立山の雪しくらしも――家持歌の風土性
米田進(こめだすすむ)
万葉作家の中で最も風土性について言及されることが多いのは大伴家持である。他の作家の場合風土が問題にされるのはほとんどないが、家持は判で押したように風土が云々される。大和にいた頃から歌をかなり詠んでいて、そこへ越中に国守として赴任して五年間生活し、さらに大量の歌を残したのだから、越中の風土が歌に現れているだろうということである。犬養氏は「文学と風土との解明のためには、なによりも実地に歩かねばならない…」(『萬葉の風土 続』1972年「文學と風土」)といったが、ただ歩いただけでは、和辻哲郎のような外国への長い旅と風土への強い関心と知識と観察力でもないかぎり、かなりむつかしいだろう(その和辻でさえ、気候風土の理解の浅さが批判されている、中公新書『照葉樹林文化』1969年@)。やはり、気候学や地理学の素養が必要であり、その上に何年も住むのが理想的であろう(ただし地元の人間にはかえって当たり前になってわからなくなるA、私なども先祖代々大和平野中南部の人間なのだが、大和の風土といってもただの日本の田舎としか感じない)。その点家持は大和の人間が越中で五年以上暮らしたのであり、万葉で二回しか使われない「風土」と言う語を的確に使っていることからも、その作品に越中の風土性が表れるのを期待するのは理にかなっていると思える。しかし、本当にそうだろうか。家持の越中時代の作品に越中の風土性を読み取ることはほとんど出来ないのではないだろうか。ここで風土性というのは、ただの自然科学的な気候風土が素材として詠まれていることではなく、文学としての美や感動が人間存在の風土的な構造を契機として作品に表現されているということでありB、それが風土の万葉ということである。
家持について具体的に見てみると、犬養氏『萬葉の旅(下)』、で、東風(あゆのかぜ)、葦付、つなし、つまま、を異郷の風物に目を開かれた素材と言い、また、葦附、厚朴、堅香子、つなしなど、東風の語とともに、はじめて接した動植物・方言に興趣を感じ異風土への好奇と関心を示している、と言う。しかしこういう動植物や方言は素材としての異郷の風物や風俗、方言、というだけであって、それによって「異風土」性が表現されているかどうかは別問題である。風土性のないただの旅の歌でもそういう素材はいくらでも詠めるのである。「風俗風物方言」さらには風景というと、それは風土から生まれたものもふくむが、観光気分のエキゾチシズムをあらわすだけで、風土そのものを表してはいないことが多い。家持の場合、異郷の風土への関心にまでは届いていないのではないだろうか。和辻の言うような、人間存在や芸術の風土性といったことを、家持作品から読み取るのは困難であろう。だから、ただ異郷の風物等が歌の素材として多く詠まれているというにとどめるべきである。
ここでちょっと疑問になるのは、犬養氏などのいう万葉の風土というときの風土の定義はどうなっているのかということである。万葉の風土を論じる人たちはなぜか、和辻の『風土』に言及する人が多いので、和辻の言う風土の意味で使っているのだろうと思うのだが、実際には、和辻の風土論などおおかた無視されているように思える。そもそも、風土とは、日本国語大辞典第二版、「風土、その土地の気候・地味・地勢など、その土地のありさま。」、新明解国語事典第四版「〔住民の生活・思考様式を決定づけるものと考えられる〕その土地の気候・水質・地質・地形などの総合状態。」ということであって、動植物、風物、風俗、方言などは含まれていない(これらは土地の有様ではない)。基本は気候と自然地理ということである。だから和辻も、モンスーン、沙漠、牧場というように、気温と湿度(雨量)という気候の基本を材料にして論じている(牧場といっても農業面から論じられているのではない)。ただし1年間の独逸留学とそこへの船旅やイタリア旅行の見聞がおおかたで、広い地域や長時間に渉る観察とはいいにくいし、日本の場合、モンスーンの特殊型だといって、熱帯と寒帯が同居するとか、台風の影響が大きいとか言うが、どうも一面的に過ぎる。同じ低温でも、日本は寒いだが、ヨーロッパは冷たい、などと日欧の風土性の違いを言っているが、戸坂潤の言う(『日本イデオロギー論』)言葉いじりにすぎないのではないか。とにかく不足はあるがヨーロッパ流の風土論を元にして、気候や地理学的な材料を観察して、それを人間の学(共同体、文化、民族、国家、世界史など)、つまり和辻流倫理学の素材として考察しようとしているので、万葉学者の言うような単なる土地の地方性を問題にしているのではない。万葉の場合国文学だから倫理学はほとんど関係ないが、風土の定義としては和辻『風土』のそれに従うべきであろうC。
かなり前置きが長くなった。家持の歌に越中の風物等を詠んだ歌はかなりあるが風土性は主題としては読み取れないだろうということを問題にした。そんななかで、立山の雪の歌は異色である
17-4024、新川郡渡延槻河時作歌一首
多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛
立山の雪しくらしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも
ちなみに、鉄野昌弘氏は『大伴家持』創元社、2013年、で、この歌を取り上げ「32 越中の風土への畏敬と違和感」という小見出しをつけている。違和感というのはその通りであろう。冬の雪の多さ、大和では考えられない大きな川と平野と巨大な山々、私自身、常願寺川、神通川の迫力をじかに見、剣、立山、薬師から槍ヶ岳への尾根、黒部峡谷などの登山及び富山市内、氷見周辺の散策を通じてある程度知っている。此の歌について鉄野氏は「その水量と勢いに、家持は圧倒され、脅威を感じたに違いありません。しかし家持は、そこから立山の雪が消えてゆくことに思いを馳せています。それは寒く暗く長い、雪国の冬の終わりを告げるものでもあったのです。そこには、恐怖と喜びとがないまぜになつた複雑な感情があったと思われます。」と述べている。畏敬にしても違和感にしても、大和の貴族である家持の印象であって(更に言えばそれすら表面的で実感が薄い)越中土着の生活人の感覚でないことは言うまでもない。雪国の冬の終わりへの喜びといっても歌からどれ程も読み取れないように思う。それは二句目の「くらしも」の意味が曖昧であることにも現れている(土屋私注はクラシモを欠陥とする)。本当に暗く長い冬からの解放の喜びを表したいのならこんな緩い表現にはならないだろう。だいたい家持には冬の雪国の寒く暗く長い暮らしを詠んだ歌がない(雪を楽しむ歌や庭の積雪の多さを詠んだ歌はいくつかある、なお4016の黒人の歌や雪の山越えを思いやった歌は例外)。そして地元の人の歌もない。そういう家持に春の喜びも詠む動機もないだろう。
注釈類では古くは「来」とするのが多かったが、沢瀉以降「消(く)らしも」とするのが優勢である
消、沢瀉注釈、大系、新大系、全集、新編全集、稲岡和歌大系、阿蘇全歌講義
来、代匠記、全釈、全注釈、窪田評釈、佐々木評釈、私注、伊藤注釈、多田全解、
文法上はどちらもありで決め手はない。「消」説の方は、おおかたカ行下二段「消(く)」の終止形というだけであり、「来(く)」説の方は、おおかた「消(く)」という終止形は此の歌以外の用例がないという。これだけでは決め手がないので、歌意から見ると、中西進氏が、「雪が来るでは意味をなさいだろう。」と言う(『万葉の秀歌下』、講談社現代新書)。確かに雪は空から降ってくるものであり、積もった時は屋根や急な谷や木の枝からなだれ落ちてくるぐらいのもので、川を流れてくるものではないないだろう(たとえ流れ出してもすぐ解けて、川下まで来ることは考えられない)。ということでこのような解釈をする人が多いのだろう。「来」説で詳しいのは、伊藤釈注で、佐々木評釈、私注の評語を引用し、代匠記の「雪消してその水の流れ来」と言う古来の説がよいとし、雪が解けて流れてくるのを雪が来ると圧縮した表現が感慨を高めている、などという。歌を素直に読めば「雪が来るらしい」であって、「雪」で、「雪解けしたその水の圧縮形」とし、それが流れてくるらしいとするのは、相当な無理がある。それに水が来るのなら、実際に馬でその水の流れを横切ろうとしているのだから、その冷たさと源流の雪山の景色からも、雪解け水であることはあきらかなことでわざわざ「らし」と推量することもない。読みの素直な「来(く)」説と、意味の素直な「消(く)」説との折衷説のように思える。臨場感、躍動感は「来」を直接雪が来る意味に取るのがよい。「消」説の、「立山の雪が消える(解ける)らしい」では、何かよそごとのようで、遠い高山の雪解けの実態など見たこともない人が知識で詠んだだけと思える。それに雪国では春に雪解け水で川が増水するのはあたりまえのことで、わざわざ注目するほどのことではない(毎年のことである)。
4106、教喩史生尾張少咋歌一首并短歌
……南吹 雪消益而 射水河 流水沫能…… 南風吹き 雪消溢りて 射水川 流る水沫の
4116、國掾久米朝臣廣縄以天平廿年附朝集使入京……
……射水河 雪消溢而 逝水能 …… 射水川 雪消溢りて 行く水の
これで見ると、同じ越中の射水川の雪消による増水を家持はよく知っていたことがわかる。早月川の同じ雪消による増水を直接徒渉したのが少し珍しくて歌にしたのだろう
もう一つ詳しい「来」説として、多田全解がある。「立山の雪が解けて、流れて来たらしいよ。……○雪し来らしも−雪消の水が滔々と流れ寄るさまをいう。「立山」の霊威がさながらに寄せ来るものとしてうたう。……。「雪し消らしも」……解する説もある。……。ここは、越中の自然が直接に家持に迫った感動をうたったと見るべきで、「来らしも」を採りたい。」「立山」の霊威が寄せ来る、などというのはいかにも多田氏らしいが、それが雪が来るではなくて雪解け水が来ると解しているのは契沖〜伊藤釈注の説と同じでものたりない。射水川の増水と同じでは立山の雪を読み込んだ意味がないであろう。
射水川(小矢部川だが、当時は庄川(源流は飛騨)が合流していた)、神通川は流域が飛騨に及ぶ大きな川で源流に1600メートル以上の山が多く滔々と水量豊かに流れる。常願寺川は立山本体の水をあつめるだけに雪解け水の量も大きく、富山地鉄の立山駅あたりの本流は凄まじい。家持は早月川の河口近くで徒渉したのだろうが、以西の川に比べて流域が狭く、川幅も小さい。なお、さらに東北へ行くとより小さめの片貝川があり、大きな黒部川があるが、家持は黒部川までは行かなかったようだ。それはともかく、早月川は小さいが、剣以北の雪山が間近に見えて風景はいい。多田氏の言う「越中の自然が直接に家持に迫った感動」というのは少し無理がある。剣一帯の雪山の雪が来ると推量したのだから直接迫ったのではなく間接的な感動といったものだろう。急峻な剣の岩肌(残雪期の早月尾根を登ったことがある)からの春先の雪崩が白萩川、立山川あたりで頻発すれば、馬場島あたりの早月川ならまさに「雪が来る」であろう。家持は融雪期にそこまでは行ったことがなかったのだろう。源流部で大量の雪がなだれ落ちてきているのを想像したととれる。その圧力を水量と水の冷たさに感じ取ったのであろう。動植物や風の方言なども記録しているのだから、国守として山奥の春の底雪崩の情報ぐらいは知っていたのではないだろうか。
そこで問題はこの歌の風土性である。越中の自然を詠めば即風土となるだろうか。和辻のようにへルダー流の精神風土のようなことまで、狭い日本の小地域を詠んだわずかな万葉の和歌から読み取るのは無理としても、少しでも人間存在の風土性が現れた歌であってこそ風土の万葉と言えよう。そのためには風土の中で生活している地元の歌人が最適である(おおかたは自分の風土性を自覚していないだろうが読者が見て風土性があると思えればよい)。次には何年かそこで暮らして自らの持つ風土性と比較してその違いを明確に認識してその土地を詠んだ歌がよい。最後には行きずりの旅人の観察だが、これはほとんど期待できない。家持はこのうちの第二者だが、地元人にとっては剣岳(歌では立山)の雪が〔解けて〕押し出してくるのは当たり前のことであり特に注意を引くほどではないだろうし、またこの歌から春になった喜びも感じられない。春独特の動植物や気温、日照などと違い、水などは水温の変化による動植物の違いなどで季節の変化はわかるがそれほど明瞭なものでもなく、春の雪解けで増水して水害が起こる恐れはあっても、利益になるようなことはないだろう。しかも交通の妨げにもなる。家持は馬に乗って徒渉している、徒歩だと急流で40センチ以上もあれば、徒渉は無理である。氷のように冷たいと動くことも困難になる。おそらくそう広くもない川幅で枝分かれしてるようだから、部分的に深いところがあっただけであり、しかも家持ぐらいの身分になると供人も多く、不安を感じるほどでなく、水遊び的な感覚を楽しんで、「雪し来らしも」とちょっとふざけてみたのかも知れない。こういうのは奈良県(大和)人の感覚ではないだろうか。私も子供の頃は夏になると近くの曽我川でよく水遊びをした。家持が水遊び的な感覚で歌を詠んだのはやはり大和の風土を人間存在の構造契機としたからであろう(大和だけでなく関東以西はどこでも似たようなものだろうが、家持は大和だったのである)。といっても佐保川を馬で渉るのとは大違いだが。とにかく、この歌は越中の風土というより、大和の風土での生活が身にしみついた人の詠んだものと見ることが出来よう。それは大和の風土を詠んだ名歌の上下の句を合わせたような詠みぶりにも現れているD 。まず下の句の方から。
7-1381、廣瀬河 袖衝許 淺乎也 心深目手 吾念有良武
広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ
広瀬川は高田川、葛城川を合わせた曽我川が大和川に合流するあたりとされる。三つの川を合わせた川だが、徒渉すると袖先がやっと水につかるほどの浅さだという歌である(勿論男の心の浅さの譬喩)。川幅もせいぜい十メートル前後だろう(上中流の曽我川はよく知っており、また広瀬神社も行ったが、そこの川は見ていない)。水遊びの楽しさも感じられる。家持のは馬で渉り、しかも増水で流れも速く、鐙が水につくほど深いといい、また雪解け水の水遊びは普通はあり得ないが、気分的には似たものである。というか徒渉の危険さなど読み取れない。
上の句の方は、
7-1087、詠雲
痛足河 々浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志
穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし
7-1088、足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
である。穴師川の増水によって上流の山に烈しい雷雨のあることを推量したものと、増水によって上流の山が雷雲に覆われているのに気づいたというもの。三輪山、巻向山、音羽山から宇陀にかけて夏の雷雨が烈しいことは有名で、しばしば桜井市には大雨洪水警報が出る。盆地特有の風土と言えようE。家持の歌はそれを盆地でない越中にあてはめたようなもので、なんとなく実感のないちぐはぐな感じがするのもそのせいであろう。つまり越中の風土性はあまり出ていないが、家持の身に染みついた大和の風土性がそれとなく現れた歌というわけである。実感のなさは二首の貼り合わせと言う風な習作的な家持の作歌法にも現れている。
結局、家持というのは、5年も越中に暮らしながら、中央から派遣された国守という役人根性が抜けず、知識としての地元の情報は多く持っているが、実地の生活者としての知識はあまり身につけず、ただ都へ帰りたいという念ばかりが強く、大和での体験をもとにした歌ぐらいしか作れなかったということである。こういう家持の歌は越中の風土を詠んだ歌とはいえないということである。せいぜい風物、風習、風景への好奇心程度である。
注、
@たしかに和辻の風土理解は狭く浅い(モンスーン型とはいってもおおざっぱなもので、牧場型に比べて説明が簡単)。和辻はもともと歴史性の考察にのめり込んでいたのだが、そこから風土性の理解も必須だと気づいて補足したような叙述だ。ヨーロッパ旅行での直感的な思いつきとそこから振り返った日本の珍しさの印象を繰り返すことしかできなかった。
A和辻『倫理学下』。「第四章 人間存在の歴史的風土的構造 第二節 人間存在の風土性より、「他の国土を全然知らないものはおのれの国土の特性をも自覚することができず、従って国土の特性が人間存在において有する意義をも理解することができない。それに反し、他の国土のさまざまの珍しさを経験したものは、いや応なしに風土の相違の意義を理解しはじめるのである。」
B高木市之助『古文芸の論』1952年「文藝の風土的關聯について」で、「文藝における…技術としての風土」の例として宮沢賢治の詩に賢治の持つ「東北」という風土的環境を見ている。また「あふちの花」から憶良の歌の風土的関連を見ている。また『雜草萬葉』1968年「観想と風土」で、憶良の「大野山」の霧について風土的な構造を述べている。これらは和辻風土論を応用したとも言えるが、直接的には「技術」という述語でわかるように三木清の構想力の論理の応用である。「大野山」のところで高木氏も言っているが、万葉旅行的なものでなく、実地に長く住んでこそ読み取れたものであって、風土的な構造の読解というのはそう簡単なものではないし、たとえ読解したとしても、住んだことのない人間にわからせるのは至難の業なのである。戸坂潤が和辻のモンスーンの風土の持つ台風的な性格を批判したように思いつきにすぎないように思えることが多い。
C和辻は『風土』の「第一章 風土の基礎理論 一 風土の現象」の冒頭で「ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。」と言っている。しかし『風土』の続編ともいうべき『倫理学下』では『風土』の「第五章 風土学の歴史的考察 二 ヘルデルの精神風土学」で述べたヘルデルの「水、日光、土地の形・性質、その土地の動植物、産物、食料や飲料、生活の仕方、働き方、着物、娯楽の仕方、その他種々の文化的産物の一切について言うことができる。それらはすべての人間の生の開示として、「風土の絵」を形成する。風土はこれらの一切を含む日常生活の全体の姿から見いだされねばならぬ。「風土は、ある国土に根ざした民族においては、その風俗や生活の仕方の全体の姿において見いだされ得るところの、微妙な素質を作り出す。」」という風土の定義に近づいている。つまり空間性(風土性)に対する時間性〈歴史性〉の分量が大きくなっている。やはり空間性から解ける人間存在は時間性から解ける人間存在よりも小さい。ヘルダーなどはもともと歴史哲学が本領だから歴史性に重点が行くのだろう。しかし風土の万葉を考えるときは、文化的産物の一切ではなく「風土の基礎理論」の冒頭での定義に従うべきであろう〈ただし景観は文化的な産物だから除く方がよい〉。範囲が広くなればヘルダーのように何でも風土になってしまりがなくなる。
D大越寛文氏『大伴家持の類歌類句』1969年、には当然のこととは言え、載っていない。ただし氏の言う「作歌動機そのものまでが先人の作に依存している作品の多いことである。」の型に入れてもよいであろう。袖や鐙という身につけたり添えたりするものによって川水の深浅を感じるという興趣、眼前の川水の状況によって上流の気象や雪の様子を想像するという興趣が、古歌と共通しているのである。
E家持は奈良の佐保に住んでいたから盆地中南部のことは余り知らないのだろうか(み吉野、吉野の宮、吉野川、橿原の畝傍の宮、を詠んだのは知識の上であって、実地とは無関係である)、そこを詠んだ歌が見あたらない。しかし奈良あたりから盆地中南部はよく見える(逆に言えば中南部の私から言って、生駒山、春日山あたりは昔はよく見えた、若草山の山焼きも十分楽しめた)。奈良からだと葛城山地、多武峰の山々など、中南部で見るよりも遙かに小さいが、今と違ってビルも自動車道もなく空気も綺麗だったろうから鮮やかに見えただろう。ついでに言うと大峰山の高峰群もよくみえる(冬、奈良あたりから大峰の最高峰が雪で真っ白なのを見ると立山頂上から白山を見たようである)。だからそこの空模様などもよく知っていただろう。人麻呂の歌などを鑑賞するのに不自由はなかったはずである。
2026年6月18日(木)夜、書き終わる。