめるは、心にはよしと思ひながら、其中の疵をあながちにもとめ出て、すべてをいひけたむとかまふる者も有(リ)、大かたふるき説をば、十が中に七(ツ)八(ツ)はあしきをも、あしき所をばおほひかくして、わづかに二(ツ)三(ツ)のとるべき所のあるをとりたてゝ、力のかぎりたすけ用ひんとし、新しきは、十に八(ツ)九(ツ)よくても、一(ツ)二(ツ)のわろきことをいひたてゝ、八(ツ)九(ツ)のよきことをも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用ひず、人にももちひさせじとする、こは大かたの學者のならひ也、然れども又まれ/\には、新なる説のよきを聞ては、ふるきがあしきことをさとりて、すみやかに改めしたがふたぐひも、なきにはあらず、ふるきをいかにぞや思ひて、かくはあらじかとまでは思ひよれども、みづから定むる力なくて、疑はしながら、さてあるなどは、あらたなるよき説をきゝては、かくてこそはと、いみしくよろこびつゝ、たちまちにしたがふたぐひも有かし、大かた新なる説は、いかによくても、すみやかには用ふる人まれなるものなれど、よきは、年をへても、おのづからつひには世の人のしたがふものにて、あまねく用ひらるれば、其時にいたりては、はじめにねたみそしりしともがらも、心には悔しく思へど、おくればせにしたがはむも、猶ねたく、人わろくおぼえて、こゝろよからずながら、ふるきをまもりてやむともがらも多かり、しか世(ノ)中の論さだまりて、皆人のしたがふよになりては、始(メ)よりすみやかに改めしたがひつる人は、かしこく心さとくおもはれ、ふるきにかゝづらひて、とかくとゞこほれる人は、心おそくいふかひなく思はるゝわざぞかし、
 
    又
此ちかき年ごろとなりてはやう/\に古學のよきことを、世にもしれるともがらあまた出來て、物よくわきまへたる人は、おほく契沖をたふとむめり、そも/\契沖のよきことをしるものならば、かれよりもわが縣居(ノ)大人の、又まさりてよきことは、おのづからしるらんに、なほ契沖にしもとゞまりて、今一きざみえすゝまざるは、いかにぞや、又縣居(ノ)大人まではすゝめども、其後の人の説は、なほとらじとするも、同じことにて、これみな俗《ヨ》にまけをしみとかいふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、かならず學者のこゝろは、おほくさるものなりかし、
 
    國を州といふ事
國々の名を、某州《ナニシウ》といふことは、いづれの御代の御さだめにもあらざること也、いにしへは、わたくしの漢文などにこそは、いとまれ/\には見えたれ、たゞしきおほやけの物には、みな某國《ナニノクニ》とのみありて、州といへることはさらに見えず、然るを近き世の人は、かゝる上の御さだめをもわきまへしらず、みだりにからめかすことをのみ好みて、某(ノ)國といふよりは、某州といふをうるはしき事に心得て、いひも書(キ)もすなるはいかにぞや、前後上下などに分れたる國の名の、一字にてはまぎるゝをば、野の上州下州、あるは越前州筑後州なども書(ク)めり、そも/\國の字も州の字も、同じく久爾《クニ》にはあれども、奈良(ノ)御代などよりは、かゝることもみな、その文字を定められて、心にまかせてはかゝざることなるをや、又或儒者のいへるは、國といふは、封建の制にこそあれ、皇朝も、郡縣の制になされたる世には、州などゝこそいふべけれ、國と定められたるは、あたらぬ文字也といへるは、漢國の今までの例になづみて、中々にかの國のこゝろにもあらず、いみしきひがこと也、まづかの國の今までの例とは、封建といひし代には、齊國魯國などいひつれども、いはゆる郡縣になりてよりは、某國といふことは、今までの代々には、例なければ也、されどそれになづめるは、中々にかの國のこゝろにもあらずといふゆゑは、すべてかの國にて、かやうの物の定めは、さき/”\の例にはかゝはらず、其時々の王の心にて、いかにも/\定むる事にて、その定めわろしとても、用ひざるやうはなし、されば地の分ちざまなども、後の代々には、くさ/”\有て、先の代に例なきこともあれど、そはとまれかくまれ、その定めにこそはしたがふなれ、さればそのこゝろをもていはゞ、皇朝にても、天(ノ)下を、かの郡縣の制にならひて定められたりし御代にも、其名をば改めず、なほ古(ヘ)より有(リ)來《コ》しまゝに、某《ナニノ》國と定め給ひたりしも、天皇の大御心にしあれば、なでふことかはあらん、なほいはゞ、から國のこゝろはいかにまれ、それにかゝはるべきことかは、皇國は皇國なる物をや、
 
    儒者名をみだる事
孔丘は、名を正すをこそいみしきわざとはしつれ、此方《コヽ》の近きころのじゆしやは、よろづに名をみだることをのみつとむめり、そが中に、地《トコロ》の名などを、からめかすとて、のべもつゞめもかへも心にまかせて物するなどは、なほつみかろかるべきを、おほやけざまにあづかれる、重き名どもをさへに、わたくしの心にまかせて、みだりにあらため定めて書(ク)なるは、いとも/\可畏《カシコ》きわざならずや、近き世に或(ル)儒者の、今の世は、萬(ヅ)ノ名正しからず、某《ソレ》をば、今はしか/\とはいふべきにあらず、しか/\いはむこそ正しけれ、などいひて、よろづを今の世のありさまにまかせて、例の私に物せるは、いかなるひが心得ぞや、そも/\かの孔丘が名を正せるやうは、諸侯どものみだりなる、當時《ソノトキ》のありさまにはかゝはらずて、ひたぶるに周王のもとの定めをこそ守りつれ、かの或(ル)儒者のごと、古(ヘ)よりのさだめにもかゝわらず、今の名にもしたがはず、たゞ今の世のありさまにまかせて、わたくしにあらたに物せむは、孔丘が春秋のこゝろとは、うらうへにて、ことさらに名をみだることの、いみしきものにこそ有けれ、皇國は、物のありさまは、古(ヘ)とかはりきぬる事も、名は、物のうつりゆく、其時々のさまにはしたがはずして、今の世とても、萬(ヅ)になほ古(ヘ)のを守り給ふなるは、いとも/\有がたく、孔丘が心もていはば、名のいと正しきにこそありけれ、さるをかへりて正しからずとしもいふは、何につけても、あながちに皇國をいひおとさむとする心のみすゝめるからに、そのひがことなることをも、われながらおぼえざるなめり、
 
    忌日祥月年忌の事
今の世に、親先祖のうせぬる日を、忌日といふは、月毎の其日にて、その月のをば殊に祥月《シヤウツキ》とぞいふなる、此祥(ノ)字は、もろこしの小祥大祥よりうつれるなるべし、されど古は、今いふ祥月をこそ、忌日とはしけれ、月ごとの忌日といふは、こゝにももろこしなどにも、なかりしかば、祥月といふことも、ゝとよりなかりし也、むかしは忌月とて、其月の内は、すべてよろづをつゝしみて、その日をば殊に正日といふことは有きかし、されば今祥月といふも、正日の例にて、正月《シヤウツキ》なるべきを、然書(キ)ては、月次の正月にまぎるゝ故に、祥の字は書(ク)にもあらむか、さて月毎の忌日は、もろこしになき事なるを以て、今じゆしやなどは、あるまじき事として、親も先祖も、月毎には死なず、死《シニ》し日は、たゞ一日こそあれ、などいふめるは、一わたりはことわり聞えたれども、もし然いはんには、年毎にも死にはせざれば、年ごとの忌日も、あるまじきことゝやいはまし、すでに年毎の忌日あるうへは、月毎にせむも、何かあしからむ、これはいにしへよりもまさりて、ねもころなるしわざにしあれば、今の世のならひにしたがはんこそ、まさりてはあらめ、又忌日たび/\にては、おのづからまことの忌日の、なほざりになるかたあり、ともいふべけれど、そは今も祥月とて、又ことにすれば、これはたかくるかたはなきぞかし、さて又近き世には、年忌といふわざ有て、一周忌三年忌七年忌十三年忌十七年忌、廿五年忌卅三年忌五十年忌百年忌と、又殊にねもころに物すなる、これはた古(ヘ)はかつてなかりしわざにて、皇國にては、昔は一周忌をはてといひて、殊に物し、もろこしにては、一周忌を小祥といひ、服のはての三年を、大祥といへるのみこそ有けれ、其外佛の道にも、此年忌はなきこと也、然るに此わざ、やう/\にひろごりて、今は佛の諸宗にも、あまねく其祖師などのためにも、遠忌とて、三百年五百年千年などまで、はるかにかぞへ出て、いかめしくおこなふことゝぞなれりける、そも/\此年忌といふわざも、月毎の忌日と同じたぐひにしあれば、古(ヘ)になかりしわざならんからに、すつべきにもあらず、何わざも、昔に異なるをば、ひたぶるにはぶきすてむとするは、よろしからぬさかしら也、そこなひだになくは、時世《トキヨ》のならひにそむかざらむこそよからめ、又事が中には、古(ヘ)よりも、今のしわざのまされるも、などかなからむ、園大暦(ニ)云(ク)、貞和三年九月廿五日、今日竹林院(ノ)入道左大臣(ノ)卅三囘(ノ)忌辰也、因(テ)v茲(ニ)廣義門院就(テ)2于西園寺(ノ)無量光院(ノ)壇場(ニ)1、被《ル》v修2御佛事(ヲ)1、件(ノ)期月佛事、先規未(ト)v詳|云々《イヘリ》、且(ツ)取(テ)2于教内(ニ)1、更(ニ)無(シト)2所見1云々《イヘリ》、然(レトモ)而或(ハ)又有(ル)d營(ム)2此(ノ)事(ヲ)1之人u歟《カ》、予(カ)先妣此(ノ)忌辰、有(リ)2相(ヒ)營(ミシ)事1、所詮幽靈(ノ)之追福、遠近盡(スノ)2懇志(ヲ)1之條、可(キ)v叶(フ)2孝子(ノ)之道(ニ)1歟《カ》とあり、此論おだやかなり、
 
    鏡(ノ)女王 額田(ノ)王
萬葉集に、鏡(ノ)女王、また額田《ヌカタノ》王とある、二人の女王の事、まぎらはし、まづ鏡女王を、鏡王(ノ)女とあるは、皆誤なること、又額田(ノ)王とは別《コト》なることなどは、師の考に辨へられたるが如し、さて古(ヘ)は、女王をも、分て某(ノ)女王とはいはず、男王と同じく、たゞ某(ノ)王といへり、かくて萬葉のころにいたりては、女王をば、皆女王と記せるに、此額田王に女(ノ)字のなきは、古き物に記せりしまゝに記せるなるべし、鏡(ノ)女王は、父の名とまぎるゝ故に、ふるくも女王と記せるなるべし、さて右の二女王、ともに鏡(ノ)王といひし人の女にて、鏡(ノ)女王は姉、額田(ノ)王は弟《オトウト》と聞えたり、父王は、近江國の野洲(ノ)郡の鏡の里に住居《スマ》はれしによりて、鏡(ノ)王といへりと見ゆ、此ほども、居住を以て呼る名の例多し、かくて其女子も、もと父の郷に居住《スマ》はれしによりて、同じく鏡(ノ)王と呼る也、すべて地《トコロ》の名をもてよべるは、父子兄妹など、同じ名なる多し、そは事にふれてまぎるゝをりなどは、女子の方をば、鏡(ノ)女王と書てわかち、つね口には、京人などは、たゞ鏡(ノ)王といひし也、これ古(ヘ)のなべての例也、さて此|姉妹《アネオト》ともに、天智天皇に娶《メサ》れたる人也、萬葉二の卷の十のひらに、天皇の賜へる御歌、御答に奉れる歌、これ鏡女王もめされたる證《アカシ》也、此女王此時は、大和國に居住《スマ》れたりと聞えたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし、この歌の次に、内大臣の聘《ヨバ》ひ給へるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうへの事にても有べし、天武紀に、十二年に、天皇の、此女王の病をとひ給ひし事、又その薨《ミウセ》を記されたるも、天智天皇の妃なるが故也、さて額田(ノ)王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり、萬葉四の卷の十三のひらに、思2近江(ノ)天皇(ヲ)1歌、これその證《アカシ》なり、其次に鏡女王の歌有(リ)、これ又此女王も、天智天皇に娶《メサ》れたる證《アカシ》にて、妹《オトノ》王と共に思ひ奉れる也、さて天武天皇、皇太子におはしましゝほどより、額田(ノ)王に御心をかけられたりし事、同一の卷の十四のひらなる御歌にてしらる、其御歌に、人づまゆゑにとよみ給へるは、天智天皇の妃なるが故也、考の説はたがへり、さて此御歌の此御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事しるべし、かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市(ノ)皇女をうみ奉られし也、
 
    春  記
春記といふふみは、春宮(ノ)大夫資房(ノ)卿のにき也、今の世には、たゞ一卷ならでは傳はらずといへり、おのが見たりし本も、八十五ひら有て、一冊のみなりき、
 
    松嶋の日記といふ物
清少納言が年老て後に、おくの松嶋に下りける、道の日記とて、やがて松しまの日記と名づけたる物、一冊あり、めづらしくおぼえて、見けるに、はやくいみしき僞書《イツハリブミ》にて、むげにつたなく見どころなき物也、さるはちかきほど、古學をする者の作れる口つきとぞ聞えたる、すべて近き年ごろは、さるいつはりぶみをつくり出るたぐひの、ことに多かる、えうなきすさびに、おほくのいとまをいれ、心をもくだきて、よの人をまどはさんとするは、いかなるたふれ心にかあらむ、よく見る人の見るには、まこといつはりは、いとよく見えわかれて、いちじるけれど、さばかりなる人は、いと/\まれにして、えしも見わかぬものゝみ、世にはおほかれば、むげの僞(リ)ぶみにもあざむかれて、たふとみもてはやすなるは、いとも/\かたはらいたく、かなしきわざ也、近きころは、世中にめづらしき書をえうずるともがら多きを、めづらしきは、まことの物ならぬがおほきを、さる心して、よくえらぶべきわざぞかし、菅原(ノ)大臣のかき給へりといふ、須磨の記といふ物などは、やゝよにひろごりて、たれもまことゝ思ひた(ン)める、これはたいみしき僞(リ)書なるをや、かゝるたぐひ數しらずおほし、なずらへて心すべし、
 
    攝  津
津(ノ)國を攝津といふは、もと國の名にはあらず、難波津をつかさどれる官名也、難波は古(ヘ)京師《ミヤコ》に准へて、京職と同じく、攝津職をおかれたる、これむねと難波によれる官にして、津の國の事をも兼掌《カネツカサド》れり、職員令に、攝津職、帶(ス)2津(ノ)國(ヲ)1、とあるをもて心得べし、そのかみ國のことをも、攝津(ノ)國と書る、これも攝津職の掌る國といふ意也、さて攝(ノ)字は、難波と津(ノ)國とを、攝《カネ》て掌るよし也、靜謐の意ぞなどいふはあらず、かくて延暦十三年、停《ヤメテ》v職(ヲ)爲(ス)v國(ト)とありて、それより其官、諸國(ノ)司の列《ツラ》となれり、然れども字はなほもとのまゝに、攝津とかゝれたる故に、後の人皆これを、もとより國(ノ)名と思ふめり、さて文に攝津と書(キ)ながら、職にて有しほども、口によぶ詞には、たゞ津のつかさとぞいひけむ、さらではよぶべきやうなし、國の列《ツラ》になりてはさらなり、然るを俗《ヨ》にせ(ツ)つとしもよむは、いふにたらぬひがことなり、今の世にも、津の國といひ、攝津守などをも、津のかみとよむぞ、正しかりける、むかし女房の名にも、攝津といひし有て、撰集などにも出たり、これもたゞ津とこそはよびつらめ、續世繼に、津のごとぞある、ごは、伊勢のごなどいふご也、
 
    もりに杜の字を書(ク)事
史記の周(ノ)本紀(ノ)贊に、所3謂《イヘル》周公(ノ)葬(レト)2我(ヲ)畢(ニ)1、畢(ハ)在2鎬(ノ)東南(ノ)杜(ノ)中(ニ)1、註に杜(ハ)一作v社(ニ)、また秦(ノ)本紀に、蕩社註に社一(ハ)作v杜(ニ)といへり、これらは、杜と社とは、字の形の似たるによりて、かくたがひに誤れるものか、はた相通ふよし有てかゝるか、もし杜の字、社と通はゞ、もりに殊によし有(リ)、又かの杜(ノ)中とあるは、なにとかやもりめきて聞ゆかし、
 
    うつほ物語の事
うつほの物語、今の世の板本《スリマキ》は、卷の名たがへるあり、その次第《ツイデ》もみだれて、よみつゞけがたし、こゝに田中(ノ)道麻呂が、ふるき善本《ヨキマキ》によりて、正したりし次第は、第一俊蔭、第二【並】藤原(ノ)君、第三【並】たゞこそ、第四梅(ノ)花笠、一名春日まうで、第五さがの院、第六吹上(ケ)上、第七吹上(ケ)下、第八祭の使、第九菊の宴、第十あて宮、第十一初秋、一名とばかりの名月、一名すまひの節會、第十二たづの村鳥、第十三藏開上、第十四藏開中、第十五藏開下、第十六樓の上(ヘ)上、第十七樓の上(ヘ)下、第十八國ゆづり上、第十九國ゆづり中、第二十國ゆづり下、かくのごとくにて、合せて廿卷也、然るに今の本は、嵯峨(ノ)院(ノ)卷を藏開(ノ)下とし、吹上(ノ)卷の上下のついでを誤り、藏開(ノ)下を國ゆづりの下とし、樓の上(ヘノ)卷の上下のついでを誤り、國ゆづり上と中と次第を誤り、同下をさがのゐんとす、これら皆誤(リ)也、然れば今の本の、藏開下はさがのゐん也、吹上の上は下、下は上也、國ゆづり下は藏開下也、樓の上(ヘ)上は下、下は上也、國ゆづり上は中、中は上なり、さがのゐんは國ゆづり下也、と心得べし、又今の本は、わたくしに、一卷なるをも上下にわけ、あるは上下なるを、又分(ケ)などして、合せて三十卷とせり、さて又ふるき一本には、たづのむら鳥を第十一とし、初秋を第十二とし、國ゆづり三卷を、第十六第十七第十八とし、楼(ノ)上(ヘ)の上下を、第十九第廿とせり、これらのついでは、いづれよからむ、おのれいとまなくて、すべていまだえよくもかむかへず、見ん人なほかむかへて定めてよ、そも/\右の考へどもは、同じ尾張(ノ)國人、淺井の某が、此物語を好みて、善本《ヨキマキ》に依て、考へ置たるによれる也と、道まろ云りき、
 
    いせの國なる辛洲(ノ)社
伊勢(ノ)國の壹志(ノ)郡に、辛洲(ノ)社といふあり、ふるき社とは見ゆれど、いかなる神におはすらん、さだかならず、俗《ヨ》には天照大御神の御妹にますと申す也、近きころ、神別本紀となづけたる物を見れば、天照大神の御妹に、可良須女《カラスメノ》命といふあるは、かの俗説《ヨヒトノコト》によりて、造り出たる名也、此書は、書籍目録に此名見えて、世には傳はらぬ書なるを、それなりとして、なまさかしき者の、近き世に僞り作れる物と見えて、後の世めきたる事おほく、すべて取(ル)べくもあらぬことのみ也、
 
    ふみども今はえやすくなれる事
二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、たゞちかき世の歌ふみをのみ學びて、萬葉をまなぶことなく、又神學者といふ物も、たゞ漢ざまの理をのみさだして、古(ヘ)のまことのこゝろをえむことを思はねば、萬葉をまなぶことなくて、すべて萬葉は、歌まなびにも、道の學びにも、かならずまづまなばでかなはぬ書なることを、しれる人なかりき、されば、契沖ほうし、むねと此集を明らめて、古(ヘ)の意をもかつ/”\うかゞひそめて、はし/”\いひおきつれども、歌人も神學者も、此しるべによるべきことをしれる人なかりしかば、おのがわかくて、京にありしころなどまでは、代匠記といふ物のあることをだにしれる人も、をさ/\なかりければ、其書世にまれにして、いと/\えがたく、かの人の書は、百人一首の改觀抄だに、えがたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人にかりて見て、かはゞやと思ひて、本屋《フムマキヤ》をたづねたりしに、なかりき、板本《スリマキ》なるにいかなればなきぞとゝひしかば、えうずる人なき故に、すり出さずとぞいへりける、さてとかくして、からくしてぞえたりける、そのころまでは、大かたかゝりけるに、此ちかき年ごろとなりては、寫本《ウツシマキ》ながら代匠記もおほく出て、さらにえがたからずなりぬるは、古學の道のひらけて、えうずる人おほければぞかし、さるは代匠記のみにもあらず、すべてうつしまきなる物は、家々の記録などのたぐひ、その外の書どもゝ、いと/\えがたかりしに、何も/\、今はたやすくえらるゝことゝなれるは、いともいともめでたくたふとき、御代の御榮《ミサカ》えになん有ける、
 
    おのが物まなびの有しやう
おのれいときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるははか/”\しく師につきて、わざと學問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞからのやまとの、くさ/”\のふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに、十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき、かくてはたちあまりなりしほど、學問しにとて、京になんのぼりける、さるは十一のとし、父におくれしにあはせて、江戸にありし、家のなりはひをさへに、うしなひたりしほどにて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒學をもせむとてなりけり、さて京に在しほどに、百人一首の改觀抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、餘材抄勢語臆斷などをはじめ、其外もつぎ/\に、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やう/\にわきまへさとりつ、さるまゝに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからずおぼえけれど、そのかみ同じ心なる友はなかりければ、たゞよの人なみに、こゝかしこの會などにも出まじらひつゝ、よみありきけり、さて人のよむふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたてゝよむふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける、そはさるべきことわりあり、別にいひてん、さて後、國にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辭考といふ物を見せたるにぞ、縣居(ノ)大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりことゝほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれ/\には、げにさもやとおぼゆるふし/”\もいできければ、又立かへり見るに、いよ/\げにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出來つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ 、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が萬葉の説《トキゴト》は、なほいまだしきことのみぞ多かりける、おのが歌まなびの有りしやう、大かたかくのごとくなりき、さて又道の學びは、まづはじめより、神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有しかど、とりたてゝわざとまなぶ事はなかりしに、京にのぼりては、わざとも學ばむと、こゝろざしはすゝみぬるを、かの契沖が歌ぶみの説になずらへて、皇國のいにしへの意をおもふに、世に神道者といふものゝ説《トク》おもむきは、みないたくたがへりと、はやくさとりぬれば、師とョむべき人もなかりしほどに、われいかで古のまことのむねを、かむかへ出む、と思ふこゝろざし深かりしにあはせて、かの冠辭考を得て、かへす/\よみあぢはふほどに、いよ/\心ざしふかくなりつゝ、此大人をしたふ心、日にそへてせちなりしに、一年此うし、田安の殿の仰(セ)事をうけ給はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと尋ねめぐられし事の有しをり、此松坂の里にも、二日三日とゞまり給へるを、さることつゆしらで、後にきゝて、いみしくゝちをしかりしを、かへるさまにも、又一夜やどり給へるを、うかゞひまちて、いと/\うれしく、いそぎやどりにまうでて、はじめて見え奉りたりき、さてつひに名簿を奉りて、教(ヘ)をうけ給はることにはなりたりきかし、
 
    あがたゐのうしの御さとし言
宣長三十あまりなりしほど、縣居(ノ)大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われもゝとより、神の御典《ミフミ》をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古(ヘ)のまことの意をたづねえずばあるべからず、然るにそのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ、さる故に、吾はまづもはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし、たゞし世(ノ)中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ、わがいまだ神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ、ゆめしなをこえて、まだきに高き所をなのぞみそと、いとねもころになん、いましめさとし給ひたりし、此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよ/\萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問(ヒ)たゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説《トケ》る趣は、みなあらぬから意のみにして、さらにまことの意はえゝぬものになむ有ける、
 
    おのれあがたゐの大人の教をうけしやう
宣長、縣居(ノ)大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき、その後はたゞ、しば/”\書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける、そのたび/\給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつととらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる、さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ卷をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、かし給ひ、又中(ツ)卷下(ツ)卷は、かたはらの訓を改め、所々書(キ)入(レ)などをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき、古事記傳に、師の説とて引たるは、多く其本にある事ども也、そも/\此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら萬葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもゝおほし、されば道を説《トキ》給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はし/”\いさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去《サ》れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれ/\にはのこれるなり、
 
    師の説になづまざる事
おのれ古典《イニシヘブミ》をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことゝ思ふ人おほか(ン)めれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教ヘられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也、大かた古(ヘ)をかむかふる事、さらにひとり二人の力もて、こと/”\くあきらめつくすべくもあらず、又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤(リ)もなどかなからむ、必わろきこともまじらではえあらず、そのおのが心には、今はいにしへのこゝろこと/”\く明らか也、これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむかへもいでくるわざ也、あまたの手を經《フ》るまに/\、さき/”\の考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎ/\にくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古(ヘ)を思ひてひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古(ヘ)の意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古(ヘ)の意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、
 
    わがをしへ子にいましめおくやう
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説になゝづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人をゝしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
 
    五十連音をおらんだびとに唱へさせたる事
小篠大記|御野《ミヌ》といふ人は、石見(ノ)國濱田の殿のじゆしやにて、おのが弟子《ヲシヘノコ》也、天明八年秋のころ、肥前(ノ)國の長崎に物して、阿蘭陀人《オランダビト》のまうで來てあるに逢て、音韻の事どもを論じ、皇國の五十音の事をかたりて、そを其人にとなへさせて聞しに、和のくだりの音をば、みな上にうを帶て、ゐはういの如く、ゑはうえのごとく、をはうおのごとくに呼て、いえおとはひとしからず、よく分れたり、こは何をもて然るぞと問(ヒ)しかば、はじめの和にならへば也とぞいへりける、かの國のつねの音も、このけぢめありとぞ、此事おのが、字音かなづかひにいへると、全くあへりとて、いみしくよろこびおこせたりき、なほそのをりの物がたりども、何くれといひおこせたりし中に、おかしき事どもあれど、こゝにはもらしつ、
 
 
玉かつま三の卷
 
  た ち は な 三
   
  立よればむかしのたれと我ながら
      わが袖あやしたちばなのかげ
これは題よみのすゞろごとなるを、とり出たるは、ことさらめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の卷の名つけむとてなむ、
 
    五十師原 山邊御井
萬葉集の歌によめる、伊勢(ノ)國の五十師(ノ)原山邊(ノ)御井は、鈴鹿(ノ)郡にて、今も山邊《ヤマベ》村といふ所也、そこに山邊(ノ)赤人の屋敷跡といひ傳へたる地《トコロ》あり、又同じ人の硯水とて、古き井もあり、これ山(ノ)邊(ノ)御井也、然るに赤人の事をしもいひ傳へたるは、中昔よりして、山部《ヤマベ》てふ姓と、山邊《ヤマノベ》てふ姓とまがひて、赤人の姓をも、山(ノ)邊とせるから此地の名につきて、いひよせたるひがこと也、さるはかの赤人は、世にあまねく名高き人なるが故ぞかし、さて五十師原を、萬葉の今の本に、いそしのはらと訓《ヨミ》たれども、古(ヘ)はいそといふに、五十と書ることなければ、誤也、いしのはらとよむべし、五十と書るをば、伊《イ》とよむ古書の例なれば也、いしのはらとては、此句六もじにて、調(ベ)わろしと思ふ人もあるべか(ン)めれど、そのかみ七もじの句を、六もじにいへる例おほき中に、地(ノ)名などは、殊によりくるまゝに、四もじにも六もじにもよめる、つねの事也、さていしの原といふ名のよしは、今石藥師(ノ)驛に、石藥師とて寺有て、石の佛をまつれる、そは地の上におのづからにたてる、大きなる石のおもてに、藥師といふ佛のかたをゑりつけたるにて、此石あやしき石也、これによりて思ふに、佛をゑりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有しによりてぞ、いしの原とは名に負たりけむ、今もそのあたり、ひろくかの山邊村のきはまで、同じ野のつゞける所也、かくて萬葉集十三の卷なるかの長歌は、持統天皇の、此國に行幸ありしをりの、行宮《カリミヤ》のさまをよめりと聞えたれば、かの赤人の屋敷跡といふなる地《トコロ》ぞ、その行宮の跡なるべき、おのれ此(ノ)地《トコロ》の事、としごろ、猶いふかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名兒屋に物せしかへるさに、立よりて考へしに、まづ山邊村、今はやまべといひて、鈴鹿(ノ)郡にて、河曲(ノ)郡の堺也、石藥師(ノ)驛より、六七町もあらんか、野原をゆきて、東北の方なり、その野はまりが野といひて、西の方は、能煩《ノボ》野へつゞきていと/\廣きを、此山邊村は、その野の東のはづれの、にはかにくだりたるきはの、ひきゝ所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり、さればかの長歌の反歌に、おのづからなれる錦を張れる山かもとよめるも、西の方よりは、たゞ平《タヒラ》なる地のつゞきなれども、東より見たるさまによりて、山とはいへるなりけり、錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、櫻桃などの花をいへるか、又は大寶二年十月にも、同じ天皇參河國に行幸有しかば、其時にてもあらむか、もし然らば行宮は、參河への道次《ミチナミ》の行宮にて、錦は紅葉なるべし、とにかくに長歌のやう、女房たちの宮づかへのさまをよめりと聞ゆれば、必(ズ)持統天皇なるべし、さて此あたり、今はすべて、松山にて、あだし木はすくなし、かの赤人屋敷といふは、山邊村より南の方へいさゝかのぼりて、高き所に在て、たても横も半町にはたらぬほどのたひらにて、今は畠也、其西北のすみの所に、石垣といふ物も有しを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ、又此處の土の中より、碁いしの如くなる、ちひさき石に佛經のもじをゑりたるを、をり/\ほり出ること有(リ)といへり、さてそのあたりより伊勢の海よく見渡されて、こゝより見れば、まことに水門《ミナト》なすとよめるさま也、尾張參河の山々も、いせの山々嶋々も、よく見え、高岡川といふ川、村の東を流れて、まぢかく見おろさるゝなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなへる所也、御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あひの田の中に有(リ)、もと水有しが、近きころとなりては、あせて、水はなかりけれど、此一とせ二とせさきまでは、井のかたは殘れりしといふを見れば、今は井のかたゞにのこらず、皆田になりて、たゞいさゝかなる所に、古き松一もとたてるのみなるを、此松の本なん、御井の跡なるといへり、その近き里に、八十八になれりといふ翁のあるが、かたりけるは、此松、おのがわかゝりしほどに、年老たるものゝ、むかしも今も同じことにて、かはらずといひしを、そのころも今も、又いさゝかかはれることなく、高くもふとくもならず、たゞ同じこと也とぞ語りける、今見るに、さしも大きなる木にもあらず、よろしき程にて、まことにふるくは見えたり、今より後、もし此松さへ枯うせたらむには、さばかりの御井の、なごりだになく、きえはてなんこと、いとも/\心うく、うれはしきわざなれば、いかで石ぶみなどをたてゝ、跡をだに、長き世までのこさまほしきわざなりかし、さて又かの赤人屋敷といふ所より、東北の方へくだれる所にも、古く見ゆる井有(リ)、山邊村の東南のはづれの所也、こはよのつねの井のさまに、石をつみめぐらして、水も有(リ)、此水、いみしきひでりにもかれずと里人いへり、そも/\古(ヘ)の御井は、此二つのうち、いづれならんさだめがたし、赤人の硯水といひつたへたるは、はじめにいへる方也、たゞし百三四十年ばかりもさきに、或人の此國の事どもしるせる、勢陽雜記といふ物には、かの赤人の屋敷の事をいひて、その麓に清水有(リ)、赤人の硯水也、といひ傳へたりとしるせるは、後のかたをいへるやうに聞えたり、後のかたは、かの麓といふべき所、はじめのかたは、やゝさかりて、かの麓とはいふまじき所なれば也、されどこは、たしかにみづからゆき見てしるせるか、はた里人のかたれるを聞て、大かたにいへるか、しりがたければ、頼みがたし、そはとまれかくまれ、五十師(ノ)原山(ノ)邊は、うたがひなく、此ところにて、赤人屋敷といふ地ぞ、行宮の御跡なるべく、又御井も、かの二つのうちははづるべからずとぞ思はるゝ、然るを師の萬葉考には、五十師原を、五十鈴(ノ)原と改めて、かの長歌を、大御神の宮づかへの事に説《トキ》なして、鈴鹿(ノ)郡の山邊也といふを破りて、くさ/”\論ぜられたれども、其説こと/”\くあたらぬこと也、そのよしをいはんに、數々あり、一(ツ)には、まづ師(ノ)字と鈴(ノ)字とは楷書はさらにもいはず、草書も形似ざれば、誤るべきにあらず、二(ツ)には、もし五十鈴(ノ)原ならむには、さく鈴のとも、さくゝしろとも、古き枕詞のあるをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしもなきことをいふべきにあらず、一の卷なる歌には、山のべの御井を見がてりともあれば、山のべはかならず地名なるを、五十鈴(ノ)原のあたりには、古(ヘ)よりさる地(ノ)名あることなし、すべてかの神宮のあたりにふるき所は、さしもあらぬだに、そのところはうしなふといへども、さすがに名は殘りて、かしこの書どもに見えざるはなきを、これはさばかりふるく、名高きところなるに、見えざるべきやうなし、三(ツ)には、かの長歌、もし大御神の宮づかへの事をよめるならば、かならずその大御神の鎭《シヅマ》り座《マス》事のよしなどをこそいふべきに、その大御神の御事は、一言もいはずして、にはかに大宮づかへといふべきよしなし、始(メ)より日の御子の御食《ミケ》つ國といひて、大宮づかへといへるは、天皇の宮なること疑ひなく、其うへ嶋の名高しといふまで、行宮より見渡したるけしきをもていへるさま、いちじるし、四(ツ)には、齋内親王の宮づかへし給ふことならば、いつきのみことも、ひめみことも何とも、其御事と聞ゆる詞あるべきに、さること一言もなくて、ゆくりなく大宮づかへといふべき物かは、たゞ天皇に仕奉る女官たちなること、論なき物をや、五(ツ)には、もゝしきの大宮人とは、天皇に仕へる人とこそ聞えたれ、たとひ本は大内より來し人なればとても、今齋王に仕奉り居る人を、うちまかせて然いはんことはいかゞ、六(ツ)には、もし齋王の大御神につかへ給ふ事をよめる歌ならむには、反歌に御井の事のみをよめるは、何のよしぞや、七(ツ)には、かの鈴鹿郡なる山(ノ)邊の事を、俗説也とて、やぶられたるもあたらず、俗説とは、赤人の跡といふこと也、赤人の事は、山邊といふ地(ノ)名によりて、附會《イヒヨセ》たる物なれば、其説こそ俗説なれ、それをとり捨《ステ》たらむに、何の俗なることかあらん、そも/\しか赤人の事をいひよせたるも、もと山邊といふ所、又古き清水のある故なれは、それもかへりて、古き跡なる證とこそすべけれ、又かの山邊村に、いにしへ倭姫(ノ)命の宮有しといふも、僞也とて、そのよしを論ぜられたるもあたらず、倭姫(ノ)命の宮の事は、今里人のいひつたへはなけれども、もしさる説のあらば、それはた行宮によしあり、持統天皇も女帝にましませば、その行宮を、倭姫(ノ)命の宮と、誤り傳へたりとせば、これ又かへりて、かの行宮の證とすべし、八(ツ)には持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考るに、六年三月六日辛未に、京をたゝせ給ひて、同月廿日乙酉に、かへらせ給へり、然るを、此行幸は五月也といはれたるも誤也、そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、御《マシヽ》2阿胡《アゴノ》行宮(ニ)1時進《リシ》v贄(ヲ)者《モノ》云々、とあるを見誤りて萬葉の裏書に、五月云々と引るを、ふとみて、五月とは思ひ誤られたる也、かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡(ノ)行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせる也、かの紀をひらき見てしるべし、九(ツ)には、萬葉一の卷に、山のべの御井を見がてり云々の歌は、長田王、伊勢の齋宮へ、おほやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立よられたる也、さればこれも、鈴鹿(ノ)郡は路次にあらず遠しとても、妨なし、大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむこと、いかゞとぞ思ふ、
 
    あらかねの地とつゞくる事
地《ツチ》の枕詞に、あらかねのといふは、殿舍根《アラカネ》の也、いにしへ殿舍を御《ミ》あらかといひしはつね也、そを御《ミ》といはで、たゞあらかとのみもいへりしこと、古語拾遺に、云々造(リシ)v殿(ヲ)齋部(ノ)所(ヲ)v居(ル)、謂(フ)2之|麁香《アラカト》1、細注に、古語(ニ)正殿(ヲ)謂(ヘリ)2之|麁香《アラカト》1、とあるにてしるべし、さて古(ヘ)の殿舍は、伊勢の大御神の宮のごとく、すべて柱を地にほりいれてたてたりしかば、地はあらかの根なるよし也、
 
    こたつといふ物のうた
しはすばかり、これかれあつまりて、埋火を題にて、歌よみける日、今の世のこたつといふ物をよめと、人のいひければ、
 むしぶすまなごやが下のうづみ火にあしさしのべてぬらくしよしも、とよめりければ、みな人わらひてやみぬ
 
    から國にて孔丘が名をいむ事
もろこしの國に、今の清の代に、その王が、孔子の諱《イミナ》を避《サク》とて、丘(ノ)字の畫を省《ハブ》きてかくことをはじめて、秦漢より明にいたるまで、夫子を尊むことをしらざりしといひて、いみしげにみづからほこれども、これいとをこなること也、もしまことに孔丘をたふとむとならば、其道をこそよく行ふべきことなれ、その道をば、全くもおこなはずして、たゞいたづらに、其人のみをたふとまんは、なにのいみしき事のあらむ、其道をだによく行ひなば、いにしへよりいむことなくて有(リ)來つる、其もじは、今さらいまずとて、なでふことかあらむ、これたゞ道をたふとみがほして、世の人にいみしく思はせむためのはかりこと也、すべてかの國人のしわざは、大かたいにしへよりかくのごとくにて、聖賢といふ物をたふとむを、いみしき事にすなるは、みなまことに尊むにはあらず、名をむさぼるしわざ也、
 
    片衣小袴といふ物
二水記(ニ)云(ク)、大永七年正月七日、早旦室町殿出仕、令(ム)2見物1、道永以下悉(ク)以(テ)片衣小袴也、當時先(ヅ)無爲(ノ)之間、不(ル)v可v然(ル)之躰也、云々、武田出仕(ノ)之躰同(ジ)v之(ニ)とあり、片衣小袴といふこと、此外にもところ/”\見えたり、今の世の肩衣《カタギヌ》半袴の事と聞ゆ、
 
    肖栢みまかれる事
同記云、同年四月四日、夢菴【肖栢法師近年號2牡丹花(ト)1】死去|云々《トイヘリ》、【八十有餘|云々《トイヘリ》】
 
    揚弓といふ物
同記云、亨録三年二月三日午(ノ)時、參内(ス)、有2御揚弓1、と見えたり、禁中にもかゝる事ありしにこそ、
 
    立花 茶の湯
同記云、大永五年三月六日、午後參(ル)2青蓮院門跡(ニ)1、小納言令(ム)2同道(セ)1、今日花(ノ)御會也、池(ノ)坊【六角堂修行也花(ノ)之上手也】祗候、十瓶餘有v之、また同六年七月廿二日、午(ノ)時參(ル)2青蓮院(ニ)1、萬里小路、阿野(ノ)小將、高倉(ノ)少納言等同道(ス)、於(テ)2池(ノ)中嶋(ニ)1、有2御茶1、種々(ノ)儀尤有v興、當時(ノ)數奇宗珠祗候(ス)、下京(ノ)地下(ノ)入道也、數奇之上手也、
 
    後柏原天皇崩御御入棺の儀
同記云、大永六年四月十一日、天晴、戌(ノ)刻有2御入棺(ノ)事1、【御棺從(リ)2雲龍院1沙汰也、】先(キ)v之(ヨリ)有2御沐浴(ノ)儀1云々《トイヘリ》)、【爲(ル)2僧衆の沙汰1之間、不v奉v見、】範久(ノ)朝臣取(テ)2御服【御直衣御袴御袷御念珠御血脉等、各居(ヱ)2御茵(ニ)1、一度(ニ)授(ク)v之、御冠御枕(ハ)、自v本副(フ)2玉躰(ニ)1、】等(ヲ)1授(ク)2長老(ニ)1、【泉涌寺】長老取(テ)奉(ル)v入2御棺(ニ)1歟《カ》、如(キ)v此(ノ)儀、一圓(ニ)爲(ルノ)2僧衆(ノ)行事1之間、不v見v之(ヲ)、頃之《シバラクシテ》事調(フノ)之由示(ス)v之、仍(テ)催(ス)2御膳之事(ヲ)1、頭(ノ)辨資定(ノ)朝臣參進(シテ)、供(ス)2御膳(ヲ)1、【先(キ)v之(ヨリ)橘(ノ)以緒置(ク)2案二脚(ヲ)於御前(ニ)1、備(ル)2御膳(ヲ)1料也、】菅少納言長淳【衣冠】役、送【――――】五前(ノ)次第、【第一――、第二御飯、第三――、第四――、第五菓子、】供(シ)了(テ)即撤(ス)v之、此(ノ)後供(ス)2御手水(ヲ)1、【※[木+泉]手洗御手揮等、以緒持參、授2長淳(ニ)】1資定(ノ)朝臣先(ヅ)取(テ)2御|手洗《タラヒヲ》1、置(ク)2御前(ニ)1、【北面也、先例(ハ)以2西南(ヲ)1爲(ル)2御前(ト)1歟、然而此(ノ)記録所、御座(ノ)分只一間也、爲(ルノ)2狹少1之間、爲2北面(ト)1、立2御屏風(ヲ)1、】次(ニ)取(テ)v※[木+泉]【兼(テ)撤(ス)v蓋(ヲ)】入v水(ヲ)、【二三度、其(ノ)由許(リ)也、】次(ニ)取(テ)2御手拭(ヲ)1、懸(ケ)2御手洗(ノ)端(ニ)1、則(チ)撒(ス)v之、長淳取(テ)v之、授(ク)2以緒(ニ)1云々、
 
    また四界四角(ノ)祭
西宮記云、四界(ノ)祭(ハ)、陰陽寮向(ヒ)2四界(ニ)1祭(ル)、以2藏人所(ノ)人(ヲ)1爲v使(ト)、四角(ノ)祭(ハ)、陰陽寮、宮城(ノ)四角(ニ)祭(ル)、有v使所(ノ)人(なり)、以上(ハ)天下有(ル)v疫之時、陰陽寮進(ル)2支度1、【料物官(ノ)宣】
 
    船岡紫野御靈會
日本紀略(ニ)云(ク)、正暦五年六月廿七月丁未、爲(メニ)2疫神(ノ)1修(ス)2御靈會(ヲ)1、木工寮修理職、造(リ)2神輿二基(ヲ)1、安2置(シ)北野船岡山(ニ)1、屈(シテ)v僧(ヲ)令(ム)v行(ハ)2仁王經(ノ)之講説(ヲ)1、城中(ノ)之人、招(テ)2伶人(ヲ)1奏(シ)2音樂(ヲ)1、都人士女、齎2持幣帛(ヲ)1、不v知2幾千萬人(ト云コトヲ)1、禮了(テ)送(ル)2難波(ノ)海(ニ)1、此非(ズ)2朝議(ニ)1、起(レリ)v自2巷説1、また長保三年五月九日、於(テ)2紫野(ニ)1祭(ル)2疫神(ヲ)1、號(ス)2御靈會(ト)1、依(テ)2天下疾疫(ニ)1也、是日以前、神殿三宇瑞垣等、木工寮修理職所v造(ル)也、又御輿(ハ)、内匠寮造(ル)v之、京中上下、多(ク)以集會(ス)、此(ノ)社號(ス)2之今宮(ト)1、とあり、朝野群載に、天承二年閏四月八日、散位中原(ノ)師光勘文に、正暦五年六月廿七日、被《ル》v安2置(セ)疫神(ヲ)於船岡(ノ)上(ニ)1、長保三年五月九日、被《ル》v安2置(セ)疫神(ヲ)於紫野(ニ)1、京師(ノ)衆庶行(フ)2御靈會(ヲ)1、件(ノ)年々天下不v靜(ナラ)、仍(テ)有(リ)2此儀1、と見えたり、
 
    大神宮御蔭參り
ある物に、寶永二年、伊勢の大御神(ノ)宮に、おかげ參りとて、國々の人共、おびたゝしくまうづる事の有し、その人の數を、つぎ/\しるしたるやう、四月上旬より、京并(ニ)五畿内の人、ぬけ參宮といふ事有(リ)、閏四月上旬よりしるすところ、はじめは、一日に二千三千の間也、十三日より十六日まで、十萬人にこえたり、十七日より、漸々減じて、又廿四日廿五日は、三四萬人也、それより大阪へうつり、廿六七日には、五六萬人づゝ、廿八九日は、十二三萬人づゝ、五月朔日より、七八萬人づゝ、三日より、十二三萬人づゝ、八日ごろより、いよ/\熾《サカリ》也、十六日には、二十三萬人に及べり、これ前後の最上也、そのゝち漸々滅じて、同月末には、一萬人ばかりなり、凡(ソ)閏四月九日より、五月廿九日まで、五十日の間、すべて三百六十二萬人也、としるせり、又同じ物に、享保三年春のころ、まうでし人の數を、しるしたるやう、正月元日より、四月十五日まで、參宮人凡て四十二萬七千五百人、としるせり、これはよのつねのとしなり、
 
    齊明紀なる童謠
書紀の齊明(ノ)卷、六年の童謠《ワザウタ》、或人の考へおきたるによりて、おのれ又考へたるやう、とわとよみ【句】、をのへだを【句】、かり/”\のくらふ【句】、とわとよみ【句】、をのへだを【句】、かり/”\のくらふ【句】、ひらくづまの【句】、つくりし【句】、おさへだを【句】、かり/”\のくらふ【結】、かくのごとくなるべきか、そも/\此歌は、ゆゝしき事のたとへなる故に、世にはゞかりて、ことさらに、句の前後をも、文字の次第をも、かきみだして、何事とも、よみときがたきさまにしるし傳へたる物と見えたり、なかばに甲子としるせるは、これよりよみ始むべき事、又それにならひて、文字の次第をも、おきかへてよむべきことを、ほのかにさとしたるしるし也、これによりて、おのれは今、此甲子とある下よりよみはじむ、第一の句、騰和騰與美《トハトヨミ》は、本には、騰與を與騰と書かへたり、さて騰和《トワ》は多和《タワ》にて、古事記に、山之多和《ヤマノタワ》とある是也、かくて多和と騰和と通ふよしは、たわむをとをむ、たわゝをとをゝなど、通はしいへること、萬葉におほし、されば騰和《トワ》は、山のたわみたる所をいふ、騰與美《トヨミ》は、響動《トヨミ》也、第二の句、烏能陛陀烏《ヲノヘダヲ》は、尾上田をにて、山の尾のほとりの田也、第三の句、歌理鵞理能供邏賦《カリガリノクラフ》は、雁々の食ふにて、雁々とは、山々川々國々人々などいふ例にて、おほくの雁どもの、其あたりの山の多和とよむまで、むらがりさわぎて、田の稻をはみ食ふ也、第四の句、騰和騰與美《トワトヨミ》、上なるに同じ、此句、本には、美和陀騰能理歌美とあるは、美(ノ)字陀(ノ)字、能理歌の字はみな、前後にある字にて、みだれて重なりたる也、又はじめの騰《ト》と與《ヨ》と落たる也、第五の句、六の句、上なるに同じ、第七の句、比邏矩豆摩能《ヒラクヅマノ》は、かの或人の考(ヘ)に、平※[人偏+区]僂《ヒラクヅマ》の也、そは即(チ)此卷に、※[人偏+区]僂といふ人の名有て、此(ヲ)云2倶豆磨《クヅマト》1と見えたり、平《ヒラ》とは、いたくくゞせなるさまをもていふ、ひきくはひたる松を、平松といふたぐひ也といへり、第八の句、都倶利伺《ツクリシ》は佃《ツク》りし也、本に倶例豆例とある、豆は、その四字上なる都と入かふべし、上の例は利、下の例は伺の誤(リ)か、または都倶例々《ツクレヽ》にて、つくれるの意か、いづれにても有べし、第九の句、於社幣陀乎《ヲサヘダヲ》は、押塞田《オサヘダ》を也、おさへは、萬葉廿の卷に筑紫國波《ツクシノクニハ》、安多麻毛流《アタマモル》、於佐倍乃城曾等《オサヘノキゾト》云々とある、於佐倍《オサヘ》と同くて、仇《アタ》を押塞《オシサフ》るよし也、此童謠は、百済の國を救《スク》はせ給ふ御軍の、敗《ヤブ》れぬべきしるしなりしかば、その救《スクヒ》の御軍をさして、於社幣《オサヘ》といひ、田は、尾上田にたとへたる故に、それをつらねいひて、たとへと實とを合せたる也、かく一句の内に、實のうへの詞と、たとへたる物のうへの詞とを、まじへつらねていへる例、萬葉に多し、第十の句、上なるに同じ、かくて一首の意は、かの或人の考(ヘ)に、救の御軍の敗れて、多くの功勞の、むなしくなることを、平※[人偏+区]僂《ヒラクヅマ》の、事ゆきがたき身をもて、くるしみて辛《カラ》うしてつくれる山の田を、多くの鴈どもの來て、はみそこなひて、いたづらになれるにたとへたり、といへるが如し、但しかの考(ヘ)のうちに、これかれと誤れる事ども有(リ)、まづひらくづまのといふを、第一の句とせる、わろし、初(メ)の句の六言なるは、古(ヘ)の歌に例なきことなり、そのうへ是より三句は、必(ズ)結《トヂメ》にあるべきおもむき也、次に於社幣陀《ヲサヘダ》を、弘能幣陀《ヲノヘダ》の誤(リ)としたれども、すべて紀中、歌を書るやう、一首の内にて、同じ詞の二つ三つあるをば、同じ假字を用ひたる例にて、此歌の尾上田をも、二所ながら烏納陛陀《ヲノヘダ》と書たるに、其假字をかへて、弘(ノ)字幣(ノ)字をかゝむこと、大かたの例にたがへり、次に美和陀騰能理歌美とあるを、美歌理能陀和美騰《ミカリノタワミト》として、御狩のたゆむ間に、鴈の來る也とゝき、また美歌理能美和陀騰《ミカリノミワダト》ともして、水のみわだのよどむ如く、御狩に出給はぬをいふといへる、二つともにわろし、御狩のなき間の事を、たわみとも、みわだとも、いふべきにあらず、次に甲子の下なる騰和與美を、和騰與騰美《ワトヨドミ》とも、また和騰々與美《ワトヽヨミ》ともよみて、朕《ワレ》とよどむ、朕《ワレ》ととよむなど解《トケ》る、さらに聞えぬこと也、さてまた羽倉(ノ)【東麻呂】大人は、文字をおきかへてよめるを、ひがごとゝして、本の次第のまゝによみて、解《トカ》れたる説あれど、皆しひごとにて、すべて詞とゝのはず、其ことわりも聞えがたし、其説は秘説《ヒメコト》とあれば、こゝには顯しがたし、そも/\いかに上(ツ)代の歌といへども、をり/\こそ聞えぬ詞もまじりたれ、いづれの歌も、すべてはよく聞えて、むげにきこえぬは、一首もなきを、此歌にかぎりて、むげに聞えぬは、はじめにいへるごとく、句の前後、文字の次第を、ことさらにかきみだりたる物にて、かの野馬臺の詩とかいふ物の如くなる書(キ)ざまなるを、そこに心をつけたる人のなきは、いかにぞや、但しおのが今のかむかへも、かならずこれよしとにはあらず、初(メ)の句のとわとよみなど、猶よき考へも有べきにや、
 
    から人のおやのおもひに身をやつす事
もろこしの國の、よゝの物しり人どもの、親の喪《オモヒ》に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりもあらざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩《ヤセ》さらぼひて、ことさらにかほかたちをやつして、いみしげにうはべを見せたるがおほかりげに見ゆるは、例のいと/\うるさきわざなるを、いみしき事にほめたるも又をこ也、うせにし親を、まことに思ふ心ふかくは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病などもおこりて、もしはからず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子といふべしやは、たとひさまでにはいたらずとも、しかいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、おやはさこそこゝろぐるしく思はめ、いかでかうれしとは見む、さる親の心をば思はで、たゞ世の人めをのみつくろひて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ、すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまひをして、いみしき事に思はするは、かの國人のならひにぞありける、
 
    富貴をねがはざるをよき事にする論ひ
世々の儒者、身のまづしく賤きをうれへず、とみ榮えをねがはず、よろこばざるを、よき事にすれども、そは人のまことの情《コヽロ)にあらず、おほくは名をむさぼる、例のいつはり也、まれ/\にさる心ならむもの有とも、そは世のひがものにこそあれ、なにのよき事ならん、ことわりならぬふるまひをして、あながちにねがはむこそは、あしからめ、ほど/\につとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富《トミ》さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ、身おとろへ家まづしからむは、うへなき不孝にこそ有けれ、たゞおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝をわするゝも、又もろこし人のつねなりかし、
 
    と し み
源氏物語のをとめの卷に、式部卿(ノ)宮の御賀の事をいへるところに、御としみの事とあるを、河海抄に、御賀の事也、年滿たるを賀する故にいふ、と注せられて、其後の注どもにも、これによりて、年滿《トシミ》也とあれども、おしあてのひがこと也、としみは、俗にいふ精進落《シヤウジンオチ》の事也、おちくぼの物語、石山まうでの事をいへる所に、かへり給はむには、御としみをぞし給はんと見え、蜻蛉の日記、山寺にこもりゐたるが、かへりたる時の事をいへる所に、いかにぞや、としみをこそし給ひてめ云々、又初瀬詣のところにも、つば市にかへりて、としみなどいふめれど、我はなほしやうじ也云々、又同じ寺にまうでたる、かへるさの事をいへる所に、宇治にて云々、としみのまうけ有ければ云々、と見えてその下の詞に、氷魚《ヒヲ》をおくりたる事、又|鯉《コヒ》鱸《スヾキ》などいへることも見えたり、これら、物まうでにて、精進なりしを落て、魚をくひそむるをいへること、明らけし、賀の事として、聞ゆべしやは、さて御賀にいへるとしみは、すべて賀には、のこりのよはひを祈るとて、佛事を行ふこと有て、すなはちかのをとめの卷の、次の文にも、經佛法事の日のさうぞくろくども云々、とある是也、その佛事に、精進したるとしみの儀式也、さて言の意を考るに、魚食ふ事を忌《イミ》たるを、落るよしにて、おとしみといふを、つゞめたるなるべし、精進をおつといふ詞、土佐日記に、ふなぎみせちみす、さうじ物なければ、午の時より後に、かぢとりのきのふつりたりし鯛《タヒ》に、錢なければ、よねをとりかけて、おちられぬと見えたれ、此としみの事、後に考ふれば、はやく契沖も、精進の後、魚くひそむる事と聞えたり、といへりき、
 
    神武天皇の御陵
神武天皇の御陵は、今それと申す所は、あらぬところにて、實は今綏靖天皇の御と申すぞ、神武天皇の御ならむと、おのれ考へて、はやく吉野の道の日記に、しかしるしぬるを、其後此四五年さきに、大和國人に、竹口英齋といふがかたりけるは、今綏靖天皇の御陵と申すは、なほ綏靖天皇なるべく神武天皇の御は、おのれさだかに尋ね出奉りたり、日本紀にしるされたるに、方もよくあへり、そは畝火山東北の方の麓につきて、天皇宮といふ祠《ホコラ》のある山也、そこに字《アザナ》を加志《カシ》といふ所あり、古事記にしるされたる、かしの尾(ノ)上てふ名のゝこれるなるべし、山本村なる神八井耳(ノ)命の御墓山よりは東、小泉堂《コセダウ》村よりは南、大久保村よりは西にて、保良村といふ里のあたり也、その近きあたりの田地《タドコロ》の字に、神武田《ジブテイ》またみさんざいなどいふ所もありといひて、すべて此うねび山につきたる御陵ども、そのあたりいとくはしく考へて書たる圖をも見せたりき、同じ國の内にて、ことにちかきところなれば、しば/\行見て、考へさだめたる也とぞかたりける、これをきゝ見れば、おのがさきのかむかへは、猶あたらず、まことに此人のいへる所ぞ、其ならむと思はるゝ、されどなほ綏靖天皇の御は、かならず今いふところにはあらじと思はるゝを、今それと申すは、いづれの帝の御ならむ、こはなほいふかしくこそおぼゆれ、さて此英齋といふ人は、すべて御世/\の天皇の御陵を始め奉りて、皇后皇子皇女たちなどの御墓まで、廣く考へて、陵墓志といふ物をあらはさむとすとて、かつ/”\書出たるをも、見せたりしは、おのれはたつねに深く思ひわたるすぢの事なれば、いと/\うれしくて、必(ズ)なしをへられよと、かへす/\すゝめおきしは、いかになりぬらむ、そのゝちはしらずなん、
 
    とかたといふ詞
童蒙抄に、山家(ノ)冬(ノ)夜といふこゝろを、經信卿、「山里はよどこさえつつ明にけり、とかたぞかねの音のすなるは、これいづかたぞといふべきを、とかたぞとよめりいかゞとあり、今の世の言に、いづくを、どこといひ、いづれをどれ、いづち又いづかたを、どちといふは、此とかたのとにやあらむ、
 
    こ し 塚
大和國人のいはく、城上(ノ)郡|外山《トビ》村に、輿塚《コシヅカ》といふ有(リ)、うへは圓《マロ》にて、内なる石《イハ》がまへ、少しあらはれて見ゆる、そのいたゞきへは、人のぼることなし、さて南の方へ、さし出たる尾ありて、御陵のさまなりといへり、思ふに、これもしは饒速日《ニギハヤヒノ》命の御墓にはあらじか、されど大和(ノ)國には、さるさましたる塚、いづこにも多かれば、いかならん、おほつかなし、外山《トビ》といふところは、いにしへの鳥見《トミ》也
 
    飛鳥の宮々
古(ヘ)の飛鳥の宮々の御跡、岡本(ノ)宮は、岡寺のふもと、淨御原(ノ)宮は、岡寺よりやゝ南の方、川原(ノ)宮は、川原寺のほとりなる小山、板葺(ノ)宮は、飛鳥川の東の畠中也と、飛鳥(ノ)社司飛鳥氏の説也とぞ、
 
    植村禹言といひし人
奈良のあたり、疋田村といふとろこに、植村禹言といふ人ありて、廣大和名勝志といふふみ、三十冊をあらはせりとぞ、此人すべて、國々所々の事を考ふることを好みて、記せる物これかれおほかる中に、大和の國内の、ふるき所々の事は、ことにくはしく、考へたりとぞ、天明二年壬寅二月廿七日に、みまかりぬと、傳《ツテ》に聞り、こゝにもとぶらひ來て、一度逢しこと有き、まことにふるき名どころのことゞもは、くはしく考へえたりげにかたりき、
 
    にふなひといふ雀
尾張(ノ)國人のいはく、尾張美濃などに、秋のころ、田面《タノモ》へ、廿三十ばかりづゝ、いくむれもむれ來つゝ、稻をはむ、にふなひといふ小鳥あり、すゞめの一くさにて、よのつねの雀よりは、すこしちひさくて、觜《ハシ》の下に、いさゝか白き毛あり、百姓はこれをいたくにくみて、又にふなひめが來つるはとて、見つくれは、おひやる也、此すゞめ、春夏のほどは、あし原に在て、よしはらすゞめともいふといへり、のりながこれを聞て思ふに、入内雀《ニフナイスヾメ》といふ名、實方(ノ)中將のふる事にいへる、中昔の書に見えたり、されどそれは附會説《ヒキヨセゴト》にて、にふなひは、新嘗《ニヒナヘ》といふことなるべし、新稻《ニヒシネ》を、人より先(キ)に、まづはむをもて、しか名づけたるなるべし、萬葉の東歌にも、新嘗をにふなみといへり、又おもふに、稻負鳥《イナオホセドリ》といふも、もし此にふなひの事にはあらざるにや、古き歌どもによめる、いなおほせ鳥のやう、よくこれにかなひて聞ゆること多し、雀はかしかましく鳴(ク)物也、庭たゝきは、かなへりとも聞えず、
 
    む ろ の 木
田中道まろがいへりしは、萬葉の歌によみたる、室《ムロ》の木といふものは、今もいづこにも多くある物也、美濃の不破(ノ)郡多藝の郡などにて、ひむろともひもろ杉ともいひ、伊勢の員辨(ノ)郡桑名(ノ)郡のあたりにて、たちむろはひむろといひ、尾張の羽栗(ノ)郡にて、ねずむろともべぼの木ともむろともいへり、すべて山におほき木にて、地にはふと、高くたつと、二くさ有て、はふ方には大木はなきを、立るかたには、大きなるも多し、柏子《ビャクシン》といふ木に似て、又杉にも似たり、二種ともに、實《ミ》おほくなる也といへりき、
 
    つゝのみたけ
拾遺集の物の名の、つゝみのたけは、つゝのみたけ也、肥後(ノ)國古戰場記といふ物に、かの國に、つゝのたけといふ山有、それなるべし、と云り、
 
    神の御ふみをとける世々のさま
神御典《カミノミフミ》を説《トク》事、むかしは紀傳道の儒者の職《ワザ》にて、そのとける書、弘仁より代々の、日本紀私記これ也、そはいづれも、たゞ漢學の餘力《チカラノアマリ》をもて考へたるのみにして、神御典《カミノミフミ》をもはら學びたるものにあらざるが故に、古ヘの意詞《コヽロコトバ》にくらく、すべてうひ/\しく淺はかにて、もとより道の趣旨《オモムキ》も、いかなるさまとも説《トキ》たることなく、たゞ文によりて、あるべきまゝにいへるばかり也、然れども皇朝のむかしの儒者は、すべてから國のやうに、己が殊にたてたる心はなかりし故に、神の御ふみをとくとても、漢意にときまげたる、わたくし説《ゴト》もをさ/\見えず、儒意《ジユゴヽロ》によれる強説《シヒゴト》もなくて、やすらかにはありしを、後(ノ)世にいたりては、ことに神學といふ一ながれ出來て、もはらにするともがらしあれば、つぎ/\にくはしくはなりもてゆけど、なべての世の物しり人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみをとく者も、さかしらをさきにたてゝ、文のまゝには物せず、おのが好むすぢに引つけて、あるは佛意、あるは儒意に、ときまぐることゝなれり、さていよ/\心さかしくなりもてゆくまゝに、近き世となりては、又やう/\に、かの佛ごゝろをまじふるが、ひがことなることをさとりて、それをば、こと/\くのぞきてとくことゝなれり、然れどもそれは、まことに古(ヘ)の意をさとりて然るにはあらず、たゞ儒意のすゝめるから、いとへるもの也、さる故に、近き世に、神の道とて説《トク》趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず、このともがら、かの佛に流れたることのひがことをばしりながら、みづから又儒にながるゝことを、えさとらざるは、いかにぞや、かくして又ちかき世には、しか儒によることのわろきをも、やゝしりて、つとめてこれをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、それはたいまだ清く漢意をはなるゝことあたはで、天理陰陽などいふ説をば、なほまことゝ心得、ともすれば、例のさかしらの立いでゝは、高天(ノ)原を帝都のことゝし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神《ワタツミノ》宮を、一つの嶋也とするたぐひ、すべてかやうに、おのがわたくしの心をもて、さまざまに説曲《トキマグ》ることをえまぬかれざるは、なほみな漢意なるを、みづからさもおぼえざるは、さる癖《クセ》の、世の人のこゝろの底に、しみつきたるならひぞかし、
 
    選子内親王の御歌
選子内親王、賀茂のいつきときこえける時に、西にむかひてよみ給へる、「思へどもいむとていはぬことなればそなたにむきてねをのみぞなく、詞花集に入れり、すべて伊勢賀茂の齋王《イツキノミコ》の宮にては、いみしく佛を忌て、そのすぢのことは、詞にいふをだに、いましめられたる、御さだめなりき、然るに御國人は、むかしより、たかきも賤きも、かしこきも愚なるも、おしなべて、佛の教を信ぜぬ人は、よに一人もなかりければ、いつきにゐ給ふをば、罪深き事にして、歎き給へるならひなりき、されど神につかうまつり給ふ御心の、まめやかにおはせんには、その忌嫌《イミキラ》ひ給ふすぢをば、かけてもおぼしよるべきわざならぬを、西に向ひて、ねになき給ふばかりなりしは、いはむかたなきまがことにぞ有ける、さては御かたちのかぎり、皇神《スメカミ》のいつきにてはおはしまして、御心は、もはら極樂の阿爾陀の齋《イツキ》にこそおはしけれ、さるにても御心の内にこそは、おのづからさおぼすこともあらんにても、おほやけの重きいましめなれば、歌などによみ顯はし給ふべきにあらず、又たとひよみ出給へりとも、必(ズ)人に語りなどはし給ふまじきわざなるを、御はぢともおぼさずや有けむ、されど此みこのみの御とがにしもあらず、いともかしこく、神をばわすれ奉りて、たゞひたぶるに、佛の教をたふとみおこなふをのみ、いみしき事にはして、かゝるすぢを、かへりて心ふかくあはれなるわざに、なべて人もいひ思ふ、世(ノ)中のならひなりしかばぞかし、そも/\此ひめみこはよに大齋院と申(シ)て、圓融天皇の御世、天延といひし程より、後一條のみかどの、長元といふころまで、五御世《イツミヨ》にわたりて、御よはひ七十にちかきまで、齋《イツキ》におはしましければ、さばかりの御老のよまで、佛の道おこなひ給ふことかなはぬを、心うくかなしくおぼしけむも、さる世のならひにては、御ことわりぞかし、さればさばかり仲子に御心よせて、西にむかひてなき給ひし、此みこしも、あやしく長くたひらかにつかうまつり給へりし事は、大神の御心にも、世(ノ)中のならひにおぼしゆるして、あはれとおぼしめしてにやありけむ、又それも、まがつひの神の例のあやしき御心にや有けむ、
 
    伊勢例幣使發遣參向(ノ)路次(ノ)事
西宮記(ニ)云(ク)、伊勢(ノ)使、當日早旦(ニ)沐浴(ス)、次(ニ)修v禊云々、次(ニ)參v内(ニ)、【懸(ク)2生絹(ノ)袋(ヲ)於頸(ニ)1、在2袍(ノ)下(ニ)1、近例、】依(テ)v召(ニ)參(リ)2御前(ニ)1、近(ク)2龍顔(ニ)1、給(フ)2宸筆の宣命(ヲ)1、【近代加2懸紙一枚(ヲ)1、被《ル》v封(セ)、)使挿(テ)v笏(ヲ)給(ハリ)v之(ヲ)、挿(ス)2懷中(ニ)1、勅曰|能《ヨ》【久《ク》】申(シ)進《タテマツ》【禮】、使|稱唯《ヲヽトマヲス》、次(ニ)被(レテ)v仰(セ)曰(ク)、宣命讀(ミ)了(ラバ)、於2神前(ニ)1可(シ)v燒(ク)v之(ヲ)、【若(シ)不(ハ)v被(レ)v仰者、出(テ)2殿上(ニ)1、令(シテ)2藏人(ヲ)1申(ス)d可(キ)v燒(ク)歟、將《ハタ》可(キ)2返上(ス)1歟(ノ)由(ヲ)u、】云々、次(ニ)到(テ)2甲賀(ノ)驛に1宿(ス)云々、十日云々、到(テ)2鈴鹿(ノ)驛に1宿(ス)、十一日、國司供給(ス)、早旦|浴殿《ユドノ》、次(ニ)禊(シテ)就(ク)v路(ニ)、【渡2鈴鹿川(ヲ)1、二渡2安濃川(ヲ)1三瀬渡2雲出川(ヲ)1】到(テ)2壹志(ノ)驛(ニ)1宿(ス)、十二日云々、伊勢(ノ)祗承、於(テ)2下見橋(ニ)1退(キ)去(ル)、【渡2櫛田川(ヲ)1、大神宮(ノ)※[手偏+嶮の旁]非違使可(シ)v祗承1、】多氣川(ノ)禊、【大神宮司儲(ク)2祓(ノ)物(ヲ))下樋小川、或(ハ)云v停(ムト)2鈴(ノ)聲(ヲ)1、【神領(ト)與(ノ)2國領1之界也、】件(ノ)川在(リ)2齋宮(ノ)東(ニ)1、これに下見橋と下樋小川とを別にある如く記されども、下見橋すなはち下樋小川の橋也、此川は、櫛田川多氣川などより西にあり、齋宮の東に在(リ)とあるも、たがへり、齋宮は多氣川の東なれば也、
 
    諸 社 遷 宮
同記云、諸社遷宮(ノ)事、伊勢(ノ)宮廿年(ニ)一度云々、宇佐(ノ)宮卅年、【太宰府勤(ム)v之(ヲ)、】住吉廿年、【使神祇(ノ)副云々】云々、鹿嶋香取廿年(ニ)一度、
 
    宣命料紙の色
同記云宣命料紙、伊勢緑、賀茂紅、餘黄、
 
    新任(ノ)國司(ノ)廳宣神事を先とする事
朝野群載(ニ)云(ク)、初任(ノ)國司(ノ)廳宣、新司宣(ス)2加賀(ノ)國(ノ)在廳官人雜任等(ニ)1仰(セ)下(ス)三箇條(ノ)事、一可(キ)3早(ク)進2上(ス)神寶(ノ)勘文(ヲ)1事、右件(ノ)神寶、或(ハ)於(テ)v京(ニ)儲(ケ)v之(ヲ)、或(ハ)於(テ)v國(ニ)調(フ)v之(ヲ)者《テヘリ》、且(ツ)進2上(シ)勘文(ヲ)1、且(ツ)可(シ)v致(ス)2其勤(ヲ)1、又恒例(ノ)神事、慥(ニ)守(リ)2式日(ヲ)1、殊(ニ)可(シ)2勤(メ)行(フ)1矣、一云々、一云々、延喜十年月日、また廳宣(ス)2但馬國在廳官人等(ニ)1、仰(セ)下(ス)雜事、一可(キ)v勤2仕(ス)恒例(ノ)神事(ヲ)1、右國中(ノ)之政(ハ)、神事(ヲ)爲v先(ト)、專(ラ)致(シ)2如在(ノ)之嚴奠(ヲ)1、須(ベシ)v期(ス)2部内(ノ)之豐穩1云々年月日、いにしへは、諸國にても、神事を重くせられしこと、かくの如し、
 
    福 來 病
日本紀略(ニ)云(ク)、天徳三年云々、今年人民頸《クビ》踵《ハル》、世(ニ)號(ス)2福來病(ト)1、と見えたり、頸のふくらかなるより、かくいひなせしなるべし、長元二年九月十日ごろにも、又此病よにおこりき、
 
    歌のまけわざ
同書に、應和二年八月廿日、殿上(ノ)侍臣、設(ク)2和歌(ノ)負態《マケワザヲ》1、去(ル)五月庚申(ノ)夜、男女房獻(ル)2和歌(ヲ)1、男方負(ケヌ)、仍(テ)所v爲(ル)也、
 
    天徳四年内裡燒亡(ノ)事
同記云、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥(ノ)三剋、内裡燒亡、火出2宣陽門(ノ)内(ノ)方北腋(ノ)陣(ヨリ)1、不v出2中(ノ)隔《ヘノ》外(ニ)1、天皇先(ヅ)御(ス)中院(ニ)1、次(ニ)御(ス)2朝所(アイタンドコロニ)1、頃之《シバラクシテ》御(ス)2職(ノ)曹司(ニ)1、定行之寮警固使、累代(ノ)珍寶、多(ク)以燒失(ス)云々、丑(ノ)剋火止(ム)、廿四日云々、又昨夜、鏡二(ツ)和名|加之古止古呂《カシコドコロ》、并(ニ)大刀契、不v能(ハ)2取出(スコト)1、今日依(テ)v勅令(ム)2捜求(メ)1、餘燼(ノ)之上、已(ニ)得2其實(ヲ)1、但(シ)調度燒損(シ)、其(ノ)眞(ハ)猶存(ス)、形質不v變、甚爲(リ)2神異1、即大藏省(ノ)韓櫃(ニ)令(ム)v奉v納v之(ヲ)、十月三日、縫殿(ノ)大允藤(ノ)文紀參(テ)申(サク)、去月廿四日、依(テ)2宣旨(ニ)1、御2坐《マシマス》内裡(ニ)1賢《カシコ》所三所、遷(シ)2奉(ルノ)縫殿寮(ニ)1之間、内記奉v納|威《カシコ》所三所、一所(ノ)鏡、件(ノ)鏡雖v在(ト)2猛火(ノ)上(ニ)1、而不2涌(キ)損(セ)1、即云伊勢(ノ)御神云、二所眞形无(シ)2破損1、長(サ)六寸許(リ)、一所(ノ)鏡(ハ)、已(ニ)涌(キ)亂(レ)破損(ス)、紀伊(ノ)國の御神|云々《トイヘリ》、大刀四十八柄(ノ)之中、四柄(ハ)、自2清涼殿1求2出之(ヲ)1、四十四柄(ハ)、自2温明殿1求2出之(ヲ)1、其(ノ)中(ニ)有2節刀1、契七十四枚、皆魚(ノ)形也、自2背中1別v兩(ニ)、各有v銘、併(テ)全(ク)不v損、長(サ)各二寸餘許(リ)、八枚(ハ)金、十四枚(ハ)銀、五十枚(ハ)銀塗物、又有2金銀(ノ)涌(キ)亂(レタル)一斗餘許(リ)1也、左近(ノ)少將(ノ)源(ノ)伊渉、將監藤原(ノ)佐理、右近(ノ)少將藤原(ノ)助信、將監源(ノ)時中、藏人主殿(ノ)助藤原(ノ)爲光、出納雀部(ノ)有方、女官等同(ク)以(テ)祗候(ス)云々《トイヘリ》、云々、十一月四日、天皇自2職(ノ)曹司1、遷2御(ス)冷泉院(ニ)1、應和元年十一月廿日、天皇自2冷泉院1、遷2御(ス)新造(ノ)内裏(ニ)1、云々、
 
    放生會音樂(ノ)事
同記に、天延二年八月十五日、放生會、宜(ク)d仰(セテ)2雅樂寮(ニ)1、准(シ)2諸節會(ノ)音樂(ニ)1、官人率(テ)2唐高麗(ノ)樂人舞人等(ヲ)1、從(リ)2今年1、永(ク)供(ス)c彼(ノ)會(ニ)u者《テヘリ》、又仰(セテ)云(ク)、宜(ク)d仰(セテ)2左右(ノ)馬寮(ニ)1、十列《トヲヅラノ》馬各十疋、從(リ)2今年1隔年令(ム)uv供2奉(セ)彼會(ニ)1者《テヘリ》云々、と見えたり、十列《トヲヅラ》は、同(ジ)記に、天慶五年六月二十一日癸酉、奉(ル)2東遊走馬十列(ヲ)於祇園(ニ)1、依(テ)2東西(ノ)賊亂(ニ)1御齋|也《ナリ》とも見えたり、夫木集和泉式部歌に、「とをづらの馬ならねども君がのる車もまとに見ゆるなりけり、此歌は、祭の日、あるきんだちの、まとのかたを、車のわに作りたるを見てよめりといふとあり、十列源氏物がたりなどにも見えたり、
 
    もろこしの國をからといふ事
ある人、もろこしをからといふは、ひがこと也、からは、三韓のことにこそあれ、といへるは、中々に誤也、萬葉集十九に、三月三日、家持主の歌に、漢人《カラヒト》も船をうかべてあそぶ云《トフ》今日ぞわがせこ花かづらせよ、新古今集にも入れり、漢は、つねにはあやとよめども、此歌にては、あや人とは訓《ヨム》べくもあらず、必(ズ)から也、又同集同卷に、遣唐使藤原(ノ)朝臣清河(ノ)卿にたまへる藤原大后の御長歌のうちに、此吾子乎韓國邊遣《コノアゴヲカラクニヘヤル》、といふ御言あり、同(シキ)副使大伴(ノ)胡麻呂宿禰を餞せる歌にも、韓國爾由伎多良波之弖《カラクニニユキタラハシテ》とあり、これら唐國を韓國と書るは、共にからといふ故に、通はし書るにあらずや、又昔よりからに唐(ノ)字を用ふるも、常の事なるをや、
 
    朝臣といふ字の事
かばねの朝臣は、阿曾美《アソミ》にて、吾兄臣《アセオミ》といふこと也、然るを天武天皇の御世に、八色のかばねを定め給へる時より、朝臣とは書(キ)始められたり、そは此字の、あさおみの訓を借(リ)て、約(ツヾ)めたる物ながら、字(ノ)義をも思ひての事なるべし、漢籍《カラブミ》にも、蔡※[災の上+邑]が獨斷に、公卿侍中尚書、衣(テ)v帛(ヲ)而|朝(スルヲ)、曰2朝臣(ト)1、諸營(ノ)校尉將大夫以下(モ)、亦爲2朝臣(ト)1、と云ることあれど、かの國の書には、常にはをさ/\見えぬ稱也、
 
    心 の お に
物語ぶみなどに、身にあやまちのあるものゝ、人はさることしらねども、おのが心からおそるゝを、心の鬼《オニ》といへり、からぶみ列子(ノ)注に、疑心生(ス)2闇鬼(ヲ)1、といへることあり、こゝろばへよく似たること也、
 
    太宰(ノ)帥大貳の任におもむく時の事
西宮記に、太宰(ノ)帥大貳赴(ク)v任(ニ)事、藏人奏聞(ス)、依(テ)v仰(ニ)召(ス)2御前(ニ)1、自(リ)2青※[玉+巣]門1參上《マウノボル》、給(ヒ)2禄酒(ヲ)1、給(フ)2御衣一襲(ヲ)1、諸卿參上、勸盃、諸卿(ノ)座西面、【孫庇(ノ)南三間、帥貳(ノ)座北面、菅圓座、】給(フ)v禄(ヲ)後(ニ)下(テ)拜舞(ス)、出(ヅ)v自2仙華門1、【或(ハ)別(ニ)召(テ)v之(ヲ)有2勅語1、】
 
    太宰(ノ)帥の帥(ノ)字のよみ
帥(ノ)字には二(ツ)の音ありて、其意かはれり、帥《ヒク》v某《ナニヲ》と、ひきうの時は、所律(ノ)反にて、しゆつそつの音也、將帥主帥元帥など、その主とある人をいふときは、所類(ノ)反にて、すゐの音也、さて太宰(ノ)帥は、かの府の長官なれば、すゐの音なるべきことなるに、古(ヘ)より所律(ノ)反の方の音を用ひて、そつと唱へ來つるは、いかなる故にか、古(ヘ)かばかりの事誤るべきにあらぬを、ゆゑあることなるべし、
 
    ※[女+夫]《セノ》 字 の 事
鎭火(ノ)祭(ノ)祝詞に、伊邪那美《イザナミノ》命の御言に、伊邪那岐《イザナギノ》命を、吾奈※[女+夫]乃命《アガナセノミコト》、また吾名※[女+夫]乃命《アガナセノミコト》とあり、又その上の文に、妹背二柱《イモセフタバシラ》とある、背(ノ)字も、書紀(ノ)釋元々集などに引るには、※[女+夫]とあれば、古き本に然有しなるべし、さて和名抄備中(ノ)國賀夜(ノ)郡の郷(ノ)名に、庭妹と書て、爾比世《ニビセ》としるしたるあり、今(ノ)世に庭瀬といふ所也、此妹(ノ)字も、※[女+夫]を誤れる也、又同國下道(ノ)郡呉妹《クレセ》、下野(ノ)國芳賀(ノ)郡に、廣妹《ヒロセ》遠妹《トホセ》などいふ郷(ノ)名あり、これらは讀《ヨミ》をしるさゞれば、いかならんしられねども、妹(ノ)字なるに、いもとよまずして、せと假字をつけたる、まことにせなるべく聞ゆる名ども也、それにとりて、又備中(ノ)國下道(ノ)郡に、弟翳と書て、勢《セ》とよむ郷(ノ)名もあるに准ふれば、これらも妹と書て、せなるにやとも思はるれど、古(ヘ)男女の兄弟のあひだにて、女は男をば、弟をも、勢《セ》といひし例なれば、かの弟(ノ)字は、さるよしなど有て、負《オヒ》たる名とせば、いはれたるを、妹と書て、せとよむべきよしは、さらになければ、皆※[女+夫]字を寫し誤れることしるし、又源平盛衰記に、平家の侍に、妹尾《セノヲノ》太郎といふ有(リ)、これも同じ、※[女+夫]字はめなれぬ故に、みなかく妹に誤れる也、又同盛衰記に、平(ノ)時忠(ノ)卿の事をいへる所に、故建春門院の御(ン)※[女+夫]にておはしましゝかばと、これには、せうとに※[女+夫](ノ)字を書たり、そもそも此字は、妹《イモ》にむかへて、夫《セ》兄《セ》の意に、皇國にていにしへ造れる字と見えたり、さるたぐひほかにも多し、字書を考(フ)るに、此字、漢國にもあれども、夫兄などの義《コヽロ》は、かつてなき字なり、
 
    みちのくには五月五日にかつみをふくといふ事
宗久法師が、都のつとゝいふ物にいはく、みちの國淺香の沼をすぐ云々、此國にもあやめのあるにやと、年月ふしんにおぼえしかば、この度人にたづねしに、當國にあやめのなきにはあらず、されどもかの中將の君くだり給ひし時、なにのあやめもしらぬしづが軒端には、いかで都の同じあやめをふくべきとて、かつみをふかせられけるより、これをふきつたへたる也と、かたり侍りし云々、といへり、國人の語りし説うけられず、
 
    火あやふし
文粹一の卷、源(ノ)順歌(ニ)曰(ク)、夜行(ノ)翁夜々警(ム)v火(ヲ)、舊府中呼(テ)曰(フ)2火危(シ)彼誰何《カハタレト》1、とあり、夜行《ヨルメグル》者の、火あやふしとよぶことは、源氏の物語など、其外にも見えたり、今の世に、火の用心とよびありくは、此ひあやふしの訛《ヨコナマ》れる也
 
    さくじりといふ詞
おちくぼの物語、源氏(ノ)物語をとめの卷などに、さくじりといふ詞見えたり、細流抄に、さかしくさし過たる意也と注せられたり、今の世にも、美濃(ノ)國の言に、さくじるといふこと有、なにごとにても、おしあてに定むるやうのことをいふ、たとへば、よみがたき字を、おしはかりによむを、さくじりよみといふたぐひ也、とかの國人いへりき、此伊勢のおのが里わたりの言に、童のさかしだちて、おとなめきたるなどを、こましやくれたりといふ、これかの物語なるさくじりによくあたれり、
 
    陵王の舞(ノ)手の名
體源抄といふ、樂の事をこまかにしるしたる書に、羅陵王云々、亂序一帖、此(ノ)内(ニ)有(リ)2各別(ノ)名1、日掻返手《ヒヲカキカヘステ》、桴翻手《バチヲヒルガヘステ》、青蛉返事《トンバウガヘリノテ》、甬走手、又|膝卷《ヒザマキ》、小膝卷云々、と見えたり、陵王の舞の手の名ども也、此中に、甬走とある手に、假字附(ケ)なきは、甬は踊にて、をどりはしる手か、たづぬへし、
    
    下樋小川
伊勢の下樋小川《シタビヲガハ》は、古(ヘ)飯高(ノ)郡と飯野(ノ)郡との堺にて、飯高(ノ)郡とも、飯野(ノ)郡とも、書どもにはあり、神領と國領との堺にて、驛使の鈴の聲を止《トヾ》めし所也、然るに此川、今はさだかならず、まづ昔の大道は、今の大道より東北に在て、飯高(ノ)郡の細汲《ホソグミ》平生《ヒラフ》大口|江津《ゴウヅ》岸(ノ)江、飯野(ノ)郡の朝田|立入《タテリ》清《シ》水などいふ村を經《ヘ》て、齋宮にいたる道にて、今も其道あり、三渡(リ)より分るゝ也、さて或人の説に、岸(ノ)江村と朝田村とのあひだ、東岸(ノ)江村をはなれて、すこし東に、鈴止《スヾトメ》の森といひて、小き塚あり、これ下樋小川の跡也といへり、今は川は流れのかはりて、其塚のあたりにはあらず、やゝ東の方に在て、眞盛《シンセイ》川と云て、土橋を渡せる川なり、此川の上《カミ》、今の大道にては、飯高(ノ)郡の内にて、下《シモ》村と上川《ウヘガハ》村との間なる小川、又|徳和《トクワ》村と下村との間の小川など是也、さて今の大道、松坂の東なる、徳和村の東のはづれに、貧乏《ビンボフ》川といふ有て、土橋を渡せる、その少し上の方に、此(ノ)貧乏川の底の地の下を、西より東へよこぎりに、樋を通《トホ》して流す川一つあり、そは其川の上の方、地ひきくして、かの貧乏川へ一つに落しがたき故に、しか下樋をとほして、東の地ひきゝ方へ流せる也、かくて此川も、かの眞盛川の上《カミ》たる小川どもの内の一ツなるを以て思ふに、此下樋、古より然せる事にて、下樋小川といふ名は、もしくはこれによりておへるにはあらざるにや、此事よし有(リ)げにおぼゆる故に、しるしつ、まことや上にいへる細汲《ホソクミ》岸江《キシノエ》といふところは、伊勢勅使部類記に、嘉承二年二月十一日、伊勢奉幣使進發云々、出(テ)2壹志(ノ)驛(ヲ)1、岸(ノ)江(ノ)南(ニシテ)、大神宮(ノ)檢非違使二人來(ル)、依(テ)v爲(スニ)2祗承(ヲ)1也」【伊勢(ノ)祗承(ハ)歸(ル)也、】また、長治二年八月十六日、伊勢勅使進發云々、十八日、雖v可(シト)2急(キ)立(ツ)1、待(ツノ)2潮干(ルヲ)1之間、及(ブ)2巳(ノ)終(ニ)1、沐浴解除(ス)、依(テ)2保曾久美《ホソクミノ》南(ノ)江(ノ)潮(ニ)1、疋駕暫(ク)※[足+厨]立(シテ)、神寶奉(ルハ)v留(メ)者、待(ツ)2潮干(ルヲ)1之故也、岸(ノ)江(ノ)南(ニシテ)、仕承(ノ)檢非違使來(リ)向(フ)、伊勢(ノ)仕承歸(リ)去(ル)、渡(テ)2櫛田川(ヲ)1之後、暫休息云々、と見えたり、岸(ノ)江(ノ)南といへる、即(チ)下樋小川也、岸(ノ)江は、今も松坂のすこし東にて、西岸(ノ)江東岸(ノ)江とて有(リ)、細汲《ホソクミ》は細頸《ホソクビ》とも云り、松坂の半里ばかり北の海邊にて、後に松が嶋とて、北畠(ノ)信雄の君の、城を築かれし所也、今の松坂は、その松が嶋の城を、引うつせる也、
 
    夢を壁《カベ》とよめる歌
後撰集戀一に、源(ノ)おほきが通ひ侍けるを、後々はまからずなり侍ければ、となりのかべのあなより、おほきをはつかに見て、つかはしける、駿河、「まどろまぬかべにも人を見つるかなまさしからなむ春のよの夢、金葉集雜上に、男のなかりける夜、こと人を、つぼねにいれたりけるに、もとのをとこまうできあひたりければ、さわぎて、かたはらのつぼねの、かべのくづれよりくゞりて、にがしやりて、又の日、そのにがしたるつぼねのぬしのがり、よべのかべこそ、うれしかりしかなど、いひにつかはしたりければ、よめる、よみ人しらず、「ねぬる夜のかべさわがしく見えしかどわがちがふれば事なかりけり、此歌はにがしたる局の主のよめる也、ちがふればとは、あしき夢を見たるを、たがへて、よきになすわざをいふ詞也、源頼政(ノ)卿(ノ)家集に、岡崎(ノ)三位入道の許に、かべに瀧のかた書て、その瀧の下より、まことの水を、おとしつぎたり、遠くて見れば、たゞ同じ水の落たるやうに見えしを、見てまかりかへりて、つかはしける、「うつゝにもかべにも同じ瀧を見てねてもさめてもわすられぬかな、返し、「夢の世にかべより落る瀧の絲を君が心にかけゝりやさは、夢をかべとよめる歌、これらの外にも、なほ有しやうにおぼゆるを、え思ひいでず、思ひ出たらむ時に、又もかきいでゝむかし、
おかしきふしおほかる書だに、卷の長きは、春の日のくれがたきこゝちのすめれば、ましてと、これは秋の日にて、のこれる事どもは、次々の卷にぞ、
 
 
第 二 編 (自四の卷至六の卷)
玉勝間四の卷
 
   わ す れ 草 四
 
からぶみの中に、とみにたづぬべき事の有て、思ひめぐらすに、そのふみとばかりは、ほのかにおぼえながら、いづれの卷のあたりといふこと、さらにおぼえねば、たゞ心あてに、こゝかしことたづぬれど、え見いでず、さりとていとあまたある卷々を、はじめよりたづねもてゆかむには、いみしくいとまいりぬべければ、さもえ物せず、つひにむなしくてやみぬるが、いとくちをしきまゝに、思ひつゞけゝる、
   ふみゝつる跡もなつ野の忘草老てはいとゞしげりそひつゝ
もとより物おぼゆること、いとゝもしかりけるを、此ちかきとしごろとなりては、いとゞ何事も、たゞ今見聞つるをだに、やがてわすれがちなるは、いと/\いふかひなきわざになむ、
 
    故  郷
旅にして、國をふるさとゝいふは、他國《ヒトノクニ》にうつりて住る者などの、もと住し里をいへるにこそあれ、たゞゆきかへるよのつねの旅にていふは、あたらぬ事也、されば萬葉集古今集などの歌には、しかよめるはいまだ見あたらず、萬葉などには、ゆきかへる旅にては、國をば、國又は家などこそよみたれ、然るを後の世には、おしなべて故郷といひならひて、つねのことなれば、なべては今さらとがむべきにもあらざれども、萬葉ぶりの歌には、なほ心すべきことなるに、今の人心つかで、なべてふるさとゝよむなるは、いかゞとこそおぼゆれ、
 
    う き 世
うきよは、憂《ウ》き世といふことにて、憂《ウ》き事のあるにつきていふ詞也、古き歌どもによめるを見て知べし、然るをからぶみに、浮世《フセイ》といふこともあるにまがひて、つねに浮世《ウキヨ》とかきならひて、たゞ何となく世(ノ)中のことにいふは誤り也、古歌を見るにも、憂《ウ》きといふに心をつけて見べし、
 
    契沖ほうしのすめる庵
契沖ほうしのすめりし、圓珠庵といふ庵は、大坂の高津《カウヅ》のあたり、ゑさし町といふ所にて、今も小寺にてあり、かのほうし此庵にてみまかりて、墓もそこにあり、寛保のころ、五井純禎といへる儒者の書たる碑文《イシブミ》もたてり、そも/\此庵は、もと和泉(ノ)國和泉(ノ)郡池田(ノ)郷|萬町《マンヂヤウ》村の、伏屋(ノ)某の家地《イヘドコロ》の内、幣垣園《ヌサガキノソノ》といふに在て、そこに住たりしを、難波には後にうつしてすめる也とぞ、さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみよみて、みづから書たりし歌など、おほく持(チ)傳へて、今ものこれるなり、
 
    者《テヘレバ》といふ事
もろ/\の文書に、云々《シカ/\》者|云々《シカ/\》といへる事多し、此者(ノ)字を、中ごろより、下の語のかしらにつけて、てへれば云々《シカ/\》とよみならへるは、ひがこと也、こは上の語につきて、云々《シカ/\》てへりとよむこと也、てへりは、といへりといふことなり、
 
    あかもがさ
日本紀略(ニ)云(ク)、長徳四年七月、天下(ノ)衆庶煩(フ)2疱癘(ヲ)1、世(ニ)號(ス)2之(ヲ)稻目瘡(ト)1、又號(ス)2赤疱瘡《アカモガサト》1、天下(ニ)无(シ)d免(ル)2此(ノ)病(ヲ)1之者(ノ)u、但《タヾ》前(ノ)信濃(ノ)守佐伯(ノ)公行、不v患2此(ノ)病(ヲ)1、また云く、今年天下、自v夏至(ルマデ)v冬(ニ)、疫瘡遍(ク)發(ル)、六七月(ノ)間、京師(ノ)男女、死(ル)者(ノ)甚(タ)多(シ)、下人(ハ)不v死、四位已下(ノ)人(ノ)妻最(モ)甚(シ)、謂(フ)2之(ヲ)赤斑瘡(ト)1、始(メ)v自2主上1、至(ルマデ)2于庶人(ニ)1、上下老少、无(シ)v免(ルヽ)2此(ノ)瘡(ヲ)1、只前(ノ)信濃(ノ)守公行不v患、と見えたり、稻目瘡《イナメガサ》と名けたるは、蘇我(ノ)稻目(ノ)大臣の事を思ひてなるべし、書紀(ノ)欽明(ノ)御卷十三年、疫氣《エヤミ》のおこりし事考ふべし、又敏達(ノ)御卷に、十四年、天皇(ト)與《ト》2大連1卒《ニハカニ》患於瘡《カサヤミタマフ》云々、又|發《ヤミテ》v瘡(ヲ)死(ル)者(ノ)充2盈《ミテリ》於國(ニ)1、其(ノ)患《ヤム》v瘡(ヲ)者(ノ)、言(テ)3身如(シト)2被《レ》v燒(カ)被(レ)v打(タ)被《ルヽカ》1v摧《クダカ》、啼泣而死、老少竊(ニ)相謂曰(ク)、是(レ)燒(キタル)2佛像(ヲ)1之罪(ナリ)矣とあるも、あかもがさにやありけむ、此かさの事、榮華物語浦々の別(ノ)卷に、今年例のもがさにはあらで、いと赤きかさのこまかなるいできて、老たるわかき上下わかず、これをやみのゝしりて、やがていたづらになるたぐひもあるべし云々とある、これかの長徳四年のたびのこと也、又峯の月(ノ)の卷にも、ことしはあかもがさといふ物いできて、上中下わかずやみのゝしるに、はじめのたびやまぬ人の、此たびやむなりけり云々、これは萬壽二年のこと也、はじめの度といへるは、長徳四年にて、それより廿七年後也、又布引(ノ)瀧(ノ)卷に、あかもがさいできたる事見えて、五十三年にいできたれば、老たるわかきとなく、おやこもわかず、一度にやみければ、おきたる人すくなくぞ有けるとあり、此度も人おほくうせたり、これは承暦元年にて、さきの萬壽二年より、五十三年にあたれり、赤もがさは、今の世にはしかといふ瘡也、
 
    天 壓 神
或人、書紀の神武(ノ)御卷に、天皇を天壓神と申せしことあるは、いかなる御稱にかと聞けるに、答へけらく、神武天皇は、天(ツ)神(ノ)御子と名告《ナノラ》して、おびたゝしき御軍を率《ヒキヰ》て、大和(ノ)國にのぼり來坐て、その御勢(ヒ)のさかりにして、敵を破り給ふこと、物を壓《オス》がごとくなりしゆゑに、そのころ大和の國人の、いたく恐れて、かくは申せるなるべし、あめのおしがみと讀《ヨム》べき也、あめおすの神とよめるはわろし、壓(ハ)者|飫蒭《オス》とあるは、言の居《スワ》りたる方を以て注せるにて、此例多し、
 
    熊 神 籬《クマヒモロギ》
或人、垂仁紀に、新羅(ノ)王子天(ノ)日槍《ヒボコ》が持てまうで來つる寶物の中に、熊神籬一具とあるは、いかなる物にかとゝふに、こたへけらく、くまひもろぎとよむべし、くまのとのを添(ヘ)てよむはわろし、さて熊は借字にて、隈《クマ》隱《コモリ》などゝ同言にて、隱《カク》れこもりて、露《アラハ》ならぬをいふ、さてこは、韓國にて神を祭るに、其神躰を坐する具にて、世に佛(ノ)像をいれおく、厨子といふ物などの如く作りたる物なるべし、そは皇國の神籬《ヒモロギ》とはやうかはりて、外をかこみて、内のあらはに見えず、隱《コモ》れる故に、くまひもろぎと、皇國にて名づけたるなるべし、もとより神籬のさまにはあらざれども、神の御かたを坐《マサ》する物なる故に、其名を負《オホ》せたる也、
 
    撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイヅノミタマ》
ある人、神功紀に、撞賢木嚴之御魂とあるは、いかなる義ぞととふに、こたへたる、撞《ツキ》は借字にて、齋賢木《イツサカキ》の意にて、嚴《イヅ》といはむ料の枕詞也、嚴《イヅ》は忌清《イミキヨ》めたる義《コヽロ》なれば、忌清めいつく賢木のよし也、嚴橿《イヅカシ》といふに同じ、さて嚴之御魂《イヅノミタマ》とは、天照大御神は、伊邪那岐(ノ)大神の、※[木+意]原の御禊《ミヽソギ》に成(リ)出まし/\て、清らかなる御魂《ミタマ》に坐(ス)よしなり、
 
    内  人
伊勢の神宮に、大内人小内人といふ職ある、内人の義いかにと、ある人の問けるに、答へたる、書紀に、中臣(ノ)鎌足公を、内臣《ウチノオミ》とし給へることあり、續紀の天平勝寶元年、又天平寶字元年の宣命に、大伴氏を、内(ノ)兵と稱せられたる事あり、同紀に、内物部《ウチノモノヽベ》といふ稱も見えたり、これらみな、内とは、殊に親《シタ》しみ給ふよし也、されば内人も、大御神(ノ)宮に、殊に親しく仕奉るよしの稱なるべし、
 
    崇神紀なる小兒《ワクゴ》の神託《カムガヽリ》の詞
ある人の、崇神紀六十年云々のところに見えたる、丹波の氷上《ヒカミ》の人|氷香戸邊《ヒカヾトベ》が小兒《ワクゴ》の、神託《カムガヽリ》の辭の意はいかに、とゝへるにこたへたる、玉※[草冠/妾]鎭石《タマモシヅカシ》、出雲人祭《イヅモビトマツレル》、眞種之甘美鏡《マタネノウマシカガミ》、押羽振《オシハブレ》、甘美御神《ウマシミカミノ》底寶御寶主《ソコダカラミダカラヌシ》、山河之水泳御魂《ヤマガハノミクヽミタマ》、靜挂《シヅメカケヨ》、甘美御神底寶御寶主《ウマシミカミノソコダカラミダカラヌシ》、かく訓(ム)べし、今の本のごとく訓ては、むげに聞えぬ事なり、しづかしは、行《ユキ》をゆかし、佩《ハキ》をはかしなどいふ格にて、しづきを延(ヘ)たる詞にて、玉藻しづき嚴藻《イヅモ》、といふ意につゞきたる、出雲の序也、嚴《イヅ》は清らかなる意にて、水底にしづく玉藻の、清らかなるよしなり、眞種《マタネ》の意は、いまだ考(ヘ)得ず、おしはぶれとは、鏡をおしふり擧《アゲ》て祭れといふこと也、底寶《ソコダカラ》は、寶の至極《キハミ》といふ也、すべて物の至り極《キハ》まるところを、底《ソコ》といふ、甘美《ウマシ》は底寶へ係《カヽ》れり、御神には係《カヽ》らず、御寶主《ミタカラヌシ》は寶の主人《ウシ》にて、司長《ツカサヲサ》のよし也、これみな鏡をほめたゝへたる詞也、御魂《ミタマ》は御玉にて、山川の底なる玉をいふ、しづめかけよは、鎭掛《シヅメカケ》て祭れと也、甘美御神《ウマシミカミノ》云々は、鏡と同じく、玉をほめたゝへたる也、すべての意は、神寶《カムダカラ》の至極《キハミ》長《ヲサ》なる鏡と玉とを以て、出雲(ノ)臣これを祭るべしと也、
 
    世の人かざりにはからるゝたとひ
皇國と外國とのやうを、物にたとへていはば、皇國の古(ヘ)は、かほよき人の、かたち衣服《キモノ》をもかざらず、たゞありにてあるが如く、外國は、醜《ミニク》き女の、いみしく髪かほをつくり、びゝしき衣服《キモノ》を着《キ》かざりたるがごとくなるを、遠《トホ》くて見る時は、まことのかたちのよきあしきは、わかれずして、たゞそのかざりつくろへるかたぞ、まさりて見ゆめるを、世の人、ちかくよりて、まことの美醜《ヨキアシ》きを見ることをしらず、たゞ遠目《トホメ》にのみ見て、外國のかざりをしも、うるはしと思ふは、いかにぞや、すべて漢國などは、よろづの事、實《マコト》はあしきが故に、それをおほひかくさむとてこそ、さま/”\にかざりつくるには有けれ、
 
    佛の前のもり物のたとへ
寺々の佛のまへに、盛物《モリモノ》とて、立(テ)ならぶる物あり、みじかき柱のやうしたる物に、金銀五色の紙をおして、つゝみ色どりたるをたてゝ、まんぢう或は落鴈などいふなる、造菓子《ツクリクダモノ》を、衣の紋のやうにおしつけて、いたゞきにも、こと/”\しき作り花などをさしたり、此物のさまを見るに、その色どりかざりも、菓子《クダモノ》も、たゞ人のまうでゝ見る方にのみ有て、佛の方にむきたる所には、かざりもなく、くだ物をもつけざるは、すべてたゞ詣《マウヅ》る人の見るめをかざれるのみにて、佛にうるはしくして奉らむとのしわざにはあらざりけり、その中にも甚しきは、菓子もまことのにはあらで、土あるは木などして作りたるさへあるぞかし、されどこれは、さしも論ふにもたらぬ、はかなき事なるを、漢國の萬の事の、うるはしきやうなるも、もはら此ほとけの前の盛(リ)物のごとくにて、まことの事にはあらず、たゞ世の人に尊《タフト》ませむための、いろどりかざりなるを、文質彬々などいひて、たけきことに思ひいふこそ、いとをこなれ、皇國の古(ヘ)は、たとへば清らかなる白木の折敦《ヲシキ》に、檜杉の葉などををりしきて、新しき物をそなへたらむが如し、かのいみしくかざり立(テ)たる盛(リ)物と、うはべの見るめこそあらめ、まことにはいづれか清くまさりたらむ、すべて皇國は、もとよりの質の美《ウルハシ》きが故に、古(ヘ)はその質の美《ウルハシ》きにまかせて、虚文をかざることなかりき、文をかざらざるが故に、質のうるはしきが損《ソコナ》ふこともなかりき、外國は、質惡きがゆゑに、虚文をかりて、しひて美《ウルハシ》くせむとせし物也、さてもろこしに、文質彬々といふを、よき事にすめれども、かならず文にはうつりやすく、質にはかへりがたきならひなれば、彬々は、必(ズ)久しくはたもちがたくして、やうやうに虚文にのみなりもてゆきて、質を失《ウシナ》ふ基《モトヰ》なり、されば質の美《ウルハ》しからむには、そを守りて、虚文を加《クハ》へざらむこそ、長く久しかるべきしわざには有けれ、
 
    ひとむきにかたよることの論ひ
世の物しり人の、他《ヒト》の説《トキゴト》のあしきをとがめず、一《ヒト》むきにかたよらず、これをもかれをもすてぬさまに論《アゲツラヒ》をなすは、多くはおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし、たとひ世(ノ)人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず、人のほめそしりにはかゝはるまじきわざぞ、大かた一むきにかたよりて、他説《アダシトキゴト》をば、わろしとゝがむるをば、心せばくよからぬことゝし、ひとむきにはかたよらず、他説《アダシトキゴト》をも、わろしとはいはぬを、心ひろくおいらかにて、よしとするは、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよき事にもあらず、よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならば、かならずひとむきにこそよるべけれ、それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず、よしとしてよる所に異《コト》なるは、みなあしきなり、これよければ、かれはかならずあしきことわりぞかし、然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也、よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるずぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也、人はいかにおもふらむ、われは一むきにかたよりて、あだし説をばわろしとゝがむるも、かならずわろしとは思はずなむ、
 
    前後と説のかはる事
同じ人の説《トキゴト》の、こゝとかしことゆきちがひて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどはしくて、大かた其人の説、すべてうきたるこゝちのせらるゝ、そは一わたりはさることなれ共、なほさしもあらず、はじめより終(リ)まで、説のかはれることなきは、中々におかしからぬかたもあるぞかし、はじめに定めおきつる事の、ほどへて後に、又ことなるよき考への出來るは、つねにある事なれば、はじめとかはれることあるこそよけれ、年をへてがくもむすゝみゆけば、説は必(ズ)かはらでかなはず、又おのがはじめの誤(リ)を、後にしりながらは、つゝみかくさで、きよく改めたるも、いとよき事也、殊にわが古學の道は、近きほどよりひらけそめつることなれば、すみやかにこと/”\くは考へつくすべきにあらず、人をへ年をへてこそ、つぎ/”\に明らかには成(リ)ゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なることは、もとよりあらではえあらぬわざ也、そは一人の生《イキ》のかぎりのほどにも、つぎ/\に明らかになりゆく也、さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、其人のさだまれる説とはすべかりける、但し又みづからこそ、初めのをばわろしと思ひて、改めつれ、又のちに人の見るには、なほはじめのかたよろしくて、後のは中々にわろきもなきにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人のこゝろになむ、
 
    沙 石 集
無住法師が沙石集にいはく、ある上人、三人の子をうめり、三つの腹也、はじめのは、まめやかに忍びたる事にて、疑ひ有ければ、其子の名を、おもひもよらずとつく、次のはらのは、をり/\しのびて我房にも通ひければ、うたがひうすくして、名をさもあるらむとつく、後のは、うちはへて我房におきけれは、疑ひなくて、名を子細なしとつけにけり、
 
    ま  た
同じ書に、後嵯峨(ノ)法皇の、御熊野詣有けるとき、伊勢(ノ)國の夫《ブ》の中に、本宮の音無川といふ所に、梅(ノ)花さかりなるを見て、「音なしに咲そめにける梅の花にほはざりせばいかでしらまし、夫が歌には、いみしき秀歌なるべし、此事御下向の時、道にて自然にきこしめして、北面の下らふに仰せて、めされけり、馬にてあちこちうちめぐりて、本宮にて歌よみたる夫はいづれぞとゝふに、これこそ件の夫にて候へと、かたはらなる者申(シ)ければ、仰せ也、まゐるべしといへる、返事に、「花ならばをりてぞ人のとふべきになりさがりたる身こそつらけれ、さて返事にも及はで、おめ/\と馬よりおりて、具《グ》して參りぬ、ことの子細きこしめして、御感のあまりに、賞はのぞみにまかすべしと、仰せ下されければ、母にて候ものを、養ふほどの御恩こそ、望むところに候へと申(シ)ければ、百姓なりけるを、かの所帶公事、一向御免ありて、子孫まで違亂あるまじきよしの、御下(シ)文をぞ賜はりける、
 
    ま  た
同じ書に、云々、さてそのつぎの日の夕かた、月代ある入道、此房に來て、ひそかに申(シ)入れけるは、よべの強盗、入道になりて參りて候云々、といへり、月代とは、むかしは男のかしら、いただきのまへ額《ヒタヒ》に近き所を、髪を半月の形に剃《ソリ》てありし、これを月代といへる也、さかやきといふもゝとこの月代の事也、さて近くかしらおろしたる僧《ホウシ》は、その月代の跡の、きはやかにのこりて有し也、
 
    東屋のまや 月夜よし夜よし
さいばらに、東屋のま屋のあまりといへる事を、東屋とま屋とを、別に心得來たり、和名抄にも、四阿はあづまや、兩下はまやと、別にあげたり、然れどもよく思ふに、かの催馬樂の趣は、かならず一つの屋とこそ聞えたれ、東屋の軒にも立ぬれ、又ま屋の軒にも立ぬれたるさまにはあらず、さればこれは、うたふ歌なれは、東屋の/\と、重ねていふ言を、あづを略《ハブ》きて、まやのとうたひて、五七言のしらべにかなへたる物也、今の世にも、うたふ歌には、此たぐひ常に多し、又月夜よし夜よしといへる歌も、月夜よし月夜よしと、重ねたる詞なるを、月を略《ハブ》きて夜よしといへるにて、もはら同じこと也、相證《アヒアカ》すべし、
 
    百 首 の 歌
歌を百首そなへてよむことは、源(ノ)重之(ノ)家集に、東宮よりめしによりてよめる百首あり、春廿首、夏廿首、秋廿首、冬廿首、戀十首、雜十首也、これらやはじめならん、拾遺集にも、百首歌の中に源重之とて入れり、
 
    女一宮女二宮など申す唱へ
女一(ノ)宮女二(ノ)宮など申す女(ノ)字、音によみならへれども、榮花物語などに、男一(ノ)宮男二(ノ)宮などもある、男は音にはよむべくもあらず、必(ズ)をとこ一の宮などゝよむべければ、女もいにしへは、をんな一の宮をんな二の宮などぞよみつらむ、ことわりをもて思ふにも、字音にはよむまじきつゞき也、
 
    御といふ詞のつかひざまの一つ
源氏物語に、佛の御(ン)かれうびんがの聲、御(ン)ひとつ腹、御(ン)まへわたり、宮の御(ン)侍從の乳母《メノト》、佛の御(ン)同じ帳臺、宮の御(ン)二條の北(ノ)方、などあるこれらの御てふ詞、今の世の心にて思へば、佛のかれうびんがの御こゑ、ひとつ御はら、宮の侍從の御乳母、佛の同じ御帳臺、宮の二條の御北方、といふべきに、おきどころかはりて聞ゆ、心得おくべし、御(ン)まへわたりも、御は、わたりへかゝりて、前《まへ》へはかゝらず、
 
    侍るといふ詞
侍るといふ詞、伊勢物語には、たゞ二つならではなし、その二つは、せうそこ文の中にある也、
 
    十 干 の 訓
甲乙をきのえきのとゝいふは、木の兄《エ》木の弟《オト》也、其餘も准へて知べし、庚辛は、金《カネ》の兄《エ》金の弟《オト》なるを、かのえかのとゝいふは、禰乃《ネノ》は乃《ノ》とつゞまる故也、
 
    乙(ノ) 字 の 事
乙(ノ)字をおとゝよむは、オツてふ音也、但し甲乙を木の兄《エ》木の弟《ト》といふをもて思へば、弟《オト》の意にもあらむか、又をとめに乙女と書(ク)は、いづれにしてもひがこと也、をとめは、萬葉に處女《ヲトメ》未通女《ヲトメ》など書り、假字は乎《ヲ》也、乙は、オツの音にても、弟《オト》の意にとりても、於《オ》の假字なれば、をとめには、此字かくべきよしなし、
 
    東鏡にしるせる事二つ三つ
東鏡に、建保二年二月十日、坊門(ノ)新黄門(ノ)【忠信】使者、自2京都1參着、被《ル》v送(ヲ)2蹴鞠(ノ)書一卷(ヲ)1、彼卿去年十二月、被《レ》v聽(サ)2紫革(ノ)襪(ヲ)1、宗長(ノ)朝臣(モ)同(ジ)云々、將軍家賞2翫(シ)諸道(ヲ)1給(フ)中(ニ)、殊叶(フ)2御意(ニ)1者(ハ)、歌鞠(ノ)之兩藝|也《ナリ》、また同年八月廿九日、去(ル)十六日、仙洞秋十首(ノ)歌合、二條(ノ)中將雅經(ノ)朝臣寫(シ)進(ス)、將軍家殊(ニ)令(メ)2貴翫(セ)1之給(フ)云々、また同三年七月六日、坊門(ノ)黄門【忠信】卿 被《ル》v進(セ)2去(ル)六月二日(ノ)仙洞(ノ)歌合(ヲ)【衆議判】一卷(ヲ)於將軍家(ニ)1、是(レ)依(テ)2内々勅定(ニ)1也云々、將軍は實朝(ノ)大臣也、此大臣、公曉にころされ給はむとせしころ、いろいろあやしきさとしども有ける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御髪の髪を一すぢぬき給ひて、形見とて給はせけり、又庭の梅の花を見給ひて、ゆゝしき歌をなんよみ給ひける、「出ていなばぬしなきやどゝなりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり、また承久のみだれに、中御門(ノ)入道中納言宗行卿(ノ)、とらはれて東《アヅマ》にくだらるゝ時、七月十日に、遠江(ノ)國菊河のうまやにやどられけるを、よもすがらねられず、法華經をよみて、屋の柱に書つけられける、昔(ハ)南陽軒(ノ)菊水、汲(テ)2下流(ヲ)1而延(ヘ)v齡(ヲ)、今東海道(ノ)菊河、宿(テ)2西岸(ニ)1而失(フ)v命(ヲ)、とぞ書つけられける、同き十三日、駿河(ノ)國浮嶋(カ)原を過られけるほど、按察光親(ノ)卿きのふ殺されぬるよしを聞きて、我身も、今日あすかならずうしなはれなん事を思ひて、黄瀬川(ノ)うまやにやすまれけるほどに、筆のついでに、「けふ過る身をうきしまの原にてぞつひの道をば聞さだめつる、これも同じ書にしるせり、此歌のはての句、古今著聞集には、つひの命をまた定めつるとあるは、ひがことなるべし、また同書に、嘉禎元年正月廿一日、御願(ノ)五大堂建立(ノ)事、相州武州度々巡検(シテ)、被《ル》v撰(ハ)2鎌倉中(ノ)之勝地(ヲ)1云々、頗(ル)思召(シ)煩(フノ)之處、相2當(テ)于幕府(ノ)鬼門(ノ)方(ニ)1、有2此地1、毛利(ノ)藏人(ノ)大夫入道西阿(カ)領也、依(テ)v爲(ルニ)2御祈祷相應(ノ)之處1、被《レ》v點(セ)v之(ヲ)、即被《レ》v引v地(ヲ)訖(ヌ)とあり、鬼門(ノ)方といふこと、此ごろより見えたり、鬼門といふ名は、ふるきからぶみにも見えたり、
 
    あやめのまくら
同書に、暦仁元年五月四日、及(テ)v晩(ニ)自2將軍家1被《ル》v調2進(セ)昌蒲(ノ)御枕【鏤(ム)2金銀(ヲ)1】并(ニ)御扇等(ヲ)於公家(ニ)1云々、件(ノ)御枕(ハ)者、爲(テ)2六位(ノ)定役(ト)1調進(スル)者(ノ)也《ナリ》、而(ルニ)依(テ)d被《ルヽ》v求(メ)2御進物(ヲ)1之次(テニ)u如(シ)v此(ノ)云々、あやめの枕の事、あだし書どもにも見えたるを、今はえ思ひ出ねばしるさず、思ひ出たらむ時に、又もしるすべし、
 
    鎌倉(ノ)頼經將軍手習はじめ
元仁元年四月廿八日、頼經(ノ)君、七つにて、手習始(メ)に、長生殿の詩をならはれたりし事、同じふみに見ゆ、
 
    四 一 半
同書に、打(ツ)2四一半(ヲ)1といへることあり、博奕《バクヤウ》の名と聞ゆ、ついでにいふ、今の世にばくやうに、ちよぼ一《イチ》といふあり、樗蒲、から書に見えたり、
 
    猿の舞をまふ事
寛元三年四月廿一日、左馬(ノ)頭入道正義、自2美作(ノ)國(ノ)領所1稱(シ)2將(ヰテ)來(ルノ)之由1、獻(ス)2猿(ヲ)於御所(ニ)1、彼(ノ)猿舞蹈(スルコト)如(シ)2人倫(ノ)1、大殿并(ニ)將軍家、召(シ)2覧(タマフ)于御前(ニ)1、爲《タルノ》2希有(ノ)事l之旨、及(ベリ)2御沙汰(ニ)1、教隆(カ)云(ク)、是(レ)匪(ル)2直《タヾノ》之事(ニ)1歟《カ》、と同書に見えたり、頼經(ノ)君、將軍の職を頼嗣(ノ)君にゆづり給ひて後、鎌倉にて大殿と申せり、
 
    唐 船 の 事
建長六年四月廿九日、唐船(ノ)事有2沙汰1、被《ル》v定(メ)2其(ノ)員數(ヲ)1、即今日被《ル》v施2行(セ)之(ヲ)1、唐船(ハ)者、五艘(ノ)之外(ハ)、不v可v置(ク)v之(ヲ)、速(ニ)可(シ)v令(ム)2破却(セ)1、と見ゆ、猿の舞よりこゝまでも同じ書也、
 
    某男《ナニヲノコ》といふ稱
同じ書に、澁谷(ノ)庄司重國(カ)郎從平太|男《ヲノコ》、行光(カ)郎從藤五男愚息泰村|男《ヲノコ》、眞正|男《ヲノコ》などいふことあり、つれ/”\草にも、又五郎|男《ヲノコ》などいへり、此外にもそのころの書に、いやしき者を某男《ナニヲノコ》といへること多し、
 
    宮と申す稱
天皇の御胤を宮と申すこと、いにしへは皇子皇女にかぎれり、皇子の御子よりしては、宮と申すことなかりき、然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すぢをば、世々すべて宮と申す事となれり、
 
    いらへの聲
古書に、稱唯と書て、乎々止申《ヲヽトマウス》とよめり、然れば古(ヘ)は、上たる人にいらふるにも、乎々《ヲヽ》といへりと聞ゆ、又萬葉に、否《イナ》も諾《ウ》も、源(ノ)信明集の歌に、いなともうともいひはてよ、拾玉集歌に、なやうやといふ人だにもなし、なやうやは、否《イナ》や諾《ウ》や也、諾《ウ》は即(チ)乎々《ヲヽ》と同じ、今の世にも、乎々《ヲヽ》とも宇々《ウヽ》ともいへり、吉部秘訓抄に、稱唯【阿《ア》ト被《ルヽ》v出(サ)v之(ヲ)也】また稱唯(ハ)六度也猶|阿《ア》と被《ル》v出(サ)v之(ヲ)とあるは、乎々《ヲヽ》を阿《ア》といへる事もあるにや、又同書に、云々官掌敬屈(シテ)高聲(ニ)稱唯【先(ヅ)有2欝音1】とある、欝音とはいかなる聲をいへるにかあらん、宇治拾遺物語に、えいといらへたり、又むといらへて、など云ることあり、牟《ム》は宇《ウ》と同じ、今の世のいらへにも、宇《ウ》と牟《ム》との間の音にて宇々《ウヽ》といふ是也、大かた今の世のいらへは、波伊《ハイ》延伊《エイ》那伊《ナイ》閇伊《ヘイ》などは、深く敬ふいらへ也、次に阿伊《アイ》、次に鼻にかけて阿伊《アイ》、次に阿々《アヽ》、次に乎々《ヲヽ》宇々《ウヽ》也、すべてうちとけたるいらへは、多く鼻にかけていへり、かくしな/”\なる中に、國ところによりて、いさゝか異なることゞもゝあるなり、
 
    人のうせたる後のわざ
人の死《ウセ》たる後のわざ、上(ツ)代にはいかに有けむ、神代に天若日子《アメワカヒコ》のみうせにし時、八日八夜|遊《アソブ》と有て、樂《ウタマヒ》して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知がたし、但し音樂して遊びしことは、なべてのさだまり也、そのよしは古事記(ノ)傳にいへるがごとし、さて死《シニ》を穢《ケガレ》とすることは、神代より然り、されどそれも、日數のかぎりの定まりしは、後なるべし、又忌服は、から國をまねびたる、後の事也、書紀の仁徳天皇の御卷に、素服といふ字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそあれ、そのかみさる事有しにあらず、仲哀天皇|崩《カムアガ》りまし/\て、いくほどもなく、神功皇后の、重き御神わざの有しにても、服なかりけむことしられたり、そも/\漢國に、喪服といふことのかぎりを、こまやかにさだめたるは、ねもころなるに似たれども、中々に心ざし淺き、うはべのこと也、親などにおくれたらんかなしさは、その月の其ころまでと、きはやかにかぎりの有べきわざにはあらざるに、しひてかぎりをたてゝ、きはやかに定めたるは、かの國のなべてのくせにて、いひもてゆけば、人にいつはりを教るわざ也、親を思ふ心の淺からむ子は、三年をまたで、はやくかなしさはさめぬべきに、なほ服をきて、かなしきさまをもてつけ、又こゝろざし深からんは、三とせ過たらむからに、かなしさはやむべきならぬに、ぬぎすてゝ、なごりなくしなさむは、ともにうはべのいつはりにあらずや、さるを皇國に此服といふことのなかりしは、きはやかなるかぎりのなきかなしさのまゝなるにて、長くもみじかくも、これぞまことにかなしむには有ける、服はきざれども、かなしきはかなしく、きても、かなしからぬはかなしからねば、いたづらごと也、さればかの國にても、漢の文帝といひし王は、こよなく服をちゞめたりしを、儒者は、いみしくよからぬことに、もどきいへども、ことわりある事ぞかし、皇國にならひまねばれたるにも、ちゞめて、おやのをも、一とせと定められたり、さるはいと久しく、身のつとめをかゝむも、えうなきいたづらごとなれば、かなしながらに、出てつかへんに、なでふことかあらむ、さてかくいふは、服てふ事のありなしの、本のあげつらひにこそあれ、すでにその御おきてのあるうへは、かたく守りて、をかすまじき物ぞかし、すべて何わざも、いにしへをたふとまむともがら、おのが心にふさはしからず思はむからに、今の上の御おきてにたがひて、まもらざらんは、いみしくかしこきわたくし也かし、
 
    櫛をなぐる事
建長二年六月廿四日、今日居2住(ノ)佐介(ニ)1之者、俄(ニ)企(ツ)2自害(ヲ)1、聞(ク)者競(ヒ)集(テ)、圍2繞(シテ)此家(ヲ)1、觀(ル)2其死骸(ヲ)1、有(リ)2此人(ノ)之聟1、日來《ヒゴロ》令(ムル)2同宅(セ)1處、其聟|白地《アカラサマニ》下2向(シ)田舍(ニ)1訖(ヌ)、窺(ヒ)2其隙(ヲ)1、有(リ)d通(スル)2艶言(ヲ)於息女(ニ)1事u、息女殊(ニ)周章(シ)、敢不v能(ハ)2許容(ニ)1、而(ルニ)令(ル)v投(ゲ)v櫛(ヲ)之時、取(レバ)者骨肉(モ)皆變(ズル)2他人(ニ)1之由稱(ス)v之(ヲ)、彼(ノ)父潜(ニ)到(リ)2于女子(ノ)居所(ニ)1、自(リ)2屏風(ノ)之上1投(ゲ)2入(ル)櫛(ヲ)1、彼(ノ)息女不意(ニシテ)而取(ル)v之(ヲ)、仍(テ)父已(ニ)准(シ)2他人(ニ)1、欲(ス)v逐(ゲムト)v志(ヲ)、于v時不(シテ)v圖(ラ)而聟自2田舍1歸着(シ)、入(リ)2來(ルノ)其砌(ニ)1之間、忽(チ)以下不v堪v悲(ニ)、及(ブ)2自害(ニ)1云々《トイヘリ》、とこれも東鏡に見えたり、世にはあさましき事もある物なりけり、さてこれをこゝに出せるは、伊邪那岐(ノ)命の、黄泉《ヨミノ》國にて、御櫛を投給ひし事あるところの、古事記(ノ)傳に引(ク)べかりしを、もらせる故に、こゝに出せるなり、
 
    櫻を花といふ事
たゞ花といひて櫻のことにするは、古今集のころまでは、聞えぬ事なり、契沖ほうしが餘材抄に、くはしくいへるがごとし、源氏(ノ)物語若菜(ノ)上の卷に、梅の事をいふとて、花のさかりにならべて見ばやといへる事あり、これらはまさしく櫻を分て花といへり、
 
    白 氏 文 集
白樂天が詩の、皇國にわたりまうで來つる事、文徳實録三の卷に見ゆ、藤原(ノ)朝臣岳守卒(ス)云々、承和五年出(テ)爲(ル)2太宰(ノ)少貮(ト)1、因(テ)v檢2校(スルニ)大唐人(ノ)貨物(ヲ)1、適《タマ/\》得(テ)2元白(カ)詩筆(ヲ)1奏上(ス)、帝甚耽悦(シタマヒ)、授2從五位上(ヲ)1、これ也、詩筆は、古本にもかくあれども、元白といひ、帝甚耽悦云々、とあるなどを思ふに、詩集を寫し誤れるならむか、集ならば、ほじめて渡りまうで來つるなるべし、こは樂天まだ世に在しほどのこと也き、
 
    歌人また家集といふ事
歌よむ人を歌人といふ事、拾遺集十七の卷に、三條(ノ)太政大臣(ノ)家にて、歌人めしあつめて、あまたの題よませ侍けるにとあり、又家(ノ)集といふこと、古今集(ノ)眞字序に見え、拾遺集同卷に、天暦御時、伊勢が家(ノ)集めしたりければ云々、また廿の卷に、家集にかきて侍ると見え、源(ノ)順(ノ)集に、平(ノ)兼盛が家(ノ)集などあり、類聚國史に、菅原(ノ)是善(ノ)卿の事に、家集十卷とあり、これは詩文の集也、
 
    廿 日 草
牡丹を廿日草《ハツカグサ》といふ事、白氏文集、牡丹芳といふ詩に、花開花落二十日、とあるよりつけたる名なるべし、
 
    聖武天皇の菊(ノ)花の御歌
續古今集賀に、聖武天皇(ノ)御製とて、「もゝしきにうつろひわたる菊の花にほひぞまさる萬代の秋、といへる歌あり、奈良(ノ)宮のころ、菊をよめる例なし、よしそれは有(リ)もしてむ、此歌はさらにそのかみのふりにあらず、いたく後のさま也、
 
    蓮葉のはひといふ物
和名抄に、※[草冠/密](ハ)、爾雅(ニ)云(ク)、其(ノ)本(ハ)※[草冠/密]、郭璞(カ)注(ニ)云(ク)、莖下(ノ)白蒻、在2泥中(ニ)1者也(ト)、和名|波知須乃波比《ハチスノハヒ》、このはじめの※[草冠/密]字を、今のすり本《マキ》に、藕と書るは誤也、今は古本によりて引り、藕は、古本には別にあげて、渡知須乃禰《ハチスノ子》とあり、延喜(ノ)内膳式に、荷葉、稚葉七十五枚、波斐《ハヒ》四把半云々、はひは、葉につきたる物ならぬに、歌にはちす葉のはひとよめるは、いかゞなるやうなれども、葉ならでたゞ蓮をも、はちす葉と、歌には多くよめれば、はちすのはひといふこゝろなり、
 
    長谷《ハツセ》をはせといふ事
紀(ノ)長谷雄朝臣、つねにははせをとよめども、六帖にはつせをと、假字にて書り、但し兼輔卿(ノ)集貫之(ノ)集などに、詞書に、はせといへるところあり、信明(ノ)集には、芭蕉葉をかくして、長谷《ハセ》をばとよめる歌もあり、
 
    ほとゝぎすを時鳥と書(ク)事
文選の悲哉行といふ詩に、時鳥多(シ)2好音1とあるは、春の事にて、春鳴(ク)もろ/\の鳥を、時鳥といへる也、さればほとゝぎすを時鳥とかくも、その鳴(ク)ころ、然いへるが、つひに名のごとなれるにや、
 
    法親王入道親王
北山抄の御佛名(ノ)條に裏書に、天暦九年十二月廿二日、入道親王依(テ)v召(ニ)參候云々、法親王依(テ)v仰(セ)彈2和琴(ヲ)1とある、これは同じ御事を、入道親王とも、法親王とも申せり、古くは通はして申せしなるべし、後(ノ)世には、親王のかざりおろし給へるを、入道親王と申し、僧になり給ひて後に、親王になり給へるを、法親王と申して、かはりあめり、
 
    李部王(ノ)記
李部王の記といふふみの名の李(ノ)字、心得がたし、西宮記北山抄などに引れたるには、吏(ノ)字をのみかゝれたり、台記などにすら、吏(ノ)字をかゝれたり、李は後に誤れるものなるべし、
 
    法親王のはじめ
續世繼に、覺行法親王の御事を申(シ)ていはく、わらはにても親王の御名え給はねども、親王の宣旨かうふり給へり、後二條(ノ)おとゞ、出家の後は、例なきよし侍りけれども、白川院、内親王といふ事もあれば、法親王もなどかなからんとて、始めて法師の後、親王と聞え給ひし也、かくて後ぞ、うちつゞきいづくにも、出家のゝちの親王きこえ給ふめる、と有(リ)、法内親王の御例は、今の世迄も、いまだおはしまさず、
 
    門院と申す御號の事
同じ書に、上東門院の建させ給へる、東北院の事をいへる所にいはく、此堂土御門の末にあたりて、上東門院と申す也、此後代々の女院の院號、かどの名聞え侍めり、陽明門も、近衛にあたりたれば、此例によりてつかせ給へり、郁芳門待腎門などは、大炊(ノ)御門中(ノ)御門に御所おはしまさねど、なぞらへてつかせ給へりとぞ聞え侍る、待賢門院の院號のさだめ侍りけるに、なぞらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、などきこえければ、あきかたの中納言といひし人の、此御れうにのこしておかれけるにこそ侍めれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給ひにけるとなむ、みかどの御前などにては、つちみかどこのゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる、されば一條二條など申すにも、同じこゝろなるべしとあり、榮花物語くれまつ星の卷に、陽明門院を、やうめうもんの院とあり、そのかみはいづれも、かく某《ソノ》門の院と、のをいれて申しけるにこそ、さもあるべき事也、
 
    天皇御院號の事
土御門(ノ)内大臣通親公の、高倉院升遐(ノ)記にいはく、そのゆふべ、六はらより清閑寺にうつし奉る、殿上にてまづ後の御名のさだめあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみにのこり云々、とあり、後陽成天皇、元和三年八月廿六日にかくれさせ給ひて、御はふりの事、日をえらばれて、九月廿日とさだまる、そのほどはもとの御所におはしまして、御前僧よもすがら、ひそかに法華經をよむ、朝には御手洗まゐり、御膳などつねのごと奉る、御院號の事、家々へ仰られたる中に、殿下よりかむかへて奉り給へるに定められて、後陽成院と號し奉り、廿日に泉涌寺にして火葬し奉る、此御事、御こゝちのほどより、御はふりまで、西洞院(ノ)時慶(ノ)卿のかゝれたる、升遐(ノ)記に見えたり、
 
    高階(ノ)爲章の名のとなへ
續世繼に、ためあきらといひし人、もとはためのりといひけるを、白川院の、ためあきらとめしたりけるより、かはりたりとかや、おほぢの高大貮は、なりのりといひしかども、此ごろ其末は、むねあきらなどいへるは、めしけるより改まりたりとかや、白川院は、はかなき事も、仰せらるゝ事の、かくぞとゞまりける、とあり、これは高階(ノ)爲章の事也、なりのりは成章、むねあきらは宗章なり、
 
    歌合よみ人の名をかくす事
同書に、法性寺殿【忠通公】の御事をいへるところに、まだをさなくおはしましゝ時より、歌合などあさゆふの御あそびにて、基俊俊頼などいふ、時の歌よみどもに、名かくして判せさせなど、せさせ給ふこと、たえざりけり、といへり、名かくすとは、よみ人の名か、判者の名か、
 
    金葉集の事
同書云、としよりの君、金葉集えらびて、奉りたりける、はじめに貫之春たつ事を春日野のといふ歌、次に覺雅法師とて入給ひけるを、貫之もめでたしといひながら、三代集にももれきて、あまりふりたり、覺雅法師も、げにもともつゞきおぼえず、など仰せられければ、ふるき上手ども、いるまじかりけり、又いとしもなくおぼしめす人、のぞくべかりけりとて、おぼえの人をのみとりいれて、次の度奉りければ、これもげにともおぼえず、と仰せられければ、又つくりなほして、源重之はじめにいれたるをぞ、とゞめさせ給ひけるは、かくれて世にもひろまらで、なか度のが世にはちれるなるべし、とあり、又いはく、金葉集に、輔仁のみこと書たりければ、白川院は、いかにこゝに見むほど、かくは書たるぞ、と仰せられければ、三(ノ)宮とぞ書奉れる、
 
    續 詞 花 集
俊成卿(ノ)正治奏状に、清輔が、績詞花集と申すうちぎゝをつかまつりて、二條院に、勅撰に申しなさむと、申しうけ候しかども、御承引候はざりし云々、と見ゆ、
 
    小野道風が書る古今集
安元二年太上天皇(ノ)五十(ノ)御賀の記にいはく、中宮(ノ)御方のおくり物に、みちかぜがかきたる古今を奉らせ給ふ、
 
    佐保姫の社
奈良に、佐保姫(ノ)社といふ有にや、西三條(ノ)公條公の高野參詣の記の、ならのあたりの所に、佐保姫の社にまゐりしにとあり、
 
    爲兼卿の歌の事
六條(ノ)内大臣有房公の野守の鏡の序に云(ク)、此ごろ爲兼(ノ)卿といへる人、先祖代々の風《フウ》をそむき、累世家々の義をやぶりて、よめる歌ども、すべてやまと言の葉にもあらず、と申侍しかど、かの卿は、和歌のうら風、たえず傳はりたる家にて侍れば、さだめてやうこそあらめ、と思ひ侍しほどに、くはしくとふ事もなくてやみにき、今又これをうれへ給へるにこそ、まことのあやまりとは思ひしり侍ぬれといふにかの僧あざわらひて、堯舜の子、柳下惠がおとゝ、皆おろかなりしうへは其家なればとて、かならずしもかしこかるべきにあらず、又佛すでに、わが法をば、我弟子うしなふべしとて、獅子の身の中の蟲の、獅子をはむにたとへさせ給へり、そのむねにたがはず、内外の法みな、其道をつたふる人、其義をあやまるより、すたれゆく事にて侍れば、歌の道も、歌の家よりうせむ事、力なきことにて侍る、かの卿は、御門の御めぐみ深き人にて侍るなるに、これをそしりて、みつしほのからき罪に申(シ)しづめられん事も、よしなかるべきわざにて侍れば、くはしく其あやまりを申しがたし、たゞこの略頌にて心得給へ、それ歌は、心をたねとして、心をたねとせず、心すなほにして、心すなほにせず、ことばをはなれて、ことばをはなれず、風情をもとめて、風情をもとめず、姿をならひて、すがたをならはず、古風をうつして、古風をうつさゞる事にてなん侍る、と申すに云々、
 
    花  園
花園といひしところは、今の妙心寺その跡也、續世繼に、花園(ノ)左大臣有仁公の御事をいへる所に、仁和寺にはなぞのといふところに、山ざとつくり出して、かよひ給ふとあり、むかしは、かのあたりまで、仁和寺の内なりしにこそ、花園(ノ)帝《ミカド》この地《トコロ》に離宮《トツミヤ》をたてさせ給へり、かくて後に寺にはなされし也、
 
    もろこしの經書といふものゝ説とり/”\なる事
もろこしの國の、經書といふ物の注釋、漢よりよゝのじゆしやのと、宋の代の儒者のと、そのおもむきいたく異なること多く、又其後にも、宋儒の説を、こと/”\くやぶりたるも有(リ)、そも/\經書は、かの國の道を載せたる書にて、うへもなく重き物なめれば、そのむね一(ツ)に定まらではかなはぬ事なるに、かくのごとく昔より定まりがたく、とり/”\なれば、ましてそのほかの事の、善惡是非《ヨサアシサ》のいさゝかなるけぢめをば、いかでかよく定めうべきぞ、たゞ皇國のいにしへのごと、おほらかに定めて、くだ/\しき論ひには及ばぬこそ、かへりてまさりてはありけれ、又かの宋儒の、格物致知窮理のをしへこそ、いとも/\をこなれ、うへなく重き經書のむねをだに、よく明らめつくすことあたはずして、よゝに其説とり/”\なるものを、萬の物の理(リ)を、誤りなくは、いかでかよくわきまへつくす事をえん、かへす/\をこ也、
 
    もろこし人の説こちたくくだ/\しき事
すべてもろこし人の物の論ひは、あまりくだ/\しくこちたくて、あぢきなきいたづら言《ゴト》多し、宋儒の論ひを、こちたしとてそしる儒者も多けれど、それもたゞいさゝか甚しからぬのみにこそあれ、然いふものもなほこちたし、
 
    兩 部 神 道
大かた天(ノ)下の神社、中昔よりほうしのつかふるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗《ヨ》に唯一といひ、ほうしのつかふる社を、兩部といふ、又別に兩部神道と名のる一ながれもあり、其説にいはく、聖徳太子舍人親王もみな兩部神道也、さて空海諸道に通達して、神道の奥義をきはめ、此兩部神道を中興せり、嵯峨(ノ)天皇これを叡感ありて、兩部神道といふ號を下し給ふといへり、まづこれ皆そらごと也、さて其|説《トキ》ざまは、神儒佛の三教の、勝を取て劣を捨(ツ)といひ、又今日目前の萬物の理を以て、天地の始終をもしるといへり、今|論《サダ》めていはく、これみないみしきひがこと也、まづ三教の勝をとるとはいへれども、その説《トケ》る事どもを見るに、たゞ儒と佛とをのみ取て、神(ノ)道の意をとれることはさらになし、すべて佛の道をむねとして、儒をまじへ、又天文の事を多くいへり、かくて神(ノ)道は、たゞ書紀の神代(ノ)卷の、天地のはじまりの所の、潤色《カザリ》の漢文と、國常立など神の御名を、をり/\出せるばかりにこそあれ、其道の意とては、露ばかりも見えず、いかでかこれを神道と名づくることをえむ、又天文の事も、さらに道にはあづからぬこと也、さて勝を取て、劣を捨(ツ)といふことこそ、いとをかしけれ、勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ、たゞみな己が心にかなへるを勝とし、己が心にかなはざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそあれ、その勝劣は、何をもてか證《アカ》さむ、すべてまことの理(リ)は、測《ハカ》りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思ひ、これ當然の理なりと思へども、あたらぬことのみ多かるを、凡人《タヾビト》の心もて、今日目の前なる小き物のことわりをもて、いかでか天地の萬の物を定むることをえむ、かの宋儒の格物窮理などいふたぐひ、いみしきひがこと也、ことに此兩部神道といふ物は、たゞ己が心を主人《アルジ》とし、神と聖人とを、奴僕《ヤツコ》として、心にまかせて、かりつかひたる物にして、神の御典《ミフミ》をも、佛の説をも、儒の言をも、己が心の如くに説《トキ》なしがたきところをば、みな方便ぞ假説ぞ表事ぞなどいひなして、ひたぶるに思ふまゝに説たるは、佛の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道にあらざることは、さらにもいはず、たゞおのがわたくしの新《ニヒ》ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞといふに、儒の道佛の道は、あだし國よりわたりまうで來つる道にして、神の道ぞ、皇國の本よりの道なれば、後の世といへども、よの人なほ、他國《ヒトノクニ》の道によらんよりは、同じくは吾(ガ)國の道をこそはたふとむべけれ、と思ふ心も、さすがに多くある物なれば、さる世(ノ)人をおもむけむために、わが國の道といふ名をかりたる物にして、此ともがらの祖《オヤ》とする、昔のほうしなども、然にぞ有ける、そのかみなほ國々の民どもは、もはら神をたふとみあふげる故に、まづ其神を引こめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも、佛の奴《ヤツコ》のごと説《トキ》なして、人の心をうつさせたる物ぞかし、ちかき世の兩部神道の、神道といふ名も、此心ばへを以て也、
 
    ま  た
儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうへに又太極無極といふものをとけり、然れどもその太極無極は、いかなることわりいかなる故にて、太極無極なるぞといはむに、こたふべきよしなきが故に、かの兩部神道には、佛の道の密教の義《コヽロ》によりて、今一きは上(ヘ)を説て、これを阿字眞如海變動自在の所作などいひて、もろ/\の道に勝《スグ》れたるごとく、ほこれども、その阿字眞如は、又いかなる理いかなる因縁にて、變動自在なるぞといはむには、いかゞこたへむとする、すべて物の理は、つぎ/\にその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず、つひに皆あやしきにおつる也、然れば陰陽も太極無極も、阿字眞如も、みなかりのさへづりぐさにして、まことには其理あることなく、えうなきいたづらごと也かし、又眞如の無明を生《シヤウ》ずるといふも、いと/\心得ず、眞如ならんには、無明は生《シヤウ》ずまじき事なるに、いかにして生ずるにか、そのことわりこそきかまほしけれ、不覺によるが故に、忽然と無明を生ずといふなれど、然らばその不覺は、又何の因縁、いかなる理にて、不覺なるぞといはゞいかに、又不覺ならんからに、生ずべき因縁ことわりなくては、無明の生ずべきよしなし、その因縁ことわりはいかに/\、
 
    ま  た
兩部神道なる者のいはく、眞如の變動に依て、無量の自在萬像を生じ、物に體してのこさゞれども、言語道斷にして、視《ミ》るにも見えず、きけども聞えずといへり、さてかくいひながら又、世界に不思議といふ物一事もなしと、つねにいふはいかにぞや、言語道斷といへる、それすなはち不思議にあらずや、
 
    御國の言と外(ツ)國の言とおのづから似たるも同じきもある事
皇國の古言と、漢字《カラモジ》の音《コヱ》と、おのづから同じきも、まゝあるなり、けと氣、やと耶、さかと尺、うまと馬、しにと死、はぐと剥、すと洲などのごとし、猶有べし、又蝉は、せみ/\となけば、其聲によれる、本よりの名か、字(ノ)音をとれるか、これらはわきまへがたし、此たぐひもなほ有べし、文《フミ》錢《ゼニ》蘭《ラニ》などは、字(ノ)音なることしるし、然るを此(ノ)文錢などになずらへて、いさゝかも似たるがあれば、皆其字音をとれりと心得るは、ひがこと也、又梵語朝鮮語などゝ似たるがあれば、それをもかれを取れる物と思ふめり、まづ梵語をとりて、こゝの言にしたるは、あることなし、たま/\似たるがあるは、おのづからのこと也、千萬《チヨロヅ》の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などかなからん、又今の朝鮮の言と同じきは、寺《テラ》郡《コホリ》などのたぐひは、まことに韓語をとれる也、いにしへ三韓は、もはら皇朝にしたがひゐて、常に參り通ひしかば、おのづからかの國の語のうつれるも有べく、又本こゝに無かりし物の、かの國より渡りまうで來つるなどは、かの國の名を、やがて用ひたるも有べく、又いにしへ皇國の語を、韓人のならひて、かの國の言にもなれるが、今の世まで朝鮮にのこれるも有べきを、かへりてそれをも、ひたぶるに皆、かしこより出たらんと思ふは、又ひがこと也、さて又いにしへ母をおもといへること有(リ)、これをも、漢國にて阿母といふより出たりと、儒者などは例のいへど、然らず、本よりの古言也、萬葉の東《アヅマ》歌には、あもともよめれど、それも漢國の阿母によれるにはあらず、おもを、東國の言にさいへる也、又今の俗言《ヨノコトバ》に、たま/\からぶみに見えたる言と、似たるがあるをも、かれをとれりと、例のいふ也、母をかゝといふは、或《アル》漢籍《カラブミ》に、家々《カヽ》といへることあれば、そをとれる也と、近き世に或人はいへれど、いとあたらぬこと也、いかにといふに、さる物どほきから國の書に、まれに見えたる言《コトバ》を、此方《コヽ》の俗人《ヨノヒト》のいかでか知(リ)てとり用ることあらん、すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、まれに見えたることの、こゝの言と似たるを見つくれば、皆それより出たることゝすなるは、いとをかしきことぞかし、大かた後の世の語に、字音《モジコヱ》の言の多きは、おほくは佛書《ホトケブミ》の言なる、こはむかし僧《ホウシ》どもの、常にいふを、聞なれて、うつれる物なり、又ほとけぶみの言ならぬも、世にひろくよみならへる書にある詞こそあれ、遠き書に、まれ/\見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねにいふ物にはあらざれば、ましてなべての世の人の、聞(キ)しりてならひいふべきよしなきものをや、
 
    初學の詩つくるべきやうを教ヘたる説
ちかきころあるじゆしやの書る物を見れば、初學《ウヒマナビ》の輩の、から歌を作るべきさまを教ヘたる中にいへるやう、所詮《シヨセン》作りならひに、二三百もつくる間《アヒダ》の詩は、社外の人に示すべきにもあらず、後に詩集に収録すべきにもあらざれば、古人の詩を、遠慮なく剽竊して、作りおぼえ、なほ具足しがたくは、唐詩礎明詩礎詩語碎錦などやうの物にて、補綴して、こしらゆるがよき也といへるは、まことによきをしへざま也、歌よむも、ゝはらさる事にて、はじめよりおのが思ふさまを、あらたによみ出むとすれば、歌のやうにもあらぬ、ひがことのみ出來て、後までも、さるくせののぞこりがたき物なれば、うひまなびのほどは、詞のつゞきも、心のおもむきも、たゞふりたる跡によりてぞ、よみならふべきわざ也ける、
 
    歌は詞をえらぶべき事
童蒙抄に、「水のおもにてる月なみをかぞふればこよひぞ秋のもなかなりける、もなかとよめるを、時の人、和歌の詞とおぼえずと難じけるを、歌がらのよければ、えらびにいれりとあり、
 
    小 大 君
三條院(ノ)女藏人左近を、小大君ともいへり、そは小大進《コダイシン》といふ名を、はぶきていへるなれば、こだいの君とよむべし、こおほきみとよむはひがこと也、此人小大進なる證《シルシ》は、榮花物語見はてぬ夢の卷に、「あるはなくなきは數そふ、といへる歌のよみ人、東宮の女藏人、小大進とあり、東宮は三條院也、此歌小町(ガ)集といふ物にもあり、すべて此小町集は、いとも信《ウケ》がたき物にて、此小大(ノ)君が歌の多かるは、小大を小町にまぎらはしつるなるべし、然るを新古今に、かの歌を小町集よりとりて、小町がとて入られたるは、誤也、
 
    月 草 の 事
月草は、今世に露草といふ物也、國によりて、ぼうし草とも、べゞし草ともいふ,世にぼうしといひて、物を染る紙あるは、此草にて染たる故の名也、又古き歌に、花色衣とよめるも、此月草染也、今の世に、青色を花色といふ是也、又それをちくさともいふは、月草を訛れる也、と或人いへり、
 
    持 明 院
持明院は、上立賣の北、新町の西にあり、もと持明院(ノ)家の先祖、中納言基家卿の家也、然るに後高倉院の妃《キサキ》北白川(ノ)院、此基家卿の御女なりしによりて、後高倉院此持明院にまし/\、其後後堀川のみかど、御位おりさせ給ひて、此院にまし/\けるより、あひつぎて代々、おりゐのみかどの御所となれりと、或人の説也、
 
    士御門(ノ)内裏
土御門(ノ)内裏は、土御門(ノ)南、烏丸(ノ)西と、拾芥抄に見えたり、或書に光嚴院より、後奈良院まで、此内裏にましませりといへり、明應凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車(ノ)路次、正親町(ヲ)西行、室町(ヲ)南行、近衛(ヲ)東行云々と見え、又二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如く也、然ればそのころは、北へ廣がりて、一條の南づらまでも、内裏なりしにや、さる故にその西表の御門、正親町に有てそれより出給ひしなるべし、又同(ジ)帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有しよしなり、されば御所は時々にすこしづゝ地《トコロ》かはりて、こゝかしこに有しかども、皆同じ廓の内にてぞありつらん、さて今の内裏は、正親町院の御世、信長公秀吉公などの時に、造營せられし地なるべし、これも士御門(ノ)内裏の外廓の、やう/\に東へ北へ廣くなりて、今(ノ)世の外廓とはなれりとおぼしければ、猶同じ廓の内也、さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御謚《ミナ》にもつけ奉られたるにやと、これも或人いへり、中原(ノ)康冨(ノ)記に、文安元年九月廿八日云々、去年九月廿三日(ニ)炎上(セル)内裏(ノ)之御門四(ツ)足、【士御門東洞院面、號(ス)2左衛門(ノ)陣(ト)1】云々、文安は、後花園(ノ)天皇の御世也、
 
    大神宮の外宮
百錬抄(ニ)云(ク)、長久元年七月廿六日、大風、伊勢豐受大神宮、正殿并(ニ)東西寶殿瑞垣、悉(ク)以(テ)顛倒(ス)、同八月四日、諸卿定(メ)申(ス)、大神宮(ノ)外宮顛倒(ノ)事、主上殊(ニ)歎息云々、とあり、大神宮(ノ)外宮と申せる事、めづらし、長久は、後朱雀天皇の御世なり、
 
    祝部(ノ)成仲九十(ノ)賀
同書(ニ)云(ク)、文治四年五月十六日辛亥、日吉(ノ)社(ノ)禰宜成仲、結2構(ス)九十(ノ)賀(ヲ)1、好士多(ク)以(テ)行(キ)向(フ)、可(キノ)v然(ル)之卿相送(ル)2和歌(ヲ)1、
 
    清輔朝臣尚齒會
承安二年三月十九日、白川の寶莊嚴院にして、藤原(ノ)清輔朝臣、尚齒會を行はれけり、前(ノ)馬寮(ノ)助藤原(ノ)敦頼八十三、神祇(ノ)伯顯廣(ノ)王七十八、前(ノ)石見介祝部(ノ)成仲七十四、宮内卿藤原(ノ)永範(ノ)卿七十一、右京(ノ)權(ノ)大夫源(ノ)頼政六十九、清輔六十九、前(ノ)式部少輔大江(ノ)維光六十三、此七人なりき、この尚齒會(ノ)記一まき、いにし明和のころ、板にゑりて、世にひろまれり、
 
    奏壽宣命の儀
三代實録十四(ニ)云(ク)、貞觀九年正月十七日、二品仲野(ノ)親王薨云々、親王能(ク)解(ス)2奏壽宣命(ノ)之道(ヲ)1、音儀詞語、足(レリ)v爲(ルニ)2模範(ト)1、當時王公、罕(ナリ)v識(ルコト)2其儀(ヲ)1、勅(シテ)2參議藤原(ノ)朝臣基經、大江(ノ)朝臣音人(ニ)1、就(テ)2親王(ノ)六條(ノ)亭(ニ)1、受(ケ)2習(ハシム)其(ノ)音詞曲折(ヲ)1焉、故(ノ)致仕左大臣藤原(ノ)朝臣緒嗣、授(ク)2此(ノ)義(ヲ)於親王(ニ)1、親王襲持(シテ)、不v失(ハ)2師法(ヲ)1焉、と見えたり、此文|板本《スリマキ》には、一くだりばかり脱《オチ》たるを、今は古き、寫本《ウツシマキ》によりて書出(デ)つ、さていにしへは、奏壽宣命の、後の世のごとくなほざりならず、大事なりしこと、これにてしるべし、ふるき書籍目録に、宣命譜といふ物の見えたるも、その音詞曲折をしるせるふみなるべし、
 
    大内(ノ)政弘朝臣の歌
大内左京大夫多々良(ノ)政弘、正五位下にて有しほど、四位をのぞまれけれども、むなしくて年へければ、「たよりなき外山にすみてしつ枝をもをることかたき峯の椎柴、とよまれければ、此歌をめで給ひて、從四位下にぞなし給ひける、ほどもなくて、又從上せられけるとぞ、此歌まことによくよみかなへられたり、四位と椎《シヒ》と、假字のたがへるは、そのころのしわざにては.いふべきに非ず、
 
    伏見天皇御即位の次第
中務(ノ)内侍(ノ)日記に、弘安十一年、伏見(ノ)天皇御即位の儀をしるしていはく、三月十五日、御そくゐ行幸のぎしき、關白殿左大將以下、供奉の人々、めづらしくおもしろし、かみあげ《髪上》の内侍、この御所より、少將(ノ)内侍|せう《少輔》の内侍也、御所御しやうぞくめされぬ、殿いらせ給ふ、めし仰せはてぬるよし、奉行の|しきじ《職事》申せば、南殿へならせ給ふ、御こし《輿》にめされぬれば、くわん《官》の|ちやう《廳》へ、いそぎ|こうたう《勾當》もまゐる、かみあげの|とくせん《得選》まうけたれば、車のしりにのせて、くわんのちやうの北むきよりまゐりて、かみあげしたゝめて、あした《朝》所の南むきに、勾當とさぶらへば、やう/\行幸ちかづかせおはしますとて、ぐぶの公卿しだい《次第》に|れち《列》にたちたり、御こし《輿》よらせ給ひぬ、關白殿、御したがさねひきなほしまゐらせらる、公卿のすけまゐりて、けんし《剣璽》とりて、内侍につたへて後、御こし《輿》につきて、みつな《御綱》のすけそうぞきぬ、奏はてゝ、主上いらせ給へば、殿御れん《簾》にまゐらせ給ひ、ひさしのみすあらはより、しきじあきよたれ/\は、御もやの御れんあげられて、主上大しやうし《床子》にわたらせ給ふ、けんし《剣璽》も大しやうしにおき奉りて、内侍あした所の北むきにいでゝさぶらふ、其後大しやうしのひむがしに、ひらしき《平敷》の御座に、うげん《※[糸+雲]※[糸+間]》二帖のうへに、御しとねよそひて、このうへにてわきの御ぜんなどまゐらす、御はいぜんは女房、やくそう《役送》の|ねうばう《女房》は、こ上らう、あした所の北むきに、北にさぶらふ、ぶぎやうのしきじをめして、たかみくらの事は|ぐ《具》したるかと、おほせくださるれば、しきじかへりまゐりて、ぐしたるよしそうす、ひらしきの御座にて、御そくたい《束帶》ときくつろげさせおはしまして、玉の御かうぶりめさる、らいふく《禮服》めされて、大床子に主上わたらせおはします、玉の御かうふりに、あけのを《緋緒》ゝつく、あけの御はう《袍》に、左右の御かた《肩》は、月と日とをいだし、御なほしには、ほくと《北斗》七星をあらはしたてまつる、御むね御袖には、たつ《龍》ののぼりたるをぬひたり、あられぢ《霰地》の御うへのはかまのうへに、らいふくの御も《裳》をめす、そのうへに御大そで《袖》の御はう《袍》をめす、御くびがみ御まひも也、そのうへにたかくびの御小袖の御はうをめす、此いろ/\の御もんは、御小袖の御はうにあらはして、うへにめしたり、あかぢの錦の御したうづ《襪》、はながたのうらの御くつ、あかぢのにしきにてつゝみたり、御こし《腰》には御じゆ《綬》とて、ひらを《平緒》のしろきをひかせ給ひたり、左右の御うしろの御わきのとほりに、たんじゆ《短綬》とて、二すぢ御よほろ《※[月+國]》の程にさげられたり、御まへの左右の御わきに、ぎよくはい《玉佩》とて、玉をつらぬきて、つけられたり、御すそに、ひう《火打》ち|がた《形》のからかねをつけられたれば、ふけんのごとくに、りやらめきならせ給ふ、御まへには、大じゆ《綬》をむすびさげられたり、たちのひらをのごとく、むすびたれたり、たかみくらの事ぐ《具》したるよし、しきじ申せば、やがて行幸あり、ぎよけん《御劔》は|こうたう《勾當》給はる、璽はこれのやくなり、右の御わきにまゐる、殿下の|おほ《仰》せに、その|しるし《璽》の御はこのうへにかけたるあみを、ゆびにかけつれば、とりはづし、あやまちはせぬぞとおほせあるに、御なさけの有がたく、心もつよ/\しくおぼえて、あやまちなし、たかみくらへ事ゆゑなく參りつきぬ、とばり《帳》あ《※[寒の上/衣]》げの役は、はく《伯》の三位のむすめ也、みやうぶ藏人四人、やくの内侍六人、うらこきそはうこきものゝぐ、行幸たか御くらへなれば、御さきのみやうぶ四人、御さきにたつ、其後かみあげの内侍二人、二行にならびて參る、たか御くらの御はしの左右に、ないしたちとまれば、殿下御れんのやくにまゐり給ひぬ、左の内侍まづのぼりて、左の御わきより、御けんをまゐらせおく、御はし《階》をしりぞきて、右のしもに内侍のざにつきぬ、女王のしやうぞく、二色くれなゐのひとへ、そはう《蘇芳》のうはぎ、あかいろのからきぬ、かみあげの内侍は、勾當とこれ新内侍也、御ぜん《前》の命婦、みあれいつぬき宮人いしかは、ゐぎ《威儀》の命婦、はゝきさぬきひぜんたましき、これみなうらこきそはう、やなぎのからきぬ也、こせう《扈從》の命婦、右衛門督殿【やなぎにくれなゐのひとへ、こうばいのうはぎ、】新左衛門督殿【もえぎにくれなゐのひとへ、山ぶきのうはぎ、】新宰相殿【むらさきうすやうに、しろきひとへ、山ぶきのうはぎ、もえぎのからきぬ、】宮内卿殿【新宰相殿に同じ、】治部卿殿【紫のうすやうに、もえぎのうはぎ、えびそめのからきぬ、】少將内侍少輔内侍【まつがさねに紅のひとへ、やなぎのからきぬおなじ、】つねの衣のうへに、かいふ|に《の》からきぬ、かうけつの衣、ひらびたひ也、ぎやうれつのあひだの事、みさきにゐぎの命婦四人、【えんだうの左右につゞけり、】しやうちやう《正廳》の左につく、つぎに|けんし《劔璽》の内侍二人、【左こうたう、右はこれ也】こせうの女房、御うしろにあゆみつゞきてまゐる、事しづまりて、みなみをはるかに見やれば、せちげ《節下》のはたゝて、風にひらめきてたちたり、大きなる|かうばん《香盤》に、みやうがう《名香》やにほふらんと見えたり、こがねのたからすとて、あしの三あるとり見ゆ、しんこんたけうのなかには、日の中に、さんぞくのからすあり、月の中には、ろくそくのうさぎありときゝしも、ほんせちある事なりけりと、しんおこりておぼえて、から人のすがたどもなみたちて、はいし奉るに、身のけもたち、涙ぐましく、めでたくうれし、右大臣殿からめかしき御すがたにて、まくのうちよりねりいで給へば、ぎよくはいのおとかや、みちにりやらめきて、びゝしく、御たけのたかさ、御てんのたかさにもたちおとり給はず、たか御くらにむきてはいし給ふを、見るにもめでたく侍、「ためしなきこゝちこそすれ君がよのかゝるみゆきにけふつかへつる、と思ひつゞけたれども、うちまぎれぬ、やう/\たいれいのぎどもゝはてぬれば、殿たか御くらへのぼり給ふ、あした所へかへりいらせおはします、御けんしるしの御はこなど、もとのごとくつとむ、主上御しやうぞくめしあらためて、くわんぎよのぎになるほどに、この御やすまく《休幕》へいらせ給ぬ、花山院さいをんじ殿候はせ給ふ、還御のぎしきぐせらるゝほど、大しやうじのひむかしひらしきにてぞ、くごまゐる、御はいぜんは、女房もとのごとし、又大しやうしのにしに、からゑの御びやうぶをたてられたり、その西にて、兩大納言殿御わりごひらき給ふにや、その|やくそう《役送》には、五位のしきじよりふぢあきよなど見え侍つ、御ぜんはてぬれば、くわんぎよなる、公卿のれち、御こしよりてめされぬれば、ずさどもよせて、またかへりまゐりぬ、出車には、一のくるまに、左衝門督殿 新左衛門督殿 はゝき さぬき、二のくるまに、宮内 龍さ ひぜん たまき、三のくるまに、新兵衛 ぢぶ みあれ いつぬき、四のくるま、少將 少 宮人 いつぬき、としるせり、中務(ノ)内侍は、宮内卿永經卿のむすめ也、右の日記の文のうち、心得ぬ事まじれり、うつし誤(リ)とおぼしきも、所々見ゆ、みな本のまゝにかきつ、
 
    齋 宮 諸 司
令(ノ)集解(ニ)云(ク)、神龜五年七月廿一日(ノ)格(ニ)云(ク)、齋宮寮、頭一人、【從五位(ノ)官】助、【正六位(ノ)官】舍人司長官一人、【從六位(ノ)官】藏部司長官一人【從六位(ノ)官】膳部司長官一人、【從六位官】少允一人、【從七位官】主神司中臣一人、【從七位官】酒部司長一人、【從七位官】水部司長一人、【從七位官】殿部司長一人、【從七位官】掃部司長、【從七位官】膳部司判官一人、【正八位官】大屬一人、少屬一人、【從八位官】主神司忌部一人、宮主一人、【已上從八位官】釆部司長一人、【從八位官】藥部司長一人、【從八位官】舍人司主典一人、【大初位官】藏部司主典一人、【大初位官】膳部司主典一人、【大初位官】勅依前件、
 
    古言清濁考の事
いにしへことばの清濁を考るに、今の世にいふとは、異なるぞおほかる、そは何によりてしるぞといふに、古事記書紀萬葉は、かなづかひいと正しくして、清濁をも分て書たれば、これらの書によりてしるべし、此三ともの書の中にも、古事記は殊にたゞしく、次に萬葉、次に書紀也、書紀は、清濁|混《マガ》ひたるもおほけれど、なべてはよくわかれたり、萬葉は、混《マガ》ひすくなし、古事記は、まがひたるはをさ/\見えず、たがへるがまれにあるは、すべてのいと正しきをもて思へば、後に寫し誤れるにこそあらめ、さてそのすみにごり、今の世にいふとは、ことなるも多きを、人皆、通はし書たりと思ひ、あるは混《マガ》ひたる也と思ひ、あるは濁る音には、清音の字をも書る例也、など思ひをるは、くはしからざること也、さらにさる事にはあらず、古(ヘ)と今と、いふ言の清濁のかはれる也、然いふ故は、たとへば山の枕詞のあしひきのごとき、今はなべてひもじを濁りてよみならへれども、此假字、古事記にも書紀にもいで、萬葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用ひて、濁音を用ひたることなし、一つ二つにては、なほ混《マガ》ひつるかの疑ひもあらむを、いとあまた見えたる、皆同じきをもて、いにしへは清《スミ》つることをしるべし、其外の言にも、此たぐひいとおほし、古書を考へこゝろみて、皆なずらへ知べし、然るに古書をよみ、古言を唱ふるに、古書のかなにはしたがはずして、今のならひになづみて、濁るべきを清《スミ》、濁るまじきをにごりなど、わたくしに定めてよむは、いとみだりなるわざ也、古書をよまむには、古書のかなの清濁にこそしたがふべきわざなれ、そも/\おのれ、此清濁の、古(ヘ)今とかはれることに心つきて、いかで今のならひにかゝはらず、古書のかなにしたがはゞやと、はやくより思ふことにて、すでに古事記傳のはじめの卷にもいひつれども、いとまなくて、もろ/\のことばの清濁を、あまねくかむかへわたすことあたはずして、いとくちをしく思ひわたれば、友だちにも此事つねにかたりけるに、おのがをしへの子に、遠江(ノ)國ふちの郡細田村の人、石塚(ノ)龍麻呂なん、この事に心おこして、古書どもを、あまねくくはしくかむかへわたして、此ちかきほど、古言清濁考といふゝみをあらはしたりける、此考によりて見れば、おのれさきにあらはしたりつる、神代正語などにも、なほまれ/\には、かむかへ及ばざりしこともある也、いにしへまなびせむともがらは、此清濁考、かならず見べき書ぞかし、
 
    兼好法師が詞のあげつらひ
けんかうほうしがつれ/”\草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや、いにしへの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとひ、あるはまちをしむ心づくしをよめるぞ多くて、こゝろ深きも、ことにさる歌におほかるは、みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風をまち、月に雲をねがひたるはあらん、さるをかのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流《ミヤビ》にして、まことのみやびごゝろにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此たぐひ多し、皆同じ事也、すべてなべての人のねがふ心にたがへるを、雅《ミヤビ》とするは、つくりことぞおほかりける、戀に、あへるをよろこぶ歌は、こゝろふかゝらで、あはぬをなげく歌のみおほくして、こゝろ深きも、逢見むことをねがふから也、人の心は、うれしき事は、さしもふかくはおぼえぬものにて、たゞ心にかなはぬことぞ、深く身にしみてはおぼゆるわざなれば、すべてうれしきをよめる歌には、心深きはすくなくて、心にかなはぬすぢを、かなしみうれへたるに、あはれなるは多きぞかし、然りとて、わびしくかなしきを、みやびたりとてねがはむは、人のまことの情《コヽロ》ならめや、又同じほうしの、人はよそぢにたらでしなむこそ、めやすかるべけれといへるなどは、中ごろよりこなたの人の、みな歌にもよみ、つねにもいふすぢにて、いのち長からんことをねがふをば、心ぎたなきことゝし、早く死ぬるを、めやすきことにいひ、此世をいとひすつるを、いさぎよきことゝするは、これみな佛の道にへつらへるものにて、おほくはいつはり也、言にこそさもいへ、心のうちには、たれかはさは思はむ、たとひまれ/\には、まことに然思ふ人のあらんも、もとよりのまごゝろにはあらず、佛のをしへにまどへる也、人のまごゝろは、いかにわびしき身も、はやくしなばやとはおもはず、命をしまぬものはなし、されば萬葉などのころまでの歌には、たゞ長くいきたらん事をこそねがひたれ、中ごろよりこなたの歌とは、そのこゝろうらうへなり、すべて何事も、なべての世の人のま心にさかひて、ことなるをよきことにするは、外國《トツクニ》のならひのうつれるにて、心をつくりかざれる物としるべし、
 
    うはべをつくる世のならひ
うまき物くはまほしく、よきゝぬきまほしく、よき家にすまゝほしく、たからえまほしく、人にたふとまれまほしく、いのちながゝらまほしくするは、みな人の眞心《マゴコロ》也、然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがはざるをいみしきことにして、すべてほしからず、ねがはぬかほするものゝ、よにおほかるは、例のうるさきいつはりなり、又よに先生などあふがるゝ物しり人、あるは上人などたふとまるゝほうしなど、月花を見ては、あはれとめづるかほすれども、よき女を見ては、めにもかゝらぬかほして過るは、まことに然るにや、もし月花をあはれと見る情《コヽロ》しあらば、ましてよき女には、などかめのうつらざらむ、月花はあはれ也、女の色はめにもとまらずといはんは、人とあらむものゝ心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ、しかはあれども、よろづにうはべをつくりかざるは、なべてのよのならひにしあれば、これらは、いつはりとて、さしもとがむべきにはあらずなん、
 
    やしなひ子
あだし氏の人の子を子にして、家つがしむる事の、今の世のごとくなることは、皇國にも、もろこしの國などにも、いにしへはをさ/\なき事なりき、されば儒者などは、これをあるまじき事にして、大かた子といふものゝなきは、そのよつぎを天のたち給ふにて、せむかたなければ、さてやむべきに、よしなき人の子をとりて、つがしむるは、すぢことなれば、いたづらわざにて、中々に天にもそむくひがことぞ、などもいふめるは、いとかたおち也、やむことえずは、たとひそのすぢにはあらぬにても、つがしめて、氏門をたゝず、祖《オヤ》のはかどころをもあらさず、祭(リ)もたえざらんぞ、ひたぶるにたえはてむよりは、はるかにまさりてはあるべき、古(ヘ)は世(ノ)中にさるならひのなかりつればこそあれ、今の世のごとくなりせば、周公孔子も、それあしとはいひたらじをや、然るを又あるじゆしやのいひけらくは、異姓の養子は、祖を祭れども、そのまつりうくることなし、うみの子のまつりを、祖のうくることは、そのすぢなればこそあれ、すぢならぬものゝまつらんには、そのみたまの、うけに來ますべきよしなしともいふは、いと心得ぬこと也、世には人に深きうらみなどをのこして、なくなりたるものゝたましひは、其人に來よりつきて、たゝりをもなすにあらずや、さるは其人には、なにのすぢもあらざれども、たゞ一ふし思ひしめたるゆかりにだに、しかよりくる物を、ましてひたぶるに子とたのみて、よをつがせたるものゝ祭を、うけにはこざるべきものかは、
 
    學者のまづかたきふしをとふ事
物まなぶともがら、物しり人にあひて、物とふに、ともすればまづ、古書の中にも、よにかたきことゝして、たれもときえぬふしをえり出て、とふならひ也、たとへば書紀の齋明御卷なる童謠、萬葉にては、一の卷なる莫囂圓隣云々と書る歌、などやうのたぐひなり、かうやうのかたきことを、まづ明らめまほしく思ふも、學者のなべての心なれども、しからばやすき事どもは、皆よくあきらめしれるかと、こゝろむれば、いとたやすき事どもをだに、いまだえよくもわきまへず、さるものゝ、さしこえて、まづかたきふしをあきらめんとするは、いとあぢきなきわざ也、よく聞えたりと思ひて、心もとゞめぬことに、思ひの外なるひがこゝろえの多かる物なれば、まづたやすき事を、いく度もかへさひかむかへ、とひも明らめて、よくえたらん後にこそ、かたきふしをば、思ひかくべきわざなれ、
 
    教は猿田彦(ノ)神のをしへといふ事
近き世神道者の説に、道は天照大神の道、教(ヘ)は※[獣偏+援の旁]田彦(ノ)神の教也、といみしげにいふなり、道は天照大神の道といふは、ろんなきを、教(ヘ)は※[獣偏+援の旁]田彦(ノ)神のをしへといふことこそ、いとこゝろえね、※[獣偏+援の旁]田彦神は、皇御孫《スメミマノ》命の天降《アマクダリ》ます、御前《ミサキ》にたちて、啓行《ミチヒラキ》をこそ仕奉り給へれ、世の人のおこなふべき道を、をしへ給へる事は、古書にかつて見えず、よしもなき附會《ヒキヨセゴト》也、此外世の神道者のいふ説ども、此たぐひのみおほし、みなから國の教説《ヲシヘゴト》をうらやみて、かれに似たらむともとめたる、しひごと也、
 
    鳥 羽 離 宮
百練抄(ニ)云(ク)、寛治元年二月五日、上皇遷2御鳥羽(ノ)離宮(ニ)1、營作甫(メテ)就(ルノ)之故也、云々、件(ノ)地(ハ)、本(ト)是(レ)備前(ノ)守季綱(ノ)朝臣(ノ)領也、去年進2上(ス)之(ヲ)1、讃岐(ノ)守泰仲、造(リ)2進(ス)舍屋(ヲ)1、
 
    ほむすびの神
いぎなぎいざなみ二柱(ノ)大神の、國土《クニツチ》又もろ/\の神たちをうみ/\て、火産靈《ホムスビノ》神を生《ウミ》給へるまでは、物の成《ナ》れる吉事《ヨゴト》のみにして、凶事《マガコト》はなかりしを、かのほむすびの神をうみ給へるによりて、いざなみの大神の、岩隱《イハカクリ》まし/\しは、よの中の凶事《マガコト》のはじめ也、さればほむすびの神は、そのかみ吉事《ヨゴト》の終り、凶事《マガコト》のはじめのきはに、成《ナリ》ませる故に、吉《ヨキ》と凶《アシキ》とをかね給へる神にませり、火は、世(ノ)中に物を熟《ヤハ》しとゝのへ成《ナ》す功《イサヲ》おほくして、又萬の物をやきほろぼすまがことも、たぐひなし、これ吉《ヨキ》と凶《アシキ》とのきはに成坐《ナリマシ》て、吉《ヨキ》と凶《アシキ》とをかね給へる、此(ノ)神の御靈《ミタマ》によるものなり、こゝに或人のいはく、伊邪那美命、女《メ》神にまして、御言《ミコト》先《サキ》だち給ひしゆゑによりて、蛭子《ヒルゴ》淡嶋《アハシマ》と、よからぬ御子の生《アレ》ませる、これをぞ世(ノ)中の凶事《マガコト》のはじめとはいふべきを、いざなみの命の御石隱《ミイハガクリ》を、はじめと云るはいかゞ、答へけらく、女神の御言《ミコト》さきだちしは、ことわりにたがひつれども、あなにやしてふ御詞は吉事《ヨゴト》也、又あしき御子《ミコ》にまれ、生《アレ》ませるは、なほ吉事《ヨゴト》にしあれば、正《マサ》しき凶事《マガコト》とはいひがたし、さればかれはたゞ、世(ノ)中の萬(ヅ)の事には、かならず凶《マガ》もまじらではえあらぬ、ことわりのもとゝぞいふべかりける、
 
    土佐日記の附注
土佐日記を解《トケ》る物、附注とて三卷、板本《スリマキ》にて有(リ)、作れる人は、野道生としるせり、始(メ)に讀耕齋林氏の序、次に紀氏の委き系圖、又官位、又林道春翁の書る貫之主の傳、また新撰和歌(ノ)序、大井川行幸和歌(ノ)序、などをものせ、終(リ)に道生みづからの跋もあり、凡例に、余|適《タマ/\》見2藤(ノ)爲相卿手筆(ノ)之本(ヲ)1、以v此(ヲ)爲v據(ト)といひ、序に、得2惺窩翁手筆(ノ)之本(ヲ)1、又以2別本(ヲ)1、※[手偏+檢の旁]2其同異(ヲ)1、粗解2釋(ス)之(ヲ)1といへり、そも/\此日記の註は、たゞ季吟の抄のみぞ、世にはしりて、ひろまりて、この附注と云(フ)物あることをば、しれる人いと/\まれ也、今此二つをあはせ見るに、季吟の抄に云る事どもは、から書《ブミ》を引たる事共など、其外も、もはら此附注と異なることなきは、ひそかに附注をとりて、書る物とこそおぼゆれ、さるに附注のみづからの跋に、萬治四年とあるを、季吟抄の終にも、同く萬治四年としるせるは、いよ/\心得ぬことぞかし、こはかの道生といひし人の功《イサヲ》の、よにうづもれたることの、いとほしさに、おどろかす也、
 
 
たまかつま五の卷
 
   枯 野 の す ゝ き 五
 
秋過て、草はみながらかれはてゝ、さびしき野べに、たゞ尾花のかぎり、心長くのこりて、むら/\たてるを、あはれと見て、よめる、
    かれぬべきかれ野の尾花かれずあるをかれずこそ見めかれぬかぎりは、かゝるすゞろごとをさへに、とり出たるは、みむ人、をこに思ふべかめれど、よしやさばれとてなん、
 
    熊澤氏が神典を論へる事
熊澤氏が三輪物語といふ物にいひけるは、神書は、むかしの傳へをそのまゝかゝで、はる/”\後の世に、寓言して書たり、その筆者に、道徳の學なかりし故に、寓言のしやうまであしゝ、せめて寓言すとも、莊周などのやうに、理を明らかにしたらば、よかるべし、神聖の御事を、凡人のうへにてかりとき、寓言したれば、大かたにては通じがたし、といへり、宣長今これをあげつらはむ、まづ神の御典《ミフミ》を、いはゆる寓言也と見たるは、めづらしくもあらぬ、例のじゆしや意《ゴヽロ》也、すべて儒者は、世(ノ)中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞと心得たり、儒者のみにもあらず、から心ののぞこらぬ、近き世の神學者といふものはた、みな同じことぞ、そも/\あやしき事をば、まことそらごとをとはず、すべて信ぜぬは、一わたりはかしこきやうなれど、中々のさかしらにて、人の智《サトリ》はかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理(リ)を、おのがさとりもて、こと/”\く知《シリ》つくすべき物と思へる、からごゝろのひがこと也、すべて世(ノ)中のことわりは、かぎりなきものにて、さらに人のみじかき智《サトリ》もて、しりつくすべきわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたはやすくはかりいはん、筆者道徳の學なかりし故に、寓言のしざまゝでおろか也とは、其事どもの、なにのいたりふかきことわりもなく、たゞいと淺はかに聞ゆるをいふなるべし、そはなほ思ひはかりの、くはしからざることなりかし、古今集の歌にも、そこひなき淵やはさわぐ、とよめるごとく、すぐれて深きことは、かへりてうはべには、何の深きことわりも見えぬものにて、その理(リ)深げに見え聞えたる事は、かの山川の淺瀬の浪のさわぐにて、まことには、さしもふかゝらぬにこそはあれ、そこひなき淵のさわがぬことわりまでを、いますこし深くおもはざるは、いかにぞや、むかし神代の御ふみをしるせりし人、たとひいはゆる道徳の學問はなくとも、寓言をも作るばかりのざえあらんには、いさゝかにても、かならず山川の浪の玉ちる、岩瀬のけしきをも、などかはつくりなすことをえざらむ 見どころもなき淵にては、やむべきにあらざるをや、
 
    あやしき事の説
もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首《カシラ》といふ所有て、その左(リ)右に、耳といふもの有て、もろ/\の聲をよくきゝ、おもての上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又下に、口と云(フ)物ありて、おくより聲の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすまゝに、その聲さま/”\にかはりて、詞となりて、萬の事をいひわけ、又|首《カシラ》の下の左(リ)右に、手といふもの有て、末に岐《マタ》ありて、指《オヨビ》といふ、此およびをはたらかして、萬(ヅ)のわざをなし、萬の物を造り出せり、又下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うごかしはこべば、百重《モヽヘ》の山をものぼりこえて、いづこまでもありきゆきつ、かくて又|胸《ムネ》の内に隱《カク》れて、心《コヽロ》といふ物の有つるこはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件《クダリ》耳の聲をきゝ、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける、さるに此人といひし物、ある時いたくなやみて、やう/\に重《オモ》りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いさゝかうごくこともせずなりてや《止》みにき、と記したらむ書を、じゆしやの見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべて/\理(リ)もなく、つたなき寓言にこそはあれ、とぞいはむかし、
 
    ま  た
又上のくだり、人といひて、神代に有し物の、生《ナ》れるはじめを記して、此人といひける物の、出來しやうは、まづはじめ某《ナニガシ》の國に、男女すみける、その男女、夜(ル)ねたりしほどに、しか/\のわざをしたりしに、女のはらなん、やう/\にふくらかになりて、十月《トツキ》といふころほひ、はらいたくおぼえて、にはかにまへより、何にかあらん、動《ウゴ》きて啼《ナク》ものぞ出來にける、とりあげて見ければ、云々《シカ/\》の物になん有ける、またはじめ、はらのふくらかになりつるほどよりして、胸乳《ムナヂ》より白き汁の出そめて、たえず出けるを、かの出來て啼《ナク》物の、聲のいづる孔《アナ》にあてゝ、くゝめしかば、ここちよげにのむまゝに、よるひるといはずのませつゝ、月日をふるまゝに、其物、やう/\に大きになりゆきて、はじめのほどはせざりしわざどもゝ、やう/\にしいでゝなむ、上の件《クダリ》にいへるやうにはなれりける、としるしたらんを、儒者見てば、又何とかいはむとする、例の、寓言とぞいふべき、すべて神代の事どもゝ、今は世にさることのなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや、今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つら/\思ひめぐらせば、世(ノ)中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ、
 
    漢籍《カラブミ》と神(ノ)御典《ミフミ》とのけぢめ
上の三件《ミクダリ》につきて、又をかしきさとし説《ゴト》をぞ思ひえたる、そはすべてから書《ブミ》の、よろづにかしこく、ことわり深く聞ゆるにくらべては、神代の傳説《ツタヘゴト》どもの、はかなくおろかにきこゆるけぢめを、一つちかき事につきて、さとさむとする也、たとへば、今此人といふ物を一人、作りいでんとせむに、いかにかしこくさとり深く、たくみなる人の、いかに心をくだきて、例の陰陽和合のことわりをきはめ、こゝらの年月をいたづきて、作りなさむとすとも、かく活《イキ》はたらくまことの人をば、つくりうることあたはじを、上にいへるやうに、たゞかのをとこ女の閨の内のみそかわざによりては、心をもいれず、小刀の一つだにつかはず、何の勞《イタヅキ》もなくて、成《ナリ》出るぞかし、さるはそのねやのうちのしわざよ、なにのかしこくうるはしく、理(リ)ふかげなることかはある、そのありさまは、ほにいだしてまねぶべくもあらず、いとも/\ひとわろくめゝしく、童《ワラハ》べのたはぶれにもおとりて、はかなくおろかなるしわざなれども、これによりてこそ、人のたくみにてはえ作らぬ、まことの人の、さばかりたやすく成《ナリ》出るなれ、神の御しわざは、よにはかりがたく、あやしくたへなる物ならずや、からぶみの説《トキゴト》は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりはかぎりしあれば、及ばぬところ有て、かの人のたくみをもて、人をつくらんとすれども、つひに作りうることあたはざるが如くなるを、神代のつたへごとは、かの閨の内の態《シワザ》の、見るめははかなくおろかなれども、よく人を造りなすに同じきをや、此ふたつを思ひわたして、神世の事どもの、うはべは、なにのことわりありげもなく、はかなくおろかにきこゆれども、まことには、人の智《サトリ》の及びがたくはかりがたき、深きことわりのそなはりた(ン)めることを、さとりねかしとぞ、
 
    平太政大臣の歌
平治元年十二月、平太政大臣、まだ下らふにて、熊野に詣でられけるに、京に亂のおこりけるによりて、道よりかへらるゝをり、和泉(ノ)國の大鳥(ノ)宮にまうで、神馬を奉りて、よまれけるうた、「かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大とりの神、平治物がたりに見えたり、此人の歌はめづらし、
 
    か ら ざ え
愚管抄に、内大臣伊周、人がら、やまとこゝろばへは、わろかりける人なり、からざえはよくて、詩などいみしくつくられけりとあり、からざえといへること、めづらし、漢學《カラマナビ》をいへる也、すべてざえとは、物語書などにも、學問のあることをぞいへる
    
    とみにといふ言には早(ノ)字を書べき事
三代實録十三の卷なる宣命に、早【爾】罪【那倍】《トミニツミナヘ》不《ズ》v賜《タマハ》とある、此早(ノ)字、とみにと訓(ム)べし、此詞によくあたれる所也、つとにとよめるは、あたらず、
 
    中ごろまでは諸王おほかりし事
園大暦、康永三年の除目に、從五位下爲實(ノ)王【天暦(ノ)御後】貞和二年の除目に、從五位下宗友(ノ)王【天暦(ノ)御後】同三年の除目に、從五位下資方(ノ)王【寛和(ノ)御後】延文四年の除目に、從五位下資能(ノ)王【寛和(ノ)御後】などあり、このほどまでは、諸王もなほおほかりしと見えたり、
 
    車の紋の事
同じ書に、車の文《モン》の事、さだあり、かのころまでは、今の世のごとく、家々の定紋といふものは、なかりしやうに聞えたり、然れども、車の文のこと、人々大略、定めてつけゝるやうに聞ゆ、
 
    老(ノ)戀のうた
六百番(ノ)歌合に、老(ノ)戀、隆信(ノ)朝臣、「色にそむ心は同じむかしにて人のつらさに老をしるかな、俊成(ノ)卿判(ニ)云(ク)、げにさることゝきこゆ、可v爲(ル)v勝
 
    さうかふの字
台記別記、藤原(ノ)多子(ノ)名字(ノ)勘文に、抑後宮、以(テ)d從(フ)2草合(ニ)1字(ヲ)u、爲(ル)v名(ト)之人、贈后茂子茨子等、於(テ)2皇胤(ニ)1吉例也、とあり、※[十+十]《サウカフ》を草合とかゝれたり、
 
    かんでの小路
勘解由(ノ)小路を、大鏡に、かんでのこうぢとあり、
 
    古今御傳授
後奈良天皇、享禄元年十一月十六日、こきんの御傳じゆ、逍遙院申さるゝよし、御湯殿(ノ)記に見ゆ、
 
    いかでといふ言
俗言《サトビゴト》に何とぞしてどうぞなどいふを、物語ぶみ又歌にも、いかでといふはつね也、然るに大江(ノ)匡衡、爲(メニスル)2左大臣(ノ)1、供2養(スル)淨妙寺(ヲ)1願文に、我若(シ)向後至(リ)2大位(ニ)1、心事相諧(ハヽ)者、爭《イカデ》於(テ)2茲(ノ)山脚(ニ)1、造(リ)2一堂(ヲ)1、云々とあり、漢文にはめづらし、
 
    太上皇の御灸治
土御門(ノ)内大臣通親公の書給へる、嚴嶋御幸の道(ノ)記に、御幸かへらせ給ひて後の所にいはく、かくて御や《痩》せもたゞならずなど聞えて、くすしども申(シ)すゝめて、御きうぢなどぞきこえし、とあり、帝の御灸治めづらし、
 
    物を清むるに鹽水をそゝく事
貞觀儀式(ノ)平野祭(ノ)條に、皇太子、於(テ)2神院(ノ)東門(ノ)外(ニ)1下馬、神祇官中臣、迎(ヘテ)供(シ)2神麻(ヲ)1、灌(キ)2鹽水(ヲ)1訖(テ)、就2休息(ノ)舍(ニ)1、先v是(ヨリ)進一人、率(テ)2執(ル)v幣(ヲ)舍人(ヲ)1、至(テ)2神院(ノ)東門(ニ)1、曳(キ)2神麻(ヲ)1灌(キ)2鹽水(ヲ)1、共(ニ)至(テ)2祭場(ニ)1、授(ク)2神祀官(ニ)1とあり、今の世にも、物を清むるに、鹽水をそゝくは、古きことなり、
 
    く ち ろ ん
阿佛尼のうたゝねにいはく、御まへは、人の手をにげいで給ふか、又くちろんなどをし給ひたりけるにか、云々、人をうらむるにもあらず、又くちろんとかやをもせず、とあり、今の世には、此|口論《クチロン》を、もじごゑにこうろんといふ也、
 
    菩 薩 樂
江家次第、興福寺供養(ノ)儀に、菩薩樂あり、菩薩十六人フ2供花(ヲ)1云々、などいへり、今(ノ)世に、當麻のねり供養といふなるわざは、これらよりぞ出けむ、
 
    かしらかたくといはふ事
榮花物がたり、浦々の別の卷に、かしらだにかたくおはしまさば、一天の君にこそおはしますめれ、とあり、今の世の言に、かみかたくと祝ふは、これに同じ、
 
    むさしといふわざ
童べのしわざに、むさしといふ物あり、五雜組といふから書に、委巷(ノ)兒戯(ニ)、有2馬城1、不v論2縱横(ヲ)1、三子聯(ナルトキハ)、則爲v城(ト)、城成(ルトキハ)、則飛(テ)食(ム)2人(ノ)一子(ヲ)1、其它、或(ハ)夾(ミ)或(ハ)挑(ク)、就(クトキハ)v近(ニ)則食v之(ヲ)、不v能2飛(テ)食(コト)1也、といへるによく似たり、日本紀に、城をさしと訓るところあり、韓語也、然ればむさしといふは、すなはち馬城《ムマサシ》か。
 
    三  郎
現報靈異記に、文(ノ)忌寸氏の人に宇《アザナヲ》曰2上田(ノ)三郎(ト)1、といへることあり、聖武天皇の御世のこと也、そのころより、三郎などいふ名有しにこそ、字《アザナ》といへるは、今の世の俗名のごとし、
 
    ほゝかす ひき
物を棄《スツ》ることを俗言《サトビゴト》にほかすといふは、おちくぼの物がたりに、ほゝかし給ふとあり、又同物語に、弁の君がひきにて參りたりとある、ひきは、今いふひいき也、
 
    歌の道 さくら花
しき嶋の道又歌の道といふこと、後の世には常なれど、古今集(ノ)序を見るに、かの御世や歌のこゝろをしろしめしたりけむ云々、こゝにいにしへのことをも、歌のこゝろをも、しれる人云々、人まろなくなりにたれど、歌のこととゞまれるかなゝどあるは、後の世の文なりせば、かならず歌の道とぞいはましを、かく歌のこゝろ、歌のことなどいひて、道とはいはず、眞字序には、斯《コノ》道とも吾道ともあるを、かな序には、すべて歌に道といへること見えず、又櫻の花を、さくら花といふこと、これも後の世にはつねなれど、古今集には、詞書には、いづこも/\、さくらの花と、のもじをそへてのみいひて、たゞにさくらばなといへることは、歌にこそあれ、詞には一つも見えず、おほかたこれらになずらへて、歌よまむにも、文かゝむにも、古(ヘ)と後(ノ)世とのけぢめ、又漢文と御國文とのけぢめあること、又歌と詞とかはれることもあるなどを、いさゝかのことにも、心をどゞめて、わきまふべきわざぞ、こは古今集をよむとて、ふと心つけるまゝに、おどろかしおく也、
 
    おこは まはり
今の世女の言に、強飯《コハイヒ》を、おこはといへり、大神宮年中行事に、御強《オコハ》と見ゆ、又|菜《サイ》をまはりといふこと、同じ書に、御(ン)廻《マハリ》八種とあり、枕ざうしには、あはせと見えたり、
 
    はらめる女神の社にまゐる事
大神宮雜事記に、弘仁四年九月十六日、豐受(ノ)宮の大内人、神主眞房が妻、かの宮に詣て、玉垣の下にして、産《コウミ》たりける穢によりて、勅使たちなどして、眞房夫婦には、大(ノ)祓をおほせたりし事見えたり、それよりして、はらめる女、鳥居の内に參入《マヰ》ることを禁ぜらると有り、然ればそれより前《サキ》には、懷妊《ハラメ》るほども、神の社にまゐること、忌《イマ》ざりしにこそ、
 
    大神宮に諸人のまうづる事
同書に、承平四年九月御祭云々、參宮(ノ)人千萬、不v論2貴賤(ヲ)1云々とあるを見れば、そのころもかゝりしなり、そも/\大神宮には、私(ノ)幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣(ヅ)る事は、なべてくるしからざりしにや、
    
    狂  歌
狂歌といふこと、文粹の一の卷、源(ノ)順の歌の小序に見えたり、但しからのなり、今いふ狂歌にはあらず
 
    庄  屋
今の世|田舍《ヰナカ》にて、村の長《ヲサ》を庄屋といふ、文粹二の卷なる、延喜二年三月十三日の官符の文に、新立(テ)2庄家(ヲ)1、多(ク)施(ス)2苛法(ヲ)1とあり、類聚三代格にも出たり、これその領主より、庄家といふを立(テ)置て、其所の事を執《トラ》せし也、
 
    機《ハタ》のかざりといふ物
今の世|機《ハタ》にかざりといふ物あるは、和名抄|機《ハタ》の條に、機巧之處、和加豆利《ワカヅリ》とある、此わかづりを訛れる名也、和名抄今(ノ)本には、利(ノ)字を和に誤れり、古き本に利とあり、
 
    江戸の地名これかれ
宗祇法師が囘國雜記といふ物にいはく、次の日淺草をたちて、新羽といへる所におもむき侍るとて、道すがら名所ども、尋ねける中に、忍(ヒ)の岡といへるところにて、松原の有ける陰にやすみて、「霜のゝちあらはれにけり時雨をばしのびの岡の松もかひなし、こゝを過て、こいし川といへるところにまかりて云々、とりこえの里といへる所に行ければ云々、柴の浦といへる所にいたりければ云々、といへり、此道なみを見れば、忍びの岡とあるは、今の東叡山の地と聞えたり、さておもへば、不忍《シノハズ》の池といふ名も、忍びの岡より出たるにやあらん、
 
    鴫 立 澤
同じ書に、しぎたつ澤といふところにいたりぬ、西行ほうしこゝにて、「心なき身にもあはれはしられけり、と詠ぜしより、このところを、かくはなづけゝるよし、里人かたり侍ければ、「あはれしる人の昔を思ひ出て鴫たつさはをなく/\ぞとふ、といへり、此しぎたつ澤といふ所は、うけられぬことなれど、其ころより、はやくしかいへりしなりけり、
 
    ちくしやう
世に、おやこあるははらからなどたはくる者を、畜生也といふ、もろこしの國にても、隋の文帝が時に、陳夫人といひしに、太子廣がけさうしけるを、文帝聞て、いたく怒りて、畜生|何《イカデカ》足(ン)v付《サヅクルニ》2大事(ヲ)1、といへりしことあり、
 
    ふ と ん
今(ノ)の世に、寐《ヌ》る所に敷(ク)物を、布團《フトン》といふは、いにしへ布單といひし物あり、布毯《フタン》とも書たり、此物より轉《ウツ》れる名なるべし、
 
    えびす三郎
源平盛衰記に、成經康頼俊寛の、鬼界が嶋に流されてある事をいへる段に、かの嶋に鸞岳《ランガク》といふ山有て、その山に、夷《エビス》三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくといへり、神祇官年中行事にも、戎《エビス》三郎殿とあり、此神のこと、いといふかし、神に殿と申すも、めづらしき稱也、
 
    いせ物語の中の歌
「岩間よりおふるみるめしつれなくはしほひしほみちかひもありなん、此歌の意は、見ることだにかはらずあらば、今とまれかくまれ、後つひには、そのかひ有て、逢(フ)事もあらむといへるなり、四の句は、とまれかくまれといふ意なるを、みるめの縁に、海の事もていへるのみなるを、詞になづみて、此句の意をときえたる人なきぞかし、
 
    いせ物語眞名本の事
伊勢物語に、眞名本といふ本あり、萬葉の書(キ)ざまにならひて、眞字《マナ》して書たる物也、六條(ノ)宮(ノ)御撰と、はじめにあげたれば、その親王《ミコ》の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ僞《イツハリ》にて、後の物也、まづすべての字《モジ》のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬことのみぞ多かる、そが中に、闇《クラ》うを苦勞《クラウ》、指之血《オヨビノチ》を及後《オヨビノチ》などやうにかけるは、たはぶれ書(キ)にて、萬葉にもさるたぐひあり、又|東《アヅマ》を熱間《アツマ》、云々にけりを迯利《ニケリ》など書るも、清濁こそたがへれ、なほゆるさるべきを、なんといふ辭に、何(ノ)字を用ひ、ぞに社、とに諾(ノ)字を用ひたるたぐひ、いと心得ず、しかのみならず、思へるを思惠流《オモエル》、給へを給江《タマエ》、又こゝへかしこへなどのへをも、みな江《エ》とかき、身をも、これをやなどの、をもをやといふ辭を、面親《オモオヤ》と書(キ)、忘《ワスレ》を者摺《ハスレ》と書るなど、これらの假字は、今の世とても、歌よむほどのものなどは、をさ/\誤ることなきをだに、かく誤れるは、むげに物かくやうをもわきまへしらぬ、えせものゝしわざと見えて、眞字《マナ》はすべてとりがたきもの也、然はあれども、詞は、よのつねの假字本とくらべて考ふるに、たがひによきあしきところ有て、かな本のあしきに、此本のよきも、すくなからず、そを思へば、これもむかしの一つの本なりしを、後に眞名には書(キ)なしたるにぞ有べき、されば今も、一本にはそなふべきもの也、然るにいと/\心得ぬことは、わが縣居(ノ)大人の、此物語を解《トカ》れたるには、よのつねの假字本をば、今本といひて、ひたふるにわろしとして、此眞名本をしも、古本といひて、こちたくほめて、こと/”\くよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき眞字《マナ》を、物の證《アカシ》にさへ引れたるは、いかなることにかあらん、さばかり古(ヘ)の假字の事を、つねにいはるゝにも似ず、此本の、さばかり假字のいたくみだれて、よにつたなきなどをも、いかに見られけむ、かへす/\こゝろえぬことぞかし、さて又ちかきころ、ある人の出せる、舊本といふなる、眞名の本も一つ有(リ)、それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京になりての世の人の、およびがたき眞字の書(キ)ざまなる所多し、さればこれもまことのふるき本《マキ》にはあらず、やがて出せる人の、みづからのしわざにぞ有ける、然いふ故は、まづ今の京となりての書《フミ》どもは、すべて假字の清濁は、をさ/\差別《ワキ》なく用ひたるを、此本は、こと/”\く清濁を分(ケ)て、みだりならず、こは近く古學てふこと始まりて後の人ならでは、さはえあらぬこと也、又かきつばたといふ五言を、句の頭にすゑてとかける、これむかし人ならば、五もじとこそいふべきを、五言といひ、歌のかへしを和歌《カヘシ》、瀧を多藝《タギ》、十一日を十麻里比止日《トヲマリヒトヒ》と書るたぐひ、たゞ今の世の古學する者の、古語によれるにて、よろしくはあれども、此ものがたり出來てのころの文のさまにあらず、時代《トキヨ》のしなを思ひはからざるしわざ也、十一日など、此物語かけるころとなりては、十一日とこそ書べけれ、たとひなごめてかくとも、とをかあまりひとひとこそ書(ク)べけれ、それをあまりのあをはぶけるは、古學者のしわざ、又とをかのかをいはざるは、さすがにいにしへのいひざまをしらざるなり、又うつの山のくだりに、よのつねの本には、修行者あひたりとあるを、此本には、修行者|仁逢有《ニアヒタリ》と、仁《ニ》てふ辭をそへたるなども、古(ヘ)の雅言《ミヤビゴト》の例をしらぬ 、今の世の俗意《サトビゴヽロ》のさかしら也、かゝるひがことも、をり/\まじれるにて、いよ/\いつはりはほころびたるをや、
 
    ま  た
いせ物語の眞字本の、假字のいとみだりがはしきは、誤りて然るにはあらじ、かなづかひといふことを、信《ウケ》ずして、かゝはるまじきことを、しらしめむとて、ことさらにみだりてぞ、すさび書(キ)つらん、といふ人もあり、さるまじきにもあらず、されどもしさもあらむには、いよ/\おかしからぬもの也、そのゆゑは、すべて假字づかひに心して、正さむとするは、すでにみだれての後の世の事なるに、又それをうけずして、かゝはるまじきことにせんは、すでに正すわざあるがうへの事なれば、又いよ/\後の世のことなればなり、
 
    しのぶもぢずり
しのぶもぢずりといひし物は、古今集の河原左大臣の歌の、顯昭の注に、陸奥(ノ)國の信夫《シノブノ》郡に、もぢずりとて、髪をみだしたるやうにすりたるを、しのぶずりといふといひ、契沖が勢語臆斷にも、信夫(ノ)郡より、むかし摺《スリ》て出したる名物也、といへるがごとし、然るを師のいせ物語(ノ)古意に、垣衣草《シノブグサ》の形を、紫の色もて摺《スリ》たるをいふと見えたり、陸奥(ノ)國に石二つある、其石にてすりたるよしいふは、僞言也、むかしのすり衣は、家々にてこそすりたれとて、己が家々にてすりたりし證《アカシ》を出し、さて垣衣《シノブ》草の形の亂れたるをもて、おのが戀のみだれにたとへたり、といはれたるはいかにぞや、いせ物がたりの歌にては、さ聞ゆることも有べかめれど、そは次に、古今集なる、河原(ノ)大臣の歌を出して、といふ歌のこゝろばへなりといへり、これしのぶのみだれとよめるは、しのぶずりの亂れといふ意也と、しらせたる也、かの紫の色こきときはといふ歌の次に、むさし野のこゝろなるべし、といへるをもおもひ合すべし、もししのぶ草のかたをすりたるをよめるならば、古今の歌を引出たるは、用なきいたづらごと也、又|垣衣《シノブ》草のかたならんには、かの古今の歌、軒に生るなどこそよむべけれ、みちのくのとよめるは、何のよしぞや、かの國に信夫(ノ)郡といふがあればとて、さる遠き國の名をとり出て、よしもなき垣衣草の枕詞には、おくべき物かは、又みだるゝよしをいはむに、しのぶ草は、いとも似つかはしからず、かの草のさまは、さいふばかりみだれたる物にはあらず、それも摺《スリ》たる形は、亂れてもあるべけれど、すりたるにつけてみだれたらんは、いづれの物のかたにても、同じことなるべし、いたく物よりことに亂れたる形ならではかなはず、又|垣衣《シノブ》は、とり分て摺染《スリゾメ》などにすべき物にもあらざるをや、さて又かの信夫(ノ)郡より出といふことを破りて、布など、染たるを諸國より貢ることは、古(ヘ)見えず、といはれたるも、たがへり、延喜の大藏内藏などの式にも、諸國(ノ)所(ノ)v貢(ル)染布の色々など見えたるをや、すり衣は、おのが家々にてこそ摺《スリ》たれ、といはるれども、さりとて、外より摺ていだすことも、などかなからん、國々より出て名ある物を、めで用ふることは、今も昔も同じこと也、さて信夫(ノ)郡に、石の有しにてすれりといふは、いかゞ有けむ、されどまことに然なりけんもしりがたきを、ひたぶるに僞言也とはいふべくもあらず、その石の事は、とまれかくまれ、信夫郡より出せりしことは、論なきをや、
 
    右近(ノ)馬場のひをりの日の事
古今集の詞書、また伊勢物語に、右近(ノ)馬場のひをりの日云々とある、こはいと/\かたきことゝして、昔のものしり人たちも、とり/”\にいへることなれど、いづれも心得ぬこと有(リ)それが中に、ひをりといふ稱《ナ》は、顯昭の袖中抄に、眞|手番《テツガヒ》の日は、射手の近衛舍人、褐《カチ》の尻を、前《マヘ》ざまに引たをりて、まへにはさむ故にいふ、といへるぞ、さもと聞えたる、されどその眞手番《マテツガヒ》といへる、五日六日の騎射は、師の考(ヘ)のごとく、大内の馬場にてこそあれ、其日左右近衛の馬場にてあることは、いづれの書にも見えざれば、右近(ノ)馬場のその日とは、いづれの日をいふならむ、さだかならず、さて又師の考へにほ、ひをりを、引柵《ヒヲリ》または標柵《ヒヲリ》ならん、といはれつれど、馬場の埒《ラチ》を、ひをりといへること、物にも見えず、又しかいふべくもおもはれず、まして標をひといへることもなし、又標を立(ツ)ればとて、其日を標柵の日とはいふべくもあらざれば、此説も二つともに取(リ)がたし、かにかくに此事は、まことに難義にぞ有ける、
 
    し ほ じ り
屋張人天野(ノ)信景があらはせる、鹽尻といふふみは、いせ物語のしほじりの事を、はじめにいへる故に、然なづけたるなり、それにいはく、歌人しほじりを秘とす、われ海濱に遊びて、鹽竈を見しに、海民鹽をやくに、廬邊に砂を聚めて、堆をなし畦をなす、潮水來りて砂畦をひたす、所によりては、潮を汲てひたす也、日々にかくして後に、砂を積《ツ》み山の樣を作りて、日にさらす、これをしほじりといへり、實に富士の形に似たり、歌客京に居て、海邊の事にうとく、時去てしる人なくなれる也、としるせり、此いへるやうは、すこしたがへるにやとおぼしけれど、しほじりといふ物はこれ也、おのれも、鹽やく濱を所々見しに、砂をつみあげて、塚のごとしたる物、いくつともなく有て、まことに富士の山をたとふべき形したる物也、師の古意には、眞名本に、なりはを、鳴者と書るをとりて、かの山の鳴澤《ナルサハ》の鳴(ル)音として、しほじりを、難波の川尻のこと也といはれたるは、いと/\信《ウケ》られぬ説也、川尻ならば、やがて川じりとこそいふべけれ、いかでかしほじりとはいはむ、されば川尻を、然いへる例もなく、ことわりもたがへること也、そのうへ川尻は、さしもおどろ/\しく鳴る物にはあらざるをや、又ひえの山を廿ばかり重ねあげたらんほどしての、ほどを、眞名本には、體と書るを用ひて、形のたとへは、すでにひえの山にていへれば、是は必(ズ)鳴澤の音也、とやうにいはれたれど、ひえの山を云々といへるは、たゞ高さのことにこそあれ、もしこれを形としては、たゞ細くて高き物になるべければ、そのたとへいたく違へり、されば眞字本の體(ノ)字は、ひがことなるをや、又都のひえの山をいへる對《ツヰ》には、難波の川じりこそ、共に大きなる物にて、よろしき文なれといはれたるも、あまりなるしひごと也、形だにも似たらんには、大きなる小きにはかゝはらず、何物にまれたとへんに、なでふつたなきことかあらむ、さしも鳴るものにもあらざる、川尻にたとへたらむこそ、つたなくは有べけれ、鹽がまのあたりの事は、京人のしるべきならねば、物のたとへにいふべくもあらず、ともいふべけれど、海邊の事ならんからに、京人のむげにしるまじきにあらず、殊に鹽がまは、歌にもつねによむことなれば、したしくよしあるたとへとこそはおぼゆれ、
 
    東宮の御息所 東宮の女御
古今集に、二條(ノ)后の、東宮のみやすむ所と聞えける時云々、いせ物語に、むかし東宮の女御の御方の云々とある、まづ二條(ノ)后は、清和天皇の中宮也、貞觀八年に、女御となり給ひ、同十年に、貞明親王を生《ウミ》奉り給ひ、同十一年に、其親王皇太子に立せ給ふ、これ陽成天皇におはします、これよりして、元慶元年に、中宮となり給ふまでのあひだ、女御にて、皇太子の御母にましますを、以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契冲が餘材抄勢語臆斷などにいへるが如し、東宮の御母女御、御母御息所といふこと也、御息所と申す稱《ナ》は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生《ウミ》奉り給へる人を申す稱也、其趣源氏物語などを見て知(ル)べし、かの物語に、桐壺(ノ)更衣などをも、光源民(ノ)君を生《ウミ》奉られたる後は、御息所といへること有(リ)、その外も皆然也、然るを後(ノ)世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃《ミメ》の御事と心得たるから、此古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にてまし/\ける時の御息所也、といふ注あるは、いみしきひがこと也、東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗稱にこそあれ、古(ヘ)にはかつてなきことなり、然るを師も、此俗稱にまどはれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃《ムカヒメ》を申す也、然るを皇太子の母儀を申すと、人々思へるは、其證有(リ)や、といはれたる、これかへりてひがこと也、東宮の御母を申すことは、右の古今集、すなはち其證ならずや、又東宮の女御と申せるも、その御母女御といふことなるを以て、御息所も、然ることをしるべし、源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御などあるも、みなその御母なる、これらもその證なるを、かへりてこれらを、轉々して俗語のまゝに書る也といひ、かの古今集をさへ疑ひて、さは申すまじきこと也とて、いたく強《シヒ》たる考へをあげられたるは、いかにぞや、これかへりて、みづからかの後の世の俗稱にまどはれたるもの也、古(ヘ)に東宮の妃を、御息所と申せる證ありや、あることなし、その證と思はれたるは 六條の御息所なるを、これ又かのまどひの心得たがひ也、その故は、かの六條(ノ)御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず、前坊の姫御子《ヒメミコ》を生《ウミ》給ひて、その御母なる故に、御息所とはせる也、天皇の女御更衣などの、御子|生《ウミ》給へるを、然申すと同じことなるをや、又かの伊勢物語の東宮の女御を、眞名本には、これも東宮の御息所とあるによりて、東宮の女御といふことは、此書のころには、いふべきことゝもおぼえぬ俗語也、といひけたれたるもひがこと也、そも/\歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古(ヘ)とても、國史などのたぐひとは異《コト》にして、かやうの稱呼《ヨビナ》なども、たゞ當時《ソノカミ》世間《ヨノナカ》にいひならへるまゝにしるせること多ければ、さのみことわりをもて、正《タヾ》すべきわざにあらず、そも/\後宮の御さだめ、古(ヘ)は皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御といふは、日本紀の雄畧(ノ)御卷にこそ見えたれ、其後は聞えざりしを、仁明文徳の御世のころよりしては、妃夫人など申すは、をさ/\聞えずして、たゞ皇后の次は女御、その次は更衣にて女御は、親王大臣の御女のなり給ひて、いにしへの妃夫人にあたり更衣は、大かた嬪にあたれり、世のうつれるまゝに、古(ヘ)とはかはれること、かくのごとくなれば、なずらへて、延喜のころ、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむこと、何かはうたがふべき、もしこれをあるまじきことゝいはゞ、御息所といふも、たゞいひならはしの俗稱《ヨビナ》にこそあれ、古(ヘ)よりの正しき號《ナ》にはあらざれば、御息所としるせるをも、ともにあるまじきことゝすべし、まして東宮の妃を、然申せることは、古(ヘ)のいづれの國史式令に見えたるぞや、すべて、師の此事の凝ひの本を尋ぬれば、御息所とは、東宮の妃を申す、後(ノ)世の俗稱にまどはれたるよりおこりて、その趣をたてとほさむとせらるゝから、強《シヒ》ごともひがごとも出來つるものぞかし、
 
    いせ物がたりをよみていはまほしき事ども一つ二つ
初のくだり、男のきたりける云々、男のゝもじひがこと也、眞名本になきぞよろしき、男のとては、云々《シカシカ》して歌を書てやる事、女のしわざになる也、月やあらぬ てふ歌の條《クダリ》、ほいにはあらで、此詞聞えず、眞字本に、穗《ホ》にはとあるも、心ゆかず、ほにはいでずなどこそいへ、ほにはあらでなどは、聞つかぬこゝちす、猶もじの誤(リ)などにや、うつの山のところ、わがいらむとする道は、いとくらう細きに、つたかへではしげりて云々、かへではのはゝ、てにをは也、上の道はのはと重ねて、かうやうにいふ、一つの格《サマ》也、「秋はきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみ分てとふ人はなしなど、三つも重ねていへる、此類多し、眞名本に葉と書るによりて、然心得ては、いとつたなき文になる也、「君がためたをれる枝は云々、此歌は、君にわが心ざしの深きにかなひて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染たり、といふ意なるべし、注どもに、秋といふ言になづみて、女の心のうつろふことにこゝろえたるはいかゞ、さてはかへしの歌めづらしげなし、又女の心をうたがふべきよしも、上の詞に見えず、「いでゝいなば心かろしと云々、此出ていぬるは、女とはおしはからるれども、上の文のさま、女とも男とも分りがたし、いさゝかなる事につけてといへる上に、女とあるべき文也、さて此歌の次に、云々此女とあるは、心得ず、此女といふこと、こゝに有ては、聞えず、こゝは男とあるべきところ也、かくのごとくまぎらはしきによりて、或人は、出ていにしは、女にあらず、男也といへれども、すべてのさま、男の出ていにしとは聞えず、又男にしては、かの此女とあるは、よくかなへれども、下なる「人はいさの歌の次に此女いと久しう云々とある、此女てふこと、彼(ノ)男とあらではかなはず、「つゝ井づゝ云々、妹見ざるまには、妹が見ざるまに也、妹を見ざるまにゝはあらず、上におのが長《タケ》だちの事をいへるにて、それを妹が見ざるまになること知(ル)べし、さて此(ノ)條《クダリ》は、下に、かの女やまとのかたを見やりてとも、やまと人云々ともあれば、井のもとにあそびたりしも、大和(ノ)國にての事也、さればはじめに、むかしやまとの國に、などあるべきことなるに、たゞゐなかわたらひしける人と、のみにては、京の人とこそ聞ゆれ、よろこびてまつに、度々過ぬればといへる所、詞たらず、其故は、まつにといふまでは、たゞ一度のさまをいへる文なるに、たび/\過とつゞけていひては、俄也、さればこは、よろこびてまつにこず、さること度々なりければ、などやうに有べき所なり、むかし男かたゐなかに住けり、眞名本に、昔男女とあるぞよき、男とのみにては、次なる男といふこともあまり、又まちわびたりけるにといふも、上に女といふことなくては、聞えず、「梓弓眞弓つき弓云々、此歌、初(メ)二句、いかなる意にか、さらにきこえず、又眞名本に、神言忠令見とかけるは、もとより借字ながら、いとつたなき書ざま也、下句は、むかしわがうるはしみせしが如く、今の男に、うるはしみせよといへる也、「見るめなきわが身を云々、此歌のこと、古今集の遠鏡にいへり、さて此歌をこゝに出せるは、下句、はしの詞にかなはず聞ゆ、又色このみなる女といふことも、こゝに有べき詞にあらず、これらによりて思ふに、これは、「秋の野にてふうたの次に、おほく詞落て、もと上とは別條《コトクダリ》にぞ有けむ、えゝずなりにけることゝ、わびたりける人の云々、眞名本には、わびを慙とかけり、ともにかなへりとも聞えず、歌によりて思ふに、とぶらひたりける人の、など有べきにや、「おもほえず袖に云々、袖に湊のといふこと、聞えず、又眞名本に、袖に浪渡《ナミダ》のと書るは、下句とむげにかけあはず、ひがこと也、浪渡は、異所《コトヽコロ》にもかく書て涙也、されば思ふに、こは袖の湊のなるべし、たとひ袖の湊といふ名所はなくとも、涙の深きことを、下(ノ)句の縁に、然いひつべきもの也、のをにゝ誤れるなるべし、女の手あらふところに云々、こゝの文きこえず、眞名本にて聞えたり、但しかの本も、なく影のうつりけるを見てゝふ下に、女といふことなくてはいかゞ、たち聞ても、彼本にきゝつけてとあるぞよき、「水口に我や云々、此歌の初二句の注ども、いづれもいさゝかたがへり、こはさだめてわが泣《ナク》影も、ともに見えやすらんといへる也、かやうに見ざれば、下句にかなはず、わが影のみゆるにやあらむといふとはこと也、「ならはねば云々、此歌、詞たらはで、聞えぬ歌なり、とかくなまめくあひだに、かのいたる螢を云々、かくては、なまめくは、いたるにはあらで、異《コト》人と聞えていかゞ、とかくなまめきつゝ、螢をとりて、などこそ有べけれ、此ほたるのともす火にや云々、こゝは眞名本に、此螢の、ともしびにや似《ニ》むと思ひて、けちなんとすとて、男よめる、とあるぞよろしき、但し上に、車なりける人とあれば、下なる男といふことは、なくてあらまほし、もし又、ともし火にやにんと思へるを、女の心とせば、思ひければ、などこそ有(ル)べけれ、思ひてといひては、かなはず、「出ていなばたれか別れの云々、此歌、上と下と縁なし、又はしの詞にもいとうとし、眞名本に初(ノ)句、いとひてはとあるも聞えず、又眞名本に、此歌の次に、女返爾付而、「いづくまでおくりは云々、此歌もをさなし、なほおもひてこそ、聞えず、眞字本に、なほざりにとあるにて聞ゆ、今の翁まさにしなんやは、爲《シ》なんやにてさるすける物思ひをば爲《シ》なんやの意なり、死なんやにては、からうして息出たり、といふにかなはず、「いでゝいなばかぎりなるべし云々、いにしへの人も、かばかりつたなき歌よみけるにや、これは上にいふべかりけるを、おとしたる也、なほはたえあらざりける中なりければ、此詞あまりて聞ゆ、眞名本には、さりとてはた、いかではえあらざりける中なりければと有、心にとゞめてよますはらに云々、聞えぬこと也、眞字本は聞ゆ、うまのはなむけせんとて、人をまちけるに云々、人をといふこと、あまれり、眞字本にはなし、但し上なる、物へいく人にといふ詞の、なき本もあり、それは人をまちけるにてよろし、又男、「行水と過るよはひと云々、此歌此(ノ)條《クダリ》にかなはず、眞名本になきぞよき、又男女のしのびありきしける云々、此詞も、此くだりにかなはず、人しれぬ物思ひけり、此詞いたづら也、むかし心つきて云々、心つきて、聞えず、眞名本に、榮而とあるも心得ず、田からんとては、男の事にて、此男の田からむとてあるを見て、といふ意也、かくてものいたくやみて云々、此事、上の詞歌に似つかず、別條《コトクダリ》なりしが、詞共落て、亂れたるなるべし、昔としごろ音づれざりける女、昔の下に、男のといふことなくては、たらず、又よさりこの有つる云々の上にも、その男、或はその人など有べきこと也、「これやこの我に云々、此歌、あふみをといふこと、聞えず、近江にいひかけたりとせんも、しひごとなり、もし然らば、上に近江(ノ)國のことなくては、とゝのはず、又下句も、これやこのといへるにかなはず、むかしよごゝろつける女云々、これは、女にてはかなはず、眞名本に、嫗女《オンナ》とあるぞよろしき、假字の亂れたるより、かゝるまぎれも有也、女はを、嫗はおの假字にて、分るゝ也、又つけるといふ詞もいかゞ、眞名本に、世營とかけり、よごゝろあると訓《ヨム》べし、色好む心のある老女也、あひえてしも、同本に、あひ見てしとあるよろし、その次の詞も、かの本よろし、出たつけしきは、男のなさけ有て、嫗のがりゆかむと思ひて、出たつ也、いづくなりけん、けんといふ詞いかゞ、いづくなるらんと、などあるべきにや、もし又けんをたすけていはゞ、物語の地の詞として、いづくにての事なりけんと見べし、昔男いせの國なりける女云々、眞字本に、女|乎《ヲ》とあるよろし、むかしそこには云々、眞字本に、昔男とあり、むかし男、いせの國にゐていきて云々、こは本(ト)は、いせの國なる女に、京にゐていきて云々、と有しが、にもじの重なれるによりて、京にといふことの、後に落たる也、次なる歌ども、必(ズ)伊勢なる女とこそ聞えたれ「いはまより云々、此歌の四の句、ときえたる人なし、しほひしほみちは、とまれかくまれといふ意なるを、海の詞にていへるのみ也、今はともかくもあれ、末つひにはかひ有て、逢ふこともあらんといへる也、けふの御わざを題にてのけふのは、その日のとあるべきこと也、やよひのつごもりに、その日云々、その日といへる詞、いたづらにてつたなし、紅葉のちくさに見ゆるをり、此詞いかゞ、眞名本になきぞよき、もみぢもとあらば、有てもよからんか、板敷のしたに、したはしもなるべし、板敷のうちのしもつかたをいふなり、板じきのしたには、人の居るべきにもあらず、みちの國にいきたりけるにとは、此物語の作者《ツクリヌシ》の、みづから行たるよしにや、もし此歌よめる翁の事ならば、かの翁といふこと、みちの國にの上になくてはいかゞ也、かりはねんごろにもせで、上に狩に來ませるよしをいはざれば、此詞ゆくりなく聞ゆ、これによりて思ふに、櫻花を見ありくを、櫻がりといふなれば、此條に狩といへるは、皆櫻がりの事にやあらん、上にも下にも、たゞ櫻のことをのみいへれば、かたのゝなぎさの家その院の云々、こは聞えぬ詞也、眞名本に、かたのゝなぎさの院のと有よろし、かのうまのかみよみて奉りける、かのうまのかみといふこと、なくてあらまほし、「思へども身をし分ねばは、分(ケ)ぬにといふ意也、此例古き歌には多し、身を分るは、身を二つにわくる也、めかれせぬは、雪故にえかへらで、そこにあるをいふ、さてそれを、わが本意也といへる也、「今までに云々、とてやみにけりといふ詞、上に心ざしはたさむとや思ひけむ、といへるに、かなへりとも聞えず、此くだり、眞字本はよくきこえたり、昔男ありけり、いかゞ有けむ、その男云々は、眞名本に、昔男女云々とあり、さらではたらはず、さてやがて後つひに、此所詞重なりて、くだ/\し、眞名本には、さてつひにと有、さてこゝは、作者《ツクリヌシ》の語なれば、けふ迄といへるもいかゞ也、然れば、さて後つひによくてやあらん云々、とこそ有べけれ、むくつけきことゝいふより、おはぬものにやあらんといふまでは、のろひごとを評《サダ》したる語也、むくつけきことは、むくつけきことよといふ意也、かくて今こそ見めといふ一句は、さかでうちたる男の、のろひていへる言なるを評《サダ》する語の中へ引出ていへる也、よき酒ありときゝて、此下に詞落たる也、さらでは、下にその日はといへるも、より所なし、こゝろみにその落たる詞をおぎなはゞ、よきさけ有(リ)ときゝて、うへにありける人々、のまんとてきけり、左中辨云々、などや有けむ、あるじのはらからなるの下に、男などあらまほし、なくなりにけるを、眞名本に、なくなりたる女をと有、よろし、かへし「下ひもの云々、又かへし「戀しとは云々、此又のかへし、かなへりとも聞えず、眞名本には、此二首は、上とは別條《コトクダリ》にて、「戀しとは云々、かへし「下ひもの云々とあり、よろし、今はさることにげなく云々、たれともなくて、かくいへること聞えず、眞名本には、なま翁の今は云々と有(リ)、よろし、されど歌の上に、中將なりける翁とあるはわろし、かの翁とこそいふべけれ、又は上を、中將なりける翁いまはさること云々といひて、歌の所には、何ともいはでも有(リ)なん、大鷹のたかがひを、眞名本に、大方之《オホカタノ》鷹とあるは、ひがこと也、西宮記にも、鷹(ノ)王卿、大鷹(ハ)者、着(ス)2地摺(ノ)獵衣(ヲ)1、綺(ノ)袴玉帶、鷂者《コタカヾヒハ》云々とある、こゝによくかなへるをや、昔みかど住吉に云々、此條すべて詞たらず、他條《コトクダリ》の例に似ず、「我見てもの歌も、たが歌ともわきまへがたく、大神の現形も俄也、他條の例にならひていはゞ、昔男、みかどの住吉に行幸し給ひける、御供につかうまつりてよめる、「我見ても云々、とよめりければ、大神云々、などこそ有べけれ、「むつましと云々の歌は、何事ぞや、二の句を、君はしらずやとすれば、大かた聞ゆるやうにはあれど、猶いとつたなし、むかし男久しう云々、眞名本に、いへりければの下に、女とあり、むかし女の、あだなる男の云々、女のゝのもじ、ひがこと也、すべてのてふ辭は、心得有て、おくべき所と、必(ズ)おくまじきところとのあることなるを、これはさるわきまへをもしらぬ 、後の人の、何心もなくくはへたるなるべし、眞名本に、女のといふことなし、それも女といふことたらず、むかし男、女のまだ世へずと云々、此くだり詞とゝのはず、物聞えたるを、後に聞て、などこそ有べけれ、
 
    ま  た
いせ物がたりは、物語のあるが中にも、おもしろく、詞すぐれたる物語にて、世にあまねくもてあそぶものがたりなるを、あやしう心得ぬふしどもゝ、所々まじれるは、後の人の、うつしひがめたるなめり、さるを、やがてたすけてとかむとせば、中々にしひごとにぞなりぬべき、又これはすべて例のつくり物語にしあれば、在五中將にまれ、こと人にまれ、その人のうへの事のたがひめなどは、とがむべきにもあらず、たゞおかしく作りなしたる、ことのあやをこそ、とりめでゝ、歌まなびのたすけにも、文かくほんにもすべきわざなれ、歌はまれには、えもいはずわろきもまじれり、さる心して見べし、注釋どもは、あまたある中に、いふべきは、契沖が臆斷、師の古意ぞあるを、たがひになんよきあしきところは有ける、又ともにいかにぞやおぼゆるふしもすくなからず、おのれはた思ひえたるふしども有て、はやくより、つぶさにしるさまほしく思ひわたるを、めかり鹽やかねども、いせをのあまのいとまなくて、えしもはたさぬが、くちをしさに、せめてたゞこれかれとえり出て、いさゝか上の件には物しつるぞかし、
 
    業平(ノ)朝臣のいまはの言の葉
古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、こと/”\しきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、たゞなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし、此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の僞(リ)をあらはして死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いと/\たふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ、から心なる神道者歌學者、まさにかうはいはんや、契沖法師は、よの人にまことを教ヘ、神道者歌學者は、いつはりをぞをしふなる、
 
    みちの國 むつ
陸奥は、歌にもよむごとく、美知乃久《ミチノク》にて、和名抄には美知乃於久《ミチノオク》とありて、道之奥《ミチノオク》といふ意の名なれば、下に國とそへていふ時は、美知乃久乃久爾《ミチノクノクニ》なり、然るを中昔の物語書などには、みちの國とのみいへるは、みちのくのくにといひては、乃久《ノク》といふことの重なりて、わづらはしきまゝに、乃久《ノク》をはぶきて、いひならへるなるべし、さるを又後には、むつの國といふは、みちの國を訛《ヨコナマ》れるものなるを、陸の字、數の六(ノ)字と通はし用ふることあれば、六《ムツ》の意と心得たる人もあめれど、さにはあらず、又むかしは、みちの國とこそいへれ、みちとのみいへることはなかりしを、今はたゞむつとのみいひあへるは、むげにもとをうしなへること也かし、
 
    和泉の和(ノ)字の事
國名のいづみを、和泉とかく、和の字は、いかなる故をもて、添(ヘ)られたるにか、としごろいふかしかりつるを、つら/\思へば、まづいづみといふは、和泉《イヅミノ》郡ありて、上泉《カミツイヅミ》下泉《シモツイヅミ》てふ郷もあれば、そこより出たる國の名なることは、論なし、かくてその郷の内、府中村といふに、今も和泉の井とて、いとめでたき清水《シミヅ》ありて、そこに泉(ノ)井(ノ)上(ノ)神社、和泉(ノ)神社なども有て、式にも、見ゆ、然るに並河氏がかける、和泉志を見れば、此和泉(ノ)井を擧《アゲ》て、其(ノ)水清(ク)且(ツ)甘(シ)と記せるをもて思へば、此(ノ)清水、上つ代よりいと清くて、甘かりし故に、にぎいづみと號《イヒ》て、和泉《ニギイヅミ》と書(キ)たりしを、其里人などは、たゞ泉《イヅミ》とのみいひならへるが、ひろごりて、名高き水なれば、京人なども、泉とのみいひあへりしまゝにて、郡の名にも、國の名にもなれるを、すべて、國郡などの名、二字にかく事なる故に、文字にはかならず、本の名のごとく、和泉とは書(ク)なるべし、やまとの國も、語《コトバ》には常には、たゞやまとゝのみいふを、もじには必(ズ)大(ノ)字をそへて、大和《オホヤマト》とかくと同じたぐひ也、されば和泉の和の字は、もとにぎ泉といひけんゆゑとぞ思はるゝ、
 
    鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊
中右記(ニ)云(ク)、寛治八年、八月十五日、天晴、午(ノ)時許(リ)、候(シテ)2大納言殿(ノ)御車(ノ)後(ニ)1、參2入鳥羽殿(ニ)1、先(ヅ)於2宰相(ノ)直廬(ニ)1休息、具(シ)2申(シテ)大納言殿(ニ)1、申(ノ)時許(リ)、參2入大殿(ノ)御直廬(ニ)1、則(チ)引(テ)2公卿(ヲ)1令(ム)v參(ラ)、先(ヅ)御(ス)2鳥羽殿(ノ)南(ノ)御所(ノ)寢殿(ノ)東面(ニ)1、女院同(ク)御(ス)也、女房南東面(ニ)打出、公卿(ノ)座西(ノ)廊、居2饗饌(ヲ)1、人々雖v被(ルト)v着(カ)、無(シ)2盃酒(ノ)儀1、已(ニ)依(テ)2□日暮(ルヽニ)1也《ナリ》、寄(セテ)2御船(ヲ)於東(ノ)渡殿(ニ)1、上皇令(メ)v乘(ラ)給(フ)、大殿左大臣關白殿、藤大納言中宮(ノ)大夫【師忠】左大將【忠】皇太后宮(ノ)權(ノ)大夫【公】新宰相(ノ)中將【通宗】、此(ノ)外宗忠并(ニ)左中將有賢、依(テ)v召(ニ)候(ス)2御船(ニ)1、有(テ)2別(ノ)仰(セ)1、帥(ノ)大納言【經信】備中(ノ)守【政長】朝臣、可(シ)v候(ス)2御船(ニ)1者《テヘリ》、以2御隨身(ヲ)1被《ル》2相尋問1、已(ニ)及(テ)2數刻(ニ)1、兩人追(テ)被《レテ》2參(リ)加(ハラ)1後出(ス)2御船(ヲ)1、御船指(シ)四人、判官代勘解由(ノ)次官顯隆散位忠清藏人高階(ノ)爲資源(ノ)家時【皆布衣】上達部(ノ)船(ハ)、新大納言【家忠】右衝門(ノ)督【公實】藤中納言【基忠】新中納言【通俊】江中納言【匡房】左(ノ)宰相(ノ)中將【仲實】右兵衛(ノ)督【雅俊】中宮(ノ)權(ノ)大夫【能實】以2武者所四人(ヲ)1爲(ス)2船指(シト)1【布衣】、殿上人(ノ)船(ハ)、頭(ノ)中將國信(ノ)朝臣等、四十人許(リ)、皆布衣、此(ノ)外御隨身副2小船1前行(ス)、先(ヅ)於(テ)2御船(ニ)1有2御遊1、藤大納言【拍子】、帥(ノ)大納言【琵琶】、左大將【箏】、宰相(ノ)中將【笛】、宗忠【笙】、有賢【和琴】、皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫并(ニ)政長(ノ)朝臣付(ケ)歌、先(ヅ)雙調、紀伊(ノ)州席田鳥(ノ)破急、平調大平樂(ノ)破伊勢(ノ)海廻忽五常樂(ノ)急、帥(ノ)大納言朗詠、盤渉調、秋風樂三帖青海破蘇合(ノ)急、各及(ブ)2數反(ニ)1、于時雲収(リ)、天清(ク)月明(カナリ)、池上絲竹(ノ)之調、興入(ル)2幽玄(ニ)1、此(ノ)間棹(シテ)2小船(ニ)1、但馬(ノ)守隆時(ノ)朝臣甲斐(ノ)守行實(ノ)朝臣供(ス)2御膳(ヲ)【牙盤三前、有2打敷1有物】諸卿傳逓(シテ)供(ス)v之(ヲ)1、次第(ニ)乍(ラ)v在v座(ニ)逓上(ス)也、中宮(ノ)大夫|被《ル》v候(セ)2陪膳(ニ)1、公卿(ノ)衝重(ハ)、便(ニ)居(スウ)2船(ノ)之縁(ニ)1、御盃則(チ)給(フ)2大殿(ニ)1、大殿指(ス)2左大臣(ニ)1、左大臣指(ス)2關白(ニ)1、次第(ニ)巡流(レテ)、及(ブ)2二獻(ニ)1、公卿(ノ)船朗詠數度、夜及(テ)2三更(ニ)1、從(リ)2御船1令(メ)v上(ラ)給(ヒ)了(ヌ)、於(テ)2女院(ノ)御方(ニ)1【東面】、被《ル》v講(セ)2和歌(ヲ)1、題(ニ)云(ク)翫(フ)2池上(ノ)月(ヲ)1、序題(ハ)帥、予勤2仕(ス)講師(ヲ)1左大臣爲(リ)2讀師1、講(シ)2大納言(ノ)歌(ヲ)1了(テ)後、頃而《シバラクシテ》)頗(ル)遲々、是(レ)左大臣(ト)與《トノ》2關白殿1歌(ノ)次第之事|也《ナリ》、依(テ)2大殿(ノ)命(ニ)1、先(ヅ)講(シ)2關白殿(ノ)歌(ヲ)1次(ニ)左大臣、次(ニ)大殿、此(ノ)間(ニ)女房從(リ)2簾中1、被《ル》v出(サ)2三首(ノ)歌(ヲ)1、書(ケリ)2薄樣三重(ニ)1、被《ル》v置2扇(ノ)上(ニ)1【扇(ハ)銀(ノ)骨、畫圖殊例】同(ク)講(ズ)v之(ヲ)、皆以(テ)秀歌|也《ナリ》、人々感歎(ス)、爰(ニ)從(リ)2簾中1、給(フ)2御製(ヲ)於關白(ニ)1、關白傳(ヘ)2獻(ズ)大殿(ニ)1、便宜(ナレバ)也《ナリ》、大殿令(ム)2氣色(セ)1、講師起(テ)v座(ヲ)、擬(フ)2臣下(ノ)歌(ヲ)1、召2新中納言通俊(ノ)卿(ヲ)1、被《ル》v講(ゼ)2御製(ヲ)1、誠(ニ)以(テ)優妙|也《ナリ》、不v堪(ヘ)2差歎(ニ)1、滿座諷詠(ス)、及(テ)2曉更(ニ)1各分散、予今日殿上人(ノ)布衣(ノ)中(ニ)著(ス)2直衣(ヲ)1、是爲(ル)2辨官1人一人臣|被《ルヽ》v着(セ)2直衣冠(ヲ)1時、可(キノ)v無(ル)v便之故|也《ナリ》、加之《シカノミナラズ》勤2講師(ノ)役(ヲ)1間(ダ)、數刻候(ス)2御前(ニ)1、尤(モ)爲(ル)v善(ト)耳、愚意(ノ)之案、已(ニ)叶(ヘリ)v禮法(ニ)1、兩殿下【烏帽子直衣】、左大臣公卿【冠直衣】、但(シ)此(ノ)中(ニ)藤中納言【基】左(ノ)宰相(ノ)中將【伊實】右兵衛(ノ)督【雅俊】新宰相(ノ)中將【宗通】布衣|也《ナリ》、皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫【公定】衣冠、上皇御烏帽子直衣、と見えたり、これは堀河(ノ)天皇の御世にて、鳥羽殿におはしましゝは、白川(ノ)上皇におはします、大殿とあるは、京極(ノ)前(ノ)關白師實公、左大臣は、源(ノ)俊房公、關白は、京極殿の御子後二條(ノ)師通公也、此時内大臣にて、關白ながら、左大臣の次に立(チ)給へりき、さて此中右記は、中(ノ)御門(ノ)右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合せて七十卷あり、然れども、のりながゞ見たりし本は、闕《カケ》たる所々ありしを、そのゝち全きはいまだえ見ず、寛治のころは、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におはせしほどの事也、
 
    立田山 小ぐらの峯
いにしへ大和より難波へもいづくへも下るに越《コエ》し、立田山は、今のくらがり峠也、といふ説のあるは、その名、萬葉九の卷に、小鞍嶺《ヲグラノミネ》とあるに通ひ、又かの道ぞ、今の世にむねとこゆる道なれば也、そのうへそのあたりに、小倉寺村といふさへあるなれば、さもあらんとは思はれながら、立田(ノ)神社と、ほどのいと遠きは、心得ぬことにおぼえしに、ある人の、立田山をぐらのみねは、くらがり越《ゴエ》にはあらず、今の立野越なりといひ、又此ごろ、師のいせ物がたりの古意のしりに附(ケ)たる、上田(ノ)秋成といふ人の考へにも、然いひて、そのよしをくはしくわきまへたるは、まことにさることゝぞ思はるゝ、但し立田川といへるをも、そこなる川也といへるは、たがへり、こは立田山のあたりの川とは、たれもふと思ふべきことにて、昔よりみな然こゝろえ來つれども、立田川といふ名は、萬葉のころまでには、歌にも何にも、見えたることなくして今の京になりての後の歌に、多く見えたれば、立田山とは異《コト》ところにして、大和(ノ)國にはあらず、此河の事は、すでに一の卷に、くはしくいへるがごとし、
 
 
玉かつま六の卷
 
   か ら あ ゐ 六
 
おのが歌に、からあゐの末つむ花、とよめりければ、ある人、すゑつむ花は、くれなゐのとこそよみたれ、からあゐのとはいかゞ、といへるに、おのれこたへけらく、萬葉集の歌に、くれなゐを、からあゐともよめり、そも/\くれなゐといふは、此物もと呉《クレ》の國より渡りまうできたるよしにて、呉《クレ》の藍《アヰ》といふを、つゞめたる名なるを、そは韓《カラ》國よりつたへつる故に、又|韓藍《カラアヰ》ともいへるなり、といへる説のごとし、但しからといふは、西の方の國々のなべての名なれば、これは呉(ノ)國をさしていへるにて、呉藍《クレナヰ》といふと同じことにもあるべし、さるを萬葉の十一の卷には、鷄冠草《カラアヰ》とも書るにつきて、鴨頭草《ツキクサ》也とも、鷄頭花《ケイトウゲ》也ともいふ、説どもの有てまぎらはしきやうなれども、つき草とも、鷄頭花ともいふは、みなひがことにて、紅花《クレナヰ》なること疑ひなし、さればからあゐすなはち紅花《クレナヰ》なることを、さとしがてら、ことさらにかくはよめるぞ、ついでにいはむ、同七の卷に、「秋さらば移《ウツ》しもせんとわがまきしからあゐの花をたれかつみけん、移《ウツ》すとは、おろして染るをいふ、此移(ノ)字を、本に影に誤れり、といへりければ、うなづきてやみぬ、其おのが歌は、
    からあゐの末摘花の末つひに、色にや出ん忍びかねてば
寄草戀といふ題にてよめる也、古今集なる、「我戀をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出ぬべし、といふ歌にぞよくにたると、又いふ人もありなんか、
 
    書うつし物かく事
ふみをうつすに、同じくだりのうち、あるはならべるくだりなどに、同じ詞のあるときは、見まがへて、そのあひだなる詞どもを、寫しもらすこと、つねによくあるわざ也、又一ひらと思ひて、二ひら重《カサ》ねてかへしては、其(ノ)間(ダ)一ひらを、みながらおとすことも有(リ)、これらつねに心すべきわざ也、又よく似て、見まがへやすきもじなどは、ことにまがふまじく、たしかに書(ク)べき也、これは寫しがきのみにもあらず、おほかた物かくに、心得べき事ぞ、すべて物をかくは、事のこゝろをしめさむとてなれば、おふな/\もじさだかにこそかゝまほしけれ、さるをひたすら、筆のいきほひを見せむとのみしたるは、いかなることゝも、よみときがたきが、よにおほかる、あぢきなきわざ也、常にかきかはす、消息文《セウソコブミ》なども、もじよみがたくては、いひやるすぢ、ゆきとほらず、よむ人はたくるしみて、かしらかたぶけつゝ、かへさひよめども、つひによみえずなどしては、こゝよみがたしと、かへしとはんも、さすがになめしきやうなれば、たゞおしはかりに心得ては、事たがひもするぞかし、
 
    手 か く 事
よろづよりも、手はよくかゝまほしきわざ也、歌よみがくもんなどする人は、ことに手あしくては、心おとりのせらるゝを、それ何かはくるしからんといふも、一わたりことわりはさることながら、なほあかず、うちあはぬこゝちぞするや、のり長いとつたなくて、つねに筆とるたびに、いとくちをしう、いふかひなくおぼゆるを、人のこふまゝにおもなくたんざく一ひらなど、かき出て見るにも、我ながらだに、いとかたはに見ぐるしう、かたくなゝるを、人いかに見るらんと、はづかしくむねいたくて、わかゝりしほどに、などててならひはせざりけむと、いみしうくやしくなん、
 
    業平(ノ)朝臣の月やあらぬてふ歌のこゝろ
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして、此歌、とり/”\に解《トキ》たれども、いづれも其意くだ/”\しくして、一首《ヒトウタ》の趣とほらず、これによりて、今おのが思ひえたる趣をいはんには、まづ二つのやもじは、やはてふ意にて、月も春も、去年にかはらざるよし也、さて一首の意は、月やは昔の月にあらぬ月もむかしのまゝ也、春やは昔の春にあらざる、春もむかしのまゝの春なり、然るにたゞ我身ひとつのみは、本の昔のまゝの身ながら、むかしのやうにもあらぬことよ、とよめる也、昔とは、思ふ人に逢見たりしほど也、本の身といふも、其時のまゝの身といふことなり、さて身にしてといふは、身ながらの意にて、かくとぢめたる所に、昔のやうにもあらぬことよ、といふ意をふくめたる物也、にしてといへる語のいきほひ、上(ノ)句に、月も春もむかしのまゝなるに、といへるとあひ照《テラ》して、おのづからふくめたる意は聞ゆる也、此人の歌、こゝろあまりて、詞たらずといへるは、かゝるをいへるなるべし、いせ物語のはしの詞に、立て見ゐて見々れど、こぞに似るべくもあらず、といへるは、此ふくめたる意を、あらはしたるもの也、去年にゝぬとは、月春のにぬにはあらず、見るわがこゝちの、去年に似ぬ也、新古今集雜上に、清原(ノ)深養父の、「むかし見し春は昔の春ながら我身ひとつのあらずも有かな、とよめる歌は、此(ノ)業平(ノ)朝臣の歌を、註したるがごとし、これにて、よく聞えたる物をや、
 
    菅家萬葉集
菅家萬葉集上下二卷あり、見るに、上の卷は、いふべきこともなきを、下の卷は、歌は、眞字《マナ》のさま、上(ノ)卷とかはれることなければ、同じく菅原(ノ)大臣のものし給へるならんを、詩のさまなん、上の卷とはこよなくして、さらにかのおとゞの御しわざとは見えず、むげにつたなくして、たゞ七言四句にとゝのへたるのみこそあれ、心もつゞかず、ねごとなどをきくやうにて、何事ともわきまへがたく、いと/\みだりがはしく、韻字といふ物をだにとゝのへず、さらに詩といふべき物にもあらず、されば下卷は、かの大臣は、歌のみを物し給ひて、詩をばそへ給はざりけむを、後世の人の、上の卷にならひて、みだりにおぎなひたるなるべし、さるはむげに物のこゝろもしらぬ、をこのものゝしわざとこそ見えたれ、序も、下(ノ)卷のは、詩と同じ人の書りと見えて、いとをさなし、
 
    御 書 始
中右記(ニ)云(ク)、寛治元年十二月廿四日、【壬寅】、今日未(ノ)刻許(リ)、有(リ)2御書始(メノ)事1、以2式部(ノ)權(ノ)大輔正家(ノ)朝臣(ヲ)1、爲2侍讀(ト)1、以2左少辨敦宗(ヲ)1、爲2尚復(ト)1、其(ノ)儀如(シ)v式(ノ)、云々
 ヲコトト         ―音           去      入
 ●●●―――●ハ    |――――――|フケリ   ●――――●―|
 |     |     |      |      |      |●
ム●  ●ノ ●爪    |      |フナリ   |      |
 |     |     |      |      |      |●
 ●●――――●テ    |――――――|フタリ   ●――――●―|
 ニカ           ―訓           上      平
 
件(ノ)三點圖、正家(ノ)朝臣、御書始(ニ)所2注(シ)進(ル)1也、以2白(キ)色紙小作子(ヲ)1書2付之(ヲ)1、無(シ)2表紙1、
 
    彦 根 寺
同記に、同三年十二月十五日、攝政殿、令(メ)v參2詣(セ)近江(ノ)國(ノ)彦根寺(ニ)1給(フ)、云々、廿二日、太上皇、令(メ)v參2御(セ)彦根(ニ)1給(フ)、云々、凡(ソ)今年、京中(ノ)上下、多(ク)以(テ)參2詣此(ノ)寺(ニ)1、予(モ)具(シ)2申(シ)中納言殿(ニ)1、參詣(ス)也、觀音(ノ)靈驗云々
 
    寛治五年女御入内夜御装束
同記に、同五年十月廿五日【庚辰】有(リ)2三品篤子内親王入内(ノ)之事1、【是後三條(ノ)院(ノ)第四女、母(ハ)贈大后藤(ノ)茂子、太上皇(ノ)同母弟也、陽明院養(テ)爲2御子(ト)1、】云々、今夜女御(ノ)御装束、裏濃(キ)蘇芳(ノ)御衣五(ツ)、濃(キ)御單(ヘ)、同御袴、同打衣(ノ)上着《ウハギ》、梅花(ノ)五重(ノ)上着、黄菊(ノ)五重(ノ)小打着《コウチギ》、赤色(ノ)五重(ノ)唐衣、白(ノ)羅(ノ)御裳也、
 
    賀陽院歌合
同記(ニ)云(ク)、同八年八月十九日、今夜大殿、於(テ)2賀陽院(ニ)1、有2歌合(ノ)興1、是(レ)依(テ)2永承(ノ)例(ニ)1、女房(ト)與《トヲ》2男房1爲(ス)2讀(ミ)人(ト)1、秉燭(ノ)之間、人々參集(ス)、東(ノ)對(ノ)南面(ニ)、居2公卿(ノ)饗饌(ヲ)1、殿上人(ハ)、同(キ)東面(ノ)庇(ノ)饗、諸大夫(ノ)饗(ハ)、在(リト)2侍所(ニ)1云々《イヘリ》、雖v然(ト)不v被《レ》v着(カ)、寢殿(ノ)巽(ノ)角、東面(ノ)戸(ノ)前(ニ)、立(ツ)2切燈臺二本(ヲ)1、【無2風流1】、其(ノ)前(ニ)敷(テ)2圓座二枚(ヲ)1、爲2左右(ノ)講師(ノ)座(ト)1、東(ノ)透渡殿(ニ)、西上南北對座(ニ)、敷2公卿(ノ)座(ヲ)1、【高麗端、對座】、人々先(ヅ)令(メ)2相分(レテ)着(カ)1給(フ)左方(北)、大殿、殿下、藤大納言、【□□】民部卿、【俊明】右衛門(ノ)督、【公實】藤中納言、【基忠】江中納言、【匡房】皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫、【公定】右方(南)、左大臣、帥(ノ)大納言、【經信】東宮(ノ)大夫、【師忠】殿上人(ハ)、大藏卿道良(ノ)朝臣、備中(ノ)守政長(ノ)朝臣、右大辨基綱(ノ)朝臣、頭(ノ)中將國信(ノ)朝臣、右中辨宗忠、左(ノ)馬(ノ)頭師隆(ノ)朝臣、權中將顯實(ノ)朝臣、右(ノ)馬(ノ)頭兼賓(ノ)々《アソン》、四位(ノ)藤少將有家(ノ)々、左京(ノ)權(ノ)大夫俊頼(ノ)々、四位(ノ)權少將能俊(ノ)々、四位侍從宗信(ノ)々、尾張守忠教(ノ)々、藏人兵部(ノ)大輔通輔、侍從家政、藏人右少辨時範、源少將有賢、民部(ノ)大輔基兼、新少將宗輔、藏人玄蕃(ノ)助宗佐、左近(ノ)將監仲兼相分(レテ)候(ス)2渡殿(ノ)南北(ノ)欄外(ニ)1、次(ニ)東(ノ)戸(ノ)前(ニ)、立(ツ)2左右(ノ)文臺(ヲ)1、左、銀(ノ)透(タル)手巾筥(ニ)、入(ル)2白(キ)浮線綾(ノ)巾(ヲ)1、打敷(ハ)青地(ノ)小文(ノ)錦、右、紫檀(ノ)※[さんずい+甘]坏臺(ノ)上(ニ)、居2銀(ノ)※[さんずい+甘]盃(ヲ)1也、左右立筆一雙、墨一如唐人硯臺(ノ)邊(ニ)立(ツ)2和歌(ノ)書五卷(ヲ)1、打敷赤地(ノ)小文(ノ)錦、和歌(ノ)書物卷文各五卷、【春夏秋冬祝、各一卷、瑠璃(ノ)軸、色々(ノ)之色紙、下繪、左方(ハ)女繪、右方(ハ)男繪、皆書(ク)2歌(ノ)情(ヲ)1歟、美麗過差無(シ)v極(リ)、】歌人、【左、女房、中納言(ノ)君、筑前(ノ)君、周防(ノ)掌侍、讃岐(ノ)君、紀伊(ノ)君、信濃(ノ)君、攝津(ノ)君、右、男房、通俊(ノ)卿、匡房(ノ)卿、顯綱(ノ)朝臣、正家(ノ)朝臣、頼綱(ノ)々、俊類(ノ)々、】次(ニ)召(ス)2講師(ヲ)1、【左、右大辨基綱(ノ)朝臣、衣冠、右、下官、直衣、】各々講(ス)v之(ヲ)、帥の大納言爲(リ)2判者1、中宮(ノ)大夫執(ル)2紙筆(ヲ)1、毎(ニ)v度勝負、先(ヅ)春夏秋冬祝、次第如(シ)v此(ノ)、夜及2參半に1、歌(ヲ)講(スル)之間、居2菓子肴物(ヲ)1、【大殿(ノ)陪膳(ハ)、左少將有宗(ノ)朝臣、左府殿下(ハ)、地下(ノ)四位、左府有宗(ノ)々、殿下清家(ノ)々、】初獻無(シ)2御盃1、弟二獻皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫、次(ニ)移(シ)2居對(ノ)南面(ノ)饗饌(ヲ)於此(ノ)座(ニ)1、頻(リニ)盃酌、及(テ)2曉更(ニ)1事了(ル)、次(ニ)召(シ)2管絃(ノ)具(ヲ)1、有(リ)2御遊1、帥(ノ)大納言【琵琶】藤大納言【箏】、左大將【笛】、政長(ノ)朝臣【拍子】、予宗輔【共(ニ)笙】皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫【付歌】呂、安名尊鳥(ノ)破、律、更衣太平樂(ノ)破三臺(ノ)急、前(ノ)池(ニ)儲(ク)2船樂(ヲ)1、【樂人等令(ム)v奏(セ)布衣或(ハ)冠、】次(ニ)牽出物馬三疋、【關白左大臣師】人々退出、
 
    鳥羽殿にて逐日看花歌を講ぜらるゝ事
同記(ニ)云(ク)、嘉保三年三月一日、午(ノ)時許(リ)、參(ル)2鳥羽殿(ニ)1、云々、秉燭(ノ)之後、有2御遊1、云々、此間人々、且(ツ)進(ル)2和歌(ヲ)、【題者江中納言、申(ノ)時以後被《ル》v出(サ)也、逐(テ)v日(ヲ)看v花(ヲ)、】常(ニ)祗候(ノ)殿上人十餘人、只聞別(ニ)召(ス)者(ハ)皇大后宮(ノ)權(ノ)大夫(ト)與《ト》2下官1許(リ)也《ナリ》、于時庭(ノ)櫻紛々、岸(ノ)柳依々(タリ)、歌笛(ノ)之聲、誠(ニ)入(ル)2幽興(ニ)1、御遊(ノ)後、召(テ)2下官(ヲ)1、爲2講師(ト)1、序者院(ノ)藏人縫殿(ノ)助藤(ノ)實光、【秀才】泉(ノ)日侍(テ)2鳥羽(ノ)院(ニ)1、詠2逐(テ)v日(ヲ)看(トイフコトヲ)1v花(ヲ)、應製和歌一首、臣上(ノ)字皆共也、但(シ)他人(ハ)只詠和歌(ト)許(リ)、不v書2臣上(ノ)字(ヲ)1、中宮(ノ)大夫爲(リ)2讀師1、漸講(スル)2和歌(ヲ)1之處、中宮(ノ)大夫(ノ)歌(ト)、與《ト》2顯季(ノ)朝臣(ノ)歌1、一字(モ)不v誤(ラ)相合(フ)、又女房(ノ)歌三首、書2色(ノ)之薄樣(ニ)1、講(シ)了(テ)、欲(スル)v立(ント)v座(ヲ)處、有v勅被《レテ》v仰(セ)云(ク)、近日毎日、有2此和歌(ノ)興1、御製(ノ)講師、不v可v用2他人(ヲ)1、汝同(ク)可(シト)2勤仕(ス)1、則(チ)奉(ハリ)v仰(ヲ)、又復(リ)v座(ニ)、披v見(シ)御製(ヲ)1、講(スル)之處、已(ニ)合(ヘリ)2愚歌(ニ)1、天氣令(メ)v咲(ハ)御《タマフ》、滿座(ノ)之人爲v奇(ト)、一(ハ)者面目|也《ナリ》、以2愚慮(ヲ)1及2高情(ニ)1、者恐畏(ス)也、以2拙詞(ヲ)1叶2御製(ニ)1、進退惟(レ)谷(マリ)、身心失(フ)v度(ヲ)、已(ニ)及(テ)2深更(ニ)1事了(リ)、人々退出(ス)、與《ト》2治部卿1同車(シテ)歸洛(ス)、【下官(カ)歌(ニ)云(ク)、フクカゼニチリクルハナモミルヒトノヒカズモトモニツモルハルカナ、依(テ)v叶(ヘルニ)2御製(ニ)1、被《ル》2書留(メ)1也、】御製(ニ)云(ク)、【サキシヨリチルマデミレバコノモトニハナモヒカズモツモルナリケリ、】
 
    内侍所御神樂
糸束記(ニ)云(ク)、寛仁四年十二月廿八日甲辰、今夜有2内侍所(ノ)御神樂1、云々、召人十六人、【地下殿上人堪(タル)2歌笛(ニ)1者、】近衛司(ノ)者七人、【人長在2此(ノ)中(ニ)1、】内侍二人、【一人(ハ)典侍、一人(ハ)掌侍、】博士十二人、圍司六人、女官十六人、下《シモ》四人、賢所(ノ)御前(ノ)物、十二盃、【菓子四々、干物四々、飯四々、已上(ノ)物、本(ト)自(リ)有2御前(ニ)1、居2八足(ノ)机(ニ)1、御酒(ハ)召2酒殿(ニ)1用v之、内侍陪膳博士取2御盤(ヲ)1云々、足(ノ)御幣十帖、納(テ)2柳(ノ)折櫃(ニ)1奉(ル)v之先例(ハ)四帖云々、】饗(ハ)、内侍二人(ノ)前、【衝重各二合、二種(ノ)物、】博士十二人、【同前】、圍司并(ニ)女官等、【各衝重一合、一種物】、召人近衛司等、【各衝重二合、二種物】、可(キ)v然(ル)人々(ノ)禄、上(ヘ)人取v之、禄(ハ)、典侍【白褂一領】、掌侍【白單衣一領】、傳侍二人【命晩(ハ)白單重一領重一領、六位(ハ)白單衣一領、】女官【疋絹】、下【手作各一端、以2所(ノ)布(ヲ)1給v之、】召人【白單衣各一領】、近衛司【疋絹】と見ゆ、此記は、參議經頼卿の記録也、名の二字の偏《ヘン》をとりて、糸束とはなづけたる也、
 
    南殿の御階の櫻橘
歴代編年集成(ニ)云(ク)、南殿(ノ)櫻(ノ)樹(ハ)者、本(ハ)是(レ)梅(ノ)樹也、桓武天皇遷都(ノ)之時、所v被《ルヽ》v植也、而(ルニ)及(テ)2承和年中(ニ)1枯失(セヌ)、仍(テ)仁明天皇|被《ル》2改(メ)植1也、今度(ノ)燒亡(ニ)燒失(セ)畢(ヌ)、造内裏(ノ)之時、所v被《ルヽ》v移(サ)2李部王(ノ)【重明親王】家(ノ)櫻(ノ)樹(ヲ)1也、件(ノ)樹、本(ハ)吉野山(ノ)櫻(ト)云々《イヘリ》、但(シ)拾遺公忠(ノ)朝臣(ノ)歌(ノ)詞(ニ)、延喜(ノ)御時、見(テ)2南殿(ノ)花(ヲ)1云々《トイヘリ》、然(レバ)者天徳以前(モ)櫻(ノ)樹|歟《カ》、梅櫻(ノ)事、時〔左○〕可(シ)v決(ス)v之(ヲ)、橘(ノ)樹(ハ)者、本自《モトヨリ》所2生託(スル)1也、遷都以前、此(ノ)地橘大夫(ノ)家(ノ)之跡也、云々《トイヘリ》、南殿(ノ)樹(ノ)事、番記録(ニ)云(ク)、村上(ノ)御宇、天徳三年十二月七日、南殿(ノ)坤(ノ)角、新(ニ)移(シ)2栽(ウ)橘樹一本(ヲ)【高(サ)一丈二尺】件(ノ)樹、彈正尹親王(ノ)東三條(ノ)家(ノ)樹也、依(テ)2勅定(ニ)1奉v之、右近(ノ)將監已下掘(ル)v之(ヲ)、或記(ニ)云(ク)、遷都(ノ)之時、彼(ノ)樹(ノ)在(ル)所、稱(スル)2橘大夫(ト)1者(ノヽ)家(ノ)後園也、件(ノ)後園(ニ)有v橘、即南殿(ノ)前(ナリ)、以(テ)賞翫(ス)、其後囘禄(ノ)之後、被《ル》v栽2彼(ノ)東三條(ノ)樹(ヲ)1云々《トイヘリ》、小一條(ノ)左大臣(ノ)記(ニ)云(ク)、橘(ノ)本(ノ)主(ハ)、秦(ノ)保國也、と見えたり、今度(ノ)燒亡とあるは、天徳三年の燒亡のこと也、大槐秘抄(ニ)云(ク)、南殿の橘の木は、此京に、いまだ内裏たてられ候はざりけるさき、人の家の候けるが木にて候ければ、きられずしてなん候ける、殿上人は、南殿のおほゆかにて、枝ながらたちばなくひなどしけりと申候は、それはまことにや候けん、木は一定のふる木になんさぶらひける、ついでに、同書にいはく、今の上達部は、封戸すこしも得候はず、庄なくは、いかにしてかは、おほやけわたくし候べき、近代の上達部、おほく國を賜はり候は、封戸のなきがする事なめりと思候に、めさるゝこそ、ちから及ばぬことなれ云々、又いはく、近代となりて、こはき物のうへに、猶こはき物をきかためて、こしあてかふりとゞめゑぼしとゞめなど申(シ)て、ちからも及ばず、したてあひて候なるに、しほ/\くた/\として、あさましげなる雜色一二人ばかりぐして云々、
 
    蘇我(ノ)馬子が事
愚管抄(ニ)云(ク)、崇峻天皇の、馬子(ノ)大臣にころされ給ひて、大臣にすこしのとがをもおこなはれず、よきことをしたる體《テイ》にて、さてやみたることは、いかにとふとも、昔の人も、あやめさたしおくべし、今の人も、又これを心得べし、日本國には、當時國王をころしまゐらせたることは、大かたなし、又あるまじと、ひしと定めたる國なり、それに此王と安康天皇とばかり也、その安康は、七歳なるむまごのまゆわの王子に、ころされ給ひにけるは、やがてまゆわの王子も、その時殺されにければ、いかゞはせん云々、此崇峻のころされ給ふやうは云々、それにすこしのとがもなくて、つゝらとしてあるべしやは、中にも聖徳太子おはしますをりにて、太子は、いかにさては御さたもなくて、やがて馬子と一つ心にて、おはしましけるぞと、よに心得ぬことにてある也、此事をふかく案ずるに、たゞせんは、佛法にて皇法をまもらんずるぞ、佛法なくては、佛法わたりぬるうへは、王法はえあるまじぎぞといふことわりを、あらはさんれうと、又物の道理には、一定輕重のあるを、重きにつきて、輕きをすつるぞといふことわりと、此二つを、ひしとあらはされたるにて侍る也云々、佛法に歸したる大臣の手本にて、此馬子(ノ)大臣は侍りけりとあらは也、此大臣を、すこしも徳もおはしまさず、たゞ欽明の御子といふばかりにて、位につかせ給ひたる國王の、此大臣を殺さむとせさせ給ふ時、馬子の大臣、佛法を信じたる力にて、かゝる王を、わがころされぬさきに、うしなひ奉りつるにて侍れば云々、推古の御けしきもやまじりたりけん、とまで道理のおさるゝ也云々といへり、のりながいはく、此論は、あながちに佛法をいみしき物にたてむとして、中々に其道の、世のいみしきまがことなるほどをあらはせるものにて、あまりにつたなきしひごと也、
 
    一條天皇かくれさせ給ひて後御手箱に在ける宸筆の物の事
一條院うせさせ給ひて後、御堂殿御遺物共のさだ有けるに、御手箱の有けるを、ひらき御覧じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、かゝせおはしましたりけるを、はじめに三光|欲(スレドモ)v明(ナラムト)覆(ハレテ)2重雲(ニ)1大精暗(シ)とあそばされたりけるを、御覧じて、次さまをよませたまはで、やがてまきこめて、やきあげられにけりとこそ、宇治殿は、隆國【宇治大納言】にはかたらせ給ひけると、隆國は、記して侍るなれ、
 
    延久の御世に始めて記録所をおかれし事
延久の記録所とて、はじめておかれたりけるは、諸國七道の所領の宣旨官符をなして、公田をかすむる事、一天四海の巨害なりと、きこしめしつめてありけるが、すなはち宇治殿の時、一《イチ》の所の御領/\とのみいひて、庄園諸國にみちて、□□のつとめたへがたしなどいふを、きこしめしもちたりけるにこそ、さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書をめされけるに、宇治殿へ仰せられたりける御返事に云々、別に宣旨を下されて、此記録所へ文書どもめすことは、所〔左○〕大相國の領をのぞくといふ宣下ありて、中々つや/\と御さたなかりけり、此御さたをば、いみしきことかなとぞ、よの中に申(シ)ける、
 
    安徳天皇の御事
此主上をば、安徳天皇とつけ申(シ)たり、海にしづませ給ひぬることは、此王を、平相國いのり出しまゐらすることは、安藝の嚴島の明神の利生也、此いつくしまといふは、龍王のむすめ也、と申(シ)つたへたり、此御神の、心ざし深きにこたへて、我身の、此王となりて、生れたりける也、さてはてには、海へかへりぬる也とぞ、此子細知(リ)たる人は申ける、此事は、まことならんとおぼゆ、この三件も、同じく愚管抄也、此書、七卷有て、神武天皇より、順徳天皇の御世、承久のみだれの前までの事共を記して、ところ/”\に論あり、ほうしのかけるふみと見えて、其論みな例の佛《ホトケ》さだ也、此安徳の帝《ミカド》の御事など、そのかみ例の僧《ホウシ》のつくり出て、いひなしたるが、ひろごりて、世にさるさだ有しなるべし、平相國にいつくしま、いつく嶋に龍王のむすめ、りうわうの女《ムスメ》に海にかへるとは、よくもことあひて、似つきたるものかな、「しもつけは木のうへにこそなりにけりよしとも見えぬかけづかさかな、これは平治に、源(ノ)義朝の首、獄門にかけられたるをよめる、たはぶれ歌也、しもつけは下野、かけづかさは兼官也、木のうへになるとは、むかしは、罪人の首をかくるは、獄《ヒトヤ》の門のもとなる、あふちの木にかけたりし故に、いへる也、此歌も、同じ書にのせたり、筆のついでに出しつ、
 
    後京極のとなへ
後京極(ノ)攝政は、つねには、後(ノ)字、音《コヱ》にてごとよむを、同じ愚管妙に、後の京極殿と、のゝ字をそへてかきたり、
 
    縣居大人の傳
あがたゐの大人は、賀茂(ノ)縣主氏にて、遠祖《トホツオヤ》は、神魂《カミムスビノ》神の孫、鴨武津之身《カモタケツノミノ》命にて、八咫烏《ヤタガラス》と化《ナリ》て、神武天皇を導き奉り給ひし神なること、姓氏録に見えたるがごとし、此神の末、山城(ノ)國相樂(ノ)岡田(ノ)賀茂(ノ)大神を以齋《モテイツ》く、師朝といひし人、文永十一年に、遠江(ノ)國敷智(ノ)郡濱松(ノ)庄岡部(ノ)クなる、賀茂の新宮をいつきまつるべきよしの詔を蒙りて、彼(ノ)クを賜はり、すなはち彼(ノ)新宮の神主になさる、此事引馬草に見え、又綸旨の如くなる物あり、又乾元元年にも、詔をかうぶりて、かの岡部の地を領ぜる、これは正しき綸旨有て、家に傳はれり、かくて世々かの神主たりしを、大人の五世の祖、政定といひし、引馬原の御軍に功有て、東照神御祖(ノ)君より、來國行がうちたる刀と、丸龍の具足とを賜はりぬ、此事は三河記にも見えたり、さて大人は、元禄十年に、此岡部(ノ)クに生れ給ひて、わかゝりしほどより、古(ヘ)學(ビ)にふかく心をよせて、享保十八年に、京にのぼりて、稻荷の荷田(ノ)宿禰東麻呂(ノ)大人の教をうけ給ひ、寛延三年に、江戸に下り給ひて、其後田安(ノ)殿に仕奉り給ふ、かの殿より、葵の文の御衣を賜はり給へる時の歌、「あふひてふあやの御衣をも氏人のかづかむものと神やしりけん、明和六年十月晦の日、とし七十三にて、みまかり給ひぬ、武藏(ノ)國荏原(ノ)郡品川の、東海寺の中、少林院の山に葬、こは大人の弟子《ヲシヘコ》なる某が、しるしたるまゝに、とりてしるせり、なほ父ぬし母とじなどをも、しるすべきものなるに、もれたるは、又よくしりたらむ人にとひきゝて、しるすべくなん、
 
    花のさだめ
花はさくら、櫻は、山櫻の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず、葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり、大かた山ざくらといふ中にも、しな/”\の有て、こまかに見れば、一木ごとに、いさゝかかはれるところ有て、またく同じきはなきやう也、又今の世に、桐がやつ八重一重などいふも、やうかはりて、いとめでたし、すべてくもれる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず、松も何も、あをやかにしげりたるこなたに咲るは、色はえて、ことに見ゆ、空きよくはれたる日、日影のさすかたより見たるは、にほひこよなくて、おなじ花ともおぼえぬまでなん、朝日はさら也、夕ばえも、梅は紅梅、ひらけさしたるほどぞ、いとめでたきを、さかりになるまゝに、やう/\しらけゆきて、見どころなくなるこそ、いとくちをしけれ、さくらの咲るころまでも、ちることしらで、むげにゝほひなく、ねびれしぼみて、のこりたるをみれば、げに有てよの中は、何事もみなかくこそと、見る春ごとに、思ひしらるかし、白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり、大かた梅の花は、ちひさき枝を、物にさして、ちかく見たるぞ、梢ながらよりは、まされる、桃の花は、あまた咲つゞきたるを、遠く見たるはよし、ちかくては、ひなびたり、山ぶきかきつばたなでしこ萩すゝき女郎花など、とり/”\にめでたし、菊も、よきほどにつくろひたるこそよけれ、あまりうるはしく、したゝかにつくりなしたるは、中々にしなゝく、なつかしからず、つゝじ、野山に多く咲たるは、めさむるこゝちす、かいだうといふ物、からめきて、こまやかにうるはしき花也、そも/\かくいふは、みなおのが思ふ心にこそあれ、人は又おもふこゝろことな(ン)べければ、一《ヒト》やうにさだむべきわざにはあらず、又いまやうの、よの人のもてはやすめる花どもゝ、よにおほかるを、かぞへいでぬは、ことさらめきたるやうなれど、歌にもよみたらず、ふるき物にも、見えたることなきは、心のなしにや、なつかしからずおぼゆかし、されどそれはた、ひとやうなるひがこゝろにやあらむ、
 
    神 明 鏡
神明鏡とて、神武天皇より、後花園(ノ)天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみあり、それに、神功皇后、戒定慧(ノ)箱を、摩白濱に埋み、松の枝を折(リ)、逆に其上に立給ふ、注《シルシ》とす、依(テ)v之(ニ)箱崎と云也、皇后謠曰、箱崎の千代の松原|石疊《イシダヽミ》久津禮牟《クヅレム》世まで君は座《マシ》ませ云々、或は皇后を、安曇(ノ)磯童奉(リ)2思(ヒ)懸(ケ)1ける由聞(シ)召て、皇后御歌に云(ク)、衣だに二(ツ)もあらば赤裸《アカハダノ》山に一(ツ)は懸てまし物を云々、或云、箱崎(ノ)松(ノ)上(ニ)、白幡四流、赤幡四流|降《フリ》下(ル)、長(サ)八丈也、故(ニ)號2八幡(ト)1、桓武天皇、此(ノ)御時、又萬葉集歌撰せらる、内舍人濱成承(リ)て、三千餘首奉(リ)2撰加(ヘ)1たまふ也、高丘(ノ)親王も、春宮を取られさせ給て弘法の御弟子と成(リ)、眞如親王と申す、御歌(ニ)云(ク)、云(フ)ならく奈落の底に落ぬれば刹利も戎駄もかはらざりけり、大師嘆給て、返歌(ニ)云(ク)、かくばかり達磨をしれる人なれば多駄迦多までも成(リ)のぼりけり、承和六年、小野(ノ)篁隱岐(ノ)國へ被《レ》v流(サ)けり、同七年沙汰有て、一仰三仰不來人待書暗雨降戀乍寢、と云遣しけり、月夜には來ぬ人またるかき曇(リ)雨だにふらばわびつゝもねん、と讀たりければ、難(ク)v有讀たりとて、御赦免あり、大かたかうやうのみだりなることどもをしるしたる書也、例のほうしのしわざとぞ見えたる、又二位(ノ)尼の、安徳天皇を抱(キ)奉りて、海にしづまんとせられける時の歌とてのせたる、今ぞしる御裳濯川の流にて浪の底にもみやこありとは、
 
    笛 の 孔
悉曇藏(ニ)云(ク)、元造暦(ニ)云(ク)、伶倫造v笛(ヲ)、【文】、此(レ)乃取(テ)2※[山+解]谷(ノ)竹(ヲ)1、學2鳳凰(ノ)鳴(ヲ)1者也、笛有2十一孔1也、二孔闕而不v傳、其九孔者、以出2五音(ヲ)1、竹節爲v尾(ト)、竹抄爲v首(ト)、本管之口、呼(テ)v之爲v口(ト)、從v此而起、於2竹腹上(ニ)1、一二三四五六七(ノ)孔、如(ク)v行(ノ)呼(テ)爲2次干五上夕中六(ト)1、下口(ト)六(トノ)二孔爲v宮(ト)、此(レ)有2二條1、謂2一越條【律】差陀條(ト)1、【呂】土也、口(ト)六(トノ)二孔(ハ)者、是(レ)一音之大小、合(セテ)爲2越條(ト)1、次(ノ)孔(ハ)非2別條1也、名(テ)爲2无條(ト)1、是則諸音(ノ)鹽梅(ナル)故也、干(ノ)孔爲v商(ト)、即是(レ)秋(ノ)音、此有2三條1、謂2平條(ト)【律】大食條(ト)乞食條(ト)1、【呂】、金也、五(ノ)孔亦非2別條1、鹽梅之義、同(キ)2次(ノ)孔(ニ)1故也、上(ノ)孔爲v角(ト)1、即是(レ)春(ノ)音、名(テ)爲2霜條(ト)1【律】、其呂音末v傳v之、木也、夕(ノ)孔爲v徴(ト)、即是夏(ノ)音也、此有2二條1、謂2黄鍾條【律】垂條(ト)1、【呂】、火也、中(ノ)孔爲v羽(ト)、即是冬(ノ)音、名(ク)2盤食條(ト)1【律】、其呂音未v傳v之、水也、中(ノ)孔(ト)六(ノ)孔(ト)、以2此(ノ)二孔1、合(セテ)名(ク)v下(ト)也、竹節(ノ)下孔(ハ)、所2以吹1v之者也、【抄】
 
    寶づくしといふ物に鍵ある事
今世(ノ)中に、たからづくしとて、寶のかぎりをあつめゑがく事あり、其中に鍵《かぎ》のあるは、何の故にかと思へば、むかし天智天皇の御世三年に、近江(ノ)國栗太(ノ)郡に、磐城村主殷《イハキノスグリイム》といひし人の妻、家の庭に出たりし前《マヘ》へ、そらより鑰匙《カギ》二つふり來たりけるを、とりて夫の殷にあたへける、それよりその家|冨榮《トミサカ》えたりし事、書紀に見えたり、これよりや、世にめでたきたからとして、繪にもかくことにはなりにけむ、
 
    持 佛 堂
天武天皇の御代、十四年三月廿七日のみことのりに、諸國毎(ニ)v家作(テ)2佛舍(ヲ)1、乃置(テ)2佛像及(ビ)經(ヲ)1、以(テ)禮拜供養(セヨ)とあり、書紀に見えたり、民の家々まで、持佛堂といふ物をかまへて佛をまつる事は、これよりやはじまりけん、
 
    天皇の御前に直《タヾ》に訴を申せし事
春記(ニ)云(ク)、長暦四年、十月廿二日、今日初(テ)遷2御内大臣(ノ)二條(ノ)第(ニ)1、云々、今夕行幸(ノ)間、於(テ)d東院東大路(ト)、與《トノ》2神解(ノ)小路1邊(ニ)u、宇佐(ノ)宮(ノ)下部【月來《ツキゴロノ》訴人也、件(ノ)愁人、被《ル》v取2申文(ヲ)1也、但(シ)未省裁許愁見命者也】一人、着(シ)2衣冠(ヲ)1、進(ミ)2寄(リ)御輿(ノ)右(ノ)方(ニ)1、擧(テ)v音(ヲ)致(スノ)2訴訟(ヲ)1之間、希有(ノ)之事也、爲(シテ)2右將等(ト)1不2追却(セ)1、不覺(ノ)者等也、予令(メ)2追却1了(ヌ)、須《ベキナリ》2搦捕1也、然(レドモ)而行2幸(ノ)新所(ニ)1之間、左右有v憚也、故(ニ)不v令(メ)v搦(メ)也、事尤非常也、云々、また、同年十二月廿五日、平野行幸(ノ)日也、云々、今夕還御(ノ)間、東(ノ)洞院二條邊(ニシテ)、和泉(ノ)國(ノ)百姓、捧(ゲ)v文(ヲ)擧(テ)v音(ヲ)、成(ス)2愁訴(ヲ)1、云々、行經不v令(メ)2追却1、如何、此(ノ)事及2度々(ニ)1、猶可v被《ル》2召(シ)禁(ゼ)1也、云々、と見えたり、いともかしこき御前に、たゞにうたへごと申せるは、いとめづらし、長暦は後朱雀天皇の御世也、春記は、春宮(ノ)大夫資房(ノ)卿の日記也、
 
    さぬきの國の山の谷なるあやしきゑり物
大和國つぼ坂寺のおくなる山に、五百羅漢のかたとて、石に數百《ヤホチ》の人のかたを彫《ヱリ》たるあり、或人のいへるは、これを俗《ヨ》に羅漢としもいふは、あらぬこと也、よく見れば、みな上つ代の人の形《カタ》也、神の御しわざと見えたりといへり、おのれいまだ見ざれども、まことにさぞあらむとぞおぼゆる、すべてふるき神の御像《ミカタ》、またさらぬをも、世にはみなおしなべて、佛のかたと思へるおほし、又物の形など石にゑりたるが、あやしく何ともわきまへがたきなど、よに多かるを見れば、上つ代には、くさ/”\石に物ゑることの、多かりし也、神代のしわざをも、今まのあたり見るべき物は、石のみぞ有ける、讃岐(ノ)國に、其所の名聞つるを、わすれたり、いと廣き谷ひと谷に、あるかぎりの岩、一つも、おちず、大きなるにも小《チヒサ》きにも、こと/”\く佛のかたを彫《ヱリ》たるところありて、其數かぞへつくすべからずとぞ、或人そのさまをよく見て、あまりあやしさに、石工《イシツクリ》にはからせたるに、大かた日ごとに數百《ヤホ》人の石つくりをして、三十年ばかりの月日をへて、ゑらしめずは、かくまではなしえじ、又かばかり高く大きなる、數十※[人偏+刃]《ヤソヒロ》のいはほどもにはまづその足代《アシヽロ》をかまへんばかりも、かたきわざなるべければ、此たくみ、さらに人の力の及ぶべきかぎりにあらずといひけりとぞ、いともあやしくくすしきことにぞ有ける、いづれの郡に、何といふ山の谷ぞ、いま一たび所をもきゝさだめて、なほよく尋ぬべきこと也、土人《クニビト》は、弘法大師のゑれると、いひ傳へたりとぞ、おのれ此事を聞ておもふに、まづすべて國々に、あやしき物といへば、みな弘法のしわざといふは、つねのことにて、そはもとより論《アゲツラ》ふにもたらず、又佛のかたと思ふも、例のひがことにて、これはた神代の人の形にて、神の造り給へる物とこそおぼゆれ、行て見ん人、なほよくかむかへてさだめてよ、すべて國々に、かうやうのあやしき所のあるには、かならず世々のほうし共、あらたに手を加《クハ》へて佛ざまにしなして、例の世(ノ)人をあざむくたぐひも多かるを、心してなまどはされそ、
 
    神社を宗廟社稷と申す事
神(ノ)社を、後(ノ)世の人の、それは宗廟ぞ、それは社稷ぞなど、かしこげにいふは、から國ごとのわたくしごと也、古(ヘ)にすべて宗廟社稷といへることなし、書紀などにをり/\、其字は見えたれど、たゞ潤色《カザリ》の漢文にして、もとより神社をいへるにはあらず、さる故に、くにいへなど訓り、くにいへとは、漢文の國家の訓をうつしたる也、さてもろ/\の神社を、廟とは申すまじきよしは、筑前(ノ)國の香椎《カシヒノ》廟のみ、古書どもに、とりわきて廟とは申して、こは神名帳にいらず、故あることなるべし、これをおきては、豐前(ノ)國の大帶姫(ノ)廟(ノ)神社あり、これらのことのよしは、古事記傳三十の卷にいへり、考へ見べし、さるゆゑよしをもたどらで、神社を宗廟よ社稷よと申すは、皇國の古(ヘ)の御定めをばすてゝ、ひたふるにから國ごとにしたがへるみだりごと也、すべて神の道をとくともがらの、かくのみよろづを、から國ごとにいひなすなるは、ほうしのともがらの、神をおのが佛のかたさまに、引入れむとかまふると、同じことなるを、えさとらざるは、いかにまどへる心ぞや、
 
    人を仁といふ事
人を仁といふは、近き世の俗言《サトビゴト》のやうなれど、文粹の、大江(ノ)匡衡の文に、臣謬(テ)當(テ)2其仁(ニ)1、聊記(ス)2盛事(ヲ)1、と見えたり、
 
    東 京 西 京
平安城は、東西の京をおかれしかども、はじめより、今のごとく、東京のみ榮えて、西京は榮えざりしにや、慶保胤の池亭(ノ)記に、予(レ)二十年以來、歴2見(スルニ)東西二京(ヲ)1、西京(ハ)、人家漸(ク)稀(ニシテ)、殆(ト)幾(チカシ)2幽墟(ニ)1矣、人(ハ)者有(テ)v去(ル)無(シ)v來(ル)、屋(ハ)者有(テ)v壞(ルヽ)無(シ)v造(ル)とあり、
 
    むかしの女御の位階
縁起天暦などのころになりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしへの妃夫人などのつらにあたりて、いと貴《タフト》かりしにあはせては、なほ位階はひきゝぞ有けん、小野(ノ)宮(ノ)左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給へりし、四十九日の願文に、女御贈從四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粹にあり、
 
    八  木
米を八木といふは、ふるきこと也、小右記の、寛仁萬壽のころのところに、八木十石八木卅石など見えたり、
 
    客 殿  小 宮
吉部秘訓抄に、文治二、正、十、同記(ニ)云(ク)、大夫史廣房入來、先(ヅ)立(ツ)2中門(ノ)外(ニ)1、予出(ヅ)2客殿(ニ)1とあり、客殿といふこと、そのころもありし也、同じ書に、建久四十三、同記(ニ)云(ク)、今日仁和寺(ノ)小宮《コミヤ》【高倉(ノ)院(ノ)御子】御灌頂(ノ)後朝也云々、物がたり書どもに、いまだ元服せぬ人を、小君といへり、これに小宮とあるは、皇子の、童にますほどを申すなるべし、
 
    百度參 掛替 大和大路 和讃 漢讃 鹽たち
平戸記、延應二年二月十一日のところに、臨(テ)2夜景(ニ)1密々(ニ)參(ル)2祇園(ニ)1、依(テ)2恒(ノ)例(ノ)之務(ニ)1、率(テ)2人數(ヲ)1有(リ)2百度詣(ノ)事1云々、萬のわざに、掛替《カケガヘ》といふ物あり、これは弓の弦よりおこれることか、又は車の牛より出たるか、同記に、殿下(ノ)北(ノ)政所、令(メ)v參2春日(ノ)社に1給(フ)、予依(テ)v召(ニ)、引(キ)2獻(ル)懸(ケ)替(ヘノ)牛一頭(ヲ)1とあり、同記、仁治三年の所に、大和大路と見えたり、明月記にも見ゆ、すなはち今の、川東なる大和大路なるべし、同じ平戸記に、寛元三年三月廿八日、花供の佛事のところに、此(ノ)間(ニ)誦(ス)2今度新花讃(ヲ)1、此(ノ)讃三度許(リ)、念佛相(ヒ)交(ヘテ)誦(ス)v之(ヲ)、其後誦(ス)2新五偈漢讃(ヲ)1、次に誦(ス)2其和讃(ヲ)1、是皆予制2作(ス)之(ヲ)1也とあり、同記、同年四月八日、今日平野祭也、依(テ)2神事(ニ)1不2念誦(セ)1、但(シ)依(テ)v例(ニ)斷(ツ)v鹽(ヲ)とあり、今の世にも、八日は藥師の縁日、鹽たちといふことするなり、
    
    修明門院に強盗おし入(リ)し事
同仁治元年十二月一日の記に云く、一夜【不v聞2其日(ヲ)1】群盗推(テ)參(リ)2修明門院(ニ)1、女房等皆悉(ク)遇(フ)2其殃(ニ)1、結句奉(ル)v剥(ギ)2仙院(ヲ)1、云々といへること見えたり、そのかみ北條(ノ)泰時が、政とりおこなひける程にて、天の下よく治まりたりといへるに、猶かくやむことなき御許に、強盗のおしいり參りて、なやまし奉りしは、いとも/\かしこく、いはんかたなきまがこと、今の御代のめでたきにおもひくらぶれば、及ばざりし事、こよなしかし、ついでにいふ、結句《ケツク》といふ詞、むかしは、はてにはといふ意につかへるを、今の世に、かへりてといふこゝろにつかふは、いたくうつれる物也、
 
    大  名
白川顯廣(ノ)王(ノ)記の、安元三年四月のところに、諸國(ノ)大名、不v應2國役(ニ)1とあり、大名といふ名、其ころも有けん、
 
    吉備(ノ)大臣の名
吉備(ノ)大臣の名は、眞吉備《マキビ》にて、然しるしたる書共もあるを、續紀などに、眞備とあるは、もろこしの國にて、吉(ノ)字をはぶきて書(キ)給ひしを、歸り參り給ひて後も、なほそのまゝに物には書(キ)給へりしなるべし、それもわたくしにはあるべからず、あだし國人にあひ給はむ時などのために、おほやけにも申(シ)てなるべし、すべてもろこしに渡り、あるは韓國の客《マラウド》にあふ時など、名を、もじをかへなどもして、からめきてかきたりし例、おほく有し也、
 
    國  造
いにしへに國造《クニノミヤツコ》といひしは、今の世のごと、大きにこそあらざりけめ、大かた何事も、大名の如くなる物にて、國々に多く有し也、それが中に、國造《クニノミヤツコ》、また君《キミ》、また別《ワケ》、又|直《アタヘ》、又|稻置《イナキ》、また懸主《アガタヌシ》などいふ、色々《クサ/”\》の有て尊《タカ》き卑《ヒキ》きけぢめも有つるを、そのけぢめは、さだかに記せる物なければ、いづれ尊《タカ》く、何れ卑《ヒキ》かりけむ、今こと/”\くは、わきまへがたけれど、大かたは皆、國造と同じさまなる物にて、此(ノ)色々《クサ/”\》を一つにすべても、國(ノ)造といへりき、書紀などに、伴造《トモノミヤツコ》國造《クニノミヤツコ》などあるは、かの色々《クサ/”\》をすべて、一つに國(ノ)造といへる也、さてもろこしの國にも、いにしへ封建の制《サダメ》とかいひし代の、諸侯といふ物、これによく似たり、其諸侯に、五等の爵とて、公侯伯子男と、五きざみのしな有し、それはた國(ノ)造君別などの色々《クサ/\”》ありしにゝたり、其五しなの中の一つの名をとりて、すべて諸侯といひしも、又すべてをも國(ノ)造といひしに似たり、もろこしの事は、かの國のまなびするともがらは、、此諸侯の、五しなの事など、たれもよくしれるを、皇國のいにしへのさまをば、かへりてよくしれる人なくて、國(ノ)造の中に、かのくさぐさのしな有しをもしらず、又かの色々《クサ/”\》は、いかなるさまの物なりしともしらであるはいかにぞや、
 
    筑紫(ノ)君|石井《イハヰ》が事
むかしつくしの國に、筑紫君石井《ツクシノキミハヰ》といへる國造《クニノミヤツコ》ありけり、君《キミ》といふは、上の件《クダリ》にいへる、國造の中の一色《ヒトクサ》なる君也、書紀には、すなはち國造としるされたり、されど其子の葛子《クズコ》といひしをば、筑紫(ノ)君と記されたれば、君にてぞ有ける、繼體天皇の御世に、皇朝《スメラミカド》にそむきて、无禮《ヰヤナ》かりければ、討手《ウテ》の使をつかはして、ほろぼし給ひき、此(ノ)石井《イハヰ》、いけりし世に、かねて墓をなん造りまうけたりける、そのかまへの、いみしく大きに、いかめしかりける事、筑後(ノ)國の風土記にしるせるやう、上妻縣《カムツマノコホリ》、縣(ノ)南二里(ニ)、有(リ)2筑紫(ノ)君磐井(カ)之|墓墳《ハカ》1、高(サ)七丈、周(リ)六丈、墓(ノ)田、南北各六十丈東西各四十丈、石(ノ)人石(ノ)盾、各六十枚、交(ヘ)陳(テ)成(シ)v行《ツラヲ》、周2匝(ス)四面(ニ)1,當(テ)2東北(ノ)角(ニ)1、有(リ)2一別區1、號(テ)曰2衛頭(ト)1、其中(ニ)有2一(ノ)石人1、從容(トシテ)立(テリ)v地(ニ)、號(テ)曰2解部(ト)1、前(ニ)有2一人1、裸形(ニシテ)伏(ス)v地(ニ)、號(テ)曰2偸人(ト)1、側(ニ)有2石(ノ)猪四頭1、號(ク)2賊物(ト)1、彼處《ソコニ》亦有2石(ノ)馬三匹、石(ノ)殿三間、石(ノ)藏二間1、古老傳(ヘテ)云(ク)、當(テ)2雄大迹《ヲホドノ》天皇(ノ)之世(ニ)1,筑紫(ノ)君磐井、豪強暴虐(ニシテ)、不v偃2皇風(ニ)1、生平(ノ)之時、豫(メ)造(ル)2此(ノ)墓(ヲ)1、俄《ニシテ》而官軍動發、欲v襲(ハムト)之間、知(テ)2勢不(ンコトヲ)1v勝、獨自遁(レテ)2于豐前(ノ)國|上膳《カムツミケノ》縣(ニ)1、終(ル)2于南山峻嶺(ノ)之|曲《クマニ》1、於(テ)v是(ニ)官軍、追尋(テ)失(フ)v蹤(ヲ)、士(ノ)怒末v泄(レ)、撃(チ)2折(リ)石人(ノ)之手(ヲ)1、打2墮(ス)石馬(ノ)之頭(ヲ)1、古老傳(テ)云(ク)、上妻(ノ)縣(ニ)、多(ク)有(ルハ)2篤疾1、蓋(シ)由(レル)v茲(ニ)歟《カ》、としるしたり、周(リ)六丈は、高さにかなはざれば、六の上に、卅などいふ字の有けむが、おちたるなるべし、かくて此|石井《イハヰ》が造りおきたりし墓のかまへは、今の世にものこりて、現《ウツヽ》にあるよしにて、ちかきほど、その圖をしるし、考へをもそへたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有けむ、とぞおぼゆる、そも/\石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなる、かまへを物せんことは、今の世の國持大名などのちからにも、いとたやすくは、出來がたかるべし、これを思へば、そのかみ國々の國造の身のほども思ひはかられて、けしうはあらざりけむかし、かの圖は、寫しおきたりしを、今え見出ず、見出たらむ時に、又もいひてんとす、
 
    延喜式五十卷にして十卷は神祇式なる事
延喜の式、すべて五十卷にして、はじめ十卷は神祇式也、されば朝廷天の下のもろ/\の公事《オホヤケゴト》のうち、五分《イツヽ》が一つは神事にて有し、これを以ても、古(ヘ)神事《カムワザ》のまつりごとの、重くしげく、盛《サカリ》なりしほどを、思ひはかるべし、もろこしの國などは、神を祭ること、いとおろそかにして、周の代よりこなたは、いよいよなほざりに思ふめり、然るを此神の御國の人、さるたい/\しき戎國《カラクニ》ぶりにおもひならひて、よろしからめや、
 
    な づ さ ふ
萬葉集に、なづさふといふ言、あまた所に見えたり、昔より此詞をときたる説、みなあたらず、今その歌どもを、あまねく考へ合するに、或は海川などにうかべること、或は船より渡ることなどにいひ、枕詞にも、引網の、鳥じもの、にほどりのなどいひて、いづれも/\、水に着《ツ》くことにのみいへり、水によらぬは一つもなし、集の中の歌共を、こゝろみてしるべし、其中に、三の卷なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つゝじ花かぐはし君が、引網のなづさひこむと云々、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他《ホカ》の例をもて思ふに、海路をへて、歸り來べき國の人なるべし、又九の卷の長歌の反歌に、「いとまあらば、なづさひわたり云々、これも海川のことは見えざれども、渡りといひ、長歌にも、瀧のうへのとあれば、山川を渡りゆくこと也、此外はみな、海又川などにのみよめれば、論なし、然るに此詞、中昔の物語書などにいへるは、いたく意|異《コト》にして、なれしたしむことにいへり、神樂《アソビ》の歌に、「すめ神の御手にとられてなづさはましをとあるも然也、いかにしてかくまではうつりかはりけん、萬葉にいへるとは、いさゝかも似よれるかたなし、
 
    萬葉集にてしといふ辭に義之また大王と書る事
萬葉三の卷に、我定義之《ワガサダメテシ》、四の卷に、言義之鬼尾《イヒテシモノヲ》、七の卷又十二の卷に、結義之《ムスビテシ》、十の卷に、織義之《オリテシ》、また逢義之《アヒテシ》、十一の卷に、触義之鬼尾《フレテシモノヲ》、これらの義之、みな同じ辭にて、てしと訓べきこと論なし、さてそれは、義(ノ)字を、ての假字に用ひたるにはあらず、さる故に、義之《テシ》とつゞけるのみにて、義《テ》とのみいへるは、一つもなし、義(ノ)字は、みな羲を誤れるにて、もろこしの王羲之といひし人の名也、此人、書に名高きこと、古(ヘ)よりならびなくして、皇國にても、古(ヘ)よりこれが手跡をば、殊にめでたふとみける故に、手師《てし》の意にて書る也、書のことを手といふは、古きことにて、日本紀にも、書博士を、てのはかせとも、てかきとも訓たり、又同じ萬葉の中に、てしといふ辭を、すなはち手師《テシ》とも書るにて知べし、さて又七の卷十一の卷に、結大王《ムスビテシ》、十の卷に、定大王《サダメテシ》、十一の卷に、言大王物乎《イヒテシモノヲ》とある、これらの大王も、てしと訓てことわり明らかなるを、ふるくは、かく訓べきことをしらずして、いたくよみ誤りたり、これもかの王羲之、にて、同じく手師の意也、そは羲之が子の王獻之といへるも、手かきにて有しかば、父子を大王小王といひて、大王は羲之がことなれば也、かゝればかの羲之と、此大王とを相照して、ともにてしと訓べきこと、又ともに王羲之なることをさとるべし、師の説には、義之をてしと訓(ム)は、義は篆の誤也、又大王をもてしとよむは、天子の意也、といはれしかど、篆を假字に用ひたる例なく、又|義之《テシ》とつゞけるのみにて、義《テ》と一字はなして書るところもなければ、必(ズ)義之とつゞきたる意なることしるし、又大王もし天子の意ならば、直《タヾ》に天子《テシ》と書る所もあるべく、天皇《テシ》なども書べきに、いづれもたゞ大王とのみかけるは、其意にあらざる也、そのうへ天子の意ならば、字音なるを、他字の訓に用ひむこと、有(ル)べくもおぼえず、
 
    あ り き ぬ
萬葉十四の卷に、安利伎奴乃《アリキヌノ》、佐々惠々之豆美《サヱサヱシヅミ》、十五(ノ)卷に、安里伎奴能《アリキヌノ》、安里弖能知爾毛《アリテノチニモ》、十六(ノ)卷に、蟻衣之寶之子等《アリキヌノタカラノコラ》などある、ありきぬは、鮮《アザヤカ》なる衣也、阿理《アリ》とは、あざやかなるをいふ、あざやかといふ言も、すなはちありざやか也、又|俗言《ヨノコトバ》に、物のあざやかに見ゆるを、あり/\と見ゆといふも是也、又月に有明といふも、空に月の在て、夜の、明る意にはあらず、夜の明がたには、月の影の、殊にあざやかに見ゆる物なれば、あざやかにて明るよしにて、ありあけの月とはいふ也、書紀欽明(ノ)御卷に、※[(日/羽)+毛]※[登+毛]をありかもと訓るも、鮮なるよし也、こは後漢書に、天竺國(ニ)有(リ)2細布(ノ)好※[(日/羽)+毛]※[登+毛]1、と見えたり、さて右の萬葉十四の卷なる歌、四の卷には、珠衣乃とあるを、師はそれをも、ありきぬと訓て、ありきぬを、珠のことに解《トカ》れたれども、四の卷なるは、たまきぬにて、裳に玉裳といふたぐひなり、又十六(ノ)卷、寶の枕詞にいへるは、鮮なるよき衣を、たからとする意につゞけたる也、衣服《キモノ》にまれ何にまれ、珍《メデ》てやむことなくする物をば、たからといふ、常のこと也、
 
    夢のうき橋
夢のといふは、古き歌に、「世の中は夢のわたりのうきはしか、うち渡しつゝ物をこそ思へ、とあるより出たることにて、夢の渡りの浮橋といふは、萬葉三の卷に、「吾行《ワガユキ》は久にはあらじ夢乃和太《イメノワダ》瀬とはならずて淵にてあれも、又七の卷に、芳野作とて、「夢乃和太《イメノワダ》ことにし有けり、うつゝにも見て來《コ》し物を思ひし思へば、など見えて、吉野川にある、夢の和太《ワダ》といふ名所にて、そこに渡せる浮橋也、懷風藻に、吉田(ノ)連|宜《ヨロシ》が、從(フ)2駕(ニ)吉野(ノ)宮(ニ)1詩に、夢淵と作れるも、此所也、さてかの世の中はの歌は、いづれの集に出たるかはしらねども、河海抄に引れたり、歌の意は、かのうき橋をわたらむとすれども、いとあやふき橋なれば、おそろしさに、渡りわづらひて、たゞ見渡しつゝ、もの思ふを、世(ノ)中のうきに、ながめして物思ふたとへにいへるか、うち渡しといふは、むかひを見渡すことなるを、うきにながめするにかねたり、又は、二三の句は、たゞ打渡しといふたとへのみにても有べし、そはいづれにもあれ、夢のわだといふ、吉野の名所なるを、源氏の物がたりに、卷の名とせるは、夢のことにとれる也、同じ物語薄雲(ノ)卷の詞に、夢のあたりのうきはしかとのみ、うちなげかれてといへるも、たゞ夢かといふこと也、然れば紫式部は、名所なることをしらずして、かの歌なるをも、夢のことゝおもひ誤れるにやあらん、此もの語に、夢のことゝして、卷の名につけたるより後は、ひたすら夢のことゝなれり、狹衣の歌にも、「はかなしや夢のわたりの浮はしを、たのむ心のたえもはてぬよ、
 
    節 下 大 臣
御禊の時に、節下(ノ)大臣といふことあり、そは玉蘂に、建暦二年十月廿八日此(ノ)日天皇臨(テ)2鴨河1修禊云々、節下(ハ)左大臣良輔(ナリ)云々、左大臣起(テ)v座(ヲ)、出(テ)v自2宣仁敷政等(ノ)門1、經(テ)2宣陽春華兩門(ヲ)1、向2標(ノ)下(ニ)1畢(ヌ)、件(ノ)標(ハ)、建禮門(ノ)南(ニ)去(ルコト)十九丈(ニ)、立(テ)2節旗(ノ)標(ヲ)1、南(ニ)去(ルコト)一丈、立(ツ)2節下(ノ)大臣(ノ)標(ヲ)1云々と、あるを以て見れば、節旗(ノ)下に近き所に立(ツ)ゆゑの名なるべし、
 
    淺黄といふ色
淺黄とは、今の世には、青色の薄きをいへども、昔は黄色のうすきをいひ、又緑色をもいへりき、此事吉部秘訓抄、建久二年十二月、又玉蘂建暦二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさ/”\論あり、黄色の薄きをいへるが本也、緑色をいふは、淺葱《アサギ》の意にて、異なるを、唱への同じきまゝに、混《マガ》ひつる也、又後に薄青色をいふは、緑色よりうつれるなるべし、
 
    近江國の君が畑といふところ
あふみの犬上(ノ)郡の山中に、君《キミ》か畑《ハタ》村といふ有て、大公《オホキミ》大明神といふ社あり、惟高親王をまつるといへり、村の民ども、かはる/”\一年づゝ神主となる、まづ一とせの間ゆまはりて、さて一年神主を務めて、後又一年ゆまはる、これにあたれる者を、公殿《コウドノ》といふ、家まづしくて、此公殿をえつとめずして老たるものをば、犬といふ、又此村に、禅宗の寺有(リ)て、其寺の内に、惟高法親王の廟といひて、塚もあり、此村は伊勢(ノ)國員辨(ノ)郡より越る堺に近き所にて、山深き里也とぞ、此村人ども、夏は茶を多くつくりて、出羽の秋田へくだし、冬は炭を燒て、國内にうるとぞ、その茶をもむ時の歌、こゝでもむ茶が、秋田へくだる、秋田女郎衆に、ふらりよかよ、
 
    しはつ山 笠縫(ノ)嶋
古今集大歌所の歌、しはつ山ぶり、「しはつ山うち出て見れば笠ゆひの嶋こぎかくるたなゝしをぶね、これは萬葉三の卷に、四極山打越見者笠縫之嶋榜隱棚無小船《シハツヤマウチコエミレバカサヌヒノシマコギカクルタナヽシヲブネ》、とある歌なるを、笠ゆひとは、うたひゝがめたる也、さてしはつ山笠ぬひのしまは、或人のいはく、ともに津(ノ)國也、しはつ山は、今(ノ)世、住吉より東の方、喜連《キレ》といふところへゆく道の間に、岡山のひきゝ坂あり、是也、雄略紀に、十四年正月、呉(ノ)國人の,參れるところに、云々|泊《ハツ》2於|住吉《スミノエノ》津(ニ)1、是(ノ)月爲(テ)2呉(ノ)客(ノ)道(ト)1、通(ズ)2磯齒津路《シハツヂヲ》1、名(ク)2呉坂《クレサカト》1とあり、今いふ喜連《キレ》は、久禮《クレ》を訛れる也、此ところ住吉(ノ)郡の東のはて、河内の堺にて、古(ヘ)は河内(ノ)國澁阿(ノ)郡につきて、伎人《クレヒトノ》郷といひし所也、今も此道、西は住吉の東の門より、東は河内の柏原までとほりて、古(ヘ)に呉(ノ)國(ノ)人のとほりし道也と、かたり傳へたり、難波の古の圖を見るに、住吉(ノ)社の南の方に、細江とて、沼江ありて、そこにしはつと記したり、萬葉六の卷に、從千沼廻雨曾零來《チヌワヨリアメゾフリクル》、四八津之泉郎網手綱乾有沾將堪香聞《シハツノアマアタヅナホセリヌレタヘムカモ》、右一首(ハ)、遊2覧住吉(ノ)濱(ニ)1、還v宮(ニ)之時、道(ノ)上(ニシテ)守部(ノ)王應v詔(ニ)作(ル)歌、とあるにかなへり、さて笠縫(ノ)嶋は、今東生(ノ)郡の深江村といふところ、是なるべし、此所、菅田多く有て、其菅|他所《コトヽコロ》より勝《スグ》れたり、里人むかしより笠をぬふことを業《ワザ》として名高く、童謠にもうたへり、今も里(ノ)長《ヲサ》幸田《カウダ》喜右街門といふ者の家より、御即位のをりは、内裏へ菅を獻る、又讃岐の殿へも、圓座の料の菅をまゐらすとぞ、延喜(ノ)内匠寮式に、伊勢齋王(ノ)野宮(ノ)装束の中に、御輿中(ノ)菅(ノ)蓋一具、【菅并(ニ)骨(ノ)料(ノ)材(ハ)、從(リ)2攝津(ノ)國1笠縫氏參(リ)來(テ)作(ル)、】とあり、笠縫氏(ハ)、此所の人にぞありけむ、さて此深江村は、大坂(ノ)城より東にあたりて、河内の堺に近し、此地いにしへは、嶋なりしよし、里人いひ傳へたり、まことに此わたり古(ヘ)は、北の方は、難波堀江につゞき、東は大和川、南西は百済川、そのほかも小川共多く流れあひて、廣き沼江にて有しとおぼしくて、難波の古(キ)圖のさまも、然見えたり、又今此里人の語るをきくに、此村のみ地高くて、ほとりは、いづ方もいづかたも地ひきし、井などほれば、葦の根貝のからなどいづといへり、かくて此ところ、かのしはつ山の坂路より、北にあたりて、よきほどの見わたしなれば、嶋こぎかくるたなゝし小船とはよめるなりけり、
 
    さぬきの國戸口の數
菅原(ノ)大臣の、讃岐守にておはしける時の、懺悔會の作に、歸依(ス)一萬三千佛、哀愍(ス)二十八萬人【部内(ノ)戸口】とあり、これそのころ、讃岐(ノ)國の戸口の、大かたの數なるべし、又同國にて、祭2城山(ノ)神(ヲ)1文には、八十九郷二十萬口とあり、ともに菅家文艸に載れり、
 
    め か か う
大鏡に、たかうな《笋》の皮を、をとこの|および《指》ごとにいれて、めかかうして、ちごをおどせば、かほあかめて、ゆゝしうおぢたるとある、めかかうは、今の世にいふべかかうなるべし、
 
    あ ゐ く ち
今世に、小き刀に、あゐくちといふ名あり、貞觀儀式、大嘗會(ノ)用物の中に、阿爲《アヰ》刀子四十柄といふことあり、此名より出たるなるべし、
 
    ほうしの笛をふく事
台記に、久安三年七月、法皇天王寺御幸のところにいはく、幸(ス)2聖靈院(ニ)1云々、勅(シテ)2群臣(ニ)1奏(セシム)2管絃(ヲ)1、勅(ニ)曰(ク)、笛資賢(ノ)朝臣、笙内大臣、篳篥俊盛(ノ)朝臣、但(シ)稱(シテ)2不堪(ト)1、不v吹v之、琵琶信西、【通憲法名】箏覺※[しんにょう+羅]、笛資腎(ノ)朝臣、其(ノ)實(ハ)法皇親(ラ)吹(タマフ)、但(シ)資賢時々吹(ク)、法皇曰(ク)、爲(シテ)2沙門(ト)1吹(クコト)v笛(ヲ)、可(シトテ)v招(ク)v嘲(ヲ)、即(チ)居2隱(レテ)障子(ニ)1吹(キタマフ)之、予猶近(ク)候(フ)、聞(ク)2御笛(ノ)音(ヲ)1者、上下莫(シ)v不《ストイフコト》2歎美(セ)1、御出家(ノ)後、今夜初(メテ)吹(キタマフ)云々、これを見れば、此ころまでも、ほうしは、管《フエ》はふかぬことにせし也、信西覺※[しんにょう+羅]琵琶箏とあれば、絃《コト》はほうしも、ひきたりし也、むかしは女もしかなりき、
 
    木にはなれたる猿
赤染衛門集に、「たよりなき旅とは我ぞ思ひつる木をはなれたるさるも鳴なり、
 
    わらうづ足をくふ
金葉集連歌のはし書に、和泉式部が、賀茂にまゐりけるに、わらうづにあしをくはれて、紙をまきたりけるを見てとあり、
 
    い て し 水
堀川院百首氷室の歌に、「冬寒みいてし氷を埋みおきて云々、今の世の言に、寒くて物のさえかたまるを、いてるといふこれ也、
 
    鷄ときをつくる
庭鳥の曉になくを、時をつくるといふこと、同百首に、「曉の時つくるなり鷄のこゑうちかはし羽をならべて、これは告るにてもあらんかと思へど、なほ今の世にもいふごとく、つくるなるべし、又時の聲をつくるといふことも、同後(ノ)百首に、「から人はしかのをしまに船出してはかたのおきにときつくる也、
 
    峠
同百首に、「あしがらの山の峠にけふきてぞふじの高根のほどはしらるゝ、峠とよめり、此字は、後の人のかけるにもあるべけれど、たうげとよめる故にかく書る也、日向《ヒムカ》をひうが、多武峯《タムノミネ》をたうのみねといふ音便の、同じ例にて、手向《タムケ》を、そのかみはやくたうげと云し也、
  
    火 ま は し
わらはべのたはぶれに、ひまはしといふことをする、同百首に、「みどり子のあそぶすさびにまはす火のむなしき世をば有と頼まじ、
 
    く ど く
俊頼(ノ)朝臣、「はじめなき罪のつもりのかなしさをぬかのこゑ/”\くどきつる哉、同百首に見えたり、くどくといふこと、いやしき言にあらず、ついでにいはく、はじめなき罪とは、佛ぶみに、無始《ムシ》よりの罪とつねにいふ是也、その無始は、無かりし始(メ)といふことなるを、始(メ)なきとよまれたるはいかゞ、
 
    岩くらうつ
同百首に榊兼昌、「いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり、此下句、神代(ノ)卷に、神籬磐境とある物のさまときこゆ、いはくらうつとは、磐をもて座《クラ》をかまふる意なるべし、
 
    童のいろはをかく事
台記に、久安六年正月十二日、今日今麻呂參(リ)2御前(ニ)1、依(テ)v勅(ニ)書(ク)2以呂波(ヲ)1と有(リ)、此比も童にいろはをかゝせし也、今麻呂は、隆長卿のわらは名なり、
 
    神 今 食
神今食は、じんごんじきと、字音にのみ唱へ來りて、正しくはいかに唱ふべきにか、昔よりさだもなく、しれる人なし、書紀の私記に、古(ヘ)は神今木と謂《イヒ》しよし見えたるによりて、じんごんけとも唱ふれども、上二字はなほもじこゑ也、これによりてつら/\此名を考ふるに、加牟伊麻氣《カムイマケ》と唱ふべき也、そは神《カム》は、神嘗《カムニヘ》祭などの神に同く、今《イマ》は新の意なり、すべて新《アラタ》に物したるを、今某《イマナニ》といふこと多し、古(ヘ)漢(ノ)國より新に參來《マヰキ》つる人どもを、今來《イマキ》の漢人《アヤヒト》と云て、書紀に、新漢《イマキノアヤ》と見え、大かたもあらたに參れる人を、今參りといふ類也、さて今食《イマケ》といふは、世俗言《ヨノナカノコト》に、稻を粟《モミ》にてたくはへおきたるを、新《アラタ》に磨《スリ》て、米にしたるを、今ずりといふ、其意にて、新磨《イマズリ》の御食《ミケ》といふことなるべし、古(ヘ)に今毛人《イマケヒト》といふ人(ノ)名の見えたるも、今食《イマケ》といふことのありしによれる名なるべし、かくて此神今食は、年毎の六月と十二月との十一日にて、月次祭の、同(ジ)日の夜に行はるゝこと也まづその月次祭は、三百四座の神たちに、幣帛《ミテグラ》を奉り給ふ、そを月次と名くるよしは、月毎に奉り給ふべきを、合せて二度に奉り給ふにて、六月には、其年の七月より、十二月までのを奉り、十二月には、來《コム》年の正月より、六月までのを奉り給ふ也、かくて其同(ジ)夜に行はるゝ神今食も、その同じ趣にて、天皇の月毎に新磨《イマズリ》の御食《ミケ》を聞食《キコシメ》すよしにて、其度ごとに行ひ給ふべきを、合せて二度に行ひ給ふよしにて、そは新穀にはあらざれども、新磨《イマズリ》を聞食《キコシメシ》始むるをさへに、重く嚴《オゴソカ》に齋《イミ》給ふにて、先(ヅ)神に奉(リ)給ひて、さて天皇のきこしめすこと、もはら新嘗大嘗のこゝろばへに同じ、さる故に此祭の儀式は、何事も大かた新嘗大嘗の儀の如くなる也、そも/\この神今食の事、いかなるよしをもて行はるゝ御わざとも、むかしより其よしをしるせることもなく、考へたる人もなきを、おのれもいといふかしく思ひわたりて、年月かにかくに思ひめぐらして、近きほどかく思ひえたるまゝにしるせるを、猶いかならむ、かしこき物しり人さだめてよ、
 
    玉あられ
宣長ちかきころ玉あられといふ書をかきて、近き世にあまねく誤りならへることゞもをあげて、うひ學のともがらをさとせるを、のりながゞをしへ子として、何事も宣長が言にしたがふともがらの、其後の此ごろの歌文に、此書に出せる事どもを、なほ誤ることのおほかるは、いかなるひがことぞや、此書用ひぬよそ人は、いふべきかぎりにあらざるを、それだに心さときは、うはべこそ用ひざるかほつくれ、げにとおぼゆるふし/”\は、たちまちにさとりて、ひそかに改むるたぐひもあるを、ましてのりながゞ教をよしとて、したがひながら、改めざるは、此ふみよみても、心にとまらず、やがてわすれたるにて、そはもとより心にしまず、なほざりに思へるから也、つねに心にしめたるすぢは、一たび聞ては、しかたちまちにわするゝ物にはあらざるを、よそ人の思はむ心も、はづかしからずや、これは玉あられのみにもあらず、何《イヅ》れの書見むも、おなじことぞかし、
 
    かなづかひ
假字づかひは、近き世明らかになりて、古(ヘ)學(ビ)するかぎりの人は、心すめれば、をさ/\あやまることなきを、宣長が弟子《ヲシヘコ》共の、つねに歌かきつらねて見するを見るに、誤(リ)のみ多かるは、又いかにぞや、抑てにをはのとゝのへなどは、うひまなびの力及ばぬふしあるものなれば、あやまるも、つみゆるさるゝを、かなづかひは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらはべも、いとよくわきまふべきわざなるを、猶とりはづして、書(キ)ひがむるは、かへす/\いかにぞや、これはた心とゞめず、又ひたぶるにまなびおやにすがりて、たがへらむは、直さるべしと、思ひおこたりて、おのが力いれざるからのわざにしあれば、かつはにくゝさへぞおぼゆる、しか人にのみすがりたらんには、つひにかなづかひをば、しるよなくてぞやみぬべかりける、さればいゐえゑおを、又はひふへほわゐうゑを又しちすつの濁音《ニゴリコエ》など、いさゝかもうたがはしくおぼえむ假字は、わづらはしくとも、それしるせるふみを、かゝむたびごとにひらき見て、たしかにうかべずは、やむべきにあらず、何わざも、おのがちからをいれずては、しうることかたか(ン)べきわざぞ、人の子のとしたくるまで、おやのてはなるゝことしらざらむは、いと/\いふかひなからじやは、
 
    古き名どころを尋ぬる事
ふるき神の社の、今は絶たる、又絶ざれども、さだかならずなりぬるなど、いづくにも多かるは、いとかなしきわざ也、神祇官の帳にのれるなどは、かけてもさはあるまじきわざなるを、中ごろの世のみだれに、天(ノ)下のよろづの事も、古(ヘ)のおきても皆みだれにみだれ、たえうせにたえうせにたる、萬(ヅ)につけて、いとも/\かなしきは、亂れ世のしわざなりけり、さるを今の御世は、いにしへにもまれなるまで、よく治まりて、いともめでたく、天の下榮えにさかゆるまゝに、よろづに古(ヘ)をたづねて、絶たるをおこし、おとろへたるを直し給ふ御世にしあれば、神の社どもは、殊に古(ヘ)に立かへりて、榮ゆべき時なりけり、然あるにつけては、絶たるは、跡をだにさだかにたづねまほしく、又今も有(リ)ながら、さだかならず、疑はしきをば、よく考へ尋ねて、たしかにそれと、定めしらまほしきわざになむありける、次には神(ノ)社ならぬも、いにしへに名あるところ/”\、歌枕なども、今はさだかならぬが多かるは、かゝるめでたき時世《トキヨ》にあたりて、尋ねおかまほしきわざ也、かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌まくらにまれ、何にまれ、はるかなるいにしへのを、中ごろとめうしなひたるを、今の世にして、たづね定めむことは、大かたゝやすからぬわざになむ有ける、其ゆゑをいはむには、まづ此ふるき所をたづぬるわざは、たゞに古(ヘ)の書どもを考へたるのみにては、知(リ)がたし、いかにくはしく考へたるも、書《フミ》もて考へ定めたることは、其所にいたりて見聞けば、いたく違ふことの多き物也、よそながらは、さだかならぬ所も、其國にては、さすがに書《カキ》もつたへ、かたりも傳へて、まがひなきことも有(リ)、さればみづから其|地《トコロ》にいたりて、見もし、そこの事よくしれる人に、とひきゝなどもせでは、事たらはず、又たゞ一たび物して、見聞(キ)たるのみにても、猶たらはず、ゆきて見聞て、立かへりて、又ふみどもと考へ合せて、又々もゆきて、よく見聞たるうへならでは、定めがたかるべし、さて又其ところの人にあひて、とひきくにも、心得べきことくさ/”\あり、いにしへの事を、あまりたしかにしりがほにかたるは、おほくは、書のかたはしを、なま/\にかむかへなどしたるものゝ、おのがさかしらもて、さだめいふが多ければ、そはいと頼みがたく、なか/\のものぞこなひなり、又世に名高き所などをば、外なるをも、しひておのが國おのが里のにせまほしがるならひにて、たゞいさゝかのよりどころめきたることをも、かたくとらへて、しひてこゝぞといひなして、しるしを作るたぐひなどはた、よに多きを、さる心して、まどふべからず、ふみなどは、むげに見たることなき、ひたぶるのしづのをの、おぼえゐてかたることは、しり口あはず、しどけなく、ひがことのみおほかれど、其中には、かへりておかしき事もまじるわざなれば、さるたぐひをも、心とゞめてきくべきわざ也、されど又、むかしなま/\の物しり人などの、尋ねきたるが、ひがさだめして、こゝはしか/\の跡ぞなど、をしへおきたるをきゝをりて、里人は、まことにさることゝ信じて、子うまごなどにも、かたりつたへたるたぐひもあ(ン)なれば、うべ/\しくきこゆることも、なほひたぶるにはうけがたし、又みづからそのところのさまをゆき見てさだむるにも、くさ/”\こゝろうべきことゞもあり、おほかた所のさまかみさびて、木立しげく、物ふりなどしたるを見れば、こゝこそはと、めとまる物なれど、それはたうちつけには頼みがたし、大かたなにならぬ所にも、ふるめきたる森はやしなどは、多くあるもの也、木だちなど、二三百年をもへぬるは、いと/\物ふりて見ゆるものなれば、ふるく見ゆるにつきても、たやすくは定めがたきわざなりかし、村の名、山川浦磯などの名に、心をつけて尋ぬべし、田どころなどのあざなといふ物などをも、よく尋ぬべし、寺の名に、古きがのこれるがよくあること也、しかはあれども又、すべて名によりて、誤ることもあるわざ也、又寺々の縁起といふ物、おほかた例のほうしのそらごとがちなれど、其中に、まれ/\にはとるべきこともまじれるものなれば、これはたひたぶるにはすつべきにあらず、ふるきあとは、中ごろほうしどもの、國人をあざむきて、佛どころにしなしたるが、いづれの國にも多ければ、ほとけどころをも、其心してたづぬべし、ふるき寺には、ふるき書(キ)物など有て、古き事のゝこれるおほし、むげに尋ぬべきたづきなき所も、思ひかけぬところより、たしかなるしるしの出來るやうもあれば、いたらぬくまなく、よろづに思ひめぐらして、くはしく尋ぬべし、かくて尋ねえたりと思ふところも、なほたしかには定《サダ》むべからず、よにさるべき人の定めおきつる所などは、ひがさだめなるも、つひにそこにさだまりて、後のまどひとなるわざ也かし、そも/\此くだりは、名所《ナドコロ》をたづぬるわざのみにもあらず、よろづのかむかへにもわたることどもありぬべくなむ、
 
    鳥なき里のかはほり
和泉式部家集に、「人もなく鳥もなからん嶋にては此かはほりも君もたづねむ、「うらさびて鳥だに見えぬ嶋なればこのかはほりぞうれしかりける、鳥なき里の蝙蝠《カハホリ》といふたとひ言、そのかみより有けるにこそ、
 
    俵といふもじ
俵《タハラ》といふ字、延喜式に見ゆ、なほさきには、承和十一年十一月二日の太政官符にも見えて、類聚三代格に載れり、
 
    朔 日 の 禮
中原(ノ)康富(ノ)記に、嘉吉二年七月一日、參(ル)2伏見殿(ニ)1、又參(ル)2三條殿(ニ)1、皆朔日(ノ)之禮也とあり、
  
    祇園會の山桙
同記に、同三年六月七日、祇園祭禮也、神幸并(ニ)桙《ホコ》山已下(ノ)風流、如(ク)v例(ノ)渡(ル)2四條大路(ヲ)1者也、
 
    天の下の政神事をさきとせられし事
職員令に、神祇官を、もろ/\の官のはじめに、まづあげて、それが次に、太政官を擧られたり、延喜式も、同くはじめに神祇式、次に太政官式也、後の世ながら、北畠(ノ)准后の職原抄も、令にならひて、ついでられたり、そも/\よろづの事、さばかり唐の國ぶりをならひ給へりし、御世にしも、かく有しは、さすがに神の御國のしるしにて、いとも/\たふとく、めでたきわざになむ有ける、世(ノ)中は何につけても、此こゝろばへこそあらまほしけれ、
 
 
第 三 編 自七の卷 至九の卷
 
たまかつま七の卷
 
   ふ ぢ な み 七
 
あるところにて、藤の花のいとおもしろく咲りけるを見て、あかずおぼえければ、かへらん人にといふ歌を思ひ出て、
    藤の花わが玉のをも松が枝にまつはれてみむ千世の春迄
とよみたるを、そのまたの日、此卷をかくとて、例のなづけつ、
 
    萬葉集一の卷なる莫囂圓隣の歌
萬葉一の卷に、幸(セル)2紀(ノ)温泉(ニ)1之時、額田(ノ)王(ノ)作歌、莫囂國隣之《カマヤマノ》、霜木兄※[氏/一]湯氣《シモキエテユケ》、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立爲兼《イタヽスガネ》、五可新何本《イヅカシガモト》とあり、莫囂は、加麻《カマ》と訓べし、加麻をかく書るよしは、古(ヘ)に、人のものいふを制して、あなかまといへるを、そのあなを省《ハブ》きて、かまとのみもいひつらむ、そは今(ノ)世の俗言《サトビコト》にも、囂《カマビス》しきを制して、やかましといふと同じ、やかましは囂《カマビス》しといふことなれは、かまといひて、莫《ナカレ》v囂(キコト)といふ意也、さてかま山といふは、神名帳に、紀伊(ノ)國名草(ノ)郡、竈山《カマヤマノ》神社、諸陵式に、同郡竈山(ノ)墓、と見えたる是也、此御墓は、神武天皇の御兄、五瀬《イツセノ》命の御墓にて、古事記書紀にも見えたり、神社も御墓も、いにしへの熊野道ちかきところにて今もあり、國隣は、夜麻《ヤマ》と訓べし、山は、隣の國の堺なる物なれば、かくも書べし、國(ノ)字は、本には圓とあるを、一本に國とある也、霜(ノ)字、本に大相とあるは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れる也、そも/\此(ノ)幸《イデマシ》は、書紀(ノ)齊明天皇(ノ)卷に、四年冬十月庚戌朔甲子、幸(マス)2紀(ノ)温湯1とありて、十一月までも、かの國にとゞまりませりしさま見えたれば、霜の深くおくころなり、木兄※[氏/一]《キエテ》は本には、木(ノ)字を七に誤り、或本には、土にも云にも誤り、※[氏/一](ノ)字は、爪に誤れり、又湯(ノ)字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯とあるなり、吾瀬子《ワガセコ》とは、天智天皇の此時皇太子にてましますをさしてよまれたり、太子も此幸(シ)に供奉し給へる趣、書紀に見えたり、さて額田(ノ)王は、天智天皇の娶《メシ》たりし女王《ヒメミコ》なること、櫻の落葉(ノ)卷にいへるが如し、さるによりて、わがせことはよみ給へる也、爲兼は、須賀禰《スガネ》と訓べし、此句は、此度いづかしが本に、立給ふべき事をよみ給へる也、然るをせりけんと訓ては、往時《イムサキ》のことなれば、物どほし、五可新何本《イヅカシガモト》は、竈山(ノ)神社の嚴橿《イヅカシノ》之|本《モト》也、かくて此歌は、此女王も太子に從(ヒ)奉りて、行給へるにて、太子の、竈山(ノ)社に詣(デ)給はむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、よみ給へるさまにて一首《ヒトウタ》の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いづかしが本に、立(チ)給ひがたかるべければ、吾兄子が、わづらひなく立(チ)給ふべきために、しばし霜の消むをまちてゆけかしと也
 
    神社の祭る神をしらまほしくする事
古き神社どもにはいかなる神を祭れるにか、しられぬぞおほかる、神名帳にも、すべてまつれる神の御名は、しるされずたゞ其|社號《ヤシロノナ》のみを擧られたり、出雲風土記の、神社をしるせるやうも、同じことなり、社號すなはち其神の御名なれば、さも有べきことにて、古(ヘ)はさしも祭る神をば、しひてはしらでも有けむ、然るを後の世には、かならず祭る神をしらでは、あるまじきことのごと心得て、しられぬをも、しひてしらむとするから、よろづにもとめて、或は社號につきて、神代のふみに、いさゝかも似よれる神(ノ)名あれば、おしあてに其神と定めたるたぐひ多ければ、其社につたへたる説も、信《ウケ》がたきぞおほかる、そも/\神は、八百萬の神など申(シ)て、天にも地《クニ》にも、其數かぎりなくおはしますことなれば、天の下の社々には、其中のいづれの神を祭れるも、しるべからぬぞおほかるべき、神代紀などに出たる神は、その千萬の中の一つにもたらざ(ン)めるを、必(ズ)其中にて、其神と定めむとするは、八百萬の神の御名は、神代紀に、こと/”\く出たりと思ふにや、古書に御名の出ざる神の多かることを、思ひわきまへざるは、いかにぞや、さればもとより某《ソノ》神といふ、古きつたへのなきを、しひて後に考へて、あらぬ神に定めむは、中々のひがこと也、もしその社(ノ)號によりて定めむとせば、たとへば伊勢の大神宮は、五十鈴(ノ)宮と申せば、祭る神は五十鈴姫(ノ)命にて、鈴の神、外宮は、わたらひの宮と申せば、綿津見《ワタツミノ》命にて、海神也とせんか、近き世に、物しり人の考へて、定むるは、大かたこれに似たるものにて、いとうきたることのみなれば、すべて信《ウケ》がたし、しられぬをしひてもとめて、あらぬ神となさむよりは、たゞその社(ノ)號を、神の御名としてあらんこそ、古(ヘ)の意なるべきを、社(ノ)號のみにては、とらへどころなきがごと思ふは、近き世の俗心《ツタナキコヽロ》にこそあれ、今の世とても、よに廣くいひならへる社號は、そをやがて神の御名と心得居て、八幡宮春日明神稻荷明神などいへば、かならずしもその神は、いかなる神ぞとまでは、たづねず、たゞ八幡春日いなりにてあるにあらずや、もろ/\のやしろも、皆同じことにて、社(ノ)號すなはち其神の御名なるものをや、
 
    おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事
中昔よりして、神主祝部のともがら、己が仕奉る社の神を、あるが中にも尊き神にせまほしく思ひては、古き傳へのある御名をば、隱《カク》して、あるは國常立(ノ)尊をまつれり、天照大神を祭れり、神武天皇をまつれりなどいひて、例の神祕のむねありげに、似つかはしく作りなして僞るたぐひ、世に多し、おのれ尊き神につかふる者にならむとて、その仕奉る神を、わたくしに心にまかせて、いつはり奉るは、いともかしこき、みだりごとならずや、
 
    皇孫天孫と申す御號
邇々藝(ノ)命より始め奉りて、御代/\の天皇を、皇御孫《スメミマノ》命とも、天神御子《アマツカミノミコ》とも申すを、書紀の神代(ノ)卷に、皇孫又天孫と書れたるは、ともに古言にあらず、皇孫とは、皇御孫(ノ)命と申す御號《ミナ》を、例の漢文ざまに、つくられたる也、他《ホカ》の古書どもにはみな、皇御孫(ノ)命と見えて、續紀の歌に、皇《スメ》をはぶきて、御孫《ミマノ》命とはよみたることあれども、命《ミコト》をはぶきて申せることは見えず、まして天孫と申せることは、古き文には、すべて見えず、天孫とは、天神御子《アマツカミノミコ》と申すを、つくりかへられたる文字と見えたり、然るを世の人、ひたぶるに漢文ざまのうるはしき方を好むならひとなりては、此皇孫天孫と申す御號《ミナ》のみひろまりて、かへりて皇御孫(ノ)命天(ツ)神(ノ)御子と申す、いにしへのまことのうるはしき御號はかくれたるが如し、皇孫はすめみま、天孫はあめみまと訓たれども、文字になづまで、皇孫をば、すめみまのみことゝよみ奉るべく、天孫をば、あまつかみのみことよみ奉りて古(ヘ)のまことの御號《ミナ》を、ひろくせまほしきわざ也、あめみまといふは、殊につたなく、よしなき訓なるをや、
 
    た ゝ う 紙
園大暦に、徳大寺(ノ)前(ノ)内大臣より、公賢(ノ)大臣に、くさ/”\の事共問たまへる、條々に、一|帖紙《タヽウガミ》は、不(ルノ)v及2沙汰(ニ)1之由、蒙(リ)v仰(ヲ)候し、只朝夕用候、白候やらん、若(シ)薄《ハク》などちと散《チリ》ばみたる物にや候べき、現在|鼻垂《ハナタリ》候はゞ可(キ)2取出(ヅ)1之間、可v有之樣、大切候歟、公卿已後も、薄樣(ノ)帖紙持たる事も、よそには見及候し、是は若(シ)夏の事候やらん、紅の帖紙、古物をば持て候とあり、帖紙は、今(ノ)世ふところにもつ、はな紙の事也、
 
    直綴といふ衣
今の世に、直綴《ヂキトツ》といふ法衣あり、同書延文二年四月のところに、此名見えたり、又同四年四月十五日、公賢(ノ)大臣のかしらおろし給ふ所にも、脱(グ)2直衣(ヲ)1、次(ニ)着(ス)法衣(ヲ)1、墨染(ノ)大直綴|也《ナリ》、其色濃(シ)と見ゆ
 
    百 箇 日
同書に、延文三年八月九日、天晴、傳(ニ)聞(ク)、贈左府百箇日(ノ)佛事、今日於(テ)2等持寺(ニ)1修(ス)v之(ヲ)云々《トイヘリ》とあり、贈左府は尊氏(ノ)卿也、
 
    後  架
同書に、同年九月四日の所に小倉殿御事云々、昨日酉(ノ)剋自2後架1【謂2小便所(ヲ)1】還御之後絶入云々とあり、今の世に厠《カハヤ》をこうかといふこと有(リ)、この後架なるべし、
 
    仁木頼景法師らみまかれる時の事
同書に、同四年十月十二日、傳聞、仁木左京大夫頼景法師、今朝卒去云々十三日云々、氣止《イキヤム》云々、十九日、今日、新院有(リ)2御樂(ノ)事1云々《トイヘリ》、云々、頼景法師卒去(ノ)之間、不2取敢1如(キ)2音樂(ノ)1、無益(ノ)之旨、有2沙汰1禁裏(ハ)七个日已後明日、可v有2御沙汰1、云々武家隨分(ノ)之重(キ)人|也《ナリ》、御沙汰可(キ)v然歟、仙洞(ハ)不(ル)v及2其沙汰(ニ)1歟、但(シ)又|強(ヒテ)不《ザル》v可v爲v難(ト)歟とあり、此ころは、武家の執權といひし人の卒去のをりも、かゝる御さだの有けるなりけり、
 
    手  代
同書に、滋嚴僧正云々、以2手代玄圓法印(ヲ)1、可v令(ム)2勤修(セ)1云々とあり、手代といふこと,ほうしにもいひしにこそ、
 
    みだれ世のあさましかりし事
同書に、文和四年二月十一日、天晴、今日、吉田(ノ)神主兼豐、進(スルノ)2状(ヲ)於女中(ニ)1之次(デ)、當社追捕(ノ)事申(ス)v之(ヲ)、凡(ソ)無(キ)2爲(ン)方1歟、この程は、道もあまりに/\らうぜきに候、又齋屋をも見すてがたくて、參り候はず、去(ル)三日、山のぐんぜい社頭へ亂入し候て、まさかりにて、四所の神殿をうちやぶり候て、神服神寶を追捕し、又御かまいし/\まで、追捕しつる程に、ともかくも申(ス)計(リ)候はで、火にも水にも入たきまでに、なげき存候、よし田の御參りも、今ちと御延わたらせおはしまして、事のやう、いさゝかも御らんじしづめられ候御事にて候へ、とても今は、物參の御沙汰候まじく候、あまりに心もとなく覺えさせおはしまして候、こまかにおほせ事給り候よし、御ひろう給り候、あなかしこ、これ兼豐の状也、山のぐんぜいとは、此程ひえの山にあつまりゐたる軍勢をいへり、たふとき御社を、さばかりそこなひ奉りけむ、其世のものゝふどもの、ひたぶる心は、いかなる禍つ日の心なりけん、あさましなどもよのつね也、又同じ書に同年七月廿六日、後(ニ)聞(ク)、今夜竊盗頗(ル)卒(テ)2人勢(ヲ)1、亂(レ)2入(リ)禁中女房勾當(ノ)内侍、并(ニ)禁中管領宰相(ノ)典侍已下(ノ)局(ニ)1、悉(ク)追捕(ス)、臺盤所(ノ)遣戸等、雖2踏破(ルト)1、不v入(ラ)2御所(ニ)1、退散(ス)云々《トイヘリ》、末代之極、悲(シ)矣、また、延文元年十月一日、今曉卯剋、梁上卿推2參禁中(ニ)1、其勢數十許輩、及(ブ)2種々(ノ)狼籍(ニ)1、また、同年十一月一日、後(ニ)聞(ク)、梁上卿亂2入(スト)博陸(ノ)第(ニ)1、近日不v撰2貴賤(ヲ)1如(シ)v此(ノ)、と見えたり、かへす/\あさまし、染上卿とは、から國に何とかやいひし人の、染上(ノ)君子といへりしことのあるをとりていへるにて、ぬす人のことなり、
 
    綾小路中將敦有朝臣の事
同書に、觀應三年十月十九日、入(テ)v夜(ニ)、綾小路中將敦有(ノ)朝臣來(ル)、計略術盡(ルノ)之間、近日下2向(フ)濃州(ノ)所領(ニ)1云々《トイヘリ》、諸人此(ノ)式、不便(ノ)事歟と見ゆ、はやく此ほどよりして、天の下のみだれにて、かゝる人々も、かく京のすまひなりがたかりしが有しなり、これは應仁の亂(レ)より、百十餘年あなたの事也、足利氏の世は、大かたはじめのほどよりぞかく有し、
 
    人 々 御 中
同書に、書状のおくに、進上二條殿人々御中などあり、又あて名はなくて、たゞ人々御中とのみあるもあり、
 
    人をあがめて樣といふ事
人をたふとみて、樣といふこと、四百四五十年ばかりもあなたのふみどもより始まりて、をり/\見えたり、上《ウヘ》樣、前朝樣、禁裏樣、御所樣、公方樣、宮(ノ)御方樣、徳大寺樣、女中樣など見え、書状のあて名にも、御つぼねさまなどもあり、又鹿苑院殿樣、室町殿樣など、殿樣と重ねていへる事も見えたり、
 
    皇親の禄物を先(ヅ)賤價に賣(ル)事
延暦十八年三月五日(ノ)太政官符にいはく、應(キ)v禁(ス)3皇親之禄(ヲ)乞(ヒ)2賣(ルコトヲ)賤價(ニ)1事、右※[手偏+檢の旁](ルニ)2案内(ヲ)1、太政官去(ヌル)延暦十六年四月廿四日、下(セル)2諸國(ニ)1符(ニ)※[人偏+稱の旁](ク)、自今以後、公私(ノ)擧錢、宜《ベシ》d限(リテ)2一年(ヲ)1、収(ム)c半倍(ノ)利(ヲ)u、雖v積(ムト)2年紀(ヲ)1、不(レ)v得2過責(スルコトヲ)1者《テヘリ》、今右大臣宣(ス)2奉勅(ヲ)1、如(キ)v聞(クガ)、王親或(ハ)募(テ)2多(クノ)禄(ヲ)1、先(ヅ)受(ケ)2少(キノ)價(ヲ)1或(ハ)設(テ)2重(キ)質(ヲ)1、貸(リ)2乞(ヒ)賤物(ヲ)1苟(クモ)貪(リテ)2目前(ヲ)1、不v顧(ミ)2後(ノ)弊(ヲ)1、報(ル)v價之日、既(ニ)過(グ)v倍(ニ)、因(テ)v茲(ニ)所司豪民、競(テ)求(メ)2利潤(ヲ)1、好(ム)2爲(メニ)與(ヘ)借(スコトヲ)1、班(ツ)v禄(ヲ)之日、濫訴繁多(ナリ)、自今以後、賣2買(スルコト)禄物(ヲ)1、不(レ)v得v過(ルコトヲ)2於半倍(ノ)之利(ニ)1、如《モシ》有(ラハ)2違犯(スルコト)1、依(テ)v法(ニ)科處(セム)と見えて、類聚三代格にのれり、いにしへより、かゝること有し也、今(ノ)世に、なべて物する、まかなひしおくりなどいふわざ、これに似たる事也、猶今は、天の下に、かゝるたぐひの事おほし、
 
    神わざのおとろへのなげかはしき事
よろづよりも、世(ノ)中に願はしきは、いかでもろ/\の神(ノ)社のおとろへを、もて直し、もろ/\の神わざを、おこさまほしくこそ、今の世の神(ノ)社神事のさまは、おほかた中ごろのみだれ世に、いたくおとろへすたれたるまゝなるを、今の世の人は、たゞ今のさまをのみ見て、いにしへよりかゝるものとぞ思ひた(ン)める、まれ/\書をよむ人なども、たゞからぶみをのみむねとはよみて、其心もて、よろづをさだして、皇國のふるきふみどもをば、をさ/\よむ人もなければ、古の御世には、神社神事を、むねと重くし給ひしことをばしらず、又まれにはしれる人もあれども、なほ今の世のならひにまぎれては、いにしへを思ひくらべて、これを深く歎く人のなきこそ、いと悲しけれ、
 
    よの人の神社は物さびたるをたふとしとする事
今の世の人、神の御社は、さびしく物さびたるを、たふとしとおもふは、いにしへ神社の盛《サカリ》なりし世のさまをば、しらずして、たゞ今のよに、大かたふるく尊き神社どもは、いみしく衰へて、あれたるを見なれて、ふるく尊き神社は、もとよりかくある物と、心得たるからのひがことなり、
 
    和泉(ノ)國大鳥(ノ)神社
和泉志といふふみに、かの國の大鳥(ノ)神社の御事を、しるせるを見るに、慶長中罹(ル)2兵火(ニ)1、元禄中、僧快圓興2建(シテ)神鳳寺(ヲ)於域内(ニ)1、寺隅僅(ニ)存(ス)2小祠(ヲ)1、としるせるを見て、涙もこぼるばかり、かなしくぞおぼゆる、此御社は、神名帳に、大鳥(ノ)郡大鳥(ノ)神社、名神、大、月次新嘗と見え、高き御位をも授(ケ)奉(リ)給へる御社にましますものを、その域《トコロ》をしも、佛どころにしなしたる、まがつひのしわざは、せんすべもなきものなりけり、さて御社は、そのかた隅に、わづかにのこりてましますらんほどよ、詣《マウデ》ては見奉らねど、思ひやり奉るだに、かなしきを、かなしと見奉る人のなきは、いかにぞや、大かた國々に、かゝるたぐひ多かるべきを、今はたま/\、これをかのふみに、見あたりたるまゝに、あまりのなげかはしさにえたへで、かくはおどろかしおくなり、あはれかゝる事に、心ざしあらむ人もがな、
 
    唐の國人あだし國あることをしらざりし事
もろこしの國のいにしへの人、すべて、他國《アダシクニ》あることをしらず、おほかた國を治め、身ををさむる道よりはじめて、萬の事、みな其國のいにしへの聖人といひし物の、はじめたるごとく心得て、天地の間に、國はたゞわれひとり尊《タフト》しと、よろづにほこりならひたり、然るをやゝ後に、天竺といふ國より、佛法といふ物わたり來ては、いさゝかあだし國のあることをも、しれるさま也、かくて近き世にいたりては、かの天竺よりも、はるかに西のかたなる國々の事も、やう/\しられて、おほかた今は、天地の間の、萬の國の事、をさ/\しられざるはなきを、そのはるかの西の國々にも、もろこしにあるかぎりの事は、皆むかしより有て、もろこしにはなき物も多くあり、もろこしよりはるかにまされる事も有(リ)、その國々は、みな近き世まで、もろこしと通ひはなかりしかども、本よりしか何事も、たらひてあるぞかし、そも/\もろこしの古(ヘ)は、たゞその近きほとりなる、胡國などいふ國の事のみを、わづかによくはしりて、其外は、さしも遠からぬ國々の事も、こまかにはしらず、おぼ/\しくて、すべて他國(ノ)の事いへるは、みだりごとのみ也、かくてそのよくしれる胡國などは、いたづらに廣きのみにして、いといやしくわろき國なるを、つねに見しり聞しりては、他國はいづれも皆、かゝる物とのみ思へりしから、何事もたゞたふときは吾ひとりと、みだりにほこれる也、いにしへあだし國の事を、ひろくしらざりしほどこそ、さもあらめ、近き世になりて、遠き國々の事も、みなよくしられても、猶古(ヘ)よりのくせを、あらたむることなく、今に同じさまに、ほこりをるなるを、皇國にても、學問をもする人は、今は萬(ヅ)の國々のことをも、大かた知(リ)たるべきに、なほむかしよりの癖《クセ》にて、もろこし人のみだりごとを信じて、ひたぶるにかの國を尊みて、何事もみな、かの國より始まれるやうに思ひ、かの國より外に、國はなきごと心得居るは、いかなるまどひぞや、
 
    おらんだといふ國のまなび
ちかきとしごろ、於蘭陀といふ國の學問をする事、はじまりて、江戸などに、そのともがら、かれこれとあめり、ある人、もはらそのまなびをするが、いひけるおもむきをきくに、於蘭陀は、其國人、物かへに、遠き國々を、あまねくわたりありく國なれば、其國の學問をすれば、遠き國々のやうを、よくしる故に、漢學者の、かの國にのみなづめるくせの、あしきことのしらるゝ也、あめつちのあひだ、いづれの國も、おの/\其國なれば、必(ズ)一(ト)むきにかたよりなづむべきにあらず、とやうにおもむけいふめり、そはかのもろこしにのみなづめるよりは、まさりて一わたりさることゝは聞ゆれども、なほ皇國の、萬の國にすぐれて、尊きことをば、しらざるにや、萬の國の事をしらば、皇國のすぐれたるほどは、おのづからしるらむものを、なほ皇國を尊むことをしらざるは、かのなづめるをわろしとするから、たゞなづまぬをよしとして、又それになづめるにこそあらめ、おらんだのにはあらぬ、よのつねの學者にも、今は此たぐひも有也、
 
    もろこしになきこと
もろこしのまなびする人、かの國になき事の、御國にあるをば、文盲《モンマウ》なる事と、おとしむるを、もろこしにもあることゝだにいへば、さてゆるすは、いかにぞや、もろこしには、すべて、文盲なる事は、なき物とやこゝろえたるらむ、かの國の學びするともがらは、よろづにかしこげに、物はいへども、かゝるおろかなることも有けり、
 
    新猿樂記諸國の土産
藤原(ノ)明衡の新猿樂記にいはく、集(メ)2諸國(ノ)土産(ヲ)1貯(ヘテ)甚豐也、所謂《イハユル》阿波(ノ)絹、越前(ノ)綿、美濃(ノ)八丈、【又柿】、常陸(ノ)綾、紀伊(ノ)國(ノ)※[糸+兼]《カトリ》、甲斐(ノ)斑《マダラ》布、石見(ノ)紬《ツムギ》、但馬(ノ)紙、淡路(ノ)墨、和泉(ノ)櫛、播磨(ノ)針、備中(ノ)刀、伊豫(ノ)手筥、【又砥、又鰯、又簾】、出雲(ノ)筵、讃岐(ノ)圓座、上總(ノ)※[革+秋]、武藏(ノ)鐙、能登(ノ)釜、河内(ノ)鍋、【又味噌】、安藝(ノ)榑《クレ》、備後(ノ)鐵、長門(ノ)牛、陸奥(ノ)駒、【又檀紙、又漆】、信濃(ノ)梨子、【又木賊】、丹波(ノ)栗、尾張(ノ)※[米+巨]《コメ》、近江(ノ)鮒、【又餅】、若狹(ノ)椎子、【又餅】、越後(ノ)鮭、【又漆】,備前(ノ)海糠《アミ》、周防(ノ)鯖、伊勢(ノ)※[魚+制]《コノシロ》、隱岐(ノ)鮑《アハビ》、山城(ノ)茄子、大和(ノ)※[草冠/人偏+氏]、丹後(ノ)和布、飛騨(ノ)餅、鎭西(ノ)米等(ナリ)、と見えたり
   
    大徳寺住持綸旨
甘露寺(ノ)元長(ノ)卿(ノ)記に、永正五年二月廿七日、大徳寺(ノ)侍者僧來(ル)、神事(ノ)之間、於(テ)2門外(ニ)1渡(ス)2綸旨(ヲ)1、爲(テ)v禮(ト)百匹持來、如(シ)v例(ノ)、來月十六日入院、云々、被2綸言(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)、大徳寺住持職(ノ)事、所v有2勅請1也、殊(ニ)專(トシ)2佛法興隆(ヲ)1、可(シ)v奉v祈(リ)2寶祚長久(ヲ)1者《テヘリ》、依(テ)2天氣(ニ)1執達如(シ)v件(ノ)、永正五年二月廿一日、左少辨伊長、東海上人禅室とあり、後(ノ)柏原天皇の御世の事也、
 
    手拍(ツ)數の事
大神宮儀式帳に、八度拜奉【弖】、同書に、四段拜奉【弖】、短手二段拍、一段拜、又更(ニ)四段拜奉、短手二段拍【弖】、一段拜奉畢、【此内に、二ツの一段拜は、たゞ敬のあまりに、屈服するにて、拜の數にはあらず、拜の數は、四段と四段と也、】同書に、四度拜奉、手四段拍、又後四度拜奉、手四段拍畢(テ)、退(ク)、【手の數、これは四ツ拍(ツ)を一段として、四段は、十六うつなり、】同書に、四段拜奉、八開手《ヤヒラテ》拍【弖】、 短手一段拍、拜奉、又更(ニ)四段拜奉、八開手拍【弖】、短手一段拍、即一段拜奉、【八開手と云は、八ツうつ也、】大神宮式に、再拜兩段、短(ク)拍v手(ヲ)兩段、膝退、再拜兩段、短拍v手兩段、一拜訖(テ)退出、また同書に、再拜、拍2八開手1、次拍2短手1、再拜、如v此兩遍、云々、大嘗會式に、拍手四度、度別《タビゴトニ》八遍、神語(ニ)所謂八開手是也、【合せて三十二うつなり、】中右記に、拜八度、先四度、次拍手、次四度、又手打、是(ヲ)名2兩段再拜(ト)1、【これは他説とことなり、】江次第抄に、兩段再拜者《ハ》、兩段之間、有2小揖1、同抄祈年祭(ノ)條に、上卿拍v手作法、不v令(メ)v有v聲、手のさきを合せ、やをら/\打合す也、同抄、大原野(ノ)祭、朝使以下皆六拜、ともあれば、六度拜もあることにや、正應六年七月十六日、公卿勅使(ノ)記に、勅使、宸筆宣命笏【仁】取副【天】、御拜四箇度、拍手兩段、又御拜四箇度、拍手兩端、但後(ノ)兩端(ノ)手、被v略v之、嘉暦三年九月十日、公卿勅使(ノ)記にも、勅使、宸筆宣命を笏に取副て、御拜四箇度、拍手兩端、又御拜四箇度、拍手兩段と見ゆ、元文三年大嘗會便蒙に、大忌(ノ)公卿、庭中(ノ)版位に着(キ)、拍手、常のかしは手は、二(ツ)づゝうつばかり也、此時の柏手は、四度づゝ八度、一人の拍手の數、三十二也、やひらでと云、といへり、當宮にて、今の世の拜は、大神宮年中行事によりて行ふ也、其拜のさま、拜八度、手兩端とあり、【此兩端は、四ツを一段とし、それを二度にて合せて八ツ也、その八ツを、四度拜の後毎に拍て、合せて十六也、今も、四度拜し、手八ツ打て、膝退して、又四度拜、手八ツ打、後手拍也、】四(ツ)を一段とすると、八(ツ)を一段とするとの異あり、と荒木田(ノ)經雅(ノ)神主の、儀式帳(ノ)解にいへり、末の細書に、數のたがひあるは、問てよくたゞして、又しるすべし、
 
    道風朝綱書勅判の事
江談抄(ニ)云(ク)、天暦(ノ)御時、小野道風(ト)與《ト》2江(ノ)朝綱1、常(ニ)成(ス)2手書(ノ)相論(ヲ)1之時、兩人議(テ)曰(ク)、給(ハリテ)2主上(ノ)御判(ヲ)1、互(ニ)可(シ)v決(ス)2勝劣(ヲ)1云《テヘリ》、仍(テ)申(シ)2請(フ)御判1之處、主上被《レテ》v仰(セ)云(ク)、朝綱(カ)書(ノ)、劣(レル)2於道風(ニ)1事、譬(ヘバ)如(シ)3道風(カ)劣(レル)2朝綱(カ)之才(ニ)l云《テヘリ》、
 
    美 材 草 神
同書(ニ)云(ク)、小野(ノ)美材、内裡(ノ)文集(ノ)御屏風(ヲ)書(キ)了(テ)、奥書(ニ)、大原(ノ)居易(ハ)古(ノ)詩聖、小野(ノ)美材(ハ)今(ノ)草神|云《テヘリ》、
 
    伊勢(ノ)大御神の佛をきらひ給ふ事
台記に、天養二年三月七日、左馬權頭顯定來(テ)云(ク)、左大將【雅定】伊勢(ノ)勅使(ニテ)、精進(ノ)之間、雖v渡(ルト)v他所(ニ)、衣裳雜具等、猶在2中院(ノ)第(ニ)1、仍(テ)佛經等、不v置2家中(ニ)1、而《シカル》間(ダ)中院(ノ)寢殿(ニ)、有v煙、【件(ノ)煙見2屋上(ニ)1、隣里驚(ク)、】存(ジ)2放火(ノ)由(ヲ)1、驚(テ)放(チ)2天井(ヲ)1見(ルニ)v之、有2繪像(ノ)佛五躰、色旗等1、出(シテ)2件(ノ)物(ヲ)於門外(ニ)1、之後、煙散(シ)盡(キヌ)、
 
    文  倉
同記に、同年四月二日【丁丑】、自2正月1所(ノ)2始(メ)造(ル)1之文倉造(リ)了(ヌ)、今日置(ク)2文書(ヲ)1、依(テ)2吉時(ナルニ)1用(フ)2午(ノ)刻(ヲ)1、【憲榮勘(ヘ)2申(ス)日時(ヲ)1、】余着(シ)2冠直衣(ヲ)1、取(テ)2春秋緯(ノ)櫃(ヲ)1、先(ヅ)入(レ)2置(ク)陽(ノ)棚(ニ)1、【東(ノ)棚五重、謂2之陽(ト)1、】藏人式部(ノ)丞藤(ノ)成佐、着2束帶(ヲ)1、取(テ)2易詩等(ノ)緯、及河渠(ノ)書(ヲ)1、復入(レ)2置(ク)陰(ノ)棚(ニ)1、【西(ノ)棚六重、謂2之陰(ト)1、】泰親申(テ)云(ク)、作(テ)2文倉(ヲ)1、始(メニ)入(ルヽ)2河洛書(ヲ)1之由、先達(ノ)所v傳(フル)也(ト)、余從2用之1、文倉(ノ)制、高(サ)一丈一尺、【北外(ノ)礎高一尺、】東西二丈三間、南北一丈二尺一間、南北(ニ)有v戸、四方皆栲(ニ)v之以(テシ)v板(ヲ)、其上(ヘニ)塗(リ)2石灰(ヲ)1、其戸(ニ)塗(ル)2※[虫+璃の旁](ノ)柄《カラヲ》1、爲(メ)v不(ル)v令(メ)2剥落1也、葺(ニ)以(ス)v瓦(ヲ)、去(ルコト)v倉(ヲ)六尺(ニ)、築(ク)2芝垣(ヲ)1、廣(サ)七尺、高(サ)一丈三尺、坤(ノ)角有2出(ル)v道(ニ)之道1、乾(ノ)角(ニ)決v地(ヲ)令(ム)v通v水(ヲ)、芝垣(ノ)外(ニ)掘(ル)v溝(ヲ)、深(サ)三尺、廣(サ)二尺、其外(ニ)栽2廻(ラス)竹(ヲ)1、其外(ニ)有2尋常(ノ)築垣1、【西北(ハ)家(ノ)外郭、東南(ハ)別(ニ)爲2倉(ノ)郭(ト)1、】巽(ノ)角(ニ)【南面】有v戸、云々、其書有2四部1、金經、史書、雜説、本朝、
 
    崇徳上皇頼長公に代らせ給ひて御歌よみて給へる事
同記(ニ)云(ク)、久安三年三月廿七日、有2禅閤七十賀禮1、云々、依(テ)2和歌不堪(ニ)1、密(ニ)申(ス)2新院(ニ)1、【不v恥2上古(ニ)1】今曉下(シ)2給(フ)二首(ヲ)1、キミガヨハサシテモイハジミカサヤマアメノシタニモマサムカギリハ、キミガヘムイマユクスヘノトヲケレバケフノマトヰゾツキセザルベキ、手詔(ニ)云(ク)、和歌(ノ)事、雖3心中(ニ)廻(スト)2愚案(ヲ)1、無顯〔左○〕之祝心、凡力不v及2上古(ノ)之躰(ニ)1、又極(メテ)憚(リ)思(ヒ)給(フ)也、仍(テ)度々令(メ)v申2此旨(ヲ)1了(ヌ)、然(レドモ)而雖2何事(ト)1、繊芥(モ)力(ノ)及(ブ)程(ノ)事(ハ)者、可(キ)v承(ハル)之由、存(ジ)思給(フガ)之故(ニ)如v形(ノ)二首進覧(ス)之、先(ヅ)人(ノ)替(リ)【仁《ニ》】歌讀(ム)之程の上手(ハ)、別(ナル)事也、次(ニ)又和歌(ノ)之躰散々、難(シ)v披2嚴重(ノ)之席(ニ)1、而(ルヲ)今令(ル)2進覧1之條、偏(ニ)表(ス)2懇志(ヲ)1、長(ク)忘(ルヽ)2恥辱(ヲ)1也、爲(メ)2御覧(ノ)1之許(リ)也、明日(ハ)者努々不v可2令(メ)v用給(フ)1也、穴賢々々、早(ク)可v被《ル》2破却1也、端の歌は、字病にやと覺(ユル)事候歟、然(レドモ)而證歌候也、とあり、これは忠實公七十賀に、頼長公歌不堪によりて、崇徳天皇の新院にておはしましけるに、請(ヒ)申給へるに、よみて給へる時の手詔也、
 
    不v如d闕2禮佛(ノ)之勤(ヲ)1全(クスルニ)c敬神(ノ)之忠(ヲ)uとの詔
同記に、同四年九月十七日、今日春日(ノ)若宮(ノ)祭(ナリ)、仍(テ)不v取2念珠(ヲ)1、不v得2私(ニ)入(ルコトヲ)1v堂(ニ)、自2京師1奉幣、云々、及(テ)2禮拜(ノ)時(ニ)1、詔(シテ)v余(ニ)曰(ク)、汝有2神(ノ)齋1、不(ル)v可v拜(ス)乎《カ》、對(テ)曰(ク)、君前何(ゾ)以2私(ノ)齋(ヲ)1闕(ム)v禮(ヲ)耶、復詔(シテ)曰(ク)、所v奏合(ヘリ)2禮(ノ)之意(ニ)1、然(レドモ)而今(ハ)非d所(ノ)v行(フ)2正禮(ヲ)1之處(ニ)u、不v如《シカ》闕(テ)2禮佛之勤(ヲ)1、全(クセムニハ)2敬神(ノ)之忠(ヲ)1矣、余從(フ)2詔(ノ)旨(ニ)1、と見えたり、詔は鳥羽(ノ)法皇の詔也、こは法皇天王寺に御幸ありて、彼(ノ)寺におはしましける時、頼長公も御供にて、さふらひ給へるほどの事也、さる佛事の御をりしも、さすがに神わざを、やむことなくおぼしめしたるみことのりの、たふとくおぼえ奉るまゝに、しるしつ、
 
    陸奥國五箇莊年貢の事
同記云、仁平三年七月十四日、去々年、厩舍人長勝延貞(ヲ)爲v使(ト)、下2向奥州(ニ)1、先年可(キノ)v増(ス)2奥州高鞍(ノ)庄(ノ)年貢(ヲ)1之由、禅閤被《ル》v仰(セ)2基衡(ニ)1【金五十兩、布千段、馬三匹、】基衡不2肯(テ)増1v之(ヲ)、久安四年、禅閤以(テ)2五个庄(ヲ)1、讓(リタマフ)v余(ニ)、同五年、以2雜色源(ノ)國元(ヲ)1爲(シ)v使(ト)仰(セテ)2基衡(ニ)1曰(ク)可(シト)2高鞍ハ、金五十兩、布千段、馬三疋、【本(ノ)數(ハ)、金十兩、布二百段、細布十段、馬二匹、】大曾禰(ハ)、布七百段、馬二疋、【本(ノ)數(ハ)、布二百段、馬二疋、】本良(ハ)、金五十兩、布二百段、馬四疋、【本(ノ)數(ハ)、金十兩、馬二疋、預(リ)所(ノ)分金五兩、馬一疋、】屋代(ハ)、布二百段、漆二斗、馬三疋、【本(ノ)數(ハ)布百段、漆一斗、馬二疋、】遊佐《ユサハ》、金十兩、鷲(ノ)羽十尻、馬二疋1、【本(ノ)數(ハ)、金五兩、鷲羽三尻、馬一疋、】基衡不v聽、國元其性弱(シテ)、不v能v責(ムルコト)v之(ヲ)、空(ク)以(テ)上洛(シヌ)、重(ネテ)遣(ハシ)2延貞(ヲ)1責(ム)v之(ヲ)、去年基衡申(シテ)曰(ハク)不v得v増(スコト)2所(ノ)v仰(スル)之數(ヲ)1、可(シ)v増(シ)2進(ル)高鞍、金十兩、細布十段、布三百段、御馬三疋、大曾禰(ハ)、布二百段、水豹(ノ)皮五枚(ニ)、御馬二疋、遊佐(ハ)金十兩、鷲(ノ)羽五尻、御馬一疋、屋代(ハ)、布百五十段、漆一斗五舛、御馬三疋、本良(ハ)、金二十兩、布五十段、御馬三疋(ヲ)1者《テヘリ》、仰(セテ)曰(ク)、三个所(ハ)【本良遊佐屋代】所v申(ス)非(ズ)v無(キニ)2其理1依(ル)v請(フニ)、至(テハ)2于高鞍大曾禰兩庄(ニ)1者、田多(ク)地廣(クシテ)、所v増(ス)不v幾《イクバクナラ》、猶減(シテ)2本(ノ)數(ヲ)1、可(シト)v進(ル)2高鞍、馬三疋、金二十五兩、布五百段、大曾禰、馬二疋、布三百段(ヲ)1也、今日任(セテ)2此數(ニ)1、延貞持2來三个年(ノ)年貢(ヲ)1、【久安六仁平元年二】年來〔左○〕貢本數、然(レドモ)而返却(シテ)、不v受、今年相合(セテ)三个年|歟〔左○〕受(ク)v之(ヲ)、増(ス)2年貢(ヲ)1事、成隆(ノ)朝臣【高鞍預】俊通【本良預】所2勸進《スヽムル》1也、
 
    祈年祭の猪の事
同記に、仁平元年二月四日、右少辨資長申(シテ)云(ク)、祈年祭(ノ)猪、近江(ノ)國未(ダ)v進(ラ)者《テヘリ》、云々、九日、庚戌、近江(ノ)目代俊弘申(シテ)云(ク)、郡司申(シテ)云(ク)、祭(ノ)前十餘日、狩(レドモ)v猪(ヲ)不v得v之、連日狩獵、于v今無(シト)v得(ルコト)、先例如(キノ)v此(ノ)之時、用2代(リノ)物(ヲ)1、先即見(ユ)2北山抄四(ニ)1、承平四年六月(ノ)月次祭(ニ)、馬(ノ)代(ニ)進(ル)2調布(ヲ)1、【八端】任(セ)2彼(ノ)例(ニ)1、可(キノ)d以2調布八端(ヲ)1、爲c猪(ノ)代(ト)u之由仰(セ)了(ヌ)、以2同趣(ヲ)1仰(ス)v史(ニ)と見ゆ、祈年祭(ノ)猪とは、御年《ミトシノ》神に、白猪を進《タテマツ》らるゝ事也、古書共に見えたり、
 
    女御多子名字のさだ
同別記、久安四年、頼長公の養女、入内によりて、名字を撰ばるゝところにいはく、御名字(ノ)勘文拜見、返2上之(ヲ)1、愚案(ス)之所v及、多子優(ニ)候歟、名字(ノ)多(ハ)、可(シ)v用2平聲(ヲ)1云々《トイヘリ》、又親王并(ニ)婦人(ノ)名、訓未(タ・ル)v慥(ナラ)之字不v用|云々《トイヘリ》是(レ)出(スニハ)2□公(ノ)御前(ニ)1、不v可v讀(ム)v聲(ニ)、可(キノ)v讀v訓(ニ)之故|云々《トイヘリ》、而(ルニ)近代、間《マヽ》訓不(ル)v慥(ナラ)字等見(エ)候、如何、就(テ)v中(ニ)多(ノ)字、萬佐留《マサル》云《トフ》訓候歟、彌神妙(ニ)覺(エ)候、子細(ハ)只今參入(シテ)可(ク)v令(ム)2言上(セ)1候(ノ)之状、如v件、八月七日、大外記中原(ノ)師安【請文】、とあり、名字とは、たゞ名のこと也、
 
    天皇御元服の時のことぶき
同別記、久安六年正月四日、近衛天皇御元服の儀式の中にいはく、東(ニ)進(ミ)當(テ)2御前(ニ)1北面(シテ)、留(マリ)2立(テ)壁代(ノ)外畔(ニ)1、磬折(シテ)奏(ス)2祝詞(ヲ)1予〔左○〕、御酒《ヲミキ》惟厚《コレハラ》ク、御|肴《サカナ》惟|嘉《ヨシ》、赤|□《ウルハシキ》花手|敬祭《ウヤマヒマツリ》賜【波】、諸【モロ/\ノ】神達《カミタチ》悦□《ヨロコビウケ》【太萬比《タマヒ》】遺《ノコリ》【(能《ノ》】味《アヂハヒ》【乎】嘗賜【波】、御躰《ヲミ》平《タヒラ》【介久】御坐《ヲハシマシ》テ、天地《アメツチ》【乃】休《ヨキ》事ヲ、日月共|受《ウケ》保賜《タモチタマ》【比】、手長《テナガシ》【乃】御《ミ》世【乃】、遠《トヲ》【岐】御世《ミヨ》ニ、貴《タフト》【比】戴《イタダ》【加禮】御坐《ヲハシマス》ト申、また御冠を加(ヘ)奉るところにいはく、當(リ)2御前(ニ)1進(テ)、留(マリ)2立(テ)壁代(ノ)外畔(ニ)1、【不揖】磬折(シテ)奏(ス)2祝詞(ヲ)1、其詞(ニ)云(ク)、掛【毛】畏【支】天皇【我】朝廷、今月【乃】吉日、御冠加賜【比天】、盛【爾】美【岐】御※[白/ハ]人【度】成【利】賜【奴】、天神地祇相悦【比】、護【利】福【倍】奉賜【比天】、御壽長久【久】、寶位無動【久】御坐【世止】申、と見えたり、此二つの祝詞《コトブキ》、文いとつたなし、はじめなるは、ことに拙《ツタナ》し、今假字づけも何も、本のまゝにしるせるを、かなづけなど、後に寫し誤れりと見ゆる所々もあれど、もとよりいとつたなきさま也、古言のかたちの、ほの/”\まじれるは、ふるきかたの有しが、つぎ/\にくづれて、かくつたなくはなれるなるべし、このごろはやく、古語はむげにすたれはてゝ、しれる人もなかりしと見えたり、おくなるは、こともなけれど、天皇の御事を、天皇【我】朝廷《スメラガミカド》とあるは、いみしき誤也、古語に天皇【我】朝廷《スメラガミカド》とは、朝廷をこそ申せれ、天皇を然申せることなし、こは中昔より、天皇をも、みかどゝ申すから、古語を見て、心得誤れる也、さて寶位《タカラノクラヰ》と申すこと、中昔よりこなたの、祝詞《ノリト》宣命には、つねのことなれど、古言にはあらず、漢言《カラコト》也、こはついでにいふ也、すべて後の世のは、祝詞も宣命も、古言をしらざるから、漢語《カラコト》のみにぞなりもてきにける、
 
    頼長公の印の事
同記に、仰(セテ)2文章博士茂明(ノ)朝臣(ニ)1、勘(ヘシム)2印(ノ)字樣(ヲ)1、是(レ)頼(ノ)字(ノ)古文也、用(ル)2名(ノ)上(ノ)字(ヲ)1例也、云々、印、【以v銅鑄v之】方一寸九分、高(サ)一寸八分、壺、【以v銅鑄v之、其形如(シ)2小(キ)桶(ノ)1、】身、【口(ノ)径三寸七分、指(テ)2牙(ノ)下(ヲ)1言v之、】深(サ)一寸七分、蓋、【口(ノ)径同v身(ニ)、深(サ)三分、】
 
    物かくに心すべき事
歌など、又さらぬことも、物かくに心得べきことどもあり、あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、などいふたぐひの言を、たれも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書(ク)事なれども、しか書ては、あるはとも、あらばともよまれ、其外もそのでうにて、まぎるゝ故に、語の意しらぬ人は、よみ誤りて、寫すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、假字にもかきなす事有(リ)、さればかくたがひによみまがふべき言は、みな假字にかくべきわざ也、又霞契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などやうにいふを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、などかくはわろし、用言にいふ時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などやうに、はたらくもじをそへて書(ク)べし、すべてかく體と用とにつかふ詞は、用の時は、はたらくもじを添てかゝざれば、まぎるゝこと有也、はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、まみむめのたぐひ也、又もみぢばといふに、たゞ紅葉とのみ書ては、もみぢとのみいふと、まぎるゝ故に、つねに紅葉々とかく事なれども、こはいと有まじき書ざま也、もみぢ葉と書べき也、葉をば眞字《マナ》に書べし、これをもともに假字に書ては、てにをはのはにまぎるれば也、又かくれがすみかなどのかに、家(ノ)字をかくは、ひがこと也、これらのかは、處の意にて、家といふことにはあらず、されど處と書べきにはたあらざれば、たゞ假字にかくぞよき、又|隱《カクレ》が住《スミ》かなど、上を眞字下を假字に書たるは、こちなく見ゆ、此たぐひみな同じ、さびしに淋(ノ)字、いかにぞやおぼゆ、ながめに詠(ノ)字もいかゞ、詠は、聲を長むることにこそあれ、物を見るながめにはよしなし、さて又つねにめなれぬもじをつかふ事、すべてわろし、すべて上(ノ)件のたぐひの事ども、猶いとおほかるを、今はたゞ思ひ出るまゝに一(ツ)二(ツ)いへるのみ也、なずらへて心得べし、そも/\いにしへ人は、必(ズ)さしもこまかには物せず、物かきたるも、おほらかにて、文字なども、心にまかせて書たれば、今もたゞいかに書てもありぬべし、さまでこちたくことをわけむは、くだ/\しき後の世心にこそあらめ、と思ふ人有べし、すべて古(ヘ)をこのみて、よろづに心たかゝらむとかまふる人は、かゝる事いふをば、心ひきくつたなきわざと、もどくべかめれど、それさしもあらじ、いにしへは、かたへの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書ても、よみたがふることなかりしかばこそあれ、今の世は、みづからこそこゝろえたらめ、かたへの人は、心得たらねば、ともすればよみたがへ、寫しひがむるたぐひのみ多かれば、いかにもものかくには、心すべきわざぞと、おのれは思ひとりてぞある、さればおのがくせにて、つねに物かくに、よみたがへやせん、うつしひがめやせんとのみ、こゝろするほどに、もとよりいと/\つたなき手をいとゞしじかみて、かたはにはある也、又古言などは、殊に人のよみたがへ、誤ること多きを、いかであやまらず、正しくよましめんとするほどに、さらでもあるべき所にも、度ごとに假字づけしなどして、心高き人には、わらはるゝを、みづからもかつはしりながら、しみつきたるくせは、よにはなれがたきわざになん
 
    さみせんといふ物の歌
ある人の、今の世にあまねくもてあそぶなる、さみせんといふ琴をかきたるゑに、歌よみてかけとこひける、そはいまやうのたはれたる物にて、いにしへこのむともがらなどは、いやしむるすぢのものなれば、いかにぞやかたはらいたくおぼえけれど、さもいなみがたき人のいふことなりければ、いかゞはせむに、よみて書けるうた、
   きかせばやいにしへ人に三のをのみつのしらべをこゝろひくやと、例の人にはわらはれむを、かつはおこたりがてら、これにさへ物しつ、ついでに、これも人のこひける、猿のこのみをもたるかたかきたるに、
   うまけれどくはぬぞくふにまさるべきこのみてくへばゝらふくれけり、
 
    石見の海なる高嶋
石見國の濱田の海中に、高鳴といふ嶋あり、濱田より五里也といへど、七八里ばかり有とぞ、此しま、めぐり五里ありて、四方のめぐりは、いづこも/\みな、いみしく高き岩にて、岸なる海深く、船よせがたし、もし船はつれば、岩のうへに、大きなる材《キ》をたてゝ、大綱もて、そのふねをつりあげおく也、然せざれば、浪風に岩にふれて、船くだくるよしなり此嶋山林木竹多し、畠のみ有て、田はなし、人の家は、たゞ七戸《ナヽヘ》ありしが、今は十戸《トヘ》に分(レ)たりとぞ、兄弟をぢめひなどもとつぎて、一戸《ヒトヘ》に三夫婦四夫婦などもすめりとぞ、かくて此嶋には、鼠のいと/\多く有て、物をくひそこなひ、人をもくふこと、よのつねならず、一とせ濱田より人をつかはして、からせられけれども、かりえず、力およびがたかりしとぞ、いとあやしきこと也、さてこのしま人、男も女も髪あかく、いと賤《アヤ》しげなるさま也、米もなく、牛馬などもなし、みつぎ物には、たゞ鰤を濱田へ奉る、はまだに、此嶋の事とるつかさ人も、代官とて有とぞ、さて此嶋に、祇園宮といひて、氏神とする社有、いかなる神を祭るにか、さだかならず、其祭にとなふる詞あり、その詞、ひろたけの、楠の木は、かれてもにほひ、かうばしや、おやどりあれや、此宿の、さのみはないそぎめされそ、かく唱へて、楠の木を祭ると也、かの國人小篠(ノ)御野が物がたり也、
 
    朝鮮の人のことば
同じ人のかたりけるは、今朝鮮の國人の語、いやしき者は、訓と音とをつらねていひ、よろしき者は、字音にていふ、たとへばいやしきものは、刀をはんどう、火をふるはあといふ、はんは刀の訓、とうは其字音也、ふるは火の訓、はあは其字音也、そをよろしき者は、刀をとう、火をはあといふ、よろづの言、みな此でう也とかたりき、此人は、いにし天明三年に、かの國人の、石見(ノ)國にたゞよひきたりけるに、しば/\逢て、語る言を聞る也といへり、訓といふは、かの國の言、字音は、漢字のかの國の音也
 
    ある人の言
櫻の花ざかりに、歌よむ友だち、これかれかいつらねて、そこかしこと、見ありきける、かへるさに、見し花どもの事、かたりつゝ來《ク》るに、ひとりがいふやう、まろは、歌よまむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有けむ、こまやかにも見ずなりぬといへるは、をこがましきやうなれど、まことはたれもさもあることゝ、をかしくぞ聞し、
 
    さはぼくり
土佐(ノ)國にては、澤木履《サハボクリ》といふ物有て、深き田におりたつには、おちいるまじきために、はく也と、かの國人かたりき、
 
    土佐國に火葬なし
土佐國には、火葬といふわざなし、さる故に、かの國人は、他國の、火葬にすることをかたれば、あやしきわざに思へりとぞ、これもかの國人のかたりけるに、そは近き世のさだめかとゝひしに、いにしへより然りとぞいへる、
 
    や い と う
文覺法師が、正治二年に、鎌倉の將軍頼家(ノ)朝臣に、返り事におくりたりし書にいはく、あつきやいとうを、ねんじてやけば、やまひいえ候也、といへる言あり、君とある人の、臣のいさめをうけいるべき、たとへにいへる語也、やいとうといへること、めづらしくおぼえて、かきいでゝおきつる也、
 
    ほやのいずし
肥前(ノ)國の佐伯の海に、ほやといふ物あり、紫色にて、海鼠の如くなる形したる物也と、佐伯の人かたれり、然らば土左日記に、ほやのいずしとあるは、それを飯ずしにしたるなるべしと、或人いへり、
 
    ふぐし くゞつ
豐後(ノ)國人のかたりけるは、ふぐしといふ物、今も我國にありて、用る也、くゞつも有(リ)、くゞといふ、繩してくみて、小道具など入(ル)る物也と語りき、
 
    石ぶしといふ魚
或人のいはく、物語書などに、いしぶしといふ魚は、今の世にごりといふ物なるべし、此ごり、鴨川桂川などにも多く有て、つねに石の下にかくれゐる物にて、石の下をたづねてとる也、石ぶしといふ名にかなへりといへり、
 
    淡海公を天智天皇の御子也といへる説
帝王編年記(ニ)云(ク)、齊明天皇五年己未正月、天皇自2紀伊(ノ)國(ノ)温泉1、遷v宮(ニ)、是歳皇太子【天智天皇】妊(メル)寵妃御息所、車持(ノ)公(ノ)女(ノ)婦人(ヲ)、賜(フ)2於内臣鎌子(ニ)1、已(ニ)六箇月也、給(フ)2件(ノ)御息所(ヲ)1之日、令旨(ニ)曰(ク)、生(ルヽ)子|有《ナラバ》v男者、爲《セヨ》2臣(ガ)子(ト)1、有《ナラバ》v女者、爲《セムト》2我(ガ)子(ト)1、爰(ニ)内臣鎌子、守(リテ)2四箇月嚴重(ニ)1、令(ム)v遂(ケ)2生産(ヲ)1、其子已(ニ)男也、仍(テ)如(ク)2令旨(ノ)1、爲(ス)2内臣(ノ)子(ト)1、其子贈太政大臣正一位勲一等藤原(ノ)朝臣不比等(ナリ)といへり、大かた名高き人には、よくかやうの説をいふもの也、此説などは、ことに信《ウケ》がたし、古(ヘ)をしらざる後の世人のいひ出たる、例の説なるべし、
 
    はまなのはし
さらしなの日記にいはく、濱名の橋、くだりし時は、黒木をわたしたりし、此度はあとだに見えねば、舟にて渡る、入江に渡せし橋也、との海は、いといみしく浪高くて、入江のいたづらなる洲どもに、こと物もなく、松原のしげれる中より、浪のよせかへるも、いろ/\の玉のやうに見え、まことに松の末より、浪はこゆるやうにみえて、いみしくおもしろし、それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはぬわびしきを、のぼりぬれば、三河(ノ)國の高師の濱といふ、
 
    天 龍 川
遠江(ノ)國なる天龍川を、いにしへは、天の中川といひけるよし、同じさらしなの日記には、てんりうといふ川のつらに云々とあり、
 
    佛名の野伏 かづけ綿
歴代編年集成(ニ)云(ク)、承和五年、天皇十二月(ノ)寒夜(ノ)天、覺(メタマフ)v眠之時、側《ホノカニ》有(リ)d講(スル)2佛名經(ヲ)1之音u不v知2何方(ナルコトヲ)1、于時召(シ)2藏人(ヲ)1、令(メテ)v賜(ハ)2寮(ノ)御馬(ヲ)1、早(ク)就(テ)2此音(ニ)1、可v尋(ヌ)2其處(ヲ)1、聞(クニ)v音(ヲ)只同(ジ)、前路眇々(トシテ)、尋2行(クニ)大原(ノ)邊(ニ)1、猶無(シ)2其處1、仍(テ)至(レバ)2比良山(ノ)麓(ニ)1、有2一(ノ)僧庵1、尋(ヌル)2子細(ヲ)1之處、答(テ)云(ク)、我(ハ)號(クル)2淨安大徳(ト)1者也、一年中(ノ)之間、所(ノ)v作(ル)罪障、以v之(ヲ)令(ム)2消滅(セ)1也、仍(テ)轉讀(スト)、歸(リ)參(テ)奏(ス)v由(ヲ)、重(テ)召(テ)2伴僧(ヲ)1令v行(ハ)2御佛名(ヲ)1、而(ルニ)僧一口不(ルノ)v足(ラ)之處、一人(ノ)僧、臥(セリ)2内野(ノ)芝(ノ)上(ニ)1、相尋(ル)處(ニ)、僧(ノ)云(ク)、可(キノ)v被《ル》v行(ハセ)2御佛名(ヲ)1之由傳(ニ)承(ハリ)、爲(メ)2聽聞(ノ)1欲(シテ)v參(ラムト)、待(テ)2日(ノ)暮(ルヽヲ)1、暫(ク)臥(セリト云)2是(ノ)之芝(ノ)上(ニ)1、即(チ)召(シ)2此僧(ヲ)1畢(ヌ)、號(スル)2野臥(ト)1是也、淨安遂(ニ)被《ル》v補(セ)2律師(ニ)1、また延喜(ノ)御宇、佛名(ノ)僧、寒夜不便也、御下襲(ヲ)切(リ)v三(ニ)、被《ル》v重(ネ)2横臂(ノ)上(ニ)1、自(リ)v其(レ)以降|模《カタドリテ》被《ル》v着(セ)2白(キ)横臂(ヲ)1也、其後勅(シテ)云(ク)、左(ノ)肩可(シト)v寒(カル)、仍(テ)綿(ヲ)被(ク)也、已(ニ)爲(テ)2流例(ト)1不v絶、但(シ)近代毎事不法歟、
 
    御世/\の大嘗月日悠紀主基國郡
字多、仁和四(ノ)十(ノ)廿八御禊、十一(ノ)廿二乙卯大嘗、近江播磨、醍醐、寛平九(ノ)十(ノ)廿五丁卯御−十一(ノ)廿辛卯大−、近江丹波、御屏風野美材書 朱雀、承平元十(ノ)廿五御禊、十一(ノ)十三辛卯大−近江丹波、御屏風風道風書 村上、天慶九(ノ)十(ノ)廿八乙酉御禊、十一(ノ)十六癸卯大−近江備中御屏風、道風書 冷泉、安和元十廿六御−十一(ノ)廿四癸卯大−、近−播−、御陣風紀時文−圓融天禄元十一(ノ)十七乙卯大−、近−丹−、御屏風、藤佐理−、花山、永觀二(ノ)十(ノ)廿五御−、十一(ノ)廿一辛卯大−、近−高嶋(ノ)郡、丹波天田(ノ)郡、御屏風、佐理−、一條、寛和二(ノ)十(ノ)廿三御−、十一(ノ)十五己卯大嘗、近−野洲−、備中下道−、御屏風、佐理−、三條、長和元(ノ)十(ノ)廿七辛卯御−、十一(ノ)廿三乙卯大−、近−坂田−、丹−天田−、御屏風、行成−、後一條、長和五(ノ)十(ノ)廿三甲午御−、十一(ノ)十五己卯大−、近−甲賀−、備中下道−、御屏風、行成−、後朱雀、長元九(ノ)十(ノ)廿九乙酉御−、十一(ノ)十七契卯大−、近−愛智−、丹−氷上−、御屏風、藤定頼−、後冷泉、寛徳二(ノ)十(ノ)甘辛未御−、十一(ノ)十五大−、近−甲賀−、備中英賀−、御屏−、源兼行−、後三條、治暦四(ノ)十(ノ)廿八丁卯御−、十一(ノ)廿二辛卯大−、近江愛智−、備中英賀−御屏風兼行−、白川、承保元(ノ)十(ノ)卅甲午御−、十一(ノ)廿一乙卯大−、近−坂田−、丹波多紀−、御屏風、兼行−、塀川、寛治元(ノ)十(ノ)廿二御−、十一(ノ)十九丁卯大−、近−甲賀−、備中賀夜−、御屏−、伊房赤井、鳥羽、天仁元(ノ)十(ノ)廿一丁酉御−、十一(ノ)廿一丁卯大−、近−甲賀−、丹−氷上−、御屏−、定實章綱−、崇徳、保安四(ノ)十(ノ)十五甲午御−、十一(ノ)十八丁卯大−、近−甲賀−、備中下道−、御屏−、近衛、康治元(ノ)十(ノ)廿六乙酉御−、十一(ノ)十五癸卯大−、近江野洲−、丹−氷上−、御屏−、定信−、後白川、久壽二(ノ)十(ノ)廿九癸卯御−、十一(ノ)廿三丁卯大−、近−甲賀−、丹−氷上−御屏−朝隆−、二條、平治元(ノ)十(ノ)廿一辛未御−、十一(ノ)廿三癸卯大−、近−坂田−、丹−氷上−、御屏−、伊行−、六條、仁安元(ノ)十(ノ)廿七丁酉御−、十一(ノ)十五乙卯大−、近−坂田−、丹−多紀−御屏−、伊行−、高倉、嘉應元(ノ)十(ノ)廿一己酉御−、十一(ノ)廿二辛卯大−、近−甲賀−、備中賀夜−、御屏−、朝方伊經−、安徳、【延引初例】壽永元(ノ)十(ノ)   御−、十一(ノ)廿四辛卯大−、近−野洲−、丹−氷上−、御屏−、朝方伊經−、後鳥羽、元暦元(ノ)十(ノ)   御−、十一(ノ)十八癸卯大−、近−甲賀−、丹−多紀−、土御門、建久九(ノ)十(ノ)廿七辛卯御−、十一(ノ)廿二乙卯大−、近−野洲−、備中英賀−、順徳、建暦二(ノ)十(ノ)廿二庚子御−、十一(ノ)十三乙卯大−、近−甲賀−、丹波氷上郡、右の件、同書にしるせるをとりてしるせり、ところ/”\かけたる事もあれば、誤れることもあらむか、しられねど、いとまなくて、え考へたゞさず、たゞ本のまゝにしるせり、
 
    肥後の阿蘇(ノ)大宮司家菊地家の事 隈府孔子堂の事
肥後國古今城主考と云物にいはく、益城(ノ)郡岩尾(ノ)古城は、矢部|轟《トヾロキ》村の邊にあり、阿蘇(ノ)大宮司、岩尾在城と、古記にあり、いづれの大宮司といふことは分明ならず、大宮司始めは阿蘇、其後小國南郷矢部に居住す、文龜の末永正の初(メ)より、菊地家衰弱して、國中次第に敗亂に及べり、此節大宮司は、四箇の神領の外、益城一郡、其外所々手に入ると見えて、幕下の士、所々の城主たる者多し、天正十五年六月、秀吉公、矢部の内にて、三百町寄附、其餘は没収せらる、惟乘神主より、二位惟豐惟將惟種の代に至りて、阿蘇家最盛なり、惟種の次、惟善友貞友隆と次第す、菊地郡隈府(ノ)古城は、後三條院延久四年、【一云二年】大夫將監則隆、當國に下向し、菊地の領主となる、是を菊地の始祖とす、則隆は、中(ノ)關白藤(ノ)道隆公四代の後胤也、則隆の子經高を、菊地二代と稱す、後に若宮の靈社と號す、三代經宗、四代經宗、鳥羽院の武者所と稱す、五代經直、六代隆直、肥後守と號す、安徳天皇の勅命に隨ひて、忠あり、隆直事、東鑑に見えたり、七代隆定後鳥羽院に仕へ奉り、武者所になれり、八代能隆は、豐後の大友の始祖能直の婿也、九代隆泰、十代武房、【一説康成】文永弘安兩度の合戰に、對馬筑前に於て、蒙古人を討平げ、日本の武名を、異國に施せり、十一代時隆、十二代武時、法名寂阿、後醍醐天皇の御爲に、博多に於て討死、十三代武重、肥後守と號す、忠義の勤(メ)、勇烈の志、都鄙にかくれなし、十四代武士、【一説武俊、或武敏、或云武重甥、或云養子、或云武重弟】十五代武光肥後守と號す、武重以來肥後國主となる、征西將軍(ノ)宮を輔翼し、廿年の勤勞を以て、鎭西一統の武功をなす、九州の士庶、其號令に應ず、十六代武政、隈府に城をたつ、武光の代までは、菊の城といふところに居す、菊の城は、深川村の北に在(リ)、十七代武朝、肥後守又右京大夫と號す、法名常朝、十八代兼朝、肥後守又右京大夫といふ、十九代持朝、從四位肥後守と號す、月松屋形と稱す、廿代爲邦、廿一代重朝の代に、隈府に孔子堂をたて、春秋の祭禮あり、廿二代武運、從四位肥後守と號す、後に能運と改む、永正元年、能運死て、菊地の嫡流絶たり、依て、爲邦の甥の、肥前守重安の子、政隆を以て、能運の跡をつがしめ、菊地廿三代の屋形といふ、然れども國中諸士の心一致せず、同二年、國侍八十四人、連判の誓書を以て、阿蘇大宮司惟乘の長子、惟長を申(シ)うけ、菊地の養君とす、【惟長は二位惟豐の兄なり】名を武經と改む、是より政隆と武經と鉾楯す、豐後の大友氏阿蘇家に心を通じて、武經を助く、同六年、政隆自殺す、これより國中みな武經に從ふ、然るに後に武經、阿蘇大友にくみせず、暴逆のふるまひ有て、没落す、菊地武包を奉じて、廿四代の屋形と稱す、武包は、菊他の庶流託摩武安が子也、屋形の名のみにて、孤弱也、後には高麗へ赴けりと聞ゆ、同十七年、大友義長、菊地家の重臣と相議して、其子重治を以て、菊地家をつがしめ、廿五代の屋形と稱す、後に義宗と改め、又義武と改む、右兵衛佐と號す、從四位に叙せり、後に大友家に叛き、惡行有て、人望を失ひ、他國へ流落して、つひに菊地家絶滅せり、
 
    御即位親王代禮服
實躬卿(ノ)記【一名先人記】云(ク)、永仁六年十月【小】十三日【丁卯、】天晴風靜、今日天皇【春秋十一歳】御即位、官(ノ)廳也、實躬被《ルノ》v定(メ)2右親王代(ニ)1之間、巳(ノ)尅着2禮服(ヲ)1、先(ヅ)着2烏帽子(ヲ)1、理v髪【小烏帽子也、如2隨身烏帽子(ノ)1也、】次(ニ)着2大口(ヲ)1、【例(ノ)大口也、】次(ニ)着v襪(ヲ)、【例(ノ)襪二重、上(ハ)赤地(ノ)錦(ノ)襪着也、可(キ)v有2休組1歟、或(ハ)又無v之、】次(ニ)着2單衣(ヲ)1、【例(ノ)單、解2放(ツ)袖(ヲ)1、強(テ)不(ルノ)v見(エ)之上(ヘ)、小袖寸法大小(ノ)之間、依(テ)v爲(ルニ)2無要1也、】次(ニ)着2表(ヘノ)袴(ヲ)1、【可(キ)v用2唐綾(ヲ)1歟、近代絶(テ)無(シ)2此儀1、仍(テ)例(ノ)縮線綾(ノ)表(ノ)袴所2着用(スル)1也、左親王代又如(シ)v此(ノ)、表(ノ)袴大口等腰、如(ク)v恒(ノ)結(フ)v之、】次(ニ)着v裳(ヲ)、【深色(ノ)顯文紗、自2表袴1三寸引|上(ゲ)【天《テ》】着v之、】次(ニ)着2小袖(ヲ)、【黒櫨、自v裳三寸引上(ゲ)【天《テ》】着v之(ヲ)以2下(ノ)帶(ヲ)1結v之、】次(ニ)着2大袖(ヲ)1、【麹塵御綾、職文雲唐鳥(ノ)丸、自2小袖1三寸引上【天《テ》】著v之、以2下(ノ)帶(ヲ)1又結v之、大袖頸帋半(ニ)當【天《テ》】折(ル)v之、承久(ニ)故大納言着用如(シ)v此(ノ)、】次結(フ)v綬(ヲ)、【如(ク)2平緒(ノ)1前【爾《ニ》】垂(レ)、總(ノ)末至(ル)2大袖(ノ)末(ニ)1、上(ノ)程平緒垂(レ)經(ルノ)之間如(シ)v此(ノ)、經俊左(ノ)腰【爾《ニ》】垂(レ)、聊寄(セ)2前(ノ)方(ニ)1、總(ノ)末至2小袖(ノ)末(ニ)1、】次(ニ)付2玉佩(ヲ)1、【付2右(ノ)腰(ニ)1、付(ケ)2下帶(ニ)1【天《テ》】如(ク)v付結(フ)v之、其末(ハ)綬(ノ)末(ニ)押(シ)交(フ)、】次(ニ)帶2※[食+芳]劔(ヲ)1、【紫(ノ)檀(ノ)平緒、垂v前(ニ)、綬(ハ)少(シ)長(ク)垂v之、出v石(ヲ)見(ルコト)一寸餘、後(ノ)平緒(ハ)下【與利《ヨリ》】一寸餘出見(ユ)、】次(ニ)着2寶冠(ヲ)1、【冠合(セテ)v頭(ニ)調(フ)v之、仍(テ)燈心(ノ)輪頗(ル)無要(ノ)之間、不v入(レ)v之、紫(ノ)組(ノ)緒、自2耳(ノ)後1頸(ノ)下(ニ)結v之、又※[手偏+構の旁]2小(キ)緒烏帽風口1是(レ)今要也、承久(ニ)故大納言自2里亭1着之、】次(ニ)取v笏(ヲ)、【須持牙笏次而不(ルノ)v可v持之間以置物化之、】扇、【紫(ノ)扇也、爲(メニ)2用意(ノ)1懷2中(ス)之(ヲ)1、】已上玉佩(ノ)之外(ハ)悉(ク)新(ニ)調(フ)v之(ヲ)と見ゆ、寫し誤れるもじ有と見えて、よみがたき所々有、
 
    契沖ほうしの墓のいしぶみ
僧契沖沒(ス)、實(ニ)元緑十四年(ナリ)矣、没(シテ)即塔(ス)2于圓珠庵(ニ)1、庵(ハ)在2大坂(ノ)東郊(ニ)1、距(ルコト)v今(ヲ)四十三年、塋城荒蕪(シテ)、款字漫剥(ス)、庵主源光憂v之、將v修(セムト)焉、乃謀(ル)2諸(ヲ)江友俊(ニ)1、素(ト)嗜(テ)爲2和歌(ヲ)1學v沖(ニ)焉、議便(チ)能(ク)合(フ)、遂(ニ)欲d別(ニ)造(テ)v碑(ヲ)、而記(シ)2其顛末(ヲ)1、以列(ント)c之(ヲ)冢上(ニ)u、乃※[人偏+卑](ム)2余(ヲシテ)文(セ)1v之(ニ)、余以2弗v識(ラ)v沖(ヲ)、且儒釋殊(ニスルヲ)1v塗(ヲ)也辭(ス)焉、俊(ガ)曰、沖雖2則(チ)緇流(ト)1、善(クシ)2和歌(ヲ)1、及治(メテ)3萬葉集(ヲ)1、而有(ル)v功2于訓詁(ニ)1者也、水戸義公(ノ)之命(ジテ)2詞臣(ニ)1爲(ルトキ)2萬葉集(ノ)纂註(ヲ)1也、介(シテ)而請(ス)v沖(ヲ)、固(ク)辭(シテ)不v就(カ)、於v是(ニ)乎撰(テ)2代匠記(ヲ)1以獻(ル)v之、總釋副(フ)焉、則公嘉(シテ)d其(ノ)善(ク)解2古言(ヲ)1、善(ク)釋(スルコトヲ)c古歌(ヲ)u、乃※[食+鬼]2白金千兩、絹三十匹(ヲ)1、以展2謝(ス)之(ヲ)1、沖即散(シテ)贍(ハシ)2貧乏(ヲ)1、修(シテ)2塔廟(ヲ)1、一錢尺帛(モ)、不2以隨(ヘ)1v身(ニ)、公又閲(シテ)2古今(ノ)餘材抄(ヲ)1、至(テ)2柿本(ノ)大夫(ノ)赤石(ノ)和歌(ノ)解(ニ)1、大(ニ)服(ス)2其卓見(ニ)1、乃復(タ)與(ヘテ)v書(ヲ)、強(テ)起(ス)v之(ヲ)、辭(シテ)曰(ク)、林壑之性、不(ト)v※[女+間]2拜趨(ニ)1、終(ニ)不v就(カ)、所v著(ス)漫※[口+金]集二十卷、下河邊長流子序(ス)v之(ニ)、厚顔抄、改觀抄、勝地吐懷篇、各三卷、勢語臆斷四卷、源注拾遺、名所補翼、各八卷、類字名所集七卷、和字正濫五卷、河社二卷、代匠記二十卷、總釋二卷、古今餘材抄十卷、沖爲(リ)v人(ト)也、寛厚(ノ)長者、謙恭愛(ス)v人(ヲ)、強識博覧、旁(ラ)通(ズ)2經史(ニ)1、嘗(テ)爲(メニ)v人(ノ)語(クニ)2萬葉集(ヲ)1、引證確實、雄辨如(シ)v注(クガ)、聽(ク)者悚然(トシテ)、以(テ)爲2古行秘書(ノ)之流亞(ト)1、幼(キ)時(ニ)、長流子誦(シテ)2其篇什(ヲ)1、莫2逆(シ)乎心(ニ)1、乃請(テ)爲(シ)2方外(ノ)之交(ヲ)1、相與(ニ)唱酬(シテ)以(テ)爲(ス)v得(タリト)2一鍾期(ヲ)1焉、其(ノ)優(レタルコトハ)2浮屠之法(ニ)1、即具(ニ)載2水戸(ノ)詞臣安藤爲明(ガ)所(ノ)v撰行状、及(ビ)僧義剛所(ノ)v録(スル)逸事状(ニ)1、此(レ)沖(ノ)之梗概爾(ト)、余聞(テ)v之(ヲ)嘆(ジテ)曰(ク)、斯(レ)異(ナリ)2乎世(ノ)僧之撰(ニ)1、其(レ)豈可(ムヤ)d以2浮屠(ノ)之故(ヲ)1郤(ク)uv之(ヲ)耶、乃取(テ)2行状(ヲ)1讀(ムニ)v之(ヲ)、沖姓(ハ)下川氏、諱(ハ)空心、祖考諱(ハ)元宜、仕(フ)2肥後守加藤清正(ニ)1、考諱元全、仕2尼崎(ノ)城主青山幸利(ニ)1、娶(テ)2間氏(ヲ)1生(ム)v沖(ヲ)、五歳、能(ク)誦(ス)2定家(ノ)所v輯(ル)和歌百首(ヲ)1、七歳、嬰(リ)v疾(ニ)幾死(ムトス)、乃懇2父母(ニ)1爲(ル)v僧(ト)、時(ニ)年十有三矣、性情澹愛(ス)v靜(ヲ)、不v欲v主(タルコトヲ)2巨刹(ニ)1、晩(ニ)住2持(ス)攝(ノ)之妙法寺(ニ)1、蓋(シ)爲(メ)v邇(キカ)2母氏(ノ)居(ニ)1也、母氏終(テ)2天年(ヲ)1、乃退2居(ス)圓珠庵(ニ)1、没年六十二、臘五十云、寛保三年癸亥孟冬、大坂五井純禎撰、この圓珠庵といふは、大坂の高《カウ》津のうち、餌指町といふところにて、此ほうしの墓は、その庵のしめの内、竹村《タカムラ》のかたはらにありて、まへにこの碑《イシブミ》はたてりとぞ、おのれさいつころ大坂にゆきて、此高津のわたり物せしをり、いかで立よりて、此はかもをがまばやと思ひしを、日くれかたになりて、やどれるところも、ほどゝほかりければ、道いそがれて、え物せざりきかし、此いしぶみの詞は、人のうつしてもたりけるを、又寫せる也、
 
    祇園の西門の前の大路の在家
百練抄に、寛元元年正月四日辛己、去夜祇園(ノ)西大門(ノ)前(ノ)大路(ノ)在家、南北兩面、拂(テ)v地(ヲ)燒亡(ス)、西(ハ)及(ビ)2橋(ノ)爪(ニ)1、東(ハ)至(リ)2今大路(ニ)1、南(ハ)限(ニ)綾小路(ノ)末(ヲ)1、及(ブ)2數百家(ニ)1、と見えたり、今の祇園町のところ也、そのころより、はやく家居おほかりしと見ゆ、後嵯峨(ノ)天皇の御世也、
 
    おのれとり分て人につたふべきふしなき事
おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古(ヘ)の書共をかむかへさとれるのみこそあれ、其家の傳へごとゝては、うけつたへたることさらになければ、家々のひめことなどいふかぎりは、いかなる物にか、一(ツ)だにしれることなし、されば又、人にとりわきて殊に傳ふべきふしもなし、すべてよき事は、いかにも/\、世にひろくせまほしく思へば、いにしへの書共を考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし、おのづからも、おのれにしたがひて、物まなばむと思はむ人あらば、たゞあらはせるふみどもを、よく見てありぬべし、そをはなちて外には、さらにをしふべきふしはなきぞとよ、
 
    もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事
おのれ今まことの道のおもむきを見明らめて、ときあらはせるを、漢學《カラマナビ》のともがら、かの國の老子といふものゝ説《トキゴト》によれり、と思ひいふ人、これかれあり、そも/\おのが道をとく趣は、いさゝかも私のさかしらをばまじへず、神典《カミノミフミ》に見えたるまゝなること、あだし注釋どもと、くらべ見て知べし、かくてその趣の、たま/\かの老子といふものゝ言と、にたるところ/”\のあるを見て、ゆくりなく、それによりていへりとは、例のかのもろこしの國をおきて外に國はなく、かの國ならでは、何事も始まらぬことゝ、ひたおもむきにおもひとれる、ひが心より、さは思ふな(ン)めり、いにしへより、漢(ノ)國と通へることなく、たがひに聞(キ)も及ばざりし國々にも、ほど/\につけつゝ、有べきかぎりの事は、おの/\本よりありける中にも、殊に皇國《ミクニ》は、萬(ヅ)の國の本、よろづの國の宗《オヤ》とある御國なれば、萬(ノ)國々にわたりて、正しきまことの道は、たゞ皇國にこそ傳はりたれ、他國《アダシクニ》には、傳はれることなければ、此道をしることあたはず、然るにもろこしの國に、かの老子といひしは、すぐれてかしこく、たどりふかき人にこそ有けめ、世のこちたくさかしだちたる教(ヘ)は、うはべこそよろしきにゝたれ、まことには、いとよろしからず、中々の物害《モノゾコナ》ひとなることをさとりて、まことの道は、かくこそあるべきものなれと、はし/”\みづから考(ヘ)出たることの中に、かむかへあてゝ、たま/\此まことの道に、似たるふし、合へることもあるなりけり、さるはまことの道は、もとより人のさかしらをくはへたることなく、皇神《スメカミ》の定めおき給へるまゝなる道にしあれば、そのおもむきをとかむには、かれが、さかしらをにくめる説は、おのづから似たるところ、あへるところ有べきことわり也、しかはあれども、かれがいへるは、たゞおのが智慮《サトリ》もて、考へ出たるかぎりにこそあれ、皇國に生れて、正しく此道を聞るにあらざれば、その主《ムネ》とある本のこゝろは、しることあたはず、いたくたがひて、さらに似もつかぬことなるを、かの漢學のともがら、しかたがへるところをばしらで、たま/\かたはし似たることのあるをとらへてそれによれりとしもいひなすは、いとをこ也かし、大かたよろづの事、おのづからこれにもかれにも、かよひてにたることは、かならずまじる物にて、此道も、儒のおもむきとかよへるところもまじり、佛の道とも似たることはまじれゝば、おのづからかの老子とも、かたはし似たるところ通へるところは、などかまじらではあらむ、
 
    道をとくことはあだし道々の意にも世の人のとりとらざるにもかゝはるまじき事道をとかむに、儒にまれ老にまれ佛にまれ、まれ/\に心ばへのかよへるところのあるをとらへて、おのが心のひくかたにまかせて、かよはぬところをも、すべてそのすぢに引よせてときなし、あるは又|他《アダシ》道と同じからんことを、いとひさけて、ことさらにけぢめを見せ、さまをかへて説《トカ》むとする、これらみないとあぢきなくしひたるわざ也、似ざらむもにたらむも、異《コト》ならむも同じからむも、とにかくに異道《アダシミチ》の意には、いさゝかもかゝはるべきわざにあらず、又かくときたらむには、世にうけひかじ、かくいひてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いさゝかもときまげむことは、又いとあるまじく、心ぎたなきわざ也、すべて世(ノ)人のほめそしりをも、思ふべきにはあらず、たとひあだし道々とは、うらうへのたがひあり、世にも絶えて信ずる人なからむにても、ただ神の御ふみのおもむきのまゝにこそはとくべきわざなりけれ、
 
    香をきくといふは俗言なる事
香《カウ》を聞(ク)といふは、もとからことにて、古(ヘ)の詞にあらず、すべて物の香《カ》は、薫物《タキモノ》などをも、かぐといふぞ雅言《ミヤビコト》にて、古今集の歌などにも、花たちばなの香をかげばと見え、源氏物語の梅枝(ノ)卷に、たき物共のおとりまさりを、兵部卿(ノ)宮の論《サダ》め給ふところにも、人々の心々に合せ給へる、深さ淺さを、かぎあはせ給へるに、などこそ見えたれ、聞《キク》といへる事は、昔の書に見えたることなし、今の世の人は、そをばしらで、香《カウ》などをかぐといはむは、いやしき詞のごと心得ためるは中々のひがこと也、きくといふぞ、俗言《サトビゴト》には有ける、
 
    もろこしに名高き物しり人の佛法を信じたりし事
佛の道は、もろこしの國にて、よゝに名高き儒者などの中にも、信じ尊みたるが、あまた聞ゆるによりては、まことにすてがたき物にこそ、と思ふ人あ(ン)めれど、かのもろこしにて、しか名高き物しり人どもの、佛をしんじ尊みたるやうなるは、まことの心に信じたふとみたるは、いとすくなくて、おほくはたゞもてあそびたるにこそあれ、さるはかの道の説《トケ》るやう、あやしく廣く大きにして、此世のほかを、とほく深く、さとり明らめたるさま、すべて心のおきてなど、めづらかにおかしきものなるが故に、詩作る人などは、さらにもいはず、さらぬも、これをもてあそびて、風流《ミヤビ》のたすけにぞした(ン)める、又その諸宗に、高僧と聞ゆるほうしどもの中にも、實に尊み信じて、おこなひたるにはあらで、世の中の人にたふとまれ、いさぎよくいみしき名をとゞめて、後の世まであふがれむために、その道のふみを深く學び、もろ/\の欲をも忍び、たへがたき行ひをもして、まことしげにふるまひたるぞ、多く見えた(ン)める、そも/\利のため名のためには、命をさへに、をしまぬたぐひもあるわざなれば、何かは、それはたあやしむべきことにもあらずかし、
 
    世の人佛の道に心のよりやすき事
ほとけの道には、さばかりさかしだちたる、今の世の人の心も、うつりやすきは、かならず其道よろしと、思ひとれるにしもあらねど、むかしよりあまねくさかりにて、おしなべて世(ノ)中の人の、皆おこなふわざなるに、かたへはもよほさるゝぞ多かりける、すべてなにわざも、世にあまねく、人のみなする事には、たれもすゞろに心のよりやすきならひぞかし、
 
    ゐなかにいにしへの雅言《ミヤビゴト》のゝこれる事
すべてゐなかには、いにしへの言のゝこれること多し、殊にとほき國人のいふ言の中には、おもしろきことゞもぞまじれる、おのれとしごろ心をつけて、遠き國人の、とぶらひきたるには、必(ズ)その國の詞をとひきゝもし、その人のいふ言をも、心とゞめてきゝもするを、なほ國々の詞共を、あまねく聞あつめなば、いかにおもしろきことおほからん、ちかきころ、肥後(ノ)國人のきたるが、いふことをきけば、世に見える聞えるなどいふたぐひを、見ゆる聞ゆるなどぞいふなる、こは今の世にはたえて聞えぬ、雅《ミヤ》びたることばづかひなるを、其國にては、なべてかくいふにやとゝひければ、ひたぶるの賤《シヅ》山がつは皆、見ゆるきこゆるさゆるたゆる、などやうにいふを、すこしことばをもつくろふほどの者は、多くは見える聞えるとやうにいふ也、とぞ語りける、そは中々今のよの俗《イヤシ》きいひざまなるを、なべて國々の人のいふから、そをよきことゝ心得たるな(ン)めり、いづれの國にても、しづ山がつのいふ言は、よこなまりながらも、おほくむかしの言をいひつたへたるを、人しげくにぎはゝしき里などは、他《コト》國人も入まじり、都の人なども、ことにふれてきかよひなどするほどに、おのづからこゝかしこの詞をきゝならひては、おのれもことえりして、なまさかしき今やうにうつりやすくて、昔ざまにとほく、中々にいやしくなんなりもてゆくめる、まことや同じひごの國の、又の人のいへる、かの國にて、ひきがへるといふ物を、たんがくといふなるは、古(ヘ)のたにぐゝの訛《ヨコナマ》りなるべくおぼゆ、とかたりしは、まことに然なるべし、此たぐひのこと、國々になほ聞ることおほかるを、いまはふと思ひ出たることをいふ也、なほおもひいでむまゝに、又もいふべし、
 
    年の始のせちといふ事 人の妻を内方といふ事
年のはじめに、いはゆる振舞などする事を、節《セチ》といふ、壬生(ノ)忠見家集に、あるところの屏風、正月せちするところ有、「春霞たつといふ日をむかへつゝ年のあるじと我やなりなむ、貫之家集に、つねすけの中納言(ノ)内方《ウチカタ》とあり、人の妻を内方といふは、ふるきことなりけり、
 
    催馬樂といふ名の事
長瀬(ノ)眞幸がいはく、催馬樂といふ名は、その初(メ)についでたる、吾駒の歌によれるもの也、その歌は、伊天安加己末《イデアガコマ》、波也久由支己世《ハヤクユキコセ》、萬川知也末《マツチヤマ》、安波禮《アハレ》、萬川知也末《マツチヤマ》、波禮《ハレ》、末川知也末《マツチヤマ》、萬川良无比止乎《マツラムヒトヲ》、由支天波也《ユキテハヤ》、安波禮《アハレ》、由支天波也見无《ユキテハヤミム》、これ也、此歌はもと、萬葉集十二に、乞吾駒《イデアガコマ》、早去欲《ハヤクユキコソ》、亦打山《マツチヤマ》、將待妹乎《マツラムイモヲ》、去而遠見牟《ユキテトクミム》とある歌也、はじめの二句、馬を催《モヨホ》す詞なるをもて、催馬樂とは名けたり、樂は、唐の樂曲どもの名、某樂々々《ナニラク/\》といふによりて、添(ヘ)たるにて、やがて其字音をとりて、良《ラ》とよぶ也、さて此吾駒の歌を、初(メ)とする故に、其名を、もろ/\の曲の惣名とせる也といへる、此説よろし、體源抄には、※[獣偏+百](ノ)朝葛(ガ)新作(ノ)續教訓抄(ニ)云(ク)、催馬樂といふは、催馬樂といふ樂あり、それより事おこれり、此樂の唱歌に、駒をもよほすといふことの有けるを、やがて歌になして、國々よりうたひ出したり、我駒といふ催馬樂これ也、といへれど、これは、かの歌もと萬葉の歌なることをしらずして、唐樂の唱歌より出たりと、誤りつたへたるひがことにて、國々よりうたひ出したりといへるも、ひがこと也、又ある説に、催馬樂といふは、いにしへ諸國より御貢物を納むる時、民の口すさびに、うたひたる歌にて、御貢物を負する馬を、かりもよほす意也といへるは、催馬といふ名につきて、造りたるつたなき説也、亦縣居(ノ)大人は、さいばりを、さいばらといひなせる也とて、やがて催馬樂を、さいばりとかゝれたれども、これも誤られたり、さいばりといふはもと、さいばりに衣はそめむ云々といふ歌の、一曲の名なるを、十六曲の惣名として、大|最張《サイバリ》小|最張《サイバリ》と分れたる、皆神樂歌の方につきたる物にて、催馬樂とは、もとより別物《コトモノ》なるをや、さてついでにいはむ、さいばりを、前張と書(ク)は、借字にて、初榛《サイバリ》也、さて又或説に、催馬樂といふは、もと唐樂の名也、和名抄、音樂(ノ)部曲調類、雙調の條に、柳花苑、春庭樂、催馬樂、狹鰭河、和風樂と、ならべあげたり、みな唐樂也といへるも、ひがこと也、これは、吾駒の歌など、雙調に奉る故に、雙調の曲の中へ、まじへ擧たるにこそあれ、唐樂に催馬樂といふあることなし、さる故にその催馬樂と擧たる、分注に、我駒(ノ)曲是也とあり、又其次なる狹鰭河も、催馬樂の中乃澤田川の曲也、すなはち分注に、澤田川曲是也とあり、唐樂に狹鰭河《サハタガハ》といふ名あるべきかは、又春庭樂和風樂なども、皇朝にて作れる曲にして、唐樂にはあらざるをや、さてついでにいはむ、催馬樂といふ名は、三代實録三の卷に、はじめて見えたり、
 
    吉野(ノ)朝の公卿補任
吉野の朝廷の公卿補任四卷あり、後醍醐天皇かしこにうつらせおはしまして、延元二年より、後龜山(ノ)天皇の御代、元中九年にいたるまで、すべて三御代、五十六年のほどの、公卿の昇進つぶさにしるせり、いとめづらしきふみなり、此書、備前(ノ)國、岡山の河本《カウモトノ》某が家にあり、この河本は、備後(ノ)三郎高徳が末にて、宇喜田氏の族、河本對馬守親家といひしが末也とかや、さるゆゑよしにてや、此書はつたへもたりけむ、今は岡山の商人なるを、あやしく世々書をあつむることを好みて、すべてやまともろこしのもろ/\の書ども、いとこゝらつどへもたりとぞ、
 
 
玉かつま八の卷
 
   萩 の 下 葉 八
 
  人はこず萩の下葉もかつちりて嵐は寒し秋の山ざと、はもじを重ねたる、いにしへの歌どもを見て、ふとおかしきふしにおぼえたるまゝに、われもいかでとよみ出たる也、きこえてやあらむ、聞えずやあらむ、われは聞えたりと思ふとも、人の見たらんには、いかゞあらん、きこえずやあらむ、しらずかし、
 
    ゐなかに古ヘのわざのゝこれる事
詞のみにもあらず、よろづのしわざにも、かたゐなかには、いにしへざまの、みやびたることの、のこれるたぐひ多し、さるを例のなまさかしき心ある者の、立まじりては、かへりてをこがましくおぼえて、あらたむるから、いづこにも、やう/\にふるき事のうせゆくは、いとくちをしきわざ也、葬禮婚禮《ハフリワザトツギワザ》など、ことに田舍《ヰナカ》には、ふるくおもしろきことおほし、すべてかゝるたぐひの事共をも、國々のやうを、海づら山がくれの里々まで、あまねく尋ね、聞あつめて、物にもしるしおかまほしきわざなり、葬祭《ハフリマツリ》などのわざ、後(ノ)世の物しり人の、考え定めたるは、中々にからごゝろのさかしらのみ、多くまじりて、ふさはしからず、うるさしかし、
 
    とつぐ めあはす
とつぐは、嫁(ノ)字をよむ故に、たゞ女の男にあふ方にのみつかへども、さにあらず、鎭火祭(ノ)祝詞に神伊佐奈伎伊佐奈美【乃】命《カムイザナギイザナミノミコト》、妹※[女+夫]二柱《イモセフタバシラ》、嫁繼給(※[氏/一])《トツギタマヒテ》云々、と有て、たゞ男女あふことなれば、いづ方よりもいふこと也、古今著聞集に、天野(ノ)遠景といふ者の事をいへる條《クダリ》に、渡邊《ワタナベ》にて、番《ツガフ》が妹にとつぎにけりと、男の方にもいへり、そのころまで、此言、いにしへの意をうしなはざりしなり、又めあはすといふは、女子を男に、おやのあはするかたにのみつかふめれど、然らず、古事記に目合《メアハ》すと書る意にて、これも只男女あふことにて、何方《イヅカタ》よりもいふこと也、すべて漢字と訓とは、ゆきたがひて、意のまたくは合《アハ》ざること多きを、後(ノ)世には、ひたすら其字の意をのみまもりて、言の意にかなはぬこと、此類いと多き也、
 
    すまひのほて又わき
相撲《スマヒ》の最手《ホテ》といふもの、三代實録四十九の卷に見えたり、うつほ物語としかげの卷にも、すまひのほてとあり、今の世にいはゆる關なり、西宮記の相撲(ノ)條に、最手《ホテ》額田(ノ)成連(ト)、與《ト》2腋宇治部(ノ)利里1、決(ス)2勝負(ヲ)1とある、腋《ワキ》は、今いふ關脇也、小右記にも、當時(ハ)腋也とあり、又西宮記江家次第などに、助手とあるも腋のことか、さて江家次第に、すまひの事をいへる處に、特鼻褌(ノ)上(ニ)、着(テ)2狩衣(ヲ)1差(ス)v紐(ヲ)と見え、古今著聞集には、烏帽子袴など着ながら、すそをくゝりて、とりたりしやうも見えたり、然るに榮花物語根合卷にははだかなるすがたどもの、なみたちたるぞ、うとましかりけるとあれば、むかしより、裸《ハダカ》にてもとりしにこそ、
 
    ふるき物またそのかたをいつはり作る事
ちかきころは、いにしへをしのぶともがら、よにおほくして、何物にまれ、こだいの物といへば、もてはやしめづるから、國々より、あるはふるきやしろ、ふるき寺などに、つたはりきたる物、あるは、土の中よりほりいでなど、八百年《ヤホトセ》千とせに、久しくうづもれたりし物共も、つぎ/\にあらはれ出來る類(ヒ)おほし、さてしかふるくめづらしきものゝ出來れば、その物はさらにもいはず、圖《カタ》をさへにうつして、つぎ/\とほきさかひまでも、寫しつたへて、もてあそぶを、又世には、あやしく僞(リ)する、をこのものゝ有て、これはその國のその社に、をさまれる物ぞ、その國のなにがしの山より、ほり出たる、なにのかたぞなど、古き物をも圖《カタ》をも、つき/”\しくおのれ造りいでゝ、人をまどはすたぐひも、又多きは、いと/\あぢきなく、心うきわざ也、さいつころ、いにしへかひの國の酒折宮《サカヲリノミヤ》にして、倭建(ノ)命の御歌の末をつぎたりし、火ともしの翁のかた、火揚(ノ)命(ノ)像としるしたる物を、かの酒折(ノ)社の、屋根の板のはざまより、近き年出たる也とて、うつしたる人の見せたる、げに上(ツ)代の人のしわざと見えて其さまいみしくふるめきたりければ、めづらかにおぼえて、おのれうつしおきたりしを、なほいかにぞや、うたがはしくはたおぼえしかば、かの國に、その社ちかき里に、弟子《ヲシヘコ》のあるが許へ、しか/\のものえたるは、いかなるにかと、とひにやりたりしもしるく、はやくいつはりにて、すなはちかのやしろの神主飯田氏にもとひしに、さらにかたもなき事也と、いひおこせたりき、又同じころ、檜垣嫗《ヒカキノオウナ》が、みづからきざみたる、ちひさき木の像《カタ》の、肥後(ノ)國の、わすれたり、何とかいふところより、ちかく掘出たる、うつしとて、こゝかしこに寫しつたへて、ひろまりたる、これはた、出たる本を尋ぬるに、たしかなるやうにはきこゆれど、なほ心得ぬこと有て、うたがはしくなむ、すべてかうやうのたぐひ、今はゆくりかにはうけがたきわざ也、心すべし、
 
    言の然いふ本の意をしらまほしくする事
物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの意を、しらまほしくして、人にもまづとふこと、常也、然いふ本のこころとは、たとへば天《アメ》といふは、いかなる意ぞ、地《ツチ》といふは、いかなる意ぞ、といふたぐひ也、これも學びの一(ツ)にて、さもあるべきことにはあれども、さしあたりて、むねとすべきわざにはあらず、大かたいにしへの言は、然いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、よく明らめしるべき也、用ひたる意をだに、よくあきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべき也、そも/\萬(ヅ)の事、まづその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論なけれど、然のみにもあらぬわざにて、事のさまによりては、末よりまづ物して、後に本へはさかのぼるべきもあるぞかし、大かた言の本の意は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也、されば言のはのがくもんは、その本の意をしることをば、のどめおきて、かへす/\も、いにしへ人のつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざなり、たとひ其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなるところにつかひたりといふことをしらでは、何のかひもなく、おのが歌文に用ふるにも、ひがことの有也、今の世古學をするともがらなど殊に、すこしとほき言といへば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのがつかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし、すべて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意とは、多くはひとしからぬもの也、たとへばなか/\にといふ言はもと、こなたへもかなたへもつかず、中間《ナカラ》なる意の言なれども、用ひたる意はたゞ、なまじひにといふ意、又うつりては、かへりてといふ意にも用ひたり、然るを言の本によりて、うちまかせて、中間《ナカラ》なる意に用ひては、たがふ也、又こゝろぐるしといふ言は、今の俗言《ヨノコト》に、氣毒《キノドク》なるといふ意に用ひたるを、言のまゝに、心の苦《クルシ》きことに用ひては、たがへり、さればこれらにて、萬の言をも、なずらへ心得て、まずいにしへに用ひたるやうをさきとして、明らめしるべし、言の本にのみよりては、中々にいにしへにたがふことおほかるべしかし、
 
    長歌の詞のつゞき五七なると七五なるとの事
今の人の、ふるき長歌をよみあぐるをきくに、おほく七五七五とよみつゞくめれど、萬葉の長歌の、句のはこびを見るに、其詞みな、五七五七とつゞきて、七五とつゞきたるところは、いと/\まれ也、されば今これを誦《ヨマ》むにも、詞のまゝに、五七/\とこそよむべきなれ、然るに古今集よりこなたの長歌は、はじめの句は、五七なれども、つぎ/\は、おほく七五/\とつゞきたり、今此けぢめをこゝろむるに、すべて七五/\とよむかた、たよりよくて、しらべもよろしきやうにおぼゆるにつきて思ふに、古今集のころよりして、はやくさありけむゆゑに、そのかみゝづからよみ出る歌も、おのづから然つゞきたるなるべし、さて中ごろの今やうといふ物、そのゝちのもの、ちかき世の俗《サトビ》たるうたのたぐひ、すべて後の物は皆、はじめの句より七五也、そも/\萬葉のころまでは、五七とつゞくかた、しらべよろしかりけむを、古今集のころよりして、七五となりて、今もそれよろしくおぼゆるは、いにしへと後の世との、おのづからのしらべのかはりなるべし、今(ノ)世に、萬葉風をよむ人おほくて、何事も、後の世をばわろしといふものゝ、そのよめる長歌を見れば、そのことば、おほくは七五/\とつゞけるは、此けぢめをえしらずして、なほ後の世のおのづからのしらべを、えまぬかれざる也、古今集のなが歌、はじめなる二首は、五七とも、七五とも、まじりてつゞけるを、後の三首は、おほかた七五とさだまれり、
 
    今の人の歌文ひがことおほき事
ちかきよの人のは、うたも文も、大かたはよろしと見ゆるにも、なほひがことのおほきぞかし、されどそのたがへるふしを、見しれる人はたよになければ、たゞかいなでに、こゝかしこえんなることばをつかひ、よしめきて、よみなしかきちらしたるをば、まことによしと見て、人のもてはやし、ほめたつれば、心をやりて、したりがほすめる、いとかたはらいたく、をこがましくさへぞおもはるゝ、さるにつけては、かくいふおのが物することも、なほいかにひがことあらむと、物よくみしれらむ人のこゝろぞ、はづかしかりける、人のひがことの、よく見えわかるゝにつけては、我はよくわきまへたれば、ひがことはせずと、思ひほこれど、いにしへのことのこゝろをさとりしるすぢは、かぎりなきわざにしあれば、此外あらじとは、いとなんさだめがたきわざなりける、
 
    歌もふみもよくとゝのふはかたき事
ちかきよの人の歌ども文どもを、見あつむるに、一ふしおかしとめとまることは、ほど/\にあまたあ(ン)めれど、それはたいかにぞやおぼゆるところはまじりて、大かたきずなくとゝのひたるは、をさ/\見えず、これを思へば後の世にして、いにしへをまねぶことは、いと/\かたきわざになむ有ける、いにしへのかしこき人々のだに、これはしも、露のきずなしとおぼゆるは、多かる中にも、すくなくなんあれば、まして今の人のは、いさゝかなるきずをさへに、いひたてむは、あながちなるにやあらむ、されど同じくは、ひとのいさゝかもなんずべきふしまぜぬさまにこそはあらまほしけれ、よきほどにて、心をやるをば、もろこしのいにしへのひとも、よからぬことにいひおきけるをや、
 
    こうさく くわいどく 聞書
いづれの道のまなびにも、講釋とて、古き書のこゝろをときゝかするを、きくことつね也、中昔には、これを談義となんいひけるを、今はだんぎとは、法師のおろかなるもの共あつめて、佛の道をいひきかするをのみいひて、こうさくといふは、さまことなり、さて此こうさくといふわざは、師のいふことのみたのみて、己が心もて、考ふることなければ、物まなびのために、やくなしとて、今やうの儒者《ズサ》などは、よろしからぬわざとして、會讀といふことをぞすなる、そはこうさくとはやうかはりて、おの/\みづからかむかへて、思ひえたるさまをも、いひこゝろみ、心得がたきふしをば、とひきゝ、かへさひもして、かたみにあげつらひ、さだむるわざなれば、げに學問のために、よろしきしわざとは聞えたれど、それさしもえあらず、よの中に此わざするを見るに、大かたはじめのほどこそ、こゝかしこかへさひ、あげつらひなどさるべきさまに見ゆれ、度かさなれば、おのづからおこたりつゝ、一ひらにても、多くよみもてゆかむとするほどに、いかにぞやおぼゆるふし/”\をも、おほくなほざりに過すならひにて、おほかたひとりゐてよむにも、かはることなければ、殊に集《ツド》ひたるかひもなき中に、うひまなびのともがらなどは、いさゝかもみづから考へうるちからはなきに、これもかれも聞えぬごとがちなるを、こと/”\にとひ出むこともつゝましくて、聞えぬながらに、さてすぐしやるめれば、さるともがらなどのためには、猶講釋ぞまさりては有ける、されどこうさくも、たゞ師のいふことをのみ頼みて、己(レ)ちからいれむとも思はず、聞(ク)ことをのみむねとせむは、いふかひなくくちおしきわざ也、まず下見《シタミ》といふことをよくして、はじめより、力のかぎりは、みづからとかく思ひめぐらし、きこえがたきところ/”\は、殊に心をいれてかへさひよみおけば、きく時に、心のとまる故に、さとることも、こよなくして、わすれぬもの也、さて聞て、家にかへりたらむにも、やがてかへり見といふことをして、きゝたりしおもむきを、思ひ出て味ふべし、また聞書といひて、きく/\その趣をかきしるすわざ有(リ)、そは中にわすれもしぬべきふしなどを、をり/\はいさゝかづゝしるしおかむは、さも有べきわざなるを、はじめより師のいふまゝに、一言ももらさじと、筆はなたず、こと/”\にかきつゞくるかし、そも/\こうさくは、よく心をしずめて、ことのこゝろを、こまやかにきゝうべきわざなるに、此きゝがきすとては、きくかたよりも、おくれじとかく方に、心はいそがれて、あわたゝしきに、殊によくきくべきふしも、かいまぎれて、きゝもらし、あるはあらぬすぢに、きゝひがめもするぞかし、然るにこれをしも、いみしきわざに思ひて、いかでわれこまかにしるしとらむと、たゞこれにのみ心をいれて、つとむるほどに、もはら聞書のためのこうさくになるたぐひもおほかるは、いと/\あぢきなきならひになん有ける、
 
    かむかへといふ詞
かむかへといふ言、かんがへとも、かうがへともいふは、後の音便にて、もとは、むを牟《ム》と、たしかにいひ、下のかをも、清《スミ》ていひし詞なるべし、其故は、此言の意、かはいかならむ、いまだ思ひえざれども、むかへは、かれとこれとを、比校《アヒムカ》へて思ひめぐらす意なるべきを、音便にむをんともうともいひなすから、その音便に引《ヒカ》るゝ例にて、かをも濁る也、然るをちかきころ、古學のともがらの文に、これをかゞなへとしもいふなるは、かつて例もよしもなきみだりごと也、こはもと、わがあがたゐのうしの文に、かきそめられたることにて、そのよりどころは、倭建(ノ)命の御歌に、かゞなべて、よにはこゝのよ云々とあるを、心得誤られたるもの也、此御歌のかゞなべては、考へてといふことにはあらず、然るを後の學者、そのもとをも、よくもたづねたゞさずして、たゞかの大人の書れたるを、ゆくりなくよりどころにして、みだりにいふは、いかにぞや、すべて近きとしごろ古學のともがらのくせにて、しひて文をふるめかさむとて、かゝるたぐひのひがことのみしちらす、いとこゝろづきなく、うるさきわざ也、
 
    いはんやといふ詞
況《イハンヤ》は、いはんやはいふにも及ばずといふ意の言也、平(ノ)康頼入道が寶物集に、申さんや十六丈をや、いはんや金銅をやと、大佛のすぐれたるよしをいへり、此申さむやともいへるにて心得べし、
 
    用  捨
ゆるすことを、俗言に、用捨するといふは、白氏文集の中の文に、若(シ)違(ヒテ)v命(ニ)執(スルトキハ)v迷(ヲ)、則|罔《ナカラム》v有(ルコト)2容捨(スルコト)1といへる、これ全く俗にいふと同じ意也、此字なるべし、用(ノ)字をかくは、用ふると捨るとをいふ用捨と、混《マガ》ひつるなり
 
    つ ぼ ね
榮花物語若枝(ノ)卷に、はかなく屏風几帳ばかりを、ひきつぼねて、ひまもなくゐたりと有(リ)、局《ツボネ》といふは、つぼやかにつぼねたるところのよしなり、
 
    枕  詞
天又月日などいはむとて、まづひさかたのといひ、山といはむとて、まづあしひきの、といふたぐひの詞を、よに枕詞といふ、此名、ふるくは聞も及ばず、中昔の末よりいふことなめり、是を枕としもいふは、かしらにおく故と、たれも思ふめれど、さにはあらず、枕はかしらにおくものにはあらず、かしらをさゝゆるものにこそあれ、さるはかしらのみにもあらず、すべて物のうきて、間《アヒダ》のあきたる所を、さゝゆる物を、何にもまくらとはいへば、名所を歌枕といふも、一句言葉のたらで、明《アキ》たるところにおくよしの名と聞ゆれば、枕詞といふも、そのでうにてぞ、いひそめけんかし梅の花それとも見えずひさかたの云々、しのぶれど戀しき時はあしひきの云々などのごとし、そも/\これらは、一つのさまにこそあれ、なべて然るにはあらざるを、後の世人の心にて、さる一かたにつきてぞ、名づけたりけむ、なべてはかしらにおく詞なれば、吾師の、冠詞《カウブリコトバ》といはれたるぞ、ことわりかなひては有ける、しかはあれども、今はあまねく、枕詞といひならひたれば、ことわりはいかにまれ、さてもありぬべくこそ、
 
    筑前國續風土記
筑前(ノ)國續風土記といふ物あり、貝原(ノ)篤信があらはせるふみにて、かの國内の事どもを、くはしくしるしたり、おのれそのうちわづかに、六七八十五十六と、五卷を見たり、其(ノ)餘《ホカ》はいまだ見えず、十五十六の二まきは、宗像郡のことをしるして、十五の卷は、四十四五ひらある、もはら宗像(ノ)三前の御社の事をしるせり、此一まきは、寫しおきたり、六七八の三卷は、御笠(ノ)郡也、そも/\この見原の翁は、名たかき儒者にて、こゝらの書どもをあらはして、皆よにひろまれるを、此風土記はしも、中に大きなるふみなるに、いまだ世にしる人まれにして、おのれも、ちかきころはじめてしれる、いとめづらかにおぼえて、かき出たり、
 
    玄蘇といひしほうし
豐臣(ノ)太閤の朝鮮|伐《ウチ》の時に、その命《ミコト》をうけ給はりて、明《ミン》の國にまかり渡りて、その國王にもあひて、筆談などして、かの國の書にも見えたる、玄蘇といひし禅ぼうしは、筑前(ノ)國宗像(ノ)郡西郷といふ所の人にて、伊豆(ノ)國の伊東(ノ)祐清が末なりし者の、筑前に來り住めりしが子孫に、河津新四郎隆業といひし人の子也、天文六年に、此西郷に生れ、後には對馬にすめり、此僧の詩文の集を、仙巣稿といふ、慶長十六年十二月廿二日に、七十五にして、つしまにてみまかれりと、かの筑前續風土記に記せり、
 
    かんなまんな ひんがしみんなみ
假字《カナ》をかんなとはいふべし、眞字《マナ》をまんなといへるは、ひがことなり、かなは、もとかりなゝれば、その|り〔右○〕を、音便にんといひて、かんなとはいふなるを、眞字《マナ》は、まんなといふべきことわりなし、そはかんなにならひて、ゆくりなく、同じさまに|ん〔右○〕をそへたるものなり又、南《ミナミ》をみんなみといふも、ひがこと也、これもひんがしにならひて、みだりに|ん〔右○〕をそへたる也、ひんがしは、もとよりひ|む《ム》かしなれば、その|む〔右○〕を、例の音便に|ん〔右○〕といひ、ん〔右○〕にひかれて、その下の|か〔右○〕を濁るも例也、然るにみなみは、みんなみといふべきよしなし、そも/\音便にて、ん〔右○〕を添ていふ言も、多かれど、此まんなみんなみは、其例にはあらで、かんなひんがしにならひたる、みだりごとなりかし、
 
    男の名に某子《ナニコ》といへる事
中昔よりこなた、女(ノ)名に某子《ナニコ》といふこと、なべての例也、いにしへにもをり/\見えたり、さていにしへは、男の名にも、子といへる多し、まづ神武天皇の御世に、石押分之子《イハオシワクノコ》、贄持之子《ニヘモツノコ》といふあり、古事記仁徳天皇(ノ)御段に、丸邇《ワニノ》臣|口子《クチコ》、書紀應神(ノ)御卷に、壹岐(ノ)直眞根子《マネコ》、仁徳(ノ)御卷に、茨田(ノ)連|衫子《コロモノコ》、又佐伯(ノ)直|阿俄能胡《アカノコ》、履中(ノ)御卷に、阿曇(ノ)連濱子、雄略(ノ)御卷に、佐伯部(ノ)仲子《ナカチコ》、又難波(ノ)吉士|赤目子《アカメコ》、又|倭子《ヤマトコノ》連、又水(ノ)江(ノ)浦嶋子、繼體(ノ)御卷に、筑紫(ノ)君|葛子《クズコ》、又|目頬子《メヅラコ》、安閑(ノ)御卷に、稚子(ノ)直、欽明(ノ)御卷に、中臣(ノ)連鎌子、又葛城(ノ)山田(ノ)直|瑞子《ミヅコ》、敏達(ノ)御卷に、吉士金子、又大伴(ノ)糠手子《ヌカテコノ》連、又物部(ノ)贄子《ニヘコノ》連、推古(ノ)御卷に小野(ノ)臣妹子など見えたり、さて右の名どもの中に、石押分之子《イハオシワクノコ》贄持之子《ニヘモツノコ》、古事記書紀ともに、之(ノ)字あり、仁徳(ノ)御卷の衫子《コロモノコ》の訓注に、※[草冠/呂]呂母能古《コロモノコ》と見え、また阿俄能胡《アガノコ》、又浦嶋(ノ)子、又中臣(ノ)系圖に、鎌足公の祖父の名、方子とも、加多能子《カタノコ》とも書る、これらによらば、すべて皆|某之子《ナニノコ》と、之《ノ》をそへてよむべきかと思はるれど、又繼體(ノ)御卷なる目頬子《メツラコ》を、歌に梅豆羅古《メヅラコ》とあれば、なべて之《ノ》といふべきにもあらず、さて又推古(ノ)御卷に、阿倍(ノ)臣|鳥《トリ》といふ人を、鳥子ともあり、又敏達の御卷なる糠手子(ノ)連を、崇峻(ノ)御卷には、糠手(ノ)連と見え、舒明(ノ)御卷に、中臣(ノ)連|彌氣《ミケ》とある人を、家(ノ)系圖には、御食子《ミケコノ》大連公と見え、又皇極(ノ)御卷に、巨勢(ノ)臣|徳太《トコダ》とある人を、孝徳(ノ)御卷には、徳陀古《トコダコ》ともある、これらをもて見れば、子といふことを、はぶきてもそへてもいへるも有しにや、
 
    出定後語といふゝみ
ちかきよ大坂に、富永仲基といへりし人有(リ)、延享のころ、出定後語といふゝみをあらはして、佛の道を論へる、皆かの道の經論などいふ書どもを、ひろく引出て、くはしく證《アカ》したる、見るにめさむるこゝちする事共おほし、そも/\此人、儒のまなびをも、いふかひなからずしたりと見えて、その漢文も、つたなからず、佛ぶみを見明らめたるほどはしも、諸宗の物しりといはるゝほうしも、かばかりはえあらぬぞおほか(ン)めるを、ほうしにもあらで、いといみしきわざにぞ有ける、そのゝち無相といひしほうしの、非出定といふ書をあらはして、此出定をやぶりたれど、そはただおのが道を、たやすくいへることをにくみて、ひたぶるに大聲を出して、のゝしりたるのみにて、一くだりだに、よく破りえたることは見えず、むげにいふかひなき物也、さるは音韻のまなびに、名高き僧《ホウシ》なるを、ほとけぶみのすぢは、うとかりしと見えたり、されどかの道のまなびよくしたるほうしといふとも、此出定をば、えしもやぶらじとこそおぼゆれ、
 
    萬葉集に乎知《ヲチ》といふ言、郭公にをちかへりとよむ言
萬葉集五の卷に、「わがさかりいたくくだちぬ雲にとぶ藥はむともまた遠知《ヲチ》めやも、「雲にとぶくすりはむよは京《ミヤコ》見ばいやしき我身また越知《ヲチ》ぬべし、此二つの遠知《ヲチ》といふ言、落《オチ》にしては、假字もたがひ、歌の意も聞えず、昔より解《トキ》えたる人なきを、おのれ考(ヘ)得たり、まづ此二うたは、久しく筑紫に在て、京を戀しく思ひてよめるにて、はじめの歌の意は、わがよはひさかり過て、いたくおとろへたり、今はかのもろこしに有し、淮南王の仙藥を服《ハム》とも、又わかき昔にかへることはえあらじと也、次なるは、淮南主の藥をはまんよりは、我は、京を見たらば、又昔にかへりて、わかくなるべしと也、遠知《ヲチ》は、何事にても、又もとへかへる意にて、此歌どもなるは、身の又わかゝりしむかしにかへるをいへる也、十七の卷、家持主の鷹の長歌に、「手《タ》ばなれも乎如《ヲチ》もかやすき云々こは鷹をほめたるにて、この乎知《ヲチ》は、本の手へかへりくる事をいへる也、廿の卷に、「わが屋戸に咲るなでしこまひはせむゆめ花ちるないや乎知《ヲチ》にさけ、是も又はじめへかへり/\して、いよ/\久しく咲《サ》けといへる也、又つねに、郭公の歌に、をちかへり鳴とよむも、本のところへ又かへり來てなくをいふ也、此詞の意、右の歌共を引合せて、たがひにあひてらしてしるべし、
 
    萬葉集に多太加《タヾカ》といふ詞と麻佐加《マサカ》といふ詞との事
萬葉に見えたる、多太加といふ言と、麻佐加といふ言と、まぎらはしきが如し、されど此けぢめは、その言のつゞきざま、歌の意にていとよく分れて、まぎるゝことはなきを、今の本、訓を誤れるところあるによりて、まぎらはしきやうに思ふめり、そはまづ多太加の方は、君之直香《キミガタヾカ》、公之正香《キミガタヾカ》、吉美賀多太可《キミガタヾカ》、妹之直香《イモガタヾカ》、妹之正香《イモガタヾカ》など有て、此外のいひざまはなし、麻佐加の方は、眞坂者君爾縁西物乎《マサカハキミニヨリニシモノヲ》、また何時之眞坂毛常不所忘《イツノマサカモツネワスラエズ》、また麻左香毛可奈思《マサカモカナシ》、また麻左可思余加婆《マサカシヨカバ》、また伊末能麻左可母《イマノマサカモ》など有て、多太加とは、いひざまいたく異《コト》也、然るをかの正香と書るを、誤りて麻佐加と訓るから、まぎらはしき也、正香は、麻佐加にあらず、多太加なること、いひざまの例をもてわきまふべし、さて多太加とは、君また妹を、直《タヾ》にさしあてゝいへる言にて、君妹とのみいふも、同じことに聞ゆる也、麻佐加とは、行(ク)末に對へて、今さしあたる時をいへり、集中によめる歌共を、考へわたして知べし、其中に、由理《ユリ》といふに對へていへる有(リ)、由理《ユリ》も、後といふ意にて、今に對ひたる言也、さて今の俗言《ヨノコト》に、まさかの時といふ言あるも、此まさかにて、意の轉《ウツ》りかはりたるなり、
 
    某屋《ナニヤ》といふ家の號《ナ》の事
近き世商人の家の號《ナ》、おしなべて某屋《ナニヤ》といふ、それにいろ/\のしなあり、まづ酒屋米屋などいふたぐひは、其物をうるよしにて、こはふるくもいひしことにぞ有けむ、又大和屋河内屋、堺屋大津屋などのたぐひは、先祖の出たる國里の名也、又えびす屋大黒屋などは、福神といふをもて、いはひたる也、又松屋藤屋桔梗屋菊屋、鍵屋玉屋、海老屋龜屋などいふたぐひ、木草の名、うつは物の名、あるは魚鳥の名などもてつけたるは、風流《ミヤビ》たるをこのめるにて、これも中原(ノ)康富(ノ)記に、應永廿七年十一月七日壬申、春日祭也、予依(テ)v爲(ルニ)2分配1、早朝南都(ニ)下向(ス)、天蓋大路(ノ)龜屋(ニ)着(ク)之、史員職行秀等同宿也、とあるを見れば、そのかみもはやく有しこと也、この龜屋は、旅人やどす家にや有けむ、さてこのたぐひの號《ナ》は、もろこしの國にて、某堂某亭某軒某齋などいふと、同じこゝろばへなり、さる故にむかしは、商人《アキヒト》のみならず、然るべき者も、好みてつけたりと見えて、伊勢の御師といふものなどにも、某屋《ナニヤ》大夫といふが多く有(ル)也、そはもと風流《ミヤビ》たるを好みてつけたる物なるを、あき人の家におしなべて、某屋とはつくゆゑに、今はかへりて卑《イヤシ》き號《ナ》となりて先祖より傳はりたるをも、いとひて、屋(ノ)字を、谷にかへなどすめり、さてもろこしの、某堂某齋のたぐひは、物しり人|風雅人《ミヤビヾト》なども、商人も、かはることなくて、同じさまにつく事なるを、御國にてもまねびて、つく人多き、それをば、あき人の家の號《ナ》に同じとて、いとふことなきは、からめきたるにまぎるればなるべし、しかるに近きころ、古(ヘ)のまなびするともがらは、その某堂某齋のたぐひは、からめきたるをうるさがりて、皇國《ミクニ》ことばもてつけむとするに、かの松屋藤屋のたぐひは、さすがにさけむとする故に、つくべき號《ナ》なくて、思ひわぶめり、或は某《ナニ》の屋と、のもじを添て、分むとすれども、木草などのうちに、みやびたる名は、數おほからねば、こゝにもかしこにも、同じことのみいでくめり、そも/\もろこしのは、多く二字をつらねてもつくる故に、いかさまにも心にまかせて、めづらしくつくべきを、皇國言は、二つかさねては、長くなりて、よびぐるしければかにかくにつけにくきわざ也かし、
 
    もろこしの國に丙吉といひし人の事
わらはべの蒙求といふからぶみよむをきけば、かの國の漢といひし代に、丙吉といふ大臣有けり、春のころ、物へゆく道に、牛の人にひかれてくるが、舌を出して、いみしく苦しげに、あへぐを見て、いま夏にもあらざるに、此うしいたく暑ければこそ、かくは喘《アヘ》ぐなれ、すべて寒さぬるさの、時にかなはぬは、天の下のそこなひあるべきことぞ、國の大臣は、もはら陰陽をとゝのふることを、むねとすべきつかさなるに、今かゝるは、わがうれふべきこと也、といひければ、みな人げにとかしこまりて、よにいみしきことに思ひあへりとぞ、今おもふに、こはいとをこがましきこと也、暑きころならずとて、ことによりては、などかしかあへぐこともなからん、又さばかり陰陽のとゝのひを、心にかけたらむには、つねにみづからこゝろむべきわざなるに、たま/\道かひに、此牛のさまを見て、ゆくりなくさとりたるは、いかにぞや、もし此うしのあへぐを見ずは、しらでやむべきにや、さればこは、まことにさ思ひていへるにはあらで、人にいみしきことに思はせむとての、つくりことにこそ有けれ、もしまことにしか心得たらんには、いふかひなきしれものなるを、よにいみしきことにしるしつたへたるも、いとをこなり、又もとより陰陽をとゝのふなどいふこと、あるべくもあらず、すべて世の中の事は、時々の天地のあるやうも何も、みな神の御しわざにて、時の氣《ケ》のかなひかなはぬなど、さらに人のしるべきわざにはあらぬを、かくこと/”\しげにいひなすは、すべてかの國人のならひにて、いと/\こちたく、うるさきわざ也かし、
 
    周公旦がくひたる飯を吐出して賢人に逢たりといへる事
又きけば、周公旦といひける聖人の、子をいましめたる詞に、我一(タビ)沐(スルニ)三(タビ)握(リ)v髪(ヲ)、一(タビ)飯《クフニ》三(タビ)吐(テ)v哺(ヲ)、起(テ)以(テ)待(ツ)v士(ヲ)、猶恐(ル)v失(ハムコトヲ)2天下(ノ)之賢人(ヲ)1といへり、もしまことに然したりけむには、これもよの人にいみしきことに思はせむための、はかりこと也、いかに賢人を思へばとて、口に入たらむ飯を、呑《ノミ》いるゝまを、またぬやうやは有べき、出迎へむ道のほどにても、のみいれむことは、いとやすかるべきを、ことさらに吐出して、人に見せたるは、何事ぞや、すべてかの國には、かくさまに、甚しくけやけきふるまひをしたるたぐひの、何事につけても多きは、みな名をむさぼりたる物にして、例のいとうるさきならひ也、
 
    藤谷(ノ)成章といひし人の事
ちかきころ京に、藤谷(ノ)專右衛門成章といふ人有ける、それがつくれる、かざし抄あゆひ抄六運圖略などいふふみどもを見て、おどろかれぬ、それよりさきにも、さる人有とは、ほの聞たりしかど、例の今やうの、かいなでの歌よみならんと、みゝもたゝざりしを、此ふみどもを見てぞ、しれる人に、あるやうとひしかば、此ちかきほど、みまかりぬと聞て、又おどろかれぬ、そも/\此ごろのうたよみどもは、すこし人にもまさりて、もちひらるゝばかりにもなれば、おのれひとり此道えたるかほして、心やりたかぶるめれど、よめる歌かける文いへる説などをきけば、ひがことのみ多く、みないとまだしきものにて、これはとおぼゆるは、いとかたく、ましてぬけ出たるは、たえてなきよにこの藤谷は、さるたぐひにあらず、又ふるきすぢをとらへてみだりに高きことのみいふともがらはた、よにおほかるを、さるたぐひにもあらず、萬葉よりあなたのことは、いかゞあらむ、しらず、六運の辨にいへるおもむきを見るに、古今集よりこなたざまの歌のやうを、よく見しれることは、大かたちかき世に、ならぶ人あらじとぞおぼゆる、北邊集といひて歌の集もあるを、見たるに、よめるうたは、さしもすぐれたりとはなけれど、いまのよの歌よみのやうなるひがことは、をさ/\見えずなん有ける、さもあたらしき人の、はやくもうせぬることよ、その子の專右衛門といふも、まだとしわかけれど、心いれて、わざと此道ものすときくは、ちゝのけはひもそはりたらむと、たのもしくおぼゆかし、それが物したる書どもゝ、これかれと、見えしらがふめり、
 
    けだしといふことば
からぶみに、蓋《ケダシ》といへる字は、おほかた、物をおしはかりて、さだめたるところにおけるやうに見ゆるを、萬葉集に、此ことばのをり/\あるを考ふれは、からぶみなるとは、意もいひざまも、やゝかはりて、もしかくもあらむか、といふところにつかひたり、二の卷に、「いにしへにこふらむ鳥はほとゝぎすけだしや鳴しわがこふるごと、すべても聞えにくきやうなれど、これは、郭公は、いにしへを戀る鳥といふなれば今鳴つるも、もしはわがごとくに、古(ヘ)をこひてなきたるにやあらん、といふ意也、三の卷に、山守はけだし有ともとあるは、もし山守は有とも也、同卷に、けだしあはむかもとあるは、もしあふこともあらんか也、四の卷に、けだしくもといへるは、もしも也、又けだし夢に見えきやとあるは、もしそれゆゑに夢に見えたるか也、又けだし門よりかへしなんかも、もし門よりかへしやせんなり、集の中なる、いづれも、かくのごとく見て、聞ゆるなり、其中に、十九の卷に、けだしあへむかもとあるひとつは、すこしたがへるがごと聞ゆめれど、意は、たへてあられむか、もしはえたへざらんか、といへる也、あへは堪《タヘ》なり、
 
    馬  子《マゴ》
西宮記に、馬子六人、馬子四人など見えたり、馬につきたる者也、今の世に、まごといふはこれなり、
 
    將  碁
明月記に、圍碁雙六將騎等(ノ)盤とある、將騎は、將碁のことなるべし、園大暦に、大炊御門(ノ)大納言入道同(ク)入來有2將碁(ノ)興1とあり、
 
    わらはやみをおこりといふ事又おこりび
同明月記に、二位殿御|發心地《オコリゴヽチ》、今日令(メ)v發《オコラ》給(フ)とあり又園大暦に、春宮(ノ)大夫瘧病、未(ダ)2落居1、今日即|發日《オコリビ》也、
 
    續  木《ツギヽ》
同記に、寛喜二年三月七日、兩株(ノ)八重櫻、【一條殿(ノ)枝續木】花漸(ク)開(ク)、永日徒然、令(ム)v分(ケ)2栽菊(ノ)苗(ヲ)1、【草(ハ)不v憚2土用1】と見えたり、續木《ツギヽ》といふこと、此ころもはやく有けり、
 
    爲(メ)2後日(ノ)1といふこと 立(チ)物といふこと
今證文のおくに、爲(メ)2後日(ノ)1とかく事、應徳元年又永保三年などの、家地賣買券に、仍(テ)爲(メニ)2後日(ノ)1立2新券(ヲ)1、また仍(テ)爲(メニ)2後日(ノ)1、相2副(ヘ)本券等(ヲ)1、立(ルコト)2新券(ヲ)1如v件、などあり、また屋藏などのたぐひを、たち物といふことも、右の永保三年の券に、立《タチ》物屋捌宇とあり、みな朝野群載廿一の卷に見えたり、
 
    は や か ね
元長卿(ノ)記に、大永五年二月二日、云々、相國寺有2早鐘1、未(ダ)聞2子細(ヲ)1、無(シ)2覺束1とあり
 
    貴  下
今世に、せうそこ文の當名《アテナ》のかたはらに、貴下と書(ク)ことあり、台記に、足下などいふべきところに、貴下とかゝれたること、所々に見えたり、
 
    はなたり病
同記に、日來《ヒゴロ》患(フ)2鼻垂《ハナタリ》疾(ヲ)1、俄(ニ)身温、また依(テ)2鼻垂《ハナタリニ》1不2念珠(セ)1、但今日無(シ)2温氣1也、また鼻垂(ノ)後始(メテ)念珠(コト)、【夜前浴(ス)】など見えたり、風を引(キ)たるをいふと聞ゆ、昨夜を夜前といふことも、是に見ゆ、
 
    せ ゝ ら ぎ
小き溝《ミゾ》を、俗《ヨ》にせゝらぎといふは菅家萬葉集下卷に、「もみぢ葉の流れてせけば山川の淺きせらぎも秋は深きを、
 
    ひ た ゝ れ
後撰集に、ひたゝれこひにつかはしけるに、うらなんなき、それはきじとや、いかゞといひたれば、藤原(ノ)元輔、「住吉のきじとはいはじおきつ浪猶うちかけようらはなくとも、台記(ノ)別記に、次(ニ)召(テ)2家行(ノ)朝臣(ヲ)1、賜(テ)2比多々禮《ヒタヽレヲ》1、【櫻萠黄】仰(セテ)云(ク)、路頭定(メテ)有(ン)2寒氣1、以(テ)v之(ヲ)禦(ケ)v寒(ヲ)、云々と見え、兵範記に、久安五年十一月十一日、今日被《ル》v行(ハ)2故姫宮(ノ)周關(ノ)御法事(ヲ)1、云々、布施云々、織物(ノ)直垂一領、【故宮(ノ)御衣】また保元三年二月九日、聟取(リ)のところに、男女相伴(テ)被《ル》v入(ラ)2帳中(ニ)1、下官覆(フ)v衾(ヲ)、【直垂也】宇治拾遺物語に、入てねむとするに、綿四五寸ばかりあるひたゝれあり云々、此ひたゝれひきゝて、ふしたる心云々、などあるを見れば、直垂《ヒタヽレ》はもと、綿をいれて、寒きをふせく物にて、衾にもしたりけむ、又むかしは女もきたりしにや、後撰集に、裏なしとあるは、綿をつけて、裏のなきをいへるなるべし、
 
    端《タン》に反(ノ)字をかく事
台記に、布三反、布二反などあり、そのころも、端を反と書りしなり、
 
    ひ き は だ
同記に、四五位(ハ)半靴、【有2引膚《ヒキハダ》1有2華仙1】六位深沓、【無2引膚1無2華仙1】とあり、沓などにも、ひきはだといふこと有と聞ゆ、此名のこゝろは、蟾蜍膚《ヒキハダ》なるべし、
 
    一日のほどに一切經を寫せし事
中右記(ニ)云(ク)、嘉保三年三月十八日、今日京中上下萬人、一日(ノ)之中(ニ)、書2寫(ス)一切經(ヲ)1、是有(リ)2一聖人1、得(テ)2夢想(ノ)告(ヲ)1、進(メ)2催(シ)人々(ヲ)1、於(テ)2各(ノ)家(ニ)1令(メ)2書寫(セ)1、則(チ)供養(シ)了(テ)送(レリ)2聖人許(ニ)1者(ヘリ)、依(テ)v爲(ルニ)2大善根1、聊所2記(シ)置(ク)1也とあり、これ數萬人して物せむには、たやすかるべきわざながら、さばかりの物を、一日がほどに、うつしをへけむは、猶めづらしきわざなれば、我も記しおく也、
 
    又
一代要記にも、建暦元年四月廿三日、以(テ)2一萬五千人(ノ)僧侶(ヲ)1、一日(ニ)一切經書寫供養(アリ)導師(ハ)、前大僧正雅縁
 
    かけつかさ
うつほ物語たづのむら鳥卷に、兼官のことを、かけつかさとあり
 
    針 の み ゝ
今(ノ)俗《ヨ》に、針の孔《アナ》を、みゝづといふ、童蒙抄に、はりのみゝとあり、耳の意にや
 
    ぬ た う つ
夫木集に、俊頼朝臣「君こふと猪のかるもよりねざめしてあみけるぬたにやつれてぞふる、待賢門院(ノ)安藝、「戀をしてふすゐの床はまどろまでぬたうちさますよはのねざめよ、今の世にいやしき詞に、のたる又のたうつなどいふは、これ也、
 
    杉原といふ紙
園大暦にいはく、康永三年二月廿一日、今日予上(ル)2左大臣(ノ)表状(ヲ)1也、草(ノ)事云々、尋常(ノ)※[木+温の旁]原《スギハラ》、【二枚續(ク)v之】不v加(ヘ)2禮紙1、【違2先例(ニ)1如何】本儀事、高檀紙可(キ)v加(フ)2禮紙(ヲ)1也、但(シ)※[木+温の旁]原(モ)又常(ノ)事(ナリ)とあり、杉原といふ紙、これよりさきのふみにも見えたるか、しらねど、見あたりたるまゝに
 
    ひだのたくみ
いにしへ飛騨國より、匠《タクミ》おほく出たりし故にかならず其國のならねど、匠をば、ひだのたくみとなむいひける、もろこしにも、にたることあり、史記の灌嬰といふが傳に、斬(ル)2樓煩將五人(ヲ)1、といへる注に、樓煩(ハ)縣(ノ)名(ナリ)、其《ソコノ》人善(クス)2騎射(ヲ)1、故に以(テ)名(ケテ)2射士(ヲ)1爲《イフ》2樓煩(ト)1、取(ルナリ)2其(ノ)美稱(ヲ)1、未《・ズ》(ダ)2必(シモ)樓煩(ノ)人(ナラ)1也、
 
    はやるといふ言
大鏡に、堀川の攝政のはやり給ひし時に、此東三條殿は、御つかさをもとゞめられさせ給ひて、いとからくおはしましゝ時に云々、とあり、はやるは、榮ゆることゝ聞えたり、いまのよにいふとは、やゝこゝろばへことなり、
 
    下  向
ものもうでしてかへるを、下向といふは、中昔の書共には、多く還向《ゲカウ》と書り、然るを關東に下向(ス)、筑紫に下向(ス)などいふと、ひとつにまがひて、下向とかくことにはなれるなるべし、
 
    但馬國の城の崎のいでゆ
増鏡に、安嘉門院、丹後のあまのはし立御覧じにとて、おはします、それより但馬のきのさきのいで湯めしに、くだらせ給ふとあり、此温泉、そのほどより、名高かりけむ、
 
    東宮御灸治
増かゞみに、後宇多(ノ)天皇の、いまだ東宮におはしましけるほど、御病の時、くすしの申すによりて、御灸治の事有べきよしをいへるところに、いまだ例なきことは、いかゞ有べきと、さだめかねらる、位にては、たゞ一たびためし有けり、春宮にては、いまださるためしなかりけれど、いかゞはせむとて、おぼしさだむとあり、高倉天皇嚴嶋御幸(ノ)記に、御灸の事見えて、さきの卷に引出たり、たゞ一たびためし有とは、これをまうせるにや、されどこれは、御位のほどにはあらず、おりゐさせ給ひて後也、
 
    岩  屋
國々に、おのづからなる洞にはあらで、造りかまへたる、石室《イハヤ》の、こゝかしこにある事、をり/\きくこと也、あまたあるところも有(リ)といふなり、人みなこれを、からぶみに、穴居といへることの有(ル)を思ひて、上つ代の民のすみかならんと、いひ思ふめれど、御國には、然民の穴にすめりし事は聞えこず、さらにさにはあらず、中には墓とおぼしきもあめれど、皆然るにもあらじ、今よく思ふに、書紀の神武天皇の御卷に、道臣《ミチノオミノ》命に勅有(リ)て、作(テ)2大室《オホムロヲ》於|忍坂《オサカノ》邑(ニ)1、盛(リニ)設(ケシム)2宴饗(ヲ)1云々、道(ノ)臣(ノ)命於是奉(ハリテ)2密旨(ヲ)1、掘(リ)2※[穴/音]《ムロヲ》於忍坂(ニ)1云々、また綏靖天皇(ノ)御卷に、手研耳《タギシミヽノ》命|於《ニ》2片丘大※[穴/音]中《カタヲカノオホムロノナカ》1、獨(リ)臥(セリ)2于大牀(ニ)1、など見えたる物にて、上つ代には、つねの屋のほかに、別に山のかたそはなどをほりて、石もて屋を作りかまへたる事有けん、さるはなべて民共などのすることにはあらで、高き人の、ことさらに好みてせしにて、大かたふるく牟呂《ムロ》といひし物は、是なめり、そは何のために、さるかまへはしたるにか、其ゆゑはしられねど、もしは冬寒きころ、あたゝかなるをめでゝにもや有けむ、今國々にあるは、多くは此上つ代の石室《イハムロ》のゝこれるなるべし、
 
    音學五書といふゝみ
もろこしの國に、明の代の末に、顧炎武といひし人、音學五書といふゝみを作りて、後の世の音韻の、よゝに訛《ヨコナマ》りきて、いにしへの音とは、たがへること、又韻書どものひがことなどを、古書どもの韻語を、こと/”\く引(キ)出(テ)證《アカ》して、くはしく論ひたり、今の世のからさへづりをしも、華音など、こと/”\しくいひて、いみしくたふときものに思ひをる人共に見せて、めさまさせまほしき書にぞ有ける、五書は、音論といふ三卷、詩本音といふ十卷、易音といふ三まき、唐音正といふ廿卷、古音表といふ二まき、にて、あはせて三十八卷あり、
 
    三(ツ)ぐそく
佛の具に、三(ツ)具足といふ物有(リ)、二條(ノ)良基(ノ)おとゞのかゝせ給へる、雲ゐのみのりといふ物に、銀のみつ具足と見えたり、
 
    十二ひとへ
同じ書に、皇后宮の御方へわたらせ給へれば、宮は、中こき紅梅の十二の御ぞに、同じ色の御ひとへ、くれなゐのうちたる、もえぎの御うはぎ、えびぞめの御こうちぎ、花山吹の御から衣、からのうす物の御も、けしきばかり引かけて云々とあり、俗に十二ひとへといふは、此十二の御ぞに、同じいろの御ひとへ、とあることより出たる名目にやあらむ、
 
    御家の文といへる事
同じふみに、けふの使は徳大寺(ノ)中將公清也云々、もえぎの下がさね、御家の文《モン》のもかうを、色々におりたりしにや云々、
 
    もゝだち ちりめん
兵範記に、保元三年三月廿二日、石清水(ノ)臨時(ノ)祭の、舞人の裝束に、摺袴【股立津加留《モヽタチツガル》也】とあるは、今(ノ)世にもいふ股立《モヽダチ》にや、又同祭の使の装束に、着(ス)2有文(ノ)下襲、縮緬(ノ)綾(ノ)袴等(ヲ)1、と見えたり、縮緬は、今の世にもいふちりめんなるべし、但し昔は、ちゞめんといひけむを、ちりめんとは訛れるなるべし、
 
    伊勢勅使のとも人の數
同書に、仁安三年十二月廿一日、伊勢大神宮炎上によりて、同月勅使、左大辨雅頼(ノ)卿發遣、その人數、勅使大辨子息一人、從十一人、前駈六人、【從各五人】侍五人【從各十人】雜色六人、【從各二人】舍人四人、人夫卅人、右大史三善(ノ)章貞、從廿人、史生盛久、同兼康、從各廿人、馬各五疋、官掌頼兼、【同前】辨侍二人、從各五人、馬各二疋、使部十人、從各一人と見えたり
 
    咄《ハナシ》
今(ノ)世に、物語を、はなしといひて、咄(ノ)字を書り、説文に咄(ハ)相謂也としるし、文選なる、張景陽(ガ)詠史(ノ)詩に、咄(カタラク)2此(ノ)蝉冕(ノ)客(ニ)1、君(ガ)紳(ニ)宜(ク・シ)v見《ル》v書(サ)とあれば、字はかなへるを、はなしといふ言は、いかなる意にか、もしは放《ハナ》しか、
 
    柳  箱
柳箱といふ物、續日本紀九の卷に見えたり、
 
    大嘗ゆきすきの國
大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる國を、定めらるゝやうに見えたれども、さしもあらざるにや、神龜元年の度は、由機備前(ノ)國、須機播磨(ノ)國也、天平神護元年の度は、由機美濃(ノ)國、須伎越前(ノ)國なりき、
 
    明 々 日
明後日のことを、小右記に、明々日と、ところ/”\に見えたり、
 
    降誕 まにあはぬ
同記、寛和元年四月廿八日壬寅、早朝罷(リ)出(ヅ)、寅(ノ)時降2誕(ス)女子(ヲ)1、不v逢《アハ》2産(ノ)間《マニ》1、雖(ヘドモ)2馳(セ)向(フト)1、産已(ニ)遂(ゲ)了(ヌ)とあり、誕生を降誕といふは、みかどにのみ申すやうなれども、さもあらざりしなり、これは實資公の、みづからの御女《ミムスメ》の生れ給へることをしも、かくしるし給へり、又間(ニ)にあはぬといふことも、これに見えたり、近き世の言にはあらず、
 
    八  的
同記に、寛弘二年五月十四日辛酉早且、資平自2左府1來(テ)云(ク)、昨出(デヽ)2馬場(ニ)1、左右近騎射(ス)、各三人、又三兵、次(ニ)令(ム)v馳2厩(ノ)馬(ヲ)1、次(ニ)令(ム)v射2八(ツ)的(ヲ)1、
 
    祭に臨みて神主を定むる事
糸束記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴、爲(メニ)v行(ハム)2祭事(ヲ)1、參(ル)2梅(ノ)宮(ニ)云々、但(シ)氏人等遲參云々、仍(テ)以2大膳(ノ)少進從五位下上野(ノ)朝臣廣遠(ヲ)1爲2神主(ト)1云々、(先例以2氏人(ヲ)1爲2神主(ト)1、而(ルニ)遲參、仍(テ)有v定(メ)、以2廣遠(ヲ)1爲2神主(ト)1)とあるを見れば、古(ヘ)は、祭に臨みて、神主といふものを、さだめられたることも有し也、
 
    萬葉集に見えたる和氣《ワケ》といふ稱
皇子《ミコ》たちなどの御名にある、某別《ナニワケ》、又|姓《ウヂ》のかばねの、某《ナニ》の別《ワケ》などの別《ワケ》にはあらで、萬葉集の歌に、一種の和氣《ワケ》といへる稱有(リ)、そを人皆、みづからひげしていふ稱とのみ心得たるは、くはしからず、つねにうちまかせてひげして、僕《ヤツコ》などいふとは異にして、これは、人より我をさしていふ詞をまうけて、そを其人にいひやるとて、ことさらに我を賤《イヤシ》きさまにいひなす稱也、さるはすこしたはぶれたる物にて、まことのひげにはあらず、四の卷に、「わが君は和氣をば死《シ》ねと思へかも云々、これ人の我を死ねと思ふといふことを、まうけて、いひやる也、さて我をいやしめていふから、人をば、吾妹子といふべきを、ことさらにあがめたるさまに、わが君といへるも、少したはぶれ也、同じ卷に、「黒木とりかやもかりつゝつかへめどいそしき和氣とほめむともあらず、これも同じことにて、人の我をいそしき者といはむ詞を、まうけていひやる也、さて八の卷に、「わけがため我手もすまに春の野にぬけるつばなぞめしてこえませ、これはわけがため我手も云々とあれば、わけは汝也、又「ひるはさきよるはこひぬるねむの花|君《ワレ》のみ見めや和氣さへに見よ、是も見よとあれば、和氣は汝なるに、君のみ見めやは、かなはざるにつきて思ふに、君(ノ)字は吾を誤れるなるべし、そも/\此二首は、人をさして、和氣といへること、四の卷に、我をいへると、うらうへのたがひにて、いとまぎらはしきを、つら/\に考ふるに、まづ此二首は、紀(ノ)女郎が、家持卿におくれる歌なれば、家持卿を、和氣といやしめてはいふべきよしなきに、然いへるは、ことさらにたはぶれたる詞也、さる故に、戯奴と書て、變(シテ)云(フ)2和氣(ト)1と注したり、これもとよりよみ人の書るまゝなるべし、そは君を奴のごとく賤《イヤシ》めて、和氣と申すは、戯《タハブ》れぞといふ意を、しらせたる物なり、さてその和氣といふは、四の卷なるごとく、まうけて、ことさらにいやしめていひなす稱にして、我(ガ)ことながら、人よりいふ詞につかふ稱なる故に、汝といふに用ひたる也、次に家持(ノ)卿のかへしに「わが君に和氣はこふらし給ひたるつばなをくへどいやゝせにやす、此わけは、たゞに我をいふに似たれども、然らず、女郎がたはぶれをうけて、その和氣とのたまへる我はといふ意也、かなたの戯の詞を受て、そのまゝにいひかへすこと、今の世にもあること也、又これも、かならず、吾妹子といふべきを、わが君にといへるも、女郎が、こなたを和氣といへるを、うちかへして、あがめたるたはぶれ也、心をつくべし、上の件(ノ)和氣の事、かくまぎらはしき歌あるゆゑに、むかしよりよく解《トキ》得たる人なきを、右のごとく心得るときは、皆明らかにして、まぎれなく、戯奴と書るよしも、よく聞えたり、
 
    ある人のいへること
ある人の、古學を、儒の古文辭家の言にさそはれていできたる物なりといへるは、ひがこと也、わが古學は、契沖はやくそのはしをひらけり、かの儒の古學といふことの始めなる、伊藤氏など、契沖と大かた同じころといふうちに、契沖はいさゝか先《サキ》だち、かれはおくれたり、荻生氏は、又おくれたり、いかでかかれにならへることあらむ、
 
    上 東 門 院
左經記、萬壽三年正月十九日、大皇大后御祝髪の事を記せるところに、以(テ)2御在所上東門院(ヲ)1爲2院號(ト)1とあり、かゝれば上東門院といふは、もとより御在所の名なりけり、
 
    厨  子
佛の像《カタ》をいれおく物を、厨子《ヅシ》といふこと、同記に、同年三月廿日、清凉殿仁王八講、御装束をしるせるところにいはく、安2置(ス)五大力佛殿(ヲ)於其中(ニ)1、【件(ノ)佛殿厨子也、蒔檜如(シ)2螺鈿(ノ)1、云々、】
 
    梵  語
烏《カラス》の梵語を、迦迦《カカア》【去引】迦《カ》といふ、鳴(ク)聲によれる名也、鷄を矩羅倶咤《クラクタ》といふ、くだかけのくだと、おのづから同じ、瓦を迦波羅《キャハラ》といふ
 
    菊 の 御 文
葉室(ノ)大納言頼親(ノ)卿、右衛門(ノ)佐たりしほど、文應元年八月、新院石清水御幸(ノ)記一卷あり、それに、御装束をしるせる、亦色(ノ)御袍、【※[穴/果](ノ)文(ノ)中(ニ)菊八葉、蘇芳(ノ)御下襲、同御半臂、有文(ノ)御帶、】と見ゆ、菊の御紋といふは、かやうの文《モン》の、御例になりたる物にや、
 
    道  者
伊勢にて、他國の參宮人を、道者《ダウシヤ》といへり、小朝熊社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣(デノ)道者、下總(ノ)國臼井(ノ)郡(ノ)住人、南無妙房とあり、
 
    眞 桑 瓜
御湯殿のうへの日記に、天正三年六月廿九日のぶなが《信長》より、みのゝまくはと申す名所のうりとて、二こ《フタ籠》しん上、とあり眞桑村は、本巣(ノ)郡也、
 
    五石なわの釜
宇治拾遺物語に、五石《ゴコク》なわの釜を、五(ツ)六(ツ)かきもてきて、庭にくひどもうちて、すゑわたしたり、とあり、今(ノ)世に、一斗ばかりいるべき鍋釜を、斗《ト》なわといふこと有(リ)、これ也、
 
    棧  敷
物を見るさじきを、中昔より、棧敷と書(ク)は、ひがこと也、小右記には、狹敷とかゝれたり、これは棧敷とかくよりはまされり、されど正字にはあらず、正字は、日本紀に※[まだれ+伎]《サズキ》とある、これ也。古事記には、佐受岐《サズキ》とあり、
 
    佐渡國より金の出し事、
宇治拾遺に、能登(ノ)國に、鐵をとる者、佐渡(ノ)國に、こがねの花咲たるところ有といひて、金八千兩ばかりとりて、能登(ノ)守さねふさに奉りたる事見えたり、
 
    く ら か け
これも同物がたりに、移《ウツシ》のくら廿具、鞍かけにかけたりと有(リ)、然ればくらかけといふものは、もと馬の鞍をかくる具の名也、
 
    かなごよみ
同物語に、かな暦といふことあり、むかしは眞名と假字との暦有しにや、さて又暦に、神佛によしといふ日あり、今の暦本《コヨミマキ》に、神よしとしるせるは、是なるべし、又かん日くゑ日など、日のよきあしきをしるせることも見えたり、
 
    きぬかぶりをぬぐ事
地藏の物の中にすておきたるを、きと見て、時々、きぬかぶりしたるを、うちぬぎ、かしらをかたぶけて、すこし/\うやまひをがみつゝゆく時も有けりと、同じふみに見えたり、むかしも、きぬかぶりなどは、ぬぐをうやまひとしたりけむ、
 
    しりくらへくわんおん
俗《ヨ》のことばに、しりくらへ觀音といふこと有(リ)、日本紀の欽明天皇の御卷に、調(ノ)吉師|伊企儺《イキナ》といへる人の、新羅王|啗《クラヘ》2我(ガ)※[月+寛]※[月+隹]《シリヲ》1、といひたりしこと見えたり、
 
    國(ノ)守神拜
さらしなの日記にいはく、あづまより人きたり、神拜といふ事して、國のうちありきしに云々、これ菅原(ノ)孝標の、東國の國司になりて、下りしが許より、いひおこせたること也、むかしは、國司任國にくだりては、まづ部内の神社/\にまうでしこと也、
 
    そばへもよらぬ
竹取物語に、つねにつかうまつる人を見給ふに、かくやひめのかたはらによるべくだにあらざりけりと有(ル)は、俗《ヨ》の詞に、物をくらべて、こよなくおとれるを、そばへもよらぬといふに同じ
 
    中  國
山陰道山陽道の國々を中國といふこと、元慶二年二月三日の官符に、伏(テ)尋(ヌルニ)2物情(ヲ)1、陸奥出羽(ノ)之在(ルダニ)2絶遠(ニ)1、尚限(レリ)2五年(ニ)1、因幡出雲(ノ)之居(ル)2中國(ニ)1、何(ゾ)得(ム)2六年(ナルコト)1とあり、類聚三代格にのれり、
 
    あるさとびうた
ある人、「思ふことひとつかなへば二つありみつよつ五つむつかしのよやと申すは、たが歌にて、いづれの集に見えて候やらんとゝふ、おのれいはく、これは集などにあるべき歌にはあらず、ちかき世の俗歌《サトビウタ》也、趣はきこえたれど、三の句つたなく、結びの句も上にかなはず、「ねがふことひとつかなへば又ひとつ二つ三つよついつかつきせむ、などあらば、歌のやうにもあらんか、
 
    又吉備(ノ)大臣の名
政事要略に、貞觀格を出していはく、右※[手偏+檢の旁](ルニ)2太政官去天平神護二年九月十五日(ノ)格(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)、大納言正三位吉備(ノ)朝臣眞吉備宣奉勅者と見え、一代要記などにも、眞吉備とあり、ちかきころ此大臣の、母君を葬(リ)給へる墓誌を掘(リ)いでたるには、眞備とあり、眞備とあるをも、よむには、まきびとよむべきなり、
 
    狐 つ か ひ
中原(ノ)康富(ノ)記(ニ)云(ク)、應永廿七年九月十日丙子、今朝室町殿(ノ)醫師高天被(ル)2禁獄(セ)1、父子弟等三人也云々、此間仕(フ)v狐(ヲ)之沙汰風聞、然(ルニ)而昨日於(テ)2御臺(ノ)御方(ニ)1、仰(セ)2驗者(ニ)1被(ルヽ)2加持(セ)1之處、二疋自2御所1逃出(デヌ)、則(チ)被《ルヽ》v縛(ラ)2件(ノ)狐(ヲ)1之後、被《ル》2打殺(サ)1、依(テ)2此事(ニ)1、高天ガ狐ヲ奉(ルノ)2詛付(ケ)1之條、露顯云々、仍(テ)今朝|被《ル》2召取(ラ)1云々、晝程又|被《ル》v召2取陰陽(ノ)助定棟(ノ)朝臣(ヲ)1、是モ仕(フ)v狐(ヲ)之由、有2虚説1云々、末代(ノ)之作法、淺間敷々々《アサマシ/\》、同十月九日甲辰、後(ニ)聞(ク)、囚人高天、昨日被v流(サ)2讃岐國(ニ)1、俊經(ノ)朝臣同國(ニ)被v流v之云々、是等皆|狐仕《キツネツカヒ》之輩也、
 
    御  袋
人の母を、御袋といふこと同記に、享徳四年正月九日、今曉室町殿(ノ)姫君誕生也、御袋大館兵庫(ノ)頭(ノ)妹也、
 
    後鳥羽(ノ)天皇(ノ)御諱のよみ
後鳥羽(ノ)天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと假字附(ケ)あり、成(ハ)平也といふ意なるべし、
 
    な ん ど
まさすけの装束抄にもやのなんどといふこと有(リ)、又みすはなんどにかくるも、南おもてにかくる也ともあり、今いふ納戸は、これなるべし、
 
    いるといふ詞
俗《ヨ》の言に、銀《カネ》がいる、錢がいる、或はいくらばかりいるなどいふ、此いるといふ詞、小右記に供米千石許(リ)可(キ)v入(ル)歟と見え、源氏物語に、明石(ノ)入道の言に、かなぶみ見給ふるは、目のいとまいりて云々とあり、これ俗にひまがいるといふこと也、そのころよりはやくいへること也けり、もろこしの近き世の俗語に、没(ノ)字を用る、此意と同じこと也
 
    お ち つ き
物へゆきつきて、喰ふ食を俗に落着《オチツキ》といふこと、仁治三年内宮假殿記に、奉遷使祭主從三位神祇(ノ)權(ノ)大副大中臣(ノ)隆通、亥(ノ)刻許(リ)參宮、云々、御息(ミ)所(ハ)經繼神主之宿舘、長官(ノ)沙汰(ニテ)進2落付之飲酒(ヲ)1とあり、
 
    しるよしゝて
平維章といへるじゆしやのかける和學辨といふものに、いせ物語に、春日の里にしるよしゝて、とかけるは、知の字をしらぬ作者と見えたり、異邦の書に、知《チタリ》2杭州(ニ)1知《チタリ》2袁州(ニ)1など書るは、知の字、つかさどるとよむ、此方の人は、文字に傍及といふことあるをしらぬ故、物によりて、讀法《ヨミカタ》の變ずるをしらず、といへるは、知(ノ)字のつかひざまをのみしりて、志流《シル》といふ言に、傍及のあることをしらざる、ひがこと也、かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代よりいへる言にて、さらに知(ノ)字の傍及をしらずしていへる詞にはあらざるをや、なほ志流《シル》といふ言は、此外にも、傍及の意あること也、すべて皇國の言の意をば、よくもしらで、たゞ漢字の義をのみとらへて、みだりなることいふ、このたぐひ、じゆしやのつね也、
 
    榊(ノ)枝松(ノ)枝を文臺とせられし事
明月記に、建永二年三月五日、賀茂(ノ)歌合、今日給(フ)v題(ヲ)、七日、依(テ)v有(ルニ)2雨氣1、御幸|被《ル》v※[公/心]、云々、次(ニ)入2御舞殿(ニ)1、御前(ニ)敷(ク)2圓座(ヲ)1、大納言依(テ)v召(ニ)候2御前(ニ)1、次(ニ)召(ス)2歌人(ヲ)1、有家取(テ)2歌合(ヲ)1、參上、敦經持2參榊(ノ)枝(ヲ)1、置(テ)2御前(ニ)1爲(ス)2文臺(ト)1、枝(ノ)本(ヲ)向(ケ)2御社(ノ)方(ニ)1、以2木(ノ)葉(ノ)面(ヲ)1、可(キノ)v爲v上(ヘト)之由有v仰(セ)、置(ク)2歌合(ヲ)於其上(ニ)1、云々、幸(ス)2上(ノ)御社(ニ)1、次第如(シ)v前(ノ)、以2橘殿(ヲ)1爲2御所(ト)1、予依(テ)v召(ニ)取(テ)2歌合(ヲ)1參上、敦經持2參松(ノ)枝(ヲ)1、爲2文臺(ト)1如(シ)v前(ノ)、讀(ミ)上(ゲ)了(テ)各退下、
 
    姫君おほい君中の君といふ事
いにしへ公卿などのむすめたちのついでをいふこと、一の姉なるを、姫君とも、大君《オホイギミ》ともいひ、二を中の君といひ、三より下は、つぎ/\に三の君四の君などいへり、二人にても、いくたりにても、二なるをば、中の君といひ、わきて姫君とは、一なるをぞいひける、物語などにいへるやう、みなかくのごとし、新猿樂記といふふみにも、右衛門督なる人の、十六人の女のことをいへるに、大君《オホイギミ》中(ノ)君三(ノ)君四(ノ)御許《オモト》五(ノ)君六(ノ)君七(ノ)御許《オモト》などいへり、此書は、藤原(ノ)明衡作れり、そのころまでも、かくぞいへりけむ、
 
    癩病をかたゐといふこと
ある人のいはく、俗に癩病をかたゐといふは、害大の字なり、癩病一名を害大風といふ、證治要决に見えたりといへり、すべて此たぐひの説は、うちきくには、うべ/\しく聞ゆれども、よく思へば、みなあたらぬこと也、いかにといふに、すべて俗語《ヨノコトバ》は、書《フミ》を考へて云(ヒ)出る物にはあらず、字音の言の多きも、おほくは佛ぶみの語にて、これむかしほうしの常にいふを、聞なれたるより、うつれるものなり、佛語《ホトケブミコトバ》ならぬも、近き書に多く見えて、聞なれたる言こそあれ、遠きからぶみに、いとまれに見えたる言などをば、世の人は、いかにしてしりていひ出む、たま/\似たることを見つくれば、ゆくりなくそれより出たりと思ふは、ひがこと也、癩病人をかたゐといふは、乞兒《カタヰ》より轉《ウツ》れる言也、そはいとことなるがごとくなれど、人をいやしめにくみて、かたゐといへることあれば、それより出たる也、すべて世の中の言は、意はさま/”\にうつりきぬること多きぞかし、
 
    皮  子《カハゴ》
體源抄に、篳篥の名物をいへる中に、皮子丸《カハゴマロ》は、延喜(ノ)御門の御時、唐より、もろ/\の重寶を入(レ)て、奉られたりける、皮子の足に立たる竹管の、よきほどなりければ、とりて彫たりける、最上の物なりける也、當時傳はりて、宇治の寶藏にあり、と見えたり、皮子といふ物の名ふるし、
 
    無邊法界 めつさうかい
八雲御抄などに、むへんほうかいの歌よみといふことあり、今の俗言《ヨノコトバ》に、めつさうかいなといふは、此言の訛《ヨコナマ》れる也、めつさうかいを、伊勢などにては、めつほうかいといへり、又其意を江戸などにては、あてこともないといへり、これも無邊法界の意にちかし、
 
    十二支の巳を美《ミ》といふ事
十二支の子を、禰といふは、ねずみの略《ハブ》き、卯を宇《ウ》といふは、菟《ウサギ》也、これは古書どもに、宇《ウ》の借字にも、菟《ウ》と書り、さてこれらはあらはなるを、巳を美《ミ》といふは、蛇の和名|倍美《ヘミ》と、和名抄にある是也、さて丑寅《ウシトラ》などみな、二もじの名は、略けるはなきに、巳のみ略き、三もじの名は、ねずみうさぎ皆はぶけるに、末《ヒツジ》のみは略かず、
 
    かなぶみに朱印をおす事
假字文に、朱印といふものをおすは、いと見ぐるしきわざ也、いはゆる書判は、やゝふるき物にも見えたり、もろこしの國にても、ふるくはみな花押とて、書判也、朱印おすことは、宋の代のころよりはじまれりとぞ、
 
    らくがき らくしゅ
いはまほしき事の、あらはにいひがたきを、たがしわざとも、しらるまじく書て、おとしおくを、落し書《ブミ》と今もいへり、ふるくより有しことにて、そを又門屏などやうのところに、おしもし、たゞにかきもしけむ、かくてそのおとしぶみを、もじごゑに、らくしよともいひならひしを、後に其もじにつきて、らくがきともいひて、又後には、たゞなにとなく、たはぶれに、さるところに物かくを、らくがきとはいふ也、又たはぶれのさとび歌に、らくしゅといふ一くさ有(リ)、これもかのおとしぶみよりうつりて、もとは落書《ラクシヨ》なりけんを、訛りてらくしゆとはいふな(ン)めり、愚問賢注に、童謠落書の歌とある、これ也、
 
    宿老 庄屋 名主
京大坂などにて、町々の長《ヲサ》を、宿老といひ、るなかにて、村の長を、庄屋といふ、これを吾妻にては、江戸にても田舍にても、名主といふ也、此名主といふ稱《ナ》、東鑑などにも、ところ/”\見えたり、これは中ごろの書どもに、諸國の村里の名に、某名《ナニミヤウ》といふ名多し、それおほくは人(ノ)名のごとし、たとへば、恒光名《ツネミツミヤウ》永平名《ナガヒラミヤウ》などいへるたぐひ也、されば名主といふは、此某名より出たることにやあらむ、
 
    しぬるを病死といふ事
今の世、おほやけざまの文書などには、人の死ぬるを、病死といふこと也、そも/\人は、病ならで死ぬるは、百干《モヽチ》の中に、まれに一人二人などこそ有べけれ、おしなべては、みな病《ヤミ》てしぬることなれば、それをとり分てはいはでも有(リ)ぬべくおぼゆるを、これはむかしみだれ世のころは、戰ひて死ぬるものゝ多かりし故に、病死は病死と、分ていへりし時のならひのまゝなるべし、
 
    ほうしだてら
俗《ヨ》に女などの似つかはしからぬわざするを、女だてらといふことばあり、狹衣の物語に、或(ル)ほうしの、女をぬすみて、車にのりて物する事を、ほうしだてら、かくあながちなるわざをし給へば、と見えたり、
 
    獅子舞 王の鼻
神社にある、獅子がしらといふもの、本はたはぶれの物なるべし、白氏文集、西凉伎(ノ)詩に、西凉(ノ)伎、假(リ)2面(ヲ)胡人(ニ)1假(ル)2獅子(ニ)1、刻(テ)v木(ヲ)爲v頭(ト)※[糸+系]作v尾(ト)、金(ヲ)鍍《チリバメ》2眼晴(ニ)1銀(ヲ)帖v齒(ニ)、奮2迅(シ)毛衣(ヲ)1※[手偏+罷]《ウチハラフ》2雙耳(ヲ)1、如(シ)d從(リ)2流沙1來(ルカ)c萬里(ヲ)u、紫髯深目(ノ)兩胡兒、鼓舞跳梁|前《スヽミテ》致(ス)v辭(ヲ)、云々とある、これをまねびたる物と見えたり、そのさまもはら同じ、又王の鼻といふ物、天狗面ともいふ、これを猿田彦(ノ)神の御形也といふなれども、これも此胡兒のかたなるべきか、貴徳の舞の面またく王の鼻也、江家次第、興福寺供養、また法勝寺御塔會などに、獅子舞の事見えたり、園大暦に、師子舞徳太|男《ヲノコ》とあるは、此舞を業《ワザ》としたる者也、
 
    おひなる およる
女の詞に、人のねたるがおくることを、おひなるといふ、伊勢などにては、おひるなるといふ、あづまにて、寢《ヌ》ることを、およるといふ、御晝なる御夜なるといふこと也、古今著聞集に、月をも御覧ぜで御《オ》よるなれば、云々、増鏡に、帝はいづくにおよるぞとゝふ、夜のおとゞにといらふれば云々
 
    文 身 の 訓
から書に、文身とあるを、みをもとろげと訓り、夫木抄、俊頼(ノ)朝臣の歌に、「霧をいたみ眞野の萩原しぐれしてしづくに袖をもとろかしつるとあり、書紀景行天皇の御卷にも、文身のよみ、同じことなり、
 
    ゑ  た
今の世に、ゑたといふものは、餌取《ヱトリ》を訛れる名也、穢多とかくは、俗のさかしらもじ也、和名抄に、屠兒(ハ)、和名|惠止利《ヱトリ》、屠(リ)2牛馬(ノ)肉(ヲ)1、取(ル)2鷹鷄之(ノ)餌(ヲ)1之義也、殺(シ)v生(ルヲ)及(ビ)屠(リ)2牛馬(ノ)肉(ヲ)1、取(テ)賣(ル)者也、とあり、翻譯名義集といふ書に、※[方+栴の旁]陀羅《センダラ》、此(ニハ)云2屠者(ト)1法顯傳(ニ)云(ク)、名(ケテ)爲2惡人(ト)1、與《ト》v人別(ニス)v居(ヲ)、入(ルトキハ)2城市(ニ)1、則撃(テ)v竹(ヲ)自(ラ)異(ニス)、人則避(ク)v之(ヲ)といへるは、天竺の國の事なるを、此方《コヽ》の今の世のゑたに似たることなり、
 
    足  袋《タビ》
俗《ヨ》にいふ足袋《タビ》は、和名抄に、單皮履、云々、今按野人以(テ)2鹿(ノ)皮(ヲ)1爲(リ)2半靴(ヲ)1、名(ケテ)曰(フ)2多鼻《タビト》1、宜(シ)v用(フ)2此(ノ)單皮(ノ)二字(ヲ)1乎《カ》と有(リ)、
 
    くぎぬき門
屋根もなくて、門のやうしたる物を、くぎぬきといふは、狹衣の物語に、門などもなくて、たゞくぎぬきといふ物をぞしたりけるとあり、
 
    だ る し
手足のたゆきを、俗言《サトビゴト》に、だるいといふ、いせなどにては、かいだるいといへり、此言曾丹集に、「わぎもこが今朝の朝菜にひかされてせなさへあまりかいだゆきかな、伊勢が集に、「よもすがら物思ふときのつらづゑはかひなたるさそしられざりける、此歌夫木抄には、三四の句、手枕はかいだるさこそと有、
 
    さらばといふ詞
人に別るゝ時に、さらばといふこと、後撰集別の部に伊勢、「さらばよとわかれしときにいはませば我も涙におぼゝれなまし、
 
    ね く さ し
食物のあしくなりたるかを、ねくさいといふこと、金葉集戀下に、「あふみにか有といふなるかれいひ山君はこえけり人とねくさし、
 
    人の立いにしあとを掃ことを忌(ム)事
人の去《イニ》し跡を、掃《ハク》事をいむは、萬葉集にも、十九の卷に、「櫛も見じ屋中もはかじ草枕旅ゆく君をいはふと思ひて、
 
    すそをつまげる
俗言に、衣のすそをつまげるといふは、萬葉集廿の卷長歌に、「御裳のすそつみあげかきなでとある、此つみあげのつゞまれることばなり、
 
    髪のつと たを
いまのよ、女の髪ゆひて、後《ウシロ》と左右へはり出したるところを、つとといふを、あづまにては、たをといへり、源順(ノ)集に、「わすれずもおもほゆる哉朝な/\ねし黒かみのねくたれのたわ、うつほの物語藏開(ノ)卷に、たゞおほとのごもりなば、御ぐしにたわつきなんず、金葉集戀(ノ)一に、「朝寐髪たが手枕にたわつけてけさはかたみにふりこして見る、などあり、たわたを同じ言也、たゞしいにしへのは、枕にあたりたる所に、おのづから出來たるをいひ、今のは、ことさらにつくる也、
 
    口  状
三代實録十三の卷、宣命の中に、口状といふこと有(リ)、今の世に口上といふは是也、口状を口上とかくは、物語書に、几帳を几丁、本性を本上とかけるたぐひ也、
 
    用《ヨウ》といふことば
今の世に、御用用事、入(リ)用急用など、其外|爲(ス)るわざのあるを、用のあるといふたぐひ、すべて用といふ詞を、廣くつかふ、これは要かと思へば、さもあらざるにや、菅原(ノ)贈太政大臣の、書齋(ノ)記に、又朋友(ノ)之中、頗(ル)有(リ)2要須(ノ)之人1、適《タマ/\》依(テ)v有(ルニ)v用、入(テ)在(リ)2簾中(ニ)1、更科(ノ)日記に、さるべきよう有て、秋ごろ和泉にくだるに云々、是らは、もはら今の世にいふ用ある也、後撰集雜(ノ)二に、枇杷(ノ)左大臣よう侍りて、楢《ナラ》の葉をもとめ侍ければ云々、赤染衛門集に、つかふべきよう有て、くれをこひたりしに云々、これらは、もちふべき事有てといふ意なれば、用(ノ)字にあたれり、台記に、依(テ)v有(ルニ)2急要1、退2下(ス)宿廬(ニ)1、これは要(ノ)字はかゝれたれど、いまの世にいふ急用なり
 
    重荷に小付
重荷に小附といふこと、後撰集に、「年の數つまむとすなる重荷にはいとゞこづけをこりもそへなん、
 
    北野の御詠といふ歌
「唐衣おりてきた野の神ぞとは袖にもちたる梅にてもしれ、「心だにまことの道にかなひなばいのらずとても神やまもらん、此二首の歌、北野の御詠のよし、鴨(ノ)長明(ノ)四季物語といふ物に、二月廿五日の神事のところに見えたり、此歌ども、後の世ざまの、いとつたなき歌也、はじめのは、歌の趣ことにつたなし、次なるは、例のほうしの口つき也、結の句のやもじかなはず、これは後の世のえせ歌よみの、んととぢむる上《カミ》は、必(ズ)やといふべきことゝ、かたくなにこゝろえたるでう也、此歌にては、神はとこそいふべけれ、すべて此四季物語といふもの、うたがはしき書也かし、
 
    鏡のうらに鶴をいつくる事
今の世に、鏡のうらには、多く松竹鶴龜のかたを鑄《イ》つくる也、拾遺集賀(ノ)部に伊勢、「千年ともなにかいのらむうらにすむたづのうへをぞ見るべかりける、此歌のはしの詞に、かゞみいさせ侍ける、うらに鶴のかたをいつけさせ侍てと有、
 
 
玉勝間九の卷
 
   花 の 雪 九
 
やよひのころ、あるところにて、さくらの花の、木(ノ)本にちりしけるを見て、一とせよし野にものせし時も、おほくはかうやうにこそ、散ぬるほどなりしかと、ふと思ひ出られけるまゝに、
    ふみ分し昔戀しきみよしのゝ山つくらばや花の白雪、かきあつめて、例の卷の名としつ、雪の山つくられし事は、物に見えたり、
 
    今 樣 合
百練抄に、承安四年九月一日、於(テ)2太上法皇(ノ)御所1、【法住寺殿】有2今樣合《イマヤウアハセノ》事1、撰2定(シテ)堪能(ノ)輩卅人(ヲ)1、十五箇夜(ノ)間、毎夜一番、被《ル》v決(セ)2雌雄(ヲ)1、師長資賢等卿(ヲ)爲2判者(ト)1、十三日、仙洞今樣合(セノ)之次(ニ)有2御遊1、上皇令(メ)v歌(ハ)2今樣(ヲ)1給(フ)、希代(ノ)之美談也、
 
    春日(ノ)社みづがきを廻廊に造(リ)かへらるゝ事
同書に、治承二年五月卅日、春日(ノ)社、今度修造(ノ)之時、改(テ)2瑞垣(ヲ)1可(キノ)v造(ル)2廻廊(ヲ)1之由、衆徒進(ル)2奏状(ヲ)1、依(テ)2申(シ)請(フニ)1、被(レ)2宣下(セ)1畢(ヌ)、而(ルニ)社家依(テ)v有(ルニ)2申(ス)旨1、被《ルヽ》v行(ハ)2御卜(ヲ)1之處、官奏共(ニ)不快(ノ)之由申(ス)v之(ヲ)、而(ルニ)衆徒申(テ)云(ク)、不(ト)v可v依2卜(ノ)吉凶(ニ)1、仍(テ)被《ル》v問(ハ)2諸卿(ニ)1、猶祈2請(シテ)本社(ニ)1、可(キノ)v有(ル)2覆推1之由、定(メ)2申(ス)之(ヲ)1、遂(ニ)改(テ)2瑞垣(ヲ)1、造2廻廊(ヲ)1、と見えたり、官奏の奏(ノ)字は、寮を誤れるなるべし、官は神祇官、寮は陰陽寮也、さてこれになずらへて思ふに、すべて國々の神社のつくりざま、いにしへのとは、かはりきぬるほど、おしはかられたり、又御卜の吉凶は、神の御心なるに、それにもしたがはず、ひたぶるにほうしの心なりけん、まがつひのまがことは、せんかたもなきわざなりけり、
 
    水無瀬殿造りかへ御わたまし
同書に、建保五年正月十日、上皇御2移徙水無瀬殿(ノ)新御所(ニ)1、是(レ)本(ノ)御所、去年大風洪水(ノ)之時、顛倒流失(スルノ)之間、更(ニ)點(シ)2他所(ヲ)1、被(ルヽ)2造營(サ)1也、十二日、自2水無瀬殿1還御、
 
    新勅撰集の事
同書に、文暦元年十一月九日、中納言入道【定家卿】於(テ)2前(ノ)關白家(ニ)1、捜2覧新勅撰(ヲ)1【先院(ノ)御時被《ル》2奏覧(セ)1】兩殿下監、頗(ル)有2用捨(ノ)事1、被(ルト)v切(リ)2棄(テ)百首(ヲ)1云々《イヘリ》、又有(リ)2被(ルヽ)v入(レ)之人1云々、
 
    みちのくの田うゑ歌
陸奥の田植歌とて、書たるを、人の見せたる、彌十郎あすは大たむのおたうゑだが、しつたかしらぬか、太郎次郎、からすの八番鳥に、むく/\むつくりと、むくしり起、大くろ小くろ、墨のくろ、上の町の一みなくち、そろりそつと、引こんで、はし/\とかくべいぞや、なへとり、種は千石、おろし申(シ)たが、どれが葉廣《ハヒロ》はやわせ、おとりやれや、皆おしなべて、葉廣はやわせ苗の中の鶯は、世をば何とさへづる、藏桝《クラマス》に十《ト》かきそへて、おくら濟(ム)とさへづる、朝はか、朝はかの一みなくちに、生たる松は何まつ、白かねの銚子提(ゲ)に、田ぬしいはふ若松、々々の一の枝に、とまる鷹が巣をかけて、巣のうちを見入て見れば、こもち金が九(ツ)、一(ツ)を宇賀にまゐらせ、八(ツ)の長者といはゝれたよ、けふの田うゑの田ぬし殿には、金の臼が七から、七からに八からまして立たは、長者殿にもますべい、杵が十六女が三十三人、三十三人の其中では、どれが目につく旅人、紅の前だれに、上(ゲ)嶋田がめにつく、旅びと、晝上り、日を見れば、ひるまになり候、晝いひもちのおそさよ、晝いひはいでき候が、椀を何具そろへた、百三具揃へた、晝いひはいでき申たが、おけくさになに/\、いそやわかめ苅あげて、たひをまねふくろから曲、鎌倉へのぼる道には.をうなにゝたる石あり、男よりて手だにかくれば、なよれかゝる石あり、かまくらの御所の館《ヤカタ》は、二階作りの八(ツ)むねに、むねさはしをふせて、二階づくりの八(ツ)むね、鎌倉の御所のやかたの、百千本の竹の子、百千本がのたつなら、御所は名所となるべい、夕暮、夕ぐれに出て見れば、前田わせがそよめく、そよめかばおかりやれや、百や廿餘人、百廿餘人の其中に、どれがこなたの聟《ムコ》殿、紅の鉢卷に、左鎌が聟殿、上りはか、上りはかのこんそめには、誰もけんてにかけるな、玉のみこしでむかへ申そ、誰もけんてにかけるな、笠の上で蝉が鳴候、おいとま申ぞ田の神、
 
    正 堂 正 寢
百練抄に、久安四年、閏六月十五日、諸卿於(テ)2殿上(ニ)1定(メ)申(ス)、諸道勘(ヘ)申(ス)云々、正堂正寢(ハ)、指(ス)2何物(ヲ)1哉《ヤノ》事、正堂(ハ)大極殿、正寢(ハ)小安殿(ノ)之由、師安勘(ヘ)申(ス)而(ルニ)内大臣、正堂(ハ)大極殿也、正寢小安殿(ノ)之條、無(キノ)2所見1之由被《ル》v申(サ)、
 
    后妃内親王など院號の事
同書に、應保元年、十二月十六日、以(テ)2無品内親王(ヲ)1、【※[日+章]子】爲2八條院(ト)1、伊通公申(シ)状(ニ)、帝王養母(ノ)之儀、元始(マル)v自2延喜1事也、所謂(ル)温子【九條殿女】也、貴(テ)爲2皇太后(ト)1、寛平法皇令v申(サ)d無2先例1、仍(テ)不(ル)v可v然(ル)之由(ヲ)u給(フ)、然(レドモ)而不v可v依v例(ニ)、令(メ)v存(セ)2母儀(ト)1給(フノ)之由、被《ル》v仰(セ)v之(ヲ)女院(ハ)、始(レリ)v自2東三條(ノ)院1、院號(ハ)貴(キ)2於后(ヨリ)1歟《カ》、將《ハタ》賤(キ)歟《カノ》之由、可(シ)v被《ル》v問(ハ)2法家(ニ)1、小一條(ノ)院(ハ)、元(ト)東宮也、兩(ルニ)院號(ノ)之後、可(キノ)v爲(ル)2三宮(ノ)下1之由宣下、太上天皇(ハ)者別也、只(ノ)院號(ハ)、更(ニ)不v可v貴(カル)2於后位(ヨリ)1事也、
 
    裾の長さの事
同書(ニ)云(ク)、寛喜三年五月廿四日、若宮(ノ)御|百日《モヽカ》也、今日出仕(ノ)人々、裾(ノ)寸法(ノ)事、内々|爲《シテ》2頭(ノ)中宮(ノ)亮資頼(ノ)朝臣奉行(ト)1、被《ル》2仰(セ)下(サ)1、大臣八尺、大納言七尺、中納言六尺、參議三位五尺、四位已下四尺、
 
    もらふといふ詞
新撰字鏡に、※[食+胡](ハ)寄食也|毛良比波牟《モラヒハム》とあり、俗言に物をもらふといふは、これ也、これもとは食にのみいへりし言の、後にひろく何にてもいふことになれるか、はたもとより食にはかぎらざりし言か、しらず、
 
    茶  椀
延喜民部省式、年料雜器、長門(ノ)國より進る物の中に、茶椀廿口【徑各五寸】とあり、茶椀めづらし、
 
    大野の石佛
初瀬より、伊賀の名張へゆくあひだに、大野寺といふに、いとたかく大きなる石に、佛のかたゑりたるあり、承元三年三月七日、上皇御2幸長谷寺、并(ニ)宇多(ノ)郡(ノ)内大野(ノ)石佛(ニ)1とあるは、此ところ也、上皇は、後鳥羽(ノ)天皇也、
 
    み や う ぶ
武能《タケヨシ》といふ管絃の上手、一(チ)の人の仰せによりて、時光といふものゝ弟子になりにゆくとて、みやうぶ書て、かれが家にゆけりと、續世繼に見えたり、みやうぶは、名簿とかきて、なづきといふ物也、物に名付《ナヅキ》とも書たり、
 
    たふとみて令《シメ》といふ詞
古語に、人の事をたふとみて、行《ユク》をゆかす、立(ツ)をたゝすなどいへるを、中昔には、ゆかせ給ふ、たゝせ給ふなどいひ、記録ぶみなどには、令(メ)v行(カ)給(フ)、令(メ)v立(タヽ)給(フ)など書り、此たぐひの令《シメ》といふことばゝ、いとふるくは見えざることなるに、萬葉十四の、上野(ノ)國の歌に、安思布麻之牟奈《アシフマシムナ》とあるは、いとめづらし、かの集のころの歌、他はみな、あしふますなといへる例也、
 
    かたみ恨み
かたみうらみといふ詞、保元物語に見えたり
 
    書 出 し
江家次第九の卷に、書出(シ)といふこと見えたり、今商人の家にいふ書出しも、かれより出し名なるべし、
 
    かたみせん
今碁に、たがひせんといふことを、續世繼に、ゐごならば、かたみせんにてぞよく侍らむとあり、
 
    伎藝に大夫といふ名
同書に、花園(ノ)左大臣の御家に、管絃をよくするものどもを、おほくめしおき給へりし事をいへるところにいはく、ふき物ひき物せぬはすくなくて、ほかよりまゐらねど、内の人にて、御あそびたゆることなく、伊賀大夫六條大夫などいふ、すぐれたる人どもあり云々、と見えたり、今の世に、猿樂その外の伎藝《ワザ》にも、大夫といひ、名にも、何大夫とつく、ふるきことなりけり、
 
    朝  所
朝所を、常にはあいたんどころとよむを、中務(ノ)内侍(ガ)日記には、あしたどころと、所々に書たり、あしたを、音便にあいたんとはいふなるべし、し〔右○〕を|い〔右○〕といふも、ん〔右○〕をそふるも、音便のつね也、
 
    柿の本 栗の本
二條(ノ)良基公の、さよのねざめといふ物にいはく、後鳥羽(ノ)院の御代には、よき連歌の上手をば、柿の本の衆となづけられ、わろき連歌をば、栗の本の衆と、なづけられ侍りき、
 
    かごといふ乘(リ)物の名
今川(ノ)貞世が、鹿苑院義滿(ノ)大將軍の、嚴嶋詣の記に、御前の濱の鳥居のほとりより、かごにて、御船に、うつらせ給へりといへり、
 
    桃花坊のふみぐらのふみの事
應仁のみだれに、一條(ノ)兼良(ノ)おとゞの、桃花坊の文庫やけて、野原となり、そのあたりの盗賊ども、たちこぞりて、七百餘合のしみのすみかを引ちらし、大路を反古となしたりしよし、此おとゞの、竹林抄の序にかゝせ給へり、みだれ世のしわざ、あさましなどもよのつね也、そも/\七百餘合の書は、合《ハコ》ごとに、五十卷とはかりて、三萬五千餘卷のふみ也
 
    玉津嶋の神
おのれ一とせ、紀の國に物して、若山にしばしありしほど、かの國の名所どもの事、しるしたるふみども、これかれと、かしこの人の見せけるを、見たりし中に、岩橋(ノ)甚右衛門|秀榮《ヒデナガ》といひし人の、あらはせる物の中に、玉津嶋の神の考へ有(リ)、それにいはく、玉津嶋を、衣通姫也といふこと袋草子、又北畠(ノ)親房(ノ)卿の、古今(ノ)序注に引れたる、或抄などに見えたれど、據なきこと也、又近き世に、稚日女《ワカヒルメノ》尊也といふ説もあれど、それは若(ノ)浦といふ地(ノ)名によりての、おしあてなるべし、今ひそかに按に、玉津鳴(ノ)神は、神功皇后なるべし、其故は、まづ攝津(ノ)國住吉(ノ)神社四座の中に、第四は、神功皇后なるを、一説に、玉津嶋といへり、袖中抄に、故左京亮|被《レテ》v申(サ)云(ク)住吉(ノ)神主國基云(ク)、住吉は本三社也、第四(ノ)社は、玉津嶋明神、即(チ)衣通姫也、後にいはゝれ給ふ、依て和歌を好み給ふといへり、かく住吉(ノ)神主津守(ノ)國基の説に、第四(ノ)社を、玉津嶋明神也といへるは、玉津嶋神功皇后なるゆゑに、此傳説有し也、然るを即衣通姫也といへるは、世間の妄説によりて、誤れる也、さて又玉津しまを、和歌の神と申すは、もと若の浦の神といふことなるべし、かの地名を、若といへばなり、さて又住吉を、和歌の神とすることも、第四の社神功皇后にて、若の浦の神なるより出たることなるべし、さて玉津嶋は、津を濁りて、玉出嶋《タマヅシマ》なり、古書にかく書たり、うつほ物語の歌にはすなはち、玉いづる嶋とよめり、依て按に、此地は、神功皇后の、新羅を伐給ふ時に、如意珠を海中に得給ふとある、その如意珠の出たる地なるべし、神功皇后の、紀(ノ)國に來坐せる事、日本紀に見えて、由あり、かくてかの珠を得給へる地なる故に、此皇后を祭れるなるべし、或説に、津(ノ)國住吉に、玉出《タマデノ》嶋あり、神功皇后新羅を伐給ふ時、干珠滿珠を得給ふ、其珠の出たる所也といへるは、紀(ノ)國の玉|出《ヅ》嶋の事を、誤りて傳へたるなるべし、紀(ノ)國の玉|出《ヅ》嶋(ノ)神を、後に住吉にも祭れるによりて、そこをも玉|出《デ》嶋とはいふなるべし、新拾遺、住吉社(ノ)歌合、社頭祝、津守(ノ)國平(ノ)歌に、「君がため玉出の岸にやはらぐる光の末は千世もくもらじ、又或説に、干珠滿珠は、紀(ノ)國日前宮に納まる、といへることも有(リ)、これもよし有ておぼゆ、日前宮はもと、名草の濱の宮にまし/\て、そのかみ玉津嶋も、日前宮の攝社なりしかば、かの珠の、玉津嶋より出たる事を、まがへて日前宮に納まるとは、云つたへたるなるべし、又王津嶋明神は、日前宮なりといふ説もある、それも攝社なりしことを、さは誤りつたへたる也、右の事共を合せて考るに、玉津嶋の神は、疑ひなく神功皇后なるべく思はるゝ也といへり、此考へなほ事長きを、今ははぶきつゞめて出せり、此秀榮といひしは、若山の人にて、ちかきころみまかりぬとぞ、此ふみは、それが甥なる、長原(ノ)忠睦といふが、見せたりし也、
 
    いそのへぢ
新古今集旅(ノ)部、行尊大僧正の歌の詞書に、いそのへぢとあるところは、紀の國熊野に物するに、牟婁(ノ)郡|田邊《タナベ》より、海べを經て、熊野に出る道あり、是なるべし、此道伊勢までつゞけり、長く磯づたひにゆく路なる故に、いそのべぢとはいふなるべし、今の俗《ヨ》にも、大濱路《オホヘヂ》といふなり、行尊僧正の、熊野へ物せられたる歌は、これかれと集にも見えたり、又西行法師の山家集に、いせのべぢの錦の嶋云々とあるも、此道のことなるべしと、同じ書にいへり、
 
    紀の國の鳴瀧
新古今集神祇(ノ)部に、思ふこと身にあまるまでなる瀧の云々といへる歌の、なる瀧は、紀の國名草郡、園部村の奥に在て、いにしへ修驗道の一場にして、名高き所也、役(ノ)小角開基といへり、熊野の神の、夢に告給へること、よし有(リ)、今(ノ)世に、本宮の邊に、鳴瀧とてあるは、かの歌によりて、後につけたる名也と、これも同書にいへり、
 
    ふけひの浦 吹上のはま
同集雜に、藤原清正、「あまつ風ふけゐの浦にゐるたづのなどか雲ゐにかへらざるべき、此歌、家(ノ)集に、詞書に、紀の守になりて、まだ殿上もかへりせでとあり、又大和物語に、故右京(ノ)かみ宗于の君云々、亭子のみかどに、きのくにより、石つきたるみるをなん奉りけるを、題にて云々、「沖津風ふけゐの浦に立浪のなごりにさへやわれはしづまむ、又庵主熊野紀行に、紀の國の吹上の濱にとまれる、月いとおもしろし、此はまは、天人つねに下りて、あそぶといひつたへたる所也云々、「をとめこがあまのは衣引つれてうべもふけゐの浦におるらむ、月のうみのおもにやどれるを、浪のしきりにあらふを見て、「月に浪かゝるをり又ありきやとふけゐのうらのあまにとはゞや、これらのふけゐの浦は、紀の國にて、右の庵主の歌によれば、吹上の濱の一名也、ふけゐといふ名は、風の砂を吹あつむるよしにて、ゐは集《ヰ》の意也、風の砂をふきあつむとは、此吹上の濱は、西南の風はげしき時は、白砂を高く吹上(ゲ)て、一夜のほどに吹あつめて、山をなし、又しばしがほどに、ふきちらして、もとの平地となり、或は時のまに、そのところをかふることもあり、これによりて、吹上のはまとはいふ也、公任卿(ノ)集に、吹上のはまにいたりぬ、風の砂をふきあぐれば、霞のたなびくやう也、げに名にたがはぬ所なりけり、古今顯注にも、吹上(ノ)濱とは、風のいたく吹て、濱のまさごをふきあぐるが、おもしろきと申す云々、爲家(ノ)卿の、吹上の濱の眞砂山とよみ給へる歌、名寄に見ゆ、草根集にも、「時のまに眞砂吹上の山谷をつくりかへたる紀路のしほ風、などあり、今府城の西に砂《スナ》山とて、ちひさき岡のあるも、いにしへはそのあたりも、吹上のうちにて、かの砂山のゝこれる也、ふけゐとも吹上ともいふ名のよし、かくのごとし、はじめに出せる清正の歌のふけゐを、むかしより、和泉(ノ)國と心得たるは、誤也、和泉なるは、ふけひにて、假字も異也、紀の國のは、ふけゐと書べし、又紀の國に、日高(ノ)郡の海邊にも、ふけゐといふ地の名あれども、むかしの歌共によめるはそれにはあらずと同じ書にいへり、此中に、名の意を、風の砂を吹あつむるよしにて、ゐは集《ヰ》也として、ふけゐと書べしといへるは、信《ウケ》られず、物をあつむることを、ゐといふことなし、されば假字も、ゐとはさだめがたし、しばらく和泉のにならひて、ふけひとぞ書べき、
 
    大峯の神仙といふ所
金葉集千載集などの詞書に、大峯の神仙といふところ見えたり、金峯山の南に在て、深禅とも、深山とも書(ク)也、今は神山と書て、じんぜといふ、里人のいへるは、金峯山より釋迦が嶽まで、十三里、釋迦が嶽より神山《ジンゼ》まで、六里半ありと也、峯中の詞に、一里を一(ト)なびきといひて、大峯の峯中をすべて、七十五なびきといへり、さて俗《ヨ》には金峯山を、大峯と心得たれど、そは誤也、金峯山は御《ミ》たけにて、大峯といふは、かの神仙のあたり也、千載集の詞書にも、みたけより大峯にまかりいりて、神仙といふところにてとあり、と同じ書にしるせり、
 
    かざらき山 紅葉の洞
玉葉集釋教(ノ)部に、「花衣かざらき山に色かへてもみぢのほらの月をながめよ、此歌は、素意法師、いまだ出家し侍らざりけるとき、粉河の觀音にまうでゝ、發心して、やがてこもり侍て、いづれのところにてか出家し、いづくにてか、佛法修行して、往生をとげ侍るべきと、祈り申けるに、内陣より、かくしめし給ひけるとなんと有(リ)、かざらき山は、すなはち粉川寺の山にて、風猛《カザラキ》山と書り、玉葉集今の本に、かさゝぎ山とあるは、誤也、粉川寺の村を、風市村といふ、風(ノ)森といふも、南に有(リ)、風市(ノ)森ともいへり、紅葉の洞は、大和の多武峯に、錦端洞とてある是也、されば右の歌は、即(チ)粉川にてかしらおろし、多武峯にておこなへとの意也、そも/\此素意法師は、紀伊守重經といひし人にて、康平七年六月、粉川寺にて出家し、名を素意と改め、大和にのぼりて、多武(ノ)峯に十餘年おこなひて、其後和泉(ノ)國泉南(ノ)郡松村(ノ)郷に、寂靜院といふ寺をたてゝ、住けるに、かの多武(ノ)峯の錦端洞の秋の色の、わすれがたくおぼえければ、庭に閼伽井をほり、かたはらにかへでの木をうゑて、丹葉井となづけけるとぞ、嘉保元年十月十五日、そこにてみまかれるよし、粉川寺の縁起に見えたり、紅葉の洞は、逍遙院殿の、多武(ノ)峯奉納の御歌にもよみ給へり、と同じふみにいへり、
 
    紫の名高(ノ)浦
名高の浦は、名草(ノ)郡にて、今はそのわたり、海士(ノ)郡に入れり、今も名高とも、名方ともいふ里にて、藤白のすこし北の方也、ある時若山にて、人々物語しけるついでに、一人がいふやう、名高の里中に、むらさき川といふちひさき川の有也といふ、そはいとおかしきことなるを、もし萬葉の歌によりて、事好むものゝ、つけたる名にはあらじか、なほたしかにとひきかまほしきこと也と、おのれいひければ、又一人、おのれかのあたりは、しば/\ゆきかよふところなれば、いまよくあないとひきゝてんといへるが、後に又きたりしをり、かたりけるは、一日名高のわたり物せしに、かの川の事、里のわらはべの、あそびゐたりしに、此さとに、むらさき川といふ川やあるとゝひしかば、よくしりゐて、ちひさき流れに、橋かけたる所を、これなんそれと、をしへつ、とぞかたりける、しかわらはべまでよくしれるは、つくり言《コト》にはあらざ(ン)めるを、もしこれふるき名ならば、かの萬葉に、むらさきの名高とつゞけたるは、いにしへこのわたりを、村崎などいひて、そこなる名高の浦といへるにはあらじか、されどかの川の事、なほ人づてなれば、たしかにはいひがたきを、かしこに物せむ人、なほよくたづね給へ、
 
    黒牛潟 藤白 糸鹿山
黒牛潟は、今は黒江といひて、若山の方より、熊野に物する大路にて、黒江千潟名高と、つぎ/\にあひつらなりて、三里《ミサト》いづれも、町づくりて物うる家しげく立つゞき、にぎはゝしき里共也、皆入海のほとりにて、けしきよし、黒江などは、山にもかたかけたるところ也、此わたり昔は、名草(ノ)郡なりしを、いまは海士(ノ)郡といへり、此紀の國の或書に、此黒江の磯べに、むかしいと大きにて、いろ黒き石の、牛のかたちしたるが有て、潮《シホ》みつればかくれ、ひぬれば顯《アラハ》れけるを、いつのころよりか、やう/\に土に埋れゆきて、見えずなりぬるを、一とせ里人どもあまたたちて、ほりあらはさむとせしかど、大きにして、つひにえほり出さでやみぬるを、今はそのあたりまで、里つゞきて、かの石は、民の家の地の下に有(ル)よししるしたり、藤白も、同じ郡也、名高の里をはなれて、南ざまにすこしゆけば、その坂のふもとにて、ふぢしろ村といふ有て、そこに藤白(ノ)王子と申(シ)て、御社も、道のほとりに立(チ)給へり、くま野道なる、九十九所の王子と申す中の一つにて、俗《ヨ》に熊野の一の鳥居とぞいふなる、さて十八町がほど、藤白の御坂をのぼりて、たむけに寺あり、そのすこし西のかたに、御所(ノ)芝といふあるは、いにしへ熊野御幸のをりの、頓宮の御あとゝなん、いひつたへたる、いと見わたしのけしきよきところにぞ有ける、在田(ノ)郡なる、須佐(ノ)神社の神主、出羽(ノ)守岩橋(ノ)時倚は、おのがをしへ子なるを、御やしろにもまうでがてら、とぶらひて、それが家に、一夜やどりたりし、そのゆきゝに、上のくだりの所々は、見たりしなり、此すさの御社は、千田《チダ》といふ里の、山陰にたゝせ給ひて、熊野道よりは、西の方へわかれて、在田川の川そひを、くだりゆく所也、糸鹿《イトガ》山は、熊野の道の坂にて、これも在田(ノ)郡也、北の麓に、糸我《イトガ》の里、又糸我(ノ)王子(ノ)社といふも有(リ)とぞ、在田川のあたりより、此山、みなみのかたに、ちかく見えたりしかど、かしこまでは、え物せざりしを、このいとがの里の、林なにがし中山(ノ)なにがし二人、おのが弟子《ヲシヘコ》になりに、かの岩はしが家にきて、はじめてあひける、此人どもぞ、かのわたりの事共なにくれと語りたりし、
 
    妹 背 山
背《セ》の山は、書紀の孝徳天皇の御卷に、畿内の堺を定めらるゝところに、南(ハ)自(リ)2紀伊(ノ)兄(ノ)山1以來《コナタ》と有て、兄此(ヲ)云(フ)v制《セ》と、訓注もあり、さて萬葉には、一の卷持統天皇の御代の歌より、始めて見えて、多く此山をこえゆくよし、端(ノ)詞にも歌にも見えたり、妹山といへることは、同集七の卷の歌に二首と十三の卷に一首と見え、合せてひとつに、妹背の山とよめるは四の卷七の卷に見えたり、かくて顯昭の袖中抄に、妹背山とは、紀國に、吉野川をへだてゝ、妹の山せの山とて、二つの山ある也といひ、契沖勝地吐懷篇には、妹背山は、紀の川をへだてゝ、兄山は北に、妹山は南に有(リ)といひ、紀の國の或書には、背山は、伊都(ノ)郡那賀勢田(ノ)庄、背山村の西北にあり、妹山は、背山村の二町あまり南、きの川の南の邊にありといへり、宣長つら/\思ふに、兄(ノ)山は、はやく孝徳紀に見え、萬葉の歌によめる趣も、たしかなるを、妹山といふは、兄山あるにつきて、たゞまうけていへる名にて、實に然いふ山あるにはあらじとぞ思ふ、そは萬葉三の卷に、「かけまくほしき妹の名を、此せの山にかけばいかにあらむ、又「このせの山を妹とはよばじなど、兄の山といふ名につきて、妹といふことをもよめれば、又妹山といふことをも、まうけて、歌のふしとせるなるべし、されば背の山の事は、たしかによめれど、妹山の事とては、さしてよめる歌見えず、たゞ妹とせの山、いもせの山、或は妹の山せの山こえて、などのみよめる、皆兄の山につきての詞のあやに、妹山ともいへるごと聞えて、兄の山をいはずして.たゞ妹の山をのみよめるはなし、七の卷に、「木道《キヂ》にこそ妹山有(リ)といへと、たゞ一つよめるも、たゞ歌に此名あるによりてのことなるべし、又七の卷に、「せの山にたゞにむかへる妹の山、ことゆるせやもうち橋わたす、といふ歌も、兄(ノ)山をこゆる時に、谷川などに、かりそめなる橋をわたせる所を見て、そのあたりにならべる山を、かりに妹山として、かくはよめるなるべし、かの紀路にこそといへる歌の末、「二上山も妹こそありけれとよめるも、二上山に、まことに妹といふがあるにはあらねど、峯二つあるによりて、まうけてさはよみつるなれば、きの國なるも兄の山といふ名につきて、さもいふべきこと也、なほ妹山といふ山は、まことにはなきことゝ思はるゝは、今にいたるまで、兄山はたしかにて、背山村といふさへあるを、妹山は、まぎらはしくして、さだかならず、其故はまづ上に引る袖中抄などは、たゞ古今集の歌によりて、大よそにいへるなれば、證《アカシ》にはなりがたし、契沖がいへるやうも、なほおほよそなるをかの或書にいへるは、こまやかなれど、紀の川の南の邊にありといへるは、いづれの山をさしていへるにか、なほまぎらはし、こは思ふに、紀の川の川中にある岩山をいへるなるべし、然るにおのれ船より此川をくだりける時、見けるに、其山は、川中ながらも北の岸にちかき所に在て、水は山の南の腰を流るれば、川の南の邊といへることたがへり、そは川瀬のうつりたるにやとも思へど、なほこれも古今集の歌にかなへむとて、南(ノ)邊とは、いひまぎらかしおきつるにや、又まぎらはしきは、貝原(ノ)篤信がいはく、名手の瀬の山にいたりて云々、もし妹背山此所ならば、むかひは妹山なるべきに、妹山といふべき山なし、此山は、川瀬の中にあれば 瀬の山也、妹背山にあらずといへり、然れば、そのころ里人なども、此川中なるをせの山といへるにや、されど川中なるは、さらに畿内の堺などにせらるべき山にはあらず、又萬葉の歌どもによめるさまも、兄の山は、背山村の西北なる山なること、しるければ、猶貝原がいへるも、ひがこと也、然はあれども、そのかみもしかの川中なるを、妹山といひたらむには、妹山といふべき山なしなどは、いふまじく、又これは妹山にはあらずなども、必(ズ)いふべきに、さることいはざるを思へば、かれを妹山といふことはなかりしごと思はるゝを、かの或書には、妹山とはこれをいへるごと聞ゆるは、かへす/\まぎらはし、かくのみ妹山のまぎらはしきは、もと實《マコト》に然いへる山は、なきがゆゑなるべし、又ちかきころ、あるきの國人のいはく、古今集の、流れてはの歌、六帖には、よしのゝ瀧の中に落るとあり、續古今集、延喜(ノ)御歌に、「末たえぬよし野の川のみなかみやいもせの山の中をゆくらん、玉葉集に、小野篁、「中にゆくよし野の川は云々、同妹かへし、「いもせ山云々、これらの歌によるに此山紀の國にはあらず、吉野にあること、決定すべし、萬葉に、紀の國とよみたれども、それは名手の川中なる瀬の山を、まがへて誤れるかといひ、かの貝原なども、吉野なるを、それ也といへるは、みな後の歌にのみなづみて、萬葉をよく見ざる、ひがこと也、萬葉のおもむき、紀の國なることは、何の疑ひもなし、今も吉野に、それとてあるは、古今集の歌につきて、後に似つかはしき山を、それとなづけたるもの也、そも/\古今集なる、ながれてはの歌は、かの萬葉七の、「せの山にたゞにむかへる云々、うち橋わたす、又同卷に、「きの川のべの妹と背の山、などある歌によりて、妹背の山の中に落るとはいひ、よしやと重ねん料に、紀の川を、同じ川なれば、吉野の川ともよみなせるもの也、又その歌に、よしのゝ川といひ、おつるともあるから、六帖なるは、その川を、瀧とも唱へ傳へたるなるべし、すべて歌に名所《ナドコロ》をよめること、そのところにいたりて見たるさまをよめるなどこそ、後(ノ)世のといへども、よりどころとすべきはあれ、さらぬ戀の歌などによめるは、いにしへのも、たゞふるき歌によめることをとりて、あやにしたること多ければ多くは其名どころの考への證にはなりがたきわざなるを、此いもせ山の事、むかしよりたれも/\、只かの古今集の歌にのみなづみて思へるは、くはしからぬことぞかし、又かの續古今集に、延喜の御(ン)とてのせたる歌、玉葉に篁(ノ)卿のとせる歌などは、いたく後のさまにて、さらにその世の歌ざまにあらず、いひなしざま古今集なるによれることしるし、たとひまことにその歌どもにもあれ、古今集なるはふるく聞ゆれば、かれによれるは論なければ、まして證にはいかでかなるべき、
 
    紀の國の名どころども
待乳《マツチ》山は、大和(ノ)國の堺にて、紀の國伊都(ノ)郡也、角田《スミダ》川は、待乳川のことなるべし、此川みなもとは、葛城山のうちより出て、北隅田(ノ)庄を流れて、きの川におつる也、紀の關は、和泉(ノ)國より、きの國の名草(ノ)郡にこゆる、雄山に在て、南のふもとなる、山口村にちかし、袖中抄に、雄山の關守とあり、白鳥(ノ)關といへるも此關のことなるべし、名草山は、紀三井寺の山也、飽等《アクラノ》濱は、海士(ノ)郡|賀田《カダ》浦の南の方に、田倉崎といふ所ある、是也と、里人のいひ傳へたるとぞ、吹上(ノ)濱は、若山の西南にて、若(ノ)浦の北也、雄水門《ヲノミナト》は、今若山の内に、湊といふ所に、小野町《ヲノマチ》といふ有て、蛭子(ノ)社ある、そこに雄之芝《ヲノシバ》といふあり五瀬命の薨ましゝ跡也といへり、小野町といふも、ゝと雄の町也といへり、此蛭子(ノ)社に吹上(ノ)社といふをも、並べ祭れり、或説には、吹上(ノ)社は、關戸村の矢の宮也ともいへり、雜賀《サヒカ》浦は、海士(ノ)郡にて、雜賀(ノ)庄とて、廣き所なる其中に、若(ノ)浦の西の方に、雜賀崎といふところ有(リ)、此わたり雜賀(ノ)浦なるべし、浦の初《ハツ》嶋は、同郡、濱中(ノ)庄|椒《ハジカミ》村の八町ばかり海中に、地の嶋といふ有(リ)、東西四町あまり、南北八町ばかりの嶋也、其嶋の三町ばかり西に、又嶋有て、沖の鳴といふ、東西五町に、南北六町ばかりあり、此二つの嶋を、浦のはつ嶋といふ、小爲手《ヲステ》の山は、在田(ノ)郡、山保田(ノ)庄に、推手《オシテ》村といふあり、これか、其村は、伊都(ノ)郡の堺にて、山のおく也、白崎は、日高(ノ)郡、衣奈(ノ)庄衣奈浦の東南の方に、衣奈(ノ)八幡といふある、其社の縁起に、白崎といふこと見えたり、三穗《ミホ》の岩屋は、同郡三尾村の廿五町ばかり東南の海べに在(リ)、岩屋の中に、石の觀音の像あり、熊野道のうち、日高川鹽屋浦のあたりより、西の海べに、一里ばかりの長き松原有て、和田(ノ)松原といふ、此岩屋は、その西の際也、野嶋阿胡根(ノ)浦は、同郡鹽屋浦の南に、野嶋里あり、その海べを、あこねの浦といひて、貝の多くよりて集まる所也、切目《キリメ》山は、同郡熊野道の海べにて、切目坂切目浦切目村あり、山は村より一里ばかり東北也、村の北に、切目(ノ)王子(ノ)社も有(リ)、磐代《イハシロ》は、同郡也、切目を過て、切目川有て、次に磐代なり、西岩代東岩代とて村有(リ)、岩代(ノ)王子(ノ)社、海べにあり、千里(ノ)濱は、岩代の南の邊より、南部《ミナベ》までのあひだ、一里半ばかりのところをいふ、むかし元弘元年七月三日、大地震にて、きの國千里の濱、廿よ町がほど、たちまち陸となれるよし、太平記にしるせり、三名部《ミナベ》は、岩代の南也、三名部村みなべ浦あり、その十町ばかり海中に、嶋有(リ)、これ鹿嶋也、さて三名部の南に、堺浦といふ有て、郡堺也、そこまでは日高(ノ)郡、それよりあなたは、牟婁(ノ)郡也、礒間(ノ)浦は、田邊《タナベ》の王宿村の南、神子(ノ)濱つゞきにあり、神嶋は、その一里ばかり海中にありて、かしまともいへり、白良《シラヽノ》濱は、湯崎※[金+公]山と、瀬戸とのあひだに在て、里人は白濱といへり、此濱の眞砂、遠く見れば、雪のごとし、神(ノ)藏山は、新宮より二町ばかり東南【一書には西南】に有(リ)、社の説に、天照大神と、高倉下と、二神を祭(ル)といへり、石の階《ハシ》を、六間ばかりのぼりて、上に堂有て、地藏の像を置《オケ》りといへり、それを神(ノ)倉權現といひて、其外に社はなし、かの高倉下(ノ)命の、神劍を得たりし地は、こゝ也とぞ、熊野(ノ)村は、新宮に上熊野中熊野下熊野とて、三村あり、三輪が崎は、新宮より那智へゆく道の海べ也、新宮より一里半ばかりありて、けしきよき所也、佐野は、佐野村といふ有て、三輪(ガ)崎のつゞき也、佐野(ノ)岡は、村より七八町北にあり、玉の浦は、那智山の下なる、粉白浦といふところより、十町ばかり西南に有(ル)、離小嶋《ハナレコジマ》といへるは、玉の浦の南の海中に、ちり/”\に岩あれば、それをいへるなるべし、其外には嶋はなし、熊野(ノ)御崎は、那智山の下濱(ノ)宮よりゆく、海べの道を、大邊地といふ、その間に、上野村といふあり、海中へ長くつき出たる崎にて、鹽の御崎とも、鹽崎浦ともいへり、三前《ミサキノ》神社あり、少彦名(ノ)命を祭る、此所の海は、のぼり潮《シホ》くだり潮《シホ》とて、年を重ねて、片潮に流れて、しほの滿干にかゝはらず、いと早く流るれば、海を渡る船人の、いたくおそるゝところ也、有馬(ノ)村は、新宮より北の方へ、伊勢の方へ、五里ばかり行て、木の本といふ所の、廿町ばかり南にあり、そこに産田(ノ)神社、又花の窟《イハヤ》あり、里人訛りて、大般若の窟といふ、此窟の山、高さ廿四五間、周《メグリ》三町ばかりあり、此窟は、伊邪那美(ノ)尊を葬奉れる所といふを、又或説には、いざなみの尊を葬奉れる所は、産田(ノ)神社にて、花(ノ)窟は、火(ノ)神也ともいへり、楯《タテ》が崎は、木(ノ)本(ノ)庄二木嶋といふところより、一里ばかり海中にあり、むかしは此所、伊勢と紀の國の堺なりしと、里人いへり、錦の浦は、長嶋(ノ)庄長嶋村の、一里ばかり東也、此地、むかしは志摩(ノ)國なりしとぞ、上(ノ)件磯間(ノ)浦よりこなたは、皆むろの郡也、そも/\此きの國は、ふるき名どころども多くして、萬葉集にも、殊におほく見えたるを、世の人は、いづれの郡にありとだに、えしらぬ所々の多かるを、此國にては、かくれなくて、みな人よくしれるなど、又さらぬも、書どもには、みなしるしたるが、見過しがたくて、その大かたを寫しおきつる中に、たしかならぬさまに聞ゆるをば、みなもらして、さもありぬべくおぼゆるかぎりを、それかれとえりいでゝ、しるせるほどに、此卷は、すゞろにきの國の名所集のやうにぞなりぬる、なほ式にのれる神社どもの御事をも、こと/”\くしるしたるもあるを、そは又|別《コト》にもしるしてむと思へば、こゝにはみなもらしつ、
 
    周(ノ)武王死けるとき成王十三歳
から國の周の武王、とし九十三にして、みまかれりし時、其子の成王、いまだ十三なりしとしるせり、然れば成王は、武王が八十一の時の子にぞ有ける、いにしへ人は、しか健《スクヨカ》なりしことは、論なけれども、なほいかにぞやおぼゆることは、此(ノ)王、はやく子どもはあまた有つれば、子孫《ノチ》絶《タエ》むのあやぶみもなきに、なほうませたるは、さるいみしき老のよまでも、なほ好色心《ヨゴヽロ》のやまざりしなりけり、聖人といふものも、さるものにや有けむ
 
    道のひめこと
いづれの道にも、その大事とて、世にひろくもらさず、ひめかくす事おほし、まことに其道大事ならば、殊に世に広くこそせまほしけれ、あまりに重くして、たやすく傳へざれば、せばくなりて、絶やすきわざぞかし、そもみだりにひろくしぬれば、其道かろ/”\しくなることゝいふなるも、一わたりは、ことわりあるやうなれども、たとひかる/”\しくなるかたはありとても、なほ世にひろまるこそはよけれ、廣ければ、おのづから重きかたはあるぞかし、いかにおも/\しければとても、せばくかすかならむは、よきことにあらず、まして絶もせむには、何のいふかひかあらむ、されどちかき世に、道々に秘傳口決などいふなるすぢ、おほくは、道をおもくすといふは、たゞ名のみにて、まことは、人にしらさずて、おのれひとりの物にして、世にほこらむとする、わたくしのきたなき心、又それよりもまさりて、きたなき心なるぞおほかる、さるたぐひも、もろ/\のはかなき技藝の道などは、とてもかくてもありぬべけれど、うるはしくはか/”\しき道には、さること有べくもあらず、
 
    道
道は、高御産巣日《タカミムスビ》神産巣日《カミムスビノ》御祖《ミオヤノ》神の産靈《ムスビ》によりて、伊邪那岐伊邪那美二柱の神のはじめ給ひ、天照大御神の受(ケ)行はせ給ふ道なれば、必(ズ)萬の國々、天地の間に、あまねくゆきたらふべき道也、たゞ人の、おのがわたくしの家のものとすべき道にはあらず、
 
    契沖が歌をとけるやう
歌の注は、むつかしきわざにて、いさゝかのいひざまによりて、意もいきほひも、いたくたがふこと多きを、契沖は、歌をとくこと、上手にて、よくもあしくも、いへることのすぢ、よくとほりて、聞えやすし、ゝかるにをり/\、くだ/”\しき解《トキ》ざまのまじれるは、いかにぞや、たとへば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、うきたる物なれば、久しく吹とづべきものにはあらざるによりて、しばしといへる詞、よくかなへり、といへるたぐひ也、すべてかのころなどの歌は、よみぬしの心には、さることまでを思へるものにはあらず、然るをかくさまに、こまかに意をそへてとけるたぐひは、思ふに、佛ぶみの注釋どもを、見なれたるくせなめり、すべてほとけぶみの注尺といふ物は、深くせむとて、えもいはずくだ/\しき意をくはへて、こちたくときなせる物ぞかし、
 
    もろこしの古(ヘ)人時世のあはざるがある事
もろこし國も、夏殷よりあなたの世の事は、何事も、さだかには傳はらざりしとおぼしくて、もろ/\の書どもにしるせる一(ト)やうならず、さま/”\にて、時代《トキヨ》のたがひて、あはざる事なども多し、一(ツ)二(ツ)いはゞ、禹は※[湍の旁+頁]※[王+頁]が孫、舜は※[湍の旁+頁]※[王+頁]が七世の孫也といへるに、同じ時にて、位をゆづりたりしはいかに、又伊尹は、成湯が時の人なるに、其子の伊※[おおざと+歩]といひしは、湯が五世の孫の、太戊といひし王の相也、その五世の間の年、いと久しきを、いかで存《ナガ》らへゐけん、また周の先祖の后稷は、堯舜が時の人といへるに、文王は、后稷が十四世の孫也、其間の年の數、千餘年なるを、十四五世にては、いかでつゞきたりけん、かの國そのかみの人といへども、さばかりみな命長かりしとは聞えぬものをや、これらむかしの人も、はやくいふかしきことにいへりきかし、
 
    成湯が誓の言又周の武王
もろこしの殷の湯王、夏の桀王をうたむとして、民に誓ひたる詞に、予(レ)其(レ)大(ニ)理《タマモノセム》v女(ヂヲ)云々、女《ナンヂ》不(ハ)v從(ハ)2誓(ノ)言(ニ)1、予(レ)則|孥2※[人偏+樛の旁]《ドリクセム》女(ヂヲ)1、といへるを見れば、したがはぬ者おほかりしを、なつけもおどしもして、しひて己(レ)にしたがはしめたるもの也、もし實《マコト》に民の心に、いみしく桀をにくみて、湯を思ひたらんには、かゝる誓言《チカゴト》はあるべくもおぼえず、又周の武王も、まことに國民の苦《クルシ》みをすくはむために、紂をばうちたるならば、箕子などを立(テ)てこそ、王にはすべきことなるに、さはせずして、おのれ其國をうばひて、王になれるはいかに、さて箕子には、朝鮮をあたへしは、もし後に己が愁(ヒ)をなさむかと、あやぶみて、さるはるかなる國にはとほざけやりし也、そも/\かのもろこしなどは、はじめより、定まれる主はなくして、君臣の義《コトワリ》もたゝざる國にして、君をほろぼして、國をうばふも、常なれども、天のあたへたるごとくに、巧言《コトヨク》いひなして、世(ノ)人をあざむきたるが、にくき也、又さるあしき人どもを、聖人として、もてはやすが、をかしき也、
 
    當の字のつかひざま又|此《コノ》を今のといふこと
當(ノ)字のつかひやう、皇國にては、ふるくより、多く此《コノ》といふ意、又今といふ意に用ひたり、今(ノ)世も然り、當國當所當時當年などのたぐひみな、比國此所今時今年といふ意也、これ字の義にはかなはず、當(ノ)字は、其《ソノ》といふにあたりて、當國當所などは、字の意にては、其國其所といふこと、當時當年などは、其時其年といふこと也、さる故に日本紀には、そのと訓るところある也、もろこしにては、此《コノ》といひ今といふことに、本州本郡本年本月などいふ、本(ノ)字のつかひざま、皇國にて、當|某《ナニ》といふにあたれり、但しもろこしにて、本|某《ナニ》といふことも、いたく古き書には見えず、中昔よりのことなるべし、又此(ノ)寺といふことを、漢《カラ》やうに、本寺と書ては、いはゆる本寺末寺の本寺にまがへば、やむことえず漢文にも、當寺と書(ク)たぐひある也、さて又佛ぶみには、此《コノ》といふことを、今といへることもおほし、此經を今經、此宗を今宗などいへるたぐひ也、契沖が歌の注などに、此歌はといふことを、今の歌はといへるたぐひ、つねに多きは、佛書より出たる詞也、この今といふ言、佛ぶみより外には、をさ/\見およばぬこと也、そも/\かの今の歌はといへるたぐひを思ふに、此歌はといひては、別《ベチ》にそこに引たる歌のことに、まがふをりなどのあれば、そを分むためなどには、今注する歌のことをば、然いはむも、あしきことにはあらずなん、
 
    つねに異なる字音のことば
字音《モジゴエ》の言の、むかしよりいひなれたるに、常の音とことなる多し、周禮をしゆらい、檀弓をだんぐう、淮南子をゑなんじ、玉篇をごくへん、鄭玄をぢやうげん、孔頴達をくえうだつといふたぐひは、呉音なれば、こともなし、越王句踐を、ゑつとうこうせんとよむは、たゞ引つめていふ也、子昂をすかうといふは、扇子銀子鑵子などのたぐひにて、これもと唐音《カラコエ》なるべし、子(ノ)字今の唐音にては、つうと呼《イフ》なれど、すといふは、宋元などのころの音にぞありけむ、又天子の物へ行幸の時、さき/”\にて、おはします所を、行在所といふを、あんざいしよとよむは、此とき別《コト》にあんの音になるにはあらず、行灯《アンドン》行脚《アンギヤ》などといふあんと同じことにて、これもむかしの唐音なるべし、今の唐音は、平聲の時も、去聲の時も、いんといへり、又もろこしの國の、明の代の明を、みんと呼《イフ》も、唐音也、今の代の清を、しんといふは、唐音の訛也、清(ノ)字の唐音は、ついんと呼《イヘ》り、又明の代のとぢめに、鄭成功といひし人を、國姓爺と稱《イ》ふ、この姓(ノ)字をせんといふも、唐音にすいんといふを訛れる也、さてこの國姓爺といふ稱《ナ》は、國姓とは、當時《ソノトキ》の王の姓をいひて、此人、明の姓を賜はれるよし也、爺は、某《ナニ》老|某《ナニ》丈などいふ、老丈のたぐひにて、たふとめる稱《ナ》也、ちかき代かの國にて、ことによくつかふもじ也、こは筆のついでにいへり、
 
    いまだ世にある人のことに謚をいへる誤(リ)
太平記に、村上(ノ)彦四郎|義光《ヨシテル》が、大塔(ノ)宮にいつはりかはり奉りて、みづから死なむとする時の詞に、我は後醍醐(ノ)天皇の第二の皇子云々、といへり、其時は、後醍醐のみかどは、いまだ世にまし/\しほどなるに、いかでか後の御謚《ミナ》をば申さむ、しるせる人のひがこと也、此たぐひ、からぶみにもあり、史記の田齊(ノ)世家といふくだりに、齊(ノ)國の人の歌に、嫗|乎《ヤ》采(ル)v※[草冠/己](ヲ)、歸(ス)2乎田成子(ニ)1、とうたへるよししるせり、成子といふは、田常といふ人の謚なるをこれも其人のいまだ存在《ヨニアリ》しほどのこと也、左傳にも、此たぐひありしやうにおぼゆるを、そは忘れたり、
 
    某公某(ノ)卿といふ事
公卿といふは、大臣を公といひ、三位より上を卿といふ、是なり、されば公卿なる人の名をいふにも大臣なるをば、某《ナニ》公といひ、納言より三位までをば、某《ナニノ》卿といふつねの事也、然れども某公といへることは、ふるくはかつて見えず、大臣をばすべて、河原左大臣、近院(ノ)右大臣、御堂(ノ)關白など申せり、まれに、かならず名をいはではえあらぬところなどには、良房(ノ)大臣《オトヾ》、忠平(ノ)大臣など見えたり、又某(ノ)卿といふことも、源氏物語榮花物語などには、一つも見えず、行平(ノ)中納言、道雅(ノ)三位などいへり、然らば某(ノ)卿といふは、後のことかとおもへば、さにはあらず、はやく萬葉集に、式部卿藤原(ノ)宇合(ノ)卿、中納言安倍(ノ)廣庭卿など見え、躬恒(ノ)家集にも、かねすけの卿とあり、ふるきこと也、されどそは、むねとある物語文などに、をさ/\見えぬゆゑにや、今思ふには、定家(ノ)卿家隆(ノ)卿などいはむよりは、定家(ノ)中納言、家隆(ノ)二位などいはむは、いうに聞ゆめる、そも/\かく名の下に、官又位をつけていふこと、ちかき世の人のかく文には、かつてなくして、たゞ某(ノ)卿とのみかくは、いにしへの物語などの、よき文の例へに、心のつかざる故にやすべてかうやうのいさゝかの事も、いにしへのとき世/\の例をよくかむかへてそのさまにあはせてかくべきわざにこそ、
 
    石見國なるしづの岩屋
石見(ノ)國|邑知《オホチノ》郡岩屋村といふに、いと大きなる岩屋あり、里人しづ岩屋といふ、出雲備後のさかひに近きところにて、濱田より廿里あまり東の方、いと山深き所にて、濱田の主《ウシ》の領《シラ》す地《トコロ》なり、此岩屋、高さ、卅五六間もある大岩屋也、又その近きほとりにも、大きなるちひさき岩屋あまた有(リ)、いにしへ大穴牟遲《オホナムヂ》少彦名二神の、かくれ給ひし岩屋也と、むかしより、里人語りつたへたり、さていにしへは、やがて此岩屋を祭りしに、中ごろより、その外《ト》に別《コト》に社をたてゝ祭る、志津《シヅ》權現と申すとぞ、此事、かの國の小篠(ノ)御野がもとより、たゞにかの里人に逢て、くはしくとひきゝつる也とて、いひおこせたるなり、萬葉集三の卷なる歌の、志都《シツ》の石室《イハヤ》は、これならむかとも思へど、なほ思ふに、萬葉なるはいかゞあらむ、かの歌のよみぬし、生石(ノ)村主眞人といふ人、もし石見國の官人《ツカサビト》などにて、かの國に在て、ゆきてよめらむはしらず、さもあらざらむには、かの國は、他《コト》國人のゆくことまれなるに、殊にさばかり山ふかきおくどころならむには、よの人のしりてよむべきものともおぼえず、されど後の世の人の、つくりていふべきところともおぼえねば、かならずふるきよしありて、たゞならぬところとはきこえたり、
 
    對馬の式社
和多都美《ワタツミノ》神社は、三根《ミネノ》郷木坂村に在り、神階從四位上、今は八幡本宮と申す、嶋大國魂(ノ)神社は、豐崎(ノ)郷豐村にあり、神階正五位下、今は嶋首《シマノカウベノ》神社と申す、能理刀(ノ)神社は、同郷西泊(リ)村にあり、神階從五位下、天(ノ)諸羽(ノ)命(ノ)神社は、佐護《サゴノ》郷|惠古《ヱコ》村にあり、神階從五位上、天神多久頭多麻(ノ)神社は、同郷湊村に在(リ)、神階從五位上、又|主基《スキノ》社とも申す、宇努刀《ウヌトノ》神社は、古へは三根(ノ)郷佐賀村に在、今は國府八幡宮の境内にありて、祇園(ノ)社と申す、神階從五位上、小枚《ヲヒラ》宿禰(ノ)命(ノ)神社は、三根(ノ)郷三根村にあり神階從五位上、今は座王權現と申す、那須加美乃|金子《カナゴノ》神社は、伊奈(ノ)郷三根(ノ)郷の堺にて、南は三根(ノ)郷志多賀村、北は伊奈(ノ)郷|小鹿《ヲシカ》村也、今は那祖師《ナソシ》大明神と申す、神階從五位上、伊奈|久《ク》比神社は伊奈郷伊奈村にあり神階從五位上、行相《ユキアヒ》神社は、佐護伊奈二郷の堺にあり、神階從五位上、和多都美御子(ノ)神社は、仁位郷仁位村に在(リ)、神階正五位上、今は天神と申す、胡禄《シコノ》神社は、伊奈(ノ)郷|琴《キン》村にあり、神階從四位下、今は琴崎(ノ)社と申す胡禄御子神社は同郷同村にあり、神階從四位下、今は郷崎(ノ)社と申す、嶋大國魂御子神社は、佐護(ノ)郷佐須奈村にあり、神階正五位下、大嶋(ノ)神社は、仁位(ノ)郷仁位村にあり、神階從五位下、今は和多都美神社と申す、波良波(ノ)神社は、同郷同村にあり、神階從五位下、今は軍殿《イクサドノ》と申す、上件十六社は、上(ツ)縣(ノ)郡也、然るに、三根佐護伊奈などの郷みな、和名抄には、下(ツ)縣(ノ)郡にあり又仁位(ノ)郷は、和名抄には見えざれども、是も古(ヘ)は上縣郡なりしを、今は下縣(ノ)郡也といへり、高御魂《タカミムスビノ》神社は、豆※[酉+役の旁]《ツヾノ》郷|豆※[酉+役の旁]《ツヾ》村にあり、神階從四位上、銀山上《カナヤマカミノ》神社は、佐須(ノ)郷久|根《ネ》村に在(リ)、神階從五位下、今は五所《ゴシヨ》大明神と申す、雷《イカヅチノ》命(ノ)神社は、同郷|阿連《アレ》村にあり、神階從五位下、今は八龍《ハチリウ》殿と申す、和多都美(ノ)神社は、國府にあり、神階正四位上、今は八幡宮と申す、多久頭魂《タクツダマノ》神社は、豆※[酉+役の旁](ノ)郷豆酸村にあり、神階從四位上、攸記《ユキ》宮とも申す、太祝詞(ノ)神社は、與良《ヨラノ》郷加志村にあり、神階從四位上、今は加志大明神と申す、阿麻※[氏/一]留神社は、同郷小船越村にあり神階從五位下、今は照日權現と申す、住吉(ノ)神社は、同郷|鷄知《ケチ》村に在(リ)、神階從四位上、和多都美(ノ)神社は、住吉と同社也、神階從五位上、平《ヒラノ》神社、國府八幡宮の西の側(ラ)にあり、神階正四位上、今は脇(ノ)宮と申す、敷嶋(ノ)神社は、與良(ノ)郷加志村にあり、神階從五位上、都々智《ツヽヂノ》神社は、佐須(ノ)郷久根村にあり、神階從五位下、今は矢立《ヤタテ》神山と申す、銀山(ノ)神社は、同郷樫根村にあり、神階從五位下、今は六所大明神と申す、上件十三社は、下(ツ)縣(ノ)郡也、然るに豆※[酉+役の旁]《ツヾノ》郷、和名抄に上(ツ)縣(ノ)郡に有(リ)、佐須(ノ)郷與良(ノ)郷は同抄に見えざれども、賀志(ノ)郷|鷄知《ケチノ》郷ありて、これ又ともに上(ツ)縣(ノ)郡に見えたり、然れば式と和名抄と、郡の上下あひかはれり、今も和名抄のごとくにて、初めの十六社は、みな下(ツ)縣、後の十三社は、みな上(ノ)縣(ノ)郡なり、とぞ、いつの世に、いかなるよしにて、さはかはりぬらむ、さて右の神社どもの中に、多久頭多麻(ノ)神社、式には、下なる多(ノ)字なし、又多久頭魂(ノ)神社、式には魂(ノ)字なし、郷名のうちの、豆※[酉+役の旁]の※[酉+役の旁](ノ)字、めづらしければ、もし酸を誤れるにはあらざるかと思ひしに、字書を見れば、※[酉+役の旁]字音|頭《ヅ》也、此郷を、朝鮮國の海東諸國記といふ物には、豆々《ツヾ》郡としるせり、さて此對馬の式社の事も、小篠(ノ)御野が、彼(ノ)嶋にあひしれる人のあるが許に、とひにやりしに、書(キ)つけておこせしとて、こゝにも書(キ)つけて見せにおこせたりしを、しるせる也、そも/\式社は、國のやむことなき神たちなるに、いづれの國も、今の世には、さだかならざるがおほく、絶給へるさへ多きは、よろづよりもうれはしきわざなるを、さるかたほとりの嶋ぐにゝしも、上の件(リ)のごとく、全《マタ》くみなたしかにて坐《マス》ことは、いともめづらしく、有がたくおぼゆるまゝに、殊にかくしるせる也、おもふにかの嶋などは、はるかに海中に、はなれたるところなれば、かへりて國のみだれさわぎたりし世なども、をさ/\あらざりけむゆゑに、古(ヘ)のさまの、いたくはかはらぬにやあらむ、とまれかくまれ、いとたふときことにぞ有ける、
 
    口あかさぬといふことば
今の世の言に、人に口あかさぬといふこと有、閇口のこゝろばへ也、源氏の物語帚木の卷に、ざえのきは、なま/\のはかせはづかしく、すべてくちあかすべくなむ侍らざりしとあり、ふるき詞なりけり、
 
    梅はとぶといふ歌
世俗《ヨノナカ》にいひつたへたる、「梅はとぶ櫻はかるゝよの中に、何とて松はつれなかるらんといふ歌、源平盛衰記には、菅原(ノ)大臣、東風《コチ》ふかばといふ御歌を、よみ給ひしかば、紅梅つくしへ飛行(キ)ければ、同じ御所にならびて有ける櫻の、御言の葉にかゝらざることを恨みて、一夜が中に枯にけるを、源(ノ)順が歌に、「梅はとび櫻はかれぬ菅原や深くぞ頼む神のちかひを、とよみけるよししるしたり、此歌をつくりかへたるにやあらむ、されど此順がといふも、本末かけあはず、いと/\つたなき歌也、
 
    能《ノウ》といふ樂
西宮記相撲(ノ)條に、相撲了(テ)能優一番とあり、能優は、猿樂のたぐひと聞えたり、近き世に、能《ノウ》といふ名はこれなるべし、此(ノ)能(ノ)字は、音|態《タイ》なるべきに、のうといふは、むかしより誤れるにや、
 
    あやまり證文
今の世に、あやまり證文といふ物、むかしは、怠状といへりき、同じ書に、過状とも見えたり、宇治拾遺物語に、おこたりふみとも有(リ)、
 
    書紀の本書一書の事
書紀神代(ノ)卷の段々《クダリ/\》に、同じ事の異《カハリ》あるを、別《コト》に一書曰(ク)とて、いくつも擧《アゲ》られたるは、そのかみ古き傳(ヘ)の書どもあまたありしを、これをもかれをも、遺《ノコ》されざるにて、そは論なく、よろしきを、本書はしも、ことに一つの古書に、とほしてよられたるにはあらずして、あまたが中に、いさゝかにても、漢意《カラゴヽロ》にちかく、ことよれるかぎりを、撰者の心もて、これかれをえりいで、とりあつめて、かきつゞけられたるものと見えて、はじめをはりとほらざる事どもあり、まづ天照大御神の大御名、はじめには、たゞ號2大日※[靈の上/女]貴(ト)1とのみしるして、亦名天照大神などいふこともなきに、次の段よりは、天照大神と記されたるは、これ初(メ)と後と違ひたり、天照大神と申すは、一書にしるせる御名にして、本書にもはじめには、たゞ一書(ニ)曰2天照大神(ト)1と、注に記されたれば、異《コト》なる傳へにこそあれ、然るに次にいたりて、俄に其御名をしも擧られたるは、これかの大日※[靈の上/女]貴の御事也とは、何をもてしらむ、天照大神と申すは、そのはじめいかなる神ともしられざるがごとし、又|月讀《ツクヨミノ》命は、其光彩亞(ケリ)v日(ニ)云々としるされ、一書に、其御名のみことに、尊(ノ)字を書れたるばかり、たふとき神にましますを、たゞ生《ウミマス》2月(ノ)神(ヲ)1とのみありて、御名のなきはいかにぞや、又|高御産巣日《タカミムスビノ》神は、世のはじめに成(リ)坐(シ)て、最《モトモ》尊き天(ツ)神にまし/\て、御名にも尊(ノ)字をかゝれ、神武天皇も、御《ミ》みづから顯齋《ウツシイハヒ》し給ひて、道(ノ)臣(ノ)命を齋主《イハヒヌシ》として、殊に祭らせ給ふばかりの神にましますに、天地のはじめの段《クダリ》に、たゞ一書にのみ、そのはじめをば記されて、本書には、下卷に至りてはじめて、俄にふと御名を書出されて、皇祖とも記して、皇孫(ノ)命を、葦原(ノ)中(ツ)國に天降し奉り給ふ事も、みな此神の詔命《ミコトノリ》し給へるは、これ又初(メ)と後と違へるがごとし、此事は、縣居(ノ)大人も心得ぬことにいはれたり、まことに他神《アダシカミ》たちのごとく、末にいたりて、ゆくりなくにはかに、いひ出(ヅ)べき神にはましまさず、成(リ)出(デ)坐(シ)し始(メ)を、かならずたしかにしるさるべきわざなるをや、大かたこれらのたぐひの事ども、撰者の心もて、取(リ)も捨(テ)もせられしほどに、本書は、中々にとゝのはぬ事共のあるなめり、
 
    八百萬(ノ)神といふを書紀に八十萬(ノ)神と記されたる事
もろ/\の神たちを、すべていふには、古事記をはじめて、そのほかの古き書どもにもみな、八百萬《ヤホヨロヅノ》神といへるぞつねなるに、たゞ書紀にのみは、いづこにも/\、八十萬《ヤソヨロヅノ》神とのみありて、八百萬神とあるところは見えず、こはいかさまにも、撰者の心あることゝ見えたり、神の御名に、日高《ヒタカ》と申すをも、彼(ノ)紀には、みなかへて、彦としるされたるは、當代《ソノミヨ》の天皇の御名をさけられたりとおぼしきを、此(ノ)八十萬(ノ)神は、いかなるよしにかあらむ、いまだ思ひえず、さてかやうのたぐひも、神の御名の文字なども、何も、後の世の書どもは、おほかた書紀にのみよれるをたま/\此稱は書紀によらず、今の世にいたるまでも、八百萬(ノ)神とのみいひならへるは、めづらし、
 
    人(ノ)名を文字音《モジコエ》にいふ事
人の名を、世に文字の音にて呼《イヒ》ならへる事、ふるくは、時平《シヘイノ》大臣、多田(ノ)滿仲《マンヂウ》、源(ノ)頼光《ライクワウ》、安倍(ノ)清明《セイメイ》などのごときあり、やゝ後には、俊成卿、定家卿、家隆卿、鴨(ノ)長明など、もはらもじこゑにのみいひならへり、琵琶ほうしの、平家物語をかたるをきくに、つねにはさもあらぬ、もろ/\の人の名どもゝ、おほくはもじこゑに物すなるは、當時《ソノカミ》ことに、よの中にさかりなりしことなめり、
 
    檜垣(ノ)嫗が事
さきに萩の下葉の卷にいへる、ひがきのおうなが像といふ物の事、肥後(ノ)國人にとひしに、語りけるは、かの國飽田(ノ)郡白川のあたり、九品山蓮臺寺といふ寺に、かの嫗の墓といふ有て、古き石塔たてり、きざめるもじはなし、かの像といふ物は、同郡に岩殿山《イハトヤマ》といふに、觀音をすゑたる岩屋のある、そのいは屋のひたひより、ほり出たりといへり、此所は、かの嫗の深く信じて、つねにまうでしところ也といひつたへて、そのあたりに、山下庵とて、まうづるたびごとに、立よりし所也といふ寺もあり、又くみてかの佛にたむけし水とて、井もある也、されどかのほり出たりといふ像は、まことにいつはれる物なるべしと語りき、
 
    よ も や ま
今(ノ)俗言《ヨノコト》に、よもやまの云々といふことあり、拾遺集の神樂歌に、「よも山の人のたからとする弓を神のみまへにけふたてまつる、榮花物語花山(ノ)卷に、ことしはよの中に、もがさといふ物いできて、よもやまの人、上下やみのゝしるに云々、
 
    あ や か る
あやかるといふ詞、拾遺集雜戀に、「風はやみ峯の葛葉のともすればあやかりやすき人のこゝろか、
 
    目  録
目録の事を、榮花物語はつ花の卷に、物のかずかきたるふみ柳筥にいれて參れりとあり、
 
    硯 が め
同書石蔭(ノ)卷に、御まへの御すゞりかめとあるは、俗《ヨ》にいふ水入(レ)也、
 
    さ が す
俗言《ヨノコト》に物をさぐりもとむることをさがすといふ、此詞、同物がたり浦々の別(レ)の卷に見えたり、
 
    鷹 の そ る
同じ物語木綿しでの卷に、手にすゑたるたかをそらしたる云々
 
    引 出 物
ひきで物といふは、もと馬を牽《ヒキ》て、贈(リ)物にするより出たること也、北山抄大饗(ノ)條に、次(ニ)尊者(ノ)牽出物《ヒキデモノ》【馬二疋、若(シ)尊者好(マバ)v鷹者、馬一疋、鷹一聯加(フ)v犬(ヲ)、】など見えたり、
 
    相撲前二日の儀
同書、相撲先二日の儀のところに、次(ニ)相撲人進(ミ)出(テ)、列(リ)2立(ツ)御前(ニ)1、大將隨(ヒ)2天氣(ニ)1仰(セテ)云(ク)、東|向《ム》【介《ケ》】、次(ニ)仰(ス)北向(ケ)、次(ニ)仰(ス)罷(リ)入(イ)【禮《レ》】、次(ニ)相撲とあり、今の世のいはゆる土俵入は、これに似たり、
 
    百 萬 遍
百萬遍の念佛といふこと榮花物語の、玉のかざりの卷に見えたり、
 
    家隆卿の名もじごゑによびならへりし事
古今著聞集にいはく、壬生(ノ)二品家隆の家にて、ある人の子を、男になす事侍り、隆祐(ノ)朝臣の子になして、やがてかの朝臣加冠はしけり、名をば何とかつくべきなど、さだしけるを、あつみの三郎爲俊といふ、田舍ざ|ふ《ム》らひ聞て、すゝみ出ていひけるは、此殿に、御一家は、みな隆《タカ》の字をなのらせ給へば、いへたかとやつけまゐらせらるべく候らんと、ゆゝしくはからひ申(シ)たりけるていにていふを、人々わらひのゝしることかぎりなし、爲俊が父圖書(ノ)允爲弘きゝて、いかに汝、ふしぎをば申すぞ、殿の御名のりをしりまゐらせぬかといへば、いかでかしりまゐらせぬことあるべきといふ、さるにはかゝることをば申すかといはれて、さも候はず、殿の御名のりをば、かりうとこそしりまゐらせて候へ、世にも又さこそ申候なれと、陳じたりける、比興の事、かの卿きかれて、入興せられけりとなん、
 
    神をなほざりに思ひ奉る世のならひをかなしむ事
世の人の、神をなほざりに思ひ奉るは、かへす/\こゝろうきわざなり、さるはほど/\に、たふとみ奉らぬにしもあらざ(ン)めれど、たゞよのならひの、人なみ/\のかいなでのたふとみのみこそあれ、まことに心にしめて尊みたてまつるべきことを、思ひわきまへず、たゞおろそかにぞ思ひた(ン)める、目にこそ見えね、此天地萬の物の、出來始めしも、又むかし今の、世(ノ)中の大き小きもろ/\の事も、人の身のうへ、くひ物き物居どころなにくれ、もろ/\の事も、こと/”\く神の御めぐみにかゝらざることはなきを、さるゆゑよしをばわすれはてゝ、なべての人、たゞまがつひのまがことにのみまじこり、心をかたむけて、よろづにさかしだつひとはた、からぶみごゝろを、心とはして、まれ/\に神代の御事どもを聞ても、たゞはるけき世界の、むかしかたりをきくがごと、よそげにのみ思ひ過して、そは皆今のよの中、おのが身々のうへにかゝれる、本なることをおもひたどらず、よろづよりもかなしきは、神の社|神事《カムワザ》のおとろへなるを、かばかりめでたき御代にしも、もろ/\のふるき神の御社どもの、いみしくおとろへませるを、なほしたて奉らんの心ざしある人の、世にいでこぬこそ、いとも/\くちをしけれ、そも/\のり長、かゝるすぢの事を、かへす/\いひ出る、人はうるさしとも思ふらめど、此事のうれたさの、あけくれ心にわすらるゝ間もなくおぼゆるから、筆だにとれば、かきいでまほしくてなん、
   治まれる御代のしるしを千木たかく
       神のやしろに見るよしもがな
 
(奥付)
 昭和九年六月一五日 第一刷発行    玉勝間上
 昭和四四年二月二〇日 第九刷発行    (全二冊)
                     定價★★★★
 校 訂 者   村 岡 典 嗣《むらおかつねつぐ》
   東京都千代田区神田一ツ橋二丁目三番地
 発 行 者   岩  波  雄  二 郎
 
 
  第 四 編 自十の卷 至十二の卷
 
たまかつま十の卷
 
   山  菅  十
 
    はてもなしいふべきことはいへど/\
        なほやますげのみだれあひつゝ
此野べのすさびよ、いとかくはかなき手ならひを、もの/\しく、卷ごとに名つけて、歌をさへにそへたるは、我ながらだに、あやしくおぼゆるを、おのづからも見む人は、ましていかにこと/”\しと思ふらん、さるははじめの卷のはしに、ゆくりかに歌ひとつ物して、卷の名つけつるまゝに、つぎ/\も一つ二つしかせしが、おのづからならひになりて、かならずさらではえあらぬわざのごとなりもてきぬるを、今さらにたがへむも、さすがにて、例のごと物するになむ、そもそのをり/\、思ひうるまゝに、よみいでもし、あるは他事《コト/\》によみたるがあるをも、とりいでなどするを、につかはしくおぼゆるも、なきをりなど、今かゝむとすとては、筆とりながら、思ひめぐらすに、例の口おそさは、とみにもいでこで、しりくはへがちなるも、あぢきなく物ぐるほしきわざになん、此山菅も、からうじてほりいでたる、さる歌のきたなげさよ、
 
    物まなびのこゝろばへ
むかしは、皇國《ミクニ》のまなびとて、ことにすることはなくて、たゞからまなびをのみしけるほどに、世々をふるまゝに、いにしへの事は、やう/\にうとくのみなりゆき、から國の事は、やう/\にしたしくなりもてきつゝ、つひにそのこゝろは、もはらからざまにうつりはてゝ、上つ代の事は、物の意はさらにもいはず、言葉だに、聞しらぬ異國《ヒトクニ》のさへづりをきくがごと、ものうとくぞなりにける、かくて後にいたりて、皇國の學《マナビ》を、もはらとすることもはじまりつれども、しか漢意《カラゴヽロ》の、久しくしみつきたる人心にしあればたゞ名のみこそ、みくにのまなびには有けれ、いひといひ、おもひと思ふことは、猶みなからにぞ有けるを、みづからも、さはおぼえざるなめり、されば近き世、まなびの道ひらけて、よろづさかしくなりぬるにつけても、なか/\にそのからごゝろのみ、深くさかりにはなりて、古の意は、いよ/\はるかになむなりにけるを、此ちかきころになりてぞ、そこに心つきぬる人の出來そめて、世はみなからなることをさとりて、人も我も、いにしへのこゝろをたづぬる道の、明《アカ》りそめぬる、しかすがに神直毘《カムナホビ》大直毘《オホナホビ》の神のまし/\ける世は、なほゆくさきいとたのもしくなむ、
 
    いにしへよりつたはれる事の絶るをかなしむ事
よの中に、いにしへの事の、いたくおとろへたる、又ひたぶるに絶ぬるなどもおほかるを、かゝるめでたき御代にあたりて、何事もおこしたてまほしき中に、たえたるも、あとをたづねて、又はじめむに、はじめつべきは、おそくもとくも、直毘(ノ)神の頼みの、なほのこれるを、一たび絶ては、またつぐべきよしなく、又はじむべきたよりなき事どもこそ、殊にいふかひなく、くちをしきわざには有けれ、ふるき氏々など、神代のゆゑよし重《オモ》きなどは、さらにもいはず、さらぬも、はやく末のたえはてぬるがおほき、今はいかに思ひても、二たびつぎおこすべきよしなくなん、これらをおもふに、萬のふるきことは、わづかにも殘りて、絶ざるをだに、おとしあぶさず、よくとりしたゝめて、今より後、たゆまじきさまに、いかにも/\、つよくかたくなしおかまほしきわざぞかし、
 
    鬼《オニ》といふ物.
鬼《オニ》といふものは、すなはち今の世に、女わらはべなどもいふ淤邇《オニ》にて、古き物語、中むかしの書どもに、多く見えたるさまも、もはら同じこと也、さて書紀の齊明天皇の御卷に、一本に、宮中(ニ)見(ル)v鬼(ヲ)と見え、また於《ニ》2朝倉山(ノ)上1有(リ)v鬼云々、など見えたるは、今もいふ淤邇《オニ》なるを、又同(ジ)書の中に、邪鬼鬼神姦鬼などあるは、おにと訓《ヨメ》るところもあれど、たゞ惡神《アシキカミ》をいへるなれば、さは訓《ヨム》べきにあらず、鬼《オニ》をも、神とはいふべけれど、神をおにとはいふべからず、さて又和名抄(ノ)鬼神(ノ)部に、人神(ヲ)曰v鬼(ト)、四聲字苑曰(ク)、鬼(ハ)人(ノ)死(タル)魂也(ト)、和名|於邇《オニ》、或記(ニ)云(ク)、於邇《オニ》者《ハ》、隱《オンノ》音(ノ)之訛也、鬼物(ハ)、隱(レテ)而不v欲v顯(スコトヲ)v形(ヲ)、故(ニ)以(テ)稱(ス)也といひ、又鬼魅(ノ)部にも、鬼(ハ)和名|於爾《オニ》、或説(ニ)云(ク)、於爾《オニハ》隱(ノ)字(ノ)音の訛也、鬼物(ハ)隱(レテ)而不v欲v顯v形(ヲ)、故(ニ)俗呼(テ)曰v隱(ト)也といへるは、みなひがこと也、まづ淤邇《オニ》に鬼(ノ)字をかくは、鬼魅の意をとれる也、魅とは、怪物をいへばなり、又天神地祇人鬼とて、人の死《シニ》たる神をも鬼といふ、されどその人鬼は、淤邇《オニ》にはあたらず、然るにそのわきまへなく、人鬼のかたをも、ともに淤邇《オニ》とせるは、字によりて、誤れるもの也、すべて字の同じきによりて、名を混《マガ》へ誤れる、此たぐひむかしより、物しり人のつね也、又|淤邇《オニ》といふ名を、隱(ノ)字の音也といへるも、いみしきひがこと也、形をかくすをもて、名とせむには、加久禮《カクレ》などこそはいひもせめ、その隱(ノ)字の音をとりてよばむことは、いと/\物どほし、さること有べくもあらず、又陰物なるよしにて、陰(ノ)字の音也といふ説も、同じたぐひのひがことなり、淤邇《オニ》といふは、もとよりのふるき名也、又いにしへよりして、然いひし物は、たゞ今の世にもいふと、同じ物と心得べし、さかしだちて、文字にかゝりていふ説は、なか/\にたがへること、よろづにわたりて、おほきぞかし、さて又おにかみといふことは、もと漢文の鬼神《キシン》といふより出たることにて、その鬼神《キシン》は、二字ながら神の事にて、おにゝはあらざるを、古今集の序などに、おにかみといへるはかの鬼神《キシン》を、やかて淤邇《オニ》と神との事にしていへり、又二つを一つにして、淤邇《オニ》にもあらず、神にもあらで、たゞたけくおそろしき物を、おにかみといふことつね也、さて又|俗《ヨ》にきじんといふは、漢文の鬼神にもあらず、かのおにかみにもあらず、淤邇《オニ》といふとも、いさゝかこゝろばへかはれり、俗《サトビ》たる諺に、鬼《オニ》の女房には、きじんがなるといふなどは、まさしく女鬼《メオニ》をきじんとはいへるがごとし、世(ノ)中の人の言葉は、あやしき物にて、かくさま/”\に、とほくうつりゆくわざなりけり、
 
    もろ/\の物のことをよくしるしたる書あらまほしき事
よろずの草木鳥獣、なにくれもろ/\の物の事を、上の代よりひろめ委しく考へて、しるしたる書こそ、あらまほしけれ、もろこしの國には、本草などいふ、さるすぢのふみどもゝ、いにしへよりこゝらあ(ン)なるを、御國には、わづかに源(ノ)順の和名抄のみこそはあれ、かの書のさま、すべていとしどけなく、からぶみを引出たるやうなども正しからず、いにしへさまのことにうとく、すべてたらはぬことのみ也、されどこれをおきては、ふるくよるべき書のなきまゝに、人も我も、もはら萬の物の考へのよりどころにはする也、ちかきころ、新撰字鏡といふもの出て、ふるくはあれども、事ひろからずかりそめなるうへに、あやしきもじども多くなどして、ことさまなるふみなるを、さすがに和名抄をたすくべき事どもは、おほくぞ有ける、これらをおきて、後の世に作れるどもは、あまたあれども、たゞみな例のからまなびのかたによれるのみにて、皇國のまなびのためには、をさ/\用もなきを、今いかで古事記書紀萬葉集など、すべてふるきふみどもを、まづよく考へ、中むかしのふみども、今の世のうつゝの物まで、よく考へ合せて、和名抄のかはりにも用ふべきさまの書を、作り出む人もがな、おのれはやくより、せちに此心ざしあれど、たやすからぬわざにて、物のかたてには、えしも物せず、いまはのこりのよはひも、いとすくなきこゝちすれば、思ひたえにたれば、今より後の人をだにと、いざなひおくになん、此六七年ばかりさきに、越前(ノ)國の府中の人とて、伊藤東四郎|多羅《タラ》といへる、まだわかきをのこなりけるが、と|ふ《ム》らひきて、かたりけるは、多羅が父は、いはゆる物産の學(ビ)を好みて、ものしけるまゝに、多羅も、わらはなりしほどより、其すぢに心よせけるを、もろこしさまの事は、たれも/\物するわざにて、人のふみはたよにともしからぬを、皇國の此すぢの事、よくしるしたるは、いまだ見え聞えざ(ン)なれば、多羅は、今より皇國のこのまなびを、物してんと心ざして、かつ/”\考へたる事どもゝある也とて、一卷二卷かきあつめたるをも、とうでゝ見せけるを、はし/”\いさゝか見たりしに、おのが思ふにかなへるさまにて、考へも、よろしく見えしかば、これいかでおこたらずつとめて、しはてゝよと、ねんごろに、かへす/\すゝめやりしを、さて後いかになりぬらむ、音もなし、ちかきころ、そのちかき國の人にあへりしに、この事かたりて、とひけるに、たしかにはしらぬさまにて、かのをのこは、みまかりぬとか、ほのかに聞しよしいひたりし、それまことならば、いとあたらしくゝちをしきわざにぞ有ける、
 
    和名抄といふ名
和名抄は、もろ/\のからぶみを引出て、萬の物の漢名《カラナ》をしるせるなれば、今思ふには、漢名抄とこそなづくべけれ、和名抄としもつけたるは、漢を本とし、主とはして、こゝの名をば、末とし、かたはらにしたる名にて、心ゆかねども、順のみづからの序を見るに、此書はもとより、漢名につきて、其物のこゝの名をしらむために、あらはせるおもむきなれば、然名づけたるも、ことわりあること也、しかはあれどもすべて何事も、もろこしの事にこそ、漢とも唐とも、分ていふべきわざなれ、皇國の事には、倭和日本本邦吾國などいふこと、いふべきにあらず、そは例のもろこしにへつらひたる言にて、いとあぢきなし、されば今より後、和名抄のごとくなる、萬の物の事しるせる書をつくらむにも、その書の名は、さらにもいはず、すべてのしるしざまも、その心して、條/\《ヲヂ/\》たとへば阿米《アメ》漢名|天《テン》云々、都知《ツチ》漢名|地《チ》云々とやうに、まづ其の物の名を、假名書《カナガキ》にてあげて、次に漢名の字をあげ、さて其事をいふべし、ことわりをもていはゞ、漢名はあだし國のことなれば、あげでも有べけれど、用ふる文字みな漢もじにて、物の名も、つねに其名を書(ク)ならひなれば、さすがにそれしらでは、よろづにまどはしければ、かならずそれも、次にはあげて、あげつらふべき也、
 
    か ぐ ら
かぐらは、いにしへは、神あそびとぞいへる、されば、其歌をも、古今集には、かみあそびの歌とぞしるされたる、神樂と書るも、ふるくはかみあそびとぞ訓(ム)べき、かぐらといふ名は、いかなるよしにて、いつのほどよりかいひそめけむ、六帖の題にはかぐらとかけり、
 
    譬(ヘ)といふものゝ事
たゞにいひては、ことゆきがたきこゝろも、萬の物のうへにたとへていへば、こともなくよく聞ゆること、多くあるわざ也、さればこのたとへといふ事、神代より有て、歌にも見え、今の世の人も、常にものすること也、皇國のみにもあらず、戎《カラ》の國々にも、古(ヘ)より有けるを、もろこし人は、すべて物のたとへをとること、いと上手にて、言すくなくて、いとよく聞えて、げによく譬《タト》ヘたりとおぼゆることのおほかるを、佛の經どもに、殊に多く見えたるたとへは、おほくは物どほくして、よくあたれりとも聞えぬ事をくだ/\しくなが/\といへるなど、いと/\つたなし、佛といへる人のいへることも、かゝるものにや、
 
    物をときさとす事
すべて物の色形、又事のこゝろを、いひさとすに、いかにくはしくいひても、なほさだかにさとりがたきこと、つねにあるわざ也、そはその同じたぐひの物をあげて、其の色に同じきぞ、某《ナニ》のかたちのごとくなるぞといひ、ことの意をさとすには、その例を一つ二つ引出(ヅ)れば、言おほからで、よくわかるゝものなり、
 
    詩の事いへるから人の詞一(ツ)二(ツ)
嚴滄浪(ガ)詩話といふ物に、詩(ノ)之是非、不(レ)2必(シモ)爭(ハ)1、試(ニ)以(テ)2己(ガ詩(ヲ)1、置(テ)2之(ヲ)古人(ノ)詩(ノ)中(ニ)1、與(ヘ)2識者(ニ)1觀《シメスニ》v之(ヲ)、而不v能(ハ)v辨(ズルコト)、則眞(ニ)古人(ナリ)矣、といへることあり、歌もさること也、又王敬美が※[禾+丸]圃※[手偏+吉+頁]餘といふものに、余嘗(テ)服(シテ)2明卿(カ)五七言律(ニ)1謂(フ)、他人(ノ)詩(ハ)、多(ク)於(テ)2高處(ニ)1失(フ)v穩(ヲ)、明卿(ガ)詩(ハ)、多(ク)於(テ)2穩處(ニ)1藏《コメタリ》v高(ヲ)といへり、これ又歌もさること也、凡てもろこしにて、宋明のころなど、詩の事を論じたるに、歌とこゝろばへのもはら同じき、かゝるたぐひのこと多かり、わかゝりしほど、かうやうのからぶみどもをも、いささか見たりし中に、おかしとおぼゆるふし/”\、ぬき出て書おきつるが、ものゝそこにのこれるを、引出て見れば、今もおかしきことゞものまじれるを、ひとつ二つ又ぬき出つる也、
 
    御子左二條家冷泉家の事
惺窩文集、惺窩先生(ノ)系譜略(ニ)曰、先生(ノ)系、出(ヅ)2于法性寺(ノ)攝政道長公(ノ)第六男長家卿(ヨリ)1、長家官至2權大納言(ニ)1、號(ス)2御子左(ト)1、又號2三條(ト)1、長家生(ム)2忠家(ヲ)1、爲2權大納言(ト)1、號2小野(ノ)宮(ト)1、忠家生(ム)2俊忠(ヲ)1、權中約言、號2二條院(ト)1、俊忠生2親家(ヲ)1、初(メ)爲(リ)2舅葉室(ノ)中納言顯隆(ノ)子(ト)1、改(ム)2名(ヲ)顯廣(ト)1、後(ニ)歸(リ)2本宗(ニ)1、又改(ム)2名(ヲ)俊成(ト)1、爲2皇太后宮大夫(ト)1、家居(ル)2五條(ニ)1、世(ニ)稱(ス)2五條(ノ)三位(ト)1、別(ニ)賜2播州三木(ノ)郡細川(ノ)莊、江州坂田(ノ)郡小野(ノ)莊(ヲ)1、是爲2倭歌所(ノ)奉邑(ト)1、適子世々襲v封(ヲ)、俊成生2定家(ヲ)1、號2冷泉(ト)1、後(ニ)稱(ス)2京極(ト)1、爲2民部卿權中納言(ト)1、父子相繼(テ)善(ス)2倭歌(ヲ)1、永(ク)爲2世範(ト)1、定家生2爲家(ヲ)1、權大納言、兼民部卿、住(ム)2釆地嵯峨(ノ)中院(ニ)1、爲家有2子三人1、長(ヲ)曰2爲氏(ト)1、權大納言、號2御子左(ト)1、其後裔(ヲ)稱(ス)2二條家(ト)1、又號2冷泉(ト)1、次(ヲ)曰2爲教(ト)1、左兵衛(ノ)督、號2京極(ト)1、季(ヲ)曰2爲相(ト)1、權中納言、號2冷泉(ト)1、三家鼎峙(シテ)、各立2門戸(ヲ)1、正元年中、以2書券(ヲ)1付(ク)2播州細河(ノ)莊(ヲ)於爲氏(ニ)1、爾(ノ)後爲氏有2不孝數事1、爲家悔v之、文永十年癸酉、七月二十四日、十一年甲戌、六月二十四日、以2文券兩通(ヲ)1、付(ク)2爲相(ニ)1、建治元年乙亥、五月一日、爲家薨(ズ)、葬2嵯峨(ノ)中院(ニ)1、爲相尚幼(シ)、故(ニ)爲氏強(テ)奪2細河(ノ)莊(ヲ)1、爲相(ノ)母北林(ノ)禅尼赴(キ)2鎌倉(ニ)1、訴(フ)2將軍惟康親王(ニ)1、爲氏(モ)亦告2其事(ヲ)1、獄久(ク)不v決、爲氏爲世父子(ト)、與《ト》2爲相1、論爭不v已(マ)、又訴(フ)2將軍守邦親王(ニ)1、執權相模守平(ノ)煕時判(ズ)2曲直(ヲ)1、以2正和二年癸丑、七月二十日(ヲ)1、賜(ヒ)2公牒一通(ヲ)於爲相(ニ)1、復2其本邑(ヲ)1、其牒今存(ス)2于吾家(ニ)1、後住(シ)2鎌倉(ニ)1號2藤谷(ト)1薨(シテ)葬2藤谷(ノ)岡(ニ)1、墳墓猶存(ス)、爲相生2爲成(ヲ)1、爲2左兵衛(ノ)督(ト)1、早世、弟爲秀嗣(グ)、權中納言、建武亂後、細河小野(ノ)兩莊、爲(メニ)v人(ノ)所《ル》v奪(ハ)、爲秀無v由2告訴(ルニ)1、徒(ニ)抱(ク)2哀痛(ヲ)1、爲秀有2二男1、長(ヲ)曰2爲邦(ト)1、次(ヲ)曰2爲尹(ト)1、爲邦爲(リテ)2爲氏(ノ)孫爲明(ノ)之子(ト)1、繼(グ)2御子左(ノ)家(ヲ)1、騒亂(ノ)之間、失(ヒ)2其世禄(ヲ)1、唯携(テ)2典籍(ヲ)1而家居、尋(テ)早世(ス)、爲尹乃嗣2爲秀(ノ)後(ヲ)1、爲2民部卿(ト)1、爲2權大納言(ト)1、應永二十三年丙申、五月十八日、將軍左大臣義持公還(シ)2付(ク)播州細河(ノ)莊(ヲ)于爲尹(ニ)1、爾來傳(ヘテ)至(リ)2爲純(ニ)1、無v有(ルコト)2爭(フ)者1、爲尹有2三子1、長(ヲ)曰2爲之(ト)1、次(ヲ)曰2爲員(ト)1、次(ヲ)曰2持和(ト)1、持和生(レナガラニシテ)而頴悟、才過2二兄(ニ)1、故(ニ)爲尹太(ダ)愛(ス)v之(ヲ)、釋氏有(レドモ)d請(フ)3以爲(ンコトヲ)2弟子(ト)1者u、不v聽(サ)、左大臣義持公賜(テ)2持(ノ)字(ヲ)1、名(ク)2持和(ト)1、因(テ)爲2伯父爲邦(ノ)後嗣(ト)1、傳2奇書秘笈(ヲ)1、襲(テ)號2御子左(ト)1、以(テノ)2釆邑不(ルヲ)1v給故(ニ)來歸(ル)、爲尹乃分2與(ヘテ)細河(ノ)之地(ヲ)1、號2冷泉(ト)1、吾家今猶并(ヘ)2用(ルコト)二條(ノ)之家規(ヲ)1、本出(ヅ)2于此(ニ)1、後更(ニ)名(ク)2持爲(ト)1、權大納言、持爲生2成爲(ヲ)1、將軍左大臣義政公、初(メ)賜(フ)2成(ノ)字(ヲ)1、後賜2政(ノ)字(ヲ)1、因(テ)改(メテ)名(ク)2政爲(ト)1、享徳二年癸酉、五月二十五日、還(シ)2付(ク)江州小野(ノ)莊(ヲ)1、兼(テ)2民部卿(ヲ)1、爲2權大納言(ト)1、政爲生2爲孝(ヲ)1、爲2侍從中納言(ト)1、爲孝生2爲豐(ヲ)1、侍從從三位、爲豐生2爲純(ヲ)1、參議侍從、累世住2播州(ニ)1、歳時入 朝、有2子數人1、長(ヲ)曰2爲勝(ト)1、爲2左近衛(ノ)權少將(ト)1、次(ヲ)曰2教勝(ト)1、次乃先生也、幼(シテ)而爲v僧(ト)、既(ニ)長(テ)常(ニ)讀2聖賢(ノ)之書(ヲ)1、志嚮2儒術(ニ)1、後遂(ニ)還(ツテ)v俗(ニ)、名(ケ)v肅(ト)字(ス)2斂夫(ト)1號2惺窩(ト)1、詳2于行状(ニ)1、次(ヲ)曰2俊久(ト)1、改2姓(ヲ)源(ト)1名(ケ)2有親(ト)1、繼2六條(ノ)有孝(ノ)後(ヲ)1、次(ヲ)曰2爲將(ト)1、天正六年戊寅、赤松氏(ノ)旁族別所小三郎源(ノ)長治、以v兵(ヲ)襲來(リ)、略(ス)2細河(ノ)莊(ヲ)1、爲純爲勝父子防v之(ヲ)、四月一日戰死(ス)、依藤氏某聞(テ)2事急(ヲ)1來援(ク)、館舍燒亡、父子已(ニ)死(ス)、某悔(テ)2來(ルコト)遲(キヲ)1、而立(ニ)自殺(ス)、土人感(ジ)2其義(ヲ)1、合2葬三人(ヲ)1、樹2松三四株(ヲ)1、名(テ)曰2冷泉塚(ト)1、或(ハ)曰2依藤塚(ト)1、播人至(ルマデ)v今(ニ)稱(ス)v之(ヲ)、歴世(ノ)藏書、盡(ク)爲2灰燼(ト)1、肅訟(フ)2之(ヲ)平右府信長公(ノ)家臣筑前(ノ)守秀吉(ニ)1、秀吉(ノ)曰(ク)、且(ラク)待(テト)2時運(ヲ)1、竟(ニ)不v果、肅無(シ)2如之何1、於是齎(シ)2正和二年(ノ)公牒、及(ビ)殘編遺書(ヲ)1、奉(ジテ)v母(ヲ)與《ト》2兄弟1同(ク)來(ル)2京師(ニ)1、後弟爲將、加(ヘ)2元服(ヲ)1任2叙(ス)官位(ニ)1、時(ニ)既(ニ)失(ヒ)v邑(ヲ)、家亦幾(シ)v絶(ルニ)、肅(ノ)子爲景、初(メ)奉v仕2 後水尾帝(ニ)1、任2圖書(ノ)頭(ニ)1、賜2號(ヲ)細野(ト)1、取2細河小野(ノ)首尾(ノ)字(ヲ)1也、後光明帝正保中 勅(スラク)冷泉古(ヘ)有2兩派1、可(シト)2以(テ)再興(ス)1、傳(ヘ)2 旨(ヲ)於東府(ニ)1、以2爲景(ヲ)1復爲2冷泉(ト)1、任2左近衛權少將(ニ)1、尋(テ)轉2中將(ニ)1、賜2城州愛宕(ノ)郡小山村、相樂(ノ)郡林村、及小寺村三所之地(ヲ)1、數々蒙2顧聞(ヲ)1、侍2講 經筵(ニ)1、善(ス)2詩歌及倭文(ヲ)1、所v著有2白鴎文集若干卷1、享保二年花朝前日 正二位行民部卿藤原爲經謹識とある、これ二條家冷泉家の大かた也、上件持爲卿より末は、下(ノ)冷泉殿のすぢ也、爲經卿は、爲景卿の孫也、上(ノ)冷泉殿は、爲尹卿の長子、中將爲之(ノ)朝臣の末なり、さて二條家は、御子左ともいふ、爲氏卿の子、大納言爲世卿の子たち、中將爲通朝臣、中納言爲藤卿、中將爲冬朝臣など、なほあまたおはせし、長子爲通朝臣の子、權大納言爲定卿、その子權大納言爲遠卿、その子左中將爲衡朝臣也、次男爲藤卿の子、權中納言爲明卿也、末(ノ)子爲冬朝臣の子、權中納言爲重卿也、かく爲世卿の末、三流(レ)になりて有つるを、皆末絶て、二條家はなくなりぬ、然るに歌の道に、なほ後まで、二條家と世にいふは、此家の歌のおきてをうけ傳へられたる家々をいふ也、その子孫といふにはあらず、
 
    長嘯子の歌
擧白集に、見もしらぬ人の、柴の戸をさしのぞきて、心あるかなと、ほのかにいへりければ、「あはれしる我身ならねど山里にすめば心のありげなるかな、
 
    源氏物語をよむことのたとへ
源氏物語とて、世にもて興ずる、五十四帖の草子とやらむ、心みに、なにごとぞと、くりひろげて見しかば、みだれたる糸すじの、口なきやうにて、さらによみとかれ侍らぬは、いかにと問(フ)、さかし、たゞなれよ、のち/\見もてゆかば、さながらまどひははてじ、たとへていはゞ、六月ばかり、いと暑き日かげをしのぎたらむ人の、内に入ては、やみのうつゝのさだかならで、物のいろふし、あやめもわかれねど、をること久しくなれば、じねんに、かのうつは物此調度と、こまかに見わかるゝが如し、と同集の文にあり、この集は、長嘯子の歌又文をあつめたるふみ也、
 
    京極(ノ)中納言の墓又時雨の亭の事
同じ人の、ひえの山にまうでたる詞にいはく、貫之のぬしの塚は、かしこのしか/\聞ゆるところに有といひたるを、さだかにしれるもなくて、見ずなりにけるぞ、いと/\なごりがちに、ほいなくなん、定家卿のもありといへれど、それはひがことにて、まことは九重のかたはら、柳原のほとり、今の相國寺のうちに、時雨の亭も有しとぞ、長禄のころほひ、年ごとの八月廿日には、すいたる人々、秋のなかばも過ぬべしといふ句を、一もじづゝはじめにおきて、歌よみとぶらひしも、此所なるべし
 
    玄旨法印の忌日
同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいはく、五條のまうちぎみより、京極(ノ)黄門の一ながれ、その末たえずして、此法印まで、正しきすぢをつたへ來り給へりとぞ、まことにあふぐべく、たふとまざらむやは、過にし八月廿日に、かくれ給ひぬれば、定家卿の正忌にさへあたりにけり、さるべき契や有けむ云々、「かはらずよ高きその名もをぐら山秋の廿日にきえし月影、
 
    定家(ノ)中納言の詩
明月記、建仁元年十月、上皇熊野御幸の供奉の所に、十五日午(ノ)時許、着(ク)2發心門(ニ)1、宿(ス)2南無房(ノ)宅(ニ)1、此(ノ)道(ノ)之間、常(ニ)不v具(セ)2筆硯(ヲ)1、又有v所v思、未v書2一事(ヲモ)1、此門(ノ)柱(ニ)、始(テ)書(ク)2詩一首(ヲ)1、巽(ノ)角(ノ)柱(ニ)【閑所也】慧日(ノ)光(ノ)前(ニ)懺(ス)2罪根(ヲ)1、大悲道上(ノ)發心門、南山(ノ)月下結縁(ノ)力、西刹(ノ)雲中(ニ)吊(フ)2旅魂(ヲ)1、
 
    性情の切なること夫婦の間にしくはなしといへる漢人の詞
から人明の何仲黙といへるが言にいはく、夫(レ)詩(ハ)本(ク)2性情(ノ)之發(ニ)1者也、其(ノ)切(ニシテ)而易(キ)v見者(ノ)、莫(シ)v如(クハ)2夫婦(ノ)之間(ニ)1、是(ヲ)以(テ)三百篇、首《ハジマリ》2于雎鳩(ニ)1、六義首(マル)2于風(ニ)1、而漢魏(ノ)作者、義關(カレバ)2君臣朋友(ニ)1、辭必(ズ)托(シテ)2諸(ヲ)夫婦(ニ)1、以(テ)宣(テ)v欝(ヲ)而達(ス)v情(ヲ)焉、其(ノ)旨遠(シ)矣、由(テ)v是(ニ)觀(レバ)v之(ヲ)、少陵(ガ)之詩、博(ク)渉(レドモ)2世故(ニ)1、出(ル)2於夫婦(ニ)1者常(ニ)少(クシテ)、而風人(ノ)之義或(リ)v缺(クルコト)といへり、これまことにさること也、然れどもその戀の情を、たゞ君臣朋友などの間の、他事《コト/\》を風《サト》すにのみ託《ヨソ》へいひて、たゞにみづから思ふ戀の詩のなきは、いかにぞや、もし他事《コト/\》を風《サト》すにだに、よく其人を感ぜしむるばかり、情《コヽロ》のふかくかゝらむ事ならむには、みづからの、その思ひをのべたる詩も、かならずおほくあるべきわざなるに、それなくては、性情をのぶるわざとはいひがたかるべし、これをおもへば、詩に、みづからの戀の詩のなきは、かの國人のくせにて、たゞうはべをかざりて、をゝしく見せて、まことの心の、めゝしきをば、いひいでず、つゝみかくしたる物にこそ有けれ、皇國の歌の、戀のおほきぞ、まことに性情をのぶる道には有ける、
 
    し を り
六帖に、山の題の歌に、「しをりしてゆかまし物をあひづ山いるよりまどふ道としりせば、しをりといふもの、これに見えたるなどや、はじめならむ、なほふるくあるか、おぼえずなん、
 
    李花集の詞歌
李花集にいはく、續後拾遺撰び侍しころ、立親王以前、名字などなんぎに侍りて、おもひの外に、作者にもくはゝり侍らざりしに、今度風雅集とかや、撰らるゝよし聞えしかども、今は又身のよそにおぼえ侍しに、あらぬさまなる撰者どもにて、爲定卿は、もれ侍るなどきくさへ、此道もなくなりぬるこゝちして、なげかしくおぼえしかば、歌つかはし侍しついでに、「いかなれば身はしもならぬ言の葉のうづもれてのみ聞えざるらむ、「このたびはかきながすとももしほ草なか/\わかのうらみとはせじ、
 
    十 王 經
よに十王經といふ物あり、佛説地藏菩薩發心因縁十王經と題號したり、そのいへることゞも、みなむげにつたなきいつはりごとのみ也、さるはもろこしにても、僞經といふ多くあるを、これはさにもあらず、たゞ皇國人の作れるもの也、其文の中に、一切(ノ)衆生、臨(テ)2命終(ル)時(ニ)1、閻魔法王遣(ハス)2閻魔卒(ヲ)1、一(ハ)名(ケ)2奪魂鬼(ト)1、二(ハ)名(ケ)2奪精鬼(ト)1、三(ハ)名(ク)2縛魄鬼(ト)1、即縛(シテ)2三魂(ヲ)1、至(ル)2門關(ノ)樹下(ニ)1、樹有2荊棘1、宛(モ)如(シ)2鋒刃(ノ)1、二鳥栖掌、一(ハ)名2無常鳥(ト)1、一(ハ)名(ケ)2抜目鳥(ト)1、我(レ)汝(ガ)舊里(ニシテ)、化(シテ)成(テ)2※[監+鳥]※[縷+鳥](ト)1、示(シ)2怪語(ヲ)1鳴(ク)2別都頓宜壽(ト)1、我(レ)汝(ガ)舊里(ニシテ)、化(シテ)成2烏鳥(ト)1、示(シ)2怪語(ヲ)1、鳴(ク)2阿和薩加(ト)1、爾(ノ)時(ニ)知(レリヤ)否(ヤ)、亡人答(テ)曰(ク)、都(テ)不2覺知(セ)1、云々、然(シテ)通(リ)2樹門(ヲ)1、閻魔王國、塊2死天山(ノ)南門(ニ)1、亡人重(テ)過(グ)、兩莖相逼(テ)、破(リ)v※[月+奏](ヲ)割(キ)v膚(ヲ)、折(リ)v骨(ヲ)漏(ス)v髓(ヲ)、死天(ニシテ)重(テ)死(ス)、故(ニ)言(フ)2死天(ト)1、從(リ)v此向(ヒ)2入(ル)死山(ニ)1、險坂尋(ネ)v杖(ヲ)、路石願(フ)v鞋(ヲ)云々、死天冥塗(ノ)間、五百臾繕那云々、葬頭河(ノ)曲、於(テ)2初江(ノ)邊、官廳相連(リ)承(ル)所(ニ)1、渡(ル)2前(ナル)大河(ヲ)1、即是(レ)葬頭見渡亡人名奈河津、所v渡(ル)有v三、一(ニハ)山水瀬、二(ニハ)江深淵、三(ニハ)有橋渡、官(ノ)前(ニ)有2大樹1、名(ク)2衣領樹(ト)1、影(ニ)住(リ)2二鬼1、一(ハ)名(ケ)2奪衣婆(ト)1、二(ハ)名(ク)2懸衣翁(ト)1、婆鬼警(メテ)2盗業(ヲ)1、折(リ)2兩手指(ヲ)1、翁鬼惡(テ)2無義(ヲ)1、逼(ス)2頭足(ヲ)一所(ニ)1尋(テ)2初(テ)開(ク)男(ヲ)1、負2其女人(ヲ)1、牛頭銕棒(ヲ以)、挟(テ)2二人(ノ)肩(ヲ)1、追2渡(ス)疾瀬(ヲ)1、などいへる、別都頓宜壽はほとゝぎす、死天山(ハ)しでのやま、葬頭河はさうづがは也、所v渡(ル)有v三とは、みつせ川をいひ、尋(テ)2初開男(ヲ)1云々なども、ふるき物語書どもなどに見えたる事にて、その外も皆世(ノ)中にいひならへる説《コト》によりて、作りたるもの也、さるをかへりて、世にいひならへるは、此經より出たるものと心得たる人もあるは、いみしきたがひ也、つくりたる名どものさまも、事のさまも、あらたにものしたるさまにはあらず、世の説《コト》をとれるほど、しるき物をや、
 
    さらしなのにきに見えたること
さらしなの日記にいはく、二むらの山の中に、とまりたる夜、大きなる柿の木の下に、いほをつくりたれば、よひとよいほのうへに、柿のおちかゝりたるを、人々ひろひなどすといへり、これは菅原(ノ)孝標といひける人の女のかける物にて、さしもとほき世の事にもあらぬを、そのかみなほ旅の屋どりは、かゝる事も有けるをおもへば、つねに歌によむなる、草の枕もあがれりし世には、まことにさることにぞ有けむかし、
 
    おのが帰鴈のうた
帰鴈の題にておのれ、「春くれば霞を見てやかへる鴈われもとそらに思ひたつらむ、いまひとつ、「かへるかりこれもこしぢの梅香や風のたよりにさそひそめけむ、とよめりける後なるをよく思へば、末の二句に、鴈の縁なくて、いかにぞやおぼえければ、またとかく思ひめぐらして、「うめがゝやさそひそめけむかへる鴈これも越路の風のたよりに、となんよみなほしける、これはしも、こしぢを末の句にうつしたるにて、鴈の縁はさることながら、歌ざまは、いさゝかおとりておぼゆるは、いかならむ、歌よく見しれらむ人、さだめてよ、
 
    出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文
所3以《ユヱ》號《ナヅケタル》2意宇《オウト》1者《ハ》、國引坐八束水臣津野命詔《クニヒキマセルヤツカミヅオミツヌノミコトノノリタマハク》、八雲立出雲國者《ヤクモタツイヅモノクニハ》、狹布之堆國在哉《サヌノヽワカクニナルカナ》、初國小所作《ハツクニチヒサクツクラセリ》、故《カレ》將《ムト》2作縫《ツクリヌハ》1詔而《ノリタマヒテ》、栲衾志羅紀乃三埼矣《タクブスマシラキノミサキヲ》、國之餘有耶見者《クニノアマリアリヤトミレバ》、國之餘有詔而《クニノアマリアリトノリタマヒテ》、童女胸※[金+且]所取而《ヲトメノムナスキトラシテ》、大魚之支太衝別而《オフヲノキダツキワケテ》、浪多須々支穂振別而《ハタスヽキホフリワケテ》、三身之綱打挂而《ミツヨリノツナウチカケテ》、霜黒葛聞々耶々爾《シモツヅラヘナヘナニ》、河船之毛々曾々呂々爾《カハフネノモソロモソロニ》、國々來々引來縫國者《クニヨセヒキキヌヘルクニハ》、自《ヨリ》2去豆《コヅ》1乃|打絶而《ウチタチテ》、八穂米支豆支乃御埼也《ヤホニキヅキノミサキナリ》、此而堅立加志者《カクテカタメタテシカシハ》、石見國《イハミノクニト》與《ト》2出雲國《イヅモノクニ》1之堺有《ノサカヒナル》、名《ナハ》佐比賣山《サヒメヤマ》是也《コレナリ》、亦《マタ》持引綱者《モチヒケルツナハ》、薗之長濱《ソノノナガハマ》是也《コレナリ》、亦《マタ》北門佐伎之國矣《キタドサキノクニヲ》、國之餘有耶見者《クニノアマリアリヤトミレバ》、國之餘有詔而《クニノアマリアリトノリタマヒテ》、童女胸※[金+且]所取與《ヲトメノムナスキトラシテ》、大魚之支太衝別而《オフヲノキダツキワケテ》、波多須々支穗振別而《ハタスヽキホフリワケテ》、三身之綱打挂而《ミツヨリノツナウチカケテ》、霜黒葛聞々耶々爾《シモツヾラヘナヘナニ》、河船之毛々曽々呂々爾《カハフネノモソロモソロニ》、國々來々引來縫國者《クニヨセヒキキヌヘルクニハ》、自《ヨリ》2多久《タク》1乃|打絶與《ウチタチテ》、狹田之國是也《サダノクニコレナリ》、亦北門良波乃國矣《マタキタドラハノクニヲ》、國之餘有耶見者《クニノアマリアリヤトミレバ》、國之餘有詔而《クニノアマリアリトノリタマヒテ》、童女胸※[金+且]所取而《ヲトメノムナスキトラシテ》、大魚之支太衝別而《オフヲノキダツキワケテ》、波多須々支穂振別而《ハタスヽキホフリワケテ》、三身之綱打挂而《ミツヨリノツナウチカケテ》、霜黒葛聞々耶々爾《シモツヾラヘナヘナニ》、河船之毛々曽々呂々爾《カハフネノモソロモソロニ》、國々來々引來縫國者《クニヨセヒキキヌヘルクニハ》、自《ヨリ》2手波《タシミ》1打絶而《ウチタチテ》、闇見國是也《クラミノクニコレナリ》、亦高志之都々乃三埼矣《マタコシノツヽノミサキヲ》、國之餘有耶見者《クニノアマリアリヤトミレバ》、國之餘有詔而《クニノアマリアリトノリタマヒテ》、童女胸※[金+且]所取而《ヲトメノムナスキトラシテ》、大魚之支太衝別而《オフヲノキダツキワケテ》、波多須々支穗振別而《ハタスヽキホフリワケテ》、三身之綱打挂而《ミツヨリノツナウチカケテ》、霜黒葛聞々耶々爾《シモツヾラヘナヘナニ》、河船之毛々曽々呂々爾《カハフネノモソロモソロニ》、國々來々引來縫國者《クニヨセヒキキヌヘルクニハ》、三穗之埼《ミホノサキ》、持引綱夜見嶋《モチヒケルツナハヨミジマ》、固堅立加志者《カタメタテシカシハ》、有《ナル》2伯耆國《ハヽキノクニ》1火神岳是也《ヒカミノタケコレナリ》、今者國者引訖詔而《イマハクニハヒキヲヘヌトノリタマヒテ》、意宇社爾御杖衝立而《オウノヤシロニミツエツキタテヽ》、意惠登詔《オヱトノリタマヒキ》、故《カレ》云《イフ》2意宇(ト)1 上(ノ)件の文、いみしくふるきところ/\有て、聞えがたきふし/\多かるを、今の本《マキ》、もじの誤さへおほくて、いよ/\さとりがたきところ/”\あるを、しひて解《トケ》る、國引坐《クニヒキマセル》とは、【坐(ノ)字座と書る本もあり】すなはち此文に見えたるごとく、他《コト》國の餘《アマリ》あるところを、裂取引寄《サキトリヒキヨ》せ以來《モチキ》て、出雲(ノ)國の足《タラ》ざるところを足《タ》して、造(リ)をへ給へるをいふ、此(ノ)御功《ミイサヲ》をもて、此神をかく稱《タヽ》へ申せる也、大國主(ノ)神を、天(ノ)下|造《ツクラシヽ》大神と申すがごとし、八束水臣津野命《ヤツカミヅオミツヌノミコト》は、古事記に、訟美豆奴《オミヅヌノ》神と有て、須佐之男(ノ)大神の四世の御孫にて、深淵之水夜禮花《フカフチノミヅヤレハナノ》神の御子にて、大國主(ノ)大神の御祖父神也、此風土記の中にも、所々見え給へり、狹布之《サヌノヽ》堆國、堆字は、寫(シ)誤(リ)なるべし、遠江國人内山(ノ)之眞龍、此風土記の注を作りて、稚(ノ)字也といへり、さも有べし、狹布よりのつゞきは、疎《ウト》けれども、すべてにかけて、稚國《ワカクニ》とはいひつべきこと也、古事記にも書紀にも、國稚《クニワカシ》とあれば、よし有ておぼゆ、初國小所作《ハツクニチヒサクツクラセリ》とは、伊邪那岐伊那那美二柱之大神の、初めて生成《ウミナ》し給へる時に、小《チヒサ》くつくり給へりと也、そのかみ此出雲之國は、北(ノ)方|足《タラ》はずして、狹布のごとく、狹く細き國なりけむ、かくいまだ成りとゝのはざるをもて、稚國《ワカクニ》とはのたまへるなるべし、將《ム》2作縫《ツクリヌハ》1とは、足《タ》らざるところを足《タ》して、縫合せて、廣く作りなさむと也、志羅紀乃三埼《シラキノミサキ》は、【埼(ノ)字一本に椅とあるは誤也】新羅(ノ)國の地の東南(ノ)方の、海へつき出たる御崎也、國之餘有耶《クニノアマリアリヤト》云々は、かの御崎を、國の餘りて廣き地《トコロ》ありやいかゞと、尋ね見れば、餘《アマ》れるところ有(リ)となり、童女胸※[金+且]《ヲトメノムナスキ》とは、※[金+且]《スキ》の形の、美女の胸の如く、廣く直く平らかなるを云なるべし、萬葉九の卷に、女のかたちのよきをほめて、胸別之廣吾妹《ムナワキノヒロキワギモ》とあるも、胸の直く平らかなるをいへりと聞ゆれば也、大魚《オフヲ》は鮪《シビ》の類をいふ、支太《キダ》は、鰓《アギト》なるべし、阿《ア》を略き、登《ト》を通はして支太《キダ》ともいひけむ、さて鰓《アギト》はつねには、支《キ》を濁り、登《ト》を清ていへども、もとは支《キ》を清み登《ト》を濁りてぞいひけむ、太《ダ》は、古書に濁音の假字に用ひたる字なり、衝別《ツキワケ》は、漁人に聞(ク)に、大魚を捕《トル》には、その喉《ノムド》をねらひて、衝《ツキ》てとるといへり、古歌に鮪《シビ》つくとあるこれ也、されば衝《ツキ》をいはむ序に、大魚の鰓《キダ》とはいへるなるべし、鰓は口のわきなれば、いさゝか違へるがごとくなれど、喉は口の奥なれば、外より衡《ツク》ところをば、さいふべき也、さて衝別《ツキワケ》とは、かの國の餘れるところを、※[金+且]を衝《ツキ》入れて、分(ケ)取(ル)をいふ、浪多須々支《ハタスヽキ》は、穂《ホ》といはむ序にいへる也、穂振別《ホフリワケ》は、屠分《ホフリワケ》也、獣の肉などを切(リ)分つを、屠(ル)といふと、同じ言にて、古事記(ノ)崇神天皇(ノ)御段《ミクダリ》に、斬2波布理《キリハブリ》其(ノ)軍士《イクサビトヲ》1とあるも同じ、かの餘(リ)ある地を、※[金+且]もて切(リ)分(ク)るをいふ也、三身之綱は、身(ノ)字は寫(シ)誤(リ)なるべし、これを眞龍は、舟(ノ)字の誤として、みな然改めたれど、いかゞとおぼゆ、萬葉四(ノ)の卷に、三相二※[手偏+差]流絲《ミツアヒニヨレルイト》とあるは、二すぢをより合せたるうへに、今一すぢをより合せたるにて、つよき糸也、又書紀(ノ)孝徳(ノ)御卷に、三絞之綱《ミセノツナ》とあるも然なり、されば※[手偏+差]の意に借(リ)て、自《ヨリ》と書るを誤れるカ、又|會《アヒ》の誤にて、三合《ミツアヒ》にても有べし、打挂《ウチカケ》は、屠(リ)分(ケ)たる地へうちかけて、海(ノ)上を引よする也、霜黒葛《シモツヾラ》は、黒葛の一種の名か、はた霜のおきたるつゞらをいへるか、さだかならず、聞々耶々爾は、誤字なるべし、聞も耶も此書の中に、假字に用ひたる例なし、こはいと心得がたきを、しひてこゝろみにいはゞ、閇々那々爾《ヘナヘナニ》を誤れるか、そは今(ノ)世の言に、へなら/\とも、ふなら/\ともいふことある、閇《ヘ》と布《フ》とは、通ふ音にて、同じこと也、こゝは海(ノ)上を、浪にゆられて行《ユク》さまをいへる也、かの大船のゆくら/\とも、ゆたのたゆたにともいへると、同じさま也、なほ思ふに、船《フネ》といふ名も、ふなら/\とゆく故にもやあらむ、さて霜黒葛は、序にて、かくつゞきたる意は、霜にあへる黒葛の、しをれて、へなら/\としたるよしか、又黒葛の一種の名ならば、其|蔓《カヅラ》の、へなら/\としたる物なる故か、猶よく考ふべし、毛々曾々呂々爾《モソロモソロニ》は、俗言にそろ/\といふことなるべし、そろ/\は、此もそろ/\の、毛《モ》を省《ハブ》ける言なるべし、さて河船之は序にて、海をゆく船にくらぶれば、川の船は、しづかに行(ク)意にて、つゞきたるなるべし、さて上の閇那々々《ヘナ/\》と、これとは、引來る海路の間(ダ)のさま也、國々來々は【一本に、こゝにのみ、此上に、國々爾の三字あるは、衍なり、又一本に、由々良々と書るも、誤なり、】誤あるべし、これも又いと心得がたきを、例のしひていはゞ、來(ノ)字は、寄の誤にて、國寄《クニヨセ》なりけむを、上の文にならひて、國々寄々と、誤りて重ねたるにや、さて又下の文よりまがひて、寄を來に誤りたる也、さて國寄とは、かの新羅の御崎の餘れる地を、寄來《ヨセク》るをいへる也、縫國《ヌヘルクニ》とは、引よせ來て、出雲(ノ)國へ縫(ヒ)合せたる地をいふ、自(リ)2去豆《コヅ》1は、去豆《コヅ》は地(ノ)名なり、楯縫(ノ)郡に、許豆《コヅノ》社許豆嶋許豆濱など見えて、出雲(ト)與《ト》2楯縫1二郡(ノ)之堺とあり、乃は誤字なるべし、其字いまだ考得ず、打絶而《ウチタチテ》は、【打(ノ)字一本に折とあるは誤なるべし、】堺をなして限るをいふ、八穂米は米(ノ)字は尓を誤れるなるべし、八百土《ヤホニ》にて、杵築の枕詞也、支豆支乃御埼《キヅキノミサキ》は、分ては今世に日之御崎といふ處なれども、こゝは楯縫(ノ)郡の堺までの地を、廣くいへる也、されば杵築の東(ノ)方までわたれる山をも、御崎山といへり、加志《カシ》は、和名抄(ノ)舟(ノ)具に、唐韻(ニ)云(ク)、※[將の左+戈]※[將の左+可](ハ)、所2以繋(ク)1v舟(ヲ)也、漢語抄(ニ)云(ク)、加之《カシ》とある物にて、前漢書(ノ)地理志には、※[將の左+羊]※[將の左+可]と書て、註に、係(ク)v船(ヲ)杙也とあり、萬葉の歌にも見えたり、かくてこゝにいへるは、縫合せたる國を、又離れゆかざらむために、繋《ツナ》ぎ堅め給へりし※[將の左+戈]※[將の左+可]《カシ》也、佐比賣山《サヒメヤマ》は、飯石(ノ)郡に見ゆ、持引綱《モチヒケルツナ》は、かの國を挽來《ヒキヽ》ませる綱也、薗之長濱《ソノヽナガハマ》は、神門郡に、即水海(ト)與《トノ》2大海1之間(ニ)有v山、長(サ)廿二里云々、此(ハ)者|意美豆努《オミヅヌノ》命(ノ)之、國引坐(シヽ)時(ノ)之綱(ナリ)矣、今俗人|號2云《イフ》薗(ノ)松山(ト)1云々、と見えたり、又出雲(ノ)郡に、薗長(サ)三里云々、此(レ)則出雲(ト)與《ト》2神門1二郡(ノ)堺也とあるは、薗(ノ)長濱長(サ)と有(リ)けむが、長(ノ)字よりまがひて、長濱(ノ)二字の脱《オチ》たるにて、かの薗(ノ)松山と同所なるを、山は神門郡に屬《ツ》き、濱は出雲(ノ)郡に屬《ツケ》るにぞあらむ、北門《キタド》とは、出雲(ノ)國の北面の海をいふなるべし、佐伎之國《サキノクニ》は、佐(ノ)字は、於《オ》の誤にて、隱岐(ノ)國にやあらむ、出雲より北(ノ)方にあたれば也、されどこはなほ疑はし、其よしは下にいふべし、所取與の與(ノ)字は、而の誤なり、上下なる例もて知(ル)べし、自(リ)2多久《タク》1乃は、嶋根(ノ)郡に、多久(ノ)社、また多久川あり、秋鹿(ノ)郡との堺也、乃(ノ)字は、川の誤か、されど上の自2去豆1とある下にも、此字有て、去豆には川は見えざれば、こゝもいかゞあらむ、打絶與は、【打(ノ)字一本に折とあるは誤なるべし】與(ノ)字は、是も而の誤也、狹田之《サタノ》國は、秋鹿(ノ)郡に、佐太《サダ》川又佐太(ノ)水海など見ゆ、是也、但しこゝは、秋鹿楯縫二郡の地をいへるなり、北門良浪之國は、いまだ考(ヘ)得ず、そも/\良理流禮呂《ラリルレロ》を、言の頭《ハジメ》における例は、なきことなれば、良(ノ)字は誤なるか、但し出雲(ノ)國の大海の北(ノ)方には、隱岐(ノ)國の外には、國も嶋もあることなければ、上なる志羅紀の御崎に准ふるに、もしくは上の佐伎之國も、此良浪之國も、北(ノ)方なる異國の名にもやあらむ、なほよく考ふべし、自(リ)2宇波1、【一本に、此下に縫(ノ)字あるは、衍也、又上の自2去豆1と自2多久1との下には、乃(ノ)字あるを、こゝにのみは、其字なし、】此(ノ)地名は見えず、一本に、宇(ノ)字を、手と作《カケ》るにつきて考ふるに、手染《タシミ》なるべきか、嶋根(ノ)郡に手染《タシミノ》郷あり、すべてのさまをもて考ふるに、こゝは必(ズ)上文の多久《タク》より東、下文の三穂之埼より西にあるべきところなれば、手染にて、地理もよくかなへり、打絶而は、打(ノ)字諸(ノ)本みな折と作《カケ》れど、例によりて改めつ、闇見《クラミノ》國は、嶋根(ノ)郡ニ、久良彌《クラミノ》社又|椋見《クラミ》社見ゆ、こゝはこれも、多久川より手染《タシミ》までの地を、廣くいへる也、高志《コシ》は、越(ノ)國なり、都々乃《ツヽノ》三埼は、【一本には、都乃《ツノ》三埼とあり】さだかならず、和名抄に、能登(ノ)國羽咋(ノ)郡に、都知《ツチノ》郷、越後(ノ)國頸城(ノ)郡に、都字《ツウノ》郷、神名帳に、越前(ノ)國敦賀(ノ)郡、又坂井(ノ)郡に、御前《ミサキノ》神社などはあり、これらのうちにもやあらむ、猶よく尋ぬべし、三穂之埼《ミホノサキ》は、嶋根(ノ)郡に見えて、東のはて也さて上の例どもによらば、此上にも、自(リ)2其處《ソコ》1打絶而といふことのあるべきに、こゝにのみ其詞なきは、此三穂の崎は、東の限(リ)は海なるが故也、此下に是也といふ二字も有べきに、なきは、こゝには略きて、合せて下にいへる也、持引【持(ノ)字一本に接とあるは誤なり】夜見《ヨミ》嶋は、嶋根郡のところに、達《イタル》2伯耆(ノ)國(ノ)郡内(ノ)夜見嶋(ニ)1、とある是也、固堅【固字一本に囿とあるは誤也】火神岳《ヒカミノタケ》は、此(ノ)風土記の抄に、伯耆(ノ)國倉見(ノ)郡の大山《ダイセン》これなりといへり、さもあるべし、それにつきて思ふに、大山は、神名帳に、大神山(ノ)神社とあれば、火(ノ)字は、大を誤れるにはあらざるか、抄は、天和のころ國人岸崎時照といへるが作れる物にて、三卷ある也、是也は、上の三穂之埼、夜見嶋をも合せて、一つにいへる也、引訖【一本に訖(ノ)字を記とかけるは誤なり】御杖衝立而《ミツヱツキタテヽ》、意惠登詔《オヱトノタマヒキ》、故(レ)云2意宇《オウト》1、意惠《オヱ》は、事に勞《イタヅ》きて苦《クルシ》きを、休息《イコ》ふ時の聲なり、さて惠《ヱ》は、宇延《ウエ》のつゞまりたる音にて、上に宇《ウ》を帶《オベ》る故に、おのづから後に意宇《オウ》とはなれるなるべし さて此(ノ)臣津野《オミヅヌノ》命の引來て縫(ヒ)作り坐る、すべての地は、嶋根秋鹿楯縫出雲の四郡にて、東より西へつらなれる地にして、そを西よりつぎ/\に物し給へるなり、此四郡のうち、出雲(ノ)郡をのぞきて三郡は、南(ノ)方意宇(ノ)郡との中間に、細く長き入(リ)海有て、出雲(ノ)郡のみ、意宇神門二郡につゞきたり、こゝに内山(ノ)眞龍が考へたるは、神代には、此入海、西の大海へとほりて、出雲(ノ)郡も、北(ノ)方|半《ナカラ》は、かの三郡と同じく、入海をへだてゝ、意宇(ノ)郡神門(ノ)郡とは、離れてぞありけむといへる、今此國引の文を思ふにも、まことにさぞ有けむとぞおぼゆる、さて此文に見えたる事どもを、たゞ寓言《コトヨセゴト》のごとく心得むは、例のからごゝろにぞ有ける、神代には、思ひのほかなる、奇《クスシ》き異《アヤシ》き事どもの有て、此國士は、成竟《ナリヲヘ》たるなれば、古(ヘ)の傳説《ツタヘゴト》を、いさゝかもうたがふべきにあらず、こと/”\く實の事也、たゞ文のまゝにこゝろうべし、
 
    出雲國なる黄泉《ヨミ》の穴
小篠(ノ)御野、いにし寛政六年三月のころ、出雲大社にもうでたりしをり、鰐淵山近きわたりの山に、黄泉《ヨミ》の穴といふがあるよし、はやく聞るは、いかなるにかと、とひたりしに、此わたりにも、行見たる人はなきよし、杵築の人のいふを聞て、せちにゆきて見まほしく思ひけれど、年老たれば、足よわくて、みづからはえ物せで、弟子《ヲシヘゴ》に齋藤(ノ)秀滿といふを、ゐて物せしに、さらばいまし行て見てこといひつけて、やりける、此秀まろは、御野が同じ石見(ノ)國の三隅《ミスミ》といふ所の人にて、もとより山道を、つねにかよひならへる人にし有ければ、くるしとも思ひたらで、よろこびながら、ゆきて見てかへりて、其間の事、くはしく書しるしたりけるを、こゝにも見せにおこせたりける、そのあるやう、まづ杵築より東、鰐淵山をこえて、東北の方、海ちかき所、川下村といふを過て、奥岡村といふに至る、かの黄泉の穴は、此村の山に有(ル)也、海べより十八町のぼるところ也、かくて山はいとしも高からねど、道いとけはしく、石まじりに草たかくおひしげり、※[草冠/刺]おほくて、いと/\のぼりがたし、かの穴は、山のはらに、草深き中にありて、わづかに見えたり、口はすこしせばくて、下の方は、わたり二尺四五寸、三尺ばかりも有べし、丸く井のさまにて、底見えず、めぐりは、口より下皆、つみ上《アゲ》たるごとくなる石にて、その石みなかど有て、すべてわれめおほく、色は白く、又黄ばみたるもまじれり、さるを南の方一かたは、廣さ二尺ばかりにて、長さは一丈五六尺がほど板などを立たらむやうなる、一つの大石にて、此石の下ざま、穴いさゝか北の方へまがりて見えたり、すべて口近き所は、石に苔などもむしたるを、下の方は、いたくかわきて、潤《ウルホヒ》なく見ゆ、此穴、里人は冥途《メイド》の穴といへり、そのわたりの者も、おほくはしらず、この奥岡村のものを、導《シルベ》にゐて行たる、年七十ばかりなる翁にて、語りけるは、此穴來て見たる者は、いとまれ也、年わかきは、里の者だに、かつてしらずとぞかたりける、はじめ鰐淵寺にて、かたらひきつるしるべの翁は、とし六十ばかりなりけるを、わかゝりしほどに、來て見たることは有しかど、こゝらの年へにければ、のぼる道も、よくもおぼえずとて、又この奥岡のおきなをば、それがかたらひ來たるにぞ有ける、又かの翁がいひけるは、此穴より、毒氣《アシキケ》のゝぼることあるに、ふれぬれば、たちまちに息絶る也と、いひつたへたり、といふをきくに、しばしのぞきて見るほども、いとけおそろしけれど、よく見てかへらずは、ふりはへて見にこしかひなからむと、いみしく思ひねんじて、猶よく見つる也、おきな又かたりけるは、むかしは、此穴の内へ、石を落しいるゝに、そのいしくだりもてゆくまゝに、つぎ/\めぐりの石にふれゆく音の、しばしがほど、とほく聞えこしを、四十年ばかりあなたに、あるものゝ、大きなる石一つを、おとしやりつる事の有し、そのゝちは、石をおとせども、音久しくは聞えずなりぬるはかの大石の、なかばにとゞこほりて、それにせかるゝ故なめり、とぞかたりける、又むかし鰐淵寺をはじめ給へりし、智證上人と申す、此穴に入定し給ひぬるよし、かの寺の縁記にも見えたり、と聞りなども語る、さて此山のすべての名は、奥岡の山といひて、その中に、此穴のあるちかきあたりをば、ぞうが谷といふ、此山のうしろは、鰐淵山につゞきてとほからずとぞしるしたりける、なほゆきかひの道のほどの事どもまで、こまかにしるしたるを、見るにはなほさだかならずおぼえて、こゝはいかにと、なほとひきかまほしきところも多かれど、しばらく本にしたがひて、その趣をとりて、事をつゞめて、よきほどにこゝにはしるせる也、さて此奥岡村よみの穴のあたりを、神門(ノ)郡ならむとしるしたれど、かならず出雲(ノ)郡なるべし、さて又風土記に、宇賀(ノ)郷のところに、黄泉之穴といふところの見えたるは、同郡の内にはあれども、磯べにて、窟の内にあるよしなれば、ことゝころなるべし、
 
    師をとるといふ事
源氏物がたりの紅葉賀(ノ)卷に、舞の師どもなど、よになべてならぬをとりつゝ、おの/\こもりゐてなんならひけるとあり、世の言に、師匠をとる、弟子をとるといふも、ふるきことなりけり、
 
    はじめを濁る詞
言のはじめを濁るも、まれ/\にはあるは、蒲《ガマ》石榴《ザクロ》楚《ズワエ》斑《ブチ》紅粉《ベニ》などのごとし、これらふるき物にも見えたる詞也、後(ノ)世にこそ濁りていへ、古(ヘ)はみな清《スミ》ていへりし也、此外にも猶有べし、皆同じこと也、蒲は、蒲生《カマフ》などいふ時は、今も清《スメ》り、ざくろは、石榴の字の音なるべし、されど六帖の題にもあり、芭《バ》蕉なども、古今集の物名に、はせをばとあるは、上のはもじ、古(ヘ)は清てぞいひけむ、楚《ズワエ》は末枝《スワエ》也、末《スヱ》をすわといふは、聲《コヱ》をこわづくりなどいふと同じ、斑《ブチ》は、神代記にも、斑駒《フチゴマ》と見えたり、是をむちごまとも訓るは、古(ヘ)はふを清《スメ》ることをしらずして、鞭《ムチ》をも俗《ヨ》にぶちといふにならひて、これをもむちなるべしと心得たる、おしあて也、紅粉《ベニ》は、和名抄に※[赤+經の旁]粉《ヘニ》と見えたり、上の件の外に、げにといふ言は、現の字の音にて、後のこと也、場《バ》は、ふるくも大庭《オホバ》馬場《ウマバ》などは見えたれど、たゞ場《バ》といへることは見えず、こはもとにはにて、大庭《オホバ》はおほには、馬場《ウマバ》はうまにはなるを、音便にばとはいひなせる也、又|可《ベシ》如《ゴトシ》などのたぐひは、上に言有てつゞく言なれば、こと/\也、
 
    た ん ざ く
三代實録廿七の卷に、短籍と見え、又卅五の卷に、短冊とも見えたり、但し歌を書(ク)物にはあらず、
 
な ご り
六帖に、「うつくしと見るたびごとになでしこの花のなごりはをしくやはあらぬ、此なごりは、近き世にいふなごりの意に聞えたり、
 
    な ま じ ひ
躬恒歌に、「あらたまの年の四とせをなまじひに身をすてがたみわびつゝぞすむ、家集に見えたり、
 
    皇 祖 母 尊
書紀皇極天皇(ノ)御卷に、吉備(ノ)嶋(ノ)皇祖母(ノ)命とあるは、吉備姫王《キビヒメノミコ》の御事にて、天皇の大御母に坐《マセ》り、又孝徳天皇(ノ)御卷に、奉(テ)v號《ミナヲ》2於豐財(ノ)天皇(ニ)1、曰(ス)2皇祖母(ノ)尊(ト)1とありて、これよりかく申せるは、皇極天皇の御事にて、皇太子中(ノ)大兄(ノ)皇子の御母にまして、天皇の御ためには、大御姉命に坐(ス)を、その御讓(リ)を承嗣《ウケツガ》せ給へるが故に、大御母と崇《アガ》め申(シ)給へるなるべし、そも/\御母をしも、祖母と申せるはいかにといふに、すべて古(ヘ)には、直《タヾ》に己を生《ウメ》る父母にかぎらず、世々|遠祖《トホツオヤ》までにわたりて、淤夜《オヤ》といひたりし故に、古書には、遠祖《トホツオヤ》をも、父母をも通はして、多く祖《オヤ》と書り、さればこれもそのでうにて、祖母とは、親母といふ意にて書れたるもの也、漢文の祖母の意にはあらず、大かた書紀は、何事も漢文のでうに記されたれども、これらは、そのかみ現に書れたる文字のまゝに記されたる也、上(ノ)件の意をえずは、此祖母とあるもじ、心得がたかるべし、
 
    畿内七道のよみ又郡司のよみ
西宮記郡司(ノ)讀奏(ノ)條に、東海道【ウチヘツミチ、ウヘツアチ、又ヒウガシノウミノミチ】東山道【ヒウガシノヤマノミチ、又ヒウガシノミチ又ウメツアチ、】北陸道【クルカノアチ、又キタノアチ、ヤマノアチ、】山陰道【止モノアチ、又カグトモノアチ、】山陽道【カゲトモノアチ、又曽トモノミチ、】南海道【ミナミノミチ、又ミナミノウミノミチ】西海道【ニシノミチ、又ニシノウミノミチ】大領【古保乃見ヤツ古、】少領【瓜ケノ見ヤツ古、又瓜ケミヤツコ、】と見え、北山抄には、畿内【宇治都久仁、】東海道【宇女都美チ、又宇倍都道、】東山道【山乃道、又東乃道、】北陸道【久流加乃道、】山陰道【曽止毛乃道、舊説加介止毛乃道、】山陽道【加介止毛乃道、舊説曽止毛乃道】南海道【南乃道、】西海道【西乃道、】大領【古本乃ミヤツ古、又大古本乃ミヤツ古、】少領【須介乃ミヤツ古、】領【古本乃ミヤツ古、或説大領於本イミヤツ古、領ミヤツ古、今説尺上是式部例歟、】國擬【久仁安天申利、】擬大少領【加利乃−−】白丁【音読】朝集使【朝集乃使】と見えたり、此二(ノ)書を合せて考るに、西宮記の方に、東海道を、ウチベツミチとある、上のチ〔右○〕は、寫し誤(リ)にて、海邊《ウミベ》つ道なるべし、へ〔右○〕もじ濁るべし、ウベツアチは、うみべの|み〔右○〕を省《ハブ》きたるにて、是も海邊つ道なるべし、アチは、即(チ)道也、昔の片假字には、ミ〔右○〕をも、ア〔右○〕と書ること、書紀の訓などにも多く有て、まぎらはしき也、これ必(ズ)差《タガヒ》ありけむを、今は見分(キ)がたくなりぬ、ヒウガシは、ひんがしといふと同じ、こはもとひむかしにて、む〔右●〕は、たしかに|む〔右●〕といひ、か〔右○〕も清《スミ》たる言なるを、音便にて、む〔右●〕を|う〔右●〕とも、ん〔右○〕ともいひ、それに引れて、か〔右○〕をも濁る也、日向《ヒムカ》を、ひうがといふも同じ、東山道を、ウメツミチ、北陸道を、ヤマノミチとあるは、後に寫すとて、所を誤れる也、ウメツミチは、東海道の讀《ヨミ》、ヤマノミチは、東山道の讀《ヨミ》也、北山抄|正《タヾ》し、さてウメツは、かのウベと同じくて、ベ〔右○〕を通はしてメ〔右○〕といへる也、北陸道を、クルガノミチとある、クルガは、くぬがを唱へ誤れるなるべし、くぬがは、今(ノ)世にも陸《クガ》といふ是也、山陰道を止モノミチとあるは、止の上に、曽(ノ)字有しが脱《オチ》たる也、そも/\西宮記、おのが見たるかれこれの本どもは、みな上の件のごとくなるを、寫し誤(リ)とおぼしきところ/”\は、善本《ヨキマキ》今も有べき也、北山抄のかたは、すべて正しく見ゆ、其中に、北陸道に、キタノミチといふ讀(ミ)なきは、落たるにや、南海道西海道の例によるに、これも北の道ともいふべき也、又二書ともに、山陰道にカゲトモノミチ、山陽道にソトモノミチとある説は、ひがこと也、かげともは影面《カゲトモ》にて、南をいひ、そともは背向《ソトモ》にて北なるを、さる意《コヽロ》をもしらぬ人の、陰(ノ)字によりて、ゆくりなくさかしらに入れかへたるなるべし、さて又東海道ほ、ヒウガシノウミノミチ、東山道は、ヒウガシノヤマノミチなどあるぞ、字にあたりて、正《タヾシ》きさまに聞ゆめれど、此たぐひは、中々に後の訓にて、東海道は、ウメツチなどいひ、東山道は、東の道又山の道といひ、北陸道は、クルガ道又キタノ道といひ、南海道はミナミノ道、西海道はニシノ道といへるぞ、返りて正しかるべき、こは互《タガヒ》にまぎるゝことなきかぎりは、言を省《ハブ》きて、つゞまやかに短く定めたるものと聞ゆれば也、書紀の卷々に見えたる訓も、畿内はウチツクニ、東海道は、ウベツミチ、又ウミツミチとも、東山道は、ヤマノミチ、又アツマノヤマノミチとも、北陸道は、クヌガノミチ、又クニガノミチ、又クムカノミチ、又クルガノミチとも、山陰道は、ソトモノミチ、山陽道は、カゲトモノミチ、南海道は、ミナミノミチ、西海道は、ニシノミチとあり、さて又郡司のよみ、コホノミヤツコハ、郡造《コホリノミヤツコ》にて、國造《クニノミヤツコ》の例也、スケノミヤツコハ、助造《スケノミヤツコ》也、然ればこほのみやつことは、郡司をいづれもいふべく、大領は、オホイコホノミヤツコとあるぞ、あたりて聞えたる、書紀の訓、大領は、コホリノミヤツコとも、オホミヤツコとも、コホノミヤツコともあり、おほみやつこは、いかゞなる訓也、少領はスケノミヤツコ、
 
    吉 志 舞
北山抄、大嘗會午(ノ)日(ノ)處に云(ク)、次(ニ)安倍氏奏(ス)2吉志舞(ヲ)1、五位以上引(キ)v之(ヲ)、設(クル)2床子等(ヲ)1如(シ)v前(ノ)、作(テ)2高麗(ノ)亂聲(ヲ)1而進(ム)、舞(フ)者(ノ)廿人、樂人廿人、安倍吉志大國三宅日下部難波等(ノ)氏供(ヘ)奉(ル)、寛平(ノ)記(ニ)云(ク)、三四人着2六位(ノ)袍闕腋(ヲ)1、打2懸甲冑(ヲ)1、執(ル)v桙(ヲ)、承平(ノ)記(ニ)云(ク)、於(テ)2舞臺(ノ)西(ニ)1奏(シ)v之(ヲ)、引頭二人立2臺(ノ)下(ニ)1、舞人在(ル)2前後(ノ)端(ニ)1者(ハ)、服(シ)2甲冑(ヲ)1、在(ル)2中間(ニ)1者(ハ)、※[申+樸の旁]頭冠末額褐衣※[衣+兩]襠、皆執2楯戟(ヲ)1舞酣刀云々
 
    鈴  奏
行幸の時に、鈴(ノ)奏といふことあり、同書行幸(ノ)條(ノ)裏書(ニ)云(ク)、若(シ)少納言遲(ク)參《ラバ》者、少將相代(テ)、奉(ル)v仕(ヘ)2鈴奏(ヲ)1、其儀、圍司(ノ)奏了(テ)、退(リ)歸(ル)之後、入(テ)v自2左腋門1、經(テ)2長樂門(ノ)前(ノ)橋(ヲ)1、進(テ)就(テ)2版位(ニ)1、揖(シテ)而奏(シテ)云(ク)、御共【爾】持仕【倍】奉【良牟】鈴賜【良牟止】申《ミトモニモチツカヘマツラムスヾタマハラムトマヲス》、云々、還御(ノ)時撤(シテ)2御輿(ヲ)1後、不v待2圍司(ノ)奏(ヲ)1、進(テ)v自2長樂門(ノ)前(ノ)橋(ノ)頭1、奏(シテ)(ク)云、御共持奉【禮留】鈴進【牟止】申《ミトモニモチマツレルスヾタテマツラムトマヲス》、云々
 
    荷  前
荷前《ノサキ》、荷《ニ》を能《ノ》といふことは、木を、木末《コズヱ》木《コ》の葉など、許《コ》といひ、火を、火影《ホカゲ》炎《ホノホ》など、保《ホ》といふたぐひにて、第二の音の、第五の音にはたらく例なり、書紀神功(ノ)卷に、荷持をも、能登利《ノトリ》と訓注あり、又和名抄、備中(ノ)國下道(ノ)郡の郷(ノ)名に、近似と書て、知加乃里《チカノリ》としるしたる有(リ)、から書にても、似はのれりとよみならへり、これらも同じ例也、
 
    改 年 號
西宮記(ニ)云(ク)、改年號、大臣奉(リ)v勅(ヲ)、仰(セテ)2文章博士(ニ)1、令(メ)v勘(ヘ)2申(サ)年號(ヲ)1、奏聞(シ)、勘(ヘ)定(メテ)之後、仰(セテ)2内記(ニ)1令(メ)v作(ラ)2詔書(ヲ)1、奏(ス)2草及(ビ)清書(ヲ)1、賜(ヒテ)2御畫日(ヲ)1、下(ス)2中務(ニ)1、中務度(ス)2案(ヲ)於太政官1、大政官連署(シ)、大納言覆奏畢(テ)、下(ス)2施行(ノ)官符(ヲ)1、云々
 
    改  錢
同書(ニ)云(ク)、改錢、大臣奉(リ)v勅(ヲ)、仰(セテ)2博士(ニ)1令(メ)v勘(ヘ)2錢文(ヲ)1、奏定畢(テ)、擇(テ)2吉日(ヲ)1、召(テ)2能書(ノ)者(ヲ)於陣頭(ニ)1、令v書(カ)2字樣(ヲ)1、奏聞(シテ)賜(ヒ)2作物所(ニ)1彫(リ)定(メテ)、副(ヘテ)2官符(ヲ)1下(ス)2鑄錢司(ニ)1、鑄錢司進(ル)2新餞(ヲ)1、奏(シテ)2解文(ヲ)1之後、先(ヅ)奉(ル)2神社佛寺(ニ)1、云々
 
    俊成(ノ)卿定家(ノ)卿の書給へる萬葉集といへる事
甲斐(ノ)國の身延山といふところの事どもをしるしたる、身延鏡と名づけたる物を見たりしに、かの寺の寶藏にをさまれる物どもとて、しるしたる中に、俊成定家卿親子兩筆の萬葉集一部、爲家の古今集、爲相の源氏物語一部、阿佛尼歌抄、左大臣道家公の朗詠集、云々としるしたるは、まことにさる物どもあるにや、俊成(ノ)卿定家(ノ)卿の萬葉集など、ことに心得ぬことなりかし
 
    定家(ノ)中納言の歌
定家(ノ)中納言の歌に、「さえくらすみやこは雪もまじらねど山(ノ)端しろき夕暮の雨とある、本は、雪といひて雨也、末は、雨といひて雪也、かゝることからの歌にもあり、鶴林玉露といふ書に、杜少陵(ガ)詩(ニ)云(ク)、風含(テ)2翠篠(ニ)1娟々(トシテ)淨(ク)、雨※[鍋蓋/邑/衣の一画なし]2紅葉(ヲ)1冉々(トシテ)香(シト)、上(ノ)句(ハ)風(ノ)中(ニ)有v雨、下(ノ)句(ハ)雨(ノ)中(ニ)有v風、謂(フ)2之(ヲ)互體(ト)1、
 
    高 野 山
性靈集補闕(ニ)云(ク)、於2紀伊(ノ)國伊都(ノ)郡高野(ノ)峯(ニ)1、被《ル》v請2乞《コハ》入定(ノ)所(ヲ)1表(ニ)曰(ク)、空海少年(ノ)日、好(テ)渉2覧(スルニ)山水(ヲ)1、從(リ)2吉野1南(ニ)行(クコト)一日、更(ニ)向(テ)v西(ニ)去(ルコト)兩日程、有2平原幽地1、名(テ)曰2高野(ト)1、計(ルニ)當(レリ)2紀伊(ノ)國伊都(ノ)郡(ノ)南(ニ)1、四面高嶺、人蹤絶v蹊(ヲ)云々、
 
    佛法僧といふ鳥
同書に、後夜聞(ク)2佛法僧鳥(ヲ)1詩、閑林獨坐(ス)草堂(ノ)曉、三寶之聲聞(ク)2一鳥(ニ)1、一鳥有v聲人有v心、聲心雲水倶(ニ)了々、
 
    たまよばひ
野府記(ニ)云(ク)、萬壽二年八月七日丙辰云々、昨夜風雨(ノ)間、陰陽師恒盛、右衛門尉雅孝、昇(テ)2東(ノ)對(ノ)上(ニ)1【尚侍(ノ)住所】魂呼《タマヨバヒス》近代不v聞事也、これいにし五日に、尚侍嬉子のかくれられし時の事也、對上の間に、屋(ノ)字おちたるか、善本を考ふべし
 
    神 事 の 簡
吉部秘訓抄に、立(ツ)2神事(ノ)簡(ヲ)1、僧尼、重輕服、不淨(ノ)之輩、不(ルノ)v可2參入1之由書v之、
 
    親王御元服袍の文又色また淺黄といふ色の事
同抄に、親王御元服、御袍(ノ)色并(ニ)禄法(ノ)事云々、予申(シテ)云(ク)於(テハ)2御袍(ノ)文(ニ)1者、雲鶴(ノ)之由、見(エタリ)2保延(ノ)記(ニ)1云々、又右府(ノ)云(ク)、御袍(ノ)色如何、予申(シテ)云(ク)、如(キハ)2西宮(ノ)文(ノ)1者、黄色|歟《カ》、而(ルニ)保延(ニ)被《ル》v用(ヒ)2淺黄(ヲ)1云々、左大辨【定長】云(ク)、縫殿寮式(ニ)、雖v載(スト)2淺黄(ノ)之由(ヲ)1、用途(ニ)載(ス)2苅安(ヲ)1、以v之(ヲ)思(フニ)v之(ヲ)、黄色|歟《カ》云々、長和二年、敦儀敦平御元服、兩親王着2黄衣(ヲ)1、共(ニ)淺黄也、世(ニ)稱(ス)2之(ヲ)黄衣(ト)1、寛治元年、親王元服、着2緑袍(ヲ)1云々、同廿六、今日、今宮有2御元服(ノ)事1、【無品守貞親王】御袍淺黄(ノ)綾(ノ)袍、雲鶴(ノ)文、無(シ)v裏、件(ノ)御袍(ノ)色、兼(テ)有2沙汰1、所v被《ルヽ》v逐(ハ)2保延(ノ)之例(ヲ)1也とあり、上(ノ)件親王御元服の御袍の色、黄と緑とたがへること有しは、色の名のまがへる故なり、そのまがひは、大かた古き物に、淺黄とあるは、黄色の淺きをいへる也、然るを後に、淺葱色《アサキイロ》とまがひて、淺葱色のことをも、淺黄と書(ク)から古き物に、淺黄とあるをも、誤りて淺葱色と心得られたる也、長和二年云々、共(ニ)淺黄也とあるは、黄衣の黄色の淺きよしをことわれる也、此ほどまでは、まがはざりし也、然るに寛治元年の度、緑袍を用ひられしは、古記に淺黄としるせるを、淺葱色の事と心得ての誤なるべし、保延被《ル》v用2淺黄(ヲ)1とあるも、淺葱色にぞありけむ、さて同廿六とあるは、建久二年十二月の二十六日也、
 
    千鳥にをちかへりとよめる歌
をちかへりといふことは、大かた郭公ならではよまぬやうなるに、拾遺集雜上に能宣、「曉のねさめの千鳥たがためか佐保の川原にをちかへりなくと有(リ)、續後拾遺集冬にも、六條(ノ)内大臣、「明石がたとわたる千島をちかへりいく浦浪をかけて鳴らん、これは拾遺なる歌によりて、よみ給へるにや、右の歌どもの外にも有べきか、今は見あたりたるを出せるのみ也、閏五月郭公といふ題にて、俊頼(ノ)朝臣、「やよや又きなけみそらの時鳥五月だにこそをちかへりつれ、新勅撰集に入れり、これは郭公によりたれど、五月をゝちかへりとよめり、
 
    歌の題の望の字のよみ
歌の題に夕望などある、望の字は、のぞみとよむべきにや、續世繼に、ことゝころのゆふべののぞみよりも、難波のあしでと見えむ、げにときこえ侍りとあり、
 
    片 點 諸 點
歌の點に、片點諸點といふこと、家隆(ノ)卿のかゝれたる物に見えたり、
 
    連歌の花(ノ)下といふこと
菟玖波集(ノ)序に、よゝのひじりのみかども、撰集にくはへ、家々の道をえたる人も、式目をつくりて、久しく雲のうへのもてあそび花のもとのたはふれとなれりと有(リ)、連歌の家に、花(ノ)下といふ稱あるは、此詞をとれるなるべし、
 
    辛 崎 の 松
滋賀の辛埼の松は、さいつころ大風にたふれて、かたものこらずなりにしを、大津の御城の預り、新庄駿河守直頼の弟に、松奄東玉、雜齋直壽とて、二人有けるが、此松の事を、つね/”\くちをしく思ひしを、弟の雜齋、つひに風情ある松をたづねえて、植けり、天正十九年秋のことなりき、此事尊朝法親王のかゝせ給へる、かの松の記に見えて、扶桑拾葉集にのせられたり、今の松は、これなめり、
 
    ひ ゐ な
人の形をちひさく作りて、わらはのもてあそぶ物を、物語ぶみどもに、ひゐなといへり、これはちひさくつくれるを、鳥のひなになずらへていへる名にて、字《モジ》も雛とかき、今の世の人も、ひなといふを、ふるくひゐなとしもいへるは、詩歌をしいか、四時をしいし、女房をにようばうといふたぐひにて、ひもじを引ていふなれば、假字はひいなと書(ク)べきを、ゐと書るはたがへり、物の雛形といふも、ちひさく物したるよしの名なり、
 
    て づ ゝ
歌の事を論じたるふみどもに、てづゝなりといふこと見えたり、ふるくは紫式部日記にも、いちといふもじをだに、かきわたし侍らず、いとてづゝにあさましく侍りと見えたり、
 
    賀茂(ノ)社の神主禰宜權禰宜
台記(ニ)云(ク)、久壽元年六月十五日、頭光頼朝臣來(テ)曰、賀茂(ノ)禰宜重忠、轉(ズ)2神主(ニ)1、權禰宜家平、轉(ズ)2禰宜(ニ)1、貴布禰(ノ)禰宜助平、轉(ズ)2權禰宜(ニ)1、氏人久教補(ス)2貴布禰(ノ)禰宜(ニ)1者《テヘリ》、と見えたり、神主と禰宜と有し也、貴布禰(ノ)禰宜の權禰宜に轉ずるは、賀茂の權禰宜になれりし也、
 
    春日(ノ)社の預(リ)
同記(ニ)曰(ク)、同年九月七日、今日招(キ)2左大辨(ヲ)1、仰(セ)2下(ス)春日(ノ)社(ノ)預(リ)二人(ヲ)1、本六人也、而(ルニ)關白殿長者(ノ)間、加(ヘテ)2一人(ヲ)1爲2七人(ト)1余長者(ノ)後、仰(セテ)曰(ク)、宜(シ)3任(セテ)v舊(ニ)爲2六人(ト)1、但(シ)非(ズ)v可(キニ)v解2却(ス)本(ノ)預(ヲ)1、一人闕(クル)時不v可v補(ス)v替《カハリヲ》者《テヘリ》、其後預(リ)信春有(テ)v罪解却(ス)、祐房有兼死去(ス)、三人替(リニ)補(ス)2二人(ヲ)1也【有定祐政】
 
    人の出去し跡を掃《ハク》ことを忌(ム)事
人の出ゆきしあとを掃(ク)事をいむは、葬の出ぬる跡をはくわざのある故也、同記に、久壽二年十二月十七日、傳(ヘ)聞(ク)、今夜亥(ノ)刻、高陽院入棺云々、即奉v遷(シ)2福勝院(ニ)1云々、出御(ノ)之後、民部(ノ)大夫重成、以2竹箒(ヲ)1拂(フ)2御所(ヲ)1、
 
    日前國懸(ノ)社遷宮日時
中右記(ニ)云(ク)、寛治五年十二月七日、今日上卿參陣擇(ビ)2申(ス)日前國懸社(ノ)遷宮(ノ)日時(ヲ)1、と見えたり、そのかみは此御社などの遷宮、朝廷より物せさせ給ひて、かく嚴重なりしぞかし、
 
    賀茂行幸社司勸賞
同記(ニ)云(ク)、嘉保二年四月十五日、今日賀茂行幸也云々、裏書(ニ)云(ク)、賀茂行幸、上下(ノ)社司勸賞、上(ノ)社司【九人、】神主從五位下賀茂(ノ)縣主成繼【讓2外甥藤原政季(ニ)1】禰宜從五位下同安成、【讓外甥源保】祝從五位下同成季【讓舅父藤原行季】權禰宜從五位下同重助、【讓漆〔右○〕國守】權祝從五位下同成長【讓舅父惟宗親持】片岡(ノ)禰宜從五位下同成定【讓外甥紀資宗】同祝從五位下同成頼、【讓藤原爲包】貴布禰(ノ)禰宜從五位下同成忠、【讓平正經】同祝從五位下同成氏、【讓藤原宗政】下(ノ)社司五人、禰宜正五位下(ノ)鴨(ノ)縣主惟季、【自敍四位】祝從五位下同伊房、【讓息男伊俊】權禰宜從五位下同職通【讓藤實俊】川合(ノ)禰宜從五位下同經貞、同祝從五位下同惟輔【讓伴季兼】已上十四人、倍加一階、下(ノ)社(ノ)權禰宜從五位下季長、依(テ)2重服(ニ)1漏2勸賞(ニ)1、【追(テ)讓2代官伊長(ニ)1有2社司奏状1】藏人少納言後日(ニ)云(ク)、代官惟長敍爵、又季長可v有2勸賞1由、追(テ)有2宣旨1者(リ)、
 
    節 刀 の事
同記(ニ)云(ク)、寛治八年十一月二日云々、依(テ)v仰(ニ)與《ト》2彼(ノ)中將1、向2内侍所官(ノ)行事所(ニ)1、新作(ノ)辛櫃一合【長(サ)四尺、黒漆、中朱漆、無2鎖匙1、以2朱(ノ)綱(ヲ)1結v之、件辛櫃(ノ)樣、不2慥(ニ)尋得1、但問(テ)2古老(ノ)女官等(ニ)1、令v作也、】相具(シ)、與《ト》2彼中將1共(ニ)1取2出(ス)節刀十柄(ヲ)1、【此中(ニ)有(ル)2靈劔二柄1歟】劔(ノ)樣、切鋒八柄、一柄【長二尺五寸五分、左(ノ)方(ニ)府形纔(ニ)見(ユ)、打界也、左鋒靈形纔殘(ル)、鋒二寸許(リ)師刀、柄本五寸四分、自貫之穴二(ツ)】、一柄、【長二尺二寸、峯(ニ)有v銘、文云(ク)、北斗左青龍右白虎、此(ノ)上(ノ)文、損(シテ)不v見也、中央(ノ)間(ニ)、有2此(ノ)字許(リ)1也、後玄、此(ノ)字以下燒損(シテ)不v見、左龍(ノ)形、纔(ニ)從(リ)v腰下許(リ)見(ユ)、其上鳥(ノ)尾(ノ)形、纔(ニ)在(リ)、柄本六寸、穴一(ツ)在(リ)、】以上二柄、若(シ)是(レ)靈劔歟、殘(リ)六柄、【長二尺四寸、但柄本或(ハ)六寸、或(ハ)四五寸等相加也、劔并冑不v見、】鯰尾《ナマヅヲ》二柄、一柄、【長二尺四寸、柄本三寸、】一柄【長二尺、柄本四寸、以上二柄、無2銘文1、】以上十柄、皆以(テ)燒損(ス)、一々監臨(シテ)、納(ム)2辛櫃(ニ)1、納了(テ)後、以2朱綱(ヲ)1結(ヒ)2固(ム)之(ヲ)1、云々、裏書(ニ)云(ク)、長徳三年五月廿四日、藏人信經私記(ニ)云(ク)、遣(ハシ)v召(シニ)2主計(ノ)助安倍(ノ)晴明(ヲ)1、召(シ)2問(フ)宜陽殿(ノ)御劔等(ノ)事(ヲ)1、申(シテ)云(ク)件(ノ)御劔、卅四柄也、去(ル)天徳内裏燒亡(ノ)之日、皆悉(ク)燒損(ス)、晴明爲(ル)2天文得業生1之時、奉(リ)2宣旨(ヲ)1、進(リ)2勘文(ヲ)1、所v令(ル)v作(ラ)也、卅四柄(ノ)之中、二腰名(ク)2靈|ハ《刀歟》1、腰(ハ)破敵、一腰(ハ)守護、但(シ)件(ノ)劔有v鏤、鏤(ル)2歳次并(ニ)名(ヲ)1、又同鏤(レリ)2十二神、日月五星等之躰(ヲ)1也、而(ルニ)燒損(ノ)之後、不v見(エ)2其文1、仍(テ)所v獻(ル)2勘文(ヲ)1也、御劔樣、乃木形也、件(ノ)破敵(ハ)是(レ)遣(ハス)2大將軍(ヲ)1之時、所(ノ)v賜節刀也、一腰(ハ)是名(ク)2守護(ト)1、候2御所(ニ)1是也、者《テヘリ》、天徳以後、度々燒(クルノ)之後、未(ダ)v被《レ》v作(ラ)、件(ノ)二腰(ハ)本是百済國(ノ)所(ト)v獻(ル)云々《イヘリ》、今日所(ノ)v獻劔身、六柄(ノ)之中、靈|ハ《刀歟》二腰之實有之實、件(ノ)靈|日《刀歟》等(ハ)、國家(ノ)大寶也必可(シ)v被2作儲(ケ)1者、天徳(ニ)奉(リ)v勅(ヲ)、以2備前(ノ)國(ノ)撰(ビ)獻(ル)鍛冶、白根(ノ)安生(ヲ)1、令v燒其實其高雄山也者(リ)、七八月(ノ)庚申(ノ)日、必可(シ)v作2此劔(ヲ)1者(リ)、其故仰(ス)2造酒(ノ)令史安倍(ノ)宗生等(ニ)1也、今年八月廿六日、是庚申(ノ)日也、然(レドモ)而已(ニ)爲(リ)2九月(ノ)節1、又日次不v宜、明年七八月庚申(ノ)日可(キ)v被《ル》2始(メ)作(ラ)1歟、件(ノ)記、後日(ニ)從(リ)2治部卿通俊(ノ)許1借(リ)得(テ)、而所2記(シ)置1也、これ寛治八年十月廿四日の夜、皇居堀川(ノ)院燒たりしをりの事也、裏書信經(ノ)私記といふに記せると本書にしるされたると、節刀|異《コト》なるごとく聞ゆるは、いかなるにか、
 
    百 座(ノ) 祓
白川獻廣(ノ)王(ノ)記(ニ)云(ク)、長寛三年六月六日、今日百座(ノ)祓、そのかみはやくかくさまのわざも有し也、
 
    長寛三年齋王歸京
同記(ニ)云(ク)、長寛三年十二月十九日酉(ノ)時、前齋宮立2本寮(ヲ)1、迎(ヘハ)左少辨行隆、王(ハ)兼隆也、亥(ノ)尅着2逸志《イチシノ》宿(ニ)1、廿日午(ノ)尅、立2逸志(ノ)驛家(ヲ)1、廿一日、既〔右○〕伊世河口、午(ノ)時出御、萬事不(ルガ)v具(セ)之故也、廿一日戌(ノ)時、着2伊賀山中(ニ)1、一宿了(ヌ)、無(シ)2先例1、迎(ヘノ)御輿、散々(ニ)引破(リ)、如(ク)v薪(ノ)結(ヒ)合(セテ)持參也、凡無(キ)2先例1事也、廿二日戌(ノ)時、着2伊賀(ノ)河口1、廿三日、着2黒太(ニ)1、【丈六堂ト云】即一宿、抑伊賀河口【仁天《ニテ》、】、寮(ノ)侍武者所爲、殺2平大納言|河婦宇衆〔四字右○〕住人致時(ヲ)1了、已其身負v手(ヲ)、御迎(ヘノ)※[手偏+檢の旁]非違使廣綱(ガ)子二人闘亂、已(ニ)突殺(シ)了、凡路次一切不v※[手偏+皆]、濫行端多(シ)、廿五日、僅(ニ)着2和泉木津(ニ)1、不v作2御所(ヲ)1、仍(テ)奉v令(メ)v宿(ラ)2※[舟+作の旁]※[舟+孟](ニ)1云々《トイヘリ》、凡今度歸京散々歟、後代如何、うら書に、逸志(ノ)驛家【十九日未(ノ)時(ニ)、令(メ)v立給(フ)、宮司依辨憂助不勤事驛家、寮頭爲(ルノ)2國司1之間、假屋(ノ)之御所許(リ)、自(ラ)催(シ)立(ツ)、不v供2御膳(ヲ)1、萬事不具云々、】河口(ノ)驛家、如(ク)v形(ノ)御所假屋許(リ)也、米四石を出(ス)云々《トイヘリ》、輿折(シテ)【廿日夜半】不v作、山路嶮岨(ノ)之間、不v堪2行歩(ニ)1、仍艱難|云々《トイヘリ》、今夜不v供2御膳(ヲ)1、伊賀(ノ)驛家、一切不v※[手偏+皆]、同在廳不2相迎(ヘ)1、經(テ)2卅町(ヲ)1宿(ス)、廿二日、伊賀(ノ)神部、【無2先例1、駕輿丁※[瓦+王]弱之後、齋王御泣涕|云々《トイヘリ》召替御輿部宿小屋】【大和】二鳥居【无2供給1、なまり江御祓二瀬了】梨木津召(ス)2御船(ニ)1、おとろへたりし世の有さま、あさましなどいはむは、よのつねなり、上件の文、もじ誤りもし、又脱もしたりと見えて、いかにともよみがたきところ/”\あり、
 
    笏をとり落せる時の作法
中原(ノ)康富記(ニ)云(ク)、予持(テ)v筥(ヲ)參(リ)進(ム)之時、落(スノ)v笏(ヲ)之間、筥(ヲ)下(ニ)置テ、取(リ)v笏(ヲ)、揖シテ取(リ)v筥(ヲ)、一揖シテ立(ツ)、更(ニ)參(リ)進(ム)、是(レ)落(ス)v笏(ヲ)之時(ノ)作法也、
 
   歌  合
同記(ニ)云(ク)、嘉吉二年九月十八日、今日參(ル)2冷泉(ノ)中將持和(ノ)朝臣(ノ)宿所(ニ)1、【近衛室町(ノ)邊也】去月移2住此宿所(ニ)1云々、一盞分携之及(ブ)2雜談(ニ)1、和歌(ノ)懷紙書(キ)樣、又會座置(ク)2懷紙(ヲ)1之樣、講師已下(ノ)條々(ノ)作法、具(ニ)被《ル》v口2傳(セ)之(ヲ)1、不(ル)v遑(アラ)2記録(スルニ)1者也、云々、同日今夜、飯尾新左衛門(ノ)尉爲數(ガ)亭和歌(ノ)會也、云々 常光院大僧都堯孝出題也、今夜爲(リ)2讀師1、蜷川新右衛門入道智蘊爲(リ)2講師1、云々、今夜新右衛門講師(ノ)之時、堯孝ガ短冊ニハ、大僧都とよめり、懷紙又同(ジ)v之(ニ)、其外ハ皆實名、官途實名也、聊可(キ)v有2思惟1歟、如何、實(ノ)之中、ちと可(キ)v然之輩、微音也、有2其驗1、愚存又如(ク)v此(ノ)也、先講2懷紙(ヲ)1之後、次(ニ)短冊ヲ披講(ス)、
 
 
玉勝間十一の卷
 
   さねかづら十一
 
   こぬものを思ひたえなでさねかづら
       まつもくるしやくるゝ夜ごとに
これは夜毎にまつといふ、題よみのなるを、卷の名つけむとて、例のひきいでたるになん、
 
    告文清書世尊寺家口傳
中原康富記(ニ)云(ク)、嘉吉二年十月九日、參(ル)2世尊寺三位【行豐卿】亭(ニ)1、聊中風氣(ニテ)、不v及2對面(ニ)1、以2子息侍從行賢(ヲ)1、申(シ)承(リ)了(ヌ)、自2殿下1、多武峯御告文清書(ノ)事、被2仰下1候間、書(キ)樣并(ニ)文字(ノ)之分量等、委(ク)可2口傳(ス)1之由、令(ム)v申(サ)v之(ヲ)、委細以2拾遺(ヲ)1被v示(サ)v之(ヲ)、又侍從存知(ノ)之分、被v授(ケ)v之(ヲ)、御位署不v可2書切(ル)1也、又不吉(ノ)之字は、墨を薄く細く可v書也、吉字は、墨黒に可(シ)2書(キ)候1、假令不吉(ノ)字(ハ)者、火災禍難灰燼死兵亂病、此(レ)等(ノ)之類也、吉字は、福徳壽命などの字類也、命などの字は、分よりも長く可v書也、又よき唐墨は、前の日兼てより、摺(リ)ためて置(ク)宜(シキ)也、中々わろき墨は、俄にすりたてたるよき也云々、筆(ノ)事、ふくさ紙には、鹿の毛、打紙には、菟の毛、強紙には、狸の毛、此等似合てよき也と云々、御告文、高檀紙のふくさ紙ならば、鹿毛の筆可v宜之由、被v示(サ)v之、御告文は、一段神事しく可v書也云々、告文、紙二枚もあれ、三枚もあれ、可v續(ク)也、願書は、續(カ)ずして書(ク)也云々、文字のほどらい、明日可v給之由、被v諾(セ)、翌日三品書(テ)給(ヒ)(ヌ)了、予先年、今上御元服(ノ)之賀表清書(ノ)事、就(テ)2少内記(ニ)1、被2仰下1之間、書2進之(ヲ)1、今又可v※[黒+賣]2御告文(ヲ)1之條、雖v非(ズト)v無(キニ)2其憚1、佳例難(キガ)v遁之故(ニ)、申(ス)2領掌(ヲ)1者也、其子細、委(ク)先年受2故坊城(ノ)右中辨俊國(ノ)之口傳(ヲ)1了(ヌ)、雖v然、重(ネテ)又今日、授(リ)2世尊寺(ノ)三品(ノ)之家説(ヲ)1了(ヌ)、入(テハ)2大廟(ニ)1毎(ニ)v事問(フ)之謂(ヒ)乎《カ》、
 
    天皇御腫物御針をたて奉る事
同記(ニ)云(ク)、同十七日、參(ル)2清史(ノ)亭(ニ)1、禁裏御不豫(ノ)事、驚入(ノ)之由申(シ)談(ズ)云々、被(レテ)v談(ゼ)云、禁裏御腫物(ハ)者、※[病垂+災の上半/邑]也、腫物醫師久阿已下、一昨日十五日、始(メテ)拜2見之(ヲ)1、御療養難儀(ノ)之由申(ス)之間、自2管領畠山方1、下(ノ)郷ト云醫師ヲ、被《ルヽノ》2召(シ)進(セ)1之處、御針ヲバ、玉躰ニ憚候間、如何可(キ)v仕《ル》哉《ヤノ》之由申(シ)、既(ニ)下(ノ)郷欲(スルノ)2退出(セムト)之間、三條(ノ)中納言中山(ノ)中納言等、談合ありて、此事|如何《イカヾシテ》可(キ)v然|哉《ヤト》云々、清史同(ク)被v參候云々、本朝針博士(ヲ)被《ルヽハ》v置者、加樣(ノ)時御用の爲(メ)也、何事(ニ)必不(ルノ)v可v進(ル)v針(ヲ)之由可(キ)v申(ス)哉《ヤ》、所詮爲(ルノ)2權道1之間、御針不(ル)v可v苦(カル)歟《カノ》之由、各評定被v□、仍(テ)下(ノ)郷御針ヲタテマイラスト云々、本道(ノ)之醫師(ノ)中ニ、當時無(キコト)2針之名譽1、可(キ)v云(ツ)2道(ノ)之零落(ト)1歟《カ》、
 
    諏訪の縁起繪
同記(ニ)云(ク)、同十一月廿六日、參(リ)2伏見殿(ニ)、候(ス)2宮(ノ)御方(ノ)御讀(ニ)1、大御所有2御出座1、及(ブ)2御雜談(ニ)1、諏方(ノ)縁起(ノ)繪の事、有(テ)v次(デ)申上候處、未(ダ・ル)被2(レ)2御覧(ゼ)1之繪也、致(シ)2媒介1可2借(リ)進(ス)1之由被v仰(セ)畢(ヌ)、可(キノ)2申(シ)試(ム)1之由(シ)申(シ)上(グ)、云々、同十二月一日、諏方縁起之繪、【十二卷】可2借(リ)進(ス)1之由、自2伏見殿1被《ル》v仰、諏方將藍候(スル)間、其由予(ニ)令2傳(ヘ)仰1、今日持來(ル)之間、即同道(シテ)參2伏見殿(ニ)1、件(ノ)縁起(ノ)辛櫃、借(リ)2進上之(ヲ)1、庭田(ノ)少將被v取2繼之(ヲ)1、被《ルヽノ》2悦(ビ)思(シ)食(サ)1之由有(リ)v仰(セ)、金覆輪一振|被《ル》v下諏方□□、件(ノ)縁起外題、後光嚴院殿被v遊v之(ヲ)、等持院殿毎(ニ)v奥被v載(セ)2御名字(ヲ)1者也、予去(ヌル)夏(ノ)比、於(テ)2伊勢兵庫助(ニ)1拜見(ス)、
 
    高麗入來朝
同記云、同三年五月六日、肥前入道語(テ)云(ク)、近日高麗人可2來朝(ス)1也、先々要脚、被《レ》v懸2仰(セ)諸大名(ニ)1、被《ルヽノ》v出(サ)之處、今時分諸大名、諸國役出錢不(ルノ)v可v叶(フ)之間、高麗人不v可v被《ル》v入(レ)2立(テ)京都(ニ)1、可v被2追(ヒ)返(サ)1也、其(ノ)間(ノ)事、管領畠山被v存(ゼ)候間、諸大名一揆して可v被v返(サ)2高麗人(ヲ)1也、可v爲(ル)2如何樣1哉《ヤ》、意見密々談2合(ノ)清大外記(ニ)1之由語(ル)v之(ヲ)、唐船(ハ)者誠(ニ)不v可v入2日本(ニ)1之由、有(ル)2先々御沙汰1歟、於(テハ)2高麗人(ニ)1者、既(ニ)神功皇后御退治以後、來服之三韓(ノ)之隨一也、高麗相通(ズルハ)者、可v叶2神慮(ニ)1也、不v可v入之由、今更|被《レ》v仰(セ)者《バ》、可(キ)v爲2後年(ノ)煩1歟《カ》、如何して可(キ)2被v返(サ)候1也、所詮上古往昔(ノ)來朝(ノ)之、貢賦也、近來|者《ハ》、爲(メニ)2商賣(ノ)1所2入來1也、然(レバ)者牒状(ノ)之文章、違(ハム)2上古(ニ)1歟《カ》、古今之牒状(ヲ)取集(メ)見合(セ)天《テ》、就(テ)2文章之咎(メニ)1、可v被v返(サ)2高麗人(ヲ)1之由、外史(ノ)意見歟云々、六月十九日、是(ノ)日高麗人參(リ)2于室町殿(ニ)1、懸《カヽル》2御目(ニ)1者也、當御代初度、且(ツ)奉v吊(ヒ)2普廣院殿(ノ)喪(ヲ)1之由(ノ)聘使也|云々《トイヘリ》、官人(ノ)名、可(シ)v尋2注(ス)之(ヲ)1、其儀、各乘馬也、布衣着(ル)v笠(ヲ)云々《トイヘリ》、其數及(ブ)2五十騎許(リニ)1歟|云々《トイヘリ》、路次作(ス)v樂(ヲ)、或(ハ)馬上操v之(ヲ)、笛一人、※[鼓の左+皮]一人、琵琶一人、鉦※[鼓の左+皮]一人、其外吹物二人|者之〔二字左○〕云々、進上物牒状、可(シ)v尋2注(ス)之(ヲ)1、東山雙林寺(ノ)之傍景雲庵(ヲ)、爲2休所(ト)1云々、三條東(ノ)洞院北行、中(ノ)御門西行、室町北行、參2御所(ノ)総門(ニ)1云々、供給食物(ノ)事、如(ク)2先規(ノ)1千代徳殿【新□殿勘解由小路殿】被v致(サ)2下行(ヲ)1云々、凡今度高麗人來朝(ノ)事、未(ダ)v付(カ)2兵庫(ノ)津(ニ)1之以前、於(テ)2管領(ニ)1有2評定1、其(ノ)謂(レ)室町殿御幼稚(ノ)時分也、諸大名國役已下、無沙汰(ノ)之時節也、旁《カタ/\》爲(ル)2無益1歟《カノ》之間、不v可v被v入(レ)2日本(ニ)1之由、被2仰(セ)遣1之處、高麗人申(シテ)云(ク)、非d如(ク)2先々(ノ)1商賣之料(ニ)u、爲(テ)2普廣院殿(ノ)御吊(ト)1參洛(ノ)之由(ニ)候間、就(テ)v其《ソレニ》可(キ)v被v入(レ)歟《カノ》之由、諸大名等有(テ)2評議1、遂(ニ)以(テ)被v入云々、普廣院殿(ノ)御代、永享六七年比、來朝(ノ)之後、今度初(メナル)者也云々、
 
    三萬六千神の祭
同記云、文安元年七月十二日、是(ノ)夜於(テ)2從三位安倍(ノ)有重卿(ノ)私宅(ニ)1、三萬六千神(ノ)祭在(リ)v之、是(レ)去月廿三日以來、彗星出現(ノ)之故也、といへり、陰陽家には、かゝるさま/”\の祭のあるなり、
 
    田舍の神社に高き位階を授らるゝ事
同記云、同五年九月廿九日、是日被v行(ハ)2贈位(ノ)宣下(ヲ)1也、【西宮(ノ)左大臣高明公】於2備前(ノ)國(ニ)1奉(ル)2勸請(シ)1神|云々《トイヘリ》、件(ノ)社此(ノ)間有2託宣1、屬(テ)2某(ノ)村人(ニ)1、令(メ)v成(サ)v祟(ヲ)給(ヒ)候間、自(リ)2地下1有2申(シ)請(フ)仁1、就(テ)2山科(ノ)中將顯言(ノ)朝臣(ニ)1、經《ヘ》2奏聞(ヲ)1、有(テ)2勅許1被v行(ハ)v之(ヲ)、被v贈2從一位(ヲ)1者也、入(テ)v夜(ニ)有2其儀1云々、これは贈位の例とはおぼえず、たゞ神に位を授給へるにこそあれ、又すべての事のさま、古(ヘ)にたがひて、ちかき世のさま也、
 
    室町殿の判の字の事
同記云、同大年四月二日、後(ニ)聞(ク)、是日自2室町殿1、伊勢因幡(ノ)守(ヲ)爲(テ)2御使(ト)1、被(テ)2仰(セ)下(サ)1云(ク)、今月可(シ)v有2御判始(メ)1、然(ルニ)御判(ノ)事、御名字(ヲ)草(ニ)被《ルヽノ》2書(キ)成(サ)1之儀有v之、或(ハ)又以2別(ノ)字(ヲ)1被v作(ラ)候儀有v之、以2何(ノ)字(ヲ)1可v被v用哉可2撰進(ス)1之由、被v仰(セ)v之(ヲ)、雖v然(リト)、先々此(ノ)事、不(ル)v蒙v仰(ヲ)歟、不2注(シ)置1也、若(シ)又記傳(ノ)儒など、被《ルヽ》2撰進(セ)1歟、被v仰2合(サ)傳奏(ニ)1者《バ》可v然歟、只(シ)亦就(テ)v使(ニ)可2撰進(ス)1之由、重(ネテ)可(キ)v被2仰下1歟、可v有2御計(ヒ)1之由、返事被《ル》v申(サ)、其後未(ダ)無(シト)d被2仰出(サ)1之旨u云々《イヘリ》、鹿苑院殿普廣院殿兩代|者《ハ》、義(ノ)字也、勝定院殿(ノ)御判|者《ハ》、慈(ノ)字也、
 
    慈照院大將軍元服の事
同記云、同月十六日、是夜室町殿【左馬頭義成十五歳】御元服、云々、自2禁裏1、御大刀【平鞘】被v進(セ)武家傳秦【中山宰相中將】爲(リ)2御使1、自2室町殿1、被v進2内裏(ニ)1御禮物、砂金百兩、【居録折敷】御劔、【銀】御馬【黒河毛被v置v鞍厚總被v懸也】等也、御使攝津掃部頭也、持2參(ス)傳奏(ノ)亭(ニ)1、傳奏請2取之(ヲ)1、被v進2禁裏(ヘ)1云々《トイヘリ》、攝津白直垂折烏子也|云々《トイヘリ》、被v進2院(ノ)御所(ニ)1之御禮物、御劔【銀】御馬也、又傳奏【中山宰相中將親通】御馬御大刀被2拜領1云々《トイヘリ》、室町殿御元服第二日也今日椀飯、畠山(ノ)次郎【義夏】白直垂也、騎馬三騎、皆白直垂也|云々《トイヘリ》、
 
    和  琴
同記云、同年九月十七日、大炊(ノ)御門殿|被《レテ》v仰(セ)云(ク)、和琴(ハ)、天照大神岩戸(ヲ)出給候時、神樂(ノ)器也、弓六張ヲ並(ヘ)テ彈(ク)v之(ヲ)、依(テ)v之(ニ)有2六絃1云々《トイヘリ》、
 
    神社の湯立
同記云、同月廿九日、粟田口(ノ)神明(ニ)有(リ)2湯立1、參詣拜見、
 
    多武(ノ)峯の額の事
享徳三年十二月三日、依(テ)v召(ニ)參(ル)2殿下(ニ)1、被(テ)v仰云(ク)、多武峯造營候間、額(ノ)事申(シ)2入(ルヽ)殿下(ニ)1者也、後京極(ノ)攝政御職(ノ)之時、被v染2御自筆(ヲ)1之、殿下可(キノ)v被v染2御筆(ヲ)1之由、雖v申(スト)v之、御右筆之儀、非2御能書(ニ)1、仰(セ)2家(ノ)之仁(ニ)1可v被v書之由、被《ルヽ》v仰v之處、寺家無2子細1之由、申(スノ)之間、可v披v仰2世尊寺(ノ)三位伊忠(ノ)卿(ニ)1也、爲(テ)2御使(ト)1、可2罷(リ)向1之由、被v仰v之、額三アリ、一(ハ)者一百餘所トアリ、神前(ニ)可v懸(ク)也、鎭守(ノ)前|歟《カ》、一(ハ)者妙樂寺トアリ、大講堂(ノ)事也、一(ハ)者聖霊院トアリ、大職冠(ノ)御影安置(ノ)之御廟也|云々《トイヘリ》、即向2世尊寺(ニ)1、令v對2面(セ)侍從三位(ニ)1、執柄仰之趣、令(ム)2演説(セ)1、返答(ニ)云(ク)、妙樂寺聖霊院額二(ツノ)事(ハ)者、可2書進1也、紙ニ書テ後、金ニ堀(リ)テ被v打v板(ニ)也、云々《トイヘリ》、妙樂寺之額モ是(ノ)分也、神前一百餘所ト申(ス)額ハ、黒キ板ニ、胡粉ヲモテ白ク被v書v之、我身爲(リ)2重服中1、【今年四月父行豐逝去、一囘(ノ)中也、】但(シ)可v爲2如何1候|哉《ヤ》、可v有2時儀1候由|被《ル》v申、此(ノ)返答尤也、掃部(ノ)頭師富、於2座席(ニ)1參會(ス)、三品(ノ)之縁者也、此後歸2參殿下(ニ)1申(シ)2入(レ)彼(ノ)返事(ヲ)1了、顯郷(ノ)朝臣被《ル》2伺候(セ)1、賜(ヒ)2一盞(ヲ)1、退出了、明日又可2罷向1之由、被《ル》v仰(セ)v之、雖v爲2重服1、不v可v有v憚、只可2書進1之由、被v仰v之、世尊寺(ノ)三品被《レテ》v語云(ク)、後京極(ノ)攝政殿、御能書(ノ)之間、額|被《ル》v遊v之(ヲ)、雖v然(ト)無2御口傳1之間、有2其咎(メ)1、有2後悔1、更有2額書寫(ノ)之御相承1云々《トイヘリ》、此(ノ)事東鏡ト云記ニ有v之|云々《トイヘリ》、と同記に見えたり、
 
    堯孝大僧都の事
同四年七月五日、後(ニ)聞(ク)、常光院權大僧都堯孝法師、今日卒去、年六十五|云々《トイヘリ》、頓阿以來、代々歌人也、殊(ニ)當代興(ス)v家(ヲ)、先年新續古今被v撰之時、爲(ル)2和歌所(ノ)開闔1者也、而(レドモ)依v無2實子1以2清水谷(ノ)中將實久(ノ)朝臣(ヲ)1爲2養子(ト)1、令(ム)v繼v家(ヲ)、猶於(テ)2歌道(ニ)1者《ハ》、兼(テ)無(シ)2相續(ノ)之仁1、以2女子(ヲ)1【尼衆】授(ケ)2吾道(ノ)之口傳(ヲ)1、如(ク)v形(ノ)殘(シ)2置(クト)之(ヲ)1云々、爲(メ)v世(ノ)爲(メ)v道(ノ)可(シ)v惜(ム)v之、
 
    志摩國の名どころ
しまの國の事をしるせる、志陽略志といふ物に、苧生《ヲフノ》浦、今稱(ス)2浦村(ト)1、釋(ノ)圓位曰(ク)、鳥羽以東二里、有2江村1、謂(フ)2今浦本浦(ト)1、其(ノ)本浦(ハ)者、苧生(ノ)浦也|云々《トイヘリ》、此(ノ)地有2七絶1、曰(ク)不蒔《マカヌ》麻、曰(ク)下鳴《ナカヌ》蛙、曰(ク)不刈《カラヌ》蒋、曰(ク)片枝梨、曰(ク)石面鏡《イシカヾミ》、曰(ク)逆流《サカサマ》川、曰(ク)四季櫻【在2櫻崎(ニ)1】是也、或(ハ)曰(ク)四季鶯也、未v知2孰(レカ)是1焉、また伊良湖《イラコ》崎、在2伊良湖村(ニ)1、此(ノ)地(ハ)者、三河(ノ)國渥美(ノ)郡也、此(ノ)地去(ルコト)2神嶋(ヲ)1一里、以(テ)v近(キヲ)混(ス)2志摩(ノ)國(ニ)1、今其海(ハ)者、志州之有也、また礒良《イソラガ》崎、在2桃取村(ニ)1圓位曰(ク)、此(ノ)嶋(ノ)南(ニ)突出《ツキイデタル》之所(ヲ)、曰2礒良(カ)崎(ト)1也歟、また佐堤《サデノ》崎、謂(フ)2坂手村(ヲ)1也、或(ハ)曰(ク)、倭姫(ノ)世記(ニ)所謂(ル)佐加太伎《サカタキ》嶋(ハ)者、今(ノ)之坂手村也、
 
    讃岐國に古(ヘ)矛竿を貢りしところの跡
讃岐(ノ)國の事をしるせる物に、三野(ノ)郡竹田村に、當國忌部の庄とて、殊勝の地あり、釋迦堂屋敷と唱ふ、五社大明神といふ社有て、村の氏神と崇む、此村往古、貢旗竿八百本上納せしに、今其竹枯失て、跡は田地となれり、この故に竹田村と號すといへり、かの國より矛竿八百竿を、年毎に貢りし事、古語拾遺に見え、臨時祭式には、桙木千二百四十四竿とあり、かの書に旗竿といへるは、誤なるべし、
 
    人のうまるゝはじめ死て後の事
人の生れ來るはじめ、また死《シニ》て後、いかなるものぞといふこと、たれも心にかけて、明らめしらまほしくするならひなるを、佛ぶみに説たる、生死《うまれしに》の趣、心性のさだ、いとくはしきやうなれど、みな人の考へたる、つくりことなれば、よくさとりあきらめたらむも、つひに何の用もなき、いたづらわざ也、たゞ儒者の説に、死《シニ》て身ほろびぬれば、心神もともに消うせて、のこることなしといへるぞ、よく思ひめぐらせば、まことにさるべきことわりとは聞こえたる、然はあれども、これも又たのみがたし、すべてものゝ理《コトワリ》は、かぎりなきものにて、火の色は赤きに、所燒《やけ》たる物は、黒くなり、又灰になれば、白くこそなれ、すべてかく思ひのほかなること有て、思ひはかれるとは、いたくたがへることのおほければ也、されば人の死て後のやうも、さらに人の智《サトリ》もて、一わたりのことわりによりて、はかりしるべきわざにはあらず、思ひのほかなるものにぞ有べき、これを思ふにも、皇國の神代の神のつたへ説《ゴト》に夜見《ヨミノ》國にまかるといへるこそ、いと/\たふとけれ、から國のことわりふかげなる、さかしき説どもは、なか/\にいとあさはかなること也かし、
 
    皇極經世書といふからぶみの説
もろこしに、宋といひし代に、邵康節とて、名高き物しり人のあらはせる、皇極經世書といふふみに、天地の始(メ)終(リ)を、一日の夜晝のごとくめぐる物とし、元會運世歳月日辰と、八層《ヤヘ》につみかさねて、そを一めぐりとし、その一元《ヒトメグリ》の間の年の數、十二萬九千六百歳とさだめたり、そは何を以て、さは定めたるぞといふに、一日の辰《トキ》の數と、一年の月の數との十二と、一月の日の數と、一世の年の數との三十とをもて、たがひにつぎ/\につみ累《カサ》ねて、はかりたる物にして、是を自然の數也といへり、今思ふに、此説すべて信《ウケ》がたし、まづ一日の辰《トキ》の數、一年の月の數、たま/\十二、一月の日の數、一世の年の數、たま/\三十なればとて、世運會をも、其數をもて累《カサ》ぬべきよしはなきを、殊に一日の辰の數を、十二と定めたるは、人のしわざにこそあれ、實に十二なるしるしはなければ、いくつにきざみても、同じこと也、又三十年を一世とするも、人のしわざにて、實にそのしるしはあることなし、然れば十二といふよりどころは、たゞ一年の月の數のみ也、三十のよりどころも、たゞ一月の日の數のみなるを、餘をも、おして其數を以て定めたるは、いと/\妄《ミダリ》ならずや、いかでかこれを自然の數とはいふべき、又辰より元までの八層も、八の數よりどころなければ、是も十二層にしても、なほ多くいく層《ヘ》積ても、同じことなるを、八層にしもとぢめたるは、辰日月歳の四(ツ)にならひて、其上(ヘ)をも又四(ツ)かさねたる物にして、世運會元といふは、わたくしに造りたる物にこそあれ、實にさるさだまりはあることなし、又かの十二の數をば、十二支を以て、子に始まり亥にをはるなどいへれども、然らば三十の數も、さる事あるべきものなるに、三十には配當《アタ》る物なきも可笑《ヲカ》し、すべてかゝる淺はかなる事どもを以て、いかでか天地の始(メ)終(リ)を測《ハカ》ることをえむ、いとも/\おふけなく、つたなく愚なることにぞ有ける、いはゆる理學家の説は、大かたかうやうのをかしきことのみぞおほかる、然るをその後の世々のものしり人どもの、此説をいたく稱《ホメ》て、洞《ホガラカ》に天地の運化を見明らめたるごといひあへるも、又いとおろかなることぞかし、すべて佛ぶみの説のごとく、人の目に見ぬうしろの事をいふは、いかにもいはるゝ物にて、やすきわざなるを、たゞその説《トキゴト》の理《コトワリ》の、さもあらむとおぼゆるを、人は信ずるならひなれども、人の智《サトリ》もてはかりたる理は、思ひのほかにたがふことあれば、さらに信《タノ》みがたし、この天地の始終の説も、佛ぶみの説と同じことにて、人の見ることなきものなれば、そらに理を考へていはむには、いかにも造りいふべけれども、そはその始終の時に生れあひて、まさしく見ずは、異説のあたれることは、いかでかはしらむとする
 
    うひ學びの輩の歌よむさま
今の世にうひまなびのともがらの、よみ出たる歌は、きこえぬところを、聞ゆるさまにとりなほせば、古(ヘ)人の歌と、もはら同じくなること、つねにあり、これさるべきこと也、いかにといふに、うひまなびのほどは、おほかた題をとりぬれば、まづ昔のよき歌の集の中の、その題の歌どもを見て、その中の一つによりて、こゝかしこすこしづゝ詞をかへて、つゞりなすならひなるを、大かた古(ヘ)人のよき歌は、其詞みな、かならず然いはではかなはぬさまにて、おほかた一もじもかへがたきものなるを、いまだしきものゝ、心もえず、こゝかしことかへぬれば、かへたる所の、必(ズ)とゝのはぬわざなるゆゑに、歌よく心得たる人の見て、そをとゝのふさまに引なほせば、かならず又本の古歌とひとしくはなる也、さてさやうに古歌ともはら同じくては、新によめるかひなきやうなれども、うひまなびのほどのは、後まで、よめる歌數に入べきにもあらざれば、そはとてもかくてもありぬべし、歌のさまこゝろえむまなびのためには、しばらくたゞおいらかにて、上の件のごとしたらむぞよかるべき、さるをはじめよりさかしだちて、人のふるさぬめづらしきふしをよまむとせば、中々によこさまなるあしき道にぞ、まどひいりぬべき、
 
    中間《チウゲン》といふものゝ事
永仁三年にしるせる、布衣記といふふみに、云々若黨中間、跡(ニ)上下(ヲ)着召具(ス)、また中間(ノ)事、折烏帽子小結常也染直垂ニ大帷ヲ重(ネ)、袴ニハ大口ヲカサネ云々などいへり、然れば中間といふもの、昔のは、今の世にいふとは、異なるものなりけむ、
 
    定家(ノ)卿の手を惡筆といへる事
海人藻芥に、定家卿といふ名人の手跡、以(テノ)外の惡筆也、然れども明月記といふ名譽の記録六合、皆自筆也、相構てさりぬべき人は、僧俗ともに、いかに惡筆なりとも、自筆に書て、文章を惡からぬ樣に書連べきなり、用(ル)2他筆(ヲ)1は、太(ダ)無念なることなるべしといへり、そも/\定家(ノ)卿の手を、惡筆也といへる、いとめづらしく、あやしき事也、今の世の人は、すべてわれがしこに、かくさまに物をいひおとすたぐひ、つねの事なれど、これはさるたぐひとは聞えず、そのかみの世の人のさだめには、まことに惡《アシ》としたりしにこそ、
 
    強《コハ》装束 衣紋 男の眉をぬき鬚をはさみ齒を染る事
同じ書にいはく、凡装束の衣紋、上代は沙汰に及ばず、鳥羽院の御代より、強《コハ》き装束を用る故に、衣紋の沙汰出來ぬるなるべし、上代は皆大装束とて、ふくさにて、強くは不(ル)v調(ノヘ)也、然而鳥羽院已前の人の影を書(ク)とて、鳥羽院已後初(マリ)たる、強装束の衣紋を書たるは、繪師の不覺なり云々、凡彼(ノ)御代已前は、男眉の毛を抜き、鬚をはさみ、金《カネ》を付る事一切無(シ)v之、及(テ)2末代(ニ)1毎度矯飾の至(リ)也、
 
    いはゆる御所詞
同書に、内裏仙洞には、一切の食物に、異名を付て被《ルヽ》v召事也、一向不(ハ)2存知(セ)1者、當座に迷惑すべき者也、
 
    つねの供御のやう
おなじふみに、毎日三度の供御(ハ)、御めぐり七種、御汁二種也、御飯は、わりたる強飯を聞(シ)召(ス)なり、
 
    四足の物供御に備へずといふ事
四足は惣て不v備(ヘ)v之(ヲ)、然(ル)を吉野(ノ)天子後村上院は、四足をも憚らせ給はず、聞(シ)召しけるとかや、されば御合體の後、男山まで御幸ならせ給ひけれども、又吉野の奥へ還幸ならせ給ひ、都へは、終に一日片時も入らせ給はず、これ併(ラ)天照大神の神慮に違はせ給ひける故なりと、人みな申合ひける、と、これも同書にいへり、
 
    みちのくの名所
陸奥(ノ)國の事どもをしるせる物に、宮城郡に利府《トフ》村といふ有(リ)、仙臺より原町通(リ)三里廿八丁餘あり、その利府村のならびなる高野村といふに、とふが菅とて名菅あり、其村の田の中に、二三間四方垣をゆひめぐらして、里の百姓、國主の命によりて、預り居る也、古歌に「玉篠に霰たばしる音きけばいとゞぞさゆるとふの菅ごもといへり、また鹽竈六社大明神、仙臺より四里半ばかりあり、此國にて最(モ)大社也、其宮の下に、鹽燒竈といふあり、大きなる圓盆《マルボン》のごとし、此物の中に、つねに潮九分目ばかりありて、いかなる旱にも減《ヘ》ることなく、又洪水のをりも増ことなく、同じことなり、いとあやしきもの也、海ぎはより三四町ばかりはなれて、市中石段の上いかきの内に、五つならびてあり、もとは六(ツ)有しに、一つは海へ沈みしとぞ、其所を今釜が淵といふ也といへり、また名取川、仙臺近き大道の内にて、中田(ノ)宿と長町(ノ)宿との間に有、廣さ四十六間ありといへり、又緒絶川、仙臺より南部へゆく大道にて、古川宿と荒谷(ノ)宿との間にあり、橋は長さ八間廣さ二間といへり、また櫻川、同じ大道にて、一(ノ)關(ノ)宿と前澤(ノ)宿との間にありといへり、
 
    參入《マヰリ》音聲|退出《マカンデ》音聲
豐原(ノ)統秋が體源抄に、參(リ)音聲(ノ)樂、春ハ春庭樂、夏ハ應天樂、秋ハ萬歳樂、冬ハ萬秋樂、賀王恩(ハ)太上天皇(ノ)御賀(ニ)用v之、最凉州(ハ)内宴(ニ)用v之、澁河鳥同上、臣下(ノ)御賀ニハ、萬秋樂鳥向樂【再】、太平樂慶雲樂、高麗(ノ)顔序、退出音聲(ハ)、長慶子【通用】、還城樂(ハ)、行幸(ノ)還御(ニ)用v之、夜半樂【承和(ノ)御時(ノ)御遊(ニ)用v之、】宗明樂【御願供養(ノ)上高座(ニ)用v之、】海青樂【南池院(ノ)船樂(ニ)奏v之、】越天樂(ノ)急、高麗(ノ)新蘇利古【放生會御輿還御(ニ)用v之、】常武樂【同前】
 
    神樂の調子
同書に平調は、金商なり、西方(ノ)音也、亡國の音也、神樂は本は平調也、依(テ)v爲(ルニ)2亡國(ノ)音1、後に成(セリ)2壹越調(ト)1云々、又氣比(ノ)宮(ノ)神樂は、用(フ)2盤渉調(ヲ)1云々、
 
    東遊の起り
同書に丙辰記(ニ)云(ク)、人王廿八代安閑天皇(ノ)御宇、教到六年【丙辰歳、】駿河(ノ)國宇戸(ノ)濱に、天人あまくだりて、歌舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕(ベ)の風にひるがへりけるを、或(ル)翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊《アヅマアソビ》とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなはち道守氏とて、今の世までも侍るとやといへり、
 
    箏の皇朝に傳はれる事
同書に、箏は、我朝に傳はることは、仁明天皇の御時に、遣唐使の准判官、掃部頭貞敏、簾承武が娘に傳(ハル)と云、或は内教坊の妓女、命婦石川(ノ)色子、筑紫の彦の山にして、唐人にこれを傳(ハル)とも見えたりといへり、
 
    か る め る
同書に、かるめるといふ字の事、大神(ノ)景範家記に載v之(ヲ)、上下と書り、うちまかせて人不(ル)v知事也、可(シ)2秘藏1之、甲乙ともかけり、
 
    琴《コト》さぎの事
同書に、和琴の事、或人語(リテ)云(ク)、琴佐木《コトサギ》は、長さ一寸八分、牛(ノ)角にて作る也、雁の胡國にかへる時、麥の葉をくはへてかへり侍る也、そのこゝろを模す、
 
    又神樂の調子
同書に、資忠云、上代は神樂は、無調也、而(ルニ)近來すべて以(テ)2壹越調(ヲ)1爲v之、我(ガ)世に相替る事是也といへり、さきにしるせると異なるはいかにぞや、今思ふに、此説まことに然るべし、さきの、神樂はもと平調也といへる説は、ひがことなるべし、これに我(ガ)世(ニ)云々といへるは、此資忠といひし人の世のほどに、かくかはりぬるよしなり、
 
    堀川(ノ)天皇神樂を多(ノ)近方に傳へさせ給へる事
同書(ニ)云(ク)、多(ノ)近方、資忠にはをさなくておくれにけれは、神樂の道は傳へざりけるを、堀川院資忠が手より、めでたく傳へめしたりければ、近方を尋ねめして、召人の中に、此道絶なば、くちをしかるべしとて近方をめして、近衛(ノ)陣にさぶらはせて、萩の戸の邊に近くめして、御みづからぞ教へ給ひける、但(シ)御口うつしに物をば、仰せられずして、師時(ノ)卿して、つたへ仰られければ、彼卿も聲ぞわるかりけれども、此道のはかせにはなりにけり、おのづから師時候はざりける時は、近方がうたひとらざりけるかぎりは、いく度もうたひてぞ、きかせさせおはしましける、よくなりぬとおぼしめしけるときは、物をば仰せられずして、御歌をとゞめさせおはしましけり、三年までよるひるちかく候(ヒ)けるに、御口うつしにものをば一度も仰られざりけり、古躰なりかしや、又くひ物なかりければ、おのづから師時卿なんどの、たゝう紙に飯をいれて、たびたりければ、それをわづかになめづりてぞ、二三日もすごしける、かくしつゝ十六歳になりてぞ、始めて内侍所の御神樂に、拍子とりたりければ、めでたくて、御門よりはじめて、ほめさせおはしましけり、神樂の曲は、すでに絶ぬべかりけることを、御門の御口より給ひける、めでたかりける事なり、【私(ニ)云(ク)堀川院(ノ)御宸筆(ノ)神樂(ノ)譜、多(ノ)近方ニ給(ヒ)テ、今多(ノ)朝臣久時、同子久泰マデ所持畢、】
 
    舞樂の傳はり來つる次第
同書(ニ)云(ク)、左の舞傳來れる次第、尤可(キ)2存知(ス)1者也、昔人王廿代允恭天皇の御時、高麗(ノ)舞人此(ノ)朝《ミカド》に渡れり、然れどももてなし傳ふる人なくて、むなしくすたれて、第卅代推古天皇の御時、即位廿年正月、百済國の聖明王、舞(ノ)師味摩子を渡されしかば、聖徳太子あまねく天下に勅をいたして、妓樂舞を始として、鼓をうたしめ、自餘の舞樂どもをならはしむ、舞樂此御時より始れり、第四十五代奈良(ノ)御門【聖武】の御時、此道さかりに興させられしかども、さして其氏と定めおかれず、雅樂玄蕃等の寮に傳へて、勅要をつとめき、其後尾張(ノ)濱主とて、舞樂の大祖ありき、五十四代仁明天皇の御宇、承和三年四月に、遣唐使に付て、唐朝に渡りて、本舞の紕繆を直し、龍笛の底をきはめて、同六年八月に歸朝の後、兩道ことにさかり也、濱主よりかみ、七八代ばかり有けれども、日記ほのかなるゆゑに、其名をしるしがたし、かの濱主の弟子々々々、其名を失へり、その弟子大戸(ノ)眞繩、其弟子大友(ノ)信正、其弟子狛(ノ)光高にて侍る、先祖衆行も、濱主の聟たりしかば、大略舞曲をきはめしかども、此信正又當道に長ぜりし故に、又彼(ノ)流をうけたりき、すなはち六十六代一條院の御時、寛弘七年、左方(ノ)一《イチノ》者《モノ》に補せられにしかば、公私の諸役を奉行しき、凡嫡家狛(ノ)光近を、野田(ノ)判官といひ、三男の流則近を、辻子(ノ)判官といふ、仍(テ)かの兩人の流れを呼て、野田辻子と申すなり、
 
    樂の道の書どもの名
妙音院(ノ)相國(ノ)三五要略、北(ノ)院(ノ)御室御撰(ノ)糸管鈔、孝道(ノ)殘夜抄、孝時(ノ)三五中録、宜陽殿(ノ)竹譜【大田丸撰】貞保(ノ)親王(ノ)南竹譜、博雅(ノ)卿(ノ)長竹譜、大神(ノ)惟季(ノ)懷中譜、狛(ノ)光眞(ノ)老尼語、狛(ノ)近眞(ノ)教訓抄、狛(ノ)朝葛(ノ)續教訓抄、豐原(ノ)兼秋(ノ)息毎譜、同作豐兼抄、同十三帖譜、祖父幸秋(ノ)新鳳秘録、と同書の奥書にしるせり、
 
    肥後國の神樂歌
地譽《ヂホメ》歌、 むかしより世をはじめ給ふおほ太子よのよきことをおきてはじめん、 御手幣を手にとりもちてをがめば四方の神も花とよむらん、 よき馬によきくらしきて手綱かけ朝日にむいて神をせうせん、 神の父いづくにますぞ幣《ヘイ》さして、とほりにまゐる神をせうせん、 神の母いづくにますぞみくまもり出雲にまゐる神をせうせん、 神せうし磯をぞまはるあまをぶねかいかぢそろへ船子さだめん、 高所《タカトコロ》、 たんなんたひらの神棚にかほよき女躰おはします、 をつとはたれぞとゝひたれば松のうら葉のとみ男、 をさなきゝんだちみやしろに學問せよとてあけたれば、 うめと櫻にたはふれて五葉の松とぞなり給ふ、 われらが植木のせきようはつく/\ぼうしをなべすゑて、 あゆみ給へばあとごとに七本蓮花の花ひらく、 南おもてのひろ縁にいとげの車やりすゑて、 南面の泉水にようある鳥こそきてゐたり、 此殿のみかどのまへにはよしうゑてまゐれる人によしといはせん、 此殿の十二の柱はかねよたゝおせどもひけどもなびかざらまし、 此殿をあたらし殿とたれかなづく九國のとのゝふるやなるもの、 酒殿に酒はつくりつもゝはらやちはらの酒ぞ神はめすらん、 酒殿に風の吹かしさら/\としげ木が本を宿とさだめん、 酒殿に入來るとみのかへらんばおかの子共と物語せん、 藏手、 いさやうちおきのみしまに鹽かけてかいたる鹽ぞ神はよろこぶ、 東には日月さやかにひをてらす西にはよをつけよを經給ふ、 北には一れうめうけん大將軍とのとのづくり南に南海をたてたり、 一目のよとみの池に船うけてのぼるはやまもくだるはやまも、 みさやまの諏訪のみまへの初穂花まゐれる人のかざしなるもの、 天照大神宮のゆふだすきかけての後ぞたのしかるもの、 水神のましましさきに綾はへて錦をはへてとくと踏せん、 土佐の國はたの郡の北野なる客の天神といはひそめけん、 土佐の國ありほが嶽にてる紅葉くれなゐ紅葉色かへて見ん、 上(ノ)件(リ)の歌どもは、肥後(ノ)國の神樂歌也とて、かの國人の見せたる也、かの國には、いづれの社の神樂にも、此歌どもをうたふとぞ、
 
    後の世ははづかしきものなる事
安藤(ノ)爲章が千年山集といふ物に、契沖の萬葉の注釋をほめて、かの顯昭仙覺がともがらを、此大とこになぞらへば、あたかも駑※[馬+台]にひとしといふべしといへる、まことにさることなりかし、そのかみ顯昭などの説にくらべては、かの契沖の釋は、くはふべきふしなく、事つきたりとぞ、たれもおぼえけむを、今又吾(ガ)縣居(ノ)大人にくらべてみれば、契沖のともがらも又、駑※[馬+台]にひとしとぞいふべかりける、何事もつぎ/\に後の世は、いとはづかしきものにこそありけれ、
 
    うたを思ふほどにあること
歌よまむとて、思ひめぐらすほど、一ふし思ひたえたる事のあるに、心のごといひとゝのへがたくて、時うつるまで思ひ、あるは日をかさねても、同じすぢにかゝづらひて、とかくつゞけみれども、つひに事ゆかぬことあるものなり、さるをりは、そのふしをば、きよくすてゝ、さらにほかにもとむべきわざなるを、さすがにをしく、すてがたくて、あかずはおぼえながら、いかゞはせむに、しひてつゞり出たる、いと心ぎたなきわざにはあれども、たれもよくあること也、又さように久しく思ひわずらひたるほどに、そのかゝづらへるすぢにはあらで、思ひかけぬよき事の、ふとかたはらより出來て、たやすくよみ出らるゝこともありかし、されどそれも、深く思ひ入たるから、さるよきことも出來るにて、はじめよりのいたつきの、いたずらになれるにはあらずなむ、そも/\これらは、えうもなきあだことなれども、おもひ出たるまゝに、書出たるなり、
 
    肥後國阿蘇(ノ)神社
     □十□金凝神社
       前(九〇度右囘転)
     □八
     □六
     □四
     □二ノ宮
□諸神社        東向
     □一ノ宮
     □三
     □五
     □七
       前(九〇度左囘転)
     □九□國造神社
肥後國の阿蘇山は、麓より三里のぼりて、山(ノ)上に大なる地有て、つねに湯わきあがりて玉をちらし、いみしく火のもゆるを、其火のもゆること熾《サカリ》なる時には、石をとばして、池のほとりにちかづきがたし、神社は、山の下なる宮地《ミヤチ》村といふにたゝせ給へり、そのさま左にしるせる圖のごとし、一の宮は健磐龍《タケイハタツノ》命の神社、二の宮は阿蘇比※[口+羊]《アソヒメ》の神社、國造《クニツクリノ》神社は速※[瓦+并]玉《ハヤカメタマノ》命、金凝《カナコリノ》神社は綏靖天皇におはします也、大宮司は、姓は宇治(ノ)朝臣といふ、その宅は、件の宮地村をすこしはなれて、大宮司屋敷といふ所に有(リ)と、肥後の國人の語れる也、今思ふに、※[瓦+并]をかめと唱ふるは誤にて、かの御名はやみかたまなるべし、又金凝(ノ)神社を、綏靖天皇と申すも、神八井耳《カムヤヰミヽノ》命を誤れるなるべし、さて大宮司の姓、今宇治(ノ)朝臣といふは、いかなるよしにて、いつの代よりのことならむ、古事記に阿蘇(ノ)君とあるこそ、此氏とは、聞えたれ、
 
    神祇官に坐(ス)八柱(ノ)神の御靈實《ミタマシロ》の燒亡《ヤケウセ》坐(シ)し事
安元三年四月廿八日の火災《ミヅナガシ》に、神祇官(ノ)八神の御正體燒亡のよし、其ころの記録どもに見えたり、此(ノ)火は、樋口富(ノ)小路より出たるよしなり、さて神祇官は、大炊(ノ)御門の南、大宮の西にて、大炊(ノ)御門は、今竹屋町といふすぢなれば、失火のところよりは、はるかにさかれゝば、御正體は、いかにもやすく取出奉るべきわざなるに、燒亡《ヤケウセ》給ひぬるは、いかなることにか、いとも/\あさましく、かしこし、されどかゝるまが事も、みな神の御心にては有(ル)也、そのほどより、つぎ/\の世の有さまをもて思ふに、天皇のやむことなき御《ミ》守(リ)神たちの御靈實《ミタマシロ》の、かくなくなり給へるは、よしある事なりけむかし、
 
    三部神經といふ僞書の事
三部の神經といふものあり、天元神變神妙經、地元神通神妙經、人元神力神妙經これ也、みな天兒屋根(ノ)命の神宣なるを、後に北斗七元星宿眞君降り來て、漢字にうつして、經とすと、或ものにいへり、むかしはかばかりつたなき事を造りいひても、世の人はあざむかれし也、その書はいまだ見ざれども、まづ題號のやう、からぶみ佛ぶみを、うらやみへつらひたるほど、いとをかし、神道者といふともがらの家には、かゝるをかしき書どもおほかるなり、
 
    舊事大成經といふ僞書の事
先代舊事本紀といふ僞書《イツハリブミ》七十二卷有(リ)、先代舊事大成經ともいふ、潮音といひし僧《ホウシ》、志摩(ノ)國の伊雜《イザハノ》宮の祠人某とあひはかりて、造れりしを、いつはり顯はれて、天和元年に、かの二人ともに、流罪になりて、此書ゑれる板も、燒《ヤキ》すてられにき、潮音は、黄檗といふ流《ナガレ》の禅ほうしなりしとぞ、
 
    春日の若宮(ノ)社の神樂舞の歌
春日の若宮(ノ)社の神樂舞の歌とて、書つけたるを、人の見せたる、 君が代《初ノ歌》のひさしかるべきためしには神もうゑけむ住吉の松やれ住吉の松やれ《手ヲカユル皷ノダンガシラ》、 春日山《シラ拍子》いはねの松はいはねども千年をみどりの色にしり、 みねの嵐はおとせねど萬歳のひゞきぞ耳にみつ《ラン拍子ノ皷トオナジ》、 三笠山《中ノ歌》生そふ松のえだごとに《是ヨリ皷ハ終マデオナジ》たえずも《手ヲカユル》君がさかゆべきかなやれ さかゆべきかな/\/\や、 色かへぬ《末ノ歌》松と竹との 松と竹との松と竹との《シホレ手ヲカユル》 松と竹との《扇ヲ左ヘトル》末の代に いづれ久しとや/\ 君のみぞ見む/\/\/\ いづれ久しとや/\ 君のみぞみむ《扇ヲ右ヘトル》/\/\、 同 千代までと《初ノ歌》君をいのれば三笠山《アヒ舞ノ時ハ是ヨリ同音》みねにも《手ヲカユル》おなじ聲きこゆなりやれ 聲きこゆなりや|な《れ歟》、 松はいはひの《シラ拍子》ためしにひかるゝは 春日の山の姫小松 八千代の玉椿 いつのき川《皷ハジメ同》にすむ鶴 ながゐの浦にあそぶ龜、 鶴の子の《中ノ歌上》また《同音》つるの子のやしは子の そだゝむ代まで 君はましませやれ 君はましませ/\/\/\、 宮人の《末ノ歌》/\ すれる衣に すれる衣に/\/\ゆふだすき《扇ヲ左ヘトル》かけて心を也/\ たれによすらむ/\/\/\ かけて心をや《扇ヲ右ヘトル》/\/\/\ たれによすらむ/\ 誰によすらむ/\、 同 萬代のまつのを《初ノ歌》山のかげしげみ 君をぞいのる ときはかきはにやれ/\、【皷ノダンカシラモロ拍子ニ舞ノ手ヲカユル】神明所に《シラ拍子》ましませば 一切諸願もよしなし 萬民うれへなければかむこもおきてなにかせむ、 わがやどの《中ノ歌上》千代の川竹ふしとほみ さもゆくすゑの《扇ヲ左ヘトル》はるかなるかなやれ はるかなるかな/\/\/\や、【扇ヲ右ヘトリテ拍子ヲキクナリ】うゑて見る《末ノ歌》 殖てあまのまがきの竹の まがきの《シホル》竹の/\/\ふしごとに《扇左ヘトル》 いやこもれる千代は/\ 君のみぞみむ ぞみむ/\ いやこもれる《扇右ヘトル》千代は/\ 君のみぞみむ/\/\
 
    上つ代にも一種の文字有けんといふ事
ちかきころ或書にいへるは、以v理(ヲ)推(スニ)v之(ヲ)、上古必應(シ)v有(ル)2一種(ノ)文字1、不(ルトキハ)則其事莫(シ)v由(シ)v傳(フルニ)焉、蓋(シ)文史(ノ)之興(レル)、在2履中天皇(ノ)時(ニ)1乎《カ》、神武(ヨリ)至(テ)2履中(ニ)1、既(ニ)歴(タリ)2數百載(ヲ)1其間政事沿革(ヨリ)、至(ルマデ)2上下(ノ)譜系、言語歌謠(ニ)1、既(ニ)繁(ク)且多(シ)、況(ヤ)開闢(ヨリ)以降、恐(クハ)非2口傳(ノ)所(ニ)1v堪(ル)矣、といへり、一わたりはたれもみな、然思ふべきことなれども、これはつねに文字をつかひならひて、萬(ヅ)の事を、それにゆだぬる世の心をもて思ふから也、文字なかりし世は、又さて事はたりて、思ひのほかなるものにぞ有けむ、さればもし上つ代の人に、此説をきかせたらむには、かへりてわらひぬべき也、
 
    を こ 繪
今昔物語に、今はむかし、ひえの山の無動寺に、義清阿闍梨といひし僧、繪をこのみてをこ繪の上手也、筆はかなくたてたるやうなれどもたゞ一筆にかきたるにこゝちのえならず見えて、をかしき事かぎりなし、
 
    ど ら 嶋
同書に、今はむかし、鎭西に住ける人、あきなひのために、數人船一艘にのりて、諸國にゆきて、本國にかへりけるに、鎭西の未申の方にあたつて、はるかの沖に、大なる嶋あり、人すめる體なれば船中のものども、此嶋にこぎよせて、食物のいとなみせむとて、船をよせて、嶋にあがり見めぐるに、多くの人の來る音す、あやしく思ひて、又ふねにのりて、これを見るに、山のかたより、男どもの、烏帽子に白き水干袴きたるが、百餘人ばかり出來たり、船の者ども、此やつどもに殺されもせむかとて、船をさし去るを見て、此ものども海に下りければ、船中の者は、かねてより弓矢兵杖をぐしたれば、弓に矢をつがひて、何者どものかく追ては來るぞ、ちかくよらば射むといへば、此ものどもは、弓もゝたざりしかば、かなはじとや思ひけむ、しばし有て山へかへり入にけり、船の者はおそれをなして、こぎもどしぬ、鎭西にかへりて後、此事を人にかたるに、年老たるものいはく、それは度羅嶋《ドラシマ》といふところ也、形は人にして、人を食する也、もし案内しらずして、その嶋にゆけば、集り來て、ころしてくらふと聞り、これによつて人の中に、つたなくして人にゝず、みだりに物をくらふ者をば、どら人といふ也、そこたちかしこくて、近づかずしてにげたればこそ、命もあれ、ちかよりなば、百千の弓矢ありとも、かれらにとりつかれなば、かなはずして、ころされなましとぞ語りける、此事は、鎭西の人京にのぼりたるが、かたりけるを、聞つぎてかたりつたへたるとなり、
 
    霊  屋《タマヤ》
榮花物語鳥邊野(ノ)卷に、一條(ノ)天皇の皇后宮のかくれさせ給へるを、をさめ奉る事をいへるところに、とりべ野の南の方に、二町ばかりさりて、たま屋といふものをつくりて、ついひぢなどつきて、こゝにおはしまさせむとせさせ給ふとあり、今の世に御靈屋《オタマヤ》といふ名、此たまやなり、然れどもかのたま屋といへる物、今の御靈屋と、全く同じとは聞えず、いさゝか事かはりてぞきこゆる、
 
    口 を よ す
今の世に、人の死《シニ》たる時に、口をよせるといふわざする也、これも同じ物語後悔(シキ)大將(ノ)卷に、左近のめのと、なく/\御くちよせにいでたつとあり、さてその口よする者をば、かうなぎとあり、今みこといふ也、
 
    うぐひといふ魚の名
川魚にうぐひといふ有(リ)、今は一つの魚の名なれども、もとは鵜《ウ》の喰《クヒ》たる魚をいへるなるべし、神祇(ノ)伯顯仲(ノ)朝臣の歌に、「かゞり火の光にまがふ玉藻にはうぐひのいをもかくれざりけり、鵜川の題也、これ鵜のくふ魚と聞えたり、
 
    假字のさだ
源氏物語梅枝卷に、よろづの事、むかしにはおとりざまに、淺くなりゆく世の末なれど、かんなのみなむ、今の世は、いときはなくなりたる、ふるきあとは、さだまれるやうにはあれど、ひろきこゝろゆたかならず、ひとすぢに通ひてなむ有ける、たへにおかしきことは、とよりてこそ、書いづる人々有けれといへり、此(ノ)かんなといへるは、いろは假字のこと也、此かなは、空海ほうしの作れりといふを、萬の事、はじめはうひ/\しきを思ふに、これも、出來つるはじめのほどは、たゞ用ふるにたよりよきかたをのみことゝはして、その書(キ)ざまのよきあしきをいふことなどまでは及ばざりけんを、やう/\に世にひろくかきならひて、年をふるまゝに、書(キ)ざまのよさあしさをも、さだすることにはなれりけむを、源氏物語つくりしころは、此假字出來て、まだいとしも遠からぬほどなりければ、げにやう/\におかしくたへにかきいづるひとのいでくべきころほひ也、
 
    古事記傳の六の卷に入べき事
古事記の、伊邪那岐(ノ)命の御禊《ミヽソギ》の段に、生出《ナリイデ》坐る神たち、八十禍津日《ヤソマガツヒノ》神より、須佐之男(ノ)命まで、合せて、十四柱なるを、十柱とありて、いづれの本も同じこと也、もし四の字の脱たるかとも思へど、然にはあらず、延佳本にのみ、十四柱とあるは、さかしらに四の字を補ひたる也、この十柱と記せるは、三柱の綿津見(ノ)神を、一柱とし、三柱の筒之男(ノ)神をも、一柱として計《カソ》へたる數なり、かくさまにかぞへたるたぐひの例、上にも有て、傳の五の卷の、六十二のひらにいへるが如し、考へ合すべし、然るをおのれ傳に、何の心もなく、延佳本によりて、十四柱と書たりしは、わろかりき、猶十柱とあるにぞしたがふべき、これらのことをも、傳にいふべかりしを、おとせるゆゑに、こゝにいふなり、
 
    皇國の學者のあやしき癖
すべて何事も、おのが國のことにこそしたがふべけれ、そをすてゝ、他《ヒト》の國のことにしたがふべきにはあらざるを、かへりて他《ヒト》の國のことにしたがふを、かしこきわざとして、皇國のことにしたがふをば、つたなきわざとこゝろえためるは、皇國の學者の、あやしきくせ也、はかなきことながらたとへば、もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、しかいふをばつたなしとして、中華中國などいふを、かしこきことゝ心得たるひがことは、馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中國などは、いふまじきことゝ、物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もしは唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、震旦支那など書(ク)たぐひもあ(ン)なるは、中華中國などいふにくらぶれば、よろしけれども、震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名なれば、そもなほおのが國のことをすてゝ、人の國のことにしたがふにぞ有ける、もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはゞ、漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、かく己が國のことをたてたらむこそは、雄々《ヲヽ》しき文ならめ、他《ヒト》の國のことにへつらひよりて書むは、めゝしくつたなきわざにぞ有ける、こはもろこしの國の名のみにもあらず、よろづにわたれる事ぞかし、なほ此たぐひなる事を、一(ツ)二(ツ)いはゞ、遙《ハルカ》なる西の國々にて此大地にあらゆる國々をすべて、五(ツ)に分て、おの/\名をつけたる中に、皇國もろこし天竺などは、亞細亞《アジヤ》とかつけたる洲の内なりとぞ、さるはしか五(ツ)に分たるも、つけたる名どもゝ、もとより他《ヒト》國のことにて、殊に近き世に聞えきつることなるを、神代より皇國に傳はりたる説のごと、うちまかせてしたがひよるは、これはた他《ヒト》の國のことゝいへば、たふとみ信ずる、例のあやしき癖《クセ》にぞありける、又もろこしの國の音《コエ》は、他國の音を譯《ウツ》すに、いと便(リ)あしくて、いにしへに天竺の國の佛ぶみを譯《ウツ》せるにも、多くはまさしくはあたりがたかりしことなるを、近く明の世のほどなどに、かの遙なる西の國々の名ども、又そのよろづの詞を、譯《ウツ》せるどもを見るに、其字の音、十に七八は、かの言にあたらず、いたくたがへるがおほければ、假字づけなくては、其言しりがたく、譯字《ウツシモジ》はいたづらなるがごとし、かくいふは、皇國の漢音呉音によりてにはあらず、ちかき世の唐音といふ音によりていふ也、かゝればもろこしの國にて、その譯字によりて、かの國々の言をおぼえたらむは、皆誤りてぞ有べきを、皇國の假字は、他國の音を譯《ウツ》すに、いとたよりよければ、をさ/\たがふことなし、されば皇國にては、かのもろこしの譯字をば、みな廢《ステ》て、此方《コヽ》の譯《ウツシ》をのみ用ふべきこと也、それも片假字は、しどけなくて、漢文などには書(キ)がたくは、眞假字《マガナ》を用ふべし、眞假字とは、いはゆる萬葉假字にて、伊呂波爾保閇登とやうにかくをいふ、すべてあらたに此假字を用ひて、かの五つの洲の名の、亞細亞をば阿自夜《アジヤ》、欧羅巴をば要呂波《エウロハ》とやうに、萬(ヅ)の言を、みなかくさまに譯《ウツ》しなば、いとよろしかるべきに、よろしくたよりよき、己が國のことを用ひずして、かのもろこしの、ものどほくたよりあしく、あたらぬ譯字を、大事と守りて用るは、いと/\つたなく愚なることにて、これはた例の、他國《ヒトノクニ》のことにしたがふを、かしこきわざと心得たる、あやしき學者のくせなりけり、
 
    萬葉の歌に安禮衝《アレツク》といへる詞
萬葉一の卷に、藤原之大宮都加倍安禮衝哉處女之友者之吉召賀聞《フヂハラノオホミヤツカヘアレツカムヲトメガトモハトモシキロカモ》、こはまづ哉(ノ)字は、武の誤也、此字相誤れる例これかれあり、さて結(ノ)句は、田中(ノ)道麻呂が、乏吉呂賀聞《トモシキロカモ》を誤れる也といへるよろし、又六の卷に、長歌に云々、八千年爾安禮衝之乍天下所知食跡《ヤチトセニアレツカシツヽアメノシタシロシメサムト》云々、この二の安禮衝《アレツク》といふ言は、安禮《アレ》は、類聚國史に、天長八年十二月、替(フ)2賀茂(ノ)齋内親王(ヲ)1、其(ノ)辭(ニ)曰(ク)云々、皇大神乃阿禮乎止賣爾《スメオホカミノアレヲトメニ》、内親王齡毛《ヒメミコヨハヒモ》云々|代爾《カハリニ》、時子女王乎卜食定弖《トキコノヒメミコヲウラヘサダメテ》、進状乎《タテマツルサマヲ》云々、三代實録卅にも、貞觀十九年二月廿四日、賀茂(ノ)神社齋内親王を定め給へる告文に、敦子内親王乎卜定天《アツキコノヒメミコヲウラヘサダメテ》、阿禮乎度女爾進状乎《アレヲトメニタテマツルサマヲ》云々とあるは、賀茂の齋王を、阿禮乎止女《アレヲトメ》と申せるにて、此|阿禮《アレ》と同くて、奉仕《ツカヘマツ》るをいへる言也、賀茂の祭を御阿禮《ミアレ》といふも、奉仕る意なるべし、衝《ツク》は、神功紀に、撞賢木嚴之御魂《ツキサカキイヅノミタマ》とある撞《ツキ》と同くて、伊都伎《イツキ》の伊《イ》を省ける言なり、されば安禮衝武處女《アレツカムヲトメ》とは、藤原(ノ)宮にして、持統天皇に奉仕《ツカヘ》いつきまつる女官をいへる也、かの阿禮乎止女《アレヲトメ》と思ひ合すべし、友はともがら也、乏《トモシキ》はうらやましき也、然るに此言を、生繼《アレツグ》と解たるは、いみしきひがこと也、生繼といふこと、此歌によしなく、且《ソノウヘ》繼《ツグ》と衝《ツク》とは、久《ク》の清濁も異なるを、いかでか借(リ)用ひむ、さて六の卷なるは、天(ノ)下所知食とつゞきたれば、此詞、天皇の御うへの事を申せるさまなれども、一の卷なるを思ふに、天皇の御うへの事に申すべき言にあらず、必(ズ)宮づかへする人のうへをいへる言なれば、これも、八千年までも、百官|奉仕《ツカヘ》いつきまつりて、天(ノ)下をしろしめさむ、といふ意によめるにこそ、衝之《ツカシ》は都伎《ツキ》を延《ノベ》たるなり、又おもふに、之(ノ)字は、兄《エ》または衣《エ》などを誤れるにて、あれつかえにもやあらむ、つかえはつかれ也、もし然らば、天皇の御うへにて、百官にあれいつかれ給ひてといふ意也、
 
    萬葉集をよむこゝろばへ
萬葉集今の本《マキ》、もじを誤れるところいと多し、こは近き世のことにはあらで、いとはやくより、久しく誤り來ぬるものとぞ見えたる、然るにちかきころは、古學おこりて、むねと此集を心にかくるともがら、おほきが故につぎ/\によきかむかへ出來て、誤れる字《モジ》も、やう/\にしられたること多し、されど猶しられざるもおほきなり、その心してよむべき也、むげに聞えぬところ/”\などは、大かた誤字にぞ有りける、さて又すべて訓《ヨミ》も、誤いと多し、さるは此集はじめは、訓はなかりしを、やゝ後に始めて附(ケ)たりし、その訓は、いと/\をさなくて、えもいはぬひがことのみにして、さらに用ひがたきものなりしを、中むかしまでさて有しを、仙覺といひけるほうし、力を用ひて、多く訓を改めたる、今の本は、此仙覺が訓にて、もとのにくらぶれば、こよなくまさりてぞ有ける、然れどもなほよからざること多きを、ちかき世に、契沖法師があらためたるにて、又こよなくよくなれり、然れども誤字なるをしらずして、本のまゝによめるなどには、強《シヒ》たることおほく、そのほかすべてのよみざまも、なほよからざること多きを、その後又此集の事、いよ/\くはしくなりもてきぬるまに/\、訓もいとよくなれゝども、なほいまだ清く直《ナホ》りはてたりとはいひがたし、まづ誤字のこと/”\くしられざるほどは、訓もこと/”\くよろしくは直りがたきわざ也、誤字のなほいとおほかるを、その字のまゝによまむとせむには、かへりてしひごとになるたぐひ多か(ン)べきを、よく心得べし、又すべての訓(ミ)ざま、假字書(キ)のところをよく考へて、その例をもてよむべきなり、おほかたこれら、此集をよむに、むねと心得べき事ども也かし、
 
    足《タル》ことをしるといふ事
たることをしるといふは、もろこし人のつねに、いみしきわざにすめることなるを、これまことにいとよきことにて、しか思ひとらば、ほど/\につけて、たれも/\、心はいと安《ヤス》かりぬべきわざにぞ有ける、然はあれども、高きみじかき、ほど/\にのぞみねがふことのつきせぬぞ、世の人の眞情《マゴヽロ》にて、今はたりぬとおぼゆるよはなきものなるを、世には足《タル》ことしれるさまにいひて、さるかほする人の多かるは、例のからやうのつくりことにこそはあれ、まことにきよく然思ひとれる人は、千萬の中にも、有がたかるべきわざにこそ、
 
    おそくつの繪
古今著聞集に、ふるき上手どものかきて候、おそくつの繪などを、御覧も候へ云々とあるは、今の俗《ヨ》に枕檜といふ物のことゝ聞えたり、もろこしには春畫といへり、
 
    刀の目貫といふ物
拾遺集の神樂歌に、「しろかねのめぬきのたちをさげはきて奈良のみやこをねるはたが子ぞ、
 
    もろこしの國の王商といひし人のいへる言
もろこしの前漢の成帝といひしが時、何のゆゑもなきに、大水至らむといふこと出來て、都の民どもいみしくさわぎけるほどに、朝廷にもその議《サダメ》有けるに、王商といふ人のいひけるは、自v古無(キ)v道之國(スラ)、水猶不v冒(サ)2城郭(ヲ)1、今政治(マリ)和平(ニシテ)、世(ニ)無(ク)2兵革1、上下相安(ンズ)、何(ニ)因(テカ)有(ン)2大水暴(ニ)至(ルコト)1、此(レ)必(ズ)訛言(ナラン)、といへるによりて、其|議《サダメ》止《ヤミ》ぬるに、はたして訛言にて、事もなかりしかば、成帝王商をいたくほめたりとぞ、こは此人心に、訛言なることをよくしれる故に、そを上にこびて、世の政のよろしきに事をよせて、よさまにかくはいひなせるか、はた實に然思へるか、いとよく治れる世にも、いみしき變事《マガコト》あること、なきにあらざれば、世をさまれりとて、いかでかさる事なからむとは知(ル)べき、されば實に然思ひていへるならば、いと愚なること也、又訛言なることをよくしりたらむにても、何のめづらしきことかあらむ、すべてかうやうの訛言は、むかしも今も多くあることにて、いひあつることは、たえてなきものなれば、ひがことなることは、はじめよりしるきものを、此人の此言によりて、議を止《ヤメ》たるは、いとをかしきこと也、もろこし人は、かしこげにものはいへども、いとおろかなる物にぞ有ける、
 
    高野の玉川のうた
弘法大師の歌とて、「わすれてもくみやしつらむ旅人の高野のおくの玉川の水、といふ歌は、後の人の、僞りてつくれるもの也、空海のころの歌のさまにあらず、そのうへ二の句、後の人をいましめたる意なれば、くみやせむとこそいふべきに、さはいひがたき故に、しつらむといへるなれど、此詞かなはず、しつらむは、汲やしけむと、過し方を思へる詞なれば也、くみやしぬべきなどは、などよまざりけむ、すべてべきべしといふべきことをしらずして、必(ズ)然いふべきところをも、らむといふは、後の世の人のつね也、此歌風雅集にいれる、詞書に、云々此流(レ)をのむまじきよしを、しめしおきて後、よみ侍けるとあるは、しつらむといふ言を、しひてたすけむとて、かくはしるされたるなるべけれど、しめしおきて後によめる意にはあらず、よみ人の心は、今より後もしくみやせむの意にいへる也、
 
    そらごとをうそといふ事
萬葉四の卷に、「逢見ては月もへなくに|こふ《戀》といはゞをそろと我をおもほさむかも、又十四の卷に、「からすとふおほをそ鳥のまさてにも來まさぬ君をころくとぞなく、此歌の意は、そのごとくまさしく來《キ》もし給はぬ君なる物を、烏といふ大虚言鳥《オホヲソドリ》の、此來《コロク》/\と鳴(ク)ことよといへる也、ころくは、ろは例のやすめ辭にて、こは此《コヽ》にて、此所《コヽ》へ來《ク》といふこと也、子等來《コロク》にはあらず、すべて子には、古故などの字を書る例なるに、これは許(ノ)字を書たり、そのうへ來《キ》まさぬ君とは、女の男をさしていへる言なるに、そを子等《コラ》といふべきにあらず、さて清輔(ノ)朝臣の奥義抄に、或人(ノ)云(ク)、ひむかしの國の者は、そらごとをば、をそごとゝいふ也とあり、上(ノ)件の萬葉四の卷なるは、東人《アヅマヒト》の歌にはあらざれば、いにしへは、をそといふ言、京人もいひし也、かくてをそは、すなはち今の世にうそといふ言これ也、をとうとは、殊にしたしく通ふ音也、
 
    如意といふものをとる事
北山抄の、釋奠の又の日、明經論義のところに、博士の如意を執《ト》る事見えたり、皇朝にても、儒のかたにては、さること有し也、
 
    茶 の 事
同じ書、御佛名(ノ)條(ノ)裏書にいはく、賜(フ)2法親王(ニ)禄(ヲ)1、紅染(ノ)細長一襲、【御衣】、櫻色(ノ)綾(ノ)細長一襲1、茶并(ニ)茶具二※[果/衣]、【付2五葉(ノ)枝(ニ)1、】とありそのかみはやく茶をめで給ひしにこそ、但し佛事につきての事にや、茶具とあるは、いかなる物なりけむ、そも/\この茶といふものゝこと、はやく桓武天皇の御世に、國史に見えたりとおぼゆるを、さだかにその年といふことおぼえねば、こゝにえ引出ず、
 
    本 生(ノ) 父 母
今(ノ)世には、養父母と別《ワケ》て、生《ウミ》たる父母をば、實父實母といふを、同じ北山抄に、本生(ノ)父母とあり、これよろしきいひざま也、實とは、虚に對へていふ言なれば、實父實母といひては、養父母のかたを、虚假《カリ》なる物にするこゝろばへにて、いかゞなるいひざま也、
 
    ことば ことのは
言《コト》を、ことば又ことのはといふことは、古今集の序に見えたれど、萬葉には、ことゝのみいひて、ことばといへるは、廿の卷なる東人の歌にたゞ一つ、伊比之古度婆曾《イヒシコトバゾ》わすれかねつるとあるのみ也、但しこれは、婆(ノ)字は波を誤れるにて、波《ハ》もてにをはならむも知がたし、此集には、波曽《ハゾ》と重ねいへる例も、これかれあればなり、
 
    封(ノ)字を書べきところに〆とかく事
これも北山抄に、封(ノ)字のかはりに、近代は忽引(ク)v墨(ヲ)といふ事有(リ)、
 
    相撲人犢鼻褌の出立
同書裏書に、予※[手偏+檢の旁](ルニ)2舊記(ヲ)1、正暦四年七月廿二日【戊申】、内大臣【石大將】於(テ)2粟田(ニ)1相撲人(ニ)給(フ)v食(ヲ)、【公卿五人會(ス)、】凡并(テ)八番勇力、其後|最手《ホテ》以下五人、犢鼻褌(ニテ)列2立(ス)庭中(ニ)1、見了(テ)歸入(ル)【下略】と有(リ)、犢鼻褌の出立、そのかみより有しこと也けり、榮花物語根合(ノ)卷にも、すまひの歌をいへるところに、はだかなるすがたどもの、なみたちたるぞ、うとましかりけるとあり、
 
    ゆかたびら かたびら
浴《ユアミ》して着《キ》る衣を、俗《ヨ》にゆかたといふは、同じ物語玉のかざりの卷に、御ゆかたびらとある、これなり、ついでにいはむ、かたびらとは、今の世には、布の衣をのみいへど、もとさにはあらず、裏なく一重なる物を、何にまれ、かたびらとはいふ也、
 
    源 氏(ノ) 長 者
西宮記に、定(ムル)2源氏(ノ)爵(ヲ)1事、王卿(ノ)中、以d觸(ルヽ)2弘仁(ノ)御後(ニ)1人(ヲ)u、爲2長者(ト)1、重明親王參議等是也、彼(ノ)時有2上臈(ノ)源氏(ノ)公卿1、と見えたり、等(ノ)卿は、もとより弘仁の御後なるを、重明親王は、延喜の御子におはすれども、御母ぞ融(ノ)大臣の御孫、昇(ノ)大納言の御女におはしければ、これ弘仁の御後に觸たるなり、
 
    八 丈 絹
神鳳抄に、諸國の御厨より、大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋といふこと、おほく見えたり、されば此(ノ)絹、いづれの國よりも出し也、伊豆のおきなる八丈が嶋といふも、むかし此絹を織出せしより、嶋の名にもなれるなるべし、かくて今の世に八丈といふはたは、かの嶋より織出す故に、八丈とはいふと、みな人思ひたんめるは、まことにさもあらむか、又思ふに、今の八丈はた、すなはち古(ヘ)の八丈絹にても有べし、そはとまれかくまれ八丈といふ嶋の名は、かの八丈絹よりぞ出つらむかし、
 
    はたじね ざる もらふ
今(ノ)俗《ヨ》に、機《ハタ》の織(リ)あまりの末の糸を、はたじねといふは、新撰字鏡に、※[糸+櫃の旁](ハ)殘※[糸+廬]織餘也、志禰糸《シネイト》、とある是也、又竹(ノ)器に、ざるといふ物は、同書に※[竹/端の旁](ハ)、志太禰《シタミ》、又|阿自加《アジカ》、又|伊佐留《イザル》、また※[竹/千の縦棒が右マガリ](ハ)、盛(ル)v穀(ヲ)竹器也、伊佐留《イザル》、などあるこれ也、又物をもらふといふ言も、同じ書に、※[食+胡](ハ)、寄食也、毛良比波牟《モラヒハム》とあり、
 
    三十六町を一里とする事
道のほどを、卅六町を一里とするは、いつの世よりのさだめならむ、ある説に、織田(ノ)大臣の世よりの事也といふは、たがへり、、堯孝僧都の富士の道記に、近江のむさの宿を、都より十三里といひ、美濃のたる井を、むさより十四里などいへる、すべて今の世のさだめと同じ、此事なほ他書《コトフミ》にもあるべきを、心つかず、これはたゞふと心つきたるまゝに、書おけるをあげたる也、
 
    口あみ もろもち
土佐日記に、人々のくちあみも、もろもちにて、此海邊にてになひ出せるうたと有(リ)、遠江(ノ)國人金原(ノ)清方がいはく、今世に海人のしわざに、引網《ヒキアミ》といふ有て、それに口網奥網といふあり、そのくちあみは、廣さ六七尺ばかり、長さは五六十丈もあるを海中へはへおきて、魚をとる、そを引あぐる時には、海人どもこゝらなみたちて、になひ出すなり、これならむといへり、さも有べし、歌よむことの口重きを、たはふれに、かの口網の重くて、こゝらの人のかゝりて、になひいだすにぞたとへいひたりけむ、
 
 
玉かつま十二の卷
 
   山 ぶ き 十二
 
われとひとしき人しなければ、といひける人も有けれど、よしやさばれおのれは、
   思ふこといはではやまじやまぶきも
       さればぞ花の露けかるらむ
 
    又 妹 背 山
寛政十一年春、又紀(ノ)國に物しけるをり、妹背山の事、なほよくたづねむと思ひて、ゆくさには、きの川を船よりくだりけるを、しばし、陸におりて、此山をこえ、かへるさにもこえて、くはしく尋ねける、そは紀(ノ)國の伊都(ノ)郡橋本(ノ)驛より、四里ばかり西に、背山村といふ有て、其村の山ぞ、すなわち背山なりける、いとしも高からぬ山にて紀の川の北の邊に在て、南のかたの尾さきは、川の岸までせまれり、村は、此山の東おもての腹にあり、大道は、川岸のかの尾さきのやゝ高きところを、村を北にみてこゆる、道のかたはらにも、屋どもある、それも背山村の民の屋也、此山までは伊都(ノ)郡なるを、その西は那賀(ノ)郡にて、名手(ノ)驛にちかし、かくて花の雪(ノ)卷にも、既にいへるごとく、妹山といふ山はなし、此背(ノ)山の南のふもとの河中に、ほそく長き嶋ある、妹山とはそれをいふにやと思へど、此嶋は、たゞ岩のめぐりたてる中に、木の生(ヒ)しげりたるのみにて、いさゝかも山といふばかり高きところはなし、又此嶋を背(ノ)山也といふも、ひがこと也、そは川の瀬にある故に、背の山とはいふと、心得誤りて、背山村といふも、此嶋によれる名と思ひためれど、然にはあらず、萬葉に、せの山をこゆとあれば、かの村の山なること明らけし、川中の嶋は、いかでかこゆることあらむ、さて又川の南にも、岸まで出たる山有りて、背(ノ)山と相對ひたれば、これや妹山ならむともいふべけれど、其山は、背(ノ)山よりやゝ高くて、山のさまも、背の山よりをゝしく見えて、妹山とはいふべくもあらず、そのうへ河のあなたにて、大道にあらず、こゆる山にあらざれば、妹の山せの山こえてといへるにも、かなはざるをや、とにかくに妹山といへるは、たゞ背の山といふ名につきての、詞のあやのみにて、いはゆる序《ハシカザリ》枕詞のたぐひにぞ有ける、
 
    稱  唯
世俗淺深秘抄に、稱唯(ノ)時(ハ)塞(ギ)vロ(ヲ)、警蹕(ノ)時(ハ)開(ク)v口(ヲ)也とある、稱唯は乎々《ヲヽ》と申す、乎は、上に宇《ウ》を帶る音にて、宇於々《ウヲヽ》なる故に、塞(グ)v口(ヲ)とはいへる也、塞v口とあるによりて、宇々《ウヽ》といふことゝ心得るはわろし、さて警蹕の聲は、於々《オヽ》なるゆゑに、開(ク)v口(ヲ)といへり、これらにても、於《オ》と乎《ヲ》と差別あることをしるべし、さてついでにいふ、稱唯は、訓はヲヽトマウスとあるを、つねには音にて、ヰショウといへり、字のまゝにショウヰとはいはずしてかへさまに呼《イフ》は、いかなる故にかあらむしらず、八月の公事の定考を、カウヂヤウといふと、同じたぐひ也、かれはもしくは上皇とひとしく聞ゆるを、はゞかりてさけたるなどにもやあらむ、
 
    後鳥羽天皇踐祚即位の御事
壽永二年八月、新主を立(テ)奉(リ)給はむこと、法皇おぼしめしわづらひて、主上の還御を待奉るべしやはた劔璽はなしといへども、新主を立(テ)奉るべしやのよし、御卜《ミウラ》を行はれけるに、神祇官陰陽寮ともに、主上の還御を待奉り給ふべきよし申(シ)けり、然れどもなほおぼしめすよし有て、かさねて御卜ありけるに、かれこれ同じからざる故に、なほ議《サダ》ありて、つひに新主を立(テ)奉らるべきにさだまりぬ、かくて高倉(ノ)天皇の御子たち、三の宮四の宮のうち、いづれをかと、おぼしめしわづらふによりて、又しも官寮に仰せて、御卜ありければ、官も寮も、三の宮吉なるよしを申(シ)けるに、女房に夢のさとしの有けるよしにて、なほ四の宮をとなむおぼしめしけるに、又木曽(ノ)義仲申すこと有ける、故《コ》三條(ノ)宮の御子の、加賀(ノ)國におはしますをこそ、立(テ)奉るべけれ、そのゆゑは、父宮の、はじめて義兵をおこし給へりし、御勲功と申し、御身をすてさせ給ひし、御孝と申し、此宮を立奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道關白、攝政、左大臣、右大臣などに、仰せあはされけるに、いづれもかの宮の御事は、然るべからざるさまに、申(シ)給ひけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さしおかれがたくて、又しも御卜ありける、此度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北國の宮を第三として、うらなはしめ給へるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり、此卜形を、義仲に見せられけるに、義仲、なほこの御卜に、北國の宮を、第一にせられざりけることをなん、いきどほり申(シ)ける、されど法皇の御心をもて、つひに四の宮をぞ定め奉り給ひける、此御事さだまりしは、同(ジ)月の十八日にて、廿日にぞ踐祚の儀有ける、件の御事どもは、月(ノ)輪殿の玉海といふ記録に、つぶさにしるされたるを、今はその意をとりて、大かたをしるせり、凡(ソ)卜筮(ハ)者不2再三(セ)1、而(ルニ)今度立王(ノ)之沙汰之間、數度有(リ)2御卜1、神定(メテ)無(ラン)2靈告1歟《カ》と記されたる、まことにさること也、かくて元暦元年七月廿八日、即位の禮おこなはれける、此即位の御事、同記に、かへす/\論あり、その大むねは、やむことをえず、立王の御事は有といへども、即位の禮を行はるゝことにいたりては、三種(ノ)神寶の御歸京を待給ふべきわざなりとなり、その中に、不(シテ)v帶2劔璽(ヲ)1、即(ク)v位(ニ)之例出來(ラバ)者、後代亂逆(ノ)之基、只可(シ)v在2此事(ニ)1、といふ語あり、此一こと、ちよろづのこがねにもかへがたく、いとも/\たふとくなむ、法皇は、後白川(ノ)天皇、主上は、安徳天皇、三(ノ)宮は、守貞(ノ)親王、後高倉(ノ)院と申す、三條(ノ)宮は、以仁(ノ)王、世に高倉(ノ)宮と申す、入道關白は松殿基房公、攝政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊(ノ)御門殿經宗公、右大臣は、すなはちこの玉海記し給へる月(ノ)輪殿兼實公也、
 
    つゝみなく又つゝがなくといふ言
萬葉に、つゝみなくといふ詞あるを、後世俗には、つゝがなくといへり、此言、から書に無恙といへると、こゝろばへ同じき故に、いにしへより、此字をあてたりと見えて、萬葉十三にも、恙無と書たり、これを今(ノ)本には、つゝがなくと訓(ミ)たれど、後の言也、かの集には此言皆、つゝみなくといへれば、これも然訓(ム)べき也、さてから書に無恙といふ言は、憂也病也と注し、又風俗通に、恙(ハ)噬蟲(ナリ)、能食(フ)2人(ノ)心(ヲ)1、古《イニシヘハ》者草居、多(シ)v被《ルコト》2此毒(ヲ)1、故(ニ)相(ヒ)問勞(シテ)、曰(フ)2無恙(ト)1、といへるに依(リ)て、つゝがといふをも、蟲(ノ)名とこゝろえて、此言を件(ン)の説によりて解《ト》くは、いみしきひがこと也、漢籍《カラブミ》の恙も、憂也病也といへるは、こともなく聞えたるを、蟲の名とせる件(ン)の説は、いと信《ウケ》がたきを、まして皇國にて、つゝがなくといふは、かのつゝみなくの轉《ウツ》れる言にて、つゝがは、さらに蟲の名にはあらず、たとひから書の恙は、まことに蟲(ノ)名にもあれ、それにはかゝはらぬこと也、無恙の字をあてたるは、たゞ相問ていふ心ばへの、よく似たる故のみにこそあれ、萬葉には、つゝむことなくとも、つゝまはずともいへるを以ても、蟲の名にあらざるほどをしるべし、同集六に、草管見身疾不有《クサツヽミミヤマヒアラズ》とよめる、草といへるは、かのから書の草居云々の説によれるか、と思ふ人もあ(ン)めれど、然にはあらず、此草(ノ)字は、莫を誤れるにて、これもつゝみなくなるをや、さてつゝみといふ言の意は、大祓(ノ)後釋にいへれば、こゝにはもらしつ、
 
    ひ ろ ぶ た
廣蓋といふ物、園大暦などに見えたり、又白重の日記に、一品の禅尼の御局よりは、いときよげなるまきゑのひろぶたに、おり物のきぬ一領おきて、など見えたり、此日記は、姉小路(ノ)中納言基綱(ノ)卿の、延徳二年の御法會の事を、しるされたるものなり、
 
    二月の初(メ)の午(ノ)日觀音にまうづる事
水鏡の序に、いはく、此尼ことし七十三になむなり侍る、三十三を過がたく、相人なども申しあひたりしかば、岡寺は|やく《厄》を|てん《轉》じ給ふとうけ給はりて、まうでそめしより、つゝしみのとしごとに、きさらぎのはつ午の日、まゐりつるしるしにこそ、今まで世に侍れば、今年つゝしむべきとしにて參りつる云々とあり、
 
    八人のやをとめ
俗《ヨ》に八人のやをとめといふこと有(リ)、土御門(ノ)内大臣通親公の、嚴嶋御幸の記に、御神樂のやをとめ八人と見えたり、
 
    時 な か
半時をときなかといへり、同記にいはく、たふれふして、時中《トキナカ》ばかり絶入(リ)にし云々、
 
    十八日をとをかやうかといへる事
榮華物語こまくらべの卷、善滋(ノ)爲政が文に、九月十八日を、ながづきのとをかやうかといへり、とをかあまりやうかといふべきを、はぶきていへるは、いかゞなれども、上のかをはぶかざるは、さすがにいにしへなり、今の人、上のかをいはずして、とをあまりやうかとやうにかくは、古(ヘ)の例にたがへり、
 
    夜をよさり又ようさりといふ事
今(ノ)俗《ヨ》に、夜を、よさりとも、ようさりともいふは、古き言也、催馬樂(ノ)刺櫛(ノ)歌に、安之奈止利《アシナトリ》、與宇左利止利《ヨウサリトリ》とあり、朝取夕取といふことなり、
 
    屎まるをはこすといふ事
くそを、此いせの國の山里人など、はこといふことあり、そは古(ヘ)は然るべき人は、糞を箱もてとりて、すてけるより出て、ふるき詞にぞありける、ある物語書に、平仲が、本院の侍從といふ女房を、ふかくこひ思ひたる事をいへる中にいはく、おもひわびて思ふやう、此人【侍從をいふ】かくおかしくとも、はこにしたらんことは、たれも同じやうにこそあらめ、これをさがして、見|か《嗅》ぎなどして、思ひとまりなむとおもひて云々、といへり、はこにしたらむことゝは、糞をいへる也、
 
    風引たるを咳氣といふ事
此わたりの人ふるくは、風引たることを、がいきといへりき、宣長がわかゝりしほどまでは、なべていへりし言なるを、今はさいふこと、をさ/\きかず、これもふるきこと也、中昔五六百年さきの記録などに、風病をおほく咳氣としるせり、
 
    りうきうの國の謠歌
琉球(ノ)國の謠歌とて、あるさうしにしるせるふたつ、ひとつは、やまんと《日本》てふへ、きやる《往》なら、わんもつれゝて、きや《往》れ、わんはのこりて、袖のなみだ、いま一つは、おきなんてふと、やまんとてふと、りくつるき《陸續》なら、駒にのりて、いたり《往》つい、きたり《來》つい、おきなんはかの國の地《トコロ》の名にこそあらめ、
 
    事のはじめてそのきはになるを口といふ事
俗語《ヨノコト》に、事の始めて其際になるを、某口《ナニクチ》といふこと、ふるし、拾遺集物(ノ)名に、くち葉色の折敷、「あしひきの山の木(ノ)葉のおち口は色のをしきぞあはれなりける、
 
    幅《ノ》といふ事
堀川院百首に、「ぬぎかけしぬしはたれともしらねどもひとのにたてる藤袴かな、野に一幅《ヒトノ》をかねたり、
 
    さかゆるをさかふるといふはひがことなるよし
榮ゆるといふ言を、近き世には、さかふるといふをよしと心得て、然かくは、いみしきひがこと也、いにしへはさらにもいはず、台記(ノ)別記にも、故尼上(ノ)侍女榮とある、榮は侍女の名也、これを左加由留《サカユル》とも書れたり、かのころまでも、さかふるとはいはざりしことしるべし、聞ゆるをきこふると書(ク)も、同じひがことなり、
 
    か ら 紙
同記に、寢殿簾中(ノ)調度、未v立、上達部(ノ)座(ノ)障子可(キニ)v張v絹(ヲ)、今日猶|爲《タリ》2唐紙1、不v可v然(ル)とある、この唐紙は、唐國の紙をたうしといふそれにはあらじ、これは今の世にも衾障子にはる、紋ある一種の紙ある、それなるべし、これを唐紙《カラカミ》といふよしは、ひまなく紋の有て、よのつねの紙とは、そのさま異なれば也、すべてよのつねなると、ことなる物をば、唐某《カラナニ》といふ、つねのこと也、さていにしへに障子といへるは、多くは衾障子のことにて、今いふ障子は、あかり障子也、さて又ふすま障子といふよしは、衾をひろげたらんやうに張(リ)たる故也、今(ノ)世にはこれを、たゞにふすまとのみいふは、庖丁刀といふべきを、庖丁とのみいふと、同じたぐひの省名《ハブキナ》也、又此衾障子を、から紙ともいふは、件のから紙して張たるよしにて、唐紙障子のはぶき也、
 
    扇をとりて神をゝがむ事
今(ノ)世に神を拜むに、扇を笏のやうにとり持てをがむは、古(ヘ)の儀《サマ》にあらざるべし、貞觀十年六月廿八日(ノ)格に、云々住吉平岡鹿嶋香取等、神主并祝禰宜、皆是把(ル)v笏(ヲ)、自餘(ノ)神社、未v預(ラ)2此例(ニ)1、祭禮之日、拱(テ)v手(ヲ)從v事(ニ)云々、これによりて思へば、むかしは、笏を把(ラ)ぬ者は、手を拱て拜みしなるべし、
 
    七月十五日を中元といふ事
唐六典に、道士齋有(リ)2七名1、云々、其四(ヲ)曰2三元齋(ト)1、正月十五日天官、爲2上元(ト)1、七月十五日地官、爲2中元(ト)1、十月十五日水官、爲2下元(ト)1、
 
    綿  子
童蒙抄に、「しらぬひのつくしのわたは身につけていまだはきねどあたゝかに見ゆ、萬葉第三にあり、しらぬひのとは、筑紫の綿のひろくよきを、きぬにもいれずして、たゞ縫て、昔はきけり、今やうも、さるべきやむことなき人など、さてきること、あまた聞ゆべしとあり、しらぬひの説は、いふにもたらぬひがことなれど、綿を衣《キヌ》にいれずして、今も着《キ》るとあるは、今の世にいはゆるわたこのさまなるべし、
 
    としの始に病を歡樂といふ事
園大暦に、貞和二年正月八日の所に、予風氣相侵(シ)、仍(テ)歡樂之間、不v及2出座(ニ)1、と見えたり、病を歡樂といへること、これよりさきの物にも見えしやうにおぼゆ、
 
    檀紙と高檀紙とは別なる事
同書に、御製(ノ)御懷紙、高檀紙否(ノ)事云々、御製高檀紙(ニ)被《レ》v遊(バ)了(ヌ)、中殿御會以前は、普通(ノ)檀紙(ニ)候歟云々
 
    長持といふ物
榮花物語若枝(ノ)卷に、ながもちからひつのふたに、いとおどろ/\しうたゝみいれて、うちかさねて、二人などかきて、もてくるも有、と有(リ)、これ今(ノ)世にいふ長持と聞えたり、此名うつほの物語にも見えたるを、その卷をわすれたり、
 
    さかやかすといへる詞
小右記に、大夫(ノ)名隆家、訓(ニ)讀(メバ)云(フ)2伊部乎佐加也加寸《イヘヲサカヤカスト》1、尤有(ル)v興事也とあり、さかやかすといふ詞、俗《イヤシ》きにゝたり、そのかみも、かくもいへりしにこそ、絶《タヤ》す燃《モヤ》すなどの例に、さかやすといふべきことゝぞおぼゆる、
 
    勅 旨 田
同記に、寛弘九年四月四日云々、左中辨談(テ)云(ク)、昨日有(リト)2故院(ノ)御處分1云々《イヘリ》、中宮東宮、勅旨田各百町、男女一品宮、二八十町、御乳母等、廿町とあり、これによりて思へば、勅旨田とは、殊なる勅旨によりて賜ふ田をいふか、又これは、もとより勅旨田といふあるを、御處分にせられたるよしにや、なほ尋ぬべし、
 
    式神をつかふといふ事
宇治拾遺物語に、式神をつかふといふこと有(リ)、今のいづなのごとくなるわざと聞えたり、此わざをもて、たちまちに人を殺すよしなどあり、
 
    名簿 おこたりふみ
いにしへ、物ならふとて、人の弟子になるしるしに、名簿を奉る事、同物語に見ゆ、名簿におこたりぶみそへていだす、なども見えたり、おこたりぶみは、怠状にて、今(ノ)世にあやまり證文といふもの也、
 
    鼻  藏
おなじ物語に、藏人得業惠印といふ僧、鼻大きにて赤かりければ、大鼻の藏人得業といひけるを、後には鼻藏人といひ、なほ又後には鼻藏々々といひけるよしいへり、かの曽丹後(ノ)掾を、はぶきはぶきて、曾丹といへりしと、同じ物がたり也、
 
    き が へ
同ものがたりに、きがへとりよせて、きかへてとあり、こは着替《キガヘ》に設けたる衣のよし也、今の世に衣服すべてきがへといふなるは、これより轉りたるなり、
 
    のもじ添て書(ク)まじき例
今の世|學者《モノマナブヒト》、物かくに、のもじを書(ク)まじきところに、添(ヘ)て書(ク)こと多し、たとへば國(ノ)名をの國、人(ノ)名を某の君など書(ク)のもじなり、かゝるたぐひはみな、某國某君と書て、のは讀(ミ)付(ク)べき例なるを書(キ)添(ヘ)たるは、こちなくかたはに見ゆるわざぞかし、但しやまとの國げんじの君などやうに、假字にかく時は、のもじかならず書(ク)べし、こののもじの例、たとへば在原(ノ)業平(ノ)朝臣、ありはらの業平(ノ)朝臣、在原(ノ)なりひらの朝臣、かくのごとし、これにて書(ク)べきと、かゝで讀(ミ)付(ク)べきとのけぢめをわきまふべし、さるを今の世の人は、大かたのもじを讀(ミ)つくることをしらで、のもじかきたらぬをば、のとはよまぬたぐひおほかる故に、そこを思ひて、かくまじきところにも、かくなめり、又古學のともがらなどは、殊に萬葉集の歌の書(キ)ざまにならひて、歌ならぬ事も、書(キ)ざまみだりなることおほし、かの集の歌をかけるやうは、歌ならぬ物かくのりには、とりがたきことのみ多きぞかし、
 
    俗言《サトビゴト》には|の〔右○〕といふべきをはぶくことある事
今の俗言《ヨノコト》には、の〔右○〕といふべきを、省きていはざるたぐひ多し、國々の郡(ノ)名村(ノ)名など、古(ヘ)はかならず、なにの郡又なにの村とこそいへるに、今はなべて、なにごほりなにむらとのみいひて、の〔右○〕といふことなし、又ふぢはらの某《ナニガシ》、みなもとの某などは、今ものといへども、いはゆる稱號苗字には、のを附ることなし、うちとけごとには、まれにつけていふことあれど、そをばかへりて正しからぬことにすめり、されど雅《ミヤビ》ては、稱號苗字にも、かならずのといふべきわざぞ、大かた言の葉のまなびせむ人は、かゝるいさゝかのふしにも、心をつけて、雅《ミヤビ》と俗《サトビ》とのけぢめを、わきまへしるべきわざになむ、
 
    俊成卿定家卿などの歌をあしくいひなす事
ちかきころ、萬葉ぶりの歌をものするともがら、みだりにこゝろ高きことをいひて俊成(ノ)卿定家(ノ)卿などの歌をば、いたくつたなきやうに、たやすげにいひおとすなるは、世の歌よみどもおしなべて、神のごとたふとみかしこむを、ねたみて、あながちにいひくたさむとする、みだりごと也、そも/\此卿たちの歌、あしきことも、たえてなきにはあらざめれど、すべてのやう、いにしへより世々のあひだに、ぬけ出たるところ有て、まことにいとめでたし、しかいひおとすともがら、いかによむとも、あしもとへもよることあたはじをや、
 
    神社をたふとむべき事
公式令に、大社の號は、闕字の例に出されたり、大社とは、神名帳に、大とある社これ也、いにしへはかく、公の文書にも、闕字せられたりしを以て、神社をたふとみ給ひしほどをしるべし、今の世には、大社といへども、闕字はさらにもいはず、其事を書(ク)に、すべて御の字をだにつくることなきは、いとおろそかならずや、
 
    物しり人ものゝことわりを論ずるやう
世のものしり人、人の身のうへ、よの中のことわりなどを、さま/”\心たかく、いとかしこげには論へども、といふもかくいふも、みなからぶみのおもむきにて、その垣内《カキツ》を出ることあたはざるは、いかにぞや、
 
    歌に六義といふ事
歌に六義といふことを、やむことなきことにするは、いと愚かなることなり、六義は、もろこしの國にて、上代の詩にさだせることにこそあれ、歌にはさらにさることなし、歌にいふは、古今集の序に、歌のさまむつ也とて、その六くさを分て、あてたるよりおこれる事なるを、そはかのもろこしの詩にならひて、六くさには分たれども、さらにかなはぬことゞもにて、そへ歌といひ、なずらへ歌といひ、たとへ歌といへるなど、此三つは、皆同じことなるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しひて分たるもの也、又いはひ歌を、此うちに入(レ)たるも、あたらず、もしいはひ歌をいれば、戀歌かなしびの歌などをも、いれずはあるべからず、そも/\此古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、たゞもろこしにて、上代の詩の事をいへるを、そのまゝにとりて書ること多くして、歌にはさらにかなはぬことがちなる中に、此六義は、殊にあたらぬことにしあれば、深く心をいれて、とかく論ふは、やくなきいたづらごと也、もろこしにて、詩のうへの六義だに、さま/”\説有て、さだめがたきことなるに、いはむや歌にうつしあてゝは、いかでかよくかなふやうのあらむ、いはゆる古注に、おほよそむくさにわかれむことは、えあるまじきことになむといへるぞ、よくあたれる論(ヒ)には有ける。此(ノ)一(ト)言にて、六義の論はつきたるべし、
 
    事代主(ノ)神と建御名方(ノ)神との御事
事代主(ノ)神と建御名方(ノ)神とは、ともに大國主(ノ)神の御子にて、ことに威勢《イキホヒ》盛(リ)なる神におはせしを、事代主(ノ)神は、天(ツ)神の詔命《オホミコト》をかしこみて、すみやかに服從《マツロ》ひ給ひて、永く皇御孫《スメミマノ》命のやむことなき守(リ)神として、大倭(ノ)國に、飛鳥高市葛城など、所々に鎭座《シヅマリマシ》て、朝廷より重く祀《マツ》り給ひ、神祇官の八柱(ノ)神の中にも、祭り給へり、建御名方(ノ)神は、大命《オホミコト》にしたがひ給はざりしを、信濃(ノ)國の諏訪まで、追(ヒ)攻(メ)て、殺さむとせし時に、此(ノ)處をおきて、他處《アダシトコロ》にはゆかじ、命《イノチ》たすけ給へと、のみ申(シ)給へりき、さればこそ建御名方(ノ)神は、古(ヘ)には、かの信濃の諏訪|水内《ミヌチ》などをはなちて、他《ホカ》には祭る社も、をさ/\聞えざりしか、然るに今の世(ノ)中には、諏訪と號《ナヅケ》て、此神を祭る社、國々に此所彼所《コヽカシコ》に有て信濃なるはさらにもいはず、其社いづれも、ほど/\に榮え給ふを、事代主(ノ)神を祭る社は、古(ヘ)のもみな衰へ給ひ、其外には、後にいはへる社も、をさ/\聞えざる也、そも/\天(ツ)神の詔命にしたがひ給ひて、朝廷の御守(リ)神となり給へる神の御社は、みなしかおとろへ坐て、詔命にしたがひ給はざりし神の御社しも、多くなりて、榮えますは、いかなる事にかあらむ、神の御しわざは、よにことわりはかりがたきものにぞ有ける、されどこは、いさゝか思ひあはさるゝこと、なきにしもあらずなむ、
 
    御所樣 大御所
中原(ノ)康富(ノ)記に、伏見殿をも、大將軍をも、御所樣といへるところあり、また嘉吉二年十一月廿六日、參(テ)2伏見殿(ニ)1、候(ス)2宮(ノ)御方(ノ)御讀(ニ)1、大御所有(リ)2御出座1とも見ゆ、大御所とは、貞成親王後(ノ)謚《イミナ》後崇光院を申せる也、
 
    平家物語をかたる事盲者※[手偏+檢の旁]※[手偏+交]の名
同記に、嘉吉四年【文安元】四月七日、詣(ル)2勸修寺(ノ)右兵衛(ノ)權(ノ)佐(ノ)亭(ニ)1、只今誓願寺之勸進平家爲(メニ)v聞(ム)、可(シ)2罷出1、可(キノ)2同道(ス)1之由、被(ルヽノ)v命(ゼ)之間、伴(ヒ)參(ル)之、左中辨同(ク)被《ル》v出之、皆歩行也、予奉(テ)v連(レ)歩(ム)、誓願寺(ノ)之奥|心《オイテ》2阿爾陀佛(ノ)御堂(ニ)1有(リ)v之、珍一※[手偏+檢の旁]※[手偏+交]、重一※[手偏+檢の旁]※[手偏+交]、自2今月三日1始(メタリ)之、而(ルニ)重一(ハ)聲損(ズルノ)之間、今日(ハ)本一語(ル)v之(ヲ)とあり、心(ノ)字(ハ)、於を誤れるなるべし、
 
    開帳といふわざ
同記に、文安元年十月二日、栂(ノ)尾(ノ)春日大明神(ノ)御影、御帳被《ル》v開v之(ヲ)、南都大乘院|被《レ》2所望申(サ)1、被《ル》v開v之(ヲ)、此(ノ)次《ツイデ》所望(ノ)之族、上下道俗輿女、拜見無(キノ)2子細1之由、兼(テ)有(ルノ)2其聞(エ)1之間、奉(テ)v伴(ヒ)2清大外史并(ニ)藏氷等(ヲ)1、今日參(リテ)之、令(メ)2拜見1了(ヌ)、其(ノ)儀、有(テ)2開帳1、寺家(ノ)之衆有2講論之儀式1、其後南都(ノ)衆、有2法樂1之後、大乘院殿有2御拜見1、御退出(ノ)之後、諸人群集、頗(ル)狼籍(ノ)之體也、栂(ノ)尾本堂ヨリ、遙(ニ)東(ニ)倚(リ)テ、有2檜皮葺(ノ)堂一宇1、【南面也】春日(ノ)御影、西向ニ奉(ル)v懸v之(ヲ)、繪像、住吉(ノ)御影彼(レ)是(レ)、兩鋪也、殊勝云々と見えたり、今の世の開帳といふ事のさま也、目録に、栂(ノ)尾開帳(ノ)事とあるは、後に書たるものなるべし、
 
    八朔の禮  尾花の粥
同記、同五年八月一日云々、八朔(ノ)禮事、何比《イヅレノコロ》ヨリ有(ル)v之事|哉《ヤノ》之由、尋(ネ)申(シ)候處、後鳥羽(ノ)院(ノ)末方より出來(ル)歟、但(シ)不v得2所見(ノ)慥(ナルコトヲ)1、所詮先代より沙汰初(マル)歟、鎌倉より事起(ル)之由、所2語(リ)傳(フル)1也、清家(ノ)之記、嘉元(ノ)之比(ノ)之記(ニ)、此事見v之、近年如v此之由注(シ)付(ク)云々《トイヘリ》、又今日尾花(ノ)之粥(ノ)事、其由來何事(ゾ)哉《ヤ》、自然見及(ブ)歟(ノ)之由、令(メ)v問v之給(フ)、未2見及1、未v知2其子細(ヲ)1候由、返答(ス)、
 
    魚のさしみといふ物
同記、同年同月十五日のところに、二獻(ニ)冷麺居v之(ヲ)、鯛(ノ)指身《サシミ》居(ウ)v之(ヲ)、
 
    年のくれの煤拂
同記、寶徳元年十二月廿日、參(ル)2給事中(ノ)文亭(ニ)1、煤拂也云々と見え、中御門(ノ)宣胤卿(ノ)記にも、文明十二年十二月九日、今日禁裏御煤拂とあり、
 
    百 年 忌
同記、【康富】同三年七月五日、細川奥州、曽祖父顯氏(ノ)之百年忌、今日被《ル》v修(セ)2作善(ヲ)1、
 
    三體詩談義  平家物語をかたること
中御門(ノ)宣胤卿(ノ)記に、文龜二年二月廿九日、參(ル)2一條殿(ニ)1、三體詩談義也、逸藏主談(ズ)v之(ヲ)云々、夜又參(ル)、彌一※[手偏+檢の旁]※[手偏+交]語(ル)2平家(ヲ)1、爲(メ)v聽2聞(セム)之(ヲ)1也、
 
    借  家
同記に、近所(ノ)之借家とあり、
 
    客  殿
小右記に、參(ル)2齋院(ニ)1於(テ)2客殿(ニ)1云々、
 
    童名に某丸といふ事
同記に、寛仁三年二月十六日、千壽丸、於(テ)2家(ノ)侍所(ニ)1令(ム)v加(ヘ)2元服(ヲ)1、【名號爲時】とあり、童名に某《ナニ》丸といふ事、そのかみも有し也、
 
    人をさして貴殿といふ事又某(ノ)國の住人といふ事
同記、同年のところに、人をさして、貴殿といへること見えたり、又筑前(ノ)國志麻(ノ)郡(ノ)住人、文室(ノ)忠光、同國怡土(ノ)郡(ノ)住人、多治(ノ)久明などあり、住人といふことも、やゝふるしかし、
 
    神 郷 公 郷
同記同年に、神郷公郷といふこと見えたり、神郷は神領の郷、公郷は公領の郷なり、
 
    ほうしの酒をのむ事
僧の酒をのむことは、釋迦の重きいましめにて、魚肉を食ふよりは、罪重きわざとしたるに、今は、はゞかることなく、のむならひとなれるは、ちかき世の事かと思へば、萬葉十八の卷に、家持(ノ)卿の、越中の國師の從僧清見に、酒をおくられたること、又東大寺の使僧平榮に、酒をおくられたる事など見えたれば、そのかみもはゞからざりしにこそ、
 
    朝鮮(ノ)國にて加藤清正の人がたを射るわざ
新井氏の藩翰譜にいはく、朝鮮國慶尚全羅道等の水營の軍官、年毎に日をうらなひて、諸營戰艦をあつめて、海にうかべて、海神を祭るわざあり、蒭にて人像《ヒトガタ》を造り、これを射てしづむ、此事、かの國の人は、秘すれども、よくきけば、清正を呪咀するわざにて、その人像は、清正にかたどれる也、然るにかの國のよく射るものといへども、おそれて、中《アツ》ることあたはざるを、いづれの年にか有けむ、射あてたる者ありければ、さうなき高名と、いひのゝしりけるに、その射たる者、たちまちに物にくるひてぞ、をどりはしりける、其親族ども、清正の靈をまつりて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける、それより後は、いよ/\皆おそれて、射るものかへりてあたらむことをおそるとぞ、又本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水營の軍艦ども、海にうかびけるに、ゝはかに風はげしくおこり、浪あらく立て、艦どもおほくやぶれにける、これ清正のたゝり也とて、いたくおそれけるよし、對馬の國人に、ひそかにうけ給はりぬと、加藤氏の條に見えたり、宣長これをよみて、よみけるは、
  いそしきや此おみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの國まで、大御國の光(リ)をかゞやかせしは、此主になむ有ける、
 
    汁といふ饗
甘露寺(ノ)元長卿(ノ)記に、於(テ)2姉小路(ノ)三位(ノ)亭(ニ)1有v汁、また、内藏(ノ)頭有2招(ク)事1、汁張行、など見えたり、今の世にも、田舍にて、汁といふことあり、客おの/\、飯をばおのが家より持來て、其家には、菜《サイ》と汁をまうけて、饗《アルジ》する也、國によりて、汁講《シルカウ》ともいふとぞ、
 
    拙  者
同じ記に、みづから拙者といへることも見えたり、
 
    入  麺
中御門(ノ)宣胤卿(ノ)記に、文龜二年正月廿五日、今日内裏御月次和歌御會也、云々、參内云々、又有(テ)v程一身被《レ》v召2御末(ニ)1、賜(フ)2入麺《ニフメン》天酒等(ヲ)1と見ゆ、にうめんは、これ正字にや、
 
    愛發といふ名のよみ
藤原(ノ)愛發といふ人あり、此名、いかによむにかと、いふかしかりしに、越前(ノ)國の地(ノ)名をとれる名にて、愛發《アラチノ》關あらち山などいふところなりけり、
 
    いにしへ神事を重くせられし事
書紀天智天皇(ノ)御卷に、九年三月、於(ニ)2山(ノ)御井(ノ)傍1、敷(テ)2諸神(ノ)座(ヲ)1、而班2幣帛(ヲ)1、中臣(ノ)金(ノ)連|宣《ノル》2祝詞(ヲ)1、と見えたり、そのかみ中臣の氏人は、こゝらありつらむに、金(ノ)連にしも、祝詞《ノリトゴト》を宣《ノラ》しめ給へるをもて、いにしへ神事を、いみしく重くせられしほどを知べし、此(ノ)連公《ムラジギミ》此時位は、大錦上にて、正四位上に.あたれども、そのかみ第二の臣にて、明年正月に、右大臣に任ぜられて、いと重き人にぞ有ける、そも/\此天皇は、殊にから御心におはしまして、よろづにもろこしぶりをならひうつされたる御世なりしかども、なほ神事《カムワザ》のやむことなかりしことは、かくぞ有し、
 
    物まなびはその道をよくえらびて入そむべき事
ものまなびに心ざしたらむには、まづ師をよくえらびて、その立《タテ》たるやう、教(ヘ)のさまを、よくかむかへて、したがひそむべきわざ也、さとりにぶき人は、さらにもいはず、もとより智《サトリ》とき人といへども、大かたはじめにしたがひそめたるかたに、おのづから心はひかるゝわざにて、その道のすぢわろけれど、わろきことをえさとらず、又後にはさとりながらも、としごろのならひは、さすがにすてがたきわざなるに、我《ガ》とかいふ禍神《マガヽミ》さへ立(チ)そひて、とにかくにしひごとして、なほそのすぢをたすけむとするほどに、終《ツヒ》によき事はえ物せで、よのかぎりひがことのみして、身をゝふるたぐひなど、世におほし、かゝるたぐひの人は、つとめて深くまなべば、まなぶまに/\、いよ/\わろきことのみさかりになりて、おのれまどへるのみならず、世の人をさへにまどはすことぞかし、かへす/\はじめより、師をよくえらぶべきわざになむ、此事は、うひやまぶみにいふべかりしを、もらしてければ、こゝにはいふ也、
 
    八景といふ事
世に八景といふことの、こゝにもかしこにも多かるは、もともろこしの國の、なにがしの八景といいふをならひて、さだめたる、近江八景ぞはじめなめるを又それにならひてなりけり、さるはむげに見どころもなきところをさへに、しひて入れなどしたるがおほかるは、いかにぞや、まことにその景を賞《メヅ》とならば、けしきよきかぎりをとりてこそ、さだむべけれ、その數にはさらにかゝはるまじく、いくつにても有べきに、數をかたく守りて、かならず八(ツ)にとゝのへむとしたるこそ、こちなくおぼゆれ、
 
    よはひの賀に歌を多く集むる事 なき跡にいしぶみをたつる事
よはひの賀に、やまともろこしくさ/”\の歌を、ひろくこひもとめて集むる事、今の世に、人のおほくすることなり、みやびわざとはいへど、さる心もなきものゝ、みだりにふくつけく物して、たゞ數おほくあつまれるを、たけきことにすなるは、中々にこちなくぞおぼゆる、又さしもあるまじきゝはの人の、墓にもこと所にも、こと/”\しきいしぶみをたつることも、今の世にはいと多かる、これはたあまりたぐひおほくて、めづらしげなく、中々にこゝろおとりせられて、うるさくさへこそおぼゆれ、
 
    金銀ほしからぬかほする事
金銀ほしからずといふは、例の漢《カラ》やうの僞(リ)にぞ有ける、學問する人など、好書《ヨキフミ》をせちに得まほしがる物から、金銀はほしからぬかほするにて、そのいつはりはあらはなるをや、いまの世よろづの物、金銀をだに出せば、心にまかせてえらるゝものを、好書《ヨキフミ》ほしからむには、などか金銀ほしからざらむ、然はあれども、はゞかることなくむさぼる世のならひにくらぶれば僞(リ)ながらも、さるたぐひは、なほはるかにまさりてぞ有べき、
 
    麻閇《マヘ》と佐伎《サキ》との差《ケヂメ》又|後《ノチ》を佐伎《サキ》といふ事
前《マヘ》は、尻方《シリヘ》の反對《ウラ》にて、目方《マヘ》也、されば人になずらへて、物の形にも、しりへに對《ムカ》へてはいふべきを、同じく前(ノ)字は書(ケ)ども、後《ノチ》に對たる佐伎《サキ》を、麻閇《マヘ》といへることはなし、今の俗言《ヨノコトバ》に、既往《イムサキ》をまへかたなどいひ、又|節供《セツク》まへ盆《ボン》まへなどいふたぐひ、或は書《フミ》に、まへに見えたり、又某(ノ)時よりまへなどいふたぐひなど、みなひがこと也、己もはやくは、此わきまへなくして、佐伎《サキ》といふべきを、麻閇《マヘ》と物に書たりしことありしは、今思へば誤(リ)なりき、これら文字は同くて、言は異《カハリ》ある也、字によりて誤ることなかれ、さて又事のついでにいはむ、佐伎《サキ》といふは、既往《イムサキ》のことなるに、後《ノチ》のことをもゆくさきといふは、うらうへながら相通ふ也、道をゆくにも、過來しかたは先《サキ》にして、行末は後《ノチ》なるを、佐伎《サキ》といふ、又さきだつといふ言は、時にては、既往《イムサキ》の方にいひ、道を行(ク)には、行末の方にあるをいふ、これも同言にて意はうらうへなるがごとし、
 
    大嘗會の齋場
此ふみの初若菜(ノ)卷のはじめに出せる、中臣(ノ)壽詞の中に、大嘗會【乃】齋場とある、會(ノ)字は、宮の誤(リ)なるべしといひて、ミヤと訓るは、おのれふと心得たがへたるにて、中々に誤(リ)なりき、本のまゝにてよろし、大嘗會の三字を、オホニヘと訓べし、齋場は、別に北野に於て、其地を卜定《ウラヘサダ》めて、搆(ヘ)造らるゝことにて、大嘗宮とは別也、九月下旬、悠紀主基二國より齎參《モチマヰ》れる、諸の物も人も、まづ齋場に詣て、そこにてくさ/”\の事有て、十一月祭の當日に至(リ)て、齋場より大嘗宮に運(ビ)奉る、その行列など、儀式に委(ク)見えたり、又はじめ二國の齋郡にも、齋場を搆へて、物することなれば、こゝはその國の齋場をいへるか、はた京の齋場か、いづれにても有べし、
 
    吉野の水分神社
吉野(ノ)水分《ミクマリノ》神は、神名帳に、大和(ノ)國吉野(ノ)郡、吉野(ノ)水分《ミクマリノ》神社、【大、月次、新嘗】續紀一に、文武天皇二年夏四月、奉(ル)2馬(ヲ)于芳野(ノ)水分(ノ)峯(ノ)神(ニ)1、祈(ルナリ)v雨(ヲ)也、續後紀九に、承和七年冬十月、奉v授2无位水分神(ニ)從五位下(ヲ)1、三代實録二に、貞觀元年正月、京畿  諸國(ノ)諸神、進v階(ヲ)及新(ニ)敍(ス)、總(テ)二百六十七社、奉v授2從五位下吉野(ノ)水分(ノ)神(ニ)正五位下(ヲ)1、同年九月云々、大和(ノ)國云々、吉野(ノ)水分(ノ)神云々等、遣(シ)v使(ヲ)奉v幣(ヲ)、爲2風雨(ノ)祈1焉と見えたり、すべて水分神と申すは、古事記に、伊邪那岐(ノ)命伊邪那美(ノ)命、みとのまぐはひし給ひて、既(ニ)生(ミ)v國(ヲ)竟(テ)、更(ニ)生v神(ヲ)云々、次(ニ)生2水戸《ミナトノ》神(ヲ)1、名(ハ)速秋津日子(ノ)神、次(ニ)妹速秋津比賣(ノ)神、此(ノ)速秋津日子速秋津比賣|二神《フタハシラ》、因(テ)2河海(ニ)1持(チ)別(ケ)而生(ミタマフ)神云々、次(ニ)天(ノ)之水分(ノ)神、次(ニ)國之水分(ノ)神、訓(テ)v分(ヲ)云2久麻理《クマリト》1、とある是也、久麻理《クマリ》は分配《クバル》にて、田のために水を分《クバ》り施し給ふ神にませり、さる故に、祈年《トシコヒ》月次《ツキナミ》の祭にも、此神にもとり分て、そのよしの祝詞を申(シ)給ふ也、その御社は、神名帳に、大和(ノ)國には、此(ノ)吉野、宇陀(ノ)郡宇太(ノ)水分の神社【大、月次、新嘗、】山(ノ)邊(ノ)郡|都祁《ツケノ》水分(ノ)神社、【大、月次、新嘗、】葛上(ノ)郡葛木(ノ)水分(ノ)神社、【名神、大、月次、新嘗、】これら也、餘國《ホカノクニ》にもこれかれ有(リ)、祈年(ノ)祭又月次(ノ)祭(ノ)祝詞に、水分坐皇神等【能】前【爾】白【久】《ミヅクマリマススメカミタチノマヘニマヲサク》、吉野宇陀|都祁《ツケ》葛木【登《ト》】御名|者《ハ》白【弖】《マヲシテ》云々、と見えたり、さてこの水分《ミクマリ》と申すを、中昔より訛りて、みこまりみこもりなど申て、吉野のをも、六帖の歌、枕冊子などにも、みこもりの神といひ、今も子守大明神と申すこれ也、萬葉七の卷の歌に、神左振磐棍己凝敷三芳野之水分山乎見者悲毛《カムサブルイハネコヾシキミヨシヌノミクマリヤマヲミレバカナシモ》、とよめるも、此神社の山也、然るをミヅワケヤマとしも訓を付たるは、此神の御名をだにしらざるひがこと也、又今(ノ)世に、吉野川ちかき丹治村といふ所にある神社を、水分(ノ)神社とするも、いみしきひがこと也、水分(ノ)神社は、續紀に峯(ノ)神とある如く、かの水分山の峯にして、今子守明神と申す御社なること、疑なきを、かの丹治村なるをそれとしたるは、水《ミ》こもりといふ御名につきて、川近かるべき所と心得て、おしあてに當《アテ》たるものにて、峯(ノ)神とあるにたがひ、萬葉なる歌のさまにも、かなはざる物をや、さて又今時、此よし野山のすべてのさまを見るに、藏王權現といふ物を、此山の主《オヤ》と祀《マツ》りて此水分(ノ)神|其餘《ソノホカ》も、やむことなき神たちも、みなかの藏王堂に屬《ツキ》たる、支社《エダヤシロ》とぞなり給へる、そも/\此藏王といふ物は、古(ヘ)よりの正しき神にはあらず、もとより神名式にもいらず、古(ヘ)の正しき書には見えたることなく、朝廷より祭らせ給ひし事なく、たゞほうしどものすゑたる、佛神《ホトケガミ》ぞかし、すべて中昔より、ほうしどものしわざとして、いづこも/\、かく名ある所々は、みな佛どころとのみなりて、もとより主《ムネ》と坐(ス)神たちは、佛の僕從《ヤツコ》のごとなりませるは、いとも/\かなしきわざにぞ有ける、此水分(ノ)神社の御事は、おのれゆゑあるによりて、古(ヘ)の正しき事どもを、殊に世(ノ)人にも、ひろくしらせまほしくて、殊にかくは物しつるなり、
 
    定家(ノ)中納言の名もしるしの歌の事
新勅撰集の、定家(ノ)卿の、山居春曙の歌を、おのれ美濃(ノ)家づとのをりそへに、名もしるしを、嵐山の事といへるを、後に思へば、さにはあらず、小倉山の名にて、をぐらきよし也、空のをぐらくなるばかり、櫻の花のしげくちるさまにて、雪とふるといふも、雪空のをぐらきよし也、又曙も、いよ/\をぐらきによし有(リ)、然るをかならずしも曙ならずともといひ、又すでに、名もしるしとあるうへは、嵐といふこと、なくてあらばやといへる、みなおのれあやまりつるなり、
 
    大祓臨時のは建禮門にて有といふ事
師の祝詞考、大祓の解に、臨時の大祓は、建禮門にてあること、三代實録に見えたり、といはれたるを、おのれ後釋に、かの三代實録なるは、内裏の穢なるによりてこそ、建禮門にては行はれたるなれ、おしなべては、臨時のも、朱雀門にて有し也、といへりしも誤也、後に史どもを見るに、内裏の穢にはあらざるをりも、建禮門にて行はれて、おほかた臨時のは、いつもかの門前にして行はるゝ例なること、三代實録四十一の卷に見えたり、
 
    妻をむかふ 酒をくむ
今の世の歌よみの、詞書などに、某《ナニガシ》の妻をむかへられたるをことぶきて、よみておくりけるなど、妻を迎ふとかくこと、定まりのやう也、これ雅言《ミヤビコト》にあらず、古(ヘ)に然いへることなし、妻をまうけとこそ書べけれ、古(ヘ)はすべて、男をまうく、子をまうくなどぞいひける、又酒をくむといふことも、今の世の歌人の、定まれることなれど、これもみやび言にあらず、すべて酒をくみてのむは、戎國《カラクニ》の俗《シワザ》にこそあれ、皇國にはさる事は、いにしへも今も、あることなし、さればふるくは、歌にも文にも、くむといへることは、をさ/\見えず、たゞのむとこそいへれ、然るを今の歌人は、いにしへの例をば考へずして、たゞおしあてに、妻をまうく、酒をのむとは、今の俗《ヨ》につねにいふことなれば、雅《ミヤビ》たらず、むかふといひ、くむといはむこそ、雅《ミヤビ》たらめとぞ、心得ためる、そはかの香を聞(ク)といふたぐひにて、中々に古(ヘ)にたがへる、俚言《サトビゴト》なる物をや、
 
    われから はまゆふ
をしへ子なる、安濃(ノ)津の芝原(ノ)春房が語りけるは、あるとき、三重(ノ)郡四日市の浦の船人共の、おのがどち、はかなしごとゞもいひあへる中に、一人が、われからくはぬ僧もなやといふことを、口ずさびたるに、ふと耳とまりて、われからといふは、いかなるものぞととひしかば、うちわらひて、われからをしらぬ人もありけり、海の藻の中にまじりて、もはら藻のさましたる蟲也、海菜《ノリ》の中にまじりたるをば、さながら乾《ホシ》たるを、色も形も、わきがたければ、えしらで、ほうしも皆くふなりといふ、なほとひきくに、春の末ごろとる、雜魚《ザコ》といふ、こまかなる魚の中にもまじりて、長さ多くは三寸四寸ばかり有て、色青く、まれには黄ばみたるも有て、藻のごとくに見えて、動く物ある、それ也とぞいひける、とかたりき、そも/\此物は、今もかく、たしかにてある物なるを、ものしり人たち、くさ/”\の説有て、さだかならざるやうなるは、たゞ書のうへにのみかゝづらひて、そのまことの物のうへを、尋ぬることなきが故也、又同じ人のかたりけるは、濱木綿は、或人もいへるごとく、今の世に、濱おもとゝいふ物なるべし、このはまおもとゝいふ物、木立(チ)ははせをのごとくにて、土より四五寸ばかり上より、おもとゝいふものに似たる葉の、いくへも重なりて、生出たる、葉の長さ、二尺三四寸ばかりも有べし、但しこれは、おのが見たるをもていふ也、なほ長きもみじかきもあらむか、あまたは見ざれば、よくはしらず、つねに潮をそゝけば、よく榮ゆといへり、霜をいたくおそるゝ物にて、冬は葉の末なかばかるゝを、春になれば、又新なるが生出て重なる也、七月のころ花さくを、其色白くて、垂《タリ》たるが、木綿《ユフ》に似たるから、濱ゆふとはいひけるにや、今も紀の國の熊野のうら、又そのちかきわたりの浦々にも有て、須賀嶋といふところには、殊に多くありといへり、今やうの木草を好むともがらの、瓶にうゑて、もてあそぶもの也、とぞかたりける、
 
    木 綿《ユフ》 の 布
いにしへ木綿《ユフ》といひし物は、穀《カヂ》の木の皮にて、そを布に織たりし事、古(ヘ)はあまねく常の事なりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶たりと、おぼえたりしに、今の世にも、阿波(ノ)國に、太布《タフ》といひて、穀の木の皮を糸にして織れる布有(リ)、色白くいとつよし、洗ひても、のりをつくることなく、洗ふたびごとに、いよ/\白くきよらになるとぞ、此事、出雲(ノ)國の千家(ノ)清主のもとより、ちかきほど、書《フミ》のついでに、いひおこせて、かの國より得たりとて、そのちひさきさいでを、見せにおこせられたるを見るに、げにいとかたく、色しろくきよらなる布にぞ有ける、こはかの阿波國人に、なほよく尋ねあきらめまほしきこと也、又これを思へば、他《ホカ》の國々にも、あるところ有べきを、ひろくたづねしらまほしきわざなりかし、
 
    茶 の 事
類聚國史に、弘仁六年夏四月癸亥、幸(ス)2近江(ノ)國(ノ)滋賀(ノ)韓崎(ニ)1、便過(ル)2崇福寺(ニ)1、大僧都永忠、護命法師等、率(テ)2衆僧(ヲ)1、奉(ル)v迎2於門外(ニ)1、皇帝降v輿(ヨリ)、升(テ)v堂(ニ)禮v佛(ヲ)、更(ニ)過(リ)2梵釋寺(ニ)1、停(メテ)v輿(ヲ)賦v詩(ヲ)、皇太弟及(ビ)群臣、奉(ル)v和(シ)者(ノ)衆(シ)、大僧都永忠、手自《テヅカラ》煎(テ)v茶(ヲ)奉(ル)v御(ニ)、施(ス)2御被(ヲ)1、即御(シ)v船に泛v湖(ニ)、國司奏(ス)2風俗(ノ)歌※[人偏+舞](ヲ)1、五位以上并(ニ)掾以下、賜2衣被(ヲ)1、史生以下郡司以上(ニハ)、賜(フ)v綿(ヲ)有v差、また同年六月壬寅、令(ム)2畿内并(ニ)近江丹波播磨等(ノ)國(ヲシテ)、殖(テ)v茶(ヲ)毎(ニ)v年獻(ラ)1v之とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり、
 
    伊勢大神宮司佛事を行ひて見任を解れし事
同書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司從七位下大中臣朝臣清持、有(リ)3犯(シ)v穢(ヲ)并(ニ)行(ヘルコト)2佛事(ヲ)1、神祇官卜(フニ)v之(ヲ)、有v崇、科(セ)2大(ノ)祓(ヲ)1、解《トル》2見任(ヲ)1と見えたり、
 
    十二年の山ごもり
枕冊子にか、十二年の山ごもりといふこと見えたり、同書に、弘仁十三年六月壬戌、傳燈大法師位最澄言(ス)、夫(レ)如來(ノ)制(スルコト)v戒(ヲ)、隨(テ)v機(ニ)不v同、衆生(ノ)發(スコトモ)v心(ヲ)、大小亦別(ナリ)、伏(テ)望(クハ)天台法華(ノ)宗、年分(ノ)度者二人、於2比叡山(ニ)1、毎年春三月、先帝(ノ)國忌(ノ)日、依(テ)2法華經(ノ)制(ニ)1、令(メ)2得度受戒(セ)1、十二箇年、不v聽(サ)v出(ルコトヲ)v山(ヲ)、四種(ノ)三昧、令(ム)v得2修練(スルコトヲ)1。然(ルトキハ)則一乘(ノ)戒定、永(ク)傳(ハリ)2聖朝(ニ)1、山林(ノ)精進、遠(ク)勸(メムト)2塵劫(ニ)1、許(ス)v之(ヲ)、また天長八年夏四月丁丑、天台(ノ)之宗、年分(ノ)度者、受戒(ノ)之後、一十二年、不v聽(サ)v出(ルコトヲ)v山(ヲ)、四種(ノ)三昧、令(ルノ)v得2修練(スルコトヲ)1之故也、と見ゆ、今の世にも、籠山《ロウザン》とてする事なりとぞ、 
 
    來といふ言に二くさのはたらきある事
來(ノ)字を書(ク)言に、二種の活用《ハタラキ》あり、一(ツ)には、伎久久流許《キククルコ》とはたらき、二(ツ)には、伎多理伎多流伎多禮《キタリキタルキタレ》とはたらく是也、此二くさを合せていはゞ、伎《キ》と伎多理《キタリ》と同じ、たとへばきてといふと、きたりてといふと、同じきたぐひ也、久《ク》又|久流《クル》は、伎多流《キタル》と同じく、許《コ》と伎多禮《キタレ》と同じ、又|許牟《コム》と伎多良牟《キタラム》と同く、許受《コズ》と伎多良受《キタラズ》と同じ、又はじめの活用《ハタラキ》にて、伎多理伎多流《キタリキタル》といふこと有(リ)、そは來而有《キテアリ》の切《ツヾ》まりたるなれば、後の活用にていへば、伎多禮理伎多禮流《キタレリキタレル》、伎多理多理伎多理多流《キタリタリキタリタル》といふにあたれり、そも/\かくのごとく、二くさのはたらきある中に、古(ヘ)は、歌にもたゞの詞にも、たゞ初(メ)の伎久《キク》などの活用の方をのみ、常に用ひて、後の伎多理伎多流《キタリキタル》などの方を用ひたることは、いと/\まれ也き、今の世の語も、もはら初(メ)の方のみにて後の方を用ることなし、然るをいかなる故にか、漢文をよむには、むかしより、後のはたらきの方をのみ用ひ、又今の世の語も、口にいふは、はじめの方のみなるに、物に書(キ)讀(ム)には、俗文《サトビブミ》といへども、必(ズ)後の方を用ふるは、からぶみよりうつれるならひなるべし、かくて今の世の、歌よむ人など、歌には、さすがにいにしへのまゝに、はじめのはたらきにのみよめども、文には、多く後のかたをもちひて書(ク)はいかにぞや、たとへば、人のきてといふべきを、人のきたりてといひ、こむといひしといふべきを、きたらむといひしといふたぐひ也、こは思ふに、初(メ)の活用の方は、今の世の俗語《サトビゴト》につかふ故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用ふる故に、もの/\しく、正しきやうに聞ゆるから、そをよしと心得てなめり、されどそは中々にわろし、いにしへの雅文《ミヤビブミ》に、後のはたらきを用ひたることは、をさ/\なきをば、などて考へざるらむ、
 
    第五の音にはたらく言 得《ウ》のはたらき
もろ/\の用言《ハタラキコトバ》、第一の音より第四の音までに活《ハタラ》きて、第五の音にはたらくは無きを、來《ク》の、許《コ》とも活《ハタラ》くのみ、第五の音なるは、いとめづらしきこと也、又もろ/\の言の中に、阿行《アノクダリ》の音にて活《ハタラ》くはなきに、得《ウ》のみ、字延《ウエ》と活《ハタラ》くは、阿《ア》の行(リ)なる、これも又いとめづらし、
 
    雪螢をあつめて書よみけるもろこしのふること
もろこしの國に、むかし孫康といひける人は、いたくがくもんを好みけるに、家まづしくして、油をえかはざりければ、夜(ル)は、雪のひかりにて、ふみをよみ、又同じ國に、車胤といひし人も、いたく書よむ事をこのみけるを、これも同じやうにいと貧くて、油をえゝざりければ、夏のころは、螢を多くあつめてなむよみける、此二つの故事《フルコト》は、いと/\名高くして、しらぬ人なく、歌にさへなむおほくよむことなりける、今思ふに、これらもかの國人の、例の名をむさぼりたる、つくりことにぞ有ける、其故は、もし油をえゝずは、よる/\は、ちかどなりなどの家にものして、そのともし火の光をこひかりても、書はよむべし、たとひそのあかり心にまかせず、はつ/\なりとも、雪螢には、こよなくまさりたるべし、又年のうちに、雪螢のあるは、しばしのほどなるに、それがなきほどは、夜(ル)は書よまでありけるにや、いとおかし、
 
    稱 唯 の 音
續後紀に、承和九年五月、中務大輔從四位下、高階(ノ)眞人石川卒(ス)、從四位下淨階(ノ)眞人(ノ)之子也、云々、俄(ニ)遷(ル)2少納言(ニ)1、父子相襲(テ)居(ル)2斯(ノ)職(ニ)1、以(テナリ)v富(メルヲ)2聲音(ニ)1也、時論|以爲《オモヘラク》稱唯(ノ)之音、細(クシテ)而且高(キコト)、猶勝(レリト)2於父(ニ)1と見ゆ、いにしへは、稱唯の音などをも、重くして、容易《タヤス》からざりしこと、かくのごとし、少納言は、奏宣を掌る職なるがゆゑに、聲音大事なり、
 
    雙(ノ)丘の東の墳に位を授けられし事
同紀に、同十四年冬十月癸巳朔辛亥、授2雙丘《ナラビノヲカノ》東(ノ)墳(ニ)、從五位下(ヲ)1、此(ノ)墳在(リ)2雙(ノ)丘(ノ)東(ニ)1、天皇遊獵(ノ)之時、駐2蹕(シテ)於墳(ノ)上(ニ)1、以爲2四望(ノ)地(ト)1、故(ニ)有(リ)2此恩1、
 
    有智子内親王
同紀に、同年同月戊午、二品有智子内親王薨、内親王(ハ)者、先(ノ)太上天皇(ノ)幸姫王氏(ノ)所2誕育(スル)1也、頗(ル)渉(テ)2史漢(ニ)1、兼(テ)善(ク)屬(ス)v文(ヲ)、元爲(リ)2賀茂(ノ)齋院1、弘仁十四年春二月天皇幸2齋院(ニ)1花(ノ)宴、俾(ム)3文人(ヲシテ)賦(セ)2春日山莊(ノ)詩(ヲ)1、各探(ル)2勒韻(ヲ)1、公主探(テ)得(タリ)2塘光行蒼(ヲ)1、即瀝(テ)v筆(ヲ)曰(ク)、寂々(タル)幽莊水樹(ノ)裏、仙輿一(ビ)降(ル)一池塘、栖(ム)v林(ニ)孤鳥識(リ)2春澤(ヲ)1、隱(ル)v澗(ニ)寒花見(ル)2日光(ヲ)1、泉聲近(ク)報(ジテ)初雷響(キ)、山色高(ク)晴(テ)暮雨行、從v此更(ニ)知(ル)2恩顧(ノ)渥(キコトヲ)1、生涯何(ヲ)以(テ)答(ヘム)2穹蒼(ニ)1、天皇歎(ジテ)v之(ヲ)、授2三品(ヲ)1、于時年十七、是日天皇書(シテ)v懷(ヲ)、賜(テ)2公主(ニ)1曰(ク)、忝(ク)以2文章(ヲ)1著(ハル)2邦家(ニ)1、莫(レ)d將(テ)2榮樂(ヲ)1負(クコト)c煙霞(ニ)u、即今永(ク)抱(ク)幽貞(ノ)意、無(クシテ)v事終(ニ)須(シ)v遺(ル)2歳華(ヲ)1、尋(デ)賜(フ)d召(ス)2文人(ヲ)1料(ノ)封百戸(ヲ)u、天長十年敍(ス)2二品(ニ)1、性貞潔(ニシテ)、居2于嵯峨(ノ)西莊1、薨(ズ)時春秋四十一、
 
    深草(ノ)天皇の御事
嘉祥三年三月廿一日、仁明天崩(リ)坐(シ)ぬ、文徳天皇實録三に、仁壽元年【嘉祥四年なり】三月癸酉朔壬午、右大臣藤原(ノ)朝臣良房、於2東都(ノ)第(ニ)1、延2屈(シテ)知行(ノ)名僧(ヲ)1、奉2爲《ミタメニ》先皇(ノ)1、講(ズ)2法華經(ヲ)1、往年《コゾ》先皇有v聞2大臣(ノ)家園(ノ)櫻樹甚美(シト)1、戲(ニ)許(スニ)2大臣(ニ)1、以(テス)2明年(ノ)之春、有(ムト云ヲ)1v翫(フコト)2其花(ヲ)1、俄(ニシテ)而仙駕化去(テ)、不v遂2遊賞(ヲ)1、屬(テ)2春來(リ)花發(クニ)1、大臣恨(テ)曰(ク)、先皇(ノ)所(ノ)v期之春、今日是也、春(ノ)來(ルコトハ)依(テ)v期(ニ)、仙去不v歸、花(ハ)是(ニ)人(ハ)非(也)、不v可v堪v悲、道俗會(スル)者、莫(シ)v不(ルハ)2爲(メニ)v之流1v涕(ヲ)、公卿大夫、或(ハ)賦(シテ)v詩(ヲ)述(ベ)v懷(ヲ)、或(ハ)和歌歎(ク)v逝(ヲ)、
 
    童 相 撲
三代實録に曰(ク)、貞觀三年六月廿八日辛未、天皇御(テ)2前殿(ニ)1、觀2童相撲(ヲ)1、先v是近臣分頭相折、各爲2左右1、以2右大臣正二位兼行左近衛大將藤原朝臣良相(ヲ)1、爲2左方(ノ)首(ト)1、以2大納言正三位兼行右近衛大將源朝臣定(ヲ)1、爲2右方(ノ)首(ト)1、左右(ノ)標、并(ニ)樂人相撲童等、經(テ)2左右仗下(ヲ)1、入2住殿前(ニ)1、九番相撲、後有(テ)2勅命1停(シム)、左右互(ニ)奏(ス)2音樂(ヲ)1、種々(ノ)雜伎散樂、透撞咒※[獣偏+鄭]弄玉等(ノ)之戯、如(シ)2相撲(ノ)節(ノ)儀(ノ)1、廿九日壬申晦、帝御(テ)2南殿(ニ)1、觀2童相撲(ヲ)1、如(シ)2昨(ノ)儀(ノ)1、同四年秋七月五日壬申、天皇御(テ)2前殿(ニ)1、觀2童相撲(ヲ)1、其儀|一《モハラ》如(シ)2去年(ノ)1、六日癸酉、亦御(テ)2同殿(ニ)1、觀2童相撲(ヲ)1、同五年秋七月八日戊戌、天皇御(テ)2南殿(ニ)1、觀2童相撲(ヲ)1、
 
    神社修造の勅命
同紀に、貞觀六年六月廿七日辛亥、勅(シテ)曰(ク)、去年七月廿五日、頒2下(シテ)五畿并(ニ)伊賀伊勢志摩遠江相模上總等(ノ)國(ニ)1云(ク)、鎭2護國家(ヲ)1、消2伏(スルハ)災害(ヲ)1、尤是(レ)敬(ヒ)2神祇(ヲ)1、欽(ムノ)2祭禮(ヲ)1之所v致(ス)也、是(ヲ)以(テ)格制頻(リニ)下(シ)、警告慇懃(ナリ)、今諸國(ノ)牧宰、不v慎2制旨(ヲ)1、專(ラ)任(セテ)2神主禰宜祝等(ニ)1、令(ム)2神社破損(シ)、祭禮疎慢(ナラ)1、神明由(テ)v是(ニ)發(シ)v崇(ヲ)、國家以v此(ヲ)招(ク)v災(ヲ)、今欲(スト)v令(メムト)2神社(ヲシテ)、一時(ニ)新加(ヘ)2華※[食+芳](ヲ)1、而(ルニ)經v月(ヲ)踰(テ)v年(ヲ)、未v有2修造(スルコト)1、宜(シ)d早加(ヘ)2修※[食+芳](ヲ)1、勿(ル)uv致(スコト)2重怠(ヲ)1、
 
    燒尾荒鎭といふこと 祓除神宴に酒食を求め被物を責る事
同記に、同八年正月廿三日庚子、勅禁3斷(ス)諸司諸院諸家諸所(ノ)之人、燒尾荒鎭、并(ニ)責(テ)v人求(メ)v飲(ヲ)、及(ビ)臨時(ニ)群飲(シ)、祓除(ニ)責(ルコトヲ)2被物(ヲ)1、曰(ク)、撰格所起請(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)、云々、諸司諸院諸家諸所(ノ)之人、新(ニ)拜(シテ)2官職(ヲ)1、初(メテ)就(テ)進仕(スル)之時(ニ)、一(ハ)號(シ)2荒鎭(ト)1、一(ハ)稱(シ)2燒尾(ト)1、自v此之外(モ)、責(テ)v人(ヲ)求(メ)v飲(ヲ)云々、若(シ)期約相違(ヘバ)、終(ニ)至(リ)2陵轢(ニ)1、營設不(レバ)v具(ハラ)、定(テ)爲(フ)2罵辱(ヲ)1、云々、禁d斷諸家諸人(ノ)祓除(ノ)神宴(ノ)之日、諸衛府(ノ)舍人、及(ビ)放縦(ノ)之輩、求(メ)2酒食(ヲ)1責(ルコトヲ)c被物(ヲ)u、亦同前起請(シテ)※[人偏+稱の旁](ク)、諸家諸人、至(レバ)2于六月十二月(ニ)1、必有2祓除神宴(ノ)事1、弦歌醉舞(シテ)、欲(ス)v悦2神霊(ヲ)1、而(ルニ)諸衛府(ノ)舍人、并(ニ)放縦(ノ)之輩、不v縁(ラ)2主(ノ)招(キニ)1、好(テ)備(ハリ)2賓伍(ニ)1、侵(シテ)v幕(ヲ)爭(ヒ)入(リ)、突(テ)v門(ヲ)自(ラ)臻(ル)、初(メテ)來(ル)之時(ハ)、似(テ)v愛(ルニ)2酒食(ヲ)1、臨(テ)v將(ルニ)2歸却(ムト)1、更(ニ)責(ム)2被物(ヲ)1、其求(メ)不(レハ)v給、忿訟詈辱、或(ハ)託(シ)2神言(ニ)1咀(テ)恐2喝(ス)主人(ヲ)1、如(キ)v是濫惡、逐(テ)v年(ヲ)惟新(ナリ)、推(スニ)2彼意况(ヲ)1、不v異2群盗(ニ)1、豪貴(ノ)之家、尚無(シ)2相憚(ルコト)1、何(ニ)况(ムヤ)於(テオヤ)2無勢無告(ノ)之輩(ニ)1哉、是(ニシテ)而不(ハ)v糾(サ)、何(ゾ)云(ム)2國憲(ト)1、望請(フ)、嚴(ニ)仰(セ)2所司(ニ)1、一切(ニ)禁遏(セム)者(ヘリ)、若(シ)有(ラバ)2犯(ス)者1、不v論2蔭贖(ヲ)1、坐從※[髪の上/几]鉗、但(シ)五位已上、及六位已下把(ル)v笏(ヲ)者(ハ)、一(ニ)如(シ)2上條(ノ)1、又知(リ)見(テ)不v糾之人、必將v科(セムト)2違勅(ノ)罪(ヲ)1、如(シ)力不v堪2相投(ルニ)1者(ハ)、須(シ)d録(シテ)2其名(ヲ)1、進(ル)c所司(ニ)uと見ゆ、かゝる類の事、そのかみも有けるにこそ、
 
    光孝天皇の御世より歌の道又おこれる事
同紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝御(テ)2紫宸殿(ニ)1、賜(フ)2宴(ヲ)侍臣(ニ)1、左右近衛府遞(ニ)奏(ス)2音樂(ヲ)1、日暮(テ)、奏(シ)2和琴(ヲ)1作2和歌(ヲ)1、群臣具(ニ)醉(ヒ)、極(テ)v歡(ヲ)而罷(ル)、賜(フコト)v禄(ヲ)各有v差、また同二年十月丙午朔、日有v蝕v之、二日丁未、天皇御(テ)2紫宸殿(ニ)1、腸(フ)2宴(ヲ)侍臣(ニ)1、親王太政大臣、及(ビ)參議已上、並(ニ)侍(ス)2殿(ノ)座(ニ)1、六府奏(シ)2番上(ノ)簿(ヲ)於庭(ニ)1、左右近衛府、遞(ニ)奏(ス)2音樂(ヲ)1、酣暢(ノ)之後、勅2命(シテ)參議右衛門督藤原朝臣諸葛(ニ)1、彈(シム)2和琴(ヲ)1、王公並(ニ)作v歌(ヲ)、天皇自歌、宴樂畢v景(ヲ)、と見えたり、そも/\嵯峨(ノ)天皇もはらから詩《ウタ》をのみ好ませ給ひしより、かゝる御宴《ミウタゲ》のをりなども、只詩をのみ作られて、歌のことは、絶て聞えざりしに、光孝天皇の御世より、又かく歌を好ませ給ひて、詩のかたは、おとろへそめにたりき、
 
    武徳殿前競馬のまけわざの時に神樂を奏せし事
同紀に、仁和元年十月廿三日甲戌、天皇御(ス)2紫宸殿(ニ)1、右近衛右衛門右兵衛三府、并(ニ)右馬寮、獻(ル)v物(ヲ)、是(レ)去(ル)五月六日、武徳殿前(ニシテ)、競(ヒシ)2走馬(ヲ)1之輸物也、親王及太政大臣已下、出居(ノ)侍從已上、侍(テ)2殿上(ニ)1、奏(ス)2音樂種々(ノ)散樂(ヲ)1、日暮(テ)、親王已下降(リ)v殿(ヲ)、於(テ)2玉階(ノ)前(ニ)1、奏(シ)2神樂(ヲ)1、歌※[人偏+舞]極(ム)v歡(ヲ)、喚(テ)2諸衛(ノ)官人内豎等(ノ)、能(ク)歌(フ)者(ヲ)1、預(ラシム)v之(ニ)、賜(フ)2次侍從已上(ニ)禄(ヲ)1、各有v差と見えたり、かゝるをりに、神樂を奏せしめ給へるは、めづらしきこと也、
 
    金葉集卯花の歌の事
ある人、金葉集夏(ノ)部大中臣(ノ)定長卯花の歌、「うの花の青葉も見えす咲ぬれば雪と花のみかはるなりけり、此歌の四の句、ともじ、一本にはぞと有(リ)、いづれによりても、聞えがたし、季吟の抄にも、例のさだかなる解《トキゴト》なく、契沖の書入といふにも此句もじの誤(リ)有べしとあり、まことに寫し誤れりとは見ゆれど、考へ得ず、いかなるもじの誤(リ)にかあらむととふに、宣長こたへけらくは、寫し誤(リ)にはあれども、こはよのつねの誤(リ)とは異《コト》にしてたゞあしく書(キ)なしたる也、雪とは名のみにて、もはら雪と見えて、たゞ卯(ノ)花といふ名のみ、雪とはかはれりとよめるなるを、かの物しり人たちも、花と書たるもじに、目のまどひて、えさとらざりしなりといひければ、此人手をうちて、をこがましくもとひけることゝて、いたくわらひぬ、
 
    飛鳥神社の御事
大和(ノ)國高市(ノ)郡、飛鳥(ノ)神社は、大社と申す中にも、殊にやむことなきゆゑよしのおはします御社なるを、のりながむかしわかゝりしほど、吉野の花見に物せしをり、はじめてまうでけるに、ちかきとしやけ給へりとて、いと/\はかなげなるかり殿におはしましけるを、寛政十一年の春、きの國に物すとて、御前を過けるたよりに又まうでゝ見奉れば、むかし見奉りしとは引かへて、御あらか御垣をはじめ奉りて、末々の社々まで、かたのごと建《タチ》とゝのひ給へる、こはおほやけより造り奉り給へりやととひしかば、いな、此わたり知(リ)給ふ殿の、造(リ)奉り給へる也、といふをきくに、有がたくいとたふとくおぼえて、なほえあらず、かくはものしつ、
 
 
玉勝間十三の卷
 
   お も ひ 草 十三
 
   末ひろくしげりけるかな思ひ草
       を花が本は一もとにして
かくよめるこゝろは、戀の歌につねに、尾花がもとの思ひ草とよむなるは、そのはじめを尋ぬれば、萬葉集の十の卷に、「道のべのをばなが本の思草、今さらに何物か思はむ、といへる歌たゞ一(ツ)あるのみにて、これをおきては見えぬ事なるを、此一本によりてなむ、後にはひろくよむことゝなれるよしをよめるにぞ有ける、そも/\此思ひ草といふ草は、いかなる草にか、さだかならぬを、一とせ尾張の名兒屋の、田中(ノ)道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思ひ草といひて、すゝきの中に生る、小き草なむあるを、高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花さくを、其色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫《スミレ》の花に似て、すみれのごと、色のにほひはなし、花さくころは、葉はなし、此草|薄《スヽキ》の中ならでは、ほかには生ず、花のはしつかたなる所の中に、黒大豆ばかりの大(キ)さなる實のあるを、とりてまけば、よく生る也、されどそれも、薄の下ならでは、まけども植れども、生ることなし、古(ヘ)の思ひ草も、これにやあらむ、されどすゝきの中にのみ生るから、近き世に事好むものゝ、おしてそれと名づけたるにもあらむかといひて、其草の圖《カタ》をも書て、見せにおこせたる、そのかたは、かくぞ有ける、其後に又あるとき、花の咲たるころ、一もとほりて、薄のきりくひごめに、竹の筒の中にうゑて、たゞに其草をも、見せにおこせたるを、うつしうゑて見けるに、しばしは生《オヒ》つきたるさまにて有しを、ほどなく冬枯にける、又のとしの春、もえや出ると、まちけるに、つひにかれて、薄ながらに芽《メ》も出ずなりにきかし、さるは後にたづね見れば、此わたりの野山なる、すゝきの中にも、ある草にぞ有ける、これ古(ヘ)の思草ならむことはしも、げにいとおほつかなくなむ、(入力者注、圖は省略。「花はこれ也」「此中に實有也」の説明あり。)
 
    萬葉集に不(ノ)字を畧きて書る例
萬葉集七の卷に、青角髪《アヲミヅラ》、依網原《ヨサミノハラニ》、人相鴨《ヒトモアハヌカモ》、石走《イハバシノ》、淡海縣《アフミアガタノ》、物語爲《モノガタリセム》、此二三の句、よさみの原に人もあはぬかもと訓べし、あはぬかもは、あへかしとねがふ例の言也、九の卷に、雲隱《クモガクリ》、鴈鳴時《カリナクトキハ》、秋山黄葉片待《アキヤマノモミヂカタマツ》、時者雖過《トキハスギネド》、此結句、時はすぎねどゝよまでは、聞えぬ歌也、十の卷に、霞發《カスミタツ》、春永日《ハルノナガヒヲ》、戀暮《コヒクラシ》、夜深去《ヨモフケユクヲ》、妹相鴨《イモニアハヌカモ》、此結句も、あはぬかもとよまでは聞えず、同卷に、五月山《サツキヤマ》、宇能花月夜《ウノハナヅクヨ》、霍公鳥《ホトヽギス》、雖聞不飽《キケドアカヌヲ》、又鳴鴨《マタナカヌカモ》、これもなかぬかもにて、又なけかしの意也、十一の卷に、我勢古波《ワガセコハ》、幸座《サキクイマスト》、遍來我告來《カヘリキテワレニツゲコム》、人來鴨《ヒトモコヌカモ》、これもこぬかもにて、來かしと待(ツ)意也、同卷に、日並《ヒナラベバ》、人可知《ヒトシリヌベシ》、今日《ケフノヒノ》、如千歳有與鴨《チトセノゴトモアリコセヌカモ》、同卷に、如是爲乍《カクシツヽ》、吾待印《ワガマツシルシ》、有鴨《アラヌカモ》、世人皆乃《ヨノヒトミナノ》、常不在國《ツネナラナクニ》、三の句あらぬかもにて、あれかしの意也、又同卷に、敷細《シキタヘノ》、枕動而《マクラウゴキテ》、宿不所寢《イネラレズ》、物念此夕《モノモフコヨヒ》、急明鴨《ハヤモアケヌカモ》、これも同じ、件の歌どもみな、不(ノ)字を省《ハブ》きて書るものなり、此例なほ引もらせるもあらむか、准へてしるべし、いづれも本の訓はひがことなり、然るを、ぬ〔右○〕とよまでかなはぬことを考(ヘ)得て、不(ノ)字を脱《オト》せるかとまでは、心づける人もあれども、そを畧《ハブ》ける例なることをさとれる人は、いまだあらず、一(ツ)二(ツ)のみならず、かくあまた例あるにて、たま/\落たるにはあらざることをさとるべし、又七の卷に、池邊《イケノベノ》、小槻下《ヲツキガモトノ》、細竹苅嫌《サヽナカリソネ》云々、また此崗《コノヲカニ》、草苅小子《クサカルワラハ》、然苅《シカナカリソネ》云々、これらも莫(ノ)字を略きたるものか、されど此二(ツ)ならでは、見あたらねば、これは寫し脱《オト》せるにもあらむか、定めがたし、そも/\不(ノ)字は、あるとなきとは、その意|反《ウラウヘ》なれば、いかにはぶくとても、これは略《ハブ》くべきもじにはあらざれども、文字《モジ》のうへこそさることなれ、口にいふ言のうへにては、成《ナリヌ》散《チリヌ》など讀付《ヨミツク》る|ぬ〔右○〕も、同じ音《コヱ》なり、殊になにぬねのは、やはらかに輕き音なれば、よみつけもしつべきにこそ、なほいはゞ、不知《シラズ》を古言にしらにといふを、不知爾《シラニ》とも書るところ/”\ある、これは又不(ノ)字あまれば、字のうへにていはゞ、これも意の反《ウラウヘ》になるにあらずや、
 
    同集に必(ズ)けりけるといふべきところに在(ノ)字を書る事
同集に、かならずけりけるといふべきところに、在(ノ)字を書る例、七の卷に、君爲《キミガタメ》云々|沾在哉《ヌレニケルカモ》、十の卷に、誰苑之《タガソノノ》云々|開有可毛《サキニケルカモ》云々、また零雪《フルユキノ》云々|月經在《ツキゾヘニケル》、十一(ノ)卷に、世中《ヨノナカハ》云々|猶戀在《ナホコヒニケリ》、また石尚《イハヲスラ》云々|後悔在《ノチクイニケリ》、また行々《ユケド/\》云々|沾在哉《ヌレニケルカモ》、また是川《ウヂガハノ》云々|乘在鴨《ノリニケルカモ》、これらの在(ノ)字、來の誤といふ人もあれど、かくあまた例あれば、然《サ》はいひがたし、又強てみな、にたるとも訓べけれども、なほけるけりならでは、穩ならぬところ也、又同卷に、大土《オホツチハ》云々|戀在《コヒニゾアリケル》、また袖振《ソデフルガ》云々|隱在《カクリタリケリ》、これらも、アリタリは讀付(ケ)て、在(ノ)字は、ケルケリ也、そも/\けるけりに、此字を書ること、いかなるよしにか、いまだ考(ヘ)得ず、つねに來(ノ)字をかくは、來而在《キタリ》を、古言に祁理《ケリ》といふ故に、其《ソ》を借(リ)たるもの也、こはことのついでにいふなり、
 
    嶋
俗《ヨ》にいはゆる作(リ)庭泉水築山の事を、古(ヘ)には嶋といヘり、萬葉集二の卷に、日並知皇子《ヒナメシノミコノ》尊の薨坐し時、その宮の舍人等、慟傷作歌二十三首の中に、御立爲之嶋乎見時《ミタヽシヽシマヲミルトキ》云々、御立爲之嶋之荒磯乎《ミタヽシヽシマノアリソヲ》云々、嶋御橋爾《シマノミハシニ》云々、嶋乃御門爾《シマノミカドニ》云々、などある嶋これ也、こは彼(ノ)皇子(ノ)尊の、造り給へる嶋也、同じ時の歌どもの中に、そこを嶋宮《シマノミヤ》とよめるも、嶋をむねとしたる宮のよし也、橘之嶋(ノ)宮ともよめる、橘はそこの地(ノ)名也、又六の卷に、鶯之鳴吾嶋曽《ウグヒスノナクワガシマゾ》云々とあるも、吾(ガ)宅の嶋也、十九の卷に、雪嶋巖爾殖有奈泥之故波《ユキシマノイハホニタテルナデシコハ》云々、是は雪のふりつもりたる嶋也、同時の歌に、君宅之雪巖爾《キミガイヘノユキノイハホニ》、ともあるにて知べし、さて撫(シ)子は、造りて雪の巖《イハホ》に殖《タテ》たる花也、又同卷に、嶋山爾照在橘《シマヤマニテレルタチバナ》云々、これは新嘗會の肆宴《トヨノアカリ》のをりの歌にて、大宮の内の嶋の山也、又廿の卷に、屬(テ)2自(ラ)山齋(ニ)1作(ル)歌、乎之能須牟伎美我許乃之麻《ヲシノスムキミガコノシマ》云々は、池に鴛の住(ム)、君が宅《イヘ》の此嶋也、さてこは、端書の山齋をも、即(チ)しまと訓(ム)べし、此名、嶋によくあたれり、さて又伊勢物語に、嶋このみ給ふ君なりとあるも、同じことにて、造り庭を好みめで給ふをいへり、
 
    萬葉集に山字を玉に誤れる例
萬葉集に、山(ノ)字を玉に誤れる例多し、草書にては、山〔草書〕と玉〔草書〕とよく似たる故也、二の卷に、三吉野乃玉松之枝者《ミヨシヌノヤママツガエハ》云々、十五の卷に、夜麻末都可氣爾《ヤママツカゲニ》ともあり、玉は山を誤れることしるし、然るを後の歌に、玉《タマ》松とよめるは、此歌によれるにて、みなひがこと也、玉松といふことは、あることなし、又同じ二の卷に、人者縦念息登母玉※[草冠/縵]影爾所見乍《ヒトハヨシオモヒヤムトモヤマカヅラカゲニミエツヽ》云々、こは山※[草冠/縵]は、日影葛《ヒカゲノカヅラ》のことにて、影の枕詞における也、山※[草冠/縵]日影とつゞく意にて、十四の卷に、あしひきの山かづらかげとよめるかげに同じ、十八の卷にも、かづらかげと有(リ)、みなかげは日影(ノ)※[草冠/縵]のこと也、然るを後(ノ)世に、此玉※[草冠/縵]を、山※[草冠/縵]の誤(リ)なることをしらずして、影とつゞきたるを、懸《カケ》の意と心得たるは、ひがこと也、又十三の卷に、五十串立《イクシタテ》云々|雲聚玉蔭見者乏文《ウズノヤマカゲミレバトモシモ》、こは髻華《ウズ》に垂《タレ》たる日影(ノ)※[草冠/縵]也、十六の卷に、足曳之玉縵之兒《アシヒキノヤマカヅラノコ》とあるは、足曳之とあれば、山なること論なし、即(チ)ならべる歌には、山縵之兒とあり、さて件の例どもによりて思へば、十一の卷に、玉久世清河原《タマクセノキヨキカハラニ》云々といふ歌も、山代久世能河原《ヤマシロノクセノカハラニ》なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱《オト》せるにこそ、玉久世といふことは、あるべくもおぼえず、
 
   同集の歌に生刀《イケルト》もなしといへる詞
同集(ノ)歌に、生《イケ》るともなしとよめる多し、二の卷に、衾道乎《フスマヂヲ》云々|生跡毛無《イケルトモナシ》、また衾路《フスマヂヲ》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》、また天離《アマザカル》云々|生刀毛無《イケルトモナシ》、十一の卷に、懃《ネモコロニ》云々|吾情利乃生戸裳名寸《ワガコヽロトノイケルトモナキ》、十二の卷に、萱草《ワスレグサ》云々|生跡文奈思《イケルトモナシ》、また空蝉之《ウツセミノ》云々|生跡毛奈思《イケルトモナシ》、また白銅鏡《マソカヾミ》云々|生跡文無《イケルトモナシ》、十九の卷に、白玉之《シラタマノ》云々|伊家流等毛奈之《イケルトモナシ》、これら也、いづれもみな、十九の卷なる假字書(キ)にならひて、イケ|ル〔右○〕トモナシと訓べし、本にイケ|リ〔右○〕トモナシと訓るは誤なり、生《イケ》る刀《ト》とは、刀《ト》は、利心《トゴヽロ》心利《コヽロト》などの利《ト》にて、生《イケ》る利心《トゴヽロ》もなく、心の空《ウツ》けたるよしなり、されば刀《ト》は、辭《テニヲハ》の登《ト》にはあらず、これによりて伊家流等《イケルト》といへる也、もし辭《テニヲハ》なれば、いけ|り〔右○〕ともなしといふぞ、詞のさだまりなる、又刀(ノ)字などは、てにをはの|と〔右○〕には用ひざる假字也、これらを以て、古(ヘ)假字づかひの嚴《オゴソカ》なりしこと、又詞つゞけのみだりならざりしほどをも知(ル)べし、然るを本に、いけ|り〔右○〕ともなしと訓るは、これらのわきためなく、たゞ辭《テニヲハ》と心得たるひがこと也、
 
    文字を添て書る例
同集に、雖干跡《ホセド》、將有裳《アラモ》、不知爾《シラニ》、これらの書ざま、下なる跡(ノ)字裳(ノ)字爾(ノ)字|衍《アマ》れるがごとし、此例、續紀の宣命(ノ)詞、又菅家萬葉などにも有(リ)、其外にも有しとおぼゆ、
 
    白馬(ノ)節會
正月七日の白馬(ノ)節會の白馬、古(ヘ)は青馬といへり、萬葉集廿の卷に、水鳥乃《ミヅトリノ》、可毛能羽能伊呂乃《カモノハノイロノ》、青馬乎《アヲウマヲ》、家布美流比等波《ケフミルヒトハ》、可藝利奈之等伊布《カギリナシトイフ》、とあるを始(メ)として、續後紀文徳實録三代實録、貞觀儀式延喜式などに、多く出たる、みな青馬とのみ有て、白馬といへることは、一(ツ)も見えず、然るを圓融天皇の御世、天元のころよりの、家々の記録、又江家次第などには、皆白馬とのみあるは、平(ノ)兼盛(ノ)集の歌に、ふる雪に色もかはらで牽《ヒク》ものを、たが青馬と名づけそめけむ、とよめるを見れば、當時《ソノカミ》既《ハヤ》く白き馬を用ひられしと見えたり、然れば古(ヘ)よりの青馬をば改めて、白き馬とはせられたるにて、そは延喜より後の事にぞ有けむ、延喜式までは、青馬とのみあれば也、さて然《シカ》白馬に改められしは、いかなる故にか有(リ)けむ、詳ならざれども、源氏物語の榊(ノ)卷の河海抄に、年始に白馬を見れば、邪氣を去(ル)といへる本文、十節録にありと見え、公事根源にも、十節記とて引れたり、さるよしにやあらむ、されどなほもとの本文は、禮記の月令にて、孟春之月云々、天子居(リ)2青陽(ノ)左个(ニ)1、乘(リ)2鸞路(ニ)1、駕(シ)2倉龍(ヲ)1、載《タテ》2青※[旗の其が斤](ヲ)1、衣2肩衣(ヲ)1、服(ス)2倉玉(ヲ)1、とあるによれることなるべし、倉龍は青き馬なり、文徳實録にも、助(クル)2陽氣(ヲ)1也とあれば、白き馬にはあらず、青なりしこと決《ウツナ》し、貞觀儀式には、青【岐】馬《アヲキウマ》とさへあるをや、然るを後(ノ)世までも、文には白馬と書(キ)ながら、語には猶古(ヘ)のまゝに、あをむまと唱へ來て、しろむまとはいはず、白馬と書るをも、あをむまと訓(ム)によりて、人みな心得誤りて、古(ヘ)は實に青き馬なりしことをば、えしらで、もとより白き馬と思ひ古書どもに青馬と書るをさへ、白き馬を然いへりと思ふは、いみしきひがこと也、白きをいかでか青馬とはいはむ、
 
    萬葉集にあえぬがにといへる言
萬葉集八の卷に、云々おふる橘、玉にぬく、五月を近み、安要奴我爾《アエヌガニ》、花咲にけり云々、十の卷に、秋づけば、水草の花の、阿要奴蟹《アエヌガニ》、おもへどしらず、たゞにあはざればとある、此|安要奴《アエヌ》を、不《ヌ》v交《アヘ》と解《トキ》たるは誤也、交は阿閇《アヘ》にて、假字も異《コト》なり、橘の玉に阿倍貫《アヘヌキ》などよめるあへと、思ひ混《マガ》ふべからず、阿要《アエ》は、木草の實《ミ》のなることにて、奴《ヌ》はいはゆる畢ぬ也、我爾《ガニ》は、我禰爾《ガネニ》のつゞまりたるにて、むこがね后がねなどいふがねと同言にて、古今集にも、老かくるがになど見え、萬葉には殊に多き辭にて、がねともがにとも有(リ)、言の意は、豫《カネ》て設くるよし也、されば八の卷なるは、實《ミ》になるべき設(ケ)に、かねて花の咲るといへる也、十の卷なるは、その設(ケ)にかねて咲たる花の、實《ミ》になるべく思へどゝいへるにて、戀の成《ナル》をたとへたる也、歌の意は、我戀は成《ナル》べく思へども、いまだ逢(ハ)ざることなれば、猶いかゞあらむ、しられずとよめる也、十八の卷橘の長歌に、安由流實波《アユルミハ》、多麻爾奴伎都追《タマニヌキツヽ》、ともあるを以て、安要《アエ》は、實になることをいへりといふことをしるべし、安要《アエ》安由《アユ》と活用《ハタラ》く言也、
 
    梅の花の歌に香をよむ事
梅(ノ)花の歌には、香をむねとよむことなれども、萬葉集には、梅の歌いと多かるに、香をよめるは、たゞ廿の卷に、うめの花香をかぐはしみ、遠けども心もしぬに君をしぞ思ふ、とある一(ツ)のみにて、これをおきては、見えず、いにしへはすべて香をめづることはなかりし也、橘の歌も、萬葉にいと多けれども、それも香をよめるは、十七の卷と十八の卷とに、たゞ二首あるのみなり、其外十の卷に、茸《タケ》をよめる歌、高圓の此峯もせに笠たてゝ、みちさかりなる秋の香のよさ、とよめるなどより外には、すべて物の香をめでたる歌は見えず、にほひとおほくよめるは、みな色のにほひにて、鼻にかゞるゝ香にはあらず、さて件の十の卷なる歌は、松茸《マツタケ》をよめるにぞ有ける、はしに詠v芳(ヲ)とある、芳(ノ)字は、茸を寫しひがめたる也、
 
    萬葉集なる藤原(ノ)宮之役民作歌
萬葉集一の卷に、藤原(ノ)宮之役民作歌とある長歌は、役民(ノ)作歌とあるによりて、たれも、たゞその民のよめると心得ためれど、歌のさまをもて思ふに、然にはあらず、こはかの七夕の歌を、彦星棚機つめになりてよめると同じことにて、かの民の心に擬《ナズラ》へて、すぐれたる歌人のよめる也、その作者《ヨミビト》は、誰ともなけれど、歌のさまの、いと/\めでたく、巧の深きやう、人麻呂主の口つきにぞ有ける、さてかの主の長歌は、いづれも巧ふかき故に、詞のつゞきの、まぎらはしく聞ゆるが多きを、此歌は、殊にまぎらはしきつゞきおほくして、物しり人たちも、皆|解《トキ》誤れるを、今よく考ふれば、語のつゞきも、いと明らかにして、まぎるゝことなく、いともめでたく、すぐれたる歌也、さて歌のすべての趣は、田上山より伐(リ)出せる宮材《ミヤキ》を、宇治川へくだし、そを又泉川に持越《モチコシ》て、筏に作りて、その川より難波(ノ)海に出し、海より又紀の川を泝《ノボ》せて、巨勢《コセ》の道より、藤原の宮の地へ、運び來たるを、その宮造りに役《ツカ》はれ居る民の見て、よめるさま也、其乎取登《ソヲトルト》云々は、川より陸に取上《トリアグ》るとて、水に浮居てとり上(ゲ)て、其《ソレ》を泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》とつゞく詞也、されば浮居而《ウキヰテ》にて、姑《シバラ》く絶《キレ》たる語にて、たゞに吾作《ワガツクル》へはつゞかず、吾作《ワガツクル》云々は、吾は役民の吾也、さて日之御門爾《ヒノミカドニ》とあるを以て見れば、此作者の役民は、藤原(ノ)宮の地に在て、役《ツカ》はるゝ民也、上の云々|散和久御民毛《サワクミタミモ》とある民にはあらず、思ひまがふべからず、泉乃河爾持越流《イヅミノカハニモチコセル》は、宇治川より上《アゲ》て、陸路を泉川まで持越(シ)て、又流す也、こは今の世の心を以て思へば、宇治川より直《タヾ》に下すべき事なるに、泉川へ持越(シ)て下せるは、いかなるよしにか、古(ヘ)は然爲《シカス》べき故有けむかし、泝須良牟《ノボスラム》とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝《ノボ》すをいひて、さて巨勢路より、宮處に運ぶまでを兼たり、さればこは、泉の河に持越る材を、云々して、巨勢道より、吾(ガ)作(ル)日(ノ)御門にのぼすらむ、といふ語のつゞきにて、御門爾《ミカドニ》の爾《ニ》と、巨勢道從の從《ヨリ》とを、此|泝《ノボ》すらむにて、結《ムス》びたるもの也、辭《テニヲハ》のはこびを、熟《ヨ》く尋ねてさとるべし、なほざりに見ば、まがひぬべし、さて良牟《ラム》と疑ひたるは、此作者は、宮造(リ)の地に在てよめるよしなれば、はじめ田上山より伐出せるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なれば也、さて伊蘇波久見者《イソハクミレバ》とは、宮地へ運び來たるを、目のまへに見たるをいへり、上の良牟《ラム》と、この見者《ミレバ》とを、相照して心得べし、さて難波(ノ)海に出し、紀の川をのぼすといふ事は、見えざれども、巨勢道よりといへるにて、然聞えたり、巨勢道は、紀の國にゆきかふ道なれば也、又筏に造り泝《ノボ》すらむといへるにても、かの川をさかのぼらせたることしるし、然らざれば此言聞えず、大かたそのかみ、近江山城などより伐(リ)出す材を倭へのぼすには、必(ズ)件のごとく、難波(ノ)海より、紀の川に入れて泝《ノボ》すが、定まれる事なりし故に、其事はいはでも、然聞えしなりけり、さて不知國依《シラヌクニヨリ》は、異國の歸來《ヨリク》るよしにて、依《ヨリ》までは、たゞ巨勢の序也、異國までもなびき從ひて、歸來《ヨリク》といふ壽詞《ホキコト》をもて、序としたるもの也、されば不知國は、五言の句、依巨勢道從《ヨリコセヂヨリ》は、七言の句にて、をとめらが袖ふる山などの類也、上の依《ヨリ》は、自の意にはあらず、また我國者《ワガクニハ》より、新代登まで五句は、これも壽詞をもて、泉の序とせるにて、出《イヅ》とつゞく意也、そも/\此歌の意、上(ノ)件のごとくなれば、巨勢道從(リ)といへるは、即(チ)上の田上山の材也、又別に巨勢道よりものぼすにはあらず、又|不知國《シラヌクニ》よりも、材をのぼすといふにあらず、思ひまがふべからず、
 
    平城(ノ)天皇の御名
平城《ナラノ》天皇の御諱《ミナ》、はじめには小殿《ヲトノ》と申せしを、安殿《アデ》と改め給へり、そのかみすべて皇子《ミコ》たち諸王などの御名、いづれも御乳母の姓をとれる例にて、此小殿と申せしも、續紀卅九の卷に、御乳母|安部小殿《アベノヲトノヽ》朝臣|堺《サカヒ》といふが見えたる、此姓なり、安殿《アデ》も、此|安(ノ)字と殿(ノ)字をとり給へる也、さてこは阿傳《アデ》と字音に讀(ミ)奉る也、紀の國の在田(ノ)郡は、もと安諦《アデノ》郡にて、書紀續紀に、阿提《アデノ》郡とも書れたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田(ノ)郡とは改められき、
 
    歌を草書にかきし事
源氏(ノ)物語椎本(ノ)卷に、宇治の八の宮の御歌、「山風に霞ふきとく聲はあれどへだてゝ見ゆるをちの白浪、草《サウ》にいとおかしうかき給へりとあり、草にかくとは、いはゆる萬葉書(キ)にて、草書に書(ク)をいへり、かのころもなほさること有けらし、
 
    歌合といふ事のはじまり
歌合といふわざは、いづれの御世のころよりかはじまりけむ、古今集に、仁和の中將(ノ)御息所の家の歌合といふこと見え、新勅撰集夏(ノ)部に、中納言行平(ノ)家のうた合、又戀三に、陽成院(ノ)歌合など見えたり、これら寛平よりさき也、
 
    右兵衛馬場
北山抄に、右兵衛(ノ)馬場といふも見えたれば、右近(ノ)馬場のみならず、六衛府みな、おの/\その馬場有し也、
 
    伏見の會
續世繼に、橘(ノ)俊綱(ノ)朝臣の、伏見の住《スマ》ひの事をいへるところにいはく、伏見にては、時の歌よみどもつどへて、和歌の會たゆるよなかりけり、伏見の會とて、いくらともなくつもりてなんあなるとあり、俊綱(ノ)朝臣は、宇治(ノ)關白殿の御子也、いくらともなくつもりてといへるは、歌合の歌を集めたる物をも、歌合といふごとく、その會の時の歌どもを、書(キ)集めたる物を、伏見の會といへるにや、
 
    金葉集に輔仁親王を三(ノ)宮としるせる事
同書に、金葉集に、輔仁のみこと書たりければ、白河(ノ)院は、いかにこゝに見むほど、かくは書たるぞと仰られければ、三(ノ)宮とぞかき奉れると有(リ)、かの親王は、白河(ノ)帝の御子にましますが故に、御名を書(キ)奉ることは、はゞかるべきことぞとおぼしめして、かくはのたまへる也、
 
    式乾門院のよみ
式乾門院は、つねにしきけんとよむを、阿佛尼の十六夜(ノ)日記に、假字に、しきかむもんゐんのみくしげどのと書たり、これ正しきにやあらむ、いかゞあらむ、
 
    肖栢を牡丹花と號する事
肖栢を牡丹花といふことは、牡丹の句によりて、世の人のいひならはしたるなりといふめれど、三愛(ノ)記といふに、ちかきころほひ、津(ノ)國ゐな野のわたりに、庵を結びて、夢と號し、みづから牡丹花を名とせり、身におはぬやうに聞え侍れど、萬物一體のことわりを思ふにやと、みづからしるせり、
 
    後陽成天皇の御院號の事
後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬禮の事、日をえらひて、九月廿日と定めらる、そのほどは、もとの御所におはしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華經を讀誦す、朝には御手洗まゐり、御膳つねのごとく奉る、御院號の事、諸家へ仰せ出さるゝ其中に、殿下より勘進せらるゝを定められて、後陽成院と號し奉る、さて廿日御葬禮、泉涌寺にて御火葬也、御脳のほどよりこれまでの御事、西洞院(ノ)時慶(ノ)卿のしるされたる、昇遐(ノ)記に見えたり、
 
   清輔朝臣尚齒會
承安二年三月十九日、白川の寶莊嚴院にて、清輔(ノ)朝臣、尚齒會を行はる、前(ノ)馬寮(ノ)助藤原(ノ)敦頼【八十三】、神祇伯顯廣(ノ)王【七十八】、前(ノ)石見(ノ)介祝部(ノ)成仲【七十四】、宮内卿藤原(ノ)永範卿【七十一】、右京(ノ)權大夫源(ノ)頓政【六十九】、清輔【六十九】、前(ノ)式部(ノ)少輔大江(ノ)維光【六十三】、以上七人、件の記一卷あり、明和のころ板にゑれり、
 
    七夕の歌にさゝがにの糸をよめる事
源(ノ)順の七夕(ノ)歌に、「たなばたは空にしるらむ、さゝがにのいとかくばかり祭るこゝろをとよめるは、歳時記に、此(ノ)祭(ル)時(ニ)、陳(ネテ)2瓜菓(ヲ)於庭中(ニ)1、乞(フ)v巧(ヲ)時(ニ)、有(テ)2※[虫+喜]子1瓜(ノ)上(ニ)網(スレバ)、以(テ)爲(ス)v得(タリト)矣、また事文類聚に、京師、七月七夕、婦女望(テ)v月(ヲ)、以2小蜘(ヲ)1在《オキテ》2合子(ノ)中(ニ)1、次(ノ)日看(ルニ)v之(ヲ)、若(シ)網圓(カニ)正(シケレバ)、謂(フ)v得(タリト)v巧(ヲ)といへり、
 
    九月十三日の夜月をめづる事
中右記に、保延元年九月十三夜、今宵雲淨(ク)月明(カナリ)、是(レ)寛平法皇、明月无雙(ノ)之由、被《ル》2仰(セ)出(サ)1、仍(テ)我(ガ)朝以2九月十三夜(ヲ)1、爲2名月(ノ)之夜(ト)1、
 
    お ほ て ゝ
榮華物語衣(ノ)珠(ノ)卷に、兒《チゴ》の詞に、祖父のことを、おほてゝといへること有、
 
    宗祇法師の傳
宗祇法師、姓(ハ)中臣氏(ハ)飯尾、宗充(ノ)之子也、其先|世《ヨヽ》居2紀州(ニ)1、母(ハ)藤氏、憂(テ)v無(キコトヲ)v嗣、一百日祈(ル)2玉津嶋(ノ)神(ニ)1、滿(ル)v期(ニ)之夜、夢(ニ)玉子入(ル)2于口(ニ)1而(テ)妊(ム)、十三月(ニシテ)而生(ム)v祇(ヲ)、時(ニ)應永廿八年也、祇自2童丱1、好(ミ)2和歌(ヲ)1、就(テ)2叔父宗砌(ニ)1學習(ス)、自(ラ)稱(ス)2種玉庵(ト)1、因(テ)2母呑(テ)v玉(ヲ)孕(ム)之瑞(ニ)1也、上(テ)v京(ニ)師(トス)2心敬(ヲ)1、結(ブ)2草菴(ヲ)於岩倉(ノ)之長谷(ニ)1、亦好(テ)2老莊(ヲ)1、自(ラ)呼(ブ)2自然齋(ト)1、文明三年、訪(ヒ)2東(ノ)常縁(ヲ)1、親炙(シテ)請2益(ス)歌道(ヲ)1、常縁傳(ヘテ)2歌道之秘事(ヲ)1、無(シ)v所v遺(ス)、後(ニ)祇謝(シテ)返(ル)v京(ニ)、又肆(ヒ)v詩(ヲ)參(ス)v禅(ニ)、後(ニ)不v定2居處(ヲ)1、爲(リ)2萍(ノ)客(ト)1、遊(ス)2諸國(ニ)1、受(ル)2祇(ガ)之傳(ヲ)1者(ハ)、肖栢素純宗長宗磧等也、文龜二年七月晦日、於(テ)2相州湯本(ノ)郵邸(ニ)1卒(ス)、八十二歳、葬2于駿州桃園(ノ)定輪寺(ニ)1、栽(ウ)2松(ヲ)于墓(ノ)上(ニ)1と、ある物にのせたり、
 
    文治元年四月神鏡神璽京にかへり入らせ給ふ事
文治元年四月廿五日、神鏡神璽入御あり、上卿は擢中納言經房、參議は宰相(ノ)中將泰通、辨左少辨兼忠、近衛には左中將公時(ノ)朝臣、右中將範能(ノ)朝臣也、兩將ともに、壺胡※[竹/録]を帶せり、職事藏人左衛門權佐親雅ぞ、供奉しける、四塚より下馬して、各歩行す、先(ヅ)頭(ノ)中將通資朝臣參向して、行事す、内侍所、内藏寮新造の唐櫃に納奉る、大夫尉義經、郎等三百騎を相具して、前行す、御後、又百騎候(フ)、朱雀を北へ行(キ)、六條を東へ行(キ)、大宮を北へ行(キ)、待賢門に入(リ)、朝所《アイタンドコロ》に着御ありけり、藏人左衝門尉橘清季、かねて此所に候(ヒ)けり、神璽は、海上に浮みけるを、常陸(ノ)國住人片岡(ノ)太郎經春が、取上(ゲ)奉りけるとぞ聞えし、同廿七日、内侍所神璽、官(ノ)廳より、温明殿へ渡し奉らる、上卿參議辨次將、みなもとの供奉の人なりけり、三箇日臨時の御神樂おこなはれけりと、此事源平盛衰記に見えたり、
 
    寶 劔 の 事
法皇、寶劔の失ぬることを、大に御歎きありて、賀茂大明神に、七日御參籠、第七箇日に御夢想あり、寶劔の事、長門(ノ)國壇(ノ)浦の、老松若松といふ海士に仰せて、尋ね給ふべしと也、これによりて、九郎判官を召て、此事を仰(セ)含めらる、義經かの國へ下り、件の二人の海士をめす、老松は母、若松は女《ムスメ》なり、二人ともに海に入て、一日ありて浮上りて、申すやう、怪き子細ある所に候へば、凡夫の力に及ばず、如法經を書寫して、身にまとうて、入(ル)べしと申すによりて、僧をあつめ、如法經を書寫し、老松身にこれをまとひて入(ル)、一日一夜上らず、翌日午(ノ)刻ばかりに浮上る、子細は、帝の御前にて申すべしといふによりて、都へ具して上り、法住寺(ノ)御所に於て申(シ)ていはく、龍宮城とおぼしき處に入(ル)、そのありさま凡夫のすみかにあらず、心も言も及びがたし、老松、大日本國の帝王の御使と申入れ庭上にすゝみて、御簾の半あげたる内を見れば、長はしらず、臥長(ケ)二丈もやあらんとおぼゆる大蛇、劔を口にくはへ、七八歳の小兒をいだきてあり、詞を出していはく、寶劔は、必ずしも日本帝の寶にあらず、龍宮城の寶物也、かの出雲(ノ)國(ノ)簸(ノ)川上の大蛇は、我(ガ)次郎王子也し、その後日本武(ノ)尊東行の時、膽吹山のすそに、臥長一丈の大蛇となりて、此劔を取むとせしかども、取得ざりし故に、其後さま/”\と謀をめぐらし、簸(ノ)川上の大蛇、安徳天皇となり、源平の亂をおこし、龍宮に返し取りぬ、今我口に含める、即是寶劔也、抱ける小兒は、安徳天皇也、平家の一門の人々も、こゝにありとて、簾をまきあげて見せける、まことにその人々、みななみ居たり、今汝に、身にまとへる如法經の貴《タフト》さに、本の質《カタチ》をそのまゝにて見ゆる也、但し此劔は、盡未來際、日本に返すことあるべからずとて、大蛇は内にはひ入(リ)ぬ、と奏しければ、法皇をはじめ奉り、月卿雲客、一同に奇特の思ひをなし給へり、さてこそ寶劔は、失侍りと治定しけれと、これも同(ジ)書に見えたり、件の事は、寺々の縁起のたぐひにて、みな例の僧《ホウシ》のともがらの、世の人をあざむく、むげの造り事也、然るを萬の事に、かくさまの佛法ざたのすぢをいふことを好みて、かゝる書にさへ、いみしげに記されたるは、此事のみにあらず、皇國のむかし人のつねのくせ也、大かたかゝるたぐひの事をしるせるは、いづれの書なるもみな同じこと也、いとうるさし、
 
    又寶劔の事
百練鈔に、文治三年七月廿日己未、奉2幣七社(ニ)1、依(テ)2寶劔(ノ)御祈(ニ)1也、今日、被《レ》v遣(サ)2勅使(ヲ)於長門(ノ)國(ニ)1、且(ツ)被《ラレ》2祈謝(セ)1、爲(メ)v令(メムガ)2捜索(セ)1也、神祇(ノ)大祐卜部(ノ)兼衡、大藏(ノ)少輔安倍(ノ)泰成等爲(リ)v使、前(ノ)安藝(ノ)守佐伯景弘、去(ヌル)比下向(ス)、景弘、合戰(ノ)之時在(テ)2彼國(ニ)1、存2知(ス)寶劔沈没(ノ)之所(ヲ)1云々、
 
   貞和四年に西(ノ)海に沈みし寶劔出來れりといふさだの事
光明天皇の御世、貞和四年に、元暦のころ、壇(ノ)浦に沈みし寶劔、出來れりとて、伊勢より進奏せる事あり、これは彼(ノ)國の圓成といふ僧、大神宮へ千日參詣をしけるが、千日に滿けるをりしも、海上に光物有て、圓成これを得て見るに二尺五六寸の劔也、其時十二三ばかりなる童に、神託ありて、これ海底に沈みし、三種の中の寶劔也とありければ、祭主神人等、連署の起請をそへて、かの圓成これを持て上京し、日野(ノ)前(ノ)大納言資明(ノ)卿につきて、これを奉る、さて資明(ノ)卿、平野(ノ)社の神主卜部(ノ)宿禰兼員を召て、三種(ノ)神器の由來を、委くたづね、なほも天下の人に信ぜさせむために、兼員をして、三七日祈誓せしめ、此劔まことにかの寶劔なりといふことを、然るべき人の夢に告給ひて、人の疑(ヒ)を去て、奏聞せんとて、祈請せしむ、其時左兵衛(ノ)督直義(ノ)朝臣の夢に、奇瑞ありしによりて、いよ/\寶劔にまぎれなしとて、此よし仙洞へ奏聞して、奉り給へり、然るに勸修寺大納言經顯(ノ)卿これを聞て、寶劔執奏の事、すべて資明が、阿黨のところより事おこりて候、百六十餘年の間、治世有徳の御世にだにも、出ざりし寶劔の、今かゝる亂世にあたりて、出(ヅ)べき理なく候と、委く奏し申されければ、上皇げにもとやおぼしめされけん、かの劔をば、平野(ノ)社の神主兼員に預けられけるとぞと、此事太平記廿五の卷に、くはしく記せり、まことに資明(ノ)卿直義兼員圓成ら、あひはかりて、かまへ出たる、いつはり事とこそ聞ゆれ、
 
    神鏡燒損の事
百練鈔に、覺弘二年十一月十五日、内裏燒亡云々、神鏡在2灰燼(ノ)中(ニ)1、同十七日、神鏡燒損(ノ)事、令(ム)3諸卿(ヲシテ)定2申(サ)之(ヲ)1、或記(ニ)云(ク)、十二月九日、奉(ル)v移(シ)2神鏡(ヲ)於東三條(ニ)1、關〔右○〕舊※[木+貴]持〔右○〕、奉(ルノ)v納2新韓※[木+貴](ニ)1之間、忽然(ニ)有(テ)2日光1照曜、内侍女官等恐(レ)驚(ク)之、同三年七月三日、諸卿於(テ)2御前(ニ)1定(メ)申(シ)、諸道勘(ヘ)申(ス)、神鏡可(キ)2鑄改(ム)1哉《ヤ》否(ヤノ)事、定(ムル)間(ダ)、三尺餘(ノ)蛇、自2御在所(ノ)庇1落(ツ)2庭中(ニ)1、登(リ)v自2南殿(ノ)北階1。赴(テ)v西(ニ)不v見(エ)、可v謂2神受(ノ)兆(ト)1、また長久元年九月九日、皇居上東門院燒亡云々、内侍所(ノ)神鏡、在(テ)2灰燼(ノ)中(ニ)1燒損(セリ)、遣(シテ)2藏人(ノ)頭左中將資房、左少將經季等(ヲ)1、令(ム)v求(メ)v之(ヲ)、僅(ニ)奉v准〔右○〕2得御體(ヲ)1、【燒殘五六寸許】即奉(ル)v畏〔右○〕2入折※[木+貴](ニ)1、又得2一切(レヲ)1、【二三寸許】其體燒損、不(ト)2分明(ナラ)1云々、次々得2二三寸許(ヲ)1、各々段々也、又如(キ)2金玉(ノ)1之物、數粒得v之(ヲ)、隨(テ)又奉(ル)v加(ヘ)2入(レ)彼※[木+貴](ニ)1之、十日、内侍所(ノ)女官二人夢想之、一人(ノ)夢(ニ)云、彼(ノ)本所(ノ)方(ノ)小蛇、頗(ル)有2悩氣1之、一人(ノ)夢(ニ)云、彼(ノ)本所有(テ)v人云(ク)、吾相離(テ)、獨身在(リ)2此所(ニ)1云々《トイヘリ》、仍(テ)女官等向(テ)2彼所(ニ)1、奉(ルノ)v※[(医+殴の旁)/金](リ)2求(メ)之(ヲ)1處、如2金玉(ノ)1求(メ)2得(タリ)二粒(ヲ)1、即奉(リ)v入(レ)畢(ヌ)、有2霊驗1、可(シ)2感歎(ス)1云々《トイヘリ》、已上見(エタリ)2資房(ノ)卿(ノ)記(ニ)1、同十二日、定(メ)2申(ス)神鏡燒損(ノ)事(ヲ)1、任(セテ)2寛弘二年(ノ)例(ニ)1、可(キノ)v被《ル》v行(ハ)之由定(メ)申(シ)了、
 
    大炊殿を洞院と改めらるゝ事
天永三年十月十三日、遷2幸(ノ)大炊殿(ニ)1之由、奉幣(ノ)宣命(ニ)、改(メテ)2大炊(ノ)御門(ノ)字(ヲ)1、爲2洞院(ト)1、炊(ノ)字從(フノ)v火(ニ)之上(ヘ)、大炊(ハ)爲《タルノ》廢帝(ノ)諱(ノ)字1之故也、と同書に見えたり、
 
    ふくさといふ言
田中(ノ)麻呂がいへるは、近江美濃尾張などにて、物のやはらかなることを、ふくさといふ、又衣を洗ひて、いまだ※[さんずい+米+月]《ノリ》をつけざるを、ふくさめ物といひ、洗ひてのりをつけずておくを、ふくさめておくといふ、又物の多きことをも、ふくさなるといふといへり、
 
    まるすげといふ草
世にかやつり草といふ草の、小きやうなる草の、田に生て、田夫《タツクルヒト》のいたくいとふ草あり、美濃(ノ)國にてこれをまることいふ、三河(ノ)國にては、まるすげといふよし也、まろこ菅と常によめる物にはあらじかと、同人いへり
 
    とねりこの木
とねりこの木といふ木、木の色いと白く、葉は榎の葉にゝて、大木になる物なり、實《ミ》は、※[ひょうたん型の繪]かくの如き形にて、上の方は葉のやうにひら也、件の木、美濃(ノ)國|飯木《ハンノキ》村に多く有て、他村《アダシムラ》には無しと、同人いへり、飯(ノ)木村は、此人の故郷也、多藝(ノ)郡なり、
 
    鴨の類くさ/”\の名
同人の語りけるは、鴨に大かた四種有(リ)、第一大きなるを、まがもといひ、次に大きなるを、ひどりといひ、次をあぢといひ、もとも小きを、たかべといふ、みな同じ鴨にて、たゞ形の大き小きによりて、名の異《カハ》る也、あぢたかべなど、萬葉の歌によめり、又あいさといふ一くさ有(リ)、こは鴨のたぐひながら、いさゝか異《コト》也、萬葉七の歌に、あきさとある此物也といへり、
 
    九 條 廢 帝
九條(ノ)廢帶と申(シ)奉るは、順徳天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原(ノ)立子、東一條(ノ)院と申(シ)、後京極攝政良經公の御女也、帝、建保六年十月十日に降誕、御諱《ミナ》は懷成と申す、同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立(チ)給ひ、承久三年四月廿日に、御年四(ツ)にて受禅有(リ)、然るところに、東《アヅマ》の賊《ヌスビト》北條(ノ)義時、いたく荒びて、ゆゝしき世のみだれおこりて、かの族《ウガラ》泰時時房などといふ賊ども、おしのぼり、同き六月に、京にみだれ入(リ)て、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に、遷し奉り、此(ノ)新帝《イマミカド》をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなどもよのつねのことをこそいへ、いはむかたもなき、逆事《サカシマゴト》のまがことにぞ有ける、かくて此帝は、其七月九日に、位を讓らせ給ひて、ひそかにて九條(ノ)院に渡御有(リ)、それより此院に、御母女院と御同居まし/\て、文暦元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおはしましける、いまだ御元服の儀もおはしまさゞりき、受禅有しかども、わづかに四月がほどに、おりさせ給ひて、いまだ即位の儀も行はれざりしかば、皇代の御數にも、いらせ給はざる也、いづれの地《トコロ》にか葬(リ)奉りけむ、御陵の在(リ)處も聞えぬは、いともかしこき御事になむ、御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生れさせ給ふ、義子内親王と申す、弘長元年三月八日、御とし廿八にて、院號かうぶり給ひて、和徳門院と申(シ)き、
 
    臣の王を娶る事
記略に、延暦十二年九月丙戌の詔に、見任(ノ)大臣、良家(ノ)子孫(ハ)、許(ス)v娶(コトヲ)2三世以下(ヲ)1、但藤原氏(ハ)者、累代相承(テ)、攝政不v絶、以v此(ヲ)論(セバ)v之(ヲ)、不v可2因等1、殊(ニ)可(シ)v聽(ス)v娶(コトヲ)2二世以下(ヲ)1者《テヘリ》と見えたり、そも/\古(ヘ)は、皇女《ヒメミコ》はさらにも申さず、すべて臣の、王《オホキミ》の女を娶《メトス》ることは、ゆるされぬことにて、さる事かつてなかりしを、繼嗣令に、臣娶(ラムコトハ)2五世(ノ)王(ヲ)1者聽(ス)とあるは、令の時、はじめての御制《ミサダメ》にや有けむ、そのかみ萬の事、さしも漢風《カラブリ》にうつされしかども、これらはさすがに、人(ノ)情の安からざることなれば、延暦のころになりてすら、なほ上(ノ)件のごとくなりけらし、令のかの同じつゞきに、王(ハ)娶(ル)2親王(ヲ)1、唯五世(ノ)王(ハ)、不v得v娶(ルコトヲ)2親王(ヲ)1とも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶《メトセ》しを、臣は、そのかみわづかに、五世(ノ)女王を娶《メトス》ることをゆるされしを以て、王と臣と、すぢの尊き卑きけぢめ、嚴《オゴソカ》なりしことを知べし、夫婦《メヲ》のむすびをなすことも、尊き卑きけぢめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸《ヤウ/\》に漢風にうつりはてゝ、つひに今のごとくにはなりぬる也、世の人たゞ、同姓不v娶などいふ、漢風のことをのみ、思ひいひて、皇國の古(ヘ)に、かばかり尊き卑きけぢめをわけしことをば、しらざめる故に、今いさゝかおどろかす也、かの漢國の王などは、もとよりすぢなきものにはあれども、當時《ソノトキ》の王の女をも、むげにすぢなき男にも、あはすなるは、あまりにわきためなく、みだりなる國俗《クニブリ》にぞ有ける、
 
    しづかなる山林をすみよしといふ事
世々の物しり人、又今の世に學問する人などもみな、すみかは、里とほくしづかなる山林《ヤマハヤシ》を、住《スミ》よくこのましくするさまにのみいふなるを、われはいかなるにか、さらにさはおぼえず、たゞ人げしげくにぎはゝしきところの、好ましくて、さる世ばなれたるところなどは、さびしくて、心もしをるゝやうにぞおぼゆる、さるはまれ/\にものして、一夜たびねしたるなどこそは、めづらかなるかたに、おかしくもおぼゆれ、さる所に、つねにすまゝほしくは、さらにおぼえずなむ、人の心はさま/”\なれば、人うとくしづかならむところを、すみよくおぼえむも、さることにて、まことにさ思はむ人も、よには多かりぬべけれど、又例のつくりことの、漢ぶりの人まねに、さいひなして、なべての世の人の心と、ことなるさまに、もてなすたぐひも、中には有(リ)ぬべくや、かく疑はるゝも、おのが俗情《サトビゴヽロ》のならひにこそ、
 
    おのが京のやどりの事
のりなが、享和のはじめのとし、京にのぼりて在しほど、やどれりしところは、四條(ノ)大路の南づらの、烏丸のひむかしなる所にぞ有けるを、家はやゝおくまりてなむ有ければ、物のけはひうとかりけれど、朝のほど夕ぐれなどには、門に立出つゝ見るに、道もひろくはれ/”\しきに、ゆきかふ人しげく、いとにぎはゝしきは、ゐなかに住なれたるめうつし、こよなくて、めさむるこゝちなむしける、京といへど、なべてはかくしもあらぬを、此四條(ノ)大路などは、ことににぎはゝしくなむありける、天の下三ところの大都《オホサト》の中に、江戸大坂は、あまり人のゆきゝ多く、らうがはしきを、よきほどのにぎはひにて、よろづの社々寺々など、古(ヘ)のよしあるおほく、思ひなしたふとく、すべて物きよらに、よろづの事みやびたるなど、天(ノ)下に、すまゝほしき里は、さはいへど京をおきて、外にはなかりけり、
 
    鴨河を掘し事
外記局(ノ)日記に、康治元年八月廿五日乙酉云々、近日依(テ)2院(ノ)仰(セ)1、被《ル》v堀(ラ)2鴨河(ヲ)1、【大炊(ノ)御門(ノ)未以南】諸國(ノ)吏各進(ル)2役夫(ヲ)1、是(レ)白河(ノ)御願寺等、爲(メ)v防(ンガ)2水害(ヲ)1也、民部卿顯頼(ノ)卿奉2行(ス)此事(ヲ)1、また同年九月二日辛卯、從2昨日1大雨、去曉以後大風、河邊(ノ)民戸、多(ク)以(テ)流(レ)亡、日來《ヒゴロ》所(ノ)v被《ル》v堀(ラ)之鴨川、淵變(テ)爲(リ)v瀕(ト)了(ヌ)、徒(ラニ)費(シテ)2役夫1、已(ニ)無(シ)v所v成(ル)、
 
    鳥羽(ノ)法皇崇徳上皇熊野御幸御出立の事
同記に、同二年二月五日壬辰、今日兩上皇令(メ)v參2詣(セ)熊野(ニ)1給(フ)、寅(ノ)剋御進發、權僧正覺宗、爲(リ)2兩方(ノ)御先達1、法皇、白布(ノ)御淨衣、同頭巾、絹(ノ)小袈裟、令(メ)v持(タ)2御杖(ヲ)1給(フ)、上皇(ハ)、白(キ)生絹(ノ)御淨衣、【狩衣袴】脛巾藁履御杖等、權中納言藤公能(ノ)卿、參議同教長(ノ)朝臣、扈2從(シテ)上皇(ニ)1御共、云々、三月四日辛酉、兩院自2熊野1還御、法皇不d令(メ)v參(ラ)2稻荷(ニ)1給(ハ)u、直(ニ)入2御鳥羽殿(ニ)1、去(ル)比法印圓行入滅、若(シ)依(ル)2件(ノ)事(ニ)1歟《カ》、件(ノ)人(ハ)、雖v稱(スト)2白河院(ノ)御子(ト)1、頗(ル)有2疑殆1云々《トイヘリ》、晏駕(ノ)之昔、有(テ)v議不v籠(ラ)2御忌(ニ)1云々《トイヘリ》、上皇(ハ)、令(メ)v參(ラ)2稻荷(ニ)1給(ヒ)畢(ヌ)と有(リ)、これを見れば、熊野御幸よりかへらせ給ひては、稻荷(ノ)社に詣(デ)給ひてさて御所には入らせ給ふ例にや有けむ、尋ぬべし、
 
    興福寺(ノ)維摩會(ノ)講師の請
同記に、同年五月廿六日云々、又|被《ル》v下(サ)2維摩(ノ)講師(ノ)宣旨(ヲ)1、云々、傳燈大法師位仁圓、【年臈、】法相宗、【專寺】攝政宣(ス)、件(ノ)大法師、宜(ク・ベシ)d仰(セテ)2綱所(ニ)1、令(ム)uv請(ジ)2定(メ)當年(ノ)維摩會(ノ)講師(ニ)1者《テヘリ》、康治二年五月廿六日、大炊(ノ)頭兼大外記助教中原(ノ)朝臣師安奉(ル)、
 
    筑紫の觀世音寺燒亡の事
同記に、同年七月十九日云々、今日、左大臣召(テ)2外記(ヲ)1、下(シ)2給(テ)太宰府(ノ)解(ヲ)1、可2勘例(ス)1、其状(ニ)云(ク)、去(ル)六月廿一日夜、觀世音寺、堂塔廻廊燒亡.件(ノ)寺(ハ)是(レ)都府(ノ)之大厦、天智天皇以後、元明天皇以往、五代(ノ)之聖主、相續(テ)草創(ノ)之御願也、五百餘年(ノ)之間、奉(テ)v祈2國家(ヲ)1不退、靈驗之砌也、但於(テ)v塔(ニ)者《ハ》、康平七年五月十一日、燒亡−、中尊丈六(ノ)金銅(ノ)阿彌陀如來(ノ)像、在(テ)2猛火(ノ)之中(ニ)1、尊容無v變、昔自2百済國1奉(ル)v渡(シ)v之(ヲ)云々《トイヘリ》、
 
    八十嶋(ノ)祭の使
同記に、同年十一月廿八日庚辰云々、今日、被《ル》v立2八十嶋(ノ)祭(ノ)使(ヲ)1、御乳母典侍藤原(ノ)家子、【故家政卿(ノ)女、清隆卿(ノ)室也、】行装(ノ)之儀、世以(テ)爲2壮觀(ト)1、藏人(ノ)頭右近(ノ)中將藤(ノ)經宗、騎馬送(ル)v之(ヲ)、依(テ)v爲(ルニ)2目|縁〔右○〕1也、藏人左近(ノ)將監藤(ノ)隆憲、爲(テ)2勅使(ト)1發向、典侍用(フ)2唐車(ヲ)1云々、子族等皆前駈(ス)、布衣也、
 
    六角堂燒亡
同記に、同年十二月八日庚寅云々、丑尅、六角東(ノ)洞院、有(リ)2炎上1、火出(ヅ)2隆季(ノ)朝臣(ノ)宅(ヨリ)1、六角堂爲(ル)2灰燼(ト)1、但(シ)觀音靈像(ハ)、奉(リ)v出(シ)了(ヌ)、件(ノ)像(ハ)、上宮(ノ)太子隨身(ノ)持佛也、昔(ハ)奉(リ)v懸(ケ)2多羅木(ニ)1、今(ハ)在(リ)2堂中(ニ)1云々《トイヘリ》、
 
    鳥羽の勝光明院の寶物の事
久安二年八月廿三日庚申、是日、法皇、御2覧鳥羽(ノ)勝光明院(ノ)寶藏(ニ)所(ノ)v納(ル)寶物(ヲ)1、即(チ)有(リ)d被《ルヽ》v書2目録(ヲ)1事u、件(ノ)目録、先年白川御所炎上之時、燒失也、顯密之聖教、古今之典籍、道具書法、弓劔管絃之類、皆是(レ)往代之重寶也と同じ書に見えたり、
 
    萩の大木の事
みちのくの宮城野わたりの萩は、高さ二丈あまりばかりなる多し、又同國の津輕の弘前《ヒルサキ》の二里ばかりこなたに、大鰐《オホワニ》といふところに、大日堂のある、前なる林の中に、一本の大木の、十餘丈ばかりの高さの、かこみ四圍ばかりなるあるを、見れば、葉も花も全《モハラ》萩也、又さつまの國にも、萩の大(キ)なる木有(リ)といへりとある物にしるしたり、まことにや、
 
    遠江國より大神宮に神御衣を織て奉る事
遠江國人、内山(ノ)眞龍がいへるは、かの國の濱名(ノ)郡神戸(ノ)郷岡本村といふに、機殿有て、年毎に、四月と九月と、神御衣をおりて、伊勢(ノ)内宮に奉る、そのはた殿は、かの村に、神氏目大夫といふ者、世々相傳へて、としごとに新しく造る、萱葺の屋也、神庫もあり、ふるめきたるつくりざま也、神御衣は、年ごとに、三河(ノ)國の大野村といふより、生糸を、此岡本村におくり奉るを、件の機殿にて織て奉る、和《ニギ》たへ也、と云き、
 
    出雲國意宇郡神魂(ノ)神社
出雲(ノ)國意宇郡|大庭《オホバ》村に、神魂《カモシノ》社といふ有(リ)、年ごとの十一月に、國造此社に來て、新嘗祭あり、其時熊野(ノ)社より、火きり臼火きり杵《ギネ》を、國造に奉る、火きり臼といふは、檜の板也、火きりぎねは、空木《ウツギ》也とぞ、熊野(ノ)社に、頼朝(ノ)卿の御教書とてあり、出雲(ノ)國一(ノ)宮、熊野天照大神、日本火出初(ノ)之社也、禁裏正月七日御祭事(ノ)火(ヲ)上(ゲ)、社の別當就(テ)2罷(リ)出(ルニ)1、意宇(ノ)郡熊野(ノ)庄、五百貫、并(ニ)山川共(ニ)、令(メ)2寄附(セ)1訖(ヌ)と有(リ)、此外にも、古き文書數通ありとぞ、さて件の神魂(ノ)社は、古(ヘ)國造の本居《ウブスナ》にて、その由緒を以て、今の世にいたるまでも、國造みまかられて、其子跡をつがるゝに、かならず此社に來て、國造になりて、杵築にかへらるゝ也と、かの社の神主、秋上《アキアゲ》氏の物語也、
 
    出雲の大社の御事
出雲(ノ)大社、建久のはじめのころ、鎌倉より、庄園に課役をおほせて、改め造らる、其後又嘉禄のころ、先の例によりて、課役をおほせて、造られむとせしに、御殿《ミアラカ》の柱に蟲くひのもじあり見れば、居大(ニシテ)煩(ハス)v物(ヲ)、朕(ガ)非(ズ)2素意(ニ)1、若(シ)人歸(セバ)v徳(ニ)、栖(ムトモ)2高木(ニ)1足(ラム)と有(リ)、國造出雲(ノ)臣政孝、國司右衛門尉昌綱、守護佐々木信濃(ノ)前司泰清とゝもに議りて、官家に申されければ、鎌倉の北條、いたく驚きあやしみて、官庫の金穀を出して、造り奉りて、庄園の課役をば停られけり、これを世に、蟲くひの託宣といへり、此事、國造の家(ノ)記にしるせりと、千家(ノ)清主出雲(ノ)宿禰俊信のものがたり也、俊信は、今の國造の叔父にて、宣長がをしへ子也、のりなが此事を聞ていはく、北條が、課役をやめて、官庫の物を出して、造(リ)奉れるは、いとよろし、もとより然あるべきこと論なし、されど此蟲喰の託宣は、後(ノ)世人の漢意にして、神の御心にあらず、古事記の上卷又垂仁(ノ)御卷などに、此大神の申(シ)給へる御言の意と、うらうへのたがひなれば也、されば此託宣は、そのかみ北條にへつらひて、造れることゝこそおぼゆれ、すべて神の御心を、かく佛聖人と同じごとしなさむとするは、後(ノ)世人の心也、又此大神、漢文をも、かばかり作り給ふほどならむに、朕(ノ)字の、非(ノ)字の、上にある拙さこそ、いと/\をかしけれ、
 
    同社金輪の造營の圖
出雲(ノ)大社、神殿の高さ、上古のは三十二丈あり、中古には十六丈あり今の世のは八丈也、古(ヘ)の時の圖を、金輪《カナワ》の造營の圖といひて、今も國造の家に傳へもたり、其圖、左にしるすが如し、
   此圖、千家國造の家なるを、寫し取れり、心得ぬことのみ多かれど、皆たゞ本のまゝ也、今(ノ)世の御殿も、大かたの御構(ヘ)は、此圖のごとくなりとぞ、
   (入力者注、圖は3頁ある。省略。)
 
    讃岐(ノ)國人女をよばふに藁を結びておくる事
さぬきの國の人、女をよばふに、藁をむすびておくるわざあり、此事、かの國にても、城下などいふやうのところの人は、しらぬを、なべての所の里人どもは、皆する事也、かくのごとく結びておくるに、いなといふ返事には、かくのごとく引分てかへし、あはむといふかへりことには、かくのごとく、結びめを、中へ引よせてかへすなり、もし萬葉に玉梓《タマヅサ》といへるは、かゝる事にはあらじか、今の世に、草の實の仁《サネ》に、玉づさといふがあるも、件のわらの結びざまに似たりと、かの國の山田六郎高村が許よりいひおこせたり、(入力者注、圖4つ省略。登山家のザイルの結び方の一つと同じ)
 
    信濃國の或村々の神事にうたふ歌
ある人のいはく、しなのゝ國の、天龍川の河上なる、川村和田きさはなどいふ里々の神事に、湯釜に湯をわかしたぎらせて、そのめぐりに、幣を立おきて、夜ふけて、その釜のほとりに、里人男女、老たる少《ワカ》き、うちまじりつどひて、その幣をとり持て、うたふ歌、
おゆめすときのな、おみかげこぐそ/\、やくもだのぼれ/\、
 
    嵯峨天皇四十御賀
類聚國史に、天長二年十一月己巳朔丙申、奉(ル)v賀(シ)2太上天皇五八(ノ)之御齡(ヲ)1、白日既(ニ)傾(テ)、繼(グニ)v之(ニ)以(ス)v燭(ヲ)、雅樂奏(ス)v樂(ヲ)、中納言正三位良峯(ノ)朝臣安世、下(テ)v自2南階1舞(フ)、群臣(モ)亦率舞(フ)云々、
 
    諸國(ノ)小社の禰宜祝の事
貞觀十年六月廿八日の格に、天長二年十二月甲子符(ニ)※[人偏+稱の旁]承前(ノ)之例、諸國(ノ)小社、或(ハ)置(テ)v祝(ヲ)无(ク)2禰宜1、或(ハ)禰宜祝並(ベ)置(ク)、舊例紛謬、准據无(シ)v定、加以《シカノミナラズ》或(ハ)國獨(リ)置(テ)2女祝(ヲ)1、永(ク)主(ラシム)2其祭(ヲ)1右大臣宣旨、自v今以後、禰宜祝並(ベ)置(ク)社(ハ)者、以v女(ヲ)爲(ヨ)2禰宜(ト)1、但(シ)先(キニ)置(ケルハ)者、令(メヨ)v終(ヘ)2其(ノ)身(ヲ)1者《テヘリ》、また三代實録に、貞觀七年五月廿五日、是(ノ)日制(ス)、五畿七道諸(ノ)神社(ノ)祝部、停(メヨ)v補(スルコト)2白丁(ヲ)1、以(テ)2八位已上、及(ビ)年六十已上(ノ)人(ヲ)1充(テヨ)v之(ニ)、先v是(ニ)置(ク)者(ハ)、令(メヨ)v終(ヘ)2其身(ヲ)1、自v今以後、立(テ)爲2恒例(ト)1、
 
    越前國|荒道《アラチ》山
類聚國史に、天長九年六月己丑、越前(ノ)國(ノ)正税三百束(ヲ)、給(フ)d作(ル)2彼(ノ)國(ノ)荒道《アラチ》山(ノ)道(ヲ)1人、坂井(ノ)郡秦(ノ)乙麻呂(ニ)uと見ゆ、古書に、愛發(ノ)關とあるは、此荒道山にて、ともにあらちとよむ、今もある地(ノ)名也、
 
    長歌は今はたやすくはよまぬことゝいふ事
逍遙院(ノ)大臣の、きぬかづきの日記の跋に、事のついでに申出侍る、長歌といふ物、このごろとなりて、たはやすくよまぬ事のやうになれるは、いかなる故の侍るならむ、いとおぼつかなき事也と見ゆ、
 
    年號月日をあやに書る古き例
源(ノ)爲憲の、天禄歌合の跋のとぢめに、天禄といふ年はじまりて、三とせの、秋のなかばなる月の、しもの十日に、いまふつかおきての事也とかけり、としはじまりてといへることいかゞ也、又いま二日おきてもいかゞ、
 
    もなかといふ詞
童蒙抄に、「水の面にてる月なみを云々、もなかとよめるを、時の人、和歌の詞とおぼえずと、難じけるを、歌がらのよければ、えらびにいれりと有(リ)、いにしへは、歌の詞をば、かばかりえらびし也、
 
    し づ り
綺語抄に、「おく山のしつりのしたの袖なれや、思ひの外にぬれぬと思へば、四條大納言歌枕に、木にふりたる雪の、落るを、しつりと云也、
 
    ぬばたま むばたま
同抄に、天徳歌合に、「むばたまのよるの夢だにまさしくは、我思ふことをと、中務がよめる歌を、小野宮(ノ)左大臣判者にて、よるをば、ぬばたまとこそいへとて、此歌を、まけに判ぜられたりと有(リ)、此判者の難は、すべてぬばたまといふべきを、むばたまといへるを、ひがことゝいふにや、然らば古(ヘ)の意にてよろし、もし又よるをばぬばたまといひ、夢をばむばたまといふなどいふ説につきての難か、然らば中々にひがこと也、
 
    しのゝめの説
同抄に、しのゝめ、能因が注に云(ク)、あけはなるゝほどのそらの雲の、しのゝめに似たる也と有、しのゝめにゝたりといふしのゝめは、何物をいへるにか、
 
    ね ず み 色
吉部秘訓抄に、文治四、三、二、同記(ニ)云(ク)、云々心喪(ノ)色有2輕重1、鼠色鈍色、【諒闇(ノ)之時着(スル)色歟】又練色淺黄等、同(ク)以(テ)通用(スル)歟《カ》とみゆ、これらの色、みなにび色にて、少しづゝかへて染たるもの也、淺黄といふは、青にびといひし物也、諒闇之時云々は、當時《ソノカミ》一種|鈍色《ニブイロ》といひし名につきて、諒闇之時、鈍色を着するよし見えたるは、是(レ)歟《カ》といふ注也、
 
    親王宣旨の書(キ)やう
同書に、文治五、十一、十九、同記(ニ)云(ク)、高倉院宵々、可(シ)v被《ル》v下(サ)2親王(ノ)宣旨(ヲ)1、云々、宣下(ノ)御名字、云々、書(ク)2壇紙一枚(ニ)1、云々、其(ノ)書(キ)樣、 守貞 惟明 已上爲2親王(ト)1と見ゆ、件の二(ツ)の御名、並びて各一行に書て、已上云々は、又一行にて、少し下して書たり、
 
    十《トヲ》をつゝといふ事
文選の古き訓に、十をつゝとよめり、下の|つ〔右○〕は、一つ二つなどの|つ〔右○〕なり、上の|つ〔右○〕は、と〔右○〕と通ふ音なれば、即(チ)十《ト》也、俗《ヨ》につゞやはたちといひて、つゞを、十九のことゝするはいかゞ、こはもと十《ツヽ》や廿《ハタチ》といひしを、十九廿に誤れるか、
 
    をやみといふこと
をやみといふ詞、雨のみならず、源氏物語の、上の若菜(ノ)卷に、朱雀院のみかどの、御やまひのことを、いとかくうちはへ、をやみなきさまには、おはしまさざりつるを云々と、病にもいへり、
 
    天文博士連歌
ある天文博士が妻を、朝日のあじやりといふ僧、かよひすみけり、夫の他行のひまに、例の來てうちとけてゐたるに、俄に夫かへりければ、にぐべきやうなくて、西の方のやり戸をあけて、にげゝるを、見つけて夫、「あやしくも西に朝日の出るかな、阿闍梨とりあへず、「天文博士いかゞ見るらむ、さてよびとゞめて、酒などのませ、連歌などして、ゆるしてけりと、沙石集にしるせり、方もこそあれ、西のやり戸に、朝日のあざりに、天文ばかせ、みな此連歌せむ料に、ことさらにまうけたるやうなるも、をかし、
 
    物の次第を一番二番といふ事
今の俗《ヨ》、何事にも、第一第二といふべき、次第を、なべて一番二番といふは、もと番といふべき事よりうつりて、なべての事にいふ也、此言、宇治拾遺物がたりに、奥の座の三番に居たる鬼、といへることあれば、五百年ばかりむかしよりも、いへりしこと也けり、
 
    親王三國(ノ)大守に任ぜらるゝ事
類聚三代格に、太政官符(ス)、應(キ)3親王任(ズ)2國(ノ)守(ニ)1事、上總(ノ)國、常陸(ノ)國、上野(ノ)國、右※[手偏+檢の旁](ルニ)2中納言從三位兼行左兵衛(ノ)督清原(ノ)眞人夏野(ノ)奏状(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)、設(ケ)2置(テ)八省(ヲ)1、職寮相隷(シ)、百官守(リ)v職(ヲ)、庶務倶(ニ)成(ル)、一事有(レバ)v闕、萬事皆緩(フ)、今親王任2八省(ノ)卿(ニ)1、此(レ)人地望素高(クシテ)、不v得v就(スコトヲ)v職(ヲ)、無(シ)v知(ルコト)2碎務(ヲ)1、仍(テ)官事自懈、政迹日蕪(ル)、非(ズ)2是(レ)庸愚(ノ)之所(ニ)1v致(ス)、因(レリ)3地勢(ノ)使(ルニ)2之然(ラ)1也、凡官人遷代、必署2解由(ヲ)1、至(テ)v有(ルニ)2欠物1、不v免(レ)v償(フコト)v物(ヲ)、居〔右○〕此之費、見(ニ)其(レ)如(シ)v此(ノ)、望(ミ)請(フ)、點2定數國(ヲ)1、爲(テ)2親王(ノ)國(ト)1、迭(ニ)任(ジテ)2彼(ノ)國(ニ)1、身留2京都(ニ)1、意(ニ)欲(ス)v居(ムト)2京官(ニ)1者、一兩人將v聽(サムト)、若(シ)有(ラバ)2守闕(ルコト)1者、不v補2他人(ヲ)1、其(ノ)料物(ハ)者、納2置(テ)別(ノ)倉(ニ)1、支(ヘム)2無品親王(ノ)之要(ヲ)1、伏聽2天裁(ヲ)1者《テヘリ》、正三位行中納言兼右近衛(ノ)大將春宮(ノ)大夫良峯(ノ)朝臣安世宣奉勅、依v奏(ニ)、但(シ)件等(ノ)國(ノ)守、官位卑下、宜(シ)d改(テ)定(メ)2正四位下(ノ)官(ト)1、以(テ)爲(シ)2勅任(ト)1、號(シテ)稱(シ)2大守(ト)1、限(ルニ)以(テス)c一代(ヲ)u、不v可2永例(タル)1、天長三年九月六日、
 
    諸 王 の 事
繼嗣令(ニ)云(ク)、凡皇兄弟皇子、皆爲2親王(ト)1、【女帝(ノ)子亦同】以外(ハ)並爲2諸王(ト)1、自(リ)2親王1五世(ハ)、雖v得(ト)2王名(ヲ)1、不v在2皇親(ノ)之限(ニ)1、文徳實録(ニ)云(ク)、齊衡三年四月甲午、彈正臺奏(ス)、五世(ノ)王(ハ)者、雖v有(ト)2王號1、非2皇親(ノ)之限(ニ)1、其(ノ)朝服(ノ)色宜(シト)v依(ル)2王臣(ノ)位階(ニ)1、從(フ)v之(ニ)、三代實録(ニ)云(ク)、貞觀四年四月十二日、下(シテ)v詔(ヲ)、令(ム)d參議已上(ヲシテ)、各論(ジ)2時政之是非(ヲ)1、詳(ニセ)c世俗(ノ)之得失(ヲ)u、云々、先v是諸王、自2二世1至2四世(ニ)1賜(フニ)2夏冬(ノ)衣服(ヲ)1、不v限(ラ)2人數(ヲ)1、隨(テ)2年(ノ)數符(ニ)1、出(シテ)2多少(ヲ)1賜v之、或(ハ)至(ル)2五六百人(ニ)1、是(ノ)時載(テ)v簿(ニ)進(ル)v官(ニ)者(ノ)、四百餘人(ナリ)、豐前上(テ)v疏(ヲ)曰(ク)、諸王給(フニ)v服(ヲ)、人數不v定(ラ)、徒(ニ)費(ス)2帑藏(ヲ)1、何(ゾ)無(ラム)2紀極1、望(ミ)請(フ)以2當時(ノ)所(ヲ)1v在(ル)、爲(シ)2定數(ト)1隨(テ)v闕(ニ)補(ヒテ)v之(ヲ)不v聽(サ)2輙(ク)過(ルコトヲ)1、從(フ)v之(ニ)、豐前とあるは、豐前(ノ)王といふ人の名也、又同十二年二月廿日、公卿奏d請(シテ)減2諸王(ノ)季禄(ヲ)1、兼(テ)立(テムト)c給(フ)v緑(ヲ)定額(ヲ)u曰(ク)、云々、今府帑稍空(ク)、貢職少(シ)v入(ルコト)、當(シ)d停3諸王(ノ)之禄(ヲ)1、存(ス)c救弊之計(ヲ)u者《テヘリ》、云々、但(シ)專停(ムルトキハ)v之、則似(タリ)v疎(クスルニ)2皇親(ヲ)1、全(ク)給(フ)v之(ヲ)、則可(シ)v闕(ク)2國用(ヲ)1云々、又王氏(ノ)蕃昌、萬2倍(ス)曩日(ニ)1、計(ルニ)2其(ノ)禄賜(ヲ)1、所v費難(シ)v支(ヘ)、伏(テ)望(ム)當時預(ル)v禄(ニ)者、四百二十九人、爲(テ)2定員(ト)1云々、奏|可《ユルサレヌ》、また元慶四年十月廿七日、免(ズ)2攝津(ノ)國河邊(ノ)郡(ノ)人、九世、從七位下川原(ノ)公福貞云々等五戸(ノ)課※[人偏+搖ノ旁](ヲ)1、福貞等自言(ス)、云々、謹(テ)※[手偏+檢の旁](ルニ)2天長九年十二月十五日(ノ)詔書(ヲ)1※[人偏+稱の旁](ク)、夫(レ)王氏(ハ)者、王號乃(チ)止(マル)2於五世(ニ)1、資蔭不v過(ギ)2六世(ニ)1、云々、宜(シ)d七世以下、計(テ)v數(ヲ)至(ルマデ)2于五世(ニ)1、課役※[益+蜀]除(ス)u、其(ノ)既(ニ)賜(ヘル)v姓(ヲ)者(モ)、不v論2先後(ヲ)1、一(ニ)依(リ)2王蔭(ニ)1、計(テ)v世(ヲ)容(ルヽコト)v之(ヲ)、亦同(クセヨ)2此例(ニ)1者《テヘリ》、云々、望(ミ)請(フ)、同(ク)被(ラムト)2※[益+蜀]除(ヲ)1、許(ス)v之(ヲ)、件の天長九年の詔書には、王號乃止(マル)2於五世(ニ)1とあれども、續後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某(ノ)王、七世某(ノ)王といふ名、多く見えたるは、いかなるにか、此事なほよく考ふべし、
 
    箱根山を箱荷山といひし事
記略に、延暦廿一年五月甲戌、廢(シテ)2相模(ノ)國足柄(ノ)路(ヲ)1、開(ク)2筥荷《ハコニノ》途(ヲ)1、以(テ)2富士燒(ケテ)、碎石塞(クヲ)1v道(ヲ)也、同廿二年五月丁卯、廢(シテ)2相模(ノ)國筥荷(ノ)路(ヲ)1、復(ス)2足柄(ノ)舊路(ニ)1とある、筥荷は、今の箱根と聞ゆ、
 
    花 の 宴
類聚國史に、弘仁三年二月辛丑、幸(シテ)2神泉苑(ニ)1、覧2花樹(ヲ)1、命(ジテ)2文人(ニ)1賦v詩(ヲ)、賜v綿(ヲ)有v差、花(ノ)宴(ノ)之節、始(マル)2於此(ニ)1矣、また同六年二月庚午、幸(シテ)2神泉苑(ニ)1花(ノ)宴(アリ)、命(ジテ)2文人(ニ)1賦v詩(ヲ)、侍臣及(ビ)文人(ニ)賜v綿(ヲ)有v差、
 
    芳宜(ノ)花の宴
續後紀に、承和元年八月己卯朔庚寅、上曲2宴清涼殿(ニ)1、號(シテ)曰2芳宜《ハギノ》花(ノ)讌(ト)1、賜(フ)d近習以下、至(ルマデニ)2近衛(ノ)將監(ニ)1禄(ヲ)u、有v差、また同十一年八月辛巳朔、天皇御(テ)2紫宸殿(ニ)1、覧2芳宜(ノ)花(ヲ)1、宴(ス)2老臣(ヲ)1、皆有(リ)2復古(ノ)之歎1、日暮(レテ)、賜(フ)2五位已上(ニ)衣被(ヲ)1、有v差、
 
    御佛名のはじまり
同紀に承和五年十二月乙酉朔己亥、天皇於(テ)2清涼殿(ニ)1、修2佛名懺悔(ヲ)1、限(ルニ)以(ス)2三日三夜(ヲ)1、律師靜安、大法師願安實敏願定道昌等、遞(ニ)爲2導師(ト)1、内裏(ノ)佛名懺悔、自(リシテ)v此(レ)而始(レリ)と見ゆ、然るに一代要記に、淳和天皇の御世より始まるといひ、公事根源に、寶龜五年よりといへるなどは、ひがことなるべし、三代實録に貞觀十八年六月廿一日丙寅、一萬三千佛(ノ)像、二十九鋪、各廣(サ)五幅、高(サ)一丈六尺、分2置東海山陰南海、三道諸國(ニ)1、國別(ニ)一鋪、先v是元興寺(ノ)僧賢護(ガ)申牒(ニ)※[人偏+稱の旁]、先師故(ノ)律師傳燈大法師位靜安、承和年中、奉(テ)v勸2國家(ヲ)1、禮拜佛名、始(メテ)行(ハル)2内裏(ニ)1、漸遍(シ)2人間(ニ)1、遂(ニ)詔(シテ)諸國並令(ム)2勤修(セ)1、云々、望請(フ)、分2置(キ)内裏及(ビ)諸國(ニ)1、毎(ニ)v至(ル)2御願懺悔(ノ)之會(ニ)1、展(ベ)2張(テ)眞容(ヲ)1、於(テ)v前(ニ)修(セムトス)v之(ヲ)、許(ス)2其(ノ)所(ヲ)1v請(フ)焉
 
    灌佛のはじまり
同紀に承和七年四月丙午朔癸丑、請(ジテ)2律師傳燈大法師靜安(ヲ)於清涼殿(ニ)1、始(メテ)行(ハル)2灌佛(ノ)之事(ヲ)1、
 
    更  衣
同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇朝2覲太上天皇及(ビ)太皇太后宮(ニ)於嵯峨(ノ)院(ニ)1云々、是(ノ)日、詔(シテ)授2從五位下秋篠(ノ)朝臣康子(ニ)、正五位下、无位山田宿禰近子(ニ)、從五位上(ヲ)1、並《ミナ》太上天皇(ノ)更衣也、と見ゆ、この更衣といふ物は、いづれの御代のころより有(リ)そめけむ、物に見えたる事は、これ始(メ)也、そも/\後宮(ノ)職員令には、妃二員、右四品以上、夫人三員、右三位以上、嬪四員、右五位以上、宮人とあるを、中昔よりこなたは、これらの號は絶て、大かた妃夫人にあたるほどなるをば、女御とし、嬪にあたるほどなるをば、更衣とせらる、三代實録六の卷に光孝天皇(ノ)更衣といふことも見え、また仁和三年には、勅(シテ)以(テ)2更衣從五位上藤原(ノ)朝臣元善(ヲ)1、爲2女御(ト)1、中納言從三位山陰(ノ)之女也とも見えたり、
 
    女  御
女御といふ班《ツラ》を、たしかに定められたるは、何れの御世のころよりのことにか有(リ)けむ、雄略天皇の御世の稚媛《ワカヒメ》を、始(メ)といふは、ひがことなり、書紀の彼(ノ)御卷に女御とあるは、たゞ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ實に此號ありしにはあらず、すべて彼紀は、かゝる文字につきて後の人の思ひまどふこと多きぞかし、そも/\女御といふは、もと漢國にて、王の御《メ》す女を、ひろくいへる目《ナ》にて、一つ定まれる號にはあらず、皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなにはなれる也、かの雄略紀なるも、たゞ御《メ》す女とし給へるよし也、
 
    唐法に依(ル)べき詔書の事
同紀に、承和九年、文章樽士從三位菅原(ノ)朝臣清公薨、その傳に、弘仁九年、有2詔書1、天下(ノ)儀式、男女(ノ)衣服、皆依(リ)2唐(ノ)法(ニ)1、五位已上(ノ)位記、改(メテ)從(ヒ)2漢樣(ニ)1、諸(ノ)宮殿院堂門閣、皆着(ケ)2新額(ヲ)1、又※[(ヒ/矢)+肆の旁](ハス)2百官舞踏(ヲ)1、如(キノ)v此(ノ)朝儀、並《ミナ》得(タリ)2關(カリ)説(クコトヲ)1、と見えたる、此事國史には見えず、記略に、弘仁九年三月丙午、詔曰云々其朝會之禮、及(ビ)常取服者〔四字右○〕、又卑逢(テ)v貴(ニ)而跪(ク)等、不v論2男女(ヲ)1、改(テ)依(レ)2唐(ノ)法(ニ)1、但(シ)五位已上(ノ)禮服、諸(ノ)朝服之色、衛仗(ノ)之服、皆縁(テ)2舊例(ニ)1、不v可2改張(ス)1と有(リ)、弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給ひしみかどにぞおはしましける、
 
    竟  宴
竟宴といふこと日本紀のみならず、承和十四年五月には、莊子の竟宴、清涼殿にて行はれ、貞觀二年十二月には、孝經の竟宴あり、同十七年四月には、群書治要の竟宴、陵綺殿にて有(リ)、同十八年七月には、顔氏家訓の竟宴、藏人所にてあり、史どもに見えたり、
 
    神社の號某明神といふ事
續後紀、承和十五年のところに、山崎明神と見え、文徳實録、齊衡二年に、吉備津彦名明神など見え、三代實録、仁和二年の宣命には、松尾大明神とも有(リ)、これらより前にも、見えたるやうにもおぼゆれども、今さだかにはおぼえず、又文徳實録、仁壽元年の處に、詔(シテ)以2近江(ノ)國|散久難度《サクナドノ》神(ヲ)1、列(ス)2於明神1、三代實録、貞觀七年の處に、奉v充2諸(ノ)明神(ニ)神田(ヲ)1、などあるをもて見れば、もろ/\の神社の中に、殊に明神といふ列の有しにやあらむ、
 
    東 宮 雅 院
文徳實録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩、于時皇太子云々、獻(ル)2天子(ノ)神璽寶劔、符節鈴印等(ヲ)1、須臾(シテ)駕(シテ)2輦車(ニ)1、移2御東宮雅院(ニ)1云々、四月戊午、帝自2雅院1移2御中殿(ニ)1、三代實録に、貞觀元年六月廿二日云々、於(テ)2東宮雅院(ニ)1始2修法(ヲ)1、云々、七月云々、是月雅院櫻樹|華《ハナサク》云々、同五年五月廿二日、天皇御(シテ)2雅院(ニ)1、召2見神泉苑(ノ)御靈會(ヲ)1、舞童雅樂寮奏(ス)2音樂(ヲ)1、
 
    又八十嶋(ノ)祭
文徳實録に、嘉祥三年九月乙亥朔壬午、遣(ハシテ)2宮主正六位下占部(ノ)雄貞、神琴師正六位上菅生(ノ)朝臣末繼、典侍正五位下藤原(ノ)朝臣泉子御巫無位榎本(ノ)連淨子等(ヲ)1、向(ハシム)2攝津(ノ)國八十嶋(ニ)1、
 
    大 歌 所
同書に云々、從四位下治部(ノ)大輔興世(ノ)朝臣書主卒、云々弘仁七年云々、能(ク)彈(ズ)2和琴(ヲ)1、仍(テ)爲2大歌所(ノ)別當(ト)1、常(ニ)供2奉(ス)節會(ニ)1、三代實録、貞觀七年十一月十五日壬辰、天皇御(シテ)2紫宸殿(ニ)1、賜2宴(ヲ)群臣(ニ)1、大歌所(ノ)五節(ノ)舞、如(シ)2常儀(ノ)1、と見えたり、大歌は、續紀に、天應元年十一月丁卯、御(シテ)2大政官(ノ)院(ニ)1行2大嘗(ノ)之事(ヲ)1、云々己巳宴2五位已上(ヲ)1、奏2雅樂及(ビ)大歌(ヲ)於庭(ニ)1また江次第の、五節(ノ)帳臺(ノ)試(ノ)條に大歌小歌と有(リ)、
 
    天(ノ)下の諸神おしなべて正六位上に叙せらるゝ事
文徳實録に、仁壽元年正月甲戌朔庚子、詔(シテ)、天下(ノ)諸神、不v論(ゼ)2有位無位(ヲ)1、叙2正六位上(ニ)1
 
    神社にてほうしをして佛の經をよましむる事
同紀に、齊衡元年四月、遣(ハシテ)2傳燈大法師位智戒興智眞秀、傳燈法師位明昭玄永、傳燈滿位僧基藏基秀(ヲ)1、向(テ)2七道諸國(ノ)名神(ノ)社(ニ)1、轉2讀(セシム)般若(ヲ)1、祈(ルナリ)2民(ノ)福(ヲ)1也、また同三年九月、請(ジテ)2僧(ヲ)於賀茂松尾(ノ)大神(ノ)社(ニ)1、讀(マシム)2金剛般若經(ヲ)1、限(テ)2三日(ニ)1訖(ル)、また天安元年五月にも、同じ事あり、すべてかゝるたぐひの事は、いかなる事にか有けむ、
 
    漢ぶりの天神の祭(リ)天皇を天に配といふこと
續紀に延暦六年十一月甲寅、祀(ル)2天神(ヲ)於交野(ニ)1、其祭文(ニ)曰(ク)、維延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣諱、遣(ハシテ)2云々(ヲ)1、敢(テ)昭(ニ)告2于昊天上帝(ニ)1、臣恭(ク)云々、高紹(ノ)天皇(ノ)配神作主尚(クハ)饗《ウケタマヘ》、又曰(ク)維延暦六年云々、孝子皇帝臣諱、遣(ハシテ)2云々(ヲ)1、敢(テ)昭(ニ)告2于高紹(ノ)天皇(ニ)1、臣云々尚(クハ)饗、文徳實録、齊衡三年十一月辛酉、遣(ハシテ)2云々等(ヲ)1、向(ハシメ)2後(ノ)田原山陵(ニ)1、告(ルニ)以(ス)2配(スル)v天(ニ)之事(ヲ)1、策(ニ)曰(ク)、天皇(ガ)大命、掛(マクモ)畏(キ)、平城(ノ)宮【爾】天(ノ)下所知【志】、倭根子天皇(ガ)御門【爾】申(シ)賜【閇止】奏、今月廿五日、河内(ノ)國交野【乃】原【爾】、昊天(ノ)祭(リ)爲(ス)【止志天、】掛畏(キ)御門【乎】、主【止】定(メ)奉【天】、可(キ)v祭(ル)事【乎】、畏【牟】畏【牟毛】申賜【久止】奏(ス)、壬戌云々、帝自署(シ)2其諱(ヲ)1訖、執(テ)v板(ヲ)北面(シテ)拜(ス)v天(ヲ)、乃遣(ハシテ)2云々(ヲ)1、向(テ)2河内(ノ)國交野(ノ)郡(ノ)柏原野(ニ)1、設(テ)v蘊(ヲ)習禮(ス)、甲子有(リ)v事2圓丘(ニ)1云々とあるは、から國ぶりの祭にして、皇國の意にあらず、
 
    子 日 の 宴
同書に、天安元年春正月乙丑云々、禁中有(リ)2曲宴1、預(ル)v之(ニ)者、不v過2公卿近侍數十人(ニ)1、昔者《ムカシ》上月(ノ)之中、必有2此事1、時(ニ)謂2之(ヲ)子日(ノ)態《ワザト》1也、今日(ノ)之宴、修(スル)2舊(キ)迹(ヲ)1也とある、これはかならず子《ネ》にあたる日にあるべき事なるに、乙丑(ノ)日のところに記されたるは、いふかし、今思ふに、此上に、庚申(ノ)日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重(テ)上表(シテ)曰(ク)とて、其文を記したる次にあれば、件の二度の上表(ノ)文を引つゞけて記したるにつきて、其|中間《アヒダ》の甲子(ノ)日にしるすべきが、まぎれたるにはあらざるか、
 
    常陸(ノ)國なる大洗磯前(ノ)神
同紀に、齊衡三年十二月戊戌、常陸(ノ)國|上言《マヲス》、鹿嶋(ノ)郡|大洗磯前《オホアラヒソザキ》、有(テ)v神新(ニ)降(ル)、初(メ)郡(ノ)民有2煮(テ)v海(ヲ)爲(ル)v鹽(ト)者1、夜半(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)、光耀屬v天(ニ)、明日有(リ)2兩(ツノ)怪(キ)石1、見(ル)v在(ルヲ)2水(ノ)次(ホトリニ)1、高(サ)各尺許(リ)、體(ス)2於神造(ニ)1、非2人間(ノ)石(ニ)1、鹽翁私(カニ)異(シム)v之(ヲ)、去後一日、亦有2廿餘(ノ)小石1、在(テ)2向《サキノ》右(ノ)左右(ニ)1、似(タリ)v若(キニ)2侍坐(スルガ)1、彩色非(ズ)v常(ニ)、或(ハ)形(ス)2沙門(ニ)1、唯無(シ)2耳目1、時(ニ)憑《ヨリテ》v人(ニ)云(ク)、我(ハ)是(レ)大奈母知少比古奈《オホナモチスクナヒコナノ》命也、昔造(リ)2此國(ヲ)1訖(テ)、去(テ)往(ク)2東海(ニ)1、今爲(メニ)v済(ハムガ)v民(ヲ)、更(ニ)亦來(リ)歸(ルト)、また天安元年八月乙丑朔辛末、在2常陸(ノ)國(ニ)1大洗磯前酒列磯前等(ノ)神(ヲ)、預(ラシム)2官社(ニ)1、十月乙丑朔己卯、在2常陸(ノ)國(ニ)1大洗磯前酒列磯前兩神(ヲ)、號2藥師菩薩名神(ト)1神名帳に、常陸(ノ)國鹿島(ノ)郡、大洗磯前藥師菩薩(ノ)神(ノ)社【名神大、】那賀(ノ)郡、酒列礒前藥師菩薩(ノ)神(ノ)社【名神大、】と見えたる、藥師は、くすしと訓(ム)べし、藥の神のよし也、かのやくしといふ佛の名をとれるにはあらじ、さて酒列礒前の社は、かの二柱のうちを、分(ケ)て祭れるなるべし、他《アダシ》神とは聞えず、また件の二社おの/\一座なれば也、さてこの大洗礒前のあたりは、大かた十里ばかりがほど、すべて石のなき國なるを、今も年ごとに、一夜のまに、此崎にこゝらの石のよるを、正月の十六日に、民ども取(リ)て、つねに用《ツカ》ふに、たらざることなし、これ此二柱(ノ)神の、然して民にあたへ給ふ也と、いひつたへたりと、かの國人かたりき、
 
    しちすつの濁音の事
土佐(ノ)國の人の言には、し〔右○〕と|ち〔右○〕と、す〔右○〕と|つ〔右○〕とのにごり聲、おのづからよく分れて、混《マガ》ふことなし、さればわづかにいろはもじをかくほどの童といへども、此假字をば、書(キ)誤ることなしと、かの國人かたれり、
 
    御世/\に用ひ給ひし暦の事
三代實録に、貞觀三年六月十六日、始(テ)頒(チ)2行(フ)長慶宣明暦經(ヲ)1、先v是陰陽(ノ)頭從五位下兼行暦博士大春日(ノ)朝臣眞野麻呂奏言(ス)、謹※[手偏+檢の旁](ルニ)豐御食炊屋姫(ノ)天皇(ノ)十年十月、百済國(ノ)僧觀勒、始(メテ)貢(リシカドモ)2暦術(ヲ)1、而未v行(ハレ)2於世(ニ)1、高天原廣野姫(ノ)天皇(ノ)四年十二月、有(テ)v勅始(メテ)用2元嘉暦(ヲ)1、次(ニ)用2儀鳳暦(ヲ)1、高野姫(ノ)天皇天平寶字七年八月、停(テ)2儀鳳暦(ヲ)1、用2開元(ノ)大衍暦(ヲ)1、厥(ノ)後寶龜十一年、遣唐使録事故(ノ)從五位下行内藥(ノ)正羽栗(ノ)臣翼、貢(テ)2寶應(ノ)五紀暦經(ヲ)1云(ク)、大唐今停(テ)2大衍暦(ヲ)1、唯用(フト)2此經(ヲ)1、天應元年、有(テ)v勅令(ム)d據(テ)2彼(ノ)經(ニ)1造(ラ)c暦日(ヲ)u、無(シ)2人習(ヒ)學(ブコト)1、不v得v傳(フルコトヲ)v業(ヲ)、猶用(テ)2大衍暦經(ヲ)1、已(ニ)及(ブ)2百年(ニ)1、眞野麻呂、去(ル)齊衡三年、申(シ)3請(フ)用(コトヲ)2彼(ノ)五紀暦(ヲ)1、朝廷議(シテ)云(ク)、國家據(テ)2大衍經(ニ)1造(ルコト)2暦日(ヲ)1尚《ヒサシ》矣、去(ルコト)v聖(ヲ)已(ニ)遠(シ)、義貴(ブ)2兩存(ヲ)1、宜(シト)2暫(ク)相兼(テ)不(ル)1v得2偏用1、貞觀元年、渤海國(ノ)大使烏孝慎、新(ニ)貢(テ)2長慶(ノ)宣明暦經(ヲ)1云(ク)、是(レ)大唐新(ニ)用(ル)經也、眞野麻呂試(ニ)加(フルニ)2覆勘(ヲ)1、理當(シ)2固然(ル)1、仍(テ)以2彼(ノ)新暦(ヲ)1、比2校(シ)大衍五紀等(ノ)兩經(ニ)1、且(ツ)察(シ)2天文(ヲ)1、且(ツ)參(ルニ)2時候(ヲ)1、兩經之術、漸以(テ)麁疎、令朔節氣、既(ニ)有v差(ヒ)、又勘(ルニ)2大唐(ノ)開成四年|天平《大中カ》十二年等(ノ)暦(ヲ)1、不d復|與《ト》2彼(ノ)新暦1相違(ハ)u、暦議(ニ)曰(ク)、陰陽(ノ)之運、隨(テ)v動(クニ)而差(フ)、差(テ)而不v已(マ)、遂(ニ)與v暦錯(フ)者《テヘリ》、方今大唐開元以來、三(タビ)改(ム)2暦術(ヲ)1、本朝天平以降、猶用(フ)2一經(ヲ)1、靜(ニ)言(フニ)2事理(ヲ)1、實(ニ)不v可v然(ル)、請(フ)停(テ)v舊(ヲ)用(ヒ)v新(ヲ)、欽(テ)若《シタガハムト》2天歩(ニ)1、詔(シテ)從(フ)v之(ニ)と見えて、此時より、件の宣明暦を用ひられて、ちかき世貞享まで、八百餘年改めらるゝことなかりき、
 
    御 靈 會
同紀に、貞觀五年五月廿日壬午、於(テ)2神泉苑(ニ)1修(ス)2御靈會(ヲ)1、勅(シテ)遣(シテ)2左近衛(ノ)中將從四位下藤原(ノ)朝臣基經、右近衛(ノ)權中將從四位下兼行内藏(ノ)頭藤原(ノ)朝臣常行等(ヲ)1、監(セシムト)2會(ノ)事(ヲ)1、王公卿士、起集(リ)共觀(ル)、靈座六前、設2施(シ)几筵(ヲ)1、盛(リ)2陳(ネ)花菓(ヲ)1、恭敬薫修(ス)、延(テ)2律師慧達(ヲ)1、爲(テ)2講師(ト)1、演2説(セシム)金光明經一部、般若心經六卷(ヲ)1、命(ジテ)2雅樂寮(ノ)伶人(ニ)1、作(シム)v樂(ヲ)、以2帝(ノ)近侍(ノ)兒童、及(ビ)良家(ノ)稚子(ヲ)1、爲2舞人(ト)1、大唐高麗、更(ル)々(ル)出(テ)而舞(ヒ)、新伎散樂、競(テ)盡(ス)2其能(ヲ)1、此日宣旨、開(テ)2苑(ノ)四門(ヲ)1、聽(シテ)2都邑(ノ)人(ノ)出入(ヲ)1縦觀(セシム)、所謂(ル)御靈(ハ)者、崇道天皇、伊豫(ノ)親王、藤原(ノ)夫人、及(ビ)觀察使橘(ノ)逸勢、文室(ノ)宮田麻呂等是也、並《ミナ》坐(テ)v事(ニ)被v誅、冤魂成(ス)v氏iヲ)、近代以來、疫病死亡甚衆(シ)、天下以(テ)爲(ス)2此(ノ)災御靈之所(ト)1v生(ス)也、始(メテ)v自2京畿1、爰(ニ)及(ブマテ)2外國(ニ)1、毎(ニ)v至(ル)2夏天秋節(ニ)1、修(スルコト)2御靈會(ヲ)1、往々不v斷、或(ハ)禮v佛説v經、或(ハ)歌(ヒ)且舞(ヒ)、令(メ)2童丱(ノ)之子、※[青+見]粧(シテ)馳射、膂力(ノ)之士、袒※[衣+易](シテ)相撲(セ)1、騎射呈(シ)v※[草冠/執](ヲ)、走馬爭v勝(ヲ)、※[人偏+昌]優※[女+曼]戯、逓(ニ)相誇(リ)競(フ)、聚(テ)而觀(ル)者莫(シ)v不2填咽(セ)1、遐邇因循(トシテ)、漸成(セリ)2風俗(ヲ)1、今茲《コトシ》春(ノ)初咳逆(ノ)疫、百姓多(ク)斃、朝廷爲(メニ)祈(ル)、至(テ)v是(ニ)乃修(シテ)2此(ノ)會(ヲ)1以賽(スル)2宿祷(ヲ)1とある、これ御靈會といふことの始なるべし、むかしは六月十四日の祇園會をも、祇園(ノ)御靈會といひき、そは御靈といふべきにはあらざれども、祭のさまの、同じかりし故に、然いひなせりしなるべし、
 
    方 違(ヘ) の 事
同紀に、貞觀七年八月廿一日、天皇遷(テ)v自2東宮1、御(ス)2太政官(ノ)曹司廳(ニ)1、爲(メ)2來(ル)十一月、將(ルガ)1v遷2御(セムト)内裏(ニ)1也、當(テ)2此之時(ニ)1、陰陽寮言(ス)、天皇御本命庚午、是年(ノ)御絶命在v乾(ニ)、從(リ)2東宮1指(スニ)2内裏(ヲ)1直《アタル》v乾(ニ)、故(ニ)避《サケタマフ》v之(ヲ)也、云々、これいはゆるかたゝがへなり、
 
    白  人《シロビト》
同紀に、貞觀八年七月、紀伊(ノ)國言(ス)、伊都(ノ)郡(ノ)人六人部(ノ)由貴繼、生(ム)2白人男女二人(ヲ)1、男年二歳、長(ケ)二尺四寸、女五歳、長(ケ)三尺一分、兩兒生(レテ)、而肌膚※[髪の下兵]髪眉眼、擧(テ)v身純白如(シ)v雪(ノ)、因(テ)得v見(ルコトヲ)2暗夜(ヲ)1、不v能v向(フコト)2白日(ニ)1、父母陰藏(シテ)養(ヒ)成(セリ)、今圖(テ)2其形(ヲ)1進(ル)v之(ヲ)、このこと、大祓の後釋に引(ク)べかりしをもらせり、
 
    私(ノ)  主
同紀十三(ノ)卷に、云々、恒山等言(ス)、隨(テ)2私(ノ)主右衛門(ノ)佐伴(ノ)宿禰中庸(ガ)教(ヘニ)1云々とある、私(ノ)主は、今はたゞ主《シウ》といひ、主人といふ、物語書にも、しうといへり、
 
    神社を殊に宮と申す號の事
同紀に、貞觀九年八月二日、勅(シテ)伊勢(ノ)國伊佐奈岐伊佐奈彌(ノ)神、改(メテ)v社稱(シ)v宮(ト)、預2月次祭(ニ)1、并(ニ)置2内人一員(ヲ)1とある、これらによれば、凡て宮と申すと、社と申すとは、尊(キ)卑き差等《シナ》あることなるに、又なべて然るにもあらざるにや、殊なる大社にも、なほ社と申て、宮とは申さぬも多きは、いかなることにかあらむ、
 
    ほろといふ物
同紀十七の卷、對馬(ノ)守小野(ノ)朝臣春風起請の中に、軍旅(ノ)之儲、啻在(リ)2介冑1、介冑雖v薄(シト)、助(ルニ)以(テス)2保侶《ホロヲ》1、望請(フ)、縫2造(テ)調布(ノ)保侶《ホロ》衣千領(ヲ)1、以備(ヘム)2不虞1と見ゆ、今の印本には、上なる侶《ロノ》字を脱《オト》せる故に、語の意|通《キコ》えがたし、
 
    應天門朱雀門羅城門の名の事
同紀に、貞觀十三年十月、應天門火災(ノ)之後、修復既(ニ)訖(ル)、令(ム)d明經文章等(ノ)博士(ヲシテ)、議(セ)c應天門可(キ)v改(ム)v名(ヲ)歟《カ》、又名(クル)2應天門(ト)1、其義何(ニカ)據(ル)、又朱雀羅城等(ノ)門(ノ)、名義如何(ヲ)u、從五位上行大學(ノ)頭兼文章博士巨勢(ノ)朝臣文雄議(リ)言(サク)、宮殿城門等、火災(ノ)之後、更改(ムル)2其名1者、兩漢以上、未3必有2此事1、但魏(ノ)明帝青龍二年云々、唐(ノ)玄宗(ノ)天寶二年、東京(ノ)應天門災云々、十一月應天門成(ル)、改(テ)曰2乾天門(ト)1、本朝(ノ)制度、多(ク)擬(ス)2唐家(ニ)1云々、除(テ)2其舊號(ヲ)1、更(ニ)制(セム)2嘉名(ヲ)1、不(ヤ)2亦宜(シカラ)1哉、又洛都(ノ)宮城門、是(ヲ)謂2應天門(ト)1、案(ニ)禮含文嘉(ニ)曰(ク)、湯順2人心(ニ)1、應(ズト)2於天(ニ)1、然則應天之名、蓋(シ)取(ル)2諸此(ニ)1歟、又長安(ノ)南面(ノ)皇城門、是(ヲ)謂2朱雀門(ト)1、云々、然則以(テノ)3其(ノ)在(ヲ)2南方(ニ)1故(ニ)、謂2之(ヲ)朱雀1乎《カ》、又稱2羅城門(ト)1者(ハ)、是(レ)周(ノ)之國門云々、其義未v詳、但(シ)大唐六典(ノ)注(ニ)云(ク)、自2大明宮1、夾2東羅城(ノ)復道(ヲ)1云々、蓋(シ)此(レ)羅列(ノ)之意乎、從五位上行大學博士兼越前(ノ)權介菅野(ノ)朝臣佐世云々等議言(サク)、云々、即(チ)雉《チ》魯(ノ)之天災、猶不v改v名(ヲ)今此(ノ)應天門(ハ)、既(ニ)是(レ)人火、仍(テ)v舊(ニ)謂(ハバ)v之(ヲ)、何必更(ニ)改(メム)、但(シ)名(ケテ)曰(フノ)2應天朱雀羅城(ト)1之義、經典爲v无v見焉、この文、はじめのほど、印本には脱《オチ》たり、今は一(ツ)の寫本に依て引り、此ところ印本は、二ひら脱《オチ》たる也、
 
    七高山といふこと
同紀に、元慶二年、詔(シテ)以2近江(ノ)國坂田(ノ)郡伊吹山(ノ)護國寺(ヲ)1、列2於定額(ニ)1、沙門三修(ガ)由牒(ニ)※[人偏+稱の旁]、云々仁壽年中登(リ)2到此(ノ)山(ニ)1、即是七高(ノ)山之其一也云々、
 
    鴨河の韓橋
同紀に、元慶三年九月廿五日云々、是(ノ)夜、鴨河(ノ)辛橋火(アリ)、燒(ケ)斷(ルコト)大半(ナリ)、また仁和三年五月十四日云々、是(ノ)日始(メテ)置(ク)d守2韓橘《カラハシヲ》1者二人(ヲ)u、以2山城(ノ)國(ノ)※[人偏+徭の旁]下(ヲ)1充(ツ)v之(ニ)と見ゆ。橘(ノ)字は、橋を誤れるなり、さて此橋は鴨川のいづこばかりにか在(リ)けむ、
 
    庭鳥をたゝかはしむる事
同紀に、同六年二月廿八日、天皇於2弘徽殿(ノ)前(ニ)1覧2闘※[奚+隹](ヲ)1とあり、※[奚+隹]をたゝかはす事は、書紀の雄略天皇の御卷に見えたり、
 
    はまなの橋
同紀に、同八年九月朔、遠江(ノ)國(ノ)濱名(ノ)橋、長(サ)五十六丈、廣(サ)一丈三尺、高(サ)一丈六尺、貞觀四年(ニ)修造(ス)、歴(テ)2二十餘年(ヲ)1、既(ニ)以(テ)破壞(ス)、勅(シテ)給(テ)2彼(ノ)國(ノ)正税の稻、一萬二千六百三十束(ヲ)1、改(メ)作(ラシム)焉、
 
    遍照僧正七十(ノ)賀の宴を給へる事
同紀に、仁和元年十二月十八日延(テ)2僧正法印大和尚位遍照(ヲ)於仁壽殿(ニ)1申2曲宴(ヲ)1、遍照今年始(テ)滿(ツ)2七十(ニ)1、天皇慶賀(シタマフナリ)、徹夜《ヨモスガラ》談賞、太政大臣左右大臣預(ル)v席(ニ)焉、
 
 
玉かつま十四の卷
 
   つ ら つ ら 椿 十四
 
萬葉集の一の卷に、巨勢山のつら/\椿つら/\に、といふ歌をおもひ出て、われもよめるは、
   世中をつら/\つばきつら/\に
       思へばおもふことぞおほかる
さるはわがみのうへのうれへにもあらず、なべての世のたゝずまひ、人のありさまの、よきあしき事につけて、おふけなく思ふすぢの、心にこめがたきは、をり/\此卷々にも、もらせるふしもおほかれど、猶いひても/\、つきすべくもあらずなむ、
 
    君を弑奉り父を弑せるたぐひのまがこと
書紀(ノ)履中天皇(ノ)御卷に、刺領巾《サシヒレ》といふ者、己君《オノガキミ》住吉仲皇子《スミノエノナカツミコ》を刺(シ)殺し奉る、崇峻天皇(ノ)御卷に、蘇我(ノ)馬子、人をして天皇を殺(シ)奉らしむ、天皇を弑《シセ》奉れる者は、此蘇我(ノ)奴をおきては、他になし、眉輪王《マヨワノミコ》の安康天皇を弑奉り給ひしは王子《ミコ》也、又御父の仇《アタ》に坐(シ)しかば、同じさまには申しがたし、景行天皇(ノ)御卷に、日向(ノ)國の市乾鹿文《イチフカヤ》といひし女、父を殺さしむ、雄略天皇(ノ)御卷に、樟媛《クスヒメ》其(ノ)夫《ヲ》弟君を殺す、但し此(ノ)二つは、朝廷の御ために、忠《マメ》なるしわざなりしかば、ひたぶるにはいひがたし、同御卷に、庵城部(ノ)連|枳※[草冠/呂]喩《キコユ》、其子武彦を殺す、推古天皇(ノ)御卷に、一僧《アルホウシ》、斧を執《モチ》て其(ノ)祖父を殴《ウ》つ。おほかたかゝるまが事ども、書紀に見えたる、わづかにたゞこれらのみこそあれ、もろこしの戎國《カラクニ》の、周といひし代よりこなた世々に、君を殺し、父を殺したりしたぐひの、書どもにしるせる、いと多きとくらべ思ひて、國からのよさあしさ、又道の驗《シルシ》のまさりおとりをも、さとるべし、そも/\かの周公且、道をつくりそなへて、君を殺せ、父をころせとは、教へざれども、おのづからかくこそ有けれ、
 
    神に祈《マヲ》して皇子を求め給ひし御事
同紀、繼體天皇(ノ)御卷に、大伴(ノ)金村(ノ)大連奏請(テ)曰(ク)、云々、請(フ)d立(テヽ)2手白香皇女《タシラカノミコヲ》1、納爲2皇后《オホキサキト》1、遣(ハシテ)2神祇(ノ)伯等(ヲ)1、敬《イツキ》2祭(リテ)神祇(ヲ)1、求《マヲシテ》2天皇(ノ)息《ミコヲ》1、允c答《タラシメムト》民(ノ)望(ミヲ)u、天皇(ノ)曰v可(ト)矣と見えたり、いにしへの道かくのごとし、世嗣《ヨツギ》を求めば、殊に神に請祈《コヒマヲ》すべき也、
 
    百済國をして天降て國を建給へる神を祀らしむる事
同欽明天皇(ノ)御卷に、十六年春二月、百済(ノ)王子餘昌遣(テ)2王子惠(ヲ)1奏曰《マヲシケラク》、聖明王爲(ニ)v賊見(ルト)v殺(サ)云々、蘇我(ノ)臣問訊(テ)曰(ク)云々、惠|報答之曰《コタヘケラク》云々、蘇我(ノ)卿(ノ)曰|昔在《ムカシ》天皇大初瀬(ノ)之|世《ミヨニ》、汝(ガ)國爲(ニ)2高麗1所《ラレテ》v逼《セメ》、危(キコト)甚(シ)2累卵(ヨリ)1於是天皇、命(ジテ)2神祇(ノ)伯(ニ)1、敬(テ)受(ケシム)2策於神祇《カミノヲシヘヲ》1、祝者廼託神語報曰《ハフリニカミカヽリテノタマハク》、屈2請(マセマツリテ)建v邦(ヲ)之神(ヲ)1、往(テ)救(ハヾ)2將《スル》v亡(ビムト)之主(ヲ)1、必|當《ベシト》2國家謐靖、人物又安(カル)1、由(テ)v是(ニ)請《マヲシテ》v神(ニ)往(テ)救(ハシム)、所以《コノユヱニ》社稷安寧(シ)、原夫《オモフニ》建v邦(ヲ)神(ト)者《イフハ》、天地(ノ)割判《ワカレシ》之代、草木(モ)言語《コトヽヒシ》之時(ニ)、自v天降(リ)來《キマシテ》造2立|國家《クニヲ》1之神也、頃《コノコロ》聞(ケバ)汝(ガ)國|輟《ステヽ》而不(ト)v祀(ラ)、方今|悛2悔《クイアラタメテ》前過(チヲ)1、修2理《ツクリ》神(ノ)宮(ヲ)1、奉2祭《マツラバ》神霊《ミタマヲ》1、國可(シ)2昌盛《サカユ》1、汝當莫忘《ナオコタリソ》、と見えたる、この言、何れの國いづれの時にもわたりて、いとたふときさとし也、自v天降來造2立國家(ヲ)1之神とは、須佐之男(ノ)命なるべし、神代(ノ)御卷に、かの命《ミコト》韓國に天降(リ)坐(シ)しよし見えたり、
 
    こまのこきしを神子《カミノコ》と詔給へる事
同孝徳天皇(ノ)御卷、高麗《コマノ》國の使に詔へる大命《オホミコト》に、明神(ト)御宇(メス)日本(ノ)天皇(ノ)詔旨、天皇(ノ)所遣《ツカハス》之使(ト)、與《ト》2高麗(ノ)神子奉遣《カミノコノタテマダス》之使1云々、かの國王を、神(ノ)子とのたまへり、これも神とは、はしめ國を建(テ)し神をいひて、子は其末のよしか、はた御みづから明神《アキツカミ》と詔へるに對へて、天皇の子と、親《シタシ》みて詔へるか、いづれにまれ漢文の詔に、めづらしくおむかしき稱《ナ》にぞ有ける、
 
    異國の使に神酒を賜ふ事
同舒明天皇(ノ)御卷に、四年唐(ノ)國(ノ)使人高表仁等、到(ル)2于難波(ノ)津(ニ)1云々、即日《ソノヒ》給(フ)2神酒(ヲ)1、玄蕃寮式にも、凡新羅(ノ)客入朝(スルハ)者、給(ヘ)2神酒(ヲ)1、と有て、其神酒のことも、其(ノ)醸(ム)v酒(ヲ)料(ノ)稻(ハ)、大和(ノ)國(ノ)賀茂|意冨《オホ》纏向|倭文《シドリノ》四社、河内(ノ)國(ノ)恩智一社、和泉(ノ)國(ノ)安那志(ノ)一社、攝津(ノ)國(ノ)住道《スムヂ》伊佐具(ノ)二社、各卅束、合(セテ)二百四十束、送(ル)2住道(ノ)社(ニ)1、大和(ノ)國(ノ)片岡一社、攝津(ノ)國(ノ)廣田生田長田(ノ)三社、各五十束、合(セテ)二百束、送(ル)2生田(ノ)社(ニ)1、並《ミナ》令(メ)2神部(ヲシテ)造(ラ)1、差(シテ)2中臣一人(ヲ)1、充(ツ)2給(フ)v酒(ヲ)使(ニ)1、醸(メル)2生田(ノ)社(ニ)1酒(ハ)者、於(テ)2敏賣《ミヌメノ》崎(ニ)1給(フ)v之(ヲ)、醸(メル)2住道(ノ)社(ニ)1酒(ハ)者、於(テ)2難波(ノ)館(ニ)1給(フ)v之(ヲ)と見えたり、抑此神酒を蕃客《ミヤツコクニノマラヒト》に給ふこと、思ふに神功皇后の御世のゆゑよしある事なるべし、
 
    神社の位階の事
同天武天皇(ノ)御卷に、軍(ノ)政既(ニ)訖(テ)、將軍等、擧(テ)2是(ノ)三神(ノ)教言(ヲ)1、而奏(ス)之、即勅(シテ)登《アゲ》2進(メテ)三神(ノ)之品(ヲ)1以祀(ル)焉と見えたる、品とは、位階をいへるか、もし然らばこれ、神社に位を授奉り給ふことの、物に見えたる始(メ)といふべし、されどこれは、必しも位階にはあらで、たゞ其社の班列《シナ》をあげ給へるにも有べし、三神の教言の事は、件の文の上に出たり、
 
    左右京 朱雀(ノ)路 朱雀門 大極殿 瓦ぶき
京都を、左京右京と分《ワケ》らるゝこと、藤原(ノ)宮既に然りと見えて、大寶にいできたる令に、左右京職あり、續紀大寶三年の處にも、左京職云々の事見えたり、又和銅三年正月の處に、皇城門(ノ)外朱雀路と見えたり、これいまだ平城《ナラ》にうつり坐(サ)ぬさき也、朱雀門は、既に孝徳天皇の、大化五年の紀に見えたり、又大極殿は皇極天皇四年の紀に見えたり、但し其《ソ》は當時《ソノカミ》はたゞ大やすみ殿《トノ》といひて、いまだ大極殿といふ名はなかりしを、後の名をめぐらして記されたるも知(リ)がたし、又齊明天皇(ノ)元年(ノ)紀に、於(ニ)2小墾田1造(リ)2起(テヽ)宮闕(ヲ)1、擬(ス)v將(ムト)2瓦覆《カハラブキニセ》lとあるは、たゞさだばかりなれども、宮闕の瓦ぶきは、これはじめなるべし、又五位以上及庶人の屋舍の瓦|葺《ブキ》のさだも、神龜元年(ノ)紀に見えたり、
 
    南  殿
續紀に、天平八年春正月丁酉、天皇宴2群臣(ヲ)於南殿(ニ)1、又同廿年春正月戊寅、天皇御(テ)2南殿(ニ)1、宴2五位以上(ヲ)1とある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名《マタノナ》か、はたもとの名は南殿《ミナミトノ》なりしを、後に紫宸殿とは名けられたるか、大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢やうの名は、奈良(ノ)宮までは見えたることなし、たゞ大安殿《オホヤスミトノ》小安殿《ヲヤスミトノ》内安殿《ウチノヤスミトノ》外安殿《トノヤスミトノ》などいふ名のみ、多く見えたれば、もろ/\の殿門の、漢やうの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや、
 
    書紀(ノ)欽明天皇の御卷の事
書紀の欽明天皇(ノ)御卷、二年五の葉《ヒラ》に、夏四月安羅云々、といふ所より、五年十九のひらの、可v不(ル)2深(ク)思(テ)而熟(ク)計(ラ)1歟《ヤ》、といふまでのあひだは、たゞ百済王が、任那《ミマナノ》國をおこし建むといふさだをのみ、其詞どもまで、つぶさに記して、他事《アダシコト》とては、いさゝかもなく、すべて十五|張《ヒラ》がほど、何のようもなきいたづらごと也、かゝる事を、くだ/\しくいと長々と記されたるは、いかなるこゝろぞや、件の十五ひらの間に、九のひらに、秋七月百済云々といふより、十の葉《ヒラ》の、豈足(ム)v云(ニ)乎《ヤ》といふまで、半張餘《ヒラナカラアマリ》のみは、記さるべき事にて、これをおきて餘《ホカ》は、みな去《ステ》ても可《ヨ》かるべし、おのれこの御卷をよむごとに、此ところのいとうるさく、物うくおぼゆる也、人はいかに思ふらむ、きかまほし、
 
    風土記のおこり
續紀に、和銅六年五月甲子、畿内七道諸國郡郷名、着《ツケヨ》2好字(ヲ)1其郡内(ニ)所v生、銀銅彩色、草木禽獣蟲魚等(ノ)物、具(ニ)録(シ)2色目(ヲ)1、及(ビ)土地(ノ)沃※[土+脊]、山川原野(ノ)名號所由、又古老相傳(フル)舊聞異事、載(セテ)2于史籍(ニ)1言上(セヨ)、とある、これ國々風土記のおこり也、畿(ノ)字の上に詔(ノ)字脱たるか、
 
    婦女《ヲミナ》の髪の制《サダメ》
書紀に、天武天皇十一年四月、詔曰、自v今以後、男女悉(ニ)結髪《カミアゲヨ》云々、六月丁卯、男女始(テ)結《アゲ》v髪(ヲ)、仍着2漆紗冠(ヲ)1、また十三年閏四月、云々、又詔曰云々、女年四十以上(ナルハ)、髪(ヲ)之|結《アゲ》不(ル)v結《アゲ》、及(ビ)乘(ル)v馬(ニ)縦横、並任(セヨ)v意(ニ)也、別(ニ)巫祝(ノ)之類(ハ)、不v在2結(ル)v髪(ヲ)之例1、また朱鳥元年七月、勅(ス)、更(ニ)男夫着2脛裳(ヲ)1、婦女|垂髪于背《スベシモトドリ》、猶如(クセヨ)v故(ノ)とある、此朱鳥元年の勅は、天皇大御病(ヒ)し給ひて、くさ/”\の御祈(リ)事ありしほどなれば、此女の髪のことも、神代よりの風《テブリ》を改め給へることを、畏《カシコ》み給ひてにや有けむ、かくて又續紀に、慶雲二年十二月、令(ム)d天下(ノ)婦女、自(ハ)v非(ル)2神部齋(ノ)宮人、及(ビ)老嫗(ニ)1、皆|髻髪《カミアゲ》u【語(ハ)在2前紀(ニ)1至(テ)v是(ニ)重(テ)制(ス)】かくあれども、此|御制《ミサダメ》つひに行はれざりしとおぼしくて、中昔にもすべて垂《タレ》たりき、然るに近き代になりては、又みな髻《ユフ》なるは、いつのほどよりのことにかあらむ、
 
    柑子はじめて渡り來し事
續紀に、神龜二年十一月、中務(ノ)少丞從六位上佐味(ノ)朝臣蟲麻呂、典鑄(ノ)正正六位上播磨(ノ)直弟兄、並(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1、弟兄初(メテ)賚(テ)2甘子(ヲ)1從(リ)2唐國1來(リ)、蟲麻呂先(ヅ)殖(テ)2其種(ヲ)1結(ヘリ)v子《ミヲ》、故(ニ)有2此(ノ)授1焉と見えたる、甘子は柑子なり、
 
    短  籍
書紀齊明天皇(ノ)御卷に、或本(ニ)云(ク)、有間(ノ)皇子|與《ト》2云々1取(テ)2短籍(ヲ)1、卜2謀反(ノ)之事(ヲ)1とある、短籍と云(フ)物、是に始(メ)て見えたり、ヒネリブミと訓り、續紀十の卷にも見え、其後の書共にも、をり/\見えたり、續紀なるも、ひねりぶみと云てよろし、されど此物、ひねりぶみには限らず、何事にまれ、たゞいさゝかの事を書(ク)物也、但し歌をかくは、遙に後のこと也、
 
    裳  瘡《モガサ》
續紀に天平七年、自v夏至(ルマデ)v冬(ニ)、天下患(テ)2豌豆瘡(ヲ)1、【俗(ニ)曰2裳瘡(ト)1】夭死(スル)者多(シ)、これ皇國にて裳瘡のはじめか、されどこゝの記しざまは、はじめてとも聞えざるがごとし、また延暦九年にも、是年秋冬、京畿(ノ)男女、年三十已下(ナル)者、悉(ク)發2※[土+完]豆瘡(ヲ)1、【俗運裳瘡】臥(シ)疾(ム)者多(シ)、其甚(シキハ)者死、天下諸國、往々而在(リ)と見ゆ、※[土+完](ノ)字は、豌を誤れるなるべし、此瘡の名、これより後の書には、※[皮+包]瘡といへり、※[皮+包]疱同じこと也、今の世にも、はうさうといふ、又いもといふ、されば昔もがさといへるは、いもがさの省きか、
 
    諸國郡の圖
同紀に、同十年八月、令(ム)d天下諸國(ヲシテ)、造(テ)2國郡の圖(ヲ)1進(ラ)u
 
    五日の節菖蒲(ノ)縵
同紀に、同十九年五月丙子朔庚辰、太上天皇詔(シテ)曰(ク)、昔者《ムカシ》五日(ノ)之節、常(ニ)用(テ)2菖蒲(ヲ)1爲v縵(ト)、比來《コノコロ》停(メヌ)2此事(ヲ)1、從v今而後、非(ル)2菖蒲(ノ)縵(ニ)1者《ハ》、勿(レ)v入(ルコト)2宮(ノ)中(ニ)1、
 
    味  醤《ミソ》
三代實録四十九に、味醤二合と見ゆ、此名、これに始めて見えたり、和名抄には、未醤、揚氏漢語抄云、高麗醤(ハ)美蘇《ミソト》、今按(ニ)辨色立成(ノ)説同(ジ)、但(シ)本義未v詳、俗(ニ)用2味醤(ノ)二字(ヲ)1、味宜(シ)v作v未(ニ)、何(トナレバ)則通俗文(ニ)、有2末楡莢醤1、未(ハ)者搗末(ノ)之義也、而(ルニ)末(ヲ)訛(テ)爲v未(ト)、未轉(シテ)爲v味(ト)云々といへり、和名抄一本には、はじめの未醤の未(ノ)字、末と作《カケ》り、近き世新井氏の説に、みそは、韓地の方言也、※[奚+隹]林類事に、漿(ヲ)曰2蜜祖《ミソト》1といへり、高麗醤ともあるを思ふに、此説|然《サ》も有べし、未轉じて味となれりとある、和名抄の説はいかゞ也、
 
    萬葉集の露霜
萬葉集の歌に、露霜とよめる、卷々に多し、こは後の歌には、露と霜とのことによめども、萬葉なるは、みなたゞ露のこと也、されば七の卷十の卷などには、詠v露(ヲ)といへる歌によめり、多かる中には、露と霜と二つと見ても、聞ゆるやうなるもあれど、それもみな然《サ》にはあらず、たゞ露也、これにさま/”\説あれども、皆あたらず、そも/\たゞ露を、露霜といはむことは、いかにぞや聞ゆめれども、此名によりて思ふに、志毛《シモ》といふは、もとは露をもかねたる惣名にて、其中に氷らであるを、都由志毛《ツユシモ》といひ、省きて都由《ツユ》とのみもいへる也、そは都由《ツユ》は粒忌《ツブユ》のよしにて、忌《ユ》とは、清潔《キヨラ》なるを云、雪の由《ユ》も同じ、さればつゆしもとは、粒《ツブ》だちて清らなる志毛《シモ》といふことにぞ有ける、
 
    夜(ル)寢ず起てゐるを居《ヲリ》といへる事
萬葉集二に、「居《ヲリ》あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「眞袖もち床うちはらひ、君まつと居《ヲリ》しあひだに月かたぶきぬ、十八に、「乎里安加之《ヲリアカシ》こよひはのまむ、郭公あけむあしたはなきわたらむぞ、廿に、「家おもふといをねず乎禮婆《ヲレバ》、たづがなくあしへも見えず春の霞に、猶あり、大かた此たぐひの居《ヲリ》は、たゞ一わたり輕くつねにいふとはかはりて、夜(ル)寢《ネ》ずに、起《オキ》て居《ヰ》る意也、輕く見べからず
 
    人の名の和(ノ)字の事
人の名に、和(ノ)字を、加受《カズ》とよむは誤也、これは加都《カツ》にて、都《ツ》は清音なり、此言は、かてかつかつると活用《ハタラキ》て、物を和合《アハス》こと也、萬葉歌に醤酢爾蒜都伎合而《ヒシホスニヒルツキカテヽ》とある、此|合而《カテヽ》なり、
 
    一言一行によりてひとのよしあしきをさだむる事
人のたゞ一言《ヒトコト》たゞ一行《ヒトワザ》によりて、其人のすべての善《ヨ》き惡きを、定めいふは、から書のつねなれども、これいとあたらぬこと也、すべてよき人といへども、まれにはことわりにかなはぬしわざも、まじらざるにあらず、あしき人といへども、よきしわざもまじるものにて、生《イケ》るかぎりの、しわざ、こと/”\に善き惡き一かたにさだまれる人は、をさ/\なきものなるを、いかでかはたゞ一言一行によりては定むべき、
 
    今の世人の名の事
近き世の人の名には、名に似つかはしからぬ字をつくこと多し、又すべて名の訓は、よのつねならぬがおほきうちに、近きころの名には、ことにあやしき字、あやしき訓有て、いかにともよみがたきぞ多く見ゆる、すべて名は、いかにもやすらかなるもじの、訓のよくしられたるこそよけれ、これに名といふは、いはゆる名乘實名也、某《ナニ》右衛門|某《ナニ》兵衛のたぐひの名のことにあらず、さてまた其人の性《シヤウ》といふ物にあはせて、名をつくるは、いふにもたらぬ、愚なるならひ也、すべて人に、火性水性など、性といふことは、さらになきことなり、又名のもじの、反切といふことをえらぶも、いと愚也、反切といふものは、たゞ字の音をさとさむ料にこそあれ、いかでかは人の名、これにあづからむ、
 
    紅梅の假字
紅梅の假字、字音をしるす時には、こうばいと書(ク)べけれど、つねにはこをばいと書(ク)べし、拾遣集(ノ)物(ノ)名の歌にこれを、子《コ》をばいかでか生《ウマ》むとすらむとよめるを、此時かりに、宇《ウ》を乎《ヲ》に通はしてよめるものと心得るは、たがへり、こはもとより常にも、こをばいといひもし、書(キ)もせし也、古今集(ノ)物(ノ)名に、芭蕉を、心ばせをばとよめると、同じ例也、又和名抄に、襖子(ハ)阿乎之《アヲシ》と見え、他の書にも、あをといへる、此たぐひみな、宇《ウ》の韻を乎《ヲ》となほして、やがて訓にしたるにて、燈心《トウシミ》の美《ミ》、錢《セニ》蘭《ラニ》などの爾《ニ》の類也、
 
    鹿をかせぎといふ事
鹿をかせぎといふを、古(ヘ)の名と思ふめれど、此名すべて古書に見えたることなし、たしかならぬ名也、おもふに和名抄の僧坊(ノ)具の中に、鹿杖といふ物をあげて加勢都惠《カセヅエ》としるせるは、いかならむ、
 
    牛を殺して漢神を祭りし事
續紀に、延暦十年九月、斷(シム)3伊勢尾張近江美濃若狹越前紀伊等(ノ)國百姓、殺(シテ)v牛(ヲ)用(テ)祭(ルコトヲ)2漢神(ヲ)1と見えたる、漢神は、いかなる神にか有けむ、書紀皇極天皇(ノ)元年にも、祝部どもの教へしによりて、牛馬を殺して、社々の神を祭りて、雨を祈りしこと見えたり、牛馬をころして、神を祭れるは、もろこしの俗にならへる也と、谷川(ノ)士清もいへりき、
 
    氏族《ウヂ》を腹といへる事
書紀清寧天皇(ノ)御卷に其(ノ)腹(ノ)所生《ウメル》星川(ノ)皇子とある、腹は、氏族のこと也、宇遲《ウヂ》もしくは宇賀良《ウガラ》など訓(ム)べし、又欽明天皇(ノ)御卷に、韓(ノ)腹、推古天皇(ノ)御卷に、八腹(ノ)臣等などあるも、皆然り、續紀にも、卅二に、三腹逓(ヒニ)任(シテ)、卅八に、臣八腹氏、四十に、自餘(ノ)三腹(ハ)者、また其(ノ)入彦(ノ)命(ノ)子孫、東國(ノ)六腹(ノ)朝臣云々、姓氏録秦(ノ)忌寸(ノ)條に、秦氏等一祖(ノ)子孫、別(レテ)2數(ノ)腹(ト)1とある、皆同じ、これもと韓國より出たる稱なるべし、かの國には、郡を評《コホリ》といへるなど、此たぐひこれかれ有(リ)、
 
    孔丘を文宣王といふ事
續紀に、神護景雲二年七月、大學(ノ)助教正六位上膳(ノ)臣大丘言(ス)大丘、天平勝寶四年、隨(テ)v使(ニ)入唐(シテ)、聞(キ)2先聖(ノ)之遺風(ヲ)1、覧(ルニ)2膠※[まだれ/羊](ノ)之餘列(ヲ)1、國子監有2兩門1、題(シテ)曰2文宣王(ノ)廟(ト)1、時(ニ)有2國子學生程賢(ト云)1、告(テ)2大丘(ニ)1曰(ク)、今(ノ)主上大(ニ)崇2儒範(ヲ)1、追(テ)改(メテ)爲《スト》v王(ト)、鳳徳(ノ)之徴2于今(ニ)1至(レリ)矣、然(ルニ)准(ジテ)2舊典(ニ)1、猶稱(セムコト)2前號(ヲ)1、誠(ニ)恐(ル)d乖(キ)2崇v徳(ヲ)之情(ニ)1、失(ハムコトヲ)c致v敬(ヲ)之理(ヲ)u、大丘庸闇、聞(クマヽニ)斯(レ)行(フ)諸、敢(テ)陳(テ)2管見(ヲ)1、以請(フト)2明斷(ヲ)1、勅(シテ)號(ス)2文宣王(ト)1と見ゆ、孔丘を文宜王と號《イフ》こと、皇朝にしては、是(ノ)時より始まれり、
 
    姓のかばねに骨(ノ)字を書る事
姓《ウヂ》のかばねを、後(ノ)世に尸《カバネ》と書(ク)は、いかゞなるやうなれども、續紀十八に、雀部(ノ)朝臣眞人等が申せる文の中に、遂(ニ)絶2骨名《カバネナノ》之緒(ヲ)1、永(ク)爲(ル)2無v源之氏(ト)1、といふことあり、古(ヘ)より骨とも書(ケ)れば、尸(ノ)字も何事かあらむ、
 
    伊勢大神宮寺
大神宮寺、先(キニ)爲(メニ)v有(ルガ)v祟(リ)、遷(シ)2建(ツ)他處(ニ)1、而(ルニ)今近(クシテ)2神郡(ニ)1、其(ノ)祟未v止(マ)、除(ク)2飯野(ノ)郡(ヲ)1之外、移(シ)2造(ラム)便地1者《テヘリ》、許(ス)v之(ヲ)
 
    皇太子伊勢大神宮に詣給ふ御事
同紀に、寶龜九年十月丁酉、皇太子向2伊勢(ニ)1、先v是皇太子寢v疫(ニ)、久(ク)不2平復1、至(テ)v是(ニ)親(カラ)拜2神宮1、所3以賽2宿祷(ヲ)1也、また延暦十年十月甲寅、先v是皇太子枕席不v安、久(ク)不2平復1、是日向2於伊勢(ノ)大神宮(ニ)1、縁(テ)2宿祷(ニ)1也、十一月丁卯、皇太子自2伊勢(ノ)大神宮1至《カヘリタマフ》、これは一度の御事なりしを、史のまぎれにて、寶龜と延暦と、二度記されたるなり、いづれか正しかりけむ、今知(リ)がたし
 
    交野の御狩
同紀に、延暦二年十月乙巳朔戊午、行2幸交野(ニ)1、放(テ)v鷹(ヲ)遊獵と見えたり、交野の御狩、これや始(メ)ならむ、
 
    新 撰 字 鏡
新撰字鏡は、かつて世にしられぬふみなりしに、めづらしく近きころ出て、古(ヘ)學(ビ)するともは、あまねく用ふるを、あつめたる人の、つたなかりけむほど、序の文のいと拙きにてしるく、すべてしるせるやう、いとも/\心得ぬ書也、そはまづ其字ども、多くは世にめなれず、いとあやしくて、から書はさらにもいはず、こゝのいにしへ今のふみどもにも、かつて見えぬぞ多かる、序の中に、皇國の諸書私記の字、漢國の數疏字書の文を取れるよしいへるは、いかなる書どもより取出たるにか、いとも/\心得ぬこと也、又字と注と訓と、おの/\異事《コト/\》にて、おほくはあひかなはず、すべていとつたなき書にぞ有ける、然はあれども、後(ノ)世の僞(ハリ)書にはあらず、序に見えたる如く、寛平昌泰のころの物とは見えたり、されば拙きながらに、時代《トキヨ》の上《アガ》りたれば、おのづから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めづらしきこと多く、すべて彼抄をたすくべき書にて、物まなびせむ人の、かならず常に見べき書にぞ有ける、但し右の件のごとくなれば、字又注は、信《タノミ》がたきこと多し、たゞ訓のかぎりをとるべき也、又假字づかひ正しくして、皆古書と合へり、美麗《ウルハシ》を宇流和之《ウルワシ》と書る一(ツ)たがへるは、いかなることにか、又|他《ホカ》の書にはもれて、世にしられぬ假字の、此書に出たるも、すくなからず、そは殊にめでたし、
 
    後撰集拾遺集のうた
後撰集冬(ノ)歌、「この月の年のあまりにたゝざらば、鶯ははやなきぞしなまし、此歌は、十二月《シハス》に閏月の有けるによめるにて、此月は閏十二月也、年のあまりにたつとは、十二月の一年に餘りて、閏月のあるよし也、立(ツ)とは、月の來るのをいふ、一うたの意は、此閏月のなくは、はや正月なるべければ、鶯は鳴べきものをとよめる也、抄の説誤也、三の句たらざらばと有(ル)本も、誤也、又戀(ノ)四に、「大嶋の水をはこびし早船の、はやくも人に逢見てしがな、初(ノ)句の|の〔右○〕もじ、今(ノ)本に、に〔右○〕と書るは誤也、又二の句、水をば戀しと書るも、ひがこと也、船して清水を京にはこびし例、古事記(ノ)仁徳天皇(ノ)段に見ゆ、又戀(ノ)五に、「かくばかり深き色にもうつろふを猶君きくの花といはなむ、きくとは、諾《ウ》といひて、こなたのいふことを、聽《キヽ》いるゝ意にいひかけたる也、又雜(ノ)二に、みかどに奉り給ひける嵯峨(ノ)后「うつろはぬ心の深く有ければ、こゝらある花春にあへること、上(ノ)句は、御みづからの、みかどをおき奉りて、外へ心をうつし給はぬよし也、下(ノ)句は、こゝらの女御更衣たちおはする中に、とり分て、大御めぐみを深くかうぶることよと也、四の句、本に、ちる花とあるは誤也、一本に、ある花とあるぞよき、拾遺集別に、「わかるゝをゝしとぞ思ふ、つるぎばの身をよりくだくこゝちのみして惜しを鴛にいひかけて、劔羽といへり、鴛にさいふ羽あれば也、さてこはたゞ劔の身とつゞけむ料のみ也、よりくだくへかゝれることにはあらず、此所よくせずはまがひぬべし、よりくだくとは、緒などのよらるゝごとく、物のくだくるごとく、苦きよし也、さて思ふを、思ひと作《カケ》る本は誤也、思ひつるといひかけたるにはあらず、又三の句の|の〔右○〕もじ、に〔右○〕と書るもひがこと也、
 
    奈良の大佛(ノ)像より露流れ落し事
外記日記に、長保四年十月一日、云々、次(ニ)召(テ)2陰陽寮(ヲ)於陣腋(ニ)1、有2御占1、是(レ)依(テナリ)d東大寺(ノ)大鐘、九月二十一日巳(ノ)時、濕水如(ク)v露(ノ)流(レ)、申(ノ)尅、大佛(ノ)御身悉(ク)潤濕、自v頭如(クシテ)v露(ノ)而降(ルコト)如(ク)2水(ノ)流(ルヽ)1、連(ナルノ)2花座(ノ)上(ニ)1解文(ニ)u也、
 
    仁壽殿顛倒(ノ)事
同記に、久安六年八月四日、午(ノ)刻大風折v木、終日不v止云々、大内裏(ノ)中(ノ)仁壽殿顛倒、近年内裏(ノ)殿舍、拂(テ)v地(ヲ)顛倒、所v殘(ル)此一殿也、今亦如(シ)v此(ノ)、可(シ)v傷(ム)々々、
 
    美福門院石清水(ノ)宮に神輿を獻り給ふこと
同記に、同年同月廿四日云々、是日、美福門院、調(ヘ)2作(テ)神輿三基(ヲ)1、被v獻2石清水(ノ)宮(ニ)1、文章博士藤永範、作2進告文(ヲ)1、以2判官代遠江(ノ)守惟方(ヲ)1爲v使(ト)、件(ノ)事、代々后宮、必有2此事1、上東門院、后宮(ノ)之時、始(メテ)有(リト)2此事1云々《イヘリ》、而(ルニ)后位(ノ)時、無(シ)2其沙汰1、今雖v爲(リト)2院號(ノ)後1、不v可2黙止1、被2調獻(セ)1也、
 
    かくれみのかくれ笠
世に隱れみのかくれ笠といふこと有(リ)、拾遺集十八の卷に、しのびたる人のもとにつかはしける平(ノ)公誠「かくれみのかくれがさをもえてしがな、きたりと人にしられざるべくと有(リ)、きたりは、來而有《キタリ》にて、みのかさの方は、たゞ縁の詞のみ也、
 
    繪 の 事
人の像を寫すことは、つとめてその人の形に似むことを要す、面やうはさらにもいはず、そのなりすがた衣服のさまにいたるまで、よく似たらむと心すべし、されば人の像は、つとめてくはしくこまかにうつすべきことなり、然るに今の世には、人の像を寫すとても、たゞおのが筆のいきおひを見せんとし、繪のさまを雅にせむとするほどに、まことの形にはさらに似ず、又眞の形に似むことをば要せず、たゞ筆の勢ひを見せ、繪のさまを雅にせんとすることをむねとするから、すべてことそぎてくはしからず、さら/\とかくゆゑに、面やうなど、その人に似ざるのみならず、甚いやしき賤やまがつのかほやうにて、さらに君子有徳の人のかほつきにあらず、これいとにくむべきことなり、
 
    又
古人の像をかくには、その面やういかにありけむ知がたければ、たゞその人の位にかなへ、徳にかなへて、位たかき人のかたは、面ようすべてのさまけたかく、まことにたかき人と見ゆるように書(ク)べく、徳ありし人は、又その徳にかなへてかくべし、然るに後の繪師、この意を思はず、たゞおのが筆の勢ひを見せむとのみするほどに、位たかき人、徳ある人も、ただしづ山がつの如く、愚昧なる人の如くかきなせり、
 
    又
かほよき女のかたちをかくとても、例のたゞおのが筆のいきほひをのみむねとしてかくほどに、そのかほ見にくやかなり、あまりなまめかしくかほよくかけば、繪のさまいやしくなるといふめれど、そはおのが繪のつたなきなり、かほよくてゑのさまいやしからぬやうにこそ書べけれ、己が繪がらのいやしくなるをいとひて、かほよき人を見にくゝかくべきいはれなし、美女のかほは、いかにも/\かほよくかくべきなり、みにくやかなるはいと/\心づきなし、但し今の世に、江戸繪といふゑなどは、しひてあながちにかほよくせんとするほどに、ゑのさまのいやしき事はさらにもいはず、中々にかほ見にくゝ見えて、いとつたなきことおほし、
 
    又
世に武者繪といひて、たけき人の戰ひのさまをかく、其かほやう人とも見えず、目丸く大きに、鼻いかり口大きにて、すべて鬼のごとし、いかにたけきさまを見せむとすればとて、人にもあらず、しか鬼のやうには書べきわざかは、たゞおだやかに人と見えて、しかもたけきいきほひあるさまにこそかくべけれ、或から書に、皇國の繪の事をいへるに、その人夜叉羅刹の如しといへり、思ふにこの鬼の如くかける武者繪を見ていへるなるべし、されどかの國人は皇國人のさまをば、見しらねば、さいへる書をよみては、日本人のかほはすべてみな、鬼の如くなる物とぞ心得らむ、すべての事、皇國人は、もろこしの事は、から國のもろ/\の書をよむゆゑに、よくしれるを、もろこし人は、皇國の書をよむことなければ、皇國の事はしらず、まれ/\には、かの國の書の中にいへることあれば、それを定《デウ》として心得ることぞかし、皇國の人物の繪も、異國の人の見ては、それをでうとすることなれば、かの位高き人のかほを山がつのごとくいやしく書(キ)なし、かほよき女のかほを見にくゝかきなせるなどを、異國人の見たらむには、日本人は形いやしく女もみな見にくきことぞとぞ心得べき、こは異國人のみにもあらず、同じ皇國人にても、しらぬ昔の人のかほは、繪にかけるを、一度見れば、おのづからそのおもかげを、その人のかほと思はるゝ物ぞかし、
 
    また
おのれ、繪のことはさらにしらねば、とかくいふべきにあらざるに似たれども、よろづのことおのがよきあしきはえしらで、かたはらよりはよく見ゆるものなり、もろ/\の藝などもそのでうにて、その道の人は、なか/\にえしらで、かへりて他よりよきあしきさまのよく見ゆることあり、繪もさる心ばへあれば、今おのが思ふすぢをいふなり、まづやまともろこしの古より、代々の繪の事は、あまたも見あつめず、くはしくしらねば、さしおきて、たゞ今の世につねに見およぶところをもていはん、そはまづ、墨繪、うすざいしき、ごくざいしきなど、さま/”\ある中に、墨繪といふは、たゞ墨をべた/\と書て、筆數すくなく、よろづをことそぎて、かろ/”\とかきて、その物と見ゆる、こはたゞ筆の力いきほひを見せたる物なれば、至りて上手のかけるは、げにかうも書べしとおぼえて、見どころあるもあれど、おしなべての繪師のかけるは、見どころなく心づきなきものなり、さるを世の人、たゞ此墨繪をことにいみしきことにしてめづるは、世のならひにしたがふ心にて、まことには見どころなきものなり、近き世に茶の湯といふわざを好むともがらなど、殊に此墨繪をのみめでゝ、さいしき繪はすべてとらず、これもその人々、まことにしか思ひとれるにはあらず、たゞその道の祖のさだめおきつる心ばへを守りて、しかるなり、すべて此茶の湯にめづる筋は、繪も、書も、さらに見どころなくおかしからぬものなるを、かたくまもりてたふとむは、いと/\かたくなゝることなり、さてうすざいしきは、なつかしくやはらびておかし、ごくざいしきといふにいたりては、物によりてめでたきもあり、又まれにはあまりこちたく見えてうるさき所もあるなり、水を紺青といふ物してかけるたぐひ、ことにこちたし、さて繪の流、さま/”\ある中に、むかしよりこれを業とたてたる家々あり、大かた此家々の繪は、その家々の傳ありて、法をのみ重くまもりて、必しもその物のまことのさまをばとはず、此家といふすぢの繪に、よきことありあしきことあり、まづかの位たかき人のかほのいやしげに見え、美女のかほふくらかにて見にくきなど、いと/\こゝろづきなし、又人の衣服のきは、折目などの筋を、いとふとくかけるもかたはなり、これらみな、筆の力を見せむとするしわざなり、もろこしの松をかくに、一種から松といひて、必ことなる松をかくは、思ふにむかしかの國人のかける繪に、さるさまの松ありけむをならひつたへたるならむ、これから國にさやうのまつの、一種あるにはあらず、たゞ世のつねの松なるを、かきさまのつたなきなり、しかるをよきことにして、守りてかきつたへたるはいとをかし、大かたもろ/\の繪の中に、うるさく心づきなきは、つたなくかける墨繪、このからまつ、人物の衣の折目の筋ふとき、さてはだるま、布袋、福禄壽などいふものゝかた、すべて是ら、一目見るもうるさく、二度と見やらんとおぼえずなん、大かた旧き定めをばまもるは、いとよきことなれども、そは事により、物にこそよるべけれ、繪などは必しも然るべからず、他のよきを見て、うつることあたはざるはいとかたくなゝり、されど又、家の法といふ中に、いと/\よろしく、まことに、屋上を去て内を見する事、雲をへだてゝ遠近をわかつこと、さるべきことにて、その法にはづれては、いとあしき事もおほくして、今時のこゝろにまかせてかきちらすゑどもの、及びがたき事もおほかりかし、又今の世に、もろこしのふりとてまねびたるさま/”\あり、その大かたは、まづ何をかくにも、まことの物のやうをよく見てまねびかく、これを生《シヤウ》うつしとかいふ、こはまことによろしかるべくおぼゆることなり、しかれども、まことの物と繪とはことなることもありて、まことのあるまゝにかきては、かへりて其物に似ずして、あしきこともある物なり、故にかの家々には法ありて、かならずしもその物のまことのまゝにはかゝはらぬ事あるなり、こは法のいみしくしてすてがたき物なり、まづ山水といふ繪、すべてこゝの家々の繪よろし、もろこしやうはいと/\わろくこちなく見ぐるしきことおほし、これその法によらずして、心にまかせてかくゆゑなり、あるひは道あるまじき所に道をかき、橋あるまじき所に橋をかき、その外いはほ草木など、かきてわろき所にかき、おほくてよき所にはすくなく、おほくてわろき所におほくかくたぐひ、すべてもののかきどころわろく、草木岩根のたゝずまひ、さかしき峯のさまなど、つたなく見ぐるしきこと、大かたこれらは上手の繪の中にも此なむはあるなり、かの家々のはかゝることもみな法ありてかくゆゑにつたなからず、又から繪に舟をかくに、斜めにかくことおほきもいたくわろし、大かた船のゆくことはなゝめにみゆることもつねにあれども、ゑにかきてはわろきなり、なゝめにかけるは、水のうへにたひらにうかべりとは見えず、しりあがりてくつがへらむとするさまに見ゆるなり、これら法によらず、たゞまことの物のまゝにかくゆゑの失なり、又鳥蟲をかくにこまかにくはしくはあれども、飛動くさまの勢ひなきがおほし、草木をかくに葉も莖も地との際の筋をかゝず、これわろし、是また際の筋は實はなき物なれば實によれるなれども、繪にかくときはすぢなくてはあざやかにわかれず、すべてよろづの物、その實の物は、何もなき所が地にて、何もなき所は色なき物なるを、繪は白きが地にして、何もなき所が白し、その白き所へかくことなれば、實の何もなき空の地とは異なれば、きはの筋なきことあたはず、から繪に此筋のなきは此わきまへをしらざるなり、人の面をかくにはから繪といへども、地とのきはの筋をかゝざる事を得ず、又から繪は、木の枝ざし、草花のもとだち、葉のあり所など、法なきが如くにて、心にまかせてかくゆゑに、とりしまりなし、家の画はみな法ありとおぼしくて、とりしまりよくつたなきことなし、大かたこれらなべての唐畫のつたなき所なり、しかれども唐繪は、鳥獣蟲魚草木など、すべて此方の家の画とくらぶれば、甚くはしくこまかにかくゆゑに、上手のかけるはまことに、眞のその物のごとく見ゆなるを、此方の家々の繪は、獣の毛のさま、草木の花のしべ、葉のあやなど、すべてあらくかける故に、くらべて見ればからゑにけおさるゝ事おほし、こは広き家の屏風壁などの繪は、やゝ遠く見ゆる物なる故に、あまりこまかにくはしくかけるは詮なく、中々によろしからざる事として、さら/\と書るをよしとするなるべけれど、猶こまかにくはしき唐畫の方ぞまさりて見ゆる、大かた此家々の畫と、唐繪とたがひにえたる所、得ぬ所ありて、勝劣をいひがたき事上件の如し、又ちかきころは、家の法にもなづまず、唐繪のかきざまにもかたよらず、たゞおのが心もて、いづかたにまれよしとおぼゆるところをとりてかくたぐひも多き、そのすぢはよきをえらびわろきをすてゝ書ゆゑに、いづれもいみしきなんはをさ/\見えざるなり、
 
    漢ふみにしるせる事みだりに信ずまじき事
世の學者、ことの疑はしきを、から書にしか/\見えたりといへば、疑はず信ずるはいとをこなり、すべて漢籍、うきたる事、ひがこと、そら言いと多し、その言よきにまどひて、みだりに信ずべきにあらず、
 
    日 食 月 食
もろこしの聖人、日食月食のゆゑをだにえはかりしらで、わざはひとしたるもをかし、
 
    世の中の萬の事は皆神の御しわざなる事
世の中のよろづのことはみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなることをえしらずして、己がおしはかりの理を以ていふはいとをこなり、いかにともしられぬ事を理を以てとかくいふは、から人のくせなり、そのいふところの理は、いかさまにもいへばいはるゝ物ぞ、かれいにしへのから人のいひおける理、後世にいたりてひがことなることのあらはれたる事おほし、またつひに理のはかりがたきことにあへば、これを天といひてのがるゝ、みな神ある事をしらざるゆゑなり、
 
    聖人を尊む事
世々のもろこし人おしなべて、かの國の聖人といふ物を尊み信ずる中には、實に尊みしんずる人もあるべく、又こゝろにはいかにぞや思ふことあれども、聖人にたがひては世の人のそしりてうけぬことなるによりて、尊み信ずるかほして、世にしたがへるもありげに見ゆるなり、又もろ/\の聖人どものなかに、孔子は、かの國の王にあらず、もはらその道の人なるがゆゑに、あるが中に此人をばことに尊み信ずめるは、これつとめてこれをほめたてゝ、その道を張むとするなり、
 
    ト  筮
もろこしの國とても、いと上代には、後世のごとく、萬の事、己がおしはかりの理を以て定むる事は、さしもあらざりしこと、ト筮といふ物あるをもてしるべし、ト筮は己が心にさだめがたき事を、神にこひてその教をうけて定むるわざなり、ト筮にいづるは、神のをしへなり、然るを後世のごとく、己が心をもて、物の理をはかりて、さだむることは、大かた周公旦といふさかしら人より、盛んにその風になれるなり、
 
    華  夷
もろこしの國、後世の書どもを見れば、かの國の内、大かた南の方は、よろづの事まさり、北の方は、こよなく劣れるさまなり、しかるに、中國とてほこりしは、北の方にて、南のかたは、夷といひていやしめたりし地なり、これを以ても、華夷といふことの、虚にして實なきをしるべし、
 
    から人の語かしこくいひとれること
むかしより、世々に、もろこし人のいへる、名たかき語どもをおもふに、たゞかしこく物にたとへもし、又たゞにても、おかしくいひとれるのみにこそあれ、そのこゝろは、學文もせぬつねの人も、心かしこきは、大かたみなもとよりよく心得たる事にて、さしもこゝろに及ばずめづらしき事はなし、されどよくいひとれるがかしこさに、げにさこそはあれと、みな人は感ずるなり、
 
    論  語
論語の雍也篇の朱注に、仲弓蓋(シ)未v喩2夫子(ノ)可(ノ)字(ノ)之意(ヲ)1云々といへり、朱熹、つねに格物致知を教ふ、しかるに仲弓は孔丘が高弟なるに、いまだ可の字の意をだに喩らぬは、いかでか致知を得む、孔丘が高弟すら、かくの如くならむには、常人はいかでかこれを得ん、大かた朱學の牽強付会みなかくの如し、
 
    ま  た
冉伯牛癩疾をやむ、孔丘のいはく、命矣夫、斯人也、而有2斯疾1也といへり、天命いかでか、かくひがことする、
 
    又
論語の中にも、堯舜禹泰伯文王をばいみしくほめたれども、湯王武王をほめたる事は一言もなし、意あるにや、終りに、湯王が言をあげたるは、孔丘の意にはあらず、
 
    又
同書に子曰、孰(レカ)謂2微生高(ヲ)直(シト)1、或乞(ヘルニ)v醯(ヲ)焉、乞(テ)2諸其鄰(ニ)1而与(フ)v之(ヲ)とあり、聖人の教の刻酷なることかくの如し、これらはたゞいさゝかの事にて、さしも不直といふべきほどの事にあらず、かほどの事をさへ、不直といひてとがむるは、あまりのことなり、又たとひ此事は、實に不直にもせよ、いさゝかなる此一事によりてその人を不直なりと定むるも、いと/\あたらぬ事なり、すべてよき人にもあやまちわろき事はあるものなり、あしき人にもよき事もあるものなるを、たゞ一事の善惡によりて、その人のよしあしを定むるは、聖人の道のくせにて、ひがことなり、
 
    又
同書に、厩焚(タリ)、子退(テ)v朝(ヨリ)曰、傷v人(ヲ)乎、不v問v馬(ヲ)、これ甚いかがなり、すべての人の家の焚んにも、人はさしもやかるゝ物にあらず、馬はよくやかるゝものなり、まして馬屋のやけんには、ひとはあやふきことなし、馬こそいとあやふけれ、されば馬をこそ問ふべけれ、これ人情なり、しかるにまづ人をとふすらいかゞなるに、馬をとはざるはいと心なき人なり、但し人をとへるはさることなれば記しもすべきを、馬をとはぬが何のよきことかある、是まなびの子どもの、孔丘が常人にことなることを人にしらさむとするあまりに、かへりて孔丘が不情をあらはせり、不問馬の三字を削りてよろし、
 
    は や る
時ありて世に盛にものすることを、俗言にはやるといふ、疫病のはやる、醫師のはやるなど、よろづの物にも、事にもいへり、この言中昔の書にも見えて、抄出しおきたり、それは今時にいふとはいさゝか心ばへかはりて聞ゆ、其人のはやり給ひし時とあり、これはたゞ時にあひて榮え給ひし時といふことなり、今醫師などのはやるといふは、その産業の盛に用ひらるゝをいふを、かれはたゞその身の榮えをいへるなり、
 
    御 の 字
御の字のこと、もろこしにては、その國の王の事ならではいはず、臣下にいへることなし、此字すなはち王の事をさしていへるが如し、皇國にては、み〔右○〕といふに此字をあてたれど、御《ミ》は天皇にかぎらず、もとより下々にても尊みて廣くいふ言なり、大御《オホミ》といふぞ、大かた天皇にかぎりていへる、神に申すは、すべて神は天皇とひとしく、御妻を后、御行を幸といふ類なり、されば大御《オホミ》といふは、もろこしの御の字のつかひざまに近し、さて後には大御を音便に|おほん〔三字右○〕といひて、天皇にかぎらず廣くいふことゝなり、又その後には、そのおほんのほを省きて、おんといひ、後には又んをも省きて、おとのみいふ、今の俗には物に書(キ)ては、御の字をおんといへども、口語にはおとのみいへり、まれ/\におみ帶、おみ袷、おみ足などいふことのあるは、大御てふ古言の、たま/\にのこれるなり、されどこはなめてにはわたらぬ事なり、
 
    人のうまれつきさま/”\ある事
人のうまれつきさま/”\あるものなり、物の義理、事の利害など、すべて萬のことを、心にはよく思ひわきまへながら、口にはえいはぬ人もあり、また口にはよくいへども、しか行ふ事はえせぬひともあり、又口には得いはねども、よく行ふ人もあり、又口にはよくいへども、文には得かきいでぬひとあり、又口にはえいはねども、文にはよく書いづるひともあるなり、
 
    紙 の 用
紙の用、物をかく外にいと多し、まづ物をつゝむこと、拭ふこと、また箱籠のたぐひに張て器となす事、又かうより、かんでうよりといふ物にして、物を結《ユ》ふことなどなり、これらのほかにも猶ことにふれて多かるべし、しかるにもろこしの紙はたゞ物かくにのみ宣しくて、件の事どもにはいと/\不便にぞありける、かくて皇國には國々より出る紙の品いと/\多くて、厚きうすき、強《コハ》きやはらかなる、さま/”\あげもつくしがたけれど、物かくにはなほ唐の紙に及《シク》ものなし、人はいかゞおぼゆらむしらず、我はしかおぼゆるなり、
 
    古よりも後世のまされる事
古よりも、後世のまされること、萬の物にも、事にもおほし、其一つをいはむに、いにしへは、橘をならびなき物にしてめでつるを、近き世には、みかんといふ物ありて、此みかんにくらぶれば、橘は數にもあらずけおされたり、その外かうじ、ゆ、くねんぼ、だい/\などの、たぐひおほき中に、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘によく似てこよなくまされる物なり、此一つにておしはかるべし、或は古にはなくて、今はある物もおほく、いにしへはわろくて、今のはよきたぐひ多し、これをもておもへば、今より後も又いかにあらむ、今に勝れる物おほく出來べし、今の心にて思へば、古はよろづに事たらずあかぬ事おほかりけむ、されどその世には、さはおほえずやありけん、今より後また、物の多くよきがいでこん世には、今をもしか思ふべけれど、今の人、事たらずとおぼえぬが如し、
 
    其の家といふことを其の亭とかく事
歌の會などに、某(ノ)家といふことを、近代は必、某(ノ)亭とかくことゝなれるはいかゞ、古(ク)はみな、某(ノ)家とこそあれ、亭の字はあたらぬことなり、
 
    名  所
歌枕の國郡を論ずるに、ふるき歌によめるをよく考へて、その國郡を定むべし、後世の歌は、たゞ歌の趣意により來れる所をよむ故に、その國所をばしらずそらによめる故に、後世の歌はさらに據とするにたらず、題詠のみならず、後世の歌は、その所にいたりてよめるも取がたきことあり、いかにといふに、ふるき歌枕を、中昔の書に某國にありと注せるには、いみしく誤れる事のみ多きを、後の人、その誤れる注によりて、その國にその名所をつくりかまへて、或は萬葉によめる某山はこれなりなどいふたぐひおほきを、それも年を經ればその名のひろまりて、もとよりその所の如くなれるを、他國の歌人そこにいたりて、その名をきゝてよめるたぐひおほければなり、
 
    混  本
古今集眞名序に、混本といふ歌の體をあげられたるは、思ふにこれは本に混ずといふなれば、旋頭歌の亦の名なるべし、別に此體あるにはあらじ、然るを古今の序には、別の一體と心得ていへるか、又は長歌短歌といふ四字の對にせむために、旋頭を旋頭混本とかけるか、いづれにまれ別に此體はあるまじくなん、後の書どもに、その歌とて載たるひとつふたつあれど、そはかの古今集の序によりて、ことさらに造りまうけたるものにて、いふにたらぬ歌なり、その外に古より、混本體といふ歌はある事なし、
 
    た と へ 歌
たとへ歌、なずらへ歌、そへ歌、みなおなじことなるを、古今集の序に、三つにわけたるは、しひてから國の六義といふ事にあてむとてのしひごとなり、すべて六義といふこと、歌にあることなし、いみしきしひごとなり、
 
    又たとへ歌のやう
たとへ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、たとへたる意あらはにしらるゝやうによみたるものなり、然るに、萬葉集なるは、その事にあたりて、そのよみたる人は、たとへたる心をしるべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとへたる意はこまかにはしれがたきが多し、されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、たしかにはいひがたき歌おほし、其心してとくべきなり、又萬葉のたとへ歌は、そのたとへたる草木鳥蟲のうへの詞と、たゞに戀のうへをいへる詞とを、あひまじへてよめる多し、是又こゝろえおくべし、
 
    さ き は ひ
幸といふこと、此方の古書には、多く福の意に用ひて差別なし、しかるを、字の義は異にして、幸は、福を受べき由なくして、偶然に得たるをいふ、もろこしにて用たるは、みな其意なり、
 
    教  誡
もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいへるは、いと/\うるさし、人は教によりてよくなるものにあらず、もとより教をまつものにはあらぬを、あまりこちたくいましめ教るから、中々に姦曲詐僞のみまさる事をしらず、周公旦、あまりにこちたく定めたるゆゑに、周の末の亂をおこせり、戰國のころのひとの邪智ふかきは、みな周公がをしへたることなり、皇國の古書には、露ばかりもをしへがましき事見えず、此けぢめをよく考ふべし、教誡の嚴なるをよきことゝ心得たるは愚なり、
 
    孟  子
孟子に、不孝(ニ)有v三、無(ヲ)v後爲v大(ナリ)といへり、然る時は、後あるが孝なることをしるべし、もし後あるが孝ならば、身を富貴にせむこそ大孝ならめ、しかるを、儒者の富貴を願はざるは、たゞおのが身を潔くせむとして、親を思はざるなり、これ又不孝といふべし、
 
    又
子産聽2鄭國之政(ヲ)1、以2其乘輿(ヲ)1、済(ス)2人(ヲ)於※[さんずい+秦]※[さんずい+有](ニ)1、孟子曰、惠(ニシテ)而不v知v爲(コトヲ)v政(ヲ)、歳(ノ)十一月徒※[手偏+工]成(ル)、十二月輿梁成(ル)、民未v病《ウレヘ》v渉(ルコトヲ)也、君子平(ニセバ)2其政(ヲ)1、行(ニ)辟(クトモ)v人(ヲ)可也、焉(ンゾ)得(ン)2人人(ニシテ)而済(スコトヲ)1v之(ヲ)、故爲v政(ヲ)者、毎v人而悦(ムレバ)v之(ヲ)、日(モ)亦可v足矣、これ理窟なり、子産その渉りわづらふ人を見て、いまだ國中の民を見ず、惻隱の心政をなすにたれり、かの齊(ノ)宣王が、牛をあはれみたるをばほめて、是(ノ)心足(レリ)2以王(タルニ)1矣とはいはずや、また不v嗜v殺(コトヲ)v人者能一(ニセン)v之(ヲ)といへり、秦(ノ)始皇の一(ツ)にしたるはいかに、又程子(ノ)曰、孟子(ノ)性善養氣之論、皆前聖(ノ)所v末v發といへり、性善養氣の論は、前聖の意にあらず、何ぞこれを發せん、又盡心篇に、孟子曰、不仁哉梁惠王云々、かばかり不仁を行ふ人に、王道をすゝめたるはいとをかし、また民(ヲ)爲v貴(ト)、社稷次v之(ニ)、君を爲v輕(ト)といへり、甚しき云過しの惡言なり、かくて孟子終篇、たゞ親に孝なるべき事のみをしば/\いひて、君に忠なるべき事をいへること一つもなし、又孟子告(テ)2齊(ノ)宣王(ニ)1曰、君之視(コト)v臣如(ナレバ)2手足1則臣視(コト)v君如2腹心1、君之視(コト)v臣如v犬馬、則臣視(コト)v君如2國人1、君之視(コト)v臣如2土芥1、則臣視v君如2寇讎1、云々、此(ヲ)之謂2寇讎(ト)1、々々(ニハ)何(ノ)服(カ)之有(ン)などいへり、此一章をもて、孟軻が大惡をさとるべし、これは君たる人に教へたる語とはいひながら、あまり口にまかせたる惡言なり、此書、人の臣たらむものゝ見べき書にあらず、臣たる人に不忠不義を教へたるものなり、其國を去てその君かへり見ずとて、これを寇讎とはいかでかせむ、いはんかたもなき惡言なり、おそるべしおそるべし、
 
    如 是 我 聞
もろ/\の佛經のはじめに、如是我聞といへること、さま/\故ある事のごといひなせれども、末々の文にかなはず、はじめにかくいへるは、いずれにしてもひがことにてつたなきことなり、又我聞如是とこそいふべけれ、言のついでも、いとつたなし、これらのこと、天竺國のなべてのならひにもあるべけれど、なほ翻譯者も拙し、すべて漢學びする人の、手をかけるにも、詩文を作れるにも、和習/\と、つねにいふことなるを、佛書の文には、又天竺習の多きなり、
 
    道教にまどへるから國の王どもの異《コト》さまなる號
唐(ノ)玄宗會昌投龍文(ニ)、自稱(ス)2承道繼玄昭明三光弟子南嶽上眞人(ト)1、宋(ノ)徽宗、群臣上(テ)2尊號(ヲ)1爲2玉京金闕七寶元臺紫微上宮靈寶至眞玉宸明皇天道君(ト)1、其上章青詞、自稱2奉行玉清神霄保仙元一六陽三五※[王+旋]※[王+幾]七九飛天元大法師都天教主(ト)1云々々々屈(シテ)2萬乘之稱(ヲ)1、從(フ)2黄冠之號(ニ)1、不2亦兒戯狂惑之甚(ニ)1哉《ヤ》といへり、件の號どもは、道教に惑へる號なり、拙(キ)ことなり、聖武天皇の、沙彌勝滿と、御名|告《ノ》らせ給ひ、東大寺の大佛に對ひ給ひて、三寶の奴と詔へる類なり
 
    佛  道
佛道は、たゞ悟と迷ひとをわきまへて、その悟を得るのみにして、その余の事はみな枝葉のみなり、かくてその悟といふ物、また無用の空論にして、露も世に益ある事なし、しかるを、世の人、その枝葉の方便にまどへるは、いかなる愚なる心ぞや、
 
    世の人まことのみちにこゝろつかざる事
もろこしの國には、道教といふもの、世々に盛に行はれて、大かた佛道とひとしきばかりなり、此道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、たゞあやしきたはふれわざのやうなることにて、そのむねをきはむれば、やうなきいたづらごとなり、皇國に、此道のわたりまうでこざるは幸ひなり、しかはあれども、天(ノ)下の人の心、佛道と儒道とに、こと/”\く奪はれはてたるは、又なげかしき事なり、大かた天下の人、上中下、さかしき愚なる、おしなべて、奥山の山賤《ヤマガツ》までも、佛を信ぜざるは一人もなく、その中に、角《カク》なる字《ジ》をもいさゝかよむほどのものは、又なかば儒意をまじへて、よろづの事を思ひ定むめり、されば、神のまことの道を思ふ人は、千萬人の中に、たゞ一人二人にて、その餘は神社につかふる人の中に、まれ/\さすがに己が家の業と思ひ得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは佛意儒意なり、又神の道といふも、皆儒佛によりて説(キ)まげたる物なれば、まことの道は、大かた絶はてたるも同じ事なり、天(ノ)下大かた、件の如くなれば、たゞ何國も何國も、佛寺のみ榮えて、神社はいたく衰へまして、その衰へをうれふる人もなく、神はたゞ、病その外の祈りことにのみに用ひられて、此道もたゞ、世(ノ)中の外の無用の物のごとく、たゞいにしへより有來れる事として、ひたふるに廢られぬといふのみなり、此道は、これ天下を治め、國を治むる、先務要道なることをしれる人は、われいまだ、夢にも見きかず、いとも/\かなしき事ならずや、
 
    宋の代 明の代
もろこしの國、宋の代にいたりては、よろづの事理窟三昧にして、國政につけても、何につけても、無用の空論のみなり、明の代の人は、又見識ひらけて、宋の理窟のわろき事をしり、又古より世々の物しり人の説の、誤り、心もつかざりしことなどをも、見つけたる人多きは、めづらしき事なり、されどつひにまことの道をばしる人なくして、その代終りぬるは、神の御國にあらざるがゆえなり、
 
    神 獣 神 鷹
もろこし今の清の代の、乾隆四十二年といふに、かの國人のしるせる、西域聞見録といふ物に、氷山とて、氷の山あり、そこを人の徃來することをしるせるところにいはく、道路亦無2一定之所1、有2神獣一(ツ)1、非v狼非v狐、毎v晨視2其蹤之所1v往、踐而循(ヘバ)v之(ニ)、必無2差謬1、有2神鷹一(ツ)1、大如v※[周+鳥]、色青白、或有(レバ)d迷失2路徑1者u、※[車+取]聞2鷹鳴1、尋v聲而往(ケバ)、即歸(ス)2正路(ニ)1、件のこと、諏訪の湖の、狐の氷をわたる事、又かの八咫烏の、道引の事などに、いと/\よく似たり、
 
    鄂羅斯といふ國また控※[口+葛]爾といふ國
同書にいはく、鄂羅斯《ヲロシハ》、北邊之大國也、東界v海(ニ)、南界2中國1、西北隣2控※[口+葛]爾1、東西距(コト)二萬餘里、南北窄狹、自2千里1至2三千里1不v等、稱(シテ)2其王(ヲ)1曰v汗(ト)、自2鄂羅斯(ノ)之察罕汗沒1無v子、國人立(テ)2其女1爲2汗嗣(ト)1、後皆傳v女(ニ)、迄(テ)v今(ニ)已(ニ)七世矣、仍襲2其祖(ノ)名號(ヲ)1、故(ニ)國人猶稱(シテ)爲2罕汗(ト)1也、其女主有v所v幸、或期年、或數月、則殺v之、生(メバ)v女(ヲ)留(メテ)承v統‐續(ヲ)、謂2其汗(ノ)之嫡嗣(ト)1也、生(メバ)v男則以爲2他人之種1也、云々、これいはゆるムスコビヤなり、しかるに右の下文にいはく、本(ト)控※[口+葛]爾(ノ)屬國(ニシテ)、稱v臣(ト)納v貢、由來已久、乾隆二十年、察罕汗恃2其強大(ヲ)1、不2復稱1v臣(ト)、云々、仍復稱v臣、云々、其俗最重2君臣之義1、如2其汗1、雖2無道之極1、亦無v有(コト)d敢議2其是非(ヲ)1者u、自v古無2叛逆簒奪之事1、一姓相傳、不v知2幾千年1、視(フルニ)2他國之朝夕易v姓者(ニ)1相懸矣、云々、またいはく、控※[口+葛]爾(ハ)西北方(ノ)囘子最大之國(ナリ)、地包2鄂羅斯東西界(ノ)之外(ヲ)1、云々など見えたり、この控※[口+葛]爾といふ國、すなはちムスコビヤのことにはあらざるか、何とかや、混雜の誤あるやうにきこゆ、
 
    天
から人の、何につけても天天といふは、神あることをしらざる故のひがごとなり、天は、たゞ神のまします國にこそあれ、心も、行ひも、道も、何も、ある物にはあらず、いはゆる天命、天道などいふは、みな神のなし賜ふことにこそあれ、又天地は、萬物を生育する物と思ふもひがことなり、萬物の生育するも、みな神の御しわざなり、天地は、たゞ、神のこれを生育し給ふ場所のみなり、天地のこれを生育するにはあらず、から人の云く、天聖人に命じて、暴を征伐して、民を安(ン)ぜしむといへり、しからば、天のしわざは、正しき物にして、ひがことはなき物と聞えたるに、世(ノ)中には、理にたがひたる事の多きはいかに、その理にたがひたることあれども、たゞ天の命なればせんかたなしとのみいひて、その天のひがことするをば、とがめざるはいとをかし、天もひがことするならば、かの聖人に命じて、君を亡して、天下をとらせたるも、天のひがことゝいふべし、
 
    國を治むるかたの學問
國を治むる人の、がくもんし給はんとならば、をさまれる世には、宋學のかた、ものどほけれど、全てそこなひなし、近き世の古文辭家の學問は、ようせずは、いみしきあやまちを引いづべし、さて亂れたる世には、しばらく、もろ/\の書はさしおきて、たゞ近昔の戰を記したる、軍書といふものをつねによく讀べし、その世の人々の、よしあしさ、かしこきおろかなる、こゝろしわざ、たゝかひのしやうなどを、よく/\考ふべし、
 
   板坂卜齋物語
板坂卜齋物語といふものにいはく、九月朔、【慶長五年】西丸御隱居、曲輪【江】御出候、石川日向守家成、今日は西ふさがり惡日【に】候、御合戰の御|首途《カドイデ》如何と申上候へば、西を治部少ふさげ候間、今日あけに參候と御意、其晩神奈川、二日藤澤、三日小田原云々といへり、これは關が原の御出陣の事なり、此書は、板坂卜齋宗商といふ人、東照神祖君に仕奉りて、明暮御前にさふらひて、見聞たる事どもを、日記のやうにしるせる書なり、卜齋が後は、今もなほ板坂卜齋といひて、わが紀の殿人にてあるなり、
 
    又
同書に、大御所樣、小身なる侍共に、つね/”\御教訓には、云々、昔よりのたとへに、犬々三年人一代、人々三年犬一代と申候、犬也ときたなくいはれ、三年しまつ致し候へば、奉公もなり、傍輩に無心も不v謂、一代人倫のまじはりにて通り申侯、酒宴好(ミ)振舞ずき致し、むさとつかひ崩し候へば、三年はさて/\、無欲心、きれいなる人やとほめ候へども、やがてすり切、人馬も不2持得1、人の物をかりて不v返(サ)、出陣の供も成兼、一代世間に、犬畜生といやしめ被v笑候、是を人々三年犬一代と申候、常々酒呑料理ずき致し、武道をわきへ致し候輩は、犬畜生同前也と申たとへ也と、常々被v仰候、
 
    又
同書に、大御所樣は、奢たる事を、殊外御嫌被成云々、天下を御取被成候而も、御出行の時は、十文字御鑓、直鑓只貮本、御長刀一振斗也、御鷹野も、十度に八度は、御馬に召候、御袖の内へ、御手を被爲入候事遂になし、極寒にも、手綱御自身御取被成候、
 
    漢籍の説と皇の古傳説とのたとへ
漢ぶみの説は、まのあたり近き山を見るがごとく、皇國の上代の傳説は、十里廿里もかさなりたる、遠き山を見るがごとし、漢ぶみの説は、人情にかなひて、みな尤と思はるゝ事なり、皇國の上代神代などの故事は何の味もなく、たゞ淺はかに聞ゆるは、凡人の思ひはかる智の及ぶかぎりとは、はるかに遠きゆゑ、その理の聞えず、たゞ淺はかに聞ゆるなり、これかのとほき山は、たゞほのかに山と見ゆるのみにて、その景色も何もみえず、見どころなきが如し、これ景色なきにあらず、人の目力の及ばぬ故なり、又漢籍の理ふかく尤に聞ゆるは、ひとのいへる説にて、人の情に近きなり、是かの近き山は、けしきよく見えわかれて、おもしろき見所あるがごとし、
 
    饌《ケ》
饌《ケ》をつくりとゝのふるを、俗に料理といひ、それよりうつりて、そのつくりとゝのへたる饌《ケ》をさしても、料理といひ、御料理を下さる、結構なる料理などいふ、みな饌《ケ》をいへり、
 
    又
つねの饌《ケ》は、羮《アツモノ》一つ、菜《アハセ》一つにて止べし、しな/\數多ければ、これかれにまぎれて、美きものももはらならねば、さしもめでたくおぼえず、但し他の饗饌は、數すくなくてはさう/\しきこゝちす、あまり多きも、中々めでたからずおぼゆ、數おほくつもりて後々は、うるさくあきたくなるなり、たゞ羮は品をかへて、數おほきもよろし、さて昔はすべて、あつものといひしを、近き世には、始の一つを、汁といひ、次に出すを、二の汁といひて、その餘をば、汁とはいはず、吸物といひて、しるとすひ物とは、別なる如し、又いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕冊子などに見ゆ、又伊勢神宮の書に、まはりとあるは、伊勢の言歟、此國の今も山里人など、まはりといふ所あり、
 
    伊 勢 國
伊勢の國は、かた國のうまし國と古語にもいひて、北のはてより南のはてまで、西の方は山々つらなりつゞきて、まことに青垣をなせり、東の方は入海にていせの海といふこれなり、かくていづこも/\山と海との間、ひろく平原にして、北は桑名より、南は山田まで、廿里あまりがほど、山といふ物一つもこゆることなく、ひたつゞきの國原なり、その間に、廣き里々おほかる中に、山田、安濃津、松阪、桑名など、ことににぎはゝしく大きなる里なり、大かた京より江戸まで、七國八國を經てゆく間に、かばかりの大里は、近江の大津と、駿河の府をおきてはあることなし、外の國々も思ひやらる、猶件の里々につぎて、四日市、白子などよき邑なり、かくて此國、海の物、山野の物、すべてともしからず、暑さ寒さも、他國にくらぶるに、さしも甚しからず、但しさむさは、北の方へよるまゝに次第に寒し、風はよくふく國なり、國のにぎはゝしきことは、大御神の宮にまうづる旅人たゆることなく、ことに春夏の程は、いと/\にぎはゝしき事、大かた天(ノ)下にならびなし、土《ツチ》こえて、稻いとよし、たなつ物も畑つ物も、大かた皆よし、かくて松坂は、ことによき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富る家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて、手代といふ物をおほくあらせて、あきなひせさせて、あるじは、國にのみ居てあそびをり、うはべはさしもあらで、うち/\はいたくゆたかにおごりてわたる、すべて此里、町すぢゆがみ正しからず、家なみわろく、一つごとに一尺二尺づゝ出入てひとしからず、いと/\しどけなし、家居はさしもいかめしからず、されど内々のすまひはいとよし、水はよき所とわろき所とありてひとしからず、川水すくなく、潮もさゝねば、船かよはず、山へは、大方一里あまり、海へは、半里あまり、諸國のたよりよし、ことに京江戸大阪はたよりよし、諸國の人の入くる國なれば、いづこへも/\たよりよし、人の心はよくもあらず、おごりてまことすくなし、人のかたち、男も女もゐ中びたることさらになくよろし、女は里のゆたかににぎほゝしきまゝにすがたよそひよし、すべてをさ/\京におとれることなし、人の物いひは、尾張の國より東の國々は、なまりおほきを、伊勢は、大かたなまりなし、されど山城大和などゝは、何となく聲いやしく、詞もいやしきこと多し、いはゆる呉服物、小間物のたぐひ、松坂はよき品を用ひて、山田津などゝはこよなく代物よし、されば商人の、京よりしいるゝも、松坂はことに物よく上々の品なり、京のあき人つねに來かよふなり、時々のはやり物も、をり過さず、諸藝は所からにあはせては、よきこともあらず、もろ/\の細工いと上手なり、あきなひごとにぎはゝし、芝居、見せ物、神社、佛閣すべてにぎはゝし、すべて此國は、他國の人おほく入こむ國なる故に、よからぬ物もおほく、盗なども多し、松坂は、魚類野菜などすべてゆたかなり、されば魚には、鯉鮒すくなく、野菜には、くわゐ蓮根などすくなし、松坂のあかぬ事は、町筋の正しからずしどけなきと、船のかよはぬとなり、
 
    米粒を佛法ぼさつなどいひならへる事
穀物をおろそかにすまじきよしをいふ時に、米粒などを、佛法《ブツホフ》といひ、東國にては、菩薩といふ、これ大切にして、おろそかにすまじきよしなれば、然いふ心はいとありがたけれども、佛菩薩より尊き物はなしと心得たる心よりしかいふなれば、言はいとひがことなり、神とこそいふべけれ、まことに穀はうへもなき尊きものなれば、神とも神と申すべきものなり、
 
    世の人のこざかしきこといふをよしとする事
世の中のこざかしき人は、いはゆる道歌のさまなる俗歌をよみて、さとりがましき事をよくいふものなり、或は身こそやすけれなどいひて、わが心のさとりにて身のやすきよしをよむこと、みな儒佛にへつらひたる僞ごとなり、まことには、わが身を安しとして、足事をしれるものはなきものなり、たとへば人の齡など、七十に及ぶは、まことにまれなる事なれば、七十までも長らへては、はやく足れりと思ふべきことなれども、人みな猶たれりとは思はず、末のみじかき事をのみ歎きて、九十までも、百歳までも生《イカ》まほしく思ふぞ、まことの情なりける、
 
    假  字
皇國の言を、古書どもに、漢文ざまにかけるは、假字といふものなくして、せむかたなく止事を得ざる故なり、今はかなといふ物ありて、自由にかゝるゝに、それをすてゝ、不自由なる漢文を以て、かゝむとするは、いかなるひがこゝろえぞや、
 
    から國の詞つかひ
皇國の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり、たとへば罕言といふこと、皇國言にては、まれにいふといふと、いふことまれなりといふと、心ばへ異なり、まれにいふは、言《イフ》といふこと主となりて、罕ながらもいふことのあることなり、いふことまれなりは、罕といふこと主となりて、いふことのまれなるなり、他の言も此たぐひ多し、すべてのことみなかくの如し、
 
    佛 經 の 文
すべての佛經は、文のいとつたなきものなり、一つに短くいひとらるゝ事を、くだ/\しく同じことを長々といへるなど、天竺國の物いひにてもあるべけれど、いとわづらはしうつたなし、
 
    神のめぐみ
上は位たかく、一國一郡をもしりて、多くの人をしたがへ、世の人にうやまはれ、萬ゆたかにたのしくてすぐし、下はうゑず食ひ、さむからず着、やすく家《ヲ》る、これらみな、君のめぐみ、先祖のめぐみ、父母のめぐみなることはさるものにて、その本をたづぬれば、件の事どもよりはじめ、世にありとあるもろ/\のこと、みな神のみたまにあらずといふことなし、しかれば、世にあらむ人、神を尊まではえあらぬ事なるを、平日《ツネ》になりぬることは、さしも心にとめず、忘れをるならひにて、君のめぐみ、先祖のめぐみをもさしもおもはず、もとより神の御たまなることは、みなわすれはてゝ、思ひもやらぬは、いと/\かしこくあるまじき事なり、一日も、食物なくはいかにせむ、衣物なくはいかにせむ、これを思はゞ、君のめぐみ、先祖父母のめぐみをつねにわするべきにあらず、しかるを世の人、さることをばしらずおもはず、神をばたゞよそげに思ひ奉りて、たま/\さしあたりて祈る事などかなはねば、その神をうらみ奉りなどするは、いと/\かたじけなきことなり、生れいづるより死ぬるまで、神の惠の中に居ながら、いさゝか心にかなはぬ事ありとても、これをうらみ奉るべきことかは、又祈ることきゝ給はねば、神は尊みてやくなき物のごと思ひなどするは、いかにぞや、かへす/\も萬の事、こと/”\く神のみたまなることを、平日《ツネ》にわするゝ事なくは、おのづから神のたふとまではかなはぬ事を知べし、たとへば百兩の金ほしき時に、人の九十九兩あたへて、一兩たらざるが如し、そのあたへたる人をば、悦ぶべきか、恨むべきか、祈ることかなはねばとて、神をえうなき物にうらみ奉るは、九十九兩あたへたらむ人を、えうなきものに思ひてうらむるがごとし、九十九兩のめぐみを忘れて、今一兩あたへざるをうらむるはいかに、
 
    道
神の道は、世にすぐれたるまことの道なり、みな人しらではかなはぬ皇國のみちなるに、わづかに糸筋ばかり世にのこりて、たゞまことならぬ、他の國の道々のみはびこれるは、いかなることにか、まがつひの神の御こゝろは、すべなき物なりけり、
 
 
 わがおほぢ、此ものせられたる玉かつまは、わかきほどよりよまれける書の中、に心とまれるふし/\など、物にうつしとめられけるどもの、いたづらにくたしはつべきならぬ言くさをもとゝして、又なにくれの事にふれて、見もしきゝもしたるが中に、とあるはかゝり、しかいふことはかくこそなど、もとよりまめ/\しきやまと心にかけて、思ひよられけるすぢも、又たゞなにとなきすゞろごとどもも、かくかきつめて、おなじ心にいにしへしのぶ人のよみ見む事を思はれけるなりけり、初若菜より思ひ草の卷までは、みづから清く書おかれけるを、はての卷つら/\椿になりて、十五のひらよりかきさして、いまだ下かきのまゝにてありつるを、翁うせられてのちうつしつぎて、十四卷としたるに、この書の卷々のをち/\書ついでて、そこかしこたづねみむ人のたよりよからむさまにとて、又一卷となしぬ、はじめの三卷は寛政六年すりまきなりぬるを、其つぎ/\も三卷づゝ板にゑらせて、此度にて五たび、あはせて十五まきにぞなれりける、文化八年十二月八日本居萬麻呂
 
玉 勝 間 後 書
 鈴屋の大人の此玉かつまは、かゝる書つくらむとてわざとかき出給へるふみにもあらず、もとより物の注釋などのやうに考へしるされたるふみにしもあらず、としごろ古事記の傳をはじめ、何くれの書どもあらはし給ふほどの心やりに、筆にまかせてかゝれたる、何となき筆ずさみになむ有ける、しかはあれど、世のつねの筆ずさみのたぐひにはあらざりけり、萬にいたりふかき人のしわざにて、もはら皇神の道と歌學びの筋にも心ざし入立む人の、明くれもてならしてそのかひあるべく、からやまとむかし今とさま/”\のぬきかきを引出て、それがうへに、常にふみとききかせ給ふ所につどへるをしへ子どものおもひ/\にかたり出けるよもやまの物がたりや、遠き國々よりしたひ來て何くれとものとひ明らむる人々の物がたりなどの中に、めづらしおかしと聞とゞめ給へることくさをもそへて、つみいれられたる此玉かつまなれば、すべて道にかゝれるをしへごとはさらにもいはず、花もみぢによれるみやびごとも、又今の世の何くれの物さだめも、さま/”\ゆゑあるかぎりにて、げにさこそはと思ひたふとぶべきことどもなりかし、はた此ふみことばのかざらずつくろはずかきとり給へるは、今も口づから物かたり給ふやうにて、此卷をくりかへし見るたびに、有信等そのかみ大人の御許にさぶらひていひきかせ給ふこと聞こゝちして尊くうれしくなむ、これらのよしいさゝか書そへてこれがしりがきとす
     文化九年正月                    尾張 植松有信
 
(奥付)
 昭和九年九月一五日 第一刷発行     玉勝間下
 昭和四四年二月二〇日 第八刷発行    (全二冊)
                     定價★★★
 校 訂 者   村 岡 典 嗣《むらおかつねつぐ》
   東京都千代田区神田一ツ橋二丁目三番地
 発 行 者   岩  波  雄  二 郎
 
 
 
        2004年8月20日(金)、午後8時41分、入力終了 ┗┣ ┓┃ ∧┣
        2004年10月6日(水)、午後9時10分、校正終了
        2007年8月1日(水)、午後8時、筑摩版全集による対校終了。
 
 
う ひ 山 ふ み   (入力者注、宣長六十九歳(寛政十年)の時の作。)
世《イ》に物まなびのすぢ、しな/”\有て、一(ト)やうならず、そのしな/”\をいはゞ、まづ神代紀をむねとたてゝ、道をもはらと學ぶ有(リ)、これを神學といひ、其人を神道者といふ。又官職、儀式、律令などを、むねとして學ぶあり、又もろ/\の故實、装束、調度などの事を、むねと學ぶあり。これらを有職の學といふ、又上は六國史其外の古書をはじめ、後世の書共まで、いづれのすぢによるともなくて、まなぶもあり。此すぢの中にも、猶分ていはゞ、しな/”\有べし。又歌の學び有(リ)、それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集物語書などを解(キ)明らむるとの二(タ)やうあり。大かた件のしな/”\有て、おの/\好むすぢによりてまなぶに、又おの/\その學びやうの法も、教ふる師の心々、まなぶ人の心々にて、さま/”\あり。かくて學問に心ざして、入そむる人、はじめより、みづから思ひよれるすぢありて、その學びやうも、みづからはからふも有(ル)を、又さやうにとり分てそれと思ひよれるすぢもなく、まなびやうも、みづから思ひとれるかたなきは、物しり人につきて、いづれのすぢに入てかよからん、又うひ學(ヒ)の輩のまなびやうは、いづれの書よりまづ見るべきぞなど、問(ヒ)求むる、これつねの事なるが、まことに然あるべきことにて、その學のしなを正《タダ》し、まなびやうの法をも正して、ゆくさきよこさまなるあしき方に落(チ)ざるやう、又其業のはやく成るべきやう、すべて功多かるべきやうを、はじめよりよくしたゝめて、入らまほしきわざ也、同じく精力を用ひながらも、そのすぢそのまなびやうによりて、得失あるべきこと也。然はあれども、まづかの學のしな/”\は、他よりしひて、それをとはいひがたし。大抵みづから思ひよれる方にまかすべき也。いかに初心なればとても、學問にもこゝろざすほどのものは、むげに小兒の心のやうにはあらねば、ほど/\にみづから思ひよれるすぢは、必(ズ)あるものなり、又面々好むかたと、好まぬ方とも有(リ)、又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも有(ル)物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。又いづれのしなにもせよ、學びやうの次第も、一(ト)わたりの理によりて、云々《シカ/\》してよろしと、さして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果してよきものならんや、又思ひの外にさてはあしき物ならんや、實にはしりがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、實はたゞ其人の心まかせにしてよき也。詮《セン》ずるところ學問は、たゞ年月長く倦《ウマ》ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。いかほど學びかたよくても怠《オコタ》りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有(ル)物也、又晩學の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又|暇《イトマ》のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、學ぶことの晩《オソ》きや、暇《イトマ》のなきやによりて、思ひくづをれて、止《ヤム》ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出來るものと心得べし。すべて思ひくづをるゝは、學問に大にきらふ事ぞかし、さてまづ上の件のごとくなれば、まなびのしなも、しひてはいひがたく、學びやうの法もかならず云々《シカ/\》してよろしとは、定めがたく、又定めざれども、實はくるしからぬことなれば、たゞ心にまかすべきわざなれども、さやうにばかりいひては、初心の輩は、取(リ)つきどころなくして、おのづから倦《ウミ》おこたるはしともなることなれば、やむことをえず、今宣長が、かくもやあるべからんと思ひとれるところを、一わたりいふべき也。然れどもその教へかたも、又人の心々なれば、吾はかやうにてよかるべきかと思へども、さてはわろしと思ふ人も有べきなれば、しひていふにはあらず。たゞ己が教(ヘ)によらんと思はん人のためにいふのみ也。そはまづか《ロ》のしな/”\ある學びのすぢ/\、いづれも/\、やむことなきすぢどもにて、明らめしらではかなはざることなれば、いづれをものこさず、學ばまほしきわざなれども、一人の生涯の力を以ては、こと/”\くは、其奥までは究《キハ》めがたきわざなれば、其中に主《ムネ》としてよるところを定めて、かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志(シ)《ハ》を高く大にたてゝ、つとめ學ぶべき也。然して其餘のしな/”\をも、力の及ばんかぎり、學び明らむべし。さてそ《ニ》の主《ムネ》としてよるべきすぢは、何れぞといへば、道の學問なり。そも/\此道は、天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海萬國にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇國に傳はれるを、其道はいかなるさまの道ぞといふに、此《ホ》道は、古事記書紀の二典《フタミフミ》に記されたる、神代上代の、もろ/\の事跡のうへに備はりたり。此(ノ)二典の上代の卷々を、くりかへし/\よくよみ見るべし。又《ヘ》初學の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうの物を、入學のはじめより、かの二典と相まじへてよむべし。然せば、二典の事跡に、道の具備《ソナ》はれることも、道の大むねも、大抵に合點ゆくべし。又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固《カタ》まりて、漢意《カラゴヽロ》におちいらぬ衛《マモリ》にもよかるべき也。道を學ばんと心ざすともがらは、第《ト》一に漢意、儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂《タマシヒ》をかたくする事を、要とすべし。さてかの二典の内につきても、道《チ》をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし、書《リ》紀をよむには、大に心得あり、文のまゝに解しては、いたく古(ヘ)の意にたがふこと有て、かならず漢意に落入べし。次に古語拾遺、やゝ後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し、早くよむべし。次に萬葉集、これは歌の集なれども、道をしるに、甚(タ)緊要の書なり。殊によく學ぶべし、その子細は、下に委くいふべし。まづ道をしるべき學びは、大抵上(ノ)件(リ)の書ども也。然れども書紀より後の、次々の御代々々の事も、しらでは有べからず、其書どもは、續日本紀、次に日本後紀、つぎに續日本後紀、次に文徳實録、次に三代實録也。書紀よりこれまでを合せて六《ヌ》國史といふ。みな朝廷の正史なり、つぎ/\に必(ズ)よむべし。又件の史どもの中に、御《ル》世々々の宣命には、ふるき意詞のゝこりたれば、殊に心をつけて見るべし。次に延喜式、姓氏録、和名抄、貞觀儀式、出雲國(ノ)風土記、釋《ヲ》日本紀、令、西宮記、北山抄、さては己《ワ》が古事記(ノ)傳など、おほかたこれら、古《カ》學の輩の、よく見ではかなはぬ書ども也。然れども初學のほどには、件の書どもを、すみやかに讀(ミ)わたすことも、たやすからざれば、卷數多き大部の書共は、しばらく後へまはして、短き書どもより先(ヅ)見んも、宜しかるべし。其内に延喜式の中の祝詞《ノリト》の卷、又神名帳などは、早く見ではかなはぬ物也。凡て件の書ども、かならずしも次第を定めてよむにも及ばず、たゞ便にまかせて、次第にかゝはらず、これをもかれをも見るべし。又いづれの書をよむとても、初《ヨ》心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさら/\と見て、他の書にうつり、これやかれやと讀ては、又さきによみたる書へ立かへりつゝ、幾遍《イクヘン》もよむうちには、始(メ)に聞えざりし事も、そろ/\と聞ゆるやうになりゆくもの也。さて件の書どもを、數遍よむ間(ダ)には、其外のよむべき書どものことも、學びやうの法なども、段々に自分の料簡の出來るものなれば、其《タ》末の事は、一々さとし教るに及ばず、心にまかせて、力の及ばむかぎり、古きをも後の書をも、廣《レ》くも見るべく、又|簡約《ツヾマヤカ》にして、さのみ廣くはわたらずしても有(リ)ぬべし。さて又《ソ》五十音のとりさばき、かなづかひなど、必(ズ)こゝろがくべきわざ也。語《ツ》釋は緊要にあらず、さて又《ネ》漢籍《カラブミ》をもまじへよむべし。古書どもは、皆漢字漢文を借(リ)て記され、殊に孝徳天皇天智天皇の御世のころよりしてこなたは、萬(ヅ)の事、かの國の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの國ぶみのやうをも、大抵はしらでは、ゆきとゞきがたき事多ければ也。但しからぶみを見るにほ、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことよきにまどはさるゝことぞ、此心得肝要也。さて又段々學問に入たちて、事の大すぢも、大抵は合點のゆけるほどにもなりなば、いづれにもあれ、古《ナ》書の注釋を作らんと、早く心がくべし。物の注釋をするは、すべて大に學問のためになること也。さて上にいへるごとく、二典の次には、萬《ラ》葉集をよく學ぶべし。み《ム》づからも古風の歌をまなびてよむべし、すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、學問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也。歌をよまでは、古の世のくはしき意、風雅《ミヤビ》のおもむきはしりがたし。萬《ウ》葉の歌の中にても、やすらかに長(ケ)高く、のびらかなるすがたを、ならひてよむべし。又|長《ヰ》歌をもよむべし。さて又歌には、古風後世風、世々のけぢめあることなるが、古學の輩は、古風をまづむねとよむべきことは、いふに及ばず、又|後《ノ》世風をも、棄《ステ》ずしてならひよむべし。後《オ》世風の中にも、さま/”\よきあしきふり/\あるを、よくえらびてならふべき也。又伊勢源氏その外も、物《ク》語書どもをも、つねに見るべし。すべてみづから歌をもよみ、物がたりぶみなどをも常に見て、い《ヤ》にしへ人の、風雅《ミヤビ》のおもむきをしるは、歌まなびのためは、いふに及ばず、古の道を明らめしる學問にも、いみしくたすけとなるわざなりかし。
   上(ノ)件ところ/”\、圏《ワ》の内に、かたかなをもてしるしゝたるは、いはゆる相じるしにて、その件(リ)々にいへることの、然る子細を、又奥に別にくはしく論ひさとしたるを、そこはこゝと、たづねとめて、しらしめん料のしるし也。
 
《イ》世に物まなびのすぢしな/”\有て云々、 物學(ヒ)とは、皇朝の學問をいふ。そも/\むかしより、たゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分むために、皇國の事の學をば、和學或は國學などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也。みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、たゞ學問とはいひて、漢學をこそ分て漢學といふべきことなれ。それももし漢學のことゝまじへいひて、まぎるゝところにては、皇朝學などはいひもすべきを、うちまかせてつねに、和學國學などいふは、皇國を外《ヨソ》にしたるいひやう也。もろこし、朝鮮、於蘭陀などの異國よりこそ、さやうにもいふべきことなれ、みづから吾國のことを、然いふべきよしなし。すべてもろこしは、外《ヨソ》の國にて、かの國の事は、何事もみな外《ヨソ》の國の事なれば、その心をもて、漢某《カンナニ》唐某《タウナニ》といふべく、皇國の事は、内の事なれば、分て國の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中おしなべて、漢學をむねとするならひなるによりて、萬(ヅ)の琴をいふに、たゞかのもろこしを、みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外《ヨソ》にするは、ことのこゝろたがひて、いみしきひがこと也。此事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり。
《ロ》かのしな/”\ある學びのすぢ/\云々、 これははじめにいへるしな/”\の學問のことなるが、そのしな/”\、いづれもよくしらではかなはざる事どもなり。そのうち律令は、皇朝の上代よりの制と、もろこしの國の制とを合せて、よきほどに定められたる物なれども、まづはもろこしによれることがちにして、皇國の古(ヘ)の制をば、改められたる事多ければ、これを學ぶには、其心得あるべく、又此すぢのからぶみをよく明らめざれば、事ゆかぬ學問なれば、奥をきほめんとするには、から書の方に、力を用ふること多くて、こなたの學びのためには、功《テマ》の費も多き也。これらのところをもよく心得べし。さて官職儀式の事は、これももろこしによられたる事共も、おほくあれども、さのみから書に力をもちひて、考ふることはいらざれば、律令とはことかはれり。官職のことは、職員令をもとゝして、つぎ/\に明らむべし。世の學者、おほく職原抄を主とする事なれども、かの書は、後世のさまを、むねとしるされたる如くなるが、朝廷のもろ/\の御さだめも、御世々々を經るまゝに、おのづから古(ヘ)とは變《カハ》り來ぬる事ども多ければ、まづその源より明らむべき也。なほ官職の事しるせる、後世の書いと多し。もろ/\の儀式の事は、貞觀儀式、弘仁の内裏式などふるし。其外江家次第、世におしなべて用ふる書なり。されどこれも、古(ヘ)とはやゝかはれる事ども多し。貞觀儀式などと、くらべ見てしるべし。ちかく水戸の禮儀類典、めでたき書なれども、ことのほか大部なれば、たやすくよみわたしがたし。さて装束調度などのことは、世にこれをまなぶ輩、おほくは中古以來の事をのみ穿鑿して、古(ヘ)へさかのぼりて考える人は、すくなし。これも後世の書ども、いとあまたあれども、まづ古書よりよく考ふべし。此古書は、まづ延喜式など也。さては西宮記、北山抄、此二書は、装束調度などの學のみにはかぎらず、律令、官職、儀式、其外の事、いづれにもわたりて、おほよそ朝廷のもろ/\の事をしるされたり。かならずよくよむべき書なり。さて件のしな/”\の學問いづれも/\、古(ヘ)ざまの事は、六國史に所々其事どもの出たるを、よく參考すべし。又中古以來のことは、諸家の記録どもなどに、散出したるを、參考すべし。さて歌まなびの事は、下に別 にいへり。むかし四道の學とて、しな/”\の有しは、みな漢ざまによれる學びなれば、こゝに論ずべきかぎりにあらず。四道とは、紀傳、明經、明法、算道これ也。此中に明法道といふは、律令などの學問なれば、上にいへると同じけれど、昔のは、その實事にかゝりたれば、今の世のたゞ書のうへの學のみなるとは、かはり有(リ)。さてなほ外國の學は、儒學、佛學、其外、殊にくさ/”\多くあれども、皆よその事なれば、今論ずるに及ばず。吾は、あたら精力を、外《ヨソ》の國の事に用ひんよりは、わがみづからの國の事に用ひまほしく思ふ也。その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の國の事をしらざらんは、くちをしきわざならんや。
《ハ》志を高く大きにたてゝ云々、 すべて學問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立(テ)て、その奥を究《キハ》めつくさずはやまじとかたく思ひまうくべし。此志よわくては、學問すゝみがたく、倦怠《ウミオコタ》るもの也。
《ニ》主《ムネ》としてよるべきすぢは云々、 道を學ぶを主とすべき子細は、今さらにも及ばぬことなれども、いさゝかいはゞ、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず。學問の志なきものは、論のかぎりにあらず。かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也。然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、學問の本意にあらず。さて道を學ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の傳はれる、御國に生まれ來つるは、幸とも幸なれば、いかにも此たふとき皇國の道を學ぶべきは、勿論のこと也。
《ホ》此道は、古事記、書紀の二典に記されたる云々、 道は此二典にしるされたる、神代のもろ/\の事跡のうへに備はりたれども、儒佛などの書のやうに、其道のさまを、かやう/\と、さして教へたることなければ、かの儒佛の書の目うつしにこれを見ては、道の趣、いかなるものともしりがたく、とらへどころなきが如くなる故に、むかしより世々の物しり人も、これをえとらへず、さとらずして、或は佛道の意により、或は儒道の意にすがりて、これを説《トキ》たり。其内昔の説は、多く佛道によりたりしを、百五六十年以來は、かの佛道によれる説の、非なることをばさとりて、其佛道の意をば、よくのぞきぬれども、その輩の説は、又皆儒道の意に落入て、近世の神學者流みな然也。其中にも流々有て、すこしづゝのかはりはあれども、大抵みな同じやうなる物にて、神代紀をはじめ、もろ/\の神典のとりさばき、たゞ陰陽八卦五行など、すべてからめきたるさだのみにして、いさゝかも古(ヘ)の意にかなへることなく、説(ク)ところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける。されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也。此神學者流のともがら、かの佛道によりてとけるをば、ひがことゝしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬ こそ可笑《ヲカ》しけれ。かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致《ムネ》一(ツ)なる故に、これを假《カリ》て説《トク》也、かの佛を牽合したる類(ヒ)にはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也。もしさやうにいはゞ、かの佛道によりて説(ク)輩も又、神道とても、佛の道の外なることなし、一致也とぞいふべき。これら共に、おの/\其道に惑へるから、然思ふ也。まことの神道は、儒佛の教(ヘ)などとは、いたく趣の異なる物にして、さらに一致なることなし。すべて近世の神學家は、件のごとくなれば、かの漢學者の中の、宋學といふに似て、いさゝかもわきめをふらず、たゞ一すぢに道の事をのみ心がくめれども、ひたすら漢流の理窟にのみからめられて、古の意をば、尋ねんものとも思はず。其心を用るところ、みな儒意なれば、深く入(ル)ほど、いよ/\道の意には遠き也。さて又かの佛の道によりて説るともがらは、その行法も、大かた佛家の行法にならひて、造れる物にして、さらに皇國の古(ヘ)の行ひにあらず。又かの近世の儒意の神道家の、これこそ神道の行ひよとて、物する事共、葬喪祭祀等の式、其外も、世俗とかはりて、別に一種の式を立て行ふも、これ又儒意をまじへて、作れること多くして、全く古(ヘ)の式にはあらず。すべて何事も、古(ヘ)の御世に、漢風をしたひ用ひられて、多くかの國ざまに改められたるから、上古の式はうせて、世に傳はらざるが多ければ、そのさだかにこまかなることは、知(リ)がたくなりぬる、いと/\歎かはしきわざ也。たま/\片田舍などには、上古の式の残れる事も有とおぼしけれども、それも猶佛家の事などまじりて、正しく傳はれるは有がたかめり。そも/\道といふ物は、上に行ひ給ひて、下へは、上より敷(キ)施し給ふものにこそあれ。下たる者の、私に定めおこなふものにはあらず。されば神學者などの、神道の行ひとて、世間に異なるわざをするは、たとひ上古の行ひにかなへること有といへども、今の世にしては私なり。道は天皇の天下を治めさせ給ふ、正大公共の道なるを、一己の私の物にして、みづから狹く小《チヒサ》く説《トキ》なして、たゞ巫覡などのわざのごとく、或はあやしきわざを行ひなどして、それを神道となのるは、いとも/\あさましくかなしき事也。すべて下たる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のまゝに、從ひ行ふぞ、即(チ)古(ヘ)の道の意には有ける。吾はかくのごとく思ひとれる故に、吾家、すべて先祖の祀(リ)、供佛施僧のわざ等も、たゞ親の世より爲(シ)來りたるまゝにて、世俗とかはる事なくして、たゞこれをおろそかならざらんとするのみ也。學者はたゞ、道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず。されば隨分に古の道を考へ明らめて、そのむねを、人にもをしへさとし、物にも書(キ)遺《ノコ》しおきて、たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし。これ宣長が志(シ)也。
《ヘ》初學のともがらは宣長が著したる云々、 神典には、世々の注釋末書あまたあるを、さしおきて、みづから著せる書を、まづよめといふは、大に私なるに似たれども、必(ズ)然すべき故あり。いで其故は、注釋末書は多しといへども、まづ釋日本紀などは、道の意を示し明したる事なく、私記の説といへども、すべていまだしくをさなき事のみ也。又その後々の末書注釋どもは、佛と儒との意にして、さらに古の意にあらず、返て大に道を害することのみ也。されば今、道のために、見てよろしきは、一つもあることなし。さりとて又初學のともがら、いかぼど力を用ふとも、二典の本文を見たるばかりにては、道の趣、たやすく會得しがたかるべし。こゝにわが縣居(ノ)大人は、世の學者の、漢意のあしきことをよくさとりて、ねんごろにこれをさとし教へて、盛(ン)に古學を唱へ給ひしかども、其力を萬葉集にむねと用ひて、道の事までは、くはしくは及ばれず、事にふれては、其事もいひ及ぼされてはあれども、力をこれにもはらと入れられざりし故に、あまねくゆきわたらず。されば道のすぢは、此大人の説も、なほたらはぬこと多ければ、まづ速に道の大意を心得んとするに、のり長が書共をおきて外に、まづ見よとをしふべき書は、世にあることなければ也。さる故に下には、古事記傳をも、おほけなく古書共にならべて、これをあげたり。かくいふをも、なほ我慢なる大言のやうに、思ひいふ人もあるべけれど、さやうに人にあしくいはれんことをはゞかりて、おもひとれるすぢを、いはざらんは、かへりて初學のために、忠實《マメ》ならざれば、あしくいはむ人には、いかにもいはれんかし。
《ト》第一に漢意儒意を云々、 おのれ何につけても、ひたすら此事をいふは、ゆゑなくみだりに、これをにくみてにはあらず、大きに故ありていふ也。その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大にこれを誤りしたゝめたるは、いかなるゆゑぞと尋ぬれば、みな此漢意に心のまどはされ居て、それに妨《サマタ》げらるゝが故也。これ千有餘年、世(ノ)中の人の心の底に染着《シミツキ》てある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近きころは、道をとくに、儒意をまじふることの、わろきをさとりて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるゝことあたはずして、その説(ク)ところ、畢竟は漢意におつるなり。かくのごとくなる故に、道をしるの要、まづこれを清くのぞき去(ル)にありとはいふ也。これを清くのぞきさらでは道は得がたかるべし。初學の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固《カタ》くすべきことは、たとへばものゝふの、戰場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立出るがごとし。もし此身の固めをよくせずして、神の御典《ミフミ》をよむときは、甲冑をも着ず、素膚《スハダ》にして戰ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝろに落入べし。
《チ》道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし、 まづ神典は、舊事紀、古事記、日本紀を、昔より、三部の本書といひて、其中に世の學者の學ぶところ、日本紀をむねとし、次に舊事紀は、聖徳太子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也。然るに近き世に至りてやう/\、舊事紀は眞の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさ/\これを用る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師(ノ)大人の教ヘによりて、學問の道大にひらけたるが故也。まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、たゞ古(ヘ)よりの傳説のまゝにて、記しざまいと/\めでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古學のともがらの、尤尊み學ぶべきは此書也。然るゆゑに、己(レ)壯年より、數十年の間、心力をつくして、此記の傳四十四卷をあらはして、いにしへ學(ヒ)のしるべとせり。さて此記は、古傳説のまゝにしるせる書なるに、その文のなほ漢文ざまなるはいかにといふに、奈良の御代までは、假字文といふことはなかりし故に、書はおしなべて、漢文に書るならひなりき。そも/\文字書籍は、もと漢國より出たる物なれば、皇國に渡り來ても、その用ひやう、かの國にて物をしるす法のまゝにならひて書(キ)そめたるにて、こゝとかしこと、語のふりはたがへることあれども、片假字も平假字もなき以前は、はじめよりのならひのまゝに、物はみな漢文に書たりし也。假字文といふ物は、いろは假字出來て後の事也。いろは假字は、今の京になりて後に、出來たり。されば古書のみな漢文なるは、古(ヘ)の世のなべてのならひにこそあれ。後世のごとく、好みて漢文に書るにはあらず。さて歌は、殊に詞にあやをなして、一もじもたがへては、かなはぬ物なる故に、古書にもこれをば、別に假字に書り。それも眞假字也。又祝詞、宣命なども詞をとゝのへかざりたる物にて、漢文ざまには書がたければ、これも別に書法有し也。然るを後世に至りては、片假字、平假字といふ物あれば、萬の事、皇國の語のまゝに、いかやうにも自由に、物はかゝるゝことなれば、古(ヘ)のやうに、物を漢文に書べきことにはあらず。便よく正しき方をすてゝ、正しからず不便なるかたを用るは、いと愚也。上件の子細をわきまへざる人、古書のみな漢文なるを見て、今も物は漢文に書(ク)をよきことと心得たるは、ひがこと也。然るに諸家の記録其外、つねの文書、消息文などのたぐひは、なほ後世までも、みな漢文ざまに書(ク)ならひにて、これも男もじ男ぶみといひ、いろは假字をば女もじ、假字文をば、女ぶみとしもいふなるは、男はおのづからかの古(ヘ)のならひのまゝに爲(シ)來《キタ》り、女は便にまかせて、多くいろは假字をのみ用ひたるから、かゝる名目も有也。
《リ》書紀をよむには大に心得あり云々、 書紀は、朝廷の正史と立られて、御世々々萬の事これによらせ給ひ、世々の學者も、これをむねと學ぶこと也。まことに古事記は、しるしざまは、いとめでたく尊けれども、神武天皇よりこなたの、御世々々の事をしるされたる、甚あらくすくなくして、廣からず、審ならざるを、此紀は、廣く詳にしるされたるほど、たぐひなく、いともたふとき御典也。此御典なくては、上古の事どもを、ひろく知べきよしなし。然はあれども、すべて漢文の潤色多ければ、これをよむに、はじめよりその心得なくてはあるべからず。然るを世間の神學者、此わきまへなくして、たゞ文のまゝにこゝろえ、返て漢文の潤色の所を、よろこび尊みて、殊に心を用るほどに、すべての解し樣《サマ》、こと/”\く漢流の理屈にして、いたく古(ヘ)の意にたがへり。これらの事、大抵は古事記傳の首卷にしるせり。猶又別 に、神代紀のうずの山蔭といふ物を書ていへり。ひらき見るべし。
《ヌ》六國史といふ云々、 六國史のうち日本後紀は、いかにしたるにか、亡《ウセ》て傳はらず、今それとて廿卷あるは、全き物にあらず。然るに近き世、鴨(ノ)祐之といひし人、類聚國史をむねと取(リ)、かたはら他の正しき古書共をもとり加(ハ)へて、日本逸史といふ物四十卷を撰定せる、後紀のかはりは、此書にてたれり。類聚國史は、六國史に記されたる諸の事を、部類を分(ケ)聚めて、菅原(ノ)大臣の撰給へる書也。さて三代實録の後は、正しき、國史は無し。されば宇多(ノ)天皇よりこなたの御世々々の事は、たゞこれかれかたはらの書共を見てしること也。其書ども、國史のたぐひなるも、あまた有。近世水戸の大日本史は、神武天皇より後小松(ノ)天皇の、後龜山(ノ)天皇の御禪《ミユヅリ》を受させ給へる御事までしるされて、めでたき書也。
《ル》御世々々の宣命には云々、 書紀に擧られたる、御世々々の詔勅は、みな漢文なるのみなるを、續紀よりこなたの史共には、皇朝詞の詔をも、載せられたる、これを分て宣命といふ也。續紀なるは、世あがりたれば、殊に古語多し。その次々の史どもなる、やう/\に古き語はすくなくなりゆきて、漢詞おほくまじれり。すべて宣命にはかぎらず、何事にもせよ、からめきたるすぢをはなれて、皇國の上代めきたるすぢの事や詞は、いづれの書にあるをも、殊に心をとゞめて見るべし。古(ヘ)をしる助(ケ)となること也。
《ヲ》釋日本紀、 此書は後の物にて、説もすべてをさなけれども、今の世には傳はらぬ 古書どもを、これかれと引出たる中に、いとめづらかに、たふときことゞもの有也。諸國の風土記なども、みな今は傳はらざるに、此書と仙覺が萬葉の抄とに、引出たる所々のみぞ、世にのこれる、これ殊に古學の用なり。又むかしの私記どもゝ、皆|亡《ウセ》ぬ るを、此釋には、多く其説をあげたり、私記の説も、すべてをさなけれども、古き故に、さすがに取(ル)べき事もまゝある也。さて六國史をはじめて、こゝに擧たる書共いづれも、板本も寫本も、誤字脱文等多ければ、古本を得て、校正すべし。されど古本は、たやすく得がたきものなれば、まづ人の校正したる本を、求め借りてなりとも、つぎ/\直すべき也。さて又ついでにいはむ。今の世は、古(ヘ)をたふとみ好む人おほくなりぬるにつきては、おのづからめづらしき古書の、世に埋れたるも、顯れ出る有(リ)。又それにつきては、僞書も多く出るを、その眞僞は、よく見る人は、見分れども、初學の輩などは、え見分ねば、僞書によくはからるゝ事あり、心すべし。されば初學のほどは、めづらしき書を得んことをば、さのみ好むべからず。
《ワ》古事記傳云々、 みづから著せる物を、かくやむことなき古書どもにならべて擧るは、おふけなく、つゝましくはおぼゆれども、上にいへるごとくにて、上代の事を、くはしく説(キ)示し、古學の心ばへを、つまびらかにいへる書は、外になければぞかし。されば同じくは此書も、二典とまじへて、はじめより見てよろしけれども、卷數多ければ、こゝへはまはしたる也。
《カ》古學の輩の、 古學とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる學問也。此學問、ちかき世に始まれり。契沖ほうし、歌書に限りてはあれど、此道すじを開きそめたり。此人をぞ、此まなびのはじめの祖《オヤ》ともいひつべき。次にいさゝかおくれて羽倉(ノ)大人、荷田(ノ)東麻呂(ノ)宿禰と申せしは、歌書のみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立(テ)給へりき。かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉(ノ)大人の教をつぎ給ひ、東國に下り江戸に在て、さかりに此學を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける。大かた奈良(ノ)朝よりしてあなたの古(ヘ)の、もろ/\の事のさまを、こまかに精《クハ》しく考へしりて、手にとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古學のをしへの功にぞ有ける。
《ヨ》初心のほどは、かたはしより文義を云々、 文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とゞこほりて、すゝまぬことあれば、聞えぬところは、まづそのまゝにて過すぞよき。殊に世に難き事にしたるふし/”\を、まづしらんとするは、いと/\わろし、たゞよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也。こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、すべてこまかなる意味もしられず、又おほく心得たがひの有て、いつまでも其誤(リ)をえさとらざる事有也。
《タ》其末の事、一々さとし教るに及ばず、 此こゝろをふと思ひよりてよめる歌、筆のついでに、「とる手火も今はなにせむ夜は明てほがら/\と道見えゆくを。
《レ》ひろくも見るべく又云々、 博識とかいひて、隨分ひろく見るも、よろしきことなれども、さては緊要の書を見ることの、おのづからおろそかになる物なれば、あながちに廣きをよきことゝのみもすべからず。その同じ力を、緊要の書に用るもよろしかるべし。又これかれにひろく心を分るは、たがひに相たすくることもあり、又たがひに害となることもあり。これらの子細をよくはからふべき也。
《ソ》五十音のとりさばき云々、 これはいはゆる假字反(シ)の法、音の堅横の通用の事、言の延《ノベ》つゞめの例などにつきて、古語を解(キ)明らむるに、要用のこと也。かならずはじめより心がくべし。假字づかひは、古(ヘ)のをいふ。近世風の歌よみのかなづかひは、中昔よりの事にて、古書にあはず。
《ツ》語釋は緊要にあらず、 語釋とは、もろ/\の言の、然云(フ)本の意を考へて、釋《トク》をいふ、たとへば天《アメ》といふはいかなること、地《ツチ》といふはいかなることゝ、釋《ト》くたぐひ也。こは學者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず。こは大かたよき考へは出來がたきものにて、まづはいかなることゝも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし。されば諸の言は、その然云(フ)本の意を考(ヘ)んよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々《シカ/\》の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書(ク)にも、言の用ひやうたがふこと也。然るを今の世古學の輩、ひたすら然云(フ)本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし。
《ネ》からぶみをもまじへよむべし、 漢籍を見るも、學問のために益おほし。やまと魂だによく堅固《カタ》まりて、動くことなければ、晝夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり。然れども世の人、とかく倭魂《ヤマトタマシヒ》かたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也。ことよきとは、その文辭を、麗《ウルハ》しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也。すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也。すべて學問すぢならぬ 、よのつねの世俗の事にても、辯舌よくかしこく物をいひまはす人の言には人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし。
《ナ》古書の注釋を作らんと云々、 書をよむに、たゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限(リ)あるものなるに、みづから物の注釋をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても、格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也。されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて學問に大いに益あること也。是は物の注釋のみにもかぎらず、何事にもせよ、著述をこゝろがくべき也。
《ラ》萬葉集をよくまなぶべし、 此書は、歌の集なるに、二典の次に擧て、道をしるに甚(タ)益ありといふは、心得ぬ ことに、人おもふらめども、わが師(ノ)大人の古學のをしへ、專(ラ)ラこゝにあり。其説に、古(ヘ)の道をしらんとならば、まづいにしへの歌を學びて、古風の歌をよみ、次に古(ヘ)の文を學びて、古ぶりの文をつくりて、古言をよく知(リ)て、古事記、日本紀をよくよむべし、古言をしらでは、古意はしられず、古意をしらでは、古の道は知(リ)がたかるべし、といふこゝろばへを、つね/”\いひて、教へられたる、此教へ迂遠《マハリドホ》きやうなれども、然らず。その故は、まづ大かた人は、言《コトバ》と事《ワザ》と心《コヽロ》と、そのさま大抵相かなひて、似たる物にて、たとへば心のかしこき人は、いふ言のさまも、なす事《ワザ》のさまも、それに應じてかしこく、心のつたなき人は、いふ言のさまも、なすわざのさまも、それに應じてつたなきもの也。又男は、思ふ心も、いふ言も、なす事も、男のさまあり。女は、おもふ心も、いふ言も、なす事《ワザ》も、女のさまあり。されば時代々々の差別も、又これらのごとくにて、心も言も事も、上代の人は、上代のさま、中古の人は、中古のさま、後世の人は、後世のさま有て、おの/\そのいへる言となせる事と、思へる心と、相かなひて似たる物なるを、今の世に在て、その上代の人の、言をも事をも心をも、考へしらんとするに、そのいへりし言は、歌に傳はり、なせりし事は、史に傳はれるを、その史も、言を以て記したれば、言の外ならず、心のさまも、又歌にて知(ル)べし。言と事と心とは其さま相かなへるものなれば、後世にして、古の人の、思へる心、なせる事《ワザ》をしりて、その世の有さまを、まさしくしるべきことは、古言、古歌にある也。さて古の道は、二典の神代上代の事跡のうへに備はりたれば、古言古歌をよく得て、これを見るときは、其道の意、おのづから明らかなり。さるによりて、上にも、初學のともがら、まづ神代正語をよくよみて、古語のやうを口なれしれとはいへるぞかし。古事記は、古傳説のまゝに記されてはあれども、なほ漢文なれば、正《マサ》しく古言をしるべきことは、萬葉には及ばず、書紀は、殊に漢文のかざり多ければ、さら也。さて二典に載れる歌どもは、上古のなれば、殊に古言古意をしるべき、第一の至寶也。然れどもその數多からざれば、ひろく考るに、ことたらざるを、萬葉は、歌数いと多ければ、古言はをさ/\もれたるなく、傳はりたる故に、これを第一に學べとは、師も教へられたる也。すべて神の道は、儒佛などの道の、善惡是非をこちたくさだせるやうなる理窟は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅《ミヤビ》たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける。さて此萬葉集をよむに、今の本、誤字いと多く、訓もわろきことおほし。初學のともがら、そのこゝろえ有べし。
《ム》みづからも古風の歌をまなびてよむべし、 すべて萬(ヅ)の事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、淺深の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ 物なり。歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬ ところあるを、みづからよむになりては、我(ガ)事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也。さればこそ師も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられるなれ。文の事は、古文は、延喜式八の卷なる諸の祝詞、續紀の御世々々の宣命など、古語のまゝにのこれる文也。二典の中にも、をり/\は古語のまゝなる文有(リ)。其外の古書共にも、をり/\は古文まじれることあり。これかれをとりて、のりとすべし。萬葉は歌にて、歌と文とは、詞の異なることなどあれども、歌と文との、詞づかひのけぢめを、よくわきまへえらびてとらば、歌の詞も、多くは文にも用ふべきものなれば、古文を作る學びにも、萬葉はかく學ばでかなはぬ書也。なほ文をつくるべき學びかた、心得なども、古體、近體、世々のさまなど、くさ/”\いふべき事多くあれども、さのみはこゝにつくしがたし。大抵歌に准へても心得べし。そのうち文には、いろ/\のしなあることにて、其品によりて、詞のつかひやう其外、すべての書(キ)やう、かはれること多ければ、其心得有べし。いろ/\のしなとは、序或は論、或は紀事、或は消息など也。さて後世になりて、萬葉ぶりの歌を、たてゝよめる人は、たゞ鎌倉(ノ)右大臣殿のみにして、外には聞えざりしを、吾師(ノ)大人のよみそめ給ひしより、其教によりて、世によむ人おほく出來たるを、其人どもの心ざすところ、必しも古の道を明らめんためによむにはあらず、おほくはたゞ歌を好みもてあぞぶのみにして、その心ざしは、近世風の歌よみの輩と、同じこと也。さればよき歌をよみ出むと心がくることも、近世風の歌人とかはる事なし。それにつきては、道のために學ぶすぢをば、姑くおきて、今は又たゞ歌のうへにつきての心得どもをいはんとす。そも/\歌は、思ふ心をいひのぶるわざといふうちに、よのつねの言とはかはりて、必(ズ)詞にあやをなして、しらべをうるはしくとゝのふる道なり。これ神代のはじめより然り。詞のしらべにかゝはらず、たゞ思ふまゝにいひ出るは、つねの詞にして、歌といふものにはあらず。さてその詞のあやにつきて、よき歌とあしき歌とのけぢめあるを、上代の人は、たゝ一わたり、歌の定まりのしらべをとゝのへてよめるのみにして、後世の人のやうに、思ひめぐらして、よくよまんとかまへ、たくみてよめることはなかりし也。然れども、その出來たるうへにては、おのづからよく出來たると、よからざるとが有て、その中にすぐれてよく出來たる歌は、世間にもうたひつたへて、後(ノ)世までものこりて、二典に載れる歌どもなど是也。されば二典なる歌は、みな上代の歌の中にも、よにすぐれたるかぎりと知べし。古事記には、たゞ歌をのせんためのみに、其事を記されたるも、これかれ見えたるは、その歌のすぐれたるが故なり。さてかくのごとく歌は、上代よりして、よきとあしきと有て、人のあはれときゝ、神の感じ給ふも、よき歌にあること也。あしくては、人も神も、感じ給ふことなし。神代に天照大御神の、天の石屋《イハヤ》にさしこもり坐《マシ》し時、天(ノ)兒屋根(ノ)命の祝詞《ノリトゴト》に、感じ給ひしも、その辭のめでたかりし故なること、神代紀に見えたるがごとし。歌も准へて知(ル)べし。さればやゝ世くだりては、かまへてよき歌をよまんと、もとむるやうになりぬるも、かならず然らではえあらぬ、おのづからの勢(ヒ)にて、萬葉に載れるころの歌にいたりては、みなかまへてよくよまんと、求めたる物にこそあれ、おのづからに出來たるは、いとすくなかるべし。萬葉の歌すでに然るうへは、まして後世、今の世には、よくよまんとかまふること、何かはとがむべき。これおのづからの勢(ヒ)なれば、古風の歌をよまん人も、隨分に詞をえらびて、うるはしくよろしくよむべき也。
《ウ》萬葉の歌の中にても云々、 此集は、撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば、古(ヘ)ながらも、あしき歌も多し。善惡をわきまへて、よるべきなり。今の世、古風をよむともがらの、よみ出る歌を見るに、萬葉の中にても、ことに耳なれぬ、あやしき詞をえり出つかひて、ひたすらにふるめかして、人の耳をおどろかさんとかまふるは、いと/\よろしからぬこと也。歌も文も、しひてふるくせんとて、求め過たるは、かへす/\うるさく、見ぐるしきものぞかし。萬葉のなかにても、たゞやすらかに、すがたよき歌を、手本として、詞もあやしきをば好むまじき也。さて又歌も文も、同じ古風の中にも、段々有て、いたく古きと、さもあらぬ とあれば、詞もつゞけざまも、大抵その全體のほどに應ずべきことなるに、今の人は、全體のほどに應ぜぬ詞をつかふこと多くして、一首一篇の内にも、いたくふるき詞づかひのあるかと見れば、又むげに近き世の詞もまじりなどして、其體混雜せり。すべて古風家の歌は、後世家の、あまり法度にかゝはり過るを、にくむあまりに、たゞ法度にかゝはらぬを、心高くよき事として、そのよみかた、甚(タ)みだりなり。萬葉のころとても、法度といふことこそなけれ、おのづから定まれる則《ノリ》は有て、みだりにはあらざりしを、法度にかゝはらぬを、古(ヘ)と心得るは、大にひがごと也。既に今の世にして、古(ヘ)をまねてよむからは、古(ヘ)のさだまりにかなはぬ事有ては、古風といふ物にはあらず。今の人は、口にはいにしへ、いにしへと、たけ/”\けしくよばはりながら、古(ヘ)の定まりを、えわきまへざるゆゑに、古(ヘ)は定まれることはなかりし物と思ふ也。萬葉風をよむことは、ちかきほど始まりたることにて、いまだその法度を示したる書などもなき故に、とかく古風家の歌は、みだりなることおほきぞかし。
《ヰ》長歌をもよむべし、 長歌は、古風のかた殊にまされり、古今集なるは、みなよくもあらず、中にいとつたなきもあり。大かた今の京になりての世には、長歌よむことは、やう/\にまれになりて、そのよみざまも、つたなくなりし也。後世にいたりては、いよ/\よむことまれなりしを、萬葉風の歌をよむ事おこりて、近きほどは、又皆長歌をも多くよむことゝなりて、其中には、萬葉集に入(ル)とも、をさ/\はづかしかるまじきほどのも、まれには見ゆるは、いとも/\めでたき大御世の榮えにぞ有ける。そも/\世の中のあらゆる諸の事の中には、歌によまんとするに、後世風にては、よみとりがたき事の多かるに、返て古風の長歌にては、よくよみとらるゝことおほし。これらにつけても、古風の長歌、必(ズ)よみならふべきこと也。
《ノ》又後世風をもすてずして云々、 今の世、萬葉風をよむ輩は、後世の歌をば、ひたすらあしきやうに、いひ破れども、そは實によきあしきを、よくこゝろみ、深く味ひしりて、然いふにはあらず。たゞ一わたりの理にまかせて、萬(ヅ)の事、古(ヘ)はよし、後世はわろしと、定めおきて、おしこめてそらづもりにいふのみ也。又古と後世との歌の善惡を、世の治亂盛衰に係《カケ》ていふも、一わたりの理論にして、事實にはうときこと也。いと上代の歌のごとく、實情のまゝをよみいでばこそ、さることわりもあらめ、後世の歌は、みなつくりまうけてよむことなれば、たとひ治世の人なりとも、あしき風を學びてよまば、其歌あしかるべく、亂世の人にても、よき風をまなばゞ、其歌などかあしからん。又男ぶり、女ぶりのさだも、緊要にあらず。つよき歌よわき歌の事は、別にくはしく論ぜり。大かた此古風と後世と、よしあしの論は、いと/\大事にて、さらにたやすくはさだめがたき、子細どもあることなるを、古學のともがら、深きわきまへもなく、かろ/”\しくたやすげに、これをさだめいふは、甚(タ)みだりなること也。そも/\古風家の、後世の歌をわろしとするところは、まづ歌は、思ふこゝろをいひのぶるわざなるに、後世の歌は、みな實情にあらず、題をまうけて、己が心に思はぬ事を、さま/”\とつくりて、意をも詞をも、むつかしくくるしく巧みなす、これみな僞(リ)にて、歌の本意にそむけり、とやうにいふこれ也。まことに一わたりのことわりは、さることのやうなれども、これくはしきさまをわきまへざる論也。其故は、上にいへる如く、歌は、おもふまゝに、たゞにいひ出る物にあらず、かならず言にあやをなして、とゝのへいふ道にして、神代よりさる事にて、そのよく出來てめでたきに、人も神も感じ給ふわざなるがゆゑに、既に萬葉にのれるころの歌とても、多くはよき歌をよまむと、求めかざりてよめる物にして、實情のまゝのみにはあらず。上代の歌にも、枕詞、序詞などのあるを以てもさとるべし。枕詞や序などは、心に思ふことにはあらず、詞のあやをなさん料に、まうけたる物なるをや。もとより歌は、おもふ心をいひのべて、人に聞(カ)れて、聞(ク)人のあはれと感ずるによりて、わが思ふ心は、こよなくはるくることなれば、人の聞(ク)ところを思ふも、歌の本意也。されば世のうつりもてゆくにしたがひて、いよ/\詞にあやをなし、よくよまむともとめたくむかた、次第/\に長《チヤウ》じゆくは、必(ズ)然らではかなはぬ 、おのづからの勢(ヒ)にて、後世の歌に至りては、實情をよめるは、百に一(ツ)も有がたく、皆作りことになれる也。然はあれども、その作れるは、何事を作れるぞといへば、その作りざまこそ、世々にかはれることあれ、みな世の人の思ふ心のさまを作りいへるなれば、作り事とはいへども、落るところはみな、人の實情のさまにあらずといふことなく、古(ヘ)の雅情にあらずといふことなし。さればひたすらに後世風をきらふは、その世々に變じたるところをのみ見て、變ぜぬところのあることをばしらざる也。後世の歌といへども、上代と全く同じきところあることを思ふべし。猶いはゞ、今の世の人にして、萬葉の古風をよむも、己が實情にあらず、萬葉をまねびたる作り事也。もしおのが今思ふ實情のまゝによむをよしとせば、今の人は、今の世俗のうたふやうなる歌をこそよむべけれ、古(ヘ)人のさまをまねぶべきにはあらず、萬葉をまねぶも、既に作り事なるうへは、後世に題をまうけて、意を作りよむも、いかでかあしからん。よき歌をよまんとするには、數おほくよまずはあるべからず、多くよむには、題なくはあるべからず、これらもおのづから然るべきいきほひ也。そもゞ後世風、わろき事もあるは、勿論のこと也。然れどもわろき事をのみえり出て、わろくいはんには、古風の方にも、わろきことは有べし。一(ト)むきに後世をのみ、いひおとすべきにあらず。後世風の歌の中にも、又いひしらずめでたくおもしろく、さらに古風にては、よみえがたき趣どもの有(ル)こと也。すべてもろ/\の事の中には、古(ヘ)よりも、後世のまされる事も、なきにあらざれば、ひたぶるに後世を惡しとすべきにもあらず。歌も、古(ヘ)と後とを、くらべていはんには、たがひに勝劣ある中に、おのれ數十年よみこゝろみて、これを考るに、萬葉の歌のよきが、ゆたかにすぐれたることは、勿論なれども、今の世に、それをまなびてよむには、猶たらはぬ ことあるを、世々を經て、やう/\にたらひて、備はれる也。さればこそ、今の世に古風をよむ輩も、初心のほどこそ、何のわきまへもなく、みだりによみちらせ、すこしわきまへも出來ては、萬葉風のみにては、よみとりがたき事など多き故に、やう/\と後世風の意詞をも、まじへよむほどに、いつしか後世風にちかくなりゆきて、なほをり/\は、ふるめきたる事もまじりて、さすがに全くの後世風にもあらず、しかも又、古今集のふりにもあらず、おのづから別に一風なるも多きぞかし。これ古風のみにては、事たらざるところのあるゆゑなり。すべて後世風をもよまではえあらぬよしを、なほいはゞ、まづ萬葉の歌を見るに、やすらかにすがたよきは、其趣いづれもいづれも、似たる事のみ多く、よめる意大抵定まれるが如くにて、或は下(ノ)句全く同じき歌などもおほく、すべて同じやうなる歌いと多し。まれ/\にめづらしき事をよめるは、多くはいやしげにて、歌ざまよろしからず、然るを萬葉の後、今の世まで、千餘年を經たる間(ダ)、歌よむ人、みな/\萬葉風をのみ守りて變ぜずして、しかもよき歌をよまんとせば、皆萬葉なる歌の口まねをするやうにのみ出來て、外によむべき事なくして、新(タ)によめる詮なかるべし。されば世々を經て、古人のよみふるさぬおもむきを、よみ出んとするには、おのづから世々に、そのさま變ぜではかなはず、次第にたくみもこまやかにふかくなりゆかではかなはぬだうり也。古人の多くよみたる事を、同じさまによみたらんには、其歌よしとしても、人も神も感じ給ふことあるべからず。もし又古(ヘ)によみふるさぬ事を、一ふしめずらしく、萬葉風にてよまんとせば、いやしくあしき歌になりぬべし。かの集の歌すらさやうなれば、まして今の世をや、此事猶一(ツ)のたとへを以ていはん、古風は白妙衣のごとく、後世風は、くれなゐ紫いろ/\染たる衣のごとし。白妙衣は、白たへにしてめでたきを、染衣も、その染色によりて、又とり/”\にめでたし、然るを白妙めでたしとて、染たるをば、ひたぶるにわろしとすべきにあらず、たゞその染たる色には、よきもあり、あしきもあれば、そのあしきをこそ棄(ツ)べきなれ。色よきをも、おしこめてすてんは、偏《ヒトムキ》ならずや。今の古風家の論は、紅紫などは、いかほど色よくても、白妙に似ざれば、みなわろしといはんが如し。宣長もはら古學によりて、人にもこれを教へながら、みづからよむところの歌、古風のみにあらずして、後世風をも、おほくよむことを、心得ずと難ずる人多けれども、わが思ひとれるところは、上の件のごとくなる故に、後世風をも、すてずしてよむ也。其中に古風なるは數すくなくして、返て後世風なるが多きは、古風はよむべき事すくなく、後世風はよむ事おほきが故也。すべていにしへは、事すくなかりしを、後世になりゆくまに/\、萬の事しげくなるとおなじ。さて吾は、古風、後世風ならべよむうちに、古と後とをば、清くこれを分ちて、たがひに混雜なきやうにと、深く心がくる也。さて又初學の輩、わがをしへにしたがひて、古風後世風ともによまんとせんに、まづいづれを先(キ)にすべきぞといふに、萬の事、本をまづよくして後に、末に及ぶべきは勿論のことなれども、又末よりさかのぼりて、本にいたるがよき事もある物にて、よく思ふに、歌も、まず後世風より入て、そを大抵得て後に、古風にかゝりてよき子細もあり。その子細を一(ツ)二(ツ)いはゞ、後世風をまづよみならひて、その法度のくはしきをしるときは、古風をよむにも、その心得有て、つゝしむ故に、あまりみだりなることはよまず。又古風は時代遠ければ、今の世の人、いかによくまなぶといへども、なほ今の世の人なれば、その心全く古人の情のごとくには、變化しがたければ、よみ出る歌、古風とおもへども、猶やゝもすれば、近き後世の意詞のまじりやすきもの也。すべて歌も文も、古風と後世とは、全體その差別なくてはかなはざるに、今の人の歌文は、とかく古と後と、混雜することをまぬかれざるを、後世風をまづよくしるときは、是は後世ぞといふことを、わきまへしる故に、その誤(リ)すくなし。後世風をしらざれば、そのわきまへなき故に、返て後世に落ることおほきなり。すべて古風家、後世風をば、いみしく嫌ひながら、みづから後世風の混雜することをえしらざるは、をかしきこと也。古風をよむひとも、まづ後世風を學びて益あること、猶此外にも有也。古と後との差別をだによくわきまふるときは、後世風をよむも、害あることなし。にくむべきことにあらず、たゞ古と後と混雜するをこそ、きらふべきものなれ。これはたゞ歌文のうへのみにもあらず、古の道をあきらむる學問にも、此わきまへなくては、おぼえず後世意にも漢意にも、落入(ル)こと有べし。古意と後世意と漢意とを、よくわきまふること、古學の肝要なり。
《オ》後世風の中にもさま/”\よきあしきふりふりあるを云々、 かの染衣のさま/”\の色には、よきも有(リ)あしきもあるが如く、後世風の歌も、世々を經て、つぎ/\にうつり變れる間(ダ)には、よきとあしきとさま/”\の品ある、其中にまず古今集は、世もあがり、撰びも殊に精しければいと/\めでたくして、わろき歌はすくなし。中にもよみ人しらずの歌どもには、師もつねにいはれたるごとく、殊によろしきぞ多かる。そはおほくふるき歌の、ことにすぐれたる也。さて此集は、古風と後世風との中間に在りて、かのふるき歌どもなどは、萬葉の中のよき歌どものさまと、をさ/\かはらぬもおほくして、殊にめでたければ、古風の歌を學ぶ輩も、これをのりとしてよろしき也。然れども大かた光孝天皇、宇多天皇の御代のころよりこなたの歌は、萬葉なるとはいたくかはりて、後世風の方にちかきさまなれば、此集をば、姑く後世風の始めの、めでたき歌とさだめて、明暮にこれを見て、今の京となりてよりこなたの、歌といふ物のすべてのさまを、よく心にしむべき也。次に後撰集、拾遺集は、えらびやう甚(タ)あらくみだりにして、えもいはれぬわろき歌の多き也。然れどもよき歌も又おほく、中にはすぐれたるものもまじれり。さて次に後拾遺集よりこなたの、代々の撰集ども、つぎ/\に盛衰善惡さま/\あれども、そをこまかにいはむには、甚(タ)事長ければ、今は省きて、その大抵をつまみていはゞ、其間(ダ)に新古今集は、そのころの上手たちの歌どもは、意も詞もつゞけざまも、一首のすがたも、別に一(ツ)のふりにて、前にも後にもたぐひなく、其中に殊によくとゝのひたるは、後世風にとりては、えもいはずおもしろく心ふかくめでたし。そもゞ上代より今の世にいたるまでを、おしわたして、事のたらひ備りたる、歌の眞盛《マサカリ》は、古今集ともいふべけれども、又此新古今にくらべて思へば、古今集も、なほたらはずそなはらざる事あれば、新古今を眞盛といはんも、たがふべからず。然るに古風家の輩は、殊に此集をわろくいひ朽《クタ》すは、みだりなる強《シヒ》ごと也。おほかた此集のよき歌をめでざるは、風雅の情をしらざるものとこそおぼゆれ。但し此時代の歌人たち、あまりに深く巧をめぐらされたるほどに、其中に又くせ有て、あしくよみ損じたるは、殊の外に心得がたく、無理なるもおほし。されどさるたぐひなるも、詞うるはしく、いひまはしの巧なる故に、無理なる聞えぬ事ながらに、うちよみあぐるに、おもしろくて捨がたくおぼゆるは、此ほどの歌共也。されどこれは、此時代の上手たちの、あやしく得たるところにて、さらに後の人の、おぼろけにまねび得べきところにはあらず。しひてこれをまなびなば、えもいはぬすゞろごとになりぬべし。いまだしきほどの人、ゆめゞこのさまをしたふべからず。されど又、歌のさまをくはしくえたらんうへにては、さのみいひてやむべきにもあらず、よくしたゝめなば、まねび得ることも、などかは絶てなからん。さて又玉 葉、風雅の二(ツ)の集は、爲兼卿流の集なるが、彼卿の流の歌は、皆ことやうなるものにして、いといやしくあしき風なり。されば此一流は、其時代よりして、異風と定めしこと也。さて件(ン)の二集と、新古今とをのぞきて外は、千載集より、廿一代のをはり新續古今集までのあひだ、格別にかはれることなく、おしわたして大抵同じふりなる物にて、中古以來世間普通の歌のさまこれなり。さるは世の中こぞりて、俊成卿、定家卿の教(ヘ)をたふとみ、他門の人々とても、大抵みなその掟を守りてよめる故に、よみかた大概に同じやうになりて、世々を經ても、さのみ大きにかはれる事はなく、定まれるやうになれるなるべし。世に二條家の正風體といふすがた是也。此(ノ)代々の集の内にも、すこしづゝは、勝劣も風のかはりもあれども、大抵はまづ同じこと也。さて初學の輩の、よむべき手本には、いづれをとるべきぞといふに、上にいへるごとく、まづ古今集をよく心にしめておきて、さて件(ン)の千載集より新續古今集までは、新古今と玉葉、風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし。然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほうしの草庵集といふ物などを、會席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也。此人の歌、かの二條家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき歌もさのみなければ也。其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず。但し歌よむ時にのぞみて、歌集を見ることは、癖《クセ》になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし。たゞ集共をば、常々心がけてよく見るべき也。さてこれより近世のなべての歌人のならひの、よろしからざる事共をいひて、さとさむとす。そはまづ道統といひて、其傳來の事をいみしきわざとして、尊信し、歌も教(ヘ)も、たゞ傳來正しき人のをのみ、ひたすらによき物とかたくこゝろえ、傳來なき人のは、歌も教(ヘ)も、用ひがたきものとし、又古(ヘ)の人の歌及び其家の宗匠の歌などをば、よしあしきを考へ見ることもなく、たゞ及ばぬこととして、ひたぶるに仰ぎ尊み、他門の人の歌といへば、いかほどよくても、これをとらず、心をとゞめて見んともせず、すべて己が學ぶ家の法度掟を、ひたすらに神の掟の如く思ひて、動くことなく、これをかたく守ることのみ詮とするから、その教(ヘ)法度にくゝられて、いたくなづめる故に、よみ出る歌みなすべて、詞のつゞけざまも、一首のすがたも、近世風又一(ト)やうに定まりたる如くにて、わろきくせ多く、其さまいやしく窮屈にして、たとへば手も足もしばりつけられたるものゝ、うごくことかなはざるがごとく、いとくるしくわびしげに見えて、いさゝかもゆたかにのびらかなるところはなきを、みづからかへり見ることなく、たゞそれをよき事と、かたくおぼえたるは、いとゞ固陋にして、つたなく愚なること、いはんかたなし。かくのごとくにては、歌といふものゝ本意にたがひて、さらに雅《ミヤビ》の趣にはあらざる也。そもゞ道統傳來のすぢを、重くいみしき事にするは、もと佛家のならひよりうつりて、宋儒の流なども然也。佛家には、諸宗おのゞわが宗のよゝの祖師の説をば、よきあしきをえらぶことなく、あしきことあるをも、おしてよしと定めて尊信し、それにたがへる他の説をば、よくても用ひざるならひなるが、近世の神學者、歌人などのならひも、全くこれより出たるもの也。さるは神學者、歌人のみにもあらず、中昔よりこなた、もろ/\の藝道なども、同じ事にて、いと愚なる世のならはしなり。たとひいかほど傳來はよくても、その教よろしからず、そのわざつたなくては、用ひがたし。其中に諸藝などは、そのわざによりては、傳來を重んずべきよしもあれども、學問や歌などは、さらにそれによることにあらず。古(ヘ)の集共を見ても知べし。その作者の家すぢ傳來には、さらにかゝはることなく、誰にもあれ、ひろくよき歌をとれり。されば定家卿の教(ヘ)にも、和歌に師匠なしとのたまへるにあらずや。さて又世々の先達の立(テ)おかれたる、くさ/”\の法度、掟の中には、かならず守るべき事も多く、又中にはいとつたなくして、必(ズ)かゝはるまじきも多きことなるに、ひたぶるに固くこれを守るによりて、返て歌のさまわろくなれることも、近世はおほし。すべて此道の掟は、よきとあしきとをえらびて、守るべき也。ひたすらになづむべきにはあらず。又古人の歌は、みな勝《スグ》れたる物のごとくこゝろえ、たゞ及ばぬ事とのみ思ひて、そのよしあしを考へ見んともせざるは、いと愚なること也。いにしへの歌といへども、あしきことも多く、歌仙といへども、歌ごとに勝《スグ》れたる物にもあらざれば、たとひ人まろ、貫之の歌なりとも、實によきかあしきかを、考へ見て、及ばぬまでも、いろ/\と評論をつけて見るべき也。すべて歌の善惡を見分る稽古、これに過たる事なし。大に益あること也。然るに近世の歌人のごとく、及ばぬ事とのみ心得居ては、すべて歌の善惡を見分べき眼の、明らかになるよしなくして、みづからの歌も、よしやあしやをわきまふることあたはず、さやうにていつまでもたゞ、宗匠にのみゆだねもたれてあらんは、いふかいなきわざならずや。すべて近世風の歌人のごとく、何事も愚につたなき學びかたにては、生涯よき歌は出來るものにあらずと知べし。さて又はじめにいへる如く、歌をよむのみにあらず、ふるき集共をはじめて、歌書に見えたる萬の事を、解(キ)明らむる學(ヒ)有(リ)、世にこれを分て歌學者といへり。歌學といへば、歌よむ事とをまなぶことなれども、しばらく件のすぢを分て然いふ也。いにしへに在(リ)ては、顯昭法橋など此すぢなるが、其説は、ゆきたらはぬ事多けれども、時代ふるき故に、用ふべき事もすくなからざるを、近世三百年以來の人々の説は、かの近世やうの、おろかなる癖《クセ》おほきうへに、すべてをさなきことのみなれば、いふにもたらず。然るに近く契冲ほうし出てより、此學大(キ)にひらけそめて、歌書のとりさばきは、よろしくなれり。さて歌をよむ事をのみわざとすると、此歌學の方をむねとすると、二やうなるうちに、かの顯昭をはじめとして、今の世にいたりても、歌學のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌學のなき人に上手がおほきもの也。こは專一にすると、然らざるとによりて、さるだうりも有(ル)にや。さりとて歌學のよき人のよめる歌は、皆必(ズ)わろきものと、定めて心得るはひがこと也。此二すぢの心ばへを、よく心得わきまへたらんには、歌學いかでか歌よむ妨(ケ)とはならん。妨(ケ)となりて、よき歌をえよまぬは、そのわきまへのあしきが故也。然れども歌學の方は、大概にても有べし、歌よむかたをこそ、むねとはせまほしけれ。歌學のかたに深くかゝづらひては、佛書からぶみなどにも、廣くわたらでは、事たらはぬわざなれば、其中に無益の書に、功《テマ》をつひやすこともおほきぞかし。
《ク》物語ぶみどもをもつねに見るべし、 此事の子細は、源氏物語の玉の小櫛に、くはしくいへれば、こゝにはもはらしつ。
《ヤ》いにしへ人の風雅《ミヤビ》のおもむきをしるは云々、 すべて人は、雅《ミヤビ》の趣をしらでは有(ル)べからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり。然して古(ヘ)人のみやびたる情をしり、すべて古(ヘ)の雅《ミヤビ》たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也。然るに世間の物學びする人々のやうを見渡すに、主《ムネ》と道を學ぶ輩は、上にいへるごとくにておほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、歌などよむをば、たゞあだ事のやうに思ひすてゝ、歌集などは、ひらきて見ん物ともせず、古人の雅情を、夢にもしらざるが故に、その主とするところの古の道をも、しることあたはず。かくのごとくにては、名のみ神道にて、たゞ外國の意のみなれば、實には道を學ぶといふものにはあらず。さて又歌をよみ文を作りて、古をしたひ好む輩は、たゞ風流のすぢにのみまつはれて、道の事をばうちすてゝ、さらに心にかくることなければ、よろづにいにしへをしたひて、ふるき衣服、調度などをよろこび、古き書をこのみよむたぐひなども、皆たゞ風流のための玩物にするのみ也。そも/\人としては、いかなる者も、人の道をしらでは有べからず。殊に何のすぢにもせよ、學問をもして、書をもよむほどの者の、道に心をよすることなく、神のめぐみのたふときわけなどもしらず、なほざりに思ひて過すべきことにはあらず。古(ヘ)をしたひたふとむとならば、かならずまづその本たる道をこそ、第一に深く心がけて、明らめしるべきわざなるに、これをさしおきて、末にのみかゝづらふは、實にいにしへを好むといふものにはあらず。さては歌をよむも、まことにあだ事にぞ有ける。のりながゞをしへにしたがひて、ものまなびせんともがらは、これらのこゝろをよく思ひわきまへて、あなかしこ、道をなほざりに思ひ過すことなかれ、
   こたみ此書かき出(テ)つることは、はやくより、をしへ子どもの、ねんごろにこひもとめけるを、年ごろいとまなくなどして、聞過しきぬるを、今は古事記(ノ)傳もかきをへつればとて、又せちにせむるに、さのみもすぐしがたくて、物しつる也。にはかに思ひおこしたるしわざなれば、なほいふべき事どもの、もれたるなども多かりなんを、うひまなびのためには、いさゝかたすくるやうもありなんや。
     いかならむうひ山ぶみのあさごろも
        淺きすそ野のしるべばかりも
                                                                 本  居  宣  長
  寛政十年十月の廿一日のゆふべに書をへぬ。
須 受 能 耶  藏 板
 
 
 
 
 
 
鈴屋答問録目次   (宣長四十八〜五十歳ごろの弟子との問答を記録したもの。)
 
一 つたなし(一)         二 きたなし(二)
三 陸奥の訓            四 柏手
五 左京の訓(三)         六 神の死不死
七 人死て黄泉國へ行(四)     八 神に位階を授玉ふ事(五)
九 奥津棄戸            一〇 陰陽
一一 垂加流神道          一二 神道の安心〔三四)
一三 老子の自然(三五)      一四 夷《ヒナ》
一五 鹽土老翁           一六 侍者《マカタチ》
一七 鈴の起(六)         一八 麻笥(七)
一九 國生紳(八)         二〇 崇神紀神宣
二一 倭文神(九)         二二 打橋
二三 天壓神            二四 祝部(一〇)
二五、荒魂和魂(二)        二六 明衣(一二)
二七 内人             二八 撞賢木嚴之御魂
二九 あづなひの罪(一三ニ)    三〇 神の義
三一 熊神籬            三二 ほとはしる(一四)
三三 許《ガリ》          三四 春べ
三五 ひところふ(一五)      三六 うつなし(一六)
三七 をりはへ           三八 兄弟婚(一七)
三九 鹿葦津姫(一八)       四〇 帥
四一 疫病神(一九)        四二 疫紳を祭る事(二〇)
四三 年頭天王(二一)       四四 貧乏神福の神(二二)
四五 疱瘡神(二三)        四六 えびす大黒(三二)
四七 佛の祟(二四)        四八 又(二五)
四九 佛に祈るに驗ある事(二六)  五〇 又(二七)
五一 きりしたん(二八〕      五二 聖人も神(二九)
五三 空海(三〇)         五四 欽明紀造佛像
五五 ざいつがひ(三三)      五六 神道(三一)
 
 
鈴屋答問録
   安永六年丁酉冬
(一)荒木田瓠形【蓬莱雅樂】問。つたなしと云言の意は如何。
答。無《ナシ》v勤《ツト》の意也。事におこたりて勇氣のなきを云。故に勇の反對の怯を訓る、これつたなしの本義にて、それより拙の意にも轉《ウツ》れる也。つとむるは進利《スヽト》むるの意也。すとつと通ふ例は次をすぎとも云、是也。さて廣くするをひろむる、固くするをかたむると云格にて、利くするをとむるとは云也。【つたなしを無傳と云はきこえず。】
 
(二)又問。きたなしはいかに。
答。無《ナシ》2明淨《アキラ》1也。美麗《キラ/\シ》はあきら/\し、清《キヨキ》ばあきよき也。これら上のあを省く例也。さてあきは明淨の義なる事、古事記傳御禊(ノ)段に云ふが如し。さてきらをきたと云は、ここらをここたとも、邊《ヘ》らを邊《ヘ》たとも、ゆら/\をゆた/\とも云、これららとたと通ふ例也。【無段の意とするは、古意にあらず。】
 
(三)小篠道冲【石見濱田家中】問。陸奥をむつと云は、睦の字と誤てよめるかと云人あり、いかゞ。
答。みちのくをみち之|國《ク》の意と思へるにや。古今集などにもみちのくにとあり。これはみちのくのくにと云ては、同言の重なりて、煩しきやうなる故に、おのづからかく云なれたるにやあらん。さてみちの國と云ならへるから、轉《ウツ》りてつひにむつの國とは云なるべし。みちとむつと、自然に轉《ウツ》るべき音也。又陸の字は、肆伍陸《シゴロク》と數の六に用る字なるゆゑに、むつ.と心得誤れるにもあるべし。
 
(四)又問。柏手《カシハテ》と云は、食事をかしはでと云故に、そのとき手を拍ゆゑにいふか。
答。拍v手と書く拍の字を相に思ひまがへたるにや。そは膳夫《カシハデ》と云ことのある故に、その言を誤て、拍v手の字へあてたるにはあらじか。柏手と云名目、古るき書には見あたらぬやうに覺ゆ。されど、こはいまだよく考へず。
 
(五)又問。職原抄に、左京をひだんのみさとゝ訓り。ひだりをひだんと云よみ、古へもあるか。又京をみさとゝよむこといかゞ。
答。左京右京の京をみさとゝよむは御里也。同じ京ながら、みやこと云ときは、宮城にかゝる名也。宮所の意なれば也。又みさとゝ云ときは、京中のことにかゝる名也。故に左右京職は、宮城のことを掌る官には非ず、京中のことを掌る官なる故に、みさとのつかさと云也。ひだりをひだんと云は、音便に崩れたる言にて、正しき言にあらす。和名抄にも、比多利乃美佐止豆加佐とこそあれ。
 
(六)又問。神代の神は死せぬことかと思へば、又瓊々杵尊など崩あり。然らば國常立尊なども、みな死せりとせんか。死せる神と死せぬ神ありてはいかゞ。
答。高天原に坐す神は、死と云ことなく常《トコシ》へ也。國に坐す神はみな死せり。又天の神と云へども、國へ降りては死をまぬかれず、天と國とを以て、不死と死とを判ずべし。さて既に死すといへども、其|御靈《ミタマ》は留りてあることにて、時としては、現身をもあらはすことあり。此趣すべて臆斷にあらず。古事記、書紀にしるせる證例につきて云也。つゆばかりも、己が臆度をまじへて理を以て云は、漢意におつること也。
 
(七)又問。人死ぬれば黄泉國へゆくと云は、佛道の地獄にゆくによれるに似たり。又、魂氣天に上るとみれば、面白けれども黄泉國へゆくと云に合はず。此こといかゞ。
答。人死ぬれぼ、善人も惡人もよみの國へゆく外なし。然るを佛道の地獄の説に似たりとて疑ふは、いかゞ。たとひ地獄と全く同じ趣なりとも、それにさはることなし。神代の古傳、何ぞ後世の佛道にはゞからむや。そのうへ佛道の意は、惡人は地獄、善人は天上淨土に生るといふ、これ吾道と大に異也。彼れは方便の作り言なるゆゑに、善惡當然の理に叶へるやうにかまへたり。又魂氣天に上ると云も、漢國の人の理を考てかまへたる作り言なる故に、面白くはきこゆれども、そは作り言なれば、いかやうにも面白くは云はるゝことなり。
 
(八)栗田土滿【遠江國平尾八幡社司稱求馬】問。皇祖神を祭れる社へ、臣の位階を授賜こと、いかゞ。或人は、位田を寄ること也。其神に位を賜にあらずと云。又或人は、そこの社へ賜はる位にて、神に賜はるに非すと云り。共におぼつかなしいかゞ。
答。此事誰もいぶかしく思はるゝこと也。然れども必ず然るべき故あることなるべし。かれ考るに、古語拾遺に、天照大神者惟(レ)祖惟(レ)宗尊(キコト)無二。因(テ)自餘諸神(ハ)者。乃子乃臣云々とあり。天照大神は伊勢大神宮、自餘の諸神とは諸國の諸社の神也。此諸國の神社の中には、伊邪那岐命、高皇産靈命などを祭る社もあれぼ、それは天照大御神の御祖なり、御父也。然れどもそれらの社をも凡て子也、臣也とするは、其故によりて尊卑あることにて、必しも祭れる神の尊卑にはかゝはらぬことゝ見えたり。然れば同じ天照大御神を祭れる社といへども、必しも、伊勢同等に尊からず、其社のほど/\に從て、其神には尊卑あれば、位階を授たまふことも、其社の神へ授たまふなり。
 
(九)小篠道仲問。奥津棄戸のこといかゞ。
答。奥は地下を云。海底をも奥と云と同意也。棄戸は借字にて、下方《シタベ》也。下方に將臥具《フシナシカマヘ》也。
 
(一〇)南川文璞【菰野領主土方近江守儒臣】守道を問ふに答るの中に、陰陽の辯の内。
まづ世間には二つある物多き也。天地、日月、男女、晝夜、水火などの類也。かくの如く二つある物の多きは、これみな陰陽の理也とすることなれども、これ全く陰陽の理にて然るに非ず。おのづからに然る也。其故は、一つに今一つ加ふれば二つ也。又一つの物を一たびわかつときは、二つとなる。かるが故に、二つなる物は多くあるはす也。さて二つなる物よりも一つなる物はなほ多けれども、それには人の心つかぬ也。人の身にていはゞ、耳目手足などは、二つあれども、頭も鼻も口も臍もみな一つ也。若(シ)實に陰陽の理あらば、萬物こと/”\く二つづゝあるはす也。然るに一つなる物もあり、二つなる物もあり、又まれには三つなる物もあるは、みな何となく然る也。その中に、三つある物は、各相對してはたしかにはそろはぬものなるゆゑに、或は一つを除きて二つと定むることも多し。又四つなる物は、多くは二つを小分したるものにて、實に四つなるは少し。さて二つなる物は、多くは反對するがごとし。これも陰陽の理にて然るにはあらず。本二つとなることは、此と彼と異なるゆゑに二つ也。然れば二つなる物は必ず、此と彼と異なるはすのこと也。さてたゞ二つにして他なきに、その二つ此と彼と異なるときは、必反對するはずのこと也。又必しも二つにはあらぬ物も、反對せるに似たる物をば、強て一雙にすることもあり。とにかくに陰陽の理と云ことは、もとなきことなるを、二つある物へあてんために、設けたる假の名也。
 
 
     安永七年戊戌二月
(一一)又垂加流の神道を問。
答。垂加流神道のこと、仰られ候如くに侯。佛をばきらひ候て習合せず候へども、そのかはりには、皆儒を合せて造立侯故に、實は是も兩部にて候也。先年此事を或人の問ひ候ひしに付て、譬を以て申侯は、いはゆる兩部神道は陽症の傷寒の如し。熱になやまさるゝことあらはに見えたり。垂加流などの如き、唯一と稱する流は、陰症の傷寒のごとし。表は唯一にて熱氣の見えざる故に、人皆其病を知らず、實に唯一と思へども裏は悉く儒の大熱におかされて、難治の病也。又玉木氏が玉籤集のこと御尋に候。此たぐひの書すべて一向にとるに足らざることに候也。其外垂加流の外にも、これかれ少々づつかはり候流々候へども、皆陰症の同病をまぬかれず候。
 
(一二)一、拙作|直毘靈《なほびのみたま》の趣御心に叶ひ候よし、よろこばしく存候。それにつき、人々の小手前にとりての安心は如何と、これなほ疑はしく思召候條、御ことわりに候。此事は、誰も/\皆疑ひ候ことに候へども、小手前の安心とまをすはなきことに候。其故は先(ヅ)、下たる者は只上より定め給ふ制法のまゝを受て其如く守り、人のあるべき限りのわざをして、世をわたり候より外候はねば、別に安心はすこしもいらぬことに候。然るに、無益のことを色々と心に思ひて、或は此天地の道理はかやう/\なる物ぞ、人の生るゝはかやう/\の道理ぞ、死ぬればかやう/\になる物ぞなどゝ、實は知れぬことをさま/”\に論じて、己が心々にかたよりて、安心をたて候は、皆外國の儒佛などのさかしらごとにて、畢竟は無益の空論に候。凡てさやうのことは、みな實は人の智を以てはかり知べきことにはあらず候へば、色々にまをすも皆おしはかりのみに候。御國の上古の人は、さやうの無益の空論に心を勞し候ことは、つゆばかりもなく候ひし也。然るに、外國よりさま/\の書どもわたり參りて、それを學び候世になりてより、右の如くなる無益のことを、とやかくやと心に考へて、或は儒により、佛により、或は老子により、など各安心を立ることになり候也。さてさやうに世の中、おしなべてこざかしくなり候て後は、何ぞの道によりて、一つ此安心を定め候はでは心のより處なきやうに、人皆思ひ候から、神道の安心をも造りて、人にをしへ候ことになり候ひし也。此安心なくては人の信ぜぬ故に候。然れども其神道の安心、諸流ともに古へをよくも考へざる者の妄作にて候故に、たゞ佛と儒との意にすがりて造り候物にて、一つも古への道に叶へるは侯はず、もし強て神道の安心を定めむとならば、いさゝかも儒佛等の意を心にまじへず、此習氣をよく/\洗(ヒ)すて候て、清らかなる心を以て、古事記、日本紀の上古の處をよく見候べし。少しにても儒佛等の習氣有ては、眞實の道は見えがたく候故、是を洗ひすて候こと、第一義に候也。然れども此習氣、千有餘年人心の底に染付て候ことに候へば、隨分によく洗ひ清めたりと思へ共、猶殘りは有物にて、とかくぬけがたき物に侯なり。さて此習氣のこらず去て後、古書をよく見候へぼ、人々、小手前の安心とまをすことはなきこととまをすことも、其安心は無益の空論にて、皆外國人の造りごと也とまをすことも、おのづからよく知られ候。これ眞實の神道の安心也。然れども此域に至り候はぬ程は、いか程説聞せ候ても、安心なしとまをしては、人毎に承引せぬことに候。是|彼《カノ》儒佛等の癖ある故に候。さてかくの如く神道に安心といふことなしとまをして、他の事は承引し候人も、千百人中の中に一人二人は有もすべく候へども、只一つ人のきはめて承引し候はぬことは、人死て後にはいかになる物ぞと云こと、是先(ヅ)第一に、人毎に心にかゝる物也。人情まことに然るべきことに候。此故に、佛の道はこゝをよく見取て造(リ)立候物に候。されば、平生は佛を信ぜぬ者も、今はのきはに及び候ては、心細き儘にやゝもすれば彼道におもむくこと、多き物に候。これ人情のまことに然るべきことわりに候。然るに神道におきて、此人死て後に、いかになる物ぞとまをす安心なく候ては、人の承引し候はぬもことわりに候。神道の安心は、人は死候へば善人も惡人もおしなべて、皆よみの國へゆくことに候。善人とてよき所へ生れ候ことはなく候。これ古書の趣にて明らかに候也。然るにかくの如くのみまをしては、儒者も佛者も承引致さず、最《イト》愚なることの樣に思ひ候。又愚人とても、常に佛の教などを聞居候故に、かやうにのみ申しては承引せす候。抑佛者は、此生死の安心を人情にかなへて、面白く説きなし、儒者は天地の道理といふ事をこしらへて、誠しげにまをすことに候故、天下の人皆、此儒佛等の説を聞馴て、思ひ/\に信じ居候所へ、神道の安心は、たゞ善惡共によみの國へ行とのみまをして、其然るべき道理を申さでは、千人萬人承引する者なく候。然れども其道理はいかなる道理とまをすことは、實は、人のはかり知べきことにあらず、儒佛等の説は、面白くは候へども、實に面白きやうに此方より作りて、當て候物也。御國にて上古かゝる儒佛等の如き説を、いまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの國へ行く物とのみ思ひて、悲むより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、その理窟を考る人も候はざりし也。さて其よみの國は、きたなくあしき所に候へども、死ぬれば必ゆかねばならぬことに候故に、此世に死する程悲しきことは候はぬ也。然るに、儒や佛はさばかり至てかなしきことを、かなしむまじきことのやうに、色々と理窟をまをすは、眞實の道にあらざること、明らけく候なり。
 
(一三)一、やゝもすれば老子の意に流ると思召候こと、御ことわりに侯。まづ老子の自然をまをすは、眞の自然には候はす、實は儒よりも甚しく誣たる物に候也。若眞に自然を尊み候はゞ、世中はたとひ如何樣に成行共、成行まゝに任せて有べきことにこそ候へ。儒の行はるゝも、古への自然のそこなひ行も、皆天地自然のことなるべきに、それをあしとて、古への自然をしふるは、返りて自然にそむける強ごとに候也。此故に其流をくむもの、莊周などを始めとして、自然を尊むといひて、其いふこと、することは、皆自然にあらず、作りごとにて、たゞ世間にたがひて異樣なるを悦び、人の耳目をおどろかすのみ也。わが神道は大にそれとは異に候て、まづ自然を尊むとまをすことは候はず。世中は、何ごとも皆神のしわざに候。是第一の安心に候。もし此安心決定せずして、神のしわざとまをすことを假令の如く思ひ候ては、誠に老子にも流るべく候。さて何事も皆、神のしわざにて、世中にわろきことゞものあるも、皆惡神のしわざに候へば、儒佛老などゝまをす道の出來たるも、神のしわざ、天下の人心それにまよひ候も、又神のしわざに侯。然れば善惡邪正の異こそ候へ。儒も佛も老も、皆ひろくいへば、其時々の神道也。神には善なるあり、惡なるある故に、其道も時々に善惡ありて行はれ候也。然れば、後世、國天下を治むるにも、まづは其時の世に害なきことには、古へのやうを用ひて、隨分に善神の御心にかなふやうに有べく、又儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。佛にあらではかなはぬことあらば、佛を以て治むべし。是皆、其時の神道なれば也。然るにたゞ、ひたすら上古のやうを以て、後世をも治むべきものゝやうに思ふは、人の力を以て、神の力に勝むとする物にて、あたはざるのみならず、却て其時の神道にそむく物也。是故に神道の行ひとて、別に一つはなきことゝまをすは、このことに候也。然れども其善惡邪正をわきまへ論ずるときは、上古の世は惡神あらびずして、人心もよかりし故に、國治まりやすく、萬のこと善神の道のまゝに有し也。後世は惡神あらびて、上古のまゝにては治まり難く成ぬる也。かくの如く時有て惡神あらび候へば、善神の御力にも叶はぬことあるは、神代に其證明らか也。然れば人の力にはいよ/\叶はぬわざなれば、せむかたなく、其時のよろしきに從ひ候べき物也。これ、いかでか老子が自然をしふるとひとしく候はむ。
 
(一四)小篠道冲問。夷《ヒナ》と云言の意はいかに。
答。邊《ヘ》之|處《カ》也。邊は片ほとりを云。それをびと云例は、濱び、岡びなどの如し。處《カ》はありか、すみか、かくれがなどの例也。さて、のかの反な也。又|田舍《ヰナカ》は小邊之處《ヲヒノカ》也。をひの反ゐ也。
 
(一五)又問。鹽土老翁の名義はいかに。
答。知識大《シリオホ》つちにて、よく物を知れる人の稱なり。つちは美稱にて例多し。
 
(一六)又問。侍者《マカタチ》はいかに。
答。前兒等《マヘコラ》たちか。まへつきみと云こともあれば也。
 
(一七)荒木田經雅【大神宮八禰宜中川】問。鈴の起りはいかに。又、佐那伎は鈴のことか。
答。鈴の起り未詳。先は古語拾遺石屋戸の段に、鐵鐸のこと見えたり。是や始ならむ。さて其古名を佐那伎と云よし記せるは、心得ず。鐸は古事記雄略段大御歌に、奴弖と見え、又仁徳紀に須儒と有。さなぎといふことは、何にも見えず。故思ふに、古語拾遺に、著鐸之矛とあるをさなぎのほことよめり。然ればさなぎは、鐸をつけたる矛の名なるを、廣成心得誤りて、鐸の古名のよし記せるにや。さなぎのほこといふ由は、さなぎを略《ハブケ》る成べし。さゝはすゞと同じくて、鳴音をいひ、なぎは草薙などの薙にて、鐸をつけたる矛|以《モ》て、物をなげば、さゝさゝ1と鳴る故に、さなぎの矛とはいふにや。
 
(一八)又問。古書に麻笥《ヲケ》と桶とを通はして書ること多し。此義いかゞ。
答。桶は形の麻笥《ヲケ》と同じき故に、通はしてをけといふなるべし。大神宮式神寶の麻笥は、木工寮式によるに、鐵にて作れる物にて、其形も下のすぼりたる物にて、二合とあれば、蓋《フタ》も有と見えて、すべて桶とはいたく異なれども、又古へより桶と同形なるもありしにや。今わが里のあたりにて、麻をうみて入るゝ器を、をごけといひて、深さ一尺ばかり、徑七八寸形(チ)※[円筒形の圖あり]如此にて、桶の如し。曲《マケ》物也。是も古へよりある形ならむか。さて桶は、今は厚き板をならべまろめて、竹の輪をかくめれど、中昔頃までは曲物也きと見えて、職人歌合檜物師の歌に、「汲たむる桶なる水に影見れば、月をさへこそまげいれてけれ。」これ、檜物師の歌に讀て、まげいれてなど讀るも、曲物なる由の縁語なるを思ふべし。然れば昔の曲物の桶は、右にいふをごけと同じ形なるべし。
 
(一九)又問。儀式帳所攝大土(ノ)社の神を、國生神とも、大國玉とも、又は大國玉姫ともまをすと聞えて、まぎらはし。此義いかゞ。
答。大土、國生、大國玉みな同意の神名也。國生はくになしと訓べし。其國を經營成し玉ひし神也。國とは、上代には一縣一郷ほどの所をもいひつれば、其地、其他に、國生(ノ)神は有べし。大土(ノ)神とまをすも、そこの土地を經營し玉ひし由の神號也。國玉のことは、古事記傳八の五十六丁、十一の廿八丁(刊本は九の六十一丁、十三の十八丁)に云る如く、是も同意也。故に諸國に其國玉の神社多し。さて又、大國玉比賣とまをすは、其國の大國玉(ノ)神(ノ)の妃をもいふべけれど、度會(ノ)大國玉比賣などは、女神にて、其國經營の神と聞えたり。又國御祖(ノ)神、大土御祖の神などまをすも、右の意也。
 
(二〇)又問。崇神紀に、玉※[草冠/妾]鎭石云々御寶主也とある、此詞の意いかゞ。
答。たまもしづかし。いつもびとまつれ。またねのうましかゞみ。おしはぶれ。うましみかみのそこだから。みたからぬし。やまがはのみくゝみたま。しづめかけよ。うましみかみのそこだから。みたからぬし。如此訓べし。今本の訓のまゝにては、義をなさず。凡ての意は、鏡と玉とを以て出雲の臣これを祭るべしと云也。しづかしはしづきを延て云也。玉藻|沈《シツ》き嚴藻《イツモ》とうけたり。いつは清淨の意地。水底に沈み在て、清淨なる藻を云つゝけ也。眞種の意未考。おしはぶれは鏡を押振(リ)上げて祭れ也。そこだからは至極の寶也。凡て物の至り極る所をそこと云也。みたからぬしは寶の最上を云。これみな鏡をほめ云る詞也。御靈は御寶也。しづめかけよは玉を鎭め掛けて祭れ也。以下は又、玉をほめたる詞也。鏡と玉とを對にしてほめ云る詞を、よく味ふべし。
 
(二一)小篠道冲問。神代紀に出たる倭文神と建葉槌とは別神か、一神か。いかゞ。
答。一神也。倭文はしどりと訓べし。訓注の圖の字は、との假字に用たる也。さてしどりは、後取《シドリ》にて、經津主(ノ)神の殿後《シンガリ》神也。殿後をしどりべとも云是也。さて、建葉槌は其名也。
 
(二二)又問。打橋《ウチハシ》と云名の意はいかん。
答。移橋也。【つしの反ち】是は尋常の橋の如くに、同所に定めてかけおく橋にはあらや。時に臨て、何方へなりとも移しもて行てかくる故の名也。打渡す橋也と云説は聞えず。
 
(二三)又問。神武紀に天皇を天壓神と申せることあり。此稱はいかなる意にか。
答。其頃大和の國人の云る稱と聞ゆ。其意は神武天皇は天(ツ)神の御子と名告て、大軍を以て大和へ上り來坐て、その御勢ひの盛りにして、敵を破り玉ふこと、物を壓が如くなる故に、大和の國人いたく恐れて、かくは申せるなり。あめのおしがみと訓べし。注に、壓者|飫蒭《オス》とあるは、言の居《スワ》りたる方を以て注する例也。あめおすの神と訓むは、ひがごとなり。
 
(二四)荒木田經雅問。祝部《ハフリ》と云名義はいかに。
答。まづいむをいはふとも、ゆまはるとも云へば、いはふをいはふるとも云べし。ゆまはると通音也。然ればはふりはいばふりのいを略けるにて、いはひと云に同じ。神を齋ひ祭る人なる由なり。
 
(二五)又問。荒魂和魂《アラミタマニギミタマ》の義は如何。
答。まづ古言にあらとにぎとを對へ云るに、種々の意あり、そは物の生《ナ》れるまゝにて、未修理を加へぬをあら某《ナニ》と云。【あら玉あら金の如し】さてにぎと云に、熟の字を書るは【日本紀に熟田津とあり】此(ノ)あらの反對にして、生《アラ》熟の義也。又、麁妙和妙《アラタヘニギタヘ》の類は麁精《アラニギ》の義也。又物の間隙《アヒダ》のまどほにあきたるをあらきと云【大間麁※[草冠/龍]《オホマアラコ》あらゝ松原などのたぐひ】さて饒《ニギハフ》は物の稠《シゲ》く多きを云へば、これ右のあらきの反對にして、稠密《ニギ》と麁疎《アラ》となり。又、波風などのさわぐをあると云ひ、しづまるをなぐ【なぎとにぎと同音なり】と云。これ動靜の義也。又|遠放《トホザカ》り行て依《ヨリ》附ぬをあらぶると云ひ、【萬葉にあらぶる君など云る是也】分(レ)散(ル)をあらくると云。これらも動散の義也。又にぎに和の字、あらに荒の字を用るをも思ふべし。かくの如くくさ/”\義あれども、よく思へば、みなつぎ/”\に轉れるものにて、その本は皆一つ意におつめり。さて古書に荒魂和魂のことを云るを考るに、神代紀大穴持命の幸魂奇魂と問答の段と、出雲國造神賀詞に、大三輪を此神の和魂也と云るとを合せて見れば、幸魂奇魂は共に和魂の徳用也。【幸魂奇魂を荒魂和魂にあつるは、大に妄説なり】さてかの問答の意を以てみれぼ、和魂の和《ニギ》はかの精麁の精の義、又生熟の熟の義、又疎密の密の義などに當れり。又神功紀に、和魂|服《ツキテ》2玉身(ニ)1而守2壽命1。荒魂爲2先鉾1而導2師船1。と見え、出雲風土記に、大神之和魂者靜(マリテ)而荒魂者皆悉依給云々と云るなどを以見れば、かの波風の動《ア》るゝと靜《ナグ》との義、又荒魂は放行《アラヒユク》義、分散《アラクル》にあたれり。然れば右にあげたる、あらにぎの種々の義を、かれこれ通はし合せて心得るときは、和魂、荒魂の意も、おのづから明らか也。さて神の御靈を和魂、荒魂と二つに分て對へいふは、其徳用を云ふ時のことにこそあれ。全體の御靈は、必しも此二つに限りて分れたる物には非ず。譬へば御靈の全體は火の如し。和魂、荒魂は其火を薪と燭と二つに分けて燃すが如し。さて二つに分て燃すといへども、本の火もなほ本のまゝに燃て幾つの薪|幾《イク》つの燭に移し分けても、同じこと也。必二つに限る物にあらず。然るに一つを荒魂と云ることのあればとて、今一つを必推て和魂と定むるはひがこと也。たとへば大和の三輪は、大穴持の神の和魂なるによりて、出雲の杵築を推て荒魂也と云んが如きは、あたらぬこと也。是一つの薪の火を見て、其餘の火は燭の火也とせんが如し。杵築は全體の御靈にして、荒魂と云ものには非ず。又、伊勢の荒祭(ノ)宮は、天照大御神の荒魂とあれども、本宮を和魂と申せることはなし。是又、本宮は全體の御靈にして、本の火の如くなれば也。又右の荒祭(ノ)宮も、大御神の荒魂なるに、神功紀には津(ノ)國の廣田社をも、天照大御神の荒魂なる由見えたり。是を以て一つが荒魂なればとて、それに對へて、今一つを推て和魂とは定めがたきことを知べし。同じ薪の火も、幾つにも分るべきが如し。又三輪は、大穴持神の和魂なるに、同郡なる狹井(ノ)神社をば、神紙令にも式にも、大神《オホミワ》の荒魂と云り。これ和魂なる三輪の神にも、又荒魂あり、燭の火より分ちて、又薪の火ともなるが如し。かくの如く大和國に、和魂も荒魂も坐せども、出雲の杵築も又、同神の御靈なるは、本の火もなほ、本の如く燃るが如し。これらを以て、御靈の全體は、必しも二つに分れて、それに限れる物には非ることを、さとるべし。
 
(二六)或人問。明衣と云物はいかなる衣ぞ。
答。漢國にて宗廟の祭に、※[次/米]を明※[次/米]と云。酒を明水と云。又喪葬の器用を、凡て明器と云。旌を明旌と云。然れば明衣ももと此義也。漢國にては、祭祀と喪葬とを一つにして、分ちなき故に、兩方へわたる也。論語注に、明衣(ハ)以v布爲2沐浴衣1也と云も、唐六典に、凡國有大祭祀之禮云々。皆祀前習禮。沐浴並給明衣とあり。これらを見るに、祭祀の衣と沐浴衣と二義あるによりて、沐浴して清淨になりて、著る意と思ふ人あれど、さにはあらじ。祭祀の明衣と、沐浴の時の衣と、其色も裁制も同じやうなる物なるゆゑに、かの祭祀の方より轉りて、沐浴衣をも明衣とは云なるべし。さて御國にて祭祀に用る明衣は、かの漢國の祭祀の明衣をとれる也。それにつきて、此衣、上代よりありしを、後にかの漢の明衣の字を借て、あてたるか。又上代にはなき物にて、本より漢國にならひて、制せる物か。未v詳。昔よりたゞ明衣と音にとなへて、訓のなきを思へば、本より漢にならへる物とも見えたり。神樂歌【弓立】に「すべ神はよき日まつればあすよりはあけの衣をけごろもにせん」とよめるは、明衣と聞ゆ。あけの衣とよめるは、字につきて云る也。古名とは聞えす。さて和名抄に、「内衣、和名由加太比良」とあり。これは漢國の沐浴衣の方につきて、ゆかたびらとは云る也。祭祀の明衣はゆかたびらとは云がたし。【忌帷の意とも云べけれどさにはあらじ】西宮記に、明衣、古人沐浴之外不v服之と云るも、沐浴の方の明衣をのみ思ひたまへる也。
 
(二七)又問。伊勢神宮に大内人、小内人と云あり。内人の名義いかゞ。
答。書紀に鎌足公を内臣としたまふことあり。又續紀【天平勝寶元年又天平寶字元年宣命】に、大伴氏を内兵と稱することあり。これみな、殊に親しみたまふ由の稱也。然れば内人も、大御神へ殊に親しく仕奉る由の稱なるべし。
 
 
    安永八年己亥
(二八)小篠道冲問。神功紀に、※[木+童]賢木嚴之御魂と云義はいかゞ。
答。※[木+童]は借字にて、斎賢木《イツサカキ》の意にて、嚴と云ん枕詞也。嚴は清淨の義なれば、清淨に斎賢木の由也。いはゆる嚴橿《イツカシ》など是也。さて嚴之御魂とは、天照大御神は伊邪那岐大神の※[木+意]原の御禊に成出たまひて、清淨なる御魂なる由の御稱也。
 
(二九)又問。同紀あづなひの罪のこと。如v此ことは、後世にもあるべきに、その時、必しも常闇にならぬはいかに。
答。これは常人のことにあらず。神社の祝《ハフリ》なる故なるべし。「二祝《フタリノハフリ》者共合葬歟」と云るを以て知べし。これ、祝なる故の罪也。然れば後世とても、神社の祝二人一つに葬らば、常闇になることあるまじきにもあらず。たとひさることありて、常闇にならずとても、此段を疑ふべきに非ず。此段の趣も、神社の祝二人一つに葬れば、決て常闇にならずと云ことなしと云にはあらず。其時の神の御心測りがたけれぼ、決しては云がたし。
 
(三〇)荒木田經雅問。神と云名義はいかに。又御國のかみと唐の鬼神と全く同じきや。異なることありや。とにかくに、まぎらはし。つばらに示し玉へ。
答。かみの名義、年釆相考へ候へども、未思得候。舊説は皆非也。さてかみと唐の神とは、大抵は同じき故に此字をあつ。然れども、かみと唐に云ふ神とは、七八分は同じくて、二三分は異なることあり。然るを、古來たゞ神の字に委ねて、全く同物とのみ心得て、異る所あることを考へず。今その異なる所をいはゞ、易に「陰陽不測之謂v神(ト)。」或は、「氣之伸(ル)者爲v神。屈者爲鬼。」と云るたぐひ、これらは神と云物の現にあるにはあらす、不測なる所を指て云ひ、氣之屈伸せる所をさして云るのみ也。故に人をほめて、神聖など云ときの神字も、たゞ神靈不測なると云るにてこそあれ。其人を直に神と云にはあらず。さて皇国にて云かみは、實物の稱に云るのみにて、物なきに、たゞ其理を指て云ることはなき也。されば唐の易に神道と云るも、神靈不測なる道と云意なるを、御國にて神道と云神は、實物の神をさして云り。又社に祀る神の御|靈《タマ》などを、かみと云は實物にはあらぬに似たれども、是も其靈を、直に指てかみと云也。唐の如く、其靈なる所を云とは異也。故に皇國のかみは體言にのみ用ひて、用言に云ることなし。唐の神は體言にも用言にも用る也。故に其用言に云る神事をば、あやしきなど訓てかみとはよまず、さて又、御國にては人のみにあらず、龍雷のたぐひ、或は虎狼などの類ひにても、凡て神靈あるもの、可v長物を、皆其現身をかみと云。又生類のみにもあらず、山川海のたぐひにて、神靈ある、又可v畏をば、直に其物を指てかみと云。唐にても、右の類をも神靈なることあれば、神なるとは云へども、そは其物を直に神と云にはあらで、神靈なる由に云のみ也。右のたぐひ、其實物を直に神と云ことは、唐にはなし。是又、異なる所也。右の外に、或は山川の神、何(ノ)神、何神と云類は、皇國のかみとかはることなし。
 
(三一)或人問。垂仁紀に、新羅王子天日槍が持來りし寶の中に、熊神籬一具とあるは、如何なる物ぞ。
答。久麻比母呂紀《クマヒモロギ》と訓べし。久麻は隈《クマ》隱《コモリ》などゝ同言にて、陰れこもりてあらはならぬこと也。さて此ひもろぎは、韓國にて神を祭るに、其神躰を安置する具にて、佛像を安ずる厨子の如くなる物なるべし。其制戸びらありて、内はあらはに見えず、隱れる故にくまひもろぎとも云也。さて、如此き物は、皇國には無き物にて、元より神籬の類には非れども、神體を安ずる物なる故に、ひもろぎの名を借て、皇國にてくまひもろぎと稱せし也。
 
(三二)小篠道冲問。繼體紀に、「倭彦王云々遁2山壑1。」この遁をにげほとばしりと訓り。いかなる意ぞ。
答。ほとは俗言にあはてふためくと云ふたに同じ。ふためき走る也。
 
(三三)田中道麻呂問。妹許《イモガリ》、吾許《ワガリ》なとのがりは如何なる稱ぞ。
答。妹がりは妹之《イモガ》はかりを約して、わがりは吾之《ワガ》はかりを約したる也。はを略き、がかをがと約して云也。さてはかりとは、後撰集の歌に、いづこをはかと君が尋ねんなどあるはかと同くて、行《ユク》あて所を云也。妹がりゆくは、妹が所をあて所として行也。わがりくるは、吾所をあて所として來る也。故に、此がりと云言は、凡てその行さきのあて所にのみ云て、其所より行ことには云はず。たとへば、甲が所より乙が所へゆくを、乙がりゆくと云て、甲がりゆくと云ことはなき也。又、おちくぼの物語に、妻《メ》のがりいくとあるたぐひ、のがりとのを添ていふも、もと誤なるべし。
 
(三四)又問。春べと云詞のみありて、夏べとも秋べとも冬べとも云はぬはいかに。
答。古へ春べとは、草木の榮ゆることにのみ云りと見ゆ。されば春榮《ハルハユ》の約まりたるなるべし。故に、夏、秋、冬にはいはぬ詞也。
 
(三五)小篠道冲問。僭の字などを、ひとごろふと訓《ヨム》は、いかなる義ぞ。
答。等比《ヒトコロフ》の意也。たとへば天子のまねをして、天子と等《ヒトシ》く比《コロホフ》也。ころほふは、其位とひとしきほどなる意也。
 
(三六)又問。定の字、又决の字を日本紀などに、うつなしと訓るはいかに。
答。うつとうたと通音なれば、疑ひなしの意也。皇極紀に勝定之《カタンコトウツナシ》。
 
(三七)又問。をりはへと云詞の意はいかゞ。
答。時延なるべし。延《ハヘ》は間斷なく長く續く意也。
 
(三八)又問。神代紀一書に「軻過突智娶垣山姫」云々とある。是は同母の兄弟也。いかゞ。
答。同母兄弟の婚《マグハヒ》也。然れども、迦具士(ノ)神は惡神にて、御母神を燒殺し奉れり。故、鎭火祭祝詞にも、御母神の御言に、心惡子《コヽロアシキコ》と詔へり。然れば此婚は、通例のことに非す。惡行とすべし。
 
(三九)又問。神代下卷に、鹿葦津姫を「天神娶大山祇神所生兒也。」とあるは、諸説と異なるうへに、大山祇神とのみ云ひて、其女といはざるは、女(ノ)字脱たるか。
答。鹿葦津姫は、古事記にも書紀の一書どもにも、皆大山祇神の女とのみ見えて、異説なきを、こゝに天神の女とせるは、傳へのまぎれつる物なるべし。そは、邇邇藝命の大山祇神の女を娶《メシ》て、火火手見命を生ませるを誤りて、かく傳へたるにて、御母子の系圖のまぎれたるなるべし。
 
(四○)或問。官名太宰帥の帥は將帥の意なるべければ、すゐの音なるべきに、古へよりそつとよむは、誤ならんか。
答。帥の字、將帥などのときは所類反にてすゐ也。そつに非ず。これは、大抵誰もよく知れることなれば、古へこればかりのことを得弁へぬことはあるまじく、殊にこれは官名にて、公事なれば、誤るべきに非るに、すゐとはいはず、そつと唱へ來れるは、いかさまにも、其故あることなるべし。容易に誤と定むべからす。又ひきゐる意のときは、所律反にて、しゆつの音にこそあれ、そつの音はなし。然るにしゆつといはずして、そつと唱ふ。是又故あるべし。
 
(四一)栗田土方侶問。俗に疫病神といふは、古事記崇神天皇御段に、大物主神の御心によりて、神氣おこりしことある、これ即疫病神か。又、善神もあらびたゝりますことあれぼ、世の中にわろきことは、皆禍津日の神のしわざといはんも、いかゞ。又大物主のごとき神の、疫を起したまふもいかゞ。
答。凡て神とまをすものは、佛家にいはゆる佛、儒家にいはゆる聖人などゝは、異なるものに坐せば、正しき善神とても、事にふれて怒りたまふ時は、世人をなやまし給ふこともあり。邪なる惡神とても、まれ/\にはよきしわざも有べし。とにかくに神の御事は、かの佛菩薩、聖賢など云ふものゝ例を以てはいふべからす。善神の御しわざには、邪なることはつゆもあるまじきことぞと、理をもて思ふは、儒佛の習氣也。神はたゞ尋常の人のうへにて心得べし。すぐれてよき人とても、をりによりては怒ることあり。怒りては人のためよからぬことも、必ずなきにあらず。又あしき人とても、まれにはよきこともまじることにて、一概には定めがたきが如し。されば崇神天皇の御世に、大穴牟遲神の御心によりて、疫のおこりしもあやしむべきにあらず。さて凡て、世間にわろきことのあるは、本は皆、禍津日の神の神靈によることなれば、此大物主神の御心より、疫を起し給へるも、本ほ禍津日の神の御心也。疫のみならす、萬のまがこと、皆、この例をもてさとるべし。さて大物主神は、國津神の長にまし/\て、八百萬神を帥ゐたまへれば、其中の神等に命じて、疫をおこなはしめたまへるなるべし。さて其命令を承て、疫をおこなふは、常に疫をおこなふことをわざとする、一種の邪神あるか。又、尋常の神にもあれ、時にのぞみて、命を受ておこなひしにも有べし。又時によりては、他神の命令を受るにはあらずして、心と疫をおこなふことも有べし。そは何れにまれ、其時にあたりて疫をおこなふ神を、疫病神とはいひつべし。
 
(四二)又問。今の世、疫病ある時に、其所にて祭らむには、式の遷都祟神とある例にしたがひ、外にあるを防ぐには、道饗祭の例にしたがはむか。又、かの崇神天皇の御世のは、ことさらに神の御教によりてのことなれば、異也とせむか。
答。かの祟る神を迂却るも、道饗祭も、崇神天皇の御世の故事も、其ことこそいさゝかかはれ、皆同じ意也。されば今も疫病をしづめむとてまつらむには、其本を以てせば、禍津日神をも祭るべし。又其時によりて、何れの神にまれ、たゝりによりておこれるならば、其祟る神を祭り和すべし。又、他神の命令を受て疫を行ふ神をも、まつるべし。又其疫を防ぎ守りたまふべき神をもまつるべし。其の時々のさまにしたがひて、祭る神は定まるべからす。又外にあるを防ぐと、内にあるを却けしづむるとは、たゞ祷詞《ネグコトバ》にこそけぢめあるべけれ。祭る神には、かはり有べからず。
 
(四三)又問。須佐之男の神を牛頭天王と號し、疫神として祭るは、疫神を防ぎ守り給ふ神なるゆゑにや。
答。牛頭天王とまをす神號は、例の佛家より出たるなれば、論に及ばず。さて須佐之男神を疫神として祭るは、此神もと、あらぶる神に坐して、天照大御神をさへに、なやまし奉り給へる、世の中の禍事の元首の神なれば、其本につきて、まつるなり。其本の神を祭りなごせば、末の神を防きしづめたまふは、もとよりのこと也。さて此須佐之男神のあらびも、其本を以ていへば、禍津日の神の神靈より出る也。
 
(四四)又問。世にわびしくまづしくならしむるを貧乏神といひ、富榮えしむるを福の神といふ、これらも別に其神の有にはあらで、そのしからしむる神靈をいふなるべくや。
答。然也。何れの神にまれ、然らしむる神をさしていふべし。但し人をとましむる神、まづしからしむることをわざとする神も、あるまじきにあらず。
 
(四五)又問。疱瘡神は、外國より来りし惡神なるべし。これも、禍津日神の神靈とやせむ。此病は物のたゝりにもあらず、又一度やみぬれば二度とはやまぬことなど、他の病とはかはりていとあやしきはいかゞ。
答。問の如く、此病は古へはなかりしかば此神もと、外國より來し神なるべし。もろこしにても、古へはなかりつれば、彼國へも、もと他國より來りしなるべし。さて、天地の間のことは皆神の御しわざにて、御國と外國とのたがひなければ、何れの國の神にまれ、あしきわざするは、皆禍津日の神の御心也。さて世にこの疱瘡や疫病或はわらはやみなどを、殊に神わづらひと思ふなれど、これらのみならず、餘のすべての病も、皆神の御しわざ也。其中に、そのわづらふさまのあやしきと然らざるとは、神の御しわざなることのあらはに見ゆると、あらはならざるとのけぢめのみこそあれ、何れの病も、神の御しわざにあらざるはなし。さて病ある時に、或は藥を服し、或はくさ/”\のわざをして、これを治むるも、又皆神の御しわざ也。此藥をもて、此病をいやすべく、このわざをして、此わづらびを治むべく、神の定めおき給ひて、其神のみたまによりて、病は治まる也。
 
(四六)又問。世に大黒を大名持の神、惠比須を事代主神といふ説は、垂加などよりのことにや信がたし。又、惠比須を西宮といへるはよし有ことにや。さて此二神を、あまねく家々に祭るはいかなるよしぞ。
答。此二神を大名持神、事代主神とするは、近世の附會と見えたり。大名持、事代主二柱神は、まことに家々に祭るべき神に坐ます也。然れども大黒えびすは、此二神にはあるべからず。大黒は、佛家の大黒天とおぼしきなり。えびすは西宮の神にて、蛭兒也とすることは、五六百年以前の書どもにも見えたれば、いかさまにもさるよしあることなるべし。但し此神を家毎に祀るべきよしは、おぼつかなし。されど天下一同に祀ることにて、其家々にも先組よりまつり來たる神なるを、そのよしなしとて、これを※[やまいだれ+發]すべきにあらず、從來のまゝにまつるべき也。しか、天の下にあまねくまつることゝなりぬるも、神の御心なればそむきがたし。
 
(四七)又問。書紀欽明卷十三年、敏達十四年などの趣を見るに、國神の祟と他國の佛の祟と、各勝劣なきが如し。されどつひには國つ神の御稜威にあへずして、佛は用ひらるまじきを、さはあらで、佛をも尊ぶ如くなりたるは、禍津日神の御しわざなることは論なき物から、しかばかり佛像の祟あるこそ、心得ね。此義如何。
答。御考の如く、禍津日神の御心也。既に禍津日神の御心と見るうへは、佛の祟何ぞ疑ふに足らむ。凡て佛の道に、さま/”\靈異あるも、皆神のしわざなれば、疑ふに足らず。
 
(四八)又問。先他國にては、萬づは神の御しわざなることをしらねば、漢國にては天地陰陽の靈と云ひ、天竺にては佛と名を付て、皆そのものゝなすことゝすなること、段々御説の趣也。然るを、おしあてに名づけたる佛像の、國つ神と同しく祟あるはいかゞ。
答。おしあてに名けたるにもあれ、何にもあれ、かにもあれ、凡て世にさやうのまが/\しき物のあるは、皆禍津日神の御心なれば、是又疑ふべきにあらず。さて佛法始まりて二千余年、皇國に來ても千有余年、今に榮ゆるはいかにと云に、これ又禍津日神の御心なれば、疑ふべきにあらす。かの葛花に云が如く、千年二千年などは久しきやうなれども、天地の無窮なる間にとりては、たゞしばしの間なれば、久しと云べからず、今時佛法盛也といへども、やゝ衰へゆくきざしは、既に多し。然ればこれも後には次第/\滅び行べし。さて其後にも、又いかやうのまが/\しき法始まらむことも、はかり難し。たとひ後に又、さることはありても、天照大御神の正道は、盛衰こそあれ、とこしなへに存して滅ぶることなし。あふぐべし/\。
 
(四九)又問。蘇我大臣の奉v詔禮2拜石像1。乞v延2壽命1。とある如くに、旱に雨を祈り、また病を祈り、産を祈り、戀を祈り、又祈願所など云ひて專ら公にも用ひ給ひ、大内にも僧を請て祈祷あり。驗者など禄《ロク》をたまはること、めづらしからぬことになりにたり。されど是は、かの鉗狂人のたとへに、佛道に迷ひたる愚人は、富士山のみねにて日の出るをみれば、三尊彌陀の形に見ゆるとのたまひし如く、代々佛法にあざむかれたる禍心にはしるしありと思へど、實には驗も何もなきことかと思へど、佛像の祟ありし如く、しるしや有けん。今も石地藏へ疣《イボ》の立願し、太郎坊へたむし、なまづなどの願立るに、目のあたりにしるしもあるはいかに。答。佛法も何も、皆神の御しわざなれば、祈るに其驗あること、これ又何か疑はむ。
 
(五〇)又問。さてしるしありとしては心得ず、其故は萬、神の御しわざなることをしりて、其神に祈らばこそ驗はあらめ。さかしらに佛鬼神などゝ、おしあてに名を設けたる物に祈りては、いかでか驗のあるべき。且いのるべきわざも、さかしらに定めたる業もてすることを、いかで神の受たまはん。さてこのしるし有あらぬは、御國にてのことのみにはあらず、彼國にても、かの富士山にて三尊を見る如きのみならんには、なべて人の信すべきことゝも、おぼえず。此義如何。
答。しるしあるとなきとのことは、上に辨ずるが如し。さて漢國にても天竺にても、いづくにても、善事は善神の御しわざ、惡きことは惡神の御しわざなれば、いづくの國も同じことなり。其中に、皇統の動きたまはぬを本として、其外にも他國にまされることの多きぞ、天照大御神の御本圖國しるしにして、他に異なる也。さかしらに作りたることも、其本は皆、禍津日神の御心なれば同じこと也。
 
(五一)又問。きりしたんなどいふもの、又狐神をつかひ、また今世魔法と云類は、忽奇妙の業はあれども、國の用に立ことなく、たゞ人の目を迷はし、あやしきわざするのみなれぼ、八十禍津日の神の類なることは知られたり。【其切支丹など、御國に來りては、國をみだらす物ながら、其國にては、いかゞ有けん。そのわろきも其國の古へよりのならはし有て、さてあるべきわざか。】然るを其禍津日神も、御國にて生れたまふを、そをつかふ法は、御國にはなくて、他國にあるは、御國は大御神の御國なる故、かくつたなくわろきことは傳はらで、大御神の御國ならぬわろき國は、彼禍神の所得たまふ國なるから、さるわろき業は中々に傳はりけんかし。【狐神にまれ、狗神にまれ、神をつかふわざは、さかしらに作りたるわざにはあらじ。】故思ふに、かの佛に祈てしるしの有も、實には用なきことながら、しばらく目の前に驗のある如く見ゆるは、彼魔法の忽にあやしきことのあるたぐひかとも思へど、さにはあらじか。
答。きりしたんの國にては、其法を以て其國を治ること、漢國にて、漢國の道を以て治むるも同じことなり。神をつかひてあやしきわざをなす法も、いろ/\品はかはれども、皆禍津日の神の御しわざと見る時は、少しも疑ひはなき也。さやうの法どもの、多くは異國に傳はることは、御考の如くにてもあらむか。そはくはしきことは測りがたし。とまれかくまれ、善惡邪正さま/”\のかはりはありて、一々そのこまかなることは、人の測りがたきことなれども、是皆、善惡の神の御しわざと見るうへは、いさゝかも疑ひはなきことなり。
 
(五二)又問。釋迦をも神といへば、聖人をも神といふべし。【凡人に勝れたるを神といへば、實の神にはあらざるか。】もしさらば、古へ後世、貴き賤きけぢめこそあらめ、ともに神のはじめし道にして、ひたぶるに人の作れる道ともいひがたからんか。
答。漢國に所謂聖人も神也。然れば其道も、神の始めし道也。然るにこれを人の作れる道也といふことは、顯露事《アラハニコト》、幽事《カミコト》のけぢめを知る時は、よくわかるゝこと也。顯露事、幽事のことは、神代紀に見ゆ。さて其顯露の事と云は、今日の人事也。されば漢國に聖人と云神の出て、其道を作れるは、人事なる故に、人の作れる道也とは云なり。聖人の如きは神なれども人也。故に其作れるは人の作れる也。まことの道は、いざなぎいざなみの神の始めたまひつる道にして、皇國に傳はれり。此二神の如きは、同じく神と云名は一つなれども、彼聖人のたぐひにはあらず、神と云はいと廣き名にして、其中にはさま/”\の神あること也。彼聖人の如きは、神と云中にも一通の正しき神にはあらず、人なる神也。故に彼二神の作り給ふ道の類にはあらざる故に、人の作れる道とは云也。さて顯露事は人事にて、人のなすわざなれども、それも其本を尋ぬれば、皆神の御心より出たることなれば、極意は顯露事とても皆、神のしわざ也。されば彼聖人の作れる道も、本をいへぼ、禍津日神の心より出る也。然れば根本は皆神のわざなれども、其中にあらはに人のなすを顯露事といひ、目に見えぬしわざを幽事とはいふなり。
 
(五三)又問。空海を世にたふとみて、今も【四國にてはことに】種々奇きわざ有となむいふ。是も、彼の禍津日の神にまじこられたる心ならひにや有けむ。もしかつ/”\も實あることならば、これはた神の御しわざとまぎらはし。
答。空海の如き者も神也。あやしきわざあること、何ぞ疑はむ。是叉其本は、禍津日神の御しわざ也。空海の如き神の、世に出て、あやしきわざをなして、人の尊むも、皆、禍津日神のしわざならずや。
 
(五四)又問。【欽明卷廿七葉】「十四年(中略)夏五月壬戌朔戊辰。河内國言(ス)。泉(ノ)郡茅渟(ノ)海中(ニ)有2梵音1。震響若2雷聲1。光彩晃曜如2日色1。天皇心異v之。遺2溝邊直1。入v海求訪。是日溝邊直入v海。果(シテ)見2樟木浮v海玲璃1。遂取而獻。天皇命2畫工1。造2佛像二躯1。今吉野寺放光樟像也。」
此樟の木も、神木げに思はるゝを、佛にしも造れるは、梵音によれるなるべし。されど國(ツ)神の祟もなけれぼ、さるべきにこそ。
答。禍神のあらび甚しき時は、天照大御神の御力にも及ばぬことあり。國(ツ)神の祟なきこと、何ぞ疑はむ。
 
(五五)在京、渡邊造酒藤原竪石問おこせて云。平家物語殿下のりあひの段に、御車副には、因幡のざいつがひ、鳥羽の國久丸といふをのこ云々とある、ざいつがひ何事ぞと、江戸より京へ問おこせり。江戸にても色々考へ候へども、とかくわかりがたきよしなり。それ故、京へ問おこせれども、京都にても、縉紳家有職家の考へにも及ばざるよしなり。大人の御考を仰ぐと也。
答。ざいつがひは在番《ザイツガヒ》也。因幡國より上京、在番の者をいふなるべし。其事は賦役令等にて知べし。それにとりて二様に聞ゆる也。一には宮衛令などに、兵衛衛士の、本國より京に上るをも上番といへれば、在京することをも在番といふべし。さてざいばんと云はずして、ざいつがひといふは、番をばつがひといひなれたるまゝにいふなるべし。在鎌倉、在江戸など云ふ類也。一にはつがひは番長《ツガヒノヲサ》也。番長は、令には左右兵衛府の官員なれども、後には左右近衛府に屬して、職原抄に近衛舍人(ノ)中撰2用(ス)之1。上皇執政。若(ハ)給2兵仗1。大臣及左右大將。必(ズ)召2仕之(ヲ)1。とありて、騎馬或は歩行にても供奉する者也。然るに今、つがひのをさといはずして、つがひとのみいひ、又|在《ザイ》といへるは、京の人なれば番長《ツガヒノヲサ》といふが常なれども、諸國の人の在京して此職を勤むるをば、某國の在番長《ザイツガヒノヲサ》といふを略して、在番《ザイツガヒ》といひならへるなるべし。在《ザイ》とは上京して其職役に在るをいふ也。右二つの内、時代のやうをもて思ふに、後の方なるべし。鳥羽は姓也。
 
(五六)土佐家中、刈谷豫三郎搏風、問目数條の内、神道といふことを問へる一條。
※[行人偏+且]徠が云分は、神道と云ことは、卜部家に權與したることにて、日本紀より始め、六國史及律令格式等にも神道を學べと云ことなければ、神道と云道はなきこと也と。今按に、もとより神道と云、格段に教の書はなけれども、凡家を興し一家を立るも、もとは、ぞのおこれる故によらざることなし。おし立て云ば、或は國取になり、天下を知るも、皆其よつておこりし本なきことあたはず。其本をさへ尋取失はざる時は、いつまでも亂れす、堅固なるは當然の理なるところ。日本はもと神明の開かせたまふ御國にて、其神道は萬世無窮の基を立させたまふ御事跡と由縁とを云こと故、おのづから、莫大の教こもりあること、書を味ひて知べきこと也。二尊三綱を正したまふより、全體二尊日神等は、神功の天地にみちわたりあることなどをば、※[行人偏+且]徠は知らざりしや。さらば其神道と云神(ノ)字をくだすは、儒道、佛道などゝ云ありて、後にそれに對して云神(ノ)字也。そのくだすに、神(ノ)字をば何故に云ぞといはゞ、先理を以て一通にいはゞ、まづ小治田(ノ)朝、聘2隋天子1書云。日出處天皇云々。唐書云、自以其國近日所出。故日本爲號。漢書、郊祀志云、東北神明之舍云々。張晏注(ニ)神明(ハ)日也。日出東北舍と。右諸説を合せて、日本の道を神道と云べき理聞ゆ。さて孝徳紀、惟神者。謂髓神道。亦自有神道也。桓武紀、神道難v誣ともあり。又日神の道にてあれば、日本の道は何れの筋より云ても、神道と云べきこと也。然るを若人ありて、道は天道なれぼ、日本の道、西土の道と云二道はなきものと思ふべけれど、さにあらず。凡人を治むる彼道と云ものは、何處にても天にのつとりて立ることなれは、皆同じきはずなるを、日本は日本の道、西土は西土の道、天竺は天竺の道、むすこうべやはむすこうべやの道、皆其水土なりに立たるものなれば、大本はいづくへ持行ても通られざる道にてなく、大様同じけれども、其志すみちはかはらざることなくて叶はざる子細は、たとへば人面は、目鼻口のつきやうも何も異なることなく、同じもやうなり。然れば少しも異ならざるかといへば、何百人ならべても同じ顛はなきが如し。よつて其國に居ては、其國の道を行ふは、たとへば畑物のみ出來る國にては、それを神にも奉り、それにて體をやしなひ、米の出来る國にては、米を食ふが如し。さて其各國の道、各皆天にのつとり立たる物にて、本は皆神道ならざるはなし。儒道といへども、上古のは神道也。いはむや日本は神聖の開かせたまふ御國にて、其道なれぼ道を神道といふべきこと、勿論也。一日も神道にあらざれば立べき理なし。高見は如何。
答。まづ後世に神道と云て、共者流の説くところは、皆儒と佛とによりて造りたる物にて、たゞ國常立(ノ)尊ぞ、高天原ぞなど云名目のかはりたるばかりにて、其説ところの趣は、儒佛の意に異なることなく、別に其道とて立たる趣はなければ、荻生などが、神道と云道はなきこと也と云るは、至極當れること也。これ神道者流愚にして、神道の旨を知らず、たゞ儒佛の説にとりすがりて説故に、かくの如く儒者に難ぜらるゝ也。さて又荻生、太宰などは、かくの如く後世の神道者流の説を弁じたることはよく當りたれども、其神道者の云ところの外に、まことの神道ありて、いと明らかなることをば、いまだ知ることあたはざるもの也。そのうへ、彼等が徒は、ひたすら漢國をのみ尊く、何事もすぐれたる如くに云て、皇國をば、殊更につとめて賤しめおとして、強《シヒ》て夷にするを、卓見の如く思へり。さやうに漢國より外によき國はなきことゝ心得て、他を知らざるは、却て見識も狹少、卑劣なること也。彼等も幸に皇國に生れて、神典をも伺ひながら、己が國の萬國に勝れて尊きことをば考へ知ることあたはず、又此神道の外國の道どもにまさりて、眞の正大の道なることをも、考へ知ることあたはず、あまつさへ是をおとしめそしるは如何なる心ぞや。さて又神道に教への書なきは、これ眞の道なる證《シルシ》也。凡て人を教へておもむかするは、もと正しき經《ツネ》の道にはあらず。然るに其教のなきを以て、其道なしと思ふは、外國の小き道々にのみならひて、眞の道を知らざる故のひかごと也。教のなきこそ尊とけれ。教を旨とするは、人作の小道也。其由は別に委く云へれば、こゝにはいはず。さて又日本は、もと神明の開かせたまふ御國にて云々とある、是には大に心得あること也。そこにはいかに心得てかくのたまふにか。其心は知らねども、此心得一たび違ふ時は、大に道の本を失ふこと也。いで其趣をいはむ。先天地は一枚なれば、皇國も、漢國も、天竺も、其餘の國々も、皆同一天地の内にして、皇國の天地、漢國の天地、天竺の天地と別々にあるものには非ず。然れば其天地の始まりは、萬國の天地の始まり也。然れば、古事記、日本紀に記されたる天地の始まりのさまは、萬國の天地の始まりのさまにあらずや。然れば其時に成出たまへる天之御中主神以下の神たちは、これ萬國の天地の始まりの神たちにして、日神はこれ、萬國を照し給ふ日神にあらずや。然るに若此神たちを、たゞ日本のみの神とするときは、天地の始まりも又、日本のみの天地の始まり、日神も日本のみの日神にして、異國の天地日月は、別なるが如し。然れども、天地も日月も、異國とて別々ならねば、必然るべき理はなきこと也。然るに天地の始まりを説こと、漢國は漢國の説あり、天竺は天竺の説ありて、各國其説同じからず。今いづれを正としてこれを信ぜむ。若漢國の説を是とせば、其餘の國々の説は皆非なれば、信すべからず。若又、天竺の説を是とせば、又其餘の國々の説は皆非なれば、信ずべからず。天地はたゞ一つにして、其始まりもたゞ一つにて、二つとはなきことなれば、其説も又正實なるは、必一つに決せること也。然るに今、そこの日本は神明の開かせたまへる御國也とのたまふは、皇國の古典に依てのことなれば、定めて皇國の古典を信じたまふなるべし。若皇國の古典を信ずとならぼ、天地開闢の説も、さだめて皇國の古典を信じたまふなるべし。然らば是天之御中主神以下の神たちは、萬國同一の開闢の神たち、日神は萬國を照し給ふ日神なるべきに、日本に限りて、神明の開かせ給ふ御國也とはいかにぞや。そこの心をおしはかるに、日本の人は、日本の傳説を信じ用ふべき也。他國の人は、又各其國の傳説を信じ用ふべき也と思ひたまふなるべけれども、さやうにては、信用すると云ところ皆虚にして、實にあらす。いかにと云に、天地の始まりに二つはなければ、其説も虞實なるは、必たゞ一つならではなきことなるに、各國其傳説を信ぜよと云は、眞僞をも問ずして、たゞ己が國の傳説と云ばかりを用るなれば、これ虚にあらずして何ぞ。若實に皇國の説を信用すとならば、他國の説は論もなく、皆非なれば、少しもこれに心をかくべきにあらず。萬國こと/”\く、皇國の説を信用すべきもの也とこそ、云べきことなれ。此所の御心得はいかにあるにか。承はらまほし。若又、萬國共に、皇國の古典に傳へたる所の神たちの開かせたまふ國ながら、其中にも日本は、殊に天照大御神の御本國、其皇統の御國なれば、殊に神の開かせたまふ國也、と云意ならば、右に弁ずる所の意にそむかざるべし。此所いかに心得たまふにか。さて又、神道と云神の字は、儒道、佛道などありて後に、それに對して云也との論はよろし。たゞ道と云名すら、後のことなれぼ、況や神道と云名はさら也。又いづれのすぢより云ても、神道と云べきこと也とあるも、宜し。但し漢書、唐書等を引たまふはいかゞ也。これらは、日本と云國號の論には引て宜しけれども、神道と云名の論にはあたらぬこと也。若理を以て云ふとならば、皇國の古典に、其理はあくまで見えたるをさしおきて、外國の書を借て、其理を云べきことにあらず。抑此道を神道と云て、あたれることは、まづ外國の道はいづれも皆、神代の傳説を失ひて、まことの道を知らざるから、各かしこき人どもの私に造り立たる道なるに、皇國に傳はれる道は、正しく神代の傳來にして、其本、高御産巣日神、神産巣日神の産靈によりて、伊邪那岐、伊邪那美二柱の神の始めたまひ、天照大御神の受行ひ傳へたまへる道なれば、神の道と云べきこと、論なし。又皇國をば他國より神國と稱せれば、其神國に傳はれる道と云意にとりても違はず、いづれのすぢより云ても叶へりと、そこののたまふを宜しと云は、こゝなり。さて又、そこの言に凡そ人を治むる道と云ものは、いづくにても天にのつとつて立ることなればとあるは、甚しき漢意にて、大に違へり。漢國などの道こそまことの道傳はらざる故に、天に則《ノツト》ると云なして、人の造り立たる道なれ。其外は、佛道なども、天に則りたる道にはあらず。況や神道は、右に云如く、産巣日神の産靈によりて、神の立たまへる道なるを、いかでか天に則ると云む。凡て天理、天道、天命など云て、天を可畏《カシコ》く尊き物に云は、神あることを知らずして、何事をも天のなすところと云ひなせる、漢人の造り言なるを、そこにもなほさとらずして、道を天に則るなどのたまふは、これいまだ漢意の去らざるところ也。さて又、各國の道、少しづゝは異にして、同じからず、これ、人面の千萬人同じきはなきが如しとの論は、一わたりは聞えたれども、なほ精しからず。いかにも各國の道は、此たとへの如く、人面のひとり/\異なる、いづれも各其人の面なるが如くなれども、其中には、美醜の次第なきことあたはざるが如く、各國の道も、勝劣眞僞の異あることなるを、そこの論の如くにては、其眞僞をも勝劣をもえらばず、たゞ己が國の道を用ひ居らむとや。これたとへば、己が面は美か醜かしらず、鏡をも見すして、妄に己れ美顔也と思ひ居るが如し。己美顔也と思ふとは、己が國の道を用るたとへ也。己が國の道勝れたりと思ふとのたとへには、あらず。さて、各其國の道を用ふべしとのたまふは、これなほ、漢意去らずして、彼漢國の道をも全くすつることあたはず。又、神道を實に信ずることあたはざるより出たる論也。いかにと云に、天地は一枚にして、道もまことの道は、天地の間にたゞ一筋ならではなきことにて、其餘の道は、皆正道にあらず。其正道をとらへて、これを正道と知るうへは、其餘の道には、いさゝかも心をのこすべきに非るに、なほ他國の道に心のひかるゝ故に、これを清くすつることあたはず、其他國の道の意にも背かぬやうにと、思ひたまふから、各其國の道を用ふべしと云て、まぎらかしおかるゝやうに聞ゆれば也。上にも云る如く、さやうにては、皇國の道を用ふるもただ虚にして、實にあらず。これは、そこのみにもあらず、世々の物知り人たちも、皆同じことにて、なほ漢國の道にまどへるから、これを非として、清くすつることあたはず。其漢國の道の意にもたがはぬやうに、説むと思ふから、神典を私にさま/”\と、あらぬさまに説曲げ、天地の始まりの神たちをも、日神をも、日本ばかりの神の如く説て、みづから道を小《チヒサ》く卑くなすは、いかなる心ぞや。故に吾常に云く、神道者の天地日月は、日本ぎりの天地日月にして、他國の天地日月とは別也と云て、笑ふこと也。吾又云く、神道者は、他國の説によりて、吾古典をとりさばく也。吾は吾古典によりて、他國の説をとりさばく也といへり。
 
鈴屋答問録 終
 
 
   (奥付)
 昭和九年四月一〇日 第一刷発行     うひ山ふみ 鈴屋答問録
 昭和四四年二月二〇日 第九刷発行    
                     定價★
 校 訂 者   村 岡 典 嗣《むらおかつねつぐ》
   東京都千代田区神田一ツ橋二丁目三番地
 発 行 者   岩  波  雄  二 郎           
 
   2004年9月1日(水)午後7時58分、入力終了。  ┗┣ ┓┃ ∧┣