田山花袋編  南海道之部
新撰名勝地誌 卷之九
 東京 博文館 藏版
 
〔南海道附近之圖、省略〕
 
〔入力者注。振り仮名はほとんど省略する。誰でも読める漢字への振り仮名、幼稚な誤読、誤植が非常に多く、そのうえ電子テキストでは読みにくくなって、目障りで、労力ばかりかかるからである。もちろん新しく付けることはしない。残した振り仮名はすべて正しい読みというわけではない(正誤の確認が出来ない)。誤読でも残す価値のあるものもあるかも知れないが、入力者において誤読と判定したものは省略する。原作の振り仮名が知りたいかたは、近代電子図書館ので簡単に見られる。2008.5.12〕
 
(1)      凡例
 
一 南海道には入口密度の最も豊富なる香川縣、本邦中最も良氣候なりと稱せらるゝ愛媛縣等あり。工業、商業、また到る處に盛に、山水古蹟また尠なからず。
一 南海道には寺院多し。四國にはこれを巡拜する遍路なるものありて盛に行はる。紀伊には根來寺、粉河寺、更に有名なる高野山あり。皆な旅客の好個の禮拜所たらざるなし。
一 南海道は山河に富めり。山、嶮峻にして、川、長大なり。紀伊の奥、阿波土佐の奥には、本州西半部に於て最も著名なる高山嶮嶺を有し、これ等より發源せる川には大河多し。吉野川、紀の川のごとき是なり。
一 本篇はこの山川と古蹟と名勝と産業とを記して餘裕なからんことを期せり。唯、交通發達の盛なる今日、汽車、電車等に於て最近の記載をなす能はざるを憾みとす(2)るのみ。
一 本書を讀むに、陸地測量部二十萬分一地圖を參照せられたきこと前卷の如し
   明治四十六年六月    編者   
 
〔目次、省略〕
 
(1)新撰名勝地誌 卷九
 
            田山花袋編
 
   南海道の部
 
    總論
 
 本地方は南日本の一大島なる四國島とその東方に連れる淡路島と、畿内の南部を占めたる紀伊國とより成り、一道を岐つて、淡路、阿波、讃岐、伊豫、土佐、紀伊の六國をなし、淡路は兵庫縣に屬し、阿波は徳島縣これを管し、讃岐は香川縣これを管す。其他伊豫は愛媛縣、土佐は高知縣、紀伊は和歌山縣これを管治す。淡路、讃岐、伊豫(2)の一部は瀬戸内海に瀕し、土佐、紀伊兩國は全く太平洋に臨む。
 本地方の中枢を成せる四國島は主として四國山系よす成り、紀伊、九州の山系と其系統を同うす。この山系は島の主軸を成せる石槌山脈及び劔山山脈、其他の連山より成り、山勢嶮峻にして、吉野、四萬十、仁淀等の諸溪谷を開展し、その威容また近畿中國の諸山の比にあらざるを見る。蓋し山勢未だ老境に銷沈せず、垂直岐節の變化最も多岐に渉れるがためなりく。而してその最も高峻なるところは、阿波の中部、即ち劔山の聳立せる附近と、伊豫土佐の境に蟠踞せる石槌山附近とにして、其四近は連嶺波のごとく連り、別子、祖谷等の山地を形成す。これを以て河川はみなこれ等山岳の四面に向つて潟下し、阿波にあつては北流し東流する吉野川、土佐にあつては東流し東南流する仁淀川、伊豫にあつては、西流し西北流する肱川、皆なこれ等山岳より低地に向つて流るゝ自然の走向示さざるなし。而して南方に面せる海岸地方は、多く温暖にして、處としては熔樹ビロウ等の熱帶植物の茂生するを見る。
(3) 交通の便と不便とは、また其の地方の繁華と衰頽とを示すこと各地方に異らずして、瀬戸内海に面する方面は、交通頻繁、人烟稠密なるに引かへ、太平洋沿岸に面せる地方は、人口の密度また甚だ小なるを見る。蓋し後者が殆ど高峻なる山岳を以て掩はれたるに反し、而者は、丘陵の間、處々に平野を展開し、殊に、風波靜穩なる瀬戸内海に面して、交通の便を占め、其形勢、背後の二縣よりも却つて對岸の山陽地方に似たるものあるを以てなり。就中、香川の一縣(讃岐)は、人文の發展殊に著しく、其の人口密度は四縣平均數の二倍以上に位し、實に本邦第六位に位せる人口稠密の地となす。
 阿波は吉野川の谷に廣大なる平野を展開すれど、南部西部は山岳重疊して、また都邑の多く發達するを見ず。土佐は全く山海の間に隔絶し、其の特色最も著しく、その言語は全く本邦他の諸地方と異れる一を見るべし。
 伊豫は南部と北部とに於いて、全く其人文の發達を異にす。北部松山肝近の平野は、瀬戸内海に面する他地方の如き繁榮と交通の便とを保ち、松山市のごときは殊に本地(4)方に於ける最も明るき市街をつくりたれど、南方山地に人るに從ひ、次第に人口の密度を減じ、宇和島地方に至りては、一種暗き地方色を帶ぶるに至る。
 紀伊は本地方に於て四國島と全く別離し、畿内の南端を成し、人文發達の光景自づから四國島に異なれり。和歌山市附近は近畿の繁華に酷肖し、其西岸は柑橘の産を以て聞え、南岸また産業に富めり。
 本地方の詳細なる記事は、以下項を趁うてこれを記すべし。
 
(5)      淡路國
 
 淡路國は瀬戸内海の東隅に横はれる一大島にして、本地方の北部に位し、北は明石海峽を隔てゝ播磨に對し、東は大阪灣、西は播磨洋に臨み、東南は由良海峽によりて紀伊と界し、西南は鳴門海峽によりて阿波と隔つ。島の形西南南より東北々に長く、最長五十二粁に達し、幅は北部に狹く南部に廣く、五乃至廿八粁を有し、面積は沼島成山の二屬島を合して六百十平方粁を有す。一國を分ちて津名三原の二郡となし、兵庫縣の管治に屬す。地勢、南部は中世層の砂岩、泥板岩等より成れる一山脈西南西より東北東に走り、諭鶴羽山(六三三米)鬼灯峠(三一九米)柏原山(五七〇米)御阪山(三〇二米)等相連亙す。北部は花崗岩及び斑岩より成れる山塊群立し、その稍著しきを洲本町の西北にある先山(四六五米)となす。この北に摩耶山(三五五米)常隆寺山(五一九米)妙見山(五二一米)等を生じ、北端に至りて鷹瀬山(三〇二米)を起す。この南(6)北西部の界をなせるものは、洲本川及び三原川の溪谷を連ねたる一線にして、水流は概ね東若くは西に走りて大阪灣及び播磨洋に注ぐ。三原川は源を成相谷に發し、西北流して平地に出で、南部地力法山より發源する諸水を合せ、湊村に至つて海に朝す。國中第一の大河なり。洲本川は鬼灯峠附近に發し、西北に流れ、廣田に至りて平地に出て、これより東北東に轉じ、洲本町の北を流れて大阪灣に注ぐ。河口に埠頭を置き、舟舶の碇繋に便にす。福良灣頭に福良町あり。洲本川口に洲本町あり。共に國中の名邑なり。
 沿革〔二字右●〕 古へ國府を三原郡に置き、鎌倉の時に守護を置き、足利尊氏の反するに及び、豪族互に國を分領す。尊氏、細川頼春をして南海を經略せしめ、頼春の弟師氏をもつて州守とす。師氏豪族を攻め平げて、三原郡の養宜に治す。永正中、其が六世の孫尚春、三好氏に弑せられ、地遂に三好氏に歸す。天文の末、三好長慶の弟安宅冬康、由良城にありて州守と稱し、洲本に城く、天正九年、三好氏、織田氏に降る、同じき十(7)一年、豐太閤南海を定め、仙石久秀を封じて、洲本城に居らしむ、同じき十三年、久秀を讃岐に徙し、脇阪安治を封ず、三原郡の志知を加茂嘉明に賜ふ、慶長中、安治、嘉明等、皆封を轉じ、元知元年、徳川家康全州を蜂須賀至鎭に加封し、蜂須賀氏世襲し、其の臣稻田氏を洲本に置きて城代とす、王政革新、藩を廢し、縣となし、名東縣に屬し、津名郡を割きて兵庫縣より兼治す、更に改めて、悉く兵庫縣の統轄に歸せり。凡そ此の國ほど古城阯の多き所なし、仔細に算へなば、七十餘城阯もあるべし、豪族の割據して、城きたるもの多きに居る、故に城主の名も知らぬもの亦多し。
 交通〔二字右●〕 國中未だ鐵道の敷設せられたるを見ず。道路は島の東岸洲本町より洲本川の流るゝ平野を經て、島の西部湊村に赴くものと、納より岐れ、廣田を經て、福良町に達するものとの二あり。これを國中の主要路となす。道路良好にして車を通ず。其他、湊より島の西岸を縫ふものと洲本より島の東岸を縫ふものとの二路あり。又洲本より由良港に至るの道路あり。海路は大阪由良間の汽船あり。大阪より兵庫を經て、島の(8)北岸岩屋に來り、假屋、生穗、志筑、洲本を經て由良に達す。其他、大阪甲浦間の汽船の由良、沼島、福良に寄港して、阿波の撫養に至るものあり。
 産業〔二字右●〕 米麥は、洲本三原兩川の灌漑地を主産地とす。水産には鱶、鰹、鯖、鯛、鱧、鮹等あり。鯛、鱧、鮹等尤も盛なり。工業は陶器に淡路燒あり。三原郡伊賀野村に産し、その製品京都の粟田燒に似たり。また、淡路半紙あり。
 ○南部地方 東岸の洲本と西岸の湊とに一線を劃し其南方地方を此處に包む。
 洲本町〔三字右●〕 大阪川口より定期船に乘じて淡路島に向はゞ三時間を出でずして國の東岸なる洲本港に達すべし。町は同名の川は南畔に枕して、民口約八千七百五十を算し、實に本島第一の都會なり。今、津名郡役所、洲本區裁判所支部、税務署、洲本中學校、淡路高等女學校、陶器學校等をこの地に置く。舊洲本城は町の南方高隈山に據り、今になほ樓櫓の臺※[木+謝]、城濠等を存せり。大永年中安宅氏の一族の築營とぞ。茶はこの附近に産し、絞竹はこの地第一の物産として茶器その他の材料に用ゐられ、各地に輸出(9)せらる。神戸港を相距る凡廿五海里、福良町を距る六里、市村を距る四里半、岩屋を距る九里とす。猶、著名の畫僧兆殿司は、當地附近の物部郷の人なること書に見えたり。
 洲本八幡宮〔五字右●〕 洲本町字山下町に屬し、舊洲本城の下とす。縣社にして、一條天皇朝永祚二年藤原成家の創建に係る。境内に楠の大樹數珠あり。常磐草曰、「洲本八幡宮は物部卿の鎭守神なり、供僧坊あり、津田といふは洲本の南部の字なり、津田の小路谷は隱江浦とも稱し、由良浦を望みて風景よろしき磯邊なり、津田の岡山に安覺寺といふ眞言宗の一院あり」寺記曰、「一條院永祚中藤原兼家の族藤原成家淡路國司代たりし時この寺を創立す、藥師佛は行基作、二王は運慶作、實弘上人この寺を再建すと。」
 江國寺〔三字右●〕 洲本町字築地町にあり。東は高熊山に對し、南は遙に迦葉山を望み、西北は松林を隔てゝ洲本川に枕む。天正中、英智和尚の開創にして、海福寺苛と稱し、由良浦にありしを、元禄中今の地に移し、江國寺と改めしなりといふ。臨濟宗に屬し、稻田氏代々の香華院たりき。庭園に草樹多く、また閑雅なる一境なり。
(10) 洲本町を中心として街道は丁字形を描きて三方に奔れり。即ち一は北方志筑を距て岩屋に至り、一は南方由良に達し、一は三原郡の平野を横斷して、國の西岸湊に走るものにして、今其南方の街道を辿りて由良港を見舞ひ、更に平野を横斷して湊に至り、三原川の流に沿ひて福良に出で、再び洲本より北方の諸港を訪はんか。
 由良町〔三字右●〕 洲本町の東南二里にして、海上五里にあり。洲本、志筑と共に大阪商船會社由良線の往來する所にして、謂ゆる由良海峽(紀淡海峽)の西側に居り、港内東西六町、南北二十町を有し、小舟を泊すべし。而して、地の西には柏原山(【標高五百七十米突、海山遠望の景よろしく、由良より西方一里半とぞ)の聳ゆるあり。南凡そ二十八町には生石岬あり、東方は紀州の友ケ島と相對して、由良海峽をなし、その間相距ること僅かに里餘に過ぎず。實に南海の要害とも稱すべく、砲臺の設備ありて、由良要害司令部、築城部支部、重砲兵第三聯隊第三大隊、衛戊病院等の設置あり。また、古城墟二所あり、一は安宅氏の墟にして成山と稱し、一は池田氏の故墟とす。名産には海髪《いきす》、板和布等を推すべし。海髪は、婦女等、磯の淺瀬に下り立ちて之れを摘み、男は船にて探り採り、國中に鬻ぐ。陰暦の七(11)月中元には、盆海髪とて、家々必ず之れを食す。製法、石花菜《ところてん》のごとしといふ。水路志曰、「由良港は友島水道の西側にあり、前面に砂礫より成れる低島(長さ一海里半)横り、恰も長大の波戸の如し、以てこの港界を成す、この低島には灌木これを蔽ひ、北角に高さ一二六呎の峻山あり、南角に砲臺あり、港の南と北に各々扶口あり、北口は新川口と稱し、大低潮に水深十呎乃至十一呎、その幅半鏈なり、その南口は今川口と稱し、最も狹く、水深二乃至三呎なり、その港内最濶部の幅半里に過ぎず。」
 由良港より南方生石岬(式内の古祠生石明神あり)を迂回し、海岸の嶮道を進めば、灘村の前面に一島を望む。即ち沼島なり。
 諭鶴羽山〔四字右●〕 下灘村大字吉野の北に聳立す。一に讓葉山に作り、海拔凡そ三百米、山上に諭鶴羽神社あり。山の眺望頗る快濶にして、沼島を眼下にし、東は紀伊の海岳より、西は阿波の岬、鳴門の海をも展望すべし。
 沼島〔二字右●〕 灘村の沖合に居り、海岸を距る二十四町とす。一に武島或は野島に作り、周(12)圍約一里半、東西に長く、南北に短く、戸數約二百を有し、居民は多く漁業に從事す。而して、その西岸は小灣をなして、小舟の碇泊に適せり。北濱の尾崎に古城趾あり。城山と稱す。紀伊の由邊港の所に、太平記を引きて記せる、脇屋刑部卿義助、四國西國の大將を承はりて下向のとき、熊野の人、兵船を調へたて、淡路の武島に送り奉るといふは、此の島なり。猶同記に、安間、志知、小笠原の一族ども、元來宮方にて、城を構へ居たりしかば、種々の酒肴、引出物を盡くして、三百餘艘の舟を揃へ、備前の兒島へ送り奉る云々とある。安間、志知は、當時本郡中の郷名にして、今安間は阿萬に作り、南北の二村に分かつ。志知には、後加藤嘉明居城し、城址今に殘れり。島の前後に巖石多し。上立神とて、高さ十八間ばかりの柱の如き巖、海中に屹立せるものあり。平波倍とて、長さ五十間、廣さ三十間ばかりの、席を展べたらん如き平巖の、海岸に横たはるあり。波倍とは、當國の方言にして、海中に出でたる巖石を言ふ。その他蟇波倍、鎧波倍、籠波倍、藥研波倍、赤波倍、青波倍等甚だ多し。地名辭書には(13)仁徳天皇の御詠を接引して、古の※[石+殷]馭廬島を、この沼島となせり。
 三原郡の平野は本島内平地の最も著しきものにして、洲本町より街道に沿ひ、この平野を西に進めば、大野村の西に於て街道は二分し、一は南稍西を指し、廣田、八木.市村、神代を經て福良港に達す。(由良より大野に至る三里、大野より福良に至る四里)、また一路は大野より西走、松林を經て湊に至り、更に海岸に沿うて南折、津井を過ぎて阿那賀に至り、福良港に達す。
 千光寺〔三字右●〕 加茂村大字|内膳に聳ゆる先山の絶頂にあり。(【加茂村は福良港より本島の北端岩屋に至る國道の途上に當る】)山は登路二條、これを南口と北口とに分ち、北口は津名郡にありて、絶頂までの里程三十四町といふ。絶頂に近くして千光寺の本坊あり。更に二十間許りの磴道を登りて左右に茶亭あり。また十間餘の磴道を攀ぢて仁王門あり。即ち山頂にして、堂宇には本堂(【元和中蜂須賀家再建】)以下護摩堂、六角堂、千體佛堂、三重塔(【文化中證覺上人勸進再建】)鐘樓等あり。而して、その創建は延喜年間にありと稱し、開山開基を僧寂忍となす。
 鮎屋瀧〔三字右●〕 廣田村の南、山中にあり。一に淺野瀧と稱す。石※[山+涯の旁]より懸下し、高さ四丈八尺、幅は平常にありては一間許りなれぢ、泉源増す時は五間餘に及ぶことありとい(14)ふ。推して本島中第一の瀑布となすべく、瀧壺の内には祠あり、口狹くして中廣く、方二丈許を有す。
 市村〔二字右●〕 三原郡の平野の西端に位する一小市街にして、人口約三千を有し、國道の衝に當る。古は繁華なる市街なりしが、今、衰色あり。三原郡役所、税務署をこの地に置く。村の附近より茶の産出多し。里程、鹽田浦へ六里、福良港へ二里十二町、洲本へ約三里、本郡湊へ約二里とす。
 國府址〔三字右●〕 今、市村の中に、學が原といふ地ありて、是は國府の榮えたる時、國學のありたる所といふ。古へは國學を學府の下に置き、國司をもつて監せしめたりき。國々皆然り。又北隣なる榎並村に、屯倉のありたるといふ故址あり。日本紀に、仲哀天皇、二年二月、定淡路屯倉とあるもの是なり。またこの村に三宅神社ありて仲哀天皇を奉祀す。國府衰へてより、北條氏、國衙を置きて、政務を司らしめたる遺址。當村の西隣なる神代村に、字國衙と唱ふる所ありて、こゝの川を國衙川といふ。いつの(15)頃より乎、國衙の衙を箇に作りたるを、今は衙に復せり。今昔物語には、藤原純友がこの國府に攻入りて火を放ち、財寶を掠めしことを記せり。和名抄曰、淡路國府在三原郡行程上四日下二日海路六日。
 國分寺〔三字右●〕 市村の北數町なる笑原《のはら》にあり。聖武帝勅建六十六箇國國分寺の一とす。また尼寺は北新庄と稱する地にその遺址を傳ふ。
 八木館址〔四字右●〕 市村の東なる八木村の大字養宜に、養宜の館の舊址あり。源頼朝、諸國に守護職を置けるとき、當國には、佐々木經高をもつて、此處に居らしむ。北條氏衰へてより、國中の豪族互に戰ひて、土地を分領す。細川頼春、尊氏の命をもつて、弟師氏を遣り、當國を退治せしむ。師氏、阿波の勝瑞より當國に攻め入り、豪族等を破りて、こゝに居城し、數世に及ぶ。今猶往時の城趾を存し、土俗こゝを御土居と呼ぶ。土居は、當國にて城櫓のありたる跡の事にいふ。
 淳仁天皇陵〔五字右●〕 市村より國道を福良に赴く賀集村の、南に入ること數町にして、田滕(16)の中に、高さ六間、南北七十間、東西二百間ばかりの丘ありて、樹木欝蒼たる所、即ち山陵なり。往時は丘上に牛頭天王の祠ありて、土人は唯天王の森と稱し、樵夫もこゝには斧鉞を入れざりき。天皇は、天平寶字八年の惠美押勝の亂に、御疑ひを受けさせて、御位を廢せられ、淡路の公と稱せられて、この國に流され給ひ、翌年十月、崩れさせ給へり。常に御憤りに堪へさせ給はず、垣を踰えて逃れ出でさせ給ひしを、國司、佐伯宿禰等、兵を率ゐて※[しんにょう+激の旁]ひ止どめ、還御まし/\て、明くる日、崩れさせ給ふと聞えぬ。聖壽三十三にて坐しましき。光仁天皇立たせ給ふに及び、御使ひを遣はされ、改葬しまゐらせ、尋いで勅をもつて御墓を山陵と稱せしめ、守戸一戸を置きて、嚴に守り奉らしめ給へり。後、世亂れて、賤山がつ等、みだりに立ち入るやうになりにしが、明治の復古におよびて、今は宮内省の守り奉る所たり。此處より七町許にして、同村の鍛冶屋組に、天皇の御生母、當麻夫人の御墓あり。高さ七間、周囘半町許の丘にして、古りたる松三四株立てり。當麻氏は、舍人親王の妃におはしまして、(17)上總守當麻老の女におはしませり。天皇と共にこの國に配流せられ、天皇崩れさせ給ふて後、身まからせ給ひしといふ。光仁帝又勅して、當麻氏の墓を御墓と稱せしめき。
 賀集八幡宮〔五字右●〕 淳仁天皇陵の東七町、宮山によりて鎭まり坐す郷社にして、貞觀二年の勸請なり。昔、細川師氏鳴戸を渡りて、當國に討ち入りたる時、本社に祈願を籠め神前の鏑矢を申し下ろし、翌日の戰ひに、敵將宇原入道を馬上より射て落しし、一國を平定しける後、神領を寄附し、崇敬殊に淺からざりき。後、蜂須賀家におよびても尊崇甚だふかくして、寛永八年に今の社殿等を再營す。社前に百間の馬場を構へ、左右に櫻樹を植う。盛開のときは、遊人遠近より群衆せり。什寶としては、行教法師の書けると傳ふる神社の縁起、土御門天皇の院宣、師氏の寄附したる上指の箭一筋及び太刀一振あり。往時當社は、社傍にある護國寺にて別當したりしかば、是れ等の什寶は、今皆同寺に於て收藏す。
 ※[石+殷]馭廬島社〔五字右●〕 市村の北隣、榎列村大字幡多の田畝の中に高さ五丈餘の丘皐ありて、(18)上に伊弉諾、伊弉※[冉の異体字]二柱の大神を祭る。傳へて、丘を往古の※[石+殷]馭廬島となすものあれど、俗傳到底信ずべくもあらず。大八州遊記曰、「淡之三原幡多村、有一阜、高五六丈、周囘百四五十間、上有一小社、土人傳爲※[石+殷]馭廬島、即伊弉諾※[冉の異体字]二神開創之地、神州地名之起原、是爲大初也、長松離立、別無雜木、四面皆禾田、其南有幡多川、水涸碩礫爲堆、西距海半里餘、此際平田渺々、土人曰往古阜外則海也、後世埋爲田※[騰の馬が土]、故今則一小阜、已非島嶼也、故後人或疑以爲非是、以本國南沼島當之、或以繪島爲是。」
 大和大國魂神社〔七字右●〕 同村の幡多山に鎭坐し、古昔は二宮と稱せり。創建の年月を詳にせずと雖も、文徳實録に、仁壽元年十二月壬申詔以淡路國大和大國魂神刻於官社とあれば、舊くよりこの国に鎭まり坐すこと知るべし。今は縣社に列し、例祭を四月一日とす。また當社の什寶に、往昔朝廷より預け給ふ所の、大和社印と鑄れる、方一寸七分の銅印あり。寶永中、社殿囘禄の災に遭ひ、この銅印を失ひしを、後、社領の畠中より掘り出たるといふ。燒※[金+樂]して字章を損ず。柴井東白の古銅印之記を添ふ、文中に、(19)此印字樣拙朴、決非千年内之物云々とあり。
 松帆浦〔三字右●〕(感應寺) 松帆村の海濱を松帆浦と呼ぶ。村は即ち舊時のけ笥飯野、瑞井等の數村を併せたるものにして、古ぐはこゝの海を笥飯の海と稱し、萬葉柿本人麿の歌にも、「飼飯海乃庭好有之刈薦乃亂出所見海人釣船」とあり。三原川の河口なる津井港につゞきたる濱邊ゆゑ、古へも往き來の船のこゝに繋泊したるならん。この濱は、長さ三十町許ありて、廣き所は五六町もあり。古松林を連らねて立ち續く。淳仁天皇の當國に遷幸せさせ給ひし時の、行宮の古跡と稱して、御所の松と稱へるなどあり。砂松の間に松露等を産す。遠く讃州の山々、小豆島等を眺め、海邊の風景得も言へず。中世よりこの浦を松帆浦と稱す。三原川に枕みて、感應寺といへる寺あるが、山號を松帆山と號しぬ。古義派の眞言宗にして、坐像の聖觀世音を本尊とす。慶長六年、加藤嘉明宰臣石河光遠をもつて、志知の城をこゝに移し、寺を北の松原へ轉せしめしが、程なく廢城になりたるゆゑ、再びこゝに移し、樓櫓の臺※[木+射]の上下に堂宇を營み、今に(20)營えぬ。臺※[木+射]は、角石をもつて築き、上層は、幅員凡そ一反歩あり。中層は八坪許なり。また當山の鐘樓に文明七年(【土御門天皇の御宇】)に鑄たる古鐘ありて、その銘に淡洲松尾浦應感堂云々とあり。即ち今の松帆浦の古名とす。常磐草曰、「慶野の海濱、その地廣平にして江を引き海に臨み、千松翠を積て、風を呼び濤を起す、江頭の臺上に大悲閣を架して、雲月に攀※[足+脊]すれば空を凌ぐが如し、絶妙の佳境なり云々。」
 産宮神社〔四字右●〕 應感寺より約十町を隔て、同村大字瑞井にあり。瑞井宮とも稱す。祭神は反正天皇及び天照皇太神にして、境内、古松環列する所、本殿、拜殿あり。地は實に、反正天皇の降誕まし/\たる宮の遺跡とす。墳外二町許にして、瑞井と稱する清水の井あり。此の水を汲みて、産湯に奉りしこと、日本紀及び姓氏録に見ゆ。葢しこの靈水の近傍にありけるより、宮の名とはなしたるならん。書紀、反正天皇の卷に、「天皇初生于淡路宮、生而齒如一骨容姿美麗、於是有井曰瑞井、則汲之洗太子、時多遲花落有于井中、因爲太子名也、多遲花者今虎杖花也、故謂多遲比瑞齒天皇云々。」姓氏(21)録亦おなじ意なり。而して當社の例祭は春三月十六日と秋九月十六なるが、秋は白湯に虎杖花を覆うて献る古例なり。古代産湯を奉りたる式なりとぞ。虎杖は、瑞井の傍に今も榮えたり。猶、松帆村大字七江の江尻に淨土宗江善寺あり。寺中に文禄中朝鮮征伐の際討死したる武士の石碑を建つ。
 湊村〔二字右●〕は大日川の河口河岸にあり、一泊地とす。村の西字登立に翁媼石と名くる奇石あり。湊村より北を指す街道中、一は江井を經て郡家に達し、一は鮎原を經て同じく郡家に達す。而して、湊村より西南海岸を傳ふ一路は津井村より阿那賀港を經由して福良港に到る。阿那賀は福良と一山を隔てゝ西方一里に位し、一小港をなす。伊加利は阿那賀の北方、湊の西南に當れる山村にして淡路燒の産地とす。淡路燒は、一に民平燒と稱す。天保年間、加集a平なるものゝ創製にして、その製品は釉光滑かにして、彩畫鮮妍、恰も京都の粟田燒に酷似せり。
 福良港は郡治市村の西南二里十二町に位す。
(22) 福良町〔三字右●〕 福良港は本州の西海岸にあり。海水深く灣入し、灣口には煙島、洲崎相對し、内は宛も一湖水の如く、東西二十町、南北十二町を有す。而して、市街はこの灣の西北に連り、人口六千八百十五を有す。阿波の撫養港を始め、近畿、中國地方を來往する船舶は、常に此港に繋泊するを以て、市街の殷賑は洲本町に次ぎ、海濱の民亦多く漁業を營めり。而も、灣頭の風景絶佳にして一幅の畫圖を展べたるが如く、煙島の眺望、洲崎の白砂青松、港内の漁舟、出入の汽船、一として畫中のものたらざるは莫し。
 鳴戸崎〔三字右●〕 福良港の西にありて、本國の西端なり。海中に斗出すること十五町、阿波の孫島に對し、海峽をなす。相距る十五町、この間を鳴戸と稱す。暗礁あり、中間に構たはる、中瀬波倍と名づく、長さ二町二十四間、幅十間、やゝ形體を露はせり。海岸に奇巖峙ちて、中瀬の南に飛島あり、阿波に屬す。潮の滿ち干によりて、海潮中瀬に來たりて碍へられ、激して浪を飛ばし渦を卷きて狂奔す。百雷の轟くごとく、萬朶(23)の雪を飜すに似たり。蓋し海潮に甚しく高低を生するなり。滿潮には紀伊より來たり、干潮には内海より來たり、其の低きに落つるに潮盈つるときは、巖石に激盪し、落ちて大きなるは徑り十聞餘りの落湊《うづまき》を生じ、奔流すること數里、勢、長鯨の百川を吸ふに彷彿たり。この奇状は、陰暦の月の初めの滿潮のときを尤も觀ものとす。彌生の大潮は、一年の絶觀とす。激浪空に飜り、澎湃震動、觀る者をして毛骨を寒慄せしむ。海潮の盈虚せざる時は、海土は釣りを垂れ、貝を採る。往き交ふ船は、帆を揚げて、一齊にわたるに、翩々として蝶の落花を逐ふ如し。潮流常といへども遽速し。鳴戸より由良の沖までは凡二里餘りあるも、帆を柱の方に吹かせて、看る間に至るなり。福良より船にて行けば、鳴戸崎の前にて上陸し、岬端に至りて見るを得。陸は山阪多くして路嶮惡なり。岬端まで一里餘あり。古へよりこゝの瀬戸を和歌にも詠じ、文にも書けるもの多し。今古歌一二首を録し、また三千風文集の鳴戸眺望の記を拔きて補ふべし。新後拾遺「淡路がた瀬戸の追風吹そひてやがて鳴戸にかゝる舟人」。夫木集爲康「淡(24)路しま行あふ漸戸の汐さきに安くも渡る友千鳥かな」。三千風文集「霜月十二日の空も乾きぬ、いざや鳴戸に耳よせてんと、案内の者一人を具して、一里半の峰路、羊腸をまはり、二十餘町【實測十五町】の岬をたどり、十丈許に峙ちたる岩の肩に打ち上がり、乾搗和布《ほかちめ》うち敷き、鳴戸の早瀬を宛踵の下に見る、向ひは阿州撫養の崎、手とゞく程なりぞや、漸々に汐時になればや、山海いづこともなく、※[車+陶の旁]々と鳴る音きこゆ、すはや西の海原見る/\七尺餘【或は十丈餘】脹れあがる。實にや、山陽西海の汐息、只十八町【實測十五町】の喉に薄り震るひ。喘息する音なれば、おぴたゞしきも理りなり、此の中程に二丈【實測二町二十四間】許の岩島あり、一寸のひまにこの岩頭をみなぎり逆卷きうち越す※[さんずい+從]《みづあひ》に、底の渦ひゞも合ひて、千輪の雷車を1 一音に物するや、肝魂も消つぱかりなり、水煙朶山を劈けば、波嵐輪寶の勢ひ、刹那に龍門千尺の瀑布逆天に流れ、那智三百尋の飛湍、銀漢に落ち合ふかと、灘谷の巴左右にながれ、淵穴の深さは金輪も見えぬべし、追ひ追ひ次第々々流れ變はりもみあひ/\且顯れ且ふさがる、今の餘波の畦々は、千尋廿拱(25)の白龍、乙《せぼね》をあふる氣しきには、金翅鳥もこゝにや餐るらん、遙に涌きかへる波頭は鯤魚鰭を見する、※[しんにょう+南]《あつぱれ》大鵬の翁も、こゝに巵言の釣を投げよかし、かゝれば此の隣濱の漁父は、いと小き舳※[舟+孟]に、起つ浪とはじり除けの舳莚を翅にして、たゞ鴎|〓《あじひろ》の※[魚+〓]《はうし》麪《ろを》を追ひまはすが如く、いそがしくすじり戻り、あやふき渦穴の水谷を、かけつかへしつ、縱横無碍に見え隱れゆき違ふさまは、花の錦の鶯梭、雲の衣の電抒より猶迅なり、信に彼らが身には、浪風もなかるらん、渡りくらべし世のたつき、何と鳴戸のうたかたの、あはれなりし形勢なり、かくて潮の上四尺ばかりに低うなりければ右の江阿に待ちはづみたる商船のつぐみ※[舟+俊の旁]ゐたるか、我劣らじと、舳碇ひき上げ艫ふり廻し、撓柄にきると見えしが、こゝを大事と氣をのみ、はや海原に※[山+登]《こさか》におとしかくれば、彈指の中に廿餘里の目路一帆にゆく、鷺かあらぬと車渠《ほたてかひ》の、あゝ日本一の見ものやと、餘りに※[目+于]《めば》り心|※[申+秀]《せきつ》き、氣つかれて舍り寺の假窓に机して、鳴門の眺望に當寺の艶貴、福良の八境二丈一卷につゞり、梵庫にこめて歸りし。」
(26) ○北部地方 洲本町に戻りて、國の北半部を説かんに、福良より市村、廣田を經由して來れる國道は安乎村を過ぎ、鹽田(字下司に覺王寺あり、赤堂と呼ぶ)に至りて洲本町より來れる海岸路に會し、更に北して志筑町に至る。鹽田より志筑に至る約一里に過ぎず。東岸に生穗、岩屋等あり。西岸と同島、宮の津あり。
 安乎村〔三字右●〕 この地往昔は平安に作る。アヘカとは即ち古言にして、源氏物語等に見えたり。地に安乎の窟と稱する洞窟あり。高さ一丈許りの巨巖海濱に峙ち、窟の深さ六七丈ありて、裡に不動尊の尊像を安んず。また、附近に古城墟多し。
 志筑町〔三字右●〕 洲本町の北三里とす。本島東岸の良港にして、港は深く灣入せざれども、大阪商船會社の汽船は常に寄港せり。町は人口五千二百余を有し、その繁盛は甞て福良に讓らず。宇田井の天神は式内社にして、志筑神社と稱せり。志筑より北方岩屋港に至る里程約六里とす。
 志筑より國道は更に海岸に沿ひ、佐野を經て岩屋に達す。また志筑より西に出づる縣道は中田の西に於て二(27)分し、一は多家を經て郡家に達し、一は南折、鮎原を經て廣石に達し(此所より鳥飼に至る一路を西に派す)、更に堺を經て倭文村に至る。而じて西海岸路は湊より鳥飼、都志、江井、郡家等を經由して國の北端岩屋港に向つて走れり。
 伊弉諾神社〔五字右●〕 多賀村の字神宅に鎭座し、多賀大明神と稱す。即ち日本紀神代卷に、伊弉諾尊神功畢靈運當遷是以構|幽宮《かくれのみや》於淡路之州寂然長隱者云々とあるものこれにして、古くは一宮または幽と稱し、明治十九年官幣大社に班せり。神域廣く、宮殿壯嚴にして、毎歳四月二十二日を以て、大祭を執行す。
 早良親王陵〔五字右●〕 伊弉諾神社の東南五町ばかりにして、多賀村大字河合に屬し、字を高島といふ。一座の圓丘にして、古松繁茂し、昔時は午頭天王を祀れりといふ。親王は、即ち桓武帝の皇弟にして、延暦年間、故を以て淡路に謫せられ、後、崇道天皇と追稱せらる。事蹟はは、日本紀、水鏡等の書に詳かなり。
 郡家は多賀村の北に隣り、志筑を距る約二里にして、一海驛をなす。その西南を江(28)居浦と呼び、漁利多く、ことに※[虫+肖]魚の捕獲盛なり。都志は郡家を距る南二里にして同じく海邊に居る。村の東、葛尾山に龍寶寺あり。
 河上神社〔四字右●〕 鮎原村は志筑及び多賀と相距る各約三里にして、都志の東方凡そ一里とす。山間の小邑にして、字南谷に式内河上神社あり。今、縣社に列し、與止姫命及び菅公を奉祀す。什寶に傳菅公愛翫の荷葉形の硯あり。また傳來の梅花石と稱するものあり、共に珍品となす。
 鮎原の南一里に廣石あり。鳥詞は廣縊死の西方海邊にして、その海岸を鳥飼浦と稱す。都志浦と湊との間なり。一書曰、鳥飼浦の砂石は明潔にして、五色あり、庭中に撒し、または碎て盆石の舗石とす。他所にも黒石の砂石多けれども、此所の砂ことに佳し。
 志筑より北方海岸に相沿ふ一路は一里にして生穂に至り、更に一里佐野に至る。常隆寺山の東南なる海村なり。佐野より猶ほ一里釜口に至る。妙見山の東背にして、村に法華宗妙勝寺あり。また由緒ある一古刹とす。(29)釜口より來馬(假屋浦)に至る凡そ一里にして、同地より西海岸の野島、富島に至る各二里、また北方浦を經て岩屋港に至る二里半とす。即ち志筑より通算して凡そ六里、この間茅渟の海を隔てる攝州の山々を望見すべし。
 岩屋港〔三字右●〕 本州の北端にある港津にして、人口六千百餘、北は播州の明石に相對して、海路約二十八町、岩屋の瀬戸(明石海峽)と稱して、潮流甚だ急なり。且、港内水淺くして、船舶の繋泊には便ならず。港の西方に松尾崎ありて、此所に砲臺を設け、更にその西方江崎に燈臺を建つ。燈高は海面上一五八呎にして、燈光は不動白色、晴夜光達十八海里半といへり。また、港津の東南方海岸に繪島あり。その向ひの丘に古城墟あり、天正中菅の一族居城の地といふ。その傍には石屋神社あり。神社の艮に大和島あり。凡てこの浦を繪島浦または松帆浦と呼び、須磨、明石に相對して、風光頗る佳趣あり。蓋、松尾崎は、松帆崎の訛りたるにて、江崎は、繪島崎を畧して、繪を江に訛りたるものといふ。
(30) 繪島〔二字右●〕 高さ十間、周回四十間ばかりにして、海岩に峙てる巖山なり。巖石に、赤きところ、黄なるところ、黒きところ等ありて、浪に磨かれたる所、畫文をなし、巖頭に古松二樹を生じ、海風に撓められて枝を垂れ、奇状いふ許なし。一説、日本書紀神代卷に、伊弉諾尊伊弉※[冉の異体字]尊、立於天浮橋之上【中略】以天之瓊矛、指下而探之、是獲滄溟、其矛鋒滴瀝之潮凝成一島、名之曰※[石+殷]廬島、二神於是降居彼島とある※[石+殷]廬島は、即ち是れなりとも傳ふ。巖下には、無數の巖片散布し、金色を帶び、形によりて、種々の名あり。古歌、物語等には、その風景を賞して、繪島の磯、繪島の浦などゝ言ふ。藤原宗基「さよ千鳥ふけゐの浦に音信て繪島が磯に月傾きぬ」。俊成「明石かた繪島をかけて見渡せば霞の上に沖津しら浪」。撰集抄「むかし行平中納言といふ人在そかりける。身にあやまつこと侍りて、須磨の浦に流されて、藻鹽たれつゝ浦づたひしありき侍りしに、繪島の浦にてかづききする蜑人の中に、世の心に止まり侍りけるにたより給ひて、何所にや住みぬる人にかと尋ね給ふに、此蜑人とりあへず『しら浪のよする渚に世を(31)すごす海士の子なれは宿も定めす』とよみて紛れぬ、中納言いとゞかなしう覺えて、涙もかきあへ給はす、云々」。平家物語「福原の新都にまし/\ける人かは、各所の月を見んとて、或は源氏の大將の昔の跡をしのびつゝ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、繪島が磯の月を見る、云々」。
 石屋神社〔四字右●〕 武内の神社にして、中世天地大明神と稱し、また繪島明神の稱あり。祭神は國常立尊に、伊弉諾、伊弉册の兩尊を配祀し、各々一尺二寸の神像を鎭す。攝社あり、八十萬神社と稱す。坐像又は立像の神像百二十餘體を鎭ぜり。社傳に曰、當社は崇神天皇の御宇、神勅により、初めて此の浦の岩屋の上に齋ぎ祭りたるを、神功皇后、三韓に御師を出ださせ給ふ時、御船をこの浦に寄せ、三對山の頂に登らせて、御祈誓あらせられ、海上浪荒れけるにより、「いざなきやいざなみわたる春の日にいかにいはやの神ならば神」と詠じ給ひけるに、やがて風波靜まりにければ、即ち御船を發させ、凱旋まし/\ける時、再び登らせて、御神を岩屋の上より移し祀り、奉賽し給ひ、二條天皇の御宇、勅をもつて、末社百二十社をおの/\浦の境に祀り、本社を天地大明神と勅號せらる。後、足利義植、當國にありて、三對山に城を築き、本社を今の地に移す。豐太閤の時、松帆浦の城主小林三太夫、各所の末社を本社に集め、若宮を造り、八百萬神社と稱すと。本社は、かく由緒ある神社にして、二條天皇の御宇には、社家四十人と定められ、六位の位を永世に許され給ひたるも、源平の戰亂に及びて、舊記、寶物等も、すべて失ひけるといふ。現社殿は、寛文十二年、國主蜂須賀家の改造する所にして、神地すべて五反歩餘あり。
 大和島〔三字右●〕 大繪島ともいへり。高さ十三間、周回九十間許、巖質繪島に異なりて、色青し、巖上に雜木を生ず。人麿が、「天さがるひなの長路に漕くれば明石の戸より大和島見ゆ」と詠みたるは是れなり。亦この浦の奇觀とす。
 岩屋の北西松尾埼より國の西海岸に迂回し野島、富島等の諸邑を經て淺野村に至れば、此所に紅葉の瀧あり。淺野より、西海岸路は寶津を經由して郡家に至る。
 
(33) 紅葉瀧〔三字右●〕 淺野村の溪間へ入ること十町許にしてあり。即ち常隆寺山の西側とす。瀧、一に淺野の瀧とも稱す。高さ七丈四尺、幅二間、四邊に楓樹多くして、秋季は一際美觀なり。瀑布の上、左右に曠原あり、淺野の原といふ。万葉集「海若者靈寸物香淡路島、中爾立置而白浪乎、伊與爾廻之座待月、開乃門從者暮去者、鹽乎令滿明去者、鹽乎令干鹽左爲能、浪乎恐美淡路島、磯隱居而何時鴨、此夜乃將明跡待從爾、寢乃不勝宿者瀧上乃、淺野之雉開去歳、立動良之率兒等、安倍而※[手偏+旁]出牟爾波母之頭氣師」反歌「島傳敏馬乃埼乎許廻者日本戀久鶴左波爾鳴」因みに、古へは、野島、豐島の磯邊は入江にして、旅船を繋泊せしと云ふ。こゝの瀑布は、爾ばかり賞せずして、其が上の原野を雉子の名所となし、和歌にも皆これを詠みたり。野島も古への名所にて、もと原野の海中へ突き出でたる故、爾稱へりといふ。其が古歌を二三首擧れば、人麿「粟路乃野島前乃濱風爾妹可結志袖吹飜須」、後鳥羽院「露しけき野島が峰の旅寢には波こさぬ夜も袖そぬれける」、後嵯峨院「駒なべて野島を過る狩人の弓末も見えすしける夏(34)草」。
 常隆寺〔三字右●〕 常隆寺山の絶頂にあり。眞言宗にして、廢帝院と號す。仁王門を入りて本堂に至る。本堂は、五間四面にして、行基菩薩の作なる、五尺三寸の千手觀世音菩薩を本尊とせり。寺域四反歩餘ありて、大師堂、役行者堂等あり。仁王門は慶長十九年の再建にして、本堂は、明治二十五年に改造する所なりといふ。當山の縁起に曰く天平寶字の年、廢帝の帝、當國三原郡に坐しけるときり御父崇道盡敬天皇【舍人親王の尊謚】の御爲に、當山を創建し給ふもつて、寺號を廢帝院と號し、當時の住僧の名を、其まゝに常隆寺と號す。延暦の年、桓武天皇、皇太子崇道天皇【早良親王の尊謚】の御爲に、更に伽藍を御建立あり。勅願寺に命せつけられしと言ふ。日本後紀に、延暦二十四年乙丑、春正月甲申、勅爲崇道天皇建寺於淡路國とある者是れならん。常磐草に、廢帝の當國に佛寺を建て給ひしことは國史に見えず、兩皇、崇道の尊謚同じかるゆゑ、混じて謬り傳へたるにやと。當山は、天正の年、兵燹に罹り、すべて舊記を存せざれば、如何なら(35)んとも考へ難し。寔に推して當國の古刹となすべく。會式縁日には、遠近より登賽する者群聚し、山上の眺望また甚だ廣濶なり。
            2008年11月17日(月)午後8時10分、淡路國入力終了。
 
(36)   阿波國
 
 阿波國は四國島の東部に位し、東は海に臨み、西は伊豫に接し、西南は土佐と境し、北に讃岐を負ひ、東南は太平洋、東は紀伊水道に面す。東西九五粁、南北二十五粁、面積二百六十九平方里を領す。一市十郡にして徳島縣これを治す。一市は徳島市にして、十郡は名東、勝浦、那賀、海部、名西、板野、阿波、麻植、美馬、三好即ち是なり。地勢は東西に走る數條の山脈、これ等の間を縦谷をなして西より東に流るゝ數多の河流及びその沿岸に於ける平野とより成り、南部に海部山脈、その北方に劔山々脈、更にその北に隣りて四國山系の骨髄をなせる石槌山脈延亘して國中を貫き、殆ど海岸地方に及ぶ。海部山脈中には家峰(一六〇〇米)槇小屋(一三〇〇米)カンス峠(八四三米)あり。劔山々脈は四國山系中主要なる山脈の一を成し、北は山系の中根石槌山脈と接して、高峻峭拔の趣を成せり。京柱山(一四三七米)綱附山(一六九〇米)天狗岳(37)(一八二五米)等相連亙し、遂に山脈の主峰劔山(二二四二米)に達す。實に四國島中第一の高山たり。其地旭丸山(一四三八米)高根山(一一〇〇米)等あり。石槌山脈には、三傍示山(一一一六米)野鹿池山(一一八二米)國見山(一四一八米)鶏足山(九五五米)中津山(一四七〇米)寒峰山(一五三八米)烏帽子山(一六三〇米)等あり。この山脈は東漸するに從ひ次第に陵夷し、燒山寺山(一〇〇米)二ツ丸山(五八米)を經て遂に徳島市の西に接せる大谷山(二五〇米)大瀧山(二七五米)に至りて終る。この他阿波讃岐の國境に讃岐山脈あり。山勢緩慢にして、高距また大ならず。その最も高きものと雖も九百米内外にすぎず。雲邊寺山(八九七米)大川岳(九四八米)等その最も高峻なるものなり。而してこれ等山岳の中、石槌山脈と讃岐山脈との間に挾りて、吉野川平野あり。吉野川其中央を西より東に流れ、三好、美馬、麻植、名東、名西、阿波、板野の諸郡に跨る。吉野川平野は東西の長七十粁、南北の幅十三乃至二十粁にして、面積三百九十平方粁を有し、國中第一の主要地をなし、名邑多くこの沿岸に發達す。而して徳島(38)市は實にこの吉野川の河口に位置す。其他、那賀川、勝浦《かつら》川の沿岸に、その三角洲を含める小平原あり。海部川、松尾川、穴吹川、鮎喰川また著名なり。されど、海部山脈、劔山々脈の横絶せる南部地方は、交通の便至らず、地、多くは僻陬にして、僅かに海岸地方に二三の名邑を開けるのみ。
 沿革〔二字右●〕 往古は、國府を今の名東郡の府中村に置けり。壽永中、州人田口成良、平家に附きて州守に任ず。正治二年、小笠原長清守護に補せらる。子の長房、職を襲き、三好郡を領ず。後の三好氏實に、其遠孫なり。建武中、細川和氏州守に任じ、足利氏の反するに應じ、四國を略す、弟頼春、代はりて守護に補せられ、板野郡の勝瑞に治す、後同族の成之、守護を兼ね、子の義春に至り、宗家の政元、嗣なきを以て、義春の子の澄元を子とす、永正四年、政元臣下のために弑せられ、内訌大に起こる、三好長輝【長房より九世の孫】澄元を奉じて京師に入り、亂を靜めて、澄元を立て、家政を專にす、既にして澄元、兄の高國と相鬩《あひせめ》ぎ、長輝、高國に殺され、澄元奔り、尋で卒す。長輝の孫(39)元長、澄元の子の晴元を奉じて主となし、享禄四年、高國を攝津に討ちてこれを亡し、晴元を立つ。是に於て、三好氏の威權日に盛んなり、子の長慶《ながのり》に至り、遂に細川氏に代はりて、政を京畿に行ふ、天文二十一年、長慶の弟之康、守護細川持隆【頼春の孫】を弑して勝瑞に據り、全州を攘有す。永禄三年、之康和泉に入り、畠山高政と戰ひて敗北し、子長治嗣ぐ。天正五年、其の臣一宮成助叛きて、竊に※[疑の旁を欠]を土佐の長曾我部元親に送り襲ひて長治を殺さしむ。十年、元親再び來たり侵し、遂に本州を取る。十三年、豐太閤兵を出だし、元親を破り、侵地を收めて、蜂須賀家政を當國に封ず。家政、關が原の役に、東軍に屬するをもつて、歴代徳島に治し、以て明治維新に至れり。
 交通〔二字右●〕 鐵道は徳島市を基點として吉野川の南岸を走り、藏本、府中、石井、牛島、鴨島、西麻植、川島、學、山縣、湯立、川田を經て、船戸に達すもの一條あるのみにして、明治卅二年二月の開通にかゝり、延長哩數二十一哩に過ぎず。船戸驛は土佐街道の脇町に川を隔てゝ一里余に過ぎず。土佐街道はこれより東し、池田町に至り、(40)讃岐より來れる一路と會し、吉野川と共に南北に屈曲し、大崩危、小崩危の嶮を經て土佐に入る。この他池田町より伊豫に赴く一路あり。南部には、濱街道あり。徳島より南し、勝浦川、那賀川下流の平野地方をすぎ、遂に太平洋岸に出で、これより略々海岸をぬひ、海部川を渡りて、土佐東端の要津甲浦に達す。この沿岸には、大阪甲浦間を航行する汽船の便ありて、到る處の港市に寄港す。
 産業〔二字右●〕 米は吉野川沿岸地方に廣大なる耕地あれど、土性米作に適せざるを以て、其收獲高は割合に多からず。却つて南部地方をその主産地となすべし。食用農産物には粟、蕎麥等あり。特用農産物には、特に名聲を博したる葉藍《えふらん》あり。古來最も名高く、本邦葉藍産額の三分一、年額二百四十六萬貫を産出せりり。産地は吉野川流域なる板野、名東、名西、麻植の四郡となす。甘薯また三百萬貫内外を産す。葉煙草また本邦第四位に位し、美馬、三好の二郡を出山地となし、池田町には官營煙草製造所あり。されどその質は良好ならず。その他三椏あり。果實には柑橘あり。林業は海部郡地方に※[木+諸]《かし》、
 
〔徳島市、地図省略〕
 
(41)黒松、吉野河畔に杉、檜、中央平坦部の地方に桐あり。竹は吉野川岸に栽培す。水産物には鯉、鯛、黒鯛、鰆、鰈、鰹等あり。工業は製糸に阿波紡績株式會社あり。織物には、阿波シヾラと稱せられたる一種のの絹織物あり。其他岩津織と稱する袴地をも産す。白木綿、絣木綿の製織また盛なり。麻植郡川田附近に紙及び雁皮紙の産あり。鑛業には、川田山鑛山、東山鑛山、久宗鑛山、半田口山鑛山、鴻の山鑛山、指神鑛山等あり。
 ○徳島市及撫養町附近 徳島市及その附近は吉野川の河口に位置し、國中最も繁盛の地區たり。大阪よりする汽船は旅客を徳島市に運ぶと同時に、徳島船戸間の鐵道は、更に土佐、伊豫地方に良好なる交通の便を開けり。撫養町は徳島市の北三里半に位し一良港を爲す。
 徳島市〔三字右●〕 海路大阪より三十五里を隔て、同地より一日四回の汽船便あり。而して當地停車場よりその汽船發着所までは六町に過ぎず。猶、この汽船は、土佐の甲浦にも航行するものにして、且、停車場より十町なる福島町よりは、淡路、撫養、讃岐の東(42)海岸を經由して高松に至る間を往復する汽船あり。今、まづ本市の地勢より説起さんか、市は吉野川の末流別宮口と津田口との間に位し、寺島、福島、住吉島、常三島、助任、前川、出來島、佐古、富田の諸邑をその中に收め、地形上、吉野川の三角洲の上に發達せるものとす。東西一里十町、南北二十二町、戸數一萬二千五百除、民口凡そ六萬二千七百餘を算し、實に國内第一の都會なるのみならず、また四國第一の都曾なり。町の西南は石槌山脈の末梢平野に終るところにして、樹木欝蒼たる一丘陵をなし、大瀧山、眉山(二八○米)等の名ありて、市の名勝たり。吉野川の一派、津田川の水は、西南より來りて市の中央を數派に別れて貫流し、更に相合して一流となり、津田浦に至りて海にそゝぐ。これを以て船舶の出入頗る盛に、一面港市としての特色を備へ、汽笛の聲常に小灣の中に響く。市街の中央に一翠微あり。
 城山〔二字右●〕 または渭山、猪山等の名あり。山勢孤圓、これを望むに猪の臥せるが如きを以てその名を得といふ。高さ十二仞、深樹欝蒼として、芳野川を帶び、海口に隣りす。
 
(43)〔徳島市、写真省略〕
 
永禄中、細川氏の臣|森飛騨守こゝに居城す。天正中、長曾我部元親來たり伐ちてこれを落とし、其臣吉田康俊をして守らしむ。十三年、豐太閤、紀州を定め、大和秀長、羽柴秀次を大將として元親を伐ち、當城を圍む。蜂須賀家政前鋒たり。康俊敗れ走る。四國平定して、當國を家政に賜ふ。家政初め一の宮城に点り、後當城に移る。規摸狹小なるをもつて子城を山麓に作り、寺島をもつて外郭とす。樓櫓雲際に聳立す。廢藩の後撤壞し、これを籍りて遊園となす。門を入りて行くこと數十歩、内塹に架した(44)る石橋を渡れば、左右石壁數仞にして、樓櫓のありたる址あり。北に向ひて山をのぼり。危磴を踏むで半腹に至れば、望樓の址廣さ數十歩、更に嵐徑を攀ぢて山巓に達すれば、こゝは羅城の址にして、四望一盡、眺矚きはまる所なく、西南は新町川を隔てゝ近く瀧の山と相對し、後には吉野川の清流を帶ぶ。遙かに東の方を望めば、紀泉の山々悉く雙眸の裡に集まり、淡路の海は俯して掬すべし。而もその景趣の詳細は、城山の記事、阿波名勝記、大八州遊記等に盡しあれば、此所にはそが概略を記すのみ。
 猶、王政維新後も、市は舊城市の繁華を承けで依然阿波國の首都たりしを以て、その繁華は更に加はり、百貨輻湊、人煙稠密たり。ことに、、この市は縣下の重要地方なる吉野川流域の門戸をなし、假りに吉野川を以て一樹幹とせば、市は實にその根底をなし、その全流域を涵養する位置にあり。ことに市はまた關西商葉の首脳たる大阪市と海路近きを以て定期の航海船日毎にこの間を往復し、賣買取引頗る盛にして、從つて市風總て大阪に酷肖し、市街及び市廛の光景宛としてその市街の一部を此所に移し(45)たるが如し。徳島停車場は市の中央寺島町にありて、北に近く城山の翠色を見る。寺島町と相並行して組屋町、八百屋町、通町、中通町等の町筋相連る。通町の縱街路と寺島町の横街路と相交錯せる所に、
 徳島縣聽〔四字右●〕 あり。阿波全國一市十郡を管轄す。縣聽と相背きて名東郡役所あり。徳島市警察署あり。これより徳島橋を渡れば、本町に徳島市役所あり。地方裁判所〔五字右●〕は新倉町にありて、大阪控訴院の管下に屬す。徳島橋は徳島町と福島町との間にあり。
 されど、市の繁華は寧ろこの方面にあらずして、停車場を出でゝ眞直に南したる所にあり。停車場より一條の大路、直ちに新町橋に達す。橋は市の中心を成し、交通頗る頻繁なり。橋を渡れば新町の横街路西に連り、豪商巨賈多く、まことに市の商業區なり。大工町に、郵便電信局あり。またこの附近に銀行多し。これより南すること數町、市の公園たる、
 大瀧山〔三字右●〕 の境内に達すべし。山は眉山の中腹にありて、停車場より六町を隔つ。山
 
(46)〔徳島大瀧山、写真省略〕
 
下老樹欝蒼たる間に、縣社春日神社あり。春は櫻花その間に點綴せられ、遊覧の人陸續として絶えず。また、山に瑞巖寺あり。持明院と稱し、眞言宗の古刹にして、藥師如來を安置し、賽者多し。且つ山の中腹に瀑布あり。上に石橋を架し、傍に金像の不動尊を安ず。東に峙てる山頭に三重の塔あり、大塔と稱す。塔下の眺望頗る廣濶にして、山中、海口を望むに最も佳絶の所となす。その他、山の上下には八阪神社、招魂碑、從軍紀念碑、天滿宮、藥師堂、東宗院あり。下記、勢見山と相並びて市人行樂の勝區に推すべ(47)し。當國名所圖繪曰、「大瀧山、春はさく咲く花のもとに、瀧の白糸を繰りかへし眺め、秋は八しほ千しほの紅葉がくれに、鹿のなく聲をきくにも、唐錦たるまゝ惜しき風景とて貴賤此所に詣でざるはなし。されば大塔のもとより眺望すれば、山下には廿餘宇の寺院、河東河西の民家、渭水の諸橋、車馬貴賤の往來たえやらず、徳島福島など島々長閑に霞み、峯をめぐる浪松の風は君が千歳をよばふるならん、富田の渡には舟を呼びてかしましく、仲洲の水鳥の群あそぶは己がさま/”\の世をたのしみかほなる、才田の濱の鹽竈の烟は賑はふ竈戸の昔もおもほゆ、津田浦の釣船はながき日の暮るゝを惜み、安宅沖の洲の松のはやし、海原とほくさし出でたり。」
 大瀧山の南に連れる處を勢見山といふ。また甚だ眺望に富めり。山上に忌部神社あり。國幣中社にして、阿波國中の式内社なり。構造甚だ宏壯ならざれども、境内清楚にして自づから神威の身に逼るを覺ゆ。又其附近に金比羅神社あり。觀音寺あり。國端彦神社あり。
(48)〔徳島勢見山金比羅、写真省略〕
 
 これより再び新町に歸り、船場町に至れば、地は其名の如く汽船問屋、運漕店等多く、又穀物肥料等の問屋軒をつらね、一胤特色ある喧噪と繁華とを呈せり。兩國橋々畔には小型の商船輻湊して岸に集れるもの甚だ多し。街路はかくて鷹匠町、幟町等を過ぎて、土佐濱街道の一路を起せり。
 これと方向を異にて、仁心橋の對岸に佐古町の一區あり。一丁目より十丁目に至る。即ち伊豫街道の起點にして、商賈櫛比、市の中心なる新町附近の繁華に比しては、(49)稍場末の感なきにしもあらず。此他出來島に監獄、裏中町に中學校あり。而して、
 徳島の物産〔五字右●〕 としては、阿波縮、阿波足袋、燐寸、佐古山の青石等尤も名あり。山崎、佐藤兩氏地志曰、『徳島縣には阿波※[糸+戚]《しゞら》と稱せられたる一種の絹織物あり、生糸を經とし、練糸を緯としてこれを製織し、後にこれを縮ませたるものなり、その起源は寛政年間徳島市富田村阿部重兵衛なる人の祖父某、たゞへ織といへるを織り出せしに始まり、慶應年間、重兵衛の代に至り大にこれを改良せしなりといふ、されど産額は甚だ多しといふべからず、』又曰、『阿波足袋は徳島地方を主産地となす、形状舊式にして都人の用に適せざれど、藍の良好なると地の堅靱なるとを以て名あり』。
 猶 同書に曰、『徳島市は四國中最大の都會にして、本市と大阪との間また四國沿岸諸港の間|大阪商船會社の汽船常に往復し、本縣に出入する貨物の大部分は必ずこの市を經由せざるべからざるを以て、市街の商業極めて活溌なり、また市には特産たる※[糸+戚]織《しゞらをり》の外に近年の創業に係る綿ネル、紺絣等共に市の主物産をなすあり。また附近の郡(50)部は有名なる藍の産地にして、その葉藍は多く東京、大阪、九州、中国、北陸の諸地方に輸送せられ、農産物中の最たるものなり。商業機關には徳島商業會義所、阿波商業銀行(資本金五十萬圓)、徳島銀行(同五十萬圓)阿波農工銀行あり』。中内氏曰、「市中最も繁華なるは新町橋邊にて、その附近には劇場寄席の設けもあり、臙脂膩粉の臭ひするたほやめの數多徘徊するを見る、六萬五千の大都會に似もやらず、商家の店頭、さまで賑はしからねど、さすがは、京都、新潟、名古屋と共に、美人系に當れる國ほどありて、花腰柳腰婀娜たる美形多く、殊に女の數の男より多きやうに見えしも我が思ひなしか、狹斜の地はもとよりいはず、其他の町々、何處に行くも到る處として料理店の多きは此地の特色にて、紅灯燈闇を照らし、絃歌聲かしましく、不景氣の風は何處を吹くと言はむばかりのけしきなり。さて、人に就きて、徳島の近況を聞くに、まづ交通の上にては、この地と兵庫、大阪との聞には日々二三回づゝ汽船の往復あり、その他淡路の福良、讃備の諸港との間、さては土佐甲浦との間にも一囘宛の往復あ(51)りて、さまで不便とは云ふべきにあらねど、貿易は年を追うて毫も隆盛に赴くの模樣も見えず、輸出品の主なるものは、先づ藍、煙草、鹽、木綿等を第一とすれどもその産額多き藍の輸出すら、近年印度藍の爲めに、其販路を蠶食せられて、年を追うて不振に赴くの觀あり、鐵道線路船戸まで通じてよりは、從來多度津、高松等の諸港へ運びし葉煙草其他の農産物の、此地を經て輸出さるゝに至りしは、せめてもの幸ひなれど、會社の收支相つぐなはざるを見れば、さばかりの巨額にもあらざるべし云々」。
 此所に徳島市元標より各地への里程を記せば左の如し。
  香川縣 十七里九町      高知縣 五十四里三十一町  愛媛縣  六十里三十四町
  和歌山縣 二一十里二十五丁  兵庫縣 十七里九町     大阪府  三十五里三十一町
  東京府 百七十七里三十二町
徳島市よりの陸上交通路には、まづ阿波鐵道の市より西に向ひて麻植郡の舟戸驛に至るあり。伊豫街道また西して石井、牛島より鴨島に出で以て吉野川の南岸に相沿ひ西行す。尚ほ、市より西方を指し、吉野川を渡り柿島の北に於て撫養街道と會す(52)る一路あり。北稍西方、新居、奥野、大寺を經、北帶山脈の一端大阪峠を越えて、讃岐大川郡引田に達するものあり。それを讃岐街道と稱し、大寺に於で撫養街道と相交叉すその他、北方撫養町に至る道路は國道にして、至極良好なり。その他、市より南方を指す街道に、中街道及び濱街道あり、前者は土佐香美郡に出づるものにして後者は同國安藝郡甲浦に至るものなり。
 徳島市より北すれば五里にして撫養港に達することを得べし。この間は吉野河口の三角洲の發達せる沖積平野にして數派に別れたた河川は、縱横にこの間を貫流せり。
 興源寺〔三字右●〕 徳島市の東北郊なる下助任にあり。禅宗臨濟派にして、舊名を福聚寺と稱し、徳島藩主蜂須賀氏の香花院なりしといふ。
 街道は徳島市より別宮川等を渡りし後、鯛濱、中街、大代等の諸邑を經て撫養港に達す。この間街道の西方應新村大字中原には別宮八幡宮あり。その北方住吉村大字勝瑞には勝瑞城址あり。
 勝瑞城址〔四字右●〕 住吉村大字勝瑞に屬し、中街より西方に凡そ一里を隔つ。地は、建武中足利尊氏がその臣細川頼春をして四國を統御せしめし折、その首都となせし所にして、(53)長曾我部氏の起るまで、この地は實に四國唯一の繁華地なりき。今は、その繁華なる遺跡を求むる能はざれども、後には吉野川の大河あり、前には平坦にして豐饒なる平野あり、撫養の海濱を左にし、中富川の激流を右にし、形勢依然として轉た當年英雄の偉業を思ふの情に堪へざらしむ。
 撫養町〔三字右●〕 當國の東北端に位し、北帶山脈のまさに海中に盡きんとする所にあり。板野郡中第一の名邑にして、且つ當國北方有數の港津なり。前には大毛島山を控へ、自然の良好なる海峽を爲し、船舶常に來りて群を爲す。町は東西に長く岡端より四軒屋まで十數町あり。人口八千餘を有し、板野郡衙を置けり。實に北方に於ける唯一の都邑にして、その繁華徳島に次ぐと稱せらる。一地志曰、『撫養港は近く淡路島と相對し(【同島福良へ三里餘】)有名なる鳴門の海峽をその間に挾む、繁盛の小市街にして、また本縣東北方の一商區をなす。阿波足袋は多くこの地にて製作せられ、産額頗る多し、ことに海濱一帶の地より産する鹽は齋田鹽とと稱し、古來赤穂鹽と併稱せらる、港は實にその輸出
(54)〔撫養釣島、写真省略〕
 
港として名あるなり』。
 鳴戸〔二字右●〕 撫養港の前なる大毛山は、周圍五里十一町ある大島にして、人口一百六十餘あり。この島の西に三町ばかり距れて高島あり。周圍二里二十九町にして、人口二千三百餘あり、又北へ四町ばかり距れて島田山あり。周圍三里二十五町、人口四百五十餘あり、此の三島鼎の如くに對ひ合ひ、大毛山の北端に孫崎ありて、淡路の鳴戸崎に對し、海峽を爲す。相距る十五町、此間を鳴戸の瀬戸といふ。海潮の盈虚により、磐旋して、海門に落湊《うづまき》を起こす景状は、淡路よ(55)り觀るところと違はず。孫崎の傍に二小島あり。西にあるを裸島といふ、圓山にして小さし。東にあるを飛島といふ。絶嶮にして渉るべからず。是れ等の島また鳴戸の眺めを添ふ。又撫養港の北に北泊ありて、島田山に對し兩岸海峽をなし、撫養の瀬戸と稱し、こゝも朝夕の盈虚によりて小落湊を起こす。故に又小鳴戸の稱あり。當國名所圖會曰、『鳴戸は撫養の東北にあり、南方の大海より滿ち來る潮も、中國の海より干る潮も、滿干ごとにこの門にあつまれば、汐の早きこと矢の如く、水勢の強きこと磐石の轉倒にたとへんもさらなり。されば順潮にあらざれば、風帆もこの門を渡ることかたし、この門の間阿波地より淡路方へ瀬の岩つゞきて、水底淺し、その干汐の時は、一方低くなりて、一方より落る水瀧のごとく、滿潮の時は大海より汐滿ちくれば、瀬にあたりて立のぼる浪、落ればこと/”\く渦となる。その高く卷あがりたる白浪に朝日影のうつろふ景色、また門わたる船の汐にひかれて飛鳥の如くなるありさま、畫にもいかゞと思ふ絶景なり、尋常の潮の滿干だにもかゝる景あり、三月三日の大汐は、特
 
(56)〔鳴門海峽、写真省略〕
 
に海原の高下いと大なり。倭國第一の瀬戸なれば世にも鳴門の汐千とて名だたり』。山崎氏等地志曰、『紀伊水道は一大陷落地帶なり、而して之に接せる播磨灘及大阪灣も亦瀬戸内地溝帶に屬する陷落地にして、淡路島は兩陷落部の間に殘れる地壘に外ならず。此三個の陷落によりて成れる海區は東に由良(友島)西に鳴門の海峽ありて互に相通ず、鳴門海峽には兩陷落地帶の間に殘存せる小嶼岩礁ありて極めて狹き水道を開き僅に内外の海水を通ずるものなるを以て地形上の興味頗る多し、かの和泉砂岩層より(57)成れる一連の隆起は四國島の北部殊に阿讃の間に最も明瞭なる山脈をなし、鳴門海峽に近きて漸く低く追々支離滅裂して島嶼となり、再び起りて淡路島の南部山地を作り、更に由良海峽に没して、三たび山脈をなすもの紀泉の境界山脈たり、されば鳴戸海峽は阿讃の間に連れる山脈の切目に當り其間に立てる島田島・大毛島・高島等を始めとし大小數多の島嶼は、總て斷裂せる山脈の一部を形成するものなり、大毛島の北東の岬は孫岬と稱し淡路島の南西角をなせる門岬と相對して、其幅僅に一浬に過ぎず、此二岬の間少しく門岬に偏して中瀬となり爲に最狹部を更に二水道に分ち中瀬と孫岬との間を大鳴門と稱し中瀬と門岬との間を小鳴門と云ふ。大鳴門は其幅僅に四鏈にして孫岬の前面に横はれる裸島と中瀬との間は最重要なる部分をなし、其幅僅に三鏈に過ぎず、小鳴門は其幅一層小にして一鏈半を超えず、鳴門海峽は本邦中最潮流の急なるを以て稱せられ潮汐交代の前後一時間は七浬乃至八浬に達するを常とし時としては一層甚しきことあり、又大毛島・島田島及高島も四國本島との間は恰も河流の如き狹き水(58)路をなし、所謂撫養の瀬戸を造る、其幅僅に一鏈に過ぎずして其南口には岩礁横はるを以て船を通ずる部分は半鏈を超えず潮流亦強くして一時間四浬乃至六浬に及べり」。又曰、「明治三十年八月本多理學博士の研究によれば鳴門海峽の潮流は播磨灘と外洋とに於ける潮汐干滿の時刻全く相反するが爲に兩者の間に水準の差を生ずるより起るものとし、一晝夜に潮流は二回播磨灘より外洋に流れ、二回外洋より播磨灘に入る即六時間を周期として潮流の方向を變ずるなり、而して兩者水位の差最大の時は潮流最急の時にして轟々たる饗を發するに至り其差次第に小なるに及べば潮流の勢次第に衰ふ此時に小鳴門の方面には反對の方向より潮流押寄せ來り暫くにして大鳴門に及び斯の如にして間斷なく潮流の徒來するを見る也、又此海流に起れる渦流は潮流の兩側に於て相異れる旋轉をなし其渦の大さは七八間に及ぶ、此渦は概ね一定の所に生じて次第に下流に流れ去り、遂に消失し去る、然れども從て流るれば從て生じ、絶えず其潮流の兩側に渦流の行列を見るなり』。小竹「大毛島觀鳴門」に曰「阿山淡山中間絶、奔(59)濤雷吼觸爲雪 龍宮何處門巍然 潮所去來巖爲闌 淡在闌東阿是西 回顧南溟無端倪 行者嶽如大鵬游 左右張翼此矯頭 如鷁退飛六亂七 送風順潮恐相失 可憐漁人操舟神 掣後※[魚+壇の旁]鮪大於身 多年經歴知大概 今日登臨窮奇怪 海若看予豪未除 連引大白叫百快」。黄石「詩筆幾人千古高 詩神難後老逾豪 爭能以我衰殘力 翻倒鳴門百尺濤」。
 土佐泊〔三字右●〕 大毛島の南岸にして、小鳴門を隔てゝ撫養町と相対す。續日本紀を按ずるに、この土佐泊は、靈龜以來土佐の驛路にして、當國の那賀郡を經て、こゝに出づるなり。海口に、舟繋岩とて、危巖雙び立つ。紀貫之の纜《ともづな》を維《つな》ぎし所と言ひ傳ふるもの、これなり。土佐日記曰、「おもしろき所に船を寄せて、こゝや阿處と問ひければ、土佐のとまりとぞ言ひける、むかし土佐といひける所に住みける女、この船にまじりけり、それが言ひけらく、むかししばしありし所の名たぐひにぞあなる、あはれと言ひてよめる歌。「年ごろをすみし所の名にしおへば來よる浪をもあはれとぞ見る」三十日(承平(60)四年正月)雨風吹きやまず、海賊は夜あるきせざんなりと聞て、夜中計りに船を出して、阿波の水門を渡る、西東も見えず、男女から/\神佛を祈て、このみとを渡りぬ、寅卯の時計りに奴島といふ所を過ぎて、田無河といふ所をわたりぬ」。
 清少納言墓〔五字右●〕 撫養の東、岡崎の里浦に清少納言墓と稱するものあり。五輪塔の石碑にして、別に小祠を置く。由來この地は、舊稱を長邑と稱し、清原元輔の釆地なるよし、阿波志に見え、清少納言の宅地の跡といふ所もあり。大日本史、清少納言の傳中古事談より記して、「老而家居、屋宇甚陋、郎署年少見其貧窶憫笑之、少納言自簾中喚曰、不聞有買駿馬骨者乎、笑者慚而去云々」と。晩節來たり遯れ、父の采地にて天年を終はりたる者ならんか。なほこの地には、西行も來りし事ありて、磯崎の松を詠じたる歌あり。「立ちかへり又もなかめん里の海士の面かはりすな磯崎の松」。更に少納言の墓に近く人麻呂の祠あり。永久の年、藤原顯秀の祭る所といふ。人麻呂亦鳴戸に來たりて、和歌を詠ぜし事あれば、其れ等に因みて顯秀の祭りたるもの哉《か》。人麻呂「むこの浦朝(61)みつ汐のおひ風に阿波しまかけて渡る舟人」。吉田東伍氏曰く、「蜑塚は、今、土俗清少納言墓とも稱す、而も、山陵志の土御門帝塔と爲すものまた此か、按に、近時帝陵を擬定して、堀江村大字池谷の天王山の下にありと爲す、然れども里浦の地は、古來海部の大聚落にして、帝遷幸の行在と爲したまへるも、この浦と想はるれば、形勢の上より推して至當となすに足る、また御集などに見ゆる御製に參考せば、里浦は即ちその行在にやと疑はるゝ節最も多し云々」。
 齋田《・サイタ》鹽田〔五字右●〕 撫養港の東南海岸の地に、鹽田多し。世に謂ゆる齋田鹽は實にこの附近の産なり、慶長四年、益田大膳なるもの、播磨の人數名を招き、夷山《えぞやま》の下に鹽濱を設けたるものをその濫觴となすといふ。明治二十八年の計算にては、鹽田三百九十七町製鹽高凡そ四十八萬石を算せり。
 撫養町より西を指し、姫田、大寺、脇町を經、池田に至りて徳島より來る伊豫街道に會するものを撫養街道と名く。池谷は堀江村の大字にして、姫田の西に居り、村の附近に古墳多し。板東村の近傍にも古墳また尠なからずといふ。
(62) 土御門天皇陵〔六字右●〕 堀江村大字池谷の天王山の下にあり。圓山《まとやま》と稱し四面匝らすに水田を以てす。葢し陵の遺趾にして、御尊骸は、後に山城國乙訓郡|金原《かなはら》の法華堂に葬り奉れり。陵の傍に、尼塚、蟹塚と名づくる古墳あり。從ひ奉りし者の墓なりと言ふ。神皇正統記曰、「土御門院、諱は爲仁、後鳥羽の太子、御母は、承明門院源在子、内大臣通親の女なり、乳の御門の例にて、親王の宣下なし、立太子の義ばかりにて、即ち踐祚あり、戊午の年【建久三年】即位、己未に改元、天下を治め給ふこと十二年、太弟に讓りて尊號例の如し。この御門正しき正嫡にて、御心ばへも正しく聞こえ給ひしに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく讓國あり、立太子までもあらぬさまになりにき、承久の亂に、時の至らぬことを知らせ給ひければにや、さま/\諫めまし/\けれども、事やぶれにしかば、玉石ともにこがれで、阿波國にて崩れさせ給ふ、三十七歳おまし/\き。また大鏡に、後鳥羽天皇の隱岐國に徙らせ給ふことを記しまつりて、中院【土御門天皇を稱す】は、はじめより知ろしめさぬ事なれば、あづまにもとがめ申さねど、父の院(63)謠にうつらせ給ひぬるに、のどか都にてあらん事いとおそれありと思されて、御心もてその年閏十月十日、土佐の國のはた【幡多】といふ所に渡らせ給ひぬ、【中略】近くさふらひける北面の下臈一人召次などばかりぞ御供つかうまつりける、いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ、道すがら雪かきくらし、風ふきあれ、ふぶきして、こしかたゆくさき見えず、いと堪へかたきに、御袖もいたくこほりてわりなき事おほかるに、「うき世にはかゝれとてこそ生れけめことわり知らぬわが涙かな」、せめて近きほどに、あづまより奏したりければ、後には阿波の國にうつらせ給ひき云々」。阿波志曰、「義時移上皇于隱岐而以帝不預軍事、故使南狩稱土佐院、貞應二年四月二十二日、守護源長經奉迎、五月再幸于本州、稱阿波院、盖以池谷爲行在所云々」。當國に天皇の行在所と稱する所所々に在り。皆巡幸せさせ給ひたる遺跡にして、榮村の下庄にも殘れり。即ち村内に栖養《すかひ》の森と呼ぶ杉林あるを詠じ給ひたる御製あり。「里なれて落ちかへり啼く時鳥すがひの森の杉のはやしに」。
(64) 萩原寺〔三字右●〕 坂東村大字萩原にあり、光勝寺と呼び、或は安國普陀寺とも稱す。天正中長曾我部氏の勝瑞城を攻めし時牙營を置きたるの地なりしといふ。寺に細川頼春の墓ありといへり。
 大麻比古神社 大麻山の南麓に鎭し坂東村大字坂東に屬せり。撫養町を西に距ること約三里とす。社は、即と當國の一宮にして、大麻比古神を祭神とし、近世國幣中社に列す。社殿壯麗、境内瀟洒にして、また本地方著名の古祠に推すべし。土俗は、單に大麻大明神と呼べり。
 大寺は撫養街道と讃岐街道との交叉點にして、板西村に屬し、一少邑とす。地に龜光山金泉寺及び式内社岡宮あり。また東方板西村大字川端には大唐國寺あり。太寺より讃岐街道を少許南に下れば、地は有名なる阿波藍の産地にして、一望緑色の藍の遠く相連れるを見るべし。藍園の地名を得たるも、蓋しこれが爲めなり。更に大寺より讃岐街道を北すれば、上り一里にして大坂村あり。更に國嶺を踰え二里にして讃州引田浦に達す。この路は、文治元年、源義經の屋島なる平氏を攻めし時越えし山路といふ。
 莊嚴院地藏寺〔六字右●〕 松坂村大字矢武にあり。一に五百羅漢堂と稱し、また舊名を福聚寺(65)と呼べり。天台宗の巨刹にして、もと弘法大師の草創といふ。三好氏の當國を治せし比には、子院五十五を有し、西國第五番の靈場として、香花熾なる當國寺院中の第一位に居りしが、後、天正の兵燹に燒失し、更に後僧定有これを再興し、天明中、羅漢の木像五百を作りて長堂を營みこれに安置す。高さ人と等しくして、肥えたるあり瘠せたるあり、喜怒各様にして、一度この佛場を過ぐれば、必ず我が親の相貌に似たる者ありとて、稽※[桑+頁]膜拜、香を燒き、錢を散する者多し。葢し、また當國の一名刹たるを失はず。
 鍛冶屋原は松島村に屬し、撫養街道の一驛邑とす。撫養より此所に至る西稍南五里、徳島よりは西稍北凡そ四里とす。鍛冶屋原より柿原に至れば、撫養街道は此所に徳島市より來れる一路と相會す。
 ○中街道及び濱街道〔八字右●〕 徳島市より南方土佐に至る道を中街道及び濱街道の二に分つ。中街道は、同市より小松島、三谷を經て、那賀川の峽谷に添ひ、和喰、吉野、櫻谷、御所谷等を經、これより那賀川に離れ、人煙稀なる山地の間を過ぎて、土佐國香美(66)郡別府に達す。この間、山路崎嶇として半ば車を通ぜず。濱街道は徳島市より立江、岩脇、桑野を經由して、海岸の一名邑由岐に至り、これより概して海岸を縫ひ、日和佐、牟岐浦、淺川浦、宍喰等の諸名邑を經て、土佐安藝郡甲浦に至るものなり。徳島よりの里程は約二十四里とす。
 徳島市の東南富田山の一端勢見の忌部社を右にして南すれば、暫くにして勝浦郡に入り、西須賀の一邑に達すべし。これより一路は岐れて勝浦川の岸に沿ひ、勝浦郡中の一重要道路を爲す。一路に海岸に近く、忽ちにして那賀郡に入れり。
 小松島町〔四字右●〕 徳島市の南二里半にして、近時同市との間に輕便鐵道布敷の計畫あり。人口凡そ三千、勝浦郡中第一の名邑として、郡衙の設置あり。前には良好なる小灣を展開し、船舶常に櫛比して汽笛の音日夜に絶えず。街は亦西に長く、南北に短く、家屋やゝ整齊なり。
 日峰〔二字右●〕 小松島町の南、大字|中田《ちうでん》の海岸に聳立し、登路頗る險難なり。山巓は四方絶壁にして處々に松樹の盤回するを見、眼下には波濤の澎湃たるを開く。而して小松島(67)の粉壁は美しく夕陽にかゞやきて、宛然活畫を見るがごとし、山上に日峰權現《ひのみねごんげん》の社あり。當國名所圖會曰『日峰の眺望は小松島浦なり。根井横津の濱、兜島、和田の浦邊に網をひき釣もたるゝ海士小舟、霧たつ秋の夕暮に渚におつるかりがね、霞みわたれる春の晨にながめやる遠近の風景いとおかし、往時讃岐の屋島にて合戰ありし比、源家の兵船この兜島に着し、義經公風波の海上に疲れ給ひける容貌の凹石の水にて見給ひければとて、鏡石と名くるあり、そこに駒立石あり、公この地の名を浦人に問ひ給へば勝浦と答ふ、公喜び給ひ、田野村思山寺に入らせ給ふとなり、』今、なほ辨慶の書ありとぞ。(【その他、源廷尉の駒を繋ぎしといふ古松ありしが、今、枯れたり】)。
 勝浦〔二字右●〕 日峰山下は即ち有名なる餘戸の浦にして、源廷尉が元暦二年二月平氏追撃の爲め、暴風を犯して上陸したるの地、その西芝生の旗山は、かれがまづ旗旒を樹てさせたるところなりといふ。義経は阿波國守の軍を此所に破り、板野郡の大阪山を踰えて讃岐の屋島に攻め入りしなり。平家物語「勝浦合戦の事」に曰、『明ければ、渚には赤(68)旗少々ひらめきたり、判官、すは我等が設けをばしたりけるぞ、渚近くなりで、馬とも追ひ下さんせせば、敵の的になりて射られなんず、渚近くならぬ先に、船ども乘り傾け/\、馬ども追ひ下し/\、船に引つけ/\游がせよ、馬の安立鞍爪乾きたる程にもならば、ひた/\と打ち乘りて、駈けよ者どもとぞ下知し給ひける、五艘の船には、兵糧米積み、物の具入れければ、馬數九十餘疋ぞ立ちたりける、案の如く渚近くなりしかば、船とも乘り傾け/\、馬ども追ひ下し/\、船に引きつけ/\游がす、馬の足並鞍爪乾きたる程にもなりしかば、ひた/\と打ち乘りて判官五十餘騎、をめきて先をかけ給へば、渚に控へたりける、百騎ばかりの兵共、しばしもたまらず、二町ばかりさと引きて控へたり、判官淆に上り、人馬の足を体めておはしけるが、伊勢の三郎義盛を召して、あの勢の中にさりぬべき者あらば、一人具してまゐれ、尋ぬべき事ありと宣へば、義盛畏り承りて、百騎ばかりの勢の中に、只一騎かけ入りて、何とか言ひたりけん、年の齡四十ばかりなる男の、黒革威の鎧着たるを、甲をぬがせ、弓(69)の弦《つる》はづさせ、降人に具して參りたり。判官あれは何者ぞと宣へば、當國の住人阪西の近藤六親家と名のり申す、判官假令何家にてもあらばあれ、しやつに目離すな、物具な脱かせぞ、やがて屋島への案内者に具せんするぞ、北げて行かば射殺せ、者どもとそ下知し給ひける。判官、親家を召して、爰をは何といふぞと問ひ給へば、勝浦と申し候ふ、判官笑ひて色代など宣へば、一定動浦候ふ、下臈の申しやすきまゝに、かつらとは申せども、文字には勝浦と書き候ふと申しければ、判官斜ならずに悦び給ひて、あれ聞きたまへ殿原、軍しに向ふ義經が、勝浦につくめでたさよ、若し此邊に平家の後矢射つべき仁は、誰があると宣へば、阿波の民部重能か弟、櫻間介能遠とて候ふと申す、いざさらば、蹴散らして、通らんとて、近藤六が勢の百騎ばかりか中より、馬や人をすぐりて、三十騎ばかり、我勢にこそ具せられけり、能遠か城に押し寄せて見給へば、三方は沼、一方は堀なり、堀の方より押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける、城の内の兵ども、唯射とれや射取れとて、さしつめ引きつめ、散々に射けれども(70)源氏の兵ども是を事ともせず、堀を越え、甲のしころを傾けて、をめき叫びて攻めけれは、能遠叶はじとや思ひけん、家子郎共に防矢射させ、我身は究竟の馬を持ちたりければ、それに打ち乘り希有にして落ちにけり、殘り止りて防矢射ける兵共二十餘人が首切り懸けさせ、軍神にまつり、よろこびの鬨をつくり門出よしとぞ悦はれける。』
 丈六寺〔三字右●〕 小松島町の西方約半里、多家良邨大字本庄にありて、勝浦川に臨む。曹洞宗の巨刹にして、白鳳元年、天眞正覺尼これを開始し、後、永正六年、勝瑞城は細川守成これを重興す。山門、回廊、鐘樓、觀音堂、秋葉祠、大殿、書院等あり。結構宏壯にして規模甚だ大なり。毎歳舊一月十七、十八日を觀音會となし三月十七日より二十一日までを法華經千部會となし、十月十四、十五日を以て開山忌并びに秋葉權現の縁日となす。收藏の器具書畫等また尠少ならず。なほ、寺より南一里の宮井に中津峰の觀音堂あり。
 勝浦川は、郡の西界高根山の南腹に發源し、東流また北流し、小松》町の西を過ぎ(71)勝浦村に至りて海に潮す、流程凡そ十五里、沿岸に横瀬、沼江等の名邑あり。横瀬以下舟楫を通ず。小藤博士曰く、『勝浦川の上流に棹せば、飯谷、沼江間は危岩兩岸に屹立す、鳴瀑十余丈、水柱を縱にす、この地は太古紀の角岩にてこれを採り坂府に輸す、本邦内普く人の使用せる火打石の元此所にあり。尚ほ舟を進めば三溪村に至る。字横瀬津は同村に屬す、勝浦川の舟運此より通ずるを以て、山村各種の産物輻湊す。山村多く木炭を出し石灰を算出せり。また谷間には中古紀の泥板岩、砂岩累層し、石炭を挿入せり、正木村その最なるものなり、而して當村の北に懸崖絶壁白色を呈するは觀頂瀑にて、爰に深窟あるは石灰石に普通なるものにて、谷を隔つる南の大龍寺山と好く肖似す。本庄より宮井へ至る一里、飲谷へ至る二里、飯谷より沼江へ至る一里とす。』
 星岩屋〔三字右●〕 生比奈村大字星谷の山中にあり。古木葱翠、石皆透徹りて鏡の如し。瀑布あり、岩屋瀧と稱く。高さ凡八丈四尺、幅四尺、勝浦川に注ぐ。傍に石窟あり、高(72)さ五丈餘、弘法大師星を祈る所と傳説せり。
 鶴林寺 同村大字|生谷《イクタニ》に鶴敷地にあり。靈鷲山寶珠院と號し、勝浦川の邊とす。古義眞言宗寺にして延暦十七年、桓武天皇の勅により僧空海これを創建し、同人作地藏菩薩像を本尊とす。佛殿堂宇數多ありしが、近世、火災に罹りて燒亡せしは惜むべし。
 鶴林寺の西に横瀬津あり。三溪村とも稱し、勝浦川舟運の起點にあたれるを以て、山村各種の産物輻湊し、自から一種の繁華を呈せり。この附近より徳島地方に輸出するものは、木炭及び石灰をその重なるものとす。地の西方に枝立權現あり。
 灌頂瀧〔三字右●〕 横瀬の西四里にして、高鉾村大字傍示に屬し、鶴林寺の奥院と稱せる慈眼寺の藤川山にあり。高さ四十六丈八尺、幅一間半の巨瀑は、絶壁の上より直下し、中間巌石に觸れて、瀑水飛散し、時に花の散るが如く、時に煙霞の立罩むるが如く、これに日光の映射する時は、絢爛閃※[金+樂]五彩を施し、觀るもの歎美せざるなし。土俗こ(73)れを不動明王す出現せるとなし、此の瀑布を一名御來迎の瀧と稱す。灌頂が瀧と稱せるも、弘法大師、此の瀑布にて灌頂したるをもつて、爾名づけるなりと傳ふ。瀑下は怪巌そばたち、谿水奔流し、四邊に櫻花楓樹多くして、春秋の二時は、更に美觀となす。こゝより峻阪を躋る八丁の所に不動堂ありて、不動明王を安置し、又三町西に十一面觀世音を安置せる本堂ありて、これを慈眼寺となす。明王及び觀世音の像は、亦是れ大師の刻める所のものなり。仰き瞻る絶峯の半腹に大きやかなる卒塔婆を樹て、大師の投けて建てけるものと稱す。側に石窟ありて、窟下に巨石隆起せり。而も滑にして攀づべからず。梯して登り、導者に伴はれて入るべし。導者燭を秉りて前だちて入る。入る事二十歩にして横さまに石出づ。形一の字の如し。鞠躬して入れば三個の石立ち、また側に二十五の石立てり。皆佛のことし。菩薩石と稱す。復進む四歩許にして、岩の螺あり。こも甚だ奇工なり。またすゝむ二歩、一石人立つ、普賢石と稱す。窮まるところ石面平なるを灌頂檀と稱す。奇状一々に枚へ盡くし難し。葢し、石人は生乳(74)石の大きく凝結したるものならんといふ。
 横瀬津より以西以南は、小山矮嶺の起伏して、また名勝の記すべきなく、五六里にして旭村に至り、一嶺を踰えて隣接せる那賀川の溪谷に通ず。福原村は地質學者の謂ゆる勝浦盆窪地にして重要なる化石の産出甚だ多し。
 再び小松島町より街道を東南に辿れば、那賀郡に入りてまづ立江村あり、四國巡禮の一札所なる橋池山地藏寺はこの地にあり。附近地方は縣下屈指の米産地とす。今津浦は街道の東方海岸に位し、信行寺、正圓寺、神應寺などあり。なほ、街道附近の宮倉村には和耶神社、春日部屯倉址などあり。羽ノ浦より那賀川を渡りて富岡町に至る。途上.古津村は足利義植の居館址あり。
那賀川は四國中吉野川に次げる大河にして、源を郡の西隅澁澤村の山奥に發し、吉野川と同じく縦谷を爲して、蜿蜒郡の中央を、ほゞ東に向つて貫流せり。流程凡そ二十八里、その舟楫を通ずるもの十五里、沿岸到る所に溪流の美觀を有せり。而して河の丘陵地を出でゝ平野に出づる邊は、土地豐饒にして、都邑發達すれど、漸く山に入るに從ひて、土俗邊僻となり、人烟また次第に稀少となる。中街道はこの流域(75)に沿ひて、和喰、吉野、櫻谷、御所谷等を經、これより川に離れて、人烟稀疎たる山間を過ぎ、土佐國香美郡別府に達せり。その間、山經崎嶇として、半は車を通ぜず。
 大龍寺〔三字右●〕 徳島市より濱街道を傳ひ、立江の一邑を過ぎ、漸く那賀川の峽谷に入れば大龍寺山は加茂谷村にありて、孤峯巍然として雲表に聳え、老杉蓊欝たる間に輪奐たる堂塔甍を並べたり。これ弘法大師が、桓武天皇の勅を奉じ、七尺の虚空藏菩薩を彫んで安置したる跡にして、山を捨身といひ、寺を大龍と號す。これ、大師が山中に棲ひし毒蛇を封じたるが故なりと傳説す。南北に深溪ありて今日何れも捨身と呼び、山中には四箇の岩窟あり、その一を龍の窟といふ。口徑一丈餘、入ること十歩にして深潭あり、深さ測るべからず。而して四方の岩面には、龍鱗の跡を看る。他の一を鐘の窟といふ。内に石あり、これを打てば鐘の響ありと傳ふ。山上には、行場あり。本殿以下重なる堂宇を列記すれば、三重塔、多寶塔、大師堂、中興堂、愛宕堂、毘沙門堂、(76)瑜祗堂、求聞持堂、龍王堂、鎭守堂、十王堂、護磨堂、鐘樓、經藏等あり。且、賽者多く、毎歳十二月晦日には通夜するもの凡て千人に及ぶといふ。蓋し、國内屈指の名刹なり。猶、二の加茂谷の附近は石灰の産出甚だ多し。
 和食村〔三字右●〕 大龍寺山を過ぎ、更に那賀川を溯ること一里にして、和食《わしき》の一邑あり。人口千餘を有し、地方的小繁華を成す。由來、この地は那賀川溪谷の山關とも稱すべき要害の地に衝れるを以て、往昔は豪族仁宇某世々これに居を構へ、長素我部氏の雄を以てしても猶ほこれを陷るゝこと能はず、元親自ら其女を納れて以て味方となしたることあり。なほ、この地より海部の日和佐に出づる間道あり。
 那賀川峽谷地方〔七字右●〕 和食より流を溯ぼれば、地いよ/\僻に、河床婉曲、道路險惡、殆ど車をも通ぜず。かくて和食より溯ること七理、是に至りて川は分岐す。一は東流と稱し、劍山の南にその源を發し、木頭、掛盤、岩倉等の僻邑を有せる一小縱谷をなす。木頭は茶を産するを以て著名なり。一は北川と稱し、土佐中街道の一路これに(77)沿ひて西に向ふ。即ち宇、北川の諸邑を經、日和田峠を踰え、土佐の別府に出づるものこれなり。この間は木頭上山分と稱し、海部郡に屬し、山路險峻にして、人跡稀なり。而も、地は劔山を隔てゝ祖谷と相脊し、深雲寒村の情態また彼地に異ならず。輸出物は唯僅かに木材あるのみ。猶、西宇の南方に當り、南川の流域に雨霧瀧あり。
 再び濱街道に戻り、立江より南東に進めば、宮倉、末廣、岩脇等の諸邑あり。中島は那賀川本流の河口に位し、人口三千餘を有す。良港にあらざれども上流より輸送し來れる木材米穀の賣買地として、商業自から繁盛なり。
 富岡町〔三字右●〕 那賀郡第一の都邑にして、中島の對岸、桑野川の那賀川に入らんとする所に位し瓦葺粉壁畫くが如き光景を呈出。人口は約六千三百許り。那賀郡役所以下の公衙あり。また一古城墟あり。これ、永禄年中新開忠之の據りし所にして、天正元年長曾我部元親の爲めに欺き亡され終りぬ。里程徳島市へ六里餘とす。小藤博士曰く、『那賀川の下流に於て桑野川と合する所に本郡の都會富岡町あり、之れ即ち阿紀灘最南の繁華閙熟の地にて、小松島と同じく魚介に富む、東は海にして那賀川の盡くとこ(78)ろは中島口にて、海門に四個の島嶼ありて、青島やゝ幅員廣し、猶、富岡は海部濱街道と那賀川街道との結合點なるのみならず、那賀川運漕の中央船場に當るを以て、物貨輻湊、昔細川の家臣新開氏世々この地に居城し、勝瑞の屋形を始め、吉野川域に居城する細川諸家臣と對峙し、阿紀灘南方に於て獨りその權勢強盛なりし由新開道善謀これ、大六寺に於て弑せられ、茲に到りて眷属湮滅せし以來城主なし。』
 石門〔二字右●〕 富岡町より一里餘を隔て、長生村大字大原にあり。兩崖恰も削りたらん如くにして、水其の間を過ぎ僅に路を通じて、入れば即ち平田中に開け、群山環匝す。行くこと三百歩にして、兩山又對立し、滄池其の間に湛へ、巨石ありて、水の中央に屹立す。高さ三仞許、山ます/\嶮しく、水ます/\深くして、路は東崖の半腹に通ず、これを過ぐれば、漑田凡そ數百頃あり。
 石門の他、その附近の名勝として。寶田村の東に隆禅寺あり。一に立善寺に作る。眞言宗にして、或は白鳳年間の創始とも傳説し、往時は伽藍頗る壯大たりしといふ。その他、長生村大字明谷に明谷寺あり。長生村(79)大字本庄の西、宮内村には式内八桙神社あり。桑野村は徳島を距る南二里にして、桑野川の上流に臨み、橘浦の東とす。海部濱街道はこの地を通ぜり。小藤氏曰く、富岡町より桑野川を溯れば、海部地方と吉野川との咽喉を爲す桑野村あり、昔、桑野氏、東條氏これに居城せり、山を隔てゝ東には橘湊港あり、南北山あり、東に開く一灣にて、港内廣く、鵜渡島、古勝島等海中に碁布す。この地方海藻の各あり、南方は陸頭遙か海中に突出し、椿村の盡くる所は蒲生田の岬と稱し、即ち紀伊の聞の御崎と相對し、阿紀灘の海門を爲す。
 橘浦〔二字右●〕 徳島市を距る二里半餘とす。海灣に臨み、汽船發着所あり。人口凡そ四千百餘、地に海正八幡社あり。また、浦の東北に津峰あり。南は椿浦に隣接す。
 津峰〔二字右●〕 橘浦の東北方|答浦《こたうら》に聳立す。麓より絶頂まで十二町、神祠あり、賀志波比命を祀る。古松老杉、巌罅に寄托す。皆千年外の物なり。湾内の島嶼、點々散布し各形勝を占む。眺矚佳絶、名勝圖會に、辨天島、長島、裸島、野々島、鰛《うるめ》島、高島、小勝島等の島々、海原に列らなり、瀧宮崎より海路橘浦につゞき、部崎《へさき》なる櫻が嶽は春に知られぬ雪を積み、濱の遠近に立ち並びて、鹽竈の煙は吹くことなき春風の姿をや見すらん、大潟、切戸の釣船、※[禾+向]浦《あこめうら》の漁など、何かは筆に及ぶべき、たゞ松島(80)をこゝに見る心地す云々とあり。其が諸島の位置及び形状に就ては、辨天島は、周回九十歩許にして、島中に辨天の祠あり。長島そが右にありて、形長く、偃せる如し、周回る六百歩許、小勝島、長島の右にありて、島最も大きくて周回千八百歩許あり。高島其が背にありて、是は周回千二百歩許、中島は、長島の前にありて、周回三十歩許なり。萬葉集、人麻呂の歌に「百傳《もゝつて》の濱のうらはを漕ぎ來れは阿波の小島は見れど飽ぬかも」とあるは、こゝの島々の風景を詠じたるならん。小島《こじま》は小島《をじま》と讀むべき乎。更に椿泊の入り江を隔てゝ、蒲生田の岬の沖一里十五町許にして、伊島あり。是は諸島中の大島にして、住民五百人あり。而も、岬とこの島との間には亂礁ありて、これを橋杭と稱す。舟行の甚艱む所といへり。この邊、海には鰹多くして、本郡産物の一たり。また椿泊に鎧石とて色紫石なる石を産す。硯と爲すに適せり。又、橘浦の篠阪よりも、竹葉石といふを出す。質竪く色蒼くして、竹葉の紋あり。又答島浦より水晶を出だす。啻に風景の麗はしきのみならず、土地の光輝を添ふるもの多しといふべし。
 
(81)〔阿波由岐浦、写真省略〕
 
 濱海道は中野、女枝、鉦打等の諸邑を經て海部に入る。海部郡は國内屈指の大郡にして、太平洋に瀕するものは獨り當地方に限れり。氣候、風俗、物産また他郡と其趣を異にし、阿波の他地方よりは寧ろ土佐に近似す。空氣の濕潤せる、降雨の多量なる、寒暑の激しからざる、氣質の素朴なる、地質の凡て泥板岩より成れる、皆相似たり。地貌も亦土佐の幡多安藝に均しく、高山峻岳なきも起伏常ならずして、頗る錯雜を極め、河流に一定の方位を見ず、正に一山路をなせり。物産には樟脳、椎茸、鰹節、青海苔、木材、雄村の砥石その他魚類に富めり。而して北方よりこの海部に入るに二路あり、一は那賀川を溯り、和食より日和佐に出づるものにして、一は桑野より松坂を越え、由岐浦に出づる本道即ちこれなり。由岐は古來四村より成る。北より來住せ殖民は、海部郡中始めてこゝに居を据へしなるべし。細川管領の時由岐某このちに居城す。その西に(82)木岐あり、一驛をなす。而して由岐、太岐兩浦共にこの沿岸の漁業地とす。由岐浦の南二里にして日和佐町あり。また同町の北方山中に上黒滝あり
 日和佐町〔四字右●〕 徳島市を距る十三里二十町餘とす。日和佐川の河口に位し、人口凡そ三千、海部郡第一の都邑として郡役所以下の官衙あり。而も、半漁半商の特色に富める名邑にして、人烟やゝ稠密なれど、郡の幅員に比すれば、規模小にして繁華とは見做すべからず。
 藥王寺〔四字右●〕 日和佐町大字奥|河内《かはち》にあり。眞言宗にして、醫王山无量壽院と號し、四國靈場二十三番の札所とす。開基行基菩薩、中興僧空海なり。後、火災に罹りしを、近世蜂須賀家に於て修營す。大塔の本尊千手觀音及ひ脇士二十八躰は行基の所作といふ。磴道を登ること凡そ五十歩ばかりにして、境内に至る。前は南海に對ひ、後は高嶽に接し、左は廣瀬川、右は長路山にして、眺望極めて佳趣あり。また、當山より西方六十町にして玉厨子山あり。此所にも又一堂を安んじて、當山の奥院と稱す。幽(83)邃の境地にして、眺望も佳し
 日和佐より牟岐浦に至る四里、路は海を離れて丘陵の間を行く、牟岐浦は人口二千餘、海部郡中やゝ富める一村にして、漁業やゝ盛なり。而も、海中には大島、津島、出羽島等の島嶼散點し、風光明媚なり。
 八阪八濱〔四字右●〕 牟岐浦より淺川浦までの海岸二里半程の所に、大阪、内妻の濱、松阪、古江の濱、芝朶阪、九島の濱、福良阪、福良濱、萩阪、しろつほの濱、鍛治屋阪、苧綱の濱、楠阪、桶島、濱、借戸阪、三浦の濱の即ち八阪八濱あるをいへり。山は峻嶮にして、阪路崎嶇たり。海は渺茫として、少し風あれば、激浪來りて人を捲き去る虞あり。即ち山路沙路相半す。北越の「親知らず子知らず」の嶮所も、こゝには優らじと想はるゝほど、實に當國第一の至嶮たり。されば又山海の眺望も佳絶にして、牟岐浦の沖に、出羽島、津島、小津《こつ》島、大島等の諸島角列し、釣を垂る、海士、島かくれ行く帆舟の眺めなど畫がくが如し。出羽島は、周圍二十五町四十間、大島は、二里四町五十間ありて、兩島とも人住めり。曾て長曾我部元親の土佐よりこの八阪八濱に入(84)るや、此處に戌兵なかりしを喜び、もし此處を扼されなば我事去るべし、今一兵の守るなき阿讃は最早わが掌中にありとて、酒を岩上に酌みて喜びしといふも亦宜なるかな。
 鞆浦〔二字右●〕 淺川より南すること一里、海部川の河口に鞆浦あり。一に那佐港といふ。那佐灣の狹長なる入江長く灣入して自から良港をなす。船舶の來り泊するもの多く、繁華なる港津を形成せり。人口凡そ二千餘、地に海部城址及び立岩の勝あり。
 海部川はその源を川上村大字平井の西家峯に發し、東南流すること凡そ八里。鞆浦に至りて海に注ぐ。上流に瀑布甚だ多く、土人稱して九十九瀑といふ。中に轟瀧最も大にして、直下數百仞、國中第一の巨瀑と稱せられ、き勝比すべきなし。
 川又銅山〔四字右●〕 平井村字川又に屬し、深山窮谷の間にあり。明治二十二年以來の稼行にして、鑛石の含銅量は百分の三を通常とすといふ。
 轟瀧〔二字右●〕 海部川に沿ひて、那賀川峽谷の土佐中街道に合せんとする道路を、小川村よ(85)り西折すれば、海部川の止流に轟瀧あり。川上村大字平井に屬し、瀑名を一に鰈瀧といふ。實に當國第一の瀑布なり。もと、海部川は、水源より此所に至るまで、九十九瀧をなす。その中に大なるもの八ありて、上轟の瀧、石瀧、横の瀧、鳥還り瀧、圖瀧瀧千淵瀧、船の瀧、十兵衛瀧といふ。右は、或は五丈、或は十丈の高さなれど、こゝに至るや、十九丈五尺、幅八間の巨瀑となる。瀑水は石に遮ぎられ、二道になりて轟き下たる傍に、曾孫ほどなる小布瀑相並びて墜ち、石崖左右より抱き、其の下深潭をなし、鰈谷に注ぎて、海部川出づ。土人奥山より木を伐り出だすに、此の瀧より落とし流せり。瀑布の傍に小祠あり、轟明神と名づく。老杉環匝し、蓊欝として日光を見ず、四邊濕氣ふかくして水蛭多く、人に附きて噛む。防具なくしては至り難し。畢竟こゝの瀑布は、奇は實に奇なるも、直下する聲百雷の如く、水煙迸り散り、奔流亦怒號して、怪巌峙ち、左右翠壁高くして、一見膽裂け躰戰へ、觀望の興は心の畏懼に歸るを促して、永くは見るに得堪へ難し。
(86) 鞆浦より濱街道を傳へば凡そ二里にして.宍喰に至る。
 宍喰浦〔三字右●〕 この浦は國の最南端にして、その先光景は凡て牟岐、淺川、鞆の諸浦に類す。人口約干五百餘、地に七名石、圓通寺、十二社、八阪神社等の名勝あり。中、八阪神社はこの浦の北大字久保村に鎭座し、大永中の再營といふ。
 久尾銅山 宍喰村字久尾に屬し、宍喰浦を距ること西北凡そ四里半といふ。
 宍喰浦より行くこと凡そ半里にして土佐國との墳界に達す。
 ○吉野川流域地方(徳島鐵道及び撫養、伊豫兩街道)吉野川は源を土佐の矢筈山に發し、伊豫より來る伊豫川を合せ、東方に流れて阿波を縦斷し、徳島市の北に至りて海に朝す。流程凡そ三十一里餘、舟楫を通ずる所二十五里餘なり。然も、この河の當國を利する事は甚だ大にして、或は沿岸地方に灌漑して土地を肥沃ならしめ、或は舟楫の利便を與へ、また有名なる阿波の藍は實にこの河の沿岸地方より産出す。河はまた古來板東太郎の利根河、筑紫次郎の筑後河と相並びて、四國三郎の名を以て稱せ(87)らる。實に四国第一の巨川なり。而してその流域附近の交通路には、まづ徳島驛を起點として麻植郡の舟戸驛に至る二十餘哩の徳島鐵道あり。同じく徳島市より起り、西方、石井、手島よりこの川の南岸に出で、鴨島、川島、穴吹、貞光、辻等川の南岸地方を經て池田に達し、こゝに吉野川を渡りて全く川に離れ、佐野を經て伊豫國宇摩郡葱尾に達するもの、これを伊豫街道と稱し、徳島市より葱尾に至る凡そ二十五里餘を有す。而してこの街道と北に川を隔てゝ相並行せる一路を撫養街道と呼ぶ。即ち撫養町より、姫田、大寺、脇町を經、池田に至りて前路に會合するものなり。なほ、この街道の箸藏附近より北に岐れて讃岐國に入る一路あり。池田より川を渡り、白地《しらち》より猶ほ川に沿ひて南する一路は、これを土佐西街道と稱す。即ち吉野川の四國山系を横斷して流るゝ峽谷の間を過ぎ、大崩懷、小崩懷の奇勝を經て、土佐國長岡郡大久保村に達するものにして、池田より國境に至る五里餘、徳鳥市より算すれば三十里餘といふ。
(88) 山崎氏等地志曰「吉野川は伊豫・土佐・阿波の三國に跨れる大河にして、本國の北半分は全く其流域に屬す(約五割八分)、源を伊豫・土佐の界なる瓶が森(石槌山の東方)に發し、土佐の北境なる石槌山脈の南麓に沿ひ、縱谷をなて、東方賢流れ、長岡郡(土佐)大久保に至り、南北に走れる地盤の裂線に沿ひ、急に北に折れて横谷となり、阿波國に入る、是より一大峽谷をなし、大久保より阿波國三好郡白地に至るまで、二十六粁の間、幅狹くして河床深く、兩岸の絶壁高く聳え、危岩削立して有名なる峽流をなし、大崩壞小崩壞等の險所を作る、且川床の勾配甚だ急にして、殊に阿波の國境より三好郡川口村に至る間の如きは約十八粁の間に於て、六十七米の落差(傾斜約二百七十分の一)あるを以て、激流奔湍多く、峽流の光景最も壯絶なるを見る、此峽谷を流るゝ中、一大支流伊豫川(上流銅山川)は西方伊豫より來り、川口に於て左岸より入り、松尾川(又|祖谷山《いやゝま》阻)は東南より來り、大利に於て右岸より本流に曾す、斯くて川は倍々其水量を増し、白地に至り、西方阿波・伊豫の界より來る縱谷佐野川の水を容る爰に於て川は讃岐山脈の山脚に衝突し蝕触作用を逞くし兩岸には侵蝕性段丘を遺し又少しく北に彎曲し、やがて東に折れ愈其大さを増し、讃岐山脈と石槌山脈との間に横はれる一大縱谷の中を流れ、走路逶※[しんにょう+施の旁]幾多の小屈曲をなすも、其の走路の大勢は縱谷の軸線に沿ひ東微北を指し、遂に下流に於ける三角洲平野に及び爰に初めて幾條の分流に岐かれ紀伊水道に朝せり、白地以下川は南北の兩山脈より發する多くの支流を合すれども、其の多くは急流にして、降雨の際には土砂を流すこと夥だしく、爲に本流と合する所には砂礫より成る沖積的扇状地を作り、廣き荒蕪地を形成し、且つ本流の沿岸及び河底にも數多の廣き砂礫洲を生じ、川は數多の分流を派し、或は分れ或は合し、水路爲めに錯雜を極めたり。池田・辻・半田等の諸邑を
 
(89)〔吉野川、写真省略〕
 
過ぎて後ち川は貞光に至り右岸より一宇川を容れ、更に脇町の南を流れて穴吹に至り、南方より穴吹川北方より拜原《はいばら》川を合す、川は益々逶※[しんにょう+施の旁]東走して右岸より川田山川・左岸より日開谷川・宮河内川等の細溪を容れ、分流の離合愈々多く、幾多の砂洲を其間に挾み、遂に祖母が島に至り、二大分流となる、南なるは即ち吉野の本流にして別宮川と稱せられ、北なるを北川とす。本流は高崎に至りて西南より來る一大支流鮎喰を呑み、徳島市の北郊を流れ、北川は北に向ひ、一大彎曲をなして、東に轉じ、再び分れて廣津川及び今切川となり、遂に何れも紀伊水道に注ぐ、河流の全長凡そ百八十五粁、其の中本國に屬するものは約百十粁とす。本州の流城は四國主山脈の略々全部に亘り、高峻なる諸山岳の水多く此れに注ぐを以て、夏秋の際往々暴漲して水害を釀し、且つ幹流の交通要路に當る所にして、架橋の難きに由り、代ふるに渡船を以てせる不便なきにあらざれども、美馬郡半田村附近よ(90)り以下五十八粁の間舟運の利甚だ多く、尚ほ其の上流に於ても、木材運搬線として、主要なる脈路をなし、且つ其の沿岸には廣大なる沃野を作り、殊にに本州の三角洲たる徳島市附近の平地の如き本國中人事の活動最も盛んなる地域を形成せり、唯、河水土砂を流すこと多く、爲めに河口水淺くして砂洲に富み、大船の出入に不便なるは、本流地方の發達上大に不利なる點なりとす。
徳島鐵道は徳島市より吉野川に沿ひて西北に走り、現今は船戸驛に至る二十一哩三十九鎖の間を開業す。元來明治三十年六月下附せられたる免許状には、徳島より同國下川田に至り、讃岐國琴平より土佐國下高知を經て須崎に至る鐵道に連絡すべき目的を以て計畫せられたるも、工事困難にして豫定の工費を以て、竣工の望無く、今は未だ計畫線の半途まで開業するのみなり。故に開業全線の治道には著名の都會無きも、四國三十三番の札所なる寺院多く、從つて順禮者の參詣人多し。車驛には、徳島、藏本、府中、石井、牛島、鴨島、西麻植、川島、學、山崎、湯立、河田、舟戸の各驛あり。
 藏本驛〔三字右●〕 當驛より新居不動へ十町、峯藥師へ十三町、徳命臥龍梅へ一里半とす。驛(91)より次驛府中に至る間に鮎食川あり。
 府中驛〔三字右●〕 この地は古代國府を置かれたる故跡とす。驛の附近に四國靈場の札所多し。その中の第十三番なる大日寺へは三町、同第十四番の常樂寺へは二十三町、同第十五番の國分寺へは十六町、同第十六番の觀音寺へは七町、同第十七番の井戸寺へは六町とす。而して、此等の五寺は、各札所中にてもことに參詣者多く、毎歳陰暦三月二十日、二十一日の兩日間は五ケ所參りと稱し、衆庶の巡拜するもの多し。
 國府址〔三字右●〕 今、府中村の東に殘り、開きて田となせど、御所池と名くる池のみ草生へ村民敢て墾破せざる由、阿波志に見えたり。和名抄曰、「阿波國々府、在名東郡、本是名方郡也、行程上九日下五日海路十一日。」
 國分寺〔三字右●〕 府中停車場の南十六町にあり。天平中、聖武帝勅建の古刹なれど、今、甚だ衰へたり。なほ、北數町に國分尼寺址あり。倉比賣祠なりと説く。
 一宮城址〔四字右●〕 國府村の南にして、鮎喰川の上流なる一宮村にあり。永禄年中、一宮成(92)助の占據せし地にして、蜂須賀氏の阿波に鎭ずるや、始めはこの城を居城とせりといふ。村に、名東郡の一宮なる式内八倉比賣祠あり。
 石井町〔三字右●〕 府中の次驛を置く。徳島驛より距離六哩二十九鎖なり。町は名西郡中の一名邑にして、郡役所その他の官衙の所在地とす。附近に法華寺(國分尼寺)址、武内白鳥神社などあり。また、西方|浦庄《うらのしやう》村大字諏訪に式内|名方《なかた》神社あり。當車驛より高瀬の渡津へ一里、曾我神社へ十五町、童學寺へ二十町、板野郡松阪の壯巌院地藏寺(前出)へ約三里とす。童學寺は、城内《じやうのうち》村にありて、僧空海の遺跡を傳ふ。
 建治山〔三字右●〕 由來、名西郡の大半は山岳巍々として、平地に乏しく、其中央を鮎喰川南より北に流る。郡中の高山に、建年山・燒山寺山。高根山等あり。建治山は吉野川流域に近く、山中に建治《こんぢ》の瀧あり。石井町を距る南方三里餘とす。阿波志曰く、「建治山、高さ八百歩、即ち建治寺の舊址なり、上に石洞あり、瀑布あり高さ若干丈、左右皆な削壁にして、草木蒙茸せり上に坦なるものは護摩壇となす、下に鬼谷、染溪等あり、並に(93)頗る幽邃なり。」
 雨乞瀧〔三字右●〕 神領村にあり。雄雌二瀑に分れ、頗る奇觀といふ。また、神領村内には上一宮と呼べる舊祠あり。一に田口神と稱し、式内埴生|女屋《めや》祠はこれなりといふ。なほ、村に次郎銅山あれど、現今は休坑に屬せり。
 燒山寺山〔四字右●〕 この山石井町を距ること六里餘にして、鮎喰川の源なり。本郡と麻植郡との境界に聳立し、山中には名刹|燒山寺《しやうざんじ》あり。摩廬山と號し、弘法大師作虚空藏菩薩を本尊とす。また、山麓上分山上村の山中に神通瀧あり。
 石井の次驛を牛島と爲し、その次驛に鴨島あり。牛島より十二町を隔つる上浦村には名高き競馬場あるも、これを公開するは毎年春秋二期と八朔とのみ。鴨島よりは弘法大師の開基なる四國十一番の礼所へ約十六町を隔つ。骸所は境内幽邃にして、遊覧者の杖を曳くに適せり。また、鴨島の次驛、西麻植驛よりは四國十番の札所なる切幡寺へ一里餘あり。寺は弘法大師の開基にして、寶什多し。その他、鴨島驛より一里二十町にして、持部銅山〔四字傍点〕あり、名西郡に屬す。また、本郡東山村字菅草には東山銅山〔四字傍点〕あり。山崎氏等地志曰、「特部銅山は、採掘面積五十萬一千七百餘坪、傳説に據れば、今を距る二百餘年前に於ては、五郎鑛山と稱し、東山及び神領鑛山と共に呵波三大鑛山の一に數へられ、一時盛大を極めしといふ。去る明治三十九年の採鑛高は六百十八萬二千(94)九百五十貫なり。」又曰、「東山銅山に、昔時大都鑛山と稱し、比較的舊坑なり、明治二十年以後、專ら洋式の採鑛法を用ゐて以て今日の盛況を見るに至れり。」
 川島町〔三字右●〕 西麻植の次驛を置く。豫土街道上の一驛次にして、人口凡そ三千、麻植郡衙、區裁判所、税務署等の所在地なり。鐵道、徳島を距る十四哩十鎖、里程徳島を距る五里三十五町とす。名勝には停車場より五町に古城山あり、八町に虚空地藏堂あり。
 川島の次驛を學となし、驛より八町に、神代、釆天照大神の隱れさせ給ひし舊跡と傳説する岩戸神社あり。學の次驛山崎よりは螢狩の名所なる螢橋へ五町を隔つるに過きず。夏期納凉の適好地なり。
 忌部神社〔四字右●〕 山瀬村大字山崎の忌部山にあり。これを聞く本郡は往昔天富命と天日鷲命とが共に此所に麻穀を植えたるの地にして、麻植の郡名またこれに因りて起れりと聞く。而して、忌部氏の族は本郡に蕃息し、その遺跡は到るところにあり。即ち土器《かはらけ》溪日鷲溪等これにして、その他古墳多く、古陶器を發掘すること往々にしてありといふ。
 東宮城址〔四字右●〕 山崎を距る南方三里の中村山にあり。土御門天皇の暫し坐せし遺跡にし(95)て、御泉と稱する泉、御埒と稱する所など、今に猶ほ現存せりといふ。
 山崎の吹驛を湯立となす。驛より二里餘に高越山あり。これより河田驛を經てこの鐵道の終點驛なる舟戸に達す。
 川田山銅山〔五字右●〕 湯立驛より南一里にして、三山村字川田】にあり。採掘面積十萬四千六百餘坪、明治二十五年の開坑にして、去る三十八年の製銅額九萬三千六百九十八斤なりといふ。
 久宗銅山〔四字右●〕 同村にあり。川田川の西岸に臨み、海面上百三十米の山腹に位す。明治二十五年以來の稼行にして、尤も運搬の便に富む。その他、本村附近に於ては多く紙を産し、ことに雁皮紙に名あり。
 高越山〔三字右●〕 川田村の西にして、吉野川の南に聳立す。一名を衣笠山または摩尼|珠《かうづ》山、阿波富士と稱し、山上に伊弉諾神社あり、その下に高越寺《かうづじ》あり。櫻花の名所にして、麓より一里餘の間、櫻樹道を挾み、風光絶佳、恰も吉野の花を此所に移したるが如し。(96)山頂の平坦の地を寒風と稱し、古櫻樹多く、眺望また甚だ佳なり。
 劔山〔二字右●〕 は四國第一の高山にして、中帶山脈の主峯なり。海拔二二四二米、巍然として雲間に聳ゆ。此山に登るには、阿波鐵道の山崎驛より南し、中村山を經て、穴吹川の峽谷に添ひ、木屋平村に至り、これより川上を過ぎ、一の峠二の峠三の峠を經て絶頂に達す。木屋平村より四里十八町なり。山は麻植・美馬・那賀・海部の四郡に跨り、山頂に一小祠あり、劔の社と稱す。安徳天皇の劔を祀れるより其名を得たりといふ。眺望の雄大なる、四國の群山皆脚下に朝す。阿波志曰、「劍山は山甚だ靈秀にして周圍無比なり、諸郡の山川此よりして分る、絶頂に石あり、寶藏といふ、亭々として傑れ立つ高さ五丈、四望廣濶、群峰下にあり、委く培樓の如し、西南に三石あり、方正にして卓立す太郎笈といひ、次郎笈といふ、また行くこと三百歩にして、石あり、削成せるが如し、不動石といふ、高さ二十五丈。」
 麻植郡の北吉野川を隔てゝ阿波郡あり。北に北帶山脈を帶び、吉野川流域に一帶の平(97)地を有す。撫養街道は板野郡より來り、豫土街道の其南岸を縫ふと均しく、川の北岸を縫ひて西に向ふ。八幡・香美市場。西林等は其街道中の名邑なり。阿波郡役所は香美市場〔四字傍点〕町にあり。町は人口四千餘を有し、郡中の一小邑を成す。武内杉尾宮あり。地名辭書曰く、「岩津は林村の前にあり、吉野川の急灘にして、怪石錯峙し、その奇異なるもの十有三あり、灘の兩崖、峻峰相對して門を成す、南は即ち高越山にして、北を三頭山《みかしらやま》となす、岩津より吉野川の河口|別宮《べつぐう》浦まで凡そ十里とす。」
 鐵道の終端驛舟戸驛より豫土街道を西すれば、一里にして穴吹の一邑あり。穴吹の西に三谷村あり。一書曰「三谷村は吉野川を隔て脇町の南にあり、天正以來、邦の大夫稻田氏の采地に屬し、人口二百、南に峻嶺あり、溪あり大谷と喚ぶ、その流屈曲、怪巌あり、瀑泉懸焉、百々瀑と稱す、その水綏々として直下し、眞に幽麗の地なり。」
 脇町〔二字右●〕 撫養街道の要驛にして、舟戸を距る一里、徳島を距る十里十六町とす。吉野川の北岸に位し、人口三千餘、推して美馬郡中の名邑となすべく、鹿屋櫛比、人烟稠密、美馬郡役所の所在地なり。、町に上野八幡宮あり。俗に妙蓮權現といふ。一書曰、「上野八幡宮は伊弉册尊を祀る、この地や高陽爽※[土+豈]、西南に友内山を望み、東南高越山(98)を望む、山勢嵯峨、樹木千草、吉野川その下に流る、水光瀲※[さんずい+艶]、山を映發して畫くが如し、當にこれ冉尊所住のところなるべし」小藤氏曰く、「撫養より吉野川を溯れば十里餘にして脇町あり、讃岐より曾江山越を經て南に下ればその山口に當る、その地四國爭亂の世は頗る要害の場所にして、その位置吉野川の半途にあれば、今日も交通の要路に衝りし上道(【往昔吉野川を經て土佐に達す勅使道を上道とし、海部を經るを下道とす】)の驛路なり。町は吉野川畔の階臺やゝ高き所にあれば家街幅狹し。南を望めば前に四國三郎流れ、川舟の便宜あり、三時間にして徳島に達するを得。物貨運荷の運搬は主として舟棹に任す。」煙草を特産とせり。
 脇町より曾江山(この山中より磁器の原料たる陶土を産出す)を經、清水越を踰えて讃岐に出づる一路は、車を通ぜずと雖も、行旅少なからず。美馬郡は國中の大郡にして、北は北帶山脈蜿蜒し、南は山脈嶮峻を極め、中央、吉野川の灌漑する狹長なる地方にやゝ平坦なる耕地を認むるのみ。而してこの流域の北岸を撫養街道、南岸を豫土街道走りたり。その前者には前記脇町の他、岩倉(山中に瀑布あり、また大龍寺と稱する佛刹あり)、郡里、重清(天津賀佐比古祠あり)三邑あり、後者には貞光、半田(地に有名の漆工匠大久保氏ありまた天神丘に塚穴あり)の二邑あり。
(99) 貞光町〔三字右●〕 吉野川の南邊にして、同川の支流貞光川の南岸に臨む。貞光川に沿ひて劍山に登攀せんとするものは、この地より南すべし。
 忌部神社〔四字右●〕 貞光町の南二里許りにして、貞光川の上流地方なる端山村にあり。國中有名の古祠にして、忌部氏の故跡とす。
 鳴瀧と土釜〔五字右●〕 貞光川沿ひて南に山路を辿れば、一宇村に一宇山聳立し、その猿飼と稱する地に有名なる鳴瀧の奇景あり。瀑、高さ三十六丈、幅十二間、三段となりて瀉下し、巖石に激し、恰も百雷の墜つるが如く、壯觀容易に形状すべからず。更に、此より南する數百歩にして、土釜《どかま》と喚ぶ奇勝あり。一宇川の渓流こゝに至りて懸倒し渓流巖間を穿ち、窪めて、形釜の如くになりたる碧潭大小三個あり。渦を卷き、白波を飛ばせて流れ出づる形状、觀る者をして漫に毛骨を寒からしむ。よりて土釜を又怒釜に作る。釜中に水噴騰するに似たるを以てなり。阿波志曰「一宇山、山頗る峻拔、壘※[山+章]金巒、不可窮盡、中有一宇川一條、其南北往々有聚落七十有二、大螺、在一宇川西崖、(100)以形似名、色蒼黒、高數十仞、形圓而頂炎、崖巖嶮絶、下幅不測、過者毛起。又曰、鳴瀑在西端山猿飼名、絢爛如、虹、下有石潭、洞徹見、土釜潭、在猿飼名南、一宇川至比倒懸、穿爲大淵、怪巖之間、白波騰、濶三十歩許、名曰二釜、濶四歩許、其北又有澄潭、名曰三釜、此間兩畔高崖、例懸其中、聲殷々如雷、蜂※[穴/果]祠、在西端山宮平名、濕布上懸、俯瞰湍渓、闔山第一壯觀、其側多蜂房其上盤石二、各方一丈、似古塚。」
 前記一宇川の溪谷と祖谷溪との間は、中帶山脈の最も險峻なる山嶺西南より東北に横斷し、西南は劍山より丸篠山・黒笠山・矢筈山の諸峰を起し、三好郡の諸山嶺に連亙す。丸篠山と黒笠山との間に、稍々低き鞍部を爲せるものを大島峠といふ。これ一宇川の溪谷より阿波國中の別天地なる祖谷溪に通する山路なり。一宇谷の一宇奥山より祖谷溪の谷山に至る、里程約四里なり。
 祖谷山〔三字右●〕 は海拔二千四百尺、四面山壁を廻らし、南北七里、東西十三里、南は土佐に界す。遠く塵寰と絶ち祖谷川の峽谷に沿ひ、左右に東祖谷村、西祖谷村あり。又これを小別して今窪・石脇・元井・京上・落合・谷山等の諸部落に分つ。戸數九百、霧厚く雲(101)深く、殆ど太古の趣を成す。而して劍山の麓那古呂谷に發したる祖谷川は逶※[しんにょう+施の旁]として此間を西流し、兩岸の絶壁削るが如く、嶮峻殆ど状すべからず。
 祖谷の蔓橋《ツルハシ》〔五字右●〕 此絶壁の間に架せられたるもの、この奇橋の數上下五六、其の最も大なるものを善徳橋と爲す。幅四尺、長さ三十三間、水上より高きこと十八丈なり。其構造は長さ五六尺の木を二(ツ)割にして横になし、蔓を幾條となく糾ひて經となし、布を織るがことく粗く編みで南岸より北岸に至る。飛騨白川の釣橋とは稍々其趣を異にせり。此の祖谷山開山は天地陰陽に形とり、地方を東西に分ち、巡囘の月數を表し東は十二名に定め、月の中節二十四季を形どり、西に二十四名を定む。故に三十六の村落あり今に至るまで皆村に名の字を附す。
 舊家七家〔四字右●〕 阿波國司小笠原(三好家祖)の後統にして、西祖谷村の阿佐某なるもの、三階菱の旗を傳ふ。何れも天正年中の殖民と覺しく、爾後租税諸役を免かれ、只兵役に服するの義務を有するのみにて、全く別天地の生活を送れり。從つて外界の文明の(102)感化を受くること稀に、太古の遺風を存し、其の舊家七家をば御屋敷と稱して尊重せり。住民の性質は素朴温順にして、山に生ずる茶と葉煙草とを遙々貞光地方に持ち出でゝ物と換へ平和なる一生を送れり。本邦|深山《みやま》には往々此地の如きあり。肥後の五箇庄、下野の栗山郷、信濃の秋山のごとき、皆是類なり。而して此等地方の民が皆平家の後裔と稱するは一奇とすべし。
 谷道銅山〔四字右●〕 は東祖谷村にして、赤見嶺の東北に位し、海跋千餘米の山腹にあり。明治二十七八年頃の發見に係り、黄銅鑛を密雜せる黄鐵鑛を算出す。その金銅量は百分の四、五内外なり。また、西祖谷村と三好郡井ノ内谷村との境界千三百米の高地に腕銅山〔三字右●〕あり。黄銅鐵を主鑛石とし、その含銅量は比較的多く、百分の六内外なりといふ。
 貞光町より半田を經て、三好郡に入る。郡は國の西方に位し、四面山岳を以て圍繞し、吉野川は土佐より來りて北流し東流して郡の中央を貫流す。撫養街道は太刀野(この東、加茂野宮に瀧寺の勝あり)、足代(吉野川の景尤も佳趣ありといふ)、洲津を經て、川を渡りて、豫土街道に合し、洲津よりは別に讃岐街道を起す。豫土街道は辻(103)町を經て池田町に至り、急に南折せる吉野川を渡り、白地に至りて二路に岐れ、西するを伊豫街道となし、南するを土佐西街道となす、藤本氏曰く、「三野村大字加茂野宮に二瀑布あり、龍頭の瀧と名く、相距る凡そ三十聞、一は高さ四丈五尺、幅六間、一は高さ十三丈、幅一間同村の澁谷河原より地中を潜流し、清水に至りて湧出し竟に芳野川に入るなり、加茂村の大字加茂に、神通瀧あり、高さ九丈、幅三間、三庄村の大字毛田に、井口の瀧あり、高さ十二丈、幅二間、井川村の大字東井川に、來光瀧あり、二字に懸下し、上は高さ十八丈、幅一間、下は高さ七丈二尺、幅八間、佐馬地村の大字白地に呉石瀧あり、高さ九丈四尺、幅五間、いづれも芳野川に注ぐなり、山城谷村の相川に嘉見瀧あり、高九丈、幅十五間、こは伊豫川に注ぐ、平時は水少なし、同所岩戸に音羽の瀧あり、高さ十丈八尺、幅一間、こも伊豫川に注ぐ、同所白川に日暮瀧あり、高さ九丈幅四間、こは芳野川に注ぐなり、此の他同所に有宮の瀧、豐年瀧、轟の瀧あり、共に芳野川に注ぐ、三名村大字下名に千代の瀧あり、二層に墜つ、上は十丈、下は八丈にして、幅おの/\三間、こも芳野川に注ぐなり。」
 辻町〔二字右●〕 豫土街道の要驛にして、煙草の製造地として著名なり。祖谷山の煙草は多くこの地に於て製造す。人口約二千、生業裕かにして、人烟稠密なり。西池由町へ二里とす。小藤博士曰「脇町より川上に溯る七里にして、川向に辻邑あり、祖谷山産出の烟草粗葉は此所にて製造す、元來祖谷山は美馬郡に屬するも、地理の便より烟草及び茶
 
(104)〔箸藏寺、写真省略〕
 
は辻町に輸送す、故に生業ゆたかなり。
 箸藏寺〔三字右●〕 撫養街道の津洲村(池田の東的一里)の北十數町にあり。箸藏山の中腹に位し、山麓より登路半里、松柏蓊欝として、中に宏莊なる伽藍數宇を包む。僧空海の創立にして、大師自刻の藥師如來を其本尊と爲せり。土人これを信仰するもの多く讃の金比羅の奥の院と稱するに至る。藥師堂・鎭守堂。護摩堂等あり。齋者常に陸續として絶えず。これより讃州金比羅に至る行程凡そ五里なり。什寶にては弘法大師手記の濫觴記を珍物とす。
(105) 池田町〔三字右●〕 徳島市を距る十九里二十余町、豫州川之江町を距ること凡そ七里とす。人口約四千、三好郡中第一の都邑にして、郡衙を置く。吉野川は南より來りこの地の西に於て急に屈折して東を指す。伊豫境の山嶺に源を發したる佐野川はまたこの地に於て吉野川に會せり。而も町は吉野川を上下する船舶の多く輻湊するを以て一種河港の繁華を呈し、國内西部の一要驛に推さる。煙草の製造また甚だ盛なり。小藤博士曰く、「池田は山間の要害にして、北に讃岐瀬戸内海の通路あり。西南は土佐伊豫に山徑を通じ、地形自ら四國の中點をなせり、されば内海に雄飛せんとするものは須くこの地を根據となすべく、三好氏また此所に住して阿波を統治し、長曾我部元親も自ら白地に居城して四國を兼併せしは、その然るべき理由ありと謂つべし。」
 池田より白地を經、佐野川を西に登れば、馬路、佐野の二邑を經て、阿波、伊豫兩國の境なる境峠(四七〇米)に達す。雲邊寺山はその地に蹲踞し、その項よりは瀬戸内海を望み得べし。
 雲邊寺〔三字右●〕 雲邊寺山頂にありて、馬路より登路一里とす。寺は僧空海の創建せるとこ(106)ろにして、嵯峨天皇の勅願寺たり。今は、結構昔日の如くならざれども、四間四面の本堂、三棟建の護摩堂三間四面の大師堂等流石に宏壯ならざるにあらず。會式縁日には賽者陸續として踵を接せり。天正中、白地《はくち》に城砦を築きたる長曾我部元親がこの山に登りて、、四州を望み、呑※[口+筮]《どんぜつ》の念勃に禁ずる能はず、遂に兵を起して、讃を打ち豫を平げ、覇をこの地に稱するに至りしは、英雄の地理を察するの志深きを見るべし。
 土佐西街道は白地より吉野川に沿ひて南す。白地は長曾我部元親の城邑たりし地、今その遺址を有す。これより以南吉野川の南岸は漸く迫り、平地を得ること殆ど稀なり。されど、住民至るところ山腹を開きて耕作し、高地に家を構へて村落をなせり。この高地には多く煙草を産し、平地には往々にして藍を作るを見る。白地の地形は交通上甚だ便にして、且つ險惡なれば、長曾我部氏が此に據りて、覇を四國に唱へたるも、また理ありと謂ふべし。伊豫川の峽谷及び山城谷の地には、煙草の産出多く、白地、池田等の町はこれを集めて製造に從事せりまた山城谷の溪流よりは砂金を採集すべし。川口は伊豫川と吉野川との交叉點に位し、人口二千餘を有す。吉野川水運の河港にして、土佐より來るものは多く此所より河舟の便を借りて、東部地方に向ふを例とす。川口より徳島に至る水程二十三里ばかりなり。西宇より以南は山路愈險に、吉野川の渓流は峽谷をなして深く流れ大崩壞小崩懷の邊に至れば、水嶋り石活き、宛然柳州八記の中にあるがごとき思ひをなす。蓋し國内山水の最
 
(107)〔吉野川上流大崩壞、写真省略〕
 
もすぐれたるものか。これより上名、下名の二邑を經、二里にして、土佐國の境に達す。
 大崩壞〔三字右●〕 一に大冐危に作る。土佐國に近き吉野川の峽谷を指せるものにして、山崖は高く削立し、流水は狹穿して低く、恰も井底を走るが如く、古來著名の難所なり。地學雜誌曰く、「吉野川は阿波に入りてより眞北に轉じて横谷をなし、古來名高き難所なる大の下を迸り川幅狹きも川底深く、大久保(土佐國屬)より川口に至る五里の間、二百二十尺の直立差あり、勾配甚だ急なれば、激流咆哮、隨所小瀑布をなせり。川口に至りて伊豫別子より來る銅山川(伊豫川)と相會す。
 
(108)   讃岐國
 
 讃岐國は四國地方の東北部に位し、南は阿波に界し、西南の少部分は伊豫に接し、北東西の三面は全く瀬戸内海に瀕す。東西七十二粁、南北三十粁内外にして、面積百十一方里を有し、二市七郡より成り、香川縣これを管す。二市は高松市、丸龜市にして、七郡は大川、木田、小豆、香川、綾歌、仲多度、三豐即ち是なり。小豆の一郡は瀬戸内海にある小豆島外少許の島嶼とより成る。地勢山岳平野相交錯し、海岸には出入高低多し。國の南にある讃岐山脈は西微南より東微北に連亙して阿波との國境を成し、一名國境山脈の名あり。高距六百乃至九百五十米に過ぎざる低山性の丘陵なれど、しかも國内に於ては最も隆起せる部類に屬す。仙の岳(七三二米)中寺山(七九九米)中山(五五七米)は土器川、觀音寺川の上流地方に聳立し、雨島山(九六〇米)は土器川の水源地方に聳立す。其他佛山(四三〇米)中尾山(五四〇米)岡ケ峯(六二四米)虎(109)丸山(四三二米)等あり。土器川以西、即ち國の西部には臺地状の山岳に乏しく、三四百米の高距を保すにすぎずして、妙見山(三〇一米)高面山(三百米)なり。丸龜平野の西縁をなせる山境には天霧山(三八七米)彌取山(三七四米)尖峯(二六七米)釋迦山(四二八米)等あり。象頭山(六六一米)はその南端にあり。土器川、香東川間の山嶽は、鷹見防山(五三二米)高鉢山(四八三米)前山(六〇七米)最も著しく其他猫山、堤山等あり。丸龜市の東方には、平野上に飯野山及び青野山の二小圓錐峯孤立す。丸龜より高松に至る鐵路上の北方には、東山(三〇五米)白峯(二八〇米)等あり。香東川以東の山岳も、同じく低山性にして多樣の相貌を呈し、高松平野の南縁に、日妻山(二一七米)油山(一七六米)、高松市の四方に成願寺山(一五〇米)實山(一二〇米)、同じく東方に五劔山(三七四米)屋島山あり。この南方に久米山(三五〇米)あり。この東に洞ケ岳(二五〇米)日岳《ひがだけ》(二七三米)君ケ峯(三九三米)等あり。平野はいづれも國の北部、海岸北方に於て、これ等山塊の間に發展し、北部に丸龜附近の平野、高松附近の平野あり。(110)西部に觀音寺町附近の平野あり。これ等の平野は、曾て瀬戸内海の一部を成せしものにして、前述の丘陵は其間に散在する島嶼なりしなり。河流は北流、西北流東北流し、皆な南部の國境山脈の諸山地をその發源地となす。觀音寺川、柞田川、高瀬川、金倉川、土器川、宇多津川、綾川、香東川、春日川、新川、鴨野川、津田川、湊川等あり。香東川、土器川尤も大なり。平野に發達せる市街は、高松平野に高松市あり。丸龜平野に丸龜市あり。前者は國の北部東部の中心地を成し、後者は西部北部の中心地をなす。其他觀音寺町、琴平町あり。後者は象頭山權現の宮を以て聞ゆ。
 沿革〔二字右●〕 古へ國府を阿野郡(今の府中村)に置く。保元の亂崇徳天皇を寒川郡志度に遷し長寛二年崩ず。元暦元年平氏安徳天皇を奉じて行宮を山田郡八嶋に營す。文治元年源義經來り攻め屋島陷り平氏尋で亡び、源頼朝佐々木盛綱を以て守護となし、建久の末近藤國平之に代る、建武中興舟木頼重を以て守護に補す。足利尊氏の反するや細川和氏をして四國を略せしむ和氏の從弟定禅頼重を逐ふて高松城(山田郡高松郷喜岡(111)之を古松村と云)に據り終に當國を取り、延元三年和氏の弟頼春國守に任じ守護に補す、正平十六年和氏の子清氏吉野に歸順し高野城(河野郡)に據て四國を經略す、同十八年頼春の子頼之、清之を襲殺し其弟詮春を以て守護とし岡城(香川郡)に居り、世々國守に任じ國内の豪族寒州、香川、香西、十河諸氏を從服せしむ、詮春の玄孫成之に至りて阿波の守護を兼ねしが成之の曾孫持隆に至り委靡振はず、天文の初阿波の三好長慶細川氏に代りて國柄を執り其弟|一存《かずまさ》をして十河氏を繼がしめ山田郡河城に居りて國事を管せしむ、廿一年三好之康持隆を殺して寒川諸族を降し國東の地を取る、獨り香川信景天霧城(多度郡)に據り國西三郡(多野、三野、豐田)を領す、永禄四年十河一存卒し義子|存保《まさやす》嗣ぎ、天正五年阿波を兼領す、同七年長曾我部元親香川氏を降し十一年遂に存保を逐ひて全國を併す、同十三年豐臣氏南征して之を奪ひ仙石秀久を對し宇多津に治す、又山田郡を十河存保に賜ふ明年秀久、存保共に從つて西征し存保は戰歿し秀久は節度に違ひ皆其邑を收め之を尾藤知宣に賜ふ、尋で罪を得て其封を奪はれ生(112)駒親正を全國に封し高松(舊箆原と云ふ親正に至り改稱す)に治す、寛永十七年曾孫高俊罪ありて國除せられ松平頼重を高松に封し中國探題となす、又山崎家治丸龜に封ぜられしも三世にして嗣絶え萬治元年京極高和之に代り元禄仲孫|高或《たかもち》、弟高道を多度津に文封す、凡て三藩、王政革新して縣となし既にして名東縣より兼治し又廢して香川縣を置く。
 交通〔二字右●〕 本國の鐵道は讃岐線の一線あるのみ。即ち高松市を起點として、丸龜市を經て琴平町に達するものなり。その間の驛名は鬼無、端岡、國分、鴨川、坂出、宇多津、丸龜、中津、多度津、金藏寺、善通寺、琴平是なり。本國を旅行するものは、主としてこの線に由らざるべからず。この他、水運には大阪四國線あり。神戸より高松に來り、多度津を經て伊豫の今治に至る。其他、大阪下關線の備前阪手より高松、多度津に寄港するあり。大阪内海線の同じく高松多度津を經由するあり。其便尠からず。
 産業〔二字右●〕 米は仲多度、綾歌兩郡に産するもの最も良好にして、酒造の原米として使用(113)せらるゝもの尠なからず。麥は三豐、綾歌、香川の三郡を主産地となす。食用農産物は、小豆あり。産額多からざれど、其質良好にして、その主産地小豆郡にては、これを用ゐて、醤油を製造す。特用農産物には、甘蔗あり。烟草は香川仲多度兩郡を主産地とし、琴平町に官營烟草製造所あり。林業〔二字右●〕は甚だ振はず。松、竹の多數の伐採あるに過ぎず。水産〔二字右●〕は鯉、鯛、鰆、鰺、鯔等あり。水産製造物には大川郡に乾鰕あり。製鹽また盛にして、綾歌木田兩郡のごときは年々多額の製産あり。坂出町をその中心となす。工業〔二字右●〕は製糸に讃岐紡績株式會社あり。織物には保多織と稱する絹織物あり。陶磁器に高松燒(理平燒)あり。釀造品に小豆島の醤油あり。製作工業品には花筵、麥稈眞田、燐寸等あり。
 高松市及その附近〔八字右●〕 吾人、まづ汽船に乘じて東方より高松港に入るとせんか、五劔山の巍峨たる山容は前に高く、その右に接して、源平合戰の古戰場として名高き屋島山の宛然屋の如くなるを認むるなるべし。かくて、汽船は兜島、大島、男木島、女木
 
(114)〔高松港、写真省略〕
 
島等の諸島嶼の恰も畫の如く碧瑠璃盤上に散點せる間を過ぎ、遙かに瓦甍粉壁の美しく海波に掩映せる高松の市街を望みつゝ、次第に築港の規模整然たる高松港中の人となるべし。
 高松市〔三字右●〕 國の海岸中央に位し、北は内海に面し、屋島は半島をなしてその東に突出す。地勢南西に丘陵を負ひ、西に狹く東に廣し。道路は東西南の三面より來りて市に集中す。市坊の數凡そ六十二、人口三万五千七百餘、實に四國第二の都會にして、香川縣廳の所在地なり。茲に市の沿革を尋ぬるに、この地は(115)三百年前にありては、箆原《のはら》の庄と稱し、一箇の漁村たるに過ぎざりき。天正十一年豐臣秀吉讃岐全土を擧げて、生駒近規を封するや、生駒氏始め引田城にあり、其地勢餘りに東に偏し、統治便ならざるを以て、一度宇多津城に移り、後再び地を箆原の庄に卜し、玉藻の浦に臨みて居城を築き、名けて高松城といふ。蓋し屋島古戰場なる牟禮高松の名を用ゐたるなり。其後、寛永十九年松平頼重常陸下舘より此地に封せられ、以後繼承十一世、以て明治維新に至る。市は南に琴平街道あり。東に阿波街道、志度街道あり。西に伊豫街道あり。徹路は之に沿ひて西し、高松停車場は市の西方西濱村にあり。されど市の重要なる交通は繋りて高松築港埠頭にありて、數隻の汽船は常に煤煙を漲し、汽笛を鳴して、近畿中國地方の交通を便ならしめつゝあり。海上より來りたる旅客は港頭に近づくに從ひて、一箇の白堊城の海を壓して美しく立てるを見て、目を刮せざる能はざるべし。これ即ち、
 高松城址〔四字右●〕 にして、城は、二百五十年前、生駒氏が黒田加水の設計によりて築く所、(116)今、存するものは外郭の城樓二三に過ぎずと雖も、また封建時代を追想するに足る。且、この城は由來景勝の地を占むるものあり、廓内水深く松青く、東には屋島あり、翠巒一帶畫けるが如く、西には槌島あり、大小兩頭波間に出没し、雌雄兩島の勝また近く城外に横たはりて、この山水の明媚なる蓋し容易に状すべからず。
 高松築港〔四字右●〕 は明治二十八年計畫し、五年の後完成したるものもの、その本突堤は西に位し、長さ三百五十建間、幅五間、その外側に高さ四尺の防波堤をめぐらす。これに對せる東方の突堤は長さ二百七十五間、幅二間を有す。港内の面積凡八萬坪、平均干潮十四尺の水深を保つ。本築港に臨んで長さ九十間、幅十五尺の浮漕三箇を設け、棧橋を作りて突堤に連接し、船客の上下及び貨物の出入に便にせり。而も、その規模、蓋し四國四港に冠たり。
 築港棧橋より新港町に出で、進むこと五六町、内町の横街路あり。高松城の城濠と相對す。その一角に、
(117) 香川縣廳〔四字右●〕 あり。全讃州二市七郡を管す。人口大約六十三萬と聞く。更に縣廳と一路を隔て、高松區裁判所あり。裁判所の西に隣りて、高松電燈株式會社及び高松ホテルあり。縣廳より北すれば、郵便局あり。その北に、一溝渠東西に通じ、これに常磐橋を架せり。橋よりも起れる縱街路は、丸龜町通にして、片原町、兵庫町の横街路と共に、市中屈指の繁華地なり。市街店舗の光景すべて大阪式にして風俗また甚だそれに類せり。百間町に、
 天神社〔三字右●〕 あり。境内やゝ廣濶にして、市民遊覽の地をなす。一に古天神或は華下《はなのした》天滿宮と呼ぶ。
 興正寺別院〔五字右●〕 は御坊町にあり。眞宗にして。初め勝法寺と號せしを、天文年中興正寺の證秀上人箆原の庄宇野方に再興し、慶長年中再び今の地に遷徙す。更に、寛文二年松平頼重堂宇を修造し、北隣へ新に勝法寺を興して當山を護らしむ。これその縁起の大略なり。今、推して高松市中第一の大寺坊とすべく、本堂の構造宏壯なり。
 
(118)〔高松市、写真省略〕
 
なほ、五番町に市役所あり。税務署と高等女學校とは共にその附近にありて相隣接す。而して中學校は高等女學校と相對せり。天神前に市立病院、香川縣工藝學校あり。
 淨願寺〔三字右●〕 は、字五番町にあり。淨土宗にして、文明年中僧源譽の草創に係り、正保年中これを今の地に移せり。而して國守松平頼重大に堂宇を修築し、且、世々松平氏の菩提所となせしが、承應三年囘禄にかゝり、今の本堂は明應元年の再築に係るといふ。寺内に英公の墓廟乾英閣あり。
 
(119)〔栗林公園、写真省略〕
 
 法泉寺〔三字右●〕 は字三番町にあり、臨濟の名刹にして、天正二年生駒親正の草創に係り、慶長中同一正これを今の地に遷す。門内に一老松あり、幹の周圍一丈四尺七寸、枝葉の擴がること南北十八間、東西十一間、その形恰も二重に青繖を張りたるが如し。世に法泉寺松と呼ばれて珍重せらるゝものこれなり。
 常盤橋より通ずる琴平街道を一直線に北に進めば、十五町餘にして、栗林公園に至る。
 栗林公園〔四字右●〕 香川郡栗林村に屬し、日本屈指の大公園の名高し。而して園はもと二百餘年前、藩祖松平頼重の遊覧(120)所として築造せしものにして、四代頼泰の世に至つてこれを修治し、始めて完備せり。園の面積凡そ十六萬千百餘坪、その脊後には紫雲山を負ひ、六大水局と十三大山坡とを巧みに布置す。謂ゆる六大水局とは、西湖、南湖、北湖、涵養池、潺溪池・芙蓉沼これにして、十三大山坡とは、飛來峯、巾子峯、旌丘、囘中、洽巖、櫻山、渚山、冠松岡、鳳尾塢、會仙巖、小普陀、赤松林、修竹岡これなり。松平氏四世の富力を以て設計せし大園なれば、一本一岩皆な怪奇ならざるは莫く、長短の泉潭縱横に通じて六大水局を結ぶ。若し夫れ北湖、南湖の島に至つては殆ど仙境の趣あり。而して、これを岡山の後樂園に比すれば、その風致結構一歩を讓らざるを得ざるも、その岩石の蒼古なる點に於てはまた他に比すべきものなく、また天下の名園たるに負かず。なほ、この園に關しての記述としては園藝家小澤氏及び山田氏撰の碑記、黒木氏の「栗林分園圖記」等に參考すべし。その他、園内には博物館あり。主として縣下の物産を陳列し、これに歴史上の參考品を加へて分衆の縱覽に供す。また園の北門に近く※[山+解]の口と(121)稱する地に、陶器を製造するものあり。謂ゆる高松燒〔三字右●〕一に理平燒と稱するものこれにして、世に著名なる陶器業者紀太理平の後裔と稱す。中内氏曰く「高松市の附近、風光の明媚なる所少なからねど、わけて世に名高きは栗林公園と屋島山となり。われは舊城内を巡覽して歸るや、折節雨の小歇となりたるを幸ひ、直に昼餉を終へて、俥を栗林公園に急がせぬ。旅館を出でゝ、丸龜町を南に走ること十八丁、南新町、田町、藤塚町を經て、俥は栗林村に入り、やがて公園の正門に轅をおろしぬ。門を入りて西に向へば、桃林の間、この公園の沿革と名勝とを記したる一大石碑ありて、その西の方、舊檜御殿の跡に、高尚優美なる古代の建築を模したる博物館あり。石碑の前より南に向ひ、また西に折るれば、右側は一帶の小堤となりて、堤上幾多の古松、老幹槎※[木+牙]として、翠蓋欝々たり。行きつまりたるところは、丁字形をなして、路は南北に通ぜり。試に北に曲れば、右に芙蓉沼あり、左に潺湲池あり、前者には荷花を植ゑ、後者には杜若花を裁う。淡紅濃白の装ひ、紅を奪ふばかりの色、花時の美觀はさこそと
 
(122)〔栗林公園、写真省略〕
 
思ひやらるれど、時やゝ早くて、徒らに情を清※[さんずい+猗]に寄するのみ、こゝより取つてかへして南に向へば、右に梅林あり、左に橘園あり、梅林橋を渡れば、北湖の碧瑠璃さゞ浪もたゝず、中央に二小嶼の浮べるあり。東岸には芙蓉峰の翠黛、屹然として倒まに影を※[酉+焦]し、西南の一角、翠黛と名づけらるる邊は、緑樹翳欝、碧波と相映ぜり。右の方時雨坡を望めば、日暮亭に茶煙のあがるこそゆかしけれ。泉を聽きて、玄を談ずる人はさても、何處の雅客《みやびと》なるらむ、細谷沙に架したる石橋をわたれば、其處に、黒松林、百花園、修竹園などいふ(123)勝地あり、これ等を總稱して、通山《みつやま》といふなりとか。通山の西に在るは藤花架にて、瓔珞紛埀、紫の雲たなびけるかと疑はる。その左の方は、草やはらかき廣庭にて、昔藩主が武技を講ぜしめけむ、講武※[木+射]といふがあり。小峰起伏せる旄丘の裾を廻りて、なほ南の方に進めば、左に掬月亭あり、右に初筵館あり。掬月亭は、南湖の碧波にのぞみ、棟やゝ低く、簷深けれども、三重に曲折せる各宇の簾を捲くときは、紫雲山の嵐翠を※[手偏+邑]るに足るべく、南湖の沈璧を掬することを得べし。碧波の上に浮べる三つの島嶼は、前なるは杜鵑嶼といひ、中なるを天女嶼といひ、また其後なるを楓嶼とは云ふなりけり。これより※[螢の虫を糸]紆《けいう》して北に向ひ、南湖の岸に沿うて、更に東に折れ、また南に曲り、或は西に、或は北に、再び初筵館の西側に出で來るまで、玉澗、迎春橋、飛猿岩、囘中、東※[さんずい+畏]、南※[さんずい+畏]、偃月、飛來峰、考槃亭、冠松岡、楓岸、巾子峰、太皷橋、玉蘭、到岸梁、睡龍潭、慈航嶼、津筏梁、涵翠池、瑶島、赤松林、鹿鳴原、石壁、鳳尾※[土+烏]、楳子瀬、青溪、斷虹橋、會仙岩などの奇勝あり、一樹として奇ならざるはなく、(124)一石として珍ならざるはなく、一路窮まるところ、忽ちひらけ、或は川となり、或は山となり、或は溪となり、また野となり、池沼の配置、花影水聲の韵致、其妙、其巧、一々名状するの辭に苦しむ。何人か先づ唱へて、水戸の常磐公園、金澤の兼六公園、岡山の後樂公園を、日本の三公園とは定めけむ。後の二つはいざ知らず、常磐公園の如きに至りては、雅趣に乏しく、韻致に貧しく、景勝この公園に及ばざること遠きを」。
 石清尾《・イハシヲ》八幡宮〔六字右●〕 高松市の西端宮脇村の龜命山に鎭し、粟林公園より西方半里許りとす。社傳に據れば、延喜十八年の草創と稱し、正保元年以後今の社地に遷坐せり。古來、市の生土神そして尊崇せられ、國守松平氏の世にも屡々社殿を修營せりといふ。現時にても社格は縣社に列せり。社に寶物多多く、毎歳九月十五日を以て例祭を執行せり。且、毎歳五月三日には右馬《うめ》の頭市とて農具市立あり。社背の龜命山は、甚だ眺望に富み、東には屋島山、北には雌雄島、右方眼下には高松市街を望むべく、西南には(125)弦打の翠巒天籟を送りて四顧の光景名状すべからず。曾て松平籟重この頂に登りて八景を定む。龜山晴嵐、香西落雁、北海歸帆、西濱晩鐘、屋山秋月、男嶋夕照、姥池夜雨、高松暮雪これなり。
 摺鉢山古墳〔五字右●〕 高松市の西南丘陵を摺鉢山といふ。山と相接して稻荷山あり。共に多く古墳を存す。坪井博士曰く「稻荷山と摺鉢山とは共に皆な古墳あり。稻荷山は南北に延び瓢形を爲す。頂の長徑は六間許り、塚の名はヒメヅカといふ。西南の隅にも石塚あり。瓢形長徑は三十間、短徑は十間許り、高さ三間位とす。摺鉢山は頂上凹めり。東北部に石塚三つ、東南部に石塚一つ、西北部に塚穴數箇所あり。東北の隅にある石塚は、中央高さ二三間、長徑二十間許りに、短徑五間ばかり二箇所に縊れありて、全體は兩頭の瓢とも稱すべきなり。而して、摺鉢山は舊火山口の跡にして、その頂上凹みて覆鉢の如し。その北西の方即ち南に向ふ所に數多の塚穴あり。その數凡そ二十餘なり。その近傍に數多の石を積みたる塚あり。頂上は落ち凹みたり。その南の芳に謂(126)ゆる石舟といふものあり。即ち石の棺とす。石質は火山灰ならむか。これ等の塚の側にて數多植輪植物あり。またこの摺鉢の東南の頂上に露出せる石棺を檢視するに、長さ六尺八寸五分、横二尺三寸、底狹く一尺四寸に減ず。一石を以てこれを造る。製作甚だ奇古なり」。
 高松停車場は 丸龜街道に位し、その北に西濱の小港あり。防波堤を有す。この東を絲よりの濱と稱し、風景絶佳なり。蓮華寺波止場はこの東に連る。和船常に輻湊せり。
 高松市の物産〔六字右●〕 としては燐寸、漆器等を擧ぐべし。燐寸は年産額二十萬圓に達せり。
 更に高松市より交通路を略記せんか、大阪高松線の汽船の淡路の西海岸をめぐりて大阪高松間を連絡するあり。別に山陽鐵道と連絡する汽船の岡山宇野線の終點宇野より土ノ庄を經て高松まで毎日四囘往來するあり。その他瀬戸内海航行の汽船の概ね高松に寄港せざるはなし。猶、陸上の交通路としては、讃岐鐵道の市を西に出でゝ海岸に沿ひ略々伊豫國道の傍に並行して坂出、丸龜、多度津より善通寺、琴平方面に達するあり。東南には、元山、平木、長尾西、舟生、三本松を經由して阿波大阪方面に向ふ阿波街道あり。東方には、(127)屋島、志度、津田を經て阿波街道の丹生に出づる一路あり。更に、西南には、市より畑田、瀧宮を經、琴平に至り、財田を經、中蓮寺路の傍を掠めて阿波に入る一路あり。猶、例によりこの地より各近縣及び國内の重なる地方への里程及び浬數表をかゝぐれば左の如し。(鐵道、坂出へ十二哩四十六鎖、丸龜へ十六哩六十四鎖、多度津へ十九哩五十六鎖、善通寺へ二十三哩七十九鎖、琴平へ二十七哩十九鎖)。
 
東京市 二百〇七里   高知縣 三十一里三十五町 白鳥   十里八町
松原  十里十二町   引田  十二里二十六町  長尾   四里十七町
一ノ宮 二里四町    瀧ノ宮 五里十五町    白峰   五里
坂出  五里十七町   宇多津 六里六町     丸龜   七里八町
多度津 八里十九町   池戸  二里二十六町   佛生山  二里九町
古高松 二里一町    志度  四里三町     鹽ノ江  六里
觀音寺 十四里二十三町 善通寺 九里三十一町   琴平   九里十町
大阪  七十八浬    神戸  六十六浬     牛窓   十六浬半
三番港 二十浬     下津江 十四里半     玉島   三十七浬
三田尻 百四十九浬   馬關門司 百七十七浬   三津ケ濱 八十六浬
今治  五十八浬    津田  六里六町     三本松  九里十六町
(128)別府 百五十五浬   土庄 十二浬       笠岡   四十浬
福山  四十一浬    鞆   三十七浬     尾ノ道  五十三浬
廣島  百十五浬    丸龜  十七浬半     多度津  二十浬
 
 高松市を過ぐる者は、必ず屋島山に登躋せざるべからず。屋島山の風景は啻に四國に冠たるのみならず。また日本屈指のものたればなり。此地は高松市を距ること遠からず。市の東郊、御坊川に架せる新橋を渡り、志度街道を東にすゝめば一里にして春日驛に達す。古高松驛はその東方十數町にあり。これより矢島寺に賽し、西潟元に至り、これより登臨す。潟元濱の鹽田は國中尤も築設の時代古く且つ製鹽の最も精良なるを以て聞ゆ。
 屋島山〔三字右●〕 西潟元より登路十町余にして、その頂上(屋島寺)に達すべし。山は南北に長く屋梁の形を爲し、東麓には、源平の古戰場を以て有名なる壇の浦あり。山角海中に突出する所を長崎と稱し、附近に安徳天皇行宮の舊址〔九字右●〕あり。壽永十一年、平氏太宰(129)府にありて、緒方惟義の爲めに追はれ、逃れて此地に來る。菊地胤益材を阿波に取り、内裡及び大臣公卿の居所を造營し、元暦二年、源義經の爲めに燒くところとなれり。屋島寺〔三字右●〕は山の頂にあり。南南山千光院と稱し、天平勝寶六年唐僧鑑眞の草創にして、後、弘仁元年僧弘海これを再營し、今に同大師所作十一面觀世音を安置す。本堂は萬治年間の再建といへり。猶、寺は四國八十四番の札所に數へらる。寶物多く、唐僧善導大師作阿彌陀佛、かげ景清所持銅佛一躯、源氏白旗、源平合戰圖、屋島合戰縁起、その他古文書數通あり。而も、その山頂の眺望の絶佳なるは、蓋し容易に状すべからず。西方、海灣の弓弦を引ける間には、高松市の瓦甍粉壁の築港の右堰を擁して宛然畫くが如きあり。大小の島嶼美しく碧瑠璃盤上に浮び、その氣象の濶大なる、眺望の絶佳なる、皇國三景の美と雖も、多くこれに軼くべしとは思はれず。春光駘蕩の候。秋天寥廓の節、これに登臨せば、殆ど忘我の境に遊ぶの思ひあるべし。壇の浦に平軍の源氏を迎へて決戰せすところ、今日なほ當年※[皷/卑]皷の聲を聞くの思あり。曾て聞く、風景(130)は歴史を得て更に佳なりと。屋島の如きは蓋しその最もこれに適ふものなり。以上の他、この山の名勝としては山上に血の池あり。山の西に獅子靈岩あり。岩は屋島寺の西方約一町にある懸崖にして、獅子に似たる巨巖崖上より突出す。屋島の全景を望觀するに最も適好なる地の一として名あり。且、岩に弘法大師の奇蹟を談ず。桂山鶴汀の八島懷古に曰「海門風浪怒難平、此地曾屯十萬兵、金鏑頻藏魚鼈窟、櫻船空保鳳凰城、遍憐朱※[糸+拔の旁]結纓死、無復青衣行酒生、不識英魂何處所、月明波上夜吹笙」、「宮車一去帝五州、大海風風雲寄冕旒、井底有縁還玉璽。水濱誰復問膠舟、舞姫※[糸+丸]扇隨潮下、飛收彫弓學月流、那識寒煙衰草裏、幾人曾倚望郷樓」。江村宗aの「屋島浦」に曰く「漠々風煙落日愁、征鞍吊古下寒洲、沙場自傍青山遠、海水空※[螢の虫が糸]孤島流、萬壑※[山+爭]※[山+榮]宮殿盡、長汀寂寞甲兵收、潜然相憶舊時涙、況又不堪蘆萩秋」。中内氏の紀文に曰く。「わが初めて八島に遊びしは、十八歳の秋も半ばのことなりき。高松の宿を出でしは、一時をやや過ぎしばかりなりしが、二時近き頃。はやくも其麓にたどりつきぬ。南麓の方より、(131)鬱蒼たる松樹の間を縫うて、登ること八町ばかり、山巓に屋島寺と號する道場あり。眞言宗の古刹にて、南無大師遍照金剛の唱聲殊勝げに、同行二人としるされたる菅笠被りし、順禮姿の賽者、陸續として絶え間もなきさまなり。門前の茶店にしばし憩ひて、媼が汲むで出す一杯の蘭湯に渇をいやし、仁王門を潜れば、やがてまた二天門あり。その門の内正面にあるは本堂にて、右に大師堂、釋迦堂、鐘樓あり、左に茶堂、護摩堂、客殿、方丈、玄關、庫裡等あり。本堂の大きさは七間四面萬治の頃の再建なれば、丹碧色褪せて輪奐の美を見ること能はず。堂内に安直せる十一面觀世音の尊體は、弘法大師の自作なりとか聞けど、金色所々剥けたる上に、塵さへいたく積もりたれば、見る影もなき御姿とはなれり。客殿には、名たゝる雪降の庭ありて、地は一面の銀世界、さながら雪の積もれるが如きけしきなり。白沙など撒きたるにはあらずやと見れば、さにあらず。思ふに、石灰質の岩石ならむか。本堂の右の方、生ひ茂れる薄、萱草踏みわけて、半町ばかりも東の方に行けば、水に眞紅の色を帶びたる、血の(132)池ありと聞きたりしが、わが見し時は、水悉く涸れ果てゝ、その跡方をも留めざりき。さは云へ、これぞ源平鎬をけづりし時、血を洗ひけむ池なるかと思へば、何となう不快の念に堪へずして、折からの虫の音さへ心細く感ぜられき。この山元來屋根の形に見ゆるが故に、山巓は廣くして且つ平かなり。東西南北、何れの方に向ふとも、馳望千里、眺めを恣まゝにすることを得べけれど、わけて眺望の佳なる所は獅子の靈巖にまさるものはあらざるべし。こは寺より一町ばかりも西の方に當り、突兀として、其状獅子に似たる一巨巖斷崖の上より海に突き出でたれば、八島の全景は、悉く一眸の裡にあり。わなゝく足もとを踏みかためて、試に巖頭に立ちて見れば、前には雄木島、雌木島を始めとして、大小の島嶼點々碁布し、遠くは山陽道の連山、淡靄模糊として、婉々たる雲に似たり。右は壇の浦一帶の風光眼下にありて、仰げば五劍山の巓、雲と連なり、昔は五振の劍身、嶄然として天を突くものありしが、寶永の震災其一を失ひ、今は四劍高く秀づるを見る。天氣快晴の日、この峰にのぼらば、遙に大阪の川口を望(133)むことを得べしと聞きしも、あながち詐にはあらざるべきか。また顧みて左の方を眺むれば、國見山の蓮峯東西に亙り、蜿蜒として、わが故國の天を隔てたり。近くは高松の市街、手に取るやうに瞰下されて、浪に浮べる玉藻城の一廓は、まことに一幅の畫圖を見る心地しぬ。それにつけても、平家の一門が、當年の憐れなる運命こそ偲ばるれ。累葉大内山に枝を列ねて、榮華一世にならぶものなく、ひたすら花鳥風月の戯れに耽り、詩歌管絃の遊びをのみ事として、浮世の苦勞といふも、つゆ聊も知ることなかりし風流男だちが、うたてや源氏の爲めに世をせばめられて、住み馴れし花の都にも留まりがたく、必死と防ぎし一の谷の城も拔かれ、海に漂うて、此處をしばしの寄邊の地と定め、零落の風寒き秋の夕、この巖頭に立ちてこの明媚なる風景を眺めしとき、そもや如何なる感慨か胸に浮びけむ。想ひやるだに涙の種なりけり。ふと心付けば、日ははや西の山の端に傾きぬ。これより、なほ壇の浦の古戰場を弔はむ心組なれば、日の全く暮れぬほどにと、もと來し道を、寺の前まで取つてかへし、更に峻坂を(134)たどりて、東麓に下りぬ。さばかり高き山にはあらねど、道は刀にて削りたらむ如き絶壁の間に通じたれば、其危うさは一方ならざりき。まして、こゝより登らんとする人の困しさは如何なるらむ。平家の一門は、かゝる要害の地を扼しながら、いかなれば、また、やす/\と源九邸が爲めには攻め陷されけむ。源氏の兵が、こゝを攻め落さむとて、いかばかり苦心せしかは、かの渡邊、福島より船出の時、義經と景時とが、逆櫓のことにて論戰したりしを見ても明かならずや。義經は夜に乘じて船を出だし、首尾よく阿波の勝浦に上陸して、大阪越の間道より、ひそかに八島へ押し寄せ來しものゝ、もとより小勢のことなれば正面より攻めかゝる力もなく、先づ高松在の人家に火を放ちしなりけり。夜半ならばいざ知らず、時は晝間のことなるに、敵の軍勢の多寡をさへ、よくは見きはめずして、たゞ大軍の押し寄せ來りしことゝのみ思ひ誤まり、自から守を棄てゝ船の中に遁れしは、輕卒といはむか、怯懦といはむか、まことに平家の大失策、大恥辱にぞありける。さはいへ、また一方より考ふる時は、平家の(135)軍中には、足手まとひの婦女老幼あまた附隨せしかば、それがため、軍の駈引き自在ならざりしこともあらむか。こゝに健氣なる忠死を遂げし源氏の勇士佐藤嗣信の墓は、程遠からぬ牟禮村にありとか聞きしが、今降りて來し阪の麓にもあらで、雨に痩せたる五輪の石塔には、青苔滑かにとざして、尾花五六株、風になびけるを見たりき。それより麓に沿へる小道を傳うて壇の浦に出づれば、折から波はいと靜かにて、海は鏡をのべたらむが如し。渚の沙を踏むで進めば、那須與市宗高が敵船の竿頭にかゝげられし扇を射むとて駒を立てたる駒立石あり。昔はこのあたり水の底に在りしよしなれど、今は全く干潟となれり。海岸よりまたも南の方へとつてかへせば、田圃の中に、安徳帝の行在所の址あり。兵火にかゝりて、今は内裏の影もなけれど、總門の斷礎僅に遺りぬ。梢は既に葉をふるうて、骨あらはなる森の蔭に、小さき祠の祭られたる、心のまゝに這ひまつはる蔦蘿も、荒凉寂寞の風情を添うる媒となりて、見るから銷魂斷腸の思ひに堪へず。悵然として天を仰げば、雲は夕碁の空に迷うて、塒に急ぐ鴉の(136)聲も悲しげなり」。
 喜岡城址〔四字右●〕 古高松村歸來にあり。榮松山喜岡寺の堂後とす。城は、讃岐朝臣の族高松頼重の所築にして、その裔左馬助籟邑に至り香西氏に屬す。天正十一年、仙石秀久封を當國に受け來りてこの城を攻む。克たずして還る。豐太閤の南征に及び、片山志摩、唐人彈正相助けてこれを拒ぐと雖も、衆寡敵せず、三將戰死して城また陷り墟となれり。喜岡寺は即ちこの戰死者を弔ふ爲め寛文元年僧覺行の草創するところにして、堂後の小高きところ鎭守社の傍側に高松、片山、唐人《からと》三氏の墳墓あり。
 總門趾〔三字右●〕 吉高松(菜切地藏あり)より志度町に至る間は、源平の古跡甚だ多し。總門跡と稱するは平家の諸將が陣營を設けたる地、志度街道より右折數町の處にありて、今猶田畝の中に二柱を存す。平軍は牟禮村の六萬寺を行在所となし、此處を總門と爲して、大に源氏軍を防がんとせしも、勢利ならずして、遂に船に乘りて壇の浦に浮べり。されば源氏の諸將入更りてこの地に陣し、却つて源氏の總門となりたりといふ。
(137) 六萬寺址〔四字右●〕 は牟禮村大字牟禮にあり。八栗山の南麓とす。寺は、天平年間、讃岐守高晴の草創、僧行基の開基にして、延暦年間には僧空海も來りて、千手觀音像を納めしことありといふ。壽永二年、安徳天皇の當國に遷り給ふや、屋島の内裏御造營中當寺を以て行在所と定められ、供奉の公卿また多く寺内に假居せりといふ。元徳元年高松頼重本地堂を建立し、貞治年間細川頼之金堂を修しまた佛像を脩飾し、細川詮春禁榜を制す。天正十一年、長曾我部元親當寺に陣し、その歸途火を失して堂宇悉く烏有に歸し寶物また多く亡ぶといふ。延寶六年その舊址に堂宇を再建せりと雖も、僅に寺號を繼承するに過ぎず。
 佐藤繼信墓〔五字右●〕 今、志度街道の傍側にあり。もとは池の内にありしを、正保二年溜池を築く時この地に移せりといふ。繼信は、源義經がこの地に於て平氏と戰ひし時、義經の箭表に立ちて能登守教經の爲めに射られて死せし武臣にして、その戰死所は是より北方三町ばかりの田圃の中に殘り。里人其所を射落田といふ。寛永二十年國守松平
 
(138)〔神櫛王墓、写真省略〕
 
頼重新たに碑を壇の浦に建てゝその英靈を憑弔せり。また、繼信の墓に隣りて、乘馬太夫黒の墳あり。
 祈石、駒立石〔五字右●〕 共に牟禮の海岸にあり。祈石は、那須與一宗高が扇を射る時祈念を爲せし故跡、また、駒立石は駒を立せし遺跡なりといふ。前出射落畑もこの近傍にあり。
 神櫛王墓〔四字右●〕 繼信墓の上に一丘あり。牟禮王墓或は大墓、王墓とも呼ぶ。王は景行天皇第十七の皇子にして、御母は五十河媛なり。讃岐國造として、屋島の下に宮居したまひ、薨(139)じて後この地に奉葬す。二個の立石あり、皆な北面して立ち、その面には星辰の象を刻せり。
 大砂子〔三字右●〕 同じく牟禮にあり。屋島の役、惡七兵衛と三尾谷十郎と兜の綴引を演ぜし故地といふ。
 白羽八幡宮〔五字右●〕 牟禮にあり。文明中、中村氏宗の勸請するところといふ。
 柴野栗山遺宅〔六右●〕 牟禮にあり、謂ゆる寛政三博士の一人たる柴野栗山の遺屋にして、家に多く栗山自筆の書類を藏せり。栗山は、後、文化四年十二月朔日年七十二歳にして江戸に終る。墳墓は東京音羽護國寺畔にあり。
 五劍山〔三字右●〕 牟禮村の北に聳ゆ。一名を八栗山または八國山と稱す。當國の名山にして、海拔凡そ千五百三十餘尺、形姿鋸齒の如し。山麓より山頂に至る凡そ二十四町、中腹に至るまでは松樹多きも、その上部は怪巖突起、數峯に分かれ、蒼穹を摩す。またその絶頂よりは八國を展望し得べしといへり。山腹に一寺あり、八栗寺と稱し、一に五
 
(140)〔五劍山、写真省略〕
 
劍山千手院とも號す。眞言宗にして、延暦年間、僧空海の開創に係り、四國八十五番の禮拜場とす。境内に本堂、聖天祠、大師堂、通夜堂、中將堂、藏王堂、鐘樓、二天門等あり。就中、大聖觀喜雙身天王はその靈應顯著なりとて、賽者常に絶えず。尾池桐陽「峯分五劍插雲端、雨染風磨影自寒、白日南瞑高紫氣、何人携得倚天看」。
 ○志度街道と阿波街道 高松市より起れる阿波街道は志度街道と二里弱の距離を隔てつゝ、木田郡の中部を東に向つて走れり。この間に元山、平木の二邑あり。山中なる西植田(141)に、戸田、神内の二城址あり。十川に西尾城址あり。三谷に三谷城址あり。共に戰國時代土豪の割據せる所なり。東植田に松尾池、神内池と稱する小池あり。下高岡村に細川清氏の墓あり。而して香川郡佛生山町より來れる街道は鹿伏に於てこの街道に相合し、井戸村を經て大川郡長尾村に入れり。
 和爾賀神社〔五字右●〕 井戸村字熊田にあり。當國式内二十座の一とす。社記に曰く「此郷有川曰鰐川其源從寒川郡南山出、流到鴨部郷遂東北入海、昔者海神之女豐玉姫神、駕鰐魚溯流覓居地時來坐此處、而曰是土最宜居處也、即鎭坐、因曰居處郷、今訛謂井戸郷、又此社上有石神名曰世田姫、海神也云々」また社藏寶物に古代の木額あり、奇古頗る愛すべし。猶、當社より北八町の字下井戸眞行寺境内に鎌倉塚あたり。口碑の傳ふるところに據れば、征夷大將軍足利義持の墳墓と稱す。靜塚は井戸村の高木にあり。里人傳唱して、源義經の愛妓靜の墓なりとなし、また同所の皷が淵は靜の皷を捨てたる古跡なりと説けり。(142)虹ケ瀧〔三字右●〕 田中村大字小蓑にありて、一に小蓑の瀧とも稱せり。飛瀑は三段に分れて落下す。上段は白絹の如く、中段は白瀧の如く、下段は白虹の溪に飲するが如し。故に虹ケ瀧の稱呼を得といふ。藩主源頼常「時雨する殿もきてみる小蓑かな」
 志度街道は、牟禮村より五劍山の麓を掠め、大町を過ぎ、原に至りて全く海岸に出づ。即ち志度灣にして、眼下に志度の市街を見る。小串岬東北に突出して木田郡の丸山鼻と相對し、風景絶佳なり。
 志度町〔三字右●〕 町の地域は東西一里四町、南北二十九町にして、人口八千余を有し、市街整正、家屋櫛比、人烟稠密なり。而して海灣を北に擁す。即ち志度浦にして、灣内廣く、水深く、巨船大船を繋留するに足る。浦は古の謂ゆる玉の浦にして、萬葉集に「吾が戀ゆる妹はあはさず玉の浦に衣かたしき獨かも寢む」とあるは即ちこの地を詠ぜしものなるべしといふ。
 多和神社〔四字右●〕 志度町にあり。里俗多和八幡宮または三宮と稱す。當國式内二十四社の一にして、社に寶物多く、本邦古代の神像、繪畫、彫刻、古文書等に考古史家の參考(143)となるべきもの多し。
 平賀源内遺宅〔六字右●〕 志度町字新町にあり。平賀源内の事蹟に至りては、世多くこれを知る。今日、地に源内燒と稱する陶器を産するも、一に彼の指導に由るといへり。遺宅には今も源内の遺品を殘せり。
 志度寺〔三字右●〕 志度町の東北端にあり。補陀落山と號し、四國八十六番札所の名刹とす。而も、その創立は遠く推古天皇朝にありと傳へ、後、僧行基、弘法大師もまた伽藍を再興せしことありといふ。寺の本尊十一面觀世音は.薗子尼(智法尼)といふもの靈瑞に感應し、觀音化身の靈像を獲たるもの即ちこれなりといふ。而して草創當時の堂宇は一間四面なりしが、天武天皇朝藤原不比等大臣來りて堂宇を廣め名けて死度道場といひしが、持統天皇朝藤原房前大臣更に伽藍を修營し、僧行基を開基の主とし、法花八講を修し、且、法華經十卷を胥寫してこれを伽藍の側に納め、また千基の石塔を建立して母堂の追福を祈らしめしと傳ふ。今日なほ寺側に經塔を存せり。更に降り(144)て、天正中長曾我部元親の兵燹にかゝりしが、慶長年問に至り生駒親矩觀音堂を再建し、寛文七年松平頼重國中に奉賀を許しその淨財を以て堂宇を再建せしめきといへり。現存の諸建築中、本堂、閻魔堂、奪婆堂、仁王門は即ち寛文年間の修營に係れり。その他、大師堂、地藏堂、藥師堂、阿彌陀堂、鐘樓堂、茶室、客殿等は暦明より安永に至るまでの建造なりといへり。要之、寺は當國東部に於ける最も舊き名刹として來賽するもの常に絶えず、志度町の繁榮は多くこの寺あるが爲めなり。寺、收藏の寶物頗る多し。その國寶に列せられたるものには、甲種三等繪畫絹本着色十一面觀音像一幅、同四等繪畫絹本着色志度寺縁起圖繪六幅、彫刻木造十一面觀音兩脇士像三躯あり。一書に「志度寺縁起は古卷軸にて長曾我部元親※[衣偏+表]装を加へたり、筆法遒美にして鎌倉時代を下らず。但、その事は歴史に合はざるところ多し。これ縁起の常なるが、その中にも古今の別あり。この縁起の如きは頗る古説なり。謠曲海人はこれに據りて構成したり」と見ゆ。その他、寺寶の重なるものには、白紙金罫舊譯仁王經、傳菅原道眞公(145)書寫、永徳二年細川頼之寄進状一通副二卷、眞如親王筆弘法大師御影一幅、紺紙金泥清凉院觀世音普門經三十三卷、道晃親王筆三十六歌仙和歌、式紙清凉殿作絹繍像扁額六面、絹本着色淡海公御影傳、土佐光信筆一幅、梵想國師筆聖者離例頌文一幅、定家卿和歌帖子、絹本着色松平頼章筆楊柳觀世音一幅、絹本着色僧鶴洲筆魚藍觀音一幅、絹本着色明人仇英筆漢宮々人圖一幅及び古文書四通、元明人書畫幅等あり。
 靈芝寺〔三字右●〕 志度町の東南端大字東末にあり。律宗を奉じ、舊高松藩主松平氏の菩提寺の一とす。草創は弘仁年間にして、僧空海これを創立せしも、天正中兵燹にかかりて燒失し、降りて寛文年間、後水尾天皇の勅を奉じて僧專忍これを再營す、寺域は山に據り、池に臨み、山門の傍側には老松二株双龍の天に昇るが如く、境地極めて幽邃なり、現在の堂宇には本堂、觀音堂、十王堂、客殿、二王門、鐘樓堂あり。また松平侯頼常及心頼恕の墳域あり。重なる寺寶としては、傳行基作木彫地藏菩薩立像一躯、作者不詳木彫不動尊座像一躯、作者不詳水彩十六阿羅漢像十六躯、木彫三十三神小大像(146)三十三躯、古畫絹本着色大涅槃像一幅、僧雀須筆絹本着色八組大師八幅、松平頼恕隼紙本墨畫源氏五十四帖圖繪一帖及び書畫數種あり。
 長尾村〔三字右●〕は志度村の南方二里にして、阿波街道の要路に當る。人口七千を有し、大川郡々役所またこの地にあり。市街繁華といふべからざるも、家屋長く街道に連り、鈍乎として宿驛の特色を有す。西高松へ四理十七町、東徳島へ十二理二十八町とし、兩地を往來する行客は概ねこの地を經過するを例とせり。
 長尾寺〔三字右●〕 長尾村大字長尾西にあり。四國遍路巡禮の札所にして、補陀落山觀音院と號し、天台宗に屬す。而も、その草創は天平十一年にありて、僧行基これを創建し、自作の聖觀世音を安置す。後、天長年間讃岐大守良岑氏これを再修し、降りて慶長年間生駒一正またこれを修營し、更に天和三年松平頼重また重興し以て今日に及べり。境内平坦にして、中に本堂以下約十棟の堂宇あり。寶物の重なるものとしては、松平頼重寄附天滿宮御影、二品道晁親王筆龍雲院遍額、同上瀧見觀音像一幅、黄不動像等及び經塔二基あり。塔は、共に古色蒼然、頗る珍貴の品なりといふ。
(147) 極樂寺〔三字右●〕 長尾村大字長尾東にあり。眞言宗に屬し、紫雲山寶藏院と號す。七壇議所の一なり。寺、當初は郡内石田村にありて、天平元年僧行基の開想と傳ふ。後、弘仁年間祝融にかゝりしかば、弘法大師寺を鴨部壯東山村に移してこれを再興せり。今、その舊蹟を談議所といふ。建武二年再び兵燹にかゝりて燒失し、同年當地の吉祥院に併せて寶藏院と改號す。堂宇七八棟、中、大門の二王尊石佛は高さ凡そ五尺、慶安中安置するところにして、嘉永七年の再建に係るといふ。裄端の彫刻頗る觀るべし。寺寶中、甲種四等彫刻木像藥師如來立像は國寶に列せられ、別に傳弘法大師入唐將來品鐵製古錫枝、傳眞如親王筆兩界曼荼羅二幅、八花式双鳳文唐鑑一面、古寫本和漢朗詠集二帖あり。
 晝寐城址〔三字右●〕 長尾寺の南三十町にして、大字前山の山上にあり。始め、元龜年中寒川|元憐《もとちか》此に居り、後、天正年中阿波の海部左近來り襲ひ、城終に陷るといふ。山骨は皆岩石より成り、突兀として山路頗る嶮し。城趾の傍に一株の老櫻あり。枝の四方に廣(148)ごること十五間、花候に至れば一朶の彩運雲溪間に靉くが如く萬緑叢中紅一點の眺めあり。名けて晝寢櫻といふ。また鮎返しの瀧あり。高さ三十間、末は流れて鴨部川の源をなせり。
 農事試驗場〔五字右●〕 石田村にあり。明治三十三年の開設といふ。
 上代石窟及古墳〔七字右●〕 富田村の東字茶臼山にあり。前方後圓なる車塚にして、上代貴人の墳墓なること疑なし、今は山上に天神を祭れる小祠を置く。猶、石田村には式内大簑彦神社、布勢神社及び八幡神社あり。該附近には小丘起伏せる間に四五坪の廣さなる上代の大石窟數ケ所あり。且、相連れる上代の墳墓數十の多きに達し、山丘の間|往々にして石鏃石斧を散布し、或は一代の土器玉器等を見出すことありと聞く。
 長尾東より阿波脇町に達する街道を脇町街道といふ。まづ、長尾東驛より南に分岐し、鹿庭、奥山を經て清水越の凹所を越え、阿波の曾江山より脇町に達するものにして、近年の開設にかゝり、行旅多し。大窪寺、遍照光院はこの途上奥山村にあり。四國遍路巡禮の最終の札所とす。
(149) 志度町より東せる街道は、鴨部川を渡り、鴨部中筋、鴨部東山を過ぎ、海岸の一名邑津田町に達す。鴨部に長福寺あり。
 長福寺〔三字右●〕 鴨部村大字鴨部東山にあり。千手山法洞院と號す。天長元年僧空海が淳和天皇の勅を奉じて建立せる所にして、清和の朝貞觀三年寶勅仁王會を修し、爾後歴朝勅願の密場たりき。而して、本堂本尊としては千手千眼觀世音菩薩を安置し、特別堂本尊としては半丈六藥師琉璃光如來を安置す。共に國寶に列せるものこれなり。他に寺寶の重なるものとしては僧鶴洲筆絹本彩色久光八幡宮庭燎尊影一幅、宗本入道筆絹本彩色大涅槃圖一幅、古畫絹本彩色十六善神圖一幅等あり。
 津田町 志度街道上に位し、高松を距る東六里九町とす。町の東西十七町、南北三十町、人口六千五百余、商賈檐をつらね、人烟稠密なり。この町に特記すべきは、字北山と字小田との部落悉く韓國遠洋漁業を業とせることにして、縣下遠洋漁業者の總數の九分は實に此の町付近を根據とす。組合東支部を津田町に西支部を小田村に設け、(150)盛に其事業に鞅掌せリ。出漁期は春季と秋季とにして、春季は四月より六月まで、秋季は十月より十二月までなり。彼等は韓國各道の海面に漁場を擴張し、本國地先海面の如きは老者幼者に委して顧みずといふ。其漁獲物は鯛及鰆にして、彼地にて販賣するものと鹽藏して持ち歸るものとあり。年産額少くとも八萬圓を下らず。阿波名所圖會曰「津田浦、岩崎權現祠所掘の古鏡は、考證家これを漢鑑とし、魏の景初中にわが邦へ贈りしといふ古鑑の類とす」。
 津田松原 津田町と鶴羽町との間積翠の長帶を曳けるものを津田松原(一に琴林)となす。その長さは殆ど一里、平滑なる沙濱に松樹碧を※[手偏+施の旁]き、風景眞に描くが如く、海邊松樹の聞より東方を望めば淡路島は髣髴として雲烟の間に隱見し、北は播磨洋に臨み、海砂細麗、風景尤も絶佳なり。寔に推して東讃屈指の勝地となすべし。林中に八幡神社あり。往昔安富盛方の豐後宇佐より迎へて祠を立つる所といふ。皆川※[さんずい+其]園の琴林碑記に曰「東讃津由邑人安藝榮柱使其子榮尚來福問予曰驪之姫適晉而得稱爲美姫西施之
 
(151)〔津田松原、写真省略〕
 
在苧羅未可得其美稱耶予曰奚爲其然雖在驪苧羅固亦天下之美耳曰有美玉於斯比之卞璧其厚倍焉然如連城之價則不可得以相値耶曰奚爲其言之似若是也其厚倍則價亦當倍也已矣榮尚於是乃稱曰我邑南有八幡祠廟祠東松林長三里餘其勢※[しんにょう+施の旁]連東南而前枕於海其松樹無慮數千株状皆奇詭白沙緑蔭雖畫不如也清風入之聲有似琴奏因稱之曰琴林夫播之妓濱以當其孔道故特聞而琴林以地稍僻故雖其景致勝於彼而不得世稱稱豈非美玉厚倍而讓於卞以璧驪姫西施在鄙而以埋其國色乎僕父子以生居其林側心常竊慍其未得顯聞今所以來(152)謁者意欲得先生之筆而以播其勝於四方願勿爲吝也余曰果如子言是誠可惜也世所謂名區勝概率不近於通邑大都則與夫周行相依者爾我身乏勝貝而不能遍遊然苟有遊則欲探奇捜秘以抉摘世所未知者今於子所言雖未能躬造而先獲其一焉矣於是乎乃爲之記」。黒木欣堂の津田琴林圖記曰「白島神社以西三里許浦※[さんずい+叙]逶※[しんにょう+施の旁]嶋嶼點綴沿海明沙之間松樹連翠古史所謂三里松原即此地而至津田浦成一老叢林曰琴林林在浦東廣袤凡三町老松萬株皆千古年物盤根校地高皆丈餘鐵幹輪※[くにがまえ+禾]大皆連抱有落々排空者焉有偃蹇俯地者焉離奇錯落變態百出綜而望之則如千萬老就下于翠雲中張鱗磨牙拏攫相闘者矣若其朝暾靜上夕月朗飛則小豆之島當面凝黛名子多賀諸島浮動于恬波躍金之上雲帆沙鳥往來聚散風光明媚曠目怡心而薫風一皷則三面松林※[風+叟]々瑟々扣清徴於雲和激流泉於緑綺此其是林之所以名也」。
 鶴羽村より丹生に至れば西より來れる阿波街道に合す。地名辭書臼く「丹生の北山といふ丘は、鶴羽濱の東なる高崖にして、海上に絹島と名くる岩嶼あり、此邊を馬篠浦と呼ぶ、絹島は彩色せる樣の岩にして、洞窟あり、遠く望めば錦繍を堆積したらん状あり」。
(153) 釋王寺〔三字右●〕 丹生村字大谷にあり。眞言宗にして、延暦二十年僧空海これを開創す。現存の堂宇數棟あり。寺寶中、木造聖觀音立像一躯は明治三十三年國寶に指定さる。その他、木造不動三尊座三躯、同大日如來立像一躯、同不品阿彌陀尊座像一躯、金剛一躯等あり。
 脇屋義治墓〔五字右●〕 丹生村字土居にあり。脇屋家傳に據れば、義治その子義長と共に當丹生の山長福寺に匿れ、土居氏の族と稱す。その後土居に移り、義長、義信、徳光、義則等繼承子孫繁延せり云々と。 三本松町〔四字右●〕 高松市を距る八里二十二町餘とす。大川郡中最も繋華なる地にして、富家豪商多く、人朽ち三千三百餘を有す。海邊には漁舍軒をつらね漁業また盛なり。町に區裁判所、高松中學校等を置く。
 白鳥神社〔四字右●〕 三本松町の東二十八町、松原村にあり。縣社にして、日本武尊を祀る。東讃屈指の古祠なり。社記に曰く、景行天皇の四十三年日本武尊伊勢の熊褒野に薨じ(154)たまひ、其靈白鳥に化し、西飛して讃岐の大河郡に留まる。乃ち其地を白鳥の郷といふ。後、成務天皇勅して社殿を造營せしめ給ひしも、中世兵亂已む時なく、社殿も亦終に荒廢に歸せしを、寛文五年國壬松平頼大に土木を興して宮殿を再築し、且幕府より神領百石を寄付せられしが、明治五年六月改めて縣社に列せらる云々。境内、門前より村内の商家と連なり、社背は一帶の松林にして、數萬の松樹鬱蒼として海濱に連り、沖には一兒島、※[子+子]島《ふたごじま》のあるありて、恰も緑毛龜の水面に泛べるが如し。更に正北を望めば、播の象山雲表に聳え、東北には淡山ありて、鵬の翅を張るが如く、西北には小豆島海中に點在して、鯨の頭を擡げたるに似たり。其景の佳絶なる素より言を俟たず。猶、當社春秋二季の祭禮には頗る古式を存し、諸國より來觀の人頗る多く、社前の松原村落は當神社の餘光に依りて繋榮せるものなりといふ。地より高松に至る九里、徳島に至る八里なり。
 譽田寺〔三字右●〕 譽水村大字中筋にあり。眞言宗にして、天平十一年僧行基これを開創し、(155)應永年間僧増吽これを再興す。境内に本堂以下六七宇の殿堂あり。本尊藥師如來は行基菩薩の所作、日光月光十二神將は増吽の所作、多聞持國の二天は弘法大師の刀と傳ふ。その他名僧の所作に係る佛像、名工眞筆の書畫等頗る多く、中にも絹本著色佛涅槃圖、絹本著色地藏曼荼羅圖は去る明治三十三年内務省告示に依りて國寶に列せられたり。中興開山増吽の墓また寺内にあり。
 大水主神社〔五字右●〕 譽水村大字|水主《みづし》にあり。里俗正一位大水主大明神または大社と稱す。當國式内二十四座の一にして、往古は大内一郡の總鎭守たりき。草創の年代は上古に屬すべきも、史傳に詳かならず、社記に寶龜年中の勘請とあるは再營の時なるべし。祭神は正殿に孝靈天皇々女|倭迹々日百襲姫命を祀り、これに孝靈天皇を配祀し奉れり。今、姫の墓は社の前面の丘上にあるものこれとす。社寶中、國寶に列せられたるものには、木造御神像三躯、木造狛犬一對、木造男神座像一躯、同女神座像四躯、書蹟、紙本墨書大槃若經入白木面塗函六十個あり。別に、遍額、神像、器物、古文書等の貴(156)重なるものまた尠少ならず。猶、この地には、中古寒川氏、安富氏の居城なりし虎丸城址あり。
 引田村〔三字右●〕 阿波街道の一市驛にして、高松を距る十一里十六町とす。人口凡そ四千五百、昔時は國内第一の港津と稱せられ、巨賈連檐、大船多く碇泊して諸國の交通頻繁なりしといへり。名産としては引田醤油の名夙に高し。村内に八幡宮、積善坊、善覺寺等あり。積善坊は眞言宗の巨刹にして、天平年中僧行基の開基に係り、本尊地藏菩薩は行基の自作なりとぞ。また村の東北海灣を引田の浦と稱す。播陽の青山、淡州の島影一眸の裡にありて、船舶の來往常に絶えず、風色頗る佳なり。猶、古へ引田の舊城址は村の西北方に殘る。天正年間、矢野三武これに居り、同十二年長曾我部元親來攻して城遂に陷り、後年、生駒近規この地に封ぜられしといふ。一詩人の引田浦に曰「月下揚帆去、溟渤湧我傍、蒼巒千萬疊、波上欝相望、昔往丹花滿、今來樹欲黄、衆芳忽歇矣、此生長遑々」。
(157) 引田より馬嶺、坂下を經て、阿波の大阪峠に至る。引田より國界に至る約一里十町なり。
 ○高松市以南 高松すの南方、香川郡の地また記すべきこと尠からず。まづ、琴平街道を東に距ること一里ばかり一宮村に國幣中社田村神社あり。
 田村神社〔三字右●〕 一ノ宮村大字一ノ宮にあり。國幣中社にして、倭迹々日百襲姫命、五十狹芹彦命」猿田彦命、天之隱山命、天之五十田根命を合祀す。もと一ノ宮明神と稱し、一國の總鎭守にして、和銅二年の創建なりしが、中世神佛混淆の事行はれしより別當神宮寺の管する所となり、且、弘法大師錫を留めて自作の聖觀音立像を本尊として安置せしより、弘法大師を以て中興開山と爲すに至れり。維新後、明かに此弊を矯めて社格を國幣中社に進められ、且、悉く境内の佛刹を廢するに至れり。境内平坦にして四方は原野に連り、社頭は樹木森然として繁茂し、土地深邃、自から神威の尊嚴を表するものゝ如し。大祭は毎歳十月八日、中祭は五月八日を以て執行す。又境内に素波倶羅神社あり。
(158) 大寶院〔三字右●〕 田村神社の西隣にあり。眞言宗にして、神毫山一宮寺と號し、大寶年間の開創といふ。境内に孝靈天皇、百襲姫、五十狹芹彦尊の寶塔あり。
 佛生山町〔四字右●〕 一に百相と稱す。琴平通り阿波街道の衝に當り、高松市を距る南二里十五町なり。人口凡そ六千ばかり、阿波別街道のこの地より南に岐るゝを以て、人烟やゝ稠密なり。索麺を以て名産となす。
 法然寺 佛生山町の南端佛生山の半腹にあり。淨土宗二十五靈場の一とす。寺記に據れば、初め建永年間、淨土宗祖圓光大師(僧法然)讃岐に謫せられ、那珂郡子松郷に居りて一宇を建て生福寺と名けたり。大師赦されて京師に歸りし後、其寺廢頽したりしが、寛文八年高松藩祖松平頼重その佛像を高地に移し、丘陵を開き、茆茨を艾り、大に木工を起して三十三門二十餘宇の堂塔僧坊を造營し、大師自作の阿彌陀佛及び眞影を此に安置し、寛文十年淨土宗四ケ本山に準せしめ、延寶年間徳川氏に請ひて朱印地を與へ、且、住職に常紫衣の勅許を得せしむ。是より以降松平氏常に營繕を爲せし(159)を以て、今日に至るも、その舊觀を損せずして、本堂、本堂門、地藏堂、三佛堂、三佛堂番所、祖師堂、弘法大師堂、新寶藏、校倉、涅槃門、來迎堂、文殊樓門、二尊堂、韓門、二王門、大門、十王堂、柵門、總門番所、見返地藏、小黒門、同番所、庫裏の二十四棟ありて、寺域反別五町五反に餘る。而して丘頂には開祖大師の分骨墳墓及び高松藩祖松平頼重公以下松平氏累代の墳塋あり。寶物の中、國寶に列せられたるものには、陸信忠筆絹本着色十五佛像圖、傳鶴洲筆紙本着色觀音功徳圖、晴川筆紙本着色源氏圖あり。重要なる寶物としては龜山院宸翰消息、傳金岡筆絹本着色彌陀二十五菩薩圖、傳空海所用青銅龍虎印、傳圓光大師作木造本尊阿彌陀如來立像、傳大師自作木造大師座像、傳大師自作木造見眞大師座像、木造楊柳觀音立像、木造勢至菩薩立像、傳弘法大師作木造毘沙門天立像、木造涅槃像八十二躯、木造來迎二十五菩薩立像二十五躯、傳弘法大師作木造梵天帝釋天座像二躯、木造阿彌陀尊釋尊二躯、木造四天王立像四躯、仁王尊二躯、高麗坂覆刻一切經八十七函その他なり。    (160)讃岐別街道は大川郡の脇町街道新たに修築せられてより、行旅やゝ減少したれど、阿波の中部に至る重要なる道路なることは言ふを俟たず。この道路は香東川の上流に泝り、安原上東、安原上西の二路に岐れて阿波に入る、
 冠尾八幡宮〔五字右●〕 由佐村月見原にあり。貞觀三年知證大師の草創と傳へ、後、中世、細川頼之深くこれを崇信せりといふ。往時は國中第一の社祠なりしこと全讃史に見えたり。
 天福寺〔三字右●〕 由佐村大字岡にあり。天平年間僧行基の草創にして、弘仁年間僧空海これを修造せしことあり。元禄八年國守松平頼常の命によりて他より現今の地に遷徙せりといふ。行基、空海、慈覺諸大師の所作と稱ふる佛像書畫等頗る多し。
 最明寺〔三字右●〕 安原村大字安原下にあり。寺傳に曰く、大寶年間、僧行基二十餘歳の時當寺を創立し、如意輪寺と號す。弘仁十二年、僧空海四十八歳の時當寺に來り精舍を重興す。依りて空海を以て中興開山とせり。後、康元々年、最明寺入道時頼當地に到り、(161)寺を建てゝ最明寺と稱す。更に、天正年間、長曾我部氏の兵火にかゝり、堂宇烏有に歸す。後、信徒これを再建せしも、明治十二年また大火にかゝりて灰燼に歸し、現今の堂字は、その後の再營なり。寺寶として古畫涅槃圖一幅、時頼の書翰等あり。
 鹽江鑛泉 高松より南方大凡八里を隔て、安原上東村にあり。この地、周圍峯巒連亙し、清流その間を奔下し、頗る幽邃の一區を爲す。冷泉の出るは一箇所にして、槽を設けて井となせり。泉の上段に大師堂、藥師堂あり。その傍に飛瀑かゝれり。白纓の瀑布と稱し、直下數丈、水勢激溢、飛沫雪の如し。而して泉麓の渓流を隔てゝ浴舍檐をならぶ。泉性は炭酸泉にして、沸して遊浴に供せり。巫女淵、鎧岩、有明瀬、權現ケ嶽、不動ケ瀧、玉露壁、百々ケ潭等を以て鑛泉附近の遊覽地となす。
 ○官設讃岐線沿線 再び高松市に還り、更に鐵路によりて西に向つて進まんか、檀紙村大字中間に中間天神社あり。而して、高松市より起れる海岸の一路は、香西を經て、國内著名の勝地白峯山に達す。
(162) 根香寺〔三字右●〕 上笠居村勝賀山の中腹にありて、一に香西寺と稱シ、白峰山の峯ツゞきとス。相距ること約一里なり。寺は、眞言宗にして、往昔、弘法大師の草創に係る。後、保元中、崇徳上皇しば/\この山に行幸ありて、風景の勝を愛賞し給ひ、薨後この山に葬るべきよし勅宣ありしも、僧徒等の沮むところとなりて、御遺骸は白峰に奉葬せるなりといふ。
 白峯山〔三字右●〕 山は崇徳天皇の山陵と眞言の古刹白峰寺を有するを以て世に聞ゆ。一名を綾松山とも稱し、松山村大字青海にある一丘陵にして、登路は香西よりするものと讃岐鐵道の橋岡驛より至るものとの二路あり。
 白峰陵〔三字右●〕 即ち崇徳天皇の山陵にして、白峰山の絶頂千兒ケ嶽の上にあり。保元の亂、天皇のこの地に遷され、空しく恨を呑んで崩御し給ひしは、史を讀むものゝ皆な悲憤措く能はざるところ、其廟は、維新前までは門に頓證寺の額をかゝげ、白峰寺主をしてその祭祀を營み來りしが、明治十一年改めて縣社となし、白峰神社と稱し、崇徳天皇(163)を祭神と爲せり。社は、即ち山の半腹に位し、本社、拜殿、神門等宏牡にして、賽者をして、自から襟を正さしむ。西行山家集曰「過ぎにし仁安の比、西國はる/”\修行つかまつりし次に、讃州みを坂(今、王越村大字乃生)の林と云ふ所に、しばらく住みにき、深山邊の楢の葉にて、庵結びて、妻木こりたく山中のけしき、花の梢によわる風、たれ訪へとてかよぶこどり、蓬がもとのうづら、ひねもすに、あはれらずといふ事なし、長夜の曉、さけびたる猿の聲を聞くに、そゞろに腸を斷ちぬ、かゝる栖は、後の世の爲ともあらねども、心そゞろに澄みて覺ゆるにこそ、かくてもあるべかりしに、憂き世の中には、思ひををとゞめしと思ひしかば、立ち離れなむとせし程に、新院の御墓所を拜み奉らむとて、白峯と云ふ所にたづね參りしに、松の一むら茂れるほとりに、くぎぬきしまはしたり、これなむ御墓にやと、今更かきくらされて、物もおぼえず、まのあたり見奉りし事ぞかし、清凉、紫宸の間にやすみし給ひて、百官にいつかれさせ絵ひ、後宮後坊の臺には、三千の翡翠のかんざしあざやかにて、(164)御眦《ぎよさい》にかゝらむとのみ、しあはせ給ひしぞかし、萬機の政を掌に握らせ給ふのみにあらず、春は花の宴を專にし、秋は月の前の興つきせず侍りき、豈、思ひきや、今かゝるべしとは、かけてもはかりきや、他國邊土の山中のおどろの下に朽ちさせ給ふべしとは、貝鐘の聲もせず、法花三昧つとむる僧一人もなき所に、只、峯の松風のみはげしきのみにて、鳥だにも翔らぬ有様を見奉るに、そゞろに涙を落し侍りき、始あるものは終ありとは聞き侍りしかども、いまだかゝるためしをば承り侍らず、されば思をとむまじきは、此の世なり、一天の君、萬乘のあるじも、しかの如くの苦はなれましまし侍らねば、刹利も須陀もかはらず、宮もわらやも共に、はてしなきものなれば、高位も願はしきにあらず、我等も幾度か、かの國王とも成り侍りけむなれども、隔生即忘して、すべておぼへず、只、行きてとまりはつべき佛果圓滿の位のみぞ、ゆかしかる、とにもかくにも思ひつゞくるまゝに、涙のもれ出でにしかば、「よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後は何にかはせむ、」とうちながめられたき、盛衰は今にはじめ(165)ぬわざなれども、ことさら心驚かれぬるなり、さても過ぎぬる保元のはじめの年、秋七月のころほひ、鳥羽法皇はかなくならせ給ひしかば、一天むら雲逆ひて、花の都くれふたがり、合戰のたぐひ、うつゝ心もあらず、なげき、身の上にのみつもりぬる心地にて、おはしましゝ中に、僅に十日のうちに、主上、上皇の御國あらそひありて、上を下にかへし、天をひゞかし、地をうごかすまで、亂れたゝかひては、夕に及びて、大炊殿に火かゝりて、黒煙おほへりしに、御方は軍勝つにのり、新院の御方の軍破れて、上皇、宇治の左府、御馬に召して、いづちともなく落させ給ひしを兵の追ひかけ奉りて、いさゝかも恐れ奉らず、射まゐらしゝを見奉りしに、由なき都にいでゝ今更心うく、さて後にこそ承りしが、新院はある山中より求め出だし奉りて、仁和寺へうつらせ給ひ、宇治の左府は、矢にあたらせ給ひて、御命終らせ給ひぬと聞えしは、奈良の京、槃若野の五三昧に土葬し奉りけるを、勅使たちて死骸を實檢の爲めに、掘りおこし奉りけりと、うけたまはりしに、あはれむづかしき世の中かな、誰かしらざる(166)うき世はかゝるべしとは、殊に危くはかなき身をもちて、したり顔にのみ侍りて、空しく明暮過して、無常の鬼にとらるゝ時、聲をあげて叫べどもかなはずして、惡趣にのみめぐり侍らむは、いとゞ悲しかるべし、盛衰もなく、無常もはなれ侍らむ世なりとも、佛の位めでたしと聞き奉らば、などか願はざるべき、いはんや盛衰甚しきをや、無常すみやかなるをや、只心を靜めて往事を思ひ給へ、少しも夢にやかはり侍ると、悦も歎も盛なるも衰ふるも皆僞の前のかまへなるべし」。尾山桐陽の松山懷古に曰「山合神秀俯南州、聞説鳴鑾此地留、樹擬※[丹+彡]庭何歳植、雲迎彩※[益+鳥]至今浮、玉魚噴浪椎門晩、古馬嘶風駒壑秋、有客愁來拾奇貝、欲歌萱草重囘頭。蹈石攀林一路分、憑高客涙忽紛紛、玉牀寒隱南州月、金榜晴留北闕雲、春八悶宮鶯府曲、草埋隧道鹿爲群、曾從貝葉沈溟渤風送潮音日夜聞。松山晴望萬株松、中有神居倚一峯、出岫雲隣龍象室、馴階鳥散曉昏鐘、岡頭鼓絶風餘響、壑裡兒亡花想容、獨見遊人來吊古、陵園卉木自春冬」。
 白峰寺〔三字右●〕 白峰神社の南にありて、松山村大字青海に屬す。眞言宗の巨刹を以て稱せ(137)られ、四國第八十一番の札所なり。寺傳に曰く、貞觀二年智證大師始めてこの山に登りて自作の千手觀音の像を安置し、長寛二年崇徳天皇の廟を創建す。然れども始めて伽藍の建設せられしは弘仁六年なるを以て之を草創の年月とし、且、弘法大師を以て
開山とす云々、境地は松山の山脈中に在りて、三方は緑樹欝々たる深林に包まれ、北は斷巖屹立し、瀬戸内海の水は一碧鏡の如く、鹽飽の諸島は點々として碁石を散せしに似て、眺矚頗る快豁なり。境内には、即ち崇徳天皇御廟床と頓證寺御殿、官庫、十一面堂、金堂、行者堂、千體阿彌陀堂、本堂、大師堂、本坊等の建物あり。また勅額門内に玉章の樹、頓證寺形と稱する古石燈籠あり。十一面堂には、崇徳帝の御持佛たる十一面觀世音木像を安置す。その他、收藏の寶物また頗る多しといふ。日柳柳東の宿白峰寺に曰「陰森緑樹擁層崖、崖下雲深曉色迷、老鷲怒飛如驟雨、翼聲曳數峰西」。
 讃岐鐵道は、高松市を西に出でゝより國道の傍を西走に、阪出町、丸龜市を經て多度津港に至り、更に海岸を離れて北に轉じ、善通寺を經て琴平町に至る。全線二十七哩十九鎖なり。車驛には、高松の次駅に鬼無あ(168)り。鬼無の次驛に端岡、その次驛に國分あり。
 國分寺〔三字右●〕 國分停車場の北二町にして、端岡村大字國分にあり。天平中、聖武帝勅造全國國分寺の一にして。弘仁中、僧空海これを重修す。本堂以下祖師堂、地藏堂、鐘樓、二王門等あり。寺寶中、本尊木彫十一面千手觀音は、高さ二丈一尺、近世國寶に列せしめらる。頗る逸品なり。金毘羅圖會曰「阿野郡國分八幡宮、國分寺より十町ばかり、東山の麓にあり。傳へいふ、寛永元年、當國の士民谷源八堀源太左衛門が遺恨によつて、當社の馬場先に於て刃傷に及び、民谷不運にして堀がために討たる。その妻一子小太郎に敵を討せんと象頭山に祈誓をこめけるに、靈驗むなしからず、同十七年春、先年父の討れし場所の傍に於て、首尾よく敵を討おほせしとぞ。世俗これを。金毘羅御利生の復讐と稱し、普ねく人口に膾炙せり」
 木丸御所址〔三字右●〕 府中村字皷ケ岡にあり。崇徳天皇は林田の御所よりこの地に移らせ給ふ。黒木の御殿なるより木丸殿と申せしなり。天皇はこの御殿に在しますこと六年に(169)して、終に崩御あらせらる。今、址は一堆の岡丘をなし、靺樹欝蒼として坐ろに行客をして古へを思ふの情に堪へざらしむ。猶、丘上に一小祠あり。里人これを天皇社と稱す。一書曰く「保元元年七月、新院讃岐國に遷れおはしまして、始めは直島に渡らせ給ひけるが、後には、在廳一の廳官野太夫高遠が堂に入らせけるを、皷岡に御所立てゝ居奉る。御歎の積り御怨深く、生ながら天狗の貌に顯はれましけるこそ恐ろしけれ。小河侍從、今は蓮如とて、世捨人あり。かの國へ下り御所の渡に立回て見けるに、奇げなる柴の御所、實にいぶせき御住居なり。院はかゝる淺ましき御貌を見えんことも憚あればとて召出されず。蓮如實にもと一首を詠じ見參に入れよとて「朝倉や木の丸殿に入りながら君に知られで歸る悲しさ」、御返事あり「朝倉やたゞ徒《いたづら》に歸すにも釣するあまの音をのみぞなく」、その後、長寛二年、志度といふ所にて終にかくれさせ給ひにけり」。
 城山長者遺址〔六字右●〕 府中村城山の上に大石壘及び石窟などあり。里人これを城山長者の(170)城址といふ。綾氏の譜を按ずるに、讃留靈王の曾孫を竈王といふ。王に二子あり。長は多富利別次は眞玉といふ。室を城山の北邊に構へて壯麗なり云々と。千歳の古墟今になほ存す。奇といふべし。
 城山神社〔四字右●〕 城山の麓字北合にありて、俗に北谷の天神といふ。讃岐國造の祖神櫛王をその祭神となし、當國式内二十四座の一として、創建頗る古し。
 加茂神社〔四字右●〕 府中村の西なる加茂村にあり。同じく式内讃岐二十四社の一の古祠とす。
 神谷神社〔四字右●〕 松山村神谷の溪邊に鎭し、白峰の西麓とす。社傳に據れば、弘仁の勸請と稱し、當國式内二十四座の一なり。所藏の寶物また多し。
 雲井御所址〔五字右●〕 林田村にあり。初め、保元元年、崇徳天皇が當郡松山に御着船ありし時、國司未だ御所を造營せざりしが爲め、在廳野太夫高遠の檀寺たる長命寺に奉迎し、此所に三年のいぶせき月日を送り給ひぬ。宸筆の御製「こゝもまたあらぬ雲井となりにけり空ゆく月のすむに任せて」はこの寺の柱にしるし給ひしもの、天正の兵燹以前
(171)までは依然として存じたりと傳ふ。雲井の御所の名は蓋しこれより起りたるものなり。山家集曰「讃岐に詣でゝ松山と申すところに院おはしましけむ御跡たづねけれども、かたもなかりければ「松山の波のけしきはかはらじをかたなく君はなりましにけり」
 琴平街道は伊豫街道と一里餘の間を隔てつゝ、綾歌郡の中央を東南より西北に向つて駛れり。此間を記すれば、高松市より圓座、山崎、陶等小丘陵の間に連れる諸邑を過ぎ、綾川の清淺なる流を渡りて、瀧宮村に至る
 瀧宮村〔三字右●〕 村は綾歌郡の中部集散地を爲し、人口五千を有す。家屋櫛比し、人烟やゝ稠密なり。村内に郡立農事試驗場あり。
 藤瀧宮天滿神社〔六字右●〕 瀧宮村にあり。縣社にして、菅原道眞の靈を祀り、公の束帶の御上衣を主體とす。天暦二年の創建なり。初め、仁和二年、菅公四十二を以て讃岐守に任じ、この地に來りて官衙を置き、政を布き民庶を撫せり。寛平元年偶々當國大に旱し、五穀の枯死するもの多し。公乃ち民の窮苦を救はんと欲し、城山の嶺に登りて雨(172)を天神地祇に祈る。忽ちにして霖雨沛然として灑ぎ、國民大に喜ぶといふ。即ち社地は公の館址にして、里民は今に至るもその徳を稱し、毎年舊七月二十五日に執行する瀧宮踊りは公の雨乞いを紀念する祭禮なりといふ。その他、本村字川西に公の遺跡伏拜あり。社の西に行基菩薩の開基なる古刹龍燈院の舊跡あり。社藏の寶物また尠なからず。
 瀧宮神社〔四字右●〕 瀧宮天滿神社の西にあり。菅公在任の頃、屡々この地に遊びしこと、文集中に見えたり。以てその古祠なることを知るべし。寺寶としては木像菅公座像を所藏せり。且、その神門内に國分石あり。傳へていふ、菅公當國の國守たりし頃この地を以て國の中央と定め、この石を建てしめ給ひしなりと。
 綾川〔二字右●〕 瀧宮神社の西麓を流るゝ川にして、一に瀧川とも稱す。花崗石の大石河身の所々に累叢し、清流激潭、深淵巨潭松篁と相掩映し、幽邃精霊清麗の趣を極む。僧空海曾てこの地に龍王を祀り、辨天祠を建立せしことあり。また菅公もしば/”\この地に遊(173)ばれしことありといふ。河身の名石五十有八、古人皆なこれに名くるにその形に隨へり。崇徳院「瀬をはやみ岩にせかるゝ瀧川のわれても末にあはんとぞ思ふ」。西行法師「おのづから岩にせかれて諸人に物思はする瀧川の水」。
 光貴寺〔三字右●〕 瀧宮字北上の原にあり。眞言宗にして、天平年間僧行基の開基に係り、弘仁中僧空海これを重修す。菅公來遊の古址として著名に、往時は大伽藍なりし由なるも、今、大に廢頽せり。傳行基作觀音木像を所藏す。
 世尊院三谷寺〔六字右●〕 坂本村大字東坂本にあり。傳へて行基菩薩開創、弘法大師の中興と稱し、山下の地藏堂及び觀音堂は平相國夫人二位尼の建立せしものと傳ふ。天正中、長曾我部氏の兵火にかゝり、後、また復興せるもの即ち今の寺院なり。
 飯の山〔三字右●〕 同じく東坂本にあり。宇多津町よりして南一里ばかりとす。山の標高二千四百四十尺、平野の間に峙立し、數里を隔てゝこれを望むべく、形の富岳に似たるを似て一にこれを讃岐富士と稱せり。而も、この山は古代當國全土の創造者たる飯依彦(174)命の倚りし地と唱へ、西麓に飯神社ありて、同命を祭る。式内讃岐國二十四座の一なり。西行「讃岐にはこれをや富士といひの山朝げのけむりたゝぬ日もなし」。
 鐵道は國分より鴨川驛を經て坂出に至る。西庄村は坂出の西半里にして、この地、街道の傍に八十八の清水あり。一に野澤の水とも稱し、清冽にして、當國第一の清泉の名高し。また泉の近傍に小藥師堂あり。これに弘法大師の遺跡を談ず。猶、西庄より産出する磬石は一に鳴石と稱し、各種の建築及び諸器物自鳴鐘の粧飾等に用ふべし。
 坂出町〔三字右●〕 綾歌郡の北部海灣を擁する市街にして、前には穩波畫くが如くなる瀬戸内《せとない》海を展く。東、高松を距ること里程五里十七町(鐵道十二哩四十六鎖)、西、丸龜を距ること一里二十五町(鐵道四哩十八鎖)とす。人口は凡て一萬二千に餘り、伊豫街道上屈指の都會なり。而してこの町は製鹽の都會とも稱すべく、其發達、その繁華全く懸りて鹽業にあり。而も町の今日の如き隆盛なる状況を呈するに至りしは、今より七十年前大川郡引田村の人粂榮左衛門なるもの、※[并+刃]めて鹽田一百町を開墾せしに胚胎す。蓋し本郡食鹽の生産は、其産額全縣下の半數以上を占め、其輸出は總て本港を經(175)週せざるなし。從つて專賣局の出張所を集め商賈運漕店街頭に櫛比す。近年之に加ふるに、麥稈眞田の製造、紡績の製出を以てし、商工業の地として、益々發達の域に進めり。地に綾歌郡役所。縣立商業學校・讃岐紡績會社あり。その他各種の銀行發達し、金融機關全く備はれるは、多く他市街に見る能はざるところなり。海岸、坂出浦の地は多くは鹽田にして、其規模、設備の大なる國内他に其比を見ず。
 宇多津町〔四字右●〕 坂出町と一小丘陵と隔つ。新川の流は其市街の中央を貫流せり。人口五千八百を有し、其繁華坂出町に次ぐ。坂出町と同じく製鹽業の都會にして、鹽田町の東西に連る。されど此町の發達は坂出町に比して甚だ古く、歴史上早く世に聞えたり。蓋し西讃の地に於ては、最も古く發達したる所なるべく、細川頼之曾て此地に陣し、土豪奈良氏を白峰に攻めたることあり。豐臣氏が生駒氏を讃岐に封ずるや、先づ此城を其居城と爲せり。今、其城址、聖通寺山の背後に殘れり。また町より正北一里の沖合に小島嶼あり。沙彌島といひ、理源大師誕生の古跡と傳ふ。宇多津より高松に至る(176)六里三町、丸龜に至る僅に一里五町とす。
 道場寺〔三字右●〕 宇多津町の西南丘陵の上にあり。時宗にして、弘法大師の開基に係り、同大師作一尺八寸の阿彌陀如來像を本尊とす。後、仁治年間、紀州高野山の僧道範讃岐に謫せられたる時この寺に居り、永和年間一遍上人もまた當寺に留錫せしことありといふ。道範の手記に曰く「在家少々引上りて堂舍一宇僧坊ある所に移しすへらる。この所地形殊勝に、東に望めば孤山夜月をさけ、月輪の觀をすゝめ、西にかへり見れば遠島夕日を含み、日想觀自ら催す。將に松山聳えて海中に至る。「さびしさをいかてたへまし松風の浪も音せすみかなりせば」。或時山にのぼり見渡して「鵜足津この松蔭に風立は島のあなたのひとつ白浪」。猶、寺は四國遍路巡禮札所の一に算せらる。境内には本堂以下四五の建物あり。
 聖通寺〔三字右●〕 宇多津町の西南丘陵の半腹にあり。清和天皇朝理源大師の開創にして、曾ては龜山院後宇多院の勅願院たりしことありといふ。本尊、藥師如來の石像は往時理(177)源大師創立の際海上より出現したる尊像と稱し、靈驗甚だ顯著なり。また境内に巖の藥師と唱ふるあり。その上約二町ばかりに搖巖と稱する奇石あり。寺收藏の寶物また尠なからずといふ。
 鐵道は、宇多津より土器川を渡りて、西讃の都會丸龜市に達す。
 丸龜市〔三字右●〕 讃岐海岸の中央に位し、東西十一町、南北十二町、市坊の數三十、人口二萬三千餘名を有す。實に國中高松に亞げる都會なり。而して、この地、昔は今の米屋町を限り、その以東は舊鵜足郡津野郷に屬し、以西は舊那珂郡柞原郷に屬する一小村落なりしが、慶長二年生駒親正此所に築き、宇多津の住民を移せしを始めとし、寛永十八年山崎榮治入城以來商工の移り住むもの多く、萬治元年京極高和入府してよりまたまた繁榮に赴き、七世二百餘年の間に、地を開き海を埋めて、遂に一都會の地を成すに至れり。現今、市は四國街道の起點に當り、中國四國交通の連絡點をなし、百貨輻湊人烟稠密なり。國道二條、一は東高松を經て阿波に通じ、一は西南仲多度郡龍川村に(178)至り、岐れて二となり、南するものは琴平を經て阿波に入り、西するものは三豐郡を貫きて、伊豫國に通ず。鐵道は市の北部を過ぎて多度津町に向ふ。市の北端に新堀港あり。往時は金毘羅參詣の要信津にして、那珂港と稱したりしも、港内水淺く、海底遠淺にして、汽船の出入に便ならざるを以て、今は多度津港に其繁華を移したり。現今防波堤長く海中に突出し、和船出入の便に供せり。伊豫街道は市の東端土器川橋より汐入橋を渡り、北平山町・西山町を過ぎて南に向ひ、通町なる繁華なる街道を過ぎ、本町一丁目の角を西に折れて西に向ふ。本町一丁目角より南を指すものは、琴平街道にして、上通町より堀端を過ぎ、餌指町を經て南に向ふ。此二大路の分岐せる附近、即ち通町の一區は、市の最も繁華なる處にして、銀行會社等多く此處に集る。濱町の南角に市役所あり。これに東南に對して勸工場あり。丸龜商業銀行あり。市廛軒を接し、百貨輻湊し、行人織るが如し。此街路の正面は、
 丸龜城址〔四字右●〕 にして、一小丘陵をなし、松樹欝蒼たる間に、石垣階をなして聳え、上
 
(179)〔丸龜市、写真省略〕
 
に天天守閣の美しき白堊を認む。別名を蓬莱城とも呼べり。大八州遊記曰「丸龜城、慶長七年、生駒親政所築、據山爲城、其壯却出高松上、城樹森鬱、樹間露石壁、其下有屯營、埠頭在其北、距城可十町、海岸築二※[土+隷の旁]、突出海中如雙脚」。猶、城内には、
 歩兵第十二聯隊區司令部〔十一字右○〕 あり。歩兵第十二聯隊の兵舍はその附近に散在す。その他、舊壕内に練兵場、作業場あり。作業場と一渠を隔てゝ更に廣濶なる新練兵場あり。日夜操練の聲を聞く。中學校は城址の背後なる六番町にあり。
(180) 丸龜の神社〔五字右●〕 著名なるものには、本町の西端にある天照大神宮と、城址の背後にあル八幡宮とを擧ぐべし。
 丸龜の寺院〔五字右●〕 としては、玄要寺、法音寺、宗泉寺、法妙寺等あり。玄要寺は、禅宗にして南條町に屬し、故※[麁ノ中が矢]京極氏の香花院なり。寺内には有名なる金毘羅利生記の主人公たる民谷坊太郎の墓あり。法音寺は同じく南條町に屬し、淨土宗とす。寺内に井上通子の墓あり。宗泉寺は法音寺の南に憐り、日蓮宗寺にして、丸龜藩祖及び詩人尾池桐陽父子の墓あり。妙法寺は天台宗にして富屋町に屬し、蕪村の遺畫甚だ多し。
 海岸埋立の地は港として一種の繁華を有し、新堀、福島の地區ことに喧噪を極む。新堀に魚市場あり。福島に花筵製造所あり。
 丸龜の物産〔五字右●〕 としては、花筵、團扇及び竹細工等を推すべし。山崎氏等地志曰「本邦に於ける花筵業は、岡山縣を第一とす。香川縣の事業に從事するもの多きに至りしはその對岸の主産地の影響感化を蒙りたるは言ふまでもなし。その起源は丸龜市の製(181)造家が明治二十四年海外輸出向の花筵を製造せしに始まる。二十六年、商況沈滯し、製造また衰頽の極に達せしを以て、從來の製品に改良を加へ、斬新なる意匠を施し大に面目を吏めんことを圖り、苦辛經營の末、彩色せる草花、その他模出織出の考案を起し、二十七年七月專賣特許を得、それを海外に輸出せしに、頗る時好に適し、爾來年々注文の數を増せり。明治三十三年同市福島町に讃圓合資會社なるもの起り、愈々斯業の擴張を圖れり。その製品岡山縣に比すれば、意匠乏しく、模樣巧妙ならざれども、組織堅實にして品質良好なり。輸出先はアメリカ合衆國を主とす」。また曰く「丸龜市に産する團扇はまた四國地方の製作工業の著名なるものなり。價格の比較的低廉なるを以て、販路次第に擴張せられ、年産額十萬圓に達す。且繪模樣に新樣を競ひ、意匠を斬新ならしむるにつとむるを以て、需要多く、前途多望なり。此地また竹細工を産す。種類は手提籠、玩具等にして大阪・神戸地方に販出す。年産額五千除圓あり。」
(182) 此所に丸龜より國内及び隣國各地への里程を記せんか、多度津ヘ一里十一町、金倉寺へ一里十八町、彌谷寺ヘ三里二町、本山寺へ六里十二町、宇多津へ一里二町、坂出へ一里二十七町、白峰へ三里十九町、高松へ七里八町、觀音寺へ七里十五町、豐濱へ九里十五町、松山へ三十六里八町、善通寺へ二里二十五町、琴平へ三里十八町、瀧ノ宮へ四里五町、志度へ十一里十一町、長尾へ十一里二十五町、津田へ十三里十四町、白鳥へ十七里十六町、引田へ十九里二十八町、徳島へ二十四里十七町とす。
 丸龜より鐵路街道共に海岸を西南に駛り、一里余にて、多度津町に至る。
 多度津町〔四字右●〕 町は人口七千七百を有する繁華なる都邑にして、中國交通の要津に衝り、頗る殷賑を極む。殊に、四國第一の流行神なる金比羅神社は此處を南に距ること三里鍵に過ぎず。賽者多く此港に上陸するを常とせるを以て、旅客常に群を爲し、港頭は防波堤を築きて、船舶の出入に便にす。ことに港内水深きを以て、汽船絶えず碇泊し、大阪・四國間、多度津・尾の道間の定期汽船は日毎に此港に出入す。中の町・角屋町等最も繁華なり。町に染織學校あり。また多度津城址あり。貞治中、香川景房の築造といふ。その他、白方村天霧山上に天霧古城址あり。正平中、香川信景の占據せし古跡と(183)いふ。海岸寺、また白方村にあり。全讃史曰「文化中、海岸寺、以北地謂屏風浦、又有弘法大師産時之盤石、且熊手八幡祠爲大師氏神、與善通寺爭論大師誕生所、訴之於朝、官爲大師修學所云々」。
 鐵道はその本社を多度津町に有し、これより南、琴平町にその線路を延長せり。多度津の次驛に金藏寺の一驛ありて、同村内に郡立農事試驗場あり。
 金倉寺〔三字右●〕 金藏寺驛を距る東方一里にあり。齊衡年間の創始にして、西讃の一名刹に推され、弘仁六年智證大師は實にこの地に生誕せり。而も、往時は七堂伽藍、頗る壯嚴を極めたりしと傳へ、今に猶ほ金堂、大師堂を有し、結構壯嚴に、本尊としては智證大師作藥師如來の座像を安置せり。且、寺は四國靈場遍路巡禮の札所として、賽者常に群を爲す。その所藏戴智證大師傳來兩界曼荼羅及び大槃若經本尊十六善神像は、近年國寶に列せらる。その他古書畫頗る多し。
 善通寺町〔四字右●〕 多度津町の南方二里餘にあり。此町は善通寺あるが爲めに、往昔より多(184)少の繁華を有したれと、今日のごとき繁盛を來したるは、全く帥團兵營の設置による。明治三十一年十一師團司令部〔七字右●〕を置き、歩兵第四十三聯隊〔八字右●〕及び騎兵砲兵工兵等の兵營設立〔騎兵〜右●〕せられしより、人煙日を追ひて増加し、明治三十年までは戸數八百人口三千三百に過ぎざりしもの、今は戸數二千三百人口一萬二千を有するに至れり。以ていかに町の進歩の速かなりしを知るべく併せて『兵舍町』の稱ある所以を知るべし。町に私立中學盡誠舍あり。
 善通寺〔三字右●〕 善通寺町の西方にあり。五岳山誕生院と號し、實に弘法大師の誕生地にして、讃岐第一の巨刹とす。境域廣濶、堂宇頗る多く、本尊には弘法大師作藥師如來を安置せり。而してその寺域は大師の父善通が邸園の跡なりといふ。即ち古の屏風ケ浦なり。大師、唐より歸朝の後、父善通母玉寄及び祖先の追善を爲し、且、布教の爲め寺宇を創立し、父の名を取りて寺號と爲し、また己が生長の地なるに由りて誕生院と稱し、五峰の脊後に聳するより五岳山と稱す。因縁斯の如くなるを以て信教の徒の(185)當寺を推して國内無二の靈區となす、また宜なりといふべし。寺寶の中、繪畫紙本淡彩一字一佛妙法蓮經序品一卷、木彫地藏菩薩玄像一躯、木像吉祥天立像一躯、傳空海將來金銅錫杖一本は國寶に列し、他に、弘法大師及び傳教大師眞筆經卷古文書等甚だ多し。中山城山の大師傳に曰く、「大師諱空海讃州屏風浦人也、父曰佐伯田公母阿刀氏夢梵僧入懷而有身、大師在胎十二月、以寶龜五年六月十五日生。是日不空三藏在唐化、是以世人以大師爲不空之後身也、歳甫十三才、敏兼人、從舅父阿刀氏讀書學文、十五頗見頭角、十八入大學、一日沙門勤操、受求聞特法修之甚勤、二十從操薙髪、延暦十四年、入東大寺受戒、同二十三年入唐從青龍寺惠果學秘密教、研志一年有半極其奥無何其師化、乃制碑文彼土人莫不感伏云、大同元年、歸朝修法效驗、諸宗碩徳無能及者矣、嵯峨帝大信之、弘仁元年、禁内造眞言院、歳時脩法無怠矣、七年、歳四十三、開紀伊南山金剛山寺十四年、勅賜東寺天長元年、任少僧都四年、任大僧都、承和二年三月二十一日化於南山、年六十三、延喜二十一年、勅謚曰弘法大師大師博學才藻、當寺文士、無敢抗者在於(186)書法、得其妙、與張芝懷素齋名、見稱草聖、於諸宗祖師可謂古今獨歩也。」
 大麻神社〔四字右●〕 善通寺より琴平に至る街道の西に當り琴平山の續きなる大麻山の麓にあり。式内の舊社にして、景行天皇の皇子なる讃岐國造の祖神櫛王の當社を尊崇せしこと社傳に見えたり。寶什の天太玉命坐像及び彦火瓊々杵命坐像は共に近世國寶に列せり。
 琴平町〔四字右●〕 鐵道善通寺の次驛を置く。琴平山(舊稱象頭山)の山麓に位し、琴平街道は東北より來りて西南に向ふ。町は東西に長く、南北に短く、市坊十五、人口六千八百を有す。而も地は四國第一の流行神なる金比羅神社の爲めに榮えたる土地にして、規模宏壯なる旅店街頭に高く、賽者常に陸續として踵を絶たず。町の主街路は、東北より西南に向ひ、半ば琴平山の山腹に至り、人屋高下相接して、遂にその著名なる金刀比羅宮に達す。中内氏曰「三日月の牙とぎ出すや象頭山と蕪村が詠じけむ、たゞこれのみにては、象頭山の面影なほおぼろげなれど、次に掲ぐる廣瀬旭窓の詩を讀まば、其山容、おのづから想像するに難からざるべきか。「象頭非象山也己。形容彷彿自(187)相似、長街屈曲扼咽喉、老樹槎※[木+牙]列孟齒、東麓坦※[しんにょう+施の旁]如鼻垂、西峯稍高成其耳、人過鼻西到耳東、卓爾身猶犢背童、長嘯一聲山石※[土+斤]、千谷萬澗颯生風、樹動雲走山似活、恍疑象行入天中」。琴平神社は、この象頭山の半腹に在り。麓より本社に至る九町五間、石磴整然として賽者肩を摩せむばかり、その繁昌は、伊勢の大廟に亞げりとかや、この繁昌はやがて琴平町の繁昌を來す所以にてその市街千五百の商家、旅店は、みなこの參詣人によりて生活せりといふも可なり。さもあらばあれ、今の琴平町はまた昔の琴平町の比にあらず。維新前後までの琴平町は、水温く山軟に、花挑み柳招く底の銷金窩場にして、こゝに集ひ來る幾十萬の信仰者、いづれも財布の底をはたいて、一世の豪興をつくせしほどに、旅館鱗次も、娼家櫛比し、滿街人を以て埋むるの觀ありしも、汽車汽船の輸入と共に、海陸の交通頻繁となりしより、賽者この地に足を留むるもの少なく、却つて多度津の港に繁昌を奪はれ、旅店娼家の存するもの、昔に比べて僅に十が一。當年の全盛、今見るによしなきぞ是非もなき。」
(189) 金刀比羅宮〔五字右●〕 は琴平山の中原平地に數棟の堂宇を成し、本堂は規模宏壯、頗る壯觀を極む。これ、明治十一年に造營せしもの、すべで檜材の無節にして、壁板天井には櫻樹の蒔繪を描き、金光燦爛、殆ど賽者をして目を眩するの思ひあらしむ。社傳に由れば、正殿大神の鎭座は、太古に屬し、相殿の神靈(崇徳天皇御靈)は永萬元年の勸請なりといふ。維新前は象頭山金比羅大權現と稱し、金光院これが別當となり、桃園天皇の世、勅願所に仰出され、日本一社の綸旨を賜ひしが、明治元年六月、神祭に改め、事比羅神社と稱し、四年六月國幣小社に列し、十八年五月更に國幣中社に進み、二十二年七月事比羅神社の稱を更めて、金刀比羅宮と爲す。大祭は毎年十月を以てこれを行ひ、頗る古式を存し、別に潮川神事、中祭、小祭、月次祭、櫻花祭、紅葉祭等あり。境内の建物及び名所の主なるものとしては、崇敬講社本部、大皷樓、清少納言碑、神籬大門、櫻の馬場、神馬舍、社務所、木馬舍、祓戸社、火雷社、旭社、賢木門、遙拜所、眞須賀神社、御年神社、事知神社、本宮、樂殿、嚴魂神社、睦魏神社、神庫、神輿庫、(189)三穗津姫社、祓舍、常磐神社、菅原神社、家所、繪馬堂二棟、大山祇神社、燈籠などあり。明治三十四年、國寶に列せられし社寶には、紙本着色なよ竹物語繪卷一卷、應擧筆紙本墨畫遊虎圖二十四枚、同紙本墨畫竹林七賢圖十六枚、同紙本墨畫瀑布び山水圖三十三枚、同紙本墨畫遊鶴圖十七枚、紙本着色辨財天十五童子像一幅あり。その他諸名家の染筆に係る書畫甚だ多し。一地志曰く「金刀比羅宮は讃岐國多度郡琴平町にあり。大物主神を祭り後世崇徳天皇の靈を配祀す。中世以後佛書の金毘羅神に附會して金毘羅大權現と稱し、神佛混合の姿となりしが、明治維新の際今の名に改めらる。創立の年代詳ならざれども、早く長保三年に、藤原實秋勅を奉じて此の社を拜し、本殿及び拜殿を建立したることあれば、古きこと知るべきなり。降りて天正元年再造の事あり、寶暦十年勅願所に准ぜらる。別當寺を松尾寺金光院と號し、佛塔寶甍輪奐の美を極めたりしが、近時火災に罹りて社殿以下を改築せり。當山また象頭山と稱す。山形の遠望象の頭に似たるを以てなり。古來より諸人の崇拜甚だ厚く參詣者四(190)時絶ゆる事なし。就中關東諸國よりの賽者多く、これらの旅客は孰れも大阪より乘船して丸龜に航するが故に、大阪には賽者を目的とせる旅宿尠なからず。俗にこれを金毘羅宿と稱し、船を金毘羅船と號す。而して瀬戸内海の舟夫は海上の安全を此の神に祈り、危急の時、頭髪を剪りて海に投じ祈念すれば、波忽ち靜まると信ぜられ、後ちには天下の舟夫等しく此の神を仰ぎ、海上を航する旅人も難風に臨みては、金毘羅大權現の題目を唱へて祈祷したる事、近世の群籍に多く散見する所なり。また天狗は金毘羅の神使なりと稱せられしより、賽者の多くは、大なる天狗の假面を背に負うて詣づるの例なりき。例祭は三月・六月・十月等なりと雖、十月を以て當山第一の會式と爲す。十日十一日の兩日に亘りて神事あり。而して神事に與る者に頭人といへるありて、毎歳二人を定む。上頭・下頭といふ。小松の庄苗田、榎井・四條・五條の四箇村に其の家筋の者ありて之れを勤仕す。大祭の儀式は、早く八月三十日より始り、九月八日汐川の神事とて、別當金地院、この頭人を召し連れ、石淵に至りて修法を行ふ。爾來(191)頭人は齋所を造りて移徙し、火を改め穢を忌み病を問はず、四足二足の鳥獣並に川魚、また海魚にては海糖魚・蟹等を食はず、殊に房事を禁ずる事最も嚴重なり。其の間熱由女郎といへる老女ありて頭人を介抱す。十月十日に至り、頭人白衣烏帽子を着し、騎馬にて武家の行列を爲して參詣し、熱田女郎は、頭上より緋無垢の小袖を引き被き、乘馬して先拂の役を勤む。次に十二三歳の少童並に童女を撰み花やかなる粧を爲し、少童は馬に、童女は輿に乘り、供人數多具して山上し、別當の院に入る。院にては生僧出でゝ饗應あり、院の疊を上げ雜人としてその儀を見せしむること恒例なり。十一日には神輿を振ること他の神事と異なり、御靈移しいふことなく神輿堂より舁ぎ出したるまゝ觀音堂を三廻りす。これを行堂廻りといふ。其より觀音堂に神輿を据へ、神役に當りし兩頭人、頭家の僧の三人、三寶にて膳に就くの式ありて後、この膳具をば悉く堂の椽より庭へ放棄し、箸は蓮池へ捨て、神事全く終。於是、夕七ツ時より神人僧侶參詣人以下一人も殘らず悉く下山す。なほ此の日捨てたる箸を拾へば幸福(192)なりとて、翌朝早く諸人參詣して捜索すすと雖も、膳具箸全く形を留めず。箸はその夜の中に阿波の箸倉谷へ守護神の運び去ると言傳へ、神靈の一に數へらる。」
 琴平公園〔四字右●〕 琴平町の南方にあり。園は琴平山の山麓をめぐり、東南より脊後に出でゝ絶顛に達する一帶の丘山にして、頂上の眺望佳絶、晴日には遙かに讃備の水光山色を展望することを得べし。園の麓には町立工業學校あり。
 金刀此羅宮神事場〔八字右●〕 琴平町の南端にあり。石渡川を隔てゝ琴平公園と相對す。一境別に開け、地清く砂白く、老松盤旋、溪聲掬すべし。この他、琴平町には鞘橋の勝あり、琴平山の東十町には琴平の高燈籠あり。
 滿濃池〔三字右●〕 琴平町を距る東南一里、七箇村及び神野村の間にありて、東西七町半、南北十五町、周囘二里三町にして金藏寺川の水源なり。弘仁年中、弘法大師の穿つ所にして以て近村の灌漑に充てたりしが、中ごろ池水溢れて其形を失ふに至れる由今昔物語に見えたり。去れば現在の池は後年再び開鑿せしものにや。池畔風色に富み琴平近(193)傍八景の一に數へらる。又池堤に滿濃神社あり。猶、琴平町より南する街道は、三里にして阿波國の國境に達す。
 多度津より伊豫新道を南し、二里にして三豐郡に入る。
 曼荼羅寺〔四字右●〕 吉原村大字吉原にあり。眞言宗にして、我が拜師山延命院と稱し、その奥院を出釋迦寺と釋號す。共に弘法大師の創建に係れり。而も寺は弘法大師唐より歸朝の後、地に金胎兩部の曼荼羅を封じて精舍を建立し、大師自作の七躯の佛像を安置せし靈區にして、境内二町歩餘、四方土塀を環らし老樹其間に參差たり。現在の堂宇には本堂本尊大日如來護摩堂、大師堂、鎭守堂、愛染堂、籠り堂、鐘樓、二王門、客殿、庫裡等あり。又寺寶は弘法大師自筆の像、大師傳來の兩界曼荼羅、後堀川天皇の綸旨等を以て其の重要なるものとす。鐘樓の前に櫻樹あり。標石を建てゝ西行の歌を勒す。曰く「四國の方へ供しまかりける同行の都へかへりけるに、歸り行く人の心を思ふにもはなれがたきは都なりけり。かの同行の人かくと見て櫻に笠をかけ置けるをみて、(194)笠はありその身は如何に成ぬらむあはれはかなきあめかした哉」。
 水莖の岡〔四字右●〕 曼荼羅寺の西方數町にして、某氏の別墅の庭園は、西行法師が四國行脚の際、一時草庵を結びて假寓せし水莖の岡の舊跡なりといふ。撰集抄曰「俊惠の住み給ふ東大寺の麓にたづねまかりて、何となく歌物語し侍りしが、如何なる歌か讀みたると問ひ給ひしかば讃岐國多度の郡にかたの如くの庵結びて侍りしにかく、山里に浮世いとはん友もかなくやしく過ぎし昔かたらん。また難波のわたりを過ぎ侍りし時、津の國の難波の春は夢なれやあしのかれ葉に風渡るなり」。萬葉集「天霧相ひかた吹らし水莖の岡の湊に浪たちわたる」。公朝「ひかた吹おともさびしき水莖の岡の湊の秋のしほ風」。
 仲多度郡の海上に散布せる島嶼を鹽飽群島といふ。即ち、本島、廣島、與島、佐柳島、高見島にして、中、本島尤も大に、島に工業補習學校あり。與島に、燈臺あり。與島の屬島瀬居島にては、春季、鯛及び鰆の漁獲甚だ多し。
(195) ○伊豫街道 三豐郡に入り、大見、上高瀬、笠岡、寺家等の諸邑を經て觀音寺川の灌漑する平野に出で、一里餘にしてその河口なる觀音寺町に達す。
 彌谷寺〔三字右●〕 大見村彌谷山の中腹にあり。その山は太だ高からずと雖も、嶺は多度郡の天霧山と相連り、且、山中岩石突兀として、阪路崎嶇また一奇山なり。而して岩窟を穿ちて佛廟を營む。岩石多くは佛像を刻せり。傳に曰、天平勝寶の間、行基菩薩これを開き、後、弘法大師これを脩むと。大師堂の傍側、石壁千尺の間に刻せる彌陀の名稱九箇は實に弘法大師の手刻といふ。寺は、貞治以後、香川氏の香火院となり、同氏數世の墳塋あり。更に後世京極氏これを重修す。寶什中、弘法大師入唐將來の金銅五鈷鈴一口は明治三十四年國寶に列せらる。他に行基作佛像、經卷等數多あり。
 法華寺〔三字右●〕 下高瀬村字法華堂にあり。日蓮宗、正應二年の創建にして、日仙上人を以て開山とす。境内北は海濱に接近し、東北に五岳山、西南に七寶山を望み、風景稍や佳なり。本堂には日蓮上人の大曼荼羅を以て本尊とし、別に開山堂、寶藏、客殿、垂(193)迹堂、庫裡、鐘樓、茶堂等あり。又等寶として日蓮上人の畫像、上人眞筆の書柬、三面大黒天の像其他の書畫數幅を傳ふ。
 高瀬より觀音寺町に至る間、伊豫街道途上の主なる勝蹟には、勝間村に首山觀音堂あり。笠田村に忌部神社あり。上高野村に寶積院あり。本山村に本山寺あり。常磐村に植田天神社あり。中本山寺は、大同年間、僧空海が平城天皇の勅を奉じて創建せるところと稱し、今に、本堂建案の幾部及び堂西觀音塔に大同年間の建設、天暦二年修理の面影を傳ふ。ことに、二王門は全く久安三年の建築の儘なるを以て、古式古色、尤も巧妙なり。寺は四國遍路巡禮第七十番の札所とす。
 大水上神社〔五字右●〕 二宮村大字羽方にあり。當國の二の宮にして、讃岐國式内二十四社の一に居る。
 觀音寺町〔四字右●〕 三豐郡の西部海岸觀音寺川の南にある一市邑にして、別稱を假屋といふ。人口凡そ一萬三千、西讃の一都邑として三豐郡役所、税務署小林區署等の公衙あり。而して、觀音寺川の海に注ぐところを假屋浦と稱し、その北を有明の濱といふ。風景の佳絶なること郡中に冠たり。また、觀音寺川の三架橋を渡りて北行する數町にして、(197)巨刹觀音寺及び琴彈八幡宮に達す。町より高松市に至る十四里二十八町、多度津に至る六里十二町、伊豫の川の江に至る凡そ四里半とす。
 觀音寺〔三字右●〕 一に神惠院と號す。琴彈の北麓にあり。傳に云く、弘法大師琴彈八幡の神託に因り、七寶を地に埋めて佛廟を營む。故に七寶山と稱せりと。本尊は大師の刻せし正觀音なり。又、仗六の瑠璃光如來四天王等の像を刻して諸堂に安置し、四十九基の石塔を建て、都卒の四十九重を擬せしといふ。石塔の今尚存するもの奇古愛すべし。西金堂、中金堂、東金堂、護摩堂、地藏堂、十王堂、大師堂、祖師堂、五智寶塔、鐘樓二王門等の堂宇あり。寶物の重なるものは、國寶の資格あるものと定められたる絹本着色不動二童子像一幅、同琴彈宮繪縁起一幅、同琴彈八幡本地佛像一幅、木像彫刻涅槃佛像一躯を始めとし、土佐光信筆琴彈山圖壹幅、僧智光筆淨土九品曼荼羅一幅、僧惠心筆兩界曼荼羅其他佛像畫圖の觀るべきもの數ふるに遑あらず。
 琴彈公園〔四字右●〕 明治三十年時の縣知事内務農商務兩大臣に請ひて許可を得、琴彈山及其(198)西方有明濱に面する白砂青松の地を公園に編入し、又觀音寺町に於て其南方財田河畔の民有地を買上げ、合せて之を公園に編入し、園藝師小澤氏の設計を徴して、琴絃池、琴柱池を掘鑿し、池塘に花卉を栽植し、春花秋月衆諸遊覽の勝區と爲せり。而も、庭園の設備未だ年處を經ず、從つて蒼古幽邃の趣を缺くと雖も、庶民遊覽の地としては過ぎたりといふも不可ならず。中内氏曰く「觀音寺川に架したる三架橋をわたりて朱欄まばゆき御祓橋を西に過ぐれば、やがて觀音寺公園の入口なり。こゝに崛起せる琴彈山は高からねど山勢優美しかも粘土を受けずして、白砂を衣となし、奇巖怪石の間には、翠松欝々として茂れり。一の華表を右に潜りて、石磴を踏むこと千餘級、絶頂にのぼれば琴彈八幡宮の祠あり。聞くならく、人皇四十二代、天武の帝の御世しろしめす大寶三年三月二十一日のことゝかよ遙に西天の方にあたりて、遠雷の鳴はためくが如き響を耳にすること三日三夜、雲氣濛々として、日月も光を失はむばかりなるに、人々怪み且つ驚きけるほど、忽ち一道の、白氣かなたの空にたなびきて、この山(199)にかゝるよと見るうちに、山の麓なる有明の浦、梅腋の濱邊に漕ぎ寄りし一艘の船龍頭鷁首の最と麗はしく装ひたるが、中に貴人の玉琴を彈ずる絃の音、峯の松風に通ひて、錚々として梢にふるふが如く、妙なる調べ、この世のものとも思はれぬに、其頃當山に住みし日證上人と云へる聖、出で迎へてこれを見るに、果して貴き宇佐の御神の、この地の明媚なる山水の景色を慕うて、はる/”\探ね寄らせたまひしなりけり。其時より八幡宮の祠を齋き祀り、この山を琴彈山と呼ぶに至りしなりとか。事あまりに荒唐にして、もとより深く信ずべきにあらねど、その優雅なる山水のけしきは、かゝる説のあるによりても、略ぼ想像を描くことを得べきか。この祠を拜して、山頂の西角盡くる處に出づれば、巨巖疊むでさながら象の鼻の如きを見る。これぞ名高き象鼻巖にて、巖頭の眺望最も佳なり。此處に毛氈を布きて、行厨を開き、松の落葉を焚いて酒を暖む、鶴羮鳳炙の贅はつくさねど、かゝる天下の絶勝を賞でつゝ飲む酒の味は、また格別なるを覺えき。見わたせば、近く前に浮べる伊吹、大島の青螺を初めとして(200)遙かに山陽の峯巒、九州の一角まで、依稀の間に認め得べく、左の方、烟靄淡く籠めて、紫の色ほのかなるは伊豫の連山にて、右の方、長蛇の蜒々として海に走せ入るが如きは三崎の岬角《ハナ》か。沖に霞める白帆の影、磯に網引く海士が小舟など、宛がら一幅の畫圖に似たり。瞰ろせば、浪靜かなる有明の濱、千歳の老松、偃蹇として龍躍り、潮は白砂を洗うて、銀を撒きたるかと疑はる。一帶の眞砂地麓に續くところ、深く掘りて一個の錢形を描く、直徑一町ばかり、中に寛永通寶の四字は讀まれたり。いつの頃より描きそめられたりとも定かならねど、風雨共にその形を崩さず。折しも運動會にとて濱邊に出でたル數多ノ小學生徒、その錢形の内環外環の溝の中を、互ひに競ひ走れるさま、また是れ他に類なき奇觀ナりけり。象の鼻よリ右に下れば、根上り松とて、支根高く蟠崛して、さながら章魚の躍れるさまに似たるがあり。それより左に折れて稚松の間を有明濱に出づれば、翠松枝を交はして林をなせる間に、池あり、橋あり、第※[木+謝]あり、茶亭あり、清泉玉を跳らすところ、玄裳白衣の仙鳥靜かに遊び、傍に小松宮(201)殿下の、しばしの御宿と定めたまひし、御殿あり。再び松下に毛氈を布きて酒を酌みぬ。夕陽三崎のあなたに落ちむとして、未だ落ちず、瑠璃を流せるが如き海面、やうやく薄紅の色に輝きて、次第にまた暗碧の色に變りゆくけしき、えも云はれず。丘頂より見たる錢形の邊に至れば、たゞ幅廣き溝の前に横はるを見るのみにて、こゝにてはその形の何たるやを解する能はず。其大きさも推して知るべきにこそ。七寶山の入相の鐘に、日は全く暮れたれば、愛を割いて氈を捲き、麓に沿うて觀音寺川の岸に出づるに、此所はまた、奇岩突兀として、泉水のつくり、四阿の構へなどことに雅致あるに、見過して去るにも忍びず、若草柔き小山の上に座を占めて、三たび酒をあたゝめぬ。今宵は月もあるべき夜なれど、空いつしかどんよりと、曇りて、星の影さへ見せねば四邊ほの暗く、僅に焚火のあかりをたよりに酒を酌みしが、かくてあまりに時刻を移さば家にあるもの共の案じ煩はむにと遂に全く行厨を收めて家路をたどりぬ」。
 琴平町より來れる街道は、神田、辻、粟井、紀伊、中姫、大野原の諸村を經由して豐濱町に達し、以て伊豫(202)街道に連絡す。辻村よ觀音寺町に至る里程二里なり。粟井村に式内粟井神社あり。
 豐濱町〔三字右●〕 觀音寺町の南方一里餘とす。舊稱和田濱といへり。人口凡そ五千三百、海に瀕して一小驛をなせり。伊豫街道はこの町より國界餘木崎に至るまで二里、更に同所より一里にして伊豫國宇摩郡川江村に至る。
 萩原寺〔三字右●〕 三豐郡の西南萩原村にあり。地藏院或は中之坊と稱す。僧行基の開基にして、大同中弘法大師これを修造し、四國八十八番禮所の第六十六番即ち當國札所の始りとなし、また雲邊寺を造營して當時の奥院となす。境内には本堂以下五六の堂宇あり。中、客殿、庫裡等の建築ことに宏壯を極む。弘法大師眞蹟急就章を始めとして收藏の寶物また尠なからず。
 雲邊寺〔三字右●〕 五郷河内兩村の間にあり。雲邊山は海面より高きこと三千六百尺にして、昔時はその境域阿、土、豫、讃の四州に跨れりといふ。而して、寺は嵯峨天皇の勅願寺、引法大師の經營に成り、同大師佛像を以て本尊とす。昔時は、堂塔全山に連りし由(203)なるも、今は本堂以下四五の建物を存するのみ。
 三豐郡の西南の一角は、長く海上に突出して、一小半島をなす。その半島の頸部に仁尾の一邑あり。漁業の盛なる地とす。またその海上に大蔦、小蔦の二島あり。
 仁尾浦平石〔五字右●〕 大蔦島の北方二十町餘にありて、仁尾村大字仁尾浦に屬す。石はその大さ東西九間、南北七間、海中に浮び、その上平かにして、數百人を座せしむべく、夏時來遊の客多し。
 妙見山〔三字右●〕 仁尾村大字仁尾にあり。一名七寶山と稱し、夙に巨巖怪石の奇を以て鳴る。山中に獅子頭及び寶嚢、鯛岩等の奇勝あり。眺望また佳絶といふ。
 尊澄親王舊址〔六字右●〕 詫間村大字詫間にあり。元弘の亂、尊澄親王謫居の舊蹟といふ。猶、この詫間村一帶の海灣を總稱して、詫間灣と呼べり。その前面には粟島、志々島、龜笠島、岩島、津島、唐島等羅列し、その北方粟島と相對する所、海水甚だ深く、殆ど六十尺に至り、大艦、巨船幾十艘を容るゝに足るといふ。粟島には郡立航海學校あ(204)り。
 ○小豆島及其他 小豆郡は大川郡の北方海上に横はれる小豆島と、その西に連れる豐島と爲す。北は備前播磨と相對し、播磨灘及び淡路島に面す。地勢、山岳中央に連亙するを以て、その平坦なるもの僅に沿海の地に過ぎず。物産には、醤油、索麺、石材の産多し。交通は郡の首邑土庄町を西北に距る數町の吉ケ浦を以て、最も主要なる水運の寄港地に屬し、高松・岡山・神戸・大阪を往復する汽船は日毎に此灣頭に出入す。道路はこれより土庄町を經、池田・草壁・安田・苗羽を經て、坂手港に至る。
 土庄町〔三字右●〕 郡中最も殷賑の地區にして、人口五千餘を有し、郡役所其他の官衙皆此處にあり。小海峽を隔てゝ、對岸に淵崎の一邑あり。人煙稠密なり。土庄より各地への里程を記せば、高松へ十二海里、岡山十八海里、志度へ九海里半、神戸へ五十九海里、大阪へ七十一海里、寒霞溪へ凡四里半とす。
 富岡神社〔四字右●〕 淵崎村東南字富岡にあり。社地、山巓に位せるを以て、五劍山、屋島山、
 
(205)〔小豆島を望む、写真省略〕
 
志度の海灣、松田の松原讃州の山水を眼下に展開して、風光極めて佳なり。ことに、社前を下りて双子山に躋れば、觀望更に一層の快あらん。 寶生院〔三字右●〕 淵崎村字北山にあり。皇跡山吉祥寺と號し天平年間僧行基の開基、弘安中僧増吽の重興とす。宗旨は眞言を奉じ、堂宇壯嚴、地域宏壯、郡内第一の巨刹たり。古書畫の藏また尠少ならず。
 銚子瀧〔三字右●〕 大鐸村肥土山にあり。山麓より二十五町とす。瀑上、巨石相たゝみて潭をなし、その水口五尺、且、崖上に突出する(206)數尺にして、直下するもの六丈恰も銚子の口より酒をそゝぐが如し。而も、水清冽にして、その石の美麗なるまた掬するに堪へたり。加ふるに、地に怪巖多く、緑樹深く、深邃閑雅、一見仙境の如し。仙※[涯の旁]瀧、鳴瀧と共に本郡三瀑の一とす。
 湯船庵〔三字右●〕 街道は淵崎より蒲庄を經て池田に達す。庵は、池田村中山にあり。應永年間、飽浦信胤の造營と稱す。堂下に湧泉あり。地域甚だ宏からざれども、翠樹蓊欝、頗る閑雅幽邃の致あり。信胤の歌に曰く「おのづから光も清くたれてすむ月をあるしの山の井の水」。
 太麻山〔三字右●〕 池田村中山の脊後にあり。俗に西の瀧または虹の瀧といふ。高さ千七百十六尺、山骨露出、天半に横はり、その西端巖下に瀧水寺あり。また湧泉あり。山海の眺望頗る佳といふ。
 龜山神社〔四字右●〕 同村にあり。富岡神社、八幡神社、(苗羽村)茸田神社、(福田村)伊喜末神社、(四海村)と共に當郡五社の一とす。
(207) 内海灣〔三字右●〕 一に草加部灣と稱し、二生・三都・西村・草壁・安田・苗羽の諸村これをめぐる。灣内廣濶にして、深さ十一仞を有し、泊舟に便なり。灣口は其西南に位し、船舶常に來り集る。本灣に添へる諸村は、有名なる小豆島醤油の生産地にして、醤油釀造家多く大厦をつらねたるを見るべし。明治二十三年四月十八日至尊が呉港行幸の際、本灣に濃霧の晴るヽを待たせ給ひ、「思ひきやあつきの島の朝きりにゆくさき見えずなりはてんとは」と御製あらせられし地、島民今も其の洪恩を記し、毎年其日を卜して、御寄泊紀金式を執行すといへり。四顧すれば翠峯碧巒水面に落ち、風帆漁艇遠近に往來し、岸には白砂青松あり、斷岩懸崖の間に交はり、實に山水雙美の地なり。此の風光や、聖主の洪恩と倶に永く相換る事なかるべし。
 草壁村〔三字右●〕 は上村、下村、片城の三部落に分つ。人口三千百餘、土庄に亞ぐの名邑にして、下村はやゝ市街の状をなせり。地より日々土庄、高松、岡山へ往復する汽船便あり。
(208) 寒霞溪〔三字右●〕 小豆島神懸山は寒霞溪として文人墨客の間に開ゆ。まづ、上村に石門あり。巉岩聳立、その天工の奇、驚くに堪えたり。これより三十町、奇岩續出、千態萬状、容易に状すべからず。岡本黄石記して曰く、「五歩改觀、十歩異状、一峯未移、一峯又出、更有一峯、自其後而彌縫之、有一峯分爲數峯、合爲一峯、有峯上安峰、如人之戴帽、有全石成峰不帶寸土、有峯腹空洞中抱數松樹、有上豐而下殺、欲崩未崩、有突怒將相闘、有如離立離座而往參之、或俛或仰、或起或以、或欹或反、或横或斜、終無一有同形」と。而してこの間に小溪潺々として流れ、春花秋葉、まことに天上の奇觀と稱する溢美の言にあらず。而して山の成因はかの上野の妙義山と同じく、浸蝕作用によりてなりたるもの、妙義に比すれば、規模やゝ小なれども、その海山の眺望に至りては蓋し遠くかれに勝れり。猶、通天窓、紅雲亭、錦屏風、老杉洞、蟾蜍岩、玉筍峰、帖子石、層雲壇、荷葉岳、烏帽子石、女蘿壁を以て溪中途中の絶勝となし、之に山巓の四望峯を加へて、里人は此地の八景と爲す。山頂にこ達すれば、馳望千里、南に阿讃の山(209)水あり、北には播備の城市あり。蒼海杳渺、島嶼幾千、皆雙眸に攅《あつま》り來り眞に天下の壯觀なりとす。而て溪中春花、夏緑、秋月、冬雪孰れも其觀に富むと雖も、就中、晩秋紅楓の時を以てその最も壯と爲す。地學雜誌曰「神懸溪は、その攀躋の峻路花崗石より成るも、該溪に近づくに※[しんにょう+台]《およ》び、地質一變して火山質岩となり、種々雜多の火山岩塊及び磊々なる集塊岩、二百米内外の厚さをなして現はれ、澗水これを浸触して溪谷を穿ち、石峰を出し、或は聳焉として笋立し、或は呀然として洞を爲し、或は大石の上に小石を負ひ、或は怒つて拔起し、或は崩潰して支ふること能はず、その状千態、特に秋冷の候に至れば、溪崖の楓葉、雜樹霜氣に遇ひ、盡く染りて萬木紅葉ならざるはなし。澗道を過ぎ、岩にすがりて登れば、應神天皇の鈎を岩にかけて登らせ給ふと傳ふる峻阪を經て絶頂に至。海拔五百六十米突、數町の廣場あり、これを囘望頂となづく。」柳北航薇記行曰「余、黄薇に航せし時より、神馳の勝をきく。我國の絶勝は松島象潟等を冠とせしに、近時諸州の名山水を探討せし文士騷客、みな神馳の奇勝實に神州に無二(210)なる事を論ず。故に余浪華に歸るの舟をこの小豆島によせて、神馳に登らん事を永氏と冠童翁に謀りしなり。小豆島は淡路に次で一巨島とす。長さ十餘里厚さ三四里にして奇勝多き事西國人の誇るも理といふべし。この日朝とく池田港より上陸す。神馳はこゝを距る三里にして遠し。同行する者は永氏岸田冠童其子元吉齋藤岩吉佐藤倉次永氏の侍婢阿豐なり。奚奴酒瓢を負ふて陪す。池田邨の綿屋兵馬が家に立ちより、肩輿を借りて永氏を載す。聯歩して山路に進む。室野大峠等の地を過ぐ。山路幽邃松杉蕭森、山下の田圃、みな士墻を造つて野猪の害をさく。此の島米麥を多く産せず。琉球芋を名産とせり。行く里餘、多湖といふ地に出づ。巨松一樹あり、數百年の物なり。其の下に一祠あり、一本松明神と稱す。この地より數百歩にして、内海の海岸に出づ。海灣明媚、右に白濱の山を顧る。これ前宵停泊せし池田の背にあたれり。其の山に面する一堆の山は、内海の辨天山なり。其の左に突兀として奇絶怪絶なる連峯を、坂手の觀音山とす。其山に對峙して、一峯分拆して猪牙の直立したる如きものを、清瀧觀音の山(211)とす。神馳星城は其の左に蒼茫たり。海濱を歩して水木村にいたる。始めて烟草の花圃を看る。其の色淡紅色なり。此村落甘蔗を植ゑ、砂糖を造る家多し。平砂淺潮を歩す半里餘、鬼崎にいたる。洋客の白堊を塗りて記標とせり小碣あり。坂手の觀音山下に人家臥蠶の如く見ゆるは、野間植松の二村なり。此の水涯巨石多く、波瀾の激撞するさま奇絶といふ可し。清水村を經て山路をゆく數百歩にして、内の海の下村にいたる。繁華なる小港なり。石橋あり、刻して柳橋といふ。故山を離る數百里、この地に於て柳橋を渡る。また思郷の情を動かすとやいはん、「綺樓情夢斷、千里故山遙、孤島無相識、追雲渡柳橋、」この地の升屋に憩ひて一酌し、温頓を喫す。酒香※[肴+殳]味孤島の物に似ず。清潔喜ぶ可し。この家を立ち出るころ雨ふり出ぬ。人々勇を皷して上村にいたるて。これより神馳の山麓なり。このほとりにある石燈、みな自然石を以て造る。古色愛す可し。山路に登るに隨ひ、溪水潺湲として苔石磊※[石+可]たり。村落の童女松葉を籃に盛て、山より歸り來るさま大に風致を添ふ。石逕を攀て登るに、雨濺ぎ雲沸く。與丁も足を進むるに(212)困ずれども、余と冠童と先登して人々をはげまして行く。冠童余と聯句をなす。「靉靆碧雲仙逕開、一簑衝雨上崔嵬」柳北「山靈莫笑無桃樹、前度劉郎今復來」桐蔭冠童は此山に登る三囘なりと云ふ。登る事半里許、索麺瀑にいたる。此の瀑は三丈餘の巨巖の面に流れ、水條線の如く下る。其の兩岸峯巒突起して、其状劍の如く屋の如し。ますます進むで望むに、四面みな石山なり。澗水淨々として青松巖頭に生じ、其際にあるは盡く楓樹なり。薛蘿纏綿し、岩松斑爛として石質を埋む。本邦の山岳は異邦と異にして温厚の氣あるを常とするに、獨り此山は奇と怪との兩字を下すべき一勝地なり。山形を囘顧するに、尖鋭刃の如き者あり。夾立屏風の如き者あり。老獅の咆哮する形なる者、巨人の坐嘯する姿のもの、其他千状萬態、洞門を開く者、溪水を遮る者、變化奇幻筆墨の寫しがたき所あり、支那人の畫く奇峯怪巖を始めて目睫に見る。實に一大絶勝といふ可し「絶勝始疑天有松、丹青難寫况文詞、半生憐我烟霞痼、未識溪山若個奇、」益す登れば益す奇、愈よ進めば愈よ怪、一峯一溪といへども、歩々に其觀を變ず。冠童曾て(213)余に語るに神馳の勝、他にこ超絶したるは一歩一景なりと。余其過譽なるかと疑へり。今甘其の眞を見るに及んで、其奇幻寶に一歩一景のみならざるを知れり。山巓に近づく頃岫雲往來し、山容出没して詩歌も形状すべき樣なし。且其の幽深なる猿鹿の外一物を見ず。眞の神仙境なり。冠童云ふ、此の山に猿數千あり、一月内十五日は此の谷に栖み、十五日は坂手の觀音山に移る、其の往來の時索々聲をなし、草木震動すと。之れ亦一奇事なり。峰巒の少し缺けたる所より、讃州の諸山海を隔てゝ現ず。海色蒼茫として間に一州嶼あり。其の内に見ゆるは内の海なり。下村港の人家は雲烟の間に明滅たり。其の風景亦奇絶とす。此時風雨益す烈しく、山氣冥朦として逕路歩を進むるに難けれど、余は其の奇に耽つて笠をすて山を頭に纏ひ、衆を扶けて山頂に至る。輿丁東道をなす者云ふ。遊人神馳に登る者皆晴和の日を卜す。未だ君等の如く風雨を冐て此嶮山に登る者を見ずと。痛く吾輩の狂癖に喫驚せり。山頂より四顧すれば、山岳山湊千里一目、西は屏風嶽を望み、北は流れの山、東は近く星城山を見る。この山は往古(214)佐々木氏の城郭ありし所なりとゾ。南は阪手其他の諸山遠近に聳ゆ。蒼海杳渺島嶼幾千あるを知らず。讃の高松、備の岡山、播の赤穗姫路、其他の城壘數十を一望に見る。寔に天下の壯觀なり。「雲岫千重萬重、紅楓如錦映青松、他年栖隱斯郷好、笑指星城第一峯、」「萬仞峯巒蒼海間、雲籠老洞路※[螢の虫が糸]環、林泉不似人寰物、始悟蓬瀛是此山」山頂に座し、風雨の中に人々皆瓢酒を酌み、醉興爽快なり。忽ち連峯雲を起し來たり、須臾に滿山冥濛として咫尺も見えぬかと思へば、一陣の風來り、雲片散飛して山容明らかに、千里入眼の景誠に驚くに堪へたり。「山出没兮雲往來、瞬間變幻亦奇哉、我登仙巓尤高處、長嘯一聲飛酒盃」俳歌者芭蕉の「初時雨猿も小簑をほしけなり」といふ句は、此の山にて吟ぜしとぞ。暫時山巓に閑酌せしかど、天風雲を吹て、面を撲ち、堪へがたかりしかば、東道を促して下らんとす。今朝成齋に約し、池田港より舟を淵崎の港に移し置きしなれば、舊路によつて歸りたらんは迂路なりとて、西南の芝山にわけ登りぬ。この山は枯草を生じ、奇石處々に轉ろびゐて、松楓のたぐひは紫小樹にて清らかなる處(215)なり、この處を五兒ケ丸と稱す。それより尾簑上といふ山を過ぐ。景色亦佳なり。海上より吹來る風は刃よりも鋭く、人々困じはてぬ。ゆくさきの叢より鹿の躍り出て、谷に入るさま珍らしく覺ゆ、「違近の紅葉白雪ふみわけて錦のなかに小男鹿のなく」此の山には巨蟒久く住みて鹿猿を呑みに出づること多く、夏秋の比は土人も恐るゝよしきゝて、何となく物淋し。この山をゆけども/\はてなく、山路と思ふ所さへなくなりければ、日のかたふくにつけ心くるしくなり、東道の輿丁に聞けば、今少しゆけとのみ答ふを、冠童に問へば、此山は曾て登りし事なしと云ふ。誰も皆な心細くなりて面色土の如く見えしかば余も心いら立ちて東道の者に迫り問へば、答ふるやう、やつがれこの秋薄を刈りに一度この山に登りしのみなれば、細かにはしらず、けふ神馳を出でし時あまりに雲の立ち掩ひたれば、チイクシ(少しと云ふ詞なり)、路を違へたり、其罪をゆるしたまへと、ひたすら謝しけれど、今さらせんなし。日もくれかゝりければ、この山上にあらんよりは、むしろ道を尋ねて里へくだらば、いづれの港にか出な(216)んとて、永氏の輿につきそひて、急に樵路を尋ねて一里ばかり下りぬ。その路はたゞ松杉生茂り、下は巖石の逕にて何といふ處とも知らず。たゞ精神を勵ましつゝ、高くうたうたひて行くに、足のもとより鹿の飛出る事しば/\なり。雨もやみ雲も晴れて、十五夜の圓月林間に出でければ、少し力を得ぬ。坂を下る所に大なる池あり。輿丁いふこれよりはやつがれも路をしれり、此池は深山の池といふ處なりと、少こし落ゐて、「雲くらき杉の下道わけゆけば深山の池にさゆる月かげ」これよりまた山路二里ばかりゆきて下るに、下山といふ孤村へ出でたり。人家少しあり。この村の忠五郎と云ふ農民の家に憩ひ、草鞋買て苦茶一椀を飲む。人々みな蘇生の思をなす。永氏を始めて笑を催ほし、其侍婢の阿豐も嶮山をわたり、杖一すじに隨ひ來たりしは、まことに憐れに覺えける。冠童元吉等もみな一二度轉び倒れぬ者はなし。こゝの主人圓き餅と今作りたてゝ猶暖かき黒砂糖とを勸む、珍らしく覺えて携へ歸りぬ。之れより淵崎まで一里餘もありときゝて、月をしるべに立出でぬ。この村よりは路ひろく平かにして歩(217)みよし。丸き石橋を谷川にかけし所を過ぐ。こゝの山に西の瀧といふ瀑布あり。年々除夕には、この瀑にかならず大なる龍燈上り、土人皆これを見ると云ふ。開きといふ川を過ぎ、大樹の松を見つゝすゝみゆくに、阿古屋といふ處へ出でぬ。鹽濱ある地を經て、これを問へば、戸の障に近しといふ。戸の障の榮臺橋を左に見て、漸く淵崎の市に出でしかば、冠童の知りし中屋多兵衛といふ家に憩ひ、人々飯うち食ひて飢を醫し、奚奴に舟を尋ねしむれば、この港口にありと答ふ。うれしく思ひて舟にいそぎつるが、この地の鍵屋伊吉郎と云ふ家に浴場ありときゝしかば、立よりて人々と湯あみし、竟日の勞を慰さめぬ。此家は僻地に似ず家も清らかに富めるさまに見ゆ。こゝを出でゝ舟に歸り、成齋に逢ひ、けふの奇景と困難を物語りしころは、三更の月影舟中に稜々たり。余夙に官海に身を沈め、天下の山水を縱觀する能はず。唯詩章畫圖の間に名勝を知る耳。隱退以來各處を跋渉すといへども、いまだ此小豆神馳の如く奇景怪境を見ず。況んや風雨も衝き、婦女と偕に無人の境を經過す、其奇亦自から驚くに堪へたり。そ神馳は諸州の山を殊更にして、神※[纔の旁+立刀]鬼刻奇絶怪絶なるは、筆墨の形容し得る處にあらず。文士騷客もし一遊を爲さば、必ず余が云ふ所に千倍したる絶勝なるを知るべし。』
 星ケ城山〔四字右●〕 寒霞溪の東三十町、安田村にあり。郡中の高峯にして、頂に達すれば、南海山陽の山川歴々脚下に落ち、眺望實に壯絶なり。山中に二祠あり、一を東峯神社といひ、一を西峯神社といふ。舊紀に曰く、應神天皇曾て此地に遷幸せりと。又、康平年中備前兒島郡飽浦の城主佐々木信胤此地に城きて方士城と名けしが、貞和三年細川頼之の爲めに破られ、城終に陷ると云へり、この他、安田村には清瀧山あり。山麓より十八町にして頂に達すべく、怪巖壁立、深樹欝蒼、幽閑の勝區なり。山に地藏堂あり。また、安田村の植松には飽浦信胤の墳墓あり。
 碁石山〔三字右●〕 苗羽村にあり。麓より十七町にして頂に達すべし。堂及び祠あり。奇石怪巖、龍蟠虎踞以て洞を開き窟を穿つ。且、巖上平なる所に數百の瘤を點じ、その色黒(219)白ありて、恰も盤上に碁石を散布したるが如し。加ふるに境地また眺望に富む。猶、村内に當郡五社の一なる八幡神社あり。
 洞雲山〔三字右●〕及隼山〔二字右●〕 洞雲山碁石山より五町を隔て坂手村にあり。山に大なる岩洞を有し、巨松老杉その洞頭に繁茂す。また一奇勝なり。隼山はそれより猶ほ五町にあり。一に日向瀧または東の瀧と稱し、同じく岩洞の奇あり。且、眺望に富み、阿波の鳴門、白鳥の海濱、津田の松林より近くは大角の岬、風の子の嶼に至るまで悉く眸中に集る。
 福田村〔三字右●〕 の東北端に位す。東北は淡播洋に向ひ、西南は大部安田に界す。人口千三百餘、石材の産出を以て名あり。且、村内に葺田神社及び幕末の志士田中綏獻の墓あり。
 四門山〔三字右●〕 大部村大字小部にあり。山麓より十七町とす。この境また怪巖巨石奇洞の勝に富み、且、添ふるに危樓樓亭の建物を以てす。展望また佳なり。
 仙※[崕の旁]瀧〔三字右●〕 大部村大字大部にありて、神懸の裏面とす。山麓より十五町にして瀑邊に(220)達すべし。瀧、一名を蝶の瀧と稱し、高さ六丈、幅七尺、五層となりて落下す。秋葉楓葉の候ことに美觀なり。猶、當村の西端には琴塚あり。上古神功皇后投琴の遺跡と傳ふ。
 鳴瀑〔二字右●〕 北海村大字小海にあり。高さ四丈、幅六尺、銚子瀧、仙※[涯の旁]瀧と共に本郡三瀑の一と稱す。而して、瀑水の奔下して潭をなすものを於玉ケ淵と呼び、これに婢女阿玉の故事を談ず。
 如上の他、四海村大字長濱には長勝寺あり。同字大字伊喜末には伊喜末神社あり。猶、四國八十八番礼所の外、別に本島のみにて島八十八ケ所の札所あるも、此所には省略す。
 
〔以下、伊豫國、土佐國は割愛する。〕    2008.10.11(土)午前10時10分
 
(406)   紀伊國
 
 紀伊國は近畿の南を擁し、南に向つて突出せる彎形の大國にして、北は和泉、河内、大和、伊勢と境を接し、東、西南の三方は海に瀕す。東西凡そ二十七里、南北凡そ三十里、總面積大約三百八十萬方里を有す。國を分つて海草、那賀、伊都、有田、日高、西牟婁、東牟婁、南牟婁、北牟婁、の九郡及び和歌山の一市となし、南、北牟婁兩郡の三重縣に治する他、和歌山縣の管治に隷す。國中頗る山嶽多く、西南沿海の地並びに紀ノ川、有田川、日高川等、大河の兩岸に接する部分のみやゝ平坦なり。和泉山脈は伊都、那賀、海草の三郡に跨り、紀伊見峠(三八一米)、土佛(四六五米)根來(三三一米)雲山等の諸嶺を起し、蜒蜿として、東西に走ること凡そ二十三里、吉野連山は東北に來り、高野山生石峯(九一九米)、白馬岳(九四三米)となり、日高、東、西牟婁の三郡は連山縱横に亙り、ことに東西牟婁の兩郡は高峯嵯峨として、行路嶮峻を(407)極む。大塔峯(一二三七米)は二郡の境上に屹立し、國内第一の高峯と稱せり。更に法師ケ嶽、大森山(八九〇米)、大阪峠(五五六米)、大雲取山(八八三米)、小雲取山等は其の東西に聳立し、連峰綿延として連亙せり。徳川頼宣の領土となりて、口熊野と稱せらるゝものは即ちこの東、西牟婁郡の地とす。猶ほ南北牟婁郡の地も東牟婁の山脈と大臺ケ原山脈とを受けて兩郡とも山嶽を重疊す。北牟婁郡は即ち昔時の奥熊野と稱する地なり。斯の如く、當國は山嶽殆ど普く聯亘し、土地自ら嶮峻なれば、從つて奇勝の地の世に顯揚するもの尠なからず。瀑布にはかの本邦屈指の稱ある那智瀑布の如きものあり。殊に海岸に至つては山嶽直ちに海に迫りて、岬角灣澳に富み、絶景また少なしとせず。熊野九十九浦の如き即ち然り。季候は概して温暖にして、且つ濕氣の供給に富み雨量の多き全國多くその儔を見ず。その他、國中の河川の重なるものには當國第一の巨浸たる紀伊川を始めとして、有田川、日高川、安宅川、古座川、熊野川、北山川、大又川、相野谷川《あひのやがは》、楊枝川、銚子州、赤羽川等あり。熊野川の上流(408)に著名の勝地瀞八町を有す。港灣としては海草の和歌山、加太、大港の諸港、有田の北、湯淺兩港、日高の由良、日井、印南の諸港、東西牟婁の田邊、勝浦、新宮の諸港南北牟婁の木の本、賀田、尾鷲諸港を重なるものに推すべし。
 沿革〔二字右●〕 此所に當國の沿革を繹《たづ》ぬるに、神武天皇の東征し給ひしとき、皇軍利あらずして、天皇當國に入らせ給ひしことは、世の普く知るところにして、書記にいはく、進(ミテ)到(ル)2于紀伊國(ノ)竈山1中略六月乙未朔丁已、軍到(リ)2名草邑(ニ)1誅(ス)2名草戸畔者(ヲ)1云々、天皇天下を一統し給ひて、天道根命をこの土の國造《クニツコ》に封し給ひし事は、舊事紀に出でて、之れ當國に國造を置かるゝ權與《はじめ》なり、國造は、その國民を統治する郡長にして、猶後世の大名のごとし、斯くて、孝徳天皇の御宇に、郡縣の制を改め給ひ、諸國の國造を廢せられ、新に國司を置かれ、國造は其の下に屬し、多くは郡領などに任じられたるが、出雲の國造と當國の國造は、連綿と繼承して、後には國司をも兼職したり、然るに源右府、日本總追捕使となりて、諸國に守護、地頭を置き、當國にも佐原|義連《よしつら》を置(409)きて守護としたるより、國司はあれども無きごとくになりき、後醍醐天皇、北條氏を伐ちて大權を收め給ふとき、土地の豪族、湯淺、保田、貴志の輩《ともがら》競ひ起こりて官軍に應じ、足利尊氏、畠山|國清《くにきよ》を當國の守護となし、國清入りて侵略しけるを、四條隆俊、楠正儀と謀を合はせ、龍門山に畠山の兵を破りしが、後官軍の衰ふる、足利氏本州を大内義弘に與へ、義弘滅びて、畠山滿國を守護としたり、滿國、河内に居りて當國を下知す、楠氏の餘裔、楠某、皇孫義有王を戴きて、湯淺城有田郡に立籠り、恢復を圖りたるも、畠山氏撃ちてこれを落とし、王害に逢ひ給ひ、某戰ひ死せり、後|滿國《みつくに》の曾孫政長、義就《よしなり》、嫡子を爭ふに及び、州族分かれて之に屬せしより、國内大に亂れ、豪族等奪略を逞うし、堀内|氏虎《うじとら》无婁郡を略取して、新宮に據る、根來寺の僧徒兵を畜ひて暴威を揮るひ、雜賀の門徒また頑強なり、織田右府、兵を出だしてこれを伐ちしかど勝たざりき、日前宮《ひのくにみや》の宮司、紀忠雄《きいたゞを》、神領を守れる爲めに又兵を蓄ひて太田に城《きづ》き、これに居る、忠雄は、國造の苗裔なり、高野、熊野みな兵を畜ふ、天正十三(410)年、豐臣秀吉、自ら兵十萬に將として南征す、一州擧りて、要害の地に砦を構へて防ぐ、皆攻め破りて、根來寺を灰燼にし、太田城に紀の川を注ぎてこれを落とす、熊野、高野は戰はずして降參したり、秀吉、寺領、社領、郷士の邑等、或は没收し、或は削りて一國を平げ、之を弟の秀長に賜ふ、秀長、其の臣、桑山重晴に命じて、若山の吹上の峯に城《きづ》かしむ、是れ若山に於て、城郭を築く濫觴たり、關が原の役後、徳川家康、淺野|幸長《ゆきなが》を當國に封ず、元和五年、淺野氏を安藝に移し、徳川頼宣を封ず、頼宣は、家康の子なり、頼宣、其の補相、安藤直次を田邊に封じ、水野重仲を新宮に封ず、王政維新の時、田邊、新宮を藩列に加へ、和歌山と共に三藩なり、後これを廢して、和歌山一縣に併す、是れ沿革の大要なり。
 交通〔二字右●〕 国内に於ける鐵道は、大阪府より來り和歌山市に出で、之れより紀川に縱谷に治ひて東行し、國内を横貫して、大和國に向ふものあるのみ。この線路は和歌山市以北を南海線といひ、以東を紀和線と呼ぶ。主要なる街道は和歌山市を中心として六(411)個あり。(一)大阪街道、國の街道中最も大なるものにして、和歌山市より東方和佐村大字栗栖を過ぎ、紀ノ川に架せる田井ノ瀬橋を渡り、川の右岸に出で川永村を經て、北折雄ノ山を踰え、山口村の大字瀧畑を過ぎて和泉國に出づるものにして、其の間三里三十二町餘、悉く車馬を通ず。(二)大和街道は和歌山市より紀ノ川の縱谷に沿ふて、那賀郡の岩出・名手の諸驛を過ぎ、尚ほ東進して伊都郡に入り、粉河・妙寺・名倉・橋本・隅田の諸町村を經て、鐵道線路と殆ど相平行して、大和國に至る十三里十一町餘の道路を云ひ、(三)和歌山市より西北江村を經て、加太港に至る三里二十三町餘の道路は淡路街道と稱す。(四)高野街道は大和より來り、伊都郡紀見峠を經て、橋本町に至り紀ノ川を渡り、左岸の學文路・河根を經て、高野山に達する道路にして、其の間六里廿町餘あり、紀伊見峠より河根までは人車を通ずるも、河根より高野山までは所謂高野の山路にして車を通ぜず。(五)和歌山市より宮・岡崎・西山東の諸村を經て、那賀郡に入り、東野上村大字|動木《とゞろき》・下神野村大字神野を經て有田郡を貫通し、日高龍神に達する(412)道路は、所謂龍神街道にして、總里程十八里二十町の間約十二里二十八町は、車を通ぜざる嶮難の道路なり。(六)熊野街道は和歌山市より海岸に近く南進して、日方・内海《ないがい》の町村を經て鹽津村に入り、更に濱中。椒《はぢかみ》の二村を過ぎて有田川を渡り、湯淺町を經て鹿が瀬峠を越え、御防・印南・南部を過ぎて田邊町に到り、是より道路は二岐に分かる。一は中邊地と稱し、東北東の山路を指し、近露《ちかつゆ》・本宮・天滿の諸驛を經て新宮に達し、他は大邊地と稱し、殆ど海岸に沿ふて富田坂・佛坂の峻坂を經て周參見《すさみ》に出で、長柄坂其の他幾多の山脊溪谷を過ぎ、紀州南端の一都會串本を經て古座川を渡り、古座・高池の諸驛を經て、下里・天滿に至り、遂に新宮町に達す。而して天滿《てんまん》は大邊地・中邊地兩街道の會合する所なり。道路は兩街道共に概ね嶮峻にして、車馬を通ぜざる所甚だ多し。新宮より道路は南牟婁郡に入り、井田、阿田和、有馬、木の本、曾根、三木里を經、北牟婁郡に入りて尾鷲、馬瀬を過ぎて長島に至る之れを要するに木州の交通線は、和歌山附近の鐵道線路四近を除く外概ね車馬を通ぜず。殊に田邊・串本間(413)の如きは、道路最も嶮惡にして、行人の甚だ艱む所なり。唯海岸地方は、大阪商船會社の汽船期を定めて大阪及び尾張國熱田との間を往復するに際し、沿岸諸港に寄港するあり。波甚だ穩ならずと雖ども旅人《りよじん》の往復、物貨の輸送概ね之れに由る。熊野川沿岸附近の交通は多く此の熊野川の水流を利用せり。
 産業〔二字右●〕 既に記《き》せるが如く國内は頗る山嶽多きを以て、山地にありては木材、薪炭の産極めて多く西北紀ノ川の縱谷は田野やゝ聞け、有田川の流域は蜜柑の産出に其の名顯はる。且、その海濱の地は漁業盛に行はれ、海産物の收獲極めて多く、ことに東牟婁地方沿海の捕鯨業の如きは、近年頗る盛況を呈して大に注目すべきものあり。此他、織物を始めとして、陶器、飲食物、石類の算出また鮮少ならず。要するに、木材、織物、蜜柑、陶漆器、海産物を以て最も産額の多き主要物産に推すべく、猶ほ細説すれば、木材には多く杉、松、檜等を出し、熊野森林、古座川森林、高野山森林、北牟婁の森林等孰れも著名なり。而して、林業の副産物としては熊野炭、樹皮、菌蕈類、樟(414)脳の類《たぐひ》を産す。織物に至りては紀州ネルの名海内に高く、和歌山市に和歌山織布株式會社、第一|綿《めん》ネル株式曾社等あり。當國は實にわが國綿フランネル業の元祖地といふ果實は、有田川附近及び紀ノ川沿岸に産する紀州蜜柑を以て最も産額多く且つ品質の佳良なるものとし、外に金柑、夏蜜柑の産出も乏しからず。陶器の名あるものには御庭燒あり。且、近時田邊地方に於て田邊陶業株式會社の設立を見る。猶ほ當國は本邦に於ける漆器の最大産地にして、海草郡の黒江町に於て最も多く製出す。海産物としては鰛、鰹(熊野節ことに名あり)、鯖、鱶、鯛、蝦、鯨等の漁獲多く、ことに東牟婁郡沿岸地方に於て、捕鯨業の盛なるは既に記述せるが如し。この他、飲食物としては粉河酢、奈良漬、忍冬酒等を出し、石類には大村砥、オニミカゲ石、白良濱砂、那智黒石、古谷石及び瓜溪石等を出す。この他、鑛山には、葛川、兩光、神路、立里《たてり》、那智、柏郷、赤沼田《あかぬまだ》、飯盛、葛和、花阪、浦神、南平野、池田の諸銅山及び松澤、志古、音川、奥谷、宮井の諸炭田を有せり。
(415) ○南海及び紀和兩鐵道沿線 南海鐵道は大阪市の南部難波驛を起點として住吉堺市より海岸を縫ひて和歌山市に到達し、更に紀和鐵道に連絡する鐵路にして、當國に入りてよりは紀の川、和歌山の兩驛を有し、別に和泉國深日驛(紀の川の前驛)より加太驛に通ずる小支線あり(近年この線路に電車を使用す)紀和鐵道は即ち和歌山市驛より南海鐵道に接續して起り、紀伊川の從谷に沿ひて東走し、二見に向ふ。和歌山市、和歌山、田井瀬《たゐのせ》、布施屋《ふせや》、船戸《ふなと》、岩出《いはで》、打田《うちだ》、粉河《こがは》、名手《なで》、笠田、妙寺《めうじ》、高野口、橋本、隅田の各驛あり。隅田より國境を越えて大和の二見、五條方面に至る。高野山《かうやさん》は高野口驛に降車して行くを最も捷徑となす。
 吾人もし南海鐵道の便を利し、大阪市灘波より堺市、岸和田町を經て、深日驛より飯盛山を東方に望み、孝子の隧道を通過し、紀ノ川驛より紀ノ川を横ぎらんか、直ちに野崎村大字袖島にある和歌山北口停車場に達すべし。この間、孝子峠の下に橘逸勢父子の墓といふあり。是弘仁九年庚申七月逸勢罪に依て伊豆に流され、途中遠江國板築驛にて死去し、其女父の流罪を悲しみ、途中隱れて之れに從ひ父の歿するに及び、其側に廬を結びて屍を守り、後終に薙髪して尼と爲り、讀經追善を事とすること十年一日の如く、朝廷其の孝心を賞(416)し、嘉祥三年壬辰逸勢の罪を免し、正五位下を追贈し、本郷に歸り葬ることを許す。故に後人父子の屍を此所に葬むり、村を孝子と呼び、山を孝子峠と云ふと。然れども逸勢の墓は、京郡姉小路北堀川東にある故、此所にあるは信ずべからざるも、孝子村の名は他に據る所あるなる可し。或は曰ふ逸勢父子の墓といふは、役行者父子の墓なりと。何れか是なるか知らず。また、續紀に、天平神護元年、行幸紀伊國、到玉津島、還到海部郡岸村行宮とある行宮址は、今、貴志村の榮谷にあるものこれなるべしといふ。山崎氏等地志曰「紀ノ川は一に紀伊川に作る。東方伊勢の櫛田川と共に紀伊半島を横斷する一大斷層線に沿うて生じたる縱谷を流るゝものにして、其上流は即ち大和の吉野川なり。隅田近傍より紀伊國に入り、著るしき屈曲なく、略西南西に向つて和泉山脈、龍門山脈の間を流れ、和歌山市の西方に於て海に人る。岩出町より以上の地に於て川の南岸は直ちに龍門山脈若しくは梨子木山脈に通りて平地少なけれども、北岸には第四紀層より成れる臺地・平地稍々廣く發達し、岩出町以下は溪谷大に開け、川は數多の支流を分岐し、和歌山四近の沖積平地を作れり。河流の全長凡そ百十粁其の中國内にあるもの約五十五粁とす。支流の中本國内にありてやゝ著しきものを丹生川及び野上川となす。南海線鐵道は此紀伊川の溪谷に沿うて走るものにして、其の沿道には橋本・名倉・粉川岩出及び和歌山市等あり」。平泰時「春たけて紀ノ川しろく流るめり吉野の奥に花やちるらん」。頼山陽「幾樹青松夾路堆、遙春城※[土+緤の旁]樹間開、沙川溶々人呼渡、此水知從芳野來」。
 和歌山市〔四字右●〕 徳川氏親藩の舊城市にして、當國は勿論南海道中第一の郡會なり。徃古
 
〔和歌山市の地図省略〕
 
(417)〔和歌山市、写真省略〕
 
は海に濱し、吹出里《ふきいでのさと》と稱したりしも、後に後に海水退き、若山又は弱山を頼宣《よりのぶ》此國の守となりてより、今の字に改めたるなり。東西二十餘町、南北二十八町餘、戸數約一萬三千三百、人口約六萬八千を有し、和歌山縣廳は實に此地にあり。紀伊川《きのかは》は市の北を流れ、那賀有田兩郡の山嶺その三面に圍み、西は海に近く、水陸の要害を占め交通の至便なる、他に比類稀なり。市に橋梁多く、その城北にあるものは京橋と呼び市の中央に位し、當縣の里程元標此所にあり。全市を大別して番町、廣瀬、新町、宇(418)治、湊、吹上の七區となし、就中|内町《うちおまち》は最も繁華の巷、商業上枢要の場所なりとす。本町、四丁町、ブラクリ町、元寺町《もとてらまち》、新町通り等はまた繁華なる街衢にして、大厦巨舗相連り、人車の往來常に絶えず。内町組の萬町及び西田中町は蔬菜市場にして南大工町は魚市場なり。毎朝魚類蔬菜の競賣を開始し、甚だ雜閙を極む。和歌山|出島《でじま》の魚市場は百五十年以來の舊魚市場にして、現今合資會社組織にて盛大なる取引を爲せり。本市民の生業は概ね商工業にして、殊に本市の生産に係かるフランネルは紀州ネルと稱し、其の製造工場の如きは各所に散在し、一々枚擧するに遑あらず。湊紺屋町二丁目に在る和歌山紡績會社、之れに對抗する和歌織布會社、市の東端|向芝《むかへしば》にある南海絹絲紡績會社の如きは、重要なる者の二三に過ぎず。其の本市並に附近より産するもの一ケ年平均百萬反、價格四百萬圓以上に及ぶと云ふ、以て其の盛況の一班を知るに足るべし。其他數多の工場よりは、綿《メン》ネル・雲齋・紋羽・燐寸・柚木を製産し、奈良漬・砂糖漬・鬢附油等と共に市の重要なる物産をなす。
(419) 和歌山縣廳〔五字右●〕 と市役所とは共に西汀《にしみぎは》町にあり。縣廳は紀伊國七郡を管轄し、人口凡そ六十萬を統ぶ。
 和歌山地方裁判所〔八字右●〕 は二番町にありて、大阪控訴院の管下に屬し、縣内の各區裁判を管治す。この他、區裁判所・縣立病院・警察署・第一中學校・高等女學校・四十三銀行・紀伊銀行等は孰れも番町にあり。
 和歌山城〔四字右●〕 は市の殆んど中央虎臥山上にありて、竹垣城と稱す。城濠其の東北を繞り、三層の天主閣雲霄を凌ぎて、巍然翠松の間《かん》に聳ゆる所即ち本丸にして、市内第一の莊觀を呈す。本城は天正年間羽柴秀長の部將桑山重晴の築造にかゝり、其の後徳川|頼宣《よりのぶ》更にこれを經營修繕したるものにして、廢藩後陸軍省の直轄に屬し、外圍は總て取り拂ひ、また昔日の觀なし。今、この址に、
 歩兵第六十一聯隊〔八字右●〕 の兵營を置く。
 天妃山〔三字右●〕 もまた城内にあり。一丘地にして、高さ數十丈、山巓巉二巖重疊し、巖上に
 
(420)〔和歌山城遠望、写真省略〕
 
臺灣、佐賀、西南の諸役に戰歿せる者の忠魂を祭れる紀念碑、並びに征清紀念碑を樹立す。山上は四望開濶、遠近には海を擁して神社佛閣の一眸の下にあるあり、矚目の快言ふべからず。山は去る明治二十九年以來開きて遊園となし、岡公園と稱す。園中には、櫻樹多くまた奇岩怪石起伏して、茂林脩竹天然に配置せられ、麓に池あり。西南役戰死者の大紀念碑は即ち丘上に立つ。實に有栖川、小松兩宮殿下の御筆に成れるものなり。
 松生院〔三字右●〕 天妃山《てんぴざん》の西麓片岡町にあり。眞(421)言の古刹にして、向陽山|蘆邊寺《あしべじ》と稱し、智證大師作不動明王を本尊となす。世に鼠突の不動と稱するものこれなり。脇立としては弘法大師作愛染明王及び理源大師作十一面|觀音《くわんおん》を安置す、而して當寺始めは讃州八島壇浦の洲崎にありて、本堂は智證大師の父和|家成《いへしげ》の創建に係る。清和天皇は曾て一度當寺を以て王城鎭護の勅願寺となさしめしことあり。後、乾元元年に至りて當國蘆邊の浦に遷徙し、寺號を蘆邊寺《あしべじ》と改む。更に、天正の戰亂により名草の黒岩村に移し、淺野幸長《あさのゆきなが》の入國に當り現在の地に移して堯也上人《げうやしやうにん》を中興の祖とす。堂宇、佛像等は今に古色を存して探訪の客多く、寶物には佐藤繼信の守本尊佛以下あり。
 刺田比古《・サダヒコ》神社〔六字右●〕 松生院《しようしやうゐん》の南にして同じく片岡町にあり。式内社にして、大國主命神を祭祀し、土俗は岡の宮と稱す。天正年間、桑山重晴これを修復し、徳川頼宣また修繕を加へ、土産神として崇拝す。境域は古松欝茂し、景致|神閑《かみさび》たり。近傍に岡山と名くる砂山あり。
(422) 鷺森《・サギノモリ》御坊〔四字右●〕 内町《うちまち》の西部に位せる巨刹にして、西本願寺の別院なり。内町の地はもと宇治郷の内にして、往昔は鷺の森と稱したり。寺は、高祖親鸞より八世の孫蓮如上人の草創にして、永禄六年、第十一世|顯如上人の世に至りて他より現今の地に遷徙せり。而して、現在の伽藍は享保十年の再修に係り、伽藍の宏莊實に人目を驚かすものなり。また唐門を入れば西に鐘樓あり、北に鼓樓あり。本堂は十七間四面にして、他に集會所、茶所等數多の建築あり。什寶には、高祖及び蓮如二尊の御影像、蓮如上人の眞筆書幅等を有す。
 吹上《・フキアゲ》〔二字右●〕 とは城南高地の總稱にして、古へ城西の地の海濱なりし時、海風に白砂を吹上げらるゝによりての名を得たるものといふ。即ち、枕草紙に、濱は吹上の濱とあるもの即ちこれにして、古歌にも、月、雪、鵆《ちどり》などの名所としてこれを詠じたるもの數多あるも、今は海濱遙に隔りて荒濱と稱し、僅に古へを想像するのみ。家隆「時しあれば櫻とぞ思ふ春風の吹上の濱に立てる白浪」、雅有「白妙の光りぞきよき吹上の濱の(423)真砂《まさご》の秋の夜の月」、源資氏「餘所よりは積りにけりな浦風の吹上の濱にふれる白雪」、師兼「吹上の鹽風さえて更る夜に聲さへなびく村千鳥かな」。猶ほ、この濱は一名を吹井の浦とも名けて最も古歌に詠ぜるもの多し。且、吹上の小野同じく峰などとも呼びてこれも古歌に詠じ、また吹上の神、吹上の白菊とて、山家集、うつぼ物語にも出でたれど、今は勿論社の跡も定ならず、白菊の香をも留めず。順徳院御製「蘆邊より汐みちくらし天津風ふけの浦に田鶴ぞ鳴なる」後九條前内大臣「紀の國や吹上の小野の淺茅原なびく霜夜にさゆる濱風」家隆「秋の夜を吹上の峰の木枯しに横雲しらむ山の端の月」西行「天降る名を吹上の神ならば雲はれ除《のき》て光あらはせ」素性「秋風の吹上の濱の白菊は浪のよするか花のさけるか」。
 禅林寺〔三字右●〕 吹上島崎町にあり。臨濟宗にして、寛永九年、徳川頼宣の再建に係る。本尊として運慶作と稱する釋迦牟尼佛を安置し、天竺傳來の準提觀世音を脇壇とせり。
 感應寺〔三字右●〕 禅林寺に隣りて同じく島崎町にあり。身延派の法華宗にして元和中、僧日(424)陽の徳川頼宣の命を奉じて創立せるもの、本堂の後方丘上には徳川氏の墳墓を存せり。地名辭書曰「報恩寺は和歌山市の南吹上の仙境山にあり。法華宗の大坊とし寺内に南龍公夫人(清正公女)の墓所あり。寛文年間、二世大納言光貞の建立するところ、僧日順を開基とし、堂塔宏麗なり」。
 雄之水門《・オノミナト》〔四字右●〕 市の西方紀の川左岸の地をいふ。雄《を》、小《を》、國音相通ずるより今は小野に作れど、初めに城水門《きのみなと》といへり。往古、神武天皇の東征し給ふ時、皇兄五瀬ノ命流失に肱脛を射られ、皇師利あらずして、遂に船を此の地に寄せられ給ひしに、瘡痛甚だしかりければ、命劔を撫し、慨哉大丈夫被傷於虜手將不報而死耶と宣《のたま》ひて雄語《をたけび》し給ひ遂に薨ぜられし史上有名の港なり。現時は小野町と稱する一小市街に過ぎず。
 水門吹上《・ミナトフキアゲ》神社〔六字右●〕 小野町にあり。一門の中に水門、吹上の兩社並び建ち、水門は御兒蛭子、吹上は大己貴命を祭神とす。福の神として來り賽するもの多く、單に小野町の蛭子と唱へて、本社の名を呼ぶもの却つて少なしといふ。(425)以上にてほゞ和歌山市の勝蹟を説き終れり。市より各地への里程は東京府へ百六十里二十四町、大阪府へ十七里四町、兵庫縣へ二十七里、徳島縣へ二十一里二十九町、三重縣へ四十五里二十一町とす。山崎氏地誌曰「和歌山市は紀ノ川の河口にありて北大阪、神戸兩市に近く、國内より産する多くの物産は一旦此の地に集中して、是等の都市に送荷せらる。且つ水陸の運輸至便なれば市街殷賑盛にして、紀伊に於ける一大商市をなす。和歌山米穀株式綿糸取引所は十二番町にありて、明治二十六年十二月に創立せられたり。東鍛冶屋町・南大工町に於ける魚市場は近海の漁業地より集り來る魚類積で山の如く、其の賣買頗る盛況を極む。萬町。田中町に於ける蔬菜市場亦魚市場に劣らざる繁盛をなす。本市は綿織・綿フランネル・紋羽・奈良漬・鬢附油・水産物の産を以て名あり。殊に綿フランネル・は有名にして、明治四年陸軍省の命を奉じ、軍隊用シヤツ地として製せるものにして綿糸を緯とし、紋羽糸を經とせしが爾來考案を廻らし、近年外國品を模倣して、起毛法を行ふに至れり。此の地製織の(426)状況を見るに、蒸汽機關により比較的大規模に働作せるは、僅に一個所に過ぎずして他は附近郡部の農民の副業として製織せらるゝものなれば、貸金極めて低廉にして、牽て價格に及ぼし、克く外國品を壓倒するに足る。而し其製品は.明治八九年の交より清・韓・ウラヂヲストク地方に輸出せられ、現今其の輸出額殆ど五十萬圓に達し、産額は近郡のものを合して、一ケ年約百萬反、價格四百餘萬圓に及ぶと云ふ。綿織は重に近郡に産し、綿・木綿・生木綿・晒木綿等の種類あり。其の他雲齋織・紋羽織・カラテ織等を合せんか實に巨額に達す。製造所の大なる者は和歌山織布株式會社和歌山|綿《めん》ネル株式會社等にして、染色工場の重なるは良色染兄弟合資會社、和歌山色染所等にして、何れも新式機關を据付けて綿ネル業者の需用に應ぜり。奈良漬・鬢附又共に良好なるものにして、奈良漬の如きは一種特別の美味を有し、近年海外まで輸出するに至れり。縣下に於ける有名なる蜜柑類は又多く本市に集中し來り。本邦各地に供給せらるゝのみならず又海外各國に輸出せらる。」市に遊廓二ケ所あり。
 
(427)〔和歌山市の電車、写真省略〕
 
一は北の新地と稱し。圓福院町に屬し、一は京橋南詰にありて、橋南といふ。菊地梅軒の登城樓に曰「龍祖曾從遷此所、爾來經歴幾春秋、紀泉海抱峰巒走、阿淡山連溟渤浮、其系一朝寧望漢、本支百世尚懷周、陣圖不問指其掌、豪氣臨風興自遒」。頼山陽の紀藩書感に曰「藩府形便接鎭臺、吾公昔日剪蒿莱、山分畿甸逶※[しんにょう+施の旁]遠、海擁西南※[さんずい+莽]※[さんずい+晃]開、平蔡功勲憑胤氏、殪殷戈戟馘廉來、移封二百星霜變、誰識孤臣頭數回」。本居宣長「はる/\と和歌の浦わのいそ山につきのよろしきわかやまの(428)城」。
 本市より西北海岸に沿ふ道路、即ち淡路街道に據り、野崎・松江・磯脇を過ぎて進めば、加太港に達すべし。其の松江村の海岸は二里ケ濱と稱し、白砂長汀續くこと二里餘、翠松其の上に生じ、風光明媚なるを以て名あり。
 總持寺〔三字右●〕 野崎村大字|梶取《かとり》にありて、淨土宗西山派の一檀林とす。後花園天皇朝寶徳二年|明秀《みやうしう》光雲上人の創建に係り、往時は後奈良、正親町天皇の勅願寺たりしことありといふ。佛工淨西作阿彌陀佛を本尊とし、惠心僧都畫幅、開祖光雲上人眞身の舍利等を寶什とせり。
 木本《・キノモト》八幡宮〔五字右●〕 西脇野村大字|西庄《にしのしやう》にありて、舊、木本庄の中とす。里程和歌山より二里、秋月より三里を有せり。近世縣社に列し、近傍|舞山《まひやま》には征清凱旋紀念碑あり。日本紀神功皇后の卷に曰、「皇后征三韓自筑紫凱旋中略命武内宿禰、懷皇子横出南海泊于紀伊水門」。紀伊国續風土記木本庄の條に曰「上古此地紀の川の海口《かいこう》にして、東南今の湊村のの地と相對して、灣曲の海津なり、日本書紀に、紀伊水門とあるは、此海口を(429)いふなり、後、沙濱を海面に起して、廣野西南に開けたり、【中略】紀の川の海口、しば/\變遷し、後また遂に雜賀《さいが》庄に移りしより、藪澤悉開墾して廣野となり、今の姿とはなれり云々」。社傳に「武内宿禰、乃奉命、横出南海、泊紀伊水門、遂上陸而造頓宮、姑駐蹕、因名此地、曰志婆斯之原云々」婆斯之原は、今芝に作り小字となる頓宮の遺趾は、宮之原と稱し、こゝに權殿あり。又御船を寄せ給ひたるといふ所に、古りたる松の大樹殘りて、土俗はこれを御鎭坐《ごちんざ》の松と名づくと、されば、人或はこの地を以て古への水門《みなと》となし應仁帝の御船、こゝに着き給ひ、頓宮を營み、しばし坐《おは》しましたる遺跡と稱す。本社は、嚴橿山《いづかしやま》の中腹に鎭し、四層の磴道《いしだん》を登りて至る。社傳に「欽明天皇之朝、詔諸國、譽田別天皇、所經歴地、興祠以齋祀焉、當神宮之起原、蓋以此時爲創始云々」とあり。其の日靈《ひめ》大神を相殿に祀れるは、日前《ひのくま》、國懸《くにかゝす》兩大神の神體即ち天照大神の御靈代《みたましろ》なる二種の神寶を天道根命《あまのみちねのみこと》奉じて、しばし亦この地に止どまりたるを以て、これを境内に祀りたるを、天正の兵燹に、社殿こと/”\く灰燼とな(430)り、再興に及びて、相殿とはなせるなりと。神寶には後陽成帝宸翰の扁額、孝明天皇奉納の神鏡以下小野道風筆の古額、古文書等數多あり。
 加太町〔三字右●〕 和歌山市の西微北三里とす。紀伊水道東北隅の一良港にして、人口約五千に達し、商家旅店軒を並べ、頗る繁華の港なり。本港よりは日々由良海峽を經て淡路に渡る便船あり。大阪行の汽船またこの地に寄港す。現時附近の地に砲臺建設せられ、重砲兵第三聯隊第一大隊はこの附近に駐屯す。紀淡海峽の要險なり。物産には裙帶菜《わかめ》及び鰯あり。地勢、東は葛城の連峰に接し、西は淡路島と相距る僅に四海里許、その間友ケ島ありて、阿土の兩國を煙波の間に望見すべく、風景佳絶にして、夏期海水浴に來遊するもの尠からず。或は曰ふ、近世の商傑紀伊國文左衛門はこの加太の出なりと。萬葉集「苅藻舟おきこき來らし妹が島形見の浦にたつかけて見ゆ」「鹽氣立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹がかたみとぞ來し」玉葉集「その名のみ形見ケ浦(加太の古名)の友千鳥あとを忍ばぬときのまもなし」。新後拾遺集「袖ぬらす人もやある(431)と藻鹽草かたみの浦にかきて集むる」。
 加太神社〔四字右●〕 加太町の西南にあり。式内の古祠にして、少彦名命、大己貴命、神功皇后の諸神を合祀す。一に淡島神社とも稱せり。或はこの社に神功皇后の故蹟を談じ、日本書紀に謂ゆる少彦名命至淡島緑粟莖則彈渡而至常世郷とする淡島をこの社の舊地なる友ケ島の淡とせり。即ち社は往古友ケ良に鎭坐せしを、仁徳天皇の御宇當地に遷徙せるものなり。後世に至り、淺野氏これを再修し、更に徳川頼宣これを修營す。寶物には少彦名命の神璽と稱する曲玉、神功皇后の御太刀、韓國より得給ひたる綾の卷物(【今の綾とは異なれり】)同じく太鼓、護良親王の進獻し給ひたる兜等種々あり。境内の眺望また殊絶《しゆぜつ》なりとす。
 伽陀寺《・カタジ》〔三字右●〕 加太町の背後なる高地にあり。名所圖會曰、葛城山修行の壇場にて、役小角開基、僧坊甍をみがきて巍々然たりしに、天正の兵火に烏有となる、然りと錐も、毎年三月には三百餘の行者諸國より集り來りて、友ケ島をはじめ、當境にある所の行(432)所殘りなく修法す、されば聖護院宮三寶院門主南山御修行の砌、必ず當院に入御ならせ給ふ舊例にして、これ當院を葛嶺一の宿とする所以なり。
 友ケ島〔三字右●〕 土俗|苫《とも》ケ島と稱し、古名を妹ケ島といふ。地島、沖島、神島の三島よりなれり。傳へ曰ふ、昔日神功皇后三韓より凱旋せられ、御坐船難波に向ふの時、風波烈しく遂に海路を失ひ進むことを得ざりしかば、皇后親ら艫頭に立たせ給ひ、天神地祇を仰ぎて、此の船のたよられ方を導かせ玉へやとて、苫を海上に投じ、其の流るゝ方に船を進められしに、遂に一島に寄するを得たり。之れ神島にして、苫ケ島の名の起因なりとす。地島・沖島は各々周圍約二里にして、神島最も小なり。三島皆和泉砂岩より成り、青松蓊欝として其の上に繁茂し、仙境の觀あり。其の奇絶の勝景に至ては、特に沖島にあり。沖島には砲臺ありて、紀淡海峽の咽喉を扼す。また沖島西端の山上に燈臺あり、晴天光達十七海里といふ。沖島と地島との海峽を中ノ瀬戸と稱す。地島と深山の西端|城《しろ》ケ崎との間を地ノ瀬戸または加太海峽と稱し、大阪に到る小船の航路(433)にして、船舶の往來常に絶えず。一書曰「友ケ島諸島とも人家なくして、島上古松多し、海風に撓められ、いづれも自然の趣をなせり。島の周圍は、斷岸絶壁にして、海中には詭巖怪石峙てり。地の島には、牛が首、赤松か略、赤砂が嘴、太皷崎、金崎等の諸勝ありて、最も奇絶とするものは沖の島に在り。虎が鼻は、一片の巨巖にして、高さ三十仞もあるべからん。廣さは、其の三か一にもや。半より下は、累々として凹字をなす。僅に足跟《そくこん》を容るべし。一足づつ踏みて登るに、漸く滑かにして、進退ほと/\谷まるべし。是れ沖の島に登れる端緒《はじめ》にして、觀念の窟、序品の窟等を入りつ出でつし、或は駝《らくだ》の脊のごとき丘を上下し、或は龍蛇の蟠るてふ深潭を廻りて、道鳳が崎に出づれば、山勢海になだれ入り、海中に奇巖碁布し、戟《ほこ》のごときもの、臼のごときものあれば、龍の波を起こして、上天するごときもの、人の冠して坐せるごときものあり、一々名状すべからず。蓋し友が島の奇觀、此に極はむ。其の道鳳が崎と稱するは、昔時、僧道鳳といへるもの、こゝの勝景を愛して、來たり住みけるによりて名(434)づくるとぞ。さて女濱《ひめはま》はさすがに巖石も鋭き勢なく、五斗崖《ごとぎし》は、巖上松を生じ、巨石海中に並列してさながら屏風を立てたらんごとし。神島は、この島の布浦に對ひ、周圍三百歩に過ぎず。古松斷崖に懸かり垂る。島中に小池《せうち》ありて劔の池といふ。往昔役の小角《せうかく》、此の島に來たりて行を修し、地中より神劔を得るによりて名づくると言ふ。」妹が島を詠じたる古歌多し。一二首を擧ぐれば、鎌倉右大臣「風寒み夜の更行けば妹か島かたみの浦に千鳥鳴なり」太上天皇「あり明の空に別れて味ケ島かたみの浦に月ぞのこれる。猶、古事記に伊邪那岐命伊邪那美命於淤能碁呂島天降坐而立八尋殿於是生子水蛭子此子者入葦船而流去次生淡島是亦不入子之例とある淡島はこの友ケ島なること疑なしといふ。更に古事記曰、仁徳天皇欲見淡道島而幸行之時坐淡道島遙望歌曰「おしてるや那爾波のさきよいてたちてわかくにみれば阿波志摩淤能碁呂志摩阿遲摩佐能志摩もみゆ佐氣都志摩みゆ」。
 此所に紀ノ川右岸の地にして和談山市に近き名勝を列記せん。紀ノ川の右岸を走れる道路は榮谷村に於て鐵(435)道に交叉し、藤田村に於て大阪街道(國道)と相會す。
 伊達《・イタテ》神社〔四字右●〕 園部村にあり。日本書記に早くその名見ゆる古祠にして、延喜式内に列す。
 大同寺〔三字右●〕 紀ノ川園部の渡津を渉りて、有功《いさを》村大字|六十谷《むそたに》にあり。天台宗にして、大同年間、傳教大師の草創に係り、同大師作|藥師如來像を本尊となす。本堂の後山道側に慈覺大師の遺跡なる握佛堂《にぎりぶつだう》あり。また、本堂より北の山の半腹に後鳥羽天皇の御分骨の山陵あり。近世、寺觀大に衰ふといふ。
 鳴瀧《・ナルタキ》〔二字右●〕 有功村大字園部の北數町にありて、和歌山市より北一里とす。瀧の高さ一丈三尺、幅五尺、下流三十歩許にして、新鳴瀧あり。高さ十三丈三尺、幅おなじ。共に鳴瀧川の源にして、紀の川に入るなり。翠巒崔嵬として、清幽※[門/貝]寂《せいいうけきせき》の所、素雪珠を摧きて、鳴響を起こす、因りて名と爲すもの、山に楓樹多く、秋後霜に染むる時は、さらに一壯觀を呈す。またこの地に薗部兵衛|重茂《しげもち》の城址あり。今、受光山一樂寺はその(436)舊地に當れりといふ。重茂の事蹟は源平盛衰記に載せて詳かなり。 國府址〔三字右●〕 有功村六十谷の東を直川村(村の上方|大福山《だいふくざん》に千手寺《せんじゅじ》あり)とし、その東に府中村あり、紀伊村に屬し、往昔國府の所在地といふ。和名抄に國府在名草郡行程上四日下二日とあるものこれなり。今に猶ほ府中神社竝びに總社明神を存す。即ち府中社は土俗聖天宮或は白鳥《しらとり》宮と稱するものこれにして、府中村の東に鎖し、總社明神は大字田井の北村にあり。
 白鳥《・シラトリ》關址〔三字右●〕 一に紀の關ともいふ。中山の南なる山口村大字湯屋谷にあり。名所圖會曰「紀關《きのせき》は和泉國より當國へ越ゆる雄山の南麓なる山口庄湯屋谷より東一町をいふ。其所に今に關守の子孫と稱する民家あり。關はもと大化二年闕塞防人を置とあれば、其時の事か、今、考ふるべからず。うつぼ物語にはこの關名見ゆ」。袖中抄曰「たつか弓とは紀伊國の風土記を考ふるに弓のとつかを大にするなり。それは紀伊の國の雄山の關守がもつ弓なりとぞいへる」。今昔物語曰「昔、男あり。女を深く愛惜しけるに、そ(437)の女一夕形影をかくしけるに、男驚き夢かとばかりに見しに、枕上に手束弓《てつかゆみ》たてり、即ち弓をば女の遺せるかたみと爲し、身を放たず日月を經ぬ。この弓後に白き鳥となりて飛び去りにけり。男その跡をたづねて行きしに鳥また化して人となり、「朝もよひ紀之川ゆすり行く水のいつさやむさやいるさやむさや」とよみたりけるとそ」。金村「わが脊子があとふみ求め追ひゆかば木の闘もりやいととめんかも」。鴨長明「おもふには契りも何か朝もよひ紀の川上の白鳥の關」。家隆「引とめよ紀の關守がたつが弓春のわかれをおちやかへると」。其角「せきもりの紙子もむ矢かたつかゆみ」。猶ほ、和歌山より四箇郷、川永、山口を經來れる大阪街道はこの雄山を過ぎて和泉國に出づ。實に國中の大道にして、里程約四里を有し、車馬の往來自在なり。また湯屋谷よりは東方粉河町に達する一路を派す。
 紀和街道は和歌山に於て南海鐵道と接續して起り、大和の五條にて南和鐵道と接續し、和歌山、五條間は三十三哩二十四鎖にて、名の如く紀伊大和兩國に跨り、始終紀の川に沿うて走る。而して最も多くの乘客は高(438)野山の參詣者なり。高野山に登るの最捷徑は山下の高野口及び橋本の驛となり。その驛に至るには、西よりすれば南海鐵道と紀和鐵道とにより、高野口より登り、東するものは、關西、奈良、南和の各鐵道に依り、紀和線の橋本驛より下車するを順路となす。高野山女人堂まで橋本よりは四里十六町、高野口よりは三里十九町なり。故に往復上下ともに同じ道を通過するを避けんには、南海、紀和、南和もしくは關西の各鐵道によりて循環し、また山上へは橋本と高野口との各驛とを經過するを便利となす。和歌山市驛より田井の瀬驛へ三哩六十六鎖、布施屋驛へ五哩五十三鎖、舟戸驛へ八哩三十九鎖を隔つ。
 布施屋《・フセト》驛附近〔六字右●〕 紀の川流域の街道と龍神街道へ連絡する街道とはこの驛にて接續す。驛の南方和佐村には眞言宗慈光寺、武内|高積《タカツミ》神社、禅宗觀喜寺等の勝蹟あり。更に對岸の川永村には式内大屋都比賣神社あり。中之島村には妙見寺あり。
 舟戸《・フナコ》驛附近〔五字右●〕 野上川は紀の川の一支流にして、那賀郡の西邊を北流し舟戸驛の東方(丸栖《まるす》村の東)にて紀の川に合す。貴志村はこの川の西邊にありて、中貴志村大字|國主《くにぬし》には國主社あり。巉巖碧潭の傍側に鎭座し。一佳勝とす。且、毎年祭禮には供膳を社頭及び淵上に供ふ、これを貴志の大飯といひて一種の土俗なり(地名辭雎)。また名(439)所圖會曰、同村大字尼寺の北に白岩谷あり、夫婦石、烏帽子石たゝみ石など各形によつて名を設け、最も奇觀とし、土人はこれを蜘蛛石など呼びて怪談紛々たり。野上川の奥の谷よりは盆石を産出す。猶、貴志の西北小倉村大字|吐前《はんざき》には淨土宗光恩寺及び王子社などあり。
 岩出《・イハデ》村〔三字右●〕 舟戸の次驛を置く。大字清水を以て大和街道の驛所となし、紀の川の北岸に位し、和歌山より三里十二町を隔つ。清水には那賀郡役所、税務署等あり。人烟稠密にしてやゝ賑ふ。村の西方に岩出神社(大宮)あり。北方三十町には即ち名高き根來寺あり。猶、この地は古へ岩手の里と稱し、和歌にもその名著き名所なり。從三位爲子「思ふこといかに忍びし誰が世よりいはての里の名を留むらん」。左近中將基氏「咲ぬとは岩手の里のいはねども餘所まで著く匂ふ梅かな」。權大納言爲尹「よし問はじとてもいはでの里の名を花に見せける山吹のころ」。
 國分寺址〔四字右●〕 岩手驛を距る約十町にして、上岩手村の大宇西國分にあり。遺址は方一(440)町ばかりの芝生にして、これを塔の芝といふ。即ち聖武帝勅建全國國分寺の一にして、大塔の礎石は今に顯然として殘れりといふ。且、彌勒堂、大門、鎭守、拜殿等の遺址もその傍側に探るべく、尼寺は今も僧寺の東に殘存して、眞言宗を奉じ、醫五院と稱すといふ。延喜式曰「紀伊國分寺料二萬束」三代實録曰「元慶三年二月二十八日壬午、紀伊國金光明寺火、堂塔坊舍悉咸灰燼」。
 小傳法《・セウデンパウ》院〔四字右●〕 同村大字|水栖《みづす》に屬し、根來寺の南麓にあり。大日寺と稱し、根來寺の別院とす。寺内に根來寺開祖上人の母橘氏の火葬場あり、泉水塚といひて寺の門前に殘る。寺は天正の兵燹以後衰滅して、今は寺觀の見るべきものなし。猶ほ、根來の山麓には古義眞言宗西方寺あり、弘法大師留錫の遺跡といふ。
 根來寺《・ネゴロデラ》 大傳法院といふ。根來村大字西阪本の根來山に位し、岩出驛より北三十町に過ぎず。實に眞言宗新義派の總本山にして、天治五年興教大師の開基に係り、本尊佛像は弘法大師作丈け四尺二寸の不動明王にして世にこれを身代錐鑽不動《みがはりきりもみふだう》と稱す。往(441)時は一山の諸堂坊舍二千七百余宇、その隆盛を高野山の金剛峯寺と競ひたりしも、天正十三年豐臣秀吉攻めてこれを燒き。一山盡く烏有に歸し、僅に大傳法院の一廓のみ兵燹を免かれたりしが、後年次第に再興して、不動堂、大師堂、求聞持堂、毘沙門堂、大傳法堂、光明堂、開山密嚴堂、護摩堂、歡喜天堂、文珠堂等甍を駢べ、中にも高さ三十八間の大塔は突兀として雲間に聳ゆ。即ちこの大塔と傳法堂とが天正の兵火を免れしものにして、天文中の建築と傳へ、不動堂は大治中の遺構といふ。總寺域は凡そ六萬二千餘坪、古松老柏一山を圍み、櫻樹數千株、堂宇の間に枝を交へて花時は香雲に埋もるゝが如し。而して常例會式は毎月二十八日、縁日は毎月十二日、二十一日とす。寺藏の寶物には、興教大師所作の佛像數躯、同じく大師の書ける經文數幅、弘法大師眞筆の經文各種.嵯峨天皇、鳥羽天皇、光明皇后、美福門院御筆の經文數種、冷泉爲村筆の六歌仙色紙、若冲眞の畫屏風等種々あり。中にも三條宗三の自ら鑄て大師に寄進せし根來山に不動と地藏の鑄形ある根來山形の釜は、世の工藝家の嘆稱措か
 
(442)〔根來寺大門、写真省略〕
 
ざる逸品なり。猶ほ當山には根來彫、根來塗と稱する名産ありしが近世はその跡を絶ちしといふ。更に、此所に開祖の略傳、錐鑽不動の傳説を略述せんに、開祖は、肥前藤澤の人にして、父は伊佐平次|兼光《かねみつ》ときこえ、同國知津の庄の總追補使たり。開祖幼名を彌千代丸と呼び、稚《いとけな》き時より佛法を好み、出家して、廣澤の成就院覺助僧正の徒弟となり、名を覺鑁と改め、難行苦行の功を積みて、世に名高き聖僧とはなりぬ。鳥羽法皇ふかく叡信し給ひて、東寺の西の院に安置しある弘法大師の作れる不動明王(443)の靈像を賜はり、大小傳法院を創建せしめ、金剛峯寺の坐主を兼ねしめ給へり。後開祖は、兩坐主を辭し奉り、明王を安置したる密嚴院に定坐し、只管三摩地に入りて堂外に出でず、人ありて竊に窺ふに、不動明王と現じて、伽樓羅※[火+稲の旁]《かるらえん》の中にありけり。金剛峯寺の僧徒これを聞き、嫉み疑ひて、上人は疾くに入滅したるを、徒弟等院務を貪り、屍尸を止どめて、あらぬ事を言ふならんと、竟に數百の衆徒、大傳法院に引寄せ、枯骸を拏《ひこづ》り出だして、羞づかしめを歟へんと犇《ひしめ》きたり。斯くと聞ける大傳法院にても、衆徒五百餘人集まりて、これを防がんと氣負ひたるを、開祖たち出でゝ懇に諭して散ぜしめたり、兇徒等おし寄せ來たり、罵り哮りて定扉を破り、定躯を拏《ひこづ》り出ださんとす。爾るに上人の姿を見ず、不動明王の光※[餡の旁+炎]赫々として、二體竝らび坐するを見る。兇徒等、あと猶豫ひしが、さる理やあらんと、矢鏃をもつて、一體の明王の膝頭を鑽る。鮮血さと迸るに、兇徒等色を失ふ。開祖徐にたち出でて、汝等、何らの狼籍ぞ、其は高祖|眞刻の本尊なるものをと叱す。兇徒等、懼れて逃げ歸りぬ。事天朝に(444)達し、巨魁の者所罰を蒙り、餘は懺悔して徒弟となる。是れよりして本尊を身代錐鑽不動尊と稱す。斯くて開祖は、自ら我が像を刻み、これを止とめて入滅しぬ。大師堂に安置せる大師の像是れなり。明王の靈像は八角堂に安置す。共に天正の兵火を免れ、大傳法院再興に及び、元禄三年、開祖は興教大師と追謚せられぬ。かゝれば明王は火難、劍難の諸災を消除し、大師はもろ/\の災厄を消除し、共に家運長久の大功徳を授けらるゝと爾いふ。
 池田村は根來、上岩出兩村の東南に隣し、田中村の北隣とす。村の山中に海神池あり。その池畔に式内海神社あり、大字神領に屬す。また池田村大字北大井には車塚と呼ぶ古墳あり。これを大磯虎女の墳基なりと傳説す。且、同村大字豐田には眞言宗福琳寺あり。古名を慈氏寺と號し、曾て總州平忠常謀反の砌り兇徒調伏の勅願寺に列せられしことありといふ。田中村は即ち岩出の次驛なる打田驛の所在地にして、北は池田に、東は岩田村に接す。村内の大字窪に田中の井戸址あり。井戸とは古昔田園に灌ぐ水を湛へたる池にして、即ち堰所(ゐど)をいふ。松葉集、藻鹽草等にてはこれを當國の歌名所となせり。入道前太政大臣「白露のおくてのおしねうち靡き田中の井戸に秋風ぞ吹く」。寂蓮法師「蛙なく田中の井戸に日は暮れて澤瀉なびく風わたるな(445)り」。猶ほ、田中村より紀の川を隔てゝ對岸に安樂川村あり。同村の大字市場には鳥羽院天皇の皇后美福門院の御墓あり。
 粉河《・コガハ》町〔三字右●〕 打田の次驛を置き、人口五千六百餘を有す。町は溪流に沿ひて街衢をなし、那賀郡第一の都會と言はる。商工業繁盛にして、中學校の設置もあり。酢、蒟蒻を以てこの地の名産とす。一地誌曰く「紀伊國には謂ゆる粉河酢なるものあり。甚だ有名にして、多くは米を原料とし、腐敗酒を變成せしむるものを交へてこれを製す、されど食鹽を使用する弊習ありて、酸敗やゝ峻烈に過ぐるを憾みとなす。製造家は、概して兼業家多く、規模皆な小なり」。猶、町の北端には著名なる粉河寺あり。大字中山には誓度寺の遺跡あり。後者は、粉河寺内に設置せし學問所を寺院に改めしものにして、足利義教等も歸依頗る淺からざりしといふ。また粉河は古來金工を以て聞えし地にして、弘法大師請來の佛器を鑄たる吹井福芳、奈良東大寺の大佛を鑄たる源朝勝及びその裔俊勝等は皆なこの地の人なりといふ。
 
(446)〔粉河寺、写真省略〕
 
 粉河寺《・コガハデラ》〔三字右●〕 粉河停車場より僅に二町に過ぎず。車窓よりその大伽藍を望見するを得べし。實に南海の一靈場にして、古來その名尤も顯はれ、枕草紙にも「寺は石山、粉河、滋賀」と記され、粉河詠歌には「父母のめぐみも深き粉河寺ほとけのちかひたのもしの身や」と唱はる。寺名を一に施思寺と稱し、風猛山《かざらぎざん》の山麓に位す。天台宗にして、光仁天皇、寶龜元年、大伴孔子古《おほとものくしこ》の創建する所なり。本尊は千手千眼觀世音菩薩にして、童男大士の作る所、脇立《わきだち》は、風神、雷神、二十八部衆を合して三十體なり。縁(447)起に曰く、先仁天皇の御宇、風猛山の麓に、大伴孔子古といへる武夫あり。常に射獵を事とし、山深く分け入るを常とす。ある夜、山中の池の畔にて、赫奕たる光明をしたゝめ、奇異の思ひをなし、子の船主、鎭守府の軍曹に任じて、陸奥の國に在りければ、安全に歸郷せんこと祈らん爲めに、其の所に精舍を營まんと發念し、柴の庵を結びけり。折ふし麗しき童男の行者、孔子古の家に來たりて宿りをもとめ、孔子古が心願をきゝて、佛像を作り得しめんとて、七日の間庵に籠もり、來たり見んことを誡めて、八日めに剥啄《ほと/\》と門を叩くに、行者の佛像を造り果せたるならんと、急ぎ庵に至り見れば、行者はあらずして、金色の千手觀世音立てりけり。孔子古の感喜大方ならず。是れより弓矢を捨てゝ觀世音に仕へけるに、河内の馬馳市に佐太夫ときこゆる長者ありしが、此の觀世音の靈驗を蒙ることありて、尋ね詣うで、一家出家して奉仕しけり。又當國伊都郡の、澁田の大刀自は、住みぬる家を移して本堂となしける程に、やうやく精舍の結構具はりて、觀世音の靈驗いやちこきより、遂に勅願寺とな(448)りて、上は王公より、下は小民まで、災を攘ひ、福を招く者、幾千萬といふを知らず。いや榮えて、僧坊も五百六十餘宇の多きに及びしが、豐太閤の一炬に蹤なく滅びしを、千手觀世音と三十體の脇立は、僥倖に免がれたれば、慶長の後、漸次に再興し、堂舍二十二宇、寺院八箇寺に及び、寢《やゝ》いにしへに復するを得たり。本堂は、十五間四面にして、西に千手堂、東に六角堂あり。乾の方に行者堂、巽の方に丈六堂あり。中門を出づれば、半町ばかりに出現池と名づくる池ありて、縁起の童男行者は、觀世音の生身にして、この池より出現せしと傳ふ。池の島中に中島堂ありて、童男大士を本尊とす。此處ぞ即ち當山の本坊にして、御池坊《みいけのばう》と稱す。別に神社十二殿ありて、其の中の一殿は、丹生村の鎭守、丹生明神即ち大伴の孔子古を祭れるを當山に勸請す。大門を出でて、一町許に大門橋《ほもんばし》あり。こゝの川を粉河と稱す。徃昔白き粉の浮かび流るゝをもつてその名を得といふ。境内の總坪一萬五千餘坪、葛城山の南麓に位し、北には風猛山を負ひ、西には西方山《さいはうやま》を控へ、東には愛宕山ありて、南方は狙丘山《さるをかやま》に連なる。眺(449)望は尤も勝れ、北に對へば古松老杉欝葱として、金殿樓閣の聳立するあり、粉河の清泉は環流し、春は櫻花を装ひ、秋は紅葉を染む。西を瞰下せは粉河の阡佰千有餘戸は甍を竝べて、脚下にあり。更に首を廻らせば、龍門山峨々として群峰に秀出し、紀の川其の麓を流れ、風光秀媚、眺囑言ふねからず。當山の什寶には、後醐醐天皇の綸旨、護良親王の令旨、後光嚴天皇宸詠の和歌等あり。又鳥羽僧正覺猷の畫がける繪縁起あり。小野篁の畫がける銀帝王の畫像、巨勢金岡の畫がける五大尊畫像の軸等あり。又|竪一尺二寸、口徑一尺八分の太古の甕あり。本尊及び脇立の諸佛像と共に美術工藝上至珍なるものとす。縁起も古書を徴すること多く、逸品なりと稱す。而して寺の會式は一月十八日、二月初午、三月十八日、六月十八日、七月九、十兩日、八月十八日、十一月十八日を以て執行せり。延喜式曰「紀伊國正税云々粉河寺料四百束」。源平盛衰記曰「三位中將平維盛は、この次に粉河寺へぞ參られける。この寺は大伴小手といひし人、わが朝の補陀はこれなりとて甍を結べるところなり。さる治承の比、小松殿(450)熊野參詣の次にかの寺に參り給ひたりけるに、書置給へる打札あり。今一度父の手跡を見給はんと思出給ひけり。かの札を御覧すれば落涙に墨消えてまた字の貌は見えねども、重盛といふ字ばかりは彫て墨を入れたれば、ありしながらに替らねばなく/\これをぞ見給ひける」。
 長田《・ナガタ》村勝蹟故〔五字右●〕 粉河町の西を長田村と呼ぶ。この地の大字に北志野及び南志野あり、傳へて神功皇后|小竹行宮《しぬあんぐう》の遺址となす。地名志野は即ち小竹の轉訛せるものなり。日本書紀曰「皇后南詣紀伊國、遂欲攻忍熊王、更遷小竹宮云々」。名所圖會曰「長田庄別所の觀音は世に長田觀音とよぶ靈佛なり。如意山蓮華院といふ。三重塔は近年の建立にして壯麗なり。塔上にのぼるに眺望よし」。吉田氏地誌曰「志野より葛城を横ぎり泉州に出づる山路を薦阪峠《こもさかとうげ》といひ、金剛童子祠あり。即ち大井關川の源なる大木村大鳴山の往還にして、峠に大松數株あり。この陰より遠望するに、上は龍門山より下は阿淡の島嶼まで眼下にあり。就中、木川の長流連綿として歸する水色言はん方なし」。
(451) 粉河町より東南を指す街道は謂ゆる高野山參詣の町石道と名くるものにして、一に和歌山口とも稱し、麻生津峠を越え、花坂を登りて大門に達する道路なり。麻生津村附近に於て妃の川に香魚の産多し。一書曰く「麻生津村の西脇の民家か距ること一町許にして鎌倉谷あり。兩崖削立、高さ十除丈ありて、崖下の奔流巖に激して流るゝ東崖の半腹に路を通じ、桂谷に至る。桂谷は、凡一里ばかりありて、高野山の友淵街道なるが、この谷に二個の異木ありて、西に在るを雌桂、東に在るを雄桂と名づけぬ。雌桂既に其の幹くちて根底より蘖を生ず。雄桂は繁茂して、雌桂に一倍し、一根十四幹に分生し、其が周囘凡そ十丈あり。兩樹とも幹は花欄子に似て、葉は錦葵のごとくにして稍圓し。共に花を生ぜず。實を結ばず。夏日は欝然として炎日を覆ひ、秋後は黄葉して黄金を着けたらん如し。觀る者歎賞す。名所圖會に神易興の詩あり、いとをかしく覺ゆればこゝに録す。鎌倉谷東嶺見雌雄桂、天謫雙桂樹、居之鎌壑東、因憂廢花節、相對器金風、百蘖抽丹※[山頁章]、千枝摩碧空、妙姿人自賞、其想月宮中」。猶ほ麻生津より南に飯盛山を越え約二里にして鞆淵村あり、村の大字下番には友淵八幡宮を鎭す。由緒ある神社にして、所藏の神輿一基は安貞二年山城國男山八幡宮より贈物として名高く、その時の添状今に存すといへり。その他、古器物、古文書の至珍なるの多し。
 富士崎〔三字右●〕 紀ノ川の北岸にして、粉河の東南凡そ十五六町にあり。晶質剥岩の奇巖重疊河中に突出し、巖頭の松樹を連ぬるところ、辨財天社あり。東南の孤島の側に富士(452)山に似たる岩石河中に突起す。富士崎の名はこれに起因せりと稱せり。河水清く、島を挾んで流駛《りうし》し、白帆點々風を孕んで、河心を上下する状は畫もまた如かざるの景趣あり。
 龍門山《・リユウモンザン》〔三字右●〕 對岸龍門村の蛇紋岩よりなる龍門山は、高さ七百五十六米に達し、俗に紀州富士とも稱し、延文四年、南朝の驍將鹽谷伊勢守の戰歿したる舊址にして、同人の墓は、今、山の西麓|安樂川《あらかは》村にあり、鹽塚と稱し、傍にその乘馬を埋めし馬塚あり。山麓の勝神《かつかみ》よ絶頂まで三十町を有す。絶頂には無塵池《ちりなしのいけ》及び仙人石あり。展望廣大にして無邊の山海を双眸に收め得べし。太平記紀州龍門山軍の事に曰「四條中納言降俊は、紀伊國の勢三千餘騎を率して、紀伊國最初が峯(龍門山の西にあり)に陣を取りておはするよし聞えければ、同四月三日、畠山入道道誓が舍弟、尾張守義深を大將にて、白旗一揆、平一揆、取訪祝部、千葉の一族、杉原が一類、彼是都合三萬餘騎、最初が峯へおし向けらる、此勢則ち敵陣に相對したる、佐和山にうち上がりて、三日(453)まで進まず、先づ己が陣を固くして、後に寄せんとする勢に見えて、塀を塗り、櫓を掻《かけ》にける間、これをたばからん爲に、宮方の侍大將鹽谷伊勢守、其兵を引き興して、最初が峯を引き退《しりぞ》きて、龍門山にぞ籠もりける、畠山が執事遊佐勘解由左衛門これを見て、すはや敵は引きけるぞ、何處までも追ひ懸けて、打ち取れ者どもとて、馳せ向かふ、楯も用意せず、手分けの沙汰もなく、勝に乘る處は實《げ》にさる事なれども、事の躰餘りに周章てぞ見えにける、彼の龍門山と申すは、岩龍領に重りて、路羊腸を※[しんにょう+堯]れり、峯は松柏深ければ、嵐も鬨の聲をそへ、下には小篠《こしの》茂りて、露に馬蹄を立てかねたり、されども麓までは、下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて、坂中まで懸け上り、一段平なる所に馬を休めて、息を繼がんと、弓杖にすがり、太刀を逆に突く處に、輕々としたる一枚楯に、うつぼ引きつけたる野伏《のぶせ》共千餘人、東西の尾崎へ立ち渡り、雨の降るがごとく散々に射る、三百餘騎の兵共が、僅なる谷底へ、沓の子を打ちたるやうに控へたるゆゑ、差し下して射込む矢なれば、人にはづるゝは馬に當り、馬には(454)づるゝは人に當たる、一矢に二人は射らるれども、はづるゝは更になし、開いて敵に合せんとすれば、南北の谷深く絶えて、梯ならでは道もなし、いかゞせんと脊をくゝめて、引きやする、引かでやあると見る處に、黄瓦毛なる馬の太く逞しきに、紺糸の鎧のまだ巳の剋なるを着たる武者、濃江の母衣懸けて、四尺ばかりに見えたる長刀の眞中握りて、馬の平頸に引きそばめ、鹽谷伊勢守と名のりて、眞前《まつさき》に進めば、野上、山東、貴志、山本、恩地、牲河《にへかは》、志宇津、禿の兵共二千餘騎、大山も崩れ、鳴る雷の落るが如く、喚き叫びで懸りたりける、敵を遙のかさに受けて、引き心地附きたる兵共なれば、なじかは一足も支ふべき、手負ひを助けんともせず、親子の討たるをも顧みず、馬物具を脱ぎすてゝ、さしも嶮しき篠原を、すべるともなく、轉ぶともなく、三十餘町ぞ※[しんにょう+外]げたりける、鹽谷は餘りに深く長追ひして、馬に箭三箭立ち、鎧にて三處突かれければ、馬の足たてかねて、嶮岨なる所より、眞逆樣に轉びければ、鹽谷も五丈許、岩崎より下に投げられければ、落ち附くよりして日くれ、東西に迷ひ、起き上(455)らんとしける所を、踏み留むる敵餘りに多きによりて武具のはづれ、内甲を散々にこみければ、續く味方はなし、鹽谷終に討たれにけり、半時ばかりの合戰に、生捕六十七人、討たるゝ者二百七十三人とぞ聞えし、其の外捨てたる馬、物具、弓矢、刀、幾千萬といふ數を知らず、其の中に、遊佐勘解由左衛門が、今度上洛の時、天下の人に目を驚かせんとて、金百兩をもつて作りたる、三尺八寸の太刀もあり、(中略)紀伊國の軍に寄手若干討たれて、今は和佐山の陣にも、味方怺へ難しと言ひたりければ、津々山の勢も、尼崎の大將も、興を醒まし色を失ふ、(中略)さらば敵の懸からぬ前《まへ》に、新手《あらて》を副へて、尾張守に力をつけよとて、同く四月十一日、畠山式部大輔、今河伊豫守、細川左近將監、土岐宮内少輔、小原備中守、佐々木山内判官、芳賀伊賀守、土岐桔梗一揆、佐々木黄旗一揆、都合其勢七千餘騎、重ねて紀伊路へぞ向けられける、(中略)去程に四條中納言隆俊は、重ねて大勢かゝるよし聞えしかば、猶本の陣にてや戰ふ、平場に進みてや懸け合すると、評定ありけるに、湯川庄司心替りして、後に旗(456)を擧げ、熊野路より寄するとも披露し、船を汰へて、由邊より上るとも聞えければ、此陣かくては如何あるべきと、案じ煩ひておはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたりける、越智降人になりて、芳賀伊賀守が方へ出でたりける、さらでだに猛き清黨、かねて父に義を勸められ、今又越智に力をつけられ、などかは少しも滯るべき、龍門の麓へ打寄せけると均しく、楯をもつかず、矢の一つをも射ず、拔き連れて攻め上がりける程に、さしもの兵と聞えし、恩地、牲河、貴志、湯淺、田邊別當山本判官、半時も支へず、龍門の陣を落とされて、阿瀬川(有田郡)の城へぞ籠りける云々」。
 飯盛銅山〔四字右●〕 麻生津村|飯盛山の北麓にありて、紀伊川を距る僅かに十餘町なり。地質は諸種の晶質剥岩にして、鑛層は殆んど黄鐵鑛のみより成り、含銅量少なきがため、銅鑛としては價値なきも近時硫酸及び肥料の原料として、需要せらるゝに及び、同一※[金+通]を稼行せる赤沼田鑛山と共に漸く盛況を呈せんとするに至れり。其の販路は紀伊川の便により、和歌山市に送致し、主に大阪に輸送す。一ケ月の販賣高平均十七萬(457)貫なり。また、赤沼田銅山は同村大字赤沼田に屬し、東方は飯盛銅山に接して、該銅山の※[金+通]先を稼行せるに過ぎず。地質鑛床また飯森銅山のそれと同じ。平均展ケ月の産額は凡そ五萬貫内外なりといふ。
 神路鑛山〔四字右●〕 本鑛山は和歌山縣那賀郡鞆淵村大字下番にあり。約一里半にして紀伊川の舟便を得べし。地質は晶質剥岩にして、鑛床は緑泥角閃岩中に敷衍し、屡々斷層のため變位せらるゝも概ね北若しくは西北に向つて四十度乃至七十二度傾斜す。而して當鑛床の斷絶することなきは此鑛山の長所なりと雖常に地山(俗稱青ツル)を挿み、又石英に當むは缺點なりと云ふべし。其の製出の月額平均五千斤内外なり。
 花阪銅山〔四字右●〕 本鑛山は和歌山縣伊都郡高野村大字花阪にあり。採掘面積五萬二百九十八坪、北二里二十町にして、關西鐵道笠田驛あり。鑛層は秩父古生層下部をなせる緑色千坂岩中に胚胎し、北又は西北に四十度乃至五十度傾斜し、斷層あれども、概して大なる喰違をなさず。明治三十四年の製銅高一萬二千四百七十五斤なり。
(458) 兩光鑛山〔四字右●〕 本鑛山は和歌山縣伊都郡高野村大字細川にあり。鑛床は緑色千枚岩中に胚胎し、西北乃至西方に傾斜し、其の厚さ一尺内外なり。製銅高平均一ケ月五千斤なり。
 天野村に丹生都比賣神社あれども旅客探訪の便宜上後段に説述すべし。
 再び粉河町に歸りて東すれば約一里半にして名手驛あり。村の車大字穴伏に名手神社を鎭す。俗に六社明神と稱し、境内廣濶にして狩場明神の影向石あり。而してこの地はもと高野山の表門に通ずる登山の沿道なりしも、今は汽車の便開け、人皆高野口驛または橋本驛より女人堂に至り、專ら裏道より登山するに至りて、表門道は全たく寂びたり。更に次驛笠田、妙寺も、舊時は皆な高野山に登る各道の一なりしが、今は其の用を失へり。
 妹脊《・イモセ》山〔三字右●〕 名手より東する約三十町、伊都郡内に進めば、紀の川は茲にて妹脊川と稱せらる。而して川の南岸にあるを妹山、北岸にあるを脊山といふ。兩山ともに小山にして、甚だ高からざれども、往時は脊山を兄山に作り、この山より以南を幾内とし、天皇の明光浦《わかのうら》、牟婁津などへ行幸の途次、この山麓を過らせ給ふに、供奉の公卿の愛(459)賞措かず歌名所となせる兩山なりと。猶ほ一説には大和吉野郡なる妹脊山は單に妹山にして當所なるは兄山なりと、また大和にあるものを以て眞の妹脊山なりと斷ずるものあり。なほ妹山の一名を長者屋敷ともいふ。脊山も時勢變りて山下に街道を通ぜるより山形も古には變りしならんも、妹脊川(芳野川とも呼ぶ)の流は今も混々として昔に變らす西流し、川中には松、楓など多く繁茂す。且つ河中には舟岡山と稱する小島ありて、一層の景趣を添へ、伊都郡中の一佳境に推さる。古歌多し。一二を録せんに萬葉集「麻ごろも着ればなつかし木の國の妹脊の山に麻まくわきも」「わきも子にわが戀行けばとほしくも並び居るかも妹と脊の山」。古今集「流れては殊脊の山の中に落る芳野の川のよしや世の中」。新千歳「妹脊川かへらぬ水の別れ路はきゝ渡るにも袖ぞぬれける」。
 妙寺《・メウジ》驛〔三字右●〕 紀ノ川の北岸に沿ふ一小市街にして、大和街道の一驛次をなす。川を隔てゝ對岸に下記慈尊院あり。弘法大師の母の住したる所、其の墓あり。故に高野山に參(460)詣する者、此に下車して慈尊院に參詣するかまたは下山の際に此所に迂廻して乘車する者多し。其の上下ともに、高野口驛よりするものと、高野の山麓九度山村にて會同するなり。
 慈尊院〔三字右●〕 今、久度田村に屬し、東八町にして九度山村に至る。古への高野山登山口に當り、金剛峰寺の政所を置ける地にして、一に下院《げゐん》と稱す。曾て弘法大師の母公は讃州より大師を慕うてこの地に來り暫らく山棲ありて終にこの地に寂す、今にその墓あり。一書曰「慈尊院寶塔の側に町卒都婆あり。此より高野の山上大門まで一百八十町、南に向つて攀づ。坂路なれど甚だ險ならず。文永年間建立の標石一町毎にこれあり、町石と呼ぶ。故に町石道の稱あり。字矢立の地に麻生津の山路と相會ひ、更に五十八町にして大門に達す。町卒都婆は文永二年覺教阿闍梨の石もて改造せるものにして、施主の名を刻し、中にも尊貴の方々まで彫附奉り、今に遺存するもの尚ほ多し。そも/\至尊の高野御幸は宇多天皇(昌泰三年)・白河法院(寛治二年同五年、大治二(461)年以上三度)、鳥羽法皇(天治元年大治二年長承元年以上三度)。後宇多法皇(正和二年)、後醍醐天皇(延元三年)、光嚴上皇(觀應三年)等幾度の前蹤ありて、皆な慈尊院より登らせ、或は此より殊に下垂させ給ひ、町毎に御持念ありて、玉歩を進めさせけるもありとぞ」。
 丹生都比女神社〔七字右●〕 慈尊院より南すること二里にして天野村あり。翠巒圍繞して別に一區をなし、高野街道はこの地を通ず。當社は即ち街道の傍側にあり。古名を天野丹生四社明神と稱し、社格は縣社なり。創健の時代は不詳なれども、應神天皇の御崇敬深く、神地の境界等を定め賜はりしこと、祀官丹生氏の故記録に歴然たり。丹生氏の遠祖は天野祝と稱し、日本紀に、神功皇后、しばらく小竹の行宮に坐しましたる條下に其の名見えたり。天野氏、後に丹生氏に改め、子孫繼承して神社に奉仕し、一百十八代を累ぬと云ふ。神域一萬三千六百餘坪ありて、神殿は、すべて五彩を施し、別に若宮と稱し、應神天皇を祀れる一殿あり。神殿の前面には樓門あり。其の左右には、(462)拜殿、神輿倉、社務所等あり。樓門を出づる數歩にして大華表あり。又數歩にして天神池あり。長さ十間、巾二間半の輪橋《そりはし》を架す。橋畔に、周圍《めぐり》二丈餘の喬松、池の面に枝垂れて立てり。境内すべて清麗にして、古りたる櫻樹多し。境外の後方、凡八町にして、高野街道の山上に、巨石の華表二基を立つ。是は高野山の檀上に、當神社を地主神として祀れる其が華表とす。この所より當郡の東方および河泉和の諸山を望む、風景畫幅を展べたるが如し。祭日は、陰暦正月一四日、二月十六日、六月八日、八月十六日、十一月六日とす。古へより、御代々々の天皇の、御崇敬深く、且、高野山の地主神なれば、山内のもの亦深く崇拜し、常に四方よりの參拜人常に絶えず。寶物には、應神天皇の當社に於て奏し給ひたりといふ古體の祝詞あり。後醍醐天皇、大和の賀奈宇に坐しまして、當社へ賜はりし勅書及び寄附状あり。其の他、古文書、古器物等、數多藏す。猶ほ、この村に、西行の古跡、鬼王團三郎の墓、有王丸の墓等あり。西行暫らく村中に住み、妻および女も尼となりて、共に住み居たること、選集抄、西(463)行物語等に見ゆ。近來まで神社の西南四町ばかりの所に、西行堂とて、荒れたる古堂ありしが、朽壞して今は存せず。其の傍に西行が狹田《はさなだ》と稱するものあり。又西行及び妻女の墓と稱せる五輪塔二基あり。鬼王團三郎の墓は社の乾の方四町にあり。此の兩人は、曾我の兄弟に仕へたる者にして、富士野の狩倉にて、兄弟、母への文および紀念《かたみ》の品々を托し、古郷に遣はし歸す事、曾我物語に見えて、兄弟の死しける後、兩人は出家して、山々寺々を修行し、建久七年に曾我の里に歸り、兄弟の十三年忌に當たりて、前後に卒去したる事、又同物語に記したれば、この里に石碑を建てしは、西行の石碑を建てし如く、暫く亦此の里に住み居たる縁に因るものなるべし。有王丸の墓は神社の西一町ばかりにあり。源平盛衰記に、俊寛の娘、父の死を歎く條に、姫君涙に咽びて物も仰せられず、出家の志ありと仰せければ、有王丸兎角して、高野の麓、天野の別所といふ山寺に具し奉り、其處にて出家し給ひにけり、眞言の行者となりて、父母の菩提を吊ひ給ひけるこそいとをしけれ、有王も、其より高野に登り、奥院に主の(464)骨を納め、卒都婆を立てゝ、出家入道して、同じく後世を吊ひけり、とあれば、是は此の里にて卒したるものなるべし。
 高野口驛〔四字右●〕 妙寺の次驛とす。此地は元と名倉と稱する市街にて、今は高野山上下に最も捷徑なる爲に、近頃鐵道の驛名を斯く改めたるなり。停車場には日々に參詣客輻輳し、汽車を下る者は、手荷物を旅館に托し、輕装して登山するを多しとす。一書曰「高野山に登るの最捷徑は、山下の高野口若くは橋本町より登るを第一とす。此等の兩地とも、紀和鐵道の停車場あり。されば西よりするものは、南海、紀和の兩鐵道によりて高野口より登り、東よりするものは、關西、奈良、南和、紀和の各鐵道により、橋本驛より下る者その順路と爲すべし。高野山女人堂まで、橋本より四里十六町、高野口より三里十九町を隔つ」。
 九度山〔三字右●〕 (眞田昌幸墓)高野口より高野山の女人堂まで三里半の行程中停車場より紀ノ川の渡津《わたし》まで、半里許は平坦にして人力車を通ずること易く、川を渡れば九度山に(465)て、此所より尚ほ半里椎出までは、強て車を通ずれば能はざるにあらず。九度山は曾
て大阪籠城の軍師として徳川家康の膽を寒からしめたる眞田幸村が、關ケ原役に父昌幸と共に西軍に與みし、信州上田城に據て徳川秀忠の軍を喰ひ止め、それをして關ケ原の役に從ふ能はざらしめ、關ケ原に西軍の大敗後は、流浪して此所に遁れ、暫らく蟄伏したる所、昌幸は此所に歿し、幸村は、蛟龍雨を得て大阪に迎へられ、孤城を以て天下の兵に抗し、智男の名を千載に轟かすに至りしなり。世に眞田紐と稱するは此所に浪居中の生計を支ふる爲に組み始めたるものといふ。一書曰「紀の川の殆ど中央にして、其が南岸なる九度山村の、佶羅陀《きやらだ》山、善名稱院といへる寺が、往昔眞田昌幸、幸村の隱ろひ居たる邸宅の趾なる。爾るから、寺院とはなり居けるも、猶ほ眞田屋敷とは稱へぬ。兆域五百三十餘坪ありて、一方は、長屋門にして、三方は、土塀にして、地藏尊を安置しける本堂あり。大安上人の開基にして、上人の廟所《みたまやどころ》、および土砂堂、客室等ありて、長屋門を入りける右に、雨を凌ぐばかりの、年古りたる巨松の立てる(466)下に、昌幸の墓表はありぬ。寶筴印塔にして、其が傍に、石地藏一躯立てり。幸村の大阪城に入りける時、己に代りで、父昌幸の墳塋を護れる爲に建てけるものとぞ。又一小社ありて、昌幸を地主神と崇めて祀る、當院の什物に、昌幸の船幕、幸村の水泳に用ひしといふ鐙等あり。慶長十六年六月四日、昌幸は病歿す、法名を一翁干雪大居士といへり」。
 葛和銅山〔四字右●〕 本鑛山は和歌山縣伊都郡九度山村大字笠木にありて、採掘面積十一萬千二百二坤を有す。和歌山市へ西十二里、其の間汽車の便あり。其の地質は秩父古世層下部を成せる緑色及び黒色の千板岩の互層にして、鑛層は緑色千板岩中に布衍す。含銅量稍々多く、明治三十四年の採掘高三十八萬貫なり。
 神谷《・カミヤ》〔二字右●〕 九度山より椎出川に沿ひ、一里許にて椎出村に至れば、山路急に峻しく、また車を通ずべからず。更に阪路を攀ること一里にして、神谷に達す。此所は橋本口及び高野口より登山する兩路の合する所、旅館酒樓軒を駢べ、旅館また少ならず。高野山(467)内大學林の學生などは、五十丁の山路を此所まで下りて、一夕の快夢を貪るもの多く、宛然一種の小遊廓の觀を爲す。
 高野山〔四字右●〕 神谷より極樂橋と名くる小橋を渡り、不動阪の峻阪を攀ぢ盡せば、清不動《きよめふどう》あり。參詣人は此所にて旅中の不淨を清め、岩不動、袈裟掛櫻、稚兒ケ瀧、花折坂等を過れば、女人堂あり。往昔の高野山は、女人の入るを禁じたる爲に、婦人の參詣者は此所にて遙拜し、此れより内へ入らしめざりしなり。今は何人も入るを得て唯だ昔を偲ぶ面影を留むるのみ。之を過ぎれば參詣人取調所あり。恰かも古への關所の如く、參詣人の族籍を尋ね、各府縣によりて其の就て宿るべき坊舍を指示す。是れ高野山は旅舍無く、參詣者は皆な寺院に宿するなれば、山内の各寺坊をして全國を區劃し其の所縁の區域を定め、就て宿り、追善供養等の事を請ふの便を與ふるなり。一書高野山奇勝に就て曰「學文路より躋れる道の、神谷より七街許にして四寸岩(【止駿岩とも書す、】)とて一大巖石の路を塞《ふさ》ぎて、幅四寸許の、足跡に似たる、一雙の凹處あるを履みて通ず。親
 
(468)〔高野山金堂、写真省略〕
 
の足跡を履むと言ひ習はせり。こゝより四町許攀ぢて、不勸阪あり。巉巖崎嶇たる峻阪にして阪の盡くる所を、萬丈轉《ばんじやうころば》しと稱へ、俯して壑底を望むに、其の深さを知らず。古へ罪人を簀卷にして、この壑へ轉ばし墜としたるゆゑ、爾名づくと。此の道すべて棧橋を設て道を通ず。登り降ること五町許にして、一巨巖の路上に望むを岩不動と名づく。巖面に不動の種子《しゆじ》あり。大師の爪※[金+獲の旁]《つまほ》りと言ひ傳ふ。二町許行きて、遙に瞰下せば、一條の瀑布、翠壁にかゝりて落つ。兒《ちご》の瀧といふ。古へ兒の身を投げし所と言(469)ふ。慈尊院より躋れる道の、涙川の傍なる阪の右に、押揚石といふあり。磐石高く路に望みて、掌ほどの凹める痕あり。手もて押し上げたるに似たり、こゝより二十町許攀ぢて、路の左に鏡石といふあり。石面平にして潤澤あり。朧に人影を映す。壇上に古木の櫻多し。七株の櫻、對面櫻、西行櫻等の名あり、この山は季候他に異なりて、仲冬の月より、三月の頃まで、積雪絶えず。故に春花は後れ、彌生に至り、梅はじめで開き、尋いで桃櫻一時に開く、谷上に辨天が嶽あり。登ること八町許にして、絶頂に辨天の祠を建つ。山内第一の高峰にして、社前に天狗杉あり。老木衆木に抽き出づ。此の峯に登れば、山内を一眸に收め、龍門、葛城等の高嶺を俯瞰し、遙に西海を望めば、淡路島、阿波の山、渺の中に在り。こゝの山麓に滴る泉を一の瀧と名づけ、衆溪を容れて山内を貫通し、一の橋を過ぎて玉の川の末と合し、蜿蜒二里の間に四十八瀧をなして、熊野口なる小田原谷の、轆轤峠より五十餘町にして、字大瀧の山中に至り、高さ四丈八尺、幅四間の一大瀑布となりて墜つ。大師、懸水の巖面に不動の像を刻み、(470)汚流を清む。世に水漉しの不動と稱す。在田郡に入り、在田川の水源たり。山内に猶一瀑布あり。千手院谷にありて、光の瀧と名づく。谷深くして至り見るべからず。遠く眺めば、素練を懸けたらん如し。兒が瀧の水と合し、※[螢の虫が糸]廻して九度山村に出で、紀の川に注ぐ」。大八洲遊記曰「高野老檜滿山、森欝殆不見※[日+義]影、登盡後平地、所謂金剛峰寺、寺域六十七萬五千坪、周囘十三里、眞爲海内巨刹、寺院諸房凡七百餘、市廛開鋪、百貨湊集、別爲一天地」。一地書曰「和歌山縣の森林は暖帶中央部に屬すれども、獨り高野は大臺ケ原山と共に、温帶林に屬せり。故に其固定在樹より云へば※[木+諸]《かし》・椎・欅等の産地なるも、往古造林の結果として、現今は杉・松・檜等の森林多く、蓊欝として繁茂せり。謂ゆる六木とは檜・杉。樅・梅・松・槇をいふ。而も山の森林は主として國有の大森林にして、林齡古くその名世に高し。扁柏・金松は森林の主材にして金松は一に高野槇とも稱し、本山林に殊に著名なること既に第三卷に述べたるが如し。本森林の材木は吉野材と共に之を和歌山港に流送す。當山の溪流の水常に多く、山麓の田野(471)に灌漑すること多きは一にこの蓊欝たる森林あるに由れり」。また一書曰「佛法僧はこの山の名物なり。その雄は鳩に似て瘠せ、尾の端黒く嘴細く脚とゝもに赤色なり。鳴く聲ブツポウ/\と三聲し、あとソウとひく」。枕草紙曰「てらはたかの、こうほう大師の御《み》すみかなるがあはれなるなり」。千載集「跡たえて世をのがるべき道なれや岩さへ苔のころもきにけり」。新千載「鐘の音はあけぬと聞けど高野山なほはるかなる曉の空」。新葉「高野山あかつき遠くまつの戸に光りを殘す法のともし火」。夫木「むかし思ふ高野の山のふかき夜に曉とほくすめる月影」。家集「むすぴおくえにし朽めや高野山その曉をまつの下つゆ」。草庵「のほりては心の霧もはれぬへし高野の山の峰の嵐に」。鬼貫「おとなしきしぐれをきくや高野山」。淡口「雲みねの欝々として谷の坊」。蕪村「ほろ/\となく山鳥やきりの玉」。有也「稻妻や座禅の心ひきて見る」。落合双石の登高野山に曰「不待瓢搖扶羽仙、蹇裳直入大羅天、老林盤地藏千刹、峻岳摩空柝八蓮、拜佛人※[足+漓の旁]何鑁界、焚香僧誦貝多篇、疑看放手金剛閃、爛々松梢白日懸」。廣瀬梅※[土+敦]の高(472)野山夜起に曰「無風杉檜忽成聲、知是空中天狗行、一萬僧徒家入定、峯雲澗月夜三更」。
 金剛峯寺〔四字右●〕 是眞言宗の開山空海が弘仁七年嵯峨天皇に上表して勅允を蒙り、國司の力を藉りて此の紀州伊都郡高野山の山奥を苅り夷らげて、七堂伽藍を創立し、之を高野山金剛峯寺と名け、眞言の一宗を天下に弘め、承和二年三月二十一日此に入定し、後に弘法大師と謚號を賜はりたる海内無雙の靈場にして、現に寺域二里半四方に亘り、一百三十餘の僧坊あり。往時が寺域七里四方に跨がり、一千餘の僧坊ありしといふ。登山の路には元來大門口、不動阪口、熊野口、龍神口等あり。大門口は表門にて、和歌山より來る正路に當り、その和歌山より來るものは麻生津峠を越え花坂を經て大門に達し、河北よりするものは慈尊院より天野を經て花坂に出づ(これを町石道ともいふ)されどこの道路、今は汽車の便に壓せられ、裏手に當る不動阪口の一に京口とて京阪地方より來る參詣者の道路こそ、恰かも表門の觀を爲すに至りぬ。其の大門は、高さ二十二間、表行十五間、奥行九間、當山の西方に在りて、銅瓦を以て屋根を包み(473)たる二重の樓門なり。寶永二年の再建にて、丈け一丈六尺の金剛力士左右に立つ、佛工康意の所作なり。壯嚴雄偉先づ眼《まなこ》を駭かす。門より十五丁にして金堂あり。御願堂とも稱す。二層の高閣にして、高さ二十二間、周圍十三間、本尊は一丈六尺金色坐像の藥師如来、金扉の内に安んず。實に當山開創地鎭の本尊佛にして、脇士は金剛薩陲、不動明王等の六體にして左右に安んず。萬延元年の再建なり。金堂の傍なる大塔は、十六間四面高さ十六丈にして日本の最高塔と稱せられしも、天保十四年に火災に罹り、再建の功未だ成らず、其他灌頂堂、御影堂(念誦堂)准胝堂、大會堂(蓮華乘院または金堂)三昧堂、孔雀堂等再建概ね成る。當山の主坊金剛峯寺は、其東二町許の所にあり、一山一百三十餘坊を總轄する所、當初は開山第二世眞正僧正の廟所たりしを、文禄三年豐太閤公卿諸侯を從へて登山せしとき、寺と爲して大法會を修し、金堂、大塔等を造營し、爾來累世一山貫主の住寺と爲り、曾て天保の火災に罹りしも、元治元年再營したるなり。構造輪奐、建築壯麗、眞に無双の淨土たり。他の各坊には、皆な參(474)詣者を宿泊せしめ、今は恰かも精進旅館の感あるも、金剛峯寺のみは宿泊を許さず、其の殿堂中、柳の間と名くるは、豐臣秀次自害の室といふ。此所より更に東に八町許行きて橋あり、一の橋といふ。大門より此所に至る通路の左右には、西院谷、南谷、一心谷、五室谷、千手院谷、本中院谷、小田原谷、蓮花谷、東谷の十谷に別ち各僧坊簷を比べ、中にも無量壽院の如きは、壯大なること金剛峯寺に譲らず。一ノ橋以東は、古杉老檜路を挾みて、森々として晝尚ほ暗き所、行くこと更に二十丁許にして奥の院に達す。其の森林中の通路の兩側は舊時全国各諸侯及諸名士の墓碣を以て滿たし、概ね五輪の塔にして、其中に高きは三丈餘、臺石の大さ二間四方なるあり一種の大墓碣競進會なるかを疑はしむ。中には豐太閤の墓、明智光秀の墓、多田滿仲の墓、曾我兄弟の墓、親鸞上人墓、契沖阿闍梨墓、蓮生坊建立平敦盛墓、徳川秀忠同頼宣墓、淺野長矩墓、一番石塔、芭蕉、朝鮮役士碑等あり。皆な遺髪若くは齒、爪、肉體の一部を埋葬したるなり。また、中ごろに玉川の細流に架したる橋あり。御廟橋と(475)いふ。是れ全國六玉川の一にして、水清くして橋下に小魚あり、麝香魚と呼ぶ。之を捕ふれば、其香麝香の如しとぞ。橋を過ぐれは靈元、中御門、櫻町、桃圖、後櫻町、後桃園、光格、仁孝等の列聖と先帝との御寶塔あり。今は宮内省にて之を護る。此れを過ぎて數十歩、燈籠堂あり、廟前の拜殿にして、燈火の光り古來絶えず、長者の萬燈貧の一燈を點ずる所は乃ち是れなり。其の奥は開組大師入定の靈地、周圍は瑞籬を繞らし、石壇の上に寶形の堂を建つ。左の壇下に經藏あり。經は石田三成其母の爲に納むるなり。右の壇下に骨堂あり。何人も其遺骨の一部を投げ入るゝを許す。是れ開祖大師が、我が山に送る所の亡者の遺骨は、我れ三密の加持力を以て兜卒の淨土に往生せしめ、當來は慈導説法聽衆の菩薩たるべしと宣言せるに由る。而も、地位、後には麻尼山の高嶺そびえ、左右には轉軸山、楊柳山の高嶽そばたち、三山鼎立して、廟所を擁し、林に三寶と鳴く靈鳥棲み、地に萬年草、漢名に所謂千年松を生ず。誠に萬古不退轉の靈域と言ひつべし。されば四時參賽の人群集し、年々二十萬以上に上ると(476)いふ、また宜なりと言ふべし。そも/\、空海の遣唐使に從ひて唐國に入り、青龍寺の僧惠果を師とし、密教を傳へて歸るに及び、萬乘の君の尊崇を辱くし、百姓なづみ慕ひて、父母の如し。空海、博學多能にして、能く上下の心を得、新に密宗を開き、永世布全の靈場を創す。徳行天下に普くして、仁明天皇の承和二年に、年六十二にして入定す。天皇、勅使をもつて賻を賜ひ、太上天皇、弔書を賜ふ。天下悲哀せざるなし。後、文徳天皇に至り、大僧正を贈られ、清和遺皇、更に法印大和尚を贈らる。醍醐天皇、弘法大師の謚號を賜ふ、其が詔書に曰はく、「勅、琴絃已絶、遺音更清、蘭※[草冠/最]雖凋、餘芳猶播、故僧大僧正法印大和尚位空海、消疲煩悩、抛郤驕貪、全三十七品之修行、斷九十六種之邪見、既而佛日西没、渡溟海、而仰餘輝、法水東流通陵谷、而導清浪、受密語者多滿山林、習眞趣者自成淵藪、況 太上法皇、既味其道追憶其人、誠雖浮天之洪濤、何忌積石之源本、宜加崇餝之典謚號弘法大師、延喜二十年十月二十七日」。猶ほ弘仁七年當寺開創に際しての上表文に曰「沙門空海言、空海聞、山高則雲雨潤物、水積則龍魚化産、是故耆闍峻(477)嶺能仁之迹不休。孤岸奇峰觀之蹤相續、尋其所由、地勢自爾、又有臺嶺五寺禅客比肩、天山一院定侶連袂、是則國之寶民之染也、伏惟我歴代皇帝、留心佛法、金刹銀臺、櫛比朝野、談義龍衆毎寺成林、法之興隆、於是足矣、但恨高山深嶺乏四禅客、幽藪窮巖希入定賓、實是禅教未傳住處不相應之所致也、今准禅經説、深山平地尤宜修禅、空海少年日、好渉覧山水、自吉野南行一日、更向西去兩日程、有平原幽地、名曰高野、計當紀伊國伊都郡西、四面高嶺人蹤絶蹟、今思上奉爲國家下爲諸修行者、芟夷荒藪、聊建立修禅一院、經中有誡、山河地水悉是國王之有也.若比丘受用他不許物即犯盗罪者、加之法之興廢悉繋天心、若大若小不敢自由、望請蒙賜彼空地早遂小願、然則四時勤念以答雨露之施、若天恩允許、請宣付所司、輕塵宸※[戸/衣]、伏深悚越.沙門空海誠惶誠恐言。弘仁七年六月十九日、沙門空海上表」。以上列擧せるものゝ他、一心院谷には八條女院御願建立の不動堂あり、山内にて最も古き建物といふ。蓮花谷の西谷には鳥羽天皇皇后美神門院の御陵あり。本中院谷の往還には鐘樓あり。六時の鐘と稱す。天保十四年失火の際には寶庫獨り災(478)を免る。御影堂の脊後にありて、各種の寶物を收藏す。地名辭書に曰く「寶物中、大師飛行の三鈷杵竝に螺鈿蒔繪小櫃は今國寶に列せらる。その他大師入唐請來の道具、眞蹟手印の縁起、綸旨院宣御教書大臣以下諸名家高僧の墨跡に至るまで藏せざるはなし。また法寶五大明王畫像は高祖大師の監造にして眞言宗の本宗なり。眞流上人筆大師影像勒操影像また鳥羽僧正筆大威往明王像并びに著名の所なり。近年國寶に列せるは不動明王木像(智燈大師作立像親王院)、地藏菩薩本像(成蓮院)、八大童子一躯(木造立像不動院)、運慶乍彌陀一躯(木造立像清淨心院)、狩場明神像一軸(絹本着色弘法筆流王院)、藥師十二神持一輻(絹本着色惠心筆櫻池院)、文珠一幅珍海(無量壽院)、不動明王一輻(智證大師筆絹本明王院)等なり」。(【猶ほ詳細の記事に至りては當山發兌の諸案内志にゆづるべし】)。
 高野口の次驛を橋本となす。東方より來る旅客はこの驛に下車して高野山へ登るを便となすこと既に記述せり。即ち町の南にて紀ノ川を渡り對岸清水村より西學文路を經由して河根動坂を登るものにして、これを不動口または京口といふ。また清水より直に南方黒川を經て千手谷に入る大和道あり、向じく高野七口の一と(479)いふ。清水村には西行堂及び衣懸樓の故跡あり。衣懸樓にも光嚴法皇の遺蹟を傳ふ。また村の南方畑山に生地城址あり、
 苅萱堂〔三字右●〕 學文路村の驛所にあり。殿堂備具す。この邊旅舍多し。また禿物狂と題する謠曲の故跡とて路傍に石上小祠を置く所あり。清水より此所に至るも一里、此より河根《カネ》まで一里、坂路嶮なり。苅萱の一話は、世に鳴ることなれど、異説區々なり。苅萱道心といへるは、筑紫博多の守護加藤繁昌の子なり。父繁昌石堂川の邊にて地藏菩薩の寶珠の右を賜はりしより妻懷姙し、生れし男子即ち繁氏と號し、幼名を石堂丸といふ。苅萱道心といふはその苅萱の關におはしければなり。剃髪染衣の身となり弟阿法師と名く。永萬元年の春、高野山に登りて隱家を營み居るに、妻千里前繁氏の行方をたづねて播州に來り明石の大山寺にて出産ありし男子に父の幼名を與へて石堂丸と名け、十四歳の時母もろ共に父繋氏の行方をたづねてその里に來り、朝の露と消え失せられしを、石堂丸は母の墓所に供給し、仁安元年の秋、法師に尋ね逢ひしが、法師(480)はわが父なりとは言はねども、出離の要を説て未來永劫の値遇を誓ひ給ひ、これこそ眞實の孝心なるらめと説示さるゝ理に伏し、即ち等阿法師の弟子となり、信生法師と號す(地名辭書)。
 橋本町〔三字右●〕 今、伊都郡役所の所在地にして人口五千四百四十を有す。市街は紀の川の北岸に位し、商賈軒を連ね、郡中第一の繁華を呈せり。町より和歌山市まで里程十二里弱、この間紀の川を上下する舟を川上船と稱し、木材貨物の運送に資すること多大なり。また、町の東古佐には一大古墳あれど誰人の墓なるや定かならず。元來、舊時鐵道未通の時には、京阪よりする高野山參詣者は、皆な此所より登山せり。故に高野鐵道の如きも、大阪汐見橋より起り、住吉、堺を經て此地に達するを期し、長野驛まで竣工し、長野と橋本驛の間なる、紀伊見峠の險に支へられ、高野は名のみにて實際未だ高野參詣者に利便を與ふること少なきなり。橋本より高野山に登るには、驛より學文路まで一里の間は、紀ノ川の渡津《わたし》あるも優に人力車を通ずべく、學文路より神(481)谷を經て女人堂に到るには、徒歩の外は輿《かご》に依らざる可らず。女人堂までの行程四里十九町といふ。
 橋本より北せる一路は紀伊見峠を越えて河内に入る。橋本より嶺上まで二里餘、更に天見村を經て三日市まで二里餘とす。由來、この峠は葛城連峯中の最低所なれば、北方の諸國より紀州に入るの通路に當り、往昔、諸帝の高野山行幸にも皆なこの峠を越えさせ給へりといふ。峠の下胡麻生には昔時本地方の一豪族たりし牲川氏の宅址あり。
 隅田驛〔三字右●〕 橋本の次驛にして、その東方一里ばかりにあり。本郡の東北端にして、驛東眞土山を以て和州宇智郡に界す。村に隅田八幡神社あり。古來當隅田庄の總鎭守にして、神功皇后三韓凱旋の折の駐蹕地と傳ふ。中世にありては男山八幡宮の政所ありき。殿堂また美麗にして、域内には神功皇后の遺跡を傳へ、寶什としては皇后の三韓より持來し給ひしと傳ふる古鏡を所藏す。猶ほ、隅田庄に於ては紀の川の別稱を隅田川といひ、川の東北には眞土山(待乳山)あり。同山の麓に待乳川(堺川)あり。その川下に斗出せる地を庵崎と稱す。孰れも當國の歌名所とす。萬集「亦打山ゆふこえ行き(482)て廬前の角田河原に獨りかもねむ」「あさもよしきべゆく君が信土山こえらんけふぞ雨ぞふりそね」「しろたへにほふ信土の山川にわが馬なつむ家こふらしも」。薪古今「誰をかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし」。萩園家集「待乳山こえて見に來ん瓦かなわが庵崎の秋の夜の月」。
 和歌山市驛より隅田驛に至る二十九哩五十九鎖なり。鐵道はそれより和州宇智郡二見驛に入り更に五條、高田を經て奈良、大阪に通ず。
 ○龍神街道 この道路は和歌山市より宮、岡崎、西山東《にしさんとう》の諸村を經て那賀郡に入り、東野上村大字|動木《とゞろき》及び下神野村大字|神野《かうの》を經由して有田郡を貫き、以て日高郡の龍神に達する道路なり。行程は總て十八里三十町、その間約十二里二十八町の間は嶮路にしてして車を通ぜず。
 秋月村〔三字右●〕 和歌山市の東南三十餘町にあり。宮村に屬し、海草郡々役所の所在地にして、人口二千五百餘を有し、市驛やゝ繁華の趣をなす。地に官幣大社日前國懸兩神宮(483)あり、村は即ち宮の門前に驛市をなす。
 日前國懸兩神宮〔七字右●〕 宮村大字秋月に屬し、兩宮相竝びて鎭座す。而も、日前宮は神鏡を御靈代とし、石凝姥命、思兼命を相殿とす。また、國懸宮は天日矛を御靈代となし、鈿女命、玉屋命を相殿とす。この二種の神寶は、天照大神の瓊々杵命に賜ひし三種の神寶に添付せる第二の神寶にして、神武天皇の天下を知ろしめし天道根命に當國を賜ひける時、右の神寶を、天照大神と崇めて、齋き祭らしめ給ひたるなり。この事實は既に書紀に詳にして、是を神武天皇の天道根命に賜はりて齋祭せしめ給ひし事は、國造家の古傳にして、世にも知られたる確説なり(【異説多けれど省略す】)。而して當社始めは本郡の毛見郷に鎭座せるを垂仁天皇朝十六年今の地に遷徙す。爾來歴代の天皇の崇敬厚く、伊勢神宮に亞《ツ》ぎて尊敬せられしといふ。然《しか》るにその宏壯なる社殿も天正の兵亂に豐臣秀吉の懷るところとなり、時の宮司紀忠雄は兩宮の御靈體を奉じて暫らく難を高野山の麓に避けたり。後歸りて小祠を營みしが、徳川頼宣の當國に領主となる(484)や、再び兩宮を修營し、神領を寄附し、やゝその面目を一新する所あり。明治に至りては官幣帛大社に所せられ、天道根命の遠裔たるその宮司は華族に擧げられ男爵を授けらる。地域凡そ一萬八千百四十餘坪、東にあるを國懸宮とし、西にあるを日前宮とせり。樹木欝蒼社邊をめぐり、竹藪また蔚茂す。且つ前苑の芝生には櫻樹多く、社殿善美に、眺屬廣く、賽客常に絶ゆるの期なし。また兩宮の周圍には八十八の末社羅列し、別に天道根命等を奉祀せる攝社三社あり。兩宮の例祭は九月二十六日にして、天道根命の例祭は二月十五日及び八月十五日の兩日とす。寶物には彦五瀬命奉納の弓矢及び允恭天皇奉納の古鏡等あり。
 秋月の西を太田といふ。同じく宮村に屬し、和歌山の郊外に當る。紀國造の舊城址はこの地の東南にありしが、天正中豐臣氏の水攻に逢ひて破却す。また仲哀天皇の熊襲征討に當りて行宮を置き次で出港せられし舊地を徳勒津《ところつ》といひ、もと雄之水門に臨める津頭なりしが、この舊址も豐公の太田城水攻に際して湮滅せり。その他、(485)太田の西南には妙幢寺あり。枕草子春曙抄曰.妙幢菩薩は夢の吉凶をつかさどる菩薩なり。戀しき人を夢に見んと思ふ時はこの菩薩の御名を唱へ夜の衣をかへして寢る時は必ず夢に見ゆるなり。いとせめて戀しき時はぬばたまの夜の衣をかへしてぞ寢る」。鳴神社は鳴神村の鳴神山下にあり。音神社はその西南三町にあり。共に延喜式内の舊社とす。人類學雜誌曰「鳴神村字岩壺に貝殻畑あり。疑もなく鹹水産の貝塚とす。この岩壺の地たる和歌山市を東に距る一里、和佐山の西麓に連る一丘地にして、前は宮郷の村落諸方に散在し、北は遠く紀ノ川を隔てゝ葛城山脈を望む。今や海邊を距る殆んど一里半餘、桑滄の變實に驚くに堪へたり」。
 宮村より街道を東南に進めば約二里にして、西山東村大字伊太祁曾に至る。紀ノ川畔の大和街道(紀和鐵道と海岸の熊野街道とを連絡せる道路は同西山東村に於て龍神街道と交叉せり。
 伊太祁曾神社〔六字右●〕 西山東村大字伊太祁曾に鎭座す。國幣中社にして、素盞鳴尊の御子五十猛命、大屋津姫命、抓津命の三神を奉祀す。この五十猛命が妹二神を卒ゐて(486)當國に入れることは既に書紀に明記せるところ、而も當社を延喜式に載せて名神大社となすを見ればまた以てその地方の夙に出雲派の諸神に依りて開拓せられしを知るべし。紀に曰く『素盞鳴尊之子、號曰五十猛命、妹大屋津姫命、次抓姫命、凡三神亦能分布木種、即奉寢於紀伊也』と。當社の神域は凡そ一萬四千餘坪、常磐山一圓を境内として、四周には年古りたる杉檜等欝生し、社殿は山頂平坦の地に位す。結構また廣麗なり。十月十五日を似て例祭を執行す。
 都麻都比賣神社は東山東村大字平尾に鎭座す。延喜式に名神大と註せる古名祠なり。龍神街道はこれより海草郡を出でて那賀郡に入る。沿道漸く邊僻の境にして、下神野村大字神野市場よりは道路漸次嶮峻となり、更に九百十九米に達する生石の峰の東方嶮阪を越え、有田川を渡り、また山間溪谷を辿りて千三百〇七米に達する城ケ峰を越え以て日高郡の龍神村に至る。この間凡て車馬の便なし。この間の名勝としては野上村大字動木に野上八幡宮あり。動木の南方小川村に於て生石峯を登れば絶頂には笠石と名くる怪石あり。周圍三百尺、蒼黒にして白紋を生ず。その他、神野村には古刹滿福寺あり。動木の東方四里毛原には立石を以て名高き毛原宮あり。猶、有田郡の地には瀑布の名あるもの尠なからず。その一二を擧げんか、黒藏が瀧は、生(487)石が嶺の山腹にあり。高さ十丈、幅二間。純白の瀧は、白馬山の半腹に懸かる。高さ十八丈、幅二間、修理川に注ぎ、有田川に入る。嶮峻にして容易く至り難し。脇裏の瀧は楠本の脇裏にあり。溪を隔てゝ上流を望めば、下流見えず。下流を望めば、上流見えず。銚子の瀧は上湯川の深山にあり。高さ四十二丈、幅二尺。同所に下り瀧及び穴桶あり。共に室川に注ぎ有田川に入る。
 龍神村〔三字右●〕(龍神温泉) 實に和歌山市を距ること東南十八里三十町とす。地勢日高川の上流山間の僻地に位すれども、大字龍神には炭酸泉湧出して、功驗顯著なりと稱せられ、旅舍十戸を置き、浴客常に絶えず。泉質は無色透明にして、無臭無味、温度百〇二度を有し、湯の山と稱する峻嶺の崖下より涌出す。浴場一所、これを六槽に分ちて、孰れも構造清麗なり。泉竅の傍に難陀龍王の祠あり。また湯の山の中腹には温泉寺あり(【當郡にはこの地數ケ所に温泉湧出すれど此等は別に熊野街道の項に説かん】)。祇南海の龍泉紀行に曰「泉之土甚狹、居民十餘家、高下其丘居焉、兩山爲峽、隱蔽日月、非停午不見※[日/処の几がト/日]、山多丁香花、片香襲人、又多瓜藪、居人※[日+麗]根、造粉以※[魚+條]、溪中游魚數品、※[魚+條]魚尤美」。
 ○熊野街道 本街道は和歌山市より海岸に近く南進して、日方、内海の町村を經て(488)鹽津村に入り、更に濱中、椒《ハジカミ》の兩村を過ぎて有田川を渡り、湯淺を過りて鹿ケ瀬峠を越え、御坊、印南、南部を過ぎて田邊町に至り、これより道路は二岐に分る。一は中邊地と稱し、東北東の山路を指し、近露、本宮、天滿の諸驛を經て新宮に達し、他は大邊地と稱し、殆んと海岸に沿うて富田、佛の兩峻坂を踰えて周參見に出で、長柄坂その他幾多の山脊溪谷を過ぎ、紀州南端の一都會串本に到り、古座川を渡り、古座、高池の諸驛を經て、下里、天滿に至り、遂に新宮町に到達す。天滿は即この大邊地、中邊地兩街道の會合點なり。新宮より、道路は南牟婁郡(三重縣屬)に入り、井田、阿田和、有馬、木の本、曾根、三木を通じ、北牟婁郡(三重縣屬)に入りては尾鷲、馬瀬を過ぎて遂に長島に至る。この街道は道程一般に嶮惡にして、車馬を通ぜざる所多く、殊に田邊、串本間の如きは、極め嶮峻を極め、行人の甚だ艱《なや》む所なり。唯、海岸地方は、大阪商船會社の汽船、期を定めて大阪及び尾張國熱田との間を往復するに際し、沿岸諸港に寄港するあり。波甚だ穩かならずと雖も、旅客の往復、物貨の輸送は(489)重にこれに由る。熊野川沿岸地方附近の交通は多く熊野川の水流を利用せり。
 まづ和歌山を市の南端北出島より南に出でて行くこと約一里餘、名草山の西麓雜賀川の河口に到る。雜賀川は一名和歌川または藻屑川とも稱す。紀ノ川の分岐せる下流にして、その河口に名高き和歌浦あり。一書曰「雜賀村は湊村につゞき、村の濱邊を總稱して雜賀浦といふ。往古はこの邊すべて海なりしよしにて、地は何方も眞砂なり。萬葉集「木の國の狹日鹿の浦に出でみれば海人のともしび浪間より見ゆ」。村内の彌勒寺山は、天正五年に一向宗の徒織田右府の來り討つを、この山に城を築きて根城となし、四方に砦を構へて、大に右府の兵を破りたる所なり。また雜賀崎に鷹巣の巖あり。千尋の巖壁にして、海に枕む。絶壁に隼鷹の巣を作れるゆゑ爾名づくると。巖上松を生じ、海風に撓められ、奇状作るとも能はず。巖下に空洞あり。教如の巖窟と稱す。天正八年、教如上人、織田右府の怒りを遁れて、諸所に流浪しけるとき、雜賀の門徒等、上人を暫くこの巖窟に忍ばせ置きたるより、名に稱すと云ふ。四邊に奇巖おほし。各形状によりて名あり、地猩々沖猩々など言ふ。又小嶼ありて、中島、雙子島といふ。雙子島は、二個の小嶼の並らび立てるなり。秋も漸く冷かになれば、遊人船を泛かべ、又は巖上に寄りて釣を垂るゝ者多し」。また一案内記曰「和歌山市の中央京橋より南方一里二十町にして和歌の浦に達す。一路平坦、舊城址の天守閣を左に望みて往けば、途中の路傍に列なる老松は、根柢高く地止に抽んで、根上り松の名高く、五百羅漢寺もまた其の排置する羅漢像(490)の寄古なるを以て著名なり。浦は往昔聖武稱徳兩帝の行幸ありて、望海樓を建て、地を明光の浦と名けさせ給へる絶世の勝區、『和歌の浦に潮みちくれば片男浪、蘆邊をさして田鶴なきわたる』と詠じけん如く、東西二十町、東は名草山、金剛寶寺、恰かも蜃氣樓の如く翠微の中に聳え、東南は、生石ケ峯に連り、其の麓の冷水浦、鹽津浦の諸湊には、船舶常に輻湊し、名草の濱には鹽燒く煙風になびき、蘆邊の浦は、今も時として仙鶴の來り遊ぶことあり。姥光、雜賀崎、共に突出し、布引の松、和歌の松原は、四時翠黛の色を改めず。濱邊は皆な木理ある巨巖より成り、波濤に蝕せられて鑿剪刀削の状を爲す。養珠寺、妹脊山、觀海閣、經玉堂、多寶塔、郭公山等名所多く三斷橋の前に玉津島神社あり。其背後なる奠供山に、是れ神龜年間に望海樓を建て給ひし地にて、玉津島神社を南に出れば、輿の窟、不老橋あり。宮の南麓には和歌山藩祖を祭りたる南龍神社あり。其の隣りに東照宮の輪奐たる建築高く海に臨みて山上に聳ゆるあり。正に是れ和歌浦の名所を歌へる三十三間堂棟木由來の淨瑠璃中に、一に權現、二に玉津島、三に下り松、四に鹽竈といへる、權現は東照宮の謂にて、其の祭禮は吉來和歌祭りと稱し、武者の行列、神輿の海中渡御等にて名高し。和歌浦には旅館蘆邊屋最も古くして且つ大なり。近來新たに起りたる旅舍旗亭も尠なからず。往時寂蓮の歌、實景を盡す。曰く「わかの浦を松の葉にしてながむれば梢によする海人のつり舟」。猶、この地は古來日本三景に次ぐの勝地と稱せられしも、海水の退さがりし昔時こそ、今の松島、嚴島にも劣らざりし美景なりしならんも、既に現今は海中にして人家田畠となれる所多く、たゞ、玉津島明神附近に往時の面影を髣髴し得るに止(491)まるのみ。猶ほこの附近は紀淡海峽の要害地として寫眞禁斷の場所なれば旅客はその點をくれ/”\注意すべし。山崎氏地志曰「和歌浦湾の北部は所謂和歌浦の地なり。紀伊山系の最下部をなさる晶質剥岩より成れる飯盛山脈は西に延びて幾多の孤立せる丘陵をなし、紀ノ川下流の沖積平野の中に立てり。名草山・雜賀崎等は要するに其一片にして、近き過去の時代にありては海中の島嶼たりしものなり。而して紀ノ川の水流は次第に土砂に堆積して三角洲を造り、從て又數多の支流を分ち、其一派和歌山市の東を掠め、名草山の西麓に出で和歌浦灣に注ぐものあり。沙嘴其下流を擁して、中に潟を造り、沼澤の地をなす。所謂和歌浦の勝景は此等の丘陵・岬角・沙濱・澳灣等の湊合して成れるものにして、若し夫れ滿潮に際して洲渚水底に没し碧波岸を洗ひ、山嶽倒に影を灣心に投ずるの際に於て、始めて之を味ふを得べし」。
 和歌浦《ワカノウラ》町〔四字右●〕 雜賀川の河口西岸に位し、西は雜賀崎浦に連り、南面して海灣を控ゆ。而も中央には長さ約二十町の砂嘴の突出するありて、和歌浦の内灣外灣を分つ。内灣は東に位し、東岸には即ち名高き紀三井寺あり。現今、人口五千七百六十餘、繁華なる街衢をなせり。また、地の東の入江に蘆邊浦と稱する地あり。萬葉に「わかの浦に潮みち來ればかたをなみ蘆邊をさして田鶴《たづ》なきわたる」と詠ず。名高き蘆邊茶屋また(492)この地にあり。海苔及び牡蠣を名産とす。
 妙見《・メウケン》山〔三字右●〕 和歌浦の街道に立ち、山上に妙見菩薩を安置す。一に伽羅山とも稱し、土俗は殿山といひ、天保中藩主|奠供山碑を建つ。而も山は聖武天皇朝忘回廊望海樓行宮の遺址にして、天皇が玉津島に詣でて望海樓に御し、管絃を奏せしめ當浦の風景を賞美ありしこと、載せて日本紀にあり。山の展望また頗る愛すべきものあり。或は一説にこの山の西方千疊敷と名くる地を以て樓址となしまたは玉津島社の後山なる朧山を以て樓址なりとなすものもあり。朧山の眺望はまた當山に讓らず。因に當山は凡て巖石を以てなり、巖は皆な伽羅の如き文理を有して薄黒色なり、これ伽羅山の名稱を有する所以。續日本紀曰「神龜元年十月、天皇幸紀伊國、癸巳行至那賀郡玉垣頓宮、甲午至海部郡玉津島頓宮、留十餘日、戊戌造離宮於岡東、海部直士形進位二階、詔曰登山望海此間最好、不勞遠行、足以遊覧、故改、爲明光浦、宜置守戸、勿令荒穢、春秋二時、差遣官人、奠祭云々。又天平神護元年、天皇行幸紀伊、遂至玉津島、御南濱望(493)海樓、奏雅樂雜伎、權置市※[廛+おおざと]、使從官及當國百姓、爲交關云々」。又日本後曰「延暦二十三年十月壬子、幸紀伊國玉出島、癸丑上御船遊覧、國造紀直豐成等奉献、詔曰此月波閑爾之天國風御覧須時止奈毛常毛聞所行須今御座所乎御覧爾磯山毛奇麗久海瀲毛清晏爾之天御竟母於多比爾御産坐云々、甲寅自雄山道、還日根行宮」。萬葉集曰『神龜元年甲子冬十月五日、幸于紀伊國時、山部宿禰赤人作歌一首、安見しゝわが大王の外つ宮と、仕奉れる左日鹿野の、脊上に見ゆる奥つ島、きよき渚に風ふけば、白浪きわぎ 潮干れば、玉藻刈つ、神代より、しかぞ尊き玉津鳥山』。祇南海『登妙見山、接稱徳帝神護元年、幸明光浦、詣玉津島、御望海棲、奏歌舞雜伎.今妙見山、乃是望海樓遺址望海蜃樓何所求、玉津島北石巖頭、翠華不返烟波渺、沙邊雲帆神護秋』。
 養珠寺《・ヤウジユジ》〔三字右●〕 妙見山の下にあり。承應三年藩主南龍公の、構營にして、僧日護これを開創し、南龍公の母堂の墓所となす。墓所は下記妹脊山にあり。
 妹脊山〔三字右●〕 和歌浦町の南にあり。玉津島社前の江中とし、三斷橋と名くる石橋を以て(494)通ず。舊名を玉出島または郭公山と稱し、山上に多寶塔を建つ。本尊は加藤清正の朝鮮より將來せし佛像にして、躯中には徳河頼宣の母公養珠院の遺骨を納むといふ。慶安二年、頼宣公の造營に係るものなり。また、石階の下に觀海閣と名くる拜殿あり。南は和歌浦を望み、東は名草山に對して、尤も山水の勝に富む。菊池溪琴の明光浦に曰「水畔樓臺映落霞、石欄人影過橋斜、伽羅山上簾繊雨、飛瀑仙娥廟裡花」。
 玉津島神社〔五字右●〕 和歌浦の北にあり。和歌浦の靈に衣通姫を配祀すといふ。この社は古くより國史に見えしも、その創建の年月は詳かにせず。聖武天皇當社に參拜ありし時、詔して春秋二時差遣官人奠玉津島之神明光之靈とありき。古來、和歌の神として詠めるもの多し。新古「いかばかり和歌の浦風身にしみて宮はしめけん玉津島媛」新續「くもりなき御代に光をさしそへて猶道てらせ玉津島媛」玉葉「過きがてにみれどもあかぬ玉津島むべこそ神の心とめけれ」中世に至りて社殿衰頽せしを頼宣公再修し、後西院上皇また祭式を撰ばしめ、神威再び顯揚せしが、維新後更に頽破に及び、現今(495)の社殿は明治二十五年の造營に係るものなり。玉津島、古くは玉出島に作り、和歌には玉出づる島とも詠みたり。日本後記「延暦二十三年冬十月壬子幸紀伊國玉出島」。三代實録「五慶五年冬十二月丁酉紀伊國正六位上玉津島神授從五位下」。宇津保物語「年を經て浪のよるてふ玉の緒にぬきとゞめなん玉出づる島」。玉葉「和歌の浦やかきおく中のもくづにも隱れぬ玉の光をそ見る」。風雅「むかし今ひろへる玉もかず/\に光をそふる和歌の浦浪」吉田氏曰「玉津島神は山部赤人の歌に、神代よりしかぞ尊き玉津島山とありて、江中の孤嶼に鏡座せしならん。今、嶼の北なる陸岸に小祠を見るは、寛文中興の時よりの事なるべし。社藏宸翰雛の中に、後西院上皇の御製、おもふにぞ霞もはれて玉つ島光にあたる和歌の浦人」。猶ほ前出蘆邊茶屋はこの神社の南に當る。茶屋は美しき入江に面し、樓上より望めば、景趣恰も畫くが如し。もし舟をこの茶屋に※[人偏+就]はゞ直ちに對岸紀三井寺に渡るを得べく、また陸路を迂囘すれば犢鼻褌の渡と稱する渡津ありたるも、今は橋梁を架し、半里ばかりにして紀三井寺に達すべし。
(496) 和歌東照宮〔五字右●〕 玉津島神社の西方にあり。元和七年、徳川頼宣の創建に係り、俗調に謂ゆる和歌浦の「一の權現」なり。明治維新の際、天曜寺及び三重塔を撤去しやや舊觀を失ふと雖も、祠殿なほ莊麗にして、麓の大鳥居より山上の社前に到るまでは、石※[啓の口が木]《せきけい》左右に立併び、丹塗の神橋林巒の蒼翠に映じて、一段の幽邃神威の尊嚴を添ふ。旦、祭典の壯觀なること近國稀に見るところにして、社格は今縣社に列せり。
 南龍神社〔四字右●〕 東照宮の西麓にあり。縣社にして、明治九年の構營に係り、舊紀藩の鼻祖徳川頼宣の靈を奉祀す。公は家康の子にして、英邁聰明の人なり。當國に封ぜらるるや、大に士氣を奮興し、風俗を改良し、教育を播布し、産業を奨勵して、遠く今日國内繁榮の基をなせり。東照宮の西方山腹には天神山あり。此所に天滿宮を鎭す。康保中、橘直幹の創建にして、中世、淺野及び徳川頼宣これを再修す。地はもと菅公が宰府へ配流せられし時船を寄せられて「見さりける古までもくやしきは和歌吹上の浦のあけぼの」との詠歌ありし舊地といふ。また、往時は玉津島神社の邊よりこの宮の(497)附近まで一帶の松原をなせりといふ。鎌倉右大臣「雪つもる和歌の松原ふりにけり幾世へぬらん玉津しま守」。中務卿親王「夕なぎの春の鹽干はしづかにて霞にとほき和歌の松原」。
 出島浦〔三字右●〕は和歌浦町の西端にありて、漁戸多く、魚市場あり。日々開市して、近隣の地方に輸出すること夥しく、又た盛に蒲鉾を製す。田ノ浦・雜賀崎浦は共に出島浦より西に連り、海中に突出す。村民多くは漁獵を業とす。大島・中島・二子島等の大小の島嶼點々其附近に散在せり。
 和歌浦〔三字右●〕 よ雜賀浦より毛見崎までの江灣をいふ。浦には和歌浦町と紀三井寺村とあり。和歌浦町の南には出島の砂嘴斗出して浦を内灣外灣に分つ。和歌川は砂嘴の東灣に流入せり。見渡せば江水洋々として波濤靜穩に、東には名草山紀三井寺を翠微の間に眺め、南には鹽津浦、地の島、沖の島、北には双子島、雜賀崎等を展望し、而も、船舶の出入多く、碧水に白帆の點々たる、海濱の緑松と相映じて、一層の妙趣を加
 
(498)〔和歌の浦、写真省略〕
 
ふ。曾て、聖武天皇當國に巡幸あり、勅して宣はく「登山望海、此間最好、不勞遠行足以遊覧、故改弱濱名爲明光之浦、宜置守戸勿令荒穢云々」と。留得明光之浦と稱す。蓋し阿と和とは、古へかよひて用ひたり。後、また若浦或は和歌浦に作る。南遊紀行曰「和歌浦は東照宮上に立ちたまふ。宮つくり大にして甚だ美麗なり。是より和歌の浦を望めば、その景すぐれたり。今日は此邊櫻盛に咲きて、光景もいとまされり。蘆邊の田鶴など詠ぜし所は東照宮の下天神の鳥居のあるところなるべしといふ。和歌浦(499)に潮みちくれば片をなみと古歌によめるは潮みちくれば潟なくなるといふ意なり。この浦の佳景聞しにまさりて眼を驚せり。名所圖會曰「和歌浦は名だゝる勝地にして、東西二十餘町、濱松の色こくあしべの田鶴なみ間のちどり、江水は洋々たり。東方には名草山金剛寶寺、東南には生石ケ峯つらなりて、藤白の御坂翠巒たかく聳え、その麓には冷水浦鹽津浦のみなと賑はしく、西南は蒼海漫々として浦の初島、あら磯にみるめかにわらは、千尋の底にあはびとる海士、潮汲む賤の女皆な世をわたる業くれさま/”\にして、いづれか哀れならざるはなし」。大八州遊記曰「明光浦、島嶼聳立、翠色連空、浦後山嘴、遙露檐角、爲東照公社、其隣村家屬、平田渺漫、環以和歌川、景色明媚、齋藤拙堂遊此地、極口稱揚、頼山陽不取此勝、鏤々費辨解」。萬葉集「若浦に袖さへぬれて忘れ貝ひろへど妹は忘られなくに」。西行「和歌の浦に鹽木かさぬるちぎりをばかげる燒藻の跡にてぞ見る」。前關白太政大臣「わかの浦やなかく久しき跡しあれば猶千代そへて田鶴も鳴くなり」大僧正道順「わかの浦にありと知られば濱鵆かよはぬ(500)方は跡つけずとも」※[虫+兌]巖の題和歌浦國に曰「明光浦上秋、風渚水煙牧、玄鶴帶晴※[口+戻]、飛過蘆荻洲」、菊池溪琴の和歌舟中所見に曰「仙峨宮畔憩雲閑、帆落樓姿塔影間、靄氣沈々天近雨、蛾眉帶睡淡州山」、また掉歌に曰「九老峰南水若天、一帆風力破長煙、新潮遂月依々去、直到神娥古廟前。蘆花夢覺水禽啼、漠々秋潮望轉迷、五兩輕帆漁老樣、長風吹落夕陽西」。祇南海の明光浦に曰「風鳴江蘆夜漫々、神女不還秋月團、二十五絃客雁影、霜華如夢水雲夢」。藤井竹外の明光浦に曰「上下明光水與天、天低水盡西南間、一帆不動午風靜、青點洋心何所山」。
 紀三井寺〔四字右●〕 和歌浦の東岸、名草山の半腹に位して、和歌浦より十八町、和歌山市より一里二十五町を隔つ。眞言の巨刹にして、護國院と號し、本名を金剛寶寺と稱す。その紀三井寺と稱するは、山内に三派の法水あるを以てなり。即ち本堂の南二町余なり楊柳水、表門の磑道の傍側なる清淨水、本堂の北三町なる吉祥水》の三井を三派の法水と稱し、而して、三井寺に紀の字を添えしは江州の三井寺に別つが爲めといふ。巡
 
(501)〔紀三井寺、写真省略〕
 
禮の詠歌に「はる/”\とたづねてこゝにき三井寺、佛のめぐみたのもしきかな」と詠ぜるは即ち當所にして、今西國三十三番靈場中第三番の札所に當れり。縁起を繹ぬれば、光仁天皇の寶龜元年、唐僧爲光上人の開基にして、本尊は同上人一刀三禮の作なる十一面觀音木造立像なり。また脇立の梵天王、帝釋天王も倶に上人の所作と傳へ、本尊以下三躯は近年國寶に登録せり。山麓よりは五層の磑道を設定し、二百余級を經て達す。本堂は十一間四面の堂宇にして、創建の後、兩回再造し、現今のものは寶暦(502)三年の建造になれるものといふ。山門は寶龜八年の創營にして、後兩囘修繕を加ふ。門の仁王尊は、大佛師法師運慶の所作と稱し、雄偉壯大最も人目を驚かすものあり。鐘樓は同じく寶龜八年の創建にして、後二回を修營を經來りしもの、開山堂、二層堂は文明四年の建立に係り、これまた兩度の修繕を經來りしものと稱す。本坊は本堂の背後に位し、山中最も宏莊なる建築に推すべく、その他、書院、庫裡、大師堂、如意輪堂、六角堂、鎭守祠、經塚、札納堂、常行念佛堂等の建築層々相重なる。總境域は凡そ五町歩に達すと稱せり。縁日は毎月二十八日と定め、この日は遠近より信徒の來賽するもの頗る多し。而も、本堂の外椽の繪馬樓より、西南を望めば、和歌浦は、手に取るごとく、雜賀崎、友か島、淡路島まで、一眸の中にあり。盖し、かの富山に登らずんば松島の勝を説くべからずと言ひしが如く、當寺に登らざれは和歌浦の景を言ふの資格なし。寺の什寶としては、爲光上人の龍宮界より得來りしと傳ふる鈴・五胡、錫杖等あり。また本坊の庭園中には應同樹と名くる靈樹あり。祇南海の紀三井寺(503)に曰「潮撲山門飛閣重、丹梯客過響吟※[竹/ミの下半]、亦當海岸孤絶所、况是蓬莱第二峰(原註、禮山凡三十三所、熊峰爲第一、以此地爲第二、蓬莱指熊峰云)、海獻聖燈藏寶氣、山稱名草採芝蹤、惜他千載少題咏、醉筆爲揮滿壁龍」、遊紀三井山「天下三十三福地、此山亦是古靈場、潮音和梵蓮淨濶、林樹起痾花雨香、昌國一燈傳聖※[火+稻の旁]、翠屏三井讓清凉、威神巍々金剛窟、幸闡光明私藏(註云、補陀落山、在昌國縣海中、其八景中有洛伽燈火蓮洋古渡、天臺翠屏山有三井、山有藥樹、傳之自龍宮來、往歳本堂啓龕結衆縁」。竹外の紀三井寺に曰「舟近南方小補陀、遊人齋仰碧嵯峨、一痕月印水心夕、若箇松嶺鶴涙多」。玉城の登名草山に曰「靈區此所是滄瀛、百級石壇受履聲、潮打寶欄天水碧、一行鳴鶴過江城」。桃青「見あぐればさくら仕舞て紀三井寺」。
 名草山の西麓一帶の海岸は古來名勝の地として、多く和歌に詠まれたる名草の濱なり。また名草の濱の南方毛見崎より舟尾に至るの海岸は琴の浦と稱し、この濱を歩むに松籟濤聲相和して、琴瑟の調をなし、因りてこの名ありといふ。内大臣「浦つたふ跡もなくさの濱千鳥夕しほみちて空に鳴なり」順徳院御製「しられて(504)のかひや名草の浦に乾すみるめを餘所の袖にかけつゝ」法印幸清「暮れぬとてとまりにかゝる夕浪に琴浦しるき海士の漁火」名所圖會曰「武内誕生井は松原村のうち柏原といふ、方十間ばかりの松林ありて、その中にあり。側に碑を立てゝこれを標す。相坂村八幡宮司これを支配す。八幡多宮の社侍曰、武内宿禰懷皇子泊紀港遷幸于江南郷興行宮居之隨情出遊之興離宮阿備柏原西南云々。今、尚ほ社をさること五町ばかり東南に安備柏原といへるは則ち武内宿禰降誕の地にして、上古は宿禰の親族あまた此所に坐しまし皇子隱しまゐらせんには最上の所なるへし云々」。また系譜書記、景行天皇の卷には三年春二月庚寅、卜幸紀伊國、將祭群神祇、而不吉、乃車駕止之、遺屋主忍男武雄心命令祭、爰屋主忍男武雄心命詣之、居于阿備柏原、而祭神祇「仍住九年、則娶紀直祖菟道彦之女影媛生武内宿禰云々とあり。紀菟道彦は、當國の國造にして天道根命より六世の子孫に當れり。尚ほ三田村大字和田には天台宗阪田寺あり。武内靜火神社あり。下記竈山神社あり。
 竈山神社〔四字右●〕(竈土陵) 三田《さんた》村大字和田に鎭す。紀三井寺の東北二十町にして、宮村大字秋月の南方凡そ一里とす。社は竈山《かまやま》と呼ぶ一小丘にありて、丘上には石を築き彦五瀬命を奉祀す。命は即ち神武天皇の皇兄にして、長髄彦との戰時に際し流矢に中り雄水門より此所に至りて崩御し給ひしなり。今、社殿の東方に二重玉垣を施されたる所(505)は乃ちその御陵墓なり。明治十八年兆域を改修し、當社を陞せて國幣中社に列す。創建の年紀等は詳かならず。延喜式列し、徳川頼宣の再營に係る。丘上は松杉薈蔚し、地境頗る幽邃なり。日本紀曰「進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山云々」。諸
陵式曰「竈山墓五瀬命、在紀伊國名草郡、兆域東西一町、南北二町、守戸三煙」。本居宣長「をたけびの神代の御聲おもほえて嵐はけしき竈山の松」。
 熊野街道は紀三井寺より南に阪路を越えて黒江町及び日方町に至る。北方大和街道(紀和鐵道)より分派せる一路は西山東に於て龍神街道と交叉し龜川村を經て日方町に至り當街道に合す。亀川村の多田には三上院千光寺あり、近衛天皇の伯父上人の住院たりしと傳ふ。また、名刹妙臺寺あり。大野村は龜川村の南、日方町の東にして地に大野城址あり。日方町の東南數町に過ぎず。三瀧別所は大野村の巽にあり。往古は、近衛帝の伯父湛慶上人の開創にして、特賢門院の御願寺なりしといふ。
 黒江町〔三字右●〕 和歌山市より南方三里を隔て、南は日方町に連る。人口凡そ七千八百余、人烟稠密、工葉甚だ般盛なり。大阪商船會社大阪田邊線は加太、和歌山に寄港して、毎日一回の發着あり。この地は、古來より黒江塗と稱し、主として日用の漆辞を産し、(506)その産額の多きこと本邦第一位に居るといふ。明治三十一年町立黒江漆器學校を設立し、その業の奨勵に當り、今やこの地の製品は海外に輸出せらるゝに至れり。山崎氏等地誌曰「近畿地方の漆器は本邦に於て有數の地位を占め、京都府の蒔繪、和歌山縣の黒江塗等最もその著名なるものなり。ことに和歌山縣の如きは多く日用品を製するを似て産額實に本邦の第一を占む。今これを細説せんに、和歌山縣は本邦に於ける漆器の最大産地にして、黒江町最も名あり。其他日方町及和歌山市に於ても製造家少なからず。明治卅五年の調査によれば、製造戸數五百七十一戸、職工二千七百九十五、産額百二萬二千二百二十七圓の多きに達し、石油發動機を使用して木地製作上に勞力を省き、傍ら技倆奨勵法を設けて以て職工を奨勵する等、その同技組合の注意頗る周到を極めたり。其起源は根來塗にありて、天正年間、同寺の僧徒、豐臣氏の爲めに滅亡せられて四方に離散せし際、其中に漆※[髪の友が休]《しつきう》に巧みなるもの此地に留りて、澁地椀を製せしに始まる。維新前迄は、かくて只一地方の産たるに止りしが、其後進歩著しく、(507)靜岡漆器及び横濱漆器と共に、實に長足の發達を爲せり。而してこの塗法も從來の五色塗の他、模樣形・置塗分等の技術を施し、花塗・艶消・春慶塗等に於ても頗る得るところあり、近年、又た、彩漆の研究に熱心なるものありて、新しき彩色法を出すもの少なしとせず。且つその製作は皆な分業を以てこれを行ひ、木地師》・錆師・塗師・つく師・側塗師・返し師・蒔繪師・縁金師・木地挽・外屋・内屋・裏屋等の別あり。されど廉價を競ふの結果、木地の乾燥法、漆液の選擇、下地の方法、塗方仕上等の猶多少統一を缺くの憾なき能はず。蒔繪物は明治三十一年黒江町立漆器學校設立以來、大に面目を改め、蝋色塗研蒔繪等に於て見るべき者多し。外國輸出品は熱心に改良に從事すと雖も、其製品は概して粗雜にして、靜岡漆器と選ふ所なし。見るべし。外國貿易品は現今に於ては衰頽の状況を呈し、明治三十七年に於て二十四萬圓なりしもの今は十六萬圓以下に減ぜるを。黒江町よりの總産額は凡そ一ケ年百萬圓と稱す。而して内地向のものは膳、椀の類を重なるものとし、輸出は神戸港よりして、盆その他の雜種を出(508)す」。
 日方町〔三字右●〕 今、人口五千を有す。黒江町と相並び商業繁盛にして、名産に傘を出す。名所圖會曰「日方浦は往昔その名の如く遠淺なる鹽干の潟にして、家居もなくして北の山際を通路とせしとなり。元弘元年の地震よりして陸となり、何時となく市店出來せしより或は大船を造りて北海東海に通ひ、萬物を積み交易してその利倍を得るもの多し」。
 凡そこの海岸毛見崎より冷水崎に至るまで東方に彎入せる一海灣をなす。黒江、日方、藤白、冷水はこの岸上にあり。而して、日方を出で、藤白峠を越えて、有田川を渡り、湯淺町に至る道路は、頗る嶮惡にして熊野の舊道なり。藤白山脈と長峯山脈との間を加茂谷と稱へ、多く梅樹を栽培し、就中小南・仁義を最も多しとす。開花の季は其の美觀譬ふるに物なし。一書曰く「藤白の峠を越えて、藤白と永峰の山つゞきの間に、橘本、加茂、大窪、梅田、濱中等、二十餘の村落五あり加茂谷と總稱す。即ち舊熊野街道なり。峨々として、巖石峙ち、巖下に嘘然たる洞嘘窟ありて、巖上より飛泉懸り墜ち、窟中よりこれを望めば、白布を懸けたらん如きものを、裏見の瀑とす。高さ五丈四尺、幅五丈ありて、加茂川に注ぎ、海に入る。是を橘本の奇觀とす。(509)橘本に、峠の麓にありて、街道より二町許右に入りて、福勝寺の境内に在るなり。瀑壺の畔、古楓多く、秋は一段の風趣を添ふ。見渡す限り梅樹を栽え、清香噴ふが如くして、遠く望めば、一村は、白雲に裹まる乎と見ゆるものは、加茂村の小南なり。村前には、溪流横たはり、村後は、藤白の山脈、波濤の如くに走る、其が東の方三町許に、一小瀑懸下し、梅林より望み見れば、布帛を晒したらん如し。この村は、橋本の西に隣りて、瀑布は、津田の瀧と稱す、この村の梅の實は、味ひ他に優れる以つて、家々白梅に製し、他國に輸出するとぞ。亦是れ加茂谷の名物。猶ほ大窪は、橋本の南に隣り、こゝに私に祀りて木村先生の祠と稱するものあり。梅田は、小南の北に隣りて、この村の廣福寺に山井崑崙の墓と稱するものあり。木村先生は當郡の仁吏、崑崙先生は小南の儒士とす」。又曰く「鈴木氏は、性を穗積といひて、饒速日命五世の孫、伊香色雄命の後なり。内海村大字藤代に世々家居して系統絶ゆることなし。列聖の熊野へ御幸あらせ給ひたる時は、惶くも鳳輦をめぐらし給ひて、神統の絶えざるを賞させ給ひしといふ。源平の時、三郎家重、弟龜井六郎重清、源豫州に屬し、共にしば/\功名し、遂に衣川の館にて討死したることは、世の知る所なり。慶長中徳川家康、大阪を討ちけるとき、當家の一族、其が陣に加はりて、泉州樫井に出張す。よりて淺野氏より賞田を賜ふ。子孫今に繁榮す。家に家重、重清の書簡、豫州の授けし太刀、感状等を藏す」。この他、藤白浦には若一王子社あり。熊野參道中、著名なる王子祠とす。源平盛衰記に曰「平維盛高野山を出で、三上といふ所に出たまひ、藤白の王子に參り暫し法施をたてまつり給ふ。この上に登りて海上を眺望すれば、千帆眼にさえぎ(510)り、風光斜めならずして、春の日のかたむくことを知らず」。更に冷水には眞言了賢寺あり。藤白坂の上には延命院地藏峰寺あり。名所圖會に曰「藤白地藏堂は石像の地藏尊なリ。その西半町ばかりに御所芝とてわづかなる平地あり。これ、歴代御幸の度毎に駐蹕ありし遺址なるべし。この外御所ケ谷、御所の平、御所の井等名所に殘れるも皆な同じ。この地熊野詣路第一の美景なり。まづ、明光の奇勝は累々として眼下に集まり宛も一盆の假山の如く、すべて葛城嶺より以南の地形、山河の※[螢の虫が糸]曲たる、村葉の碁布せる、坐して一々指點すべし。西は滄海漫々として淡阿の蒼翠雲浪の間に連なり、沙鳥風帆一として奇ならざるはなし。峠より少し南の坂に巖あり。欠きとりて温石となす。色青黒く、その質甚だ竪からず。延喜式に曲樂式云紀伊國温石と、蓋しこれならん」。また「仁義村に立神社あり。奇巖双立せるを名けて神となせるもの、その大なるは高さ六百尺、横八間ばかり、厚さ百尺を有せりといふ。猶ほこの地方海岸には鹽田多し。
 鹽津浦〔三字右●〕 熊野街道に衝り、和歌浦の直南四海里ばかりとす。商業やゝ盛にして、港内水淡く碇泊に便なり。大阪商船會社の汽船は大阪、和歌山市を經てこの地に寄港す。船渡の客多し。藤白浦へは東方一里とす。鹽津浦より、梅林を以て名高き小南を通過すれば、濱中村に、長保寺あり。
(511) 長保寺〔三字右●〕 濱中村大字上村にあり。和歌山市より五里十七町餘を有し、鹽津浦より約一里に過ぎず。附近著名の巨刹にして、殊に南龍公以下紀藩累世の墓所あるを以て名あり。且、堂塔諸佛像孰れも古雅朴質なるを以て聞ゆ。創建は、長保二年、一條天皇の勅願により構營し、慈覺大師の法孫二品親王沙彌性空大和尚を以て開基とす。もとは、天台宗なりしが、中頃眞言宗に改めしを復舊に復し、傳定朝作釋迦牟尼佛を本尊となす。本堂は七間四面にして、右に、多寶塔、護摩堂あり。左に、鐘樓、阿彌陀堂なり。共に延慶四年の再建にして、今を距る殆ど六百年の堂塔なるが、其の内鐘樓と阿彌陀堂とは、明治二十一年、暴風の爲めに倒壞し、古材用ひ難くしてこれを新にせしといふ。二層の磴道を降りて仁王門あり。嘉慶二年の再造にして實に五百餘年を經といふ。扁額は、二品|堯仁《たかひと》親王の御筆、仁王は運慶の所作なりと傳ふ。寺域すべて一萬六千八百九十二坪、昔ながらの松杉、葱蒼として繁茂し、堂塔の彫鏤など少きほどに反つて、古色あり。春は、常磐木の變はらぬ緑に、紅なる櫻花を點綴し、秋は、山寺(512)の幽雅なるに、清月古佛を照らして、靈光露のごとく輝く。名所圖會には今の堂宇を應永再建のまゝとなす)。當山の什物には、後宇多天皇宸筆弘法大師影像の幅、光明皇后御筆法華經、傳明兆筆十六羅漢畫像中將法女の繍ひしといふ、阿彌陀三尊の繍佛の幅等あり。毎年四月八日を以て會式を行ひ、十月十二日を以て縁日となす。永田平庵「山頭孤殿在、造營是何朝、空廟蒼苔鎖、斷碑古心搖、濕衣春靄起、注月暮江遙、四顧傷心所、老僧獨寂寥」。
 浦初島《・ウラノハツシマ》〔三字右●〕 濱中村の西南方椒の濱の沖十八町にあり。椒の濱は、下津浦を隔てゝ、大崎港と相對す。大崎港は、船舶繋泊の良港をなし、人口三千五百餘を有す。初島は二島に分かれ、友が島と同じく、地の島、沖の島と稱す。地の島は周圍三十一町、南北に長く、巖石稜々として、古松欝蒼たり。沖の島は、地の島の西に位し、周圍二十一町、東西に長くして、島中樹木なく、篠と茅など繋茂せり。且、東端なる巖石は、和歌山に送り、庭石に用ひて賞せらる。島蔭は諸風を避くるに適し、常に帆檣林立す。
 
(513)〔鹽津浦附近、写真省略〕
 
新續古今集「紀の海や沖のなみまの雲はれて雪にのこれる浦の初島」。
 簑島町〔三字右●〕 椒の濱より熊野街道に沿うて、行くこと南方約三十町、有田川の河口北岸にあり。西方北湊に續き、戸數千六百・人口九千四百を有す。有田郡内第二の都會にして、有田川の兩岸に産する蜜柑の集散中心點をなし、商業盛なり。其の蝋燭は此の地の名産とも稱すべし。西方の北湊は有田川の海口を擁し一小港をなす。此の地は郡内の物産を輸出する要點にして、殊に有田川兩岸に産する蜜柑の如きは年々多額の輪(514)出ありて、皆此の港より船舶に搭載す。
 紀州蜜柑〔四字右●〕 有田川の兩岸は、蜜柑の産を以て名あり。世の紀州蜜柑と稱して其の盛價を博したもものゝ大部分は此の附近の産出なり。土人の傳説に由れば、天正年間甞て徳川頼宣此の地を巡行し、村民の貧しきを見て大に嘆じ、肥後八代より蜜柑の種子を得て之れを植ゑしめ、遂に左右兩岸に亘る今日の橘園となるに至れるなりと。其質の良好にして、甘美なること他國に比類なし。其の熟する時は滿山緑葉の間黄顆累々として、其の美觀云ふべからず。所謂「其の花時には東風海上を渡りて阿淡の境に香を送り、果熟の候には瑩彩赫々として朝※[口+敦]も彩を讓れり」と云ふも必ずしも誇大の言に非るなり。而して山に據りて設けし柑園はその形壘壁の如く、五層乃至七層に及ぶ。その實るや、戸々これを摘みて函に入れ、北湊より諸國に輸送す。一歳の産額本郡中のみにて約四十萬圓實に當郡の一大富源と稱すべし。猶ほ果實の成熟に當りては、その香氣紛々として遠く四國の海岸に及ぶといへり。
(515) 淨妙寺〔三字右●〕 宮崎村大字|小豆島《あづきじま》にあり。一説、大同中平城天皇の御母乙牟漏皇后の創立と稱し、唐僧如寶和尚を開山とす。中世、湯淺氏の兵燹にかゝりて堂宇古記録等總て燒失し、
たゞ山林中にありし藥師堂及び多寶塔のみを殘す。後、元和中藩主大に重修を加へられしといふ。而も、現存の藥師堂及び多寶塔はその構造古風を存して尤も觀るべく、中に、※[髪の友が休]漆《きうしつ》螺鈿須彌壇は近世國寶に登録せり。名所圖會曰く、「當寺藥師堂須彌壇は、青貝の蒔繪古畫なり。佛像十二神四天王日月二菩薩を安置す。皆な春日の所作とぞ。多寶塔一基、飛騨匠作といふ。塔中に十五并に八祖成道の給圖あり。七寶莊嚴の彩色古色あり。而も、惜むべし、今は彩色盡く漫※[さんずい+患]し、たゞ彩色の跡のみ彷彿として殘れり。塔の柱などすべて黒漆磨滅して自ら斷紋を生じたり。五智如來のまた春日の作と言傳へたり。また古伽藍の佛像火災に取り出せしには、面貌手足支離の像を塔中に安置したり」。
 有田川〔三字右●〕 は古名を阿蹄川といふ。(阿蹄轉じて在田となり、更に有田となる當郡の名(516)稱またこれに同じ)。伊都郡高野山四近に水源を發し、高野山より熊野地方に至る街道中の一村落大瀧の山中に於て一大瀑布となり、更に有田郡の東北隅に入りて湯川川、修理川等を合せ、曲折迂回して、松原村に至れば、兩岸相迫り、河中の巨巖に遮られて、轟然瀑布となりて落下し、水勢漸く緩となりて、漫々たる大流をなす。流程凡そ二十二里、舟楫を通ずるは松原より以西河口まで僅に五里の間なり。河口南岸に連る岬を宮崎と稱し、廣灣の北端なり。而して、この河の奇勝は多く上流にあり。前記松原の瀑布はこれを鮎瀧と稱し、更に松原の上流粟生には岩倉神社ありて、沿岸には六丈餘の巨巖峙立し、諸所に巖石突出し、四村谷《ヨムラタニ》の溪流は南より來り此所に曾湊して、巖石に激突狂奔する樣、また壯觀なり(【猶ほ河岸の名勝は後段に細説すべし】)。小出元明「兩岸霜楓一葉舟、畫圖難寫滿川秋、急湍飛沫夜雨到、魚白黄柑影裡流」。菊池保定「露濕吟簑藥草芬、纔過一水曉煙分、青山漠々疎鐘遠、王子祠前竹似雲」。僧正慈鎭「世《よ》をいとふ心ばかりは在田川岩にくだけて住みぞわづらふ」。
(517) 須佐神社〔四字右●〕 保田村大字|千田《ちだ》の南にして中山の腰にあり。當初の治所湯淺町より西北約一里半に當る。縣社にして、和銅六年の創建に係り、素盞嗚尊を奉祀す。街道に面して直に鳥居えお建て、三層の磴道に依りて、本社に至る。土俗、劍難除の神として崇敬厚く、祭日には賽人群集して雜蹈を極め、ことにその競馬は世に名高し。星尾《ほしのを》寺址、また同村大字星尾にあり。溪琴の保田道中に曰「數里林蹊晩、笛歌携牛還、東風猶料※[山+肖]、野水自潺湲、海氣連春驛、谿雲欲奪山」歸禽歸應倦、飛入翠微間」。
 中將姫舊跡〔五字右●〕 淨土宗雲雀山得生寺は糸我村大字中香にあり。千田《ちだ》の東北數町とす。寺は即ち藤原豐成の女中將姫が家人春時に扶助せられて建營せる佛寺と傳へ、寺内には姫の像及び春時夫妻の像を安置し、また姫の遺物大曼荼羅等を寶什とす。縁起の略に曰く「聖武天皇、天平年中、右大臣豐成の姫、十三のとき、繼しき母の讒により、家僕の春時といへる者に托け、遠く當國の雲雀山に捨て、ひそかに失はしめんとしたるを、春時、姫の罪なきことを哀しみ、助けて此の處に草廬を結び、都の妻をよび下(518)だし、忍びてとも/\養ひける程に、姫十四歳の春、春時おもき病まひに罹りて、空しくなりけり。姫かつて悲母のために、稱讃淨土經一千卷を寫さん願ひを起こしゝを、今は偏に春時のためにとて、木の根、石の上を机として、これを寫し遂げぬ。時に姫十五歳なり。此の年、豐成この邊の山に來たりて狩し、圖らず姫に對面し、都に率て歸りぬ。後姫の住みたる草廬を精舍となし、雲雀山得生寺とは號けぬと云々」。本朝列女傳に姫は天平十九年八月十八日をもつて生まる、幼くして母を亡ふ。九歳のとき、禁中に召され、箏を奏す。天皇大に賞し給ふ。繼母照日これを妬む。十五歳(【續紀に據れば、十二三歳の時と思はる】)の時、ふたゝび召されて箏を奏す。其の妙初めに倍す。天皇ます/\之を奇とせられ、三位に叙し、中將の名を賜ふ。繼母いよ/\妬み、姫を害せんと謀りて成らず。遂に人をして山中に誘ひ、殺さしむ。其の人忍びずして、共に雲雀山の中に潜む。後、父の豐成こゝに狩りして伴ひ歸る。繼母病と稱し、家に歸り終に死す。姫いへらく、わが命を保つことを得たるは、偏に佛の御力なりと。脱塵の心を起こ(519)し、寶龜元年(【二十四歳に當たる】)當摩寺に入り、善心と稱し、後妙法と改む。天應元年三月十四日歿すと、(【三十五歳に當たる】)姫生まれて二歳のとき筆を採りて、初瀬でら救世の誓ひ云々の和歌を書したること、又當摩寺に入りて、觀世音來たり、五色の蓮絲をもつて、曼荼羅布を織らしむる事等を世に傳ふ。果たして爾る事のありたるや否や。さて當寺中に春時夫妻の石塔あり。又什寶の中に、姫の書したる經文同じく蓮絲をもつて縫ひたる三尊の軸等あり。又雲雀山に姫の經文を寫したる、經机、經巖などゝ稱せる巖あり。爾れど高嶺故、登る者稀なり。當寺は、寛文五年、稽空上人の再建に係り、本尊は、行基菩薩作阿彌陀如來なり。中將姫の舊蹟たる蘭若とて、熊野に詣うづ者、必ず禮賽して過ぐるといふ。毎年四月十二日より三日の間、寺内に於て姫の會式を營む。この日來》の客殊に群衆せり。謠曲雲雀山曰「とにもかくにも故里のよそめになりて葛城や、高間の山の峯つゞき、此所に紀の路の境なる雲雀山にかくれゐて、霞の網にかかり、同路もなき谷陰の鵙の草ぐきな身の云々。」猶ほ、湯淺より中番へ越ゆる舊熊(520)野街道の山を糸我山といふ。古は糸鹿に作り、櫻の名所として和歌にも詠みたり。萬葉集「足代過而糸鹿乃山之櫻花不散在南還來萬代」紫藤和歌草「青柳の糸鹿の山のさくら花郡の錦たちかへり見ん」文明歌合「月もがな長き日影の糸鹿山くるゝは惜き花の下蔭」猶時鳥をきゝ、紅葉を見ることにも詠みたり。この山は、源平盛衰記に、白河法皇、熊野へ詣うでさせ給ふとき、平忠盛北面にて、供奉せしが、この山々越えさせ給ひける時、道の傍に、薯蕷の蔓、枝に懸かり、零餘子《ぬかご》玉をつらねて生ひ下がり、いとおもしろく叡覧あらせられ、忠盛を召し、あの技折りて進らせよと仰するに、忠盛折り進らするとて、抑々下だし給ひし女房、平産して男子なり、をのこ子ならば、汝が子とせよと、勅諚を蒙りき、年を經ぬれば、もし思ん召し忘れたる御事もや、次をもつて驚奏せんと思ひて、一句の連歌を仕る、「いもが子は這ふ程にこそ成りにけれ、」是れを捧げたり、白河 打ちうなづかせ御坐して、「たゞもりとりて養ひにせよ、」と附けさせ給ひたること、同書に見えて、古くより世に聞えし山なり。」
(521) 糸我村の東に藤並村あり。宗祇法師の誕生地といふ。田殿村は有田川を隔てゝ藤並村を對岸とし、大字井口には明惠上人高辨の故跡たる内崎山あり。御靈村大字徳田には淨土宗鎭西派の名刹大乘寺あり、(後出す)。石垣村の附近よりは多く肉桂を産出し、當郡中蜜柑に次げる産物となす。年に萬金の收益あり。また河の北岸鳥屋城村大字中野には如意輪寺あり、所藏彌勒畫曼荼羅圖は珍物なり。地名辭薯曰、「生石村大字糸野より名草郡別所谷に超ゆる崔※[山/我]たる山腰に傍ひ、巖を穿ち、石を削り、辛うじて小徑を開通する所を岩戸關といふ。行人魚貫してこゝを過ぐるに一帶の溪流※[さんずい+折]瀝として脚下に鳴る。幽韻限りなきの地なり」。
 大乘寺〔三字右●〕 御靈村大字徳田にあり。湯淺町の東北凡二里とし、金屋驛の西に當る。淨土宗鎭西派の名刹にして、陀祇尼山と號す。永禄十二年法山上人の開基、寛延三年の再營なり。寺内に本堂の他陀祇尼天社、觀音堂、鐘樓あり。境内廣濶ならざれども、小富士の稱ある鳥屋ケ城山及び愛宕山の勝景を眺むべく、風景佳なり。毎年一月二十五日、七月十五日、八月十五日を以て縁日となし、當日は信徒四方より群賽す。また、當寺の東南方に當り、有田川を隔てゝ石垣村大字觀音寺の畑中に明惠上人高辨誕生の地あり。同圍十二間ばかりの生地にして、上人誕生之地と稱する古碑を存し、傍側に(522)上人の胎衣塚と稱するものあり。また産湯と傳ふる井戸あり。猶ほ當地の南方約一里御靈村大字吉見西ノ谷河町には西ノ谷温泉あり。單純泉にして、嘉永年間の發見といふ。
 次之瀧〔三字右●〕 五西月《さしき》村大字延坂の山中にあり、金田の東北とす。一に延坂の瀧とも呼び、落下三十余丈、幅四間を有す。巉巖の頂巓より直下し、早月谷川にそゝぎて有田川に入る。奇石怪巖左右に駢列し、眺矚最も佳にして、壯觀那智の瀧に相亞ぐ。故にこの名ありと。猶ほ、延坂の東北生石ケ峯の山腹には黒藏ケ瀧あり、高さ十八丈、幅二間を有す。更に日高郡の國境|白馬岳《しらまだけ》の半腹には純白《どろしろ》の瀧《たき》あり、高さ十八丈、幅二間、落下して修理川に注ぐ。また盛觀なり。その他、田殿越の山中には姥ケ瀧、釜中の山田には不動ノ瀧等瀑布甚だ多し(【龍神街道の項に重出せるものもあり】)。地名辭書曰「生石の峻峯は延坂の瀧の上方にして、山容太だ雄渾、虎の壑に踞するに似たり。頂上に笠石》稱する十二三間ばかりの巨巖あり。那賀郡と在田郡との郡界に當る。反腹に奇岩幾多ありて、雨後(523)には所に懸泉をなし頗る壯觀なり」。
 觀喜寺址〔四字右●〕 石垣村大字觀喜寺にあり。即ち明惠上人高辨の誕生地にして、寺は上人の高弟義林房の創立になりしが、近世衰頽して今はわづかに草堂を殘存せるのみ。寶什、惠心僧都作|彌陀木造一躯は近年國寶に列せり。(他に宮原廣利寺の十一面觀音木造立像一躯、他殿村淨教寺の佛涅槃圖絹本着色掛軸一幅も近年國寶に登録せらる)。
 松原瀧は、その觀喜寺の東十余町にあり。同所は即ち有田川の上游下游の交界にして、流水此所に奔湍をなせるもの、「有田川」の項に參照すべし。
 再び熊野街道に戻り、街道の以南を湯淺町に至るまでの名勝を記せんか、保田村大字千田の南、田村には國立神社あり。栖原村には施無畏寺あり。後者は建久六年の創始に係り、開基僧明惠上人修法の場なり。一書曰く「當寺僧坊は堂舍の下にありて、西南の海に面し、毛無苅藻の島々は手にも取る可く、鷹島、黒鳥はやゝ離れて共にこの靈坊の佳景を加へ、浪の響き、松の聲なれ更に懷舊の情を起せり。また好古の助ともなるべき古文書多く、文雅風景兼備の精舍なり。海莊「霧峯新製釣舟、命曰隨鴎、※[しんにょう+激の旁]余泛同栖棲之間、是日也風烟清美、海山如笑、予倣張志和詞、聊囑燕辭、以代四時棹歌云。春江日落柳花飛、一※[舟+可]隨流未歸、漁歌遠(524)村牧笛微、水風吹上緑簑衣。雨笠烟簑隨白鴎、桃花夾岸水如油、酒盈清風魚上釣、不須和夢説滄州。白神山下黒雲開、蒼※[骨+鳥]州前白雨來、風料※[山+肖]浪喧※[兀+豕]、鳴門潮勢雪爲堆。孤舟風露濕雲巾、緑酒黄柑魚似銀、張志和眞秀眞、江山自古屬閑人」。
 湯淺町〔三字右●〕 和歌山市より南方十一里半を隔つ。廣灣の灣頭に位し、南は廣村に連る。人家櫛比、市坊繁華》、人口凡そ九千八百を有し、有田郡の首邑として郡衙、税務署の官衙あり。且、古來熊野街道の一驛として、海陸の運輸至便に旅客の來往頻繁なり。町に醤油の釀造家多く、その醤油は有田郡の物産として著名なり。また蝋燭の産多し。町の内外に湯淺館址、湯淺城址、深專寺、滿願寺址等の名蹟あり。中に、深專寺は湯淺邑主の建立に係り、寺内に擔人樹の大木あり。平賀鳩溪の物類品隲に見ゆる古木とす。また滿願寺は、後白河天皇の勅願所として七堂伽藍三十六坊を有せりしも、中世天正の頃、高野山某上人豐太閤に乞ひて、本堂は山城國醍醐へ、本尊は高野山へ、二王は熊野那智山へ移置せりといふ。溪琴の淺浦詞に曰「輕雨初晴微月浮、西臺寺畔緑(525)蘋洲、春漁土鉤春潮緩、好載阿嬌進細舟。三郎祠畔漁人居、二月春江潮土初、生石東風猶送雪、家々爭罟※[片+會]殘魚(生石山名)。酒罷江樓日未斜、嬉春正屬野僧家、香回粉陣帶歌過、護國山頭花似露。一曲繁絃標有梅、唱得街頭去復來、蝶思蜂情狂苔海、龍麝香滑添雲頽(標有梅、士女中元踏歌中詞)。安蹄吉利一郡※[手偏+甘]、千船※[山/我]々積青籃、到日都人勵相語、載來霜氣滿雲帆。舟子船郎水上扉、朝來暮去約幽期、海烟不隔繁華夢、爭唱浪華新竹妓」。
 廣村〔二字右●〕 湯淺町の南に連續せる村落にして、人口二千七百を有する當郡の大村なり。廣灣は東西三町、南北三町五十間、灣内には毛無島、苅藻島、鷹島、黒鳥、東北より西南に列布し、苅藻島には東西に貫きたる洞穴あり。鷹島には地の浦と名くる港あり。苅藻、鷹の兩島とも明惠上人の舊跡とす。諸島孰れも人住まず。湯淺町の西北の海岸は白堊紀化石の産地として其の名高く、地質學者の之れを訪ふもの少からず。廣城址は村東にあり、中世畠山氏の居城にして、俗に高城といふ。溪琴の詩「秋月登藥師寺、(526)寺畠山之故址也。偶畠山氏址、風日屬荒凉、蔓竹封遺壘、約雲擁山房、樵歌雜鳥哢、牛笛送殘陽、無限登臨感、茫々入酒腸」とあるものこれなり。廣八幡宮は大字中野に鎭し、社側に磁器を製造する家あり。日蓮宗養源寺は村北にあり。徳川八代將軍吉宗の修營と稱し、俗に出世大黒と稱す。
 熊野街道は廣村より一里、三百二十三米の鹿ケ瀬峠を越え、原谷・萩原を經て丸山に至れば小山嶺俄かに盡きて日高川の流域に御坊町の人家を認む。祇南海、宿鹿脊山下「昨夜雨※[竹/逢]鉛海煙、峯廻轉上青天、江山未許還家夢、才過波濤又石泉」。
 興國寺〔三字右●〕 由良村大字門前にありて、由良港の東北二十四町とす。鷲峰山と號し、臨濟宗法燈派に屬し、堀河天皇の安貞元年、法燈國師の開基といふ。寺域一萬五千坪に余り、開山堂、地藏堂、鐘樓、法藏、大門等あり。往古の堂塔は、天正の兵亂に灰燼となりしを、淺野氏、國守となり、和歌山の龍源寺の僧天叔に命じて、中興せしめしといふ。開山の國師は、名を覺心と稱し、宋國に入り、留まること六年、歸朝して、其(527)の名遠近に知られ、永仁六年、齡九十二にして寂せり。龜山天皇、法燈國師と追謚せられ、後醍醐天皇、法燈圓明國師と加謚し給ふ。國師在宋の時。護國寺に在りて、普化禅師十六世の張參といへる僧に、虚鐸の一曲を授かり、歸朝の後、徒弟の寄竹に傳へ、寄竹諸國を行脚しけるに、路傍の家ごとに立ちて、これを吹きしより、普化宗起これりといふ。國師に宋より從ひ來たりし四居士あり、法普、國佐、理正、宗恕といふ。是れ等の者、又普化宗諸派の祖となれりと云ふ。寺境》また幽邃なり。
 衣奈八幡宮〔五字右●〕 門前より西北方に山路十八町を經て衣奈村に達す。村に浦山に、二層、一百十四階の磴道を作りて、山上に八幡大神の神殿を鎭參座す。社地は、實にかの應神天皇が猶ほ幼てまします時、武内宿禰に抱かれ、南海を横絶して着船し給へる遺跡といふ。日本書紀曰「神功皇后、自新羅還之向京、聞忍熊王起師以待之、命武内宿禰、懷皇子横出南海、泊於紀伊水門、皇后南詣紀伊國、會太子於日高」。一社記に曰く、應神天皇の御船、木本より、當郡の浦に着き給ひ、この浦に住める岩守といへ(528)る者、御守護まをし、この山に頓宮を造り、姑く坐しましたれば、里人尊びて、其の遺趾へ神殿を營みしを、後に八幡宮と崇め奉れりと。大三木の浦、今大引に作り、岩守の子孫、世々祝官となりて奉仕し、今の上山岩美氏は、實に其が遠裔なりと云ふ。而も、八幡大神を觀請して祭祀せる社殿、この國には甚多かるか、頓宮の遺趾に祭祀せるものは、木本と當社のみ。社城凡そ七町歩、杉檜欝茂し、社頭よりは渺茫たる衣奈浦を展望す。またこの浦には蓬莱山と號する奇巖あり。危礁にして十九島とも稱す。黒島はこの浦の西北方に當り、十町ばかりの沖にあり。周回三十町許にして、東南に、船を容るべき洞窟あり。深さ凡そ四十仞、窟の奥に、七尺餘の巖峙立し、自ら人の長揖せる形をなせり。土人はこれを佛石》またはちよぼ石と名づく。此等の嶋嶼も八幡宮より望見し得らるべし。猶ほ白崎は衣奈村の西南に突出する岬角にして、岬西に海獺《あざらし》と名くる小島あり。岬角石灰石より成りて、雪白色を呈せるよりその名を得るといふ。
 由良村〔三字右●〕 由良港は由良灣の南縁に位す。村の人口凡三千五百、水深くして巨船をも(528)繋泊し得べき良港なり。灣口には蟻島、煙島、鹿尾菜島《ひじきしま》等散布し、朝暮に變はれる景色、得も言はれず。その浦は、古しへ玉を拾うてふことを和歌によみて名所とせり。萬葉集「妹が爲め玉を拾うて木國の湯等の三崎にこの日くらしつ」。平重晴朝臣「玉拾ふ由良の湊にてる月の光をそへてよする白浪《しらなみ》」。溪琴、仲秋賞月于由良港「風拂蘭撓玉露寒、洞簫聲絶水雲間、杳々側鶴尋何所、月白關南第一山」。
 由良より高家、萩原、丸山を經れば即ち御坊町なり。萩原の東南冨安村には惠解の鳳生寺あり。丸山に湯淺城址あり。中世、北朝の臣湯川莊司の故嘘とす。由良より海岸に沿へる間道は比井崎・三尾・和田、松原の請村を通じて御坊町に達す。比井崎には小港數多あり、中にも小浦は最良泊といふ。比非崎は、當日高郡の最西端海中に突出せる岬角にして、紀州灘の西北端をなし、岬頭に第一燈臺あり。水面上二百六十呎、囘轉閃光を放ち、光達二十海里といふ。附近波浪高くして、往々、船客のなやむ所たり。岬の下なる海岸に屈岩あり。景状人の拜屈せるが如く、奇怪の態をなす。また、産湯浦あり。應神天皇湯沐の遺址といふ(衣奈八幡宮の條參照)。在近一帶に榕樹多L。この他、三尾には三穗の石室あり、一大石窟にして深さ十六間、幅五六間、高さ七八間より十二三間に及ぶといふ。窟の名、早く萬葉集に出でたり。和田浦には、冬春の交鮫(530)魚の來群すること、名所圖會に見ゆ。
 御坊町〔三字右●〕 日高川の河口北岸にありて、戸數千餘・人口五千七百、商戸櫛比し、其の繁盛なること郡中第一位なり。郡役所・區裁判所・税務署等ありて和歌山市を距ること約十八里、熊野街道の名邑なり。俗に日高の御坊と稱すす本願寺の大伽藍は此の地にありて、湯川直光の創立に係かる。町に煙草の産あり。
 日高川 は源を日高郡の東隅龍神村の山中に發し、小又川・丹生野川・鷺野川・三津の川の諸流を入れ、蜿蜒屈折して西流し海に注ぐ。上流は激湍頗る多く、其の最も甚だしきものは、恰も瀑布の觀ありて、日高川五瀧と稱して、檜皮瀧・鳴瀧・手早瀧・大瀧・黒島瀧等の名あり。大瀧は全く筏を下す能はず。傍の巖を穿ちて漸く通じ、手早瀧は棹の操縱宜しきを得ば流下するを得べし。河流四十八里の間舟楫を通ずるは僅に下流七里に過ぎずと雖も、灌漑の利は割合に大なり。上流の諸村よりは檜笠を産す。日高川の沿岸川中村大字田尻の山中には鷲川ノ瀧ありて、高さ二十丈本郡最大の瀧なり。(531)田尻より日高川に沿ふて下ること二十里の般着村大字高津尾川には炭酸泉(冷泉)あれども、多くは村民の採酌して浴用に供するのみ。
 道成寺〔三字右●〕 御坊町の東北三十町にして、矢田村大字|土生《はぶ》にあり。天台宗にして、天音山と號し、一丘阜の上に營建す。東南には日高川の長流を帶び、北には大和より聯なり來れる連山を負ふ。大寶元年、文武天皇の勅願に由り、紀道成奉行して創建する所にして、義淵僧正の開山たり。磴道《いしだん》を上り樓門を入りて本堂に詣る。表行十聞半、裏行九間半、前後兩正面の構造にして、創建後、幾囘か修繕を加へたるべし。屋上の瓦には天授二年季春一方修覆大檀那吉田藏人源頼秀三男源金毘羅丸等の銘を殘せり。實に一千二百年に垂たる古堂といふ。本尊は前堂後堂とも、千手觀世音菩薩にして、前堂のものは長一丈二尺、脇士は日光、月光の兩菩薩にして、各々長八尺、共に弘法大師の所作と稱す。而して後堂のものは、長前堂と同じく開祖義淵僧正の作に係り、丈け一寸八分の觀世音を胸佛とせり。敦も至珍なるものといふ。寺域は五千三百三十五
 
(532)〔日高道成寺、写真省略〕
 
坪、三重塔・、護摩堂、念佛堂、釋迦堂、十王堂等あり。是は孰も再造なれど、皆元禄前後の建營と稱す。本堂の傍に入相櫻と稱し、櫻の老樹あり。枝葉猶四方に廣がり、所々に丸木を樹てゝ支へ、花時は香雲の舞降せるに似たり。而して塔の下には聞くだも恐ろしき安珍の清姫に鎔《とろ》かされし遺骨を葬りしといふ塚あり。境外の田中には一條の道を通じて、こゝに清姫の塚あり。土俗はこれを蛇塚と稱す。當山の什寶中には、鐘卷の縁起と稱する給卷物ありて、畫は土佐光重の筆になり、繪詞は、後小松天皇の(533)宸筆と言ひ傳ふるよし。初めは、安珍が清姫の家に至り、互に契約する如き畫様にて、二首の和歌を書しぬ、「前の世の契りのほどを御熊野の神のしるべもなどなかるべき」「御熊野の神のしるべと聞くからに猶行末のたのもしきかな」。斯くて、安珍の出で發つを、清姫送り出でゝ、別かるゝ詞に、かならず待まゐらせ候へく候とあるを、爭か僞事をば申候べき、疾《とく》/\參《まゐり》候べしとありて、軈《やが》て安珍は熊野に詣うで、歸さに姫の家の前を密に過《よ》ぎて遁れけるを、清姫きゝ知りて、追ひ行く畫様は、其が相貌も恐ろしくなり、穿てる草履の一隻《かた/”\》脱したるも打ち棄てゝ、被ぬる衣《キヌ》の風に飜るを手もて掻きおさへ、平身《ひらみ》になりて、追ひ行ぐ詞書に、あな/\口惜や、いちとてもあれ、此法師めを取つめきらん限は、心はゆくまじき物を、能程の時こそ恥もなにもかなしけれ、うひなしも、おもてなしも、うせふ方へうせよ、とありて、終りは、寺僧ら鐘を卸しひき起し、安珍の遁れ入る畫樣にて、大體世に傳ふる語譚《ものがたり》と同じなり。清姫はもと、西牟婁郡栗栖川村大字眞砂に居住せし、清次庄司の娘なりといふ事は、元亨釋(534)書、今昔物語等にも出づ。庄司の後裔今も猶同所に殘れりと云ふ。この怪事より、當山にては鐘を鑄ることを禁じたるが、正平十四年に至りこれを鑄たるに、障りありて、山中に打ち棄てたりしを、天正の兵亂に、上方勢の軍器に使用する所となりて、今は京師の妙心寺に存せり。其の銘に曰「聞鐘聲、智慧長菩提生煩悩輕、雖地獄出火抗、願成佛度衆生、天長地久御願圓滿、聖明齊日月、叡算等乾坤、八方歌有道之君、四海楽無爲之化。紀伊州日高郡多田莊、文武天皇勅願、道成寺冶鑄鐘勸進比丘瑞光別當法眼定秀。檀那源萬壽丸并吉田源頼秀。合力諸壇男女、大工山田道願、小工大夫守長、正中十四年乙亥三月十一日」。世に奇しき事歴の古刹と共に傳はりて、地名さへも鐘卷の名を稱し、本堂に安置せる清姫と安珍との肖像に、安珍は頭巾、篠懸の山伏姿にして、清姫は被衣《がつき》をうち被り、まことに其が怪事のありたらん如し。當山の縁日は、陰暦二月初午、三月廿七日。六月十七日十八日、七月九日、十日にして當日は、遠近より賽者|麕集《きんしふ》す。似雲法師「おそろしや胸の思にわき返りまとひし鐘も湯とやなりな(535)ん」。拙堂「蕭寺千年據峻岡、埋沙訣瓦色猶蒼、春風好在老櫻樹、花撲客衣吹古香」。更にこの附近、藤井、島の兩地は紙の産を以て郡中に名高く、藤井の紡絲《かせいと》また當郡の一名産なり。
 御坊町の南、曰高川の河口東岸に鹽屋浦あり。浦の權現磯と稱する地は、南の海上に鰹島浮び、此井崎を西に眺めて佳景の地とす。更にその南、野島浦には山臥塚、草履塚などあり。熊野街道は鹽屋浦より四邊町まで凡そ七里、道路はすべて海に沿ひ、その間の名邑に印南町及び南部町あり。峠に切目峠あり、また熊野街道の一名所とす。
 印南町〔三字右●〕 御坊町より此所に至る三里とす。南に小海灣を控へ小驛舍をなす。此より田邊町に至る大約五里といふ。
 切目五躰王子神社〔八字右●〕 切目村大字西の地に鎭坐し、古より切目王子と稱して、名顯る。創建は、崇神天皇朝にして、天照大神、瓊々杵命《にゝぎのみこと》、正哉吾勝神、火々出見命、※[盧+鳥]※[茲+鳥]不合命を合祀す。天正の兵燹に一度炎上し、後、寛文三年紀藩主殿堂を修營し、神木の柳と楓とを裁植せしめらる。一書曰「古は熊野へ詣づるもの當社の梛の葉をかざしに(536)しける例ありて、猶ほ山城國稻荷もうでに、そが山の杉の葉をかざしになしけると同じかりけるが、此の木さへ枯れ朽ちしかば、これをも境内に植ゑしめて、今に神殿と共に榮えぬ。そも/\熊野の大神は、初め當村の玉那木の淵に降り給ひ、夫より熊野へ移り給ひたる事は、熊野速玉神社の記録に見えて、玉那木の淵に、※[木+那]の木の多かりしかば、大神は、此の樹を愛でゝ降り給ひたる事となし、熊野へ詣うづる者、まづ當神社を拜し、境内の※[木+那]の葉をかざしにしてこれを神符となしけるなり。是はいと古き慣はしにて、保元物語の、後鳥羽法皇、熊野御參詣の條に、法皇、熊野大神の神※[言+宅]により、崩御の期を知ろしめされし事を記しまつり。日ごろの御參詣には、天長地久に事寄せて、切目の王子の※[木+那]の葉を、百度千度かさゝんとこそ思し召しゝに、今は三つの山の御奉幣も、これを限りと御心細く云々、としるし、長門本の平家物語の硫黄か島の條にも、きりめ王子のなきの葉を、稻荷の社の杉の葉に取かさねてといふ事も見えたり。※[木+那]木は、漢名竹柏といひて、葉は、竹に似て厚く、縱に理ありて對生し、面(537)ては深緑にして、背は淺緑なり。兩面とも滑に美しくして、其が質甚強し。樹は高さ二三丈に長ずるものなり。さて當大神の神徳は、太平記に、護良親王が般若寺を出で給ひ、山伏の姿に出で立たゝせ、熊野に落ち給ふとき當神社に通夜し給ひ、逆臣を亡ぼし、朝廷のふたゝび輝かんことを、御身を投げ伏して、一つ御心に誠を凝らして祈り給ひ、暫く目睡み給ひたる御夢に、鬢《みつら》結ひたる童子、現れて、熊野へ落ち給ふは、御身の上危ければ、是れより十津川へ赴かせ給ふやうに告げられけると、御覧《みそなは》せられ、いと尊く覺え給ひ、未明に御悦びの奉幣を捧げ、牟婁の山路の嶮しきを冒し、日數を經て津川へ入らせ給ひ、こゝに御運を開かせたる事、またく當大神の神徳による者とす、社傳に、親王御運を開かせ紛ひてより、神領二百石を寄附せられ給ゐぬと、今境内に、親王を祀れる小祠あり。
 結松〔二字右●〕 切目の神社より、一里十六町にして、熊野街道なる岩代村の路の傍に、只一木、亭々と千載をわたりて立てる古松にて、往昔、孝徳天皇の皇子、有馬皇子とまを(538)しゝが、齊明天皇の牟婁の温泉に幸まし/\、御後に、大臣蘇我赤兄と謀反の御企ありしが、皇子の倚らせられし椅子、故なくして發起と折れたるを、皇子不祥とし給ひ、赤兄と盟ひて、事を止ゞめ給へりしを、赤兄夜る人を遣りて、皇子の第をとり圍み、驛使を馳せて、天皇に奏し、やがて皇子を捉らへて、行在所に送りまゐらしゝを、皇太子、皇子を訊問し給ふに、答へ給はく、天と赤兄と知る、我れは知らずと仰せられぬ、死を賜ひて、藤代坂に縊りまゐらす、時に御年十九、赤兄に誑されて、誅はれ給ひたるなるが、皇子牟婁に至り給ふとき、こゝなる小松の枝をひき結び、「磐しろの濱松が枝をひき結び眞幸あらばまた還り見ん」と傷みて詠ませ給ひしより名となりぬ、蓋し松が枝を結ぶことは、我が命の千歳も長かれと、神に祈る、古への風俗なり。後世この松を和歌に詠みて、皇子を傷み、其が故事をよみ込みたり。萬葉「後將見往君之結有磐代乃子松之宇禮乎又將見香聞」前大政大臣新勅撰「年をへて又逢ひ見ける契をも結びやおきし岩代の松」後鳥羽院御製御集「たのみこししるしもいかゞ磐代の野中(539)の松に結ぶ恨みを」後九條内大臣夫木「岩代の岸の松かげ年ふりておなじ翠に結ぶ苔かな」。
 千里濱〔三字右●〕 岩代村の濱つゞきにて、南部村の大字山内の海濱十數町の間をいふ。枕の艸紙に、千里の濱こそ廣うおもひやらるれ、とあるは、此の濱にして、古へより、名に聞こえたり。大鏡に、花山院御出家の本意あり、いみじう行はせ給ふ。修行せさせ給はぬ所なし、されば熊野の道に千里《ちさと》の濱といふ所にて、御こゝちそこなはせ給へれば、濱つらに石のあるを御枕にて、おほとのこもりたるに、いと近くあまの鹽やく烟立のぼる心ほそさ、いかにあはれに思されけんな、云々とも見えたり。夫木「末遠き千里の濱に日は暮れて秋風おくる岩代の松」また、伊勢物語にその濱より山科の皇子の宮に寶石を奉りしことを載せたり。
 南部町〔三字右●〕 印南町の東南三里にして、田邊の西北二里にあり。南部川の河口南岸に位し、人口五千四百を有す。印南町と共にこの街道の海驛にして、商估軒を並べ、やゝ(540)繁盛《はんせい》なり。且、この附近|沿海《えんがん》一帶の地は海草魚類の收獲大なりといふ。
 瓜溪は南部川の一溪とす。一地志曰く「机上の置物として文人の珍重したる古谷石は紀伊國西牟婁郡上芳養村より、瓜溪石は同國日高郡西本庄村より産し、共に中生層の泥板岩中に埋藏せられたる石灰岩塊なり。蓋し表面皆分解し、新鮮部の殘留したるものが種々奇貌を呈するに至れるものを愛玩するに過ぎず」。溪琴の瓜溪に曰「遠認洞天霞、來入洞天花、此中與世別、從古自桑麻、半畝開草莱、結茅搆白屋、山童出花去、下澗飲黄犢」。熊野街道は南部町を出でゝより西牟婁郡下芳養村を經由して直ちに田邊町に到る。日高、西牟婁兩郡の境界なる埴田には梅林多く、渓琴の詩にも見えたり。
 田邊《・タナベ》町〔三字右●〕 和歌山《わかやま》市を距ること二十七里十一町、日高郡界《ひだかぐんかい》を距ること一里|餘《よ》にして、人口凡そ八千四百、南、田邊灣《たなべわん》に臨《のぞ》み、北、山を負ひ、秋津《あきつ》川の下流に跨《またが》る國内有數の都邑《といふ》なり。而して市街《しがい》の廣袤は東西六町、南北《なんぼく》四町餘、市坊《しばう》の數十三に分れ、民家|稠密《てうみつ》、商工繁盛、推して熊野浦《くまのうら》第一の盛邑となすべく、水陸《すゐりく》の要衝に當る。公衙《こうが》には郡役所、區裁判所支署、税務署《ぜいむしよ》、中學校等あり。物産《ぶつさん》には晒葛粉《さらしくづこ》、鹽辛《しほから》等を出し、近年またこの地方に田邊《たなべ》陶業株式會社の設立《せつりつ》あり。且、瀬戸《せと》岬はこの南方海上に突出《とつしゆつ》し(541)て一小|海灣《かいわん》を畫き船舶の碇泊《ていはく》に便なり。大八洲遊記曰「田邊《たなべ》、灣環爲良港、船舶下※[石+可]、帆檣林立、史言、正平中脇屋義助至田邊、從三百餘艘、達淡武路式島是也、舊安藤侯所治、居民七千四百、於熊野最爲繁盛、故城枕海、礁樓睥睨、皆已撤去、纔存壘石耳」。三十三所圖會曰「田邊城下、熊野路《くまのぢ》の街道|大邊地《おほへち》中邊地の兩道路落合にして、順禮《じゆんれい》の徒は遙々《はる/”\》熊野路の嶮岨《けんそ》をしのぎ漸々にこの地に出づるを歡《よろこ》び、山祝とて旅駕屋《はたごや》に於て餅《もち》をつき旅駕屋の賑《にぎは》ひ甚だ勇《いさ》まし」。
 田邊城址〔四字右●〕 秋津川は郡《ぐん》の北部なる秋津《あきつ》村の山中に發源《はつげん》し、南流して三栖川《みすがは》に會し、田邊灣に注ぐ。田邊城は錦小城と號《がう》し、其の海口《かいこう》にありしが、廢藩の後《のち》毀《こぼ》ちて、現今纔(づか)に壘石を存するのみ。慶長年間|淺野氏《あさのし》の築く所にして、徳川頼宣《とくがはよりのぶ》の當國に移れるとき、藩祖《はんそ》安藤直次に此の城《しろ》を賜ひ、世々相繼ぎて居城《きよじやう》せり。
 闘鷄《・タウケイ》神社〔四字右●〕 田邊《たなべ》町の南、湊《みなと》村字神田にあり。俗に鳥合《とりあはひ》神社と呼ぶ。縣社にして、熊野十二社權現を祀る。始め允恭天皇の己未九年|此《こ》の地に勸請《くわんじやう》し、田邊ノ宮と稱《とな》へたりし(542)を、後《のち》熊野《くまの》の別當泰救の曾孫なる湛快《たんくわい》の時、當社を熊野神社に擬《ぎ》して、更に同神社《どうじんじや》より勸請し、新熊野《しんくまの》と稱したり。治承四年源|頼朝《よりとも》の兵を伊豆に擧《あ》ぐるや、湛快の子|湛増《たんぞう》源平二氏の内《うと》何《いつ》れにか去就《きよしう》を定めんと、七日間祈請を凝らし、社前にて赤白の鷄《にはとり》各々七|羽《は》を闘《たゝか》はし、白鷄の勝に歸《き》したるを見て源氏に參《さ》したり。是れより當社《たうしや》を闘鷄神社と稱するに至《いた》れりと稱す。社殿《しやでん》は本社、中神社《なかじんじや》、下神社の三社に分《わか》れ、境内には老杉《らうさん》古松《こしよう》森然として繁茂《はんも》す。什物中には、源義經の愛笛|白龍《はくりゆう》、別當|湛増《たんそう》使用の鐵烏帽子などあり。また辨慶《べんけい》産湯の釜と言傳《いひつた》ふる鐵釜あり。辨慶は、湛慶《たんけい》の子なるよし、盛衰記に見ゆ。
 海藏《・カイザウ》寺〔三字右●〕 田邊《たなべ》町の東にあり。臨濟禅宗《りんざいぜんしう》にして、建築木材は凡《すべ》て南部灣に漂着《へんちやく》せる木材よりなり、奇木《きぼく》多く、輪奐《りんくわん》の美を盡せしも、近世《きんせい》失火《しつくわ》してまた昔日の盛觀《せいくわん》なし。
 湯崎《・ユノザキ》温泉〔三字右●〕 田邊町の南方海灣《なんぱうかいわん》を隔てゝ一村あり。瀬戸鉛山《せとかなやま》と云ふ。其の西部《せいぶ》は即ち瀬戸岬《せとみさき》にして、岬南に湯崎温泉《ゆのさきをんせん》あり。第三紀砂岩の間より湧出《ゆうしゆつ》する炭酸泉にして、崎ノ(543)湯・濱ノ湯。元ノ湯・屋形ノ湯・礦湯・疝氣ノ湯・粟湯《あはゆ》・目洗湯等の八湯に分《わか》かれ、自然の岩窟《がんくつ》を以て浴場に充つる者《もの》あり。昔は齊明・天智・持統・文武の諸帝《しよてい》行幸ありし處にて効驗《かうけん》著しく、且つ此の地|海中《かいちう》に突出し、風景《ふうけい》絶佳《ぜつか》なるを以て、四方より來浴《らいよく》するもの多く、頗る繁盛《はんじやう》し、旅亭亦少からず。田邊《たなべ》町より毎日渡船の便あり。一時間を出でずして達《たつ》するを得《う》べし。猶ほ古へ此の地に鉛礦《えんくわう》ありて、徳川氏のとき之を採掘《さいくつ》す、礦脈やうやく海に入るをもつて廢す、鉛山《かなやま》の名これに因る。鑛泉《くわうせん》はいつの頃|發見《はつけん》せし乎詳ならざるも、夙に世にきこえて、日本紀に、齊明《さいめい》天皇、四年冬十月、帝幸紀温泉とあるは即ちその鑛泉《くわうせん》の事とす。天智、持統、文武諸帝|行宮《あんぐう》の蹤《あと》も今猶あり。伸實朝臣「ましらゝの濱《はま》のはしり湯《ゆ》浦《うら》さひて今はみゆきの蔭《かげ》もうつらす」。日本鑛泉志「埼之湯《さきのゆ》無色無臭鰺軟廿にして且鹹し。炭酸量《たんさんりやう》百中三奇零二二を含み游離《いうり》並半包含二奇零三五に及ぶ。温度《をんど》百三十六度。濱之湯は泉色《せんしよく》小濁、温度百六度。元之湯、温度《をんど》八十二度。屋形湯《やかたゆ》温百二十二度。礦湯、温百九度。疝氣湯《せんきゆ》温百二度。皆|無色《むしよく》無臭《むしう》とす」。大八州遊記曰(544)「元湯、巨巖自然爲槽形、温泉沸出、崎湯、巖凹甚大、長二丈半餘、幅或三尺、深三四尺、出於造物神工、不假人力、所謂金擁石槽也、今烟戸八十餘、有鉛鑛故云鉛山、徳川氏時專以鑿鉛爲業、以礦脉入海底廢業、今則以漁業及温泉爲生活云」。また全徳寺の門前なる牟漏《ムロ》温泉碑(天保中)曰「海内温泉不可勝數、其最顯於古者莫先於豫之孰田津、攝之有馬、紀之|牟漏《ムロ》、牟漏温泉頗多其有名者二焉、曰湯埼曰湯峰、古史所記乏言紀温湯、不斥其地、放世或疑焉、書紀齊明天皇、四年冬十月、帝幸紀温湯、先是有馬王子、來浴牟漏温湯、歸奏曰、其地勝絶、纔渉其境、病自※[益+蜀]消、帝聞之、南巡之意決焉、帝之幸也、皇太子亦從焉、此節、天皇帝也、又書紀云、持統天皇四年九月、天皇幸紀伊、又續紀云、文武天皇、大寶元年九月、太上天皇、幸紀伊國、冬十月、車駕至武漏温泉、盖此時二聖相偕幸焉、則持統帝乃併前兩囘、萬葉集所載亦足以徴矣、然則此地、温泉之美、海嶽之勝、所謂於古者、其將奚疑、今村中相傳稱、御船谷御幸芝者、臨幸之遺跡云、盖茲地横出於瀛海中、偃蹇蟠※[穴/出]、如臥龍奔蛇、北與田邊城相對、面勢海灣、灣(545)大十有餘里、其間蒼嶺秀壁之削立、曲浦長洲之聯亙、漁村之點綴、鳥嶼之碁散、異態詭状、不可縷形、憑高望之、恍如入仙都、其遠望則、峻嶽疊峰、濃淡分彩、聳拔於雲表、大瀛萬里、渺無際涯、賈帆商船、往來出没於風濤雲姻之中者、一擧目而足矣、誠海南之壮觀也、有間五※[益+蜀]之言不虚云々」。
 白良濱《・シララノハマ》〔三字右●〕 瀬戸より銅山《かなやま》に至る一帶の海濱《かいひん》を白良濱と云ふ。第三紀|砂岩《さがん》の分解より來る石英砂《せきえいさ》皎然としで恰も積雪の如《ごと》く、玻璃《はり》製造の原料に供す。其の鉛山《かなやま》と稱するは往古鉛鑛を採掘《さいくつ》精煉《せいれん》したる所なればなり。今尚《いまなほ》諸所《しよ/\》に其の舊坑を存す。此の附近《ふきん》海岸は怒濤《どとう》の浸蝕作用と風化作用とに歸因《きいん》する奇岩・洞穴・島嶼等の風光の目《め》を樂ましむる者に富み、逗留《とうりう》數週《すうしう》にして、尚ほ其の飽《あ》くを知らざるなり。熊野新記《くまのしんき》に、沙歩蹈鎔銀、接空積雪白、寒光遠撲眸、玉屑深千尺、恍惚壺中天、皎然無俗跡とは、よく實景を描《うつ》したり。古《いにしへ》より古歌にも多く詠《えい》ず。二三首を拔《ぬ》きて録《ろく》せんに、雪玉「眞砂《まさご》には月もしららの濱風《はまかぜ》に霞の空《そら》も春にわすれて」山家「浪よする白《し》らゝの濱のからす貝《かひ》ひろやすくも(546)思《おも》ほゆる哉」夫木「いく夜|寢《ね》ぬしら玉よするましらゝの濱松《はまゝつ》が根に松葉折しき」「雪《ゆき》の色におなし白らゝの濱千鳥《はまちどり》聲さへさゆる曙の空《そら》」。
 蟾蜍《・ガマ》巖〔三字右●〕 田邊《たなべ》町の北一里許、稻成《イナリ》村大字稻成にあり。谿流《けいりう》に枕《のぞ》みて、三四丈の巨巖相並立し、形恰も蟾蜍《がま》のごとく、口鼻限耳すべて具《そな》ふ、奇巖《きがん》といふべし。また此の巖《いはほ》に對へる山腹《さんぷく》に巖穴あり。廣《ひろ》さ十歩、高さ丈餘、中に觀世音を安《やすん》ず。巖穴亦|天造《てんざう》に出づ。こゝより數町にして、上秋津《かみあきつ》村に又一個の仙境《せんきやう》あり。斷崖《だんがい》千尺の下、谿泉《けいせん》奔流《ほんりう》する處、或は龍の蟠《わだか》まるが如き、或は虎の嘯《うそぶ》くが如き怪巖、大小|羅列《られつ》し、形態《けいたい》各樣|極《きは》まりなし。熊野の勝景を探るもの、こゝに至りてまづ一驚を吃《きつ》すといふ。
 田邊《たなべ》町より東牟婁郡に通ずる熊野街道《くまのかいだう》は、天然の地勢に據《よ》り、別れて二となる。一は中邊地〔三字右●〕と稱《しよう》し、道を東北の山間《さんかん》に取り、上栖《かみす》村・栗栖川・近露の諸驛《しよえき》を經て三越峠を越え、本宮に達《たつ》するものにして、潮見《しほみ》・十丈・大坂の諸山其の間《あひだ》に延亙し、阪路頗る嶮峻なり。他は大邊地〔三字右●〕と稱し、田邊《たなべ》町より道を東南の海岸《かいがん》に取り富田坂を經て周(547)參見村に出で、馬轉《うまころび》・長柄坂を上下し、江住《えすみ》・田竝等の諸驛を經て東牟婁《ひがしむろ》郡の南端串本驛に達《たつ》し、左折古座川を渡《わた》り古座町に達するものにして、道路重もに海岸《かいがん》に沿ふを以《もつ》て中邊地に比すれば稍々|平坦《へいたん》なりと雖も、尚ほ其《そ》の間馬轉坂・長柄坂等の坂路《はんろ》ありて、道路《だうろ》險惡《けんあく》なるを免《まぬか》れず。地名辭書|援引《ゑんいん》某書曰「往昔役行者入峰の路を慕《した》ひ、年毎に熊野《くまの》より葛城《かつらぎ》の大峯に入て吉野《よしの》に出づ。之を順の峰入《みねいり》といふ。然るに望實吉野山より大峰山の後《うしろ》に入り遂に熊野《くまの》に出づ。之れを逆の峰入といふ云々《うん/\》。また春秋の峰入は春《はる》を順の峯入といひ本山方聖護院これを勤《つと》む。秋を逆《ぎやく》の峯入といひ當山坊|三寶院《さんばうゐん》これを勸む。故に聖護院《しやうごゐん》峯入の節は中邊地《なかへち》を通行し、三寶院峯入には大邊地《おほへち》を通《とほ》らせ給ふ」。
 中邊地は本宮に至る間記すべきこと甚だ少なし。たゞ途中に鹽見峠の勝やゝ見るべし。名所圖會曰「凡そ新宮田邊の間中邊二十里海潮を見ることなく、往還の前後左右共に連山峨々として聳え、山深く道狹くして頗る難所の坂路のみなり。然るに漸くこの地に來りて始めて路の平なるを踏み、既に峠に至りて西に向へば大海森漫として絶景言ふ可らず。されば熊野の奥より出て始めて海潮を見るを以て峠の名を潮見坂といふ」。こ(548)の他、栗栖川村は清姫の生地なること道成寺縁起に見ゆ。田邊町より近露へ至る七里、更に本宮に至る四里とす。某書曰「中邊地の潮見峠は、前後すべて九折なる山路の、絶えて海を見ることなきも、こゝに至り、山開きて、蒼海の天を涵すを西に望む。田邊の港、白良の濱等、眼下にあり。帆影出没、風景限りなし。潮見の名、これに因りて起こる。峠を下だれば、鍛冶屋川の激流に一小橋を架す。覗橋といふ。東の崖巖に自然石にて、極樂の體想を具へたる巖あると言ひ傳へ旅客必ず覗き見るゆゑ、橋名とすと。此の所は、湯川直春、近露を出でて、山本主膳の兵と力を戮せ、橋を絶ちて、京軍を艱め防ぎたる所なり。近露は、大坂峠の麓にある一小色にして、護良親王、大和の十津川に遁れ給ふとき、玉置庄司といへる者、親王を追躡し、御身殆と危かりしを、こゝの郷士、野長瀬六郎、不意に起こり、横合より射て却け、親王を救ひ奉れり。親王、六浪の功を嘉し給ひ、姓を横矢と賜ふ。是れより子孫南朝に力を盡くし、豐臣氏南伐の時、湯川氏に屬し、罪を得ぬ。然して其が子孫、今猶ほこの村に榮ふるといふ」。田邊町より大邊地に沿うて進めば、田邊の東南二里餘にして、安堵ケ峯に發源する富田川岸に出づべし。富田川、一に岩田川または栗栖川ともいふ。源平盛衰記に曰「三位中將維盛入道は高野より熊野に向はせ、日數經て岩田川につき給ひ、一の瀬に垢離をかき給ひ、我都にとゞめ置きし妻子のこと露思ひ忘るゝ隙なければ。さこそ露深くあらめ、一度この川を渡るもの無始の罪業悉く滅す。されば今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらんと頼もし氣に仰せられて「岩田川誓の船に棹さして沈む我身も浮びぬるかな」と詠じ給ひて、父小松大臣の御熊野詣の悦の道に、兄弟この河水に浴戯れて上りたりしに、權現に祈り申すことある淨衣脱替ふべか(549)らず、御感應ありとて.これより重ねて奉幣ありしこと思出給ひても、脆きは落る涙なり云々」。花山院「岩田川渡る心のふかければ神もあはれとおもはさらめや」。更に、富田川を渡れば、道は川に平行して下流に向ひ砥石の産を以て聞えし富田村を經由して、富田阪を越ゆれば即ち日置川に達すべし。田邊町より富田川の右岸朝來まで二里餘、同所より富田浦に至るまた二里餘、更に日置川の右岸安居に至る二里餘といふ。安居の向平には炭酸泉あり。安居より日置川の河口日置浦に至る凡二里なり。(序を以て、當西牟婁郡の温泉を列記すれば、湯崎温泉の他、新庄村には新濱の湯あり。富田村の海濱、朝來歸には椿の湯あり。また中邊地街道の高原には中の湯あり。孰れも多くは單純泉泉なり。)
 日置《・ヒキ》川〔三字右●〕 當郡中最大の河川にして、水源を大和《やまと》の國境に發し、南流して將軍川、前川等の小流を合せ、西南に流れて日置浦《ひきうら》に至り海に朝す。下流四五里の間やゝ水運の便ありと雖も、上流は奔流|激湍《げきたん》にして、たゞ木材を流下せしむるに過ぎず。上流の熊谷《ゆや》には高さ六十丈、幅二間なる百間瀧あり。その下流一里には雨乞瀧あり。高さ九丈幅一間半、共に深譚《しんたん》多く奇觀言ふべからず。合《がふ》川は河口を去ること七里の上流に位し、此より以下舟筏を通ず。合川の南、古屋《ふるや》谷よりは古屋《ふるや》石の産あり。蒼黝の盆石にして、(550)その小なるものと雖も、なほ峯巒溪泉の趣を具備して、夙《つと》に雅客文人の尚美する所なり。河口の日置《ひき》は人口 千七百を有する一小良港にして、市街やゝ振ふ。
 日置川を出て、南行すること二里半、周參見村を過ぐれば、道路は海岸に沿つて走る。
 周參見《・スサミ》村〔四字右●〕 大邊地街道の衝に當り、人口四千二百を有する大村にして、一良泊をなし、市街やゝ盛なり。大阪商船會社の定期汽船は此地に寄泊《きはく》するを以て海運の便多し。周參見《すさみ》より日置《ひき》に至る約一里、更に東方|江住《えすみ》に至る三里、江住より和深に至る一里半、和深《わふか》より田竝《たなみ》まで二里とす。田竝より串本まで凡二里なり。
 二色港〔三字右●〕 西牟婁《にしむろ》郡の東南端に位し、一に嚢港とも稱す。海灣《かいわん》深く陸地に入り、形状宛《あたか》も嚢《ふくろ》の如し。海波《かいは》は常に靜穩にして、船舶の避難《ひなん》に尤も便なり。ごの港の南方に潮《しほ》の岬《みさき》あり。海中に突出すること殆んど二里、南海の一大岬にして、また當國の最南端なり。潮流《てうりう》常に急にして海波|暴《あら》く、航海|險惡《けんあく》の海路たれば、岬端に第一等不動白色の燈臺を置き、海客に便にす。燈高海面上凡そ百六十三呎、晴天《せいてん》光達二十海里といふ。(551)旭荘の望海に曰「濤頭起立入雲間、不見青山見雪山、此是賂蜒洲盡所、漁舟一々破天還」。猶、二色《にしき》港附近は原史時代《げんしじだい》土豪|丹敷戸畔《にしきとべ》の居住せし荒坂津の地なりとなすものあり。
 串本町〔三字右●〕 潮岬の東北方にありて、大島と海峽を隔《へだ》てゝ相對す。大邊地の驛路に接近したる名邑《めいいう》にして、人口三千四百餘あり。附近各地の物産《ぶつさん》概ね此の地より出入するが故、商業盛に行はれ市街繁盛なり。拙堂南遊志曰「經|二部《にぶ》二色《にしき》兩嶺、達|串本《くしもと》、宿無量禅寺、殿堂|宏麗《くわうれい》、不類僻境、障壁皆貼應擧蘆雪之畫、人物動植竝皆生動」。
 橋杭《・ハシグヒ》岩〔三字右●〕 串本《くしもと》町の東北數町にして同町と大島との間にあり。那智《なち》よりして串本町に至る旅客はこの橋杭浦《はしぐひうら》を過るに當り、三十餘坐の奇巖、瑶※[竹冠/參]として玉笏の如く、浦口より遠く海口に羅列《られつ》するを見るべし。拙堂の南遊志にこの勝を記して曰く「橋杭《はしぐひ》浦口、奇巖羅列、三十除坐、如瑶※[竹冠/參]如玉笏、如圭之植、如魚之立、如倚天之劔、如書空之筆、不可悉状、雖大小長短不整、亦皆拔地峭立、類西土所云砥柱者、土人名此浦爲椅杭、(552)杭即柱、所名之意乃同、外有大島擁之、布帆行島巖之間、布置己妙、點綴又工、可謂天然好畫圖矣」。大八洲遊記曰「橋杭浦《はしぐひうら》、沿岸巖石、高者二十餘丈、低者三四丈、竝立海中、形如紫筍、※[直三つ]石朝天、其間相距八九丈、凡十七八柱、呼爲橋杭岩」而して、橋杭岩が如何にかく奇觀を呈するやといふに、これ泥板岩《でいばんがん》の割目を通じて逆出せる石英粗面岩の岩脈が、後に波浪風雨《はらうふうう》の削剥作用《さくはくさよう》を受け、割合に柔軟粗鬆にして抵抗力弱き四周の泥板岩は最初に削剥せられ、割合に堅硬《けんかう》にして抵抗力強き石英粗面岩脈は後に殘りて、屹然《きつぜん》とし聳《そび》ゆる岩壁を形成せしならん。斯の如く風雨の削剥作用と波浪の浸蝕作用とは、思ふが儘に抵抗力《ていかうりよく》弱《よわ》き泥板岩を削剥したるも、尚ほ其の破壞的作用は少しも衰ふることなく、更に岩壁《がんぺき》を爲せる石英粗面岩に向つて專ら其の破壞力を逞《たくまし》ふするに至るも、其の組織《そしき》泥板岩《でいばんがん》に比して割合に堅緻なる石英粗面岩は、容易に削剥し盡くされず、單に僅に其の弱點《じやくてん》の存《そん》する所、割目のある所に治《そ》うて削剥せられたるに止まり、斯くて一連の屏風状《べうぶじやう》を爲せし岩壁は、連絡《れんらく》を斷《た》たれて、遂に大小長短同じから(553)ざる三十餘坐の石柱《いしばしら》の所謂橋杭を形成《けいせい》するに至りしなり。されば此の地方の卓越風(東風)を受くる方面《はうめん》は(東側)海割合に深《ふか》く、岩壁の風化|崩壞《ほうくわい》より來る岩塊の海面上に露はるゝを見ざるも、其の反對の方面即ち西側には、岩壁の風化崩壞より來る岩塊《がんくわい》の磊々として海上にあるを見る、干潮《かんてう》の際《さい》は殆ど一の角礫原の有樣を呈するに至るなり。
 串本より一里半、東牟婁の郡界に達し、更に半里にして古座町に至る。大島は東牟婁郡の所屬なり。
 大島〔二字右●〕 當國中最大の島嶼にして、周圍四里餘、大島・須江・樫野浦の三浦に分劃す。谷間には樹木繁茂し、その他は耕圃《こうほ》多し。大島浦は串本と相對する良港にして、船舶の繋泊に便なり。樫野《かしの》浦の岬角には第二等|旋囘白色燈臺《せんくわいはくしよくとうだい》の設けあり。海面上百三十呎の高さに居り、晴天光達《せいてんくわうだつ》十七里半といふ。また、樫野浦は明治二十三年九月十六日トルコ軍艦の沈没せし地にして、其の遭難者《さうなんしや》の遺骸《ゐがい》を葬りし墓所あり。竝に碑を建つ。その碑文大意に曰く「土耳其國、軍艦挨耳土虞羅耳、遭難之碑、正二位侯爵徳川茂承題額。明治二十三年六月。土耳其國皇帝、以其海軍少將阿斯曼巴西亞爲特派公使奉國(554)書而來。皇上見公使於東京宮城、授勲章賜亨宴、禮待殊渥、使事既畢陞辭還國、九月十六日、駕軍艦埃耳土虞羅耳、夜過野海、遇颶風起、昭檣折※[楫+戈]摧、熊野海自古稱絶險多、築燈臺標識航路、此夜霧雨晦冥、咫尺不辨、加以艦内機關失其用、竟觸暗礁、艦遂覆没、公使以下六百五十人、皆溺、艦長亞犂陪亦死、獲免者僅六十九人、嗚呼悲惨矣哉、其地實爲紀伊東牟婁郡樫野埼、埼角有燈臺、守者未覺知、遽有被髪徒跣者相踵而來、言語不通、皆負疵傷、技手瀧澤正淨輙與臺員協力扶持給衣藥、既而知其爲土國人也、黎明大島村長沖周、聞變馳至、與樫野區長齋藤半右衛門、須江區長瀧本彦右衛門等周旋甚力、與警察署長清水廣治、分署長小林征一等商議、就安民舍、招醫治療、民爭任其看護、乃飛報於和歌山縣廳、縣廳距此四十餘里、海陸共阻而電信未全通、十八日報始達、書記官秋山恕卿、兼程赴援、郡長赤城維羊先在、僉曰、樫野地僻不便周給、且時疫未熄、償感傷者、恐不可救、即舟而移之於大島浦、以佛寺充病院、配付醫師、尋發輕※[舟+可]數十、收遺骸於亂礁怒濤間、窮捜累日而未見公使屍、更募潜人、求于海底而終不(555)獲焉、他屍皆※[病垂/墓]於燈臺西南原上因貞爲兆塋、假造公使冢於其中央、爾餘諸墓環列其側、初殯於治岸各地者亦合葬于此、亡慮二百六十人、二十一日、八重山艦長、海軍大佐三浦功及海軍軍醫大監加賀美先賢、奉命而至、正装率隊兵行葬儀、恕卿等佐之且存問傷者、移置諸其艦、又有獨逸國艦、來而載之共航于神戸、勅遣式部官丹羽龍之助、侍醫桂秀馬、優賜撫恤。皇后亦※[貝+兄]被服各一副、恩旨深厚無所不至、於是疲憊困頓重傷瀕死者亦皆起、十月特遣比叡金剛二艦、送歸之於其本國、夫萬里奉使客 不還、其不幸洵不忍言矣、雖然、朝廷隆遇、弔※[血+おおざと]有加、公使其亦可瞑也歟、當有此事變也、上下驚嘆、自王公至士庶人、※[口+言]其死慰其病、遺金幣布帛者有焉、餽藥食器物者有焉、情誼懇摯不遑記述、若夫大島村以其爲所管、連山壯丁四百餘人、日夜服勞役、構濱人増田萬吉、兵庫賀川純一、有田喜一郎、神戸人大松藤右衛門、與大島村民胥謀、請官採聚其沈没艦材器什具、録以進、且以所拾遺骨擧※[示+付]其墓爲設祭典、是皆不啻發思遠人之誠、抑亦有深感。皇上至仁待外賓之篤也、忠亮不肖承乏地方、宣揚徳化、唯恐其不逮、頼(556)書記官以下警察官郡村吏各奔走、致職以濟其事、已而視其地、察其状、寔有不堪痛悼者焉、因欲建碑勒其事併表追弔之意、闔縣有志之士、多賛助之、乃敍其梗概係以銘、銘曰。風伯作威、竪艦不支、使臣雖歿、聘問如斯、勒諸貞石、以表痛悲。紀元二千五百五十一年、明治二十四年二月、和歌山縣知事從四位勲三等石井忠亮撰文。和歌山縣書記官從六位勲六等秋山恕卿書」。
 山崎氏地誌曰「志摩半島の南端麥崎より南西、紀伊半島の南端大島に到るの間、直徑海上約七十海里、稱して熊野灘と云ふ。日本海流(黒潮)は大島を掠め毎時一海里乃至四海里の速度を以て此海上を東東北に向て流れ、風浪時に險惡にして。遠江灘と共に古來海客の最も困みし所たり。其海岸は紀伊山系の山嶽直に水汀に盡きて、港灣出入する間、屡々懸崖高く峙ちて巍然たる岬角をなし、時に山麓纔かに帶状の坦地を剰して沙濱を作る處なきにあらず。況んや水天相摩せる邊より汪漾として寄せ來る太平洋のスウェルは、海岸に到りて始めて岩礁に激し、沙汀に碎け、天穩かに風靜かなるの日に於て、尚ほ咆哮の響を絶たざるが如き、奇景絶勝應接に遑あるざるものり」、而も、この沿海甚だ漁獵の利に富、ことに捕鯨業を以て顯はる。加ふるに、山中には雄峯峻嶽峙立して、木材の産出甚だ多し。原史時代、神武天皇が東征に際し、海路この地に到り、一軍を分ちて勢州を平定せしめ、自から軍を率ゐ、險を越えて和州に入り給ひしは、古事記、書紀及び伊勢(557)風土記逸文等に明かなる所とす。捕鯨の業は實に往昔この地へ渡來せし支那人徐福始めてこれを傳へしと稱し近世慶長の頃は里人多く銛撃を以て捕鯨せしが、苧網を以て漁業を營むことゝなり、享保三年以後は紀藩この業を直轄し、更に近時は當浦村民共同してこの業に當ることゝなれり。地名辭書曰く「熊野浦の名は熊野海面の總號なれば、牟婁郡の沿岸を指すや明かなり。然れば海上の形状を按ふに、潮岬大島を中心とし、海岸はその東北と西南とに向つて延伸す。その東北に志摩郡麥崎に至る直徑七十海里、その西北は日高郡日御崎に至る直徑五十海里ばかり竝に熊野浦と稱すべし。即ち西は紀伊水道に至り、東は遠州洋伊勢海の交界に接す。然れども世俗謂ふ所は多くその東北西潮岬より楯崎の海岸を指す」。
 古座《・コザ》町〔三字右●〕 大邊地《おほへち》の一驛にして、古坐《こざ》川の河口に位し、人口二千九百餘を有す。水運の便を得て、商業繁盛なり。また町は熊野浦《くまのうら》漁業の一中心地となし、捕鯨《ほげい》の業尤も盛に行はる。
 古座川《・コザカハ》諸勝〔五字右●〕 古座《こざ》川は東西牟婁の郡界大塔峯の東南に發源《はつげん》し、佐本谷、小川谷《ヲガハダニ》等の渚水を合せ、流程凡そ十里にして古座浦《こざうら》に注ぐ。三尾川村大字大川以下六里は小舟の便あり。高池〔二字右●〕は古座《こざ》町の北に連り、同じく古座河畔に居る。人口凡二千九百餘、また(558)繁華なる市街なり。明神村は川口を以て驛所となし、古座町より川を溯《さかのぼ》ること二里餘にあり。村の大字|月《つき》ノ瀬《せ》よりは鑛泉湧出す。一枚岩の勝〔五字右●〕は川口驛より尚ほ川に沿うて上流二里餘、大字相瀬にあり。巖の高さ百七十間、幅二百六十間、壁立《へきりつ》して鐵色を呈し、尤も奇觀とす。藤本氏曰く「古坐川の上流|藍瀬《あひせ》に奇巖あり、一枚岩と名づく。川に沿《そ》ひて、宇津木《うつぎ》、月の瀬の村落を經、川口に至れば、高巒《かうらん》疊※[山+章]《てうしよう》水を夾《さしはさ》みて聳え、奇巖|怪石《くわいせき》至る所に多し。下中《しもなか》、一雨の部落を經て、藍瀬より舟行《しうかう》すれば、巖は古座川に枕《のぞ》みて壁立《へきりつ》す。高さ百七十五間、幅《はゞ》二百六十間ありて、其が色《いろ》鐵の如く、壁面《へきめん》苔だも生ぜず。宛然《さなから》鐵壁《てつぺき》の如し。他の崖壁は、皺裂《ひれつ》ありて蔓蘿《つたかつら》を生ず。この巖は、一片の崖壁《がんへき》にして眞禮《しんたい》を呈す。奇觀《きくわん》限りなし」。また大八州遊記曰「古座川上流有奇巖、在|藍瀬《あひせ》村、壁立二百仞、濶亦如之、挿脚江中、非舟不能造、其色如紫鐵、壁面不生草木、如仰見、堅城鐵壁、絶巓松樹扶疎、土人呼曰一板岩、往來齋藤拙堂撰雅名、爲齊雲巖」。
 柏郷銅山〔四字右●〕 は一名を藏土鑛山といふ。三尾村字藏土古座川本流の右岸近接の地にあ(559)り。故に鑛石の運搬は全く船便《せんびん》に據《よ》り川口より汽船に積《つ》み替《か》へ大阪に輸送す。地質は第三紀層にして、鑛脈は第三紀泥板岩及び礫岩を貫通し、多くは泥板岩中《でいばんがんちう》の裂罅を黄銅鑛・黄鐵鑛等が充填《じうてん》せしものにして、脈幅《みやくはゞ》は一尺四五寸より、小なるは寸に足らざるものあり。鑛石《くわうせき》は百分中一、八九の含銃量を有し、尚《なほ》有望《いうばう》なる鑛山《くわうざん》なりといふ。明治三十五年の製銅高《せいどうだか》三萬九千三百七十五斤なり。
 古座町より田原を經、東北方二里餘にして浦神驛に達す。一小港なれども、汽船の避泊に最も適す。附近沿岸に玉の浦と稱する地ありて、里俗玉石と稱するものを出だす。葢し燐酸を含める泥板岩中の結核に他ならざるなり。夫木集「さよ更けて月影さむみ玉の浦のはなれ小島に千鳥なくなり」釋正廣「つらき世をはなれ小島のひとつ松われ宿からんかげな隔てそ」。對岸の海濱より浦神灣内小島點綴せる風光を賞しつゝ、浦神を過ぎ、太田川を渡り、下里を經て、海拔五十八米の二河坂を越え、湯川温泉場を過ぐれば、天滿に至る。同地は那智川の泊岸に臨み、中邊地大邊地の合路に當る驛邑なり。その南方に勝浦あり。太地は勝浦の南二里の海岸に位し、熊野浦捕鯨業の本場とす。
 勝浦《・カツウラ》港〔三字右●〕(赤島温泉) 勝浦《カツウラ》港は同名の海灣《かいわん》に濱《ひん》する良津にして、和歌山市及び伊勢諸(560)港|尾張《をはり》熱田等に汽船の定期航海あり。また附近に赤島《あかじま》の温泉ありて、道路嶮ならず。但し、天滿《てんまん》より此所に至るもの、多くは海路によれり。浴場|旅舍《りよしや》の設備あり、且僂麻知斯に効能ありとて浴客多し。
 南平野鑛山〔五字右●〕 南平野村にあり。東南約二里にして勝浦《かつうら》に至るべく、海運《かいうん》の便《べん》あるが故に運搬容易なり。地質《ちしつ》は第三紀層にして、鑛脈《くわうみやく》は泥板岩・砂岩の互層中にあり、其の走向一定せず。脈幅は二尺乃至三尺こして、鑛石《くわうせき》の含銅《がんどう》少量《せうりよう》なるが爲め、事業連續せずして永く体止せしが、明治三十六年一月より更に開坑《かいかう》採掘《さいくつ》に着手せり。
 那智鑛山〔四字右●〕 本鑛山は那智村大字井關及び市野々に連亘《れんご》し、南平野鑛山と同じく勝浦に近く、又《また》新宮町《しんぐうまち》を距《さ》ること遠《とほ》からざるが故に交通運搬共に便利なり。地質は第三紀層にして、鑛脈はをの泥板岩・砂岩の互層中《ごさうちう》にあり、鑛石は黄銅鑛にして、訛・亞鉛等を夾雜せざるも黄鐵鑛《くわうてつくわう》は多くこれを混ず。脈石《みやくせき》は石英なり。目下舊時の撰鑛滓を集拾し小規模《せうきぼ》の濕式採銅法《しつしきさいどうはふ》を以て採銅しつゝあり。又た坑内の湧水極めて多く、硫酸銅(561)に富めるを以て、之れに鐵片《てつへん》を投じて、銅《どう》を分取せり。製銅高一ケ年約四萬斤内外なり。
 坪谷氏曰く「三輪崎より宇久井を過ぎ、濱の宮の小社より右に入れば一里にして市野々村に達す。村は那智山の入口とも稱すべく、仰いで神社の髣髴を見得るのみならず、四邊に聞えわたれる瀑聲の高きをも聞くことを得べし。また熊野三山の一なる那智は乃ち其所。而も人は那智山の深山の中にあるを思ふべけれど、行きて見れば、山淺く、里近く、これにては下駄穿にても行き得らるゝと思ふばかりなり。麓の村家は稍阪路になれる處に層々相連り、旅館あり、茶亭あり、以て參詣者の便に供せり。村の盡頭より、古杉樹の列は左、山頭に靡き渡りて、其の石階の數殆ど二千に及べり。熊野夫須美神社は、即ちその半腹の平地に鎭座す」。
 那智瀧〔三字右●〕 天滿より中邊地を進《すゝ》みて一里許にして、市野野《いちのゝ》に至れば土地高きを加へ、緑翠の間|遙《はるか》に白布の懸下《けんか》せるが如きを認《みと》めん。是れ那智川の水源たる那智の第一瀑布なり。瀑布《ばくふ》は那智山腹《なちさんぷく》流紋岩《りうもんいは》の絶壁に懸り、直下すること八十餘丈と稱するも、大日本地志編者の空盒|晴雨計《せいうけい》により實測《じつそく》する時は百五十米突(五十餘丈)に過ぎずといふ。從來本邦第一の瀑布《ばくふ》と稱《しよう》せられたるも、水量《すゐりよう》多《おほ》からず、瀑壺甚大ならず、加之山淺く、
 
(562)〔那智の瀧、写真省略〕
 
谷深からず、壯絶《さうぜつ》と云ふよりも、繊巧《せんこう》と云ふべく、雄大豪壯の風に乏しきは瀑布の爲に惜むべきなり。瀑布の下|拜殿《はいでん》あり、飛瀧神社と云ひ、瀑布《ばくふ》を神體《しんたい》とす。瀑布は巖石水苔の間《あひだ》を流下して、文覺ノ瀧に落ち平流《へいりう》となる。此所より樵徑《せうけい》を登ること四町にして、一|溪流《けいりう》あり、劔ケ淵と名づく。即ち第一|瀑布《ばくふ》の水源《すゐげん》にして、遠《とほ》く海洋《かいやう》を望《のぞ》み得て絶景《ぜつけい》なり。溪流を泝《さかのぼ》り尚《なほ》進《すゝ》むこと四町にして第二の瀧に至るべし。三面山《さんめんざん》にして、老樹《らうじゆ》巨木《きよぼく》森欝《しんうつ》として繁り、神境に入るの思《おもひ》あらしむ。瀧は高さ十丈八尺、巾三間上部に於て傾斜《けいしや》を存《そん》するが故に又如意輪の瀧《たき》とも稱す。之れより一山を越《こ》えて五町餘を進《すゝ》めば第三の瀧に至る、高さ七丈八尺、(563)巾三間瀑布の状《じやう》更《さら》に奇《き》を加《くは》へ、益々|幽邃《いうすゐ》なり。以上の三瀧は所謂|那智山《なちさん》の四十八瀧中|著名《ちよめい》なるものにして、他《た》に山中大小の瀧《たき》數多《あまた》散在《さんざい》せりと雖も茲に之れを略す。膝本氏名勝記曰「那智山《なちさん》の四十八|瀧《たき》と稱して、山中に、大小四十八の瀑布《ばくふ》あり。世に鳴《な》りわたりたるは、第一の瀧にして、次《つ》ぎは第二の瀧、次ぎは第三の瀧なり。第一の瀧《たき》は、即ち飛瀧《とびたき》神社是れなり。濱の宮より入りて、市野々《いちのゝ》に至れば、地やうやく高くしておどろ/\と遠雷《ゑんらい》のごとき鳴音《なりおと》をきゝ、積翠《せきすゐ》の間、遙《はるか》に細き帛《きぬ》を晒《さら》したらんごときものを認《みと》む、是れ第一の瀧なり。瀑布の下に拜殿《はいでん》ありて、殿の西、翠岫《すゐちう》削立《さくりつ》せるところ、瀑布は、壁上《へきじやう》を裂《さ》きて、たゞちに灑《そゝ》ぎ墮《お》ちぬ。高さ八十四丈、幅《はゞ》十八間、或は風に漂《たゞよ》ひて、雪のごとくに蜚《と》ぶことあり。或は巖に碎《くだ》けて、玉のごとくに散《ち》ることあり。雄壯奇麗《いうさうきれい》、譬ふるに物なし。一書に、矯々《けう/\》乎龍排絳霄、※[匍の甫が言]々乎雷撃壘岩、※[さんずい+匈]湧變轉、山谷皆動と記し、又一書に、如白虹之下飲、如王流之奮爪矯首と記せるものあれど、西遊記には「この瀧《たき》の事は、幼《おさな》き時より、きゝ居て、かうやうにも有るべしと思《おも》ひしに(564)は似《に》もよらず。格別《かくべつ》に異り、瀧の全體《ぜんたい》を譬へいはゞ、力士《りきし》の荒《あれ》たるがごとく怖ろしくて、眼《め》留《とめ》て久しくは見《みる》事《こと》もなるまじ。余がごとき虚弱《きよじやく》のものは、神氣《しんき》も遠敷なるべしと思ひ居しに、左《さ》はなくて、瀧の全體の趣きをたとへいはゞ、美人の薄衣《うすぎぬ》を着て立てるごときものなり」と記せるが、却《なか/\》に此の瀑布の形容に當たれる乎。斯くてぞ扶桑第一の名瀑なる。瀑下《ばくか》には、瀧壺《たきつぼ》といふ程のものなく、巖石|錯落《さくらく》し、水苔の間を彼所《あなた》此所《こなた》と走り下だり、文覺《もんがく》の瀧に落ちて、初めて平川《へいせん》となりぬ。左右の峭壁《せうへき》緑苔《りよくたい》を着《つ》け、老杉《らうさん》※[直三つ]々と立ちて日光《につくわう》を蔽《おほ》ふ。眞に仙境《せんきやう》の奥區ともいふべし。第二の瀧は、こゝより樵徑《せうけい》を四丁ばかり登れば、溪流《けいりう》ありて、劔《つるぎ》か淵《ふち》と名づく。即ち第一の瀧となりて、灑《そゝ》ぐものにて、樹《き》に倚《よ》り、瀧口より下瞰すれば、脚《あし》わなゝき、眼くるめきて、注視《ちうし》すること能はず。こゝより海上《かいじやう》を望めば、渺茫《べうばう》として穹《きは》まりなし。近くは、濱の宮、大成《おほなり》が島など、歴々《れき/\》として見ゆ。溪流を泝《さかのぼ》り、亂石《らんせき》を踏みて行《ゆ》くと四丁にして、第二の瀧に至る。高さ十丈八尺、幅三間、瀑上《ばくじやう》すこし傾《かた》むけるをもつて、如意輪《によゐりん》の瀧ともい(565)ふ。三面《さんめん》山にして、山皆|緑苔《りよくたい》を生じ、老樹《らうじゆ》森欝《しんうつ》して、水聲《すいせゐ》の外は、耳に接《せつ》するものなし。一山を越《こ》えて、五丁餘り行《ゆ》きて、第三の瀧に至る。高さ七丈八尺、幅《はゞ》三間、山いよ/\深邃《しんすゐ》、水亦|清列《せいれつ》にして、瀑布《ばくふ》の状更に奇《き》なり。三湛布、源《みなもと》を一所に發し、潺々《せん/\》と流れ來たり、懸崖《けんがい》に遇《あ》ふごとに瀑布となり、灑下《れいか》せるなり。第三の瀧、決して小なるにあらざれど、第一、第二の瀧を觀來たりては、巖壁《がんへき》のたゝずまひきても見るに足らず。一嶺を躋《のぼ》れば、地少し平《たいら》なる所あり。華山法皇の三年《みとせ》幽棲《いうせい》し給ひたる行宮《あんぎう》の地にて、其が礎《いしづゑ》の跡あり。こゝに石櫃《いしひつ》ありて、法皇の常に用ひ給ひし御器二個を藏む。一は土器の御椀《おわん》、一は壺《つぼ》なり。法皇櫻を植《う》ゑ給ひて「木の下を棲家《すみか》とすれば自ら花見る人になりぬべき哉」と詠《よ》ませ姶ひたる櫻は既に枯《か》れ朽《く》ちて、後に植《う》ゑたるもの、むかしを忍《しの》べとや榮《さか》ふ。法皇は、御年十九にして、御位を去り給ひしなり、藤原兼家、己《おの》が女の出におはします。一條天皇を早く御位に即《つ》け奉らんと謀り、帝《みかど》の寵妃|失《う》せ、御歎《おんなげ》きに沈ませ給ふを、子の道兼《みちかね》をして、巧みに誘《いざな》ひ紿《あざむ》き奉りて、御位を遜《のが》れ、華山(566)寺に入り、御飾《おんかざ》りをおろし、佛門《ぶつもん》に入らしめまゐらせたるなり。さてこゝの瀑布《ばくふ》を、利歌によめるもの、くさ/\の中より一つ二つ掲《かゝ》げんに續古今「那智の山はるかに落る瀧つ潮に、すゝく心の塵ものこらし」夫木「雲かゝる那智の高嶺《たかね》の風吹けば花ぬきみたる瀧の白いと」「那智の山|雲井《くもゐ》に見ゆる岩根より千尋《ちひろ》にかゝる瀧の白糸」「三熊野の那智のお山に引しめの打《うち》はえてのみ落《おつ》る瀧《たき》哉《かな》」山家集「雪きゆる那智《なち》の高《たか》ねに月たけて光りをぬける瀧のしら糸」草庵集「山ふかみ雲《くも》より落《おつ》る瀧つせのあたりの雨は晴るゝ日もなし」那智の山に、華山院の御庵室《ごあんしつ》のありける上に櫻木《さくらぎ》の侍《はべ》るを見て住家とすれはとよませ給ひける事をおもひ出られて、風雅集「木の下に住《す》みける跡《あと》を見つる哉那智の高嶺の花を尋ねて」。飛瀧神社は那智山字|瀧本《たきもと》に鎭まり坐し、社格《しやかく》郷社《ごうしや》なり。社殿を經營《けいえい》せず。瀑布を神體《しんたい》として、拜殿《はいでん》一宇《いちう》を設く。社傳《しやでん》に、神武天皇の丹敷戸畔《にしきとべ》を許させ給ひしとき、光の峯より靈光《れいくわう》を放ち、天皇を助《たすけ》け奉り、瀑布《ばくふ》の中に鎭まりぬ。天皇これを神助《しんじよ》となし、瀑下に幸《みゆき》して、拜させ給ふ。仁徳天皇、本社|御創建《ごさうけん》のとき、拜殿をも御(567)造營《ござうえい》せられしといふ。宇多《うた》天皇、當山に行幸《ぎやうかう》まし/\たる時、靈光《れいくわう》の二字を賜へり。龜山天皇、蒙古《もうこ》來寇《らいこう》のとき行幸まし/\て、寇を退けんことを祈らせ給ひ、傍に木標《もくへう》を樹《た》てさせられて、太上天皇懷仁【弘安四年二月晦日】初度と記《しる》させ給ふ。是は神庫《しんこ》に藏《をさ》めて、そが摸《うつ》しの木標を立てたり。祭禮《さいれい》は年七十三囘これを執行《しつかう》す』。小津久足「井關村といふを過ぎ、市野々村《いちのゝむら》といふに至れば、向《むか》ひの山に、一|筋《すぢ》高《たか》く、白き物の見ゆるあり。こは、兼ねておもひし、瀧《たき》の見初《みそ》めたるにて、うれしさ限《かぎ》りなし。こゝよりは一のとり居も見えて、すべて山のたゞずまひも、よの常《つね》ならずおもしろし。すこしゆけば、その瀧はたちまちかくれぬ。此の村《むら》の内、下馬《げば》といふところに至《いた》りて、茶屋《ちやや》に休ふ。こゝはすなはち、一の鳥居《とりゐ》にて、下馬禁殺生《げばきんせつしやう》の石《いし》の標《しるし》あり。鳥居を入れば、橋あり。橋のもとに、はじめの丁石あり。老杉《らうさん》は、道《みち》をさしはさみ、敷石《しきいし》は苔むして、坂物くらく、一丁ごとに、石標《せきへう》あり。四丁目に登《のぼ》れば、彼の瀧《たき》、いと近く左の方にみえて、俄に大きくなり目《め》もおどろかれぬ。五丁目の石標《せきへう》をすぎ、やゝゆきて仁|王門《わうもん》あり。門を入り(568)て六丁目の石標《せきへう》あり。こゝに二|筋道《すぢみち》あり。左の方を御幸道《みゆきみち》といふ。苔ふかくして物さぴたり。かくて、十二町ゆき盡《つく》して、瀧《たき》のもとに下る。瀧見堂《たきみだう》あり。その堂《だう》に入りてのぞむ。誠《まこと》にそのさまは、心も言葉《ことば》も、およばれず。譬《たと》へむものなく、たゞ肝《きも》をひやして、あきたる口《くち》を塞《ふさ》ぎもあへず。暫《しば》し見居れば、小雨《こさめ》の如く、しぶきかゝりて、目くるめき、山《やま》も動《うご》くやうに見ゆ。丈けの高《たか》き、幅の廣きことなどいはゞ、中々おろかになりぬべし。音《おと》の烈《はげ》しきことは、五六|丁《ちやう》まへより。足《あし》もとに響《ひゞ》きたれば、あたりに來りては、いふも更《さら》なり。あたりの山《やま》、木ぶかく、老杉《らうさん》のうちに、新緑の見ゆるさまなど、いひしらす。新緑《しんりよく》の時節《じせつ》は、山のさまは、もとよりにて、水《みづ》も常《つね》よりおほきよしなり。瀧《たき》のおつるあたりは、絶壁《ぜつぺき》なれば、木ぶかからねど、石面《せきめん》にあやしくおひたる、木立《こだ》ちのさまは、一くさの風情《ふぜい》あり。是にくらぶれば、早《はや》く見し布引《ぬのびき》、養老《やうらう》などは、筧《へら》にも劣れりといふべし。瀧の落ちいる邊《ほとり》はみえず。下に大なる※[山/品]ども、數かぎりなく、積上《つみあ》げたらむやうなるが、常《つね》の瀧《たき》のさまにかはりて、又一つの壯觀《さうくわん》なり。世(569)の諺に、山《やま》は富士《ふじ》、瀧《たき》は那智《なち》、花《はな》は芳野《よしの》といへる、うべなることにて、此の三勝《さんしよう》は、諸越《もろこし》にもなかるべしと、貝原翁《かいはらおう》は、扶桑紀勝《ふさうきしよう》にしるされたり、此の三勝のうち、二つは、吾《われ》度々《たび/”\》契《ちぎり》りありしかど、この瀧《たき》はしも、未だ知らざりしを、こたび本意とげたるは、いとうれし」。
 熊野夫須美【・クマノフスミ】神社〔七字傍点〕 那智山《なちさん》字宮地に鎭坐し、那智第一瀧の近傍とす。仁徳天皇朝、勅を以て創建し、現今|縣社《けんしや》に列す。本社は熊野夫須美《くまのふすみ》大神、伊邪那美尊、事解男尊を奉祀し、神殿凡て十三殿あり。市野野《いちのゝ》の大華表を過ぎて、磴道を登り來れば樓門あり。勅額門と稱《しよう》す。數町にして廣門《くわうもん》あり、西御門と稱す。門内《もんない》は即ち神苑《しんえん》にして、大拜殿あり。諸神殿はその三方に竝列し、宏麗《くわうれい》壯大を極む。神苑を距《さ》ること六町にして即ち扶桑第一瀑の稱ある那智大瀑あり。轟々《ごう/”\》たる響音はそゞろに神域《しんゐき》を淨《きよ》うす。この社に代々の天皇の行幸《ぎやうかう》ましませることは甚だ數《かづ》多《おほ》し。神庫《しんこ》には當時の倫旨《りんし》、院宣《ゐんせん》等數通及び時の將軍、諸候等の神領|寄附状《きふじやう》または物品等を收《をさ》む。また、桓武《くわんむてん》皇の勅額一面あ(570)り、銘に曰く、日本第《にほんだい》一|大靈驗所《だいれいけんじよ》、根本熊野三所權現と。
 青岸渡《・セイガント》寺〔四字右●〕 夫須美《ふすみ》神社の傍《かたはら》にあり。天台宗《てんだいしう》にして、那智山觀音堂と號す、西國三十三所第一番の札所《ふだしよ》たり。仁徳天皇の御宇|裸形上人《らげうしやうにん》の開基にして、推古天皇の御宇、勅願《ちよくぐわん》により伽藍《がらん》を建立す。本尊は上佛上人の刻《きざ》みたる長一丈の如意輪觀世音菩薩《によいりんくわんぜおんぼさつ》にして長八寸なる閻浮檀金《ゑんぶだんごん》の如意輪觀世音を胸佛《むなぼとけ》とす。本堂は、十三間四面にして、屋根《やね》は※[木+羽]葺《こばふ》き破風作《はふうつく》りとし、天正十八年、豐太閤、大和秀長をして建立《こんりふ》せしめたるものなり。寺城《じゐき》に鐘樓《しようろう》、寶藏、御供所《ごくしよ》等あり。往時は、瀑布《ばくふ》の下に千手觀音堂及び不動堂《ふどう/”\》ありしが、星霜《せいそう》久しくして頽敗《たいはい》に及び、明治十年これを毀《こぼ》ちて本尊を本堂に移《うつ》し安ず。其の千手觀世音は立像《りつさう》の黄金佛にして、華山《くわざん》法皇西國二十三所|御順拜《ごじゆんぱい》の時、惶《かしこ》くも玉體《ぎよくたい》に懸けさせ給ひ、御順拜を畢《を》はりて瀑下に納《をさ》めさせ給ひたるなり。什寶《じふはう》としては佛像の畫軸《がぢく》、古代の佛具《ぶつぐ》等種々あり。
 中邊地に沿うて那智の傍を過ぎ、大雲取山の嶮路を經。この嶺は海拔九百八十三米に達し、山路頗る嶮雛、(571)上下二百町の稱あり。推して國内第一の高嶺となすべし。その山陰を上長井驛といふ。上長井より再び小雲取山を越えて、請川村より本宮村に達す。請川村大字皆瀬川には硫黄泉湧出す。大塔河畔に位し、温度百五十八度、旅舍數戸あり(北一里餘にして湯峰温泉に達す)。天滿より、本宮村に至る約十一里、その間車馬の便なし。三千風「雲取は笠に爪つく雲雀哉」齋藤拙堂、踰雲取山「雲間縹渺上崔嵬、鳥道凌空人馬哀、誰識武侯雲鳥陣、※[山+孚]※[山+榮]化作此山來」新田斷常、大雲取坂紀南第一嶮路也「熊野南方第一關、大雲度嶮路難攀、巉岩僅下投深壑、荊棘鉤人轉歩艱」新田斷常、小雲取坂「九囘七曲陟羊腸、忽遇石車顛路傍、幸自山花開似錦、緑雲堆裏紫雲香(里俗喚仆石做石車)」。
 本宮《・ホングウ》村〔三字右●〕 新宮《しんぐう》町を距る陸路凡七里、熊野《くまの》川により水路凡九里といふ。もと熊野坐《くまのにます》神社あるを以て本宮《ほんぐう》の名稱を得たり。中邊地《なかへち》諸驛中の大村にして、人口千三百を有し、市街やゝ繁華《はんくわ》なりしが、明治二十二年八月大洪水の爲めに全村流失し、今日に於てはまた昔日の觀《くわん》なし。されど熊野《くまの》川は大和より來りて驛北を流駛し、熊野神社の大華表は屹然《きつぜん》としてその水流に臨《のぞ》む。川は、由來天下の山水《さんすゐ》を以て稱せられし地、此地に遊びたる旅客は此《これ》より乘合舟《のりあひぶね》を求めて新宮《しんぐう》町に下《くだ》るを可とす。その兩岸の風光の絶佳な(572)る、寔に國内有數の景勝たり。三十三所圖會曰「本宮《ほんぐう》は田邊《たなべ》城下より三超嶺を經て行程凡そ十三里半、市街《しがい》は商工の家ども軒《のき》をつらぬ、交易に隙《すき》なく、且、社職御師の宅若干ありて、國々《くに/”\》を定めて支配の立家それ/”\旅客を一宿せしむ。謂《いは》ゆる伊勢の御師に等《ひと》し。御祓牛王寶印等をも御師《おんし》より出《いだ》す。また町宿の類は音無橋《おとなしばし》より北に多し。至つて繁昌《はんじやう》の地なり」。
 熊野坐《クマヌマス》神社〔五字右●〕 本宮《ほんぐう》邨字|祓戸《はらひと》に鎭座す。今、國幣中社に班し、熊野本宮|證城殿《しようじやうでん》と稱す。新宮《しんぐう》、那智を合せて三山《さん/”\》の稱呼あり。而も當社はその第一位に居る。偶々《たま/\》、明治二十二年の水難《すゐなん》に神殿の大半は流亡《りうばう》し、僅に石寶殿《せきはうでん》二所を止め、欝蒼《うつさう》たりし域内の樹木《じゆもく》もまた悉《こと/”\》く枯死し去れり。爾後《ずご》更に舊社の後方|高燥《かうさう》の地を卜《ぼく》して四殿を造營し、明治二十四年三月落成《らくせい》す。即ち第一殿は伊弉册尊、第二殿は速玉男之命、第三殿は素盞鳴尊、第四殿は天照大神《てんせうだいじん》を奉祀《ほうし》す。これを上四社と稱し、舊石寶殿《きうせきはうでん》は中四社、下四社と稱し、合《あは》せて十二社《じふにしや》あり。社殿の結構《けつこう》いづれも清麗《せいれい》を極め、境内《けいだい》も甚だ幽雅なり。創(573)建は實に崇神天皇朝六十五年と稱す。歴代《れきだい》天皇《てんわう》の行幸《ぎやうかう》ありしは、平城天皇、清和上皇、宇多法皇.花山《くわざん》上皇、白河上皇、堀河院《ほりかはゐん》、鳥羽法皇、後白河《ごしらかは》上皇、後鳥羽上皇、土御門上皇、龜山上皇等にして、就中《なかんづく》、後白河法皇は御幸《みゆき》三十四度に及べりといふ。毎年四月十五日を以て大祭を執行《しつかう》し、賽者|遠近《ゑんきん》より至る。什寶《じふほう》の重なるものには、飛鳥井大納言筆|建仁御幸記《けんにんごかうき》、源通村及び爲景卿筆御幸略記等あり。千載集《せんざいしふ》「うれしくも神の盟《ちかひ》をしるべにて心をおこす門《かど》に入りぬる」。西行《さいぎやう》法師「たちのぼる日のあたりにぞ雲きえて光りかさなる七越《なゝこし》の峯」。大僧行尊「わくらはに何とか人の問《と》はざらん音《おと》なし川《かは》にすむ身なりとも」。後白河院「わするなよ雲《くも》はみやこをへだつともなれて久《ひさ》しき三熊野《みくまの》の月」。後鳥羽院「はる/”\とさかしき峯を分けすぎて音無川《おとなしがは》をけふ見つるかな」。
 湯峯《・ユノミネ》温泉〔四字右●〕 本宮村《ほんぐうむら》の南方約一里餘なる四村《よむら》大字湯の峯《みね》には著名なる湯《ゆ》の峯温泉《みねをんせん》あり。湯の峯川に沿ひ、數《すう》ケ所に湧出《ゆうしゆつ》し、光明《くわうみやう》湯・玉の湯・小栗《をぐり》の湯《ゆ》(小栗判官助重入浴の湯といふ)の三泉に分《わか》つ。効驗《かうけん》著しければ文武天皇以下數代《すうだい》の至尊《しそん》行幸あらせ給ふこと(574)前後二十|次《じ》に及《およ》ぶといふ。浴場《よくぢやう》五ケ所、旅舍《りよしや》數《すう》十所ありて、浴客常に絶ゆることなく、一年の浴客數《よくかくすう》凡《およ》そ一萬三千人に及《およ》べりといふ。寔《まこと》に山中《さんちう》めづらしき名湯にして時には絃歌《げんか》の聲《こゑ》をさへ聞くことあり。開湯《かいたう》は崇神天皇朝にして、熊野國造|大阿刀宿禰《おほあどのすくね》これを發見《はつけん》すといへり。
 東光寺〔三字右●〕 湯峯《ゆのみね》河畔にありて、不動の瀧の流《なが》れを前にし、石橋《いしばし》を架す。往古《わうこ》、鳥羽天皇の勅願所《ちよくぐわんしよ》として建立《こんりふ》したる三間四面の本堂《ほんだう》は、天正中豐太閤、片桐且元《かたぎりかつもと》を奉行として修繕《しうぜん》せしめ、本尊の藥師如來《やくしによらい》と共に星霜《せいさう》の久しきを表す。内陣《ないぢん》の扉《とびら》には、日光、月光|兩菩薩《りようぼさつ》の畫あり。兆典司《てんでんす》の作といふ。本尊は長《たけ》二丈一尺の坐像《ざぞう》にして、湯の花の凝《こ》りたる巖なり。胸部《むね》に無數の竅ありて、往古《わうこ》は其の竅より温泉を湧出《ゆうしゆつ》したりといふ。裸體《らたい》上人の勸請《くわんじやう》して本尊とせるものなり。則《すなは》ち胸部より以下を埋《うづ》めて、地を平《たひら》にし、堂宇を創建《さうけん》す。大同四年、弘法大師、錫《しやく》を巡らし來たりて、新《あらた》に十二神將及び日光月光の兩菩薩を刻《きざ》みて安置し、中興《ちうこう》す。天長十二年、慈覺《じかく》大師ふたゝび重興す。後、覺(575)鑁《かくばん》上人來遊し、不動《ふどう》の像を刻みて安置《あんち》す。歴聖《れきせい》の熊野に御幸まし/\ける時、惶《かしこ》くも御幸ありて、鳥羽天皇には、本堂《ほんだう》及《およ》び多寶塔、鐘樓等|御寄進《ごきしん》あらせ給ひたりき。多寶塔は方|三間《さんげん》、高さ三丈の二層塔《にそうたふ》にして、後豐太閤|修繕《しうぜん》を加へ、明治の初年《しよねん》まで傳はりたるを、故ありて本宮に於て撤壞《てつくわい》する所となれり。此の時、寺も無住《むぢう》の廢寺《はいじ》となりたるを、村民《そんみん》これを惜み、協同《けふどう》して、官に請ひ、明治十四年に至りて允可《いんか》を得、本尊の靈光《れいくわう》もふたゝび輝《かゞや》くに至る。此寺は元來眞言宗なりしを、後に本宮の管理する所となり、今は又|信徒《しんと》の企望《きばう》によりて、天台宗《てんだいしう》たり。寶物《はうもつ》には、平相國《へいさうこく》の眞筆と傳《つた》ふる紺紙に金銀泥《きん/”\でい》をもつて寫《うつ》したる羯磨經一卷、小松内府の眞筆《しんぴつ》と傳ふる五色の紋紙《もんがみ》に寫したる法華經《ほけきやう》一部以下あり。
 本宮より熊野川に沿ふ道は北行して大和に入り、中邊地街道は伏拜《ふしおがみ》より三越峠を踰えて西牟婁郡の近露村に達し更に田邊町に向へり。
 熊野《・クマノ》川〔三字右●〕(北山川) 和州の十津《トツ》川、當郡に入りて熊野川また新宮川《しんぐうがは》と稱す。本宮にて(576)音無川《おとなしがは》を入れ、請川にて請川《うけかは》を合はせ、宮井《みやゐ》にて大和より來たれる北山《きたやま》川に會《くわい》し、やうやく巨流《きよりう》となり、蜿蜒《えん/\》※[螢の虫が糸]廻《けいくわい》し、高田、笹川等の細流《さいりう》を容れ、以て海洋に出づ。濶《ひろ》さ三町.長さ十六里九町、すべて舟楫《しう/\》を通ずるも、北山川は、本郡《ほんぐん》に入りて、十四里の長流中、舟楫《しう/\》を通ずる處は僅《わづか》に六里の間なり。本宮《ほんぐう》より船にて熊野川《くまのがは》を新宮に下るに宮井に至る兩岸は層巒《そうらん》起伏《きふく》して、水と共に東に走り、其の少しく踈《そ》なる所、左に高山《たかやま》、右に請川の村落《そんらく》あり。屏風島《べうぶしま》を過くれば、網代《あじろ》が淵は、深潭《しんたん》量るべからざるに、五十丈|許《ばかり》の巨巖、淵《ふち》に臨みて顛倒《てんたふ》せんとし、奇嶮《きけん》眼を愕《おどろ》かす。佛巖《ほとけいは》、三重石《みへいし》等を左右に見て、宮井に至れば、こゝに北山川の長流《ちようりう》落《お》ち曾《あ》ひて、※[さんずい+方]々然《ばう/”\ぜん》として、水流うたゝ洪《おほひ》なり。こゝより船を率《ひ》かしめて、北山川を泝《さかの》ること三里餘にして、玉置口《たまきくち》に至れば、兩郡の岸|窄《せば》まりて、之れを入れば、支那の赤壁《せきへき》も、こゝには遠く及ばざらんとす。即ち名高きどろ八町これにして、詞人《しじん》修して、瀞溪《せいけい》と稱《な》づけたり。(後段に出づ)宮井《みやゐ》より熊野川を下れる兩郡《りようぐん》左右の勝景は熊野遊記によくこれ寫《うつ》せり。其が中を擢擧《てきゝよ》すれば、(577)「和氣村、石崕流曼、與上游異觀、既左嶺※[山/率]然而起、怪巖森々立者、側者、若將翔者、若走者、若神握蛇者、若六首八臂者、且怒且狂、奇形異状、山海王會、不按圖而目撃悚然、右方蒼壁數仞、葛※[草冠/田三つ]覃焉、走二十歩許、古松挿岩隙、得飛泉三、左曰銚子口、右曰布引、各若其名、復左曰蛇蜿、嬰※[草冠/弗]以走、其餘懸水飛泉非傑然者則不爲數、眞熊野之富奇也、【中略】至瀬原村、小流來注、爲鸚鵡川、左山點布黒不、縦横有法、宛然石陣哉、流稍濶、山益潤、舟行緩、目得少間、乍見攅峯若指、曲岸温麗、復上流之所未覩也、右曰大伴崎、右岸斧劈、片々相倚、植髪于頂、乃薪宮山之後也云々」と。更に大八洲遊記に此の川の勝景を記して「若不至瀞谷、其秀可稱述、然比之北上川、兩山稍開、岸上※[草冠/段]葦叢生、惡木※[草冠/弗]以草、間少秀麗、北上川、重※[山+章]夾水突起、無灌莽榛碍※[草冠/聚]眠、況如瀞溪則娟麗無一點瑕疵云々」と評《ひやう》せり。また古へ熊野《くまの》川を下だる船を杉舟《すぎふね》と言へり。和歌に詠《よ》めるもの一二首を掲《かゝ》ぐ。太上天皇「熊野川せきりに渡《わた》す杉舟《すぎふね》のへなみに袖の濡《ぬ》れにける哉」正徹「くまの川山の苔路《こけぢ》は埋もれて雪に掉さす瀬々《せゝ》の杉船」。坪谷氏漫(578)遊記曰「熊野川《くまのがは》の奇《き》は蓋し天下に冠《くわん》たりとは大八洲遊記《おほやしまいうき》の作者も言へり。然《しか》れども吾人《ごじん》の見る所《ところ》を以てすれば、未だ間然《かんぜん》する處なしと言ふにあらず。其の弊所《へいしよ》弱所《じやくしよ》を擧れば、水の甚だ清《きよ》からざるその一なり、兩岸《りようがん》の相開《あひひら》けたる其二なり。山の比較的《ひかくてき》に深からざるその三なり。岩石《がんせき》の多からざる其四なり。されどこれを除《のぞ》きては、瀑《たき》の多き、屈曲《くつきよく》の頻繁《ひんぱん》なる、筏舟の多き、頗《すこぶ》る雅客《がかく》の心を惹《ひ》くものあり。先《まづ》、本宮を出《い》でゝ屏風島を過れば、深潭《しんたん》量《はか》るべからざる網代《あじろ》ケ|淵《ふち》は窈然《わうぜん》として其前に開《ひら》け、五十丈ばかりの大巖《たいがん》の將《まさ》に倒懸せんとして茲に重れる、殆《ほとん》ど過《す》ぐる者をして膚《はだへ》に粟《あは》を生ぜしむ。佛岩《ほとけいは》、三重岩《さんぢうのいは》等を左右に見て宮井《みやゐ》に至れば、北山《きたやま》の長流東より來り會し、風光《ふうくわう》愈よ美なり。小舟《こふね》を過ぎて揚枝《やうし》に至れば、一度開けし山再び迫《せま》りて、その兩岸の山《やま》の高《たか》き、處々に小瀑《こたき》のかゝれる、宛然《ゑんぜん》支那|大陸《たいりく》の山水を望《のぞ》むの思ひあり。川《かは》は或は屈曲を爲して、深山の中に入り、右に布引《ぬのびき》の瀧《たき》、銚子口《てうしぐち》の瀧《たき》、左に吹雪《ふぶき》の瀧等を懸《か》く。此間、山影は山影と相爭ひ、溪流《けいりう》は溪流《けいりう》と相戰ひ《あひたゝか》、水|鳴《な》り、石|走《はし》りて、舟の震盪《しんたう》すること甚し。淺里《あさり》(579)相賀《あひが》等皆なこの水聲|山色《さんしよく》の中に散在せる山村《さんそん》なり。瀬原《せはら》に至つて、山やゝ舒《の》び、水漸く緩《くわん》に、遂に新宮《しんぐう》の平地に出づ」。又曰「大八洲遊記の作者は、口を極《きは》めて熊野川を賞揚しながらも、猶ほ熊野川《くまのがは》の北山《きたやま》川に及ばざること遠《とほ》きを言へり。蓋し、山深く、流れ急に、瀞《どろ》八|町《ちやう》の如き一大寄景を有したればなるべし。この川の勝を探《さぐ》らんと欲《ほつ》せば、熊野川の河舟を小舟村《こふねむら》にて捨て、四瀧《したき》の渡《わたし》を渡りて、川の右岸を三里ほど上流に溯《さかのぼ》らざるべからず。この間、水は山に從つて幾轉囘《いくてんくわい》を爲し、竹筒《たけとう》村の峠を越ゆれば、忽然《こつぜん》として、山の彼方《かなた》なる木津呂《きつろ》に出づ。而して瀞八町の入口なる玉置口《たまきぐち》は、この地より僅に一渡頭を隔《へだ》てたるのみ」。山崎氏地誌曰「熊野川は大和|十津川《とつかは》の山中を出でて南流し、本宮《ほんぐう》以下《いか》舟を通ぜり。されど其流域は深山窮谷《しんざんきうこく》の中にあるを以て、輕※[舟+可]《けいか》の他これを遣《や》るに途《みち》なく、恰も駿河《するが》の富士川・遠江の天龍川《てんりうがは》に似たり。されど此川は大和吉野郡及び紀伊《きい》の北部に欝蒼《うつさう》として林を爲せる山林より伐《き》り出《いだ》せる材木の運搬《うんぱん》に於ては自然《しぜん》の好交通路《こうかうつうろ》を爲し、日々《ひヾ》筏《いかだ》に編《あ》みて下流に送る數は殆《ほとん》ど數百を以て數《かぞ》ふるに至れ(580)り。其|支流《しりう》たる北山川《きたやまがは》また甚だ其《その》便《べん》あり。熊野川は下流《かりう》を新宮川と稱し、其河口には材木《ざいもく》積《つ》んで山を成《な》せり。されど、其河口には良港《りようこう》あるを見ず」。この河岸にはまた石炭の産出多し。此は後段に記せん(【尚、熊野川上遊及び左岸の名勝に就ては後段に説く所あるべし】)
 瀞《・ドロ》八町〔三字右●〕 當國の絶勝《ぜつしやう》として世に名高き瀞《どろ》八|町《ちやう》は、南牟婁《みなみむろ》郡に屬する熊野《くまの》川の一支流|北山《きたやま》川に沿へる多度及び玉置《たまき》との間凡そ八町ばかりの稱にして、地勢上《ちせいじやう》殆んと大和に屬し、南牟婁郡の木《き》ノ|本《もと》町よりは約《やく》八里餘の北《きた》にあり。奔流《ほんりう》此處に至りて淀《よど》みをつくり、水面《すゐめん》鏡《かゞみ》の如く滑《なめら》かにして、兩岸の絶壁《ぜつぺき》は屏風を立てたる如し。溪流《けいりう》の深きところ十五|尋《じん》、舟を此處に泛《うか》べて遊《あそ》ばんか、赤壁《せきへき》の勝《しやう》もまた啻《たゞ》ならず。此の溪或は山崩れの爲め河水を閉塞《へいそく》してかゝる一種|湖水《こすゐ》に似たる状態《じやうたい》を生ぜりと云ふ説《せつ》あれども、若し此の湖が山崩《やまくづ》れの爲め河流《かりう》閉塞《へいそく》せられて生じたるものとせば、水《みづ》餘《あま》りに深きに過ぎ、兩岸數十丈の絶壁《ぜつぺき》はまた閉塞湖《へいそくこ》として説明する能《あた》はざる所なり。蓋《けだ》し思ふに往古茲に一|瀑布《ばくふ》ありて浸蝕作用《しんしよくさよう》の爲めに漸次退却したる遺跡《ゐせき》ならんか。地は山間に偏し交通不便
 
(581)〔瀞八丁、写真省略〕
 
の處にあるに拘《かゝは》らず、旅人《りよじん》の杖《つえ》を曳《ひ》くもの多き、また其の如何に風光《ふうくわう》の優絶《いうぜつ》なるかを知るに足らん。又此の上流《じやうりう》十|數町《すうちやう》の處にも新瀞《しんどろ》八町とも稱すべき所ありて其の風光の奇絶なる敢《あ》へて舊瀞《きうどろ》八|町《ちやう》に劣《おと》らず。坪谷氏曰「瀞《どろ》八|町《ちやう》の景を見んと欲せば、玉置口《たまきぐち》にて舟を※[人偏+就]ふを必要とす。水子《すゐし》舟《ふね》を引《ひ》くこと二三町、溪《たに》の入口《いりくち》に至りて、それを放つ。その風景の娟麗《けんれい》にして、中に無限《むげん》の寂寞《せきばく》を籠めたる、天下またこの奇景《きけい》ありやと驚かるゝばかりなり。大八洲遊記《おほやしまゆうき》にその景を叙《じよ》して曰、「其崖※[直三つ]者如壁之削、圓者如釜之覆、(582)横者如屏檣之環、蹲者如虎豹、層者如樓閣、縫裂爲紋、大者加氷裂、細者如殻※[糸+芻]、或附※[こざと+施の旁]、或平衍、可歩可攀、有巖洞、※[穴/目]窕似神仙之居、有屹立山中者、爲蓬壺之容者、一崖未畢、一崕又至、應接不暇、盤亙※[手偏+賛]列、如此者凡八町|云々《うん/\》」よく形容して眞景《しんけい》を寫したりといふべし。且、同書《どうしよ》に畫人依岡三交云、僕嘗遊豐之耶馬溪、其實不及斯溪之奇也、と爾もありぬべし。而して、崖《がけ》の盡《つく》る所、蕭然《しようぜん》たる人家三四軒、請《こ》へば即ち人をして泊《はく》せしむ。地を田戸《たと》と稱し、大和十津川《ヤマトトツカハ》に赴くの間道《かんだう》に當る。此|溪《けい》の發見は明治以後《めいぢいご》にありて、石井三重縣知事が縣下|巡囘《じゆんくわい》の時、始めて此《この》溪《たに》あるを知り、大阪の文章家《ぶんしやうか》藤澤南岳《ふぢさはなんがく》此地に遊《あそ》びて、其|奇《き》を記せしより、遂《つい》にこ天下《てんか》に名あるに至れるなり」。藤澤南岳の泥谷《でいこく》(探奇小録一節)に曰「九日。【八月】洞溪《どうけい》に遊ぶ。溪は竹筒を距《さ》ること一里、而して山路《さんろ》險惡《けんあく》。故に舟以て之れを探《さぐ》る。北山川を泝る一里。湯之口《ゆのくち》を過ぎて小川に到る。勢之|入鹿川《いるかがは》來注す。迂囘《うくわい》數里。玉井口《たまのゐぐち》に至る。完直二子の山路よりせし者。岸《きし》に立ち舟《ふね》を招《まねい》て以て乘る。乃《すなは》ち曰ふ。舟に後《おく》るゝこと二|時《じ》にして而して發す。(583)至れば即ち舟《ふね》に先だつこと一時と。舟路《ふねぢ》の迂《う》なる知る可き已。一棹して崖を廻れば、則ち溪口峻崖數尋、屹立《きつりつ》して門を作《な》す。門之内は左右《さいう》石壁《せきへき》、直立千尺、頂《ちやう》に稚松雑木を戴《いたゞ》き、一撮土無き者の如し。水《みづ》は則ち深緑色《しんりよくしつ》にして、巨巖底を作すに似たり。而して深さ數十尋、測《はか》る可《べ》からざる也。漾々《やう/\》として流れず。舟子《ふなこ》櫓《ろ》を按《あん》じ緩々《くわん/\》として進む。崕壁幾曲觀、曲《きよく》に隨ひて改《あらた》まり、崖岩盡く奇なり。其最も奇《き》なる者。右崖にして而して跌石、蛭岩《ひるいは》、牌石、※[奚+隹]冠石《けいくわんせき》、大黒石《だいこくせき》、條石、左崖にして而して屏風巖《べうぶいは》、船岩、洽門、釜洞、皆な觀《み》る可《べ》し。釜洞、口は僅《わづか》に身《み》を容《い》れ、其中|嵌空《かんくう》、五六十人の坐《ざ》を爲す。實に奇觀《きくわん》也《なり》。之れを要するに、一巖一洞《いちがんいちどう》を以て論ずべき者に非ず、蓋《けだ》し左右之壁、奇状萬殊相對して僅に十餘歩、左凸《さとつ》すれば則ち右凹《うあふ》、一聳ゆれば則ち一伏し、呼應《こおう》映《わう》發して自然《しぜん》に章を成す、仰《あふ》げば則ち青天《せいてん》、帶の如く、俯せば則ち碧潭、絶淨、恍として洞中《どうちう》に入《い》るに似《に》たり、土人呼で土呂《どろ》と爲《な》す。字、泥を用ゆ。方言に、水流《すゐりう》の緩縵なる者を泥《どろ》と爲すと云ふ。其字不雅、故に余《よ》改《あらた》めて洞溪《どうけい》に作る。洞川《どうせん》村の例に從ふ也。(584)嵒品を審視《しんし》するに。皆《みな》斧劈《ふへき》鉞割する者、豈《あ》に鬼神《きじん》、一夜にして闢成する所なる無らん乎。倪黄《げいくわう》諸家《しよか》の諸法皆な具はり、以て畫理《ぐわり》を悟《さと》る可く。亦以て文章《ぶんしやう》を悟る可し。溪の長さ八丁、八丁之外は、皆な凡山常水《ぼんざんじやうすゐ》、奇《き》と謂つ可し矣。左崖は則ち和歌山縣《わかやまけん》に屬し、右崖は則ち三重縣に屬す。東口之外は、則ち大坂府《おほさかふ》の管する所、亦《また》奇《き》なり。東口に近づきしに、忽《たちま》ち衡門の茅屋を見る。痴想《ちさう》して以爲らく。赤松碧虚之徒が居る所と。舟を繋《つな》ぎて※[草冠/遽]に上れば。則ち神下村《かみしもむら》也《なり》。餐を傳へて而して去り、舟《ふね》に上《の》りて再び溪中を過ぐ。道骨《だうこつ》、頓《とみ》に具はるを覺え、怡然自得《たいぜんじとく》す。柔ら櫓嘔鴉、日暮に竹筒に達す。」
 松澤炭田〔四字右●〕 本炭田は九重《くぢう》村及び三津の村に亙り、熊野川岸にありて、採掘面積《さいくつめんせき》四十四萬二百十四|坪《つぼ》を有す。地質《ちしつ》は同じく第三紀泥板岩及び砂岩《すないは》にして、地層《ちさう》の走向は北二十度東にして十八|度《ど》東南東《とうなんとう》へ傾斜《けいしや》す。斷層《だんさう》は階段斷層《かいだんだんさう》をなして、熊野川方面に降下し、二|斷層《だんさう》の内《うち》一は直立落差《ちよくりつらくさ》三十一米突、他《た》は二十一米突あり。炭層《たんさう》は二|枚《まい》のハサミを有し、三尺八寸あり。第二|番坑《ばんかう》引立《ひきたて》の所にある小斷層面《せうだんさうめん》には、母岩に硫化鉛《りうくわえん》・硫化銅(585)等の局部的沈積《きよくぶてきちんせき》したるものあり。而して炭中《たんちう》に百分一、八五の硫黄《いわう》を含むは一大欠點と云ふべし。明治三十五年の無煙炭産額《むえんたんさんがく》一萬三千七百九十七噸なり。
 音川炭田〔四字右●〕 本炭由は九重村《こゝのえむら》にありて、採掘面積《さいくつめんせき》凡そ十萬五千九百五十坪を有す。運搬は軌道《きだう》によりて山下に出し、船載《せんせき》して熊野川を下し、新宮町《しんぐうまち》に輸送す。地質は第三紀層の泥板岩及び砂岩《すないは》にして、砂岩の一部は礫岩状を呈《てい》す。炭層は十津川南岸に露出《ろしゆつ》し、其の露頭《ろとう》に三個の坑口《かうこう》を開く。炭層の厚《あつ》さ四尺にして、ハサミの厚さ四寸なり。本坑區の南部に一大炭層あり。走向北六十度西、傾斜《けいしや》五十一度三十分|東北《とうほく》を示《しめ》し、直立落差二十米突あり。
 奥谷炭田〔四字右●〕 本炭田は音川《おとかは》炭田を距る西南十餘町、海拔《かいばつ》四百二十四米突の山上にありて、採掘面積《さいくつめんせき》十萬五千九百四十九|坪《つぼ》を有す。採炭《さいたん》は一度|音川炭田《おとかはたんでん》に出だし夫れより順路新宮町に運搬《うんぱん》す。地質《ちしつ》は同じく第三|紀層《きさう》にして、大斷層二あり。一は北二十度東五十度東南南へ傾斜《けいしや》し、直立落差《ちよくりつらくさ》六米突餘あり、他《た》は其の走向傾斜に於ては略《ほ》々同樣に(586)して、直立落差三|米突《めいとる》あり。其《その》炭質《たんしつ》又《また》無煙炭《むえんたん》なり。
 宮井炭田〔四字右●〕(一名尾崎炭由) 本炭田は九重村《こゝのえむら》字《あざ》宮井《みやゐ》にありて、音川炭田に接近《せつきん》し、採掘面積十八萬千八|坪《つぼ》を有す。多數《たすう》の坑口中|現今《げんこん》抹掘《さいくつ》せるもの三|坑《かう》にして、第一|番坑《ばんかう》はハサミ三|枚《まい》ありて、其の中盤《ちうばん》より第三|紀《き》木葉化石《このはくわせき》を出だす。本炭田《ほんたんでん》は直立落差二十米突餘の大斷層《だいだんさう》數多《あまた》ありて炭層膨大すれば必ず斷層|近《ちか》きにありて、炭質《たんしつ》又《また》不良《ふりやう》なりといふ。明治三十五年の無煙炭《むえんたん》産額《さんがく》は一萬七百三十七噸なり。
 再び中邊地大邊地の會合驛天滿に戻り、更に熊野街道を進まんに、天滿の北方に接して、濱ノ宮あり。
 濱宮《・ハマノミヤ》〔二字右●〕 那智村に屬し、南は大字|天滿《てんまん》に接す。那智川の河口にあり。この地《ち》は、神武天皇紀に進到熊野荒阪津(【亦名丹敷浦】)因誅|丹敷戸畔《ニシキトベ》者となるもの即ちこれなりと稱し濱宮《はまのみや》の名また天皇が行宮《あんぐう》を置かせ給へりしに起因《きいん》せりと傳《つた》ふ。今、村の濱宮神社(渚壽と稱す)の境内《けいだい》に若宮《わかみや》と呼び、天皇|頓宮《とんぐう》の址《あと》を傳ふ。また丹敷戸畔の祠《ほこら》あり。石の寶殿《ほうでん》にして、丹敷戸畔《にしきとべ》命と稱す。村の産土神《うぶすなかみ》たり。本社の大神《おほかみ》としては、天照皇大神に彦火(587)火出見尊、大山祇命を配し祀る。欽明天皇《きんめいてんわう》二十四年の創建《さうけん》に係り、慶長元年の再建といふ。古くは、渚《なぎさ》の宮《みや》と稱し、源仲正が「よもすがら沖の鈴鴨《すゞかも》羽ふりして渚《なぎさ》の宮にきねつゞみ打つ」等《など》と詠《よ》みたりし宮即ち是れなりといふ。
 補陀落《・フダラク》寺〔四字右●〕 濱宮《はまのみや》の傍にあり。天台宗、白華山と稱し、本尊千手觀音は無双《むさう》の靈佛《れいぶつ》と稱す。もとは濱宮《はまのみや》の供僧坊にして、欽明天皇《きんめいてんわう》朝三十年の創立《さうりつ》に係り、文武天皇|宸翰《しんかん》の日本第一|補陀落寺《ふだらくじ》の遍額《へんがく》を眉上《びじやう》に掲ぐ。その額字の左右には昇降《せうかう》二樣の龍文《りうもん》あり、星霜《せいさう》の久しき、額面は既に半ば朽損《きうそん》せり。本堂は五間四面、寶形造《はうけいざう》にして、文化四年の改造《かいざう》に係れど、毫《がう》も古制を變ぜずといふ。また信徒《しんと》の者の、國々の靈場《れいじやう》を巡拜する時、「補陀洛《ふだらかう》やきしうつ浪は三熊野《みくまの》の那智《なち》の御山にひゞく瀧つ瀬《せ》」と誦する歌は、華山《くわざん》法皇の當寺にで詠《よ》ませ給ひたる御製《ぎよせい》なりと稱す。
 濱宮の浦は中世錦浦に作りしが、今は赤色の浦と稱す。沖に山成島ありて、平語並に盛衰紀に維盛入水のことを傳ふ。平語曰く「三月の御山の參詣、事故なく遂げ給ひしかば、濱の宮と申し奉る王子の御前より、一葉(588)の舟に竿さして、萬里の滄海にうかび給ふ。遙の沖に成りの島といふ所ありき。中將それに舟漕ぎ寄せさせ、岸にあがり、大なる松の木を削りて、沈く/\名殘をぞ書きつけられける。祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公、法名淨蓮、三位中將維盛、法名淨圓、年二十七歳、壽永三年、三月二十八日、於那智之沖入水す、と書きつけて、舟に乘り、沖へぞ漕ぎ出で給ひける。思ひ切りぬる道なれども、今はの時にもなりぬれば、さすが心細く悲しからずといふことなし。頃は三月二十八日の事なれば、海路遙に霞みわたり、哀れを催すたぐひがな。只大方の春たにも、暮れ行く空は物うきに、況や是れは今日を最後、只今限りの事なれば、さこそは心細かりけめ。沖の釣舟の波に消え入るやう覺ゆるが、さすが沈みも果てぬを見給ふにつけても、御身の上とや思はれけん。己が一つら引きつれて、今はと歸る雁かねの、越路をさして鳴き行くも、故郷へ言傳せま欲しく、蘇か故國の恨みまで、思ひ殘せる限りもなし。こはされば何事ぞや、猶妄執の盡きぬとこそ思ひかへし、西に向かひ、手を合はせ、念佛し給ふ心の中にも、さても都には、今を限とはいかでか知るべきなれば、風の便りの音づれをも、今や/\とこそ待たんすらめと、思はれければ、合掌をみだり、念佛を止め、聖に向かひて宣ひけるは、哀れ人の身に妻子といふ者をば持つまじきものかな。今生にて、物を思はするのみならず、後世菩提の妨げとなりぬる事こそ口惜しけれ。只今も思ひ出でたるぞや。かやうの事を心中に紛せば、餘りに罪深むる間、懺悔するなりとぞ宣ひける。聖も哀れに思ひけれども、我さへ心弱くしては叶はじとや思ひけん。涙おし拭ひ、さらぬ體にもてなし、(中略)少しも過(589)ち給ふべからずとて、頻に鐘うち鳴らし、念佛を進め奉れば、中將然るべき善知識と思しめし、忽に妄念を飜し、西方に向かひ、手を合はせ、高聲に念佛百遍ばかり唱へ給ひて、南無と唱ふる聲共に、海にぞとび入り給ひける」。なほ、風雅集には、建禮門院右京大夫の右近衛中將維盛熊野浦にて失せにけるよし聞きてよみ侍りける、といへる前書ありて、其の歌を載す「かなしくもかゝるうきめをみくまゝに浦半の浪に身を沈めける」。爾るも實は入水せず、入水せしやうにして、竊に色川村に遁れ匿る、今同の村の大字色川(口色川は那智瀧の西一里半にあたれり)に清水某氏ありて維盛の後裔なりといふ。不審。宇久井村に濱宮の西一里にあり。東は佐野村に接す。佐野、古は狹野に作る。原史代神武天皇の越えさせ給ひしはこの地なりと説く。海岸には松原連續して、風景頗る佳し。またこの浦には青黒交雜せる圓平形の小石堆疊せり。潤澤平滑にして、恰も琢磨を經來れるが如し。世俗、これを那智黒石と稱し、試金石または碁石として森に行ゆ。蓋し、熊野山の上游北山川瀞八町附近に於て發育せる變質粘板岩の熊野川流水の爲めにその地まで運搬せられ、更に海波の爲めに濱邊に打上げられたるものなるべしといふ。大八州遊記曰「佐野小聚落也、神武帝紀所謂、越狹野至神邑也、濱海小礫堆疊、大如碁子、黒白相間、最可愛也、世呼爲那智黒石者是也」。紀曰「皇軍至名草邑、則誅名草戸畔者、遂趣狹野、而到熊野神邑、且登天磐舟仍引軍、漸進海中、卒遇暴風、皇船漂蕩、而進至熊野荒津坂」。吉田氏曰く「按に狹野は神武天皇々師進撃の路程を推定する中枢と謂ふべし。荒津坂丹敷浦は佐野神倉山の以東にあるべきことを以て證明するに足らん。一説、荒津坂は佐野以西の那智浦にあると云ふもの信據しがたし」。萬葉集「くるしくもふりくるあめか神之崎(みわかさき)狹野のわたりにひともあら(590)なくに」、「三輪の崎ありそも見えずなみたちぬいつくへ行かむよき道はなし」。後鳥羽院「忘れすよ松の葉こしに波かけて夜ふかく出でし佐野のつきかげ」。三所圖會曰「三輪崎村は、御手洗坂の下なる浦里なり。新宮より此所まで行程一里、鯨つきの漁場にして、鯨舟數艘あり。此より佐野の邊海上はるかにして際もなし。謂ゆる風景の地なり」。
 三輪崎《・ミワサキ》町〔四字右●〕 人口四千三百を有《いう》する大村にして、一小市街をなし、捕鯨《ほげい》の業《げふ》盛なり。孔子《クシ》島、鈴島の二島は海岸に近く波間に峙《そばだ》ち、風光頗る明媚《めいび》なり。一地志曰「三輪崎《みわさき》は紀州南部の都邑|新宮《しんぐう》町をその附近に有《いう》するのみならず、新宮町の海濱《かいひん》、熊野川の河口、沙濱《しやひん》平滑《へいこつ》にして船舶《せんぱく》の寄泊に便ならざると、紀州山中《きしうさんちう》の材木が熊野川によりて多く搬出《はんしゆつ》せらるゝとによりて、頗《すこぶ》る交通の要衝《えうしよう》を爲し、船舶常にその灣内に輻湊す」。
 新宮《・シングウ》町〔三字右●〕 熊野川の山を出て海に注がんとする處にあり。紀州南部《きしうなんぶ》の一都邑にして、郡役所、裁判所、税務署《ぜいむしよ》、新宮《シングウ》中學校等皆此地にあり。地勢は山《やま》を負ひ、海に添《そ》ひ、川に臨《のぞ》みて、百貨の集散《しふさん》甚だ盛なり。只《たゞ》、熊野川《くまのかは》の河口|泥沙《でいさ》深くして舟を繋《つな》ぐに足らざるが爲に、一里以西の三輪崎《みわざき》を以て、汽帆船舶の碇繋所《ていけいじよ》と爲せるを不便《ふべん》とす。人口(591)一萬六千餘を有し、市街《しがい》の光景甚だ整頓《せいとん》せり。新宮城址は市街の西一|丘阜《きうふ》の上にありて、源平《げんへい》の頃、新宮十郎|義盛《よしもり》の居城たりしもの、維新前は水野氏《みづのし》これを領《りやう》し、一萬五千石を食《は》めり。和歌山市より此所《こゝ》に至る五十七里十九町余といふ。町に丹鶴山|東仙寺《とうせんじ》あり、源爲義の息女《そくぢよ》にして熊野別當《くまのゝべつたう》教眞が妻女《さいぢよ》たりし鳥居禅尼の建立《こんりふ》と稱す。また、無量壽寺《むりようじゆじ》あり、法灯國師自筆の畫像讃《ぐわざうさん》及び唐畫《たうぐわ》の佛涅槃畫像を所藏《しよざう》すと聞く。猶、神武紀に謂ゆる軍至名草邑、逐越|狹野《さの》、至熊野神邑とある熊野神邑《くまのしんゆう》はこの地を指すものとも傳ふ。參考本盛衰記に文覺《もんがく》この浦へ着船のこと見えたり。日本水路志曰「新宮はこの近海の和船貿易《わせんばうえき》の大市場にして、その貿易品《ばうえきひん》は重に平底舟にで、熊野川《くまのがは》より落し來る木材及び下等《かとう》の石炭を輸出《ゆしゆつ》す(他にオミカゲ石の産出《さんしゆつ》もあり)。川口より入ること一海里半にして南岸《なんがん》に新宮《しんぐう》の大邑あり。邑の前面《ぜんめん》に位する新宮《しんぐう》城は今や敗壞に屬すと雖も、海面《かいめん》より望めば樹間に白壁《はくへき》を現し、極めて顯著《けんちよ》なり云々」。大八洲遊記曰「新宮城、即水野侯所築、因阜、疊壁皆疊石、拔地數十丈、城櫓睥睨、皆已毀撒、其地北枕(592)熊野川、河川環城入海、河北則峯岫、蜿蜒起伏、沿海連伊勢、西瞰新宮坊市、煙火三千、樓閣參差、其脊則神倉諸山。聳立排空、引尾南走、南則岡阜陀※[こざと+施の旁]、東則平畤桑麻、盧合蔭映、※[しんにょう+堯]以蒼溟、海天渺々、極目無際、舟帆出没、登覧之美、在明光浦上」。
 熊野速玉《・クマノハヤタマ》神社〔六字右●〕 新宮《しんぐう》町の北部に鎭座し、世に熊野新宮神社《くまのしんぐうじんじや》と呼び、現今、縣社《けんしや》に列す。昔時は、那智熊野《なちくまの》、本宮熊野と共に熊野三山《くまのさんざん》の一として、社殿の壯麗三山中の第一位に推《お》されしが、明治十七年|舞馬《ぶま》の災に罹りて炎上し、社殿《したでん》一宇《いちう》を殘《のこ》さず灰燼に歸せり。後、二十七年に至り再營の運びに至りしが、また昔日《せきじつ》の盛觀《せいくわん》はこれを觀るになく。當社、初めは旡漏《むろ》郡|切部山《きりべやま》の西方北海岸なる玉那木淵の上の松樹に天降《てんかう》ありしが更に熊野新宮の南、神倉山《かんのくらやま》に渡り給ひ、次に新宮の東、阿須賀神社《あすかじんじや》の北、石淵《いしぶち》の谷《たに》に勸請《くわんじやう》あり、後、景行天皇《けいこうてんわう》の五十八年に至《いた》りて當所《たうしよ》に遷徙《せんし》鎭座《ちんざ》あり、新宮と稱し奉ると、これ縁起《えんぎ》の略なり。列聖《れつせい》のこの社に尊敬《そんけい》ありしこと頗《すこぶ》る厚く、仁徳、天武、平城、清和、宇多、華山、白河、堀河、鳥羽、後鳥羽、土御門、後嵯峨、龜山等|列聖《れつせい》の行幸《ぎやうかう》あ(593)らせ給ふ中に、平城天皇は五回、鳥羽《とば》天皇は八回、後白河天皇は十五|回《くわい》に及《およ》ばせ給ひしといふ。地名辭書「明治十六年の回禄《くわいろく》、神與庫《みこしこ》、寶藏は幸に難《なん》を免《まぬか》れたり。故に神與一基、神幸用船一隻其他|神寶類《しんぱうるゐ》二十六種は美術工藝品《びじゆつこうげいひん》の目を以て明治三十一年國寶簿に登禄す。ことに木造着色|夫須美神坐像《ふすみじんざぞう》一|躯《く》、木造着色伊邪那美神坐像、一躯は同時に國寶に入る。猶《な》ほ著名《ちよめい》なるは古鞍竝に輿鎧一具|御劍《みつるぎ》二口鉾四本弓矢平胡※[竹冠/禄]等また鏡手函櫛笥の類|中古《ちうこ》近古《きんこ》の帝王《ていわう》諸相《しよしやう》の家より進献《しんけん》せしめたるもの多し。古簡は士御門天皇詠進和歌三卷を始《はじ》め文書類數十通あり」。檢校法親王《けんげうはふしんわう》「椰《なぎ》の葉《は》にみかける露の速玉《はやたま》を出す處の宮《みや》や光りそふらん」。中原師光朝臣《なかはらもろみつあそん》、熊野の新宮にてよみ侍る、「天くたる神やねかひをみつしほの湊に近きちぎのかたそ木」定家卿後鳥羽院、熊野《くまの》にまゐらせ給ひけるとき、新宮三節御會に 庭上冬菊といふ題をよめる「露《つゆ》おかぬ南の海《うみ》の濱《はま》ひさし久しくのこる秋《あき》のしら菊《ぎく》」。
 阿須賀《・アスカ》神社〔五字右●〕 字|上熊野《かみくまの》に鎭し、新宮の攝社《せつしや》とす。當社の神寶類《しんぱうるゐ》十四種は美術工藝品(594)として近年|國寶《こくはう》に列《れつ》せられたり。
 神倉《・カンノクラ》山〔三字右●〕 熊野速玉神社《くまのはやたまじんじや》の南八町に峙立す。四町の磴道を登《のぼ》り、山頂《さんてう》に至る。山頂には一巨石あり。即ち神武紀《じんむき》に謂《いは》ゆる到熊野神邑且登|天磐盾《あまのいはたて》仍引軍、漸進海中とある天磐盾これなり。舊熊野速玉神社《きうくまのはやたまじんじや》の御坐所とす。一書曰「山頂の巨石は、大さ四五丈ばかりにして、形|蝦蟆《がま》の如き巨石ありて、これに差《やゝ》小《ちいさ》きもの、三つ四つ相倚《あひよ》りて洞形《どうけい》をなし、こゝに高倉神社《たかくらじんじや》あり。神武天皇、此の地に至《いた》らせ給ひたる時、熊野《くまの》の人《ひと》、高倉下《たかくらじ》といふ者《もの》、夢兆《むてう》によりて、靈劍《れいけん》を庫中に得て、これを天皇に献《けん》すること、書紀《しよき》及び古車記に見えて、庫《くら》は即ち此の山ゆゑ、後に神倉《かみくら》山と稱し、祠《ほこら》を建てゝ高倉下を祀《まつ》り、速玉神社の攝社《せつしや》として、社殿を朝廷幕府《てうていばくふ》にて造營し、壯麗《さうれい》を極めたるが、是も今は形《かたち》ばかりのものにて、昔《むかし》を忍ぶ社殿の欄間《らんま》に、人物、鳥獣、草木等を刻《きざ》みたる板《いた》八枚を本社に留《と》どめぬ。此の山よりは、市街を瞰下《みおろ》し、滄海《さうかい》を望み、絶景《ぜつけい》畫がくが如し」。續古今「三熊野の神倉山《かみくらやま》の石《いし》たゝみのほりはてゝも猶《なほ》祈《いの》るかな」。
(595) 徐福墓〔三字右●〕 新宮城址の東海岸《とうかいがん》なる字熊野地の田圃《たんぼ》の中にあり。老樟《らうしよう》二樹《ふたもと》立《た》てる本に、秦徐福之墓《しんぢよふくのはか》といへる五字を題す。徳川頼宣の建《た》つる所と言ふ。墓《はか》を距《さ》る三町ばかりにして小※[土+龍]七所あり。徐福《ぢよふく》に從ひし者の墳《つか》なりと傳ふ。徐福《ぢよふく》はもと隣郡南牟婁郡|木《き》の本《もと》町の束、波多須浦《はたすうら》なる矢賀《やいが》の磯へ着船し、暫《しばら》く居りて、後新宮等へ移《うつ》り住みたるものとぞ。波多須古へは秦氏《はたす》に作り、矢賀の丸山には、徐福の祠《ほこら》ありしが、海嘯のために流亡《りうばう》せしよし。徐福、秦の苛政《かせい》を厭ひ、始皇帝が不老不死の仙藥《せんやく》をもとむるを欺きて、童男童女五百人を率《ひき》ゐ、仙藥を蓬莱山《ほうらいさん》に採《と》り來たるとて、穀類《こくるゐ》の種、耕作《こうさく》の器具等を船に積み遁《のが》れ出でゝ我が國に殖民《しよくみん》したりとなり。其の來《き》たりたるは、孝靈天皇《かうれいてんのう》の御時といふ。本朝通鑑に、七十二年|秦徐福來《しんぢよふくらい》とあり。又神皇正統記には、始皇《しくわう》仙方《せんはう》を好みて、長生不死《ちやうせいふし》の藥を日本にもとむ、日本より、五|帝《てい》三王《さんのう》の遺書《ゐしよ》をかの國にもとめしに始皇《しくわう》悉くこれを送《おく》るとあり。
 新宮より猶ほ熊野街道を進めば、幾程もなく南牟婁郭との境界に至る。熊野川の河口左岸には鵜殿村あり。(596)新宮より此所に至る二里二十八町といふ。街道は是より井田、阿田和、有馬、木(ノ)本、曾根、三木里の諸邑を經由して北牟婁郡に入り、尾鷲より馬瀬、長島、を經て、遂に伊勢國に入る。南北牟婁郡は、現今三重縣の管治に屬せり。一書曰「南北牟婁の地、僻在すと雖も、海に汽船の定期航海ありて、北牟婁の長島、島勝、尾鷲、九木及び南牟婁の二木島、木(ノ)本諸港に日々寄港し、陸には熊野街道ありて、南勢より牟婁を貫通して、主要の都邑を聯絡し、その他の港浦皆な艀舟の便を備へ、交通機關、唯鐵路の敷設なきを恨むのみ。其の山は森林蓊欝、營林の合理的にして、材質の完美、殆と全國に匹儔なく、其の海は暖流岸を洗ふて魚族群至し、漁獵の利勝けて貲るべからず。山水の風光は雄偉にして瀟洒、之に對すれば心曠く神旺し、塵襟忽開豁を覺え、稱して以て天下の絶勝と爲すべきあり。殊に冬季の温暖なる、草木の開花伊勢に比して早きこと1ケ月餘なるを以て避寒地として最も適良なるを知るに足る」。鵜殿村の北方にして、小船村大字鮒田には武藏坊辨慶生家址なるものあり。古は、周回九尋に餘る大樟樹繁茂せしが、寛政の頃枯朽し爾後碑を建てゝこれを表標す。楊枝村より舟行三里餘、音無川の下游とす。また鮒谷の近傍相(ノ)谷村より蜜柑の算出多し。木(ノ)本より鮒田への里程九里といふ(熊野川の項參照すべし)。
 布引瀧〔三字右●〕 入鹿村大字大河内にありて、郡治|木《き》ノ本《もと》町より凡そ九里といふ。落下凡四千潯、巖石《がんせき》に循うて落ち、寔《まこと》に布《ぬの》を引《ひ》けるが如く、一大素練を懸《か》くるが如し。瀞《どろ》八|町《ちやう》より舟行して上川村楊枝に上降《じやうりく》せば同所より陸程一里にしてこの瀧に達すべし。
(597) 鵜殿より木(ノ)本に至る七里二十三町とし、熊野川邊より木(ノ)本に間一帶の磯濱これを七里が濱といふ。その中間木ノ本の西南四里二十八町に阿田和あり。古來、捕鯨場として名高し。
 木《キ》ノ本《モト》町〔四字右●〕 和歌山市《わかやまし》より六十四里二十町を隔《へだ》て、更に三重縣《みへけん》治へ四十一里十三町といふ。南牟婁《みなみむろ》郡の首邑にして、實に南紀|屈指《くつし》の都邑なり。地勢、西北には一帶の長丘|連卓《れんふ》を負ひ、東は滄渺《さうびやう》たる大洋に面し、人口四千六百七十を有《いう》す。舊時は紀藩より代官所《だいくわんしよ》を置きてこの郡を統治《とうぢ》し、今に至るも郡役所、税務署、區裁判所等の設置《せつち》あり。汽船《きせん》この地に寄港して、貨物の交易《かうえき》尤《もつと》も自在《じざい》なり。尾鷲《をはせ》へ陸程十一里、海路二十浬といふ。猶《な》ほ南牟婁の名勝を探《さぐ》るにはまづこの海路《かいろ》この地に上陸し、此所《こゝ》を中心として巡遊《じゆんいう》するを便利《べんり》とす。
 花窟《・ハナノイハヤ》〔二字右●〕 木《き》ノ本《もと》町の西南五町余、有井《ありゐ》村大字|有馬《ありま》の海邊にあり。日本書紀の一書に見ゆる伊弉丹尊の御陵墓なりとなすもの即ちこれとす。巨巖《きよがん》壁立《へきりつ》すること凡そ二十七間正面には方三間ばかりの壇《だん》を作《つく》り、玉垣《たまがき》をめぐらし、拜所を設く。花窟《はなのいはや》の名は増基法(598)師の紀文に始《はじ》めて見ゆる所、蓋《けだ》し、花を以て祭《まつ》れるよりその名起れるなり。下より十間ばかりの上方には大略《たいりやく》五尺四面の洞穴《どうけつ》あり。土人御カラウドといふ。祭日《さいじつ》は毎年二月二日、十月二日の兩度《りやうど》にして、長繩《ながなわ》を以て窟《いはや》の上《うへ》より前なる肘松樹《まつのき》にかけ、これに繩を編みて造《つく》れる幡《はた》三|旒《りう》をつなぎ、幡《はた》の下には種々なる花《はな》を括《くゞ》りて神前に供ふ。祭事《さいじ》頗る寄古なり。また、窟《いはや》の傍側七八間に王子《わうじ》の窟《いはや》または聖の窟なる岩《いは》相對立《あひたいりつ》し、伊弉丹尊の皇子|軻遇突智《あかつち》の神靈を奉祀せるものなりと稱す。拜所《はいしよ》を設くること花窟《はないはや》に相同じ。且《かつ》、この邊一帶|熊野浦《くまのうら》に臨み、波濤《はたう》の起伏せるさま、山嶽の蜿蜒《えん/\》たるさまと相待つて、一種他に觀《み》るべからざるの奇觀《きくわん》を呈せり。日本紀、神代卷一書曰、伊弉冊尊生火神(軻遇突智)時、被灼而神退去矣、故葬於紀伊國|熊野之有馬村《くまのゝありまむら》焉、土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用皷吹幡旗、歌舞而祭矣。拙堂南遊志《せつだうなんいうし》曰「有馬村《ありまむら》過一層巖、高數十丈、循巖而行、得一華表而入、有石遮欄、爲伊弉冊尊陵、號曰|花窟《はないはや》、窟在巖根、巖面作髑髏皴、其嶺状甚奇異、如怒猊掀物、其東側面石韋被之、翠倩可愛、益太古諸神皆住天(599)上、至諾册二尊、生國土遂降居焉、人間有陵墓、實以此爲始、萬古遺跡、如神在、拜跪而去、此間地※[こざと+走]入洋海、高浪蹴岸而去、過者往々爲浪卷去云、數町爲|木本浦《きのもとうら》」、夫木集「紀《き》の國《くに》のありまの村にます神のたむくる花は散《ち》らしとそ思ふ」「かみまつる花の時にやなりぬらん有馬《ありま》のむらにかくるゆふして」。山家集「みくまの御濱《おはま》によする夕浪は花のいはやのこれぞ白木綿」。
 鬼ケ城〔三字右●〕 木《き》の本町《もとまち》の東十町|海岸《かいがん》にあり。巨巖屋字の如く高さ十餘間、其の下深く窟をなし、怒濤《どとう》其の根に吼《ほ》えて奇絶《きぜつ》名状すべからず。(次項參照)。
 清水《・セイスイ》寺〔三字右●〕 木《き》の本町《もとまち》の東十餘町、大字|大泊《おほとまり》の觀音山にあり。比音《ひおん》山と號し、天臺宗、大同年間坂上田村麿の開創と稱し、本尊《ほんぞん》觀世音像《くわんぜおんざう》は田村麿の持念佛なりと稱す。正徳年間僧門巖これを重興《ぢうこう》せしも、後|祝融《しゆくゆう》の災に遇ひ、現今の本堂は假堂《かりだう》なり。毎月舊暦十八日を以て縁日《えんにち》とす。三十三所圖會曰「大泊《おほとまり》清水寺《せいすゐじ》は浦の山上にあり。寺南三町ばかり山の半腹《さんぷく》に瀧《たき》あり、高さ三十間、また木《き》の本《もと》峠は大泊村より上《のぼ》る。鬼が城は木の(600)本峠の東の岬にあり。峠《たうげ》よりは見《み》えず。船に乘りて見物すべし。岩屋は波打際《なみうちぎは》より凡そ二丈五尺餘上り平地《へいち》あり。それよりまた八尺ばかり上《かみ》に二十|疊《でふ》ばかりの平地あり。夷賊の輩|蟄居《ちつきよ》せしこともありなんと覺え、魔見《まみる》が島《しま》は木の本峠より左《ひだり》の沖《おき》に見ゆる巨巖なり、清水寺の縁起《えんき》に見《み》えたり」。
 文字岩〔三字右●〕 木()町の西北|花城山《はなしろやま》の西麓字疊堂と稱する地にあり。巨岩の高《たか》さ約《やく》二十間、幅《はゞ》約十二間、岩面《いはめん》に「驚去徐仙子深入前秦雲借間超逸趣千古※[さんずい+隹]似宕」の五|絶《ぜつ》を刻す。文字《もんじ》の大さ方一尺五寸、橘南谿《たちばななんけい》の秦徐福を追懷して刻むところと稱せり。
 興福《・コウフク》寺〔三字右●〕 木《き》の本《もと》町より北二里二十町にして、飛鳥村大字|神山《かうのやま》に屬し、大阪街道の道側にあり。興福《こうふく》一に光福《くわうふく》または高福に作る。山中の一|幽寺《いうじ》にして、寺を南朝《なんてう》尊雅親王の遺跡と傳《つた》ふ。親王は實に後龜山帝の皇孫《くわうそん》尊義《たかよし》王第三の御子《みこ》に坐《まし》まし、南朝最後の親王といふ。南朝遺史《なんてうゐし》曰「尊雅王は口殿《くちどの》と號し給ふ。口北山莊の謂にて、紀伊國《きいのくに》の北山を口《くち》の莊《しやう》と稱す。靈牌今紀伊國南牟婁郡|神山村《かうのやまむら》光福寺に殘《のこ》れり。墓は光福寺より凡(601)そ三十町を隔《へだ》て寺谷村といふ所にあり云々《うん/\》」。猶ほこの故跡に關しては名勝地誌藤本氏説、地名辭書吉田氏説、その他|殘櫻記《ざんあうき》、南方紀傳、大日本史等の記述《きじゆつ》に合考すべし。
 花知の勝〔三字右●〕 木《き》ノ本《もと》町より北山河畔の小川口まで道路《だうろ》八里、車行の便《べん》あり。此所に宿し、翌朝舟を※[人偏+就]ひ、北山川を溯ること約一里なれば、入鹿村《いるかむら》大字木津呂に達す。前出|瀞《どろ》八|町《ちやう》の勝は即ち此所にあり。花知の勝は更に瀞八町より上流なる北山川の沿岸《えんがん》にありて、神川村に屬す。木《き》ノ本町《もとまち》よりは西方五里餘を隔《へだ》つ。同町より有井村《ありゐむら》井戸神川村神山《かうのやま》を經《へ》、沿道の勝蹟を探《さぐ》りつゝ、花知に遊《あそ》びて木津呂に出で、以て瀞《どろ》八|町《ちやう》を訪ふもまた順路《じゆんろ》なり(【前出熊野川及び瀞八丁の項參照】
 木ノ本町より泊峠・大吹峠の二小坂を越ゆれば新鹿村大字波田須に達す。此の間道程約一里半、道路より海岸に偏し秦徐福墓と稱するものあり。續西遊記曰「秦人徐福祠は新宮にあり(前段徐福墓參考)。その徐福の船より始めて陸に上りし地は新宮より六七里東にて、波多須村といふ所なり。此所の古老の言傳に、徐福十二月晦宿、波多須村の矢賀の磯へ着船して、此邊に暫らく住居し、後に本宮新宮那智の方へ移り住めり。波多須の矢賀の丸山といふ所に蓬莱山といふ楠ありて、小さき祠もありしに、三十年ばかり以前の洪水に楠も祠(602)も流れ失せぬ」。吉田氏曰「按に、徐福の事は疑はしけれど、漂着人の故事を傳ふるや明かなり。蓬莱山といふは古墳の謂なり。その例多し。」更に、波田須より新鹿を經て逢神坂か越ゆれば、荒阪村に至る。村は木ノ町より約三里の所にあり。風趣掬すべし。
 室古、阿古師神社〔七字右●〕 荒坂村に鎭座し、兩社|入海《いりうみ》を隔《へだ》てゝ相對す。木ノ本町よりは約三里なり。而して、室古社には彦|稻飯命《イナヒノミコト》、阿古師社には三毛入沼命《ミケイリヌノミコト》を奉祀す。往古、神武天皇|東征《とうせい》に際《さい》し、舟師|二木島《にきしま》沖にて暴風に遭遇《さうぐう》せしが、この兩神とも海に入り薨じ給ふ。暴風|靜穩《せいをん》に歸せし後、偶々《たま/\》土人等天皇の兩神の屍を捜《さが》し給ふに行遭《ゆきあ》ひ奉り、即ち詔を命けて御屍を索《もと》め得《え》、此所に奉葬せしを後世社祠に崇《あが》めしものといふ。神武天皇紀曰「引軍漸進、海中卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稻依命相歎曰、嵯乎我祖則天神、母則海神、如何厄我於陸、厄我於海乎、言訖乃拔劔入海、【中略】三毛入野命亦恨之曰、我母及姨並是海神、何爲起波瀾以灌溺乎、則踏浪秀往乎常世郷矣」。
 二木島《・ニキシマ》港〔四字右●〕 荒阪村は神武天皇東征の際|丹敷戸畔《にしきとべ》を誅し給ひし故地にして、荒阪津は今の二木島《にきしま》港なるべく、荒阪とは二木島の東《ひがし》曾根太郎《そねたらう》、曾根次郎等の峻坂を指せるな(603)るべしとの説、尤も信據《しんきよ》するに足るべしといふ。二水島港は汽船《きせん》の寄港所にして、木《き》ノ本《もと》との徒來最も便なり。こゝより以東は岬灣《かうわん》出入して、鰹《かつを》、鮪その他の漁獲物多く、賀田《かだ》、古江、三木里《みきさと》等の津浦いづれも風光|明媚《めいび》の水郷なり。
 熊野街道は、木ノ本を出でゝより鬼山峠の山間を貫き迂同して尾鷲町に出づと雖も、現今は海岸に沿うて直ちに尾鷲町へ通ずるの道を開けり。丸木浦は漁業繁盛の地にして、大敷網と稱する漁網はまた此の地の特色として世に知らる。
 尾鷲《・ヲハセ》町〔四字右●〕 北牟婁第一の市街《しがい》にして、戸數《こすう》一千六百餘・人口九千百八十餘を有し。東西十町、南北二十餘町に亙《わた》る。此の地古への藩府《はんふ》にあらざるも、京阪地方《けいはんちはう》及び名古屋地方に貨物《くわもつ》を運輸《うんゆ》するの要港《えうこう》たるを以て鉅賈豪商|尠《すく》なからず。郡役所・税務署等の設あり。津市より三十里三十町、新宮町《しんみやまち》へ十四里三十餘町を隔《へだ》つ。灣内廣くして、桃頭・娑婆留《さはる》・雀島・裸島等の小嶼碁布羅列し甚だ風趣に富《と》めり。大阪|熱田《あつた》通航の※[さんずい+氣]船はこの地に寄港す。山崎氏地誌曰「三重縣の林業《りんげふ》は南北牟婁郡を以て盛大《せいだい》となし、ことに北牟婁郡の如きは、氣候《きこう》温暖《おんだん》・濕氣に富むを以て、杉《すぎ》・檜《ひのき》の類到る所其成育を遂げ、奈良縣(604)吉野地方と共に造林《ざうりん》の好良なるを以て名高《なだか》し。就中其の檜材は尾鷲町に於て集散するを以て特に尾鷲材と稱《しよう》せられ、本邦建築材の有名《いうめい》なるものとす。船津村・相賀村・引本村・三野瀬村・須賀利付・尾鷲村の栽培《さいばい》段別《だんべつ》は三百十八町歩ありて、皆海岸を距る一里若くば三里の間にあり。其の造材《ざうざい》には蒸氣力を利用《りよう》し、搬出には溪水を利用して、是を引本・尾鷲・長島等の諸港《しよこう》より名古屋若くば東京に致す。皆《みな》松《まつ》・杉《すぎ》・檜《ひのき》等にして交通不便の爲めには濫伐《らんばつ》を免《まぬか》れ、林齡の古きもの多し。尾鷲《をはせ》町は古來奥熊野と稱せられし地方の一部にして、美林《びりん》に富《と》みたる民林の好摸範《こうもはん》を成せり。其造林業は本地方中最も古きものゝ一にして、今《いま》を距《さ》る二百七十餘年前杉・槍の植栽を施し、茲《こゝ》に初《はじ》めて造林の端緒を開き、現今《げんこん》に至りては廣漠《くわうばく》なる天然林は漸次整然たる造林に變更《へんかう》せらるゝに至り、尾驚町|全面積《ぜんめんせき》の九割餘即ち三千二百九十餘町歩を占《し》む。概ね民有林にして國有林は僅かに其の一割半を占《し》むるのみ。樹種の多くは杉・扁柏なれども又樅・栂等を交《まじ》ゆ。尾鷲町には近時尾鷲港山林物産|改良組合《かいりようくみあひ》を組織し、山林物産の製法改良及販路の擴張《くわくちよう》を(605)圖《はか》れるありて、將來大に有望《いうばう》なり」。
 中村山公園〔五字右●〕 尾鷲《をはせ》町の西方數町にあり。耕地《こうち》の中に孤立せる一小丘陵なれども、海山の眺盟《てうばう》に富めると、躑躅花《つゝじはな》多《おほ》きとを以て有名《いうめい》なり。山よりは、よく尾鷲《をはせ》港内の全景を展望《てんばう》し得べし。この他、町内|字《あざ》中井《なかゐ》には尾驚神社あり。
 倉谷《・クラノタニ》竹林〔四字右●〕 尾鷺《をはせ》町より十町を隔《へだ》て、中井浦字|倉谷《くらのたに》にあり。土井氏の所有にして、面積約一町に餘る。享保中、薩州《さつしう》より移植せし江南竹《こうなんちく》は叢生し、大なるは周圍三尺長さ八十|尺《しやく》に至《いた》るものあり。
 尾鷲より馬越峠を越えて相賀、引本に玉る、約二里なり。小山は相賀村に屬し、この地の長泉寺に孝子勘七の墓あり。
 引本《・ヒキモト》町〔三字右●〕 戸數六百・人口二千九百四十餘を有し、海灣南より北に向《むか》ひ、深く陸地を咬《か》む事二里餘、波《なみ》靜《しづ》かにして恰も湖水の如く、風浪《ふうらう》を避《さ》けて此處に來泊する船舶頗る多く帆檣常に林立《りんりつ》せり。市街は海岸《かいがん》に沿ふて櫛比《しつぴ》し、風光明媚、また海産に富めり。避(606)寒避暑に好《よ》し。
 須賀利《・スガリ》港〔四字右●〕 引本町《ひきもとまち》と須賀利《すかり》との間小灣深く入るものを須賀利港《すがりかう》となす。引本町の所管にして、港は東北西の三面に山を繞《めぐ》らし、南は海に面するが故に、夏《なつ》暑《あつ》からず冬暖に、避暑《ひしよ》避寒《ひかん》の地に適《てき》せり。村内に普濟寺あり、眺望《てうばう》の佳《か》を以て聞ゆ。
 大臺ケ原山林〔六字右●〕 引本より北西に入る事|約《やく》四|里《り》にして船津村《ふなつむら》あり。山鳥狩獵の好適地《かうてきち》とす。而も、此の邊一帶の山林は氣候《きこう》温暖《をんだん》なるが故に、杉・檜の類《るゐ》密生《みつせい》し、赤羽川を利して搬出また容易《えうい》なれば、山林の事業大に發達《はつたつ》す。更に進む事五里餘、御料殖林地《ごれうしよくりんち》を經過《けいくわ》すれば、千古斧斤を入れずと傳ふ大臺《おほだい》ケ|原山《はらざん》の森林に入るべし。舊藩政の頃和歌山藩士の探險《たんけん》せし後、明治切初年松浦某之を開拓せんとして果さず、近來御料林の經營により船津《ふなつ》より大臺ケ原を穿《うが》ち大和吉野郡河上に出づる道路《だうろ》を開通《かいつう》するに至れり。氣候《きこう》清涼《せいりやう》なれば尤も避暑に適《てき》し、且、山中《さんちう》奇勝《きしよう》頗る多く、就中、大蛇ケ倉の如き尤も名《な》あり。
(607) 大木森瀧〔四字右●〕 船津村大字|船津《ふなつ》の西北方四十餘町の山中にあり。和州《わしう》吉野《よしの》に越《こ》ゆる道路の西方に當《あた》る。瀑布《ばくふ》の高《たかさ》十五丈、巾一丈|瀧壺《たきつぼ》深《ふか》く兩側に奇巖屏立す。引本灣より遙かに之のを望《のぞ》むべし。
 魚跳溪〔三字右●〕 船津の隣村《りんそん》相賀村《あひがむら》大字便山の西方|銚子川《てうしがは》の上流なる瀧《たき》の川《がは》にあり。引本より五十町にして、舟便あり。尾鷲《をはせ》よりは三里とす。水中、鉅巖《きよがん》峙立《ぢりつ》し、水流奔放潟下し・魚《うを》跳《をどつ》て溯《さかのぼ》るより此の名あり。著名《ちよめい》の勝區にして來遊の雅客《がかく》常《つね》に踵《きびす》を接《せつ》す。
 街道は、相賀、引本より馬瀬、三浦を經て長島に達す。須賀利港より島勝を經來れる間道は、馬瀬に於て本道に相會せり。白浦はこの間道に近く、島勝浦と共に桂城村に管治す。勝景の港灣にして、長島、錦より渡船の便あり。島勝浦は長島町より四海里の南に位し、汽船の寄港所なり。且、この浦には天滿洞門とて、海浪の浸触作用よりなれる洞穴あり。長さ十五間、高巾八間、これに海水を通ぜり。而も、附近の岩礁巉崕數十仞、松樹點綴して姿態萬容、遊ぶべく、釣るべく、眞に東紀の仙郷と云ふべし。
 長鳥《ナガシマ》町〔三字右●〕 引本《ひきもと》町より東北三里にあり。人口四千五百四十を有する小都邑《せうといふ》にして、海陸交通の衝に當り、商業|繁盛《はんせい》とす。即ち伊勢山田地方より南勢《なんせい》を過《す》ぎ來《きた》れる熊野街道《くまのかいだう》は(608)この地に於て始《はじ》めて海岸に出づるものとす。されば東《ひがし》より北牟婁に遊《あそ》ばんと欲する旅客は、汽船にてこの地に上陸《じやうりく》するか、または熊野街道《くまのかいだう》を野後より定期馬車にてこの地に到《いた》り、更に舟路《ふなぢ》を利して、諸所を歴遊《れきゆう》するなり。猶ほ當港の入口を江《え》の浦《うら》と稱す。漁船《ぎよせん》の繋泊場《けいはくぢやう》なり。その前面大向ひの山脈東に延《の》びて海《うみ》に入るところ、月夜山影模糊として江上《かうじやう》に浮《うか》び、形ち恰も涅槃像《ねはんぞう》に似《に》たりとて、稱して寢釋迦山と云ふ。勝景の地なり。
 名倉灣〔三字右●〕 長島《ながしま》町の東方八丁、二郷村にあり。水《みづ》を隔《へだ》てゝ村内朝間の山腹《さんぷく》を望み、甚だ風趣《ふうしゆ》に富《と》む。
 丹敷戸畔《・ニシキトベ》塚〔五字右●〕 長島町の東に當り、錦《にしき》村の灣頭人家の櫛比《sつひ》せる街道《かいだう》に面し丹敷戸畔《にしきとべ》の石棺と稱するものあり。毎年《まいねん》一月七日には神武祭《じんむさい》とて丹敷戸畔が降伏《かうふく》の状に擬する祭禮を執行《しつかう》す。また村内不行谷と呼ぶ地にて神代《しんだい》の古墳と傳《つと》ふるものあり。一説、この附近一帶を上古は丹敷《にしき》と稱して丹敷戸畔の領有《りやういう》に係り神武帝東征の時|過《よ》ぎり給ひしと(609)唱《とな》ふ。
 熊野街道は長島町より二郷を經、更に荷坂峠(五十三米)を踰えて勢州に入る。二郷より分れて海岸に近く東を指す間道も錦村より國界を越えて同じく勢州に入る。
 
(610)新撰名勝地誌卷九 終
 
 明治四十五年七月〔判読不能〕日 印刷
 明治四十五年七月十一日 發行
(【新撰名勝地誌卷九】南海道)
 定價 金六拾錢
 編者  田山 花袋
 發行者 大橋 新太郎
   東京市日本橋區本町三丁目八番地
 印刷者 河合 辰太郎
   東京市下谷區二長町一蕃地 
 發行所 (【東京市日本橋區本町三丁目】) 博文館
 
〔新撰名勝地誌の広告〕
本書の特色
●交通路に由て名勝を記したる事其一也
●産業沿革にも出來得る限り注意を拂ひたる事其二也
●つとめて新しき材料によりてこれね記したる事其三也
●旅行者の伴侶たらしめんが爲めに紙質を精選し装釘を堅牢ならしめたる事其四也
殊に【最も】特色【とす】
べきは編者の足跡殆ど海内に洽く殘山剰水と雖も訪はざるなく其記述と排列と頗る精確を極めたる事是也況んや處々に各名勝地の寫眞數十種を挿入し宛然人をして足其の地を踏むの思ひあらしむるに於てをや〔編者〜右○〕旅行せんと欲するもの各地名勝の分布を知らんと欲するものは來りて本書を見よ
〔他省略〕
 
〔出版広告〕
故樋口一葉女史遺稿
幸田露伴君序
 一葉全集 全二册
 
窪田空穂君著
 註解 古今名歌新選
 
岡本綺堂君著
 綺堂脚本集 全一册
 
島崎藤村君著
 小説 食後
 
岡田八千代君編
 閨秀小説十二篇
〔それぞれ宣伝文は省略〕
 
〔大日本地誌の広告〕
理學土山崎直方君
理學士佐藤傳藏君
共著
 
齋藤文學士
大日向埋學土
大塚文學士
田山花袋
 其他諸士
補助
大日本地誌  全部拾册
〔以下宣伝文等省略〕
 
五大洲探檢家 中村直吉君 押川春浪君共著
 五大洲探檢記
〔以下宣伝文等省略〕
             2007年7月11日、午後8時2分、紀伊國、終了。