豐田八十代、萬葉集東歌研究、育英書院、1936.11.12
 
(1)      はしがき
 
 萬葉集は眞實味の多い歌集であるが、その中に於て、殊に眞實味に富み、情趣の深いのは十四の卷の東歌である。然るに、この卷には方言訛語を含むことが多く、古來難解とされてゐた點が少くなかつたのてある。著者は夙にこれか研究に志し、廣く實地を踏査して、地理を明にし、旁ら專門の諸大家について、動植物名を究め、更に土人について、方言を調査するとともに、東歌に關する文獻を渉獵して、ひたすらこれが檢討につとめた結果聊か得るところがあるやうに覺えるので、これを世に公にし、大方各位の御批判を仰ぐことゝしたのである。若し萬葉集闡明の一助ともならば、著者の本懷である。發行に際し、保科孝一内田清之助中西悟堂牧野富太郎の諸氏の御援助を得たことが多いので、こゝに深甚の謝意を表する。
  昭和十一年十月   東京青山の草廬に於て 著者しるす
 
(1)     目次
 
概説…………………………………………………………一
東歌
 上總國の雜歌一首………………………………………一
 下總國の雜歌一首………………………………………二
 常陸國の雜歌二首………………………………………三
 信濃國の雜歌一首………………………………………五
 遠江國の相聞往來の歌二首……………………………六
 駿河國の相聞往來の歌五首……………………………八
 伊豆國の相聞往來の歌一首…………………………一四
 相模國の相聞往來の歌十二首………………………一五
(2) 武藏國の相聞往來の歌九首………………………二八
 上總國の相聞往來の歌二首…………………………三八
 下總國の相聞往來の歌四首…………………………四〇
 常陸國の相聞往來の歌十首…………………………四四
 信濃國の相聞往來の歌四首…………………………五二
 上野國の相聞往來の歌二十二首……………………五六
 下野國の相聞往來の歌二首…………………………七六
 陸奥國の相聞往來の歌三首…………………………七九
 遠江國の譬喩歌一首…………………………………八一
 駿河國の譬喩歌一首…………………………………八二
 相模國の譬喩歌三首…………………………………八三
 上野國の譬喩歌三首…………………………………八七
 陸奥國の譬喩歌一首…………………………………九〇
(3) 未勘國の雜歌十七首………………………………九一
 未勘國の相聞往來の歌百十二首…………………一〇五
 未勘國の防人の歌五首……………………………一九二
 未勘國の譬喩歌五首………………………………一九五
 未勘國の挽歌一首…………………………………一九九
 
附録
 古今集に見えた東歌………………………………二〇一
 
(4)     圖版目次
 
 三三五一 筑波山の全景………………………………五
 三三六一 足柄山の地圖……………………………一六
 三三六二 足柄山……………………………………一九
 三三七〇 にこぐさ…………………………………二六
 三三七六 うけら……………………………………三二
 三三七八 いはゐづら………………………………三五
 三三八四 眞間の井…………………………………四一
 三四〇八 上野の地圖………………………………五六
 三四〇九 榛名湖……………………………………六三
 三四一五 こなぎ……………………………………六九
(5) 三四一七 莞………………………………………七一
 三四二四 佐野の船橋………………………………七三
 三四二四 こなら……………………………………七七
 三四三二 かつの木…………………………………八五
 三四六八 山鳥……………………………………一一六
 三五〇〇 紫草……………………………………一四二
 三五〇一 ひるむしろ……………………………一四三
 三五〇八 おきなぐさ……………………………一四九
 三五四七 味鳧《アヂカモ》……………………一七七
 三五七三 ゆづるは………………………………一九六
 三五七七 山すげ…………………………………二〇〇
 
(1)     概説
 
 萬葉集卷十四には、東歌と題して二百三十首の短歌が載せられてをる。多くは東國庶民の手に成つたものと考へられる。
 東歌には、國名の知られてゐるものと、知られてゐないものとがある。前者は雜歌が五首、相聞歌が七十六首、譬喩歌が九首で、國別に排列せられ、後者は雜歌が十七首、相聞歌が百十二首、防人歌が五首、譬喩歌が五首、挽歌が一首である。
 前者は更に之を國別にすれば、遠江三、駿河六、伊豆一、相模一五、武藏九、上總三、下總五、常陸一二、信濃五、上野二五、下野二、陸奥四で、排列の順序は、東海道は遠江より、東山道は信濃より東へ國順になつてゐる。
 これを綜合すると、東歌二百三十首の中、雜歌が二十二首、相聞歌が百八十八首、譬喩歌が十四昔、防人歌が五首、挽歌が一首となる。
(2) 更にこれを内容から考へると、東歌の大多數は戀愛歌で、その中男女の間によみかはされたものを相聞歌とし、物に寄せて心緒を述べたものを譬喩歌とし、その他を雜歌とし、更に防人歌と挽歌といふ部を立てたやうに思はれるが、この分類は正確ではない。防人歌は西海道の邊要の地を守る兵士の歌で、挽歌は哀傷の歌である。
 此等の東歌の多くは、東國の民謠と見るべきもので、方言訛言を交へることが多く、野趣に富み、何等の技巧もなく、眞摯にして、素朴なる情緒の率直に表現せられて、東國人の生活を反映したものが多い。
 東歌について特に注意すべきは、
  一、序詞の多いこと
  二、地名の多くよみこまれてゐること
  三、類歌の多いこと
  四、勞働歌の多いこと
である。
 
(3)   其の一 序詞の多いこと
 東歌二百三十首中、序詞を含むものが八十八首の多きに及んでゐる。これは民謠には眼前の景物に感興を發した現實的の歌の多いためである。例へば
  駿河の海|磯部《オシベ》に生ふる濱つゞら
     汝《イマシ》をたのみ母にたがひぬ
  相模路の淘綾《ヨロギ》の濱の眞砂なす
     兒等は愛《カナ》しく思はるゝかも
  上毛野佐野の船橋とり放し
     親はさくれど吾は放《サカ》るがへ
  春の野に草食む駒の口やまず
   吾《ア》を偲《しぬ》ぶらむ家の兒らはも
  比多《ヒダ》潟の磯の若布《ワカメ》の立ち亂え
     吾《ア》をか待つなも昨夜《キゾ》も今夜《コヨヒ》も
(4)  愛《カナ》し妹をいづち行かめと山菅の
     背向《ソガヒ》に宿《ネ》しく今し悔しも
の如き、いづれも眼前の景物を捕へ來つて、序詞としたものである。
 この轉は古代の支那の詩に比興の體の多いのに似てをる。詩經は賦比興の三つに分たれることは、人のよく知るところであるが興に屬するものは、いづれも眼前の景物を捉へたもので、次の諸篇の如きがそれである。
 關楓々(タル)雎鳩(ハ)。在(リ)2河之洲(ニ)1。窈窕(タル)淑女(ハ)。君子(ノ)好逑(ナリ)。
 葛之覃(ウテ)兮。施(ル)2于中谷(ニ)1。維葉萋々(タリ)。黄鳥于(ニ)飛(ビ)。集(ル)2于灌木(ニ)1。其(ノ)鳴(クコト)?々(タリ)。
 桃之夭々(タル)。灼々(タル)其(ノ)華。之(ノ)子于(ニ)歸(ガバ))。宜(シカラム)2其(ノ)室家(ニ)1。
 瞻(ルニ)2彼淇奥(ヲ)1。緑竹猗々(タリ)。有(ル)v匪君子。如(ク)v切(ルガ)如(ク)v磋(ルガ)。如(ク)v琢(ツカ)如(ク)v磨(クガ)。瑟(タリ)兮?(タリ)兮。赫(タリ)兮?輕兮。有v匪君子。終(ニ)不v可(カラ)v?(ル)兮。
 
   其二 地名の多くよみ込まれてゐること
(5) 東歌には、地名のよみ込まれてゐるのが非常に多い。コレは、地方色を濃厚ニ發揮せんがためであつて、木曾節に、「木曾の中由りさん」といふ語があり、おけさ節に、「佐渡の相川」と歌つてゐるのと同じである。これを他の地方人の手に成るものゝやうに説いてをる人があるのは大なる誤であらう。即ち
  なつそひく海上潟のおきつ洲に
     船はとゞめむ小夜ふけにけり
は上總の民謠であり、
  信濃なる千曲の川のさゞれいしも
     君しふみてば球とひろはむ
は信濃の民謠であり、
  常陸なる浪逆《ナサカ》の海の玉藻こそ
     引けば絶えすれ何《ア》どか絶えせむ
は常陸の民謠である。
(6) 東歌には又東國にない地名のよみこまれてゐるものがある、次の三首の如きはそれである。
  對馬の嶺は下雲《シタグモ》あらなふ上の嶺に
     たなびく雲を見つゝ偲ばも
  飛鳥川|下《シタ》濁れるを知らずして
     背《セナ》なと二人さ宿《ネ》て悔やしも
  飛鳥川|塞《セ》くと知りせば數多夜も
     率寢《ヰネ》て來ましを塞くと知りせば
 即ち前の一首は防人の歌であり、後の二首は大和地方の民謠が東國に傳誦せられたものと思はれる。
 
   其の三 類歌の多いこと
 東歌には非常に類歌が多い。それは民謠の性質として傳誦せられる間に、さま/\に歌ひかへられたものと見える。
 例へば、武藏歌で、
  入間路《イルマヂ》の大家《オホヤ》が原のいはゐづら
     引かばぬる/\吾《ア》にな絶えそね
とあるのが、上野歌では
  上毛野のかほやが沼のいはゐづら
     引かばねれつゝ吾をな絶えそね
となり、安房歌では
  安房をろのをろ田に生《オ》はるたはみづら
     引かばぬる/\吾《ア》に言な絶え
となつてをる類であるが、次に擧げる二組の歌どもも皆それである。
  霞ゐる富士の山びにわが來なば
     何方《イヅチ》向きてか妹が嘆かむ
  うゑ竹のもとさへとよみ出でていなば
(8)    いづち向きてか妹が歎かむ
  足柄の土肥《トヒ》の河内に出づる湯の
     世にもたよらにころが言はなくに
  筑波嶺のいはもとゞろにおつる水
     世にもたゆらにわが思はなくに
それは、現代の民謠の
  岐阜ははよいとこ金華山の麓
     小田の蛙を寢ちよつて聞いちよつた
ろいふ岐阜の民謠が土佐では
  土佐はよいとこ、南をうけて薩摩嵐がそよ/\と
こ歌ひかへられ、
  わたしや太島御神火育ち胸に煙の
     絶えやせぬ
(9)といふ大島節が、上總では
  わたしや九十九里荒磯育ち波も荒いが氣も荒い
と歌ひかへられ、
  磯で名所は大洗樣よ
     松が見えますほの/”\と
といふ磯節が、新潟では
  新潟戀しや白山樣の
     松が見えますほの/”\と
と歌ひへられてゐるのと一般である。
 
   其の四 勞働歌の多いこと
 東歌は又東國庶民の實生活を反映するところから、勞働歌と見るべきものが多い。次の歌どもはいづれもそれである。
(10)  稻《イネ》舂《ツ》けば皹《カヾ》る我が手を今宵《コヨヒ》もか
     殿の稚子《ワクゴ》が取りて嘆かむ
  麻苧《アサヲ》らを麻筒《ヲケ》に多《フスサ》に績《ウ》まずとも
     明白|來《キ》せざめやいざせ小床に
  金門田《カナトダ》を新掻《アラガ》きまゆみ日が照《ト》れば
     雨を待《マ》とのす君をと待とも
  岡によせ我が刈る草《カヤ》の狹萎草《サネガヤ》の
     まこと柔《ナゴヤ》は寢ろとへなかも
  左奈都良《サナツラ》の岡に粟蒔きかなしきが
     駒はたぐとも吾はそともはじ
  上毛野|安蘇《アソ》の眞麻屯《マソムラ》掻き抱き
     寢れど飽かぬを何《ア》どか吾がせむ
   ○
 
(11) 奈良朝は佛教の隆盛な時代で、人麿憶良旅人家持等の歌にはいづれも佛教思想の影響が多いのにもかゝはらず、東歌には全くその影響を見ないのは注意すべきことである。思ふに當時の佛教は教養ある人土の間に限られ、廣く民衆の間には行はれず、從つて、生々を尊び、光明を愛する國民性の根柢を憾すに至らなかつたのであらう。
 これに反し、東歌に多いのは、種々の俗信であつて、多くの占法が行はれてゐる。これは宇宙には偉大なる靈力のあるものとの信仰から來たものであらう。
 
      ○東歌に見えたる特殊なる語法
 
 萬葉集卷十四に見える東歌は二百三十首であるが、外に卷二十に見える防人の歌に、長歌が一首、短歌が九十二首あり、いづれも關東語をもつて歌はれてゐ渇るので、この防人歌をも、東歌の中に入れて考へることが出來る。
 これ等の東歌には、特殊なる語法が見えるのであるが、殊に注意すべきは、「ず」といふ打消の助動詞である。
(12) 「ず」といふ打消の助動詞は、東歌では、「なふ」となつてゐるのが多く、この「なふ」は、次のやうに活用したやうに思はれる。
 未然 連用       終止 連體 已然
 なは なに【又はなな】 なふ なへ なへ
○連用形はは、もと「なひ」であったのが、「なに」に轉じ、更に「なな」に轉じたのではあるまいか
 
     イ、未然形の例
 
  さ衣《ゴロモ》の小筑波嶺ろの山の岬
     忘ら來ばこそ汝を懸けなはめ          三三九四
  會津嶺の國をさ遠み逢はなはゞ
     偲ひにせもと紐結ばさね            三四二六
(13)  他妻《ヒトヅマ》と何《アゼ》かそを云はむ然らばか
     隣の衣《キヌ》を借りて着なはも        三四七二
 
     ロ、連用形の例
 
  何《ア》ぜといへか眞《サネ》に逢はなくに眞日《マヒ》暮れて
     夜《ヨヒ》なは來なに明けぬ時《シダ》來る   三四六一
  新田《ニヒタ》山|嶺《ネ》には着かなな吾によそり
     間《ハシ》なる兒らしあやに愛《カナ》しも   三四〇九
  白砌掘《シラトホ》ふ小新田山の守る山の
     末枯《ウラガレ》せなな常葉《トコハ》にもがも 三四三六
  惱《ナヤマ》しけ他妻《ヒトヅマ》かもよ漕ぐ舟の
     忘れは爲なないや思ひますに          三五五七
  わが門のかた山つばきまことなれ
(14)    わが手触れななつちにおちもかも       四四一八
  わがせなを筑紫へやりてうつくしみ
     おびは解かななあやにかもねも         四四二二
   ○これ等の「なに」「なな」は、いづれれも「ずして」の意であるから、連用形であることが、明であつて、高き嶺に雲のつくのすわれさへに君につきなな高嶺と思ひて」三五一四の「なな」とは、全く別である。
 
     ハ、終止形の例
 
  伎波都久《キハツク》の岡の莖韮《クヽミラ》我摘めど
     籠にも滿たなふ夫《セナ》と摘まさね      三四四四
  伊香保風《イカホカゼ》夜中吹き下し思ひどろ
     くまこそしつと忘れ爲《セ》なふも       三四一九
  對馬の嶺は下雲《シタグモ》あらなふ上の嶺に
(15)     たなびく雲を見つゝ偲ばも         三五一六
  水久君野《ミクヽヌ》に鴨の匍《ハ》ほ如《ノ》す兒ろが上に
     言《コト》おろはへて未だ宿《ネ》なふも    三五二五
  武藏野の小岫《ヲグキ》が雉《キヾシ》立ち別れ
     往《イ》にし宵より夫《セ》ろに逢はなふよ   三三七五
  月日はやすぐはゆけどもあもししが
     たまの姿は忘れせなふも            四三七八
 
     ニ、連體形の例
 
  晝解けば解けなへ紐の我が夫《セナ》に
     相依るとかも夜解けやすけ           三四八三
  等夜《トヤ》の野に兎ねらはりをさ/\も
     寢なへ兒ゆゑに母に嘖《コロ》ばえ       三五二九
(16)   眞久良我《マクラガ》の計我《コガ》の渡のから楫の
     音高しもよ寢なへ兒ゆゑに           三五五五
  遠しとふ故奈《コナ》の白峰に逢ほ時《シダ》も
     逢はのへ時《シダ》も汝にこそよされ      三四七八
の「解けなへ紐」は、「解けない紐」、「寢なへ兒」は、「寢ない兒」、「逢はなへ時《シダ》」は、「逢はない時《シダ》」である。
 これ等の対照により、私は今の「ない」といふ關東の打消の助動詞は、東歌に見える打消の連體形なる「なへ」が轉じたものと考へる。それは丁度關西語の「ん」が、「ぬ」から來たと同じ關係であらう。
 
     ホ、已然形の例
 
  まがなしみ寢れば言に出《ヅ》さねなへば
     心の緒ろに乘りてかなしも           三四六六
(17)  栲衾《タクブスマ》白山風《シラヤマカゼ》の宿《ネ》なへども子ろが
     襲着《オソキ》のあろこそ善《エ》しも     三五〇九
  眞小薦《マヲゴモ》の節《ヨ》の間近くて逢はなへば
     沖つ眞鴨の歎ぞわがする            三五二四
  韓衣《カラコロモ》襴《スソ》のうち交《カ》ひあはなへば
     ねなへの故に言痛《コチタ》かりつも      三四八二
   ○
 これ等の活用を明にしておくことは、東歌を解する上に大切なことである。
 
      ○東歌の蒐録者
 
 東歌の蒐録者については、種々の説があるが、東歌の範圍が東海道八ケ國東山道三ケ國陸奥一ケ國の廣きに及んでをるところから考へると、ある一地方の人の手によつて蒐録されたものとは思はれないのである。それでは、東歌の蒐録者は何人かといふに、
(18) 一、東歌によまれた地域が略々防人歌に一致してゐること、
 二、東歌中には防人の歌と思はれものが、二十五六首の多きに及ぶこと(三四五三、三四八〇、三五一六等)
 三、東歌中に防人歌の部類のあること
 四、東歌に上野相模武藏附近の歌の多いこと等
から考へると、和歌の蒐集に熱心なる大伴家持が天平勝寶七歳に防人歌を集録して、東國の民衆歌に非常なる興味を覺え、十九年の後相模守となつて、自ら東國に下るに及び、防人に關係のある人々に囑して、蒐集したと見るのが、合理的ではあるまいか。
 この推定に確實性を加へるものは用字法である。即ち十四の卷の歌の、一字一音式であることが、家持の集録と推定される十七、十八、十九、二十の卷々と一致してをるのは、同一人の蒐録に成るがためではあるまいか。
 
     ○東歌の註釋書
 
(19) 東歌は古來難解と稱せられてをる。從つてこれが註釋書も多い。今その重なるものを次に列擧する。
 萬葉集註釋      十册  僧仙覺
 萬葉拾穗抄     三十册  北村季吟
 萬葉代匠記    五十四册  僧契沖
 萬葉考      二十七册  賀茂眞淵
 萬葉集略解     三十册  橘千蔭
 萬葉集古義    九十五册  鹿持雅澄
 萬葉集新考      八册  井上通泰
 萬葉集全釋      六册  鴻巣盛廣
  以上は萬葉集全部を註釋せるもの
 萬葉集東語栞     一册  田中道麿
 萬葉集遠江歌考    一册  賀茂眞淵
(20) 上野歌解     二册  橋本直香
 東歌と防人歌     一册  松岡靜雄
 萬葉集東歌評釋    一册  中村烏堂
 東歌防人歌への一考察 一册  藤森朋夫
  以上は主として東歌を註釋せるもの
 
(1)   東歌
 
     雜歌
 
    この二字は、舊本にはないが、古義の説に從つて補ふことにした。
 
3348 奈都素妣久《ナツソヒク》 宇奈加美我多能《ウナカミガタノ》 於伎都渚爾《オキツスニ》 布禰波等杼米牟《フネハトドメム》 佐欲布氣爾家里《サヨフケニケリ》
 
【語釋】○奈都素妣久 海上《ウナカミ》の枕詞。夏日|麻《ソ》即ちあさを根から引き拔いて收穫する海上とかけたものと見える。昔はこの附近に多く麻を栽培したのであらう○海上潟は上總國市原郡|菟上《ウナカミ》の海灣を指す。こゝは一帶の遠淺である。
(2)【口譯】自分は遠く海の上に出て、今やうやくこゝに歸つて來たのである。家に殘しておいた妻や子はさぞ自分の歸りを待ちわびてをるであらうが、先憎汐がひいておる上に、夜がふけてしまつたから、今夜はこの海上潟の沖合の渚に舟をとどめて寢るこしたしよう。
【後記】調の高いよい歌で、夜泊の光景が目前に浮ぶ。遠くから歸つて來た漁夫の作であらう、卷七に「なつそひく海上潟のおきつ洲に鳥はすだけど、君は音もせず」といふのがあるが、それは凡對に夫の歸りを待ちわびる漁夫の妻の歌である。
  右の一首は上總國の歌
 
 
3349 可豆思加乃 麻萬能宇良末乎 許具布禰能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母〔以下振り仮名は問題のない限り省略する、また、今は「の」と読むのを「ぬ」と読んでいるところがあるが、これも注記しない、例、布(にぬ)、信濃(しなぬ)、入力者注〕
    右一首下総國歌
 
【語釋】○加豆思加は今の下總國東葛飾郡、眞間は眞間川の岸で、國府臺高地の岬崖に當つてをる。眞間は岬崖を意味する語である○宇良未は浦の彎曲したところ。宇良末は宇良未の誤で(3)あらう。
【口譯】今日は遠くから舟人等のかけ聲がにぎやかに聞えて來る。あれは葛飾の眞間の入江をさして歸る人々の聲にちがひない。急に風が出て、浪がたつので、それを押し切らうとしてをるのであらう。どうぞ夫《ヲツト》がはやく無事に歸つて見えればよいが。
【後記】夫の歸りを持つ漁夫の妻の歌であらう。海上から聞えて來るかけ聲に耳をそばだてゝゐる女の心もちが知られる。この歌は卷七に「風早の三穗の浦みをこぐ舟のふな人さわぐ浪たつらしも」とあるのに似てをる。どちらかゞ傳誦の際に改作されたものであらう。
  右の一首は下總國の歌
 
3350 筑波禰乃 爾比具波麻欲能 伎奴波安禮杼 伎美我美家思志 安夜爾伎保思母
    或本歌曰 多良知禰能 又云 安麻多伎保思母
 
(4)【語釋】筑波は誰も知る關東の名山であるが、この山の附近では昔から養蠶が盛に行はれたものと見えて、今も多く桑を栽培してをる。
【口譯】わたしもあの筑波山の麓に出來た新しい桑で飼つた繭から取つた美しい着物はもつてをりますが、それよりもあなたの御めしものゝやうなのが、むしやうに着て見たく思はれます。
【後記】これは京から下つて來てをる官人などの衣服の美しいのを見て、土人のよんだのであらうと、本居翁はいつてをる。この歌を戀心をよせたやうに説く人もあるが、舊説の方が穩である。
 或本の歌に、たらちねのとあるのは、母からいたゞいたといふ意であらう。
 
3351 筑波禰爾 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 爾努保佐流可母
 
(5)【語釋】布良留はふれるの訛○爾努はぬのの訛。○乎可母は然らむやの意。
【口譯】あの白く見えるのは、筑波山に雪が降つてゐるのであらうか。いやさうでないかも知れぬ。自分のいとしく思ふ娘《コ》が布を乾してゐるのであらうか。さても美しい景色であることよ。
【後記】筑波山に雪のふつてゐるのを遠望してよんだもので、かもといふ語を三つ重ねて、調子をはずませたところがおもしろい。
卷十に「わがそのゝすもゝの花か庭にちる。はだれのいまだ殘りたるかも」とあるのに似てをる。
  右の二首は常陸國の歌
 
3352 信濃奈流 須我能安良能爾 保登等藝須 奈久許惠伎氣婆 登伎須疑爾家里
 
(6)【語釋】須賀は信濃國東筑摩郡に在り、梓川と楢井《ナラヰ》川との間に在る曠野で、上高地の東南方に當つてをる。昔は人家も少い寂しい野原であつたのであらう。
【口譯】この寂しい須賀の野にも夏がおとづれて來て、あのやうに時鳥が鳴く。それにわが夫《ツマ》は未だ歸つて來られない。約束の時は過ぎてしまつてをるのに待遠なことある。
【後記】任務を了へて歸る夫を、今日か明日かと待ちこがれてゐる折しも、杜鵑の聲を聞いて悒々たる女の心の中が察せられる。民謠として多くの人々の共鳴を得たものであらう。この信濃なるを他郷人の語とする人があるが、それは當らない。
  右の一首は信濃國の歌
 
     相聞
 
3353 阿良多麻能 伎倍乃波也之爾 奈乎多※[氏/一]天 由吉可都麻思自 移乎佐伎太多尼
 
(7)【語釋】阿良多麻は遠江の郡名、今の麁玉の地であるが、この郡は今は廢せられ、その舊地域は引佐濱名磐田の三郡に分屬してゐる○伎倍は地名、柵戸、即ち城塞を守る民家の意で、今の貴平の地であらう○由吉可都麻思自は橋本進吉博士の説に從ひて、行きがつましじと訓みえ行きやらじの意とする○いをは、新考の説に從つて、いざの誤と見たい。
【口譯】おまへはこの伎倍の林まで、わたしを送つて來て、まだ名殘惜しげにたゝずんでゐるが、おまへをこゝにたゝせておいては、後髪《ウシロガミ》をひかれるやうな心ちがして、たつて行く氣になれないから、わたしより先に歸つてくれ、さあはやく。
【後記】本居翁は、これは男の旅立つ時妻の伎倍の林まで送り來ぬるに別るとて、男のよめるなりといつてをる。如何にもその通りであらう。伎倍は十一の卷璞のきべの竹垣云々とあるきべと同地である。
 
3354 伎倍比等乃 萬太良夫須麻爾 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許爾
 
(8)【語釋】萬太良夫須麻は斑衾即ちまだらの布でつくつた夜具○佐波太は多くの意。入りなましものは入りなましものをといふに同じ。上の三句は城柵人の斑布でつくつた夜具には綿がたくさんはいつてゐるといふので、入りといふ語にかゝる序である。特に城柵人といつたのは、この地方では棉のたくさんはいつた斑の衾が愛用されたものと思はれる。
【口譯】わたしは、あのふつくらと綿のはいつた夜具をのべた妻の床にはいつて、こゝろよく寢たいと思ふのに、これはまあ、どうしたことであらう。
【後記】これは何かさはることがあつて、妻と寢ることの出來ないのを歎いたのであらう。官能的の歌である。
  右の二首は遠江國の歌
 
3355 安麻乃波良 不自能之婆夜麻 己能久禮能 等伎由都利奈波 阿波受可母安良牟
 
(9)【語釋】天の原富士の柴山は大空にそぴゆる富士の柴山の意、柴山は小さい水のしげつた山のこと○己能久禮は木のまの小暗いこと○由都利はうつりの轉である。
【口譯】今は富士の麓の木々の茂り合ふに季節で、人目をしのんで女と會ふに都合のよい時である。それで久しくこゝに待つてをるのに、まだ戀人は來ない。どうしたのであらうか。こんなに時刻がうつては今日は會はれないかも知れん。
【後記】これは約束をした戀人を木の下で待ちわびてよんだ男の作であらう。天の原富士の柴山と大きく歌ひ出したところもおもしろく、逢はずかもあらむと八字句を用ひて、どつしりと言ひすゑたところもよい。時うつりは、この季節をはづしてはといふのではあるまい。
 
3356 不盡能禰乃 伊夜等保奈我伎 夜麻治乎毛 伊母我理登倍婆 氣爾餘婆受吉奴
 
【語釋】伊夜等保奈我伎山路とは、富士の裾野の非常に遠いのをいふ○によぶは呻《ウメ》くこと○け(10)は接頭語である。
【口譯】富土の裾野は行けども/\行きつくし難く、いつも苦しさにうめくのであるが、今日はわが妻の處へ行くのだと思ふと、心もかろく全く苦しさを忘れて來てしまつた。
【後記】かういふ想は後の民謠にも見え、「思うて通へば千里が一里、逢はず歸ればまた千里」などといふ類であるが、げによばずの一語が如何にも實感的である。
 
3357 可須美爲流 布時能夜麻備爾 和我伎奈婆 伊豆知武吉※[氏/一]加 伊毛我奈氣可牟
 
【語釋】可須美爲流は霞のたちこめること○山傍《ヤマビ》は山邊に同じ。
【口譯】自分の後を見送つて、妻が門べに立つてゐるが、わが家は次第/\に遠ざかつてゆく。もし自分があの霞の立ちこめてゐる富士の山べに來て見えないやうになり、方角がわからないやうになつたら、妻はどちらを向いて歎くであらうか。
(11)【後記】遠く旅立ちゆく男の歌で、ふりかへり/\家の方をながめつゝ行く男の心もちが、如實に表現せられてをる。この卷に「うゑ竹のもとさへとよみいでていな、いづち向きてか妹が歎かむ」といふ歌があるが、上の句は全くこの歌と同じである。
 
3358 佐奴良久波 多麻乃緒婆可里 古布良久波 布自能多可禰乃 奈流佐波能其登
 
【語釋】さ寢のさは接頭語○多麻乃緒即ち玉の緒といふ語は長い譬にも用ひ、短い譬にも用ひるが、こゝは短い方である○奈流佐波は甲斐國都留郡に在る。富士山西北の大壑の名で、劍が峯の西に當り、今大澤と呼んでをる。常に沙石の轉に下る聲が雷のやうであるといふので、この名がある。佐波とは、沼澤などの澤の意ではなく、壑《タニ》のことである。
【口譯】あの鳴澤は絶えず鳴りひゞいてゐるが、あの人と會ふのはほんの僅のまである。にもかゝはらず、あの人に想を懸け、明けても暮れても、戀ひこがれて、ことごとしく、胸をを(12)どらせてゐるのは、あの鳴澤のやうである。
【後記】この歌は夜がれがちなる男の心を疑ひつゝよんだものと見える。卷七に「潮滿てば入りぬる磯の草なれや見らく少く戀ふらくの多き」とあるのと同想の歌である。
 
或本歌曰 麻可奈思美 奴良久波思家良久 佐奈良久波 伊豆能多可禰能奈流佐波奈須與
 
【語釋】思家良久は古義の説の如く、しまらくの誤、佐奈良久は噂に立てられることをいふのであらう○伊豆の高嶺は日金山《ヒカネヤマ》(海拔二千六百尺)のことで、この山脈の中腹にあたる伊豆山神杜の東方に、今も鳴澤《ナルサハ》といふところがある。
 
一本歌曰 阿敝良久波 多麻能乎思家也 古布良久波 布自乃多可禰爾 布流由伎奈須毛
 
【語釋】しけや、眞淵は思家は次也及也、玉のをの如くといふに同じといつてをる○降る雪な(13)すよは、降る雪の如く、常止まず戀しく思ふぞとの意であらう。
 
3359 駿河能宇美 於思敝爾於布流 波麻都豆良 伊麻思乎多能美 波播爾多我比奴 一云 於夜爾多我比奴
 
【語釋】於思敝は磯速《イソベ》の訛。○波麻都豆良は濱べに生ずる蔓草である。特に濱つゞらといつたのは、濱邊に生ずる蔓草は上層の沙をとほして、深く土中から養分を取るので、根が非常に長く容易に拔けないためで、絶えざる譬とした心である。直接經驗から來たものと思はれる。
【口譯】ああ磯のほとりに生えてをる蔓草の根は長く絶えないものであるが、あなたの心も、この蔓草のやうにいつまでも絶えることはあるまいと頼みにしてゐたために到頭おつかさんの心に背いてしまつた。おかつさんに對してまことにすまないことである。
【後記】駿河の海邊に住む女の歌であらう。母にたがひぬといふ一語に、しほらしい女の心もちが見える。
(141)     右の五首は駿河國の歌
 
3360 伊豆乃宇美爾 多都思良奈美能 安里都追毛 都藝奈牟毛能乎 美太禮志米梅楊
 
【語釋】伊豆の海といふのは、どのあたりを指すのであらうか。自分の實地踏査するところによると、箱根山の舊街道から熱海あたりの海面を望んだところが殊におもしろい。彼の實朝が「箱根路をわがこえ來れば、伊豆の海や沖の小島に浪のよる見ゆ」と歌つたのもこのあたりで、沖の小島とは初島のことである○伊豆の海に立つ白波のはつぎなむにかゝる序、在りつゝはかくながらへての意○繼ぎなむは繼ぎて逢はうとの意、亂れしめやは亂れそめめやの意である。
【口譯】あの伊豆の海にたつ白波を見てゐると、あとから/\とまき起つて來て、いつまでも絶えることがない。自分もあの波のやうにいつまでもながらへて、繼ぎ/\て會ひたいと思(15)ふのであるから、一時心にそはぬことがあつても、心をとりみだすやうなことは致しますまい。
【後記】海面にたち來る浪を見て、やゝともすると疑惑を生じやすい自らをはげまさうとする女の歌である。
 
或本歌曰 之良久毛能 多延都追母 都我牟等母倍也 美太禮曾米家武
 
【語釋】つがむともへや、繼がむと思へばこその意
  右の一首は伊豆國の歌
 
3361 安思我良能 乎※[氏/一]毛許乃母爾 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 許呂安禮比毛等久
 
(15)【語釋】乎※[氏/一]毛許乃母は遠方此方《ヲチモコノモ》で、あちらこちらの意○佐須和奈は小鳥などを捕るために張る罠即ち網のこと○可奈流麻は囂しく鳴ること、小鳥などが網に近く來て.さわぐのをいふ。麻は新考に意味のない助辭であらうとあるのに從ひたい○之豆美はしづまりの約である。
【口澤】足柄のあちらこちらに張つてある罠に近く來てきわぐ鳥の音もしづまり、夜もふけたから自分は下紐をといて女と共寢をする。
【後記】足柄山中に於ける深夜の情景のしのばれる歌である。足柄山には今も小鳥が多く、いつも木の間に小鳥の聲がおもしろくひゞいてゐるが、昔はこの小鳥を捕るためにあちらでもこちらでも、罠をはつたのであらう。罠といふのは、古事記の神武天皇の御製に、「宇陀の(17)高城にしぎわなはる」とあるわなと阿じく、鳥網のことと思はれる。鳥が一つの谷から他の谷へ移るには交通路が大體きまつてゐるから、獵師は、そこに網を張つておいて捕獲するのが常である。
 
3362 相模禰乃 乎美禰見所久思 和須禮久流 伊毛我名欲妣※[氏/一] 吾乎禰之奈久奈
 
【語釋】相模峯は今の大山即ち雨降《アフリ》神社のある山であらうと本居翁はいつてをる。相模峯といつて、更に小峯といつたのは、筑波嶺の嶺ろと同例である○見所久思は見|過《スゴ》しの意○妹が名よびてはわが妻の名に通ふ語を口にすること、横井也有の旅の賦に「そこの下人を孫平とは我が伯母聟の名なるものをと、ふと故郷の戀しき折もあるべし」とあるに似てをる○奈久奈は、聲をたてゝ泣かしむる勿れといふに同じい。
【口譯】旅に出て、今ははや相模峯をも過ぎ、やう/\家の戀しさをも忘れようとしてをるの(18)に、わが妻の名に通ふ語を口に出して、わが家のことを思ひ出して泣かせてくれるな。
【後記】防人の歌ではあるまいか。
 
或本歌曰 武蔵禰能 乎美禰見可久思 和須禮遊久 伎美我名可氣※[氏/一] 安乎禰思奈久流
 
【語釋】武藏峯は秩父の連山である○奈久流は泣かするの約まり。
 
3363 和我世古乎 夜麻登敝夜利※[氏/一] 麻都之太須 安思我良夜麻乃 須疑乃木能末可
 
【語釋】足柄山は相模國足柄上郡に在り。杉の木が多く、最乘寺のあたりは今も鬱蒼たる杉林であるが、昔から杉が多かつたものと見える。麻都之太須は待ち立つの轉○木能末可は木のまにの誤であらうといふ新考の説に從ひたい。
(19)【口譯】わが夫《ツマ》は誘惑の多い大和へいつてをられるが、もう歸つて來られさうなものだと、毎日/\待ちこがれてをるのに、一向たよりがない。それで、そつと家を出て、杉林まで來て、今日も木のまで待ちくらしてゐる。待ち遠なことであるよ。
【後記】一日千秋の思ひをして、夫の歸りを待ちわびる女の心もちが卒直に表現されてゐる。大和への一句に大なる不安のこもつてゐることはいふまでもなからう。
 
3364 安思我良能 波姑禰乃夜麻爾 安波麻吉※[氏/一] 實登波奈禮留乎 阿波奈久毛安夜思
 
(20)【語釋】足柄の箱根の山といつたのは、足柄はこの地方の總名であるからである○粟まきは逢はなくにかけたのであるが、歌序ではない。
【口譯】わが夫はこのまいた粟の實る頃までには歸つて來るといつて、遠く旅だつたのであるが、今ははや粟も熟し實になつてしまつたのに、まだ逢ふことの出來ないのは不思議である。
【後記】これも夫の歸りを待ちわびる女の歌で、あやしの一語に煩悶の情がよく現れ、粟まきてといつて、逢はなくもといつたところに聲調の美がある。箱根地方には今も粟を栽培するところの多いのは地味に適するものと見える。
 この歌は前に擧げた「信濃なる須賀の荒野にほとゝぎす鳴く聲聞けば時過ぎにけり」とあるのに似、景によつて情を起した點は同一である。
 
或本歌末句云 波布久受能 比可波與利己禰 思多奈保那保爾
 
【語釋】下は心のこと。奈保那保爾はすなほにの意である。
 
(21)3365 可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍 伎 已許呂波母多自
 
【語釋】美湖之能崎は仙覺抄には「今の腰越をいひけるとなん申す。昔も石の弱くてくづれけるにや」とある。この腰越を今の小動《コユルギ》の崎にあてる人もあり、稻村が崎にあてる人もあるが、鎌倉大觀には「長谷の東部を流るゝ稻瀬川の東に聳ゆる高き山を御輿が嶽とも見越が嶽とも御輿が崎ともいふ。」といつてをる○いはくえは岩崩《イハクヅレ》である。此處の岩崩は名高かつたものと見えて相模風土記の逸文にも「鎌倉郡見越崎、毎《ツネ》に速浪あり。石を崩す。人名づけて伊曾布利《イソブリ》といふ。」とみえてをる。いはくえのまでは、くゆべきといはむための序である。
【口譯】そなたはまだ私を疑つてゐられるやうであるが、私はそなたが後に悔ゆべきやうな心をもちませんから、安心をして、私をお恃みなさい。
【後記】疑念をすてない女に對する男の誓約の歌である。
 
(22)3366 麻可奈思美 佐禰爾和波由久 可麻久良能 美奈能瀬河泊爾 思保美都奈武賀
 
【語釋】麻可奈思美は、かはゆさにといふに同じい。まは接頭語○美奈菜能瀬川は大佛の東を流れてをる川で、今もその川を稻瀬川とも水無瀬川ともいつてをる。美都奈武はみつらむの訛、らをなに訛るのは、東歌にその例が多い。
【口譯】かはゆさに堪へかね、早く女と寢ようと思つて出かけたのであるが、潮時はどうであらうか。美奈の瀬川に今頃は潮がさして來てはをるまいか。心がかりなことである。
【後記】水無瀬川を渡つて、女の家へ通ふ男が途中で詠んだのであらう。
 
3367 母毛豆思麻 安之我良乎夫禰 安流吉於保美 目許曾可流良米 已許呂波毛倍杼
 
(23)【語釋】安之我良乎夫禰 足柄山の杉は古來船材として賞用せられたのであるが、その杉でつくつたのが足柄小舟である。相模風土記には「足柄山はこの山の杉の木をとりて舟を造るに足の輕きこと他の材にて作れる舟に異なり。よりて足輕山と名づけたり云々。」と見えてをる○母毛豆思麻は數多き島をいふ○上の二句はあるきおほみといはむための序である○目許曾可流良米は目こそ疎《カ》るらめで、男の打絶えて來ないのをいふ。
【口譯】あの人の心にはかはりはない。今も深くわたしを愛してゐて下さるにちがひない。それだのに、このやうに打絶えて見えないのは用事が多く、足柄小舟のやうにあちらこちらへと歩きまはつてをられるためであらう。氣のもめることである。
【後記】男の來ないのを思ひわづらひつゝ、強ひて心を慰めようとしてよんだものと見える。
 
3368 阿之我利能 刀比能可布知爾 伊豆流湯能 余爾母多欲良爾 故呂河伊波奈久爾
 
(24)【語釋】阿之我利は足柄《アシガラ》に同じい○刀比は今の湯河原の地、土肥村に屬する。藤木川の谿谷で、温泉が到る處に湧き、湯の量が豐富である。昔はこの川を土肥川といつたものと見える○河内は谿谷の内のこと○よにもは、ひどくといふはどの意○多欲良は、ゆた/\と漂うて、どちらにもつかず、心の定まらないこと○湯のまでは、たよらにといはむための序で、温泉の滿ち湛へて寛《ユタ》かにたつぷりとしてゐる意にいひかけたのである。
【口譯】あの娘はたしかに自分と言ひかはしたのである。心のゆた/\として定まらないやうには言はなかつたのに、自分は今更何を疑つて、かくさま/”\に物思をするのであらうか。
【後記】湯の量の豐富な刀比の温泉に浴しつ、女の心に疑をもつ男の詠んだのであらう。たよらにといふ語のつかひざまは、常陸歌に「筑波嶺のいはもとどろにおつる水世にもたゆらにわが思はなくに」とあると同じである。
 
3369 阿之我利乃 麻萬能古須氣乃 須我麻久良 安是加麻可左武 許呂勢多麻久良
 
(25)【語釋】麻萬は地名と見たい。足柄の北に接し、酒勾川の右岸に   唖下《マヽシタ》といふ地がある。元來まゝに斷崖のことであるから、斷崖の下といふ意であらう○あぜかは何故《ナゼ》といふに同じい○菅枕は今も世間に多く用ひられてをるが、この時代にはこの枕が普通であつたものと見える。
【口譯】こゝにあの麻萬から取つて來た菅でこしらへた枕もあるが、それよりはこのわたしの手を枕にして、一緒に寢ませうよ。
【後記】露骨に眞情を吐露したところがおもろい。野趣にみちた、男の歌である。
 
3370 安思我里乃 波故禰能禰呂乃 爾古具佐能 波奈都豆麻奈禮也 比母登可受禰牟
 
【語釋】ねろのろは添辭○爾古具佐は、はこねしだともいふ。しのぶに似て小さく、葉が細く莖に紫色の光があり、莖が堅い。山地殊にけはしい崖に多い羊齒《シダ》で、四時凋むことなく、春時の新葉は紅色を帶びて、頗る雅趣に富み、今も箱根山中に多く野生してをる。かはいらし(26)いやさしい事であるから、花といはむための序としたのであらう○奈禮也は、なればにやの意。
【口譯】なぜそなたは、さう恥しがるのであるか。花嫁でもないのに、いつまでもさう改まるに及ばんではないか。はやく下紐を解いて寢ませうよ。
【後記】古義に「此の歌ははやく婚《ア》ひたる女のなほ恥しがりて、紐解きがてにする時男のよめるなるべし。」といつてをるが、いかにも適切な解釋である。
 
3371 安思我良乃 美佐可加思古美 久毛利欲能 阿我志多婆倍乎 許知※[氏/一]都流可毛
 
(27)【語釋】足柄の御坂は足柄峠で、矢倉驛から、竹の下に達する坂路である。可思古美は嶮しさにといふに同じ○久毛利欲能は、したばへの枕詞。志多婆倍は、下延《シタバヘ》の意で、心の中にかくしてゐる感情をいふ○許知※[氏/一]は言《コト》いでの略。
【口譯】これまでは、妻のことを心のうちに思ひつゝも、口には出さなかつたのであるが.足柄山の坂路のあまりの嶮しさに妻と一緒ならばなどと考へ、覺えずわが妻のことを口に出してしまつたわい。
【後記】これは實感をそのまゝに表現したもので、十五の巻に、「かしこみと告らずありしをみ越路のたむけに立ちて妹が名のりつ」とあるのに似た歌である。新考に「倭建命が阿豆麻波夜と嘆きたまひし事も聯想せらる。」とあるのもおもしろい。
 
3372 相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛
 
(28)【語釋】余呂伎《ヨロギ》は相模國中部に在り。今の國府村にあたり、大磯附近である。この一帶の海岸の松青く沙白く、風光の明媚なることは人のよく知るところであるが、特に余呂伎の濱をとり出したのは、この地は沙の美しさが殊に人目をひくからであらう○麻奈胡奈須は眞砂の如くの意で、可憐な女を美しい眞砂にたとへたのである。
【口譯】この余呂伎《ヨロギ》の濱の眞砂はいかにも美しいが、この砂の美しいのを見るにつけ、家に殘して來た眞砂のやうに美しい妻がかはゆらしく思はれる。
【後記】これは余呂伎の濱を歩みつゝ行く男のよんだものであらう。
     右の十二首は相模國の歌
 
3373 多麻河泊爾 左良須※[氏/一]豆久利 佐良左良爾 奈仁曾許能兒乃 已許太可奈之伎
 
【語釋】多摩川は武藏國に在り、西多摩郡に發源し、東京市の西を流れ、羽田の南に至り、海(29)に注いでをる。日本六玉川の一で、其の水極めて清く、鮎獵を以て名高い。武藏風土記に「里人作2調布1納2内藏寮1。」とある通り、昔はこの沿岸で多く布を作り、河水に晒して、官に納めたのである○※[氏/一]豆久利は手織の布である○上の三句はさら/\といはむための序○佐良佐良爾は新《さら》に/\の意で、手づくりの布を水に晒せば晒すほど美しさを加へるごとく、なじみを重ねれば重ねるほど、女のかはゆさの増すことをいつたのである○己許太は、ひどくとかむしやうにとかいふ程の意。
【口譯】自分はどうしてまあ、このやうに新《さら》に/\限りなく、この娘がむしやうにかはいのであらうか。
【後記】これは次第に高まりゆく、熱情を、手づくりの布によせて、卒直に、しかも力強く歌つたものである。上の三句の構造は卷一に「巨勢山のつら/\椿つら/\に見つゝ思ふな巨勢の春野を」とあるのに似てをる。
 
3374 武蔵野爾 宇良敝可多也伎 麻左※[氏/一]爾毛 乃良奴伎美我名 (30)宇良爾低爾家里
 
【語釋】宇良敝は占《ウラ》、可多也伎は肩灼で、武蔵野の鹿の肩骨を燒いて占ふ太占《フトウラ》である。武藏野にさういふ占をするものがあつたと見える。和名妙に豐島郡|占方《ウラカタ》郷とあるのはそれに闘係があるのではあるまいか○麻左※[氏/一]爾毛乃良奴は、確に言はないの意。
【口譯】これまでは、あなたの名を堅く/\隱しておいたのに、わたしの親が武藏野の鹿の肩を取つて灼いて、占をしましたので隱しておいたあなたの名が、到頭|卜兆《ウラカタ》に現れてしまひました。すまぬことであります。
【後記】新考に「この歌は女の作にて、其女に男ありて、子孕みなどせるより、親が男の名を責め問へど、白状せざれば、武藏野なる卜師の許に率てゆきて占《ウラナ》はせしに、男の名の卜兆《ウラカタ》にあらはれし趣なり」とあるのは、おもしろい解釋である、
 
3375 武蔵野乃 乎具奇我吉藝志 多知和可禮 伊爾之與比欲利 (31)世呂爾安波奈布與
 
【語釋】乎具奇は小岫、小は接頭語、岫《クキ》は洞のこと、上の三句は立ち別れといはむための序である。雉は洞穴のあるところに棲むとは限らないが、これは所謂純然たる寫生の歌で、女の家から男の歸つてゆく野路にある洞穴のあたりから、あわたゞしく雉の飛び立つたその夜の光景を思ひおこしてよんだのであらう○安波奈布は、逢はぬといふと同意の東國語で、このなふといふ語は、なは・なな・なふ・なへ・なへと活用してをる。
【口譯】わが戀人はあの宵にあわたゞしく立つて往つたきり、一向に顔を見せないが一體どうしたのであらうか。
【後記】これは、久しくおとづれない男の心を疑つて、思ひわづらふ女の歌と思はれる。
 
3376 古非思家波 素※[氏/一]毛布良武乎 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 伊呂爾豆奈由米
 
(32)【語釋】朮《ウケラ》は山野に自生する多年生草本で、今も東京近郊の森かげなどに多く野生してをる。莖の高さが一二尺、秋になると、白みを帶びた頭状花を開くのであるが、その色が萼に似て一向に目だたないので、萬葉人は色に出ないめづらしい花として詠んだのである。朮の花のは色に出づまでにかゝるのではなく色にいづなゆめまでにかゝつてゐるのである。古非思家波は戀しからばの意。
【口譯】そなたが私を戀しく思ふならば、袖をふつて慰めもしよう程に、あのうけらが花の色に出ないやうに顔色に出して、人に知られないやうになさい。
【後記】東歌にはこの外に朮をよんだのが三首ある。いづれも色に出ない花としてよんだものであることは、「あがせこをあどかもいはむ牟射志《ムザシ》野の宇氣良が花の時なきものを」とある(33)によつても明である。それで、仙覺の萬葉抄にもこひしけば云々の歌を釋して、「うけらが花は心よくもひらけずしてはつるものなれば色にいづなゆめとよそふるなり。」といつてをる。然るに近頃續出する萬葉の註釋書の中には略解や古義の誤を踏襲して、「武藏野にはいりに出る赤い朮があつて、それをよんだのであらう」などといつてをるものゝあるのは誤である。牧野富太郎氏の話によると武藏野にも稀には赤い朮があるが、色に出るといふやうな顯著な花ではないといふことである。
 
或本歌曰 伊可爾思※[氏/一] 古非波可伊毛爾 武蔵野乃 宇家良我波奈乃 伊呂爾低受安良牟
 
【口譯】どういふ風にして、戀をしたたらば、武藏野のうけらが花のやうに顔色に出ないでをるであらうか。
【後記】或本の歌とあるけれども、全く別の歌であらう。
 
3377 武蔵野乃 久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻爾末爾 (34)吾者余利爾思乎
 
【語釋】武藏野といへば、利根川以南秩父以東、相模野に連る茫々たる平野を聯想せしめるが、昔はこのあたりは一帶の草原であつたのである。作者はこの草原が風のまに/\あちらへ靡き、こちらへ靡きする光景を見て、草は諸向と歌ひ出したのであらう。諸向はあちらへもこちらへも依り向ふことである。
【口譯】私はあの武藏野の草の如く、あなたの心のまゝに.身を委せて依りなびいてゐるのに、貴方《アナタ》はなぜこのやうに私を疑はれるのでありませうか。
【後記】これはうち解け難い男を恨んだ女の歌であらう。
 
3378 伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波爲都良 比可婆奴流奴流 和爾奈多要曾禰
 
(35)【語釋】入間は武藏の郡名、伊利麻治は入間郡に在る路の意。大家《オホヤ》が原は今の大井村の地である○いはゐづらは馬齒?《スベリヒユ》のことだといふことである。小野蘭山の本草綱目啓蒙に馬齒?の伯州方言にいはゐづらといふのが見えてをる○奴流奴流はやはらかに靡きよる貌。
【口譯】あの入間郡の道にある大家が原に多く野生してゐるいはゐづらの引くに從つてより來るやうに、私が引くならば、あなたもすなほに私により靡いて、中の絶えないやうになさい。
【後記】うぶな處女によみかけたものと見える。次の二首はこの歌の類歌であるが、地方により、いろ/\に歌ひかへられたものと見える。上野《カミツケノ》かほやが沼のいはゐづら引かばぬれつゝ吾をな絶えそね。(36)安房をろのをろ田に生はるたはみづら引かばぬる/\吾に言な絶え。
 
3379 和我世故乎 安抒可母伊波武 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎
 
【語釋】安抒可母伊波武は何とかも言はむで、何とも言葉に言ひ表しやうがないの意○武藏野の朮が花のは、時なきまでにかゝる譬喩。時なきは、いつも色をかへないのをいふ。
【口譯】けふはなぜまあ此のやうにあの人が戀しいのであらうか。あの人の戀しさは何とも言葉に言ひ表しやうがない、あの朮が花のいつも色をかへないやうに、わたしの戀はいつもかはらないのに。
【後記】あどかも音はむの一語に、抑へ難い熱情か力強く表現されてゐる。
 
3380 佐吉多萬能 津爾乎流布禰乃 可是乎伊多美 都奈波多由登(37)毛 許登奈多延曾禰
 
【語釋】佐吉多萬能津は埼玉郡の海邊の船つき場である。考古學者の説によると、石器時代には東京灣が遙か北方にのびて、今の杉戸《スギド》幸手《サツテ》のあたりまで入りこんでゐたといふことであるが、萬葉時代にも今の南北埼玉郡のたりは大利根の下流をうけて、入海のやうになつてゐたのであらう。このあたりは昔から風が強く、船の綱のきれることが多かつたものと見える。風をいたみは、風がはげしいによつての意。
【口譯】この埼玉の津に碇泊してゐる舟の、風のはげしいために綱の絶えるやうに、われ/\二人の中の絶えることがあつても、せめては音信だけなりとも絶えないやうにして下さい。
【後記】これは親兄弟などの中に二人の中をさかうとするもののある折ふし、遠は旅立つ男を船つき場まで送つて來た女のよんだのではあるまいか。
 
3381 奈都蘇妣久 宇奈比乎左之※[氏/一] 等夫登利乃 伊多良武等曾與 (38)阿我之多波倍思
 
【語釋】夏麻《ナツソ》ひは宇奈比の枕詞○宇奈比は武藏國の地名であらう○飛ぶ鳥のまでは、到らむの序○下ばへは心のうちに思ふこと。
【口譯】わたくしは彼の宇奈比を指して飛ぶ鳥のやうにそなたのところへ行かうと心組んでゐたのに。
【後記】これは何かさはることがあつて、女のところへ申し送つた男の歌と思はれる。
     右の九首は武藏國の歌
 
3382 宇麻具多能 禰呂乃佐左葉能 都由思母能 奴禮※[氏/一]和伎奈婆 汝者故布婆曾毛
 
【語釋】宇麻具多能禰呂は.上總國|望陀《ウマグタ》郡(今市原郡に入る)駒形村東方の丘陵であらう。望(39)陀は古くは馬來田と記したのである○露霜のは露霜にの誤か○鯉ふばぞもは戀ひるであらうぞの意であらう。
【口譯】あの馬來田の嶺の篠の葉の露も朝の寒さに霜になつてをる。その露霜《ツユジモ》にすそをぬらしつゝ越えて行かねばならぬが、わたしがそこを越えて來てしまったならば、後《アト》に殘つたそなたはわたしを戀ひこがれて、どんなに淋しく思ふであらうか。
【後記】旅に立たうとする男の歌と見える。
 
3383 宇麻具多能 禰呂爾可久里爲 可久太爾毛 久爾乃登保可婆 奈我目保里勢牟
 
【語釋】登保可婆は、遠からばの約まり。
【口約】自分はまだ遠くは來てゐない。やうやく馬來田の嶺のために、わが家が見えなくなつたばかりのことであるのに、このやうにこひしくては、これから遠く離れてしまつたたらば、(40)どんなにそなたが、戀しいことであらう。
【後記】この歌は前の歌とともに旅の歌であるが、前のは妻に別れむとしてよんだもの、これは馬來田の嶺を越えてよんだものであらう。古義に「歌の意は望多の一(ト)嶺に隱れ居つゝかくてさへも、いと家戀しく思はるゝを、いよ/\國を放《サカ》りなば幾許か妹が目を見まく欲せむといふなるべし、第三第四の句の間へ言を添へて意得べし。聊かいひたらはぬやうなれど、右の意ならではきこえがたし。」といつてをるのは、穩當な解釋である。
     右の二首は上總國の歌
 
3384 可都思加能 麻末能手兒奈乎 麻許登可聞 和禮爾余須等布 麻末乃※[氏/一]胡奈乎
 
【語釋】眞間は下總國東葛飾郡に在り、眞間川の岸で、國府臺の岬崖に當つてをる。手古名は(41)こゝに住まつてゐたといふ美人である。今千葉縣市川市弘法寺の南に千古奈堂といふのがあり、その傍の碑に赤人短歌を刻んでをり、又その附近に手古奈の井といふのもある。
【口譯】まあ何といふうれしいことであらう。あの眞間の手古名をおれにとりもつてくれるといふが、ほんたうであらうか。あの眞間の手古名を。
【後記】このあたりに住む若い男の歌と見える。眞間の手古名をといふ語を二度くりかへしたところに強い喜がみえる。卷二にある「われはもよ安見兒得たり世の人の得がてにすといふ安見兒得たり」といふのと並べ見るべき作である。
 
(42)3385 可豆思賀能 麻萬能手兒奈我 安里之可婆 麻末乃於須比爾 奈美毛登杼呂爾
 
【語釋】於須比は磯邊《イソベ》の訛○奈美毛登杼呂爾は、波もとゞろくばかりにの意で、瀧もとゞろに、宮もとゞろにといふに似てをる。眞間は今は海岸から餘程の距離があるが、上古はこのあたりまで波がうちよませてぬたものと見える。
【口譯】こゝに彼の有名な眞間の手古名がゐたので、この海岸に慕ひより來る人の船が多く、波もとゞろくばかりであつた。
【後記】多くの若い男子の心をひきつけた手古名のことを誇張して歌つたものであらう。
 
3386 爾保杼里能 可豆思加和世乎 爾倍須登毛 曾能可奈之伎乎 刀爾多※[氏/一]米也母
(43)【語釋】爾保杼里能は鳰鳥《ニホトリ》ので、葛飾の枕詞、鳰は水を潜《カヅ》くものであるから、鳰鳥のかづくといふを、葛飾にかけたのである○葛飾は早稻の産地○饗《ニヘ》すとは、袖中抄に「田舍に始て早稻を刈りて物して、里隣の者集りて食ふをば、にへすと云ふなり。」といつてをる○刀《ト》は外である。
【口譯】今日は新饗《ニヒナヘ》で、忌みつゝしむべき日であるが、たとひ門はとざしてゐても、あのいとしい御方がみえたならば、外に立たせておかれませうか。
【後記】強い熱情のこもつた女の歌である。眞淵が、「鳰鳥のかつしか早稻のにひしぼり酌みつゝをれば月傾きぬ」と詠んでゐるのは、この上の句を取つたのであらう。
 
3387 安能於登世受 由可牟古馬母我 可都思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟
 
【語釋】都藝波思は、柱を立てゝ上に板をつぎわたし、幾つもの橋を繼ぎたしたやうに見える(44)橋で、眞間の入江に架けてあつたものと思はれる。眞間は今は大層地形がかはつてゐるが、昔は今の眞間小學校のあたりまで入海であつたのであらう。
【口譯】足音をたてないであるく駒がほしいものである。さういふ駒があれば、人に知られないうに、眞間の繼橋を絶えず渡つて、手古名のところへ通はう。
【後記】里の若い男の歌である。
     右の四首は下總の歌
 
3388 筑波禰乃 禰呂爾可須美爲 須宜可提爾 伊伎豆久伎美乎 爲禰※[氏/一]夜良佐禰
 
【語釋】上の二句は過ぎといはむ爲の序、霞のはれることを「すぎる」といふので、過ぎといふ語にかけたのである。○過ぎがてには、過ぎあへずの意、がては敢てすることである○息づくは、戀にあへぐこと○爲禰※[氏/一]夜良佐禰は、率て共に寢て行かしめよとの意である。
(45)【口譯】あの男君はあなたを思ひつめ、戀にあへぎつゝ、この門前を行き過ぎあへずにいらつしやるから、内へよび入れて寢させておかへしなさい。
【後記】古義に「歌の意は、女の家のあたりを行く男の息づきて、過ぎがてにするを侍婢か又はさらぬかたへの女などの見て、いで内に引き入れて、率寢《ヰネ》て行《イナ》し給へよといへるなり。」といつてをるのが、よく當つてをる。
 
3389 伊毛我可度 伊夜等保曾吉奴 都久波夜麻 可久禮奴保刀爾 蘇提婆布利※[氏/一]奈
 
【語釋】布利※[氏/一]奈は、振りてむといふに同じい。
【口譯】わが妻の家はいよ/\遠くなつてしまつた。いますこし行くと、あの筑波山にかくれてしまふかも知れないから、山にかくれないうちに袖をふつて、名殘を惜んで行くことにしよう。
(46)【後記】遠く旅立つ男の歌であらう。「いや遠ぞきぬ」とあるによつて、幾度もふりかへり見たことがわかる。
 
3390 筑波禰爾 可加奈久和之能 禰乃未乎可 奈伎和多里南牟 安布登波奈思爾
 
【語釋】上の二句は音のみといはむ爲の有心の序である。當時筑波山には鷲が棲んでゐたものと見える。筑波志によると、明治三十年の頃にも鷲が巣をつくつたといふことである。
【口譯】私はかうしてあの筑波山で、がく/\と鳴いてゐる鷲のやうに聲をあげてなきくらすことであらうか、いつまでも戀人に逢ふことは出來ないで。
【後記】戀に破れた言ひ知れぬ哀感のこもつた歌である。
 
3391 筑波禰爾 曾我比爾美由流 安之保夜麻 安志可流登我毛 (47)左禰見延奈久爾
 
【語釋】葦穗山は常陸國眞壁郡に在り、筑波山の東北に當つてをる。上の二句はあしかるといはむ爲の序○曾我比爾は、うしろにの意。左禰は實《ジツ》にである○見延奈久は見せなくといふに同じい。
【口譯】わたくしは、あの人の氣にそはないやうなことをして見せたことはないのに、どうしてこのやうに疎遠にされるのであらうか。
【後記】男の通はないやうになつたのを恨んで女の詠んだのであらう。
 
3392 筑波禰乃 伊波毛等杼呂爾 於都流美豆 代爾毛多由良爾 和家於毛波奈久爾
 
【語釋】上の三句はたゆらにといはむための序○落つる水は有名な男女《ミナ》の川のことで、女體山(48)頂に近い清水に發源し、男體山なる橘井の下流を合せ、  輕拓として澗底に落ち、末は櫻川に入つてをる。○多由良爾は、ゆた/\として、心の定まらぬことである。上の相模歌に「足柄の土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに兒ろが言はなくに」とあるに同じい。
【口譯】わたくしはあの筑波山の岩にとどろいておちる水のゆつたりとしてゐるやうに、氣長には思はないのに、なぜ早く逢ふことが出來ないのであらうか。
【後記】女の心に疑をもつ男の歌であらう。
 
3393 筑波禰乃 乎※[氏/一]毛許能母爾 毛利敝須惠 波播已毛禮杼母 多麻曾阿比爾家留
 
【語釋】上の句は守部すゑといはむ爲の序である。この守部を古義には鳥獣の番人とし、新考には山林盗伐の番人としてあるが、自分は橘の番人であらうと思ふ。筑波山は橘の名所で、二十の卷の防人の歌にも「橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を戀ひずかもあらむ」と見え(49)てをる上に、十の卷には、「橘を守部の里に妹をおきて」といふこともある○已毛禮のいは接頭語。
【口譯】筑波山のあちらこちらに橘の番人をすゑるやうに、母は番人をつけて、私を見守つてゐるのであるが、私の心は彼の人と一つになつてをるのであるから、何ともいたし方がない。
【後記】田舍處女の純情をありのまゝに披瀝した歌である。
 
3394 左其呂毛能 乎豆久波禰呂能 夜麻乃佐吉 和須良延許婆古曾 那乎可家奈波賣
 
【語釋】左其呂毛能け、小筑波の枕詞で、さ衣の緒とかゝつてゐる○小筑波のをは接頭語○忘らえ來ばこそは、忘られて來ばこその意○可家なはは、かけぬのぬを延ばして、かけなふとし、それを四段にはたらかせたのである○懸けは本居翁の説の如く、口にかけることである。「武藏根の小嶺見すぐし忘れゆく君が名かけて吾を音し泣くる。」とある「かけ」に同じ。
(50)【口譯】自分は筑波山の山の崎を行くにつけても、そなたのことが忘れられるならば、かうはしないが、忘れられねばこそこのやうにそなたの名を呼ぶのである。
【後記】筑波山の麓をめぐつて旅立つ男の歌である。かけるといふのは、十五の卷に「かしこみと告らずありしをみ越路のたむけに立ちて妹が名のりつ」とある「のり」と同じ意であらう。
 
3395 乎豆久波乃 禰呂爾都久多思 安比太欲波 佐波太奈利努乎 萬多禰天武可聞
 
【語釋】都久は月《ツキ》の訛○多思は立ちの訛○安比太は逢ひたるの約まりではあるまいか○佐波太は、多くの日數を經たのをいふ。
【口譯】彼の筑波山に月の昇るのを見ながら、一緒に寢てから、はや久しくなるが、いつになれば、また寢ることが出來るであらうか。
(51)【後記】女の家にやどつた月夜を思ひ出して詠んだ男の歌であらう。
 
3396 乎都久波乃 之氣吉許能麻欲 多都登利能 目由可汝乎見牟 左禰射良奈久爾
 
【語釋】上の三句は、目ゆかといはむ爲の序である○繁き木のまとしたのは、筑波山は欝蒼として鳥の姿のさだかに見え難いからであらう○許能麻欲は、木の間よりの意○目由は目にと同じく、目のみにの意と思はれる。
【口譯】自分は彼の女と同衾をしたことがないでもないのに、この頃はちらと見るばかりで、ゆつくりと逢ふことが出來ない。
【後記】契沖が「繁き木の際《ま》より立つ鳥は、さだかにも見えず立つものなれば」といつてをるのがおもしろい。
 
(52)3397 比多知奈流 奈左可能宇美乃 多麻毛許曾 比氣波多延須禮 阿杼可多延世武
 
【語釋】奈佐可は浪逆で鹿島郡に在り、今の北浦の南|與田《ヨタ》浦の東に當り、北利根の來會する江灣の稱である○阿杼可はなどかに同じ。
【口譯】この浪逆の海の玉藻は引つばれバ、絶えもするが、われら両人の關係はどうしてきれることがあらうか。
【後記】女にかきおくつた誓の歌であらう。
     右の十首は常陸國の歌
 
3398 比等未奈乃 許等波多由登毛 波爾思奈能 伊思井乃手兒我 許登奈多延曾禰
 
(53)【語釋】伊思井、和名妙に信濃國埴科郡磯部郷といふのがある。今の戸倉村の地である。郡郷考には石井を磯部の井かといつてをる。○手兒は、父母の手に養はれる愛子の意。
【口澤】世間の人からのたよりは、すつかり絶えてしまつても、いとしく思ふあの石井の手兒のたよりだけは絶えないやうにありたい。
【後記】つよい憧憬《アコガレ》の情の見える歌である。
 
3399 信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆禰爾 安思布麻之奈牟 久都波氣和我世
 
【語釋】今の墾道《ハリミチ》は新しく開通した道をいふに。續日本紀元明天皇の和銅六年秋七月戊辰の條に、美濃信濃二國之堺。徑道險阻。往還艱難。仍通2吉蘇路1。とあるのはこの路であらう○可里婆禰は竹木などの刈株《カリカブ》をいふ○布麻之牟奈は、踏ますなといふに同じく、踏み給ふ勿れの意である。
(54)【口譯】この信濃路は新に開通したばかりの道であるから、刈株でふみぬきをなさらないやうに履をおはきなさい。わが夫《ツマ》よ。
【後記】遠く旅立つ夫に贈つた歌であるが、足踏ましむなといつて、更に履著け我が夫といつてをるところに、深く夫を思ひやる濃やかなる愛情が見える。古事記の衣通姫の歌に「なつくさのあひねの濱のかきがひに足ふましむな。あかして通れ。」とあるのと同じ趣の歌である。
 
3400 信濃奈流 知具麻能河泊能 左射禮思母 伎彌之布美※[氏/一]婆 多麻等比呂波牟
 
【語釋】左射禮思は細石《サヾレイシ》○布美※[氏/一]婆埠は踏みたらばといふに同じ。
【口譯】あの筑摩の川の細石《サヾレイシ》も、いとしいあなたが御踏みになつたら、わたしは尊い玉として拾ひませう。
(55)【後記】戀人に封する熱愛がすべての物を美化するのである。
 
3401 中麻奈爾 宇伎乎流布禰能 許藝※[氏/一]奈婆 安布許等可多思 家布爾思安良受波
 
【語釋】中麻奈は未詳、古義には中志麻の誤ならむといつてをる。中志麻は信濃國水内郡に在り。今の河中島である。荒木田久老の信濃漫録には水内郡なる中俣ならむといつてをる。
【口譯】あの中麻奈に浮いておる船には、わが思ふ人が乘つてゐるのであるから、早くいつて逢つて來よう。船が出てしまつたたらば、二度と逢ふことは出來まい、今日でなくては。
【後記】舟に乘つて旅立たうとする夫を見送る女の歌である。今日にしあらずばの一句に窮迫の感か現れてゐる。
     右の四首は信濃國の歌
 
(56)3402 比能具禮爾 宇須比乃夜麻乎 古由流日波 勢奈能我素低母 佐夜爾布良思都
 
【語釋】勢奈能賀の能は助詞○佐夜爾布良思都は、清《サヤ》に振り給ひつの意。
【口譯】わが夫が碓氷の山を越える頃には、日がはや暮方になつてゐたが、夫もひどく名殘を惜んで、自分をふりかへりみつゝ、さやかに袖をふつてくれたのがうれしい。
【後記】旅立つ夫を見送り、夫の名殘を惜しむのを喜んだ女の歌である。上野から碓氷峠をこえ、中山道へ向つたのであらう。
 
(57)3403 安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於久母可奈思母
 
【語釋】伊利野は上野國多胡郡入野村の東なる黒熊村のあたりである○第三句は略解に「この草枕は枕詞ならず。旅のさまをいふ。」といつてをるが、其の通りで、草を去枕とする意につかつたのであらう○多胡の入野のはおくといはむための序である○麻左香は現在の意。
【口譯】わたしたち二人の仲はどうしてかう思ふまゝにならないのであらうか。現在とてもこの通りであるが、將來とても案じられる。
【後記】戀の煩悶を田胡の入野の旅行のなやみの多いのに比したのであらう。
 
3404 可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴禮杼安加奴乎 安杼加安我世牟
 
(58)【語釋】安蘇は下野の安蘇郡で、古來有名な麻の産地である。今は下野國に屬してゐるが、昔は上野國に屬してゐたのであらう○眞麻屯《マソムラ》は麻のたばで、眞は接頭語である○武太伎は抱《イダ》きに用じい○上の三句は掻き抱きといはむための序。
【口譯】麻を取り入れるのには、麻のたばを抱きよせるやうにするが、自分はそのやうにして女を抱いて寢てゐるのであるから、この上はないのに、滿足の出來ないのはどうしたらよからうか。
【後記】新婚の男のよんだ歌である。島木赤彦氏のいふ滿足感の生む不滿足感であらう。
 
3405 可美都氣乃 乎度能多杼里我 可波治爾毛 兒良波安波奈毛 比等理能未思※[氏/一]
 
【語釋】乎度は或本の歌にある如く乎野の誤であらう○多杼里は地名で、上野の小野といふ地に在るのであらうが、小野郷は甘樂郡にもあり、緑野郡にもあり、群馬郡にもあるから、い(59)づれとも定め難い○可波治は川ぞひの路であらう。安波奈毛は逢はなむに同じい。
【口譯】自分は今乎度の川路をあるいてゐるが、丁度かういふところで、あの娘に出くはしたらよいに、外に見る人もなくて。
【後記】人目の少い處に來たときの若い男の感激であらう。
 
或本歌曰 可美都氣乃 乎野乃多杼里我 安波治爾母 世奈波安波奈母 美流比登奈思爾
 
【語釋】安波治はかはぢの誤であらう。
 
3406 可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安禮波麻多牟惠 許登之許受登母
 
【語釋】佐野は上野國群馬郡に在り、今の佐野町で、烏川の北岸に沿ひ、高崎市街の東南郊に(60)當つてをる○九久多知は蔓菁《アヲナ》の苗○乎里波夜志は、折つてこまかにきざむことで、この地方では今もこまかにきざむことを、はやすといつてをる。きざんで鹽漬などにするのであらう○麻多牟惠のゑは感動の助辭である。
【口譯】あの蔓菁の苗がだん/\大きくなるが、わが夫はまだ歸つてみえない。ひとりで取り入れて、こまかに刻んで漬物にして、心しづかに夫の歸りを持ちませう、たとひ今年の中にはお歸りにならずとも。
【後記】家に在つて、夫の歸りを待つ女の歌である。
 
3407 可美都氣努 麻具波思麻度爾 安佐日左指 麻伎良波之母奈 安利都追見禮婆
 
【語釋】上の三句はまぎらはしもなといはむ爲の序である○麻具波思麻は考には眞桑島と見てゐる。利根川沿岸の地名であらう。利根川の沿岸には、敷鳥・京ケ島・福島・前島・尾島・(61)梅島等の如く、島といふ地名が多い。島戸はその渡瀬と見える○麻伎良波之とは眩ゆくて、常に心のおかれるのをいふのであらう。
【口譯】彼の眞桑島の渡に朝日がさすと、きら/\としてまばゆいが、丁度そのやうに結婚をして、一しよになつてみると、常にまばゆく氣のおかれることである。
【後記】卷十に「いはばしの間々にさきたるかほ花の花にしありけりありつゝみれば」とあるのに似た歌である。
 
3408 爾比多夜麻 禰爾波都可奈那 和爾余曾利 波之奈流兒良師 安夜爾可奈思母
 
【語釋】爾比多夜麻は上野國新田郡に在り、今の太田の金山で、平野の間に孤立してをる○都可奈那は着かずしての意。ななはなふといふ東語の中止形と見える。この下にある「しらとほふ小新田山の守る山のうらがれせななとこはにもがも」又二十の卷にある「わがせなをつ(62)くしへやりてうつくしみ帶はとかななあやにかもねも」とあるのと同例である○餘曾利はよりながらの意○波之奈流は中途半ぱなるをいふ。この卷に「枠弓末はより寢むまさかこそ人目を多み汝をはしにおけれ」の「はし」と同意である。
【口譯】新田山の他の嶺につかないやうに、あの娘は吾によりながら、どうもしつくりと自分にあはず、中途半ぱであるのに、なぜこのやうに無上にかはいゝのであらうか。
【後記】古義に「按ふに此の新田山は外の大山とはつゞかずして、孤立の山なるべし。古來山の嶺に雲のつかぬごとくといふ意に解き來れども、雲といはざれば、いかゞ」といつてをるのが、よく當つてをる。
 
3409 伊香保呂爾 安麻久母伊都藝 可奴麻豆久 比等登於多波布 伊射禰志米刀羅
 
【語釋】伊都藝のいは接頭語、つぎは打續きて立つこと○可奴麻豆久は可沼になれ親しむ意。
(63)可沼は伊香保の沼即ち今の榛名湖のことである○比等登は人の如くの意。於多波布は仙覺の説の如く戯れること○刀羅のらは助詞であらう。
【口譯】伊香保に天雲がうちつゞき垂れ下つて、榛名湖の水につき、水に馴れ親しむ人のやうに水に戯れてゐる。あれははさ自分と寢させよといふのであらう。
【後記】この歌は古來難解とされてをる歌であるが、仙覺抄に「あまぐもいつぎとは天雲のつゞきなびけるなり。かぬまづくとは沼なれたりといふ詞、ひととおたばふとはそばへたるなり。歌の心はいかほの沼に天雲のたなびきくだれるが、水に浮びなれたる人のごとくにてそばへたるはいざねんとよそへ詠めるなり。」といつてをるのがおもしろく思はれる○おたばふは戯れる意の方言であらう。
 
(64)3410 伊香保呂能 蘇比乃波里波良 禰毛己呂爾 於久乎奈加禰曾 麻左可思余加婆
 
【語釋】傍《ソヒ》は溪流に沿ひたる地○ねもごろには、念入りにの意○於久は、將來《ユクスヱ》のこと○麻左可は現在のこと○余加婆は、よからばの略である○上の三句はおくといはむ爲の序。
【口譯】そなたは、にろ/\と將來のことを氣にしてゐられるが、現在さへよければ、それでよいではないか。さのみ深く將來のことを案じるには及ぶまい。
【後記】榛名山の溪間は到るところ榛の林である。それで、大日本地名辭書には「榛野《ハリヌ》の義にて、榛の木の生ひ茂れるよりの名なるべし。」といつてをる。この榛を萩と見る説もあるが、萬葉に數多い榛の歌に一首も花を詠み合せた歌のない一事によつても、萩でないことが明である。
 
3411 多胡能禰爾 與西都奈波倍※[氏/一] 與須禮騰毛 阿爾久夜斯豆之 (65)曾能可把與吉爾
 
【語釋】多胡の嶺は多胡郡の嶺で、今の御荷鋒《ミカブ》山を指すのである。この山は横に長く延び、よせ綱をつけて引き出したやうな形をしてをる。寄せ綱は石などを引きよせる綱のこと○斯豆志は重々しく鎭まる意の形容詞である。
【口譯】あの娘は容貌は美しいが、引き試みても多胡の嶺と同樣で、容易に動きさうにもない。
【後記】泰然自若たる御荷鋒山を取り出して堅實なる女に譬へたもので、出雲風土記の國引の條が聯想される。
 
3412 賀美都家野 久路保乃禰呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良爾 伊夜射可里久母
 
【語釋】久路保乃禰呂、上野國には、利根川を隔てゝ、西なる榛名山に對し、東に赤城山があ(66)る。遠く裾野をはつた雄大な山で、其の最高峰を黒檜《クロビ》山といふ。こゝに久呂保の嶺ろとあるのは、この黒檜山を指すのであらう。○久受葉我多、井上博士がその著萬葉新考に於て、この久受葉我多を久受葉奈須の誤とし、下野歌に「下野のみかもの山の小楢のす、まぐはし兒ろは誰が笥か持たむ」とあるのを引いて證としてをられるのは卓見である。
【口譯】自分は今遠く旅立つてゆく。あの久路保の嶺の葛の葉のやうにうつくしくかはいゝ娘にいよ/\遠ざかつて來ることよ。
【後記】惜別の情の言外に味ははれる歌である。
 
3413 刀禰河泊乃 可波世毛思良受 多多和多里 奈美爾安布能須 安敝流伎美可母
 
【語釋】刀禰河泊は利根川。上野國利根郡に發源し、赤城榛名兩山の間を流れ、常陸と下總の界をなして、太平洋に注いでゐる○多多和多里は、むやみに歩渉《カチワタリ》をすること。
(67)【口譯】利根川の河の淺瀬がどこにあるかも知らず、むやみに歩渉《カチワタリ》をしたのに、偶然に白浪のたつ淺瀬に逢つたやうに思ひがけなく者に逢つたのがうれしい。
【後記】浪に逢ふとは、淺瀬に出たことをいふのであらう。古今集に「淺瀬白浪たどりつゝ」といつたり、「淺き瀬にこそ仇浪はたて」などとあるのと、同樣である。
 
3414 伊香保呂能 夜左可能爲提爾 多都弩自能 安良波路萬代母 佐禰乎佐禰※[氏/一]婆
 
【語釋】 夜左可能爲堤、上野國群馬郡|上郊《カミサト》村に大字井出といふ處があり、地理志料にはこゝを八坂の井堰に當てゝをる。村の西に井野《ヰノ》川といふのがある。榛名山の東麓なる箕輪《ミノワ》の方から流れて來る小川であるが、今も處々に井堰を設けて、水田に灌ぎ、十二|堰《ゼキ》の名がある。この地方は驟雨の多いところであるから、虹のたつことが多かつたものと見える。上の三句はあらはるまでもといはむための序である○さ寢をさ寢てばは、寢たらばといふこを強くいつ(68)たので、古事記の木梨輕太子の御歌に「笹葉に打つや霰のたしたしにゐねてむ後は人はかゆとも。美はしみさねしさねてば刈こもの亂れば亂れ、さねしさねてば」とあるに用じく、この下にうれしからましなどいふ語を略してをる○弩自は虹ニジ》の訛、あらはろはあらはるの訛であらう。
【口譯】あの夜佐可の井堰にたつた虹のやうに、あざやかに顯れるまで、たび/\寢たらば、うれしいことであらうに。
【後記】強い熱情の現れた歌である。
 
3415 可美都氣努 伊可保乃奴麻爾 宇惠古奈宜 可久古非牟等夜 多禰物得米家武
 
【語釋】伊可保乃奴麻は榛名湖のこと○古奈宜は水葱で、みづあふひに似た水草であるが、昔は食料として栽培したものと見える。こゝは美しい若い女にたとへたのである。
(69)【口譯】自分は伊香保の沼に殖子水葱の種子を求めてうゑておいたが、それが生ひ立つて如何にも美しい。それと同じやうに、はやく縁を結んでおいた若い女が生ひたつて如何にも美しく、戀しさに堪へられない。もと/\このやうに戀しさに堪へられないほど美しくならうと思つて、縁を結んだのであらうか、さうでもないのに。
【後記】いひなづけなどの女の急に戀しさに堪へられないのを歌つたのであらう。
 
3416 可美都氣努 可保夜我奴麻能 伊波爲都良 比可波奴禮都追 安乎奈多要曾禰
 
(70)【語釋】可保夜我奴麻能、上野國邑樂郡に多々良沼があり、この附近に沼澤が多い。集中に見える伊奈良沼・可保夜沼はこれらの澤地であらうといふことである○伊波爲都良は上にいつた通り、馬齒※[草がんむり/見]《スベリヒユ》のことである。あをなたえそねは、吾を疎み絶ゆること勿れの意。
【口譯】あなたはあの可保夜が沼の伊波爲都良のやうに、引かばぬる/\とやはらかに靡き依つて、吾をうとみ絶えないやうになさい。
【後記】この歌は上の武藏歌に「入間道の大家《オホヤ》が原のいはゐづら引かばぬる/\吾にな絶えそね」とある替歌である。
 
3417 可美都氣奴 伊奈良能奴麻能 於保爲具左 與曾爾見之欲波 伊麻許曾麻左禮 【柿本朝臣人麻呂歌集出也】
 
【語釋】大藺草は莞《フトヰ》である○與曾爾見之欲波は、よそに見しよりはの意。
【口譯】伊奈良の沼の大藺草を手にとつて見ると、よそ目に見たときよりも美しいやうに、つ(71)れそうて見ると、一段美しく思はれる。
【後記】この歌は、上の「上毛野眞桑島門に朝日さしまぎらはしもよ在りつゝ見れば」とあるとは正反對である。
 
3418 可美都氣努 佐野田能奈倍能 武良奈倍爾 許登波佐太米都 伊麻波伊可爾世毛
 
【語釋】佐野田は佐野に在る田○上の二句は群苗にかゝる序。武良奈倍は郡がり生ずる苗であるが、それを占《ウラナヒ》にかけたものと見える。うらなへを、むらなへといふのは、うだき(抱)をむだきといひ、うま(馬)をむまといふと同例である○世母はせむに同じ。
【口譯】わたくしの結婚のことは占によつて、とくに定めてしまつてをりますので、今は何と(72)もいたし方がございません。
【後記】男から挑まれた女の歌であらう。
 
3419 伊可保加世 欲奈可中次下 於毛比度路 久麻許曾之都等 和須禮西奈布母
 
【語釋】新考に思びとろを思へどもの誤とし、くまこそしつとを、かれこそしつれの誤としてをるのがおもしろい○かれは夜がれをすること○忘れせなふもは、忘れせずもの意である。
【口譯】伊香保から吹きおろす風の夜どほし吹くごとく、自分は思ひつゞけてゐるにも拘らず、夜がれをするのは、已むを得ぬ事情のためで、決してそなたを忘れはしないのである。
【後記】この歌についておもしりく感ずるのは、上州のからつ風のよみ合されてゐることである。からつ風は上州の名物で、榛名おろしは、三國おろしや淺間おろしとともに有名であるが、集中には伊香保風とよまれてゐる。
 
(73)3420 可美都氣努 佐野乃布奈波之 登里波奈之 於也波左久禮騰 和波左可流賀倍
 
【語釋】上の二句は序である○舟橋は舟を並べて造つた橋で、大水の出ようとするときは取り放つものであるから、取り放しにかけたのである○左久は二人の間を離すこと○賀倍はかはの訛○舟橋の跡は高崎市の南佐野村に在り、長さ二十間許の板橋が烏川に架けられてをる。烏川は相當に川幅の廣い川であるから、橋のあるのは、その一部分に過ぎず、針金を以て橋板を兩岸の杭につないでゐるのは、昔の舟橋の面影を存するもので、今も渡船料だとつて橋錢を取つてゐる。附近に舟橋觀音といふのもある。
(74)【口譯】あの佐野の舟橋を左右へ取放すやうに、親は我等二人の間を引きはなさうとするけれども、吾は離れようか、決して離れはしないよ。
【後記】さかるがへと頑張つてゐるところが、如何にも上州の青年らしい。この下に「我がまつま人はさくれど、朝がほのとしさへこゞとわはさかるがへ」とあるのは、これに似た歌である。
 
3421 伊香保禰爾 可未奈那里曾禰 和我倍爾波 由惠波奈家杼母 兒良爾與里※[氏/一]曾
 
【語釋】奈那里曾禰は、鳴つてくれるなの意○和我倍は吾が上○由惠波奈家杼母は、仔細はなけれどもの意。
【口譯】伊香保の嶺で、雷は鳴つてくれるな。雷が鳴つても、自分は何とも思はないが、この娘《コ》のためにかく祈るのである。
(75)【後記】同行の女の身の上を氣づかふやさしい心もちの見える歌である。上州は氣候の激變が多く、恐ろしい雷鳴を起し、それが四方の山々に反響して、耳を劈くことがある。この歌はかういふ場合に女を伴うて山路などを行く男のよんだものであらう。
 
3422 伊可保可是 布久日布加奴日 安里登伊倍杼 安我古非能未思 等伎奈可里家利
 
【語釋】上州は、冬になると、榛名おろしの吹く日が殊に多い。こゝに伊香保風をとり出したのは、これが爲であらう。
【口譯】上州には伊香保風の吹く日が多い。それとても、吹く日もあり、吹かぬ日もあるが、自分があの娘《コ》を戀しく思ふ心のみは、いつと定まつた時がない。
【後記】古今集に「駿河なる田兒の浦浪立たぬ日はあれども君に戀ひぬ日はなし」とあるのはこれによく似た歌である。
 
(76)3423 可美都氣努 伊可抱乃禰呂爾 布路與伎能 遊吉須宜可提奴 伊毛賀伊敝乃安多里
 
【語釋】上の三句は、雪《ユキ》と行きと類音を重ねて、行を過ぎといはむためめ序としたのである○布路は降るの訛。
【口譯】自分はこゝまで來たが、このあたりにいとしい妻の家があるかと思ふと、急に立ちよりたくなり、素通りには出來ない。
【後記】伊香保嶺に近く住む男の歌であらう。伊香保は今はスキーの名所として世に知られ、春の初にも久しく雪が殘つてゐる。
     右の二十二首は上野國の歌
 
3424 之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 (77)多賀家可母多牟
 
【語釋】美可母乃夜麻、下野國都賀郡に在り。(三鴨山)今岩舟驛の南一里。平原に突起した小丘で、俗に大田和山と呼んでをる○麻其波思は、目細しで、美しいこと○多賀家可母多牟は、誰が笥か持たむで、誰の妻となるであらうかの意であるといふ大神眞潮の説に從ひたい。
【口譯】あのみかもの川の小楢のやうに美しい娘は誰の妻となつて、飯笥を持つてつかへるであらうか。
【後記】ひそかに思を懸けてゐる男のよんだものであらう、伊勢物語にある「うらわかみ寢よ(78)げに見ゆる若草を人の結ばむことを仁ぞ思ふ」といふ歌が思ひ合される。
 
3425 志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴與 奈我己許呂能禮
 
【語釋】安素乃河泊良、和名抄に下野國安蘇郡安蘇郷がある。今の佐野町犬伏町旗川村に當り利根川の支流がこゝを流れてをる。安蘇の河原とはこの支流の河原を指すのであらう○河泊良欲のよ、蘇良由のゆは、ともによりの意。
【口譯】わたしはそなたの戀しさに足も地に着かず、宙を飛ぶやうにして來たのであるが、そなたはどう思ふか。そなたの本心を聞きたい。
【後記】強い熱情のこもつた歌である。石ふまずといつて更に空より來ぬよといつたところに、非常な迫力がある。
     右の二首は下野國の歌
 
(79)3426 安比豆禰能 久爾乎佐杼抱美 安波奈波婆 斯努比爾勢毛等 比毛牟須婆佐禰
 
【語釋】安比豆禰は、岩代國耶麻郡會津の北にある磐梯山を指すのであらう。觀聞志に會津山即ち磐梯山也と見えてをる○さ遠みのさは接頭語○安波奈波婆は、逢はずあらばの意○比毛牟須婆佐禰は紐を結び給への意、紐は下紐である。
【口譯】自分は今旅立つて行くが、あの會津嶺のある國を通くはなれて、逢ふことが出來ないやうになつたら、見て心を慰めたいと思ふから、この下紐を結んで下さい。
【後記】別離の情の切々たるものがある。
 
3427 筑紫奈留 爾抱布兒由惠爾 美知能久乃 可刀利乎登女乃 由比思比毛等久
 
(80)【語釋】由惠爾といふ語は、上文の意を承けて順説するにも用ひ、逆説するにも用ひるのであるが、こゝは順説の方である○爾抱布は、しほらしい意、一の卷に「紫のにほへる妹をにくくあらば」とあるのと、つかひ方が同じである○可刀利 磐城國石城郡に片依《カタヨセ》郷があり、古義にはこれを可刀利にあてゝをる。
【口譯】筑紫にゐる美しい娘のかはゆさに、わが故郷を出るときに、かとり】の處女が結んでくれた下紐をといてしまつた。
【後記】異郷にある男の僞らざる告白である。筑紫へ差遣せられた防人の歌であらう。
 
3428 安太多良乃 禰爾布須思之能 安里都都毛 安禮波伊多良牟 禰度奈佐利曾禰
 
【語釋】安太多良は、安達太良《アダタラ》山で、岩代國安達郡に在る○上の三句は、猪が伏處を定めて容易に他に移らないといふ習性を捕へて、寢處な去りそねにかゝる序としたのである。
(81)【口譯】彼の安太多良の嶺に伏す鹿のやうに、いつも臥處をかへずに待つてゐて下さい。自分はそこへいつて、一緒に寢ようと思ふから。
【後記】野趣の多い歌である。
     右の三首は陸奥國の歌
 
     譬喩歌
 
3429 等保都安布美 伊奈佐保曾江乃 水乎都久思 安禮乎多能米※[氏/一] 安佐麻之物能乎
 
【語釋】引佐細江は、遠江國引佐郡にあり。濱名湖の一支灣で、東北に斗入し、引佐峠の下に及び、井伊谷《イヤ》川が北から來て、こゝに注いでゐる○水乎都久思は澪標とかく。水路標即ち水先案内のために立てる杭である○憑めては、たのませての意。
(82)【口譯】あの人は、引佐細江の水路標《ミヲツクシ》が人をたのませるやうに、わたしを頼ませておきながら心の淺いのに氣づかなかつたのがくやしい。
【後記】男にすてられた女の歌であらう。
     右の一首は遠江國の歌
 
3430 斯太能宇良乎 阿佐許求布禰波 與志奈之爾 許求良米可母與 余志許佐流良米
 
【語釋】斯太は駿河國|志太《シダ》郡の地である。大井河の末流たる河水が分派停滯して、昔は.江灣の状をなしてゐたので、志田の浦といつたのであらう○與志奈之爾は理由《ワケ》なくの意○餘志許佐流良米は、よしこそあるらめの約《ツヾマリ》。
【口n譯】志太の浦を漕ぐ舟は絶えずあちらへ行き、こちらへもどりしてあるが、その舟のやうに、あの人はわたしの門前を往きつもどりつする。理由《ワケ》なしに往來するはずはない。何か仔(83)細があるのであらう。
【後記】若い女の歌である。後の民謠に「用もない門を二度三度」などいふのに似て、無限の含蓄がある。催馬樂に「我が門をとさんかうさん練るをのこ。よしこさるらめ」とあるのと並べ見るべき作である。
     右の一首は駿河國の歌
 
3431 阿之我里乃 安伎奈乃夜麻爾 比古布禰乃 斯利比可志母與 許己波故賀多爾
 
【語釋】安伎奈は、足柄山の一峯と思はれるが、所在がわからない○比古布禰のは引く船のの訛《ナマリ》。萬葉新考に「いにしへの舟は丸木舟なれば、大木をそのまゝに山より引き下さむよりは刳《ク》りて船に作りて、後に引き下すが便なりしなり。さて其の舟をおろすに急に下らば危かるべきによりて、舟の後にひかへ綱を附けて、その綱を取らせつゝ徐におろしゝなり。今はそ(83)の趣を序として、舟の後を引くごとく或女が男の後を引くわいといへるなり。」とあるのがおもしろい○比可志母與は引かすもよの訛○許己波はこゝばくの意○故賀多爾は、來がてぬの訛であらう。
【口譯】自分は何とかして、あの人をこちらへ引きつけたいと思ふけれども、なか/\思ふやうにはならな。あの安伎奈の山から引きおろす船を後から綱で引つぱるやうに他に女があつて引くのではあるまいか。さてどうしたものであらうぞ。
【後記】深く思をかけた男の自分の心にまかせないのを見て、男の心を疑つてよんだ女の歌であらう。それを山中から引きおろす丸木舟に思ひよせたのがおもしろい。
 
3432 阿之賀利乃 和乎可?夜麻能 可頭乃木能 和乎可豆佐禰母 可豆佐可受等母
 
【語釋】和乎|可?《カケ》山は矢倉《ヤグラ》嶽の舊名、可頭乃木は白膠木《ヌルデ》のことである。矢倉が嶽の附近には今(84)も白膠木《ヌルデ》が多く、秋の季《スヱ》になると、全山紅葉して非常な美觀を呈する○上の三句はかつといはむ爲の序である○かつは「一方にはかくあれど、他の方にては」の意に用ひられる語○「和乎」は「吾は」の誤であらう○「さねも」は「さ寢む」の意○「佐可受」はこの地方の方言で、割かむとすの意と思はれる。山梨長野地方では今も「行かう」といふべきを「行かず」といひ、「買はう」といふべきを「買はず」といつてをる。「行かうずる」「買はうずる」の略であらう○割くは男女の仲をはなすことで、上野歌に「親はさくれど」とあると同じである。
【口譯】吾々二人はかく互に愛し合つてゐる上は目分等は取り敢へず一緒に寝よう、たとひ一方に於て親は二人の仲を離さうとしても。
(86)【後記】この歌は古來難解の歌とされてゐるのであるが、かう解すれば、意義がまことに明瞭である。内容は上野歌に「上野の佐野の船橋とりはなし親はさくれど吾はさかるがへ」とあるのに似てをる。
 
3433 多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都都夜安良牟
 
【語釋】多伎木許流は、薪を樵るにつかふ鎌とかけた枕詞○木乎は木のの誤であらう○上の三句は序○許太流は、木の末の垂れさがること。
【口譯】自分は今から旅に出ようとするのであるが、そなたが氣長く待つてをるといふならば、自分も他の女に心をうつすやうなことはなく、それを樂しみにして、戀ひつゝゐよう。
【後記】防人などになつてゆく男の、女と別を惜んだ歌であらう。古今集に「立ち別れいなばの山の峯におふる松とし聞かば今歸り來む」とあるのに似た歌である。
(87)     右三首は相模國の歌
 
3434 可美都家野 安蘇夜麻都豆良 野乎比呂美 波比爾思物能乎 安是加多延世武
 
【語釋】野乎比呂美は、野が廣いによつての意○延《ハヒ》は心をかよはすこと○上の句は延ひといはむ爲の序Fである。
【口譯】吾々二人は、このやうに互に心をかよはしてゐる上は、どうして絶えることがあらうか。
【後記】若い男女の堅い決心のみえる歌である。
 
3435 伊可保呂乃 蘇比乃波里波良 和我吉奴爾 都伎與良之母與 比多敝登於毛敝婆
 
(88)【語釋】與良之母は、よろしもと同意で、つくにふさはしいのをいふ○比多敝は純栲即ち純白のきぬである○波里が榛《ハン》の木であることは上にいつた通りで、當時は多くこの木の實を採つて、染料にしたものと見える。
【口譯】自分の着物が純白のきぬであるために、榛の實の色の着きやすいやうに、自分は純情をさゝげてゐるのであるから、彼の娘はたやすく自分に靡き從ふことと思ふ。
【後記】女を榛にたとへ、自分を布帛にたとへたのである。
 
3436 志良登保布 乎爾比多夜麻乃 毛流夜麻乃 宇良賀禮勢那奈 登許波爾毛我母
 
【語釋】志良登保布といふことにつき、宮地春樹は、志良登は白砥で、新田山の名産だといひ、本居宣長はその説により、志良登保布を白砥掘るの意としてをる。自分の實地踏査するとこ(89)ろに據ると、今はこの附近には白砥を掘り出すところはない。しかし、この山は水成岩であるにもかゝはらず、處々に白色硬質の火成岩の迸出してをるところから考へると、昔はこのあたりから白い砥石を掘り出したのであらうかと思はれる○毛流夜麻は山林を荒さないやうに人の守る山、末枯れは、梢の枯れること○勢那奈は、せずしての方言と見える。その用ひ方は、上に「新田山嶺には着かなな」とあると同じである。末枯れせななといつたのは、この山が全山松であるからであらう。
【口譯】新田山はいつも常緑で、梢の枯れるといふことがないが、吾等二人の仲も末かけて離れるといふことがないやうにありたい。
【後記】右の新田山について、今も次のやうな民謠がある。
   わたしは太田の金山そだち
      ほかにきはない松ばかり
     右の三首は上野國の歌
 
(90)3437 美知乃久能 安太多良末由美 波自伎於伎※[氏/一] 西良思馬伎那婆 都良波可馬可毛
 
【語釋】安太多良末由美は、安達太郎山に産する檀《マユミ》の木でつくつた弓である。この山中には今も檀の木が多い○弾《ハジ》きおきては、はづしおきての意○西良思馬は、そらしめること○絃はくは絃をつけることである。
【口譯】安太多良眞弓も絃をはづして、そのまゝそらしておいては、再び弦を着けることがむづかしいが、吾々二人の仲もその通りで、餘り久しく離れてゐては、再びしつくりと合ふことがむづかしからう。
【後記】おもしろい譬喩である。久しく逢はない男の歌であらう。
     右の一首は陸奥國の歌
 
(91)     雜歌
 
       以下卷末まで百四十首は國名不明の歌である。
 
3438 都武賀野爾 須受我於等伎許由 可牟思太能 等能乃奈可知師 登我里須良思母
 
【語釋】都武賀野未詳○須受我於等、鈴は鷹の尾に着けた鈴である。仁徳紀にも百濟の酒の君が韋緡を以て小鈴を鷹の尾に着けたとある○思太は駿河國志太郡の地、上下に分れてゐたのであらう○殿は國の守介郡領などのこと○仲子《ナカチ》は仲の子、しは助辭○登我里即ち鳥狩は鷹狩である。
【口譯】都武賀野の方からちん/\と鳴るかはいらしい鈴の音が聞えて來る。鷹の尾につけた鈴の音らしい。多分あのおなつかしい上志太の殿樣の中の若樣が鷹狩にいらしたのであらう。
(92)【後記】遠く聞えるる鈴の音に耳をそばだてて、ひそかに小さい胸を躍らせてゐる純なる田舍娘の歌であらう。第二句を字餘りにして、句を切り、先づ情景を點出し、第五句に於て鳥狩すらしもと推斷したところに、聲調の言ひ難い美しさがある。
 
或本歌曰 美都我野爾 又曰 和久胡思
 
【語釋】今志太群朝比奈村字玉取の中に、三津野といふところがある。或本の歌にみつが野とあるのは、この地であらう。
 
3439 須受我禰乃 波由馬宇馬夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲
 
【語釋】須受我禰乃は、鈴の音のする早馬といひかけたのであらう。○都追美井即ち堤井は、驛馬に與へるために、つゝみかこつた井である○伊毛我多太手欲は直接に婦人の手からとい(93)ふのである。
【口譯】驛のほとりにある堤井の水が如何にも甘《ウマ》さうである。それを一杯|姐《ネエ》さんの手から飲ませてもらひたい。
【後記】考に「其の地に住める若人が女の包井の水を汲むを見て、水の飲みたさにおまへの手からぢきに下されとそばへいへるなり。」といつてをるのがおもしろい。
 
3440 許乃河泊爾 安佐菜安良布兒 奈禮毛安禮毛 余知乎曾母※[氏/一]流 伊低兒多婆里爾
 
【語釋】よちは同じ年ごろの子をいふとする宣長の説がよいと思ふ○多婆里爾は、給ばりねといふに同じ。
【口譯】この河で朝菜を沈ふ婦人よ。そなたもわたしも同じ年頃の子がありますね。どうか、その娘さんをわたしのむすこのよめに下さらないでせうか。
(94)【後記】娘をつれて河ばたで、朝早く菜を洗つてゐる婦人によみかけたのであらう。田舍の小川のほとりなどでよく見る風景である。
 
一云 麻之毛安禮母
 
【語釋】麻之は、汝《イマシ》の略。
 
3441 麻等保久能 久毛爲爾見由流 伊毛我敝爾 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻
 
【語釋】間遠くは、程遠きこと。
【口譯】わが妻の家はずつと向ふに見えてゐながら、なか/\行き着かれない。なぜこの馬はこんなにのろいのであらうか。はやく歩いてくれよ。
(95)【後記】高まりゆく感情が終りの一句に強く表現せられてをる。一の卷に見える人麿の歌に「青駒のあがきを早み雲井にぞ妹があたりを過ぎて來にける。」とあるのとは正反對である。
 
柿本朝臣人麻呂歌集曰 等保久之※[氏/一] 又曰 安由賣久路古麻
3442 安豆麻治乃 手兒乃欲妣左賀 古要我禰※[氏/一] 夜麻爾可禰牟毛 夜杼里波奈之爾
 
【語釋】手兒の呼坂は駿河國庵原郡に在る。田兒浦の坂路であるから、蒲原驛の東に在る七難坂などの古名であらう。
【口譯】今日はひどく疲れて、この呼坂を越えかねるから、山中に野宿をしようか。難儀なことだ。
【後記】卷七に「志長鳥猪名野をくれば有間山夕霧たちぬ宿はなくして」とあると同趣の歌で(96)ある。これによつても交通の不便であつた昔がしのばれる。
 
3443 宇良毛奈久 和我由久美知爾 安乎夜宜乃 波里※[氏/一]多※[氏/一]禮波 物能毛比豆都母
 
【語釋】宇良毛奈久は、何心なくの意○波里※[氏/一]は芽を張りてである。
【口譯】自分は何心なく道をあるいてゐたのに、ふと道ばたに青柳の芽をはつてをるのを見て、わが家のことを思ひ出し、急になつかしくなつた。
【後記】路傍の柳によつて、わが家の柳を聯想したのであらう。
 
3444 伎波都久乃 乎加能久君美良 和禮都賣杼 故爾毛美多奈布 西奈等都麻佐禰
 
(97)【話釋】伎波都久の岡、仙覺妙には「常陸國眞壁郡に在り」とあるが、この附近には山岡が起伏して、その場處をたしかめ難い○久君美良は莖を賞美する韮の意であらう○美多奈布は、満たずの方言。
【口譯】わたしはこの伎波都久の岡に來て、莖韮をつんでをるが、なか/\籠にもみたないから、あなたの夫の君をさそつて來て、一緒に樂しくおつみなさい。
【後記】古義には「主の女と共に伎波都久の岡の莖韮をつめどつめども、つひに籠に滿つるばかり得つまず、夫の君と採《ツ》みたまへよと侍婢なだのいへるなるべし」といつてをる。
 
3445 美奈刀能也 安之我奈可那流 多麻古須氣 可利己和我西古 等許乃敝太思爾
 
【語釋】美奈刀能也の也は助詞。多麻古須氣の玉は美稱。敝太思は隔《ヘダチ》の訛。
【口譯】あの湊の葦の中にある美しい小菅を苅つてお出でなさい。わが夫の君よ、床の上敷に(98)するために。
【後記】へだちは、今のへだてであるが、當時は四段に活用したのではあるまいか。
 
3446 伊毛奈呂我 都可布河泊豆乃 佐佐良乎疑 安志等比登其等 加多理與良斯毛
 
【語釋】伊毛奈呂の奈は親しむ詞、呂は助詞。佐左良乎疑は小さい荻の意。與良斯毛はよるらしいといふのである。
【口譯】わが妻の水を汲んでつかふ河の津即ち船着場の小さい荻と葦とが如何にも親しさうに靡きあつてゐるのが、何か一言いひよるやうに見える。
【後記】河邊に生ひた荻の風に靡くのを見てよんだので、自分もあの荻のやうに何か一言女に言ひよりたいといふのであらう。
 
(99)3447 久佐可氣乃 安弩奈由可武等 波里之美知 阿弩波由加受※[氏/一] 阿良久佐太知奴
 
【語釋】久佐可氣乃は弩《ヌ》にかゝる枕詞であらう○安弩は地名、弩も奈もともに野の意と思はれる。伊勢國に安濃郡がある。安弩は同郡安濃川に沿ひ、津に至る一帶の平野を指すのではあるまいか。草蔭の阿弩といふ語は、倭姫世記に草蔭の阿野國とあるのと同じである。
【口譯】こゝはもと/\安弩野を行かうと思つて、ひらいた道であるが、この頃は一向安弩を通らないので、荒草がはえてしまつた。
【後記】心がはりした女を怨んでよんだ男の歌であらう。
 
3448 波奈治良布 己能牟可都乎乃 乎那能乎能 比自爾都久麻提 伎美我與母賀母
 
(100)【語釋】乎那は地名と見える。和名抄に遠江國磐田郡小各郷がある。こゝではあるまいか。各は名の誤であらう○乎那能乎は乎那の嶺○比自は海中の洲○伎美我與は君の齡である。
【口譯】あなたの御齡は花の散るこの向ひに見える乎那の嶺が崩潰して低くなり、海中の洲につくまでは、おかはりはありますまい。
【後記】この歌は世にあり得べからざることを擧げて、人の長命を祝したのである。彼の「わが君は千代に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで」といひ、「君が代は天の羽衣稀に來て撫づともつきぬ巖ならまし」といふ二つの歌に比し、遙に原始的である。
 
3449 思路多倍乃 許呂母能素低乎 麻久良我欲 安麻許伎久見由 奈美多都奈由米
 
【語釋】上の二句は序で、袖を枕にするといふのを眞久良我にかけたのである○眞は接頭語○久良我は大日本地名辭書に「今の下野國猿島郡中田の渡なるべし」といつてをる。よは、ゆ(101)に同じい。
【口譯】久良我の方から海人の舟を漕いで來るのが見える。浪よ、どうぞたつてくれるな。
【後記】戀人を待つ女の歌であらう。
 
3450 乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布禰乃 那良敝※[氏/一]美禮婆 乎具佐可知馬利
 
【語釋】乎久佐乎乎具佐受家乎、眞淵は乎久佐と乎久佐とを同一の地名とし、乎久佐|壯子《を》を上丁とし、乎久佐受家乎を助丁としてをる○斯抱布禰は、潮の上を漕ぐ舟であるが、多く漕ぎ並ぶものゆゑ、並ぶの枕詞としたのであらう。
【口譯】乎久佐壯子と子具佐助丁とを並べて見ると、乎具佐の方がまさつてゐるやうである。
【後記】これは港町などに住む女が滯在中の正丁と助丁とに言ひよられて詠んだのであらう。無邪氣に思ふまゝを言つてのけたところがおもしろい。
 
(102)3451 左奈都良能 乎可爾安波麻伎 可奈之伎我 古麻波多具等毛 和波素登毛波自
 
【語釋】左奈都良能乎可、安房國安房郡館山の東に眞倉《サナクラ》村といふのがある。さなつらの轉訛ではあるまいか。安房は粟の産地である○可奈之伎はかはいゝ男の意○多具は皇極紀なる童謠に「こめだにもたげてとほらせ」とあるたげの原形で、食ふことである○素登毛波自はそともおはじの約りで、そは馬を追ふ聲である。
【口譯】わたしは、あの先奈都良の岡に粟を蒔いてをる。かはいい人が來れば、騎つて來た駒が粟をくふかも知れないが、わたくしはそれを追ふやうなことはいたしますまい。
【後記】その人を愛するによつて、馬までがかはゆくなるのは自然の情である。
 
3452 於毛思路伎 野乎婆奈夜吉曾 布流久左爾 仁比久佐麻自利 (103)於比波於布流我爾
 
【語釋】於比波於布流は、生ひ生ふるといふに同じい。我爾は爲にの意。
【口譯】このおもしろい野をば燒いてくれるな。去年の古い草にまじつて新しい草が生ひ、見どころが多くなるやうに。
【後記】この歌は、春の野に對する愛を述べたまでで、別に寓意はないやうに思はれる。
 
3453 可是能等能 登抱吉和伎母賀 吉西斯伎奴 多母登乃久太利 麻欲比伎爾家利
 
【語釋】可是能等は枕詞。風の音は遠く聞えるものであるから、遠きにかけたのである○多母登乃久太利は、袂の邊《アタリ》○麻欲比は紕《マヨヒ》で、絲の亂れること。卷七の「肩のまよひは誰かとり見む」、卷十一の「白妙の袖はまよひぬ」とある「まよひ」と同じである。
(104)【口譯】遠いふる里を出るときに、妻の着せてくれたこの着物もいつのまにか、袂の下の絲が亂れかゝつて來たわい。
【後記】限りない望郷の情のこもつた歌である。防人の歌であらう。「ことしゆく新島守の麻ごろも肩のまよひはたれかとり見む」といふ卷七の歌とならべ味ふべき作。
 
3454 爾波爾多都 安佐提古夫須麻 許余比太爾 都麻余之許西禰 安佐提古夫須麻
 
【語釋】爾波爾多都は、庭に生ふる意の枕詞、麻にかゝる○安佐提は麻のたへの意、たへは布帛の總稱である○余之許西禰は寄り來らしめよの意。
【口譯】麻でつくつた小さい衾よ、せめて今夜だけなりとも、わが夫をより來させてくれよ。
【後記】これは衾に對する女の獨言であらう。麻布小衾とくりかへし言つたのは、切なる思を力づよく表現せむがためである。
 
(105)     相聞
 
       目録には未勘國相聞往來歌とある。
 
3455 古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 宇禮都美可良思 和禮多知麻多牟
 
【語釋】古非思家婆、戀しからばに同じい○可伎都楊疑は垣内柳で、垣の内に植ゑある柳○宇禮都美可良思は、末《ウレ》摘み枯らしで、人を待つほどの手すさびである。
【口譯】わたしを戀しく思はれるならば、たづねていらつしやい。わたしは垣の内の柳の末をつむやうなふりをして立つて待つてをりませう。
【後記】卷十一にある「みちのべの草を冬野にふみからし、われたちまつと妹につげこそ」とあるに似た歌で、戀人を待つ田舍をとめのさまが、躍動して來る。
 
(106)3456 宇都世美能 夜蘇許登乃敝波 思氣久等母 安良蘇比可禰※[氏/一] 安乎許登奈須那
 
【語釋】宇都世美能は現身《ウツセミ》で、世間のことをいふ○許登乃敝は言の葉の訛であらう○許登奈須は言成すの意で、噂にたてられることをいふ。
【口譯】われ/\二人の關係を、世間の人々がどんなに言ひさわいでも、それにいひまかされて、噂を成り立たせてはいけません。
 
3457 宇知日佐須 美夜能和我世波 夜麻登女乃 比射麻久其登爾 安乎和須良須奈
 
【語釋】宇知日佐須は宮の枕詞。
(107)【口譯】宮づかへに出られたわが夫は、大和の女の膝を枕として寢るごとに、久しくなじみを重ねたわたしのことをお忘れ下さいますな。
【後記】契沖は「こは男の宮仕に都へ上りたる其の妻が歌なり」といつてをる。大和は誘惑の多いところとあきらめつゝ、尚自分を思ひ出してくれといつたのが、如何にも可憐である。
 
3458 奈勢能古夜 等里乃乎加耻志 奈可太乎禮 安乎禰思奈久與 伊久豆君麻※[氏/一]爾
 
【語釋】奈勢能古夜は汝兄《ナセ》の子よといふに同じい○等里乃乎加、和名抄に常陸國鹿島郡下ツ鳥中ツ鳥上ツ鳥といふのが見える。その地の岡であらう○奈可太乎禮は半ば撓み折れること。このあたりは、一帶の沙丘で、道路がその上を通じてをる。即ち岡道であるが、處々中斷するところのあるのを半折《ナカダヲレ》といつたのであらう○安乎禰思奈久與は聲をあげて吾を泣かせるよの意。上に妹が名よぴて吾をねし泣くよとあるに同じい。
(108)【口譯】わが夫《ツマ》よ。そなたは鳥の岡道の中斷してゐるやうに、中絶して見えないので、溜息をついてわたしは泣いてをりますよ。
【後記】男の夜がれを恨んだ女の歌である。
 
3459 伊禰都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里※[氏/一]奈氣可武
 
【語釋】伊禰都氣波は、手杵で稻をつくのである。古は米を舂くのは女のわざであつたと見える○可加流はあかぎれの切れること○等能乃和久胡は國の守介郡領などの息子即ちおやしきの若旦那である。
【口譯】毎日稻をつくので、あかぎれのきれたわたしの手をとつて、今夜もみえるおやしきの若旦那が溜息をつかれるであらうが、耻しいことである。
【後記】純眞なる田舍娘の生活のありのまゝに現れたあはれの深い作である。古義には「吾が(109)手づから稻舂など甚だ荒き業をして、手の圻圻裂けたるをみづから打見て、かくいときたなき我が手を今夜も來まさむ殿の稚子の取り見たまひて、かゝる業をなせるこを、あはれ/\となげき給はむが、さても耻しき事よとなるべし」とつてをる。
 
3460 多禮曾許能 屋能戸於曾夫流 爾布奈未爾 和我世乎夜里※[氏/一] 伊波布許能戸乎
 
【語釋】於曾夫流は押し振ること、古事記八千矛神の御歌に、「をとめのなすや板戸をおそぶらひ」とあるに同じ○爾布奈未は新嘗《ニヒナメ》である。昔は其の村の里長の家に、里民が集まり、新穀をもつて神を祭つたものと見える○伊波布は齋《イ》はふで、穢に觸れないやうにいみつゝしむこと。
【口譯】誰《ダレ》ですか、この家の戸をがた/\ゆすぶるのは。村の新嘗にわが夫をやつて、いはひつゝしんでをるのに。
(110)【後記】新嘗の祭に夫の出ていつた留守ををねらつて、男のうかゞひ來て、戸を開かうとするのを咎めた女の歌である。
 
3461 安是登伊敝可 佐宿爾安波奈久爾 眞日久禮※[氏/一] 與比奈波許奈爾 安家奴思太久流
 
【語釋】安是登伊敝可は何といふことかの意○佐宿爾は本當にといふに同じ○與比奈は夜《ヨヒ》にの訛○安家奴は明けぬるの意。明けぬるといはずして、明けぬといつたのは、古語の格である○來なには來ないでの意○思太は時である。
【口譯】何といふことか、本當にゆつくり逢ふことも出來ないのに日の暮れたばかりのよひのまにはやく來ないで、いつも/\夜が明けてしまつてから來ることよ。
【後記】男の來ることの遲いのを怨んだ女の歌である。
 
(111)3462 安志比奇乃 夜末佐波妣登乃 比登佐波爾 麻奈登伊布兒我 安夜爾可奈思佐
 
【語釋】夜末佐波妣登は、山中の谷まにすむ人の意で、佐波は谷のこと○上の二句は多《サハ》にといはむ爲の序である○麻奈は愛らしいこと。
【口譯】世の中の多くの人々が、彼の娘はかはいい娘《コ》だといふが、いかにも彼の娘がむしやうにかはゆい。
 
3463 麻等保久能 野爾毛安波奈牟 己許呂奈久 佐刀乃美奈可爾 安敝流世奈可母
 
【語釋】己許呂奈久は無情にもの意○美奈可まん中である。
【口譯】わたくしは人目をしのび、遠く人里をはなれた野であの人に逢ひたいと思ちてゐたの(112)に、今日は無情にも人目の多い里のまん中で逢つて、しみ/”\と話をすることも出來なかつた。
【後記】上に「上野の乎度の多杼里が川ぢにも兒等は逢はなもひとりのみして。」とあると同趣の歌である。
 
3464 比登其登乃 之氣吉爾余里※[氏/一] 麻乎其母能 於夜自麻久良波 和波麻可自夜毛
 
【語釋】麻乎は接頭語、眞小の意○麻乎其母能麻久良良は、薦《コモ》を以て作つた枕である○於夜自はおなじの訛。
【口譯】このやうに契りかはした上は、世間の人の口がうるさいといつても、同じ薦枕をして寢ないといふことが出來ようか。
 
(113)3465 巨麻爾思吉 比毛登伎佐氣※[氏/一] 奴流我倍爾 安杼世呂登可母 安夜爾可奈之伎
 
【語釋】巨麻綿は高麗から來た錦で、當時多く紐として用ひたので、紐の枕詞としたのであらう○安杼世呂登可は何とせよといふのかの意。今の關東語の如く、動詞の命令形にろといふ音を添へることは、この時代から行はれてゐたものと見える。
【口譯】このやうに紐を解き放して、快く寢てゐるのにまだこの上にどうしろといふのであらうか。このやうにむしやうにかはいゝのは。
【後記】契沖は「もろともにこころとけて寢るがうへにも猶あかぬ心の切なるを自らあやしみて、よめるなり」といつてをる。上に「上野安蘇のまそむらかきむだき寢れど、あかぬをあどか吾がせむ」とあるのに似た情熱的の歌で、あどせろの一語に男の溜息をきくやうなこゝちがする。
 
(114)3466 麻可奈思美 奴禮婆許登爾豆 佐禰奈敝波 己許呂乃緒呂爾 能里※[氏/一]可奈思母
 
【語釋】麻可奈思美は、ま愛《ガナ》しみの意で、まは接頭語○佐禰奈敝波は、寢ざればの意○緒呂の呂は助詞。心の緒ろに乘るは、心にかゝつて忘れかねること。卷二にも、「妹がこゝろに乘りにけるかも」と見えてをる。
【口譯】餘りのかはゆさに、一しよに寢れば、人の口にいひさわがれる。さりとて寢なければ女の姿が心にかゝつてかはゆさに堪へられな。
【後記】戀のなやみを歌つたものである。
 
3467 於久夜麻能 眞木乃伊多度乎 等杼登之※[氏/一] 和我比良可武爾 伊利伎※[氏/一]奈左禰
(115)【語釋】於久夜麻能は奥山に生えてゐるの意で、眞木までにかゝる語である。等杼登之※[氏/一]の等杼は板戸の鳴る音○伊利伎※[氏/一]奈左禰は入り來て寐《ナサ》ねである。
【口譯】あなたが見えましたら、わたくしが内から、檜の戸をがた/\といあはせて開きますから、その音にまぎれてはいつておやすみなさいませ。
 
3468 夜麻杼里乃 乎呂能波都乎爾 可賀美可家 刀奈布倍美許曾 奈爾與曾利?米
 
【語釋】夜麻杼里乃乎呂能波都乎爾可賀美可家は、山鳥の尾ろの秀つ尾に鏡かけで、となふといはむ爲の序○波都乎は、契沖は「秀《ホ》ツ尾にて最も長き尾なり」といつてをる○山島の雌の尾羽の先端には白色の斑紋があり、尾を開くと、ちやうど鏡をかけたやうに見える。これを東國の人は山鳥が尾に鏡をかけて、雄を誘ふのであると考へたのであらう○刀奈布はとらふの訛○與曾利は言ひよることである。
(116)【口譯】あの女は山鳥の雌が尾に鏡をかけて、雄を誘ふやうに、おまへの心をとらへ得ようかと思つて、盛装をして、言ひよつたのであらうう。
【後記】里の女の、若い男に言ひよるのを見て、他の男の戯によみかけたものであらう。
 
3469 由布氣爾毛 許余比登乃良路 和賀西奈波 阿是曾母許與比 與斯呂伎麻左奴
 
(117)【語釋】由布氣は夕占で、夕方に辻などに立つて、吉凶の占をすること○乃良路は告れるの訛○阿是曾はぜせぞ、與斯呂は依《ヨ》そりである。
【口譯】夕占をしてみたが、その夕占にも今夜は夫が來るとあつたのに、どうしてあの人は今にたづねて來ないのであらうか。
【後記】逢瀬をたのしんでゐた女の歌である。
 
3470 安比見※[氏/一]波 千等世夜伊奴流 伊奈乎加母 安禮也思加毛布 伎美末知我※[氏/一]爾
 
【語釋】乎加毛は然らむやの意、東國の方言であらう。上の常陸歌にも「筑波嶺に雪かもふらるいなをかも」と見えてをる○末知我※[氏/一]爾は待ちあへずの意。
【口譯】この前に逢つてからは、はや千年もたつたのであらうか。いやさういふことはあるまい、それでも自分はそのやうな心ちがする、君を待ちあへず。
(118)【後記】千年や去ぬるといひ、否をかもといひ、我やしか思ふといふ曲折ある詞の中に、ちゞに心を碎く女の心情がよく現れてゐる。この歌ははやく十一の卷にも出てゐるが、四の卷に「このごろは千歳やゆきもすぎぬると吾《アレ》や然《シカ》念《モ》ふ見まくほりかも」とあるのに似てをる。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3471 思麻良久波 禰都追母安良牟乎 伊米能末爾 母登奈見要都追 安乎禰思奈久流
 
【語釋】母登奈はあやにくの意○安乎禰思奈久流は吾を音に泣かしむるといふに同じい。
【口語】自分は暫くの間も安らかに寝入りたいと思ふのに、あやにく愛人の姿がたえず夢に見えて、またしても自分を泣かせることである。
 
(119)3472 比登豆麻等 安是可曾乎伊波牟 志可良婆加 刀奈里乃伎奴乎 可里※[氏/一]伎奈波毛
 
【語釋】安是可曾乎伊波牟、何故かそれを言はむの意○伎奈波毛は着なはむの訛。着なはは、着なふといふ語が未然形に活用したので、着ざらむといふに同じ。
【口譯】あの女は他人の妻だからといつて、あきらめることか出來ようか。それならば、寒いときにも隣の人の衣を借りて着ることも出來ないはずであるが、やはり寒いときには、人の衣をかりて着るではないか。さすれば、そのまゝにやむことは出來ない。さてもかはゆい他妻よ。
【後記】他人の妻に想をかけた男の煩悶であらう。巧に理窟をこね上げたところがおもしろい。卷四に「榊にも手は觸るとふをうつたへに人妻といへばふれぬものかも」とあるのはこの類歌である。
 
(120)3473 左努夜麻爾 宇都也乎能登乃 等抱可騰母 禰毛等可兒呂賀 於由爾美要都留
 
【語釋】佐努は上野の佐野であらう○宇都は木を伐ること○乎能登は斧のおと○上の二句は、遠かどもといはむ爲の序。樵夫の木を伐る音の遠く聞えてをるのを取り出して遠いといふ語にかけたのである。遠かどもは遠かれどもの略○於由は於母即ち面の誤であらう。
【口譯】妻の家とは遠く離れてはゐるが、一しよに出ようといふ妻の心が通ふためであらうか。面影に見えた。うれしいことである。
 
3474 宇惠太氣能 毛登左倍登與美 伊低※[氏/一]伊奈婆 伊豆思牟伎※[氏/一]可 伊毛我奈藝可牟
 
(121)【語釋】宇惠太氣能は殖竹《ウヱタケ》ので、響《トヨ》みといはむための序、殖竹は地にはえてゐる竹○毛登左倍は、末はいふに及ばず本までもの意○登與美は、見送りの人などの多く立ちさわぐことをいふのであらう。眞淵は「こは家こぞりて、ね泣きさわぐを強くいふなり」といつてをる○伊豆思牟伎※[氏/一]可は何方《イヅチ》】向きてかで、途方にくれることをいふ。
【口譯】自分が多くの人々に見送られて、この家を出ていつしてまつたならば、後に殘つた妻は途方にくれて嘆くことであらう。
【後記】防人になつて出で立たうとする時の歌であらう。上の駿河歌に「霞ゐる富士の山びにわが來なばいづち向きてか妹が嘆かむ」とあるのに似てゐる。
 
3475 古非都追母 乎良牟等須禮杼 遊布麻夜萬 可久禮之伎美乎 於母比可禰都母
 
【語釋】遊布麻夜萬は、所在不明。
(122)【口譯】戀しく思ひつゝも堪へしのんでをらうとするけれども、遊布麻山にかくれて旅立たれた當時の光景が今も目の前にちらついて忍びがたい。
【後記】遠く旅立つた夫を思つてよんだ女の歌である。十二の卷に「よしゑやし戀ひじとすれど木綿間山越えにし公が念ほゆらくに」とあると同じ歌であらう。木綿間山隱れしは、木綿間山に隱れしの意。常陸歌に「妹が門いやとほぞきぬつくば山隱れぬほどに袖はふりてな」とあると同格である。
 
3476 宇倍兒奈波 和奴爾故布奈毛 多刀都久能 奴賀奈敝由家婆 故布思可流奈母
 
【語釋】宇倍兒奈波は、諾《ウベ》兒《コ》汝《ナ》は○故布奈毛は戀ふらむの訛○和奴は吾にも同じ、多刀都久は立つ月の訛○奴賀奈敝は流らへの訛である。
【口譯】このやうに久しくわかれてゐれば、そなたが自分に戀ひるといふのも尤である。月日(123)の流れかゆかば戀しいことであらう。
【後記】眞淵は「こは妹が文などを見て、うべさぞあるべきといふならむ」といつてをるが、如何にも適切なる批評である。
 
或本歌末句曰 努我奈敝由家杼《ヌガナヘユケド》 和奴由賀乃敝波《ワヌガユノヘハ》
 
【語釋】由乃敝波は、略解にいつてをる通り、由の下に可賀などの文字をおとしたのであらう。由可乃敝は、ゆかなへといふに同じく、吾が歸りゆかざればの意であらう。
 
3477 安都麻道乃 手兒乃欲婢佐可 古要低伊奈婆 安禮婆古非牟奈 能知波安比奴登母
 
【語釋】手兒乃欲婢佐可は上の駿河歌の條に説明しておいた通りである○古非牟奈の奈は咏嘆の辭。
(124)【口譯】あの東道の手兒の呼坂を越えて、わが家も見えなくなつてしまつたならば、たとひ後には逢はれるとしても、自分はそなたを戀しく思ふであらう。
【後記】卷十二に、「雲ゐなる海山こえていゆきなば、われはこひなむ後はあひぬとも」とあるのに似た歌である。
 
3478 等保斯等布 故奈乃思良禰爾 阿抱思太毛 安波乃敝思太毛 奈爾己曾與佐禮
 
【語釋】等保斯等布は、遠しといふに同じい○故奈乃思良禰、古義には※[七字文ほど巨大な汚れで判読不能]らむか」といつてをる。古奈といふ地は伊豆國田方郡に在るが、白峰といふべき※[判読不能]見當らない○阿抱思太は逢ふ時、安波乃敝思太は逢はざる時○與佐禮はよそれの訛で、心をよせることであらう。
【口譯】遠いといふ故奈の白峯は、お天氣の模樣で見える日もあり、見えない日もあるが自分(125)の心はいつも/\そなたによりそうてゐるのである。
【後記】故奈のあたりに住む男によせた女の歌であらう。
 
3479 安可見夜麻 久左禰可利曾氣 安波須賀敝 安良蘇布伊毛之 安夜爾可奈之毛
 
【語釋】下野國安蘇郡に赤兒村といふのがある。新考にはこの地の山であらうかといつてをる○安波須賀倍は逢ひ給ふが上にの意○安良蘇布は、さやうのことはないといつて爭ふのである○安夜爾は誠にの意。
【口譯】安可見山の草を刈りはらつて、しのび逢つてくれた上に、他人に対しては、さやうのことはないといつて爭ふ女の心深さが思はれて、むしやうにかはいい。
 
(126)3480 於保伎美乃 美己等可思古美 可奈之伊毛我 多麻久良波奈禮 欲太知伎努可母
 
【語釋】欲太知は、兵役に服すること、契沖は「えだち來ぬるかもなり。徭役の字をかける其の義なり」といつてをる。よだちは役《エ》立ちの訛であらう。
【口語】勅命を奉じて、いとしい妻の手枕定はなれ、兵役に來たのである。
【後記】愛し妹といひ、手枕離れといふ中に堪へ難い心の淋しさが見える。防人の歌であらう。
 
3481 安利伎奴乃 佐惠佐惠之豆美 伊敝能伊母爾 毛乃伊波受伎爾※[氏/一] 於毛比具流之母
 
 
(127)【語釋】安利伎奴乃はさゑ/\の枕詞。ありぎぬといふ語については、いろ/\の説があるが、玉勝間六に「ありぎぬは鮮なる衣なり」とあるのがおもしろく思はれる。さゑ/\は衣《キヌ》ずれの音であらう○之豆美は鎭まりの約り。
【口譯】名殘を惜しむ家の人のさわぎがやう/\しづまるのを待ち、妻とゆつくり話をするまもなく出て来たので心苦しい。
【後記】遠く別れゆく人の心情を寫して眞に迫つてゐる。これも防人の歌であらう。卷二十に「水鳥のたちのいそぎに父母に物はずけにて今ぞくやしき」とあると同じ趣である。
 
柿本朝臣人麻呂歌集中出見v上已記也
 上とは四の卷に「あり衣のさゐ/\しづみ家の妹に物言はず來て思ひかねつも」とあるのを指す。
 
(128)3482 可良許呂毛 須蘇乃宇知可倍 安波禰杼毛 家思吉己許呂乎 安我毛波奈久爾
 
【語釋】可良許呂毛は唐衣即ち唐制の衣で、襴のう交《カヘ》のあふものであるから、あはまでにかけて序としたといふ新考の説がおもしろい。古來の學者があはねどもまでにかゝるやうに考へてゐたのは誤である。卷十一に「朝影に吾が身はなりぬ辛衣襴のあはずて久しくなれば」とあるのも同樣である。
【口譯】この頃は障ることがあつて逢ふことが出來ないが、わたしには別の心はないのに。
【後記】なぜこのやうに疑はれるのであらうかといふ餘意を含んでをる。男の歌であらう。
 
或本歌曰 可良己呂母 須素能宇知可比 阿波奈敝婆 禰奈敝乃可良爾 許等多可利都母
 
【語釋】阿波奈敝婆は、逢はざればの意○禰奈敝乃可良爾は、寢ないのにの意○許等多可利は(129)言痛《コチタ》かりで、人の口のやかましいこと。
 
3483 比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈爾 阿比與流等可毛 欲流等家也須家
 
【語釋】等家奈敝は、解けぬといふに同じ。なへは.なふといふ語の連體形○等家也須家は解けやすきの訛。
【口譯】晝の間には、どうしても解けなかつた紐の、今夜このやうに解けやすいのは、わが夫に依りそふことの出來るといふ前兆であらうか。うれしいことである。
【後記】鼻ひたり、紐のとけたりするのを、相見むとする前兆とするのは、當時の俗信である。
 
3484 安左乎良乎 遠家爾布須左爾 宇麻受登毛 安須伎西佐米也 (130)伊射西乎騰許爾
 
【語釋】安左乎は麻の莖の繊維から採つた絲○良は助詞○遠笥は麻笥《ヲケ》で、麻を容れる器○伎西佐米也は、來ざらむやといふに同じ。
【口譯】そんなにたくさんに麻絲を麻笥にうみ入れないでも、明日の日もあるではないか。さあ早く床にはいつて寝ることにしよう。
【後記】夜業にいそしむ女の傍に來て、よみかけた男の歌てあらう。農家の情景が目前に浮ぶやうな心ちかする。
 
3485 都流伎多知 身爾素布伊母乎 等里見我禰 哭乎曾奈伎都流 手兒爾安良奈久爾
 
【語釋】都流伎多知は劍太刀で、身の枕詞○等里見我禰の等里は接頭語。
(131)【口譯】自分は今からいよ/\出發することゝなつたが、出發をしてしまへば、これまで常に傍を離れない妻を見ることが出來なくなるので、小さい子供のやうに聲をあげて、泣きだした。
【後記】防人の歌であらう。
 
3486 可奈思伊毛乎 由豆加奈倍麻伎 母許呂乎乃 許登等思伊波婆 伊夜可多麻斯爾
 
【語釋】由豆加奈倍麻伎は、弓束《ユヅカ》に合へまきの約まりで、弓束に合せまくこと。母許呂乎は如己男で、己と同輩なる男をいふ。この歌は三四初二五と句の順序をかへて見るべきである。
【口譯】若しこれが同輩の爭あるならば、いとしい妻を弓束に合せまいて、決闘をもすべきであるが、戀とふ強敵に對しては攻め伏すべき力もつき、何ともいたし方かない。
【後記】防人の歌に「おきていかば妹はまがなし持ちてゆく梓の弓のゆづかにもがな」とある(132)歌が聯想される。
 
3487 安豆左由美 須惠爾多麻末吉 可久須酒曾 宿莫奈那里爾思 於久乎可奴加奴
 
【語釋】可久須酒曾はかくしつゝの意。三五六四の歌に「浦ふく風のあどすすか」とあるに同じい○宿莫奈那里爾思は、宿ずなりにしといふに同じい。
【口譯】梓弓の末に玉をまいて飾とし、いたづらにしまつておく如く、とかくしつゝ、餘りに將來のことを慮りすぎて、却て宿《ネ》ることが出來ないやうになつた。
 
3488 於布之毛等 許乃母登夜麻乃 麻之波爾毛 能良奴伊毛我名 可多爾伊※[氏/一]牟可母
 
(133)【語釋】於布之毛等は、生ふる弱木《シモト》で、弱木のもとといふ音をくりかへして、本山とつゞけたのであらうが、この一句は猶考究の餘地がある○母登夜麻は、山の名であらう。但し所在不明○麻之波爾毛は.しば/\といふに同じい。下にも「ましばにもえがたきかげをおかきやからさむ」とある。上の三句は類音をくりかへして眞柴にもといはむための序としたのである。
【口譯】私はめつたに口に出さない妹の名であるが、占にかけられたならば、卜兆《ウラカタ》に出るであらうか。氣づかはしいことよ。
【後記】武藏歌に「むさし野にうらへかたやき、まさでにものらぬ君が名うらにいでにけり」とあるのに似た歌である。
 
3489 安豆左由美 欲良能夜麻邊能 之牙可久爾 伊毛呂乎多※[氏/一]天 左禰度波良布母
 
【語釋】安豆左由美は、よらにかゝる枕詞○欲良能夜麻、信濃國佐久郡小諸町に與良町があ(134)る。この地の山であらう。之牙可久爾は、繁けくにの訛●伊毛呂の呂は助詞○左禰の左は接頭語である。
【口譯】欲良の山べは、木が繁く、人目をさけるによいから、しばらく妹を立たせておいて、塵芥などを拂ひ、寢處をつくることにしよう。
【後記】新考の説のれ如く、山邊に女をつれゆいて寢ようとする趣であらう。さ寢所拂ふは、卷十一に「眞袖もて來て床うち拂ひ君まつとをりし間に月傾きぬ」とあると同じである。
 
3490 安都左由美 須惠波余里禰牟 麻左可許曾 比等目乎於保美 奈乎波思爾於家禮
 
【語釋】安都左由美は、末にかゝる枕詞○麻左可は、現在○波思爾於家は、どちらつかずにしておくこと。上にも「はしなる兒らしあやにかなしも」とある。
【口譯】人目をはゞかるゆゑに、現在はそなたを中途半ぱにしてをるが、行く末は相依つて寢(135)よう。
【後記】前に「新田山ねにはつかなな吾に依そりはしなる兒らしあやにかなしも」とある類歌である。
 
柿本朝臣人麻呂歌集出也
 
3491 楊奈疑許曾 伎禮波伴要須禮 余能比等乃 古非爾思奈武乎 伊可爾世余等曾
 
【語釋】伴要須禮は生ゆれに同じい○餘能比等は自分のことをいふのであるといふ眞淵の説がよろしい。
【口譯】楊ならば、伐つても又あとから生えもするが、自分が戀死をしたら、取りかへしがつかないではないか。全體どうしろといふのであるか。
(136)【後記】上の二句は、卷七に「あられ降り遠つあふみの余跡《アド》川楊刈れどまた生ふてふ余跡川《アドカハ》楊」とあるのに似てをる。戀死をするといふことを以て相手を脅迫するのは古來の慣用手段と見える。
 
3492 乎夜麻田乃 伊氣能都追美爾 左須楊奈疑 奈里毛奈良受毛 奈等布多里波母
 
【語釋】上の三句は、成りといはむための序○成るとは楊のついて生ひたつのをいふ○乎夜麻田は山田といふに同じ。
【口譯】この結婚は成り立つにしても、成り立たないにしても、われ/\二人の中はいつまでもかはることはあるまい。
【後記】古今集の東歌に「おふのうらに片枝さしおほひ成る梨の成りも成らずも宿《ネ》てかたらはむ」とあるのに似た歌であるが、このなりといふ語を生業の意と見る説もある。
 
(137)3493 於曾波夜母 奈乎許曾麻多賣 牟可都乎能 四比乃故夜提能 安比波多我波自
 
【語釋】牟可都乎は、向ひにある峯○故夜提は小枝の訛○四比乃故夜提能は、逢ひたげはにかゝる語である。椎の小枝は、多くうち茂つて、錯綜するものであるから、逢ひたげはにかけたのであらう。
【口譯】おそかれ、はやかれ、今日はまちがひなく、逢ひたいと思ふ。
【後記】物陰などで、女の來るのを待つ男の歌であらう。
 
或本歌曰 於曾波夜毛 伎美乎思麻多武 牟可都乎能 思比乃佐要太能 登吉波須具登母
 
3494 兒毛知夜麻 和可加敝流※[氏/一]能 毛美都麻※[氏/一] 宿毛等和波毛布 (138)汝波安杼可毛布
 
【語釋】兒毛知夜麻は、上野國群馬郡にある舊火山で、白井の北嶺である○毛美都は、紅葉づるといふを、四段にはたらかせたのである。宿毛は、宿むに同じ。
【口譯】あの兒毛知山の若楓が芽をふいたが、あれが紅葉するまで、いつまでもかうして御前と寢てをりたいと思ふが、お前はどう思ふか。
【後記】夫婦の睦言《ムツゴト》で、表現が如何にも直接である。
 
3495 伊波保呂乃 蘇比能和可麻都 可藝里登也 伎美我伎麻左奴 宇良毛等奈久文
 
【語釋】伊波保呂は、伊香保呂の訛であらう○蘇比は山に沿ひたる地○上の二句は序で、若松を待つことのかぎりに言ひかけたのであらう。
(139)【口譯】自分はいく夜も持ちこがれたのであるが、もはやこれが限りであらうか。今夜も見えない。心もとないことである。
【後記】男を待ちわびた女の歌である。
 
3496 多知婆奈乃 古婆乃波奈里我 於毛布奈牟 己許呂宇都久思 伊※[氏/一]安禮波伊可奈
 
【語釋】多知婆奈乃古婆、武藏國に橘樹《タチバナ》郡がある。古婆はこの地の小字であらう○波奈里は、童艸放《ウナヰハナリ》で、まだ振分髪の少女をいふ○於毛布奈牟は、思ふらむの訛○伊可奈は、行かむに同じい。
【ロ譯】あの橘の古婆のはなりが、自分をこがれてゐるであらう。その心がいとしいから、さあはやく行つて逢つてやらう。
 
(140)3497 可波加美能 禰自路多可我夜 安也爾阿夜爾 左宿佐寐※[氏/一]許曾 己登爾※[氏/一]爾思可
 
【語釋】可波加美は河のほとり○禰自路多可我夜は、水に洗はれて、根の白く見える、たけの高い萱○上の二句は、あやに/\といはむための序。かやをあやに言ひかけたのであらう○安也爾阿夜爾はほんたうにの意、語勢を強める副詞である。
【口譯】ほんたうに自分は重ねて寢たために、つひに人の口にかゝるやうになつた。
 
3498 宇奈波良乃 根夜波良古須氣 安麻多安禮婆 伎美波和須良酒 和禮和須流禮夜
 
【寤釋】宇奈波良は、海際の意であらう○根夜波良古須氣は、根のやはらかな小菅で、女に譬(141)へたのである○和須良酒は、忘るの敬語。
【口譯】海邊の根のやはらかな小菅のやうななよやかな美しい婦人が他《ホカ》にたくさんあるので、あなたはお忘れになるのでありませうが、わたくしは、あなたを忘れは致しません。
【後記】女を菅に譬へたのは、卷三の大伴家持の歌に「奥山の石本菅を根深めて結びし心忘れかねつも」とあるに同じである。舟人の妻の歌であらう。
 
3499 乎可爾與西 和我可流加夜能 佐禰加夜能 麻許等奈其夜波 禰呂等敝奈香母
 
【語釋】乎可爾與世は、岡にて引きよする意。佐禰加夜はなえやはらかな萱○奈其夜波は、なごやかにはの意。なごやといふ語は、卷四に「むしぶすまなごやが下に臥したれども妹としねねば肌しさむしも」とあるに同じく、はやく古事記に見えた語である。禰呂は寢よの訛○等敝奈香母は、といはぬかもの訛○上の二句は、寢といはむための序である。
(142)【口譯】女のほんたうに落ちついて寢よといはないのはどういふわけであるか。
【後記】新考に「女の逢ひながら憚る所ありて、おちつきて相寢よといはぬをあかず思へる趣ならむ」とあるのがおもしろく思はれる。
 
3500 牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 禰乎遠敝奈久爾
 
【語釋】根乎可母乎布流は、根を竟ふるかもの意で、染料として根を用ひつくすことをいふ○可母の母は助辭、可母はやはの意ではない。宇良我奈之は、心にかはゆく思ふこと。
(143)【口譯】紫草は根をも用ひ竟へるといふのに、彼のかはゆい娘《コ》の自分と寢竟へないのが恨めしい。
 
3501 安波乎呂能 乎呂田爾於波流 多波美豆良 比可婆奴流奴留 安乎許等奈多延
 
【語釋】安波乎呂、和名抄に常陸國那珂郡阿波郷がある。今の峠村澤山村岩船村に當つてをる。この地の岡であらう○多波美豆良は、ひるむしろ(眼子菜)のこと○上の三句は、引かばぬる/\といはむが爲の序である○許等奈多延は、たよりを絶たないやうにせよとの意。
(144)【口譯】自分がそなたを引くならば、すなほにより來て、たよりを絶たないやうにありたい。
【後記】前の「あづましのおほやが原のいはゐづら引かばぬる/\わにな絶えそね」「上つけぬかほやが沼のいはゐづら引かばぬれつゝあをなたえそね」の類歌である。
 
3502 和我目豆麻 比等波左久禮杼 安佐我保能 等思佐倍己其登 和波佐可流我倍
 
【語釋】目豆麻は、めづる妻の意であらう○安佐我保能は、朝顔の花の如き意で、我が目妻にかゝる語○己其登はこゝだといふに同じく、年さへこごとは.年も久しくいつまでもの意である○佐可流我倍は、放《サカ》るかはの東語。
【口譯】朝顔の花の如き、吾が愛する妻は、人が引きはなさうとしても、いつまでも、いつまでも、自分は離れることをしない。
【後記】「上野の佐野の舟橋とりはなし親はさくれどわはさかるがへ」とある類歌である。
 
3503 安齊可我多 志保悲乃由多爾 於毛敝良婆 宇家良我波奈乃 伊呂爾※[氏/一]米也母
 
【語釋】安齊可我多、所在不明。新考の説に從ひ、あさかがたと訓むことにしたい。うけらが花をよみ合せておるから、武藏國人の歌ではあるまいか。歌を七つ隔てゝ下に橘郡の歌もある○由多爾は、潮のさし來る際のさわがしいのに對して、しづかなる潮干のさまを取り出して、心しづかに氣長くの意に用ひたのであらう○宇家良我波奈乃は、色にかゝる語ではなく色に出めやもまでにかゝつてゐる。
【口譯】安齊可潟の潮干の瀞かなやうに氣長く思ふならば、うけらが花の色に出ないやうに顔色には出さなかつたであらう。
【後記】眼前の景によつてよんだものであらう。
 
(146)3504 波流敝左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須爾 左奴流夜曾奈伎 兒呂乎之毛倍婆
 
【語釋】左久は末葉のさし出るのをいふ○上の二句は、うらといはむための序○宇良夜須爾は心安くての意。
【口譯】自分は彼の女を絶えず思ひこがれてゐるために、夜も心安くうちとて寢ることが出來ない。
【後記】後撰集に「春日さす藤のうら葉のうらとけて君しおもはゞ我もたのまむ」はこの歌から取つたのであらう。
 
3505 宇知比佐都 美夜能瀬河泊能 可保婆奈能 孤悲天香眠良武 伎曾母許余比毛
 
【語釋】宇知比佐都は、うち日さすの訛で、宮の枕詞○美夜能瀬河泊は、所在不明○可保婆奈は.ひるがほである。ひるがほの夜在しぼむのを寢にかけたのであらう○上の三句は寢といはむための序である。
【口譯】彼の娘は自分を待ちわびて、昨夜も今夜も戀ひつゝねることである。
 
3506 爾比牟路能 許騰伎爾伊多禮婆 波太須酒伎 穗爾※[氏/一]之伎美我 見延奴己能許呂
 
【語釋】許騰伎爾伊多禮婆、契沖は「蠶時《コドキ》に到ればなり」といつてをる。新室のとつゞけたのは、古義に「今の山里などにて多く蠶養ふ處には新にその室を構ふるなり」といつてをるのがおもしろい○穗爾※[氏/一]之は、心の中に含んでゐたことを色に現すをいふ○波太須酒伎は、穗にかゝる枕詞。
【口澤】新しい室を建てゝ養蠶をするときになつたので、忙しいと見えて、これまで、互に相(148)思ふ心を明してうちとけてゐた君がこの頃見えないのか淋しい。
【後記】養蠶はもと/\女のするわざであるが、養蠶時に到れば、男も女もとも/”\に手傳ふのが常である。
【附記】このこどきといふ語を、ことほぎの略し、新築落成のことほぎと見る説もある。
 
3507 多爾世婆美 彌年爾波比多流 多麻可豆良 多延武能己許呂 和我母波奈久爾
 
【語釋】上の句は、絶えといはむための序○多爾世婆美は、谷が狹いゆゑにの意○多麻可豆良は、蔓草の總稱。玉は美稱である。
【口譯】谷の狹いために、蔓ひ餘つて、峯まで蔓ひ上つた玉蔓の絶えないやうに、たえようといふ心は、更にないのに、このやうに疑はれるのは、どういふわけであらうか。
【後記】伊勢物語に「谷せばみ峯まで蔓《ハ》へる玉蔓絶えむと人に吾思はなくに」とあるのは、こ(149)の歌を少し取りかへたのであらう。
 
3508 芝付乃 御宇良佐伎奈流 根都古具佐 安比見受安良婆 安禮古非米夜母
 
【語釋】御宇良佐伎奈流根都古具佐、中山嚴水は、睦國鹽竈の祠官藤塚知明の語を引き、「彼の國富山の麓の海に出でたる崎を三浦崎といひ、そのあたりにて、白頭翁《オキナグサ》をねこ草といふ」といつてをる。白頭翁は、毛莨料に屬する草本で、山野に多く、莖の高さ五寸乃至一尺、四五月の頃六片より成る一花を傾下する。花後雌蕋の尖端に殘る變形物は恰も老翁が銀髪を被れるに似てをる。
(150)【口譯】彼の三浦崎にある根郡古草のやうな美しい女を初から見なかつたならば、こんなに自分は戀ひるといふことはたかつたであらうに。
【後記】「相見ての後の心に比ぶれば、昔は物を思はざりけり」とふにに似た歌である。
 
3509 多久夫須麻 之良夜麻可是能 宿奈敝杼母 古呂賀於曾伎能 安路許曾要志母
 
【語釋】多久夫須麻は、栲衾で、白山の枕詞○之良夜麻は、加賀の白山であらう○宿奈敝杼母は、宿ざれどもといふに同じ。なへは、打消の助動詞なふの已然形である○於曾伎は、襲着《オソキ》で表着の意○安路許曾は、あるこその訛。
【口訳】白山から吹きおろす風の寒さに夜も寝られないが、妻のもたせてくれた表着のあるのがうれしい。
【後記】越路に旅行した男の實感であらう。
 
(151)3510 美蘇良由久 君母爾毛我母奈 家布由伎※[氏/一] 伊母爾許等杼比 安須可※[氏/一]里許武
 
【語釋】我母奈は、願の詞。
【口譯】あの大空をゆく雲になりたいものである。今日ゆいて妻と話をして、明日かへつて來られるやうに。
【後記】平明な歌である。遠い國に旅をして戀人を思ひ、空などをうち眺めつゝよんだのであらう。四の卷の安貴王の歌に、「みそらゆく雲にもがも、高飛ぶ鳥にもがも、明日ゆきて妹に言問ひ」云々とあるのと同じ意である。
 
3511 安乎禰呂爾 多奈婢久君母能 伊佐欲比爾 物能乎曾於毛布 等思乃許能己呂
 
(152)【語釋】安乎禰呂は、青山の嶺で、呂は助詞である○伊佐欲比はゆかむとして、ゆきあへず、留らむとして留りあへぬをいふ○上の二句は、いさよひにといはむ爲の序○等思乃許乃已呂は、一年中のこの頃の意である。
【口譯】自分は、この頃はゆくともなく、留るともなく、心が定まらずして物を思ふことである。
 
3512 比登禰呂爾 伊波流毛能可良 安乎禰呂爾 伊佐欲布久母能 余曾里都麻波母
 
【語釋】比登禰呂爾は、一嶺ろにで、一つぞといふ意。嶺ろといつたのは、次の青嶺ろとあるのに對したのである○伊波流流といはずして、言はるとしたのは、連體形の代りに終止形を用ひる東語に多い一格である○余曾里都麻は、依《ヨ》りそふ妻の意。
【口譯】妻と我とは、一つであると、人にいはれながらも、青山にかゝつてゐる雲のいさよふ(153)如く浮きたゞようて定まらぬ妻であるわい。【後記】噂のみ高くて心の定まらない女を物足らず思つてよんだのであらう。
 
3513 由布佐禮婆 美夜麻乎左良奴 爾努具母能 安是可多要牟等 伊比之兒呂婆母
 
【語釋】爾努具母は布雲で、布のやうにたなびく雲をいふ。にぬは、ぬのの訛○安是可は、などかといふに同じ。
【口譯】夕方になると、いつもみ山を離れないあの布雲のやうに絶えることは、いたしますまいとつた女は、今はどうしてゐるであらうか。
【後記】上の二句は、眼前の景を捉へ來つて序としたもので、遠く離れてゐる女を思うてよんだ男の歌であらう。
 
(154)3514 多可伎禰爾 久毛能都久能須 和禮左倍爾 伎美爾都吉奈那 多可禰等毛比※[氏/一]
 
【語釋】都吉奈那は、着きなむといふに同じ。
【口譯】高い峯に雲のつくやヤうに、わたしもあなたを高峰と思つて、あなたにより着きませう。
【後記】女の歌であらう。
 
3515 阿我於毛乃 和須禮牟之太波 久爾波布利 禰爾多都久毛乎 見都追之努波西
 
【語釋】久爾波布利は、國溢りで、平地に滿ち溢れること。溢りといふ語は、卷十八に「射水(155)河雪消にはふり逝く水」のとある「はふり」に同じい。
【口譯】あなたは、わたしの顔をお忘れになるやうなことはありますまいが、若しさういうふことがありましたら、この國土に滿ち溢れて、嶺に立ち昇る雲を見て、わたしを思ひ出して下さいませ。
【後記】夫の留主を守る女の歌であらう。雲を見て面影をしのべといふのは、作者が雲の立ちのぼることの多い地方の人であるからではあるまいか。
 
3516 對馬能禰波 之多具毛安良南敷 可牟能禰爾 多奈婢久君毛乎 見都追思怒波毛
 
【語釋】對馬能禰は下縣郡に在る有明山を指すのであらう。安良南敷は、あらずといふに同じく、思怒波毛は偲《シヌ》ばむである。
【口譯】對馬の嶺は、下の方には雲はないから、上の方にたなびく雲を見て、そなたの面影を(156)思ひ出しませう。
【後記】對馬に駐在して居る防人の歌で、前の三五一五の歌に答へたものと見える。下雲あらなふは、事實に即してよんだのであらう。
 
3517 思良久毛能 多要爾之伊毛乎 阿是西呂等 許己呂爾能里※[氏/一] 許己婆可那之家
 
【語釋】阿是西呂は、何としろとの意○許己婆は、許多《コヽダ》に同じ○可那之家は、悲しきの訛。
【口訳】彼の女は白雲の中絶するやうに中絶した女であるのに、どうして、このやうに面影が心に浮んで、むしやうに愛《カナ》しいのであらうか。
【後記】別れた女に對する未練を歌つたものと見える。
 
3518 伊波能倍爾 伊可賀流久毛能 可努麻豆久 比等曾於多波布 (157)伊射禰之賣刀良
 
【後記】この歌第三句以下は、上の三四〇九の上野歌に「伊香保ろに天雲いつぎ可沼づく人とおたばふいざ寢しめとら」とあるのと、全く同一である。三四〇九の替歌であらう。
 
3519 奈我波伴爾 己良例安波由久 安乎久毛能 伊※[氏/一]來和伎母兒 安必見而由可武
 
【語釋】己良例は、叱られて、嘖《コロ》ばれの約、叱られること○安乎久毛能は、青雲ので、いでにかゝる枕詞。
【口譯】わたしお前のおつかさんに叱られ、歸つてゆくのであるが、せめてはもう一目見てゆきたい、こゝまで出て來てくれ。
【後記】如何にも素朴な歌である。
 
(158)3520 於毛可多能 和須禮牟之太波 於抱野呂爾 多奈婢久君母乎 見都追思努波牟
 
【口譯】わが思ふ女の面貌を忘れるやうなことはあるまいが、若しさやうのことがあつたら、大野にたなびいてゐる雲を見て、わが戀人を思ひ浮べて、しのびませう。
【後記】男の歌である。
 
3521 可良須等布 於保乎曾杼里能 麻左※[氏/一]爾毛 伎麻左奴伎美乎 許呂久等曾奈久
 
【語釋】於保乎曾杼里は、大虚言《オホウソ》鳥である。このをそといふ語を輕佻の意と見る説もあるが、論據がたしかでない○麻左※[氏/一]爾毛は、まことしやかにの意○許呂久は、兒等|來《ク》である。
(159)【口譯】烏といふ太うそつきが、ころく/\と鳴く。憎らしい鳥だ。わが待つてゐる人は來もしないのに。
【後記】男を待ちわびた女の心情の自然の發露であらう。
 
3522 伎曾許曾波 兒呂等左宿之香 久毛能宇倍由 奈伎由久多豆乃 麻登保久於毛保由
 
【語釋】久毛能宇倍由は、雲の上をの意○麻登保久は、間遠くで、久しくの意○三四の句は序である。
【口譯】昨夜女と寢たばかりであるのに、なぜこのやうに久しく思はれるのであらうか。
【後記】眼前の景によつて戀人を思ひ浮べたのであらう。
 
3523 佐可故要※[氏/一] 阿倍乃田能毛爾 爲流多豆乃 等毛思吉伎美波 (160)安須左倍母我毛
 
【語釋】佐可故要※[氏/一]は、坂越えて來る意○阿部は、今の靜岡市、坂は宇津ノ谷峠であらう○等毛思吉は、めづらしき意。
【口譯】坂を越えて來て、安倍の田の面に居る鶴のやうにめづらしく、うつくしい君は明日もまたお出下さいませ。
【後記】宣長は「此の乏しきは、うらやましきなり。日毎來ぬ日なく來居る鶴を羨みて、わが男も毎日、明日も來れかしといふなり」といつてをる。
 
3524 麻乎其母能 布能末知可久※[氏/一] 安波奈敝波 於吉都麻可母能 奈氣伎曾安我須流
 
【語釋】麻乎は、眞小で、接頭語○布は簡《フ》で、編薦《アミゴモ》の一節、簡の間では、間近くてといはむ(161)爲の序である○安波奈敝波は、逢はねばの意○於於吉都麻可母能は、沖つ眞鴨の如くの意である。これは、諸註にいつてゐるやうに、水鳥は、水から浮び上つて溜息をつくが故に、なげきに冠らせたのである。
【口譯】ま近いところに在りながら、逢ふことが出來ぬゆゑ、ため息のみをついて、戀に苦しむのである。
【後記】上の句と下の句とに近いといふ語と長い意の語との相對してをるのがおもしろい。
 
3525 水久君野爾 可母能波抱能須 兒呂我宇倍爾 許等乎呂波敝而 伊麻太宿奈布母
 
【語釋】水久君野は、所在不明。古義には「武藏國秩父郡に水久具利といふ里あり。其の地にや」といつてをる○上の三句は延へといはむ爲の序である○於呂波敝は、不たしかに言葉を通はすことであらう。大神ノ眞潮は「おろ/\延へたるばかりにての意なり」といつてを(161)る。
【口譯】あの娘とは不たしかに言葉を通はしたのみで、まだ一緒に寢たこともないのに、なぜこのやうに戀しいのであらうか。
【後記】遂げざる戀のためになやむ男の歌であらう。
 
3526 奴麻布多都 可欲波等里我栖 安我己許呂 布多由久奈母等 奈與母波里曾禰
 
【語釋】可欲波等里我栖は、通ふ鳥のすの訛で通ふ鳥の如くの意○上の二句は二行《フタユ》くにかゝる序詞○奈母は、らむの訛○奈與の與は感歎の助詞○母波里は、思ひの訛であらう。
【口譯】二つの沼をあちらこちらへと通ひゆく鳥のやうに、わが心が兩方に通ふのであらうと思つてくださるな。
【後記】沼の多い地方の民謠であらう。
 
(162)3527 於吉爾須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎※[氏/一]伎努可母
 
【語釋】須毛は、住むの訛○母己呂は、如くの意。二十の卷にも「松のけのなみたる見れば、家人《イハビト》のわれを見送ると立たりしもころ」とある○也左可杼利は、八尺《ヤサカ》鳥で、八日もある長い息をつく鳥の意であらう。
【口譯】沖に住む小鴨のやうに長い/\息をついて、別を惜しむ妻を家において別れて來た。さても名殘惜しいことである。
【後記】防人などにゆく男の歌であらう。
 
3528 水都等利乃 多多武與曾比爾 伊母能良爾 毛乃伊波受伎爾※[氏/一] 於毛比可禰都毛
 
(164)【語釋】水都等利乃は水鳥ので、立つの枕詞○與曾比は支度○伊母能良の良は助詞。
【口譯】出發の支度にまぎれて、妻とゆつくり話もしないで來て、戀しさに堪へかねる。
【後記】卷四に「珠衣《アリギヌ》のさゐ/\しづみ家の妹にものいはず來ておもひかねつも」とあり、卷二十に「みづとりのたちのいそぎに父母にものはず來にていまぞくやしき」とあるのに似た歌である。これも防人の歌であらう。
 
3529 等夜乃野爾 乎佐藝禰良波里 乎佐乎左毛 禰奈敝古由惠爾 波伴爾許呂波要
 
【語釋】上の二句は、をさの音をくりかへして、をさ/\といはむための序としたのである○等夜乃野、和名抄に、下總國印旛郡に島矢(島は鳥の誤であらう)があり、古義には、「この處ならむか」といつてをる○乎佐藝禰良波里は、兎ねらひの延言で、獵師が兎をねらふことをいふ○禰奈敝は、寢ざること○乎佐乎左毛は、あまりといふ程の意○許呂波要は、ころ(165)ばゆの訛であらう。
【口譯】これまであまり一緒に寢もしない娘のために女の母に叱られるのは、口惜しいことである。
 
3530 左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思毛
 
【語釋】上の三句は、さを鹿の伏す叢は外から見えにくいといふので、見えずともといはむ爲の序としたのである。十卷に「春されば伯勞《モズ》の草ぐき見えずとも」とあると同例てあらう○可奈門欲の欲は、をと同じ○要思は、よしの古語。
【口譯】たとひ女の姿は見えないでも、女の門を通るのがうれしい。
【後記】年若い男の眞情である。
 
(166)3531 伊母乎許曾 安比美爾許思可 麻欲婢吉能 與許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流
 
【語釋】麻欲婢吉能は、横山の枕詞、横山は横に靡き連る山○敝呂の呂は助詞。
【口譯】わたしは、たゞ娘を見に來たに過ぎないのに、女の家では、横山のほとりの野を荒す鹿のやうに思つて、自分を逐ひ拂はうとする。
 
3532 波流能野爾 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母
 
【語驛】上の二句は、口息まずといはむ爲の序○久知夜麻受は、口を休めぬこと。
【口譯】家に在る妻は絶えず自分を戀ひこがれてゐることであらう。
【後記】旅にある男の、草を食む駒を見て、家なる妻を思ひ出してよんだのであらう。
 
(167)3533 比登乃兒乃 可奈思家之太波 波麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思
 
【語釋】波麻渚杼里は濱渚鳥。海邊の沙地を歩む水鳥は行き悩むものであるから、足悩むの枕詞としたのである。
【口譯】他人《ヒト》の娘が戀しく思はれると、女に逢ひたさに、馬の悩むのをも厭はず、幾度も同じ道を往復することである。
【後記】契沖が遊仙窟に若使2人心密1莫v惜2馬蹄穿1。とあるのを引いて類似の作としてゐるのもおもしろい。
 
3534 安可胡麻我 可度※[氏/一]乎思都都 伊※[氏/一]可天爾 世之乎見多※[氏/一]思 伊敝能兒良波母
 
(168)【口譯】わが乘つてゐる赤駒が門出をしながら、出てやらずためらうてゐたのを見たててくれた自分の妻は、どうしてゐるであらうか。
【後記】名殘惜しさに自分のためらうてゐたのを馬におほせたもので、旅に在る男の歌であらう。
 
3535 於能我乎遠 於保爾奈於毛比曾 爾波爾多知 惠麻須我可良爾 古麻爾安布毛能乎
 
【口譯】自分の夫となるべき男を疎かに思つてはなりませんよ。いつもあなたが庭に立ち、にこ/\としてお出迎へなさるので、乘馬で來るあの御方に逢ふことが出來るのですよ。
【後記】まだ結婚をしない女に對し侍婢などの注意を與へたものであらう。
 
3536 安加胡麻乎 宇知※[氏/一]左乎妣吉 己許呂妣吉 伊可奈流勢奈可 (169)和我理許武等伊布
 
【語釋】左乎妣吉は、さ緒牽きで、緒でひつぱること、さは接頭語○上の二句は、進まざる赤駒をむちうち、又緒でひつぱることを、心引きといはむ爲の序としたのである。
【口譯】わが心を引いて見ようとして、自分のところへ來るといふのは、どういふ男であらうか。
【後記】媒に向つて女のよんだ歌であらう。
 
3537 久敝胡之爾 武藝波武古宇馬能 波都波都爾 安比見之兒良之 安夜爾可奈思母
 
【語釋】久敝は、垣《カキ》のこと。上の三句は、はつ/\にといはむための序で、垣越《クヘゴシ》に麥を食ふ馬の僅に麥の穗の上部のみ食ひ得るのを喩としたのである。
(170)【口譯】垣越しに麥を食ふ馬のはつ/\に麥を食ひ得るやうに、はつ/\にしか見ることも出來ない娘が、なぜこのやうに、むしやうに、いとしいのであらうか。
【後記】如何にも野趣の多い歌である。
 
或本歌曰 宇麻勢胡之 牟伎波武古麻能 波都波都爾 仁必波太布禮思 古呂之可奈思母
 
【語釋】宇麻勢は、馬塞《ウマサヘ》で、馬を防ぐために路傍につくつた垣である○仁必波太布禮思は、新に膚を觸れ合すること
 
3538 比呂波之乎 宇馬古思我禰※[氏/一] 己許呂能未 伊母我理夜里※[氏/一] 和波己許爾思天
 
【語釋】比呂波之は、古義の説の如く、飜橋《ヒロハシ》の意で、反橋《ソリハシ》のことであらう。
(171)【口譯】反橋の危さに、馬が越しかねるので、心ばかりを女の許へ通はせつゝも、身はこゝにをることである。
【後記】上の二句は比喩であつて事實を歌つたものではあるまい。
 
或本歌發句曰 乎波夜之爾 古麻乎波左佐氣
 
【語釋】波左佐氣は、馳させ上げの意。自分の乘つてゐた馬が、自分の下りてゐる間に、放れゆいて、林の中へ上がつた爲に乘り行くべき馬がないといふのであらう。
 
3539 安受乃宇敝爾 古馬乎都奈伎※[氏/一] 安夜抱可等 比等豆麻古呂乎 伊吉爾和我須流
 
【語釋】安受、字鏡に※[土+冉]《アズ》、崩岸也。久豆禮又阿須とある。がけの危いところをいふ○上の二句(172)は序○安夜抱可等は、危かれどの略。
【口譯】他人の妻に懸想をするといふことは、あるまじく危いことではあるが、自分は思ひきり難く、息どほしいまでに戀ひこかれることである。
【後記】一二の句はおもしろい比喩である。
 
3540 左和多里能 手兒爾伊由伎安比 安可胡麻我 安我伎乎波夜美 許等登波受伎奴
 
【語釋】左和多里、上野國吾妻郡に澤渡《サワタリ》といふ地があり、街の北三里に温泉がある。こゝに左和多里とあるのは、この地であらうか。
【口譯】自分は、はからずも有名な左和多里の愛らしいをとめに途中で行き遇つたが、自分の乘つてゐる赤駒の歩みがはやいので、ゆつくり話をするひまもなく、別れて來たのが殘念である。
(172)【後記】卷一の人麿の歌に「青駒の足掻を速《ハヤ》み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける」とあるのに似た歌である。
 
3541 安受倍可良 古麻能由胡能須 安也波刀文 比登豆麻古呂乎 麻由可西良布母
 
【語釋】安受倍可良は、崩岸邊《アズベ》をといふに同じ○由胡能須は行く如くの意○安也波刀文は、危ふかれどの略○麻由可西良布母の麻は、接頭語、西《セ》良布の西は、しめの約、良布は、るの延言で、由可西良布は、ゆかしめるといふに同じく、ゆかしく思ふ意であらう。
【口譯】崩れたがけを駒の行くやうに危くはあるが、自分には、どうも他人の妻がゆかしく思はれる。
【後記】他妻《ヒトヅマ》に想を懸けてゐる男の煩悶であらう。
 
(174)3542 佐射禮伊思爾 古馬乎波佐世※[氏/一] 己許呂伊多美 安我毛布伊毛我 伊敝能安多里可聞
 
【語釋】波佐世※[氏/一]は、走らせての意○上の二句は、心痛みといはむための序としたのであらう。それは、乘つた駒を細石《サヾレイシ》のうへに馳させては、細石がころんで、馬の足を傷ひ、心を痛ましめるからである。
【口譯】心痛きまで、自分の戀しく思ふ妹の家は、あのあたりであらうか。
 
3543 武路我夜乃 都留能都追美乃 那利奴賀爾 古呂波伊敝杼母 伊末太年那久爾
 
【語釋】武路我夜乃は、都留の枕詞であらう○都留は、甲斐國都留郡と思はれる。其の頃丁度都留の堤が出來あがつたのではあるまいか。
(175)【口譯】女は二人の間のなからひが、今にも成るばかりにいふが、未だ一緒に寢ないことゆゑ、頼みにはなり難い。
 
3544 阿須可河泊 之多爾其禮留乎 之良受思天 勢奈那登布多理 左宿而久也思母
 
【語釋】阿須可河泊は、大和の飛鳥川で、下濁れるといはむための枕詞としたのであらう○勢奈那は背《セナ》ねといふに同じく、ねは敬語である。
【口譯】男の心の濁つてをるのを知らないで、結婚をしたのが悔しい。【後記】心がはりした男を怨んでよんだものであらう。この歌と次の歌とは、大和地方の民謠が東國に傳はつたのではあるまいか。
 
3545 安須可河泊 世久登之里世波 安麻多欲母 爲禰※[氏/一]己麻思乎 (176)世久得四里世婆
 
【語釋】安須可河泊は、塞くの枕詞○爲禰は、率寢で、つれていつてること。
【口譯】このやうに母などが、我等二人の間を遮らうと知つてゐたならば、いく夜もいく夜もつれてゆいて、心ゆくまで一緒に寢て來るのであつたのに。
【後記】塞くと知りせばといふ語をくりかへしたのは、切なる悔恨の情を表したのであらう。
 
3546 安乎楊木能 波良路可波刀爾 奈乎麻都等 西美度波久末受 多知度奈良須母
 
【語釋】波良路は、はれるの訛○可波刀は、川の流の一つに落ち合ふところ○西美度は、しみづの訛である。
【口譯】青柳の芽を張つてをる皮川のほとりで、お前を待たうとして、清水を汲むふりをして、(177)同じところをいく度もゆきつもどりつして、地をふみならした。
【後記】上に「戀しけば來ませ我が背子|垣内柳《カキツヤギ》末《ウレ》摘みからし我立ち待たむ」とあるのに似た歌である。が、青柳のはらろ川戸の二句に情趣が生きてをる。
 
3547 阿知乃須牟 須沙能伊利江乃 許母理沼乃 安奈伊伎豆加思 美受比佐爾指天
 
【語釋】阿知は味鳧の略○須沙能伊利江、尾張國知多郡に須佐あり、今豊濱村と改む。内海と帥崎との間で、港澳がある。須沙の入江は、こゝであらうか○上の三句は、息づかしといはむための序である○許母理沼(178)は、葦菰などに埋もれた沼の意。
【口譯】久しく戀人に逢はないので、息づまるやうに苦しい。
【後記】あぢのすむと眼前の景によつて歌ひ起したのもおもしろい。
 
3548 奈流世呂爾 木都能余須奈須 伊等能伎提 可奈思家世呂爾 比等佐敝余須母
 
【語釋】奈流世は、水音の高い瀬、呂は助詞○木都は古義の或説の如く、木都彌の誤で、木の芥《アクタ》のことであらう○伊等能伎提は、殊に甚しい意○上の三句は、寄すといはむための序である。
【口譯】とりわきて、自分のいとしく思うてゐる男に、他人までがとりもつてくださるのがうれしい。
 
(179)3549 多由比我多 志保彌知和多流 伊豆由可母 加奈之伎世呂我 和賀利可欲波牟
 
【語釋】多由比我多、未詳。越前に手結《タユヒ》の浦があるが、それであるかは、疑はしい○伊豆由可母は、何處《イヅク》よりかの意で、くの字がおちたのであらう。母は、感動の助詞。
【口譯】あの田由比潟には、一帶に潮がみちて來て、通るべき干潟がなくなつた。いとしい夫は、まあどこから、こゝへ通《カヨ》つて來られるであらうか。
【後記】契りおいた男の上を案じてよんだ女の歌であらう。
 
3550 於志※[氏/一]伊奈等 伊禰波都可禰杼 奈美乃保能 伊多夫良思毛與 伎曾比登里宿而
 
【語釋】奈美乃保能は、波の穂ので、甚振《イタブ》らしの枕詞○稻を舂くのは、女のわざであつたと見(180)える。この上にも、「稻つけばかゞるわが手を」とある。
【口譯】わたしは、稻を舂くことはいやだといつて、強ひてことわつてをるのであるが、昨夜はひとりねをして、男を待ち明かしたので、今日は稻をついたあとのやうに、頭がふら/\とする。
【後記】詐らざる自己告白であらう。
 
3551 阿遲可麻能 可多爾左久奈美 比良湍爾母 比毛登久毛能可 加奈思家乎於吉※[氏/一]
 
【語釋】阿遲可麻は味鎌とかくのであらうか。所在未詳○比毛登久は、紐解くで、開《サ》くといふに同じい。
【口譯】味鎌の潟のやうなおもしろいところに開《サ》く波は、平凡な瀬にはたゝないごとく、わたしもいとしい夫のためならでは、紐を解くことはいたしません。
(181)【後記】ひもとくは、古今集に「百草の花のひもとく秋の野に」とあるひもとくに同じく、咲くことである。
 
3552 麻都我宇良爾 佐和惠宇良太知 麻比登其等 於毛抱須奈母呂 和賀母抱乃須毛
 
【語釋】麻都我宇良は所在未詳。磐城國相馬郡に松が浦といにところがある。この地であらうか○佐和惠《サワヱ》は、騒ぎに同じ○宇良太知は、むらだちの誤であらう○麻比等其等は、今一言の略○於毛抱須奈母は、思ほすらむの訛○母抱乃須は、思ふ如くの意である。
【口譯】わが妻は、浪の騒ぐごとく多くの人々とうちつれて、松が浦まで見送りに來たが、しみ/”\と別を惜しむことが出來なかつた。今一言いひたいと思ふこともあつたであらうに、丁度こちらでも思ふやうに。
【後記】まひと言の一句に女に對する深い同情がこもつてゐる。多くの人々に見送られて旅立(182)つ男の歌てあらう。
 
3553 安治可麻能 可家能水奈刀爾 伊流思保乃 許※[氏/一]多受久毛可 伊里※[氏/一]禰麻久母
 
【語釋】可家能水奈刀は、所在不明○許※[氏/一]は、ごとの訛で、如くの意○多受久毛は、たやすくもの誤であらう○上の三句は、入りてもといはむための序。
【口譯】あの味鎌の可家の湊に入る潮のやうに、何のさはりもなく、たやすく妹の床に入つて寝たいものである。
【後記】海岸地方の民謠であらう。
 
3554 伊毛我奴流 等許能安多理爾 伊波具久留 水都爾母我毛與 伊里※[氏/一]禰未久母
(183)【語釋】三四一二五と句の順序をかへて、歌の意を解すべきは、古義の説の通りである。
【口譯】自分は、あの岩をくゞる水であつたらよからうに、妹が寢る床のあたりに、そつとはいつて寢ようものを。
【後記】十一の卷に「わぎも子に吾が戀ふらくは水ならば、しがらみこえてゆくべくぞ思《モ》ふ」といふのかあるが、水を羨む意は同じである。
 
3555 麻久良我乃 許我能和多利乃 可良加治乃 於登太可思母奈 宿莫敝兒由惠爾
 
【語釋】麻久良我の麻は、接頭語○久良我は、今の下野國猿島郡中田の地であらうといふことである○から楫は、支那風即ち新式の楫である○上の三句は、音高しといはむための序○宿莫敝は、寢ないといふに同じ。
【口譯】自分は、まだ一緒に寢たこともない女であるのに、はやく噂にのつて、とかく言ひさ(184)わがれることである。
【後記】十一卷に「木の海の名高の浦によする浪音高きかも、あはぬ子ゆゑに」とあるのに似た歌である。
 
3556 思保夫禰能 於可禮婆可奈之 左宿都禮婆 比登其等思氣志 那乎杼可母思武
 
【語釋】思保夫禰は、河船に對する語。船をいたづらに湊にすゑおくことをおくといふ故に置くの枕詞としたのであらう○於加禮婆は、置ければの轉○杼可母思武は、何《ナ》どかもせむの訛である。
【口譯】女をうちすてゝおけば、戀しさに堪へず、さりとて、一緒に寝れば、世間の噂がやかましい。さて、そなたをどうしたものであらうか。
【後記】おかればかなしといふ語とひと言しげしといふ語とを對立せしめ、五の句で結んだと(185)ころに心のうごきがよく現れてゐる。
 
3557 奈夜麻思家 比登都麻可母與 許具布禰能 和須禮波勢奈那 伊夜母比麻須爾
 
【語釋】奈夜麻思家は、悩ましきの訛○許具布禰能は、漕ぐ船ので、鹽船とは反對に、絶えず、氣にかゝる譬として用ひたものであらう○勢奈那は、爲ずしての意。
【口譯】しばらくも忘れることもあらうかと、逢はないでゐても忘れはせず、いよ/\思がまして來る。さても氣苦勞な他妻《ヒトヅマ》であることよ。
【後記】他人の妻に想をかくる男の悩みを歌つたものである。
 
3558 安波受之※[氏/一] 由加婆乎思家牟 麻久良我能 許賀己具布禰爾 伎美毛安波奴可毛
(186)【語釋】安波奴可毛は、逢へかしの意○伎美は女を指すのであらう。
【口譯】私は今眞久良我の許我を漕ぐ舟に乘つて行くが、そなたに逢はないで このまゝ旅に出てしまつたならば、心殘りある。許我の渡の船の中ででも逢ふことが出來ればよいが。
【後記】遠く旅立つ男の歌であらう。佳作である。
 
3559 於保夫禰乎 倍由毛登毛由毛 可多米提之 許曾能左刀妣等 阿良波左米可母
 
【語釋】於保夫禰乎倍由毛登毛由毛は、大船の舳《ヘ》をも艫《トモ》をも岸に繋ぎ堅めるやうにの意で、堅めといはむための序である○許曾は未詳、地名であらう○許曾の里人は作者の愛人と見たい。
【口譯】どんなことがあつても、人にもらしてくれるなと、口を堅めておいた許曾の里人のことであるから、吾が名をあらはすやうなことはあるまい。
【後記】あらはさめかもといふのは、あらはす恐れのあるためであらう。
 
(187)3560 麻可禰布久 爾布能麻曾保乃 伊呂爾低※[氏/一] 伊波奈久能未曾 安我古布良久波
 
【語釋】麻可禰は、金屬の總名にも用ひる語であるが、こゝは丹即ち丹砂のことに用ひたものと思はれる○爾生は、上野國廿樂郡丹生村の山であらう。今は村内に採礦の傳説はないが、昔この丹生山で、眞金をふいたことがあると見える○上の二句は、色に出てといはむための序。
【口譯】自分は顔色に出して言はないまでのことである、戀ひしさは、堪へ難いのである。
 
3561 可奈刀田乎 安良我伎麻由美 比賀刀禮婆 阿米乎萬刀能須 伎美乎等麻刀母
 
【語釋】可奈刀田は、金門田で、門田といふに同じい○安良我伎は、新掻きで、新にすきかへ(188)すこと○麻由美は、本居太平の説に從ひ、ひゞわれることと見たい○刀禮婆は、照ればの訛○萬刀は、待つの訛である。
【口譯】門の田を新にすきかへした後にひゞわれるまで日が照れば、農家で雨を持つやうに、君を待ちこがれることである。
【後記】野趣に富んだ歌である。
 
3562 安里蘇夜爾 於布流多麻母乃 宇知奈婢伎 比登里夜宿良牟 安乎麻知可禰※[氏/一]
 
【語釋】安里蘇夜は、荒磯回《アリソミ》の誤であらう○上の二句は、うち靡きといはむための序。
【口譯】わが戀人はわれを持ちかねて、なよやかにうち靡きつゝ、獨りで寢てゐるであらう。いとしいことである。
【後記】障《サハ》ることがあつて、こよひも女を訪ひ得ぬ男の歌であらう。
(189)3563 比多我多能 伊蘇乃和可米乃 多知美太要 和乎可麻都那毛 伎曾毛己余必母
 
【語釋】比多我多、所在不明○上の二句は、立ち亂えといはむための序○亂えは、亂れの訛○麻都那毛は、待つらむの訛。
【口譯】わが妻は、昨夜も今夜も心も姿も亂れつゝ、自分を待つてゐることであらう。
【後記】前のと同じく、女の家を訪ひ得なかつた男の歌である。
 
3564 古須氣呂乃 宇良布久可是能 安騰須酒香 可奈之家兒呂乎 於毛比須吾左牟
 
【語釋】古須氣、武藏國南葛飾郡に小菅といふところがある。今は海岸ではないが、昔は海に沿つてゐたと思はれる○上の二句は思ひ過さむといはむための序、浦風の吹き過ぎるのを、(190)思をやりすごすのに言ひかけたのであらう○安騰須酒香は、何としつゝかの意○於毛比須吾左牟は、思ひ忘れむといふに同じ。
【口譯】わたしは、あのいとしい娘をどうして、心にかけず思ひ過すことが出来ようか。
 
3565 可能古呂等 宿受夜奈里奈牟 波太須酒伎 宇良野乃夜麻爾 都久可多與留母
 
【語釋】宇良野、信濃國小縣郡に浦野村がある。この地の山であらう○波太須酒伎は、裏野の枕詞、薄のしげる裏野とつゞけたものと見える○都久可多與留母は、月片寄るもの訛である。
【口譯】今夜はあの娘とねることが出來ないのであらうか。裏野の山に月が傾いて、夜が次第にふけてゆく。
【後記】女を持ちわびた男の歌であらう。聲調におちつきがあつて、深い溜息を聞くやうな心(191)ちがする。
 
3566 和伎毛古爾 安我古非思奈婆 曾和敝可毛 加未爾於保世牟 己許呂思良受※[氏/一]
 
【語釋】曾和敝可毛は、そこをかもの誤○加米は神《カミ》の訛であらう。十六卷戀2夫君1歌にも「憶《オモ》ひ病《ヤ》む吾が身一つぞ、ちはやぶる神にもな負《オホ》せ、卜部《ウラベ》ませ龜もなやきそ戀《コホ》しくに痛き吾が身ぞ」とある。
【口譯】自分が若しわが妻にこがれて、こがれ死をしたならば、世の人は事情を知らないで、神の祟だといふことであらう。
【後記】伊勢物語に「人知れず吾戀死なばあぢきなくいづれの神になき名負せむ」とあると同想である。
 
(192)     防人歌
 
3567 於伎※[氏/一]伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知※[氏/一]由久 安都佐能由美乃 由都可爾母我毛
 
【口譯】家に留めおいて行つては妻がいとしい。わが携へ持ちてゆく梓の弓の弓束《ユヅカ》であればよいのに。
【後記】二十の卷の防人の歌に、「父母は花にもがもや草枕旅はゆくともさゝごて行かむ」とあるのに似た、やさしい歌である。
 
3568 於久禮爲※[氏/一] 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美爾母 (193)奈良麻思物能乎
 
【口譯】家に殘つてゐて戀ひるのは苦しい。平生朝の狩におつかひになるあなたの弓になりたいものである。
【後記】妻の答である。
     右二首問答
 
3569 佐伎母理爾 多知之安佐氣乃 可奈刀低爾 手婆奈禮乎思美 奈吉思兒良波母
 
【語釋】可奈刀低は.金門出即ち門出である。
【口譯】防人となつて出發した朝の門出に、取りかはした手を離すのを惜しんで泣いたわが妻(194)は、どうしてゐるであらうか。
【後記】第四五句の寫生が眞に迫り、あはれの深い歌である。
 
3570 安之能葉爾 由布宜里多知※[氏/一] 可母我鳴乃 左牟伎由布敝思 奈乎波思奴波牟
 
【口譯】葦の葉に夕霧が立つて心細く、鴨の音の寒い夕には、ましてそなたのことが思ひ出されるであらう。
【後記】佳い歌で、卷一の志貴皇子の「葦べゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕は太和し思ほゆ」とあるのに比して、遜色なく、眞淵も「東にもかくよむ人もありけり」とたゝへてゐる。
 
3571 於能豆麻乎 比登乃左刀爾於吉 於保保思久 見都都曾伎奴流 許能美知乃安比太
 
(195)【語釋】比登乃左刀爾於吉は、他人の里に預けおいての意であらう○おほほしくは、心もむすぼれての意。
【口譯】自分の妻を他人の里に預けおいて來たので、この道の間も心がむすぼれて、女の住む方をうち見やりつゝ來たことである。
 
     譬喩歌
 
3572 安杼毛敝可 阿自久麻夜末乃 由豆流波乃 布敷麻留等伎爾 可是布可受可母
 
【語釋】安杼毛敝可は、何と思つて、かくいふのであるかの意○阿自久麻夜末、常陸國筑波郡小田村字平澤の北に神郡の子飼山といふ山があり、地名辭書には、「古の阿自久麻夜末はこの山ならむか」というてをる。○由豆流波は今のゆづりは即ち交讓木である○布敷麻留は、若(196)葉の未だ開けないほどをいふ。
【口譯】そなたは何と思つて、かくいふのであるか。阿自久麻山のゆづる葉の如くふまるときにも、風が吹いて、人に誘はれることがないとも限らないではないか。
【後記】まだ童なる女にいひよつたのを、人の咎めたのに答へたのであらう。
 
3573 安之比奇能 夜麻可都良加氣 麻之波爾母 衣我多奇可氣乎 於吉夜可良佐武
 
【語釋】夜麻可都良加氣も可氣もともに日蔭のかづらのことである。同じ語をくりかへしたの(197)は、聲調をとゝのへむが爲であらう○麻之波爾母は、しな/\といふに同じ。
【口譯】山かづらかげの如く、しば/\は得難い娘《コ》を捨ておいて枯らしてしまふのは、惜しいものである。
【後記】これも前の歌と同じく自己を辯護したものゝやうに思はれる。
 
3574 乎佐刀奈流 波奈多知波奈乎 比伎余治※[氏/一] 乎良無登須禮杼 宇良和可美許曾
 
【語釋】乎佐刀の乎は、接頭語○比伎余知は、引き攀ぢて、引きよせること○うら若みは、末若《ウラワカ》みの意である。
【口譯】この里にある花橘を引きよせて折らうとするけれども、まだうら若くて、祈ることが出來ない。
【後記】女のまだ年が幼くて、戀の相手になりがたいのに、喩へたのであらう。
 
(198)3575 美夜自呂乃 緒可敝爾多※[氏/一]流 可保我波奈 莫佐吉伊低曾禰 許米※[氏/一]思努波武
 
【語釋】美夜自呂乃岡、岩代國信夫郡に宮城村といふのがある。この地ではあるまいか○可保我波奈、萬葉集古義には、ひるがほのこととし、萬葉古今動植正名には あさかほの略語なりとし、八雲御抄には、かきつばたとしてある○莫佐吉伊低曾禰は、色に出でて、人に知らるゝことなかれよの意、ねは希望の辭である。
【口譯】あの美夜自呂の岡邊に立つてゐる貌花《カホバナ》は美しい色に咲くが、そなたとわたくしとの中をば、色に現して人に知られてはならない。心の中にこめおいて、互に相愛することにしよう。
【後記】美しい女を貌花に譬へたのである。
 
3576 奈波之呂乃 古奈宜我波奈乎 伎奴爾須里 奈流留麻爾末仁 (199)安是可加奈思家
 
【語釋】加奈思家は.愛《カナ》しきの訛。
【口譯】自分は苗代の子水葱《コナギ》の花を衣に摺つて着てゐるが、馴れるにつれて着ごこちがよくなるやうに、この娘は馴れ親しむにつれて愛情がまさつて來る。なぜこのやうに、かはゆさに堪へられないのであらうか。
【後妃】美しい女に親しみ馴れつゝも、猶物思の止まないのを子水葱の花の忘れがたいのに譬へたのである。
 
     挽歌  −挽歌は、哀傷の歌である。−
 
3577 可奈思伊毛乎 伊都知由可米等 夜麻須氣乃 曾我比爾宿思久 伊麻之久夜思母
 
(200)【語釋】夜麻須氣乃は、枕詞。山菅の葉はあちらこちらに背き向ふものゆゑ、背向《ソガヒ》の枕詞としたのであらう○宿思久は、寢たことがといふに同じ。古語の一つの格である。
【口譯】妻の存生中には、どこへゆくことがあらうかと、或るときは言ひ爭ふことなどがあつて、相背いて寢たこともあつたが、今更悲しいことである。
【後記】七の巻に「吾が背子をいづち行かめと辟竹《サキタケ》の背向《ソガヒ》に宿しく今し悔しも」とあるのを作りかへたものゝやうに思はれる。
 
以前歌詞未v得v勘2知國土山川之名1也。
 
(201)附録
 
     東歌
 
 古今集二十の卷には、東歌と題する十四首の短歌がある。いづれも、謠物に用ひられる東の國々の歌である。古今集の撰者等が萬葉十四の卷に倣つて、採録したものであらう。
 
     みちのく歌
 あぶ隈《クマ》に霧たち渡り明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし
 
【語釋】阿武隈は川の名。磐城に發源し、岩代を貫流し、陸前の亘理郡に至つて、海に人る。
【口譯】あの阿武隈川に霧が立ち渡つて、夜が明けても、お前を歸すまい。お前が歸つてしま(202)へば、また來るのを待つてをるのがつらい。
【後記】飽かぬきぬ/”\の名殘を惜む女の歌で、霧立ち渡るは、夜明の光景である。
 
     ○
 みちのくはいづくはあれど鹽竈の浦こぐ舟の綱手かなしも
 
【語釋】いづくは、いづこと同意○鹽竈は、陸前の名所○綱手は、曳舟の綱○かなしは、おもしろいこと○もは、感歎の詞。
【口譯】奥州には、どこにもおもしろい景色があるが、とりわけ鹽竈の浦を漕ぎゆく曳舟のさまがおもしろい。
【後記】一人が船中で櫂をあやつり、一人が網をもつて、悠々と舟を曳いてゆく光景の如何にもおもしろさうに見えるのを歌つたもので.彼の源實朝が、「海人の小舟の綱手かなしも」と(203)よんだのに似てをる。
 
     ○
 わがせこを都にやりて鹽竈の籬が島のまつぞこひしき
 
【語釋】籬が島は、鹽竈の東に在る小島○第三四の句は、まつといはむ爲の序で、松を待つにかけてをる。
【口譯】わたしは、夫を都へやつて、この鹽竈の浦で夫の歸り立待つてゐるのであるが、いつ歸られることやら。さても/\戀しいことである。
【後記】誘惑の多い都へ夫をやつて、不安の念をいだきつゝ日を送る女の歌である。萬葉集に「わが夫《セコ》を大和へやりてまつしたす足柄山の杉の木のまか」とあるに似、松と杉とのちがひこそあれ、夫を待ちわびるこゝろは同じである。
 
(204)     ○
 をぐろさきみつの小じまの人ならば都のつとにいざといはましを
 
【語釋】をぐろ崎、陸前國玉造郡川渡村に小黒崎といふ地がある。この處であらうか。
【口譯】小黒崎には三つの小島があつて、如何にも美しい。若しあれが人間であつたならば、都へむみやげに、さあ行かうといつて連れて來るでであらうに。
【後記】都から田舍へ下づてゐた男の歌であらう。類歌に
 栗原《クリバラ》のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを
といふのがあつて、伊勢物語に出てぬる。
 
     ○
(205) みさぶらひ御笠《ミカサ》とまをせ宮城《ミヤギ》野の木《コ》の下露は雨にまされり
 
【語釋】みさぶらひは、貴人のお供をしてゐる人。宮城野は、仙臺市の東はづれの原野であるが、現今よりは、もつと木が茂つてゐたのであらう。
【口譯】お供の人たちよ、殿樣は御笠をお召しになるやうにおつしやいませ。この宮城野の木の下露は雨よりもひどうございます。
【後記】京から下つて來てをる國司などの一行を見て、土人のよみかけたものであらう。
 
     ○
 最上《モガミ》川のぼればくだる稻舟《イナブネ》のいなにはあらずこの月ばかり
 
【語釋】最上川は、羽前の南部から北部へ流るゝ大河で、末は酒田港に注いでゐる○稻舟は、(206)刈り取つた稻を運ぶ舟○上の三句は、いなといはむ爲の序である。【口譯】あの最上川を上つて行くかと思へば、やがて下つて來る稻舟の名の如く、絶對にいやといふのではなく、身體にさはりがあるから、この月ばかりはお待ち下さいませ。
【後記】月水の障などのために、猶豫を乞うた女の歌である。最上川を取り出したのは、川の流の早く、直に下り来るのを見て、持つ程の短いのを思ひよせたものであらう。
 
     ○
 君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山波もこえなむ
 
【語釋】あだし心は、空《アダ》々しき心○すゑの松山、陸中國二戸附近に在る波打峠のことだといひ傳へてゐる。
【口譯】わたくしは、貴方《アナタ》の外に空《アダ》々しい心をもつやうなことはありません。若しさういふや(207)うなことがあつたら、彼の末の松山を波が越えるでせう。
【後記】男子に對する誓の語である。
 
     さがみうた
 小よろぎの磯たちならし磯菜《イソナ》つむめざしぬらすな沖にをれ波
 
【語釋】小よろぎの磯、小淘《コユルギ》の磯で、相模國中郡に在る。今の大磯小磯の地である○たちならすは、ゆきならすこと○磯菜は磯に生ずる菜で、若布《ワカメ》などを指す○めざしは、額髪の末が顔にさがつて目をさすほど短い小兒。
【口譯】小よろぎの磯をゆきならして、若布などをつんでゐる小さい子をぬらさないで、沖にゐてくれ、波よ。
【後記】小ゆるぎの磯のあたりに多くの海士の于が若布《ワカメ》などをつんでゐる足もとにひた/\と(208)波のうちよせて來るのを見て、波によびかけたのである。
 
     ひたち歌
 筑波ねのこのもかのもに蔭はあれど君が御蔭にます蔭はなし
 
【語釋】筑波ねは、關東平野に屹立する名山で、常陸國新治郡に在る○このもかのもは、此面彼面。
【口譯】筑波山のあちらもこちらにも木の蔭はあるが、君の御惠にまさる蔭はない。
【後記】筑波山は海拔三千尺許の山であるが、關東平野の間に屹立し、太平洋上から漂ひ來る雲を遮りとゞむるが爲に、水分を含むことが多く、樹木が鬱葱として陰が深い。この歌はその筑波山を取り來つて、君恩の深きに比したのである。
 
     ○
(209) 筑波根の峰のもみぢ葉おち積もり知るもしらぬもなべてかなしも
【語釋】上の三句は、宣長の説の如く、かなしもにかゝる序であらう。
【口譯】筑波山の峰のもみぢ葉のおちつもり、とり/”\に美しいやうに、こゝに集まつた婦人たちは知るも知らぬも、いづれもかはいい。
【後記】※[女+燿の旁]歌《カヾヒ》に其まつて來た婦人たちの美しいのにめでてよんだものであらう。筑波山に※[女+燿の旁]歌即ち歌垣の行はれたことは、萬葉にも見え、常陸風土記にも見えてをる。筑波は今も紅葉の名所である。
 
     ○
 甲斐がねをさやにも見しかけゝれなく横ほりふせるさやの中山
 
(210)【語釋】甲斐がねは、甲斐の山をいふ○さやには、さやかにの意○けゝれは、こゝろの訛○さやの中山は、遠江國小笠郡に在り、日坂峠と金谷峠との間の坂路で、今さよの中山といつてゐる。
【口譯】わが故郷の甲斐の山々をさやかに見たいと思ふのに、それを遮つて横たはりふしてゐる小夜の中山は無情な山である。
【後記】甲斐から京に上る人の遠江まで來て、遙に故郷の方を望み、名殘を惜しんだものであらう。萬葉一の卷の額田王の歌に「三輪山をしかも隱すか雲だにも情《コヽロ》あらなむ隱さふべしや」とあるのに似てをる。
 
     ○
 甲斐がねをねこし山こし吹く風を人にもがもや言づてやらむ
 
(211)【語釋】ねこしは.嶺をこすこと○人にもがもやのがもは.願望の辭やは感動詞。
【口譯】あの甲斐が嶺の嶺をこし、山をこして吹いてゆく風を人にしたいものである、都へ言傳をしたいから。
【後記】甲斐に留まつてゐる女が、京に上つた夫を思ひ、戀ひしさに堪へかねてよんだものであらう。萬葉集卷一に、「山越の風を時じみ寢る夜おちず家なる妹をかけてしぬびつ」といふのがある。故郷をなつかしむと、京なる人によせるとのちがひはあるが、風によつて、情人を思ふこゝろは一つである。
 
     いせうた
 をふの浦にかたえさしおほひなる梨のなりもならずも寢て語らはむ
 
【語釋】をふの浦、顯註には「志摩の國に在り。齋宮の御庄にて、梨を獻ずる所なり。伊勢志(212)摩といひて、一つによめり。」といつてをる○上の三句は序である。
【口譯】この縁談は成立するかどうかはつきりわからないが、とにかく一緒に寢て話をすることにしよう。
【後記】男の歌であらう。
 
     冬の加茂の祭の歌    藤原敏行朝臣
  冬の祭は、十二月の臨時祭である。
 ちはやぶる加茂の社の姫小松よろづ代ふとも色は變らじ
 
【語釋】ちはやぶる、加茂の枕詞。
【口譯】このあらたかな加茂の社の姫小松は、萬年と經ても色のかはるといふことはあるまい。
【後記】この姫小松の如く御代は榮えまさむとの餘意を含んでをる。
 
萬葉集東歌の研究 終
 
昭和十一年十一月五日  印刷
昭和十一年十一月十二日 發行
萬葉集東歌の研究
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       〔2016年1月5日(火)午後9時7分、入力終了〕