帝都、底本、喜田貞吉著作集5都城の研究、平凡社、446n、4200円、1979.10.25
 
 帝都(舊版)
 藤原京
 本邦古代の都市について
 本邦都城の制
 難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ
 京間・田舎間を論じて令尺と曲尺との関係に及ぶ
 平安京大極殿址と曲尺の研究
 曲尺に関する疑問
 
 
 
帝都  (1939.8.25、320頁、定価1圓50錢、日本學術普及會)
 
(1) 再刊の辭
 
 大正四年本書發刊以來すでに二十有五年、久しく絶版となつて世間の渇望に背いて居つたところが、明年皇紀二千六百年の記念の歳を迎へるに就いて、各地に聖蹟調査の事業が起り、帝都の沿革亦國民すべての關心事となつて來た。そこで私は新に詳細なる帝都の研究を取り纏めて、此のめでたき記念の歳を祝福し、一つには私の更生第五年と、明年の古稀の齢とを記念すべく、是が發行を豫定しては居るのであるが、それは恐らく豫想外の大部のものとなつて、急速には物が運びさうにもない。そこで取りあへず發行者古藤田喜助氏の懇望により、一つには目下焦眉(2)の江湖の渇望に副ふべく、又一つには明年新に發行すべき帝都研究編の梗概豫報の意味を以て、其の一部分に増補訂正を加へて之を發行せしむる事とした。何分にも二十餘年前の匆卒の編纂物として、意に充たぬところもないではないが、大體として其の研究に變りはない。たゞ藤原京に關してのみは、近來の古文化研究所發掘調査の結果として、新に發見せられたものがあり、それだけは新研究の大要を増補して置いた。覧者願はくは明年の詳細なる發表を期待されたい。
  昭和十四年四月
                           喜 田 貞 吉 識
 
(1)  凡  例
 
一、本書は著者が多年心がけて調査したる歴朝帝都の沿革の大要を、一般讀書家に見易き樣取り纏めて編纂したるものなり。されば專門史家の爲には物足らぬところも多かるべし。但其大部分はすでに、より/\に『歴史地理』の誌上に發表したるものなれば、更に進んで精密なる研究を知り給はんと欲せらるゝ諸賢は、本書の末に掲げたる論文目録によりて、其の各編を見給はんことを希望す。其の未だ發表せざる新研究は、他日機を見て同誌上に掲載し、是正を請ふの期あるべし。
一、本書は今囘日本歴史地理學會監督、日本學術普及會發行の歴史講座(2)第一編として發行すべく、急激なる督促のもとに、速記者荒浪市平君を煩はし、匆卒口授筆記せしめたるものにて、爲に順序を整へ、字句を推敲するの暇も乏しく、殊に僅に速記飜譯の修正を終えたる部分より、順次之を印刷所の手に附したれば、後に心付きたる所も、もはや之を訂正し得ざる場合あり、全編を通じて脱漏・重複少からず。是れ著者の深く以て遺憾とする所なり。若し幸に他日其の機を得ば、更に詳細なる史的考證を重ね、幾分にても完全に近づきたる「帝都誌」を公にして、本書の缺を補ふところあらんとす。
一、本書は帝都の沿革を記述し、著者自ら遺址を踏査して、其の實際を紹介するを目的としたれども、啻に其の表面にあらはれたる史實の經(3)過と、地理の調査とを記述するに止まらず、傍亦裏面に潜在する因果の關係を尋ね、其の史的變遷を明にせんことをつとめたり。されば名は之を「帝都」と稱するも、實は帝都を中心とせる著者が古代史上の研究の一斑を公にせるものとす。
一、著者がすでに『歴史地理』の誌上に發表せる所と、本書記する所と矛盾するものは、稱後の研究により、本書を以て前者を訂正せるものとす。
   大正四年八月
                              著 者 識
(4)〔懐風藻の中臣人足の從駕吉野宮應詔二首あり、省略〕
(1〜8)目次あり
(1)帝都      文學博士 喜 田 貞 吉 著
 
 第一章 古代に於ける帝都沿革の概説
 
  一 古代に於ける頻繁なる遷都の事歴
 
掛まくも畏き代々の帝皇《すめらぎ》が、宮居《みやゐ》して此處に天が下|知《し》ろし食《め》しゝ大宮所《おほみやどころ》は、前後其の數少きにあらざるも、其の名のみ傳はりて遺蹟は夙に世に忘れられ、遷都の由來顛末すら明ならぬものが甚だ多い。徳川時代の地誌、往々之を記するあるも、たゞ其の地の口碑、地名の類似等によるのみで、確な據とすべきもの少く、特志の人、(2)時に之に注意するも、單に舊説を踏襲するのみで、未だ之を明にするには足らなかつた。先年木村一郎といふ人頻りに之を憤慨し、大聲叱呼其の要を唱導したけれ共、氣の毒にも、事は志と副はず、今日に及んで居る。是れ、我等の常に遺憾とするところ。乃ち之を實地に探り、僅に遣れる古書の記事に求めて、おぼろげながらもこれが沿革を尋ね、以て祖宗の聖徳を忍び奉るのよすがともなれかしと祈る。
我等が古史を讀んで常に奇異に感ずるものゝ一は、我邦の古代に於て、歴代の天皇、大抵御代毎に遷都の事あり、時としては御一代間數度他に遷り給ふが如き記事の繰り返される事である。高天原の事は暫く措く。神代三世の間は筑紫日向の高千穗宮に在《まし》まして、自から其の御領知の範圍も西南地方にのみ局限され、後の御代とは頗る趣を異にして居たから、是も暫く措く。神武天皇大和に遷り給ひて後、所謂人の代となりて、凡四十代の間は、殆ど代々遷都の事が繰り返され、時には御一代間數度の遷都の事さへ傳へられて居る。其の地は時に、山城・近江・河内・攝津等にも及ん(3)で居るが、而も大抵は、常に大和平野の中を彼方此方と遷り代つたかの如く、傳へられて居るのである。此の地は神武天皇が尚高千穗宮に在《まし》ました時に、「東方に美地あり青山四もに周《めぐ》る、謂《おも》ふに彼地は必ず以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし、蓋し、六合《くに》の中心《もなか》か、何ぞ就て都せざらんや。」と仰せられた所。當時は、政府の組織も頗る簡單で、威令の及ぶ範圍も比較的狹小であつたが爲に、自から遷都も容易に行はれた事であらう。世の中漸く進んで、政府の組織も次第に複雜になり、殊に漢土との交通起つて、直ちに彼の地の文明を輸入し、萬事規模宏大となるに及んでは、遷都の事亦容易ならず、所謂飛鳥時代を現出して、こゝに飛鳥京の固定を見るに至つた。而も尚、遷都の風習は全く廢した譯では無い。同じ飛鳥の中にも屡都遷しの事が傳へられ、或は遠く他に遷らんと試みられた事もあつた。藤原京を經て平城《なら》京に至り、茲にはじめて帝都固定の實を擧げ、七代七十餘年の間相繼續するに至つたが、其の間にも亦、恭仁《くに》京・難波京・信樂《しがらき》京などに、一時遷都になつた事もある。桓(4)武天皇に至つて一旦山城の長岡京に移られ、再び附近の平安京に御移りになつて、茲に始めて萬代不易を期するの帝都は成立した。併しながら、平安時代と雖其の初期に於ては、尚前代の遺風が存して、平城上皇は再び平城《なら》に遷都の計畫を試みられた事もあつた。其の後約三百七十年、一時平清盛が權力に任せて、外孫たる幼主安徳天皇を擁し、攝津の福原に急激なる遷都を強行した事はあつたけれども、是も唯暫時の事で、間もなく都は平安に復し、是より明治維新に至る迄約七百年、前後通じて一千七十有餘年問、平安京は繼續した。是れ、併しながら一は政權武門に移りて、公家《くげ》實力を失ひしにもよる事と思ふ。明治維新後、皇威俄かに擴張して、茲に久し振りに東京奠都あり、以て今日の状態をなすに至つた。
 
      二 遷都の理由に關する舊説の一及び其の批評
 
此の如き頻繁なる古代の遷都は抑々何によるか。解するものは曰く、古へは夫婦必(5)ずしも同居せず、妻は其の生家にありて夫こゝに通ひ、隨つて其の妻の腹に生れたる子は、母の家に人となり、爲に父子亦必ずしも同居せざるの習慣があつた。皇室に於かせられても御同樣で、新帝御即位後は其の從來住居したまひし場所が直ちに帝都となるのであると。斯くて其の適切なる證據として、應神天皇の皇太子稚郎子の菟道《うぢ》の宮が提出される。稚郎子の御生母は菟道の木幡《こはた》の人であつた。而して其の所生の稚郎子皇子は菟道宮にまし/\た。されば此の皇子若し帝位に即き給はば、必ず菟道が帝都となつたであらうと言ふ。如何にも此の場合は當に然るべきである。併しながら、是は偶々見得るの例であつて、多くの場合必ずしもさうとは限らない。成程一般人民の間には、或る年代間妻を其の生家に置き、夫が之に通ふ習慣の行はれた事は有つたかも知れぬ。併し皇室の事は必ずしも之を以て推す事は出來ない。普通の場合に、天皇と皇后と宮を同じうし給ふ事は更にも言はず、他の後宮の御方々も、必ずしも御別居とは限らなかつた。允恭天皇の妃|衣通《そとほり》姫は、皇后の御妬甚だ(6)しかつたが爲に、宮中に近づけ給ふ事が出來ず、天皇之が爲に特に藤原宮を造つて、ここに置かれた。而も尚皇后の御妬み已まず、爲に更に遠く和泉の茅渟宮《ちぬのみや》を作つて、之に移された實例が有る。此の事は、普通の場合、皇后は勿論、皇妃の御方々も宮中若くは其の附近に住はせられた事を、反證するものとして宜からうと思ふ。更に進んで言はんに、果して論者の説の如くんば、同胞兄弟の天皇は、必ず宮を同じうせらるべき筈であるにも拘らず、一も斯くの如きの例はない。又皇后が天皇と宮を同うしたまふ以上、其の所生の皇子御即位の場合には、必ず父天皇と同じ場所に於て、天下を知《し》ろし食《め》すべき筈であるに、是れ亦常にさうでは無い。試みに一例を擧げんか。神武天皇の皇后|伊須氣餘理比賣《いすけよりひめ》の御生家は佐井川の邊《ほとり》であつた。是は大和三輪の附近である。然るに天皇の崩後に於て、吾田《あだ》の吾平津媛《あひらつひめ》所生の庶長子|手研耳《たきしみゝ》命は、却つて皇后の御生家たる佐井にありて、皇后所生の三皇子は、共に父天皇の都たる畝傍の地に在《まし》ましたと信ぜられて居た。是は手研耳命が此の三皇子を殺さうとせられ(7)た時に、母后これを覺つて諷した歌に、
    佐井川よ、雲立ち亘り、畝傍山
       木の葉さやぎぬ風吹かんとす
と仰せられたので知る事が出來る。三皇子此の歌を聞いて母后の意を覺り、遂に手研耳命を殺されたと有る。此の傳説が果して事實なりや否やは別問題としても、ともかくも此の如き傳説を有したる古代の人民は、皇后所生の皇子が必しも皇后の生家に成長せずして、共に父天皇の宮に在《まし》ました事の存在を信じて居つたに相違ない。斯くて其の皇子の中の御一方たる神渟名川耳《かんぬながはみゝ》尊即位されて、綏靖天皇と申される。而して天皇の御宮は、畝傍とは方角を異にした葛城の高岡宮であつた。是を以て之を觀れば、皇子は必ずしも其の御生母の生家に成長せず、又即位前の住所必しも帝都となるにあらざる事は明である。隨つて此の説は、未だ以て遷都の理由を説明するに足らぬと言はなければならぬ。
 
(8)      三 遷都の理由に關する舊説の二及び其の批評
 
又一説に、古語に「奥津棄戸《おきつすたへ》」あり、古へは人死すれば、其の家を捨てゝて墳墓となし、別に新宮を營みて是に移る。帝都の御代毎に改まるも、畢竟之と同じ意味にて、極端に死穢を忌む習慣より、凶を去りて吉に就くものなりと解釋する。成る程後世にも斯の如き思想は存して、現に平城天皇の御即位の際の如き、其の大詔の文に、「國家の恒例吉に就くの後、新宮に遷御す」とある。又百官奉答の文にも、「亮陰の後更に新宮を建つ、古往今來以て故實となす」とある。而も此の理由は、未だ以て古代の頻繁たる遷都を解するに足らぬ。如何にも凶事のあつた舊い宮を捨てゝ、新しい宮に就くといふ事は有り得べきである。併しながら、之が爲に其の場所を迄も變更せねばならぬ必要はない。平城天皇御即位の場合の如き、是は明かに宮殿改築を意味したもので、決して遷都の證とはならぬ。古代の實例に徴するに、御代の改まると(9)共に都を遷した事蹟は多いけれ共、場合に依つては必ずしもさうとは限らない。現に景行天皇は、御代の晩年に近江の志賀高穴穗宮に御移りになつて、三年にして此宮で御崩れになり、而して御子の成務天皇は、同じ高穴穗宮に即位されて、御一代他に御移りにはならなかつた。更に仲哀天皇も、亦此の宮に即位されたものと察せられる。此の天皇は長門の豐浦(【長府】)、筑紫の香椎の二箇所に於て、天下を知ろし食《め》されたとは古事記にあるけれども、是は或る特別理由の下に、一時御滯在になつた宮で、言はゞ行在所とも申すべきものである。天皇の都としては、矢張り引き續き志賀高穴穗宮であつたと申すが至當と思はれる。皇子※[鹿/弭]坂・忍熊の二王が、神功皇后の歸朝を攝津に拒ぎ、後に忍熊王軍敗れて近江の瀬多に逃れたといふのも、矢張り志賀が帝都であつた事を示して居るのではあるまいか。して見れば、先帝の崩御の宮であるが故に、遠く其の地を離れなければならぬといふ事は、必ずしも事實では無い。
(10)其の他多くの場合に於て、新帝は舊宮に即位せられ、遷都は即位の後、時としては數年の後に、行はれるのが日本紀の傳ふる普通の例である。ひとり孝靈天皇が、新都に即位された事を傳ふるのはむしろ特別であつて、太古にあつては、一般には必ずしもさうではなかつた。果して然らば、凶があつた宮殿を改築する事と、帝都を他に遷す事とは、本來意味の違ふものである。前者を以て後者の理由となすは、妥當ならずと言はねばならぬ。
 
      四 古代に於ける遷都の眞意義(上)
 
然らば古代頻繁に行はれたる遷都は果して如何なる意義のものか。是には二た通りの場合の存在を認めなければならぬ。成る程古書の記するところ、代々の天皇は各自其の名を異にしたる宮に於て、天が下を知ろし食されて居る。殊に日本紀には、明かに遷都の文字が常に繰り返されて居る。隨つて遷都は極めて頻繁に實現したやうで(11)はあるが、實際之を地理上に就て觀察する時は、必ずしも常にさうとは言ひ難い。宮名異にして其の所在は同一なる場合、往々にして存在する。精密に言へば多少其の場所を異にするものであつても、前代の宮と新宮と極めて近い處に營まれた場合に於ては、之を同一の帝都と言つて差支ない。何人か平安京大内裏と、京内諸所の里内裏とを以て、是れ別都なりとなすものがあらう。此の意味から言へば、大和平野に於ける代々の宮は、其の名はそれ/\に異なりとも、之を概括すればほぼ四五箇所の外に出でない事にならうと思ふ。唯景行・成務の兩帝が近江に都し、仁徳天皇の難波に都したまひし場合の如きは、是は眞の意味に於ける遷都である事を認めなければならぬ。
こゝに於て我等は、歴朝其の宮名を異にする事に就て、一の注意を拂はなければならぬ。昔の天皇には之を以て呼び奉るべき御謚が無い。さりとて天皇の御諱を直接に呼び奉る事の不敬は避けねばならぬ。そこで普通の場合、其の宮殿の名を以て天皇(12)の御名の代りに呼び奉つたやうである。故に、前後全く同一の宮居にして、別名を以て呼び難い場合には、前後を以て區別する。舒明天皇の飛鳥岡本宮に對して、齊明天皇を後飛鳥岡本宮御宇天皇と申すの類、是である。隨つて又、實際上同一天皇にして數多の宮を有し給ひ、若くは御一代間數度遷都し給ひし御方であつても、是等數多の御宮の中で、特に其の天皇の御名の如く呼ばれたもののみが最も著しく、其の名ひとり後世に傳はつて、他のお宮は往々にして世に忘れられ、全く傳はらなくなる事が多かつたらうと思ふ。後の事ではあるけれ共、天武天皇は「都城宮室一處にあらず、必ず兩參を造らん」と仰せられた。是は古來の事實をお述べになつたものと思はれる。現に繼體天皇の如きは大和の磐余玉穗宮《いはれのたまほのみや》に在《まし》ましたが、又河内の樟葉宮《くすはのみや》、山城の弟國宮《おとくにのみや》、同じく筒城宮《つゝきのみや》等に御遷都の事が日本紀に見えて居る。然るに古事記に於ては、此の君を磐余玉穗宮御宇天皇とのみ稱し奉りて、隨つて古事記のみを以てしては、繼體天皇の御宮としては此の磐余宮のみしか傳はつて居ない。偶々日(13)本紀に依つて、他にも御宮があつた事を知り得るのであるが、若し此傳が失はれたならば、繼體天皇のお宮としては、磐余宮のみとなるであらうと思はれる。又顯宗天皇・仁賢天皇の如きも、播磨に於て別宮を有せられて居つた。而も此の天皇の御名前の如くにして傳はつて居るものは、單に顯宗天皇には近飛鳥八釣宮《ちかつあすかのやつりのみや》、仁賢天皇には石上廣高宮《いそのかみひろたかのみや》のみである。又是等とは反對に、成務天皇の御宮名は、景行天皇の晩年御遷都の志賀高穴穗宮の御名を、其のまゝに御用ひに成つて居るが、是は景行天皇の爲には纏向日代宮《まきむくのひしろのみや》といふ御名があるが爲で、若しそれがなかつたならば、同一帝都であつたにしても、必ず成務天皇の爲に別名を呼び奉つたに相違ない。
是等の實例から考察すれば、ただ一つの宮名のみを語り傳へられ給へる御方々にも、時としては二つ以上の宮殿を有し、若くは二度以上遷都された事の存在を認めなければならぬ場合が多からうと思ふ。
果して然らば、日本紀に於て仰山らしく遷都の文字を以て書きあらはされて居る(14)ものゝ中には、其の實遷都とは言ひ難く、却つて史に漏れたものゝ中に、眞の遷都があつたかも知れない。遷都と言へないもので而も宮名を異にするものは、遷都ではなくして、其の實遷宮であらねばならぬ。是は唯舊い宮殿を捨てゝ、新しい宮殿に遷られたといふ、極めて簡單な事實に外ならぬ事と思はれる。昔は至尊の宮殿と申しても、構造極めて簡單であつて、古語に「底岩根《そこついはね》に宮柱太敷立《みやはしらふとしきたち》、高天原《たかまのはら》に千木高知《ちぎたかし》る」とある通り、柱は土を深く掘つて直接其の下部を土中に埋める、所謂|掘立柱《ほつたてばしら》である。屋根を形成する用材の端は、高く屋外に突き出で、所謂千木高知るの状をなし、茅を以て之を覆ふといふ、極めて素樸簡單な物であつた。支那でも古代に、土階三等、茅茨《ぼうし》剪《き》らずなど言つて居るが、我に於ても之に比すべきもので、隨つて此の如き建築物は、造る事も容易である代りに、勢ひ長く保存する事は出來ない。今日に於て伊勢の神宮は、依然として古代の形式を傳へたものと稱せられて居る。而して二十年に一度の御遷宮が今以て行はれて居る。此の二十年一度といふ事は、必(15)ずしも伊勢神宮にのみ限つた譯では無かつた。鹿島・香取・住吉などに於ても、昔は此の習慣が行はれた時代が有つた。是は所謂、「底津岩根に宮柱太敷立、高天原に千木高知る」といふ流儀の建築法では已むを得ぬ事で、二十年といふ事は、其の建築物の平均保存年限であつたであらうと察せられる。今日の伊勢神宮は、其の形式は古代のまゝであらうけれ共、建築には餘程手が込んで、鄭重な構造になつて居るに相違ない。それでも御遷宮の時期となる頃には、柱の根本は朽ち、屋根は壞れ、到底其の以上長く保存する事は出來ない御有樣となる。かくて御遷宮の時となれば、舊宮は其の儘にして、別に他の場所に新しく宮を營み、此處に御靈代を遷し奉る。是れ今に以て實行されて居る所である。今日の如く土地の割合に人口が増殖し、宅地が不自由な時代には、已むを得ず、家屋改築の際には、先づ舊屋を毀はして、其の跡に新屋を建てるのが普通であるが、昔の如く到る處に土地が自由に選擇される時代に、此の如き不自由たらしい事をなす必要は無い。又構造が簡單で、容易に改築(16)も出來るし、材料も手に入り易い際に、舊屋を修繕して、それで辛抱するといふ必要はない。そこで普通の人民の住宅にしても、住み古した物は其儘に立ち朽らして、新しく適當なる場所を擇んで、そこに家を營んだ事と思はれる。今の伊勢神宮の御遷宮は正に是である。帝都の場合亦然りで、舊宮漸く破損に傾いたならば、更に適當の場所を選んで、茲に新殿を御造營になる。斯くて其の場所が前者と隔つて居たならば、是れ即ち直ちに遷都となる。當時の簡單なる組織の政府では、官僚之に伴うて其の地に移るも容易であつたに相違ない。斯くて宮名茲に改まり、後世より之を見れば、如何にも大仕事であつた樣に解されるのである。又其の新宮が舊宮に近い場合には、同一治世間には名を改める事もなからうが、此の際御代が改まつたならば、其の新治世を表はすべく新宮名が命ぜられる。かくて此際にも遷都のあつたかの如くに考へられるのであるが、是等はいづれも遷宮たるに過ぎない。そこで比較的古代の俤を言ひ現はして居ると思はれる古事記に於ては、決して遷都と云ふ言葉を濫(17)用して居らぬ。某の帝《みかど》は某の宮に於て天が下を知ろし食すといふ風に、常に書いてある。日本紀に於ては支那風の文字を用ひ、往々遷都の語を繰り返して居るが、是は必ずしも古い意味を言ひ現はしたものではない。
右の次第であるから、御治世の長い御方では、御一代間に二度若くは三度以上の御遷宮が行はれた事もあつたであらう。而も宮名はもと御治世を表はす爲に、天皇の御名の如くに用ひられたものなるが故に、宮は改まつても御一代間は普通の場合宮名は改まらなかつたであらう。又若し場所が離れて居て、宮名が改まつても、往々にして其の中の一つのみが、語部《かたりべ》の口に殘つた事であつたであらう。
太古に於いては神宮にても、必ずしも二十年御遷宮と限つた事では無かつたかも知れない。實際は二十年間保存される場合もあれば、三十年間保存される場合もあつて、必要にのぞみ御新築御遷宮があつたものであらうが、斯くては怠り勝となる虞があるので、平均して二十年と云ふ例が行はれたものと思はれる。帝都の場合に於(18)ても之と同じ事で、舊い御殿が損じて御改築を要する場合に、遷宮が行はれた事と思はれる。仁徳天皇は宮殿破損し、雨を漏らすに至つてなほ御改築をお許しにならなかつた。爲に聖帝と仰がれたが、これに就て或る穿鑿家曰く、天皇若し隨時御修繕を命じ給はゞ、爲に大破となるに至らずして、民を煩はす事比較的少かつたであらうにと。而も是れ當時の實情を知らない批評である。
御代が變れば、其の時は舊宮未だ破れずと雖も、更に新宮を營まるべきは勿論であつて、茲に亦所謂遷都の事が行はれる。成務天皇の宮は必しも景行天皇崩御の其の同一宮殿でなければならぬ理由はない。而も同じく之を志賀高穴穗宮と申すは、前記の如く景行天皇の御治世を表はす爲には、纏向日代宮《まきむくのひじろのみや》の名があつて、成務天皇の爲に別に新名を唱へる必要がなかつた爲であらう。
要するに古代に於ける遷都の多數は、唯宮殿改築といふ簡單な場合のもので、事々しく遷都といふべきものではない。其の宮名を異にするは、治世を表はす必要から(19)後に然か呼んだもので、御代變りの時は勿論、其の以外にも、事實上遷都遷宮は屡々行はれたものであつたに相違ない。
 
      五 古代に於ける遷都の眞意義(下)
 
斯くは言ふものゝ、古代の遷都必しも改築の必要上より、隨時に行はれたものゝみではない。中には明かに政治上の意味があつて、立派に遷都と號すべきものも少くないのである。神武天皇が高千穗宮から大和に遷り給ひし事は更なり、爾後屡々大和平野以外の地に都を遷された場合に就いて考へるに、是には又、それ/\特別の理由があつた事と思はれる。景行天皇の晩年に近江に移られた事は、此の天皇の御代に於て、日本武尊の武勇を以て、西は熊襲、東は蝦夷、其の他内地各所の荒ぶる神達を從へ、皇威が大に發展したが中にも、特に東北に於て著しき發展があつた。隨つて東山・北陸の諸國と交通の便利のある、此の近江の湖畔の穴穗(今滋賀郡下坂本(20)村の穴太で、唐崎附近は古への要津であつた)の地方を選んで、此處に都を定められたのは、確に時勢に適應したる御處置と察せられる。成務天皇は先帝の御代に擴張せられた大帝國を整理された御方で、隨つて引續き此の宮に居られたのであつた。仲哀天皇の御一代は、熊襲親征の爲に便宜他の地方に臨時の都を定められた。神功皇后から引續き、應神天皇の大和に都を定められたのは、三韓が我邦に屬し、西の方にも事繁く、獨り東國にのみ重きを置く能はざる事情のあつたものと思はれる。斯くて仁徳天皇に至り、難波高津宮《なにはのたかつのみや》に移られたのは、當時三韓との交通が漸く頻繁となり、隨つて海路の此の要津を必要と認められたものと察せられる。此の難波津の宮の事は、必ずしも此の天皇に至つて始まつたのでは無い。先代の應神天皇も、既に難波大隅宮《なにはのほすみのみや》にましまし、一説には此の宮で崩ぜられたとさへ傳へられて居る。併しながら、大和は古代にあつて何處までも我が帝國の中心である。隨つて時に都が他に移る事はあつても、再び復た舊の大和に歸られるのは、蓋し自然の趨勢であ(21)つた。履中天皇が大和へ歸られて、神功皇后と同じく磐余《いはれ》に都を定められたのは是が爲で、反正天皇に至つて河内の丹比《たぢひ》に宮を營まれたのは、難波と大和との中間にあつて、交通の便利な處を選ばれた意味があらうと思はれる。
繼體天皇の樟葉(北河内郡)・筒城(綴喜郡)・弟國(乙訓郡)等に移られたのは、理由判然せぬが、此の君、越前より起つて帝位に即かれたので、或は漸次中央に近づいたと云ふ隱れた史實があつたかのも知れぬ。斯くて最後に大和磐余に落ち付かれたものであらう。是より後、帝都は復久しく大和以外へ出なかつた。
推古天皇の御代に至つて、支那と直接の交通が始まつた。彼地の文明は續々我邦に輸入された。隨つて政府の組織、帝都の模樣等にも著しき變化が有つたものと思ふ。天皇の宮は飛鳥の豐浦《とよら》であつたが、後に小墾田宮《をはりだのみや》に移られたとある。場所は同じ飛鳥の中で、是より後、舒明・皇極兩天皇、引續き同じ飛鳥の地に在《ま》しまし、遂に飛鳥は一種固定的勢力のある都となつた。されば、孝徳天皇の大化新政に際し、一時難波(22)に都を遷されたけれども、是は輿望に副はない。齊明天皇再び飛鳥に歸られ、天智天皇は景行天皇の跡を追うて、近江の大津に遷られたが、是れ亦輿論の反對に遇うて、次の天武天皇は再び飛鳥に歸られた。持統・文武の兩朝の藤原宮も、亦同じく飛鳥の中である。元明天皇に至つて、奈良の地に遷都され、此處に廣大なる平城《なら》の都城は經營された。其の初めに於ては、期するに萬世を以てしたものであつたらうが、七代七十餘年限りで、其の間にも時に遷都の事あり、桓武天皇が都を山城に遷さるゝに及んで、永く大和は帝都としての地位を失つた。
斯の如きの遷都は、何れも其の文字通りの眞の遷都で、政治上其の他特別の理由から解釋し得るものである。以下章を逐うて其の由來、變遷の解説を試みようと思ふ。
                                        
   古《萬葉一》人に我あるらめやさゞ波の
      ふるきみやこを見れば悲しも
 
(23)  第二章 飛鳥京固定以前の帝都
 
      一 高千穗宮の傳説
 
千早振る神代の都は年代悠久にして、其の傳説も精しからず。今より之を審かにする事は出來ないけれども、傳へて之を高千穗宮だと言つて居る。所謂高千穗の所在に就いては、古來種々の異説がある。高千穗はもと山岳の名で、天孫降臨の古傳説のある所。日向の襲《そ》の高千穗峯とも、高千穗の二上山とも、高千穗の※[木+患]觸《くしぶる》の峯とも、高千穗の添《そほり》山の峯ともあつて、其の地は、日向の西臼杵郡|智鋪《ちほ》郷だとも、又、同國西諸縣郡の東霧島山だとも云つて居る。本居宣長翁の如きは、双方ともに理由あるものとして、之が選擇に躊躇し、共に生かすの説を取つて居るやうである。固より今日よりして、神代の昔果して天孫が八重棚雲を押し分け、ふわり/\と何《ど》の山の頂(24)に降臨されたかと云ふ樣な傳説を、確めようとする事は、到底むづかしからう。又、神代の都が果して何れの地であつたかと云ふ事を、一の史實として實地に引き當て、今日の地理上に確定せんとする事も、同じく困難な事業であらねばならぬ。併しながら、少くとも日向風土記を編纂した奈良朝の初頃の、日向の人々の間に信ぜられて居つた處は、霧島山では無くして、臼杵郡の智鋪郷、即ち今の高千穗村の地方であつた。風土記は明かに此の地を以て、天孫降臨の地だと傳へて居る。智鋪郷の名は獨り此の臼杵郡のみならず、之と續いて居る肥後の阿蘇郡にも、同名の郷が存在して居つた。蓋、もとは肥後の阿蘇から、日向の五ケ瀬川上流の地方に渉つて、茲に天孫降臨の古傳説を傳へて居つたものと思はれる。霧島山に就いては、殆ど古傳の徴すべき物が無い。唯後世の人が襲《そ》の高千穗といふより、大隅|※[口+贈]唹《そお》郡附近に求め、二上山と云ふ形勢が、東西霧島山相對するに當ると解し、※[木+患]觸或は※[木+患]日峯《くしびのみね》といふ名が、神靈《くしび》の火の義で、霧島の火山を指すのだと云ふ位に説明するに過ぎない。然るに、他の多く(25)の者は、深く實地を究めずして、之に附和雷同し、爲に有力なる説となつた物と思はれる。尤も霧島山説も、必ずしも近世に始まつたものではない。塵袋に日向風土記曰として、天孫が※[口+贈]唹郡の高千穗峯に降られた事の傳説を書き記して居る。而も是は後の僞作説なる事明かで、古風土記の文ではなく、以て證據とするには足らぬ。東霧島山の頂上には、俗に天逆矛といふものがあつて、橘南谿の西遊記の如きは、之を神代の遺物として、如何にも神々しく書いてあるけれ共、固より此の如く解す可き物ではなからうと思ふ。ともかくも、千二百年前の人々に、天孫降臨地として信ぜられた所は、今の西臼杵の高千穗であつた。
扨、天孫高千穗降臨の後、そこから日向の笠狹宮《かさゝのみや》に移られた事を傳へて居る。笠狹《かささ》は古く解して薩摩の加世田だと言つて居る。されど、是れ亦必ずしも確かな説とは言はれない。考古學者の研究に依ると、大隅・薩摩の兩國に於ては、天孫種族の舊い遺跡の發見は甚だ稀で、山を一つ隔てたる日向に於ては、非常に多い。尤も薩隅に於て(26)も絶無とは云へないが、それは後に國府が置かれて、國司の赴任があつて以來のものもあらう。其の前にしても、天孫種族の風俗を移入した事もあつたであらうが、ともかくも此の事實は、少くも日向と薩隅と、此の兩地に於て、確かに太古の住民の種族を異にして居つたと解せなければならぬ。而して、其の薩隅の種族としては、言ふ迄もなく熊襲隼人族である。一説に、隼人はやはり天孫種族だと云ふ。併し自分は之を信ぜぬ。是は説が長くて、こゝに述べ難いが、ともかくも天孫民族太古の遺跡を薩摩に求める事は、餘程危険であらうと思ふ。して見れば、古傳説の笠狹は、同じく之を今の日向の地に求めるを至當とする。
然らば所謂笠狹宮の地は如何、所謂高千穗宮との異同如何の問題が起る。神代三世常に高千穗宮に居られたか、是れ亦問題であらうと思ふ。併し高千穗と指す場所は、必ず或る一定の地方に相違ない。而して彦火々出見尊は高千穗宮にましまし、其の陵は高千穗山の西に在りと古事記に見へ、神武天皇亦御東征以前まで、此の宮に在《ま》(27)しましたと日本紀にあつて見れば、ともかく神代の都としては高千穗を指すべく、其の所在は漠然とたゞ、所謂臼杵郡の高千穗地方であつたものと、昔の人は解して居たに相違ない。唯現今實地に就いて、之を尋ぬるを困難とするのみである。所謂笠狹宮は、日本紀・古事記の記事によるに、恐らく臨時の行在所で、都といふべきものではなかつたであらう。一説に、今の狹野《さぬ》宮或は都城《みやこのじよう》等に、神武天皇東征以前のお宮があつたと云ふ。狹野は神武天皇の御名を狹野尊と申すので、其の御降誕地だと解されて居るのである。又天書には之を宮崎宮と記し、隨つて今の宮崎附近に宮址を求めやうとする説もある。併しながら天書の此の記事は果して信ずべきものか否か、是れ亦疑問であらうと思ふ。要するに神代の都に就いては、古事記・日本紀・風土記等の記事により、昔の人が如何に考へて居つたかと云ふ事を知る以外、更に立ち入つて之を今日に求めんことは、頗る困難であらねはならぬ。
 
(28)      二 大和平野の諸宮(上)(神武−神功)
 
神武天皇御東征によりて、大和地方の不服《まつろはぬ》者《もの》ども悉く天皇の御稜威に從ひ、こゝに畝傍の橿原宮に天下知ろし食された事は、我が建國史上極めて著しい事實である。我が帝國の基はいよ/\茲に確定し、爲に天皇は始馭天下之天皇《はつくにしらすすめらみこと》の御稱號を得て居られる。宮地は即ち畝傍山の東南とあつて、今の官幣大社橿原神宮は、其の地を推定して建設されたものだとある。是より後、開化天皇に至る迄の八代の間は、歴史上の事蹟が殆ど傳はつて居らない。唯々帝都の名、皇后・皇子等の御名前、即位及び崩御の年代、御壽等の記事が有るのみである。比較的記憶に殘り易い史上の事蹟が何等傳はらずして、比較的記憶しにくい固有名詞や年代のみが保存されて居るのは、聊か疑はしく思はれる所であるけれ共、少くとも都の名は、其の天皇を指し奉る御名前として語り傳へられたものであるから、是は是非なければならぬ。而して其の(29)位置は、何れも大和平野以外に出ない。當時帝國の範圍未だ狹く、皇威は此の平野の一隅の都から、よく之を蔽ひ得たものであらう。かくて其位置は、綏靖天皇のお宮は葛城の高丘で、今の南葛城郡|吐田郷村《はんだがうむら》の森脇だと言はれて居る。後に仁徳天皇の皇后磐之媛は、葛城襲津彦の娘で、葛城高宮に別宮があつた。葛城を本居《うぶすな》とする蘇我氏では、大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を營んで、八※[人偏+(八/月)]の舞を奏したとある。後に此の地方を高宮郷と云つて居る。次の安寧天皇も同じく葛城地方の片鹽浮穴宮に在しましたとある。共に平野の西南部地方だ。但此の安寧天皇の宮に就いては、古事記傳以下の書に之を河内に在りとして、舊説に對して異議を唱へ、國史眼等後の書往々之に從つて居るから、一言辯じなくてはならぬ。浮穴宮は、舊説悉く之を大和にありとするに一致して居る。中にも帝王編年記には、其の場所を高市郡で、畝傍山の北方だとある。今も畝傍山の北方に曾我村があつて、蘇我氏の名を傳へて居るが、蘇我大臣馬子は、「葛城は臣の本居《うぶすな》」だと云ひ、而して其の妹に堅鹽《きたし》媛といふがあつて(30)見れば、片鹽浮穴宮の片鹽《かたしほ》即ち堅鹽《きたし》で、是も曾我附近の地名であつたかも知れぬ。其の地今は高市郡の中ではあるが、葛城と相近く、古は所謂蘇我氏の本居たる葛城の中であつたであらう。して見れば、帝王編年記の古説は、必ず舊傳承くる所があつたものと思はれる。延寶の和州舊跡幽考に、今の白橿村四條の北だとあるのは何によつたものか。大和志等には今の北葛城郡浮穴村三倉堂だとある。理由不明で、其の浮穴の村名も、此の説から新しく付けたものだから證據にはならぬが、ともかく此の宮が大和平野の中だとの舊説は爭はれぬ。之を河内だといふは、萬葉集の歌に、河内の片足羽《かたあすは》河の名があるのを「かたしは」と訓じ、之を片鹽同地と判じたのがおもな理由で、他にも傍證として擧げた物は多いが、何れも薄弱取るに足らぬ。之を時勢より論じても、當時大和平野を出でて、其の以外に帝都を設けられようとは思はれない。
次に懿徳天皇は、再たび畝傍の方面に歸られて、橿原宮よりも更に東南の輕曲峽《かるのまがりを》宮(31)に在《ま》しました。今も大輕《かる》の名は白橿村の大字に遺り、推古天皇の時に輕(ノ)街、天武天皇の時に輕(ノ)市などの名があつて、引續き繁華な所であつたものと見える。輕寺の名も高い。曲峽は輕の町より西南五町ばかり、小字「まわりをさ」と云ふ所であらうといふ。孝昭天皇は更に葛城に歸られて、掖上(ノ)池心宮に在しました。掖上(ノ)池は推古天皇朝築く所。今南葛城郡秋津村に池(ノ)内あり、掖上村玉手其の北に接して、宮址の地だと言はれて居る。
孝安天皇亦同じ方面に於て、都を室の秋津島に移されて居る。今の秋津村の室は其の名を傳へたもの。掖上宮と高丘宮との中間に當る。以上畝傍・葛城方面の帝都、皆相近く、別に深い意味の求むべきものもなからうと思はれる。
孝靈天皇は稍々方面を異にして、平野の中に出で、黒田廬戸宮を營まれた。今磯城郡都村に、黒田・宮古の二村落が相接して其の名を傳へて居る。但是は、單に其の村名より然か云ふのみで、之を地形から論ずれば、舊時低濕の域に當つて、如何やと(32)も思はれる。
孝元天皇は懿徳天皇の跡を追うて、再び輕の地方に歸られ、境原宮にましました。帝王編年記に輕大路の西方だとある。大和平野を縱貫する大道の西、天神の祠の地を「さかきばら」といふとある。
開化天皇に至つて、遠く平野の東北隅、奈良の春日率川宮《かすがのいさかはのみや》に遷られた。今の奈良市子守町率川の邊だといふ。之を前諸宮に比するに、位置多少遠く移動した感は有るけれ共、要するに未だ大和平野の外に出づるに至らなかつた。
崇神天皇は神武天皇と竝びて、再び御肇國天皇《はつくにしらすすめらみこと》の稱號を得て居らるゝほどの御方であつて、神武天皇は帝國を創め給ひ、崇神天皇は更に之を擴張して大帝國となされた大帝である。此の天皇の御代に於て、我が皇威は實に著しき發展を遂げた。四道將軍の派遣、異俗諸蕃の來歸、實に此の御代に行はれた。是より後、史上の事蹟は漸く正確に尋ぬべきものとなる。天皇の宮は磯城の瑞籬で、平野の東部山麓地方に遷つ(33)た。宮址は磯城郡三輪町の中で、三輪より初瀬へ行く途中の金屋の邊だと云ふ。其の位置の選定に就いては、亦敢て深い意味のあるものではなからうが、強て時勢から理由を求めるなら、其の地伊賀名張街道の入口に當り、發展的時代に於て、東國との交通の便を求められたとでも言はれよう。宮名の磯城は石城《いしき》で、古語に磯堅城《しかたき》ともある。磐石を以て防衛的|瑞籬《みづがき》を設けたものと解せられる。
次の垂仁天皇は、同じ方面で纏向《まきむく》の珠城《たまぎ》宮に在《まし》ました。景行天皇も亦、同じく纏向の日代《ひじろ》宮に在ました。兩者共に磯城郡纏向村穴師の邊だと言はれて居る。一説に、織田村|箸墓《はしのはか》の邊だともいふ。共に瑞籬宮からは北で、同じく平野の東山麓方面に當る。扨前に記した通り此の景行天皇の御代に於ては、皇威が更に更に宏大なる發展をなし、遂に御代の晩年に近江の湖畔に遷られた。是は深い意味がある次第と察せられる。天皇の志賀高穴穗宮は、今の滋賀郡坂本村|穴太《あなほ》の地に其名を傳へて居る。地は唐崎に近く、古代湖水に依つて東海・東山兩道に通ずる要津であつた。尚此の宮(34)の事は、後の大津宮の條下に讓つて、こゝには詳説せぬが、要するに日本武尊の東征の結果として、皇威は東國から北越の地方に達したが爲に、此の湖面を利用して東山・北陸兩道に通ずるの要津が、天皇の都として選定されたのは、大いに時勢に叶つたものと云つてよい。
かくて天皇の遺業を繼承し、地方政治を整へられたる成務天皇が、御一代此の宮にましました事は既記の通り。仲哀天皇亦こゝに即位し給ひ、其の後遠征の爲臨時に都を長門の豐浦、筑前の香椎に定められたが、それは暫く措いて、神功皇后は征韓の大業を遂げられた後、又大和に歸られて、磐余の稚櫻《わかさくら》宮に在ました。今の磯城郡櫻井町の西南方、安倍村池の内の地である。是は既記の通り皇威西に伸びて、もはや東國の交通にのみ專にすべからざる事情によるものと解したい。神武天皇の御名を神日本磐余彦尊《かんやまといわれびこのみこと》と申す。嘗て亦此の磐余にましましたものと拜察せられる。
 
(35)       三 大和平野の諸宮(中)(應神−繼體)
 
應神天皇の輕島豐明宮は、懿徳・孝元兩帝の宮と同じく、大輕《かる》の地に於て求むべきものである。但、此御代には難波にも大隅宮があつた。是は先代に營まれたものか、此の天皇の御造營かは不明であるが、ともかく當時此要津を必要とした結果なる事は爭ふの餘地がない。天皇は又大和の南部山地たる、吉野川の川上に吉野離宮を設けられた。此の時に國栖《くす》人が初て來朝したと傳へられて居る。國栖は吉野の川上地方に住んで居た異俗人で、山峻しく谷深く、其の地は都に近いけれ共、古來交通はなかつたが、此の時以來朝貢の例が開けたとある。吉野離宮は今の吉野山ではなくて、國※[手偏+巣]《くす》村の宮瀧地方であつた。
仁徳天皇の難波高津宮は、今の大阪城の場所に當るものだと思はれる。此の宮址に就いては、實は種々異説もある事であるから、是は改めて難波京の條で述べる事と(36)して、次は履中天皇。此の天皇は神功皇后と同じく磐余の稚櫻宮に在ました。よつて神功皇后に對して、後の稚櫻朝などと云はれて居る。
反正天皇の河内|丹比《たぢひ》の柴籬《しばかき》宮は、難波と大和との中間にあたる。仁徳天皇十四年に、高津宮の南門から、大道を作つて直ちに河内の丹比邑に到るとある。今の中河内郡松原村上田だと云ふ。宮名は柴を以て生垣を作られたからの名と拜察する。
允恭天皇は復大和に歸られて遠(ツ)明日香《とほつあすか》宮に御移りになつた。即ち今の高市郡飛鳥村の飛鳥である。此の飛鳥地方から、廣く高市郡の南部地方は、應神天皇の二十年に、其の子と共に黨類十七縣の民を率ゐて歸化したと傳へられたる、阿知使主の一族が繁延して居る處で、隨つて此處は、支那風の文化が早く輸入された場所だと思はれる。後に飛鳥京の起つたのは即ち此の地で、既に允恭天皇は逸早く此處に都を定められたのであつた。天皇は又、寵妃|衣通《そとほり》姫の爲に藤原宮・茅渟《ちぬ》宮などを營まれた。是は後にゆづる。
(37)安康天皇は石上穴穗宮《いそのかみあなほのみや》に在《まし》ました。其の場所は纏向と同じく、平野東山の麓ではあるが、更に北方で、石上《いそのかみ》附近と思はれる。石上神宮には素盞鳴尊が八岐大蛇《やまたのおろち》を退治した寶剣、垂仁天皇の皇子|五十瓊敷命《いにしきのみこと》の茅渟菟砥川上宮《ちぬのうぢのかはかみのみや》で鍛《きた》はれた一千口の劔を始として、古來多くの武器を藏して居る。天皇のこゝに都を定められたのは、木梨輕太子と皇位を爭つたなどの事から、此の武庫を頼まれたものではなかろうか。宮址は帝王編年記に、石上左大臣の家の西南、古川の南だとある。左大臣は石上麿で、古川は即ち布留川と同じく、石上神宮の下から、丹波市・二階堂方面に流れて居るもの。穴穗宮は今丹波市町の中で、町の西南にある田村の地だと云ふ。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮は、帝王編年記に磐坂谷とあつて、舊跡幽考の著者之を尋ね、長谷より半道ばかり南だといふ。又岩坂は今朝倉村の中で、宮址は黒崎・岩坂二村の間だと大和志はいふ。初瀬町から西南で、位置の選定は崇神天皇の磯城瑞籬宮と同系統である。天皇亦屡吉野離宮に幸せられた。此の宮と應神天皇の吉野宮との關係は不(38)明であるが、一説之を更に其の川上の川上村大瀧だと云つて居る。尚吉野宮の事は後にゆづる。次に清寧天皇は磐余の甕栗《みかぐり》宮にましました。即ち神功皇后・履中天皇と同じ地方で、神武天皇の舊蹟にあたる。帝王編年記に十市郡白香谷だとある。天皇の御名白髪に因んだ説であらう。
清寧天皇の崩後には、顯宗・仁賢兩帝相讓つて即位されぬ。そこで兩帝の御姉飯豐青皇女が、忍海角刺《おしぬみのつのさし》宮で一時政を攝せられた。今南葛城郡忍海村忍海に宮址と稱する小祠がある。當時の歌人の歌に、「大和邊に見か欲《ほ》し物は忍海《おしぬみ》の、此の高城《たかき》なる角刺の宮」とあつて、見事なお宮であつたと察せられる。場所は久し振に葛城方面に戻つた。
顯宗天皇は飛鳥の宮に即位された。之を近(ツ)飛鳥(ノ)八釣宮と申す。允恭天皇の遠飛鳥の宮に對して、天皇のお宮を近飛鳥と申したものと見える。兩者如何なる關係の位置に在つたかは一の問題であらうと思ふ。古い説に、遠(つ)飛鳥、近(つ)飛鳥と云ふのは、(39)後の歴史家が其の時代から見て、過ぎ去つた年代の遠近を示した稱であると解する。又古事記には、大和の飛鳥を遠つ飛鳥、河内の飛鳥を近つ飛鳥と云つて居るが、是は別である。今日でも飛鳥地方には、八釣の名を傳ふる場所が二箇所ある。一は今の飛鳥の東方にあり、一は是より稍北に片寄つて、香山《かぐやま》の附近にある。前者に對して後者を下八釣と云つて居る。近飛鳥八釣宮とは此の下八釣の方で、平城京時代に奈良から見て、近い方の飛鳥の八釣と云ふ意味かとも思ふ。飛鳥の範圍が此地方にまで及んで居た事は、日本紀に、飛鳥京城の傍の耳成《みみなし》山・畝傍山とあるのでも知られる。耳成山は下八釣の西北、畝傍山は下八釣の西方にある。然らば允恭天皇の飛鳥宮を遠飛鳥と云ふのは如何。是は推古天皇以後帝都は飛鳥に固定して、單に飛鳥宮といへば其の後の事と解されるから、それに對して遠く隔つた昔の世の飛鳥宮の意義であらう。天皇又播磨の小野と池野とに別宮を作られた。共に美嚢《みなき》郡の地である。天皇幼時此地に隱れ給うた因縁によつて、こゝに設けられたのである。又一説には甕(40)栗《みかぐり》に宮を作られたとある。清寧天皇と同所に一時ましましたものであらう。
仁賢天皇の石上廣高《いしのかみひろたか》宮は、安康天皇の穴穗宮と同一地方で、帝王編年記に、石上左大臣の家の北だとある。いづれ穴穗宮の近所で、大和志に、之を二階堂村嘉幡だとするのは、西の方へ遠過ぎるの嫌がある。天皇も亦川村と縮見高野《しゞみのたかの》とに別宮を有せられた。同じく播磨美嚢郡で、顯宗天皇と同一理由の下に營まれたのである。
武烈天皇の泊瀬列城《はつせなみき》宮は、雄略天皇の朝倉宮と同じ方面で、岩坂の北の出雲がそれだと言はれて居る。
次に繼體天皇は磐余玉穗宮に天が下知ろし食すと古事記にある。神功皇后・履中・清寧兩天皇と同地方で、尚云はゞ磐余・初瀬・飛鳥・畝傍、皆平野の東南部で、實はいづれも同一方面の宮と申して宜からうと思ふ。唯、此の天皇の別の宮として傳へられた樟葉《くすは》宮は、河内の北端で、淀河の附近に在り、弟國宮は是と川を挾んで、其の北方山城乙訓郡に在り、筒城宮は仁徳皇后磐之媛の舊蹟綴喜郡に在つて、大分各地に飛び離れて(41)居る。かく種々の地方に遺跡が傳へられて居るのは、注意すべき事である。
 
      四 大和平野の諸宮(下)(安閑−崇峻)
 
安閑天皇の勾金橋《まがりのかなはし》宮は、前々の帝都と稍方面を異にして、久し振に畝傍方面に戻り、畝傍山の西北、金橋村|曲川《まはりがは》に其の遺蹟を傳へて居る。日本紀に廣瀬の勾原とあるも此の地方か。
宣化天皇は檜隈廬入野《ひのくまいほいりぬ》宮に在《まし》ました。地は今の高市郡坂合村|檜前《ひのくま》の邊であらう。飛鳥よりは西南、輕よりは南で、阿知使主一族蕃延の地である。
欽明天皇の磯城島金刺は《しきしまのかなさし》宮は、崇神天皇の宮地と同じく、三輪町金屋の邊だといふ。古事記に師木島の大宮とあつて、特に宏大なものであつたと察せられる。
天皇の御代には、又、宮の名がいろ/\見えて居る。難波|祝津宮《はふりつのみや》・樟勾宮《くすのまがりのみや》・泊瀬柴籬宮などが是で、皆日本紀にある。一説に欽明天皇以後五代橘京に在りとあつて、飛(42)鳥の南方高市村の地方にも宮を營まれたものと見える。尚之は後の詳説にゆづる。
敏達天皇は百済大井宮に即位された。今の北葛城郡百済村百済の地であらう。次で卜者に命じて海部王の家地と絲井王の家地とを卜せしめ、遂に宮を譯語田《をさだ》に造る。之を幸玉宮《さきたまのみや》と云ふとある。延喜式に他田坐天照御魂神社《をさだにますあまてらすみたまのじんじや》を式上郡に列してあるので、之を式上郡【今の磯城郡】中に求め、纏向村太田は譯語田《をさた》の轉だとして、こゝに宮地を探して居る。併し古書多く磐余の譯語田宮とあつて、纏向方面ではない。太子傳拾遺記には大佛供《だいぶつく》の東、開智伊《かいちい》(ノ)里|譯田《をさだ》とある。大佛供は今大福村大福で、開智伊は城島村戒重である。戒重は式上郡に屬するも、もと磐余の一部で、こゝに小字宮所といふのが其の傳説地だといふ。
用明天皇亦磐余に宮を作り、之を池邊雙槻《いけのべのふたつき》宮と申された。所謂磐余池の邊で、稚櫻・甕栗・玉穗等諸宮と相近い。太子傳拾遺記に磐余池邊雙槻宮は阿倍寺の北山、今云ふ長門里の東松本山にありとある。
(43)崇峻天皇の倉梯柴垣《くらはしのしはかき》宮は、磐余からは東南、多武峯村字倉梯に其の名を傳へて居る。後に文武天皇の御代に倉橋離宮とあるのも此れと同處か。
以上數代の帝都。其の大和平野以外に在る物は暫く措いて、大和に於けるものは、之を概括すれば、平野の東南部なる畝傍・輕・檜隈・飛鳥・磐余・泊瀬・倉梯・纏向等に在るものと、西南隅なる葛城方面に在るものと、稍々離れた石上及び春日に在るものと、略々此の四つに歸する事となる。是等の遷都は多くは所謂御遷宮の意味に解すべきもので、物々しく遷都などと稱すべき程のものでは無い。推古天皇に至つて都は飛鳥と定まり、こゝに帝都固定の状態を呈した。是は章を改めて記述する事として、次に右諸宮を見易い樣に、表にして示す事とする。
 
      五 飛鳥京固定以前の諸宮一覧表
 
右記する如く、百磯城《もゝしき》の大宮所も年月を經るがまゝに、其の遺蹟さへ多く失はれ、(44)之を實地に尋ねる事が極めて困難となつて居る。今僅に地名と、古書の記事となどから、試みに之を今の地に引き當てゝ見ると、ほゞ次の通りとなる。固より精確は期し難いが、從來大和志などの書から其のまゝに轉載したものに比して、幾分の研究を施した積である。
 神代三世 (高千穗宮) 未詳【但天孫降臨の高千穗の古傳説地は日向西臼杵郡高千穗村)
 神武天皇 畝傍橿原宮  高市郡白橿村畝傍(畝傍山の東南にあり)
 綏靖天皇 葛城高丘宮  南葛城郡吐田郷村森脇地方(?)
 安寧天皇 片鹽浮穴宮  高市郡白橿村四條の北【一説南葛城郡浮穴村三倉堂】
 懿徳天皇 輕曲峽宮   高市郡白橿村大輕・見瀬の邊
 孝昭天皇 掖上池心宮  南葛城郡掖上村玉手・秋津村池之内の邊
 孝安天皇 室秋津島宮  同郡秋津村室
 孝靈天皇 黒田廬戸宮  磯城郡都村黒田(?)
(45) 孝元天皇 輕境原宮   高市郡白橿村大輕・見瀬の邊
 開化天皇 春日率川宮  奈良市子守町率川の邊
 崇神天皇 磯城瑞籬宮  磯城郡三輪町金屋
 垂仁天皇 纏向珠城宮  同郡纏向村緒玉卷墓の邊(?)
 景行天皇 纏向日代宮  同郡同村穴師の邊(?)
      晩年に都を近江志賀高穴穗に遷す
 成務天皇 (志賀高穴穗宮) (近江滋賀郡坂本村穴太)
 仲哀天皇 (穴門豐浦宮)  (長門豐浦郡長府村豐浦)
      (筑紫香椎宮)  (筑前糟屋郡香椎村香椎)
      (角鹿笥飯宮)  (越前敦賀郡敦賀町氣比神宮の地)
      (紀伊徳勒津宮) (紀伊海草郡中之島村の邊)
 神功皇后 磐余稚櫻宮  磯城郡安倍村池之内の邊
(46) 應神天皇 輕島豐明宮  高市郡白橿村大輕の邊
      (難波大隅宮) (攝津西成郡大道村の邊)
      吉 野 宮  吉野郡國※[手偏+巣]村宮瀧
 仁徳天皇  (難波高津宮) (攝津大阪市大阪城の邊)
 (皇后磐之媛)(筒城宮) (山城綴喜郡普賢寺村多々羅)(?)
 履中天皇 磐余稚櫻宮  磯城郡安倍村池の内の邊
 反正天皇 丹比柴籬   (河内中河内郡松原村上田)(?)
 允恭天皇 遠飛鳥宮   高市郡飛鳥村飛鳥
 (妃衣通姫)藤 原 宮 同郡鴨公村高殿(?)
 (同)  (茅渟宮)  (和泉泉南郡上之郷村中村)(?)
 安康天皇 石上穴穗宮  山邊郡丹波市町田村(?)
 雄略天皇 泊瀬朝倉宮  磯城郡朝倉村黒崎・岩坂の邊
(47)     吉 野 宮  吉野郡川上村大瀧【或は應神天皇離宮同所歟】
 清寧天皇  磐余甕栗宮  磯城郡安倍村池の内の邊
 飯豐天皇 忍海角刺宮  南葛城郡忍海村忍海
 顯宗天皇 近飛鳥八釣宮 磯城郡香久山村下八釣【或は高市郡飛鳥村八釣歟】
 仁賢天皇 石上廣高宮  山邊郡丹波市町田村の邊(?)
 武烈天皇 泊瀬列城宮  磯城郡初瀬町出雲(?)
 繼體天皇 (樟葉宮)  (河内北河内郡樟葉村楠葉)
      (筒城宮)  (山城綴喜郡普賢寺村多々羅)(?)
      (弟國宮)  (山城乙訓郡大原野村)(?)
      磐余玉穗宮  磯城郡安倍村池の内の邊(?)
 安閑天皇 勾金橋宮   高市郡金橋村曲川
 宣化天皇 檜隈廬入野宮 高市郡坂合村檜前
(48) 欽明天皇 磯城島金刺宮 磯城郡三輪町金屋の邊
      泊瀬柴垣宮  同郡初瀬町の邊(?)
      橘宮(欽明以後代々) 高市郡高市村橘の邊(?)
 敏達天皇 百済大井宮  北葛城郡百済村百済(?)
      他田幸玉宮  磯城郡城島村戒重
 用明天皇 池邊双槻宮  同郡安倍村阿部字長門の邊
 崇峻天皇 倉梯柴垣宮  同多武峯村倉橋
                                        
   新勅撰
     敷島やふるの都は埋もれて
        ならしの岡にみ雪つもれり
 
(49) 第三章 飛鳥京
 
      一 飛鳥の位置
 
神武天皇橿原奠都以來、帝都は處々に移轉したけれども、大體に大和平野の外に出づる事少く、たゞ便宜適當な地を求めて、平野内を彼方此方《あなたこなた》と動いたに過ぎなかつた。然るに推古天皇飛鳥の地方に大宮を定められて以來、帝都は遂にこゝに固定するの情勢となつた。爾來復容易に他に移る事がない。故ありて一時他地方に移ることがあつても、間もなく再びこゝに復歸するを常とする。かくて所謂飛鳥時代は、此の京を中心として現出された。
元來飛鳥の地は、今は高市郡飛鳥村大字飛鳥に其の名を留めて、こゝのみに限られて居る樣ではあるが、飛鳥京時代の所謂飛鳥は、是よりも餘程廣かつたものゝ樣であ(50)る。日本紀允恭天皇の條に、新羅の使者が、常に京城の傍の耳成山・畝傍山を愛したとある。當時の都は所謂遠飛鳥宮で、耳成山・畝傍山の如きは、其の宮の所在たる今の飛鳥からは、餘程西北に離れ存して居るにも拘らず、是を以て飛鳥京城の邊りだと認めて居つた事は、以て所謂飛鳥京の範圍を明かにするの好材料である。
萬葉集に、「明日香宮《あすかのみや》より藤原宮に遷り給へる後、志貴皇子御作歌」として、
   手弱女《たわやめ》の袖吹き返す飛鳥風、
     都をとほみ、いたづらに吹く
と云ふ歌がある。是に依ると、飛鳥の地は藤原宮よりも離れて遠い場所のやうに聞こえるが、併し是は所謂廣い飛鳥京の内にも、特に前の飛鳥淨見原宮《あすかのきよみはらのみや》と指す場所を指示したものである。藤原宮が是亦飛鳥京の内である事は、同じ萬葉集の中に、此宮の事をも屡々飛鳥と詠んで居るので知る事が出來る。
 和銅三年春三月、藤原宮より寧樂宮《ならのみや》に遷れる時、御輿を長屋の原に停めて、遙か(51)に故郷を望み、作り給へる御歌、
   飛ぶ鳥のあすかの里をおきて往《い》なば、
     君があたりし見えずかもあらん
是は明かに藤原宮を飛鳥の里と詠み給へるものと言はねはならぬ。又
 長屋王故郷歌に、
   我がせこが、古家の里の飛鳥には、
     千鳥啼くなり、君待ちかねて
とある。此の歌は同書に、
 右、近按、明日香より藤原宮に遷れる後に此の歌を作る歟。
とあつて、藤原宮にての御作の如く解して居るけれども、是は勿論近按者の誤りで、事實は明かに平城《なら》の都に在つて、藤原宮の事をお詠みになつた者と言はねばならぬ。飛鳥から藤原に移られた持統天皇の八年には、長屋王は僅かに御年十一歳、右の如(52)き歌を詠まれるには不適當である。近按者の何人かは不明であるが、いづれ平安朝以後の人で、其の當時の考では、飛鳥と藤原とは別の場所に解して居つたから、不用意にも右の如き考案を附したのであつた事と思はれる。併し是は後世の思想で、遷都當時にあつては、藤原宮をもやはり飛鳥の内として、解して居た事は明である。更に之を實地に就いて見るに、藤原宮の場所は耳成山の西南方で、今の飛鳥からは三十餘町も西北方に離れて居る。然るに此の宮經營の際に、百姓の宅の宮城内に取り込められたものが、一千五百五烟の多きに及んだとある。所謂飛鳥京内の一部として、此の地方が夙に繁盛の域となつて居つた事は是によつても明にせられる。又、飛鳥淨見原宮に天下知食《あめがしたしらしめ》された天武天皇が、官の大寺として飛鳥京内に建てられた筈の藥師寺が、畝傍山の東の木殿《きどの》にあつて、今の飛鳥からは二十四、五町を隔てゝ居るのも、亦飛鳥京城の範圍の、此地方に迄及んで居つた一證とすべきものであらう。
 
(53)      二 歸化漢人と飛鳥地方
 
更に南の方坂田・稻淵などの邊までも、同じく飛鳥の中と認められて居た。古語屡々飛鳥と小墾田《をはりだ》とを同義に用ひ、萬葉集には、小墾田の坂田の橋などゝも詠んで居る。是より更に西の方、檜前《ひのくま》地方に至るまで、實は一帶に漢人の移住地であつた。此の事は佛教の傳播と相俟つて、飛鳥が帝都の地として固定する上に、重大の關係を持つて居た事と思ふ。寶龜三年四月坂上刈田麻呂の上奏によるに、先祖|阿知使主《あちのおみ》が應神天皇の御代に十七縣の人夫を率ゐて歸化し、高市郡檜前を賜つて之に居つた。夫れ以來一族大いに蕃延し、凡そ高市郡内には、檜前忌寸《ひのくまのいみき》及び十七縣の人夫の後裔が地に充ち滿ちて、他姓の者は十にして一二のみだとある。幾分の誇張があるとして、高市の地方に漢人の多かつた事は、是によつても明に知る事が出來る。其の後渡來の漢人も、同種の緑を以ての故か、往々此の地方に置かれた樣である。彼等の中に(54)は、其の當時外國から新に渡來したる人民として、新來《いまき》と稱せられたものもあつた。推古天皇の朝に小野妹子に隨つて隋に留學した新漢人《いまきのあやびと》大國・新漢人《いまきのあやびと》日文など、此の族であらう。此の外、當時の留學生、多くは此の地方の漢族と察せられる。或は思ふ、新漢人《いまきのあやびと》は阿知使主等の稱であつて、更にそれよりも古代に渡來した漢種の人民に對した稱であるかも知れぬと。いづれにしても高市郡は殆ど漢人の郡であつた。そこで古へに今來郡《いまきごほり》の稱があつた。或は高市郡の別名だとも解せられるが、今、檜前の西南方、吉野郡大淀村の中に今木の地があつて、其の古名を傳へて居るので見れば、或は高市郡の一部から、此の方面へ渉つての稱であつたかも知れぬ。大臣蘇我蝦夷、今來に父子の墓を起した。所謂今來の双墓で、今南葛城郡古瀬の水泥《みどろ》に現存して居る。曾ては此の地方迄も今來の内であつた事が知られる。
斯く漢人は今の南葛城郡の東南部から、高市郡の大部分までも擴がつて居つたので、隨つて此の地方に夙に一種の文明が開けて居つたことと察せられる。佛教渡來(55)後、其れが先づ飛鳥地方に勢力を得たのも偶然ではない。
佛教渡來の際、蘇我氏を助けて之が興隆に盡力した司馬達等《しばたつと》は、亦實に此の地の坂田の住人であつた。扶桑略記に引用せる、日吉山藥恒法師の法華験記所引延暦寺僧禅岑の記によるに、彼は繼體天皇の十六年に支那南梁から渡來して、坂田原に住したとある。其の渡來の事情に就いては稍疑があるけれ共、少くも彼等の一族が、飛鳥の南方今の坂田の地に居つた事だけは明かである。坂田の南の稻淵は、即ち古の南淵で、推古天皇朝の留學生南淵漢人請安の居所である。かく飛鳥地方は、外國文明移入の地であつて、司馬達等は欽明天皇十三年佛教が百済から傳はる前から、こゝで自ら佛を禮拜して居たとあるが、此の類のものは他にもあつたであらうと思はれる。欽明天皇の朝、帝都は飛鳥から離れた地にあつたけれども、大臣蘇我稻目は邸宅を小墾田に有して居つた。小墾田は飛鳥と屡々同じ名に呼ばれて居る。而して、稻目の此の小墾田の家は、始めて百済傳來の佛像を安置した所で、後の豐浦寺の原《もと》をなして(56)居る。たゞに稻目の宅のみならず、皇室に於かせられても、夙に此の地方に別宮を有せられた樣である。書紀集解に引く所の太子傳備考には、欽明帝より後五代橘京に在りとある。橘は今橘寺の地に其の名を存して居るが、もとは今よりも廣かつた。其の飛鳥の橘の地が、佛教渡來當時から皇室と特別の關係があつた事は、他にも少からず傍證がある。用明天皇の御子厩戸皇子は、一に上宮太子と申される。是は父帝之を愛して、宮南の上殿に置かれた爲で、所謂宮南の上殿は扶桑略記に今の坂田寺の地なりと見えて居る。古事記・日本紀等に見えたる用明天皇のお宮は、磐余《いはれ》にあつて、池邊双槻宮と申された。是は天皇の御名としての此の宮名のみが、國史に著しくなつた爲で、天武天皇の詔に所謂「都城宮室一所にあらず」で、當時飛鳥の地にも別に宮殿のあつた事は、是に依つても察せられるのである。斯くて佛教も夙に此の地方に根柢を据ゑた。後年推古天皇の朝に當り、聖徳太子が今の橘寺の所で勝鬘經を講ぜられた事は申す迄もなく、其の橘寺の北なる川原寺は、後に齊明天皇の飛鳥(57)川原宮の地と察せらるゝが、此の寺の起原に就いて種々の説がある中にも、七大寺順禮記には、是は敏達天皇の朝の創建と傳へて居る。他の傍證からして、是れ亦捨て難い。此の外にも、飛鳥地方に早く幾つも寺が出來た。斯くて飛鳥は佛教と離つべからざる因縁を生じ、推古天皇飛鳥の豐浦宮に即位し給ふに及んで、遂に再び他に移る事が容易ならぬ程の者となつてしまつた。して見れば、飛鳥が帝都として歴史上に著しくなつたのは、推古天皇の豐浦宮以來であるけれ共、其の實別宮所在地としては、既に欽明帝以來選定せられ、佛教興隆の根據地になつて居た者と云つてよい。
 
      三 飛鳥京の沿革
 
推古天皇豐浦宮に即位し給ひて後十二年、更らに小墾田宮《をはりだのみや》に移られた、言ふ迄もなく同じ飛鳥の内である。當時の宮殿が如何なるものであつたか、之を詳にする事は出來ねど、無論「底津磐根に宮柱太敷き、高天原に千木高知れる」堀立柱、繩結び式の(58)ものでなく、少くも支那風を加味した殿堂であつたものと察せられる。是より後三十六年三月崩御のさいまで、又遷都遷宮の事を傳へず、舒明天皇御即位後、其の二年十月に、飛鳥岡の側に宮を營みて之に移られた、所謂飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮である。或は略して單に飛鳥宮ともある。天皇の八年、此の岡本宮が燒失して、一時田中宮に移られた。田中は今の豐浦の西北に存して、亦同じく飛鳥京の内と云つて宜しい。併しこれは臨時のお宮であつて、十一年七月には更らに百済宮を營まれた。場所は廣瀬郡百済川の邊りで、敏達天皇の百済大井宮の故蹟かと察せられる。こゝに於て帝都は、一度飛鳥の地を離れた。其の理由は明かではないが、此の地は古く百済人に深い關係のある所で、天皇の此處に都を遷されたのは、又佛教上の意味が加はつて居た事かも知れない。即ち詔して大宮と大寺とを造らしめ、百済川以西の民は宮殿造營に役し、以東の民は大寺造營に從事せしめた。かくて十二月には、其の大寺に九重の塔を建てしめた。寺は即ち百済大寺《くだらのおほてら》で、もと聖徳太子の熊凝精舍《くまごりでら》に起因し、後に高市(59)に移つて高市大寺、又は大官大寺と稱し、平城《なら》に移つて大安寺と稱した、常に遷都と伴うて居る由緒の深い寺である。此の月、天皇伊豫の道後温泉に幸して、翌年四月還幸|在《ま》しましたが、宮殿いまだ成らざりし爲にや、一時|厩坂宮《うまやさかのみや》に御入りになつた。厩坂は應神天皇の御代に、百済の王子阿直岐が獻じた馬を飼つたと傳へられる所。嘗て屡帝都の地として選定された輕のうちである。併し是も一時の事で、帝都としては、何處迄も飛鳥の地でなければならなかつた。當時こゝには既に元興寺・法興寺を始めとし、數多の有力なる寺院も出來て居た。蘇我大臣を始として、有力なる豪族の邸宅もあつた。支那文明の移入者として、佛教興隆上にも勢力ある漢人の巣窟なる事は云ふまでもない。かくて舒明天皇が翌年百済宮に崩じ、皇后即位して皇極天皇と稱せらるゝ御代の始めに、再び此の飛鳥に歸られた。田中・百済・厩坂等の宮は、僅かに二ケ年許りの臨時の宮であつたと言はねばならぬ。天皇即位の元年九月大臣に下された詔に、「此の月より起り十二月迄を限りとして、宮室を營まんと欲す。諸國(60)に殿屋の材を取らしめよ。東は遠江を限り、西は安藝を限りて、造營の丁を發すべし」とある。新たに飛鳥の地に宮殿を造營せしめたのであるが、其竣工期限は僅かに四ケ月。是を以て、大體に於て當時尚宮殿の甚だ簡單なものであつた事が察せられる。斯くて十二月に至り、天皇小墾田宮に遷られた。是は恐らく推古天皇の舊宮で、新宮の造營が豫定の如く完成しなかつた爲の一時の假宮たるに過ぎない。翌年四月新宮成つて此の假宮より移られた。之を飛鳥(ノ)板蓋(ノ)宮と云ふ。其の名義は從來の宮殿は普通茅葺又は檜皮葺であつたのに對し、此の時に板を以て葺かれたからだと解せられる。隨つて其の名稱も、單に飛鳥宮と云ふと擇ぶ所はない。たゞ天皇の御治世を示す爲に、他の宮と區別する必要上、かく呼ばれたに過ぎない。此の板蓋の新宮の造營期は、豫定より遅るゝ事約四ケ月、前後通じて二百日に過ぎない。頗る簡單であつたと思はれるが、而も之を前代の宮に比しては、大いに莊厳を加へたものであつたに違ない。宮城には十二の門を開き、支那の制にならつて大極殿も既に備は(61)つて居た。四年蘇我入鹿誅伐の際、中大兄皇子が十二の門を閉ざし、大極殿で事を擧げられたのは實に此の宮での事であつた。大化の政變は、我が歴史上非常に重大なもので、之と比すべきものは、前後僅かに明治維新あるのみだと云はれる程の激變を、政治上に來して居る。隨つて此の舊勢力の固定したる、殊に大和平野の一隅に僻在して交通不便に、當時の發展的帝國の新政府として理想的新政を行ふには不適當なる飛鳥を去つて、都は難波に遷され、此處に支那風の新らしい都城が營まれた。是は政治上已むを得ぬ事である。併しながら、此の遷都の爲めに飛鳥宮は全く廢せられたのではなかつた。難波宮の事は後の章に讓る事として、茲に飛鳥の舊都の事情を考へてみると、法興・元興・豐浦以下有力なる諸寺院は、無論都の他に遷るを喜ばない。飛鳥・檜前の漢人は、亦言ふに及ばぬ。其の他先代以來の有力家も多く此の地に留り、新政の左大臣蘇我倉山田石川麿の如きも、飛鳥に邸宅を有し、こゝに壯大なる山田寺を經營して居る。此の大臣が謀反の嫌疑で誅せられたのは、一は此の飛鳥(62)に戀々たるが如き事情が手傳つて居たかも知れぬ。ともかく舊京の勢力は新京を壓し、孝徳天皇難波宮に在《まし》ます事約十年、中大兄皇子は時勢に鑑み、再び此飛鳥舊都に還幸の議を呈し、其の容れられざりしに拘らず實行された。かくて天皇崩じ、先帝皇極天皇再び御位に即かれた。之を齊明天皇と申す。宮は以前の板蓋(ノ)宮である。其十月天皇新たに小墾田に宮闕を起して、從來の茅葺・板葺等に代へるに、瓦葺の家根を以てせんとせられた。然るに此の工事は何故にか中止して、宮は遂に成らず、板蓋(ノ)宮は又火災に罹つて、已むを得ず飛鳥の川原(ノ)宮に御移りになつた。但、是は一時の假宮で、翌年舒明天皇の宮地であつた飛鳥の岡本に宮殿を營み、是に御移りになつた。是を後(ノ)飛鳥岡本(ノ)宮と申す。舒明天皇の治世を示す宮名に對して、之と區別する爲めの名である。岡本宮地は多武峯の西麓地方である。そこで天皇は宮東の多武峯に繞らすに石の籬を以てし、山上に高臺を起して兩槻《ふたつき》の宮と申す。又天宮とも申された。即ち水工を役して渠《みぞ》を穿ち、香久山の西より石上《いそのかみ》の山に至る舟二(63)百隻を以て石を運び、流れに順うて宮東の山に引き、石を累ねて垣と爲す。工夫を役した事が三萬餘、垣を造る爲の工夫七萬餘。時の人謗つて狂心渠《たふれごゝろのみぞ》と云つたとある。此の多武(ノ)峯に設けられた石の垣と稱するものは、朝鮮に於て多く見る所の山城であつたと解せられる。朝鮮にては都城のある附近の山に別に山城を築き、有事の際是に籠るの設備を爲して居る。我が國にも朝鮮式の山城を築いた事は、既に應神天皇の御代にあつて、百済人が播磨に之を起した事が、播磨風土記に見へて居るが、併し皇居に對して朝鮮風に山城を造つたのは、恐らく是が始めである。時人之を解せず、徒らに工夫を役するの非を謗つた。是は當代失政の一だとして、後に孝徳天皇の御子有間皇子の謀叛の際に於て、其の理由の一ともなつて居る。其のうちに新羅が百済を滅ぼすの事件起り、七年に天皇親征して筑紫に幸し、遂に朝倉宮に崩ぜられた。中大兄(ノ)皇子即ち素服制を稱し、飛鳥(ノ)宮に於て政治を親裁せられた。併し飛鳥は到底此の有爲の君をして自由に手腕を振はしめる所ではない。其の六年三月、(64)皇太子は即位せられて天智天皇とならるゝに當り、都を近江の大津に移された。大化の難波遷都に比すべきものである。而も當時に於ける飛鳥諸勢力の反對も又難波當時に比すべきもので、大津京の存續僅か五年の後、天智天皇の崩御と共に壬申の亂となり、都は再び飛鳥に復歸した。當時天武天皇は、實に飛鳥舊勢力の代表者であつたのである。かくて天皇は一時飛鳥岡本宮に在《まし》まし、やがて宮南に新宮を營み、工成つて其の冬此に移られた。之を飛鳥(ノ)淨見原《きよみはら》宮と申す。引續き飛鳥は帝都の地となつた。而も天武天皇は、有爲の才を擁して此の宮に安んじ給ふ事が出來なかつた。五年に至り忽ち新城《にひき》に遷都の御計畫が起り、既に敷地の準備まで出來上つた。新城《にひき》の地は明かでないが、今生駒郡郡山町の南に、大字新木と稱する地がある。或は此處であつたのかと思はれる。後に孝謙天皇の詔に、平城《なら》の宮を新城宮と仰せられた事などから見れば、廣く奈良にも及んで此の名があつたのかも知れぬ。尚言はゞ、後の平城《なら》遷都は當時天武天皇選定の地に行はれたのであつたかも知れぬ。然るに此の新(65)城の遷都計畫は土地收用のみに終つて、遂に工事に着手せられるに至らなかつた。そこで八年には、大化以來の難波京に羅城を築き、防禦の設備を施して、是をも都城の一つとされた。更に十二年に至つて勅して曰く、
 都城宮室一處にあらず、必ず兩參を造らん。故に先づ難波に都せんと欲す、是を以て百寮者各往いて家地を請へ。
と。此の勅を拜すると、天皇は大化の難波京を以て、更に帝都となすべき御意志であつたやうに思はれるが、是も實行は困難であつた。そこで別に翌十三年に至つて、使を畿内の諸國に遣はして都とすべき地を調査せしめ、遂に遠く信濃にまで及ぼされた。而も是亦成功せず、帝都は引續き飛鳥を去ることが出來ない。茲に於て天皇は、最後に京内を巡幸して、新たに宮室の地を定められた。其場所は不明であるが、亦未だ着手せらるゝに及ばずして、朱鳥元年天皇崩じ、皇后即位して持統天皇と仰せられる。引續き飛鳥(ノ)淨見原宮に在すこと四年。こゝに飛鳥の郊外の地に新たに宮(66)室を營み、新式の都城を經營せられた、是即ち有名なる藤原京で、蓋し先代選定のものを成功されたことと解せられる。之を地理上より觀察すれば、亦飛鳥京の内で、廣く郊外に擴張したが故に、史に新益京と云つて居る。但此の藤原京のことは、設備其の他の事情に於て、頗る前代と趣を異にする所があるから、是は章を改めて記する事とする。兎も角も飛鳥京は、或は百済川に、或は難波に、或は大津に、或は其の他の諸地方に、屡々遷都が計畫せられ、又實行せられた事があつたと雖も、一も末を遂げる事なくして、いつも飛鳥に復歸し、此の持統天皇藤原宮迄繼續した事は、史上著明なる事實である。
藤原京は新式都城とは云へ、依然飛鳥京であつて、永く有爲者を滿足せしめ難かつた。文武天皇禅を受けて此藤原宮にまします事十年、慶雲四年に至り、忽ちにして再び遷都の議が起つた。當時の選定の場所は明かでないが、間もなく天皇崩じ、翌年御生母元明天皇即位さるゝに及んで、直ちに平城《なら》遷都の事が發表されたのを想ふに、(67)是は先帝の時に定められた所を實行せられたものと拜察せられる。此の度の遷都は、飛鳥に於ける反對者の勢力を根本から挫かんが爲に、同時に諸大寺の移轉が續々として行はれた。斯くて和銅三年天皇新京に遷り給ひ、翌年藤原(ノ)宮燒亡するに及んで、飛鳥の地は長く帝都たるの實を失ふ事になつた。而も之が爲めに飛鳥(ノ)宮は、跡方もなく廢せられたのではなかつた。淳仁天皇天平寶字四年八月、播磨・備前・備中・讃岐等の穀を小墾田(ノ)宮に蓄はへしめ、次で此の宮に行幸になつた。翌年五月にも暫く小墾田(ノ)岡本(ノ)宮に移られた事がある。小墾田は即ち飛鳥であつて、小墾田(ノ)岡本(ノ)宮は所謂飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮と同じであらうと思ふ。其後にも天平神護元年には、稱徳天皇紀伊に行幸あつて、途中此の宮に蹕を駐められた。是より後飛鳥宮の事は物に見えて居ない。蓋し山城遷都の際、難波京を廢した事から考へてみると、飛鳥の舊都も、恐らくは此の頃に全く廢せられたものと察せられる。
以上飛鳥京の沿革を概觀すると、其の起りは、漢人の移住地として夙に其の文明が行(68)はれ、佛教渡來以來先づこゝに興隆の根柢を定めてより、皇室大官の崇敬と相俟つて、一種拔くべからざる固定の勢力が此地に養はれた事にある。世の中次第に進んで、政府の組織は複雜となり、人民多く都下に集つては、遷都の事亦容易ならず、隨つて一時必要上他に都を遷される事があつても、何時も飛鳥の勢力に壓迫せられて、再び此處に歸らねばならぬ情勢であつた。併しながら、名君賢相出でゝ理想の新政を行はんとするには此の弊竇の固定せる、且つ交通不便にして發展的帝國の首都たるに不適當に、南に山を控えて天子南面の相にも合《かな》はざる如き飛鳥の地に於てせんは、到底不可能であらねばならぬ。明治の新政に一千餘年來の平安京を去つて、一と度大久保參議に依つて難波遷都の議が提出せられ、江戸城平定に及んで、更に東京に新政府を設置するに至つた事情から見ても、此の間の樣子は察せられるのである。大化の難波遷都、天智の大津遷都の如き、無論之と同じ意味である。大津の政府に對して飛鳥の舊勢力を利用し、高市の漢人ら一致の援助の下に、遂によく壬(69)申の亂に勝つて、舊京に於て帝位に即かれた天武天皇すらが、尚此の地に安んずるに至らずして、數囘遷都を計畫し、而も最後には京城内に適當な地を選んで、藤原宮を營むの基を定むるに滿足せざるを得なかつたのも、亦同じ意味を以て解釋すべく、飛鳥を遠ざからんとする遠心力と、どこまでも茲に引き止めんとする求心力とが、如何に激烈に爭つたかを示して餘りあるものである。併しながら、斯くの如き姑息なる事は、到底長く繼續すべきものではない。文武天皇に至つて遠く飛鳥を去らんとする計畫が漸く熟し、遂に元明天皇平城遷都以後、再び都が飛鳥に歸る事なきに至つたのは、賢相藤原不比等の措置宜しきを得た爲で、新勢力がよく飛鳥の舊勢力に勝つたものと解釋しなければならぬ。
 
      四 飛鳥京諸宮の位置
 
        イ、飛鳥諸宮概説
(70)飛鳥に於ける世々の宮は、既に記したる如く、それ/”\特別の名稱を有して、一見如何にも互に相隔りたる地に經營せられた、別の都の樣に見ゆるけれども、實は彼是互に相接近して、殆ど同一境内なる別宮殿と看做す可き程のものすら少くない。併し、其の位置を今日の實際に當てはめて、明かに指定する事は頗る困難であつて、尚前代の諸宮址が判然せざる者と、相比すべき事である。帝王編年記・玉林抄を始とし、和州舊跡幽考・大和志等、徳川時代に編纂せられた地誌の記する處、此の飛鳥の諸宮に就いては、殊に信用するに足らぬ。中にも最も徴證に富み、遺蹟も比較的明かになし得る淨見原宮の如きすら、非常なる見當違の場所に之を擬定して居る程であるから、今是等から獨立して、不十分ながらも及ぶ限り、其の位置を考定して見ようと思ふ。
        ロ、豐浦宮
飛鳥に於ける諸宮の中、允恭・顯宗兩帝の宮は代遠く隔つて、後の飛鳥京と直接交渉なければ暫く措く。欽明天皇以後五代、橘京にましましたとあるも、たゞ用明天皇(71)の宮が坂田の北方にあつたらしく思はれる外は、亦尋ぬべき由なければ、是も措く。固定したる飛鳥京中の宮として、最初に指を屈すべきものは、推古天皇の豐浦宮である。豐浦は今高市村大字|豐浦《とよら》に其の名を留め、飛鳥とは飛鳥川を隔てゝ西方、甘檮岡《あまかしのをか》の北麓にある。以て宮の位置は略々推測する事が出來る。殊に三代實録の元慶六年の條に、豐浦寺即ち建興寺の檀越|宗岳木村《そがのきむら》と、寺の僧義済との間に起つた訴訟に關する太政官符がある。其の文に、
 彼の寺は推古天皇の舊宮なり。もと豐浦と號す。故に寺名となる、云云。宗我稻目家を以て佛殿となし、天皇其の代地を賜ふ。遂に相移易して、皇宮を施入す。
とあるに依ると、後の豐浦寺は推古天皇の豐浦宮を賜はつて出來たものである。此寺初め櫻井寺といつた。櫻井寺は豐浦の附近にあつたので、豐浦宮を賜はつて是にうつり、豐浦寺と稱するに至つたものと見える。隨つて豐浦寺の位置が明かであるならば、直ちに以て豐浦宮の場所を知る事が出來るのである。今豐浦に廣厳寺とい(72)ふ寺があつて、古への向原寺は即ち是だと言つて居る。向原寺は豐浦寺の起原であるから、是即ち豐浦寺で、豐浦宮址だといふ事になるのであらう。或は其の南方の西念寺が豐浦寺の址だともいふ。今兩寺の中間に大きな塔の礎石らしい伽藍石が存在して居る。舒明天皇六年三月豐浦寺の塔の心柱を建つとあるもの是なるべく、其地が少くとも舊時の豐浦寺の一部であつた事は明かだと言はなければならぬ。而して是即ち直ちに推古天皇の宮居の址と定むべきものだと思ふ。
        ハ、岡本宮と淨見原宮
飛鳥京内諸宮の中で最も名高く、且比較的徴證最も多いのは、舒明・齊明兩帝の岡本宮と、天武・持統兩帝の淨見原宮とである。此の兩宮は位置相關係し、後者は前者の南に營まれたとある。隨つて其の一を知れば、以て他を推す事が出來るのであるが、舊説には、岡本宮を以て今の高市村大字岡の地とし、或は岡寺即ち龍蓋寺を以て之に當て、隨つて其の南の大字|上居《じょうご》を淨御原とし、上居は淨御《きよみ》を音讀したものだと解(73)して居る。而も其の誤りなる事は明々白々たるもので、要は岡本宮と岡宮との混同に基して居るのである。其の上居は、偶然音が似て居るのみで、實は是より東の方、多武峯を隔てゝ存する下居《おりゐ》に對する名である。地勢から言つても、無論萬葉集の歌、日本紀の記事等に見える淨見原の、稍打ち開けたるべき原に擬すべきものではない。扨岡本宮は、「舒明天皇飛鳥岡の傍に遷る、之を岡本宮といふ」と云ひ、「齊明天皇飛鳥岡本に於て宮地を定む、號して後飛鳥岡本宮と云ふ」とあつて、飛鳥岡の傍に在つた。飛鳥岡は續日本紀に持統天皇及び文武天皇を火葬し奉るとある處で、其指す場所は不明であるが、或は今の飛鳥村大字|雷《いかづち》にある丘陵が是であらうと思はれる。此の丘陵は雄略天皇の命により、小子部螺羸《ちいさこべのすがる》が雷を捕へたと云ふ古跡で、之を雷岡と云ひ、豐浦から飛鳥川を隔てゝ東北にある。今の飛鳥にある飛鳥神社は元と此の丘に鎭座したのを、神告によりて天長六年に今の地に遷したのだといふ。靈異記には此の岡を以て、古京小墾田宮に在りと言つて居る。是は恐らく奈良時代の古文で、當時の所(74)謂小墾田宮が、岡本宮と同所なる可く考へられる所から見れば、雷岡即ち飛鳥岡であらうとの説は、一應の理由ありと言はねばならぬ。一説に飛鳥岡が若し雷岡であるならば、世々の帝を此飛鳥神鎭座の岡に火葬し奉るような事の有る可き筈が無からうといふ。餘も嘗て然か考へたが、「雷岡は古京小墾田宮にあり」といふ古文は尊重せねばならぬ。若し雷岡が飛鳥岡でないならば、其の東北なる大字奥山の北の小丘を擬すべきか。何れにしても岡本宮が此の附近にあつた事は認めなければならぬ。岡本宮を今の大字岡に在りと云ふ説は、固より取るに足らぬが、而も其の由來は頗る古い。玉林抄に岡本宮は橘寺の東、逝囘《ゆきゝの》岡、今の岡寺の地なりと云ひ、帝王編年記には高市郡島の東、岳本《をかもと》地是也と云ふの類、皆是である。けれども是は所謂逝囘岡を以て、是れ即ち飛鳥岡なりと誤認したものである。逝囘岡の名は夙に萬葉集にも見えて、長岡と云ふものと同じく、即ち今の大字岡の附近の丘陵を云つたものと見える。こゝの龍蓋寺を岡寺と云ふのも、此の逝囘岡から起つたことで、飛鳥岡とは自から別と見な(75)ければならぬ。岡には岡宮があつた。もと島宮とも云ふ。岡本宮と混同してはならぬ。文武天皇が天武天皇の皇孫として皇位に即かれ、御父草壁皇太子を追尊して岡宮御宇天皇と申された、萬葉集によるに、草壁皇太子は島宮にましました。島は即ち今の島庄で、島大臣即ち蘇我馬子の邸宅のあつた所。此島宮にましました方を、後に岡宮御宇天皇と申すのは、岡宮即ち島宮で、岡と島と、もと同地たるの證據である。今も大字島の庄は、岡と相接して存在して居る。ところで此の岡宮天皇を、或は古く長岡天皇とも申し上げて居る。釋日本紀・帝王編年記・神皇正統記・皇胤紹運録の類皆是である。是れ即ち長岡が今の所謂岡である證據で、飛鳥岡は是とは別の地に求めなければならぬ。天平神護元年、稱徳天皇小墾田宮から巡狩して大原・長岡を過ぎて、飛鳥川に臨んで宮に還られた事が續日本紀に見えて居る。小墾田宮は即ち小墾田岡本宮ともあつて、飛鳥の岡本の宮地でなければならぬ。又、大原は今の小原で、飛鳥の東南に當り、岡寺の所在地なる長岡は、其の南に續いて居る。岡本宮より發(76)して此の大原と長岡とを經、飛鳥川に臨まれたと云ふ事は、長岡が大原と飛鳥川との間の地で、自ら飛鳥岡と別である事を明かに證據立てゝ居る。
更に岡本宮の地を定めんには、其の南に營まれたる淨見原宮の場所を決定した後に於て、其の北に求むるを便宜とする。淨見原宮は曩に難波・大津等に於て、支那風の都城の設けられたる後の宮殿であるが故に、之を從來の諸宮に比べて餘程整つて居つたものたる事は疑ひない。日本紀に見えて居る所を拾うてみても、大極殿・大安殿・内安殿・向小殿・御窟殿、其の他内裏・朝堂等の名が有る。太政官・法官・理官・兵政官・刑官・民官・民部・大藏・宮内・左右兵衛・膳職等の役所の名も見えて居る。所謂八省百官は略々宮城内に具して居つたもので、其地は必ず狹小なる場所であつてはならぬ。之を上居《じやうご》の樣な、山腹狹隘の地に求むるが如きは、以ての外の事である。天皇崩じて殯宮を南庭に設けられた時、京城の耆老男女皆來りて橋西に慟哭したとある。是を以て見れば其の地は飛鳥川の東に在つて、當時の飛鳥京城は廣く河西に渉つて在(77)つたものたることが知られる。のみならず、當時飛鳥京は頗る繁盛で、人口が多く、後に其の西北隅に當つて藤原宮の地を定めた際、百姓の宅の宮地に入るもの一千五百五烟の多きに達したとある程で、其の人口の多かつた京城の耆老男女が、悉く來つて橋の西に集まり、宮城南庭の殯宮に向つて慟哭し得べき程の場所を探して、此の方から宮城の地を尋ぬるの好資料を提供するものである。
然らば飛鳥川に於て、かゝる位置の橋はどこにあつたか。今も飛鳥小學校の附近に飛鳥川を越えて豐浦から飛鳥に通ずる一つの橋がある。先年其の附近より橋杭の石らしい加工の巨石を發掘した。而して其の地は、東も西も共に開けて、東に廣大なる宮城を營み、西に多人數相集つて殯宮を拜するに適當なる場所と解せられる。又橋の東に小字を石神と稱する處があつて、先年異形なる石製の大遺物を數個發掘した。今現に東京帝室博物館に陳列してある。其の石製品の何物たるかに就いては、議論も有るけれ共、兎に角飛鳥京時代の遺物たる事は疑ひない。又其の附近に小字(78)ミカドと稱する地のあるのは、宮城の門の名を傳へて居るものと思はれる。其の他田地の間に狹小な芝地を存して、土人畏敬して敢て侵さゞる場所も、此の附近には幾つもある。是等を綜合して見ると、淨見原宮が此の地に設けられた事を推測するには、材料ほゞ整つて居ると思はれる。
尚更に萬葉集を見るに、柿本人麿が高市皇子を悼み奉つた歌の中に、天武天皇の御事を述べて、
 掛まくもゆゝしきかも、言はまくもあやに畏き、飛鳥の眞神の原〔七字右○〕に、久堅の天津御門を、畏くも定め給ひて、神さぷと、岩かくります、八隅しゝ我が大君云云
とある。普通の解釋に、右の眞神の原以下の句を以て、天皇の山陵を説けるものとなし、隨つて眞神の原を山陵の地として居るが、是は甚しく實地を間違つて居る。飛鳥の眞神の原は、日本紀に崇峻天皇元年、初めて法興寺を造つたとある土地で、今の大字飛鳥の地即ち之に當る。其の法興寺は今の安居院《あんごゐん》即ち俗稱飛鳥大佛の地た(79)る事疑ひを容れない。然るに、天武天皇の山陵は檜隈に在つて、檜隈大内陵と稱し、飛鳥とは山を隔てて西南に當る。隨つて此の眞神の原に山陵の在るべき筈が無い。此歌は、飛鳥の眞神原に天津御門を定めてましました、天武天皇を述べ奉つたので、天皇の淨見原宮が、此眞神の原に在つたことは、之によつても察せられるのである。而して小字石神、小字ミカドは、所謂眞神の原に營まれたる法興寺と相接近したる土地にある。淨見原宮が此の地方に在る事は殆ど疑を容れない事だと思ふ。淨見原宮にして既に決定したならば、其の北方に岡本宮を求めんは、よしや其の精密なる地點を指定する事は困難であるとしても、大體に於て誤りなかるべく、舊説の如く、之を岡寺の地方に定めんとするの誤りなるは、明かと云はねばならぬ。
        ニ、飛鳥板蓋宮
次に飛鳥の板蓋宮は、扶桑略記に川原板蓋宮ともある。皇極天皇元年、大臣蘇我蝦夷に命じて造らしめたもので、齊明天皇の御代の始にも、又茲に重祚の式を擧げら(80)れた處である。其の地は扶桑略記に、板蓋宮は高市郡岡本宮と同所とあつて、從來の説は之を以て其の場所を同寺附近に求めやうとし、大和志には、飛鳥と岡と二村の間だと云つて居る。其の岡本宮同所と言ふは誤であるが、指す場所はほゞ當つて居る。何となれば、扶桑略記がこゝに岡本宮と云ふのは、實は飛鳥の岡本宮では無くして、岡宮の誤りだからである。岡宮と岡本宮とは、既に記したる如く、明かに其區別があるけれども、古く兩者を誤り、混同して居る事が多い。草壁皇太子は續日本紀に明かに岡宮御宇天皇とあるに拘らず、立坊次第には之を岡本天皇と申して居る。立坊次第は主として扶桑略記に依つて書いたとあるが、是から見ても扶桑略記にこれを岡本宮同地と在るものは、其の實岡宮たる事と知られる。板蓋宮の所在は、日本紀皇極天皇の條に、「宮殿島大臣の家に接して起る」とある。島大臣は即ち前記蘇我馬子の事で、其の家飛鳥川の傍に在り、庭中に小池を堀り、小島を池中に興す、よりて時の人島大臣と云へりとある。場所は今の大字岡の南に接續して居る島の庄(81)の地だ。してみれば此の島の邸宅に接したといふ板蓋宮は、島の庄に近い處。島宮即ち岡宮の附近であらねばならぬ。即ち板蓋宮は岡本宮、其實岡宮と同地であると云ふ扶桑略記の説は、信ずべきものであらうと思ふ。然らば大和志が、之を飛鳥・岡二村の間といふは稍當らず、岡・島庄二村の邊といふべきものであらう。要するに板蓋宮・島宮・岡宮、共に同所で、今の大字岡若くは島の庄の附近に在つたものに相違ない。板蓋宮は齊明天皇の御代の初に燒けて廢し、天智天皇の時に島宮がある。蓋し舊宮を再興したものか。天武天皇嘗てこゝにましまし、後に草壁皇太子の宮となつたのであつた。
        ホ、飛鳥川原宮
飛鳥川原宮は齊明天皇の一時天下を知ろし食されたところ。板蓋宮をも一に川原板蓋宮と稱し、兩者の區別甚だ明かで無いが、板蓋宮亦飛鳥川の川原にあつたものと見れば、混同の要はない。一説に今の川原寺即ち弘福寺《ぐふくじ》は、此の飛鳥川原宮を寺と(82)なしたものであらうと言つて居る。併し諸寺縁起集所收の古縁起には、此の寺既に敏達天皇の朝に在ると云ひ、百済國より此の御代に傳來した彌勒の佛像今東塔に在りといふ事を言つて居る事から考へると、川原寺と川原宮とは自から別だと言はねはならぬ。併し是も豐浦宮と豐浦寺との關係の如く、弘福寺は前より存するも、後に川原宮を賜りて、河原寺となつたと解するも面白からう。扶桑略記に、天武天皇朝弘福寺を建つとあるは、再建若くは増築か。大和志に川原宮は飛鳥・岡二村の間にありとあるも、今之を明かにすることの出來ないのを遺憾とする。
        ヘ、小墾田宮
此外推古天皇の後に移られた小墾田宮の位置に至つては、其の名漠然として、今之を決定する事は出來ない。延喜式内に治田《はるた》神社がある。今岡寺附近に存する八幡社をこれだと云ふ。一説に川原寺の附近なる八幡社を以て之に充つる者もあつて、明でない。隨つて之に依つて其の宮址を決定する事が出來ないのみならず、小墾田の名(83)は既に記した如く、飛鳥といふと殆ど同意義にも用ひられて、今日より之を決定せん事は困難である。但、古書に小墾田兵庫、稻目の小墾田宅などとあつて、特に小墾田と指した地はあつたのであらう。今之を明にするを得ざるのみ。併し所謂小墾田宮は、恐らく普通に所謂飛鳥宮、即ち飛鳥岡本宮と同地ではなからうか。奈良朝に、岡本宮を小墾田宮とも云つて居るのは傍證とすべきである。
 
      五 飛鳥京内の諸宮一覧表(附、難波・大津の兩宮)
 推古天皇  豐 浦 宮  飛鳥村大字豐浦、後の豐浦寺の地
       小墾田宮   不明。恐くは岡本宮同所歟
       耳成行宮   九年五月行幸。耳成山上若くは同山の東大宇山の坊小字東西京殿の地か
(84) 舒明天皇  飛鳥岡本宮  飛鳥村大字雷の東歟
       田 中 宮  白橿村大字田中
       厩 坂 宮  白橿村大字輕・見瀬の附近
       (百済宮)  (北葛城郡「舊廣瀬郡」百済村大字百済)
 皇極天皇  飛鳥板蓋宮  高市村大字岡・島庄の邊
 (孝徳天皇)(長柄豐埼宮) (攝津西成郡豐崎村大字南北長柄・本庄地方)
 齊明天皇  飛鳥川原宮  不明。或は高市村大字川原、川原寺の地歟
       後飛鳥岡本宮 岡本宮同所
 (天智天皇)(志賀大津宮) (近江滋賀郡滋賀村大字滋賀里)
 天武天皇  飛鳥淨見原宮 岡本宮の南、飛鳥村大字雷と飛鳥との中間
 持統天皇  藤 原 宮  八木町・白橿村・鴨公村に渉り、宮城は八木町の東方
 文武天皇          〔入力者注、持統天皇は飛鳥淨見原宮にもかかり、文武天皇は藤原宮にかかつている〕
(85) (附)草壁皇太子  島宮(岡宮) 板蓋宮同所歟
    高市皇子  香久山宮 香久山西北麓埴安池址附近歟
    忍壁皇子  雷 丘 宮 雷岡の邊歟
                                        
  草壁皇子尊宮舍人慟傷作歌
 東の瀧の御門にさむらへど昨日も今日も召すこともなし
 橘の島の宮には飽かねども、佐田の岡邊にとのゐしに行く
  高市皇子尊城上殯宮之時柿本人麿作歌
 埴安の池の堤の隱り沼の、行衛を知らに、舍人は惑ふ
  忍壁皇子に獻る歌、柿本人麿
 おほきみは神にしませは雲隱る雷山に宮敷きゐます
 
(86)    第四章 難波京
 
       一 難波京概説
 
青山四周の大和平野に帝都のあつた時代に於て、海に出づる唯一の要津が蘆の散る難波の海であつた事は、言ふまでもない。政令未だ遠境に及ばず、御領知の範圍が主として近畿地方に限られた樣な時代ならばいざ知らず、西國・九州までへも皇威の布及する樣な時代に、如何ぞ交通の要路に當れる此難波津を忽諸に附する事が出來よう。景行天皇の朝日本武尊熊襲を征して。歸路難波の柏済《かしはのわたり》の惡神を殺し、水陸の道を開き給うたとあるのは、以て其の事情を察すべきである。三韓服して朝貢の八十船《やそぶね》樟※[楫+戈]《さほかぢ》干《ほ》さず、船腹《ふなはら》乾《ほ》さず、續々として武庫・難波の要津に參來《まゐく》るに當り、此の難波の地に大隅宮の名の逸早く史上に見ゆるは、決して偶然の事ではない。此の宮造營(87)の時代は明でないが、應神天皇二十二年大隅宮に幸し、高臺に登つて遠望し拾うたとあれば、其の以前既に存在せし事は明である。次に仁徳天皇は難波高津宮に座して天下を知ろし食し、御一代間都は大和からこゝに移る事となつた。其の後久しく帝都としての難波を見るを得なかつたが、こゝに蕃客接待の亭館は設けられ、欽明天皇の時には難波|祝津《はふりつ》宮に行幸の事があつた。位置は明ならぬが、ともかく此の要津が、當代に重要視された事を示して居る。たゞに帝室の別宮のみならず、大官巨族もこゝに邸宅を有して居つた。物部守屋滅亡の時、資人捕鳥部萬が、主人の爲に難波の宅を守つて居つたとあるのは、以て他を類推するの料となり得る。大化の新政、長柄豐崎宮をこゝに營みて、難波再び帝都の地となり、爾後帝都は他に移るも、故京はなほ存し、奈良朝を經て延暦十二年の攝津職廢止に至るまで、ともかくも難波宮は繼續して居た。今ほぼ其の沿革を探り、舊地を尋ねてみようと思ふ。
 
(88)      二 難波地理の變遷
 
おし照るや難波江の要津は、大體に於て今の大阪市の地方即ち是であるが、而も其地理は古今甚しく相違して居る。應神天皇の大隅宮は如何。仁徳天皇の高津宮は如何。大化の長柄宮は如何。奈良朝の難波宮は如何。是等の位置と沿革とを知るには、先づ難波津古今の地理の變遷を考へなければならぬ。今の大阪は勿論古への難波の地ではあるけれども、其の水陸の分布に至つては、甚だしく樣子が變つて居る。太古に於ては今の大阪市東部の丘陵、即ち上町《うへまち》の地は、南から北に向つて延びた、所謂難波の崎をなし、其の内部に難波江を擁したものであつて、西も、北も、東も、悉く海で、今の大阪平野は、大部分入海であつたのである。今、大阪の川口から四里も内地に入つて、西成郡中島村に江口の名の存して居るのは、或時代に於て、是が淀川の河口として重要なる碇泊所であつたことを示して居る。朝野群載に收めた遊女の記の(89)文に依ると、平安朝のころまでも、尚此の地は、西の神崎に相對して一つの要津となり、繁盛の域であつた。徳川時代に大和川改修工事を行ひ、之を泉州堺の北方に通ずるに至つて、形勢大いに變じたけれども、其の以前は河内川及び大和川は、淀川と共に大阪※[さんずい+彎]に注いで居つたもので、上流から難波江に運ばれる土砂の量は、今日以上遙かに夥しいものであつたに相違ない。神武天皇御東征の傳説を見ると、御船は深く難波江の奥に進んで、今の河内の日下《くさか》地方、即ち中河内郡生駒山の西麓迄も達して居る。元禄・寶永の大和川改修以前には、此の日下地方に深野《ふかうの》の池と云ふ大きな水溜りがあつて、古代の難波江の一部分が保存されて居つた。百人一首の參議篁の歌に、
  和田の原|八十島《やそしま》かけて漕ぎ出でぬと
       人には告げよ海士《あま》のつりふね
とある。此の八十島は大和川・河内川、竝に淀川より運ばるゝ土砂が、難波江の中に(90)堆積して生じた島々であつて、八十《やそ》とは數の多い事を示した稱である。今日では其の八十島が互ひに聯絡して、所謂大阪平野をなして居る。古歌に難波と云へば、必ず蘆か浮標《みをづくし》かの景物が副ふ。「難波潟短き蘆の節の間も、逢はで此の世を過ぐしてよとや」「難波江の蘆〔右○〕の刈根の一夜故、身をつく〔四字右○〕してや戀わたるべき」など、ひとり百人一首の歌のみではない。是は砂洲に蘆荻叢生し、所謂八十島が次第に成長して、水路漸く不明となるより、其の間に澪標を設けたもので、是れ實に大阪平野發達の状態を明かに語つて居るものと云ふべきである。併して是等八十島の中、古くより名の傳はつて居るのは大隅島と姫島とであつて、安閑天皇の二年に、詔して、牛を難波の大隅島及び姫島の松原に放たしめられた事がある。當時是等の島々が、牧場として牛を放つに便利であつた事を示して居る。降つて元明天皇靈龜二年に至つて、大隅・姫島の二牧を止めて佃食せしめたとある。奈良朝の初に至つては、最早是等の島が一續きの平野を爲して、牧場として置くよりは、耕作地となす方が利益であつた(91)事と思はれる。姫島の名は此の外にも古書に屡々散見して居て、最も古くは天日槍の渡來の傳説と關係して現はれて居る。日槍は新羅の王子として傳へらるゝ人で、彼が我が國に渡來した事情は、其の妻が我が祖の國に行かんとて、本邦に逃れ來たに就いて、日槍其の跡を慕つて追ひ來たのであつた。此の妻即ち難波の比賣語曾神《ひめごそのかみ》で、難波江に入つて姫島の松原に留つたが、之を追うて來た日槍は難波の渡の神に塞《さゝ》へられて、之に及ぶ事が出來無かつたとある。延喜式に東生郡比賣許曾神社あり、其の鎭座の地即ち姫島でなければならぬ。一説に姫島は後の稗島だとあるが、是は西の方で、地理が違ふ。姫島は難波の渡よりも内部でなければならぬ。難波の渡は日本武尊の済の神を殺して水路を開いた事から見ても、難波の崎より對岸へ渡つて難波江の口を扼するものであらねばならぬ。今西成郡江口の邊に大道・小松等の諸村がある。大道は古への大隅島の地だと傳へられ、小松は姫島の松原の名を傳へて居るものであらう。乳牛牧庄の名が此の地方にあつたのも參考すべきである。更に其の北方に(92)味原《あぢふ》があつた。朝野群載遊女記に、「山城の國淀の津より巨川に浮かびて西行一日、之を河陽といふ。山陽・西海・南海三道に往返する者、此の路に遵らざるなし。江河の南北、邑々處々、流れを分ちて河内の國に向ふ。之を江口と云ふ。蓋し典藥寮|味原厨《あぢふのみくりや》、掃部寮の大庭庄《おほばのしよう》なり云云」とある。河陽は即ち今の山崎で、是より西に下りて江口の附近に味原厨のあつた事が知られる。此味原の地は、難波地理上必要な場所で、後世之を大阪城南に求め、比賣語曾神社をもこゝにありとする説がある。これは僞作圖に誤られたもので、次に其の説明を試みようと思ふ。應神天皇の大隅宮は言ふまでもなく大隅島に設けられたもので、古傳説に據れば、天皇此の宮に在つて高臺に登り、遠ざかり行く兄媛の舟を望まれたとある。當時難波江中の重要なる場所として選定せられたものと思はれる。其の大隅島を今の大道と云ふ事の確證を知らぬが、地勢を按ずるに當に然るべしと思はれる。次に、
仁徳天皇の高津宮は、大隅島とは稍南に離れて難波の崎の北端、今の大阪城の邊と(93)思はれる。其の證據は、天皇の十一年に宮北の郊原を掘り、南水を引いて西海に入るとある。是れ即ち難波の堀江で、今の大阪市中を横斷する天滿川に當る。難波江の中には大隅島・姫島を始として、其の他所謂八十島がある外、難波の崎の附近地方にも、漸々と陸地が殖ゑて郊澤曠遠と云ふ有樣となり、南水即ち河内川の水の捌け口を閉ぐ。之が爲めに霖雨の際には、海潮逆上して巷里船に乘る、といふ有樣となつた。そこで天皇は、宮北に堀江を通ずるの必要を御認めになつたのである。されば、此の堀江の位置だに明ならば、宮地は其の南に之を求める事が出來るのである。然るに此の堀江の場所に就いては、後世種々の議論があつて、坊間に傳はつて居る難波古圖と稱するものゝ中には、大阪城の南の空濠《からぼり》、即ち今の空堀町の低地を以て之に當て、隨つて天皇の宮址をも、其の南に求めやうと云ふ説が行はれて居る。併しながら是は確かに誤りである。此の空濠は豐臣秀吉が大阪城を築くに當り、東北西の三面は水に依つて自然の防禦があるけれども、唯南の一方のみは丘陵遠く續い(94)て、防禦が甚だ手薄なるにつき、特に之を鑿つたものだと信ぜられる。然るに後世此の低地を難波の堀江に當てるのは、確かに誤りで、是には立派な證據がある。かの難波古圖として、荒木田久老以下、多くの學者に信ぜられて居た物は、啻に此の堀江のみならず、更に其の南にも別の堀江の存在を示して居る。而して其の一つは、延暦七年に、攝津職大夫和氣清麿が掘つたものだとしてある。成る程續日本紀を見ると、此の時清麿が、荒陵《あらはか》即ち今の天王寺の南方に堀江を穿つて、河内川の水を西海に導き、廣大なる耕地を得ん爲に、單工二十三萬人を役した事を書いてある。而して現に今でも所謂荒陵即ち茶臼山の東に當つて、一條の低地が東西に通じ、其の一部は今も尚市街の間に水田となつて遺つて居る。されば續日本紀の記事のみを見、又此の實際を觀察したならば、曾て此處にも一の堀江があつたと想像するのは至當の事で、此の古圖も恐らくは是に依つて作つたものと思はれる。併しながら、更に日本後紀を見れば、忽ち是が誤りたる事を知る。清麿が此の堀江に着手した事は事(95)實であるが、工事困難にして費用のみ多く、遂に成功するに至らなかつた。「功遂に成らず」と明言してあるのである。して見れば、若し今の空濠が果して仁徳天皇の堀江であるとしたならば、清麿は何を苦んでか之を距る僅二十町ばかりの南方に於て、斯の如き困難なる工事を起すの愚をなさんや。必ず此の前より存する堀江を浚渫するなり、取り擴げるなりして、容易に其の目的を達する事が出來たに相違ない。蓋、此の難波古圖の作者は、續日本紀のみを見て未だ日本後紀を見なかつたものであつた。隨つて其の僞作の年代も、是に依つてほゞ察する事が出來るのである。日本後紀の世に現はれたのは、寛政年間、塙保己一の門人稻山行教が京都で之を得たのが始めであつて、隨つて其の以前には、清麿の工事が不成功に終つた事は一般に知られて居なかつた。攝津志の如きも鼬川《いたちがは》の記事の下に、「本名河内川天王寺荒陵の南より流れ、木津・難波の間を經て木津川に達す、延暦七年三月、攝津大夫和氣朝臣清麿(云云)、今住吉郡平野の西に河内川あり、荒陵の南に堀越村あり、皆其の古踪。」(96)と書いてある。此の圖の作者は恐らく此の攝津志の記事と、實地の地形とを見て描いたものと思はれる。更らに攝津名所圖會を見ると、古圖に所謂仁徳天皇の堀江なる大坂城空濠の南方に、比賣許曾神社がある。又其附近の小池を味原池だとしてある。而も此の比賣語曾の社が、延喜式内の比賣許曾の神である事を發見したのは、近く天明八年の事で、其の前には、何ともわからぬ小祠であつたと見へて居る。此の當時、偶然舊記とやら神器とやらを發見して、翌寛政元年、寂聞聖觀なる者が此の社の縁起を編纂し、是より其の社が世に知られて、遠近よりの信者が群參するといふ程になつたと名所圖會には書いてある。比賣許曾神社は姫島鎭座で、もとより此の樣な所にあるべきではない。又味原池などいふ物は曾て古へに其の名なく、所謂味原池は土人の溜池で、決してそんなものでない事は明かであるが、それは暫く措き、此の頃寂聞は又、靈蹤甃碑なるものを得て、之に依つて仁徳天皇の宮址が又此の附近にある事を證明して居る。甃碑の文に曰く、
(97)  等由良宮治天下天皇【○推古天皇の御事】二年甲寅歳次夏四月、承2國政君【○聖徳太子を指せるなり】命1、補3高津之宮皇居荒廢地於2石花女關西丘、白鴨御池上(ノ)大小橋山地1、以2石墻1畳v之者、即永保2天下聖趾1、安2固萬世靈蹤1故也。
其の僞作なる事は一見して明かであるが、當時寂聞は、ともかくも此の碑文や例の新發見の神器、舊記などの證據を以て、仁徳天皇の宮址・比賣許曾神社、其の他の古跡を多く此の地方に引き附けて居るのである。所謂難波古圖なるものゝ僞作も、恐らく此の時代で、比賣許曾神社の寶物として名所圖會に掲げてある所のものが、多く笑ふべき僞作物である事を見る者は、此地圖が又、縁起の作者なる寂聞に依つて僞作せられたのではなからうかとの嫌疑を起すを禁じがたい。隨つて大阪城南の空濠を以て、仁徳天皇の難波堀江となし、更に其の南に天皇の宮址を求めるの説は、或は亦此の寂聞に關係あるにはあらじかと疑はれる。其の實此の僞作地圖及び僞物甃碑を除いたならば、天皇の宮址をこゝに求めんとすることは、他に全く何等の證據はない(98)ものである。
古への堀江は明かに今の天滿川である。其の始めは南水即ち河内川の水を注ぐ爲めに設けられたものであつたけれども、後には淀川及び大和川が共に之に落ち合つて、遂に所謂堀江川を爲すに至つた。帝王編年記に、「今山崎川海に通ず、是れ堀江」とある。山崎川は即ち淀川で、仁徳天皇の皇后磐之媛が紀伊より歸つて、山城の筒城宮に行かれた際にも、舟に乘つて此の堀江川から、山城川に遡られたとある。平安朝になつて、紀貫之が土佐守の任果てゝ京都に歸る際にも、同じく此の堀江川より遡つて居る。難波江に於ける八十島が漸次相接續して、こゝに一と續きの大阪平野をなし、淀川の下流は其の間を、此堀江川なる天滿川と、其の北方なる長柄川即ち中津川との二派となつて、海に注いだのであつた。後にはまた淀川の分流の一つとして、更に長柄川の北に神崎川、即ち古へに所謂三國川があるが、此川はもと淀川と何等關係のない別の川であつた。延暦三年桓武天皇が長岡に都を移された翌年に、淀川改修の工事を行(99)はれて、攝津の國神下・梓江・鯵生野《あじふの》を堀りて、三國川に通ぜしむとある。神下・梓江の名は後世知る所がない。鯵生野は即ち朝野群載遊女記に見へたる味原御厨《あぢふのみくりや》の場所で、是等の地を堀つて淀川の水を三國川に通じ、一は以て長岡京の要津なる淀・山崎より、淀川を下る船が、直ちに江口・神崎に通ずるの水路を設け、一は以て之により、淀川下流洪水氾濫の害を除いたものと察せられる。此の三國川即ち今の神崎川で、是より後、三國・長柄・堀江の三川は、淀川の分流として、南北に相對することゝなつた。中にも中間の長柄川には有名なる長柄橋があり、三國川にも亦橋があつて、交通に便してあつたものゝ樣に見える。文徳實録に「長柄・三國の兩河、比年橋梁漸く絶へ、人馬通ぜず。請ふ堀江川に准じて二隻の舟を置かん」とある。是は三川相對した状態を明示した文で、今日の大阪平野に於ける淀川下流の形勢は、此の時に略ぼ出來たものと言つてよい。
遡つて平野成生の状態を考へるに、難波の崎即ち大阪市東部の上町《うへまち》の丘陵に接して、(100)仁徳天皇の時既に郊澤曠遠と云ふ状を呈して居た程で、それと八十島の接續とで、ここに東生《ひがしなり》・西成の兩郡が出來た。難波崎即ち今の大阪上町丘陵から、眞直に北へ線を引き、其の線の東に生《な》り出た土地が東生《ひがしなり》郡、西に成り出でた土地が西成郡である。東生郡は當初難波江内の島々の多數をこめて、自ら廣く、故に難波大郡の稱があり、西成郡は當初其の地狹く、難波小郡の號があつた。後世は西成郡が東まで延長して、もとの東生郡の地も、餘程西成郡に編入されたけれども、地名の意義より察しても、丘陵の東に生じた土地は、大郡即ち東生郡で、西に生じた土地が、小郡即ち西成郡である事は疑を容れない。隨つて現今では、古への大隅島・姫島等にあたる大道・小松・江口等の地方は、すべて西成郡に屬して居るけれども、其場所が所謂難波崎より北へ引いた直線の東にあるによつて、もと東生郡の中であつたと認められる。其の姫島にあつた比賣許曾神社が、延喜式に東生郡中に列せられて居るのも、是によつて解せられる。又其北の味原も、和名抄には東生郡の内に列してある。延暦四年、鯵生野を(101)堀つて淀川の分流を三國川に通じた爲に、其地は河の北となり、後世は三島郡に屬することゝなつた。今三島郡三島村に味舌《ました》の地があつて、攝津志に是を古への東生郡味原郷だと解したのは、たとひ當らずとするも、少くも古への味原の域が、此邊にまで及んで居たものと解してよからうと思はれる。然るに例の僞作圖は、たゞに難波堀江を大阪城南の空濠に擬するのみならず、味原をも其の南に置き、隨つて比賣許曾神社をもこゝに誘致するの結果となるのは、研究者の大いに注意せねばならぬ事である。
大體大阪平野の變遷は、斯くの如きものであるとして、古への大隅宮・高津宮の場所を考へて見たならば、應神・仁徳兩帝が是等の地を選定して、其處に宮を營まれた理由は十分に知る事が出來やうと思ふ。たとひ大隅島の位置に就いては、多少の疑問があるとしても、仁徳天皇の高津の宮が、宮北の郊野を堀つて作られたといふ堀江川から逆推して、其の南即ち後の大阪城の邊にあつたであらうとの推測説は、動(102)くまじきものである。僞作難波圖や例の靈蹤甃碑一類の説の如く、之を大阪城空濠の南に求めようとする説は、毛頭證據のない事だと云はねばならぬ。
 
      三 長柄豐埼宮
 
仁徳天皇の高津宮は天皇御一代限りで、都は再び大和に復したが、難波の要地である事は其の後と雖變るべきではない。孝徳天皇大化改新に際し、再び都の地として選定されたのは、交通不便に、弊竇の蟠れる、飛鳥を去らんとするの理由に出でた事は、云ふ迄もないが、又一方では、此要津の必要を認められた結果に外ならぬ。孝徳天皇大化の新政は、實に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豐埼(ノ)宮と申す。今の豐埼村大字南北長柄は、實に其の名を傳へて居るものであらう。此處に始めて支那の長安京に模した新式の都城が經營された。日本紀大化二年の條に、「始めて京師を修む。凡そ京は坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置く。戸口を檢し奸(103)非を督察する事を掌る。其の坊令には坊内の明廉強直にして、時務に堪ふる者を取りて宛てよ。里坊の長には、里坊の百姓の清正強幹なる者を取りて宛てよ。若し當里坊に人なくば、比びの里坊に簡び用ふる事を聽せ」とある。其記載甚簡單ではあるが、是を後の大寶令の規定に比較するに、大寶令には、「凡そ京には坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置く。戸口を※[てへん+儉の旁]校し、奸非を督察し、賦※[人偏+謠の旁]を催駈する事を掌る。坊令には正八位以下の明廉強直にして、時務に堪ふる者を取りて充てよ。里長・坊長には、竝びに白丁の清正強幹なる者を取りて充てよ。若し當里當坊に人なくんば、比里比坊に簡び用ふる事を聽せ」とある。此の双方を比較するに、文字迄も相似て、大寶令の制が、全く大化の難波京に於ける制度を、其の儘に踏襲した事は疑を容れない。都城内に於て其の各條を四坊づゝに分つの制は、後の藤原京・平城京・平安京等に於ても皆同一であつて、要するに難波京は、我が國に於ける都城の先例となつたものと察せられる。
(103)長柄豐埼の場所に就いては、他に異説がある。從來普通の説では、今の豐崎村長柄・本庄の地方に之を求めるのであるが、其の地が比較的低濕だと云ふ理由を以て、高津宮と同じく、是をも大阪市東部の上町丘陵上に求めんとするのである。併しながら、既に應神天皇の時にすら大隅島に宮を營まれ、其の後所謂八十島互ひに接續して、夙に此の方面に廣い平地をなした以上、此の打ち開けた平野に於て、支那式の新都城を營むに不思議はない。縱横に大路を通じた新式の都城を作り、大化新政の際の記事に見る樣な條坊を劃して、規律正しい市街を起さんには、上町丘陵上の土地は餘りに狹きに失するの憾みがある。のみならず、伊呂波字類抄にも此の宮を説明して、「豐前宮坐2攝津難波長柄1、今造離宮是也」とある。是は恐らく奈良朝の古文で、奈良時代に造つた難波離宮が、直ちに豐埼宮にして、其所在が難波長柄なることを示して居るものである。長柄川の名は古い。而して今の長柄が古への名を傳へたものなる事は疑を容れなからう。尚萬葉集に多く見えて居る難波京の歌を詳しく調査し(105)たならば、大に事情を明かにする事が出來るであらうと思ふ。
難波宮の規模は頗る大なるものであつて、大化二年着手より、白雉三年に至りて成るまで、工事前後七年を費し、其の成功の曉に於ては、之を前代に比して非常に壯麗なものであつたことと察せられる。日本紀に、白雉三年九月造營既に訖り、其の宮殿の状こと/”\く論ずべからずとある。併しながら、斯く見事に成就した此の難波の新京も、多年飛鳥に於て養成せられた寺院・舊家・漢族等の固定したる舊勢力に對し、長く維持する事が出來なかつた。大化改新の事實上の當事者とも見るべき中大兄皇子の宮は、難波に於て燒失した。時人大いに驚き恠しむとある。議會なく、新聞なく、輿論發揮の方法なき古代にあつては、反對者が漏らすに由なき不平を、匿名を以て發表するに最も都合のよいのは放火である。隨つて政府が輿論の激しい反對を受けた場合には、往々にして失火を伴ふもので、天智天皇の大津京、天武天皇の難波京、聖武天皇の信樂宮等、皆是であつた。要するに大化の難波京は、世論の激しい反對(106)の中に設けられたものと言はねばならぬ。當初は改革者の迅雷的施設に對して、沈黙しなければならなかつたものも、次第に自覺と奮激とによつて、反抗熟が高まつたものと見える。時勢を見るに敏なる中大兄皇子は、此に對して到底難波京が、長く維持すべからざることを看破せられて、白雉四年、即ち宮殿の漸く成就した年の翌年を以て、飛鳥の舊都に歸り給はん事を奏上された。併しながら、※[しんにょう+貞]がに孝徳天皇は是を御採用にならない。皇子乃ち先帝及び皇后を奉じ、皇弟等を率ゐて難波を捨て、舊都に歸られた。そこで公卿大夫百官人等悉く之に從ひ、難波宮は爲に殆ど空虚となつた有樣。是れ一は當時實權天皇になくして、皇子政務の衝に當つて居られた爲ではあるけれども、亦當時の時勢が、難波を去つて飛鳥に就くを要求したことを示すものと言はねばならぬ。天皇甚だ之を遺憾に思召され、憤懣の餘り、遂に位を去らうと迄決心せられ、宮を山崎に造らしめ、遙かに歌を飛鳥なる皇后に送られて、御心中を述べられたのであつたが、間もなく病に依つて崩じ給ひ、事實上難波(ノ)(107)宮は廢れる事になつて了つた。
 
      四 飛鳥復都後の難波京
 
齊明天皇飛鳥に即位せられたことは既記の通り。併しながら、難波宮は之が爲に全く廢せられたのではなかつた。都城と宮城と、共に依然として保存せられ、屡々行幸の事があつた。のみならず天武天皇の八年には、此の京に羅城を設けて帝都防禦の備をなされ、十二年には是を以て皇都と定め、京内の宅地を群臣に班給すべきの詔をも發せらるゝほどの事であつた。奈良朝に至つても難波は舊き都として、尚存在し、歴朝屡々行幸の事が歴史に見えて居る。宮殿其の他の建築物が依然として保存せられて居つた事は、亦種々の記事から知る事が出來る。天武天皇の難波宮は朱鳥元年大藏省失火の爲に宮室悉く燒け、僅に兵庫職を殘すのみとなつたが、其後間もなく再建したものと見えて、持統天皇の六年四月に、難波の大倉の記事が日本紀に見え(108)て居り、越えて文武天皇は、三年正月難波の宮に行幸して、二十五日間滯在せられたとある。殊に慶雲三年九月にも行幸があつて、當時陪從の人々の歌が、少からず萬葉集に見えて居る。其の後元正天皇養老元年二月にも、聖武天皇神龜二年十月にも、又復行幸があつた。特に聖武天皇は、式部卿藤原宇合をして知造難波宮事に任じ、大いに造營の工を起された。萬葉集所收宇合の歌に、
  昔こそ難波田舍と言はれけめ
      今は都とみやこびにけり
難波の舊都は一時田舍として歌はれて居つたが、茲に至つて再び一の華やかなる都となつたものと見える。此の奈良朝時代に於ける難波宮は、即ち大化の長柄豐埼宮の再興修營であつて、前記いろは字類抄引用の古文に其記事あるのみならず、神龜二年十月行幸の際の笠金村の歌には、當時の宮を明かに長柄宮だと詠んである。然らば其の間燒失再築等の事があつたとしても、ともかくも大化以來難波宮が引續き(109)存在して居た事は疑を容れない。
是より後、難波宮造營の工事は繼續して、天平四年には石川|牧夫《ひらふ》が造難波宮長官に任ぜられた。當時の難波宮には太政官もあり、宮内殿もある。恐らくは種々の宮殿は勿論、八省百官の役所も略ぼ整つて、宛然中央政府の形態を爲して居つたものと察せられる。殊に天平六年九月には、難波京内の宅地を群臣に頒ち與へるまでに事が進んだ。其の割合は三位以上には一町以下、五位以上には半町以下、六位以下には四分の一町以下と見えて居る。當時の群臣有位者の數は固より之を知る事は出來ぬけれども、天平十六年の春正月、聖武天皇が群臣を會して都を何處に定むべきかを議せしめられた際に、恭仁京を可とする者が五位以上二十三人、六位以下百五十七人、難波京を可とした者が五位以上二十三人、六位以下百三十人とある。假りに是で當時の有位者の全部を盡したものとしても、五位以上が四十六人、六位以下が二百八十七人の多きに達して居る。此の時には無論此の以外、可否の數に加はらぬも(110)のも多少居つたに相違ない。中にも當時の公卿七人の如きは、無論此の外と見なければならぬ。故に、今假りに右の數を基として、公卿七人が假りに一町宛の土地を得るとして七町、五位以上四十六人が假りに半町宛の地を得るとして二十三町、六位以下の者二百八十七人が四分の一町宛として七十二町、合計百二町の場所は當時の有位者のみに割り當てられたものと見なければならぬ。京内に於て彼らが占める宅地のみにても、既に斯の如きものであるのを見ても、難波京の規模がかなり大なるものであつた事が察せられる。此の規模の大なる支那式都城は、當時の上町丘陵の上のみには到底容るゝ事は出來なかつたに相違ない。此の點よりのみでも、豐崎宮が、此の長柄・本庄の平野にあつた事を認めねばならぬ。
聖武天皇當時の難波宮の造營に就いては、續日本紀等の國史には詳しく見えて居ない。併し幸に正倉院文書の中に、天平六年より十年頃に渉つて、難波宮造營に關する記事が少からず見えて居るのを見ても、其の引續き行はれて居つた事を明かにする(111)事が出來る。かくて天平十三年に、一時聖武天皇は、右大臣橘諸兄の議によつて、平城京より恭仁京に遷られたが、是には藤原氏の反對があつたものと見えて、十六年に至つて更らに難波遷都の事になつた。是は言ふ迄もなく、從來引續き造營せられて居つた難波宮に移られたものと見なければならぬ。此の事は尚恭仁京の條下の詳説に讓ることとして、ともかくも斯の如くにして難波離宮は、一時正式に皇居となり、天皇は此の年閏正月に難波京に行幸せられた。是より遷都作業は着々進行し、翌二月には恭仁京の高御座及び大楯を此宮に運び、又水路より恭仁京の兵庫の器什を難波に運び、恭仁京の百姓で難波に移らうと願ふ者は之を許された。言ふまでもなく、橘諸兄の恭仁京遷都の事に反對した藤原氏の勢力が、諸兄を壓した結果の然らしめた所である。併し是は一時の政策に過ぎなかつた。聖武天皇は一度は恭仁を去つて此の宮に移られたものの、それは極めて短い時期で、藤原氏の意志は難波にあらずして、奈良にあつた。難波遷都は所謂敵本主義で、天平十七年八月には、都は(112)遂に再びもとの平城《なら》に歸る事に決し、諸兄の事業が一畫餅に歸したと共に、難波京も亦皇都たるの資格を失つた。
然れども、難波宮は尚此平城復都の爲に廢せられたのではなかつた。此の後もなほ一の離宮の形を以て存在し、天平勝寶八年二月にも、孝謙天皇は聖武上皇と共に行幸があつて、東南の新宮に御し、翌月朔日太上天皇難波堀江の畔りに御幸せられた事も見えて居る。此の際の陪從の人々の詠んだ歌は、萬葉集に少からず收められて居る。
桓武天皇平城を去つて山城長岡に都を遷さるるに及んで、行政財政の整理上の意味からでもあらうか、難波宮は遂に廢せられた。從來攝津の國は此處に都があつた爲に、他の諸國と同樣の國司の下に置かずして、特に之を職となし、なほ左右京職と同樣の取扱の下に、攝津職をして之を管せしめて居つたのであつたが、是に至つて攝津職を廢して攝津の國と爲し、全く他の諸國と同一行政の下に置く事になつて了つ(113)た。
曾て應神天皇が大隅宮を營まれて以來、日本紀の年代に從へば茲に四百二十九年、孝徳天皇の大化からは百三十九年にして、難波京は名實共に全く廢せられて了ふ事になつた。
 
      五 難波の別宮
難波には所謂雉波宮たる此の豐埼宮の外に、亦種々の宮名が傳はつて居る。中にも特に注意すべきは味經《あぢふ》宮である。孝徳天皇白雉元年正月朔、天皇此の宮に幸して賀正の禮を觀そなはし、即日還宮し給ふたとある。其地は所謂|味原《あちふ》郷で、前記難波地理沿革の條に記した通り、江口の附近なる典藥寮所屬の味原厨、又延暦四年開鑿の鯵生野の邊に相違ない。今江口の西方に北中島村大字東宮原・南宮原・北宮原・宮原新田等の地があるのは、當時の味經宮の名を傳へて居るものではなからうか。奈良時(114)代に於ては、難波宮を一に長柄宮とも、又味經宮とも云つて居る。神龜二年難波宮行幸の時の、笠金村の歌に、
 忍照る難波の國は、葦垣の古りぬる郷《さと》と、人皆の思ひ息ひて、つれもなくありし間に、績苧《うみを》なす長柄の宮〔四字右○〕に、眞木柱|太高《ふとたか》敷きて、食《お》す國を治め給へば、沖つ鳥味經の原〔四字右○〕に、物部の八十伴緒《やそとものを》は、廬して、都なしたり、旅にはあれども。
  荒野らに、里はあれども大君の
      敷きます時は、みやことなりぬ
此の歌には、明かに長柄宮と味經原とが同一場所にあることを示して居る。更に天平十六年田邊福麿の難波宮の歌には、
 八隅しゝ我が大君の、あり通ふ難波の宮は、勇魚取《いさなとり》海かたづきて、玉拾ふ濱邊を近み、朝はふる浪の音騒ぎ、夕なぎに梶の音聞こゆ。曉の寐覺に聞けば、海石の鹽干のむた、浦洲には千鳥妻よび、葭邊《あしべ》には鶴《たづ》鳴きどよみ、見る人の語りにすれば(115)聞く人の見まくほりする、御食向《みけむか》ふ味原宮《あぢふのみや》は、見れど飽かぬかも。
  あり通ふ難波の宮は海近み
      海人乙女《あまおとめ》等が乘れる船見ゆ
とあつて、難波宮を一に味原宮と明記してある。當時の難波京は、長柄川の北味經の原に及び、大化の際には別物であつた味原宮の名を、彼是混用する事になつたものと見える。
なほ奈良時代の難波京の繁花は、堀江川即ち今の天滿川以南にも及び、江南に難波市があつた。續日本紀延暦三年五月の條に、
 今月七日卯時、蝦蟇二萬ばかり、長さ四分ばかり、難波市の南門より、南行す、その列三町ばかり、道のまゝに南へ行いて四天王寺に入り、午の時に至りて皆悉く散じ去る。
とある。以て難波市が天王寺よりは北、天滿川よりは南にあつた事が知られる。
味經宮以外にも、日本紀には、孝徳天皇の時に難波崎宮・蝦蟇《かはづ》行宮・大郡宮・小郡宮・子代離宮等の名が見える。難波崎宮は其の名からしても、難波崎即ち上町丘陵の北端で、今の大阪城の地なるべく、仁徳天皇高津宮の場所と思はれる。蝦蟇《かはづ》は後の高津《かうづ》で、今の東西高津の邊であらう。之を高津と書くのは、高津《たかづ》の宮の名の文字を附會したに過ぎない。俗に仁徳天皇の宮址を彼の高津《かうづ》に求めるのは、此の文字の附會の結果で、「たかつ」「かはず」もと別地である。大郡が東生郡、小郡が西成郡である事は前に記した通り。隨つて大郡宮は東生郡衙の地、小郡宮は西成郡衙の地であつたらしい。其の小郡は、天平寶字四年十一月の正倉院文書によるに、堀江川の南にあつた。之に對して大郡宮は、後の長柄宮の邊であつたかと想像される。子代離宮は日本紀の注に、難波|狹屋部《さやべ》邑の子代屯倉を壞ちて行宮を起すとあつて、後の西成郡讃陽郷の地であらうと思ふ。
                                        
 
(117) 第五章 大津京
 
      一 大津京沿革
 
俗に平忠度のだと云ふ讀人知らずの歌に
  さゞなみや志賀の都は荒にしを
     昔ながらの山ざくらかな
志賀の大津京は、荒れたる都として、後世永く歌人の口に上つて居る。天智天皇が藤原鎌足と共に孝徳天皇を奉戴して、大化の大業を遂げ、難波に都を遷された事、其の難波京は飛鳥勢力の反對にあひて、長く繼續する事が出來ず、帝都再び飛鳥に復した事は、共に前に記した通り。而も此の名臣賢相は、復到底長く此の弊竇の蟠れる飛鳥の地に止まり、舊勢力の壓迫の下に、晏然たる事が出來なかつた。齊明天皇崩(118)じて後、天皇なほ皇太子のまゝ、制を稱し給ふ事六年、いよ/\即位されるに及んで、遠く景行・成務兩帝の跡を尋ね、大津の地を選定して、茲に都城を營まれた。場所は景行天皇志賀高穴穗宮の附近で、東北に辛崎の港を控え、是に依つて湖上を利用し、東海・東山・北陸諸道に通ずるの要地である。當時我邦の勢力は、新羅の離畔・百済の滅亡によつて、著しく韓半島に衰へた代りに、齊明天皇の朝阿倍比羅夫の東夷征伐に依つて、遙かに奥羽地方に發展した。殊に日本海方面に著しく、皇威は遠く北海道渡島にまで及んで居る。のみならず天皇は、太平洋方面の經營にも注意せられ、石城の船造をして大船を作らしめ、探檢の遠征隊をも派遣せんとせられた程であつた。此際に於て天皇が、此の要地を選ばれた事は、曩に日本武尊東夷征伐の後、景行天皇が此の穴太の地を選んで、都を營まれたと全然同一の意味が有る。此の外に尚今一つの事情は、天智天皇御一代は、百済の爲に唐及び新羅と戰つた結果として、是等諸國の入寇に就いて、非常に警戒された事の意味も加はつて居ると思はれる。天皇(119)は對馬・筑紫、長門の豐浦、讃岐の屋島等の諸地に城郭を造られ、更に大和・河内の境上なる高安山にも要塞を設けられた程であつて、常に外寇を防ぐの準備に汲々とされて居た。隨つて飛鳥京が、是等外寇に對して守ることの不便なるを察せられ、更に遠く内地に退き、逢坂山の天嶮を控へた此の要害の地を選ばれたに相違ない。要するに天皇の大津遷都は、主として飛鳥を遠ざからんとの事、東北に對する交通の便を求めたこと、外寇に備へた事、此の三箇條にあつたと思ふ。
大津遷都の後も天皇は、飛鳥に對して常に注意を怠り給はなかつたやうである。飛鳥・檜前地方の漢人等は、もと蘇我大臣家の爪牙であつた。入鹿誅伐の時、彼等は一致反抗の態度を執り、皇太子の説諭によつて、一旦服從はしたものゝ、彼等が大化の新政を喜ばなかつた事は、想像し得られるのである。況や都を他に奪はるゝに於てをやだ。のみならず、皇弟大海人皇子は、儲貳の位を辭して吉野に籠られた。言ふまでもなく舊都の勢力に依頬したもので、時人之を評して虎を野に放つが如しと(120)言つたとある。こゝに近江朝廷に取つては、更に大警戒を要する一敵國を現出したものと言はなければならぬ。天皇の大津京維持の困難察すべきである。
果して大津の遷都は、猶難波の都が當時の反對を招いたと同じ樣に、當時の輿望に反した事は著しきものであつた。萬葉集に見える柿本人麿の歌にも、明かに其の意が現はれて居る。日本紀の記事を見ても、世人の反對甚だしくして、諷諌者多く、又例によつて屡々出火があつた事が見えて居る。天皇八年十月初、遷都後二年にして、忽ち新京の大藏省が燒けて居る。十年にも再び大藏省が燒けて、遂に宮城全部烏有となつたとある。是亦言ふ迄も無く、一應は反對者の所爲と疑うて見なければならぬ。是より先天皇は、大津京を以てなほ不安心だと思召され、九年二月に蒲生郡に行幸して、宮地を選ばれたとある。更に此大津を避けて、今一層外寇の侵入に遠ざかり、飛鳥の舊勢力より離れやうといふ思召であつたかも知れない。然るに再び大藏省が燒け、宮城烏有に歸したる翌月に、不幸にも天皇病んで崩じ、引續き壬申の亂があ(121)つて、近江の軍敗れ、大津京は遂に全く荒廢に歸してしまつた。此の運命に就いては、天皇も夙に深く御心を勞せられ、御病漸く篤きに當り、大友皇子及び諸大臣等を召して、二度までも同心協力を誓はしめられた。恰も豐臣秀吉の最期に當り、五大老をして嗣子秀頼に對し、二度迄も異心なき事を誓はしめたことゝ、符節を合すが如きものであつた。而して其の結果は又彼此同一で、秀吉の歿後關が原役・大阪役により、豐臣氏の滅亡したと同じ樣に、天皇崩後近江京荒廢の運命を免るゝ事が出來なく、歌人をして永く荒れたる都と歌はしむるに至つたのである。
 
       二 大津宮の位置
 
大津宮の位置は今の大津市では無くて、是より遠く北の方、辛崎に近い滋賀村なる滋賀里の地であつた。是は天皇が都を此に定められた翌年に、宮城の西北の山に崇福寺を營んだといふ記事から推定する事が出來る。崇福寺は大津京荒廢の後も尚久(122)しく保存されて、恐らくは平安朝の末頃までも儼然として維持されたものゝ樣に思はれる。今も尚、其の礎石の一部は完全に保存され、最近に碑を立てゝ其の場處を表彰することゝなつた。而して此の崇福寺から東南に當つて、小字蟻の内といふ處がある。蟻の内は思うに荒《あれ》の内裏《うち》の義で、所謂志賀の都の荒にし跡の名を傳へて居るものであらうとは、甞て舊都址調査熱心家の木村一郎と云ふ人の説であるが、寔に然るべきことである。之に接して小字宮の内がある。こゝには氏神の社があるので、或は其お宮に關係した名かも知れないが、ともかく此邊一帶が宮城址なることは疑を容れない。長岡京の宮城の址にも、字大極殿と云ふ名が殘つて、今は其の地に紀念碑を立て、其の遺跡を明示して居るが、之と竝んで、東北に、同じく荒内《あれうち》と稱する小字が傳はつて居る。是れ勿論荒内裏の義で、亦以て大津宮の場合の旁證となすべきものと思ふ。
大津の京城は、此の荒の内附近を宮城として、是より南に延長し、西は比叡の山麓(123)から、東は湖畔に近い地方までの間に、支那風の都制によつて營まれて居つたものと察せられる。明治二十八年に其の南部なる錦織村に、大津宮址の碑が立つた。是は其の地の字を御所の内と稱するより誤解したものであつて、大津京の宮城とは、甚だしく其位置を異にして居るものと思はれる。御所の内とは、恐らく近江守源頼義の館の跡であらう。
 
      三 廢都後の大津
 
大津宮は壬申の亂の起る前に既に烏有に歸して、引續き大亂となり、都は大和に復して、宮は再び起らなかつたが爲に、其跡が忽ち荒廢して、春草の徒らに生茂れる有樣となつたのは、當に然るべき處である。柿本人麿が、大津の故都を過ぎて作つた歌に、
 玉だすき、畝傍の山の橿原の、聖《ひじり》の御代ゆ生《あ》れましゝ、神のこと/”\樛《つが》の木の、(124)いやつぎ/\に天が下、知ろしめしゝを、空に見つ大和を措きて、青丹よし奈良山を越え、如何樣に思ほしめせか、天|離《ざか》る鄙《ひな》にはあれど、岩ばしの近江の國の、漣の大津の宮に、天の下知ろしめしけん、皇《すめろぎ》の神のみことの、大宮はここと聞けども、大殿はこゝといへども、春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧《き》れる、百敷の大宮處見れば悲しも。
  漣の志賀の辛崎さきくあれど
     大宮人の船まちかねつ
  漣の志賀の大和田よどむとも
     昔の人に復遇はめやも
とあるのは、明かに其の荒廢の状を現はして居ると共に、天皇の遷都が、輿望に反して居た意味をも示したものである。此の歌の時代は之を詳かにする事が出來ないけれども、萬葉集に持統天皇朝とあるによれば、假りに之を此の御代の最後の年と(125)しても、天智天皇崩後僅かに二十五六年を經過したに過ぎない。而も此時に於て既に、大宮はこゝと聞けども、大殿はこゝと言へども、春草茂く生ひて其の場所を知る事も出來無かつたと言つて居る。是れ蓋し勢の然らしむる所、已むを得ざる事であらう。
併しながら、大津京が帝都としての地位を失つた後にも、大津の地が要津として殘つた事は言ふ迄も無い。桓武天皇即位の後、延暦五年に、曾祖父に當らせらるる天智天皇の御爲に、梵釋寺を此の地に建てられた。寺は早く廢して、其の場所は後世傳ふる所が無いけれども、今滋賀村大字南滋賀の一部に蟹學堂と稱する處があつて、此處に方形の一種特別なる隅瓦を多く出し、又大きな塔の礎石、竝に多くの礎石の發見せらるゝ所がある。言ふ迄も無く是れ大寺の跡で、此の地方に於て之に充つ可き物は梵釋寺のほかに有らうとは思はれない。梵釋寺は、今昔物語の記事によるに、三井寺の北とある。又嵯峨天皇弘仁六年、辛崎に行幸し、志賀山寺即ち崇福寺の(126)佛を拜して、更に梵釋寺に立寄られ、永忠僧都の奉つた茶を召上がられた事など考へると、此の礎石は即ち恐らく梵釋寺の跡を示したもので、古への大津京は廢しても、なほもとの因縁を尋ねて、其の一部に營まれたものと言はなければならぬ。近年此の蟹學堂を勸學堂の訛りと解し、天智天皇の創められた學校の遺址であらうとの説があつて、余も然か考へた事があつたが、當時の學校に其の稱なく、又遺蹟が明かに寺院たる以上は、此の説は成立つまい。
延暦七年に傳教大師が叡山を開き、其處に寺を創めた。場所は稍離れて居るが、是亦、大津舊京の寺だと言つてもよからう。といふのは、百済滅亡の後其の遺民多く我邦に歸化した中に、一技一能を有するものは多く天智天皇の朝に用ひられたが、其の一人に答※[火+本]春初と云ふもの、比叡山に寺を造つて、こゝに退隱したとある。後に奈良朝に至つて近江守藤原武智麿が其の故跡を尋ねて、詩を作つた事が懐風藻に見えて居る。是は大津宮の遺臣が、出でゝ飛鳥の朝に仕ふるを憚り、此の地に幽居を求(127)めて其の終りを遂げた者の一例と見るべきものであらう。而して傳教大師の延暦寺は、此の舊京に梵釋寺が作られた翌々年に、右の春初の寺と同じ山内に造られたのであつた。春初ばかりでなく、大津京の遺臣は、大津京の荒廢の後も、尚、茲に幽棲の地を求めて、舊京の名殘を傳へたものが多からう。今も崇福寺の古境内に、此の時代のものと思はれる數多の墳墓の存在することは、朧氣ながら此の事實の存在を示して居るものではなからうか。
大津宮廢して、其の要津は古津の名を得て居たが、桓武天皇山城に遷らるるに及んで、更に大津の名を復舊し、之を以て新京より東國に通ずるの要津とせられた。今の大津は名を同じうして、其實場所を異にして居る。織田信長が叡山を燒討して、僧兵の勢力を根絶して以來、是まで叡山に備ふる爲に設けられた坂本城を大津に移して、今の大津は次第に隆盛を加へた。逢坂關を越えて東する者は、これより勢多の橋を渡り、湖東を過ぎて東海・東山・北陸の諸道に通ずるやうになつた、かくて舊の(128)大津、即ち志賀里の地は、荒たる都としての名をすらも忘れらるゝに至つた。
                                        
萬 葉 さゞ波の國つ御神の浦さびて荒にし都見れば悲しも     高市黒人
同   さゞ波の志賀さゞ波しく/\に常にと君がおほしたりけり  置始東人
拾 遺 さゞ波の志賀の浦風いかばかり心の中の涼しかるらん    公  任
後拾遺 櫻花道見えぬまで散りにけりいかゞはすべき志賀の山越   橘 成元
新古今 さゞ波や志賀の濱松古りにけり誰か世に引ける子日なるらん 俊  成
同   志賀の浦や遠ざかりゆく浪間より氷りて出づる有明の月   家  隆
同   見せばやな志賀の辛崎麓なる長等の山の春の景色を     慈  圓
山家集 春風の花の吹雪に埋もれて行きもやらぬれる志賀の山道   西  行
拾 玉 散まがふ花に心の結ばれて思ひ亂るゝ志賀の山越      慈  鎭
 
(129) 第六章 藤原京
 
      一 藤原宮の所在
 
飛ぶ鳥の飛鳥の舊勢力の羈絆を脱して、發展的帝國の首都としては甚だ不適當なる、此の大和平野東南隅の地から遠ざからうとする天武天皇の努力も、流石に其の勢を利用し、其の援助の下に帝位を得られた此の君の御一代間に、之を實現せしむる事は困難である。而も支那文明の續々として輸入せらるゝ此の際に於て、よしや遠ざかり難い飛鳥の土地には御辛抱するとしても、此舊式不規律なる飛鳥京と、其淨見原宮とに就いては、如何にも御滿足が出來なんだと見える。そこで到底飛鳥を去るの目的の達し難きを看破された天武天皇は、新舊兩思想の調和をこゝに求め、飛鳥京城内を巡幸して、新宮の場所を求められた。蓋從來の帝都の一部に、新式の宮城を經(130)營されるに滿足せざるを得なかつた事と思はれる。而も天皇間もなく崩ぜられて、是すら實現さるるに至らず、持統天皇即位の後、飛鳥京城の一隅に、藤原宮は造られた。是れ蓋天武天皇晩年御選定の新宮の地であらう。其場所は淨見原宮からは西北で、舊京の一隅に當つて居る。萬葉集に收むる藤原御井の歌に、
 八隅しゝ我が大君、高光る日の御子、麁妙《あらたへ》の藤井が原に、大御門始め給ひて、埴安の池の堤に、あり立たし見し給へば、大和の青香久山は、日の經《たて》の大御門に、春山と茂《し》みさび立てり。畝傍の此の瑞山は、日の緯《ぬき》の大御門に、瑞山とさび居ます。耳成《みゝなし》の青菅山は、背面《そとも》の大御門に、宜しなべ神さび立てり。名ぐはし吉野の山は、影面《かげとも》の大御門ゆ、雲井にぞ遠くありける。高知るや天の御蔭、天知るや日の御蔭の、水こそは常《とこ》しへならめ、御井の眞清水。
是は藤原宮時代の歌人が、城東の埴安池《はにやすのいけ》の堤に立つて、藤原宮を望み、其の實景を詠じたものである。藤原宮は右の歌にも見ゆる如く、大和平野の東南隅に鼎立する(131)畝傍《うねび》・耳成《みゝなし》・香具《かぐ》三山の間に在つて、南の方遙かに吉野山に對して居つた。飛鳥舊京から云へば、或は西北郊外とも見るべき場所ながら、又固より飛鳥京の一部分であつた事は前に記して置いた通り。されば、京の名より言へば、是亦飛鳥京の一で、之を藤原京と稱するのは適當でない。されば日本紀には、常に藤原宮とのみ書いて、一も藤原京と言つた例は無い。之を藤原京と稱するは、茲に新式の都城が經營されて、飛鳥舊京とは別に、自から一の新京が出來た形をなしたからである。されば藤原京と云ふは、單に便宜上から假りに稱へたのみで、其實は依然として飛鳥京中の一宮である事、なほ、飛鳥の板蓋宮・淨見原宮・岡本宮等が、何れも飛鳥京中の一宮として存すると同じものと言はなければならぬ。藤原京經營は持統天皇の御代に在つて、日本紀に之を新益京とある。新たに益した京の義で、從來の飛鳥京を西北郊外に擴張して、こゝに新式都城制を布いた事を示したものと思はれる。
 
(132)      二 藤原京の都制
 
藤原京の制は、後の平城京・平安京、若くは大化の難波京と同じく、支那の長安京の制に摸したる京城であつた。是は大寶令の記事によつて明かである。論者或は言ふ、所謂大寶令の記事は、實は養老年間に修正されたもので、隨つて其の記する所、養老當時の實際を示したものであらう。されば之を養老當時の平城京の都制に適用するは可なれども、之に依つて藤原宮の制度を知らんとする事は不可なりと言つて居る。併しながら、是は其の一を知つて未だ其の二あるを知らざるものの言である。成る程養老年間に令の修正があつた事は事實に相違ないけれども、其修正たる極めて手輕な、一小部分のみで、事實上重要な物は多く大寶令制定當時の儘に保存されて居る。是に就いては學者間にも種々の疑問と議論とがあるが、それはともかくとして、多數の實例から立證して、事實上大寶當時のままのものの多いことは、疑を(133)容れない。而して特に此の京城の制に關する記事に於て、適切に之が證明される。即ち令文の記する所、明かに藤原京の事で、到底以て平城京に適用する事の出來ないものである。
平城京は實地の調査に依り、又田籍・田圖に徴し、特に東大寺東南院所傳律書殘篇引く所の國郡記事によりて、明かに證明せらるる如く、京城を南北九個の條に分つて設計されて居る。然るに大寶令記する所の京城の制を見るに、左右京各坊令十二人とある。坊令は四坊即ち一條に一人宛を置くの制で、隨つて其の當時の京には、十二個の條があつた事を示して居る。是は既に令集解に於て認むる所。即ち藤原京は南北十二個の條に之を分ち、各條更に之を四坊宛に分ち、通計四十八坊、朱雀大路に依つて東西に分れ、左右兩京合して九十六坊になつて居つたものと言はなければならぬ。從來、令の文を解するもの、往々此の坊令十二人の事實をもつて、平城京にも、平安京にも當てはめんと試みて居るが、其の誤なる事は明かで、是は藤原京(134)にのみ限るものである。之を平城京に比するに、條坊の數に於て確かに多かつた。併しながら、藤原京は前記萬葉集の歌の示す如く、畝傍・香久・耳成の三山の間に限られて居つたものとすれば、其の場所は頗る狹くして、到底平城京の廣大なるに比する事は出來ない。即ち當時の條坊は、之を平城に比して甚だ狹少であつたものと思はれる。勿論事實上には、もとの飛鳥京の主要部、即ち藤原京から云へば東南郊外の地も、引き續き殷賑の地であつたとは察せられるが、是が管理上に、京と如何なる關係の下にあつたかを明にする事を得ないのは遺憾である。
藤原京の遺跡は、其の後、恐らくは平城遷都後、久しからずして、大和平野を通じて條里の制が實施され、所謂耕地整理が行はれたが爲に、全く破壞せられて、當時の道路の遺影は、後世之を實地に求める事が出來ない。併しながら、大寶令の記事と、遺蹟の地名と、後の平城・平安兩京の實際とを綜合して推測したならば、略々當時の樣子を知る事が出來やうと思ふ。其宮城の位置は、釋日本紀引く所の氏族略記に、藤(135)原宮は「高市郡鷺巣阪の北の地に在り」とある。扶桑略記には、「大和高市郡鷺巣阪の地是なり」とある。兩者稍相異はあるけれども、要するに藤原宮城は、鷺巣阪と稱する地の附近にあつたに相違ない。今藤原宮の所在として知られたる、大和三山の中間の地を調査するに、日高山とか、小山とかいう小丘陵はあるけれ共、位置東に偏して、宮城に充つ可き場所では無い。然るに、延喜式に高市郡鷺巣神社が有る。今同郡白橿村大字四分の鷺巣八幡社即是で、其の地は阪と言う可き地勢では無いけれ共、略々畝傍・香久兩山の中央を通過する南北線の附近にあつて、藤原京の朱雀大路が此の神社と遠からざる場所を過ぎて居つた事は明かである。してみれば、宮城を此の鷺巣神社の北方に求めて、ほゞ其の位置を知ることが出來やうと思ふ。古事記垂仁天皇の條に鷺巣池が有る。扶桑略記及び氏族略記に鷺巣阪とある物は、或は鷺巣の池若くは杜《もり》の誤寫であるかも知れない。今鷺巣八幡の所在の地に、小字門の脇といふのがある。是或は宮城朱雀門の脇の名を傳へて居るのであるかも知れない。更に(136)鷺巣神社の北方に當り、鴨公《かもきみ》村大字醍醐領のうち、其の村落を距る西北約二町の地に一の土壇跡が遺つて居る。又其附近からは、明治四十四年中に數個の礎石を發見した。是は無論或る寺院の遺址には相違ないが、もと藤原宮と何等かの關係があるものではなからうか。天平十六年|恭仁宮《くにのみや》廢して國分寺となり、弘仁の初め平城宮廢して超昇寺の出來た事など思ひ合すと、此の間にある連鎖のあることが推測せられる。
ともかくも藤原宮城が、鷺巣神社と耳成山との中間にあつた事は動くまい。而して其の正門から朱雀大路が南に通じて、京城を左右兩京に分つ。此の朱雀大路と宮城との位置が定《き》まつたならば、之を基として左右京の範圍を略々定むることが出來やう。今耳成山の南方を東西に通ずる初瀬街道は、之を横大路と稱して、推古天皇の朝に難波より飛鳥に通ずる大道を開いたとあるもの、即ち之に當ると察せられる。藤原京は、此の大路の北〔入力者注、南か〕約一町に起り、其の以南に十二個の條を設けられたものらしく白(137)橿村大字四條は、條里制の二十六條に當り、隨つて其の名は條里に基するものではない。殊に其の四條の小字に東西五條のあるのを併せ考へると、これは藤原京の四條・五條の名の遺れるものらしい。又其の東京極は、是も恐らく推古天皇の御代に聖徳太子に依つて設けられたと信ぜられる中道《なかつみち》を應用し、西は今の神武天皇陵の前を南北に通ずる大道附近に及んで居つたものらしい。此の東西の兩道は、共に畝傍・香久兩山の麓に近く通じて、山との距離がほゞ相等しい。即ち藤原京は、前より存する道路によりて大體の基準を定め、それより、正しく三山の中問に設けられたものらしい。中道の事は壬申亂の記事にも見えて、古來著名の道路であつた。無論其の東京極外にも、舊飛鳥京の繁華が幾分維持せられたるべきは之を認ねばならぬ。
然るにこゝに一説がある。高市郡|鴨公《かもきみ》村大字高殿の中に、小字を大宮・宮所・大君・倉町・中殿・城殿等と稱し、多少宮城に由縁ありげな地名が多く存在して居る。是を以て此の地を藤原京の中心とし、宮城の所在地だと説く者がある。併しながら、此の(138)藤原京に左右兩京の別があり、兩京|對比《シンメトリー》をなして各十二の坊令に分管せられ、規模整然たりし當時の都城の制から推測すると、到底高殿の地は東に偏して之を認定する事が出來ない。殊に鷺巣の地との關係上より、明かに不適當である。或は史に逸した寺院の址として見るべきものかも知れぬ。若し之を宮殿址であるとしても、勿論大寶令制による都城のものではない。大宮の西に字當の坪があつて、甞て塔の存在を語つて居る事も參考とすべきである。(一四〇の二頁附記參照)
更に一説がある。今日飛鳥の東方にある小原《をはら》は、即ち古への大原にして、是れ即ち藤原であるといひ、此處に藤原の宮址を求めやうとするのである。而して舊來の諸説は、多く之を認めて居るけれ共、是は小原が藤原氏の祖先たる鎌足の住居であつたといふ古説と、茲に宮ノ前・宮ノ上・宮ノ後など稱する小字がある事から稱へたに過ぎない。宮ノ前・宮ノ上・宮ノ後などの名は、そこに一つの神社があつたと推測したならば、容易に起り得べきものである。而してこゝには大織冠の社があつて、それ(139)を宮と云つたものである。宮ノ前の北を寺西といふ。藤原寺の西の事である。藤原鎌足が高市郡藤原第に生れたとの事は、惠美押勝の著なる大織冠傳に見えて居る。而して茲に大織冠の社があり、藤原寺があり、且つ鎌足誕生地の傳説を傳ふるが故に、之を以て彼が藤原姓を得た因縁の地とし、こゝに、藤原の宮址を求めるのは、強ち無理ならぬ事ではあるけれ共、鎌足の生れた藤原第が此の地だとの事は、何等の證據は無い。而して藤原家傳下には、鎌足の孫武智麿が大原第に生れた事を書いてある。是に依れば此の大原の地に藤原氏の邸宅のあつた事は明かであるけれども、鎌足の生れた藤原が此處だと云ふ證據にはならぬ。誕生山の名も、鎌足誕生の傳説も、恐らく武智麿の事を誤り傳へたものであらう。鎌足の生れた藤原第は、衣通姫の藤原宮、持統・文武兩帝の藤原京と同所でなければならぬ。而して其地は萬葉集の歌、大寶令の都城の制、其の他多くの徴證の動かす可らざるものがあつて、三山の中間たることは到底否認出來ぬ。隨つて藤原宮を小原に擬する説の妄なるは、言ふ迄も(140)無い事である。
藤原京内の各坊にはそれ/\名があつた樣である。其の一を林坊と云つた事が偶然續日本紀に見えて居て、以て他を類推するに足る。
宮城には、恐らく板蓋宮に於て既に見る所の十二の門を開いて居つたのであらう。而して其の一を海犬養《あまいぬかひ》門といつた事が續日本紀に見えて居る。海犬養門は平安宮に於ける安嘉門の舊名である。思ふに、平安宮諸門の名は、すでに此の宮に於て定まつて居たものらしい。拾芥抄に、安嘉門は海犬養氏之を造るとある。當初此の氏人の寄附によつて造營されたものであらう。
宮城内には大極殿以下朝堂院、内裏の諸殿を始めとして、東樓・西樓等、數多の建築物の名が傳はつて居る。後の平城・平安諸京に存する諸殿は、ほゞ此の宮に於いて整つて居たものであらう。
(再版に際して附記) 當初本書の發行に際して、私は右の如く藤原宮の位置を見て(140の1)居た。而してそれは今以て大體に誤つて居るとは思はぬ。然るに先年來古文化研究所の手で前記高殿の遺蹟を發掘調査した結果、そこが藤原宮の朝堂院址であるべくほゞ確認せられた。持統天皇八年に遷居し給うたとある藤原宮は、蓋し此の地であつたと思はれる。併し當時はたゞ所謂新益京の一部分に宮城を經營し給うたと云ふだけで、未だ令制に見るが如き、左右兩京對比の新式都城のものではなかつたであらう。然るに其の後大寶令の制定あり、單に新益京内宮城の經營のみに滿足せず、更に唐の長安の制に模して、三山の中間に都城の設計が始まつた。中央に朱雀大路ありて兩京を分ち、其の北頭に宮城を置くのである。而も從來の高殿なる宮城は、其の位置東南に偏して適當せぬ。こゝに於て慶雲元年十一月に至り、更に醍醐の地を卜して之を移建したものと見る。此の時百姓の宅宮中に入るもの一千五百五烟とある。蓋し新益京の設定によりて退去した百姓の密集地であつたのであらう。かくて舊宮の建物は其のまゝこゝに移され、礎石までも大抵運ばれたであらうことは、(140の2)舊地に今見る如く礎石下の基礎工事たる栗石の堆積のみが、ほゞ完全に遺されて居る事からでも察せられる。勿論宮殿の一部は寺院として保存せられたものらしく、字大宮の西には今に當(塔)の坪の名が呼ばれて居る。ついで慶雲三年正月、天皇大極殿に御して朝を受け給ふ。此の時既に朝堂院の移轉はほゞ成就して居た事と思ふ。然るに早くも翌年正月遷都の議あり、間もなく天皇崩じて七月元明天皇即位し、和銅三年平城京に遷り給ふ。然らば醍醐なる藤原新宮は、移建ほゞ成ると同時に、廢止せられたものと見るべく、隨つて條坊の設定が完成したか否かも不明である。
 本來藤原宮は妥協になれる姑息的のものとして、到底永續すべきものではなかつた。位置の偏在せる高殿に於ては固より、令制に基づく醍醐の新宮にしても、京城の域狹隘にして發展的當代の希望に應ずべくもない。殊に其の地は大化以來幾度か忌避せられた飛鳥勢力の圏内にあり、位置亦北に開けて南に山を迎へ、天子南面の相に適せず、當代に於て到底滿足を得べき地ではなかつた。然るに一方には小墾田(140の3)の御代、即ち皇極天皇の御代以來、常に繰り返された飛鳥漢人に對する去勢の政策は漸く其の効を奏して、もはや其の反對を顧慮するに足らずとの見極めがついたので、こゝに遠く平城の遷都は實現せられた事であらう。
 藤原京城の規模は其の後の條里制實施によりて潰されてしまつたが、今大寶令によつて知りうる限りでは、左右兩京各十二條、各條四坊宛で、其の地は四方を三山と南方の丘陵とに限られ、東西は令制による四里、南北は六里以上のものを容れ能はぬ。而して其の一里は當時の尺度で大尺の百五十丈であつたから、東西六百丈、即ち今の二十町、南北九百丈、即ち今の三十町、それを南北に十二條、左右兩京を通じて東西に八坊に分てば、各坊は七十五丈宛、即ち半里四方を單位とした事となる。かくて其の條坊は共に大路により區分せられ、それを更に小路によつて四個の坪に分つた筈で、大路が六丈、小路が三丈、坪の廣がり三十三丈四方といふ完數を以て設計せられたものであつたに相違ない。それを和銅改定の尺度に換算すると、(140の4)大路七丈二尺、小路三丈六尺、各坪三十九丈六尺四方となり、之を平城京の大路八丈、小路四丈、坪四十丈四方なるものに比するに、ほゞ相近い數となる。然るに平城京は藤原京の狹隘なるに鑑みて、一躍之を三倍の廣さに擴張し、隨つて條坊の單位をも令制の一里四方となした。かくて藤原京では半里四方の各坊を四個の坪に分つたであらう所のものが、平城京では各坊一里四方となり、更にそれを各十六個の坪に分つたが爲に、道幅の狹い小路の數が多くなつて、藤原京通りの割出しでは坪の廣さが完數を得なくなる。こゝに於て平城京では、條坊の單位は令制の一里即ち大尺の百五十丈四方と定めながら、更に之を坪に分つ場合には、當時の小尺によりて、之を百八十丈と換算し、大路八丈、小路四丈、坪の廣さ四十丈四方といふ、ほゞ藤原京のそれらに相近く、而も一層都合よき完數によつて割り出す事と改めたのであつた。平城京成つて後間もなき和銅六年尺度の制を改め、從來の小尺を以て大尺となした所以のものも、畢竟此の經驗に基づくのであつたと思はれる。
 
(140の5) 藤原京條坊區劃圖(一部省略)
                         東京極大路
      四坊                 (左京四坊)
                         三坊大路
      三坊                 (左京三坊)
                         二坊大路
      二坊                 (左京二坊)
                         一坊大路
      一坊                 (左京一坊)
宮 城                       朱雀大路
      一坊                 (右京一坊)
                          一坊大路
      二坊                 (右京二坊)
                          二坊大路
      三坊                 (右京三坊)
                          三坊大路
      四坊                 (右京四坊)
                          西京極大路
北 (一  一                 (十  十  
京 條)  條                 二  二
極    大                 條) 條
大    路                   大
路                        路
 
(140の6) 藤原京各坊の丈尺(省略)
 
(141)      三 藤原京の沿革
 
かくの如く立派に出來た宮殿及び都城も、當初姑息なる調和策として、飛鳥京城の一隅に作られたる、所謂新益京であつたが爲に、區域狹小、交通不便で、到底永く新時代思想を滿足せしめ、發展的時勢に適應せしむることが出來なかつた。持統天皇四年十月、新宮の地を觀、翌五年十月新益京を鎭祭し、六年五月には更に宮地を鎭祭し、八年十二月造營工ほゞ成りて天皇新宮に遷り給ふまで、前後約四箇年餘を費した。而もこれで遷宮事業完成したのではなく、其の後七年目の文武天皇大寶元年には、引續き存在せる造宮官の位置を進めて、職に准ぜしめ、更に三年後の慶雲元年に至つて、始めて藤原宮地を定め、百姓の宅の宮中に入るもの一千五百五煙に、それ/\布を賜はつた事などがあつた。然るに、其の後僅に二十六箇月にして、早くも遷都の議起り、間もなく天皇崩じて其の實現を見るには至らなかつたが、元明(142)天皇御即位の翌和銅元年二月、衆議忍び難しとの詔によつて、忽ち平城遷都が仰せ出された。蓋し文武天皇御存生中に御選定になつて居つたものであらう。
平城遷都の翌年、藤原宮は燒亡した。從來飛鳥に於て勢力を占め、飛鳥京固定の主原因をなして居た諸大寺は、續々新京に遷された。臣僚庶民又皇命のまゝに相率ゐて遷つた。萬葉集に此の時の歌がある。
 天皇《すめろぎ》の御命《みこと》かしこみ、にぎびにし、家を離《さか》りて、隱《こも》りくの、初瀬《はつせ》の川に、船浮けて、我が行く川の、川隈の八十隈落ちず、萬《よろづ》たび、顧みしつゝ、玉鉾の道行き暮らし、青丹《あをに》よし、奈良の都の佐保川に、い行き到りて、我が寝たる衣の上ゆ、朝月夜さやかに見れば、栲《たへ》の穗に夜《よる》の霜降り、磐床に川の氷《ひ》こゞり、冴《さ》ゆる夜を息ふ事なく、通ひつゝ造れる家に、千代迄も居まさん君と、我も通はん
  青丹よし奈良の家には萬代に
     我も通はん忘ると思ふな
(143)萬たび舊都を顧みしつゝ、初瀬川より佐保川によりて、新京に遷れる人々の、郷思戀々の情見るべきである。而も茲に至つては、もはや飛鳥復都の説も起らず、推古天皇豐浦宮に即位し給ひてより、前後通じて約百二十年間固定の帝京も、永久に舊都となり了つた。假りに欽明天皇より數ふれば、こゝに百六十餘年である。
                                        
     八隅しゝ我が大君、高光る日の御子、荒たへの藤原が上に、食《お》す國をめし給はんと、みあらかは高知らさんと、神ながら思ほすなへに、天地もよりてあれこそ、石ばしの近江の國の、田上《たなかみ》山の、真木さく檜つまでを、物のふの八十宇治川に、玉藻なす浮べ流せれ、そを取ると騷ぐ御民も、家忘れ身もたな知らず、鴨じもの、水に浮き居て我が作る日の御門に、知らぬ國より、巨勢路より、我が國は常世にならん、圖《ふみ》負へるあやしき龜も、あたら世と泉の川に、持ちこせる真木のつまでを、百足らず筏に作り、のぼすらん、いそはく見れば神ながらならし。
 
(144) 第七章 平城京
 
      一 平城遷都の事情
 
持統・文武の兩帝が天津御門を定め給ひて、茲に天下を知ろし食された麁栲《あらたへ》の藤原宮は、實は飛ぶ鳥の飛鳥の京の一部なること、前記すでに要領を悉して置いた通り。そこで飛鳥京を去らんとするの思想は依然繼續し、文武天皇晩年に至りて再び遷都の計畫起り、天皇の崩後、元明天皇即位の後、直ちに實現された。實に平城京の遷都である。されば、平城京は元明天皇の御代に遷都の事が行はれたとは雖も、其の計畫は既に、先帝の時に熟して居たものと言はねばならぬ。和銅元年二月の詔に曰く、
 朕|祗《つゝし》みて上玄を奉じ、宇内に君臨す。菲薄の徳を以て、紫宮の尊に處《を》れり。常に以爲《おもへら》く、之を作《な》す者は勞し、之に居る者は逸す。遷都の事、必しも未だ遑あらざ(145)るなり。而も王公大臣|咸《みな》言ふ、往古以降近代に至り、日を揆《はか》り星を瞻《み》て、宮室の基を起し、世を卜し土を相して、帝皇の邑を建つ。永鼎の基を定め、無窮の業を固うすることこゝに在らんと。衆議忍び難く、詞情深く切なり。然らば則ち京師は百官の府、四海の歸する所、たゞ朕一人のみ獨り逸豫せんや。苟くも物に利あらば其れ遠ざかるべけんや。昔は殷王五たび遷りて中興の號を受け、周后三たび定めて太平の稱を致す。以て其の久安の宅を遷すを安んぜん。方今|平城《なら》の地、四禽|圖《と》に叶ひ、三山鎭を作り、龜筮竝びに從ふ。宜しく都邑を建つべし。其の營構を宜うし、資は須らく事條に隨つて奏すべし。亦秋收を待つて後に路橋を造るべく、子來の義勞擾を致す勿れ。制度の宜、合《かなつ》て後に加へず。
と。是より先、文武天皇の崩じたのが慶雲四年六月で、七月に元明天皇即位、而して翌年の二月に此の御發表があつたのであるから、無論是は先帝の時に熟して居つた既定の事項の遂行に外ならぬ。其の翌月、大納言藤原不比等は右大臣に進んだ。遷(146)都の主唱者は言ふ迄も無く、此の不比等其の人であつた事と察せられる。元來藤原氏は祖先鎌足大化の新政に大功を立てて以來、次第に勢力を得るやうにはなつたが、而も、未だ鎌足一代の間は、甚しく鋒芒を露はすには至らず、隱忍して、陰ながら實力を揮ふに過ぎなかつた。無論大化の難波の遷都、天智天皇の大津遷都の如きも、鎌足が之れに與かつて力あつたことは疑を容れない。飛鳥京を去つて自家の勢力を固め、理想の新政を行はうとするのは、鎌足以來藤原氏の大方針であつたに相違ない。而も鎌足は、終世遂に大臣の位に登る事すらなかつた。初に舊家たる阿倍倉梯麿・蘇我倉山田石川麿、後に巨勢徳太古・大伴長徳等を推して、紫冠を戴ける左右大臣の地位に置き、己は大錦冠の内臣の稱の下に、大臣以下の比較的低い官職に甘んじて居つた。固より政治上の實權は彼の掌握する所で、勢力大臣の上にあつた事は日本紀にも明かに認めて居る。處で、其の薨に臨んで始めて内大臣に任ぜられた。然るに其不比等の代になつては、既に二代の勢力を積んで、前代とは頗る樣子の(147)異なる處があつた。是には其の後妻橘三千代が、宮中にあつて援助を與へたといふ理由も十分にあつたであらう。由來鎌足は天智天皇の忠臣で、隨つて其の系統は、壬申の亂に近江に勝つた天武天皇には、入りが惡るかるべき筈である。而も彼れ不比等は、天武朝以來内命婦として宮中に勢力のあつた三千代を後妻にして居る。不比等の立ち廻りのうまい事は、是によつても察すべしである。されば文武天皇の御代に於て、彼は官猶納言でありながらも、其の女宮子娘は文武天皇の夫人となり、事實上皇后の地位に居つた。元來大寶令の制に依ると、皇后の外に後宮に侍する女官は、妃・夫人・嬪の三階級に分れて居つて、妃は必ず内親王に限られて居る。されば不比等如何に勢力があつても、此の法令に反して其の女を妃に登す事は出來なかつた。況や皇后をや。隨つて已むを得ず夫人たるに滿足せざるを得なかつたが、而も天皇は、宮子夫人以外に妃を置かれない、無論皇后も冊立されない。事實上宮子夫人は皇后同等の地位に居つたものと言つて宜いのであつた。宮子夫人以外に二人の嬪があつたけ(148)れども、是も後に其の嬪たるの名を除かるゝ事となつて居る。是れ以て藤原氏勢力の盛んであつた事を察すべき好材料であらう。此の勢力の盛んな不比等が、鎌足以來の政策をついで、難波や大津の如く遠くは離れず、同じ大和平野の中に於て、此の平城遷都の計畫をめぐらしたものと察せられる。
從來屡々飛鳥より離れて遷都の事が行はれ、或は其の計畫が有つても、いつも/\失敗に終つて、都は久しく飛鳥に固定した事に關しては、言ふ迄も無く飛鳥に於ける諸舊家竝に漢族等の勢力が、強かつた爲ではあるが、又一つは飛鳥に於ける諸大寺の勢力の、然らしむる所であつたのは疑を容れない。大化の難波京に於て、佛事は屡々修行された。而して飛鳥の諸大寺は之に滿足して居たであらうか。天智天皇は大津遷都後直ちに崇福寺を新京に建立された。而して飛鳥の諸大寺は之を黙視して居つたであらうか。難波・大津が輿論の反對を受けた理由の一は、こゝに之を求めなければなるまい。茲に於て平城遷都の當事者の慧眼なる、忽ち此の點に着目した。(149)かくて平城には、續々舊京の寺院が移轉された。
飛鳥舊京の大寺としては、法興寺・元興寺・川原寺等を數へなければならぬ。又天武天皇は聖徳太子の熊凝精舍《くまごりでら》以來、代々の帝皇の附托になつて居た大官大寺を此に移して、是をも大寺の中に數へ、更に皇后即ち後の持統天皇の御爲に、藥師寺を藤原京の地に營まれて居る。是等の寺院の勢力は無論盛んであつたに相違ない。帝都の移轉に反對すべきは言ふ迄も無いことと思はれる。そこで炯眼なる遷都の當事者は、都を平城に移すと共に、續々として是等の寺院を新京に移すの方針を取つた。是れ從來の遷都に類例の少いところである。
平城遷都と共に、先づ藤原氏の氏寺たる興福寺は、厩坂の地から春日山の麓に移轉した。厩坂は輕の地で、是亦自ら飛鳥帝都の勢力圏内である。もと山階《やましな》寺と云ひ、山城山科にあつたのを、一旦此飛鳥京附近の地に遷したものであつた。之を手初として、大官大寺即ち大安寺の移轉も企てられる。靈龜二年には元興寺を左京六條に移(150)し、養老二年には法興寺を又新京に移し、藥師寺亦此の年を以て移轉されたと傳へられて居る。其の外時代は明かにし難いが、蘇我氏の氏寺たる豐浦寺即ち建興寺も西南郊外の、今の生駒郡片桐村大字豐浦の地に移つたかと疑はれる。葛城氏の氏寺たる葛城寺、紀氏の氏寺たる紀寺は、京東の地に移された。史に逸した寺で新京に移されたものも、無論此の外に多かつた事と思ふ。かくて、天武天皇朝に、飛鳥京内二十四寺と云つて居つたものが、養老四年には平城四十八寺の數が見える程になつた。飛鳥舊京に殘つた大寺としては、川原寺即ち弘福寺あるのみで、外にはさまで有力の寺もない。又、大官大寺・元興寺・藥師寺等にしても、新京に移轉した外、別に舊京に本寺を止め、舊京の人々の心を和げるの用意までも行き屆いて居る。のみならず、故意か偶然か、和銅三年に平城に遷都のあつた翌四年には、藤原宮と大官大寺とが燒亡して了つた。是に於て最早飛鳥舊都が、平城に反對して復都を希望するの運動も起らなくなつたことゝ察せられる。
 
(151)       二 平城の地理
 
既にも記したる如く、由來飛鳥の地は大和平野の東南隅に僻在して、交通頗る不便である。上古國家の發展未だ著からざる際には、此の地に於て國内を統治するにも、甚しき不便を感じ無つたであらうが、帝國の領域も廣くなり、外國との交通も開け、文明は進む、生活程度は高まる、都下に殷賑なる市街が生ずる、殊に地方の政治が統一されて、中央集權の實が益々擧がり、國司を派遣し、郡司を支配し、中央と地方との交通益々頻繁たるを要するやうになりては、此の僻遠なる地が中央政府の所在として、適當で無い事は最早問題では無い。大化の難波遷都、天智天皇の大津遷都を初として、其の外、屡々遷都の計畫の起つたのは、政治家が新京に思ふ存分の手腕を揮はうとするの野心は別として。此の交通不便の地を去らんとすることが、一つの重大なる理由であつたのは、疑を容れない。併しながら、太古以來帝都の地(152)なる大和平野を去つて、遠く他の地方に都を置いた失敗の歴史は、過去に於て屡々繰返されて居る。是に於て平城遷都の當事者は、同じ大和平野の中で、而も交通の便利なる此の奈良の地を選んだ。當時に於て實に選擇宜しきを得た事と云はなければならぬ。
平城は大和平野の北端にあつて、低い丘陵を北に負ひ、其の地天子南面の相に適して居る。のみならず、此の丘を越ゆれば直ちに山城平野に出でゝ、是より北して宇治橋を渡り、山科を經、逢坂を越へて、東山・北陸に通ずるには、最も適當な場所である。西南大和川の流に沿うて難波に出づるにも、亦便利な場所である。和銅遷都の後間も無く東の方|都祁《つげ》の山中を過ぎて、東海道に通ずるの道も開けた。是に於て交通上從來飛鳥に於ける如き不便は、最早見る事が無くなつたと思はれる。
平城《なら》の名は古く史上に現はれて居る。崇神天皇の御代に武埴安彦反し、官軍之を追うて山城に入つた。此の時軍士山を踏平《ふみなら》したによつて「平坂《ならざか》」の名が起つたと見えて(153)居る。是れ一の地名傳説として、其史實はよしや信ずべからざるまでも、此の平坦なる坂路が古く知られて、交通上重要な地であつた事は疑を容れない。平城の名も平《なら》の都城の義である。但古への所謂平坂は今の奈良坂村の坂ではない。是とは場所を異にして西にある。今の奈良坂は古へ般若寺越と稱した坂で、古への平坂は今の歌姫越である。今の奈良市は古へ平城の都の東に起つた町で、此の町が奈良の名を專有するに至つて、是より北の方山城に通ずる般若寺越に奈良坂の名が移つた。併し是は比較的後世の事で、源平合戰の頃に於ては尚、古い名稱が行はれて居つた。平家物語治承四年奈良炎上の事の條に、「奈良坂・般若寺二箇所の道を堀り切りて云々」と見えて居る。今の歌姫越なる奈良坂は、かくの如く古くより世に知られたる通路で、之より正南に向つて、大道大和平野を縱斷して居る。此の道は、前記藤原京の東京極に應用されたと考へらるゝ中道《なかつみち》の西にあつて、之を下道《しもつみち》と云つた。難波より飛鳥に通ずる大道を開いたと同じ推古天皇の御代に於て、聖徳太子に依つて(154)造られたと傳へらるゝ大道の一である。下道の東に中道、更に中道の東に上道《かみつみち》がある。此の上・中・下の三道は相竝んで大和平野を縱斷するものであるが、中にも最西の下道は、今日俗に中街道と稱せられて居る如く、殆ど大和平野を東西の二つに兩分するの勢にある。そこで、此の平野の北端に於て、後方に山を負ひ、天子南面の地相を卜して經營せられたる平城の都は、正に此の奈良坂の南に設けられ、更に此の古くより存する下道、即ち大和平野兩分の勢ある大道を、都城の中央線たる朱雀大路に應用し、其の東西に亘つて左右兩京を區畫した。其の地高燥にして、水南に流れ、若し大和平野中に於て都の地を選ばんとならば、此處が最も適當なる場所と云はなければならぬ。天武天皇が甞て遷都を計畫された新城《にひき》の地は、恐らく此の附近の郡山町大字新木であつたのであらうとの説も首肯される。
 
      三 平城の都制
 
(155)平城京の都制は大要大化の難波京、及び大寶の藤原京と同じものであつて、たゞ時勢の發展に鑑み、之を擴張したものであつた。京城は朱雀大路によつて、左右兩京に分かたるゝこと既記の通り。更に其の各京は、東西に通ずる大道に依つて九條宛に分かたれ、其各條は又之を南北に通ずる大道に依つて四坊宛に分かたれて居る。其の坊の大さは、該都城經營の和銅當時の尺度の制に依つて、百八十丈即ち一里四方の大さを單位として、定められたものであつた。是は後に平城京廢して田圃となり、而も當時の條坊の蹟を其まゝ田籍に保存して居るのに基づき、西大寺等に傳ふる古圖・古文書の研究によつて、明かに知る事が出來るのである。平城京設計當時の尺度、即ち大寶令規定のものでは、地を測るに三百歩を一里とすとある。當時の一歩は即ち大尺の五尺で、和銅六年尺度の制を改め、從來の小尺を以て大尺とした結果、大寶令の大尺一尺は、和銅六年以後の大尺の一尺二寸となり、隨つて大寶の大尺五尺の一歩は、和銅六年以後の六尺に當り、其三百歩即ち當時の一里は、和銅六年以後の(156)百八十丈に當るのである。和銅六年以後では、三百六十歩即ち二百十六丈を一里とした爲、此の百八十丈といふ長さは、完數として無意味であるが、和銅初年の尺度では、それが正に一里と云ふ最も都合よき完數であつたのである。然らば則ち平城京の設計は、先づ朱雀大路を中心として、當時の尺度の制により其の左右に、各四里宛の距離を以て東西兩京極の位置を定め、南北は九條、各條亦一里宛の長さとし、九里の間隔を以て南北兩京極を定め、茲に東西八里、南北九里の大都城は營まれたものであつた。尤も當初より存在したる下道を朱雀大路に應用して、此の大路のみは特別に他の大路よりも廣かつた筈であるが故に、精密には東西の延長八里よりも稍廣かつたことは認めねばならぬ。
此の平城京の條坊は後に平安京を營む際の基準となつたものであつて、都城の制度を研究する上に最も必要なものなるが故に、頗る煩はしくはあるが、是は稍精しく後に説明することゝする。
 
(157)       四 平城京の沿革
 
兎も角も平城遷都當事者の施設と努力とは、再び從來の失敗を繰返すこと無しに、見事に之を成就することが出來たのであつた。「青丹《あをに》よし奈良の都は咲く花の、匂ふが如く今盛りなり」として、當時の歌人をして謳歌せしむる迄に殷賑の都となつた。隨つて其當事者の首脳と認められる藤原氏の勢力は、それ以來益々此京に於て加はつて來た。不比等の又の女で、後妻たる橘三千代の腹に生れた安宿娘《あすかのいらつめ》は、姉の宮子夫人の縁から云へば、甥に當らせられる聖武天皇の夫人として選まれた。固より大寶令の規定に依つて、夫人たるに甘んじなければならぬ次第であつたが、藤原氏の勢力は遂に此の夫人をして、前例を破つて皇后と冊立せしむるに至つた。是即ち有名なる光明皇后である。是に就いては、當時の政治上種々の事情のあつたことではあるが、ともかく藤原氏の勢力は之を成し遂げた。大寶令の制には、妃は内親王たるの(158)規定あるのみで、皇后たるべき方の御身分に就いては、何等の制限が見えて居らぬ。是れ即ち權勢家の普通に乘ずべき間隙であつた。源氏ならざるが故に征夷大將軍たる事を拒絶せられた豐臣秀吉が、更に一躍して太政大臣關白に任ぜられたと同じ意味である。聖武天皇も此事に就いては、頗る宸襟を悩まされた事と拜察する。藤原氏の勢力を以てしても、心中甚だ疚ましかつたに相違ない。そこで天皇は、是が爲に特に諄々しく辯明の詔を下された。其中に、臣下の女を以て皇后となす事は今の御代に始つた事では無い、古く仁徳天皇は、葛城襲津彦の女磐之媛を皇后として、相共に食國《おすくに》の政を治《しろ》しめされたといふ先例があると言て居られる。併し、葛城襲津彦は武内宿禰の子で、もと孝元天皇より出で、代を重ぬる四代に及んで居るとは雖も、亦以て、皇族の一人とも見る可き方であるから、藤原氏の女たる光明皇后を冊立するの先例としては、不適當なものであらねばならぬ。而も此の不適當なる例を引いてまでも、強ひて皇后と冊立したといふ事は、當時藤原氏の勢力が、如何に盛んであ(159)つたかを語つて居るものである。又不比等の長子武智麿は右大臣、房前・宇合・麿の三人は參議に上り、四人の男子相率ゐて公卿に列してゐる。當時の内閣は殆ど藤原氏一族の占有する處となつたと云つてもよい位。若し此の勢が故障なく繼續したならば、藤原氏擅權時代は良房と道長とを待たずして、夙に奈良朝に於て實現すべかりしものと思はれた。然るに、偶然にも天平九年に疱瘡が流行して、此藤原氏四人の公卿は、悉く同じ年のうちに仆されて了つた。是に於て藤原氏なるもの、勢ひ一頓挫をなさざるを得ない。藤原氏の此の頓挫の際に、之に代つて權勢を得たものは橘諸兄である。諸兄はもと葛城王と稱し、父は美努王、母は橘三千代である。隨つて彼は光明皇后とは母を同くし、皇后の推薦に依り、藤原氏に代つて内閣の上に立つには適當な身分であつた。而も藤原氏の或るものは、之を快しとしなかつたものと見えて、天平十二年に大宰少貳藤原廣嗣の謀叛が起つた。諸兄之を機會として、天皇にすゝめ奉り、恭仁京遷都を實行した。事は別に恭仁京の條下に詳説するとして、()160ともかく平城の都は、之が爲に一時舊都となつて了つた。當時の歌人の詠、往々萬葉集に見えて居る。
    寧樂京《ならのみやこ》の荒墟を傷み惜みて作れる歌三首
  くれなゐに、深く染みにし心かも、
      奈良の都に年の經ぬべき、
  世の中を常なきものと今ぞ知る、
      奈良の都のうつらふ見れば、
  いは綱のまた若がへり青丹よし、
      奈良の都を又も見んかも、
    寧樂の故郷を悲しみて作れる歌一首竝に短歌
  八隅しゝ我が大君の、高敷かす日本《やまと》の國は、皇祖《すめろぎ》の神の御代より、敷きませる國にしあれば、生《あ》れまさん御子のつぎ/\、天の下知ろしまさんと、八百萬|千年《ちとせ》を(161)かけて、定めけん平城京《ならのみやこ》は、炎《かぎろひ》の春にしなれば、春日山御笠の野べに、櫻花|木《こ》の晩《くれ》がくり、貌鳥《かほどり》は間なく屡鳴《しばな》き、露霜の秋去り來れば、生駒山飛ぶ火が岡に、萩の枝をしがみ散らし、狹男鹿は妻よびどよめ、山見れば山も見がほし、里見れば里も住みよし、物のふの八十伴緒の、打ちはへて里なみ敷けば、天地のより合ひの極《きは》み、萬代に榮え行かんと、思ひにし大宮すらを、恃めりし奈良の都を、新世《あらたよ》の事にしあれば、大君の引きのまに/\、春花のうつろひかはり、村鳥の朝立ち行けば、刺す竹の大宮人の、踏み平《な》らし通ひし道は、馬も行かず人も行かねば荒にけるかも
  立ちかはり、古き都となりぬれば
     道の芝草長く生ひにけり
  なづきにし奈良の都の荒れ行けば
     出で立つ毎に嘆きし勝さる
(162)併しながら、橘諸兄の勢力は、長く此の恭仁の新京を維持する事が出來なかつた。天平十六年に都か一時恭仁から難波に移つた事は、前記難波京の條にある通りで、而かも是れ亦假りの遷都たるに過ぎず、聖武天皇更に近江の信樂京に遷り、引續き平城に還幸あつて、奈良は再び帝都となつた。是より後淳仁天皇天平寶字年間に、宮殿改造の爲に、天皇は孝謙太上天皇と一時近江の保良宮《ほらのみや》に御移りになり、こゝを北京と定められた事もあつた。而も是れは其の實臨時の行在所とも言ふべき程のもので、間もなく再び都は平城に復つた。此の保艮宮の營まれた際には、之を北京として、南方なる平城京に對せしめ、所謂「都城宮室一處にあらず必ず、兩參と造らん」といふ、天武天皇の詔を實現せらるゝの有樣であつたが、道鏡の事件に依つて孝謙上皇と淳仁天皇の間に御不和が起り、急に平城に歸られたのであつた。之が爲に保艮宮は、それ限りで荒廢して了つたものと察せられる。其位置は、今の近江石山寺の西南で、後に保良(ノ)庄と稱し、今小字保艮(ノ)前と呼ぷ處に礎石が殘つて居る。是れ或は宮殿(163)の遺址であるか、或は此宮址に取り立てられたる寺院などの礎か。いづれにしても此地方が、當年の保良宮の所在なることは明である。
是より後、光仁天皇の御代に至る迄、平城の都に就いては何等の問題も起らなかつた。光仁天皇の御一代は前代弊政の後を承けて、專ら紊亂したる行政財政上の整理に力を用ひられ、桓武天皇亦引續き此の都に即位されて、先帝の御方針をつぎ、更に行政上に整理を加へ、財政の緊縮を行はれた。是まで造宮の事は、造宮省があつて之を管し、之を八省相當の地位に置いて、宮城の造營・修繕等のことを掌らしめて居つた。然るに延暦元年には、他の幾つもの官署と共に、此の役所をも廢して了つた。理由は「今は宮室居るに堪へたり」といふ事であつた。當時の方針では、明かに現在の平城の都で滿足して居た次第である。然るに、其の後僅かに一年を經て、延暦三年に至り、忽ち長岡遷都の事が發表されて、平城京は急激に廢せらるゝの運命に遭遇した。此の事に就いては、裏面に頗る問題が伏在して居る事で、是は後に改めて(164)論ずる事とする。
扨、長岡遷都の事發表せられ、着々工事は行はれたが、故あつて遂に成功するに至らず、延暦十三年に更に都は平安京に移つた。而も其間平城京は、南都として引續き保存されて居つた。南都とは北方に在る平安京に對するの稱呼で、猶京都に對して今日東京といふ名が有るやうなものである。然るに其南都も、大同五年平城上皇復祚の御計畫の爲に、遂に全く廢さるゝの運命に陥つた。平城上皇は尚侍藥子、藥子の兄仲成の勸に依つて、都を平城に復《かへ》さんことを思し立たれた。初は嵯峨天皇も上皇の御意志に從つて、平城復都の方針を立て、坂上田村麿・藤原冬嗣等を造宮官に任じ、種々の設備をも行はれ、新たに宮殿の造營に着手された程であつた。現今唐招提寺の講堂として存する建築物は、平城宮の朝集殿を賜はりて移したものだとあるが、恐らく此の時に賜はつたものと思はれる。然るに仲成の陰謀が暴露するに及んで、此の事業は忽ち中止され、平城上皇は是より奈良に止まられた儘で、再び京都(165)に還幸の事なく、遂に此の地でお崩れになつた。其の後宮殿は、或は不退寺、或は超昇寺に施入されて、奈良宮は茲に全く其終を告げる事となつた。是より後京城の地は全く田園となつて、今日に及んで居る。唯々舊來の有力なる寺院のみは、其間に保存されて、中にも最も勢力ある東大寺・興福寺・元興寺等の附近には、自から繁華が保存され、遂にもとの平城京の東郭外に、今日見る如き奈良の市街は成立するに至つた。
平城京には、其の北郭外に楊梅宮といふ別宮があつた。惠美押勝其の南に邸宅を構へ、兵備を厳にし、樓を設けて高く内裏を見下し、漸く不臣の譏があつたとある。押勝邸は此の楊梅宮と内裏との間にあつたものと見える。光仁天皇寶龜三年僧一百口を請して齋を楊梅宮に設くとあつて、此の後にも此の宮の事は物に見えて居る。後に平城宮廢し、平城天皇の皇子たる廢太子高丘親王に賜ひて超昇寺となつたものは、恐らく此の宮の事であらう。
 
(166) 第八章 平城京の條坊
 
      一 平城京條坊設計の基準と其の廣袤
 
平城の都は長岡遷都以後、次第に荒廢に歸して、其後七十餘年を經たる貞觀六年の頃には、既に悉く田圃となつたとある。併しながら、其の町割は今に至つて尚田圃の間に保存され、當時の道路の跡はほゞ之を實地に尋ねる事が出來る。のみならず、京城内の條坊による田地の坪割と、京城外の條理に依つて設けられた田地の坪割とは、其の面積なり、割方なりに於て著しい相違が有るが爲に、審かに田籍を調査したならば、之に依つて明かに都城條坊の原形を知る事が出來る筈である。
前既に記した如く、平城京は左右兩京に分かれ、各京九條、各條四坊、其の各坊は當時の制度に依つて、一里四方、即ち百八十丈四方を以て單位として區劃され、其の(167)坊と坊との間には大路を通じて居る。而して其の各坊は、更に縱横に通ずる各三條の小路に依つて、之を十六の坪に區劃される。京外の土地は、六町即ち二百十六丈宛の幅を以て之を條に分ち、其の各條を更に六町即ち二百十六丈宛の幅を以て里に分ち、各里を更に一町四方宛三千六百歩、即ち一町の面積を以て三十六の坪に分つのである。されば、京内の各坪の面積は、之を京外の條里によつて區劃されたる田地の各坪の面積に比するに、稍廣く、約一町二反百二十四歩に當り、其の各坪の一邊は四十丈宛になつて居る。是は西大寺其の他に傳はつて居る古文書、其の他の田圖に依つて明かに知る事が出來る。百八十丈の幅を有する坊の中に四十丈の坪の廣さ四個を除けば、餘す所二十丈。是れ即ち大路一條と、小路三條との占むる道幅である。大小道路の幅に就いては、明かに之を書いた記録は見ないけれども、西大寺所傳の地圖及び古文書に依るに、大路の幅は小路の幅の二倍に當り、各坪の幅は大路の幅の五倍、小路の幅の十倍に當つて居る。然らば大路は八丈、小路は四丈であるこ(168)とが明かで、之を通計して各坊百八十丈となる道理である。斯くて東西八里、南北九里の平城京は、之を京外條里の一町二百十六丈の法によつて數へると、東西約四十町南北約四十五町となる。北は大鍋・小鍋の兩大古墳、及び水上池の南の堤に達し、南は郡山町の北端に及び、西は一部分山地に渉り、東は大安寺村の東に及んで居る。其の朱雀大路は即ち在來の下道《しもつみち》にして、今の山城より來れる歌姫越より、平城天皇陵の西を過ぎて南方に通じ、宮城は其の北部、即ち今の平城天皇陵より西南に位して居つた。當時の大極殿を初として、八省院の諸建築物の跡は、今尚其の土壇を田圃の間に保存し、歴々として當時の有樣を徴する事が出來る。
平城京が西の方一部分山地に渉るの不便をも忍んで、此の如き位置に選定された事に就いては、其の原因を朱雀大路の位置の選定と、各坊を一里四方となす事の原則とに求めなければならぬ。其の地は東方に尚多くの餘裕を存して居る。若し京城の位置にして、東すること約五町ならんには、其の全部が都合よく平野内に設けられ(169)て、一部分山地に渉るの不便を避け得る事が出來たであらう。又縱しや下道《しもつみち》を朱雀大路に應用するとしても、京城の形を東西に縮め、南北に長くし、一層長方形のものたらしめたならば、同じく此の不便を避ける事が出來たのである。然るにも拘らず、東方に廣き餘地を存しながら、西方山地に渉るが如き不便をも敢てしたことは、大化以來の都城の制として、各條を四坊宛に分つの原則に束縛されたる事と、同時に各坊を一里といふ極めて都合よき尺度を以て定めたる爲でなければならぬ。
平城遷都以後飛鳥舊京の諸寺院は續々として移されたが、其の中京内に設けられたるものは、藥師寺・大安寺・元興寺などで、興福寺の如きは初より京東の地に營まれた。葛城寺・紀寺の如きも又此の方面に移された。京内に一たび移された元興寺も、後故あつて又京東に移り、其の後新たに營まれた東大寺の如きも、春日山麓の廣大なる地を占めて造られた。是自から京東に餘地の多かつた爲と察せられる。其の後京内に營まれたものに法華寺・唐招提寺・西大寺・西隆寺・喜光寺の如きものが多々あ(170)るけれども、唐招提寺の如き、藥師寺の如き、之を東大寺・興福寺・元興寺等に比するに、規模は非常に狹小である。是に於て市街は此の京東の諸大寺所在の地に向つて延長をなし、左京々外に新たに十二坊の地を開いて、之を左京職に隷する事になつた。今の奈良市は其の東方の半ばを保存して居るものである。又西大寺は京城の西北隅に營まれ、其の北には秋篠郷の平野が開けて居る。是に於て繁華又此の方面に起つて、西大寺の北にも半坊の幅を以て市街は擴張した。是等の有樣は巻頭挿入の圖面に就いて明かにする事を得る。
なほ條坊の區劃、各條の坪割、竝に丈尺等を圖示すれば次の通り。
 條は一條・二條と數字を以て北より南に數へて九條に終り、坊は一坊・二坊と亦數字を以て朱雀大路に近きものより京極に向つて數へて四坊に終り、坪即ち町は一(ノ)坪・二(ノ)坪と宮城に近き隅より數へ、南端四(ノ)坪に至りて逆進し、順次繰り返して十六(ノ)坪に終る。かくて何條何坊何(ノ)坪と數へて求むる地點を指示するを得る仕組である。
(171) 平城京條坊區劃圖(北京極大路は一に一條北大路と云ふ。九條大路は即ち南京極大路なり。又東西京極大路は左右京の四條大路なり)。〔省略〕
(172) 各條坪割圖〔省略〕
(173) 各坊の丈尺〔省略〕
 
(174)      二、 古今尺度の異同の研究
 
以上の實際は、京城の跡の測量によつてもほゞ之を知ることを得る筈であるが、尚更に之が調査に就いては、當時の尺度を研究するの必要がある。而して其の尺度は、又實に平城京の研究に依つて、最も精密に考定する事が出來るものである。當時使用の尺度は、之を今日の曲尺に比するに、幾分か短縮を示して居る。從來學者の之を調査した者、或は之を以て曲尺と同一なりとするの一派もあつたけれども、多くは幾分の短縮あることを認めて居る。併しながら、其の調査方法たる、何れも現在法隆寺・正倉院等に保存せらるゝ實物を測つて、之を以て當時の尺度の標準となさんと試みて居るに過ぎない。然るに、現存せる實物は必ずしも彼此一致して居るものではない。或る物は殆ど曲尺と同一のもあり、或る物は曲尺九寸八分左右、或る物は曲尺九寸七分左右といふ樣に、其の他にも實際には種々な尺が保存されて居る。(175)隨つて從來學者の唱ふる説の一致しないのも無理はない。されば平田篤胤・屋代弘賢の如きは、當時の尺度を以て今日の尺度と全然同一なりとし、又狩谷掖齋・小中村清矩、其の他多數の學者は、當時の物を以て曲尺より幾分の減少あるを認むる點には一致して居る。併しながら、其の減少を認むる側の學者にあつても、減少の程度如何に至つては、其の説必ずしも一樣でない。是れ蓋し亦已むを得ぬ次第である。或る者は九寸八分七厘とし、或る者は九寸八分とし、或る者は其の以下と見て居る。近く關野博士は九寸八分説を採り、これによつて當代の建築物及び平城京址等の復原を試みられた。併しながら此等は何れも、余が見た尺度は斯の如きものであつたとか、現存古尺の多數は斯の如きものであるとか云ふに過ぎない。勿論當時と雖も政府に標準器はあつた。併しそれが實際に※[礪の旁]行せられなかつた事は、現存の古尺がまち/\であることによつて證せられる。隨つて其の或る物が幾らであつたとか、其の平均が斯の如きものであるとか云ふ樣な方法で、當時の標準器を測定する事は出(176)來ない。されば、其の調査の材料となした古尺が、果して眞に其の當時の標準器と等しいものなりや否やの證明が出來ない以上、之を以て正しい説であるとは決定し難いのである。即ち古尺の寸法に就いては、學術的に考定せられたるものは今日まで少しも現はれて居らぬと言つて宜しい。然るに平城京址研究に就いて、偶然にも茲に奇態な一つの現象が發見された。
平城京が各坊百八十丈宛の標準を以て經營された事は、既に記した通りで、古文書・古地圖の研究上、充分に證明されたものである。然らば北は一條より、南を九條迄として、延長千六百二十丈となる可き筈である。然るに之を東京極に就いて見るに、京東の條里は京内九條千六百二十丈の間に、七條と約二町との地を容るゝに過ぎない。京外の條里は六町を以て一條とし、其の一町は三十六丈宛であるから、其の一條は二百十六丈となる筈である。即ち京内の條坊に於て千六百二十丈を數ふる、其の同じ東京極に於て、之に接する京外の地に在りては、條里七條と約二町、即ち約(177)一千五百八十四丈を容るゝに過ぎない。其の中南京極の幅の半四條(是は各條大路の中心迄を百八十丈と數へたるものなるが故に)を除かば、約千五百八十丈となる。是れは必ず京内の條坊を測定した尺度と、京外の條里を測定した尺度との間に、尺の標準を異にしたものと言はなければならぬ。尤も此の平城京東京極は、其の北部に於て一部山地に渉るが爲に、稍丈尺に短縮を來して居るけれども、其の誤謬は線の左右に等しく現はるべきもので、それは今の問題には關係ない。
人或は言はん、古への測量は決して精密なるものとは言へなからう。隨つて一千數百丈を數へる程の長距離の間に、三四十丈の差あるは、蓋し已むを得ざるところにして、現在平城京の遺墟を見ても、此の位の誤差のあることは、決して不思議ではなからうと。然れども是は時と場合によるもので、同じ平城京の東京極線上に於て、其の西なる京内の條坊と、其の東なる京外の條里との間に、此の相違を來した事は、必ず深い理由がなければならぬ。然らざれば同一線上に於いて、此の如き相違(178)を生ずることは、事實上有るべからざるところである。況や平安京内實測の結果が、亦此の平城京内の使用の尺度を以てほゞ相當り、他の各地方に於ける條里測定の結果が、亦此の京東條里の率にほゞ相當るの事實あるに於てをや。
更に平城京址に於ける條坊の蹟を調査するに、前に記したる如く、京内の一町は京外の一町二反百二十四歩に相當して居る。田舍の一町よりは二反百二十四歩だけ廣い。是は田舍の一町(今の一町は三千歩にして古の一町は三千六百歩なり)三十六丈四方なるに對して、京の一町が四十丈四方なるより起る差である。此の京と田舍との田積の相違に就いては、後世の言葉ではあるが、尺度の制の上に、京間《きようま》・田舍間《いなかま》の別がある。京間は六尺五寸を以て一|歩《ぽ》即ち一|間《けん》とし、田舍間は六尺を以て一|歩《ぽ》即ち一|間《けん》とする。俗に京間六尺三寸と言ふ事があるが、是は京間を建築物に應用する際に、二間即ち一丈二尺に就き敷居の幅四寸を除いた結果で、田地の測量に用ひられた場合には、常に六尺五寸を以て一歩として居る。此の京間六尺五寸、田舍間六(179)尺といふ區別は、全く京内の一町の面積と、京外の一町の面積との相違から來たものである。是は故黒川春村翁隨筆碩鼠漫筆所收の洛陽地法と題する古文書に、田地の面積を調査する際、京定め、田舍定めの別ある事を記したるに依つて察するを得る。京定めは一町四十丈四方にして、田舍定めは一町三十六丈四方とある。四十丈の長さの一町を六十分して得た一間の長さは六尺三分の二となる。然らばかりに京内の條坊と京外の條里とを、同一の尺度に依つて測定されたものとしたならば、田舍間六尺に對しては、京間六尺三分の二たるべき筈である。然るに之が事實上六尺五寸となりて常に計算されて居るものは、如何なる故か。是は明かに彼此尺度の相違から來つたので、左の算式によつて證明する事が出來る。
  6・2/3尺:6.5尺::1尺:x    x=0.975 寸分厘
即ち京内條坊の測定に用ひたる尺度は、京外條里測定に用ひたる尺度よりも短く、(180)其の一尺は正さに九寸七分五厘に當ることを示して居る。之を平城京の東京極の左右に於ける條坊と條里との丈尺の相違に當てはめて考へるに、京内の一千六百二十丈を右の九寸七分五厘の率によつて換算すれば、一千百七十九丈五尺となつて、略精密に條里約一千五百八十丈といふ數に一致する處あるを見るのである。然るに其の京外條里は、之を實測圖上に就いてはかるに、ほゞ現今の曲尺と一致して居る。而して曲尺の九寸七分五厘を以て一尺とし、之に依つて京址を實測したならば、地圖上亦ほゞ精密に當時の條坊の復原をなす事が出來るのである。
現行の曲尺はメートル法實施の爲に極めて微弱の相違を來したけれども、大體に於て享保年間八代將軍徳川吉宗が、紀伊熊野の神庫にあつた古尺を標準として造つたもので、是亦一種の古尺である。大和の法隆寺或は岩代の惠日寺に保存された一種の古尺は正に是で、屋代弘賢・平田篤胤等が、曲尺を以て古代の尺度と同一なりと言つたのは、此の實物に據つたものであつた。併しながら、一方に更に之よりも短(181)き數多の古尺が傳はつて居る。故に實際には、今の曲尺と同一の物と、是よりも短い物と、兩方が行はれて居たと言はねばならぬ。然るに記録上大尺・小尺の別はあつても、此の曲尺に當るものに就いては、何等傳ふる處がない。是れ思ふに制度以外の尺で、たゞ田舍の條里測量の場合にのみ、便宜上此の長き方の尺を用ひ、京内の條坊其の他の建築物等に關しては、短き尺を用ひたものであつたであらう。
何によつて之を言ふ。
田舍の條里が現今の曲尺で測られた事は前記の如く、幸ひにして近頃續々發表せられる陸地測量部の實測圖に就いて知る事が出來る。大和・美濃・越前、其の他各地に略完全に保存されて居る當時の條里の遺影を、今の實測地圖に就いて測るに、殆ど悉く精密に曲尺に一致して居るの事實を發見するのである。是も短拒離の間の比較ならば、或は其の結果を疑ふべきことあらんも、大和平野の如く南北約二百町近い程の長距離の間の平均は、ほゞ信ずべきものとしてよからうと思ふ。但茲に疑ふ可きは、(182)同じ時代に於て同じ土地を測るに、長短二種の尺を用ひた事の理由如何である。大寶令には地を測るに大尺を用ひ、其の五尺を一歩とすとある。而して其の大尺に二種の別がある事を言つて居らぬ。よつて思ふに、當時田舍の田地を測る場合には、必ず其の間に用水溝、或は通路の敷地を除地として見込まねばならぬ。其の除地の分として、一町に就き九尺、即ち六十歩に就いて一歩半の延長を見込んだならば、一尺に就いて二分五厘微強の差を生ずるの結果となる。即ち當時の一尺に此の二分五厘微強を加へたるものを以て、條里測定の標準となしたるものと解して宜からうと思ふ。されば現今の曲尺は當時の大尺にあらずして、田地を測定する爲に、特に溝渠通路の敷地を見込んで造つたものである。是が偶、法隆寺・惠日寺・熊野神庫等に傳はり、其の熊野神庫の物が吉宗將軍に依つて採用され、ここに享保尺となつて世に現はるるに至つたものと思はれる。
豐臣秀吉平安京の市區復舊を行ひ、當時の尺度にて四十丈を一町とした。隨つて此(183)の時代に檢地した處は、總べて此の方針に從ひ、四十丈一町の法により、所謂京間六尺五寸となつて居る。其實は六尺三分の二を一|歩《ぽ》としたもので、之を六尺五寸と測るは、享保尺採用以後の換算の結果に外ならぬものと思ふ。徳川時代は六尺一歩の法によつて居る。是は秀吉の設けた伏見の市街が京間即ち六尺五寸の法で設計され、徳川時代の都市が田舍間即ち六尺の法で出來て居るのを見てもわかる。江戸の市街にも、天正十八年の所謂御入國の際の古町は京間で、慶長覇府開設以後の新町は田舍間だとの事である。
法隆寺及び惠日寺に傳はつて居る一種の古尺は、其の實全長九寸八分左右にして、其の約半分だけに切目を設け、曲尺とほゞ同じ寸法を以て五寸を刻んで居る。其の全長九寸八分左右は、蓋し當時の普通の尺度の長さを示し、特に刻目を施したる分は、條里測定用の尺度を現はしたものと思はれる。是に就いて平田篤胤等は、此の五寸の刻目ある部分にのみ着目して、全長約九寸八分なる事を顧みず、其の切目(184)以外の五寸弱の部分は、餘材であるとして之を捨て、古尺は曲尺と同一だとの説をなして居る。之に反して反對論者の方は、其の全長九寸八分左右なるものを以て當時の一尺とし、其の約半分に施した刻み目が、ほゞ曲尺に同じき事には注意を拂は無かつたものらしい。是れ共に、自己の説に利益ある方面にのみ着目したもので、何れも正當なる研究方法では無かつた。併しながら、此の約九寸八分なるものは、到底精密なる數で無い。理論上、京間・田舍間の換算通り、九寸七分五厘の制である。是が偶然にも奈良京東京極の内外の尺度の差に適中する事に依つて、當時の尺度が理論上九寸七分五厘なる事を實際上にも證明し得るのである。既に當時の尺度を知る事を得た以上は、更に進んで當時の都城の制、其の他の研究上、之を利用して明かにするを得る場合の多かるべきは言ふまでもない。
 
      三 平城京内の道路と條坊の名稱
 
(185)平城京内の大路は幅各八丈。平安京の大路が場所によつて廣狹を異にするが如き事はなかつた。是は西大寺所傳の古文書の研究によつて證明せられる。大路には柳を植ゑてあつた。大伴家持天平勝寶二年三月二日、柳黛を攀じて京師を思ふ歌に、
  春の日に張れる柳を取り持ちて
      見れば都の大路思ほゆ
とあるのは是だ。其の東西に通ずる物は條を以てし、南北に通ずる物は坊を以てし、各數字を以て、一條・二條、一坊・二坊などと之を呼ぶ。但其或る特別のものには、固有名詞の傳はつて居るものがある。左京一條南路を佐保路と呼び、右京二坊大路を佐貴路と呼ぶの類是だ。此右京二坊大路は平安京にては道祖《さい》大路又は幸《さい》大路と云ふ。是は平城京の佐貴路の名を移したものらしい。
小路の幅は各四丈、是も平安京に於て見る如く、場所によつて廣狹の差ある類ではなかつた樣である。その二條大路の南の小路を押小路と云つた。興福寺北押小路の(186)名が海住山寺文書に見えて居る。而して平安京に於ても正に此の小路に當るものを押小路と呼んで居る。然らば平城京にては、大小の道路とも往々固有の名を有し、それが少からず平安京にも移されたものと察せられる。
坊にも亦名があつた。其の一を松井坊といふ。其の所在を明にする事が出來ぬを遺憾とするが、思ふに他の坊にもそれ/\に和名があつたものと察せられる。平安京に松井小路がある。或は右の松井坊に緑あるかとも思ふ。
 
       四 宮  城
 
宮城は二條以北にあつて、左右兩京各一坊の地を占め、通計四坊、約三百六十丈四方の廣さを有して居た。其の四周の墻壁には無論十二の門を開いて居たものと思はれ、其の中に中壬生門《なかのみぶもん》・的門《いくはもん》などの名が傳はつて居る。壬生門は平安京に於て美福門の舊名、的門は郁芳門の舊名である。果して然らば、他の諸門も亦平安京のと同名(187)であつたものと思はれる。なほ此の事は長岡京の條下説く所にゆづる。
宮城内の殿堂は朝堂・大極殿・朝集殿・内裏・正殿等の名を始めとして、其の史上に見ゆるもの多く、ほゞ平安京に於て見る所のものを具備して居つた樣である。殊に幸にも、大極殿以下朝堂の諸殿・諸堂は、殆ど完全に其の遺址を田圃の間に存し、千百餘年後の今日、なほ其の土壇は、崩されずして芝地となつて遣つて居る。是は平安宮城址が、度々の戰亂と、特に秀吉聚樂第建築の爲に取り崩されて、何等殘る所がないのとは大いに趣を異にして居る。而して其の保存されたる殿堂址の配置は、ほ々平安京のと同じものであつた。内裏址にも多少の芝地を存し、大内の名が小字に遺つて居る。思ふに、亦ほ々平安京内裏と同じ殿堂のあつたものであらう。但平安京にありては、大極殿以下の朝堂が朱雀門の正面にあつて、紫宸殿・清涼殿以下の内裏が、其の東北に偏在して居るに反し、平城京にては、内裏が正面にあり、朝堂が東北に偏在するの位置を取つて居た。是れ頗る注目すべき價値あるもので、時代によりて(188)政治に關する方面と、主として帝室に關する方面と、彼此輕重する所を異にしたものと思はれる。
此の平城京の條坊竝に宮城の制は、後の長岡平安諸京の依つて則つた所のもので、事は更に其の條下に説明することとする。
                                        
  萬 葉  青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふが如く今盛りなり    小野老
  萬 葉  紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の經ぬべき     作者不知
  萬 葉  秋されば春日の山の紅葉見る奈良の都の荒れらく惜しも  大原眞人
  萬 葉  淡雪のほとろ/\に降りしけば奈良の都しおもほゆるかも 大伴旅人
  萬 葉  梅の花我は散らさじ青丹よし奈良なる人の來つゝ見るかも 作者不知
  古 今  古郷と成りにし奈良の都にも色は變らず花は咲きけり   平城上皇
  詞 花  古の奈良の都の八重櫻今日九重に匂ひぬるかな      伊勢大輔
  玉 葉  櫻咲く奈良の都を見渡せばいづくも同じ八重の白雲    大江匡房
 
 
(189) 第九章 恭仁《くに》京附吉野・茅渟《ちぬ》兩離宮、由義宮
 
      一 恭仁京の地理
 
恭仁《くに》は山城國相樂郡|瓶原《みかのはら》村の地方で、木津川を隔てゝ南なる加茂村と共に、古へ之を岡田と言つた。岡田驛・岡田銅山などの名が夙に史上に現はれて居る。木津川其の中央を東西に流れて、地を南北に分かつ。延喜式に岡田鴨神社・岡田國神社の名相對して見えて居る。其の地風景に富んで、早く離宮の設があつた。元明天皇和銅元年岡田の離宮に行幸し、特に加茂・恭仁の二里の百姓に、物を賜はつたとある。
恭仁の地は一に水泉《いづみ》郷と言つた。木津川に泉川の稱があるのは此の地方である。古へ甕原《みかのはら》と云つたのは、此の水泉と加茂との二郷の地の總稱であつたらしい。
  甕《みか》の原わきて流るゝいづみ川
(190)      いつみきとてか戀しかるらん
の歌は此の地を詠んだものである。今日では瓶原の村名は河北にのみ限られて居るけれども、奈良朝初期に歴史に見えて居る甕原離宮は、木津川を隔てゝ其の南に在つた。今の加茂村大字法華寺野の邊がそれだと思はれる。而して恭仁大宮は、此の甕原離宮とは川を隔てて北に在つた。恭仁京は更に是より廣く、水泉・加茂・相樂・大狛地方にまでも及んで居た。即ち今の瓶原・加茂の二村から、木津町・上狛村地方に渉つて設けられたものであつた。
 
      二 恭仁遷都の事情
 
恭仁京遷都の事は、極めて怱卒の間に行はれたもので、全く橘|諸兄《もろえ》の仕事と言はなければならぬ。既に記したる如く、平城遷都以來藤原氏の勢力は益々重きを加へて、天平年間には不比等の長子武智麿は右大臣となり、其の弟の房前・宇合・麿の三人は(191)共に參議となつた。一家四人悉く公卿に列したのである。當時内閣に於ては此の四人以外には、單に老朽に傾いた中納言多治比縣守及び參議鈴鹿王・大伴|道足《みちたる》と、其の外に橘諸兄とがあつたのみである。然るに天平九年の疱瘡が、此の藤氏の一公三卿を悉く仆したによつて、參議諸兄は忽ち一躍して、中納言を經ず直ちに大納言に昇り、それも在官僅かに四箇月で更に右大臣に進んだ。其の進級の速かなる前後稀に見る所で、一朝にして藤原氏の地位に代つたかの觀がある。
諸兄は元と葛城王と言つて、敏達天皇の曾孫、筑紫帥栗隈王の孫である。父美努王は官位從四位下治部卿兼攝津職大夫たるに過ぎなかつたが、母橘三千代は、如何なる故にか、後に藤原不比等の後妻となつて、光明皇后を生んで居る。加之其の身は宮中に仕へて内命婦となり、頗る勢力があつた。天平五年三千代薨じて從一位を贈られ、死後までも尚、其の位に相當した食封資人等は、其のまゝ家に賜はつて居る。かくて天平八年に、葛城王が其の弟佐爲王と共に奏して、母の姓橘宿禰を繼がん事(192)を乞うた。其の表文は母三千代の來歴と橘姓の由來とを知るに足るものである。其の文に曰く、
 葛城の親母贈從一位縣犬養橘宿禰は上は淨見原朝廷(【天武】)より、下は藤原大宮(【持統文武】)に逮び、君に仕へて命を致し、孝を移して忠となし、夙夜勞を忘れ、累代力を※[立+曷]す。和銅元年十一月二十一日、擧國大甞二十五日の御宴に供奉して、天皇忠誠の至を譽め、浮杯の橘を賜ひて勅して曰はく、橘は果子の長上にして人の好む所、柯は霜雪を凌いで繁茂し、葉は寒暑を經て凋《しぼ》まず、珠玉と共に光を競ひ、金銀に交りて以て逾々《いよ/\》美なり、是を以て汝の姓は橘宿禰と賜ふなりと。而して今繼嗣なくんば、恐らくは明詔を失はん。伏して惟ふに皇帝陛下天下に光宅し、八※[土+延]に充塞し、化は海路の通ふ所を被ひ、徳は陸道の極まる所を蓋ふ。方船の貢、府は時を空うする事なく、河圖の靈、史に記を絶たず。四民業を安んじ、萬姓衢に謳ふ、臣葛城幸に時に遭ふの恩を蒙り、濫に九卿の末に接す。進むに可否を以てす。志忠を盡(193)くすにあり。身は降闕に隆にして、妻子家に康んず。夫れ王の姓を賜ひ氏を定むるは、由來遠し。是を以て臣葛城等願くは橘宿禰の姓を賜はり、先帝の厚命を戴きて、橘氏の殊名を流し、萬歳窮りなく、千葉相傳へん。
と。天皇之を嘉納して詔したまはく、
 從三位葛城王等の表を省するに、具さに意趣を知る。王等情深く、謙讓にして、志は親を顯はすにあり。皇族の高名を辭し、外家の橘姓を請ふ。尋ね思ふに執る所誠に時の宜しきを得たり。一に表に依つて橘宿禰の姓を賜ひ、千秋萬歳相繼いで窮なからしめよ。
と。近江朝廷の系に屬すべく思惟さるゝ藤原氏が、淨見原系の朝廷に仕へて、甚しく勢力を得たのは、固より其の祖鎌足の勲功と、不比等其の人の手腕とに由ることは言ふまでもなけれど、一方には後妻三千代の内助の力を認めねばならぬ。而して彼れ葛城王は、其の母を介して此の勢威隆々たる藤原氏と深き因縁を結び、當代の(194)皇后光明子と同胞の親を有して居る。彼の請願の裏面、以つて察すべきであらう。是より後葛城王は、姓名を橘諸兄と稱する事になつた。彼が皇族の尊を辭して、自ら請うて臣籍に降つた事は、一見如何にも謙讓の樣ではあるけれども、其の實は母の姓を冒し、母の財を繼ぎ、更に藤原氏との因縁を深くし、富と權力とを併せ得ようとする爲であつた事は疑を容れない。よしや諸兄に此の野心はなくとも、少くも橘諸兄となつて後の彼は、右の結果を齎らしたに相違ない。彼は大に光明皇后の歡心を得たのみならず、母三千代の遺勲を一身に荷うて當代の信任を厚くする事を得た。偶々藤氏の一公三卿悉く殪るゝの偶發事件が起つた。此の際に於て此の諸兄が、光明皇后の推擧により、藤氏の人々に代つて暫時の間に非常なる榮達をなしたのは、良《まこ》とに以《ゆえ》なきにあらずと言はねばならぬ。當時政府の要路に立つた者には、藤原氏では武智麿の長子として温厚なる豐成唯一人あるのみであつた。當時諸兄の顧問として隱然勢力のあつたものは、新たに支那留學より歸つた僧玄※[日+方]及び吉備眞備であつた(195)と思はれる。彼等は此の度の政變に乘じて、深く諸兄に取り入り、多年養成されたる藤原氏の勢力を抑へて、こゝに新勢力を扶植せんことを企てたものらしかつた。少くも藤氏の或る人々からはさう疑はれた。そこで天平十二年九月、藤原宇合の長子大宰少貳廣嗣は、玄※[日+方]・眞備を除くを名として、兵を太宰府に起した。云ふ迄も無く諸兄に反對する意味であつたらうが、憚る所があつてかく聲言したものに相違ない。而も彼は一擧にして脆くも敗れ、藤原氏は更に其の頓挫の度を深からしむるの結果となつた。此の廣嗣の叛は九州の如き遠隔の地に起つて、平城の都には何等事件を釀すに至らなかつたけれども、諸兄は之を奇貨として天皇に東國行幸を奏請した。何時お膝下に事變が起るかも知れぬ故に、暫く他へお避け遊ばす樣と申上げたに相違ない。正に是れ天子蒙塵の御有樣だ。時恰かも農時に際して、普通ならば行幸など有るべき筈では無いのであつたが、天皇は特に思召す處ありとの詔を發して、伊賀より伊勢・美濃に行幸された。無論諸兄は行幸陪從の一人である。參議豐成は平城宮(196)に留守として止つた。恭仁京遷都の議は、此の行幸中に決せられたものと見える。其の十二月天皇還幸の途に就かれて近江に歸らるゝに及び、諸兄は先發として恭仁に到り、都城經營の事に着手した。勿論さう直ちに出來るものではない。而も天皇は、近江より此の未成の新京に幸し、こゝに天平十四年の春をお迎へになつた。宮垣未だ成らず、繞らすに帷帳を以てし、新年の式を擧行して群臣の朝賀を受けられた。かくて遂に平城に還幸したまふことなく、是より恭仁は事實上の帝都となつた。其の計畫は極めて咄嗟の間に行はれたが爲に、宮殿の造營意の如くならず、爲に平城宮の大極殿及び歩廊を毀つて之を移し建るの窮策を講じ、閏三月十五日には、平城宮の留守大野東人・藤原豐成等に詔して、自今以後五位以上の者は、任意に平城に住するを得ず、現に平城にあるものは、即日悉く新京に移るべしと命ぜられた。殆ど迅雷耳を蔽ふに暇あらざるの急激なる遷都が實行されたのである。是は後に平清盛が、早急に福原遷都を實行したにも比すべく、否更に是よりも甚だしい事であつた(197)と言はねばならぬ。
恭仁遷都は極めて急激の間に計畫されたが爲に、經費の如きは無論不足であつた。舊京の大極殿等を移したのも、急を要する意味のみならず、又經費の不足なる結果であつたに相違ない。天平十三年九月七日造宮卿を任命し、翌八日造宮に備へんが爲に、畿内の役夫五千五百人を徴發し、着々工を進めたのであつたが、亦一方には豪家の寄附を求めて、之に依つて其成功を希望したが如き窮策をも敢てした。山城の豪族|秦忌寸島麿《はたのいみきしままろ》大宮の垣を築き、正八位下より一躍十三階を越へて從四位下を授けられ、太秦君《うづまさのきみ》の姓を賜はつたが如き其の一例である。而も天平十四年正月には、大極殿尚未だ成らず、假りに四阿殿《あづまやどの》を造つて茲に百官の朝賀を受けられた事であつた。木津川支流の澤田川に橋を架する時の如き、畿内及び諸國の優姿塞《うばそく》を集めて之を役し、成るに隨つて得度せしめたもの凡七百五十人とある。是等は佛教信仰の結果であるけれども、一は彼等を利用して、工事を進めた事であつたと思はれる。
 
(198)      三 恭仁廢都の事情
 
此の如くにして兎も角も恭仁京遷都の計畫は一旦成就した。號して大養徳恭仁大宮《おほやまとくにのおほみや》と名づけた。而も諸兄の勢力は長く此の大宮を維持するに足らない。天平十四年八月、天皇更に近江國甲賀郡|紫香樂《しがらき》村に離宮造營の事を命ぜられた。思ふに僧行基等の勸告から、茲に大佛を造り給はんとの思召であつたものと察せられる。天皇先きに河内の知識寺に行幸して盧遮那佛を拜し、茲に大佛建立の大誓願を起されたので、而して其の場所として、此の山間幽静なる紫香樂の地が選ばれたのであつた。斯く恭仁大宮未だ完成せずして、一方に、紫香樂離宮造營の事が起り、爲に一旦恭仁宮造作の中止を命ぜらるゝに至つたが、其際に又他方より、難波遷都の議が起つて來た。此難波遷都は、言ふ迄も無く、藤原氏が橘氏の勢力を挫かんが爲に計畫したものである。難波宮は大化以來引續き存在したとは雖も、一時難波田舍と呼ばるゝ迄(199)に舊都として荒廢して居つたのを、藤原宇合神龜二年に知難波宮事となつて、之を都と都ぶる迄に壯麗に造り上げたのであつた。此の藤原氏に深い關係のある難波の地に、忽ち遷都の議の起つた事は、橘氏に取つて甚だしい苦痛であつたに相違ない。後に諸兄の子奈良麿が謀叛を企て、事露はれて其の徒多く捕へられた時に、其の一人なる佐伯全成の自白する所に依ると、奈良麿の謀叛の計畫は既に天平十七年聖武天皇難波宮に行幸の際に萠して居る。此の時奈良麿、全成を呼んで、今陛下御病重く皇嗣未だ定らず、恐くは變あらんかと云つたとある。又其の後にも奈良麿は全成に向つて、若し他氏あつて王を立てなば、吾が族徒まさに滅亡せんとす、願はくは大伴・佐伯宿禰を率ゐて黄文を立てゝ君とし、以て他氏に先んじて、萬世の基をなさんと言つたとある。以て此間の裏面暗闘の消息を知るべく、是を以て見ても恭仁京の經營が、橘氏の事業として起り、難波遷都の議が、其の勢力に反對する藤原氏に依つて企てられた事を察するに足るのである。
(200)此時に當つて天皇は、難波・恭仁の兩説何れに從はんかに迷はれて、群臣の意見を徴せられた。之に應じて恭仁京の便宜を述ぶる者五位以上二十三人、六位以下百五十七人、難波京の便宜を述ぶるもの五位以上二十三人、六位以下百三十人であつた。恭仁の方稍多かつたけれども、而も大體に於て可否の意見が殆ど相匹敵したものと謂ふべく、天皇其の適從する所に迷はれて、更に之を市人に問はれた。所が恭仁京の市人は、折角住みついた所を去つて他に移るを迷惑とし、遷都を喜ばず、大多數恭仁に留らん事を願うた。唯、難波を希望する者一人、平城に歸らん事を希望する者一人あつたばかり。以て當時如何に一般人民が、遷都を苦痛としたかが窺はれる。然らば則ち、議は直ちに恭仁に決すべき筈であるに、而も難波京主張者の勢力は漸く強く、此くの如き市人一致の反對あるに拘らず、又有位者過半の不同意あるにも拘らず、よく反對説を壓し、遂に天皇を動かして、茲に難波行幸は事實として現はれた。天平十六年春正月十一日天皇難波に行幸し、二月朔日使を恭仁京に遣はして(201)驛鈴及び内外の印を取らしめ、諸司及び朝集使を難波宮に召し、二十日には恭仁京の高御座竝に大楯を難波京に搬び、此くの如くにして都は遂に難波と定まつた。左大臣橘諸兄も、勢ここに至つては亦已むことを得ず、乃ち詔を宣して難波を改めて皇都となすべき事を發表した。而も之が爲に恭仁京は全く廢せられたので無く、難波・恭仁双方相竝び、百姓任意に往來すべしと見えて居る。
此の際亦紫香樂の離宮は引續き造營された。天平十六年三月十四日、恭仁京金光明寺即ち國分寺の大般若經を紫香樂宮に搬び、十一月十三日に至つて、茲に盧遮那大佛像の大骨柱を建てられ、愈々此の山間の勝地に於て、之が鑄造のことに着手された。天皇親臨して手づから其の繩を引き、元正太上天皇又其の地に幸せられた。斯くて天皇は、當初此地を以て佛法興隆の中心となされようと思はれたものと解せられるが、如何なる故にか遂に帝都をも此山間の地に遷すべきこととなり、天平十七年春正月、即ち新京に遷り、山を伐り、地を開き、茲に宮室を造らしめられた。場所(202)は近江甲賀郡雲井村なる黄瀬の邊である。其の地山間にあつて、勿論帝都としては不適當である。されば當時上下此の遷都を喜ばざる者が多かつたと見えて、例に依つて附近の山林に頻に火災がある。偶々四月より五月に及んで地震屡々起り、天災地妖相次いだ。ここに於て天皇も御心に之を安んじ給はず、更に太政官諸司の官人を召して再び都を何れに定めんかを諮問された。然るに此の時にはもはや恭仁京を以て答ふる者なく、悉く平城復都を希望するに一致して居つた。是れ明かに橘氏勢力失墜の結果と見るべく、難波遷都の首唱者も、たゞ一時の方便より之を主張し、其の實平城を希望したものと察せられる。之ち更に平城藥師寺に藥師・興福・元興・大安四大寺の衆僧を集めて、何處を京となすべきかを問はれた。平城諸大寺の意見が平城復都希望にある事は云ふ迄もない。皆一致して答ふるに平城に歸り給はん事を以てした。是に於て天皇意を決して紫香樂宮を發し、恭仁京を經て平城の舊都に還られた。車駕恭仁京泉橋に至るや、百姓遙かに之を望んで道の左に拜謁し、共に萬歳(203)を合唱したとある。是より恭仁の市人平城に移り、曉夜爭ひ行く者、相接して絶ゆることなく、茲に五年にして平城は再び帝都の地となつた。
此際紫香樂宮は空しく、盗賊起つて火も亦消えない。即ち諸司及び衝門・衛士等を遣はして官物を收めしめ、又使を難波宮に遣はして、平城宮の鈴印を取らしめ、恭仁・難波・紫香樂等共に棄てられて了つた。かくて天平十八年九月には、恭仁京の大極殿を國分寺に施入した。今瓶原村に國分寺の遺址を傳へて居るのは、即ち當時の大極殿の所在地と見て宜からう。是と同じ意味のもとに、甕原離宮も國分尼寺即ち法華寺として施入されたものと見える。法華寺野は其の址で、古瓦の破片が今なほ發見される。此の如くにして諸兄の勢力の失墜と共に恭仁京は全く廢せられて了つた。
藤原・平城及び平安の都制は、中央に朱雀大路があつて、京城を左右兩京に分かち、朱雀大路の北に盡きる處朱雀門あり、大内裏は其の北部に設けられて居る。是は主として支那長安の制に則つたものである。然るに恭仁京は其の地山間に在つて、此くの(204)如き規律整然たる都城を營む事が出來なかつた。恭仁の宮城は今の瓶原村中に造られたが、恭仁・加茂二郷の地のみを以てしては、當時の帝都たるには狹隘に失した。そこで更に西方、大狛・相樂の二郷に及んで、都城を經營し、其の間に在る鹿背山の西道を以て左右京を分つたとある。即ち宮城は左京の一部に偏在して居るもので、是は支那洛陽の都制に象つたものと思はれる。吉備眞備等支那に學んで洛陽の都を熟知し、此の新しき知識に依つて新京の規模は定められたものであらう。
 
       附載一 吉野離宮
 
應神天皇の朝に始めて離宮を設けられ、雄略天皇の亦時に行幸された吉野の地は、山水の美に富んで、其後も常に何等かの設備のあつたものと見える。大化改新に當り、古人大兄皇子繼嗣を辭して吉野に籠られた。此の皇子は其の後謀反の名の下に終りを遂げたが、齊明天皇二年に復吉野宮を作られ、五年行幸の事があつた。天智天(205)皇の末年に至つて、大海人皇子亦同一條件の下に此の地に籠られた。是れ即ち後の天武天皇である。萬葉集收むる所、天皇の御製に、
  よき人のよしとよく見て好《よ》しと云ひし
      吉野よく見よよき人よく見つ
是は天皇八年五月行幸の時の御製と拜せられる。以て如何に其の風景の御意に召されたかを見るに足る。持統天皇も亦屡々此の宮に行幸された。三年の正月、八月、四年二月、五月、五年の正月、四月などに此の事が見えて居る。天皇行幸の時に、柿本人麿の作つた歌二首短歌二首、萬葉集にあつて、其の樣子を見る事が出來る。
 八隅しゝ我が大君の、聞こしをす天が下には、國はしもさはにあれども、山川の清き河内《かふち》と、御心を吉野の國の、花散らふ秋津の野邊に、宮柱大敷きませば、百磯城の大宮人は、船竝めて朝川渡り、船競《ふなぎほ》ひ夕川渡る。此の川の絶ゆる事なく、此の山の弥高からし、岩走る瀧の都は見れど飽かぬかも。
(206)  見れど飽かぬ吉野の川に常滑の
         たゆる事なく又還り見ん
 八隅しゝ我が大君、神ながら神さびせすと、芳野川瀧の河内に、高殿を高知りまして、上《のぼ》り立ち國見をすれば、たゝなはる青垣山の、山神《やまづみ》のまつる調と、春べは花かざし持ち、秋立てば紅葉かざせり、ゆふ川の神も、大御食《おほみけ》に仕へまつると、上つ瀬に鵜川を立て、下つ瀬に小網《さで》さし渡し、山川もよりて仕ふる神の御代かも
  山川もよりて仕ふる神ながら
      たぎつ河内に船出せんかも
是等の歌によつて、所謂吉野宮は今の吉野山ではなく、雄略天皇の離宮のあつた吉野河畔の地たることが明かである。此の宮は奈良朝までもなほ保存されて、文武・元正・聖武諸帝の行幸があつた。爲めに吉野地方は大和國司の所管から離れて、別に吉野監《よしのげん》と稱する一特別行政官廳支配の下に置いた。廢置年代精密に知る事は出來ぬ(207)が、恐らく元正天皇朝の設置であらう。和銅に吉野郡の名があり、養老五年頃のものと考定される國郡記事には吉野監の名が見えて居る。後、聖武天皇和泉監を廢したる頃に、此の監亦廢せられ、離宮も亦停止になつたものであらう。
 
       附載二 茅渟離宮
 
吉野監と竝んで、奈良時代には和泉監《いづみげん》の設置があつた。其の設置は靈龜二年で、此の年|珍努宮《ちぬのみや》を作り、三月河内國の和泉・日根二郡を割いて此の宮に供し、四月更に大鳥・和泉・日根の三郡を割いて、和泉監なる特別行政官廳を置いたのであつた。かくて元正天皇は、養老元年二月と十二月とに和泉宮行幸があつた。然るに、天平十二年八月に至り、一旦之を廢して河内國に併した。もはや之が爲に特別行政官廳を置くの必要を認めなくなつたものであらう。併し之を以て離宮を廢したのではなかつた。天平十六年二月に、聖武天皇此の宮に行幸あり、七月と十月とには、元正太上(208)天皇の御幸があつた。其の後此の宮の事は所見がない。孝謙天皇天平神護元年紀伊に幸し、歸路、日根郡深日行宮、及び新治行宮に蹕を駐められたが、是は自ら別宮であらう。
和泉宮と云ひ、珍努宮といふ、もと同一で、其の場所は、後の和泉國府と同地であらう。之を珍努と云つたのは、古へ茅渟とあると同じで、和泉地方の總名であつたものと見える。天平寶字元年に至り、和泉國を復して河内より分置した。所管は和泉監の舊によるが、此の時はもはや離宮の爲の特別行政區でなく、普通の地方廳としたのであつた。國府址は泉北郡(舊泉郡)國府村大字府中で、廳址は御館森とある。允恭天皇が衣通姫の爲に設けられた茅渟宮も亦或は同地か。但、舊説には泉南郡(舊日根郡)上之郷村の中、字中村の地が是で、土人衣通姫出生の地と稱し、古く享保頃までは、小祠があつたと傳へて居る。上古茅渟と云つたのは和泉南部地方であつたから、此の説も亦強ちに捨て難からう。奈良朝の和泉宮を珍努宮と稱したのは、(209)此の茅渟の名が、廣く及んだ爲であつたかも知れぬ。
 
       附載三 由義宮《ゆげのみや》
 
稱徳天皇天平神護元年九月、大和小治田宮より紀伊玉津島に行幸あり。御歸路和泉を經て河内に至り、弓削《ゆげ》行宮に入御ましました。弓削は大臣禅師弓削道鏡の郷里である。即ち道鏡に太政大臣の官を授け、文武百官をして太政大臣禅師を拜せしむるに至つた。かくて河内・和泉二國に今年の調を免じ、特に又河内大縣・若江の二郡及び和泉の三郡の田租をも免ぜられた。其の後、神護景雲三年十月に至り、車駕再び此の地に行幸あり、由義宮を以て西京とし、以て平城京に對し、河内國を改めて河内職とされた。由義宮は即ち曩の弓削行宮を高めたもので、河内職は是が爲に河内國の地位を進め、なほ左右京職・攝津職と同等の扱にした譯である。かくて寶龜元年正月、若江・大縣・高安等の諸郡の百姓の宅の宮内に入るものに、其價を給せられた。(210)併し此の宮造營の事は、道鏡の權勢の結果であつたから、此の年天皇崩じ、道鏡の勢力失墜と共に忽ち廢せらるゝの運命となつた。
由義宮の所在は、前記寶龜元年の頃には、其の域若江・大縣・高安三郡に跨がつて居つた。宮址は今の中河内郡曙川村大字八尾木だとも、八尾村大字別宮だとも云ふ。いづれ宮城の域は廣く渉つて居たものであらう。
                                        
      讃三香原新都歌       作者不詳
 明つ神我が大君の、天が下八洲の中に、國はしも多くあれ共、里はしもさはにあれ共、山なみの宜しき國と、川なみの立ち合ふ國と、山背の鹿背山の際《きは》に、宮柱太敷立てゝ、高知らす布當《ふたぎ》の宮は、河近み湍《せ》の音ぞ清き、山近み鳥が音どよむ。秋されば山もとどろに、狹牡鹿は妻よびどよめ、春去れば國べも繁《しゞ》に、岩ほには花咲きをゝり、あなあはれ布當の原、あなたふと  大宮所、うべしこそ我が大君は、君のまに聞こし給ひて、刺す竹の大宮こゝと定めけらしも。瓶の原ふだきの野べを清みこそ、大宮所定めけらしも。
 
 
(211) 第十章 長岡京
 
      一 長岡遷都の疑問
 
桓武天皇の長岡遷都は、歴史上最も解すべからざる現象の一つである。既に記した如く、延暦元年には行政財政の整理を行つて、他の多くの官署と共に、多年設置の造宮省をも廢し、「今は宮室居るに堪へたり」との事を明言されたに拘らず、中一年を經て延暦三年に至り、忽ち長岡遷都の發表あり、七十餘年間固定したる平城の都は、一朝にして廢せらるゝの運命に遭遇した。是れ既に解すべからざる現象であるが、更に其の後延暦十二年に至る迄、前後十年間、新京の經營に非常なる努力と費用とを要したに拘らず、事業頓挫して功遂に成らず、而も改めて之を近接せる今の平安京の地に創むるに及んでは、事は極めて順調に進み、無事に其の完成を見るに(212)至つた。是れ亦實に解すべからざる現象である。長岡を棄てゝ平安に移るの表面の理由は、前者が費用のみ徒らに多くして、工事進捗せざるに當り、後者が交通の便多く、且つ風景の美に富めりとの爲であつた。然れども、これを局外より觀察するに、單に費用の點より言はば、十年の日子を費して、既に其の大部分を成就したる長岡京の經營を助けて、之を完成せしむると、一朝之を棄てて新たに平安京を營ましむると、何れが困難にして、何れが容易なるべきかは、殆ど問題にならぬ事である。又風景の點を言はゞ、長岡の美必しも甚しく平安に劣れりとは言ひ難い。よしや多少平安に及ばざるところあるとしても、此の位の理由を以て、彼を棄て之を創むるには不十分である。殊に其の交通の點に至つては、延暦六年十月の詔に、「朕水陸の便を以て都を此邑に遷す」とある如くで、長岡の方寧ろ平安に優るとも、決して劣らざるものと言はねばならぬ。何となれば、難波の要津を經て海路西に適ずるには、淀川の流に由るを例とし、而も其の船着きの津としては、平安朝に至つても尚、(213)河陽即ち山崎の津を選び、若くは其の東なる淀の津を使用したものであつた。而して山崎若くは淀より長岡に到るは、距離最も近く、平安に到るは更に是より陸路數十町を經過しなければならぬ。又東の方逢坂越を經て東國に達するには、長岡より坦路直ちに東して山科に入るの平易なる、到底平安より坂を越えて迂廻しつつ行くの比ではないのである。されど假に其の表面の理由の示す如く、平安京が長岡京に比して多少交通上の便利ありとすとも、此の位の理由によつては、未だ以て大部分を成就したる都を棄てて、新たに其の附近に都城を營むには足らぬといはねばならぬ。果して然らば、何が故に長岡の都は突然計畫せられ、何が故に中途にして廢せらるるに至つたか。是は啻に其の都の顛末を明かにする上に於て重要なる問題であるのみならず、更に此の間の歴史上の裏面を知る上に於て、最も興味ある題目であらうと思ふ。
 
(214)      二 遷都表面の經過
 
長岡遷都の事は、其の表面に現はれたる事實より言はんには、事甚だ簡單である。都を遷すの理由は水陸の便を求むる爲だとある。成る程之を平城に比するに、其の至便なる言ふまでもない。されば延暦三年五月、突然遷都の議を定め、中納言藤原種繼・左大辨佐伯今毛人・參議紀船守等を造宮使に任じ、初めて都城宮殿を造營せしめ、諸國に命じて今年の調庸竝に造宮の工夫の用度物を長岡に運ばしめ、又公卿竝に内親王・夫人・尚侍等に、諸國の正税六十萬束を賜はりて、宅を新京に造らしめ、百姓の私宅の新京に入る者にも亦、當國の正税四萬三千餘束を賜ひ、七月には阿波・讃岐・伊豫の三國に命じて、山崎の橋材を上らしむる等、着々事は進行した。山崎橋は曩に行基の架したところ。今更に橋材を徴したのは、此の橋既に腐朽したれば、改め架して舊京との往來の便に供したものであらう。かくて十一月十一日、天皇此(215)の地に行幸せらるるまでに運んだ。工事を始めてより是に至る迄僅かに五ケ月に過ぎない。以て其の遷都の如何に突然にして、火急なりしかを知る事が出來る。十二月二日詔して造營に功勞ある者に位を授け、又役夫を上つた諸國に、今年の田租を免ぜられた。此の時造宮使從三位藤原種繼は正三位に、正四位上紀船守は從三位に叙せられ、又佐伯今毛人は參議に任ぜられ、以下それ/”\叙位任官のことがあつた。かくて翌四年正月には、宮城既に成つて、天皇大極殿に御し朝を受けらるるに、其の議常の如しとある。以て工事進行の樣子が察せられる。併しながら其成就したのは、實は宮城の一部分に過ぎずして、未だ之を以て完成したのでは無い。此年正月、使を遣はして攝津國神下・梓江・鯵生野《あじふの》を掘つて淀川の水を三國川に通ぜしめられた。遷都の主眼なる水陸の便は、斯くの如くにして益々進められたのである。七月、更に諸國の百姓三十一萬四千人を徴發して、工事を續けしめられた。斯く諸事順調に進行して居た際に、偶々一大事變突發して、工事進捗の上に、非常なる頓挫を來(216)した。事は造宮使種繼の遭難である。
此の年九月天皇長岡を發して、平城宮に行幸になつた。是は皇妹朝原内親王が伊勢齋宮の選に當り、將さに神宮に向はれんとするを見送り給はんとてゞあつた。此の時、皇太子早良親王・右大臣藤原是公・中納言藤原種繼等は、長岡京の留守となつて居つたが、偶々種繼、刺客の爲に暗殺せられた。種繼は遷都の發頭人で、造宮使の長官である。其死が新京經營上に一大障礙を來すべきは言ふまでもない。されば延暦六年七月太政官院漸く成り、百官初て朝座に着くを得たけれども、其の後、工事は甚だしく遷延して、一向に捗取らない。翌七年九月の詔に依ると、「宮室尚未だ成らず、興作稍多く、徴發の苦百姓にあり」、とある。斯くて延暦十年には、到底宮城諸門を新築するの見込もなくなつたと見え、九月遂に越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊豫等の諸國に命じて、平城宮の諸門を壞ち、之を新京に移し建つるの窮策を取るべく、餘儀なくさるることになつた。造宮使の困難察すべきである。此の如くに(217)して、尚工事完成せず、延暦十三年に至つて、遂に全然之を中止し、更に平安新都を經營することとなつた。是に於て長岡京は、十年の歳月と擧げて數ふべからざる莫大の經費とを、全然水泡に歸せしめ、悲しくもこゝに其の憐れなる終を告げて了つた。是はこれ表面に現れたる事實である。何が故に此の如き事件が起つたか。何が故に斯の如き始末を見るに至つたか。是は造宮使長官藤原種繼の事蹟を調べて見たならば、ほぼ其の間の消息を解する事が出來ようと思ふ。
 
       三 藤原種繼と長岡遷都
 
造長岡宮使長官藤原種繼は宇合の孫で、父を清成と云ひ、天平十二年に太宰府に據つて叛し、遂に橘諸兄をして恭仁遷都を敢てせしむるに至つた廣嗣と、奈良朝の末に方り、道鏡排斥の事に關して陰に陽に畫策到らざるなく、光仁天皇を擁立し、桓武天皇を皇太子と定むるに就いても、甚だしく辣腕を揮うた百川とを、其の伯父・(218)叔父として、而して後に平城上皇を奉じて平城遷都と復祚とを企てた仲成及び藥子を、子に持つて居るのである。
          廣嗣
          良繼―乙牟漏(桓武后・平城・嵯峨母)
          清成−種繼《・母は秦朝元女》 仲成
 藤原宇合                    藥子
          田麿
          百川  緒嗣
              旅子(桓武女御、淳和母)
          藏下麿−繼繩
此の系圖上の關係を見たならば、種繼が如何なる人物であるかは、ほゞ察する事が出來やうと思ふ。種繼は實に尋常一般の貴公子ではなかつた。其の伯叔父廣嗣・百川に(219)も劣らざる程の辣腕家で、且、謀叛氣に富んだ者であつたに相違ない。殊に叔父の百川は、光仁・桓武の兩帝を擁立するに就い大功が有つたにも拘らず、不幸にも早く死んで、未だ十分其の功に報いらるるに及ばなかつた。ここに於て種繼は其の甥として、百川の功を一身に負い、甚だしく桓武天皇の御信任を得た。續日本紀の著者種繼を評して曰く、「天皇甚だ之に委任し、中外の事皆決を採る」と。以て其の勢力の盛んであつた事を知るに足る。彼は其の初に於て、進級極めて遅かつた。天平神護二年十一月、初めて從五位下に叙せられてより、寶龜五年七月從五位上に陞るまで、僅に位一階を進むに、約六年を要して居る。八年正月正五位下となり、十一年十二月正五位上となる迄にも、可なり手間が取れて居る。其進級は此時に至るまでは決して速かなりといふ事は出來なかつた。然るに百川の死後に於ける彼の陞進は、非常に速かなものである。彼は正五位上になつた翌月、即ち天應元年正月には、早くも從四位下に進み、同じ年の四月には從四位上となり、六月には正四位下となり、更(220)に正四位に進み、延暦二年四月には早くも從三位となつて、公卿の位階を得た。二十九ケ月間に位を進められる事正さに六階である、斯くて延暦三年十一月には、更に正三位となつた。官も亦之に叶つて、天應元年五月左京大夫兼近江守となり、七月左衛士督に遷つて近江守を兼ね、翌延暦元年三月參議に任ぜられてこゝに相府に列し、兼左衛士督・近江守故の如く、翌二年七月更に式部卿をも兼ね、三年正月済輩を凌駕して中納言に進み、式部卿・左衛門督・近江按察使を兼ねた。種繼の得意極まれりと言ふべきである。而して此の榮進が、百川の死後、特に桓武天皇即位の後に於て著しき事は、最も注意すべき現象であつて、彼が天皇に信任を得た事は、此榮達の速かなる一事のみを以て見ても、十分に知られるのである。光仁天皇は天智天皇の胤として、壬申亂以後皇位久しく天武天皇の御系統に移つた後に出で、百川等の推戴により、思ひの外にも御位に即かれた。桓武天皇は御生母の家系賤しとの理由により、容易に儲貳たるを得なかつたのを、是れ亦百川の熱心なる奏請によつて、(221)之を得られた。されば光仁・桓武兩帝の百川に負ふ所は、頗る多く、殊に桓武天皇に於て一層深い關係がある。然るに、此の二代の恩人なる百川は、不幸にして桓武天皇御即位前の寶龜十年七月に、官僅かに參議を以て薨じた。年四十八。長子の緒嗣は尚幼い。茲に於て百川の遺勲は勢ひ其の兄弟に及ばなければならぬ。而も彼が兄弟は、多く彼に先つて世を去り、後には唯、參議田麿一人を存するのみで、其の田麿は天性恭謙、物に競うなく、式家の人々多く權謀術數に富んで居るに似ない。天平十二年廣嗣の叛に坐し、一旦隱岐に流され、間も無く歸つて後は自ら蜷淵山《になぶちやま》に隱れ、時事に與らない事となつた。百川薨じて後、此の温厚の長者も忽ち拔擢を受けて中納言となり、間も無く大納言に進み、在官一年、更に右大臣になつて居る。而して之と同時に種繼が亦連りに榮達したのは、天皇、百川の功を追懐せられて、之を其の弟及び甥に報いられたものと見なければならぬ。
斯の如くにして種繼の辣腕を揮ふべき時機は到達した。彼が一躍中納言に進んだ(222)延暦三年の五月、突然遷都の議が發表された。而して彼は自ら造宮使長官の任に當つて居る。長岡遷都の事、一に種繼の發意に在つたのである。かく種繼が突然長岡遷都を計畫した事は、確かに當世の意表に出でたに相違ない。造宮省廢せられ、宮室滿足なる事を宣せられてより僅かに一年餘、其の間窘窮の財政上、何等餘裕を生じたとも思はれぬに、突然起つた此の遷都の發表は、甚だしく他の舊家諸氏の人々を驚かした。曩に天平十七年難波遷都の事のあつた時、橘奈良麿は自家の一大事として、當時既に謀叛の意志を固めて居つた。種繼が長岡遷都の計畫を發表した際に、他の舊家諸氏が自家擁護の爲に反對の意志を固めたことは、亦之に比すべきものであつたに相違ない。延暦四年天皇平城京に行幸されたる留守中に、彼が賊の爲に暗殺せられたのは、正さに此反對者の所爲である。當時種繼暗殺の事に關係した者は、曩きに橘奈良麿謀叛の際に之に黨した、大伴・佐伯等の諸氏が其重なるものであつたと思はれる。かくて其の大伴繼人・大伴竹良等は忽ち捕へられて、それ/\に處(223)分を受けた。中納言大伴家持は此の時既に死んで居つたが、是も豫て謀に與つた故を以て、追つて所罸を受けた。更に事は引いて皇太子早良親王に及び、遂に位を退けられる事となつた。親王は桓武天皇の同母弟で、光仁天皇の夫人高野氏の所生である。斯くて種繼の榮達を害せんとした事が、却つて自ら其の勢ひを縮むるの結果を來したが、而も其の長岡京の經營は、種繼の死と共に頓挫するの已むを得ざるに至つた。是は財政上より來るべき必然の結果で、種繼ありて始めて供給を得べかりし財源が、彼の死と共に其の杜絶を見るに至つたものと思はれる。之に就いては、山城北部地方に於ける秦氏の勢力と、及び秦氏と種繼との關係を觀察しなければならぬ。秦氏は秦の始皇帝の後と稱する弓月君の子孫である。此の弓月君は、應神天皇の十四年に百二十七縣の民を率ゐて我に歸化したと言はれて居る。こゝに縣とは、猶後に郡といふ程のもので、其の種族の古來多かつたことは、之に依つても察せられる。新撰姓氏録及び日本紀等の傳ふる所に依れば、雄略天皇の御代に其の族九十二(224)部、一萬八千百七十人とある。部《べ》は群《むれ》の義で、後の郡に當る。次に欽明天皇の元年には、戸數七千五十三戸の多きに達したと見えて居る。大化・大寶の制に依ると、一郷は五十戸を以て標準としてある。假りに此の率を以て欽明天皇の時の秦氏の戸數を計るに、約百四十一郷に當つて居る。奈良朝養老頃に於ける全國の郷數は四千十二とある。假りに欽明天皇の頃亦此の郷數ありたりとせんには、秦氏の戸數は、全國戸數の約二十八分の一に相當するものと見てよい。秦氏の勢力の盛んなことは、此の一事のみを以てしても察する事が出來る。
彼等は全國到るところに分散して、工業に從事し、非常な富をなした。中にも山城北部は其の本據の地として、最も多く勢力を占めて居つたやうである。欽明天皇の朝山城國紀伊郡深草里に秦|大津父《おほつち》といふものがあつた。いたく天皇の寵愛を受けて常に左右に近侍し、大いに饒富を致した。天皇後に之を大藏の吏に補し、前記七千五十三戸の秦人を統ぷべき秦伴造とした。富豪に金庫の監督を委した譯である。俗(225)にいふ伏見の稻荷、即ち深草なる官幣大社稻荷神社は、實に此の秦氏の祀つた氏神で、山城風土記に、此の地の富豪秦伊呂具と云ふもの榮耀のあまり、餅を的にして之を射た所が、其の餅が白鳥と化して飛び立ち、稻荷の神になつたとある。こゝにも深草の秦氏富有の傳説は傳はつて居る。葛野・愛宕諸郡の地方にも秦氏の族は盛で、官幣大社賀茂上下の社、同松尾神社なども、此の氏と關係深く、中にも葛野の松尾には、後までも秦氏の人が祠官となつて居る。別して葛野地方には秦氏の族多く、今も桂川の一部を大堰川と稱するが、其の名は秦氏が此處に大いなる堰を造つて、桂川の水を引き、葛野地方の平野を灌漑した爲であつた。これは秦氏の本系帳に見えて居る事で、此の地方に秦人の盛んであつたことは、此の一事のみを以てしても知る事が出來る。
更に聖徳太子の時に秦河勝が太子の旨を承けて、獨力葛野の蜂岡寺即ち今の太秦《うづまさ》廣隆寺を興した事は、如何に彼の富裕であつたかを示すに足るものである。大安寺三(226)綱記によると、近江栗太郡で僧房二十八宇を有する葦浦觀音寺も、河勝の開基だと傳へられて居る。凡葛野・愛宕・紀伊等、山城北部目貫の地はほぼ秦氏の占有に歸して居たものと思はれる。中世の葛野郡嵯峨地方の田圖を見ると、其際になつても、なほ懇田の持主が大部分秦氏であるのを見る。以て古代に於ける勢力察すべきで、曩に秦島麻呂が、聖武天皇恭仁京經營の際、多大の貢獻をなして重賞を蒙つたのも思ひ合される。其の秦氏の一人に朝元といふ人があつた。支那に生れて、詩を作り支那語を話すには巧であつたが、和歌が作れなかつたが爲に、或る時宮中のお會に列して、衆人皆和歌を奉るに當り、朝元ひとりこれに漏れて、科料を出したといふ逸話のある人であるが、彼夙に拔擢せられて、聖武天皇朝に主計頭《かずへのかみ》に任ぜられた。主計寮は民部省の被管で、調度及び雜物を計へ入れ、國用を支度し、用度を勘勾するを掌るとある。聖武天皇東大寺の大佛を造り、數多の寺を營み、天下の富其の半を失つたとまで言はれる程に、國用多端にして財政上の遣り繰りに骨の折れた際に、(227)諸蕃人の一人として、特に此の衝に當つたのであつた。而して此の朝元の女が、彼れ種繼の母であると云ふことは、此の際最も注意せねばならぬ。蓋、種繼の父清成、此の富豪と緑を結び、金權によつて自家の權勢を固めようとしたものであらう。長岡遷都の首唱者にして、造宮使長官たる種繼が、山城北部の豪族たる秦氏の外孫たることは、遷都問題を解決する事に就いて、最も多く注意すべき問題である。言ふ迄も無く當時は、政府の財政非常に困難なる際であつた。無論此の政府の力のみを以てしては、到底新京を營み、遷都を決行する事は出來なかつた筈である。恭仁京經營の際に於てすら、既に秦氏等多大の寄附行爲に俟つた程で、事は既記の通りであるが、長岡京造營の際にも、亦、同樣の事が現はれて居る。延暦三年十二月造宮功勞者に恩賞の有つた際、山背國葛野郡の人正八位下秦忌寸足長は、宮城を築いて從五位上を授けられ、正八位上太秦公|宅守《やかもり》は、太政官院の垣を築いて從五位下を授けられて居る。是は何れも種繼の募に應じて、其の姻戚にして地方の豪家たる秦氏(228)が、非常なる寄附をなしたものである。此の外にも、近江國の人從七位下勝首麿は、延暦四年二月より十月に渉り、悉く私粮を給して役夫三萬六千餘人を進めた爲に、外《げ》從五位下を授けられて居る。此の人又秦氏と同じく、諸蕃即ち海外歸化人の系たることは、注意すべき現象である。
今是等の諸現象を合せ考へると、何人もほゞ、種繼が此財政困雉な際に當つて長岡遷都を實行せんとするに至つた、裏面の事情を推測する事が出來よう。種繼は實に其の姻戚秦氏の資力によつて、多年弊竇の蟠れる平城の地を去り、大伴・佐伯等從來藤原氏の榮達に對して快からぬ舊家を出しぬき、平城に比して更に數層の交通上の便利ある長岡の地を、秦氏根據地のほとりに選定して、以て自家の權勢を固めようとしたに相違ない。其の弊竇として數ふべきものは種々あつたであらうが、中にも僧侶の跋扈の如きは、確かに其の一であつた。延暦二年十二月の詔によるに、京内の諸寺利潤を貪り、貧民の宅を質として錢財を貸し出し、利を廻して本となし、遂に(229)債主をして流離の已むなきに至らしむとある。多年朝廷の厚き庇護の下に立つて、遂に此の惡弊をはじめたのであつた。此の遷都によつて、種繼が自ら利すべき事多きは言ふまでもないが、資金を給した秦氏亦、種繼と相寄り相俟つて、有形無形の利益を得べかりし黙契があつたに相違ない。然るに種繼の横死はあらゆるものを畫餅に歸せしめた。
 
      四 桓武天皇と百済王氏
 
種繼が秦氏を始め諸蕃の人々によつて遷都を計畫したに就いては、恰も此桓武天皇の御代に於て、尤も都合のよい事情があつたのである。元來、秦氏・漢氏等海外歸化の諸蕃人等は、其の數も多く、自ら團結心にも富んで居たであらうし、殊に非常な富を擁して居たが、社會に於ける地位は比較的低かつた。政府に用ひらるゝにしても、普通は學問工芸を以て、若くは外衛の兵士・舍人として、身を立つるに止まり、貴族(230)間には幅の利かぬ家柄であつた。隨つて、其の族人にして史上に名を止めて居るものは多いけれども、平安朝初に至るまで、未だ嘗て内閣に列した樣な物はなかつた。從三位に叙せられて、公卿の列に昇つたものも、奈良朝を通じて僅に百済王氏二人、高麗王氏一人あつたばかり。唯彼等は富を民間に有し、隱然潜勢力を養つて居つたに過ぎない。此の際偶々桓武天皇は、光仁天皇の皇子として即位された。光仁天皇の皇后は聖武天皇の皇女井上内親王で、其の御間に他戸《おさべ》親王ましまし、一旦皇太子にまで冊立されたのであつたが、故あつて母子共に廢せられた。桓武天皇の御生母は百済王氏の女|高野新笠《たかののにひかさ》と云ひ、光仁天皇の夫人であつた。されば桓武天皇は、他戸親王が太子の位を廢せられて後も、母系賤しとの故を以て儲貳たることを得なかつた程であつたのを、藤原百川の熱心なる推戴によつて、皇太子となり、次で即位されたのである。こゝに於て諸蕃たる百済王氏は、天皇の爲には外祖父の家となつた。是より天皇は百済王家の人々を拔擢する事甚だ多く、諸蕃人一時に肩身を廣くした有樣(231)で、其の族人たる和家麿《やまとのいへまろ》の如きは、遂に正三位中納言に昇り、死後從二位大納言を贈らるゝ程となつた。彼が延暦十五年始めて參議となるや、頗る世人の耳目を驚かしたものと見え、史官特に之を記して、「外人相府に入る之を始とす」と書いてある。隨つて他の諸蕃人も次第に頭を上げて來た。檜前漢人《ひのくまのあやひと》の族たる坂上刈田麿・同田村麿の父子の如きも、共に公卿に列して居る。桓武天皇の御代は實に諸蕃人に取つて有利の時代であつた。此の際巨萬の富を民間に有せし秦氏の如き諸蕃の人々が、社會に勢力を占め、其の地位を高むべき機會を捕へんとするは當に然るべき所。而して長岡京は、實にかゝる時代に於て經營に着手されたのであつた。秦氏以外に諸蕃の者の資を投じて工を助けたのも、當に然るべきことである。
 
      五 平城宮門の移建と長岡京の規模
 
斯くの如く長岡京の經營は、主として秦氏、其の他諸蕃有力者の寄附的行爲に頼つ(232)て、種繼の計畫の下に始められた。其の事業は着々進行して居つた處が、一朝反對者の毒手にかゝつて、種繼横死の結果、遂に頓挫を來したのは、寔に已むを得ぬ次第と言はなければならぬ。既に當事者の種繼死去の上は、種繼によつて始めて出資に意義を有した富豪も、もはや報酬の豫期されぬ事業に投資を繼續すべくもあらず、忽ちにして成功困難の状態となつた。
長岡京の造營が、當時其の成功を危ぶまれた有樣は、催馬樂《さいばら》に收むる左の歌に依つても知る事が出來る。
  浅緑や濃きはなだ、染めかけたりとも見るまでに
  玉光る、下ひかる、新京|朱雀《すざか》のしだり柳
  または田ゐとなる。前栽・秋萩・撫子・蜀葵・しだり柳
此歌の時代は明かでない。隨つてこゝに所謂新京朱雀の語は、平安京を言つたものだとの解が從來多く行はれて居るけれども、詳しくこれを觀るに、必ず此長岡新京の(233)事を詠んだものに相違ない。何となれば、此歌の意味は、今かく新京朱雀大路に、浅緑や濃きはなだ色を染めかけたりと見る迄に、垂柳は景氣好く光を帶びて居る有樣ではあるが、此新京も今に荒廢して、田園となるといふことを詠んだもので、之を平安京のこととしては、甚だ不吉でもあり、又實際にもあはず、そんな歌を催馬樂中に收める筈はないと言はねばならぬ。更に古く平城京の事として觀察しても、此の歌は到底不適當たるを免がれない。然らば其の中間に於て、長岡新京の到底荒廢すべき運命を諷したものと解して、初めて意味が明かになるのである。當時の事情、新京が軈て荒廢すべき事を言つて居るのは、此の際機微の消息を漏したものと言はなければならぬ。
長岡京經營の困難であつた樣子は、七年經つてもまだ宮城の諸門が出來ず、延暦十年九月に至り、平城京の宮門を毀つて遠く此の離れたる土地にまで移したといふ一事のみを以てしても、十分に察する事が出來る。之に就いて從來誤りたる説が拾(234)芥抄によつて傳はつて居るが、偶然にも其の誤謬が、平城・長岡・平安諸京に關係して、都制上最も興味ある事實を提示して居るのは奇と言はねばならぬ。左に聊か之を辯明致さう。
平安京宮城の諸門は、上東・上西の二門を除いては、いづれも唐樣《からやう》の好字を擇んで命じた特別の名稱がある。是は菅原清公の奏議に基づき、弘仁九年三月の詔によつて、天下の儀式、男女の衣服皆唐法により、五位以上の位記亦唐樣となし、諸の宮殿・院・堂・門・閣等、皆新額を着けしめたとある時の改定で、もとは和風の名があつたのである。其の數十二。是は飛鳥板蓋宮以來既に然る處で、藤原宮に海犬養《あまいぬかひ》門あり、平城京に中|壬生《みぶ》門・的《いくは》門の名のあつた事は、既に記した通り。然るに今拾芥抄の誤つたる記事によりて、ゆくりなくも他の諸門の由來を知る事が出來るのである。
拾芥抄には「或書」の記事を引いて、延暦十二年六月諸國をして新宮の諸門を造らしめたとの事を記して居る。此の文稍錯簡誤字あるが故に、同書の門號の條の記事に(235)よつて訂正すれば次の通り。
 尾張・美濃の二國殷富門を造る、伊福部氏なり。
 越前國美福門を造る、壬生氏なり。
 若狹・越中の二國安嘉門を造る、海犬養《あまいぬかひ》氏なり。
 丹波國偉鑒門を造る、猪養《ゐかひ》氏なり。
 但馬國藻壁門を造る、佐伯氏なり。
 播磨國待賢門を造る、建部氏なり。【原文「山氏」に作る】
 備前國陽明門を造る、山氏なり。【原文「若犬甘氏」に作る】
 備中・備後の二國達智門を造る、丹治比氏なり。
 阿波國談天門を造る、玉手氏なり。
 伊豫國郁芳門を造る、的《いくは》氏なり。【原文「達部氏」に作る】
 ○○國皇嘉門を造る、若犬甘《わかいぬかひ》氏なり。【原文此の門の記事を脱す】
(236) ○○國朱雀門を造る、伴氏なり。【同上】
 同十三年冬十月二十三日、天皇南京より北京に遷る。
右の記事は無論之を平安宮の事として引用したので、隨つて從來之を解するもの、亦之を平安宮の事だとして扱つて居る。併しながら、熟々之を觀るに、斯くては種々矛盾を生じ、解すべからざる事が出て來る。先づ國が門を造つた事と、某々諸氏が門を造つた事とは兩立せぬ。國が之を造るとは、國司に命じて、國府の事業として之を造營する事で、某々諸氏が造つたとは、是等の氏人が造營した事の意味である。然らば同一の門を國が造り、又某々氏が造る事は不可能であらねばならぬ。其の國之を造ると云ふ事は暫く措く。其の某々氏之を造るとは、確に平安京での事ではない。宮城門の唐樣の名は弘仁九年の改稱で、其前は和名であつた事既記の通り。而して其の和名は、悉く右列擧したる諸門造營の氏名と一致して居る。即ち知る、宮城十二門の名はもと豪族の寄附行爲に成り、而して其寄附者の名を表彰する爲に門(237)に命じたものであつた事を。而も其の事件は決して平安京での事ではない。是は其の門名が平安京に至つて始まつたものでない事を見て知られる。續日本紀の記事を見ると、安嘉門の原名なる海犬養門は既に藤原宮にも存して居つた。美福門の原名なる壬生門(【平城には中壬生門とある、】、郁芳門の原名なる的門は既に平城宮にも存して居つた。してみると海犬養氏が安嘉門を造り、的氏が郁芳門を造り、壬生氏が美福門を造つた事は、少くも藤原京、若くは平城京での事だと言はぬばならぬ。なほ更に推測を加へるならば、其の他の諸門の名も、悉く藤原京に於て既に有つたものと言つてよからう。依て思ふに、拾芥抄の此の記事は、是等の諸門を最初に造つた諸氏の名を掲げ、隨つて其の門の名を命ずるに至つた由來を記したものを、更に某時代に是等諸門に關係した國名と混同し、之を延暦十二年の平安京に於ける事として誤り記したものと言はねばならぬ。果して然らば、此の記事は何時の事であらうか。本書記して曰く、「天皇南京より北京に遷る」と。南京とは南都即ち平城である。桓武天皇が平城(238)から遷られたのは平安京ではなくして長岡京であつた。殊に其の列記してある諸國名は、實に延暦十年九月諸國に課して平城宮の諸門を長岡宮に運ばしめたとある、其の諸國名と殆ど一致して居るのを發見する。たゞ後者は越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊豫等の國とあつて、前者には更に其の外に若狹・越中・備中の三國を數へ、美作を漏らして居るの差があるけれども、是は續日本紀が某々等の國として一部の國名を略し、拾芥抄には皇嘉・朱雀二門の記事を脱して居るから、こゝに美作の名はあつたものと解してよからう。ともかくも此の國名は、平安京での事ではなく、平城宮の諸門を長岡宮に移さしめた時のもので、隨つて拾芥抄の此の記事に、延暦十二年といふのは十年の間違で、事は長岡宮に關するものに違ひなからう。果して然らば、長岡京に於ても、平城・平安と同一の名を有する十二の宮城門があつた事が知られると同時に、それ等の門は恐らく藤原京以來名稱を踏襲して居るものだといふ事がわかるのである。是等の事は、此の長岡京の宮門移轉の記事が、たま(239)たま拾芥抄に依つて、誤つて平安京の事實に混同して傳へられて居るのによつて、推測するの便りを得たことである。
長岡京の名は、北方より長く延びて、今の向日町の邊にまで來て居る長々しい丘陵から起つたものであらう。其の宮城の所在は、其の長岡の南端即ち向日町のあたりを主要部としたもので、京城は是より左右に亘り、南方に延びて居つたものと察せられる。今向日町の市街の東方に、長岡宮大極殿址の碑が建設されて居る。其の地は方一町ばかりの小字を大極殿と言つて居る所で、其の北に接して小字を荒内と稱する。荒内は大津京に於て見るところの蟻の内と同じく、荒廢したる内裏の稱を傳へたものに相違ない。乃ち大極殿の小字と相待つて、宮城所在を明示して居るものと言つて宜い。其の規模は明かならぬが、思ふに平城・平安に似たものであらう。京城の廣袤が果して如何なるものであつたか、之を知るの便りの無いのを遺憾とするが、併しながら、次に營まれた平安京が、前の平城京を僅かに擴張した大きさを有するに(240)過ぎない事から考へて見ると、其の中間なる長岡京も、略、兩者に似たものであつたらうと思はれる。其の地は東南の一隅、淀の低地に續いて幾分低濕の嫌ひは有つたであらうけれども、後世の歴史家が普通に想像する如く、其地狹隘にして帝都を造るに不適當であつたが爲に、中止して平安京に移つたといふが如きものではない。如何に種繼匆卒の際の調査とはいへ、京城の廣狹に就いては多年平城京で經験した後をうけて、さる不都合なる場所の選定があらうとは思はれぬ。宮城を設計した際には百姓の私宅の宮内に入るもの五十七町とある。平城京の宮城六十四町。尤も此の京内の一町は、京外條里の一町よりも廣い事は既記の通りで、其の六十四町は道敷を込めると百町以上に當るのであるが、併し茲に長岡京に於て五十七町の百姓の宅地を徴發したことは、必ずしも是が宮城の全部として見るを要しない。隨つて之に依つて其の宮城が奈良・平安より狹かつたといふことを認むるの材料とはならぬのみならず、五十七町の宅地には、必ず之に附屬する幾多の土地も有るべく、その以(241)外の場所も少からぬことであつたと察すべきもので、長岡京の宮城が、奈良・平安と略々均しいものであつたことは、認めて宜からうと思ふ。
長岡京には言ふまでもなく、朱雀大路があつて、既に垂柳が植ゑられて居た事は、前記催馬樂の歌によつて知られる。大小道路の割り方竝に名稱までも、恐らくは平城京のを其のまゝにうつし、次に平安京に取り次ぎしたのであつたかも知れぬ。
平安京の小路に猪熊の名があり、長岡京にも亦此の名が傳はつて居る。更に後に平安京の條下述ぶべきが如く、平城京の街衢の名が平安京に存するもの少からぬに徴するに、其の中間なる長岡京の事亦察するに餘ありと謂はねばならぬ。即ち大體に於て長岡京の規模及び設計は、平城・平安と大した變りの無かつたものと認めて宜からうと思ふ。
 
      六 長岡遷都の年時の疑問
 
(242)長岡遷都の事は延暦三年に行はれたものであつて、十一月十一日天皇長岡宮に移り給ひ、翌年正月新宮の大極殿にて朝賀を受けさせられた事は、續日本紀之を明記して疑を容れない。延暦十三年都を平安に移す際に、十年功遂に成らずと見えて居るのも、之を裏書して居るかの觀がある。但此の記事は、宮城造營工事を云つたもので、直ちに遷都の證とはならぬ。ところで、三代實録に見ゆる貞觀六年大和國の奏言に依ると、平城舊京は延暦七年〔二字右◎〕に都を長岡に移してより茲に七十七年〔四字右◎〕、都城道路變じて田圃となると見えて居る。年代を計るに、延暦七年より貞觀六年まで、まさに七十七年であるから、茲に延暦七年とあるのは、必しも三年の誤寫だとは言へない。隨つて當時の大和國府の記録には、延暦七年遷都の事に書いてあつたものと認めねばならぬ。是は彼此矛盾のことであつて、頗る疑を容るべきものだと思はれるが、更に考ふるに、天皇延暦三年に長岡京に遷幸|在《まし》ました事は事實にして、而して此の時を以て續日本紀は其事實を直寫し、而も大和の國府の解釋では、其の後延暦七年に(243)至つて、都はいよ/\新京に移つたものだと認めて居つたものと思はれる。成程延暦三年に遷幸が行はれたけれども、事匆卒の間に起つて、此時果して之を遷都だと發表したか否かは疑はしい。隨つて大和の國司に於ては、當時は未だなほ平城京を以て帝都と認めて居つた事かも知れない。近く例を明治の東京遷幸の事に見るも、其の始は唯天皇臨時に東京に行幸して、茲に政治を覧御《みそなは》すの趣であつて、事實は兎も角、表面上は京都は依然として帝都であつた。之に對して束京は單に東の都として、支那の長安に對する洛陽の有樣であつたに過ぎない。間もなく京都に還幸あり、再び東京へ行幸になつたのである。隨つて府縣の順序の如きも、先づ京都を第一とし、東京を之が次ぎに置くの例であつた。明治四年に至つて更に府縣の序次を改め、此の時たゞ何となく東京を第一に置き、京都を第二に下した。されば若し厳格に、明治の東京遷都の日を論じたならば、是は明治元年初度の東幸の時を以てすべきものか、或は此時は天皇一旦京都に還幸ましましたものであるから、二年に再び東幸と(244)なり、其の儘蹕を此の地に駐められた時を以てすべきか、或は更に明治四年に府縣の位次變更の時を以て遷都とすべきものか。是は永く疑問となつて殘らうと思はれる。長岡遷都の際の如きも、延暦三年天皇匆卒に新京に移られたけれども、翌四年には一旦平城宮に行幸の事もあつた程で、内實種繼が長岡遷都を實行した事は、猶、明治の初年の東京遷幸と似たものであつたかも知れない。隨つて其の實は、何時をいよ/\遷都の日と定むるか明かならぬが爲に、續日本紀の編者は延暦三年の遷幸の事をのみ記し、大和國府に於ては後に至る迄尚、延暦七年を以て遷都の年と解して居つたものかとも思はれる。
                                        
 學校官署等の位置を自己の町村に定めようが爲に、敷地や建築費の寄附を申し出でる事がある。鐵道の停車場をお前の町村に置いてやるからとて、土地金員等の寄附を強請する事もある。種繼と秦氏と長岡遷都との間にも此の關係が認められる。昔も今も人情に變りはない。
 
(245) 第十一章 平安京
 
       一 平安遷都の疑問と遷都表面の經過
 
長岡遷都の事實が突如として起つて、史上其の理由が甚だ不明であると殆ど同じ程度に、平安遷都の事も亦甚だ不可思議なる史上の一現象である。普通教育上の歴史の教科書などを見ると、奈良の土地が交通不便にして、膨脹せる當代の政府の所在地としては、頗る不適當であるが爲に、桓武天皇は交通便利なる山城に都を移されたといふ、長岡も平安も一つにした、極めて簡單なる解釋に滿足して居るけれども、是は歴史上何等の説明を與ふるものではない。稍進んだところでは、長岡京は土地狹隘であるとか、平安京の方が交通が便利で風景がよいとか、長岡の方費用が嵩んで始末がつかなかつたとか、首唱者種繼が横死した爲であるとかいふ説明を下して(246)居る。成る程種繼の横死が重大なる原因を成して居る事は言ふまでもない。併しながら造宮使長官の交迭は、必しも其の造宮中の都を廢し、既に投じた多大の經費と勞力とを冗《むだ》にして、更に其の附近に新に都を造らしめるの理由にはならない。現に平安京に於ても、當初の造宮大夫藤原小黒麿は間もなく薨じて、和氣清麿代つて之に任ぜられた實例が近く存在するではないか。其他の以て理由となす所のものが、亦何れも此重大なる問題を解決するに足らない事は、既に長岡京の條下に説いた通りで、平安遷都の眞相は、全く秘密の中に隱されてしまつた状態になつて居る。特に此の平安遷都の事に關しては、不幸にも此の時代の歴史たる日本後紀の此の邊の條が散逸して、後世に傳はつて居らぬが故に、一層其の由來を知るに困難を感ずる次第である。
併しながら、其の表面に現はれた處は相變らず甚だ簡單で、交通の便利と、風景の美との二つが、重もな理由になつて居る。延暦十三年十月二十八日の詔にも、「葛野(247)の大宮地《おほみやどころ》は、山川もうるはしく、四方の國の百姓の參出來《まゐでこ》ん事も便《たより》にして云云」とある。今其の遷都の事蹟の史に傳はれるものを拾ひ集めて見ると、ほゞ其の經過を知る事が出來る。長岡京の經過困難を極め、平城宮の諸門を毀ちて之を運ばしめた程の窮策を講じた延暦十年九月を後るゝ僅かに四箇月、延暦十一年正月に、桓武天皇葛野郡に行幸があつた。是は單に行幸とのみ史に見えて居るけれども、和氣清麿傳の記する所によると、長岡の造營遅々として進まず、費す所計るべからざるを見て、潜かに奏して葛野の地を相し、都を遷さんと請うたとある。然らば此行幸は、新都の候補地を御覧になる爲であつたと察せられる。同年の五月にも、九月にも、十一月にも、再參行幸があつた。斯くて翌十二年正月十五日に至り、大納言藤原小黒麿・左大辯紀古佐美等を遣はして、葛野郡宇太村の地を相《み》せしめられた。是は明かに都を遷さんが爲だとある。越えて二十一日には、早くも長岡宮を壞たんが爲に、東院遷御の事があつた。宇太村調査の後僅かに七日にして此の事のあるは、如何に(248)遷都の實行が火急であつたかを見るべく、其の計畫は夙に内部に熟して居つて、發表と共に早急に事に着手し、其の間亦異議を容るゝの餘裕なからしめたものと見える。翌二月二日には、參議壱志濃王等を遣はして遷都の事を賀茂大神に奉告し、三月朔日には車駕新京を巡覧あり、新京宮城内の百姓の地三十四町に對して、三年間の價を給し、其の十日には復壱志濃王等を伊勢に遣はして、太神宮に奉幣し、同じく遷都の事を告げ奉らしめられた。かくていよ/\十二月に至り、勅して新京の宮城を築かしめ、五位以上及び諸司の主典以上をして、役夫を進めしめられた。天智天皇及び岡宮天皇・光仁天皇の山陵に遷都の由を奉告したのは、其の二十五日である。天智天皇は即ち桓武天皇の曾祖父、岡宮天皇は祖父施基親王を追尊し奉りたる御名で、光仁天皇が御父に渡らせられる事は云ふまでもない。七月廿五日天皇親しく新宮を巡覧せられ、造宮使の官員等に恩賜があつた。造營使設置の事は不明であるが、其の長官たる造宮大夫は北家房前の孫藤原小黒麿で、次官たる造營亮には、皇太夫人高野(249)新笠と同じく百済人の系たる菅野眞道が、翌十四年二月に任ぜられて居る。中宮大夫として專ら中宮高野皇太夫人に仕へ、後に造宮大夫に任ぜられた和氣清麿及び其の姉廣虫即ち法均尼、小黒麿の子葛野麿等が、直接間接に遷都及び造宮の事に深い關係を持つて居た事は言ふまでもなからう。八月十日には京下の諸山に屍を埋め、及び樹木を伐ることを禁ぜられた。是より先き延暦十一年八月、京城に近きを以て紀伊郡深草山の西面に葬むることを禁ぜられたが、是は長岡京の爲であつたので、こゝに至つて平安京附近一般に及ぼされたものであらう。二十六日再び京中を巡幸し、日暮長岡宮に還幸あり。九月二日には京城の町割すでに成つたと見えて、菅野眞道・藤原葛野麿等をして、新京の宅地を班給せしめられた。十一月二日三たび新京を巡覧し、右大臣藤原繼繩の別莊に幸して五位以上に衣を賜はつた。繼繩の別莊は高橋津とある。桂川の畔に早くより有して居たものであらう。翌延暦十三年正月元旦には、長岡宮殿既に壞たれたるが故に朝賀の式を廢せられ、四月廿八日には、四たび新京(250)を巡覧し、再び繼繩が高橋津の莊に幸された。かくて六月に至りては、都城の設備も既に整ひたるものと見え、諸國の役夫五千人を發して新京を掃はしめ、七月朔日東西の市を新京に遷し、且つ市人をも遷らしめた。こゝに至つて長岡京は事實上空しく、平安新京は殷賑なる都會となつた次第である。七月九日には、高野夫人の姻戚たる百済王氏の族竝に和氣廣虫等十人に、稻一萬一千束を賜ひて新京の家を造らしめ、九月二十八日には、諸國の名神に奉告して遷都と征夷との事を告げ、かくて十月十二日に至り、車駕新京に遷りて、こゝにいよ/\平安遷都は實現された。彼の新京が景色もよく、交通便利なりとの詔は、其の二十八日の事である。此の日愛宕・葛野の二郡今年の田租を免じ、賀茂・松尾の神に位階を加へられた。越えて十一月一日、詔して曰く、「山勢實に前聞に合ふ云云、此の國山河襟帶自然に城をなす。斯の形勢によつて新號を制すべし。宜しく山背國を改めて山城國と爲すべし。又子來の民、謳歌の輩、異口同音に號して平安京といふ。今宜しく之に隨ふべし云云。」と。又(251)曰く、「近江國滋賀郡古津は先帝の舊都なり。今輦下に接す。宜しく昔の號を追ひて改めて大津と稱すべし」と。
斯く遷都の事すでに了れるも宮城未だ完成せず。延暦十四年正月には大極殿未だ成らざるの故を以て朝を廢し、侍臣に宴を紫宸殿に賜はつた。其の十六日にも侍臣を宴し踏歌あり、其の歌、
  山城顯樂舊來傳、  帝宅新成最可v憐、
  郊野道平千里望、  山河擅美四周連、
    新京樂、平安樂土萬年春
  沖襟乃春八方中、  不v日爰開億載宮、
  壯麗裁規傳2不朽1、 平安作號驗無v窮、
    新年樂、平安樂土萬年春
  新年正月北辰來、  滯宇韶光幾處開、
(252)  麗質佳人伴2春色1。 分行連v袂舞2皇垓1、
    新年樂、平安樂土萬年春
  卑高泳v澤洽2歡情1、 中外含v和滿2頌聲1
  今日新京太平樂  年々長奉我皇庭
    新京樂、平安樂土萬年春
是より引續き工事進捗し、翌延暦十五年正月朔日には、新宮大極殿高御座に御して朝賀を受けらるゝまでに至つた。而もなほ造營の工事は繼續し、七月には造宮職の官位を中宮職に準ぜしめ、造宮大夫の任命あり、翌十六年三月には更に遠江・駿河・信濃・出雲等の國をして、雇夫二萬四千人を進めしめ、以て造宮の役に供せしめられた。斯くても尚延暦十八年に至つて、豐樂院未だ成らず、蕃客竝に五位以上に宴を賜ふに、大極殿前龍尾道上に假殿を作つて間に合せた程で、工事は延暦二十四年造宮職廢止まで繼續した。
(253)造宮職廢止の事情は、當時征夷と造宮との事相續いで、人民重課に苦しむを憐み給ふ聖慮に出でたのであつた。此の頃公卿に下し賜はつた綸旨に、「營造未だ已まず、黎民弊あり、彼の勤勞を念ふに、事須らく矜恤すべし。しかのみならず。時災疫に遭ひ、頗る農桑を損ず、いま年ありと雖未だ業に復するを聞かず、宜しく事を量り、優矜して存済を得しむべし」とある。之に對して公卿一同より十二月七日種々時弊を救ふの議を上つた。又此の時勅により、中納言藤原内麿殿上に侍し、參議藤原緒嗣と、同菅野眞道と、天下の徳政を論じた。緒嗣言ふ。「方今天下の苦しむ所は軍事と造作となり。此の兩事を停めなば百姓之に安んぜん」と。之に對して眞道は異議を確執して聞かなかつたけれども、天皇は緒嗣の議を善しとして、遂に造宮職は廢せらるゝ運命に遭つたのである。事は此の月十日で、其の事務を木工寮に併したが爲に、寮の事務繁多となり、翌大同元年二月三日、史生六員を加へて十二員となしたとある。されば此の後も、小規模ながらも造宮の工事はなほ引き續いて居たもの(254)と解せられる。
此の間、長岡宮の方は夙に廢して、京内の地亦漸次に田園と化し、屡々之を諸王・諸臣に賜はつた。延暦十六年正月には菅野眞道に一町を、二月には大伴親王【後に淳和天皇】に二町を、三月には多治比邑刀自に五町を、大田親王に一町を、十八年正月には藤原奈良子に一町を、七月には菅野池成に一町を、各給賜された事が見えて居る。
以上は遷都に關して表面に現はれた事實であるが、是では未だ以て、何が故に長岡宮すら成就せぬ程に財政困難な際に此の新京を始められたか、何が故に長岡宮に於て成就しなかつたものがこゝでは無事に成就したかがわからない。之が解説を與ふるの鍵は、長岡京に關して種繼の研究が必要であつたと同じ樣に、前の造宮大夫藤原小黒麿と、後の造宮大夫和氣清麿との研究によつて得られるのである。
 
       二 平安遷都の眞相
 
(255)平安遷都の疑問を解決すべき最初の鍵は、清麿傳に、長岡宮造營行き悩みの際、清麿潜〔右○〕に奏〔右○〕して遊獵に托して葛野の地を相せしめ奉り、更に上都を此に移すとある、此の「潜奏」の二字にあらうと思ふ。兎も角清麿が當初から此の遷都に重要なる關係の有つた事は疑を容れない。清麿は藤原百川等と共に奈良朝の末に於て、道鏡排斥の事に當つた人で、後に中宮大夫として高野皇太夫人に仕へ、更に民部卿兼造宮大夫となり、政治上にも種々關係の多い人である。又清麿と共に平安遷都の事に當つた小黒麿は北家の房前の孫で、式家の宇合の系統たる種繼等とは自から縁が遠い。曩に種繼の殺されたのは、勿論大伴・佐伯等舊家諸氏の反抗によつた事ではあるが、而も事は皇太子|早良《さはら》親王に連坐し、之が爲に親王は儲位より廢せられ、食を絶つ拾餘日にしてなほ死せず、淡路に流さるゝ途中に息絶えたといふ、最も悲惨なる最期を遂げらるゝことゝなつた。親王は桓武天皇の皇弟で、天皇と同じく高野皇太夫人の子である。されば其の皇太子となられたに就いては、天皇と同じく、直接間接に百(256)川に負ふ所が多い。然るに其の皇太子が、種繼の暗殺に關係せらるゝに至つた徑路は、十分之を明にすることが困難であるが、水鏡の説には、天皇遊幸を好んで常に政治を太子に委ねられたにつき、或る時太子は佐伯|今毛人《いまえみし》を參議に任ぜられた所が、種繼異議を唱へ、佐伯氏の人にして此の官に任ぜられたるものなしとて、之に反對し、天皇爲に今毛人の官を奪つて從三位に叙せられた。太子之を恨んで種繼を殺さんと請うたが天皇之を聽されず、却つて政治の御委任をやめられるに至つたので、遂に種繼暗殺の擧に出でたのだといふ。或は此の樣の事があつたかも知れぬが、由來此頃の大伴・佐伯の徒は、時代の反抗児で、夙に藤原氏の榮達に對して反對の態度を執つて居る。橘奈良麿に黨して藤原仲麿を仆さうとしたのも彼等の一族であつた。藤原良繼に黨して惠美押勝を殺さうとしたのも、大伴家持・佐伯|今毛人《いまえみし》等の仲間であつた。而して今囘の事、亦原因を此の今毛人に有して、家持等が事に與つて居る。して見れば、近因は參議取消一件にあつたとしても、其の根柢は頗る深い所にある(257)と言はねばならぬ。而して太子は、實に此の大伴・佐伯に黨して、彼の悲惨なる最期を遂げられたのであつた。此の事が甚しく御生母高野皇太夫人の心を悩ましめたるべきは言ふまでもない。桓武天皇は特に御生母の爲に中宮職を置き、和氣清麿實に其の長官たる中宮大夫に任ぜられて居る。清麿古事に明かにして、民部省例二十巻を撰び、又中宮の教を奉じて、和氏譜を編した事もある。和氏とは高野皇太夫人の本姓である。其の高野氏に對して斯かる關係を有する清麿が、早良親王の反對の側に立つて居つた種繼の事業を戻いて、別に平安京を營む事を思ひ立つたことは、親王の幽魂を慰め、皇太夫人の御心を和げる結果を生じた事と思はれる。親王の薨去の事情が如何にも悲惨であつたが爲に、後に其の靈崇りを爲し、人多く疫死すとして恐れられた。延暦十一年皇太子安殿親王(【後に平城天皇】)病あり、之を卜はしむるに亦廢太子の崇だといふ。是より大いに其の靈を慰むるに努められ、後遂に追尊して崇道天皇と謚し、遂には御靈神社として祀らるゝに至つた程である。而して其の延暦十一年(258)が、實に平安遷都の議の起つた年であることは、注意すべきものだと思ふ。高野氏と同じく百済の族たる菅野眞道が、造宮の事に關係して居るのも、こゝに多少の連絡を髣髴せしめる。
併しながら、清麿如何に廢太子と高野皇太夫人との爲に、之を思ひ立つたとは云へ、長岡宮の完成にすら困つた當時の財政状態に於て、之を如何ともすべき樣はない。こゝに於て今一人の問題の人たる小黒麿を研究せねばならぬ。何となれば、曩に穫繼が富豪秦氏と姻戚たるの關係を以て、其の資を仰いで長岡京の遷都を發起したと思はるゝと同じ樣な關係が、此の小黒麿に就いても見らるゝが故である。小黒麿の妻は誰あらう、曩きに恭仁京經營の際に、宮城の垣を作りて太秦の姓を賜り、從四位下に叙せられた、秦忌寸島麿の女であつた。殊に其子の葛野麿は、其の母の生れ故郷たる葛野を以て名とする程にも、秦氏とは關係が深かつた。此の島麿は太秦姓を賜はり、而して秦川勝の廣隆寺を太秦寺と云ふ事から考ふるに、島麿恐らくは川勝直系の後(259)裔で、彼は其の猗頓の富を繼承したものと思はれる。而して拾芥抄引く所の天暦御記によると、今の平安京の大内裏はもと秦河勝の邸宅の跡である。又紫宸殿前の橘の木はもと河勝の屋數にあつたまゝのもので、舊跡によつて之を植ゑた趣に見えて居る。此河勝が聖徳太子の旨を奉じて造つた廣隆寺は、今京都市の西方太秦に在るけれども、是は何時の程にか移轉したもので、朝野群載に載する同寺の古縁起に依ると、もとは荒見川、即ち今の紙屋川の附近、恐らくは北野神社・平野神社などの方面にあつたものゝ樣である。思ふに是れ亦、川勝が自己の邸宅の附近に造つたものであつたであらう。北野は即ち大内裏の北の野である。恐らく此の附近一帶川勝の邸宅地であつたと察せられる。隨つて、由來秦氏山城北部地方に有力であつたといふ中にも、特に平安京と此の川勝の一族とは、地理の關係上深い因縁を認めなければならぬ。而して恐らく其の川勝の正嫡を承けたと思はれる島麿は、もと川勝の邸宅たりし平安京の大内裏の地をも傳承して居つたと察して宜からうと思ふ。かくて今(260)や此の島麿の女を妻とした小黒麿が、造宮職の長官となり、其島麿所有の川勝舊邸の地が新宮の敷地として選ばれたといふ、此二つの事實を見たならば、曩きに恭仁京・長岡京等の經營の際、秦氏より少からざる財源を得て事を爲した事歴と併せ考へて、平安京の經營の資が少からず此の島麿の家より出て居ると解するは當に然るべきことゝ思ふ。彼の長岡京の經營が十年を經て功未だ成らず、費用擧げて計るべからず、而も給せずして中止しなければならぬといふが如き、甚しき國庫の窮乏の際に當り、此の秦氏の因縁最も深き土地に移つて、之が無難に成功するに至りたる奇現象は、此の以外に解釋を容るゝ餘地はなからうと思ふ。即ち清麿が種繼の所爲に反對して、富豪の秦氏の女を妻とせる小黒麿を勸め、此の秦氏を促がして、茲に其の少からざる出資の下に、新京の成立を見るに至つたものと解せねばなるまい。
なほ更に此の小黒麿に就いて注意すべき事は、彼が皇后宮大夫である事である。皇后は内大臣藤原良繼の子乙牟漏で、平城・嵯峨兩天皇の御生母であつた。良繼は曩に(261)佐伯今毛人・大伴家持等と共に、大師惠美押勝を殺さんとして事露はれ、罪を一身に引き受けた侠氣の人で、是によつて罰を免れたる其の今毛人は、後に此の良繼の女なる乙牟漏皇后宮の大夫となり、種繼の爲に參議たるを妨げられて、遂に大伴・佐伯の徒をして種繼暗殺・太子廢黜と云ふ大事件を引き起さしむるに至つたとさへ傳へらるゝ關係を有して居る。かくて其の皇后宮大夫の後任は、石川名足を經て此の小黒麿が任ぜられたのである。して見れば、こゝにも亦反種繼の感情は潜んで居るべき筈である。況や當時百川の女旅子、種繼の妹正子、共に桓武天皇の女御として、乙牟漏と利害關係を異にする間柄なるべきに於ておやだ。
之を要するに平安遷都は、種繼の政策には反對の側に立つべき中宮【高野皇太夫人】方の和氣清麿が、廢太子早良親王の崇によつて皇太子安殿親王御病氣となられたといふ大騒ぎの際に、潜かに天皇に遷都を奏請したもので、之が與黨としては、同じく種繼反對側と認められる藤原小黒麿を第一に數ふべく、此の人太秦公島麿の女を妻とし、(262)其の縁によつて敷地の寄附其の他巨多の出資を得たものと思はれる。此の際、秦氏が其報酬として何物を得たか、又何物を豫約されたかは明ではないが、現今鐵道工事の際、富豪又は關係町村が屡々無償を以て停車場の敷地を提供し、種々の便宜を計らふが如き好意を表して、却つて交通の便利、隣地地價の騰貴等、直接間接に自己を利益する事甚だ多きの實例は、千百數十年前の秦氏の平安遷都當時の關係を度るの、最好比較資料ともならうと思ふ。
桓武天皇が清麿の密奏を容れて實地を踏査し、遷都の決意を固めらるゝに至つたに就いては、經費上の保障を得られたるべき事が其の一つにあつたには相違ないが、今一つには、早良廢太子の崇を恐れ、其の靈をなだめんとの御趣意にあつたであらうと拜察される。廢太子没後人多く變死し、殊に皇太子まで爲に久しく病に冒され給ふとあつては、天皇は固より、中宮【高野新笠夫人】方にも、皇后【藤原乙牟漏】方にも、爲に長岡京に安んぜざるべきは無論である。之を外にして、特に此の平安の地を選定するに(263)至つた理由としては、其地が要害の備に適すると、山水の美に富めるとの二つが、確かに天皇の御心を動かし奉つたに相違ない。抑平安の地は、東に鴨川を帶び、西は桂川に臨み、東・西・北の三面、青山を以て繞らし、特に東北・西北の二隅には比叡・愛宕の兩峰相對立して隅櫓の状をなし、南の方、平野開けて巨椋地に達するのところ、寔に天子南面の相にかなふのみならず、所謂山河襟帶自然に城をなすの好地である。當時の巨椋の池は、今日とは遙かに廣く、東は宇治山、西は男山にまで逼り、山城北部は自ら別區劃をなすの形であつたに相違ない。中世以後の例にしても、宇治・勢多・一口《いもあらひ》・淀・山崎の要害によつて、常に東國の敵を防いで居る。巨椋池更に大なりし時代には、此の要害一層便益多かつたに相違ない。又天皇は御性質殊に山水の好景を愛し給ひ、屡々各地に遊猟遊覧等の行幸が有つた。凡そ歴代天皇中、此の君ほど度々遊幸せられた御方はない位。其の天皇が親しく新京の地を觀察せられたる結果を漏し給へる詔に、「山勢實に前聞に合す」と仰せられたのを見ても、其の要害、其(264)の風景がひどくお氣に召したものと察せられる。かく風景の良い地であるから、右大臣藤原繼繩の如き夙に葛野川の畔に別業を有し、延暦十一年五月天皇茲に行幸された事もあつた。此の繼繩は百川の弟|藏下麿《くらじまろ》の子で、延暦八年右大臣となり、當時内閣の首斑に在つた。其の性質温厚にして人と爭はず、史官の批評にも、「恭謙自ら守り、政績聞えず、才識なしと雖も世の謗を免がるゝを得たり」と言へる程の長者であつた。隨つて遷都の事に就いても、深く策略をめぐらすの事は無かつたであらう。されば彼の系統が、百川・種繼等と同じく、謀叛氣多い式家の流に屬したとは云へ、其の別業のある葛野の地に都が移る事に就いては、其の性質上からも、無論反對のあらうと思はれず、事の進行上、寧ろ便宜の方であつたものと言はねばならぬ。
尚ほ和氣清麿等が、特に此の新都經營に關係の深かつたことを見るべきものは、前記の如く延暦十三年七月に、清麿の姉廣虫及び皇太夫人高野氏の姻戚たる百済王氏の人々が、新京に家を造らんが爲に特に稻一萬一千束を賜はつたを始として、十五年(265)九月には、更に紀伊郡の陸地二町を廣虫に、葛野郡の陸地二町を清麿に賜はつたを見ても、推察することが出來よう。此の清麿が小黒麿歿後造宮大夫となり、平安宮はともかく成就したのであつた。斯くの如き事情の下に成つた平安京に就いて、百川・種繼の徒が快くなかつたことは思ひやられる。延暦二十四年天皇徳政を諮問せられた際に、百川の子參議藤原緒嗣が造宮の事業繼續に反對して、造宮職の廢止を主張し、是に對して當初より遷都の事に關係深く、兒身造宮亮たりし百済王の族參議菅野眞道が、熱心に之を拒んだのも、此の間の消息を察するに足ることゝ思ふ。もともと種繼の榮達は、叔父百川の遺勲を一身に負うたもので、其の從弟緒嗣が、種繼に同情し、菅野眞道の徒に依つて主張され、經營された遷都の事件に冷淡なる地位に立つは、自然の勢ひであつたと云はねばならぬ。更に後年種繼の子の仲成及び藥子が、平城上皇の信任を得るに當り、上皇を促して遠く平城に都を復せん事を企つるに至つたのも、亦幾らか此の平安遷都に反對するの意味があつたものかと思はれる。
 
(266)       三 平安京の沿革
 
平安京は中央に朱雀大路があつて、左右兩京に分かれ、縱横に通ずる大小道路によつて碁盤目に街衢を分かち、宮城が朱雀大路の北頭にある事等、大體平城京の通りである。平城に於ては、東京即ち左京の方面が次第に盛んになつて、今日に至つて尚、其の一部は奈良市として存在して居るが、右京の方は、早く廢れた。つまり繁華が東遷するの傾向があつた。而して此の形勢は亦著しく平安京に於ても現れて居る。遷都の年を距る僅に四十餘年後の承和年間に、すでに西の京即ち右京衰へて、人民東の京即ち左京に集るの情勢となつて居た。承和九年十月の西市司《にしのいちのつかさ》の上言に依るも、當時既に甚しく西の市が淋れて、東の市のみ盛なるの状態が明かに見えて居る。之によるに、承和二年の太政官符にて西の京の疲弊を救はんが爲に、東西兩市販賣する所の品物を分ち、錦・綾・絹・調布・糸・綿・紵《からむし》・染物・縫衣・續麻《うみを》・針・櫛・染革・帶・(267)幡・油・土器・絹冠・牛廛等は西の市の專賣とし、之によつて顧客を引きつけ、住民の足をとゞめ、強ひて人爲的に其の繁華を維持しやうと試みた。然るに承和七年に至り、東市司の異議によつて、東の市でも是等の物品を販賣する事となつたので、爾來百姓悉く東に遷つて件の物品を交易し、爲に市廛既に空しく、公事闕怠すといふ状況となつた。そこで西市司より故障を申し立て、再び專賣制度を復するに至つたとある。而も斯の如き姑息なる方法は、到底繁華東漸の大勢に抗する事が出來なかつた。
更に承和九年を後るゝ七十餘年、延長年間に關白藤原忠平法性寺を左京京外に營んだ。九條の南鴨川の東とある。結構壯麗、朝廷特に定額寺とし、座主を勅命するに至つた。京城の繁華すでに鴨川を越えて洛外に及んだ。
當時西の京の淋れて東の京に人民の集つた數を、稍具體的に見るべきものは、其の後天慶五年四月に飢饉疾疫の事によつて、居住人民の多少に從ひ、銭を分配して民に賑給した時の給與の數である。今其の時の分配率を見るに、無論左京に多く、右京(268)に少い。其の左京一條及び北邊に於ては貴紳の邸宅多く集つたが爲に、自ら賑給を受くべき貧民少く、爲に右京の方が其の數遙かに多いけれども、二條以下は左京の方が遙かに右京よりも多い。其の割合左の通り。
 (左 京)           (右 京)
 一條   七貫文       十三貫文
   (北邊及び獄所料とも) 
 二 條   六貫文      五貫文
 三四條   七貫文      六貫文
 五六條   八貫文      四貫文
 七八九條 十九貫文      十二貫文
   (悲田料とも)      
   合計 四十七貫文    合計 四十貫文
(269)右の中二條以下をのみ數へたならば、左京四十貫文に對して、右京二十七貫文、即ち約三と二との割合となつて居る。右京の北部に比較的人口の多いのは如何なる理由であつたか、之を明にする事が出來ぬが、今日でも京都市の形は西北隅に膨れ出し、西南部が全く田舍と化しても、此の部にはなほ繁盛を維持して居る。而して此の形勢がすでに天慶の昔から然りしものであつたのは、奇と言はねばならぬ。尚此の賑給の數は賑給を受くべき貧民の數に應じたものであらうから、これれのみによりて兩京の總人口の比較の出來難いことは、豫め注意せねばならぬ。大體から云へば貧民は衰へたる地に踏み止まり、富豪貴紳は多く人氣の向ふ左京の地に集つた筈であるから、其の富者の多き左京に於て、なほ且つ賑給に與るべき貧民の數が右京よりも著しく多かつたことを見れば、左京の總人口は、更に甚しく右京よりも多かつたものと言はねばならぬ。
右の天慶五年より後四十年、圓融天皇の天元五年に、慶滋保胤の作つた池亭記の文(270)を見ると、此の形勢が一層著しく現はれて來た事が知られる。
 餘二十年以來東西京を歴見するに、西の京は人家漸く稀にして殆ど幽墟に幾《ちか》し。人は去るあれども來るなく、屋は壞《やぶ》るゝあれども造るなし。其の移り徙るに處なく、賤貧に憚ることなきものは是れ居り、或は己が命を幽隱にするを樂しみ、當に山に入り田に歸すべき者は去らず。若し自ら財貨を蓄へ、奔營に心ある者は、一日と雖之に住するを得ず。往年一の東閣あり、華堂・朱戸・竹樹・泉石、誠に是れ象外の勝地なり。主人事あつて左轉し、屋舍火ありて自燒す。其の門客の近地に居るもの數十家、相率ゐて去る。其の後主人歸ると雖重ねて脩めず、子孫多しと雖永く住せず。荊棘門を鎖ざし、狐狸穴に安んず。夫れ此の如き物は、天の西京を亡ぼすもの、人の罪にあらざる明なり。東京は四條より以北、乾と艮との二方は人々貴賤となく多く群聚する所なり。高家門を比《なら》べ、堂を連ね、小屋壁を隔て、簷を接す。東隣に火災あれば西隣は餘炎を免れず、南宅に盗賊あれば北宅は流失を(271)避け難し。南院貧しく北院富む。富めるもの未だ必しも徳あらず、貧しきもの亦猶恥あり。又勢家に近づき徽身を容るゝ者は、屋破れたりと雖葺くことを得ず、垣壞れたりと雖築くことを得ず、樂あれども大いに口を開いて笑ふ事能はず、哀あれども高く聲を揚げて哭くこと能はず。進退懼あり、身心安からず。譬へば鳥雀の鷹※[壇の旁+鳥]に近づくが如し。何ぞ況や轉た門戸を廣くし、初めて第宅を置かんや。小屋相併せ小人相訴ふる者多し。宛も子孫父母の國を去り、仙官人世の塵に※[言+適]《ゆ》くが如し。其の最も甚しき物は、狹土を以て一家を滅ぼすに至る。愚民或は東河の畔に卜し、若し大水に遇はゞ魚鼈と伍をなす。或は北野の中に住し、若し苦旱あらば渇乏すと雖水なし。彼の兩京の中空閑の地なきか。何ぞ夫れ人心の強甚しきや。且つ夫れ河邊野外、啻に屋を比べ戸を比ぶるのみにあらず、兼ねて又田と爲し畠となす。老圃永く地を得て以て畝を開き、老農便ち河を堰《せ》いて以て田に漑ぐ。比年水あり流れ溢れ堤絶え、防河官昨日其の功を稱して今日其の破に任ず。洛(272)陽城の人殆ど魚となるべきか。竊かに格文を見るに、鴨河の西たゞ崇親院の田を耕すを免《ゆる》し、自餘皆禁斷す。水害あるを以てなり。しかのみならず東河北野は四郊の二なり。天子時を迎ふるの場、行幸するの地なり。もし人あつて居らんと欲し、耕さんと欲せば、有司何すれぞ禁ぜず制せざるか。若し庶人の遊戯するものを謂はゞ、夏天納涼の客すでに小鮎を漁するの涯なく、秋風遊獵の士又小鷹を臂にするの野なし。(下略)
人氣の東に趣く驚くべき程で、此の文よく當時の京都の事情を明にすることが出來る。而して其の池亭亦實に左京六條坊門の南、町尻の東。即ち今の五條の南、新町の東にあつたのである。
保胤池亭記を作つて、東京繁昌を述べた後約四十年、「此の世をば我が世とぞ思ふ」と放言して、缺けたることなく榮華を極めた御堂入道が、諸國に課して費用を吝まず、たとひ公事は緩うすとも、此の役を助くるを怠るなかれとまで督励して、輪奐の美(273)を極めた法成寺は、近衛の北、京極の東に設けられた。今の寺町の東、荒神口の北で、府立高等女學校の北方に當る。繁華の東漸は、斯くの如くにして、人爲的にも益々擴大された。
此の外河原左大臣源融の河原院は、六條坊門即ち今の五條通よりは南、京極即ち今の寺町よりは西に設けられた。染殿太政大臣藤原良房の染殿第は、正親町の南、京極の西、即ち今の京都御所の中で、梨木神社の西方に營まれた。鷹司殿・正親町殿・高倉殿・大炊殿・二條殿・押小路殿・三條坊門殿・高松殿・三條殿・高倉殿・六條殿。高陽院・上東門院等を始として、月卿雲客の邸宅多く亦地を左京に卜して創められる。保胤の感慨せし所は其の後も引き續き、ます/\盛んに實現された。
更に鴨川以東所謂洛外の地に於ては、すでに貞信公藤原忠平の法性寺が、其の南部に創められた後、引續き寺院の建立、貴紳の別業邸宅の設けられたものの少なくなかつた事は想像される。殊に白河の地に於ける南北の兩白河殿、及六勝寺の建立は、(274)益々人氣を此方面に集めたに相違ない。白河とは、もと川の名で、今の白川村より出で、神樂岡の東を過ぎ、四條の北で鴨川に注いで居る流れが其れである。上流花崗岩の山より流されたる白砂河底に敷いて、此の名が起つた。此の河の過ぐる邊即ち白河で、京と對して京・白河と稱し、殆ど洛外の總名の如くに用ひられた。今の白川村は古への所謂北白河である。六勝寺とは法勝・尊勝・圓勝・最勝・成勝・延勝の諸寺で、いづれも、今の聖護院・岡崎から、三條通の邊までにあつた。先年第四囘勸業博覧會を岡崎に營んだ際、多くの古瓦を掘り出した。是れ其の遺蹟を示したものである。平清盛大いに六波羅第を營み、一族の邸宅をこゝに集む。場所は鴨川以東、北は五條通即ち今の松原より、南は七條に至り、東は山に渉る。其の盛なる、二十餘町五千二百餘宇に達したといふ。今の大佛方廣寺・妙法院・智積院・博物館等、皆其の域内の地である。鎌倉時代にも、こゝに南北兩六波羅館があつて、探題こゝに駐在し、京洛・西國の政事を掌つた。
南北朝戰亂の世を經て、室町時代に至りては、所謂花の御所即ち室町幕府が、左京京北室町の北部、今の今出川以北の地に設けられて、以來武家の邸宅此の附近に集まり、市街は更に京都の東北京外に延びた。應仁の亂を經て京都は一時燒野の原となり、爾來大いに衰へて、町筋など頗る亂れて居たのを、豐臣秀吉天正年間に復舊を圖り、市區改正を行つた。其の當時の京都は、西北の一部以外既に殆ど右京の全部を失ひ、其の代りに室町幕府の影響で、左京が廣く北方に伸びて居つた。而して其の趨勢は今日に至る迄も、尚繼續して、朱雀大路即ち今の千本通以西は、殆ど悉く田園となつて了つて居るの現状となつて居る。應仁戰亂の結果として、京都の受けた惨状は非常なものであつた。應仁記によるに、中にも應仁元年六月六日の放火の際の如きは、中御門・猪熊なる一色五郎の館より火起ると同時に、九箇所より火を揚げ、折柄南風に乘じて、下は二條より上は御靈の辻まで、東は室町、西は大舍人をさかひ、町數百餘、公家・武家の家屋三萬餘宇を、一度に烏有に歸せしむるに至つたとある。(276)此の外數度の火事に、大小の神社・佛閣を始として、貴紳の邸宅、庶民の住屋、大抵燒失して、遺る所は禁裏及び室町幕府のみと言はるゝまでになり、而も其の禁裏、幕府等にも屡々火が及ぶの有樣であつた。奈良附近に古社寺が遺り、京都に何等古建築物のないのも、是が爲である。さればかの飯尾彦六左衛門が、
  なれや知る都は野べの夕雲雀
      あがるを見ても落つる涙は
と嘆じたのも、寔に已むを得ぬ次第で、亂後の惨状思ひやるべきである。
勢ひ斯くの如きを以て、僅に遺つた禁裏御所の如きも、其の後所謂戰國時代に至つては甚しく廢頽し、紫寢殿の御築地は破れて左近橘の下に茶を※[者/火]て賣るものあり、児童御橡側の上に戯れ、三條の橋の上より内侍所の燈火を望む事が出來たといふほどになつた。三條より禁裏まで何等の目を遮るものがなかつたのである、されば萬里小路《までのこうぢ》に柳馬場の名が出來、五條通の如きは松原の稱を以て知らるゝに至つたの(277)も、自然の勢で、今の町名、昔の情況を語つて居るものと言つてよい。秀吉京城を復興するに際して、松原即ち元の五條通りに架つて居つた鴨川の橋を、それより南二町の六條坊門に移し、此の道筋が東海道に通ずるの要路となつた。それより、其の五條の橋の名が名高いまゝに、遂に町の名となつて、今では、此の六條坊門通を五條通だといふ事になつて居る。是も一は眞の五條が松原の名によつて知らるゝ樣になつた爲である。又今の寺町通は古への東京極である。是も秀吉市區整理の際、京内に散在せる多くの寺院を此東京極外鴨川の河原に移したが爲に、寺町の名を生じたのであつた。明治十七八年の頃、其一部分なる三條下る誓願寺の境内より、四條通までの間に一の裏町を造つて、之に新京極の名を命じた。芝居小屋などが盛んに設けられて、今では京都に於て最も賑はしい町となり、普通に新京極の名が略されて、單に京極と呼び、却つて本當の京極たる寺町が、京極たる事を忘れらるるに至つて居る。此の如きの變遷は所在少からぬ事であらうと思ふ。
(278)秀吉の平安京復興の際には、實に其の右京の大部分を全く郭外に捨ててしまつた。其代り、左京京北に於ては、室町幕府の餘響をうけて、北京梅はもとより、今日の京都市北端よりも更に遠く北方迄を、其郭内に取り込んだ。當時秀吉は、京都の周圍に土壘を築き、壘外に溝渠を繞らし、以て防禦の設備を施した。俗に之を「お土居《どゐ》」といふ。近年漸次除去されて、所々に一小部分を遺して居るに過ぎないけれども、なほ西院村の邊では、完全に當時の状態を見ることが出來る場所がある。壘の幅八九間、溝の幅亦ほゞ之にかなひ、壘は外に急にして内に緩に、以て敵を防ぐに便にした。蓋し大陸都城の制にかんがみ、古への羅城に擬したものである。其のめぐる所、東北隅出町口に起り、鴨川に沿うて斜に西北進し、西鴨に至り、紫竹大門を繞り、今宮・紫野・船岡山・北野等を抱擁して、西堀川通の北端に近く一條大路に交り、ほゞ堀川通に沿うて南下し、五條坊門を東へ、千本通即ち朱雀大路の西方約一町のところを南に進み、七條通の北方で朱雀大路と一致し、以て九條南京極に達して居る。これ(279)より東折して東寺を包み、油小路を北へ、梅小路を東へ、高倉を北へ、七條通で鴨川に出で、川に沿うて北上して居る。其の延長約七里に及んだといふ。
秀吉は又内野に聚樂第を起して結構壯麗を極めた。内野は即ち大内の野の義で、大内裏廢して年久しく、其の蹟原野となつて此の稱がある。聚樂第は天正十三年から十五年まで、三箇年を要して成り、尋で之を關白秀次に讓り、文禄四年秀次殺さるゝに及んで廢した。存續僅に八年に過ぎないが、大内の蹟は此の工事によつて甚しく撹亂されたものと思はれる。平城宮は千二百餘年後の今に至つて、宮殿の土壇を保存して居るに反して、平安宮に何等見るべきものゝないのは、主として此の工事の結果もあらう。
徳川氏政權を得るに及んで、二條城を二條通堀川の西に築いた。將軍上洛の際の旅館に供するの意味ではあるが、一は京都に對して幕府の威を示し、武を以て公家を壓する備たるに外ならぬ。京都所司代の邸亦其の附近に設けられた。之が爲に此の(280)方面稍繁盛に趣くの形勢であつたが、王政復古して武家亦其の跡を止めず。忽にして衰頽に歸してしまつた。二條城は一旦太政官代となり、次で京都府廳として使用せられ、金壁金襖の室に俗吏泥靴を穿つて刀筆を弄するの惨状に陷つたが、府廳他に遷つてより、たゞ空しく保存さるゝの姿となり、明治十七年離宮として御採用になることになつた。
平安京の内裏は桓武天皇御造營のまゝ、村上天皇の天徳四年まで、約百六十七年間大きな故障はなかつた。然るに此の年九月二十三日、左兵衛陣より起つた火は、折からの東北風に煽てられ、忽ち禁中に廣がり、紫宸殿・清涼殿以下、内裏殆ど灰燼となり、畏くも神鏡亦火中に置かるゝに至つた。此の後内裏・朝堂等の炎上實に十數囘、多くは舊樣によつて再築されたが、治承元年四月二十八日の大火に、京内燒亡二萬餘戸、死者數千人に及び、大極殿以下諸官省多く烏有に歸した。此の時内裏は幸に燒亡を免れたが、四年六月急激に福原遷都の事が實行され、間もなく還幸とはなつた(281)けれども、引續き源平の戰爭となり、益々荒廢に傾いた。文治五年源頼朝勅を奉じて大内を修造した。是が大内造營の最後である。其の後復燒亡し、建武中興の時之が復興を計畫されたが、事實に現はるゝに至らずして止み、是より其の地はいつしか所謂内野の原となつたのである。
今の京都御所はもと里内裏を修築擴張したもので、始は大納言藤原邦綱の土御門高倉亭に基し、治承四年高倉天皇讓位の後こゝに遷御あり、其の後も屡々天皇・女院等の行幸啓があつて、つひに一の里内裏となつた。里とは宮城に對して京城内を稱したる語で、里内裏とは宮城外に設けられた内裏の義である。鎌倉時代には大内裏すでに廢して復起らず、代々の天皇は常に里内裏にましますを例として居た。かくて後醍醐天皇此の内裏に御受禅あり、光嚴天皇亦こゝに践祚し給ひてより、此の土御門殿は遂に天皇常住の御殿となつた。其の後度々炎上再修あり、應仁亂を經て修理も行き屆かず、築地破れ竹の垣に茨を結びつけて、人の出入を防ぐ程となつた。三(282)條橋上より内侍所の燈火を望み見る事が出來たといふのは、此の内裏の事である。當時の内裏は、東は高倉西は東洞院であつたといへば、東西僅に四十丈に過ぎない。永禄十一年織田信長入京するに及んで、修理を加へ奉り、豐臣秀吉織田氏に代るに至つて、大いに工を興し、規模を擴張して、著しく尊厳を加へた。徳川幕府亦慶長十一年に諸大名に課して宮殿を造進し、其の後承應・萬治・寛文・延寶・天明等度々炎上あり。其の度毎に之を改修して、大抵舊制を踏襲したが、天明度改修の際は、特に光格天皇旨を幕府に傳へて古制に復せしめられ、幕府は松平定信に命じて工を督せしめ、寛政二年に成就した。紫宸殿・清涼殿等の間取の、ほゞ舊制に則る事になつたのは、此時以來である。此皇居安政元年四月に復炎上し、翌年十一月再興成る。是れ今の皇居である。明治元年聖上東幸後も、依然皇居として保存され、皇室典範御制定の際、天皇の即位・大甞會は、京都にて行はれることに御治定成つた。
 
(283)      四 平安京の都制
 
平安京の都制は其の條坊の一部分が今も尚現存して居るのみならず、延喜式・拾芥抄其の他古圖・古記録の之を傳ふるものが少からず殘つて居つて、之に依つて精密に其の當時の状態を知る事が出來る。又之に就いては既に裏松固禅の大内裏圖攷證に精密な研究があり、近くは明治二十八年に京都市編纂の平安通志などあつて、其の詳細に渉り、研究が發表されて居る。隨つて茲にくだ/\しく其の實際を述ぶるの必要は殆ど之を認めない。併しながら、何分にも前記の如く、應仁戰亂を經て一旦甚しく荒廢した後を承け、秀吉の復舊に依つて僅かに現状をなした事であるから、其の現状のみを見ては、道路の幅は固より、其の道筋にも多少の變動を生じたことは免がれない。のみならず、名稱の如きも往々にして改まり、啻に舊來の名稱を傳へざるもの多く、殊に彼の五條通の如く、時としては全く變つた場所へ古き名を用ひた(284)ものすらある程である。されば大體に就い、之が説明を下すも全く徒勞でないのみならず、遡りて其の平安京設計の由來を考ふることは、都制研究上最も興味ある問題であるから、聊か説明を下さうと思ふ。
平安京は大體に於て、平城京の制を多少の變更を加へつゝ移したものである。爲に町割其の他に於て、平城京に於ては或る特別の意味のあつたものをも、此の京では單に舊制踏襲といふ以外、無意味となつて居るものが多い。而して其の踏襲は、町割等外形の上に現はれて居るものゝみならず、名稱の如きまでも舊京のものを其の儘に寫したらしく察せられる點もある。例へば平安京に於て、右京二坊大路を道祖《さい》大路といふのに對して、平城京にても之と相當するものを佐貴大路と言つて居た。佐貴路靴つて佐伊路ともある。つまり同じ名と思はれる。又平安京に押小路が有つて、平城京にも押小路の名が傳はつて居る。平城京に東西堀川がある、平安京にも又東西堀川がある。長岡京に猪熊の名があつて、平安京にも同じ名の小路がある。(285)是等を以て推測すると、一斑を以て全豹を知るべきものでは無からうか。
平安京の條坊、其の他宮門・城門等の名稱の如きは、後に菅原清公の奏議に依り、好字を選んで悉く之を支那風の佳名に改めた。之が爲に一見頗る其の趣を異にするに至つたけれども、既記の如く、もとは宮城諸門の名が造營者の氏を取つて命じた和風のものであつたと同じ樣に、條坊の名も、もとは亦日本風のものであつたに相違ない。後世に傳はつて居る平安京條坊の名稱は、悉く之を支那の長安・洛陽兩京の條坊の名稱中より選んで、其の名を取つて其のまゝに命じたものであるが、既に平城京に松井坊の名があり、藤原京に林坊の名があつた事から推して見ると、平安京にても清公以前のものは和風であつたに相違ない。或は藤原京・平城京の坊名をうつしたものであつたかも知れない。平安京勘解由小路の一名に、松井小路の名のあるのは、平城京松井坊の名の關係のあるものではなからうか。
(286)平安京條坊名〔入力者注、省略〕
 
平安京の各町及び大小道路の幅は、延喜式に明記して疑問はない。即ち左圖の通りで、之を通計して、京城東西千五百八丈、南北千七百五十三丈とある。但、右列記の(287)數を合すと、東西は符合するが、南北は千七百五十一丈となつて、二丈の不足を生ずる。是は北京極を十二丈と數へたものらしい。宮城に接する東西大宮大路が各十二丈なることを考ふるに、或は然らんと思はれる。京内の各町が四十丈四方を以て設計され、又普通の場合、小路の幅四丈、大路の幅八丈なる事は、曩に平城京に於て既に實施されたところを、其の儘に移したものである。併しながら、平安京は稍々平城京と趣を異にし、彼が南北九條なるに對して、是は更に其の北に、半條の幅を擴張して、北邊坊を置いて居る。隨つて平城京には延長南北三十六町なるものに對して、平安京には三十八町となつて居る。尚、更に平安京には左圖示す如く、大路には十丈、十二丈、十七丈などの特別の幅を有するものが有る。宮城諸門正面の道路の如き、平城京にてはやはり四丈の小路なりしものが、此の京にては特に十丈の大路に擴張されて居る。平城京にて八丈なりし宮城左右の大宮大路(一坊大路)は、此の京では十二丈になつて居る。これ等の結果として、平城京にては南北千六百二十丈な
 
(288・289)〔入力者注、図名なし、仮に「平安京の道路」とす、省略〕
 
(290)りしものが、此の京にては千七百五十三丈となり、平城京の東西約千四百四十丈なりしものが、此の京にては千五百八丈となつたのである。今其の由來を考ふるに、平城京に在りては、設計當時の尺度の制に依り、各坊を一里四方とし、東西八里南北九里と云ふ、極めて都合の好い完數に依つて、京城の廣袤を定めたものであつたが、之を實施した結果として、宮城の附近稍狹隘を感じ、現に西北隅には、秋篠郷に向つて半條の擴張をなし、所謂一條北邊の一區域が出來た。八町四方の宮城も幾分か狹隘を感じたものであらう。此の經験に依り平安京にては、一條以北の全部に通じて半條の延長をなし、爲に宮城の如きも、南北十町餘の長さとなつた。又街路の如きも、宮城の四邊を通ずるもの、或は宮城諸門の正面に當るものは、從來の八丈、四丈等の大小道路のまゝにては狹隘を感じたと見え、茲には悉く之を大路とし、而も十丈・十二丈といふ特別の廣さを有するものたらしめたことと思ふ。隨つて平安京は、其の大體の割り方は總て平城京の儘を移したのであるけれども、之を大寶令の制(291)に合して、若くは當時の尺度の制によつて、各坊一里四方、全體として東西八里、南北九里と云ふが如き、整然たる完數は之を見ることを得ないのである。換言すれば平城京にありては、大小道路及び町の幅の數字に就ては、或る特別の意味あるものであつたが、此の京にては、單に平城京の形をうつし、之を一部分潤飾したといふ外、全く無意味のものになつて居る。
宮城の十二門は既に飛鳥板蓋宮に於て之を見る。其の名稱は前に記した如く、恐らくは藤原宮以來、引續き同一のものを繼承して居るやうである。然るに平城京に於てほゞ正方形なりし宮城が、平安京には北部に半條の北邊坊延長の爲、宮城亦北方に延びて、稍南北に長きものとなり、隨つて從來の十二門のみにては、北部の交通に不便を感じ、茲に宮城の築地《ついじ》を穿つて、上東・上西の二門を設けた。即ち平安京には事實十四門あるのである。但此の二門は、從來の十二門外で、隨つて特別の名前は無く、單に其の所在の位置に依つて、上東・上西と稱し、或は築地を穿つて設けたもの(292)であるが故に、土御門とも稱して居る。
京城の周圍には羅城を繞らす。其の大さの如きは延喜式に詳しく見えて居る。垣の厚さ僅に六尺、外に七尺の犬行と一丈の溝とがあり、溝の外に二丈の餘地を存して居る。羅城の初見は、天武天皇八年に難波京に設けた時に在る。平城京にも羅城門の名が傳はつて居るので、茲に羅城の存在した事は明かに知られる。藤原京にも恐らくは有つたであらう。大寶律令に京城垣・京城門の語ある、即ち是である。併しすでに垣といふ位で、もはや據りて以て敵を防ぐの城郭ではない。平安京に於て、基底僅に六尺の小土堤たるに過ぎざるものが、何で城と言はれよう。たゞ京城の内外を堺する一の築地《ついぢ》に過ぎなかつたのである。之を秀吉築造のお土居《どい》に比するに、大さに於て十が一にも及ばない。隨つて平安朝の學者等が、すでにこれが城郭である事を忘れて、羅城の義詳ならずなどゝ言つて居る。言ふまでもなく羅城は唐に所謂羅郭城で、大陸に於ける都邑防禦の外郭である。之を略して羅城と言つた用例も幾つも(293)ある。然るに我にあつては、單に告朔の※[牛+氣]羊として僅に其の形をのみ存して居るに過ぎないから、夙に其の城郭たることを忘れて、遂には其の正門たる羅城門すら、羅生門の文字を以て書きあらはす事となつた程である。
羅城門は朱雀大路の南端にあつた。帝都の正門として宏壯なる建築ではあつたが、徒に都城の莊厳の爲のみの具で、無論外敵防禦の役には立たぬ。羅城を通じて内外を連絡するもの、外にも多かつたであらうが、羅城門と言へば朱雀大路のものに限ることゝなつて居るのも、其の單に形式的に過ぎなかつた證據である。羅城門の位置は今東寺南大門の西二町餘で、小字|來生《らいせい》と云ふ。平城京にも羅城門址を小字|來生《らいせい》と云ひ、彼此符節を合す如く其の名を傳へて居る。
都城内の各條には、坊令あつて之を管す。坊令一に條令ともある。各坊には坊長がある。各坊十六町、四町宛の四保に分れ、保に刀禰《とね》あり之を管す。保と町との數へ方は次の通りで、宮城に近い隅から數へはじめる。
 
(394)左京の保町、右京の保町〔入力者注、省略〕
 
京内の宅地は親王公卿以下一般人民に班給する。其の單位は各町を三十二分して之を一|戸主《へぬし》と云ふ。普通に一戸の受くる標準である。其の分ち方は、先づ町を四行に分ち、各行を八戸に分つので、左圖の如く、間口五丈、奥行十丈宛の長方形の敷地となる譯である。即ち其の面積は五十平方丈で、之を田積に改めると百三十九歩弱となる。最も其の奥行は、行と行との間に通路を要するによりて、實際には十丈より(295)は短い場合が多く、面積も之に準じて縮まる譯ではあるが、其の通路數はやはり戸主《へぬし》の附屬地として數へたものであらう。
 
左京戸主、右京戸主〔入力者注、省略〕
 
(296)但此の戸主《へぬし》は後には單に宅地面積の稱となつて、必しも一戸の宅地ではなかつた。現存の宅地賣買券などに、一戸主半の土地だとか、何戸主何丈何尺だなどゝ、端數を附けて居るものもあつて、其の形が如何であらうが、面積が五十平方即ち百三十九歩弱の地でありさへすれば、之を一戸主と數へて居るのである。
宮城の正門は即ち朱雀門で、之を這入つて正面に應天門があり、其の北に八省院の區域がある。八省院一に朝堂と云ひ、大極殿以下の建物が竝んで居る。其の建物の配置は、全然平城京に見るものと同一だが、宮城内に於ける位置に至つては、平城京の遺跡に依つて見るところと、稍趣を異にして居る。平城京に在りては、大極殿以下朝堂院の所在は朱雀門の正面よりは稍々東に片寄り、恐らく宮城正面の宮殿としては、紫辰殿・清涼殿等、所謂内裏の一畫が設けられて居つた。紫宸殿の事を古く正宮・正殿・南殿などゝ言つたのも、宮城の正面の宮殿の義であらう。然るに平安京には、天皇臨御政治を見そなはし、又、國家皇室の大儀を擧げさせらるべき大極殿を最(297)も重んじた意味にや、之を正面に置き其の東北に偏りて、天皇御常住の内裏が位置して居る。是は帝室と政治と、即ち宮中と府中と、何れを主とするかといふ事の意味を現はして居るものと思はれる。明治二十八年京都市に於て平安奠都一千百年の記念祭を擧行した際、平安通志を編纂發行されたが、其の中に平安京の實測圖がある。當時此實測の結果に基づき、大極殿の遺址を千本通丸太町上る西側の地に定めて、記念標を建設した。然るに如何なる研究によつたものか、當時の測量は古代の尺度一尺を以て、曲尺九寸八分七厘に當るものと考定し、之に依つて實測を行つたとある。一説には、實地測定の場合には、曲尺によつたものであつたとも言はれて居る。圖上にあらはれた結果を見ると、或は後説の通りかとも思はれる。何れにしても圖面にあらはれた所では、現今の町筋と多少の齟齬を生じて居る。當時測量の基準となしたものは東寺及び東掘川で、此の二つは大體に於て古今位置の相違を來して居らぬものであるから、先づ其の東寺の南に南京極の跡を尋ね、之より千七百五十三(298)丈を以て北京極とし、又東堀川を基準として、更に東西京極の位置を定め、之に傚つて、順次京内の各地點を求めたものである。其の方法たる至極適當で、學術上毫も間然すべき所はないが、たゞ惜むらくは尺度の古今の異同に關して誤謬があり、折角の研究に於て肝腎の前提に狂ひを生じて居つた。之が爲に、其の東西線にては東寺附近に於て、又南北線にては堀河附近に於て、比較的正しく符合するの結果を見る事が出來たが、それを遠ざかるに從つて、復原圖と現状との間の差異が次第に多くなり、之を該實測圖に就いて見るに、北京極に於ては南北約一町、東京極にては東西約半町の相違を來して居るやうである。是は誠に惜むべき事で、若し尺度をだに改めたならば、當時の調査方法に依つて容易に之を改訂することが出來るのである。即ち、若しこれが果して曲尺九寸八分七厘の率によつて測られたとしたならば、余の研究の結果による曲尺九寸七分五厘の率に比して、一尺につき一分二厘、又若し今の曲尺のまゝで測つたものならば、一尺につき二分五厘の差を認め、之を差引すること(299)によつて、眞の位置を知る事が出來る筈であらねばならぬ。
今其の實測圖に就いて之を見るに、其の大極殿内高御座の位置は、南京極羅城門の中心より北する事千四百五十二丈、東堀川より西する事二百九十二丈だとある。而して其測量の結果として、今の記念碑の場所が決定された。されば若し平安京設計當時の測量と、明治二十八年の實測と、共に其の實施の上に毫も誤謬がなかつたものと假定したならば、曲尺九寸八分七厘であつたとして、南北に於て十七丈四尺二寸四分即ち二十九間餘、東西に於て約三丈五尺四分即ち六間弱の相違がある筈。又若し曲尺のまゝで測つたとしたならば、南北に於て三十六丈三尺即ち約六十間半、東西に於て七丈三尺即ち約十二間一尺の相違を生じて居る筈である。隨つて眞の大極殿の遺址は、今の記念碑建設の場所より、南する事約二十九間餘若くは六十間半、東する事約六間弱若くは十二間一尺の場所に在らねばならぬ。近時恰かも記念碑の南東の地に於て、地形石《ぢぎよういし》とも認むべき數個の大石、地固めの爲と思しき砂利層、竝に(300)敷瓦・碧瓦の破片等が、夥しく發見された。是れ恐らく眞の大極殿址を示して居るものであらう。若し果してこれが眞の大極殿址であつたならば、他の遺跡の如きも之に準じ、相當の數を加減する事によつて、容易に其の眞の場所を測定する事が出來る筈である。
                                        
停車場や學校、官署の位置競争が屡々各地に實見される。運動がある。請托がある。寄附の申出でがある。長岡京を廢して平安京に移る時にも、必ずこれに類した事があつたことと思ふ。而して平安宮城は太秦氏の邸宅にきまつた。彼に財産上の利益を企圖するの念があつたか否かは別問題として、秦氏所有の廣漠たる田園郊野が、一朝變じて帝國首都の地となつた結果、其の獲得した直接間接の利益の大なりしことは、想像するに豫りがある。同じ秦氏一族でも、種繼關係の朝元の家と、小黒麿關係の島麿の家とは、利害關係を異にして居つた事であらう。
 
 
(301) 第十二章 福原京
 
平安京遷都後約四百年の間、一再遷都の議の起つたことはあつたけれども、未だ事實として、現はるゝには至らなかつた。其の第一次は、平城上皇平城復都の御計畫で、一旦は宮城改築に着手した程であつたけれども、仲成・藥子の隱謀露顯するに及んで中止になつた。第二次は、清和天皇貞觀十八年に大極殿燒亡の際、遷都の議が一時持ち上つたとの事が、九條關白兼實の日記玉海に、清原頼業の話として出て居る。併し是は三代實録にも見えず、無論大きな問題にはならなくて了つた樣である。然るに、高倉天皇治承四年に至つて、平清盛專權のまゝ、急に思ひ立つて福原遷都が實行された。福原は攝津輪田泊の附近で、大體今の神戸市の地にあたる。當時の有樣は方丈記によくつくして居る。
(303) 治承四年の六月の頃、俄に都遷り侍りき。いと思の外なりしことどもなり、(中略)御門《みかど》よりはじめ奉りて、大臣・公卿、悉く攝津國難波の京にうつり給ひぬ。世に仕ふる程の人、誰か一人故郷にのこり居らん。官位に思をかけ、主君の蔭を頼む程の人は、一日たりとも疾くうつらんと勵みあへり。時を失ひ世にあまされて期する所なきものは、愁ひながら留まり居たり。軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。家は毀たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆改まりて、唯馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の莊園をば好まず。其時おのづから事の便りありて、津の國今の京に到れり。所の有樣を見るに、其の地程狹くて、條里を割るに足らず。北は山に添ひて高く、南は海に近くて下れり。浪の音常にかまびすしくして、鹽風殊に烈しく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なか/\樣變りて、優なるかたも侍りき。日々に毀ちて川もせきあへず運び下す家は、いづくに造れるにかあらん。なほ空(303)しき地は多く、作れる屋は少し。故郷は既に荒れて、新都は未だ成らず、ありとしある人皆浮雲の思をなせり。本より此處に居たるものは、地を失ひて愁ひ、今移り住む人は、土木の煩ある事を歎く。道の邊《ほとり》を見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を着たり。都のてぷり忽ちに改まりて、唯鄙びたる武士に異ならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞き置けるもしるく、日を經つゝ世の中浮き立ちて、人の心も治まらず、民の愁つひに空しからざりければ、同年の冬、なほ此の京に歸り給ひき。されど毀ち渡せりし家どもは、いかに成りにけるにか、悉く本のようにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへの賢き御代には憐をもて國を治め給ふ。即ち御殿に茅を葺きて軒をだに整へず、烟の乏しきを見給ふ時は、限ある貢物をさへ免されき。これ民を惠み世を助け給ふによりてなり。今の世の中の有樣、昔になぞらへて知りぬべし。
清盛は豫て輪田泊を修築して交通の便を圖り、其の福原の地には別業を構へ、たゞ(304)に清盛のみならず、弟敦盛・頼盛等も、こゝに別莊を有して居た。折から清盛專横の反動漸くあらはれて、※[手偏+晉]紳の憎怨、僧徒の反抗著しくなり、南都・北嶺の大衆は、相談らひて清盛の幽し奉れる後白河法皇を奪ひ奉らんとするの風聞もある。もと源氏でありながら、清盛方として認められた源三位頼政までが、以仁王を奉じて平氏討滅の擧に出づるといふ騒ぎが、此年五月に起つた。此の際にあたり、かねて西國に多くの所縁を有して居る清盛が、自己の意の向ふがまゝに、此の小五月蝿《こうるさ》き京都を去つて、自己に馴染の深い此の福原に遷都を企てたのは、さもあるべき事であつた。かくて五月三十日に其事を發表し、早くも六月三日遷幸といふ事に御治定になる。更に其の三日を二日に引き上げ、いよ/\主上安徳天皇を始め奉り、後白河法皇・高倉上皇、同じく遷御あり、八條より草津即ち今の下鳥羽に至る。武士數千騎、二行に轡を竝べて行幸の路を夾み、其の夜大物の浦につき、翌曉福原に入られた。主上は平中納言頼盛の邸に、法皇は清盛の別業に、上皇は平宰相敦盛の邸に遷られ、攝(305)政藤原基通は、安樂寺別當安能房に落ちついたが、供奉の輩宿所なくして、「道路に立つが如し」とある。清盛の我意を通すに如何に傍若無人なりしかを見るに足る。都城經營の事の如きは、遷都實行の後徐々として調査に着手した位。而も地狹く、思ひ通りの町割が出來ない。先づ宮城の地點を定め、平安京にならつて左右兩京を作らんに、左京は南は五條まで、東は西洞院大路までを容るゝのみで、平安京に比して四分一強の面積しかない。右京は平地少く、宮城の西には小山があつて、山を隔てゝ條坊を劃するも可なりや否やの問題が起つた。或は宮城を縮めて、平安京にては東西八町南北十町のものを、こゝでは東西四町南北五町、面積に於て正に四分の一となすべきやとまでの議となつた。爲に更に播磨の印南野《いなみの》に遷すべきや、攝津の昆陽野《こやの》に遷すべきやなどの議も起つた。其のうちに、源頼朝擧兵の事がある。北嶺の僧徒は頻りに復都を奏請する。高倉上皇御病氣にかゝられ、若し邊土の行幸中大漸の事どもあらば、終身の恨事なりとの御嘆きがある。茲に於て流石に剛腹なる清(306)盛も、漸く悔恨の心を起し、公卿の意見を徴した結果、十一月急にまた復都の事に定まつた。主上をはじめ、法皇・上皇の新都御滯在半年に滿たずして、京都に還幸なり、福原京は廢してしまつた。
福原京存續僅に半年、十一月新内裏漸く成れるも、宮城の工事もとより未だ終れるにあらず。條坊の區劃の如きは、果して着手したか否かさへ不明である。隨つて其の遺影を今日の地理の上に求めるは、頗る困難な事であらう。併し少くも宮城附近の道路の出來て居た事は、吉記十一月十一日條に、主上新造内裏入御の道筋を記して、
 御所の南大路を東行し、東大路に至つて南行し、更に東に折れ、東の造道より南行し、入道太政大臣邸の北大路に至り、西に折れて西南門より入御。
とあるによりて知られる。但未だ町筋の名などもなく、注に「大路の名なきを以て、今案を以て新儀に相計らふ。大概ばかりなり、更に後の例たるべからず」とある程で、是によつても、町割が平安京の通りでなかつた事が知られる。
(307)宮城の位置を知るべきものは、「宮城の西に小山あり」の文で、所謂小山は今の會下山《ゑげさん》であらう。此の山今では大いに削られて形を異にして居るけれども、大體此の山の東に其の地を求めてよからう。其の以外の事は、今詳細を知るを得ざるを遺憾とする。
                                        
遷都の事、太政入道宣ひけるは、旧都は山門と云ひ、南都と云ひ、程近うして卿の事もあれば、大衆日吉の神輿を先として下り、神人春日の御榊を捧げ上る。かようの事もうるさし。江を隔てゝ、道遠く、境遙かなれば、彼の態たやすかるべからずとて、身の安からん爲に計り出でたりと言はれけり、かゝりけれども、諸寺諸山を始めて、貴賤上下の歎きなり。(源平盛衰記)
 
(308) 第十三章 東京奠都
 
大化の新政の際、難波遷都の實行された事情を知るものは、明治維新後亦必然遷都の議の起るべきことを想見し得るであらう。慶應三年の秋、未だ大政奉還の事の起らぬ前に於て、既に大久保利通の如き炯眼の士は、京都が多年の因襲に囚はれて、理想の新政を行ふに不都合多きを看破し、山口に至りて木戸孝允と王政復古の事を計るや、先づ帝都を大阪に遷して天下の耳目を新にし、人心の歸向すべき所を定むべきのことを議したといふ。かくて十二月いよ/\王政復古の大令下り、ついで翌明治元年正月、江戸討伐の大詔の發せられた後、利通遂に遷都の議を上つた。其文、
 今日の如き大變態、開闢以來未だ曾て聞かざる所なり。然るに尋常定格を以て、豈是に應ぜらるべきや。今一戰官軍の勝利となり、巨賊東走すと雖、巣穴鎭定に(309)至らず、各國交際永續の法立たず、列藩離反の方向定まらず、人心※[立心偏+匈]々、百事紛紜として、復古の鴻業未だ其の半に至らず。纔に其端を聞きたるものと謂ふべし。然るに朝廷上に於て一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則ち北條の跡に足利生じ、前姦去つて後姦來るの覆轍を踏ませられ候は、必然たるべし。依て深く皇圖を注目し、觸視する所の形跡に拘らず、廣く宇内の大勢を洞察し給ひ、數百年來一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、國内同心合體、一天の主と申し奉るものは、斯くまでに有り難きもの、下蒼生といへるものは、斯くまでに頼もしきものと、上下一貫、天下萬人感動涕泣致し候程の御實行擧り候事、今日急務の最急なるべし。是までの通り、主上と申し奉るものは、玉簾の内に在《おは》し、人間にかはらせ給ふ樣に、纔に限りたる公卿方の外、拜し奉る事の出來ぬ樣なる御さまにては、民の父母たる天賦の御職掌には大いに乖戻したる譯なれば、此の御根本、道理適當の御職掌定まつて、初めて内國事務の法起るべし。(310)右の根本を推窮して、大變革せらるべきは、遷都の典を擧げらるゝにあるべし。如何となれば、弊習といへるものは理にあらずして勢にあり。勢は觸視する所の形跡に歸すべし。今其の形跡上の一二を論ぜんに、主上の在《おは》す處を雲上と云ひ、公卿方を雲上人と唱へ、龍頗は拜し難きものと思ひ、玉體は寸地を踏み給はざるものと、餘りに推尊奉りては、自ら外に尊大高貴なるものゝ樣に思食させられ、終に上下隔絶して、其の形今日の弊習となりしものなり。敬上愛下は人倫の大綱にして、論なき事ながら、過ぐれば君道を失はしめ、臣道を失はしむるの實あるべし。仁徳帝の時を天下萬世稱讃し奉るは外ならず。即今外國に於ても、帝王從者一二を率して國中を歩き、萬民を撫育するは、實に君道を行ふものと謂ふべし。然れば更始一新、王政復古の今日に當り、本朝の聖時に則らせ、外國の美政を壓するの大英斷を以て擧げ給ふべきは、遷都に在るべし。是を一新の機會にして、易簡輕便を本にし、數種の大弊を拔き、民の父母たる天賦の君道を履行せられ、(311)命令一度下りて、天下慄動する所の大基礎を立て、推及し給ふにあらざれば、皇威を海外に輝し、萬國に御對立あらせられ候事叶ふべからず。
 一、遷都の地は浪華に如くべからず。暫く行在を被定、治亂の體を一途に居ゑ、大いに爲す事あるべし。外國交際の道、富國強兵の術、攻守の大權を取り、海陸軍を起す等の事に於て、地形適當なるべし。尚其の局々の論あるべけれど、贅せず。
  右内國事務の大根本にて、今日寸刻も置くべからざる急務と奉存候。此の儀行はれて、内政の軸立ち、面目の基本始て擧るべし。若し眼前些少の故障を觀念し、他日に讓り給はゞ、行はるべきの機を失し、皇國の大事去るといふべし。仰ぎ願はくは、大活眼を以て一斷して、卒急御施行あらんことを千祈萬祷奉り候死罪。
     正  月          大久保一藏
(312)利通の此の論は、實に大化以來屡々實行された所であつた。積弊を一洗し、天下の耳目を新にするの必要は、有爲の士の齊しく認むる所、古今其の軌を一にして居る次第である。利通の此の遷都の議は、實に難波・大津・平城・恭仁・長岡・平安等諸京の遷都を説明する。たゞ古代にありては、或る極めて少數のものゝ專斷によつて事を決し、異議の出づるを豫防せんが爲に、迅雷耳を蔽ふに遑あらざる的の行動を執るを常としたが、明治新政府の組織ではそれが出來ない。初め利通は有栖川總裁宮に對して遷都の必要を説き、二十三日太政官代に於て之を衆議に附したが、容易に決しない。何分にも千有餘年の久しきを經、萬代不易を期した平安京を他に動かさうと云ふのであるから、反對論の出るのも無理はない。中には遷都論者の心裡を附度し、薩長の徒が連合して、新帝を難波に擁し、天下の事を制せんとするものだと疑うたものもあつた。京都方の人々は、今や幕府を倒して、妖雲こゝに晴れ、數百年目に始めて天日の赫々たるを仰ぐを得るの時に當り、多年奉戴し來れる禁裏樣を他に奪はる(313)るといふことに就いて、憤慨したものが多かつた。爲に京都の疲弊衰頽を來すといふ、目前の損益打算上より反對するものも無論多かつたに相違ない。斯くて議容易に決しなかつたが、三月二十二日に至り、天皇大阪へ行幸の事となり、翌日西本願寺の別院へ入御になつた。言ふまでもなく江戸御親征の爲の行在所で、未だ遷都といふではないが、是は岩倉具視が利通の議を納れた爲だといふ。其のうちに江戸開城となり、閏四月徳川氏賜封の議が起つた。此の時松平慶永等は、一橋茂榮願の如く江戸を徳川氏に與へ、府下數千萬の士民をして、三百年來祖先墳墓の地に生を安んずるを得せしめんとの意見を以て周旋したが、大久保利通・木戸孝允・福岡孝悌等之に反對した。後、孝允は江戸を東京とし、大阪を西京とし、京都と三京を設け、時宜に從ひ巡幸さるべき議を呈したが、それも行はれなかつた。既にして徳川氏は駿府七十餘萬石に封ぜらるゝに及び、佐賀藩主鍋島直正は、佐賀藩論として江戸を東京とし、車駕親臨せらるべき議を呈した。是は大木喬任・江藤新平等の首唱の説だとの事で(314)ある。もと/\利通の大阪遷都論も、必ずしも其れが大阪でなければならぬ理由は薄弱であつた。京都を去つて積弊を一新するが主眼であつたから、今や江戸鎭定して、而も東國の人心なほ動搖する時に當り、遠く京都を離れて之を安んずるを得ば、此の上はないのである。大阪遷都論の賛成者も之に反對する必要はない。衆遂に之を可として、江戸を東京とするの議は決した。七月十七日の詔に曰く、
 朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一之大鎭四方輻輳之地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ
此の詔を拜するに、江戸を稱して東京とすと仰せられ、海内一家東西同視の御精神を明かに示されて居る。建議者・賛成者の腹には、積弊の蟠れる京都を去つて、こゝに都を遷すの意見であつたかも知れぬが、表面に現れたる所では、京都はどこまでも京都即ち帝都の地で、別に施政の便宜上東京を設けられたに過ぎない。東西に偏輕(315)偏重をせぬといふ御趣意である。天武天皇の詔に所謂「都城宮室一處にあらず、必ず兩參を造らん」の義を實施されたものである。當時政府は叡慮を敷衍して、實に左の副書を公にした。
 慶長年間幕府を江戸に開きしより、府下日々繁榮に赴き候は、全く天下の勢斯に歸し、財貨隨て聚り候事に候。然るに今度幕府を被廢候に附ては、府下億萬之人口頓に活計に苦み候者も可有之哉と、不便に被思食候處、近來世界各國通信の時態に相成候ては、專ら全國の力を平均し、皇國所在保護の目途不被爲立候ては不相叶御事に付、屡東西御巡幸、萬民の疾苦をも被爲問度、深き叡慮を以て御詔文の旨被仰出候。孰れも篤と御趣意を奉戴し、徒らに奢靡の風習に慣れ、再び前日の繁榮に立戻り候を希望し、一家一身之覺悟不致侯ては、遂に活計を失ひ候事に付、向後銘々相當の職業を營み、諸品精巧物産盛に成り行き、自然永久之繁榮を不失樣、格段の心懸可爲肝要事。
(316)即ち天皇は屡々東西御巡幸遊ばさるべき御豫定であつたのである。
八月いよ/\東幸の御發表があつた。京都の民其の遂に都を遷すに至るべきを虞れ、形勞頗る穏ならず。公卿諸侯亦往々東北未だ鎭定せざるを以て、尚早論を唱へるものもあつたが、而も事は豫定の如く進み、九月二十日遂に御進發になつた。當時留守の諸臣に下された御沙汰書。
 此度東京御親臨の義は、神武帝御創業之初に被v爲v基、黎庶之難苦を被v爲v救度との厚き叡慮有し、且又大宮・敏宮も被v爲v在候儀、御出輦中之處深く御案痛被遊候。京師は天下の根本、人心風涛之思を不持樣各厚き天氣を奉じ、勵精盡力可v奉v扶2聖徳1、依v之賜2酒肴1候事。
御道中二十四日を費し、十月十二日品川御着、十三日西城入御。即ち令して西城を以て皇居となし、東京城と稱し、登城を參内と稱すべき事を示された。
かくていよ/\東京はこゝに成立したが、當時の御趣意は、どこまでも京都が主で(317)あつたので、十一月二十七日還幸の事を御發表になつた。
 東京臨幸萬機御親裁被v爲v遊、蒼生未だ澤に不v霑と雖、内地略及2平定1候に付、神宮へ御成績を被v爲v告度、來月上旬一先づ還幸被v爲v遊候。猶明春再幸之思食に付、百官有司可v得2其意1旨被2仰出1候事。
東京へは臨幸である。京都へは還幸である。本末のある所は明かで、決して從來遷都の疾風迅雷的強行の類ではなかつた。併しながら、是は京都の人心鎭撫の爲であつて、東京を主とすべき新政府の方針は着々事實としてあらはれた。七日舊本丸跡に宮殿造營の事を布告し、八日いよ/\還幸の途に着き給ひ、二十二日皇宮に着御。御滯在二箇月餘にして翌年三月七日再び東幸。二十八日東京城に御着になつた。東京御駐蹕中は、太政官をも東京に移され、政治上の中心たる實はこゝにあらはれた。府縣の順序の如き、無論京都を第一とし、東京・大阪之につぎ、以て五港所在の縣に及んだものであつたが、是も明治四年に東京を第一とし、京都・大阪之につぐ事とな(318)り、こゝに名義上にも東京が首位となつた。かくて其の後は天皇、京都へ赴かるゝことを行幸と申し、東京へ渡らせらるゝ事を還幸と申さるゝこととなり、京都は全く出しぬかれた形となり了つた。明治六年皇城炎上し、明治二十二年再築工成る。號して宮城と申される。是れ現今九重の大内山に宮柱太高敷きて幾千代までも動きなき百數の大宮である。
                                        
以上ほゞ太古より、現今に至り帝都の沿革變遷の概略を記し了つた。若し夫れ其の詳細の事に至つては、もとより此の小冊子のよく悉くすべき所ではない。もと是等の事柄は、既往に於て屡々研究を重ねたところで、其の都度雜誌「歴史地理」の誌上に發表して置いたものも少くない。尚將來其の業をつぎ、引續き發表して之が完成を期したいと思ふ。詳細を知らんとせらるる讀者諸賢は、更に遡りて該誌につき一覧を賜はらん事を希ふ。尚他日機會を得ば、之を整理補訂して一冊子となし、世(319)に公にして識者の是正を請はうと思ふ。
既に發表した論文は左の通り。其の文中本書の記する所と抵觸するものは、本書を以て前者を訂正したものと承知されたい。
 上代帝都の所在に就いて…………………………歴史地理十巻一號(明治四一年一月)
 片鹽浮穴宮…………………………………………………同九巻一號(明治四十年一月)
 難波京の沿革を論ず……………………………………同一四巻一號(同四十二年七月)
 (參照)難波沿革圖の僞作……………………………同二巻七號(同三十三年一〇月)
 (參照)僞作難波圖の害毒………………………………同三巻五號(同三十四年五月)
 飛鳥京(四囘)…………同二〇巻一號−五號(【同四十五年七月−大正元年十一月】)
 (參照)元興寺考證(二回)………同第十九巻一號−二號(同四十五年一月−二月)
 大津京(二回)……………………………同十五巻一號−二號(同四十三年一−二月)
 藤原京考(三回)………………………同第廿一巻一號−五號(大正二年一月−五月)
(320) 平城京の四至を論ず(八回)……同八巻二號−十一合(明治卅九年二月−十一月)
 「平城京及大内裏考」評論(九回)……同十二巻二號−十三巻五號(四十一年八月−四十年五月)
 恭仁京(二回)…………………………同十三巻一號−二號(同四十二年一月−二月)
 恭仁大宮遺址に就て………………………………………同一巻五號(同三十三年二月)
 長岡遷京(四囘)………………………同十二巻一號−四號(同四十一年七月−十月)
 平安京大極殿址と曲尺の研究……………………………同廿五巻五號(大正四年五月)
 (參照)京間田舍問を論じて曲尺と令尺との關係に及ぶ(五囘)…同廿一巻六號−廿二巻六號(大正二年六月−十二月)
 本邦都城の制」(八回)……同十七巻一號−十八巻六號(明治四十四年一月−十二月)
 
帝  都 終  
         2007年3月3日(土)午後3時20分、入力終了 
 
藤原京
        U
 
(193) 前編 藤原京再考
 
       一 緒  言
 
 藤原京のことについては、すでに大正二年中に雑誌『歴史地理』の誌上において、「藤原京考証」の題下に管見を発表したことがあり、ついで大正四年発行の単行本『帝都』の中にも、その梗概を叙述したことであったが、その中には後の研究によりて多少補訂を要するものもあり、ことに近時の古文化研究所の発掘調査の結果によりて、新たに考え直すべき必要を生じたるもの、またこれなきにあらざれば、早晩これが再考を書いてみたいとはかねて念願したところであった。そこへたまたま『夢殿』の編者佐伯啓造君より、これについて執筆して欲しいと二個の題目を与えられた。これは余輩にとってまさに恵まれた機会であるといわねばならぬ。
 
 しかしながら、余輩は当時大患後の静養として、山間の温泉に転地引籠り中で座右にほとんどなんらの参考書をも有せぬ。また余輩の当時の健康は、新たに研究を重ねて稿を起すほどの努力にも堪え難いのである。しかのみならず古文化研究所の発掘調査の事業は引続き継続せられて、この後いかなる新発見が齎らされるかもまた予期し難きところなのである。されば余輩の期待する再考の発表にとっては、実は今は時期尚早といわねはならぬところではあるが、しかも佐伯君の熱心なる要求あながちに辞し難く、余輩としてもまた気永くこれを待つの余裕を許さぬ事情もある。すなわちかねて抱懐するところの管見を、不十分なる記憶と、幸いに転地先に携帯の手帳およびメモの抄録とから叙(194)述して、ここにその責を塞ぐこととする。史料の引用の不十分な点については切に読者の寛宥を祈る。そのこれを本編および「日本都制と藤原京」の両編に分ったことは、一に佐伯君編輯上の按配によるもので、余輩としては通じて藤原京再考証たるにほかならぬ。もしそれ前後その説を異にするところのものは、今回の発表をもって前考の不備と誤解とを補訂せるもの、けだし研究の進歩による変貌として、これまた深く嘲り給うなくんば幸いである。
 
 
      二 藤原京ということ
 
 余輩は早くより藤原京なる名称を用うる例になっている。佐伯啓造君の「藤原京研究」もまたやはりその名称に倣われたものと思われる。しかしながら、厳格にこれを言わば、藤原宮はあっても藤原京なるものはないのである。『日本紀』以下一も藤原京の名を記したものはない。ただ『万葉集』の歌の一つにある本を引いて、「藤原京より寧楽宮に遷りませる時の歌」という詞書があるにはあるが、それも移転先の名を寧楽宮とある以上、そのもとの場所も当然藤原宮とあるべきはずであり、またこれと並べる別の歌の詞書には、明かに「藤原宮より寧楽宮に遷りませる時」とあるによりてこれを観ても、その藤原京と書けるものの誤写なるべきはいうまでもない。
 
 しからば余輩のいわゆる藤原京とは何か。歴史上の型式の上から観れば、これは前々からの飛鳥京の一たるにほかならぬ。したがって精しくこれを言わんには、飛鳥の板蓋宮《いたぶきのみや》、飛鳥の岡本宮、飛鳥の浄見原宮《きよみはらのみや》などあると同じく、当然飛鳥の藤原宮とでもいうべきものであろうが、しかもこれまた古くよりさる名称をもって明かにこれを記述したもののあることを知らぬ。
 
 けだしこの藤原宮造営については、特にそこに新式の都城が経営せられ、これを前代のものに比してすこぶるその趣を異にするものあるがゆえに、ことさらに飛鳥の名を冠せず、その当時にありては後に述ぶるがごとく、単に新益(195)京の語をもって呼ばれたものであったと解せられるのである。
 
 藤原宮が当時にありてまた飛鳥京の中と見做されていたであろうことについては、『万葉集』の歌に、藤原宮より寧楽宮に遷りませる時の御作歌というものに、「飛ぶ鳥の、飛鳥の里を置きて去なば」と詠めることによりても知られる。『日本紀』の允恭天皇の条には、「京城の傍なる耳成山、畝傍山」の語がある。けだし当時天皇は遠飛鳥宮にましましたがゆえに、これらの山々をもって飛鳥京城の傍の山と見做したものであろう。またもって少くも『日本紀』編者の頭に映じた飛鳥京城なるものの範囲が、今の飛鳥から遠く西北郊外の地域を含めて、畝傍山や耳成山の附近にまで及んでいたことが知られるのである。
 
 今日飛鳥といえば、ただちに飛鳥川の東方なる飛鳥村落の地のみが連想せられるようであるが、しかし河西の豊浦なる豊浦寺、香久山の西南なる大官大寺、ないし、さらに遠く西北に離れた白橿村木殿なる薬師寺のごときも、むろん飛鳥京内諸寺という中のものであったに相違ない。
 
 天武天皇の浄見原宮は、おそらく今の飛鳥小学校附近にあったと解せられるのであるが、天皇のこの宮に崩じ給うや、京城の耆老男女、皆臨んで橋西に慟哭すと『日本紀』にある。この橋おそらく今の飛鳥小学校の附近にあったものらしく、かつてそのすぐ川下から古代の橋杭の根が掘り出されたとの伝えもある。これまたもって当時の飛鳥京なるものが、飛鳥川の西に渉っていたことを語るものであるにほかならぬ。
 
 藤原宮の造営については、持統天皇四年十月「高市皇子藤原宮の地を観給ふ」との『日本紀』の記事を最初とし、重ねてその十二月には、天皇親しく藤原に幸して宮地を観給い、公卿百寮皆従うとある。次いで翌年十月には、使者を遣わして新益京を鎮祭し、その十二月には右大臣以下にそれぞれ宅地を班給し給うのことあり、さらに翌年六月には、天皇親しく新益京の路を観給うとある。この新益京すなわち余輩のいわゆる藤原京である。したがって『釈日本(196)紀』にこの新益京を解して、「兼方案ずるに藤原宮の地なり、新益の義考へ求むべし」とあるのは不十分なる説明である。けだし『釈日本紀』の著者卜部兼方は新益の義を解する能わず、ただ前後の記事によりてこれを藤原宮の地なりと推定したのであったらしいが、藤原宮の地は新益京の一部分であって、もちろん新益京そのものではない。
 
 ここに新益京とは、その文字通りに新たに益せる京の義で、かの奉天城外に新市街が設定せられたと同様に、従来の飛鳥京城を拡張して、その西北郊外に新たに益した京というくらいのことであるに相違ない。しかしてそれは従来の自然的膨脹に委したであろうところの飛鳥京の街路とはすこぶるその趣を異にし、あらかじめ広闊なる地に新式の都市計画を施して、縦横碁盤目に大小の街路を通じたものであったがゆえに、天皇もことさらにその見事に整った街路を御覧に成られたものと思われる。 この藤原宮の経営については、造宮官のほかに特に造京司が置かれたほどで、京城のほかに別に新益京なる市街の計画のあったことが察せられるのである。しかしてこの新益京の一部に藤原宮は造営せられ、右大臣以下有位無位の徒に至るまでそれぞれその京内に邸宅を賜わりて、従来の飛鳥京内住居の重なる人々は、ここにこの新益京内に移り住むこととなったのであった。
 
 さればこのいわゆる新益京は、もちろん従来の京城の拡張、もしくはその改造として当然また飛鳥京の中と見るべく、したがってその藤原宮は、また当然飛鳥の藤原宮であるべきはずではあるが、しかもこれを従来の飛鳥京に比するに、その主要地域とある所が全然面目を新たにしたものであるがゆえに、しばらくこれを従来の飛鳥京と区別して便宜藤原京の名称を用うるもあながち妥当ならずとは言い難かろう。
 
 
       三 藤原京経営の事情
 
(197) 藤原京の経営については、当初そこ二つの大きな理由の存在したことが認められる。その一は従来の飛鳥京が自然的の発展膨脹に委して、その街衢もおのずから不整然であったであろうことのうえに、その中心地があまりに東南に偏在して、左右を山岳丘陵をもって限られ、将来発展の余裕もなき狭隘地であることに満足せず、さらに広闊なる地域を求めて、あらかじめ都市計画のもとに、大化以来の理想たる新式の都城を作らんとすること。その二は有為の君臣がその理想的政治を行わんとするに当り、多年勢力の固定して、弊竇の蟠れる飛鳥の地に満足する能わず、その旧勢力の掣肘から脱出せんとすること。この二つの大きな理由が相錯綜してつとに難波の遷都となり、また大津の遷都ともなりて、大化以来約五十年間、幾多の紛擾を繰り返し、ついに壬申の乱をまで惹き起したのであった。しかもその第二の希望はこれを達成すること能わず、飛鳥の地をも去らずして、単に第一の希望たる理想の新式都城を経営するという、双方歩み寄りのうえに成立したものが、すなわちこの妥協的なる藤原京であったと考えられる。
 
 推古天皇の御代にシナ政府と直接の交通を開いてより、かの先進文化を習得せる留学生らは、帰朝後盛んにその制度、文物の模倣に努力したものであったに相違ない。ことに当時シナにありていわゆる天下を統一し、地上唯一の絶対国家をもって自任する大隋国に対して、どこまでも彼我対等の礼を持し、独立国家たるの体面を保たんことに努めたわが大理想は、その外観においてもまずもってその帝都を修飾し、ここに大国の賓客を迎えてはなはだしく減け目を感ぜぬ程度のものにしたいと念願したに相違ない。
 
 かくて大化の改新に際して難波に新式都城は営まれ、荘厳なる宮城はここに完成を見るに至ったのであった。しかもそれは飛鳥の旧勢力を出し抜いたことによって、時勢の潮流に逆行したものとしてたちまち失敗に終り、帝都は再び旧式の飛鳥都城に復したのであった。
 
 しかしながら飛鳥の旧勢力の掣肘は、その不整頓なる旧式都城とともにとうてい進取的にます英邁なる天智天皇の(198)堪え給うところではない。ここにおいて天皇はさらに遠く近江の大津に帝都の地を卜して、ここに新式都城を計画し給うたのであったが、不幸にして在位わずかに四年にして崩じ給い、大津の新京はおそらくいまだその完成を見ざるうちに、飛鳥の旧勢力を背景とし給う天武天皇によりて、都は三たび旧京に還るのやむなきに至った。天武天皇が飛鳥の旧勢力を背景となし給うたとのことは、『日本紀』に、「古京は是れ本営の処なり」とあるによっても推察せられるのである。
 
 しかも天武天皇はまた、もちろん永くここに満足し給う能わず、早くも即位の五年においてすでに遷都の御計画があり、在位十四年間に三たびまでもこれを繰り返し給いながら、ついに一度もその実現を見るに至らず、最後に京師を巡幸して飛鳥京内に宮室の地を定め給い、かくて天皇の崩後、持統天皇の御代に至りて、妥協的に成立したのがこの藤原京であった。
 
 しからば、いわゆる飛鳥の旧勢力とは何か。言うまでもなくこの地方を根拠として多年その勢力を扶植した漢人一族の団結であり、またそれに関聯してここに上下の信仰を集めた諸大寺の存在であった。
 
 応神天皇の御代に後漢の霊帝の後と称する阿知使主《あちのおみ》、都加使主の父子が、十七県の党類を率いて大挙我に移民するや、大和平野東南隅の地を賜わってそこに住み着いた。彼らは新たに渡来した漢族の義をもって新漢人《いまきのあやひと》と呼ばれ、ためにその郡を今来《いまき》郡という。後の高市郡これである。彼らの一族はこの地方において盛んに蕃延し、奈良朝の末宝亀年間に至りても、なお高市郡の住民中十の八、九は漢人の族であったと言わるるまでに、ここに漢人部族の根拠を固めたのであった。中にも飛鳥地方はその中心地として、早くこの地が彼らによって人口稠密の域となっていたであろうことは、さすがに林学者出身だけにつとに江崎政忠君の注意せられたごとく、当時大和の川々いずれも水量の豊富であった古代において、ひとりこの飛鳥川のみは常に淵瀬常ならぬものの比喩に呼ばれたほどにも、その水源を涵(199)養すべき上流の山林が伐採せられたことによりても察せられる.
 
 彼らは文人として文筆をもって朝廷に仕え、また工人として縫織その他の技芸に従事し、かくて、先進のシナ文化は、この地を中心として盛んに発達した。応神、雄略両天皇の御代における呉国への使者、推古天皇の御代の隋への留学生らは、いずれも彼らの徒であった。飛鳥地方の漢人らは、実にわが国におけるシナ文物の輸入者であったのである。ことに仏法のわが邦に伝来するや、飛鳥地方を中心として続々諸大寺が経営せられ、その教法の興隆とともにここに寺院の一大勢力が醸成せられたのであった。漢人らはまた一方に兵士として軍事の方面にも一大勢力を結成した。かの蘇我氏の専横を極めたことのごときも、その実、飛鳥漢人らの勢力を背景としたものであったことは言うまでもない。
 
 されば従来御代ごとに転移する習慣であったわが帝都の地が、推古天皇以来ついにこの地に固定して、いわゆる飛鳥時代の絢爛たる文化を発生したゆえんのものも、主として、飛鳥漢人らの勢力のしからしめたものであったことを否定し得ぬのである。否、飛鳥の地がわが帝室と特別の因縁を生じて、事実国家の中心地となったことは、さらに遡って欽明天皇の御代以来の現象であったといってもよいのである。
 
 しかしながら、物盛んなれば弊おのずから随って起る。飛鳥を背景とした蘇我氏の横暴はついに大化改新を誘発し、都は難波に遷って、さしも繁盛を極めた帝都もいったん廃都の惨状を免れなかった。
 
 この難波遷都のことは、一方に海路の交通に便利多きこの地が選定せられ、ここに広闊なる地域を卜して新式の都城を経営せんとするところに、その表面の理由があったであろうとはいえ、その実は主として飛鳥勢力の覊絆を脱し、なんら拘束なき自由の天地に理想の新政を行わんとするにあったことは疑いを容れぬ。しかるに事志と違い、さすがの中大兄皇子も飛鳥の反対に堪え兼ね拾うたと見えて、孝徳天皇の御同意なきにかかわらず、遷都後わずかに十年、(200)造営すでに訖りて、その宮殿の状、ことごとく言うべからずとまで言われた難波の新京を惜し気もなく放棄して、白雉五年をもって先帝および皇后を奉じ、諸皇弟・群臣を率いて飛鳥に帰り給うのやむなきに至った。大化元年における古人大兄皇子の謀反ももちろん飛鳥に頼むところがあったに相違ない。倭漢直麻呂はその党与の一人に名を列しているのである。大化三年、難波における皇太子の宮の怪火に罹ったのも、また反対者の隠謀の一の実現であったかと疑われる。
 
 また、大化五年に精忠右大臣蘇我倉山田石川麻呂の謀反をもって誅せられたことのごときも、彼が飛鳥地方に根拠を有したことに乗ずる反間の陥穽に陥ったためであったに相違ない。ここにおいて炯眼に在す皇太子は時勢のとうてい難波を維持するに堪えざることを看破し拾い、ついにこの英断に出で給うたのであったと察せられる。けだし飛鳥の旧勢力に対する難波新京の一大譲歩であった。間もなく天皇崩じて先帝ここに重祚し給い、飛鳥は再び帝都の地となった。
 
 飛鳥の漢人らがその勢力にまかせていかに横暴を極めたかは、その背景によりて近江朝廷に代り給いし天武天皇の、後に漢人らを誡め給いしお言葉によりても知られる。曰く、
 
  汝等が党族は本より七つの不可を犯せり。是を以て小墾田の御世より近江朝に至るまで、常に汝等を謀るを以て事となす。今朕が世に当りて、将に汝等の不可の状を責めんとす。以て犯のままに罪すべし。然れどもひたぶるに漢直の氏を絶やさん事を欲せず、故に大恩を降して以てゆるし給ふ。今より以後若し犯すものあらは必ず不赦の例に入れん。
 
と。ここに小墾田の御世とは、旧説これを推古天皇の御代に擬するも、この御代に漢人らを謀り給うたとの事実があったとは思われぬ。否、むしろ当時の大臣蘇我氏のごときは、彼らの勢力を助長したものであったと察せられる。
 
(201) けだし、このいわゆる小墾田の御世とは、『日本紀』皇極天皇元年十二月の条に、小墾田の宮に遷り給うとある、その小墾田の御世を指したものであるに相違ない。天皇の四年、中大兄皇子、大臣蘇我蝦夷父子を誅して、漢人らに一大打撃を与え給うたのであった。爾来、漢人らに対する圧迫は、常に為政者によりて試みられたことであろう。またそのいわゆる七つの不可の指すところは不明なるも、さきに漢人の族、東漠直駒が、蘇我馬子の使嗾によりて崇峻天皇を弑し奉りしことのごとき、あるいはその一族が蘇我大臣家の藩屏となって、その横暴を助長せしめしがごとき、特に入鹿の誅戮に際して彼ら結束して兵を擁し、中大兄皇子に反抗を試みんとせしことのごとき、また古人大兄皇子の反に党して、難波の新政府を顛覆せんと試みたことのごとき、いずれもその尤たるものであったに相違ない。
 
 されば孝徳天皇崩御の後、中大兄皇子が御自身位に即き給うことをあえてせず、先帝を奉じて先例なき重祚をなさしめ奉り、その崩御の後もなお六年間に渉りて、依然皇太子のままに制を称し給いしことのごときも、飛鳥の旧勢力がなお旺盛にして、御自身天位に即き給うことの不利を思召された結果であったと解せられる。されば皇太子は難波を去りて飛鳥旧京に帰り給うた後も、引き続き彼らに圧迫を加え、あるいはこれを懐柔し、いわゆるこれを謀るを事とし給うこと十三年の久しきに及んだものであったらしく、かくてもはやその反抗をあえてするがごときことなかるべきを見極め給いてにや、遠くその地を離れて、都を近江の大津に遷し給い、翌年始めて天皇の御位に即き給うたのであった。この遷都については、当時海北の属国たる朝鮮半島がわが国から離脱した代りに、奥羽地方における日本海方面の夷地の経営大いに進捗したさいであったがために、国家の中心を北陸道による交通の利便多きこの近江湖西の地に遷して、もって東北地方制馭の便を図り給わんとの表面の理由があったであろうとはいえ、要はやはり大化の難波遷都と同じく、飛鳥を脱してその旧勢力の拘束を免れ給わんとの御意志が主たるものであったに相違ない。したがってこれに対する世論の反対の多かったことは、『日本紀』に、天下の百姓都を遷すことを願わずして、諷諌者お(202)よび童謡多く、また日々夜々失火の処多しとのことを記せるによりても知られ、また『万葉集』所収柿本人麻呂の近江の荒都を詠じた歌の趣によりても察せられるのである。
 
 かかる情勢の下において、不幸にして天皇は十分その経綸を行い給うに暇もなく、御年四十九歳、在位わずかに四年にして崩じ給い、たちまち壬申の乱によりて都は三たび飛鳥に復したのであった。これは飛鳥の勢力を背景となし給いし天武天皇としては、勢いまことにやむを得給わざりしことであったと察せられる。
 
 しかしながら英邁なる天皇は、またとうていその地に満足せらるべきではなく、たびたび遷都の御計画がめぐらされた。早くも御代の五年に新城に都城を営み給わんとし、限内の田園公私を問わば皆耕さずとある。しかもこれは御中止になった。新城とは今の郡山の西南新木であろう。ついで八年十一月、難波の旧都に羅城を築き給いしことのごときも、それが一方には遷都の下準備であり、一方には一朝有事に際して、ここに拒守し給わんの御計画であったと察せられる。越えて十一年には、再び使を新城に遣わしてその地形を視察せしめ給い、よってまさに都せんとすとあり、翌十二年七月には天皇御自身ここに行幸し給うたほどであった。先年いったん中止の地が、再び問題に上ったものと思われる。しかしこれまたいずれも実現しなかった。かくてこの年十二月、詔して曰く、「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先づ難波に都せんとす。是を以て百寮は各往いて家地を請へ」と。これは明かに先年羅城を築いてその下準備をなした難波旧都をもって、一方に飛鳥京を保存しながらも、事実上ここに遷り拾わんとの御意志であったと察せられる。しかもそれがやはり実現せらるるに至らなかったことは、相変らず飛鳥の反対が多かったに相違ない。
 
 次いで翌十三年二月二十八日には、さらに使を畿内に遣わして都とすべき地を占わしめ給い、また遠く信濃にまでもその地を求めしめ給うたのであったが、しかもその翌三月九日には、天皇御自身、京師に巡幸して宮室の地を定め(201)給うとある。この間わずかに十一日、前の使者のいまだ復命をも見るに及ばざる前に、にわかにこの御決定があったということは、当時遷都の御計画に対していかに反対論が旺盛であり、ために使者の帰るを待って事を決するの余裕だになく、人心安堵の手段として急にこの挙に出で給うの必要があったかが察せられるのである。けだしこれに依りて、永く飛鳥を去り給わざるの御決意を示し給うたものであろう。
 
 さればこの宮室なるものは、もちろん飛鳥京内に営まれたもので、これはその後久しからずしてともかくも成就したものと見えて、翌十四年九月には、天皇旧宮の大安殿の庭に宴すの語があり、さらにその翌朱鳥元年正月二日には、天皇大極殿に御して宴を諸王卿に賜うともある。けだし、旧宮に対する新宮大極殿なるべく、いわゆる飛鳥浄見原宮これである。たまたまこの月十四日、難波の大蔵省火を失し、難波の宮室ことごとく焚くとある。これは阿斗連薬の家の失火から起った類焼だとの説もあって、必ずしも遷都反対者の手段に出づるものとは決し難しとするも、その結果は難波遷都論者を脅し、少くも難波に対して断念せしむるの効果の多かったことを疑わぬ。
 
 この年九月に天皇崩じて、皇后制を称し給うこと四年、草壁皇太子薨じて、始めて位に即き給う。これを持統天皇と申す。その即位の年十月、早くも高市皇子の藤原宮地御視察のあったことは上文すでに記するがごとく、その十二月に天皇は公卿百寮を従えて親しくその地に行幸し給い、ここに新たに都市計画による宮殿造営のことがいよいよ決定せられたものであろう。
 
 藤原宮の所在については、旧説多く飛鳥村落の東南なる小原の地をもってこれに擬する。ここにもと藤原氏の法光寺あり。小字寺西の名も遣っている。『拾芥抄』に、「法光寺在大和国、大織冠寺、もと中臣寺と名づく、今藤原寺と名づく」とあるものすなわちこれで、小原はすなわち、古えの大原であり、『藤原家伝』に鎌足の孫武智麻呂、大原の第に生るとの事もあれば、藤原氏と因縁深かった地であるには相違ない。ここに小字誕生山の下というのがあ(204)って、その誕生山は祖先鎌足誕生の地と伝え、その小原はすなわち藤原で、『家伝』に鎌足高市郡藤原第に生るとある藤原すなわちこれにあたり、その藤原氏の名もまたこの地に因みて賜わったものであろうという。かくて藤原宮をもこの地に擬定し、小字寺西の南を宮の前、東を宮の上、北を宮の後など称することをもって、その宮地を指示するものと解せんとするのである。
 
 しかしながら、大原はどこまでも大原であって、藤原武智麻呂ここに生れ、そのいわゆる誕生山は武智麻呂誕生の地なるべく、断じて藤原ではない。けだしここにいわゆる宮は、藤原氏が後に設けた大織冠の社のことなるべく、しからざれば允恭天皇の遠飛鳥宮《とおつあすかのみや》に擬定すべきものかも知れぬ。
 
 また藤原はかつて允恭天皇が寵妃|衣通《そとおり》姫を置き給いし藤原宮の地で、天皇は姫のために藤原部を定め給うともあり、遠飛鳥の宮とはやや離れた地であったに相違ない。しかして鎌足もまたこの地に生れたのであったであろう。次に引く『万葉集』所収藤原御井の歌には藤井が原とある。いわゆる藤原の御井なるものがあって藤井と呼ばれ、その藤井が原がつづまって藤原となったのであろう。
 
 持統天皇の藤原宮の地が、もとの飛鳥の浄見原宮からは遠く西北に離れて、畝傍、香久、耳成三山の中問にあったであろうことは、いわゆる藤原御井の歌に、
  八隅しし我が大君、高光る日の御子、麁妙《あらたへ》の藤井が原に、大御門始め給ひて、埴安《はにやす》の堤の上に、あり立たし、見し給へは、大和の青香久山は、日の経《たて》の大御門に、春山と茂《し》みさび立てり。畝傍のこの瑞山は、日の緯《ぬき》の大御門に、瑞山と山さび居ます。耳成《みみなし》の青菅山は、背面《そとも》の大御門に、宜しなべ神さび立てり。名ぐはし吉野の山は、影面《かげとも》の大御門ゆ、雲井にぞ遠くありける。高知るや天の御蔭、天知るや日の御蔭の、水こそは常《とこ》しへならめ、御井の真清水
 
(205)とあるによ粧て知られる。香久山の北にあった埴安の池の堤上に立って眺望すれば、宮城四方の諸門はそのいうごとき位置にそれぞれ望見せられたというのである。なお言わば持統天皇の御製に、
 
  春過ぎて夏来るらし白妙の、衣ほしたり天の香久山
とあることも、この藤原宮から東南に香久山を望み給いての御詠であったと思われる。
 ひとり藤原宮が新たにここに造営せられたのみならず、大化の難波京以来の理想なる新式の都城が、またこの三山の間に設計せられて、いわゆる新益京の整然たる大路が聞かれたのであった。持統天皇がわざわざここに行幸して、新益京の路を観給うとあることは、この新都城がいかに旧飛鳥京に比して、その趣を異にするものであったかを示すものであろう。
 
 なおこの造営について、造宮職のほかに特に造京司の置かれたのも、この都市計画の実施が大事業であったことを裏書きする。ここには旧飛鳥京の郊外として、古墳墓も少からず存在したと見えて、七年二月には特に造宮司衣縫王に詔して発掘の屍体を収めしめたともある。かくて翌年十二月にいよいよ藤原宮に遷り給う。着手以来満四ヵ年余を要したのである。ここにおいて遠く飛鳥の地を離れんとする積年の希望は放棄せられ、新式都城を経営せんとするの理想のみが、ともかくもここに達成せられたのであった。
 
 
      四 藤原京の変遷とその廃止
 
 持統天皇、藤原宮にましますこと二年余にして位を文武天皇に譲り給う。しかもなお宮殿造営の工事はその後も引続き行われたものと見えて、さきに持統天皇のここに遷り給いてより七年、大宝元年七月に至りて遷宮官を陞せて職に准ずるのことあり、また翌二年十二月には造大殿垣司の任官もあり、さらに慶雲元年十一月に至りて、「始めて藤(206)原宮地を定む、宅宮中に入る百姓一千五百五烟、布を賜ふ差あり」と『続日本紀』は記しているのである。これはいかにも奇態な記事である。持統天皇八年十二月、藤原宮に遷り拾いてより後、造宮官陞格の大宝元年七月までの宮城に関する『日本紀』および『続日本紀』わ記事を見るに、すでに内裏あり、朝堂あり、朝堂院内の宮殿として大極殿あり、そのほか大安殿、東安殿、西高殿などの名も見えて、主要の宮殿、その他諸官省の建築物は、ほぼ整備していたことが認められるのである。 なお言わば、天皇の四年に宮城の地すでに定まり、ついで新益京路の区画成りて、翌五年には諸臣に京内宅地班給の事あり、六年五月宮地を鎮祭し、八年十二月遷りて藤原宮にいますとあれば、それまでに都城としての街路の設定、諸臣の邸宅までもほぼ整い、宮城としての諸宮諸殿の設備も、またほぼ完成していたに相違ない。
 
 しからば造宮官のごときは、天皇遷御とともにまさに廃してもしかるべきはずである。しかるにもかかわらず、その後さらに五年余を経過した大宝元年七月に至りて、もはや当時に必要なかるべく思わるるこの造宮官を陞格して職に准じたということが、すでにきわめて不審なるがうえに、翌二年には造大殿垣司の官を任じ、さらに二年を経た慶雲元年十一月に至って、始めて藤原宮の地を定め、宅の宮中に入る百姓一千五百五戸に布を賜わったということは、いかにしても不審であるといわねばならぬ。十年以前よりすでに内裏あり、また朝堂あり、しかもそこに大殿の垣なくして、いかにしてこれらの宮殿が存在したであろうか。また十年以上も宮地未定というがごとき宮城の存在が、果して想像し得らるるであろうか。よって思うに、これは持統天皇御造営の当初の藤原宮とは別に、新たに地を選びて別に宮殿を造り給うたと解するほかには、とうてい説明の途を見出し得ぬのである。
 
 ここにおいて一の仮定説を試みんか。まずもって大宝二年三月、大安殿を鎮して大祓を行い、天皇新宮の正殿に御すとある記事が注意される。ここに新宮とは、持統天皇遷御の藤原宮に対して、この時新たに成れる宮殿と解すべく、(207)その大安殿を鎮すとあることも、従来の大安殿とは別に、新たにこの殿を建築するに当りてここに地鎮祭が行われたものと解すべきではあるまいか。
 
 かく解することにより、この年十二月に造大殿垣司が任ぜられて、これらの新築の宮殿に周垣が繞らされ、次いで慶雲元年に至りて、いよいよ始めて宮城の境域を定め、その宅境内に入りて立ち退きを余儀なくせられた百姓を調査して、その一千五百五戸に対し、それぞれ代償を賜わったと解して、始めてこれら不審の記事はことごとく合理的に説明せらるべきであろう。
 
 かく仮定することによりて、この難解の記事もともかく通ずることが出来るのであるが、しからば何がゆえに経営後間もなき藤原宮が、たちまちにして新たに改造を必要としたであろうか、また何がゆえにその改造に際して、位置をまでも変更せねばならなかったであろうか。これは今日においてとうてい明かにし得べき限りではない。
 
 しかしながら試みにこれを言わば、御代の改まるごとに新たに宮殿を営むことの思想のなお存したであろうがうえに、持統天皇の御代にいったん経営せられた藤原京ならびに藤原宮は、その実施とともに間もなく狭隘を感ずるようになり、ためにこれを拡張するに至ったものではなかろうかと思われる。始めて宮地を定むとある慶雲元年後、わずかに三年にしてさらに遷都のことが議せられ、それが実現して完成した平城京が、一躍三倍の広袤を有するものとなったという事実から考えても、藤原京がいかに時代の進運に対して狭隘であったかを推測せしめるのである。
 
 今これを『続日本紀』について見るに、文武天皇の三年正月「京職言す云云」の記事がある。またその前二年なる元年九月の条にも、京人大神大網百足の家に嘉稲が生じたとの記事がある。しかしてこれらは当時いまだこの藤原京に、左右両京の区別のなかったことを示すものであるといわねばならぬ。しかるに大宝元年制定の「大宝令」には、明かに左右京の存在を示し、それが均斉に設置せられたことが規定せられているのである。
 
(208) また『続日本紀』のその後の記事においても、例えば大宝二年二月、三年六月、和銅元年三月、および九月に左京大夫の任命があり、また慶雲元年七月には左京職白燕を献じ、同三年三月には、右京の人日置須太売一産三男の記事があり、右京大夫の任命も和銅元年三月の条に見ゆるのみならず、この年の八月左右京職に史生各六員を増したとの記事までもあって、両京相対して存在することの規定が令制発布と同時に事実上施行せられたことを示しているのである。人あるいは和銅に至るまで右京任命の記事なきによって、当時右京はいまだ存在しなかったのではないかと疑うものがあるかも知れぬが、国史の筆法、通例五位以上の者に限りてその任官を記し、六位以下を略する例であったがために、たまたま右京大夫の位階低くして、その任官の記事が史に闕如せられたものであろう。
 
 要するに「大宝令」制定以前の藤原京には左右両京の区別なく、令制発布後それが存在した事実は疑いを容れないのである。
 しかしながら、「大宝令」の制定によりて、藤原京がにわかに拡張せられたのではあるまい。事実はその以前からすでに拡張せられつつあったところの京城が、令制によりて左右両京職の下に分割管理せられるに至ったものであるに相違ない。しかしてその左右両京の区別が、なお平城京および平安京に見るごとく、宮城朱雀門より南行する朱雀大路によって東西に分たれたものであろうことは、いまだ平城宮に遷り給わざる以前の和銅三年正月朔、天皇大極殿に御して朝を受け給うに当り、皇城門外朱雀路の東西に、騎兵が分頭陳列した記事のあることによりて知られるのである。
 
 言うまでもなくここに皇城門とは朱雀門のことであり、その朱雀門は宮城の南大門のことである。しかして京城がこの皇城門外なる朱雀大路によりて左右均斉に分たれたとすれば、宮城はその大路の北頭、京城の中心線上にあり、天子南面して治むるの位置を占めたものであったに相違ない。これはわが都城の理想からも、必ず然《し》かなければなら(209)ぬところである。
 
 しかるに拡張以前の、いまだ左右京を分たざる藤原京にありては、かりにその宮城が唐の長安城のごとく京城の中央線上にあるとしても、あるいは洛陽城のごとく一方に偏在していたとしても、ともかくその所在は、必ずしも拡張後の、左右両京を分った場合の宮城の場所であったとは言われない。否、慶雲元年始めて宮地を定むの記事によれば、その当初は、これとは異りたる場所にあったと解するを至当とする。けだし、はじめは比較的小規模の下にいわゆる新益京が設計せられ、宮城もそれに応じてしかるべき場所に造営せられたのであったが、やがてその狭隘を感ずるに至りて、京城の拡張とともに新たに宮城の位置が点定せられ、ために造宮官の陞格、造大殿垣司の任官も必要であったのであろう。しかしてついに慶雲元年十一月に至り、始めて宮地を定むるの始末となったのであろう。 果してしからば藤原宮には、持統天皇朝造営のものと、文武天皇朝に至りて新たに造営せられたものと、前後その別のあったことを認めねはならぬこととなる。近ごろ古文化研究所の手によりて発掘調査中の鴨公村国民学校庭の遺蹟は、それが内裏であったか、朝堂であったかはしばらく問題として保留するとしても、ともかくもその建物の配置から、それが寺院として設けられたものではなく、おそらく当初に営まれた藤原宮の一部であったと察せられるのである。
 
 けだしその位置が、「大宝令」規定のごとく、左右両京均斉に分たれる拡張後の京城のものとしては、やや南南東に偏して不適当であるからである。なおこのことについては中編「日本都制と藤原京」において詳論を試みたい。
 
 ともかくも藤原宮城および藤原京城は、おそらく持統天皇四年以来十四ヵ年の日子を費して、慶雲元年十一月、いよいよ始めて宮地を定むるまでその工事継続し、ここに当時にとりては理想的の新式都城と、新式宮殿との完成を見たのであったと思われる。
 
(210) しかしながら、もともとこれは妥協のもとに成立した姑息的の設定であり、したがって有為の君臣の永くこれに満足し得べきではない。相変らず飛鳥の旧京に近接して多年の弊竇の拘束を脱し得ざるものがあったであろうのみならず、その地大和平野の東南部に偏在して、交通すこぶる不便なるがうえに、天子南面して治むるの地相にも適せざるの遺憾もあり、なお時勢の進運に対して地域狭隘を感ずるに至ったであろうことも、また飽かず思われた理由の一に数えられたことであろう。果せるかな、始めて宮地を定めたという慶雲元年十一月を距るわずかに二十六ヵ月にして、早くも慶雲四年二月、諸王臣五位已上に詔して遷都のことを議せしめ給うに至ったのであった。
 
 この遷都の予定地がどこであったか、またその議がいかに決したかはこれをつまびらかにせぬ。しかしその六月天皇崩じて、間もなく元明天皇位に即き給い、その翌和銅元年二月に至りて早くも平城遷都の大詔が喚発せられた事実によりて観れば、この遷都のすでに文武天皇の御代に決定せられたものであったことが察せられよう。大化以来飛鳥の地を去らんとする代々の懸案は、ここに至りて始めて解決せられたのである。平城の地は大和平野の北端にあり、北に山を負い、南は広く開けて、天子南面の相に適し、ことに交通の点においても、これを飛鳥の地に比して利便はなはだ多く、もしこれを大和乎野内に求めんとするならば、帝都として最も適当の地であったといわねばならぬ。しかしてここに藤原京に比して一躍三倍の広袤を有する平城京は経営せられたのであった。
 
 平城遷都は主として右大臣藤原不比等の計策によりて完成したものであったと察せられる。彼は父鎌足の大化の勲功を一身に負いて、その女宮子は文武天皇の夫人となり、多年宮中、府中にその勢力を扶植したものであったことを疑わぬ。夫人はもとより皇后ではなく、また後宮筆頭の妃でもない。しかしながら、大宝令制に臣下の女は夫人以上に陞るを得ざる規定によりて、権勢並ぶものなき不比等の女宮子も、夫人の名のもとに満足せざるを得なかったので(211)あった。しかも天皇は宮子夫人以上に、皇后をも、また妃をも立て給わず、後には夫人の下位にある二人の嬪をも退け給いて、嬪の名を称するを得ざらしめられたほどで、宮子夫人は実に後宮ただ一人のお方であったのである。またもって不比等の権力のいかに旺盛であったかが察せられよう。彼は亡父の志を継ぎて、飛鳥勢力の覊絆から免れんとの素志を有していたに相違ない。したがって、かつて天智天皇のなし給うたがごとく、またおそらく天武天皇もこれを試み給うたであろうごとく、飛鳥権力の中心たる漢人らに対して圧迫と懐柔とに努力を惜しまなかったに相違ない。かくてもはやその時機到来のことを見極めて、ここに始めて遷都の議を起したことと思われる。しかして、それは予想通りに成効して、飛鳥は永久に旧都の地として遺さるるに至ったのであった。
 
 平城遷都については、不比等は前車の覆轍に鑑みて、万遺漏なきを期したことであろう。彼はさきに天智天皇が大津遷都に当りて、さっそく新京に崇福寺を造営し給い、旧京諸大寺に対してその操縦よろしきを得なかったことに鑑みてにや、まずもって自己の氏寺たる興福寺を始めとして、法興寺、元興寺、大安寺(大官大寺)、薬師寺等、旧京の諸大寺を続々新京に移し建てて、これら諸大寺の反対を緩和することを忘れなかった。のみならず、故意か、偶然か、ともかくも、遷都の翌年和銅四年において、藤原宮および、大官大寺焼亡の事件が起って、ために世人をして旧京に対する未練を減殺せしむることに成効した。さきに大化の難波京にありては、遷都の当事者と在す皇太子の宮が怪火に罹りて焼亡し、即位後の大津京においても日々夜々火災が繰り返され、また後に天武天皇が難波旧都に羅城を築き、ついでこれを帝都の一として発表し給うや、大蔵省火を失して難波の宮室ことごとく焼亡した。しかるに今回はそれとは反対に、旧京の宮殿ならびに旧京筆頭の官の大寺が、遷都の翌年たちまち焼亡したのである。ここにおいて飛鳥復都の議は再び起ることもなく、市民は大命を畏みて続々新京に移ったのであった。『万葉集』所収の歌に、
 
  天皇《すめろぎ》の御命《みこと》かしこみ、にぎびにし、家を離《さか》りて、隠《こも》りくの、初瀬《はつせ》の川に、船浮けて、我が行く川の、川隅の八十(212)隅落ちず、万《よろず》たび、顧みしつつ、玉鉾の道行き暮らし、青丹よし、奈良の都の佐保川に、い行き到りて、我が寝たる衣の上ゆ、朝月夜さやかに見れば、栲《たへ》の穂に夜《よる》の霜降り、磐床に川の氷《ひ》こゞり、冴《さ》ゆる夜を息ふ事なく、通ひつつ造れる家に、千代までも居まさん君と、我も通はん
 
  青丹よし奈良の家には万代に、我も通はん忘ると思ふな
とある。万たび故郷を回顧しながらも、皇命のままに千代万代を祝福して新京に遷った当時の事情が察せられる。
 
      五 結  語
 
 藤原京は持統天皇八年十二月より、元明天皇和銅三年三月まで、存続わずかに十五ヵ年と三ヵ月余に過ぎざる短期間の帝都であった。しかもその間においてもおそらく大拡張と大改造とが行われて、すこぶる事多き帝都であった。しかして結局は平城遷都によりて廃せられ、翌年宮殿および大官大寺は焼亡し、さらに遷都後間もなく設定せられたと思わるる条里制の耕地整理によりて、街衢の蹟までも全く消滅してしまったのである。
 
 しかしながらこの京存続の十五ヵ年間は、飛鳥漢人の勢力が藤原氏に遷るの過渡時代として、またその藤原京が狭隘を感じて、たちまち面積三倍の平城京となるがごとき発展的気分のきわめて旺盛なりし時代として、さらに「大宝令」の制定によりて、永くわが制度上の基準の定められた御代として、わが歴史上きわめて興味多き期間であった。
 
 飛鳥時代の文化と奈良時代の文化とをつなぐ、いわゆる白鳳期の文化なるものもこの時代に現われたのである。しかも史のこれを伝うるきわめて粗略にして、文献上よりとうていその詳細を知ることを得ぬを遺憾とする。すなわち努めて変遷を文字の外に求めて、すこぶる牽強に渉るの嫌いあるまでに推測を逞しうして、ともかくも本編を纏め上げた。その言うところ既往に発表するところと重複するもの少からざるは、出来得る限り本編をもって藤原京の考証(213)を完からしめんとするの微意にほかならぬ。もしそれ京城および宮城の規模その他については、中編「日本都城と藤原京」において詳悉せんとする。
 
 
(214)  中編 日本都制と藤原京
 
      一 緒  言
 
 藤原京がいかなる規模のものであったか、はたその街路がいかに開通していたかについては、後の条里制設定による耕地整理のためにことごとく破壊せられ、ほとんどその遺影を地表に求め得ぬ今日の状態において、外観上からはとうていこれを実地上に尋ね得べくもない。またその宮城がいずれの地点にあって、いかなる広袤を有し、その宮殿がいかに配置せられていたかについてもまた同様で、表面観測からはとうていこれを明かにすべくもないのである。
 
 しかしながら前者については、その前後における京城の状態と、特に「大宝令」規定の坊令の員数等とによりて、推論上多少これを窺知し得べきものがあり、また後者についても、『続日本紀』の記事その他によりて、わが都制の研究上いくらかの仮定説を試み得べき史料がないでもない。ことに目下実施せられつつある古文化研究所の発掘調査がますます進捗するにおいては、実地よりしてさらにこれを確め得るの希望なしとは言い難いのである。しかしながらこの有望なるべき事業も、実は今日のところ、いまだその一小局部に限られて、現在発掘中の遺址が果してある宮殿址であるとしても、これによりて藤原宮の全貌を知らんには、なおはなはだしく不十分なるものであるといわねばならず、さらに進んで京城の境域、ないしその町割等を明かにせんがためには、いっそう広範囲に捗りて慎重なる調査を施すの必要があるのである。しかしてそれは余輩のとうてい待ち得べきところではない。すなわち、やむを得ずき(215)わめて僅少なる文献と前後の傍例より推論し得たるわが都城制の理想とから演繹帰納して、現時における古文化研究所調査の結果を参考としつつ、いささかこれが臆説を試みたいと思う。
 
 
      二 本邦都制の理想
 
 大化の難波京は唐制に模倣して営まれたるわが新式都城の最初のものであった。その町割ないし広傍の詳細に至りては、今にしてもとよりこれを明かにし得べき史料を有せざるも、幸いにわずかながらも『日本紀』の記事と、後の都城の実際とから、それはかの平城、平安の諸京に見るがごとく、大小の道路によりて縦横碁盤目に区画せられたものであり、またその東西に通ずる大路をもって、京内をいくつかの条に分ち、さらに南北に通ずる大路をもって、その各条を四坊ずつに分ったものであったであろうことが朧気ながら窺知せられる。しかしてこの四坊ずつに分つということは、『日本紀』に見ゆる難波京の実際以来、藤原、平城、平安諸京に至るまで、前後を一貫して常に変らざるところであったらしい。
 
 
 (註) 各条を四坊ずつに分つということは、『日本紀』に、およそ京には坊ごとに長一人を置き、四坊に令一人を置くとあることによりて知られるのであるが、これについては実は多少の疑いがないでもない。だいたい『日本紀』のこの条の記事は、田租の規定においても令制と同じく一段二束二把とあって、これは『日本紀』の編者が、後の令制を古えに及ぼして軽率に筆を下したにはあらずやとの疑いがあると同様に、あるいは令制および編纂当時の平城京の実際から、かく速断したのではないかとも思われる。果してしからば、この点については、必ずしも古来常に四坊ずつであったと固執するほどの確実性を有するものではない。
 
 
 京城の広袤ならびに条の数は、もちろん時代の要求により、また地理の状況によりてもとより同一ではあり得ない。現に問題の藤原京のごとき、東に香久山、西に畝傍山、北に耳成山、南に剣池の丘陵がありて、必然的にその四至を(216)押さえているがゆえに、かりにその間において許し得る限りの最大なる都城を設定するとしても、とうてい東西約二十町、南北約三十町以上には及ぶことが出来難いのである。しかるに平城京に遷りては、一躍東西四十町、南北四十五町というほどの尨大なる地域を占め、さらに平安京に至りては、その北辺において平城京よりも約二町半の拡張を見るに至ったのであった。これけだし当時における発展的時勢の要求に応じたことを示すものである。
 
 また藤原京以前の大津京についてこれを観るに、かりに今の滋賀里なる蟻の内附近の地をもって宮城の域となし、京城はこれより南に向って延長したものであったとして、その東京極は琵琶湖によりて限られ、西京極は比叡の山脚によりて限られて、とうてい藤原京ほどの広袤をも許されなかつたに相違なく、さらに遡った時代の難波京にありては、いっそうそれよりも小規模のものであったであろうことが推測せられる。けだし、これまたおのおのその時代の必要に応じて設計せられたるもの、したがって、そこに大小広狭の差あるはやむを得ざるところであったとはいえ、しかもその町割の状態、特にその各条を四坊ずつに分ったであろうという点に至りては、少くも藤原京以後において、常に変らざるわが都制の理想であったと思われる。
 
 次に京内をさらに左右の両京に分つということは、すでに「大宝令」の規定するところであって、藤原京以後の諸京常にこれに随っているのである。しかし、これは京城の境域が拡張せられ、事務繁多にしてとうてい一官庁のこれを管理し得ざるがために出でたる行政上の現象であって、その狭小なる場合には必ずしもこれを要せざりしものであったに相違ない。現に藤原京にありても当初はこの区別がなかったであろうことは、前編「藤原京再考」中に述べた通りである。しかして、その以前なる浄見原宮時代の飛鳥京また同様であったことは、『日本紀』天武天皇十四年の条に、京職大夫辛檀努の名が見えて、その左右京の別をいわざることによりて知られる。さればその以前なる大津、難波の諸京にありては、もちろんその別はなかったことであろう。
 
(217) しかるに奇態にも同じ浄見原宮時代の飛鳥京について、同じ『日本紀』持統天皇三年の条には、「左右京職及び諸国司に詔して習射所を築く」とあって、ここにのみ左右の別の存在を言えることはいかにも不審である。これは『日本紀』編纂当時の例として、政府よりあまねく地方官に呼びかける場合には、常に「左右京職及び諸国司」の語をもってする習慣であったがために、『日本紀』編者は不用意にも過ってこの語を用いたものか、あるいは後の伝写者の誤記に出づるものであろう。いずれにしても左右両京の区別は、わが都制の理想上からは必ずしもこれを必要とするものではなかったといってよいのである。しかして大宝に至り特にその別を生じたことは、当時の藤原京がその所管大にして、事務の管掌を分割するの必要を生ずる程度にまで、拡張せられたものであったことを語るものと解せられる。
 
 次にわが都制において特に注意すべきことは、平城、平安の両京に見るがごとく、大小の道路が縦横ともにいずれも等距離をもって設計せられ、したがって大路によりて限られたる各坊、およびさらに小路によりて分たれたる各町の形が、いずれも正方形をなし、その面積常におのおの同一であったことである。これは唐の長安、洛陽の両都においてもかつて見ざるところであった。彼にありては坊の形は普通東西にやや長く、またその各坊の面積も必ずしも一定ではなかったのである。
 
 しかるに、これに倣って計画せられたはずのわが都城にありては、彼よりもいっそう整然たる区画をなして、いわゆる出藍の誉を有したものであった。けだし、これ規律の正しきを喜ぶわが国民性のしからしめたところであろう。なおさらに、小路によりて坊をいくつかの町に分つということのごときも、また長安、洛陽の両都において見ざるところであったらしい。しかるにわが平城、平安の両京にありては、縦横各三条の小路によりて各坊を十六個ずつの町に均分しているのである。かくてその条、坊、および町にはそれぞれ数字を冠してこれを呼び、何条何坊何町と数うることによりて、きわめて明瞭に、かつ簡単に、その所在を指示することが出来るのである。
 
(218) これまた規律の正しきを喜ぶわが国民性のしからしむるところであろう。されば藤原京以前の諸京にありても、その大小広狭によりて条坊町の数に不同はあったであろうとはいえ、その区画の原則においては、また常に同様であったことと察せられる。
 
 なおこの条坊については、数字をもってこれを呼ぶほかに、それぞれ日本風の固有名詞が附けられていたものらしい。平安京にはシナの都城の坊名を取りて、各条にこれを命じたのであったが、これはおそらく門号を唐様に改めた際からのことで、もとは日本名があったのであろう。藤原京については林坊の名が、また平城京については松井坊の名が見えているのである。
 
 京城の北部、朱雀大路の北頭に宮城がある。これは平城、平安の両京において見るところで、いわゆる天子南面の相を現じたるもの、もちろん難波京以来の新式諸京においても、また常に同様であったに相違ない。
 
 宮城の外部には周垣を繞らして、四面に各三門ずつ、合せて十二個の門が等距離をもって開かれておった。これは平安宮において見るところで、その南面中央の門を朱雀門といい、朱雀大路それから南行して、これによりて京城を左右両京に分ったのであった。この左右両京の別は、上記のごとく藤原以後の宮城に見るところであるが、宮城十二門のことはすでに皇極天皇の飛鳥板蓋宮において存在した。これは天皇の四年、大極殿上に蘇我入鹿の誅せらるるや、中大兄皇子、衛門府に命じて、一時に十二の通門を閉さしめ給うたとあることによりて知られるところで、おそらくその以前からあったことであろう。この点またこれを唐都の宮門が、必ずしも等距離をもって四面相対峙したものではなかったのに比して、きわめて整然たるものであった。けだしこれまた規律正しきを喜ぶわが国民性の現れでなければならぬ。
 
 その十二門の一に海犬養《あまいぬかい》門という名が藤原宮にある。大宝二年六月、海犬養門に震すとあるのがこれである。海犬(219)養門の名はまた平安宮にもありて、後に唐様の名に改めて安嘉門という。また平城宮には的《いくは》門および中|壬生《みぶ》門の名が見えて、これも平安宮に的門、壬生門の名があり、後に唐名に改めて郁芳門、美福門という。これらはたまたま事によりてその名が右に記録せられたに過ぎないものではあるが、ただこの三個の例によって、これら宮城の諸門の門号は、少くも藤原宮以来平城宮、長岡宮を経て、平安宮に至るまで、常に相継承したものであったことが察せられる。
 
 中にも長岡宮の場合にありては、諸国に命じて平城宮の諸門を移し建てしめたとあり、したがってその門号も、門そのものとともに新宮に移ったのであったに相違ない。この諸門のことにつきては、『拾芥抄』にはなはだ興味ある記事が収められている。
 
 「或書」に云ふ。延暦十二年正月甲午、使を山背国葛野郡宇太村の地に遣はす。都を遷さんとするなり。始め山背の新宮を造るや、同年六月庚午、諸国をして新宮の諸門を造らしむ。
 
  尾張・美濃の二国殿富門を造る。伊福部氏なり。
  越前国美福門を造る。壬生氏なり。
  若狭・越中二国安嘉門を造る。海犬甘氏なり(海犬養とあるに同じ)。
  丹波国偉鑒門を造る。猪使氏なり(正しくは猪養と書く)。
  但馬国藻壁門を造る。佐伯氏なり。
  播磨国待賢門を造る。山氏なり(建部氏の誤りなり、後にいう)。
  備前国陽明門を造る。若犬甘氏なり(山氏の誤りなり、後にいう)。
  備中・備後の二国達智門を造る。丹治比氏なり。
  阿波国談天門を造る。玉手氏なり。
(220)  伊予国郁芳門を造る。達部氏なり(的氏の誤りなり、後にいう)。
というのである。
 この記事、誤謬誤脱がはなはだ多い。けだし平安宮十二門の名称は、上記の藤原宮または平城宮以来すでにその名の見ゆる海犬養門、的門、壬生門等のごとく、朱雀門以外のものはいずれも、ある名家の氏をもって呼ばれたものであった。それは、『日本後紀』大同三年の条に、後の皇嘉門の前名若犬養門の名の見えることによりて知られる。しかるに弘仁九年に至り、菅原清公の奏議によりて、佳字を選びておのおのその名の発音に似つかわしい唐様の号に改めたのであった。海犬養門が安嘉門となり、的門が郁芳門となり、壬生門が美福門となる類これである。しかるに右の「或書」の文には、待賢門の建部氏、陽明門の山氏、郁芳門の的氏の名をそれぞれ取り違え、また若犬養門たる皇嘉門の名をも脱し、なお『拾芥抄』門号の起りの事の条を参照すれば、朱雀門の伴氏をも漏らしていることが知られるのである。なお、さらにはなはだしきことは、これら諸門を造ったという国の名と、その門号の由来を語る氏の名とを、同時に記入せることである。国がこれを造るとは、国府の事業としてその国の租税をもってこれら諸門を造営したことの謂であり、また門号の由来を語る氏の名は、おそらくかつてその寄附行為により、これらの諸門を造営したことの記念としてその氏を門号に命じたものであったと解せられる。したがって、これは決して同時のこととして両立し得べきことではないのである。
 
 ここにおいて、さらにここに列記した国名について考察するに、それは延暦十年に命を受けて平城宮の諸門を長岡宮に移建したとある時の、その国名とほぼ一致することを発見する。けだし、その移建に奉仕したことが、ここには誤ってこれを造ったこととして伝えられ、しかもさらにその長岡宮に関する事実が、平安宮造営のさいのこととして、二重に誤り語られたものであるに相違ない。
 
(221) さればこれら諸門の門号は、少くも平城宮のものが建築物とともにそのまま長岡宮に引きつがれたものであるに相違なく、しかしてそれは、さらに平安京にまでそのまま継承せられたものであったと解せられる。しかも、それは平城宮において始まったものではなく、すでに藤原宮において呼ばれていたものであったことが推測せられるのである。もっとも平安京にありては、その宮城が平城宮におけるものよりも九十丈だけ北方に拡張して、長方形の敷地となったがために、事実上その東西の両面には、各四個の門が開かれていたのであった。しかもその最北のものは単に上東門、上西門とのみ呼び、これを在来の十二門と区別して、これには特別の名称を附せず、またその構造においても他の諸門と異にして、ただ土塀を切り開いて通路を設けたというに過ぎず、ために普通には土御門と呼ばれたものであった。またもってわが都制の伝統の、容易に変更せざりし事情を見るに足ろう。
 
 以上、くだくだしくも宮城諸門の沿革、特にその門号の由来を述べたゆえんのものは、これらの諸門が藤原京以来相継承したもので、これによりてわが都制が常に前者を踏襲して、特別の事情なき限り容易にこれを変更せざりし次第を明かにせんがためであった。されば条坊の区画においてもまた同様で、常に一貫した理想をもって経営せられたであろうことが、これによりてまた容易に理会せられるであろう。
 
 もちろん地形の拘束によりて、京城の区画が必ずしも上述の理想通りに実行せられなかった場合もないではない。天平十三年、橘諸兄の計策により、怱卒の間に決定実施せられた恭仁京のごとき、これである。この京にありては、遷都まず行われて後、始めて都市計画に着手し、しかも地域狭隘にして平城京のごとき整然たる区画を施す能わず、やむなく鹿背山西道以東を左京とし、以西を右京となすというがごとき、変態の都城を設計したのであった。すなわち左京は木津川を中に挟んで今の瓶原、加茂の両地に捗り、右京は上狛、木津の両地に跨ったものであったと思われる。
 
 しかしこの場合においても、宮城は南面してこれを左京中央線の北頭に設くるという点においては、従来の都制が(222)そのまま踏襲せられたのであった。ただしこの恭仁京城は、計画のみにしていまだ実施に至らざるうちに廃せられたものらしく、もちろんその廃止の重なる理由は他に存すとするも、聖武天皇がこの新京を飽かず思召し、遷都いまだ数年ならずしてさらに他に遷り給わんとの御心を起し給いしことについては、それがわが都制の理想に副わぬという点に幾分の理由の認めらるることであろうと思われる。
 
 要するにわが都制の理想としては、もとこれを唐の長安城の都制に倣ったとはいえ、さらにいっそうその上に出でて、これをきわめて整然たらしめるところにあった。しかして、おそらくその各条を四坊ずつに分つという点においては、『日本紀』の記事を信ずる限り、大化の難波京以来、最後の平安京に至るまで、終始一貫して変らざるものであったらしいのである。
 
 
      三 藤原京の規模とその条坊
 
 藤原京の経営は、飛鳥を遠ざからんとする希望の達成には確かに失敗であったとはいえ、一面理想的新式都城を営まんとする希望には成効して、ここに妥協的成立を見たのであった。しかもその地は大体として地物の障害少き平坦の場所であったがために、ここに当時にとりて理想通りの都市計画が実施せられ得たはずである。
 
 さればこれを平城、平安の両京に比するに、その地域はなはだ狭小なるの嫌いなしとはいい難きも、これを旧飛鳥京の地のさらに狭隘なるものに比しては、当時としてはまずこれをもって満足せられたのであったに相違ない。したがって、そのいわゆる新益京なるものは、わが都制の理想通りに、縦横に交叉せる等距離の道路によりて碁盤目に区画せられたもので、大路によりてこれを条に分ち、その各条をさらに大路によりて坊に分ち、その各坊をまたさらに小路によりて町に分ったものであったに相違ない。しかしてその坊と町とは、ともにいずれも正方形のものであったろ(223)うことも、またこれを想像するに難くないのである。
 
 さらにこれを「大宝令」の規定について見るに、当時の藤原京は左右両京均斉に両分せられ、各京十二条ずつ、各条四坊ずつに分たれていたことが知られるのである。すなわち藤原京は左右京とも東西四坊、南北十二条に分たれたもので、京城全体の形は東西二に対して南北三の割合による長方形のものであった。さればこれを平城京の東西八、南北九の割合なるものに比して、いささか南北に長過ぎるの嫌いあるも、これは四方地物によりて限られたる中間の土地として、けだし自然の帰結であったものであろう。果してしからば、その条坊の大きさ、大小道路の道幅、ないし京城の広袤はどうであったであろうか。
 
 藤原京が文武天皇の御代に至りて、さらに拡張せられたであろうとの余輩の臆測、ないしそれが平城京に遷るに及びて、さらに急激なる拡張をなした事実から推測すれば、当初の藤原京はしばらく措き、その拡張せられたであろうところの大宝当時の都城にあっては、畝傍、香久、耳成の三山と、南方なる剣池の丘陵とによりて限られたる地域内において、許され得る限りの広き面積を占めたものであったに相違ない。しかしてそこに、朱雀大路によりて左右両京を分ち、各京十二条ずつ、各条四坊ずつ、すなわち両京を通じて東西八坊、南北十二条の都城を容れんとならば、その最大限において東西七百二十丈、すなわち後の町数にして約二十町、南北一千八丈すなわち後の町数にして約三十町のものでなければならぬ。すなわち各坊は九十丈四方のものでなければならぬ。それにしても、これを平城京の東西千四百四十丈、すなわち四十町、南北千六百三十丈、すなわち四十五町なるものに比するに、まさに三分の一にしか当らぬのである。
 
 ここにおいて、さらにこれを「大宝令」規定の尺度の制について考うるに、地を度るには大尺五尺をもって一歩となし、三百歩をもって一里となすとある。ここに大尺の一尺は小尺では一尺二寸となる。(この小尺の一尺は今の曲尺の(224)九寸七分五厘に当る)。したがって「大宝令」規定の大尺五尺の一歩の長さは、小尺では六尺となり、後の六尺一間(歩)というと内容においては同一である。またその三百歩の一里は、大尺で百五十丈、小尺では百八十丈となる。すなわち後の五町に相当するのである。しかるに和銅六年、尺度の改定ありて、「令」の小尺をもって大尺となし、地を度るにも一般にこれを用うることとなったのであるが、おそらくこれと同時に従来の三百歩すなわち五町一里の制を改めて、三百六十歩すなわち六町をもって一里となすこととなったらしく、奈良朝初期の施設と思わるる条里制の区画は、この新らしい尺度の制によりて設定せられているのである。すなわち歩の長さにおいては前後その内容に相違なきも、里に至りては前よりも一町の延長を見ることとなったので、けだし、これは六尺をもって一歩とし、六十歩をもって一町となすところの六進法によりて統一せんと試みたためであろう。
 
 しかしながら、その以前なる「令」の尺度制実行時代の設計に成れるはずの藤原京にありては、もちろん「令」の大尺五尺の率により、三百歩すなわち五町一里の法に準拠したものたるに相違なく、したがって、その予定地の四域を限れる地物の許す範囲内において、東西は令制による四里、すなわち大尺の六百丈、南北は六里、すなわち九百丈というきわめて都合よき完数を得て、これをもって京城の四至を定めたものであったに相違ない。
 
 かくてその南北九百丈なるものを十二個の条に分たんには、各条の幅七十五丈ずつとなり、またその東西六百丈なるものを八個の坊に分たんには、各坊また七十五丈四方の正方形の地が得られるのである(第一図)。これを「令」の小尺すなわち和銅改定後の度地尺に換算すれば、七百二十丈、すなわち二十町、南北は一千〇八丈、すなわち三十町、各坊九十丈、すなわち二町半四方となり、これを平城京に比すれば、総面積においてまさに三分の一、各坊の面積において四分の一に相当するのである。その坊の一を林坊ということ前記のごとく、けだし唐都に見るごとく、各坊それぞれに名称があったものであろう。
 
 
(225) 第一図 藤原京条坊推測図(×印.1は醍醐小字長谷田芝地,2は現今発掘中の大宮土壇,3は鷲巣神社,4は本薬師寺東塔址)
 
(226) 第二図 平城京町割図(大路中心より中心まで令制による一里,すなわち大尺百五十丈四方をもって坊となす。それを小尺にて量れば百八十丈四方となる。これより大路の幅八丈,小路の条の幅十二丈合計二十丈を減じ,四等分して各町四十丈を得)
 
 
 各坊はいずれもその四方を大路によりて限られたもので、その坊をさらに小路によりていくつかの町に区分する。
 平城京にありては既記のごとく、各三条の小路によりてこれを十六個の町に分ち、大路の幅は「令」の小尺にて各八丈、小路の幅は同四丈、町の広さは同四十丈、すなわち二、一、十の割合をもって、合せて百八十丈四方であった。これはその京設計の和銅の初めにありては、なお令制の大尺が度地尺として実行せられたさいであったから、その一里すなわち百五十丈をもって条坊の単位となしたもので、しかもさらにこれを町に再分するさいにおいては、完数を得る便宜上、特に小尺によりてこれを百八十丈と数え、もって、その区画に都合よき数を求めたものであったに相違ない(第二図)。
 
 人あるいは平城京条坊の区画が「令」の度地尺たる大尺の法により、しかもさらにこれを町に再分するにさいして、ことさらに当時の度地尺にもあらざる小尺を用いたりとなす余輩の説を疑わんとする。しかしながら、これは次に述べる藤原京城坊の区画の研究によりて、おのずから明かにせらるべきものである。
 
 藤原京にありてはどこまでも令制大尺の法によりて区画をなし、南北六里すなわち三十町を十二等分し、東西四里すなわち二十町を八等分して、ここに二町半すなわち大尺七十五丈四方の坊を得、さらにこれを小路にして、よりて
 
 
(227) 第三図 藤原京町割図(大路の中心より中心まで令制による半里,すなわち七十五丈四方をもって坊となす)
 
四個の町に分ったものやあったと思われる。
 かくて大路六丈、小路三文、町三十三文四方という、きわめて都合よき数字が得られるのである。すなわち二、一、十一の割合で、平城京の二、一、十と比例においてほぼ相近く、またこれを試みに小尺に改むれば、大路の幅七丈二尺、小路の幅三丈六尺、町の広さ三十九丈六尺となり、平城京のそれらに比すれば、大路の幅において八尺、小路の幅において四尺、町の広さにおいて四尺ずつの短縮を見るとはいえ、まず大体において相似たものであったことが知られるのである(第三図)。
 
 けだし平城京条坊の割出しは、大体において藤原京の割出しに準拠しつつ、これを面積において三倍の大きさに拡張したもので、その拡張の結果として、藤原京では半里をもって単位となせる条坊の区画を、平城京では一里単位と改めたものであったと考えられる。かくて藤原京では半里四方の坊が、平城京では一里四方となり、その一里の間に藤原京では大路二条、小路二条を通じたものが、平城京では大路一条、小路三条を通ずるの結果となった。すなわち藤原京で大路であったところのある一条が、平城京では小路となったのである。これがためにその幅の差だけが、平城京では大小道路の幅ならびに町の広さに加えられて、ここに幾分ずつの延長を見るに至ったのであるに相違ない。
 
 なお平城京設計のさいには、右いうごとく藤原京において(228)大路であったところのある一条が小路と改まった結果として、大尺をもってしては、とうてい都合よき割出しの完数を得ることが困難となり、ためにこの場合、特に「令」の小尺を応用して、大尺百五十丈なる一里を小尺百八十丈と換算し、もって大路八丈、小路四丈、町の方四十丈という都合よき数字を得たのであったに相違ない。しかしてその結果として、小尺四十丈に成れる町を分割して各戸に班給し、およびそこに家屋を建造するがごとき場合においては、自然小尺を用うることをもって便となすがために、和銅六年に至りて一般に尺度の制を改定し、度地にも令制の小尺を使用することになったと思われる。平城京が条坊の割出した「令」の大尺により、さらに坊を分つに当って小尺を用いたという、一見矛盾のごとく思わるるところのものは、これによって合理的に解釈せられるのである。
 
 上述するところ、藤原京の位置および条坊の区画については、大体において推論し得たりと信ずるも、それが今の実地の上にいかに当てらるべきかに至っては、もとよりそこに確証があるべき訳ではなく、結局はわが都制の理想上、かくあったであろうとの一臆説たるに過ぎないのであるが、現在余輩の有する一切の史料からは、遺憾ながらこの程度にて満足せねばならぬ。この以上もはや新しき文献史料の発見があろうとも思われねば、要は他日の実地上の偶然の発見、あるいはその発掘調査の結果を待って後、始めてその当否を決すべきである。しかしそれも存続わずかに十余年の都城として、ことにその後、条里制の実施によりて街路の遺影すら見るを得ざる今日にありては、当時の遺物の土中せるものも多からざるべく、したがってそれもほとんど希望少きものといわねばならぬ。
 
 ただここに多少の手懸りともなるべきは、おそらく聖徳太子の時代より存在したるべき大和平野貫通の直線道路と、ある種の地名の遺存とである。
 大和平野には南北に貫通する上中下三条の直路と、東西貫通する一条の直路とがある。前者の名はすでに『日本紀』壬申の乱の記事に見えて、その下道《しもつみち》は後に平城京経営にさいして朱雀大路に適用せられ、後の条里制設定にさい(229)しては、平野を東西に分つ場合の中央の幹線となりて、後世中街道の名をもって呼ばれている。また中道はその東約十八町にあり、さらにその東約二十町に上道《かみつみち》がある。また後者すなわち東西に通ずる大道は、河内古市より竹内峠を越え、高田を経て八木に至り、ここに下道と交わるところのいわゆる横大路なるもので、『日本紀』推古天皇二十一年に、難波より京に至る大道を置くというもの、けだしこれに当るものであろう。『首書太子伝』にはこれらの諸道を太子の設定に帰するも確かではない。しかしてこれらの道路が現状をなせることについては、もちろん例の条里制設定にさいして、多少の移動のありたることを考慮に入れねばならず、その以前にありては、おそらく上中下の三道は、令制の四里、すなわち二十町ずつの間隔を有したものであったかとも推測せられる。
 
 果してしからば、いわゆる下道は今の中街道の西約二町にあり、それを藤原京では右京三坊大路に当て、西京極はその西二町半、すなわち大体において今の関急線路と一致し、東京極はそれより東二十町、すなわち今の鴨公村法華寺と香久山村出合の中間より、香久山村下八釣および木之下を経て、飛鳥村小山に至る道路に当るものであったと推測せられる。
 
 また北京極はおそらく耳成山の南麓を東西に通過したもので、横大路はほぼ藤原京の一条南路に当り、南京極はそれより南二十八町、すなわち剣池丘陵の西北脚を掠めて東西に通じたこととなる。かくて前より存在した薬師寺は、右京九条一坊、二坊を占めることとなったのであろう。
 
 なお藤原京の条坊について考え合すべきことは、今も白檀村に字四条の名があり、またその四条部落の東北に、東五条、西五条の小字の存することである。この地は路西条里にて二十六条に当るがゆえに、その四条または五条の名は条里から得たとは思われぬ。しかるに右の条坊の推定によれば、その地は京極外に属すとはいえ、その小字の五条はまさに京内五条の延長線上に当り、必ずしも偶然の地名として棄て難きものがある。またその字四条の名が五条(230)の南に当るということは、いずれにしても不合理の現象で、これはおそらく、もとその北方なる京内四条の延長線上に起った部落が、なんらかの都合で南方に移転し、依然旧称を襲いだものかと思われる。
 
 かかる例は他にも多く、平城京址においても京内七条の地に今八条村があり、八条の地に今九条村があるものもって参考となすべく、平安京においても、六条坊門通に五条橋が移転して、今は、その道路に五条の名が呼ばれている事実もある。なお地名の移転については、近く畝傍山の東北隅にあった洞部落が、大久保部落の北に移りて、依然洞の名をもって呼ばれている実例が眼前に示されているのである。されば余輩はしばらく右の臆説を提示して、徐ろに後の発見を待とうとする。
 
 かく仮定することによって、しばらく藤原京の位置および広袤を地図上に描出し得たとはいえ、果してそれが当初よりの境域であったか否かの問題は別に存する。前編「藤原京再考」述ぶるごとく、藤原京はその経営の中途において当初の方針を変更し、新たに拡張せられたものとして考えられ得ぬでもないのである。
 
 もともと天武天皇は飛鳥の地を去り給わんとの多年の御希望を放棄し給い、最後には京師を巡幸して宮室の地を定め給うたとあるほどで、このさいにおいては、もはや別に新都城を造り給わんとの御意志はなかったことと察せられる。しかしてその新宮殿は間もなく完成し、朱鳥の改元とともに宮名を飛鳥の浄見原宮と定め給うたとあるのである。したがってその後を承け給いたる持統天皇の御代にありても、当初は単にいわゆる新益京くらいの意味において、飛鳥旧京を拡張する程度の御計画であったと考うることも、必ずしも無稽の想像とのみは言われまい。要は飛鳥の郊外に新市街を設け、これを宮城および諸臣の邸宅の地となさんとするに過ぎなかったと考えられる。
 
 しかし、これを多年飛鳥の地に狭く納まりたりしものに比すれば、ただそれだけの拡張をもってしても、当時にとりては満足せられたものであったのであろう。かくて御代の五年十月、いよいよ新益京を鎮祭し、ついでその町割の設(231)定成るや、十二月詔して、右大臣正広参多治比真人島に宅地四町、直広弐以上の有位者に各二町、直大参以下直広肆以上の有位者に各一町、勤位以下無位に至るまで、その戸口に随って上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一町を班給し給い、王等またこれに准ずとある。当時の位階、諸王以上には明位三階、浄位四階、各大広ありて合せて十二階、諸臣には正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、毎階大広ありて併せて四十八階であった。その令制位階との相当は不明なるも、大体において直広弐以上は三位以上、直大参以下直広肆以上は四位五位、勤位以下は六位以下に当るもののごとく、聖武天皇天平六年九月の難波京内の宅地班給のさいには、三位以上一町、五位以上半町、六位以下四分一町とある。これは藤原京における班給よりもその与えらるるところ、よほど狭小ではあるが、元来難波京が地域狭隘であったであろうことのうえに、その被班給者の数も藤原京時代に比してすこぶる多かるべく、ことに彼らはすでに平城京にその本邸を有し、難波は別邸くらいの意味であったであろうから、必ずしもその面積を相比較すべきものではない。
 
 ここにおいて翻って藤原京当時の有位者の数について考うるに、その『公卿補任』に見ゆるもの以外はもちろんこれを明かにし得難く、『日本紀』持統天皇五年ないし七年条に見ゆるところにては、諸王以上の位階において明位に当るもの一人もなく、第二階の浄位が六人、また諸臣の位階にては正位が二人、直位が十九人、勤位が二人、務位が二人を見出し得るに過ぎないのである。しかし、これはたまたま事をもって史にあらわれたもののみの数であって、その以外にさらに幾人の有位者があったかはもとより窺知すべき限りではない。また『続日本紀』以下の例、六位以下は特殊の場合のほかその異動を史に記録せぬ筆法であったことを思うに、『日本紀』においてもおそらく勤位以下は漏して伝えなかったものが多かったであろうと考えられる。
 
 したがって、これによって当時の班給数を知るを得ざるはもちろんながら、かりに四町のもの大臣二人、二町のも(232)の直広弐以上十人、一町のもの直大参以下直広肆以上及び勤位以下の上戸を合せて四十人、半町のもの勤位以下の中戸八十人、四分一町のもの勤位以下の下戸百六十人であったとしても、その要するところ百四十八町に過ぎないのである。されば当初の方針としては、いわゆる新益京はさまで広闊なる地域を要求せざりしものならんも、いよいよこれが実施の暁においては種々の慾望も生じて、たちまちその狭隘を感じ、さらに拡張を必要とするに至ったのではなかったかと察せられる。
 
 ここにおいて、しばらく右の仮定に従ってその推移を考うるに、当初はその地域も狭く、したがって大宝以前の京城に左右両京の別がなく、それが中途に拡張せられて令制に至り、始めてその区制が認められた理由も了解せられるであろう。しかしていわゆる新益京なる新市街は、宮城および有位者、在官者の邸宅の地に限られ、その地域は旧飛鳥京に近接したる場所において求むべきものであったであろう。なお、その四至いかんについてはさらに後節において考察せんとする。
 
 新益京経営後においても、従来の飛鳥京内の市街は依然として保存せられ、この新益京とともに同じ飛鳥京を構成して、ともに一京職の管下に属したものであったであろう。しかるに京城が拡張せられ、左右京が分たるるに及びては、物資興販の公設市場を始めとして、有位者および在官者以外のものも往々この新市街に移転して、ために旧市街の地は自然京外に置かるるに至ったものではなかったかと考えられるが、これは確かでない。
 
 
       四 藤原宮とその宮殿
 
 左右京を分った大宝以後の藤原京城において、中央の大道たる朱雀大路の北頭に宮城があったであろうことは、わが都城制の理想からもちろん推測せらるべきところである。唐制には宮中、府中の別により、皇城と宮城との差別が(233)あったが、わが平城京以下の帝京にはこの別を見ず、同一宮城内に内裏と朝堂とが並び存する状態であった。これは彼此その国情を異にし、我にありては皇室即国家という思想がいっそう濃厚であったためで、したがって藤原京にありても、おそらく同様であったかと考えられる。ただし、これについては多少の疑問がないではないが、これは便宜上、後に宮城境域を攻究するさいに述べることにする。
 
 藤原京に前後の別があったであろうとの余輩の仮定説に従えば、その宮城の位置その他においても、また当然前後その別あることを認むべく、かの慶雲元年十一月、始めて宮地を定むとあるものは、その拡張後の宮城であったと解せられる。しかして、その位置は、これを実測図上について試みに持出した余輩の条坊図(第一図)によるに、その朱雀大路の北頭、耳成山の南麓よりやや西南に渉りて設定せられたものでなければならぬ。これを文献に微するに、『釈日本紀』引くところ『氏族略記』に、「藤原宮は高市郡鷺栖坂の北の地にあり」とある。
 
 また『扶桑略記』には、「大和高市郡鷺栖坂の地是なり」ともある。延喜式内に高市郡鷺栖神社の名があり、今の白橿村大字四分なる鷺栖八幡宮、けだしこれに当る。その地ほぼ香久、畝傍両山中央の南北線上に当り、かつて藤原京の朱雀大路がこの附近を過ぎ、宮城がその北頭にありしものとして、その地理まさに相符合するのである。ただし現今ここには坂というべきほどのものはない。その東南に当りて日高山および小山の小丘陵はあるも、それはやや東に偏して右の条件には副わぬ。
 
 あるいは思う。『古事記』垂仁天皇の条に鷺巣池の樹の話があり、かつてそこにもと小丘ありて、鷺栖坂の名が呼ばれたのであったが、後にその丘が取り崩され、池を埋めて、ために失われたものであったかも知れぬ。現に耳成山の東北約五町なる高塚部落の名は、かつてここに高き古墳の存在したことを示し、またその小字にも南北三町に渉りて南大塚、中大塚、北大塚の名があり、また南大塚の東一町の地を東大塚と呼んでいるにかかわらず、現今そこ(234)にはなんら高塚または大塚らしきものが存在せぬのである。けだし、かつて取り除かれたるもの、これもって傍例となすべきものか。
 
 あるいはその「坂」は「池」または「杜」の誤写であるかも知れぬ。いずれにしても今の鷺栖八幡宮の地が推定朱雀大路の西半町ばかりの位置にあることによりて、宮城の所在は、当然その北方に求めらるべきものであるとの推定は動かし難い。
 
 さらにこれをその実地に徴するに、余輩、いま山間の温泉地に転地保養中のこととて、不幸にして現在の状態いかんを明かにするの機会なきを遺憾とするも、かつて大正の初年に調査したところによれば、鴨公村大字醍醐部落の西北約二町なる小字長谷田の地に一つ芝地があり、高さ約五尺、根廻り約十問、伝えて長谷寺に関係ある寺址として、古来厳重に保護して破壊するを許さずとのことであった。
 
 また長谷田の東一町を堂垣内といい、その南一町を寺の前といい、寺の前の東一町を音羽という。音羽と寺の前とは現今醍醐部落のある所である。また音羽の北、堂垣内の東一町を大木といい、大木の北一町を金池といって、これは上下二つの坪に分れている。堂垣内および寺の前が寺院に関係ある地名なることはもちろんであり、大木はかつてここに著名なる大樹の存在したことを語るものである。かかる田園の間において地名にまで呼ぼるるほどの大樹の存在したということは、それがなんらかの古い由緒を語るものでなければならぬ。また金池はあるいは金焼ともありて、その名義は明かでないが、大和平野には所々にこの名の地があり、多くは寺址その他由緒のある場所に関係して存するのである。さればこの地域一帯が、かつて大寺の敷地であったことは疑いを容れないであろう。
 
 明治四十四年中この音羽と寺の前との間を流るる小川の中、および堤、ならびに民家の床下に三個の礎石が発見せられた。その川の中にあらわれたもの径約五尺、それより約五間を隔てて二個、南北に位置していたという。けだし(235)かつてここに存した寺院の礎石であろう。しかしてその寺院なるものが藤原宮といかなる関係を有するものか、恭仁京大極殿が国分寺となった例も参考とすべく、なおこれについては古文化研究所の発掘調査が望ましいものである。
 
 宮城の広袤については、文献上もとよりこれを明かにすべきほどの史料があるべしとは思われぬ。他日あるいは発掘調査の結果として、なお平城宮の周湟が先年偶然の発掘から発見せられたるがごとく、実地についてこれを確かめ得べき希望なきにはあらざるも、それは今の問題ではない。ただ、ここにわずかに手懸りとなるべきものは百姓の宅、宮中に入るもの一千五百五烟の語である。もちろん当時の百姓の宅がなんらの面積を有したか、またその宅地が密集していたものか、あるいは分散したものであったかも明かならぬ以上、これによりて宮城の面積を割出すことはとうてい不可能なるべきも、今かりに一戸平均百歩(坪)の宅地を有し、それが密集したものであったとしても、総計十五万五百歩、すなわち約四十二町歩の面積を要したはずである。
 
 これを方形の地面とすれば、約六町半四方の地となる。平城の宮城は約十町四方、すなわち約一百町歩の面積を占めたものであった。藤原京は面積において平城京の三分の一に過ぎざるものであったとはいえ、それはおもに有位者、在官者の邸宅の地として設計せられたためであったと思わしく、宮殿および諸官省の数においては、同じ「大宝令」官制の実施せられた時代として、前後においてそうはなはだしき相違があったとは考えられぬ。
 
 したがって、これをやや狭小なるものであったとしても、藤原宮城の境域は少くも方七町半、すなわち面積において五十五町四分の一くらいの地を占めたことであろうと思われる。すなわち余輩の試みに持出した藤原京条坊図において、北は北京極より、南は三条大路に及び、東西は左右両京各二坊の中央小路に及ぶほどの地域、すなわち当時の制によりて四方一里半の地域を占めたものであったかと思われる。あるいは特にこの藤原京にありては、地形の制限よりその京城が比較的南北に長く延びたものであったがために、宮城もまたこれに準じて、比較的南北に長きものであ(236)ったかとも想像せられる。
 
 果してしからばその広袤は、当時の制によりて東西一里、南北二里の完数により、東西五町、南北十町、すなわち面積において五十町歩、北は北京極より、南は四条大路に至り、東西は左右両京に渉りて各一坊大路を限るものであったかも知れぬ。
 
 和銅三年正月、元明天皇、藤原宮大極殿に御して朝を受け給うに当り、皇城門外朱雀路に騎兵を陳列したとの記事から考うれば、あるいはこの藤原宮にありては、なお唐の長安京に見るごとく、皇城、宮城の別がありて、各一里四方の正方形の地を占めて南北に連っていたのであったかと思われぬでもない。しかし、これらはただ試みに言えるのみで、その重きを措くに足らぬものたることは勿論である。
 
 現今、古文化研究所の手で発掘調査しつつある鴨公国民学校の敷地は、鴨公村醍醐部落と高殿部落との中間に当り、ここにも土壇があってその地、字を大宮という。またその附近に西冲殿、東冲殿、倉町、クミラ町、宮所、北城殿、南城殿、中殿などの名もありて、いかにも宮址に関係ありげに思われ、現に古文化研究所においても、これを藤原宮址なりとの推定の下に、調査を進めておられるのである。
 
 旧説では、通例藤原宮をもって飛鳥の東なる小原の地に擬したこと前編に述ぶるがごとく、しかしてこの説に対して、この大宮を中心とする地域をこれに当てんと試みたものは、余輩の知れる限りでは、明治三十年ころに伊勢山田の人木村一郎氏の唱道したのが初めであった。
 
 木村氏はもと小学校の教員として、皇蹟探究に没頭し、はてはその教職を擲ち、妻子をも捨てて、当局者や学者の間に遊説し、最後に最も悲惨なる終りを東京養育院に取られたほどの気の毒な熱心家であったが、つとにこの地の小字や『万葉集』所収の藤原宮御井の歌によりて、小原の旧説を排し、この大宮をもって藤原宮大極殿址となすの説を(237)唱え出されたのであった。いずれ古文化研究所の発掘調査によりてその実相が明かにせらるべく、余輩はこれを待って後さらに考えてみたいと思う。しかしながら、今日までに知り得たるところでは、大宮土壇の上には確かに南面した建築物の址が認められ、またその東西の低地には、おそらく左右相対して中央の土壇に向い合った建築物のあったことも知られ、さらにその左右の建築からは北に向って廻廊が一周していたであろうこともほぼ推測せられるのである。
 
 なお、これらの地域からは、藤原宮経営当時のものと思わるる廃瓦も少からず発掘せられているのである。余輩は当初、藤原宮をもって耳成山に近く存在したと考うる立場から、この大宮土壇をもって当時の一の寺院址ならんと推測したのであったが、今これらの建築物の配置から考うれば、これはもと寺院として創設せられたものではなく、おそらく当初はやはり宮殿として建築せられたものであったろうことを肯定せざるを得なくなった。しかしながら、その地は前記長谷田なる芝地よりは東南約六町を隔てて、とうてい余輩の試みに描出した京城図の宮城敷地には適合せぬ。もしこれをもって強いて藤原宮城の地となし、この正南に朱雀大路を求めて、その東西に左右両京を置き、各京東西四坊、南北十二条の本文に従いて、京城の広袤を東西二、南北三の割合に設けんには、東を香久山に限り、南を剣池丘陵に限る範囲内において、東西三里(令制)すなわち五百四十丈(「令」の小尺にて)、南北四里半(同上)すなわち八百十丈(同上)以上なる能わず、かくてこれを後の平城京に比するに、五分の一の面積にも足らざるものとなり、それはあまりに狭隘にして、とうてい首肯する能わざるものといわねばならぬ。
 
 なお、さらに考え合すべきことは、その出土の廃瓦中、火災に罹りたりと認むべきものはきわめて僅少なりとの事実である。これまた和銅四年に焼亡したという藤原宮としては、相容れ難きものといわねばならぬ。よりて思うに、この遺蹟が果して宮城であるとしても、それはおそらく最初の藤原宮なるものであろう。しかして、その当時のいわ(238)ゆる新益京なるものは、この宮城を北頭に置き、それより左右及び南に向って延長したものであったであろう。
 
 しかしてこれを拡張したる後の藤原京は、さらにこれを西に一里、北一里半を延長したものとして、余輩の図示するごとく、東西四里、南北六里の京城をなしたものであったであろうと想像せられるのである。
 
 宮城内には内裏、朝堂、および諸官衙がある。またその宮殿としては、大極殿、新宮正殿、大安殿、東安殿、西殿、小安殿、東楼、西高殿、西閣、西楼等の名が国史に見えている。その大極殿が朝堂の正殿として、国家政務の正庁であるはいうまでもない。またいわゆる新宮正殿とは『続日本紀』にこれを大安殿と並記したることを思うに、これは大宝のさい新宮城において新たに成れる大極殿のことであろう。
 
 次に内裏は天皇御住居の宮殿の所在地で、平安宮ではここに紫宸殿、清涼殿等の主要建物があったが、藤原宮にはそれらの名は見えぬ。内裏はいわゆる宮中にして、朝堂はいわゆる府中に当る。宮中、府中の別は先代以来すでに存在していたのであった。その位置の関係は明かでないが、後の平城宮においては、宮中たる内裏が朱雀門の正面、すなわち宮城の中心線上にあり、府中たる朝堂は東に偏在していたのに対して、平安宮ではそれが反対となり、朝堂が朱雀門の正面に位置して内裏はその東に偏在したのであった。さればこの推移より逆推するに、藤原宮ではやはり内裏が宮城の中央線上に位置したものであったかと推測せられる。これけだし時代思想の変遷として、かくのごとく前後によって位置の変更を来したものであろう。古代にありてはいまだ宮中、府中の別がなく、天皇の御家たる大家《おおやけ》が、ただちに公すなわち国家を意味する。皇室すなわち国家であったのである。しかるに政務次第に繁雑に赴くとともに、ここにその正庁たる朝堂と、天皇の御住居たる内裏との分離を生じ、しかもなお平城宮までは旧によりて内裏が正面の位置を占め、朝堂はこれより分れ出でたる形を表わしたのであったが、平安宮ではまずもって天皇の政治を看そなわす朝堂の方に重きを置き、これを正面に引き直したものであったと察せられる。
 
(239) 大安殿以下の諸殿については、平安宮にその名なきがゆえにこれを明かにすることが出来ぬ。旧説あるいは大安殿をもって大極殿の別名とする。『日本紀』に大極殿をオオアンドノと読ませてあるものこれである。しかしこの両者の別殿なることは、すでに浄見原宮において大極殿と大安殿との名が並びて存在し、ことに『続日本紀』には、「大宝元年正月朔、天皇大極殿に御して朝を受け、戊寅、天皇大安殿に御して祥瑞を受く、告朔の儀の如し」と、明かに両殿の区別を示し、また恭仁京において、「天平十四年正月朔、百官朝賀す、大極殿未だ成らざるが為に権りに四阿殿《あずまや》を造り、ここに朝賀を受く、壬戌、天皇大安殿に御して群臣を宴す」などあることによりてきわめて明白である。すなわち浄見原宮にも、藤原宮にも、また恭仁宮にも、大極殿とは別に大安殿なるものがあったのであった。しかしてその大安殿は、大極殿が朝堂の主要建物であるに対して、おそらく内裏の主要建物であったかと思われる。『日本紀』の傍訓は、けだし当時大安殿の名なく、ためにその故事を忘れた平安朝の博士らが、軽率に施したものであろう。
 
 大安殿に対して小安殿の名が大宝三年十月の条に見えて、「天皇小安殿に御し、詔して遣新羅使及び新羅王に物を賜ふ」とある。平安宮では大極殿後の一殿を、後殿とも、また小安殿ともいうとあれど明かでない。東安殿の名また平城宮以後に見えぬ。天智天皇の大津宮には西小殿という名があって、『日本紀』にニシノコアドノと訓じてある。西小安殿の義をもって下したものであろう。藤原宮には東安殿に対して西安殿があったはずである。その名の『続日本紀』に見えぬのは、たまたまこの殿に関して伝うべき事蹟がなかったがためであろう。
 
 また浄見原宮には、大安殿のほかに内安殿、外安殿、向小殿などの名があり、平城宮には中安殿、内安殿、内南安殿などの名も見える。もし大津京の西小殿を西小安殿とすれば、浄見原宮の向小殿も向小安殿であるかも知れず、大津宮の内裏西殿もまた西安殿であるかも知れぬ。安殿の義は明かでないが、あるいは天皇御安息の宮殿として、大安殿以下多くは天皇の御住居たる内裏の諸殿であったと見るのが妥当であろう。
 
(240) また西高殿とは、大宝二年条に西閣、また慶雲元年条に西楼とあると同じものなるべく、これに対して東楼の名も見えている。平安宮には大極殿前方左右に蒼龍楼、白虎楼がある。あるいはこれらに当るものか。はた翔鸞、栖鳳二楼のごときものか。
 
 ここにおいて、これを現今、古文化研究所の発掘調査中に係る遺蹟について観るに、それが当初の藤原宮址であるとしても、果して朝堂址なりや、また内裏址なりや、換言すればその中央なる大宮土壇上に存した建築物が、果して大極殿なりや、あるいは大安殿なりやについてすでに問題がある。また、その左右の平地に相対峙して存する建築物の遺址が、果して東西の安殿址なりや、あるいは東楼西楼なるものに該当するものなりしやをも明かにすることが出来ないのである。
 
 ただしその地、字を大宮と称することから考うるに、平城宮址にありては、現に土壇その他を存し、史蹟として指定保存せられた朝堂址の西方に当り、朱雀大路の延長線上に字大宮と称する地がある。しかしてそれが内裏址であると推定せられることによって、この大宮土壇を中心とする地域も、その地名からおそらく内裏址であったと思われる。果してしからば、いわゆる大宮土壇は大安殿址であり、その左右にあるものは、おそらく東安殿および西安殿の遺址であろうと推定せられるのであるが、もちろんそれも確かではない。もしさらにその附近から朝堂址に擬すべきものが発見せられたならば、始めてそれが決せらるべきである。現に発掘中の字大宮の西一町を当の坪といい、さらにその西一町を金詰、南一町を北城殿といい、北城殿の西、金詰の南一町を菰田という。金詰および菰田からも藤原京時代の古瓦と思しきものがいくつも採集せられて、今現に鴨公国民学校に陳列せられている。けだし、これらの地にも当時相当の建築物があったのであろう。さればこれらの諸問題を解決せんには、あまねくこれらの地域に渉りて発掘調査を重ねた後でなければならぬ。
 
 
(241)       五 結  語
 
 藤原京の条坊および宮城の位置その他について、余輩の有するきわめて僅少の史料から、試みに演繹帰納して得たる余輩の推論はほぼ右述ぶるところに止まる。その大要はすでに大正二年一月以降発表の「藤原京考証」中に述べておいたところであるが、その後条坊の割出し方に多少の誤解のあったことを発見して、いつかはこれを訂正したいと念願していた折から、たまたま佐伯君の需めに応じてこれを考え直すの機会を与えられたことは欣快の至りである。余輩がかつて発表した藤原京条坊の町割の誤解に心付きたることは、去る昭和九年奈良における夏期講習会のさい、余輩が平城京条坊の割出し方を説明するに当り、臨席の足立康博士より与えられたる質疑からそのヒントを得たのであった。足立君は、余輩が平城京の条坊を分つに当りては、「令」の大尺によりてその一里を坊の単位となしながら、さらにこれを町に分つに当りて、ことさらに小尺を用うとなすところに疑念を挟まれたのであった。余輩この有益なる質疑に接して、さらに藤原京について考えたる結果、藤原京にては上記のごとく、条坊および町の割出しともに令制の大尺を用いたものであったろうとのこと、また平城京にては小尺によらざれば町の割出した完数を得難かりしこと、かくてその結果として、和銅六年の尺度制改定も起ったのであろうとのこと等の仮定説を得るに至ったのであった。これについては厚く足立君に感謝せねばならぬ。
 
 次に現時発掘調査中の大宮土壇については、余輩は当初、故木村一郎氏のこれを藤原宮址に擬定せんとなす説を否認して、上記のごとくおそらくある寺院の遺址ならんと考えたのであった。それはこの地が畝傍、香久両山との距離より見るも鷺栖神社との位置の関係より見るも、藤原宮址としてはとうてい余輩の推論から得た条件に副わぬのみならず、小字大宮の西一町を当の坪と称することが、おそらく塔の坪の義であり、もとここに塔婆の存在を語るもので(242)あると考えたがためであった。しかるに今回の発掘調査によりて、その建築物の配置がこれを寺院としては承認し難いものであることを教えられた。これは古文化研究所の調査に対して、感謝せねはならぬところである。ここにおいて余輩はこれを慶雲元年、藤原宮地決定の不可解なる記事と併せ考えて、藤原京城にも、また藤原宮城にも、ともに前後その別があったであろうとの仮定説を案出したのであるが、しかし、これがためにいまだその寺院址説を放棄したのではない。この地がよしや当初の宮殿址であるとしても、余輩がこれを寺院址なりとなすの理由はなおそのままに存している。新田部親王の邸宅が唐招提寺となり、後に弘仁年間に至りて塔婆が建築せられたがごとく、ここでも新宮城が北の方耳成山に近く営まれた後に、旧宮を捨して寺院となしたものではあるまいか。この宮廃せられて後に、その地がさらになんらかの敷地として再用せられたであろうことは、大宮土壇の東方、おそらく東安殿址ならんと思わるる場所の附近に、廃瓦を敷き詰めて南北に一条の通路を造ったのではなかろうかと思わるる遺址の存在によって察せられる。しかしてそれは、余輩の寺院として保存せられたであろうとの推定を幾分か裏書きすべきものであると思う。しかし、いずれにしてもこれらは仮定説の範囲を脱せざるものである。さらに現在の発掘調査の進行によりて、考究を重ぬべきものがあろうと信ずる。
 
 古文化研究所の研究当事者がいまだその結果を発表せざる以前において、傍観者たる余輩が新聞記事その他当事者の説明等に基づきて、かかる揣摩憶測の説をなすということは、礼においていささか欠くるの嫌いなきにあらざるも、今はその発表を待つのいとまなきままに、あえて非礼を顧みず試みにその所見を披瀝して佐伯君に贈る。もしいくらかにても当事者その他の参考ともならばと祈るとしかいう。
 
 
(243)  後編 藤原宮移転説について
 
      一 序  言
 
 藤原京の沿革については、前述の通りかつて『歴史地理』の誌上に管見を発表し、その後小冊子『帝都』を編するに当り、その中にこれが梗概を収録したことであった。しかし当時は主として貧弱なる文献史料に基づき、わずかにその附近の地理的状況を参考して、もっぱら推理上よりの臆説を試みたに過ぎないものであったから、その条坊の区画、ないし宮城の位置等、実地の諸問題に関しては述べて詳しからざるもまたやむを得なかった。しかるに近時古文化研究所の事業として、足立康博士主任の下に実地の発掘が行われ、従来知られざりし遺蹟の実貌が次第に明かにせられつつあるのである。もちろんこの調査はいまだ完成の域に達せず、古文化研究所の責任ある報告はいまだ発表の期に至らざるも、その進行の状況はしばしば新聞紙上に報道せられて、余輩局外者もこれによりて啓発せらるるところがすこぶる多く、ためにかつて発表した管見に対して、修正増補を加うべきもの尠からざるを感ずるに至った。
 
 余輩のかつて発表したところは、もっぱら当時の都城制の理想から出発して、京城の四至を畝傍、香久、耳成の三山、および南方なる剣池の丘陵をもって局限せられたる地域中において最大限度に推定し、さらに「大宝令」の規定に基づきて、試みに左右両京、東西各四坊、南北各十二条の条坊を描出し、宮城はその両京を分てる朱雀大路の北頭、耳成山の南南西なる鴨公村醍醐部落の附近にありとし、部落の西北方に現存せる小字長谷田の小土壇をもって、(244)おそらく当時の主要なる宮殿址ならんと考えたのであった。しかしてこの考察は、大体において今なお変更すべき理由を発見し得ないのである。
 
 しかるに一方には、この地を距る東南約六町、同村高殿区内なる鴨公国民学校の校庭にも一の土壇址らしきものがあり、その小字を大宮と称し、また附近にも宮城に縁故ありげな地名も多く、古瓦の出土も少からぬとのことから、明治三十年ころ故木村一郎氏は、熱心にこれをもって藤原宮址なりとするの意見を唱道したもので、その説が認められて、ここに、宮址の標石の設立を見るに至ったのであった。しかしそれは、当時の都城制の理想上より、余が推測せる京城の四至をもってしては位置がやや東南に偏在して、とうてい容れらるべきものではないのである。しかもその大宮土壇の西には小字当の坪の名があって、それは塔の坪の義なるべく、したがってその土壇や古瓦はかつてここに寺院の存在したことを示すもの、また宮殿に関係ありげな地名については、允恭天皇の皇妃|衣通《そとおり》姫の藤原宮に関係して呼ばれたものではなかろうかとまで考えて、ともかくも持統・文武両天皇の藤原宮とは直接の縁故なき遺蹟として放置したのであった。
 
 しかるに近時、古文化研究所は、故木村氏主張の高殿区内なるこの大宮土壇を中心として、その附近に学術的発掘調査を試み、そこにいくつかの建築物の遺址を発見した。しかしてその建物の配置その他の状態は、もちろんこれを衣通姫の藤原宮に擬すべきものではなく、またかりにそれが寺院址であるとしても、当初より寺院を目的として造営せられたものとしてはやや不適当なるゆえんを語るものであることが知られた。けだし、これは確かに持統天皇御造営の藤原宮址と認定すべきものである。したがって、余が旧説は、ために少くも一部の変更を加うべき必要にせまられた。これ一に古文化研究所調査の賜であると感謝する次第である。
 
 ここにおいて余は考えた。藤原京城にも、また宮城にも、造営当初と最後のものとの間に異同があり、当初は単に(245)
新益京として、旧飛鳥京を西北郊外に拡張し、ここに街衢整然たる新式都城を営んだもので、したがってその宮城も高殿区内なる今の大宮土壇を中心とした地域に設けられたのであったが、実施後久しからずして一にはその狭隘を感ずるに至り、一には雑駁なる旧飛鳥京と、条坊を区画した新益京とを連絡した京城に不満足を感じた結果として、「大宝令」の制定に見るがごとく、新たに左右両京を分ち、各四坊十二条ずつの東西均斉なる理想的都城を経営するに至ったのであろうと。かくて、その京城拡張の必然的結果として、宮城の位置も当然変更せざるを得ず、ために醍醐地域なる長谷田土壇を中心とした宮城が営まれ、高殿なる旧宮殿は寺院として存置せられたものであろうと考うるに至った。さきに佐伯啓造君の依頼によりて、「藤原京再考」および「日本都制と藤原京」の二篇を執筆したのは、一にこの見地から出発したものである。
 
 しかるにその後『史蹟名勝天然紀念物』第十一集第七号において、足立康博士は別に「藤原京拡張説」と題する一論文を発表せられて、ついでに余がさきに佐伯君の需めに応じて発表した二編述ぶるところにつき、幾多の疑問を提示せられた。
 
 足立博士のいわゆる拡張説は、余の見るところとはなはだしくその理由とするところを異にする。もちろん博士は古文化研究所発掘主任当事者として、その完成以前に詳細を発表し得ぬ立場におられることはお察しするが、その提示せられたところはいずれも消極的のもののみである。
 
 一、『大宝令』に左右両京の制があり、その以後左右京に関する記事が始めて見え出したこと。
 二、大宝元年に像宮官を昇格したこと。その翌年、造大殿垣司の任官があったこと。
 三、『続日本紀』に慶雲元年始めて藤原宮地を定むとあること。
 四、『帝王編年記』に大宝三年始めて東西市を立てたとあること。
(246) 五、『続紀』に和銅元年左右京職に始めて史生六員を置いたとあること。
 六、同書に大宝元年大安・薬師両寺の造営官を陞格したとあること。
 右のうち第二以下の諸項は、藤原京が持統天皇の御代にすでに完成していたものとすれば、いかにも不審の記事であるが、それが大宝前後に拡張されたものとすれば、いっこう不思議ではないと言われるのである。大体はその通りで、これらはたいてい余が本冊前編、中篇において詳説しておいたところであるから、今さらあれこれ言うべきではないが、しかしそれはなんら直接藤原京の拡張を立証するものでないことを断っておく。なおそれについて足立博士は、その見地から藤原宮の遺址、その京の広袤、遷都の事情等に関する問題を初めとし、その他藤原宮および京に関する諸問題を考えるうえに、従来とは全く異なる視点を与え、みずから別個の新解釈を可能ならしめるのであるが、いまだそれを論ずる自由を持たぬから、ここでは一切割愛することとし、その代りこの説を利用して立てた喜田の新説を紹介し、あわせてその疑点について示教を求めると言われるのである。
 
 ここに「この説を利用して」とは、余が足立君創見の新説を利用したとの意味か、それとも「大宝令」以来、左右両京に分れたとのことを利用したとの意味か。後者ならば問題はないが、しかし「大宝令」によって左右両京に分れたとのことから、何も京城が拡張せられたという結論があらわれては来ぬ。弘仁十二年に越前から加賀が分立したからとて、何も越前の地域が拡張したのではなかったことを思うべきである。ただこれに加うるに前記の足立君提示のような種々の傍証が参考せられて、始めてそんな想像説も幾分考え得られるのではあるが、しかもそれはとうてい傍証であり、想像説である程度以外には出で能わぬのである。藤原京が拡張せられたであろうとのことは、藤原宮が前後その位置を異にしたであろうとのことの仮定のうえにおいてこそ、始めてややその真実味を増すことを得るのであるが、しかし、その説は何も「大宝令」に左右両京の別あることを利用した訳ではない。もし強いて「利用」などい(247)う気持の悪い語を使用すべくぼ、それは古文化研究所の発掘によりて大宮土壇附近の実貌が明かにせられ、大宮に接して当の坪(塔の坪の義か)の地名のあることによりて、従来それがある寺院址であろうくらいによい加減に空想していたところのものが、たといそれが寺院址であったとしても、当初はやはり宮殿として建設せられたであろうことがほぼ認識せられたというところにある。また、もしそれが足立君の新説を利用したとの意味ならば、それは自分にとってまことに迷惑千万のことと言わざるを得ぬ次第である。余の考証のどこに君の新説を利用したと言われるのか。しかしそんなことはどうでもよい。誰がでも考え得られるようなことに文字による発表の前後を争うの必要はない。足立君が先年『大和志』上に藤原京の左右両京のことを述べられたについては、早速同感の意を同君に通じたことはあったが、自分は何もそれを利用して新説を立てたとは思っておらぬ。
 
 
      二 足立博士の疑問とせらるるところにお答え(上)
 
 余の宮城移転説に対して、足立君のもって疑問とせられるところは多岐に渉っておる。それについてお答えする前にまずもって弁明しておかねはならぬことは、君が余の説の藤原宮の位置をもって、しきりに「耳成山南麓」という語を繰り返されていることである。この語はしばしば大阪の新聞紙上にも見え、論誌『夢殿』の編者などもそれを用いておられるが、余のいう宮殿の位置は耳成山の南麓ではなく、それから約七町を南南西に隔てた地であることを明かにしておきたい。さらに詳しく言わば、宮城の域は耳成山の南麓よりやや西南に渉りて設定せられたもので、宮殿の所在は醍醐部落の西方、小字長谷田土壇の辺だというにある。単に耳成山の南麓と言わば往々にして誤解を生ずるの虞れがある。
 
 さて足立君のもって疑問とせらるるところ、第一は『氏族略記』のいわゆる鷺栖坂を、今の鷺栖神社の地に当てる(248)のはどうかというにあるらしい。同君によれば『五郡神社記』とかにはこの社もと別処にあったようだとのことであるが、それが果してどれだけの確実性があるものか自分は知らぬ。もし、その原地というものが確定したなら、それによってさらに考うべきであるが、今はそれをいかんともすることが出来ぬ。次に今の鷺栖神社の地に坂らしいものがないとのことについては、すでに余が考証に十分説明しておいたからそれを見て戴きたい。
 
 第二に耳成山南麓辺(醍醐部落の辺の意と解する)には宮殿関係の地名もなく伝説も残っていないが、これいかにとのこと。なるほどここにはそんな都合のよいものはない。しかしないがゆえにそこが宮址でないとは言い得ない。だいたい伝説などというものは多くは当てにはならぬもので、いつか誰かが何とか言い出せばそれがやがてそこの伝説となるべき性質のものであり、地名についてもまた往々同じことが言われる。近い話が問題の藤原宮址にしても、明治の中ごろまでは伝説地として、もっぱら小原の地が語られていたのであったが、今では誰もそれを顧るものがなくなっているではないか。現今、古文化研究所が発掘調査している大宮土壇の地のごときも、明治三十年ごろに故木村一郎氏が言い出すまでは、おそらくなんらの伝説も残っていなかったのであろうと思う。また飛鳥浄見原宮址のごときも、徳川時代以来の伝説地としては、すべて高市村|上居《じようご》の地が擬定せられていた。それは浄御原の文字をジョウゴと故事附けただけで、もちろん旧くからそんな伝説があった訳でもなく、また、その以外になんらかの都合のよい地名があった訳でもあるまい。しかも今では浄見原宮址は飛鳥小学校の東方だということがほぼ定説のようになっているが、ここにももとよりなんらの伝説や、また都合のよい地名があった訳ではなく、ただ地形上から自分がかつてよい加減に推定したに過ぎなかったのであった。しかるにその後、偶然の発掘からいろいろの遺物、遺蹟が発見せられ、ことに近く東京博物館の発掘調査によって種々の遺構の存在も知られて、ほぼそれが認定せられるに至ったのである。されば問題の醍醐附近の地のごときも、地名や伝説に多く顧慮することなく、願わくば古文化研究所の(249)手で発掘調査していただきたいと思う。真の解決はその後のことである。
 
 第三に足立君は、耳成山南麓一帯の地からは広範囲にわたって藤原朝ころの古瓦の出土を聞かぬ、これを平城京の例から見れば、そこが果して京城址ならば必ず発見されねはならぬはずだと言われる。しかしそれは何も顧慮すべきほどの問題ではない。もし果してその地方から古瓦が出ないとならば、それは当時の宮殿諸官衙が、瓦葺ではなかったと見ればよいのである。皇極天皇の飛鳥の宮は板葺であった。その以前はおそらく茅葺か檜皮葺であったであろう。天智天皇の大津宮もおそらく瓦葺ではなかったらしい。当時宮城の西北に営まれた崇福寺のごときも、その建物の大部分は檜皮葺であった。その名を瓦葺とまで呼ばれた寺院建築すらそうであったほどで、瓦葺の建築の少かったことは察せられよう。斉明天皇は小墾田に瓦葺の宮殿を営まるべく着手せられたのであったが、それも果さなかったのであった。大極殿に碧瓦を覆うことのごときは、おそらく平安宮になって始まったものらしく、平城宮では称徳天皇の東院御造営のさいにおいて、始めて碧瓦が使用せられたもののようである。されば、藤原宮は本来瓦葺ではなかったのかも知れぬ。したがって、後の平城宮城の例をもって前代の藤原宮城を律する訳には行かぬ。しからば高殿、大宮附近より出土する瓦はいかにというに、それは宮殿が移建せられた後に、あるいはそのままに、後に寺院になって以来のものと解すべきものかも知れぬ。
 
 第四に足立君は、醍醐附近からは藤原朝ころの古瓦が出土するが、文様が法隆寺系のもので、本薬師寺や高殿附近のものとは違うから、藤原宮とは無関係であることを暗示すると言われる。しかしこれは妙なことを承るものである。同じ藤原朝ころの瓦が出るならば、よしやその文様の系統が違っていてもいっこう不審はなかるべきである。竃が違い、技術家が違えば、文様もしたがって違って差支えはない。別の場所に出来た宮殿が、必ずしも常に前の宮殿と同じ瓦でなければならぬという理由はない。ことに前記のごとく当時の宮殿が瓦葺でなかったとすれば、その瓦は後の(250)寺院のものとも見るべく、いずれにしてもそれはなんら問題ではなかるべきである。
 
 第五に足立君は、平城遷都後、藤原宮の不用に帰した後に、これを寺に改めたであろうということをもって不審とせられる。少くも恭仁宮を国分寺に施入したのとは場合が違うと言われるのである。しかし君も認められる通り、醍醐の地に寺院の存在したことが疑いなき以上、それを宮址と認定する余輩の立場からは当然そこに落着かねはならぬ。恭仁の大極殿をそのまま国分寺としたとは多少場合が違うかは知らぬが、甕原離宮が同時に国分尼寺となったであろうことを合せ考えてみたい。
 
 第六に足立君は、和銅四年に藤原宮焼くとあれば、その後それを寺となす訳にはいくまいと言われる。なるほどこれは面白いところを捉えられた。しかしそこにすでに事実上寺院が存在した以上、しかもこれを宮殿址と見るうえからは、必ずそう推論するほかはないのである。また藤原宮が焼けたと『扶桑略記』が言っていても、果してそれが全焼したとは限らず、また新たに寺を造る場合、なんら縁故なき新地にこれを営む場合のことを考えたならば、無用となった由緒ある地をこれに転用する方が便宜多かるべきではなかろうか。なおこの意味からいえば、醍醐附近から高殿のとは違った古瓦が出るという事実は、いっそう説明上好都合であると思われる。なお高殿の地からは焼瓦がそう出ぬと聞くが、果してそうならば、それは焼けた藤原宮ではないということになる。
 
 最後に足立君は、慶雲元年の「始定藤原宮地」の語をもって、これを文字通り宮城の地と見るは疑問であり、また当時一千五首五烟という多数の民家が密集していたことも疑わしいと言われる。しかし『続紀』に明かに藤原宮地とあるものを、わざわざ宮城の地のみではないと解釈することこそむしろ無理であり、またそこに一千五百五烟あったと明記してある以上、研究者はいちおうそれによってその事実の存在を認めねはならぬのである。原則としては京城内は官吏や有位者の住居として配給せられたはずで、したがって以前から新益京の敷地に住んでいたはずの民衆は、(251)新益京設定とともにいずれも京城外に遷されたはずであるから、それらの民衆が京北郊外に移って、ここに密集部落を造っていたと解するもよいであろう。もっともここに一千五百五烟とは、一郷五十戸の制の一千五百五戸ではなく、いわゆる房戸なるものであったと見ればあえてそう不審とするには当るまい。古来の記事は正確なる反証なき限り、いちおうはまずその文字のままに解すべきものであり、また、然《し》か解することによりて、その事実の存在を認むべく、猥りに空想から改竄を試みることは慎まねばならぬ。なお、このことは後に言うところを参照されたい。
 
 ちなみに足立君は、『続紀』和銅三年正月条の皇城門外朱雀路の記事をもって、無条件で藤原京のこととしたとのことを疑われた。なるほど『続紀』には先年十二月五日、平城宮行幸の記事があって、還幸の記事がない。したがって天皇は爾来そのまま引続いて、三月十日の遷都の日まで新京に滞在在しましたという見方もあるかも知れぬ。しかし『続紀』の記事たる普通に即日還幸の場合は還幸のことを書かぬを例とする。天皇この日、新宮完成の状を御視察遊ばさるべく、平城に一日の行幸ありたりと解して不都合はない。藤原宮より平城宮まで約五里、単に宮城完成の御視察だけならば即日の還幸あえて不可能ではないはずである。しかるに、もしこの皇城門外騎兵陳列のことをもって平城宮でのこととなさんには、元日大極殿において朝賀を受け給いしことも、また十六日重閣門に御して文武百官および蝦夷・隼人らに宴を賜いしことも、ないし三月十日遷都までのあらゆる政事も、皆平城宮においてのこととならねはならぬ。果してしからば事実上遷都は疾くに行われていたもので、さらに三月に至って改めて遷都のことが仰せ出され、左大臣が藤原宮の留守となるというようなことは意義をなさぬではあるまいか。また遷都以前にその大極殿において朝賀を受け給うということ、そこに文武百官が参集して蕃客に宴を賜わるというようなことがあり得べしとも思われぬではあるまいか。しかしこれは余が考証にもただ試みに言えるのみで、その重きを措くに足らぬはもちろんであるとまでわざわざ断ってあるほどで、強いて固執すべき価値あるものではない。
 
 
(252)      三 足立博士の疑問とせらるるところにお答え(下)
 
 以上で足立君のもっていわゆる耳成山南麓説に対する疑問の甲についての弁明を終った。次には乙の方、すなわち藤原宮移転説に関する疑問についてお答えする。
 第一に足立君は、もし高殿の宮殿が廃せられて北方に移されたならば、もはや旧敷地は京地として利用せられたはずで、殿堂址が歴然として残るはずはないと言われる。しかしこの場合における宮殿の移転は、建築物その物を移建したのではなくして、御遷後も旧殿は元のまま存在したはずである。したがって、それをわざわざ壊して敷地を京地に利用したとは思われぬ。また、かりに宮殿を移建したとしても結果は同様で、場合は違うが平城宮朝堂の土壇のほとんどすべてが、千二百年後の今日まではなお遺存して、耕地に利用せられなかったことを思うべきである。天皇の宮殿址を普通の住宅敷地となすほどにまで、わが民族心理は皇室に対して敬意を失い得なかったであろう。またそれを京地に利用せねばならぬほどにまで、当時まだ土地は行き詰っていなかったであろう。
 
 第二に足立君は、果して高殿を寺院としたならば、それは広きに過ぎて京城拡張の趣旨にも反する。また当時すでに薬師寺や大官大寺もあったことを思う時に新たにそんな別の大寺を設けることはいらぬはずであり、また果してそんな大寺があったならば、必ず何かの形で歴史にあらわれておらねはならぬというようなことを言われる。しかしこれは寺院通であり、記録通である足立君として妙な所に不審を打たれたものと思う。まずその敷地が広過ぎるとのことから観察する。かりに宮殿が寺院となったからとて何も当時の旧宮城域内を、ことごとく寺院敷地となしたと解する必要はあるまいではないか。平城京では寺院の敷地として、西大寺が京内の町面積で三十一町、興福寺や元興寺が各十六町、大安寺が十五町、これらには多少の異議があるとしても、ともかく広大な地面を占領したのだった。しか(253)らば藤原宮城内の朝堂とか、内裏とかを寺院とするに、何の広過ぎるという虞れがあろう。また京城の拡張問題からこれを観れば、当時そんな広い寺院敷地の必要があったほどだからこそ、ここに拡張の要求も起ったと見てもよい。また、すでに薬師寺や大官大寺がある以上、新たに寺院はいらぬはずだとならば、さらにそれ以上の大寺の多かった平城京において、何故に敷地三十一町の西大寺や、兆域四町の西隆寺が出来たかを考えて貰いたい。その記録に漏れたのは何もこの場合にのみ限った訳ではなく、君も認むる醍醐の寺院のことも、なんら記録の伝うるところがないではないか。こんなことは足立君の十分先刻御承知のはずである。またもしそんな都合のよい記録があったならば、何もわざわざこんな議論や考証を試みる必要は始めからないはずである。
 
 第三に足立君は、高殿附近の地名には宮殿関係のもののみ多く、それが寺院となったなら寺に関係したものが出来るはずだがそれがない。しかしてその反対に醍醐附近には宮殿に関したものは全くなく、寺院に関したもののみが存在するがこれいかにと言われる。しかし小字のごときは時としてたびたび変るものであり、また誰かがなんらかの由緒を言い出すと早速それに関係したものが出来るはずで、必ずしもそう重要でない場合が多い。しかしこの高殿の場合、大宮といい、高殿というなど、宮殿関係の地名が多いがために、故木村氏はこれを藤原宮址と推定したのであった。しかもその大宮の西に接して当の坪の名あることは、それがもと塔の坪であったと解せらるべきもので、これは寺院関係のものでなくて何であろう。かく一方に宮殿関係の地名があり、一方に寺院関係の地名があってみれば、もと宮殿であったものが、後に寺院となったと解するにまことに都合のよいものではあるまいか。ちなみにいう。大宮の北に今溜池となっている地をも小字東当の坪、西当の坪という。しかしこれは古くは東を鏡池、西を新池と呼んだもので、後に附近の当の坪の名がここに及んだものであろう。また醍醐附近に宮殿関係の地名のないということは、それが寺となって年久しく、もと宮地であったことが忘れられたと見ればよい。従前の諸宮址はもとより、後の恭仁(254)大宮址にしても、紫香楽宮址にしても、ないし難波宮址にしても、そう都合のよい地名は残っておらぬ。そこに宮地関係の地名があれば、それはいっそう結構ではあるが、なくてもあえて差支えはない。
 
 第四に足立君は慶雲元年の「始定藤原宮地」の文をもって、果してそれが耳成山麓であるならば、その地がいわゆる藤原と呼ばるる地でなければならぬ。前後二宮を通じて漠然藤原宮と呼ぶは疑問であると言われる。しかしもと東京で水道橋にあった税務署が、春日町に移ってもやはり水道橋税務署と呼ばれ、また京都で五条の橋が六条坊門に移ってから、その街路までが五条通りと呼ばれるようになった例を考えて貰いたい。また高殿と醍醐とわずかに南北五町を隔つるのみで、もと同じ一と続きの藤原の地であったと見てもよい。しかるにそれを別の名をもって呼んではかえっておかしなものになるであろう。同君がこれを耳成山麓といわるることは前記のごとくやや穏当を欠く。
 
 第五に足立君は、宮殿の移転は国史上の大事件であるから、他の細かい藤原宮の出来事を一々書いた『続日本紀』に漏らすはずがないと言われる。しかし『続紀』に果して一々漏らさず藤原宮に関する出来事を書いてあるとはどうしてわかる。また今の『統紀』はすこぶる粗本で、脱漏や竄入の多いことも考慮して欲しい。なお少くも持統天皇の八年にはともかく完成していたはずの高殿の宮城について、その後十年の慶雲元年に至り始めて宮地を定めて立退者に代償物を賜わるというようなことがどうしてあり得よう。これはその文字通り、当初の藤原宮とは別の宮地を始めて定めたと見るほかはないではあるまいか。
 
 第六に足立君は高殿の宮殿は大規模のものであり、しかもそれは移建されなかったと解せられる以上、その規模と用材の貴重とを考えて、それを廃棄し別に新宮を営む必要がどこにあろうと言われる。しかしこれは当時の時代思想と、皇室の御威光のきわめて御盛んであったことを考えたなら、なんらの不審もないはずである。すでに足立君も認められるごとく、京城が拡張せられ、朱雀大路によって左右両京が均斉に区分せられた以上、宮城の位置もまたそれ(255)に相当したのでなければならぬ。それは都城に対する当時の理想であり、その理想実現のためには木材や労力くらいは何でもなかったに相違ない。聖武天皇は奈良の大仏御造営に当りて、「天下の富を有する者は朕なり、天下の勢を有する者も朕なり、比の富と勢とを以て尊像を造ること、事の成り易く、心の至り難し」と仰せられたことをも思うべきである。それから思えば藤原宮の造営くらいは何でもなかったはずである。足立君は木材の貴重を言わるるも、このころは遠くこれを近江にまで求めなくとも、近く大和の山々だけで十分間に合ったことと思われる。木材が貴重というも程度問題であり、奈良の宮殿や諸大寺造営の場合とは訳が違う。
 
 第七に足立君は、元来京を拡張する場合には、宮城を中心としてなすべきもので、また当時の宮と京との関係をも思うべきであると言われる。しかしこれも時代思想をもって判断すべきことで、今の東京を拡張して接続町村を取り入れたのとは訳が違う。もし宮と京との関係をもってこれを言わんならば、宮が京城の北端にあり、左右両京に均斉に跨って、天子南面して治むるの相に適するを必要とする。この関係を思えばこそ、余輩の宮城移転の仮定説も必要になって来るのである。
 
 第八に足立君は、ぜひとも宮殿移転の必要があるならば、むしろ新益京から進出して、従来と没交渉の地に営んだ方がよかろうと言われる。しかしそれが出来るくらいなら、大化以来たびたびの遷都の失敗も、特に、天武天皇の御苦心もなかったはず。遠く平城京に遷ったについては、そこにそれだけの段階を経由する必要があったのである。しかしてそれはくだくだしくも余の「藤原京再考」中に詳説したところであるにかかわらず、足立君がこれに一顧を与えられなかったことは、切に遺憾とするところである。
 
 最後に足立君は以上の諸疑問を総括して、藤原宮移転説が疑問であるならば、該宮は前後を通じて一つであって、高殿のこそ真の藤原宮址となる訳だと言われる。しかし以上の諸疑問、余にとっては一つも重要なる疑点ではない。(256)したがって、移転の仮定説はそのままに保存される次第である。要はさらに古文化研究所において醍醐附近の遺蹟地点を広範囲に渉り発掘調査せられたうえで、果して長谷田の土壇が当初からの寺院であって、宮殿ではあり得ないという確証を掴んだ後において始めて決せらるべきものである。 ここにおいてさらに一考すべきは、もしかりに高殿の遺蹟をもって最後までの藤原宮址とせんとならば、慶雲元年に至って始めて宮地を定むという「始めて」の文字をいかに解せんとするかにある。足立君も認めらるるごとく、その間に京城の拡張があったとすれば、その新京の地域は必ず畝傍、香久、耳成の三山、および南方の丘陵地をもって四至を限られたる最大限度のものでなければならぬ。それは慶雲の宮地設定後わずか三年にしてさらに遷都の議が起り、それが平城の地に実現せらるるに及んで、その最大限のものよりもたちまち一躍三倍の地積を有するものとなったほどの時代の趨勢を思うべきである。しかして、それが局限されたる四至内の最大限度のものであったとすれば、高殿宮城の位置はとうてい当時の時代思想と相容れず、「大宝令」の規定にも副わぬものであったことを考うべきである。この場合、旧宮を寺院となして新たに宮城を他に営むことは、当時にとって何でもなかったことであったに相違ない。
 
 なお、さらにここに考うべきは、高殿旧宮の建物をも新宮に移転したのではなかろうかという場合についてである。高殿における建築物の遺址を見るに、礎石はことごとく完全に取り除かれて、しかもその下の地形工事たる割栗石はほとんど原形のままに保存されていたという。これは開墾による破壊の結果と見るよりも、建築物を取り除いたために遺されたと見る方が妥当であるかも知れぬ。また、この敷地の一部には、廃瓦を敷き並べて通路様のものを作った場所が発見せられたともいう。果してしからばこの宮地は、宮殿廃止後にも種々の変遷を有したものと考えられる。いずれにしてもそれが藤原宮として最後を告げたものではなく、よしや建物を他に移したとしても、あるいはそのま(257)まであったとしても、少くもその一部が塔の坪の示すごとく、寺院として使用されたろうことはほとんど疑いを容れざるべきである。
 
 
      四 足立博士の京城拡張説について
 
 以上、足立君のもって疑問とせらるるところが、余の移転説にとってあえて問題とすべきでない次第を略叙したのであるが、筆のついでに同君の京城拡張説の証拠として列挙せられたものについて、二、三の管見を披瀝してみたい。
 
 その一は同君が例の慶雲元年の「始定藤原宮地」の宮地をもって、単に宮城の地のみを指すのではなく、都の地をも意味しているのであろうと言われることである。その理由として同君は、当時の宮は都をも意味するし、一方、一千五百五烟の数からも、この「宮地」の文字を宮城のみに限定すべきではなかろうと言われるのである。しかしながら、「宮」の語が「都」をも意味するということがどこにあるであろう。なるほど『日本紀』には往々遷都の文字を用い、これを何の宮というと書いてあることはある。しかしそれは宮が移れば同時に宮処も移る訳で、これがためにその文字が同意味であるということは出来ぬ。ことに允恭天皇の遠飛鳥宮については、『日本紀』に、これに対して「京城」の文字を用い、また藤原宮造営についても、「新益京」の語が使用せられ、またこのさい造京司の設置もあり、京人、京職などの文字も『続紀』に往々散見して、明かに、京城と宮城とは区別せられているのである。さればここに宮地を定むとあるものが、どうして京城の地をも含むことになるであろう。もしそれその一千五百五烟という数についてはすでに述べた通りで、もと旧飛鳥京外に群集していたであろうところの住民が新益京設定のために京北郊外に移り、さらにそこが新宮地となったについて、再び他に移ったと見る時は、一千五百五烟くらいの数は何でもなかったに相違ない。由来、高市郡は漢人の群集地で、宝亀三年に至っても、なお郡の住民中十の八、九はその族だったと言われて(258)いる。しかもその人口はきわめて稠密であった。かつて林学士江崎政忠君の注意せられたごとく、大和平野の他の川川が水量多くして船を浮べるに堪え、その水源地の森林の鬱蒼たりしことを示しているに反して、ひとり飛鳥川のみが古く淵瀬常ならぬものの比喩に引かれていることが、その水源地の山林濫伐の結果として、住民の多かったことを示しているのである。ことに漢人の族たる坂上刈田麻呂の言によれば、およそ高市郡内は檜前忌寸および十七県の人夫地に満ちているとある。しかも彼らの大部分はおそらく農民ではなかったはずであるから、その住居は必ず密集部落をなし、新定宮城敷地内に一千五百五烟くらいの住民が群棲していたからとて、何の不思議もないのである。
 
 その二は大宝三年、東西市を立つということである。これは『扶桑略記』が火元らしく、それから諸書に引用せられたものと思われるが、『続紀』にはないことなので正確なものとは言えぬ。しかも『扶桑略記』のこの記事は「是歳」と標しながら十月の条の前にこれを置き、おそらく後から鼈頭または行側に書き加えたものが本文に雑り込んだものらしく解せられて、信用価値のきわめて少いものである。したがって余が考証にはこれを援用しなかったのであった。しかしかりにそれを信ずるとしても、それは何も藤原京拡張説に資すべきものではない。藤原京には当初から京人に物資を供給すべく市があったに相違なく、それが「大宝令」によって京が左右に分れたについて、これも当時の思想上、令制のままに東西均斉に位置を定めて設けられたに過ぎないのである。
 
 その三は左右京職史生の件である。和銅元年に至って京職に史生を置いたことが何で京城拡張説の助けになるであろう。「大宝令」には職、寮、司等の諸官衙には史生のなきを普通とする。されば京職は史生がなくても不思議はない。しかもそれが置かれるに至っては、時勢の進運とともに京職の事務が繁多となり、その必要を生じたがためであって、京城の拡張とは全然関係はなかるべきである。もし史生の設置が京城拡張に関係があるとならば、大宝前後に拡張せられたであろうとの同君の立場からいえば、「大宝令」制定に際してすでに置かれねはならぬはずではあるま(259)いか。
 
 その四は、大宝元年における造大安・薬師の二寺官の昇格問題である。なるほど、このころ両寺ともに金堂など主要伽藍のある物はすでに完成していたであろう。しかし七堂伽藍の具備を見るまでには、傍例に徴してもそれは容易でなかったはずで、法隆寺の講堂が天平十九年に至ってまだ存在しなかったことを思うべきである。さればこの造寺官昇格のことによりて、当時にはこれらの寺は造営継続中であったことを察すべく、特に当時造寺のことを重んじた事情を見るべきではあるが、京城の拡張とはなんらの関係はない。中にも薬師寺はつとに新益京内にあったはずで、京が拡張したからとて、なんらの影響を受くべきではなく、また大安寺にしてもこれは官の大寺として、それが京外にあろうが、また拡張した結果京に近くなったであろうが、これまたなんら関係があったとは思われないのである。ちなみにいう、大安寺の所在地は香久山西麓を通ずる南北線の以東にあって、地理上からも京の拡張とは没交渉に存在したはずである。
 
 最後に「大宝令」に左右両京を分ったことが京城拡張に直接関係するものでなかろうことは上記の通りで、今これを詳説するの煩を避ける。
 
      五 結  語
 
 これを要するに足立君の藤原京拡張説として引用せられた諸件は、失礼ながらその説に多くの援助を与うるものではない。もしここに拡張説を立つべくんば、必然の結果として宮城に前後その別あることを認めねばならぬ。否、むしろ宮城に前後その別あることを認めたる結果として、始めて京城の拡張が推論せらるべきものであるといってもよい。しかるに足立君がそれを認めずして漠然なんら確証なしにその拡張を言われんは、「大宝令」制定の旨にももと(260)り、時代思想をも無視するのはなはだしきものといわざるを得ぬ。切に同君の再考を希望する。
 
 終りに臨んで余輩のはなはだ不十分なる考説が、さらに足立君の質疑によりて幾分精緻の域に達するを得たことにつき、満腔の謝意を表する。
 
 
(261)  別編 白鳳・朱雀の年号について
 
      一 緒  言
 
 白鳳という年号は『日本紀』には見えない。しかしそれがいわゆる私年号の類ではなく、確かに公に認められたものであったことは、『続日本紀』所収の聖武天皇の詔報や、『三代格』所収、大政官奏の文中にその号が見えているから間違いはない。その他『大織冠伝』などの奈良朝の古書を始めとして、『古語拾遺』『扶桑略記』『吾妻鏡』『神皇正統記』『元亨釈書』『愚管抄』以下、後の書には少からず見えているのである。
 
 しかし奇態なことには、その指す年代がまちまちで、あるいは孝徳天皇の御代からあったもののごとく、あるいは天智天皇の御代の年号のごとく、あるいはさらに天武天皇の御代のことであるかのごとく、また、これを天武天皇の御代の年号とするものについても、これをその元年壬申の歳の改元とするもの、あるいはその二年、すなわち即位の元年癸酉の歳の改元とするものなど種々の伝えがあって、その言うところ一定していないのである。
 
 しかし世間普通には漠然これを天武天皇の御代の年号のごとく心得て、芸術史家の間には、これを中心として、白鳳時代という一時代を、推古時代(あるいは飛鳥時代)と、天平時代(あるいは奈良時代)との間に置く習慣になっているらしいのである。よって今、佐伯君の嘱を受けたのを好機会として、その果していずれが従うべきものなるかを考えてみる。
 
 
(262)      二 白鳳年号に関する種々の異説
 
 白鳳の年号の物に見ゆるところ、第一に恵美押勝の著『大織冠伝』を推さねばならぬ。これは奈良朝の古書として、その時代を距るあまり遠からず、したがって信用価値のすこぶる多かるべきものなのである。しかしてそれには大化五年己酉の歳をもってその元年とし、『日本紀』にその翌年の改元とする白雉の年号の存在を認めず、爾後、引続いて天智天皇称制の元年壬戌の歳に及び、これをもって白鳳十四年、すなわち摂政の元年となし、それから後は中大兄皇子摂政の年をもって数えて、天皇即位の元年戊辰の歳をその七年とし、その翌年己巳の歳を天智天皇即位の二年と数えているのである。すなわち、いわゆる白鳳の年号は、孝徳天皇の大化五年から、斉明天皇崩御の歳まで、継続十三ケ年となるのである。
 
 しかるに『神皇正統記』には、これを天智の御宇の年号となし、『山家最要略記』引『扶桑明月記』には、天武天皇元年壬申の歳をその元年とし、『興福寺伽藍縁起』には、白鳳の十二癸未年ともあって、その数え方これと一致しているが、さらに『扶桑略記』には、これをもってその翌年、すなわち天皇即位の元年癸酉の歳の改元にして、継続十四年に至るとなし、『年中行事秘抄』『水鏡』『如是院年代記』等、多くこれによっているのである。このほか『運歩色葉集』には、白鳳二十一年辛巳の歳とあって、それから逆算すれば斉明天皇崩御の辛酉の歳が白鳳元年となる訳であるが、同書には別に白雉二年辛亥の歳を白鳳三年とも書いてあるから、右の辛巳はおそらく己巳の誤写らしく、しからば『大織冠伝』と同じく、孝徳天皇大化五年己酉の歳をその元年とする説となるのである。
 
 このほか『扶桑略記』引『役公伝』には、持統天皇十一年丁酉の歳を白鳳四十七年とあって、これから逆算すれば孝徳天皇白雉二年改元ということにもなる。今これらを見やすいように、その重なるものを年表に作れば左のごとく(263)になる。
 
       (日本紀) (大織冠伝) (扶桑略記) (備 考)
 己酉 (孝徳)大化五  白鳳元    大化六  『法隆寺伽藍縁起』によれば大化四年となる。
 庚成 (同) 白雉元    二    白雉元 二月十五日改元(紀)。『霊異記』に孝徳天皇三十六年九月の文                        あり。
 
 辛亥      二     三      二 『運歩色葉集』白鳳三年。『役公伝』白鳳元年に当る。
 壬子      三     四      三 『古語拾遺』に難波長柄豊前朝白鳳四年の文あり。
 癸丑      四     五      四 『続日本紀』道昭伝に白雉四年の文あり。
 甲寅      五     六      五 孝徳天皇崩(十月十日)。『日本紀』斉明天皇条に「後五年」と                        あり、また『貞慧伝』には白鳳五年歳次甲寅とあり。
 
 乙卯 (斉明) 元     七(斉明)  元 「斉明天皇即位(正月三日)。
 丙辰      二     八      二 
 丁巳      三     九      三 
 戊午      四     十      四 
 己未      五    十一      五 
 庚申      六    十二      六 
 辛酉      七    十三      七 斉明天皇崩天智天皇称制(七月二十四日)。『和漢合符』『本朝                        皇代記』等白鳳元年とす。
 
 壬戌 (天智)元(【天智摂政】) 元(天智) 元『神皇正統記』に天智の御時白鳳云云とあり。
 癸亥      二     二      二
(264) 甲子    三     三     三
 乙丑      四     四      四 『貞慧伝』に白鳳十六歳次乙丑とあり。
 丙寅      五     五      五
 丁卯      六     六      六
 戊辰  七(【天智即位】) 元       七 天智即位(正月三日)。『日本紀』天武天皇条この年を天智天皇                        元年とす。
 
 己巳      八     二      八 中臣鎌足薨。
 庚午      九     ―      九
 辛未      十     ―      十 『日本紀』天武天皇条この年を天智天皇四年とす。天智天皇崩                        (十二月三日)。
 
 壬申   (天武)元    ―   (天武)元 『愚管抄』朱雀元年、又白鳳元年。『扶桑明月記』『一代要記』                    朱雀元  『皇年略記』等白鳳元年とす。
 
 癸酉      二     ―    白鳳元  天武天皇即位(二月二十七日)。『扶桑略記』白鳳十年に及ぶ                         という。『愚管抄』白鳳十三年に及ぶという。
 
 甲戌      三     ―       二 『扶桑略記』は白鳳継続十四年に及ぶといいながら、その本                         文は『日本紀』の年立に従う。
 
 乙亥      四     ―       三
 丙子      五     ―       四
 丁丑      六     ―       五
 戊寅      七     ―       六
(265) 己卯     八    ―       七
 庚辰     九      ―       八 薬師寺塔※[木+察]銘即位八年とあり。『武智麻呂伝』即                         位九年とあり。
 
 辛巳      十     ―       九
 壬午     十一     ―       十
 癸未     十二     ―      十一
 甲申     十三     ―      十二
 乙酉     十四     ―      十三
 丙戌 (天武)朱鳥元    ―      朱鳥元 七月十二日改元。天武天皇崩持統天皇称制(九月九日)。
 丁亥   (持統)元    ―     (持統)元 『万葉集』註引『日本紀』この年をもって朱鳥元年とす。
 右のごとくその伝うるところ区々であるが、中にも『扶桑略記』最もよく俗間に流布して、後のこれを祖述するもの多く、今に至って白鳳時代といえば、ただちに天武天皇の御代を中心とするもののごとく解せらるることとなっているのである。
 
 
      三 改元の意義と年の数え方
 
 ここにおいて余輩はまず、何がゆえに白鳳の年号が『日本紀』に漏れ、またこれに関する所伝がまちまちになっているかを考えねばならぬ。実はひとり白鳳のみならず、大化、朱鳥の号のごとき、『日本紀』の明かに記したものについてすらも、請書の伝うるところ往々にして一定を欠いているのである。また白鳳とともに古来疑問とせらるる朱雀の年号は、白鳳とともに聖武天皇の詔に見えて、その公認されたものなることは明白であるにかかわらず、同じく(266)『日本紀』にこれを逸しているという事実もあるのである。
 
 けだし、後世見るごとき年表というべきほどの便利なものの、いまだ備わざりし時代においては、失念あるいは記憶の誤りから、年の数え方について統一を欠き、記録上にも自然種々の異同を生ずるは、やむを得ざることであったに相違ない。したがって『日本紀』編纂の時においてすら、すでに正確な史料を得ずして、ためにその疑わしきを闕いたという場合もあるべく、また『日本紀』の編纂なりたる後においても、この書は元来一般に公表されたものではなく、したがって民間に流布したものでもなかったがために、世の伝うるところ単に記憶に基づき、あるいは推算の誤謬により、種々の異なりたる年代の記事を、後世に遺した場合も多かったに相違ない。ことに改元による年の数え方について、いまだ一定の準則なかりし時代において、各自これに関する見解の相違から、自然年号の数え方、即位の年の立て方等についても、前後一年の齟齬を来すという場合も多かったことと思われる。よりてここにまず煩わしきを忍びて、改元の意義について考えてみる。
 
 改元とは元を改むるの義である。したがって本来年号とは別の存在であって、一治世一元の場合は必ずしも年号あるを要としない。「元」は「はじめ」で、元を改むるとは、祥瑞、災害等、その他なんらかの事故によって、従前の年を改めてその年の初めの年、すなわち元年となし、これをもって時代を一新するの意味である。
 
 さればいまだ年号なき以前においても、天皇の御代の変るごとにこれを元年と数え始めたことは、これすなわち改元なのである。西洋諸国では元首に重きを置かず、各治世を通じてキリスト降誕の年を元年とし、それより年数を算うる例であるが、東洋では元首の更迭ごとに、その治世の初めを元年とし、すなわち改元を行う例である。したがってこの改元が天皇御一代間ただ一度の場合には、別に年号あるを必要としないが、もし御一代間に数回改元のあるような場合には、これを区別すべく年号を定むるの必要があるのである。この意味の改元はもとシナに始まったもので、(267)漢の文帝即位してその年を元年とし、数えて十七年に至って日再中の祥あり、これ漢の衰うる証なりとの方士の説により、その災を攘うとのことから改めてこの年を元年とした。これ実に一治世間二度の改元の最初であるが、しかしこの時にはいまだ年号なく、単にこれを後の元の元年、二年と数える例であった。ついで景帝の世には一代間三度改元があり、歴史ではこれを中の元の何年、後の元の何年などと数えた。これを後からは中元何年、後元何年などと、あたかもその中元、後元をもって年号であるかのごとくにも思われるが、厳格な意味では年号というべきものではなく、ただ同じ治世の中の三度の「元」を区別する、便宜上の称呼に過ぎなかった。さればこの場合の「元」は、かの法隆寺仏像銘にある「法興元卅一年」の「元」と同じで、年号の文字ではない。ここに法興元とは、おそらく法興寺の完成した崇峻天皇の四年をもって、わが国仏法興隆の記念の年となし、僧家の間にひそかに元を建てて、法興の元の何年と数えたものであったと解せられる。したがって、もしこれを年号とするならば、「法興」の二字だけで十分なので、聖徳太子の道後湯岡碑の文に、法典六年とあるのがこれである。かの『法王帝説』に、法興元卅一年とある「卅」を「世」と誤認して、法興元世の一年と読み、その判断に困惑したのは実際やむを得なかったとしても、『古京遺文』において博識なる狩谷※[木+夜]斎までが、これに釣り込まれたのは惜しかった。
 
 わが国で正しく年号の定められたのは、孝徳天皇の大化を初めとする。かくてその六年に穴戸国から白雉を献じたので、その祥瑞によって大化六年を改めて白雉元年とした。すなわち御一代間二度の改元で、そのつど年号が選定せられたのであったが、世間ではいまだ一般にその使用に慣れなかったと見えて、『日本紀』斉明天皇の条には、白雉五年のことを後の五年と書いてある。すなわち後元五年である。また平安朝初期の『霊異記』にも、この白雉元年庚戌の歳の事を「難波長柄豊前宮御宇天皇之世庚戌年」とも、また、「孝徳天皇世六年庚戌秋九月」などともあって、いずれもその拠った史料の記したままを存したものであろう。
 
(268) かくすでに白雉の年号が定められていても、一方にはなおこれによらぬ年の数え方が多かったほどで、年号はいまだ当代に重きを成すに至らなかったのであった。されば白雉の後しばらく年号選定のことがなく、『日本紀』の記するところでは、約三十年を経て天武天皇の十四年に至り、久し振りに朱鳥の改元があったが、それも一年限りで、その後大宝に至るまで、引続き無年号であった趣に見えているのである。
 
 年号の選定もまた起原がシナにあった。一治世間数回改元のことがあっては、前後の年を記するに混雑の虞れがあるがために、その元に名を命ずるの必要がある。ここにおいて漢の武帝は、その即位の元年を建元と号し、建元七年長星の瑞によって元光と改元し、爾後またしばしば改元ありて前後五十四年に渉る長い治世間に、実に十一回の年号の選定が行われたのであった。
 
 改元の年の立て方については、普通に先帝の崩御または譲位の年をもって先帝の治世にかけ、その翌年改元して、新帝の治世を数うる例になっている。したがって、年号を定める習慣の時代においては、普通に先帝の崩御または譲位の時ただちに新帝が践祚し給うても、その年は先帝の治世の年号を襲用し、その翌年改元して年号を定め、これをもって新帝の治世の初めとなす例になっているのである。かくて年号が改まったならば、たといそれがその年の何時にあっても、その年の初めに遡って新年号をもって記する例であるがために、その年内の改元以前の部分は当然消滅することとなり、したがって天平感宝の場合のごとき、天平二十一年四月十四日をもって改元が行われたので、同日以前の天平二十一年の部分はいったん消滅し、さらにその天平感宝元年七月二日をもって天平勝宝元年と改めたがために、その年の正月元日から二度目の年号によって天平勝宝元年となり、天平感宝の名は永久に年表から影をかくしてしまうこととなってしまった。かくて後人その年号の存在をまで忘れ、これをもって道鏡法王治世の号であろうなどとの滑稽な説をなすものすら起るに至ったのであった。
 
(269) 大正以来従来の慣例を改めて、その改元の日以後を大正元年となし、その前日以前は依然明治として、一年中に二年号ある新例が開かれたが、それはもって古えを率するには当らぬ。されば大正以来のことは除外例として、その以前の実際を見るに、たいていは右の原則通りに行われているのである。しかしそれがハッキリと定まったのは、実は嵯峨天皇弘仁改元以来のことで、その以後にも稀に治世の初めに改元のことが行われなかったり、またはそれが後れたりした場合もないではないが、それは年号のことが始まってから、いつしか改元の当初の意義が失われて、天皇の御代の替り目、すなわち治世の変更は改元と没交渉となり、改元とは年号を改むることとのみ心得らるるようになったためであるにほかならぬ。
 
 平城天皇以前にあっては、いまだその制がハッキリと定まっていなかった。孝徳、文武、元正、聖武、孝謙、光仁、平城の諸帝は、いずれも事実上治世の始まった年に改元が行われ、また天武、持統、元明、称徳、桓武の諸帝は、その翌年をもって元年とし、あるいは新たに年号を改め、淳仁天皇の場合は改元のことなくして、ついに位を廃せられ給うに至ったなど、すこぶる区々たるものであった。また大化以前にあっては、『日本紀』の定むるところ、先帝崩御の年以後に新帝即位し給う場合には、その即位の年をもって御代の元年としてその元を改め、先帝崩御の年に新帝即位し給う場合には、その年を先帝にかけて、翌年を新帝の元年となす例になっているのである。
 
 しかし、これはおそらく『日本紀』編纂のさいに定めた治世の数え方であって、その当時からかく定まっていたのではなかったらしい。『古事記』には敏達、用明、推古の諸帝について、いずれもその即位の年を治世の元年として、『日本紀』とはその数え方に一年ずつの相違を示しているという事実もあるのである。
 
 かくのごとき次第であったから、いまだ治世の数え方にハッキリした規定のなかった時代において、そこに整いたる年表もなく、『日本紀』が編纂されてもそれを見るを得なかった民間の学者達が、その改元をあるいは新帝即位の(270)年のこととなし、あるいはその翌年のこととするような、各自の見解から往々前後一年の相違を来すことのあるはやむを得なかった。あるいは記憶の誤りから生じた異同もないとはいえぬ。かくて天平十九年勘進の『法隆寺伽藍縁起』には、『日本紀』によれば大化四年であるはずの戊申の歳を、その一年前の大化三年とするような錯誤も生じたのである。これはけだし孝徳天皇即位の年の改元を、他の普通の例によって、その翌年に行われたものとの誤解から起った結果であろう。
 
 また『愚管抄』が『日本紀』と同じく丙戌の年を朱鳥元年となし、『万葉集』三なる大津皇子被死時作歌の註に、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」とあるのも、まさしく『日本紀』言うところと一致しているにかかわらず、同じ『万葉集』一の註に引くところの朱鳥の年号は、『日本紀』によれば持統天皇の元年、すなわち朱鳥改元の翌年なる丁亥の歳をもって、その元年となすの年立によって、ことごとく一年ずつの相違を示しているのである。
 
 また『日本紀』には、天武天皇の末年丙戌改元の朱鳥をもって、ただ一年間のこととなし、その翌丁亥の歳をもって、持統天皇治世の元年と数えているにかかわらず、一方にはやはりこの天皇の御代を通じて、朱鳥をもって年を数うる場合もあったらしく、『霊異記』には朱鳥七年の記事があり、また右にいう『万葉集』一引『日本紀』というものにも、朱鳥の年号を持統天皇の御代に及ぼし、丁亥元年の数え方によって辛卯の歳を朱鳥五年となし、以下順次八年にまで及んでいるのである。ただしこれが右にいうごとく一年の誤りであり、『日本紀』にいうところの朱鳥改元の方が正しきものであることは、右の『霊異記』に朱鳥七年壬辰とあって、これは『日本紀』いうところの丙戌の歳をもって朱鳥元年とした数え方と一致し、また同じ『万葉集』の註中にも、右に引く大津皇子被死の歌に関するものが、またこれに従うていることによって知られる。けだし『万葉集』引『日本紀』朱鳥の年号は、実は同集の註者が軽率に『日本紀』持統天皇条を見て、その治世の年を前の朱鳥の続きと誤り考えて数えたもので、別に朱鳥の年号に(271)『日本紀』と一年を相違する数え方があった訳ではなく、また今の『日本紀』とは違った別の『日本紀』が、当時において存在した訳でもない。今これを見やすいように年表に作れば左のごとくになる。
 
     (日本紀)   (霊異記)  (万葉集註)  (備 考)
 丙戌成 (天武)朱鳥元   ―      朱鳥元  天武天皇崩持統天皇称制(九月九日)。『万葉集』三註、                           『愚管抄』同じ。以下八年に及ぶ
 
 丁亥  (持統)元     ―      朱鳥元  『万葉集』一註。ただしこの朱鳥の年立は、『日本紀』                           持統天皇治世の年立をそのまま朱鳥の続きと誤認した結                           果なり
 
 戊子     二      ―       ―
 己丑     三      ―       ―
 庚寅     四      ―       ―   持統天皇即位(正月元旦)
 辛卯     五      ―      朱鳥五  
 壬辰     六     朱鳥七       六
 突巳     七      ―        七
 甲午     八      ―        八
 
      四 いわゆる白鳳はその実、考徳天皇朝の白雉なり
 
 以上わずらわしくも改元に関する原則と、その数え方に種々の異同のあることを説述したが、これだけの予備知識をもって、本に返って問題の白鳳の年号について観察してみる。
 
(272) はじめに言ったごとく、『日本紀』に見えぬこの白鳳の年号が、実際上存在したものであったことは、上に引いた種々の書籍に見える通りで、ことにそれが私年号の類ではなく、立派に公に認められたものであったことは、詔勅および太政官奏の文に見えるところによって明白である。しかしてその年代は、『続日本紀』神亀元年十月の詔報に、
 
  白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難v明。亦所司記註、多有2粗略1。一定2見名1、仍給2公験1。
とあるによって、朱雀なる年号よりも以前にあったことが知られ、また『類聚三代格』天平九年三月の太政官奏に、
  従2白鳳年1、迄2于淡海天朝1、内大臣割2取家財1、為2講説資1。伏願永世万代、勿v令2断絶1。
とあるによって、淡海天朝すなわち天智天皇の御代よりも以前の年号であったことが知られるのである。朱雀のことはしばらく措く。天智天皇以前に白鳳を求むるならば、まずもって前引『大織冠伝』のそれを採らねばならぬ。これは孝徳天皇大化五年己酉の歳を白鳳元年となし、爾後、斉明天皇の御代を通じて、その末年に及び、天智天皇称制の年をもって終っているので、まさに淡海天朝にまでという官奏の文に一致するのである。またそれが孝徳天皇の御代の年号であったことは、大同二年の『古語拾遺』にも、「難波長柄豊前朝白鳳四年」の文あることによって証拠立てられるのである。
 
 しかるに『日本紀』には、その元年に当る己酉の歳の翌年康戌の歳をもって、穴戸国白雉を献じた祥瑞によって白雉と改元したとある。よって思うに、いわゆる白鳳は実は白雉に当るものなるべく、『大織冠伝』は一年の推算を誤ったもので、けだし白雉の瑞を鳳鳥の祥と見做し、ここに改元して白鳳の号を立てたのであったと称せられるのである。しかも『日本紀』にこれを白雉とあるは、白雉を献ずとある上文の文字に囚われて、後の伝写者が不用意に書き誤ったものかも知れぬ。しからずば『日本紀』の撰者が、自雉の祥瑞による改元なるがゆえに、軽率にこれを白雉と心得誤ったものであったかも知れぬ。白堆の年号は『続日本紀』道昭伝にも見えているが、該書別に白鳳の号あり、(273)かたがた白鳳の誤写かも知れぬ。前引『古語拾遺』白鳳の文字も、一本に白雉とあるそうではあるが、『本朝月令』『年中行事秘抄』『公事根源』等の古書にこれを引くもの、いずれも白鳳とあることを思うに、斎部広成はもと明かに白鳳と書いたに相違なく、その白雉とあるは、後の伝写者が『日本紀』によって改めたか、あるいは『日本紀』に白雉の年号あるによって、不用意に、然《し》か誤写したものであろう。
 
 この以外に類例を求めるならば、『吾妻鏡』にも、梶原景時が霊鴨を献じたことに関する善信の語を記して、『扶桑略記』言うところの白鳳を白雉と書いた例がある。これまたもって白鳳と白雉とが互いに誤りやすき一傍例とすべく、またいわゆる白鳳が、畢竟白雉と同一の年号であることについて、有力なる一心証を与うるものといってよい。勅撰の国史なる『日本紀』の編者に、白鳳と白雉と誤るがごとき粗漏があったとは、一見有り得べからざることのようではあるが、それが白鳳であるにもせよ、白雉であるにもせよ、当時この年号が実際上あまり多く行われていなかったことは、前述のごとく同じ『日本紀』の斉明天皇の条に、白雉五年のことを後の五年といい、『霊異記』にも二ケ所まで、年号によらぬ書き方をなしていることからでも察せられる。したがって『日本紀』の編者にかかる粗漏があったとても、必ずしも不審とするには当らぬ。しかしてそれと同じ理由から、『大織冠伝』の著者恵美押勝が、その推算を一年誤ったことも説明せられよう。あるいは『日本紀』が一年を誤って、次の年にその記事を挿入したと解せんとするものがあるかも知れぬが、かの記事の態および日の干支の順序から見て、それは実らしくない。
 
 あるいはもと白雉であったものを、後になんらかの理由で白鳳と改めたのであったとの想像も許されよう。光仁天皇の御謚号は『類聚国史』ことごとくこれを広仁と書いてある。けだし菅原道真がこれを抄録したころの『続日本紀』には、おそらく広仁とあったものであろう。しかも後の『続日本紀』にはことごとく光仁と改まっているのである。また仲哀天皇の御謚号は、天皇の御経歴より申さばおそらく沖哀であるべく思わるるにかかわらず、『日本紀』(274)にはことごとく仲哀とあるがごときも、あるいは伝写の誤りか、あるいは後に改めたのであったかと思考せられるのである。されば問題の白鳳の号のごときも、当初白雉であったものが、奈良朝ころに好字によって、これを瑞鳥の鳳字に改めたとの想像もまた全然不可能ではない。元明天皇和銅六年に、畿内七道諸国郡郷の名に好字を著けしめ、聖武天皇天平九年に、大倭国を改めて大養徳国となすとの例もあるのである。いずれにしても『大織冠伝』に白鳳の年号を用いたことは、その年代からいっても、『日本紀』の白雉に相当するものであることを否定し難い。
 
 以上論究するところによって、白鳳はその実『日本紀』の白雉であり、孝徳天皇大化六年庚戌の二月十五日の改元で、爾来斉明天皇の御代を通じて、その崩御の辛酉の歳まで、十二ケ年間継続したものと考定する。
 
 すでに白鳳が孝徳、斉明両天皇の御代の年号であり、それが明かに淡海天朝、すなわち天智天皇の御代以前のものであると決定した以上、『扶桑略記』等の書に、これを天武天皇朝の年号となすことの誤りなるは言うまでもない。けだし『扶桑略記』の著者皇円、もしくは皇円が同書を著わすについて準拠とした史料の筆者は、一方に白鳳の年号の捨て難きものがあり、しかも一方には『日本紀』に、前に別に白雉の号あるがゆえに、これを無年号の天武天皇の御代のことと誤解し、たまたまその御代の二年三月において、備後国司白雉を亀石郡に獲てこれを賞し、よって当郡の課役を免じ、かつ天下に大赦すとのことが『日本紀』にあるのを見て、これによって改元が行われたるものと速断し、ついにこの誤謬を生じたものであろう。しかして『水鏡』以下の諸書は、ただこれを鵜呑みにしたに過ぎないものであろう。いずれにしても白鳳は淡海朝廷以前の年号であり、これを天武天皇朝のこととするの誤謬は言うまでもないのである。
 
 なお薬師寺塔※[木+察]銘に、天武天皇九年庚辰の歳のことを、即位八年と書いたことのごときも、当時この御代に白鳳の号の用いられなかった反証となすべきものである。
 
 
(275)      五 朱雀は朱鳥の誤りなるべし
 
 白鳳のことを論じたちなみに、簡単に朱雀の年号のことに及んでみたい。
 この年号また『日本紀』これを記せざるも、前記聖武天皇の詔に、白鳳以来朱雀以前の文あるによって、ここに問題となるのである。しかして『扶桑略記』以下、『吾妻鏡』『水鏡』『愚管抄』『帝王編年記』『濫觴抄』『如是院年代記』『皇年代略記』等の請書には、天武天皇元年壬申の歳をもって、その元年に当てているのである。しかしこれは毫も他に考うるところがない。案ずるに、右の詔にいわゆる朱雀は、『日本紀』いうところ天武天皇十四年改元の朱鳥のことであろう。けだしさきに白雉の瑞によって、白鳳と改元し、今また朱雀の瑞によって朱鳥と改元したものか。朱鳥の号の因由『日本紀』これを明記せず。『釈日本紀』には、『日本紀』天武天皇九年七月条の朱雀南門にあるの記事、また十年七月条の朱雀見ゆの記事を引いて、これらの瑞によって改元するなりとの著者の考案を記してあるが、それらが直接に十五年改元の理由となったとは思われぬ。しかし、このころ朱雀の瑞がしきりに喧伝せられたことは、これによっても知らるべく、けだしこの年天皇病あり、天災地妖並び起り、また草薙剣の祟りもありて、ために二たび天下に大赦し、あるいは調を減じ、※[人偏+搖の旁]を免じ、また公私の負債を除く等、しきりに徳政を施し給うたさいであったから、ここに朱雀の瑞によって改元し、もって世の中の建直しを試み給うたものであろう。『扶桑略記』には、「天武天皇十五年丙戌大倭国赤雉を進む、仍りて七月改めて朱鳥元年となす」とあるが、その拠るところを知らぬ。しかしてそれとは別に同天皇元年の条に、「年号を立てて朱雀元年となす、大宰府三足の赤雀を献ず、仍りて年号と為す」となし、同天皇の御代の初めと、終りとに、朱雀と朱鳥とを重複して収め、その間を白鳳をもって継続したものとなしているのである。
 
(276) しかるに同書によったと思われる後の諸書の中には、『吾妻鏡』が鎮西貢献の三足赤色の雀のことを伝えた以外、『帝王編年記』『皇年代略記』など、いずれも信濃国より赤鳥を献じたと書いてあるのはどうしたことか。いずれにしても、ともに確かな出典があったものとは思われぬ。
 
 朱雀の年号が『続日本紀』聖武天皇の詔報以外に、確かな根拠と認むべきほどのものがなきに反して、朱鳥の年号の方は『日本紀』がこれを明記するのみならず、前記のごとく『万葉集』『霊異記』等の古書を始めとして、別に朱雀の号を収むる『扶桑略記』の類までが、それと重複してこの改元を是認することからこれを観ても、これは白雉の場合とは事変り、朱鳥の方が普通に認められたものであったに疑いはない。しかしこれも白鳳もしくは白雉と同じく、いまだ一般に普及するに至らず、したがって世のこれを伝うるものまちまちになっていたことは、『日本紀』には朱鳥はただ一年限りをもって終りを告げ、この年天武天皇崩じて、持統天皇制を称せられてより、その翌年をもって改めて持統天皇の元年となしてあるにかかわらず、『霊異記』には依然朱鳥の旧号を追うて、持統天皇の六年壬辰の歳のことを、大后天皇(持統)の世、朱鳥七年壬辰とある旧記を引用し、また『万葉集』の註には、前記のごとく『日本紀』曰くとして、いわゆる朱鳥八年甲午の歳までの記事を載せてあること、また『愚管抄』には、『日本紀』と同じく丙戌の歳を朱鳥元年と認めたうえに、さらに天皇の七年に至るまで、継続八年に及べることを認めたこと等によっても察せられるのである。
 
 さればこの朱鳥の号は、本来朱雀の瑞によって選定されたものであったことによって、あるいはこれを朱雀と誤って伝えられた場合もあったらしく、ために神亀元年の詔報のごとく、「白鳳以来、朱雀以前」というがごとき文献も保存せられ、しかも一方には朱鳥の号の動かし難きものあるがゆえに、ついには『扶桑略記』『愚管抄』等の記するごとく、これをも天武天皇朝の年号としてその両者を併せ存し、朱鳥の方は『日本紀』記するところに従いてこれを御(277)代の末年丙戌の歳のこどとし、その以前に白鳳の年号を誤り挿入したがために、『扶桑略記』はそのいわゆる白鳳元年の前年たる壬申を朱雀元年とし、『愚管抄』はその壬申を白鳳改元の年となしたがために、「年内改元か」などと苦しい付会をなすに至ったものであろう。
 
 これを要するに、いわゆる朱雀は『日本紀』言うところの朱鳥のことで、朱鳥以外別に朱雀なる年号が存したものではないと思考するのである。
 
      六 天武天皇御治世の数え方について
 
 なお筆のついでに、誤って白鳳と言わるる天武天皇の治世の数え方について一言したい。
 世間あるいは薬師寺塔※[木+察]銘によって、その八年が庚辰の歳であるがゆえに、それより逆算して癸酉の歳を御代の元年となし、『日本紀』がその前年なる壬申の歳を天武天皇の元年となすものをもって、『日本紀』撰者の曲筆であるとまで論じ、あるいはその壬申の歳なる『日本紀』二十八巻は、もと大友天皇の巻であったのを、後から改竄して天武天皇の巻に加えたものであるなどと説き、これによって『日本紀』の紀年を改竄した年表までが出来ているのである。しかしながらこれは明かな誤解である。天武天皇が癸酉の歳二月二十七日をもって即位し給うたことは、『日本紀』にも明記するところで、それから数えて庚辰の歳を即位の八年というに何の不審があろう。しかもまた一方に天智天皇崩後の淡海朝廷の存在を認めぬ筆法を採った『日本紀』が、事実天武天皇の万機を総覧し給うた壬申の歳をもって、その治世の元年と定むるに何の不審があるであろう。
 
 これを傍例に徴するに、天智天皇は戊辰の歳をもって即位し給うたにかかわらず、『日本紀』は遡って称制の壬戊の歳をもって御代の元年となしているのである。また持統天皇も庚虎の歳をもって即位し給うたのであるにかかわら(278)ず、『日本紀』は遡ってその称制の丁亥の歳をもって御代の元年となしているのである。もしこの両者の場合と天武天皇の場合との相違をいわば、天智、持統両天皇の時は、実はその称制がすでに始まっているにかかわらず、しかもその年には、ともになお先帝御存生であったがために、これを先帝の御代にかけて、『日本紀』の普通の数え方に従い、その翌年をもって新帝治世の元年としたものであり、また天武天皇の場合には、天智天皇辛未の年に崩じ給い、『日本紀』はその翌年壬申の乱平定までを空位と見做したがために、天武天皇は事実その制を称し給うた年をもって、治世の元年としたという点に異同があるまでである。しかしこれは『日本紀』がかくのごとき紀年の立て方を採用したというだけであって、一方にその即位の歳から始めて治世を数うるものがあってもあえて不可はない。
 
 称制の年を治世に数うる筆法の同じ『日本紀』の中においても、天智天皇条に十年とある年の同じ出来事を、天武天皇条には四年といい、また天智天皇七年の時の出来事を、元年の出来事として書いた例のあることのごときは、『日本紀』の立て方とは別に一方において、天智天皇の治世を数うるにその即位の歳を元年となし、順を逐うてその十年、すなわち即位の時より数えて四年目の歳を、天皇の御代の四年と数えた史料があって、「天武紀」にはつい編者の粗漏よりこれをそのままに採用して、ために紀年の統一整理を欠くに至ったのであったに相違ない。また前引『大織冠伝』に、天智天皇即位以前を摂政の何年と数え、その以後を即位の何年と数えてあるがごとき、畢竟これと同一筆法であるといってよい。薬師寺塔※[木+察]銘が、天皇即位の年より治世を数えたこと、またもって解すべきである。
 
 しかるに『武智麻呂伝』には、武智麻呂誕生の年をもって、天武天皇即位九年歳次庚辰とあって、これと一年の相違をなしている。これけだし伝の著者延慶が、『日本紀』を見て軽率にもその紀年を即位の年と誤解したためであって、なお『万葉集』一の註に『日本紀』を引き、持統天皇の紀年をただちに朱鳥の年と誤認したのと、同一の誤りに陥仰ったものであるにほかならぬ。
 
(279) しかしながら、この『武智麻呂伝』が、『万葉集』とともに同じ奈良朝の古書として、その編者はともに相当に歴史の素養もあったはずであるにかかわらず、相率いてこの粗忽をあえてしたゆえんのものは、当時紀年の立て方について、統一した筆法がいまだ普及していなかったためであると解せられる。かくて『扶桑略記』のごときは、一方に『日本紀』によって白雉の号の存在を認め、しかも一方に白鳳の号の捨て難きものがあったがために、これを天武天皇の治世の号と付会するにも至ったのであろう。しかして後の史を記するもの、あえてこれを疑うことなくそのままに祖述して、ついに今日の芸術史家をして、この御代を主とする文化を現わさんがために、白鳳期などという誤った用語をなさしむるに至ったのであった。
 
 
      七 結  語
 
 以上長々しく章を重ねて鋭述したところのものは、要するにいわゆる白鳳の年号は、その実『日本紀』に孝徳天皇大化六年改元の白雉のことであり、普通にこれを天武天皇の御代の年号となすことの、明かに誤解に出ずるものなるゆえんを立証せんとしたにほかならぬ。
 
 しかしてその余論として、いわゆる朱雀の年号が、その実また『日本紀』に天武十五年改元の朱鳥のことであることを証明したのであった。かくてこそ始めて天平九年の太政官奏に、「白鳳の年より淡海天朝におよび」の文があり、神亀元年の詔報に、「白鳳以来、朱雀以前」の語あるもの、もって合理的に説明せらるべきである。
 
 今日のごとく整備したる年表を自由に繰り返し、各種の史籍を任意に翻閲し得る学徒の目よりこれを観れば、すでに記録の術も相当進歩したはずのこの時代に関する紀年について、種々の異説の生ずることのごときはすこぶる怪しむべく思わるるも、いまだ年表なく、史籍も容易に入手し難き時代において、最も記憶から逸しやすきはずの年代に(280)関して、そこに種々の異伝の生じたことは、実際やむを得ぬところであったに相違ない。試みにわれらが日誌その他の参考書を離れて、近き過去の事件に関する年時を回想せよ、けだし思い半ばに過ぐるものがあるであろう。
 
 
V
 
(283) 本邦古代の都市について
 
 1 緒 言
 今度「都市研究」号を発行するについて、本誌の編者は余に課するに「本邦古代の都市」という難題をもってした。
 一と口に古代と言ってはきわめて漠然たるもので、神代も古代であれば、奈良朝も平安朝も古代であるが、ここには、便宜上奈良朝ころまでを限りとする。
 2 神代の都市
 神代のことは年代悠遠で、その伝うるところ必ずしも人事をもって論じ難い。また、当時の文明が、都市というべきほどのものを形成する程度であったか否かも、疑問であろう。降って人の代となっても、古史の伝うるところその資料に乏しく、茫漠としてほとんど捕捉すべからざるものがある。崇神天皇、四道に将軍を派遣し、皇威大いに張りて御肇国天皇《はつくにしらすすめらみこと》の御称号を得させ給うに及び、史上の事蹟ようやく尋ぬべく、帝都の地おのずから殷賑なる衢を生じて、都市と称すべきほどの聚落の成立は、想像し得られることであったであろう。
 
(284) しかしながら、古伝説の示すところによれば、すでに高天原において、天の高市の称があって、一定の市場において物品の交換が行われたことを語っている。したがってその地は、その当時における都市であったと言わば言われよう。天照大神の天の岩屋戸に籠らせ給うや、八百万神は天の安の河原に神集《かんつど》いに集《つど》いて、善後の策を議せられたとある。神祖のお膝元、すなわち政府の所在地が、おのずから諸神群集の地であったと解せられたことは察せられる。
 
 天孫降臨以前、わが大八州国には出雲に大国主神があって、多くの荒振る神達を従え、いわゆる大国の主となっておられた。また大和には、天孫の族たる饒速日命が、すでに天磐船に乗りて渡来しておられた。その一族ともに繁延して、有力なる民族を形成したとあって見れば、またもってつとに都市の存在を認めてよいかも知れぬ。しかしその位置も、またそれがどのようなものであったかも、むろん知ることは出来ぬ。
 
 3 神武天皇の東征と都市
 神武天皇大和を平定して、畝傍の橿原宮に宮柱|大敷《ふとし》き給い、帝都の実ここに定まるに至って、都下にはおのずから臣民の群集を見るに至ったことは疑いを容れぬ。またその近傍の久米の邑には、天皇が九州から御引率になった久米部の人々が、地を賜わって群居していた。それが都市というほどのものでなかったとしても、当時にあっては比較的殷賑なる聚落をなしていたことと思われる。
 
 そのほか、皇族功臣を始めとして、地方の家族らの本領安堵を得たもの等が、封ぜられて国造、県主等となり、各地に治所を有するもの、前後その数少からぬことであるが、それらの治所はすなわち地方政府で、そこにもまたその品に応じて、都市らしきものの発達が認められる訳である。
 
 4 帝都と郡市
 帝都すなわち中央政府の所在地は、御代の改まるごとに、また同じ御代の中にても、しばしば変更する習慣であっ(285)た。したがって、臣僚のこれに伴って遷ったことは勿論である。当時建築が簡単で、器具、調度その他の財産も多からぬ時代にあっては、この移転はさまで困難でなかったであろう。しかしながら、たびたびの都遷しといっても、そう一度ごとに懸け離れた場所に移った訳ではなく、大体において、畝傍とか、葛城とか、大軽《かる》とか、磐余《いわれ》とか、初瀬とか、纏向《まきむく》とか、飛鳥とかいう風に、その場所にはほぼ一定の地方がある。都の名義はたくさんに伝わっておっても、実際に都というべき場所は少いので、古代史上にいわゆる遷都は、その実少数の都のうちに、あちらこちらと、新しい宮殿の場所が変るというに過ぎない。したがっていわゆる遷都のたびごとに、都下の人民が必ずしもことごとくこれとともに移り、ここに都市の興廃を来すものとは限らない。ことに推古天皇以後、飛鳥の京が固定するに及んでは、市民多くここに群集し、後には都下の市街の範囲が、今の飛鳥から三十余町も隔たった西北郊外の耳成山の付近にまで及び、ここに殷賑なる衢を成すに至った。文武天皇がこの地に藤原宮城の地を経営せらるるさいに、百姓の宅の宮城内に取り込められたものが、一千五百五烟の多きに及んだとある。もってその繁盛の状を察することが出来よう。
 
 しかしながら、前の都が廃せられて、かけ離れた地に設けられた新都に遷った場合には、旧都の繁栄は維持せられずして、いつしか荒廃に帰してしまうのはやむを得ない。孝徳天皇の難波宮のごときは、シナ風の都城が始めて設定せられ、ことにこの地はいわゆる難波津の要津を控えて、枢要の地であったのみならず、また、天武天皇の朝には別宮として、四周に羅城を設け、京内の地を群臣に給せられたほどであったにかかわらず、いつしか田園となって、「難波田舎」と呼ばるるに至った。聖武天皇の朝に藤原宇合、知難波宮事に任ぜられ、さらにこれを改修した時の歌に、
 
  昔こそ難波田舎と言はれけめ、今は都とみやこびにけり
とある。もってその際の事情が察せられよう。
(286) 天智天皇の大津京のごときも、存続わずかに五年で壬申の乱のために廃せられ、その後、持統天皇の朝に柿本人麻呂がその荒都を過ぎた時の歌に、
  天の下知ろしめしけん、皇《すめろぎ》の神のみことの、大宮はここと聞けども、大殿はここといへども、春草の茂く生ひたる、霞立つ春日の霧《き》れる、百敷《ももしき》の大宮処見れば悲しも
 
というの惨状を呈するに至った。したがって、都下の市街のごときも荒廃してしまったことは疑いを容れない。大津の名さえも古津と改められた。これが大津の名称に復旧されたのは、天智天皇の曾孫桓武天皇が、山背に遷都ありて後のことである。世降り、人文進み、都城壮大となるに至っては、宮殿の移転新造はともかくもとして、久しく住みなれた人民のこれに由りて蒙むる精神上、物質上の苦痛は、また上代の比ではなかった。孝徳天皇が飛鳥を去って難波の京に遣り、天智天皇が同じく大津の京に遷り、天武天皇またしばしば遷都を計画し、それらがいずれも失敗に帰して、飛鳥京の継続を見るに至ったのは、他に種々の原因のあることではあるが、飛鳥市民が旧都に恋々たるの情、また与って力あったものであった。
 
 平城京《ならのみやこ》遷都は藤原不比等の英断で実行された。従前数度の失敗に鑑み、飛鳥勢力の中心たる寺院のごときも多く新京に移して、めでたくその目的を達した。この時、旧京の市民が、皇命を畏みて、「にぎびにし家を離《さか》りて、隠《こも》りくの初瀬の川に船浮けて、……万《よろず》たび顧みしつつ、……青丹《あおに》よし奈良の都の佐保川に、い行き至りて、冷《さ》ゆる夜を息《いこ》ふ事なく、通ひつつ」この新京に家屋を作って移住した有様は、『万葉集』の歌に見えている。これがために旧京は全く荒廃しないまでも、繁華の新京に違ったことは疑いを容れぬ。
 
 聖武天皇、一時平城京から山背|恭仁《くに》京にお還りになった。わずかに三、四年間のことではあったが、それでも、平城《なら》は全く淋れてしまった。在官有位者は言うまでもなく、市民また夜を日に継いで陸続として移った。これがために(287)平城の荒廃した有様は、
 
  八隅しし我が大君の、高敷かす日本《やまと》の国は、皇祖《すめろぎ》の神の御代より、敷きませる国にしあれば、生《あ》れまさん御子のつぎつぎ、天の下知ろしまさんと、八百万|千年《ちとせ》をかけて、定めけん平城京《ならのみやこ》は、炎《かぎろひ》の春にしなれば、春日山御笠の野べに、桜花|木《こ》の晩《くれ》がくり、貌鳥《かほどり》は間なく屡鳴《しばな》き、露霜の秋去り来れば、生駒山飛ぶ火が岡に、萩の枝をしがみ散らし、狭男鹿は妻呼びどよめ、山見れば山も見がほし、里見れば里も住みよし、物のふの八十伴緒の、打ちはへて里なみ敷けば、天地の寄り合ひの極《きは》み、万代に栄え行かんと、思ひにし大宮すらを、恃めりし奈良の都を、新世《あらたよ》の事にしあれば、大君の引きのまにまに、春花のうつろひかはり、村鳥の朝立ち行けば、刺す竹の大宮人の、踏み平《な》らし通ひし道は、馬も行かず人も行かねば荒れにけるかも
 
  立ちかはり、古き都となりぬれば、道の芝草長く生ひにけり
  なづきにし奈良都の荒れ行けば、出で立つ毎に嘆きし勝る
の歌によって知られる。また当時の感懐を述べた歌に、
  世の中を常なきものと今ぞ知る、奈良のみやこのうつらふ見れば
とある。咲く花の匂うがごとかりし帝都も、一朝にしてかくのごとく惨憺たる有様を呈したのである。しかるに、この恭仁の新京も、久しからずしてさらに難波に遷るべく発議された。これは疑いもなく藤原の人々の主張である。これに対して橘諸兄ら恭仁遷都派の人々の反対したのは無論である。聖武天皇その取捨に迷われ、有位者を会してこれを衆議に諮られた。この時恭仁京に止まるを可とする者、五位以上二十三人、六位以下百五十七人、難波京に移らんと乞うもの、五位以上二十三人、六位以下百三十人で、彼此多少の相違はあるけれども、大体において勢力相斉しく、もって決をなすに足らない。すなわち去ってさらにこれを市人に問われた。眼前の小康に満足して、労費の多きを厭(288)うに急なる市人は、ほとんど衆口一致恭仁京に止まるを可とした。ただその間にあって、難波を願うもの一人、平城《なら》に還らんと乞うもの一人あったばかり。人民が遷都をもって痛苦とした事情もって察すべきである。しかしこれは難波と恭仁とを比較しての問題で、帝都ついに平城に還るに及んでは、旧京を慕う市民は争うてこれに赴き、暁夜相接して絶ゆることがなかったとある。かくて後、平城京は、桓武天皇の長岡遷都に至るまで、平穏にその繁昌を継続した。
 
 帝都すなわち中央政府の所在地は、かくのごとくにして常に最も殷賑なる都市を成すのである。
 5 地方庁の所在地と都市
 中央政府の所在地が、帝国における最も殷賑なる都市を成すと同じように、地方における都市は、またまずその地方庁の所在地に起る。
 国造・県主等は地方における豪族で、各自土地、人民を私有し、朝廷支配の下におのずから一小半独立国の状を呈していた。漢籍に倭人百余国と数え、「各々王あり統を伝ふ」とあるもの、すなわちこれである。『魏志』の「倭人伝」に記するところは、主として九州地方のことと思われるが、その戸数もかなり多く、国々市あり有無を交換すと言われたほどで、その中心地に自然の都市の発達を来したことを疑わぬ。
 
 国造・県主等の領分の間に介在して、所々に皇室御領の土地があった。その成立の由来には種々の顛末もあろうが、多くは従来無主の状態の下にあった土地を開墾したり、または国造・県主等の献納、寄付の行為によって出来たものらしく、そこには必ずこれを支配すべき役所がなければならぬ。屯倉《みやけ》の名称をもって呼ばれたもののごときすなわちこれで、これまた地方における一の中心地となり、おのずから都市の発達を促した次第である。
 
 国造・県主等の所在、屯倉の治所等のほかに、上古すでに所々に国司の庁があった。普通の解釈では、国司は大化(289)改新後に置かれたもののごとく信ぜられているけれども、その実、大化以前から存在しておった。それがあまねく各地に渉って存したか否かは不明であるが、少くも朝廷の勢力の布及した地方には、古い時代から置かれてあった。国司あるいは国宰とも記し、ミコトモチと訓む。皇命を持して地方に赴き、直轄の御領を支配し、かねて付近の国造・県主等を監督したもので、『魏志』に「国中刺史の如きものあり」とあるのはすなわちこれである。その大なるを大宰という。あるいは総領ともいう。後には筑紫の大宰府にのみその名を止めたが、古えは所々に存在しておった。これら大宰・総領・国司・国宰等の治所またおのずから地方の一中心地をなし、都市発達の因をなしたものである。
 
 大化改新は屯倉および国造・県主等を廃し、その所領を分合して郡としたもので、在来の国造・県主等は多く郡領として採用された。これより国司の勢力大いに増加し、その庁の所在地には、利を逐い便を求めて人民群集し、殷賑なる都市を形成したことは言うまでもない。今に国府あるいは府中などと称し、もしくはその国名の一字を「府」の字に冠しているものは、多くはその遺蹟で、中世以後国司の勢力衰え、政治の中心他に移った所にあっては、昔日の繁盛を維持することが出来なくなったものも多いけれども、今なお古来の都市を存続しているものも稀には残っている。
 
 6 市場と都市
 上代質撲のさいにあっては、商業のごときもとよりその盛んを見るに至らなかったことではあるが、しかも氏族によって職業を分ち、いわゆる分業の法が比較的発達しておったうえは、物品交換のために市場の設けのあったことは明かである。前記『魏志』に、「国々市あり有無を交換す」とあるのはすなわちこれで、これは主として九州地方のことを述べたのではあるが、またもって他の地方の状態を推すことが出来る。
 
 市の名の古書に見ゆるもの、大和に飛鳥市・磐余市《いわれのいち》・軽市・三輪市・海柘榴市《つばきいち》・龍田市・阿斗桑市《あとのくわいち》などがある。飛鳥・軽・磐余・三輪・海柘榴(初瀬地方)などは、いずれも帝都の地もしくはその付近で、都下の市街に設けられたも(290)のであった。たとい都が他に転じた時でも、その市は依然存在していたので、もって都市の継続していた趣が察せられる。藤原京は左右両京に分たれ、京内に東西の市があった。平城・平安の両京にも、むろんこの制は蹈襲せられた。平城《なら》付近にはまた辰市《たつのいち》というのがあった。これは辰の日ごとに立つ市で、すでに辰の日の市があってみれば、巳市・午市など、他の日に立つ市もあったことと察せられる。毎日、市を開くほどの必要ない場所では、一定の日を定めてここに各自物品を持ち寄る習慣であった。諸国に二日市・四日市・七日市・十日市などの地名のあるのは、毎月三回その日に市の立った場所である。今の縁日の夜市・朝市など、その遺習であろうと思う。
 
 大和以外、古書にその名の伝わっているもの、河内の餌香市《えがのいち》、摂津の難波市、駿河の阿倍市、美濃の少川《おがわ》市、播磨の飾磨《しかま》市、豊後の海柘榴《つはき》市、所在不明のおふさの市などがある。その他にもむろん多かったことは疑いを容れぬ。
 
 これらの市は、往々すでに存する都市の地に設けられたものであろうが、その市のために、さらに都市の発達を来す場合も少なからんことであったであろう。
 7 宿駅・要津と都市
 都市の発達が交通に起因するもののあるのは言うまでもない。古代交通の不便なさいには、駅伝の制がことに必要で、国府上下の官人、貢租運搬の担夫、舎人・兵衛・防人・采女・役夫、その他一般旅客の宿泊のために、街路に沿うて一定の地点が指定せられ、ここに宿駅の設備がなければならぬ。しかしてここには宿舎の設けのみではなく、さらにこれがために必要なる物資供給の機関も必要で、古代駅家の所在地は、おのずから都市の状をなしていたに相違ない。平安朝における駅家の名称は『延喜式』に見えているが、これは奈良朝以前より存在するもので、その制度の定まらない時代にあっても、事実はすでに存在していたことを疑わぬ。
 
 交通はひとり陸上に行われたのみならず、海国なるわが大八洲国には、海路またすこぶる重要なものであった。難(291)波津・武庫津・大津・敦賀津・安濃津などは古くから重要であった。奈良朝には瀬戸内海交通のために五泊の地が定められた。古史にその名の伝わっておらぬものでも、所々に殷賑なる要津のあったことは察せられる。
 
 琵琶湖の大津は東山北陸に通ずる要津として、古くから盛んなものであった。もちろんその場所は今の大津市ではなかったけれども。
 淀川に沿うては、淀津・山崎津・江口・神崎などが、平安朝における殷賑たる要津となった。これは奈良朝以前には関係のないことではあるが、その繁昌の状は、古代における他の地の有様を察するの料ともなろう。『遊女記』に見えたる江口・神崎の繁華は、他の宿駅・要津を見るうえに、好参考となるべきものである。
 
 8 社寺と都市
 政治・商業・交通等に起因する都市以外、社寺による都市の発達が、古代においてまたすでに認められなければならぬ。ただ古代において、これを具体的に立証するの資料乏しきを憾みとする。
 
 神社はしばらく措く。仏寺は多くは在来の都市もしくはその付近において設けられた。渡来当初の向原寺を始めとし、法興寺・元興寺・橘寺・河原寺・厩坂寺・薬師寺・大官大寺(大安寺)・立部寺・紀寺・葛城寺・桜井寺・豊浦寺等、皆飛鳥帝都地方に設けられた。その他、四天王寺は難波に、高井田寺はその交通路上の河内に、法隆寺・法起寺・法輪寺・中宮寺等は聖徳太子の宮殿の所在たる斑鳩地方に、広隆寺は秦氏根拠の山背におのおの設けられた。また天智天皇の大津京には崇福寺が設けられ、平城の都には旧京の諸寺を移したほかに、東大寺・西大寺・唐招提寺等の諸大寺が出来た。これがために、さらに都市の繁栄のうえに貢献したのみならず、帝都が他に移って後も往々寺院の隆盛を維持し」これがために都市の繁栄の幾分を継続することが出来た場合がある。今の奈良市のごときは、実に興福寺・東大寺等のために左京京外の地に拡張した京城の一部の保存されたものである。
 
(292) 聖武天皇はまた、諸国に国分の二寺を設けられた。これは国府所属の寺で、その設置の御趣意は、「兼ねて国の花となす」というにあって、「必ず好処を択んで実に長久なるべく、人に近ければ則ち薫臭の及ぶ所を欲せず、人に遠ければ則ち衆を労して帰巣するを欲せず」との御配慮から、通例、国府を去る一里内外の地を点定された。今に国分もしくは国分寺の名のあるのは多くはこの遺蹟である。これらの寺院は、中世多く廃滅に帰したが、中には今なお多少の門前都市を伝えているものもないではない。
 
 9 都市とその遺蹟
 わが古代の都市は、今にその遺蹟の地籍の上に明かなる平城京のごとき、、あるいは礎石・廃瓦の存在により、その地点を指示し得る寺院所在地のごときは言うまでもなけれども、その多数は、わずかに地名によりてその地を想定し得るのみである。石材あるいは煉瓦をもって家屋を建築した諸外国の都市にあっては、数千年の後においてなお考古学上の調査より、その遺蹟を正確に知ることが出来るが、もっぱら木造建築によったわが都市では、この方の希望は絶無である。
 
 上古の宮殿は「底津磐根に宮柱大敷き立ち、高天原に千木高知る」とある。形容いかにも雄大ではあるが、実は掘立柱に茅の屋根というに過ぎなかった。仏教渡来以後、礎石を置き屋瓦を覆うの寺院建築は漸次始まったことではあろうが、宮殿の方ではようやく皇極天皇の時に板蓋宮《いたぶきのみや》があり、斉明天皇の時に瓦葺を設計して遂げなかったような有様で、その寺院のごときも、往々宮殿もしくは貴紳の住宅をそのままに使用したのが多かったから、その遺址を今日考古学上から求めんは、よほど困難なことであらねばならぬ。ことに一般人民の住宅のごときは、きわめて質素なものであったに相違ないから、これを実地に求めることはとうてい不可能のことであって、わずかに陶器の破片の包含地などを発見して、それで古代を推測するを得る場合があるに過ぎない。
 
(293) この以外において、上代の殷賑の地を想像し得べきものは古墳墓である。わが古墳墓にはきわめて偉大なものが多く、その内部には貴重なる多数の副葬品を包蔵している。したがってその年代を考定することを得たならば、もってその地方における豪族の勢力を卜知し、おぼろげながらもその地方に多数の住民のあったことを想像することが出来よう。しかしながら、現在存する古墳墓の数は、決して古代当時のままのものではない。偉大なる横穴式石室を有するものにあっても、今日眼前に夷げられつつあるものが無数である。この作業が数百千年来継続し来った今日のことであるから、現存のものはその中にあって、僥倖にも開墾者の鍬から免れたもののみで、その免れ得たものは、ことに偉大にして、容易に破壊しつくすことの出来なかったものが多数におると言わねばならぬ。縦穴式の小古墳のごときは、容易に破壊され、容易にその原形を消失するものであるから、これらは全く今日の考古学的調査から漏れてしまうこととなった。知名の考古学者にして、今日なお縦穴式古墳の存在を疑うもののあるのは畢竟これがためである。古代の実際においては、おそらくは縦穴式の方が横穴式のものよりも多かったことと思う。余が近年京都に仮寓して以来、付近地方に発掘された六個の古墳はことごとく縦穴式で、一も横穴式のものの発掘には遭遇しなかった。もってその数の比較を想像するの料ともなろう。開墾の業のいまだ普及せざる僻遠の地方においては、今なおはなはだ多くの古墳墓の群集を見るのである。近年、東西大学の調査を施せる日向西都原には、巨大なる少数の墳墓を擁して、二百数十の小古墳が群集しでいる。また最近余の踏査した大隅の串良には、これも一大古墳を擁して、百十数の小古墳の群集を見た。また豊後庄の原には、一大墳のほかに四十余の小古墳が群集していたが、これは先年余の眼前において、大多数跡方もなく夷げられたのを実見した。しかしてその多数は縦穴式のものでこれまたもって他を類推すべき好資料で、現在田圃の間に大古墳のみを存する地方には、かつてはかくのごとく小古墳の群集地であつたものと察し得る場合が多かろう。しかしてそれらは、ただちにもってその当時その地方が人民の群集(294)地であったことを示すものと言ってよかろう。
 
 この人民の群集地が、果して古代の都市と称すべきものであったか否かは疑問である。しかしながら、これらの偉大なる地方の墳墓が、往々国司庁の付近、もしくは国造・県主等の居地、屯倉の所在地であったと想像し得る場合の少からんことを想い合すと、その政治に起因する都市との関係が、髣髴として脳裏に浮ぶことを禁じ得ない。現に日向西都原のごときは、今に三宅の地名を存して、古く児湯の屯倉の所在地として、日向の一中心地であったことを示している。大隅の串良も一の限られたる平野の地で、古えここに半独立の形をなせる小王国の存在が想像される。また豊後の庄の原のごときは、古府すなわち豊後国府の付近で、古くここに国造もしくは県主とも言わるべきほどの有力者の割拠を想定せしめ、それが後に国府庁として取り立てられたものと思われるのである。
 
 10 結 語
 これを要するに、古代の都市は今日これを文献上に求め、遺蹟に徴して、わずかにその一斑を知るに足るのみで、とうてい十分にその実状を知ることが出来ない。ただこの一斑をもって全豹を察し、歴史地理学上より、人民の移住、拓殖の進歩、交通の状態、古墳墓の分布等種々の材料より考究を重ぬべきもので、これはさらに将来の研究に俟たねばならぬのである。
 
 
 
(295) 本邦都城の制
 
      一 緒  論
 
 世の本邦都城について説をなすもの、往々にして曰く、わが古代の俗、純樸にして、帝王の宮殿のごときも質素なりしかば、したがって遷都のことも容易に行われ、あるいは死穢を忌まんがために先帝崩御の地を避け、あるいは新帝即位前の宮が先帝の都と位置を異にする等の理由により、たいてい御代ごとにその都を改め、宮殿を新たにせらるる慣習なりしに、元明天皇のころに至りては唐との交通も頻繁となり、文物も大いに開けたれば、唐制に模して宏大なる都城を経営し、これより遷都の習慣も止みて、帝都固定の実を現すに至れりと。これ実に普通の見解なるがごとし。またその都城を論ずるに当りては、往々にして平安京を説くに「大宝令」の制をもってし、『延喜式』の制をもって平城京《ならのきよう》を律せんとし、しかしてわが都城の制が、前後において果して相違するところなきや否やを考察せんとせざるものあり。これまた実に近時に至るまで一般普通の見解なりしがごとし。しかれども、余をもってこれを見るに、遷都の理由すでにその見解を誤り、都城制の起原を論ずる大いに正鵠を失し、都制に関する観察、またすこぶるその(296)要を得ざるの憾みなきにあらず。
 
 つらつら古史を案ずるに、新帝必ずしも先帝崩御の宮を避けず、その都を遷す、往々にして即位後ある時期を経て始めて行わるるなり。新帝即位し給うの地果していずれなりや、古史の筆法これを明記すること少きも、孝霊天皇の場合のほか、即位前に遷都の記事なきをもって見れば、神器を継承して即位の礼を挙げ給うは、普通に先帝の都なりと解するを至当とす。成務天皇のごときは明かに父帝崩御の都において御一代間|在《ま》しましき。『日本紀』に曰く、崇神天皇五十八年、近江国に幸す、これを高穴穂宮という。六十年十一月、天皇高穴穂宮に崩ずと。しかして、『古事記』に曰く、若帯日子天皇(成務)近淡海之志賀高穴穂宮に在して天の下|治《しろ》しめしきと、これ明かに新帝必ずしも先帝崩御の都を避け給わざりし証ならずや。また、新帝の都がその皇太子たりし時の宮殿なりしとの証拠は、これを史上に求むべからず。余輩はかえってしばしばその反証とも思わるるものを見出すなり。しかれども、遷都に関する解説のごときは、今ここに論ぜんとする主要なる点にあらず。かつ、その論文はかつて本誌上において公にしたることあれば、今はすべて省略に付せん。ただその平城京をもって唐制に模倣したる都城の濫觴とし、前後の都城いずれも全くその制を一にせりとの説に至りては、いささか弁なかるべからず。すなわち所見を述べて識者の示教を仰がんとす。
 
 
      二 都城の意義
 
 都城について論ぜんには、すべからくまず都城の意義を明かにすべきの要あり。「都」は邦言「ミヤコ」なり。ミヤコ解して宮処とす。帝王宮殿所在の地なり。宮殿所在の地おのずから吏民群集し繁華の地をなす。すなわち都なり。また「城」は邦言「キ」なり。「キ」はある物体をもって一の地域の境界をなし、他の侵入を防ぐものの称なり。カキ(垣)、ヒモロギ(神籬)、シキ(磯城)、カヅラキ(葛城)、イナギ(稲城)、の類これを証す。その境界をなし、他の(297)侵入を防ぐもの、すなわちある意味において城郭なり。ゆえにあるいは「キ」をもってもっぱら城郭の意に解す。広くこれをいえば、墻塀を有する一の邸宅もまた「キ」なり。いわんやその墻塀のごときも単に一重、二重のみならず、いわゆる九重奥深き帝王の居のごとき、これを城といわんは毫も支障なく、したがってこれを都城といわんも、あながち拒むべからざるに似たり。しかれども、余輩がここに特に「都城」の語をもって示さんとするものは、いささかこれとその意義を異にす。単に帝王の居そのものに対してある防禦の備えをなしたるものは、これを宮城と称すべく、都城というべからず。都、一に京といい、二語を重ねて京都ともいう。したがって都城あるいは京城ともいい、古来の用法これをもって明かに宮城と区別せり。京都とは帝王のまします宮殿に加うるに、その付近に群集せる吏民の居を籠むるの称なり。しかしてその都を防禦すべき城郭の設ありて、始めてこれを都城と称すべし。
 
 シナにては古来都邑を護るがために特別の設備あり。これを城郭となす。しかるに、わが邦にありては古来かくのごとき風習あることなし。一の宮殿、一の邸宅に対する防禦の備えはこれありとも、都を守り邑を護るべき特別の設備はかつてこれあらざるなり。ここにおいて、『唐書』にもわが俗を記して、「国に城郭なし」といえり。ただわずかにこの意味の城郭あるは、蝦夷に接する辺境の地方の邑落のみ。こは「大宝令」の明記せるところにして、なおシナにおいて異種族の襲来に対し、都邑を防禦せんがために城郭を設くると同一の理由によるなり。しかれども、これは単に辺境のみのことなり。内地にありては襲来を防ぐべき異族あることなく、したがって、都邑に対して城郭の要なかりしなり。ここにおいてわが古代にありては、都はあれども都城と称すべきものあることなかりき。帝都には吏民おのずから集まりて繁華なる衢を生ずるも、後世のごとく街路縦横に直通して、繞らすに墻塀をもってするがごとき都城あることなかりき。しかして、そのこれあるはシナと交通して、かの制を模倣せしに始まる。『日本紀』に允恭天皇の飛鳥の都のことを記して、京城の語を用いたれども、こは後に飛鳥の地に京城起り、『日本紀』編纂当時におい(298)てはなお旧京として著名なりしかば、後の称呼をもって前に及ぼしたるものならんのみ。
 
 
      三 本邦都城の権輿
 
 都城の意義すでに右のごとし。そのこれあるは必ず隋唐交通以後なるべきは明かなり。しからば、これをもって隋唐と交通を開始せし飛鳥の京に求むべきか。あるいは世俗の普通に認むるごとく平城京に求むべきか。これ多少の考究を要するものなり。皇極天皇の飛鳥の小墾田の宮には十二の通門あり。大極殿あり、衛門府ありき。思うに他の諸殿・諸舎もありて、後のいわゆる宮城たるの設備は必ずこれありしものならん。しかれども、果していわゆる飛鳥の京を擁護すべき城郭ありしや否や。よしや城郭とは称すべからすとも、ともかくも京の内外を区別すべき境界ありて、京内には街路縦横に直通せしや否や。余輩はいまだ一もこれを証すべき記録を見るを得ざるとともに、記録上これが反証を挙げんこともまたすこぶる困難を感ずるものなり。しかれども、これをその実地につきて見るに、いわゆる飛鳥の地が、後世にいわゆる都城制を布くに適せざるは明かにして、したがって、当時いまだいわゆる都城は起らざりしものなりと解するを至当とす。いわんや『日本紀』に孝徳天皇の難波京を記して、「初めて京師を修む」の明文あるにおいてをや。
 
 大化の改新は旧来の制を打破して唐に倣い、郡県の制を敷きたるものにして、官制、田制、租法、刑法等多く唐制を模倣して成れる大宝の制定は、すでにこの時においてその端を発したり。しかしてこの時、中大兄皇子ならびに中臣鎌足らは、理想の新政を行わんには情弊多き飛鳥の旧都にあるを不利とし、遠く大和を離れて難波に都を遷したり。難波の地平地広く、シナ風の都城の経営に適す。ここにおいてさらに唐に倣い、ここに始めて都城を設けんこと、まことに自然の数なり。
 
(299) 『日本紀』に曰く、「大化二年初めて京師を修む。」「凡そ京は坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置く。戸口を按検し、奸非を督察することを掌る。其の坊令には坊内の明廉強直にして時務に堪ふるものを取りて宛てよ。里坊の長には、里坊の百姓の清正強※[朝の左+袴の旁]なるものを取りて宛てよ。若し当里坊に人なくば、比びの里坊に簡び用ふることを聴せ。」とあり。
 
 今これを後の「大宝令」の規定に比較せんに、戸令に曰く、「凡そ京には坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置く。戸口を検校し、奸非を督察し、賦徭を催駈する事を掌る。坊令には正八位以下の明廉強直にして、時務に堪ふるものを取りて充てよ。里長坊長には白丁の清正強幹なるものを取りて充てよ。若し当里当坊に人なくんば、比里比坊に簡び用ふる事を聴せ。」とあり。
 
 今双方を比較するに、令制は全く大化の難波京における制度をそのままに襲踏せるものなること、毫末の疑いを容れざるなり。しかして後の平城京、平安京における坊令、坊長等の規定、また「大宝令」定むるところに相似たるをもって見れば、難波の京は後の平城京、平安京等の都制に類似したる制に拠りたる都城なりしことを知るなり。
 
 すでに難波の京が唐制に模倣したる都城なりしことを知らば、平城京に至りて始めて唐に倣い、宏大なる都城を営み、ために遷都の遺風止みたりとなすの説の誤れるは明かなれば、今特に弁を費すことをなさざるべし。
 
 
      四 本邦都城の沿革
 
 前章すでに述べしがごとく、余輩のいわゆる都城は孝徳天皇の難波の京に創まりたるものにして、その後種々の変遷を経て平安京となり、もって明治に及べるなり。その間帝都の改りたるもの、斉明天皇の飛鳥復都あり、天智天皇の近江遷都あり。天武天皇は再び飛鳥に復り給い、持統天皇は新たに藤原京を営み給い、文武天皇さらに遷都の御計(300)画ありて果さず、元明天皇に至りて平城《なら》に遷り給い、これより御七代七十余年間はたいていこの都に在しましき。されどその間また御遷都のことなかりしにあらず、淳仁天皇の近江の保良宮《ほらのみや》に遷り給いしがごときは、一時事故ありて臨時にこの宮に在しまししものにて、いまだ遷都と称すべからずといえども、聖武天皇の山城|恭仁《くに》京に遷り、ついで難波京を都に定め給いしがごときは、短年月の間ながらも明かに御遷都なり。桓武天皇また平安京を営み給う前、約十年間長岡京にましましき。これらはかつて「大津京遷都考」「恭仁京遷都考」「長岡遷都考」等において詳細論述したれば、今これを繰り返さず、読者よろしく本誌上に掲げたる当該論文について尋ね給わるべし。平安遷都後にありては、一時平清盛が安徳天皇を奉じて摂津の福原に遷都を企てたることあり。事業いまだ成るに及ばずして中止せしも、これまたいわゆる都城を宮まんとせしものなりしことは明かなり。
 
 以上述べしところは単に遷都の跡を序《つい》でたるに過ぎざれども、帝都は必ずしも常に遷都とともに廃せらるるにあらず。シナにおいて洛陽、長安の東西両京相対して存せしがごとく、時としては二、三の京の同時に存在せしことあり。難波京が孝徳天皇以来平安遷都後まで依然帝都の一として存在し、平城京がまた南都として久しく存続せしがごときは、記録上明かにこれを立証し得べし。
 
 さて、これらの諸帝都は、果していずれもいわゆる都城の制を実施されたる都なりしか。これ一考を要すべき問題なり。本邦都城にして、その制の最も明かに尋ぬべきものは言うまでもなく平安京なり。こは『延喜式』を始めとして、古史記録中に散見せる資料すこぶる多く、地図の伝うるものまた少からず。もってほぼ当時の状態を復原し得べし。
 
 平城京は記録のこれを示すもの比較的少しといえども、幸いにしてその遺蹟は歴然として今なお存し、条坊の称呼は鎌倉時代に至るまでもなお明かに田籍の上に存したれば、またもってほぼこれを復原するを得べく、その制の大体(301)において平安京に、類似せしものなることを知り得べし。
 
 長岡京、恭仁京、大津京については、かつて各遷都考中に論じたるごとく、ともかくもいわゆる都城制を布きたりしことは疑うべからず。難波京がすでに述べたるごとくほぼ大宝の制と同じき制に則りて条坊を分ち、かつ「天武天皇紀」によれば、少くも天皇の八年以後には周囲に羅城を繞らしたりしこと、また明かなり。
 
 藤原京はすなわち「大宝令」制定当時の都城にして、もちろん令制の規定はその当時の実際を表せるものなるべく、これを『続日本紀』中に散見する記事に徴するも、いわゆる都城刺に則りたりしことは疑いを容れず。なおこの点のことにつきては、他日「藤原京遷都考」と題して考説を本誌上に掲ぐるの予定なれば、ここに贅言せざるべし。
 
 ただ斉朝、天武両天皇の飛鳥宮に至りては、一時の事情によりて旧都に復り給いしものなれば、たといその宮城は新たに造営せられ、その位置前代の宮城と異にし、あるいは飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮、飛鳥|浄見原宮《きよみはらのみや》等の別称あるも、通じては飛鳥宮にして、余輩のいわゆる都城制はその京城内に実施さるるに及ばざりしものなるべく、本論またここに論及せざるべし。
 
 されば、しばらく飛鳥京を除き、その他の京城につきてその都制を攻究し、ほぼ彼此の異同を尋ね、もって本邦都城の制を明かにせん。
 
       五 唐の都城とわが都城との比較
 
 わが都城の沿革すでに右のごとし、その制の基づくところ主として唐制にあるべきは言を俟たず。推古天皇の朝、留学生を隋に派するや、彼らは長安の都に留ること多年、つまびらかにその制度、文物を視察して帰り、もってわが大化改新の資料を供給せり、当時、国博士として挙げられ、常に新政にあずかりたる高向玄理、僧旻のごときは、実(302)に当年の留学生たりしなり。さればその難波の都城のごとき、その設計において必ず範をかの地の都城に取りしことは疑いを容れざるなり。
 
 わが都城のうち最も完備せりと認められ、かつ最も精しくその制を尋ぬるを得べき平城・平安二京の制度は、実に主として範を彼が長安の京に取りしものなること、彼我両者を比較してほぼこれを推測するを得べし。しかれども、唐の都城ひとり長安のみに限らず、その制また必ずしも長安の制のみに止まらざるなり。その東京、洛陽のごとき、縦横に通ずる街衢によりて条坊を分つ点にありては、すこぶる長安と相似たれども、なお大体においてすこぶる趣を異にするものなきにあらず。まず両者に通じたる点をもって言わば、双方ともにやや東西に長く南北に短き長方形をなし、京内を数多の坊に分ち、坊ごとに名あり、坊の形また東西に長きを常とし、京城の四周には城郭を繞らし、京内の一部には宮城・皇城の南北に並びて存在すること等にあり。ただその宮城、皇城の位置につきては両者同じからず、長安にては京城北部の中央にあること、わが平城・平安両京に似たれども、洛陽にては西北隅に偏在すること、わが恭仁京の宮城が左京の一部に偏在するものと相似たり。また長安にありては、中央を南北に正通する朱雀門街によりて京城を左右の両部に分てども、洛陽にありては洛水東西に貫通して京城を南北の両部に分てり。したがってその市のごときも、長安にありては東市、西市といい、洛陽にありては南市、北市と呼ぶ等、異同すこぶる多し。これらは『唐両京条坊考』につまびらかなれば、今その委曲を述べず。
 
 これをわが都城について見るに、概してその制を唐制に則り、特に長安制に倣いたること多きはすでに述べたるがごとくなるも、しかもこれを実施するに当りては、地勢に考え、国情に照し、すこぶる改良を加えたるもの多く、また、平城・平安二京のごときは主として長安制によりたりと思わるるも、中には恭仁京のごとく、その地理自然の類似よりして、むしろ洛陽制を採用せること多きがごとく信ぜらるるものもなきにあらず。ことに平城・平安の二京と(303)いえども、後に伝われる平安京の坊名の多くが、長安、洛陽の両京の坊名中より選択して命名せられたるをもって見れば、洛陽京の制また必ずわが当事者の考慮に漏れざりしは明かなりとす。
 
 主として長安に則りたるにてもあれ、はた洛陽を斟酌したるにもあれ、わが都城の制は、『日本紀』『続日本紀』の記事、「大宝律令」の規定等によりて知るを得たる限り、ならびに平城・平安両京の実地と記録および地図等につきて研究し得たる限りにおいては、これを唐の都城に比して、形式上すこぶる整頓の域に達せるを疑わず。これけだし隋唐交通時代における邦人の時代思想が事物の規律正しきを喜ぶの結果なり。彼らが事物の規律正しきを喜ぶより起れる現象は、種々の点においてこれを見るを得れども、その最も極端に現れたる一例を言わんに、奈良朝以来近く明治に至るまで、地名は必ず二文字に限ると定めたるがごときあり。これもとシナの地名がはなはだ簡潔なるに対し、わが地名が長短はなはだしく不同にして、彼に比してすこぶる不体裁なりと感じたる結果なるべけれども、これがためにいかなる地名をも必ず二字ずつとし、一音のものも強いて二者に延長し、三音以上のものにして、二字をもってしてはとうていその正しき発音を表わすを得ざるものまでもしいて二字につづめたり。しかして、これがためには種種の不便と混雑とをも忍びて、一切のものを犠牲に供したりしなり。しかして、都城の制を我に移すにあたりて、また実にかくのごときものありき。
 
 言うまでもなく唐の都城は、わが東京市のごとく自然の発達拡張に要せしものにあらずして、まず縄張をなし、道路を作り、しかして後、民居をここに定めしものなり。ゆえに街路は東西南北に正交し、わが束京市の道路の乱雑なるがごときに似ず。しかれども、なお時にその地の利に重きを置くの結果、あるいは縄墨に拘泥せざることなきにあらず。管子かつて論じて曰く、「凡そ国都を建つる大山の下にあらずんば必ず広川の上たるべく、高くても旱に近き事なくして水用足り、下《ひく》くても水に近き事なくして溝防省く。天の材により地の利に就く。故に城廓必しも規矩に中(304)らず。道路必しも準縄に中らず」と。管子の論、ただちにもって唐制を律すべきにあらずといえども、またもって彼が重しとせし制を見るべし。さればかの条坊を画するや、各坊の形状と面積と必ずしも常に同一ならず、街路また時に直通せざることあり。
 
 しかるに我にありてはさらにその母制に一歩を進め、きわめて規律の正しからんことを欲し、両々対比の理想を主として極端に縄墨に拘泥し、時に多少実地を疎じたるの結果すらなきにあらざりき。他の都城はしばらくこれを措き、比較的事情の明かなる平城・平安両京についてこれを見るに、京内の各坊はいずれも理想としては同一面積にして、かついずれも正方形をなし、時に北辺に延長すること半坊なる場合にも、その単位なる町の大さに至りては常に同一の形状と面積とを失わず。一京城の中央には長安制に則りて南北に直通する朱雀大路を設け、これによりて左右京に分ち、両京相対比してもとらざらんことに急なるのあまり、その地利を顧みずして、不便なる山腹丘陵にまでも同一形式の設計をなし、ために時として京内一部の不振を招き、あるいは他において城外に拡張を見るのやむを得ざるに至ることすらありき。
 
 
      六 都城外郭の形状
 
 わが都城の形状は、唐の両京がいずれも東西に長きに反し、かえって南北に延びたるを常とす。少くも平城・平安二京においてはしかり。藤原京またその畝傍・香久・耳成三山鼎足の間にありて、南方丘陵地に及べるものとすれば、地理自然の状態よりして、おのずから南北に長からざるを得ず。大津京の地は西に山を帯び東は湖に臨み、平地南北に延びたれば、ここに設計せられたる都城のおのずから南北に長かるべきはもとより論なし。思うに長岡京また必ずしかりしならん。何となれば平安京はことごとく平城京の都制をそのままに蹈襲し、ただわずかにこれを拡張したるに(305)過ぎずして、しかも長岡京は両者の中間に設けられたるものなれば、その時勢に考えその地理に察して、またおのずからしかりしならんと推測さるるなり。難波京に至りては、これを考証するの材料きわめて乏しけれども、しかもその条坊に関する制度が、藤原京の規定を示せる「大宝令」の制度と全然揆を一にするによりて見れば、けだしまた類似のものたりしなりん。ただひとり恭仁京に至りては、木津川すなわち泉川がその敷地を東西に貫通せる状況の、すこぶる洛陽京における洛水に似たるものあり、ことに鹿背山南方より延びて地を左右に分ち宮城は左京に偏在する等、おのずから洛陽の制に則りたるがごとき観ありて、他の諸京と趣を異にし、したがってその形状のごときも、賀茂・恭仁・木津・大狛の地方に亘り、東西に扁平なりしがごとし。ただその四至もとより明かならざるなり。さればしばらく恭仁京を除き、その他の都城はいずれも東西に短く、南北に長き長方形たりしものなるべけれども、後には住民繁簡等の都合上、市街の一部の京外に拡張せられしことなきにあらず。これがために京職の管するところ、やや左右の対比を失するの事実なきにしもあらず。ただしこれは清国北京の内城に対する外城、わが台湾台北城の城外市街の類のみ。原則としては規律正しき長方形なるを失わざるなり。
 
 都城の形状すでに長方形なるを知らば、次に起るべき問題は、その長方形の長辺と短辺との比いかんとのことなりとす。しかしてこの長短の割合は必ずしも各京同一なるを要せずといえども、しかもその間またおのずから多少の関係なきにあらざるがごとし。すなわち、平安京は東西八に対して南北九半にして、平城京は東西八に対し南北九なり。長岡京はおそらくはこの両者の一なるべし。しかしてこの九より九半となりしは、平城京が後に北辺において半坊を拡張するの必要を生じたるの経験によりて、当初より北辺の半坊を加えたる結果なりとす。藤原京にありては、今にしてこれを知るの材料乏しといえども、「大宝令」の規定するところ坊令十二人とあるによれば、かりにその坊の形をしてなお平城・平安二京のごとく正方形ならしめば、京城の形は東西八に対して南北十二ならざるべからず。ただ(306)しその地形の実際を測り、四囲の状態を考うるに、おそらくは八に対して十なりきと思わるるの理由なきにあらず。こは他にさらに詳論するの期あるべし。大津・難波の両京に至りては毫も徴すべきものなし。ただ坊令所管の坊の数によりて、東西の八なりしを推測するあるのみ。
 
 
        七 羅  城
 
  京城の周囲に外郭あり、これを羅城という。その始めてわが史に見ゆるは、天武天皇八年に難波京に羅城を築かしめ給える時にあり。難波京は孝徳天皇の創め給いし都にして、大化二年、初めてこれを修め給いしより、ここに至りて三十四年なり。しかるにこの京は、さきに天智天皇のなお皇太子にて在しませし時、皇祖母尊《すめみおやのみこと》(すなわち後の斉明天皇)および間人《はしひと》皇后を奉じ、諸皇弟を率い、百官を随えて飛鳥の旧都に帰り給いてより以来、おのずから廃部の姿となりしが、しかも、その実はなお現今の東京に対する京都のごとく、依然帝都の一として保存されたりしものにして、天武天皇大江(山城、丹波の間)、龍田(大和、河内の間)に関を設けて畿内の警備を厳にし給いしとともに、この難波京にも外郭を築きて、防衛の備えをなし給いしものなり。これより先、天武天皇は、一とたび儲位を辞して大和に退き給い、当時天智天皇の大津遷都を喜ばず、当時の新政に対して不平を抱きし飛鳥の旧勢力を利用して、兵を発して大津に逼り、ついに壬申の乱に勝利を得給いてより、再び飛鳥の旧都をもって帝都とし、その浄見原宮《きよみはらのみや》に即位し給いしが、事物ようやく整うに及びては、この一隅に僻在して交通の不便なる、ことに多年政治上の中心地として、種々弊竇の蟠りたるべき、この旧都に在しますに満足し給わず、即位の五年すでに新城《にいき》に新都の経営を創め給いき。新城はおそらくは今の奈良郡山の西南なる新木《にいき》ならん。この御計画はいかなるゆえありてかいったん中止となりしが、七年、摂津磯(難波京を管す)大夫を任命し、さらに八年に至りて、この難波京羅城築造の御挙ありしなり。かくてその(307)後も新都の経営につきて、種々の御企てあり、十二年に至りさらに詔し給わく、「凡そ都城宮室は一処に非ず、必ず両参を造らん。故に先づ難波に都せんと欲す。是を以て百寮各往いて家地を請へ」と。先年の羅城御築造は実にこれが準備たりしものなり。けだし難波京にはその初め羅城の設備なく、天武天皇ここに遷都せんとの御意志ありて、始めてシナの制に倣い、これを造りて帝都の防備を成し給いしものならん。わが国の俗もと城郭と称すべきほどのものなし。したがって大化に始めてシナ風の都城を営み給いしさいにも、その条坊の区画等をかの制に倣いしに止まりて、いまだ羅城を築くに及ばざりしもののごとし。しかるに斉明天皇の御代に三韓離畔し、兵を唐国と交えしことなどありしより、天智天皇は、高安・屋島・長門・筑紫・対馬等に城を築きて外寇に備え給い、天武天皇またその方針を継ぎて国防に注意し、また深く壬申の乱に鑑み給うところありて、ついにこの帝都防衛の設備をなし給いしものならん。
 
 難波京の羅城はかくのごとくにしてなれり。さればその制たる、必ずや城郭として、拠りてもって敵を防ぐに足るものたりしを疑わずといえども、その後の都城に至りては、実際上その必要なかりしより、ついにはいわゆる告朔の※[食+氣]羊の類となりて、わずかにその形を存するのみとなり、城郭の名ありてその実なく、世人ついに羅城の城郭たることを忘れ、その正門たる羅城門すら、羅生門の文字をもってこれを記するを常とするに至れり。伊藤東涯『制度通』において羅城を解して曰く、
 
  羅城と云ふ事其の義詳ならざるよし、三代実録拾遺抄にも其の説あり。羅城と云は惣曲輪の事なり。通鑑唐懿宗紀に、不v移v時克2羅城1、彦曽退保2子城1と云ふ。胡三省が註に、羅城(ハ)外大城也。子城(ハ)内小城也と。又唐書高祖本紀に、築2京師羅郭1、起2観于九門1と。明人の湧幢小邑に、南京外羅城と云云。朝鮮の崔世珍が訓蒙字会に、郭俗称2羅城1と。此の諸文にて、羅城の義明なり。然れば平安城の羅城門は京都惣グルワの門と云ふことなり。羅絡の義なるべし。
 
(308)といえり。羅城は実に京城の外郭の称なり。朝鮮において俗に郭を羅城と称せしことは、右の『制度通』の引用せる文にも見えたる通りにて、『駕洛国記』にも、
  金首露王二年癸卯春正月、王若(ニ)曰(ク)、朕欲定置京都云云。築置一千五百歩周廻羅城宮禁殿宇及諸有司屋宇虎(武の義なり、諱を避けしによる)庫倉廩云云。
とあり、また、『高麗史』の成宗二十年の条にも、
  京都羅城成。
と見ゆ、いずれも帝都の外郭の義なり。また『唐両京条坊考』に洛陽京の外郭を記して曰く、
  東京城、隋大業元年築、曰2羅郭城1唐長寿二年季昭徳増築。【按隋時外城僅有2短垣1。昭徳始築v之】と。羅城すなわち外城にして、羅郭城なるの義見るべきなり。
 前にもすでに言えるがごとく、シナにありては、古来都邑に対して敵の襲来を防がんがために城郭を設くるの習慣あり、これを大にしては北狄に対して国を保護する万里の長城あり。しかしてその帝都を保護するの外郭、実にいわゆる羅城なり。ただに国と都とに限らず、市街地多く城郭を繞らして敵の襲来に備う。現今の北京城を始めとして、各地の城郭、皆しかり。民屋は城郭内にありてその保護を受く。この点は大いにわが邦における城塞とその趣を異にせり。わが邦の城塞は普通にその中に民屋あるなく、人民は城外に集りていわゆる城下の街をなす。これ、わが邦とシナとその国情を異にするゆえんなり。彼にありては現今、遼東において時に馬賊の襲来あり、また台湾に蕃民の襲来あるがごとく、時々大規模の賊徒ありて、人民はあらかじめこれに備え、城郭内にその保護を受くるを要す。しかるにわが邦には古来かくのごとき場合稀にして、城郭の用は主として戦時に限られ、特に武士が籠城のごとき場合において多く利用せられしものなれば、平常市民を城郭内において保護するの必要なし、前述の城郭のごときも、多くは(309)武士興起の後において始めて起りしものにして、『唐書』にわが俗を記し、「国に城郭なし」といえるもの、けだしその真を表わせるものたるを知るなり。ただ、陸奥、越後あるいは西陲辺境のごとくその地東夷あるいは外敵に近く、時にその襲来を被るの虞れある処にありては、なおシナにおけるがごとく、これに対して村落を保護するの要あり。ゆえに「大宝令」に規定して曰く、
 
  凡縁2束辺・北辺・西辺1諸郡人居、皆於城堡内安置。
と。これいわゆる城郭の意義を具うるものなり。その他古代にありて城《き》と称するもの、稲城・茨城・葛城・磯城の類、あるいは臨時の防備、あるいは邸宅の外囲にして、もって城郭と目すべきものあらず。天智天皇、外敵防禦の目的をもって筑紫に水城《みずき》を築き給う。一大土堤なり、これある意味において大宰府の外郭とも見るべきなれども、またおのずからその意義を異にす。その他、天皇の築き給える各地の城塞、今その制をつまびらかにせざれども、いずれも要害の防備をなせるものにして、シナにいわゆる民居防衛の城郭とはすこぶるその趣を異にせしものに似たり。しかしてわが邦においてこの意義の城郭あるは、実に天武天皇の難波京羅城を初めとすべきがごとし。
 
 羅城に門あり、もって城外に通ずべし。これを羅城門という。羅城の通路必ずしも一にあらず。したがって羅城門の数もと必ずしも一にあらざりしなるべし。律令に京城垣、京城門の語あり、けだし羅城と羅城門となり。しかるに、律令制定の大宝の当時すでに羅城の語普通にあらずして、これを目するに垣をもってせしは、もってその制のすでに形式的のものとなり、城郭と称するに足らざるものたりしを知る。したがってそのいわゆる京城門なる羅城門は、単に京城の南面朱雀大路の終点にある正門のみに限られ、その結構すこぶる宏壮なるも、いたずらに帝都の美観荘厳を示すの具たるに過ぎずして、もはや羅城とともに、外敵防禦の目的を有せざりしなり。したがって羅城なる他の諸通路には、南面正門のごとき厳重なる設備なく、南面正門のみひとり羅城門の名をもっぱらにし、ついには羅城の名も(310)わずかにこの門によりてのみ保存さるるに至れり。羅城読みにライセイという。現今、平城、平安両京の旧羅城門所在の地を称してともに来生《らいせい》と称するは、明かにこれを示す。
 
 難波京の羅城の構造、今これをつまびらかにする能わず。「大宝律令」によれば藤原京にもまた明かに羅城ありしを知るも、その大小広袤またつまびらかならず。平城京に羅城門あり、「天平十九年羅城門に※[雨/咢]す。」「宝亀八年遣唐使佐伯今毛人羅城門に到り病と称して止まる。」との記事『続日本紀』に見ゆ。すでに羅城門あり、この京また羅城ありしを疑わず。今添上郡より生駒郡に亘り、もと京城の北境に当れりと思わるる処に土塁あり、大鍋陵、小鍋陵の周湟および水上池南堤の南、平城天皇陵の西南隅、字一庭・字公家茶屋の竹叢茶園の辺等に断続しつつ一列に東西に亘りいったん絶えてさらに西方佐紀神社の西に現われ、なお西方に向って存在するの形迹あり、ことに平城宮顕彰のために寝食を忘れて奔走せる該地の有志家溝辺文四郎氏の報告によれば、平城天皇陵を距る西方四町なるお前池(二個南北に並べる池の北の方の分)の池底には、また東西に連亘せる土塁ありて、その位置は東方に断続せる土塁と同一線上にあたれりという。余いまだ実地につきこれを発掘して土壌積成の蹟を調査せざるがゆえに、ここにこれを断言するの材料やや不備なるの感なきにあらねど、おそらくはこれ京城北境の羅城の偶然残存せるものなるべし。けだし、他の部分にありては、土地開墾のため多くの年所を経る間に次第に除去されしならんも、ひとり宮城北辺の地は、後に超昇寺の境内に編入せられて、ために久しく旧形を存せしかば、今に至りてなお竹叢、茶園等に保存されしなるべく、また大鍋陵、小鍋陵の周湟ならびに水上池の南堤の南に当る部分は、堤防保護のために、これまた除去の災を免れしものなるべし。特にお前池の底に土塁の残存せりとの報告は最も有益なるものにして、けだしその地はもと左右より低下せる谷間《たにあい》に当り、ここに築かれたる羅城の一部が、後にその地水を堪えて、耕地濯漑用の溜池となるに及ぶも、なお当初の土塁をそのままに存せしものなりと解すべきに似たり。されば、よしや他の地に存する土塁(311)はあるいは寺院邸宅の周垣の残存せるものと解すべしとするも、ひとりこの水底の遺址に至りては、とうてい右の解釈以外の説明を施す能わざるなり。
 
 右の推測にして果して当を得たらんには、これが調査によりて、ほぼその規模のいかんを知るを得べきの希望なきにあらず。平安京に至りては、古書の記するところ明かにその大さを得るを得べし。『延喜式』左京職の条に白く、
 
 北極大路広十丈 東西両極大路亦同 南極大路十二丈
  羅城外二丈【垣基半三尺 犬行七尺 溝広一丈】 路広十丈
ここに垣基半三尺とあり。垣はすなわち羅城にして、実にその基底幅わずかに六尺に過ぎざる小土堤たるに過ぎざるなり。しかして、その土堤の外部に幅七尺の犬行と称する平地あり、次に幅一丈の溝ありて京外と境す。また羅城の内側には五尺の犬行、四尺の溝ありて、内に京極大路を通ずるなり。されば、これを羅城というといえども、すでに城郭の実なきこと久しく、羅城外七尺の犬行、一丈の溝のごときも、ひとり羅城門を有する南京極にのみ限りて存在せしもののごとく、他の三面においては、羅城の名すら疾くに失われたりしなり。
 
 かくて平安朝時代もその中ごろ以後に至りては、綱紀弛廃して都城も自然の廃残に委し、一方には羅城内に田園を生ずれば、他方には、市街羅城を越えて外に拡張するあり。はては羅城門の楼上に死屍を放棄し、悪鬼これに棲みて行人を悩ますとさえ伝えらるるに至り、武家時代となりては荒廃ますますはなはだしく、応仁の乱を経てはさしも万代を誓いし平安京も一面の焼野の原となりて、飯尾常房をして、
 
  汝れや知る都は野辺の夕雲雀、あがるを見ても落つる涙を
との嘆きあらしむるに至れり。しかるに、豊臣秀吉、志を得るに及びて京都の復旧を企て、内野なる平安京大内裏の旧地の荒廃して野原となれりし地を相して聚楽第を営み、旧址を尋ねて街衢を開き、市街の周囲に土塁を築きて内外(312)を分たしむ、これをお土居《どい》という。延長約七里。出町口(鴨川と高野川との合流せる地)より北は西賀茂に至り、紫竹大門より舟岡山を包ね、西北は北野より西の京に及び、あるいは東し、あるいは南して四条に至り、さらに千本通すなわち旧朱雀大路に沿いて九条に至り、東寺を包ね、北に繞り七条に至り、さらに東の方鴨川に至る。その土塁の幅八、九間、処によりては三十余間に及べるありきという。土塁の外に溝あり、また幅八、九間もあらんか、これを古えの平安京に比するに、けだしその西南部に失いて東部および北部に拡大せるものなり。秀吉のこの挙や、必ずしもわが都城制に基づける羅城の復旧にあらずといえども、その帝都の外郭たる点において、またただちにこれを羅城と称するに足るべく、ことに平安京およびおそらくはその他の諸旧京における羅城が、ほとんど告朔の※[食+氣]羊たるに過ぎざるに似ず、事実上帝都防禦の意味をもってこれが築造をなせしは、注意すべきことなりとす。されど、覇府江戸に遷るに及びては、京都の地また政治上重要ならず、秀吉のお土居もほとんど無用の長物として保存されしに過ぎず。明治に至りてその地、往々民有に帰し、漸次開墾除去せられて、今や点々旧観を維持するものあるに過ぎざることとなれり。
 
 
      八 街路と条坊
 
 京城内の街路は東西もしくは南北に直通して、碁盤目の状をなす。現今の京都市、奈良市の道路が、大体において正しく縦横に通ずるは、実に旧時の遺影によれるなり(一〇六頁第五図、一六七頁第九図参照)。
 
 1 朱雀大路
 京城内の街路には、大路、小路の別あり。今これを平城、平安両京の実際について見るに、まず京城の中央を南北に直通する一大路ありて、京城を東西の二つに分つ。これを朱雀《すざく》大路という。これシナ長安京における朱雀門の街名を(313)移せしものなり。大路の東はすなわち左京にして、左京職これを管し、西はすなわち右京にして、右京殖これを管す。左右京あるいはこれをシナ洛陽、長安の東西両京に比して、左京を洛陽といい、右京を長安ということあり。平安京左京の東を流るる賀茂川を時に洛水に比し、後世洛中(加茂川以西)、洛外(加茂川以東)、洛東(同)等の称あるに至れるはこれがためなり。
 
 朱雀大路は南端京城外郭なる羅城門に始まり、北端宮城の南門なる朱雀門に終る。宮城は京城北部の中央にあるなり。朱雀大路によりて京を左右に分つことは、ひとり平城、平安両京のみならず、「大宝令」の規定に徴するに藤原京においてすでに然りしを知る。長岡京またもとよりこれに同じく、「新京朱雀の垂柳《しだりやなぎ》」の歌は、『催馬楽』の歌曲中に編入せられて有名なり。難波・大津の両京に左右京の別ありしや否やは明かならず。ただ難波京に朱雀門のありしことは、『日本紀』に見えたれば、必ずこれより南方に直通する朱雀大路の存在せしは疑いを容れざるべし。飛鳥京に左右両京の別ありしことは、「持統天皇紀」に見えたれども、この京は他の諸京と異にして、いわゆる都城制によれるものにあらざりしなるべければ、ただ行政上左右の区画をなせしに止まるものにして、必ずしも、朱雀大路によりて整然たる分界をなしたるものにはあらざりしならん。また恭仁京はその制を唐の洛陽に倣いたれば、おのずからまた他の諸京と異にして、特に賀世《かせ》山の西の道をもって左右両京の分界線とし、宮城朱雀門より南に直通する大路は、これと相関せざるものなりき。
 
 
 2 条の区画と東西の大路
 朱雀大路によりて分たれたる左右の両京は、さらに東西に通ずる数条の大路によりて数個の小行政区に区分せらる。その各個の行政区を条という。条は北より順次南に向い、番号をもって一条、二条、三条等と呼ぶ。各条の長官を坊令という。『日本紀』大化二年の条に難波京の制を記して、「凡そ京には坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置き、(314)戸口を按検し、奸非を督察することを掌る」とあるものこれにして、「大宝令」の規定また同じ。
 
 各条の南界をなせる大路は、呼ぶにその条の名をもってす。三条大路、五条大路等のごとし。藤原京にありては、京内を十二個の条に分ちたれば、東西に通ずる大路は、南北両京極路を合せて、十三条ありしものなるべく、この時、北京極大路はおそらくはこれを一条北大路と呼び、次に一条の南界をなせしものを一条南大路と呼び、以下順次数字をもって累進し、南京極路を十二条大路と呼びしなるべし。平城京にありては、京内九個の条に分たれしかば、北京極を一条北大路と呼び、一条の南界をなせる大路を一条南大路と呼び、順次南進して、南京極を九条大路と呼べり。ただこれらの大路には特に特別の名称をもって呼ぶことありしにや、『万葉集』二十に佐保路《さほじ》の称見ゆ。
 
  夕霧に千鳥の啼きし佐保路をば、荒らしやしてん見るよしをなみ
 東大寺※[石+展]磑門を一に佐保路門ということ天平勝宝八歳の同寺古境内図に見ゆれば、佐保路はけだし一条南大路なり。ただし、二条以下の大路にかかる特別の名称ありしことを聞かず。
 
 京城は後にその西北部すなわち西大寺、西隆寺の北方において、街衢京外に延長し、さらにここにその広袤他の条の幅の半ばに相当する一区を生じたり。これを一条北辺という。一条北辺の北界を成せる道路はその名称明かならざれども、おそらくは京外一条大路と称したるものならん。そは、北京極(すなわち一条北辺の南界)すなわち一条北大路を、時に京内一条大路と呼びしこと、西大寺古文書および西大寺所伝古図に見えたりしによりて推測せらるるなり。ただし、いわゆる一条北辺は、平城京にありては単に右京の北方にのみ存するに止まり、したがって依然これを目するに京外の地をもってし、その南界を呼ぶになお北京極の称をもってせしが、平安京経営に際しては、平城京後年の膨脹に鑑みるところやありけん、当初よりこれを京内の地とし、左右京に通じてこれを置き、号して北辺坊となす。したがって平城京にありて正方形なりし宮城の境域はこの北辺坊の部分をも包含して、南北に長く、北辺坊の北界を(315)もって北京極大路もしくは一条大路と称することとなれり。その結果として、平城京にありて京内一条大路もしくは北京極と称せし大路、すなわち北辺坊と一条との間を通ずる大路は、宮城の上東・上西の二門すなわちいわゆる土御門に相当するがゆえに、土御門大路なる特別の名称をもって呼ぶこととなれり。土御門大路に対して一条南大路を中御門大路という。待賢・藻壁の二門すなわち中御門に当るがためなり。しかして、二条以下の道路については平城京と同じく、特別の名称ありしことを聞かず。
 
 3 坊の区画と南北の大路
 東西に通ずる大路によりて分たれたる各条は、さらに南北に通ずる大路によりて四坊ずつに分たるるを法とす。各坊に長あり坊長という。『日本紀』に難波京の制を記して、「京には坊毎に長一人を置く」とあるものこれなり。大宝の制また同じく、四人の坊長は一人の坊令の下に属するなり。この制は、難波・藤原の両京においてすでにしかりしものにして、平城・平安の両京また毫も異なるところなければ、おそらくは他の諸京においてもしかりしならん。
 
 左右両京における各坊は、朱雀大路に近き方を第一坊とし、順次左右に数えて第四坊に至りて止む。しかしてこれを表わすには左京何条何坊、右京何条何坊と重ね称するなり。したがって坊を分てる大路は、呼ぶに坊の番号を表せる数字をもってし、朱雀大路に最も近きものを一坊大路とし、次を二坊大路とし、次を三坊大路とし、東西両京極路を四坊大路となす、ただしこれらの大路にも特別の名称ありしものか。平城京右京二坊大路を佐紀《さき》大路あるいは佐伊《さい》大路と呼べること、西大寺古文書中に散見するところなり。平安京にありては、各路固有の名ありて、番号をもって呼ぶ方かえって普通ならず。左右両京の各一坊大路を東西大宮大路といい、左京二坊大路を西洞院大路、右京二坊大路を道祖《さひ》大路(あるいは佐比大路ともいう)、左右三坊大路を東洞院大路、右京三坊大路を木辻大路といい、左右両京の四坊大路を東西京極大路という。今これらの名称につきて考察するに、平安京道祖大路は、あたかも平城京佐紀大路(316)に相当す。あるいは思う、平安京の大路の名称は、もと平城京にありしものをそのままに移したるものあるにはあらじか。そは後に論ぜんとする京城諸門の名称についても類推し得べきところにして、道祖大路の名も、あるいは佐紀より佐伊に転じ、ついに道祖神すなわちサイノカミと相混じてかく呼ばるるに至りしにはあらざるか。西大寺蔵「平城京北班田図」中、佐紀川のほとりに道祖田《さいのた》ある、また参考するに足らん。
 
 4 坊の名称
 縦横の大路によりて限られたる坊にはその各個について特別の名称を唱うること普通にあらず、少くも平城、平安二京にありては、数字をもってこれを表わすを普通とせり。されども、これをシナの例に徴するに、かの長安・洛陽の二京には、ともに坊ごとに名あるを見れば、あるいはわが京城にも、もとはまた必ずこれありしならんと思わる。現に藤原京に林《はやし》坊の名あり、平城京には松井坊の名ありき。これらは偶然事によりて後に伝われるものなれども、一斑もって他を類推するに足らんか。ただ、実際の場合において、これを呼ぶにかかる特別の固有名詞をもってするよりも、条坊の数字をもってする方便利なるがゆえに、自然にこの方のみ用いられて、固有名詞の方は世に忘らるるに至りしものならん。今も京都市において、各町それぞれに特別の町名あるにかかわらず、官庁に対する公文書のほかにはたいていこれを使用することなく、単に縦横の街路によりて、これを呼ぶこと、例えば東洞院三条|上《あが》ル町とか、四条西洞院東ヘ入ル町などと称するの類にして、これによりて明瞭に希望の地点を表示するの実際を思い見るべし。
 
 右の各坊の名のほかに平安京にありては、また、四個の坊を合せたる各条に、それぞれ特別の名称ありき。しかしてこれを呼ぶにまた坊の称をもってせり。その長官を坊令と称するによりて見れば、けだし、坊ということ、本来の称呼ならんか。
 
 平安京の坊名(その実は条の名)は、これをシナ長安または洛陽の坊名中より選択して命じたるもののごとし。ただ(317)し、彼にありては各個の坊に命じたりしものを我はこれを転用して条の名とせるなり。しかして、その三条以南のものにありては、左右両京につきてそれぞれに名を異にし、一条、二条の両条には、左右京に通じて同一名称を用い、一条の北辺には特別の名称なく、単にこれを北辺坊と称す。けだしこの北辺坊は平安京に至りて始めて京内に設けられたるものにして、おのずから平城京以来襲踏せる他の各条と異なるものありしによるならん。
 
 左に平安京の坊名を列挙して、下にその名の出所を註記せん。そのうち出所不明のものは、あるいは本邦において新たに創めし名か。あるいは思う、洛陽、長安の坊名も、時に帝王の諱に触れて改名せしこと少からざれば、あるいは同じくその出所を彼に有するものなりや、図り難し(一六九頁第一〇図参照)。
 
  北辺坊(左右京一条北辺)  ――
  桃花坊(左右京一条)    出所未詳
  鋼駝坊(左右京二条)    洛陽坊名
  教業坊(左京三条)     同
  豊財坊(右京三条)     同
  永昌坊(左京四条)     長安坊名
  永寧坊(右京四条)     同
  宣風坊(左京五条)     洛陽坊名
  宣義坊(右京五条)     長安坊名
  浮風坊(左京六条)     洛陽坊名
  光徳坊(右京六条)     長安坊名
(318)  安衆坊(左京七条)     出所未詳
  ※[毎+流の旁]財坊(右京七条)  洛陽坊名
  崇仁坊(左京八粂)     長安坊名
  延嘉坊(右京八粂)     出所未詳
  陶化坊(左京九条)     洛陽坊名
  開建坊(右京九条)     出所未詳
 これらのシナ風の坊名の採用せられし年代はつまびらかならず。思うにもとは藤原京の林坊、平城京の松井坊のごとく、平安京にても日本風の坊名ありしものが、唐風のことに重んぜらるるに及びて、かく改まりしものならん。しかしてその時代は、おそらくは弘仁年中に当り、菅原清公の奏議によりて天下の儀式、男女の衣服、皆唐様を採用し、諸の宮殿、院堂、門閣等、皆新額を着けしめたりしと同時のことなりしなるべし。
 
 5 条坊の数
 坊ごとに坊長一人あり、四坊ごとに坊令一人あるは一条内に四坊あるの結果にして、大化の難波京以来、延暦の平安京に至るまで、皆しかりしがごとし。長安京にありては左右両京各十三条あり。各条さらに五坊ずつに分かる。ただし中央朱雀門街に近き各二坊、すなわち皇城(長安、洛陽ともにわが宮城に当るものを宮城、皇城の二部に分てり)以南の四個の坊は、他の諸坊に比してその幅狭く、わが都制における第一坊は、実にかの制をわが国に移すに当り、この二坊を合して一坊となししものなり。藤原京には左右両京各坊令十二人ありき。けだし十二条ありし結果にして、長安京よりも一条を減じたるものなり。平城京にては左右両京各九条三十六坊あり。南都東南院所伝、延暦の律書中に引用せる古文書に、左京条九、防(坊の通用字か)三十六、右京条九、防三十三とある右京の坊数は三十六の誤写にして、(319)左右両京同数なりしを疑わず。しかしてこの文書は、余の考証するところおそらくは養老五年ころのものにして、けだし平城京条坊の数を示せるものなりとす。ただし右のうち、一条、二条の各第一坊は宮城敷地なるがゆえに、実際には三十四坊ずつにして、両京を通じて六十八坊ありしものなり。平安京また平城京と同じくこれを九条に分ちしかども、前述のごとくさらに一条の北に北辺坊ありて、これを一個の坊と数えしがゆえに、坊長の数は左右両京ともに各三十五人ありし由『延喜式』に見えたり。
 
 6 町の区画と縦横の小路
 各坊はさらに縦横に通ずる三条の小路によりて、十六個ずつの坪に分たる。これ平城、平安両京における実際なり。この各坪を町という。この町は、もとあるいは坊といいしものと見え、天平十九年の『大安寺資財帳』にこの称呼見えたり。けだし、このころは京外条里の坪をも坊といいしことありしこと、往々古文書に散見するところにして、後にその名称を改めしものならん。
 
 各坊内の坪は一より始めて十六に至るまで、番号の順序によりてこれを数う。各坊とも朱雀大路に近き方の北隅より数え始めて南下し、さらに北上し、南下し、北上し、東西京極に近き方の北隅に終る。すなわち左京にありては西北隅に始めて東北隅に終り、右京にありては、東北隅に始めて西北隅に終るなり。かくて何条何坊何町と数う。西大寺所伝、平城京内条坊間および数多の古文書、古記録、皆明かにこれを証す。左図のごとし(一〇八頁第七図参照)。
 
 坊および町の形は、平城、平安二京にありてはいずれも正方形なるを則とす(北辺坊を除く)。藤原京以前にありては、その形ならびに坊内の町の数ともに明かならず。シナ長安京にありては、坊の形は東西に長く、しかしてこれを二個あるいは四個の町に分てり。藤原京はその地形および条の数を案ずるに、あるいはこれに類せしものなりしならんか。
 
(320) 小路の名称、平城京以前については明かならず。平安京にありては、それぞれに固有の名称あり、その各条の中央にあるものは特にこれをその条の坊門通という。けだしこの小路の朱雀大路と交る処に門ありて、夜間出入を警戒せしによる。現今の京都市には、街路の名称すこぶる旧時と異同あり。中にもその六条坊門通を誤りて五条といい、真の五条通を松原と称するがごときあり。けだし、応仁の乱によりて、いったん荒廃し、後に秀吉これを復旧するに際し、当時の俗称を踏襲せしもの多きにおるならん。
 
 7 京内街路の制
 道路の両側には溝を通じ、築地《ついじ》すなわち小土堤を築く。しかしてその築地と満との間に犬行と称する空地あり。平安京の制、実にかくのごとし。平城京においてもおそらくはしかりしならん。しかして道路の広さは築地の中心をもって量るがゆえに、平安京にありて普通の大路の幅八丈、小路の幅四丈と称するも、実際は左右よりこの築地、犬行、溝等によりて侵蝕さるるがゆえに、人の通行し得べき所は大路五丈六尺、小路二丈三尺に過ぎざりき。これらのことは、条坊の広袤とともに、別に章を改めて論述すべし。
 
 大小の道路に面して人家あり、築地を穿ちて門を開く。ただし大路に門を開くを得るものは公卿に限られ、一般人民にはこれを許されざりき。大路には両側に樹木を植えたり。その制『延喜式』に見ゆ。これ平安京のことなれども、平城、長岡等の諸京またしかりしならん、『催馬楽』に「新京朱雀の垂柳」を詠じたるは長岡京のことなり。また大伴家持の歌に、
 
  春の日に張れる柳を取り持ちて、見れば都の大路おもほゆ
とあるは平城京のことなり。藤原京またおそらくはしかりしならん。
 
(321)      九 都城の広袤(上)
 
 すでに街路と条坊とを論じたる余輩は、さらに進んで各町の内容に立ち入り、これを行に分ち、さらに戸に分ち、いわゆる各|戸主《へぬし》をなすの制に及ぶべきなれども、後に戸主は転じてある一定の面積の地を呼ぶの称となりしほどにも、その広袤と密接の関係を有するものなれば、このさい、余輩はまず都城の広袤を論じてその由来を明かにし、次に戸主の制に及ばんとす。
 
 1 藤原京以前諸京の広袤
 都城を数個の条に分ち、さらにこれを各四坊に分つのことは、大化の制すでにほぼこれを示し、大宝の「令」また重ねてこれを説けること、前章すでにこれを論じたるがごとし。しかれどもその藤原京以前にありては、拠りて広袤を徴すべき記録文書の伝われるもの全くこれなく、ただ旧址の地理の実際より、その概要を推測し得べきものあるに過ぎず。すなわち大津京は、東は湖畔に至り、西は長等山麓に達し、北は崇福寺の旧地(滋賀村大字滋賀里)の辺より、南は滋賀村大字|錦織《にしごり》の辺に及び、東西約十町、すなわち大宝令制による二里、南北約二十町、すなわち同制による四里(大宝令制にては大尺五尺を一歩とし三百歩を一里とす)の上に出ずべからず。藤原京は東は香久山を限り、西は畝傍山に至り、北は耳成山より、南は石川の丘陵に及べるものなれば、東西約二十町、すなわち大宝令制四里、南北約二十五町、すなわち同制五里の上に出ずべからず。すなわち藤原京東大津京を東西に二倍し、南北に四分の一すなわち一里を増したるもののごとし(このことなお他日発表の予定なる「藤原京遷都考」において論ずべし)。これらのこと、もとより一の推測に過ぎざれども、当時の設計者の空地に描出せる都城が必ずある完数によりて広袤を定めたるべきこと、推測するに難からず。ことに後に論ずべきがごとく、平城京が東西八里、南北九里の完数によりて設計せられたるに(322)より忖度するも、大津京が東西二里、南北四里、藤原京が東西四里、南北五里という完数によりて設計せられたりとするの仮定は、あながち理由なきものというべからず。しかれども、その街路の遺影のごときは、後に設定せられたる条里の区画によりてほとんど破壊せられ、今にしてその詳細を知る能わず。さらに遡りて難波京に至りては、その所在すら確かにこれを定むること難く、広袤のごときに至りては、毫も徹すべきものあることなし。
 
 2 平城京の広袤
 平城京の広袤は東西八里(「大宝令」の制定による)南北九里なり。すなわち前に仮定したる藤原京に比して、縦横に各四里を拡張したるものなり。こは事実なり。田畦の間に存する街衢路巷の遺影をたどり、条里制研究の結果に照らし、記録文書の所伝に徴して、参謀本部陸地測量部実測二万分一地図上に描出したる京城図を復原して得たる広袤は、実に右のごときなり。千二百年前における技師の測量、もとよりいささかの誤りなきことを期すべからず。陸地測量部の製図、また絶対的精確を保証すべからず。したがって図上に描出せる京城図が、果していかなる程度にまで当初の理想通りにその広袤を示し得るかは疑問なるも、大体において東西八里、南北九里の大数は動かすべからざるなり。すなわち右二万分一図上の京城図において、東西曲尺にて約七寸五厘、南北は左京京極にて約七寸八分、右京京極にて約七寸九分二厘にして、これを二万倍すれば東西約一千四百十丈、南北は東京極にて約千五百六十丈、西京極にて約千五百八十四丈となるなり。その東京極においてやや短きは、実測図に誤謬あるか、当時の測量に誤謬ありしか、あるいは京城の東北部が一部分丘陵に跨り、大鍋古墳・水上池・ネジ山古墳(今、平城天皇陵と定まる)等に渉るがゆえに、これを避けて強いて短縮せしめたる結果なるか、三者その一におるべく、その西京極における約千五百八十四丈というもの、当初設計者の理想せしところに近きものなるべし。もとより右は二万分一図上に試描せる地図につきての測定なれば、かりに実測図に絶対的信用を置き得べしとし、当時の測量またきわめて精確なりと考うるも、その(323)図上における曲尺一厘の相違は、還原して二丈の相違を来すべきほどのものなれば、精密なる数を求むるは得て望むべからず。されど、今しばらく右の計算に基づき、東西を曲尺約千四百十丈、南北を曲尺約千五百八十四丈と仮定し、これを東西八坊(左京四坊、右京四坊)、南北九条に等分すれば、各坊の広袤東西百七十六丈余、南北また約百七十六丈となる。東西の幅のやや南北よりも広きは、他の大路よりもやや広かるべき朱雀大路の路幅を各坊の平均丈尺数中に割り込みたるの結果にして、要するに大小道路を籠めたる各坊の広袤は、しばらく曲尺約百七十六丈四方と仮定するを得ん。しかしてこの曲尺約百七十六丈なる数は、果して何を意味するか、これ余輩が都制攻究上最も興味ある題目となすところなり。
 
 そもそも現行の曲尺は、メートル法との間に簡易なる割合を保たしめんがために、曲尺三尺三寸をもって一メートルに相当せしむるよう制定したるものなれば、もとより精密に従来の曲尺と一致するものにあらざるべけれど、さらにそれよりも重大なる相違が、大宝ころの度地尺と、曲尺との問に存することを忘るべからず。古代の尺度はとうてい今日のごとく正確なる能わず。政府は尺の様《ためし》(標準)を頒つといえども、しかも各人使用の尺度が精密に一様なるを得ざりしことは、正倉院・法隆寺等に伝われる尺の彼此多少の差あるを免れざることによりても明かなりとす。されば大宝の度地尺が曲尺いかほどに当るかは、とうてい精密にこれを言うを得ず。関野博士がその著「平城京及大内裏考」中に先輩諸氏の説を列挙せられたるものによるに、令の小尺(小尺一尺二寸は大尺すなわち度地尺の一尺に当る)は曲尺九寸五分八厘二毫という最短説より、今の鉄尺に同じという最長説まで種々ありて、九寸七、八分というもの最も多数を占む。さらに氏が東京帝室博物館所蔵の正倉院模尺を検して作成せられたる表によるに、九寸七分一厘という最も短き犀角尺より、一尺三分という最も長き緑牙撥鏤尺に至るまで、その間また種々の尺度あるを見る。これら各種の尺度果して同一原様のものより変々転訛せしもののみなりや、あるいは当初より種類を異にせるものをも混(324)じたりや、今これをつまびらかにするを得ず。また、その原物においてすでに材料の伸縮を来せるものもあるべく、模尺においてさらにその変訛を著しくせるものまたこれなきを保せざるをもって、もとより精密にこれを論ぜんことは困難なれども、大要、曲尺九寸七分五厘ないし九寸八分をもって、その一尺とせんは当らずとも遠からざる数なるべし。されば今かりにその中を取り、曲尺九寸七分八厘弱をもって当時の一尺とせんには、右にいわゆる曲尺百七十六丈なる丈尺は、当時の百八十丈となる。すなわち平城京の条坊は、百八十丈四方なる完数を基として設計せられたるを知るなり。果してしからば平城京の広袤は、南北は九条にして約千六百二十丈、東西は八坊約千四百四十丈に朱雀大路と他の大路との差を加えたるものとして設計せられたるを知るなり。
 
 右はもとより一の仮定を根拠として立論したるものなれば、いまだもって確説とはいい難きに似たれども、左記五個の理由よりして、十分その正確なることを信じ得るとともに、さらに遡りて古今尺度の比較を立証するの料たるべしと信ずるなり。
 
 一、百八十丈なる数は「大宝令」度地制の一里に相当すること。
 二、平城京が大和平野を南北に縦貫する大道を中央として、その左右にある完数をもって設計せられたるべきこと。
 三、旧西大寺所伝「京城坪割図」の縮尺の右の仮定に一致すること。
 四、京外条里の丈尺と、京内条坊の丈尺との比較の結果。
 五、平城京内の各町および大小道路の広狭と、平安京内のそれとの比較の結果。
 右の第一項は平城京内各坊の広袤(大路の道數を籠めたる)が百八十丈四方すなわち大宝令制の一里四方なりとの事実にして、この点にして証明されたらんには、当初京城設計者が空漠なる閑地に京城を設定するに当り、方一里という最も適当なる面積を一単位として、これに基づきて計画したりとのことは、最も信ずべき理由あるものなりとす。「大(325)宝令」の制、地を度るには大尺五尺を一歩とし、三百歩を一里とす。すなわち大尺百五十丈なり。その後、和銅二年二月に至りて尺度の改正あり。六尺をもって一歩となす。このこと『続日本紀』には単に尺度改定の記事のみありて、その内容を知るを得ざれども、幸いにも『令集解』引用の古記にその事実を伝うるありて、これによりてこれを明かにするを得たり。しかして、ここに六尺というは「令」にいわゆる小尺によれるものにして、その一尺二寸をもって「令」の大尺すなわち度地尺に宛つべきものなれば、和銅六年の改定は、単に大尺にて度りたりし五尺一歩を、小尺にて六尺一歩と改めたるに過ぎず。そのいわゆる一歩の内容に至りては、前後毫も相違なきものとす。さればその三百歩を一里とするもの、令制に三五、百五十丈といい、和銅改定の尺度において三六、百八十丈といい、その数字に相違はあれども、内容において毫も異なることなく、平城京の条坊が百八十丈すなわち一里をもって一の単位として設計されたるべきこと、毫も疑いを容れざるなり。すなわち平城京は、朱雀大路の左右各四里すなわち東西八里にして、南北は九里たること明かなりとす。
 
 平城京広袤の由来右のごとしといえども、ここに注意すべきはいわゆる「里」なる語の示す距離の、前後における相違なり。和銅改定の度制において、一歩の内容は前後毫も相違するところなきも、いわゆる里に至りては、令制の示すところと同じからず。大宝には三百歩をもって一里とすること、「令」にその明文あれども、和銅以後に至りては、これを延長して三百六十歩を一里と定めたり。このこと、記録のこれを明記するあるを見ざれども、その後において設定されたる条里の区画が、ことごとく三百六十歩一里の制によりて実施されたるによりて知るを得べし。しかるに、平城京設計の和銅初年は、なお「大宝令」の度地制の有効なりし時代なれば、その使用の尺度は「令」の大尺にして、その百五十丈すなわち後の百八十丈を里となし(和銅以後の一里は二百十六丈なり)たりしや明かなり。このことはただに平城京の広袤を研究するうえに必要なるのみならず、これによりて尺度の変遷の来歴をも知り、条里制実(326)施の時代、条里と条坊との関係等を知るうえにおいても、最も有益なる材料を供給するものにして、これさきに余輩が都城制研究上最も興味ありとせしところなり。
 
 平城京がすでに東西八里、南北九里の完数をもって設計せられたりしことを知らば、次に攻究すべきはその都城を設定せし位置の関係なり。空漠なる閑地に新たに都城を営まんには、設計者の任意によりて、最も都合よき位置にこれを定むるを得べきはずなるに、平城京が西の方一部分丘陵地に渉り、東北隅また同じく丘陵に跨るがごとき不便をも忍びてその地を選びたるは(今二、三町も東南にその位置を転じたらんにはこれらの不便はすべて避け得べかりしなり)そもそも、ゆえあり。なんぞや。古くより大和平野を南北に縦貫し、奈良坂(今の奈良坂村の坂にあらず、その西方なる歌姫越なり)によりて山城に通ずるいわゆる下道《しもつみち》をその朱雀大路に応用し、その左右各四里の地を卜して都城を設定せし結果なり。元来、大和平野には南北に通ずる三大路あり。上道《かみつみち》・中道《なかつみち》・下道という。下道は最西にありて平城京朱雀大路に応用されたるもの。北は山城より、南は大和平野の最南端に達し、平野を両分せるものなり。この大道をもって京城の中央線とせんは最も当を得たりというべし。その東に中道あり、さらに東に上道あり。この三道は聖徳太子これを開き給えりとさえ伝えられ、古くより存在したりしものと見えて、壬申の乱に当り吉野軍の将が三道に屯し、下道の将が牟狭社(今の見瀬村)および神武天皇陵を拝するの記事『日本紀』にあり。この三道のうち、上道は場所によりてすこぶる不規則となり、ことに山辺郡の中部以北にありては、東方より延長せる山部に妨げられて、当初より南北に直通せざりしもののごときも、中・下の両道は今もなおほとんど正しく旧位置を保ちて、その間約十八町を有し、平野を南北に直通せるなり。されば、下道を朱雀大路に応用したる京城にありて、その広袤に必然的制限なかりしならんには、その設計者は必ずこの中道をもって東京極となすべく、しからざるもこれをもって南北に通ずる大路の一に擬せんこと、何人も異議なきところなるべし。かくせんには、交通上の便宜多く、かつ都城としての(327)体裁も良きのみならず、もしこれを東京極とし、さらに朱雀大路以西に同一距離をもって西京極を定めんには、その右京が西端において丘陵に渉り、条坊を画し道路を開くに困難なるの不便をも避くべかりしなり。しかるにもかかわらず、設計者の考案ここに出でずして、東京極を中道の東約二町の処に定め、したがって古来直通せる大道を京内の大小道路のいずれにも応用することなく、全くこれを破壊し去りて、京内道路と京外大道との接続をきわめて不都合なるものたらしめたるのみならず、さらに朱雀大路以西にも同一間隔を採りて二十町の地に西京極を定めしかば、その一部分丘陵に渉るの不都合をも生じたり。
 
 元来、新たに都城を建設する場合においては、その広袤を東西三十六町とせんも、四十町とせんも、はたさらに拡張して四十四町とせんも、その差わずかに四町に過ぎざるものなれば、もし四十町という数に特別の意味なくんば、必ずやこの最も適当なる在来の地物たる中道を京極路もしくは京内大路の一に応用すべかりしに、事実はしからずして種々の不便、不都合をも忍び、四十町と定めたりしことは、この不便、不都合にも打ち勝つだけの深き理由ありしことを疑わず。しかして余輩は、この理由をもって、極端に事物の秩序整然たるを喜ぶ当時の時代思想(例えば地名を強いて二字ずつに一定せしめしがごとき)に求め、京内の条坊を令制により一里四方という最も簡単なる標準によりて定めんとせし結果なりと解せんとするなり。すでに京内条坊を一里ずつの距離によりて定めんには、その東西が八里すなわち朱雀大路の左右四里ずつとなるべきことは、大化以来の制度上より来る必然の結果なりとす。大化改新の「令」に曰く、「凡そ京には坊毎に長一人を置き、四坊に令一人を置く」と。四坊ごとに坊令一人を置くとは、四坊を併せて一の行政区画となしたるの謂にして、すなわち朱雀大路の左右に各四個の坊の相並びて存せしこと、後の平安京において見るがごとかりしを知る。しかして「大宝令」の規定またこれと同じく、この制は前後を通じて一貫せしものなれば、平城京が各坊を一里四方とし、左右各四坊四里、東西を通じて八里すなわち四十町となせしことは、当時の時(328)代思想のうえよりして、当然のことというべきなり。
 
 なお、さらに考うれば、前すでに述べしがごとく、大津京はその位置上の制限より、東西二里(十町)を越ゆべからざりしものが、藤原京に及びて、畝傍・香久両山相去ること約二十二町の地に京城を設けて、おそらくは東西二十町すなわち四里の広さを有することとなり、さらに平城の新都において、当時の発展的時勢の状況に鑑み、一躍二倍の広さとなしたりと解せんも、あながちその理由なきにあらず。次にその南北を九条九里と定めしことについては、明かにその拠るところを知り難きも、すでに藤原京に比して東西の広さを二倍としたる以上、さらに南北をも藤原京と同じく十二条とし、各坊方一里すなわち南北十二里とせんはあまりに広大に過ぐるがゆえに、大宝の制十二条より四分の一を減じて九条という陽極の数を択びたりしものなるべきか。その北京極の位置選定につきては余輩別にその見解を有すれども、直接本論に関係なければ、冗長を避けて今はこれを省く。
 
 すでに大宝の度地制によりて、平城京が方一里を条坊の単位とせしことを知り、次に旧来の下道を朱雀大路に応用して、その左右四里ずつに四坊を画したりしものなることを知らば、平城京が大宝度地制により東西八里として設計されたりしものなることは明かにして、したがって南北九里なることも当然証明さるる次第なるが、さらにこれを確かむべきものを、もと西大寺所伝にして、現に東京文科大学所蔵にかかれる平城右京および左京一部に亘れる条坊図となす。この図はもと菅原寺にて製せしものと覚しく、特に同寺の所在および寺領を記入しあり。今細かに本図を見るに、本図は他の西大寺所伝の諸種の条坊図が、縮尺において無頓着なるとは選を異にし、その尺度についてすこぶる微細の点にまで意を用いたるを見る。今その各坪の寸法を測るに、坪の一辺曲尺八分弱にして、小路は約八厘(墨線にはやや広狭あれどもその下拵なる箆の跡はほぼ八厘というに一定せり)、大路は約一分六厘(同じく箆の跡にて)、朱雀大路は二分三厘強(同上)に当る。しかして朱雀以外の他の大路は、いずれも同一寸法をもって描出せり。すなわち知る、(329)本図は平城京五千分一図にして、その設計上の理想をただちに地図上に現わせるものなるべく、その各坪と大小道路との関係は小路一、大路二、朱雀大路三、坪の一辺十の割合をもって描出せしものなることを。すでにその五千分一図なることを知らば、これを五千倍し、新旧尺度の差異を加減してその実際を知るを得べし。すなわち曲尺八分弱の坪は一辺約四十丈、約八厘の小路は約四丈、約一分六厘の大路は約八丈、二分三厘強の朱雀大路は約十二丈なるを知るなり。しかして坪四、大路一、小路三の積算、すなわち一坊の幅はまさに約百八十丈、すなわち大宝令制の一里となるなり。もとよりこれ偶然の暗合とも解すべきに似たれども、余輩が後に論究せんとする各坪および大小道路の幅が、まさしく本図の示すところに一致するを見るにおいて、なんぞ必ずしもこれを偶合なりといわんや。
 
 さらに余輩は京外条里の丈尺と、京内条坊の丈尺との関係上より、京城の広袤を立証し得べきも、こは条里制に通じ給える読者のほかには理解し難かるべく、さればとてこのさい、さらに条里に論及せんはあまりに所論枝葉に馳するがゆえに、今は省略に従い、ただその結果としてこれを証し得ることをのみ述べて、もって他日条里制に関する研究発表の期を待たれんことを希う。
 
 最後に余輩は、さらに平城京内の各坪および大小道路の広狭を研究し、これを平安京内におけるそれらと比較研究することにおいて、最も切実に設計上広袤に関する理想を立証することを得れども、説明あまりに複雑に亘るをもって、さらに項を分ちてこれに論及せんとす。
 
 
      一〇 都城の広袤(中)
 
 1 京内名坪の広袤
 都城が数個に分かたれ、その各条が四個ずつの坊に分たれ、その各坊が――少くも平城・平安両京にありては――(330)またさらに十六個の町すなわち坪に分たるのことは第八節においてすでにこれを詳論せり、その坪を積みて坊となし、坊を積みて条となし、さらに条を積みて都城の全部を成すべきものなれば、的確に都城の広袤を論ぜんには、まずこの単位たる坪の広袤を論定せざるべからず。すでに坪の大小を明かにし、次に京内道路の広狭を知るを得ば、都城の広袤は最も正確にこれを定むるを得べきなり。
 
 平安京にありてはその坪の一辺は四十丈にして、面積一千六百平方丈なり。こは古記録、古地図の明かにこれを示し、実地の調査またその正確を証するなり。すなわち平安京内の一町の長さは四十丈ずつにして、京外条里制に基づく里程の一町が三十六丈(六十間)なるものに比し、四丈ずつの延長なり(実際は京内における町の長さをいうに各坪の一辺をもってするは当らず、必ずその前後における道路の中心までの距離をもってせざるべからず、したがって京内の一町は四十丈以上あるいは四丈あるいは六丈、七丈等の長さあるものと知るべし)。こは一見はなはだ奇異なる感なくんばあらず。なんとなれば、京外にありては六十歩すなわち三十六丈をもって一町とするにかかわらず、羅城を一つ隔てたる京内にありてさらに数丈の延長あるは、偶然の結果なりとのみ見るべからず。平安京の経営せらるるや、もと条里制を布ける平野においてす。しからば、他に特別の理由なくば、縦横の道路ともに条里の区画するところに従い、その各坪すなわち町の延長のごときも、条里制の町と同じく、六十歩すなわち三十六丈をもってすべかりしなり。しかるに設計者のなすところここに出でずして、内外の接合の不自然なるをも省みず、特異の丈尺の採用をあえてせしは、必ず深き理由なかるべからず。果して余輩は、平城京との関係において、深き理由の存するを見る。
 
 平城京各坪の広袤は、明かにこれを記したるものなしといえども、研究の結果これまた平安京と同じく四十丈ずつなるを知る。この点につきては関野博士もすでにこれを看破し、その著「平城京及大内裏考」中、「京城の広袤及市街道路の丈尺」の項において論述せられたり。いわゆる京城の広袤および市街道路の丈尺に関する氏の研究は、余輩(331)の見るところと根本においてすこぶる異なるものあり、とうてい意見の一致を見る能わざるの遺憾あれども、氏が『随心院文書』『東大寺要録』等の記事によりて、平城京旧址における一坪すなわち京内一町の面積が一町二反百二十四歩なりとの事実と、『薬師院文書』市庄の解によりて、坪の一辺が積算して四十丈となるの結果とより、平城京内の各坪が平安京と同じく四十丈四方なるべきことを論定せられたるは、全然余輩とその所見を一にせるものなり。『随心院文書』天平勝宝八歳六月において、孝謙天皇より東大寺に田園を施入せられし勅書によるに、
 
  勅
  奉入東大寺宮宅及田園等
   五条六坊園 葛木寺以東
   地肆坊 坊別一町二反百二十四歩
とあり。ここに肆坊とあるは四坪というに同じく、坪をももと坊といいしこと他にもその例多きのみならず、付載の地図またこれを証す。しかして、その記するところ、各坊が皆ひとしく面積一町二反百二十四歩ずつなることを示せるなり。その他、『東大寺要録』中にも、京内の坪が一町二反百二十四歩なるの事実を示せるもの少からず。一町二反百二十四歩はすなわち四千四百四十四歩の地(当時の一町は六十歩四方すなわち三千六百歩にして一反はその十分の一すなわち三百六十歩なり)にして、実に方四十丈の地に当るなり。
 
 次に『薬師院文書』天平勝宝八歳の市庄の解には、
  自堀河東向行長六丈 北面
  自南面東向行長七丈
  堀河広二丈
(332) 自堀河西向行長三十二丈 北面
  自南面西向行長三十一丈
とありて、広さ二丈の堀河が坪の東部に偏し、やや斜めにこれを貫流せることを示し、しかして、その坪が北面において河東六丈、河幅二丈、河西三十二丈、合計四十丈、南面において河東七丈、河幅二丈、河西三十一丈、合計また四十丈たることを的確に証明せり。
 
 かく平城京における坪の広袤が、精密に平安京における坪の広袤と一致せるものは、決して偶然に出ずるものなりとのみ解すべきにあらず。必ずや双方の間に密接の関係ありて、後者が前者の丈尺を踏襲せるものなるべく、前者の方四十丈という数には、ある特別なる意味なくんばあらざるなり。
 
 関野博士は坪の一辺が四十丈なるの事実を観察せられたるうえに、さらに道路の広狭に論及せられたり。これ研究上最も必要なるところにして、坪の広袤は、道路の広狭と関聯して始めて意味あるものとなるなり。しかるに博士は古文書の研究上坪の一辺が四十丈なるの事実をのみ観察して、その何がゆえに四十丈なる数をなせりやの理由を考察せられざりしがゆえに、その道路の幅に関する研究のごとき、説きてすこぶる憾みなきにあらず。余輩の見るところによれば、平城京における各坪方四十丈なりとの事実は、その各坊が平城京設計当時まで有効なりし大宝令制の一里すなわち百八十丈四方なりとの事実より導かれたるものなり。百八十丈を九分してその一を道路の敷地に当て、その残余を四分して坪と成さんには、各坪まさに四十丈ずつとなるべきなり。しかして、平安京の坪の広袤は実に平城京の坪の広袤をそのままに移したるものなり。したがってその関係は必ず道路の広狭と併せ論ずべく、さらに次項において、詳細論究するところあるべし。
 
 2 京内道路の広狭(上)
(333) 平安京の道路の広狭は、古記録これを示してすこぶるつまびらかなり。その最も広きものは朱雀大路にして幅二十八丈に及び、次に二条大路は十七丈、次に十二丈、十丈、八丈、等諸種の大路あり。そのうち八丈というをもって普通の大路の道幅とす。しかして小路の道幅は常に四丈なり。平城京の道幅はこれを明記したるものを見ずといえども、平安京の坪の広袤が平城京のをそのままに踏襲したる事実に考えなば、彼此両京において道路の広狭の間にも必ずある特別の関係あるべきを推測するに難からざるなり。
 
 さらにこれを記録文書について考証するに、『西大寺文書』中に長承三年の西隆寺・西大寺・菅原寺等の敷地を記したるものありて、その反別の調査により、京内の坪と道路との関係を明かにするに足る。曰く、
 
  西隆寺四町四反 敷地
  一条二坊
   九坪一町 西隆寺 西小一反 同寺 南小一反 同寺
                            
   十坪一町 同寺 西小一反 同寺 南大|二反《(ママ)》 勅
   十五坪一町 西隆寺
   十六坪一町 西隆寺 西大二反 勅 南小一反 西隆寺
 ここに大または小とあるは大路または小路の謂なり。しかして右は西隆寺の敷地が一条二坊の九・十・十五・十六の四個の坪を占め、京内条坊の四町(京外条里の法よりいえばその一町は一町二反百二十四歩に当ること前にすでにいえり)に加うるに、さらにその界線たる小路の道敷を合して、四町四段たることを示せるなり。これを図示すれば第二図のごとし。
 
 右の文書抄録中、十の坪の南大二反 勅 とあるは、明かに誤りにして、こは必ず小一反 勅 すなわち小路の道敷一反が(334)勅旨田なることを示せるものなり。けだし誤写なるべし。なんとなれば、十の坪の南はその西と同じく小路なればなり。
 
 右の図によりて、坪の面積が一町ずつにして、これに隣接せる小路の面積が一反すなわち坪の面積の十分の一ずつたることを知らば、小路の幅が坪の一辺の長さの十分の一、すなわち四丈ずつなることは明かなりとす。しからばすなわち坪と小路との幅の関係は、十と一との比にして、なお平安京の坪と小路とは、まさにこれをそのままに移せるものたるを知るなり。
 
 次に大路と小路との関係を見るに、これまた平安京において、普通の大路が八丈ずつにして、小路の二倍なると同じく、平城京にありても、また、大路は小路の二倍たりしなり。こは右に抄録したるもののうちに、十六坪西大二反とあるによりて知るを得べし。なんとなれば十六の坪の西なる大路の道敷が、二反にしてこれと同一の延長を有する小路の道路の一反なるものに対し、まさに二倍たるの事実は大路の幅が小路の幅二倍すなわち八丈にして、小路・大路・坪の割合が、一・二・十の比なりしを示せるなり。しかして平安京の大路の幅は、普通の場合においてまたただちに平城京のそれをそのままに移せるものたるを知る。
 
 
     一一 都城の広袤(下)
 
 1 京内道路の広狭(下)
 平城京内における各坪の幅が四十丈、大路が八丈、小路が四丈なることは前節すでにこれをつまびらかにせり。しかしてその積算が、まさしく各坊一里(大宝令制による)すなわち後の百八十丈(「大宝令」にては百五十丈)四方の広袤を有すとの前説を証明するを見る。なんとなれば、各坊の幅は小路をもって堺されたる四個の坪を並べたるものにして、(335)その左右は大路をもって限らるることなれば、四坪の幅の和すなわち百六十丈と、三個の小路の幅の和すなわち十二丈と、その左右なる大路の幅の各半の和八丈との総計が、まさしく百八十丈となるべければなり。ここにおいてさらに一考すべき問題は、平城京においては各大路(朱雀大路を除きて)が果して常に八丈にして、各小路が常に四丈なりや、あるいは平安京におけるがごとく、そのあるものは特別の幅を有することありや否やの問題なり。平安京にありては南一条大路すなわち一条と二条との界線にして、宮城中御門(すなわち東面待賢門、西面藻壁門)の通りなる中御門大路は、三条以下の大路が八丈なるにかかわらず、特に十丈の道幅を有するなり。次に一条および二条の中央を東西に貫通する道路、すなわち宮城陽明門(東面)、殷富門(西面)の通りなる近衛大路、および郁芳門(東面)、談天門(西面)の通りなる大炊御門大路(一名馬寮大路)は、都制上他の場合においては小路なるべきものなれども、これまた特に中御門大路と同じく十丈ずつの道幅を有せしめたり。また、二条大路に至りては、その幅ことに広く、実に十七丈に達せしめたるなり。また南北に通ずる道路にありても、左右京一坊大路すなわち宮城の左右側を通ずる東西両大宮大路は、特に十二丈の道幅を有せしめ、美福門(左京)、皇嘉門(右京)の通りなる壬生大路(左京)、皇嘉門大路は、これまた都制上他の場合にありて小路なるべきものなるにかかわらず、近衛・中御門・大炊御門等の諸大路と同じく、十丈ずつの道幅を有せしめたり。また東西両堀川を通ずる小路は、その中央に幅四丈の川筋を設け、左右側各二丈の道路となしたれば、実際にては八丈幅となれり。ことに朱雀大路に
 
 
第一図 平城京の各坊広袤図〔入力者注、省略〕
 
(336)至りては、その幅実に二十八丈というがごとき、きわめて広きものたらしめたるなり。しかして平城京にありては果していかん。
 余輩の見るところをもってすれば、平城京における大小の道路は、朱雀大路を除くもののほかは、常に八丈・四丈の原則に従いたりしもののごとし。平安京において十丈ずつの幅を有せる中御門大路に相当せる大路も、平城京にありては依然八丈にして、平安京にありて十丈ずつなる近衛大路・大炊御門大路に相当する道路のごときも、平城京にありては小路として、依然四丈ずつたりしなり。論者あるいは前記西隆寺の敷地を記せる西大寺古文書に「十坪南大二反 勅」とあるを見て、十坪の南の道路はすなわち平安京の近衛大路(十丈)に相当するものなれば、平城京においてもなお平安京のごとく、宮城に接するある特別なる道路は、特別なる道幅を有せしものにあらざるかを疑うものあらん。しかれども、前節すでにいえるごとく、右の「十坪南大二反 勅」とあるは明かに誤写にして、その道路、依然道幅四丈の小路なりしなり。そは左記西大寺敷地を記せる『西大寺文書』によりて十分に証明するを得べし。
 
 曰く。
  一条三坊
   一坪一町 勅
  二坪一町 勅
  三坪一町 勅
  四坪一町 勅
  五坪一町 西大寺敷地 西小一反 同寺敷地 南小|二反《大一反》 田一反百廿勅(大二反の誤りなり)
  六坪一町 西大寺敷地 西小一反 同敷 南小一反 同敷地
(337)  七坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  八坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  九坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  十坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  十一坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  十二坪一町 同敷地 西小一反 同敷地 南小一反 同敷地
  十三坪一町 同敷地三段燈油也 西大二反 荒地 南小一反 勅(大二反の誤りなり)
  十四坪一町 同敷地 西大二反 勅 南小一反 同寺敷地
  十五坪一町 同敷地 西大二反 勅 南小一反 同敷地
  十六坪一町 同敷地 西大二反 勅 南小一反 同敷地
 一条四坊
  一坪 山一町 西小路 山一反 南小路 山一反
  二坪 山一町 西小路 山一反 南小路 山一反
  三坪一町 乍一反半田勅 西小一反 乍田 南小一反 川荒
  四坪一町 乍三反田残荒七反 西大寺八幡宮供田 西小一反 山
                         南大二反 勅
 右の記事を図示すれば第二図のごとし。
 右に示すところによりて、平安京宮城殷富門の通りに相当する道路は、平安京にありては十丈なるにかかわらず、
 
(338) 第二図 平城京西隆寺および西大寺敷地図(九,十,十五,十六の四個の坪と,その界線たる小路の道敷,すなわち太線をもって囲みたる部分が西隆寺敷地なり。また右京一条三坊五坪より十六坪に至る十二町と,その界線たる小路の道敷一町七反,すなわち太線をもって囲みたる部分が西大寺敷地なり)
 
 第三図 平城京菅原寺敷地図(太線をもって囲める部分,すなわち右京三条三坊十五,十六の両坪および四坊一,二の両坪とその界線たる道敷六反とが菅原寺の敷地なり)〔入力者注、図はいずれも省略〕
 
 
(339)平城京にありては依然四丈の小路たることを証し、また平安京宮城藻壁門の通りに相当する道路(一条南大路)は、これまた平安京にありて十丈なるにかかわらず、平城京にありては依然八丈の大路たるを証するなり。
 
 さらに同文書には菅原寺の敷地を記して四町六段なりとあり。この寺は三条三坊および四坊に亘り、三坊の十五・十六の両坪と、四坊の一・二の両坪とを占む。しかしてその間に三坊大路を有するがゆえに、三坊十六の坪の南小路一反と、四坊一の坪の南小路一反とに加うるに、右大路道敷四反をもってするがゆえに、四個坪の四町に加えて四町六反となれるなり。三条における小路もまた一条におけるものと同じく、その道敷は坪の幅の十分の一すなわち四丈にして、大路がその二倍なることは、これによりてもまた証明せらるべきなり。菅原寺敷地の図、第三図のごとし。
 
 右の面積の数え方はもとより大体につきて言えるものにして、その町といい、段というもの、すでに京外条里に関して普通に用いらるる面積の町段にはあらず。いわゆる一町はすなわち京内条坊の一町にして、京外の度地の法よりいえば一町二段百二十四歩に当ること、前に述べたるがごとし。なおさらに詳密にこれを言わば、寺の敷地の面積を京内条坊の町段によりて表わすにしても、実は、坪とその坪に隣接せる道路敷とのみにては足らず、必ずその街路の相交れる部分の面積、すなわち小路同士の場合にありては一段の十分の一、大路と小路と相交れる場合にありてはその二倍の地の存在を加算せざるべからざるものなれども、右の文書は、ただその概略を示すを目的とするものなれば、記して詳細ならず、余輩の引用の目的また道幅と坪との比を知れば足れるをもって、論じて詳細に及ばざるなり。
 
 右論ずるところによりて、余輩は、平安京において特別の道幅を有する宮城諸門の通りの道路が、平城京にありては依然として他の大小路と同じく、八丈・四丈の道幅を有するものたることを知るを得たり。しからば他の平安京に特別の道幅を有する二条大路、東西大宮大路、宮城南面諸門の通りの道路(朱雀大路を除く)、堀川を通ずる道路等は、平城京にありて果していかんとの問題を生ずべし。この問題を解決すべく余輩はいまだ的確なる資料を有せず。しか(340)れども、すでに東西に通ずる宮城諸門の通りが、特別の広き道幅を有せざることを証明し得たる以上、その南北に通ずるものもまた必ず同様なるべきことは容易に類推し得べきにあらずや。次に堀川に至りては、平城京のものは平安京のとその趣を異にし、天平勝宝八歳の『薬師院文書』の示すごとくんば、その幅、実に二丈に過ぎず。しかして、その通ずるところは道路と相関せずして、坪の一部を貫通するものなれば、よしや当初道路に副いて設けられたりとするも、ために道路の幅に影響を及ぼすところなかりしものなりと解するを至当とせん。なお堀川のことは後に論ずべし。されば、疑問として残るところは、宮城の周囲に接する二条大路および東西大宮大路の道幅なり。されど、これまた他をもって類推し、各坊の広さが大路の中心より中心までまさに百八十丈すなわち令制の一里に当るという事実と、事物の規律正しきことを極端にまで喜びし当時の傾向とより設計者の意匠を忖度するに、せっかく中央大路(すなわち在来の下道)の左右各四里、南北九里というきわめて整然たる数をもって設計さるる都城において、特にこの道路のために、一部不規律なる数を認むべしとは考え得ざるなり。いわんや西大寺所伝、五千分一京城条坊図の、精密に各大小路を二と一との割合をもって描出し、その間除外例を設けざると、参謀本部実測二万分一図上に描出する京城図が、特に広き道路の存在を容認するの余地なきこと、その他、本論においては不幸にしてその詳説の機会を得ざれども、京外条里との関係上、またある特別なる広き道路の存在を認め難き事情あること等、種々有力なる傍証の存在するものあることをや(条里のことは前すでに述べたるごとく、事他の研究に渉るがゆえに発表を他日に譲り、ここにはただ読者がしばらく余輩の言を信じて、寛仮されんことを望む)。
 
 ただし、ここに一言注意すべきことは、宮城四周の道幅のやや八丈よりも広かりしがごとく解せらるることなり。『西大寺三宝料田園目録』に曰く、
  添下郡右京二条二坊二坪大路二段大
(341)と。ここに二段大とは、二段二百四十歩の謂なり。中古の法、一段すなわち三百六十歩を三分して、その一すなわち百二十歩を小といい、その二すなわち二百四十歩を大といい、一段の二分の一すなわち百八十歩を半といえるなり。されば、二段大の面積を有する大路は、必ずその幅八丈以上ならざるべからず。二坊の二の坪の大路とは西大宮大路にして、その二条にあるものはすなわちただちに宮城の両側に接するものなり。この所において、二の坪の一辺四十丈なるものに接して、二段二百四十歩の面積の道敷ありとせば、その幅は八丈六尺四寸となる。ただし、ここに二段大とは二の坪に接する大宮大路の全部を占むるか、あるいはその一部を欠けるものなるか明かならねば、平城京宮城の両側においては、大宮大路は少くも八丈六尺四寸もしくはその以上ありきと言わざるべからざるに似たり。さらに『東大寺要録』中にも、左の記事あり。曰く、
 
  平城内二条二坊三坪南大二段三百四十六歩
と。ここに南大とは南大路の義なり。ただし三の坪には南に大路なし。されば、ここに南とは右京ならば東、左京ならば西の誤謬なるべく、これまた大宮大路を指せるものと解すべし。しかしてこの大路中に坪の一辺に添いて道敷に少くも二段三百四十六歩の面積の地ありきとすれば、その道幅は少くも九丈五尺九寸四分を有せしに似たり。もとより右のごとき少数の、しかも後の時代における不正確なる資料によりてこれを考定せんことはすこぶる危険なるに似たれども、これを実際の場合に当て嵌めて考うるも、宮城の外壁がやや道路面より退き、したがってこれに接する道路の幅が、京内の他の部分よりもやや広かりしがごときは、想像するに難からざるなり。ただし、こはもとより一の仮定説たるに過ぎず。しかもその仮定説にして正鵠を得たりとするも、これなお単に宮城四周に接する部分のみにして、その京内に延長せる部分については依然八丈ずつなりしものなるべし。
 
 最後に残れる朱雀大路の幅につきては、次項においてこれを論ぜん。
(342) 2 朱雀大路の広さ
 平安京においては、朱雀大路はその幅実に二十八丈の広きを占め、左右に溝渠あり土塁あり、土塁に坊門を開き、道路の両側には植うるに楊柳をもってす。朱雀大路の楊柳のことは長岡京にもありて、『催馬楽』に「新京朱雀の垂柳」の歌あり。平城京にありて、この大路が他の大路よりもいっそうの広さを有せしことは想像し得べきも、しかもその広さがいかなる程度にまで達せしかに至りては明かならず。要するに平城京の設計が、従来存在せし下道を中央として、その左右四里ずつの地を限りたるものなれば、朱雀大路の広さはいわゆる下道の広さによりて左右せらるべきなり。今いわゆる下道の広さを測るに、『若槻庄土帳』(添上郡稗田村および若槻村にあたり、下道に接して条里を表せる地図なり)に、この大道に接する三条一里三の坪には里外三段とあり。また四・五・六の三坪には各里外二段とあり、ここに里外とは、大道およびこれに添える水路をば蚕食して耕地となし、これを坪の内に加えたるものの称にして、その三段は幅十丈八尺、二段は幅七丈二尺なり。しかしてその蚕食したる部分以外にもなお少くも一丈内外の地は通路として保存されたりと仮定すれば、下道およびこれに添える水路の敷地の幅は少くも十丈八尺以上、大約十二丈内外のものなりきと仮定するを得べけん。さらに試みにこれを現今大和平野各町村役場の保存せる地籍図(維新後調査せし田園にして普通二千分一縮尺のものなり)について見るに、現在の下道はその幅すこぶる狭けれども、これに接する坪は、大道に添いて条里制の遺物なる水路の有する場合にても、はた存せざる場合にても、ともにその幅の他の坪よりも幾分か広きを常とす。この広さの差はすなわち『若槻庄土帳』にいわゆる里外二段もしくは三段と称する地に当り、かつては下道の道敷たりしものを蚕食して耕地とし、坪のうちに加えたるものならざるべからず。されば、精密にこれに関する測量を遂ぐるを得ば、ほぼ条里制実施当時の下道の幅を知ることを得べき道理なり。されど、今余輩は不幸にしてこれを実行するの手段を有せざるがゆえに、きわめて不完全なる方法ながらも、しばらく右(343)の地籍図により、大和平野の特にその地平坦にして、条里の遺影の比較的最も完全に保存されたりと推定せらるる地方数ケ所につき、図上において試みにこれを測るに、大約左のごとき結果を得たり。
 
 路東七条一里二の坪にて約十四丈(二千分一図にて曲尺約七分)
  ただし、平群郡二階堂村大字南柳生と生駒郡平瑞村大字八条との間
 路東十一条一里三の坪にて約十六丈(二千分一図にて曲尺約八分)
  ただし、平群郡二階堂村大字嘉幡
 路東十三条一里三の坪にて約九丈(二千分一図にて曲尺約四分五厘)
  ただし、磯城郡川東村大字唐古と西代との間
 路東十三条一里六の坪にて約十丈(二千分一図にて曲尺約五分)
  ただし、磯城郡川東村大字唐古と今里との間
 路東二十三条一里六の坪にて約十六丈(二千分一図にて曲尺約八分)
  ただし、高市郡八木町大字八木
 路東二十四条一里六の坪にて約十四丈(二千分一図にて曲尺約七分)
  ただし、高市郡八木町大字南八木
 ちなみにいう、路東とは大和平野の条里が中央の大路すなわち下道(平城京朱雀大路の続き)をもって東西の両部に分たれたるその路東の分をいえるなり。路東の条里は路西の条里と数え方において一条ずつの差あり。また特にその北部にありてはさらに一町ずつの差あり。その次第は他日発表の予定なる「条里考」において詳悉すべし。
 
 右はもとより不完全なる測量に基づける地籍図を、さらに不完全に謄写したるものにつき、試みに曲尺にて測り、(344)これを二千倍して得たるものなれば、精確なる数にあらざるは無論にして、なお曲尺と当時の常用尺との差異をも考慮しおくべきものなれども、しばらく右の結果に基づき、その中間の数を求むるに、概数十二丈というに近く、さきの仮定のほぼ当らずとも遠からざるを見るなり。しかしてこの十二丈なる数は「大宝令」による旧度地尺の十丈すなわち二十歩に当るものなれば、当初、大和平野を南北に貫通してこれを両分すべく造られたる大道が、この十丈という最も整然たる完数によりて設計されたりけんこと、その謂なしと言うべからず。しかしてこのおそらくは道幅十二丈の大道は、ただちに平城京内において朱雀大路として応用せられ、他の大路八丈、小路四丈というものに比して三・二・一の秩序正しき比例を保てるものなりけんこと、まさにしかるべきものなるべし。
 
 なおこれを曩記西大寺所伝、五千分一条坊図について見るも、すでに述べたるがごとく、各坪と大小道路との関係が、小路一、大路二、朱雀大路三、坪の一辺十の割合をもって描出されたること、また必ずしも偶然なりというべからざるなり。
 
 上来数節を重ねて論述せるところによりて、すでにほぼ平城京内の各坪および京内道路の道幅を推定し得るをもって、これを積算して平城京の広袤を求むれば、
  南北は大宝制の九呈すなわち千六百二十丈(このほかに京極路の半および羅城ならびに外湟の敷地等東西に約四丈ずつあるべし)
  東西は大宝制の八里すなわち千四百四十丈に朱雀大路の幅十二丈より普通大路の幅八丈を減じたる差を加えて一千四百四十四丈(このほかに京極路の半および羅城ならびに外湟の敷地等南北に約四丈ずつあるべし)
 
となるべきなり。
 3 平安京および平城京広袤の比較
(345) 平城京内の条坊と、これに関聯してその坪および街路の丈尺とについては、すでに節を重ねてこれを詳悉せり。余輩はさらに進んでこれを平安京の広袤と比較することによりて、余輩の所見をいっそう正確にするを得たり。
 
 平安京の条坊については、『延喜式』『拾芥抄』を始めとして、これを伝うるもの多く、故人、先輩の研究また多ければ、ここに余輩の贅言を要せざるところにして、結局その広袤は東西千五百四丈すなわち六里と二百八丈(大宝の度地制によれば八里と六十四丈)、南北千七百五十三丈すなわち八里と二十五丈(大宝の度地利によれば九里と百三十三丈)たるものなり。ただし、その南北は、平城京の北京極に対する道路の以北に、さらに普通の条の幅の半を有する北辺坊を加えたるものなれば、その幅すなわち二個の坪(各四十丈)と小路一(四丈)、大路一(土御門大路にして十丈)の積算九十四丈を減ずれば千六百五十九丈となる。すなわち七里と百四十七丈(大宝の度地制にて九里と三十九丈)となるなり。これを平城京の広袤が東西八里(朱雀大路と他の大路との差四丈を加えて)、南北九里(このほかに京極路の幅の半ならびに羅城等の敷地あるべきこと前すでにいえり)という完数より成るものに比すれば、東西において六十丈、南北において三十九丈の延長あり、その間なんらの完数を見ることなきは一見すこぶる不審なるがごときも、これかえって余輩の研究の正当なるを証するものならざるべからず。その東西における六十丈の延長あるは、朱雀大路を始め、道路に特別に幅広きものを作りたる結果にして、南北において三十九丈の延長ある、また同一の理由によれるなり(ただし平城京にも京極に羅城の敷地あるべければ実際は六十丈、三十九丈よりも少きはず)。しかして、かく平安京において道路に特別の広さを有するものを設けたる理由いかん。
 
 けだし平城京の成るや、大いに藤原京の規模を拡張し、設計上一新機軸を出して空閑なる平地に縄張を施したるものなりき。さればその広袤のごときも、全く理想的に、秩序整然たる図面により、下道を中央として左右に各坊方一里という標準によりてこれを作り、ために一部分丘陵に跨るの不都合をも避け得ざりしなり。しかるに、平城京一と(346)たび成りて都制また大なる変更を加うべきなく、平安京を営むに当りては、ただ単に七十余年間の経験によりて、宮城を北方に拡張して一条の北に北辺の半条に相当する地を設け(平城京にも後に一部分北辺に拡張したり)、宮城に接するある特別なる道路の幅を拡大し、特に朱雀大路を広くする等、多少の改正を加えしも、その条坊の割り方、坪の大さ、普通の大小道路の幅等すべて平城京の制をそのままに襲踏したるものなり。すなわち平城京の設計にありては空閑の地にまず理想通りの四境を画し、その中に街路と条坊とを定めたりしに反し、平安京の設計に当りては、まずその街路と条坊とを定め、四境は自然の成行に委したるものにして、これやがて平城京の広袤が完数ならざるべからず、平安京の広袤が完数なるべからざる理由なりとす。しかして、この完数ならざる平安京の坪の大さおよび普通の大小道路の幅が平城京のと全然一致せるは、遡りて平城京設計の理想をいっそう正確に示せるものというべきなり。
 
 
       一二 保
 
 都城内の区画は、まず朱雀大路によりてこれを左右両京に分ち、左右京職ありてこれを支配し、さらに各京を数個の条に分ち(藤原京にては十二条、平城、平安両京にては九条)、坊令(後に条令という)ありてこれを支配し、各条をさらに四個の坊に分ち(宮城左右の条にありてはその一坊宮城の域内に入るがゆえに三個の坊となるべし)、坊長ありてこれを支配すること、大化の制、大宝の令、延喜の式皆同じ、しかして少くとも平城・平安両京にありては、各坊をさらに十六の町(坪)に分ちたること、前章すでにこれを説けり。しかるに、ここにさらに一坊を四個の保に分ちてこれを一種の行政区画の単位として、保に刀禰を置きてこれを管せしむるの制あり。このこと令式の規定に見えざれども、『朝野群載』所収古文書、『二中歴』『拾芥抄』『京兆図』等の記事もって証すべし。『朝野群載』保刀禰職補任の文書に曰く、
 
(347)  検非違使庁下 九条二坊刀禰職事
   常澄光方
  右件光方者已三代刀禰者、早補任保刀禰職、令知行保内。故下。
   応徳二年四月十七日 左衛門大尉藤原朝臣
 また曰く、
  左京職符 九条二坊二保
   常澄重方
  右人補任刀禰職已畢。保内宜承知令執行之状如件。故符。
   康和五年二月十三日                少 進 紀
  大夫源朝臣
 応徳は白河天皇の御代にして、康和は堀河天皇の御代なり。常澄氏は応徳以前すでに三代間刀禰職を世襲し、しかして、その後、重方さらにその職を襲う。重方は思うに光方の相続者にして、ここに五代その職を重ねしものと見ゆ。その前者が検非違使の下文により、後者が京職の符によれることについては、先輩すでに疑いを抱くところなれども、思うに前者は光方を刀禰に補任するの辞令にして、後者は重方が刀禰に補任せられたるにつき、さらにあまねくこれを保内に告知せるものにして、その間おのずから所管に区別ありしものか。令格規定の精神を案ずるに、保の吏員の補任必ず京職の掌るところならざるべからず、しかも使庁の下文をもってこれを進退せるは、検非違使設置以来その権次第に重く、非違検察のことをもって重なる職掌となし、保の吏員任免のことは、ついにその権内に移るに至り、ただこれを保内に告知することのみ、京職の依然保留せしものなるべし(このこと、なお下文保長の説明を参照すべし)。
 
(348) 京内四町を合せて一の保とし、吏員を置きてこれを管せしむるの制、いまだその濫觴をつまびらかにする能わず。されど『小右記』に長元四年正月すでに保刀禰の称見え、右の応徳の使庁下文にも、常澄氏すでに三代相継ぎて九条二坊の保刀禰たりしを言えるによれば、少くも後一条天皇の御代にはこの制ありしことを知るべし、しかして昌泰二年の官符に定むる京内保長の制のこれと異なることによれば、その起れる少くとも醍醐天皇の御代以後たるを疑わず。平城京、藤原京等にありては、もとより与らざりしところなりとす。
 
 元来、保とは唐の五保の制に基づき、孝徳天皇白雉三年四月、戸籍を造るに当りて、
  凡戸皆五家相保、一人為v長以相検察 日本紀
と定めたるに始まり、「大宝令」にも、
  凡戸皆五家相保、一人為v長以相検察、勿v造2非違1。如《モシ》有2遠客来過止宿1、及保内之人有v所2行詣1、並|語《ツゲ》2同保1知。
と見えて、その京内たると京外たるとを問わず、五戸を一組とし、これを保と名付けたるものなり。されば、難波京はもとより、その後の諸京また必ずこの制に準拠せしものたらざるべからず。しかしてその目的たる、互いに相検察して非違を未発に防がしむるにあり。実に後世五人組制度の依て基づくところなり。されど京内においては王公将相の邸宅相交り、この制ただちに施し難きものあり。よりて貞観四年三月、左京職特に保長の選任につき請うところあり。曰く、
 
  謹案2戸令1云、凡戸皆五家相保、一人為v長、以相検察、勿v造2非違1者。然則結v保之興、為v糺2奸濫1、司存之理、必可2遵行1。而皇親之居街衢相交、卿相之家、坊里錯雑。若非d蒙2宮符1、直施c此制u、不教之漸、輙無2承引1。望請、親王及公卿、職事三位已上、以2家司1為2保長1、無品親王以2六位別当1為2保長1、散位三位已下五位以上、以2事業1為2保長1。然則皇憲通行、隣伍相保、奸猾永絶、道橋自全。(『三代実録』参取『類聚三代格』)
 
(349)と。太政官請を容れて符を下し、右京またこれに准ぜしむ。ここにいわゆる保は、いわゆる五家の保にして、一坊を四分して保となすものとは異なれり。しかもこの制なお行われざるものあり、昌泰二年六月に至り、さらに勅してこれを督励せしむ。
 
  左大臣藤原時平の宣に曰く、
   奉v勅、出格之後年祀梢積、有司忍而如v忘。奸濫行以為v害。是則徒設2条例1、未v立2罪科1之所v致也。宜d重下知、依2件保籍1、諸院諸司以2六位院司官人1為2保長1、粛2清保内1、糺c察奸非u。但無v長之保者隣近保長各得2兼督1。若保長本主遷2任外史1、以赴2任国1、及売2却本宅1移2住他保1者、京職択2保内之堪v事者1、差替令行。自余事条一如2前格1。若有4下v制之後、保長不v勤d督察u、及保人不3肯承2引保長所1v仰者、皆不v論2蔭贖1、科2違勅罪1、曾不2寛宥1。
 
 もって京内における保、および保長、保人の性質ならびに関係を見るべく、しかしてこの制、実に難波京以来平安京の中ごろに至るまで通じて行われしところなり。
 この京内における五家相保の保と、後の一坊を四分して保となすものとの関係いまだつまびらかならず。その名称同じくして内実異なるものたるは明かなれども、しかも同一の称をもってこれを呼ぶについては、その間必ず密接の関係なかるべからず。京内一戸の占むる面積は、東西十丈、南北五丈、すなわち五十平方丈なるをもって則とす(後の戸主の項を見よ)。しからばすなわち一町内三十二戸を容るべく、厳格にいわば一町内に六保余あるべきはずなり。しかれども事実はしからず。貧者は一戸に班給さるべき分をも数個に分ち、有力者は一戸にて一町ないし数町を占むるものすらあり、一戸内の人口数十人に達するものまた少からざる有様なりしかば、五家相保というもの、その実大小一ならずして、往々数町に亘るものありしならん。されば後に、旧制のようやく紊るるとともに、その相保の範囲を均一にし、一坊を四分しすなわち四町を合せて一団とし、戸数にかかわらざる一種の区画としてしかもなお旧来の保(350)の称をこれに宛て、刀禰を任命して保内の事務を督せしむるに至りしものならん。刀禰の名義明かならず。けだし長の意にして、保長というと同じからん。『言海』に、「或云、伴之部の約、或云、殿寐の略」とあり。神楽歌に伊勢島や海人のとねということ見ゆ。『後拾遺集』にも、
 
  世の中騒がしく侍りける時、里のとね宣旨にて祭仕ふまつるべき歌二つなむいるべきと言ひければ詠み侍りける。                   藤原長能
とありて、里長を里のとねといいしなり。古昔紀伊に名草戸畔《なくさとべ》、丹敷戸畔《にしきとべ》あり。皆一邑の酋長なり。アイヌまたその酋長を称してオトナという。あるいはトネと緑あるか。試みに記して後考を俟つ。
 
 さて四町を保となすこと、『拾芥抄』に、
  凡一条之内有2四坊1、一坊之内有2十六町1、十六町之内有2四保1、
  計v保者、左京起2西北1南下。右京(起2東北1南下)。
  一・二・七・八町為2一保1。三・四・五・六町為2二保1、十一・十二・十三・十四町為2三保1、九・十・十五・十六町為2四保1(括弧内原文に脱す。今意をもってこれを補う)。
 
 すなわち左図のごとし。
 かくて平安朝の末葉より武家時代に及びては、保なる区画は警察上ますます必要なるものとして使用せられしがごとし。文治年間、源義経の踪跡を暗ますや、保々に分ちてこれを捜索せしめんとせしことあり、従来町を呼ぶに単に何条何坊何町と呼ぶを普通とせしものも、鎌倉時代にはしばしば、何条何坊何保何町と、保の名を加えて呼ぶことあるに至れり。
 
 注意、保の事につきては三浦博士著「五人組制度の起源」あり、参照すべし。
 
(351)       一三 京内宅地の斑給――戸主《へぬし》
 
 1 京内宅地班給の標準
 京内の地は、これを親王公卿以下一般人民に班給す。その率の国史に見ゆるものを挙ぐれば、持統天皇五年十二月に藤原京内の宅地を諸臣に頒てるもの、天平六年九月に難波京内の宅地を諸臣に賜えるものなどあり。藤原京にては、右大臣多治比島に四町、直広弐位(四十八階中の第十二階)以上のものには二町ずつ、直大参位(四十八階中の第十三階)以下直広肆位(四十八階中の第十六階)、勤大壱位(四十八階中の第十七階)以下無位に至るまでは、その戸口に随い、上戸に一町、中戸に半町、下戸に四分の一町を賜い、諸王またこれに准ぜしめたり。この時、太政大臣高市皇子を始め、諸親王の受くるところ明かならず。けだし別に賜わりしものならん。これより先、天武天皇十二年十二月に難波を都と定め、「百寮各往いて家地を請へ」と詔し給えることありしも、その賜われるところ明かならざるなり。降って天平六年の難波京宅地班給の率を見るに、三位以上は一町以下、五位以上は半町以下、六位以下は四分の一町以下とあり。しかして、これまた親王に対するものを欠けり。藤原・難波の二京は、平城・平安二京のごとくその規模広大なるものにあらざりしものなるべければ、その班給の率、必ずしもこれを平城・平安二京に当つべからざらんも、しかも当時吏員の数また少かりしかば、大体において後の場合を推測するの料となすを得ん。平城・平安両京の斑給のことは史に見えず。『日本紀略』に「延暦十二年九月、菅野真道、藤原葛野麿等をして新京宅地を班給せしむ」の文あれば、『日本後紀』にして存せんには、その詳細の記事ありたるならんも今これを見るを得ざるを遺憾とす。
 
 かく官吏に班給せらるる宅地はその積すこぶる広かりしも、一般人民に至りては、もとよりかくのごとくなる能わざるは勿論なるべし。しかしてその給せらるるところ、今これを明かにするを得ざれども、大約一町の三十二分の一(352)もしくはその二倍、すなわち十六分の一をもって一戸の分とするを原則とせしことは、平城・平安両京に通じて同じきがごとし。藤原京以前のものにありては、毫も推測の資に供すべき材料を有せざれども、これまた後をもって前を推すに当らん。
 
 2 平安京における戸主
 さて、まず記録の備われる平安京のものよりこれを見るに、『拾芥抄』に、
  一町之内有2四行1、一行之内有2八門1、一戸主長十丈弘五丈。
とあり。すなわち一町内三十二門あり。各門これを一戸に班給する法にして、その一を戸主という。一戸主に属する宅地の義なるべし。一町の方四十丈、これを四行に分たば、幅十丈ずつ、八門に分たば幅五丈ずつ、すなわち一戸主東西十丈、南北五丈、面積五十平方丈なり。
 
 行は南北に通ずる線によりて分たれ、門東東西に通ずる線によりて分たる。ゆえに各戸主は皆東西に長く南北に短し、これを数うるに左京にありては行は西より東へ進み、門は北より南に進む。右京にありては、行は東より西に進み、門は北より南に進む。すなわち左のごとし。
 
 これを数うるには、何条何坊(何保)何町何行何門という。『東寺百合文書』八条女院々町在所目安注文に、
  一、八粂三坊四保十五町【八七六門内一二三行内】六戸主余【八条坊門北烏丸東】【南北一四丈五尺東西廿八丈三尺】東北角
とあり。これを図示すれば第四、五図のごとし。
 もって他を類推すべし。
 あるいはこれを数うるに西何行北何門と称することあり。『拾芥抄』の図示するところしかり。『朝野群載』所収、永保三年売買地券文に、
(353)  左京五条令解申立売買地券文事
  合
   地漆戸主漆丈壱尺肆寸
    在左京五条四坊二町西二三四行北六七八内
とあり。ここに西または北とは西より数うる何行、北より数うる何門の義なり。されば、右京ならば当然、東何行、北何行と数うべきものなりとす。
 以上述ぶるところ、東西十丈、南北五丈、面積五十平方丈の地をもって一戸に班給すべきものとなすことは、これ
 
 第四図 平安京左京八条三坊の図(八条三坊の四保は,すなわち九,十,十五,十六の四町にして,その十五町は八条坊門の北,烏丸の東に当るなり)
 第五図 平安京左京八条三坊四保十五町の図(八条三坊四保十五町の内にありて,八,七,六門内,一,二,三行内といえば上図中イ,ロ,ハ,ニ,ホ,ヘ,ト,チ,リの九戸主内に当る。そのうち東北角六戸主が本文の示すところなり) 〔入力者注、二図ともに省略〕
 
 
(354)一の原則として、戸主の名の由りて起るところなれども、実際においては必ずしも一戸にて一戸主の地を有するにはあらず、時としては一戸主の地を数戸にて分ち、あるいは一戸にして数戸主の地を有することもあり、また、町を行に分ち門に分つについても、その間に通路を設くるの必要あるがゆえに、一門の面積必ずしも五十平方丈すなわち一戸主の地たる能わざるなり。『延喜式』に曰く、
 
  凡町内開2小径1者、大路辺町二、【広一丈五尺】市人町三、【広一丈】自余町一。【広一丈五尺】
と。すなわち普通の町には、中央を南北に通じて広さ一丈五尺の通路を設け、その左右に各二行背中合せをなして存在するなり。第六図のごとし。
 現今、京都市において、東西半町ずつを隔てて南北に道路を通ずるもの多きは、すなわち町の中央を南北に通ずる小径の遺れるなり。現今、東京極(今寺町という)と富小路(今誤りて麩屋町という)の間なる御幸町、富小路と万里小路(今柳馬場という)の間なる富小路(今誤りて間《あい》の町に富小路の名を冠す)、万里小路と高倉の間なる堺町、高倉と東洞院の間なる間《あい》の町、東洞院と烏丸の間なる車屋町、烏丸と室町の間なる両替町、室町と町小路(今新町という)の間なる衣棚《ころものたな》、町小路と西洞院の間なる釜座《かまんざ》、西洞院と油小路の間なる小川などは、皆これなり。しかしてその堺町といい、間の町と称するものは、実にその中間堺線たる小径の名を伝うるものなりとす。
 
 すでに中間において幅一丈五尺の小径を開かんには、その左右なる両行は、おのずからその幅十丈なること能わず、五十平方丈なる一門の地は求むべからざるなり。すなわち第六図示すがごとく、両端のものは十丈の幅を有するも、中間にあるものは九丈二尺五寸となる。ただし、かくては同一町内にありて、甲乙その面積を異にするの不公平を生ずるに似たれども、その道路に面するものは、宅地と道路とに跨りて厚さ五尺の築地を作り、築地の前に幅三尺の犬行の築地を存し、さらに幅三尺の溝渠を通ずるの制なれば、宅地は築地のためにその厚さの半ば、すなわち二尺五寸(355)を減ぜられて、実際は九丈七尺五寸となり、ことに築地を穿ちて門を開き、わずかに道路に通ぜざるべからざるの不便ありて、小径に面する両行の、全部通路に開放して、便利多きものに比し、利害相殺するに足りしものなるべし。
 
 次に市人の町には広さ一丈ずつの通路三個を設くるなり。こは、市町にありては各戸物品を店頭に陳列し、顧客の覧易からしむるように設備せざるべからざるものなれば、左右の道路に面し築地を穿ちてわずかに交通往来し得るものにてはその目的を達し難く、ために必要上三個の通路を設くるに至れるなり。これを図示すれば第七図のごとくなるべし。
 
 現今の京都市において、西本願寺所在の地およびその前一町は古えの東市町に当る。その本願寺境内における旧時街衢の状態、今これを尋ぬべからずといえども、その前面において、油小路の西方|間《あい》の町(醒が井という)との中間において、特にひとり一町の四分の一の間隔をもってさらに一条の道路の南北に通ずるものあるは、あるいは古代市町の形を残存するものにあらざるか、否か。
 
 
 第六図 普通の町一小径を開く図(門戸は上図各門の文字の方向に向って開く。すなわち左右両端のものは各小路に面し,中間の二行はこれと背中合せをなして通路なる小径に面するなり)
 
 第七図 市人の町三小径を開く図(門戸は上図内文字の方向に向って開きしものなるべし)
  〔入力者注、図は省略〕
(356) 第八図 大路に沿える町二小径を開く図(門戸は上図文字の方向に向いて開きしものなるべし)
 〔入力者注、図は省略〕
 
一町のうち幅一丈ずつの小径三個を開かんには余すところ三十七丈となる。これを四等分すれば九丈二尺五寸ずつにして、これまた各門が一戸主五十平方丈の原則に適合せざるなり。
 
 最後に大路の辺の町に二小径を開くとは、大路に向って門を開くものは、公卿以上に限られたるの結果なり。『延喜式』に曰く、
  凡大路建2門屋1者、三位已上及参議聴v之。雖2身薨卒1、子孫居住之間亦聴。
と。しからば大路に沿える行に住する人民は、必ずその背面に往来すべき通路なかるべからず。これ普通の町には中間に一小径を通ずるを例とするにかかわらず、特に大路に近き方において別に一小径を要するゆえんなり。これを図示すれば第八図のごとくなるべし。
 
 右のごとくんば第二行の八丈五尺というもの、他に比してあまりに狭く、公平を欠くこと多きがごときも、その前後に通路を有するの利便は、狭隘なることと相殺し得べきものなるべし。しかして、この町中、各門が実際上一戸主すなわち五十平方丈の面積を有するものは、わずかに第四行に属する八個あるのみなりとす。
 
 以上論述するがごとく、一戸主東西十丈、南北五丈というものは、単に設計上の理想にして、かりに京内の住民が各戸一門ずつの地を有するとしても、その原則に適合するものはむしろ少きにおるものならざるべからず。しかれども、かくのごとき場合にありては、通路の幅の半ばは当然その通路に接する宅地に付属するものにして、宅地の持主(357)の所有に帰するものなるべければ、戸主の面積を数うるは依然東西十丈にして、五十平方丈なるものなるべし。『朝野群載』所収、応和元年八月売買地券文に、
 
  三条令解 申立売買家地券文事
   合地捌戸主 在左京三条四坊四町西一行
    三間檜皮葺屋壱宇 三間車宿屋壱宇 門屋壱宇(以下略)
とあるはまさにこの場合を示す。すなわち左京三条四坊の四町は、西の方東洞院大路に接するものにして、その西一行は東に壱丈五尺の通路を有し、実際の幅は九丈二尺五寸なれども、その通路敷地の半ばを加えて依然東西十丈とし、これを八戸主と数うるなり(なお戸主の面積の数え方は次に説くところを参照すべし)。
 
 右の文書に見ゆる八戸主とは、三条三坊四町の西一行全部の地なれば、該行一門より八門に至る八個門の地を指せるものなるも、同時にその面積が八戸主分の面積すなわち四百平方丈なるの義を示せるなり。けだし、戸主はもと一家に属する地の義なれども、実際には各戸貧富貴賤の差ありて、売買、譲与、分割、合併、常に行われ、その所有の宅地決して均一なる能わざるなり。されば一戸主という語もついには本来の意義を失い、その実一戸分の宅地ということよりも、単に五十平方丈の面積の地として使用せらるるに至れるなり。すなわち戸主とは単に市街宅地の面積を表わす一の単位の名となれるなり。されば地形のいかんにかかわらず五十平方丈の地ならばこれを一戸主の地と称し、もし七十五平方丈の地ならば一戸主半の地といい、八十平方丈の地ならば、これを一戸主三十丈の地などと称す。『朝野群載』所収、応徳元年の家地売買券に、
 
  左大弁家
   沽却地弐戸主事
(358)    在左京五条三坊四町内【東西十二丈五尺南北捌丈】
とあるがごとき、すなわちその適例にして、東西十二丈五尺、南北八丈の地は面積百平方丈すなわち二戸主分の地に当るなり。かくてその面積により、あるいは何戸主何丈何尺何寸などと称す。上文引用せる永保三年の地券文に、七戸主七丈一尺四寸とあるは、すなわち三百五十七平方丈と一分四厘の義を示せるなり。あるいは何戸主余何丈何尺などとも称す。近ごろ京大文科国史研究室において新たに発見せる文書に、
 
  奉渡 地壱処事
   合弐戸主余弐拾陸丈者
    東西漆丈 南北拾捌丈
   在左京姉小路以北烏丸以西姉小路面
  右件地元者卿二位家領也。而被v相2傳大炊御門烏丸地1畢。今彼地内弐戸主余弐拾陸丈所v奉v渡2七条院女房治部卿殿御壷禰1也。於2本券1者、有2類地1之間、不v令2相副1。仍為2後日証拠1立2新券1之状如件
 
   建保三年十月十八日   在判
とあり。東西七丈、南北十八丈の地 すなわち百二十六平方丈なり。このうち百平方丈すなわち二戸主を除かば、余すところ二十六平方丈なり。これ二戸主余二十六丈の称あるゆえんなりとす。かくのごときの実例は枚挙にいとまあらず。かつて本誌百号記念「百名家論集」において、新見学士の詳細考証せられたるものあれば、煩を避けて今すべてこれを除く。
 
 3 平城京における戸主
 平城京においてもまた、人民に宅地を斑給するに当り、なお平安京におけるがごとく、戸主類似の割り方ありしを(359)疑わず。『西大寺三宝料田園目録』に、
  添下郡右京一条三坊二坪内幸金敷地【南北五丈東西十二丈】
        同坪内実賢敷地【南北五丈東西十二丈】
とあり。一条三坊二坪は、第一一節第一項「京内道路の広狭(下)」中に所引の長承三年の西大寺敷地の記事によれば、その境域外に属すれども、大体この地また西大寺の境内にして、宝亀年間の『伽藍縁起流記資財帳』ならびに『諸寺縁起集』所収『西大寺古緑起』によれば、
 
  居地三十一町在2右京一条三四坊1。東限2佐貴路1、【除東北角喪儀寮】南限2一条南路1、西限2京極路1、【除山陵八町】北限2京極路1。
とありて、右京一条三坊はその一の坪のみ喪儀寮に属し、他はすべて西大寺の境内に属せしものなれば、いわゆる幸金・実賢敷地などと称するものも、西大寺の僧徒の住房なるべく、したがって特別の割り方ありしものならん。十二
 
 
 第九図 平城京の戸主(一坪四十丈四方中に幅二丈ずつの二小径を通じ,これを二十四分すれば文中の敷地を得べし)
 第一○図 平城京の区   〔入力者注、図はどちらも省略〕
 
(360)丈に五丈の地は六十平方丈にして、平安京における戸主に比するに十平方丈を増す。けだし僧徒の住房として特別の広さを要し、ことにその地は京職の支配を離れ、西大寺の所管に属するものなれば、かくのごときの割り方ある怪しむに足らず、しかもなお東西五丈というものが、平安京における戸主と同様なるは注意すべし。これを図示すれば第九図のごときものならん。
 
 その他、平城京内の地を表わすに、何区と称するもの多く散見す。けだし坪を数区に分ちたる一単位にして、平安京における戸主に当るものならん。『唐招提寺文書』に、
  在左京七条一坊 合家四区 一区無物
  在右京七条三坊 壱区板屋二宇
などあり。その区画の広袤に関しては、『続修東大寺正倉院文書』(『存採叢書』所収)に、
  質物家壱区       地十六分之半、板屋二間、在右京三条二坊(宝亀三年二月)
  質物家壱区《田部国守》 地十六分之四、一在物板屋二間、在左京九条三坊(宝亀三年十二月)
  質物家壱区《占部忍男》 地十六分之四、一在物板屋二間、在左京九条三坊(宝亀三年十二月)
  質物家壱区       在左京八条四坊、地十六分之一、四分之一在物一屋一間(宝亀三年十二月)
  質物家壱区       地三十二分之一、在板屋二間、在左京八条四坊(宝亀四年四月)
  質物家壱区       地十六分之一、板屋五間者、左京八条三坊(宝亀五年二月)
などありて、十六分、もしくは三十二分をもって法とするがごとし。一坪の十六分の一は東西南北各十丈にして平安京一戸主の二倍に当り、三十二分の一は東西十丈、南北五丈にして、まさしく平安京の戸主に相当するなり。前記天平六年に難波京の地を諸臣に班給するに当り、あるいは一町あるいは半町あるいは四分の一町という。右の左京九条(361)三坊における田部国守、占部忍男の地が十六分の四というもの、実にこの四分の一町に当るなり。また右京三条三坊の十六分の半というものは、左京八条四坊の三十二分の一というと同様なるによりて見れば、平城京にては京内の宅地を班給するに、第一〇図のごとくこれを十六分するを法とし、その身分ならびに戸口の多少によりて、あるいはその半ば、あるいはその一、あるいはその二、その三、四、もしくは半町、もしくは一町を賜わりしものなるべし、しかして後に平安京にありては、平城京におけるこの制を踏襲ししかも過去の経験に徴し、戸数の多少を案じて、三十二分の一すなわちいわゆる一戸主(東西十丈、南北五丈、面積五十平方丈)の地をもって宅地班給の一単位とするに至りしものならん。平安、平城の二京すでにこの宅地班給の制度あり。難波、藤原等の諸京また必ず均一分配の制ありしを疑わずといえども、今これをつまびらかにするを得ず。
 
 
      一四 補  遺
 
 本朝都城の制については、論ずべきところなお多し。宮城のごとき、東西両市の位置ならびに組織のごとき、堀川ならびに大宮川等京内水路のごとき、羅城門の位置、結構のごとき、さては京職の官制、職掌のごとき、いずれも本編中において論述すべきものに属す。しかれども本編稿を続くことすでに八回、年まさに暮れんとし、本誌また本号をもって巻を終るべきをもって、しばらく本号記述するところを一段落として本編を終らんとす。もしそれ宮城以下の諸項に関しては、他日筆硯を新たにして再び論述するの機あるべし。今はただ既往論述せるものにつき、その遺れる二、三を拾補して、擱筆せん。
 
 1 道路と築垣・溝渠ならびに門戸の関係
 平城・平安両京内の道路は朱雀大路のほか大路八丈・小路四丈なるをもって法とし、特に平安京にはさらにこれよ
 
(362) 第一一図 平安京の道路と築垣・溝渠ならびに門戸の関係 〔入力者注、図は省略〕
 
りも広き道路を設けたること、一〇、一一の両節においてこれを述べたり。しかれども、道路の両側には築垣あり、築垣の内部に犬行と称する空地を設け、さらにその内部に溝渠を通ずるものなれば、実際に市民の往来し得べき部分は、すこぶる狭小なるものとなるべきなり。
 
 平安京の制によれば、大路両側の築垣の厚さ六尺、犬行五尺、溝渠四尺、小路両側の築垣の厚さ五尺、犬行三尺、溝渠三尺なり。ただし、築垣は道路と宅地との境界に設くるものなれば、その厚さの半ばは宅地に属すべく、結局大路にては両側より各一丈二尺、小路にては八尺五寸を狭められ、市民の通行すべき部分は大路五丈六尺(十丈の大路にては七丈六尺、以下これに倣う)、小路二丈三尺となるべきものなり。しかして、大路にありては溝渠の内部にさらに樹木を植うること前すでに述べたり。道路の相交れるいわゆる四つ辻には舎を設け衛府夜警して市人の夜行くを禁じ、もし公使ならびに婚嫁喪病等もしくは医薬を求むるもの等のためには、勘問の上通行を許すこと「大宝令」に見ゆ。藤原京の制なり。しかして平城、平安等またこれによりしものなるべし。
 
 道路に面して門戸を開くには、築垣を穿つ、宮城土御門と称するものまたこの制にして、そのさま往々古絵巻物等に見ゆ。ただし、一般市民は小路に面する場合に限り開門し得るものにして、三位以上もしくは参議以上すなわちい(363)わゆる公卿にあらざれば、大路に開門する能わざることは前すでにこれを説けるがごとし。ゆえに大路に沿える町には、十丈を隔てて南北に通ずる小路を開き、家屋はこれに面して通路を設くるの必要ありしなり。しかして平城京の制またかくのごとくなりしならん。
 
 2 朱雀大路と坊門
 朱雀大路は特別の広さを有するものとして、犬行に一丈五尺の広さを有せしめ、溝渠五尺、築垣の厚さ六尺(その半ば三尺道路に属す)両溝の間二十三丈四尺なり。両側に柳樹を植うることは『催馬楽』に「新京朱雀の垂柳」の詠あるにても知るべく、こは長岡京のことなれども、奈良、平安の二京もとよりしかり、左右の垣には各条の中央に一門を開きて往来に供す。いわゆる坊門にして、その直通の小路に坊門通りの名あるはこれより起る。朱雀大路その幅はなはだ広きがゆえに監督行き届かず、あるいは牛馬を放飼し、あるいは盗賊横行するに至る。ここにおいて貞観四年三月、「太政官符」をもって、坊門ごとに兵士十二人を置き、朱雀路を警戒せしむ。「符」に曰く、
 
  応4毎d坊門u、置d兵士十二人u、令3守d朱雀道u、并夜行兵衛巡2検兵士直否事1。
  右得2左京職解1※[人偏+稱の旁]《イハク》、朱雀者南京之通道也。左右帯v垣人居相隔、東西分v坊、門衛无v置、因v茲昼為2馬牛之せん闌※[門/巷]1、夜為2盗賊之淵府1。望請、毎2坊門1置2兵士十二人1、上下分番、互《カタミニ》加2掌護1、即便令3夜行之兵衛毎v夜巡2検兵士之直否1、然則柳樹之条自无2摧折1、行道之人方免2侵奪1者。右大臣宣、依v請。右京職准v此。
 
 坊門は各条にただ一個あり。貞観十六年八月二十四日、京都大水、朱雀大路豊財坊門仆れ、拘関の兵士ならびに妻子四人圧死すとあるものは右京三条の坊門なり。坊門は夜閉じて通行を禁ず。鎰《かぎ》は坊令これを保管し第一鼓によりて開く。朱雀大路にのみ特に坊門を設け警戒を厳にするは、該路が左右両京の境界にして、北の方ただちに朱雀門に達し、宮城に近づくべきものなればならんか。
 
 
(364) 平城京坊門のこと今知るを得ず、けだし平安京制によりて類椎し得べきものならん。
 3 条と坊との名義の変遷
 大化の制、京には坊ごとに坊長一人を置き、四坊に坊令一人を置くとあり、しかして大宝の「令」、延喜の「式」またこれに従えるを見れば、一坊長の管する地も、四坊を合せたるいわゆる一条の域も、ともに呼ぶに坊の名をもってせしもののごとし。天平十八年の『大安寺流記資財帳』には、該寺の境内を記して寺地十五坊、四坊塔院、四坊堂並僧坊寺院、一坊半禅院・食堂・大衆院、一坊池並岳、一坊半賎院、一坊苑院、一坊倉垣院、一坊花園院とあり。ここに坊とは普通にいわゆる一坊を十六分したる坪すなわち町の謂なり。京外条里の称呼についても天平二十年弘福寺(川原寺)三綱牒に町を坊と呼びたる例ありて、古えは町割の最下級単位たる町をも坊と言いしもののごとし。シナの長安・洛陽等の諸京にて坊と称するは、わが京城にて坊長所管の坊と相比すべし。しかもこれをわが国に移すに当りて、種々見解を異にし、あるいは町を坊といい、あるいは数町を合せたる一区を坊といい、あるいは四坊を合せたるものをまた坊といいしものならん。シナの京城には坊ごとに固有の名あり。しかるにわが平安京にありては、四坊を合せたる条に命ずるにかの坊名をもってすること、第八節第四項においてすでにこれを論じたり。されどこは前すでにいえるがごとくに、弘仁九年詔して天下の儀式、男女の衣服、皆唐法に依らしめ、諸宮殿院堂門閣、皆新額を著けしめたる時に当り、宮城諸門の名を改めて唐様と成せしと同時に、坊名をも改めしものなるべく、その前はなお藤原京の林坊、平城京の松井坊のごとく、坊ごとに日本風の名ありしものなるべし。平城京勘解由小路を一に松井と号す。平城京松井坊の名、所縁あるか。
 
 すでに各坊長所管の地を坊と称する以上、四坊を合わせたるものをも坊といい、その長官を坊令というは混雑を免れず、さればこれを唐様に其の坊と呼び、朱雀道に対して開ける門を依然坊門と称しながら、その長官は後に条令と(365)呼ぶに至れり。『朝野群載』所収、応和・正応・永保年間の「売買地券文」に見ゆるところ、三条令、四条令、五条令など皆しかり、しかして一般に唐様の坊名は使用せられざりしもののごとし。
 
 4 参照すべき諸論文目次
 補遺として論述すべきものなお多けれども、行文長きに亘り、歳末の誌面を塞ぐこと多きを虞れ、以上三項のほか、すべて割愛することとせり。終りに臨み、本編に関係あり、読者の参照せられんことを希望する論文中、かつて本誌上に掲げたるものの目録を左に抄記し、もって筆を擱かんとす。既出の論文にして本編記述するところと矛盾するものあらんには、後をもって前を改めたるものなりと解せられんことを望む。
 
  「上代帝都の所在に就いて」(『歴史地理』第一〇巻第一号、明治四〇年七月)
  「難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ」(『歴史地理』第一四巻第一号、明治四二年七月)
  「大津京遷都考」(『歴史地理』第一五巻第一、二号、明治四三年一、二月)
  「藤原宮(「※[口+幼]々斎地理雑談」)」(『歴史地理』第二巻第三号、明治三三年六月)
  「平城京の四至を論ず」(『歴史地理』第八巻第二−五、七−九号、明治三九年二−五、七−九月)
  「南都東南院所伝律疏断簡所収の国郡に関する記事の年代を論じて帝都条坊の数に及び以て平城京四至の論を補ふ」(『歴史地理』第八巻第一一号、明治三九年一一月)
  「『平城京及大内裏考』評論」(『歴史地理』第一二巻第二−六号、第一三巻二−五号、明治四一年八1一二月、四二年二−五月)
  「恭仁京遷都考」(『歴史地理』第一三巻第一、四号、明治四二年一、四月)
  「恭仁大宮遺址に就て」(『歴史地理』第一巻第五号、明治三三年二月)
(366)  「長岡遷都考」(『歴史地理』第一二巻第一−四号、明治四一年七−一〇月)
 なお将来、「宮城の制」「京内水路の研究」「東西市の研究」等を論じて本編の足らざるを補い、さらに、「飛鳥京考」「藤原京遷都考」「平城京遷都考」「平安京遷都考」「福原京遷都考」等を起稿し、もって帝都に関する研究を終らんことを期す。
 
 
 
(367) 難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ
 
 府と県といかなる別ありやとは、しばしば余輩の接する質疑なり。よりて左にいささかその来歴を説き、難波京の沿革を論じて大坂府の性質に及び、もって史上の見解より、府と県との間に特別の意義を付せんとす。
 
 明治の初め、地方を分ちて府藩県の三治となす。藩は言うまでもなく万石以上の旧大名の所領の地にして、府と県とは旧幕府領および万石未満の諸士の知行所の収公せられたるものなり。これを府と県とに分ちたる標準は、だいたい、旧幕府が城代または奉行をして治めしめたるところを府とし、郡代または代官をして治めしめたるところを県とし、諸士の旧知行所は便宜その最寄の府県に管轄せしめたるもののごとし。されば府は県よりもその資格よく、明治元年閏四月の定めには、府知事は二等官、県知事は三等に分ちて一等は三等官、二等は四等官、三等は五等官と定められ、ついで明治二年七月、その長官の相等位階を定むるにも府知事は大藩知事と同じく従三位相当とし、県知事は小藩知事と同じく従四位相当と定められたり。かくて府には、京都、東京、大坂のほかに、度会府、甲斐府、新潟府(二年二月、県となし後さらに越後府を置く)、長崎府、箱館府、奈良府などありき。しかるに、二年七月に至りて京都、東京、大坂の三府を除くのほかはことごとくこれを県とし、ただこの三府のみ最後まで残りたるなり。
 
(368) この三府のうち、東京と京都とは帝都の地たれば、他の地方となんらかの形において区別せらるることもとよりまさにそのところ。ことにその市街の繁栄の点より言うも、大坂市街を除きてはわが国中、他に東京、京都に比較すべきものなかりしかば、これらを府として他の県と区別せしことは、最も適当なる処置として、なんらの疑惑を生ぜしむるがごときことなかりき。大坂は市街の繁栄遥かに京都を凌駕し、徳川幕府また最も重要なる地として管理し来りし経歴もあれば、これを東京、京都と列して他の地方と区別すること、またまさにしかるべきところなりしなり。しかるに、爾来星霜を閲すること四十年、都市繁栄の程度に緩急長短の差ありて、名古屋市のごときは、その人口近く京都市の塁を摩せんとし、ために市民はみずからこれを東西両京に比して中京などと称し、県を進めて府となさんとするの意志を懐くものさえこれありと聞く。横浜、神戸の二市が駸々として長足の進歩をなし、その繁栄の京都に追及せんとする、まさに近き未来においてこれを見るべく、これまた府の候補者としてあらわるるに至らば、現在の三府四十三県は、変じて六府四十県とならざるべからず。府県の区別果してかくのごとくして定むべきか。
 
 これを府県なる文字の母国たるシナの慣用について見るに、時代によりて相違あり、両者の関係必ずしも一定するところなきがごときも、これをわが国に移して前に述べたるがごとき意義に使用せんこと、あえて不可ならざるがごとし。すなわち府とはその管内に特に大なる市街を有する地方庁の名誉を表彰するの称呼にして、したがって班次は県の上にあり、その吏員は、もし官位の相等を定むべくんば県官よりも一階の上級に位し、俸禄また一等を上すべきものとなすべきに似たり。されどわが国における府県の区別果して将来もかくのごとくなるべきか。
 
 これをわが古代の制について見るに、地方官庁に職と国との区別あり。帝都たる市街は国より分離して京職これを支配し、難波京を有する津の国は、またこれを職として特別の官庁の支配の下に置けり。奈良朝のころ、弓削道鏡の志を得るや、その郷里たる河内の弓削に由義《ゆげ》宮を営み、ために河内国を陞して一時河内職となしたることありき。も(369)って職と国との区別を見るべし。しかして余輩は、府と県との別をもって、この職と国との別に比せんとするなり。
 
 府県の別、明治の初年に当局者のこれを定めしさいには、もとよりかくまで深き理由を有せざりしなるべし。されども今日となりては、余輩は府県の別をもってかく解するを至当と信ずるなり。東京、京都は今もなお現に帝都の地なれば、これを古えの職に准じて府となさんこともとより異議あるべからず。また、大坂の前身たる難波は応神天皇ここに大隅宮を定め給い、仁徳天皇高津宮を起し給いてより後、あるいは帝都の地となり、あるいは離宮の地となり。ことに大化以後、延暦年間に至るまで、約十五代百四十年間は、ほとんど固定したる京城の地として、その継続年数実に平城京に倍するものあり。その間、摂津職これを管する一に京職に准じたり。来歴すこぶる他に異なりと言わざるべからず。しかして難波の津港を継承せる大阪市は、その特殊なる来歴の名誉を担えるがうえに、現に繁栄の度においてわが国第二位にあり、人口の数また第三位の市と遠く隔絶す。この名誉ある来歴を有する大市街を表彰せんがために、これを管する地方管庁を他に区別して府となさんこと、またもとより異議あるべからざるなり。
 
 ここにおいて人あるいは問わん。難波の地が約十五代百四十年問に亘りてほとんど固定したる帝都なりきとは果して事実なりやと。実に難波京のことは史家によりてしばしば閑却せられたり。身難波の地にありて、その地の来歴を自負する人々にして、この最も誇りとするに足るべき一大事実を知らざるもの多し。「大宝令」に難波ならびに津の国(後の摂津国)を管する行政官庁を摂津職とし、これを京職に准じたるを見て、単に当時の政府が要津を重んじたるゆえんなりと解せんとするものすらあるなり。思わざるのはなはだしきものならずや。しかれども現勢すでにかくのごとしとせば、余がここに大阪府の称呼の至当と言わんがために、難波京の沿革を論ずる、また無用にあらざるべしと信ず。
 
 そもそも難波の地は、京畿第一の要津として、神武天皇の東征すでにこの地を経由し給い、神功皇后三韓を征服して、大和朝廷と韓土との交通開くるや、応神天皇は難波に大隅の別宮を起し給い、後この宮において崩じ給いしとさ(370)え伝えらる。ついで仁徳天皇に至りては、高津宮に即位し給いて、難波ついに帝都となれり。その後、都は再び大和に還りしが、孝徳天皇大化改新にさいし、旧来の陋習を一洗して、新政を布き給わんがために、都を難波長柄豊埼に遷し給うに及び、難波再び帝都となれり。この都は唐の制に模したるものにして、後の平城、平安両京のごとく、縦横の道路によりて条坊を分ちしものなりき。かくて新政府はいったんこの新都において成立せしが、当時新政を喜ばざる旧勢力家は、必ずこの新都に反対したりしなるべく、遷都の翌々年皇太子の宮焼く、時人大いに驚き怪しむと『日本紀』に見ゆ。皇太子は新政の張本たる中大兄皇子にして、その宮殿の火災は、反対者の所為に出でしこと疑いを容れず。されど新都の経営はこれらの反対あるにかかわらず、続々として進行し、遷都後七年を経て白雉三年九月に至り新宮落成す。『日本紀』に宮殿の状|殫《ことごと》く論ずべからず、とあり、もってその壮麗なりしを見るべく、これを皇極天皇の飛鳥板蓋宮が僅々四ケ月の予定をもって作られんとせしものとは比すべきにあらざりしならん。
 
 しかるに、新都反対の勢力は次第に加わりしものと見え、遷都の首唱者なりきと想像せらるる皇太子は、新宮の成りし翌年をもって旧京に還らんことを奏請せり。けだし新都のとうてい保つべからざるを見て、輿望に従い給えるものならん。この時天皇これを許し給わざりしかば、皇太子は先帝皇祖母尊(皇極天皇)および皇后(孝徳天皇の皇后間人皇女)を奉じ、皇弟らを率いて飛鳥の旧京に還り給いしに、公卿、大夫、百官、人皆随いて遷れり。これもとより皇太子の威望の盛んなりしによることなるべしといえども、またもって旧京の勢力大にして、群臣多くこれを希望せしものならざるべからず。翌年孝徳天皇崩じ、斉明天皇飛鳥に重祚し給う。ここにおいて難波は廃都となれるの感あり。しかれども難波宮は廃せられざるなり。斉明天皇はその六年に難波宮に幸し給う。けだし、百済の臣鬼室福信らの請によりて救援の軍を発せんとし、まずこの宮に幸して軍器を整え給いしなり。もって難波宮が単に保存せられたるのみならず、すこぶる重要の地位にありしを知るべし。
 
(371) ついで天智天皇は大津に都し給い、天武天皇は飛鳥浄見原宮にまし在ししも、難波宮は依然廃せられざるなり。天武天皇六年十月、摂津職大夫の称見ゆ。もって難波が飛鳥京の御代において、すでに京職に准じて職を置かれたりしを知る。九年、天皇難波京に羅城を築かしめ給う。羅城とは京城四周の築垣なり。けだし、天皇飛鳥京に満足し給わず、さらにこの京を修築して、都をここに遷し給わんとの下地なりしなり。果然十二年に至り詔して曰く、「都城宮室一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波に都せんと欲す。是を以て百寮往いて家地を請へ」と。けだし、飛鳥京に対して難波京を西京となし、百官に邸宅の地を賜わりしなり。当時、難波宮には宮歴殿外大蔵省あり、兵庫職あり、諸官省の屋舎皆整いしものなるべし。されど、朱鳥元年に至り難波宮の大蔵省、火を失して宮室ことごとく焼け、余すところわずかに兵庫職のみとなりたるがうえに、天皇また間もなく崩じ給いたれば、この遷都は事実とならずして止みたり。『日本紀』はこの火災をもって失火なりとなせども、さらに一説を引いて、阿刀連薬が失火引い宮室に及べりとなせり。けだし原因不明の火なり。思うに飛鳥の旧勢力が、さきに皇太子中大兄の宮殿を焼きたると同じく、遷都反対者の所為に出でしものか。天智天皇大津遷都のさい、反対の声高く失火また多かりき。元明天皇平城遷都の後、藤原宮焼亡せり。これらの事実の前後頻繁に起れる事情を綜合して考うるに、かかるさいにおける火災は、当時の慣用手段として、しばしば繰り返されたりしものに似たり。ここに至りて孝徳天皇の造営し給いし宮殿始めて空し。されど、難波宮は間もなく再営せられ、持統天皇六年四月、難波大蔵の記事あり、文武天皇三年正月、この宮に行幸し給い、滞在二十五日に及ぶ。ついで慶雲三年九月にも行幸あり。陪従の士の歌『万葉集』に見ゆ。その後、元正天皇の養老元年二月、聖武天皇の神亀二年十月にも、またまた行幸あり。難波宮は離宮の形をもって依然保存せられしがごとし。ことに聖武天皇は難波の地を好み給いしにや、この年、式部卿藤原宇合を知難波宮事に任じ、大いに造営の工を起さしめ給えり。ここにおいて難波大いに繁栄に赴く。宇合歌うて曰く(『万葉集』)、
 
(372)  昔こそ難波田舎と言はれけめ、今は都とみやこびにけり
 実に難波はここに再び都となりしなり。『伊呂波字類抄』に引用せる古文に、
  豊前宮坐摂津難波長柄今造離宮是也
とあり。こは孝徳天皇の長柄豊埼宮を説明せる文なれども、やがて奈良朝における「今造れる離宮」が、ただちに孝徳天皇の難波宮なることを示せるにて、難波京が前後一貫せることを明かにせるものなり。
 
 これより後難汝宮造営の工はますます進み、天平四年には石川牧夫造難波宮長官に任ぜらる。『続日本紀』天平十三年三月の記事によれば、当時の難波宮には太政官あり、宮内殿あり。思うに、宮殿はもちろん八省百官の建築もほぼ整いしものか。これより先、天平六年九月、難波京内の宅地を群臣に班給す。その率、三位以上は一町以下、五位以上は半町以下、六位以下は四分の一町以下なりき。当時の臣僚の数もとよりつまびらかにこれを知るを得ざれども、天平十六年閏正月、聖武天皇群臣を会して定京のことを問い給いし時、恭仁京を可とするもの五位以上二十三《〔ママ〕》人、六位以下百五十七人、難波京を可とするもの五位以下二十三人、六位以下百三十人とあれば、通じて五位以上四十六人、六位以下二百八十七人なりき。このほかに可否の数に与らざりしと思わるる公卿七人あり。もとよりこれをもって当時臣僚の総数をつくせるにはあらざるべきも、しばらく右の数をもって全数と見做す時は、公卿七人、かりに一町ずつとして七人、五位以上四十六人各半町ずつとして二十三町、六位以下二百八十七人各四分の一町ずつとして七十二町、合計一百二町となる。臣僚の占むる京内の宅地のみにてすでにこの大数あり。難波京の規模小ならざりしを知るべし。
 
 当時難波宮の造営せらるるや、諸国に課して造難波宮司雇民の粮食を徴す。『大日本古文書』所収『正倉院文書』中に難波宮に関する記事の見ゆるもの、
 造躍波宮雇民逃亡状(天平六年『出雲国計会帳』)
(373) 造難波宮司雇民食料雑鮨伍斛(天平九年『但馬国正税帳』)
 造難波宮司雇民食鮨伍斛運搬夫弐拾捌人(同上)
 難波宮雇民粮米弐拾弐斛(天平十年『和泉監正税帳』)
 難波宮雇民粮米陸斛(同上)
 難波宮雇民粮宛正令史史生壱人従陸人経壱箇日食稲参束酒弐升捌合(同上)
などあり。
 天平十六年に至りて、天皇ついに都を難波に遷し給う。ここにおいて離宮はいったん皇居となれり。かくて天皇は閏正月、難波京に行幸あり。翌二月、恭仁京の高御座および大楯を難波宮に運び、また使を遣わして水路より恭仁兵庫の器仗を難波に運漕せしめ、恭仁京の百姓の難波に遷らんと願うものはこれを許し給えり。されど久しからずして朝議平城遷都に決し、天平十七年八月、難波は再び皇都たるの資格を失えり。されど難波宮はなお廃せざるなり。天平勝宝八歳二月、孝謙天皇は聖武太上天皇とともに難波に幸し給いて東南の新宮に御し、翌月、太上天皇堀江のほとりに幸し給いたることなどありき。延暦二年三月に至り、摂津職を改めて摂津国となす。けだし、光仁・桓武の二帝は、多年弊政の後を承けて常に財政、行政の整理に意を用い給い、ことに延暦二年には、桓武天皇造宮省を廃し給いし年なれば、難波宮もまたこの年をもって廢せられしものならん。応神天皇大隅宮を営み給いてより、『日本紀』の年代に従えばここに四百九十二年、孝徳天皇の大化元年より百三十九年なり。
 
 大阪の地は実にかくのごとき名誉ある来歴を有す。その後も、かつてその要津たるの地位を失わず、石山本願寺、豊公の築城を経て、一時は帝国政治の中心ともなり、明治の初め大久保公はここに遷都の議を上るに至れり。かくのごとき来歴ある大都会が、東京、京都の両帝都と伍して府の称を有するは、まさにしかるべきところならずや。
 
(374) 付言。近時東京市をもって都となし、府県制、市制等に対してここに都制を布き、東京市以外の府下の管地を県となさんとするの議あり。毎年議会にあらわる。いまだ両院を通過して確定議となるに至らずといえども、早晩事実となりて現わるるの期なしとせず。かくのごとき施政上のこと、もとより余輩の容喙すべきところにあらずといえども、その称呼に至りては、当路者の一考を煩わさざるを得ざるものあり。さきに内務省が施政上の便を図りて町村を廃合するや、その合併したるものに命ずるに「郷」という最も適当なる慣用語あるにかかわらず、依然これを町村とし、旧町村を大字《おおあざ》とし、旧字を小字とす。人民はその祖先以来の町村の名の廃滅に帰するを惜しみて反抗の声各所に起り、今に至りて混雑と不便とを感ずること少からざるなり。当時もし当局者において来歴に重きを置き、旧来の町村の名称をそのままに保存して、これを合併したる新区画に「郷」の名称を用いたらんには、人民の感情も容易に融和し、混雑も少からざりしを疑わず。それと、これと、事やや異なりといえども、理においては一なり。三府の名称は四十余年を経てすでに十分固定し、人の耳目に馴る。今東京府を廃して某都と某県とを置かんこと、事は可なりとするも名称において異議なき能わず。都とは帝都の称なり。わが国の帝都西に京都あり、東に東京あり。京都今や政治の中心たるの資格を失いたれども、その有する宮殿は依然皇居なり。天皇の即位および大嘗の大礼はこの地において行わるるなり。本来を言えば京都は首都にして東京は施政の便宜上天皇ここに在しまして政治を見そなわすの地なり。明治元年七月、江戸を東京とす。これ在来の京都に対して、別に東方の京を定め給いしものなり。同年十月、江戸城を東京城と改称す。この時の行政官の被仰出書に、御東臨の節は当城をもって皇居と被定候とあり。されば京都はどこまでも帝都たるの資格を失わず。来歴を重んずるうえより言わば、「都」の称号はひとり東京のみの専用すべきものにあらざるなり。さればとて、東京に都制を布くに伴い、京都をもその仲間となすべきにあらず。ここにおいてかこれが名称につきて別案なかるべからず。むしろ「大宝令」の制に復して東京に京職を置き、京職大夫をしてこれを管(375)せしめんか。これ一案なり。四十年来慣用の名称を重んじ、府をもって「大宝令」の職に当るものとして、東京市に命ずるに東京府の称をもってし、京職に対して河内職、摂津職ありしがごとく、彼是多少官制を異にしながらも、市街地のみの東京府に対して市街以外の地方をも有する京都府、大坂府を置かんもまた一案なり。かくのごときはさらに攻究の余地あるべし。怱卒に東京のみを「都」となさんは京都の来歴を無視するものなり。筆のついでに、あえて一言を付加す。
 
 
(379) 京間・田舎間を論じて令尺と曲尺との関係に及ぶ
 
      一 緒  言
 
 余、先年工学博士関野貞君の「平城京及大内裏考」に対して「『平城京及大内裏考』評論」一編を草し、これを本誌第十二第巻二号より、第十三巻第五号に亘りて連載し、一はもって博士の高論を請い、一はもって先覚の批評を煩わし、これによりてさらに平城京に関する研究を重ね、ますますこれが真相を明かにせんことを企図したることありき。当時博士は余輩の「評論」の完結を俟ちて、これに対する高見を発表せらるべきことを公約せられしが、爾来すでに五星霜、博士他方面の研究に多忙にして、いまだその約を履行せらるるに至らず、これ余輩が学界とともに常に遺憾とするところなりとす。さきに余輩の発表せしところ、その後よりしてこれを観るに研究のなおいまだ足らざりしところあり、些少ながらも記述の事項中、訂正を要すべきものまたなきにあらず。すべからく博士の高見を俟ちて、竿頭さらに歩を進め、相ともにその京内の条坊京外の条里に関する研究に従わんことを期するや久し。しかもついにこれが機会を得ず、荏苒今日に及ぶ。しかるに古代帝都に関する余輩の研究の発表は、漸次回を重ねてつとに(380)上代帝都の所在、長岡京、恭仁京、難波京、本邦都城の制を終り、客歳飛鳥京を説き、今春藤原京を述べ、余すところは平城京および平安京あるのみとなれり。しかして今や実にその平城京を論述すべき順序となれるなり。余輩の「『平城京及大内裏考』評論」はその説くところ多岐に渉り、章を分つこと十六、分量においても本誌約百五十頁に達し、平城京に関して余輩の言わんと欲するところ、多く収めてその中にあり。しかれども、もとこれ博士の大編に対する評論なるがために、余輩の研究を発表したるものとしてはすこぶる消極的なるを免れず。余輩が古代帝都に関する研究中の一編としては、さらにこれが積極的発表なかるべからざるなり。さりとてその四至に関してはつとに回を重ねて本誌上に論述せしところあり、加うるにこの「評論」の記事のすでに公にせられたるあるをもって、今にして重ねて平城京を論ぜんか、その後の新研究に成れる改良進歩の点またこれなきにあらずといえども、大体においてその内容、大同にして小異なるを免れず。単にその発表の形式を異にするの理由をもってこれを同一誌上に掲げ、貴重なる誌面を費さんこと、学界に取りて利益少く、本誌にとりて迷惑多かるべし。しかず、おもむろに余輩の「評論」に関する博士の高論を俟ちて、さらにこれが研究を重ね、しかして後、余輩の研究を整理し、積極的発表をなさんには。よりて余輩は、しばらくこれに関する纏りたる論文の叙述を猶予し、機会あるごとにまず断片的にその後の新研究を発表せんとす。本編述べんとするところ実にその一におる。
 
 思うに尺度の研究は、平城京内の条坊と京外の条里とを調査するうえにおいてはなはだ重要なる問題なり。されば関野博士はその「平城京及大内裏考」において、これが精密なる研究を試みられ、結局奈良朝当時の尺度の一尺は曲尺九寸八分微弱に相当するものなりとし、概数九寸八分の率によりて一切の丈尺を測定せられたり。かくてこの尺度の研究よりして博士は平城京内の街路の幅を調査し、大路七丈、小路三丈との結果を得られたり。しかれども、これ明かに記録の吾人に教うる事実に違反せるもの。事は余輩の「『平城京及大内裏考』評論」中において詳論せり。当(381)時余輩はこれによりて九寸八分という博士提示の数の事実にあらざることを認めたりしかども、いまだこれを是正して、正確なる数を提示するには至らざりしが、その後、条坊・条里の関係について研究を重ぬるさい、はしなくもいわゆる京間・田舎間なる建築・測地上の用語が、京内の条坊と京外の条里とより来れるものなることを発見し、さらにその研究の結果として、曲尺は従来学者の普通に認むるごとき「令」小尺の訛長せるものにはあらずして、一種の古代の測地尺なるを知るとともに、その九寸七分五厘が理論上「令」の小尺一尺に相当するものなることを明かにするを得たり。すなわち本編その委細を論じて前論の足らざるを補い、兼ねて条坊・条里の研究の基礎を確定せんとす。もし余輩のこの考案にして誤りなからんか、ただに条坊・条里の研究上発明するところ多きのみならず、一般古代研究のうえに影響するところ少からざるべく、ことに余が評論を試みてこれまたいまだ高諭に接することを得ざる、同じ関野博士の法隆寺等の古建築物に関する新研究をも、その根本より覆すの結果を生ずべきなり。何となれば博士の古建築物に関する新研究は、「令」小尺をもって曲尺九寸八分なりとするの基礎になれるものにして、しかも博士はこれをもって最も確実なる証拠なりとし、これによりて反対説をその根柢より打破し、おそらくは何人も異議を挟むの余地なしとなさるるものなればなり。当時余輩の論ぜしところは主としてその研究方法を疑い、論理上より、また記録上より、氏の所論に反対せしものにして、いまだ尺度の点に及ぶこと深からざりしが、本編もってまたその不備を補うに足らんか。これ掲げて切に博士ならびに大方諸賢の批正を請うゆえんなり。
 
 
       二 京間、田舎間とは何ぞや
 
 現時建築家の用語に京間・田舎間ということあり。京間とは曲尺六尺五寸または六尺三寸をもって一間とし、田舎間とは同六尺または五尺八寸をもって一間とするものにして、その行わるる範囲についてはいまだ精密なる調査を経(382)ねども、だいたい前者は京都を中心としたるいわゆる上方《かみがた》地方より、ひいてその文明の影響を受くること多き地方に行われ、後者は現に東京を始めとし、東国地方に行わる。この両種の間《ま》の区別は、かつては土地測量のうえにも行われしものなれども、今はもっぱら建築家の間にのみ存することとなれるなり。京間・田舎間に関して現時の学者はいかなる解釈をなせるか。試みに中村工学博士著『日本建築辞彙』を見るに曰く、
 
  間《けん》とは六尺又は六尺五寸を云ふ。普通の家にては六尺、御殿向にては六尺五寸を一間《けん》として建築す。前者は田舎|間《ま》にして後者は京|間《ま》なり。
 
と。また大槻文学博士の『言海』には、
  曲尺六尺の長さ、これを田舎問と云ふ。又六尺三寸或は六尺五寸なるを京間と云ふ。
といい、中央度量衡器検査所長たる橘川理学士が三省堂『日本百科大辞典』のために執筆せられたるところには、
  間《けん》。我国尺度の名。六尺の長さをいふ。旧時は曲尺六尺五寸を以て一歩とし、俗に一|間《けん》と称し、路程を算するに用ひたり。又六尺三寸を以て一間とし、京間と称し、田積を算するに用ひたり。又六尺を俗に夷間と称す。我が本州別に五尺八寸を一間となし、州俗之を田舎間と称す。六尺を以て一間とするは蓋都鄙中間の数なり。みな家屋に用ふ。
 
と見えたり。その説明区々にして、すこぶる統一なきがごときも、要するに『建築辞彙』説の六尺五寸を京間とし、六尺を田舎問とするが本体にして、これを六尺三寸といい、五尺八寸というは前者の変態なるべし。その起源の解説につきては後に譲り、とにかくすでに六尺五寸および六尺なる二樣の法ありて、これを建築に応用する場合のことを考(383)うるに、前者によりて二|間《けん》ごとに柱を立つる間取《まどり》(例えば八畳間または六畳間の長辺にて)をなさんには、通例四寸角の柱を用うとして、柱の中心より中心まで一丈三尺、これより二本の柱の幅の半すなわち四寸を減じて二分し、六尺三寸となるべく、後者によらば五尺八寸となるべきなり、左図のごとし(土地の測量の場合には、十歩すなわち十間ごとに二尺の割合にて畦數を見込みて算することにて、結果は建築の場合と同じ)。
 
 上方《かみがた》の大工は普通、畳の長さを一定してこれを六尺三寸とし、これに柱の幅を加えて家屋の積りとなすがゆえに、柱の数とその幅とによりて柱の心より心までを測りたる間《けん》の長さに異同あり。例えば前記のごとく八畳|間《ま》に四寸角の柱を用うれば一|間《けん》六尺五寸の率となれども、もし三寸角の柱を用いんには一|間《けん》は六尺四寸五分となるべく、かりに四畳半の間《ま》に四寸五分角の柱を用うとすれば六尺六寸となるべきなり。ゆえにこの場合、本来六尺五寸を京|間《ま》の一|間《けん》となすとも、便宜上柱の幅を除き、畳の長さ六尺三寸をもって一|間《權》というに至ること自然の勢いなりとす。上方において俗に六尺三寸をもって京|間《ま》の一|間《けん》なりと心得るもの多きはこれがためなり。しかるに関東の大工は通例柱の中心より中心までを一|間《けん》六尺の法によりて割り出すがゆえに、柱の数とその幅とによりて畳の大さに異同あり。八畳間に四寸角の柱を用うれば畳の長さ五尺八寸となれども、かりに三寸角の柱を用うとすれば五尺八寸五分となり、四畳半の間《ま》に四寸五分角の柱を用うとすれば畳の長さ五尺七寸となるべきなり。すなわち上方の畳は一定の大さを有し、いずれの家、いずれの間《ま》に用うるも常によく適合
 
 
第一図 京間・田舎間  〔入力者注、図は省略〕
 
(384)するを法とすれども、関東の畳は大さに一定なく、同一家屋内においても甲の間《ま》の畳を移して乙の間《ま》に用うる能わざるなり。ゆえに田舎間にては、なお京間に六尺五寸と六尺三寸との二様あるがごとく、もと六尺と五尺八寸との二様の法あるべしといえども、実際には単に六尺のみを唱えて、五尺八寸を測るの必要少なく、したがって田舎間五尺八寸の語を口にすること稀なりとす。
 
 京間・田舎間という語の表わす事実は右のごとし。しかして『建築辞彙』はその本来のもののみをいい、『言海』はこれに加うるに上方における俗間の用語をもってし、『日本百科大辞典』はさらに普通に用いられざる田舎間の一法をも加えて説けるなり。ただしその記事の委曲に至りては、『辞彙』と『辞典』と、ともに説きて精ならざるものあり。
 
 『辞彙』に京間は御殿向に用い、田舎問は普通の家屋に用うということ必ずしも事実にあらず。上方地方より四国・中国の大部等、京師の影響を受くること多き地方の普通の家屋は皆京間により、柱間六尺三寸の法にて設計せらるるなり。また 『辞典』の説は『安斎随筆後集』『律原発揮』の説(後に引くべし)に基づきたるものなるべきも、大体において当らざるところ多し。まずその旧時六尺五寸をもって一歩となすということ、しからず。「大宝令」、大尺五尺を一歩とし、和銅改定後、新大尺六尺をもって一歩とす。後これを改めて六尺五寸となせし事実あるを知らず。六尺三寸の京間を田積に用うというも当らず、太閤検地六尺五寸法により、畦數を除きて正味六尺三寸となるなり。また六尺を夷問といい、五尺八寸を田舎問というと区別せるもいかん。夷間すなわち田舎問なり、『律原発揮』は漢文をもって記するがゆえに「田舎」の字の俗なるを避けて、「夷」字を用いたるのみ。また五尺八寸の法を家屋に用うということ、その事実あるを知らず。ことにその六尺をもって都鄙中間の数なりというに至りては、全然事実を誤れるなり。
 
 京間・田舎間の丈尺に関しては、朝川善庵の『田園地方起原』よく衆説を集めたり。参考のために左にこれを抄録し、いささか批評を加えん。
(385) 『和漢三才図会』云う。中古方六尺五寸(ヲ)為(シ)v歩(ト)、其三十歩(ヲ)為v畝(ト)、其十畝(ヲ)為(ス)v段(ト)。天正中復用(フ)2六尺法(ヲ)1云云。
 
 貞按ず。右に中古といえる時代つまびらかならねど、方六尺五寸を歩となすというは事実にあらず。天正中また六尺法を用うというはかえって反対にして、もと六尺法を用いしを、天正中六尺五寸法に改めたりとあるべきなり。
 
 『律原発揮』云う。本邦以(テ)2方六尺三寸(ヲ)1【以2曲尺1算v之】為一歩云云。
 貞按ず。右はいわゆる天正検地をいえるか。ただし、六尺三寸と定むるところ、正確なる拠ろを知らず。
 『白石遺稿』【問歩曰】云う。天正中太閤天下の田地へ縄を入れられし時、世の人申候者、上古以来一段の田を三百六十歩に定められ候事は、一歩を以て一日の食にあて候、一年の食料とせられし所に此度関白殿の三百歩を以て一段と定められ候得ば、一天下の人民凡一年分六十日分を減じ申侯。いかにも是にて末のよきこと可v有v之歟と申たる由にて、其事を歌に作りうたひ候者近き頃まで残り候と申候き。右按ずるに、前説は非と申すべく候。其故は古法方六尺を一歩として三石六十歩なり。太閤の法は方六尺五寸を以て一歩として三百歩なり。当時(貞按ず、徳川時代をいう)の法は方六尺を一歩として三百歩なり。右の様に候得者、一天下の人民六十日の食料を減じ候と申は当時の縄の事にて候歟。太閤の時歩数をば減じ候得共縄をば五寸づゝのべられ候き。是又朝三暮四の術に出で候といへども、今の如くに六十歩までの減じはなき積りにて候。是に依て奉問。
 
  古法方六尺為2一歩1、三百六十歩為2一段1。近法方六尺玉寸為2一歩1、三百歩為2一段1。右の差引いか程の減になり候歟。今法方六尺為2一歩1。三百歩為2一段1。近法と今法とは又いか程の減になり候歟。
 
 貞按ず。一段の収穫をもって一人一年の食料となす云云のこと採るに足らねど、古え方六尺を歩とし、三百六十歩を一段とせしを、秀吉方六尺五寸(畦數を除きて六尺三寸)、三百歩一段に改め、徳川時代に至りてさらに方六尺三百歩に改めたりとのことは随うべし。このことなお後に引ける故小杉博士随筆記事の下にいうべし。また按ず、山崎(386)美成『世事百談』の説これに同じ。
 
 『日本紀通証』云う。中古之制方六尺(ヲ)為(ス)2一歩(ト)1。即一間也。天正中復用(フ)2六尺(ヲ)1。蓋準(ス)2古五尺(ニ)1。
 貞按ず。これは『三才図会』と同説にして、同じく誤りなるべし。
 『退私録』云う。太閤の時の縄は六尺五寸也、其後六尺縄になる。是は稲葉濃州の致されしと云ふ。
 貞按ず。稲葉濃州は徳川四代家綱将軍の代の宿老稲葉美濃守正則(当時小田原八万五千石、後裔山城淀城にうつる)のことなるべし。ただしこの人縄を改めたりとのこと確かなりやいかが。
 
 『安斎随筆後集』云う。田地一反三百六十坪は一年三百六十日の民の食なり。太閤秀吉一坪を六尺に定め、稲葉美濃守五尺八寸に定むと云ふ。又云、京間一間は六尺三寸、あひの間六尺、田舎間五尺八寸也。
 
 貞按ず。あいの間六尺、田舎間五尺八寸ということ拠ろなし。『日本百科大辞典』桶川学士の説、けだしこれに基づくもの。またここに秀吉六尺とし、正則五尺八寸に改めたりとは確かに事実相違なり。
 
 『律原発揮』云う。本邦以2曲尺六尺五寸1為2一歩1。【俗称2一間1。算2路程1用v之】又以2六尺三寸1為2一歩1。【俗称2京間1。毎2藺席二間1置2閾一個1。其濶四寸、折半之配2一間1則得2二寸1、以減2六尺五寸1余六尺三寸、為2席一間之法1。算2田積1用之】又以2六尺1為2一歩1。【俗称2夷間1】
 
 貞按ず。これ『百科大辞典』橘川氏の説の主として基くところなれども、事実に相違せる点多し。ただし、京間の註に畳二枚ごとに四寸幅の閾《しきい》一個を置き、六尺五寸間が六尺三寸となるとの見解は正し。『辞典』にこの正しきを捨ててかの誤れるところのみを採れること惜しむべし。
 
 『瓊矛拾遺』云う。紫宸殿・清涼殿等七尺|間《ま》也。此(レ)伸(ベ)2中指(ヲ)1以v十為v間。臣下之|屋作《やづくり》凡伸2中指1以v九為v間。故以2六尺三寸1為2畳間1。
 
 貞按ず。この説事実にあらず。紫宸殿は柱間(方立と方立との間)一丈、清涼殿は七尺なりと承る。古社寺、宮殿等(387)の柱間は区々にして一定なし。したがって十指云云の説採るに足らず。京間を九指というもまたしかり。
 
 『成形図説』云う。或曰く、文禄よりの歩法六尺三寸一歩は是|畔《あぜ》を除て究めしなり。或は六尺五寸とは畔を加へて究む。是近来の事なり。田を人家に比べ見るに、田の畔は家の敷居の如し。文禄の歩法六尺三寸方は畳二帖の定尺なり。これを家の間に積るに六尺三寸は柱の中間毎に当る。其程、横六敷の家は六寸角、八敷の家は八寸角にて、家の長□四角方の所に柱の幅に敷居を入て其問に横三尺一寸五分、縦六尺三寸尺の畳を敷て広からず狭からず合る賦《く》りなり、云云。
 
 貞按ず。右の説、要を得たり。「其程、横六敷」以下やや不明なれども、六畳間の横は柱幅六寸(両端の二本にて)、八畳間には八寸の意か。
 『地方答問書』云う。家作等の間積りには六尺三寸又は六尺五寸も用ひ候。田畑の歩積りにも中古天正年中以前の頃迄は六尺五寸を用ひ候と申伝へ候。文禄年中の頃秀吉公の命にて諸国検地の時六尺三寸の竿を用ひ候と申伝へ候得共、右何れも書記し候儀も無之事故、難2信用1候云云。
 
 貞按ず。右の説、事実相違の点、前すでに述べたり。「書記し候儀も無之事故難2信用1候」の一語要を得たり。
 『地方細論集』云う。田園類説に云云、古工匠の法に上方間六尺五寸、江戸関東間六尺、田舎間六尺三寸云云。
 貞按ず。上方間はすなわち京間にして、江戸関東間すなわち田舎間なり。ここに京間の変態なる六尺三寸を田舎間というは誤解なり。
 かくて朝川善庵はその後にこれを批評して、
  鼎(貞云、朝川善庵なり)案ずるに云云。安斎随筆後集に稲葉美濃守五尺八寸に定むとあるは今世に田舎間を六尺とも五尺八寸ともいへるなどにまがひて、心得違ひせしにや。すべて田舎間は六尺二間の家の間に四寸角の柱ある(388)積り故、畳間を五尺八寸とす。五尺八寸は柱を除きての積り、六尺は柱を加へての積り故、六尺も五尺八寸も、六尺二間の家の間の上にては長短なし。但、今世にいふ京間は六尺五寸、中間は六尺三寸なるを、瓊矛拾遺に以2六尺三寸1為2畳間1といへるは、これも京間六尺五寸二間の家の間の上にて、柱間二寸除きていへるにて、律原発揮、安斎随筆後集に京間を六尺三寸にするも、田舎間を五尺八寸といふの類なるべし。されば上方筋の家作は京間六尺五寸を一間とし、関東方は田舎間六尺を壱間とする故、夫に準じて畳に六尺三寸、五尺八寸の不同あるなり。
 
といえり。卓見なり。秀吉の時、京間六尺五寸によりて地を度り、徳川時代にこれを田舎間六尺と改めしことの適切なる一例は、江戸の町割に用いたる尺度につきて提供するを得べし。故小杉文学博士の随筆『かきあつめ』と題する書の中に、
 
  浅草御門外に本郷六丁目代地田舎間とあり、さて本町辺の沽券多く京間とあり、其のわけを聞くに、最初より町地ときまる時に京間を用ひ、初め田舎地なりしを後に町地に直す時は田舎問を用ふと云へり。これによれば今の京間を用ふる町地こそ誠に御入国の時よりの町地なるべし。右正月十五日正賢。
 
とあり。こは本編の研究上はなはだ有益なる資料なり。本郷六丁目の代地とは今の大学敷地すなわち旧加州邸取り立てのために、従来住居の町人を他に移したることをいえるなるべく、この時その一部は桜田本郷町において、他の一部は浅草門前にその代地を交付せられしなり。しかしてこの時幕府は六尺一間の法によりて土地を割り与えたりしものと見ゆ。なお秀吉の造築に係れる伏見の町割が、また京間六尺五寸の法によりて営まれ、徳川時代において新たに起れる城下町が、たいてい田舎間六尺の法によりて営まれたるの実際を見れば、もって測地上京間、田舎間使用の別あることを明かにするを得べく、したがって今に至りなお上方が京間により、関東が田舎間を用うる理由をも察すべし。
 
 京間・田舎間に関する前記請書の説すこぶる多種多様なれども、そのうち明かに誤れるものを除けば、結局は前記(389)のごとく京間六尺五寸および六尺三寸、田舎問六尺および五尺八寸の二類四種に帰するなり。
 
 ちなみにいう。加賀地方にては、かつて京間六尺三寸の法を越前間と言いたりしことありきと見ゆ。会員牧野信之助君の報告によれば、加賀旧藩の経済に関する記録なる『理塵集抄』のうち、往古田地の大法といえる条に、
 
  一歩とは一間四方、今は曲尺六尺五寸四方、古へは曲尺六尺四方。
  上間六尺五寸  京間と云ふ。
  中間六尺三寸  越前間と云ふ。
  下間六尺    田舎間と云ふ。
  但六尺三寸を越前間と云ふは御当地にての俗例か。京間と田舎間との間の尺につき、越前間と云ふは京と加州との間なる故か。
とありという。これは『安斎随筆後集』に「あひの間」の語を用いたると同じく、両者の中間にあるものと誤解し、戯れて越前間などいいしものなるべし。
 
       三 京間・田舎間の起原
 
 京間・田舎間の何物なるかにつきて、旧時の実地家、現在の専門学者の間に種々の見解あり、彼此往々一致を欠けること、前に記したるがごとし。さらに遡りてその起源いかんに至りては、ほとんどこれに言及せるものを見ざるなり。ただ前掲諸説の中、小杉博士随筆『かきあつめ』の中に、江戸の町割において「最初より町地ときまる時に京間を用ひ、初め田舎地なりしを後に町地に直す時は田舎間を用ふと云へり」とあるは、京間・田舎間という語義の説明を試みたるに似たれど、この名称が江戸の町割についてのみ用いらるるものにあらざる以上、ごの説もとより従うべ(390)きにあらず。
 
 京間、田舎間の実体につきては、前記のごとく数説紛々たりといえども、要するに六尺五寸を京間とし、六尺を田舎問とすること、その本体たるを疑わず。しかして、秀吉の検地はすべて京間により、徳川時代の検地は田舎間によりて行われたること、またもはや疑いを容れざるなり。元来、度地の制は、「大宝令」に大尺五尺を一|歩《ぽ》とすとあり。大尺一尺は小尺の一尺二寸に当り、和銅六年二月改めてその小尺をもって大尺とし、度地に応用せしめたるがゆえに、従来五尺をもって一歩とせしものは、ここに六尺をもって一歩とすることとなりたれども、前後その実体において異同を生ずることなかりき。一|歩《ぽ》は後にいう一|間《けん》なり。これを歩というは人が左右いずれかの一足を地に着けて他足を先方に運び、さらに、もとの足を運びて地に着くるまでの距離なり(すなわち今いう二歩なり)。今においてなお六尺一間四方の地を一|歩《ぶ》というはこれに基づく。間《ま》とはもと建築物につきて柱と柱との距離すなわち柱間《はしらま》をいう称なり。この距離、古代の建築物につきては一定なし。しかるに後世ほぼ六尺内外の距離をもって柱を置くを普通とすることとなりてより、ついには間《ま》と歩《ほ》とを混用し、度地の場合にも歩《ほ》の代りに間《ま》の称を用い、はてはこれを音読してケンと称することとなりしもののごとし。
 
 尺度の称としての間《ま》の由来、右のごとし。しからば、一|間《けん》はすなわち古えの一|歩《ぽ》にして、和銅後の大尺六尺をもってこれに宛つるを正式とすべく、徳川時代に六尺一間の法によりて地を度りしもの、古制に合えりといわざるべからず。果してしからば、六尺五寸間なるものの由来いかん。また秀吉がこの六尺五寸間を採用するに至りし理由いかん。これ余輩が、都城制の研究と関聯して、最も興味ある題目なりとするゆえんなり。
 
 田地を測量するに六尺一歩(すなわち一間)の制によれることは和銅以来の定則にして、諸国の条里皆これによりしこと、古図、古文書ことごとくこれを証し、現在田地上に存する旧時の遺影また明かにこれを示すなり。しかるに、(391)ここに六尺よりもやや長き歩(すなわち間)によりて地を測量せし実例、すでに平安朝にあり。長承三年五月二十五日付、『西大寺文書』に曰く、
 
  西大寺十六町七反 之内十
  西隆寺四町四反 敷地
 右京一条二坊北辺
  一条二坊
   九坪一町 西隆寺 西小一反 同寺 南小一反 同寺
   十坪一町 同寺 西小一反 同寺  南大二反《(ママ)》 勅
   十一坪一町 勅
   十二坪一町 勅
   十三坪一町 勅
   十四坪一町 勅
   十五坪一町 西隆寺
   十六坪一町 西隆寺  西大二反 勅 南小一反 西隆寺
  一条三坊
   一坪、一町 勅
   二坪一町 勅
   三坪一町 勅
(392)   四坪一町 勅
   五坪一町 西大寺敷地  西小一反 同寺敷地 南|小二反《大一反》 田一段百廿勅(大二反の誤りなり)
   六坪一町 西大寺敷地  西小一反 同敷   南小一反 同敷地
   七坪一町 同敷地    西小一反 同敷地  南小一反 同敷地
   八坪一町 同敷地    西小一反 同敷地  南小一反 同敷地
   九坪一町 同敷地    西小一反 同敷地  南小一反 同敷地
   十坪一町 同敷地    西小一反 同敷地  南小一反 同敷地
   十一坪一町 同敷地   西小一反 同敷地  南小一反 同敷地
   十二坪一町 同敷地   西小一反 同敷地  南大二段 勅
   十三坪一町 同敷地三段燈油也 西大二反 荒也 南小一反 勅(大二反の誤りなり)
   十四坪一町 同敷地   西大二反 勅    南小一反 同寺敷地
   十五坪一町 同敷地   西大二反 勅    南小一反 同敷地
   十六坪一町 同敷地   西大二反 勅    南小一反 同敷地
                                (中略)
 右注進言上如件
     長承三年五月廿五日
                                (下略)
 右の文書は平城京《ならのみやこ》址なる西隆寺・西大寺の敷地を示せるものにして、西隆寺を四町四段、西大寺を十六町七段と算(393)うるなり。平城京の地は京城荒廃後変じて田苑となりしといえども、その田籍は京外の条里の法によらずして、依然として旧時の京内条坊の遺影に基き、これを記述するにも何条何坊何坪と数う。しかして西隆寺は右京一条二坊九・十・十五・十六の四ケ坪を占め、西大寺(長承ころにおける)は右京一条三坊五・六・七・八・九・十・十一・十二・十三・十四・十五・十六の十二ケ坪を占むること前図のごとし。この坪の広さは四十丈四方なるがゆえに、これを京外条里の地に実施せらるる普通の測地法により、六尺一歩(一間)として計算すれば、その面積は一町二段百二十四歩強となり、これに面する幅八丈の大路の面積(長さ四十丈として)はその五分の一すなわち二段百六十九歩弱となり、幅四丈の小路の面積(長さ四十丈として)はさらにその半すなわち一段八十四歩強となるべきなり。しかるに右の文書はすなわち曰う。西隆寺敷地四町四反、西大寺敷地十六町七反と。これ京内の一坪をもってただちに一町とし、その十分一なる小路の面積を一段として計算したる結果なりとす。右の文書に勅とあるは勅旨田の義なり。また西小一反、南小一反などあるは、その坪の西の小路一反、南の小路一反の義にして、西大二反、南大二反などあるはその坪の西の大路二反、南の大路二反の義なりとす。かくのごときの京内田積の数え方は、同寺文書に菅原寺の敷地を四町六反とせるについても見るべし。
 
 菅原寺は平城京内右京三条三坊より四坊に渉り、三坊の十五・十六両坪と、四坊の一・二の両坪とを占む。かくてその間大路の道敷四段と、小路の道敷二段とを有するがゆえに、合せて四町六段と数うるなりこれらの面積を数うるについて、なお詳細に言わば、道路の
 
 
 第二図 平城京内の坪および道路の広さの図 〔入力者注、図は省略〕
 
(394)交錯点の面積をも計上すべきはずなれども、こはその大に従い、省略に付せるものなるべし。
 かくのごとき測地の方法はもとより普通にあらず。京内においても普通の六尺一歩の法により、その一坪を一町二段百二十四歩として計上せる例多きは無論なり。ただ余輩は、ここにすでに平安朝において、京内の地を測るに普通の六尺一歩の法とは異なる他の率によりて、その積を数うるの方法ありしことを知りて、これを後の京間・田舎間の別に対比し、多大の興趣を感ずるものなり。
 
 今かりに京内の一ケ坪を京内田積の一町とし、その四十丈四方の面積すなわち十六万平方尺を三千六百歩に分たば、京内田積の一歩は四十四平方尺九分の四となり、その平方形の一辺は六尺六寸三分の二となる。すなわち京内の田積は、六尺六寸三分の二を一歩《ほ》(すなわち一|間《けん》)として、これを測定せるものなり。しかして、これやがて京間にして、これに対して田舎の条里を測れる六尺一歩の法を田舎間と称すべきものなりとす。されば京内の条坊を測れる尺度と、田舎の条里を測れる尺度と、精密に同一なりしならんには、京間は六尺六寸三分の二、田舎問は六尺というの比となるべきはずなれども、余輩が平城京内外の条坊・条里の蹟を実測図上に調査したる結果によれば、両者決して同一ならず。田舎すなわち京外の条里測定に使用せる尺度は、京内条坊を測定するに用いし尺度よりも幾分の延びありて、条坊測定に用いし尺度の一尺は、条里測定に用いし尺度の約一千六百二十分の一千五百八十四に相当することを発見せり。すなわち京内用尺の一尺は京外用尺の約九寸七分九6分の七なりしなり。もとよりこれ概数なり。今かりに前記の京間に擬定せる六尺六寸三分の二なるものを採りて、後世のいわゆる京間六尺五寸なるものと全然同一なりとせんには、
 
  6尺・6 2/3:6尺・5::1尺:x    x=0.9寸7分5厘
(395)にして、京内測定に用いし尺度の一尺は、京外条里測定に用いし尺度の九寸七分五厘となる。すなわち京間六尺五寸とは、もと平城京内の条坊を測定せる尺度によりて六尺六寸三分の二なるものを、京外の条里を測定せる尺度によりて改め測りたるものにして、前記の約九寸七分九分の七なるもの、ほぼこれに当れることを知るなり。
 
 平安京内の条坊もだいたい平城京と同一にして、その坪の広袤また方四十丈なり。されば、京間六尺五寸の法はこの京についても適用せらるるなり。
 右の理由によりて余輩は、京間・田舎間の起原をもって京内の条坊と京外の条里との丈尺ならびに使用の尺度の相違より来れるものなりと考定す。すなわち、京外の条里にありては三十六丈をもって一町すなわち六十間(古えの六十歩)となすに対し、京内の条坊にありては四十丈をもって一町すなわち六十間(古えの六十歩)となし、さらにその使用の尺度において、条坊用のものの一尺は条里用のものの九寸七分五厘に相当するがゆえに、六尺五寸の京間に対して、六尺の田舎間あるに至れりと考定するなり。さらに見やすくこれを示さば左のごとし。
 
 40丈0尺/60×0.9寸7分5厘=6尺.5寸(【すなわち京内の一町を60分したるものが6尺5寸の一間の割合になるなり】)
 次には、条坊測定用の尺度が、条里測定用の尺度に対して約一千六百二十分の一千五百八十四なりとの事実を立証して、両者の相違を明かにし、さらにそのいわゆる条坊測定用の尺度が、「令」の小尺すなわち和銅の大尺にして、条里測定用の尺度がほぼ後世の曲尺に相当することを説明せんとす。
 
 
      四 京間・田舎間に関する先覚の研究
 
 余輩は前二回においていわゆる京間・田舎間なるものの実質およびその起原に関する管見を叙述し、京間(396)は六尺五寸を一|間《けん》とし、田舎間は六尺を一|間《けん》とするを定法と認むべきこと、京間は上方《かみがた》の影響を多く蒙れる地方に行われ、田舎問は江戸の勢力の多く及べる地方に行わるるの事実あること、豊臣氏の検地は京間の縄により、徳川氏の検地は田舎間の竿によりしこと、京間は平城《なら》、平安両京内の条坊坪割の尺寸より来り、田舎間は京外条里坪割の尺寸より来れること等を明かにし、結局条坊測定に用いし尺度は条里測定に用いし尺度よりもやや短く、前者の一尺は後者の九寸七分五厘に相当するがゆえに、条坊に基づける一|間《けん》は曲尺の六尺五寸、条里に基づける一|問《けん》は曲尺の六尺となるの事実に論及したり。かくて次回においては条坊測定用の尺度が条里測定用の尺度よりも、曲尺一尺につき二分五厘だけ短かりし事実を、平城京内の条坊と、これに隣接せる京外の条里との実地につきて立証し、そのいわゆる条坊測定用の尺度が「令」の小尺すなわち和銅の大尺にして、条里測定用の尺度がほぼ後世の曲尺に相当することを説明すべき旨予約したりき。しかるに、その後さらにこれに関して調査を重ぬるさい、偶然栗原信充・黒川春村の両先覚が、すでにこの問題について研究せられたりし事実を知るを得たるをもって、ここにまずその梗概を紹介して、前回に「京間・田舎間の起原いかんに至りては、ほとんどこれに言及せるものを見ず」と言える管見の疎漏を正し、さらに前説の不備を補い、次に予約の事項に及ばんとす。
 
 栗原信充氏の説は故小杉博士『徴古雑抄』続篇「古器食貨一」と題する巻に収めたるものにつきてこれを見たり。その要に曰く、
  作事の間数に京間、田舎間と云ふことあり。京間は曲尺六尺五寸、田舎間は六尺なり。此の事何れの時より始まるといふこと定かならねども、金銀両目の京目・田舎目といふと同じく起れるなるべし。金銀両目の京目は六銭を一両とす、即ち明の古秤を用ふるなり。然らば京間も明尺六尺にやあらん。鄭世子の律呂精義にのする裁衣尺は今の曲尺一尺〇七分五厘二毛にして、其の六尺は曲尺六尺四寸〇五分一厘二毛なれば、京間六尺五寸といふと其の差(397)僅に四分八厘八毛に過ぎず。されば所謂京間は明尺六尺を用ひしといふも害なし。これらすべて義満が明の封爵を受けし時より定められしにや。
 
と。けだし栗原氏は、京間を明朝の制度によれるものと解するなり。しかれども、もとよりこれいまだ証明を経ざる一の仮定説に過ぎず。いわんや氏が明制によりたりという京目六銭のごときも、実はしか定まれるにはあらずして(『史学雑誌』第一二編第一一号、阿部愿氏の「京目田舎目の差異」を見よ)、その明制に基づけりとのことの、いまだにわかに信じ難く、所論の根本においてすでにはなはだしき欠陥あるをや。されば、栗原氏が率先してこれが解決を求めんとせしことは多とすべきも、その所説は今日においてとうてい是認すべからざるものなりとす。
 
 黒川春村翁の研究は『碩鼠浸筆』にあり、最も有益なる古文書の断簡に基づきて説を立てられたるものにて、すこぶる傾聴するに足る。いわゆる断簡とは、「洛陽地法」と題せるものにて、記するところ左のごとし(この文書、流布版本の『碩鼠漫筆』には見えず)。
 
 洛陽地法
 町内千六百丈【万六千尺、十六万寸、一方四十丈】四面百六十丈
 凡一町内三十二戸主也
 一戸主長十丈弘五丈 准百四十八歩三尺二寸 三尺六寸為一歩
 田舎定一丁二段百廿四歩一尺六寸也
 田代法一十代七十二歩 廿代百四十四歩
 卅代二百十六歩 四十代二百八十八歩 五十代三百六十歩 巳上一段
 春村翁はこの文書に基づき、京にて一町内の地を田舎の定めにては一町二段百二十四歩一尺六寸なりという点に着(398)目し、これ京間・田舎間の別の起れるところなりとせられたり。炯眼服すべし。翁はこの文書を書体によりて建武以来とし、また『拾芥抄』よりも古げなりとのことより応永以前と定め、しかして曰く、
 
  此の洛陽地法とは洛中の一町は田舎定の一町二段百二十四歩一尺六寸に当る事を明さんとする標目なり。此の法他書にも見ゆるや否や。未だ管見の及ばぬ処にして、こよなくめでたき旧記とこそ覚ゆれ。
 
と。かくてその記事の各項につきて精密なる考証を試み、特にその「田舎定」云云の項を説明して曰く、
  田舎定一丁二段百二十四歩一尺六寸也
 こは此書中の眼目にて、京定の一町を田舎定にて計算すれば、一町二段百二十四歩一尺六寸に当るとなり。爰に田舎定とあるを以て、上件の洛陽地法は京定といふべき理りを知るべく、其の京定・田舎定と云ふより、京間・田舎間とも呼びなれけん事を知るべし。さて此を知る法も上件の例にて(貞吉いう、上件の例とは、京の町四十丈四方の面積を算出せるをいうなり)四十丈を掛け合せて千六百丈とし、これを田法三六(貞苦いう、六尺平方すなわち面積一歩のことなり)もて除れば、四千四百四十四歩一尺六寸と顕はるゝを【是は四桁まで割りて五桁以下をば其まゝ置くなり、上の五十丈の術と同じ】此のうち三千六百歩を一町とし、七百二十歩を二段とすれば、其の残るところ百二十四歩一尺六寸なり。【此の一尺六寸もまた寸坪一千六百寸なり】但し後世の田制に従ひ、一段を三百歩として積れば、一町四段八畝四歩一尺六寸に当るなり。【此の時は今の田法三を以て術とするなり】
 
 抑此の京間・田舎問の差別を委曲に明したるもの、古書どもに見ゆや見えずや。管見にして未だ知らねど、此書によりて今按ふに、いと古くよりの制とぞおぼゆる。されど尚不審しきことあり。今の世に京間といふは田舎間の六尺五寸に当るめり。然るに、此書に云ふ田舎定もて其大凡を計算するに、田舎定の六尺は京地七尺五寸許に当れり。かゝれば今|如此《かく》決《さだ》めいふも実は当らぬ説なるに似たり。然れども、猶稽ふるに延喜左京職式に思ひ合せらるゝ事あり。凡町内開2小径者1、大路辺町二【広一丈五尺】、市人町三【広一丈】、自余町一【広一丈五尺】と見えたる此小径を、大凡三丈と見れば、(399)一町の境内方四十丈のうち、一方は実地三十七丈なり。又一戸主毎に境目の空地なくは有るべからず、此を大概三尺宛と積れば是れはた二丈七尺なり。此の両箇の空地を棄て、仮に大凡三十七丈四面とし、例法を以て計算すれば、田舎定の一町二百二歩二尺八寸に当る。さて如此見れば田舎の六尺は京の六尺五寸弱なり。もし往古より此の所以によりて六尺五寸と制めしにやあらん。されど慥に知れる事ならねば、こは試みに云ふのみにてよしやあしや覚束なし。猶算術の博士に尋ねて正しき説を聞かまほしきものなり。
 
と。翁の記するところやや理会に苦しむところなきにあらねど、要するに翁は右の文書により京間・田舎問の起原を京定めすなわち京内条坊の坪割と、田舎定めすなわち京外条里の坪割とに帰したるや明かなり。しかしてこれ余が前回において評論せしところと全然暗合せるものなりとす。余は当時いまだ翁が引用せる文書の存在を知らず、翁また余が論及せる平城京条坊の坪割の一町二段百二十四歩なるのことを知らず(翁曰く、洛中の一町は田舎定の一町二段百二十四歩一尺六寸に当る云云、この法他書にも見ゆるや否や、いまだ管見の及ばぬところ云云)、両者全く独立に異なりたる資料より同一の結果に到達せるものというべく、翁の提供せる資料は、さらに余の所論に有力なる証拠を与えたるものなり。しかれども翁はせっかくこの好資料を捕え、ことに最も有益なる点に着眼しながら、計算の方法を誤り、また条坊測定用の尺度と、条里測定用の尺度との間に相違あることに気付かれざりしがために、その結果は全く誤りたるものとなり、翁自身すらこれを確信する能わず、後の算術の博士の研究に俟つべきことを明言せざるべからざることとなれり、これ翁のためにも学界のためにも最も惜しむべきところなりき。
 
 翁の計算は田舎間六尺に対する京間の長さを得んがために、京内の一町の一辺四十丈を六十分することの代りに、その四十丈四方なる京内一町の面積一町二段百二十四歩余すなわち四千四百四十四歩余を六十除せられたるもののごとし。しかしてその商七四余を得てこれを約七尺五寸と解したるなり。しかるにその数たる、京間六尺五寸というと(400)あまりに相違せるをもって、さらに町の内の小径等約三丈を控除し、京の町を約三十七丈四方と仮定してさらにその面積一町二百二歩余すなわち三千八百二坪余を六十除し、六尺三寸二分余の数を得、これを大約京間六尺五寸に当れるものと解せられたりしがごとし。今にしてこれを観るに、その誤りなること必ずしも後の算術の博士を俟って知るべきにあらねど、当時普通学のいまだ普及せざりし時代において、数学家ならぬ翁がこの過誤に陥られたりしはけだしやむを得ざるところなるべく、ともかくも翁はこの誤算のもとに京内の一町より小径ならびに各戸の境界線約三尺を控除したるものを京間の起原と考定せられたるなり。けだし千慮の一失のみ。
 
 春村翁の京間に関する研究の結果は、右のごとく全然その当を失すれども、その引用せる資料は確かに京間・田舎間の起原を説明するうえに有益なるものにて、ことにその田舎定の語は、田舎間なる語の出所を示せるものとして、最も必要なるところなりとす。
 
 この有益なる文書は、春村翁に従えば、
  京師人藤為恭といふ人の所蔵とて、書名も知られぬ葉子本の片葉を模写したる一紙を見るに、筆勢のおもぶきなど、恐くは建武以来応永以前にやとおぼしきもの。
とあり。その現物今ありやなしや明かならねば、原書につきて攻究すること難けれども、今その模写というものにつきて見るも、無下に新しきものとは思われず、ことにその記事が室町幕府ころのものなりとの見当は動くまじく思わるれば、よしや当時に京間・田舎問の語はなくとも、京内の条坊と京外の条里とを比較して、度地上に京定め・田舎定めの称の古くより存在せしことを証すべき好資料なるは争うべからず。
 
 京に対する田舎の語、いつのころより言いそめしかを知らねど、けだし帝都の市街地に対する農耕地の意なるべきか。『催馬楽』浅緑に、長岡新京のことを詠じて、
(401)  浅緑や濃いはなだ、染めかけたりとも見るまでに、玉光る、下光る、新京朱雀のしだり柳、または田ゐとなる。
とある「田ゐ」はすなわち田舎の義にして、新京が再びもとの田園となるとのことを諷詠せるものなり。京に田舎ありの諺、また京都の中に農耕地のあることを示す。されば前件古文書に田舎定の語ある、また必ずその田園度地の方法によりて測量するの義なるは明かなり。すでに「田舎定」の語あり、これに対する洛陽地法は、春村翁の観察されたるごとく、まさに京定めというべく、すなわち京定めは四十丈を一町とし、田舎定めは三十六丈を一町とするものにして、これを各六十分したる一歩すなわち一間の長さは、やがて京間・田舎間なるべきものとす。付記して前節の所説を補う。
 
 しかれども、いわゆる洛陽地法によりて京定めの一町すなわち四十丈を六十分したるものは、その商六尺六寸六分と三分の二となりて、京間六尺五寸というに合わざること既説のごとし。ここにおいてか余が令尺と曲尺との関係の所論の必要あり、まさに次節において、前回の予約に従い、これが論証に及ばんとす。
 
 
      五 京内の条坊と京外条里とはその測定用の尺度に相違ありしこと
 
 京間・田舎間の意義とその実際とにつきては、回を重ねてすでにその要を得たりと信ず。よりて今回以下においては、前々回の予約に従い、京間のよりて起れる京内条坊測定に用いたる尺度と、田舎間のよりて起れる京外条里の測定に用いたる尺度との間に異同ありし事実の立証より、引き続きその差違の研究に及び、もって令尺と曲尺との関係を明確ならしめんとす。
 
 平安京内の条坊がその範を平城京のそれに採りたりしことは、今日にてはもはや一般斯道学者の認識するところなりと思惟すれば、煩わしくここにこれを論究するの要なかるべし。しかれどもその平安京の各町すなわち坪の広さが(402)四十丈に限られ、小路の幅が必ず四丈にして、大路の幅が普通八丈なるの事実は、本来何を意味するか。余輩は本題を論ずるに当り、ここにまず簡単にこの興味ある問題を解説するの必要を感ぜずんばあらず。
 
 平安京においては三条・四条・五条・六条・七条・八条の横大路、および左京東洞院・西洞院・右京木辻・佐比の縦大路等、事実上いずれも八丈の幅をもって設計せられき。しかして一般小路の幅はことごとく四丈ずつなりき。その近衛大路・大炊御門大路(右京にしては馬寮大路)・左京壬生大路・右京皇嘉門大路および両堀川通のごときは、一般都制上よりいわば条坊を区画せる大路と大路との中間にありて、各条の坊門小路、あるいは万里小路、室町などの小路の位置に当り、他の一般小路と同じく、これまたその幅四丈ずつの小路なるべきはずなれども、この京にありては特別に宮城の四辺を通ずる道路、および各宮城門の通りの道路を広くなしたるがために、掘川以外の前記諸道路は実際上いずれも普通の大路よりも広く、実に十丈幅の大路となれり。また堀川通は中央にいわゆる堀川を通ずるの必要上、普通の小路の幅を倍加して、他の大路同様八丈ずつとなれるなり。また、普通ならば八丈幅なるべき大路に当れる土御門・中御門の両大路がいずれも十丈ずつの幅を有し、二条大路が十七丈となり、東西両大宮大路がともに十二丈ずつの幅を有するがごときは、また前者と同一の理由にて、あるいは宮城に接し、あるいは宮城門の通りに当るがために、かく特別の幅を有することとなりしなり。右に挿入せる平安京道路を見てその事情を知るべし。かくのごとく平安京においては、各町すなわち坪方四十丈、大路八丈、小路四丈というを原則とすれども、この大小道路に関する幅の原則は、大体において実施せられたるのみにて、ある特別のものは往々この率を破り、四丈の小路たるべき位置にありてあるいは八丈・十丈の大路となり、八丈の大路なるべきはずのものが、あるいは十丈・十二丈・十七丈の幅となれるなり。されば、その各町すなわち坪のみはいずれも四十丈四方なりとの原則を破らざれども、町すなわち坪四個を一列に並べ、これにその中間なる三個の道路と、両端の道路の各半との幅を加えたる、い(403)わゆる粂坊の広さは、事実上一定せざるなり。例えば四条・五条・六条・七粂・八粂のごときは、左記、
 
  160丈(町四個の幅の和)+12丈(小路三箇の幅の和)+8丈(両側大路の幅の和の半)=180丈
の示せるごとく、いずれも百八十丈ずつの幅なれども、一条のごときは実に、
  160丈(町四個の幅の和)+4丈(鷹司小路)+4丈(勘解由小路)+10丈(近衛大路)+10丈(両側大路の幅の和の半)=188丈
百八十八丈となり、二条のごときに至りては、さらに、
  160丈(町四個の幅の和)+4丈(春日小路)+4丈(冷泉小路)+10丈(大炊御門大路)+5丈(北側中御門大路の幅のの半)+8.5丈(南側二条大路の幅の半)=191.5丈
 
のごとく百九十一丈五尺の幅を有するなり。かくその幅を同じくせざるがゆえに、かりに各条百八十丈ずつならんには、平安京南北九条、これに南北両京極の幅の半と北辺の半条とを加えて一千七百二十丈なるべきはずのものが、実際には南北一千七百五十三丈(南北南京極の幅十二丈)の都城となれるなり(東西のことは本論に用なければ省略す)。すなわち知る、平安京にありては、町と道路とを合したる条坊そのものの幅においては、ある特別なる意味を有せざるものなりしことを。
 
 しかれども、こは平城京の制をここに移して、しかも過去数十年問実施の経験により、これに北辺の半条を加え、京極大路および宮城の四近を通ずる大路、宮城門の通りの大小路等を特別に広くなしたる結果にして、平城京にありては、実に町と小路と大路と、それぞれに各自同一の幅を有し(朱雀大路を除く)、したがって各条坊は幅そのものにおいて、ある特別なる意味を有したりしなり。平城京内の各町の広さが平安京内のそれと同じく四十丈四方にして、大(404)路の幅が八丈、小路の幅が四丈なりしことは、さきに「京間・田舎間の起原」を論じたる時に掲げし図に示せるがごとし。この事実は西大寺旧蔵(現東大文科大学蔵)「京城坪割図」、『大日本古文書』所収、天平勝宝八歳の『随心院文書』(孝謙天皇田園施入の勅書)、同『薬師院文書』(東西市庄解)、『東大寺要録』(長徳四年諸国諸庄田地の記事)等によりても、ほぼ立証するを得べけれども、その最も有力なるは、余輩がさきに引用せし『西大寺文書』中の、西隆寺・西大寺・菅原寺敷地の記事なりとす。
 
 西大寺旧蔵「坪割図」は、平城右京の全部と左京の一部とを表わせる条坊図にして、もとは菅原寺(喜光寺)にありしものと思しく、特に同寺の所在および寺領を記入しあり。今細かに本図を見るに、本図は他の西大寺所伝の条坊図が縮尺に無頓着なるとは選を異にして、その尺度についてはすこぶる微細の点にまで意を用いたり。その各坪の寸法を見るに、各町の一辺は曲尺八分弱にして、小路はいずれも約八厘、朱雀大路以外の大路はいずれも約一分六厘(墨線にはやや広狭あれども、その下拵なる箆の跡はすこぶる精密に印せられたるを見る)に当る。けだし本図は平城京の五千分一図なるべく、その設計の理想を地図上に現わせるものにして、小路一に対し大路二、町すなわち坪の幅十の割合をもって描出せるなり。しかして、各町が四十丈四方なることは右の『随心院文書』『薬師院文書』『東大寺要録』の記事によりて立証さるべければ、
 
  『随心院文書』と『東大寺要録』とには、坪の面積一町二段百二十四歩とあり。これを平方に開かば四十丈四方となる(本巻三九三頁を見よ)。また『薬師院文書』には、ある町を掘川が貫通する場合において、川の幅二丈、町の北辺において川東六丈川西三十二丈、南辺において川東七丈川西三十一丈とあるがゆえに、これを合算して南北両辺とも四十丈ずつなるを知るなり。
 
町の十分の二幅なる大路が八丈にして、小路が四丈なるは明かなるべく、ことに京内全体を通じて、朱雀大路以外の各大路、ならびに各小路は、それぞれに同一の幅を有したりしを知るを得べけんなり。しかれども、地図は描写して(405)精密ならずともいうを得ん。ここにおいてかさらに前記『西大寺文書』を提出するの要あり。試みに本巻第二号を繙きて該文書引用の頁を見よ。各坪(すなわち町)は面積一町ずつにして、これに隣接せる大路の面積は二段、小路の面積は一段なりというにあらずや。長さ四十丈の地に接してその十分の二の面積を有する地の幅が八丈、同十分の一の面積を有する地の幅が四丈なるべきは、説明を俟たずして明かなるべし。しかして該文書西隆寺および西大寺敷地の記事の示せる位置は、実に平安京の土御門大路と中御門大路との間に当る。平安京にてはその両側なる土御門・中御門の両大路、ならびに中央なる近衛大路は、いずれも宮城門の通りの道路として、十丈ずつの幅を有するにかかわらず、平城京にては、他の部の大小路、例えば菅原寺の所在付近において見ると同じく、中御門大路に当る一条南大路は、普通の大路八丈の幅を有し、近衛大路に当るものは、その幅四丈なる普通の小路なるに過ぎざりしなり。この事実は、平城京にありては後の平安京において見るがごとき、宮城諸門の通りの道路を特別に広くするがごときことなく、宮城付近の条坊も、他の三条以南における条坊と同一の割り方をもって、町および大小路の幅を定めたりしを示せるなり。しかしてこの事実は、前記西大寺旧蔵「坪割図」の精密を証明するものにして、彼此相俟って平城京内の条坊の実際を知るを得べきものなりとす。
 
 すでに平城京内の条坊が、ことごとく各坪四十丈、各大路八丈、各小路四丈の率によりて区画せられたりしことを知らば、平城京の南北の長さを知ることははなはだ容易なり(東西の長さは朱雀大路の幅によりて差違を生ずべし。余輩は種々の理由より平城京朱雀大路の幅を十二丈と考定すれども、本論に用なければ今は論及せず)。何となれば、各町四十丈、各大路八丈、各小路四丈の率によりて区画せられたる条坊は、前に示せるごとく百八十丈ずつとなり、九条を重ねたる平城京は、南北実に一千六百二十丈なるべきなり。よしや現時実測の結果、この数に相違ありとも、そは尺度の相違もしくは当時の測量の誤謬より来れる結果にして、理論上必ず一千六百二十丈なるべきなり(ただしこれは南北京極の(406)幅を同じく八丈と仮定し、その中心より中心までを測れるなり)。
 
 ちなみにいう。北浦定政かつて平城京条坊図を製し、南北九条のほかになお平安京において見るがごとく、その北に北辺の半条を加え、九条半の図(水木要太郎氏の『大和巡り』に収むる図これなり)を描出してより、『日本読史地図』を始めとして、後の歴史地図多くこれに倣い、明治三十八年中関野博士またこの坪割の下に平城条坊図を製し、建築学会においてこれを発表せられしが、その誤謬なることは当時余輩が「平城京の四至を論ず」の題下に論究せるところにして、関野博士も前説の誤りを認め、後に発表せられたる「平城京及大内裏考」において訂正せられたれば、今再説せず。
 
 さて、この平城京においては京内全部に通じ、また平安京においてはある特別なるものを除く以外の大部分の、京内条坊の広袤として認めらるる百八十丈なる数は、本来何を意味するものなるか。こは都城制研究上最も興味ある題目にして、実にこれ平城京設定当時実施の度地制に基づき、一里ずつの間隔をもって縦横に線を画し、朱雀大路の東西に各四里ずつ、南北九里の京城を造営せし結果なりとす。「大宝雑令」に曰く、
 
  地を度るに東大尺五尺を一歩とし、三百歩を一里とせよ。
と。大尺は小尺の一尺二寸に当る。和銅六年さらにこの制を改め、「令」の小尺をもって大尺とし、その六尺をもって一歩とす。このことわずかに「田令集解」所引の古記の文中に見ゆるのみにして、『続日本紀』にはただ改定のことありし以外の委細を記さず。しかして古記の文また単にその説明に必要なる一部分をのみ摘録せるものなれば、いまだ全文を知るによしなきも、後の条里制において見る六町一里(すなわち三百六十歩をもって一里となすこと)の制もまた、おそらくこの時の改定なりと推定するを得べし。しからば和銅六年改定前と後とにおいて、同一の称呼ながらも一里の長さに異同あり。その大尺五尺を小尺(すなわち和銅改定後の大尺)六尺と改めたるの点は、実質において相違なき(407)も、前に三百歩を二里とせしものが、後に三百六十歩を一里とするに至りては、前後の間に六十歩の差を生ずるなり。一歩はすなわち後の一間にして、六十歩はすなわち後のいわゆる路程二町なり。和銅改定後の一里はすなわち六町にして、大宝令制の一里は実に五町なりしなり。しかして一町の長さは六十歩、一歩は和銅改定後の六尺なれば、「大宝令」の一里は実に和銅改定後六尺一歩の三百歩すなわち百八十丈に相当するなり。平城京の成るは和銅改定前にあり。しかしてその条坊が百八十丈すなわち当時の一里の率によりて設計せらる。あにこれ当時の一里四方なる最も都合よき完数を条坊の単位として設計せられたるものにあらずや。ことにその平城京址の実地を見るに、遷都以前より存せし下道《しもつみち】(今の中街道)を朱雀大路に応用したることは明かなれども、その西端が幾分山地に渉れるにあえてこれを避けんともせず、その東京極がわずかに約二町を狭むることによりて、これも従来より下道《しもつみち》と並行して存せし中道《なかつみち》と一致するを得べきに、この便利なる地物を応用せんともせず、どこまでも百八十丈なる数に拘泥し、山地に渉るの不便をも厭わず、大路を利用するの便宜をも求めず、ここに新都城の設定を見るに至りしものは、実に一里をもって条坊の単位となすの理想を極端に強行せし結果なりと解するのほか、他に説明の道を見出す能わざるなり。
 
 すでに平城京が理論上、南北大宝令制の九里すなわち一千六百二十丈の長さを有したりしとせば、これを後の町数に換算してまさに四十五町となるべきなり。しからば、その東京極に隣接せる京東条里(西京極は山地にわたれば京西条里存せず)はその間に七里三町(すなわち四十五町)を容るべきはずなり。何となれば、条里は和銅改定後の制によりて設定せられたるものにして、六尺一歩の法により、その六十歩四方の地を町(すなわち一ケ坪)とし、三百六十歩すなわち六町四方の地を一里とせるものなればなり。しかるに、……しかるに、記録と実地との示すところ、決してしからざるなり。京東条里は平城京東京極の北端より起りて南下し、南の方八条に至りて京南条里に接し、しかしてその京南条里は実に平城京南京極を南に距る約四町の地より起れるなり。すなわち知る、京東条里は平城京の東京極に隣(408)接する間において七個の条と第八条の内約二町(すなわち四十四町)とを有せしものなることを。すなわち京極の内外において条坊と条里とに約一町の差違あるなり。こは事実なり。もはや議論にあらざるなり。現今なお田圃の間に存する旧時の条坊・条里の遺影と、小字に存する坪割の地名と、この地方の条坊・条里の蹟を徴すべき幾多の古文書・古記録と、ともに明かにこれを証し、関野博士の「平城京及大内裏考」の付図、またほぼ緻密にこれを描出せらるるなり。しかして、これとほぼ同一の関係は、その南京極に接する内外の条坊・条里の関係においてもまた明かに認識するを得べきなり。
 
 人あるいは言う、汝の説くところ一理あるに似たれど、昔時の測量はかく断定すべきまでに正確なるものにあらじと。しかり、余輩またつとにこれを知る。しかしてこれ実に余輩がかつて関野博士の考証に対して評論を試みたるさいの氏の考証を批難せし一要点なりき。しかれども理会せよ、東京極といい、南京極というは、畢竟一の線なることを。もとより京極の道路には道幅あり、決して幾何学上にいうところの線にはあらずして、一の狭長なる平面には相違なきも、その道路の丈尺をいうに当り、時を同じうして左側と右側とにおいて、四十四、五町の間に約一町の差違を生ずるがごときことあるべけんや。いわんや南京極の内外においても、またこれと同一の関係を認識するを得べきをや。
 
 京内四十五町すなわち一千六百二十丈の条坊の地に接して、京外約四十四町すなわち約一千五百八十四丈の条里を持出したりとせば、その結果いかん。余輩は千思万考の末、京内のいわゆる一丈と、京外のいわゆる一丈とは、同一称呼をもってすれどもその実質を異にすること、すなわち条坊測定用の尺度と、条里測定用の尺度と相違ありしことを仮定するのほか、他に解釈の途を見出す能わざるなり。
 
 論者あるいは言わん、平城京付近においてのみたまたましかるも、広く他の地方に渉りて調査せば、異なる結果を(409)発見すべきにはあらざるかと。しかれども余輩が陸地測量部の実測図上に遺影と地名とを尋ね、これを古図に求めて、潜心描出したる大和平野全部にわたれる条里図、山城山科郷、同長岡旧京付近、同綴喜相楽地方の条里図、その他越前・美濃等の地図について調査したるところ、いずれの地においても条里は常に同一の尺度によりて、同一の率法の下に設計せられたりしことを認むるなり(関野博士の「平城京及大内裏考」には、平城京東および京南条里と、京北条里とはその丈尺を異にするごとく認められたれども、そのしからざることは、余輩がすでに評論せるごとくにして、誤解著しければ今採らず)。しかして京内の条坊においても、その遺影を尋ねて実測図上に描出せる平安・平城両京の条坊を対比するに、平城京と同じく百八十丈ずつをもって区画せられたる平安京の三条以南の各条の広さは、これを平地部に描出せられたる(平城京の東北隅は一部分山地に渉れると、大ナベ大古墳、水上池等の障礙ありたると、土地のやや傾斜をなせるとのために、多少測量を誤りたるかの嫌いあれば今これを避く)部分の各条の広さと、全然一致するを見る。しからば平城京の条坊
 
 
 第三図 平城京東京極内外における条坊・条里坪割図  〔入力者注、図は省略〕
 
(410)において和銅改定後の尺度の百八十丈という長さは、平安京の条坊についても全然同一なりというべく、山城・大和・美濃・越前等その他諸国の条里測定用の尺度は、この条坊測定用の尺度よりもやや延びたる、すなわち一千五百二十四と一千六百二十との比の延びあるものなりといわざるべからざるなり。
 
 ここにおいて論者あるいはさらに言わん。条里の測定が条坊の測定よりも幾分の延びありとのことはその意を得たり。しかれども、こは尺度の相違にあらずして、同一尺度を用いながらも、京外条里測定の場合には、通路・溝渠等のために一定の余地を存し、その結果として汝が見るごとき相違を生じたるにはあらざるかと。しかり、余輩また実に然《し》か考うるなり。「大宝令」に曰く、地を度るには大尺五尺をもって一歩とし、三百歩を一里とすと。しかして平城京は実にこの尺度により一里を条坊の単位として測量設定せられたるなり。しからば、その四近の条里を測定するに、たとい和銅の改定により三百六十歩をもって一里とするの差は生じたりとはいえ、京城測定用の度地尺度以外、別種の度地用の尺度が並び用いられたるべしとは想像し得ざるなり。いわんや『令集解』にも、田を測るの尺度として、従来の「令」の小尺をただちに大尺として用い、すなわち旧の五尺一歩は新の六尺一歩なれども、その実質に相違なきをいえるあるをや。しからば条坊と条里と、もとより同一の尺度によりて測定せられたりしことを認めざるべからざるに似たり。しかれども、さらにこれを京間・田舎間の関係に考え、曲尺と同一なる一種の尺度が奈良朝以来存在したりとの事実に徴し、条里測定にはとうてい当時普通の尺度とは一種異りたる、やや長き尺度を用い、しかしてその尺度はやがて後世の曲尺と同一のものにして、その九寸七分五厘は「大宝令」の小尺、すなわち和銅改定後の大尺一尺に当るものなりとの結論に達せざるべからざるなり。しかして、この延びある尺度によりて条里は区画せられ、そのうちより普通の尺度によりて三百六十尺四方の地を一町すなわち一個の坪とし、方一里の域に三十六個の坪を求め、その残余たる一里すなわち六町につき、五丈四尺すなわち九歩(後の九間)の余地を通路および溝渠に按分せしも(411)のなるべしと信ずるなり。請う、さらに以下説くところを俟て。
 
 四〇一頁に「京に対する田舎の語何時の頃より言ひそめしか知らず」として『催馬楽』浅緑を引きしが、その後前田太郎氏より、『万葉集』三の「昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都とみやこびにけり」の歌により、奈良朝よりこの対照の語ありしことを通知せらる。この歌、実は本誌第十四巻第一号に難波京を論ぜしさい引用せしところなりしも、前号原稿は旅中怱卒の起稿とて、ふとここに思い及ばざりしに前田君の好意により、これを補うを得たり。感謝に堪えず。
 
 
       六 曲尺の研究
 
 余輩はすでに平城京内の条坊と京外の条里との丈尺の比較研究よりして、条坊四十五町の長さは条里約四十四町の長さに同じく、したがって、条坊用の尺度にて千六百二十丈の長さは、条里用の尺度にて約千五百八十四丈なるの事実を知るを得たり。これより余輩はさらに進んで、いわゆる条里用の尺度が現今曲尺にして、これを令尺に比するに、四十四に対して約四十五の延長あるものなることを論ぜんとす。
 
 曲尺の性質いかんにつきては由来種々の説あり。あるいはこれをもって全然令尺と同一なりとし、あるいはこれをもって令尺よりも幾分の延長ありとなす。その令尺と同一なりとの説は主として、屋代弘賢・栗原信充・平田篤胤らの諸氏の主張するところにして、延長ありとの説は、狩谷※[木+夜]斎・横山由清・小中村清矩ら他の多くの学者の主張するところなり。しかして近時の学者はほとんど全部、この後説に一致するもののごとし。しかれども、これら諸氏の説の基づくところは、法隆寺・正倉院等に伝われる古尺と現時の曲尺とを対比して、実物上よりのみ立論せるものなれば、各人その見るところを同じうせず。精密にいえば同一の古尺についても、これを度るに人を異にし、時を異にするに随いて、その長さに厘毛の差なき能わず、またいわゆる古尺にも長短種々ありて、彼此決して同一なるものにあ(412)らざれば、その曲尺と令尺との比較をいうものも、結局は、「其の度りたる其の尺は何程なりき」というに過ぎずして、とうてい学術的結果を得べからざるものとす。あるいは古尺の実物以外、記録上その寸法を知るを得る古印または法隆寺所伝百万塔の寸法等を度りて、説を立つるものあれども、いわゆる古印は紙面に押捺せるものによるがゆえに、もとより紙の伸縮あるを予想せざるべからず。百万塔の寸法のごときも、その度り方によりて少許の誤差を免がれざることは、一方にこれをもって令尺の曲尺よりも短かかりし証となすものあると同時に、平田篤胤のごときはその『皇国度制考』において、これをもって曲尺が全然令尺と同一なりとの証拠として提供せるによりて察すべし。要するに、いわゆる古尺が彼此寸法を異にするは、当時尺度の製作検閲精密ならず、政府に尺の様《ためし》すなわち標準の器はありしならんも、実際に世に用いられしものは、往々多少の訛長訛短を免れざりしことを認めざるべからず。さればその実物対比上より、概数について云云し、令尺は曲尺よりも短かかりしとの事実を論定するは可なれども、その果して何ほど短かかりしかを言わんは、とうてい不可能なりといわざるべからず。
 
 次に、曲尺をもって令尺よりも長しとする論者が、その何が故に長きを致せるかについて説くところを見るに、いずれも単にこれを訛長なりとなすのほか、なんらの具体的解説を試みんとするものあるを見ず、これまたその研究上はなはだしき欠点なりと言わざるべからず。もっともいわゆる曲尺なるものの寸法も、古今において種々相違ありしを疑わず。近く明治の代となりても、一メートルを正しく三尺三寸と定めたるがために、きわめて瑣少ながらも、曲尺に延長を生じたりという(その以前の曲尺にては一メートルは三尺二寸九分何厘かに当れるものなりきという)。こはきわめて僅少なるものにて、実際にはあえてこれを喋々するほどの差にあらざるべきも、古代のいわゆる曲尺には「令」の小尺すなわち和銅六年改定後の大尺を刻せるものにて、唐の大尺と一致し、今日の曲尺よりも短かかりしことは疑いを容れず。元来曲尺とは、工匠が直角を測るに便なるべく作られたる器物の名にして、もと尺度の寸法上の称にあら(413)ず。しかして古代の曲尺が工匠用の矩形の尺にして、またその面上に刻せられたる尺度が唐尺と一致せしものなりしことは、『倭名類聚抄』に、
 
  曲尺 弁色立成云曲尺【麻可利加禰】
また『書言字考節用集』に、
  矩《マガリカネ》【規為円之法矩為方之器】曲尺《マガリカネ》【又云勾尺、匠家所用、乃李唐尺】
などあるによりて知るべし。この工匠所用の尺すなわち曲尺の寸法は、「大宝令」以来引続き変更するところなかりき。そは「雑令」に、
  凡度v地、量2銀・鋼・穀1者、皆用v大。此外官私悉用v小。
とあるによりて明かなり。すなわち「大宝令」によりて、すでに工匠用として認められたりしものはこの小尺すなわち和銅後の大尺にして、工匠使用の便宜上矩すなわち曲れる尺の面に刻せられ、これよりついに曲尺が一種の尺度の名のごとく解せらるるに至りしものなり。
 
 曲尺は工匠が使用の便宜上通例金属をもって製作せらる。よりてあるいは鉄《かね》尺また尺鉄《さしがね》と称す。古えまがりがねというもその物質より来れるなり。あるいは略して単にカネともいう。時に大工がねなど称するまた同一義なり。令制によれば、この曲尺に用うる尺の一尺二寸をもって大尺とし、地を度りまた銀銅穀を量るにのみ限りて用いしが、和銅に至りてこの大尺を廃せしものと見え、従来の小尺を大尺として度地にもこれを用い、さらにその下に小尺を設けたり。されば、呉服反物すなわち衣服の製作等に用うる尺度また依然この曲尺と同様なる尺度を用いしものなるべし。しかるに、いつのころよりか呉服尺として、曲尺一尺二寸(もしくは一尺二寸五分)なる大尺を復活して、これを使用することとなり、これに対して建築その他日用の調度等は皆工匠の曲尺を用いしかば、尺度といえばこの呉服尺と曲尺(414)との二様のもの最も世人の耳目に近く、ついにはもと器物の名称なる曲尺の名をもって、尺度の名称となすに至りしものなるべし。
 
 果してしからば、古代の曲尺はすなわち「令」の小尺、和銅以後の大尺にして、現今の曲尺よりも短かかりしものなり。今の曲尺はすなわちいわゆる享保尺なり。享保尺とは徳川八代将軍吉宗の時、当時尺度の制乱れて各自使用のもの長短一ならざるを憂え、これを統一せんがために、熊野神庫に伝うる古尺を模造し、これを原尺としたるものをいう。ここにおいて始めて当時長短一ならざりし曲尺は、この熊野の古尺すなわち享保尺によりて一定せられ、古代の曲尺とその名は一にして、その実異なるものを生じたり。『法規分類大全』尺度種類廃置の議の条に、
 
  享保尺、古の小尺にして今の所謂曲尺なり。然して今の所謂曲尺は中世以降器法訛替し、長短一ならず。於v是乎旧幕府徳川吉宗、博く之を書籍に尋ね、古今尺度の由来を考ふ。爰に古尺あり、紀伊国熊野神庫に蔵す、乃ち出して之を模造し、以て原尺と定む。実に是享保年中なり。此尺爾後紅葉山宝庫に於て火災に罷り、今は則ち亡し。先v是書籍奉行近藤正斎嘗て之を摸造し、内田五観に与ふと云ふ。五観之を蔵する久しく、今現に存せり。此の尺や古の小尺なること明にして、今の所謂曲尺の原なり。此度法享保年中始めて世に明らかなるが故に、爾後此度を享保尺と称す。然して其の坊間散布のものに至つては、其称均しく享保尺と雖ども、長短差等なき能はず。今其由来伝説最も正しきものに就き、内田五観所蔵の尺を以て此度の正器とす。
 
とあり、もって享保尺が今の曲尺と同一なるを知る。一説に、享保尺は曲尺より四厘長しというは、いわゆる「坊間散布の長短差等なき能はざるもの」につきて量りしものか。その享保尺をもって「令」の小尺なりとする説の当らざるは、令尺が曲尺よりも短きの事実によりて明かなれども、右の記事によりて余輩は、令尺よりもやや長く、吉宗によって今の曲尺の原となされたる一種の古尺が熊野の神庫に伝来せしを知るを得たり。しかしてこの古尺は、享保の(415)当局者によりて「令」の小尺すなわち和銅以後の大尺なりと誤解せられ、これを標準として尺度の統一は行われ、現今の曲尺なる、令制以外の一種の尺が制定せられたりしなり。すなわち知る、享保前の曲尺なるものは、あるいは「令」の小尺の訛長せしものなりしならんも、現時の曲尺は決して訛長の結果にあらずして、令制以外の一種の古尺に復旧統一せられたるものなることを。しからばこの古尺、果していかなるものか。これ余輩が曲尺研究上最も興味ある資料として、重きを置かんとするところなり。
 
 法隆寺・正倉院等には実に数多の古尺を蔵す、その長短必ずしも一ならざれども、多くは「令」の小尺にして、その多少の差異は、年代を経るとともに生じたる用材の伸縮と、その当時すでに生じたりし訛長訛短とより起れるものなりとす。しかして、その多数が現今曲尺の九寸七分ないし九寸八分の問にあるは、もって「令」の小尺が、現今の曲尺よりも尺につき二、三分の短尺なりしを示せるなり。しかるに、その間にありてただ一個、法隆寺に伝うる牙尺中に、その全長は他と同じく約九寸七分にして、しかもそのうち一寸より五寸まで刻み目を付したるが、その刻み目の正しく後の曲尺に一致せるものあり。屋代弘賢の『古今要覧稿』に曰く、
 
  大和国法隆寺に聖徳太子の納め置給ひしと云ひ伝ふる象牙尺あり。この尺のこと、先輩も何くれと云ひ置かれたれども、大かたは真物を見ずして云へる説どもなれば、誤り多きを、己いにし寛政四年にかしこに至りて、親しく其真物を見て手づから摸写し来れるが、全体は象牙にてつくれる尺にて、すべてを薄排に綵色して花鳥を画き、一寸より五寸まで刻めるが、全く今の鉄尺に合へども、その以下は刻なく、曲尺の五寸に三分足らず、上の五寸とを合せて九寸七分あり、云云。
 
 また、岩代耶磨郡恵日寺にもこれと同種類の尺あり。同書に曰く、
  恵日大寺瑠璃尺。恵日大寺は陸奥国耶磨郡にあり。此尺相伝へて相馬将門が第一女、如蔵尼が遺物也といふ。そ(416)の形は大かた法隆寺の牙尺にたがふことなし。即一寸より五寸に至るまでは全く今の曲尺にて、その末は寸を画せず、法隆寺の尺に比すれば一分五厘長きなり(曲尺にて二分不足)。角を用ひて造り、其の面に花鳥、側面に香草を画きし様など、大概おなじ。但多く藍色を施せし故に、土俗これを瑠璃尺という、云云。
 
 ここに全長曲尺九寸八分にして、法隆寺牙尺より一分五厘長しというは、前に牙尺を九寸七分なりといえるに矛盾すれども、ともかくもこの両尺が、一寸より五寸まで今の曲尺とほぼ同じ尺度によりて刻まれたる点は注意すべし(狩谷※[木+夜]斎の『本朝度量権衡考』には、法隆寺牙尺を曲尺九寸八分弱とし、恵日寺尺をこれよりも四厘ばかり長しとあり)。
 
 ちなみにいう。このほか、大安寺周尺・法寿庵周尺・槙尾尺・生駒寺律衣尺・高野山尺・叡山尺などと称するものありて、いずれも今の曲尺八寸内外なる趣、同書に見ゆ。屋代氏は曲尺をもって令小尺なりとするの論者なれば、これらの尺をいずれも小尺の訛短なりとなせども、こは和銅の小尺(すなわちその一尺二寸をもって大尺一尺とす)なるべく、本論に用なければすべて省略に付す。
 
 右法隆寺牙尺および恵日寺瑠璃尺は、つとに古尺研究者の注意に上り、曲尺をもって令尺よりも長しとする論者は、その全長なる九寸七分または九寸八分なるものをもって令の一尺なりとし、その刻み目を顧みず。令尺をもって曲尺と同一なりとする論者は、その刻み目のみに着目して、全長を捨て、その五寸以外は余材にして、尺度を示すものにあらずとするなり。余つらつら考うるに、この両者ともに誤れり。その全長九寸七分もしくは八分というものは、他の法隆寺または正倉院に伝うる令尺の一尺を示せるものにして、その面に刻せる五寸の刻み目は、熊野神庫に伝えし令制以外の一種の古尺と同じき尺度なるべし。しかして、この尺度すなわち京外条里の測定に使用せられし尺度にして、今の曲尺と同じきものなりと信ずるなり。何をもってかこれをいう。すでに奈良朝において当時の「令」の小尺すなわち和銅の大尺によりて設定せられたる平城京に接して、これよりもやや長く、ほぼ今日の曲尺と同じき尺度に(417)よりて測定せられたる条里あるを知り、しかしてこの条里の寸法が必ずしも平城京付近のみならず、広く大和平野を通じ、さらに山城・近江・美濃・越前等、余輩が参謀本部陸地測量部の実測二万分一図につきて調査せし、各地方に共通せるを知る以上、当時条里制実施のために、ほとんど今の曲尺と同じき一種の延びある尺度が用いられたりしを認めざるべからず。しかしてこの尺度とほぼ同じき古尺が、法隆寺において、熊野神庫において、はた恵日寺において伝来せりとせば、この古尺すなわち右の条里測定用の尺にして、今の曲尺はすなわちこれを標準として新たに制定せられたるものなりとの結論に到達せざるべからざるなり。
 
 すでに今の曲尺が奈良朝における条里測定用の一種の尺度なることを知らば、さきに第三節において論じたる京内の一|歩《ぽ》すなわち令小尺の六尺六寸三分の二なるものを、京間六尺五寸の法に改めて、令尺はまさしく今の曲尺の九寸七分五厘なることを知るを得るなり。これ理論上より得たる結果なり、決して実物の訛長訛短、あるいは用材の伸縮による差異、または測定のさいにおける過誤等の虞れある、実物比較上より立論せるがごとき不確実なるものにはあらざるなり。これ条坊・条里に基する京間・田舎間の研究が、余輩に教うる理論上の数にして、その実物上の寸法がいかにもなれ、余輩は奈良朝当時における標準器の示す尺度の大尺一尺、すなわち「令」の小尺はまさしく今の曲尺の九寸七分五厘なるべきを断言せんとするなり。
 
 
      七 条里の測定と田積の測量について
 
 京間・田舎間のことより延いて曲尺の由来ならびに曲尺と令尺との比較はすでにこれを論じつくしたり。余輩の本論において言わんとするところここに尽く。しかれども、終りに臨みていささか付説すべきものあり。余輩は条里の測定をもって令制(もしくは和銅の「格」の制)の尺度以外一種の延びある尺度によりて行われ、その尺度の実物は法隆(418)寺・熊野神庫・恵日寺等に伝わり、熊野の古尺八代将軍の採択に遇いて、現今の曲尺の源をなせりと言えり。しかも古代の田積の測量が、実に令尺によりて行われたるの事実ありしことは、さきに引用せる『令集解』の文によりて明かなり。すでに田積を量るに令尺を用い、しかして条里を測るに他の尺を用うという、それ自身矛盾せるの外観あり。これ余輩がここに付説を要とするゆえんなり。
 
 つらつら条里の制を案ずるに、地を分ちて数個の条とし、各条をさらに数個の里に分ち、各里方六町、これを三十六分して町すなわち坪とすること、なお京城を数個の条に分ち、各条をさらに数個の坊に分ち、各坊方四町(ただし京内の四町にして、京外の約五町に当ること前に言えり)、これを十六分して町すなわち坪とするものと形式において全く相似たり。その異なるところは彼此広袤のの差と、一はこれをニ十六分し、一はこれを十六分するの別とあるのみ。しかして京城にありて各町を方四十丈とし、その間に別に大小道路の道敷を置くがごとく、条里においても各町方三十六丈とし、その間に別に通路溝渠の敷地なかるべからず。余輩はこの通路溝渠の敷地として要せし地積を、普通一町(すなわち三十六丈にして、古えの六十歩すなわち今の六十間に当る)につき平均約九尺(すなわち一歩半にして今の一間半なり)を原則とせしものなりきと考定す。もとより、この単に平坦なる耕地続きの場所においてのみ実現せられたるべく、一般には施行せらるべくもあらず、かつ今、ここにこれを論ぜんとすれば、勢い条里制の根本に渉らざるべからずして、所論あまりに枝葉を走るをもって、すべてこれを他日に譲るべきも、理想としての条里制は実に右のごとかりしと思考するなり。すでに各町平均約九尺、六町一里の間に約五丈四尺の溝渠および通路の道敷に当つる延びありとせば、条里制実施に当りて、まずこの延びを見込みたる一種の尺度を作り、これによりて条里を分ち、その各里をさらに令尺によりて田積三十六町とその間に要する通路および溝渠の敷地に分割するを便とすべし。しかしてこの一種の尺度すなわち熊野神庫等に伝わり、今日曲尺として用いらるる尺度にして、その九寸七分五厘が、令尺の一尺に相当(419)するなり。されば今日の曲尺はもと条里測定用のものにして、「大宝令」と和銅の「格」との制定以外、一種の尺度として古えより存在し、京内の一町すなわち四十丈なるものを六十歩に等分し、その一歩すなわち一間をこの尺度にて測らば、いわゆる京間六尺五寸なるものを得べきものとす。
 
 
      八 結  論
 
 以上回を重ねて述べたるところ、所論多岐に捗り、かつその説往々数理に係りて、すこぶる混雑せるものあるをもって、左にこれを約説して、一見理会しやすからしめ、もって本編を終らんとす。
 
 余輩の本論の旨趣、これを一言すれば、京間六尺五寸、田舎問六尺というは、京内の条坊と京外の条里との丈尺の差より来り、京外の一町は三百六十尺にして、京内の一町は四百尺なれば、これを各六十分したる京外の一歩すなわち一間の六尺なるものに対し、京内の一歩すなわち一間は六尺六寸三分の二となるべきはずなれども、京外の条里には各町三百六十尺以外平均約九尺の溝渠通路の敷地あり、これを加算して平均上の一町の長さを得、これを三百六十分したる尺度すなわち後の曲尺にして、その九寸七分五厘は令尺の一尺に相当するがゆえに、前記六尺六寸三分の二なる京内の一町をこの曲尺によりて測らば、まさに京間六尺五寸となるべしというにあり。その平城京内の条坊と京外の条里とを東京極なる同一線上において比較し、結局京内において各町および道路の敷地を加えたる延長千六百二十丈すなわち四十五町の間に、条里約一千五百八十四丈すなわち約四十四町を容るるの事実を明かにし、条坊と条里との間に尺度の相違ありしことを説けるも、畢竟は条坊測定用の尺度と条里測定用の尺度と相違ありしことを立証せんがためにして、その相違は溝渠および通路の敷地を加算せるものなれば、これを除ける田積の測定が、依然令尺によりしものなるは言を俟たず。しかしてその延びある条里測定用の尺度は、すなわち今日の曲尺にして、一種の古尺(420)として古来存在するものなれば、曲尺の令尺より幾分の延長あるは、必ずしも訛長に基づくものにあらずとするなり。
 
 なお本編に関し説くべきところ多く、新たに得る材料また少からざれども、時すでに歳末に迫り、本誌また本号をもって巻を終るものなれば、本編またしばらくここに筆を擱き、他日さらにその遺を拾い、なお機会あらば一般条里制について所見を発表し、もって本編の首尾を完からしめんとす。
 
 
 
(421) 平安京大極殿址と曲尺の研究
 
 余さきに「京間・田舎問を論じて曲尺と令尺との関係に及ぶ」ということを調査して、ゆくりなくも曲尺の研究に及び、これを本誌第二十一巻第六号以下、第二十二巻第六号に渉りて連載し、結局今日の曲尺が、「令」の小尺すなわち和銅以後の大尺の九寸七分五厘に当ることを立証したりき。こは読者諸賢のすでに了知し給うところなるべければ、ここにこれを繰り返すの労を省くべけれど、要するに、その論拠とするところは、田舎の一町が三十六丈なるに対し京内の一町が四十丈なるの事実より打算して、田舎の一|間《けん》の六尺なるに対して、京内の一間は六尺三分の二なるべきはずなるに、実際に田舎|間《ま》六尺に対して京間六尺五寸なりということは、これその一尺を九寸七分五厘に換算したる結果なりというにありき、すなわち左のごとし。
 
 400尺÷60=6 3/2尺……(京内の一間の長さ)
 6 3/2尺÷6.5尺=1尺÷x  x=0.9尺7分5リン
この理由につきては、該論文中に詳述したれば、ここに贅せず。
(422) さて、古えの一尺が今の曲尺の九寸七分五厘に当るとすれば、当時の尺度によりて経営せられたる平城京・平安京等の条坊を、現今の実測図上に描出せんには、必ずそれだけの差違の斟酌なかるべからず。しかして余輩がこの寸法によりて、参謀本部陸地測量部の二万分一図上に試みたる旧時の条坊は、ほぼ現今の奈良市・京都市の町割およびその郊外に保存せられたる道路と一致するを見るなり。
 
 しかるに、京都市が明治二十八年中、平安京奠都千百年紀念祭を執行するに際して調査せし新旧対照地図(『平安通志』所収)を見るに、九条および東堀川を縦横の基準として測定せしがゆえに、これらの地点においては旧時の条坊と現時の町割と彼此全然相一致すれども、これより遠ざかるに従いて両者の差、次第に多く、一条通に至りては、彼此半町以上の喰い違いを生じたり。かくのごときはこれ明かにその調査に用いたる尺度が、平安京経営当時使用の尺度よりも幾分の延長あることを示せるものならざるべからず。しかも京都市には、その際この調査に基づきて、千本通丸太町上る道路の西側聚楽廻り字瓢箪の地に大極殿遺址の紀念碑を建設し、これをもって大極殿内高御座の中央部を示せるものなりとせり。しかしてその尺度は、『平安通志』(一巻十四丁表)に、
 
  凡そ尺と称するは和銅改正の大尺にして、現制曲尺一尺弱に当る。
と記し、さらに正誤の符箋に、これを九寸八分七厘と改めたり。余輩は当時の調査者が、いかなる研究によりてこれを九寸八分七厘なりと考定せられたるかを知らず。しかれども、その考定の当を得ず、旧時の尺度よりも幾分の延びあることは、地図上に描出せられたる古今の町割が、ほとんどことごとく喰い違いを生じたることによりて立証すべく、これを余輩の研究の結果に比するに、一尺につきて一分二厘の差違を有するを見るなり。されば、この尺度によりて測定せられたる大極殿址は、実際の遺址よりもやや北北西に片寄れるものならざるべからず。
 
 大極殿の位置は、『平安通志』の調査によるに、九条通羅城門の中心より北一千四百五十二丈、東堀川の西崖より(423)西二百九十二丈の地に当る。この距離に対し、一尺につき一分二厘の差は、南北十七丈四尺二寸四分すなわち二十九間余、東西三丈五尺四分すなわち六間弱となる。されば、平安京経営時の測量十分信顆すべく、『平安通志』の調査また絶対に精確ならんには、真の大極殿址は、今の紀念碑の南約二十九問、東約六間の地なるべきはずなり。しかして近時あたかもこれにほぼ相当る地点より数個の巨石および敷瓦の完全なるものならびに破片、その他碧瓦の破片等多数に発見せられたり。なお聞くところによれば、現に京都博物館に陳列せる敷瓦を始めとして、完全なるもの数個、またかつてこの地より発見せられたることあり、巨石の発掘せられたる数も、少からざりきというなり。
 
 今その実地を調査するに、発見されたる巨石は砂利を交えたる土層中にある径三、四尺の花崗岩にして、かつて彫琢を加えたる痕なく、全く渓流中より運搬されたるままと思わるるものなれば、もとより大極殿の礎石にあらず。大極殿はもと高さ六尺の土壇の上にあり、その他の殿堂またそれぞれに土壇の上に立ちしものなるに、現在それらの位置においては、毫も土壇址と認むべきものなく、平城京址において現に朝堂院各建築物の土壇が田圃間に保存せられ、その位置の歴々徴すべきものあるに似ず。けだし、豊公、聚楽第をここに営みしさいに、ことごとくこれを取り毀ちたるものか。されば、今発見せられたる巨石のごときも、もと深く土壇下に埋められたりし地形石《じぎよういし》なるべく、柱下の礎石はつとに他に運ばれて、旧地に存せざるものと知るべし。
 
 礎石の下方に深く地形石を埋むることの有無につきては、古代建築法に知識乏しき余輩のよく知るべき限りにあらねど、その西南方なる豊楽院址よりも、地中より数多の自然石の発掘せられし事実に徴して、平安京経営のさい、地固めのためおよび柱の位置に当る地平下に巨石を埋め、砂利をもってこれを固め、その上に土壇の盛り土をなし、さらに礎石を安んじたりしものなりと察せらる。後世の例にはあれど、東京芝公園内丸山にある瓢形古墳の後円部には、地下六、七尺の地に十二個の巨石を埋め、砂利と土とをもって上部に至るまで一様に地固めをなしたりしことを、先(424)年故坪井博士古墳調査のさいに発見せられたることありき。この巨石埋没のことにつきては、当時種々の説ありしも、その配列の工合が付近なる五重塔の礎石の配列とほぼ一致するをもって見れば、かつてここに塔を建設すべく地固めをなし、その後ゆえありて中止せしものと解せざるべからず。しかしてこの事まさに今回発見の巨石と相参考啓発すべきものなるべきか。
 
 ともかくも今回巨石の発見せられたる場所は、朝堂院中の某建築物の址なることは疑いを容れず。しかして、その朱雀大路中心線上にあるものは、大極殿・小安殿・会昌門・応天門・昭慶門のほかあることなく、そのうち会昌門は大極殿の南八十七丈、応天門はさらにその南二十五丈余にあれば、ともにその位置これと相当るべくもあらず。されば、これに擬すべき建築物としては、大極殿もしくはその北方なる小安殿・昭慶門のうちなるべきも、これを東南に通ずる町割との関係より推定すれば、大極殿址に擬定するをもって至当とすべきに似たり。
 
 されど大極殿はその広袤東西十七丈六尺すなわち二十九間余、南北五丈五尺すなわち九間余に渉れる大建築物なれば、今回発見せられたる巨石が、果してその地形石《じぎよういし》なりとするも、その大建築物のいずれの部分のものなりや、もとより明かならず。これはかつて同種の巨石の発掘せられたる位置をも尋ね、さらに付近の地をも調査したる後において定めざるべからず。今回発見の地をもってただちに大極殿の中心なりとし、現在の紀念碑をここに移すべしなどと速断すべきにあらざるなり。されどしばらく今回発見の巨石を大極殿址の一部なりとし、その中心地を求めんには、かりに前記寸法の計算に基づき、紀念碑の南約二十九間、東約六間の地をこれに擬定すべきなり。しかしてその地はあたかも今回巨石発見の場所と相近く、その結果よりこれを見るに、余輩の曲尺の研究は一千四百五十二丈という大数より打算して、実地上ここに立証せられたるに似て、必ずしも偶然の暗合とのみいうべからざるもののごとし。
 
 
 
(425) 曲尺に関する疑問
 
 1 はしがき
 私はかつて奈良の都の遺蹟を調査致して、これを陸地測量部の二万分一図上に描出し、また大和平野の条里の蹟をも同じ図上に記入しましたところが、京内の条坊区画に用いた尺度と、京外の条里区画に用いた尺度との間に著しい相違のあることを発見しました。また現存の古尺を調査しまして、その実物の表わしている度盛にも、しばしば著しい相違のあることを確かめました。その後さらに京間六尺五寸、田舎間六尺ということの由来を研究しまして、結局今の曲尺は昔の曲尺よりも延びのあるもので、昔の曲尺は「大宝令」の小尺、すなわち和銅改定後の大尺に当るもので、その一尺は今の曲尺で九寸七分五厘に当るものだということを、理論と実際との両方面から割り出すことが出来ました。その研究は「京間・田舎問を論じて令尺と曲尺との関係に及ぶ」と題して『歴史地理』雑誌第二十一巻第六号から、第二十二巻第六号(大正二年六月より大正三年六月までにわたる)までの間に、五回に渉って掲載しておきました。何分にも数理のことには暗い私の研究でありますから、自分に正しいと思うていることにも、専門家の眼から見れば案外大きな欠陥があるかも知れず、あるいは他の方法によっていっそう容易にそれを確かめることが出来るかも(426)知れぬと思いまして、一度理科や工科の黒人の方々に、批判を仰ぎたいと存じながら、ついその機会を得ませんでおりましたが、今回本誌に寄稿のことを指名されましたので、これを好機会と存じ、その後心付きましたことや、今なお疑問としていることなどをあれこれ申述べて、高教を仰ぎたいと存じます。
 
 2 古尺と今の曲尺との差異
 昔の一尺が今の曲尺の九寸七分五厘に当るということについての研究は、すでに詳しく『歴史地理』に掲げておきましたから、今はそれを繰り返すの煩を省きます。もし御覧下されたい特志のお方は、該誌を繙き給わんことを希望致すこととして、ここではきわめて簡単に、その後の研究をも加えて、その異同の由来を述べましょう。
 
 今の曲尺と昔の法定尺(「令」の小尺すなわち和銅改定後の大尺)との異同いかんについては、徳川時代以来すでに種々の説が発表されています。あるいは古今差違なしとする屋代弘賢・平田篤胤・栗原信充諸氏のごときもあれば、今の曲尺はやや訛長しているという狩谷※[木+夜]斎・横山由清・小中村清矩諸氏のごときもありますが、明治以来の学者は多くこの長いという後説の方に傾いております。しかしながら、果してそれがどのくらい長いかという説には一定がない。結局は自分の見た古尺はこうだったとか、自分の度った建築物の寸法はこうであるとかいうに過ぎません。したがって昔の実用の尺度が、果して皆標準器の通りに出来ていて、また古今その尺の材料に伸縮がなかったという予定のうえにおいて、またその度った建築物が、当時最も正確に度られたのであったということを仮定したうえにおいて、始めてその説は価値があるのであります。すなわちいずれも実地からのみの立論で、一も理論上からこれを考定したもののあることを見聞しません。
 
 最も近く発表せられたものは関野博士の九寸八分説(昔の一尺は今の曲尺九寸八分に当るという説)であります。それは古尺の実物の調査と、古建築物の柱間の調査とから得られた説と存じますが、不幸にしてそれは実地に合いま(427)せん。小さい堂塔伽藍の柱間などを調べたなら、あるいは数字に現われる差が少いので、偶然やや完数に近い結果を得られるかも知れませんが、大きなもののうえには、その僅少の差異の堆積も大きくなって、著しい違算を生じてまいります。現に博士がその尺度で調査せられた奈良京の丈尺を見ますと、各町の長さが四十丈ずつ、各大路の幅が七丈、各小路の幅が三丈という結論を得ておられますが、事実は各町四十丈、各大路八丈、各小路四丈であったことが、記録によって立派に証明せられるのであります。しかるに博士が大路七丈、小路三丈と定められたということは、実際には奈良京が、博士の用いられた九寸八分よりもさらに短い尺度で測量区画されたことを示したものです(博士の七丈、三丈という道幅も、ただ勘定に都合のよい完数を求められただけでありましょう)。
 
 3 京間と田舎間との別
 私が九寸七分五厘という数を得たのは、田舎問の一間を六尺とするに対して、京間の一間を六尺五寸とする関係から来たのです。田舎間では六十間すなわち三十六丈を一町とするのに対して、京間では四十丈を一町としております。これは江戸の町割の沿革を見ても明かなことで、もとの江戸の町は、奈良京や平安京の町割に倣って、すなわちいわゆる京間によって、四十丈を一町としておったのであります。このことは私の関係した『日本橋区史』にも、だいたい述べておきましたから、それで御覧を願います。
 
 この京間四十丈一町ということは、奈良京・平安京、ないし江戸の古町などにおいて、実地に行われたばかりでなく、しばしば田舎の測量にも用いられたことがありました。『朝野群載』所収の堀河天皇康和三年の方角禁忌の勘文に、
 
 勘申自2鳥羽南殿1至2于興福寺1方角禁忌事
 南行二百八十六町二十五丈四尺八寸 以2四十丈1為v町
(428) 東行六十四町九丈
 件丈尺官便所2検注1也
とあるのはその一証です。しかしその本来は、四十丈一町ということはもと京の町割にのみ用いたもので、田舎の条里は常に三十六丈を一町としたのでありました。そこで京間・田舎間という名称が起ったのであります。京の一町四十丈を六十間に分ちますと、一間は六尺三分の二となる。すなわち田舎の一間が六尺たるに対して京の一間は六尺三分の二であるはずです。しかるに享保に今の曲尺を採用して以来の度り方を見ますと、田舎問六尺に対して、京間は六尺五寸とあります。この京間六尺五寸という数については、古来種々の間違った説がありまして、近く『日本百科大辞典』に某専門家が「間《けん》」という条下に書かれたもののごときも、はなはだしい誤解を重ねておられますが、京間六尺五寸・田舎間六尺という数は、決して間違いのないものであります。詳しくは『歴史地理』で論じておきましたから今日はそれに譲ります。しからば京間六尺三分の二であるべきものが、何故に六尺五寸ということになったか。これは享保改定後の新曲尺の一尺が、従来の一尺よりも延長したためで、すなわち左の結果が得られるのであります。
 
 400尺÷60=6 2/3尺……(古尺による京間一間の長さ)
 6.5尺(新曲尺の京間一間)÷6 2/3尺(古尺の京間一間)=0.945尺
 右の九寸七分五厘という数は、古尺の一尺を新尺で度った数であります。これは実地についての数ではなく、京間六尺五寸ということから、理論上割り出して得た数であります。これについて、京間六尺三分の二なるものが九寸七分五厘の率によりて改算すべくぼ、田舎間六尺なるものも同じくその率によって改算せねばならぬという、大きな疑問がありますが、実際には享保後も、田舎間の六尺はやはり六尺のままで通っております。この疑問の解釈は、さき(429)に『歴史地理』でこれを発表したさいには、まだ十分に解し得なかったので、しばらく疑いを闕いておきましたが、その後の研究によりますと、事実上田舎の条里の測量は、古来今の曲尺と同じ尺で行われておったのでありますから、田舎の場合にはこれを改算する必要がなかったのかと存じます。
 
 4 田舎の条里の測量は今の曲尺による
 田舎の条里がすでに古代から今の曲尺によって行われていたということは、いかにも奇態な現象のように考えられますが、事実さようであるから致し方がない。しかしてこの事実の存在からして私は、記録上なんら見るところはありませんが、実際にはそれとは別に、今の曲尺と同じい一種の尺が、奈良朝以来ある場合に用いられていた、それは一種の測地尺であったということを立証することが出来ると思います。
 
 大和平野の条里の蹟を実測図上について調査してみますと、奈良市の付近から、高市郡の南方山麓地方まで、約百八十町の間、その一町はほとんど今の曲尺による一町すなわち三百六十尺の平均を得ております。一局部については多少の齟齬が生じているにしても、それは後に畦畔、道路、溝渠等の移動から起った現象で、昔の条里の区画が案外精密なる測量法によって、今の曲尺とあまり相違のない尺度をもって区画されたということは、この約百八十町という大数の結果にあまり狂いの生じておらぬことによって察せられます。また前引、康和三年の官使の検注という興福寺の位置に関する丈尺の数を見るに、奈良の興福寺が鳥羽から南行二百八十六町二十五丈四尺八寸、東行六十四町九丈とありますが、そのいわゆる南行の距離の途中には、大きな巨椋の池や、大和・山城境上の山地や、その他いろいろの障礙地物があるためかして、二百八十六町云々の数は実際には合いません。しかるに平野続きであって、その間なんら障礙物のない東行六十四町九丈という数は、今の実測図に引き当てて調べてみますと、まさしく今の曲尺で測ったものと符合します。これすなわち今の曲尺とそう違わない尺度が、奈良朝以来測地上実地に用いられていた証拠(430)だと言わねばなりません。
 
 5 今の曲尺と同じき古尺
 さらに実物について調査しますると、今の曲尺とあまり相違のない古尺が、現に正倉院にも、法隆寺にもある。岩代恵日寺にもあったとの伝えもあります。正倉院中倉の赤染牙尺中の一本は、全長一尺二分弱にして、目盛はほぼ各一寸ずつに出来ております。法隆寺の牙尺の方は、私は親しく当ってみませんが、屋代弘賢の調査によると、全長九寸七分で、幅一寸より五寸まで目盛を施し、その目盛の分は全く今の鉄尺に合うとあります。鉄尺すなわち今の曲尺です。岩代恵日寺のも同類のものです。正倉院御物の赤染牙尺中の、ほぼ曲尺と同じ長さで一寸ずつに目盛をしてあるものは、むろん今の曲尺と同一のものとして、問題になりますまい。法隆寺や恵日寺の尺のごとく、全長は今の曲尺の一尺よりも二、三分も短く、しかも目盛の分はまさしく今の曲尺の一寸ずつにして、それを五寸まで刻み、その余を目盛せずに残しておいたというのは、はなはだ面白いことだと思います。すなわち今の曲尺とあまり相違のない一種の古尺と、それよりも短い当時の法定の尺とを、一材の上に表わしたもので、その全長は法定の一尺、目盛のある部分は、長い尺で五寸だけを示したものでありましょう。しかしてその余の四寸七、八分は余材として残しておくという作り方であったと見えます。また享保のさいに曲尺の標準として用いられたものは熊野神庫伝来の古尺で、これまた今の曲尺と同じ尺度が(精密にいえばメートル法によりごく微弱の相違ありとはいえ)古代から存在していたことの証拠になるのであります。
 
 6 市内の條坊の設計は法定古尺による
 ともかくも今の曲尺とあまり相違のない一種の尺度が奈良朝以来存在して、それが田舎の条里を度る場合に用いられたということは、たとい記録上からなんらの証拠がなくても、実物の現存と、大和平野の実測とから、明かに立証(431)せられることと思います。ところが、同じ土地でも奈良や京都の条坊の測量は、この長い方にはよっておりません。明治二十七年のころ『平安通志』を京都市で編纂した時に、平安京の旧地を実測して、旧時の条坊の復旧を図上に試みましたが、そのいわゆる復旧図なるものは、いっこう実地に出合いません。当時南京極を基点として測ったがために、北に進むに従いて次第に狂いが多くなり、北京極では約一町の延長を生ずることとなっております。これはおそらく当時の測量が、今の曲尺をもってただちに古えの丈尺の数に合して測定した結果でありましょう。『平安通志』には、「凡そ尺と称するは和銅改正の大尺にして、現制曲尺一尺弱に当る」と書いてありますが、さらに符箋の正誤表でこれを「九寸八分七厘」と改めてあるのであります。私は『平安通志』の著者が、何からこの九寸八分七厘という数を得たかをつまびらかにしませんが、その正誤表のあるにかかわらず、実際はいわゆる一尺弱、その実今の曲尺のままで、復旧の測量を行ったものと考えます。よしやそれが九寸八分七厘の尺度によって復旧されたのであったとしましても、やはりその尺は長きに過ぎております。したがってその結果として、右申すごとき喰い違いを生じ、せっかく場所を測定して建てた千本通丸太町上る西側の大極殿紀念碑も、実は大分位置を間違えております。実際の大極殿の遺址は、記念碑よりは南南東、今の千本通りの丸太町、電車線路の突当りの西側に、共同便所のある辺に当ります。先年この地から地形石《じぎよういし》だの、敷瓦だの、碧瓦の破片だのをたくさん掘出しました。その地形は砂利と土とで固めて、その間に大石を一定の間隔に埋めてあったのであります。千本通は古えの朱雀大路で、その通りのこの場所には、大極殿かもしか違ったならその後ろの小安殿以外、他の建築物に擬すべきものがありません。そこで私はこれ真の大極殿址だろうと考えまして、尺度の研究と実地の遺物とから、その説を当時新聞紙上で発表し、また直接に間接に、市の理事者の注意を促したのでありましたが、しかも微力にして省るところとならず、予定のことだから今さら変更は出来ぬとの理由で、物もあろうに大極殿址の疑いのある場所へ、市設の共同便所建築の工事を遂行するに至ったの(432)でありました。私は今もってそれを残念に思うております。
 思わずも余談に渉りましたが、ともかくも平安京は今の曲尺よりは、否、もし市がさきに九寸八分七厘の尺で測ったのであったならば、さらにそれよりも短い尺度によって設計せられたのであったことは疑いありません。
 
 奈良京も同様です。関野博士は当時実用の尺を九寸八分として計算された結果、実際八丈幅であったはずの大路を七丈として、四丈幅であったはずの小路を三丈として、しいて実測図上に辻褄を合されたほどでありますから、実際はまだまだ九寸八分よりも短い尺度であったに相違ありません。今奈良京の東京極址に沿うて、京内の条坊全体の長さを数えて見ますと、各条百八十丈、南北九条で千六百二十丈あったはずです。この百八十丈という数は、大宝令制の一里です。「大宝令」では、大尺五尺を一歩とし、三百歩を一里とすとある。大尺五尺はすなわち和銅改定後の六尺すなわちいわゆる一間でありますから、その三百歩すなわち百八十丈が「大宝令」の一里でありました。和銅改定後は三百六十歩すなわち二百十六丈を一里とすることになりましたが、奈良の京はその改定前の設計でありますから、その当時の制によって、各条一里という都合のよい定数をもって条の幅を定め、南北九里の京を造ったのであります。しかしてその各条には町の数が四つ、各四十丈ずつで百六十丈、大路が一つで八丈、小路が三つ、各四丈ずつで十二丈、合計百八十丈となるのであります。その百八十丈一里の条を九個重ねて、東京極の長さが、千六百二十丈となったはずです。実際には左京の東北隅が山地に渉ったがために、故意に縮めたものか、当時の測量が間違ったものか、今の実測図に合せますと、最北の一条の幅はやや短くなっておりますが、二条以南は皆同じ幅に出来ております。しかるに、同じ東京極に沿うて区画せられたはずの京外条里は、京内千六百二十丈の丈尺を容れる間に、条里で七条と約二町(詳しくいえば七条と約一町八分の七)すなわち各条六町ずつで合計約四十四町(詳しくいえば約四十三町八分の七)の区画をなしているのであります。この一町は六十間、すなわち古えにいわゆる六十歩で、一歩は六尺ですから、そ(433)の約四十四町は約千五百八十四丈、これを四十三町八分の七とすれば、千五百七十九丈半となる。同一直線なる東京極道路の東西に沿うて、西すなわち市内は千六百二十丈、東すなわち京外は千五百七十九丈半とは、これ明かに二種の尺度によって、京内と京外とを測った証拠でありまして、その京外の条里が前記のごとく今の曲尺とあまり相違のない尺で度られたのでありましたから、京内の条坊はさらにそれよりも短いこと、千六百二十分の千五百七十九半の尺で度られたこととなるべきはずです。すなわち約九寸七分五厘の数はこれからでも得られます。もっとも京東の条里は、今日実際に遺影が存在しているのでなく、京南条里の遺影から逆推して、だいたいの数を得たのでありますから、精密な結果をそれから得ることは困難ですが、南京極の内外についても、ほぼ同様の結果を得られますから、大体においてその数は狂わぬことと存じます。すなわち京内は九寸七分五厘の率の尺度で、四十丈一町の割り出しをなし、京外は今の曲尺とあまり相違のない尺度で、三十六丈一町の割り出しをなし、これを各六十分して、京間六尺五分、田舎間六尺という数を得たのであります。
 
 実際、新曲尺採用以前の京間は、六尺五寸とは定っておりません。東京日本橋区役所所蔵の古い町の図を見ましても、往々その実例があります。例えば長谷川町の図に見える家持伊兵衛の宅地のごとき、表間口が京間五間、田舎間五間で、合して田舎間拾間三尺とあります。すなわち京間の五間を田舎間では五間三尺、すなわち一間を六尺六寸と勘定したもので、その分以下の端数は切り去ったものと見えます。それを六尺五寸と勘定するようになったのは、享保年度に寸延びの尺を採用した後のことかと存じます。
 
 7 寸延びの尺を作った理由とその延びの長さ
 ただここに私に今なお疑問として残っているのは、法定の「令」の小尺、すなわち和銅改定後の大尺とは別に、何の必要があってやや延びた尺を作ったか。またその延びの長さの二分五厘という数は、何を標準として定めたか、ま(434)た果してそれがまさしく二分五厘であったか否かという問題です。これも前回発表のさいには、いわゆる疑いを闕いておいたのでありますが、このさい年来の疑問を披瀝して、専門識者の高教を乞いたいと思います。
 
 なるほど京間六尺五寸ということから割り出しますと、昔の一尺は今の曲尺九寸七分五厘という数になるに相違ありませんが、もし「令」の小尺すなわち和銅以後の大月を法定尺として、これよりもある延びある尺を造ろうとすれば、その尺度を本としてある定数を加うべきはずでありましょう。もしその尺度を本として、なんらかの理由でそれに二分五厘を延長したとしたならば、今の曲尺は昔の法定尺の一尺二分五厘に当るはずで、したがって昔の法定尺は、今の曲尺の九寸七分五厘よりはやや長く、その下に、〇.六二四強の端数が付くべきはずです。あるいは面倒だから、その〇・六二四以下を切り去ったのかも知れませんが、これは数理に委しいお方の高教を得たいと思います。
 
 もともと、この延びのある尺を作る必要はどこにあったのか。これも私には十分解決の出来ぬ問題ではありますが、試みに下した説はすでに『歴史地理』で発表しておきました。その説はこうです。田舎の条里を度る場合に、一尺について二分五厘、すなわち一町三十六丈について九尺ずつの余分を、畦とか、用水とかの敷地の幅に見込んだもので、その平均数を尺にあらわしたのではなかろうかということです。もし果してさようであったとすれば、これは法定古尺の一尺二分五厘に当るべきはずで、したがって法定の古尺は今の曲尺の九寸七分五厘よりも、〇.六二四強だけ長かるべきはずです。あるいはその方が本当で、京間六尺五寸といい、古尺は今の曲尺の九寸七分五厘だという数は、少しの端数を切り捨てた結果であるかも知れません。
 
 8 寸延びの尺を建築にも応用した疑い
 今一つ疑問として残っているのは、この二種の尺度が、一は京内の条坊に、一は京外の条里に用いられたという事実は間違いないこととして、さらにそれが建築の場合にも両種が用いられたか否かとの問題です。東大寺の東西両塔(435)の高さを見ますと、束塔の高さ二十三丈八寸、西塔の高さ二十三丈六尺七寸とありまして、両者の差まさに五尺九寸を示しております。もちろんこの塔は現存しておりませんから、これを実測することは出来ませんが、『東大寺要録』記するところ右の通りで、これは当時実際に出来上ったところを度った数だと信じます。『元亨釈書』のように両塔各高さ二十三丈と大握みの数を出してあるのならば、よい加減なものとして看過することが出来ますが、一は二十三丈八寸といい、一は二十三丈六尺七寸というように、きわめて細かい相違を示してある数字は、それを誤写があると見ぬ以上は、実測の結果と信ぜぬ訳にはまいりません。もし果して両塔の高さにこの相違があったとすれば、それは何によって生じたか。奈良県史蹟調査委員天沼工学士の調査報告には、二つの建築物を精密に同一に作り上げるということは実際困難なことで、この相違は偶然の出来事と解すべきものだと言っておられますが、果してかくのごとき大きな相違を、偶然の訛差として見るべきものでありましょうか。七重の塔に五尺九寸の差は、一層に平均八寸五分の差となります。なるほど技術家には癖というものがあって、つい伸縮みもありましょうが、各層平均に八寸五分は、あまりに多きに過ぎる感があります。しかるに、これを試みに一尺について二分五厘の延びのある尺度を使ったと想像してみたならば、二十三丈について五尺七寸五分で、五尺九寸の差というものとは、きわめてわずかな違いとなるのであります。だいたい東西両塔を、同時に同一技師監督の下に作られたと想像しなければならぬ理由はない。時を異にして、異った技術家によって作られたものだと想像すれば、あるいは寸延びの尺で設計したというような、そんな事実があり得たのではありますまいか。記録上なんら伝えのない寸延びの古尺が現存し、奈良朝以来測地の場合にそれを用いた実例がある以上、建築の場合にもこれを用いたことがあったのではないかと疑うてみるのも、また研究上必要なことかと存じますから、ここに疑問を提出して、他の建築物にもこのような例がないか、かくのごときことがあり得るものかということを、建築専門の諸大家に伺いたいのであります。
(436) 9 六尺五寸棹のこと
 最後になお疑問として残るのは、測地上古く六尺五寸棹を用いたことです。江戸の町が一町四十丈ずつ、すなわち六尺三分の二を一間として割られたことは、『天正日記』に証拠がありますが、六尺五寸棹ということも、すでに「長曾我部元親百箇条」に見え、また新曲尺を採用したと言わるる享保以前の、永宝・正徳ころにも、それが実施されたことは、京都柳原町地割の文書に証拠があります。秀吉が測地に六尺三寸棹を使ったということもありますから、あるいは便宜上、京間六尺三分の二の端数を除いて、計算に都合よい六尺五寸棹を使うことが前からあったものかと思われます。しかして享保にはそれに合わすべく、偶然出合ったところの古尺を採用したのではありますまいか。なおこれはよく古文書などを調査して、研究を重ねたいと思いますが、同時に識者の高教を伺いたいと存じます。
 
         2006年8月5日(土)午前10時30分、入力終了