津田左右吉全集 第一巻(日本古典の研究 上)、岩波書店、696頁、4500円、1963.10.17(86.9.24.2刷)
 
日本古典の研究 上
 
(1)          まへがき
 
 『日本古典の研究』と名づけて新に公にするこの書は、一九二四年(大正一三年)出版の『古事記及日本書紀の研究』および『神代史の研究』と、一九三〇年(昭和五年)出版の『日本上代史研究』および一九三三年(昭和八年)出版の『上代日本の社會及び思想』のうちで、改編して刊行した『日本上代史の研究』にとり入れなかつた四篇とを、それ/”\補訂し、またその全體にわたつて改編を行ひ、一つの書としてまとめたものである。その大體のくみたてをいふと、まづはじめに第一篇として、古事記と日本書紀との性質とその研究の方法とを考へ(舊版の『古事記及日本書紀の研究』の總論)、次に第二篇として、神武朝から仲哀朝までの記紀の記載を、歴朝の順序とは逆に、仲哀朝から神武朝にさかのぼるようにして、一々檢討し(舊版の上記の書の第一章から結論まで)、次に、さらにさかのぼつて、普通に神代史といはれてゐる神代の物語の研究をこゝろみ、それを第三篇とし(舊版の『神代史の研究』)、その次に、應神朝から後の記紀の記載を、歴朝の順序に從つて考へ、それを第四篇とした(舊版の『日本上代史研究』の第一篇)。これで記紀の研究は一おうすんだことになるが、その補遺として、書紀の書きかたと訓みかたとについての見解と、神といふ稱呼とミコトといふのとの意義のちがひについての考とを、第五第六の兩篇としてそのあとに加へた(舊版(2)の『上代日本の社會及び思想』の第一第二の兩篇)。さてをはりに第七篇として、古語拾遺の研究を載せることにした(舊版の『日本上代史研究』の第二篇)。なほこれらの研究に關聯した二三の述作を、附録として最後に添へることになつてゐる。これはこの書のくみたての概要であるが、刊行の便宜上、上下二卷に分け、第三篇までを上卷に、第四篇からあとを下卷に收めることにしたので、詳しいことは、各卷のまへがきで述べるようにする。
 この書は、古事記、日本書紀、および古語拾遺、といふ書もつとその記載との研究であつて、上代史の研究ではない。それはおのづから、これらの書もつが上代史の史料としてどういふ意味と價値とをもつかを考へることにはなるが、上代史そのもの、または上代史上の何等かの問題、を研究することにはならぬ。これは、舊版の『古事記及日本書紀の研究』ならびに『神代史の研究』のまへがきにも明かに記しておいたことであるので、このたびの改編にあたつて、この書を『日本古典の研究』と名づけ、上代史上の二三のことがらについて考へた『日本上代史の研究』と區別したのは、そのためである。記紀や古語拾遺やがわが國の上代史を記したものであるように昔から思はれて來たのは、今日の學問から見れば、全くまちがひである、といふことが、この書で考へたところによつても、明かに知られよう。いふまでもなく、上代史の問題は複雜多岐であり、その資料は廣くいろ/\の方面に求めねばならず、さうしてその研究には學問的の方法がある。この書はさういふ上代史の研究をこゝろみたものではない。
 舊版の四册は、或る年月をへだてて、おひ/\に書きおひ/\に公にしたものであるために、後から出したもので前のにいつてあることを補説または訂正したところ、一つの問題をくりかへして考へたところ、同じことを述べるにも書きかたいひかたの調子のちがつてゐるところ、また四册をてらしあはせてみると、もとの本よりも他のでいつた(3)ほうがふさはしいところ、などが少なくないので、これらの點について一おうの整理をした。補訂のしごとの一つはこゝにあつた。しかし、いろ/\の理由から、もとのまゝにしておいたばあひもある。これらのことについてもまた、この書の各卷のまへがきで述べるところがあらう。
               りくちゆう ひらいづみ において
                        つだ さうきち
    一九四六年一一月
 
(5)     上卷について
 
 この卷に收めた第一第二の兩篇は、舊版の『古事記及日本書紀の研究』にあたる部分である。たゞ舊坂の附録の第一は、この書の下卷の最後の附録に、またその第二は、同じく下卷に收められる第四篇の附録に、移すことにした。舊版の書は、一九一九年(大正八年)に公にした『古事記及日本書紀の新研究』の改訂版であつたが、それをまた、更に多くの補訂を加へて、この兩篇としたのである。また第三篇は、舊版の『神代史の研究』にあたる部分である。これも一九一三年(大正二年)に世に出した『神代史の新しい研究』にその端緒はあるが、『神代史の研究』はそれとは別に新しく書かれたものである。
 補訂はかなり多くの點について行ひ、筆を加へなかつた頁はほとんど無い、といつてもよいほどであつて、例へば第二篇の第五章第七章におけるごとく、一章のうちの或る部分を全く書きかへ、または舊版のには述べておかなかつた考を新に書き加へたばあひさへもある。しかしまた、例へば第一篇の第三章のうちの語部についての見解は、第四篇の第一章で更に詳しく考へてあり、『日本上代史の研究』の第一篇の第一章に説いてあるところによつてそれがたしかめられるのであるが、こゝでは、辭句を補訂しただけで、ほゞもとのまゝにそれをのこしておいた、といふような(6)ばあひもある。この篇章の全體の主旨が、こゝでこの問題にふかいりをするに適しないからであるが、さうすることによつて、後になつて考のおひ/\こまかくなつて來たわたくしの研究の跡が、おのづから知られることにもなる。第三篇に於いてもほゞ同じようなことがあるが、今一々それを述べない。たゞ第一第二の兩篇よりは補訂したところがずつと多く、舊版に比べると、全く面目を新にしたといつてもよいはどな章節の少なくないことだけをいつておく。
 舊版の『古事記及日本書紀の研究』のまへがきには、記紀の記載を史料としてとりあつかふには、まづそれについての批判をしなければならぬこと、また古事記と書紀とでは同じことがらについてもその記載にちがひがあるので、それによつて何ごとが知られるかを考へねばならぬこと、などを述べておいたが、今曰ではもはやそのようなことをわざ/\いふ必要は少くなつたと思はれるから、こゝではそれらをすべて省いた。たゞ『神代史の研究』のまへがきの一部分は、こゝに寫しとつておくほうがよからうと思ふから、いはずもがなのことがらがいくらか含まれてはゐるけれども、二三の辭句を改めて、次の二條にそれを記しておく。
 「著者の研究は、神代史を構成する種々の物語や系譜の一々についてその意味を考へることと、並にその間の相互の關係を觀察することとによつて、神代史の性質、その全體の精神、並にその成立の由來、などを看取しようとすることであるが、それには何よりも先づ、記紀の記載そのものを文字どほりに解釋して、そこから出發しなければならぬ。ところが、それについて第一に問題となるのは、記紀の記載の一致してゐないことであるが、實をいふと、古事記と、書紀の本文と、また「一書曰」として書紀に注記してある多くの異本の説とが、區々になつてゐるのは、この研究に至大の便宜を與へるものであつて、これらの異説を比較對照することによつて、神代史が記紀に見える形を取(7)るまでに經過して來た變遷の跡を知り、進んではその原形を推測することも、できなくはないようである。さうしてその間から神代史の精神がおのづから光を放つて現はれて來るのである。かういふ異説の數多く存在することは、從來の研究に於いては深く學者の注意をひかなかつたものらしく、何故にさういふ異説があるのか、またそれによつて何ごとが示されてゐるかが、立ち入つて考へられず、それが無批判に取扱はれて來たかと思はれる。從つて、神代史そのものに歴史的發展のあることが深く顧慮せられなかつた。神代史の性質の正しく理解せられなかつたのも、一つはこゝに理由があらう。多くの異説のうちの一種、例へば古事記の説のみを見ても、それが長い間に種々の潤色を經たものであることは、おのづから推知せられるけれども、他のいくつかの異説と對照する時、このことは一層明かになるのである。かう考へて來ると、書紀の編者が斷片的ながら異本の説を多く收録注記しておいてくれたのは、今日の神代史の研究者にとつて甚だ幸福であるといはねばならぬ。」
 「著者は、西洋の多くの學者によつて試みられて來た世界の種々の民族の原始宗教や、民間説話や、またはいはゆる神話や、さういふものについてのいろ/\の方面からの研究から、大なる碑益を得てはゐるが、この書は、このような一般的な學問の一部面もしくは一材料として神代史を取扱ふのでもなければ、それらの學者の種々の所説をもとにして、てがるに、または強ひて、その目で神代史を見ようとするのでもない。どこまでも日本の神代史そのものの研究である。この書に、こゝにいつたような學者の説の引用や、その研究の資料となつた未開民族の心生活についての記載などの無いことをいぶかる人もあるようであるから、このことを一言しておく。」
 書紀の紀年が歴史的事實でないといふような、すでに學界の定説となつてゐることがらについては、この書で考へ(8)ることをしなかつた。また例へば魏志の倭人傳に見える邪馬臺國の位置のごとく、學者によつて見解のちがつてゐる問題についても、その論議がほゞつくされてゐるように思はれるものは、たゞどの見解をとるかといふことをいふだけにしておいた。しかし邪馬臺國の問題は記紀の記載の批判に於いて重要な意味をもつものであるから、下卷の附録の一つとして、わたくしの考を簡單に述べることにする。
 古事記は平安朝初期の僞作であるといふ説があるが、これは問題とするまでもないことと思ふから、それについては何ごともいはなかつた。古事記が書紀のできあがつたよりも前からあつたものであるといふことは、この書の研究によつて、おのづから明かになつてゐると思ふ。また平安朝になつて古事記のような書きかたや文體で偽作をしたといふことは、文學史上の大勢からも、承認しがたい。
 書紀は、正しくは「日本紀」といふべきであらうが、「日本書紀」の名も平安朝のはじめのころから既に用ゐられてゐて、後世にはそれが普通に行はれてゐるから、この書でもそれに從つたのである。
 上代の、また神代の物語などに用ゐられてゐる固有名詞は、漢字によつて生ずる思想の混亂を避けるため、すべてカナで書いておいた。近ごろになつて、わたくしは、ニホンの固有名詞はすべてカナ書きにするがよいと考へ、それを實行してゐるが、それは、かうすることが漢字を用ゐることをやめるについて最もてぢかな方法だと思ふからである。しかし記紀の神代の物語や上代のことを考へるばあひにその固有名詞をカナ書きにするのは、それとはちがつた意味においてであり、早くからわたくしのして來たことである。たゞし特殊の必要のあるばあひ、もしくはあまり普通に知られてゐるもの、また國郡制置以後の地名などは、漢字を用ゐたので、その間にいくらか混雜の感があるかも(9)知れぬ。これらはすべて舊版のまゝにしてある。なほ別のことではあるが、*シナに支那の字をあててあるのも舊版のまゝである。
 
      一九四六年 一一月
 
(1)     目次
 
まへがき
第一篇 記紀の研究の序説………………………………………………………………………一
 第一章 研究の目的及び其の方法……………………………………………………………一
 第二章 我々の民族とシナ人及び韓人との交渉…………………………………………一七
 第三章 文字の使用と古事の傳承…………………………………………………………二七
 第四章 記紀の由來、性質、及び二書の差異……………………………………………三七
 第五章 記紀の記載の時代による差異……………………………………………………七九
第二篇 神武天皇から仲哀天皇までの記紀の記載…………………………………………八七
 第一章 新羅に關する物語…………………………………………………………………八七
  一 物語の批列……………………………………………………………………………八七
(2)  二 加羅に関する物語……………………………………………………………一一七
  三 新羅に関する其の他の物語………………………………………………………一二三
 第二章 クマソ征討の物語………………………………………………………………一三八
  一 ヤマトタケルの命に関する物語…………………………………………………一三八
  二 記紀に現はれてゐるクマソ………………………………………………………一四三
  三 景行天皇に関する物語……………………………………………………………一五五
  四 概括…………………………………………………………………………………一七五
  附録………………………………………………………………………………………一七九
   一 風土記の記載について…………………………………………………………一七九
   二 土蜘蛛について…………………………………………………………………一八八
 第三章 東國及びエミシに關する物語…………………………………………………一九六
  一 古事記の物語………………………………………………………………………一九六
  二 書紀の物語…………………………………………………………………………二〇一
 第四章 皇子分封の物語…………………………………………………………………二二六
(3) 第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語……………………………………………二四〇
  一 神の祭祀……………………………………………………………………………二四〇
  二 傳説的物語…………………………………………………………………………二五一
 第六章 神武天皇東遷の物語……………………………………………………………二六一
  一 東遷の物語…………………………………………………………………………二六一
  二 神代と人代…………………………………………………………………………二七九
 第七草 結語………………………………………………………………………………二九二
第三篇 神代の物語…………………………………………………………………………三一七
 第一章 緒論………………………………………………………………………………三一七
 第二章 天地のはじめに神々の生り出でた物語………………………………………三二五
 第三章 イサナキ・イサナミニ神が国士を生み成した物語…………………………三四二
 第四章 神々の生まれた物語……………………………………………………………三六一
 第五章 日の神月の神及びスサノヲの命の生まれた物語……………………………三七〇
(4) 第六章 ヨミの國の物語……………………………………………………………三九四
 第七草 神々の化生した物語……………………………………………………………四一〇
 第八草 スサノヲの命のタカマノハラのぼり並に日の神の岩戸がくれの物語 上…四二三
 第九章 スサノヲの命のタカマノハラのぼり並に日の神の岩戸がくれの物語 下…四三七
 第十章 ヤマタヲロチの物語……………………………………………………………四四八
 第十三早 スサノヲの命の子孫、並にオホナムチの命の物語 上…………………四六〇
 第十二章 スサノヲの命の子孫、並にオホナムチの命の物語 下…………………四八〇
 第十三章 オホナムチの命の國ゆづりの物語…………………………………………四九六
 第十四章 ホノニニギの命の天くだりの物語 上……………………………………五一〇
 第十五章 ホノニニギの命の天くだりの物語 下……………………………………五三六
 第十六章 ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアヘズの命までの物語…五四四
 第十七章 神代史の結構 上………………………………………………‥…………五六〇
 第十八章 神代史の結構 下……………………………………………………………五七六
(5) 第十九章 神代史の潤色 上………………………………………………………五九六
 第二十章 神代史の潤色 中……………………………………………………………六一二
 第二十一章 神代史の潤色 下…………………………………………………………六二七
 第二十二章 神代史の性質及び其の精神 上………………………‥………………六三九
 第二十三章 神代史の性質及び其の精神下……………………………………………六六〇
 第二十四章 神代史の述作者及び作られた年代………………………………………六七一
 
(1)     第一篇 記紀の研究の序説
 
       第一章 研究の目的及び其の方法
 
 古事記と日本書紀とは、種々の方面に向つて種々の研究の材料をわれ/\に供給する。我が國の上代の政治史は勿論、社會制度や、風俗習慣や、宗教及び道コに關する思想や、一くちにいふと、内外兩面に於ける我が上代の民族生活と其の發達のありさまとを考へるには、ぜひとも此の二書を綿密にしらべなければならぬ。しかし、さういふ研究に入らない前に、先づ吟味して置くべきことは、記紀の記載(書紀に於いては、主として古事記と相照應する時代の部分)は一體どういふ性質のものか、それは歴史であるかどうか、もし歴史だとすれば、それはどこまで事實の記載として信用すべきものか、もしまた歴史でないとすれば、それは何であるか、或はまたそれに現はれてゐる風俗や思想はいつの時代のこととして見るべきものか、といふ問題である。この點を明かにしてかゝらなければ、記紀の記載を基礎にしての考察は甚だ空疎なものになつてしまふ。
 何故にこんな問題が起るかといふに、記紀、特にその神代の部は、その記載が普通の意義でいふ歴史としては取扱ひ難いもの、實在の人間の行爲または事蹟を記録したものとしては信用し難いものだからである。われ/\の日常經(2)驗から見れば、人の行爲や事蹟としては不合理な物語が多いからである。なほ神代ならぬ上代の部分にも、同じ性質の記事や物語が含まれてゐるのみならず、一見したところでは別に不思議とも感じられないことながら、細かく考へると甚だ不合理な、事實らしからぬ、記載が少なくない。これは一々例證などを擧げるまでもなく、周知のことである。ところが、さういふものがいつのまにか歴史的事實の記載と認むべき記事に移つてゆき、或はまた事實らしいことと絡みあつてゐる。だから記紀の記載については、どれだけが事實でありどれだけが事實でないかの限界を定め、事實の記載と認むべき部分と然らざる部分とをふるひわけ、さうして事實の記載でない部分にいかなる意味があるか、何故にまたどうしてさういふ記載ができてゐるかを究め、それによつて記紀の記載の性質と精神と價値とを明かにしなければならぬ。一くちにいへば、記紀の記載は批判を要する。さういふ批列を嚴密に加へた上でなければ、記紀といふものは歴史的研究の材料とすることができない。ところが我が學界では、まだそれが十分に行はれてゐないやうである。この事が、もし幾分なりとも其の缺點を補ふ用に立つならば、著者のしごとは全くむだではあるまい。
 さて記紀の批判は、第一に、記紀の本文そのものの研究によつてせられねばならぬ。第二には、別の方面から得た確實な知識によつてせられねばならぬ。第一の方法は、或る記事なり或る物語なりにつき、その本文を分析して一々細かくそれを觀察し、さうして或はその分析した各部分を交互對照し、又は他の記事他の物語と比較して、その間に矛盾や背反が無いかを調べ、もしあるならば、それが如何にして生じたかを考察し、また文章に於いて他の書物に由來のあるものはそれを檢索して、それと言ひ現はされてゐる事がらとの關係を明かにし、或はまた記紀の全體にわたつて多くの記事多くの物語を綜合的に觀察し、それによつて、問題とせられてゐる記事や物語の精神のあるところを(3)看取するのであつて、種々の記事なり物語なりの性質と意味と價値とは、これらの方法によつて知られるのである。さうして同じ時代のこと又は同じ物語が、記紀の二書に於いて種々の違つた形を取つて現はれてゐることが、大にこの研究を助ける。此の兩方の記載を比較對照することによつて、或は記事の變化し物語の發展して來た徑路が推測せられ、或はその間から記事なり物語なりの精神を看取することができるのである。また同じ記紀(特に書紀)のうちでも、その本文を見れば、大體に於いて歴史として信ずべき部分(即ち後世の部分)と然らざる部分(即ち上代及び神代の部分)とのあることがわかるが、それはおのづから前者をして後者を判斷する一つの標準たらしめるのである。が、これは實は第二の方法に入つたのであつて、例へばシナや朝鮮半島の文獻によつて得た確實な歴史上の知識、又は明白な考古學上の知識をもとにして、それと關係のある記紀の記載を批列するやうなのが、即ちそれである。さうして此の二つの方法は互に助け合ふべきものであるから、われ/\はそれらを併せ用ゐなければならぬ。
 なほもう少し此のことを敷衍して置かうと思ふが、第一の方法に於いては、先づ何よりも本文を、そのことばのまゝ文字のまゝに誠實に讀み取ることが必要である。初から一種の成心を以てそれに臨み、或る特殊の獨斷的臆見を以てそれを取扱ふやうなことは、注意して避けねばならぬ。記者の思想は其のことば其の文字によつて寫されてゐるのであるから、それをありのまゝに讀まなければ、記事や物語の眞の意義を知ることができぬ。神が島を生まれたとあるならば、そのとほりに見る外は無い。神がタカマノハラに往つたり來たりせられたとあるならば、そのとほりに天に上つたり天から下りたりせられたことと思はなければならぬ。地下のヨミの國、海底のワダツミの神の宮も、文字のまゝの地下の國、海底の宮であり、草木がものをいふとあらば、それはそのとほりに草木がものをいふことであり、(4)ヤマタヲロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏であを。埴土で舟を作つたとあれば、その舟はどこまでも土で作つたものでなければならぬ。或はまたウガヤフキアヘズの命の母がワニであり、イナヒの命が海に入つてサヒモチの神(ワニ)になられたとあるならば、それもまた文字どほりに、或る神はワニの子で或る命はワニになられたのであり、ヤマトタケルの命が荒ぶる神を和平せられたとあるならば、それはどこまでも神に對することであつて、人に對することではなく、大小の魚が神功皇后の御船を負んで海を渡つたとあるならば、これもまたやはり其のとほりのことでなくてはならぬ。然るに世間には今日もなほ往々、タカマノハラとはわれ/\の民族の故郷たる海外の何處かの地方のことであると考へ、ホノニニギの命のヒムカに降臨せられたといふのは、その故郷から此の國へわれ/\の民族の祖先が移任して來たことである、と思ふものがあり、さういふ考から天孫民族といふやうな名さへ作られてゐる。さうしてその天孫民族に對して出雲民族といふ名もできてゐるが、これは皇孫降臨に先だつてオホナムチの命が國ゆづりをせられた、といふ話の解釋から來てゐる。或はまた、コシのヤマタヲロチといふのは、異民族たるエミシを指したものだと説かれてゐる。なほ民族や人種の問題とはしないでも、神が島々を生まれたといふのは國土を經營せられたことだといひ、タカマノハラもヨミの國もまたワダツミの神の國も、どこかの土地のことであり、荒ぶる神があるとか草木がものをいふとかいふのは、反抗者賊徒が騷擾することだと説き、イナヒの命が海に入られたといふのは、海外にゆかれたことだと考へられてゐる。けれども、本文には少しもそんな意味は現はれてゐず、何處にもそんなことは書いてない。それをかう説くのは、一種の成心、一種の獨斷的臆見を以て、本文を恣に改作して讀むのである。
 ところで、なぜこんな附會説が生じたかといふと、それは一つは、記紀の神代の物語や上代の記載は、我が國の始(5)まつた時からの話とせられてゐるために、それを或はわれ/\の民族の起源や由來を説いたものと速斷し、或は國家創業の際に於ける政治的經營の物語と臆測したのでもあらう。が、それよりももつと根本的な理由は、これらの物語の内容が非合理な、事實らしからぬ、ことであるからである。コ川時代の學者などは、一種の淺薄なるシナ式合理主義から、事實でないもの不合理なものは虚僞であり妄誕であつて、何等の價値の無いものと考へ、さうしてまた一種の尚古主義から、崇嚴なる記紀の記載の如きは、虚僞や妄誕であるべきはずがないから、それは事實を記したものでなくてはならぬと推斷し、從つてその非合理な物語の裏面に潜む合理的な事實があり、虚僞妄誕に似た説話に包まれてゐる眞の事實がなければならぬ、と臆測したのである。さうしてそれがために、新井白石の如く、非合理な物語を強ひて合理的に解釋しようとし、事實と認め難いものに於いてむりに事實を看取しようとして、甚しき牽強附會の説をなすに至つたのである。彼が神は人であり神代は人代であると考へたのは、それを示すものであつて、かういふ考へかたによつて神代の物語を上代の歴史として解釋しようとしたのである。之に反して本居宣長の如きは、古事記の記載を一々文字どほりにそのまゝ歴史的事實であると考へたのであるが、それとても歴史的事實をそこに認めようとする點に於いて、やはり事實でなければ價値が無いといふ思想を有つてゐたことが窺はれ、また人のこととしては事實らしからぬ非合理な話であるが神のこととしては事實を語つたものであるといふ點に於いて、人については白石と同じやうな意義での合理主義を抱いてゐたことが知られる。のみならず、宣長が神代の神の多くは人であると考へた點にも、また白石と同じところがある。さて今日記紀を讀む人には、宣長の態度を相承するものはあるまいが、その所説に於いて必しも白石と同じでないにせよ、なほ彼の先蹤に(意識して或はせずして)追從するものが少なくない(6)やうである。
 然らばかういふ態度をとる人に、合理的の事實が如何にして非合理の物語として現はれてゐるかと聞くと、一つの解釋は、それは譬喩の言を以て故らに作り設けたのだといふのである。白石の考の一部にはかういふ思想があつたので、彼はその譬喩の言から何等かの事實をひき出さうとしたのである。それから今一つの解釋は、事實を語つたものが傳誦の間におのづからかゝる色彩を帶びて來た、一くちにいふと事實が説話化せられたのだ、といふのであつて、今日ではかういふ考を有つてゐる人が多いやうである。しかし、何故に事實を、ありのまゝに語らないで、故らに奇異の言を作り設けて非合理な物語としたのであるか。神が人であるならば、何故に神といひ神の代といふ觀念があるのか。これは白石一流の思想では解釋し難き問題である。また記紀のかういふ物語を、事實の説話化せられたものとして、すべてが解釋せられるか、例へば葦牙の如く萌えあがるものによつて神が生まれたとあり、最初にアメノミナカヌシの神の如きが天に生り出でたといふやうなことは、如何なる事實の説話化せられたものであるか、といふと、それは何とも説かれてゐない。しかし、それだけは事實の基礎が無いといふのならば、何故に他の物語に限つて事實の説話化せられたものであるといふのか。甚だ不徹底な考へ方である。さうして譬喩であるといふにしても、説話化であるといふにしても、其の譬喩、其の説話、が非合理な形になつてゐるとすれば、少くとも人にさういふ非合理な思想があること、或はさういふ思想の生ずる心理作用が人に存すること、を許さねばならぬ。が、それならば、何故に最初から非合理な話を非合理な話として許すことができないのか。かう考へて來ると、此の種の淺薄なる合理主義が自家矛盾によつて自滅しなければならぬことがわからう。
(7) 然らばわれ/\は、かういふ非合理な話を如何に考ふべきであるか。それは別にむつかしいことではない。第一には、そこに民間説話の如きものがあることを認めるのである。人の思想は文化の發達の程度によつて違ふものであつて、決して一樣でない。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭があつて、それには、今日の小兒の心理と大人のとの間に差異があるのと似たところがある。民間説話などは、さういふ未開人の心理、未聞時代の思想、によつて作られたものであるから、今日から見れば非合理なことが多いが、しかし未開人に於いては、それが合理的と考へられてゐた。鳥や獣や草や木がものをいふとせられたり、人と同じやうに取扱はれてゐたり、人が動物の子であるとせられたりするのは、今日の人に取つては極めて非合理であるが、未開人に於いては合理的であつたのである。けれどもそれは未開人の心理上の事實であつて、實際上の事實ではない。上代でも、草や木が物をいひ鳥や獣が人類を生む事實はあり得ない。たゞ未開人がさう思つてゐたといふことが事實である。だからわれ/\は、さういふ話をきいてそこに實際上の事實を求めずして、心理上の事實を看取すべきである。さうして如何なる心理によつてさう思はれてゐたかを研究すべきである。然るにそれを考へずして、草木がものをいふとあるのは民衆の騷擾することだといふやうに解釋するのは、未開人の心理を知らないため、強ひて今人の思想でそれを合理的に取扱はうとするのであつて、未開人の思想から生まれた物語を正常に理解する所以ではあるまい。
 また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社會?態生活?態によつて作り出される。從つて、さういふ?態さういふ風習の無くなつた後世に於いて、上代の風習またその風習から作り出された物語を見ると、不思議に思はれ非合理と考へられる。例へば蛇が毎年處女をとりに來るといふ話がある。蛇を神としてゐた一種の信仰や、處女(8)を犠牲として神に供へるといふ風習の、無くなつた時代または民族から見ると、此の話は甚だ理解し難いが、それが行はれてゐた社會の話として見れば、別に不思議は無い。だからわれ/\は、歴史の傳はつてゐない悠遠なる昔の風習や生活?態を研究し、それによつて古い物語の精神を理解すべきである。ところが、それを理解しないで、蛇とは異民族のことだとか賊軍のことだとかいふのは、全く見當ちがひの觀察ではあるまいか。
 勿論、記紀の物語に現はれてゐるわれ/\の民族生活が、上記の二條に述べたやうに未開時代の?態であつた、といふのではない。たゞわれ/\の民族とても、極めて幼稚な時代を經過したものであるから、さういふ遠い過去に作られ、その時代から傳へられてゐる民間説話などが、記紀の物語の書かれたころにも存在し、さうしてそれに採用せられ編入せられた、と認め得られるのであつて、同樣の現象は文化の進んだ何れの民族に於いても見ることができる。のみならず、記紀に現はれてゐる時代とても、一方には遙かに進んだ思想がありながら、他方にはなほ甚だ幼稚な信仰などが遺存し、文化の進むに伴つて新に發達した風俗がありながら、ずつと未開の時代の儀禮や習慣などが(よしその意味が變つてゐるにしても)なほ行はれてゐたのである。このことについては、なは後章に至つて言及する場合があらう。
 次には、人の思想の發達した後の想像のはたらきによつて構成せられた話が古い物語にも少なくないことを、注意しなければならぬ。普通に説話といはれてゐるものには、多かれ少かれ此の分子が含まれてゐる。天上の世界とか地下の國とかの話は、其の根柢に宗教思想なども潜在してゐるであらうが、それが物語となつて現はれるのは、この種の想像の力によるのである。事實としてはあり得べからざる、日常經驗から見れば非合理な、空想世界がかうして造(9)り出されることは、後世とても同樣であつて、普通にロマンスといはれるものには凡て此の性質がある。人の内生活に於いて本質的に存在してゐる、いはばロマンチックな精神の表出として、何時の世にもさういふ物語が作られる。それを一々事實を語つたものと見て、タカマノハラは實は海外の某地方のことだ、などと考へるのが無意味であることは、いふまでもなからう。
 以上は説話の一々についてのことであるが、もし多くのさういふやうな物語が、一つのまとまつたものに組織せられてゐる場合には、そこに何等かの精神があり何等かの意圖がはたらいてゐることを、看取しなければならぬ。それが無くては、さういふ組立てはできないはずだからである。シナの堯舜から禹湯文武に至る長い物語は、シナ人の政治道コの思想によつて構成せられてゐるから、それがために事實とは考へられないことが多く現はれてゐる。それを思はずして、あの古代の物語を一々事實を記したものと見ようとすれば、牽強附會に陷ることはいふまでもない。記紀の物語は必しもそれと同視すべきものではないかも知らぬが、上代人の國家觀なり政治觀なりがそこに反映してゐないとも限らず、從つてそれがために、事實らしくない非合理なことが現はれてゐないともいはれなからう。此のことについてはなほ後にいふつもりであるが、こゝには先づ、さういふことがあり得べきものとして豫想せられることを假定し、さういふ場合には、我々は其の語るところに如何なる事實があるかと尋ねるよりは、寧ろそこに如何なる思想が現はれてゐるかを研究すべきである、といふことを注意して置くのである。かういふ性質の物語は、物語そのものこそ事實を記した歴史ではないが、それに現はれてゐる精神なり思想なりは嚴然たる歴史上の事實であつて、國民の歴史に取つては重大なる意義のあるものである。
(10) だから、われ/\は今日のわれ/\の日常經驗に背いてゐる、非合理な、事實らしからぬ記紀の物語を讀むに當つて、それを強ひて合理的なことがらの記されてゐるものとして看るべきではなく、其の本文を其のまゝに讀んで、さうして、さういふ物語が人のいかなる心理いかなる思想から生じたか、何故にさういふものが世に存在するか、如何にしてそれが作られたか、また如何にしてそれが記紀に現はれるやうになつたかを考へ、本文のまゝで其の意味を研究すべきである。
 たゞ記紀の物語のやうなものが記紀ばかりにあると思つてゐた時代、また思想や考へかたの發達や變化といふことがわからず、人の思想や考へかたは何時でも同じものと思つてゐた時代、從つてまた未開人上代人の思想や心理を理解することのできなかつた時代の學者、例へば白石のやうな人が、さういふ特殊の物語を特殊のものでなく解釋し、後人の日常經驗に背馳してゐる説話を、さうでないやうに理解しようとしたのは無理の無いことではある。神は人なりとか神代は人代なりとかいふのは、一つはこゝから生じた窮策であつた。白石のみでなく、儒者系統の學者で神代の物語に何等かの價値を認めようとするものは、白石の如く具體的にそれからひき出した歴史的事實といふものの何であるかを説きはしなかつたけれども、その見かたに於いては、多くはかれと同じやうな考をもつてゐた。例へば熊澤蕃山でも貝原益軒でも、或はまた儒者ではないが伊勢貞丈の如きも、みなそれである。神道者の説でも、度會延佳や、山崎垂加の思想の一面には、やはりそれがあつた。もしまたそれに價値を認めようとしないものには、荒唐不經の話だから、存して論ぜず、それについて考を費すには及ばぬ、といふ見解をもつてゐたものもあつたので、早くは雨森芳州の如き、また村田春海、山片蟠桃、の如きがそれである。水戸の大日本史に現はれてゐる思想的態度も、これ(11)と同じところに歸着しよう。このうちでも、蟠桃は明かにそれを何の根據も無い作りごとであるとし、作りごとであるから慣値がない、としてゐるが、上田秋成の意見もまたこの事に入れられようか。しかし、作りごとであるとはしながら、それに何かの意味はあらうと考へたものもあつて、市川匡はそれを後世の天皇のみこゝろから出た秘事であるとし、帆足萬里はそのうちに神道の教として天皇の作られたものがあるといつてゐるが、宣長などの系統に屬しない別派の國學者であつた富士谷御杖も、またそれを教のために天皇の作られたものだといつてゐる。橘守部が「幼な語り」をそのうちに認めたことは、新しい見かたであるが、しかしそれに教の意義があるとはいつてゐる。これもまた儒教思想によつて考へたものであることは、いふまでもない。かういふいろ/\の考へかたがコ川時代の學者にはあつたが、何れもその根本には、白石と同じ意義での合理主義があり、事實でなければ無意味であるとする考があるので、教であるといふのも、事實でないこと非合理なことを、そのまゝでは價値が無いと考へたために、それに強ひて何等かの意味をつけようとしたのであり、やはり一種の窮策であつた。さうしてそれはやはり、知識が狹かつたのと、上代人の思想や考へかたを解しなかつたのと、のためである。しかし今日では、人の知識が廣くなつた。記紀の物語に含まれてゐるやうな説話は、世界到る處にあることがわかり、人の思想や事物の見かた考へかたが一般文化と共に變化し發達するものであることが知られ、上代人に比較すべき未開民族の風俗習慣や其の心生活もほゞ了解せられ、また多くの國、多くの民族、に於いて、上代の歴史の如く傳へられてゐるものが如何にして構成せられたか、といふことも知れわたつて來た。從つてわれ/\は、さういふ知識の助をかりて、或は上代人の思想や心理を理解し、或は物語の作者の意のあるところを推測し、それによつて記紀の説話なりその全體の結構なりの意味を知ることがで(12)きるやうになつたのである。もはやコ川時代の學者のやうな窮策を取る必要は無くなつたのである。
 要するに、記紀の記載には事實らしからぬ物語が多いが、それがためにそれらの物語が無價値であるのではない。事實でなくとも、寧ろ事實でないがために却つて、それに特殊の價値がある。それは現實に生起した事件といふ意義での事實では無いが、思想上の事實、もしくは心理上の事實である。外面的の事貫ではないが内面的の事實である。記紀の物語をかう觀察して、初めて眞の研究の門に入ることができるのである。
 それから第二の方法についても一言して置きたい。外國の書物によつて日本の書物の記載を批判するといふことを不快に思ふやうな、昔の國學者一流の、偏狹な思想は、もはや世間にもあるまいと思ふが、それでもなほ一種の無意味な因襲から、記紀に書いてあるからといふので、何となくそれが事實らしいやうに感ずるものが無いともいへぬ。けれども史料の批判は民族の自他内外によつて標準の變るものではないから、こんな謬想は固よりきれいに取去つてしまはねばならぬ。のみならず、自國の記録には、無意識の間に、もしくは何等かの特殊の目的を以て、種々の修飾の加へられる例の少なくないことをも考へねばならぬ。
 こゝで一言して置きたいことは、記紀の物語を解釋するに當つて、文獻の外の知識、例へば考古學の知識などをかりることである。文獻の記載が曖昧なまたは疑はしい場合に、考古學の知識によつてそれを批判することには固より異論は無い。が、それは考古學を考古學として獨立に研究した上の知識でなくてはならぬ。考古學が文獻上の知識を材料とすることは、勿論、あらうが、其の文獻は史料として確實なものでなくてはなるまい。ところが、記紀の神代や上代の部のやうな、歴史であるか何であるかすら不明な、嚴密な批判を加へてみなければ其の記載を歴史として取(13)扱ふことのできない文獻は、其のまゝでは考古學の材料にはならぬ。從つて記紀の記載が嚴正なる批判によつて歴史的事實たることの承認せられた上でなくては、記紀の外に參考すべき文獻が無いやうな事物を取扱ふ考古學の研究は、もつぱら遺跡や遺物そのものによらなければなるまい。さういふ風に記紀から離れて研究した考古學の結論にして、始めて記紀の批判を助けることができる。然るに、もしそれに反して、未だ批判を經ない記紀の記載に、よいかげんの、或は恣な、意義をつけ加へ、その助によつて作り上げられた似而非なる考古學があるとすれば、それは考古學としての本領を傷けるものであると同時に、また決して記紀の批判の助となる資格の無いものである。記紀の研究の方からいふと、其の批判の準據としようと思ふ考古學が逆に記紀を用ゐてゐたのでは、何にもならぬのである。
 人種とか民族とかいふ方面の知識に於いても、また同樣である。人種や民族の移動が文獻によつて知られることもあるが、さういふ文獻の無い場合には、それを研究するにはおのづから學問的の方法がある。いふまでもないことであるが、それは即ち主として比較解剖學と比較言語學との力によつて體質と言語とを明かにし、また民族を問題とする場合には、それに加へるに民族の存立の基礎をなす生活上の根本條件、民族の殊別に關係の深い種々の文化現象の研究を以てすべきである。(こゝに人種と民族とを並べていつたが、それは人種は同じでも民族としてはちがふ場合が多いからである。普通に民族といふのは、同じ人種に屬すると共に、長年月の間、共同の生活をして來た、即ち生活の閲歴を同じくする、ことによつて、その年月の經過と共に自然に形づくられた民衆の集團をさすのであるから、この閲歴のちがひによつて一つの人種がいくつもの民族に分れるのである。人種がちがへば民族もまた從つてちがふことは、いふまでもない。人種や民族の混合といふこともあり、事實、どの人種どの民族にも、いくらかの程度に於(14)いてそれの行はれなかつたものはないが、一般的にはかう考へられる。さてこゝにいつたやうな方法によつて研究せられた人種や民族に關する學術的知識が、もし、我が國の上代に種々の異人種異民族がゐて、それらの地理的分布がどんな?態であつたか、またそれらがどういふ徑路どういふ形勢で移動したか、といふことを、確寶に證明した上に於いて、記紀の記載をそれ等の異人種異民族の行動の記録として見、それがすべての點に於いて互に符合し、無理の無い比定ができることを認め得た場合、それによつて記紀の物語の全部が遺漏なく説明し得られる場合、さうしてまた、其の人種上民族上の差別や移動が記紀に説はれ得る如き近い世に於いて存在しまた行はれたことの明かに知られた場合には、記紀の記載は或はさういふ風に解釋してもよいかも知らぬ(事實上それができないことは、言語の一つだけでも到底かゝる解釋を容れる餘地が無いことによつて、明かではあるが)。さうしてまた、さういふ解釋をする場合には、民族や人種の行動が何故に其のまゝに傳へられずして、記紀の物語のやうな形をとつたか、といふことについて、十分の説明をしなければならぬ(これもまたできないことであらう)。またかういふ解釋や説明をする場合の人種や民族に關する知識は、記紀の記載から全く離れた獨立の研究によつて得たものでなくてはならぬ。これは恰も前項に考古學について述べたと同樣である。もし然らずして、一種の獨斷的臆見を以て記紀の或る部分に恣な意義をつけ加へ、それによつて、例へば天孫民族とか出雲民族とかいふものを成り立たせようとするならば、それは何等學術的價値の無いことである。のみならず、假に前に述べたやうな條件の下に於いて、記紀の記載を人種や民族の行動として解釋することの許される場合があると見るにしても、それは記紀の唯一の解釋法ではない、記紀の本文を文字どほりに讀めば、毫もそんな意義は無いから、記紀にはまた別の、或はそれよりも正當な、解釋法があることを(15)拒むことはできない。それを拒まうとするならば、先づ何故に記紀の記載を文字どほりに解釋してはいけないか、といふことを的確に證明してかゝらねぼなるまい。
 更に一言すべきは説話などの比較研究についてである。多くの民族の間に類似した、或は共通な、種々の説話が存在することは爭ふべからざる事實であつて、そこから比較研究の途も開かれたのであり、上に述べた如く、記紀の物語にも、さういふ學問の力を借り、それによつてはじめて意義の解せらるべきものが少なくないことは明かである。が、それについても先づ第一に記紀の説話そのものを文字のまゝに讀み取り、さうして後、それと對照すべきものがもし他の民族にもあることがわかるならば、それを參考すべきである。初から他の民族の事例をよりどころにして、またはそれから作られた或る學者の假説を豫め有つてゐて、記紀の説話をむぞうさにその型にあてはめて考へることは避けねばならぬ。かういふことについての比較研究は今日に於いては決して完成してゐるのではなく、特に西人の研究には我が國やシナなどの材料が正當に取入れられてゐないからである。また一般的な説話學の材料として記紀の説話を取扱ふのではなく、記紀の説話そのものの意義を明かにするための研究に於いては、よし他の民族に例のあるものでも、考察の主眼は多くの民族に共通な性質をそこに認めようとするのではなく、どこまでも記紀の説話の特性を發見することにあるのであるから、なほさら此の用意が大切である。説話のみでなく、宗教や呪術や其の他の民間の風習についても同樣である。本來かういふ事がらが多くの民族に於いて類似した現象を呈してゐるのは、民族間の交通によつて一から他へ傳へられたと見るべき場合もあらうが、それよりも寧ろ人類の生活が其の未開時代に於いては、民族の異なるにかゝはらず、ほゞ同じやうな段階を經て進んで來たものであつて、其の同じやうな文化の段階に(16)於ける同じやうな生活から同じやうな思想や風習が形成せられたと、考へらるべきことが多い。けれどもまた民族の異なるに從つてその生活に特性が生じてゐるから、民族生活の一つの現はれとしてこれらのことがらを見るに當つては、その特性を知るのが肝要なのである。だから記紀の研究では、所謂比較研究の助をかりる場合にも、主として此の點に着眼し、さうして世界に類例の多いことがらが我が國に於いて如何なる特色を帶びて現はれ、またそれが記紀に於いて如何に取扱はれ、如何なる意味を有たせられてゐるかに、注意しなければならぬのである。
 しかし、記紀は我が國で書かれたものでは最古の文獻であるが、それに先だつてわれ/\の民族のことを記した文獻は他の國にあるかも知れぬ。是に於いてか、シナの文獻を考へる必要が生ずる。さうしてそれはまた、記紀を批判するに當つて必要な文獻上の知識が、何處にあるかを知るたよりにもなる。文獻でなくとも、われ/\の民族の遺跡に存在するシナの製品によつて、過去の歴史の何事かが推測せられる場合が多く、それが間接に記紀の批判の助になるものであることはいふまでもない。が、それを考へるには、上代に於けるわれ/\の民族とシナ人との交渉を知らねばならぬ。
 
(17)       第二章 我々の民族とシナ人及び韓人との交渉
 
 シナの典籍に「倭」といふ民族の名が出てゐて、それがわれ/\の民族を指す稱呼として用ゐられてゐることは、いふまでもない。さてその名の現はれてゐる古いところを調べて見ると、山海經に見える「倭屬燕」はよく人の引用するものであるが、此の書は撰述の時代も不明であるし、書中の記載で事實らしく見えることも、それだけでは信用しかねるものであるから、且らく論外に置かねばならぬ。其の他、後漢時代に作られた王充の論衡(卷一九恢國篇)にも、周初のこととして倭人貢獻の記事があるが、かういふ風に所謂四夷の來朝もしくは貢獻を上代帝王の治世に假託することは、シナ人の癖であるから、これも歴史的事實として見ることはむつかしい。さすれば漢書地理志の燕の條に「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云、」とあり、後漢書(卷一)光武帝紀の中元二年(27 A.D.)の條に「東夷倭奴國王遣使奉獻」とあるのが、今日に傳はつてゐる典籍に於いては、確實なものとして取扱ひ得る倭の記事の初見であらう。(漢書地理志の百餘國といふやうな數は、もとより文字どほりに解すべきものではなく、またその多くの國のものが盡く「以歳時來獻見」したとも考へられないが、シナ人が倭に多くの國のあることを傳聞したこと、またその中の或るものが樂浪郡と交通したことは、事實と見なければならぬ。)その次に倭に關する記事の頗る詳密に現はれてゐるのが魏志の倭人傳で、それによつて三世紀の中ごろに於ける倭の?態、並に其の風俗習慣などを知ることができる。奴國といふのもそれに見えてゐる。後漢書の東夷傳の中にも倭傳があるが、これは概ね魏志(18)のを取つたものである上に、それを讀み誤つた點もあつて、獨立の慣値は乏しい。それから晉書にも倭の記事がある。
 さて魏志およびそれより前のシナの史籍ならびに晉書の倭人傳にシナと交通したやうに書いてある「倭」が、我がツクシ地方であるといふことは、魏志倭人傳に詳述せられてゐる地理的記載によつて知られるので、これには疑を容れる餘地が無い(もつとも世間に異論はあるが、私見によれば倭人傳の此の解釋は動かすべからざるものである)。コ川時代に筑前の志賀の海濱から發見せられた「漢委奴國王印」の文字のある金印も、また其の一證である。此の文は「漢の委(倭)の奴の國王の印」とよむべきもので「奴」は書紀などに見える「儺」、即ち今の那珂郡地方を指したものであるといふことは、三宅米吉氏によつて提出せられてから學界の定説となつてゐる。後漢書の記事が奴の國王の最初の朝貢を示すものであるかどうかは、やゝ不明であるが、よしそれが最初のものであるとしても、もつと前からツクシ地方の諸小國の君主が、當時朝鮮半島の西北部(ほゞ今の平安南北道、黄海京畿兩道及び忠清北道の忠州方面)を管治してゐた漢の樂浪郡と交通をしてゐたことは、推測しなければならぬ。漢の都まで使節を遣はすには、それよりも前にかなりの親みを樂浪郡に有つてゐた、と考へるのが自然だからである。前に引いた漢書地理志の記事は即ちそれを證するものである。もつとも此の記事は前漢末のことをいつたのかも知れず、從つて同じ漢代でもそれより前の?態は明かでないが、よほど控へめに解釋するにしても、前漢時代(202 B.C.−7 A.D.)の末近きころから、ツクシの諸小國の君主がぼつ/\樂浪に交通し初めた、と考へるに差支は無からう。が、もう一歩進んで臆測するならば、此の交通は樂浪郡設置(109 B.C.)の後まもない時代から既にあつたものとも考へ得られよう。後漢書東夷傳に「自武帝滅朝鮮、使譯通於湊者三十許圖、」とある使譯以下は、魏志倭人傳に「漢時有朝見者、今使譯所通三十國、」(19)とあるのを誤解し、漢代のことと思つて書いたものらしいが、武帝が朝鮮(いはゆる古朝鮮)を滅ぼしてから倭人が漢に通じた、といふのは(編者の推測から出たこととは思はれるが)然るべき事情である。(朝鮮の滅亡、樂浪郡の設置、は本來政治上の變動であつて、必しも文化史上の時期を劃すべきものではなく、さうして當時に於ける倭人の交通は全く政治的意味の無いものであるから、それは或は朝鮮時代からの引きつゞきであらうかとも考へられるが、文獻の上ではさう推測すべき積極的の根據が無い。)さうして魏志に見える如く魏の時代(220−264 A.D.)には、邪馬臺國、(即ち今の筑後のヤマト(山門)郡地方の國)の女王卑彌呼の使者が帶方郡を經由して洛陽に赴き、また魏の使が詔書印綬を齎して邪馬臺に來たほどであり、今使譯通ずるもの三十國といはれたところを見ると、後漢時代(25−220 A.D.)を通じて樂浪(後には帶方)に交通したツクシの諸小國の君主はかなりに多く、それが魏の時まで引き續いてゐたものに違ひない。(三世紀の初に樂浪郡の南部、即ちほゞ今の京畿黄海二道及び忠州方面の地域は、帶方郡となつて獨立し、倭人の交通は此の帶方郡の所管に移つた。)さて魏の使の初めて來たのは正始元年(240 A.D.)であつて、其の時には特殊な政治的意味は無かつたやうであるし、一體に貢獻とか朝貢とかシナで稱せられることも、通常の場合には何等かの財貨を得るのが目的であつたらうが、正始八年にはやゝ政治的意味のある交渉が生じてゐる。それは、邪馬臺國が南の方の狗奴國と衝突したために、其の事情を帶方郡に訴へ、郡の太守が官吏を那馬臺國に派遣して告諭させた、といふことである。小國分立して互に勢を爭ふ時には思想上に何等かの權威を有する後援者を得ることが、其の間に利を得る好方便であるから、邪馬臺も此の意味で帶方郡の威を假りようとしたのかも知れぬ。さすれば、これに似たことが前にも無かつたとはいはれぬ。文化國として倭の諸國が一般に崇敬してゐるシナに親しいといふこと(20)は、政治的勢力の上に於いても、少くともこれだけの利益はあつたらう。さて晉書倭人傳によれば、此の邪馬臺國は晉の武帝の泰始(265−274 A.D.)の初まで朝貢をしてゐたらしい。しかし晉書の此の記事は洛陽の都に使節の往つたことであるから、帶方郡に對する倭の交通はそれで終つたのではなく、樂浪帶方が滅亡した時、即ち四世紀の初までは依然として繼續せられたと見るのが妥當であらう。(邪馬臺の所在については、それをツクシの一地方とするのと、皇都の地であつたヤマトとするのと、二つの説があるが、魏志の記載を正しく解釋する限り、それがツクシの一國であることには、何等の疑が無い。さうしてその位置については、筑後の山門郡とする説が從ふべきものと考へられる。)
 ところが、シナの文獻に見えるこれらの記載は、古事記や書紀によつて傳へられてゐる我が上代の物語とは、何等の接觸點を有せず、全く交渉の無いものである。(晉書安帝紀義煕九年 413 A.D. の條、及び宋書以下の史籍に見える倭は、同じく倭と記されてゐても、それは記紀の所傳と對照し得るものであるから、その性質が違ふ。)實際、魏志によると、三世紀の中ごろに於いては、ツクシ地方は政治上それよりも東方の勢力に服屬してゐなかつたことが明かであり、さうして此の?態は、溯つては少くとも前漢末、即ち前一世紀の終から、下つては邪馬臺國が晉に貢獻を繼續してゐた時、即ち多分四世紀の初まで、同樣であつたと推測せられ、その推測を妨げる何ごとも無いのであるから、この地方は、三世紀以前に於いては、ヤマトの朝廷の權威の下にあつた國家の組織に入つてゐなかつたと見なければならず、さうしてそれは、かういふシナの文獻の記載と記紀の物語とが互に關係が無い、といふ事實と相應ずるものである。さて、シナの文獻が記紀の所傳とは全く離れてゐて、而もそれが概して確實なものだとすれば、その(21)記載は記紀の批判に於いて有力なる一資料となるものであることが知られる。のみならず、記紀の性質を之によつて知ることもできる。詳しくいふと、記紀の記載の上代の部分によつてわれ/\の民族の上代史は知られない、といふことがわかるのである。われ/\の民族の重要なる一部分を形づくつてゐるツクシ人の上代の事蹟、しかもそれは、政治的にも文化的にも、われ/\の民族の全體にとつて極めて大きいはたらきをしたことがらであるにかゝはらず、その事蹟が、毫も記紀に現はれてゐないからである。
 さて、上に述べたやうなツクシ地方の我が民族のことを書いたシナの文獻は、何時作られたものかといふに、魏志は魏の亡びて間も無い晉初に編纂せられたものであり、特に倭人傳の主要なる記事は魏人がツクシに來た時の見聞録によつたものに違ひなく、また後漢書の編纂は魏志よりもずつと後の宋代(五世紀)であるが、其の本紀は、勿論、事件のあつた當時の記録に本づいた史書によつて書かれたものである。ところが、記紀は今日に傳はつてゐる我が國の文獻では最古のものであるものの、其の撰述年代は、一つは和銅五年(712 A.D.)、一つは養老四年(720 A.D.)であつて、共に八世紀に入つてからのことである。しかし其のうちには、それよりもずつと古い時代の資料が採られてゐることはいふまでもない。其の最古の資料が何時ごろのものであるかは、研究を要する問題であるが、如何に古くとも、文字の術が我がヤマト朝廷に於いて用ゐられるやうになつてからであることは、疑が無い。さて文字を用ゐてゐた國民でヤマト朝廷が始めて接觸したものは百濟であるから、其の時期は百濟から文字の傳へられた後であるが、それが何時であるかは攻究を要する。さうしてそれには、百濟が我が國と交通し初めた時代を考へねばならぬ。
 ところが、こゝでも魏志の韓傳が役に立つ。それによると、疑の時代、即ち半島の西北部に樂浪帶方の二郡があつ(22)た時代には、其の南部は馬韓(ほゞ今の忠清全羅二道の地方)辰韓(ほゞ今の慶尚北道地方)弁韓(ほゞ今の慶尚南道地方)の三集團に分かれてゐて、馬韓には五十四國、辰弁二韓には各十二國あつたといふ。百濟(伯濟)は此の馬韓の一國たるに過ぎなかつた。一國といつても、馬韓に五十四國もあるといふ話と「大國萬餘家小國數千家」といふ記事とから推測すれば、如何に大國と見ても萬餘家の一部落に過ぎなかつたらう。また辰韓の一國には斯盧があつて、それが即ち新羅(土地は今の慶州、文字は梁書に斯羅といふ字が見え、書紀の繼體天皇紀七年の條にも同じ字がある、三國史記にある徐那伐の徐那も同じ語であらう)であるが、これもまた十二國の一つに過ぎず、其の大さは、辰韓の諸國が「大國四五千家中國六七百家」だとあるので、ほゞ想像せられる。倭人傳に末盧、即ち松浦、は四千餘戸、伊都、即ち怡土、は千餘戸、奴、即ち儺、は二萬餘戸、邪馬臺、即ち山門、は七萬餘戸、とあるのを參照するがよい。(倭人傳の此の記事は魏人の實見上からの推測ではあらうが、勿論、正確とはいはれず、且つ其の間の差異があまり大き過ぎるところから見ると、邪馬臺などについては、里程の甚しく遠くなつてゐることと共に、筆者の造作が加はつてゐるに違ひなく、また韓傳に見える韓人の戸數も、半ばは臆測に過ぎないであらうから、これらの記事を文字どほりに受け入れることはできなからうが、しかし韓の地域と國數との關係また地勢や文化の上から考へると、一國といつても狹小な土地で人口も少なかつたことは、ほゞ首肯せられる。)また弁韓の一國に狗邪國があつて、それがツクシ帶方間の中繼地點、ツクシ舟の停泊所であつたが、それは即ち後に加羅(三國史記には伽落、駕洛、加良、加耶、伽耶、などともあり、隋書には迦羅とも見え、續日本紀天平寶字二年の條には賀羅と書いてあり、垂仁紀の意富加羅も同じである)として我が國に知られた今の金海府である。さて晉書を見ると、武帝(265−289)の時に馬韓(23)辰韓貢獻の記事があるから、此の?態は三世紀の終までは同樣であつたと想像せられる。
 此の時代の百濟の位置がどこであつたかは明かにわからぬが、四世紀の中ごろになると、それが漢城、即ち今の漢江の南の廣州、を首府とする大國となつて、馬韓の全地域を領有してゐる上に、もとの帶方郡の一部分、即ちほゞ今の京畿道の大部分、をも占領してゐたことは、半島の歴史の研究の結果として知られてゐる。さうして其のころには、樂浪郡及び帶方郡の北部は高句麗の領土になつてゐたので、百濟は此の高句麗と衝突するといふ形勢であつた。四世紀の初に、晉が其の領土の東北部を異民族たる鮮卑に奪はれ、樂浪帶方との聯絡を斷たれたので、二郡の維持が困難になつたに乘じ、高句麗が鴨緑江の谿谷から出て來て其の地の大部分を占領し、南邊の一部は百濟の有に歸したのである。さうして、百濟の王室が高句麗人と同じ民族から出てゐるといふ傳説がもし信ぜられるならば、それが百濟に君臨するやうになつたのは、樂浪帶方の覆滅、高句麗の南下、といふ半島の大動搖に伴つた一事件であらうから、此の事實と前に述べた大勢とを綜合して考へれば、百濟がかういふ風に勢力を得た時期は、四世紀に入つていくらかの歳月を經てからのことであらう。もしまたこの傳説が殊實を語つたものでないとするにしても、三世紀に於ける百濟の地位と四世紀の中ごろに於けるそれとを對照してみるだけで、ほゞ同じことが考へ得られる。三國史記の上代の部分は歴史的事實の記載として信ぜられないものであるが、百濟紀に於いては、近肖古王(375年歿)の時からの記載にはほゞ事實として認められるものがあるらしく、さうして百濟が高句麗と衝突したといふ記事が初めて此の王の紀に見え、また百濟が北漢山(今の京城)に都を遷したのも此の王の時だといふ話がある(この遷都の説は誤であるが、北漢山の地は近肖古王の時には百濟の領土であつた)。百濟の地位と領土との固まつたのが四世紀の中ごろだ、とい(24)つたのは之がためである。ところが、後にいふやうに百濟の我が國に交通したのもまた此の王の時であつて、古事記の應神天皇の卷に照古王といふ文字で記されてゐるのが、即ちそれである。三國史記によれば此の王の在位は三十年であつて、これは其のまゝに信用すべきものかどうか明かでないが、歿年の 375 年であることは 372 年に晉に朝貢したといふ晉書の記事から見ても、ほゞ疑が無からうから、此の交通の始まつたのは、四世紀の後半に入つてからのことであらう。
 しかし、百濟の我が國に交通したのは、我がヤマトの朝廷の威力が韓半島に及んだことと關係が無くてはならず、それはまた、我がツクシ地方の少くとも北部、即ち半島に對する交通路に當る地方、がヤマト朝廷に統一せられてゐたことと、伴はなければならぬ。ツクシの北部が歸服しない間は、地理上の事由からヤマト朝廷は決して半島に手を出すことができなかつたに違ひないからである。さて既に述べた如く、少くとも三世紀の終に近いころまでは、ツクシ地方はヤマト朝廷と政治的關係が無かつたとすれば、それが(少くとも其の北部が)ヤマト朝廷に歸服したのは、如何に早くとも三世紀の終でなければならず、さうして晉書に見える倭人貢獻の最終の記事は、必しもツクシの諸小國の君主が帶方に交通したことの最終であつたとはいひ難く、從つてまた彼等が獨立してゐた?態の終であるとは考へられないから、此の變動は四世紀に入つてからのことかと思はれる。さうして、それにはいくらかの年月が費されたであらうから、それは恰も半島の大動搖とほゞ同時であつたと見なければならぬ。これは一方では、百濟が近肖古王の時に我がヤマト朝廷と交通したことの可能であることを、示すものであると共に、他方では此の百濟との交通の行はれたことが、ヤマト朝廷がツクシ(の少くとも北部)を統一せられた時期を考定する有力な標準となることを示(25)すものである。言ひかへれば、ツクシ地方がヤマトの朝廷を戴く我が國家組織に入つたのは、百濟の馬韓統一帶方占領と同じく、ほゞ四世紀の前半のうちに行はれたものであることが、其の百濟の近肖古王がヤマトの朝廷と交通したといふ事實によつて、推測せられるのである。
 ところが、これと同じ時代に於いて新羅の辰韓統一もまた行はれたらしい。三世紀に於いて新羅が辰韓十二國中の一國たるに過ぎなかつたことは、前に述べたとほりであり、われ/\の民族に對しても、弁韓の狗邪國が中間にあり、なほ或は他の辰韓の國が狗邪と新羅との中間にあつたかも知れぬから、直接には何等の交渉の起るべき形勢ではなかつた。新羅の名はツクシ人が聞き知つてゐたかも知らぬが、特別の關係が生ずべき?態ではなかつた。ツクシ舟はイキ、ツシマ、を經て狗邪へゆき、そこから半島の海岸をぬつて遠く帶方の海濱、即ち今の仁川灣方面、へ往復したのであるから、其の道に當る弁韓馬韓地方の國々には、いろ/\の交渉が生じたであらうが、何の目ざすあても無い東北方の海へは艫さきを向けなかつたであらうから、新羅などは全く縁の無いところであつたらう。三世紀の新羅はこんな一小部落であつたが、四世紀の後半になると、辰韓地方は新羅に統一せられてゐたらしい樣子が、半島の歴史に於いて知られる。さすれば、其の統一は百濟の馬韓統一とほゞ同じ時代、從つてまた我がヤマト朝廷のツクシ領有とも餘り隔つてゐないころ、のことであつたらう。
 要するに、四世紀の初から始まつたシナの北部に於ける鮮卑の活動が半島の大混亂を誘致して、其の結果、半島に於いては高句麗、百濟、新羅、の三國鼎立の形勢を現出し、これと同時に我がヤマト朝廷もツクシの北部を領有し、更に半島と直接の交渉を生ずるやうになつたのである。さうして、ツクシの諸小國の君主は三百餘年間樂浪帶方に交(26)通して、後には魏志倭人傳の示すが如く、政治上にも幾分の交渉を有つてゐたのであるから、二郡の覆滅は何等かの影響を彼等の上に及ぼしたに違ひなく、ヤマトの朝廷のツクシ領有も、それと何ほどかの關係があつたかも知れぬ。明らさまにいへば、二郡の覆滅はツクシの諸小國の君主をして、從來いくらかの頼みとしてゐたところ、一種の思想上の權威として仰ぎ見てゐたところ、を失はせたのであるから、それがヤマトの朝廷の活動を便ならしめたのかも知れぬ。話はやゝ横みちに外れたが、ついでであるから半島の形勢の變化を説いて置く。後になつて此の一節を囘想する必要が起るであらう。
 
(27)       第三章 文字の使用と古事の傳承
 
 前章に述べた如く、百濟のヤマト朝廷と交通し初めた時代が、四世紀の後半の或る時期であつたとすれば、百濟人によつて文字の傳へられたのも、また同じころでなくてはならぬ。應神朝に阿知吉師王邇吉師が來たといふ話をそのまゝ事實として認めることはできないが、我が國と百濟との交渉の生じた時期から考へて、かう推測せられる。從つて我がヤマト朝廷で作られた最古の文獻は、如何に早くとも、四世紀の末期にできたものであらう。魏志の倭人傳の重なる資料となつた記録の筆者であつたらしい魏人のツクシに來た時より約百年の後、後漢書に奴の國の使が洛陽にいつた記事のある時から三百五十年も後である。シナの典籍の光によつて明け初めたわれ/\の民族の歴史の始が、我が國の文獻によつて開かれるそれよりもはるかに古いといふことは、これで知られよう。もつとも、文字を用ゐることは此の時から始まつたけれども、それを用ゐて記された事がらには、人の記憶に存し口碑によつて傳へられた前代の事蹟が幾らかはあらう、といふ想像を拒むことはできないから、古くなるほど朧げでもあり訛傳も多くなつてゐながら、或る歳月を經た昔のことの幾らかが、かういふ風にして文獻に現はれてゐないとはいはれぬ。けれども其の口碑は歴史といふにはあまりに不精確である。暦の知識の無かつた時代のことであるから、年數なども勿論、傳へられなかつたらう。また口碑といふものの性質として、事件の前後の順序が混亂したり、其の事件の物語が精密でなかつたり、傳承の間に變化したりすることをも、忘れてはならぬ。のみならず、さういふ口碑の存在する期間にも限り(28)があるので、甚しく古い昔へ溯らせることはむつかしい。文字の無い時代、特に文化の程度の低い時代に於いて、口碑によつて遠い昔の事實が(よし混亂したり朧げであつたりするにせよ)年代記的にまとまつて言ひ傳へられてゐたといふことは、多くの民族に於いて其の實例を求めることが困難ではあるまいか。近い世の?態を見ても、民間に斷片的の口碑は往々存在するが、まとまつた傳記や歴史は傳へられてゐないのが普通である。さうして其の斷片的の口碑も、やゝ古いことは直接間接に文獻の力を假りてゐる。文字の無い時代には比較的口碑が長く保たれるといふ事情もあるか知らぬが、それとても知識の程度が低く考へ方が粗笨である場合には、早くそれが忘れられたり混亂したりするといふことをも考へねばならず、第一、さういふ幼稚な社會では、過去の事實を事實として後に傳へようといふやうな意圖があるらしくはない。自分等の事業を後世に傳へようとか、祖先の事蹟を忘れずに記憶しようとかいふ意圖は、社會の組織が鞏固になり文化の程度も進んだ時代に於いて、始めて生ずるものである。民間説話といふやうなものは、長く口から口へと傳へられるが、それは上代人の心理から作られた物語であるがために、すべての人が自分等の生活の反映として、深い興味をそれに對して有するからである。固より事實のいひ傳へといふべきものではなく、口碑とは全く性質が違ふ(口碑が説話化せられ、又は兩者が混合することはあるにしても)。だから我が國の上代に於いても、大體同樣に考へねばならぬ。さすれば、我々の民族の歴史がシナの文獻の光によつて明け初めるといふことは、疑の無いことであらう。さうして單に此の點から見ても、記紀の記載の上代の部分によつてわれ/\の民族の上代史はわからない、といふことは知られる。
 但し以上の考は、百濟人によつて書記の術が始めて傳へられたといふ考の上に立つてのことであるから、それに反(29)對の見解があれば問題は別に生ずる。例へば、ツクシ地方には長い間のシナとの交通の結果、文字が既に輸入せられ用ゐられてゐて、それがヤマトにも早くから傳はつてゐたのではないか、といふやぅな疑も起らぬには限らぬ。少くとも三百餘年間續いたツクシの諸小國の君主と樂浪帶方との交通が、シナの工藝品をかなり多くツクシに輸入させたことは疑がない。今日我が國に發見せられる漢鏡などは、かうしてツクシ舟の將來したものであらう。後には傳はらぬが、絹などは最も多く輸入せられたに違ひない。さうしてこれほどの長い間の交通であるから、ツクシ人は單に工藝品をもつて來たのみならず、いくらかは其の製作法、をも學んだであらう。考古學上の研究によると、一世紀には銅器が作られ、二・三世紀のころには鐡器ができるやうになつてゐたらしいが、それらは直接なり間接なりにシナ人からその技術を學んだものとしなくてはならぬ。魏志によると、三世紀には蠶桑紡織の術も行はれてゐた。いつ學ばれたものかは明かでないが、「宮室樓觀、城柵嚴設、」といふやうな家屋の建築法(此の語はひどく誇張していはれたものには違ひないが)、「大作冢、徑百餘歩、」といふやぅな墳墓の築造法なども、シナの風習を摸倣したものと推測せられる。しかし、文字が行はれてゐたと思はれるやぅな證跡は見えない。文字があればシナ人は必ずそれに注目したに違ひないから、倭人傳にもそのことが記されさうなものであるのに、毫もそんな記事は無い。のみならず、魏略に「其俗、不知正歳四時、但記春耕秋收、爲年紀、」といつてあるのを見ると、暦の知識の無かつたことが知られると共に、文字の用ゐられなかつたことが想像せられる。シナの文字が用ゐらるれば、おのづからそれに伴ふ知識が傳へられねばならず、さすれば簡單な年月を記載するぐらゐの知識が無いことはなかつたはずである。國王の印璽や詔書をシナの政府から與へられはしたが、それが直に文字を學びまた用ゐようとする欲望を刺戟するものでないことは、例(30)へば滿洲方面の古來の民族の?態を見ても推測せられる。魏の使が來て「以檄告諭」とあるが、これは文字の知識の無いものにも詔書を與へると同樣、必しもそれを解し得ることを豫想したのではなからう。魏志の倭人傳に於いて、もしツクシ人が記録の術を知つてゐたといふ推測をなし得る材料があるとするならば、それは卑彌呼が上表したといふ一點のみであるが、これとても實際ツクシ人が書いたとしなければならぬことではない。魏使によつて上表したとすれば猶さらであつて、儀禮を整へるためにシナ人に依託して書かせた、と解し得られることは、ヤマト朝廷がシナの南朝と交通するやうになつてからでも、もし文書を用ゐたとすれば、やはり彼等が起草したとしなければならぬことからも、類推せられる。推古朝に至つて隋に遣はされた留學生すらも、概して歸化人であつたではないか。倭王の使がみづから大夫と稱したといふが如きは、果して其の語がシナ語の「大夫」の義であるかどうかが、第一、疑問である。要するに、樂浪帶方と交通してゐた時代のツクシ人が文字を用ゐた、と推測せられるやうな證跡は認められない。よしいくらかの文字を解し得た一二のものがあつたと想像するにせよ、實用的に文字が用ゐられたとは考へられぬ。鏡を摸造しても文字は削られてゐる。シナの風をまねて築いたらしい墳墓に於いても、文字のある磚を用ゐたものは一つも遺つてゐないではないか。ツクシ人が何故に文字を學ばなかつたかといふと、それはその文字が日本語とは全く性質の違ふシナ語の表徴であつて、表音文字でなく、從つて、それによつて日本語を寫すことのできないものであるのと、それが解しがたく學びがたいものであるのとの、故であらう。(ヤマトの朝廷でそれを學ぶやうになつたのは百濟人の媒介があつたからである。) だから、ツクシ人がシナから受け入れた工藝品や或る種の技術は、瀬戸内海の航路によつて轉々して東の方にも傳はつたであらうが、文字の術がツクシに行はれ、またそこからヤマト方面(31)にも弘まつてゐたとは、考へられぬ。少くとも、ヤマトの朝廷に於いて、百濟との交通以前に文字が行はれてゐなかつたことは、百濟人及び其のころから後に歸化した漢人が記録掛として用ゐられたのでも知られる。
 文字が古くから用ゐられてゐないといふことは、これでわかつたとして、今一つ起るべき問題は文字の用ゐられなかつた前に、單なる口碑や傳説があるのみではなく、何等かの特殊の風習なり制度なりがあつて、それによつて古事が傳へられたのではないかといふ疑である。さて我が民族の上代に、君主もしくは英雄の物語として傳誦すべき叙事詩のやうなものがあつたらしい形跡は毫も見えない。が、世間では往々、上代に「語部」といふものがあつてそれが古事を語り傳へてゐたやうに、考へられてもゐるらしいから、それについて一應の觀察をして置かぬばならぬ。さて語部といふ稱呼は記紀などには載つてゐないが、正倉院文書(大日本古文書一、二)の大寶二年の美濃の戸籍、天平十一年の出雲の大税賑給歴名帳に其の名が見えてゐる。しかし其の職掌については、今日に傳はつてゐる奈良朝以前の典籍には明かな所見が無く、たゞ平安朝になつてからできた「儀式」の大甞會の卯日の條に始めてそれが現はれてゐる。それは「伴佐伯宿禰各一人、率語部十五人、亦入就位、奏古詞、」といふのである。延喜式の同じ條にも同じことが書いてあるが、別に「物部、門部、語部者、左右衛門府九月上旬申官、預令量程參集、……語部、美濃八人、丹波二人、丹後二八、但馬七人、因幡三人、出雲四人、淡路二人、」とある。語部は、物部門部と同樣、大甞會の前に臨時に諸國から人數を定めて召集せられ、門部と同樣、門衛のことを司る伴(大伴)宿禰佐伯宿禰の配下に屬し、卯の日の儀式に於いて古詞を奏する役めをつとめたのである。こゝの物部や門部は、皇居もしくは宮門の衛兵としての昔の部の名であつて、これらの部は、それ/”\の首長、即ちいはゆる件造、に統率せられてゐたものであるが、唐制が摸(32)倣せられてからそれがなくなり、大甞會のやうな古い儀禮を行ふ場合にのみ其の名を用ゐ、それに充てるものは臨時に地方から召集したのであらう。さすれば語部についてもまた同じやうに考へてよからう。其の名稱から見ても、制度の上に唐風を摸倣した前から存在したものらしい。但し昔の語部は、その名稱から考へても、「儀式」に見える大甞會の時の職掌が古詞を奏することである點から見ても、伴氏や佐伯氏に隷屬してゐたものとは思はれないから、さういふことになつてゐるのは、後世になつてから、何等かの特殊の事情でさう定められたものであらう。また前に述べた正倉院文書に見えるごとく、美濃や出雲に語部の名のもののあるのは、もとそこに語部の部民(語部に屬する農民)がゐたからのことらしい。丹波丹後なども多分同樣であつたらうから、召集せられる地方には昔からの歴史的由來があるのであらう。
 次に其の「古詞」とは何かといふに、これは吉野の國柄や楢の笛工が古風を奏し悠紀の國司に屬する歌人が國風を奏した後で、奏せられるものであるから、それらが昔からの遺風であると同樣、これもまたさうであつたらう。けれども其の内容は全くわからず、從つて、上代に於いて語部が古事を語り傳へてゐた其の遺風である、といふやうなことを想像させるには、何等の手がかりも無い。語部は、それよりも寧ろ、吉野の國柄や悠紀主基の國人が歌舞を奏する如く、或る特殊の宮廷の儀式か祭祀か又は饗宴かの場合に、何事をか演奏するものであつた、と推測する方が自然である。さうしてそれにはまた、例へば出雲國造が神賀詞を奏し、中臣や齋部が祝詞を讀むやうに、或る一定の詞章があつて、それを讀んだのではないかとも考へられる。けれども祝詞などの詞章が後世に遺存してゐるにかゝはらず、語部の「古詞」として明かに傳はつてゐるものが少しも無いとすれば、それはあまり重要なものではなかつたらしい。(33)大甞會の揚合から考へても、吉野の國栖の歌笛や國々の風俗歌と同じ程度のものであつたらう。文字の無かつた時代にさういふものがあり、それによつて上代の事蹟が語り傳へられた、といふやうな重要なものであつたならば、記紀の上代の物語のどこかに其の名ぐらゐは出てゐてもよささうなことであり、また文字の用ゐられた後にもそれが續いてゐたとすれば、一方に文部などのことが?記されてゐるのに對しても、此の名が見えなければならぬやうに思はれる。さうして古事記の卷首にある太安萬侶の上表などによつて考へても、古事がかういふやうな方法によつて傳へられたとは、當時の人は、まるで考へてゐなかつたらしい。更に大きく考へれば、文字の無かつた時代の我が民族の生活が、さういふものを要求し、もしくは生み出すやうな?態であつたかどうか、甚だ疑はしく、また文字の用ゐられるやうになつてから、そんなものができたとはなほさら信じ難い。
 さて上に語部の名が記紀に見えないといつたが、天武紀(十二年の條)に語造が連のカバネを賜はつた記事があり、さうしてそれは語部の首長であつた家であらうから、語部の存在したことはこの記事によつて知られる。また出雲風土記に語臣の名が記されてゐるが、この國に語部の部民があつたことから考へると、これも語連に屬してゐた家であらう。新撰姓氏録(卷一四)に見える天語連は即ちこの語連の家であつて、「語連」の名の上に「天」の語が加へられたものらしい。(元正紀養老三年の條の海語連も天語連であらうか。天日槍を古語拾遺に海檜槍と書いてあること參照。)ところで、この天語連の名によつて推測をするならば、此の天語連と古事記の雄略の卷に見える「天語歌」との間に關係があるものと考へることができ、從つて此の天語歌と酷似した長歌で神代の卷に記載せられてゐる所謂「神語」(オホナムチの命とヌナカハヒメ及びスセリヒメとの應酬の歌)もまたそれと同樣に見られることにならう。(34)天語連は宮廷の饗宴の際などにかういふやうな歌を演奏する職掌を有つてゐたものではあるまいか。(天語歌が饗宴の餘興として歌はれたことは雄略の卷の物語から明かに知られるし、「豐御酒たてまつらせ」といふ詞からも推測せられる。神代の卷の「神語」の一つにも同じ詞があるのみならず、酒杯を擧げて歌はれたとも書いてある。歌の内容もそれにふさはしいものである。雄略の卷には、それが酒宴の時に新作せられたやうに書いてあるが、これは固より物語としての構想であつて、酒間にこれらの歌を歌つてゐた後世の習慣が、そこに反映してゐるのである。これ等の歌が甚しく古いものでないこと、またそれに傳誦の間に生じた混乳のあることについては、第三篇で考へるであらう。)さうして、此の天語連が果して語部の首長の家であるならば、語部の存在は古事記によつてもまた知られることになる。かう考へて來ると、語部といふものは、宮廷に於いて、半ば儀禮として、半ば饗宴の餘興として、かういふものを演奏するために設けられたのであらう。さすれば、後までも其の形骸が遺存して、國栖の歌笛や國々の風俗歌と同樣に取扱はれた、と考へるに支障は無い。歌を「古詞」といふのも、それを奏するものを語部といふのも、やゝ穩當でない稱呼のやうに思はれるが、既に古事記の神代の卷にはあの長歌を「神語」といつてゐるから、かういふ疑を起すには及ぶまい。天語歌はアメノカタリウタの語を、從つてまた天語連はアメノカタリノムラジの語を、寫したものと解せられる。
 或はまたかうも考へられる。それは、神語といふのは本來、神の語であつて、語部はそれを語るものであつたが、或る時代から神の歌として製作せられたものがあるために、おのづからそれをも歌ふやうになり、其の歌には特に天語歌といふ(やゝ耳ざはりな熟語である)名がつけられ、またそれをも神語といふやうになつたので、語部の本務は(35)原意義に於いての神語を語ることであつたと見るのである。然らば、其の神語は何かといふに、それは純粹に宗教的起源を有するもので、神(神代史上の神でなく、信仰の上の神)に代つて演べる神の語ではあるまいか。神語といふ語は、書紀や續紀に於いては種々の意義に用ゐられてゐるが(古事記傳卷一一に其の例が列擧してある)、その原義は神自身の語といふのであらうし、實際此の意義に用ゐた例がある(神功紀卷首、崇神紀七年、皇極紀三年、などの條)。さて祭祀のやうな儀禮の場合に、巫覡または神の代表者となつたもの或は神に扮したものが神の語として何事かを語るといふやうなことは、世界に例のある風習の一つであるから、我が上代の民間の祭祀にもそんな習慣があつて、それがかういふことの淵源となつたかも知れぬ。即ち朝廷の儀禮の整頓と共に、それが儀式化せられ、其の詞章も一定し、語部といふ專門家も生じたのである。かう見ることができはしまいか。姓氏録によると、天語連は祭祀を掌つてゐたイミベ氏の組のフトダマの命に關係が深く、また阿波のイミベの祖とせられてゐるヒワシの命を遠祖と稱してゐるが、これも故あることかも知れぬ。
 此の二つの考の何れによるにしても、其の起源は民間の風習にあり、從つて其の由來は遠いに違ひないが、こゝにいふのは朝廷の制度として一定の職掌を有する語部のことであるから、それは國家の組織が整頓した後に定められたものでなくてはならぬ。が、それとても氏族制時代のことには違ひないから、大化改新以後になると、昔のまゝの地位や職掌が維持せられなくなつたと思はれる。さうして本來さほど重要なものでもなかつたから、新しく制定せられた朝廷の官職に於いてそれを繼承するやうなものも設けられなかつたらう。だから平安朝ごろになると、語部そのものが事實上亡くなつてゐると共に、其の語る詞(又は歌)も傳はらなくなり、形ばかりに何かが殘つてゐたのであら(36)う。所謂「古詞」が知られなくなつたのも此の故であらう。さて上記の推測の當否はともかくもとして、語部が上代に古事を語り傳へたものであるといふ徴證が少しも無い、といふことだけは斷言し得るところである。
 かう考へて來ると、文字の無かつた時代に於いては、尋常一樣の口碑傳説によつて昔のことが傳へられた、と見る外は無からう。さて上にも述べた如く、四世紀の末期ごろから、文字の術がそろ/\我が朝廷に知られ初めたのであるから、もしかういふ風の口碑傳説が文字に寫されるやうになつたとすれば、それは多分、五世紀に入つてから後のことであらう。簡單な朝廷の記録の類、例へば皇室の系譜の如きものは、それよりもいくらかの前に、即ち文字が入つてから間もなく、作られたでもあらうが、それにしても、國語を漢字で書きあらはすといふ困難な方法が案出せられた上でなくてはならぬから、文字の術のはじめて知られてからさうなるまでにはかなりの年月を要したであらう。古傳説や口碑などを寫すことができるやうになるには、なほさらである。だからかう考へられるのである。さうして、さういふものが作られてから後も、長い間には或は失はれたものもあらうし、また或は意識的に、もしくは無意識的に、行はれた種々の變改を經由し、もしくは特殊の意圖によつて構成せられた物語のうちに按排せられ編みこまれて、後に傳へられたものがあるかも知れぬ。もし記紀の資料に四世紀よりも前の古傳説などがあるとするならば、それはかういふ徑路を經たものであらう。それならば、其の記紀はどうして作られたか。これが次の間題である。
 
(37)       第四章 記紀の由來、性質、及び二書の差異
 
 古事記の性質と由來とについては、卷頭に撰者たる太安萬侶の上表が載せてあつて、其のうちに明記してあるから、第一にそれを讀んでみなければならぬ。その重要の部分はかういふのである。
  天皇詔之。朕聞、諸家之所?帝紀及本辭、既違正實、多加虚僞。當今之時、不改其失、未經幾年、其旨欲滅。斯乃邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。時有舍人、姓稗田、名阿禮、年是二十八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然運移世異、未行其事矣。伏惟、皇帝陛下、……於焉惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭、以獻上者。謹隨詔旨、子細採※[手偏+鹿の比が从]。然上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難、已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以、今或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録、即辭理?見、以注明、意況易解、更非注、亦於姓、日下謂玖沙訶、於名、帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
 此の文の最初の天皇は天武天皇のことで、中ごろにある皇帝は元明天皇である。これで見ると、古事記は元明天皇の勅を奉じて太安萬侶の撰録したものであるが、其の直接の材料は、稗田阿禮の誦み習つた帝皇の日繼及び先代の舊辭である。さうして、阿禮のそれを誦み習つたのは、天武天皇の詔を奉じたのであつて、天武天皇は、諸家の傳へてゐる帝紀本辭(又は舊辭)が區々になつてゐて誤謬も多いから、それを討覈して正説を定めよう、といふ御考から、(38)先づ其の準備として、阿禮に命じて帝皇の日繼及び先代の舊辭を誦み習はさせられたのである。天武天皇の此の勅命は、何時のことであつたか明かでないが、天武紀十年三月の條に「詔川島皇子、忍壁皇子、……大山中臣連大島、大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事、大島、子首、親執筆以録焉、」とあるのは、それと關係のあることに違ひない。さて、此の上表に於いて先づ注意すべきことは、(1)諸家に帝紀及び本辭(舊辭)が傳へられてゐたこと、(2)此の諸家の傳へ有つてゐるものは、それに檢覈を加へて正説を一定しなければならぬほどに、其の内容が區々になつてゐ、誤謬虚僞とすべきことが混入してゐたこと、(3)官府の權威を以て定説を作る計畫であつたこと、(4)阿禮が古記録を誦習したこと、此の誦習は成就したけれども、正説を定めるといふ官府の事業は成就しなかつたこと、(5)安萬侶は其の阿禮の誦習したものによつて此の古事記を撰録し、書物としての帝紀本辭を直接に取扱つたこと、などである。
 第一に、諸家が帝紀及び本辭を傳へ有つてゐるといふことであるが、先づ此の帝紀及び本辭といふ語に注意するを要する。此の上表のうちにも、帝紀本辭と連稱してあるほかに、帝紀舊辭とも、帝皇日繼先代舊辭とも、また先紀舊辭ともあり、なほ上に引いた天武紀の記事には、帝紀及上古諸事とあるのを見ると、帝紀と帝皇日繼と先紀とは同じものであるらしく思はれ、また本辭と舊辭と先代舊辭とはみな同じであつて、其の内容は上古諸事と稱すべきものであることが推知せられる。このことは、帝紀も帝皇日繼も先紀も共に舊辭に對して、また本辭も舊辭も上古諸事も共に帝紀に對して、いはれてゐるその書きかたによつてわかるのである。舊辭の上に先代の二字の加へてある場合もあるが、舊辭であるとすれば先代のことがらの語られたものに違ひないから、この二字は有つても無くても同じである。加へてあるのは、多分、帝皇日繼に對していはれたために同じく四字の名稱としたのであらう。のみならず、上表に(39)於いては全體の文勢からもさう解しなくてはならぬので、もし同じやうに相對して用ゐてある名稱がそれ/”\違つたものをさしてゐるとすれば、文章が成立たない。さすれば、帝紀は帝皇日繼であるから、皇室の歴代の系譜及び皇位繼承のことを記したものであつて、神代の神の系譜もまたその卷首にあつたものであらう。また本辭、即ち舊辭、は上古諸事のことであるから、上代のこととせられてゐる種々の物語を指すのであり、さうして「舊」といひ「上古」といつてあることから考へると、それは近い代のことがらを記したものではない、といふことが推測せられる。神代の物語はその卷首に於ける重要なものであつて、神武天皇の東遷以下の種々の物語は、みなそれに含まれてゐたのであらう。かういふ帝紀と本辭(舊辭)とが、天武朝に於いては、昔から傳はつて來たものとして存在したのである。
 古事記を通覽すると、最も重きを置いて詳密に記してあるのは、歴代の皇室の系譜であつて、仁賢の卷以後にはたゞそればかりが書いてあるが、また種々の物語が、神代と神武天皇と崇神天皇以後顯宗天皇以前の歴代とについて記されてゐる(たゞ繼體の卷に一ケ條だけ石井の叛亂の記事があるのは、例外である)。さうしてこの古事記は、阿禮の誦んだ帝皇日繼(帝紀)と先代舊辭(舊辭または本辭)とによつて撰録したものだといふのであるから、所謂帝紀と舊辭(本辭)との性質もこれから推測せられ、舊辭が上古諸事であることも、それによつておのづから明かになる。詳しくいふと、古事記の内容には帝紀と舊辭との二要素があるが、其の古事記は皇室の系譜と天皇(及び皇族)の言動としての種々の物語との外には何も無い。だからそれを帝紀と舊辭とに配當すれば、系譜が帝紀で種々の物語が舊辭であると考へる外はないのである。もつとも上表には「撰録……勅語舊辭」とあるけれども、事實として帝紀と舊辭とを撰録したのでなければならぬことは、後にいふとほりである。
(40) 但し帝紀については、この見解に對していくらかの疑があるかも知れぬ。それは、帝紀といふ名によつて考へると、シナの所謂正史の本紀めいたものではなかつたらうか、といふことである。けれどもこの疑は、古事記の記載そのものを一とほり分析して見れば、すぐに氷解するものである。シナの正史の本紀は、皇帝の言行、もしくは皇帝の命によるものとせられてゐる政治上の施設、または皇帝の治下にある國家の大事、などを記載するものであるが、古事記にも、天皇もしくは皇族の動靜や政治的經營の物語がある。それは、物語の形をなしてゐる點に於いても、また記載せられてゐることがらそのものにも、本紀とは違つたところがあるが、天皇皇族の言行や政治的意義のあることがらが記されてゐる點に於いては、本紀に似かよつた性質をもつてゐる。崇神の卷のミワ山の物語などは、物語そのものは政治上のことがらでも天皇の言動でもないが、それに關係のあるやうに結構せられてゐる。或はまた仁コの卷の皇后の物語の類は、政治的意義のないものであるが、天皇の言動に結びつけられてはゐる。皇室にも政治にも直接の交渉の無いものは、應神の卷のイヅシヲトメの物語など、僅かに一二を數へ得るに過ぎない。さうしてかういふ物語の外には、古事記の記載はたゞ皇室の系譜のみである。だから、もし帝紀の内容に、本紀の記載と似かよつたところのあるかういふ物語が含まれてゐたとするならば、古事記の物語の殆ど全部は當然帝紀のうちの記載でなければならず、さうして系譜もまたその帝紀に含まれてゐたに違ひないことが、帝紀といふ名稱によつても知られるから、それと對稱せられそれと區別せられてゐる舊辭から取られたところは、古事記には殆ど無いことになる。これは明かに安萬侶の上表にいつてあることと矛盾する。だから、此の上表を信用する以上、古事記に見える種々の物語が舊辭に記載せられてゐたものであつて、此の舊辭に對してそれとは違つたものとせられてゐる帝紀は、皇室の系譜であり、帝皇日(41)繼が即ちそれである、としなければなるまい。古事記の内容は帝皇日繼と先代舊辭との2つでなくてはならぬから、古事記から舊辭の分子を除いたものが帝紀でなければならず、さうしてそれは系譜の外には無いことになる。帝紀に對するものとしては、本辭といふ名も用ゐてあるが、其の訛傳が帝紀の虚僞と共に「邦家之經緯、王化之鴻基、」に累を及ぼすとせられてゐるのを見ると、それは決して皇室にも政治にも關係の無いことを記したものとは思はれず、その内容は天皇皇族の言動や國家の經營に關する物語でなくてはならぬから、それをこゝにいつたやうな舊辭と別のものとすることはできない。かう考へると、帝紀がシナの正史の本紀のやうなものでなかつたことは、明かであらう。むしろ帝紀と舊辭とを合せたもの、即ち古事記とせられたものの全體が、本紀に似たところのあるものだ、といふ方が當つてゐよう。
 もしまた帝紀とは物語をなさない簡単な政治上の記事、例へば崇神の卷のコシ、東方十二道、タニハ、などへの諸皇子の派遣、成務の卷の國造縣主の制置、應神の卷の百濟朝貢、允恭の卷の新良の貢進、氏姓の檢定、といふやうなことが記されてゐたものとして、考へ得られるかといふに、かういふ記事が數へるほどしか古事記に無いことを思ふと、それだけが帝紀といふ特別の成書として存在してゐたといふことは、甚だ解し難い。たゞ景行、仲哀、仁コ、允恭、雄略、などの卷々には、系譜のすぐ次に部や屯家を定めたり池を掘つたりしたこと、またはその他の、物語をなさない、何等かの記事があるのは、かういふ記事が帝紀に附載せられてゐたのが、古事記編纂の時にそのまゝ寫しとられたのではないかとも、一應は考へられ、さうしてさう考へると、繼體の卷に石井のことの記されてゐるのも、その理由が解せられるやうであるが、崇神、垂仁、應神、仁コ、履仲、などの卷々には、同じやうな記事が物語のあと(42)に記してあるのを見ると、さうばかりも推測し難い。(應神の卷のは物語の中間にあるやうに見えるが、その後に記してある物語は、天皇の崩後のことになつてゐて、それは舊辭の記載を歴代に分割するに當つて、前代の天皇の卷に附載したからのことであるから、こゝにいふ記事は、應神朝の物語のあとにあるものとすべきである。)なほ孝靈、垂仁、などの卷々には、同じやうなことが系譜の中間に記されてゐるので、それは景行の卷に、單純ではあるが物語の形をなしてゐるものが、同じ位置にあることと共に、系譜に於いてその記事または物語に關係のある皇子の名の見えるところに、それを挿入したもののやうである。從つて、かういふ記事が帝紀に附載せられてゐたか、又は舊辭に含まれてゐたかは、明かにはわかりかねるが、そのうちに、崇神の卷の調貢の法を定めたといふことが、「所知初國之御眞木天皇」の稱呼についての説話と連續するやうに、また應神の卷の秦氏漢氏の祖の來朝が、造酒者の來たこと及びそれについて語られてゐる歌物語と關聯して、記されてゐるやうな、例のあること、垂仁、仁コ、などの卷々のやうに、部の設定が物語につれて記してあること、などから考へると、これは帝紀にではなくして舊辭にあつたものと考へる方が、妥當であらう。ことがらからいつても、系譜に屬すべきものではない。のみならず、上にいつた孝靈の卷のキビの平定、允恭の卷の氏姓の檢定、などの記事は、その書きかたが物語風であること、また成務の卷の國造縣主の制置、應神の卷の王邇吉師の來朝などが、地方制度やシナの學問の起源を記したものである如く、かういふ記事にも、舊辭の物語に例の多い事物の起源説話と見るべきものが少なくないこと、などを考へあはすべきである。(よし帝紀に附載してあつたと考へるにせよ、分量の點から見ただけでも、帝紀の主なるもの、その本體となつてゐるものが、系譜であつたことは明かであるから、それは帝紀が系譜であることを動かすものではなく、かういふ記事はた(43)だ附載せられたに過ぎないものである。)もつともこれまで述べて來たことは、古事記が阿禮の誦んだ帝皇日繼と先代舊辭とを殘すところなく採録したものであり、さうして其の外に別の資料が無かつた、といふことを前提としての考であるが、安萬侶の上表を其のまゝに受け入れる限り、かう考へるのが當然である。
 次に古事記と安萬侶の上表とから離れて考へると、書紀の欽明紀二年の條の分注に「帝王本紀」といふ名が見えるが、その記載の内容から推測すると、これは即ち帝紀であつて、系譜を記したもののことではあるまいか。續日本紀の文武紀大寶二年の條に、國造記といふものがあつてそれが系譜だけのものらしいことをも參考するがよい。なほ顯宗紀の分注に譜第といふ書名が見えてゐて、それも皇室の系譜を記したものらしいが、しかしこれは、歴代の所謂日繼を記したまとまつたものであるか、或る時代または或る皇族だけの系譜であるか、他に所見が無いから明かに推測しかねる。また記紀の外の書の記載を見ると、正倉院文書の天平二十年の寫章疏目録のうちに「帝紀」二卷があつて、それには特に、シナ撰述のものでないことを示す意義に於いて「日本書」と注記してあることから見ると、この書が我が國のものであることが知られるが、それが僅か二卷であることから考へると、皇室の系譜を記したものとしての帝紀が即ちそれではあるまいか。もしさうならば、帝紀が系譜のみを記したものであることは、これからも知られよう。さらに一言しておくべきは、上宮聖徳法王帝説の釋に「帝記」の名目が出てゐて、それは系譜のみを記したものではないやうに見える、といふことである。此の「帝記」が或る書物の名であるか、帝室のことを記したものといふほどの意義で漠然かういはれたのであるか、それすらもよくわからぬが、シナの文物が盛に入り、幾多の文獻が現はれ、法王帝説の編述せられた後に於いて、帝記の名が如何やうに用ゐられようとも、それよりずつと前に編述せられ、(44)舊辭と相對して帝紀と名づけられてゐたものとそれとは、必しも同一視する必要が無い。文字のつかひかた名のつけかたに、變遷があつてもよいからである。だから安萬侶の上表の帝紀の意義は、それだけで研究すべきものであらう。ついでにいひそへておく。聖コ太子と蘇我馬子とが撰録したといふもの 詳しくいふと推古紀の二十八年の條に「皇太子島大臣共議之、録天皇記、及國記、臣連伴造國造百八十部並公民等本記、」とあるうちの天皇記といふものが、古事記の上表にある帝紀の意義を知るについて參考せらるべきではなからうか、といふ意見があるかもしれぬが、この記載は、別にこの書の第四篇に於いて考へる如く、事實ではないから、推古朝時代にかういふ名稱の書があつたとは思はれぬ。從つて今の問題には、これは關係の無いことである。
 帝紀が皇室の系譜であることは、以上の考説で明かになつたと思ふ。皇位が世襲であることはいふまでもなく、朝廷の貴族も地方の豪族も、その地位と職掌とがみな世襲であつた上代、政治上の制度に於いても實際生活の上に於いても、一般に家系が重んぜられた上代に於いて、かういふ帝紀が作られてゐたのは、當然である。シナの正史の本紀に倣つて書かれたと思はれる日本書紀にも、系圖といふものが特別についてゐたことも、このことについて參考せららべきである。
 ところで、此の帝紀舊辭が文字に寫されたものであることは「所?」といふ語からでも推知せられる。舊辭といふ名は、口で傳誦せられてゐたものででもあるかのやうに聞こえるか知れぬが、文字に寫された詞章または物語を「辭」または「語」と稱することはシナの典籍の一般の慣例であるのみならず、日本書紀でも、安康紀三年の條の註にある「辭」、雄略紀の卷首の註、同紀一四年二二年の條、用明紀元年の條などに見える「語」が現にさうであるから、舊辭(45)の名によつて、それを文字に寫されたものでないとすることはできないI、また舊辭の「辭」が「ことば」を主にしていつてゐるのでないことは、舊辭の内容が上古諸事であること、それが「辭」といふ文字を用ゐてない帝紀と並び稱せられてゐること、また此の上表の全體の主意から見て明かである。さて、かういふものが文字に寫されてゐることは、應神天皇のころから後、漢字が漸次用ゐられて來たことからも、また漢字を用ゐて國語を寫す方法のいろ/\に案出せられたことからも、疑は無い。漢字を用ゐはじめた時には、それによつて國語を寫さうとしたのであつて、さういふ方法で書かれた文章の今日に遺つてゐる一つの例は、時代の後れてゐるものではあるが、法隆寺金堂の藥師像の*光後の銘である。祝詞もまたそれであつて、そのうちでも大殿祭のなどは、宮殿が掘つ立て小屋式、繩結び式、であることを示すその内容の上から見て、かなり古いものであるらしい。その他、大祓のにしても、龍田風神祭のにしても、また祈年祭のにしても、其の主要部分には古く作られたものらしい形跡がある。(古事記についての上表を讀んでゐる場合であるから、ついでにいつて置くが、此の文の、前には省略して置いたところの、うちに「御紫宸而コ被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、」とある馬蹄船頭の對句は、祈年祭の祝詞に「皇神の見はるかします四方の國は、……青海原は棹柁干さず、舟の艫の至り留まる極み、大海原に舟滿ちつゞけて、陸より往く道は荷の緒ゆひ堅めて、磐根木の根ふみさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道のひまなく立ちつゞけて、」とあるところから來てゐるのではあるまいか。馬と船との對照は必しも此の祝詞には限らないのであるが、皇化の及ぶところを示すために此の二つを持ち出して來て、其の至る限りといふやうにいふのは、此の祝詞特有の思想であらう。もしさうとすれば、此の祝詞は少くとも此の上奏の書かれた時よりも前に行はれてゐたものである。)また古事記などの歌の寫し方も、(46)古くからの慣習に從つたのであらう。既に文字が用ゐられる以上、何等かの方法によつて國語をそれで寫さうとするのは自然の要求であるのみならず、我が國の漢字の用法は、もと百濟人から學んだものであるが、其の百濟の本國に於いても、やはり漢字で百濟語、少くとも百濟の固有名詞、を寫してゐたのであるから、其の方法もおのづから我が國に傳へられたに違ひない。かういふやうにして、國語を漢字で寫す方法によつて書かれた上代の皇室の系譜なり、或は種々の説話なりが、典籍となつて世に存在してゐたのであらう。それが即ち諸家のもち傳へてゐた帝紀と本辭(舊辭)とである。
 さて、帝紀の原本が朝廷で撰定せられたものであることは、其の性質上おのづから推測せられる。皇室の系譜が朝廷でないところで知られるはずもできるはずもないからである。のみならず、舊辭とても、諸家でめい/\に、また自由に、言ひ傳へや見聞を書き記したといふやうなものでは決してなく、或る時期に於いて、或る權威を有するものの手によつて、述作せられたものに違ひない。勿論、次にいふやうに、後になつてそれが種々に、また幾度も、變改せられ、從つて幾樣かの異本ができて來て、それが諸家に傳へられてゐたのであるが、そのもとは一つであつたらう。といふのは、その舊辭によつて撰録せられた古事記の種々の物語が、前に述べた如く、顯宗天皇以前に限られ、さうして同じやうな物語の見える時代は、書紀に於いてもほゞ同樣であるのと、いくらかの出入はあり差異はあつても、そのもとは一つであつたらうと考へられるほど、記紀に見える物語が互に類似してゐるのとの、故である。書紀を通覽すると、やはり顯宗天皇ごろまでは古事記と同樣な、或は大同小異な、主として歴代の天皇及び皇族の言動事蹟としての物語が多く載せてあるが、安閑天皇宜化天皇のころからはさういふ物語が無くなつてゐる。顧宗紀ころまでの(47)記事は、記録らしい形を有するものよりは寧ろかういふ吻語が主になつてゐて從つて歌謠の類も豐富であるが、安閑紀あたりからは全體がほゞ記録風の書き方になつてゐる。たゞ武烈天皇繼體天皇時代には、古事記に物語が無くなつてゐるにかゝはらず、書紀には戀愛譚や歌などがあるが、顯宗紀以前の部分に於ける物語の性質が上に述べたやうであるとすれば、さうして安閑紀以後にさういふものが無いとすれば、大體に於いて、書紀に見える物語の出所が古事記のもとになつた舊辭と密接の關係のあるものであつたことが、推測せられる。武烈紀繼體紀に古事記に無い物語のあるのは、顯宗紀以前のものに於いて古事記のと幾分の出入があり差異があることと共に、奮辭に異本ができてゐたからである。だから、かういふ種々な物語は、一度び或る時代に於いて何人かの手によつて述作せられたものに違ひないが、その物語の内容がすべて皇室に關すること、もしくは何等かの意味で國家の政治に關すること、であるとすれば、その述作者が朝廷であつたことは、おのづから知り得られよう。さうしてそれが舊辭または本辭の名で、斷えず人々によつて變改が加へられつゝ、後に傳へられ、宮廷にもまた諸家にも、種々の異本となつて、存在したのであらう。古事記に記載せられてゐる物語があれだけで終つてゐるのは、そのためと思はれる。その述作の時代は固より明かには知られないが、古事記に物語のあるのが顯宗天皇までであるのを見ると、その時からあまり遠からぬ後、たゞしその時の記憶がかなり薄らぐほどの歳月を經た後、多分、欽明朝前後、即ち六世紀の中ごろに於いて一ととほりはまとめられたのであらう。が、その物語の全體を通じて散見する歌歟に、萬葉集中のものと大差の無い、よほど發達した形のものの少なくないこと、特に後になつておのづから定まつて來た短歌の形のものが所々に散見すること、などから見ると、少しづつの變改が?行はれたことは別として、或る時期に、全體に渉つて大に潤色の加へられた(48)ことがあるかも知れぬ。が、このことについては、後になつて考へるをりがあらう。
 なほ、古事記の皇室の系譜が推古天皇で終つてゐるのは、阿禮の取扱つた帝紀がそこまでであつたからであらうから、これは帝紀が推古天皇の後まもないころに編纂せられたことを示すものかと思はれるが、更に臆測を進めるならば、これもまた舊辭と同樣、欽明朝ごろに一度まとめられてゐたのを、後になつてそのあとの部分を追補したのかと考へられる。それは、舊辭と帝紀との最初の編述がほゞ同じ時代であつたらうと思はれること、古事記の終の方の系譜ばかり記してあるのは、如何にも片わの感があつて、後に附加へたものとして見るにふさはしいこと、その部分には、或は武烈の卷及び敏達の卷以下の如く、前例に無く治世の年數が擧げてあつたり、安閑の卷及び同じく敏達の卷以下の如く、年齡の記載が缺けてゐたり、仁賢武烈宜化欽明のそれ/”\の卷の如く、年齡も陵の所在も書いてなかつたり、種々の點に於いて前の方とは筆法が違ひ、書き方に疎漏の點があるやうに見えること、などの故である。もつとも治世の年數が見えるのは顯宗の卷からであり、清寧の卷にも年齡や陵の所在が脱ちてゐるから、顯宗の卷で劃然たる區別をすることはできないが、ほゞこのあたりが、帝紀と見なすべき方面に於いても、古事記の記事の變りめである。
 さて、帝紀と舊辭との最初の編纂が六世紀の中ごろであつたとしても、それに含まれてゐる物語などのすべてが此の時に作られた、といふのではない。そのうちには遙かに古い時代から語り傳へられてゐる民間説話の類がそのまゝに、或はいくらかの形をかへて、採り入れられ編みこまれたものがあることは、後にいふとほりである。しかしさういふ民間説話が事實のいひ傳へとか口碑とかいふものと性質を異にしてゐることは、上に説いたところで知られよう。
(49) もつとも、既に述べた如く四世紀の中ごろより前の古い事實のいひ傳へ、即ち所謂口碑、もしくはそれの文字に寫されたものが、帝紀と舊辭との初めて編纂せられた時代に全く無かつたとはいはれぬかも知れぬ。けれどもそれが其のまゝに帝紀と舊辭とに採用せられ記録せられたかどうかは疑問であり、よしさういふことがあつたとしても、それがその後幾度かの變改潤色を經過してゐる記紀にそのまゝ現はれてゐるかどうかは、なほさら疑問である。だから、文字の無かつた時代の歴史的事實のいくらかのいひ傳へが、文字の用ゐられるやうになつた時代に存在してゐたかどうか、またそれが記録せられて帝紀と舊辭との最初の編纂のころまで傳へられてゐたかどうか、といふ問題は、記紀にそれが現はれてゐるかどうかといふのとは、必しも同一ではない。さうして記紀にさういふいひ傳へが含まれてゐるかどうかは、二書の記載そのものの研究によつて判斷する外はない。文字の用ゐられるやうになつてからのいひ傳へなどについても、また同樣である。
 第二には、諸家の有する帝紀舊辭が區々であるといふことであるが、これには前に言及したことのある欽明紀の分註に「帝王本紀、多有古宇、撰集之人、?經變易、後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟參差、」とあるやうな事情から來たものがあるでもあらう。この注は顔師古の前漢書敍例の一節を殆どそのまゝに取つたものであるが、それがあてはまるやうな事實があつたらしく、解せられる。が、單にかういふやうにして生じた誤謬のみではなく、また自然に生じた訛傳があるとか、異聞が記録せられてゐるとか、いふのみでもなく、朝廷または諸家に於いて故意に改作した場合も多かつたであらう。また此の改作には、知識の發達シナ思想の流行につれて、古事に新思想を加へ或は新解釋を施す、といふやうな意味でせられる場合もあつたらう。例へば古事記には紀年が明かになつ(50)てゐないが、分註としてところ/”\に天皇の崩御の年の干支と月日とが見える。これは書紀の記載とは殆ど全く違つてゐるのであるから、多分、書紀に於いて紀年の定められた前に、同じ企て同じ試みが何人かの手によつて行はれた、その名殘ではなからうか。書紀によつて紀年が一定せられた後に新にかういふものが案出せられたとは、考へ難いからである。もしさうとすれば、それは帝紀の最初の編述の際ではなく、それよりも後のことであらう。といふのは、後世に附加せられたものと見るべき終の方の部分まで、それが見えるからである。帝紀の原形に於いてかういふものが無かつたことは、それと同じ時代に書かれたと思はれる舊辭に於いて、年代記的に物語を排列してないことからも、推測せられる。だからこれは、帝紀の時代のあまりに漠然たるをあきたらなく思つて、それを細かく擬定しようとしたところから生じた後人の所爲らしい。かういふことは或は種々の人によつて種々に試みられたかも知れず、また全體として紀年を定めるのでなくとも、或る物語に於いて干支などによつて話の順序をつけるやうな試みを行つたものもあつたであらう。シナの史籍を見るやうになれば、かういふ企はおのづから生じなければならぬからである。例へば垂仁紀二十五年(丙辰)の條に大神伊勢鎭座の記事があるが、其の分註として引用してある一書には、それを丁巳の年としてあつて一年の違ひがある上に、話そのものにも少異がある。これは或は書紀編纂の前に行はれたさういふ試みの一つが、偶然この分註に於いて遺存してゐるのではなからうか。(もつともこれは、後にいふやうな書紀編纂の長い經過の間の一稿本などであつて、それが最後の修訂の場合に本文に採られなかつたやうなものかも知れないから、確實にはいはれないが、既に古事記の干支のやうなものがある以上、かう考へることも無理ではない。)たゞ書紀が紀年を一定し、すべてを年代記的に排列したために、古く試みられたものは殆ど世の中から影を消してしまつて、(51)今日には傳はらないのであるが、書紀にもさういふものを其のまゝに、或はいくらか變改して、採用した場合もあらう。紀年のことには限らず、その他のことがらについてもまた同樣である。神代史に於いては斯ういふ傾向が著しく見え、神々の名などにも、一度び神代の物語ができ上がつた後に添加せられた、と見るべきものがあり、それがまた更に變化するといふやうな場合もあつて、記紀の直接の材料となつたものには、原形を距ることの頗る遠い、また互に矛盾してゐる、分子が含まれ、幾度も手の入つた形跡が明かに知られる。古事記の神代の卷の最初に現はれる三神などは、それが他の多くの神々よりは高い程度の知識の所産であることが推測せられる點、また神代史の全體の結構から遊離してゐる點から見て、最初から神代史に現はれてゐた神でないことがわかるが、それが獨神隱身とせられてゐるにかゝはらず、子があるやうになつてゐるのは、またその後の變化に違ひないから、かういふ變改の徑路を示す好例證である。
 が、改作はかういふ事情からのみではなく、家々に於いてその家格を尊くしようとか、祖先を立派にしようとかいふ動機から出た場合も、少なくなかつたらう。允恭天皇の時に姓氏の混亂を正されたといふ話があるのも、かういふ事實の反映であつて、或は領地等の物質的利益のためから、或は一種の名譽心から、種々の造作が家々の系圖に加へられたのであらう。特に身分の卑い、系圖のわからぬものが、身を立て地位を得たやうな場合に、かういふことが行はれたらうといふことは、後世の?態からも類推せられる。家系が重んぜられる世に於いては、系圖を製作し、紙上の祖先を設けることは、昔も後世と變らなかつたに違ひないからである。さうしてこれは、諸家の祖先が神代の諸神及び歴代の皇族とせられてゐる以上、諸家の系圖の造作は、おのづから皇室の系圖もしくはその事蹟または神代の物(52)語に於いて、種々の混亂を生ずることになるのである。あらゆる諸家を皇室、もしくは思想の上に於いて皇室と同樣に見られてゐる神代史の神々、の後裔とすることは、家がらによつて社會が秩序づけられるやうになつて來るに從つて、自然に生じた趨向でもあり、またそれが皇室を中心として國家を統一するに便利な方法でもあつたけれども、それだけまた弊害も生じて、諸家はそれ/”\おのが家を、なるべく皇室もしくは神々に近づけようとするやうになり、從つてその家に都合のよいやうな祖先をこしらへて、それを皇室や神々に結びつけようとしたらしいのである。允恭紀に見える詔勅に「群卿百寮及諸國造等、皆各曲言、或帝皇之裔、或異之天降、……」とあるのは、第四篇で考へるやうに、書紀の編者の筆になつたものではあるが、諸家のかういふ態度はずつと前からのことであつたらう。
 第三は、朝廷の權威を以て正説を定めるといふことであるが、實をいふと、よしそれができ上つたにしても、かういふ方法で果して眞の正説が定められたかどうか、即ち歴史的事實を明かにするやうに舊記の批判ができたものかどうかは、今日から保證の限りではない。後になつて完成したものではあるが、日本書紀に於いて所謂壬申の亂が如何に取扱はれ、天武天皇即位の事情が如何に敍せられてゐるかを知るものは、ずつと上代のことに就いても朝廷がそれを撰修する場合に於いては、何等かの意圖がそれに加へられないといふことを確信しかねよう。またかの書紀の紀年が故意に造作せられたものであるといふことは、今さら説くまでもない學界の定説であつて、それも特殊の目的があつてのことと見なければならぬが、既にさういふ明白な事實がある以上、それと同じ考が書紀の撰修より前の撰修者に於いて、また紀年のほかの事がらについて、決して起らなかつたとは、斷言しかねよう。
 第四は、阿禮が帝紀舊辭を誦習したといふことであるが、此の誦習とはどういふ意義のことであらうか。上に述べ(53)た如く、帝紀舊辭は書籍となつてゐるものであるから、阿禮は其の書籍を取扱つたのである。しかし、阿禮はそれを批判し討覈して新なる帝紀舊辭を撰録したのではない。それは、本文に「未行其事」とあるので明かである。この行はれなかつたといふ「其事」は、從來世に存在する帝紀舊辭を討覈して其の僞を削り實を定め正しいものを新しく撰録しようといふ事業を指してゐるのであつて、上表の「然運移世異」云々の句は直に「欲流後葉」に接續するものである。「其事」が阿禮の誦習をいふのでないことは、此の誦習は立派にできてゐるので明かである。安萬侶は後に、彼の誦んだところから此の古事記を撰録したのであるから、これには疑が無い。文章の上からいふと「其事」は「撰録帝紀、討覈舊辭、削疑定實、欲流後葉、」か、さもなくば「勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭、」か、二つのうちのどちらかを承けてそれを指すものでなければならぬ。然るに後の方のでないことは、それが既に行はれたことであり、從つて「未行」と書かれるはずがないことから明白である。だから、それはどうしても前の方のでなくてはならぬのである。さうして、阿禮のしごとはできたが目的の事業は行はれなかつた、といふのであるから、阿禮の誦習は正しい記録を新しく撰録するための準備であつた、と見なければならぬ。また實際、削儀定實の大事業は、阿禮一人の手でできることではなかつたらう。だから、若し臆見を加へるならば、かの川島皇子等に命ぜられたのが此の事業であつて、阿禮の誦習はその準備の一つであつたのではなからうか。川島皇子等がどれだけのことをしたのか、わからないが、それはまとまらずに中止せられたらしいので、「未行其事」は即ちそれを指したものかと考へられる。
 さて既に文字に記された帝紀舊辭があり、さうしてそれから新しいものを撰録するのでないとすれば、阿禮のすべき事は、此の古書そのものをどうかすることでなければならぬが、それに「誦習」の語が用ゐられてゐるのを見ると、(54)その誦めないところを誦み明らめる、といふより外に考へやうが無い。實際、帝紀舊辭は、概していふと漢字で國語を寫したものであつたらうし、少くとも固有名詞などはみなさうであつたに違ひなく、さうしてそれは、全く言語の性質が違ふシナ語の表象である漢字を以て國語を寫す、といふ無理なことをしてゐる上に、その寫し方は一定してゐず、時代と記者とによつて、種々になつてゐたであらうから、時を經た後になつて他のものが見ると、解し難く讀み難いところが多かつたに違ひない。國語で書かれてゐる此の古事記を見てもそのことは類推せられるので、われ/\は古人が讀み方を傳へ若しくは考へて置いてくれたからこそ、一應はそれを讀み得られるが、然らざれば非常な努力で研究しなければわからないものである。さうして阿禮の前に提出せられた帝紀舊辭が同じ樣にわかりにくかつたことは、上に引いた上奏の末尾の方を見ても想像せられるので、「辭理?見」といふべきことが甚だ多かつたらう。安萬侶が寫し難いとしたことは、即ちまた古書の解し難い所以であつて、帝紀舊辭は、ほゞ此の古事記と大差の無いやうな書きざまのものであつたと考へられる。
 このことは、次にいふやうに、古事記の文章とその撰録の事情とからも推測せられるが、全體からいふとほゞ漢文を以てつゞられてゐる書紀に於いて、その間に往々國語で書かれたところのあることからもさう考へられる。一二の例を擧げると、「青山變枯」、「神退去矣」、「?泉之竈」、「吹棄氣噴之狹霧」、「毛麁毛柔」、「稜威之道別道別」、「浮渚在平處」(以上神代紀)、または「太立宮柱」(神武紀)、「常夜行之」(神功紀)、といふやうな漢文にすることのできない特殊の成語は勿論、「引而奉出」(神代紀)、「踏浪秀而往乎常世郷矣」(神武紀)、といふやうな純粹の漢文に改めてもさして差支の無ささうなことまで、かういふ風に書かれてゐる。これは、國語で書いてあつたもとの資料(即ち(55)舊辭)を漢譯するに當り、或は到底譯することのできない特殊の成語を原のまゝに殘し、或は適切な譯語が得られないために生硬な譯し方をしたからである、と解しなければなるまい。國語の原本が無くして初から漢文で書いたのならば、かういふ文章のあるはずが無いのである。また「匍匐頭邊、匍匐脚邊、哭泣流涕焉、」とか「吾夫君尊、何來之晩也、」とか(以上神代紀)いふやうに、一部分は漢文になつてゐながら、全體としては國語を寫したものと見なされるところのあるのも、同じ理由から來てゐよう。なほ例へば「顧眄之間」に「此云美屡摩沙可利爾」といひ「逐之」に「此云波羅賦」と記し(以上神代紀)、「撫劍」に「此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔?」と書いてある(神武紀)やうに、漢語についてそれに當る國語を註記してあることが多いが、これも國語の原文があつてそれを譯出したことを示すものである。「玉籤」を「此云多摩倶之」といひ、「端出之繩」について「此云斯梨倶梅儺波」とある(以上神代紀)やうに、我が國特有の事物に強ひて漢字をあてる場合には、初から漢文に書いても、その讀み方を註記する必要があらうけれども、前に擧げたやうな、さういふ特殊の意義をもたない漢語には、國語から漢譯しない以上、こんな註解の書かれるはずがない。書紀は、一般には、漢文でのみ書かれてゐるやうに思はれてゐるらしいが、實は必しもさうではない。編者の意圖ではすべてを漢文にしたかつたであらうが、さうはできなかつたところがあるのである。また世間では、始めて漢字が用ゐられるやうになつた時には、書かれた文章は漢文であつたと思はれてもゐるらしいが、これは全くの誤であつて、漢字を用ゐたのは國語を寫すためであり、文章はすべて國語で書かれたのである(この書の第五篇參照)。(ついでにいふが、上にいつたやうな漢譯しにくい國語が書紀に見えてゐたとしても、それを口で語り傳へられたものと推測する必要は少しも無く、文字に寫す文章としてつゞられた國語と見るに何の差支も無い。祝(56)詞が國語のまゝで文字に寫されてゐることを考へるがよい。世間にはまた往々、古事記の、例へばオホクニヌシの命の退隱の段の「是我所燧火者」以下の數行のやうな、一種の修辭的技巧の加へられてゐる文を、口で語り傳へた詞章として考へようとする人もあるやうであるが、これもまたこゝに述べた國語と同樣、初から文字に寫す文章として作られたものと見るに、何の不都合も無いのである。文字に書いても、特にそれを國語のまゝで寫す場合にはなほさら、口に出して誦すべきものであるから、特殊の光景を描き情趣を敍するに當つて、かういふ修飾を施すことは當然である。祝詞などに同じやうな技巧の用ゐられてゐることは、いふまでもないが、これもまた口誦によつて傳へられたとする理由にはならない。)ところで、帝紀舊辭の書きかたがかういふものであつたとすれば、それはわかり難く誦み難いものであつたことは、おのづから推測せられよう。なほ帝紀舊辭にも、場合によつては漢文と見なすべき書き方のしてある部分があつたかも知れず、また系譜などの大部分は文章といふほどのものにはなつてゐなかつたらうが、それにしても、固有名詞を誦み明らめるだけでも、かなり困難なしごとであつたらう。前に引いた「帝王本紀、多有古字、」といふ「古芋」は、此の上表に書いてある日下とか帶とかいふ字のやうに、古人がさう書いて置いたけれども、何故であるかがわからなくなつてゐたものをいふらしく、さういふ文字が多くては、人名や地名のよめないものが多くあつたらう。
 帝紀舊辭はかういふものであつたから、それを誦み明らめるには「爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心、」といはれた如く、頭がよくて博聞強記で、種々の比較研究などもできる人を要したのであらう。阿禮の事業は、恰も仙覺が萬葉をよみ宣長が古事記を訓んだと、同じ性質のことであつたに違ひない。誦習とは即ちこのことである。「誦」とはある(57)が、それは文字に寫してあることを口に出して誦むからのことであり、さうして誦むには文字の意義がわからなくてはならぬから、誦むことは、畢竟、古書を見て其のよみ方を解することになる。「度目誦口」(書物を見ればそれをよむ)とある誦口にも意義を解することが含まれてゐると見なければならぬ。これは「拂耳勒心」に對する句であつて、一は知識に富んで理解力のあることを見る方につけていひ、一は記憶に長じてゐることを聞く方につけていひ「聰明」の二字を具體的に説明したのである。誦習といふ語の出典を考へると、史記の儒林傳に「行常帶經、止息則誦習之、」とあるのをそれと見ることができようが、これは經を誦習するといふのである。後漢書の儒林傳にも書籍についてこの語が用ゐてある。誦習が文字に書かれたものを誦み習ひ、從つてその意義を解する義であることは、明かである。なほこのことについては、前にも引いた欽明紀の分註に「後人習讀、以意刊改、」とある「習讀」の二字をも參考するがよい。誦も讀も同じであるから、誦習も習讀も同意義であらう。さうして此の「習讀」は文字を見てそれを讀むことを指すのみならず、「以意刊改」することが伴ひ得るものとして用ゐられてゐる。即ち讀者の解釋といふ意義が加へられてゐる。習讀云々の一句は上にいつた前漢書敍例のうちの語であるが、その意義はこゝにいふとほりである。續紀文武天皇大寶二年の條に「讀習新令」とある「讀習」も法文の意義を解釋することである。また書紀の敏達紀元年の條に「讀解」および「讀釋」といふ熟語のあるのを見ても、讀むことと解釋することとが一にして二ならざるを知ることができよう。誦の字を暗誦と解すべき理由は何處にも無い。が、かういふやうなことを考へるまでもなく、續紀天平寶宇元年の詔勅に「宜令天下、家藏孝經一本、精勤誦習、」とある一例によつても、誦習の語の意義は明白である。さて安萬侶は「辭理?見、以註明、」といひ、實際、本文に於いて訓み方を註記してゐるが、こゝにも阿禮の功績(58)が現はれてゐるのである。(ついでにいふ。こゝの文を宣長は「以註明意、況易解更非註、」と句讀をつけてゐるが、これは誤である。こゝは「辭理?見」と「意況易解」と、また「以註明」と「更非註」とが、それ/”\對になつてゐるので、宣長のやうに訓んでは、それが壞れてしまふのみならず、「況」の字の意義が適切でない。「況」は譬況といふ熟字にも用ゐられてゐるから、「意況」も意義といふほどのことであらう。)なほ阿禮がかうして誦み明らめた帝紀と舊辭とは、諸家に傳へられてゐる種々の異本全體のことか、又は特殊の由來のある一本のみのことか、といふ問題が起るが、それはおのづから次のことに關係して來る。
 第五には、安萬侶のしごとであるが、それは、阿禮が訓み方を研究し解説して置いた古實即ち帝紀舊辭、によつて、此の一篇の古事記を撰録したことである。「撰録」といふ語が、たゞ耳に聞いたことを筆記するとか、目に見た文を謄寫するとか、いふ意義でないことは、明かである。現に此の上表の前の方にも「撰録帝紀、討覈舊辭、」とあつて、此の「撰録」がそんな單純なしごとでないことはいふまでもない。こゝの「撰録」は「討覈」とかたみがはりに用ゐてあるので、全體の意義は帝紀舊辭を討覈撰録するといふのであるから、其の撰録には討覈が伴つてゐる。安萬侶の場合のにそれだけの意義があるかどうかは次にいふことにするが、單純な筆記などでないことは、これでも知られる。だから、古事記の撰録は、阿禮の誦んだものが或る一本づつの帝皇日繼及び先代舊辭であるとすれば、帝紀と舊辭と別々になつてゐたのを一篇の古事記にまとめ、また其の讀み難く解し難いところを書き改めたり註を施したりするやうなことをいふのであらうし、もしまた阿禮が諸家に傳はつてゐる帝紀と舊辭との多くの異本を誦み明らめて置いたのならば、それらの種々の異本を調べ、それらに見えてゐる諸説を取捨撰擇して、それによつて新に一つの成(59)書を作ることをいふのであらうし、此の二つのうちの何れかでなくてはならぬ。が、此の撰録に費された月日が甚だ短くして、僅かに四月あまりであることから考へると、それは、第一の方であつたと推測せられる。これは、種々の異本を資料としてそれに辨別取捨を加へ、それから一つの成書を述作するには多くの時日を要する、といふだけのことではなく、帝紀舊辭の訛傳を正すといふ大きな目的を有つてゐる事業に關聯したこととして、且つかりそめならぬ勅命によつて、さういふことをするのは、私に一家の言をたてるのとは違ひ、その影響の及ぶところが大きいから、そのためにはすべてに於いて慎重の態度をとらなければならず、從つて、短日月の間にそれをしとげることはむつかしかつたらう、と思はれるからでもある。資料の多寡といふ點からばかりではなく、撰者の用意の上からもかう考へられる。勿論、さういふ述作だとすれば、述作そのことに多くの時日を要することも、考へねばならぬ。あの時代にあのやうな文章であれだけのことを書きつゞるだけでも、大なるしごとである。多くの異本から材料をとつてまとまつたものを書き上げるには、自分の力で自分の文章にしなければならぬからである。
 のみならず、勅命を以て一私人たる安萬侶にこゝにいつたやうな意義での述作、即ち一種の修史ともいふべき事業、をさせるといふのも、解し難いことである。天武天皇十年には川島皇子等に、和銅七年には紀清人等に命ぜられ、後の場合には何時しか舍人親王を總裁とするやうになつたほどに、重大な、また大規模な史局の開設を要する、修史の事業ではなかつたか。その間に於いて安萬侶一人にさういふ述作をさせたところで、此の事業に如何なる效果があつたらうか。その上にさういふ意義での述作であるとすれば、古事記の終りの方が系譜ばかりになつてゐるが如きは、あまりに不體裁であり、あまりに不整頓ではなからうか。それからまた上表を見ても、その撰録の用意を述べてゐる(60)のが、全く文字の書きかたについてであり、その他には一言も及んでゐないが、これは彼のしごとが、主として阿禮の施した訓詁によつてそれを書きかへることであつたことを、示すものであらう。もしそれが多くの異本を資料とし、彼自身の識見によつて古事記を述作したのであるならば、文字の書きかたの用意についてこれほどの説明をしてゐる彼は、その述作の方針や態度に關して、一屠こまかにそのことをいつたはずではなからうか。なほ上表に「子細採※[手偏+鹿の比が从]」とあるのも、安萬侶のしごとが多くの異本の説を辨別取捨することではなかつたことを、示すものである。「採※[手偏+鹿の比が从]」は一つも殘さずひろひとるといふことであつて、辨別取捨の義はそれにはない。これらの點から見ても、安萬侶の撰録の意義は、上に擧げた二つのうちの第一の方のであつた、と見なければなるまい。
 要するに、安萬侶は、阿禮の誦習した一本づつの帝紀と舊辭とによつて、此の古事記を撰録したものである。さうしてその撰録のしかたは、これまで別々の書になつてゐた帝紀(系譜)と舊辭との何れをも、歴代についてその一々に分割し、さうして一代ごとにその分割した二つをつなぎ合はせる、といふことであつた。帝紀と舊辭との性質と古事記の形態とを對照してみれば、このことがおのづからわかる。古事記には歴代ごとに、そのはじめに皇子と、その母たる后妃と、その子孫としての諸家の家の名と、並にどの皇子が御位を嗣がれたかといふこととを、まとめて記してあるが、それは即ち系譜を内容とする帝紀から寫しとられた部分であり、次に種々の物語が記してあるが、それが即ち舊辭を寫しとつた部分である。(仁賢の卷以後には帝紀の部分のみがあつて、舊辭のが無い、といふことは上に述べて置いた。また景行の卷のヤマトタケルの命の、應神の卷のワカヌケフタマタの王などの、系譜がそれ/”\の卷末に別に記してあるのは、皇子のであるがために古事記編纂の際にかうせられたものと解せられよう。)神代の部分(61)とても、はじめの方の神々の名の列擧してあるところや、日の神からウガヤフキアヘズの命までの歴代の名は、帝紀の卷首にのせてあつたと推測せられるから、やはり同じことが行はれたのであらう。またその帝紀に於ける名の書きかたや舊辭の文章についていふと、それは概ねもとの帝紀舊辭のまゝにして置いて、そのわかりかねたところ、阿禮の研究によつて始めて明かになつたところを、わかるやうに書きかへ、或はそれに註解を加へることであつたらしい。彼の苦心が文字のかきなほし、即ち文字の用ゐ方の改訂、にあつたことは、上表に「是以、今或一句之中」云々といつてあるのでも、明かである。此の改訂はもし試に一例を設けていふならば、次に示すやうなことではなかつたらうか。書紀の神代紀に「顯見蒼生」とあつて、これを「字都志枳阿烏比等久佐」と訓むやうに註記してあるが、古事記のもとになつた舊辭でも、やはり此の神代紀の本文のやうな文字で書いてあつて甚だ解し難かつたのを、阿禮が(恰も書紀の註のやうな風に)其のよみ方を考へて置いたので、それによつて安萬侶が「宇都志伎青人草」とわかり易く書きかへた。原文のまゝでは「已因訓述者詞不逮心」であるが、書紀の証のやうな寫し方をしては「全以音連者事趣更長」であるから、「一句之中交用音訓」の方法によつて「宇都志伎青人草」と書いたのである。(此の文字について此のことがあつたといふのではない。たゞ安萬侶のしごとはほゞこんなところにあつたらうといふことを、試に例を設けて説いてみたのみである。)
 さて、これまで考へて來たことに理由があるとするならば、阿禮の誦習した帝紀と舊辭とは多分宮廷に傳はつてゐた一本であつたらうと思はれる。諸家には種々の異本があつたが宮廷にも一本があつたので、削僞定實の大事業を行ふ準備として、天武天皇は先づそれを阿禮に誦み明らめさせられたのであらう。但しこれについては一つ考ふべきこ(62)とがある。これらの異本は書紀にその斷片が殘つてゐるので、神代の卷に「一書」として種々の異説が注記してあり、數は少いけれども、神武紀以後にも時々「一書」の説の引いてあるのが、即ちそれであるが、神代紀の注の多くの「一書」の中には、ほゞ古事記と同じものがあるので、それと古事記との關係が問題になるのである。此の二つはよく似てゐるが、どの場合でもそれに幾らかづつの差異はあつて、全く同じではない。たゞその類似がかなり親近であるところから、阿禮が誦んだ舊辭、即ち古事記のもとになつたもの、が即ち此の「一書」であつて、安萬侶が他の異本を參酌してそれに或る變改を加へたのが古事記となつて現はれたものではなからうか、といふ疑が生ずる。例へば、古事記に似た「一書」のヨミの物語には古事記に見える桃の話や八つイカツチの話などは無いのに、別の「一書」にそれが見えてゐるから、安萬侶は此の二つの異本の或る部分をつなぎ合せて古事記のやぅな物語を作り上げたのだと、推測せられるかも知れない。もしさうだとすれば、安萬侶のしごとに關する上記の考説は妥當でないことになる。しかし此の古事記に似た「一書」と古事記とを比べてみると、その内容に於いて互に出入があつて、「一書」の方が複雜であり發展した形を具へてゐる場合、例へばオホクニヌシの命とスクナヒコナの命との物語、所謂皇孫降臨の段のサルダヒコの話、などの類がある。が、またその反對に、古事記の方に後の變改が加へられてゐるらしいところもあるので、タカマノハラで日の神とスサノヲの命との子を生まれる段などがそれである。だからその間の全體の關係を、この零細な「一書」の記事のみによつて推測することはむつかしく、單に此の「一書」との比較によつて、古事記が數種の異本を取捨撰擇したと考へることはできない。さうして書紀の注の多くの「一書」には、古事記の記載に何等の痕跡をとゞめてゐない、それと直接の連絡の無い説があるから、さういふ異本どもが古事記の採録の場合に參考(63)せられたとは、見なしがたからう。むしろ古事記と類似してゐる「一書」のあることが、安萬侶が幾つもの異本の説を取捨して「古事記」を撰録したのではないことを、證するものといはれよう。その上に前に述べた如き理由があるから、古事記はやはり一つの帝紀と一つの舊辭とをまとめたものであつて、それに類似した記載を有する書紀の注の「一書」とそれとの關係は、古事記撰録の際に生じたものではなく、もとの舊辭に於いて存在してゐたもの、換言すれば、此の二書は親近の關係を有つてゐる二つの異本である、とするのが妥當であらう。或は此の關係を反對に見て、書紀の編者が、古事記のもとになつた舊辭の一本に變改を加へ、それを「一書」として注記したのではなからうか、といふ考があるかもしれぬが、「一書」として擧げる場合に故らに原本を變改する必要は無いはずであるから、此の考は成立つまい。漢文に翻譯するために生ずる語調の變化や幾分かシナ思想の着色を帶びて來ることやは別であるが、話そのものに故意の變改を施すべき理由は無ささうである。なほ後章にいふやうに、古事記の帝紀の部分と舊辭の部分との間に不調和な點が?見えるが、これも或る帝紀と或る舊辭とがそのまゝに結びつけられたからであつて、その間に取捨撰擇が加へられなかつたことを示すものではあるまいか。かう考へて來ると、安萬侶のしごとが上記の如きものであつたことは、一層明かになつたであらう。さすれば、古事記の撰録は、本來元明天皇の「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、」といふ御志、即ち區々であり眞僞雜揉してゐる在來の諸説を討覈して一つの定説を作らう、といふ御考から出たことではあるが、安萬侶のしごとでそれが成就したのではなく、これもやはり一つの準備事業に過ぎなかつたことになる。なほ安萬侶が直接に古書を取扱つたことは、前に掲げた上表の「上古之時」から「隨本不改」までの數行によつて毫末の僞を容れない。「已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長、」は明かに古書のことであり、(64)日下、帶、の文字についていふ「本」も古書のことである。
 たゞこゝで一つ解し難いのは、上表に「稗田阿禮所誦之勅語舊辭」とある「勅語舊辭」の一句である。文字のまゝによめば勅語と舊辭との意であらうが、「勅語」は「舊辭」に對すべきことではない。さうして「舊辭」は上に擧げた如く常に「帝紀」「先紀」「帝皇日繼」に對して用ゐられてゐるから、此の「勅語」もやはり「帝紀」などの誤寫ではなからうか。一般に帝紀と舊辭とが常に相對して用ゐられる慣例であるかどうかは別問題として、此の上表に於いて二つが常に對稱せられてゐることは見のがすべからざる事實であり、其の上に、天武紀の川島皇子の修史事業を敍したところにさへ同じやうな書き方がしてあるのを見ると、上代の記録に此の二つがあって、それが相伴つて當時の修史家の頭に浮かんで來たものであることが明かに推測せられ、特に阿禮の誦んだのは「帝皇日繼及先代舊辭」であつて「勅語」ではなく、行文の上から見ても、「阿禮所誦之――舊辭」は「令誦習帝皇日繼及先代舊辭」を承けて、それに應ずるものでなくてはならぬからである。なほ古事記は所謂「帝皇日繼」即ち皇室の系譜に特に意を用ゐてあつて、末の方へゆくとたゞ系譜のみになつてゐるほどであるから、安萬侶の取扱つた阿禮の解説には「帝皇日繼」即ち「帝紀」が重きをなしてゐたはずであり、從つて茲にも「舊辭」と共にその名が現はれてゐなければなるまいと思ふ。上文にも「勅語阿禮」といふ一句があつて此の「勅語」といふ熟字も、一般の慣例から見ると少しく異樣であるが、それはともかくもとして、「勅語舊辭」の語はどうも意義をなさぬやうである。もし強ひて解釋すれば、舊辭の種々の異本のうちで「阿禮に誦めと勅命せられた舊辭」といふ意義とでも見るのであるが、甚だ穩かでない。安萬侶が撰録し阿禮の誦習して置いたものは、舊辭のみではなかつたからである。しかし此の勅語といふ文字の問題は別として、古(65)事記に撰録せられたものが阿禮の誦んだ帝紀と舊辭との二種であつたことは、其の内容の上から明かであるのみならず、上表全體の書き方から見ても疑は無い。もし舊辭だけで帝紀が採られなかつたのならば、帝紀と舊辭とを幾度もくりかへして並べて述べて來たのは無意味のことだからである。
 以上の上表の解釋で古事記の由來とその性質とはおのづから了解せられたことと思ふ。たゞこゝで一言して置きたいのは、此の考は古事記の解釋の權威として世に重んぜられてゐる本居宣長の説とは根本的に違つてゐる、といふことである。宣長は、舊來の書籍はみな漢文であつたから、阿禮はそれを國語に誦みなほし、文字を離れて口に誦みうかべたのであるが、もう一歩進んで考へると、それは天武天皇御みづから古記を討覈して正説を定められた上、國語を以てそれを阿禮に口授して誦み習はせ、暗誦させられたのであらう、さうして安萬侶はそれを阿禮の口から聞いて其のまゝに筆録したのだ、と解釋してゐる。詳細は古事記傳を見ればわかるから、こゝには述べないでもよからう。宣長は、歌や祝詞は國語を寫してあるが、其の他のものはみな漢文であつた、といふが、既に歌や祝詞を國語で書かうとしたことを承認するならば、何故に其の他のことについてそれを拒否するのか、また彼は舊辭の「辭」の字に目をつけて、これは「ことば」に重きを置いてあることを示すものである、といつてゐるやうであるが、それならば帝紀は「ことば」によらなくてもよかつたといふのか。また「辭」の字をかう解釋すると、舊來の書物がみな漢文であつたといふ彼の説とは矛盾しはすまいか。いふまでもなく、舊辭は書物として昔から傳はつてゐるものの稱呼である。それから彼は「未行其事」の「其事」を阿禮が暗誦してゐることばを文字に寫すだけのことのやうに説いてゐ、削僞定實の業は天武天皇御自身が既に行はれて、その新定のことばを阿禮が暗誦してゐたのだ、と考へてゐるが、「其事」(66)が文章の上から見て「撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、」といふ事業を指すものでなければならぬことは前に述べたとほりであるから、宣長の解釋するやうに、天武天皇が既に此の削僞定實を行はれたのならば、「未行其事」とはいはれないはずではないか。もつともそれがまだ文字に寫されてゐないとすれば、「流後葉」ための方法は十分に取られてゐないともいはれようが、「其事」の主要な意義がそこにあるのでないことは文章の上に明かである。またもし「其事」がたゞ阿禮の暗誦してゐることばを筆記するだけのことを指すのならば、こんな簡單なしごとが即ち削僞定實の大事業に當るわけになるので、そこに大なる矛盾が生ずる。のみならず、宣長のやうに見るならば、元明天皇のおぼしめしとして「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、」と書いてあるのは、どういふことか。天武天皇が既に正論を定められたならば、元明天皇のおぼしめしとしてこんなことが書かれるはずは、なからうではないか。或は此の二句を宣長の考によつて強ひて解釋すれば、正説は既に定まつてゐるが、世間にはまだ出てゐないため、謬つた帝紀と舊辭との信ぜられる虞があるから、その正説を一般に知らせよう、といふ意義だといはれるかも知れぬが、それならば、その正説を記した古事記のでき上つた後、僅か二年で、而も同じ元明天皇の和銅七年に、新に國史撰修の事業が企てられたのは何故であるか、全く領解ができない。もつと溯つていふと、天武天皇が御自身で正説を定められるほどならば、川島皇子等に命じて修史事業を起させられたといふことも、同じく不可解のことである。また上表の全體の書き方からいつても、天武天皇御自身にかゝることをせられて、それが古事記となつて現はれたものならば、それは古事記の由來を敍してゐる此の上表に明記せられないはずがないではないか。阿禮のしごとは單にそれを暗誦したに過ぎない從屬的のものであるのに、其の阿禮のことを特筆大書しながら、作者であられる天皇のなされたこと、即ち主たるしごと、(67)が明記せられず(假に宣長の意見に從へば)勅語の二字によつて纔かに暗示せられてゐるといふことは、如何にもつじつまの合はぬ話ではないか。勅といふ語は君主が臣下に對して或る意志を傳へる場合に用ゐられるので、帝王の製作がさう稱せられるのではないことをも、考へねばならぬ。なほまた、文字が既に盛に用ゐられ、純粹の國語を漢字で書いた文章が一般に行はれてゐる世の中に、何を苦しんで長い間阿禮に暗誦させて置く必要があるか。何時死ぬかも知れない人の、而もたつた一人の阿禮の、記憶に、畏くも天武天皇おんみづから削定せられた貴重この上もなき、また唯一無二の、帝紀舊辭を、何故に委託して置いたであらうか。暗誦してゐることばを文字に寫すぐらゐは容易なことであるのに、何故にそれを行はなかつたか。阿禮とても其のくらゐのことは、しさうなものではなかつたらうか。宣長の説ではこれらの點が甚だ曖昧である。彼は我が國の事は國語でいひ現はさねばならぬことを知り、漢文風の文飾の多い書紀にくらべて古事記を尊重したので、それは眞に彼の卓見であるが、あまりに古事記をえらいものに考へすぎたため、おのづからあのやうな解釋をするやうになつたのであらう。さうしてその根柢には、上代の文章はみな漢文であつたといふ誤つた見解がある。これまでの書物はみな漢文であつたとすれば、それに記されてゐることがらが國語で書かれてゐる古事記のやうな形をとつてあらはれるには、何人かがそれを口で語る、といふ中間の過程を要することになるからである。(古事記の記載を天武天皇の製作と考へることは、白石の思想に於いて既に存在してゐたが、彼はさしてそれを強く説いたのではない。白石遺文卷上參照。)
 さて安萬侶が古事記を撰んだのは、直接には元明天皇の勅命、間接には天武天皇の御遺志、を奉じたのではあるが、それでかの削僞定實の大事業が成就したのかといふと、さうではないらしい。諸家の異本にはまだ手が解れてゐなか(68)つたからである。だからこれは、恰も阿禮の誦習と同じく、準備事業の一つであつたらう。從つてそれによつて、川島皇子等を主として大規模の史局を開かれた主旨が達せられ、諸家をして悉くそれを奉じさせるほどの權威がつけられたとは考へがたい。事實、古事記は、よし勅旨を奉じてのこととはいへ、畢寛一私人の撰録であり、またそれは帝紀舊辭の最初の述作のまゝのものであるとも考へられず、その上に、家々に傳へてゐる古記が區々であつたほどに、それには家々の直接の利害關係が絡まつてゐるものでもあるから、古事記の一家言には服從しかねる家もあつたらう(ずつと後のことではあるが、齋部廣成が古語拾遺を著したことをも、參考するがよい)。だから時の政府は、天武天皇の御遺志を遂げ、元明天皇の聖旨を貫徹するために、廣く諸家の有する帝紀舊辭を討覈して權威のあるものを撰定する必要がある。その上に古事記は、たゞ帝皇日繼と先代舊辭とをつなぎ合はせたものであつて、その記載は神代及び上代のことがらに限られてゐ、舊辭の内容は天皇及び皇族の、特にその大半は私生活としての、物語であるし、首尾貫通した、また廣く天下の形勢や政治上の事件を記録した、國史といふべきものではない。(いふまでもないことであるが古事記の「古」は安萬侶の時代からの古であつて、今日からの古ではない。古事記に書いてあることは、帝紀としては安萬侶の時から約百年前の推古朝までのことであり、舊辭としては少くとも二百餘年前の顯宗朝のことまでである。)だから一方では、多くの古記、種々の異本を考覈して、そ、の中から辨別取捨をし、或は阿禮の誦んだものには存在しない材料をも取つて、古事記の闕けたところを補ひ、一方では、近い世の記録をも材料として、立派な體裁を具へた國史を作らう、といふ考は自然に生じなければならぬ。特に鋭意シナの文物を學び、シナの官府の事業を摸放しようとしてゐた當時の朝廷では、其の意味に於いても、シナ風の正史らしいものを作らうといふ企圖が、必(69)ず起らねばならぬ。或はずつと前から、さういふ希望はあつたであらう。川島皇子等を主とした史局の事業は、或はそこまでゆくつもりであつたかも知れぬ。しかし、それにはそれで種々の困難があつて、これまでは容易に實現せられなかつたらしい。さういふ事業に於いて先づ逢着すべき、皇室の系譜や神代上代の物語やの討覈撰定だけでも、上に述べたやうな事情から考へると、頗る困難なことであつて、川島皇子等の着手したことが何時となく中止の姿になつたやうに見えるのも、或はこの邊から起つたことかも知れぬ。またどれほどまでシナ風の正史を學ばうか、といふやうな撰修の方針についても、種々の議論があつたらうし、時によつて朝廷内の思潮に幾らかづつの變化もあつたであらうから、それらも一層この修史の事業を困難にしたのであらう。これは固より臆測に過ぎないが、かういふ事情は有り得べきことと考へられる。
 が、一方では必要上、他方では政府の體面上、何時までもすてて置くわけにはゆかぬ。古事記の獻上せられた和銅五年から二年の後に、國史撰修の業が始まつたのは此の故であらう。續紀の和銅七年二月の條に「詔從六位上紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂令撰國史、」とあるのが即ちそれである。古事記の撰録は其の準備の一つではあつたが、また或はそれを促した一事情ともなつたであらう。古事記の序文に元明天皇のおぼしめしとして記してある「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、」から出た修史事業は是に於いて實現の端緒が開かれたのであつて、それは恰も「撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、」を目的とする天武天皇の企圖が川島皇子等の事業となつて現はれたと、同じ關係である。此の紀清人等の事業はどうなつたか明かでないが、續紀を見ると、それから六年の後の元正天皇養老四年五月の條に「先是、一品舍人親王、奉勅修日本紀、至是功成、奏上紀三十卷、系圖一卷、」とあるから、それは、編輯員などにもいくらかの變化(70)はあり、撰修の方針にも何等かの動搖があつたかも知れぬが、大體は引き續いて行はれ、何時からか舍人親王を(恐くは名譽上の)總裁に仰ぐことになり、さうして養老四年に至つて、それができ上がつたらしい。だから此の撰修は直接には紀清人等のしごとを繼承したのではあるが、その稿本は川島皇子等の史局で作つたものがもとになつてゐたのでもあらう。さてかうしてでき上つたものが即ち今日われ/\の前にある日本書紀(日本紀)である(但し系圖は傳はつてゐない)。
 ところが、この日本書紀を見ると、同じ上代や神代の部に於いても、古事記とはいろ/\の點で趣がちがつてゐる。その主要なる點を擧げてみると、(1)古事記の文章は、漢字を用ゐてはあるが、漢文ではなく、國語をそのまゝに寫したものであるのに、書紀のは、その間に漢文になつてゐないところが少からずありはするが、大體は純粹の漢文になつてゐて、シナの成語が多く用ゐてあるのみならず、シナの典籍の辭句を取つて來て、それを殆どそのまゝにあてはめたところさへも多い。神代紀の卷頭に、淮南子などの文をそつくり持つて來てあることは、世によく知られてゐるが、かういふことは到るところにあるので、仁コ紀と武烈紀とに、堯舜と桀紂との事蹟として記されてゐるシナのいろいろの書物の辭句を寫しとつてそれらを並べてあるのも、或は雄略天皇の勅語といふものが、殆ど隋の高祖の遺詔そのまゝであるやうなのも、その例である。(2)古事記にもシナ思想の痕跡がかなり著しく見えてゐるが、書紀はすべてが甚しくシナ化せられ、到るところシナ思想を以て潤色せられてゐる。(3)古事記には明かに定めてない紀年及び月日干支が書紀には神武天皇以後、精密に記されてゐる。從つて神武天皇以後はすべてが年代記風、編年的記録風、になつてゐ、古事記に漠然記されてゐる系譜や物語がそれ/”\暦年に配置せられ編みこまれてゐる。(4)古事記は帝紀舊(71)辭の或る一本のみに從つたのであるが、書紀は諸本を討覈し取捨して新しく一つの成文を作り、參考として舊來の諸説をも注記してある(特に神代の物語に於いてさうである)。(5)上代についても、古事記には無い昔の物語や記事が書紀にはある。(6)同じ事がらでも記紀の間に種々の差異があり歴代天皇の年齡などもみな違つてゐる。(7)古事記には見えない政治上の事件などが記されてゐる。これらは一見すればわかることでもあり、また先人が既に説いてゐることでもあるから、今さらくだ/\しくいふにも及ぶまい。實例は本文を研究してゆくうちにおのづから明かになるであらう。
 さて、書紀がこれらの點に於いて古事記と異なるのは、古事記の準據となつた帝紀舊辭には存在しない記載をも含んでゐる種々の異本を採用した故もあるに違ひなく、456の如きは大部分そのためであらうと思ふ。けれどもまた舊辭とはちがつた別の資料から採つたものもあるので、5にはそれがあるし、書紀の編者の考案に出たことも少なくないので、123の多くは、此の部類に屬すべきものであり、567の中にもまたそれが少からずある。もつとも1についていふと、近い世の資料には初から漢文で書かれてゐたものもあつたらしく、さういふものについては、書紀の編者はたゞそれをそのまゝに、或はいくらかの潤色を加へて、採ればよいのであるが、然らざるものは、舊辭の内容をなしてゐた神代や上代の物語と共に、書紀の編者の手によつて漢文とせられたであらう。しかし漢文でなくとも支那思想を取入れることはできるので、それは古事記を見てもわかることであるから、2についても、その思想には、資料となつた舊辭に於いて既に存在してゐた場合があるかも知れぬ。また紀年についても、書紀より前に、さういふ試みの行はれたらしい形跡のあることは、前に述べたとほりであるが、書紀の紀年は、多分、書紀の編者の手に成つ(72)たものであらう。(こゝに「書紀の編者」といつたのは、必しも舍人親王を總裁としてからの史局といふ狹い意義ではなく、それに連續してゐる前からの政府の修史當局者を含めていふのである。)
 此のうちで456は、古傳の種々の變形を知る上に於いて極めて重要のことであつて、それらの異説を比較研究することによつて、われ/\は古傳の發達の徑路を推考し、從つて、上代の朝廷に於ける知識人の思想の變遷を跡づけることができる。よく比較してみると、古事記の説よりも却つて原形に近いと思はれるものが書紀のうちに認められることもある。だから古事記が漢文でないからとて、すべてが書紀の説よりも古いとか正しいとか、又は毫もシナ思想を交へない固有の説話であるとか、速斷することはできない。のみならず、かういふ異説を多く知ることによつて、その間から事實の眞相を發見する鍵鑰を?み出せないにも限らない。古事記だけではそれができないから、これは書紀のわれ/\に與へる大なる賜である。しかしこれは、從來一般に行はれてゐる如く成書となつた古事記と書紀とを單純に比較するといふのではなく、それに含まれてゐる一々の物語について、二書によつて傳へられてゐる種々の異説、いひかへれば、帝紀と舊辭との種々の異本として當時に存在してゐたものの所説、を對照研究することである。以上は神代や上代の物語についての話であるが、それより後のことについては、書紀が無くては何もわからないことは、勿論である。それから123は、それによつて眞實が蔽はれてゐるから、明らさまに上代の思想を傳へるものとしては、書紀は古事記より劣つてゐる。しかしシナ思想の着色などは、今日の知識を以て觀察すれば、すぐに剥ぎ去ることができるものであり、それを剥ぎ去れば、上代の思想は瑩然として光を放つ。また紀年の造作なども今人を欺くには足らないものである。だから知識の發達しない時代に於いては、書紀のかういふ點が人を誤らせたことはある(73)が、今日に於ては、もはやさういふ虞は無く、却つてかういふ着色をしたり造作をしたりしたことが、當時の思想の一つの現はれとして、われ/\に思想史上の好材料を供給してくれるのである。
 更に一言して置く。古事記と書紀とを同列に置いて對照比較することは、近代になつてからの普通の習慣で、記紀といふ連稱法もそこから生じたのであり、この書でもまた便宜上それを襲用したが、嚴密にいふと、これは妥當の態度ではない。上に述べたところからいふと、古事記は資料の一つ(即ち帝紀と舊辭との或る一本づつをそのまゝにとつてつなぎ合はせたもの)であり、書紀はそれと同一の價値のある他の資料(即ち帝紀と舊辭との種々の異本)をも併せ取り、特殊の思想と意圖とを以てそれを撰擇取捨し、或はそれに變改潤色を加へ、更に帝紀と舊辭との外の資料から採つたもの、編者自身の製作したものを加へ、さうしてそれらを按排構成したものであるから、全體としてみると、此の二書は本來異なつた目的の下に編纂せられた、性質のちがつたものである。たゞ書紀の、古事記と同じ時代の、また同じ事がらを記してある、部分についていふと、其の資料となつたものは、如何なる違ひがその間にあるにしても、畢竟一つの帝紀と舊辭とから出た種々の異本の説に過ぎないのであるから、其の内容が同性質のものであり、從つて此の點に於いての對照比較が可能であり必要であることは、勿論である。いひかへると、書物の性質とか書き方とか組み立てとかを考へる場合の外は、成書となつてゐる古事記と書紀とを全體として對照するよりも、古事記の一々の記載と、それと同性質を有する書紀とそれに注記してある「一書」との種々の記載とを、比較する方に意味があるのである。書紀の本文には、文章が漢譯せられてゐる上に前に述べたやうな造作が加へられてゐるため、資料となつた帝紀と舊辭との姿がもとの形に於いては現はれてゐないが、それでも十分に古事記と比較對照することを得る(74)ものである。特にその注に「一書」の説として、帝紀と舊辭との諸種の異本の記載を、文章だけは或る程度に漢文風のものとしたところがありながら、其のまゝ採録してある部分は、古事記の内容と同性質同價値を有するものである。たゞ古事記の特殊の價値は、帝紀と舊辭とのそれ/”\の一本が比較的純な形で、即ち阿禮の誦んだ原本の面影が(一つの古事記にまとめられたといふことの外には)ひどく改められずに、現はれてゐるところに存する。天武天皇の企圖も元明天皇のおぼしめしも、かういふ古事記の編纂を終局の目的とせられたのではなくして、川島皇子や紀清人等に命ぜられた修史の大事業にそれがあるのであり、さうしてそれが最後に書紀の形によつて大成せられたのではあるが、その事業の準備の一つとして行はれた阿禮の誦習と安萬侶の撰録とによつてできた古事記が、全き形に於いて今日に遺つてゐるのは、此の點から見て大なる幸福である。
 しかしこゝに一つの問題がある。それは古事記が書紀の編纂に於いてどれだけ利用せられたか。或はむしろ利用せられたかどうか、といふことである。書紀には、局部的に古事記の記載とほゞ同じところがあるが、それが古事記によつて書かれたものかどうかは、帝紀舊辭の異本のすべてが傳はつてゐない以上、わからぬといはねばならぬ。例へば神代紀のスサノヲの命がタカマノハラに上つていつた時の話、そのあとでウケヒして子を生んだ話、などは古事記の話とほゞ同じであるが、それは或は古事記とは關係の無い異本の舊辭によつたものであるかもしれず、或は古事記ではなくして古事記のもとになつた舊辭の説をとつたものかもしれぬ。また注記してある多くの「一書」のうちに古事記らしいものの見えないことも、この間題について考へられねばならぬ。これらの點から見ると、書紀の編述に於いて古事記がどう取扱はれたかは、明かでなく、考へやうによつては、古事記によらねば書くことのできなかつたや(75)うなところが、書紀には認められない、ともいひ得られよう。けれどもまた古事記と同じところは古事記からとられたのかもしれないので、さうでないといふこともできぬ。結局いづれともきめられない、といふより外はないことになる。勅命によつて撰録せられた古事記についてこのことが明かにわからぬのは、解しがたいやうでもあるが、もともと修史事業の一つの準備にすぎなかつた古事記の編纂であるから、それに大なる權威の無かつたのも怪しむに足らぬ、とも考へられる。或はまた阿禮が誦習したところによつて安萬侶が記録したといふ帝紀舊辭の訓みかたが、書紀の編者に多く利用せられたのではないか、とも臆測せられるが、もしさうならば、そこに古事記編纂の效果があつたことにならう。(古事記には卷首に堂々たる上表が載せてあつて、それが序文のはたらきをしてゐるため、それによつて此の書に特別の意味があるやうに考へるものもあらうが、これは安萬侶が自分のしごとの由來を述べたのであるから、それ自身が大なる事業であるかの如く書きなされたに過ぎない。のみならずその文辭には、當時の文人の通有である、或は漢文風の書きかたに伴ひがちの、誇張した筆つきと、皇室に對する儀禮的のことばとが、著しく目につく。かういふ態度は續紀や萬葉などにも所々に見えてゐることである。またこの上表に、唐の長孫無忌の上表から寫しとられた部分のあることは、周知の事實であるが、かういふしかたは、書紀の到るところで行はれてゐる。)
 なほ、これについて附言すべきことは、天武天皇が國粹主義とでもいふべき思想を有つてゐられたといふ臆測と、古事記の國語で書いてあることとを結びつけて、そこに特殊の意味があるやうに考へ、漢文で書かれた書紀と國語の古事記とは、此の點で對立すべきものだ、とする説のあるらしいことである。古事記が、國語で書いてあるといふことは、古來傳へられてゐる帝紀と舊辭との文章をそのまゝ繼承したからだ、といふ上記の考説が誤つてゐないとすれ(76)ば、さうして阿禮の誦習、安萬侶の撰録は、天皇の企てられた修史事業そのことではなくして、その一準備にすぎなかつたとすれば、別に深い意味がそこにあるはずはない。(宣長の古事記を推重した理由は、それが國語で書かれてゐるためではあるが、もとは漢文の記録のみであつたのを新に國語で書いたといふ臆測によつて特に強められてゐる。しかし彼の此の臆測に何等の根據が無いことは、前に述べたとほりである。)それから天武天皇を國粹主義者とすることにも、どれだけの確かな理由があるか、甚だおぼつかない。律令制定の御志はある。祥瑞は喜ばれ、年號は作られる。シナ風の位階制度も益潤色せられる。佛教は信仰せられる。其の皇子には詩を作る方もある。天皇がシナ文化の學習に反對せられたらしい形跡はどこにも見られない。八色のカバネを定められたことも、カバネを家がらの階級を示すものとした點に於いて位階の制定と同じ精神がはたらいてゐるので、その淵源はシナ思想にある。天智天皇がシナ文化の採用に非常に熱心であられたといふことから、その御子と位を爭はれた天武天皇を此の點に於いての反對主義者と考へるに至つては、全く無意味の話である。御兄弟の御位爭ひが古今に例の多いことは、いふまでもないことではないか。だから、何の方面から見ても上記の臆説にさしたる理由があるとは思はれぬ。紀清人の修史も川島皇子のそれも、書紀となつて大成せられた事業のうちのそれ/”\の過程をなすものであらうから、それに用ゐられた文體も、多分、漢文であつたらうと推測せられるが、もしさうとすれば(かういふ論者のやうな考から見ると)同じ天武朝の企圖に矛盾した方針があることを語るものであり、從つて天武天皇の御考と、古事記の文章との間に特殊の關係があるやうに觀察する見解が、壞れるはずである(宣長も此の過を犯してゐる)。なほ一歩を進めていふならば、此の修史事業は必しも天皇の御考のみから出たことではなく、その時代の官府としてぜひとも計畫しなければならな(77)かつたことであるから、安萬侶の上表に專ら天皇のおぼしめしであるやうに書いてあるのは、かゝる場合の慣例である文筆の上の儀禮が含まれてゐるに違ひひない。それは此の上表の書き方そのものからも明かに推測せられる。政府の事業が一々悉く宸衷から出たものとせられないのは明白のことであるから、これもまた其の一例と見るべきものであらう。さすれば上記の臆説には益理由が無くなる。
 本來かういふやうな考へ方は宣長の思想から一すぢの絲を引いてゐるのであらうが、彼は當時世間を風靡してゐた儒者のシナ崇拜に對する反抗心から、一種の自國尊崇心を展開して來た上に、一切のことは天皇の御こゝろから出るべきものであると考へる特殊の思想を懷いてゐたので、古事記をもその眼で見たのであつた。だから彼は彼自身の信念を古人と古代とに反映させて、そこに一つの幻影を作り、それを錯り認めて歴史的事實だと思つたのである。彼が上代の書物はみな漢文であつたといふのも、天武天皇が特に國語を重んぜられたといふのも、また古事記は天皇の御ことばをそのまゝ傳へたものだといふのも、一つはかういふ信念から出た考である。天武朝のころの事實としては、宣長が考へてゐたほどに國語が閑却せられてゐたのではないと共に、また宣長自身の有つてゐたやうなシナ文化の學習に對する反抗心があつたわけではない。一般に書かれもし用ゐられもした文章が國語を漢字で寫したものであつたといふことは上に述べたとほりであるが、詔勅の如きもまたいはゆる宣命體の書きかたによつて書かれ、それが朗讀せられたことは、明かである(この書の第四篇、參照)。祝詞にもまたこのころに書かれたものがあらうし、歌が盛に作られ、人麻呂などが出るやうになつてゐたことは、いふまでもない。しかしそれと共に、何人が局に當つても、(その程度などに於いては人によつていくらかの考のちがひもあり、また時代によつてその風潮の特に強い時と然ら(78)ざる時とが生じたではあらうが、大體からいふと、)シナ文物の學習はぜひともしなければならなかつたのである。古事記の由來を考へるについても、よくその時勢の眞相を觀破して國學者の作り出した幻影に惑はされないことが、必要である。宣長が古事記を尊重したのは卓見であり、その古事記傳が大なる業績であり不朽の名著であることも勿論であるが、彼の古事記に對する上記の考は僻説であつて、さういふ考へ方では上表の解釋すらできないのである。宣長のやうに見なくとも古事記の價値は十分にあり、また宣長の此の考は誤つてゐても、それがために古事記傳の價値が損せられるわけでは決してない。
 更にいつて置くが、記紀を單純に比較して一般的の優劣論をしたり、またその所説の何れが正しいとか正しくないとかいつたりするのは、全く無意味なことである。?説いた如く古事記にも書紀にもそれ/”\特色があつて、それがそれ/”\異なつた意味に於いて我々に役だつのである。書紀は官撰のものであるから、それに從はねばならぬとか、古事記は國語で書いてあるから、又は天武天皇の特別のおぼしめしから出たものであるから、正説としなければならぬとか、いふコ川時代の學者たちの考は、今日の學術的眼孔から見れば何の價値も無いものである。
 さて、こゝに述べた古事記と書紀との比較は、實は本文の研究を進めるに從つておのづからわかつてゆくもの、もしくは本文の研究をすまして後に明かになるものであるが、上表を讀んだだけでも、これだけのことは知られる。さうして、此の大體の觀察と一々の本文の研究の結果とが符合するかどうかは、後に至つて知られるであらう。
 
(79)       第五章 記紀の記載の時代による差異
 
 前章は記紀の由來とその大體の性質とを述べたのであるが、愈本文に入るに先だつて、今少し二書に採録せられた所謂帝紀舊辭を觀察して置かうと思ふ。さうしてそれはおのづから、次の篇の研究の範圍と方法とを定めることにもなるのである。
 先づ舊辭として考ふべきものを見ると、古事記の方では、神武天皇以後に於いて、仲哀天皇(及び神功皇后)以前と應神天皇以後とが頗る其の趣を異にしてゐる。仲哀天皇より前の物語は、神武天皇東遷は勿論、ヤマトタケルの命のクマソや東方の經略綏撫、また神功皇后の新羅遠征、などが、國家の大事件として語られてゐることはいふまでもなく、その他の物語でも、それを語る態度は天皇や皇族の行動を敍するのであつて、興味の中心もまたそこにあるが、そのことがらは多かれ少かれ政治に關係がある。ところが、應神天皇以後のは、或は戀愛譚、或は皇族間の種々の人事關係、或は遊獵の物語などであつて、天皇や皇族の言動として語られてゐる點に於いては政治にかゝはるところはあるけれども、物語そのものに政治的意義は無い。政治的もしくは公的意義のある記載は、百濟照古王の貢獻(應神の卷)、池溝の開鑿(仁コの卷)、藏官の任命(履中の卷)、新羅王の貢獻、姓氏の檢定(允恭の卷)、呉人の來朝(雄略の卷)、など僅かに五六項に過ぎず、さうしてそれは、物語とはなつてゐない簡單な記事であつて、幾多の興味ある物語の傍に調子はづれに插入せられてゐるのであり、またそれは、租税制度の設定が崇神の卷に見え、池を掘り屯家(80)を定めたといふことが垂仁の卷や仲哀の卷にあるのと同じである。書紀の方でも、物語に於いてはほゞ同樣であるが、たゞ書紀には全體を通じて政治的公的意義を有する記載(それが歴史的事實であるかどうかは別問題であるが)をその間の所々に配意してあり、またすべてが年代記風記録風になつてゐるから、注意しないで見ると、此の區別がぼかされて目に映ずる。
 次には、これらの物語の語りぶりが、やはり同じころを境としてほゞ區別せられる。古事記の仲哀の卷までのは概して説話的色彩が強く、全體の調子が事實を語るといふ風ではなく、また事實らしからぬ不合理のことが多く加味せられてゐる。ヤタガラスやツチグモのことは勿論であるが、ミワの神またはホムチワケの命の物語などは、全體が説話的であり、ヤマトタケルの命や神功皇后の遠征の物語にも、それに類似したことが多い。けれども、應神の卷から後のには(遠い昔のこととして此の卷に記してあるアメノヒボコ、及びそれに關係したハルヤマノカスミヲトコとアキヤマノシタビヲトコとの話、また雄略の卷にあるヒトコトヌシの神の話などの外には)、さういふことが無い。それらの多くの話が歴史的事實であるかないかは別問題として、話そのものに不合理な分子や説話的色彩は少い。書紀に於いてもほゞ同樣である。なほ、叛逆者をツチグモといふやうな名で呼ぶことも、宗教的思想の發現たる「荒ぶる神」を和平するといふやうなことのあるのも、應神の卷から後には見えないことである。
 それから古事記に於いて帝紀として考ふべきものを見ると、第一に歴代の天皇の名の書き方が、やはり應神の卷ごろから變つてゐる。カミ−ヤマト−イハレヒコの命(神武天皇)、カミ−ヌナカハミミの命(緩靖天皇)、の如く、カミといふ尊稱を冠し、また此の後の方の例やシキツヒコ稱タマデミの命(安寧天皇)の如く、ミミまたはミといふ(神(81)代史の神々に例のある)尊稱のついてゐるもの、オホヤマト−ヒコ−スキトモの命(懿徳天皇)、オホヤマト−タラシヒコ−クニ−オシビトの命(孝安天皇)、の如く、オホヤマトの語を冠したもの、この後の方の例やオホ−タラシヒコ−オシロワケの天皇(景行天皇)、ワカ−タラシヒコの天皇(成務天皇)、タラシ−ナカツ−ヒコの天皇(仲哀天皇)の如く、タラシヒコといふ天皇の稱號がそのまゝ名となつてゐるもの、オホ−ヤマトネコ−ヒコ−フトニの命(孝靈天皇)、オホ−ヤマトネコ−ヒコ−クニ−クルの命(孝元天皇)、ワカ−ヤマトネコ−ヒコ−オホヒヒの命(開化天皇)、の如くヤマトネコといふ天皇の地位の稱號がそのまゝ名の一部となつてゐるもの、上に擧げたシキツヒコ−タマデミの命の如く地名を冠してあつてもそれに尊稱が連ねてあるものなど、仲哀天皇までのは、すべてが堂々としてゐて、美稱尊稱が幾つも重ねてあるので、それは天皇としての稱呼であつて實の名ではないことが、おのづから知られる。タラシヒコとかヤマトネコとかいふ稱號が名もしくは名の一部になつてゐるものに於いては、特にそれが明かである。さうしてかういふ名は、アメニギシ−クニニギシ−アマツヒタカ−ヒコ−ホノニニギの命、アマツヒタカ−ヒコ−ホホデミの命、などといふのと、大差の無いものである。然るに、ホムダワケの命(應神天皇)、オホサザキの命(仁コ天皇)、イザホワケの命(履仲天皇)、になると、さういふ稱呼の記載は無く、實の名、即ち皇子としての名、がそのまゝ天皇としての稱呼になつてゐて、それがヲホドの命(繼體天皇)まで續いてゐる。但しヒロ−クニ−オシ−タケ−カナヒの命(安閑天皇)、タケ−ヲヒロ−クニ−オシ−タテの命(宣化天皇)、アメ−クニ−オシ−ハルキ−ヒロニハの天皇(欽明天皇)、から後には、却つて天皇としての特殊の稱呼が記されてゐるが、これは一つは國家組織の漸次整頓するに伴つて、また一つはだん/\輸入せられるシナ思想に刺戟せられて、朝廷の尊嚴が加はつて來たことを示(82)すもののやうである。たゞ、オホハツセ−ワカ−タケの命(雄略天皇)、シラカ−オホ−ヤマトネコの命、またはシラカ−タケ−ヒロ−クニ−オシ−ワカ−ヤマトネコの天皇(清寧天皇)、には、實の名の下に美稱尊稱が加へてあり、ハツセベノワカサザキの命またはハツセベの天皇(崇峻天皇)には、天皇としての稱呼が記されてゐないから、さういふ稱呼の記載のあるなしが安閑天皇と繼體天皇とで明かに區劃せられてゐるとはいひがたいが、歴代を通覽すると、ほゞそのさかひめが知られる。(雄略清寧崇峻の三朝が何故に上記のやうになつてゐるかは、別に考へる機會があらう。)かういふやうに安閑天皇から後の歴代には、天皇としての稱呼が記されてゐると共に、その天皇の實の名、即ち皇子としての名、も知られてゐる(たゞ欽明天皇と敏達天皇との實の名は傳はつてゐない)。ところが仲哀天皇までの歴代には、天皇としての稱呼のみが記されてゐて、實の名はわからないから、そこに安閑天皇から後との違ひがある。けれども稱呼のあることとその稱呼のくみたてとは、兩方ともに同じである。アメ−トヨ−タカラ−タラシヒメ天皇(皇極天皇)、ヤマトネコ−タカ−ミヅ−キヨ−タラシヒメ天皇(元正天皇)、またオホ−ヤマトネコ−アメノヒロヌヒメの命(持統天皇)、ヤマトネコ−トヨ−オホヂ天皇(文武天皇)、ヤマトネコ−アマツミシロ−トヨ−クニ−ナリヒメ天皇(元明天皇)、などに於いて、タラシヒメ(ヒコ)、ヤマトネコ、といふ天皇またはその地位の稱號が用ゐられてゐることも、また仲哀天皇までの歴代のうちにそれのあるのと、違ひはない。天皇ではないがオキナガ−タラシヒメの命(神功皇后)といふ名のあることも、考へらるべきである。(書紀にはオキナガ−タラシヒメを追尊の名としてあるが、持統天皇文武天皇の上記の名も、續紀に謚としてある。)これらはかなり後の時代のを例として擧げたのであるが、かういふやうな天皇としての稱呼の記載のあるのが安閑天皇にはじまつてゐるとすれば、これは仲哀(83)天皇までの系譜の記述せられた時代を知る上に於いて、一つの重要なる暗示を與へるものであらう。少くともそこに記されてゐる天皇(及び神功皇后)の稱號は、欽明朝ごろに始めて定められたものであることが、推測せられる。(ついでにいふ。古事記には神武の卷以後、皇子は一般に命と書いてあるが、開化天皇の卷に王としてある場合が一つあり、垂仁天皇の卷からは漸次其の例が多くなり、仁徳天皇の卷以後は、天皇もしくは皇后でなければ命とせず、其の他は凡て王と書くことになつてゐる。これには何か意味があるかどうか、臆測は加へられないでもないが、それは後に至つておのづから暗示せられるであらう。書紀の方では、垂仁紀以前は皇子を尊または命と書き、景行紀以後は、ヤマトタケルの尊などは例外として、一般には皇子と書いてあるやうであるが、此の區別は、それがもし書紀の編者のしわざであるとすれば、深く考へるには及ばぬことかも知れぬ。また古事記には、景行成務仲哀の三朝と、ずつと後の欽明崇峻二朝との卷に限つて、其の天皇を某の命とせずに天皇と書いてあるが、これには別に意味は無からう。
寧ろ傳寫の際に生じた誤かと考へられる。系譜のところには何れも命としてある。)
 次に皇族また臣下の名も、古いところは趣が異ふ。例へば、ニギハヤビ、ウマシマデ、オホキビツヒコ、ワカヒコタケキビツヒコ、タケハニヤスヒコ、トヨキイリヒコ、クシミカタ、などの如く、ニギ、ウマシ、オホ、ワカ、タケ、トヨ、クシ、など、神代の神々と同じやうな美稱を冠したもの(特にニギハヤビなどはミカハヤビ、ヒハヤビ、と同じやうな名である)、ヒコサメマ、ヒコイナコシワケ、の如く、ヒコといふ語を冠してあるもの、クハシヒメ、ウツシコヲ、の如く、名そのものが美稱もしくは尊稱であるもの、サホヒコ、サホヒメ、ハニヤスヒコ、ハニヤスヒメ、の如く、地名に(特にヤマトヒコ、ヤマトヒメ、キビツヒコ、タヂマモリ、などの場合は廣い地名に)ヒコまたはヒメ(84)といふ語を加へて、そのまゝ名として用ゐられてゐるもの、またこのサホヒコ、サホヒメ、や、ヤサカイリヒコ、ヤサカイリヒメ、などの如く、兄弟姉妹親子が、ヒコ、ヒメ、といふ性を示す語によつて區別せられるのみで、同じ名であり、或はそれがオホヒコ、スクナヒコ、オホマタ、コマタ、の如く、對稱的連稱的になつてゐるもの、などが甚だ多く、大體からいふと、神代史の神々の名と同じ方法によつてできてゐる(この書の第三第參照)。が、かういふことは、應神天皇以後の卷々になると、あまり見えない。さうして應神天皇のころから後に  屡々現はれ、一般に上代の慣例であつたらしく思はれる動物などの名をとつたもの、例へばネトリ、メドリ、ハヤブサ、ツク、シビ、ワニ、のやうなのは、仲哀天皇以前には殆ど見えてゐない(たゞ開化天皇の妃の一人にワシヒメといふのがあり、垂仁天皇の卷にはオホタカといふのが見えてゐるが、書紀には兩方とも無い)。地名を冠して呼ぶことは後にもあるが、それはウヂのワキイラツコ、スミノエのナカツミコ、ヤタのワキイラツメ、といふやうに、其の人の住所を示すためであることが明かであつて、地名其のものが名になつてゐるのではなく、またそれには甚しく廣い地名は冠せられてゐない。一般臣下に於いても、後には地名が氏の名にはなつてゐるが、人の名としては用ゐられないのが通例である(後章參照)。勿論、これらのことは、仲哀天皇の卷と應神天皇の卷とではつきりした區別がつけられるとはいひ難いが、ほゞ此の邊が變りめになつてゐる。いくらかの混雜は後人の手が加はつたために生じたものであらう。さうしてこれらのことは、書紀に於いてもほゞ同樣である。
 さて上記の事實は、其の理由が何處にあるにせよ、記紀の記載が、概していふと、ほゞ仲哀天皇と應神天皇との間あたりに於いて一界線を有することを、示すものである。(古事記に見える歴代天皇の年齡に就いて、應神天皇の一(85)百三十歳、雄略天皇の一百二十四歳などといふ記事もあつて、それは、景行天皇、成務天皇、またはそれより前の歴代のと、同樣に見られるものであるが、かういふ、他の記載と聯絡の無い、遊離性を帶びてゐる、記事は、深く顧慮するを要しないものである。)さうして應神天皇の朝に文字が傳へられ、從つて記録の術も幼稚ながらそろ/\行はれ初めた、と想像せらるべき理由があるとすれば、此の事實もまた故なきことではなからう。なほ今一つこれに關聯して述べて置くべきことは、年代のほゞ推知し得られるのは應神天皇以後である、といふことである。歴代の紀年については既に諸家の説があるが、それらの考へ方には必しも肯ひ難き點があり、また細節に至つてはそれらの説の確實なるを保證し難いところがあるにかゝはらず、應神天皇の朝が四世紀の後半にあるといふことは、シナ及び百濟の史籍の上から考察すると、何人も承認してゐる如く、動かすべからざる事實であらう。しかし、仲哀天皇以前の歴代については、全くその時代を知ることができないといふより外はなからうと思ふ。書紀の紀年の價値は今さらいふまでもなく、記紀に列擧してある上代の天皇の年齡も、二書の記載が全く一致してゐないこと、その記載の内容、また數字が精密に記載せられてゐるといふそのことから見て、初から考察の外に置くべきものであることは、勿論であらう。それから、仲哀天皇、成務天皇、及び崇神天皇の、崩御の年として古事記の分註に記してある干支や月日も、シナの紀年の法及び暦の知識の無かつた時代のこととしては、信じ難いものである。三世紀に於いては、三百年近くもシナと交通してゐたツクシ人ですら、暦の知識を有つてゐなかつたことが、魏志に明記せられてゐて、それを疑ふべき理由は無い(古事記の此の註記は應神天皇以後に於いても書紀の記載とは殆どみな一致してゐない)。だから此の點に於いても、記紀の記載そのものからいふのではないが、應神天皇以後と仲哀天皇以前とは趣を異にしてゐる。
(86) かういふ事情であるから、此の研究に於いては、その第一のしごととして、まづ仲哀天皇までの部分をその對象としようと思ふ。さうしてその最後の仲哀天皇(及び神功皇后)に關する物語は、系譜などの上に於いてはほゞ確實らしく思はれる應神天皇以後の記載と密接の交渉があるのと、新羅征討といふ外國關係のことが、その主題となつてゐて、シナ百濟の史籍から得た知識で批判を助けることができる便宜があるのとのため、それから手をつけ、次第に逆行して神武天皇の物語にまで進まうと思ふ。
 
(87)      第二篇 神武天皇から仲哀天皇までの記紀の記載
 
       第一章 新羅に關する物語
 
         一 物語の批判
 
 最初に問題となるのは神功皇后の新羅に關する物語であるが、これについて先づ一言して置くべきは、古事記にはそれが仲哀の卷に載せてあるのに、書紀では、神功紀が別に立ててあるため、そこに記されてゐることである。神功紀を立てることに如何なる意味があつたかは別問題として、新羅征討は仲哀天皇の時からの引つゞきとして、また應神天皇生誕前に於ける皇后の事業として、語られてゐるのであるから、實際の上からは古事記のやうにするのが便宜である。たゞシナ式王位繼承論からいふと、仲哀天皇崩後の物語になつてゐるために、應神天皇にかけてそれを記すのが正當かも知れず、此の天皇に胎中天皇といふ稱呼のあるのも(繼體紀六年および二十三年の條參照)、畢竟同じ思想から來てゐるらしい。少くとも歴代についていふ以上、それは應神朝の話とすべきであらう。が、古事記には勿論、書紀とても此の物語は應神の卷には記してないので、それは舊辭の述作者がシナ式名分論に拘泥しなかつたためであり、古事記はそれをそのまゝにとり、書紀の編者もまた、一方ではそれを踏襲しつゝ、他方では別の理由から神功紀(88)を立てて、そこに之を移したのである。(胎中天皇といふやうな觀念と神功紀を立てる考とは一致してゐないから、この二つは別の時期に別人の思想として生じたものであり、後者は書紀の編者の創案であらう。それは或は史記の呂后本紀などを學んだのかも知れぬ。)しかし、かういふことは今の問題には關係が無いから、こゝでは物語そのものの性質から見て、舊辭の原形またそれを承けついだ古事記の如く、神功皇后の物語を仲哀天皇に關係させて取扱ふのである。しかし歴史的事實としての時代を考へるやうな場合には、前に述べた如き理由によつて、應神朝を目標とする外はないから、下文にもその考で筆をとるであらう。
 神功皇后の新羅征討の物語は、古事記でも書紀でも大體は一致してゐる。此の物語の主なる要素は、古事記によると、(1)新羅征討の起源がクマソ征伐の計畫せられてゐる際であつたこと、それが神の教であること、(2)新羅が金銀珍寶の國とせられ、征討の動機をそこに置いてあること、(3)新羅の國のあるといふことが人に知られてゐなかつたこと(仲哀天皇は高いところに登つて西の方を見ても、海ばかりで國は無いから、神の教は信じ難い、と仰せられたとある)、(4)皇后の親征(明かには書いてないが、新羅の都城まで進軍せられたやうに見える、といふのは「其の御杖を新羅の國主の門につきたて給ひき」とあるからである)、新羅王が降服して長く調貢を怠らないと誓つたこと、其の國を御馬飼と定められたといふこと、(5)新羅と同時に百濟も歸服したこと、などであり、なほ、(6)宗教的精神が全體の物語を貫通してゐて、神の託宣、神の祭、で始終してゐる。スミノエの神の荒魂を新羅の國の國守る神として祭り鎭めたといふ話さへもある。それから、(7)物語の語りぶりに於いて、海の魚が船を負うて渡つたとか、波が新羅の國の半分まで押しあがつたとか、いふやうに説話的色彩が強いことは、いふまでもない。石を裳の腰にはさんで出産期を延(89)ばさせられた、といふやうな話も附加せられてゐるが、これは寧ろ(6)に關聯しいぇ考ふべきものであらう。
 書紀の方では、前に擧げた(1)の意味が一層強くせられてゐて、新羅が服屬すればクマソも自然に平定する、といふ神の託宣になつてゐ、從つてそれを信ぜられなかつた仲哀天皇は、強ひてクマソを征伐せられたことになつてゐる。いひかへると、根本問題は新羅よりも寧ろクマソにあるやうになつてゐる。それから、天皇崩御の後、新羅遠征の前に、皇后も軍を遣はしてクマソを撃たせ、またみづからノトリタの村のクマワシを平げ、ヤマトの縣のツチグモであるタブラツヒメを誅伐せられ、さうして一旦カシヒの宮に還られたことになつてゐる。次に、(3)についても、外征の軍を出すことに決めてから、また人を海上に出して西の方に國があるかどうかを看せさせられた、といふ記事がある。それから、(4)の親征の場合に於いて、新羅王の降伏は、皇后がまだ舟にゐられて上陸もせられない前のこととしてあるが、その後、上陸して都城へ進まれたらしく見える(降服の記事には阿利那禮河云々の誓詞が載つてゐる)。また新羅王の門に立てられたのは杖でなくして矛である。なほ新羅王波沙寐錦の名が出てゐる上に、その臣の微叱己知波珍干岐が質となつて來たことがある。(5)に關しては、百濟高麗の二國王がみづから我が軍の營外に來て降伏した、としてある。なほ分註として引いてある「一書」の説には、新羅王の名を宇流輔富利智干とし、また別の「一書」には、新羅王を捕虜にして海邊で斬殺したので、その妻が新羅の宰として留まつてゐた邦人を殺した、といふ復讐譚があり、それがために「天皇」が震怒あらせられて、新羅の討滅を企てられ、軍船が海を蔽うて進んだので、新羅人がかの王の妻を殺して謝罪した、といふ話が附け加へてある。その他は大體に於いて、古事記と大なる違ひはないが、一體に漢文流の文飾が多く、シナの史籍の成語をそのまゝ取つてゐるところのあることは、いふまでもあるまい。
(90) そこで、先づ(1)について考へて見るが、古事記では、新羅征討の問題がクマソ征伐の計畫の際に起つたといふのみで、書紀のやうにクマソの平定そのことと關係があるやうには、明記せられてゐない。ところが書紀でも、新羅が降附した後になつて、もしくは其の結果として、クマソの歸服したやうな話はまるで無いから、最初の問題の結末がついてゐない。根本の問題が解決せられずに消えてしまつてゐる。のみならず却つて、皇后が外征の前にわざ/\クマソ征討軍を遣はされたやうになつてゐるのは、一層をかしい。新羅が降服すればクマソも自然に平ぐ、といふ神の託宣と此の話とは齟齬してゐる。神の託宣を奉じて外征の役を起されるならば、その前にクマソ征討軍を出されるのは、その託宣に背くものである。なほ(3)について、海外に國があるといふ明白な神の託宣があるにかゝはらず、またそれを奉じて外征のことを決せられたにかゝはらず、海の外に國があるかどうかを看せさせられたといふのも、之と同樣に奇怪な話である。神の託宣が基礎になつてゐる此の物語、特に、それを信ぜられなかつたために仲哀天皇が崩ぜられた、といふ話のある此の物語としては、皇后のこれらの態度は、その根本の思想に矛盾することである。だから、此の二ケ條は後人の附け加へたもので、物語の原形には無かつたのであらう。古事記はこれらの點に於いてすぢがとほつてゐるが、たゞクマソ征討が有耶無耶に消えてしまつてゐることは書紀と同じであるので、この點になほ疑問がある。歴史的事實の記載としてはこれは甚だ怪しむべきことではないか。たゞ書紀よりは古事記の方が物語の原形に近いことだけは明かであらう。なほ書紀の説に於いて、皇后(此の時はカシヒの宮にゐられたらしい)が征討させられたとしてあるクマソは、「遣吉備臣祖鴨別、令撃熊襲國、未經浹辰、而自服焉、」とあつてたやすく降服したやうでもあり、またミカサ(筑前御笠郡)、ヤス(筑前夜須郡)、ヤマト(筑後山門郡)の地方を親征せられたといふ記事が(91)その次にあるため、このクマソは普通にクマソとして知られてゐる今の日向大隅方面のものでは無く、筑前筑後地方のものだらう、といふ説もあるが、文面の上からさう見なければならぬ理由は少しも無く、ミカサ、ヤス、ヤマト、の地方の親征に對し、これには特にキビの臣を派遣せられたやうに書いてある點から見ても、やはり遠方のこととして、此の物語の記者は、考へてゐたに違ひない。のみならず、記紀の全體を通じて、クマソが二つの地方にあつたやうに解せられる記事は、一つも無い。だから、これは取るに足らぬ説である。「未經浹辰」云々は、文字のために文字を弄した漢文流の文飾か、但しは原の物語に無い話を插入したために生じた思想の混雜かである。さて、このクマソの話が後人の添加したものであるとすれば、ミカサ、ヤス、ヤマト、の親征もまた、物語の原形には無かつたものらしく察せられる。何を措いても外征しなければならぬ、といふのが神教を基礎とした物語の精神だからである。
 次には(2)の新羅が寶の國であるといふ話である。古事記には、神託の條に「金銀をはじめて目のかゞやく種々の珍寶、其の國にさはある、」とあり、書紀には「寶國」とも「眼炎之金銀彩色、多在其國、」ともあり、また降伏の條には、書紀に「寶金銀彩色及綾羅?絹、載于八十艘船、令從官軍、」と見える。ところが、外國は大抵の場合に金銀の國、寶の國、として書紀には記されてゐるので、新羅に限つてのことでもなく、またこの物語のみのことでもない。例へば、神代紀に注記してある「一書」には「韓郷之島、是有金銀、」とあり、顯宗紀元年の條には「金銀蕃國」とあり、繼體紀六年の條には「海表金銀之國、高麗百濟新羅任那、」と見えてゐる。神功紀五十一年の條に「百済國……玩好珍物、先所未有、」とあり、繼體紀七年の條に「伴跛國……獻珍寶」とあるのも、茲に附記してよからう。欽明紀二十三年の條に、オホトモノサデヒコが高麗王宮に攻めこんだ時のことを記して「盡得珍寶貨賂」といつてゐるのは、特殊(92)の事變の場合ではあるが、着眼點の珍寶にあることを注意するがよい(この高麗王宮の話については後に批評を加へよう)。一體、海外を金銀珍寶の國とするのは、樂浪帶方に交通してシナの工藝品を輸入してゐたツクシ人以來の考ではあらうが、ヤマトの朝廷の外國觀がそれから直接に繼承せられたものかどうかは疑はしい。樂浪帶方の覆滅とそれに伴ふ半島の變動とは、ツクシ舟の帶方方面に對する渡航を一時斷絶させたらうと思はれ、さうして百濟とヤマト朝廷との交渉は(帶方とツクシ人との長い間の交通が庭史的由來をなし、實際またさういふことの記憶によつて誘發せられたでもあらうが)、全く新に起されたものである。さてその百濟は、帶方の故地を領有して、其の地のシナ人を臣民とし、また或る點までその文化を繼承したらうと想像せられるから、ヤマト人の目に映じた百濟は、早くから珍寶の國であつたかも知れないが、新羅が初からそれと同樣に見なされてゐたかどうかは、問題である。が、新羅の?態は時代によつて違ふから、これは新羅の初めて我が國に交渉を生じたのは何時であるか、といふ問題から解決してかゝらねばならぬ。しかし、これは、便宜上、後に考へることにする。
 それから(3)の問題であるが、海外に國のあることが知られなかつた、といふ話は、勿論、事實でない。外征の役を起すに當つて、其のあひての國の有る無しがわかつてゐない、といふやうなことのあるべきはずが無い。また第一篇の第二章で述べた如く、ツクシ人は少くとも前一世紀の末から四世紀の初まで三百餘年の間、樂浪もしくは帶方と交通し、加羅方面の事情にも通じてゐたのであつて、それは既にツクシの北部が國家組織の中に編みこまれた以上、ヤマトの朝廷にも知られてゐたはずである。だからこれは、いふまでもなく作つた話である。それから、高いところへ登つて見ても海ばかりだとか、雲のやうなものが見えるからあれが國だらうとかいふのは、景行紀に、天皇がサハか(93)ら南の方に煙の立つのを見られ、賊があるだらうといふので臣下をトヨ國の方面に派遣せられた、といふのと同樣、事物を具體的に敍述するを要する説話としての構想である。常陸風土記の行方郡のところにも同じことが見えてゐる。(神代史には、スサノヲの命がヒの川に箸の流れて來るのを見て、上流に人が住んでゐるだらうと仰せられたといふ話があり、姓氏録第五卷佐伯直の條にも、似たやうなことが見える。雲や煙の立つのを見て國があり人の住所があることを知る、といふのと同じ着想である。)なほ書紀の方でいふと、此の話はその記載、その全體の結構と一致しないやうにも見える。垂仁天皇の朝に既に加羅と交渉があつたやうになつてゐるのであるから、韓半島の知識はその時から有つたこととしなければならず、また神代紀の注記の「一書」には、スサノヲの命が新羅に往復せられた、といふ話もあつて、それとこれとは明かに矛盾してゐるからである。が、これは後にいふやうに、垂仁紀や神代紀のこれらの説話が後代に作り足されたからのことであつて、仲哀天皇神功皇后の物語は、それとは關係なしに、それより前から、存在したのである。古事記の此の物語に於いて、ウハツツノヲ、ナカツツノヲ、ソコツツノヲの三神が、此の時初めて名を顯はされたやうに記されながら、古事記及び書紀の注の「一書」のイサナキの神のみそぎの段に既にそれが見えてゐるのも、多分これと同樣の關係であらう。(此の三神の名のことは古事記の分註に説いてあるので、後人の添加ではないかといふ疑もあるが、この書の分註の一般の例から推して、さう見ることはむつかしからう。書紀の神功紀の本文及び其の分註にしてある一説にも、託宣した神のうちに此の三神があることになつてゐ、本文の方にはそれがヒムカのタチバナの小門の水底にゐるやうに書いてあるが、これは上記のみそぎの段の話ができた後に書かれたものであらう。)
(94) 次には(4)の皇后の親征であるが、第一に注意すべきは、此の話に地理が全く語られてゐないことである。何處まで舟で行つて、何虚から上陸せられたか、それから何の道をどう進軍せられたか、それが話の上に少しも現はれてゐない。歴史的事實のいひ傳へられたものとしては、これは甚だ奇怪なことである。たゞ記紀の文面から漠然想像をすると、國都附近まで舟で押しよせられたやうにも見えるが、もしさうだとすると、新羅の都城は今の慶州であつたから、その東海岸、例へば今の梁浦牟浦などの方面か迎曰灣かに、舟をよせられたといふのであらう。蔚山灣ではあまり遠いが、さういふ解釋も或はできるかも知れぬ。ところが東海岸は一帶の長汀で、大軍を上陸させるやうな舟つきではなく、またそこから都城へゆくには山を越さぬばならぬ。實際の遠征軍ならば、そんなところに舟をつけるはずがない。次に迎日灣も風波の荒いところで、これまた上陸地點にはならぬ。其の上、島かげや小さい半島の間を縫つてゆく昔の樂浪帶方がよひの穩かな航路とは違つて、韓半島の東南角を迂囘して新羅の東方へ出るのは、かなり困難な航路であり、さうして、前にはすぐ敵を控へて後には何の足だまりも無い、こんな進軍路はできるだけ避けねばならぬことは、いふまでもない。蔚山灣は上陸地としては或は可能かも知れぬ。が、これについては別に考ふべきことがある。
 それは外でもない。歴史的事實の明かにわかる時代の新羅に對する進軍路、もしくは我が軍と新羅との衝突地が、何時でも今の梁山(神功紀の草羅、雄略紀の匝羅、三國史記の歃良)方面であつたことである。慶州の東海岸や迎日灣は勿論、蔚山灣から兵を進めたことすら無い(朝鮮歴史地理第一卷第八新羅征討地理考參照)。勿論これは、加羅に根據ができてゐた時の話であるが、全體、新羅遠征といふやうなことがもし行はれたとすれば、それは半島に何の(95)根據も無く、或は何の因縁も無くして、企てられたはずは無いのであり、さうして加羅は地理上、我が國と最も近いところであるのみならず、三百餘年も樂浪帶方がよひのツクシ舟の停泊地として、我が國民とは密接の交渉があつた土地であり、また歴史的事實の明白に知られる時代となつてからの新羅との衝突は、みな加羅に置かれた任那日本府の勢力の維持のためであつたから、もしこの物語のやうな新羅遠征が、歴史的事件として見るべきものであるならば、加羅はそれに何等かの關係があつたはずである(然るに此の物語に加羅の名の全く現はれないのは甚だ奇怪なことである)。要するに、此の物語の進軍路が前に想像したやうなものであるならば、それは事實としてあるべからざることである。
 それから此の物語によると、我が軍は新羅の都城まで押しよせたやうに見えるが、これについては、歴史的事實の明かにわかる時代に於いては、我が軍が幾度も新羅と戰ひながら、都城まで進んでいつたことがあるらしい形迹は一度も無い、といふことを考へねばならぬ。高句麗の廣開土王の碑文の新羅の形勢を敍してゐるところに「倭人滿國境、潰破城池、」とあるから、かなり優勢な我が軍が新羅の國内に攻めこんでゐたらしい事例はあるが、此の場合とても國都まで入つてゐたかどうかは、此の文面ではわからぬ。たゞ三國史記(卷四五昔于老傳)に、曾て倭國の使臣葛那古が來聘した時、于老が倭主について無禮の言を放つたので、倭將于道朱君といふものが兵を率ゐて來り討ち、于老を焚殺した、其の後、倭國の大臣が來聘した時、故の于老の妻がそれを給いて焚殺し、前年の怨を報じた、倭人大に忿つてまた來つて金城を攻めた、といふ話がある。此の話は、前に述べた書紀に引いてある「一書」の説とよく似てゐて、たゞそれには新羅王とあるのがこれには舒弗邯(即ち伊伐?、新羅の爵位の最高位)たる于老となつてゐる點が(96)違ふ。全く史料を異にしてゐるらしくも見える二書の記載が、これほどに類似してゐる上に、三國史記の于道朱君も葛那古も日本人の名として聞こえるやうであるから、此の話には何等かの事實の基礎があるらしくも推測せられる。さうしてそれに倭人が金城を攻めたといふ話があるとすれば、少くとも或る場合に、日本軍が都城もしくは其の附近まで進んだことはあつたかと思はれぬでもない(三國史記に此の事件を沾解尼師今及び味鄒尼師今の時としてあることは、勿論、問題外として)。また次に述べるやうに、新羅が一時我が國に屈服したことは事實らしいから、此の點から見ても、或る場合に都城附近まで日本軍に攻めこまれたことが無かつたとはいはれぬ。さすれば、歴史的事實の明かにわかる時代に言ういふことの無かつたのは、後にいふやうに半島の形勢の變化から、我が國の勢力の衰へたためかも知れぬ。しかし、もとより確實にさうと推斷するほどの徴證は無く、三國史記の昔于老傳の記事も其の内容があまりに説話的色彩の濃厚なものであることを思ふと、果して古くからの所傳であるかどうか疑はしく、それに類似してゐる書紀の「一書」の説の如きは、後に述べようと思ふ韓地に關する記紀の記載全體の性質から推測すると、やはり昔から我が國に傳はつてゐた話ではなく、はるか後世に新羅人から聞いた事を記したものらしいから、それを我が國の古い史料から出たものとして考へるわけにはゆかぬ(附録「百濟に關する日本書紀の記載」參照)。が、よし都城まで進軍したことがあるにせよ、それは加羅を根據として、草羅から陸路東北に向つたのであらう。(三國史記には?我が軍が金城に入つたやうに書いてあるが、これは信じ難い。附録「三國史記の新羅本紀について」參照。)
 また此の物語に於いて、新羅を御馬飼と定められたといふのは、其の國を卑んだ名であつて、雄略紀八年の條に、高麗軍が新羅に駐屯して新羅人を典馬(于麻柯?)とした、とあるのが日本人の思想で構造したものであるのと同樣、(97)これもまた事實として考ふべきことではない。馬かひ牛かひが賤者のしごととして考へられてゐたことは、古事記の安康の卷の末にも見えてゐる。それから、古事記に杖を國王の門に衝き立てられたとあるのも、もとより説話に過ぎず、書紀がそれを矛に改めた上、「其矛今猶樹于新羅王之門也、」と附言してゐるのは、説話としての發展した形であつて、一層事實らしくない。新羅からいへば、恥辱の記念を何時までも王城の前に殘して置くはずは無いのである。
 後にいふやうに、新羅は決して我が國に心服してゐたのではないから、なほさらのことである。(此の杖または矛をつきさすといふことは、古事記の神代の卷に、アメノトリフネとタケミカヅチとの二神が出雲のイナサの小濱に降り、劍を浪の穗にさしたててオホクニヌシの神に服從を迫つた、といふのと同じ構想である。)なほこゝの話に於いて書紀がシナ思想で潤色を加へてゐることは、既に述べたとほりであるが、日本には聖皇があると聞くからその軍には歸服しなければならぬと新羅王がいつたといふのも、其の一例であつて、これは垂仁紀の二年と三年との條の分註に見える「一書」のツヌガアラシトとアメノヒボコとの物語にも同じことがある。
 次には、新羅王が降伏して永久に朝貢するといふ誓をしたといふことであるが、新羅が我が國に威壓せられたことが事實であるとすれば、何等かの形式に於いて其の服從の意志を表示したであらうから、貢物を上るといふやうなこともあつたであらう。しかし此の物語が遠征の動機とせられてゐる珍寶の話と照應するものであるならば、其の意味は上文に提出して置いた珍寶問題の解釋せられてからでなくてはわかりかねる。また書紀には新羅入貢の記事がこれから後も時々現はれてゐて、任那府滅亡の後も同樣であり、古事記の允恭の卷にも、調貢使金波鎭漢紀武の名さへ見えてゐるが、それらが、後に述べるやうに、一々事實を記したものではないことをも、考へねばならぬ。
(98) また書紀には、新羅王の誓詞に阿利那禮河の名が出てゐる。阿利那禮の那禮は、一時百濟の都であつた熊津(今の忠清道公州)の土言として雄略紀に見える久麻那利の那利と同じで、河水の義であるらしい。(熊津城は三國史記百濟本紀の威徳王元年の條には熊川城とも書いてある。また東城王十三年の條には、熊川の水が溢れて王都の二百餘家を漂没したとある。熊川は今の錦江である。繼體紀にも熊川の名があつて、昔からクマナレと訓まれてゐるが、これは今の慶尚南道の熊川らしい。)さすれば、阿利那禮は阿利河であらうが、それはどの河を指したものであらうか。廣開土王碑には今の京城附近の漢江のことを阿利水と書いてあるが、もし書紀の阿利那禮がやはり漢江だとすると、此の地方が新羅の領土に入つたのは眞興王の時、我が國では欽明天皇の代であるから、(假に物語を事實として見れば)それよりもはるか前に、新羅王がこんな外國の河水の名をいふはずはない。しかし誓詞に上るほどであるとすれば、大河でなくてはなるまい。特に日が西から出、河の石が昇つて星辰となる、といふのと並んで、河の水が逆に流れるといつてゐるのであるから、よほど大きい河と見なければならぬ。さうして新羅の領土でさういふ河は、洛東江より外に無い(阿利といふ語の意義は著者にはわからぬが、かう考へる外はない)。が、さうすると日本人が洛東江を知つてゐたとしなければならぬ。新羅王が日本人に對して誓ふのであるから、日本人も新羅人も熟知してゐる河でなくてはならぬからである。もう一歩進んでいふならば、此の河を目前に見ての誓であると解すべきものであらう。さすれば此の誓詞に阿利那禮の名を擧げたことは、東海から直に都城に攻めこんだといふ此の物語の中心思想に背くものである。だからこれは、物語としても後人の添加であつて、原の形には無かつたものであらう。さうしてかういふ後人の添加が、事實の記録と見られないことは、勿論である。或はまた阿利水は漢江のことであるが、日本人はた(99)だそれを、漠然、半島の大河の名として聞知してゐたので、それをこの話に用ゐたのかも知れぬ。(廣開土王碑によれば日本人は漢江で高句麗軍と戰つてゐるが、この話の加へられた時には、そんなに古いころから傳へられてゐた知識があつたのではなからう。後にいふやうに、かういふ修飾は書紀の編者のしわざとして考へられるからである。)もしさうならば、作り物語なることは一層明かである。(阿利那禮を鴨緑江と解する考があるらしいが、書紀の編者がこの河の知識を有つてゐたかどうか、甚だ疑はしい。よし有つてゐたにしても、もとの高句麗の領土のうちにあるこの河の名を新羅に關する物語に適用したとは思はれぬ。)
 また新羅王波沙寐錦は、王としては三國史記などに見えない名である。「波沙寐」は、新羅の帝位の第四級「波珍」(上にいつた微叱許知波珍干岐の「波珍」、古事記の允恭の卷の波鎭漢紀武の「波鎭」)の轉訛で、「錦」は上記の干岐の「岐」、または干岐を別の字で寫した漢紀武の「紀武」に當る尊稱ではなからうか。もしさうとすれば、これは後人の附會であつて、本來、王の名として聞こえてゐたものではない。此の名は神功皇后の物語に初からあつたのではないらしいので、それは古事記に全く見えてゐないことからも推測せられるが、書紀に於いても重要な物語には單に「新羅王」とのみあつて此の名が無く、その王が降伏し遠征が終つた後になつてから始めてそれが現はれて來るのを見ると、此の名および此の名によつて語られてゐる人質の派遣と朝貢との話は後に加へられたものであることが、文章の上から、明かに知られるやうである。なほ註記してある「一書」には王の名を宇流助富利智干としてあるが、これもまた後人のしわざであつて、何れも物語を事實らしく見せようとするために補はれたものであり、どちらも確實なる史的根據の無いものに違ひない。全く別の名になつてゐる二つの記載のあることからも、それは知られよう。また征(100)討の地理的記載すらも無い物語に於いては、國王の名も無いのが當然ではあるまいか。但し波沙寐錦が質として我が國に遣したといふ微叱許知は、三國史記の實聖尼師今の條に質となつて倭に行つたとある未斯欣らしく、また朴堤上傳に、朴堤上が倭に赴き詭計を用ゐて未斯欣を伴ひ來り、海中の山島から本國に逃れさせたが、此の詭計が發覺して堤上は倭人に焚殺せられた、といふ話の見えるのも、神功紀五年の條に、新羅の使として來朝した?禮斯伐毛麻利叱智富羅母智等が、質となつてゐた微叱許知を伴ひ歸つて、對馬から本國に逃れさせたので、三人の使者を焚殺した、とあるのと相應ずるものである。が、これも前に述べた于老の話と同樣、書紀の記載は、はるか後に新羅人から聞いたことを記したものであるらしく、古くから我が國に傳へられてゐた記録から出たものではあるまい(附録「百濟に關する日本書紀の記載」參照)。だからそれによし幾らかの事實の基礎があるにしても、それは本來神功皇后親征の物語に結びつけらるべきものではない。(彌至己知といふ新羅人の名は、朝貢使として欽明紀二十一年の條にも見えるが、それとこれとは全く無關係であらう。)
 次には(5)の百濟が同時に歸服したといふ話であるが、百濟が近肖古王の時から(一面東晉に朝貢しつゝ一面)我が國に依頼し(或は我が國を利用し)てゐたことは、後に述べるやうに、事實である。但し、それが新羅の降伏と同時であつた、とは考へ難い。いくらかの隔りが其の間になければならぬ。(神功紀四十六年の條に、百濟が初めて我が國に使を出さうとして卓淳國に來たが、海路遠く交通困難と聞いて一時引きかへすことにした、といふ記事がある。此のことの實否は別問題として、この記事は、百濟がそれよりも前に新羅征討の際に歸服したといふのとは、矛盾してゐる。これもまた、神功皇后の新羅征服物語と百濟歸服の説話とが、別の時期に別人の手によつて作られたため、(101)詳しくいふと百濟歸服物語が後から作り加へられたためであつて、書紀は不用意にそれを並べ記したのである。)また高麗も同時に歸服した如く書いてゐる書紀の説は、いふまでもなく事實ではない。高句麗は、我が國が百濟を保護し初めた後、廣開土王が398年ごろに?(江原道地方の住民)を服屬させるまでは、新羅と接觸せず、また百濟と高句麗とは互に敵國であつたから、かういふことのあつたはずがない。實際、高句麗が我が國と敵對の地位に立つてゐたことは、後にいふとほりである。高麗百濟二國王が親ら營外に來て歸服したといふに至つては、勿論、具體的な敍述を要する物語としての語りかたに過ぎない。だからこれらの書紀の記載は、古事記に見えるやうな話をもととして、更にそれを潤色したものといはねばならぬ。
 なほ(6)についても、前に述べたやうに、海外に國のあることが知られなかつた、といふことが事實でない以上、それを基礎にした神の託宣の物語が事實を語つたものでないことは、明かである。神の託宣によつて事を行ふといふのも、神が人に憑つて託宣するといふのも、上代の宗教思想の現はれとしては事實であつて、かういふ話もそれによつて作られたのではあるが、こゝの話は事實あつたことではない、といはねばならぬ。それから此の時託宣した神は古事記ではアマテラス大神とスミノエの三神とになつてゐる。書紀の本文には其の他に名の記してない神とコトシロの神とがある(アマサカルムカツヒメの命はアマテラス大神をさすらしい)が、凱旋後の祭神の話がもし此の場合のに照應するものであるならば、名の書いてないのはワカヒルメの命、コトシロはコトシロヌシとすべきであらう。また分註の「一書」には此の二神が無いから、もし其のハヤサノボリの命をアマテラス大神と解し得るならば、此の説は古事記と同じであるが、さう見てよいかどうかは明かでない。その上に加へてあることばの意義に解しがたいところが(102)あるのみならず、ハヤサノボリといふ名の意義もわかりかねるからである。しかしそれはともかくもとして、アマテラス大神が名ざされてゐるのは皇祖神だからであるらしく、スミノエの三神が名のられてゐるのは、海路遠征軍を出される話であるがために、海の神が擧げられたのであらう。ところがワカヒルメとコトシロヌシとは何故にこゝに現はれたか、明かでない。さうして凱旋後の祭神の話に見える御心廣田國、活田長峽國、御心長田國、が單に美名を並べたものであつて、何れも指すところのないところであるらしいことを思ひ合せると、書紀に神の名の多くなつてゐることには、深い意味がないやうである。かういふことが漸次説き加へられて來たのを見ても、此の記事の説話であることが知られよう。またスミノエの神を國守る神として新羅に鎭め祭られた、といふのも事實としてあり得べきではない。欽明紀十六年の條に、雄略天皇の時、百濟の衰亡を救ふために邦を建てた神を屈請した、といふ話があり、それは我が國の神を百濟の主都熊津に於いて祭つたといふことらしいから、これもそれに准らへて見るべきものであらう。此の百濟の話は、高句麗にその首府の漢城を取られて都を熊津に遷した時のこととすべきものらしく、雄略紀に熊津を※[さんずい+文]洲王に賜ふと書いてあるのも此の場合のことであつて、二つとも同じ思想から出た記事であらうが、熊津は、本來、百濟の領土であつて、雄略紀のは事實でないから、欽明紀のもまた疑ふべきものである。だから神を祀つたといふ話は、百濟のも新羅のも共に國家の經營について神の加護を求める日本人の上代思想が物語として現はれたものとして、解釋しなければなるまい。なほ類似した例を擧げると、顯宗紀三年の條に、日の神と月の神とを祀るに對馬人と壹岐人とを以てした、といふ記事があるが、これは、對韓航路の停泊地として、韓地經略上、二島が重んぜられたことを示すものであると共に、それを神に關係させて考へた上代人の思想をあらはしてゐるものである。神代(103)史に於いて、ムナカタの君の祀る神が、アメノヤスノカハラの誓約の時に生れたタキリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメ、の三神であるとしてあるのも、恐らくは韓地經略が重要視せられ、從つて海外に往復することが頻繁であつた時代の思想であらう(ムナカタの神と外國航路との關係は、應神紀四十一年の條にも見えてゐる)。なほ神を祭ることはこれらの場合のみの話ではなく、神武天皇の物語にも崇神天皇の物語にもまた景行天皇の物語にもあることで、いはゞ凡ての上代の物語に共通な思想であるが、海外經略といふ特殊の大事件だけに、此の物語に於いては、それが一層濃厚に現はれてゐるのであらう。景行天皇以前のこととせられてゐるこれらの種々の物語が、歴史的事實として解すべきものであるかどうかは、次々の章に於いて論究してゆかうと思ふから、それによつて、新羅の物語の性質もおのづから類推せられ、上記の解釋の當否もまた判斷せられよう。
 神の託宣に關聯してなほ考ふべきことは、仲哀天皇の崩御の話と、それに伴ふものである應神天皇がいはゆる胎中天皇であられたといふ話とである。古事記では、仲哀天皇が託宣を信ぜられなかつたために、神秘的なありさまで崩ぜられたやうになつてゐるし、書紀でも神功紀には「皇后傷天皇不從神教而早崩」と明記してあり、仲哀紀の「忽有痛身、而明日崩、」も、この意義に解すべきものであらうが、託宣の話が事實でないとすれば、この崩御のありさまもまた同樣に考へねばならぬ。たゞツクシで崩ぜられたことが事實であるかどうかは、それとは別の問題として考へられるやうでもあるが、古事記によると、ツクシでの天皇の物語は、たゞこの託宣に關することのみであるから、それが事實でないとすれば、天皇がツクシにゆかれたといふことが、そも/\事實でないことになり、從つてそこでの崩御といふことも、また同じやうに考へねばなるまい。書紀にはアナトやツクシでのいろ/\の話が記してあるが、そ(104)れらは何れも歴史的事實として見るべきものではなく、またそれが古事記に全く見えてゐないことである點から見ても、多分、年代記としての形を具へさせるために、書紀の編者によつて構造せられたものであらう。また石を腰にはさんで産期を延ばさせられたといふ話は、民間に行はれてゐた呪術としての風習が、こゝに採られたものであらうか。しかしそれによつて實際、長い間、産期が後れたといふのが、歴史的事實であるかどうかは、勿論いふに及ばぬことである。
 なほ(7)については、それが事實でないことは、故らに説くまでもあるまい。
 かう考へて來ると、此の物語に於ける書紀の記載には、後人の添加したところが頗る多いといふこと、古事記のは書紀のよりは物語の原形に近いものであるが、それとても、歴史的事實を語つてはゐないといふことが、知られる。それならば、そこにどれだけかの事實の痕迹があるかといふと、それについては物語を離れて全く別の方面から考へて見なければならぬ。
 さて我が軍が新羅を威壓したことの事實を記した最も古い史料は高句麗の廣開土王の碑文であるが、それには「百頚新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年(391 A.D.)來渡海、破百殘――−羅、以爲臣民、」また「己亥(399 A.D.)……新羅遣使白王云、倭人滿其國境、潰城池、以奴客爲民、」とあつて、前の方の「羅」の上の缺字は「新」の字であるやうに思はれる。これによると、四世紀の最終の約十年間に我が軍が大に新羅を威壓してゐたことが知られるが、これは必しも此の時に始まつたわけではあるまい。新羅が我が軍の壓迫に堪へかねて高句麗に援助を求めたとすれば、それは、それより前の可なり長い間、我が國と衝突してゐたからだと思はなくてほならぬからである。次に考へねば(105)ならぬのは、百濟が我が國に歸向したのは、我が國の勢力が百濟に知られたために違ひなく、さうしてそれは我が軍が新羅と戰つてそれを破つたからであらう、といふことである。もつとも百濟の我が國に依頼するやうになつたのは、必しも新羅の服從に刺戟せられたのではなくして、我が國が加羅を保護してゐるといふやうな事實があつて、それを知つたためではなからうか、といふ疑問もあらう。次にいふやうに我が國が加羅に保護を加へたことはあり、さうしてそれは、新羅の壓迫に對するためではあつたらうが、さういふ事態は我が國と新羅との交戰によつて開かれたには限らないからである。前にも述べた如く、新羅に兵を出すには、其の根據地として加羅が身方になつてゐなくてはならぬことも、考へ合はされる。が、假に我が國が加羅の保護を始めたのは新羅に對する交戰よりは前であつたと見るにしても、その間に大なる隔りはなかつたらう。加羅の保護を全くするには、新羅の勢力を挫かなくてはならぬからである。さうして我が國の威力の半島に知られたのは、戰勝といふやうな人の耳目を聳動する事件があつたからだ、と考へるのが妥當である。だから何れにしても新羅に對する出兵は百濟の歸服よりは前から行はれてゐたらしい。ところが百濟が我が國の保護を得ようとしたのが近肖古王(375年歿)の時であることは、別に述べるやうに、百濟の史料によつてほゞ知られるから、その時期は遲くとも375年の前でなくてはならず、もう一歩進んでいふならば、それは神功紀四十六年の條に見える甲子の年、即ち364年であつたかも知れぬ(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)。百濟は此のころはまだ勢が盛であつて、その首府も漢城にあり、?進撃的態度で北隣の高句麗と戰つてゐたほどであるが、その高句麗が實は大敵であつて、それに對しては大に戒心を要するのであり、また東には新羅が控へてゐて、それとも衝突すべき形勢であつたから、新に新羅を破り加羅を保護して韓地の一角に勢力を樹てた我が國に對して交(106)を通じ、何等かの援助を得ようとしたのであらう。晉書(卷九、簡文帝本紀)によると、それより八年の後(晉の咸安二年、372)には、東晉にも朝貢をはじめてゐるが、百濟の地位はこれでも推測せられる。かう考へて來ると、我が軍のはじめて新羅を威壓したのは、364年、もしくはそれより少しく前のことであつたらしい。が、甲子の干支については、いくらかの疑問もあるから、それは且らく措くとしても、肖古王の歿年である375年より前であつたといふことだけは推測せられよう。何れにしても、四世紀の前半にヤマトの朝廷がツクシの北半を統一したとすれば、ほゞ370年の前後にかういふことが行はれたとするのは當時の大勢とよく一致する。(三國史記の新羅紀には、てうど364年に當るやうになつてゐる奈勿尼師今九年の夏四月にかけて、倭兵大至といふ記事があるが、附録に於いて述べる如く、新羅紀の此の時代の部分は、事實の記載としては信用しかねるものであるから、これを證據にするわけにはゆかぬ。)さてその交戰の?態などは固よりわからないが、百濟の心を動かしたほどに、我が國の威力がそれによつて半島に示されたとすれば、それは明かな戰勝であり、またそれが一時的のことではなくして、何等かの方法によつて我が國の權威がそこにうち立てられるやうになる基礎を置いたものであらう、と考へられる。それから後も、新羅の反抗は絶えずあつたであらうし、從つてまた戰爭も?ひき起されたであらうが、前にも引いた廣開土王の碑文によつて推測すると、四世紀の終末までほゞ三十年ほどの間は、新羅に對する我が國の威壓が、ともかくも行はれてゐたであらう。ところが、高句麗が今の江原道地方の住民を征服してその領土が新羅と接觸するやうになつてから、此の形勢に大動搖を生じた。新羅に於ける我が國の勢力は、直接には廣開土王の碑文に見える庚子の年(400)の戰役(高句麗軍が新羅を助けて我が軍を討ち退け、任那加羅まで追撃したこと)によつて大に衰へ、間接には甲辰の年(404)の(107)漢江方面に於ける戰役(我が軍が百濟の北邊たる漢江の下流域から進んで高句麗を攻撃し、却つて大に高句麗軍に破られたこと)によつて更に弱められたに違ひない。これから後は、我が國は大に新羅を壓することができなくなつたのである。廣開土王の碑文に記されてゐることにも、いくらかの誇張はあるでもあらうが、他の方面に關する記載から類推しても、大勢を知るに支障があるほどのことではないと考へられる。
 以上が零碎なる史料から推測し得た新羅征服の歴史的事實である。そこでこれを神功皇后の親征物語に對照すると、對韓經略の初期に於いて我が國が一時新羅を壓服したことは、物語に含まれてゐる事實の面影である。さうしてその時期が實際應神朝のころであつたことも、百濟の肖古王の時代から推定して、ほゞ承認せられよう。肖(照)古王が應神天皇と同時代であるといふ古事記の記載は、それだけでは歴史的事實として受取ることがむつかしいが、宋書倭國傳には仁コ天皇もしくは履仲天皇に擬すべき倭王讃に對する除授が永初二年(421 A.D.)に行はれたやうに記してあるから、應神朝(の多分初期)が375年に死んだ肖古王の時代に當るといふことは、應神仁コ二朝の治世が甚しく短かいものでない以上、大體に於いて誤はないやうに見える。古事記、從つて其のもとになつた舊辭に、かう記してあることが如何なる材料によつたものであるかは明かでないが、前にも一言した如く、肖古王貢獻のことは物語をなしてゐない簡單な記事であつて、舊辭の全體の性質とは調和しないものであるから、それは舊辭の原形に於いては存在しなかつたのであらう。さすれば、これは後になつて、肖古王の代に始めて我が國に交通したといふことを百濟の記録からでも取つて、それによつて構想した話を、書き加へたのではあるまいか。古事記に見える貢獻の話そのものが事實らしくないのであるから(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)、肖古王のことも我が國に古くから傳へられ(108)た確實な史料によつたものとは考へがたく、從つてその出所は百濟の史籍もしくは百濟人の所傳にあるとすべきであらう。たゞそれが應神朝のこととせられたのは、我が國の勢力の始めて韓地に及んだのが此の朝であつたといふ傳説が、我が國にあつたので、それとこれとが結合して考へられたのではあるまいか。さすれば、古事記に見える上記の時代の比定がほゞ事實に合つてゐるとしても、それは史料の上から直接に來たことではなからう。(書紀には神功紀に既に百濟の貴須、枕流、辰斯、等の諸王のことが見えてゐるが、これは應神紀の前に神功紀を立て、また紀年を前の方に引きのばしたために生じた混雜であらう。)が、ともかくも肖古王の代が應神朝に當るとすれば、新羅に對する軍事的威壓がやはり應神朝のころに始まつたといふのも、前に述べたやうな理由によつて推測すると、事實に背かないことのやうである。
 さて以上述べた如く、此の物語に於いていくらかは歴史的事實の面影が見られるとして、それは如何にして此の物語となつて現はれたのであらうかといふに、古事記の物語に事實と認むべきことがなくして、全體の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが全く物語に見えてゐないこと、事實としては最初の戰役の後、絶えず交戰があつたらしいのに、それが應神朝以後の物語に少しも現はれてゐないこと、などを考へると、これは事實の記録または傳説口碑から出たものではなく、よほど後になつて、恐らくは新羅征討の眞の事情が忘れられたころに、物語として構想せられたものらしい。進軍路の曖味なことも此の故であつて、海からすぐに都城に進まれたやうに見えるのは、たゞ海外の國の征伐といふ抽象的概念から作られた話だからであらう。カシヒの宮でのこととすれば北の方でなければならぬ新羅が、古事記では西方の國とせられ、また(109)西方を見ても國が無いといはれてゐ、書紀でも西征の文字が用ゐてあり、マツラの縣に於いての話ですら西の方に財の國を求めるといふことになつてゐるが、これも、ヤマトにゐて考へた話だからに違ひない。ヤマトから新羅にゆくには、西方のツクシを經由するからである(書紀の新羅王の言に「東有神國、謂日本、」とあるのも、同じ思想で書かれてゐる)。新羅遠征がクマソ征討と連結して語られてゐるのも、また二つながら西方の事件として考へられてゐたため、不用意にそれをつなぎ合はせたからであつて、それがために話そのものが無意味になつてゐる。古事記の物語で、クマソ問題が結末がつかずに雲散霧消してゐるのも、此の故であり、書紀の方で、クマソ征討譚を作り、却つて本の話と矛盾を生じたのも、また無意味な話に意味をあらせようとしたためのことである。百濟が新羅と同時に歸服したことになつてゐるのも、之と同樣、二國が何れも海外の國であるところから、それを結合して語つたまでのことらしい。(書紀が高麗を加へたのは、更にそれに一歩を進めたものである。また繼體紀六年の條にモノノベノアラカヒの妻の言として「住吉神初以海表金銀之國高麗百濟新羅任那等、授記胎中譽田天皇、故大后氣長足姫尊……毎國初置官家、」と見え、二十三年の條にも任那王の言として同じやうな意味のことが記してあつて、これらは何れも後人の筆になつたものらしいが、其の思想は神功紀のと同一である。)次に新羅を寶の國としてあるのも、また服從の表示として調貢を上るといふ話があり、それに重きが置かれてゐるのも、新羅の文化が發達して調貢品がよくなつた時代の思想であらう。さうして新羅に文化の發達しかけたのは、大體、智證法興二王の治世(六世紀の初期、ほゞ我が繼體天皇の代に當る)ごろからのことであらうから、此の話の形づくられた時代も、ほゞ推測ができる。なほ大體から考へても、我が保護國であり或は屬領である加羅(任那)もしくは百濟の經略に關する物語が無くして、却つて敵國(110)として我が國に對立してゐる新羅についてかういふ物語があるのは、一つは人の記憶に新なる時代に於いて實際新羅と交戰した事實があるからであらうが、それは繼體朝前後に於いて最も激しかつたのであり、また一つは新羅の制御が困難となつて、それに力を費すことが最も多く、對韓問題といへば主として對新羅問題である、と考へられるほどにそれが厄介でもあり重要事でもあつた時代に、構想せられたものとも思はれるが、かういふ形勢は、雄略天皇(五世紀の終に近いころ、新羅の慈悲王の時代)以後に於いて最も著しくなつたことである。但し古事記では高麗の名が少しも此の物語に現はれてゐないが、それは或は、此の物語が高句麗のまだ我が國に交通しなかつた時代に形づくられたことを示すものであるかも知れぬ。(高句麗の我が國に交通し始めたのは、後にいふやうに欽明天皇の末年である。)また此の新羅の征討を應神朝ころのこととし、應神天皇に結合して語つたのは、前にも一言した如く、韓地の經略が應神朝にはじまつたといふだけの傳説が存在してゐたので、それに基づいて構想したものでもあらう。或は何等かの記録にその出所があるのかとも思はれる。けれども、物語の内容が古くから傳はつたものでないことは明かであらう。
 かう考へて來ると、此の物語の大筋をなしてゐる皇后の親征といふことも問題になる。上に試みた研究の結果によれば、皇后の行動として語られてゐる此の物語の種々の説話は、何れも事實として認め難いものであつて、最初の神の託宣に關すること、征討の經過、有名な石の物語、また前には述べなかつたがタマシマの里の年魚の物語などが、皆それである。(古事記には此の年魚の話を四月のこととしてあつて、それが後世の思想であることは、宣長が古事記傳に説いてゐるとほりである。但し著者は、後の思想で昔のことを書いたものだといふ彼の解釋には從はないで、(111)説話其のものが後に作られた證據として此の話を考へる。かういふ話は事物の起原を説明する物語として、例の多いものである。)また書紀にのみ見えるクマソ其の他の征討、髪を分けられたこと、海上に出て國の有無を看せさせられたことなども、事實でないことは同樣である。(書紀では、年魚の話がマツラの地名の由來を説明する物語となつてゐるが、これはミカサ、ヤス、ウミ、などの話と共に、記紀や風土記の常例となつてゐる説話であつて、事實ではない。このことはなほ後章に述べよう。)それから、歴史的事實の明白に知られる時代になつて、一度も韓地に對する天皇の親征といふことが無かつた、といふ事實も參考しなければならぬ。雄略紀九年の條によると、その時天皇には新羅親征の意志があられたが、神の戒によつて實行せられなかつたといふ。さうして雄略紀の對韓問題に關する記載の性質から見ると、これだけのことすらも事實であるかどうか問題である(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)。また後の齊明天皇も、百齊に對する救援軍を派遣するに當つて、ツクシまで本營を進められたのみである。だから何の時かの歴史的事實として、かういふことがあつたとは認め難からう。
 さて皇后の新羅親征が事實でないとすると、仲哀天皇のツクシへゆかれたことが事實でないことは、此の點からもまた知られ、應神天皇の生誕に關するいろ/\の物語も、また事實ではないことになる。兩方とも、皇后の新羅親征の説話から離しては考へられないものだからである。古事記の系譜を記してあるところを讀むと、仲哀天皇の皇子の名を列記してあるその書きかたが、この書の一般の例と全く同じであつて、應神天皇の生誕に特殊の事情があつたやうな樣子は少しも見えないことによつても、それは知られよう。これは、帝紀がさうなつてゐたからのことと推測せられる。たゞオホトモワケといふ名の説明にちなんで「是以知坐腹中國也」(ハラノウチニイマシテクニシラシキ)と(112)いふことが附記してあるが、これは鞆の如き肉が腕にあつたといふのとは關係の無いことである(鞆は武器であるとするにしても、それが國を治らす天皇の地位を象徴するものとは見がたからう)から、帝紀の原の形のでは「故大鞆和氣命治天下也」のやうに記してあつたのを、舊辭に於ける託宣や皇后親征の物語によつて、後からかう書き改められたものと考ふべきであらう。オホトモワケのトモの語が、この名の作られた時に鞆の義として考へられてゐたかどうかも、問題であるので、それは或は伴の字をあてるべきものであるかもしれぬ。それを鞆の義とし鞆の如き肉があつたとしたのは、同じ音によつて附會せられた名の説明説話として解せらるべきものであらう。説明説話が同じ音の他の語によつてせられてゐる例は甚だ多い。要するに、皇后の親征が事實でないとすれば、應神天皇がツクシで、また仲哀天皇の崩後に、生まれられたことも、事實でないことになるのである。産期をのばすために石を腰にまかれた話が、古事記では新羅でのことになつてゐるのに、書紀では新羅にゆかれない前のツクシでのこととせられてゐるのも、それが説話だからのことである。(年魚の話が古事記では新羅から歸られた後のことになつてゐるのに、書紀では親征前のことにしてあるのも、同じやうな例であるが、たゞこの場合では、書紀の變改は、年魚つりに占驗の意味をもたせたためであるらしい。石の話の場合では、書紀の説は、東征の重要性を加へると共に、呪術の效果を強める用をなしてゐる。)應神天皇の生誕の説話については、かう考へられるが、書紀の編者の机上の製作である月日の記載によつて、天皇の懷胎の時期を推測するやうな考へかたの、無意味であることは、いふまでもなからう。たゞ何故に應神天皇の生誕についてかういふ異樣の説話が作られたかは、問題であるが、それは皇后の親征の物語とこの天皇の生誕とを結びつけようとしたからではあるまいか。韓地の經略が應神朝にはじまつたといふことが、舊辭のまとめ(113)られた時に知られてゐたとすれば、かういふ推測もまたなし得られるのである。新羅親征の時に皇后の胎中にゐられ、而もその胎中より天皇であられたといふのは、韓地の經略がこの天皇には本質的のしごとであつたとすることになるのである。
 また神功皇后について一般的に考へると、此の物語の含まれてゐる帝紀舊辭が始めて文字に寫された時には、既に我が國に關するシナ人の著書が傳はつてゐたはずであり、從つて倭女王卑彌呼に關する魏志の記事が知られてゐたであらうと思はれる。さて古事記を見ると、例へば大倭豐秋津島といふ如く、我が國を「倭」の字で寫してあるが、これは古くからの因襲であつたらう。「倭」は本來、シナ人が我がツクシ地方の住民を呼ぶために用ゐた文字であつて、晉初まで其の意義で使はれてゐたのであるが、百齊人も其の領土に加へた帶方郡のシナ人から此の倭人に關する知識をうけついで、やはりそれを襲用し、さうして當時ヤマトの朝廷の下にほゞ統一せられてゐる我が國民全體の稱呼としたものらしい。昔ツクシ人に接した記憶を有つてゐるものが新しいヤマト朝廷の代表者に接しても、同じ言語を用ゐ同じ容貌風姿を有することを知つては、同じくそれを「倭」と呼ぶに何等の疑を懷かなかつたであらう。實をいふと、ツクシ地方の少くとも北部がヤマトの朝廷を戴く國家組織に入つたことは、晉初、即ちツクシの邪馬臺國が晉に交通してゐた時代と、百齊が我が國に交渉を生じた時代との、中間に行はれたのであるが、言ういふ事情は、百齊人もシナ人もよく知らなかつたのであらうから、昔の倭を當時の倭其のまゝのものとして、彼等は考へてゐたに違ひない。從つて、百濟人によつて漢字の知識を傳へられたヤマト人は、文字を用ゐた最初から「倭」の字を我が國の名として用ゐたのであらう。ところで倭人の事蹟としてシナの典籍の上に最も著しく記されてゐるのは、倭の女王國とし(114)て知られてゐる昔の邪馬臺の女王の卑彌呼のことであるが、ヤマトの朝廷には、其の事實が全く知られてゐなかつたのであらうから、シナ人の著書によつてそれが始めて新しく彼等の知識に入つたところで、其の女王國によつて代表せられてゐるが如き觀のある「倭」の字が今の國號として用ゐられることを、別に不思議とは思はなかつたらう。魏志のヤマト(邪馬臺)と彼等の生活してゐるヤマトとが同名であるといふことも、また此の文字の使用に對して何等の疑惑を起させなかつた一理由であつて、彼等はこの「倭」の稱呼が本來ツクシを指したものであることを、正しく解し得なかつたのであらう。明らさまにいふと、彼等は卑彌呼を彼等の住んでゐるヤマトを統治してゐた昔の女王だと思つてゐたのであらう。さうして其の女王は海外との交渉が深かつたものである。なほ、此の物語の形を成してから、ずつと後のことではあるが、書紀の紀年に於いて、神功皇后の在位がてうど魏の時代に當り、特に晉の起居注に倭女王貢獻の記事のある泰始二年の三年後に崩ぜられたことになつてゐるのは、書紀の編者が神功皇后を卑彌呼に擬したことを示すものであらう。卑彌呼は女王として記されてゐるが、ヤマトの朝廷では昔から女帝が無かつたから、皇后を以てそれに擬したのも怪むに足らぬ。神功皇后の親征が史實であるかどうかは、此の點をも顧慮して考ふべきである。
 なほ一言すべきは、此の物語に關係のあるタケウチノスクネのことである。これはウマシウチノスクネと對稱せられてゐるが、タケもウマシも同じやうな美稱である。かういふ美稱が冠せられてゐ、特に兄弟に於いてそれが對稱的になつてゐること、ウチが地名だとすれば此の二人の名に固有名詞と認むべき個人的特稱が含まれず、美稱を除けば二人とも同名になること、兄弟の爭が例の多い話であること、などを考へると、それが實在の人物であるかどうか、(115)甚だ疑はしい。新羅征討の物語には直接の關係が無いが、此の人が長壽であるといふ話も後人の造作らしい。書紀には景行紀から此の人の名が現はれてゐるが、古事記にはそれが見えず、此の新羅征討譚に於いて初めて出て來る。もつとも古事記でも、孝元の卷の系譜によると景行の卷あたりから現はれてもよささうではあるが、古事記に取られた帝紀は舊辭の方よりも後の潤色を經たものであるから(後章參照)、これは書紀のやうな長壽の思想の生じた後に作り加へられたことであらう。やはり古事記の仁コの卷に見える歌にも「たまきはる、うちのあそ、なこそは、世のなか人、」といふ句があるが、この歌は後世の作であることが、歌そのものによつて知られる。
 以上は主として古事記の物語により、またそれと書紀のとを對照して考へたのであるが、書紀のは、一面にシナ思想を加へ、一面に物語を誇張して、作られたものである。シナ思想によつて書かれた辭句の二三をこゝに補記するならば、親征に當つて三軍に下された令といふもの、新羅王の「東有神國、……亦有聖王、……豈可擧兵以距乎、」といふ語、「封重寶府庫、收圖籍文書、」といふ記事、などがその例であるが、古事記では神秘的な崩御になつてゐる仲哀天皇が、書紀の注に引いてある一説では「中賊矢而崩也」となつてゐるのも、シナ式合理主義の影響であつて、原の話は古事記のやうなものであつたらう。また上記の令につゞけて和魂荒魂が皇后とその軍とを保護しようといふ神の教を記し、新羅王の降伏のことばを「從今以後、長與乾坤、伏爲飼部、」とした類は、シナ思想と日本人のとの混和せられたものであるが、仲哀紀のイトの縣主の玉と鏡と劍とについていつた語といふものも、シナ風の考へかたで日本の事物に説明を加へたものであり、神功紀のはじめの神がかりの話に七日七夜といふことのあるのも、日本人の風習にシナ思想をとり入れたものである。また誇張せられた例を示すならば、阿利那禮の名の擧げてあるのもそれであつ(116)て、これは、かなり後世に、新羅方面の大河として邦人に熟知せられてゐる稱呼を借りて、前から存在した此の物語に結びつけたものらしい。また高麗の服從したといふ話もそれであるが、これは高句麗が我が國と交通するやうになつてから、添加せられたのであらうから、それは如何に早くとも欽明天皇以後の造作に違ひなく、それは多分、書紀の編者のしわざであらう。(上に引いた繼體紀六年の條の記載も多分同樣であらうと思はれる。)
 然らば此の物語は、何のために作られたかといふに、それは韓地經略の起源を説くためであつたと見る外はない。たゞ加羅や百濟の服屬の由來を説いた話が無く、新羅に對する征討譚のみがあるのは、奇異のやうでもあるが、これは後のクマソやエミシやに對する物語の例によつても知られる如く、武力を用ゐる話でなくては上代人には興味が無いのに、加羅も百濟も我が保護國であり我と親しい國であり、軍を出してそれを伐つたことが無いから、さういふ話を作る因縁が無く、さうして事實上敵國であつて斷えず兵を交へてゐる新羅には、それが最も適切であつたからであらう。さうしてそれにはまた、このやうに抗敵してゐる新羅は、本來、我が國に從屬すべきものである、といふ主張が託せられてゐるのであらう。新羅が征討によつて降伏したことになつてゐる此の物語に於いて、百濟がみづから進んで歸屬したやうに説いてあるのは、意味のあることである。しかし加羅と百濟とに對する物語の無いのは、物足りない感じがあるので、書紀の垂仁紀に加羅の、神功紀に百濟の、服屬の話があるのは、其の缺陷を補ふために後人によつて作り足されたのであらう。さうしてそれらの話に於いても、二國を友邦とし、新羅を敵國視する傳統的感情が明かに現はれてゐるのを見るがよい。
 
(117)          二 加羅に關する物語
 
 前節に述べたところは神功皇后の新羅征討として記紀に記されてゐる物語の批判であつて、此の批判が正しいとすれば、我が國が應神朝のころに兵力を以て新羅を壓服したといふことは歴史的事實であるけれども、物語そのものは架空の構想から成立つてゐるのである。だから、當時の軍事的行動が如何にして起されたかといふやうなことは、全くわからないが、たゞ第一篇の第二章に述べたやうな韓地の形勢からの推測として、また前にいつた如く、新羅に對して兵を出したと考へる以上は、ぜひとも豫想しなければならぬ地理上兵略上の事情として、その前に我が國の勢力が加羅(任那)に樹立せられたに違ひない、と考へられる。新羅に對する武力的威壓といふやうなことが、理由なくまた意味なくして行はれたのではなからうが、新羅の發展が直接に我が國の勢力と衝突したといふやうなことは、地理の上からも想像せられないことであり、またそれほどに國際關係が緊張してゐたとも思はれないのと、歴史的事實の明白な時代に於ける對新羅政策は、みな任那府の勢力の維持のためであつたのと、この二つのことを併せ考へると、どうしても衝突の原因が加羅になければならぬ。從つて、その間の形勢は、新羅は辰韓を統一して更に弁韓地方にその勢力を伸ばさうとして來たのに、弁韓諸國には、その中心となりもしくはその首領となつて弁韓を統一し、さうしてそれによつて新羅に對抗するだけの力のあるものが、無かつたので、新羅の壓迫に堪へないやうな地位に陷つたため、新しくツクシ地方を統一してその勢の加羅地方にも知れわたつた我が國、昔から關係の深いツクシ人の服屬したヤマトの朝廷、に後援を求め、我が國は何等かの機縁からそれに應じて加羅を保護したのではないかと推測せら(118)れる。ツクシと加羅との交通は樂浪帶方が滅びてからも、やはり引續いて行はれてゐたでからうから、我が國の事情は加羅人にも知られてゐたであらう。なほ古くからの交通?態によつて臆測を加へれば、加羅にはツクシ人の在留者があつて、それが我が國の對韓政策に何等かの機縁を作つたかも知れぬ。臆測は如何やうにも加へられるから、それは論外としても、ツクシ人と加羅との關係が密接なものであつたことだけは、確實であらう。全體、ヤマトの朝廷が半島に政治的經略の手を伸ばしたのは、頗る突飛な話であり、國民の實生活、また其の文化の程度、から見れば不相應なことでもあつて、幾何もなくしてそれが拔きさしのならぬ窮境に陷つたのも、無理のない成行であつたらうから、最初にさういふ行がかりを生じた事情にも、甚だ解し難い點がある。或はその動機の一つに文化的意義があつたので、ヤマトの朝廷が昔の帶方がよひをしたツクシ人のあとをおうたのではないかとも思はれるが、初から百濟方面に交通を試みた形跡も無いから、それもおぼつかない。新羅に至つては、其の文化の程度が我が國よりも低かつたであらうから、これは問題にはならぬ。さればとて、近代のいはゆる帝國主義的精神の發規と見るには、種々の困難がある。當時の我が國にさういふ精神の發生するやうな事情は、何もなかつたからである。が、それはともかくもとして、半島の方からいふと、前記の如き形勢が我が國の行動を誘致したことは、ほゞ疑があるまい。加羅ばかりでなくその附近の諸國、即ち弁韓の大部分が、任那府の隷屬となつたことも、またこの臆測を助ける。さうして、新羅が辰韓を統一したのは四世紀の前半であらうから、此の形勢は同世紀の中ごろから後に於いて生じたものと考へられるが、此の推測は最初の新羅征討の時期が370年ころではなかつたらうか、といつた前述の臆測と符合するのである。
 ところが、書紀には神功紀の四十九年に「平定比自※[火+本]、南加羅、※[口+碌の旁]國、安羅、多羅、卓淳、加羅七國、」といふ記事(119)があつて、加羅は新羅征討の後になつて我が國に隷屬したやうに書いてある。しかしこれは歴史的事實の記載と見なし難いのみならず、舊辭などによつて傳へられたことでもないから、それについての研究は別にするとして(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)、それとは別に、加羅について、崇神紀及び垂仁紀に、其の國人の蘇那曷叱知といふものが來朝した、といふ話があるから、それをこゝで一應吟味して置かねばならぬ。
 さて記紀の系譜に於いて、崇神天皇垂仁天皇の二朝は仲哀天皇の朝から五代めおよび四代めの前となつてゐるから、假にさういふ二朝のあつたことを頭に入れて置いて、しばらくそれを實際の年代にあてはめて考へて見ると、新羅征討が始めて行はれた時よりもほゞ百年あまり前のころ、即ち三世紀の中ごろ、とせらるべきものであらう。ところが、此のころはツクシの邪馬臺が勢力を有つてゐた時、少くともツクシがまだ我が國家組織に入らなかつた時である。ツクシ舟が加羅を經由して帶方郡と往來してゐた時代である。加羅の知つてゐる「倭」はツクシの諸國であつた時代である。かういふ時代に加羅人が特殊の使命を帶びてヤマト(大和)に來たとは思はれぬ。それから話の内容であるが、朝廷から赤絹一百疋を賜はつたといふのも、それを新羅人が道で奪ひ取つたといふのも、事實とは考へられぬ。此のころのヤマトの文化?態として、絹が豐富であつたとは信じ難い。魏志によれば、三世紀のころにはツクシ人が蠶桑の業を知つてゐたのであるから、ヤマト地方でも絹が作られてゐたかも知れぬが、よしさうとしても、五六世紀のころになつて始めて蠶桑の業が大に興るまでは、極めて微々たるものであり、そのころになつてすら一般には和栲荒栲の衣を着てゐたといふではないか。それから、當時の新羅は慶州地方の一小部落に過ぎないので、加羅とは土地も隔たつてゐるから、此の下賜品を奪ふといふこともありさうでない。だからこれは、加羅服屬の起源を説き、それと共(120)に、新羅と加羅とが互に敵國であつた歴史的事實にもとづいて、其の爭闘の由來を示すために作つた話であらう。
 なほ書紀の分註として引いてある「一書」には、加羅國の王子のツヌガアラシト(一名于斯岐阿利叱智干岐)といふ額に角の生えたものが、越のツヌガ(ツルガ)に來た、それは初めアナト(馬關海峽)に來たのであるが、そこのものに障へられて内海へ入ることができなかつたから、遠く日本海を東に迂回してツヌガに來たのである、垂仁天皇は先帝崇神天皇の御名ミマキを加羅の國號にせよと仰せられた、といふ物語がある。ツヌガアラシトといふ名も角の生えた人といふのも、ツヌガの地名を説明するための話であつて、其の實、何れも此の地名から作られたものであることは、いふまでもなからう。アラシトは即ち阿利叱智で、後にいふやうに百濟人の地位を示す稱號らしい。「ツヌガの地名については古事記の仲哀天皇の卷の末の方に別の説話がある。かういふことが種々に試みられたのである。なほ後章參照。)馬關海峽から内海へ入られなかつたとて、遠くツルガに來た、といふのも事實とは思はれぬ。その間にいくらも上陸地點はある。(アナトで阻へられて内海に入られなかつたといふことは、次にいふアメノヒボコがナニハでとめられて上陸ができなかつた、といふのと同じ思想であつて、世人周知の公道から離れた方面にある物語の場所と此の公道とを、結びつける必要から生じたものである。)さて此のツヌガアラシトの話は使節の名が變つてはゐるが、もとは書紀の本文にある蘇那曷叱知の物語と同じものであつたらう。たゞ蘇那曷局叱知としてある方では、ツヌガに來たことにはなつてゐない。航路も來着地點も記してないが普通の例によつてツクシを經由したやうにせられてゐたのであらう。來朝の記事をうけて「任那者去筑紫二千餘里、北阻海、以在鷄林之西南、」と書いてあるのでも、それは知られる。さすればツヌガアラシトの話は、その道すぢの極めて不自然なことから考へても、蘇那曷叱知の話(121)を改作したものであることが、推測せられる。それからミマナの名稱の由來も、やはり例の地名説明の説話であらう。ミマナは任那の字で寫されてゐるが、それは廣開土王の碑にも見えてゐるから、韓地で用ゐはじめた文字であり、從つて此の名も、本來、彼の地にあつたものに違ひない。「任」は韓地に於いてもmの音を寫す文字として用ゐられてゐたので、それがそのまゝ我が國にも傳へられたのである。任那の名は今日に傳はつてゐる漢韓の典籍にはあまり使つてなく、たゞ宋書倭國傳に倭王がみづから稱したといふ稱號のうちにそれが見え、また三國史記(卷四六)の強首傳に出てゐるのが目につくのみであるが、實際世に行はれてゐたものであることは、廣開士王の碑を見ても疑が無い。此の名の由來、またそれと加羅との關係は明かでないが、廣開土王の碑にも三國史記にも、「任那加羅」または「任那加良」と書いてあるのを見ると、加羅よりは廣い地方名らしく思はれる。たゞ問題は、此の地名説話が、その作られたよりいくらかの前から加羅の服屬がミマキ天皇の御代のこととしてあつたために、それを利用して考案せられたのか、又はその反對に、この説話を作る便宜のために其の服屬をミマキ天皇の御代としたのか、といふ點にある。加羅の服屬を崇神朝としたことに特殊の理由があるやうには考へられないから、後の方の考が正しいやうに思はれるが、それにしては蘇那曷叱知の話に此の地名の説明がなく、却つてそれを改作したものらしいツヌガアラシトの物語にそれの出てゐるのが、少しく解し難い。たゞ書紀編纂の際に、本文には偶然それが遺脱したのだと見れば差支が無いやうであるから、今はしばらく、かう推測して置くべきであらう。
 然らばこれらの話は何時作られたかといふに、絹を賜はつたといふことから考へると、少くとも我が國に絹の生産が豐富になつてから後の作らしく思はれる。それからツヌガの話は、此の方面が外人來着の地となつてからの製作に(122)違ひないが、それは欽明朝に於ける高句麗人來朝以後のことである。加羅人や百濟人は固より新羅人とても、此の方面から往來するといふことは、地理上不自然な話であつて、また歴史的事實の明かに知られる時代に於いて、事實上そんな例は一度も無い。神功皇后がツヌガに行宮を置かれたといふ話も、また同じことであつて、外國と交渉のある此の津を、外國を征服せられたといふ物語のある皇后に結びつけたのであらう。新羅に對する航路と此の津とは何の因縁も無い。(延喜式神名帳によると、越前國敦賀郡に白城神社や信露貴彦神社があるので、それが音の上から見て新羅人と何か關係があるのではなからうか、從つて、新羅人が古く海を渡つて此の方面に來住したことがあるのではなからうか、といふやうな考が起るかも知れないが、第一の推測が既に甚だ不確實である。新羅は古事記の允恭の卷には新良、姓氏録には新良貴、出雲風土記には志羅紀と書いてあるが、それを白城のやうに所謂訓を借りた例、またラをロとした例は、我が國では一つも無い。またよし假にさういふ推測が可能であるとしても、新羅人が我が國の所々に住むやうになつたことは、後代に於いて幾らも起り得た事情であるから、此の地方と新羅の本國との直接の交渉を此の點から想像すべき根據は、此の記載のどこにも無い。)さて此の話は古事記の方には見えないから、其の準據となつた舊辭には無かつたのであらう。さうしてそれが、記紀に共通な新羅征討物語に於いて、海外に國が有るか無いか判らぬといふ話のあるのと、矛盾してゐることを思ふと、これは、かの物語よりもはるか後に作られたものであることが推測せられる。なほ前にも一言した如く、繼體紀二十三年の條に任那王の言として「夫海表諸蕃、自胎中天皇置内官家、不棄本土、……」と見えてゐて、それによれば任那も應神朝に内屬したことになつてゐ、六年の條のアラカヒの妻の言も同樣に解釋せられるが、蘇那曷叱知などの話の精神はそれとも調和しないことを、考へねばならぬ。(123)此の話の表面には、任那が此の時服屬したといふことは説いてないが、任那が屬國であるといふ思想がその基礎になつてゐることは、推知せられる。ツヌガアラシトの話ではそれを大加羅の王子とし、またシナ思想に本づいて、日本に聖皇があるから往いてそれに歸する、といふことにしてあるのでも、そこに政治的意義のあることが知られる。
 なほ姓氏録(卷三〕吉田連の條には、崇神朝にシホノリツヒコといふものが任那に遣はされたことが記されてゐるが、此の名は海外渡航といふことを擬人して作つたものであるから、勿論、實在の人として見るべきではない。またその派遣を崇神朝としてあることが書紀の記載の主旨とも矛盾してゐる。要するに後世になつて作られた話に過ぎない。
 
          三 新羅に關する其の他の物語
 
 なほこゝに考へて置くべきことは、神功皇后の征討物語よりも前のこととして記紀に記されてゐる新羅の話である。その一つは、古事記では應神の卷に昔のこととして記され、書紀には垂仁紀三年の條に見え、播磨風土記には神代のことになつてゐる、新羅の王子アメノヒボコの來朝物語である。これについては、第一に、新羅の王子が來朝するといふやうなことが、三世紀もしくは其の前に於いては、事實としてあり得べからざる話である、といふことを知らねばならぬ。それは?述べたやうな韓地の形勢と、ヤマトの朝廷の勢力の及んでゐる範圍とから、すぐに考へられることである。(播磨風土記の揖保郡の條には、ヒボコを韓國から來たとしてあるが、この「韓國」は半島の汎稱として用ゐてあるらしいから、これはもと新羅人として語られてゐたのをかういひかへたものであらう。また釋日本紀に(124)引いてある筑前風土記の怡土郡の條には、高麗の意呂山に天降つたものとしてあるが、高句麗人としてはなほさらこんな昔に我が國に來るべきはずが無い。此の筑前風土記の説は、はるか後世に作られたものであらう。)第二には、アメノヒボコが新羅人の名らしくないことである。歴史的事實として明白な時代の記紀の記事は固より、其の他の説話に於いても、新羅人は決してこんな日本語の名稱を以て記されてはゐない。
 第三には、彼が持つて來たといふ所謂神寶に、新羅のものらしい特色が無いことである。古事記に記されてゐるその神寶の玉と鏡とは、上代の日本人が寶として最も尊重したものであり、また浪ふるひれ、浪きるひれ、風ふるひれ、風きるひれは、神代の卷のホホデミの命の説話に見える潮みつ玉、潮ひる玉、と同じ思想の産物であり、其のいひあらはし方も、奧つ鏡、邊つ鏡のそれと共に、上代の文獻に例の極めて多い二つづつの連稱法である(ひれについても、神代の卷のオホクニヌシの神の説話に、蛇のひれ 蚣蜂のひれといふことがある)。だから、これらは何れも異國的のものではない。書紀には玉と鏡との他に刀や桙やまた熊神籬といふものがあるが、神籬といふのは、その名から見ても、明かに日本人の思想から作り出されたものである。(熊神籬は稻で作つた神籬ではあるまいか。稻をクマといつたことについては、世に既にその説があるが、神代紀のウケモチの神の殺された話にアメノクマビトといふ名が出てゐて、そのクマも稻をさしてゐるらしい。ヒモロギは神のやどるところと定められた木であり、名稱もそれによつて作られたのであるが、稻で作る場合もあつたのであらう。同じく植物であるから、木を用ゐるのと同じ理由で稻も用ゐられ、またそれは生命の本源たる食物として最も重要なものである米をならせる植物である點に特殊の意味があつたと、解せられる。米そのものが神と考へられてゐたことも、參考せられよう。)もつとも、或る時代に於いて出(125)石に神寶とせられたものがあつたことは事實でもあらうし、またそれが何等かの點に於いて特色を有つてゐたかも知れぬ。けれども古事記と書紀とが全く違つたものを數へ擧げてゐるのを見ると、それが實在の神寶を指してゐるかどうか甚だ疑はしい。實在のものを指したのならば、こんなにひどく違つて傳へられるといふことは無いはずだからである。兩方を比べてみて目につくのは、書紀にもその注に記してある「一書」にも、イヅシ小刀とイヅシ桙とがあつて、それにイヅシの語が冠してあるのを見ると、これが神寶の重要なものであるらしく考へられるが、古事記にはそれが無いといふことである。説話として此の二つの記載のどれがもとのものかと考へるに、古事記に數を八つとしてあるに對し、書紀の本文に七つとなつてゐるのは、シナ思想のゆきわたつた後に生じた變化らしく、此の點からいへば書紀の方が新しい形のやうであるが、數と品物とは別々に見られようから、刀や桙のある方が必しも新しい説であるとはいはれぬ。書紀の註の方には數が八つになつてゐて、本文のとは羽太玉が反對の觀念の葉細珠になつてゐる外に、膽狹淺太刀といふものが加はつてゐるが、刀や桙のあるのは本文の記載と同じである(葉細珠は羽太玉と連稱せらるべきものであるから、これは片われづつが二つの傳へに現はれてゐるのである)。また同じ垂仁紀の八十八年の條の話では、數は七つであるが、刀はあつても桙が見えない。かういろ/\になつてゐるから、これだけの比較では、どの話がもとのであるか判斷しかねる。從つてこれらの説話が實在の神寶とどういふ關係にあるかも、またわかりかねる。たゞ刀と桙とにイヅシの語の冠してあるのは、注意すべきことであつて、實在の神寶に於いてか又は説話に於いてか、イヅシと刀または桙とが特殊の關係をもつものとせられてゐたには違ひない。ところが、神寶をもつて來たものがヒボコとして語られてゐることと、このイヅシ桙との間には、何等かの關係があるのではあるまいか。矛(梓)の名に(126)ヒボコといふのがあり、それに日矛の字をあてることは、神代紀の岩戸がくれの物語の注の「一書」にも例があつて、その意義は檜矛であり、矛の柄が檜であることから出た名と解せられる。(神代紀のこの註の「一書」の日矛のことは、後からの插入のやうであるが、上代の文字の用ゐかたを知る例にはなる。この書の第七篇參照。)檜矛といふやうないひかたは、古事記の景行の卷のヤマトタケルの命の東方巡歴の話にある「ひゝらぎの八ひろ矛」といふのと同じであるが、なほ梓弓とか槻弓とかいふ名のあることも、參考せられよう。さすればイヅシ桙は檜桙であつて、それが人の名とせられてアメノヒボコとなり、このヒボコがイヅシの神寶をもつて來たやうに語られたのではあるまいか。神寶がいろ/\あるとせられながら、また刀にもイヅシの語が冠せられながら、桙(矛)のみがかう取扱はれたのは、説話作者の思ひつきのためであらう。神寶として記紀に記載せられてゐるものは、確實に或る時代の現在の神寶を指してゐるとは考へ難いが、説話の上ではかうなつてゐるのであり、さうしてかう見る場合には古事記の説話に桙の見えないのは後の變形と考ふべきである。が、いづれにしても神寶は日本のものであつて、新羅人が持つて來たものとすべき徴證はどこにも無い。だから、新羅人としてのヒボコがもつて來たといふのは、イヅシの神寶の起源説話と見るべきである。何ものかを神聖にし尊くするために、其の起原や由來を古代または外國に置くことは、普通の慣例であることをも、考へねばならぬ。ついでにいふ。垂仁紀八十八年の條の末尾に、ヒボコの來朝のことが書いてあるのは、三年の本文と重複してゐて、奇異な書きかたである。別の書から寫しとられた注記が本文にまぎれこんだのではあるまいか。
 然らばとボコが何故に新羅人とせられたかといふと、それにはヒボコの來朝した由來として古事記に載せてある物(127)語を考へねばならぬので、第四にいふべきことはこれである。この物語は、ヒボコが赤玉から化生した女を妻としてゐたが、其の妻が我が國に逃げて來たのでその後を追うて來た、といふのである。ところが之と同じ話は、書紀に引用してある「一書」では、前に述べたツヌガアラシトのこととなつてゐて、たゞ赤玉が白石と變つてゐるのみである。かういふ同じ話が全く違つた甲乙二人のことになつてゐるのは、甲のことが乙のことに轉訛して傳へられたとするよりは、本來、話そのものは甲にも乙にも關係の無いものであつたのを、或は甲に結合せられ或は乙に附會せられた、と考へる方が合理的である。興味は話そのものにあつて甲のこととしても乙のこととしても差支の無いものだからである。(同じやうな例は他にもあるので、民間説話らしい三輪山物語が、古事記ではイクタマヨリヒメに、書紀ではヤマトトトヒモモソヒメに、結びつけられ、古事記ではヤマトタケルの命が伊勢で詠まれたとしてある歌が、書紀では景行天皇のヒムカでの御製となつてゐ、一夜云々といふ話が神代史にも雄略紀にも見えてゐる類が、それである。)ところが、此の話は韓地傳來のものらしい。といふのは、古事記のヒボコの話では、玉は或る女の生んだもので、其の女の晝ねをしてゐる時に、日光にほとを照らされて姙んだのだ、といふことであるが、これは有名な高句麗の祖先の傳説から轉じたものと解せられるからである。
 さて此の話の變化して來た徑路をたづねてゆくと、第一は王充(後漢の人)の論衡(卷二吉驗篇)に見え、魏志の扶餘傳に引いてある魏略にもそのまゝに採つてある、扶餘王の祖先の話であつて、それには、※[壹の豆が(石/木)]離國の國王の侍婢が?子ほどな大さの氣が天から下りて來たのに感じて姙み子を生んだとある。ところが扶餘から出た高句麗王の祖先の物語は、それと少し變つてゐる。それは魏書の高句麗傳の記事であつて、扶餘王が河伯の女を宮中に閉ぢこめて置い(128)たら、其の女が日に照らされて姙み、一卵を生んだ、其の卵殻を破つて出た男の子が即ち高句麗王の祖先だといふのである。廣開土王の碑では、卵の話と母が河伯の女であることとはそれと同じであるが、日光に照されたことは無くして、父を天帝としてある。三國史記の高句麗紀では、話がよほど複雜になつてゐるが、それは新羅の史家によつて潤色せられたものらしく、ずつと後世のものである(滿鮮地理歴史研究報告第九、「三國史記高句麗紀の批判」參照)。さてこれらの話の記されてゐる書物の時代の順序から考へると、魏書の高句麗の話は論衡または魏略に見える扶餘の話から變化したものであつて、物語の發達の徑路は、?子の如き氣によつて姙んだのが卵を生むことになり、天から氣の下りて來たのが日光に照らされることになつたものとすべきやうである。?子の如き氣といび氣が天から下りるといふのは、話が抽象化せられてゐるので、それよりも卵を生むといひ日光に照らされたといふ方が具體的であつて、未開人の心理には適切であるから、これが昔から扶餘民族の間に語られてゐた話であつて、論衡などのはシナ思想によつて變改せられたものかとも考へられるが、母が河伯の女であるといふのは鴨緑江の流域に國をなしてゐた高句麗に於いて加へられたことであるらしく、また一方に父を天帝とした話もあるとすれば、論衡などの話が高句麗人に採られて二樣に發展し、一つは日光の物語となり、一つは天帝を父とすることになり、卵だけが兩方に共通の話となつた、と見る方が妥當であらう。しかしそれは何れにしても、ヒボコに結合せられた前記の話で、卵が玉になつてゐ、生まれた子が男でなくて女であるだけは、高句麗の傳説と違ふが、それはかういふ話の變化としては普通のことであり、また日光に照らされたことは全く同じである。(照らされたところをほととしたのは日本に來てからの變化であらう。イサナミの命がカグツチを生まれた時の話、神武の卷のセヤタタラヒメの話、崇神紀のヤマトトトヒモモソヒ(129)メの命の話、などに此の語のあるのを參考するがよい。)だから高句麗の話とヒボコの物語との間には必ず關係が無くてはならぬ。さすれば、どういふ道すぢで此の高句麗の話が我が國に傳はつたかといふに、續紀(卷四〇)の延暦九年七月の條の百濟王仁貞等が祖先のことを奏上してゐる表文中に、此の話が書いてあるのを見ると、それが百濟王の祖先の物語として傳へられてゐたことが想像せられるから、百濟を經て我が國に來たものであらう。此の表文には卵のことは出てゐないが「日神降靈」とある以上は、其の話が知られてゐたに違ひない(但し此の表文の系圖などは信用し難い)。だから何の時にかその話がヒボコに結びつけられたのであらうが、それは、イヅシ桙といはれた檜桙の「檜」が「日」と同じ音であるために、從つてそれをもつて來た人の名としてのヒボコのヒが日の義に解し得られるために、日の光によつて玉を生んだといふ、韓地傳來の物語を附會するにつごうがよかつたからのことらしい。さうしてそれが新羅人とせられたのは、上に考へた如く、韓地のうちでも新羅が最も多く人の注意をひいた國だからであらう(なほ下文參照)。書紀に見えるツヌガアラシトの話には石の由來が説いてなく、從つて高句麗の物語との間には何の連絡も無いが、それは恐らくはヒボコの話から轉じて來たのであつて、たゞ肝心の感生説話が脱ちてゐるのであらう。前に説いた如く、ツヌガアラシトの話そのものが後世の作らしいからである。但しヒボコの話でもツヌガアラシトのでも、その玉もしくは石が牛の代償とせられてゐるところに、別の意味があり、後の方ではまたその石が「郡内祭神」となつてゐる。此の牛の話の意味が何であるかは、よくわからぬが、それが韓地傳來の物語であることは、ほゞ推知せられる。我が國の牛は韓から傳へられたもので、その名も韓語の轉じたものであることを思ふと、韓と牛とは聯想し易かつたらうと思はれる。續紀(卷三八)延暦四年六月の條に見える阿智王(阿知使主)の話にも、(130)神牛の教によつて帶方に移住したといふことがあるから、參考するがよい。ついでにいふが、三國史記の新羅紀には、やはり上代のこととして、其の國主(始祖赫居世及び脱解尼師今)が卵から生れた話がある。これも多分扶餘の傳説から來たのであらうが、日光の話はそれには無い。しかし駕洛國記(三國遺事所載)に見える加羅の祖先の話にも卵のことがあつて、それが日の如く圓かつたとせられ、また天から紫繩が下りて來てその所在を示したといはれてゐるのを見ると、そこに日光の物語から轉じて來た痕跡が認められるが、此の加羅の物語全體が新羅の話を本にして作られたもののやうであるから、新羅の話にも、もとはそれがあつたのであらう。なほアメノヒボコについての話と此の加羅の話とは、形を成した時代も遙に違ひ、傳來の徑路も同じではないやうであるが、何れも高句麗の物語から出て、一は日光が其のまゝであつて卵が玉に變化し、他は卵がもとの姿でのこり日光が卵の形容や天から下つた紫繩に變つてゐるのが興味をひく。ヒボコの話には直接の關係はないやうであるが、ついでであるからいひそへておく。
 なほ、ヒボコの妻またはツヌガアラシトの得た女はナニハのヒメコソ神社に祀つてあるといふ。此の神社は肥前風土記によると肥前基肄郡にもあるが、それにはヒボコの話は無い。ツヌガアラシトのこととしてある書紀の「一書」によれば豐後國前郡にも此の神社があるが、これは風土記にも神名帳にも見えぬ。要するに諸所にあるものであつて、本來ヒボコなどの話とは關係の無いものであらうが、ナニハのはそれがヒメといはれてゐるのと、韓地に對する航路の發着點たる地にあるのとのため、物語に結合せられたのであらう。豐前のヒメコソ神社は、其の名の同じであるところから、後になつて此の話に結びつけられたものらしい。後章にいふやうに、神社は、もと人を祀つたものではないが、後になるといろ/\の家や氏族に結びつけられる場合が生じた。また古事記に、ヒボコがナニハで障へられた(131)ためタヂマに廻つて上陸したとあるのも、地理上、怪しい話である。書紀に注記せられてゐる「一書」には、ハリマに上陸してそれからウヂ河を溯り、アフミ、ワカサ、などを經てタヂマにおちついたとしてある。タヂマに上陸させ、またはそこにおちつかせたのは、イヅシの神寶の起源説話にヒボコの名を用ゐるために、その來朝の物語を作つたからのことであるが、かういふやうに國々を經めぐるといふことは、古事記の垂仁の卷に、ヤマノベノオホタカといふものが鵠を追ひ歩いて、ハリマ、イナバ、タニハ、タヂマ、チカツアフミ、ミヌ、ヲハリ、シナヌ、コシ、の諸國を經めぐつたとあり、書紀には、景行天皇がツクシの各地を巡幸せられたやうに記してあり、また記紀の何れにも、ヤマトタケルの命が東方の諸國を巡歴せられたといふ話のあるのと同樣、ヤマトにゐるものが知識の上に於いて地方を想ひ浮かべるところから生じた思想の所産である。特に此のヒボコの通つた路は、古事記の仲哀の卷の末の方に、タケウチノスクネが太子を奉じ、アフミ、ワカサ、を經てコシの道の口のツヌガにいつて宮を作つた、とあるのと同じやうな道すぢである。さうして此の書紀の注記の「一書」の道すぢも、また垂仁の卷のも、地理上甚だむりなものであるが、これは強ひて多くの國を經過させようとしたがために起つた混亂であらう。なほヒボコのは、ヤマノベノオホタカの話や、書紀のヤマトタケルの東巡の物語と共に、國郡制定以後の考で作られ、もしくは改作せられたのではないかと思ふが、それについては後章に述べることにしよう。それから同じ書に、近江の陶人がヒボコの從者の子孫だとあるのは、歸化人か何かがそこにゐたのをヒボコの物語に結合したまでのことであらう。系圖の製作は昔から恣に行はれたものである。これについてもまた後に述べる機會があらう。
 要するに、ヒボコの物語には一つも事實として考へらるべきことが無いので、それはどこまでも作られた物語であ(132)る。どうしてかういふものが作られたかといふことは、上に考へたところでほゞ知られようが、それには或は、新羅人がしば/\我が國と往復し、そのうちには歸化して我が國にとゞまるものがあるやうになつたことによつて助けられた、といふ事情もあるかも知れぬ。更に一歩を進めて考へると、新羅が我が國に從屬すべきものであり我が國が新羅の宗主であるといふ考すらも、この物語に含まれてゐるやうである。古事記の話では、ヒボコの妻は我が國を「吾祖之國」といつてゐるし、書紀に引いてある「一書」には、ヒボコが日本に聖皇があるからといふので歸化したとしてある。此の後の方のはツヌガアラシトの話のと同樣のシナ式政治思想、シナ式對夷狄觀、の適用であるが、それによつても作者の意圖は覗はれる。何れの話に於いてもヒボコを新羅の王子としてあるのも、或はこのことと關係があるかもしれぬ。また別の物語との關係を考へると、前に述べたやうに、神功皇后の新羅征討物語に、海に出てみても國が無いといふ話のあることからいつても、これは加羅人來朝の物語と同樣、新羅征討物語のできたよりもはるか後に作られたものであることが、明かであらう。餘事ではあるが、高麗朝に作られた三國遺事(卷一)に、東海の濱に住んでゐた延烏郎といふものが、巖(又は魚)に乘つて日本にゆき、王となつたのを、其の妻細烏女が後を慕つて同じく巖に乘つて夫のところへいつた、二人は日月の精であつたので、これがために新羅は暗黒になつた、新羅人が驚いて二人を迎へにいつたが、細烏女の織つた?で天を祭ればよいといはれたので、そのやうにしたら、日月が舊の如く現はれた、その天を祭つたところが迎日縣だ、といふ物語がある。迎日縣の地名説話で、日といふところから日本にも附會したのであらう。迎日縣の名が高麗朝に始まつてゐることから考へると、此の物語の作られた時代もほゞ知られる。ヒボコの話と少しく似てゐるところがあるが、全體から見てシナ思想から出たものらしく、勿論、ヒボコの(133)物語とは何の因縁も無い。
 次にいふべき新羅の物語は、スサノヲの命が新羅に往復せられたといふ、書紀の神代の卷に注記してある二つの「一書」の説である。これは古事記には勿論、書紀の本文にも、また多くの「一書」にも見えてゐないことであるから、單に此の點から見ても、それが一般には承認せられてゐない物語であつて、從つて後になつて添加せられたものであることが推測せられる。さうして樹木の話といひ埴舟のことといひ、すべてが説話であることは明白である。その詳しい批判は第三篇の「神代の物語」に於いて述べることとするが、たゞ通俗には、此の説話が上代に於いてイヅモと新羅との間に日本海を横斷する航路による交通があつたことを暗示するものであるやうに、考へられてゐるらしいから、その非なることをこゝに一言して置きたい。かういふ交通は、前に述べたやうな三世紀までの新羅の形勢に於いては、できないことであつたが、それのみならず、事實の明かに知られる時代に於いて、我が民族と韓地との交通は常にツクシ方面を本據とし、もしくはそこを經由したのであつて、ツクシ人は勿論、瀬戸内海方面から出かけるにも、後世の如く馬關海峽からの直航にすらよらず、古くからの航路により、また航海術の幼稚な時代の常として停泊地をなるべく多くする必要もあるため、マツラから舟出してイキ、ツシマ、を輕由したこと、さうしてこれについては、魏志の記載と應神天皇以後の國史上の記載とが一致してゐること、並にイヅモと韓地との直接の交渉が殆ど史上に見えないことからも、また此の通俗の考を肯定することはできない。もし我が國が四世紀の後半に對韓經略を開始した前に於いて、イヅモと新羅との直接交通があつたならば、何故にそれが忽然として止み、さうしてそれがずつと後までも、否殆ど今日までも、復興せられずにゐたのであらうか、全く説明ができなからう。また記紀に見えると(134)ころからいつても、ツヌガアラシトの話にもヒボコの物語にも彼等が日本海を横斷して來たやうには作つてなく、何れも馬關海峽の方面から沿岸航路によつてツヌガまたはタヂマに來たことにしてある(特にヒボコのは一旦ナニハへ來たことになつてをり、書紀の方ではそこから陸路を取つたことにしてある)のは、此の物語の作者が加羅人や新羅人の日本海横斷を想像し得なかつたからであらう。スサノヲの命の新羅物語は航路までは考へず、たゞ概念的にイヅモと新羅とを結びつけたに過ぎないのであるが、もし作者がもつと具體的の物語にしようとしたならば、やはりツヌガアラシトの話のやうな航路をとらせたことと思はれる。イタケルの命が樹種を播殖するに當つてツクシから始めたとあるのでも、それが推知せられる。高句麗人がコシの方面に來たのは、日本海横斷の道によつたものらしく、當時の人もそれを聞き知つてゐたであらうが、しかしそれは非常な事件として人の耳を驚かしたに違ひなく、コシ地方が外人の來着地として特別に注意せられたのも、そのゆゑであらう。さうしてそれは縁の薄い遠方の、かういふ航路を取らなければ交通することのできない、高句麗人の特殊のしかたとして考へられたので、平常往復してゐる新羅や加羅に對する航路としては、到底日本海横斷などを考へることができなかつたのである。(事實また高句麗人の、並にそれを繼承した渤海人の、此の航路を取つたのは、當時に於ける國際關係に餘儀なくせられたためであつて、此の二國の外には、こんな交通路は最近に於けるロシヤおよび北鮮との交渉が開かれるまでは、全く絶えてゐたのである。)また新羅についていふと、その國民は本來航海には慣れないものであつたことをも考へるがよい。延喜式神名帳の出雲國の部に韓國伊太?神社といふのが幾つもあるので、それも此の地と韓國との間に古い關係のあることを暗示する材料のやうに思はれるかも知れないが、此の名の神社が出雲風土記に一つも見えてゐないといふ一事でも、それが、(135)風土記の作られた天平時代以後に於いて、新らしく祭られたものであること、從つて上代の?態とは關係の無いものであることが、推測せられる。なほ此の神は、伊太?和氣(伊豆加茂郡)、伊多太(山城愛宕郡)、伊達(丹波桑田郡、紀伊名草郡)、印達(播磨揖保郡)、射楯(同餝磨郡)、などの文字でその名の記されてゐる諸所の神社と對照し、なほ播磨風土記(餝磨郡因達里の條)の伊太代の神の記事を參考すべきものであり、韓國の稱呼についても、韓神(宮内省)、辛國神社(河内志紀郡)、辛國息長大姫大目命(豐前田川郡)、などと互に參照して考ふべきものであらう。何れにしても、それによつてイヅモと韓地との直接の交渉を推すべきものではない。
 最後に、記紀には見えないことであるが、姓氏録第五卷新良貴氏の條に、新羅國王の祖先は神武天皇の御兄弟のイナヒの命だ、としてある話がある。記紀の何れにも出てゐないで、ずつと後に編纂せられた姓氏録にあるといふことが、既に此の話の古くから傳へられたものでないことを暗示してゐる。多分、神武紀に此の命が海に身を投ぜられたといふことがあるので、それを海外にゆかれたことに取りなし、さうしてそこから發展した物語であつて、新良貴氏といふものが、其の祖先を皇族に託して家格を尊くしようといふ動機から出たことであり、記紀の編纂せられた後、奈良朝ごろに作られた話であらう。}(イナヒの命のことは、古事記には妣の國にゆかれたとあり、書紀には母が海神だからといふので海に入られたとあるから、其の意味は分明である。即ち海中に入られたといふのであつて、海外の國にゆかれたといふ話ではない。)なほ宣長は古事記傳(卷三四)に於いて、三國史記の新羅紀に脱解尼師今が倭國の東北一千里である多婆那國に生まれたものとしてある記事を引いて、かういふことのありさうなことをいつてゐるが、三國史記のこれらの記事が歴史的事實の記録でないことについては、この書の附録に於いて述べるであらう。
(226) 以上は記紀の新羅に關する物語の一々についての見解であるが、一般的に考へても、四世紀のはじめよりも前の時代に於いて、いはゆる倭人が韓地と交通したのは、主としてシナの工藝品を輸入するためであつたから、半島のうちで樂浪帶方から最も遠く、從つて文化の程度の最も低かつた新羅方面に、そのころの倭人が出かけていつたとは思はれない。後世の?態から推測すると、ツシマ人などに於いては、もつと日常生活に大切な物資を得る必要があつたかも知れぬが、それにしても土地の豐饒な弁韓または馬韓方面に船を向けたに違ひない。ずつと後のいはゆる倭寇などでも、東海方面に向つたことは西南海の沿岸地方に比べると甚だ稀であることを、考へるがよい。またもし遠い上代に於いて韓地と交通したことが、記紀の物語に現はれてゐるとするならば、車實の極めて明白な樂浪帶方がよひのこと、並にその航路に當つてゐて何ほどかの交渉が必ずあつたはずの弁韓馬韓方面に關する話が、何よりも先づなくてはならぬのに、それがまるで見えず、さうして文化の上からも、政治上の形勢からも、地理上の?態からも、また後世の事例からも、交通のあつたことの甚だ疑はしい新羅の話のみがあるといふことは、とりもなほさず此の新羅の話が事實のいひ傳へでないことを示すものである。世には此のことについて、遺物や遺跡の上からの臆測説もあるやうであるが、著者の知る限りに於いては、今日のところ、ぜひともさういふ結論に到達しなければならぬやうな根據が確立してゐるらしくは思はれぬ。よし遺跡や遺物などに於いて新羅と我が國(もしくは我が國の某地方)とに類似もしくは同一のものがあるとしたところが、それが相互間の直接交通の結果でなくては決して起り得ないことであるといふこと、並にさういふ遺跡遺物が我が國(または我が國の某地方)と新羅との外には決して存在しないものであり、その上にそれが前に述べた時代のものであるといふことの明證せられない以上は、それをもととしてかういふ臆測は(137)加へられないはずである。
 以上の研究で神功皇后新羅征討物語の性質、また上代の新羅に關する種々の物語の史料としての價値は、ほゞ判明したことと信ずる。ところが、此の征討の由來がクマソの征伐にあるやうに語られてゐるとすれば、そのクマソとは何であらうか。そこで次の間題に轉ずる。
 
(138)       第二章 クマソ征討の物語
 
          一 ヤマトタケルの命に關する物語
 
 クマソに關する説話で最もよく人に知られてゐるものは、いふまでもなく、ヤマトタケルの命がクマソタケルを誄せられたといふ物語である。此の話は記紀の記載がほゞ同樣であつて、(1)ヤマトタケルの命が女装して宴席にまぎれ込み、そこでクマソタケルを殺されたといふこと、(2)クマソタケルが命の武勇を讃美して、ヤマトタケルといふ稱號を上つたといふこと、この二つは記紀の兩方とも一致してゐる。たゞ古事記にはクマソタケルを兄弟二人としてあるのに、書紀では一人とし、古事記にはクマソのタケルの名が記してないのに、書紀にはトリイシカヤといふ名が出てゐる上に、またそれをカハカミノタケルともいふとしてある。それから命の着られた女のきものはヤマトヒメの命からもらはれたものである、といふ古事記の話が書紀には見えない代りに、弓の上手なものをつれて行かれた、といふ書紀の物語は古事記には無い。しかしこれらの小異は、物語の中心思想には大した影響の無いことである。たゞ古事記では、ヤマトタケルの命の行動がクマソ征討の全體であるのに、書紀では、その前に景行天皇親征の物語があつて、それが詳しく記されてゐるから、ヤマトタケルの命の事業は比較的輕いものになつてゐるので、こゝに記紀の間に存する一大差異が見える。
(139) さて此の話について記紀のどれが原形であるかと考へて見るに、第一に、反逆者を二人とすることは、例へば神武天皇東遷の話に見えるエウカシ・オトウカシやエシキ・オトシキなどの如く、古い物語の通例であつて、書紀でも、景行天皇親征の時のソの國の酋長をアツカヤ・セカヤとし、其の女にイチフカヤ・イチカヤの二人があるやうにしてある。同じ時のクマの酋長はエクマ・オトクマであり、アソにはアソツヒコ・アソツヒメがある。またヤマトタケルの命に降服したエミシの酋長はシマツカミ・クニツカミとして書紀に記してある。その他、常陸風土記のヤサカシ・ヤツクシ、キツヒコ・キツヒメ、肥前風土記のウチサル・ウナサル、オホミミ・タルミミ、など、風土記にも例は多い。或は兄弟とし、或は男女とし、また或は二人の間の關係が明かに記してないけれども兄弟男女を連稱すると同じやうな語調で連稱せられるやうにできてゐる、といふ差異はあるが、二人としてあることは同じである。さうしてこれはタカミムスビ・カミムスビ、イサナキ・イサナミ、アハナギ・アハナミ、カミナホビ・オホナホビ、オホマガツヒ・ヤソマガツヒ、イクタマ・サキタマ、イハサク・ネサク、などの例でも知られる如く、神々の名に於いて常に見るところであり、また後の物語でも、外國人を呼ぶ場合にすらクレハ・クレシ、スルキ・ヌルキ、エヒメ・オトヒメ、アヤハトリ・クレハトリ、の類があつて、上代の日本人のもののいひかたの趣味から來てゐることらしい。もつとも、叛逆者が何時でも二人に限られてゐるのではないので、神武天皇の物語のナガスネヒコのやうに一人である場合もあるが、二人連稱せられてゐることが多く、さうして其の由來が上代人の趣味にあるとすれば、クマソタケルの場合に於いても、古事記の方が原形であらうと推測せられる。但し古事記でも、こゝではクマソタケル兄弟二人とあるのみで、二人の別々の名は出てゐないが、オトタケルといふ稱呼があるから、それはエタケルと連稱せられたのであらう(140)か。なほ、書紀にクマソの酋長をトリイシカヤとしてあるのは、後にいふ景行天皇親征の物語のアツカヤ・セカヤ、其の二女のイチフカヤ・イチカヤと聯絡がありさうであつて、特にトリイシカヤのイシカヤはイチカヤと同語らしい。カヤといふ語の意義はともかくもとして、これだけの事實は注意を要する。(アツカヤ・セカヤのアツとセとは、勿論、對照の意義を含んでゐる。)
 それから第二に、かういふ酋長の名は、神武紀に見えるトミヒコとか、エウカシ・オトウカシ、エシキ・オトシキ、ウサツヒコ・ウサツヒメ、とかいふ例の如く、トミ、ウカシ、シキ、ウサ、などの地名をそのまゝに取つてあるのが古い物語の通例であつて、特殊な固有名詞のあるのは一歩進んだ形であらうと思はれるから、此の點に於いても、單にクマソタケルといふ名になつてゐる古事記の方が原形らしい。書紀でも後にいふやうに、景行天皇親征の物語には此の例が多い。第三に、女装せられた其の衣裳がヤマトヒメの命から與へられたものであるといふのは、女装の由來を説明するのであるが、弓の達人をつれてゆかれたといふのは、物語の中心觀念になつてゐる女装して敵に近づき劍で刺し殺すといふのとは、何の關係も無い、否むしろ矛盾した、話であるから、これは後から附け加へた贅物であることがわかる。だから、こゝでも古事記の方が古い形である。(但しヤマトヒメ云々の話は無くてもよいことである。特にヤマトヒメの命はイセにゐたといふのであるから、ヤマトタケルの命がそれに會はれたといふのは、東征の場合には自然であるが、西伐の話には不自然である。だから、これは、多分、東方征討の場合に、同じ命から劍と火打ぶくろとを與へられた、といふ話から思ひついて、後から附加せられたことらしい。)
 さて此の物語の女装云々は固より説話である。ヤマトの朝廷から遠路わざ/\皇子を派遣せられるといふ物語の精(141)神から見ても、クマソは大なる勢力を西方に有つてゐたものとして、物語の記者は考へてゐたに違ひない。さういふ大勢力が、かういふ兒戯に類するしわざで打ち破られるものではあるまい。(書紀にはヤマトタケルの命の風采を「幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉、」と書いてあるが、かういふ皇子の童女姿を書紀の編者はどう想像したであらうか。もつともこれは、女装の物語の既に存在してゐる時に、シナ風の勇士の形容語を無意味につけ加へたのみのことで、女装の物語そのものを考へる用には立たぬものであるが、あまりをかしいから附記して置く。書紀のシナ風の文飾は大抵こんなものである。)概していふと、かういふ英雄の説話は、その基礎にはよし多人數の力によつて行はれた大きい歴史的事件があるにしても、其の事件をそのまゝに一人の行爲として語るのではなく、事件に本づきながら、それから離れて何等かの構想を一人の英雄の行動に託して作るのが、普通である。だから、かういふ話ができたのである。それから、クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、また説話であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語のすぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同樣のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に對してヤマトの勇者といふ意義である。それがヤマトの物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでもなからう(皇子の本名はヲウスの命とある)。さうして此のクマソタケルとイヅモタケルとは、上に述べたやうな、地名をそのまゝに人名とした一例であつて、實在の人物の名とは考へられない。實在の人物ならば、こんな名があるはずは無いから、これは物語を組み立てる必要上、それ/”\の土地の勢力を擬人し、或は土地から思ひついて人物を作つたのである。さうしてそれは、よし實際そこに何かの勢力があつた場合にしても、時と處とを隔てて、即ち後世になつて、またヤマトに於いて、物語製作者の思想から生まれたもの(142)としなければならぬ。だから此の物語もまた、決してそのまゝに歴史的事實として見ることはできないものである。
 なほこゝで附言して置きたいのは、古事記に、ヤマトタケルの命がクマソの征討を經へてからイヅモに迂回し、イヅモタケルを誄伐せられた、といふ話のあることである。その話はクマソ征伐の時の女装と同じやうな詭計が主となつてゐるので、命が豫め作つて置いた木刀を佩いてゐて、それを或る時にイヅモタケルの刀と取りかへ、さうしてその刀で敵を仆した、といふのである。ところが、この話は、書紀には崇神天皇の時の、イヅモの臣の遠祖のフルネとその弟のイヒイリネとの間の事件としてある(崇神紀六十年の條)。兩方ともイヅモに關係はあるが、一つの話が全く別の場合、別の人物のこととなつてゐるのは、かの玉(又は石)から女の生まれたといふ話が、ヒボコとツヌガアラシトと兩方に結びつけられたと同樣であつて、興味の中心は話そのものにあり、さうしてそれは、本來、獨立のものであつたらう。古事記の資料となつた舊辭では、ヤマトタケルの命が東西の反抗者を征討せられた、といふ話があるために、その命に同じやうな役めをもう一つ附け加へ、またその西方のがクマソタケルといふ名によつて示されてゐるために、それに相應ずるやうに、イヅモタケルの名を以てイヅモの勢力を代表させ、それを、同じいひ表はし方の名を有するヤマトタケルの命が征討したやうにしたのであつて、一穫の類想から構成せられたものらしい。皇族にも地方の豪族にも、某タケルといふ稱呼が名のやうになつてゐるのは、記紀の二書に於いて、此の場合のみのことだからである(書紀のフルネの話が古事記のヤマトタケルの命の話の作られたよりも後にできたものかどうかはわからない)。イヅモに強大な勢力があつて、それが或る時期まではヤマトの朝廷に服從してゐなかつたため、?それに對する鎭撫が行はれたことは、此の物語の裏面に潜在する事實らしいが、以上述べたところを考へると、此の話は其(143)のまゝに事實ではなからう。たゞイヅモとクマソとが、曾ては反抗者であつて後に歸服した最も勢力の強かつたものとして、ヤマトの朝廷で考へられてゐたので、それがこの物語にあらはれてゐることは、推知せられる。この二つの勢力のヤマトの朝廷に對する反抗の態度や歸服の事情、また歸服の後の朝廷との關係などは、必しも同じでなかつたらうと考へられるので、物語としても一つが主として神代史に於いて語られ、一つが景行朝のこととせられたのも、そこに理由があるかと思はれるが、これだけのことはいひ得られよう。それから、山の神、河の神、穴門の神、を平定せられたといふことがあるが、これについては別に後章に考へよう。
 ヤマトタケルの命のクマソ征討の物語が歴史的事實でないことは、明かであるが、しかし朝廷に服從しなかつたクマソといふ勢力があり、或る時代にいくらかの兵力を以てそれを平定せられたことは、事實らしい。さうしてそれは、漠然たる記憶もしくは傳説としてヤマト朝廷の間に存在したのであらう。ヤマトタケルの命の物語は、それを一英雄の行動として作つた話と考へられる。しかし其のクマソとは何であらうか。
 
          二 記紀に現ほれてゐるクマソ
 
 記紀に見えるクマソの記事で最初に人の目につくものは、古事記の神代の卷のオホヤシマ生成の段に、ツクシ(廣義にいふ、即ち所謂九州全部)の島は身が一つで面が四つあり、其の四つはツクシ(狹義にいふ)の國、トヨ國、ヒの國、クマソの國だ、としてある話である。さて此の四國には、他の島々の例の如く一々擬人せられた名が附いてゐて、ツクシの國はシラヒワケ、トヨ國はトヨヒワケ、ヒの國はタケヒムカヒトヨクジヒネワケ、またクマソの國はタ(144)ケヒワケ、となつてゐるが、これについては世間に問題になつてゐることがある。それは、ヒの國の名が他の三國のとやゝ趣を異にしてゐて、而もそのうちにヒムカヒの語があるところから、こゝの本文に混亂があつて、ヒムカ(日向)の國が脱けてゐるのだらう、といふ説のあることである。が、面四つとある以上は、特にその前のイヨのフタナの島が身が一つで面が四つあるといふ記事を承けて「此島亦身一而有面四」とある以上は、その四つの數に合ふやうに考へねばならぬから、假にタケヒムカヒトヨクジヒネワケの名には何等かの混亂があるとしても、それがためにクマソの國の外に別にヒムカの國が擧げてあつたとすることはできまい。ところで、四面のうちのツクシ(狹義)はほぼ、今の筑前筑後、トヨは豐前豐後、ヒは多分、肥前と肥後とであらう。
 トヨの中心は、後にいふやうに、今の豐前仲津郡にあつたらしいから、トヨ國といふのも本來は豐前方面が主であつたらう。またヒの國は、もとは肥前方面のことではなかつたらうか。肥前と肥後とは中間に筑後が介まつてゐて、それが自然的に一國として、又は一地方名の下に、呼ばれてゐたといふことは、頗る疑はしいからである。一つの國といふ觀念もしくは一地方としての名稱は、通常陸地つゞきの場合に於いて生ずる。だから、今の肥前と肥後とを一國としたのは、恐らくは國都制置の際の人爲的方法であつたらう。さうして、早くからヒの國としてヤマトの朝廷に知られたのが今の肥前と肥後とのどちらであつたかといふと、それは地理上ヤマト人に早く接觸してゐた點からも京に近いことからも、前者とするのが妥當であらう。一方にトヨ國がツクシ(狹義)に連接して其の東にある以上、ヒの國はそれに對してツクシの西につゞいてゐたらしく思はれ、特に肥前は上代に於いて對外航路の起點となつてゐたマツラ地方を含んでゐて、極めて重要な地域であるから、そこがヒの國としてツクシ(狹義)から(145)特別に取扱はれたと考へるのは、無理でなからう。繼體紀にイハヰがツクシ、ヒ、トヨ、の三國に據つて新羅と氣脈を通じたとあるが、此の記事が事實であるかどうかは別として、其のヒは對韓航路の要津マツラの存在する肥前であらう。もつとも、肥前肥後が肥の一國とせられたのは、其の前から肥後地方をもヒの國の名で呼んでゐたからであらうが、それは肥前がヒと呼ばれたとは別のことで、また後のことではあるまいか。もしまたヒといふ名がもとは肥前か肥後かの一方にのみあつて、兩方がヒと呼ばれるやうになつたのは、この名が一から他に及ぼされたのだ、とするならば、それは肥前の方から肥後の方にひろげられることはあつても、その反對の場合を考へることはむつかしくはあるまいか。なほ國の名にある「前」「後」の意義は道の口と道の後とで、ヤマトの京からの公道の通過する順序をいふのであるが、筑前の方から肥後にゆくには、やはり筑後をとほるのが自然ではあるまいか。肥前を經由し海を渡つてゆくこともあつたではあらうし、此の間の海上の交通は古くから盛に行はれてもゐたではあらうが、公道として特にそれを選ぶのは不自然ではあるまいか。だから、こゝにも人爲の跡が見える。宣長は古事記傳に於いて、ヒの國の本國を肥後としてゐるが、それは後にいふやうな書紀の地名説話を信じてゐるからであつて、事實は寧ろそれとは反對ではなからうか。なほ次々にいふところを參照せられたい。或はまた今の筑後地方がもとは肥の國であつたと臆測せられなくもないかも知れぬが、さうすると肝心のツクシが極めて小く、ヒの國が甚だ大きくなるのみならず、肥前から肥後にかけての廣い土地を一つのヒの國と呼ばれるほどの一地方と見ることが、既に地理上無理であり、國郡制置の際に何故に其の一部、しかも中央の地方、を筑紫に加へ、後にまたその地方を筑後としたかも、説明することができなからう。だから、どの點から見ても、本來のヒの國は肥前方面であつたらしい。(146)しかし古事記の此の物語では、さういふ古い意義でいつてゐるのではなく、やはり肥後をも含めてのことであらう。それは次篇に述べるやうに、此の物語の書かれたのが比較的後世のことだからである。
 さて、ツクシ(狹義)、トヨ、ヒ、の三國は、廣義のツクシの北半をなすものであるから、殘りの一つのクマソは其の南半をなすもの、即ち今の日向、大隅、薩摩、の地方に當るのであらう。北部が三國とせられ南部が一國と見られてゐるといふのは均衡を失してゐるやうではあるが、實際の行政區割としても、國郡制置の後まで、今の日向、大隅、薩摩、の三國は、日向の一國に含まれてゐた。大隅國が日向國から分立したのは和銅六年であつて、これは續紀(卷六元明紀)の同年四月の條に「割日向國肝杯、贈於、大隅、姶羅四郡、始置大隅國、」とあるので明白である。薩摩の日向國から分れたのはやゝ明確を缺いてゐるが、同じく續紀(卷一文武紀)の大寶二年(和銅六年よりは十一年前)四月の條に「筑紫七國」といふことがあつて、七國は兩筑、兩豐、兩肥、の六國と日向とでなければならぬから、此の時までは薩摩地方がまだ日向國の一部であつたらしい。ところが同書に、此の年の八月に薩摩のハヤトの叛亂があつて、それに對する征討が行はれたといふ話があり、其の十月の條に「唱更國司」云々といふ記事が見えるから、薩摩地方は此の征討の結果として、ハヤトの國の名の下に日向國から分立したのであらう。また行政區劃としてではなく、漠然たる地方名として考へても、今の大隅薩摩地方が、ヤマトの朝廷からはヒムカといふ廣い名の下に含めて呼ばれてゐたことは、多分國郡制置以前からのことであらうと思はれる。確證は無いけれども國都制置の時に定められた行政區劃の名稱は、其の前からの習慣によつたものであらうと想像せられる。(書紀の神代卷に「筑紫日向可愛之山陵」、「日向吾平山上陵」とあり、神武紀には「日向國吾田邑吾平津媛」とあつて、普通に解説せられてゐる如く、(147)エもアタも今の薩摩の地方にあり、アヒラは前に引用した大隅の姶蘿郡だとすれば、これらの記事の書かれた時には、少くとも、ヤマトの朝廷に於いては、薩隅地方をヒムカの總稱の下に呼んでゐたらしいが、其の書かれた時期が判然しないから、それを證據とはしかねる。これらの辭句は古事記にも、古事記とほゞ同樣な記載を有する書紀の注の「一書」にも、見えないが、薩摩大隅が日向から分立したのは大寶和銅年間であるから、其の後に行はれた書紀の編纂の際に新にかう書いたのではなく、その史料となつたものに既に存在してゐたのであらう。しかし、その史料が國郡制置の前に書かれたと、見なさねばならぬ理由も無いやうである。)さすれば、神代史の國土生成の物語に於いて、廣義のツクシの南半をクマソの國の汎稱の下に一括して呼んだといふことは、必しも怪しむに足らぬ。
 但しこゝに考ふべき問題は、此の「クマソの國」といふのは實際世間で用ゐられてゐた名稱か、または物語の上だけのことか、といふことである。ツクシ(廣義)に四面があるといふのは、クマソが服從し、そこがヤマトの朝廷によつて統治せられる國家組織に入つてから後の?態に違ひないが、さうなつてからもなほ、クマソの國といふ名が實際に用ゐられてゐたであらうか。クマソといふ稱呼が、ヒとかトヨとか狹義のツクシとかいふ名と同樣に取扱はれた例は、他には見えないやうであり、また古事記の神代の卷に於いても、ヒムカといふ名は所謂皇孫降臨の話などに於いて現はれて來るが、クマソの國といふ名はこゝばかりに見えるものである。もと/\ツクシに四面があるといふことは、古事記だけの説であつて、書紀にもその注の多くの「一書」にも見えないから、此の説は初からの奮辭にあつたのではなく、後になつて何人かの手によつて増補せられたものが、阿禮の誦んだ舊辭にのみ記されてゐたのであらう。單にツクシの島を生むといふよりも、話が精密になつてゐるだけ、一歩進んだ思想の所産であることが知られ(148)る。さうして、ヒムカの名の神代史に見えることは、記紀の何れに於いても共通であるから、これは初から神代の物語にあつたことであらう。さすれば、クマソの國をヒの國やトヨ國と同樣に視るのは、そのクマソといふ勢力の亡びてから多くの年月を經た後に記述せられた物語の上だけのことではあるまいか。もしさうとすれば、事實としてのクマソの範圍を考へるには、此の物語の説をそのまゝあてはめるわけにはゆかぬかも知れぬ。
 しかし、それはそれとして置いて、次に古事記の此の條にクマソの國とある「國」の語が如何なる意義に用ゐられてゐるかを、一應考へて見ねばならぬ。さてこゝにクマソの國とあつてヒムカの國としてないところを見ると、これは國郡制定の前に書かれたものらしいが、同じ時代に國といはれてゐたものには、所謂クニノキミ(國造)の支配してゐるクニ(國)がある。しかしこれはアガタヌシ(縣主)の管治してゐるアガタ(縣)や、イナギ(稻置)とかワケ(別)とかいふ名稱の領主を有する小さい地方的勢力と相並んで、互に獨立してゐたものであり、其の區域も狹いのが常であるから、ツクシ(廣義)が四つに分かれてゐるといふ意義での「國」が、國造の「國」でないことは疑があるまい。さすれば、それがもし國郡制置の前に書かれたものであるならば、廣い地方を總稱する漠然たる名稱であつて、必しも政治的もしくは行政的區割の意義を有つてゐないものとしなければなるまい。さて此の用語例はクマソのほかの三國について明かに知ることができる。例へば、一方にウサの國造(神武紀卷首)がありながら、其のウサがトヨ國のウサ(古事記の神武の卷の卷首)とも記されてゐるのを見ると、此のトヨ國は、ウサの國造の領地であるウサの國をも含んでゐる、廣い地方の汎稱であることが知られよう。さうして別にトヨ國の直が豐前國の仲津郡中臣村にゐたやうに書いてある豐後風土記の記載が、よし事實を傳へたものであるとしても、此のトヨ國の直の管治するトヨ國(149)の區域は狹いものであつて、例へばウサの國造の領地などをば含んではゐなかつたらう。ツクシのイトの縣(仲哀紀八年の條、古事記にはイトの村とある)や、ナの縣(同上)は、ツクシ(狹義)の中にある縣であつて、それ等の縣は、ずつと後まで存在してゐたであらうに、別にツクシの國造イハヰがあるのも、それらの縣主と相並んでゐる國造の領土としてのツクシ(狹義のツクシよりもつと狹いもの)が、イトやナの外にあると共に、ツクシ(狹義)がイトやナの縣を含む廣い地方名であることを示すものであらう。これは恰も、古事記の垂仁の卷に見えるヲハリの國のミヌの別のヲハリの國と、景行の卷にあるヲハリの國造のヲハリの國との關係と、同一である。また、メツラ(マツラ)の國といふ語が神功紀に見えるが、此の國は後に肥前國の管内になつたことから考へると、ヒの國に含まれてゐたかと思はれる(古事記の仲哀の卷には「ツクシのマツラの縣」とあるが、これは新羅からの還幸の記事であるから、ツクシは廣義に用ゐられてゐるものと見られる)。
 トヨ、ツクシ(狹義)、といふ汎稱は、或は、トヨ國の直、ツクシの國造、の領地たる小さい土地の名から起つたのかも知れぬが、よくはわからぬ。(ツクシの國造の本地は、人文地理上の形勢から見て後の筑前方面ではあらうと思はれるが、延喜式の神名帳に見える筑紫神社の所在地であるかどうかは、明かでない。イハヰのゐた土地も史上には見えてゐない。筑後風土記に上妻郡の石人のあるところを彼の墓としてあるのも、疑はしいことである。またヒの國については、其の本地を知るたよりが無い。古事記の神武の卷にヒの君があり、欽明紀七年の條にも同じ名が見えるが、それが何處にゐたものか不明であり、また此の記事が肥後をもヒといふやうになつた後に書かれたものならば、其のヒが肥前の方か肥後の方かすらもよくわからぬ。肥前風土記にも、ヒの君について肥後方面に關(150)係のある物語があるが、それとても肥後にゐたものとのみは解し難いやうである。)また此の狹義のツクシとかヒまたはトヨとかいふ名が何時から用ゐられたかも不明であるが、もし想像を許されるならば、それらの地方が我が國家組織に入つてからのことではあるまいか。それよりも前からあつたならば、魏志にも見えさうなものであるのに、見えてゐない。隋人の來朝した時の見聞に基づいた記事のある隋書の倭國傳には、竹斯の名が出てゐることを參考するがよい。またツクシを廣義に用ゐたのは、ヤマトの朝廷がクマソ方面をも平定せられた後のことらしい。さて、ツクシ、トヨ、ヒ、などの名が、やゝ廣い地方の漠然たる稱呼として用ゐられてゐたことは、以上の考説でわかつた。が、既に漠然たる名稱だとすれば、其の區域は必しも明確でなかつたに違ひない(從つて、國都制定後のツクシ即ち筑前筑後、トヨ即ち豐前豐後、ヒ即ち肥前肥後、といふ三國の區割によつて、それより前にツクシ、トヨ、ヒ、と呼ばれてゐた地域を精密に推しあてることは、妥當ではなからう)。またすべての土地がかういふ名稱で區分せられてゐたと見るべきものでもなからう。(だから、トヨ國が主として豐前地方、ヒが肥前方面であつて、豐後や肥後にはさういふ廣い地方名が無かつたとしても、怪むには足らぬ。)古事記の物語の記者はたゞ世間に漠然用ゐられてゐる地方名を漠然取つて、それが地方的區劃の名ででもあるやうに、文字の上だけで書きなしたに過ぎなからう。かう考へて來ると、これらの三國と同樣に取扱はれてゐるクマソの國も、やはり漠然たる意味で用ゐられたまでのことであらう。言ひかへると、物語の記者も、明確なる境域などを考へてはゐなかつたに違ひない。だから此の點から見ても、此の話でクマソに關するたしかな概念は得られないことになる。たゞ、廣義のツクシの南半がクマソと何樣かの因縁を有つてゐる、といふことがそれによつて推測し得られるだけのことである。そこで次には方面をかへ(151)て、クマソといふ名の由來を考へて見る。
 まづ記紀を調べてみると、書紀の神代の卷のいはゆる皇孫降臨の條に「襲之高千穗峯」といふことがある。「一書」として註に引いてあるものには「襲之高千穗?日二上峯天浮橋」とも「襲之高千穗添山峯」ともある。高千穗が何を指すにせよ、「襲」即ちソといふ地名があつたことはこれで推測せられる。また景行紀に見える天皇の巡幸記事の中にも「朕聞之、襲國有厚鹿文?鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、」とも「悉平襲國」ともある。さうして此のソの平定は、天皇がヒムカの國にゐられてのこととしてある(こゝにヒムカの國とあることについては後にいふつもりであるが、こゝではたゞ此のソが後のヒムカの國、即ち今の日向、大隅、薩摩、の方面にあるといふ本文の地理的記載を引用するまでである)。だから、書紀の神代史や景行天皇巡幸の物語が書かれた時には、ソといふ名でヤマトの朝延に知られてゐた土地があつたことは、明かである。但し景行紀の「襲國」は、「悉平襲國」が「殺熊襲梟帥」の結果となつてゐ、また「討熊襲」に照應するものであることを思ふと、「熊襲」と同じ意義に使つてあるから、これは或は熊襲國の「熊」が脱ちたのかも知れず、現に集解の著者はさう決めてゐる。が、「熊襲國有厚鹿文?鹿文者、此兩人熊襲之渠帥者也」といふのは文章としては極めて拙い。それから此の物語に於いて、ソとある二つの場合には何れも下に「國」の字がついてゐて、クマソとある時には何時もそれが無い。(もつとも次のヤマトタケルの命の物語及び神功紀には「熊襲國」とあつて、それを誤だと推すべき理由は無いから、このことは強い論據にはならぬ。)が、それはともかくもとして、同じ景行紀の皇子の名を列擧してある條にも、ヒムカのカミナガオホタネといふ妃の所生としてヒムカのソツヒコの皇子の名、また別の妃としてソのタケヒメといふ名を記してあつて、此のソも(景行天皇に關したこと(152)であるところから考へると)地名のソから來たものであらうから、書紀の此の巡幸物語の記者は此の場合にもクマソといはずしてソといはないには限らぬ。だから、或は「脱熊字」とすべきものかも知らぬが、さうかたつけるだけの十分な理由は無い(何故にソとクマソとが同じ意義に用ゐられてゐるかは後の問題として)。なほ古事記には、神代の卷にも景行の卷にも、單にソとしてあるところは一つも無く、古事記とほゞ同樣の記載を有する書紀の「一書」にも、タカチホをソにあるとは書いてない。また景行天皇の妃や皇子にも、こゝに引用した名は古事記には全く見えてゐない。だから以上の話は凡て書紀に於いてのことである。
 さて此のソは何處かといふと、績紀(卷五元明紀)の和銅三年のところに「日向隼人曾君」云々といふ記事があつて、此の「曾」は即ち「襲」であることが推測せられるが、さうすると前に述べた大隅分國の記事の贈於が即ちそれに當るらしい。ところが肥前風土記の卷首や豐後風土記の日田郡の條には、オホタラシヒコ(景行)天皇の征討せられたクマソを球磨贈於、または玖磨囎於と書いてある(釋日本紀卷一〇に引いてある肥後風土記にも球磨贈唹とあるが、此の風土記のこゝに見える部分は、景行天皇と謚號が書いてあつたり、文章も記事も肥前風土記の卷首と酷似してゐたりするところから見れば、後人の作で、肥前風土記を少し書きなほしたものであらう)。これを見ると、これらの風土記の書かれた奈良朝時代には、クマソのソは日向の贈於だと考へられてゐたやうであるが、これは多分昔から承け襲がれて來た知識であらう。播磨風土記の印南郡のところには久麻曾とあるが、此の曾の字は前に引いた續紀の記事にも見えるものであり、やはり贈於のことである。クマソのソはほゞこれでわかつた。(此の贈於郡が今の囎唹郡ではなく、霧島山の西に當る姶良郡地方である、といふことは、故吉田東伍氏の地名辭書の大隅の部に説いてあ(153)るが、從ふべきであらう。)
 然らばクマは何かといふと、前に引いた風土記どもに球磨(丈は玖磨)贈於とつゞけてある「球磨」が、贈於の北につゞいてゐる今の肥後の南部、球磨川の流域の地名として、用ゐられてゐる文字であることを思ふと、風土記の作者はクマソのクマを此の土地の名として考へてゐたらしく、さうしてそれは、やはりソについて述べたと同樣、上代からの知識がうけつがれたものと思はれる。景行紀に、天皇がソを平げられた後、コユからヒナモリを經てクマの縣にゆかれ、それからアシキタへ出られた、といふ話があつて、そのクマには熊襲の「熊」の字があててあるが、それがやはり同じ今の肥後の球磨郡であることは、此の道すぢから推測せられる(ヒナモりは延喜式兵部省の卷の驛傳の條に見えてゐるが、前後の驛名から考へると、地名辭書に今の西諸縣郡小林附近としてあるのは、動かぬ擬定であらう)。クマは一般にソと結びつけて考へられ或は呼ばれてゐたほど、互に接近したところらしい。ソの上にクマが加へられてあるところから、それはソに對する形容詞だといふ考があつて、宣長は古事記傳(卷五)に於いて此の説を主張し、勇猛の意を現はしたものだといつてゐる。仲哀紀にクマワニ、神功紀にクマワシ、といふ人の名があつて、此のクマはワニ、ワシ、の形容詞らしくも見え、神代紀の「一書」にトヨタマヒメが八尋の大熊鰐になられたと書いてもあるから、此の説にも一應は根據がありさうに見えるが、ソは地名であるから、其の上に強いといふ形容詞を加へることは、肯ひ難い。なほ地名にクマといふ語のついているところは所々にあつて、特に九州には甚だ多いが、それは或は地形地貌などに於いて何か共通の點があるのかも知れぬ。それを考へるのは、種々の點から興味のあることであるが、しかしこゝではそれまで考へるには及ぶまい。(延喜式の兵部省の驛傳馬の條に、日向國の救麻といふの(154)が見えるが、あまり知られてゐない土地であるから、クマソのクマはこゝではあるまい。)
 さてクマとソとが結合してクマソといふ一つの名らしくヤマトの朝廷で用ゐられたのは、現にクマやソに交渉のあつた時代には、此の二つは別々の土地もしくは別々の勢力として考へられてゐたのが、事變の遠く消え去つた後、その話が傳説化せられるに當つて、一つに結びつけられたのではないか、とも考へられる。書紀にクマソとソとが同意義に用ゐられてゐるのも、かういふところから來た混亂かも知れぬ。が、その反對に、クマソといふ名が早くからツクシ方面に行はれてゐて、ヤマトの朝廷ではそれをそのまゝに繼承したのであり、ソとクマとが別の土地もしくは別の勢力であるといふことは、後に此の地方がヤマト朝廷に歸服してからわかつたものか、とも考へられるから、一概に決めてしまふわけにはゆかぬ。もし後の方であるとすれば、クマソといふ名のできたのは、或る時期に於いてクマとソとが最も密接なる關係を有つてゐたからのことであらう。「アルサス・ロレイン」といつたり「むくり・こくり」といつたりするやうに、同一の事情の下にある隣接地、或は共同にはたらいた二つの勢力を連稱することは、怪しむに足るまい。更に一歩を進めて考へると、此の二つは、其の中の一つが全く亡びたか、又は他に服屬したか、何れかの關係に於いて、一つの政治的勢力に結合せられてゐたのかも知れない。
 さて、クマソの名義の由來に關する上記の二案の可否は、且らく後まはしにして、此の名によつて示される勢力は、單にクマとソとの地方に限られてゐたかといふに、それが上代に於いてあれ程に名高く、さうして此の方面に於いてヤマトの朝廷に服從しないものの代表者である如く、傳へられてゐたことから考へると、もつと廣い地域にその威力を及ぼしてゐたらしく思はれる。その?態については輕々に想像せられるが、魏志によつて三世紀ごろの形勢を見る(155)と、クマソの附近にも幾多の小君主土豪が割據してゐて、さうして恰も邪馬臺の卑彌呼の如く、其の上に君臨してゐたものがあつたでもあらうから、ヤマトの朝廷が初めて此の地方と直接もしくは間接に接觸をを生じた時(早くとも四世紀に入つてから後)には、クマソ、又は其の中心勢力となつてゐたクマもしくはソがてうどさういふ地位にゐたかとも臆測せられる。卑彌呼のころにそれに對抗してゐたといふ狗奴國が、此の時まで存續してゐたとすれば、それは或は此の勢力であつたかも知れぬ。狗奴といふ名がどこかの土地に明かに擬定せられない以上、斷言はしかねるが、さう想像せられないでもない。
 それならば、クマソの勢力の及んでゐた範圍はどれほどであつたらうか、といふ問題が生ずる。ところが、書紀の景行天皇のツクシ巡幸およびクマソ征討の物語に於いては、クマソの勢力が(古事記のオホヤシマ生成の段のクマソの國と同樣)ほゞ後の日向國、即ち今の日向、大隅、薩摩、を含む地方として見られてゐるらしい。そこで、次には其の物語を檢べて見る。
 
          三 景行天皇に關する物語
 
 先づ巡幸の道すぢを考へて見る。天皇はスハウ(周防)のサハ(今の佐波郡)の行宮から諸將を波遣して、トヨ國の諸豪を綏服討伐せしめられた。シツ山(今日のどこか明かにわからぬ)の附近にゐるらしいカミカシヒメはいち早く歸順した。ウサ川(今の驛館川であらう)のハナタリ、ミケ川(今の山國川であらう)の、ミミタ、タカハ川(遠賀川一支流で田川郡を流れるものであらう)のアサハギ、及びミドリノ川(不明)のツチヲリヰヲリ、といふ土豪は、(156)誅伐せられた。それから、天皇は豐前國のナガヲに赴かれた。ナガヲはミヤコだとあるから、今の京都郡であらう。次にオホキタにゆかれ、次にハヤミにゆかれた。
 こゝに疑問がある。地理上の順序からいふと、ハヤミが前でオホキタは後でなければならぬ。本文には「到碩田國、其地形廣大亦麗、國名碩田也、到速見邑、有女人曰速津媛、爲一處之長、……自奉迎之、」とある。ハヤミがオホキタの一部分であるならば、これでも地理に合はないこともないが、他の例から考へてさうは思はれぬ。(前に豐前國とあり、後に日向國、筑紫後國などとある「國」は國郡制定後の行政區劃の名であつて、こゝのオホキタの國、または後のソの國、アソの國、ヤメの國、などの「國」はそれとは違ふ。國郡制定前に國とあり邑とあるも、その間に必しも從屬的關係は無い。)のみならず、同じく「到」の字を用ゐてあることから見ても、さう解釋するのは無理である(此の物語には、次ぎ/\の駐蹕地にゆかれることを、順路に從つてみな「到」としてある)。だからこれは、物語の道すぢの順序に地理上の誤があると見る方が妥當であらう。豐後風土記の景行天皇巡幸に關する物語には、書紀の文をそのまゝ取つてあるにかゝはらず、ハヤツヒメの奉迎を大分(即ち碩田)郡の南の海部郡でのこととし、また天皇がスハウのサハから海路すぐに海部郡に向はれたやうになつてゐるが、記事は速見郡の條下に書いてある上に、ハヤミの地名の由來としてハヤツヒメの名を用ゐてゐて、書きかたが甚だ曖昧である。これは、風土記だけに書紀の地理の誤謬に氣がついて、それをごまかさうとしたために、却つて一層の混雜を來たしたのではあるまいか。もつとも、風土記の大分郡の條には、ミヤコの行宮から大分郡に行幸せられたやうに書いてあつて、そこは書紀と同樣であるが、日田郡の條には、天皇がツクシ巡幸の歸路に筑後から此の郡に入られたやうにしてあるから、風土記の記者はオホキ(157)タの巡行をその時のことにしようとしたのかも知れぬ。が、それにしても混亂は免れぬ。或はまたそれほどの統一した考もなしに、漫然と書いたものかも知れぬ。なほはヤツヒメの奏上に、「此山」に石窟があり、そこに土蜘蛛がゐる、とあつて、「此山」の「此」は文章の上からはハヤミと解しなければならぬが、後の記事によると、それはイナバ川附近らしい。イナバ川は次にいふやうにナホイリ地方にあるから、こゝにも地理の混亂がある。また風土記の記載は、「山」の字が無いだけで他は書紀と同じであるが、たゞそれが海部郡のこととなつてゐるから、「此」は海部郡をさしたものとしなければなるまい。いよ/\奇である。(シナの所謂正史に於いては、史料となつた一つの記録を恣に節略したり、また種々の史料の文章を不用意に繼ぎ合はせたりしたために、指すところの無い代名詞が現はれたり、連絡のしどろな文章ができあがつたりする例が少なくないが、こゝの文章の意義の混亂は、さういふやうなことから來てゐるとは思はれない。)
 それから進んでクタミといふ所に行宮を設け、ツバキの市で兵器を作つて、イナバ川附近のチタで石室の土蜘蛛を討伐し、進んでネギ野といふところの土蜘蛛を討平せられた。ネギ野はナホイリの縣にある、といつてある。クタミは書紀には來田見の文字が用ゐてあるが、風土記直入郡の條には球覃とあり、郡(郡家の意であらう)の北としてある。また朽網とも書いてある。球覃峯といふのもあつて、それは郡南とあるが「南」は「北」の誤であらう。今の大船(または大仙)山がそれであることは、火山としてある記事から證せられる。またイナバ川は、今もその名があつて、大野川の一支川の上流であり、クタミの南を流れてゐる。ネギ野は風土記に、郡の南の柏原郷の南にあると見えるから、クタミからイナバ川を經て南にあるやうになつてゐる書紀の記載に合ふ。なほネギ野征討の時、天皇が一旦退い(158)てキバラに歸られたとあるが、今もクタミの南にキパルといふところがあるから、これも地理上の順序が實際に適つてゐる。但し書紀によれば、ツバキの市はクタミとイナバ川との中間である、と見るのが自然であり、チタはイナバ川の畔としてあるのに、風土記には直入郡の東方にある大野郡に此の二つを入れて、並に郡の南にあると書いてあるから、クタミともイナバ川ともよほどの距離があつて、こゝに書紀の記載と實際の地理との第二の齟齬がある。これは或は風土記の錯簡であつて、ツバキの市もチタも本來は直入郡の條にあつたものだらうといふ説もあるが、古く釋日本紀に引いてあるのもやはりかうなつてゐるのみならず、此の二つを除くと大野郡の記事は網磯野一つになり、またその記事の書き出しが「同天皇」云々となつてゐて、それは海石榴市及び血田の條の「昔者纏向日代官御宇天皇」に應ずるものでなければならぬから、これを錯簡と見ることはむつかしからう。さうして吉田氏の地名辭書によると、鎌倉時代の文書に、大野郡に屬する緒方庄の内に智田といふ名が見える、とのことであるから、これが昔のチタの名殘りではなからうか。ツバキの市の所在は今はわからぬが、この名はむかし實際あつたものであらう(大和の初瀬の附近にも同じ名のところがあつて、萬葉などにも見えてゐるが、市のたつたところだとすれば、かなり交通の便のよいところであつたらう)。土地の所在に關しては風土記の方が信用せられるであらうから、書紀の物語には地理上の錯誤があると見なければなるまい。なほ書紀には、天皇が初め賊を討たうとしてカシハラの大野に宿られた時のこととして、大きな石を柏の葉の如くふみ上げられたから其の石をホミシといふ、といふ話があるが、風土記には蹶石(フミシであらう)野を柏原郷の中にあるとしてある。書紀の記事ではどこのことか判然しないが、此の賊がネギ野の土蜘蛛をいふのであるならば、風土記の記載と必しも矛盾しない。フミシ野はネギ野の北にあるべきはずだからで(159)ある。(風土記の記事については後に概論するつもりである。)
 さて本すぢに立ち歸つていふと、天皇はそれからヒムカの國に入られ、そこで數ケ月を費して、クマソもしくはソの國を平定せられた。此の時の行宮、所謂タカヤの宮、の所在地が今日の日向地方であるといふことは、豐後方面からすぐにそこに進まれたといふことと、クマソもしくはソの平定の後、コユの縣に行幸せられたといふこととで、明かである。さてコユの縣では、日の出る方に向いてゐるといふので、ヒムカ(日向)といふ國名を始めて定められたといふ。
 それから再び出立せられて、先づヒナモリを經てクマの縣へゆかれた。此の道すぢは上に述べたとほりであるから、今の西諸縣郡の野尻川の谿谷から(多分薩摩へ流れる眞幸川の上流域を經て)肥後の球磨郡人吉地方へ出られた、といふのであらう。さてこゝまではよいが、そのさきにいつて第三の地理上の錯誤が現はれる。それは、クマの縣の經略を終られた後に「自海路泊於葦北小島」と書いてあることである。此の葦北小島は、此の時清水が湧き出たので天皇がミヅシマといふ名を與へられた、といふ話がそれにあるから、球磨川の河口にあつてアシキタの北端をなす水島であらう。さすれば、クマから球磨川の河口へ出られたといふのであるが、其の間を海路によられるはずがない。特にクマに到着せられたのは甲子で、それから其の地の經略があつて、壬申に海路から出かけられたとしてあるから(行文が曖昧であるから、壬申は水島着御の日と解釋すべきものかも知れぬ)、此の間の日數は極めて少い。從つて物語の記者は、クマから何處かの陸路を經由して、水島よりも南方のアシキタの海岸に出られ、そこから海路水島にゆかれたと考へたのではなく、クマがすぐに海に面してゐるやうに思つてゐたらしい。だからこれも、物語の地理と實(160)際とが齟齬してゐるものと見なければならぬ。
 それから、暗夜海路を進んでヤツシロへ上陸せられたが、此の時人の焚かない不思議な火を目標にして進まれたので、ヒの國といふ名を與へられたといふ話がある(此の火は海上から見えた陸上の火であつて、海上の火ではない)。それからタカク(高來)に渡り、またタマキナ(玉名)に渡り、それからずつと内地へ入つてアソの國へ行き、また立ちかへつて海に近い筑後のミケ(三池)へ出、それから東へ進んでヤメ(八女)、イクハ(浮羽)、にゆかれた、といふので、こゝで巡幸の話は終つてゐる。
 さて此の物語は、果して事實として見るべきものであらうか。それについて第一に考ふべきことは、前に述べた如く地理上の錯誤の多いことである。これは、此の物語が事實の記録として信じ難いことの一つである。事實の記録に於いても誤謬は有りがちであるが、これは少しく誤が多すぎる。さうして其の誤の第一と第三とは、机上に於いて地理的知識の明確でない遠方の地名をつなぎ合はせる場合に、生じがちな性質のものである。第二に、此の物語を構成する種々の説話は、主として地名を説明するために作られたものである。土地が廣いといふオホキタ、海石榴の木で兵器を作つたといふツバキの市、土蜘蛛が誅伐せられた時に血が流れたからだといふチタ、石をふみ飛ばされたホミシ、日の出の方に向ふヒムカの國、水のわき出るミヅシマ、火の見えたヒの國、アソツヒコ・アソツヒメがゐるからといふアソ、大きい木があるといふミケ、ヤメツヒメがゐるからといふヤメ、盞を忘れたからといふイクハ、など、巡幸の道すぢの主要なる土地にみな此の地名説話がある(豐後風土記は、上に述べた如くハヤミにもかういふ説話を結びつけてゐる)。ヒムカといふのも、コユの縣のどこかにさういふ地名のあることがヤマトの朝廷にも知られてゐ(161)たので、音聲の類似から「日に向ふ」といふ説明をそれに加へたのであらう。(ヒムカの名は廣い地域にも適用せられてゐるが、その本地はコユの縣附近であつたことが、此の説話の作られてゐることによつて知られる。)さうして、此の種の説話を除けば、物語の大部分が空虚になる。此の地名説話が事實と見なすべきものでないことは、少しく古今東西の地名に關する傳説を覗ひ知つたものの、何人も首肯するところであらう。(前章に述べた神功紀の御笠が風にふみ墮されたからカサだの、御心が安まつたからヤスだの、また皇子を生まれたからウミだの、といふのも、之と同じである。またツヌガやミマナの説話についても、前に述べて置いた。)さうしてヒの國の名の起源について、肥前風土記に、空から火が下りて來たからだ、といふ全く別の話のあるのは、前に述べた如くツヌガに二つの物語があり、また肥前風土記の佐嘉郡の名の説明に二つの話を擧げてあるのと同樣、一つの地名に種々の説話が作られ得ることを示すものであり、なほ大木の物語が同じく肥前風土記に佐嘉郡の名の説明として用ゐられてゐるのは、チタと同じ話が神武紀のウダのチハラにも適用せられ、神功紀のヤスと同じ説明が出雲風土記の安來郷に用ゐられてゐるやうな例と共に、一つの説話が所々の土地に結合せられ得ることを示すものである。(釋日本紀卷八に引いてある播磨風土記にも、明石驛家駒手御井について同じやうな大木傳説があるが、これは地名説話として用ゐられてゐるかどうか、引用してあるだけのところでは不明である。古事記の仁コの卷の大木の話も地名には結びつけてない。なほついでにいふが、神功紀に見えるカサの地名の説話と似た話が、姓氏録卷五に於いては笠朝臣の氏の起源として用ゐてある。地名の起源を説くのも、人の名や家の名の起源を説くのも、同じ心理から出てゐる。)かう考へて來ると、前に地理上の錯誤があるといつた中の第二は、ツバキの市とチタとの名が、てうどあゝいふ説話を作つて戰爭の物語に插入す(162)るに都合がよかつたため、深く僻地の地理の實際を考へずに、ヤマトの朝廷の物語記者が机の上で、クタミやイナバ川に結びつけたから起つたことだらう、と思はれる。
 第三には、人名に地名を其のまゝ用ゐたもののあることである。ハヤミのハヤツヒメ、ヒナモリのエヒナモリ・オトヒナモリ、クマのエクマ・オトクマ、アソのアソツヒコ・アソツヒメ、ヤメのヤメツヒメ、などがそれであつて、ハヤツヒメ、アソツヒコ・アソツヒメ、ヤメツヒメ、などは人名から地名が起つたといふ説話とは反對に、事實は地名が人名のもとであり、さうしてかういふ人名は、勿論、實在の人物の名とは思はれぬ。モロアガタの君のイヅミヒメといふ名も、應神天皇の妃としてヒムカのイヅミのナガヒメといふのがあることから考へると、やはり地名から作られたのであらう。だからこれらの人名は、ヤマトの朝廷に知られてゐる有名な土地について、物語を作るために案出せられたものと考へられる。それがどこの土地にも行きわたつてゐるのは、此の故であらう。歴史的事實の記録たることが疑の無い、また實在の人物たることの明白な、場合には、かういふ名の無いことを考へるがよい。それから、こゝに擧げた例でも見られる如く、人名には二人づゝ連稱せられるやうにできてゐるものが多い。これは地名から作つたもののみでなく、其の他の場合でも同樣であつて、クマソにアツカヤ・セカヤの二人の酋長があり、それにイチフカヤ・イチカヤの二女があるといふなどは、このことの最もよい例である。二女の父が二人の酋長のどちらであるか、わからないところに、人が二人づつある、といふことが主なる着想であつて、父子の關係などは顧慮せられなかつたことが、見られる。さうしてかういふ人物は歴史上の存在ではなくして、架空のものと見なければならぬ。ハナタリ・ミミタリといふやうなものもあつて、全く所を異にして其の間に何等の關係の無い二人の酋長に、こんな名の(163)つけられたのが、實在の人物をさしたものでないことを示してゐる。ツチヲリヰオリ(タチヲリヰオリ?)といふのは一人の名になつてゐるが、これは二人に分化する可能性を有つてゐる。神武紀に、カタヰまたカタタチといふ地名のあることを參照するがよい。もつとも、ハヤミヒメのやうに一人のもの、ウチサル、ヤタ、クニマロ、のやうに三人あつて連稱することのできないものもあるが、少くとも其の多數が連稱するを得べき名を有する二人であるといふことは、かういふ人物が實在のものでないことの明證であらう。
 なほ第四には、多く兵を動かさば百姓の害であるといふので、鋒刃の威を假らずしてクマソを平げようとせられたといふ話、クマソの酋長の二女を陽に寵し、姉の方のイチフカヤの計を用ゐて酋長を殺させて置きながら、其の女の不孝を惡んで之を誅せられたといふ話が、支那思想によつたものであることを、考へねばならぬ。また第五には、ヒムカでヤマトを憶うて詠まれたといふ歌が、古事記ではヤマトタケルの命のイセでの詠として載せられ、而もそれが決して遠方にゐて故郷を思ふ歌とは見えぬこと、また決して一首の歌として見るべきものでないことを、注意しなければならぬ。これは本來無關係な歌が、甲の話にも乙の話にも結びつけられる一例であつて、古事記の仁コの卷に見える歌が、丹後風土記で浦島物語に適用せられてゐる、と同じやうなことである。
 かう考へて來ると、此の物語を構成する種々の説話は、決して事實の記録でないことが知られよう。さう思へば、トヨ國のミヤコに行宮が設けられたといふのも、ミヤコの地名から起つた話であるらしい。ナガヲの縣の名が別にあるが、此の縣が即ちミヤコであるとは限られず、二者のさすところに範圍の廣狹があるとも解せられる。(ミヤコといふ語は皇都といふ意義には限らぬ。一體に古い地名には意義のわからぬのが多いことを考へねばならぬ。)
(164) ところで、此の物語の本旨は一體どこにあるだらうかといふと、物語の最初に「熊襲反之、不朝貢、」といひ出してあること、特に「議討熊襲」と筆を起し、「悉平襲國」と結んで、クマソ(もしくはソ)の征伐の記事には特殊の注意がしてあることを考へると、此の物語の中心觀念はクマソの征伐であることがわかる。(書紀の記載では、豐前豐後地方に於ける幾多の土豪に對する經略が、十二年の九月十月の二ケ月間とせられ、肥後筑後地方の豪族征伐として、ヒナモリから出立してイクハにゆかれるまでの時日も、十八年の三月から八月までの六ケ月間となつてゐるのに、クマソの平定は十二年の十二月から十三年の五月までかゝり、クマソの征討、及び其の地方の綏撫と密接の關係があるべきヒムカの國の滯在が、十二年の十一月から十八年の三月までの長年月とせられてゐるので、これもまた此の物語の主旨がクマソの征討にあることの一證であるやうにも見えるが、しかし此の年月の記述は、物語の原形にあつたものかどうか、問題であらう。)然るに、其の征伐の方法は、女の詭計を用ゐて醉つてゐる間にクマソの酋長を殺した、といふのであつて、それもヤマトタケルの命のクマソ征討物語と同工異曲であり、前のは後のから轉化したものとして説明することができる。決して歴史的事件の記録らしくはない。またヒムカの國の行宮のタカヤの宮の名は、書紀の神代卷に見えるホホデミの命の御陵の名のタカヤ山と同じであるが、これも、記者の脳裡に於いて此の二者の間に一種の聯想がかつたことを示すものではあるまいか(タカヤ山については後章にいはう)。
 然らば此の物語に於いて、クマソそのものはどう見られてゐるか、どれだけの勢力を有つてゐたものとしてあるかといふに、天皇が、ヒムカの國に入られてからその征討に着手せられ、それを平げられてから、ヒムカの國造の祖を生んだミハカシヒメを妃とせられた、といふ話を思ひ、さうしてそれに、やはりクマソ平定の後コユの縣に於いてヒ(165)ムカの國名を與へられた、としてあることを參照すると、ヒムカの本地たる今の日向地方、少くともコユやモロアガタの方面は、クマソに屬してゐたやうに物語の記者は考へてゐたのであらう。もつとも書紀の文面だけでは必しもかう解釋しなくてもよいので、今の日向地方は征討の策源地とせられたのみであつて、クマソの領土ではなく、さうしてそれは前から既に朝廷に歸服してゐたのだ、といへばいはれないこともない。けれども物語の記者の心理を推測すると、これはクマソを考へるに當つて、第一にまた力強く、ヒムカの觀念が現はれて來たことを示すものであつて、それは即ちヒムカを昔のクマソの地と思つてゐたからであらう。さうして、神功皇后の新羅遠征にしても、ヤマトタケルの命のエミシ征服にしても、みなその本國、其の領土の内、に進まれたやうに語られてゐるのは、かゝる場合の作者の思想の傾向を見るに足るものであらう。さうして、ソの名稱の起源が後に大隅國に入つた贈於郡地方であるとすれば、また其の大隅地方が後までも日向國の一部であつたとすれば、それらのことも記者の知識にはあつたであらうから、此の物語では、クマソが少くとも今の日向大隅地方の諸豪族を統治する、大勢力としてあることが推測せられる。かう考へて、豐前の南部及び豐後地方に、ミミタリ・ハナタリ、ツチヲリヰヲリ、アヲ、シロ、ウチサル、ヤタ、クニマロ、等の幾多の土蜘蛛がゐ、肥後及び筑後の南部地方には、ツツラ、アソツヒコ・アソツヒメ、ヤメ、等の幾多の土豪があつて、それ/\獨立の勢力を有し、而もその多くは反抗者とせられてゐるのに、此の廣い日向大隅地方には、ヒナモリとモロアガタとの酋長の名があるのみで、それも初から服從者として取扱はれてゐることを思ふと、此の地方はクマソといふ一つの勢力として、物語の記者の思想に存在してゐたことが、推測せられる。(事實としては、此の方面にもクマソタケルに服從してゐる幾多の小首長があつたでもあらうが、こゝでいふのは物語の記者の思(166)想のことである。もつとも物語にも「クマソのヤソタケル」といふ語はあるが、これは神武紀にも「シキのヤソタケル」とあると同樣、酋長の同類が多いといふ意義のことであつて、酋長に屬する地方的小君主が多いといふやうなことではなく、また特殊の事實に基づいた觀念を表はすものではなくして、物語としての通有の語である。)また今の薩摩の地方も恐らくはクマソに含まれたものとして見られてゐたであらう。といふのは、クマソ征討の前後に天皇が豐前の南部、豐後、肥後、筑後、の地方を巡幸し、諸所を經略平定せられたやうにしてあるのに、大隅、薩摩、の地方がそれに漏れてゐるのは、クマソの征討に其の方面の平定が含まれてゐるからだ、と見なされるからである。ところが、かういつて來ると、おのづから再び前に述べたソの國の問題に逢着しなければならぬ。それは此の物語ではクマソの經略の外にクマの征服があるからである。上文には混雜を避けるために、便宜上、本文の示す如くクマソとソとをやゝ曖昧な熊度で同一視して述べて來たが、こゝに至つて再びそれを明確にしなければならなくなつた。さうして、それはまたおのづから、前のクマソの名義の由來について述べた二案の可否といふことに關聯して來る。
 さて書紀の「襲」と書いてあるのが、もし「熊襲」の誤でないとすれば、ソはクマソと全く同じ意義に用ゐられてゐるのであるから、物語の記者はクマソとソとを同一視してゐたのであらう。けれども、ソの平定とは別にクマの經略をも書いてゐるのは、それと矛盾するやうである。そこで、これはどう解釋すべきものかと考へて見なければならぬ。此のソとクマとの並立が、もし古い材料から間接に傳へられたことだとすれば、事實上ソとクマとは別のものとして經略せられ、後にそれが傳説化せられるやうになつて、二つの勢力がクマソといふ汎稱の下に結合せられたのだ、と考へられなくはなく、さうして、書紀もしくはその直接の材料となつたものに於いては、此の傳説的稱呼と歴史的(167)の名稱とが記者の脳裡で混同せられたために、クマソとソとを或る場合に同一視したのであらう、と思へば思はれる。が、單にソと書いてあるところが古事記の方には一つもないといふことは、此の名の物語に現はれたのが寧ろ新しいことを暗示するものだ、ともいへばいはれるし、また書紀に見えるクマとソとの?態が、その地方の經略が實際に行はれた時のこととして傳へられたものならば、クマは一小地方的勢力であつて、ソと連稱せらるべきほどのものとも思はれぬから、此の考にはどうも受け取り難い點がある。それよりも、クマソといふ名が古くから聞き傳へられてゐた名であつて、それが後までも襲用せられ、ヤマトタケルの命の物語もそれによつて作られた、と見る方が適切であり、書紀の史料となつたものに、景行天皇の物語に於いて別にクマの經略の書かれてゐたのは、その記者がさういふ土地のあることを知つてゐたために、所々の土蜘蛛の平定せられた物語を作つたと同じやうな考で、その物語を作つたのであり、ソの國といふ名もやはり同じ事情から偶然クマソ征討の物語にまぎれ込み、そのためにクマソとソとが混同して取扱はれるやうになつたものではあるまいか。
 或はまた、クマとソとに限らず、一體に此の方面には多くの小君主があり、ヤマトの朝廷は漸次それらを經略したのでかつて、クマソといふやうな名は、たゞさういふことの行はれたといふ傳説に基づいて、一つの征討物語を作るに當り、それらのうちのクマとソとの名前を取つて、机の上で作つたものではなからうかといふ疑も起り得る。クマソといふ名が物語にのみ現はれてゐること、クマとソとを結合してクマソといふことが、實際の稱呼としては、やゝ奇異に感ぜられないでもないといふこと、などもその疑を助ける。けれども、此の地方の住民がハヤトとして後までも特別に取扱はれてゐたこと、上代の物語にあれほど有名であること、また後にいふやうに此の地方の經略の時期が(168)比較的新しく考へられること、從つてそれにはよほど頑強な抵抗力があつたと推測せられること、などから考へると、其の地方が政治的勢力として一團結をしてゐたことは事實らしいから、それを呼ぶ實際の名稱は何かあつたであらうと思はれ、さうしてそれがあるのに、別に新しく机上で製作する必要は無かつたらうから、クマソはやはり傳説的に古くから用ゐられた稱呼として解釋する方が、妥當であらう。
 さてかう考へて來ると、物語の上に於いて一つの勢力として現はれてゐるクマソは、實際やはり一つの大勢力として附近の諸豪族を統轄してゐるものであつたらう。さうして或る時期に於いてヤマト朝廷がそれに對する經略を行つたことも、事實として考へてよからう。もつとも、そのクマソの勢力の範圍がどこまでであつたかといふことは、單に此の物語の上に現はれてゐることだけで決めるわけにはゆくまい。物語は、畢竟、物語だからである。前に述べたやうに、クマソの征討の外にクマの經略が語られてゐるのでも、物語の示すところをそのまゝに歴史的事實と見ることのできないことはわからう。しかしクマソが廣義のツクシの南部であることは、すべての形勢から推測して疑が無からうし、クマとソとが前に述べたやうな土地であることも確かであらうから、此のことと、國郡制定の後までも今の日向大隅薩摩の地方が一國として取扱はれてゐた事實とを、互に參照して考へると、大體に於いて物語の示すところが事實として是認せられさうである。さすれば、古事記のオホヤシマ生成の物語に於いて、クマソの國の名をトヨやヒや狹義のツクシやと同樣に取扱つてゐることが、物語の上だけの話であるにせよ、クマソと云ふ名によつて示される土地がほゞ今の日向大隅薩摩の方面を含むもののやうになつてゐるのは、一般に承認せられてゐたことであつて、それは即ち昔の歴史的事實に基礎があるのではなからうか、(此の物語に於いてクマソの國が擧げてある以上、別に(169)ヒムカの國のあるべからざることは、此の點からも明かであらう。)
 たゞクマの地方が、名稱の上から見て、クマソの勢力に從屬してゐたとすれば、今の肥後の南部もまたクマソの範圍に入つてゐたであらう。從つて、肥後の全體が朝廷に服從したのは、クマソの勢力の破壞せられた後のことと見なければなるまい。肥後方面に對しては、ツクシから近い土地でもあり、海上交通の便利もあつて、今の日向地方よりは比較的早く經略の手が伸びてゐたではあらうが、同じ海岸つゞきの薩摩まで及んでゐないとすれば、クマソの勢力は此の方面に於いても、かなりに強い抵抗力を示してゐたのではなからうか。物語に於いて、クマソ親征の前後に豐後肥後の地方を主として其の附近を巡幸し、所々の土豪を征討または綏撫せられたやうにしてあるのは、これらの地域が、ともすれば朝廷に服從しない土豪のすみかとして、或る時期に、朝廷から考へられてゐたことを示すものではなからうか、とも思はれるが、もしさうとすれば、それらのうちにはクマソの勢力と何等かの聯絡のあつたものがあるかも知れぬ、と考へられぬでもない。しかし此の巡幸區城中には筑後もあり豐前もあるので、それらの地方の朝廷に對する地位は、ほゞ筑前や肥前方面と一樣であつたことが、地理上の形勢からも推測せられ、從つて此の物語の書かれた時に於いて、特に其の地方に反抗者のあつたやうな記憶が強く遺つてゐたらしくも見えないから、これはたゞ物語の記者の構想から出たことであらう。もつとも、巡幸區域が豐前の北部や筑前や肥前やを除いてある點に、廣義のツクシに於いて其の北部を中部以南とは區別して取扱つてゐる記者の意圖は覗はれ、さうしてそれは、大觀すれば實際の形勢から來てゐることでもあらうが、物語に現はれてゐる區域によつて的確に分界線が劃せられるのではあるまい。特に此の物語は古事記には見えないことであつて、後にいふやうにかなり後世に撰述せられたものらしいから、(170)なほさらかう考へられる。韓地經略の行はれてゐた時代に於いて、その大切な根據地であるツクシの北部を側面もしくは背後から直に脅かされるやうな?態に、筑後附近を放置してあつたとは思はれない。だから、これはクマソのと力を考へる場合には、深く顧慮すべきことではなからう。
 それから、此のクマソの勢力の根據がどこであつたかは、容易に判斷しかねる。クマソといふ名は本來クマとソとから起つたので、其の名がツクシ方面に傳へられた始には實際、クマまたはソが勢力の中心であつたらうが、勢力の消長はかゝる豪族の間にもあつたらうから、その名は同じくクマソと呼ばれてゐても、實際の勢力の及ぶところ、或はその中心點は、時によつて變動が無かつたともいはれまい。さうしてクマソの平定と密接の關係のあるヒムカについて、其の地名説話がコユに結びつけてあり、國郡制置の後の日向の國府がコユにあり、その前に國造のゐたところもヒムカの地名説話と後の國府の所在とから考へると、多分同じコユであつたらしく思はれ、またモロアガタの君イヅミヒメの名が見え、後に仁コ天皇がモロアガタの君の女カミナガヒメを妃とせられたとあるやうに、コユとモロアガタとが、或はヒムカの中心とせられ、或はヤマトの朝廷にもよく知られてゐる地名らしく物語に現はれてゐるのを思ふと、クマソ經略の當時に於ける實際の中心は、寧ろコユやモロアガタの地方ではなかつたらうかとも、臆測せられる。物語に於いてコユやモロアガタが如何に取扱はれてゐるかは、必しも深く拘泥するに足らず、また勿論、有力な證據とはならないのであるが、後の事實から推してかう考へられるのである。特に交通上の地理的形勢と古今の事蹟とによつて見ると、ソの地方、即ち今の大隅方面の經略がもし實際に行はれたならば、それは肥後方面から進むのが順路であつたやうに思はれ、平時に於ける行政上の交通系統も、やはり同樣であつたらうと思はれるが、後までも(171)大隅薩摩方面の政治的中心が却つて東方の日向にあり、物語に於いても日向が重要視せられてゐるのは、此の自然の?態に背くものであるから、それには何か特殊の理由がなくてはなるまい。さうしてそれは、やはり或る時代に於いて日向が大なる勢力の根據地であつたからではなからうか。(ついでにいふが、ヒムカの國造が、物語に於いてクマソの勢力範圍と考へられてゐたほど、廣い區域に政治的勢力を及ぼしてゐたかどうかは、不明である。普通には國造の領地はそんなに廣いものではない。ヒムカは、例へばヒムカのソのタカチホといふ場合の如く、廣い地方の名としても稱せられ、また國造の冒す名ともなつてゐたが、それは恰も地方名としてのツクシ、トヨ、などと、國造の領土としてのツクシ、トヨ、などとの、範圍が違ふと、同樣であつたらう。現に地方名としてはヒムカに包含せられてゐたはずのモロアガタやソなどに、君といふ首長があつたことは、前に引用した書紀または續紀の本文で知られる。元明紀の曾君といふのも、國郡制置前の地位に伴ふ稱呼が遺つてゐたのであらう。たゞ邊裔の地方だけに、國造とても特殊の權力を多くの小首長の上に有つてゐたかも知れぬ。)
 然らば、そのクマソの平定は何時ごろのことかといふと、それは明かにはわからぬ。たゞ大體から考へて、如何に早くとも四世紀以後であることには疑が無いが、記紀などに於いて明證は求められぬ。書紀の記載を見ると、清寧紀の四年の條に「蝦夷隼人並内附」とあるが、此の記事は、シナの所謂正史に於いて外夷の來朝を記す場合の筆法と、全く同じであるのみならず、ハヤトをエミシと並べて書いてある點から見ても、事實の記録であるとは考へられぬ。欽明紀元年及び齊明紀元年の條にも、同じやうな記事があるが、齊明紀の方には同じ年に來朝したエミシのことが月日を明かにして詳しく書いてあるのに、其の外に別に斯ういふ曖昧な記事が、單に其の年のこととして、見えてゐる(172)のは、益其の史料としての價値を疑はせる所以である。崇神紀十一年の條に「是歳、異俗多歸、國内安寧、」といふ記事のあるのを參考するがよい。だから、これらの記事は且らく論外として置かねばならぬ。(ハヤトとクマソとの關係はやゝ暖昧であるが、前に引いた如く「日向隼人曾君」といふ明文もあるから、クマソの名稱の一由來である贈於郡の地方の住民も、やはりハヤトと稱せられてゐたに違ひない。ハヤトはハヤヒトで暴れものの義であらうから、これはクマソ地方の住民を一般に呼んだ名ではなからうか。今の大隅の地たる贈於郡のものがハヤトといはれたのを見ると、同じくソの勢力に屬し、或る時期にはその中心となつてゐたかと思はれる今の日向地方の民も、さう呼ばれてゐてよいはずである。それが薩摩地方の民に特殊な名稱のやうになつたのは、日向方面のものは漸次歸順して行つたのに、薩摩地方のものが後までも舊態を保つてゐたからではなからうか。いひかへると、ハヤトの範圍が漸次奧の方へ狹められて行つたのではなからうか。)
 しかし、こゝに注意すべきは、神代の物語にヒムカの名が出てゐることである。書紀の本文やその注の二つの「一書」には「ヒムカのソのタカチホ」といふやうな語も見えてゐて、これは明かにヒムカといふ名がソよりも廣い地方名として用ゐられるやうになつてから書かれたものに違ひないが、かう書かれない場合でも、タカチホはヒムカにあるやうに記されてゐて、皇孫がヒムカに降臨せられたといふ話は、記紀の何れにも共通な物語であり、神代史の骨子をなすものであるから、それは神代史といふものが記述せられた最初から存在してゐたものであらう。ところが、ヒムカはクマソが歸服してから後に用ゐられた名としなければならぬ。ヒムカの地方がまだクマソと呼ばれる勢力に屬してゐた時代に、廣い地域の稱呼としてかういふ名があるはずは無い。書紀がヒムカの國造の祖を景行天皇の皇子と(173)し(このことは古事記にも見える)、ヒムカの名が天皇の命名であるとしたのは、例の地名説明の物語であつて、歴史的事實とは認められないが、それをクマソ平定の後のこととしたのは、極めて自然である。また名稱は何れにもせよ、神代史に於いてヒムカの土地が皇室の發祥地として語られてゐるのは、神代史の形成せられた時にはクマソが既に服屬してゐたからに違ひない。さすれば何時クマソが討平せられたかを推定するには、神代史述作の時代が一つの基準になるのであるが、それは次篇の「神代の物語」に述べるところを俟つて知られるであらう。たゞ豫め著者の見解を述べて置くならば、それは六世紀の中ごろであつたらしいから、クマソの服從はそれより前のことであつたといふ推測ができるのである(「神代の物語」第二十四章參照)。もつともかういふ迂曲な考へ方をするまでもなく、此の書の第一篇第四章に説いた如く、帝紀舊辭そのものの最初の編述が六世紀ころであるとすれば、物語としてそれに現はれてゐるクマソの服從がそれより前のことであり、物語として語り得られるほどに、服從の事實が人の記憶に確かでなくなつてゐるだけの時代を經過した昔のことである、といふことができるが、今はさういふ説きかたを避けて置きたい。物語の内容の上からの推論をするのが主旨だからである。
 次に今一つ參考に資すべきものは、宋書の倭國傳に見える昇明二年(478 A.D.)の倭國王武の上表に「自昔祖禰躬?甲冑、跋渉山川、不遑寧處、東征毛八五十五國、西服衆夷六十六國、渡海平海北九十五國、」とあることである。此の文は、我が國の勢威を示すためにいくらか誇張した書きかたがしてあるかもしれないから、それをそのまゝ事實を記したものと見ることはむつかしいが、ともかくもかういふ文の書かれたのは、昔の或る時代にはまだ服屬してゐなかつた西方の衆夷が、此のころには既にほゞ歸服してゐたからであらう。さうして、それは即ち所謂クマソに當る(174)ものではなからうか。毛人云々とあつたとて、事實上、エミシ全部が服屬したのでないことは勿論であり、またそれは必しも文字どほりに中央政府自身で大征討を行つたものと見なくてもよいのであらうから、それと同じやうに書いてある西方の衆夷についても、かう推測することは確實な考へ方とはいはれないが、奧の知れないエミシと限りのあるクマソ方面とは、すべてに於いてヤマトの朝廷に與へる感じが違ふから、書き方は似てゐても事實に違ひがあると考へるのも、全くの無理ではなからう。さて此の昇明二年は我が雄略天皇の時代に當るらしい。(こゝに衆夷とあるのは必しも異民族といふ意味ではない。次章に説くやうに、漢文流の文飾のために地方人を夷と稱することは、同じ我々の民族に對しても行はれてゐた。ましてこれはシナ人に誇示するための文であるから、そのつもりで見なければならぬ。)
 これらのことから考へると、五世紀の中ごろには、物語でクマソといはれてゐる地方は、大體ヤマトの朝廷に歸服してゐた、と見て差支が無からうか。四世紀の後半に於いて、既にツクシの北部を根據として、韓地に手を出すやうになつた以上、其の南部が何時までも放置してあつた、とは思はれない。或はまた北部の領有と同じ四世紀の前半に既に南部をも經略した、と想像せられなくもなからうが、北部の經略については上代の物語に全く其の痕跡が無く、クマソ征討のみが際立つて現はれてゐるのを見ると、其の間には大なる區別があるものとして、世間にもまた物語の作者にも、考へられてゐたらしい。かの古事記に見えるオホヤシマ生成物語のツクシ四面の話に於いて、ヒムカといはずしてクマソと稱してあるのも、そこが一種特別の地として見られてゐたからであり、さうしてそれは、其の服屬が比較的新しいことであつたからであらう、と考へられる。だから、それは北部三國の領有の後、いくらかの歳月を(175)隔ててのこと、言ひかへれば如何に早くとも四世紀の終、多分は五世紀の前半のころに於いて行はれたことではあるまいか。宋書に見える上表に於いて現になほ反抗してゐるエミシ、經營の困難になつて來た韓地(海北)と並べて、西夷を擧げてあるのも、其の服屬が、新しい事件として、なほヤマトの朝廷に強い印象を殘してゐたからではあるまいか。もつとも事實としてのクマソの平定は必しも一時に行はれたのではなからうし、最も僻遠の地である薩摩地方は、五世紀ごろに於いても十分に歸服してゐたか、疑はしくないでもないので、國郡制定の後までも、かなり特殊の?態であつたことは、書紀や續紀の種々の記載から想像せられ、大寶年間にも叛亂が起つたほどであるが、今の日向、大隅、肥後、の方面を統治してゐる朝廷の勢力は漸次そこにも及んでいつたことと思はれ、いつしかヒムカの地方名の内にも包含せられるやうになつたであらう。(姓氏録第一三卷に允恭天皇の時に薩摩國を征せられたことが見えるが、これは姓氏録の記載の他の例から類推すると、事實ではあるまい。)
 
          四 概括
 
 クマソに關する著者の所見は、これまで述べて來たところによつて、ほゞ其の意を悉した。そこで最初に立ちもどり記紀の物語について一言して置くが、ヤマトタケルの命のと景行天皇のとは、共に所謂諸家の?したところの舊辭のどれかによつて傳はつたものであらうが、景行天皇の物語は古事記には全く見えずして書紀のみにあるのであるから、阿禮の誦んだ舊辭には無かつたのである。此の事實と、ヤマトタケルの命の物語は話が單純で古い物語らしく、また前にも述べたやうに景行天皇の物語にあるイチフカヤのクマソタケル暗殺がヤマトタケルの命の話から脱化した(176)もののやうに見えることと、この二つから考へると、景行天皇の物語はヤマトタケルの命のよりも後に作られたものらしい。多分ヤマトタケルの命の物語を二重にしたのであらう(このことについては次の章に説く東夷巡幸の物語と參照するがよい)。しかし古事記にも書紀とおなじく、ヒムカのミハカシヒメを景行天皇の妃として、またトヨクニワケの王をヒムカの國造の祖として、擧げてあつて、このことは天皇の親征物語と密接の關係があるらしく思はれるから、古事記に採られた帝紀も、多分、此の物語の形を成した後に於いて増補せられたものであらう、と想像せられる。(概していふと古事記にとられた帝紀は、同時に取扱はれた舊辭よりも後の潤色が加はつてゐるらしく、さうしてこのことは、帝紀が舊辭に記されてゐるよりも後の時代の系譜を含んでゐることからも、是認せられる。なほ後にも此の例を擧げる場合があらう。)たゞ書紀に見えるヒムカのカミナガオホタネとソのタケヒメとの二妃、またヒムカノソツヒコの皇子、クニチワケ、クニセワケ、の皇子などの名は、古事記には無い。これは、多分、最もおそく系譜に書き加へられたものであらう。景行天皇のクマソ征討譚がもとになつて、それから作られたものであることはいふまでもない。ソツヒコが地名をそのまゝにとつたのであり、クニチワケ・クニセワケ(一説ではミヤチワケ)が連稱的の名であることも、勿論である。
 然るに、ヤマトタケルの命の話には、記紀共に、ヒムカの國の名も出てゐず、クマソがどこであるかも説いてなく、極めて漠然としてゐるが、それは恰も前章に述べた新羅征伐の話と同樣、實際の征伐の行はれたよりもほど經た後に於いて、クマソ征伐といふ單純な概念を本にして、作られたからのことであらう。が、それではあまりに茫漠としてゐる。景行天皇の物語は是に於いてか作られたのではあるまいか。しかし景行天皇がクマソを征服せられたことにな(177)つたため、ヤマトタケルの命のしごとが、比較的、輕いものになり、その點でこの命の物語の精神が弱められてしまつた。後から加へられた舊辭の潤色には、往々かういふことがある。が、それはそれとして、この二つの物語の作られた時代を考へるに、上に述べた歴史的事實としてのクマソ平定の時代に參照すると、ヤマトタケルの命の話は早くとも六世紀に入つてからの作らしいが、景行天皇の物語とても其の形を成した時代が國都制置(七世紀の中ごろ)以前であることは、オホキタの國、アソの國、ミケの國、ヤメの縣、などといふ地名が用ゐられてゐるのでもわかる。豐前國、筑紫後國、などとあるのは、後人の添加したのか、又は書きかへたのかであらう。(書紀の國名の書き方は極めて亂雜である。後章にそれを考へよう。)遠隔の地方に對する天皇の親征もしくは巡幸といふやうなことは歴史的事實として大化以前にはその例が無く、百濟救援の際に於ける齊明天皇のツクシ行幸がかういふことの最初らしいから、此の物語もさういふ事例のあつた後、またそれに基づいてでなくては、構想し得られなかつたのではなからうか、とも思はれるが、上記の地名が國郡制置以後に昔の?態を考證した上で書かれたものと見ることは、困難であらう(次章に述べるヤマトタケルの命のエミシ征討物語と對照するがよい)。けれども、ヤツシロに於いてヒの國の名の起源が説明せられてゐるのを見ると、少くとも此の話のできたのは、今の肥後の地方をも一般にヒの國と稱するやうになつた後のことであらう。クマソの酋長の女の妹の方のイチカヤをヒの國造に賜はるといふ話も、ヒがクマソから遠からぬところとして考へられた故らしく、從つてこれも肥後がヒと呼ばれてから後の思想である。が、それも大化以前からのこととして差支が無からう。敏達紀十二年(558 A.D.)の條に火葦北國造といふ稱呼が見えてゐるから、肥後地方がヒと呼ばれたのはそれよりも前からのことであらうと、一應は想像せられるやうであるが、この國造の名(178)をもつてゐるものについての敏達紀の記載は、歴史的事實を傳へたものとは考へがたいから(この書の第四篇參照)、この稱呼もまた敏達朝のころにあつたものとは、確言しかねる。しかし書紀のかきかたの一般の例から推測すると、それは架空のものではないやうであり、さうしてさう考へる上は、それが大化以前に存在したものであることを、稱呼そのものによつて、知ることができる。從つてこの稱呼は、肥後地方をヒといつたのが大化以前からのことである一つの證となるものである。(但し何故に肥後地方がヒの汎稱の下に呼ばれるやうになつたかは、明かでない。或は、そこにヒといふ名の土地があつたからでもあらうか。和名抄の肥伊郷がそれかとも思はれるが、此の名が古いものかどうかは、やはりわかりかねる。肥前風土記には八代の火邑といふことがあるが、同じ話が、風土記の根據となつてゐる書紀の物語では豐村と書いてあつて、豐はトヨの音を寫したものであらうと思ふから、これも物語によつて改めたのではなからうか。書紀の話はヒの國の名の説明であつて、村の名には關係が無いが、風土記は村の名にも此の話を結びつけようとしたものらしい。だから、果してヒといふ名の土地が、古くからあつたかどうかは、實は不明である。たゞ肥後地方をヒといふことが肥前の方のヒとは別の由來を有するものであらう、とだけは想像せられる。さうして兩方ともヒといふ名であるために、國郡制置の際に肥の一國とせられ、後また肥前肥後に分けられたのではあるまいか。なほ附言して置くが、肥前風土記に國名の起源を肥後の八代に求めてあるのは、書紀の話がそこにあつたからであつて、書物の上から來たことに過ぎない。またそれに「肥前國者、本與肥後國、合爲一圖、」とあるのは、國郡制置以後のことであらう。それより前のこととしては無意味である。)
 
(179)       附録
 
          一 風土記の記載について
 
 景行紀に見える天皇巡幸の物語は、決して歴史的事件の記録として見ることができない、といふ上記の説に對しては、風土記にも同樣の記事があつて、それは其の土地に傳へられた話を記したものであるから、此のことは事實と認めなくてはならぬ、といふ反對諭もあらうから、こゝに風土記に關する一般的考説を附記して置かうと思ふ。
 先づ景行紀と同じ事がらを記してある豐後風土記を見ると、文章が殆ど書紀と同じである。例へばツバキの市の條について兩方を對照すると(本文は書紀の文、風土記のは傍點を附して置いたところが無い代りに括弧の中に入れて置いた文字がある)、「採(伐)海石柘樹、作椎爲兵、因〔傍点〕(即)簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛、而破于稻葉川上、悉〔七字傍点〕(誅)殺其黨、血流〔二字傍点〕(流血)至踝、故時人、其作海石榴〔三字傍点〕椎之處、曰海石榴市、亦血流〔二字傍点〕(流血)之處、曰血田也、」といふやうになる。禰疑野、蹶石野、速見郡、などの條も同じ程度に似てゐる。それから肥前風土記にも同じ例があつて、卷首の火の國の名を説明したところには景行紀と、松浦郡の條には神功紀と、殆ど同じ文章があり、また筑前風土記(釋日本紀所引)にも仲哀紀と同じところがある。さてこれらの文については、書紀と風土記との間に必ず直接の關係がなくてはならぬが、それならば、どちらが本であつたらうか、といふ問題がそこに生ずる。書紀(180)の完成したのは養老四年(720)であり、風土記の録上を命ぜられたのは、それより七年前の和銅六年(713)であるから、これだけで考へると、風土記の方が一般に早くできてゐたやうに見えるが、風土記が盡く命令の出たその年すぐに作られた、と考ふべき理由は決して無いので、現に出雲風土記は天平五年(733)にできたことが明記せられてゐる。またその出雲風土記に、靈龜元年(715)の式によつて「里」を改めて「郷」とするといふことがあり、その式といふのは全國に對して發布せられたものに違ひないから、やはり「里」でなくして「郷」のみ用ゐられてゐる豐後風土記及び肥前風土記は、早くとも靈龜元年以後の作でなくてはならず、和銅六年から此の年まで既に少くとも二年を經過してゐる。さうしてかの出雲風土記の例があるとすれば、この二つもまた養老四年以後の編纂かも知れぬ。だから前に擧げた問題については、書紀が風土記の文を採つた、とばかり斷定すべきものではない。
 以上は文章が書紀に類似してゐるものについてのことであるが、文章上の關係が無くして而も内容の上に於いて書紀の記載と交渉のある物語は、常陸、播磨、及び出雲、のに於いて見られる。このうちで、常陸と播磨との二つには「里」の字が用ゐてあるから、靈龜元年以前、即ち和銅六七年ごろに作られたものと考へられるが、かういふ、書紀よりも前にできてゐる、風土記が文章の上に於いて書紀と關係のないことは注意を要する。いひかへるとそれは、文章上の關係のあるものに於いては、書紀の方が早くできてゐたことを暗示するもののやうである。しかし風土記撰録の命令の出たよりも前に古事記が作られ、またそれよりも前から所謂舊辭が世に存在してゐたから、これについても、風土記がさういふ舊辭から材料を得なかつたとはいはれぬ。が、かういつただけでは何等決定的の判斷ができないから、次に風土記に見える物語の一般的性質を考察して見よう。
(181) 風土記に見える古事は、其の性質からいふと、地名説話が殆ど全部を占めて居る。さて一般に、地名説話といふものが歴史的事實を示すものでない、といふことはいふまでもあるまいが、説話として見ても、そんなに到るところ一々かういふ説話がそれ/”\の土地にいひ傳へられてゐたとは考へ難い(たまにはあるにしても)。だから、それは多分、風土記録上の命令に「山川原野名號所由」といふ一項があるため、できるだけ多くそれを案出したものと思はれる。既にそれが風土記の編者の考案になつたものとすれば、書紀にある物語にはかういふ地名の説明がなくして、風土記の同じ物語にそれが見える場合、例へば豐後風土記がネギノの名を説明して、景行天皇が兵を勞らはれたからだ、といつてゐるやうなのは、書紀のネギノの記載に基づいて、これだけのことを附加したものと見るのが妥當である。同じやうな説明を多く試みてゐる書紀の編者が、この場合だけ風土記のそれを取らなかつた、とは考へ難いからである。
 それから風土記のかういふ説話そのものに於いて、書紀または其の材料となつた舊辭には全く見えないけれども、而もそれと連絡がなくてはならぬものがあるが、これもまた風土記が書紀または其の材料となつた舊辭に基づいて作つた、と認めねばならぬ。例へば豐後風土記の、景行天皇が筑後の生葉郡から日田郡へ行幸せられた、といふやうな話は、イクハ(生葉)までの記事のある書紀をもととしてそれに接續するやうに巡幸の區域を廣くしたと見るべきものであり、肥前風土記に、同じく景行天皇が肥前の所々に巡幸せられたやうにしてあるのも、書紀のツクシ巡幸記事から出てゐるのであらう。もし反對に書紀が風土記に見えるやうな傳説によつて書かれたとするならば、何故にその一部分を採つて他の部分を捨てたかといふ説明ができなからう。のみならず一體にかういふ物語は後になるほど簡單なものに尾鰭がついて次第に複雜になつてゆき、又は同じやうなことが附加せられてゆくのが、普通の有樣である。(182)また例へば常陸風土記の行方郡の條に、ヤマトタケル天皇と皇后タチバナヒメとが會合せられたことを記し(久慈郡の條にヤマトタケル天皇の皇后とあるのもまたタチバナヒメであらう、此の二つは何れも「逢ふ」といふ語を利用したアフガとアヒカとの地名の説明である)、また多珂郡にも此の姫の物語があるが、これも所謂舊辭に於いて走水の海に入られたとあるタチバナヒメを、こゝで復活させたのであり、命の遺跡が信太行方方面にあるとしたのも、また景行天皇が此の方面に巡幸せられたやうにしたのも、此の舊辭の記載が本になつてゐるに違ひない。其の理由は、豐後風土記、肥前風土記、について述べたところと同樣である。特にタチバナヒメのことは此の國とヤマトタケルの命との關係を濃厚にし且つ古蹟を多くするために案出せられたものに違ひなく、其の反對を考へることは不可能である。要するに、風土記の物語は書紀もしくはそのもとになつた舊辭の話の發展したものと見なければならぬ。「古老相傳舊聞異事」が無くては命令の條件が缺けるから、なるべく多くそれを書き現はさうとするのであるが、それほどの歴史も無く録するに足るべき民間説話も少い、さりとて純粋の想像譚も作りかねる、といふ場合に、憑據を成史に求めてそれを敷衍するのは自然の方法である。常陸風土記が何かの物語を記す時に、必ず「古老曰」の一句を冠し、豐後と肥前とのに、必ず「昔者」の二字を着けてあり、出雲のにも往々「古老曰」と書いてあるのも、此の命令を文字どほりに遵奉したのであつて、編者の意のあるところは、このことだけからでも知ることができる。
 のみならず、どの風土記も、古事をいふ時は大てい着想がきまつてゐて、一定の範圍を出てゐない。豐後のは景行天皇、肥前のはそれと神功皇后と、常陸のはヤマトタケルの命、また出雲のは勿論スサノヲの命オホナムチの命の物語が基礎であり、播磨のは出雲と大和方面との中間にあるその位置から、やはり出雲と聯絡のある話、又はアメノヒ(183)ボコなどの話であつて、要するにその地方に關する書紀の記載と關係のない話は、極めて僅少の除外例とすべきものである。さうしてこれは、風土記の作者の態度が、實際の見聞を記すといふよりは、書物によつて机上で考案することであつたことを、示すものである。もし實際地方々々に傳へられてゐたことを風土記の編者が取つたならば、かういふことは無いはずである。なほ此の推測は、それらの物語の一半の意味をなす地名の説明が、やはり机上の製作であることによつて、一層たしかめられる。更に一般的に考へれぼ、所謂古蹟や遺趾が書物によつて新に作り出される例の、後世になつても甚だ多いこと、歴史を有することを誇とする一種の地方的感情が特にそれを刺戟すること、などをも參考するがよい。
 それから物語そのものの内容を見ると、風土記のは書紀のよりも、説話として發展した形を有つてゐるのが、常である。例へば、仲哀紀八年の條のイトの縣主のイトテが天皇を奉迎したといふ話と、筑前風土記の同じ物語とを比べると、文字までがほゞ同じでありながら、風土記のには、イトテがアメノヒボコの裔だといふことが加はつてゐる(イトテの名は地名のイトから作られたものであらう)。また神功紀の卷首の石を腰に挿まれたといふ話と、筑前風土記の同じ物語とを比べてみると、書紀には全く見えてゐない石の大さや重量まで書いてあつて、而もそれが二つとなつてゐるが、それは到底腰に挿まれたとして初から想像せらるべきものではないから、これは物語の原形には無かつたものと認められ、從つて書紀の方を原形もしくはそれに近いものとしなければならぬ。景行紀四十年の條のヤマトタケルの命がミヤス姫の家に草薙の劍を置かれたといふ話と、尾張風土記の桑の木にかけて置かれた劍が光を放つたといふのとを比べ、また仁コ紀三十八年の條の鹿の夢物語と、攝津風土記の夢野の鹿の話とを比べると、風土記の(184)方が複雜になつてゐて、それが書紀に見えるやうな話の發展した形であることは、疑があるまい。さすればこれらも、風土記のは、その土地に傳はつてゐた物語ではなくして、書紀またはその材料となつた舊辭が本になつて作られてゐることがわかる。かう考へて來ると、單にこれだけからでも、例へば伊勢風土記のアメノヒワケの命が神武天皇東遷の際にその勅を奉じてイセツヒコを平定したといふ話、山城風土記のカモノタケツヌミの命(姓氏録に參照するとヤタガラスである)がタカチホから神武天皇の先導をしたといふ話なども、神武紀もしくは古來の舊辭を本にして構想したものであることが、類推せられる。神武天皇東遷の話の主旨はヤマトへの遷都であつて、物語の全體の輪廓、またすべての結構がそれで成り立つてゐ、その外には何の方面に向つても一歩も出てゐないから、伊勢風土記の話は後世の添加と見なさねばならぬ。ヤタガラスは、古事記の説では純粹の烏であり、また吉野に於いて始めて現はれたものであるから、それが物語の原形に違ひない。しかし書紀では、既にそれが葛野の縣主の祖先とせられてゐる。山城風土記や姓氏録の話は、更にそれを發展させたものであらう(なほ神武天皇の物語については後章に考へよう)。
 かういふやうに、風土記に見える古事には大抵準據があつて、それが朝廷で述作せられた舊辭、またはそれをもとにして編纂せられた書紀であることを思ふと、文章の上に於いても、書紀と密接の關係のあるものは、やはり風土記の方が書紀から採つたものと見、從つて豐後や肥前のは書紀編纂の後に作られたものとするのが、妥當であらう。肥前風土記が火の國の名について二つの説を擧げてゐて、其のうちの一つが景行紀と殆ど同じ文章であるのは、かう考へると自然に解釋せられるが、その徑路を反對に見ることは甚だ不自然である。書紀がその編纂よりも前にできてゐた常陸や播磨の風土記から、文章は勿論、物語そのものをも採つたやうな形跡の無いことも、此の推定を助ける。な(185)ほ書紀には、舊辭によりながらその文章を多かれ少かれ書きかへようとした形跡があり、神代史に於いて數多く注記せられてゐる「一書」の文に、いくらかの程度で漢文化せられてゐるところの多いのも、其の故かと思はれるから、此の點からも風土記の文を書紀がそのまゝに取つたとは考へがたい。(風土記よりも書紀よりも前にできてゐた書物があつて、此の二書は同じく其の文を取つたのだ、と見られないこともないが、よしそれにしても、その書は朝廷で作られた舊辭、もしくはそれによつて書かれたものであることが、上に述べたところから推測せられる。のみならず、文章については今述べた如く、書紀がかういふものをそのまゝ取つたらしくはないから、此の考は成り立ち難からう。)
 それから、物語の根本は書紀や古事記の記載と關係がありながら、物語そのものはそれと直接の交渉の無いものは、どうかといふに、これも概して机上の製作らしい。その最も著しき例として出雲風土記の國引の話を見るに、これはキツキの御崎、サタの國(秋鹿半島)、クラミの國(島根郡)、ミホの崎を、シラキ(新羅)のみ崎、サキの國、良波(?)の國、コシのツツのみ崎から、それ/”\引いて來た、といふ話であつて、それが地形から考へ出された物語であることは疑がない。けれども、それが眼に見たところに基づいたことではなくして、智力で構想せられたものであることは、新羅も、コシも、また北門とあるのみで何處か不明のサキも、良波も、物語のいふやうに海の彼方に見ることができないところであること、並に此の話の土地が出雲の海岸の殆ど全部を包含してゐて、思慮の上でなくては綜合することのできない廣い地方であることから、明かに推斷せられる。さうしてかういふ性質の話は、實際その土地の人の間に行はれてゐたものとは考へ難い。コシの話などは、コシ地方との間に交通があり、その土地の人が來住し(186)てゐた、といふやうな事實があつて、それがかういふ形に於いて傳説として現はれたのではなからうか、といふ疑もあらうが、話の精神は、順次に北海の海濱を列擧した點から見ても、またその時に用ゐた※[木+戈]がサヒメ山だとか、引きよせた綱がソノの長濱だとか、ヨミの島だとか、いつてゐることから見ても知られる如く、地形の説明であるから、さうは考へ難い。コシ方面との交通があつたことは事實でもあらうし、作者にもそれが知られてゐたので、それによつて此の話が作られたのかも知れないが、話そのものはさういふ事實を象徴したものとは思はれない。歴史的事實の明かに知られる上代に於いて、新羅とイヅモとの間に直接の航路があつたといふ形跡が毫も見えないのに、新羅がこゝに引き出されてゐるといふことも、またそれを證する一材料である。シラキのみ崎などといふ、漠然たる、また實際どこにもあてはめられない、名稱の用ゐられてゐるのも、それが全く空想の所産である一證であらう。だから此の話は机上の製作と見なければならぬ。(新羅のことは、或は神代史に於けるスサノヲの命の新羅の話をもとにして、作られたのかも知れない。それから「良波」は、栗田寛の標註古風土記には「農波」の誤としてヌナミと訓んであるが、四つの國の三つが志羅紀、佐伎、高志*之都々、と書いてあつて、みな音の假名であるから、「波」ばかりをナミとよむのは疑はしい。但しラ行の音を以て始まる語をわれ/\の民族は用ゐなかつたから、「良」の字には誤があらう。さて此の良波とサキとがもし空想の名でなくば、イヅモの東方に當る日本海岸のどこかを指したのではなからうか。コシを引き出したことからも、さう考へられる。但しツツのみさきは、どこか判らぬ。またコシがもし果して普通に者へられてゐる如く「越」の義であるならば、それはヤマトの朝廷から名づけられた汎い地方名であつて、後になつては地勢上さう呼ぶことのできない地方の人にも用ゐられるやうにはなつたらうが、本來イヅモ人の呼んだ名ではな(187)いはずである。コシの意義はなほ考究を要するが、昔ロオマ人が今のフランス地方をTransalpinaといつたやうな例もあることから見ても、かういふ解釋は必しも不可能ではなく、特にそれが甚しく廣い區域を指す名であつたことを思ふと、本來の固有名詞としては考へがたいやうである。)其の他なほ風土記の物語に、ウヤツベ、ヤムヤヒコ、ヤヌワカヒメ(出雲風土記)、キビツヒコ・キビツヒメ、イセツヒコ・イセツヒメ(播磨風土記)、キツヒコ・キツヒメ(常陸風土記)、シヌカオク・シヌカオミ(豐後風土記)、の如く地名から作られた人名、特に其の中の二人づゝの連稱になつてゐるものは(常陸風土記のヤサカシ・ヤツクシ、肥前風土記のオホミミ・タリミミ、、などと同樣)前にも述べた如く到底實在の人物とは思はれず、從つて其の話が事實から生じた傳説とは考へ難い。
 要するに、風土記に古傳として記されてゐるものの大多數は、書紀または舊辭にもとづいて書かれたものであり、然らざるものも多くは机上の製作であつて、地方的傳説ではない。さうして此のことは、文化が朝廷の所在地から地方に及んでいつたこと、書紀のやうな朝廷で編纂せられたものに於いても古いことを記す場合に事實を有りのまゝに寫さうとはしなかつたこと、政府の法令すら事實から遠ざかつた空文のあること、などによつて知られる此の時代の一般の思潮からも、肯定せられるはずであり、常陸風土記の如く、シナ式の修辭を好み、また都人士の間に行はれた和歌の體を學んだ歌を作り、又はそれを引用してゐるもののあることも、それを證する。(常陸風土記に風俗とか風俗諺とかいつてあるのは、漢文に對する日本語といふ意義であつて、俚諺といふのではない。香島郡の條には「俗曰」として祝詞にある章句と殆ど同じものさへ見えてゐる。)だから、かういふ風土記には、概していふと、歴史的事件を記したものといふ意義での史料としての價値が無い。但し、舊辭は古くから世に知られてゐたのであるから、(188)それに記されてゐる説話がもとになつて作られた地方的傳説があり、さうしてそれを風土記が採つた、といふやうなことも、幾らかは無いでもなからう。それから、例へば常陸風土記の孝コ天皇の朝に多珂石城の二郡が置かれたとか、豐後風土記の天武天皇の朝に五馬山に温泉が湧出したとか、いふやうな、近世のことでもあり、何等の傳説的色彩を帶びてもゐない記事は、歴史的事實を傳へたものとして信ずべきであらう。が、此の例は極めて少い。なほ風土記の最も趣味ある物語は、例へば常陸のや豐後のやにある白鳥の物語、常陸の筑波山と富士山との物語、童女松原の話、播磨の大人の話、其の他、逸文の傳はつてゐる丹後の奈具社、近江の伊香小江、などの民間説話的物語であつて、常陸、播磨、出雲のにはかなりそれがあるやうに見える。かういふものが上代思想の反映として、貴重な傳説であることは、勿論であるが、歴史的事件を記したものでないことも、また勿論であり、豐後の白鳥傳説のやうにそれを景行天皇の時としたのも、(恰も浦島の子の神仙譚を雄略天皇の朝に結びつけたと同樣)、年代記としては固より意味の無いことである。
 以上は、風土記に古事として記されてゐるものについての考であるが、例へば常陸風土記にある筑波のかゞひに關する記載の如く、當時の風俗を敍したものに、風俗史思想史の史料としての價値があることは、いふまでもない。
 
          二 士蜘蛛について
 
 景行紀のツクシ巡幸物語を考へ、また風土記の價値を論じたついでに、これらの物語に見えるツチグモ(土蜘蛛)の性質について一言して置かう。
(189) 古事記に土蜘蛛の名の見えてゐるのは、神武天皇東遷の場合であつて、土蜘蛛八十タケルがオサカの大室にゐて誅伐せられた、といふ話がそこにある。書紀の此の話には土蜘蛛といふ名は出てゐないが、同じ東遷の場合にソフのニヒキトベ、ワニのコセハフリ、ホソミのヰハフリ、の三爲の土蜘蛛、及びタカヲハリの土蜘蛛が、やはり、誅伐せられたとある。此の土蜘蛛の主要なる觀念が皇命に服從しないものといふことであり、またそれが集團の名ではなくして個人の稱呼であることは、此の文によつて知ることができる。その外に書紀に見えるのは、景行紀の「有二土蜘蛛、住其石窟、一曰青、一曰白、」「有三土蜘蛛、一曰打?、二曰八田、三曰國摩侶、」といふ二條と、神功紀の「轉至山門縣、誅土蜘蛛田油津媛、」といふ一條とであるが、前に述べた如く、それが皇命に服せずして誅戮せられたことを思ふと、やはり此の觀念に適合する。個人を指してゐることもまた此の文で明瞭である。
 次に風土記には此の名が所々に規はれてゐるから、これを一括して示すと、先づ肥前風土記には「肥後國益城郡朝來名峯、有土蜘蛛打猴頸猴二人〔二字右○〕、帥徒衆一百八十餘人、拒捍皇命、不肯降伏〔八右○〕、」(卷首)。「有土蜘蛛大山田女狹山田女二女子〔三字右○〕」(佐嘉郡)。「此村有土蜘蛛、造堡隱之、不從皇命〔四字右○〕、日本武尊巡幸之日、皆悉誅之〔二字右○〕、」(小城郡)。「有土蜘蛛、名曰海松橿媛、…纏向日代宮御宇天皇巡國之時…誅滅〔二字右○〕、」(松浦郡)。「有土蜘蛛、名曰大身、拒皇命、不肯降伏〔七字右○〕、」(同上)。「第一島名小近、土蜘蛛大耳居之、第二島名大近、土蜘蛛垂耳居、…天皇勅且令誅殺〔三字右○〕、…垂恩赦放、」(同上)。「土蜘蛛八十女又有此山頂、常捍皇命、不肯降伏〔八字右○〕、」(杵島郡)。「有土蜘蛛三人〔二字右○〕【兄名大白、次名中白、弟名小白、】此人等造堡隱居、拒皇命、不肯降服〔七字右○〕、」(藤津郡)。「勅陪從神代直、遣此郡速來村、捕土蜘蛛、」(彼杵郡)。「有土蜘蛛、名曰浮穴沫媛、捍皇命、甚無禮〔六字右○〕、即誅之、」(浮穴郡)。「有土蜘蛛、名欝比袁麻呂、」(同上)。とあり、豐後風土記には景行紀と同じものの外(190)に「有土蜘蛛之堡、不用石、樂以土、」(日田郡)。「有土蜘蛛、名曰五馬媛、」(同上)。「有土蜘蛛、名曰小竹鹿奧、小竹鹿臣、此土蜘蛛二人〔二字右○〕、」(速見郡)とある。また常陸風土記には「昔在國巣【俗語都知久母又云夜都賀波岐】山之佐伯、野之佐伯、普置堀土窟、常居穴、有人來則入窟而竄之、其人去更出郊而以遊之、狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、彌阻風俗、…或曰、山之佐伯、野之佐伯、自爲賊長〔二字右○〕、引率徒衆、横行國中、」(茨城郡)。「古有國栖、名曰土雲爰兎上命、發兵誅滅〔四字右○〕、」(久慈郡)。とあり、攝津風土記には「宇禰備能可志婆良能御宇天皇世、僞者〔二字右○〕》土蛛【此人恒居穴中、故賜賤號曰土蛛、】」と見え、陸奧風土記(古風土記逸文所引)には「有八土蜘蛛、一曰黒鷲、二曰神衣媛、三曰草野灰、四曰保々吉灰、五曰阿邪爾那媛、六曰栲猪、七日神石萱、八曰狹礎石、各有族、而屯於八處石室、此八處、皆要害之地、因不順上命〔四字右○〕、」云々とあり、日向風土記には「天津彦火々瓊々尊…天降於日向之高千穗二上峯時、天暗冥、昼夜不明、…於茲有土蜘蛛、名曰大鉗小鉗、二人〔二字右○〕奏言皇孫尊、以尊御手拔稻千穗爲籾、投散四方、必得開晴、于時如大鉗等所奏、…即天開晴、日光照光、」とある。
 これらのうちで、肥前風土記のオホヤマダメ・サヤマダメ、ウツヒヲマロと、豐後風土記のイツマヒメ、シヌカオク・シヌカオミと、また日向風土記のオホハシ・ヲハシとだけは、或は荒ぶる神を和め、或は皇室に服事したものとせられ、又は事蹟が全く記してないが、その他はみな皇命に服しないものである。なほ常陸風土記には國栖と佐伯とを土蜘蛛と同意義に用ゐてゐるやうであるが、行方郡の條にはその多數がやはり皇命に反抗した逆賊として語られてゐる。それから、此の稱呼が個人をさしていふものであることについては、一つの除外例も無い。從つて最初に提出して置いた土蜘蛛についての二つの觀念は、二つともに誤がないといつてよからう。(肥前、豐後、日向の風土記に見える三つの除外例は變形として認め得られる。)
(191) なほ土蜘蛛に關する記紀や風土記の記事を見ると、古事記にはオサカの土蜘蛛に尾があると書いてある。書紀にはタカヲハリの土蜘蛛について「其爲人也、見短而手足長、與侏儒相類、皇軍結葛網而掩襲、殺之、」といつてある。また常陸風土記には、ツチグモの一名をヤツカハギといふとあり、越後風土記に「越國有人、名八掬脛【其脛長八掬、多力太強、是出雲之後也、】」とある「出雲」が「土雲」(古事記及び常陸風土記にも此の字が用ゐてある)の誤ならば、こゝにもやはり同じ思想が示されてゐる。かういつて來ると、かのナガスネヒコもまた土蜘蛛として考へられてゐたのではないかと思はれる。ナガスネヒコはトミヒコともいはれてゐるが、これはトミといふ地名から作られた名であつて、恰もウサツヒコとかアソツヒコとかいふのと同じことであり、神武紀にもエシキ・オトシキなど、その例が多いから、初はたゞトミヒコといふ名で物語に現はれたのが、後になつてナガスネヒコの名が加へられたのであらう(神武紀にナガスネが邑の本號でトミは鳥のトビの轉訛だとあるのは、地名説明のために作られた話である)。要するに、土蜘蛛は手足の長い蜘蛛のやうな人物だといふことである。しかし土蜘蛛が人を指してゐることは明かであるから、手足の長いといふことは、勿論、説話であり、從つてかういふ蜘蛛に似た形から土蜘蛛の名が出たのではなくして、土蜘蛛の名から此の説話が作られたものであることは、いふまでもない。
 次に古事記には、土蜘蛛が室の中にゐたやうに書いてあり(書紀には皇軍が室を造つてそこへ誘ひ入れたやうにしてあるが、これは物語としての發展した形である)、景行紀にもアヲ、シロ、の土蜘蛛は石窟にあるとしてある。それから常陸風土記や攝津風土記にも、前に引いた如く穴居のことが見える。なほ常陸風土記には、土蜘蛛のことらしい國巣が穴を掘つてそこにゐるとしてある。けれども、肥前風土記や豐後風土記に於いては、土蜘蛛が土窟または石(192)窟にゐるといふ話は(アヲ、シロ、の話の外には)無く、或は「造堡隱居」といひ、或は「堡不用石、築以土、」といひ、石壘土壘のやうなものを作つてゐたらしく書いてあるところさへあり、また多くの黨類を有してゐるものもあること、すべてが地方的土豪らしく見えること、などから見ても、土蜘蛛が本來穴居するものとして考へられてゐたとは思はれぬ。特にツクシの土豪の住居は、三世紀に於いて既に「棲觀城柵嚴設」といふ誇張した筆法で書かれてゐるほどであつて、さういふ?態は其の土地のものには勿論、朝廷にも知られてゐたに違ひないのに、現にかう書かれた女王卑彌呼の舊趾と思はれるヤマトにも土蜘蛛のタブラツヒメがゐたとせられてゐるではないか。だから、穴居したとか土窟石窟の中にゐたとかいふのも、また土蜘蛛の名から導き出された物語である、と推斷しなければならぬ。
 然らば、これらの説話の由來をなす土蜘蛛の名には如何なる意義があるか、何故に皇命に服しないものを土蜘蛛といつたかといふに、それは多分、朝廷で皇命に從はない地方の酋長を賤んで呼んだ名であつて、エミシの語に蝦夷(又は蝦※[虫+夷])といふ文字を適用したのも、之と同じ思想の現はれであらう。シナ人が周圍の民族を蠻狄と呼んでそれを動物視し、※[虫+需]々といふやうな文字をさへ用ゐた、と類似したことらしく、或はそれを學んだのではないかとさへ思はれる。もつとも人の名としては動物の名をつけることもあり、エミシといふのもあり、奈良朝になつても虫麻呂といふやうなのもあるほどであるから、蜘蛛といつても賤む意には聞えなかつたのではないか、といふ疑も起るが、此の名のつけ方などは古い風俗であり、土蜘蛛と稱したり蝦夷と書いたりすることはシナの文字に熟してゐる知識人のしごとであつて、而も土蜘蛛の如きは實際には用ゐられない、物語の上だけの、名であるから、二者相戻らないで並び行はれたのであらう。少しく趣は違ふが、馬飼は賤められながら馬子といふ名のあることをも、參考するがよい。古事(193)記には尾のある土蜘蛛と書いてあつて、蜘蛛に尾のあるのは可笑しいが、これも人類でないといふところから來たことらしい。なほ風土記に書いてある如く、九州についても關東についても、同じ名によつて同じやうな性質のものを稱してあるのは、朝廷で作られた舊辭の慣例に從つたからであらうが、その慣例は昔話にのみ用ゐられてゐるものであつて、記紀は勿論のこと、風土記に於いてもまた、土蜘蛛の話は何れも昔のこととしてある。記紀のどこにも、歴史的事實として明白なる時代の地方の叛逆者には、決してこんな名が用ゐてなく、風土記にも編纂當時のこととしては一度も此の名が現はれてゐない。だから更に一歩を進めて考へると、それは本來、舊辭の記述者が考案し、さうしてその舊辭にのみ用ゐたものであつて、廣く世に行はれた名ではなかつたらう。風土記の作者は、たゞ書物の上から此の名を採つて來て、それを用ゐたに過ぎない。一體に此の名が歴史的事件の記載には現はれずして、物語にのみ見えること、その名が多く連稱的になつてゐること、歴史的事實としての反抗者がエミシであるべき陸奧の風土記にもそれが見えることなどは、土蜘蛛の名の意義と由來とを知るべき好材料であらう。山の奧とか野原の中とかにわるものがゐて附近の住民が困らされた、といふやうな話は地方々々にあつたらうし、それがまた何樣かの異形のものであつたやうに語られてもゐたであらう。さうしてそれが土蜘蛛の觀念の形づくられた材料ともなつたであらう。が、皇命を奉じないものの稱呼としてそれが用ゐられたとすれば、それには明白に政治的意義があるのであり、從つてそれは朝廷からいひ出されたことでなくてはならず、また地方的傳説に現はれてゐるやうな小さなわるものではなくして、朝廷から叛逆者視せられるほどな勢力を有つてゐるものとして、考へられたとしなければならぬ。(ついでにいふが、古事記には吉野のクニスの祖を尾があつて巖を押しわけて出て來たものとしてあつて、それはオサカの土蜘蛛と同じ(194)やうな書きざまであるから、この書に於いても常陸風土記と同樣、二者を同視してゐるらしい。たゞ吉野のクニスは初から服從者として取扱はれてゐるが、これは或は後に變化した形かも知れぬ。地方的酋長たることは全く同じである。前に述べた肥前、豐後、などの風土記に見える叛逆者でない土蜘蛛も、叛逆者といふ觀念が且らく影を隱して、地方的酋長といふ意義が表面に現はれたものと考へられる。なほ常陸風土記に佐伯といふ名が土蜘蛛に關聯して出てゐるが、これも個人を指す稱呼となつてゐることは「自爲賊長」の語で明かである。
 なほこゝに附言すべきは、前に引用した書紀や風土記の文に見える如く、ツクシ地方の土蜘蛛として女の名の多く現はれてゐることであつて、これは何故かといふ疑問が生ずる。また土蜘蛛とは記してないが、肥前風土記(彼杵郡)にハヤキツヒメ、豐後風土記(日田郡)にヒサツヒメの名が出てゐる。しかし、これは必しもツクシ方面に限つたわけではないので、山賊としては常陸風土記(新治郡)にもアブラオキツヒメといふがあり、前に引いた如く陸奧風土記にも女の土蜘蛛があることにしてある。また各地方の支配者としては、出雲風土記(秋鹿郡)にアキカヒメ、播磨風土記(讃容郡の條及び釋紀所引逸文)にヒロヒメ及び國造イハサカヒメなどがある。其の他、男女が對稱せられてゐる場合は所々にその例が多く、土豪としても常陸風土記(行方郡、那珂郡)にキツヒコ・キツヒメ、ヌガヒコ・ヌガヒメ、播磨風土記(印南郡、餝磨郡、揖保郡)にキビツヒコ・キビツヒメ、アカヒコ・アカヒメ、イセツヒコ・イセツヒメ、イハタヒコ・イハタヒメ、の類があつて、これは九州地方のアソツヒコ・アソツヒメなどの例と全く同じである。なほ神代史の山野河海などの神に女神が多く、古事記の島々の生れた物語にも國や島の名に女性の名がついてゐるのがあり、延喜式の神名帳を見ても(人の形を具へた祭神は極めて少いが、そのうちで)女性の神の數が男性(195)のにさまで劣らないやうであつて、土蜘蛛に女のあることはこれらの事實と參照して研究すべきものであらう。またヤメツヒメの如きは、ヤメの地名説話として女性たるを要するし、物語としてみれば、女の出ることが興味を深からしめるものであることは、勿論である。たゞ書紀と現存の風土記とだけで考へると、九州方面に女の土蜘蛛を比較的多くしてあるやうに見えるけれども、それは畢竟、偶然のことに過ぎなからう。或はまた、土蜘蛛として征討せられた物語が他の方面に少いからのことかも知れぬ。
 
(196)       第三章 東國及びエミシに關する物語
 
          一 古事記の物語
 
 ヤマトタケルの命には、西方のクマソ征討と並んで東方經略の物語がある。これは古事記によると「東方十二道の荒ぶる神、また、まつろはぬ人ども」を平定せよとの勅命によつてのことであつて、「軍衆をも賜はず」たゞミスキトモ、ミミタケヒコを副へて遣はされたのである。其の行程は何人も熟知してゐる如く、先づ伊勢神宮を拜してヤマトヒメの命から草薙の劍を賜はり、ヲハリを經て東に進まれたが、サガムの國ではヤキツの物語があり、ハシリミヅの海ではタチバナヒメ入水の説話がある。それから悉く「あらぶるエミシども」及び「山河のあらぶる神ども」を平げ、歸路にはアシガラを經てカヒに入られたが、それより前にツクバを通過せられたことがカヒのサカヲリの宮での有名な連歌でわかる。アシガラではかの「あづまはや」の話がある。さてシナヌを經てヲハリに還り、そこでミヤズヒメとの物語があり、草薙の劍をそこに置かれた。それからイブキに赴いて病を得、タギ、ミヘ、を經てノボヌに到つて薨ぜられた。なほアシガラではそこの神が白鹿となつて現はれ、イブキではやはり神の化つたといふ白猪に逢はれ、薨後には八尋の白千鳥となつて飛行せられたといふ話がある。ヤキツ、アヅマ、はもとより、ヰサメの清水、タギ、ミヘ、についての地名説話があることはいふまでもない。
(197) ところで、この物語はそれが初めて作られたまゝのものであるかといふに、後から添加せられた部分のあることの推測せられる點がある。第一に、神宮で劍を賜はつたといふことは、神宮の建てられた後にできた話に違ひないが、次章で考へるやうに、神宮の建てられたのは舊辭の物語の一應まとめられた後のことである。第二に、出發の時にもイセに於いてもタチバナヒメを伴はれた樣子がなく、特にミヤズヒメの話はこの妃の伴はれたこととは調和しがたいものであるのに、ハシリミヅの海に至つて忽然として妃の名が現はれてゐるのは、この一條の物語が後から附加せられたものであることを、示すものであらう。さうしてそれが加へられたために、それにつれて「あづまはや」の話も作り添へられたのであらう。ハシリミヅの海での物語に、八重の疊といふ語があると共に、七日といふ日の數へかたのしてあるのも、數についての日本人の風尚とシナ人のそれとの結合せられたものである。なほ第三に、東方十二道といふやうな語がこの物語の初からあつたものかどうかも、問題であらう。この語はかういふ物語に用ゐられるには明確に過ぎてゐるからである。孝コ紀二年の條に東方八道の語があつて、その八道は八國のことらしいから、こゝの十二道も十二國の義かと思はれるが、國郡制置以前にかういふ數へかたをするのも、ふさはしくない。だから、少くとも十二道の三字は後から附加せられたものであらう。これらの點に於いて舊辭の此の物語に變化のあつた迹が見られる。
 さて東方十二道といふのは、どこ/\を指したものか明かでないが、その命を奉じて經過せられたといふ地方が、ほゞ後の東海道の全體及び東山道の信濃以西に當るのであるから、東方十二道の大體の範圍は想像せられる。たゞ、ヤマトタケルの命はエミシをも此の時に征討せられたことにしてあつて、そのエミシはどこにゐるのか不明であり、たゞ前に述べたみち順から考へて、ツクバよりも北方にあることだけが想像せられるのみであるが、これは異民族で(198)あるから東方十二道の中には含まれてゐなからう。此の語は崇神の巻にも見えてゐて、タケヌナカハの命を「東方十二道に遣はし」、タニハとコシとに遣はされた人々と同じく「其のまつろはぬ人ども」を平定させられたとある。さすれば東方十二道は、タニハ(此の場合では多分、今の山陰道方面といふ意であらう)及びコシ(後の北陸道方面)と同樣に、内地の或る地方をさしていつたものであることがわかり、從つてそれは、エミシの如き異民族の住地を含まぬことが推測せられる。(此の崇神の卷の東方十二道も、コシ、タニハ、に對してかう稱するのは、不調和であるから、やはり後の變改ではあるまいか。なほこの時のことは、書紀には北陸、東海、西道、タニハ、の四道となつてゐて、タケヌナカハの命の擔任は東海と書いてある。)さうして、ヤマトタケルの命の場合の使命も此の時のと同じであることが、上に引いた古事記の文によつて知られる(たゞ崇神天皇の時には「荒ぶる神」といふことが見えない)。だから、ヤマトタケルの命の經略は(次にいふ宗教的意義のことは且らく別として)内地の民、即ちわれ/\の民族に對するものであつて、一くちにいふと地方民の綏撫といふやうな意味であることが知られ、異民族たるエミシの平定は、其のついでに行はれたに過ぎず、主要なる目的とせられてゐないことがわかる。東方十二道といふ語がよし後になつて書きかへられたものであるとしても、このことは、物語のはじめの形に於いても同じであつたらう。ヤキツやアシガラやイブキやに於いて種々の物語があるにかゝはらず、エミシに對しては何の話も無く、其の地理的位置すら明かになつてゐないのも、一つは此の故であらう。
 ところで、此の物語は歴史的事實を傳へたものであるかどうかといふに、その内容はやはり事實として認め難いことが多い。地名説話はもとよりのこと、民間説話めいた白鳥の物語が、何れも事實らしくないことは、いふまでもな(199)からう。また特に注意すべきは種々の宗教的分子を含んだ説話であるが、これもまた歴史的事實とは認められない。「あらぶる神」または「ちはやぶる神」といふ語は、政治的反逆者に對する譬喩的名稱ではなくして、宗教思想の發現として見るべきものであり、それは、遷却祟神祭祝詞に、所謂祟神が「あらぶる神」とせられてゐるのでも知られる。なほ肥前風土記の基肄郡、佐嘉郡、神崎郡、などの條に見える 「あらぶる神」、播磨風土記の揖保郡の條の人を殺す神や、筑後風土記の「人の命つくしの神」などのことを參考するがよい。クマソ征討の話に山河の神、穴門の神、などとあるのも、これと同樣である。さうして皇子が此の荒ぶる神を平定せられたといふのは、皇孫降臨の際に同じことが行はれたとか、岩根木のたち草のかきはの物をいふのが止んだとか、又は星の神アマツミカボシが服從したとか、いふのと同樣、政治的君主としての皇室に宗教的使命があるといふ上代思想が、物語の形に於いて現はれたものであらう。これは皇室が神を祭つたり呪術を行つたりすることによつて荒ぶる神を克服せられたのではなく、皇室みづからの政治的權威によつてそれができたといふのである。イブキ山やアシガラの坂で神が現はれてゐるのも、また同じ思想のあらはれである。(ヤキツの物語に、沼の中に「ちはやぶる神」がゐると書いてあるのを、沼はヌで野の借字だらうと説いてゐるものがあるが、これは神を人と思つたからのことで、此の宗教的意義を領解しないために生じた考である。神は水の底にも火の中にも何處にでも住んでゐる。)さて政治的反逆者は、此の物語に於いて明かに「まつろはぬ人」と書いてあつて、「あらぶる神」とは區別せられてゐるのであるが、その二つがこゝに並べて擧げてあるのは、皇室の政治的地位には宗教的使命が伴つてゐる、といふ思想に基づいてゐる。しかしこれは思想の上のことであるから、事實の上には見られない。だからかういふ物語は、歴史的事實の明かに知られる時代になつては、(200)記紀にも無くなつてゐる。いひかへると、事實の記録としてではなく、物語としてのみ文獻に現はれてゐるのである。それから、サカヲリの宮での連歌の話、また所謂國しぬびの歌の物語が事實譚でないことも、疑があるまい(「文學に現はれたる我が國民思想の研究」貴族文學の時代序説第二章參照)。また火燒の翁をアヅマの國造とせられたとあるが、かういふ國造が事實上あつたらしくは見えぬ。國造の領土がもつと狹い範圍であることは、いふまでもなからう。
 だから此の物語は、東國經略といふ概念を基礎にして、それから作られた話をヤマトタケルの命に結びつけたのであつて、さうせられたのは多分クマソ征討の物語と對立せしめるためであり、さうしてそれは東方、特にアヅマ方面が、クマソの汎稱によつて代表せられてゐるツクシの南部とほゞ同じやうに、ヤマトの朝廷には視られてゐたからであらう。今の關東地方が西國に對して、常に特殊の地位を有つてゐた後世の?態を知るものは、此の推測が理由の無いものでないことを肯ふであらう。(ついでにいふ。此の物語にサガムのヤキツと書いてあるが、ヤキツは今の駿河の燒津、即ち益頭、らしいから、この書き方には地理上の混亂がある。これは作者の思ひうかべた土地が相摸方面であつたのに、ヤキツの所在が明確に知られてゐなかつたからか、又は誤つてヤキツを相摸にあるやうに思つたからか、どちらかの偶然の事情から、かういふ書き方をしたのであらう。「さがむの小野にもゆる火の」といふ歌を結びつけたのでも、作者が相摸の土地を胸臆に描き出してゐたことは、明かである。今の駿河地方まで昔はサガムといはれてゐたといふやうなことは、自然地理上の形勢からも、考ふべからざることである。さうして、此の時の事件を相摸地方のこととしたのは、此の物語の基礎的概念として、アヅマの地方を特殊の一區域として見る考があつたからではあ(201)るまいか。)かう考へると、此の物語の形を成したのは、クマソ征討の話と同時であるらしい。崇神の卷にも同じ東方十二道綏撫の話のあるのは、古事記全體の結構からいふと重複してゐるやうであるが、それは、タニハやコシ(及び後にいふやうにキビ)の經略と共に、内地綏撫といふ一つの概念に含まれてゐることであり、これはクマソ征討に對しての話であるから、おのづから別の組み立てに屬する。
 以上は古事記の物語についての觀察であるが、書紀の方では大に趣がちがつてゐる。
 
          二 書紀の物語
 
 書紀ではヤマトタケルの命の東方經略の意味が、古事記とは變つてゐて、其の主なる目的がエミシの征討となつてゐる。景行紀四十年の條に先づエミシの叛いたことを記し、ヤマトタケルの命に下された勅命といふものにエミシの?態を詳述してあり、ノボヌで薨去せられる前にエミシの俘虜を神宮に獻ぜられたとあるなど、物語の始終がエミシのことになつてゐるし、また此の征討の動機として、二十七年の條にタケウチノスクネのヒタカミの國、即ちエミシの國、についての上奏が見え、さうしてヤマトタケルの命はそのヒタカミの國を征服せられたやうになつてゐる。だから、古事記で東海東山方面の綏撫が主なる目的となつてゐるとは違つて、これではエミシ征討の往還路として東國を通過せられたことになる。エミシ降伏の場合に一場の物語があり、後にいふやうにそこへゆかれた道すぢの記されてゐるのも、此の故であらう。要するに、古事記ではたゞエミシ征服の一事が東方經略の物語に附載せられてゐるに過ぎないのに、書紀ではエミシを特に一般東國の背景から浮き上がらせ、その征討を重なる物語に發展させてゐるの(202)である。それから歸路も古事記とは違つてゐて、常陸から(どこを經由せられたか不明であるが)甲斐に入り、更にそこを出て(みち順からいふと甚だ無理な方向をとつて)武藏上野を迂回し、それから信濃に入り美濃に出られることにし、別にキビノタケヒコのコシ巡察をさへ附け加へてある。さうして、此のみち順の變化に伴つて、アヅマハヤの物語がアシガラからウスヒに移され、白鹿の話は信濃の坂に變つてゐる上に、白狗が命を導いて美濃に出たといふことが加へられてゐる。なほイブキの猪も蛇になつてゐる。それから、命の薨去の後に景行天皇がその平定せられた國々を巡幸せられるといふ物語があるが、これは天皇のクマソ親征と同樣、古事記には全く見えない話である。但し、クマソ親征の場合の如き詳しい物語は無く、道すぢも伊勢から轉じて東海に入り、それから上總國に至り、海路からアハの水門を渡られたとあるのみであり、肝心のヒタカミの國の名も記されてゐない。
 さて書紀の此の物語が、古事記の準據となつた舊辭がもとになつて、それから發展したものであることは、疑が無い。すべてが複雜になつてゐる上に、エミシ征討が主なる觀念となつてゐながら、それとは關係の無い、むしろエミシの征討を主とする物語の調子を弱める、ヤキツやハシリミヅやイブキやの話などが依然として存在してゐること、歸路のみち順が甚だ不自然になつてゐること、並に白鹿の物語に白狗が現はれて來たことなどは、その證であつて、書紀の物語は古事記のに新しい思想、新しい説話、を附加したものであることが、明かである。エミシの俘虜を獻ぜられたといふ話なども、命が二三の從者を從へて諸國を巡歴せられたといふのとは矛盾したことであるが、これも附加物だからである。(古事記には明かに「軍衆も賜はず」と書いてあるが、書紀でもヤキツの話などは、兵を率ゐて賊と戰はれたのではなく、古事記と同じく命一人でのはたらきとなつてゐる。さうしてかういふ巡行によつて、後に(203)なつて五ケ國に分置せられるやうな多くの俘虜を得られ、またそれをつれてあるかれるはずがない。)從つて物語としての性質、または史料としての價値も、古事記のと異るところはなく、物語が発展してゐるだけ、それよりも一層事實に遠いといはねばならぬ。エミシの首長をシマツカミ・クニツカミとしてあるなども、その明證であつて、これは日本語である上に、例の如く連稱的に二人としたものである。勿論、ヤマトの政府がエミシに對して何等かの行動を取つたことは或はあらうが、かういふ物語は、或る特殊の場合の或る事件を譬喩的に言ひ現はしたのではなく、エミシの歸服といふ概念から作られたものと見るのが、妥當である。さうでなければ、エミシの事實上の首長の名が傳へられずして、このやうな名になつてゐる理由が無い。或る場合にエミシの俘虜を五ケ國に分置せられたといふやうなことは、事實、あつたかも知れぬが、もしさうとすれば、こゝの話はそれを取つてヤマトタケルの命の物語に結びつけたものである。
 なほ、書紀の此の物語が事實として認め難いといふことは、物語が著しくシナ思想によつて潤色せられてゐるのでもわかる。事件の起るよりずつと前のタケウチノスクネの上奏に「東夷之中、有日高見國〔九字右○〕、其國人、男女並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷〔五字右○〕、亦土地沃壤而曠之、撃可取也、」とあり、またヤマトタケルの命の派遣せられる時の勅命に「其東夷〔二字右○〕也、識性暴強、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盗略、亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞徑、多令苦人、其東夷之中、蝦夷是尤強焉〔十字右○〕、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獣、承恩則忘、見怨必報、是以箭藏頭髻、刀佩衣中、或聚黨類、而犯邊界、或伺農桑、以略人民、撃則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化、」とあるが、これで見ると、エミシは東夷の一部分であつて、エミシの外に東夷と(204)稱せられる強暴なものがあつたやうである。さうして此の事件があつたといふ年の最初の記事に「東夷多叛、邊境騷動、」とあり、それを承けた詔に「東國不安、*暴神多起、亦蝦夷悉叛、?略人民、」といつてあるのを見ると、東夷は東國の住民を指す稱呼のやうである。ところが、エミシの外に實際こんな「夷」が東國にあつたであらうか。東國ではわれわれの民族が直にエミシと接觸してゐて、其の間に別の異民族があつたといふやうな形跡は全く無いから、エミシでない東國の住民は我々の同民族であらうが、それが果してこんな?態であつたらうか。甚だ怪しいといはねばならぬ。が、此の文が、シナ人の夷狄觀を書物の中から探し出して來て羅列したやうに見えること、特にエミシについて「男女交居、父子無別、」といふのが、道なきものを夷とするシナ的道徳思想であり、「冬則宿穴、夏則住樔、」といふのも、シナ人の夷狄に對する一般的概念であつて、エミシの風俗とは考へ難いこと、並に「持斧鉞以授日本武尊」といひ、「察汝爲人也、…力能扛鼎、猛如雷電、」といひ「示之以威、懷之以コ、不煩兵甲、自令臣順、」といひ、「借天皇之威、往臨其境、示以コ教、」といひ、前後の文がみなシナの成語を用ゐたシナ思想であること、またヤマトタケルの命に關しても、死ねとて我を東國に遣はし給ふと患ひ泣きして出かけられた、といふ古事記の話とは反對に、威風堂々と出發せられてゐるのが、やはり同じ思想に淵源があること、などを考へ合はせると、これは實際「東夷」と稱すべきものがあつたのではなくして、文章の上でシナめかさうとするためにかういふ文字を用ゐたものであることが、推測せられる。なほ「村之無長、邑之勿首、」などの無政府?態は、トヨキイリヒコの命に東國を治めしめられたといふ垂仁紀の記事に矛盾するが、これは二つとも別々に舊辭に潤色を施したために生じたことであらう。それどころでない。皇子の東國巡歴を敍する場合には、少しもそんな夷狄の地を通過せられたやうな樣子を見せてゐないではない(205)か。なほ書紀のかういふ筆法は、崇神紀十一年の條の「四道將軍、以平戎夷之?奏焉、」にも例があるので、こゝでは東海も西道もタニハも、みな戎夷とせられてしまつてゐる。ありもせぬ戎夷を文字の上に作り出したのである。
 然らば、此の物語は何時こんな風に展開せられ潤色せられたかといふと、先づ注意すべきは、此の物語に見える土地がみな國郡制定以後の國名によつて示されてゐることである。第一陸奧國といふ名さへ現はれてゐるが、その他でも、駿河、相摸、上總、常陸、甲斐、武藏、上野、信濃、美濃、近江、伊勢、など、みな後世の行政區劃の名稱である。古事記でも、ヲハリの國、サガムの國、シナヌの國、またはカヒ、などの名は出てゐるが、タマクラベとかタギとかいふ地名がそれらと同じやうに取扱はれてゐるのを見ても、これらの國名は國郡制置後の行政區劃の名ではなく、國造などの名によつて知られてゐた古い稱呼であることがわかる(シナヌの國造、カヒの國造、ヲハリの國造、の名は古事記に見えてゐる)。けれども、書紀には規則正しくすべてを國郡制置後の國名で示してあるので、「近江膽吹山」といひ「移伊勢而到尾津」といふなど、一々の地名にも國名を冠せてあり、また武藏、上野、美濃、などの何の事件も起つてゐない土地でも、通過せられた地方にはそれ/”\國名を擧げてあるのを見ると、書紀の此の物語が、行政區劃としての國名が定められた後に、書かれたものであることは、明かであらう。たゞそれが、昔からあつた物語について、地名に關したことだけを新しい行政區劃によつて書き改めたのであるか、または其の時、物語そのものに變改が加へられたのであるかは、問題であるが、同じ景行紀のツクシ巡幸の説話には、地名がオホキタの國、ソの國、アソの國、コユの縣、などといふ國都制置前の稱呼で記されてゐるから、一方にかういふものがあつて、他方に此の物語のやうなものがあるとすれば、さうしてまた、此の物語の基礎となつた説話が記されてゐるらしい古事記に(206)は、みな古い稱呼が用ゐてあるとすれば、景行天皇西幸物語や古事記の話は、國郡制置前から存在してゐたもので、此の物語は其の後に新に修補せられたものと推測するのが、當然であらう。
 もつともツクシ巡幸の話にも、豐前國のナガヲの縣、筑紫後國のミケ(別のところにはミケの國とある)、などといふ名もあつて、此の豐前國や筑紫後國は國郡制置後の名らしく思はれるが、其の時代にはナガヲの縣とかミケの國とかいふ稱呼は無いはずであるから、この國名は後になつて附け加へたものと見るべきであらう。書紀の國名の書きかたは極めて亂雜であつて、その一二の例を擧げると、繼體紀、安閑紀、宜化紀、などに火の國とあるのに、神功紀に既に火前國の名が見え、敏達紀、舒明紀、は勿論、天武紀にも吉備國とあるのに、安閑紀には備後、欽明紀には備前、の名が出てゐ、同じ名でも宣化紀には火國とも肥國とも書き、孝コ紀に上毛野、齊明紀に科野、天智紀に淡海、とあるのに、推古紀には上野、近江、孝コ紀には信濃、とある。甚しきは崇峻紀、推古紀、に攝津國が見える。此の物語に關係のあることでは、推古紀に既に陸奧國の名が出てゐる。國名ばかりではなく、繼體紀に丹波國桑田郡、欽明紀に山背國紀伊郡、とあるなど、郡名が古いところにも現はれてゐる。これらの文字のうちには、傳寫の間に書き誤られたのもあらうし、又は何人かの加へた傍註などが本文となつたやうなのも無いではなからうが、ともかくも古い時代のことにも、往々國郡制置後、もしくは所謂好字を用ゐるやうになつてからの、國名や文字が用ゐてあるのは、書紀の編纂せられた時からのことであつたらう。さうしてこの新しい名稱もしくは文字を用ゐた場合と、昔からの稱呼に從つた場合とについては、何等の定則も約束も無いやうである(例へば安閑紀二年の條に、火國、播磨國、備後國、婀娜國、紀國、近江國、上毛野國、などと列記してあるのを見るがよい)。が、きれ/”\の記事で、編者もうつ(207)かり新しい名を用ゐたり、また後人の書き誤りや本文でないものの※[手偏+讒の旁]入も生じ易かつたり、するやうな場合のは別として、此の物語のやうに全體が新しい行政區劃の名になつてゐる上に、巡歴の道すぢがそれによつて示され、また小さい地名をいふ時は必ず其の上に國名を示してあるやうな場合は、昔からある物語を取つて書紀の編者が土地に關する點だけを書き改めた、とは考へ難い。
 然らば、古事記に見えるやうな話を改作して此の物語としたのは、國郡制置後の何時であるかといふに、此の物語に「越」が國名として取扱はれてゐることを考へると、まだ越が一國とせられてゐた時代であることが察せられる。越が分れた時代も明瞭でないが、續紀の文武天皇元年十二月の條には「賜越後蝦狄物」といふ記事が見え、其の後には越といふ名が出て來ないのに、書紀の持統天皇十年三月の條には「越度島蝦夷」といふことがあり、同じく三年、二年、天武天皇十一年の條にも、やはり越とある。もつとも、これらは單に越とあるのみで越國とは書いてないから、行政區劃としては越後などが分置せられた後でも、舊例に從つて越の汎稱を用ゐたのではないか、と疑へば疑はれもしようが、天智天皇七年の紀には「越國獻燃土與燃水」とあり、齊明天皇五年には「授遺奧與越國司位各二階」とあり、その前年には阿部比羅夫を「越國守」と明確に記してあるから、少くとも此のころまでは越が國名であつて、まだ越後などが分れてゐなかつたに違ひない。ところが、その齊明紀五年にも「饗陸奧與越蝦夷」とあり、ずつと前の孝コ天皇四年にも「越與信濃之民」といふ語があつて、行政區劃としての國でありながら、國といふ字が無いのを考へると、天武持統二朝の記事に越とあるのも、通稱ではなくしてやはり國名だらうと思はれる。さすれば越後などが越から分置せられたのは、持統天皇の十年から、文武天皇元年までの間となるが、文武天皇元年は即ち持統天皇十一(208)年であるから、此の分置の時機は二年足らずの間に限定せられるわけである。何となく短かすぎるやうではあるが、別に反證は無ささうである。(筑紫國の名が持統紀の四年まで見えてゐて、文武紀二年から筑前國が現はれ、天武紀一年まで吉備國とあつて、やはり文武紀二年には備前備中の名が見え、其の後は吉備國の稱が無くなつてゐることを、參考するがよい。)さすれば、書紀に採られた此の物語は、大化の國郡制置から持統朝までの間に記されたものと推斷せられよう。(美濃、信濃、などといふ文字は、越國のな存在してゐた時分にこれらの國名に用ゐられたのではなからうが、これは書紀編纂の際に書き改めたものとして、解釋することができる。但し越といふ國は、そのころにはもはや無いのであるから、書きかへることはできなかつたであらう。前に述べた如く、國名の書き方は不規則であるけれども、越についてはそれが越前、越中、越後、に分れるまでは、變つた書き方がしてなく、分れてからは越國といふ名が無いのであるから、これだけについてはかういふ推論ができる。)
 以上は物語の書き方の上からの推測であるが、それはその内容と一致するであらうか。それを判定するには、物語に現はれてゐるエミシの?態と歴史的事實として知られてゐるエミシ經略の形勢とを、對照して見なければならぬ。そこで先づ物語に於いてエミシが何處にゐたことになつてゐるかと考へるに、書紀の本文には「從上總、轉入陸奧國、時大鏡懸於王船、從海路、廻於葦捕、横渡玉浦、至蝦夷境、蝦夷賊首島津神國津神等、屯於竹水門、而欲距、然…面縛服罪、放免其罪、…蝦夷既平、自日高見國還之、西南歴常陸、至甲斐國、」とある。此の文では、エミシとヒタカミの國との關係がやゝ不明のやうであるが、前に引いたタケウチノスクネの上奏によると、ヒタカミの國の住民が即ちエミシである。さて、そのヒタカミの國は常陸の東北にあるとしてあるが、それと陸奧國との關係については、(209)本文の記載が甚だ曖昧である。そこでなほよく本文を見ると、ヒタカミにゆかれたといふ道すぢが二樣に解釋せられる。それは「轉入陸奧國」は實際陸奧國に入られたことで、「時大鏡懸於王船」以下の數句は、その陸奧國から更に進んでエミシの境、即ちヒタカミの國、にゆかれたことである、とも見られ、また「入陸奧國」は先づ方向を示したのであり、航海の記事は上總から陸奧にゆく道すぢを述べたものであつて、「至蝦夷境」が即ち實際陸奧國の某地點に入られたことである、とも解せられるからである。さうして第一の解釋に從へばヒタカミの國は陸奧國の北にあることになり、第二の解釋によればヒタカミの國が即ち陸奧の國であるか、またはそれと或る?態に於いて交雜してゐるか、といふことになる。此の二つの解釋の中で、上總から海路陸奧まで航行するといふことは、當時の交通の?態から見ると、實際にあつたらしくは思はれず、從つて物語の作者にも容易に起りさうにない考であるから、第一の解釋に從はねばならぬやうでもあるが、「從上總轉入〔二字右○〕陸奧國」の語が、陸路を通過して順次陸奧國まで北進せられたこととしては、適切でなく、今まで東進せられた方向を北に轉じ、陸奧を指して進まれた、と解する方が轉の字にもあてはまるやうに聞こえ、また文勢からいふと、「時大鏡縣於王船」云々の語も、あとの方に「蝦夷既平、自日高見國還之、」を承けて直に「西南歴常陸」云々といつてあるのも、此の第二の解釋を助けるやうに見える(轉の字の用例は「自甲斐北轉、歴武藏上野、」の句にも見える)。何れにしても徹底しない解釋であるが、たゞ實際に無い航路を物語に用ゐることは、第一章に述べたツヌガアラシトやアメノヒボコの話にもその例があるから、これは大した難にはならぬのみならず、甲斐から武藏上野を經て信濃に入られたといふ無理な遺すぢを作つたことから考へると、此の物語には、皇子が東方の國々をすべて一とほり通過せられたやうにしぐまう、といふ精神が根柢にあるらしく、從つて歸路に通(210)過せられた常陸に往路にもゆかれたことにする、のは、都合がわるいと考へ、故らに海路としたのではないかとも思はれる。(もつとも、みち順はどうにでも作られるけれども、古事記に見えるやうな前からの説話が既にあつてそれを修補するのであるから、さう恣に改めることはできなかつたらう。だから、下野は道すぢに組みこまれなかつた。)さすれば、第二の解釋の方が寧ろ妥當に近いかと思はれる。が、さうするとヒタカミの國と陸奧國との關係が前に述べたやうになるが、それでよからうか。それを考へるには、陸奧國の?態とヒタカミの國といふ觀念とを、一々吟味してかゝらねばならぬ。
 便宜上先づ陸奧國を考へてみるに、かういふ國が大化の時、一般國郡の制置と共に建てられたものであることは、先づ論の無いことであらう。さてその頃の陸奧國の管區は明瞭でないが、ともかくも一國として立ち得るだけの廣さと相當の住民とを有つてゐたことと考へられる。續紀文武天皇慶雲四年の條に、陸奧國信太郡の生玉五百足といふものが齊明天皇の朝の百濟戰役に從軍したといふ話が見えてゐるが、此の信太郡を吉田氏の地名辭書に、大槻氏の説を引いて、信夫郡の誤だとしてあるのは、もつとものことである。單に文字の上からいつても、陸奧の志太郡は何時でも「志」と書いてあつて「信」とはしてない。さうして「信」の字は信夫や信濃などの例から見てもシの假名として用ゐられたらしくは見えない。(常陸の信太郡を普通にシダと訓ませてあるのは、少しく奇であるが、仙覺の萬葉鈔に引いてある常陸風土記の地名説話に幡垂の國といふ話が出てゐるから、これはやはりシダであつて、例外と見なすべきものらしい。丹波、讃岐、など、一體に語尾がnになつてゐる文字は、何れも母音をつけてナニヌネノの何れかに用ゐるのが、通例である。)さて、信夫郡のものが齊明朝の海外征討軍に編入せられてゐたとすれば、其の地方は(211)建置の初から陸奧國の管内であつたであらう。それから、齊明紀の元年の條に、「饗…東蝦夷九十五人、…仍授城養蝦夷九人…冠…二階、」と見え、四年の條にも「蝦夷二百餘、詣闕朝獻、饗賜贍給、有加於常、仍授城養蝦夷二人位一級、」とあるが、此の城養蝦夷は持統紀三年の條に、陸奧の優嗜曇郡の城養蝦夷脂利古男といふものが沙門となつた、といふ話のあるものであつて、その優嗜曇は吉田氏に從へばウキタミ即ち和銅五年に陸奧から出羽へ移管せられた置賜郡である(柵養の文字が音を寫したもので固有名詞であることは、これらの記事に於いて、それが津輕とか停代とかいふ地名と同樣に取扱はれてゐるのでも知られる)。さうしてこれらの零碎な記事と、同じ齊明紀五年の條に「饗陸奧與越蝦夷」とあり「授道奧與趣國司位各二階」ともあることとを、參照して推察すると、花々しい遠征などこそ無けれ、陸奧方面のエミシに對する經略も齊明朝の前後には着々と行はれ、西方に於いては、此の時既に今の置賜地方まで其の力が及んでゐたらしく、從つて陸奧國の管區が當時ほゞ今の岩代地方を含んでゐたことが想像せられる(持統朝には、置賜の邊にはなほエミシが住んではゐたものの、郡の儘かれるまでになつてゐたのである)。たゞ海岸方面については明かな證跡が史上には見えない。
 ところが、養老二年に會津、信夫、曰理、以南が陸奧國から割かれて、石背、石城、の二國が分置せられ、さうして此の時は既に最上、置賜、が出羽に移された後であることを思ふと、これらの地方を除けてもなほ一國として陸奧國が成立ちさうであつたと考へられるから、養老時代には陸奧國の範圍は大體、後の宮城郡附近の地方に及んでゐたらしい。しかし分置せられた石城と石背とがほどなく陸奧の一部として復舊せられたのは、その地方が除かれたのでは實際一國として、特にエミシ經略の衝に當つて、立つてゆくには、あまりに陸奧が弱小であつたからのことであらう(212)から、當時の陸奧國は、宮城郡あたりより北の方までも包含してはゐなかつたらう、と考へられる。宮城郡附近までといふのは、大體の地勢と、續紀に見える、延暦八年八月の詔勅に「牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、加美、黒川、等一十箇郡、與賊接居、」とあるのでも知られる如く、後までも黒川郡以北がやゝ特別に考へられてゐたこととを、互に參照しての臆測であるが、黒川郡以北はよほど後までも半ば夷地であつたから、大體の見當は違ふまいと思ふ。ところが、和銅六年に丹取郡が新に建てられ、養老五年に苅田郡が柴田郡から分置せられたことを、養老二年の石背石城の分置に參照して考へると、此の方面の開拓が進んだのは此のころのことらしい。もつとも、和銅二年に樣子の一向わからない巨勢麻呂の征討の記事が史上に見えるのみで、此の方面に大征討の行はれた形跡は無いが、大勢上かう觀察せられる。これらの點を綜合して推測するに、大化以後持統朝以前の陸奧國は、後に一度分置せられた石城石背地方が、其の大部分でもあり主要な地方でもあつたので、其の西北には置賜あたりの夷族が隷屬してゐ、東北には(遠く考へたところで)後の名取郡、宮城郡邊が、やはり半ばエミシの地ながらに、ぼんやり加はつてゐたくらゐのものであらう。
 以上は後の?態から溯つて推測を試みたのであるが、次に前の時代から考へて見たらばどうかといふに、これは材料が無いので、確實なことはいはれない。古事記に國造縣主などの祖先が記してあるのを見ると、東北地方ではカミツケヌ、シモツケヌ、ウバラキ、ヒタチのナカ、道の奧のイハキ、の名が見えるが、道の奧のイハキは即ち後の石城郡(大化の初には、常陸の多珂郡に含まれてゐた)地方であらう。これらの國造は、かういふ系譜の作られた時には現存してゐたのであつて、その作られたのは、皇室の系譜の一旦できた後でなければならず、從つて所謂帝紀舊辭が(213)始めて形を成した時(第一篇第四章に述べたところによると、欽明朝の前後、即ち六世紀の中ごろ)よりも後に違ひないから、大化の國郡制置からあまり遠い前のことではなからう(このことについては後章にも述ようと思ふ)。ところが、此の國造のうちにイハキが道の奧としてあるのを見ると、其のころには、後の石城郡地方より奧には、まだ國造として朝廷に知られてゐるほどの豪族がゐなかつたのではあるまいか。われ/\の民族そのものは、もつと北の方にも住んでゐたでもあらうが、それがまだ朝廷から國造として承認せられるやうなものによつて支配せられるほどに、確實な政治組織のうちに編入せられてはゐなかつた、と思はれる。古事記に國造などが悉く列擧せられてゐるとはいはれないので、邊境に於いても北陸の方面では、コシのトナミ(今の越中礪波)より東にあるものは見あたらず、常陸地方でも、風土記にも見えてゐて實際存在したらしいタカの國造も擧げてないほどであるから、古事記に國造の名の見えてゐる地方を以てわれ/\の民族の住地の限りと考へることは、できないが、イハキに冠せられてゐる「道の奧」は、語のまゝの道の奧の義であつて、後の道奧または陸奧といふ國名の由來がそこにあるものの、此の時はまだ後世のやうに廣い範圍を有つてゐる行政區劃の名ではなかつたから、そのころの朝廷からは石城郡附近が、大體、東北の極と考へられてゐたらしく思はれ、われ/\の民族の植民が、それよりも北方に甚しく遠くは進んでゐなかつたらう、と考へられる。もつともこれは海道方面のことであつて、山道方面については何の證跡も無いが、兩方面に於いて大なる差異は無からう。何れかといへば、海道方面が山道方面よりは前進してゐたかと思ふ。(古事記には別に道の尻のキヘといふ名が出てゐて、道の尻は道の奧と同じ意義であるらしいが、これは位置が明かでない。常陸風土記によると、後の多珂郡と石城郡とを含んでゐたタカの國の道の後が、石城郡の苦麻であつたといふが、其の(214)道の口が助河であつたとあるところから見ると、常陸風土記の道の後はタカの國のはてといふことであつて、内地のはてといふ意義ではなく、また單に道の尻のキヘとあるのを、常陸から進む道の尻と限つて見ることもできないから、それを風土記の道の後に擬てるのは、危險である。)
 さて石城郡附近が大化の前の或る時期に道の奧であつたとすると、大化の時、その北方に陸奧國が新に置かれたのは、その時までに北邊の開拓がいくらか進歩もし、また今までは放任せられてゐたものが行政組織の中に編入せられもして、實際の道の奧が石城よりも北に移つてゐたからのことと、考へられる。(石城郡は後に陸奧國へ移されたが、大化のころは常陸國の所管であつたらしい。これは常陸風土記の文面からも、また後に菊多郡が常陸國から石城國に移された事例からも、推測せられる。)大化より前の或る時代に於いて道の奧と稱せられたイハキが、國郡制置の際に常陸國に入つて、其の北方に陸奧國が置かれたのと、その陸奧國の主要なる地域であつた地方が、一時のこととはいへ、養老になつて石城石背の二國となり、その北方が陸奧國になつたのとは、同じやうな關係であり、民族の勢力の次第に北進していつた形跡が、そこに見えるのではあるまいか。けれども、道の奧のイハキの名の用ゐられた時代と大化とが甚しく距つてゐないとすると、大化の時イハキの北方に於いて新に建てられた陸奧國の範圍も、またひどく廣くはなかつたであらうから、齊明朝前後にいくらか經略の手が擴げられたにしても、その北邊が遠くとも今の陸前の南部にあつて、そこがまだ半ば夷地であつたらう、といふ上記の臆測は、此の點から見ても大なる誤は無からうと思ふ。(ついでにいつて置くが、世間では往々上代のことを考へる材料として、舊事紀の國造本紀を用ゐるけれども、著者はそれを取らぬ。このこ之は次章に述べよう。)
(215) 次にヒタカミの國に移るが、これは國とはあるものの、行政區劃の名でないことは、いふまでもない。書紀の文勢から見ると、それが廣いエミシの住地のやうであり、或は寧ろエミシの住地全體の名であるが如くにも感ぜられるが、此のヒタカミといふ名は、實際エミシの住地のどこかにある地名からでも起つたものであらうか、又は別の意味から内地人のつけたものであらうか、これが問題である)さて、もし地名から起つたものとすれば、それは、内地に接近してゐる地方にさういふ名の土地があつた、としなければならぬ。或はいくらかの距離はあるにしても、大部落の所在地などで、それがエミシの住地の總稱として用ゐられるだけの特殊な價値のある土地として、エミシから傳聞したものでなくてはならぬ。然るに、もしさういふ土地が實際あつたならば、奈良朝から平安朝の初へかけて斷え間なく行はれたエミシの征討に關する國史の記事に、それが現はれなくてはならぬのに、一度も此の名の見えたことが無い。これは如何にも奇怪のことである。延喜式の神名帳を見ると、日高見神社といふのが桃生郡にあるが、これは内地人によつて祭られたもので、さうしてそれは、此の地方の柘植が進んで内地人の移住するものが多くなつてから、即ちほゞ天平寶字時代から、後のことであらうから、國史に見える日高見の名をとつてつけたものとも見られる。香取伊豆乃御子神社とか鹿島御子神社とかいふのがあるのでも、さう類推せられよう。從つてこれは、此の地方が前からヒタカミと呼ばれてゐたといふ證にはならぬ。河の名のキタカミ(北上)がヒタカミだらうといふ説もあるが、此の臆測は音韻の上からも成り立つことが困難であらう。また延暦十六年に續紀のでき上つた時の上表に「仁被渤海之北、貊種歸心、威振日河之東、毛狄屏息、」とある日河が日高見河の略稱であるといふ論もあるが、これはむしろ、膽澤方面の蝦夷征討が行はれた時の延暦八年九月の宣命に見える日上乃湊を指したもの、とするのが適切であらう。當時(216)反抗した蝦夷の主力は河東にあつたので、此の宣命と同年六月及び七月の戰闘の記事とを綜合して見ると、其の河の主要なる渡津が此の日上乃湊であつたらしいからである。此の河は膽澤方面の北上川ではあらうが、日上は「湊」とあることから考へても、其の渡頭に當る地名であつて、河の全流の名ではなかつたらう。(日上はヒカミであらう。「乃」の字が特にその下に加へてあるのを見ても、その字の入れてない日上がヒノカミと訓むべきものでないことが推測せられる。)かう考へて來ると、ヒタカミといふ名は史上に一度も出て來たことがなく、從つて、さういふ地名が實際どこかにあつたものとは思はれない。さすれば此の名は、何か意味があつて内地人のつけたものとしなければなるまい。
 一體ヒタカミといふ國名は、此のエミシに關係のあるものの外に、常陸風土記信太郡の條に「此地本日高見國也」と見え、延喜式の大祓の祝詞や遷却祟神祭の祝詞にも「大倭日高見國」といふのがある。常陸風土記の日高見國は、「本」云々とあるのを見ると、當時實際には行はれてゐない、從つてまた實際の地名とは關係の無い、名であることが知られる。何故にかういふことをいつたのかは不明であるが、かういふ説の出るのは、ヒタカミの名が、常陸から遠からぬ北方にあるエミシの國として、實際に聞えてゐなかつたからに違ひない。次に祝詞のは、一種の佳名または美稱であつて、國名でないことは明かである(これらの祝詞は作られた時代が確かには知られないが、大化改新の前ではあらう)。さて、ヒタカミの國といふ名の用ゐられてゐる他のすべての場合に於いて、それが實際の地名でないとすれば、エミシの住地としてのヒタカミもまた同じく空想上の名稱だらうと思はれる。さうして、大倭のは、日の神の御裔であられる歴代天皇の皇都の地たる大倭にふさはしい美稱であり、常陸またエミシのは、それらの土地が(大(217)倭から考へて)東の極であるから、日の出る方向によつた聯想から來たものであつて、それを用ゐる心理に違ひはあるものの、同じく日に關係のある語ではなからうか。ホノニニギの命以後の三代の御名に、何れも「アマツヒタカ」の尊稱がついてゐることをも、參考しなければならぬ。前に述べた如く、ヒタカミの國に關するタケウチノスクネの上奏としてあるものも、またヤマトタケルの命に下された勅命としてあるものも、書紀の文章はすべてエミシの實際を述べたものでないこと、また此の物語に見えるエミシの酋長が、シマツカミ・クニツカミといふ空想上の名稱であること、などを考へると、此のヒタカミの國もやはり實際の地名でないと見た方が、記事の全體の調子にもかなつてゐる。特にヒタカミの國に關する書紀の記載の文勢によると、それはエミシの住地の總稱であるが如くも感ぜられるが、エミシは一つの國と見られるものでなく、また實際さう見た例も無い。民族として總稱する場合にはエミシの名があるが、その外に土地または政治的勢力として、ヒタカミの國といふやうな大きい名のあるはずが無からう。此の名がヤマト人の假につけたものであるといふことは、此の點からも推考せられる。さうしてそれが此の物語にのみ現はれてゐるのを見ると、それは實際、世に用ゐられた名稱ではなく、物語の作者の案出したものに違ひない。
 さて、ヒタカミの國が空想上の名であるとすれば、それは本來、位置なり範圍なりの判然としてゐるものではないから、それが常陸に接してすぐ其の東北にあるやうに見えたり、さうでないやうに見えたり、またそれと陸奧國との關係が曖昧であつたり、するのは當然である。實際の行政區擴の名と漠然たる空想上の名稱とを結びつけたのであるから、記述者自身に於いても、その間の關係が明瞭に意識せられてゐなかつたであらう。しかし、此の物語の作られた時代が果して、前に述べた如く、大化以後持統朝以前であるとすれば、一般に考へてエミシの住地、即ち空想上の(218)ヒタカミの國、を陸奧國の北に置くことは、勿論、差支が無く、また陸奧國に隷屬してゐながらエミシの住地である地方が、その内にあるとすれば、ヒタカミの國と陸奧國とが混同して考へられたとしても、また誤ではない。要するに、ヒタカミの國は陸奧方面のエミシの國なのである。さすれば、かの道すぢについても、陸奧國から出發し海路北進してヒタカミの國にゆかれたとすれば、それでもよく、また上總からすぐに海路をとつて陸奧國内の或る地點に上陸せられたので、そこがヒタカミの國だとしても、その邊がエミシの地である以上は、これまた支障の無い解釋である。さうして更に一歩を進めて具體的に考へるならば、物語の作者の考へてゐたタカの水門の位置によつて、此のことが都合よく説明せられる。タカの水門は、第一の解釋に從へば陸奧國の北方でなくてはならず、第二の解釋によれば陸奧國の内にあるエミシの住地にあることになる。さすれば、それは後に多賀として知られてゐる地方であらう。此の地方は前にも述べた如く陸奧國の北邊に當つてゐて、當時なほ概してエミシの住地であり、或る意味に於いてエミシの南境でありながら、しかし陸奧國に隷屬してゐる部分かと思はれるからである。(本文にある玉浦や葦浦は、第一の解釋によれば、陸奥國の或る地點から多賀までの海岸にあるはずであり、第二の解釋によれば、上總から多賀までの間にあればよいことになつて、これは文面の解釋次第で大なる差異が生ずるが、どちらにしても其の位置を擬定することは殆ど不可能である。同じやうな名稱が今日あるにしても、それは後世に始まつたことかも知れず、また玉浦とか葦浦とかいふやうなのは、同じ名稱が所々に有りがちだからである。)さてかういふやうに、書紀の道すぢの記事をどう解釋するにしても、タカの水門は畢竟同じところに歸着するが、しかし、寧ろそれほど、全體としてヒタカミの國と陸奧國との關係は曖昧である。
(219) 話が横みちに入つたやうであるが、以上述べて來た間におのづから、此の物語の内容が大化以後、持統朝以前の陸奧國方面の?態と一致することが知られたはずである。それよりも前、例へば石城郡地方が道の奧として考へられてゐた時代のこととしては、此の物語は全く解釋することができなくなる。第一、さういふ場合には常陸國の北に陸奧國の置き場所が無いではないか(常陸といふ國名はよし後の追書であるとしても、その指すところは後の常陸國の地方であらうが、石城郡は常陸國の北境に接してゐ、特に大化の時には常陸國に屬してゐた)。またエミシの住地としてヒタカミの國といふやうな空想上の名が用ゐられたのも、それが、非常な遠方の、或は新しく國として置かれはしたがまだ異民族の住地として一般に考へられてゐる東のはての陸奧國の方の、人の耳にも熟しない地方であるからであつて、上代からよく世間に知られてゐる常陸に接近した土地に對しては、こんな名が用ゐられなかつたらう。(大倭や常陸の信太郡については、それを用ゐる心理がこれとは違つてゐる。彼は佳名美稱として用ゐるのであるが、夷として者へてゐるエミシに對するこれは、單に地理上の觀念から來てゐる。)だから此の物語が國郡制置以後、持統朝以前に作られたものであらう、といふ上文の推定は、内容の上からも是認せられるであらう。それは或は、天武天皇の朝に川島皇子等を首長として開かれた史局のしごとではなかつたらうか。さうして書紀のこの記載は、その史局で作られた國史の稿本によつて書かれたものではあるまいか。このやうに變改せられてゐた舊辭の異本があつて、それによつたと考へるのは、その變改の時代から見ても無理であらう。もつともエミシに關することを除けて見ると、その部分にはもつと古い時代に書きかへられた舊辭の異本によつたところがあるかも知れぬ。
 然らば古事記に見えるやうな話が、何故に此の時代に於いて、こんな風に改められたかといふと、それは即ち、エ(220)ミシの經略が政府の大問題になつてゐた齊明朝以後の、時勢の致すところであらう。史上に著しく現はれてゐる此の時代のエミシ征討は、越の國の方面の所謂北蝦夷(蝦狄)に對するものであり、特に齊明朝には今の陸奧の西海岸附近であらうと思はれる有名なミシハセ(肅慎)ワタリシマ(渡島)の經略が行はれたのであるが、東方に於いても決して無爲でなかつたことは、上に述べたとほりである。かゝる時勢に於いて、ヤマトタケルの命の東征物語が發展してエミシ征討となつたのは、無理のないことである。さうして、それが越方面を主とした物語にならなかつたのは、本來、東方十二道の綏撫といふ説話が基になつてゐるからであらう。しかし當時の人がエミシを考へるに當つて、越の方面を閑却することはできないから、此の物語にもキビノタケヒコの越に分遣せられたといふことが附け加へてある。物語に於いてはコシの方面のことがさして重んぜられてはゐないが、それは物語に時代の反映があるといふことを妨げるものではない。當時に起つた歴史的事件が物語に書き加へられたといふのではなくして、思想の上に於いてエミシが重く見られてゐるといふのである。
 以上述べたところで、ヤマトタケルの命のエミシ征討といふ、書紀の物語に對する考説は、ほゞ悉されてゐる。ただエミシ經略の?態を考へるに當り、書紀の皇極紀以前に散見するエミシに關する記事を顧慮しなかつたことについて、一言を附加して置きたい。これらの記事の最初のは景行紀五十六年の條に見えるミモロワケの王の征討であるが、これにはエミシの酋長の名がアシフリベ、オホハフリベ、トホツクラヲベ、などといふ日本語になつてゐるのみならず、「盡獻其地」などとありながら、それが何處のことか、また戰爭が何處で行はれたか、まるで書いてない。次は應神紀三年の條に「東蝦夷悉朝貢」とあるものであるが、「悉」といふやうないひかたのしてあることに注意すべきである。(221)その次には、仁コ紀五十五年の條のタミチの征討があるが、これにはイシの湊で戰死したといふことがあるけれども、その湊の位置はわからず、タミチの墓から大蛇が出てエミシを食ひ殺したといふ妖怪譚さへある。(イシの湊は常陸の多賀郡のであらうといひ、又は陸前の石卷であらうといひ、史家の間に種々の説がある。記者の脳裡にかういふ名のあるどこかの土地があつたには違ひないが、しかし書紀にその位置を推測すべき何等の記載の無い此の土地を、單に今日の地名と似てゐるといふところから、それに擬定するのは危險である。のみならず多賀郡のは湊といふべきところらしくもなく、石卷は書紀編纂の當時に於いて知られてゐた名であるかどうか、疑はしい。またミナトといふ語からいふと、それは必しも海濱には限らないのではなからうか。上に引用した日上の湊の「湊」もミナトの語を寫したのであらうが、それは河の渡津である。タミチの物語にも海濱らしい樣子は少しも見えぬ。)それから清寧紀四年の條及び欽明紀元年の條に「蝦夷隼人並内附」または「蝦夷隼人並率衆歸附」といふ漠然たる記事がある。次には、敏達紀の十年に、數千の蝦夷が邊境に寇したから、その酋長のアヤカスといふものを召しよせて詰責し、酋長はハツセ河に入りミモロ山に向つて服從を誓つた、といふ話がある。これも何處のもの、何處のことだかわからず、誓約の有樣なども果して異民族たるエミシの風習と認むべきものであらうか、疑はしい。其の次は、舒明紀九年の條のカミツケヌの君カタナがエミシを討つたことであるが、これも戰地は何處とも書いてない。なほ皇極紀元年の條にはコシの邊のエミシが數千入内附したといふ記事があるが、これは陸奧國方面とは關係が無い。其の他、間接にエミシと關係のある記事には、崇峻紀二年の條の東山、東海、北陸、の諸道に人を派して國境を觀察せしめたといふこと、推古紀三十五年の條の陸奧國で狢が人に化つて歌をうたつたといふ話などがある。
(222) さてこれらの諸條を通覽するに、事實の記録としては、第一に、イシの湊の名が出てゐる一ケ條を除けば、地理の記載の全く無いことが不思議である。特に景行紀應神紀のは、エミシ征討もしくはその服從といふ漠然たる概念から案出せられたものであることが、その記載から明かに推測せられる。第二には、その多くに事實らしからぬ話の伴つてゐるのが奇怪である。特に推古紀の記事の如きは陸奧國の名のあるのが既にをかしい。だから、これらの記事はうつかり信用のできないものといはねばならぬ。シナ人の史筆をまねた架空の記事である清寧紀や欽明紀のについては、ハヤトに關して既に前に述べて置いた。上文に於いてこれらの記事を參考しなかつたのは、此の故である。なほ姓氏録(卷一一)には、中臣志斐連の條に雄略天皇の時東夷を征討せられたといふことがあるが、一體に此の書のかういふ記事は、他に明證の無い限り、信用しかねるものであるから、且らく論外に置く。
 かう考へて來ると、一つの疑問が生ずる。大化以後にはエミシに關する記事が頻々として史上に現はれて來るのに、その前にはそれが極めて乏しく、その乏しいものがみなこんな風のものだとすれば、それは何故であらうか。(1)大化からエミシの日本人に對する態度が急にかはつたのか。(2)政府のエミシに對する態度が突然變化したのか。以上二つの何れでもなければ、(3)大化の前のことは史料がまるで無かつたのか。此の外には出なからう。ところが民族競爭の大勢から見れば、(1)とは思はれぬ。また欽明朝から後は、韓地の交渉に關する史料などがともかくも幾らかあつたのに(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)、エミシについてのみそれが亡くなつたとは考へ難いから、(3)でもあるまい。もし政府が直接にエミシ經略を行つてゐたならば、それについて何等かの記録があつたらうから、書紀にもせめては確實た記事の一つや二つはあつてもよささうなものではないか。さすれば、(2)の故としなければならぬのではあ(223)るまいか。是に於いてか著者は、エミシに對する民族的活動は、大化改新の前までは、大體、地方人に放任してあつたので、深く政府の關與するところでなかつたのではあるまいかと想像する。エミシに對する民族的活動は、國家の統一がまだできなかつた前からのことであつて、統一が成就した後にも大體はその?態が繼續せられ、さうして東國人は朝廷の保護を頼まず、自分の力で徐々にエミシを壓迫して、その生活の舞臺を擴げて行つたのであらう。(このことについては平安朝末以後の蝦夷地經略、及びその方面に於けるわれ/\の民族の北進が、朝廷の關知せざるところであつたことを、參考すべきである。)政府からいふと、所謂クマソの平定は地方的豪族をして朝廷に歸服せしめたのであつた。韓地との交渉は初から朝廷の、寧ろ朝廷だけの、事業であつた。朝廷はその權力をわれ/\の民族の間に確立し、また韓地に於いて一度び得たその勢力を維持すればよかつたので、朝廷としては、初から深い交渉の無い異民族たるエミシに對しては、みづから進んで積極的の行動を取るやうなことをしなかつたのではあるまいか。神代史に於いても、エミシもしくはエミシの住地に關することは全く語られてゐず、二神が國土を生んだ物語に於いても、それは全く除外せられ、もしくは閑却せられてゐるが、これも朝廷に於いて異民族たるエミシに重きを置かなかつたからではあるまいか。エミシの經略が朝廷の一大事業であり、それがために精神を勞することが多かつたならば、何等かの反映が神代史や上代の物語の上にも現はれさうなものであるのに、それがヤマトタケルの命の東方巡察の物語に於いて極めて輕く附記せられてゐるのみであるのは、事實上、さういふ經略が行はれなかつたからではあるまいか。新羅親征クマソ討伐の話は作られてゐ、後には神代史にも新羅の面影が現はれて來るのに比べて、エミシの物語の一つも無いのは、此の故ではなからうか。しかし、大化の改新は一朝にして中央集權の制を定め、舊來地方的土豪(224)(所謂國造など)の手に委ねてあつた總ての權力を、政府に收めてしまつた。是に於いてか、從來は東國の人民または其の地方的首長たる土豪の事業であつたエミシに對する活動も、おのづから政府の手に移らねばならぬ。ところが政府の事業となれば、其の規模もおのづから大きくなり、其の力もまた強くならねばならぬ。さうしてそれは却つて、往々エミシの反抗を激成する所以ともなる。大化以後急にエミシの經略が活?になり、奈良朝に至つてそれが寧ろ困難になつた事情は、かう考へれば自然に理解せられはしまいか。勿論、昔とても朝廷が全くエミシのことを閑却してゐたのではなく、何等かの場合にそれに對していくらかの威力を用ゐたことがないではなかつたらうし、タミチとかカミツケヌのカタナとかの話は、何か根據のある傳説であるかも知れない。また東國の土豪等から俘虜としたエミシの獻上を受納したやうなことも、?あつたらう。前章に引用した宋書の記事に見える上表中の毛人云々も、こんなところから出てゐるかも知れない。けれども、それは大化以後の態度とは大なる差異があるのではなからうか。古事記に見えるヤマトタケルの命の物語は、内地の綏撫が主であつて、エミシのことは附けたりになつてゐること、書紀の物語に於いてそれが一變し、エミシの征討が主要の題目になつたことは、恰もよく此の變化に應ずるものではなからうか。
 最後に、書紀の景行天皇東國巡幸の物語は、ヤマトタケルの命の物語を二重にしたものであらう、といふことを一言して置く。前章に述べた如く、クマソについても天皇巡幸の物語が加はつてゐることと、參照するがよい。たゞそれが彼に詳にして是に略なるのは、ヤマトタケルの命の物語がクマソについては甚だ粗であるのに、東國に於いては頗る密であるからであらう。さうしてそれは、書紀に見えるエミシ經略の物語の書かれた後の作であり、多分、書紀(225)の編者の手になつたものであらう。
 
(226)       第四章 皇子分封の物語
 
 ヤマトタケルの命の物語を考へたについて、おのづから聯想せられることは、景行天皇の時にその多くの皇子を諸國の國造、縣主、別、稻置、などとして分封せられた、といふ物語である。此のことについては、古事記にも書紀にもほゞ同樣の記載があるので天皇の皇子皇女が八十王あるうち、ワカタラシヒコの命(成務天皇)とヤマトタケルの命とイホキノイリヒコの命との外の諸王(古事記では七十七王、書紀では七十餘子)が、みな地方に出られた、といふのである。なほこれに關聯して、成務天皇の時に國造や縣主を定められたといふ話も、記紀の兩方に見えてゐる。また古事記には、神代の卷にも神武天皇から景行天皇までの多くの卷々にも、所謂伴造國造として總稱すべき諸家の祖先として、神々及び皇族の名が擧げてある。さてこれらの話は、一體どういふ意味のものであらうか。それを知るについて、先づ氏姓に關する一般的考察を試み、それから後に、國造縣主などの祖先とせられてゐるものについて簡單な觀察をしてみようと思ふ。
 氏姓に關して先づ思ひ出されるのは、上代に於いてその混亂を正すに骨がをれたといふことである。家々でその氏姓を貴くしようとしてゐたといふことは、既に第一篇の第四章で概説して置いたが、もう少しそれを補足してみると、たれでも知つてゐる如く、允恭天皇の時にアマカシが岡にクカベをすゑて氏姓の混亂を正された、といふことが記紀の何れにも見えてゐる。此のことは、のちにいふやうに、歴史的事實ではなからうと思はれるが、氏姓を政府の力で(227)一定しなければならぬと考へられるやうな事情があり、また諸家が恣に種々の氏姓を稱してゐたことは、此の話のあるのでも知られる。孝コ紀三年の條に見える詔勅に「頃者始於神名天皇名々、或別爲臣連之氏、或別爲*造等之色、由是率土民心、固執彼此、深生我汝、各守名々、又拙弱臣連伴造國造、以彼爲姓、神名王名、逐目心之所歸、妄付前々處々、爰以神名王名、爲人賄物之故、入他奴碑、穢?清名、」といふ一節のあるのも、また氏姓の重んぜられるがために、そこに種々の弊害が生じ、家々が種々の手段で「神名王名」を冒し、それによつて我が家を貴くしようとするので、名實相忤ふことの多くなつたことを示すものであつて、それは必しも孝コ天皇の時に始まつたことではないに違ひない。諸家の有つてゐる帝紀舊辭が區々になつてゐるのも、こゝに一大原因があらうと推測せられるほどである。さて此の混亂の?態は、記紀などの表面にはあまり著しく現はれてはゐないが、細かく觀察すると、そこにいくらかの事例が發見せられる。
 第一に、記紀の間に矛盾のある場合がある。例へば古事記では、神代史の皇孫降臨のところにも神武の卷にも、オホトモ氏の祖のアメノオシヒの命及びミチノオミの命と、クメ氏の祖のアマツクメの命及びオホクメの命とは、對等の地位にあり同樣の任務を帶びてゐるやうに記してあるが、書紀では、神代紀の注の「一書」にも神武紀にも、クメ部はオホトモ氏の配下に屬してゐることになつてゐて、アマツクメの命などの名もない。なほ雄略紀(二年の條)にも大伴家持の喩族歌(萬葉卷二〇)にも、クメ部がオホトモ氏の配下に屬してゐたことが見えてゐる。これらの記載と、オホトモ氏のカバネが連でクメ氏のが直であることとを、考へ合せると、此の間から二家の勢力爭ひの消息が窺はれるやうに感ぜられる。(古事記の景行の卷に、クメの直の祖のナナツカハギがヤマトタケルの命の東方綏撫のと(228)きに膳夫となつて隨行した、といふ話があるが、オホトモ氏と對立してゐる家がらのこととしては、ふさはしくないやうである。)また、古事記と書紀の本文との神代の卷の天の安の河原の話には、ナカトミ氏の祖のアメノコヤネの命とイミベ氏の祖のフトダマの命とが、同じ地位にあるやうにしてあるのに、書紀の注の二つの「一書」に於いては、主なる地位に立つてゐるのはアメノコヤネの命のみであつて、フトダマの命は、カガミツクリやタマツクリの祖と同樣な、從屬的地位に置かれてゐる。たゞ皇孫降臨の段の注の一つの「一書」には此の二神がほゞ同樣に取扱はれてゐるが、此の書の記載は古事記の所説と親近な關係がある。これにもナカトミ、イミベ、兩氏の間に於ける何等かの家格上の抗爭が潜んでゐるらしく、ナカトミ氏が連でイミベ氏が首であること、イミベ氏では、ずつと後になつても古語拾遺を書かなければならないほど、ナカトミ氏に對する不平乃至反抗心があつたことを、參考しなければならぬ。
 此の二つの場合について、それ/”\どちらの方がもとの話であるかといふことは、輕々しく判斷しかねる問題であるが、雄略紀の記事などから見ると、クメ部がオホトモ氏の配下であつたことは古い時代の事實らしく、アマツクメの命といひオホクメの命といふやうな祖先の名も、クメ部の名の人格化であつて、多分、一たび神代史のまとめられた後になつて、新に作られたものであらう。またイミベ氏も、ナカトミ氏より下級の家ではなかつたらうか。イミベ氏は名稱もカガミツクリベなどと同じやうにできてゐて、單に祭祀の事務に當つたに過ぎないものらしく、ナカトミ(ナカツオミ?)とは本來の地位が違ふのであらう。が、それは何れにしても、クメやイミベに關する記紀の記載に、かういふ差異のあることは、事實である。
 次には、記紀そのものに於いて、系譜とその系譜に現はれる神なり人なりに關する記載との、矛盾する場合がある。(229)例へば神武紀に於いて、ヤタガラスは純粹の烏となつてゐながら「葛野主殿縣主部」がその苗裔とせられてもゐる。ヤタガラスが烏であることは、古事記にも書紀にも明記せられてゐるのみならず、それが神のはからひとして天から下されたといふ話からも、また此のあたりの物語の全體を貫いてゐる一種の宗教的精神からも、疑は無いので、それは多分、日の神の御裔たる天皇を導きまゐらせるといふ思想から、曉の烏として考へ出されたのであらう(太陽と烏とを結びつけることはシナにもあるが、此の話は必しもそれによつたものとはしなくてもよからう)。ところが、それを吉野の縣主の祖先とするのは、明かに此の物語の精神と矛盾してゐる。だから、これは後人のしわざに違ひない。それからタカミムスビの神カミミムスビの神などが、所謂獨神隱身であるのに、それを父祖とする神もしくは家があるといふのも、またこれらの神の根本觀念に矛盾してゐる。ワタツミの神は海の神であるのに、それをアヅミの連の祖神だといふのも、同樣である。だから、これらは家々の祖先を所謂帝紀舊辭に現はれてゐる神々としようとする動機から生じたことである、と推考しなければならぬ。
 記紀の外の書に見える系譜に至つては、なほさらである。古語拾遺には、ナカトミ氏の祖のアメノコヤネの命をカミミムスビの神の子としてあるが、アメノコヤネの命は書紀の神代紀の注の「一書」にはコゴトムスビの子とあり、姓氏録(卷一一)にはツハヤムスビの命の三世の孫としてある。ツハヤムスビの命は記紀には全く見えず、コゴトムスビも書紀の注の「一書」にたゞ一度しか現はれないから、此の二つの系譜が一致するものか、又は全く別のものか、不明であるが、何れにしても古語拾遺の説とは違ふ。また古語拾遺には、オホトモ氏の祖のアメノオシヒの命をタカミムスビの神の子としてあるのに、姓氏録(卷一二、一四、及び一九)には五世孫ともある。それから、クメ氏の祖(230)は同じ姓氏録(卷一二及び一四)に、タカミムスビの神の後とも、カミミムスビの神の裔ともしてある。さうしてこれらのことは記紀には(コゴトムスビの名の外は)すべて見えない話である。なほ、イミベ氏の祖のフトダマの命がタカミムスビの神の子であるといふこと(古語拾遺、姓氏録卷一四)も、記紀には記してない。これらの諸家は、社會的にも政治的にも最も重要な地位を有つてゐた家であるから、もし其の系譜が古くからいひ傳へられてゐたもの、一般に公認せられてゐたものであるならば、帝紀もしくは舊辭に記載せられてゐないはずはなく、從つて記紀にあらはれてゐなくてはならぬのに、それが全く見えてゐないこと、またその多くがこんな有樣で相互に齟齬してゐることを考へると、かういふ系譜そのものの性質と價値とはおのづから判斷せられよう。
 其の他、一體に姓氏録には、皇別にも神別にも、記紀などには少しも現はれない神や祖先の名が多く見え、世數なども明かに記載せられてゐるが、それは記紀に見えないといふ點からばかりでなく、文字の無い時代に於いてあれほど精密な系譜の傳へられたといふことが既に怪しいのである。もつと根本的にいふと、諸家が悉く皇別神別の二つに包含せられてゐる、といふことが事實とは認められないのである。前に述べた如く、或る家々の祖先とせられてゐる神代史上の神には、その神代史の所説に於いてすら、祖先といふ觀念とは矛盾する性質のものがある。なほ之に關しては、蕃別とせられてゐる漢韓の歸化人が、殆どみなその祖先を帝王としてゐることをも、參考するがよい。その蕃別に於いて、坂上氏が、書紀に應神天皇の朝に來歸したとある、其の祖の阿知使主を後漢の靈帝の子孫とした上に、漢の祚が魏に遷つた際に帶方に移住したものとしてゐるなどは、後世に造作したことの明白な例である(續日本紀卷三八延暦四年六月の條、及び日本後紀卷二一弘仁二年五月の條、參照)。漢魏の祚をかへた際(三世紀の初)に生き(231)てゐたものが、應神天皇の朝(四世紀の後半)に來歸するはずが無い(書紀の紀年によるにしても年代が合はない)。のみならず、それが實在の人物であるかどうかも疑はしい(「百濟に關する日本書紀の記載」參席)。此の一例は歸化人の系圖が事實に背いてゐる、といふことを推測するに十分であらう。さうしてそれは必しも蕃別の家に限らないので、彼等のしわざは寧ろ諸家の一般の風習に從つたまでのことであらう。(かう考へて來ると、系譜に關係の無いことについてでも、姓氏録などの記載に歴史的事實として取扱ひ難いものの多いことは、おのづから知られよう。)
 要するに、諸家は恣に祖先の名を作り、その事蹟としての説話を構造したので、それがためにその系譜が記紀の記載と齟齬し矛盾するやうになつたのである。さうしてそれが、各その家を貴くするためであつたこと、また其の貴いのが皇別であり神別である點にあるとせられたことは、いふまでもない。さて以上は、帝紀舊辭が既に一度び定められた後に於いて、それに基づきながらそれとは離れて家々の系譜を作つた、といふことであるが、それが果して事實であるとすれば、帝紀舊辭のまだ定められない前に於いても、また同樣であつたことが、おのづから推知せられる。さうして帝紀舊辭の編述せられた時の材料にはさういふ諸家の説が含まれてゐることを、否むわけにはゆくまい。さうしてそれは、次の第三篇で詳しく考へるやうに、神代史に於いて、諸家の祖先は勿論、民間信仰に基礎のある宗教的意義の神々をも、みなイサナキ・イサナミ二神を祖とする、いひかへると皇室を中心とする、一大血族と見なしてあることと、おのづから相應ずるものであつて、これは諸家の希望がこゝにあると共に、朝廷もまたそれを容認してゐたことを、示すものである。さうしてこれと同じ事情が、また諸家をして一度び定められた帝紀舊辭にも種々の變改を加へしめる原因となつたことは、第一篇に於いて述べたとほりである。
(232) かう考へて來ると、記紀の帝紀舊辭に見える系譜そのものにも、互に齟齬する點のあることが、おのづから領解せられよう。例へば古事記に諸家の祖先としてその家の名の擧げてあるヒコヤヰの命(神武の卷)、シキツヒコの命(安寧の卷)、タギシヒコの命(懿コの卷)、ヒコサシカタワケの命(孝靈の卷)、オホナカツヒコの命、オチワケの王、イカタラシヒコの王、イハツクワケの王(以上、垂仁の卷)などは、古事記にはあるが書紀には見えぬ。(シキツヒコの命、タギシヒコの命は、書紀の「一書曰」としてある注記には出てゐる。また、オホナカツヒコの命、イカタラシヒコの王は、書紀には、オホナカツヒメの命、イカタラシヒメの命となつてゐる。)その反對に、イナセイリヒコの皇子、タケクニコリワケの皇子、ヒムカノソツヒコの皇子、クニチワケの皇子(以上、景行紀)は、書紀のみにあつて古事記には無い。かういふやうに、多くの家々の祖先として記紀の一方に記されながら、他の一方には全くその名の見えないものがあるといふことは、啻に所謂帝紀の混亂を示すのみでなく、それを祖先とする諸家の系譜が、事實を傳へたものとして、信用すべからざるものであることの一證ともなる。それから、カムクシの王(景行の卷)が、古事記ではキの國のサカベなどの祖としてあるのに書紀にはサヌキの國造の祖となつてゐるやうに、同じ名でありながらその後であるといふ家が違つてゐる場合もあり、(書紀でも履仲紀にはサヌキの國造の始祖はワシズミの王としてある)、古事記ではヒコフツオシノマコトの命がタケウチノスクネの父となつてゐるのに(孝元の卷)、書紀には祖父としてあつて、別にヤヌシオシヲタケヲココロの命といふ父の名が擧げてある(孝元紀、景行紀)など、系譜の一致しない例もある。さうして、記紀にかういふことがあるのは、その材料となつた帝紀舊辭に於いて、既に系譜が區々であつたからに違ひない。さうしてそれは、前に述べたやうな事情から來てゐることと推測せられる。
(233) さて一般に氏姓とその系譜とがかういふ性質のものであるとすれば、国造縣主などに於いても、また同樣でなければならぬ。カモの縣主がヤタガラスを祖先とし、而もそれをカミミスビの神の孫とするが如きは(姓氏録卷一六)、その意圖が甚だ明かである。それから出雲國造神賀詞に於いて、その國造の祖とせられてゐるアメノホヒの命が、オホナムチの命の所謂國ゆづりに關して、功勞があつたやうにいつてあるのは、同じ神がオホナムチの命に媚びついて使命に背いた、とある記紀の所説とは明かに矛盾するものであるから、これは後になつて、國造の家でその家に都合のよいやうな變改を加へた結果らしいが、かういふやうな意圖は、一般國造の系譜を記す上にも現はれてゐないとはいはれまい。此のイヅモの國造は、第二章に述べた古事記の景行の卷に見えるイヅモタケルの物語、また崇神紀のイヅモノフリネが誅せられた話などに於いて、ほのかに覗ひ知ることのできるその地位から考へると、それは古來イヅモに勢力を有つてゐた地方的君主、即ち土豪、の家らしい。イヅモノフルネは、イヅモの臣の遠祖ともあり、タケヒテル(タケヒナトリ、アメノヒナトリ、古事記のタケヒラトリ)の命の將來した神寶の保管者ともあるから、タケヒラトリの命(ホヒの命の子)の子孫であるといふイヅモの國造として、考へられてゐることは、明かである。イヅモタケルもその名から考へると、イヅモの首長として物語の作者に思ひ浮べられてゐたに違ひないから、それを實際の?態にあてはめれば、やはり國造より外に比擬すべきものが無い。かういふやうに、國造が一方では反抗者らしく取扱はれながら、他方では天つ神の裔となつてゐるところに、イヅモの勢力の歴史的事實と神代史などの意圖との關係が、推知せられよう。更に考へると、イヅモの國造の祖のホヒの命がオホナムチの命に媚びついたといふ話にも、否むしろ國ゆづりの物語そのものにも、國造の家の朝廷に對する關係が現はれてゐるのであらうが、國ゆづりの話の主(234)人公がオホナムチの命といふ特殊の神となつてゐて、國造の祖先とはしてなく、國造は、其のオホナムチの命をして天孫に國を獻らせるためにタカマノハラから派遣せられたホヒの命の裔とせられてゐるところに、神代史の微妙なる意味がある。明らさまにいふと、かういふ結構によつて、イヅモの土豪が皇室を宗家とする血族系統に編みこまれたのである。さうして書紀の注の「一書」の説また神賀詞に見える如く、國造がオホナムチの神の祭主となつてゐるのは、國造家が遠い昔から地方的君主として有つてゐた宗教的地位を、其のまゝに承認しつゝ、それを神代史と結びつけられ得るやうに説明したものであらう(君主の地位の宗教的意義については後にいはう)。
 さて、これはイヅモの國造についてのことであるが、同じやうな意圖がはたらいてゐることは、その他の國造の系譜に於いてもまた想像せられる。たゞイヅモほどに重要な地位でなく、またそれに關する特殊の物語が無いために、此の間の消息が明かに知られないまでである。古事記(神武の卷)に、アソの君がカムヤヰミミの命の後としてあるのに、景行紀には、アソツヒコ・アソツヒメの名が、それとは關係無く現はれてゐ、古事記のヤマトタケルの命の東方綏撫の物語には、サガムの國造を反逆者の如く記し、また古事記(神武の卷)には、ヒの君の祖をカムヤヰミミの命としてあるのに、景行紀には、天皇の御子トヨトワケの皇子の裔であるといふヒの國の別があり(また同じ紀の筑紫巡幸の條にはヒの國造といふものがある)、それから古事記(開化の卷)には、オホタムサカの王の子孫としてタヂマの國造が出てゐるのに、別にアメノヒボコの後であるといふタヂマモリの名が記紀の何れにも見えるなどは、單に文面からいふと、必しも矛盾するとか齟齬するとか評し難いにもせよ、全體の精神なり物語の主意なりからいふと、頗る徹底しない話であつて、一々の物語を語る場合には、一般の國造が悉く皇別(もしくは神別)である、といふ思(235)想を忘れてゐたかの如く觀察せられ、從つて其の思想が特殊の意圖から生まれたものであることが推測せられる(筑紫風土記にイトの縣主をアメノヒボコの苗裔としてあるのも、また此の思想とは矛盾する)。
 大局から考へてみても、皇室を中心とする國家組織ができ上らなかつた時代、またそれがわれ/\の民族の全體に及ばなかつた時代から、各地方を分領してゐたらしい多くの地方的君主、多くの小國の王が、悉く滅亡してしまつたとは信じ難いことである。國造縣主といふやうな名によつて知られてゐる地方的首長、即ち各地の土豪には、皇室に歸服することによつて、ほゞその地位を繼承した彼等の子孫が少なくなかつたであらう。だから全國の國造、縣主、別、稻置、などが、すべて所謂皇別または神別の家のみであるといふのは、國家の政治的秩序が定まつた後に於いて、これらの諸家を、思想上、皇室を宗家とする血族として見ようといふ企圖、また諸家が各その家を尊貴にしようとする考から、神の名や皇族の名を取つてその祖先と定め、或は新に神などの名を作り出したためである、と考へねばならぬ。なほ上に述べた一般氏族の?態からも、また系圖を製作する後世の習慣からも、此の推測は確められよう。さうしてかういふ造作は、帝紀舊辭の一度び記し定められてから後に行はれたことと思はれる。何か準據がなければならぬからである。朝廷にゐて重要な地位にある家々や、イヅモの國造の如き特殊の歴史のあるものの祖先については、或は帝紀舊辭の述作の際にそれらの家々と何等かの協定が行はれたかも知れぬが、その他の一般の國造縣主など、即ち地方的豪族は、それとは違つて、國家の形成そのことに關係することが少いから、その祖先の名などは、一度び朝廷の記録ができ上がつた後に於いて、それに基づいて作るより外は無かつたらう。コシの國に深い關係のあるアベの臣の祖先を、崇神天皇の時コシに遣はされたといふオホヒコの命とし(孝元紀)、ヤマトタケルの命が俘虜とせられ(236)たといふエミシの管治者サヘキの直の祖を、景行天皇の皇子イナセイリヒコの命とした(姓氏録卷五)などは、系譜作者の意圖がよく窺はれるやうである。(孝元紀にはオホヒコの命の裔としてアベの臣の他にコシの國造といふ家があるが、コシのやうな廣い地域の國造といふのは、前章に述べたアヅマの國造と同樣、實際あつたものとは思はれぬ。またイナセイリヒコの命が、書紀のみにあつて古事記に見えない名であることは、前に述べて置いた。)
 かう考へて來ると、かの舊事紀の國造本紀などが歴史的事實の記録として信用し難いものであることは、改めていふまでもなからう。國造本紀は僞書たる舊事紀の一部たる點に於いて、既に權威の低いものであり、特に山背の國造に並んで山城の國造があり、西の方では大隅、薩摩、東の方では伊久、染羽、浮田、信夫、白河、など、後世の國名郡名をそのまゝに取つて作つたことの推知せられるものがあることは、一層その信用を薄めるものである。勿論、舊事紀の他の部分に記紀などに基づいて作られたところのある如く、國造本紀にも何かの據りどころのあるものはあつたであらう。現に記紀の説によつたと認められるものもある。けれども、それに據りどころがあるといふこと、もしくはそれが古くからの傳へであるといふことは、それが歴史的事實であるといふことではない。準據となつたものが歴史的事實の記載でないかも知れぬからである。だから國造本紀の價値は、その記載そのものの批列によつて定めらるべきはずであるが、上に述べたところはそのためにも適用せられるであらう。なほ國造本紀は、例へば出雲國造がアメノホヒの命からのことではなくして、その十一世の孫のウカツクヌからのこととしてあるやうに、その地位に始めて置かれたものを、多くはその家の祖先とはせずして、幾代かの子孫としてあるが、これは國造を悉く或る時代に朝廷から任命せられたもののやうに、記さうとしたからであらう。こゝにも造作の迹が見られる。だから、國造本紀な(237)どによつて地方の豪族の系圖を考へたり、氏族の地方的分布などを推測したりすることは、初から無意味のしわざであらう。
 以上の考説で、景行天皇の皇子七十餘王が諸國に分封せられたといふ話の意義も、おのづから知られよう。この皇子のことについては、古事記には、八十王のうちで録せられてゐるのが二十一王、記に入らざるものが五十九王としてあつて、その二十一王は名が擧げてあり、五十九王の名は記してないが、書紀では、皇子皇女を合はせて二十四の名が記してある。ところで、八十王といふ「八十」が多數といふ意義に用ゐられる語であること、また記紀の例として皇子皇女の名は一々列擧してあるのに、此の場合に限つて「記に入らざる」即ち名の知られなくなつた、王が數多くあつたとせられてゐることを考へると、これは帝紀に變改が加へられたことを示すもののやうである。もとからあつた帝紀には、皇子及び皇女として二十一王の名が記してあつたのを、古事記に採られた帝紀の書かれた時に、新に五十九王を加へて八十王としたものであることが、此の書きかたでわかるのである。しかし、その五十九王については、たゞ數を示したのみであつて、一々の王の名までは作らなかつたので、そこでそれを「記に入らざるもの」としたのであり、二十一王の名はもとの帝紀の記載をそのまゝ寫し取つたものであらう。何故に五十九を加へたかといふと、それは皇子を各地の國造縣主などにせられたといふ話に調和させるためであつたらうが、數の上では、一般に多數の意義に用ゐられる八十の語を、實數を示す語として用ゐようとしたからであるらしい。其の中の三王に太子の名を負はせ、或る七十七王を國造縣主などにせられたとあるのを見ると、此の改作は、三と七との數が尊尚せられるシナ思想の流行するやうになつてからのことに違ひなく、八の數を用ゐるを喜んだ固有の風習と此のシナ思想とが結合して、(238)こゝに現はれてゐるのである。(こゝに「もとからあつた帝紀」といつたのは、はじめて書かれた帝紀といふ意義ではなく、古事記にとられた帝紀よりも前からあつたものといふことである。第二章第四節に述べたところ參照。帝紀は幾たびも變改せられたものと考へられる。)また書紀に二十四王の名が擧げてあるのも、後の變改であらう。ところで、上に記した三皇子(三王)の外がみな地方的首長になられたとすれば、そのうちには皇女も含まれてゐることになるが、女子の國造縣主といふものは、記紀のどの記事にも見えてゐないし、國造縣主などの祖となられたとある皇子とその國造縣主との名は、他の場合には系譜に明記してあるのに、こゝにはそれが全く記されてゐない。これらのことを考へると、この皇子分封の話が歴史的事實を傳へたものでないことは、いふまでもなく、後世になつて構想せられたものであることが、おのづから知られよう。(上記の三王のうちに成務天皇と仲哀天皇の父であられるヤマトタケルの命とのあるのは、その理由がわかるが、イホキノイリヒコの命がこれらの二皇子と並んで特別の地位にあり、古事記には「太子」と書いてあるのは、何故かわかりかねる。數を三にしようとしたためであるにしても、この命を撰んだ理由がわからないのである。或はこの皇子にも、もとは何等かの物語があつたのが、後に除かれたのではないかとも、臆測すればせられないこともないが、もとより臆測にとゞまる。)
 また、成務天皇の朝の物語は、景行天皇の卷の皇子分封の話をうけて當然書かれねばならぬものだとも見られようが、しかしよく考へると、古事記に於いて、景行天皇の七十餘王がみな國造縣主などとなつたといふ記事の後に更にかういふことのあるのは、この書の全體の筆法から見て、寧ろ重複と認むべきものであり、從つてこれは後から加へられたものではあるまいか。それが事實でないことは上に述べた如く、地方的君主が概して國家統一の前から引續い(239)てゐたものと思はれることからも、明かである。「國郡無君長、縣邑無首渠、」といふ書紀に見える詔勅の文字の如きは、シナ思想によつて恣に書かれたものに過ぎないので、それは恰も前章に考へた景行紀のエミシの?態の叙述と同樣なものである。
 
(240)       第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語
 
          一 神の祭祀
 
 崇神天皇、垂仁天皇の二朝については記紀に種々の記載があるが、第一に注意せられることは神の祭祀である。古事記には、崇神天皇の時に疫病が流行して死するものが多かつたが、一夜の御夢にオホモノヌシの神が現はれて、これは我が心からであるから、オホタタネコといふものを以て我れを祭られるならば、それが止んで國が平かになるであらう、といふことを告げたので、そのとほりにせられた、とある。オホタタネコは此の神の玄孫だといふことであり、それについてオホモノヌシの神とイクタマヨリヒメとの神婚譚、即ち普通にミワ山物語として知られてゐる話がある。書紀にもほゞ同樣な記事があるが、たゞそのことの動機については「園内多疫病」云々の記事の外に「當朕世、數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、」といふ詔をのせ、それにシナ的政治思想を含ませてある。それから、一度び神の託宣に從つてオホモノヌシの神を祭られたけれども効驗が無かつたから、更に神の教を得ようとして祈られた時に、かの夢の告があつた、としてあつて、話が複雜になつてゐる上に、その教に從はれるならば國が平になるのみならず、海外の國がおのづから歸服する、といふことが加はつてゐる。またオホタタネコは神の玄孫ではなくして子になつてゐるし、神婚の説話は、オホタタネコには關係の無い別の物語となつて、別のところに記されてゐる。さうし(241)てそのオホタタネコに父のオホモノヌシの神を祭らせた外に、ヤマトの直の祖ナガヲイチにヤマトのオホクニダマの神を祭らせたとある。が、書紀には此のことの前に別に、トヨスキイリヒメの命をしてアマテラス大神、即ち日の神、をカサヌヒの邑に祭らせ、ヌナキイリヒメの命をしてヤマトのオホクニダマの神を祭らせたことをいひ、その動機として「百姓流離、或有背叛、其勢難以コ治之、」といふ、これもシナ思想を含んだ、記事を載せてある。さうしてそれをうけて、垂仁天皇の朝にヤマトヒメの命をして、アマテラス大神を祭らせたことが記してある。ヤマトヒメは大神鎭座の地を求めてウダにゆき、また近江美濃を巡歴したが、伊勢に到つてその地を得た、といふのである。ところが垂仁紀に注記してある一書の説では、ヤマトヒメの命が一旦大神をシキに祭つたことになつてゐる。それから同じ書にはまた、此の時ヤマトの大神をオホイチのナガヲカの岬に祠つたといふことが記してあるが、そこには、此の神の託宣として太初の時アマテラス大神との間に誓約があつたといふ話をのせ、またはじめヌナキワカヒメの命に祭らせたのを、故あつてナガヲイチに改めた、といふことが記してある。古事記にはこれらの物語はすべて見えないが、ただトヨスキヒメ(トヨスキイリヒメ)の命とヤマトヒメの命とがイセ大神宮拜祭の任に當つたことだけが、崇神の卷と垂仁の卷との系譜を記したところに出てゐる。なほはるか後に作られた古語拾遺には、これについて記紀の何れにも見えないことがある。詳しくいふと、古事記には全く無い話であるが、書紀には、大神とヤマトのオホクニダマの神とは、從來宮中に祭つてあつたのを、崇神天皇の時「畏其神勢、同住不安、」の故に、上記の如く別の場所で祭られることになつた、としてあるのに、古語拾遺にはもつと具體的に、此の時イミベ氏に鏡劍摸造のことを命ぜられた、としてあるのである。
(242) そこで先づ考ふべきことは、記紀二書の記載のちがひであるが、オホモノヌシの神の祭祀については、書紀の方が發達した形を有つてゐる。シナ思想は固より書紀一流の文字上の潤色であつて、始には上に引いた如く災害云々といふむつかしげな遺コ的意義のあることを述べながら、「恐朝無善政」に應ずることは、少しも事件の經過の上に現はれず、終になつては原の物語のまゝに、たゞ「疫病始息」とのみいつてあるのでも、其の形跡がわかる。また海外のこともミマナ使來朝の物語を此の天皇に附會したため、それに應ずるやうにしたのであらう。が、祭祀そのことの經過が複雜になつてゐるのは、物語そのものの發展として見なければなるまい。しかし古事記の説とても、物語の原形であつたとは考へ難いので、オホタタネコをオホモノヌシの神の子としてある書紀とは違ひ、それを玄孫とし、特に其の系譜中にタケミカツチの神の加はつてゐるが如きは、多分、後人の潤色であらう。此の點に於いては、却つて書紀に古い形が遺つてゐるのではあるまいか。「天下平、人民榮、」といふやうなシナ風の表現法も、古事記に於いては他の物語と調子が合はないやうである。
 それから、オホモノヌシの神と共に、ヤマトのオホクニダマの神を祭つたといふ書紀の話も、後から加へられたものらしい。それは、此の話が古事記の方に出てゐないこと、託宣または夢に現はれたといふ神の名にオホモノヌシばかりが見えてゐること、オホタタネコの話は詳しく書いてあるが、ナガヲイチは名のみ記されてゐるに過ぎないこと、などからの推測である。なほ此のオホクニダマの神の祭祀は、既に述べた如く、前後兩度に行はれたことになつてゐるが、後の方のがオホモノヌシの神の話と連結せられ、祭主をナガヲイチとしてあるのに、前の方のではアマテラス大神と同じやうに取扱はれ、祭主がヌナキイリヒメの命とせられてゐる。然るに古事記の系譜には、ヌナキイリヒメ(243)の命の名が出てゐながら、トヨスキイリヒメの命がイセの大神を拜祭したといふことのあるのとは違つて、此の命についてオホクニダマの神に侍したことが記されてゐない。またアマテラス大神が天皇の大殿の内に祭つてあつたのを別のところに奉安したといふのは、神代史の皇孫降臨の際に大神が神寶を授けられたといふ話、從つてまた古語拾遺によつて傳へられた神器模造譚を、それと結合して語り得るものであるが、オホクニダマの神についての同じ話は、全く孤立したものである。だから、これもまた後から加へられたのであらう。さうして、それが加へられた事情は、垂仁紀の注に引いてある一書の説によつて覗ひ知ることができる。此の説によると、崇神朝の祭祀は末のみを見て本を忘れたものであるから此の神を祭らなければならぬ、といふ託宣があつたとのことである。アマテラス大神との誓約は、その本の本たるところを明かにするために述べられたのであらう。さて末に過ぎないといふのは、オホモノヌシの神を祭つたことを指すものに違ひないから、此の託宣には、オホクニダマの神社が、オホモノヌシの神社に對抗して、自己の優越を示さうといふ意圖の含まれてゐることが、推知せられる。オホクニダマの神の祭祀が特に語られた理由は、これでわかつたが、たゞ此の説では、それが垂仁朝に始まつたやうになつてゐるのを、書紀の本文では、それに基づきながら一歩を進めて、崇神朝にオホモノヌシの神と共に祭られたことに改作してある。さうして託宣に見えるアマテラス大神との關係を具體的に示すために、別にその前のこととして、これまで大神と同樣に祭つてあつたのを、同時に皇居から離れた場所に遷したやうに、記したのであらう。前の場合のにヌナキイリヒメの命を、後の場合のにナガヲイチを配し、もとの説では結合して語られてゐる二人を、兩方に分けてしまつたのも、此の故である。引き續いて行はれたといふ同じ神の祭祀が、相互に全く無關係なこととなり、重複の感を與へてゐるのは、甚だ不自(244)然な話であるが、それはかういふやうにして強ひて作られたからである。さうして此のもとの話に見えるアマテラス大神との誓約といふことは、後世の思想であらうから、此の説の作られた時期もほゞ推知せられる。のみならず、もつと根本的に考へると、オホクニダマの神といふのは國郡制置の後になつて現はれたものらしい。神名帳を見ると所々にクニダマもしくはオホクニダマの神社があるが、そのクニは大化改新以後に後ける行政區劃としての「國」を指してゐるらしいから、その意味での國ごとに其の國のクニダマを祀つたものが此の神社であらう(今の神名帳には此の名の神社が載つてゐない國もあるが、それは此の考説の妨にはならぬ)。現に書紀の此の物語に於いてもヤマトのオホクニダマの神とあつて、そのヤマトは國名としてのに違ひない。さすれば、此の物語は早くとも大化後でなくては作られないはずである。また祭主として語られてゐるナガヲイチといふ名は、神社の所在地として記してあるオホイチのナガヲカを、そのまゝ人の名として用ゐたものらしい。
 次には大神祭祀の物語を考へねばならぬ。既に述べた如く、古事記には此の話が見えてゐないが、二皇女の大神宮拜祭のことだけは系譜のところに記されてゐるので、それは帝紀舊辭の古い形に於いては此の物語が無く、後にそれが添加せられたのを、古事記のもとになつた舊辭は、その補つてなかつた本であり、帝紀の方は記されてゐた本であることを、示すものらしい(第二章第四節、ヒムカのミハカシヒメ及びトヨクニワケの王について記紀の差異と古事記の資料とを説いたところ參照)。たゞしトヨスキイリヒメの命について「拜祭伊勢大神之宮也」とあるのは、大神が最初からイセに祀られたといふのであつて、一時ヤマトのカサヌヒに神宮をたてたやうに説いてある書紀の記載とは、矛盾する。そこで書紀をよく見るに、本文のカサヌヒや、注記の一書のシキや、イセ鎭座の前に祭られた場所に(245)ついて、相互に矛盾するいろ/\の説のあるのは、後からさま/”\に構造せられたためらしい。また本文に見えるヤマトヒメの命の近江、美濃、伊勢、の巡歴譚はカサヌヒ鎭座の話と連絡のあるものであるが、それは國名の書き方から見て、國郡制置以後に作られたとしなければならず(ヤマトタケルの命の東方巡歴物語についての上文の所説參照)、大神の託宣の「神風伊勢國」は、イセに神宮が建てられてから後にいひはじめられたことばに違ひない。イスズの川上を「天照大神始自天降之處也」とするに至つては、明かに神代史の所説と矛盾してゐるが、これもまた神宮の所在地と大神との關係を説くために案出せられた後世の考だからである。それから二書の説に、イセ鎭座の時期を書紀の本文よりは一年前の丁巳年冬十月甲子としてあるのは、かういふ物語に精密な年月をあてはめた點に於いて、此の書のできたのが後世であることを證するものであつて、それは、多分、書紀編纂の過程に於ける一稿本などであつたらうと思はれる。だから、書紀の記載は何れも後人の造作であつて、古事記のいふところが大神鎭座の物語の最初の思想を傳へたものらしい。古事記の説は、書紀に見えるやうな話から變化したものとは考へ難いのである。なほ此の物語と密接の關係のある神寶の説話については、次篇の「神代の物語」(第十四章)に於いて考へるであらう。そこで説くやうに、はじめて作られた時の神寶の説話では、歴代に傳へられてゐる神寶は大神が皇孫に授けられたといふそのものであることになつてゐたらしく、古事記は大體に於いてそれをそのまゝ語つてゐながら、たゞ神鏡がイセに祀つてあるといふ後の考が、そこに補説せられてゐるのであるが、上記の考説はよくそれと照應するものであらう。
 のみならず、かう考へて來ると、古事記によつて傳へられてゐる最初の物語の價値もおのづから判斷せられよう。ヤマトヒメといふ名が、屡説いた例の如く、地名をそのまゝ人名としたものであることをも、考へるがよい。歴史(246)的事實として神宮が何時建てられたかは明かでないが、神代史がもしイセの神宮の既に存在する時にはじめて述作せられたものであるならば、大神に關する物語の何ごとかはそこに關係があるやうになつてゐさうなものであつて、例へば大神の居所となつてゐるタカマノハラに、ヤマトの土地から其の名の取られたカグ山やタケチやのある代りに、イスズ川などが現はれてゐるか、或は出生の土地がイセとせられてゐるか、さういふことがあつてもよからうと思はれるのに、毫もそんな形迹が無く、また大神を中心とする神代史の全體の組立ての上に於いても、イセが何等重要な地位に置かれてゐないのを見ると、神宮の建設は神代史の最初の述作の後であつたことが、考へられる。さうして神代史を含む舊辭の最初の述作が六世紀の中ごろであるとすれば、イセの神宮が大神を祀つたことになつたのは、或はイセに神宮の建てられたのは、早くとも六世紀の後半のころであつたことが推測せられるであらう。かういふ考へかたをするまでもなく、舊辭の最初の形ではイセ神宮の話が無かつたとすれば、單にその點からでも同じことがいはれるであらう。(皇孫降臨の段の古事記に鏡がイセにあることを記し、書紀の「一書」にサルダヒコの神がイセにいつた話のあるのは何れも後の添加らしい。「神代の物語」第八章及び十五章參原。)要するに、大神のイセ鎭座の物語は、此の神宮の起源を説くためのものであつて、上に述べた如く舊辭の一旦述作せられた後になつて語り出され、その後またそれが種々に潤色せられたものと、考へねばならぬ。さうしてその初めて語り出されたのは、上記の神宮創建の時期から考へると、推古朝のころではなかつたらうか。
 さて最後の問題は、記紀に共通なオホモノヌシの神の祭祀の物語であるが、此の神の子孫としてオホタタネコといふ人があるといふことだけから見ても、それが事實でないことは明かである。此の神は人ではなくして神であり、而(247)もそれは蛇として考へられてゐたからである。オホモノヌシの神が蛇の形を現じたといふ書紀の話は、古事記には明記してないが、それには傍證もある。雄略紀(七年の條)に、天皇がミモロの岳の神の形を見ようとせられた時、或る人が蛇をその山で捉へて來て御覽に入れたので、それから此の岳の名をイカツチの岳とせられた、といふ話がある。イカツは「嚴つ」で、チはヲロチやミヅチのチと同じ語であり、イカツチは恐ろしい神としての蛇を指してゐる。(此の場合では雷の字はあて字に過ぎない。古事記の神代の卷のヨミの國の段に八つイカツチとあるのも、また蛇のことであらう。墳墓またはそこに葬られてゐる屍體もしくは死者の靈魂と蛇との聯想は、世界的のことである。)此の話のミモロの岳は、イカツチの岳の名から考へると、ミワのではなくしてアスカのであらうが、蛇が神とせられたことは、これでもわかるから、ミワの山の神もまた同樣であつたと考へるに、無理はなからう。もつとも古事記の神代の卷には、ミワの神を海原を光らして來た神とあり、書紀の注記の「一書」には、それをオホナムチの神の幸魂奇魂として、やはり同じことが書いてあるが、これについても古事記の垂仁の卷に、ヒナガヒメが蛇となり海原を照らして追つて來た、とあるのが參考せられる。こゝにいふ神もしくは魂は、必しも蛇そのものではないであらうが、それと聯想せられ得るやうなものではある。少くとも人の形を具へたものでないことは、疑が無い。しかし一方では此の神が夢のつげに於いて、またオホタタネコの父祖たる點に於いて、人の形を有する神とせられてゐるので、そこに矛盾がある。此の矛盾は如何に考ふべきであらうか。それを解釋することは、おのづから此の話の意義とそれの作られた時代とを知るたよりにもなるのである。
 このことを考へるには、上代に神といはれてゐたものが何であるかを一應知つておく必要がある。上代人の思想で(248)は山の神や海の神があることになつてゐるが、これらは、山や海そのものが神とせられてゐたと共に、山や海の到るところに目に見えない精靈がゐるとして、その精靈が神と呼ばれてもゐたやうであり、さうしてその精靈は動物の形をとることもあるので、蛇やワニ(後篇で考へるやうに海蛇であらう)は、山や海の神とせられてもゐた。しかし蛇や狼などはそれみづからでも神であり、それと共に大きな樹や石もまた神であつた。天上の日や月もまた神であり、風も雷も火もまた同じであつた。これらは自然界に於ける神であるが、人の生活に特殊の關係のある、または人の造り設けた或る場所、或は生活になくてはならぬもの、例へばミクマリ(用水路の分岐するところ)とか、井とか、竈とか、家の門戸とか、または耕作する土地とか、にも神としての精靈がゐるし、食物としての米そのものもまた神であつた。のみならず、人みづからの血の如きもやはり神とせられてゐた。これで見ると、人が、或る場合には、かれらの生活を害するものとしてそれに對して脅威を感じ恐怖の情を起すと共に、また他の場合には、人の生活を保護するもの、それによつて生命が維持せられるものとして、人がそれに依頼するもの、この二つの意味に於いて人の力の及ばない或る靈的な力をもつてゐるもの、が神とせられてゐた、と考へられる。さうしてかういふ神は、蛇などの動物はいふまでもなく、目に見えない精靈であつても、形を具へてゐるものであつても、その多くは、何等かの意味で生きてゐるもの、何等かの程度で人の如き情意をもつてゐるもの、のやうに思はれてゐた。なほ人の生活を害する「あしき神」「あらぶる神」即ち邪靈惡神の類も多く、晝は音たてて騷ぐ神、夜は光る神、が到るところにあるともいはれ、闇いところや道の分れるところや屍體や墓地やにゐる惡神邪靈もあるとせられてゐたが、これらは何れも人の恐怖感からさう信ぜられるやうになつたものと考へられる。天上の星も、夜光るものとして、またそのなかまである。(249)さて上にいつた神に對して、その害から免れそれに保護を求めるには、主として祭祀の方法によるのであるが、別に呪術によることもあるので、その場合には、一般に呪力と稱せられる靈的の力をもつてゐるやうに信ぜられるものは、やはり神と呼ばれた。木とか石とか火とか水とか食物としての米とかは、この意味でもまた神であつた。呪術はまた邪靈惡神を攘ひのけて人の生活を保護するためにも行はれたので、その場合でも呪力をもつてゐると思はれたもの、例へば鏡とか劍とか玉とか杖とか唾とかの類は、やはり神と呼ばれ、木や石や火や水やは、この意味でもまた神とせられてゐた。呪詞を唱へる場合の「ことば」もまた、呪力あるものとしての神であつた。かういふ祭祀や呪術は個人的にも行はれたが、集團的または公共的にも行はれたので、その集團的公共的な儀禮のしば/\くりかへして行はれ、從つてそれを行ふところとして、長い年月の間に、おのづから一定せられるやうになつた場所が、いはゆる神社の地であつたらう。さうして神が居るやうに、またははたらくやうに信ぜられたところ、または祭祀呪術を行ふに便なるところ、などが、さういふ場所となつたのであらう。なほかゝる祭祀呪術を行ふものに巫祝ともいふべきものがあつたことは、いふまでもあるまいが、村落的地方的集團に於いてそれの行はれる場合には、それはおのづからその集團の首長、即ち國造縣主または君などといはれてゐたものが、彼等みづから、または巫祝を率ゐて、その任務に當つたであらう。地方的首長とその土地の神社との間には、密接の關係のあつたことが、文獻上の種々の記載によつて知られる。神はこのやうなものであるが、神の字のあてられたカミといふ語は、ミがその語根であつて、靈的の力のあるものをさしていふのであり、カはその上に加へられた接頭語ではあるまいか。ヘミ(蛇)のミも、ヤマツミやワダツミのミも、このカミのミと同じであらう。(250)神と稱せられるものにかういろ/\あつたとすれば、それについて歴史的發達のあつたことが推測せられねばならぬが、今はさういふ問題には立ち入らず、たゞ記紀などの上代の文獻に見えてゐるところによつて、平面的な概觀を述べるにとゞめておく。次篇以後に於いてその間題にふれる場合があらう。たゞ神はかういふものであつたから、それは人の形と性質とをもつてゐるものとしては考へられなかつた、といふことを、一言しておかう。生きてゐるもの、何等か人の如き情意をもつてゐるもの、のやうに思はれてゐた神にしても、それは精靈もしくは靈物であつた。穀物を稔らせるはたらきをもつてゐる年の神といふやうなものがあつたにしても、それもまた精靈としての存在であつた。一般に祭祀の場合に於いて、神の宿るところとしてヒモロギといふものの設けられる習ひがあつたことも、またそれを證する。呪術的儀禮に於いては、神の象徴として何等かの形を有するものが設けられる場合があつたかも知れず、さうしてそのうちには人の形を設けることさへもなかつたとはいはれないので、もしさういふことがあつたならば、それは神に人の形を與へるやうになる一つの契機となつたでもあらう。けれども、さういふことのあつた證迹は明かでない。といふのは、神代の物語に於いても、祝詞などに於いても、人に擬した名のつけられてゐる場合はあるが、人の形をもち人の如く行動したやうには語られてゐないので、民間信仰に於ける神としてはなほさらさうであつたらう、と考へられるからである。
 たゞ遠い昔からいひ傳へられて來た民間説話に於いては、動物と人とが明かに區別せられず、次にいふやうに神代のホホデミの命とワニの女との話の如きものがあるから、ミワ山の神としての動物が人の形をとつて現はれることには、それから導かれたところがあらう。蛇と人の女との婚媾の話が、民間説話として考へらるべきものであることは、(251)一層それをたしかめることにならう。神代の物語に於いて神に人の如き名の與へられてゐることが、それを助けたかも知れず、オホモノヌシといふ名のつけられてゐるのは、それを示すものであらうかと思はれ、從つてミワ山の神の祭祀に關する説話のこの部分は、神代史の世に現はれた後に作られたものかと考へられるが、その神をオホタタネコの父祖とした意味に於いて、この蛇神に人の形と性質とをもたせたのは、民間説話に由來があらう。さうして父祖とせられたのは、神を祭るものとしての、或は巫祝の任務を行ふものとしての、その土地の首長の地位が世襲的であつたからのことであるらしく、オホタタネコがミワの君の祖とせられてゐるのは、それを證するものである。ミワの君はミワ山の神を祭る地位にあるものであつたために、その神を祖先としたのである。(これは神を祖先に擬したのであつて、祖先を神として祭つたのではない。)たゞし、この場合、祖先としてのミワの神が蛇であることは、或は背後に退いてゐるので、その點に於いては、神を祖先としたことと民間説話とは、別々に考へられてゐるかも知れぬ。記紀の書きかたの上から、さう推測せられもする。
 蛇であるミワの神が、その神の祭主となつたオホタタネコの父祖とせられ、人の形をもつたものとせられたことは、かう考へて來ると、おのづからその意味が知られたであらう。
 
          二 傳説的物語
 
 崇神天皇、垂仁天皇の二朝のこととしては、前節に述べた神の祭祀に關聯して、二三の傳説的物語がある。其の一つは、記紀の何れにもある崇神朝のミワ山物語である。これは、全體としてはミワの地名説話になつてゐるが、物語その(252)ものは本來ミワとは關係の無い民間説話であつて、記紀の話はそれを、蛇として崇拜せられてゐるミワの神に、結合したに過ぎない。蛇と人との婚媾は世界の民間説話に例の多いものだからである。古事記の神武の卷には、同じミワのオホモノヌシの神が丹塗矢になつて女に婚つたといふ話もあるが、常陸風土記の那賀郡の條及び肥前風土記の佐嘉郡の條にも、こゝの神婚譚に似た話があつて、それがみな蛇を主としたものであるから、此の物語がミワ山に結びつけられたのも、此の山の神が蛇とせられてゐたからであらう。丹塗矢の物語は山城風土記にも似た話があつて、それがホノイカツチ(火雷)の神だといはれ、その子はカモノワキイカツチの命だといはれてゐるが、このイカツチも本來は雷ではなく、やはり蛇であつたらう(天に上つたといふ話のあるのは雷としてのイカツチに混同せられたのである)。さうして、同じく丹塗矢で同じく神婚の物語である古事記のと、此の風土記のとは、同一説話の少しく形をかへたものと見なければならぬから、古事記の話の丹塗矢は蛇の變形であり、もとは蛇として語られてゐたのであらう。さて記紀の二つを比較すると、古事記には肝心の夫妻の別離の物語が無いから、書紀の方が全き形を具へてゐるらしい(但し箸のことは別の話の結びつけられたものと思はれる)。此の話が歴史的事實でないことは、いふまでもない。
 第二には、これも記紀の兩方にある垂仁朝のホムチワケの皇子の物語である。此の皇子は八束髭胸前に至るまで口をきかれなかつたが、鵠のなくねを聞いて始めて聲を出されたので、その鳥を取りに人を遣はされた。その人はキ、ハリマ、イナバ、タニハ、タヂマ、チカツアフミ、ミヌ、ヲハリ、シナヌ、を順次に追ひ廻して最後にコシの國でそれを捕へて來た。けれども皇子にはイヅモの大神の祟があつたので、其の大神を拜祭せられるまでは口をきかれなかつた。これは古事記の方の記事で、そのあとに、ヒナガ姫に一夜あはれたが其の姫は蛇であつた、といふ話が結びつ(253)けられてゐる。書紀の方では話が少し變つてゐて、初め鵠のねをきかれた時に言を出されたため、その鳥を捕へて獻上せよといふ勅命があり、イヅモ(又はタヂマ)でそれを捕へた、といふのであつて、イヅモの神のことは全く見えない。書紀の方が話の原形に近く、古事記の方はそれから發展したものであらう。古事記の鳥を追ひまはした國々は悉く國都制置以後の國名であるから、大化の後に手を加へたものらしい。なほ諸國巡歴といふ思想については第一章第三節に述べて置いたことが參考せられよう。また八束髯生ふるまで言問はさぬといふことは、出雲風土記の仁多郡の條に似た話がある。鵠の物語はさういふ話の型に屬するものであらう。
 次には、宗教的意義は無いけれども、やはり記紀の何れにも見える物語がある。それは垂仁朝にタヂマモリが海路トコヨの國にいつて、トキジクノカクノコノミをもつて來た、といふことである。書紀には此のトコヨの國を説明して「神仙秘區」といひ、その道程を記して「萬里蹈浪、遙度弱水、」と書いてあるが、これは明白にシナの神仙思想である。特に神仙郷たる蓬莱山は海中にあるとせられてゐるから、海に浮かんでゆくとするには最も適してゐる(但しこゝに弱水とあるのは、西方の神仙郷たる崑崙に關係のある名を取つて來て、無意味に結合したのみである)。古事記にはかういふ文字は無いが、其の思想はやはり同一であることが、トコヨの語から推測せられる。トコヨは常世、即ち長生不死、といふ意義に解すべきものだからである。「わきも子は常世の國に住みけらし昔見しより若えましけり」(萬葉集卷四)。「君をまつ松浦のうらのをとめ子は常世の國のあまをとめかも」(同上卷五)。トコヨの國が、萬葉時代には一般に神仙郷の意義に用ゐられてゐたのみならず、雄略紀に「到蓬莱山、歴覩仙衆、」とある浦島の子についても、丹後風土記に「常世べに雲立ちわたる水の江の浦島の子がこともちわたる」の歌が載せてある。トコヨが(254)神仙郷を指してゐることは、疑があるまい。記紀の物語に於いてトコヨは二つの意義に用ゐられ、一つは「常夜」の義であつて、歴史的にいふとその方が古くからのならはしであつたらうが、別に「常世」の義もあるとすれば、それは神仙思想が入つて來てから、不老不死の觀念を此の語で現はすことになつたからであるので、トコヨの國は其の意義に於いて神仙郷に擬せられたものらしい。さすれば、タヂマモリの物語もかういふシナ思想の所産であるとするに、異議は無からう。橘の稱呼としてのトキジクノカクノコノミの名も、不老不死の觀念に因縁があるらしい。その葉が冬にも枯れず、その實が長く生氣と香とを失はずにゐるところから、長生不死のトコヨの國の産として語られたのである。萬葉の歌などによつても知られる如く、橘はひどく賞美せられたので、タチバナの音に似たタヂマモリをトコヨの國へやつてそれをもつて來させたといふ橘の起源説話が、この物語なのである。トコヨの國が現實のどこの土地でもないことは、もしこのタヂマモリが、事實、どこかの海外の國へいつたのならば、その國の名の記されないはずはなく、またその土地が何處であるにもせよ、突然一囘のみ交渉があつて何等の連絡ある行動がその前後に無いはずもないことによつて知られよう。タヂマから出帆し得べき方面にあつて、當時に於いて、事實上、交通のあつた國は、朝鮮半島の外には無からうが、朝鮮のどの地方も、曾てトコヨといふやうな名で記されたことが無い。のみならず、上代に於いてタヂマ方面から海外に交通したやうなことは、歴史的事實として明白な例が無い。だからこれは決して歴史的事實の記載ではない。
 なほ、トコヨといふ名は皇極紀(三年の條)に見えてゐて、それは蟲を常世の神と稱したといふことであるが、これもその功コが「貧人致富、老人還少、」といふのであるから、やはりトコヨを不老不死の義として、かう稱したもの(255)であらう。また常陸風土記(卷首)にもあるが、これは美稱であつて、不老不死の意義は無くなつてゐながら、やはり神仙郷の觀念から來てゐるに違ひない(此の書が甚しくシナ思想で潤色せられてゐることを考へるがよい)。それから、古事記の神代の卷に、スクナヒコナの命を「度于常世國」としてあるが、これは其の意義が一轉して神仙といふ分子が無くなり、たゞ海上の國といふ觀念のみが殘つたのであらう。なほ神武紀には、ミケイリヌの命が母も妹も海神であるのになぜ浪が起るかといつて、その浪をふんでトコヨの國にゆかれた、といふ話があるが、これは海中の國、即ちホホデミの命の物語に見えるワダツミの神の國、をトコヨの國といふ語で示したのである。此の話は、イナヒの命が海に入つてサヒモチの神となられたといふことから類推しても、海中に身を投ぜられたことをいつたものに違ひないが、それをワダツミの神の國であるといふ海中の國にゆかれたことにしたのである。また、姓氏録(卷二一)に、常世連を燕國王公孫淵の後としてあるのも、トコヨの語を海外の國の義に用ゐたものであらう。(かういふ歸化人の系譜が、歴史的事實として信用ができぬものであることは、上に述べて置いた。)トコヨの國が海外の土地とせられたり、海中の國となつたりしたのも、みな蓬莱山の觀念から轉化して來たものである。
 次に考へねばならぬことは古事記に、崇神天皇の時に、コシと東方十二道とにオホヒコの命とその子のタケヌナカハワケの命とを遣はして「まつろはぬ人ども」を平定せしめ、またタニハにもヒコイマスの王を派して、クガミミノミカサといふものを殺させられた、とある話である。書紀には北陸、東海、西道、タニハ、の四方に將軍を派遣せられたとあつて、北陸は古事記のコシ、東海は東方十二道に當るが、西道は書紀に於いて始めて現はれたもので、その將軍はキビツヒコとせられ、タニハに遣はされたのも、タニハノミチヌシの命といふ名になつてゐる。古事記に三方のみ(256)あつて、西道の一つが缺けてゐることについては、孝靈天皇の卷にオホキビツヒコの命とワカタケキビツヒコの命とに命じ、ハリマを道の口としてキビの國をことむけさせられた、といふ話があることを考へねばならぬ。書紀の同じ天皇の條には此の物語が無く、さうして崇神紀に西道の將軍をキビツヒコとしてあることを思ふと、これは書紀が、古事記のキビ平定の話を崇神朝の物語に結びつけて、四道としたのか、但しは、話の原形では書紀の説の如く四道としてあつたのが、古事記に於いてキビの討平をキビツヒコの命の名の現はれてゐる孝靈の卷に移したために、崇神朝の物語には三方だけ殘つたのか、どちらかであらう。記紀の大體の性質から見ると、前の方らしくも思はれるが、古事記の綏靖から開化までの卷々は、系譜のみあつて物語の無いのが例であるから、孝靈の卷に限つてキビ平定の話のあるのは、怪しい。また崇神の卷の記事についても、第三章に述べた如く、東方十二道の語が後に作られたものらしいこと、次にいふやうに、アヒヅの地名説話が新しいものであることを考へると、古事記の崇神の卷の此の物語には、かなり後世の潤色が加はつてゐるに違ひないから、書紀の材料になつたものの方が、却つて話の原形に近いかも知れぬ。古事記がタニハに限つて叛逆者の人名を擧げたのも、後人のしわざと見る方が適切であらう。書紀にタニハ方面の將軍をタニハノミチヌシの命としてあるのも、キビ方面のがキビツヒコの命である類例から考へると、やはり舊い形ではなからうか。古事記によると、タニハのヒコタタスミチノウシの王といふのがあつて、ヒコイマスの王はその父であるが、書紀には此の系譜は書いてない。それから書紀ではキビツヒコが皇族であるかどうか不明であるが、孝靈紀のヒコイサセリヒコの命の分注に、其の一名をキビツヒコの命としてあるから、此のキビツヒコもそれを指すのかも知れわ。しかし此の注は書記の文例から考へると、別の材料から取つたものであつて、書紀の主として據つた(257)ものには無かつたのであらう(ワカタケヒコの命をキビの臣の始祖としてあることからも、さう思はれる)。系譜と物語と十分一致しない點があるが、タニハ方面の將軍はタニハノミチヌシの命、キビ方面のはキビツヒコの命であるとすれば、經略すべき土地から其の任に當る將軍の名を作つて來た物語の作者の思想は、明瞭に了解せられ、特にキビツヒコは、?述べたやうに、事實譚とは考へられない種々の物語に於いて地名をそのまゝ人名としてある例の一つと見なすべきものである。
 さて四道は後の北陸、東海及び東山、山陰、山陽、の諸道に當るので、ヤマトの京からの主要なる方向に當る地域を悉く包合してゐるが、かういふ風に計畫的に行はれたやうになつてゐる四方の綏撫に於いて、毫も實行の模樣を敍してないことは、此の物語の性質を知る上に於いて大切な點である。いひかへると、これは四方經略といふ概念によつて作られた物語に過ぎないのである。さうして、それに結びつけてある話も、不思議な少女が現はれたり、タケハニヤスヒコの名が、上に説いたやうに、説話的人物に通有な形を有つてゐたり、するのを見ると、決して事實譚とは考へられない。のみならず、これらの話は、四道の經略とは本質的に關係の無いことであるから、多分、後になつて添加せられたものであらう。イヅミ、クスバ、ハフリソノ、などについての、例によつて例の如き、地名説話もまた同樣である。特に古事記にはアヒヅの話があつて、それはコシと東方とに遣はされた二將軍の會合したところだといふのであるから、今の岩代の會津であらうが、此の方面に經略の手の伸ばされたのは、第三章に説いた如く、ほゞ大化のころであらうから、此の名が始めて京人に聞えたのも同じ時代であつたらう。アヒヅの話の書かれた時代はこれで推測することができる。これもまた此の時代に於けるエミシ經略の反映であらう。また此の話は、古事記の物語に(258)書紀のよりも新しい潤色の加はつてゐるところのある一例でもある。ついでにいふが、書紀には、崇神朝にトヨキの命が東國に赴かれた、といふことがある。これは古事記には無い話であるが、同じ命をカミツケヌ氏、及びシモツケヌ氏の祖先としてあるから、阿禮の誦んだ帝紀は、此の物語の書かれた後に加筆せられたものであらう。このことは第二章に述べたヒムカのミハカシヒメと景行天皇巡幸の物語との關係、タケウチノスクネの系譜と書紀にのみ見える此の人の物語との關係と、同じであり、此の章の初に述べたトヨスキイリヒメの命、ヤマトヒメの命と、書紀のみにある此の二皇女の物語との關係も、之に準じて考ふべきであらう。な促此のことについては、トヨキの命が外に出てイクメの命が大統を承けさせられた、といふ崇神紀(四十八年の條)の物語と、オホタラシヒコの命とイニシキの命とについての垂仁紀(三十年の條)の話とが、同工異曲ともいふべきであることを、參考するがよい。景行紀(五十五年及び五十六年の條)の、ヒコサシマの王を東山道十五國の都督とせられ、ミモロワケの王がそのあとをつがれたといふのは、トヨキの命の物語の引きつゞきであるが、東山道云々は、勿論、後世でなくては考へつかぬ名稱である。これは古事記には見えてゐない。さうしてミモロワケの王の事業として記してあるエミシの經略が事實でないことは、上に既に説いて置いた。これらの點から考へると、トヨキの命の話が後世に作られたものであることは、おのづから知られよう。
 なほ記紀の何れにも、崇神天皇の朝に男女調貢の法を定められたとあるが、われ/\の民族が一つの國家に統一せられなかつた時代とても、君主の存在する以上、何等かの形での調貢の法が無いはずはなく、さうして所謂「男の弓端の調、女の手末の調、」はたゞ調貢といふことを男女に分けていつたまでであつて、特殊の租税制度とも見えない(259)から、これもまた調貢の起源をこの朝に附會したまでのことである。また書紀には、崇神天皇の時に始めて船を造つたやうに書いてあり「海邊之民、由無船以甚苦歩運、其令諸國俾造船舶、」といふ詔が載せてあるが、船がこれまで無かつたはずは、勿論ないから、これもまた船の起源を此の天皇の代に附會したものである。(事物の起瀕を古代の君主に關係させて説くのは、多分、シナの古史の摸倣であらう。またもし此の記事を、船が少かつたから造船を奨勵したのだとか、新しい製造法を教へたのだとか、説くものがあるならば、それは神代史の埴土を以て舟を作るとあるのを解して、埴で木を塗つたのだとか何處かを填めたのだとかいふのと同樣、牽強なる合理的解釋の試みであつて「始造船舶」とあり「以埴土作舟」とある一點の疑も無い明文を恣に改作するものである。)かう考へて來ると、垂仁天皇の朝にノミノスクネの建言によつて殉死の代りに土偶を墓にたてるやうになつた、といふ物語の眞否もほゞ推測せられる。これも書紀だけの話であつて、古事記には此の朝に土師部を定められたといふことと、陵に人垣を立てることが始まつたといふこととが、見えるのみである。さて、墓に人の像を立てることが殉死に代へるためであつたといふこととは、宗教思想發達の徑路から見ると、有り得べきことでもあり、また後人がさう考へたことにも理由はあるが、書紀の此の前後の記事の性質から類推し、また古事記の記載との關係から考へると、ノミノスクネの物語が歴史的事實であらうとは思はれぬ。ノミノスクネの名を出したのは、その子孫であるといふ土師氏の職掌の起源を語るためであるが、人の像を立てることの由來をかう説いたのは、立物そのものの起源説話としてであり、船の起源説話を語つたのと同樣の考へかたから來てゐるのであらう。
 最後にいふべきは、古事記にも書紀にも共通の話であるが、崇神天皇に「所知初國之御眞木天皇」または「御肇國(260)天皇」の稱呼があるといふことである。次章に考へるやうに神武天皇が第一代の天皇として語られてゐるのに、崇神天皇にこの稱呼があるといふのは、奇異なことであるから、これには何か特殊の意味がなければなるまい。古事記にはこのことが男女調貢の法を定められたといふ話につゞけて記してあるが、この二つの話の間に結びつきは無ささうである。或はその前の「天下太平、人民富榮、」の句につながりがあるのかも知れぬが、よしさうであるにしても、その句はこの天皇の治績を概括していつたまでのものであつて、而もそれはかういふ稱呼のあつた理由の説明にはならぬものである。が、今はこのことを一つの問題として提出するにとゞめておく、その解釋は後に至つて試るであらう。
 
(261)       第六章 神武天皇東遷の物語
 
          一 東遷の物語
 
 開化天皇以前綏靖天皇以後については、古事記にも書紀にも歴代の系譜が試されてゐるのみであつて、何等の物語が無い。所謂帝紀の部分のみがあつて、舊辭のが無いのである。崇神天皇以後には、上に考へて來たやうな物語があり、神武天皇についても、所謂東遷に關する種々の説話が傳へられてゐるにかゝはらず、その中間の此の長い間に何の物語も無いといふことは、讀者をして甚だ奇異な感じを起させる。(たゞ古事記に於いては、上に述べた如く、孝靈の卷にキビ平定の話のあるのが、例外である。)これは何故であるかといふことは、記紀もしくは帝紀舊辭の性質を知るについて重大な問題となることであるが、それは且らく後に譲つて置いて、こゝでは直ぐに神武天皇に關する物語の考察に移る。
 神武天皇に關する物語も、また記紀の間に種々の差異がある。全體についていふと、古事記には歌物語が多く、そのうちには、短歌の形のものの如く、かなり後になつて作り加へられたと思はれるものさへあるが、書紀には漢文の形を用ゐシナ思想によつて書かれたところが少なくない。物語の細部に於いて一致してゐないところのあることは、これまで考へて來た他の物語と同樣であるが、東行の路すぢについて見ても、ヒムカ(今の日向地方、このことは後(262)にいはう)から出立せられ、ウサを經てヲカダに赴かれ、そこから瀬戸内海に入り、アキ、キビ、等の行宮に少しづゝ滯在せられた、といふことは、記紀共に同じであるが、行宮の名稱や滯在の期間などは一樣でない。古事記にヲカダとあるのも、書紀にはヲカ(筑前遠賀郡)となつてゐる。さて古事記では、キビからナニハまでの航路に於いて、ハヤスヒの門を通過せられたやうに書いてあるが、書紀では、それをヒムカとウサとの間のこととしてある。ハヤスヒは豐後伊豫間の有名な海峽に違ひないから、古事記の記載には地理上の錯誤がある。さて古事記にはナニハを經てアヲクモのシラカタの津に船を泊められた時、ヤマトのトミのナガスネヒコが逆撃をしようとしたので、クサカのタデ津に上陸してそれと交戰せられたが、不利であつた、日の神の御子として日に向つて戰ふのはよくないから、日を背に負つて進むやうにしなければならぬ、といふことになつて、チヌの海、ヲの水門、を經てクマヌに赴かれたとある。ナニハとチヌの海以下とは明かであるが、シラカタの津とタデ津とは、これだけでは、どこにあるのかわかりかねる。ところが書紀では、ナニハから河を溯つてクサカのシラカタの津にゆかれ、それから陸路タツタを經てヤマトに入らうとせられたが、路が險隘であつたため、轉じてイコマ越えに向はうとせられた、そこをナガスネヒコが逆撃したので、クサカのタデツに退かれ、それからチヌの海を經てクマヌ方面に赴かれた、といふことになつてゐる。
 次に、クマヌからの行路については、記紀共に明かになつてゐないが、古事記によると、ヤタガラスの嚮導によつてヨシヌ河の河尻に出られ、それから途次アタの鵜養の祖だといふニヘモツノコ、ヨシヌの首の祖だといふヰヒカ、ヨシヌのクニスの祖だといふイハオシワケノコ、の降伏を順次に受けて、ウガのウカシにゆかれた、といふのであるから、十津川の流域を經て賀名生方面から五條地方に出、そこから吉野河の谿谷を東進し、その上流域から轉じて宇(263)陀郡に入られた、といふのらしい。書紀の方では、クマヌからすぐにウダにゆかれ、ヨシヌ河方面へはウダから別にゆかれたやうになつてゐ、クマヌとウダとの間の路すぢは追跡することができない。次にウダから後のことは、古事記ではたゞオサカを經てシキに入られたことが知られるのみであつて、肝心のナガスネヒコを撃たれたことも明記してないが、書紀では、行路は同じことながら、その間に種々の事件があつたやうに記してあり、ナガスネヒコの最期のことも詳説してある。なほ書紀には、ソフやカツラキの方面の土蜘蛛を征討せられたことがあるが、これは古事記には見えない。
 さて、記紀の間に存する上記の差異は、大體に於いて書紀の方が後世の潤色を經たものである、として解釋せられよう。最初のクサカ方面からの行進の模樣が古事記より細説せられてゐることも、ウダから特にヨシヌ河に行かれたとあることも、畢竟これがためであつて、特にイハレの地名説話が、前後の記事との聯路の無い、調子外れのところに出てゐるなどは、別の材料を不用意に結びつけたからであらう。後にいふやうに、ヤマトの平定に絡まつてゐる物語が、書紀に於いてすべて複雜になつてゐるのも、やはり同じ事情から來てゐる。エシキ・オトシキについて兄弟爭ひの話のあるのも、エウカシ・オトウカシのを二重にしたものであらうし、ソフやカツラキの征服を記したのも、東南部にあるシキ方面の話だけでは、ヤマト平定の物語として、物足らぬやうに思はれたので、北部と西部との地名を擧げて、話の場所をヤマト平原の全體に及ぼしたものらしい。しかし、古事記の方が全く物語の原形を保つてゐる、とばかりは考へられぬ。何人も知つてゐなければならぬハヤスヒの門の所在に、あんな錯誤のあることも、古事記のもとになつた舊辭が何人かの手によつて變改を加へられてゐたためであらうと思はれるが、ナガスネヒコの誅伐が書(264)いてないのは、一層その疑を深めるものである。此の物語に於いて、ヤマトの平定が主としてトミのナガスネヒコの征服にかゝるとせられてゐることは、話の始終によつて明かである。特に書紀に於いては、東遷の主旨を示された勅語に於いてニギハヤビの命のことが説いてあるが、此の命がナガスネヒコの妹を妻としてゐるもので、其の服從によつてヤマトが平定せられたといふことは、記紀の何れにも記されてゐる。だから、此の説話の原形に於いては、必ずナガスネヒコの誅伐が語られてゐなくてはなるまい。それを缺いてゐる古事記の記載は、何等かの場合にそれが遺脱したものであらう。(しかし書紀のナガスネヒコの最期の物語は、あまりに迂曲な、また複雜な、話であるから、これも原形であるらしくは見えぬ。)それから第四章に述べた如く、古事記にオホクメの命をミチノオミの命と同等に見なしてあるのも、此の物語の原形ではなからう。
 のみならず、ナニハを通過せられてから後、チヌの海に出られるまでの行進路の記載も、古事記はあまりに曖昧である。これは、日に向つて戰ふのは良くないといふのが、此の物語の骨幹をなすクマヌ迂回策の動機であるから、ナニハから東進せられたのでなくてはならず、さうして書紀の記載は恰もよくそれにあてはまるのである。だから此の點に於いても、書紀の方がよく作者の思想を表はしてゐる。(書紀にナニハから河を溯られたとあるのは、大和川へ入られたので、その川によつて河内の東境、イコマ山の西方のクサカ方面へ出られ、それからイコマ山、即ち今の闇峠、を越えてヤマトに入らうとせられたが、そこでナガスネヒコの軍と交戰せられた、といふのである。ナガスネヒコは、ヤマトの西境で防がうとしたやうに、考へられてゐたに違ひない。これは、昔の大和川の流れと古事記の雄略の卷や萬葉の歌にも見えるクサカ江の存在とを考へると、自然に解釋せられることであつて、此の點に關しては、飯(265)田武郷の書紀通釋、吉田東伍の地名辭書の考説が從ふべきものである。シラカタの津とタデ津との所在は不明であるが、共に大和川かクサカ江の渡津であつた地名に違ひない。またナニハからクサカを經てヤマトに入るのは、上代には一般に用ゐられた通路であつたらしい。萬葉卷八、草香山歌「おしてるなにはをすぎて、うちなびく草香の山を、ゆふぐれにわがこえ來れば……」參照。)但し、タツタ路が險隘であつたからイコマ越えにかゝられた、といふやうな書紀の記載は、ナニハからクサカを通過する地理上の順序からいつても、すなほに思ひ浮かぶことではなささうであるから、これは後の變改と見なすべきものであらう。かう考へて來ると、古事記と書紀とに見える物語は、そのもとになつたものから二つの方向に發展し、もしくは二樣に變改せられたものである、といふことが推測せられる。
 しかし此のもとの話に於いても、それが事實を語つてゐるものであるとは考へられぬ。ヤマトに入るためにクマヌを迂囘するといふことも、甚だむつかしい話であつて、兵力の用ゐられる場合では、さういふ方面からの攻撃に對しては、ヤマトに根據を有するものの防禦力は、西面に於けるよりも幾層か強大であるべきはずである。もつとも、これは天皇を日の神、天つ神、の御子として、その天つ神、日の神、の神力の加護があつたといふ話であるが、神がはたらくことは、もとより人のことではない。ヤタガラスや金色の鵄の物語も、また勿論その例であるが、鵄は書紀にのみあつて古事記には見えてゐないことから考へると、多分、烏の分身であつて、それの現はれたのは書紀もしくはそれに採られた材料が始めてであらう。
 なほ記紀に共通な點について見ても、ヤマトの平定がナガスネヒコの防禦で始まり、その敗亡で終つてゐて、ヤマトの勢力は即ちナガスネヒコの勢力と見なすべきものであるにかゝはらず、所々のタケルや土蜘蛛は彼に服屬してゐ(266)たものらしく記してなく、物語の上ではヤマトに何等の統一が無いやうになつてゐるのは、事實の傳へられたものとしては、疑はしいことである。のみならず、この物語は多くの地名説話で充たされてゐる。(書紀にはアキヅ即ち蜻蛉に附會したアキツシマの地名説話があるが、古事記には見えない。これは記紀の何れにも出てゐる雄略天皇のアキツ野の説話と同じ着想であつて、神武天皇の物語には後から加へられたのであらう。それについてをかしいのは、宣長が此の説話を事實の傳へられたものと信じたため、秋津島をアキヅシマと訓んだことである。津島、大綿津見神、大山津見神、高津宮、などの「津」を何れも、ツとしながら、秋津島の「津」に限つてヅと訓んだのは、古事記の假名の用法が極めて嚴格であるといふことを力をこめて説いてゐる彼のしわざとしては、甚だ滑稽である。地名説話は音の類似によつて附會するので、精密に一致するを要しないことは、他の場合を見れば明かである。)またウカシのエウカシ・オトウカシ、シキのエシキ・オトシキ、トミのトミヒコ、さては書紀にのみあるナクサトベ、ニシキトベ、など、人名には地名をそのまゝ取つてつけたものがある。トミの名がトビの轉訛だといふ書紀の話も、勿論、地名説話であつて、ナガスネヒコをトミヒコといつてゐるのとは矛盾する。此の地名説話は、ナガスネヒコの話の一とほりできあがつた後になつて、附け加へられたものであらう。それから、ニギハヤビの命の名は、神代史に於いて血が石にたばしりついて成り出でたとせられてゐるミカハヤビ、ヒハヤビ、などの神の名と同一に取扱はるべきものであり、從つて實在の人物の名でないことも明白である。(何故にかゝる人物の名が現はれたか、といふことについては後に考へよう。)なほこの命の子とせられてゐるウマシマデの命は、物語の上に於いて何のはたらきをもしないものであり、たゞ名が記されてゐるのみであることを思ふと、これはその子孫とせられてゐる物部氏が、その家系をニギハヤビの(267)命に結びつけるために案出したものであらう。また漁夫であるからニヘモツノコだといひ石を押し分けて出たからイハオシワケノコだといふ話などは、それが實在の人物でないことを語るものであり、尾のある人といふのが、事實あるべからざるものであることも、勿論である(尾のある人といふことについては、土蜘蛛に關する考察、參照)。それから、こゝに記されてゐる多くの歌が、かゝる場合によんだものでもなく古いものでもない、といふことは、「文學に現はれたる我が國民思想の研究」の「貴族文學の時代」の序説第二章に於いて、曾て説いて置いた。ところが、かういふ神異の話や地名説話や歌物語やを取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語は殆ど内容の無い輪廓だけのものになる。さうして、其の輪廓の主要なる線を形づくるクマヌ迂回のことが、前に述べたやうな性質のものである。
 ヤマト平定以後の物語に於いても、記紀の間に一致しない點がある。ヒメタタライスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)の父を古事記にはオホモノヌシの神としてあるが、書紀にはコトシロヌシの神となつてゐ、また古事記には書紀に無い歌物語があつて、その代りに書紀には古事記に無い國名説明の説話があり、系譜に於いても、皇子のヒコヤヰの命が古事記にはあつて、書紀には無く、書紀に見える論功行賞の話は古事記には無い(ウツヒコがヤマトの國造の祖だといふことは、別のところにある)。また前にも述べた如く、オホトモ氏とクメ部との關係が古事記と書紀とに於いて違つてゐるし、書紀にはヤタガラスが人としても取扱はれてゐる。なほ、最も重要なこととして考へられてゐるトミの山の祭祀も、書紀だけの話である。これらは何れも、記紀に現はれるまでの間に於いて、帝紀にも舊辭にも種々の變改が加へられ、もしくは書紀編纂の際に潤色が施されたことを示すものであるが、記紀に共通のことで疑問の存するのは、カムヤマトイハレヒコの命といふ御稱號にイハレの地名がありながら、物語に於いてそこに何等(268)の大切なできごとも無く、そこと關係のある何等重要の話も見えないことである。皇居は記紀ともにウネビのカシハラとしてあり、御陵もウネビ山の北または東北としてあつて、イハレとはしてない。もつともイハレの範圍は明かでないが、ウネビがそれに含まれてゐたらしい證跡はない。またイハレの名を用ゐるのとウネビを標識とするのとは、その態度がちがふ。接近してゐる二つの地名が取られたのみのことかも知れぬが、それにしても、イハレが御稱號とせられたのは、それが天皇の物語に於いて最も重要な場所であるからであり、從つてそれについての何かの説話があつたであらうから、記紀によつて傳へられてゐる今の物語には、その御稱號のみが殘つて、それに關する説話が消え失せ、或はそれに代つて他のものが現はれたのではないか、と疑ふのは、必しも妄想ではあるまい。いひかへると、こゝにもまた舊辭に重要なる變改の加へられた痕跡が認められるのではなからうか。この御稱號については、宣長(古事記傳卷一七)も既に疑問として提出して置いたことであるが、それに對して説明は加へられてゐない。(書紀には、エシキの軍がイハレに充滿してゐたといふ話とイハレの地名説話とがあるが、それとても天皇の御稱號とすべきほどのこととしては語られてゐない。)
 それから、天皇の御名についても、記紀に種々の異説があつて、古事記にはワカミケヌの命、またはトヨミケヌの命とあり、書紀の注の「一書」にはサヌの命とあるが、古事記でも別に兄弟としてミケヌの命があり、書紀の本文及び注の多くの「一書」にも、ミケヌの命またはミケイリヌの命が天皇の外に記され、またワカミケヌの命が兄弟の名になつてゐる「一書」もある。ところが、ワカ、トヨ、は美稱であるから、古事記の説では兄弟と全く同名といふことになり、またそれを書紀の方に參照すると、一つの名が天皇にも兄弟にも種々に轉用せられてゐることがわかる(269)(ミケイリヌのイリも名そのもでないことが、崇神の卷にトヨスキイリヒメをトヨスキヒメとも書いてあるので知られる)。なほ出雲國造神賀詞にクマヌの大神の名をクシミケヌの命としてあることをも、參考するがよい(クシもまたワカ、トヨ、と同じ美稱であつて、名そのものではない)。*なほ神武紀の卷首に御名をヒコホホデミと書いてあるのも、問題である。これは古事記には全く見えないことであるが、書紀の神代紀の終のところに注記してある三つの「一書」及びオホナムチの命のことを記してある「一書」に、イハレヒコホホデミの命といふ御名があるのは、神武天皇のことである。が、このことについては「神代の物語」に於いて別に考察を加へるであらう。また書紀には、即位の記事に天皇を「始馭天下之天皇」と稱してあるが、古事記にはこのことは見えぬ。それが何故であるかは、後に考へることにする。
 なほ記紀に共通な點について、此の物語が最初に形を成したまゝのものでないといふことの知られるのは、タカミムスビの命(古事記にはタカキの神とある)の名が出てゐて、而もそれがアマテラス大神と並んで極めて重要な地位に置かれてゐることである。此の神は神代史に於いても後に現はれたものであり、それがかういふ地位を占めるやうになつたのは、一層後世のことらしいから、ヤマト奠都の物語がもし神代史の最初の述作と同時に形をなしたものであるとすれば、その時の形に於いては此の神の話は無かつたはずである(「神代の物語」に於けるタカミムスビの神に關する考説、參照)。
 それのみでない。此の物語の根本思想たる東遷そのことにも、幾多の疑問がある。第一、天皇はヒムカから出發せられたといふのであるが、これは一體どういふことであらうか。古事記によると、それまではタカチホの宮にゐられ(270)たとあるが、これは神代史の物語からの引き續きであつて、その神代史に於いて、ホホデミの命がタカチホの宮にゐられたことになつてゐるのである。此の命の御陵もまた、タカチホ山の西にあるとしてある。ホノニニギの命はタカチホの峯に降られたのであるから、それからずつと同じ宮にゐられたとすれば、話は極めて自然である。然るにこゝに一つの疑問が、古事記に、ホノニニギの命のタカチホ降臨の話を承けてすぐ「於是詔之、此地者、向韓國眞來通笠沙之御前而、朝日之直利國、夕日之日照國也、故此地甚吉地、」と書いてあることから生ずる。此の文の「向韓國」云々の語が解し難いので、宣長はそれを、書紀の本文に「膂宍之空國、自頓丘覓國行去、到於吉田長屋笠狹之碕矣、……皇孫就而留住、」とあり、注の多くの「一書」にも同じ意義の記事があるのに參照し、「詔之此地者」の五字は「笠沙之御前而」の下にあつたのが錯置せられたので、「向」は「膂宍」の誤だらう、といつてゐる。これは理由のないことではないが、さうするとホノニニギの命の宮はタカチホではなくして、カササといふところだといふことになる。カササの所在は古事記だけでは明瞭でないが、書紀にはアタとあり、古事記にもそこであはれた女の名をカムアタツヒメとしてあるから、やはり書紀と同樣に解してよいのであらう。ホデリの命が隼人アタの君の祖とせられ(書紀には、古事記のホデリの命に當るホノスソリの命を、アタの君ヲバシの祖としてある)、神武の卷にも、この天皇がアタのヲバシの君の妹アヒラヒメを娶られたとあるから、アタは種々の點に於いて皇祖と關係の深い土地とせられてゐる。
 さて、タカチホは古事記にはヒムカにあるとせられ、書紀の本文にも注記の「一書」にもヒムカのソにあるとせられてゐるから、今の霧島山に擬せられてゐたのであらうし、またアタは今の薩摩の阿多地方にあてて考へられてゐたのであらう。カササの崎は比定すべきところがわからぬが、アタもしくはその附近らしい。朝日のたゞさす國、夕日(271)の日照る國、とあるのを、阿多地方の實際の地形に對照して考へると、東西に海を有して南方に突出してゐる岬などが最も適してゐるやうにも思はれるが、必しもさう見る必要は無く、文字どほりに讀めば、少しくうち開いた土地ならば何處でも此の語にあてはまる。のみならず、古事記の雄略の卷の釆女の歌、龍田の風神奈の祝詞などにも、同じ意義の語があつて、それは上代人の土地に對する一種の趣味をいひ現はしたものと思はれるから、これはカササの崎の位置を考へるに當つては、深く拘泥する必要の無いことであらう。そこで、ホノニニギの命の宮のあつたところとして物語に見える土地は、精密には比定ができないが、アタ地方の極めて僻陬の地であるとせられてゐることは知られ、從つてタカチホとそことの距離が遠いといふこともわかる。と同時に、ホノニニギの命がタカチホに降られ、ホホデミの命以後タカチホの宮にゐられたとあるのに、その中間に於いてカササに宮を建てられたといふ話が、頗る奇異に感ぜられる。書紀には、ホホデミの命以後の宮の所在は全く書いてないが、その代りにホノニニギの命の御陵がヒムカのエにあり、ホホデミの命のがタカヤ山にあり、ウガヤフキアヘズの命のがアヒラ山にあるとしてあつて、前後の二つは古事記には全く見えてゐず、中の一つは古事記と違つてゐる。(エとアヒラとは今の薩摩と大隅とにある地名と同じである。またタカヤ山の名は他に所見が無いやうであるが、前に述べた如く宮の名としては景行紀に見えるから、書紀の編者はこれをヒムカにあると思つてゐたかも知れぬ)。かういふ記紀の相違は何故に生じたのであらうか。特に、神武天皇以後の歴代については、必ず御陵の所在としての地名の記されてゐる古事記に於いて、ホノニニギの命にもウガヤフキアヘズの命にも、御陵の記載が無いのは、何故であらうか。これも疑問であらう。なほ、古事記に見えるアタのヲバシの君の妹アヒラヒメは、書紀にはアヒラツヒメとあるから、アヒラは地名らしいが、ア(272)ヒラとして普通に知られてゐるのは今の大隅にあるから、それとアタとの間には近からぬ距離がある。これもどういふものであらうか。
 以上はヒムカに關する記紀の記載についての考察であるが、これらの點から見ると、或はこのヒムカの物語にもまた變化發達の歴史があるのではないかと推測せられ、或は物語の述作者の地理的知識が不確實であつたのではないかと思はれる。特にカササの宮の物語の如きは、上に述べた如く他の話と不調和であり、ホデリ(ホノスソリ)の命の後裔とせられ、宮門を護つて狗吠をするといふ、隼人の部落のアタの君が外戚たる地位に置かれたことも、その物語自身に矛盾した思想を含んでゐるやうに見え、またタカチホとアタと、アタとアヒラとの結合も、確實な地理的知識に基づいたとしては、ふさはしからぬ性質のものである。知識の不十分な遠方のことをおぼろげに想像すると、實際は隔つてゐる幾つかの土地が近距離にあるやうに感ぜられるものであるが、これもまたヤマトにゐて遠いヒムカ方面のことを思ひうかべたために起つたことではあるまいか。さうしてそれは、むかしのクマソの勢力範圍、そのクマソの服從してから後のヒムカの國が、今の日向大隅薩摩を含んでゐる地域であつて、ヒムカといへばタカチホもアヒラもアタもそのうちにあるものと、考へられたことによつて、助けられたのでもあらう。
 が、それはともかくもとして、單に我が皇室の發祥地がヒムカであるといふことに對しても、第二章に述べた如く、後世までクマソとして知られ、逆賊の占據地として見られ、長い間ヤマトの朝廷を戴く國家に入つてゐなかつた今日の日向大隅薩摩の地方、またかういふ未開地、物資の供給も不十分で文化の發達もひどく後れてゐた僻陬の地、所謂ソシシの空國が、どうして皇室の發祥地であり得たか、といふ疑問があるのである。(景行朝のクマソ平定の物語に、そ(273)こが曾て皇都の所在地であつたことを想起せしめるやうな文字が見えず、たゞ叛徒のゐるところ逆賊の據るところとせられてゐるのも、奇異といへば奇異でないこともない。あの物語の作者には、さういふことが思ひ浮ばなかつたものと見える。これも何故であらうか。タカヤの宮とタカヤ山との名の上の聯想がよしあつたとしても、それはホノニニギの命がヒムカに降られ、さうして神武天皇の東遷までそこに皇都があつたことを、示すほどの重大な意味をもつものではなからう。なほ宋書に見える所謂倭王の上書にも「西」は單に「衆夷」とせられてゐるが、これは且らく問はずに置かう。)或はまたヒムカが皇室の發祥地であつたとすれば、その地に皇室のゐられた時代の皇室の統治の及んだ範圍がどれだけであつたか、またその治下にあつた地域が政治的にどんな?態であつたか、といふことが、神武天皇の東遷といふこととの關聯に於いて、如何に解せられるか。また皇室の發祥地であつたヒムカがどうしてクマソの勢力に歸したであらうか。これらについてもまた重大な疑問がなくてはならぬ。ヒムカに關する神武天皇の物語を、歴史的事實を傳へたものとして見る場合には、これらの困難なる問題に明解を與へねばなるまい。その他、古事記に見えるツクシのヲカダの宮に一年、アキのタケリの宮に七年、またキビのタカシマの宮に八年坐したといふやうな年數などが、記録の無い時代にどうして傳へられたか、といふやうな疑問もあるが、これらはそも/\末の話である。
 それから、第一篇の第二章に述べた如く、三世紀以前に於いては、ツクシ地方は幾多の小獨立國に分れてゐて、今の中國以東との間に政治的關係の無かつたことが推測せられるが、記紀の東遷物語が此の事實と適合するかどうかも重大な問題である。
 なほ一言して置くが、世間には、日向に古墳群のあることを神代史や神武天皇東遷物語のヒムカの話に結びつけ、(274)それによつてこれらの物語の事實であることを、説明しようとするものがあるらしい。しかし古墳群のあるといふ事實は、そこに大なる豪族がゐたこと、又はそこが或る政治的勢力の中心であつたことの證據にはならうが、その勢力が皇室の御祖先に關係があるといふことの證據にはならぬ。古墳は所々にあり、それを作るほどの豪族もしくはそれを遺すやうな政治的勢力も所々にあつたからである。だから、もし日向に古墳を遺したものが皇室と特殊の關係があることを、論證しようとするならば、其の古墳またはそこからの發掘品が皇室特有のものであつて、他の豪族のものとしては決して許されない特徴がそれにあることを、明かにしなければなるまい。ところが、さういふ立證はせられてゐないやうである。或は皇室の御祖先の日向にゐられたことが確實であるならば、その點からかういふ説明をすることもできようが、今はそれが問題であるから、さういふ考へ方をすることは許されぬ。だから、單に古墳群があるといふことだけでは、ヒムカについてこゝに提出した問題を解釋するには、何のやくにもたゝないのである。
 ヒムカが皇室の發祥地であり神武天皇の時までの皇都の地であつた、といふことについては、かういふ種々の疑問があるが、ヒムカが皇都の地であつたといふのは、もと/\神代の物語に於いて語られてゐることであり、特にそれは、ホノニニギの命が天上からタカチホの峯に下られたことによつて始まつてゐる、といふのであるから、こゝにいつたヒムカに關する問題を解く一つの方法としては、その神代の物語の性質を明かにすることが必要である。しかしそれは、神代の物語の全體について考へねばならぬことであり、さうしてそれを考へるのは次篇のしごとであるから、こゝではしばらく別の方面からこの間題を取扱ふより外にしかたがない。これまで考へて來たことは即ちそれであるが、神武天皇の東遷といふことからこの問題を見るならば、ヒムカからヤマトへの東遷といふことが何を意味するの(275)か、ヤマトに遷られたことがもし歴史的事實であるならば、おれによつて日本の國家にいかなる新しい事態が生じたとせられてゐるか、いひかへると、國家の形成に於いてこの東遷がどういふはたらきをしたといふのか、更にいひかへると、東遷といふことを歴史的事實として見る場合に、それによつて國家の成立の形勢がどう説明せられるか、或は説明し得られるかどうか、といふことが疑問となるのである。そこで、たち歸つて物語に於ける東遷の意義を一應たづねて見ることにする。
 さて、こゝには東遷といふ語を用ゐたが、これはこれまで一般に東征といはれてゐたことである。この語は書紀に「天皇親帥諸皇子、舟帥東征、」とあり、後にも天皇の「令」として「自我東征、於茲六年矣、」とあるのによつたのであらうが、これは實は當らぬことばであつて、漢文風の文飾とすべきである。書紀みづからに於いても、天皇の東行の動機を「東有美地、青山四周、……何不就而都之乎、」といふところにあるとし、さうしてそれに對應するやうに、ヤマトの平定の後、カシハラの地に都を開き帝宅をたて、そこで即位せられたことを、記してある。古事記では、天皇がヒムカで「坐何地者、平開看天下之政、猶思東行、」といはれ、それから海路を順次に「上幸」してヤマトの方に向はれ、さて「言向平和荒夫琉神等、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也、」で事が終つたことになつてゐて、こゝでも話の首尾がよく對應してゐる。書紀では、初からヤマトに都を定めるためにヒムカを出發せられたやうにいつてあり、古事記ではさう明かに説いてはないが、「東行」のありさまを敍する場合には、やはりヤマトを目ざして進まれたやうに語つてある。だから、記紀の何れにおいても、天皇のしごとは遷都の意味に於いて行はれたことになつてゐるのである。ヤマトに入られる時には、武力によらねばならなかつたやうな話になつてゐるが、これは、(276)古事記に記してある如く、ナガスネヒコが「興軍待向以戰」はうとしたからであるとせられ、その外にはどこでも兵を用ゐられた話は無い。だから、「東征」といふ語を用ゐることは、物語そのものと矛盾してゐる。書紀にタカシマの宮でのこととして、「備舟?、蓄兵食、將欲以一擧而平天下也、」といつてあるのが、この物語の精神に背くシナ式文飾であることは、實際の行動としては、これに應ずる話がどこにも語られてゐないことによつても、明かである。古事記にカシハラの宮のことを記して「治天下也」といつてあるのは、この時に日本の全土が統一せられてゐたものとしての書きかたであるが、これはこの東遷によつて始めてさうなつたといふのではなく、ヒムカ時代からさうであつたとする考へかたのやうに見えるので、上に引いたヒムカでの天皇のことばも、その意義に解せられる。しかし書紀には、四年の條にトミの山に於ける皇祖天神の祭祀の際の詔といふものが載せてあるが、それに「諸虜已平、海内無事、」といふ語があるので、これは、この時、日本全土が始めて治平に歸したといふことらしい。さうしてそれは、ヒムカでの天皇のことばに「遼遠之地、猶未霑於王澤、」の語があるやうにいつてあるのと、相應ずるものかも知れぬ。(「遼遠之地」がどこを指してゐるのか、それがヤマトの地方を含んでゐるかどうか、明かでないから、或はさうでないかもしれぬが。)さうして、書紀の考へかたが、もし東征によつて全土の統一が行はれたとするのであつたならば、神武天皇を「始馭天下之天皇」としたのも、或はこの意味においてのことであらうか。(從つて古事記にかういふことの無いのは、その考へかたが上記のやうであつたからだと、解せられるでもあらう。)けれどもまた書紀のこの考へかたは、ヤマト平定の後に下された「令」といふものにヤマト(「中洲之地」)は平いだが、その他の地方(「邊土」)はまだ鎭靜しないといつてあるのと、矛盾する。これは書紀が漢文風の修飾を加へるに當つて、その用意が慎重でな(277)く、思想の混亂ゐることを示すまでのことであつて、これらの文字によつてこの物語の本來の意義を推測することはできぬ。さうして物語の上に於ける天皇のしごとが遷都であるとすれば、その物語の精神は、却つて古事記の説のやうなものに現はれてゐるとすべきであらう。天皇がヒムカからすぐにヤマトに遷られることになつてゐて、中間の地方はたゞ「上幸」の途上の駐在地としてのみ記され、新にその地方を經略せられたやうな話の少しも見えないこと、ヤマトに入られるまでは、遠隔の地の「上幸」が容易であつたやうになつてゐること、なども、かう考へることによつて始めて解せられる。從つて天皇のしごとは、肇國の大業といふやうなこととせられてゐるのではないはずである。勿論、物語に於いて遷都の必要が感ぜられたことにしてあるのは、何等かの意味で、皇室の勢威の増大を計られたといふのであらうが、それははじめて日本の全土を統一するといふ意味であるとは考へられぬ。さう考へることは、上にいつたやうな物語そのものと齟齬するからである。ところが、物語の精神を上記のやうに見ることになると、それが歴史的事實を語つたものであるかどうかの問題が、こゝからも起つて來るので、それは一くちにいふと、ヒムカのやうな僻陬の土地でどうして日本の全土を統治することができたか、といふことであり、また上にヒムカを皇室の發祥地として見る場合に生ずる幾つもの疑問として擧げたことが、何の解釋も與へられずして、再びこゝに頭をもたげるのである。
 しかし、神武天皇の物語に對しては、他の方面からの觀察を要する。それは何かといふと、上に人のことでないといつて置いた神異の物語から見るのである。天皇は一々、日の神の御子、またはそれと同じ意義での天つ神の御子、として記してある。またこの日の神の御子に對する反抗者にも、ナガスネヒコの如き人ばかりでなくして、荒ぶる神(278)がある。クマヌにも荒ぶる神がゐた。クマヌからヤマトの方に進まうとせられた時にも、荒ぶる神が奧の方に多いから、ヤタガラスを遣はして嚮導させよう、といふ神の教があつた。だから、ヤマトの平定せられた時には「まつろはぬ人どもを攘ひ平げる」と共に「荒ぶる神たちを言むけやはした」とある。(これは、遷却祟神祭などの祝詞に見えるやうに、ホノニニギの命の降臨に先だつて、オホナムチの命および多くの荒ぶる神をことむけ、言問ひし岩ね木の立ち草のかきはを言やめさせた、といふのと同じことであつて、タカクラジの夢物語によつて、オホナムチの命の平定の時のことが聯想せられてゐるのも、一つは此の故であらう。)だから、此の物語には、天皇が荒ぶる神、即ち惡神邪靈、を平定斥攘せられたといふことが含まれてゐる。ところが惡神邪靈を斥攘するといふのは、人の力のはたらきではなく、人のことではない。神武天皇の場合では日の神の加護によつたことになつてゐるが、その加護のあつたのは、天皇が日の神の御子だからのことであるから、その意味に於いては、日の神の御子たる天皇みづからに邪神を平定する力があつたことになる。第三章の第一節で述べたやうに、神の加護を仰ぐ祭祀とか呪術とかにたよらず、皇室みづからの力によつて荒ぶる神を克服せられた話のあるのを見ても、かう解せられる。さうして、天皇が日の神の御子であられるといふことも、また人の世界の歴史的事實ではない。それは別の意義での事實でなければならぬ。その故郷が天にあつてはタカマノハラであり、地にあつては日に向ふ國、即ちヒムカ、であり、その居る宮が「朝日のたゞさす國、夕日の日てる國、」であるといふのは、この意義での事實からおのづから生じたことである。古事記の神代の物語に於いては、日の神の出生地がそも/\ヒムカでなくてはならなかつたのである。(此の日の神の出生の話のヒムカのタチバナのヲドは明かに某の地に擬してはないが、ヒムカは國名のヒムカから來てゐるに違ひない。)また神(279)武天皇がヤマトに入られるに當つても、日の昇る方に向つて戰はれるのがよくないことは、勿論である。ウダの方面から西進せられたといふ話は、是に於いてか生じなければならぬ。さうしてナニハからウダに向ふためには道をクマヌにとらねばならぬが、それにしてもクマヌとウダとの連絡は困難であるから、そこでいろ/\の無理な道すぢが考へ出される。この遺すぢについての記紀の間の差異はこゝから起つたのである。神武天皇東遷の物語の意義は、かう見ることによつておのづから明白になるので、それは天皇が日の神の御子であられるといふ思想から形づくられた説話なのである。かう考へると、上に記した種々の疑問は、或は解釋し得られ或は根本的に消滅し去ることにならう。約言すると、東遷は歴史的事實ではないので、ヤマトの朝廷は、後にいふやうに、初からヤマトに存在したのである。東遷の物語が魏志によつて知られる三世紀ごろのツクシの形勢に適合しないのも、クマソに占領せられてゐたヒムカの?態と一致しないのも、またこの物語によつて國家の形づくられた情勢のわからないのも、當然である。
 しかし問題はなほ一つ殘つてゐる。神武天皇の東遷はヤマトの朝廷のはじまりとなつてゐ、この天皇は皇室の第一代の天皇として語られてゐるが、それは如何なる意味であらうか、といふことである。が、此の疑問を解釋するには、この天皇よりも前の時代とせられてゐる神代の意義を考へ、それと天皇及びその後の時代との關係を明かにしなければならぬ。考察はこゝで一歩を轉ずる。
 
          二 神代と人代
 
 「神代」といふのは「上代」といふのとは全く別の概念である。これは、人類の歴史を少しでも知つてゐるものに(280)は、いふまでもない明白なことであらう。民族の、或は人類の、連續せる歴史的發達の徑路に於いて、何處に人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を溯つて上代にゆく時、いつまで行つても人の代は依然たる人の代であつて、神の代にはならぬ。神代が觀念上の存在であつて歴史上の存在でないことは、これだけ考へても容易に了解せられよう。今日の知識から見てさうであるのみでなく、われ/\の祖先とても單に「昔の代」を「神の代」と呼んだのではない。神の代といふ觀念そのものの存在することが、神の代が人の代とは違ふといふことを明かに示してゐる。神は人ではないから、昔の代、昔の人の代、を神の代と名づけるはずがなく、神の代が昔の人の代であるならば、神の代といふ特殊の觀念の生ずるはずがない。神代は上代といふのとは全く違つた觀念であり、歴史上の或る時代を指すのではない。神代が、擧問上、史前の時代と呼ばれてゐる時代などでないことはいふまでもない。史前の時代、または先史時代、は事實上、われ/\の祖先の閲歴して來た時代であつて、その點では歴史時代と同じであるが、神代は觀念上の存在であつて、事實上の或る時代ではない。
 然らば神代といふ觀念は如何にして生じたか。宗教的信仰の對象としての人の形と性質とを有する神が存在したならば、そこに此の起源を求めることができるかも知れぬ。言ういふ神々のはたらいてゐた代があつたとしてそれが神の代と呼ばれ得るかも知れないのである。しかし上に説いた如く、文獻に徴し得る時代となつても、われ/\の民族の間には、さういふ神の觀念が發達してゐなかつた。神が人の如き名を與へられてゐる場合のある神代史や祝詞に於いてすら、概していふと、實質的には人の形と性質とが具はつてゐない。神々の特殊の屬性が明かになつてゐず、どの神も同じやうにあらゆる祈願をうけてゐること、いひかへると多神教的形相が殆ど成立つてゐないこと、神々の間に(281)何等の統制が無く、神の世界、神の社會、が組織せられてゐないこと、人文神が發達してゐないこと、などは、神に與へられた人の如き名が實質的のものでないことを示してぬる。さうしてそれはまた、神代といふ觀念が宗教的信仰の上に構成せられたものでないことをも、語つてゐるのである。人の形と性質とを有する神が無くして神のはたらく代のあるべきはずが無いからである。さすれば、その由來は他の方面に求めねばならぬが、神代史が皇室の御祖先としての日の神を中心として語られ、日の神及びその御子が神代に於ける國家の統治者とせられ、神代にはたらいてゐるものはそれとその從屬者とに限られてゐることを思ふと、神代とは皇祖としての神、約言すると皇祖神、の代といふ意義であることが知られる。さて何故に皇祖が神であり、その代が特に「神代」と稱せられるかといふと、それは天皇に神性があるとせられてゐるところから、來てゐるのであらう。
 天皇に神性があるといふ思想が、上代に存在したことは、天皇に「現つ神」(出雲國造神賀詞、續紀に見える多くの宣命)または「現人神」(景行紀ヤマトタケルの命のエミシ征討の條、雄略紀四年の條)といふ稱呼のあるのでも知られる。これは、宣命の「現つ神と大八島國しろしめす」といふ語によつて明かに示されてゐる如く、政治的君主としての天皇の地位の稱呼ではあるが、その地位に宗教的意義が伴つてゐる、或は宗教的のはたらきがある、とせられてゐたために、かういはれてゐたのであらう。それは即ち天皇の地位に神性があるといふことになるのである。神武天皇が日の神の御子であるといふことにもまたこの意義が含まれてゐる。神の御子の地位はおのづから神の地位として考へられるからである。*或はまた神武紀のウツシイハヒといふのも、齋主を臣下に命ぜられ天皇みづからイツベの粮を嘗められたとあることから考へると、天皇みづからを神として行はれる儀禮をいふのであらうと思はれるし、(282)なほ仲哀紀に、ヲカの縣主やイトの縣主が五百枝の賢木をぬき取つて船に立て、鏡や玉や劍をそれに掛けて天皇に獻つた、とあるのも、この記事の書かれた時代に於いては神に物を捧げる方式として考へられてゐたことを、天皇に對して適用したものと解せられよう。(鏡や玉や劍やをかういふしかたで木にかけてどこかに立てるのは、その本來の意義は、それらのもののもつてゐる呪力によつて邪靈を克服することであつたらう。)
 ところが、天皇の地位に神性があるといふ此の思想は、極めて古い時代からの因襲であつたらしいので、それは、君主の神とせられることが遠い過去に於いては世界の多くの民族の通例であつたことからも、類推せられる。君主の起源に關する種々の學説について今こゝに論ずる暇は無いが、それが呪術もしくは祭祀を行ふもの、即ち巫祝の如きもの、から發達したことの認められる實例は、甚だ多い。神とせられたのも、そこに由來がある。呪術を行ふものは、それを行ふことによつて、彼等みづから呪力をもつてゐるものの如く信ぜられ、神を祭るものは、神に接觸する特殊の地位または神を動かす特殊の行爲によつて、彼等みづから神の力を得またはそれをもつてゐると考へられ、神がかりの如きことの行はれる場合にはなほさらさう思はれるからである。われ/\の民族でも、魏志に見える卑彌呼が鬼道を行つたといはれ、またイヅモの國造に宗教的權威のあつたことが、政治的地位を失つた後にはそれをのみ保有してゐた後世の事實から、推測せられるなど、一二の例から考へても、國家のまだ統一せられない前に存在した幾多の小君主の性質がわからう。皇室の地位に宗教的意義が伴ひ、または皇室が宗教的なはたらきをせられることの、遠い起源も、またそこにあるであらう。ところで、君主の神とせられるのが呪術や祭祀を行ふこと、即ち巫祝の務、に由來があるとするならば、君主の地位は一方で神性を具へながら、他方ではやはり巫祝の地位にあられるのが、當然である。現つ(283)神たる天皇について、或は仲哀天皇が大祓の如き呪術を行はれ、或は崇神天皇または神功皇后が神を祭られ、または神がかりの境地に入られた、といふ物語のあるのは、此の故である。物語の上で天皇が邪神を斥攘する力をもつてゐられたやうになつてゐるのも、さういふ效果を求めるために、尊貴として呪術もしくは神の祭祀を行はれたことに、その基礎があり、畢竟その反映である。またかういふ巫祝によつて行はれる未開民族の呪術や祭祀は、民衆の一團、即ち部族全體、のために行はれるのが普通であるから、我が國の天皇の行はれるかういふことが、國民全體のためであるのも、またそこに遠い由來があらう。地方的集圍の首長たる國造縣主などが祭祀呪術を行つたのも、またその集團のためであつたので、それもまた同樣に考へられる。要するにこれは、多くの民族が大抵一度は經過して來た、或は民族によつては今日にもなほ存在してゐる、?態を、われ/\の民族もまた遠い上代には閲歴して來たことを、語るものとしなければならぬ。
 けれども、記紀はもとよりのこと、その他の文獻に於いても、*現つ神または現人神の稱呼を有せられ神性をもたれるやうに考へられてゐた天皇も、宗教的崇拜の對象となつてゐられたやうなことは、少しも記されてゐない。我が國には、上代に於いても、天皇崇拜の風習があつたやうな形迹は、全く見えないのである。のみならず、天皇が、神として、人とは違つた特殊の生活をせられるやうに考へられてもゐなかつた。天皇は政治的君主ではあられるが、臣下や民衆と同じく、また彼等の間に立ちまじつて、生活せられ、從つてまた現つ神の稱呼はもたれるが、普通の人と同じく、またそれらと共に、その日常の生活をせられるのであつた。古事記に、神武天皇がタカサジ野で「七ゆくをとめ」のうちからイスケヨリヒメを見出され、また「葦原のしこけき小屋に菅だたみいやさやしきてわが二人ねし」と(284)よまれた、といふ話のあるのでも、上代人が一般に天皇の生活をいかに見てゐたかが、窺ひ知られよう。さうして天皇についてのかういふやうな話は、記紀のところ/”\で語られてゐる。天皇はどこまでも人であられたのである。或はまた皇位の繼承について皇子の間に爭があつたり、それが場合によつては生命の爭になつたり、するやうな話の作られてゐるのも、天皇または皇族を世間なみの人として見てゐたことを示すものである。天皇に神性があるといふのは、*たゞ知識人の思想に於いてのことであり、現つ神の稱呼も公式の儀禮に於いて用ゐられたまでのことである。皇室の宗教的のはたらきは、さういふことよりも、上にいつたやうな民衆のために呪術や神の祭祀を行はれることに、重要さがあつたのである。
 しかし知識人の思想に於いて天皇の地位に神性があるとせられたことは、事實である。神代の觀念はこゝから形づくられたのであつて、「現つ神」にて坐す天皇のその「現つ」といふ要素を、或は「現人神」の「現人」たる要素を、觀念の上に於いて分離し去つた「神」を、現實には見ることができずして觀念の上にのみ表象し得る遠い過去の皇祖に於いて認め、それを神とし、其の代を神代と稱したのである。天皇は「現つ神」の地位にあられるけれども、それは現實の人であられるから、それだけでは、人の代でない「神の代」といふ特殊の觀念が作られない。此の現實の人から離れた遠い昔の皇祖を思ひ浮べる時、始めてそれができるのである。勿論、神の代を過去に置き御祖先の代としたのは、皇位が世襲であるため、それを遠く古に延長したのではあるが、それを神の代としたのは、天皇の地位の神性が基礎になつてゐると見なければならぬ。だから神代は、例へば人の世界を超越したところに存在する神、人の生活を宗教的意義に於いて支配する神、のはたらいた代といふやうな性質のものではない。皇祖は日の神となつてゐて、その日(太陽)は(285)宗教的に崇拜せられてゐた神であるけれども、その日の神が皇祖とせられたのは、皇祖に神性があると考へられたからであり、さうしてさう考へられたのは、天皇の地位に神性があるとせられたためである。皇祖は即ち古の天皇だからである。さすれば皇祖神たる日の神の有する宗教的性質もまた、現在の天皇が有せられる神性にその基礎があるのである。皇祖神たる日の神が神を祭る地位にあつたやうに語られてゐるのは、天皇が神を祭られることの反映であり、また邪神を平定斥攘することになつてゐるのは、天皇がそれをせられることの反映であつて、そこに皇祖神の宗教的のはたらきがある。たゞ皇祖神は、現在の天皇とは違つて、宗教的崇拜の對象となつてゐるが、これは日に結合せられ、日の神となつてゐるからである。さうして天皇の本質が政治的君主であられるところにあるとすれば、神代の中心觀念がやはり政治的意義のものであることは、いふまでもない。神代史に於いて人の如き名を與へられた宗教的意義のある神々の間の關係が、神そのものの性質、もしくは神に對する宗教的信仰によつてではなく、皇祖を中心とする血統によつて成立つてゐる、いひかへると、神々自身によつてその間に統制が生じたのではなく、(恰も一般諸氏族が皇室と血族關係を有するやうに語られ、それが思想上、政治の大綱となつてゐると同じく)、皇祖神の血統に入ることによつてその統制をうけてゐるのも、此の故である。
 「神代」といふ觀念はかうして形成せられたのであるから、それは皇室についてのことであつて、民衆またはその生活についてのことではない。神代が歴史上の或る時代をいつたものでなく、上代といふのとは全く意義が違つてゐる、といふことは、この點からもまた明かである。從つてそれに對する人代もまたたゞ皇室についてのことである。(人代といふ語は記紀にもその他の古典にも見えてゐないが、神代に對して神武天皇以後の時代を示すには便利であ(286)るから、後世の慣例に從つてこの語を用ゐることにする。)さて、この神代の觀念が現實の天皇の地位と性質とに本づいて形づくられたとは逆に、物語の上では天皇の政治的君主としての地位も、その宗教的のはたらきも、神代に由來し皇祖神から傳へられたものとなつてゐることは、いふまでもない。天皇の地位の神性そのものが、皇祖神たる日の神の子孫であられることによつて、成立つてゐるやうに、なつてゐる。ところで、この神代が過去に置かれたとすれば、何の點かでそれと現在の人代とを連結させねばならぬ。いひかへると、現實の存在としての人代のはじめをどこかに置いて、それとそれより前にあるとせられた神代とを、そこで區劃しなければならぬ。ヤマト奠都の物語はこゝに於いてか生じたのである。即ち思想の上に於いて、現實の存在としてのヤマトの皇室の始まつた時、そのヤマトの皇室によつて國家が統一せられてゐる現在の政治的形態の始まつた時を定め、それを人代の始としたのである。書紀に神武天皇を「始馭天下之天皇」と記してあるのは、或はこの意味に於いてのことかとも解せられる。(もしさうならば、古事記にそのことの記してないのは、たゞ記してないまでのことであらう。)ところが、かういふ皇室のはじめが思想上のことであるといふのは、もしヤマト奠都が歴史的事實であり、其の前に都のあつた何處かからその都が遷されたことであるとするならば、さうして其の事實が世に傳へられてゐたとするならば、それは、後にヤマトからヤマシロに遷され、京都から東京に遷された場合と同樣、その前も後も連續した一つの歴史として、人の記憶に殘り人の知識に存在したはずであつて、從つて、それを神代と人代との境界とし、劃然たる區別をその前後につけようといふ考が起るまい、といふことから、明かに推知せられよう。のみならず、かういふ一つのことによつて神代と人代とが明かなる限界線を劃せられてゐる點に、その區劃が人爲のものであり人の思慮によつて設けられたものであることが、(287)知られる。と同時に、またこのヤマト奠都の物語、即ち神武天皇の東遷の説話、そのものが、やはり何人かによつて、もつと明確にいふと現實のヤマトの都に於いて重要の地位を有するものによつて、考案せられたものであることがわかるので、物語そのものからいふと、これは恰も神功皇后の物語が韓地經略の由來を説いたものであるやうに、ヤマトの朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。歴史的事實としての記録とは考へ難い。實をいふと、歴史的事實としてのヤマト朝廷の起源、即ち皇室のはじめは、舊辭の始めてまとめられたころには、全くわからなくなつてゐたので、かういふ起源説話の作られたのは、或は作り得られたのは、一つはそのためである(なほ後文參照)。さうしてそのヤマト奠都の物語が全く政治的意義のものであるとすれば、それによつて限界をつけられた神代といふ觀念が、やはり政治的のものであることは、明かであるので、皇室の御祖先の代として構成せられたものであるといふ上記の考説は、之によつて更に一證を得たわけである。
 しかし、神代と人代との間に劃然たる区別がつくことは、概念の上に於いてのことであつて、具體的な物語としては、其の間の境界のぼかされることが必要である。然らざれば、神代を過去に置いてそれと人代とを連續したものとしようとする主旨に背く。だから、神代の終の部分に人代的要素を加へると共に、人代の始の部分には神代的着色を施し、交互に幾分の融合をさせねばならぬ。さうして「現つ神」であられるといふ皇室の地位は、その皇室のこととしての神代と人代との區別を、おのづから緩和することになる。皇孫降臨の後なほ神代が續いてゐるのは前者であつて、ヒムカに於ける物語は恰もそれに當り、神武天皇及びその後の時代のこととしても、なほ神異の物語が多く語られてゐるのは後者の故であつて、仲哀天皇以前の話がほゞそれに屬する。神武天皇から仲哀天皇までの物語に人の行(288)動と見なし難いことが多いのは、一つは之がためである。さうして、神異の話の多いのがほゞ仲哀天皇までであるのは、舊辭の編述せられた時に、そのころの歴史的事實が殆ど全く傳へられてゐなかつたといふことが、恰好の事情となつてもゐるらしい。
 物語の上に於ける神代と人代との移りゆきについては、なほ一言すべきことがある。上に述べた如く神代は皇孫降臨の後もつゞいてゐることになつてゐるが、これは神代の物語の作られた初からのことではないらしい。(次篇參照)しかし後にさう改作せられたのは、おのづから前にいつたやうな效果を生じたことになる。またヤマトの奠都を人代の始とするならば、その前の神武天皇東遷の物語は、むしろ神代に屬すべきもののやうであるのに、さうなつてゐないのは、奠都の前も後も天皇が同じ天皇とせられてゐるからであらうが、それがまたおのづから、神代と人代とを連結させると共に、その區別をぼかすはたらきをすることにもなつてゐる。この物語は、種々の神異の話がある點に於いて、神代の物語と同じ性質をもつてはゐるが、またそれとは違つたところもあるので、その最も著しいのは、神代の物語に於いては、日の神たるアマテラス大神と、タカミムスビの命またはその別名としてのタカキの神とが、現實の存在としてそれらみづから活動してゐるのに、この物語に於いては、それらがいつも現在の何人かの夢の中にあらはれてゐることである。(記紀の何れにもある劍についてのタカクラジの夢。ヤタガラスについての天皇の夢。天皇の夢に神の現はれたことは、書紀にのみあつて古事記には見えてゐないが、古事記の書きかたでは、タカキの神がどういふ方法で天皇にヤタガラスのことを告げたのかわからないから、これは夢のことが脱ちてゐるのであらう。また書紀にのみ見える祭祀と呪詛とについての天皇の夢。)書紀においては、なほ天皇が皇祖天神(日の神のこととして(289)解しなくてはならぬ)の祭祀を行はれたこと、タカミムスビの神によるウツシイハヒをせられたことが、見えてゐるが、これもまた日の神やタカミムスビの神を現實の存在とは見ない考へかたによつて、作られた話である。これでみると、物語の上で、神代と人代との間に明かな區別がせられてゐるやうに見える。神武天皇の東遷の行はれた時は、これらの神が現實にはたらいてゐた神代では、なくなつてゐるのである。
 たゞ書紀にニギハヤビの命が天から降つてゐたといふ話のあるのは、天上の人物が現實にヤマトに現はれてゐる點に於いて、例外とすべきであるが、この命とその話とは、神武天皇の物語の作られた初からあつたものではなく、後から補はれたもののやうである。天つ神の御子が始めてヤマトへ入られる前に、その抗敵者たるナガスネヒコのもとに、同じく天つ神の子とせられてゐるこの命がゐた、といふことは、物語の精神に背くものであるのみならず、ナガスネヒコが天皇に對して抗戰したことを記してあるところには、この命の名が見えず、また神代の天つ神の系譜においてはかういふ命の名がどこにも記されてゐないからである。天から降つたとしてはあるが、その天がタカマノハラの名によつて示されてゐないのも、またこの話の新しいものである一證であらう。さすれば、これは上に考へたやうな神代と人代との區別が注意せられずして、作り加へられたものと、解せられる。古事記には、この命の如何なる人物であるかが少しも示されてゐず、天から降りて來たものとも天つ神の子であるとも書いてないが、これは書紀によつて傳へられてゐるやうな話から、この命の名と、それとナガスネヒコとの關係とだけが、古事記のもとになつた舊辭にとられてゐたものと、考へられる。この命の名が突然現はれてゐて、話としての形の具はつてゐないその書きかたからも、さう推せられる。然らば、何故に此の命のことが此の物語に作り添へられたかといふと、それはナガスネ(290)ヒコの反抗も天つ神に對する眞の反抗ではなかつたとして、天つ神の權威を一層強めるためではなかつたらうか。此の命は、皇孫降臨の物語に於けるオホナムチの命と似た地位に置かれてゐるのであつて、多分、それを摸して作られたものであらうと思はれるが、ヤマト平定の説話とオホナムチの命の服從の物語との間に、思想上、密接の關係がつけられてゐるといふことは、上に述べて置いた。次篇で考へるやうに、オホナムチの命の抗敵も單なる抗敵ではないやうになつてゐる。
 なほ書紀についていふならば、シナ思想による修飾が神武紀に至つて急に著しくなつてゐることが、注意せられる。神代紀にもそれは無いことはないが、最初の天地開闢説とかイサナキの命の登天報命とかの一二の場合の外は、多くは舊辭の文章に施された文字の修飾にとゞまつてゐるのに、神武紀及びそれから後の歴代の紀には、舊辭には無かつたと思はれる新しい記事が、シナ思想によつて構造せられてゐるので、神武紀の卷首にある天皇の語、ヤマト平定の後に下された「令」といふもの、または四年の條の皇祖天神の祭祀などが、それである。また神代紀とは違つて、神武紀になると、シナの史の本紀を學んで、年代記の形に記事を排列するやうになつてゐる。これらは何れも書紀の編者のしわざであらうが、編者がかういふことをしたのは、神武天皇の物語を神代のそれとは違つたものとする考へかたが、前から傳はつてゐた帝紀や舊辭に於いても認め得られたので、それから來たことであらう。
 かういふやうに、神武天皇東遷の物語は神代のとの間に明かな區別がつけられてゐるが、しかし物語そのものは、ヒムカから出發せられてゐる點に於いて、それと連續してゐることは、いふまでもなく、その内容を見ても、神異の話のあるのが兩方に共通であるのみならず、天皇が目の神の御子として行動せられてゐる點に於いて、またイヅモ平(291)定の時のことが説話の上に現はれてゐる點に於いて、東遷そのことが皇孫降臨のくりかへし又は延長の意味をもつてゐるやうに、語られてゐるのであるから、その側面では、この東遷の物語は神代と人代とを連結する用をなしてゐるのである。さうしてそれによつて、人代の前に神代が置かれ、ヤマトの都にゐられる現實の天皇の地位の由來がその神代の物語によつて示されてゐる帝紀や舊辭の精神が、よく實現せられてゐるのである。
 最後に附言する。この一節に述べたところは、神代の物語の意義と性質とを明かにした上ではじめて知り得られることであるが、豫めこれだけのことをいつて置いて、それによつて神武天皇が皇室の第一代とせられたことの意義を解釋すると共に、この一節を、次篇に於いて行ふ神代史の研究に移る橋梁とするのである。しかしその研究に入る前に、一應、この篇で取扱つた部分の記紀の記載に對する總括的な觀察を試みておくことが必要であらう。
 
(292)       第七章 結語
 
 前數章のしごとは、記紀に記されてゐる仲哀天皇以前の時代に關する主要なる物語を一々點檢することであつた。そこで次には、一々の物語を一々に研究したあとを顧みつゝ、多くの物語の全體を通じての觀察を試み、それを此の篇の結語としようと思ふ。
 第一にいふべきことは、記紀の記載の差異から推測し得られる物語の變化であつて、これには同じ物語が記紀によつて違つてゐるのと、一方に無くして他方に有る物語があるのと、この二樣の場合があるが、何れにしても、舊辭が今の古事記と書紀との記載となつて現はれるまでの間に、いろ/\の考を有つてゐるいろ/\の人の手が、幾度もそれに加へられてゐることを、證するものである。第一の場合に於いては、概していふと、古事記に見える方が書紀のよりも原形に近いと認め得られるので、ヤマトタケルの命の東方綏撫の話の主要部分、神功皇后の物語などが、その例であるが、たゞこの場合に、書紀の記載が、古事記のよりも後に潤色せられた舊辭の説によつたものであるか、書紀の編者みづからが修飾變改したものであるかの、わからぬことがある。また物語によつては、局部的には、古事記のよりも書紀のの方に却つて原形の發見せられることがある。例へば神武天皇及びその崩後の物語に於いて、古事記のに歌の多いのは、この點では、書紀のよりも後世の潤色を多く經てゐることを示すものであらう。また第二の場合に於いては、例へば景行天皇のツクシ巡幸の物語の如く、書紀にのみあるのは、後に作り加へられたものとすべきで(293)ある。崇神朝のこととせられたアマテラス大神を祭る神宮の建てられた話なども、同樣である。古事記にのみある話は、この篇で取扱つた時代のには無いが、神代の部分にはそれがある。これについては次篇で考へよう。
 次には、記紀の物語に於いてほゞ共通な點に於いても、最初の舊辭とは頗る趣を異にしてゐることの知られる場合があるので、神武天皇の物語にニギハヤビの命が現はれたり、ヤマトタケルの命のにタチバナヒメの話が加へられたり、さういふ例がかなりにある。かゝる形迹の明かにわからぬ場合でも、實際は種々の變改が加へられてゐるかも知れず、細部まで原形のま⊥である物語がどれだけ記紀によつて傳へられてゐるかは、知りがたいといはねばなるまい。多分それは、極めて少いか、または殆ど無いかであらう。
 ところで、舊辭にかういふ變故の加へられた時期はいろ/\であらうが、一つ/\の物語について既に述べた如く、それのほゞ推測せられる場合もある。或はまた上に述べたイセの神宮の建てられた時期や、次篇で考へるやうにタカミムスビの神の性質の變化や、歌謠の形式や、それらのことを思ひ合はせると、推古朝のころに於いて、全體にわたつての、またかなり重要な、潤色が施されたのではないかと、臆測せられないでもない。この朝の歴史上の地位から見ても、この臆測に或る程度の理由が認められるのではあるまいか。天皇といふ稱號が神武天皇以後の歴代の物語のすべてにわたつて用ゐてあるのも、もしそれが安萬侶の書きかへたものでなくして、阿禮の誦んだ舊辭に於いてすでにさうなつてゐたとすれば、それもまた或はこの臆測を助けることになるかも知れぬ。この稱號は推古朝ごろから用ゐはじめられたもののやうだからである。しかしそれはともかくもとして、舊辭が後になつて、いろ/\の違つた時期に、さま/”\に潤色せられたとすれば、もとからあつたものと後から改められ又は加へられたものとの間に一致し(294)ないところのあることが、おのづから考へられるので、神武天皇の物語にニギハヤビの命が現はれてゐたり、景行天皇がクマソを征討せられた話があつたりするのが、その例である。物語の傍に物語をなさぬ記事のあるのも、またそれであらう。
 以上は舊辭に於ける變改潤色の迹についてのことであるが、書紀の編者が舊辭に加へた變改、または舊辭から離れて編者みづからの構想によつて新に作られた記事が、舊辭の物語またはその精神と一致してゐないやうになつてゐる例も、また甚だ多い。神武天皇の物語に施されたシナ思想による修飾、または神代紀に舟のことが記してあるのに、崇神紀に始めて船舶を作るといつたり、仲哀天皇の時に海外に國のあることがわからなかつたやうに書いてあるのに、崇神紀に任那の使節の來朝の記事を載せたりしたこと、などが其の例である。書紀の編者はかういふ齟齬や矛盾に氣がつかなかつたものと見える。
 なほ、書紀に見える種々の物語を通覽すると、其の間に類似した着想が?反覆せられてゐることに氣がつく。クマソ征討にも東國經略にも、景行天皇とヤマトタケルの命とが一度づつ行つてゐられる。クマソの酋長を誅伐せられた方法も、景行天皇の時のとヤマトタケルの命の時のと酷似してゐる。アメノヒボコとツヌガアラシトとの航路についても似た話があり、またツヌガアラシトとタヂマモリとは、同じやうに時の天皇の崩御と前後して來朝もしくは歸朝してゐる。垂仁天皇の皇位繼承の定められた事情と景行天皇のそれとも、同工異曲であり、ヤタガラスと金鵄とも共に靈鳥である。或はまた崇神朝にも垂仁朝にもイヅモの神寶の物語があり、垂仁朝にはイヅシの神寶の話の外に、イソノカミのそれの物語があつて、神寶といふものが反覆して主題とせられてゐる。古事記に於いても、神代史のコ(295)ノハナサクヤヒメの物語と垂仁天皇の卷のサホヒメの物語とは、皇子が火の中で生まれられたといふ點が似てゐる(後の話ではあるが、雄略紀の一夜あひて云々といふ話も、神代史に同じことがある)。神武天皇のヤマト征討と神代史のオホナムチの命の平定との間に、思想上密接の關係があることは、既に述べて置いた。其の他、記紀のいづれにも各地巡歴といふ話が?語られてゐ、兄弟の並んで現はれる場合に、その大部分は、兄が羸弱もしくは惡逆であつて失敗に終り、弟が強健順良で成功してゐ、ミワ山物語の如き同じ民間説話が異なつた場合に結びつけられ、似たやうな地名説話が到るところに用ゐられ、人名を地名から作り兄弟男女を連稱することが、一般に行はれてゐるなど、その間には上代の風俗の反映と見るべきものもあらうが、物語の上では大抵着想が定まつてゐること、また後人が前からある話にたよつて同じやうなものを作り加へて來たことを示すものである。事實の記録として見るべきものでないことは、勿論である。
 その上、神武天皇から仲哀天皇までの物語を大觀すると、國家經營の順序が甚だ整然としてゐる。第一にヤマト奠都の話があり、次に崇神垂仁兩朝の内地の綏撫があり、次が景行朝のクマソ及び東國に對する經略となり、それから成務朝にかけて皇族の地方分遣と國縣の區劃制定とが行はれ、最後の仲哀朝に至つて外國征討が行はれる。近きより遠きに、内より外に、及ぼされた徑路が、地理的に順序正しくなつてゐる。これも歴史的事實の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさはしいことの一つである。かういふ風に物語は構成せられてゐるが、しかし全體を通じて見ると、天下、即ち大八島國の全體、はヤマト奠都の前から皇室によつて統一せられてゐることになつてゐるから、さういふ形勢の下に於ける國家の經營がかういふ順序になつてゐるといふことが、事實らしからぬ話なのである。ま(296)だ國家の領土に入つてゐなかつた地方を新に服屬させてゆくのならば、かういふ地理的順序がおのづからとられたでもあらうが、これらの物語はさういふ意味のことを語つたのではない。ところで、物語がかういふ構成になつてゐるのを見ると、記紀によつて傳へられてゐる舊辭の述作者が、神武天皇の東遷の説話をうけて、その次に崇神垂仁兩朝の物語を置き、それから次第に仲哀天皇の物語に及んだのは、國家の經營が崇神朝に始まつたものとして、それから後のその進展の情勢を語らうとしたものであることが、推測せられるやうである。崇神天皇に所知初國天皇または御肇國天皇の稱呼があるやうにしたのも、またこの意味に於いてであつたかも知れぬ。もしさうならば、これは神武天皇のそれと必しも重複もしくは矛盾するものではない。一つは國家經營の事業をせられた天皇のはじめであり、一つはヤマトの朝廷のはじめであるからである。さうして舊辭の潤色者が、皇祖神を祀るところとしてのイセ(もしくはそこに遷される前の地としてのカサヌヒ)の神宮の創設を崇神朝としたのも、またこの思想を繼承したものと解することができよう。神宮の奉祀は國家の經營と離るべからざるものと、考へられたであらうからである。しかしこれらは舊辭の物語の上でのことである。歴史的事實としてのヤマトの朝廷の勢力の發展の情勢が、物語によつて理解し得られないことは、明かである。
 これらの點を、上に詳説した一々の物語の批判に參照して見れば、記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事實の記録として認めることが、今日のわれ/\の知識と背反してゐるのは明かであらう。さうしてこれはおのづから、第一篇の第三章に於いて概説して置いたことを、證するものである。記録の術、もしくは前言往行を一定の詞章によつて語りつぐ特殊の制度があり、それによつて古事が傳へられたならば、或は上(297)代の君主や英雄の事蹟を歌つた敍事詩のやうなものがあつたならば、それは舊辭の編述の際に材料として採られねばならず、從つて何等かの形に於いて記紀の物語にも現はれねばならぬのに、一々の物語の内容についての著者の研究は、それらが何れも後人の述作であることを示したのであるから、さういふ材料は初から無かつたものとする外はない。記紀の記載には、舊辭から寫しとられ又はそれによつて書かれたところでも、その原の姿でないところが多く、さうして上文の研究に於いてもその原の姿を悉く呈露させるには至らなかつた場合があるけれども、大體の性質はそれでわかつたはずである。さうして國家の成立に關する、或は政治上の重大事件としての、記紀の物語が一として古くからのいひ傳へによつたものらしくないとすれば、それらが幾らか舊辭の原形とは變つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑は無からう。第一篇に於いて述べた如く、古事記の應神天皇以後の卷々には、政治に關する物語が殆ど無く、歌物語や戀物語などばかりになつてゐながら、仲哀天皇以前の卷々が却つて政治的意義を有する説話から成立つてゐるのも、またそれが昔から傳へられたものでない一證であらう。新らしい時代のことが舊辭に載せられずして、それよりも前の時代のことが記されてゐたとは、考へられないからである。なほこのことについては、第四篇並に附録の「百濟に關する日本書紀の記載」に於いて述べるやうに、應神天皇以後の韓地に關する書紀の記載で歴史的事實を傳へたものと見なされるものは、すべて百濟の史籍から取られたものであつて、舊辭から出たものとは考へられないことを、思ひあはすべきである。文字の術が既に行はれ、歸化人が朝廷の記録を掌るやうになつてから後の時代に於いて、特に記録文字とは最も關係の深いことがらについて、さうであつたとすれば、それより前の時代のことについては、なほさらである。
(298) 然らば、記紀によつて傳へられた舊辭の物語は何を材料として述作せられたかといふと、その第一は後世の事實である。書紀に於いてはそれが特に著しく、神功皇后の時に高句麗が從屬したとか、景行朝に陸奧の國の方面のエミシに對する遠征が行はれたとか、崇神朝に加羅が歸服したとか、いふ類がみなそれであるが、同じやうなことは記紀共通の物語に於いてもいふことができる。クマソの服從が四世紀の終か五世紀の初かであらうといふ第二章の考説が是認せられるならば、それを景行天皇の時の物語としたのは、其の最も著しき例である。新羅遠征の物語を神功皇后の事業としたのも、また同樣である。事實としては、新羅に兵を出したことが應神朝以後に幾度も行はれ、雄略朝ごろから後はそれが最も頻繁であつたらしいからである。イヅモの勢力の反抗も、それが後人に強い印象を遺してゐ、朝廷の儀禮にもその特殊なる服從の表示が現はれてゐることから考へると、やはりよほどの後世まで引つゞいてゐたことではなからうかと思はれるが、もしさうならば、古事記の垂仁景行の卷、または垂仁紀、などのイヅモに關する物語は、神代史のオホナムチの命の話と共に、それによつて構想せられたのであらう。古事記の應神以後の卷々に於いて、なくてはならぬ韓地經略、クマソ征討、などの物語が全く姿を消してゐることからも、この推測に理由のあることが知られるので、それは畢竟、後の事件を上代に移して物語としたがため、實際行はれた時代には、それが空虚になつたのではあるまいか。應神以後の卷々に政治譚が影を潜めて、歌物語戀物語が代つて現はれてゐるのも、こゝに一つの理由があるのではなからうか。もつとも仲哀天皇以前の物語とても、後の事件をそのまゝに上代に移して記したといふのではなく、それを説話として結構したために、事件そのものとは全く異なつた形になつてゐるのである。さて第二は、民間説話またはそれに類似の物語であつて、ミワ山の物語とか人の魂が鳥になつて飛んだとかいふやう(299)なのは、みなそれであり、玉から人が生まれたといふのも、之に屬する。それから第三には、ありふれた當時のできごとや風俗などであつて、戀物語とか兄弟の爭つた話とかいふのは、多分さういふところに由來があるのであらう。從つてそれに現はれてゐる風俗や思想は、物語の作られた時代のものであることは、いふまでもない。もつとも此の點については第一第二の場合とても、概して第三のと同樣であるので、それは一々の物語の研究に於いて考へたところからも、知り得られよう。これらの種々の材料によつて構成した幾つかの物語を前に述べたやうな意圖を以て連結したのが所謂舊辭であり、從つてまた古事記の物語と書紀の上代の記載の舊辭から出たものとではあるまいか。
 たゞ一つ考ふべきは、四世紀の中ごろより前のことについても、何か簡單な口碑が傳はつてゐて、それが舊辭にとられ、さうしてそれが記紀の仲哀天皇以前の記載に現はれてゐはしまいか、といふことである。例へば、四世紀の前半に行はれたであらうと推定せられるツクシの北部の歸屬といふやうなことは、比較的新しい事件として、そのいひ傳へが、文字を用ゐることの知られ始めた同じ世紀の末期には、存在し、從つてそれが何等かの形で記録せられてゐたのではないか、と考へられるかも知れず、さうしてさう考へられるならば、仲哀天皇のツクシ行幸の物語には、それから出たところがあるのではないか、といふ臆測ができるかも知れない。しかし一方では、かういふ事件のいひ傳へが、四世紀の末期ごろに於いて、早く既に記録せられるほどに、その記録の術が進んでゐたかどうかが問題であると共に、他方では、古事記によつて知られる舊辭には、さういふいひ傳へから出たと思はれることが他には見えないのであるから、この臆測が成立つかどうか、かなりおぼつかない。このことについては第一篇の第三章と第四章とに説いて置いたことが思ひ出されるであらう。次には、上にも述べた如く、古事記の舊辭の部分には物語をなさない政(300)治上の記事があるので、それは外觀上、説話的分子を含まない文字であるから、作られた物語とは違つて、口碑に由來があるのではなからうかと、疑はれるかも知れぬ。しかし其の主要なるものについての上文の考説は、それらが事實でないことを立證したのであるから、かう疑ふ理由は既に消滅してゐよう。これについてもまた、舊辭が古事記にとられた本になるまでには、それに變改の加へられてゐることを考へねばならず、其の原の形に於いては、もつと多くのさういふ記事があつたかも知れぬ、と思はれないでもないが、書紀の方でも、古事記の記載とほゞ同じことについてはやはり同じやうに見られるし、古事記に出てゐないことは次にいふやうに舊辭から取つたものではないらしく、さうして古事記のもとになつた舊辭とは幾分か違つてゐる其の異本に別の記載があつたならば、それは書紀に取られてゐさうなものであるから、すべての異本に於いて、從つてまた其の原の形に於いても、古事記に取られなかつた、かういふ性質の、記載があつたらしくはないのである。だから古事記のこれらの記事は、上に述べた如く、後人が舊辭に加筆したものであらう。なほ書紀のかういふ記事で古事記に見えないものには、神武紀四年の條の天神の郊祀、または上に述べたことのある崇神紀十一年の條の「異俗多歸」の如くシナ思想に基づいたもの、又は船舶の創製の如き事物の起源を説いたもの、などもあると共に、崇神朝に疫病が流行したために神を祭つたといふ話のあるのをもとにして、それを五年と七年との條に分割して記し、十年の條に四道將軍の派遣を書いて、十一年に其の復命があつたやうにし、或は垂仁紀に、殉死に代へるための土偶を作つたといふ物語を三十二年の條に載せるについて、其の前の二十八年の條に殉死者の惨?を記したなど、古事記に見えてゐるやうな、もとからあつた話を暦年に配當するために構成したものもあり、大抵さういふ類のであつて、それが事實の記録でないことは、いふまでもなからうが、それは(301)また、或は舊辭の主要なる物語及びその思想と矛盾してゐたり、或は年代記編成の際に始めて考案せられたりしたものであるから、舊辭から取られたものとは認め難く、また口碑などに遠い由來があるものとも考へられぬ。
 ところでかう考へて來ると、書紀に於いても、此の篇で取扱つた部分の資料としては、舊辭の外には何も無かつたといふことが、おのづから知られたであらう。たゞ古事記に於ける如く、その舊辭がそのまゝの形で現はれてゐないだけのことである。さうして舊辭から取られたものでない記載は、すべて書紀の編者の構想によつて作られたものとしなくてはならぬ。
 さて、以上述べたことは、記紀の記載に於ける物語の部分、即ち古事記に於いては舊辭から寫しとられたところ、についてであり、さうしてそれは、この篇の研究の對象がもと/\その部分であつたからである。まれに皇室の系譜、即ち帝紀から出てゐるところ、に言及したことのあるのは、物語の研究に關聯してそれを考へねばならなかつた場合のことであつた。しかし、帝紀と舊辭とは別々の書であり、またその變改潤色が別々に行はれたにしても、その間に密接の關係があることはいふまでもないから、こゝに記紀の系譜の部分についての、概括的な考察を附記しておかうと思ふ。そこで、第一に注意せられるのは、系譜に於いても記紀の間に一致しない記載の少なくないことである。その一つは、天皇の年齡であり、特にそれには、例へば綏靖天皇の四十五と八十四と、安寧天皇の四十九と五十七との如く、訛傳や誤記から來てゐるとは思はれず、どちらかが故意に變更せられたと考へねばならぬもののあることである。次には、皇子や后妃に關する記載であつて、皇子については、綏靖孝昭の二代の外のにはみな違ひがあり、后妃についても、記紀の一方にあつて他方に無いのがあつて、景行天皇のには特にその差異が多い。天皇の母の名もまた(302)同じでない場合が少なくないのみならず、記紀の何れとも違つてゐる説が、書紀に注記してある異本に見えてゐることもある。これらのことから考へると、仲哀天皇までの帝紀が後になつていろ/\に變改せられたことが知られよう。さうしてかう變改し得られたのは、はじめて編纂せられた時の帝紀の記載が、確實なものとして考へられてゐなかつたからではあるまいか。また景行天皇の皇子の名に、ヤマトネコといふのとワカヤマトネコといふのとがあつて、天皇の地位を示すものであるかういふ稱呼が、皇子の名として用ゐられたのは、解しがたいことであるが、この二つのうちで、前のは古事記にのみ、後のは書紀にのみ記されてゐることを思ふと、二つとも後になつて加へられたものではあるまいか。(一方にワカの語のあるのを見ると、この二皇子は、はじめは相伴つて帝紀に記されてゐたのが、記紀にはその一方づつが分れて現はれてゐるのではないか、とも考へられるが、ワカの語がいつもこのやうな場合にのみつけられてゐるのでもないから、かう考へることは必しも當つてゐなからう。)
 なほ記紀の記載の一致してゐることではあるが、孝昭天皇と垂仁天皇との皇子にタラシヒコといふ稱呼が、また垂仁天皇の皇女にタラシヒメといふ稱呼が、名となつてゐるのがある。孝昭天皇の場合のは、位を繼がれた弟の皇子と、上に加へられた語のアメとヤマトとが違ふのみで、同じ名であるのを見ると、これもまた事實さういふ名の皇子があつたのかどうか、疑はしい、從つてまた垂仁天皇の皇子皇女についても、同じやうに考へられる。(古事記にはイカタラシヒコといふ皇子が二人記されてゐるが、そのうちの一人のヒコはヒメの誤であらう。また後の雄略天皇の皇女にもワカタラシヒメの名のがあるが、書紀にはその別名といふものが注記してあるのを見ると、その方が眞の名であるらしい。)なほ記紀ともに神武天皇から孝安天皇までは、皇子のみがあつて、皇女が一人もないことになつてゐる(303)が、これもまた系譜が事實の記載でないことを、示すもののやうである。要するに、この時代の帝紀の記載には、信じがたいことが多い。しかしこれらは皇族や后妃などに關することであるが、天皇についてはどうであらうか。これが第二の問題である。
 ところで、天皇については記紀の記載がみな一致してゐるから、この點からは問題は起らない。さうしてまた、天皇について語られてゐる物語が歴史的事實でないといふことは、必しも天皇の存在が否定せられるべきことを示すものではない。一般的に考へても、人とそれについての説話とは離して見ることができるが、帝紀と舊辭とが、別々に編述せられ、別々に傳へられ、別々に變改せられて來たものであるとすれば、なほさらである。だから、綏靖天皇から開化天皇までの歴代に物語が一つも無いといふことは、その歴代の天皇の存在を疑ふべき、少くとも強い、根據にはなりかねる。八代の記載を通じてかういふ?態であるといふ點に、さういふ疑の起される或る理由はあらうが、それだけでその疑が解決せられるのではない。かういふ疑は、これまでの學者によつて起されてゐたものであるが、それは、崇神天皇以後の物語を歴史的事實もしくはそれによつて生じた傳説と見るところに、その基礎があつた。しかし、それらの物語がさういふ性質のものではなく、すべてが作られた説話であるとすれば、歴史的事實としての天皇の存否を考へる場合である限り、物語はあつても、無いのと同じである。たゞこの八代を通じて一つの物語も作られなかつたといふ點に、その八代と崇神天皇以後の歴代との間に、何か區別があるものとして、物語の作者もしくはその潤色者が見てゐたのではないか、或はまた舊辭の物語の作られた時の帝紀には、この八代の天皇の名が記されてゐなかつたのではないか、*といふことも考へ得られなくはないので、そこに上記の疑の起される一つの理由があらう、とい(304)ふのである。けれどもまた、物語の方に變改があつて、はじめて舊辭の作られた時には、開化天皇より前についてもいくらかの物語があつたかも知れぬ、といふことも考へられようから、それだけでは強い理由にはならぬ。さすれば、問題は別の方面から觀察しなければならぬ。そこで考へるに、應神朝に百濟から文字が傳へられ、それによつて何等かの朝廷の記録が作られたとすれば、その時より四五代ほど、年數からいつてもほゞ百年あまり、前からの天皇の名は、多分、なほ人の記憶に殘つてゐたと思はれ、從つてそれが記録せられたであらうから、その點から崇神天皇以後の歴代は、その名によつて後に傳へられたであらう、と推測せられる。從つてそれらの歴代の天皇は、事實上の存在として考へられよう。しかし、さういふ推測を甚しく遠い昔の時代にまで溯らせて適用することには、むりがあらう。もつとも、ヤマトの朝廷の勢力の發展の徑路に於いて、かなり遠い昔の何の時にか劃期的の事業をせられた、いはゞ創業の主とも稱せらるべき君主のあつたことが、想像し得られるので、さういふ君主の名が口碑として後に傳へられたでもあらうが、幾代かの歴代の君主が缺漏なく、傳へられたかどうかは、問題である。從つて上記の如き推測のできるのは、ほゞ崇神天皇以後の歴代であるとするのが、安全な考へかたではあるまいか。
 しかし、これについては、第一篇の第五章で述べたやうな、記紀によつて傳へられてゐる帝紀の天皇の名の書きかたを、今一度考へてみる必要がある。それは、仲哀天皇から前の歴代のがみな同じであることと、それが應神天皇から繼體天皇までのと全く違つてゐることとである。さうして、應神天皇から後の歴代が明かに歴史的存在であるとすれば、仲哀天皇から前のは、すべて同じやうに、さうではないといふことが、一應考へられさうでもある。特に、崇神天皇から後の歴代とても、天皇としての稱號のみが記されてゐて、上に推測したやうにして記憶から文字に寫され(305)たと思はれる名は傳へられてゐないから、なほさらさう考へられ、從つて上記の推測はあたらないことになりさうである。けれども、、安閑天皇から後の歴代についての古事記の記載を見ると、やはり實の名は全く書いてなく、たゞ天皇としての稱號のみが記されてゐるから、古事記だけでみると、これらの歴代の天皇の實の名は、全く知られないことになる。(上にいつた如く崇峻天皇だけは例外である。)さすれば、古事記にかうなつてゐるのは、天皇としての稱號のある場合の帝紀の書きかたが、一般にさうなつてゐたためであらう、と考へられる。(帝紀の最初の編述が、もし既に考へた如く、欽明朝ごろであつて、それから後の部分はあとからつぎ足されたものであるとしても、その書きかたは最初のの例に從つたのであらう。)從つて天皇の實の名の記されてゐないのは、仲哀天皇までの歴代に限つたことではない、としなければなるまい。安閑天皇から後の書紀の系譜の書きかたは、古事記の如く一定してはゐないが、例へば繼體紀及び欽明紀に於ける欽明天皇敏達天皇のの如く、それと同じやうになつてゐる場合もあり、さうして天皇の實の名は、例へば推古天皇舒明天皇のの如く、系譜に於いてではなくして、他のところに記載せられてゐる場合がある。欽明天皇と敏達天皇との實の名は、書紀に於いても、どこにも記されてゐず、後には全く傳はつてゐない。(崇峻天皇のみに稱既が無く、實の名のみが記されてゐるのは、この天皇の崩御の特殊の事情によるのであらう。安閑天皇から後の稱既は、それ/”\の天皇の崩御の後に、謚の如く定められたものと思はれる。)かう考へて來ると、崇神天皇から仲哀天皇までの名は、もとは朝廷の何等かの記録に載せられてゐたけれども、帝紀のまとめられた時に、天皇としての稱號のみ記されたため、それが失はれてしまつたものと、解し得られよう。だから、上記の推測は必しも誤つてはゐないことになる。
(306) けれども、問題はなほ殘つてゐるので、それは一つは、開化天皇より前の歴代についての記載を、それと同じやうに解してよいかどうか、といふことであるが、これについては、古い時代の天皇の名の傳承について上に考へたことが、思ひ合はされねばならぬ。いま一つは、欽明朝ごろに仲哀天皇(及び神功皇后)より前の稱號が定められた時、何故に應神天皇から繼體天皇までの稱號が作られなかつたか、といふことである。雄略天皇と清寧天皇とには名の下に尊稱が加へてあるが、それは安閑天皇から後の稱號が實の名とは別に定められてゐるのとは違ふし、また清寧天皇のは古事記と書紀との間に一致してゐないところがあり、なほ書紀にはオホハツセ天皇シラカ天皇と記してある場合もあるから、これは公式に定められたものではなく、何人かの試案であつたかも知れぬ。もしさうならば、これらはこの二朝のそれ/”\のすぐ後で作られたものであり、さうしてそれは、天皇に何等かの尊號を上らうとする要求が生じて來た時代の傾向を、示すものであらうか。或はまた、何の時にか應神天皇から後の歴代のすべてについて稱號を作らうとして試みられたものが、偶この二代ののみ何等かの記録に殘つてゐて、それが帝紀に採られたのかも知れぬ。臆測はいろ/\に加へられようが、たしかな推定を下すことはできぬ。しかしいづれにしても、今日から知られる帝紀によつて考へる限り、仲哀天皇から前の歴代には、一樣に安閑天皇から後のと同じやうな稱號が記されてゐるのに、應神天皇から後にはそれが無いといふことは、前の方の崇神天皇から後の部分についての上記の推測の價値を、いくらか低めることになるかもしれぬ。從つてまた、崇神天皇から後と開化天皇から前のとの間に區別をつける考へかたにも、大なる強みはなくなつて來よう。要するに明かな判斷はしかねるが、應神朝から幾代か前までの歴代の天皇の名が、始めて朝廷の記録の作られたと考へられるころには、人の記憶によつて傳へられてゐたであらう、といふ(307)推測には、或る程度の價値があり、さうしてその推測が最もたしからしさを含んでゐるものであることは、疑はれまい。もつともかうみる場合に、それが記紀によつて傳へられてゐる帝紀の記載の(仲哀天皇から)崇神天皇までの歴代であると考へることに、十分の確實性は無いけれども、今傳へられてゐる物語が、神武天皇のヤマト奠都のは別として、崇神朝のに始まつてゐるのは、舊辭の最初の形のまゝであり、さうしてそれはその述作者がさうすべき理由をもつてゐたからだと考へることにも、かなり強い可能性はあるのであ*る。
 仲哀天皇より前の歴代の天皇に關する問題については、かう考へられるが、皇子皇女や后妃などに關する記載については、崇神天皇から後の部分のに於いても、帝紀編纂の際に新に作られたものが多く、またそれより前の部分に於いては、そのすべてがさうであらうが、一度作られてから後にも長い間にいろ/\の手が加へられたらしいことは、上に述べたところからも知られる。
 しかし、帝紀の系譜の記載をどう見るにしても、ヤマトの朝廷の起源が、應神天皇のころから考へて、遠い昔にあつたこと、皇室がそのころまでに既に長い歴史を經過して來られたことは、明かに推知せられる。應神朝に半嶋の經略がはじめられ、その前にツクシの北部が歸服したとすれば、それより前の長い期間にヤマトの朝廷の勢力は漸次各地方にひろげられて來たに違ひなく、從つて皇室の由來は舊いとしなければならぬ。歴史的事實としてその間の情勢は、記紀の記載には全くあらはれてゐず、從つて帝紀にも舊辭にも記されてゐなかつたらうと思はれるが、もしさうならば、それはかういふことが記録せられるほどにその記録の術が進歩した時に、口碑としても傳説としても、その情勢が殆ど傳へられてゐなかつたからであり、さうしてそれほどにその歴史的事實が忘れられてゐたといふことは、(308)皇室の成立とその勢力の發展とが、決して新しいことではなかつたからである。神武天皇の東遷といふやうな、事實に根據の無い、物語の作られたのがヤマトの朝廷の眞の起源が知られなくなつてゐたからのことであるとすれば、それは即ちヤマトに本據のあつた皇室の由來の遠いことを、示すものである。それがいつからあつたものであるかは、もとより明かでないが、上記の情勢から考へても、それは遲くとも二世紀のころには、その地方に於ける鞏固な勢力として存在したはずである。このことについては、なほ後にも述べるであらう。
 記紀によつて傳へられてゐる帝紀舊辭の記載、また舊辭から出た部分でない書紀の記載の性質は、ほゞかういふものである。だから、それによつて、我々の民族全體を包括する國家が如何なる事情、如何なる徑路、によつて形成せられたか、といふことを知ることはできない。ヤマトの朝廷の勢力の發展の?態についても、歴史的事實がそれによつて知られるのではない。帝紀舊辭の初めて述作せられた時に於いて、既にそれがわからなくなつてゐたのである。それ故にこそ其の述作者は、其の空虚を充たすために、種々の人物とその物語とを作り、それを古い時代のこととして記したのである。たゞ物語が歴史的事實を傳へたものでないといふことと、その物語の結びつけられてゐる人物が歴史的存在であるかないかといふ問題とは、必しも同じでないので、それについては帝紀と舊辭との記載をそれ/”\別々のものとして考へねばならぬ。さうしてさういふ考へかたをした結果は、上に述べたとほりのことになつた。
 ところで、上代の歴史的事實としては次のことだけが推測せられる。いつからといふことの今日からは知られない遠い昔から、此の大八島に住んでゐたわれ/\の民族は、その?態がシナの史籍によつて知られるやうになつた時代には、多くの小國家に分れてゐて、そのうちの一つにヤマト地方を領有してゐたものがあつたと考へられる。その君(309)主が皇室の祖先であつたかどうかは、明かでないが、上に述べた如く、遲くとも二世紀のころには皇室の祖先がそこに君臨せられたであらう。それが四世紀の前半に於いて、ツクシの南半、即ちいはゆるクマソの地方、を除く外、ほぼ民族の全體を政治的に統一せられるやうになつた。これだけのことが推測せられるのである。なほこのことについては、ツクシの北半が皇室に統一せられた後にも、國造とか縣主とかいふ世襲的首長がその地方にあつたことは明かであつて、さうしてそれはシナの史籍に見えるやうな多くの小國家が分立してゐた?態の、形を變へて繼承せられたものと見なければならぬから、同じやうに國造縣主の存在する他の地方に於いても、國家の統一がまだできなかつた前は、やはりツクシ地方のやうな有樣であつたらう、といふことが考へられるのである。イヅモは多分その最も大なるものであつて、それを服從させることは、かのクマソの征服と共に、統一事業の徑路のうちに於いて最も困難なものであつたらう。さてこの推測が事實に遠からぬものであるとすれば、記紀によつて今日に傳へられてゐる帝紀舊辭、特に舊辭の物語、が歴史的事實ではなくして作られた物語であることは、おのづから明かになるであらう。何よりも、遠い昔から大八嶋國の全體が皇室の治下にあつたやうになつてゐることが、事實に背いてゐるのである。しかし物語の精神は却つてそこにあるので、それが作られた時代の現實の皇室の地位が、そのまゝ遠い昔からの?態であるとするところに、作者の意圖も物語の精神もあるのである。
 なほ此の結語に於いてくりかへしていつて置くべきは、皇祖神の代であるといふ神代の物語を頭に戴いて、それから人代の話に移つてゐる記紀の記載は、專ら皇室に關することであつて、われ/\の民族のことを語つてゐるのではない、といふことである。皇室が皇室であられる限り、皇室のことはその政治的權威に關すること、從つてその統治の(310)下にある國家及び諸氏族に關することであるが、それとても、どこまでも皇室の地位に立つてのことである。まして民族についての物語などでないことは、いふまでもない。これは上に述べた神代の觀念の性質からも明かに推斷せられるが、所謂「帝皇日繼、先代舊辭、」を明かにするためであるといふ國史編述の由來から見ても、同樣に考へられる。此の點に於いて比較的帝紀舊辭の原の姿を傳へてゐる古事記の記載が、神武の卷以後に於いて、皇室の系譜と天皇及び皇族の行動としての物語とのみであることを、考へるがよい。神代史については次篇に考へようと思ふが、その性質は此の點からも類推することができる。だから一くちにいふと、記紀の神代史及び上代の物語の目的は、主として皇室の起源由來とその權威の發展の情勢とを説くところにあつたのである。個々の物語について見ても、神武天皇の物語はヤマトの朝廷の起源を語つたものであり、またヤマトタケルの命のはクマソ及び東國の歸服の、神功皇后のは新羅經略の、それ/”\の起源を説いたものであり、或はまた所々に見える系譜は思想の上で皇室から分れ出たものとせられた諸氏族の由來を記したものである。記紀によつて傳はつてゐる帝紀と舊辭との編述せられた主意の何であるかは、これから考へても明かであらう。もつとも、事物の起源を説くことは、必しも皇室及びその權威に關することには限らないのであつて、到るところに現はれる地名説明の物語も、やはり地名の起源を示すためのものであるので、これは上代人の物語を作る一つの態度ともいふべきものであつた。人名や俚諺などの起源説話のあるのも、そのためである。舊辭から出たものではなからうと考へられる書紀の記載にも、またそれがあるので、政治に關することでは、例へばかの加羅人來朝の物語も、また任那府の由來と加羅新羅の反目闘爭の起原とを説くためのものである。なほ上に述べた如く、われ/\の民族の歴史に於いて重大なる事實であるツクシ地方の君主とシナ人との交通が、毫も記紀(311)に現はれてゐず、またエミシとの民族的衝突も、舊辭の原形に於いては、殆ど話題に上つてゐない、といふことも、記紀の記載、從つてその本原である舊辭に民族の歴史が語られてゐないことを示すものであらう。ツクシとシナとの交通が記されてゐないのは、その事蹟が舊辭の編述せられた時代に傳へられてゐなかつたからでもあるが、記載の上からはかう見られる。
 また此の皇室の起源を説いた記紀の物語に於いて、國家の内部に民族的な競爭がかつたやうな形跡が少しも見えてゐないといふことが、注意せられねばならぬ。これは、一方からいふと、最初に帝紀舊辭の編述せられた時に於いて、國家が昔から一つの民族(少くとも當時に於いては一つの民族として見らるべきもの)によつて成り立つてゐた、と考へられてゐた一つの明證である。もし國家が一つの民族もしくは其の君主が他の民族を征服することによつて、成立した、といふやうな場合ならば、民族の興亡もしくはその勢力の消長が、國家の建設と密接の關係を有するのであり、またそれから生ずる民族間の反目や競爭は、決して短日月の間に消え去つてしまふべきものではなく、その記憶が容易に無くなるものでもないから、物語の上にも、さういふことが何等かの形で現はれてゐるべきはずであるが、それが全く見えない。言語や容貌や生活?態や信仰や風習やの異なつてゐる多くの民族が國家の内にあり、さうしてそれらを統御することに努力し苦心したのならば、よし記紀の物語が、皇室のことを語つたものであり朝廷で作られたものであるにせよ、その反映が何等かの形に於いて多くの説話の上に現はれなくてはならぬが、それが少しも無いのである。これは、舊辭の編述の當時に於いて、わが國が一つの民族から成立つてゐて、民族的對抗もしくは競爭といふやうなことが、國家の内部に無かつた有力の證據である。記紀ばかりでなく、一體に文獻によつて知ることので(312)きる上代人の思想や心理に於いて、激しい民族競爭の行はれた記憶が殘つてゐるやうな形跡、或は異民族が數おほく互に接觸し衝突してゐる場合に生ずるやうな特殊の現象を、認めることは全くできない。異民族が新しく來住することによつて惹き起される動搖の空氣の見えないことは、勿論である。なほシナの史籍によつて考へて見ても、同樣である。魏志によると、三世紀に於けるツクシには小國家間に於ける幾分の勢力爭ひこそあれ、民族としては極めて安定の?態にあつた。さうしてそれは、溯つては遲くとも前一世紀の時代、下つてはそこが統一せられた國家の組織に入つた四世紀の有樣と、間斷なき連續を有つてゐて、其の間に民族の移動のあつたやうな形跡は、毫末も認められない。さうしてそれは、記紀の記載によつて知られる上記の?態と、よく一致してゐる。
 これは記紀の物語の全體の上からの觀察、または其の精神から見たことであるが、その一々の記載について考へても、例へば、不用意に世人の口にしてゐる如き出雲民族とか天孫民族とかいふ、有力なる異民族が對抗してゐたやうな形迹は、毫もそれに見えない。人種もしくは民族の異同を研究するには、おのづから其の方法があるといふことは、此の著の最初に於いて述べたとほりであるが、少くとも記紀の物語によつて考へ得られる時代のことに關しては、其のうちの言語の問題について、記紀からもまたその資料を供給することができる。民族の一大特徴が言語にあることはいふまでもないが、ツクシまたはヤマト地方とイヅモとの住民が、もしくは治者に屬するものと被治者に屬するものとが、互に異なつた言語を用ゐてゐたといふやうなことには、何等の徴證が無い。記紀に見える神々の名でも人の名でも、みな同一言語として解せられるではないか。記紀の物語はヤマトの朝廷で書かれたものではあるが、さういふ名稱などはイヅモ人にも、またイヅモ人を實際に知つてゐる一般の人々にも、承認せられることでなくてはならぬ(313)から、イヅモ人が特殊の言語を用ゐる異民族であつたならば、こんな名が書かれ又は作られるはずがない。治者に屬するものと被治者に屬するものとの關係に於いても、また同樣である。(後に作られた特殊の物語に於いて、ヒボコを新羅人として語り、またはエミシの首長を島つ神國つ神と書いてあるのは、これとは意味が違ふ。これらは新羅人やエミシに知られることを豫期してゐないものである。)一民族の言語が他の民族に同化せられることはあるにしても、それは文化の上、又は政治的勢力の上に於いて、甚しい懸隔があり、而も兩民族が雜居または雜婚してゐて、劣等民族が優等民族の言語を用ゐなければならぬほどに、其の日常生活が相互に離るべからざる關係を有する場合のことである。さうしてそれにしても極めて長い年月を要する。だから、さうなつた時代には、最早それ/”\の民族が地方的に獨立の勢力を有することはできなくなつてゐる。記紀の物語に現はれてゐる時代に於いて、民族としての地方的勢力があつたと考へることは、單に此の點から見たのみでも、甚だ不合理である。もしまた、一民族が他の民族を征服するといふ場合に、其の二民族が既に同一の言語を用ゐてゐるといふやうなことを考へるならば、それは其の考自身が既に矛盾した觀念を含んでゐるといはなければならぬ。同一の言語を用ゐるやうになつてゐるならば、それはもはや異民族としてそれを取扱ふことはできないからである。或はまた記紀に見える言語などは既に民族の混同した後のものであるが、その言語によつて語られてゐる物語はまだそれが獨立して爭つてゐた時代の話である、といふやうな考があるかも知れぬが、それは物語そのものと矛盾してゐる。言語のことを除けて見ても、異民族間の爭を敍した物語であるといふやうなことを示す何等の證跡が無いからである。のみならず、舊辭の物語のかゝれた時にさう古い物語が傳へられてゐたとすることも、不可能であらう。民族の混同には、甚だ長い時間を要するからである。これ(314)は言語だけの話であるが、上代人の間に於いて、其の心生活に於いても、又は外部に現はれてゐる生活?態に於いても、果して民族を異にしてゐると見なければならぬだけの相違のあることが、一體、何處に發見せられるであらうか。われ/\の民族のうちには、或は遠い昔の何の時か何のところかに於いて、混合した異人種もしくは異民族の分子があるでもあらう。いかなる民族にもかういふ混合の全く無かつたものは、無いからである。さうしてそこに人種や民族に關する學問的研究の問題があるであらう。けれどもそれは記紀の語るところではない。のみならず、少くとも言語の上からは、さういふ人種的もしくは民族的混合のあつた形迹が、記紀の物語の上に見えてゐないことを、記紀は主張する。しかし今こゝではわれ/\の民族や人種のことを論ずるのではない。たゞ記紀の性質を明かにするために、記紀によつて考へ得べきことを一言し、記紀には決して、天孫民族とか出雲民族とかいふやうな異民族があつて、それが衝突したといふやうなことが、語られてゐないことを、説いて置くまでである。
 要するに、記紀をその語るがまゝに解釋する以上、民族の起源とか由來とかいふやうなことに關する思想を、そこに發見することはできないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとすることは、我が皇室及び國家の起源であつて、民族の由來といふやうなことではなかつたことを示すものである。皇族もそれに從屬する諸氏族も、また一般民衆も、共に一つの日本民族であつたことは、昔の帝紀舊辭の編述者にもわかつてはゐたであらうが、民族といふやうな概念はそのころは形づくられてゐなかつたから、その起源を語らうといふ欲求もまた生じなかつたのである。
 結語として述べるべきことは、これまでの考説でほゞ盡されたやうである。そこで總括していふと、記紀の上代の部分の根據となつてゐる最初の帝紀舊辭は、六世紀の中ごろの我が國の政治形態に基づき、當時の朝廷の思想を以て、(315)皇室の由來とその權威の發展の?態とを語らうとしたものである。さうしてそれは、少くとも一世紀以上の長い間に、幾樣の考を以て幾度も潤色せられ或は變改せられて、記紀の記載となつたのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事實の記録として認めることはできない。しかし、それに見えてゐる思想や風俗が物語の形成せられた時代の嚴然たる歴史的事實であることは勿論、全體の結構の上にも、それを貫通してゐる精神の上にも、當時の朝廷及び朝廷に於いて有力なる地位をもつてゐた諸氏族の政治觀國家觀が明瞭に現はれてゐるのであるから、さういふ人々の思想に存在してゐる國家形態の精神を表現したものとして、それが無上の價値を有する一大寶典であることはいふまでもなく、從つてそれに含まれてゐる一々の物語が實際に起つた事件の經過を記したものでないといふことは、毫も此の點に於ける記紀の價値を減損するものではない。古事記及びそれに應ずる部分の書紀の記載は、歴史ではなくして物語である。さうして物語は歴史よりも却つてよく國民の思想を語るものである。これが此の篇に於いて、反覆證明しようとしたところである。
 
(317)     第三篇 神代の物語
 
       第一章 緒論
 
 古事記及び日本書紀の卷首にあつて重大の意義を有する神代の物語、即ち普通に神代史といはれてゐるもの、が太安萬侶の所謂帝紀(帝皇日繼即ち皇室の系譜)及び舊辭(もしくは本辭、即ち上代のことに擬せられた種々の物語)に於いて、主要なる部分を占めてゐたものであるべきことは、第一篇で考へたところから、おのづから知られよう。くりかへしていふことになるが、此の帝紀及び舊辭が、もと朝廷に於いて編述せられたものであること、その最初の編述はほゞ欽明朝ごろ、即ち六世紀の中ごろであつたらしく推測せられること、その時、帝紀の材料としては、應神天皇以後については、ほゞ信用すべき記録があつたらしいが、舊辭に於いては確實な史料が殆ど無かつたこと、帝紀も舊辭も最初の編述の後、朝廷に於いても、幾度か(或る場合にはかなり大きい)増補變改が施されたこと、また私人の間に於いても、局部的の添削が、さま/”\の時代にさま/”\の人によつて、いろ/\に行はれ、從つて七世紀の中ごろにはそれに種々の異本が存在し、所説が區々になつてゐたので、天武朝には朝廷の手で權威ある定説を作る必要が感ぜられるやうになつたこと、かういふ數多い異本のうちの或る帝紀と或る舊辭とが古事記の原本となつたので(318)あるが、其の帝紀も舊辭も決して最初に編述せられたまゝのものではなく、さうして舊辭は、其の内容に於いて幾多の變改を經てはゐるが、語られてゐる時代の範圍は最初のまゝであるらしいのに、帝紀は、さま/”\に加へられた潤色のために、最初のものとは面目が變つてゐるのみならず、後の時代の系譜まで書き添へてあるものであつたこと、古事記の原本となつた帝紀と舊辭とは、稗田阿禮が誦習して訓詁を施して置いたものであつて、編者の太安萬侶は、それによつて讀み難かつた原本の文字を解し易く書き改め、且つ此の二つをそれ/”\歴代ごとに分割してつなぎ合はせ、さうして古事記といふ一つの成書にまとめあげたといふこと、また帝紀と舊辭との種々の異本が書紀の上代の部分(古事記に物語のある時代)の主要なる材料となつてゐるのみならず、其の異本の或る部分づつが斷片的に、注記として、書紀に遺存してゐること、書紀には其の外に、後になつて作られた物語や編者の構想したことやが加へられ、さうしてそれが年代記の形によつて排列せられてゐること、なほ舊辭の仲哀天皇以前の部分は、編述せられた時代の政治上の?態、應神天皇以後に起つた歴史的事件のおぼろげないひ傳へ、又は民間説話などを、おもな材料とし、編者の構想でそれらを潤色、結合、按排し、さうしてそれを古い時代のことのやうに敍述したものと考へられること、その編者の意圖は、全體としては、皇室の起源を説明し、並にその權威が漸次日本民族の全部にゆきわたり、また海をこえて半島の一部にまで及んだことを、歴史的物語の形を以て示さうとするのが主であり、また一々の物語としては、ヤマトに都のある現在の?態、イヅモ、クマソ、新羅、などに對するヤマトの朝廷の關係について、それ/”\その由來を説かうとするところにあつたといふこと、これらが前の二篇に於いて反覆考證して置いたことである。さて此の見解は、古事記の卷頭に載せてある安萬侶の上表、書紀の編纂せられた當時の事情、竝に記紀の記載の性質や其(319)の形態、などの上から概觀した大體論と、それとは別に試みた神武天皇から仲哀天皇(竝に神功皇后)までの系譜、および主要なる物語の一々、に對する研究とによつて、到達した結論である。
 上に述べたところは、帝紀舊辭の性質及び由來と、それが記紀の記載となるまでの經過とに、關する一般的見解であるが、神代史は實にかういふ帝紀舊辭のはじめの部分をなしてゐたものである。そこで、仲哀天皇の物語からはじめ順次溯つて神武天皇の物語に及んだ前篇の考察を承け、その第六章の終の「神代と人代」とを橋梁として、この神代の物語に入らうとするのである。ところで、こゝに一つ考ふべきは、神代史が、其の帝紀舊辭に於いて、他の部分から特に區別せられてゐたか、神武天皇以後の物語に比べて、何か異なつた面目を具へてゐたか、といふことである。書紀には明かに「神代」といふ標目を掲げてあるが、古事記にはさういふ名稱はなく、神武天皇の卷のはじめにも、特にそこを新しい時代の始として取扱つたやうな筆致は見えず、寧ろ神代からの引つゞいた物語として説き出されてゐるやうにも見える。しかしその古事記でも、神武天皇以後の部分と神代のとは、おのづから違つた形態になつてゐるので、神代のはその全體が一つのまとまつた物語として語られてゐるのに、神武天皇以後のは一代ごとに話が改まつてゐる。古事記には帝紀と舊辭との原本の面影がひどく毀損せられずに殘つてゐるのであらうが、神武天皇の物語が神代のから引きつゞいてゐることと、それでありながら違つた形態になつて來てゐることとは、神代の物語の本來の精神をよく傳へてゐるものではあるまいか。なほその内容をなす神の取扱ひ方に於いて、神代の部分と神武天皇の物語との間に明かな違ひのあることは、第二篇第六章の「神代と人代」に於いて考へて置いた。古事記に神代といふ名が無くても神代といふ特殊の觀念があり、從つて神代史が人代とせられてから後の物語と區別せられてゐること(320)は、明かである。さうしてこれは帝紀舊辭に於いて既にさうなつてゐたと見なければなるまい。神代といふ語が帝紀舊辭の初めて編述せられた時にあつたかどうかは、明かでないが、書紀編纂の時に初めて作られたものでないことは、確かである。この語は萬葉卷一の天智天皇の御製にも見え、卷三の柿本人麻呂の作にも用ゐられてゐるからである。
 ところで、かういふ神代は、第二篇に説いて置いたごとく、事實上の存在ではなくして觀念上の存在である。從つて神代と人代との區別もまた單に觀念上のことであつて、その境界をヤマト奠都の一事によつて明かに劃してあるのは、最もよくそれを示すものである。ヤマト奠都そのことが思想の上で構成せられたものであるとすれば、なほさらである。なほ神代といふ觀念が皇室についてのものであることも、第二篇で述べたとほりである。(だから神代と人代との區別といふことは今日の學問的知識に於ける先史時代もしくは傳説時代と歴史時代との區別といふやうなこととは、全く意義が違ふ。)
 さて神代が觀念上の存在であるとすれば、其の神代といふことの意味も、其の神の性質も、また其の代の物語も、かういふ觀念の形づくられた時代の人々の思想が、それに反映してゐると見なければならぬ。そこで神代史を考へるに當つては、帝紀舊辭の初めて編述せられたころから、それが記紀の記載となつて現はれる時代までの、思想界の?態をよく理解して置かねばならぬ。しかし當時の國民が遠い過去から傳へ有つてゐた宗教的信仰や道コ思想、又は彼等の日常生活や社會組織や政治上の制度や對外的地位や、さういふ實際?態から自然に釀成せられ、また其の變化に伴つておのづから推移して來た思想については、これまでのいろ/\の學者の研究によつて知られてゐる限りは、一般にほゞ知れわたつてゐることであるから、それをこゝで煩はしく説くには及ぶまい。(實をいふと、これらの問題に(321)ついても、ほんとうにはわかつてゐないことが甚だ多いので、それが何れも根本的の、また新しい方法での、研究を要するものであることは、いふまでもない。)たゞ我々の民族全體の統治者としての皇室の地位が既に鞏固になつてゐ、皇位は遠い昔からの世襲であるとして一般に信ぜられてゐたこと、大化改新以前の政治組織が所謂氏族制度であつたことを特に注意して置けばよい。一々のことは、必要に應じ後章に於いて述べるであらう。けれども知識社合の知識としてシナから傳へられた特殊の思想については、豫め一言して置く方が便利であらうと思ふ。
 ヤマトの朝廷とシナとの交通が五世紀に始まつてゐて、それが南方シナに對するものであり、從つてヤマトの朝廷を中心とする貴族社倉に傳へられた文化が、所謂六朝のそれであつたことは、今さらいふまでもあるまい。帝紀舊辭の最初に編述せられたのは、實に彼の地の梁代に當る時であつたのである。ところが、六朝時代は神僊の説、道家の思想、讖緯の學、及び種々の方術の、流行した時である。儒教も勿論存在してゐたけれども、世に廣くもてはやされたのは、それよりも寧ろ此の方面のものであつた。だから五世紀から六世紀にかけてシナからヤマトに傳へられたものには、儒教の經典と共に神僊家や道家の書、また緯書、方術書、の類が少からずあつたらうと思はれる。トコヨの國といふ觀念が神僊思想に胚胎してゐること(「第二篇」第五章第二節參照)、天皇といふ稱號の文字、また神の名に「尊」の字をつけることが道家の書に由來のあること(「日本上代史の研究」附録「天皇考」參照)、また大祓の時に東西の文部の讀む呪文が、やはり道家の思想から來てゐることなどでも、其の一斑が知られ、明證は無いが讖緯説に關する知識も、また六朝から傳へられてゐたであらう。天文や遁甲などの方術が學ばれたことは推古紀に記載があるが、それが百濟の僧の教へたものだとすれば、やはり南朝から齎らされたものらしい。讖緯の學もかういふ方術と密(322)接の關係があるから、それが學ばれたことは當然である。それから六朝時代は種々の民間説話などが知識人の注意をひいて、神怪奇異の物語の多く作られ若しくは編纂せられた時であるが、それもまたヤマト人に傳へられたらしい。浦島傳説の淵源はけだしこゝにあるのであらう。ところで、大陸が隋となり唐となると共に、推古朝以後、盛にその文物を學び、政治上の制度までもそれに倣つて大改革を行ふやうになつたのであるが、前々から入つてゐた六朝時代の知識は貴族社會の思想にかなり深くしみこんでゐる上に、同じものがまた此の時代に引續いて輸入せられた。從つて神僊家や道家の知識はます/\加はり、特に讖緯の思想の如きは、實際政治の上にもいろ/\現はれて來た。休祥のことが書紀の所々に散見するのは、此の思想の存在を示すものであるが、孝コ紀白雉元年の條に見える僧旻法師の言に「王者コ澤旁流四表、則白雉見、」とあるのは、實に春秋緯の感精符の文であり、「王者祭祀不相踰、宴食衣服有節、則至、」は孝經緯の援神契の語である。神武天皇の即位を辛酉とすることが緯書の思想から出てゐることについては、既に世に定説がある。さてこれらの事實を頭に入れて置いて、かういふ思想の行はれてゐた時代、特にシナとの交通が頻繁になるにつれてそれが漸次濃厚を加へ、また新奇な思想が人の興味をひくに從つてそれに權威がついて來るといふ時代に、帝紀舊辭が編述せられまた潤色せられたことを考へると、神代史を解釋するにも之を閑却し難いことがわかるであらう。
 次に一言すべきは佛教である。帝紀舊辭の初めて編述せられたのは、佛教のまだ傳へられない時もしくは纔かに入つたばかりの時のことであるから、神代史の上にも何等の影響を及ぼさなかつたに違ひない。しかしそれから後、記紀の編纂せられるまでの間に於いて、佛教は急速に世に弘まり、人の思想をも動かした。さうして其の間に帝紀舊辭(323)は種々に潤色せられたのである。けれども、此の時代に於ける佛教は、其の傳來がなほ新しく、またあまりに異國的色彩が濃厚であつたがために、我が國のものではないといふ感じを、それに對して抱かせたらしい。初めて佛教の來た時に蕃神拜すべからずといふ説があつたといふのは、どれだけ歴史的事實として信ずべきものか、考ふべき餘地はあるが(第四篇の考説參照)、佛教の行はれるやうになつて後も、かなり長い間は、それを信じながら、やはり異國のものとして見てゐたので、それは用明紀に「信佛法、尊神道、」また孝コ紀に「尊佛法、輕神道、」とあり「佛法」と「神道」とを對稱してあるのでも知られよう(かういふ類の評語は、此の前後の歴代について慣例の如くに記されてゐるから、書紀の編者の構造したものかも知れず、從つてそれがどれだけ事實に根據のあるものか、頗るおぼつかなく思はれるが、これについては第四篇で考へるであらう)。「神道」はシナの成語を借用したものであるが、特にさういふ名の借用せられたのは、外來の佛教に對して、我が國の風習である祭祀や呪術を守持する意味からであつたらう。シナ思想は單に知識として與へられたものであり、道書はいくらか來てゐても道教は傳はらず、また歸化した少數のシナ人が、よし幾らか故郷風の宗教的祭祀などを行つてゐて、それが人に知られたとしても、それは佛教の如き傳道的性質を有し堂々たる宗教の形を具へてゐるものとは、勿論、比較にもならぬものである。だから、シナ思想の與へた感じは佛教とは全く違ひ、それに對して國風を守持するといふやうな考は起らなかつたのである。またシナ思想は我が國の思想界のまだ幼稚であつた昔から傳へられてゐる上に、文字を有たなかつた國民がシナの典籍から出たシナの文字を用ゐる以上、知らず/\の間にシナ思想を受け入れて、我が國のことをもそれによつて解釋し、或はそれと結びつけることにもなつたのであり、特にシナや百濟の歸化人が文權を握つてゐたことを思ふと、なほさらさう考へ(324)ねばならぬが、後から入つて來た佛教やその僧侶については、さういふこともなかつた。だから帝紀舊辭の潤色の際にも、我が國のこととして考へられてゐた神代の話には、少くとも其の重要な點に於いては、佛教思想の取入れられる因縁が無かつたやうである。關係の無いものをわざ/\無いとことはつて置くには及ばないやうであるが、シナ思想の影響のあることを注意しながら、それと同時に行はれてゐた佛教について黙して居るのは、或は讀者に疑を起させはしないかと思つたまゝ、贅言をこゝに加へたのである。
 さて著者は上記の一般的考説を背景として、次章より神代史の研究を試みようとおもふ。此の研究は第二篇に於いて神武天皇から仲哀天皇までの系譜や其の間の一々の物語やに對して企てたのと、同樣の態度と方法とを以てするのであり、畢竟、其の繼續と見なさるべきものであるから、其の研究の結果を利用することはあるが、しかし前に述べた如き帝紀舊辭の全體の性質から見た考察を前提とするものではなく、それとは別に行ふものである。が、もし上記の大體論が大過の無いものであるならば、それはおのづから下文の研究から引き出さるべき結論と符合することになるであらう。
 
(325)       第二章 天地のはじめに神々の生り出でた物語
 
 古事記にも日本書紀にも、其の卷頭には、イサナキ・イサナミ二神が國土や神々やを生まれない前に生り出でた神々のことが説いてある。さて天地剖判のことを書いた書紀の文章が、淮南子天文訓と三五暦記とからぬきとつて、それをつなぎ合はせたものであることは、今さらいふまでもないが、これについては、天地剖判の思想そのものがこれらのシナの書物から來てゐるのか、又はさういふ思想は我々の民族の間に古くからあつたものであつて、書紀の記載はたゞ文章をシナの書物から借りて來たに過ぎないのであるか、そこに問題がある。ところが、此の思想は、神代史の重要なる部分となつてゐる二神が國土を生まれたといふ話と矛盾してゐるのみならず、古事記に「國稚く浮脂の如くしてくらげなす漂へる時」とあり書紀に「洲壤浮漂、譬猶遊魚之浮水上、」とある話ともまた調和しないものであるので、これが先づ考ふべきことである。もつとも同じ民族の間にも互に一致しない種々の思想が共存し得ないではなからうし、特に後にいふやうに、上記の二つの話はいづれも民間に行はれてゐたものらしくはないのであるから、單に此の點のみで天地剖判説が外來のものであると速斷することはできないかも知れぬが、それが物語をなしてゐない、思惟によつて形づくられた宇宙生成論であることは、それが民間説話から出たものでないことの證據としてさしつかへがなからう。だから此の思想は文字と共にシナから借りたに過ぎないものと見なければなるまい。
 しかし此の思想は、書紀に於いて初めて採用せられたのではない。書紀の注に「一書」として載せてある舊辭の異(326)本六本のうちの三本までには「天地初判」の語がある。他の一本に「天地混成之時」とあるのも、此の割判説を豫想しなくては解し難き文字であり、さうしてそれは淮南子などの思想の一淵源をなしてゐる「老子」の「有物混成、先天地生、」から轉じて來てゐるものらしい。「天地混成」といふ熟語が開闢論の説いてあるシナの文獻に存在してゐたかどうかは知らぬが、本來、淮南子に見える天地剖判説は、遠い昔からいひ傳へられて來た民間説話にその淵源はあらう*が、それがかういふ形をとつたのは、太極から兩儀が生ずるといふ易の思想と「老子」の道の説とを混和して、それをこの民間説話としての宇宙生成論に結合したものであつて、後漢の張衡が書いた靈憲などを見ても、其の思想の形成せられた過程が溯つて推知せられるし、上記の「老子」の語も此の靈憲の文中に採られてゐる。「天地混成」の語の由來と、それが剖判説と密接の關係のあることとは、これで推察せられよう。此の本に「神人」といふ語もあるが、これもシナ傳來のであつて、道家の書や神僊を説いたものに常に見える文字であることは、いふまでもあるまい。もつともこゝの注に「一書曰」として載せてある多くの「一書」の文章は、書紀の編者が書き改めたものであつて、舊辭の原本とは文體が違つてゐるらしいから、これらの文字もまた書紀の編者の筆になつたものとして解せられはすまいか、といふ疑もあらうが、別の「一書」に「天地初判」の語が無くして、それとは全く違つた思想を「國稚地稚之時」といふ語でいひあらはしてあることから考へると、これはやはり原本に存在した文字、少くとも思想、であつたらうと推測せられる。かう考へると、古事記の「天地初發〔二字傍点〕*」もまた此の思想から一轉したものであることが、おのづから想像せられよう。此の語が、文字のまゝでは殆ど意義をなさないものであることを、考へるがよい。これは何かから轉じて來なくては書かれない文字である。さうして、此の「天地初發」の時に先づタカマノハラに神が生り(327)出で、次にまだ固まらない土地に神が現はれた、といふのは、書紀にも採つてある「天先成而地後定」(淮南子天文訓)の思想を繼承したものらしく、また最初にアメノミナカヌシの神があつて、次にタカミムスビ・カミミムスビの二神が硯はれ、初の神々は獨神であつて次に男女?生の神々が出て來る、といふのが、太極から兩儀が生じ陰陽未分の?態から陰陽が判れる、といふ思想の所産として考へ得られることも、また此の推測を助けるものであらう。
 ところで、上に引いた如く、記紀の何れにも、土地のまだ固まらない時代があつた、といふ思想が別にあるが、此の思想は淮南子にも三五暦記にも見えてゐない。強ひて考へれば天地剖判の説と結びつけ得られないではなく、天地の判れたばかりの時には地がまだ固まらなかつたのだ、と解せられなくもなからうが、淮南子以下の剖判説の由來をなしてゐる思想は、現に在る如き天地を其のまゝ陰陽として考へたのであるから、それが宇宙生成論に適用せられても、やはり此の根本の思想は變らず、民間説話から出たらしい盤古説話をそれに結合した三五暦記の思想に於いても、また剖判の初から(距離こそ次第に遠ざかつて來たのであるが)天地は今の如き天地であつた如く説かれてゐる。のみならず、さういふ宇宙生成論は、記紀の此の話のやうな具體的な想像とは、全く考へかたが違つてゐる。だから、これはシナ傳來の思想ではなくして、我が國民の間に生じたものと見なければなるまい。特に此の固まらない土地が海上に浮いてゐるかの如く考へられてゐたらしいことを思ふと、それは島國人の想像として最もふさはしいものなのである。「國稚く浮き膏の如くしてくらげなす漂へる」といひ「洲壤浮漂、譬猶遊魚之浮水上、」といふのは、文字そのものからいふと、必しも此の固まらない土地が海上に浮いてゐるといふ意義ではなく、書紀の注の「一書」の「國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩、」とあるのも、また同じことであつて、單に泥土のやはらかい?態を形容したものでは(328)あるが、どの異本にも、其の形容がかういふ風になつてゐるのは、どの記者の脳裡にも、海に漂ふといふことがすぐに浮かんで來たからであつて、それはまた此の説話が、何人にも、海を離れて考へられないものだからではあるまいか。別の「一書」には「天地未生之時、譬猶海上浮雲無所根係、」とあるが、極めて無理な又は無意味な着想ながら浮雲をすら強ひて海上にあるとしたのを見るがよい。(この「一書」の説を文字どほりに解釋すれば「天地未生之時」の意義が不明であつて、強ひて考へれば混沌未分の?態を指すものとでもしなければなるまいが、さすれば此の形容はまだ固まらない土地についていふのとは違ふ。けれども記紀の本文及び他の「一書」の説に參照すると、さういふ特殊の思想が別にあるらしくは見えないから、これは行文の上に不用意に表はれた觀念の錯誤であらうと考へられる。)たゞ最後の「一書」に、浮膏の如きものが空中〔二字傍点〕に生り出でた、とあるのは異なつた考であるが、これは葦牙の如きものが同じく空中〔二字傍点〕に生り出でた、といふ同じ「一書」の説と共に、後の轉訛に違ひない。次にもいふやうに、葦牙といふ觀念は土地の觀念に附隨して初めて生じ得べきものだからである(此の「一書」の説は、浮膏の如き泥土から葦牙の如きものが生じた、といふ思想の無意味に二分せられたものに過ぎなからう)。
 然らば此の思想は古くから民間に存在してゐたものであらうか、但しは神代史の作者の創意であらうか、といふに明確にはそれを判斷しかねる。土地の起源を説明した説話は多くの未開民族に存在し、さうして、やはらかい泥土が乾いて固い土地になるといふ、何人も經驗してゐる、目前の事實は、土地のはじめを泥の如き?態であつたやうに考へさせ得るのであり、現にアメリカ土人の間にもさういふ説話があるのであるから、われ/\の民族にも記紀の此の説の如き民間説話があつたと見るに、さしたる不都合が無いやうにも思はれる。しかし、單にこれだけのことでは、(329)民間説話としてあまりに物足りない。民間説話ならば、そこに何かの物語がありさうなものであり、また土地が如何に固まつて來たかの説話も無くてはなるまいに、それが無い。葦牙の如きものが、そこに生り出でたとあつて、それは泥土の觀念に附隨して生じた考であるが、しかし此の葦牙から何の物語も展開せられず、またそれは土地の固まるのと何の關係も無いではないか。さうして記紀のオホヤシマの生まれた物語は、此の土地の起瀕説とは全く關係が無い。オホヤシマの生まれた物語は、後にいふやうに政治的意義に於いての我が國土の本原を説いたものであり、神代史の作者によつて構想せられたものであらうと思はれるが、よしさうであるにしても、一般に行はれてゐる民間説話として土地の起源を説いた話があつたならば、神代史の作者も、それを全く顧みないでオホヤシマの生まれた物語を案出し得なかつたらう。だから記紀の此の説を民間説話から出たものとして考へるにはいくらかの困難もある、といはねばならぬ。但し物語の無いといふことについては、葦牙の如きものから神の生り出でた物語があるではないか、といふ反問が來るかも知れぬ。そこで問題は轉じて天地の初に生り出でたといふ神々の性質に移る。
 天地の初に生り出でたといふ神々については、異説が甚だ多い。古事記には、最初タカマノハラにアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミミムスビ、の三神がなり出でたとあつて、これと同じことは書紀の注の一つの「一書」の説にも「又曰」として附記してあるが、書紀の本文にも注の多くの「一書」にも、それは出てゐない。さて古事記では、タカミムスビの神が後の物語に於いて重い地位に置かれてゐるが、此の點は書紀の本文でもまた多くの「一書」でも同樣である(本文に於いてさうなつてゐるのは、書紀の編纂の杜撰なことを示す一例である)。だから種々の物語の記してある舊辭の多くの異本ができたころには、少くともタカミムスビの神は一般に知られてゐたのであるが、此の(330)神の生り出でたことが、書紀の本文にも注の多くの「一書」にも見えないのは、何故であらうか。それは、此の神が晩出の神であつて、最初に作られた神の系譜(多分、所謂帝紀即ち皇室の系譜のはじめに加へてあつたと思はれるもの)には勿論のこと、かなり後の潤色を經てゐる系譜の諸本にも載つてゐなかつたので、書紀の注の多くの「一書」が即ちそれであり、卷首の本文もまた其の説を傳へてゐるのであるが、後になつて此の神の名が世に現はれ、神の系譜の一二の異本に書き添へられたのが、古事記の記載、また書紀の注の一つの「一書」に附託せられた説、として今に遺存するものである、また物語の記されてゐる舊辭に於いても、其の最初の形に於いては此の神は無かつたが、後に傳はつた多くの異本には、かういふ神の生まれた後になつて補はれた話が記されてゐたので、書紀の本文にも古事記及び書紀の注の多くの「一書」にも、それが傳へられてゐる、と解する外はあるまい。帝紀と舊辭とは別々に取扱はれてゐたので、後人の種々の添削もまた獨立に行はれ、從つて其の間に不調和な點や齟齬する場合が生じた、といふことは、既に説いたところである(第二篇第二章第四節及び第五章第一節參照)。古事記、書紀の本文、及び注の多くの「一書」の、ホノニニギの命の天くだりの物語に於いて、此の神がはたらいてゐる場合でも、それを除き去つて物語の上に何の支障も生じないほど、それは話の全體の筋から遊離してゐるものである、即ち物語の上で重い地位は與へられてゐるが物語のくみたての上からいふと無くてもすむものであつて(後章參照)、これもまた此の神の名が舊辭の既に作られた後になつて添加せられたものであることを證するものであらう。さうして、タカミムスビの神と離して考へることのできないカミミムスビの神は、古事記のオホゲツヒメ及びイヅモに關する説話に於いて、而も神代史の本筋には全く關係の無い、除き去つても毫も支障の生じない、遊離的の插話に於いてあらはれるのみであつて、書紀の(331)本文にもその注の多くの「一書」にも見えてゐないこと(古事記ではスクナヒコナの神の親としてあるカミミスビの神を書紀の注の「一書」ではタカミムスビの神としてある)、アメノミナカヌシの神は物語の上には全く現はれてゐないこと、などもまた上記の推考を助けるものである。タカミムスビの神のみが何故に物語に於いて重要なる地位を占めてゐるかといふことについては、確かにはいはれぬが、オシホミミの命の后のヨロヅハタトヨアキツシヒメ(またはタクハタチチヒメまたはタクハタチハタヒメ)の父とせられたからであり、さうして此の血統關係は、此の后の父として最も尊貴な神を選んだために作られたのであらうと思はれる(後章參照)。オモヒカネの神もまたタカミムスビの神の子としてあるが、これもかういふ此の神の地位から派生したのであらう。ところが、タカミムスビの神に(又はカミミムスビの神にも)子があるといふことは、古事記に獨神隱身としてある此の神の性質と明かに矛盾してゐる。だから此の點もまた、物語に此の神の名を出したのが後人のしわざである一證となるであらう。次にいふやうに、古事記の卷頭にある神々の組合せは、其の神々の名が作られた後になつて、それとは別に、構造せられたものであるらしいが、獨神隱身といふやうな觀念は、此の神に子があるといふ物語が一般に知られてから後になつて生じたものとは考へ得られないから、やはりさういふ物語のできない前から此の神に與へられてゐた性質であらう。顯宗紀には此の神が日月二神の祖となつてゐて、これは明かに神代史の所説と矛盾してゐるが、後になるとかういふ新しい話がかなり恣に作られてゆくのである。神代史の物語に此の神が現はれてヨロヅハタトヨアキツシヒメの父とせられた徑路も、また之によつておのづから了解せられよう。が、それはともかくもとして、上に述べたところを綜合して見れば、此の三神が本來名まへだけの神であり、また晩出の神であることには疑が無からう。さうして此のことは神(332)の性質の上からも肯定せられる。
 さてアメノミナカヌシといふ名の意義は説明するまでもないが、タカミムスビとカミミムスビとが、ムスビ即ち生産する靈妙なはたらきとでもいふべき概念を擬人して神の名としたものであることも、また明かであらう。(抽象的な觀念に過ぎない此の神が隱身とせられたのは、よく神の性質に適合する。)タカとカミとは神の名に加へられた美稱であり、さうしてかういふ美稱を冠らせることと、一つの觀念に異なつた美稱を冠らせて二つの神の名を作り、それを連稱することとは、後にいふやうに神代史上の神の名には殆ど一般の慣例であるし、また第一篇(第五章)で述べたやうに、所謂人代になつてからの系譜や物語やに見える人の名にも例が多い。ところが、アメノミナカヌシの神が、民間崇拜の對象として、宗教的に信仰せられてゐた神でないことは、さういふ推測のできる徴證がどこにも無いことからも、また第二篇(第五章第一節)に於いて説いたやうな上代人の宗教思想からも、明白であつて、朝廷の祭祀に用ゐられた祝詞にも此の神の名は全く現はれてゐない。天のも中に一つの神がある、といふやうな思想は、上代の日本人に於いて全くそれを認めることができないので、神代の物語にも祝詞の類にも記紀萬葉の歌謠にも、すべてに於いて、かういふ思想は見えてゐない。もう一層ひろくいふと、天といふ觀念が、上代の日本民族の宗教思想に於いては、重要なものではなかつたのである(後章參照)。それからムスビの神についても、かういふ抽象的概念を擬人するやうなことは、知性の發達したものに於いて始めてなし得るのであり、さうしてそれは、我が上代に於いては、シナの學問によつて啓發せられなければできないことであつた。ムスビの神もまた決して民間信仰の神ではない。(神代史に始めて現はれた神の名が後になつて或る神社の祭神の名とせられることはあるので、ムスビの神もまた其(333)の一例であるが、それとても、實際の信仰が此の神の名によつて示されてゐるが如き意義に於いてであるとは、限らない。)かう考へると、これらの神々の名にも其の性質にも、シナ思想の影響のあることが、おのづから推測せられよう。アメノミナカヌシの神の生じたのも、また天といふことに重きを置かない上代人がムスビの神を天になり出でたとするのも、シナ思想に由來があるとすれば容易に了解せられる。ところがシナに於いては、天または天の精靈としての上帝が崇拜せられてゐるが、天のも中に神があるといふ思想は上代にはなかつた。少くとも明かには文獻の上に見えてゐない。たゞ六朝時代になると、天帝が元始天王といふ名によつて道家の所説に現はれ、それが天の中心の上にあることになつてゐる。さうして此の元始天王は、其の名の示す如く、宇宙の太初、混沌未分の時、に生り出で、天地が分れてからは天にゐることになつてゐる。前にも述べたやうに、六朝ころのシナ思想が六七世紀の我が國の文化に及ぼした影響の少なくないことを思ふと、天地初發の時に天に成り出でたといふアメノミナカヌシの神と、此の元始天王との間に、思想上、何等かの關係のあることを、推測してもよからうではないか。かう考へると、ムスビの神を天になり出でさせたのも、また天に生々のコがあるとするシナ思想に淵源がありはしまいか。ムスビといふ觀念は必しもシナ思想から出たとする必要は無いが、ムスビの神が天にあるといふことは、かう考へて始めて解釋せられるのではあるまいか。天に生々のコがあるといふ天は、仰ぎ見られる天であるよりは、むしろ自然といふやうな意義でいはれたものらしいが、しかし此の二つの意義での天は、はつきり區別せられてゐるのではなく、さうして同じく天といはれてゐるのであるから、かう考へてもむりではあるまい。なほ上に述べた如く、これらの神の生り出でた順序などにも、シナ思想の影響のあることを參考するがよい。此の臆説に理由があるならば、これらの神が抽象的概念(334)から形成せられたものであることも、神代史の物語と本質的の關係の無いものであることも、また民間信仰の對象としての神でないことも、當然であらう。
 古事記に於いて此の三神の次に生り出でたとせられてゐる神々についても、書紀の本文とその注の多くの異本とにはいろ/\の異説が見えてゐる。古事記では、かの葦牙の如きものによつてウマシアシカビヒコヂの神が生り出で、次にアメノトコタチの神、クニノトコタチの神、などが生り出でたとある。どこに生り出でたか少しく曖昧であるが、「葦牙の如きもの」は、文勢の上から考へても、葦牙といふ觀念そのものから推測しても、まだ固まらない土地の上に萌えあがつたとしなければなるまいから、ウマシアシカビヒコヂの神は土地の上に生り出でたものと解するのが當然であらう。書紀の注の第二の「一書」に「古國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩、于時國中〔二字傍点〕生物、?如葦牙之抽出也、因此有化生之神、號可美葦牙彦舅尊、」とあるのは、明確にそれを語つてゐる。それからアメノトコタチの神以下は、葦牙の如きものと關係があるのか無いのか、古事記の本文ではやゝ不明であるが、書紀の本文にも注の二つの「一書」(此の條の第五及び第六に擧げてあるもの)にも、或はクニノトコタチの神、或はアメノトコタチの神が、此の葦牙の如きものから化生したとあるから、古事記の説でもやはりさうであらうと思はれる。のみならず、ウマシアシカビヒコヂといふのは、アシカビを擬人して神の名とし、それにウマシといふ美稱を冠らせたのであるが、アメノトコタチ、クニノトコタチ、並に其のつぎ/”\の神々の名とは、名のつけ方があまりに違つてゐて、調和を缺いてゐるから、これは後になつて添加せられたものではあるまいか。書紀の本文にも注の「一書」のうちのいくつかにも、此の名が出てゐないのは、此の故であらう。さすれば、アメノトコタチ、クニノトコタチ、などの神が、葦牙の如きものによ(335)つて、まだ固まらない土地の上に生り出でた、といふのが、此の話の初の形であつたらう。これらの神々のあとにウヒヂニ、スヒヂニ、以下の男女?生の神々が生まれたとあつて、その神々の名は土地もしくは地上の事物の發生及び形成の?態に關係があるらしく、從つて、それらはみな地上に生り出でたものと考へられることも、また上記の推測を助ける。しかし書紀の本文にも注の多くの「一書」にも、クニノトコタチの神のみがあつて、それに對するアメノトコタチの神は無く、原形から最も隔つてゐるらしい「一書」にのみ(古事記と共に)それがあることを思ふと、初の系譜ではアメノトコタチの神が無かつたのを、後になつてそれを補つたものがあり、さうして古事記のもとになつた帝紀は此の添加を經たものであつたらう。さすれば、クニノトコタチの神の名は、それがクニ即ち土地に生り出でた神とせられてゐることの、一證ともなりはすまいか。(後にいふやうに神の名に冠らせてあるアメ、クニ、といふことばが相對して、又は連續して、用ゐられてゐる場合には、必しも天と地とをさすものではなく、單なる美稱に過ぎないのであるから、本來は國もしくは土地の意義を有するクニの語をもつクニノトコタチの神を、此の例で取扱ひ、アメノトコタチの神をそれに加へた、と見るのは、必しも無理ではなからう。)
 ところが、書紀の本文及び注の二つの「一書」(第一及び第六)には、此の葦牙の如きものが「天地之中」、もしくは「虚中、」もしくは「空中、」に生り出でたとある(第一の「一書」には「?貌難言」とあつて葦牙の如しとは書いてないが、これは「?如葦牙」から轉じて來たものに違ひない)。從つて此の説では、クニノトコタチの神またはアメノトコタチの神などは、地上に生り出でた神ではないことになる。けれども前に述べた如く、葦牙といふ觀念が土地から聯想せられたものであり、次々の神が土地に關係があるとすれば、此の書紀の説はそれと調和しないものであ(336)るから、これは後になつて生じた變形であらう。さうしてそれは、三五暦記の盤古説話が粉本となつてゐるのではあるまいか。三五暦記には、天地剖判の記事の次にそれを承けて「盤古在其中」といつてあるのに、書紀の本文には、「神聖生其中」を以てそれに代へてあるが、三五暦記にも「神於天、聖於地、」とあつて神聖の二字が見えてゐることを思ふと、書紀の此の五字は「天地之中」にクニノトコタチの神などが化生した、といふことに應ずるものでなければならぬことを、考へるがよい。天地剖判の思想は取つたが、盤古の話は上代人の思想に適合しなかつたために、それをすて、其の代りにクニノトコタチの神などの生り出でた場所を「天地之中」として、磐古に擬したのではあるまいか。もつともこれは、書紀の本文の文字についていふのであるが、此の思想は書紀編纂の前から存在してゐたので、上記の二つの「一書」の説が即ちそれなのであらう。
 クニノトコタチの神以後に生り出でた神々の名については、記紀及び書紀の注の「一書」どもの間にいくらかの出入があるが、トヨクムヌ及びクニノサツチの二神、または此の二神のうち何れかがあり、其の後に男女?生の神が、イサナキ・イサナミ二神を最後として、四組もしくは五組、つぎ/\に現はれたことになつてゐる。さてトコタチの神及びこれらの神々の名の意義については、宣長などの國學者の説が一々正鵠に中つてゐるかどうか、其の間に疑を容るべきものが無いでもなからうが(例へばクニノトコタチの如きは、國常立といふ漢字の如き意義として解釋する方が、寧ろ自然ではあるまいか)、何れにしても抽象的概念の擬人に過ぎないものであることは疑が無く、さうして其の概念は、何れも土地もしくは地上の事物の發生及び形成の?態に關するものであるから、これらの神々が地上の神と考へられてゐることはいふまでもなく、また民間信仰の對象として宗教的に崇拜せられたものでないことは、名に(337)よつて知られる神の性質からも、またさういふ證跡の無いことからも、明かであらう。さすれば、これもまたアメノミナカヌシの神などと同樣、知識人たる或る作者によつて生み出されたものである。またこれらの神々は神代史の物語に少しも現はれて來ないものであつて、此の點からいふと、全く神代史の主要部分から遊離してゐるから、これもまた一たび神代史の作られた後になつて附加せられたものであらう。たゞ最後のイサナキ・イサナミ二神だけは、神代史上極めて重要の地位を占めることになつてゐるのであつて、それによつてこれらの神々と神代史の物語とを連結させたのであるが、此の二神については後に考へよう。しかしこれらの神々の名の現はれてゐることは、記紀及び書紀の注の「一書」どもの説に於いて、ほゞ共通であることを思ふと、帝紀もしくは舊辭の多くの異本に(幾分かづつの變異はありながら)存在したものであることが推測せられ、從つてまた僅々一二の異本にしか見えてゐないアメノミナカヌシの神などよりも、早く現はれてゐたことが知られよう。
 なほ考ふべきは、これらの神々の初の方のは、古事記の所謂獨神であり、後の方のが?生の神となつてゐるととであつて、古事記のアメノミナカヌシの神などの三神、記紀共通のクニノトコタチの神などは、すべて性のない神とせられ、ウヒヂニ・スヒヂニ以下の神々が男女相對してゐるやうに説かれてゐる。さて無性の神の次に男女?生の神が來るといふ順序がシナ思想に由來があるといふことは、既に前に説いて置いた。(書紀には獨神について「乾道獨化、所以成此純男、」と見えてゐるから、それによるとクニノトコタチの神などの如く?生となつてはゐない神々は男神のやうであるが、これには恐らくは編者の思想の錯誤があらう。天地を乾坤に配すれば、クニノトコタチの神などの生り出でた地は固より坤に當り、もしそれが「天地之中」であるとすれば、それは乾坤の何れにも屬しないはずであ(338)るが、此の「乾道獨化」と「乾坤之道相參而化」との順序は、天地の觀念とは別のものらしい。しかしそれにしても、陰陽對立の前は陰陽未分とするのが自然であらう。乾は坤に、陽は陰に、先だつとは考へられようが、陽が陰陽對立に先だつといふのは、少しく穩かでない。)ところで、此の?生の神のウヒヂニ・スヒヂニ、ツヌグヒ・イクグヒ、オモダル、アヤカシコネ、などの神々は、其の名の意義に於いて性の區別があるのではなく、たゞ強ひて男女としたに過ぎないものである。イサナキ・イサナミもまた或は此の例であるかも知れぬ。特にウヒヂニ・スヒヂニ、ツヌグヒ・イクグヒなどは、同一の、もしくは似よつた、概念を少しくことばをかへて宣言したのであり、さうしてそれはタカミムスビ・カミミムスビ、アメノトコタチ・クニノトコタチの如く、一つの觀念に異なつた美稱を冠らせて二つの神とすることと共に、神代史の神の名に其の例が甚だ多い(後文參照)。だから、これらの神々に男女の性を附しながら、タカミムスビ、カミミムスビ、などを各獨神としたのは、單に獨神の次に?生の神を置かうといふ意圖から出たことに過ぎない。(タカミムスビとカミミムスビとの二神の如きは、其の連稱的につけられた名からもまたシナ思想によつて陽と陰とに擬せられた其の地位からも、寧ろ男女とするに適してゐる。古事記のオホゲツヒメ及びスクナヒコナの命の話に於いてカミミムスビミオヤの命とあるのを見ると、カミミムスビの神を女性らしく考へたこともあるやうである。古事記に於いては、ミオヤといふことばは母をさす場合が多い。)またオモダルとアヤカシコネとの二神を男女に配するに至つては、全く無意味である。それからオホトノヂ・オホトノベの二神の如きは、神の名に性をあらはすことばがついてはゐるが、これもたゞ名を作る時にさうしたといふに過ぎない。のみならず、ムスビといふ觀念、アメノミナカヌシ、又はクニノトコタチ、または事物發生の?態を象つたものらしいツヌグヒ・イクグ(339)ヒ、などのいろ/\の觀念は相互に獨立したものであつて、其の間に何の關係も無いから、これらは人々がおもひおもひに考へ出して、おもひおもひに附け加へたものであつて、はじめから記紀の如くに集められ又は排列せられてゐたのではあるまい。異説の多いのも此の故であらう。なほ一言するが、古事記に五柱の別天神及び神世七代といふ標目を設けてあるのは、神々の名や其の生り出でた順序などについての話が既にできあがつた後、それとは全く別の考を以て別に案出せられたものらしい。アメノトコタチの神とクニノトコタチの神とは同じ概念の擬人せられたものであつて、連結して呼ばるべきものであるのに、その一つを別天神に一つを神世七代に組み入れたのは、全く意味の無いことであり、また土地の上に生り出でたウマシアシカビヒコヂの神を天つ神としたのも、本來の意義を失つたものである。これは五と七といふ數に神々を配置しようとしたために生じた無理であつて、同じくシナ思想に由來のあることではあるが、ずつと後人のしわざと考へられる。書紀の本文に別天神といふやうな標目の無いのは、却つて舊い形の遺存したものである。それから、クニノトコタチの神からイサナキの神までを、血統關係で結びつけてある書紀の注の「一書」の説は、全く上記の思想と違つてをり、またイサナキ・イサナミの二神から生殖が始められたとする神代史の着想とも矛盾するから、これははるか後の變改であらう。今の場合ではそれを考慮に入れる必要があるまい。
 かう考へて來ると、アメノトコタチ・クニノトコタチ以下イサナキ・イサナミまでの神々の生り出でた話が、決して民間説話の類から來たものでない、といふことがわからう。さすれば、かの土地の固まらない時があつたといひ、葦牙の如きものが萌え上つたといふ話の如きも、また同樣に考ふべきものではあるまいか。だからこれもまた或る時代に於ける神代史潤色者の脳裡から生まれたものだらう、と推測せられる。さうしてそれを上記の考説に參照すると、(340)最初に土地の起源を説かうとして、それのまだ固まらない時があつたといふ話を作り、そこにクニノトコタチ以下の神々を生まれさせたのであるが、それだけでは天地の初めにまで溯り得ないことを知つたため、次に天地剖判の思想を支那から借りて來て、其の上に置いたのである。だからそこにいくらかの不調和がある。さうして古事記の原本となつたものでは、やはりシナ思想に基づいて、地に神の現はれない前に天にアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミミムスビ、の三神が生り出でた、といふ話を作つて、天先づ成つて地後に定まるといふ思想に適應させ、書紀の本文などでは、本來地に生り出でたとせられてゐたクニノトコタチ、クニノサツチ、トヨクムヌ、の三神を、盤古に則つて、天地の中間に現はれたことにしたのである。もう一歩進んで考へると、土地の固まらない時があつたといふことは、土地の起源を説いた話であるから、そこに神が生り出でたといふことは必しも必要でない。天地剖判の語られてゐる宇宙生成論に於いては、なほさらである。だから、神を生り出でさせたのは、土地の起源を説く話を作つたり天地剖判説を適用したりしたこととは別に、其の後になつて、附加せられたことかも知れぬ。またもし初から此の二つが伴つてゐたとすれば、それは天地剖判説と盤古説話とを結合した三五暦記などを粉本としたものであらう。また神々の性質や其の生れた順序やについても、いろ/\にシナ思想が取入れられてゐるが、それは幾人かの手によつて潤色せられたからであつて、古事記と書紀の本文とを比較すると、古事記の方に後人の手の多く加はつてゐる徴證がある。これが、オホヤシマの生まれた物語の前に説いてある神々のことについての、著者の見解の大要である。
 ところが、天地剖判の思想はもとよりのこと、土地の固まらない時代があつたといふ話も、神代史上最も大切なオホヤシマの生まれた物語とは、其の考へ方が全く違つてゐる。これは此の話がオホヤシマの生まれた物語とは別人の(341)手によつて且つ或る時期を隔てた後に至つて、作られたことの一證でもあるが、また物語の作られた主旨もしくは目的が違ふからでもある。さてこの話が一般に土地といふものの由來を説いたものであることはいふまでもないが、然らばオホヤシマの生まれた物語は何のために作られたか。これが次の間題である。
 
(342)       第三章 イサナキ・イサナミ二神が國土を生み成した物語
 
 神代史の物語の最初に現はれるのは、イサナキ・イサナミの二神がオホヤシマを生まれたといふ話である。此の話に於いて第一に注意しなければならぬのは、生まれた國土がオホヤシマであるといふことであつて、次にはそれが男女二神の生殖行爲によつて生まれたといふことである。此の二つのことを興味のあるやうに語らうとして、いろ/\の材料が用ゐられてゐるが、それらは話の骨子ではない。
 さてオホヤシマの名によつて總稱せられてゐる島々の名は、記紀及び書紀の注の種々の「一書」に於いてさま/”\に記されてゐて、其の間に出入はあるが、何れにしてもオホヤシマが日本の國土、即ち皇室によつて統一せられてゐる我が國民の住地、をさしてゐることは同じである。イキ、ツシマ、まで擧げて置きながら韓半島が全く除外せられてゐるのを見ても、此の物語の主旨が、日本の國土に關するものであることが知られる。イサナキ・イサナミの二神は、一般的な土地(天に對する地)を生まれたといふのではない。さうしてオホヤシマが何々をさすかについて所説の區々になつてゐるのは、比較的小さい島々のどれを擧げるかによつて生じた變異に過ぎない。無數の島々によつて成立つてゐる我が國土に於いて、特に其の八つを取るといふことは、本來無理であるから、オホヤシマの原義は多數の島といふことであつて、それが我が國土の總稱として用ゐられたのであらうが、八を數詞として考へるやうになつては、今の所謂本洲と四圀九州とは何人も異議の無いこととして、其の餘については、人によつて取捨を異にするの(343)が自然である。(古事記にキビのコ島などの六島を八島の外に擧げてあるのは、種々の異説に現はれてゐる島々を捨てずに拾ひ上げ、八つの數に餘つたのを其の後に附載したのであらう。書紀の本文及び注のいくつもの「一書」の説に參照すれば、さう考へられる。だから古事記のもとになつた舊辭は、多くの異本の出た後に潤色せられたものであらう。書紀の本文及び注のいくつかの「一書」にコシノシマを擧げてあるのも、やゝ奇異の感はあるが、コシは特殊の地域として見られてゐたらしいから、かういふ數へ方も必しも無理ではなからう。)かう考へると、オホヤシマの生まれた物語は、前章に述べた話とは全く性質が違つてゐて、決して一般的に土地の起源を説いたものではなく、從つて宇宙生成説話の類として解すべきものでないことは、明かである。それはどこまでも政治的意義に於いての日本の國土の由來を語るものであつて、神代史の物語が此の話によつて開かれてゐることは、神代史そのものの性質上、極めて重要な意味を有するものである。なほ此のことについては、神代史の物語に人のはじめを説いたものが無いことを、考へねばならぬ。またイサナキ・イサナミの二神の物語には、國を生んだとはあるが、山川河海の如き自然現象または動植物などの起源については、一言もして居らぬ(山や海の神を生んだことは見えるが、これは後にいふやうに別の意味である)。宇宙生成説話ならば、それは必然的にこれらのことに關する説話を伴はねばならぬのであり、少くとも人類の起源については何等かの話が無くてはならぬのに、それが全く無いのを見ても、此の物語の意味は知られる。なほ二神が天を生んだといふやうな話の無いことは、いふまでもあるまい。二神の物語に於いては天は最初から嚴として存在してゐる。
 次には、オホヤシマが二神の生殖行爲によつて生まれたといふことである。前に述べた如く此の物語の主旨が政治(344)的意義を有する國土の由來を説くにあるとすれば、生殖行爲で島を生むといふ話の意味も(もしそれに特殊の意味があるとするならば)、やはり此の主旨に伴ふものでなくてはならぬ。土地の起源についての説話は世界にいろ/\あるが、人の生殖として語られたことは、他に類例が無いやうである。あらゆるものを生物として考へることは未開人の心理でもあるし、土地または地上の山川草木などを人(人類以前の人類)の肢體として見ることも、例の多い話であるから、それから類推すると、神が土地を生んだといふ話のできることも、想像せられなくはなからうが、しかしそれには其の神にそれだけの性質がなくてはならぬ。神が未開人の心理に於けるかういふ考にふさはしいものでなくてはならぬ。多くの民族の宇宙生成説話に於いて天地や人類の生成に關與するものは、大抵、人類以前の人類 Titan の類である。盤古や Prusha や Ymir やの類である。これらは天地を生んだのではないが、生むとするにしても此の點は同じでなくてはなるまい。ところがイサナキ・イサナミ二神は人の性質と形とを有する神であつて、其の人の性質と形とは普通の人類のと何の違ひも無い。かういふ神が土地を生むのであるから奇異に感ぜられる。(此の話の全體が宇宙の生成を説くものでない以上、イサナキ・イサナミ二神の婚媾が、多くの民族の説話に見る如き、父なる天と母なる地との結合として解すべきものでないことは、明かであらう。)しかし此の物語の意義が政治的のものであるとすれば、それは決して甚しき未開時代の思想ではないに違ひないから、世界の宇宙生成説話に類例が無いといふことは、寧ろ當然である。さうして人が國土を生むといふ此の異樣な構想には、國土といふ政治的觀念にもとづく何等かの意味があるのであらう。其の意味は後に考へることとして、こゝで一應考へて置くべきは、此の話が、前章に述べた如き土地の固まらない時代があつたといふのとは、全く關係の無い思想から出てゐる、といふことである。古(345)事記には此の物語の初に、二神が「此のただよへる國を作り固めなせ」といふ天神の命をうけた、といふことを説いてあるが、其の後に語られてゐる二神の行爲は、それとは關係が無く、「たゞよへる國」は物語の上に跡方も無く消え失せてゐる。だから、これは前章に述べた話と此の物語とを強ひて連結するために作られたことであつて、此の物語に本來存在したことではないに違ひない。天神の命とあるのも、アメノミナカヌシの神などがタカマノハラに生り出でたといふ話が無くては、無意味であり、ふさはぬ子を生んだために天神のところにいつてその教を請うたといふのも、同樣である。從つて書紀の本文に全くこれらのことの無いのは、よく物語の本質に適合するのである。だから神代史の比較的古い形に於いては此のオホヤシマの生まれた物語が最初にあつたので、前章に考へた神々の話は後から附け加へたものであり、さうして書紀の本文はそれがたゞ外面的に附け加へられたまゝである本によつたものであり、特にアメノミナカヌシの神などのことは全く取つてないのに、古事記のもとになつた本は、其の間に内面的の關係をつけようとして、上述の如き自家矛盾の言をなしてゐたのであらう。(古事記のもとになつた舊辭はこゝでも比較的後の潤色を經てゐる。なほついでにいふが、古事記のこの條のはじめに「天神諸命以」とあるのは「天つ神のみこともちて」の語を寫したものであることが、この書のところ/”\に見えてゐる同じ場合の書きかたと宣命にしば/”\用ゐてあるいひかたとから、知られるので、「諸」は「之」の誤であらう)。また書紀のこゝの注に記してある第一の「一書」の説は、古事記と殆ど同じであつて、主要な點に於いてはたゞ八島の名が少し違ふのみであるが、其のはじめに「豐葦原千五百秋瑞穗之地」云々とあるのは、古事記のもととなつた舊辭に從つて、更にそれをいひかへたのであつて、それよりも一層後人のしわざであらう。國土の生まれた話の前に此のことばの用ゐてあるのが、をかしいからである。
(346) オノコロ島ができた話もまた、生殖説話とは其の精神に於いてやゝ一致しないやうであるが、生殖行爲で國を生むにしても、どこかに二神のゐるべき土地が無くてはならぬから、これだけはしかたがない。それが海原をかきまはして引き上げた矛のさきから滴つた潮の凝つたものとせられ、また實在の島の何れともせられず、オノコロ島といふ空想の島が作り出されてゐるところに、意味があるので、こゝが生殖説話と矛盾しないやうにできてゐる所以である。オノコロといふ名が此の説話に於いて作られたものであることは、名の意義を考へれば明かであるから、これは實在の島の名から採られたのではないに違ひなく、從つてそれが實在の島をさしてゐないこともまた疑が無からう。(古事記の仁コ天皇の卷に見えるアハヂ島でよまれた歌に、アハ島と共に此の島の名が出てゐて、それはナニハの港から遠からぬところ、アハヂ島の附近、にあるとせられてゐるから、此の歌の作られた時代には、さういふ名の島がそのあたりにあつたことになつてゐるが、それは神代史の説話によつて名づけられたのであらう。しかし神代史の作者も、よし明かにではなかつたにせよ、その位置をどこかに思ひ浮かべてはゐたらうと思はれ、さうしてそれは、この歌によつて考へると、アハヂ島のあたり、瀬戸内海への出ぐち附近であつたらうと推測せられる。歌に詠まれてゐるこの島の位置は、神代史の作者の思想を傳へてゐるであらう、と思はれるからである。書紀の本文にはアハヂ島を胞としたとあるのに、注の「一書」にはそれをアハヂ島アハ島ともオノコロ島ともしてあるものがあるのを見ると、オノコロ島がアハヂ島やアハ島と共におもひ出されるところにあるとせられたのは、舊辭の種々の異本のできたころの通説であつたらしいことも、參考せられよう。このことについてはなほ後に考へることにする。)但し書紀の此の條の終に、小さい島々は潮沫の凝つて成つたものだとあるのは、此のオノコロ島の話とは意味が違ひ、國を生むといふ思想(347)とは調和しない話である。オホヤシマが二神から生まれたとしながら、小さい島々のみさうでないとするのは、甚だをかしい。だからこれは、オホヤシマを八つの島としたため「それに包含せられない島の多いことに氣がついて、後人の補足したものであらう。それの無い古事記の説は、舊い形を存してゐるものと考へられる。
 さてオホヤシマの生まれた説話が神代史の初にあるべき重要の物語であつて、其の前に神々の生り出でた話や、土地の固まらない時代があつたといふことやは、後からの添加であるとすれば、イサナキ・イサナミの二神がウヒヂニ・スヒヂニ以下の?生の神々の幾組かの最後に置かれ、それと同樣に取扱はれたのも、また此の添加のためであつて、古い形に於いてはイサナキ・イサナミ二神が最初の神であつたらう。此の二神の名がもし果して普通に解せられる如く、誘ふ君、誘ふ女君、といふ意義であつて、オホヤシマの生殖の物語によつてつけられたものだとすれば、それが同じ地位に置かれてゐる其の前の?生の神々の幾組かと全く性質を異にしてゐるのは、本來別の思想から出たものを強ひて同列に組み入れたからであつて、かうなつてゐることが、即ちイサナキ・イサナミの二神だけがもとから存在したものであり、其の前のは後から添加したものであることの、證である。(二神の名の意義が果して此の普通の解釋のとほりであるかどうかについては、疑を容れるべき餘地もあるので、宣長なども既に述べてゐる如く、語の形の上からは後にいふツラナギ・ツラナミ、アワナギ・アワナミなどと同樣に考へられないでもない。ナギとナミとが海水の?態をさすものであるとすれば、それは海水をかきまはして初めて島を得、それから島々を生んだといふ、二神の事業と縁が無くもない。もしさう考へることができるならば、此の二神もまた概念の擬人せられたものであつて、國土を生むといふ物語がそれに結びつけられたものである。が、これでは「イサ」の語に明解が得られないやうであ(348)るし、また古事記の那岐の字で寫してあるのが、書紀では諾としてあるのを見ると、岐は清音のキにあてられたものと考へられるから、ナキを海水のナグと同じ語として解することもむつかしい。だから、これは却つて普通の解釋に從つて置く方が穩當であらう。ついでにいふ。古事記には此の神の名のイサを伊邪と書いてあるが、書紀には伊弉とあり、神名帳にも祝詞にも伊射または伊佐とある。本來は「イザ」ではなくして「イサ」であらう。イサがイザとなることはあつても、イザがイサとなることは無からうと思はれるからである。普通にイザナギ・イザナミと呼んでゐるやうであるから、これだけのことをことわつて置く。)もつとも名の意義をどう解釋するにせよ、神代史の上では、此の二神が、其の前に置かれた神々とは、異なつた性質を與へられてゐるのであるが、他の?生の神々が、みな土地に生り出でた神とせられてゐるのであるから、本來この國土の神であるイサナキ・イサナミの二神が其の後に現はれても、さして唐突の感じはしない。たゞ此の二神は政治的意義に於いての我が國の國土を生んだとせられてゐるのに、他の?生の神々は一般的な土地(天に對する地)に關するいろ/\の概念を神としたのであつて、そこに大なる差異があり、ウヒヂニの神スヒヂニの神などが神代史の全體の組立てから遊離してゐるのも、またそれが後人の附加したものと考へられるのも、此の故である。しかしイサナキ・イサナミの二神が、オホヤシマの生まれたことを語るために作られた神であるとすれば、それが民間信仰の對象として宗教的に崇拜せられてゐた神でないことは、其の前の神々と同樣である。
 更に一言して儘く。イサナキ・イサナミ二神が此の國土の神であるといふことについては、記紀の文面から見ると、いくらかの疑問もあるやうであるが、それは少しく考へると、すぐに氷解してしまふはずである。古事記には此の二(349)神がはじめ「天の浮橋」の上に立つたとしてあるが、此の浮橋に冠らせてある「天」といふ語が、タカマノハラといふ意義に於いてではなく、たゞ美稱であることは、そこから矛を下して海水をかきなしたといふのでも明かであつて、それは「天の御柱」の「天」と同じことである。古事記と近い關係のあるらしい書紀の注の第一の「一書」には、天神が二神に向つて國土の生産を命ずる時「宜汝往循之」といつたとあるから、これによると二神の故郷はタカマノハラらしく見えるけれども、これは古事記のもとになつた舊辭の物語に二神が天神の命をうけることになつてゐるところから轉じた漢文口調の文飾のためであり、天神の教を請ふために天に上つたことを記して「還復上詣於天」といつてあるのも、それに照應するやうに書かれたものである。たゞ別の「一書」に、たつた一つ、二神がタカマノハラに坐して矛をもつてオノコロ島をかきなしたとあるのがあるが、タカマノハラから矛を下ろして海水をかきなすといふ記事自身が、矛盾した意義を含んでゐるから、これは決して物語の原形ではあるまい。多分、天の浮橋がタカマノハラに變化したのであらう。國土を生んでから後は、いふまでもなく國土の神であつて、天上にある日の神や月の神がみな此の國土で生まれたのも、二神が地上の神だからであると考へられる。もし天上の神であつたならば、天に歸つてから日月二神を生まれるのが寧ろ自然であるが、さうはせられなかつたのを見るがよい。古事記のヨモツヒラ坂の爭に、イサナミの命がイサナキの命に對し「汝の國の人草」云々といつたとあるのでも、此の書に於いて、イサナキの命が此の國の神とせられてゐることがわかる。もつとも書紀の本文には、イサナキの命が功を畢へてから「登天報命」し、さうして「日の少宮」にとゞまつた、といふ一説を載せてあるが、これもまた本來の思想ではないに違ひない。タカマノハラの物語に於いて、如何なる場合にも此の神が現はれないことによつても、それは知られよう。のみ(350)ならず、書紀の同じ條にはアハヂの國の幽宮に鎭まつてゐるといふことが記してあつて、其の方が主文となつてゐる。それから記紀の外の文獻を見ても、鎭火祭祝詞にイサナミの命のことを、「あがなせ(イサナキ)の命は上つ國をしろしめすべし、あれは下つ國をしろしめさん、とて石かくり給」といつてあるが、上つ國は、其の次にイサナミの命が此の國で火の神を生んだことを、「なせの命のしろしめす上つ國に心さがなき子を生み置きて來ぬ」といつてあるから、地上の國である。從つてこゝでも、イサナキの命は地上の國の神とせられてゐるといはねばならぬ。要するに、イサナキ・イサナミの二神はオホヤシマを生み、後にいふやうに此の國土にゐる神々を生み、また國土を支配する日の神を此の國土で生まれた、始から終まで此の國土を離れない、此の國土の神なのである。神代史の本質に關係のあることであるから、特にこれだけをいつておく。
 ところで、イサナキの命がアハヂに隱れたといふことと、登天報命したといふこととについては、こゝでもう少し考へておくべきことがある。アハヂの話は書紀の本文のスサノヲの命の上天を説くところに見えるのであるが、それが「神功既畢、靈運當遷、」の故としてあるにかゝはらず、イサナキの命のみのこととなつてゐるのは、イサナミの命がヨミの國にいつたといふ話のあるためと、解せられる。しかし、書紀の本文にはヨミの話が無く、現に天上に於ける日の神とスサノヲの命とのことばにも「父母」云々とあるから、此のアハヂの一條は本文の全體の結構と調和しない。だから、これはヨミの話が作られた後に考へ出されたことであつて、それが古い物語のすぢによつて書かれた本文の間に插入せられたものと、見なければならぬ。古事記にはアフミのタカに坐すとあり、やはりイサナキの命のみのこととしてあるが、此の書にはヨミの話があるから、書紀のやうな不調和が生じない。さうして、書紀に此のこと(351)の説いてある場所が、古事記のアフミのことの書いてあるところと同じであり、而もそれには物語の進行から見て幾らかの無理があるのを思ふと、これは、古事記のもとになつた舊辭の説によりながら、アフミをアハヂに改めたものであることが、推測せられる。タカはイサナキの命に何の縁も無いところであるから、古事記の話も決して古いものではなく、後章にいふやうに所々の神社に神代史上の神々の名が結びつけられることになつて來たころの、造作であらう。さすれば、書紀のは、なほさら新しい考であることが知られる。さうして、そこの文體が上に引いたやうな純粹の漢文であつて、「亦曰」として其の次に載せてある日の少宮の話に「功既至矣、コ亦大矣、」と書き出してあるのと共に、舊辭によつてつゞられた前後の叙事とは全く調子が違つてゐるのを見ると、この二條の話は舊辭にはまだ無かつたものであり、書紀の編述のころになつて始めて唱へ出された説であらう。アハヂに祀つてあるといふことは、古事記のもとになつた舊辭の話を改めたものであるが、「神功」云々の思想は、其の舊辭にも無かつたことである。日の少宮の詔に見えるイサナキの命の登天報命といふことが、書紀の國土を生んだ話とは調和しないものであることも、また考へられねばならぬ。書紀では、古事記の如くイサナキ・イサナミ二神が天つ神の命をうけて國を作りかためたといふことには、なつてゐないからである。これは多分、古事記に見えるやうな説に本づいて、考案せられたものであらう。さうしてこの登天報命にシナ思想から來たところがあることは、明かである。
 此の物語にはなほ、二神が天の御柱をめぐるといふ話、また古事記と書記の注の「一書」とには、最初に生まれた子を流しすてたといふ話、などがあるが、これらが生殖説話の修飾として語られたものに過ぎないことは、いふまでもあるまい。此の中で御柱の話については、人々が柱をめぐるといふことが、何かの宗教的もしくは呪術的儀禮の場(352)合に於ける上代人の風習であつたので、それが二神の生殖説話の材料として用ゐられたのであらう、といふことが考へられる。生殖説話に見えてゐるため、此の柱を生殖器の象徴として考へようとする説もあるらしいが、さうは考へがたい。柱もしくはそれに類するものが呪術的もしくは宗教的儀禮に用ゐられることは、世界に例が多く、さうしてそれは必しも生殖器の象徴として説明せらるべきものではないから、かういふ考の根據は薄弱であらう。特に生殖器を呪術に用ゐることは、人自身の生殖そのことについてよりは、むしろ其の他の意味に於いて、例へば穀物の豐饒を助けるといふやうな意味に於いて、行はれる場合が多いやうであるから、此の點からも此の臆説は疑はしい。もし他の民族の例によつて考へようとするならば、それよりもむしろいはゆる may-pole に比する方が適切であらう。この柱もしくは木は萬物の生成繁殖の力を象徴するものであ*り、儀禮においては、その意義での*神として見られるものであるが、わが上代に於いても柱が神とせられたことは、龍田の神社の名の天の御柱・國の御柱にも、その例があり、古事記に見えるタカミムスビの神の一名としてのタカキの神も、またそれにゆかりがある。神を數へるに幾柱と稱したことも、また考に入れてよからう。この柱がいかなる宗教的もしくは呪術的儀禮に於いていかに用ゐられたかは、明かでないが、用ゐられたには違ひない。さうして柱が用ゐられたとすれば、人々がそのまはりを躍り廻つたといふことは、ほゞ想像せられる。さすれば、柱をめぐつて唱和することが如何なる場合かに行はれて、それが男女の結合を誘ふ機會になる、といふやうなこともあつたであらうから、さういふ風習の反映が此の物語に見えてゐるのではなからうか。或は婚姻の儀禮として柱をめぐるといふやうな風俗がありはしなかつたらうか、とも考へられるが、他に文獻上の徴證が無いのみならず、さういふ儀禮は家の内で行はれるべきはずであるのに、此の話の柱は屋外に立つて(353)ゐると見なければならぬから、それはむつかしからう。(所謂天の御柱」は八尋殿とは全く別のものである。また御柱の上に加へてあるアメノの語はたゞ美稱に過ぎない。)さて此の柱をめぐるについて、男神は左から女神は右からしたといふ話があるが、柱のことがもし果して上代の風俗から採られたものとすれば、それには男女についてかういふ明かな區別があつたらしくはない。だからこれは、男を左とし女を石とする特殊の知識から來てゐることではなからうか。女神が男神に先だつてものをいつたのが惡いといふのが、夫唱婦隨のシナ思想の現はれであるらしいことを、參考するがよい。記紀などによつて覗ひ知られる我が上代に於いては、家は父系によつて繼がれ、男が家長であり、從つて概していふと、妻よりも夫の方に權力があつたことは、推測せられるが、一方では子女に對する母の權力はかなりに強く、また女が政治的勢力の首長であつたといふ説話もあり、皇祖神たる日の神が女性として考へられるやうになつても來たほどであるから、かう明確に男女の尊卑が定められてゐたらしくは見えない。それにもかゝはらず、男尊女卑の思想が此の唱和の話に現はれてゐる。これから類推すれば、此の左右の方向と男女との關係もまた、「天左旋、地右動、」(春秋緯元命包)といひ「陽道左廻」(靈憲)といふシナ思想によつたものとすべきであらう。(イサナキ・イサナミの二神が天地を象徴するといふのではなく、陽と陰と、即ち男女の兩性として、其の陽と陰とに配當せられる天と地との旋囘の方向を採つた、といふのである。)もしさうとすれば、左旋右旋の話は此の物語の原形に存在してゐたものかどうかも疑はれる。柱をめぐるといふ民間の風習から出たことと、單なる文字上の知識としてシナから受入れた此の思想とは、本來、不調和なものだからである。なほ書紀の注の第一の「一書」に、初め男神が右から女神が左から廻つたのを、後に廻りなほした、とあるのは、唱和の順序が反對であつたのを不祥としたといふ(354)話に倣つて、後に作り加へたものであらう。此の「一書」ばかりに見えることである上に、それについての天神の教に唱和の前後のみが説いてあつて、旋廻の方向について述べてないことからも、さう考へられる。(此の「一書」の説は、こゝでも古事記のもとになつた舊辭に本づいて、更にそれを潤色したものらしい。同じ過程を有する「一書」が後にも引いてあるが、それは、多分、此の本の續きであらう。)なほ附言する。書紀の本文にはオノコロ島を以て國中の柱とすとあつて、柱といふことが譬喩的にいはれてゐるが、二神が柱をめぐるといふことは、具體的の話でなければならぬから、これは勿論話の原形ではない。(柱のことについては、推古紀二十八年の條に、檜隈陵に砂礫をしいた時、域外に積まれた土山の上に氏々で柱を立てた、といふ話がある。これはいふまでもなく特殊の企てであらうが、かういふことの行はれたのは、何かの場合に柱を立ててそこに人々が集まる、といふ風習があつたからではあるまいか。柱の本來の意義如何にかゝはらず、柱を用ゐる風習はあつたのである。)
 次には、最初に生まれた子のヒルコを葦舟に載せて流しすてた、といふ話を考へねばならぬ。此のヒルコは人の形を有つてゐるやうであるが、もしさうとすれば、これはオホヤシマを生むといふ全體の着想に相應しない話ではあるまいか。國土を生まうとして先づ人の生まれたのが奇異なのである。さすれば、此の話の全く見えない書紀の本文に物語の原形が遺存してゐるのであつて、古事記などのは後人の添加したものではなからうか。(書紀の本文の日の神の生誕の條、及びそこに注記してある第二の「一書」には、ヒルコが日の神と月の神との後に生まれたことになつてゐるので、其の日月二神が人の形であるやうになつてゐる以上、同じく人の形のあるヒルコの生まれるには、此の方が所を得てゐるやうでもあるが、しかしこの「一書」の説に於いて、其の生まれた理由を二神が柱をめぐつた時に女(355)神が先づものをいつた故と、してあるのを見ると、オホヤシマや日の神月の神などの生産がすんだ後になつて、かういふ應報が現はれた、といふことが奇怪である。本文の方にはかういふ理由の説明はしてないが、それは多分、同じ考で同じところに編み込まれた本によつて、書かれたのであらう。だからこれは、古事記の話よりも後の變形であつて、よくない神とせられたスサノヲの命の聯想から、ヒルコをもこゝに附け加へたものと考へられる。但しそれを日月二神の後スサノヲの命の前に插んだことについては、別に理由もあらうかと思はれる。後章參照。)やはり書紀の本文にアハヂ島が胞であるとしてあるのは、島を生むといふ話に適切なことであり、島の名に違つた説はあつても同じ着想が注の三つの「一書」にも見えてゐるから、これも物語の原形らしい。古事記にこのことの見えないのは、そのもとになつた舊辭がこの話の記されてゐない異本であつたからであらう。(古事記と、それと親しい關係のある書紀の注の第一の「一書」とに、オホヤシマを生む前にアハ島を生んだとあるのは、第六の「一書」に見える、アハヂ島と共にアハ島を胞としたといふ説から轉じて來たもののやうであるが、この説はまた、もとアハ島を胞としたといふ説があつて、それがアハヂ島を胞としたといふ説に結びついたものらしく、そのために、もとはアハヂ島を含んでゐたらうと思はれる八つの島の名に、變改が行はれて、この「一書」に記されてゐるやうになつたのではあるまいか。もしさうならば、アハ島を先づ生んだといふ古事記の話が、この島を胞としたといふ説から轉じて來たものであることは、一層明かになるであらう。)しかしそれはそれとして初に生まれたヒルコをすてるといふ話には、如何なる意味があるであらうか。これは問題である。或はそれを、長子を殺すといふ多くの未開民族に行はれてゐる風習の反映、もしくはさういふ反映の存在する舊い説話の斷片が、こゝに現はれたものとして解することができるかも知れぬが、記紀の(356)物語に現はれてゐるやうな我が民族の上代に於いて、さういふ風習もしくは傳説の存在した痕跡を認むべき徴證は、他には無い。子が眞の我が子であるかどうかを疑ふ、といふ話が神代史のホノニニギの命のところにも雄略紀にも見えてゐて、さういふことは、一夫多妻の風俗の社會に於いては、特にありがちであつたらうし、またそれは長子の場合に最も多く起り得るものであつたらう。さうしてそれを、兄よりは弟の方に親の愛が維がれ、相續についても長子の輕んぜられる話が多いことに參照すると、長子を喜ばない風習が、我が民族に於いても、極めて古い時代にはあつたかも知れぬ。けれども、それを此の説話に結びつけて考へるには、ことがらが餘りにかけはなれすぎてゐはしまいか。長子がよくないといふ考があつたにしても、それを流しすてるといふことは、此の話の舊辭に増補せられた時代の人々には、承認せられなかつたらう、と思はれるからである。それよりも寧ろ、何かの場合に行はれた一種の呪術に此の話の由來がある、とすべきものではなからうか。もつと具體的に想像するならば、子もしくは長子の生まれた時に何かで作つた人像を葦舟などに入れて流す、といふやうな風習でもあつたのではあるまいか。葦舟といふものも、實用の器具としてよりは、かういふ風に考へた方が適切であらう(書紀の本文と上記の「一書」とに磐楠船としてあるのは後の變形であることが、上記の理由から推測せられる)。また三年まで足がたゝなかつたといふ話のあるのも、かう見るにふさはしくなからうか。これは勿論、一片の臆測に過ぎないが、子の生まれるときに邪靈が現はれるといふやうな思想があつて、それに對するかういふ呪術が行はれたと考へることは、必しも妄想ではなからう。つまり一極の scapegoat として見るのである。大祓の儀禮に人像が用ゐられたことも考へあはされよう。ヒルコを不良の子とし、二神が柱をめぐつたときのしかたがわるかつたために斯ういふ子が生まれた、としたのは、物語の構想に過ぎ(357)ないので、初めて生まれた子をすてるといふ話そのものとは、本質的に關係の無いことであらう。(ヒルコといふことばの意義については確かな考が無い。)それから、古事記に二番目の子のアハ島を不良の子に加へてあるのは、書紀の本文に見える胞衣のアハヂ島を不快に思つたといふ話の一轉したものであつて、此の書紀の話はアハヂ島といふ地名から出たことらしい。
 要するに、二神唱和の話もヒルコのことも、國土の生まれた物語の原形にあつたものではないらしいが、それにしても、何故にかういふ失敗譚が二神の物語、從つてまた神代史の卷首に、添加せられたであらうか。そこに一つの問題がある。現在の世界は最初に創造せられもしくは成立したまゝのものではなく、改造もしくは再建せられたものである、といふ話はいろ/\の形に於いて種々の民族の間に語られてゐるが、二神の物語が宇宙生成説話でないとすれば、これはそれと同樣に見ることはできない。しかし、さういふ説話を生んだと同じ心理が此の物語の作者にもはたらいてゐた、と思へば思はれぬこともなからうか。或は後にいふやうなヨミの國の物語に於けるイサナキの命のことば、またはオホナムチの命の事業に對するスクナヒコナの命の批評などと、同じ意味があるのではあるまいか。
 なほ附言すべきは、古事記では、二神から生まれた島々に人としての名のついてゐることである。これは古事記のみに見えることであり、また島を生むといふ話の根本とも調和しないものであるから、多分、此の物語に加へられた最後の潤色であらう。神(人)が島を生むといふことの不合理に氣がついて、それを緩和するために案出せられたのかも知れないが、實は少しも緩和せられてはゐない。さて此の名のうちには、トヨアキツ島のトヨアキツネワケの如く、島の名をそのまゝ擬人して用ゐたもの、アハのオホゲツヒメがアハを粟と見て食物の神の名を附會したものであ(358)る如く、言語上の聯想によつたもの、イキのアメノヒトツバシラの如く、島の形状から來てゐるもの、イヨのエヒメの如く、そこにある地名らしく思はれるもの、トヨのトヨヒワケの如く其の地名を冠したもの、などもあるが、多くは命名の由來がわからず、それに配した性の區別にも意味があるとは思はれぬ(オホゲツヒメの如く、本來女性の神とせられたものを附會した場合は、別として)。すべてが恣にきめられたのであらう。要するに、これは物語と本質的の關係の無いことである。
 以上述べたところを總括すると、此のオホヤシマの生まれた物語は、政治的に統一せられてゐる我が國土の起源を、二神の生殖として説かうとするのが主旨であつて、それを修飾するに生殖行爲の敍述やそれに關聯して一二の民間の風習にもとづいた説話を以てしたものであり、シナ思想もそれに加味せられてゐる、といふことである。たゞ何故に國土の起源を生殖によるとしたかは、この物語そのものからは知りがたいので、こゝではそれを後の問題として殘して置く。ところで、かういふ政治的意義を有する物語は、政治的權力と何等かの特殊の關係のあるもの、即ち朝廷に地位を有するもの、によつて作られたに違ひない。民衆に政治的地位の無かつた上代のわが國家、民衆の間に政治の觀念の無かつた時代に於いて、かういふ物語が民衆の胸裡に生まれたはずはないのである。全體として神代史が如何にして作られたかといふことは後に考へようと思ふが、此の物語についてもこれだけのことは明かである。民間説話としては、かういふ性質の物語は存在し得べきものでない。なほ物語の内容から考へても、アハヂ島が胞衣とせられ、キビのコ島やオホ島やまたアハ島や(古事記に於いてはアヅキ島や)、瀬戸内海の二三の島々が特に擧げられてゐるのは、それがヤマト地方を根據として瀬戸内海を往復するものの脳裡に浮かんだ着想だからである。此の物語に海洋(359)的意義のあることはいふまでもなく、それは島國民たる我々の祖先が作つたからではあるが、瀬戸内海が特にそこに目立つてゐることをも、注意しなくてはならぬ。さうして其の内海に於いてアハヂ島が起點となつてゐることは、それが胞とせられたことから知られるのである。オノコロ島が神代史の作者によつて、アハヂ島近くに置かれたらうといふことは、思想的には、主として此の點から考へられるのである。(上にいつたやうに、胞をアハ島としたりオノコロ島としたりする説もあつたが、地理的にはどれでも同じである。)古事記にオホヤシマを生んだ順序を記してアハヂ島を第一としてあるのも、またオホヤシマを生んでから「還坐之時」にキビノコジマやアヅキ島などを生んだとしてあるのも、これがためらしく、上記の位置にあるオノコロ島を基地とした瀬戸内海の往復の航路が考へられてゐるやうに見える。「還坐之時」としてあるのは、こゝから生じた思想の混亂のためである。今の所謂本洲を特にオホヤマトトヨアキツシマとして國土の中心としてあるのも、單にそれが最大の島であるためのみではなく、そこが物語の精神と深い關係があり、また物語の作者自身がそこにゐたからのことと見なくてはならず、それをオホヤマトと稱してあることも無意味ではない。此の物語ではヤマトがその本來の地方の名でもなく、また日本全體の名でもなく、今の所謂本洲をさす稱呼として用ゐられてゐるので(書紀に大日本の字をあててあるのは、オホヤマトの語から來た思想の混亂に過ぎぬ)、それはまだ此の名が我が國全體の稱呼とならなかつた時代の風習であつたかとも思はれるが、さういふ風習が實際にあつたかどうか、疑はしい。對外關係の存する以上、我が國の稱呼が無くてはならず、それは外國人では倭、日本人みづからではヤマトであつて、ヤマトとしたのは皇居のあつた地方の名をそれにあてはめたものであらうと考へられる。だから、本洲のみをかういつたのは、此の物語の述作者が八島の名を列擧するに當つて、(360)本洲の名が無かつたため、假にかう稱したに過ぎなからう。が、それにしても一地方の名であるヤマトの名をかういふ廣い地域の稱呼とし、而もそれにトヨアキツシマの美名をつけたのは、皇居の置かれたそのヤマトにゐて朝廷に地位をもつてゐたもののしわざに違ひなからう。(アキツシマは明つ島もしくは現つ島の義であらう。)國土の父母としてのイサナキ・イサナミ二神が民間信仰や民間説話に基礎または由來のある神でないことは、此の點からも知られよう。
 
(361)       第四章 神々の生まれた物語
 
 イサナキ・イサナミの二神は、オホヤシマを生んだ後に、神々を生んだといふ。書紀の本文には「次生海、次生川、次生山、次生木祖句句廼馳、次生草祖草野姫、亦名野槌、」とあるのみで「吾已生大八洲國及山川草木」といふ二神の語でそれを總括してあるが、古事記の方では、海や川や山を生むことのない代りに、其の海や川や山や野に關する神、又は木の神、風の神、食物の神、などを生んだ話を載せ、古事記の原本になつた舊辭と最も近い關係のある書紀の注の「一書」にも、神の名などはずつと少くしてありながら、ほゞ同じことが見えてゐる。さてオホヤシマを生むといふ話が、もし果して上に述べた如く、宇宙生成説話ではなくして、日本の國土の起源を説くために作られたものであるとすれば、海を生むといふことはをかしいのであり、また島といふ觀念には海の存在が豫想せられてゐるはずであつて、物語自身に於いても、オノコロ島の話によつて知られる如く、海は島の生まれない前から既にあつたことになつてゐる。それからオホヤシマを具體的に考へる以上、山や川もその中に含まれてゐるに違ひない。だから、書紀の本文は物語の本來の形ではなく、漢文流に約言したためにかうなつたので、古事記のやうに山川河海の神々を生まれたとある方が、原形であらうと思はれる。古事記に木の神ククノチ、野の神カヤヌヒメ一名ヌツチ、とあるのを、書紀で木の祖、草の祖、としてあるのも、強ひて血統關係を*つけるための後の變改らしく、特にカヤヌヒメまたヌツチの名は、草の神とするよりも野の神とするのが自然である。しかし古事記に見える如き多くの神々の名が、物語の作ら(362)れた最初からあつたかどうかは、疑はしい。また山川河海森林原野のところ/”\に神のあることを認めたのは實際の民間信仰であつたに違ひないが、あのやうな名を有つてゐるあのやうな性質の神々が、古くから民間信仰として存在してゐたかどうかも、問題である。第一の疑問についていふならば、例へばみなとの神をハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二神とし、而も女神の方に妹の字を冠らせて夫妻のやうにしてあるが、名が同じハヤアキツであるのを見ると、神の性質も其のはたらきも一つであるべきはずであるのに、それに性を示すことばを添へて二神としてあるのは、をかしいではないか。性の表示の無い神の多いことをも考へねばならぬ。さすれば、書紀の「一書」にハヤアキツヒコの一神としてあるのは、却つて原の形を傳へたのではあるまいか。後にいふカナヤマヒコ・カナヤマヒメやハニヤスヒコ・ハニヤスヒメも、之と同じく一つの名にヒコ、ヒメ、を加へて男女の二神としてあるが、カナヤマヒコのみあつてヒメの無い「一書」、ハニヤスヒメのみあつてヒコの無い「一書」、またハニヤスの神とあつて性を示すことばの無い「一書」、のそれ/”\の説が、書紀の注に見えてゐることを考へるがよい。古事記にはオホゲツヒメまたトヨウケヒメとあるのに、書紀の注の「一書」には、或はウカノミタマとあり或はウケモチの神とあつて、性が無いのも此の類である。これは、少くとも、神々について性の男女もしくは性のあるなしが一定してゐなかつたことを、語るものであり、さうしてそれが舊辭の異本のそれ/”\によつて違つて記されてゐるのを見ると、古事記に見えるやうな性をもつてゐる神々の名は、神代史の作られた初めからあつたものではなく、後になつておひ/\にできて來たものであることが知られ、從つてまた性の表示の無い神々にも同じやうなもののあつたことが、推測せられる。なほこゝに、アメノミクマリ・クニノミクマリ、アメノサツチ・クニノサツチ、アメノサギリ・クニノサギリなど、同じ名に(363)アメ・クニといふ相對の意義を有する美稱を冠らせて、二神としてあるものもあるが、ミクマリが水路の分岐するところをいふならば、それにアメノミクマリ・クニノミクマリといふ名をつけるのも、またそれを二神とするのも、をかしいので、其の他のも同樣に考へられる。だから、これらの神の名は、或はアメ・クニといふ美稱を冠することによつて、或はヒコ・ヒメといふ性を示すことばを附加することによつて、もとは一つの神であつたのを二つに分けたのであらう。(アメとクニとが具體的意義を有つてゐないことは、ミクマリが天に關係のあるはずがなく、從つてアメとクニとの區別のあるはずもないことから、明かに知られよう。)アワナギ・アワナミ、ツラナギ・ツラナミ、の類も、方法こそ違へ、同じ態度で作られた名である。
 しかし、かういふ風に神の名がいろ/\に作られたことを考へて來ると、おのづから第二の問題に入らぬばならぬので、實際の民間信仰に於いて、神に一々名があつたであらうか、或は寧ろ、さういふ名を負ふべき神、例へば山の神、海の神、即ち一般的に山を支配する神、海を支配する神、などがあつたであらうか、といふことが疑問になる。それ/”\の特殊の職掌を有し人の性質を有する神々の存在を認める多神教の萌芽は、よしあつたとするにしても、全體としてなほ精靈崇拜の域にあつたらしい上代の宗教思想から考へると、少くともそれはまだ成熟してゐなかつたらう。もしさうならば、あのやうな神の名は民間信仰には存在しなかつたのではあるまいか。山の神(精靈)をヤマツミといひ、海の神をワダツミといひ、野の神をヌツチといふのは、ミクマリのところにゐる神をミクマリの神といふのと同じく、たゞ其のところ/”\の神(精靈)を指示する通稱に過ぎないのであつて、それは實際民間に於いてさう呼ばれてゐたのであらうが、人の性質を有する或る特殊の神の名ではない。たゞ舊辭の述作者は、神を人の性質を有(364)するものらしく取扱はうとしたので、それには名が無くてはならぬから、かういふ通稱をそのまゝ取つて或る神の名らしく書いたのではあるまいか。古事記と親近な關係のある書紀の「一書」に「海の神たち〔二字傍点〕をワダツミの命と號し、山の神たち〔二字傍点〕をヤマツミと號す」とあるのは、よく此のことを示してゐるので、海の神たち山の神たちは、即ち海といふ海にゐる多くの精靈、山といふ山にゐる多くの精靈をさし、ワダツミもヤマツミも人の性質を有する神の固有名詞ではなくして、かういふ精靈を指す普通名詞であることをいつたのである。(ワダツミに「命」の字を添へてあるのをみると、或る一人の神の名のやうに見えもするが、それでは「海の神たち〔二字傍点〕」といふに矛盾するから、これは海の精靈を人の性質を有する神らしく取扱つたために、おのづから生じた觀念の錯誤のあらはれであらう。この次に書いてある水門の神たち〔二字傍点〕の名としてのハヤアキツヒの命も、同樣である。)が、それが一歩進むと、ヤマツミの神、ワダツミの神、といふやうな、一般に山や海を支配するものとしての人の性質を有する神となり、固有名詞としてのその神の名となるのである。ミクマリの神の如きも、所々のミクマリでそこにゐる神(精靈)を祭る習慣があつたため、それを一般化しまた人化してミクマリの神といふ神と其の名とが作られた、と見なければならぬ。さうしてオホヤマツミ、オホワダツミ、アメノミクマリ・クニノミクマリ、のごとく、オホ、アメ、クニ、などの美稱を冠らせることによつて、此の人化、固有名詞化、が完くせられたのである。さすれば、木の神をククノチといひ、野の神をカヤヌヒメといひ、風の神をシナツヒコといふ類も、また同じやうな事情で作られた名であつて、たゞ其の命名法がヤマツミの神、ワダツミの神、などとは少しく違ふのみである。しかし斯ういふ名がつけられると、それが人の性質を有する神となり、從つて草木や風やをそれ/”\一般的に支配する神となることは、山や海やミクマリの神と同じことである。(365)さうしてかういふやうにして、神代史の上では一種の多神教めいたものが成立してゐるやうに見えもするのである。けれども、これらの神々に性があつたりなかつたりすること、また神々の職掌なりはたらきなりが殆ど物語られてゐないこと、などによつて考へると、神が人の性質を有するといつても、それはたゞ名の上だけのことであつて、眞に人の性質が與へられたのではなく、人のやうな名が與へられたに過ぎないことが知られる。さうしてかういふ名の與へられたことすらも、概していふと、民間信仰とは無關係であつて、一般には神といへば精靈もしくは靈物と思はれてゐたらしい。書紀の本文に斯ういふ神の名の殆ど出てゐないのも、或は全く偶然のことではないかも知れぬ。
 かう考へて來ると、古事記の此の條に見える如き多くの神々の名は、舊辭の述作者もしくは潤色者の作つたものであり、またそれは初には少數であつたのが後に多くなつたものである、といふことがおのづから證せられよう。かの男女の性がいろ/\に記されてゐるのも、性そのものがかういふやうにして神代史の上だけで附加せられたものだからである。古事記がオホヤシマの島々に一々人のやうな名をつけ、また往々それに性の區別をしてゐるのでも、かういふことが神代史の上だけで行はれ得べきものであることを、類推するに足りよう。のみならず、その神代史の上に於いて性の區別の極めて曖昧であることは、性の表示の無い神、寧ろ性の無い神、の多いことと共に、宗教的崇拜の對象たる神に人の形を與へることが、神代史の作者に於いてすら、まだ十分成熟してゐなかつたことを證するものである。しかしこれらの神々は、其の基礎に實際の民間信仰があるけれども、アメノサツチ・クニノサツチ、アメノサギリ・クニノサギリ、アワナギ・アワナミ、ツラナギ・ツラナミ、などといふ神々は、さういふ基礎の無いものであつて、單なる概念の擬人に過ぎなくはなからうか。さうして書紀の本文及び注の三つの「一書」に、クニノサツチ(366)の神がクニノトコタチの神と並んで擧げてあるのが、此の神の本來の性質にかなふものでもあり、また物語の初の形ではなかつたらうか。古事記の此の條にそれが編みこんであるのは、後の變形であつて、實はその所を得ざるものであらう。さうして、クニノサツチの神からアメノサツチの神が作られたのは、上に述べた如き徑路によつてクニノトコタチの神からアメノトコタチの神が作られたと同じであらうし、アメノサギリ・クニノサギリなどの神の名は、さういふ類例からいくらでも作り添へることができたのであらう。
 しかし、神々の生まれた話については、記紀の間に一つの大なる差異があつて、そこからいろ/\の問題が生ずる。古事記では、イサナキ・イサナミ二神の生殖の最後に火の神が生まれ、其のためにイサナミの命が死んでヨミの國へいつたことになり、それからイサナキの命のヨミ訪問といふ一段があつて、さて此の神がヨミから還つて禊をせられた時に、日の神、月の神、及びスサノヲの命が、出現したとあるのに、書紀の本文では、此の日の神、月の神、とスサノヲの命とを、イサナキ・イサナミ二神の生殖による普通の意義での子とし、それで二神の生殖が終つたことにしてあつて、イサナミの命の死んだ話は無く、從つてヨミの國の物語は全く見えてゐない。書紀の注の幾つかの「一書」の中には、古事記とほゞ同じもの(第六)があり、單に三神出現の條のみを採つてある最初の「一書」も、日の神、月の神、及びスサノヲの命の、出現の方式から推測すると、多分同じ話のすぢになつてゐたであらうと思はれるが、また日の神、月の神、及びスサノヲの命を、本文と同じくイサナキ・イサナミ二神の生殖による子とし、さて最後に火の神を生んでイサナミの命が死んだとしてあつて、記紀二書の説の中間にあるやうなのも(第二)ある。此の中間説にヨミの物語がついてゐたかどうかは明かでないが、それは結びつければつけられるものである。例へば、別(367)の「一書」(第一〇)のヨミ及び禊の物語の如きは、禊の時に日の神などの出現の話が無いから、多分、此の中間説の如きものの後に來べきものであらうと思はれる(ヨミの話があつても、日の神などの出現を其の後にする必要は少しも無い)。もう一つの「一書」(第九)のも、變形ながら同樣に考へ得られる。しかしまた結びつけなくてもよいので、なほ一つの「一書」(第五)には、多分それが無かつたであらう。これはイサナミの神をキの國のクマヌに葬つたとしてあつて、それで此の神の話は終つてゐるらしいが、さうするとヨミの話が無いとともに、日の神などの生まれたのは上記の中間説の如きものでなければならなかつたはずである。火の神についての話だけを採つてある「一書」も幾つか(第三、第四、第七、第八)あるが、それは古事記のやうな物語の一部であつたか、中間説を形づくるものであつたか、わからない。話のすぢがかういろ/\になつてゐるから、そこで第一に、古事記、書紀の本文、書紀の注の第二の「一書」の、三つのうちで、何れが話の原形であつたか、といふ問題が生ずる。
 先づ考へねばならぬのは、古事記に於いても、日の神、月の神、などが、イサナキの命の子と書かれてゐることであつて、子とあるからには、尋常の生殖によつて生まれたものと見るのが、妥等のやうである。しかし後にも日の神とスサノヲの命とが品物によつて各子を生まれた、といふ話があるから、これはしばらく措いて、スサノヲの命のことばとして、根の國、即ちヨミ、を「妣の國」といつてあることは、注意を要する。これは勿論、イサナミの命がヨミにゆかれたといふ話を豫想してのことばであつて、此のヨミの話がまた問題ではあるが、しかしそれはそれとして、スサノヲの命がイサナミの命から生まれたといふことを前提としなければ、斯ういふことはいはれないはずである。さてスサノヲの命がさうであれば、其の同胞としての日の神なども、やはりイサナミの命から生まれたことにな(368)つてゐたであらう。が、さうするとこれらの神の出現に關する古事記自身の記載とは矛盾することになるので、そこに何かの理由がなければならぬ。さうしてそれは、物語の原形に於いては、日の神などが、イサナキ・イサナミ二神の子として生殖によつて生まれたことになつてゐたのが、後にヨミの話を中間にはさみこみ、それに附隨してゐる禊の一段に日の神などの生まれたことを結びつけ、それを異常な出現としたために、生じたことではなからうか(何故にかういふ異常のこととしたかは問題であるが、それについては後に考へよう)。即ち一方に新しい潤色が施されはしたけれども、もとの形に於いての「妣の國」といふことばが、他方に遺存してゐるのではなからうか。神代史の中心であり皇祖神である至高至貴の日の神であるから、其の生まれたことは最も莊重に語られねばならぬのに、それをヨミの穢れを祓ふための禊の時とするのは、よしそれに少からぬ意味はあるにせよ、いくらかはふさはしからぬ感じもせられる。さうして、古事記の説のやうな左の目と日の神との聯想がシナの説話に由來があること、また後にいふやうにイサナキの命がヨミから還つた後に生まれたといふ神々の性質を考へると、さういふ時にこれらの神々が生まれたとすることに意味の無いものの多いこと、などをも參考するがよい。(話のすぢからいふと、ヨミが暗いといふのは明るいウツシ國を豫想してのことであるから、ヨミ訪問の前に日の神は生まれてゐなければならぬのであるが、作者もそこまで論理的に押しつめて考へてはゐなかつたらうから、これは不問に附してよからう。日の神が生まれない前にオホヤシマを生むといふのも、日の無い暗黒中の事件として見なければならぬが、其の點の顧慮もまた初からせられてゐなかつたのであらう。しかし此の後の方のことは、國土の生まれた話が政治的意義のものである一證としても見られる。後文參照。)かう考へて來ると、日の神などの生まれた有樣についての物語の原形は、ほゞ書紀の本(369)文のやうなものであつたらしい(ヒルコの話などは後人の挿入であるとして)。從つて日の神がヒムカで生れたといふのは、後になつて作りかへられた話であつて、オホヤシマの生れたすぐあとで、それと同じくオノコロ嶋で生れたことになつてゐる書紀の話が、その原のすがたを傳へてゐるらしい。さて次にいふやうに、ヨミの話は物語の原形には無かつたのであらうが、それが附加せられた最初は、書紀の注の第二の「一書」(即ち上記の中間説)のやうにしてイサナミの命の死が説かれ、さうして其の次に此の話が置かれたに違ひない。イサナミの命の死は日の神などを生んだ後でなくてはならないからである。また古事記及び書紀の第六の「一書」の説は、更にそれから轉じてイサナミの命の死、從つてヨミのことと、日の神などの生まれたこととの、順序を反對にし、それにつれて日の神などの生まれたことを異常の出現とし、かうすることによつてすべてを説き變へたものであらう。此の臆説にもし理由があるとするならば、前に述べた古事記の「妣の國」の語は、ヨミの話が初めて加へられた時の物語のすぢに最もふさはしいものであつて、それが古事記のもとになつた舊辭に偶遺つてゐたのであらう。
 然らば、何故にヨミの話が附け加へられたか、其のヨミの話には如何なる意味があるのか、といふことが次の間題になるが、其の前に物語の本來の順序によつて、日の神、月の神、及びスサノヲの命の生まれた話について考へて見なければならぬことがある。
 
(370)       第五章 日の神月の神及びスサノヲの命の生まれた物語
 
 上に述べた如く、日の神たるアマテラス大神(オホヒルメの命)、月の神たるツクヨミの命、及びタケハヤスサノヲの命、の三神は、イサナキ・イサナミ二神の子として生まれたのであるが、これはどういふ意味であらうか。アマテラス大神とツクヨミの命とは、日そのもの月そのものであつて、此の話は日月の産出を説く自然説話であらうか。或はまたそれらは人の性質を具へ人の形を有するところに本質のある神であつて、此の話には日そのもの月そのものについての自然説話としてではない別の意味があるのであらうか。そも/\此の物語は民間説話として存在してゐたものであらうか、但しは神代史の編述者の構想から生じたものであらうか。また此の日月二神が如何なる神であるにせよ、それが一面に於いては日そのものと月そのものとであること、さうしてそれと共に他の一面に於いて人の性質と形とが與へられてゐることは、疑が無からうが、この二神と同時にその弟として、スサノヲの命が生まれたといふのは、如何なる意味であらうか。此の命には日や月と何等かの關係のある自然的基礎があるであらうか。かういふいろ/\の問題がある。
 まづ日月二神について考へるに、月の神が神代史の上で何等のはたらきをもしてゐないことが、注意せられる。此の神に關しては、夜を支配するといふことが古事記に見え、海を治らすといふことが書紀の注の「一書」にある外には、日の神と互に會はないやうになつたといふことの由來を説いた話がたつた一つ、書紀の注の「一書」に出てゐる(371)のみである。此の前の方の話は、たゞ月の神の名を出したことに附随して語られたまでのもであつて、月の神の神としての行動を説いた物語ではない(後文參照)。また後の方の話は、神代史全體の結構から見ると、全く縁の無い、取り去つても毫も損するところの無い、遊離分子であり、さうしてそれは、此の話がたつた一つの「一書」にのみ見えてゐることによつても知ることができる。また此の話自身はウケモチの神(もしくはオホゲツヒメの神)についてのことであつて、本來、日と月との關係には縁の無い物語であるから、これは決して、日と月とが交代して空に現はれることを説明するための、自然説話として解すべきものではなく、たゞその話を月の神に結びつけたために、そこから日の神と月の神とが顔をあはせないといふ話におとしたまでのものであり、古事記にそれをスサノヲの命に結合してあるのでも、このことが知られる(後章參照)。要するに、月の神は神代史の物語の上に少しも姿を現はさないものであるが、これから考へると、かういふ神を生まれさせたのは、此の神自身に生まれて來る必要があつたためでないことがわからう。
 然らば日の神はどうか。此の神が月の神とは違つて神代史の中心的地位にあるものであり、幾多の説話がそれについて語られてゐることは、いふまでもなからう。が、此の神の物語は、スサノヲの命との爭も、ウケヒをして子を生まれることも、トヨアシハラノミヅホの國の平定やホノニニギの命の天降りやに關することも、日そのものとは何等の關係が無い。岩戸がくれの一段だけは日に由縁があり、また後にいふやうに、此の話には日蝕の際に於ける民間の呪術から材料を得た點があらうとは思はれるが、しかし日蝕そのことを説明する自然説話ではない。なほ神代史に日(及び月)に關する自然説話が無いといふことは、一體に天體に關する物語のそこに見えないことからも、推測せられ(372)るので、此の點については、何人も日常經驗してゐる日の出没運行、月の盈缺、すらも話題に上つてはゐず、上代人には特に奇異の想をさせたはずの日蝕や月蝕を説明する物語も無いことを、考へねばならぬ。日月の外に蒼天をかざる美しい星の如きも、神代史には邪神カガセヲ又はアマツミカボシとして、其の名が書紀の注の二つの「一書」に出てゐるのみである。神代史の上のみならず、上代人は、全體に天界の現象には注意しなかつたらしく、すべての文學を通じて、天界の自然現象を取扱つたものが極めて少い。上代人に暦の知識が無く、星の名などを殆ど有たなかつたのも、日月星辰の運行について注意することが、少かつたためであらう。一般に知識の程度が低かつたからであることは勿論ながら、それに注意が向けられなかつたことも疑が無い。支那に於いてもかういふ自然説話はあまり發達しなかつたが、それでも淮南子天文訓などには、日が東から出て西に入るまでの行程に關する説話風の記述があり、日が馬を驅つて天を行くといふ空想の片影も、そこに認められないでもないやうであるが、シナ思想が著しく混入してゐる神代史でありながら、毫もかういふ説話の顧慮せられたらしい痕跡が見えないのは、上代の日本人が、天體の運行に興味を有たなかつたからではなからうか。かう考へて來ると、日の神(及び月の神)に關する物語が自然説話と見なせないのも、怪しむべきではなからう。日や月を生きたものとして、人として取扱ふことは、未開民族の説話に於いては普通の例であり、それによつて日月の性質や行動が説明せられてゐるが、神代史の日月二神の物語は、さういふ性質のものではない。日の神は一面に於いては日そのものではあるものの、その意義での日の神は、たゞ天にあつて此の國を照すといふ意味だけのものであつて、其の日の行動やはたらきは殆ど物語には現はれてゐず、さうして他の一面の、物語に語られてゐる、人の性質と形とを有する神としての日の神のはたらきは、全く日そのものの行動(373)とは關係が無い。日の神にはかういふ二面があつて、それが一つの神に結合せられてゐるのである。
 勿論、日そのものとても、今日のわれ/\が考へる如き物理的の太陽ではない。しかしそれが、本來、宗教的崇拜の對象としての人の性質と形とを有する神とせられてゐたかどうかは、問題である。日が民間信仰に於いて神として崇拜せられてゐたかどうかについては、幾分か明かでない點も無いではないが、後世の普通人の習慣から推測しても、それを否定することはできなからう。顯宗紀三年の条に見える日の神(及び月の神)の話は、そこにタカミムスビの神の名の現はれてゐることから考へても、神代史の物語から來てゐる、書紀編纂のころの思想によつて書かれたものであつて、民間信仰の神についていつたのではないらしいが、敏達紀六年の条の日祀部といふのは、日そのものを祀ることに關係のあるものであるらしく、從つてさういふ部の置かれたのは、民間の風習に基礎があるのであらう。農業と日との關係が知られるほどに文化が進んで來れば、農業國民たるわれ/\の祖先は、此の意味からでも日を神として崇拜したのであらう。けれども上代人一般の宗教思想から類推すると、その日に人の性質と形とを有する神を認めてゐたとは考へ難いので、日そのものを靈物として考へ、もしくはそれに生きた精靈が存在すると思つてゐたのであらう。從つて崇拜の對象としての神の名が、日について、別にあつたのではあるまい。アマテラス大神といふ名の如きは、日の屬性を説明したものであるから、それは知性の所産であり、知識人の考慮によつてつけられたものであることが、推知せられるが、オホヒルメもまた同樣であらう。オホヒルメとそれに對するツクヨミとは、靈異のものを指す語である「メ」または「ミ」を「ヒル」および「ツクヨ」に添加して、晝と月夜とのそれ/”\の光明の本源としての二つの靈物である日と月との稱呼とし、さうしてそれを人の性質と形とをもつてゐるものとしての日の神と月(374)の神との名としたものである。メはミの音の轉訛したものであり、ミはヤマツミ、ワダツミ、などのミと同じ語であらう。メは女の義とは考へられぬ。だからそれは前章で述べた神々の例から類推しても、民間に於いて行はれてゐた稱呼らしくはない。(月もまた民間に於いて崇拜せられてゐたではあらうが、それは日に對すると同じ態度でのことであらうから、ツクヨミの命といふやうな人の性質と形とを有する神としての名があつたとは思はれない。)さて神代史の物語に於いては、かういふ二つの名を有し人の性質と形とを有する神としての日の神があるが、此の日の神について、日そのものとして宗教的に崇拜せられてゐたやうなことは少しも語られてゐない。光を下し闇を去り生命を與へ罪惡を拂ふ、といふやうな意味に於いて、人生を支配する神としての物語の如きは、なほさら見えないのである。此の神が隱れた時に世が闇くなつて惡神があばれ、顯はれた時に明るくなつて災がやんだ、といふ話はあるが、それは日そのものの物理的效果と當時の宗教思想に於いてそれに隨伴すると考へられてゐた現象とを、擧げたのみであつて、日の神がかういふ力を有つてゐてそれを神みづからの意志によつてはたらかせた、といふのではない。だから光を求めるにも罪を拂ふにもそれ/”\の呪術によつたのであつて、此の神に祈つて其の加護を求めたのではない。日そのものとしての一面に於いての此の神が、神代史の物語に於いて宗教的崇拜の對象として取扱はれてゐないことは、これでも知られよう。のみならず、この意義での日の神は、人の生活を支配するものとしては語られてゐない。上代の民族生活の基礎は農業にあつたが、上にいつたやうに日と農業との關係が考へられてゐた時代でありながら、此の神は農業神としては説かれてゐないのである。スサノヲの命がタカマノハラに上つた時の物語に、日の神が田を作られたといふ話があるが、これはタカマノハラに農業國民の生活が反映してゐるのであつて、日の神を農業神として見(375)たのではない。日の神が機を織られるといふ話に婦人のしごとが現がれてゐるのと、同じである。
 神代史に於いて人の性質と形とを有する神としての日の神が、宗教的崇拜の對象たる神としての日そのものとして取扱はれてゐないとすれば、それは如何なる神であらうか。神代史の説話の何れもが、みな皇室の御祖先として此の神を語つてゐることは、記紀を讀むものの何人もすぐに氣のつくところであらうが、それは即ち此の神が皇祖神として考へられてゐたからだとしなくてはなるまい。此の神を書紀の本文には「天下の主たる者」と記し、注の「一書」に「御宙の珍子」と稱し、また天に上ぼせられる時には何れの本にも「タカマノハラを治らす」と書き、もしくはそれと同じ意義のことばを用ゐてあるのでも、此の神の本質の政治的君主であることが知られよう。日の神がオホヤシマの國土の後に生まれたのも、此の理由から來てゐるのであつて、國土が無くして君主のあるべきはずが無いからである。書紀の本文を詳しく引くと、「吾れ已にオホヤシマ國及び山川草木を生めり、何ぞ天下の主たるものを生まざらんや、」といふのであつて、此のイサナキ・イサナミ二神の語には、明かに上記の意味が説かれてゐる。スサノヲの命の天に上つた時に、日の神が我が國を奪はんとするかと弟の命を疑はれた、とあるのも、また此の君主たる性質から派生した話である。スサノヲの命が神衣を織る織殿や新嘗の宮を汚したといふ話のあるのも、歴代の天皇が神を祭り神事を行はれたと同じことを、日の神がせられたやうに語つたものであるから、これもまた日の神を皇祖神としての話である。日の神が、日そのものの精靈たる神としては、おのれみづから宗教的祭祀をうける神でありながら、神代史に於いてそのことが語られてゐず、却つてかういふ話のあるのは、この神が皇祖として天皇の地位と任務とをもつてゐるからである。また日の神にアメノコヤネの命やフトダマの命などが奉仕したやうに語られてゐるのも、天皇の(376)朝廷に於けるナカトミ氏やイミベ氏の職掌を、それらの家々の祖先とせられてゐるこれらの神々に務めさせたのであつて、これもまた日の神が皇祖神とせられてゐるからのことである。古事記及び書紀の注の「一書」に日の神の生誕地をツクシのヒムカとしてあるのは、後にいふやうに後人の變改したことではあるが、それもまたヒムカが地上に於ける皇室の發祥地として説かれてゐたためであつて、それは即ち日の神が皇祖神であるからであり、政治的君主として見られてゐたからである。その孫のホノニニギの命が此の國に降られ、さうしてそれが此の國にゐて此の國を統治せられる皇室のはじめであるとせられたことに於いて、日の神の皇祖神であることが最も明かに示されてゐることは、いふまでもない。日の神はかういふやうに皇祖神であるが、しかしそれと共に日そのものでもあるので、この二つの結合せられてゐるところに神代史の日の神の本質があり、さうしてまた神代史の根本精神がこゝにある。このことについては、後に詳しく考へようと思ふが、それは神代史の上に明かに現はれてゐることであり、神代史を一讀するものには容易にわかることである。かう考へると、月の神のはたらく物語が無いのも當然であつて、政治的意義のある皇祖神であるからこそ、日の神は神代史に重要な地位を有するのであるが、皇室に何の關係も無い月の神ははたらくべきしごとが無いのである。さすれば月の神の生まれたのは、實は日の神のつきあひに引き出されたまでのことであつて、日月並び存する自然の現象が、日の神を神代史の中心人物とするに當つて、かういふ着想を取らせたのである。
 説いて茲に至ると、何故に日そのものとしての日の神を皇祖神としたかの考察におのづから入らぬばならぬ。天皇は政治的君主であられるが、その君主には現つ神といふ稱號が與へられてゐる意味に於いての神の性質が伴つてゐるから(第二篇第六章第一節、參照)、其の御祖先を神としたのはこゝに理由があつたらうが、其の神を日そのものとし(377)ての日の神に結びつけた理由が、問題なのである。もし日そのものとしての日の神が、本來、宗教的に崇拜せられてゐた最高の神であり、神々と人生とを統御するものであつたとすれば、此の問題は容易に解釋せられるかも知れぬが、大體に於いて精靈崇拜の程度にあつて、人の形と性質とを有する神の觀念が發達せず、從つて多神教を形成するにも至らず、一神教的傾向の如きはもとより存在しなかつた、上代日本人の宗教思想に於いて、神に尊卑の別があつたり神々が一つの社會をなしてゐてその間に統制があつたりはしなかつたから、かう考へることはむつかしからう。日は精靈もしくは靈物として崇拜せられてゐたであらうが、しかしそれは決して到るところに存在するさま/”\の精靈を支配し、又は其の上に立つて特殊の大なる力を有するが如くに、考へられてゐたのではなかつたらしい。人の性質と形とを有する日の神が神代史に現はれた後になつても、此の點は同樣であるので、それは實際の民間信仰に基礎のある祝詞などに日のことの見えないのでも、明かに知られるし、萬葉の歌に神を祭ることが多く詠まれてゐるにもかゝはらず、日の崇拜の面影のそこに見えてゐないこと、などからも推測せられる。國家の禮典としての祭祀に於いても、日の崇拜に重きが置かれてゐたやうな證跡は無い。それから、神代史上の日そのものとしての一面に於いての日の神とても、例へば月の神とか山の神、海の神、とかいふやうな多くの神々の上に立つて、それらを統率する地位にあるのではなく、顯宗紀三年の條の日月二神を祠るといふ記事にも、日の神と月の神との間に輕重尊卑の差は見えないが、これらもまたこゝに述べたやうな實際信仰の?態から來てゐるのであらう。さうして此のことは、第二篇に考へておいたやうな上代の日本人の宗教思想に對する一段的考察の上からも是認せらるべきはずである。だから、日の神を皇祖神とする最初の企圖が、民間信仰に於いて日を最高の神としてゐたからだと見ることは、困難であらう。それより(378)も寧ろ、日が天にあつて此の國土を照すといふ自然界の現象と、皇室が此の國を統治せられるといふ政治形態の上の事實との間に並行を認め、此の二つを結びつけて皇室を日に擬したのであつて、そこから日そのものとしての日の神が皇祖神とせられることになつた、と解すべきであらう。さうしてまたそれには、皇室の地位を日の如く恒久不變なものとする意味が含まれてゐるのであらう。勿論その基礎としては、よし特別に重んぜられた風習ではなかつたにせよ、日の崇拜の民間信仰があつたに違ひなく、また一般に光明を喜び光明の源たる日を崇敬する上代日本人の思想も、其の背景となつてゐたのではあらうが(後文參照)、かういふことの決定せられたのは、特殊の理由から特殊の知識人の間に於いて考慮せられた結果であらう。さうしてそこに神代史の根本の精神が置かれたのであらう。或は皇室と日とを結合することが極めて古い時代からの因襲ではなかつたらうか、といふ疑もあらうが、このことについては、われ/\の民族がまだ皇室の下に統一せられず、多くの小君主によつて分治せられてゐた時代に於いて、其の君主の家もしくは地位が、日もしくはそれと同樣な自然界の何ものかに結合せられてゐたことがあつたかどうか、を考へる必要もある。しかし文獻の上にはそれを知るべき材料が無い。さうしてそれは、事實さういふことが無かつたからではあるまいか。國家の統一せられた後に於いても、かういふ小君主の後をうけついだものと考へられる國造などに於いて、さういふやうな風習のあつたらしい痕跡は、どこにも見えない。後章にいふ如く、イヅモの國造の祖先はやはり政治的地位と宗教的權威とを兼有してゐたらしいが、其の家の遠祖について、之に似た話も傳はつてゐない。其の他、例へば月を祖先とした君主があつたといふやうな話も聞かぬ。あれだけの宗教的勢力を有つてゐた卑彌呼に、もしさういふやうなことがいはれてゐたならば、魏志にそれが見えさうなものであるのに、毫もそんな樣子が無いでは(379)ないか。また廣く考へると、君主を日に結合することは他の民族にも其の例が少なくないが、其の起源は必ずしも一樣では無いらしいから、さういふところからの類推もなしかねる。(我が國の皇室と日との關係が、皇室の屬する種族もしくは氏族についてのことではなくして、天つ日嗣、即ち政治的君主としての地位、について考へられてゐたことは、いふまでもない。從つてこの關係を、未開民族の間に存在するトオテムの觀念で説明することはできない。)かう考へて來ると、皇室と日との結合が甚しく古い時代からうけつがれて來たことであるとは考へかねる。さう見るべき證跡が無いのである。さすれば、皇祖が日の神であるといふことは天皇に神性があるといふ思想に本づいてゐるのであつて、君主にさういふ宗教的地位があるといふことは、極めて遠い昔から信ぜられて來たものであらうが、しかしその地位は日の後裔であるといふ意味に於いてではなく、日との結合は却つて後になつて生じたものと解するのが妥當である。さうして、さういふ結合が行はれても、その日は初から人の性質と形とをもつた神として見られてゐたからのことではなく、むしろ日の神に人の性質と形との生じたのは、日が皇祖とせられたためであつたのではあるまいか。純粹の宗教的意義に於いての民間信仰の對象とせられてゐる日は、後までも依然として精靈もしくは靈物としての日そのものであつて、アマテラス大神またはオホヒルメの命といふ名を有する人の性質と形とを具へた神ではないからである。また上にも一言した如く、アマテラス大神またはオホヒルメの命といふ名が、決して古くから傳へられて來たものではなく、後になつて知識人の思想の上に生まれたものらしく考へられるからである。しかし既に皇祖としての日の神の觀念がなりたつと、其の皇祖神たることに於いて日の神が高い地位を有するやうになると共に、それがまたおのづから皇室の宗教的色彩を濃厚にし、天皇の現つ神としての光輝が一層強められるやうにもなるのである。
(380) さて日の神が皇祖神であるとすれば、さうして月の神が其のつきあひに引出された神であるとすれば、其の點では此の二神が人の性質と形とをもつた神であるから、イサナキ・イサナミ二神の生殖によつて生まれた子とせられてゐるのはふしぎでなく、物語の原形でさういふ風に構想せられてゐたことは、怪しむに足らぬ。但し他の一面では日の神が日そのものでもあり、從つて月の神もそれと同樣、月そのものでもあるから、此の點では日と月とが人(人としての神)から生まれたことになるので、神代史がすでに世に傳へられてゐやほどな時代の知識人の或るものにとつては、この話はかなり奇怪にも感ぜられたのではあるまいか。遠き昔の未開時代に由來がある自然説話ならば、日月が人から生まれても不思議はないが、それならばそれで、話の全體がそれにふさはしくできてゐなければならぬ。しかしイサナキ・イサナミの神が普通の人の如く語られてゐることから見ても、この話はさうなつてゐないことがわかるし、また上に考へたやうな點からも、この話がさういふ自然説話でないことはおのづから知られるから、そこに不自然が感ぜられるのである。古事記や書紀の注の第一の「一書」の説の如く、日の神と月の神とを異常な出現としたことには、或は、此の不自然を免れようとする考慮もいくらかはたらいてゐたのではなからうか。此の古事記の説に見える日月と目との聯想は、支那の盤古説話にも存在するものであり、また玄中記の「北方有鍾山焉、山上有石、首加人首、左目爲日、右目爲月、開左目爲晝、開右目爲夜、」は、日月と左右の方位との關係が明かに記されてゐる點に於いて、一層古事記の所説に近接してゐる。エジプトにもギリシヤにも類似の思想はあり、また極めて自然な起り易い聯想でもあるから、これは或は日月の起源に關する説話の民間に存在してゐたものが、其のまゝ斷片的に、或はいくらかの變改を加へて、神代史に採られたのかと思はれないでもないが、左右の方位までが玄中記と同じであることを思ひ、(381)一般にシナ思想の影響がかなり多く神代史の物語に存在することに參照すると、これもやはりシナの説話から轉じて來たものではなからうか。(エジプトの話では、日月と左右の位置との關係がシナとは反對であるが、かういふことには、それ/”\の民族の特殊の思想が、はたらいてゐることを考へるがよい。)この話が舊辭のすべてに共通なものではなくして、たゞ古事記のもとになつたものと、系統上それと親近の關係のある書紀の注の「一書」とに、限つた説であるのを見ても、知識人の特殊の着想として解する方が妥當であり、從つてシナの知識から來てゐるものと見なし得るのである。たゞ目を洗つた時に現はれたとあるのは、禊の場合の話にしてあるのと、日月が一方では人の性質と形とをもつた神となつてゐるのとのためであるらしく、原始的なシナの説話よりは遙に理智的であり、技巧が加はつてゐるが、日月二神が生まれたといふ神代史の物語は、本來、宇宙生成説話ではないから、シナの粉本に變改を加へてあるのは、當然である。さうして日月と目との聯想は、本質的には、日月そのものを目とするところにあるので、從つてそれは盤古や Purusha の如く、宇宙生成説話の一部をなすべきものと考へられるから、古事記の話の如きは、其のまゝの形に於いては、また單獨には、民間説話として存在しなかつたことが、此の點からも推測せられよう。また上に述べた如く、民間説話の性質を有する宇宙生成物語が、少くとも神代史の上に、現はれてゐないとすれば、特に盤古式の人類以前の人類の肢體から宇宙が生成したといふやうな説話の痕跡がそれに見えないとすれば、日月と目とを聯想した説話もまた、民間の説話から採られたらしくはないのである。なほ上代の文獻に於いて天體に關する説話が殆ど見えないといふことをも、參考するがよい。古事記の話は、勿論、人の性質と形とを有する神として日の神や月の神が考へられた後のものではあるが、さういふ話の基礎となつた宇宙生成説話があつたと想像することも、む(382)つかしからうと思はれる。なほ書紀の注の第一の「一書」に見える白銅鏡の話は、此の古事記の説の變形に過ぎない。それが白銅鏡のシナから輸入せられた後の物語であることは、いふまでもあるまい。
 さてこゝに起るべき問題は、何故に日の神(及び月の神)をイサナキ・イサナミ二神の子としなければならなかつたか、といふことである。日(及び月)そのものとしては、前に述べた如く、それを人(人としての神)の子とすることが不思議に感ぜられるが、これは皇祖神を日としたためであつて、さうすることに神代史の、從つて神代史製作の、根本精神があつたとすれば、かういふことの語られるやうになつたのも、已むを得ないことであつた。作者みづからにも、一面に於いては不思議の話と感ぜられたであらうが、他の一面に於いては、後ほどに知性の發達しなかつた時代のこととて、その感じはさまで強くはなかつたらうと推測せられる。のみならず、話の眞の意味は、日(及び月)そのものをイサナキ・イサナミ二神の子とするところにあるのではなくして、(日と結合せられた)皇祖神を二神の子とするところにあるのであるから、日(及び月)が二神の子となつてゐることは、おのづから輕く感ぜられたのでもあらう。また天上にある日(及び月)を地上で生まれたとすることにも、やゝ奇異の感はせられるが、これとても、話の主旨が日(及び月)そのものにあるのでないとすれば、問題はまた別になる(このことについては後に考へよう)。それよりもこゝでの問題は、皇祖神にも父母があるとした點にある。皇祖を日の神とするのは、それを最初の皇祖としての神とする意味に於いてであらうに、かういふ神に父母があるといふのはそれと矛盾するではないか。皇祖も人(神としての人)であられる以上は、それに父母が無ければならぬといふならば、イサナキ・イサナミ二神にも父母が無ければならぬ。然るにそれが無い。イサナキ・イサナミ二神に父母が無いほどならば、日の神にも父母(383)が無くてよいのではないか。其の方が此の神を皇祖神とした本義にかなふではないか。だから皇祖神としての日の神をイサナキ・イサナミ二神の子としたことには、何か特殊の意味が無ければなるまい。日の神(及び月の神)が地上で生まれはしたが後に天上に送り上げられたとしたのも、一面の意味に於いては、日の神が日そのもの(また月の神が月そのもの)である以上、それに伴つて生じなければならぬ話であり、天上にあるべき日の神などを此の國土の神たる二神の子としたところから、起つたことである。此の天上に送り上げられる話が、朝ごとに日の地から上ることを表象したものとして考へられないことは、夕ごとに地に入る話も、晝間東から西に空を動いてゆく話も、また夜間西から東に地下をかへつてゆく話も、さういふ日(や月)の運行を説明する説話が一つも無い、といふことによつて知られるであらう(なほ上文參瑠)。のみならず、日の神の生まれた場所は我が國土の中であつて(書紀の本文ではオノコロ島とすべきであらうか、古事記ではツクシのヒムカ)、決して東のはてでも海の東でもない。朝日の昇ることが考へられてゐたならば、其の話にかういふことはあるまじきはずである。(日がもと人であつたり、地上で作られて後に天上にあげられたり、したといふやうな説話は未開の民族に其の例があるけれども、こゝの話がさういふ性質のものでないことは、すでに?述べた。)なほ日の神の生まれた土地に二つの違つた話のあることについても、一應考へてみなければならぬが、オノコロ嶋であるといふのは、大八嶋の生まれたことに伴ふものであるから、何故にこの嶋で生まれたとせられたかは、大八嶋がこの嶋で生まれたことの説明によつて、おのづから知られるはずである。またヒムカであるといふのは、いはゆる皇孫降臨の物語と思想上の聯絡があるに違ひないから、それについては後に至つて考へることにする。しかし土地はどこであつても、日の神がイサナキ・イサナミ二神の子とせられてゐる(384)ことは同じであるから(ヒムカの話の方では變化した形に於いて語られてはゐるが)、上に記した問題はそれとは關係なく生ずるのである。
 が、此の問題はしばらく問題としておいて、次にスサノヲの命のことを考へよう。さて本文を見ると、此の神は日月二神と同時に生まれてはゐるが、書紀の本文及び注の第二の「一書」では、其の間に不具のヒルコが挿まつてゐる。ヒルコのこゝに挿まれたのが甚だ不自然であつて、物語の原形ではなからうといふことは前に述べたが、それによつて、日月二神とスサノヲの命との間に一つの隔りができてゐることは、注意を要する。また後に變改せられたものと思はれる古事記と書紀の注の第六の「一書」との説では、日月二神の出現はイサナキの神が目を洗はれた時、スサノヲの命のは鼻を洗はれた時のこととしてあり、書紀の注の第一の「一書」では、左右の手に白銅鏡を持たれた時に日月二神が、また首を廻して顧眄せられた時にスサノヲの命が、出現したとあつて、やはり日月二神とスサノヲの命との間に樣子の違ふところがある。目も白銅鏡も共に光明から聯想せられたものであるから、日月二神はそれに適合するが、スサノヲの命には縁が無い。だからスサノヲの命については、それとは違つた場合を想像しなければならぬのは、已むを得ないことであり、特に目は左右に二つしかなく、さうしてそれは日月二神にあてられてゐるから、スサノヲの命には何か他のものをあてがはねばならぬのであるが、それにしても鼻を洗つた時といひ、ふりかへつた時といふのは、あまりに木に竹をついだやうな感じがする。が、これもかういふ變改を加へる前の物語に於いて、既にスサノヲの命だけは特別に取扱つてあつたからであらうと思はれる。そこで問題は、かう特別に取扱はなければならぬスサノヲの命を、何故に日月二神と同時に生まれさせ、同じくイサナキ・イサナミ二神の子としたか、といふことに(385)なる。(スサノヲの命は、日の神や月の神とは違つて、二神の如く日月といふやうな自然現象の基礎がそれに無く、さうしてどこまでも人の性質と形とをもつてゐる神となつてゐるから、古事記などのやうな異常な出現をさせなくてもよいのであるが、それにもかゝはらず、強ひてさうしてあるのは、本來、日月二神と同時に生まれたことになつてゐる物語によつて、それを潤色したからであらう。なほスサノヲの命を鼻にあててあることには意味が無いので、それは他の説にふりかへつた時とあるのでも知られる。これは日月二神を左右の目にあてたがために、同じく顔面にある鼻を假りたに過ぎなからう。)
 なほ別の方面から考へるに、記紀の何れの説でも、日月二神とスサノヲの命とが、それ/”\領分を定められたやうになつてゐる。もつともそれは本によつて所説が區々であるので、表にして示すと左記のやうなものになる。
  日の神  月の神   スサノヲの命
  高天原  夜の食國  海原     (古事記)
  高天原  日に配す  海原     (書紀の注の「一書」で)
  天上   日に配す  ――     (書紀本文)
  天地   天地    根の國    (書紀の注の「一書」【第一】)
  ――   ――    根の國    (書紀の注の「一書」【第二】)
  高天原  海原    天下【但しこれを治らさず】(書紀の注の「一書」【第六】)
 これで見ると、日の神のタカマノハラ統治には異説が無く、月の神も最後の一説の外はみな日と共に天を治め天地(386)を照すものとしてある。(夜の食國を治らすといふのは、日に配して天のことを治らすといふのと、同じ意義であらう。)それで日月二神は、大體上、一致してゐるが、最も異説が多く何の統一も無いのは、スサノヲの命である。もつともそれは、どの説でも根の國へ謫せられ或は根の國に自分から行かうとすることになつてゐるので、そこに諸説の一致點があるけれども、現し國のこととしては所説があまりに區々であるから、そこにスサノヲの命の地位に關する疑問が係るのである。
 なほよく此の場合に於ける日月二神の地位を考へるに、もと/\この話は天にある日そのもの月そのものとしての二神の性質が主になつて構想せられたものであるから、二神は地上に生まれたとはいへ、天上にゐなければならぬ。前に掲げて置いた表を通覽すると、書紀の本文に二神を天上に送り上げたとある如く、二神が共に天上にあることになつてゐる。だから、もし二神の間に分掌があるならば、それは畫と夜との區別でなくてはならぬ。古事記に日の神はタカマノハラを、月の神はヨルノオスクニを治らすとあるが、これは、日の神はタカマノハラにゐて晝を、月の神は夜を支配するといふ意義であらう。(月の神についてタカマノハラの語が用ゐてないことについては、後に述べるであらう。)書紀の本文と注の「一書」とに、日は天上を治め月は日に配して天上を治める、とあるのを見ても、二神が同じ地位に置かれたことが知られ、また日月の晝夜を照らす實際からいつても、さうなくてはならないのである。(月の神の名のツクヨミは月夜の靈の義であり、さうして夜には月の照さない時期もあるから、月の神が夜を支配するといふのは、ツクヨミの名の意義にもかなはないところがあるやうに思はれるかも知らぬが、上代人はさうこまかに物ごとを考へてゐないから、月は夜に現はれるものとして、かうしたまでのことである。)書紀の注の「一書」に(387)月の神を海原にあてた説を除く外は、記紀すべて此の解釋に一致する。ところが、書紀の本文にも注の二つの「一書」にも、月の神はたゞ日の神に配すとか、又は日の神と同じく天地を照臨すとかあつて、晝夜の分掌といふ話は無く、また前にも述べた如く、月の神は神代史上何のはたらきもしない神で、たゞ日の神のひきあひに出されたのみであるのを見ると、この物語は晝夜分掌といふやうなことに重きを置いてゐるのではなく、其の主旨はたゞ地上で生まれた二神を天に上せるといふだけのことであつて、更に一歩を進めていふと、畢竟は日の神をタカマノハラに上せるといふのが物語の精神であることが、察せられる。上に説いた如く、書紀の注の「一書」に於いて別に、日の神と月の神とが一日一夜隔てて離れ住むといふ話が一つあるが、其の他には天界の現象を説明するやうな自然神話が見あたらないから、こゝでもやはり、それをいふのが主旨ではないと見なければならぬ。神代史は皇祖神としての日の神を地上に生まれたことにしたけれども、それを日そのものが天上にある事實に調和させるには、それをタカマノハラに上せなければならないから、此の話が作られたのである。たゞ古事記及び書紀の注の「一書」には、日の神について「所知高天原」と書き、また「御高天之原」ともしてあるから、これによると、タカマノハラといふ一世界を限つて日の神の領分としてあるやうに見えるが、天を領分としたといふと、此の國土は日の神の勢力の外にあることになる。けれども、本來、此の話は日の天にある事實を根據として作られたものに違ひなく、さうして日は地上を照らすものとして見られてゐるから、國土を日の神の勢力の外に置くのは、此の事實に背くのである。のみならず、日の神は常に皇祖神たる性質を有つてゐるのであつて、皇室は此の國土の君主であられるから、此の點から見ても、この話は、日の神の領分を國土から離れた天としたのではなく、たゞそれを天上に上せた、即ち其の居所をタカマノハラに定め(388)た、といふ意義であるとしなければなるまい。もとより天上にゐて天をも支配するのであらうが、それと共に天から此の國土をも統治するのである。書紀の注の「一書」に、日月の二神について何れも「照臨天地」としてあるのが、參考せられよう。もし此の物語の主旨が、日月二神の領分を定めるつもりでそれをタカマノハラとしたのであるならば、必然こゝに此の國土が何人かの所領として擧げられねばなるまいが、それが前に除外例として置いた書紀の注の「一書」にスサノヲの命にあててある外は、どの説にも出てゐない(それすらも、スサノヲの命は事實に於いて天下を治らさずとある)。さすれば、記紀にタカマノハラが日の神の領分らしくしてあるのは、タカマノ)ハラに居所があるといふところから、不用意の間に生じた觀念の錯誤に過ぎなからう。日の神も月の神も共に天上にゐなければならぬのに、古事記にタカマノハラとヨルノオスクニとを並べて擧げてあるのを見ても、それを領土の區分として考へてゐたのでないことが知られる。現に書紀の本文には、イサナキ・イサナミ二神が天下の主たるものを生まうとして日の神を生んだとあるから、天上に送り上げたのは、そこから(天上と共に)天下を統治させる意味であると考へられ、從つて此の書に日の神について「授以天上之事」と書いてある「天上之事」は、天にゐて(天と共に)國土を統治することと解せられる。もつともこゝの「天下之主」は、皇祖神としての日の神を思ひうかべていはれたことであり、「授以天上之事」は、主として日そのものとしての日の神の性質から考へられたことであつて、日の神にこの二面の性質があるために、かういふ敍述となつたものと解する方が妥當でもあらうが、それにしても、天下の統治者として日の神を見てゐることは疑が無い。たゞそれでありながら「授以天上之事」といふ書きかたのしてあるところに、觀念の錯誤があるのである。書紀の注の「一書」(第十一)には、月の神に關して「配日而知天事」とあり、さうして其(389)の日については「御高天之原」とあるが、これもまた行文の際に觀念が曖昧になつたものであらう。かういふ錯誤が生じたり曖昧になつたりしたのは、タカマノハラが日の神の居所であると共に此の國土とは別なところであるのと、そのタカマノハラの日の神が此の國土を照すのと、日の神についてこの二つのことが考へられてゐるために、前の方を重く見ると、タカマノハラが日の神の領分のやうになり、後の方を重く見ると日の神の勢力が此の國土に及ぶことになるからであつて、タカマノハラを治らすとか「授以天上之事」とかいふやうないひかたは、この前の方から來てゐるのである。また後にスサノヲの命がタカマノハラに上つて行つた時の日の神のことばとして、我が國を奪はんとすといふ意義の語が古事記にも書紀の本文にもあるが、これもたゞ日の神の居所たるタカマノハラを奪はんとすといふことであつて、書紀の其の條の注の「一書」には明かに「將奪我天原」と書いてある。たゞ國といふ語を用ゐたのは、しらすといつたのと共に、日の神に皇祖神としての政治的性質のあることが聯想せられたからであらう。さうしてかういふ聯想から却つてタカマノハラが日の神の領分のやうに語られることにもなつたものと考へられる。書きかたやいひかたにはかういふことがあるから、言語文字の末に拘泥しないで、全體の精神と結構との上から、ことばの意義を解釋すべきである。なほ後の物語から考へても、日の神が、アシハラノナカツ國はわが子孫の君たるべき地なりとして、皇孫を此の國に降されたのは、日の神自身が生まれた時から此の國土の主であつたからだとしなければ、其の理由が立たないではないか。即ち日の神をタカマノハラに上げたことと、後に其の御子孫が此の國に降られたこととは、矛盾するものではないはずである。たゞこの時の日の神のことばには、どの本の説でも、我が子また我が子孫といふ意義の語があつて「我」とはいつてない。これは、日そのものが今なほ常に天上に嚴存するから、此の事實(390)と日の神を皇室の御祖先とする思想とを結び合はせようとしたために、生じた考であつて、日の神はタカマノハラに止まつてタカマノハラのみを支配し、其の御子孫が此の國土に降つて此の國土のみの君主となられた、といふことにしたのであらう。けれども、皇孫の御位は天つ日嗣といふ語の如く、日の神から繼承せられたものとせられてゐるのであるから、日の神自身、既に此の國土の主であつたと見なければならないのである(タカマノハラの意義については後章參照)。
 それで、以上述べた如く、此の物語に於いては日月二神の晝夜分掌といふ意味も極めて輕く、また話の主旨が領土分治といふ點でないとすると、スサノヲの命がこゝになかま入りをするのは、ます/\不自然なことになつて來る。諸説に、スサノヲの命の領土を、或は海原とし、或は根の國とし、或は書紀の本文の如く何處にもあててないのは、本來なかま入りをすべきものでないものがわりこんで來たために、あてがひ場所に困つたからの混雜ではなからうか。否、寧ろ領土分治といふやうな話ではなかつたものを、スサノヲの命がわきから入りこんで來たために、強ひてさういふ風にしたからであらう。だから書紀の注の「一書」では、それがために日月二神の位置まで動搖して來て、月の神は海原を領分とし、スサノヲの命が危く天下の主にさせられようとしたのである。スサノヲの命の領土とせられたものを一々しらべてみると、第一は海であるが、海原からオノコロ島ができたとしてもあり、またオホヤシマの觀念には海が豫想せられてゐ、神代史を通じて海原を此の國土に對して獨立したものと見てゐるところはどこにも無い。また海には海の神があつて、上に説いた如く古事記及び書紀の注の「一書」の説では、ワダツミの神をイサナキの命の子としてある。神代史に於いては、全體に海は山と相對して同じやうに取扱はれてゐるので、オホワダツミの神も(391)オホヤマツミの神と對稱せられてゐる。だから後の物語に於いても、スサノヲの命が海に關係のあるやうな話は一つも無い。(ワダツミの神は海の精靈であり、その意義での宗教的の神であるのに、スサノヲの命の領分を海原としたのは政治的統治者としてのことであるから、その間に區別はあるが、この話の場合では、日の神や月の神にも、天に於ける精靈もしくは靈物としての日そのもの月そのものの意味があるから、この區別をはつきりさせることはできぬ。話の主旨は皇祖神としての日の神を天に上せるところにあるにしても、その話は日そのものとしての日の神の性質がもとになつて構想せられてゐる。スサノヲの命は日月二神とは違ふが、この話に於いては、二神、といふよりも日の神、と同じ地位に置かれてゐるから、一應はかうも見られよう。)また實際の?態から考へても、海原は國土と同じく日月の光をうけてゐるのである。だから、日月二神に對してスサノヲの命が海原を領有するといふのは、神代史全體を貫通する思想にも背き、目前の事實とも矛盾するものである。次に根の國であるが、根の國はヨミの國・死の國で、イサナキの命の現し國・生の國とは反對の地位にあり、イサナキの命の權力の及ばぬ國であるから(このことは後に詳説しよう)、イサナキの命がスサノヲの命にそこを支配させるといふ理由が無い(書紀の本文の如く、そこへ放逐するのはよいとしても)。のみならず、神代史全體を通じて、スサノヲの命が根の國の主であると認められる如き記事は、どこにも無い。古事記のヨミの段ではヨモツ神は別にあるとせられ、或はイサナミの命がヨモツ大神とせられてゐる。(このヨモツ神は宗教的意義でのヨミの神ではなく、特にイサナミの命のヨモツ大神に於いてさうである。このことは後に考へよう。)だからスサノヲの命の領土が根の國であるといふのも、無理な話である(これは根の國に逐ひやられたといふ話から轉じて來たことであらう)。最後に、スサノヲの命が天上にあてられて、日の神がタカ(392)マノハラ、月の神が海原、といふことになつてゐる書紀の注の「一書」の説は、天と海とを日月に配當することが既に無意味である。月の神と海原とは、或は潮の干滿と月との關係から來たものかと思へないでもないが、さういふ關係が神代史の潤色者に知られてゐたかどうかも、問題であらうし、またタカマノハラを治める日の神に對して海原を月の神の領分とするのは、日月の光そのものの性質に背いてゐるので、かういふ分け方では、晝の支配者に對する夜の支配者が無くなる。或はまた月の神と海原との關係は、日の神を此の國土の神とするところから、國土、對、海原、の觀念と結合したのかも知れないが、これは上に述べた如く、天下(國土)と海原とを對立のものとして見ない神代史全體の思想にも、調和しないから、これもまた無理であり、特にスサノヲの命の領分を天下とする此の説では、かう考へることの立ち場もなくなつてゐる。かういふ風に、日月二神の分領が無意味だとすれば、殘るスサノヲの命の領土を天下としたことにも、また意味がなくなるであらう。或は日の神をタカマノハラの君主と見るところから、天、對、地、の觀念にそれを結びつけて、此の配當が生じたかとも思はれるが、やはり上に述べた如く、神代史の精神からいふと、天下の統治者はタカマノハラに居所のある日の神でなければならぬから、此の考はそれに適合しない。だから、これらはみな窮餘の策として、いゝかげんな配當をしたもので、實は書紀の本文のやうにスサノヲの命には何の領地をも與へないのが當然である(スサノヲの命の領土が天下とせられた理由については別の考もあるが、それについては後に述べよう)。本來こゝは領土の分治をいふべき場所ではないのである。更にいひかへると、スサノヲの命が日月二神と同列に入つて來たのが、抑まちがひなのである。しかし、上にもいつた如く、かういふ風に、ともすれば領土とか統治とかいふ觀念の頭をもたげて來るところに、やはり神代史の根本の精神であり、またその全體を(393)貫いてゐる政治的性質が現はれてゐることを、注意しなければならぬ。日の神を天に上せてそこから此の土地を照させ此の國を統治させるといふ着想が、日そのものとしての日の神の性質にもとづきながら、皇祖神としての日の神のはたらきをさせるためであることも、またこの精神の具體的に表現せられたものである。
 要するに、三神の領土分治といふ話は、どの説によつて見ても、本來、無意味であつて、物語の精神は、日の神をタカマノハラに上げてそこから國土を統治させる、といふ點にあると見なければならぬ。たゞ日の神に伴つて月の神が生まれてゐるため、それを日の神に配するとか、それに夜を支配させるとか、いふ話ができたので、そこまでは無難であるが、調子はづれのスサノヲの命が現はれたため、かういふ無意味の領土分治譚が作られるやうになつたのである。然らば何故にかういふ特異の性質を有するスサノヲの命が、日月二神と同じなかまに入つて來たのか。問題はやはりこゝに歸着するのである。
 此の問題を解釋するには、スサノヲの命の性質を吟味してかゝらねばならず、それには有名なタカマノハラ上りの一段を考察しなければならぬが、タカマノハラ上りの動機は、此の命がヨミにゆくためであつたといふ。然らばヨミとは何であるか。こゝで研究はしばらくわき道に入り、後人の添加したらしいイサナミの命のヨミの物語に向はねばならぬ。
 
(394)       第六章 ヨミの國の物語
 
 ヨミの國の物語が、イサナキ・イサナミ二神の國土を生み神々を生み日の神・月の神を生んだ話の最初の形には、存在しなかつたものであり、後人の插入したものである、といふことは前に述べた。實際、此の物語を神代史から全く拔き取つてみても、そこにさしたる缺陷が生じないので、書紀の本文がさうなつてゐる。後にスサノヲの命が妣の國へゆきたいといつたとしてある古事記と、それに密接の關係のある書紀の注の「一書」とに於いては、イサナミの命のヨミの國にいつてゐることだけは必要であるけれども、それですらも、スサノヲの命がヨミへいつてから後には、イサナミの命との間に何の交渉も起つてゐない。だから、此の「妣の國」云々のことばは、イサナミの命がヨミにいつたといふ話のできてから後に、作り添へられたものに過ぎない。まして、イサナキの命のヨミ訪問やヨモツヒラ坂での爭のことなどは、古事記に於いてすらも、前後の物語とは少しも關係のない一つの插話となつてゐる。さうして、イサナキ・イサナミ二神が國土や日の神などを生むといふ物語の、精神をなしてゐる政治的意義は、此の話に於いて全く存在しない。(古事記に於いては「我汝と作れりし國未だ作り竟へずあれば」といふので、イサナキの命がイサナミの命をつれて歸らうとした、といふことがあるが、これはヨミの話のある書紀の注の三つの「一書」の何れにも、見えてゐない。だからこれも、ヨミの話の最初からあつたことではなく、古事記のもとになつた舊辭にのみ作り添へてあつたのであらう。さうしてそれは、古事記に於いては、此の國の統治者たる日の神の出現をイサナキの命がヨミ(395)から歸つた後の禊の場合のことにしてあるために、それと照應するやうに此の一句を插んだのかも知れない、と思はれもするが、しかし日の神を生むことを國を作るといふのは、ことばとしては不穩當であり、また此のことばは、同じ話のすぢになつてゐてそれと親近の關係のある書紀の注の「一書」にも見えず、さうして書紀の後の條の注の「一書」に出てゐるオホナムチの命とスクナヒコナの命との問答にも、類似したことばが現はれてゐるから、かう考へるにも躊躇せられる。なほ考へるに、オホナムチの命に關していはれてゐる「國作り」といふことばは、後にいふやうに、國家の政治的經營といふ意義に用ゐられてゐるが、イサナキ・イサナミ二神のしごとについてかういふことはどこにも語られてゐないから、この意義でこのことばを用ゐることはふさはしくないし、さりとて二神のしごとの國生みを國作りといつたとしては、「作り竟へず」といふことが解しがたい。いづれにしても、イサナキの神のことばとしてかう書かれてゐるのは、意味の無いことであるが、これは多分、二神が國を生みその統治者としての日の神を生んだといふ話をもとにして考へた場合、日の神が後に生れたことになつてゐる古事記の話では、それがまだ盡くはなし遂げられてゐないために、漠然かういふことを書いたまでであつて、國を作るといふことばを嚴密の意義で用ゐたのではあるまい。從つてそれに國家の經營といふやうな政治的意義は無いものと認められる。しかしこれはこのイサナキの命のことばといふものを二神の國生みの物語にあてはまるものとしての考であるが、もと/\後から作り添へたものであるから、さうまで深くは國生みの物語との關係を思慮せずにこのことばを用ゐたのであるかも知れぬ。もしさうならば、この場合の國を作るといふことも、やはり國家の政治的經營といふ意義でいはれてゐるのでもあらう。たゞさう考へるとすると、このことばが國生みの物語と一致しないことになるのみである。)またイサナミの命は、(396)イサナキの命と共に、此の國土の神であり、國土や神々の父母である。其のイサナキの命が此の國の神としてとゞまつてゐるのに、イサナミの命のみがヨミの國に行くといふのも、をかしな話である。生むはたらきをもつてゐるイサナミの命が死の國にゆくといふことが、神代史の此の神に與へた本質に背いてゐる。だから、此の話が、二神の國土を生んだ物語に、本來、附隨してゐたものではなく、また話そのものとしては、神代史の本すぢに直接の縁のないものであることは、明かである。けれども、スサノヲの命がヨミの國へやられるといふ話が別にあつて、それが神代史上、重要なことであるとすれば、少くともヨミの國といふ觀念は等閑に附すべからざるものである。
 ヨミの國が死者の國であることは物語自身の示すところであつて、古事記にも、書紀の注の二つの「一書」(日の神の生誕の條の第六、第一〇)にも明かにさう書いてある。たゞ別の「一書」(同上第九)にはヨミの國といふ名も見えず、イサナキの命が死んだイサナミの命を訪ねたところは、「殯斂之處」としてあるが、しかしそこから八つイカツチの追つて來る話、桃の實をなげつけてそれを逐ひ拂つた話、などが此の本にもあるのを見ると、かうしてあるのは話そのものと矛盾してゐる。だからこれは、物語の原形にはヨミの國としてあつたのをかう書き改めたものであつて、それは支那の書物から得た知識に根據があるのであり、また支那思想によつてヨミの國の存在を不合理と見たためでもあらう。「伊弉冉尊猶如生平、出迎共話、……言訖忽然不見、于時闇也、」などは、此の改作と原の話とをつぎあはせるために強ひていはれたことである。しかしかういふ變改を加へ得る條件は、物語の原形にも存在してゐるので、それはヨミの國の觀念が、死者の生活する國土として、まだ十分に固まつてゐない  状態にあつたことである。イサナミの命に蛆がたかつてゐて、肢體にいろ/\のイカツチがゐる、といふのは、明白に屍體そのものを指してゐるのであつ(397)て、ヨミの國といふ別世界に生活する死者の?態を説いたものとは、見なしがたい。此の點からいへば、其の所在を「殯斂之處」としても見られ得るのである。少なくとも埋葬せられてゐる場所として考へ得られる。イカツチは第二篇に於いて説いたごとく、蛇であらうと思はれるが、蛇が墓地にあり、それが死者の精靈もしくは屍體に存在する邪靈と見られてゐたことは、多くの民族に其の例がある。(八つイカツチとしたのは、後にいふやうに物語の上の構想であり、從つて火のイカツチとか鳴るイカツチとかいふやうな、蛇としては不適當なものも作られてゐるので、これには同じくイカツチといはれてゐる雷との混同もあるらしい。)だから、此の話は、屍體に邪靈がついてゐるとしてそれを恐れてゐた原始的な思想の現はれであり、まだヨミの國といふ觀念の發達しない時代、もしくは程度、の思想なのである。またヨミの國は穢い汚れたところで、そこから歸つたイサナキの命は禊をせられたといひ、其の時とりすてた着ものや持ちものから生まれた神の中に禍の神があつたといふのも、やはり、死者を恐れ屍體や墓地に存する邪靈の脅威を怖れ、さうして呪術によつてそれを除き去らうとする原始的思想である。この點に於いては、道饗祭祝詞にもヨミの國から恐ろしい邪靈が現し國に出て來るといふ思想のあることが、參考せられる。
 ヨミの國の性質がかういふものであることは、二神の別離の話によつても知られるので、かの「ことゞをわたす」と古事記に書かれてゐるのも、その一つである。この場合では、「ことゞ」といはれてゐた、人と別れるときの、呪詞(萬葉卷十九の家持の歌參照)を、死者に對していつたことにしたのであり、さうしてそれは、この「ことゞ」を死んだものの身についてゐる邪靈の脅威から免れようとするためのものとしたからであらうが、死者のあつた時にかういふやうな呪詞を唱へる古くからの習慣があつて、それが此の物語に現はれてゐるのではあるまいか。古事記と親近(398)の關係にある書紀の注の「一書」には、それを「絶妻之誓」と書いてあるが、これは夫妻である二神の物語の場合であるために、かういふ語を用ゐたのであつて、「ことゞ」の本來の意義からは離れてゐる。たゞ死者を生者から永久に放ち去るといふ點において、「絶」の語がそれにあてはまるのみである。別の「一書」に「族離」また「不負於族」といふことがいはれたやうに書いてあるのも、やはり同じことであるが、この「一書」にヨモツコトサカノヲといふ神の名の記されてゐるのは、却つて「ことゞ」をわたしたことの意義にかなつてゐる。これは「族離」といひ「不負於族」といふことばに邪靈を祓ふ呪力があるとして、その呪力のあることば、即ち呪詞、を神とし、その神の力によつて生者が死者についてゐる邪靈から「さかる」といふ意義らしいからである。この場合のコトは「言」の義であり、さうしてこの神を「掃之神」としてあるのは、呪詞によつて邪靈が祓はれるからである。神の名に「ヨモツ」の語の冠してあるのは、ヨミの話の場合だからであり、「ノヲ」をつけてそれを人の名をもつた神としたのは、物語作者のしわざに過ぎぬ。同じところに唾を神としてハヤタマノヲと名づけてあることからも、それは類推せられるので、唾をはくのもやはり邪靈からのがれる呪術であり、唾をはくことに呪力があるために、それを神としたのであるが、かういふ名をつけたのは物語の作者であつて、唾の形から玉といひ、威力のあるところから「ハヤ」の美稱を冠したのであらう。ところが、かういふ呪詞によつて邪靈の脅威から免れるといふのは、ヨミの國が屍體の葬られてゐる墓から離れてゐないからのことである。また古事記にも書紀の注の上記の「一書」にも、ヨモツヒラ坂に石を置いたといふことがあつて、その石はヨミドニサヤリマス大神だと記してあるが、これもまたヨミが墓だからのことであり、石は邪靈が生者の居るところに來るのを防ぐ力、その意義での呪力、をもつてゐるものである。
(399) しかし物語の他の部分に於いては、ともかくも死者の生活する別世界としてのヨミの國が一應形づくられてはゐる。其の國はヨモツヒラ坂によつて此の現し國と區劃せられ、またそれによつて交通し得る地下の世界であり、日光の照らさない暗い國である。そこには現し國とは違つた食物があり(ヨモツヘグヒ)、一度それを食ふと現し國へは歸られ
ない。そこには神(ヨモツカミ)があり、ヨモツシコメがをり、軍勢(ヨモツイクサ)がある。これが古事記などの語るところである。イサナミの命が生きてゐる人の如くはたらいてゐるのも、ヨモツシコメやヨモツイクサが追ひかけて來たといふのも、またイサナミの命が現し國の人草を日々に殺すといふのも、話そのものとしては、死者やヨミの國が屍體や墓地でないやうになつてゐることを示すものである。上に別の「一書」といつたものに於いて、イサナミの命が、われはこの國にとゞまつてゐようといひ、イサナキの命がそれを是認したとしてあるのは、「ことゞ」による永久の別離を語つてゐる古事記などの説とは違つて、その間に一種の妥協が成立したもののやうにさへ見える書きかたである。これは、この「一書」が古事記などの説よりは、はるか後に改作せられたものだからであらうか。ヨミの國が死者のすんでゐる別世界として想像せられてゐるとすれば、話のすぢはおのづからかうなつても來るのである。けれども一方に於いては、死者とヨミの國とはどこまでも屍體と墓地とから離れてゐないので、神代史のヨミの國には、この二つの考へかたが混合してゐる。だから、物語の上においては、死者の生活するヨミの國といふ別世界の觀念が一應形成せられてはゐるが、それがまだ幼稚なものであつたとしなければならぬ。少しく思想が發達すると、死者の住む世界は必しも醜穢とのみはせられなくなるやうであるが、記紀に見えるヨミの國はそこまでいつてゐない。古事記にはなほ、スサノヲの命がヨミの國に居りオホナムチの命がそのヨミの國にいつた話があるが、それがヨミと(400)せられてゐるのは、たゞ名ばかりのことであつて、話の上には其のヨミの國に此の現し國と違つた點が何も無い。この場合のヨミの國は現し國と自由に往復のできるところであるので、スサノヲの命もオホナムチの命も、死んでではなく、生きた身のまゝでそこにいつたのであり、そこにゐたスセリヒメは現し國に來てオホナムチの命の妻となつたといふ。だからこれは、別の理由から話の場所をヨミの國としたのみであらうが、しかしヨミの國としながらヨミらしい特色が記述せられてゐないのは、本來ヨミといふ別世界の  状態が具體的に想像せられてゐなかつたからであらう。
 なほいはうなら、ヨモツ神の存在も甚だ不確定であつて、古事記の説に於いて、一方ではヨモツ神があつてヨミを支配してゐるらしく見え、さうしてそれと共に、他方ではイサナミの命をヨモツ大神としてあることからも、それが知られるが、それはやはり、ヨミの國そのものの觀念が明かに形づくられてゐないからでもあらう。このことについては、ヨモツ神が宗教的意義においての神であるかどうかを考へてみる必要がある。神代史を通覽すると、物語の上で人の性質と形とをもつてゐる神がはたらいてゐるが、それは宗教的意義での神ではなく、さうして宗教的崇拜の對象としての神は、其の名こそ人のやうになつてゐるものの、その實は形のない精靈かたゞしは靈物としての自然物や人工品そのものであつて、人の如きはたらきの語られてゐないのが普通である(このことについては、後にもなほ考へるであらう)。ところが、ヨモツ神は、イサナミの命が此の神と現し國に歸るかどうかを、「相論」つてみようといつてゐるのを見ると、その「相論」のさまが敍述せられてはゐないけれども、人の性質と形とをもつてゐる神として、物語作者に思ひ浮かべられてゐたものであることが推測せられるので、その點から考へると、宗教的に崇拜せられてゐる神として見られたのではないやうである。山の精靈・海の精靈がヤマツミの神ワダツミの神といはれてゐるのと(401)は違つて、ヨモツ神はヨミの精靈ではないと考へられる。從つてそれはヨミの國にゐる死者を支配する神として想像せられてゐるのであらう。然らばイサナミの命のヨモツ大神はどうであるかといふに、これは明かに生の國・現し國に對立してそれと相克する力をもつてゐる死の國・ヨミの國の主宰者のやうに語られてゐる。だから、ヨモツ神もヨモツ大神も、共に物語の上ではたらく人の性質と形とをもつた神として見られてゐるのであつて、その點に於いてはイサナキの命と同じである。現にヨモツ大神は、さういふ名を負はされてゐながら、どこまでもイサナミの命としてはたらいてゐる。たゞそれでありながら、その主宰するところが死者の國としてのヨミである點に於いて、一味の宗教的氣分が何となく伴つてもゐるやうに感ぜられるが、物語の上では、宗教的に崇拜せられる神であるらしくは見えず、ヨモツ大神としてのイサナミの命とイサナキの命との、千人を殺し千五百人を生ませようといふ對話も、ヨミの國と現し國との主宰者としての爭闘として語られてゐるので、その點では、神代史の政治的性質がこゝにも現はれてゐるものと解せられる。かう考へて來ると、ヨミの國といふものが物語の上で成りたつてゐることは疑が無いが、その主宰者としてのヨモツ神がもとからあることになつてゐるにかゝはらず、後からいつたイサナミの命がヨモツ大神として主宰者の地位にあるやうに語られてゐるのは、ヨミの國のいかなる國であるかがはつきりきまつてゐないためと解せられる。イサナミの命にかういふ地位の與へられたのは、現し國に於ける此の命の地位がヨミの國にもあてはめられたものであるらしく、上記の對話に於いてイサナキの命と對立の關係に置かれてゐることによつても、それが知られるやうであるが、それにしても、ヨミの國としてはヨモツ神の存在が、甚だ不確定であることを示すものには違ひない。もつとも、ヨモツ神もヨモツ大神も、その名は古事記にのみ記されてゐるのであつて、そのもとになつた(402)舊辭と親近の關係にある書記の注の「一書」にも見えず、ヨミの國の物語のある他の二つの「一書」にも出てゐないことを思ふと、これは舊辭の潤色の最後に至つて現はれたものであつて、その潤色者の脳裡に思ひ浮かべられたものと見なされる。のみならず、古事記とそれとほゞ同じである「一書」とに語られてゐるイサナキの命とイサナミの命との爭ひの?態やその間の對話なども、それを他の二つの「一書」と對照して見ると、ヨミの話の作られたはじめからあつたものではなく、後から作りかへられたり附け足されたりしたものであることが、知られるやうである。ヨモツ神やヨモツ大神の名もまたその例であらう。なほヨモツ神が宗教的意義での神として語られてゐないことは、死者が屍體を離れずヨミの國が屍體の葬られてゐるところであることからも知られるので、かういふ程度の思想に於いては、屍體や墓地に恐ろしい邪靈がゐるとして呪術でその脅威を防ぎまたは祓ふことが考へられるが、ヨミに神があるとしてそれに祈願しその力に依頼するといふやうな態度はそこに生じない。ヨミの物語そのものがこのことを明かに示してゐるのであつて、イサナキの命の行ひはすべてが呪術である。たゞその呪術が物語化せられ邪靈が擬人せられてゐるのみである。ヨモツ神は或はこの邪靈の擬人せられたものと見ることができるかもしれず、死者であり屍體であるイサナミの命がヨモツ大神とせられたのも、その意義に於いてのことと考へれば考へ得られようか。この擬人せられた邪靈が、物語の上でヨミの國の主宰者となつてゐるのである。さうしてヨモツ神が物語の上、神代史の上だけの存在であることも、このことから知り得られよう。また神代史の物語から離れて考へても、宗教的意義に於けるヨモツ神といふやうな神が上代人の思想にあつた形迹は無い。民間信仰としても公の儀禮としても、ヨミの神を祭つたやうなことは、文獻の上に全く見えてゐない。大祓の祝詞にハヤサスラヒメといふ神が根の國・底の國にゐるとして(403)あるが、これも一般的にヨミの國の神として考へられてゐたらしくはない。「根の國・底の國に坐すハヤサスラヒメといふ神もちさすらひ失ひてむ」とある此の祝詞の文によると、この神はたゞさすらひ失ふといふことの擬人せられたのみのものである。のみならず、祝詞の罪をはらひすてる順序に於いて、川から海に持ち出し海の神が呑んでしまふといふまでは自然であるが、其の海の神が呑んだものを、イブキドに坐すイブキドヌシが根の國・底の國に息吹き放つ、といふのは甚しく不自然であつて、從つて其の後を承けた此のハヤサスラヒメのしごとも、またさうである。これは大祓の思想の純粹なものではあるまい。さうしてサスラヒメがヨミにゐる神であるといふことは、大祓の祝詞だけに見えることであるから、此の點からも此の神が一般に認められてゐたらしくないことが、推察せられる。それからまた、下界の神が土地の神であり、それがまた農産の神であるといふやうな、他の民族に例の多い思想の痕跡も、我が國には見られないやうである。なほスサノヲの命がヨミの神として考へ得られるかどうかについては、後に考へよう。
 ヨモツ神が神代史の上だけの存在であり、而もその存在が不確定のものであつて、それはヨミの園の觀念そのものが曖昧であることを示すものであるとしても、ヨミの國の存在が神代史の上だけのものであるかどうかは、問題である。神代史の物語には、物語とするために構想せられた部分のあることは、明かに認められるが、すべてがさうであるかどうかが、問題なのである。祝詞にも萬葉の歌(卷九の挽歌など)にもヨミのことはあるが、それは神代史の物語が作られた後に於いて知識人の間に傳へられた思想であるとしても、考へ得られなくはなからう。後世の文學にはヨミのことは殆ど見えない。けれどもヨモツヘグヒといふ如き考は、例へばギリシヤの神話に於いて、ペルセフォネ(404)が下界で下界の石榴を食つたため此の國に還りきることができなくなつた、といふ話があり、ニュウジイランドに於いて、死の國へいつて死者の食物を食つたものが此の土地に歸られなかつた、といふ物語がある如く、他の民族も同じ思想を有つてゐたのであり、また fairy の國へいつて其の食事をとれば再び其の國を出ることができないといふ、ヨオロッパに例の多い物語とも性質を同じうするものであることを思ふと、これはやはり民間に存在した思想として考へるのが妥當であり、從つてヨミの國の觀念もまた、おぼろげながら民衆の間に存在してゐたものと見るべきではなからうか。上に述べた如くヨミの觀念がまだ十分に發達してゐない?態にあるのも、それがほゞ民衆の思想を傳へてゐるからだとすれば、容易に説明がつくであらう。ヨミといふ語はヤミと同じであつて、屍體が暗い地下に葬られるからさう名づけられたのであり、そこに邪靈がゐるといふのも屍體を恐れるからであると共に、一般に邪靈が暗いところにゐるとせられたことも、それを助けたのであらう。ところが邪靈は何等かの意味で生きてゐるものであり、さうしてそれのついてゐる屍體は數おほく地下に葬られてゐるから、死者のすむ世界が想像せられ、またその死者もしくは邪靈が食物を要することの考へられるのも、さしてむつかしいことではない。さすれば、ヨミの觀念が、祝詞や萬葉に見えるのも、必しも神代史の物語にのみその淵源があるにはかぎらないと考へられる。後世にそれが忘れられたのは、佛教の地獄に吸收せられてしまつたため、跡を隱したのではあるまいか。またそれが支那の書籍から得た知識によつて導かれたものでないことも、おのづから推測せられる。支那の知識人に於いては、死者の國の觀念は形成せられてゐないからである。黄泉といふ文字は支那傳來であるが、其の黄泉が死者の國として考へられてはゐなかつたのである。
(405) 然らば、イサナミの命が死してそこにゆきイサナキの命がそこを訪れた、といふ話は民間説話に何かの基礎があるのであらうか。これが次の問題であるが、ヨミの國といふ觀念がおぼろげながら既にできてゐる以上、死せる妻を慕うて夫のそこに下りてゆくといふ語の生ずるのは、極めて自然のことであつて、遠いギリシヤの物語に其の例があることは、いふまでもない。さうして「見るな」といふ禁制と、それを破つたがために希望が達せられなくなつたといふこととも、また多くの民族の民間説話に於いて、種々の主題について、語られてゐることである。なは此の話が前にも述べたごとく、政治的意義を帶びてゐないといふ點に、前後の種々の物語と性質を異にしてゐるところがある。(後に添加せられた話に於いてヨモツ大神がヨミの國を主宰するものとして語られてゐるのが政治的性質をもつてゐるといふのは、このこととは關係が無い。)だから此の話は、民間説話に由來があると見るのが妥富であらう。しかし桃の實でヨミの軍を追ひ却けることは、桃で惡鬼をはらふといふ支那思想に由來があるに違ひなく、また肢體の八ところにそれ/”\イカツチのゐるといふのも、カグツチの神及びオホゲツヒメの神の屍體の八ところにそれ/”\神なり穀物なりが生り出でた、といふのと(意味は全く違ふが)同じ形の着想であつて、これらは舊辭の潤色者の構想と見るべきものであらう。かのヨモツヒラザカでの爭の話の如きも、民間説話としては存在しなかつたものと考へられる。それは、國を生んだイサナキの命のこととして見る場合に、特殊の意味のあるものだからである。本來、此の物語は、人は到底死の力にうち勝つことができないと知りながら、國土の上にある民衆の全體の數から見ると、死の力よりは生の力の方が優越であることを、力強く説いたものであつて、それを生の國、即ち「現しき青人草」の國、一日に千五百の産屋をたてるイサナキの命の國と、死の國、即ち生の國の「現しき青人草」を一日に干頭づゝ絞り殺さ(406)うとするイサナミの命の國との、對立として語つてゐるのである。生死の爭、死の力に對する生の力の爭、ヨミの國に對する現し國の爭、として見れば、それは單なる人生觀上の問題であるが、それをイサナキの命の力とイサナミの命の力との戰として見ると、イサナキの神が此のアシハラノナカツ國の主宰者である以上、そこに特殊の意味が認められるのである。人生觀上の問題に一種の政治的色彩がついてゐるのである。現にイサナキの命の語には「アシハラノナカツ國にあらゆる現しき青人草」とあつて、生きてゐる人を我が國の民と見てゐる。死の國に對する生の國を我が國と見てゐる。この政治的色彩は、民間説話に於いては存在しなかつたはずである。人に自然の死のあることが考へられず、死はすべて何ものかの所爲であるとするのが、原始民族の思想らしく、さうしてヨミの國から出て來る邪靈が人に災禍を齎すといふ思想の我が上代人にもあつたことを思ふと、人の死もまた彼等のしわざと思はれてゐたらうと推測せられ、病氣を下界から訪れる邪靈の所爲として見る風習の他の民族(例へばバビロニヤ人など)にあることも、參考せられるから、イサナミの命が人を殺すといふ話は、さういふところに淵源があるかと思はれぬでもなく、從つてこれは民間説話として傳へられたもののやうにも見えるが、イサナキの命の行動をそれに對立させて、ヨミの國の力と現し國の力との爭とし、また國民の數の上から生の力を死の力に勝たせたのは、著しく理智的であるから、イサナミの命の話も原始的思想の名殘として解釋するには幾らか躊躇せられもする。さうしてまた此の物語も、古事記とそれに類似してゐる書紀の注の一つの「一書」とのみに見えてゐるので、他の二つの「一書」のヨミの話には出てゐないことをも注意する必要があらう。しかしまたヨミ訪問の話とは別にこれに似た物語が民間にあつて、それが改作せられ、またそれに政治的意義が結びつけられたものかも知れず、話の意味は素朴な樂觀主義者たる上代日本人(407)の心情にふさはしいことでもあるから、輕率に判斷し難い。
 イサナミの命についてのヨミの國の物語は、大體かういふ性質のものであるが、然らばこのやうなヨミの物語が何のために神代史に插入せられたであらうか。イサナミの命の死が語られるやうになつたのは、次章にいふごとき意味からであらうかとも思はれるが、それには必ずしもヨミの物語を必要としないのであるから、ヨミの物語については別の理由のあることが考へられねばなるまい。ところがこのことを考へるについて問題となるのは、古事記にヨモツヒラ坂をイヅモのイフヤ坂といふところとし、イサナミの命がイヅモの國とハハキの國との界にあるヒバの山に葬られたとしてあることである。ヨモツヒラ坂は、本來、現し國とヨミの國との境界でもあり通ひ路でもあるから、それは或る一地方の某地點であるはずはない。しかし、かういふ空想の場所が物語に採られる場合、特に地方的説話に現はれる場合には、それが特定の土地とせられることも有りがちである。が、古事記の此の説は單にかう解釋すべきものであらうか。又は別に意味があるのであらうか。それについて考ふべきは、ヨミの國に放逐せられたスサノヲの命がイヅモに降つたことである。スサノヲの命とヨミとイヅモとの關係については、本によつて所説の一致しない點もあるが、イヅモとヨミとの間に特殊の關係のあることだけは、諸本みな同じである。書紀の本文に於いては、スサノヲの命がイヅモに降つてそれからヨミにいつたことになつてゐるし、古事記にはさういふ明文は無いが、初からヨミにやられることになつてゐる此の命がイヅモに行つたのであり、また後にいふやうに後人の添加ながら、オホナムチの命の物語に於いて、スサノヲの命がヨミにゐることになつてゐるから、此の本でもやはり、イヅモからヨミに行つたやうに考へられてゐるに違ひない。明文の無いのは、偶然それが遺脱したのに過ぎなからう。さすれば、古事記の(408)ヨモツヒラ坂をイヅモにあるとした意味は、此の點から解釋すべきものであらう。但しこれはたゞ古事記のみに見えてゐるので、それと親近な關係のある書紀の注の「一書」にすら出てゐないから、イヅモとヨミとを結びつけてある神代史の物語に本づいて、古事記のもとになつた舊辭の潤色者が附加したものであらう。さうしてイサナミの命の葬地をヒバの山としたのも、また同じ思想から同じ徑路で作られた説であらう。但しこれについては、書紀の注の「一書」(第五)にそれをキの國のクマヌとした説があることを、注意しなくてはならぬ。イヅモにもクマヌがあつて、後にはそれがスサノヲの命に結びつけられたらしいから、此の説は或は、同じ地名があるためにイヅモとキの國とを連結させたところから生じたのではなからうか。*一地方の説話が他の同じ地名のところに附會せられるのは、例の多いことである。イヅモのクマヌをイサナミの命の葬地とした説があつたかどうかは明かでないが、かういふ間接の連絡もまた生じ得べきものであらう。なほ別の物語に於いても、スサノヲの命に關聯してイヅモとキの國とが混合せられた形跡のあることを、考へ合はせるがよい(後文參照)。要するに、何れも後人の造作である。が、ともかくもイサナミの命のヨミの物語に於いてヨミとイヅモとの間に特殊の關係があることになつてゐるとすれば、ヨミの物語の神代史に插入せられたのは、こゝにその理由のあることが考へられるであらう。
 しかしかう考へると、何故にヨミの國とイヅモとの間に特殊の關係があることになつてゐるかが問題になるが、それについては、スサノヲの命が何故にヨミにやられまたイヅモにゆくことになつてゐるかを明かにしなければならぬ。問題はこゝで一歩を轉ずることになるが、それにはやはり前章の終に述べたところにたちもどつて、スサノヲの命の性質を考へねばならず、さうしてそれはおのづから、此の神のタカマノハラ上りの物語の研究となるのである。が、(409)古事記及び書紀の注に見える幾つもの「一書」には、イサナキ・イサナミ二神のことに關聯して、種々の神々の生まれまた化生した話があるから、今少しわき途に入つて、それを考へて置かう。記紀の記載そのものによつて神代史の意義を探求しようとするためには、これもまた踏んでゆかねばならぬ順序なのである。
 
(410)       第七章 神々の化生した物語
 
 イサナミの命が火の神カグツチを生んでヨミの國にゆき、イサナキの命がヨミの國から歸つて禊をした、といふ話に關聯して、いろ/\のものにさま/”\の神が生り出でたとせられてゐるが、これについても諸本の説が大體は同じでありながら、其の間に小異が見える。一々それを列擧する必要は無いが、古事記と、それと親近の關係のある書紀の注の「一書」(第六)とを、比べて見ても、例へば古事記では土の神ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメはイサナミの神の屎に化生した神であるのに、「一書」の方ではハニヤスの神といふ一人の神が火の神の生まれない前の普通の生殖によるイサナミの命の子になつてゐ、またフナドの神の生まれたのを古事記では禊の時とし「一書」ではヨモツヒラ坂の爭の場合としてあり、其の他、全體に古事記の方に神の名が多く出てゐる。また古事記と書紀の注の別の「一書」(第八)とを比べて見ると、古事記ではカグツチの神の肢體にヤマツミの八神が化生してゐるのに、「一書」の方では五神となつてゐる。かういふことは、一つのもとから出てそれがいろ/\に變改せられたために生じたものと見なければならぬが、なほ一例を擧げるならば、カグツチの神の血が湯津石村に走りついてイハサクの神、ネサクの神、又はミカハヤビ、などの武神が化生したといふ古事記の記載を、其の湯津石村をアメノヤソの河の中にある五百箇磐石とした書紀の注の「一書」(第七)、及び血がアメのヤスの河邊にある五百箇磐石となつたといふ別の「一書」(第六)と比較すると、てうどこゝに擧げたやうな順序で、話の變化して來たことが知られるので、其の經路がほゞ推測せら(411)れる。カグツチの斬られたのは、此の土地でのことであるから、その血がタカマノハラにあるアメノヤスの河(アメノヤソの河)の石をそめたといふのは、どうしても後の變化と見なければならず、それは湯津石村といふ觀念から河を想像し、河からアメノヤスの河を思ひ出して來たものと考へられる。また血が石になつたといふのも、石を染めたことから轉じたものであらう。此の後の方の「一書」に、劍から垂れる血が鐔と刃と鋒と頭とからのに分けてあるのも、細かく分類したところにかなり後世の變改のあることが、知られよう。其の他、此の場合に生まれたといふ武神の名にも數にも其の間の關係にも、種々の異説があるが、それについては後に至つて考へる機會があらう。かういふ風に變改が加へられて來たが、しかしどう變改せられても差支が無く、さうしてそれは、神代史全體の組み立ての上に何等の影響をも及ぼさないものである。
 なほこれらの場合に化生したといふ神々には、前に二神の生殖によつて産まれたことになつてゐる神々と、重複したのがある。古事記でいふと、例へばオホゲツヒメの神が前にあるのに、化生の神たるワクムスビの神の子としてトヨウケヒメの神がある。(古事記に近い書紀の注の「一書」には、二神から普通に生まれた子としてウカノミタマの神があつて、これは生まれた場合からいふと、古事記のオホゲツヒメに當るのであるが、ウカが即ちウケであり、オホゲツヒメのケもまた同じ語であることは、いふまでもなからう。書紀の注の別の「一書」にウケモチの神のあることをも、參考するがよい。)またオホワダツミの神が前に生まれてゐるのに、ウハツワダツミ・ナカツワダツミ・ソコツワダツミの三神が禊の時に現はれ(書紀の注の「一書」も同樣であるが、前に生まれたのをたゞワダツミとしてあつて、オホの美稱が冠らせてない)、オホヤマツミの神が前にあるのに、ヤマツミの八神がカグツチの神の屍體に化生(412)してゐる。話の上だけで見ると、前のと後のとは同じ海の神であり山の神であつても、名が違つてゐて、別の神となつてはゐるが、本來ワダツミとヤマツミとは海の精靈と山の精靈とであつて、それを人のやうな名のある神とし、その一人づつの神の名として、オホワダツミの神とオホヤマツミの神とを作つたのが、神代史の上だけのことであるとすれば、海や山に此の二神の外のさま/”\のワダツミの神ヤマツミの神があるとして、それ/”\に人のやうな神の名をつけるのは、知識人の思想の發展として自然の徑路ではある。しかし實際の宗教的信仰に於いて、さういふ神は無いのであるから同じ海の神や山の神が幾度も生まれてゐる點に、作者の着想から見ての、重複があるといはねばならぬ。これらの神の現はれたことが古事記と、またワダツミについてはそれに近い書紀の注の「一書」と、ヤマツミについては別の「一書」とに、限られてゐることも、それがかなりの後世に於いて行はれた舊辭の或る潤色者のしわざであることの證據であらう。ワダツミの神をウハ・ナカ・ソコの三神とし、ヤマツミの神を地貌に應じた名を有する八神としたのも、海と山との?態に本づいて、或る作者が構成したからのことであらう。
 なほ考へて見ると、神の化生した場合と其の神の性質との間に、何等本質的の關係のないものがある。古事記にイサナキの神の禊の時にオキサカル・ヘサカル、オキツナギサヒコ・ヘツナギサヒコ、などの神が化生したとあるが、これらの神々はヨミの國の穢れとも、ヨミに往きまたそこから還つたこととも、何の因縁も無いものではないか。フナドの神チマタの神の生れたのも、少しく異樣であるが、しかしフナドの神はヨミから來る邪靈を防ぐはたらきをもつ神として、またチマタの神は路の岐れるところにゐる恐しい邪靈を克服する神であるところから、それがヨミから來る邪靈を克服することと結びつけられて、こゝで生れたことになつたのであらう。道饗祭祝詞を見てもさう推測せ(413)られるやうである。前に述べた如く、書紀の注の「一書」にはフナドの神をヨモツヒラ坂の爭のときに現はれたことにしてあるが、禊の時のこととしたよりは此の方が自然である。なほ路のわかれるところに邪靈がゐるといふことは、他の民族(ゲルマン人など)の民間信仰にもその例があることが、考へられよう。また手纏とオキサカル・ヘサカルなどとの間にも、全く由縁が無い。のみならず、禊の場合にワダツミの三神やウハツツノヲ・ナカツツノヲ・ソコツツノヲの三神の如き海の神が現はれたといふのも、水にこそ縁があれ、穢をはらふといふ禊そのことには、毫末の關係が無いではないか。ヨミの穢を去るといふ思想から出たものとしては、棄てた着ものにワヅラヒノウシの神が生り出でたといひ、水で身をそゝいだ時にヤソマガツヒの神オホマガツヒの神が、また其の後でカミナホビの神オホナホビの神が、現はれたといふ話などがあるのみである。だから古事記の此の時の神の生り出でた話は、全體から見ると、意味の少いものである。(日の神の出現を禊のときとしたことに不似合な感じもあるといふことは、此の點からも考へられよう。)或は最初に禊の話が作られた時には、こんなに多くの神々が現はれたやうにはなつてゐなかつたのが、後になつて神の名が次第に附加せられたのかも知れない。古事記と同じ話のある書紀の注の「一書」には、古事記よりも神の名が少いが、これは古事記のよりも前に現はれた説がこの書によつて傳へられてゐるものと解せられることをも、參考するがよい。但し別の「一書」にイハツチ、オホナホビ、ソコツチ、オホアヤツヒ、アカツチ、の名のみを擧げ、その他をば「大地海原之諸神」としてあるのは、却つて後の變化と見なすべきものであらう。神の名に轉訛が多く、轉訛したために意義までも變つて解せられてゐるらしいこと(イハツチがウハツツの轉訛ならば、ツチとなつたために土の義とせられたことが、次に「大地」といふことのいはれてゐるので知られる)、順序が逆になつてゐる(414)もののあること(アヤツヒがマガツヒの轉訛ならば、それがナホビの後に生れてゐるのは、前後の順序が逆になつてゐる)、大地の諸神の生れたといふのが此の場合にふさはしくないこと(ツツがツチとなつたのに誘はれたのであらう)、水に入り水を出て神を吹きなすといふことが、みそぎから離れてゐること、などによつてさう考へられる。みそぎの場所を求めてアハとハヤスヒとのみなとを見たといふのも、上記の「一書」の説にある上つせ下つせがかう變へられたのであらうから、それから考へても、この「一書」はその全體が後世にかゝれたものと推測せられる。なほ他の話の場合でも、古事記には、八神づつを一組に組合はせようといふ意圖があるので、強ひて數を八にするために、縁の遠い神を一しよに結びつけて説いたらしい形跡がある。クラオカミの神クラミツハの神を、ミカハヤビの神ヒハヤビの神などと共に、カグツチの神の血から化生したとした如きは、其の一例ではあるまいか。
 ところで、これらの神々が概して民間信仰に基礎のあるものであることは、おのづから推測せられるが、しかし神に人のやうな名をつけたのは、上文に於いて  屡々述べた如く、知識人のしごとであり、多分かういふ物語の作者の手になつたのであらう。病臥してゐるイサナミの命の排泄物に化生したといふカナヤマヒコ・カナヤマヒメ、ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメ、などについては既に上に述べたことがあり、種々のヤマツミやワダツミやのこともまた前に説いた。また古事記にチマタの神とあるのが、道饗祭の祝詞にはヤチマタヒコ・ヤチマタヒメといふ名になつてゐるのでも、神の名の作られてゆく徑路を知ることができよう。マガツヒの神やナホビの神の如きは、人に禍を與へる邪靈のはたらきまたは呪力、もしくはその禍をなほす呪力として、民間に信ぜられてゐたものにその由來はあるけれども、それがかういふ名をもつ神とせられたのは、知識人のしごとから出たことであり、神代史に於いてはかなり後の潤色(415)者によつてせられたことであらう。古事記と、それと親近なる關係のある書紀の注の「一書」と、いま一つの「一書」と、に限つてこの名の見えてゐることからも、それは知られる。此の中でカミナホビの神オホナホビの神は、御門祭の祝詞に「神なほび大なほびに」と副詞的に用ゐてあるやうな、神のはたらきを説いたことばから轉じて來た、といふことも考へられる。マガツヒの神も御門祭の祝詞には「四方四すみより疎び荒び來らむアメノマガツヒといふ神」とあつて、これは數多き邪靈を總稱する普通名詞として解せられるが、それがヤソマガツヒもしくはオホマガツヒといふ或る一人の神の固有名詞となつて、古事記には現はれてゐるのである(上文ヤマツミとワダツミとに關する考説參照)。人に禍をする邪靈は到るところに數知らず存在する、といふのが上代人の思想であるから、こゝでは或る神の名になつてはゐるものの、ヤソマガツヒといふヤソの語に其の意味が含まれてゐる。マガツヒの神といふ一人の神が作られたけれども、マガツヒが多くあるといふ思想が作者に潜在してゐたため、それがかういふ名になつて現はれたのであらう。祝詞のアメノマガツヒも、アメといふ美稱が冠らせてあるのを見ると、それは既に知識人によつて潤色せられてゐるものである。それから、ミカハヤビの神タケミカツチノヲの神なども、また武勇といふやうな概念に過ぎないのであるから、これらもまた民間信仰に根據のあるものではないに違ひない。(ナホビ又はマガツヒといふ一つの概念から、カミナホビとオホナホビと、またヤソマガツヒとオホマガツヒとの、二つづつの神が作られ、一つのハヤビにミカ又はヒといふことばを冠らせて二つの神にすることについては、曾て説いた點から類推せられもするが、なほ後に詳説するつもりである。)
 さて上記の神々は、一つのタケミカツチノヲの神(及び書紀に於いては其の注の「一書」に見えるフツヌシの神)(416)を除いては、神代史の物語に何の交渉も無いものであるから、これらの神々の化生した話は、神代史の組立ての上からいふと、全體から遊離してゐるものであり、從つて書紀の本文の如く無くても差支が無いはずである。前章に於いて、カグツチの神の話及びヨミの國の物語が、後人の插入したものであることを知つた讀者は、それに附隨してゐるこれらの話が、それと同樣な理由によつて、やはり後人の添加に出でたものであることを、推測するに苦まないであらう。しかしこれらの話は、全く神代史を潤色した何人かの空想の所産であるか、但しはそれに何かの據りどころがあるであらうか、一應それを考へて見るのも無用ではあるまい。カナヤマヒコなどが吐瀉物に、ハニヤスヒコなどが屎に、またミヅハノメが尿に、化生したといふのは、其の物質からの聯想であり、イハサク・ネサク、ミカハヤビ・ヒハヤビなどの武神が血に生り出でたといふのも、これらの神の概念から自然に思ひ浮かべられたことでもあらうが、單純にかう考へ難いものもある。
 古事記には、イサナミの命の病中に化生したカナヤマヒコ・カナヤマヒメ、ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメ、ミヅハノメ、の次にワクムスビの神が現はれ、其の子にトヨウケヒメの神があるとせられてゐる。ミヅハノメまではよいとして、ワクムスビは何物に化生したのか不明であり、また其の名の意義と、トヨウケヒメの親とせられてゐることとから、考へると、カナヤマヒメ乃至ミヅハノメとは、神の性質も違ひ、此の場合に生まれたとしては少しく縁が薄いやうである。ところが、書紀の注の「一書」(第二)には、カグツチとハニヤマヒメとの間に生まれた子がワクムスビであるとし、さうして此の神の肢體に蠶や桑や五穀が生じたとしてある。ワクムスビといふ神の名は、此の五穀蠶桑を生産するところからつけられたのであらう。衣食、特に食物、の生産はムスビの力の人生に最も直接なものだから(417)である。が、何故にそれが火の神と土の神との結合によつて生まれたことになつてゐるのであらうか。問題はこゝにあるが、それは多分、植物の、特に農産物の、發生を促がす呪術として、冬もしくは春の初に一定の場所に於いて火を燒く民間の風習に由來があるのであらう。今日もなほ地方によつて其の遺風の存在する正月に野外で火を焚く儀禮の如きは、多分かういふ意味のものであつて、春の暖い日が地上の萬物を發生せしめるところから、火の暖みでそれを摸擬し、それによつて土地の發生力を助けるのであらう。かういふ呪術的儀禮は、多くの民族に其の例がある。祭祀もしくは呪術の儀禮に本づいて神話の作られることも、また神話の民俗學的研究が行はれるやうになつてから、普く世に知られて來た事實であるから、此の問題もかう解釋することができようと思ふ。さすれば、古事記の説は此の「一書」の如き話から轉化したものであつて、ワクムスビがハニヤマヒメとカグツチとの結合によつて生まれた子である、といふ肝要の點が脱ち、カグツチの生まれた場合の話になつてゐるハニヤマヒメの化生と同じところに、此の神の化生を記したのであらう。また五穀がワクムスビの肢體に發生したといふところから、ワクムスビの子にトヨウケヒメといふ食物の神があることに變じたのであらう。オホゲツヒメが前に生まれてゐながら、トヨウケヒメが別にあるといふ重複した記載も、かう考へると自然に説明せられるので、それは全く違つた思想から來た二つの話が、古事記の物語に於いて並存してゐるためである。
 しかし飜つて考へると、五穀などが肢體に化生したといふ其の神が、初からワクムスビとして語られてゐたかどうかは、問題である。ワクムスビといふ神の名は、タカミムスビ、カミミムスビ、と同樣、ムスビといふ抽象的概念の擬人せられたものであり、さうしてワクは「タカミムスビ、カミミムスビ、に於けるタカ、カミ、などと同じ性質の(418)美稱的形容詞ではあらうが、語の意義から考へると、後に生じた神であるためにかういふ美稱が加へられたもののやうである(後にいふワカヒルメのワカの例、參照)。この神の名は、ずつと後になつてから神代史の潤色者によつて作られたものであらう。さすれば、かういふムスビの神は、前に述べたやうな呪術に結びつけるには名の意義がやゝ廣すぎる感がある。ところが古事記には別に、スサノヲの命に殺されたオホゲツヒメの屍體の所々に蠶、稻、粟、小豆、麥、大豆、が生り出でたといふ話があり、書紀の注の「一書」には、月の神に殺されたウケモチの神の屍體に牛、馬、蠶、粟、稗、稻、麥、大豆、小豆、が生じたといふことが見えてゐる。此の二つは一つの話の變化したものに違ひなく、さうしてオホゲツヒメとウケモチの神とが同じ語から成立つてゐる同じ神であるべきことも、それを證する。かう考へると、上に述べたワクムスビの物語は、やはり此の話に外ならぬものであつて、それをワクムスビのことにしたのは、後の變改らしい。だから話の原形に於いてはハニヤスヒメとカグツチとの結合によつて生まれた子は、オホゲツヒメ(もしくはウケモチの神またはトヨウケヒメ)であつたらう。その方が話そのものに適切であることは、いふまでもない。古事記にトヨウケヒメをワクムスビの子としてあるのは、かういふ變改の行はれた徑路の痕跡を示すものと、見ることができる。(牛馬や蠶を加へたのも後の變形で、もとは穀物のみであつたらう。)
 かう考へると、イサナミの命がカグツチを生んだために死んだといふ話も、やはり同じやうな呪術から出たことではあるまいか。此の神の病臥中に化生した神が、どの本にでも土の神、水の神、とせられ、さうしてそれに穀物の神が結合せられてゐるのを見ると、カグツチの生まれたことが既に農産と關係があるやうに考へられてゐたらしく、前に縁が薄いやうであるといつたことも、必しもさうではないのかも知れぬ。更に臆測するならば、穀物の豐饒を求め(419)るための呪術として火をつけて燒く何物かが神と考へられてゐたので、それを神代史の潤色者がイサナミの命に結合したのではあるまいか。さうしてそれにイサナミの命を撰んだのは、此の神が女性であり國土や神々の母とせられてゐたため、生産の力をそれに歸したからではなからうか。(もしさうとすれば、此の神が古事記などの説に於いてヨミにゆくことになり、死の神とせられたのは、それが生の神だからである、といふことになる。イサナミの命がヨミにいつたのは、話の順序としては、カグツチを生んで死んだためだといふのだからである。)
 が、問題はなほ殘つてゐるので、それはオホゲツヒメやウケモチの神が殺されたといふこと、竝に殺された神の屍體に穀物が生り出でたといふことの、意味である。(前に述べたワクムスビの話には、殺された屍體とは書いてないが、上記の臆測にもし理由があるならば、話の原形ではやはりさうなつてゐたのであらう。)さて神もしくは巨人が殺されて、其の屍體から神や人や種々の生物の生まれることは、他の民族の説話にも其の例が多い。かういふ話の意味については、學者間にいろ/\の説があるが、犠牲を殺す儀禮に其の由來を求める説が、多くの場合に於いて承認せらるべきものらしい。もし我々の民族が極めて古い時代に於いて、穀物の豐饒を求める呪術として、人を犠牲とするやうな風習でもあつたとするならば、オホゲツヒメ(もしくはウケモチの神)の話はそれで解釋せられようが、さういふ風習の存否が問題である。土地の産出を豐富にする呪術として人の生殖機關を用ゐ、もしくは生殖行爲を模倣することも、また未開民族に例の多い風習であつて、それは古語拾遺の卷末に見える話によつて、我が國の上代にも存在したことがほゞ推測せられようし、食物の神をオホゲツヒメもしくはトヨウケヒメといふ女性としたのも、それに由縁があると見ることもできなくはなからうから、それから類推すると、上に述べたやうなことも極めて遠い昔の(420)時代には無かつたともいひ難いが、勿論さう考ふべき徴證は無い。のみならず、此の話をさういふ太古の時代から傳へられて來たものとすることができるかどうかも問題である。しかし此の話が何かの呪術的儀禮に由來があらうといふことを、他の民族に於ける神話の例から類推しても、大なる誤は無からう。オホゲツヒメなどの食物の神は、物語に於いて何等かのはたらきをする人物としての神ではなく(後文參照)、民間信仰に基礎のある宗教的意義での神であるから、それが殺されたといふ話は、民間の風習として年々くりかへして行はれた儀禮にその由來があるのではなからうか。その儀禮がいかなるものであつたかはわからぬが、神が殺されたといふのであるから、神とせられた何ものかがあつてそれが破壞せられる、といふやうなことがあつたのではあるまいか。或はその神としての何ものかにいろ/\の穀物などがとりつけてあつたのかもしれぬ。上に呪術的儀禮といつたのは、かういふやうなことを思ひうかべての考である。ところで、もし此の話の由來がかういふところにあるとすれば、オホゲツヒメもしくはウケモチの神を殺したものを、スサノヲの命もしくは月の神としたのは、話を神代史にあみこむための考案に過ぎなからう。なほ月の神としたことと日月相隔てて住むといふ話との關係に於いて、どちらが本でありどちらが末であるかも、問題であり、月の神としたことに意味があるかないかも、それによつて幾らか違つて來るのである。月が農業にとつて特に深い關係があるやうに思はれてゐたことは、多くの民族にその例があるから、われ/\の民族の上代にもさういふ考があつて、そのために月の神をかりて來たのかと思はれないでもないが、もしさうとすればオホゲツヒメの神を殺させるために此の神をかりたのが、解し難いことではあるまいか。また別の點から見ると、一方では神代史の物語に於いて、後にいふやうに、日と農業との關係が認められてゐるのであるから、此の話を月の神に結合してあることが、(421)極めて古い時代から傳へられた民間説話に於いて存在したものとしない以上、かう考へることは困難である。ところが人の形と性質とを有する神としての月の神が、さう古くからあつたらしくはない。だからオホゲツヒメを殺した神を月の神とすることは、其の間に本質的の關係があるのではないやうに見える。或はスサノヲの命としてあつた話の轉化したのではあるまいか。さうしてそれをスサノヲの命としたのは、此の命が兇暴であるといふことからの着想ではあるまいか。かう考へて來ると、月の神が此の話に現はれたのは偶然のことであり、從つて日月相隔てて住むといふのは後から此の話に結合せられたことらしい。さて、オホゲツヒメもしくはウケモチの神の話が上記のやうな意味のものであるとすれば、カグツチの殺された屍體にヤマツミが化生したといふ話も、やはり山で火を燒く儀禮があつて、それから出たものではあるまいか。
 呪術から出た物語には、なほイサナキの神の禊の一段があるが、身についてゐる邪靈を水の力で驅逐するといふ所謂禊の呪術的意義は、改めて説くにも及ぶまい。また邪靈は衣服やもちものにもつくものであるから、それはすててしまはねばならぬ。これも祓の一方法である。死者に接し葬儀に列した場合に、かういふ禊なり祓なりをすることは、一般の習慣であつたらう。此の物語でイサナキの命が持ちものをすて水に入つて身を滌いだ時に、先づ惡い神が化生したといふのは、此の邪靈が現はれたので、後に善い神が來たのは、さういふ邪靈が去つた後の?態に應ずるものである。しかしマガツヒの神やナホビの神が此の時に現はれたといふのは、物語であるがための構想に過ぎないので、民間信仰に於いては宣長などのいつてゐる如くあらゆる禍や罪が盡く死の國から來る邪靈のしわざとして、考へられてゐたのではない。邪靈は死や死者やヨミの國とは關係がなくとも、此の現し國に充滿してゐるのである。
(422) さてこれらの物語が民間の風習に由來のあることは、上記の如く疑が無いとして、次には、それが物語として既に民間に存在してゐたものであるか、但しは神代史の潤色者が作つたものであるかが、問題であるが、それは或は前者かも知れない。但しカグツチの神の肢體に八つの神が化生したとある其の八つの數、又はオホゲツヒメもしくはウケモチの神の屍體の部位と穀物の種類との關係などは、民間の信仰としてあつたらしくはない神の名などと共に、潤色者が書き加へ、または書き改めたものであらう。また禊の物語に於いて其の場所をヒムカのタチバナの小門としたのは、イヅモをヨミの國と結びつけたことと相應じて、此の物語を神代史の插話とし、其の大すぢと連絡させるために生じた考案に違ひなく、そこに神代史の此の潤色者の特殊の意圖があるであらうが、其の意圖の何であるかを知るには、神代史の本すぢに立ちもどつて、次々の物語を研究してゆかねばならぬ。
 
(423)       第八章 スサノヲの命のタカマノハラのぼり並に日の神の岩戸がくれの物語 上
 
 日の神がタカマノハラに上られてから後の物語に於いて、第一に起るのはスサノヲの命との葛藤であつて、先づウケヒをして二神が子を生まれるといふ話があり、次に日の神の岩戸がくれの物語が來る。書紀の岩戸がくれの段に注記してある第三の「一書」に於いては、此の二つの話の順序が逆になつてゐるが、これは後の變形であらう。岩戸がくれの事件の原因として説かれてゐるスサノヲの命の亂暴(大神の田を荒らしたといふこと)は、此の命が既にタカマノハラに上つてゐた後の話としなくてはならぬに、其の上つてゆくことが説いてなく、さうしてタカマノハラを逐はれて後またそこに上つてゆくといふのも、不自然だからである。古事記や書紀の本文の如き(即ち上記の)順序になれば、話の進行が自然である。
 さてスサノヲの命が日の神のゐられるタカマノハラに上つてゆくといふ話は、何を意味するであらうか。物語の上では、イサナキの神からヨミの國に放逐せられたについての告別のためとしてあるが、後にまたタカマノハラで亂暴した罪によつてそこを放逐せられたとあつて、此の放逐もまた、落ちゆくさきはヨミの國と定められてゐたらしい。既にゆくはずになつてゐるヨミの國へ、改めてまた放逐せられるといふのは、同じことが二重になつてゐて、物語の筋が透徹を缺いてゐるやうであるが、それはともかくもとして、寧ろそれほどまでに、ヨミが幾重にもスサノヲの命(424)に絡まつてゐるといふことは、注意を要する。また書紀の注の一つの「一書」では、スサノヲの命のタカマノハラのぼりの理由が「唯欲與姉相見」としてあるのみであるが、これは告別のことが脱ちてゐるのであらう。また別の「一書」には、玉を大神に獻上するためだとスサノヲの命にいはせてあるが、其の玉を得る前に既に上天のことが決まつてゐるやうにしてあるから、上天そのことの理由は別にあるものと見なければならぬ。玉の話は、ウケヒの場合に玉を用ゐることから考案した、後人の添加であらう。
 けれども飜つてなほ考へると、スサノヲの命とヨミとの關係は、果して本質的のものであらうか。此の命が「妣の國」にゆきたいといつた、としてある古事記と書紀の注の「一書」との説は、イサナミの命のヨミの物語が添加せられた後に插入せられたものである、といふことは前に述べたが、ヨミにゆくべき運命をもつてゐたことは、すべての説に共通であるから、それはスサノヲの命について初から考へられてゐたことで、そこに何かの意味があるには違ひない。けれども神代史に於けるスサノヲの命の活動は、タカマノハラのことと後にいふイヅモの話とだけであつて、ヨミにいつてからは何の物語も無い。神代史は現し國のことを説くのであるからヨミのことは用が無い、といへばそれまでであるが、スサノヲの命が本質的にヨミの性質を有する神として現はれたのならば、此の命が日月二神と並んで重要の地位を有し、さうしてそれがヨミの國にゆくべく初から定められてゐる以上、少くとも其のヨミと現し國との交渉に於いて、何ごとかが無くてはなるまいではなからうか。ところが、現し國とヨミとの關係について(後人の添加ながら)イサナミの命の物語が存在するにかゝはらず、スサノヲの命については何の話も無いのである。もつとも古事記には、後にいふやうに、オホナムチの命のヨミにいつた話があり、そこへスサノヲの命も顔を出すのである(425)が、これは古事記だけに見えることであるのみならず、種々の點から觀察して、神代史の物語の本すぢとしては考へられないものである上に、其のヨミには毫もヨミの特色が無い。かう考へると、スサノヲの命とヨミとの關係は、さして緊密なものではないといはねばならぬ。もつと根本的にいふならば、物語の上でスサノヲの命に絡まつてゐるヨミは、決して眞のヨミではないので、これは此の命の死が曾て語られてゐないことからも、明かである。スサノヲの命は生きたまゝでそこにいつたのである。上にも述べた如く古事記の話では、そこにゐた此の命の女のスセリヒメが現し國に來てオホナムチの命の妻となつてゐるので、これは後にいふやうに後から神代史にはさみこまれた話ではあるが、さういふ話をはさみこむことができるやうな性質を、スサノヲの命に關する物語のヨミはもつてゐたのである。或はまた古事記にスサノヲの命のことを「其泣?者、青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾、是以惡神之音、如狹蠅皆滿、萬物之妖悉發、」と書いてあるのを、此の命に物を枯死せしめる力があると解し、またあらぶる神といはれ邪靈といはれるものがヨミの國から來る、といふ思想に參照して、此の命を宗教的意義に於けるヨミの神として見ようといふ考があるかも知れぬ。書紀の本文に「令國内人民多以夭折」とあるのがそれを助けるやうでもある。しかし、あらぶる神わるい神、即ち邪靈、は決してヨミの國からばかり來るのではない。前にも一言した如く、到るところに恐るべき精靈があつて人に禍をするといふ考が我々の民族の上代にあつたことは、大祓や御門祭遷却祟神祭などの祝詞によつて見ても、また神武天皇やヤマトタケルの命などの物語に現はれてゐるあらぶる神についての思想を見ても、明かであり、現にスサノヲの命が泣きさわぐために「惡神之音如狹蠅皆滿」としてあるのも、かういふ思想から來てゐる。これは泣きからし泣きほす、即ち泣きさわぐことによつて山も海もそこの生物も枯死するといふことから、人の生活(426)を害する惡神邪靈のはたらくことを聯想したものであるらしいが、邪靈惡神のはたらきはいろ/\の形で現はれるのを、こゝで音のみをいつたのは、泣くといふことについてそれが思ひ出されたからであらう。書紀に人の夭折を擧げてあるのも、また枯死する萬物について特に人の死をとり出していつたに過ぎぬ。だからこれらはスサノヲの命をヨミの神としたことを示すものではない。また上に引いた書紀の文の如きは、一方に勇捍であるといふやうな形容のあるのを見ても、そればかりがスサノヲの命の特質を示すものでないことがわからう。なほヨミの神といふことはイサナミの神の物語に出てゐるし、イサナミの神自身がヨモツ大神ともせられてゐるが、それらは宗教的意義の神ではなく、また民間信仰に於いてヨミの神といふ觀念が形づくられてゐたのでもないといふことは、既に前に説いて置いた。此の點からもスサノヲの命をヨミの神として見ることはむつかしい。(ヨミの神でなくとも人に禍をする惡神として見られないかといふに、民間信仰に於いては人に禍する邪靈、わるい神、は到るところにゐるので、或る一つの大きな惡神があるとは考へられてゐず、また知識人によつて形づくられた神としてはオホマガツヒの神があつても、それがスサノヲの命と聯想せられてゐる形跡はどこにも無いから、さうは考へ難い。)
 スサノヲの命自身にヨミの性質を具へてゐないとすると、それがヨミにゆくべき運命をもつてゐるものとして物語に規はれてゐるのは何故であらうか。茲に於いてかヨミとイヅモとの關係を考へねばならぬ。上に述べた如く記紀の何れに於いてもイヅモはヨミと特殊の關係のある土地になつてゐるが、其の意味の何であるかは且らく措き、スサノヲの命はタカマノハラからイヅモに降り、さうして其の子孫たるオホナムチの命がイヅモの神であるのを見ると、スサノヲの命とイヅモとは、離るべからざる關係を有つてゐるのであるから、此の命とヨミとの連絡は、イヅモが中介(427)をなしてゐるのはあるまいか。いひかへると、イヅモがヨミと特殊の關係があるやうになつてゐるために、イヅモに縁の深いスサノヲの命が、ヨミにゆくことにせられたのであらう。神代史の全體の上から見て、イヅモが極めて重要なる地位を有つてゐるにかゝはらず、ヨミにはそれほどの重要さが無いといふことも、また此の推測を助ける。もし果してさうであるとすれば、問題の中心點はイヅモにあるので、何故にスサノヲの命がイヅモにゆくことになつてゐるか、といふ疑問がそこにも生ずるのであり、さうしてそれは既に上に提出して置いた問題、即ち何故にイヅモとヨミとが連結せられてゐるか、といふことと相伴つて考へられねばならぬものである。
 けれども物語の表面では、明かにかういふことは語られてゐない。そこで先づ、物語がスサノヲの命をヨミにやる理由として何を語つてゐるかを、考へてみよう。さて最初にイサナキの神からヨミに放逐せられたのは、其の性質が兇暴であつたためだといふ。古事記には「不知所命之國、而八拳髪至于心前、啼伊左知伎也、」とありそれを承けて上に引いた如く「其泣?者」云々と書かれてゐ、書紀の本文には「有勇捍以安忍、且常以哭泣爲行、」と見え、それによつて人民が夭折し、また青山を枯山にするとしてあるし、其の注の「一書」には「性好殘害」ともある。此の「八束鬚胸に見るまで泣きいさちる」といふのは、出雲風土記にアデスキタカヒコネを「ひげ八束生ふるまで晝夜なきまして辭通はず」とし、垂仁天皇の皇子のホムチワケ王を書紀に「髯鬚八掬にして猶ほ泣くこと兒の如し」といひ、古事記に「八拳鬚心前に至るまでまこととはず」とあるのと、同じ意義のことであつて、小兒のやうにやんちやであるといふのである(それでなければ八東鬚云々の語が無意義になる)。此のやんちやものが泣きさわぐために、よくないことが世に起るのであるが、それには古事記のイヅモ平定の段のはじめに「瑞穗の國はいたくさやぎてありけり」と(428)あり、出雲國造神賀詞に「晝はさばへなすみなわき」とあり、また大祓及び遷却祟神祭祝詞に「語とひし岩根、樹立、草のかきは、」とあるのが、參考せられようし、古事記の此のところに「惡神之音、如狹蠅皆滿、」とあるのも、やはり其の意義であつて、やかましく泣きさわぐことを惡んで、それを惡神に聯想したのである。文字どほりに解釋すれば、スサノヲの命自身はあばれものでありやんちやものではあるものの、惡神ではないが、たゞ此の命の行動の影響として惡いことが世に起る、といふのである。書紀のは漢文流の文飾のために意義が幾分誇張せられてゐるが、大體は同じことである。注の「一書」の「性好殘害」は此の誇張の甚しきものとしなければならぬ。さうして此のことは、タカマノハラに於ける行動によつて證明せられるので、子を生むことによつて心の正しいことは知られながら、勝ち誇つては亂暴をはたらいたとせられてゐる。タカマノハラからヨミに放逐せられたのも、また此の亂暴のためである。勿論、罪と禍とが同視せられ、大祓の如き呪術が祝詞に述べてあるやうな意味で行はれてゐた時代のことであるから、亂暴するものは即ち惡人として考へられたのでもあらうが、少くとも「あかきこゝろ」といふやうな觀念の存在する神代史に於いては、スサノヲの命が本來の惡神とはなつてゐないはずである。さてヨミの國が本質的にきたない國であり禍の源泉であるならば、此の點からもスサノヲの命がヨミの神と考へられてゐないことが知られるので、それをヨミに放逐するといふことは、スサノヲの命の本質からではなく、別にさうすべき理由があつた故であらう。それは物語の上では亂暴ものだからであるが、然らば何故に惡神ならぬスサノヲの命が亂暴ものとせられてゐるか、と問はねばならぬ。人としてさういふ性質のもののあることは考へられもするが、神代史の物語に何故さういふ神が現はれてゐるかが問題であつて、もつと根本的にいふと、一體スサノヲの命といふ神代史上の人物に如何なる由來があるか(429)が、研究を要することなのである。
 そこで考ふべきは、スサノヲの命が日の神及び月の神と同時に生まれたことになつてゐるところから、二神と同じく何等かの自然現象に此の命の基礎がありはしまいか、といふ臆測の加へられることである。例へば、スサノヲの命がタカマノハラに上つていつた時の有樣を古事記に「山川悉動、國土皆震、」と、書き、書紀に「溟渤以之鼓盪、山岳爲之鳴?、」としてあるのにもとづいて、此の命を暴風雨の神とし、此の話を自然神話として見ようとする説がある。しかし我が國の上代人は、天界の觀察をしなかつたと同じく、空界についてもさして興味をひかなかつたらしく、神代史に於いても、晴雨の變化や雲の徂徠などの天候に關する自然現象に關係のありげな説話は少しも無く、また神代史のみならず、祝詞などにも雨の神や雲の神などが見えてゐない。さすがに海國民で、潮の干滿については潮滿玉、潮干玉、の説話ができてゐたが、空界に關する物語は殆ど無い。(山城風土記に見えるワキイカツチが屋を裂き破つて天に上つたといふ話は、雷に關係があるらしいから、雷についての説話は何かあつたかもしれぬ。たゞこの話の含まれてゐる物語についていふと、その主なる部分は古事記の神武天皇の卷に見えるオホモノヌシの物語と同じものであつて、イカツチといふことばから雷に聯想せられて、天に上つたといふ話が加へられたのみであり、雷そのものがこの物語の主題となつてゐるのではない。)だから、スサノヲの命の物語に限つて、空界の現象としての暴風雨に關係のあるものとは見られないのである。*また宗教的信仰からいふと、祝詞などによつても知られる如くヤマトの朝廷ではタツタの神を風の神としてゐたので、それは祝詞の書かれた時代の民間信仰に根據があらうと思はれるが、此の神についてスサノヲの命が聯想されたやうな形跡すら少しも無いことを、考へるがよい。のみならず、スサノヲの命が(430)宗教的意義での神であるやうに見える記載は神代史のどこにも無いから、この命を暴風雨の神とすることは、この點からも肯はれる。
 或はまた、スサノヲの命の暴行がもとになつて日神の岩戸がくれがあつたから、それを夜の勢力として見ようといふ考があるかもしれぬ。神代史上、月の神とスサノヲの命とが、或は海を領土とする點に於いて、或はオホゲツヒメ(ウケモチの神)を殺した話に於いて、互に混淆せられてゐるやうな形跡があることも、此の考を助けるらしく思はれるでもあらうか。なるほど日が隱れて世界が闇となつたこと、岩戸の前に曉を呼ぶ長鳴鳥をなかせたこと、並に禍と惡とが闇いところから起ると信ぜられた當時の思想などから考へると、さうも見られないことはないやうであるが、晝夜の交代にはスサノヲの命の如く特に恐ろしい勢を以て太陽に反抗する力があるのではなく、また岩戸がくれの物語ではスサノヲの命が來たために世界が暗くなつたのでもなければ、其の去つたがために明るくなつたのでもないから、それでは此の説話を解くこともスサノヲの命の性質を解釋することもできない。さうしてこゝでもまた、天界に關する自然神話が神代史に於いては殆ど他に例が無いといふことを、考へねばならぬ。(月の神が海を支配するといふ話、並にオホゲツヒメの物語については、上文參照。これらは何れも、月の神とスサノヲの命とが混淆せられたものとして解すべきものではない。海が或は月の神に或はスサノヲの命に配當せられ、又はオホゲツヒメの話が二神の何れかに結合せられたに、過ぎないのである。それから月の神は闇い夜を象徴するものではなく、夜を照らす明るい月の光によつて形づくられたものである。)
 次には日の神の岩戸がくれの物語を日蝕を説明した自然神話と見なし、スサノヲの命を、此の意味に於いて太陽の(431)光輝を妨げるものとして、解釋しようとする考があるかも知れぬ。日の神が突然岩戸にかくれられたので世の中が暗くなつたといふのは、日蝕の現象として見るにふさはしくもある。さうして日蝕を惡鬼邪神などのしわざとおもひ、種々の呪術を以てそれをはらひのけようとすることは、多くの未開民族に普通な話であるから、スサノヲの命の由來がさういふ惡鬼邪神にあると見るのも、全くの無意味ではないやうに一應は考へられる。特に古事記には、この時に惡神がさわぎ出したといふことがいつてある。けれども、スサノヲの命が逐ひやられたから日の神が岩戸から出られたのではなくして、世が明るくなつてから後にスサノヲの命が放逐せられたのであり、また惡神がはたらいたために日の神が岩戸にかくれたのではなくして、日の神の光が無くなつたから惡神がさわざ出したのであるから、(よしこれは物語としての構想であつて、日蝕そのことを記録したのではないにせよ、)そこに日蝕を説明する神話としては、ふさはしくない點がある。惡鬼邪神のあばれるのは一般に闇いところ闇いときであるとせられてゐたことも、また考へあはされねばならぬ。岩戸がくれの物語は、、長鳴鳥をなかせたことも、ウズメの命が踊つたことも、神々がはやしたことも、日の現はれることを促さうとする呪術に由來があるらしく、ウズメの命がほどを露はしてゐるのも、すべてのものに生氣を與へる呪術として見ると、意味のあることであり、さうして日についてのさういふ呪術の行はれるのは主として日蝕の場合であらうから、此の話は日蝕に關係があらうとは思はれる。しかし日蝕の現象を説明する自然神話ではなくして、日蝕の場合に行ふ呪術に基づいた神話なのである。さすればスサノヲの命が日の力を妨害する邪神であるといふ解釋は、此の點からも成り立たなくなるであらう。
 スサノヲの命が自然現象に基礎のある神として説明し難いことは、これでほゞわかつたであらう。さすればそれは(432)何であるか。そこで更に物語を一々しらべて見るに、日の神とウケヒして互に子を生むといふ一段の最初に、日の神がスサノヲの命はタカマノハラを奪ひに來るのではないかといふので、武装して詰問せられた、といふことがある。それから、生まれた日の神の子に、正嫡とせられ、ホノニニギの命の父とせられ、從つて皇室の第二代目の御祖先となつてゐられるアメノオシホミミの命と、イヅモの國造の祖先とせられてゐるアメノホヒの命とがある。ウケヒして子を生むといふこと、それによつて心のよしあしを證明するといふことの、意味は何であるにしても、それは神代史全體の組み立ての上には關係の無い話であるが、スサノヲの命の心の正しいといふこと、竝に此の時に生まれた日の神の子に此の二神があるといふことは、神代史の大すぢの上に重要な意味のあるものであるから、此の話の中心點はこゝにあるとしなければならぬ。そこで前に述べた如く、タカマノハラにゐて現し國を支配せられる日の神の本質は皇祖神であり、アメノオシホミミの命の父としての日の神は、勿論、皇祖神でなければならぬのであるから、此の場合のスサノヲの命は、皇祖神に對してあゝいふ行動を取るところに、其の本質があると見る外は無い。いひかへると、それは自然神話中の人物でもなく、宗教的信仰の對象たる神でもなく、政治的意義の上に立つてゐるものと考へねばならぬのである。それから、次の日の神の岩戸がくれの段に於いては、初にスサノヲの命が日の神の田を荒したり織殿や新嘗の宮を汚したりしたことがあり、次に岩戸の話となるのであるが、初のは其の亂暴なふるまひが日の神に對してせられたものであることに、注意しなければならぬ。其の亂暴が田に於いてせられたのは、農業を主とする民族生活の反映であると共に、日の神を皇祖神と見て、皇室が田を有せられた事實から構想せられたものであり、織殿に於いてせられたのは、やはり皇室に織殿のあつたことから思ひうかべられたものに違ひない。新嘗が天皇の行はれる(433)重要な儀禮であつたことはいふまでもないから、その宮を汚したといふのは、やはり皇祖神としての日の神に對する行ひであつたことを意味する。(この場合の日の神には天皇が反映してゐる。なほ後章參照。)また次のは、岩戸がくれの話のしくみが日蝕の場合の呪術から來てはゐるものの、スサノヲの命の行動が日蝕そのことには關係が無いとすれば、これもまた日神を怒らせたところに此の命のはたらきがあるのである。さて日蝕に對する呪術そのものがこゝに必要なわけでないことは、それが前後の物語に何の聯絡をも有つてゐないのでも知られようから、それが神代史の物語に採られたのは、日の神の基礎が日そのものにあるからのことに過ぎない。さうしてこの時集まつた神々の中でも、アメノコヤネの命が中心であり、それは古事記などの説では後にホノニニギの命の天降りの物語にも現はれ、また實際ヤマトの朝廷に於いて重要な地位を有するナカトミ氏の祖先とせられてゐるものであるのを見ると、此の話の根本にはやはり皇室といふ觀念があるので、日の神はどこまでも皇祖神であることが知られよう。さうしてもう一歩進んでいふならば所謂八百萬の神の神集ひの話は、神代史の述作せられた時代に於いて、有力なる諸家が合議協同して皇室を輔翼し大事を決定する例であつた事實の、反映であると考へられよう。もしさうならば、此の話のある岩戸がくれの物語が政治的意義を有するものであり、さうして日の神が皇祖神であることはいよ/\明かである。
 なほこの話に於いて日の神が皇祖神の意義のであることは、此の時にイシコリドメの鑄たといふ鏡のことからも考へられよう。この鏡については、書紀の此の條の注の第一の「一書」にはキの國のヒノクマの神であると記され、第二の「一書」にはイセの大神であるとせられ(この本にはイシコリドメの名は無くて鏡作部の遠祖アメノヌカドとしてあるが、他の「一書」に鏡作の遠祖アメノヌカドの子イシコリドメとあるのを見ると、これはたゞ鑄造者の名を(434)變へたのみである)、後に出た古語拾遺には、作られた鏡が二面あつて、初のがヒノクマの神、後のがイセの大神、といふことにしてある。さて古事記の此の條にはかういふことは少しも見えてゐないが、所謂皇孫降臨の段の神寶を授けられたといふ話に「遠岐斯八尺勾?鏡」とある「遠岐斯」は、此の場合のことを指したのであらうし、五伴緒及びオモヒカネの神、タデカラヲの神、アメノイハトワケの神、を皇孫に隨伴させたのも、此の時の話に照應するやうにしてあるのであり、さうして鏡はイセに祭つてあるとしてあるから、やはり此の時の鏡をイセの大神とする考がもとになつてゐるに違ひない(神寶のことについては後章參照)。しかし書紀の本文にもまた書紀の注の他の「一書」にも、これらの話は無く(書紀の本文には鏡を作つた話が全く無い)、さうしてかういふ風に説が區々たなつてゐるのを見ると、これらは何れも後人の添加であつて、物語の原形には無かつたものと推せられる。ヒノクマの神であるとしてある「一書」には、齋服殿の織女にワカヒルメの命といふ名をつけてあるが、此の名はオホヒルメに對して、またそれに本づいて、作られたものに違ひなく、日の神みづから衣を織られたといふ書紀の本文の説より後に現はれたものであらうし、オモヒカネの神をタカミムスビの命(神)の子としてあるのも、タカミムスビの神の現はれてから後の増補であり(本文にはかういふことが無いが、無くて少しも差支が無い)、またアメノタケチの名の出てゐるのも新案らしいことを、考へるがよい(後文參照)。タカミムスビの神の名がこゝに出てゐるのは、古事記でも同樣であつて、それもまた古事記のこゝの話が物語の原形でない一證であるが、所謂五伴緒の祖先の名が古事記に揃つてゐるのも、後の形らしく、書紀の本文の説も注の二つの「一書」のも、それほど整つてゐない。なほこゝの神々と其の名とに異説のあることについて考へてみる必要がある。書紀の本文には鏡や玉を作つた神の名が出てゐないが、これは話(435)の原の形の傳へられたものであらう。其の場で實際はたらく神のみが最初に人の想像に浮ぶのは、自然の順序だからである。特にイシコリドメ、アメノヌカド、またタマノオヤ、トヨタマ、アメノアカルダマ、など、鏡作りと玉作りとの名がいろ/\になつてゐるのを、アメノコヤネやフトダマの名が一定してゐるのに對照すると、後者が既に世間一般に承認せられてゐるのに、前者がさうでなかつたことを語るものであつて、それは即ちこれらの神の名が後から加へられたことの一證であらう。但し書紀の注の第二と第三との二つの「一書」に於いてフトダマの命の地位がアメノコヤネの命よりは下に置かれ、鏡作り玉作りと同列に取扱はれてゐるのは、書紀の本文や古事記に此の二神を對等にしてあるのに比べて、却つて古い思想ではなからうかと思ふ。このことについては第二篇の第四章に説いて置いた。なほ第三の「一書」にアメノコヤネの命をコゴトムスビの子とし、アメノアカルダマをイサナキの命の子としてあるのは、オモヒカネの神にタカミムスビの命を結合したと同樣であるが、それらは家々に於いて其の祖先を次第に古くし、次第に尊い神としようとする意圖から出たことであつて、それがこの「一書」に取入れられたのであらう。ところで、鏡に關する上記のいろ/\の説、特にそれをイセに祭つてあるものとする説は、かういふやうに後人の潤色を經た本に於いて現はれてゐるのである。特に古語拾遺のは上記の二説を結合したのであつて、それがために鏡の數を二面にしてある。けれどもかういふ添加が行はれたのは、イセの神宮が皇室に於いて皇祖神を祀られるところとしてあることを參考すると、此の岩戸がくれの物語に於ける日の神を皇祖神として解釋したからであつて、それは神代史の潤色がなほ行はれつゝあつた時代の一般の考であつたらう。さすれば此の段のスサノヲの命は、皇祖神に對して一種の反抗的態度をとつたものとして、説かれてゐると見なければならぬのである。この命がタカマノハラに上つたと(436)いふことが、既にそれを示してゐるのであつて、タカマノハラは皇祖神としての日の神の居所であるのである。
 日の神に對するスサノヲの命の物語は上記の如く解釋せられる。漠然と見ると、多くの民族の神話に例のある善の力と惡の力との爭、光明と闇黒との戰、といふやうな意味がそこに含まれてゐるやうでもあるので、神代史の述作者の脳裡にも、どこかにさういふ思想の閃きがいくらかはあつたかも知れぬ。しかし物語の全體の意味を此の思想で説明することはできないので、それは上に述べたところによつておのづから了解せられよう。日の神が善の神または光明の神としての性質をもつてゐない、といふこともまたすでに説いたところである。
 タカマノハラに於いてのスサノヲの命をかう觀察して置いて、次に此の命が、イヅモの支配者であり、タカマノハラの神から反抗者として考へられ、後に國を獻つてタカマノハラの神に服從したといふ、オホナムチの神の父となつてゐることに參照すると、スサノヲの命の本質が政治的意義のものであることは、一層確かめられよう。從つてスサノヲの命も、上記の物語に於ける此の命の話も、民間信仰や民間説話に基礎のあるものではなく、特殊の意圖によつて創作せられた神代史の物語の上の一人物としての神であることが知られよう。スサノヲといふ名が「あばれる」といふ觀念からつけられた名であること、亂暴はするが心は正しいといふやうな、知識人の思想に於いて始めて生じ得るやうな性質が、此の神に與へられてゐることも、またそれを證するものであらう。
 
(437)       第九章 スサノヲの命のタカマノハラのぼり並に日の神の岩戸がくれの物語下
 
 スサノヲの命の性質と此の命に關する物語の意味とは、前章に述べたやうに考へられるが、その物語には、種々の民間信仰的分子が絡まつてゐるらしいから、此の命の性質を知るにはさして必要の無いことながら、こゝに一應それを考へてみなければならぬ。其の第一は、ウケヒして子を生むといふ話についてである。子を生むことをウケヒの條件とすること、竝に玉と劍とをかみ碎いて吹き出す氣息から子が生まれるといふことは、別の問題として、ウケヒをするといふことは、民間の風習に違ひない。かういふことは未開人の間に一般に存在するからである。さてウケヒとは何かといふに、書紀には此の語に誓約の字をあててあるが、これは妥當ではない。ウケヒは、古事記のホノニニギの命についてのコノハナサクヤヒメの話や垂仁天皇の條のアケタツの王の話によつて考へると、祝福し又は呪詛する類の呪力のある語を、何等かの方式で、口に出していふことである。仲哀天皇の條のカゴサカの王などの話では、一種の占驗に關することになつてゐるが、それとても、初に呪言がいはれ、其の呪力によつて占驗となる事件が起るからであらう。然るに誓約は二人の間のことである。それを破るものに禍が來るとせられるところに、呪詛の意味があり、ウケヒと共通の要素があるが、根本の精神は違ふ。さてスサノヲの命の此の場合のは、日の神と此の命とが共にせられたのではあるが、相互の誓約ではない。古事記にも「各」と書いてある。各呪言をいつて子を生み、スサノヲの(438)命は其の子の男か女かによつて心の正しいか否かを驗せられるのである。こゝに道コ的意味が加はつてはゐるが、それを驗し得るのは、ウケヒをすることに呪力があるからであり、さうして女の子を生めば、心の正しくないことになつて、禍をうけねばならぬのである。(日の神には如何なる子が生まれても責任が無いことになつてゐるが、これはスサノヲの命を主とした話だからである。)しかし二神が玉と劍とを取りかへるといふ話は、誓約の場合の方式から來てゐるらしい。誓約の際に神聖なもの靈あるものに手をふれるとかそれを前に置くとかいふことは(神かけて誓ひ、それを破れば神罰をうける、といふのと同じく)、どの民族にも普通のことであるから、玉や劍に精靈が宿るとせられ、或はそれがそのまゝ神ともせられてゐた我が上代にも、また同樣な風習があつたであらう。たゞ交換するといふ例が他にあるかどうかは、よくは知らぬが、誓約といふことの心理から推して、あり得べきことらしく思はれる。もつともこれには、本によつて異説があるので、玉と劍との所有者についても、子を生む時にそれをもつた神についても、それから生まれた神の性についても、所説が一樣でない。表にして示すと左記のやうになる。
 {日 の 神……劍――女
        ×     }古事記及び書紀の本文
  スサノヲの命……玉――男
 
 {日 の 神……玉――女
        ×     }書紀の注の一つの「一書」
  スサノヲの命……劍――男
 
 {日 の 神……――劍――女
                }書紀の注の三つの「一書」
  スサノヲの命……――玉――男
(439)   (――は品物と所有主との關係及び其の品物と生まれた子の性との關係。……は子を生む時に持つた品物。)
 これを見ると二神が品物を交換しないことになつてゐる説が三つあるが、しかしさういふ説でも其の中の二つには、スサノヲの命の生んだ男の子を日の神の子にしたとある。殘りの一つには、さういふ話は無いが、男の子の名が、やはり諸説に日の神の子となつてゐるマサヤ-アカツ-カチハヤビ-アメノオシホネの命であるから、これは、この命が日の神の子になつたといふ記事の、脱漏したものと見てよからう。さすれば、すべての説に於いて、生む品物なり生まれた子なりの何れかについて、日の神のとスサノヲの命のとが交換せられたことになるのであるが、それは多分、品物を交換したといふのが物語の原形であつたらう。單に子を交換するといふのは解しがたいことのやうであるが、所謂「物資」にょつて親子の關係を定めることにすれば、初に其の「物資」をとりかへたために、生まれた子をもとに歸さなくてはならぬので、子の交換といふことがそこから考へられるのである。もしさうとすれば、さうして此の交換が誓約の方式であるとすれば、ウケヒと誓約と二つの民間の風習がこゝに混合して現はれてゐるのであらう。(或は何ごとかのための呪術として子の名を交換するといふ風習でもあつて、子の交換といふ話はそれから作られたのではないか、とも臆測せられないでもないが、もとよりたしかにはいひ得られないことであるから、今はしばらく本文に述べたやうに考へておく。)
 しかし子を生むことをウケヒの條件とするやうなことが、實際の風習として存在したものであるかどうか、それは問題であるが、子が生まれるか生まれないかとか、または生まれた子が男であるか女であるかとかいふことが、占驗として考へられたことは、あつたと考へられる。それを物語はあのやうな形にして語つたので、コノハナサクヤヒメ(440)が産屋に火をつけて其の中でホホデミの命を生んだといふのがクカタチと同じ思想によつて作られたのと、同じやうな遺すぢでできたものであらう。また劍と玉とによつて子の生まれたといふのは、或は子の生まれる場合にかういふ品物を何等かの呪術の意味で用ゐる風習でもあつて、それから來た話かとも思はれる。劍も玉も靈物であり呪力のあるものであり、その意味で神であるからである。またそれを噛み碎いて吹き出す氣息のさ霧に神が生り出でたといふ話にも、劍や玉に氣息を吹きかけて生まれるものに生命を與へるといふやうな風習があつて、それに本づいたのではあるまいか。氣息が生命として考へられた原始的思想の名殘がこゝに傳へられてゐると見るのである。さ霧としたのは氣息を目に見えるやうに語つたのであらう。(さ霧とあることから推測すると、此の氣息の話は、或は生まれた女神が海に縁のある神であるところから、來てゐるのかも知れぬ。霧ふきはらふ氣息に神が生り出でたといふ話は、書紀の注の「一書」のシナトベ、即ちシナツヒコの神、にも其の例があるが、オホヤシマの生まれた話の注の「一書」に、二神が霧の中に立つて海水からオノコロ島を探り得た、といふこともあつて、霧と海とは縁がふかく、さうしてそれは實際の?態に本づいてゐると思はれるからである。劍や玉を天の眞名井にふりそゝいだとあるのも、此の話の意味が水に縁のあることを語るものではあるまいか。けれども一方には海に關係の無い男神もあるから、此の考は成りたつまい。*)しかしこれらの點については今のところたしかな解釋ができないから、試に臆説を述べて置くにとゞめる。なほ此の話は、古事記でも書紀の本文でもその注の「一書」でもほゞ同じであるが、たゞ一つの「一書」に、劍が三口になつてゐ、別の「一書」に、劍のことがそれと同じである上に、玉を左右の掌や臂や足やに置いて子を生むやうにしてあるのは、話が煩雜になつてゐる點から見て、後の變形であることが知られる。
(441) さて此の話に於いて、どの説でも日の神は女を生まれたことになつてゐるが、これはスサノヲの命に、其の心の正しい證據として、男を生ませる必要があつたからでもあらう。しかし生まれた子の男女と心の正邪との關係については異説がある。書紀の本文にも注の四つの「一書」にも悉く、男ならば正しき心、女ならば邪な心、となつてゐる。けれども古事記には、ウケヒの時には何ともいつてないが生まれた後の話に、女なれば心清しとしてあるから、書紀とその注とに見える諸説とはすべて矛盾してゐる。しかし書紀の諸説と古事記とは、結局、何れもスサノヲの命が正しき心であるといふことには一致してゐる。古事記と書紀の諸説とが男女の性と心の正邪との關係を反封にしてゐるにかゝはらず、結果が同じことになつてゐるのは、親子の關係を所謂「物資」によつてつけたのと、生むといふことの行爲によつてつけたのとの、相違から來てゐる。古事記では、スサノヲの命の所有品たる劍から女が生まれたのであるから、スサノヲの命が女を生んだといひ、書紀とその注の「一書」とのすべての説では、スサノヲの命の行爲によつて(日の神の所有品たる玉もしくは劍からにせよ、自己の所有品たる玉からにせよ)、男が生まれたのであるから、スサノヲの命が男を生んだとしたのである。しかし古事記でも、スサノヲの命がわれ勝つたとて勝ちさびにすさびたとあり、さうして男神の名に、マサカツ-アカツ-カチハヤビといふ稱呼があつて、此の間には關係が無くてはならぬから、此の説に於いても、本來は、スサノヲの命が生んだのは男であることになつてゐたに違ひない。だから女なれば心きよしとあるのは、後になつて(男神の名と矛盾を生ずるにもかゝはらず)加へられた變改であらう。從つて、男ならば心清しといふのが此の物語の本來の思想に違ひない。なほ上にも述べた如く、上代の日本人の實際の風習からは、男女の性に正邪の觀念を伴はせるやうな考は生じなかつたらうと思はれるが、イサナキ・イサナミ二神の(442)國土生産の場合に、女が先きに唱へたのが不吉であつたとせられてゐることに、參照して考へると、こゝにもシナ思想が取り入れられた形跡があるので、此の點から見ても、女を生む方が男を生むよりも心清き證據だといふやうな考は、ありさうでない。古事記の説は、女の生まれた「物實」がスサノヲの命の所有品であつたことと、スサノヲの命が正しき心であつたといふこととを、結びつけようとしてできた變形であらうが、或はまた別に由來があるかも知れぬ(それについての臆測は後に述べよう。*)
 ところで、上に述べた如く此の時生まれた神のうちで、神代史の全體に關係のあるのは、オシホミミの命とホヒの命とのみであるが、その他の神のこゝで生まれたことには何か意味があるかどうか、といふ問題が起る。これは、古事記のこれまで神の生まれたことを説いたところに、ほゞ八神づつを一團にしてありながら、こゝでは三女神五男神とあつて三と五との數になつてゐることから考へると、シナ思想に由來のある此の數を選んで、それに合ふやうに神の名を列擧したのではあるまいか。男神の方のアマツヒコネ・イクツヒコネは、一つのヒコネにアマツとイクとの美稱を冠らせたのであるが、其のヒコネは、實は男をさす普通名詞のヒコと一種の尊稱たるネとを結合したものに過ぎないものであることを、考へるがよい。またクマヌクスビ(書紀の注の「一書」にはクマヌオシホミともクマヌオシスミともクマヌオホスミともある)のクマヌは、イヅモの地名であつて、それをこゝに點出したのは、ホヒの命からの聯想ででもあらうか。何れにしても、神代史上何のはたらきをもしない神である。(書紀の注の「一書」に男神を六柱としてあるのがあるが、これは左右の掌と皆と足とから生まれたといふ着想の結果、ヒノハヤヒの命を加へたものに過ぎないので、勿論、後の變形であり、別の「一書」に同じ數にしてあるのは、それに從つたまでである。ヒノ(443)ハヤヒは、カグツチの斬られた時に生り出でたといふヒハヤヒと同じ名であらう。)それから、女神はどうかといふに、此の話の中心思想はスサノヲの命に男を生ませるところにあるので、日の神の方は意味の無いものである(ウケヒの效果が日の神については何も語られてゐず、女が生まれても何ごとも起らなかつたのは、此の故であらう)。ただ話を組立てるために、かういふことが加へられたのみである(此の三女神のことは後にいはう)。しかし生まれた子のことについて最も重大な問題は、何故に皇祖の御血統に於いて第二代の地位にあられるオシホミミの命が、このやうな場合にスサノヲの命によつて生まれられたことになつてゐるか、また何故にホヒの命がそれと同時に生まれてゐるか、そも/\ウケヒして子を生むといふ話が何のために作られてゐるか、といふことであるが、このことについては後に考へるとして、今はたゞ問題として提出して置くにとゞめる。
 次には日の神の岩戸がくれの物語であるが、その意味は既に前に述べて當いた。たゞ日蝕の時のさういふ呪術が此の物語の作られた時に民間に存在してゐて、それが採られたのか、但しはさういふ風習から生まれた物語が民間説話として存在し、その説話が取入れられたのか、それが問題である。此の物語に見える如く、日の神が皇祖神とせられまた家々の祖先が定まつた時代のわれ/\の民族が、日蝕に對してあゝいふ呪術を行つたかどうかは、文獻の上に徴證を求めることはできないが、大祓などの呪術が嚴存してゐることから思ふと、少くとも其の遺風はあつたらうと推測せられるから、神代史の述作者がそれを取り入れたと考へるに、差支がなからう。日の神が岩窟にかくれたといふのは、日蝕をいつたのか、または人の形をもつてゐる日の神が姿を隱したことをかういふ話としたのか、問題であるが、もし前の方ならば、それは頗る單純な、古代からあり得べき、考へかたではあるが、それは惡鬼邪神が日を食ふ(444)とか日の力を妨げるとかいふのとは違つて、天上に一種の國土があるといふ豫想の上に立つものであるから、われわれの民族の極めて遠い昔にそれがあつたかどうかは疑問である(タカマノハラについて後に述べる考説參照)。從つて此の話の由來が古くから傳はつた民間説話にあると見るのは、此の點から困難であつて、それよりも呪術そのものに本づいて作られた話とする方が、當つてゐよう。しかし此の話に見えるところでは、神を祭る儀禮によつたところもあるので、ウズメの命について神がかりしたとあるのも*その一つであるから、古い呪術の分子が含まれてはゐるものの、純粋の呪術から出た物語らしくは見えない。*だからこれは極めて遠い昔から民間に行はれてゐた日蝕の場合の呪術に、祭祀の儀禮などを結合して、物語の作者が構想したものであるらしい。さうしてそれは、一般に呪術が祭祀化せられて來たことの反映として解せられるであらう。此の物語にはたらいてゐる神々が多く後の家々の祖先であり、また其の名に、事を考へたものをオモヒカネといひ、日の神を引き出したものをタヂカラヲとし、玉作部の祖をタマノオヤとした如く、明かに机上で製作せられたもののあることも、それが古い民間説話の人物の名を改作したとするよりは、話全體が神代史の述作者によつて作られたと見る方が解し易い。(古事記のタマノオヤは書紀の注の二つの「一書」には或はトヨタマとせられ、或はアメノアカルダマとなつてゐるが、これは玉作部の祖といふことを擬人する代りに、玉そのものの美稱を神の名としたのであるが、思想の變遷の徑路からいふと、古事記の説が初めに現はれたものではあるまいか。)
 それから、スサノヲの命にハラヒを科して放逐するといふことも、また民間の風習を採つたのである。禍をする惡い精靈、即ち邪靈、を品物や動物や又は人間やにつけてそれを境域外に放逐する、といふ所謂 scapegoat の風習は、(445)世界の到るところにあるので、我が國の大祓もその一例であり、「祓へつもの」に邪靈をつけてそれをオホヤシマの外に放ちすてるのである。(同じく邪靈を拂ひ去る呪術ではありながら、これは禊とは幾らか意味が違つてゐる。イサナキの命の禊の話を大祓の思想として説くのが普通のやうであるが、精密に考へると小異があらう。大祓の「祓へつもの」を海に流すのは水に意味があるのではなくして、島國である我が國の境域外に放ちやるのである。シナ傳來の儀禮であつて、祓とは全く意味が違つてはゐるが、やはり惡鬼を逐ひはらふ儺に於いて、東は陸奧、西は値嘉、南は土佐、北は佐渡より外にゆけ、といふ延喜式陰陽寮の條に見える祭文の意義も、やはり同じことであつて、それは大祓に含まれてゐる上記の思想を繼承したものであらう。)さて大祓は國中の邪靈を放逐するのであるが、同じ心理から來てゐる習慣は、狹い範圍の部落や家についてもまた個人についても、あるのであつて、個人についていふと、其の所持品や又は身體の一部に邪靈をつけて、それをうちすてるのである。ところが此の「祓へつものは」意義が變じて贖罪の品物となる傾があるので、大祓に於いても一方ではそれが「贖物」ともいはれてゐる。さうなると、祓といふことばが贖罪の意義にも用ゐられて來るので、書紀の孝コ紀二年の條などには、それに關する民間の風習と其の弊害とが、法令の文によつて明記せられてゐる。さてスサノヲの命の話は、千座置戸の祓を科するといふのであるから、有らん限りの所有物を贖罪のために徴發するといふ意味であることはいふまでもなく、手足の爪や髪をぬかせるのも、身體の一部分までも贖物として出す意味ではあらうが、そこにやはり、身體に宿つてゐる邪靈を爪や髪につけて放ちすてる、といふ思想の痕跡がありはすまいか。それが單純な贖罪や刑罰でないことは、書紀の注の「一書」に其のことを「はらへ」と稱してあり、また此の時にアメノコヤネの命にはらへののりことを宣らせた、といふ話があ(446)るのでも知られよう。なほ他の「一書」には、此の祓へつものを「よしきらひもの・あしきらひもの」とことばを重ねていつてあるが、これは履仲紀に「よしはらへ・あしはらへ」とあるのと同じことで、罪を天つ罪・國つ罪といふ如く、本來、祓へつものにも其の意義にも二種類があるのではなく、もののいひあらはしかたに於ける上代人の趣味の現はれであらう。(もつとも一旦かういふことばができると、それ/”\のことばに特殊の概念を與へようとして、祓をも罪をも二種に分類するやうにはなるので、こゝに「手なすゑのよしきらひもの・足なすゑのかしきらひもの」と書かれ、大祓の祝詞に天つ罪と國つ罪との事例が別々に列擧せられてゐるのは、其の故である。)それから他の「一書」に、スサノヲの命が笠簑をつけて宿りを乞うたが許されなかつたといふ話をのせ、それが笠簑及び束草をつけて人の家に入ると祓を科せられる風習の起源だと説いてあるが、此の風習は異郷人に對して祓をする意味で行はれて來たものではなからうか。異郷人は邪靈を伴つて來るといふので、それを怖れるのは、未開人に例の多いことであるから、かういふ旅人を郷里なり家なりに入れるには、祓をして其の精靈を逐ひ拂つてからでなくてはならないのである。上に述べた孝コ紀三年の條に列擧してあるいろ/\の祓にも、此の意味のものが見えるやうであるし(此の故事から此の風習が出たのではなく、此の風習から此の話が作られたものであることは、いふまでもあるまい。)
 以上述べたところを概括すると、スサノヲの命は自然現象に基礎のある神でもなく、また民間信仰に於いて崇拜られたものでもなく、要するに宗教的意義での神ではなく、皇祖神たる日の神に對して政治的意義に於いての行動をしたところに其の本質のある神である、日の神に對しては亂暴もし其の命令をもきかなかつたのではあるが、しかし本來邪心があるのではない、此の命は初からヨミにやられる運命を有つてゐたが、しかしヨミの神ではない、さうし(447)てヨミにやられるといふことは、畢竟イヅモとヨミとの間に聯絡があるからである。またこの命が日の神の子として生んだオシホミミの命とホヒの命とは、神代史上重要な神であるが、それに絡まつてゐる物語は、民間の風習などを織りまぜて作られてゐる、大體かういふことになるのである。しかしかう考へて來たところで、問題は少しも解釋せられてゐない。何故にスサノヲの命はイヅモにゆくべき運命を有つてゐるか、何故にイヅモがヨミと特別の關係のあるやうに語られてゐるか、またタカマノハラでは何故に日の神の子たるオシホミミの命とホヒの命とが、同じくスサノヲの命によつて、また同じ時、同じ場合、に生まれたか、スサノヲの命は何故に日の神に對して亂暴をすることになつてゐるか、その亂暴な神が何故に心正しき神として、それがわざ/\證明せられてゐるか、そも/\何のために此の命のタカマノハラに上る物語ができてゐるか、要するにスサノヲの命の本質であるその政治的意義といふものは何であるか、問題は依然として殘つてゐるのである。然らば此の問題は如何に解釋せらるべきものであらうか。それには先づ、此の命のイヅモに降つてからの物語を考へて見なければならぬ。
 
(448)       第十章 ヤマタヲロチの物語
 
 スサノヲの命はタカマノハラからイヅモに降つたのであるが、そこでヤマタヲロチを殺したといふ名高い話がある。これは記紀の何れにも見え、書紀に注記してある二つの「一書」にも出てゐるが、たゞ一つの「一書」だけにはスサノヲの命がヒの河上に降つてイナダノミヤヌシ・スサノヤツミミの女のイナダヒメを娶つたといふことがあるにかゝはらず、ヤマタヲロチの話が書いてない。しかしイナダノミヤヌシ・スサノヤツミミは、古事記にはアシナツチの名として、書紀の注の別の「一書」には其の妻の名として、記され(この本にはアシナツ-テナツを男の方の一人の名としてある)、また書紀の本文にはアシナツチ・テナツチ夫妻二人にイナダノミヤヌシの名を負はせたとあり、さうしてその何れにもヤマタヲロチの話が伴つてゐるから、此の話の出てゐない本は、それが遺脱してゐると見なすべきであらう。ヒの川上の地名が出てゐるのも、此の話が無ければ無意味であらう。さすれば、少くとも書紀編纂のころに存在してゐた舊辭の諸本にはすべて此の話が含まれてゐた、と解せられる。さうしてイナダヒメの父母の名は、やはり古事記や書紀の本文の如く、アシナツチとテナツチとにしてあるのが、話の原形であつたらう。かういふ形のことばを兄弟夫妻などの關係を有する二人の名とすることは、神代や上代の物語に於いては普通の例であつて(後章參照)、それがまた簡單な自然な命名法だからである(アシナツチ・テナツチは、足をなで手をなでて子を愛する、といふところからつけられた話の上の名であらう)。しかしこれは、本來、同じ語調で連稱すべきものであるから、アシ(449)ナツ-テナツを一人の男の名とすることもあり得たのであり、從つてまたさうしたために女の名を上に記したやうな風に改めた「一書」の説もできたのである。かういふ小變改は土地についても行はれてゐるので、一つの「一書」には、ヲロチの話をアキのエの川上のこととし、後にイナダヒメをヒの川上に移したやうにしてある。またヲロチを斬つた劍がイソノカミにあるとしたり、キビの神部の下にあるとしたりする、二つの「一書」の説も、それ/”\後人の添加したものであらう。それは恰も、上に述べた岩戸がくれの話の鏡が、或はキの國に或はイセに附會せられたのと、同じことである。もう一歩進んで臆測すれば、これはイソノカミの宮やキビの宮に何等かの由縁のあるものの、造作から來てゐるかも知れぬ。さうしてその添加は、どちらの方でも神代史の他の部分には何の關係も無い遊離したものである。それから一つの「一書」には、此のヲロチの話をイナダヒメのまだ生まれない前の話とし、別の「一書」には、イナダヒメとヲロチとの關係が記して無いけれども、それでは話が成立たないから、これもまた後の變形に違ひない。(ヲロチを斬つた劍がイソノカミとかキビとかにあるとしたのは、此の二つの「一書」であるから、此の點からも劍の話が後人の添加であることは知られる。)
 以上は記紀と書紀の注の「一書」の説との差異であるが、書紀の本文と古事記との間にも一致しない點がある。其の第一は、古事記にはコシノヤマタヲロチとあるが、書紀にはコシの文字が全く無いことである(注のどの「一書」も同樣である)。コシが神代史の物語に現はれるのは、こゝと、やはり古事記にのみあるオホナムチの命の話とのみであつて、次章にいふやうに、此のオホナムチの命の話は其のすべてが後人の插入したものであるから、こゝのコシもやはり同じであらう。他の諸本のどれにも見えないことからも、さう者へられる。全體に此の一段は書紀の本(450)文が殆ど全く古事記と同じであつて、かういふことは他に例が少いほどであるから、古事記のもとになつた舊辭と此の本文のよりどころとなつたものとは極めて親近な關係にあるものであつたらしい(古事記に近い「一書」の説がこゝに附載してないのも、此の故ではあるまいか)。それにもかゝはらず此の差異のあるのは、コシのことが後人の插入だからであらう。其の第二は、古事記にある「八雲たつ」の歌が書紀には無くして、「或云」として注記してあることである。此の歌がかういふ短歌の形式の整頓した後になつて作られたものであることは、いふまでもないが、それは歌の歴史の上から見てかなり後世のことであらうから、これもまた後人の插入と見なければなるまい(歌のことは後章參照)。なほ記紀の比較の上からは、これにもコシについて上に述べたと同じことがいはれる。但し書紀の注記に「武素戔嗚尊」としてあるのは、單に「素戔嗚尊」と記す本文の例とは違ふから、異本から取つて其のまゝ書いたのであらうが、それは古事記のもとになつたものではあるまい。(書紀にはスサノヲの命の生誕のところに「一書云、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、」といふ分注があるが、武素戔嗚尊といふのはそこには無い。古事記には、建速須佐之男命とも速須佐之男命とも單に須佐之男命ともある。タケもハヤも武勇を示す美稱であるから、一つでも、重ねても、また無くても、よいので、いろ/\に書かれたのであるが、本によつて書き方に筆くせがあらうと思はれるから、かういふのである。)
 こんな風に本によつて小差異はあるが、それは後の變異であつて、物語そのものは何れも同じである。さて蛇が少女を求めるのを英雄が現はれて蛇を殺し少女を妻とするといふ話は、世界を通じて例の多いものである。さうして此の話の由來が、處女を犠牲とする原始時代の風習にあるといふ近時の學者の所説も、大髄に於いて承認せらるべき(451)ものであらう。其のもとの意味は、多分、地の精靈たる蛇と處女との結合から生ずる生殖作用として考へられたことによつて、穀物の豐饒を促す呪術であつたらしく、此の物語に於いて處女の名がイナダヒメとなつてゐることも、其の思想の痕跡として見るべきものではあるまいか。毎年蛇が處女をとりに來るといふのも、年々行ふ呪術に本づいた話だとすれば、よく理解せられよう。勿論、後にはそれが處女を神に供へるといふ意味になつたでもあらうし、酒を用ゐるのも祭祀の儀禮に普通のことであるが、それにしても、蛇はやはり神として考へられてゐたのであらう。蛇は、ミワ山物語または書紀の雄略紀七年の條に見える話によると、山の神でもあるが、イサナミの命のヨミの物語にもあるやうに、地下にゐて屍體についてゐるものとも思はれてゐた。また今日にも遺つてゐる民間信仰から考へると、池や淵のぬしとしても見られてゐたに違ひない。要するに、蛇は山川草澤原野田畑、到るところにゐる靈的のものであるから、土地に關することについては、種々の意味に於いて、それが恐るべき、また頼むべき、神として考へられたのであり、從つて極めて古い時代に於いては、農業についてもかういふことがあつたのであらう。或は、此の話の場所がヒの川上とあり、さうして水が稻田に最も必要なものであるとすれば、蛇を水の精靈として解してよいかも知れぬ。某の川上といふことばは、特定の土地を指し示す慣用の語法であるから、此のことばだけから推測するならば、必しも水に意味があるとしなくてもよいが、物語の性質上、さう考へられなくはない。その蛇が八頭八尾のヤマタヲロチであり、長さが八谿八峽にわたつてゐるといふのも、眼が赤かゞちの如く身體に木が生えてゐるといふのも、物語として蛇を恐ろしくまた大きくいひ現はしたに過ぎなからう(そこに龍や dragon のやうな怪物を想像するに至らない日本人の性質が見える)。此のうちで眼のことをいつてあるのは、上にも述べた雄略紀に蛇の「目精赫々」た(452)るを見て天皇が畏れられた、といふ話と同じく、異樣な眼光を恐れる心理から來てゐるのであらう。書紀の皇孫降臨の段の「一書」にも、サルダヒコの神の眼が八咫の鏡の如く照りかゞやいて赤かゞちに似てゐるとある(後文參照)。やはり書紀の同じ段に、星の神カガセヲ又はミカボシを邪神惡神としてあるのも、其のきら/\光るのを恐れたのであつて、その心理は同じであり、「夜は火瓮なす光るもの」がすべて恐怖の情を喚起したのである。さすれば此の蛇の形容には、かういふ心理から作られた點があり、從つて蛇が恐ろしい神と考へられたことがわかる。
 しかしかういふ呪術か祭祀かゞ、此の物語の作られた時に存在してゐたかどうかは、問題であつて、英雄が出て蛇を斬り殺したといふ話そのものが、既に此の風習を非とする思想の生じた後の作であることを示してゐる。さうしてまた此の物語の表面に呪術なり祭祀なりの意味が明かに現はれてゐないこと、竝に前に説いた如く、此の話は世界に例の多いものであることを考へると、これは神代史に現はれる前に物語として久しく世に傳はつてゐたのではあるまいか。神代史の述作者は、民間説話として存在した此の物語をとつて、それをスサノヲの命に結合したのであらう。しかし蛇から劍が出た話は全く別の思想から來てゐるので、それは鐡製の武器が用ゐられるやうになつた時代に、新しく附加せられたものに違ひないが、それを附加したのは、劍について次に述べるやうな事情のあることから考へると、神代史の述作者のしわざであつたらう。ヤマタヲロチをコシのものとするに至つては、神代史の一插話としても後人の添加である、といふことは既に述べたが、それが本來の民間説話に存在しなかつたことは、物語そのものの意味から明白である。またイナダヒメを櫛にして髻にさしたといふやうな話も、記紀ともに見えてゐることながら、後の潤色であつて、それはクシイナダヒメといふクシの美稱を櫛にとりなしたところから、思ひついたものであらう。
(453) ところで、こゝに一つの問題がある。それは此の話の由來がシナの傳説にあるのではなからうかといふ疑である。干寶の捜神記に越のこととして、年々童女を大蛇に供へる風習があつたのを、ある年犠牲になつた童女が犬をつれていつて斬り殺した、といふ話が載つてゐる。此の蛇がやはり神として見られてゐたものであり、また童女を供へることが本來宗教的意義を有するものであつたことは、それが夢の告げや巫祝の言によつて行はれたとあるのでも知られる。童女自身が蛇を殺したのはヒの川上の物語とは違ふが、これは變化した形であつて、もとは英雄が蛇を殺して童女を助けた話であつたのではあるまいか。我が國の今昔物語に見える「美作國神依獵師謀止生贄話」は神が蛇でなくして狙であるが、話は同じ話であつて、其の淵源はシナにあるらしく、犬を用ゐてゐるのも捜神記の話と類似してゐる。さうして古今説海などに收録せられてゐる烏將軍記が、神を猪にしながらやはり同一形式の話であることを參考するがよい。古い説話がいろ/\に變化して後までも傳へられてゐるのであらう。かう考へると、明白に證據を擧げることはできないながらに、此の物語と同じものが支那にもあつたことは推測せられるやうである。しかし人身犠牲の話は我が上代に於いて他にも例があり、種々の呪術も行はれた證據が著しく、また此の話が世界共通のものであるとすれば、それをシナの傳説に由來があるとしなければならぬ確かな理由は無いのであるから、やはり我々の民族の間に存在してゐた民間説話として考へるのが妥當であらう。
 さて、かういふ民間説話が神代史に組みこまれたのは、武勇であるといふスサノヲの命が、此の英雄的物語の主人公とするにふさはしかつたからであらう。しかし亂暴な神であつて日の神に對し不遜の行をしたといふやうな、神代史全體の精神から見てスサノヲの命の本質とすべき點は、此の物語と全く交渉が無いから、此の物語は神代史の大す(454)ぢには内的聯絡の無い、遊離した、ものであることが、之によつて知られる。たゞスサノヲの命とイナダヒメとの結婚によつて此の命がオホナムチの命の父となる、といふ系譜が作られ、またヲロチから劍を得てそれを日の神に獻上せられる、といふ物語があり、此の二點で神代史の他の部分との關係ができてゐるが、それは物語そのものにとつては意味の無い外部的のものである。此の物語が民間説話として存在したものとすれば、それは所々で語られてゐたものであつて、イヅモに限つた話ではないに違ひなく、從つてオホナムチの命との血統的關係も、本質的のものではないとしなければならぬ。また劍の話は、ヒの川上の地方に砂鐡が産出するので、上代にもそれを材料として劍を作つたことがあり、そこから出たことであらう、といふ推測にもし理由があるとすれば、それは此の物語をスサノヲの命に結合し、イヅモでのこととしたために生じ得たのであるが、畢竟、偶然に利用せられたに過ぎない。(此の物語の場所をヒの川上としたのは、ヒの川がイヅモの勢力の中心であつたキヅキの地方を流れる大河だからではあるまいか。古事記には「トリカミの地」として地名を出してあるが、これは書紀の本文にもその注の多くの「一書」にも見えないのであるから、多分、後人の添加であらう。次にいふやうにずつと後の潤色を經てゐる「一書」にのみトリカミの峯として記されてゐる。トリカミは出雲風土記にある如く山の名であらうが、山の名が世に知られてゐたので、古事記のもとになつた舊辭などは、ヒの川上といふ漠然たる稱呼を一層具體化するために、此の名を補つたものらしい。さてヒの川の上流地方に鐡の出たことは、風土記の仁多郡の條に郡内の諸郷について「諸郷所出鐵堅、尤堪作雜具、」とあるのでも知られる。しかし鐡が使用せられるやうになつたのは新しいことであつて、近ごろの考古學者の研究によつて、ほゞその時期が知られる。)
(455) スサノヲの命がタカマノハラから下つてヤマタヲロチを殺し、イナダヒメと結婚してオオホナムチの神の父となつた、といふことは、記紀及び書紀の注の多くの「一書」に共通な話であるが、書紀の本文では、此のことがあつた後にスサノヲの命が根の國にいつたとしてある。古事記にはさういふ明文は無いが、同じしぐみになつてゐることは、既に述べて置いた。ところが書紀の注の二つの「一書」には、此の命について新羅または韓地の物語がある。一つの方には、タカマノハラから新羅に下つてソシモリのところに居り、そこからイヅモのヒの川上に渡つてヲロチを斬り殺したとあり、他の一つの方には、韓地のクマナリの峯にゐて、そこから根の國に入つたとしてある。此の二つの話の間には互に聯格があり、一つのが他の一つのに本づいてそれを潤色變改したものであることは、兩方ともにスサノヲの命の子のイタケルの命がはたらいてゐ、またそれが木だねを分布したことになつてゐるのでも、推知せられる。此のイタケルの命といふのは、書紀の本文には無く、また古事記に數多く記されてゐるスサノヲの命の子孫の中にも全く見えず、此の二つの「一書」に限つて現はれてゐるものであることを、考へねばならぬ。さて此の新羅または韓地の話は、それが古事記にも書紀の本文にも其の注の幾つかの「一書」にも、出てゐないものであること、またすべての物語が日本の國土の内に限られてゐ、トコヨの國とかワダツミの國とかいふ空想郷は別として、實在の外國に交渉のある話の無い神代史全體の組立てと、調子の合はないものであることから見て、後世の插入であることがわかる。スサノヲの命もしくは其の子孫とせられてゐる神々のはたらいた場所は、イヅモに限られてゐるのが神代史の本來のしぐみであるのに、キの國やツクシが語られ、樹木のことが日本全體にわたつて説かれてゐるのも、かのオホナムチの命が天下を巡造したといふ話のあるのと共に、また調子はずれの一例である。(彼の方の「一書」に、スサノヲの命(456)の言として記されてゐる「わが兒のしらす國」の意義は、やゝ不明であるが、其の化生させたといふ樹木は日本全體に生ひ立つてゐるのであるから、これはやはり日本全國を指したものであらう。神代史の系譜などの上に於いてさう解釋すべき根據は無いが、此の話自身からは、かう見る外は無いので、筆者の不用意から漠然こんなことばを用ゐたに過ぎなからう。後人の筆であるとすれば、かういふことのあるのも怪しむに足らぬ。)なほ此の説話の神代史にあるのは、海外に國のあることがわからなかつたといふ仲哀天皇の物語と矛盾するのを見ると、あの物語ができてから遙か後に、またそれを顧慮せずして、作られたものであることが知られる。さて前の方の「一書」に、新羅から舟で東に渡りヒの川上のトリカミの峯についた、とあるなどは、新羅が海外の國であり西の方の國であるといふ概念と、ヒの川上の物語とを、卒爾に結合したものであることの明證であつて、蛇を斬つた話の極めて簡潔に敍してあるのも、神代史の此の物語が何人にも知られてゐる時代の筆であるからである。(新羅を西の方の國とするのはヤマト地方にゐての考である。第二扁第一章參照。)彼の方のには此の命の韓地にいつたことが明記してなく、イヅモの物語との關係もまるで説いてないが、文勢や筆致と、イタケルの命のしごとも木だねのことも前の方のの所説に關係のあるべきことと、から考へると、話の全體が韓地でのことと解せられ、從つてクマナリの峯も其の國の山として記されたものらしく見える。さうして前の方ののに(根の國の話は見えないが)イヅモをスサノヲの命の最後の活動の地とし、それと其の前のタカマノハラから放逐せられた話との中間に、新羅のことを插んだのは、原の物語を原のまゝにして置いてある點に於いて、かういふ潤色の始めであることが推知せられ、彼の方ののに韓地から根の國に入つたとあるのは、イヅモと根の國との關係を全く變更した點に於いて、前ののよりも神代史の原形に遠ざかることが一層甚しい(457)のを見ると、後ののは前ののに基づいて更にそれを潤色したものであることが想像せられる。木だねの話がありながら、スサノヲの命の毛髪からいろ/\の樹が化生したやうに説いてあるのも、重複であり、樹のことについてイタケルの命の外にスサノヲの命がはたらいてゐるのも、無くもがなの話であつて、これらもまた屋上屋を架する態度で作られた一證であらう。(毛髪が樹になつたといふのは、民間説話ででもあつたらう、或は盤古説話から來たのでもあらう、それは何れにしても、此の話をスサノヲの命に結びつけたことには、かういふ徑路があらうと思はれる。)なほソシモリとかクマナリとかは、韓地の地名として邦人の間に聞き知られてゐたものを取つたのであらうが、それは何處であるか明かでない。クマナリは邦人に最もよく知られてゐた百濟の都のクマナレに似てゐるし、また繼體紀二十三年の條に同じ名の別の土地も出てゐる。なほ「韓地」または「韓郷」が初からカラクニと訓むべきものとして記されてゐたものならば、此の文はカラの汎稱の下に新羅をも合めての韓地全體を呼びならはした時代の筆らしく、それは韓地に對する政治上の關係の無くなつてから後のことであらう。
 ところで問題は、何故に新羅もしくは韓地をスサノヲの命に結びつけたかといふ點にある。イヅモと新羅もしくは韓地との間に特殊の關係があつたやうな歴史上の徴證の無いことは、今さらいふにも及ぶまいから、此の話はさういふやうなところに基礎があるのではないといはねばならぬ。(イヅモから沿岸航路によつてツクシに出れば、そこから韓地に通ずる航路と連絡はしたであらうが、しかしそれはイヅモが特に韓地と密接の關係を有つてゐたといふのではない。日本全體からいふと、ツクシが韓地との交通の起點であり、日本の内地の政治上の形勢が如何に変化しても、それにはかゝはらず、古來最も海外に深い縁故のあつた土地である。)のみならず、此の話がイヅモに重きを置いて(458)作られたものでないことは、上にも述べた如く、木だねの分布が日本全體にわたつて説かれてゐ、特に前の方の「一書」では、それがツクシから始められたことになつてゐるのでも知られる。(ツクシからはじめるといふことは、我が國と韓地との交通の實際?態を基礎として作つたものとして、最も自然な話である。)さうして、此の話が主として樹木に關するものであり、樹木は、ヤマトの朝廷に於いては、其の名を負うてゐるらしいキの國の山林によつて代表せられ、イタケルの命がキの國の神とせられてゐるのを見ると、話の由來もそこに求むべきではなからうか。キの國とイヅモとが、クマヌの地名によつて、思想上連結せられてゐることは、前にも述べて置いたが、イタケルの命とスサノヲの命とを父子とするのは、こゝに起源があるのではあるまいか。イタケルの命の名が古事記のイヅモの話に全く現はれないこともまた、それがキの國の神とせられてゐて、本來イヅモには縁が無いからではあるまいか。さて此の話に於いて、樹木の用途として主位に置かれてゐるものが、浮寶、即ち舟であることは、本文の記述で明かであるが、舟から海外の交通が聯想せられ、海外に於いてカラの名が最初に考へ出されるのは、最も自然な徑路であり、また韓地については、斷えず我が國に反抗した國であるだけに、何處よりも新羅の名が邦人の思想に最も深くしみ込んでゐたのである。イヅモの神のスサノヲの命が韓もしくは新羅と連結せられたことには、かういふ由來があるのではあるまいか。要するに此の話は、イヅモを根據にしたものではなくして、キの國から出立したものである。多分キの國に關係のある何人かの私案に出たものであらう。それが神代史の本すぢにもイヅモの物語にも關係の無い話であり、僅に書紀の注の二つの「一書」にのみ見えてゐるのも、怪しむに足らぬ。(上に述べたヒノクマの神が「一書」に現はれてゐる如く、キの國の顔を出す場合が他にもあることを注意すべきである。なほイタケルの命はイタケルの(459)神ともしてあつて、キの國に坐す大神とせられてゐるから、それは木についての神ではあらうが、一般的意義を有する木の精靈としての神ククノチとは違つて、キの國の或る神社で祭つてある木の神に與へられた名であらう。)
 さてキの國の樹木に關して後人の添加した新羅や韓地の物語を取り除けて見れば、どの話に於いても、スサノヲの命はイヅモから根の國にいつたことになつてゐる。いろ/\の長い道程を經た後、此の命の最初からもつてゐた運命の地に到着したのである。タカマノハラで子を生んだり、さなくとも下るべきはずのヨミに改めて追ひやられるやうな罪を犯したり、其の罪を負うてヨミに下る途中で、ヤマタヲロチを斬つたりイナダヒメと結婚したりしながら、終にはヨミにいつたのである。しかしタカマノハラのことはまだしもとして、イヅモでの話はヨミにゆくことを全く忘れてしまつてゐるやうであつて、あまりに甚しい道草の喰ひやうであるのみならず、そこでうつし國に多くの子孫を殘し、うつし國を支配するオホナムチの命の父となる、といふことが、死の國のヨミに落ちつくべき身としては、其の本質に矛盾してゐるものといはねばならぬ。青山を枯山に泣きからし海河をなきほすといひ、此の神のゐるために邪神がさわぎ出すといふやうな性質とは、矛盾してゐるではないか。さすれば、スサノヲの命がかういふことをしたといふ話には、如何なる意味があるか。
 是に於いてか研究は一歩を進めて、オホナムチの命の話に移らねばならぬ。
 
(460)       第十一章 スサノヲの命の子孫、並にオホナムチの命の物語上
 
 スサノヲの命はヨミの國へゆく前にイヅモにゐて子を生んだのであるが、其の子のことは本によつて異説がある。書紀の本文によると、スサノヲの命とイナダヒメとの間に生まれた子がオホナムチの命であるが、古事記と書紀の注の二つの「一書」とには、オホナムチの命をスサノヲの命の六世の孫としてある。しかし後の説に於いて、中間の四代に當る神々は物語の上で何のはたらきをもしてゐないので、古事記を見てもイヅモの物語の主人公はたゞオホナムチの命ばかりであるから、系譜の原形は書紀の本文のやうになつてゐたのであらう。二つの「一書」のうちの一つは、ヤマタヲロチの話の場所をアキのエの川上にしたり、それをイナダヒメの生まれない前のこととしたり、斬つた劍がイソノカミにあるとしたり、多く後の潤色を經てゐるものであり、他の一つも、オホナムチの命をオホクニヌシの神と書いてある點に於いて、後の思想の加はつてゐる本である。(オホナムチの命をオホクニヌシの神の名で記してあることについては、後に考へることにする。)
 しかし古事記には、スサノヲの命とオホナムチの命との間に四代の神々を置いてあるのみならず、スサノヲの命の子孫として書紀には見えない神々を數多く擧げてあるし、またオホナムチの命について種々の説話を載せてある。あとでいふやうに、比の數多き神々のうちの一二は、後になつて書紀にも現はれて來るし、種々の説話のうちスクナヒ(461)コナの命に關するものだけは「一書」の説として書紀にも注記してあるが、其の他は古事記にのみ記されてゐるものである。さうして此の神々の殆ど全部が(僅々一二の例外を除いて)何等の物語をも有たず、また種々の説話とても、神代史の他の部分にも全體の組み立てにも、全く關係の無い遊離したものである。そこで此等の一團の神々、もしくは説話群が如何にして古事記にのみ現はれてゐるかが問題になるので、それらは何かイヅモに特殊の關係があるのではなからうか、といふやうな臆測も生ずるのである。が果してそんな風に考へ得られるものかどうか。先づ神のことから考へて見よう。
 第一に、これらの神々のうちには、神代史上の既知の神々の存在を豫想しなければならないものがある。スサノヲの命はイナダヒメの外にオホヤマツミの神の女のカムオホイチヒメを妻にしたとあるが、オホヤマツミの神は古事記にイサナキ・イサナミ二神の子として記してある。スサノヲの命の子のヤシマジヌミの命も、オホヤマツミの神の女のコノハナチルヒメを娶つたとあるが、この名は、ホノニニギの命の妃として記してあるオホヤマツミの神の女のコノハナサクヤヒメが無くては、意義をなさぬ。其の他、アメノサギリの神の女が出てゐるが、此の神は古事記に於いてオホヤマツミの神とヌツチの神との子とせられてゐ、またワカヒルメの神、タキリヒメの命、オホゲツヒメの神、もあるが、ワカヒルメの神は書紀の天の岩戸の段の注の「一書」に出てゐて、而もそれはオホヒルメの神の名を豫想しなくてはならない名であり(オホヤマクヒとワカヤマクヒと、オホトシとワカトシとの例、參照)、タキリヒメの命はタカマノハラでウケヒの時に生まれたスサノヲの命の子であり、またオホゲツヒメの神は古事記にイサナキ・イサナミ二神の子としてある。なほスサノヲの命の子のウカノミタマの神は、書紀のイサナキ・イサナミ二神が神々を生(462)むといふ段の注の「一書」に此の二神の子となつてゐる(この神とウケモチの神、トヨウケの神、オホゲツヒメの神とが同じ神であることについては、上文參照)。だから、これらの神々の一團のうちには、神代史の神の系譜が既にできた後になつて、それをもとにして作られたものがある、といはねばならぬ。さうして上に述べた如く、オホヤマツミの神などが神代史で始めて人の如き名を與へられたものであり、民間信仰としては、かういふ形に於いては崇拜せられなかつたものであるとすれば、上記の神々もまた決してイヅモ地方の民間信仰なり民間説話なりに基礎があるものとは、考へられぬ。神の名には意義の明かにわからぬものもあるが、オカミの神の女のヒカハヒメの子がフカフチノミヅヤレバナの神であるといひ、アヂシキタカヒコネの命の妹にタカヒメがあり、アメノミカヌシの神の女サキタマヒメの子にミカヌシヒコの神があるといふ類は、意義や名の聯想からつけられたものであることが知られ、またイクタマ・サキタマヒメといふ名が美稱をかさねたものに過ぎないことも明かであるから、これらは何れも系譜の作者によつて造作せられたものに違ひない。
 しかしまた中には民間信仰に直接もしくは間接の基礎のある神の名もあるので、ミトシの神、アスハの神、ハヒキの神、の如きは祈年祭の祝詞を見てもさうらしく(後章參照)、特にアスハの神は萬葉の東國人の歌にも出てゐるし、オホツチの神、又の名ツチノミオヤの神、といふのも、古語拾遺の卷末にあるオホツチヌシの神と思想上の聯絡があるらしい。(此のオホツチヌシの神の物語は、朝廷に於けるミトシの神の祭祀の儀禮の起源説話となつてゐるが、ツチの神といふやうな名で田の神を祭る民間の風習は一般にあつたであらう。)その他、ミヰの神とかカマドの神とかいふのも、やはり民間信仰と關係があるに違ひない。またオホトシの神、ワカトシの神、ククトシの神、ミヅマキの(463)神、の如き農業に關係のある神も、同樣に見なければなるまい。總じてスサノヲの命の子のオホトシの神は勿論、その子孫としてあるものにも、農業に關する神が多いので、ナツタカツヒ一名ナツノメの神やアキヒメの神も、そのなかまに入るべきものらしく、ニハタカツヒの神も、宣長が古事記傳に於いて述べてゐる如く、大甞會の齋郡の齋院に祭る八神の一つであるから、やはりさうであらう。ナツタカツヒの神やニハタカツヒの神は、農業國民として崇拜する日を擬人したものらしいのである。これらの神々の系譜が記された時代の實際の民間信仰に於いて、かういふ人のごとき名をもつた神が崇拜せられたかどうか、又はこんな風にそれ/”\の名がついてゐたかどうかといふと、それは前にも説いたと同樣、問題であつて、上に述べた如くオホトシに對してワカトシがあり、またニハツヒとニハタカツヒと、ナツノメとアキヒメと、或はオキツヒコとオキツヒメとの如き、相對的もしくは連稱的の名のあることは、これらの神の名が机上の製作として考ふべきものであることを、思はしめるものである。けれどもその根據は民間信仰にあり、神の名の如きもその信仰上の何等かの觀念を擬人して作られてゐる。オホトシやワカトシなどはいふに及ばず、カマドの神をオホベヒメといふなども、やはり同樣であらう。特にミヰの神とかミトシの神とかは、ミクマリの神やワダツミの神ヤマツミの神について、上に説いたところを考へ合はせると、井の神(精靈)、農作に關する神、として民間に呼ばれてゐた通稱をそのまゝ取つて、ひとり/\の神の固有名詞としたものであらう。現にミトシの神は、祈年祭の祝詞には「御歳の神たち〔二字傍点〕」とあつて、或る特殊の神の固有名詞でないことが明かに示されてゐるから、神代史の潤色者が、それをそのまゝ用ゐて古事記に見えるやうな一人の神の名として記したことが知られる。オホトシ、ワカトシ、などの神はそれから派生したのであらう。さうして一旦かういふ風に人の如き名をもつた神が現はれると、(464)後にはそれが民間崇葬の對象として適用せられてゆくやうにもなり、神名帳などの上にも見えて來るのである。しかしそれがイヅモ特有の神でないことは、こゝに説いたところだけからでも明白である。
 スサノヲの命の子孫として古事記に記されてゐる神々が、イヅモの地方に特殊の關係のあるものでないことは、これでわかつたと思ふが、更に進んで考へると、これらの神々はスサノヲの命と本質的に連結せらるべきものでもないらしい。農業に關する神の名の多く列擧せられてゐるのも、これらの神々の祖先とせられてゐるスサノヲの命が農業神もしくは土地の神である、といふやうな推測の根據とはなりかねよう。こゝに列擧せらてゐる神々の一群は、スサノヲの命とイナダヒメとの結婚から生じたものと、カムオホイチヒメとの間に生まれたものとの、二つの系統に分れてゐるので、前のにオホナムチの命(オホクニヌシの神)が屬するが、此の系統のには民間信仰に基礎のあるらしい宗教的意義での神が見えず、後のはオホトシの神とウカノミタマの神との兄弟が最初にあり、そのオホトシの神の子孫として上に記したやうな幾多の農業神などが記されてゐるのである。さうして神代史に於いて主要な地位を占めてゐるのは、いふまでもなくオホナムチの命であるが、その系統に宗教的意義を有する神が無いとすれば、單にオホトシの神及びその子孫とせられてゐる神々の性質からのみ推測して、スサノヲの命を民間信仰に關係のある神と見なすことは、できなからうではないか。特にスサノヲの命の妻としてイナダヒメの外にカムオホイチヒメがあるといふ話は、書紀の本文は勿論、古事記と同樣にオホナムチの命をスサノヲの命の六世の孫としてある注の「一書」にも見えてゐないから、カムオホイチヒメ及び其の子のオホトシの神の子孫の系譜は、古事記とこれらの「一書」とに共通な此の變改の行はれたよりも、更に後になつて添加せられたものらしく、古事記の原本となつたものにのみ存在したの(465)であらう。さすれば、それによつてスサノヲの命の性質を推測することの非なることは、愈明かである。
 然らば、何故にこれらの神々の系譜が作り加へられ、特にオホトシの神および其の後裔として種々の農業神などが記されたのか。一體に古事記には、書紀の本文やそれに注記してある多くの「一書」に比べて見ると、神々の名が最も多く現はれてゐるが、これは其の原本となつたものが、少くとも此の點に於いては、最後の潤色増補を經た帝紀舊辭であつた故であらう。さうしてかういふ風に同じやうなものが漸次つぎたされてゆくといふことは、必しもそれに特殊の意味があつてのことではなく、かういふものが幾度も潤色せられる場合の普通の徑路でもある。しかしまたそこに特殊の事情のあることもあるべきはずであつて、前章に述べたキの國の神であるといふイタケルの命をスサノヲの命の子にした類は、其の一例である。こゝの場合でも、イヅモに關する物語に關聯して斯ういふ神々の系譜が作られたのであるから、何かそこに理由があるかも知れぬ。特にイタケルの命の名がこゝの系譜には記されずして、それとこれとが無關係になつてゐるのは、それはキの國のために語られ、これはイヅモに關する何等かの意圖の下に、もつと明かにいふとイヅモの勢力を思想的に高めるために、イヅモ人によつて作られたからのことかも知れないのである。特にこれらの神々には、宗教的意義においての神が多く含まれてゐ、それにはまた日本民族の全體を通じての民間信仰に基礎のあるものがあるとすれば、さういふ神々をスサノヲの命の系統に屬するものとしたのは、イヅモを宗教的信仰の本源地としたことになるのであつて、そこにかういふ系譜の作られた重要の意味があるのではあるまいか。或はまた農業神がかういふ神々のうちの主なる地位を占めてゐるとすれば、それはイヅモを農業生活の本據とすることにもならう。のみならず、更に一歩を進めていふと、宗教的意義での神々がスサノヲの命の子孫とせられたことに(466)は、同じ性質の神々がイサナキ・イサナミの命によつて生まれたといふのと對立する意味があるやうにも見えるので、食物の神であるウカノミタマが、この兩方にあるのは、特に此の感を深くする。もしさうならば、こゝにもまたかういふ系譜の作られた一つの意味があるのではあるまいか。農業神が一團をなして添加せられた如きは、たゞオホトシの神の名から出たことであつて、其のオホトシの神のこゝに置かれたのは(系譜の作り上げられた後から見ると、系統が違ふやうになつてゐるが)、スサノヲの命に結合せられた蛇神の物語の女主人公イナダヒメの名から聯想せられたのみのことではあるまいか、とも思はれるが、單にそれだけのこととしては、あまりに美々しすぎる感もある。が、このことはオホナムチの命に關する説話の性質を吟味してから、それと共になほ考ふべきことであらう。
 さてオホナムチの命の事業に關しては、書紀の本文には殆ど何ごとも記されてゐない。後の所謂國ゆづりの段の記載によつて、此の神がアシハラノナカツ國を支配してゐたことが知られるのであるが、如何にしてさういふ地位を得たか、アシハラノナカツ國の支配者として何ごとをしたかは、全く説かれてゐない。ところが、古事記には此の神が國を作つたといふ話があるのみならず、其の他、それには關係の無い種々の物語も載せてある。書紀の注の「一書」にも國作りに關する話は見えてゐるが、其のほかの物語は無い。そこで先づ古事記にのみある物語を考へて見る。
 これらの物語は、イナバのヤカミヒメに關する話、ヨミの國へいつてスサノヲの命の女のスセリヒメを妻にした話、及びコシのヌナカハヒメ及びスセリヒメについての二つの歌物語、の三種類に區別することができるので、何れも話の輪廓は戀物語である。さうして前の二つには、何れにも此の神と多くの兄弟との爭ひの話が絡まつてゐ、また最初のには兎がワニを欺いた話が結びつけてある。さて兄弟の戀爭ひや物爭ひと其のうちの少弱者が最後に勝利を得るこ(467)ととは、民間説話としてその例が多く、記紀にも所々に見えてゐる。此の話は兄弟二人の爭ひではなくして、オホナムチの命のあひてが多數の神、即ち兄弟八十神、になつてゐるのであるが、八十神は協同して一人の如くはたらいてゐるから、あひてが多數であることには特別の意味が無い。そこで、第一の物語に結合せられてゐる兎とワニとの話がもし堀謙コ氏の考證した如く印度に起源のあるものであるとすれば(「東亞之光」第五卷第七號參照)、それは漢譯の佛典から來たものであつて、同氏の指摘したやうに佛本行集經の説にもとづいたのであらう。佛本行集經の猿の心臓を取らうとして鰐が欺かれた話は、兎と龜とのことになつて三國史記の金?信傳にも出てゐるから、多分新羅時代から朝鮮に知られてゐたのであらう。分布の世界的であることから考へると、何人にも興味ある説話として受取られたものらしい。しかし古事記の此の話は、第一に心臓の話が無く、ワニが兎(猿の變形と見て)を害しようとしたことも無く、兎の欺きかたも其の報復をうけたことも特異のものであるから、それが果して此の佛典から來てゐるかどうか、輕率にそれを肯定し難い。佛本行集經の此の話が古事記編纂の前に我が國に傳はつてゐたと想像することはできなくはなからうし、ワニに鰐の字をあてることも其のころ既に行はれてゐて、そこに此の話の取られる契機があつたと考へることも、必しも不可能ではなからうから、強ちにそれを斥けなくてもよいかもしれぬが、獨立して我々の民族の間に發達した民間説話として見ることにも、支障はないやうである。これと連結せられてゐる猪獵の語も、またキサガヒヒメとウムガヒヒメとの話も、これと同樣、すべてが民間説話、といふよりはむしろ童話、の性質を具へてゐ、さうしてこれらの話の起源を外民族に求めねばならぬ理由は、無ささうである(キサガヒヒメとウムガヒヒメとの話には、一種の民間療法が含まれてゐるのではなからうか)。が、それを古事記に見えるやうな形にしたのは、(468)カミミムスビの神の名がこゝに出てゐるのを見ると、此の神が神代史に説はれた後のことであるに違ひない。またキの國のオホヤビコの神の名のあるのも、イヅモとキの國とが混合または連結して考へられるやうになつた後の、製作たることを示すものではあるまいか(上文參照、キの國は全くこゝに用がなく、次の根の國の話を結びつける役にも立たないから、これは多分木にはさみ殺すといふ話から聯想されたものに過ぎなからうが、さういふ聯想の生じたのは、イヅモとキの國との結びつきが背後にあつたからであらう)。何れにしても、神代史が既に成立してゐた後の添加たることは疑が無い。なほワニが何であるにせよ鰐でないことだけは、明白であるから、ワニを鰐と見て、それによつて傳來の經路を考へるやうなことは、初から問題にはならぬ。(ワニは海蛇であらうと推測せられるが、このことは後篇に述べよう。)
 次はスセリヒメに關する物語であるが、男が思ひ妻を得るために種々のしごとを課せられるといふ話も、また民間説話として存在したものであらう。古い時代の婚姻の風習に其の由來があらう、と思はれるからである。物語の上では、これは根の國でのこととせられ、スセリヒメはスサノヲの命の女となつてゐるが、話そのものには少しもヨミの面影が無く、スセリヒメにもスサノヲの命の女らしい特色が無いから、これは神代史にあみこむについて加へられた外部的の連鎖に過ぎない。またオホナムチの命がスサノヲの命から與へられた弓矢で兄弟を追ひ伏せ追ひはらつたといふのも、此の物語を前の話につないだだけのことであつて、物語そのものはそれとは全く縁の無いものである。
 最後に來るのが、ヌナカハヒメ及びスセリヒメについて歌を興味の中心とした二つの物語である。スセリヒメに關するものが、前に述べた話から飛び離れてヌナカハヒメの話の後に來てゐるのも、歌の唱和がそれと同じやうになつ(469)てゐるために、同じ場所に書きつらねられたのであらうか。さてこれらの長歌が、古事記の雄略天皇の卷に見える長歌と同じ形式であり、同じ修辭法が用ゐられ、同じく「ことのかたりごとも、こをば」、また「とよみきたてまつらせ」といふことばが結末についてゐることは、これらが同じ時代に作られまた同じやうな場合に歌はれたことを、示すものであるが、それは形式が萬葉の長歌ほど整頓してはゐないけれども、それに近づいてゐること、萬葉の歌と同じことば同じいひ現はし方で同じことをいつてゐるところがあること(萬葉卷四、十二、十三、參照)、單純なものではあるが、例へば萬葉の浦島を詠じた歌などと同じやうな、かういふ歌の作られるのは、全體に文學の或る程度まで發達した後でなければならぬこと、などから見て、萬葉の歌の時代の早いものができたのとさして隔つてゐないころのものであることが、推測せられる。なほ「八千ほこの神の命は」云々といふ歌は、そのヤチホコの神の物語の既に世に存在した後の作であることが明かであり、ヤチホコの神がヤマトに上るやうになつてゐるのは、ヤマト人の作である一證であらう(ヤマトのことは後文參照)。第一扁に述べたごとく、これらの歌は宮廷の饗宴の時に語部によつて謠はれたものらしく、「とよみき獻らせ」といふ詞が歌の内容とは無關係に添加せられてゐるものに於いては、饗宴で謠はれたことが甚だ明かであるが、さうでないものでも同樣であつたことは、雄略天皇の卷のに「ことのかたりごとも、こをば」が此の「とよみき」云々につゞけてあるもののあることから、推測せられる(スセリヒメの歌としてあるものは「とよみき」云々の下に此の詞があるべきものではなからうか)。さて、かういふ場合の謠ひものであるとすれば、傳誦の間に混雜や脱漏が起りがちであり、また故意の變改が行はれ易いものであるが、實際こゝに載つてゐるものは、歌の内容やその語調から考へると、原作のまゝではないやうに見える。ヌナカハヒメの歌といふものは(470)「ぬえ草の」の上に詞が落ちてゐるらしく、また「青山に」以下は別の歌でなければならず、スセリヒメに對するヤチホコの神の歌も「はたゝぎもこしよろし」から「むら鳥の」云々への移りゆきがあまりに突然であつて、二首が一首につながれたのか、其の間に脱漏があるのか、何れかの誤がそこにあるらしい。スセリヒメの歌と前のヌナカハヒメの歌とに同じ部分があるのも、混雜したものに違ひない。なほヌナカハヒメに對するヤチホコの神の歌の「八島國妻まぎかねて、遠々し越の國に」さよばひに出かけるといふのと、歌に現はれてゐる情趣とは、極めて不調和であり(萬葉卷十三に見える「こもりくのはつせの國」云々の長歌の如く、道は遠くとも其の夜にゆき得られるところとしなければ、感じが無い)、「たくづぬの白きたゞむき、沫雪のわかやる胸、」云々は、女のことをいつたものであるのに、それが女自身の歌になつてゐるのもをかしいが、これらはもとからある歌を強ひてヤチホコの神のことにしたり、ヌナカハヒメもしくはスセリヒメの歌にして前後に詞をそへたりしたために、生じた混亂であらう。繼體紀七年の條にマガリノオホエの皇子の歌として載せてあるものに、こゝのヤチホコの神の歌といふのと同じところがあるのを見ても、一つの歌がいろ/\に變改せられたり、錯亂したり、又は他の歌と結びつけられたりして、種々の物語に附會せられたことがわからう。(「白きたゞむき」が女の腕を指してゐることは、古事記の仁コ天皇の卷の歌にそれが女のことになつてゐるのでも知られる。男の白き腕で女の胸をたゝくといふやうに解するのは、詞のつゞけがらをも調子をも顧みない牽強の辯である。スセリヒメの歌に此の二句の順序が逆になつてゐるのは、傳誦の間に倒錯したものと思はれる。)かう考へて來ると、これらの歌物語を神代史にあみこんだのが、後の人のしわざであることは、おのづからわからう。(全く別の歌が一つに結びつけられたり、一つの歌の作者としていろ/\の人が附會せられたりする(471)例は、記紀の神武天皇以後の卷々にも見える。神武天皇の卷にある「宇多の高城に」の歌の「こなみが」以下も別のものであらう。鴫わなに鯨がかゝるといふ滑稽は、それだけで完備したものであり、前妻云々がつゞいては、その滑稽が成立たなくなるのである。)
 さて、これらの三種類の物語が、何れも神代史の他の部分と内的關係の無い遊離したものであることは、上記の考説だけでも明かであるし、特に歌物語の如きは、かういふ幾つもの長歌を興味の中心にしてゐる物語そのものの性質が、神代史に於いては極めて調子はづれのものであつて、他にその類例が無い。これらは多分、神代史の潤色の最後のものであらう。イナバやコシの名が用ゐられたり、ヤシマ國といふことがいはれたりしてゐるのも、イヅモに始終してゐるオホナムチの命の話としては不調和であるが、これも後人のしわざだからである。神代史上のオホナムチの命が、其の神代史から離れて説話の主人公となり、それがまた神代史に結びつけられたからである。(イナバの名の用ゐられたのは、イヅモに近い土地だからであらうが、コシの名の現はれてゐるのは、イヅモと共に北海に沿うた土地である故であつて、ヤマトにゐるものが構想したため、その間の距離の遠いことは深く顧慮せられなかつたらしい。日本海の沿岸航路があつて、イヅモとコシの方面とは互に聯絡のある事實が背景になつてゐるかも知れないが、或はまたイヅモとコシとはそれ/”\別の意味ながら、何れもヤマトからは特殊の地域と見られてゐたため、それが結びつけられたのかとも思はれる。オホヤシマの一つにユシが數へられてゐる場合のあることをも、參考すべきである。)しかしなほ細かく考へると、ヤカミヒメ及びスセリヒメに關する話とヌナカハヒメ及びスセリヒメに關する歌物語との間には、前のが名をオホナムチとしてあるのと歌の無い物語であるのとの二つの點に於いて、名をヤチホコ及びそ(472)れと結びつけられてゐるオホクニヌシとし、また歌が物語の主要部分となつてゐる後のとは、違つてゐ、さうして前の二つは兄弟爭ひのすぢによつてつながれてゐると共に、後の二つはヤチホコの名と歌の内容及びその形式とに於いて共通の性質をもつてゐるから、前の二つと後の二つとが作られたのは、或は古事記のもとになつた舊辭にあみこまれたのは、その時期に前後のちがひがあつたやうである。さうして、後にいふやうにオホクニヌシの神がオホナムチの命に結合せられたのは、時代からいつて後のことであるから、オホナムチの名の用ゐてある前の二つの話の方が後の二つよりも早く作られてゐたものと考へられる。が、もう一歩進んで考へると、歌物語に見えるヤチホコの神といふのは本來オホナムチの命(こゝではオホクニヌシの神の名が用ゐてある)のことであるかどうか、疑はしくないでもない。此の名の物語に現はれるのは、神代史に於いては、たゞ古事記の此の歌物語に於いてのみのことであり、さうして何故に此の物語に於いてのみオホクニヌシの神がさう稱せられてゐるかが、わからないからである。スセリヒメについての物語にも、歌物語の外ではヤチホコの名が用ゐてない。だからスセリヒメの歌といふものの起首に「やちほこの神の命や、あがおほくにぬし、」とあるのは、ヤチホコの神をオホクニヌシの神に結びつけたため、後から「わがおほくにぬし」の一句を補つたものではあるまいか。同じ神を別の名で重ねていつてゐるのはよいとしても、またかういふいひ方によつて特殊の感情が現はれてゐるとしても、二句づつが一つゞりになつてゐる歌の全體のくみたてからいふと、此の一句はよけいものらしい。ヌナカハヒメの歌といふものの起首にたゞ「やちほこの神のみこと」とのみ呼びかけてあるのを、參考するがよい。「みことや」の「や」は此の一句を加へるために添へたのであつて、もとは無かつたものと解せられる。さすれば、歌物語の一つをスセリヒメに關係させたのも、また神代史にこの(473)物語をあみこむためにせられたことであつて、ヌナカハ姫に關するものとこれとは、もとは、オホクニヌシの神(としてのオホナムチの命)とは關係の無いヤチホコの神を主人公とした一くみのものであり、共に語部の「語りごと」としての歌によつて作られてゐたのではあるまいか。(スセリヒメの物語が前にありながら、この歌物語がそれと離れてあとの方に記されてゐるのも、このためであるとすれば、その理由がよくわかる。)後にいふやうに、オホクニヌシの神がオホナムチの命の異名とせられたことには理由があるが、ヤチホコに至つては其の因由が不明であつて、オホナムチの命にかう呼ばるべき武勇の資質のあつたやうなことは、神代史の上には見られない。だから、これは神代史には關係の無い別の物語の主人公の名であつたものを、オホクニヌシの神(の名に於けるオホナムチの命)に附會したのではあるまいか。もし言うとすれば、古事記及び書紀の注の「一書」に、ヤチホコをオホナムチの命の一名としてあるのは、此の附會の後に書かれたものであらう。また萬葉卷六、十、などに「やちほこの神のみよより」とあるのは、オホナムチの命としてのヤチホコの神を指したのであるが、これは古事記の此の物語から出たものとすれば、怪しむに足りない。のみならず、かういふ附會は他に類例もある。
 書紀の注の一つの「一書」には、ヤチホコの神をオホナムチの命の別名とすると共に、オホモノヌシの神、及びオホクニダマの神、ウツシクニダマの神、をも同じやうに見なしてそこに列記してある。ところがこれは、ウツシクニダマの外は、古事記には見えてゐないことである。さてオホモノヌシがヤマトのミモロ山、即ちミワ山、の神であることはいふまでもないが、崇神天皇の時に此の神を祭つたといふ話を記紀の何れで見ても、それはオホナムチの命とは何等の關係が無い。それから崇神紀に見える有名なミワ山の神婚説話によつて考へ、また此の神の名の意義を思ひ (474)合せると、オホモノヌシはミワ山の精靈であつて、蛇の形で崇拜せられてゐた民間信仰の神であつたことが、推測せられる。(雄略紀七年の條に見えるミモロの岳の神が蛇であるといふ話を、參考するがよい。此のミモロの岳はアスカにあるものであつて、山は違ふが、神の性質は同じである。此の山の神の名をオホモノシロヌシと稱するといふ説の注記してあることも、また注意を要する。)古事記及び書紀の注の「一書」のオホナムチの命の國作りの條に、海を光らして來た神としてミワ山の神を敍してあるのを見ても、それが、人の形と性質とをもつてゐる神ではない、精靈であることが知られる。だからこれは、オホモノヌシといふ神があつて、それをミワで祀つたのではなく、ミワの山の精靈にオホモノヌシの神といふ名を與へ、それを神代史に取り入れたのである。從つてそれは、本來オホナムチの命とは縁の無い神であつたのが、後に一神に結合せられたので、此の書紀の注の「一書」にオホナムチの命の幸魂奇魂としてミワの神を記してあるのが、そのはじまりらしい。古事記にはオホナムチの命を助けるために來たとしてあるのみで、オホナムチの命自身の魂ではないことにしてあるが、それがかういふ結合を誘つたものではあらう(だから古事記ではオホモノヌシをオホナムチの命の別名とはしてない)。出雲國造神賀詞に此の神をオホナムチの命の和魂としてあるのは、書紀の注の「一書」の説と同じである。後にいふ書紀の國ゆづりの段の注に見える別の「一書」には、オホナムチの命が國を避け身を隱してから後に、オホモノヌシの神がコトシロヌシの神と共に歸順者として現はれてゐるが、これはオホナムチの命とオホモノヌシの神とが結合せられた後に於いて生じた觀念の混雜から來てゐるのではあるまいか。文章の上では全く別の神のやうに見えるが、オホモノヌシの神が歸順者として、特にコトシロヌシの神と共に記されてゐるのは、オホナムチの命がその背後にあるものとしなくてはならないからである。詳(475)しくいふと、此の書はオホモノヌシがオホナムチの命の別名として考へられるやうになつてから後に書かれたものであつて、それがために一方にオホナムチの名を擧げながら、他方では偶然オホモノヌシと記したのであらう。この「一書」はずつと後に變改せられた異本に違ひなく、そのことは所説の内容の上からも知られる(後文參照)。しかしまた別の考へかたをして見ると、これは或は、オホモノヌシとオホナムチとが一たび結合せられた後、名が違ふために再びそれが分離して語られたものかもしれぬ。オホモノヌシのこゝに現はれたのはオホナムチとしてではあるけれども、文章の上では全く別人となつてゐて、「歸順之首渠者」は明かにその前の「歸順者」を承けていつたものであるから、筆者がこの名を用ゐた時には、オホモノヌシをオホナムチとは別の神として考へたものと解せられる。この書の筆者はアメノヤスの河やアメノタケチを地上のイヅモにあるものとして記してゐるが、これも思想の混亂の故であるらしいことを、考へあはすべきである。(天の日隅宮とか天の鳥船とかいふやうに、美稱としてのアメの語が用ゐられたのに誘はれたのか、又はタカマノハラの神との交渉を敍し昇天をいふ場合であるために、ふとこれらの名を想起したのか、何れかであらう。)さて何故にミワのオホモノヌシの神をオホナムチの命と關係させるようになつたかは、問題であるが、これについては後に考へようと思ふ。たゞ崇神天皇の時に此の神を祭つたといふ記紀の話に、オホナムチの命と關係のありげな樣子の見えないことを思ふと、此の話の作られたよりも後になつて現はれた説であるらしい。
 次にオホクニダマは、どうかといふに、神名帳によると、諸國にオホクニダマもしくはクニダマの神社がある(攝津のイククニ・サククニダマも、イク、サク、といふ美稱が冠せられてゐるが、實際はやはりクニダマである)が、其(476)の中にはヤマトノオホクニダマ、カハチノクニダマ、ヲハリノオホクニダマ、アフミノクニダマ、などの如く、それ/”\の國名を冠したのがあり、崇神紀にもヤマトノオホクニダマの神の名が見えるから、これはオホクニダマといふ一つの神があつてそれを各地で祀つたのではなく、國々でその國の魂たる神をかう名づけたものであることがわかる。ツシマにシマノオホクニダマの神社があるのは、即ちそれを證するものである。崇神紀のヤマトノオホクニダマの神が、垂仁紀の注に引用せられた一書の説では、ヤマトの大神といふ名になつてゐるのも、また、この故であらう。クニダマもオホクニダマも同じであつて、彼の方のはたゞオホの美稗が加へてあるだけのことである。さすれば前に述べた書紀の注の「一書」のオホクニダマの神も、イヅモのクニダマの神であり、クニダマの名にオホの美稱を加へたものと解せられる。さてこの神とオホナムチの命とどういふ關係があるかといふに、こゝにいふオホクニダマは宗教的崇拜の對象としてのイヅモの國の神であり、オホナムチの命は物語の上に於いてイヅモの勢力を象徴する神とせられてゐるところに、共通の點がある。これがオホクニダマの神をオホナムチの命と結びつけた理由なのであらう。ヤマトにオホクニダマの神社があり、それとは別にオホモノヌシの神を祭つたミワ山の神社があるが、オホナムチの命はオホモノヌシの神には結びつけられたが、オホクニダマの神には關係がつけられなかつた。オホナムチの命の結びつけられたオホクニダマの神がイヅモのそれであることは、これでも知られる。さうしてイヅモのオホクニダマの神に結びつけたのは、次にいはうと思ふオホナムチの命をオホクニヌシの神に結合したことと、同じ考へかたから出たものであらう。またウツシクニダマの神がオホナムチの命に結合せられたことについては、古事記にその名の起源を説いた物語があるが、この名はクニダマの名にウツシの語を加へたものであつて、それは同じ名にオホの語を加へてオ(477)ホクニダマとしたのと同じしかたであるから、結合の意味もまた同じであらう。ウツシクニダマの神がイヅモの國の神でありキヅキの社の祭神とせられてゐることは、古事記の物語の示すところである。ついでにいふが、古事記の系譜ではオホトシの神の子としてオホクニミタマの神の名が記されてゐるけれども、これはオホナムチの命とは關係が無い。オホトシの神の子としたことにも意味は無ささうであつて、たゞスサノヲの命の子孫の系譜にこの名を加へるためにさうせられたのみであらう。またこの神の名は國々のクニダマの神の名とは聯絡が無く、國のみたまといふ概念を擬人して或る一人の神の名としたものらしいが、その根柢には、國のたまを神とする點に於いてクニダマの神の名の作られたのと同じ思想がある。たゞその「國」がこゝでは日本全國の意義に用ゐられてゐるやうであつて、行政區劃としての國のでないところに違ひがあるのみである。しかしこれはどこの神社の祭神でもなく、こゝの系譜にその名が現はれてゐるのみのものである。
 ところが、もう一歩進んで考へると、古事記及び書紀の注の「一書」に、やはりオホナムチの命の別名として記されてゐるオホクニヌシの神の名にも、問題が生ずる。古事記には殆どすべての場合にオホクニヌシの名が用ゐてあり、スサノヲの命からの系譜も此の名によつて記されてゐるが、これは古事記ばかりのことであつて、書紀の本文は勿論のこと、その注の多くの「一書」に於いても、概ねオホナムチとしてあつて、オホクニヌシの名は殆ど見えてゐない。所謂皇孫降臨の段の古事記の記載と親近の關係があるべき「一書」にすらも、それが無い。それの出てゐるのは、上に述べたオホナムチの命の種々の別名の列記してある「一書」と、オホクニヌシの神(としてのオホナムチの命)をスサノヲの命の子のヤシマシヌの命の五世の孫としてある系譜の記されてゐる今一つのそれと、のみである。また出(478)雲風土記にも播磨風土記にも出雲國造神賀詞にも、其の他、萬葉の歌などにも、オホクニスシの名は全く見えてゐない。さすれば、オホナムチの命をオホクニヌシの神と稱することは、舊辭の諸本に於いて一般に承認せられてゐたのではなく、後の潤色を經た、古事記のもとになつてゐる、ものに於いて始めて現はれたのであり、さうしてそれは、古事記の物語に見えるこの名の起源説話によつても知られる如く、オホナムチの命をイヅモの國造の祭るキヅキの社の神の名として作られたオホクニヌシに結びつけたものである。殆どすべての場合にオホクニヌシの名を用ゐてある古事記にも、兄弟爭ひの物語とスクナヒコナに對していふ時とには、オホナムチと書いてあるので、そこにやはり本來の名稱が保存せられてゐる(後者は此の二神の名が對稱的にできてゐるからでもあるが)。さうして書紀の注の二つの「一書」にオホクニヌシの名が出てゐるのは、古事記のもとになつた本に從つたもののやうである。それは、此のうちの一つの「一書」が古事記と同じく多くの名のうちでオホクニヌシを主位に置いてゐ、またそこに記されてゐること(オホナムチとオホモノヌシとの結合、スクナヒコナとの對話など)が古事記のよりも更に後の添補を經たものであるらしいこと、今一つの「一書」も古事記と同じくオホクニヌシの神をスサノヲの命の六世の孫とし、またこの神の名によつて系譜を記してあること、によつて知られる。なほ上に説いた如くオホクニヌシの神やオホクニダマの神ウツシクニダマの神をオホナムチの命に結合してあるのも、前の方の「一書」であり、ヤチホコの名もまた古事記と同樣にこの「一書」に現はれてゐることを、考ふべきである。
 オホナムチの命に結合せられた神々の名については、上記の如く考へられるが、このうちでオホモノヌシの神については特殊の理由があり(後文參照)、出雲國造神賀詞にそれが見えることから推測すると、國家の禮典に於いてもそ(479)れが認められてゐたらしい。しかし神名帳ではオホモノヌシの神とオホナムチの命とは明かに區別せられてゐるから、結合せられたのは、神代史及び國家の禮典の上だけのことであつて、民間の信仰には關係がない。またオホクニダマ、ウツシクニダマ、オホクニヌシ、の三神の名は、何れもキヅキの社の祭神の名として神代史の上に現はれてはゐるが、從つてまた知識人の思想には存在したであらうが、一般には用ゐられなかつたものであり、神賀詞にも記されてゐない。なほオホナムチの命の別名としては、アシハラノシコヲがあつて、それもまた古事記と、多くの別名の列記せられてゐる書紀の注の上記の「一書」とに、見えてゐるが、これはオホナムチの命がアシハラノナカツ國を領有してゐたといふ話(後文參照)によつて附會せられたのであつて、もとは此の命とは別な、何等かの物語の主人公としての人物の名ではなかつたらうか。上に考へたヤチホコの神の例からも、かう見られるやうである。さうして神代史に於いても、かういふことよりもつと大切なのは、古事記と、そのもとになつた舊辭の説によつたものらしい書記の注の「一書」とにのみ、見えてゐる所謂國作りの物語である。次に、それについて考へねばならぬ。
 
(480)       第十二章 スサノヲの命の子孫、並にオホナムチの命の物語 下
 
 上記の書紀の注の「一書」には、クニツクリオホナムチの命として、オホナムチの上に特にクニツクリの語が冠らせてある。古事記には此の稱呼は見えてゐないが、オホナムチの命(としてのオホクニヌシの神)の國作りといふことは、明かに記されてゐる。なほ出雲國造神賀詞にも「國作りましゝオホナモチの命」とあり、出雲風土記には「天の下造らしゝ大神オホナモチの命」と見えてゐる。播磨風土記にもイワの大神が國を作つたといふことがあるが、此の神は神名帳によるとオホナムチの命である。だからこれは、後世には一般に知られてゐた話らしい。ところが古事記でも書紀の注の「一書」でも、オホナムチの命の此の事業はスクナヒコナの命と協力して行はれたことになつてゐるが、これもまた後世まで普通に信ぜられてゐた話である。萬葉に「おほなむちすくなひこなの神代より」(卷十八)とあり、「おほなむちすくなみかみの作らしゝ妹脊の山を見らくしよしも」(卷七)とある如く、事物の起源を此の二神に歸するのは、即ち此の話に本づいてゐるに違ひない。國作りといふ思想は無くとも「おほなむちすくなひこなのいましけむしづの岩屋は幾代へぬらむ」(卷三)といはれ、二神は常に連稱せられてゐるが、これは萬葉ばかりではなく、播磨風土記にも二神は相並んで現はれてゐるのみならず、或る場所ではオホナムチ-スクナヒコネといふ一神にさへなつてゐる。後のことではあるが、文コ實録齊衡三年の條にも、石の神が我はオホナモチ・スクナヒコナなりと託(481)宣した、といふ記事がある。これは此の二神が殆ど不可分の關係を有するが如く考へられてゐたからであつて、神名帳を見ると、能登にオホナムチ像石神社の名があると共に、スクナヒコの神像石神社といふのが出てゐるのも、其の故らしい。さうしてそれはやはり國作りのの話に淵源があると見なければならぬ。(古事記の仲哀天皇の條の酒の歌に「すくなみかみ」の名を出してあるのも、やはりこれから派生した思想であつて、此の場合にはしばらくオホナムチの命から離れて現はれたのみであらう。スクナミカミがスクナヒコナであることは、上に引いた萬葉の歌から推測せられる。)オホナムチ(及びスクナヒコナ)の命の國作りといふことは、これほど有名な話になつてゐるが、しかしそれは如何なる意味のことであるか、いひかへると、二神は如何なるしごとをしたといふのであるか。
 このことについては、古事記は殆ど何ごとをも語つてゐない。が、たゞスクナヒコナの命が去つてから後、國つくりを完成するために、海を光らして來た神の教に從つて其の神を齋き祀つた、といふ話があるのに注意しなければならぬ。崇神天皇の物語には國家經皆の第一義として神を祀るといふことがあり、欽明紀十六年の條には百濟の衰運を挽囘するために神を祀らせたといふことが見え、天皇は政治上の君主であられると共に、神を祭る任務をもつてゐられるやうに考へられ、政治と神の祭祀とは分つべからざるものとせられたのが、上代の思想であるとすれば、オホナムチの命に關する此の物語の神の祭祀にも、その祭祀に基礎を置かねばならぬ政治的經營の意味が含まれてゐることは、おのづから推知せられる。特に此の物語は、神の教によつて其の神を祀つたといふ點が、崇神天皇の話の場合と全く同じであり、其の神がミワの神であることさへ一致してゐるから、此の二つの物語が同じ思想の所産であることは、いよ/\明かであらう(オホナムチの命の話にミワ山を結びつけた理由は、別にあるとしても)。さすれば書紀(482)の注の「一書」に、荒びすさびて岩ね草木まで強暴であつたアシハラノナカツ國を此の神が平定和順させたとあるのは、よく此の意味を現はしてゐるので、國つくりの意義は、此の書の別のところに「經營天下」とある如く、政治的に國家を統一するといふことであり、さうしてその國つくりの「國」がアシハラノナカツ國、即ちわが國の全體をさしてゐることは、この「一書」の記載によつて明かである。所謂皇孫降臨の物語にも神武天皇東征の話にも、國土の平定を説く場合に於いて、此の書と同じいひ方がしてあることを考へるがよい。なほ「國つくり」といふことばについては、雄略紀二十一年の條に「造其國」とあるのを參考しなければならぬ。これは一旦滅亡した百濟の國を復興させたことをいふのである。上にも述べた欽明紀の記事にも「建邦之神」といふことがあつて、それを天地剖判の代、草木もものをいつた時、に天から降つた「造立國家之神」と解釋してゐる。國をつくるといふことばの意義はこれでも知られよう(此の神は指すところが明かでなく、神代史上の神にはあてはまるのが無いやうである)。かう考へて來ると、後に添補した話ではあらうが、オホナムチの命がスサノヲの命から與へられた弓矢で兄弟を追ひ伏せ追ひ拂つて國を作りはじめた、といふのも、國作りといふことによくかなつた話であつて、かの書紀の注の「一書」の説と共に、神代史のいろ/\の潤色者が此の語の意義を正しく了解してゐたことを、示すものである。政治的統一の事業には、先づ反抗者を平定しなければならぬからである。所謂國ゆづりの段の書紀の本文にも、オホナムチの命が國を平げた時に用ゐた矛を皇孫に獻上したといふことがあつて、これもまた同じ思想の現はれである。書紀の注の「一書」に療養禁厭の法を教へたとあるのは(多分、事物の起源を上代の帝王のしごとに歸する支那思想に從ひ)それを古の君主とせられたオホナムチの命のしわざとしたのであつて、やはり此の國つくりの觀念から派生したのであらう。つ(483)いでにいふ。イサナキ・イサナミ二神の國土生産が、世間では「國つくり」といひならはされてゐろかとも思ふが、それとこれとは全く意味が違つてゐる。實は記紀の何れにもイサナキ・イサナミ二神の國土を生んだことを「國つくり」といつてあるところは無いので、みな國を生むと書いてある。たゞ古事記には「修理固成是多陀用幣流之國」としてあつて、此の「修理固成」を宣長は「つくりかためなせ」と訓んでゐるが、其のよみやうの是非はともかくもとして、此の一句は二神の物語の本來の意味には適はないものであり、後人の添加に過ぎないものである、といふことは既に上文に述べて置いた。また古事記のヨミの國の話に、イサナキの神がイサナミの神に對して「われ汝と作れりし國いまだ作り竟へずあれば」云々といつた、といふことがあるが、既に説いた如く、此の場合の「作る」といふ語は、それが國生みの物語にあてはまるものとする限り、國家を政治的に經營するといふ意義でいはれたのではない。だから、かの二神の物語と此のオホクニヌシの命の話とは、毫も重複するものではない。
 さて此の國作りの物語に見えるスクナヒコナの命は、たゞオホナムチの命を助けるためにこゝに現はれたのみであつて、すぐにトコヨの國へ消え去つてしまひ、作つた國を統治したのはオホナムチの命であり、さうしてそれが所謂國ゆづりの主人公として神代史の大だてものになつてゐる。だから、國つくりはオホナムチの命のしごとであつて、神代史に此の物語の載せられた意味も、またそこにあるといはねばならぬ。名からいつても、オホナとスクナとは對稱的のことばであり、ムチは尊稱であり、ヒコ-ナ(ヒコ-ネ)は男をさす稱呼と尊稱とを連ねたものであるから、スクナヒコナの命はオホナムチの命に對して、またオホナムチの命があつて始めて、現はれたものに違ひない。後までもオホナムチ・スクナヒコナと連稱せられてゐるのは、よく此の間の消息を傳へたものである。ところで、此のスク(484)ナヒコナの命がカミミムスビの神(書紀の注の「一書」ではタカミムスビの神)の子であるといふのは、カミミムスビ(もしくはタカミムスビ)の神の現はれてから後に作られたことであり、またトコヨの國へいつたといふのは、シナの神僊思想が入つて、長生不死の國といふ觀念がトコヨの國といふことばでいひあらはされ、更に其の原意義が失はれて、單に海外の國として此の名が用ゐられるやうになつてから、後にできた話である。からだが小さかつたとか手の俣から漏れて出たとかいふのは、小さいといふ意義の含まれてゐるスクナの名から作られた話であり、古事記にのみあるクエビコのことも童話めいたものであつて、何れも此の命の本質には關係が無いから、それらは後人の潤色であるかも知れぬが、血統とトコヨの國のこととは、それを取つてしまへば、神代史上の神としてのスクナヒコナの命の話が殆ど成立たなくなるほどに、其の輪廓がくづれるのであるから、これは此の物語の最初からあつたものと見るのが妥當であらう。さすれば、スクナヒコナの命の物語は、神代史の一度びでき上がつてから、かなり後になつて添補せられたものとしなければならぬ。此の物語が書紀の本文にも無く、また其の話をのせてある注記の「一書」がたつた一つしかないのも、此の故であらう。さうして此の話のある古事記と此の「一書」とを比べて見ると、それは古事記のもとになつた舊辭が前出の本であつて、「一書」の方は更にそれを増補したものであることが、知られる。「一書」には古事記に見えない話、即ちクマヌのみ崎から、又はアハ島から、粟がらにはじかれてトコヨの國へ去つたといひ、此の國は成れるところも成らざるところもあるといつたといふことがあつて、それらは何れも後の潤色として見るべき性質のものだからである。前に述べた如く、オホモノヌシの命のことについても、禁厭療病の法を教へたといふことに於いても、此の本にはすべてが古事記よりも後の添加を經てゐる形跡のあることを、參考するがよい。オ(485)ホナムチの命の子が一百八十一神あるとか、タカミムスビの神の子が一千五百座あるとかいふのも、後の思想に違ひない。(クマヌのみ崎とはどこをいふのか不明であるが、イヅモのクマヌとしては地勢上少しく解し難い。出雲風土記によるとクマヌは山の名であり神社の名であるが、郷名にもなつてゐないから、海岸地方をも含む廣い地名であつたとは思はれない。一説としてアハ島の名の出てゐることを思ふと、クマヌはキの國のそれ、アハ島は國土の生まれた物語にも見える瀬戸内海のそれ、を思ひ浮かべて書かれたのではなからうか。イサナミの命をも、またイタケルの命によつてスサノヲの命をも、キの國に附會しようとする傾向が神代史の潤色者の一方面に生じて來てゐることが、注意せられる。特にクマヌについては、神武紀にイナヒの命がそこからトコヨの國にいつたといふ話のあることを考へあはせねばならぬ。書紀の國ゆづりの段にクマヌの諸手船といふことがあつて、これもクマヌを海邊の地名としなくては解し難いことであり、而もそれはイヅモの地名とするのが自然のやうであるが、やはり疑問は存在する。「クマヌの諸手船」は船の或る種類をさす一般的稱呼であるとし、さうしてそれは、キの國のクマヌで最も多く用ゐられてゐたためにかういふ名を得たものとし、此の物語に於いては、たゞ快走する船といふ意義で此の名を用ゐたのだ、とする方が穩當ではあるまいか。また古事記のミホの崎が、書紀の注の「一書」でイササの小汀になつてゐるのは、オホナムチの命のことであるために、キヅキ附近の海濱にしたのみのことであらう。)しかし此のスクナヒコナの物語はオホナムチの命の話に上に述べたヌナカハヒメとスセリヒメとに關する歌物語が結合せられて、古事記のもとになつた舊辭のでき上がつた時よりは、前に作られてゐたものらしい。殆どすべての場合にオホクニヌシの名の用ゐてある古事記にも、ヤカミヒメに關する兄弟爭ひの物語と、スクナヒコナに對する場合とには、オホナムチと記されて(486)ゐるが、これは、オホクニヌシの名によつて語られてゐる上記の歌物語のまだできなかつた前から傳はつてゐる物語と其のいひ方とが、其のまゝに遺存してゐるものと、解せられるからである。此の物語の作り添へられた神代史に、更に歌物語(及び兄弟爭ひの物語)を加へたものが、古事記のもとになつた本であり、此の物語そのものを潤色したのが書紀の注の「一書」であらう。
 しかし國つくりの物語に於いてスクナヒコナの命の話を取りのけると、殘るところはたゞ海を光らして來た神をまつるといふことだけになるが、これもまたオホナムチの命をヤマトに結びつけた後にできたものらしく、さうしてそれが崇神天皇の祭祀の物語の作られたよりも後のことであるとすれば、やはり神代史の最初からあつたものではなからう。海を光らして來たといふことも、スクナヒコナの命が海上から來たのと同工異曲であるのを見ると、これはスクナヒコナの命の話を二重にしたものであつて、それよりも後に、それを學んで作られたものではあるまいか。さすれば書紀の本文に此の話の無いのは、却つてオホナムチの命の物語の古い形を存してゐるのではなからうか。もし果してさうとすれば勿論のこと、よしまた假に此の話が早くからあつたとしても、國つくり、即ち所謂天下の經營、そのことについては、古事記にも書紀の注の「一書」にも毫も説かれてゐないが、これはそも/\何を示すものであらうか。オホナムチの命の國つくりが神代史上重要なる意義を有するものならば、これは甚だ奇怪なことではなからうか。此の點から考へると、國つくりの話そのものに本來意味があるのではなく、それはたゞオホナムチの命がアシハラノナカツ國をもつてゐたといふことから派生したものに過ぎないのではないかとも、思はれる。オホナムチの命の神代史上の地位は、其の領有してゐたアシハラノナカツ國を皇孫に獻上する、といふ役めをつとめるところにあるの(487)であつて、これは神代史を通讀すれば何人にも明白に知られることであるが、それがためには、此の神が國を有つてゐれば、それだけでよいのである。國つくりの話は、無くても少しも差支が無いのである。書紀の本文に全くそれが見えず、古事記などにも事業そのことが明かに記されてゐないのは、此の故であつて、國作りの話が後人の添加であることもまた、此の點から確かめられよう。
 以上、オホナムチの命に關して古事記及び書紀の注の「一書」にのみ見える種々の物語を點檢して、それがみな神代史の最初からあつたものではなく、後人の増補したものであることを知つた。然らばこの増補には何か特殊の意圖がはたらいてゐるのであらうか。此の問題に對しては明確なる解答を與へ難いが、少くとも國作りの物語に此の神の功業を強く讀者に印象させる效果があることを思ふと、それはイヅモの勢力を思想的に強めるために、イヅモ人の作つたものではなからうか。此の國は日の神及びその子孫の統治せらるべきものである、といふのが神代史の精神である以上、オホナムチの命に國作りといふ事業をさせるのは、それに背反するものであるが、それにもかゝはらず、かういふ物語が作られたのであるから、それをかう解釋することは、決してむりな考ではあるまい。後にいふやうに、所謂國ゆづりの段の書紀の注の「一書」にも、同じ意圖の現はれが見えるやうであり、出雲國造神賀詞にも、イヅモの地位を高めるために神代史の所説を變改した形跡のあることを、參考すべきである。さすれば前に推測した如く、神々の系譜を作り添へたのも、また同樣の精神から出てゐることが確かめられるやうである。が、かう考へて來ると、オホナムチの命に國つくりをさせたのは、神代史の全體から見ると、それに大なる意味は無いことになるにせよ、かういふ物語を作り添へたイヅモ人にとつては、少からざる意味のあることであつて、イサナキ・イサナミの命の生み(488)なした、さうしてその子の日の神の統治してゐる、此の國をスサノヲの命の系統のオホナムチの命が經營平定したとしたところに、やはりイサナキ・イサナミの命の國生みの説話と對立する意味があるやうに見える(國生みと國作りとは上に述べたやうにその意義が全く違つてはゐるが)。然らば、神々の系譜についても國作りの物語についても、それらの作り加へられたことにかういふ意味があるといふことが、神代史の精神の上から果して是認せられ得るのであらうか、といふ問題が起るが、これについては後に考へる機會があらう。國つくりに關係のない戀物語などについては、如何やうにも解釋し得られるが、しかし神代史全體の調子を破るまでに事繁くオホナムチの命の物語を補つたのは、やはりそれが此の神と特殊の關係を有するイヅモ人のしわざらしく考へられる。
 オホナムチの命の物語とそれが作り添へられた事情とは、かう解釋するとして、なほ殘るところは、此の神が國を有つてゐたといふ、書紀の本文にも明かに見えてゐることが、本來、何を意味するのか、そも/\オホナムチの命とは如何なる性質の神であるか、の問題である。さてオホナムチの命がキヅキの神に結合せられてゐることは、いふまでもない。所謂國ゆづりの物語に於いて、タケミカツチの神などがイヅモのイナサの小濱(又はイダサの小汀)に降つて、オホナムチの命に服從を迫つた、といふ話のあるのも、之がためであり、古事記のスセリヒメの話に、ウカの山の山下に宮を建てて居れと此の命にスサノヲの命がいつた、とあるのも、また國ゆづりの物語でタギシの小濱に御舍を造つたとあるのも、此の故である。此のキヅキは神社のあるところであると共に、後までもイヅモの國造の居所であつて、其の國造はもとはイヅモの政治的君主であつたらう。さうして政治的君主の地位に宗教的權威が伴つてゐると共に、その君主はまた神を配る任務をもつてゐる、といふ上代思想から考へると、イヅモの國造にもやはり此の(489)宗教的性質があつたに違ひない。書紀の注の「一書」に、オホナムチの命が神として祭られるについて、ホヒの命にその祭祀をさせるやうにする、といふタカミムスビの命のことばがのせてあるが、ホヒの命はイヅモの國造の祖先とせられてゐるから、この話は國造のこの宗教的性質の一面を明かに示したものである。さうして此の國造が政治的權力を失つてから後は、宗教的地位のみを保有して後世に至つたので、そこにイヅモの國造の遠き昔の面影がある。さて物語の上のオホナムチの命は、次にいふやうにイヅモの政治的勢力を象徴するものであり、政治的君主として語られてゐるのであるから、その意味で國造の地位に由來があるのであるが、國造の祖先としては語られてゐない。また多くの國造の家が後世には跡方もなく消え失せたとは違ひ、イヅモのがいつまでも勢力を有つてゐたのは、其の淵源が遠く基礎が堅かつたからであらう。キヅキの神が特殊の尊敬をうけ、イヅモの政治的勢力が注意せられたことは、記紀の上代の物語にも見えてゐるのであり(垂仁景行の卷參照)、イヅモの國造が朝廷から他の國造とは違つた特殊の待遇をうけてゐることも、また神賀詞などによつて明白であるが、これらは何れも或る時代に於いてイヅモに強大な政治的勢力があつたことを示すものである(第二篇の第二章、第四章、結論など、參照)。さすれば、神代史のオホナムチの命が、キヅキに根據のある此のイヅモの政治的勢力に由來するものであり、畢竟その象徴であることは、疑が無からう。さうして、後に添加せられた話ではあるが、この神に國つくりをさせ、アシハラノナカツ國の政治的君主の地位を與へてあることから考へると、國の範圍こそ違へ本來この神はイヅモの國の政治的君主として見られてゐたことが、推測せられるので、アシハラノナカツ國の全體を領有してゐたといふのは、物語の上でその領土の範圍をおしひろめたものであることが知られる。しかしそれが歴史的人物でないことは、いふまでもない。オホナムチのオホ(490)ナが既に一種の尊稱にすぎないものであり、上にも述べた如く其の系譜およびそれに現はれてゐる神々がみな造作せられたものであり、さうして此の神の周圍の神々及び其の物語が、實在の人物でも事實譚でもないことを、考へるがよい。イヅモの國造に思想的由來のある神でありながら、其の組先とせられてゐず、祖先はホヒの命となつてゐることも、また顧慮せらるべきである、たゞそれがイヅモに於いて早くから民間崇拜の對象として崇敬せられてゐた神の名であるかどうかは、一應考へてみる必要がある。オホナムチ・スクナヒコナは、上に引いた如く、萬葉の歌にも風土記にも國つくりの神として記され、文コ實録に見える如く託宣にも現はれ、また石の崇葬とも結合せられ、それから神代史の潤色に於いても、療病禁厭の法を教へたといふ話が附加せられてゐ、頗る民衆的性質を帶びてゐるが、これは、本來、民間信仰の神であつた其の性質の持續せられてゐるのか、但しは神代史上の此の神が民衆化せられたものであるか、それが問題となるのである。朝廷の儀禮に於いて用ゐられた祝詞などを見ると、所謂皇孫降臨がすべての事物のはじめとなつてゐるので、大祓や遷却祟神祭の如き純粹に呪術的または宗教的意義のものですら、さうであるし、また書紀の記載に於いても、イサナキの神や(履仲紀)、日の神月の神や其の祖としてのタカミムスビの神や(顯宗紀)、又は所謂建邦の神や(欽明紀)、それらを祀つたことは見えてゐるが、オホナムチ・スクナヒコナをいひ立てたものは一つも無く、それと反對に、上記の如く歌謠や民間の信仰に於いては、事物のはじめをタカミムスビの神にも、カミミムスビの神にも、イサナキ・イサナミの二神にも、又は皇孫降臨にも歸せずして、オホナムチ・スクナヒコナとしてゐるのは、そこに國家的もしくは官府的の儀禮と民間信仰との對立があるやうにも、見られるのである。
 けれども、神代史の上に現はれてみるところでは、オホナムチの命に民間信仰のおもかげが少しも存在しない。こ(491)の神がイヅモの君主として語られてゐるとすれば、君主が神であるといふ意味に於いての神ではあるかもしれぬが、それとても其の神としてのはたらきは毫も語られてゐず、まして民衆の日常生活を支配する意味に於いての宗教的性質は、全く見えてゐない。物語の主人公としては純然たる人であつて、神らしい分子すらも無い。たゞ所謂皇孫降臨の段の書紀の注の「一書」に、顯露のことは天孫が、幽事(もしくは神事)は此の神が、治めるといふことが見えてゐるが、これは國ゆづりの物語と此の神がオホクニヌシの神の名に於いてのキヅキの神として祀られてみる事實とを、結合するために生じたことであつて、國ゆづりをすることによつて、これまでオホナムチの命のしごとであつたアシハラノナカツ國の政治的經營(顯露のこと)は天孫が支配せられることになり、オホナムチの命はキヅキに神として祭られること(幽事)にする、といふのである。だからこれは、畢竟、國ゆづりの物語から派生した物語であり、而も此の話の載せてある「一書」はすべての點に於いて後の潤色の多く加はつてゐるものであるから(後文參照)、これもまた神代史の述作の最初から存在してゐたものではなく、國ゆづりの意味を一層莊重にすると共に、イヅモの勢力を宗教的に強め、キヅキの神を天孫と對等の地位に置くために、後になつてイヅモ人の附加したものであり、そこにはイヅモの國造の權威を立てようといふ意圖さへも、含まれてゐるやうである(後文參照)。もつとも此の話には、オホナムチの命が政治的君主として宗教的地位をも有つてゐた、といふ考が潜在してゐるかも知れぬが、もしさうならば、この話は政治的君主の地位を去つて、宗教的地位をのみ保有するといふことになるのである。君主が神であるといふ意義での神は、其の遠い起源はどうあらうとも、記紀に現はれてゐる思想に於いては、民衆の日常生活を宗教的に支配する神、民衆の宗教的崇拜の對象としての神、ではないので、天皇が神を紀られることによつても、そのこと(492)は知られるから、かう考へるのは、この思想と一致しないやうであるが、この場合ではオホナムチの命がキヅキの社の祭神としてのオホクニヌシの神と結合せられてゐるために、かう考へられるのである。さうして此の「一書」の此の話を除けば、神代史のオホナムチの命の物語は、すべて政治的君主としてのしごとか、さもなくば人としての戀物語か、に過ぎず、またこの話に於いても、キヅキの神としてのオホナムチの命が宗教的に何かのはたらきをしたといふことは、少しも語られてゐず、たゞ神として祭られるといふことだけが説かれてゐるのである。もしイヅモに於ける民間信仰に於いて、古くから斯ういふ名の神があつたとすれば、其の名を取つた神代史の上にも、もつと明かに其の宗教的性質が描かれねばなるまいと思はれるに、それがかういふ有樣であるのは、此の神が神代史に於いて初めて現はれたものだからではあるまいか。イヅモの國造の祖先が此の神になつてゐないことは、此の意味に於いてもまた考ふべき點であるので、此の神がキヅキの神として古くから民衆の信仰を維いでゐるものであつたならば、國造の家の祖先神を定めるに當つて(それをホヒの命としたことには、後にいふやうに特殊の理由があるにもせよ)、この神を除外することはむつかしかつたであらう。なほ一般に民間信仰の神が人の形と性質とを具へない精靈であつたらしいこと、神代史に於いても、宗教的意義での神には概して物語が無いこと、を考へるがよい(上文竝に後章參照)。さすれば、後になつて、此の神の名が廣く民間に流傳したのは神代史の神々が神社の祭神とせられてゆく傾向のあることと共に、神代史の物語の民衆北として解すべきものであらう。古事記や書紀の本文にはオホナムチの名の用ゐてある場合でもオホナムチの神と書いてあり、書紀の注のいくつかの「一書」でもさうなつてゐるところが多いが、これはオホナムチがもとから宗教的意義に於ける神であつたことを示すものではない。(このことについては第六篇(493)「神とミコト」參照。)
 かういふやうに、オホナムチの命は、イヅモの政治的君主として、神代史の物語の上にはじめて現はれたものである。キヅキはイヅモの政治的君主の居所であり、さうして其の君主が宗教的權威をも有つてゐたとすれば、此の地はまた宗教的意義での聖地でもあつたらう。そこに後世の如き建築物としての神宮があつたかどうかは問題であつて、ヤマトの朝廷に於いて皇祖神の象徴たる神鏡を宮中に祀つてあつたといふ説話が、もし政治的君主の宗教的地位が君主自身の有する神格によつて示されてゐたことを語るものならば、イヅモに於いてもまた同樣であつたらうし、また宗廟といふやうなものがあつたらしい形跡もなく、一般に人の形と性質とを有する神の觀念の發達しなかつた上代の宗教思想から考へても、後世の如き神宮の設けはあつたらしくない。けれども民衆のために呪術もしくは祭祀を行ふやうな場所はあつたであらう。さうして祭祀を行ふとすれば、それが斷えずくりかへされることによつて、その祭祀の對象としての神の性格がおのづから定まるやうにもなるので、いつのころからかオホクニヌシの神といふ名のつけられたのも、そのためであつたらう。ところで、オホナムチの命が神代史に現はれると、それはおのづから此のキヅキの祭神にむすびつけられるやうになるので、さうなると神宮も建築せられることになる。古事記と書紀に注記せられてゐる「一書」との國ゆづりの段に、此の神のために宮を造ることのあるのは、此の神宮の建てられた後になつて、増補せられたものらしい(後文參照)。
 しかしこゝに問題がある。神代史の上では、オホナムチの命はアシハラノナカツ國の全體を統治したやうになつてゐる。古事記と書紀の注の「一書」とに見える此の神の國つくりの物語に於いても、其の「國」は我が國の全體をさ(494)してゐる。(此の二書に見えるオホナムチの命の別名としてのウツシクニダマは、「うつし國」の語がヨミに對する稱呼として用ゐならされたものであることを思ふと、オホヤシマの全體の意義でのクニのタマとして、この名がつけられたもののやうであるが、同じくオホナムチの命の別名とせられてゐるオホクニダマの例から考へると、さうとばかり解しなくてもよいやうであり、ウツシを一つの美稱として見ることもできよう。古事記の物語で、ヨミにゐるスサノヲの命がオホナムチの命に對して、ウツシクニダマの神となれといつたとしてあるのは、ウツシクニをヨミに對する名稱としてのことであるかと思はれるが、しかしウツシクニダマの名は此の物語の作られない前からあつて、物語はその起原をこのやうに説明したものとも見られるから、この物語によつて此の名の意義を解釋すべきものとは限らぬ。が、この名の意義はどう解せられるにしても、オホナムチの命がアシハラノナカツ國の君主として語られてゐることは、明かである。)しかし上に述べた如く、日の神がタカマノハラから此の國を統治せられることに定まつてゐるのに、別に此の國を支配するオホナムチの命があるといふのは、如何なる意味であらうか。オホナムチの命が歴史的事實として存在したイヅモの政治的勢力の象徴であるとすれば、このことの背後にもまた何等かの歴史的事實が潜在するであらうか。神代史の血統からいふと、此の神はスサノヲの命の子であるが、スサノヲの命は此の國に居ることを許されずしてヨミの國に逐はれたものであるから、父から此の國の統治をうけついだのではあるまい。のみならず、うつし國としてのアシハラノナカツ國を統治してゐる此の神が、其のヨミの國にゆくべき運命を有つてイヅモに降つたスサノヲの命の子として生まれてゐると、といふことが、そも/\解し難い話ではあるまいか。これらの疑問を解くためには、オホナムチの命が此の國を領有してゐたといふ物語の意味を、もう一層深く考へて見る必要があ(495)る。さうしてそれには、次の國ゆづりの物語を研究しなければならぬ。
 
(496)       第十三章 オホナムチの命の國ゆづりの物語
 
 國ゆづりの物語を考へるに當つて先づ氣がつくのは、此の段の書紀の本文の記載が前の方のとは、かなり調子が違つてゐる、といふことである。今まで現はれたことの無いタカミムスビの命が現はれ、古事記と書紀の注の「一書」とのみに見えてゐたウツシクニダマの名も見え、古事記の系譜によつて始めて其の系統の知られるアヂスキタカヒコネの神やコトシロヌシの神も出て來る。またアメノワカヒコの死んだ時の話の如き、これまでには例の無い童話的の物語もあり、さうして其の話のしかたも、これまでとはいくらか違つてゐて、古事記や書紀の注の「一書」に見えてゐる話や話しかたと類似してゐる。實際、此の段の記載は、古事記及びこゝに注記してある第一の「一書」の説と、大同小異であるのを見るがよい。たゞ書紀になくして古事記にのみあるのは、タケミナカタの神の話、シタテルヒメの歌、オホナムチの命が國を避ける時の有樣の敍述、ぐらゐのものである。*ところが、注記の第一の「一書」にはタカミムスビの命も現れてゐず、アメノホヒの命のことも無く、またウツシクニダマやシタテルヒメの名も、ワカヒコの死んだ時の童話的の物語も見えず、歌はあるがシタテルヒメの作とはしてない。なほ同じ注記の第二の「一書」には、後にいふやうに、オホナムチの命の服從した時のことについて、全く違つた物語があつて、ホヒの命にも新しい任務が負はせてあり、またオホナムチの命と共にオホモノヌシの神の名が出てゐる。そこで、かういふやうに諸本に變異のあることをどう解釋すべきかが、第一の問題である。
(497) さて古事記でも書紀の本文でも、最初に日の神またはタカミムスビの命(神)が日の神の予のオシホミミの命(または孫のホノニニギの命)を此の國に降さうとせられた時のことを記す場合には、此の國に荒ぶる神、即ち宗教的意義での惡神邪靈、どもが多くあつて騷がしい、といふことにしてあつて、オホナムチの命の名も、この神がこれらの荒ぶる神の首領であるやうなことも、見えてゐない。*書紀の方にも、螢火のかゞやく神さばへなす惡しき神があり草木がみなものをいふ、とあつて、これらの神は全く宗教的意義での邪靈となつてゐる。ところが、それを平定させるために降されたホヒの命については、此の命がオホナムチの命に媚びついて使命を果さないといふことがあり、それからはすべて此のオホナムチの命が此の國の政治的君主として現はれ、多くの荒ぶる神、惡しき神、は全く影を消してしまふ。さうして最後に、タケミカツチの神などの威嚇にもとづくオホナムチの命の國ゆづりによつて、萬事が解決してゐる。話の始終が照應しない書き方であつて、此の點が甚だ奇怪に思はれる。あらぶる神どもの首長がオホナムチの命であるとすれば、多くのあらぶる神さばへなす惡神があるといふ宗教的のことがらと、オホナムチの命がアシハラノナカツ國を支配してゐたといふ政治的のことがらとが、並存してゐても、政治的權威に宗教的意義が伴つてゐる上代思想に於いては、大なる不思議は無いかも知れぬが、それにしても、あらぶる神とオホナムチの命との關係の明記してないのが、をかしい。のみならず、一つのことがらを敍してゆく間に、いひ方がかう變つてゆくのも、何となく不自然な感じがする。もつとも古事記には、國ゆづりの際に、おのれらがかういふ態度をとる上はそれに從はぬ神々は無い、とオホナムチの命がいつたやうに記してあり、書紀の本文にも同じことがある上に、タケミカツチの神などが「不順鬼神等」を誅したとしてもあるので、それで、初に現はれてゐる多くの惡神どもの話の結末がついて(498)ゐるやうにも見えるが、こゝにいふ神々は、政治的君主たるオホナムチの命に從屬してゐるものといふ意義らしいので、宗教的意義に於いての邪靈である荒ぶる神、螢火のかゞやく神、さばへなす惡神、のことではないやうである。(書紀の「不順鬼神等」は、或は「一云」としてそこに注記してある、「邪神及草木石類」を誅したといふ説によつて、それをかう書きかへたのかも知れぬが、もしさうとすれば、この「鬼神」は宗教的意義においての邪靈などをさしてゐることになる。この注記の説がどうして生じてゐるかといふことについては、後に考へよう。)要するに、此の物語の全體が政治的君主たるオホナムチの命の國ゆづりを主題とするものであるならば、最初から一貫して此の神のことをいはなくてはならないのに、さうなつてゐないのが不思議なのである。
 そこで前に述べた書記の注の第一の「一書」を見ると、最初、あらぶる神(殘賊兇暴横惡之神)どもが多くあるといふことがあつて、それについてワカヒコの話が出るのであるが、古事記や書紀の本文に、此のワカヒコがオホナムチの命(ウツシクニダマの神)の女のシタテルヒメを娶つたことになつてゐるとは違つて、此の「一書」では、「多く國つ神の女子を娶る」とせられ、こゝでもオホナムチの命は現はれて來ない。さて此の話の後、更に日の神がオシホミミの命を此の國に降さうとせられることがあつて、それから、タケミカツチの神などがイヅモに降りオホナムチの命に國土の獻上を迫る話になり、こゝで始めてイヅモもオホナムチの命も現はれるのである。此の「一書」の説を古事記などのに比べると、オシホミミの命を降さうとせられることが中間に來てゐるため、話が二段に分れてゐるのであるが、それは寧ろ二重になつてゐるといふべきものであつて、前の方の話とても、オシホミミの命(にせよ又はホノニニギの命にせよ)の降られることが前提になつてゐなくては、無意味なのである。(これはもとの話に於いてホノ(499)ニニギの命の降られることのあつたのが、削られたのではないか、ともは疑はれる。後文參照。)ところが、此の前の方の部分には多くの邪靈惡神のあることが主題になつてゐ、後の方はオホナムチの命の問題になり、古事記などに於いて曖昧な關係で結びつけられてゐた二分子が截然と分れてゐることは、注意を要する。これは、本來、別の思想で作られた別の話が、一つゞきの物語につなぎ合はされたのではあるまいか。さうして前の方の話の惡神邪靈がどうなつたのか、その結末のついてゐないのは、此のつなぎ合せのために後の方に吸收せられてしまつたので、もとの話に於いては、此の惡神邪靈どもが天つ神に平定せられたやうになつてゐたのではあるまいか。書紀の本文のオホナムチの命の服從を記してあるところに、上に一言したやうに「一云」として、タケミカツチの神などが邪神や草木石の類(ものをいふといふそれであらう)を誅し、星の神のカガセヲをも歸服させた、といふことが注記してあり、第二の「一書」にも天にある惡神アマツミカボシを誅するといふことがあるが、これは此の國の政治的君主たるオホナムチの命に國ゆづりをさせるといふのとは、甚だ不調和な話であり、特に星の神に於いてさうである。だからこれは、オホナムチの神の服從物語(即ち今述べてゐる第一の「一書」の後の方の部分)とは別に存在してゐた惡神克服の説話(即ち「一書」の前の方の部分)の結末が、その痕跡をこゝに遺してゐるのではなからうか。(星の邪神とせられてゐるのは、光るものを恐れる上代の宗教思想の發現である。*)かう考へると、古事記や書紀の本文の説は、更に一歩進んで此の二つの物語を一つに混和してしまつたものであつて、それがために、上に述べたやうな曖昧な、始終の照應しない、ものになつてゐるのだと見られよう。(上にいつた書紀の本文の「不順鬼神」がもし邪神の意義であるならば、それは「一云」として注記してある説をとほして、惡神克服の話の結末がこゝに現はれたのであらう。)此の(500)「一書」にタカミムスビの命が現はれてゐないことも、その説に古事記などのよりも古い形の遺つてゐる一證であり、シタテルヒメやホヒの命の出てゐないことも、説話發展の徑路に於いて、古事記などのよりも前の段階にあるものと思はれる。特にホヒの命については、その話とワカヒコの話とが、同じことの反覆であることから見ても、はじめから此の二つの話があつたやうには考へがたい(此のホヒの命のこゝに現はれてゐないことについては、後文參照)。古事記や書紀の本文にワカヒコをアマツクニダマの子としてあるのも、後になつて附け足されたことである。(アマツクニダマのアマは單なる美稱として加へられたものかも知れぬが、ワカヒコが本來タカマノハラに屬するもののやうに語られてゐるのを見ると、さうではなく、天上のクニダマといふ意義で此の語がクニダマの上に冠せられたものと解せられる。天上のクニダマといふのも異樣な名であるが、これはシタテル姫の父としてのウツシクニダマに對應するやうにつけられたものであり、神代史の潤色の最後のものの一つであらう。)もつとも此の「一書」のワカヒコの死んだ時の話は、アヂスキタカヒコネの神がそこに現はれてゐたり、歌が記されてゐたりしてゐる點から見ると、後人が古事記のもとになつた舊辭の説を採つて附加したものらしい。アヂスキタカヒコネの神の話は、シタテルヒメのことが無くては興味のないものだからである。(「或云」としてシタテルヒメの名が出てゐるが、これは書紀の編者か又は後人かが記したものであらう。すべて「一書」として或る本の説が注記してある場合に、「一云」とか「或云」とかいつてそこに附記してある辭句は、其の「一書」に本來存在したものではないと見るのが妥當であらう。多くの異説を知らうとする場合に、はじめて斯ういふことが必要になるからである。たゞそれを別な「一書」の説としては注記せず、かういふ形で記してあるのを見ると、それは書紀の編者のしたことではないやうに考へられもする。)な(501)ほこの「一書」と古事記の説との關係については、後の皇孫降臨の段に於いて、此の本の記載と古事記のとの酷似してゐることが、考へあはされる。のみならず、歌が古事記より一首多く、此の話には全く縁のない「天さかる」云々といふのを載せてあるのを見ると、此の本には古事記の説よりも更に後の潤色の加はつてゐる點もあるので、本來は比較的古い形の話でありながら、それに新しく増補せられた部分も多いのである。またワカヒコが多く國つ神の女を娶つたといふ話も、宗教的意義でのあらぶる神のことをいふ場合としては頗る不調和である。あらぶる神が政治的反抗者の意義であるとすれば、かういふ話も成り立ち得るので、此の本の記者の考は多分そこにあつたらうと思はれるが、物語そのものの最初の形に於いては、あらぶる神は宗教的意義での邪神として考へられてゐたのであらうから、此の話もまた後の添加であるらしい。なほ此の「一書」にタカミムスビの命の名の見えないことは、前に述べたとほりであるが、オホナムチの命に關する部分に於いて、ヨロヅハタトヨアキツヒメがオシホミミの命の妃であるといふ話のあるのは、タカミムスビの命の存在と國ゆづりとの關係を豫想してのことであらう。しかし他の異本に於いて、此の神が日の神と並んではたらいてゐる場合に、此の本ではたゞ日の神の名のみが記されてゐるのを見ると、タカミムスビの命は本來、この本にあるやうな最初の形に於いての物語には、現はれてゐなかつたに違ひなく、從つてヨロヅハタトヨアキツヒメの話は、後人の插入したものと思はれる。後にいふやうに、オシホミミの命が神代史の古い形に於いては無かつたものらしいことをも、考に入れるがよい。
 ところで、此の考へ方はやゝ詮索に過ぎてゐるやうに見えるかも知れぬ。古事記の神武の卷に於いても、日の神がアシハラノナカツ國の騷がしいのを見て、曾て一度び此の國を平定したことのあるタケミカツチの神に、再び降つて(502)それを征服せよと命ぜられた、といふ夢物語と、ヤタガラスの話と、に見える多くの荒ぶる神とナガスネヒコとの關係は、極めて曖昧である。書紀には荒ぶる神といふやうなことばは用ゐてないが、それは文章を漢文調にするために取らなかつたのみであつて、古事記と共通の夢物語やヤタガラスの話のあるのを思ふと、其の準據となつた原本の書き方は、やはり古事記と同樣であつたらしい。かういふ例もあるとすれば、此の國ゆづりの段に於いてオホナムチの命と荒ぶる神との關係が明かになつてゐないのも、たゞ書き方の不精密なためであるとも見られよう。しかし古事記や書紀の本文のやうな物語がもとになり、それを改作することによつて上記の「一書」の説話が形づくられたと見るのは、説話の潤色者の心理として、困難ではあるまいか。(神武の卷の夢物語は、所謂皇孫降臨の前にタケミカツチの神などが此の國を平定したといふ話を聯想して作られたのではあるが、それは古事記や書紀の本文の如き説のできた後に附加せられたものであらう。記紀に見える神武天皇の物語はそれが初めて作られてから幾多の變改潤色を經てゐるらしいことを、參考すべきである。第二篇の第六章第一節、及びこの篇の後章の考説、參照。)
 なほオホナムチの命の話とは別に、多くの惡神を主題にした物語があつたらうといふことは、書紀の注の第六の「一書」のにも、やはり惡神のことばかりいつてあるのでも、知られるのではあるまいか。此の「一書」は抄出してあるので、全文を知ることはできないが、其の書き方が前に詳しく述べて來た第一の「一書」の前半とよく似てゐて、少くともこゝに載せてあるところだけでは、オホナムチの命を思ひ浮かべさせるやうな筆つきは、見えないやうである。此の本にオホナムチの命の話が結合せられてゐたかどうかは、固よりわからないが、書紀の編者がそれを抄出するに當つて、多くの惡神たちのことを載せながらオホナムチの命のことを省き去るといふのも、やゝ異樣に感ぜられ(503)るから、それは或は結びつけてなかつたのかも知れない(此の惡神たちのことを載せたのは雉の話に少し違つた點があるためかと思はれるが、もしこゝにオホナムチの命のことがあつたならば、やはりこれくらゐの小變異は無くもなかつたらう)。もしかういふ推測が許されるならば、上に述べた著者の臆説は、一層強く主張することができるのではあるまいか。此の本の雉の話は書紀の本文や古事記のよりも簡草であり、且つ「雉のひたつかひ」といふ俚諺に最もよく適合するものであるから、全體の物語に於いても、此の本に古い形の遺存してゐる點があると考へるのは、無理ではなからう。(なほ此の本に、最初にホノニニギの命の現はれてゐることも、此の點に於いて注意を要する。上文及び下文參照。)しかしタカミムスビの命の名の出てゐるのを見ると、此の本の全體が古いまゝのものではあるまい。また大祓、大殿祭、遷却祟神祭、などの祝詞の、皇孫降臨の前に荒ぶる神たちの平定せられたことを述べてあるところにも、オホナムチの命の名は全く現はれてゐないので、その點に於いては、前にいつた「一書」の前半の惡神克服の物語と同じである。これは宗教的祭祀の場合に讀まれる祝詞の性質として、然るべきことでもあらうが、しかし皇孫降臨に關する此の物語がかういふ祝詞に採られてゐるのは、もと單なる荒ぶる神の平定として説かれてゐる、即ちオホナムチの命の話の現はれてゐない、物語が神代史にあつて、それによつてつゞられたものだからではあるまいか。もしさうとすれば、上記の考説は更に一證を得たわけである。もつとも此のうちで遷却祟神祭のには、ホヒの命のこともタケミクマの命のことも記されてゐるが、それは後に増補せられたものと見ることができよう。また出雲國造神賀詞には、オホナムチの命のことも書いてはあるが、それは寧ろ從になつてゐて、主なる話は、上記の幾つかの祝詞と同樣、宗教的意義に於いての荒ぶる神たちの平定であり、さうして其の荒ぶる神たちは、オホナムチの命と(504)は全く無關係のもののやうに記されてゐる。こゝにも、二つの物語の結合せられた痕跡が見えるのではあるまいか。
 然らば何故にこんな二つの物語ができたであらうか。所謂皇孫降臨に先だつて此の國に騷いでゐる多くの惡神を平定せられるといふ話は、君主に神性があるとする上代思想からは、國家の建設の物語に於いて、自然に生ずべきものであつて、それは前に述べた神武天皇の話や又はヤマトタケルの命の東方經略の物語に於いて、あらぶる神どもを討伐平定せられるやうにしてあるのと、同じ思想の根柢から出てゐる、主として宗教的意義の、話である。しかし神代史の物語に於いては、それとは別に、オホナムチの命が政治的君主として此の國を領有してゐる、といふことがある。さうして此の國を領有してゐるオホナムチの命がある以上、所謂皇孫の降臨には此の神をして國ゆづりをさせなくてはならぬ。是に於いてか、上記の二つの物語が現はれたのである。ところが、オホナムチの命が日の神の子孫の統治せらるべき此のアシハラノナカツ國を領有してゐたとすれば、それは日の神に對する一種の反逆者である。だからそこに、此の神があらぶる神として考へらるべき契機があるので、二つの物語は自然に結合せらるべきものであつた。荒ぶる神といふのは、本來宗教的の觀念であつて、人生に害を與へる惡神邪靈を指すのであり、遷却祟神祭祝詞に於いてそのことが最もよく説かれてゐるが、皇室を神と見る思想からは、政治的反逆者に此の惡神邪靈が結合せられ得るのである。たゞオホナムチの命は、それ自身に於いては決して宗教的意義での荒ぶる神とせられてはゐない。といふよりも、前に述べた如く、此の神には本來宗教的性質が無いのであつて、それはたゞ政治的君主として語られてゐるのみである。さうしてさういふ政治的君主としても、オホナムチといふ名を見ると、それに反逆者といふやうな意義は少しも含まれてゐず、どこまでも尊貴の意を示すものであることが、注意せられねばならぬ。日の神に對する關(505)係に於いて荒ぶる神としなければならぬものが、何故にかういふ名をもつてゐるのであらうか。そこに一つの疑問がある。これについては後に考へることとするが、オホナムチの命に此の矛盾した二面のあることは見のがされぬ。さうして其の上に、此の神がアシハラノナカツ國を領有してゐるといふのと、この國に多くのあらぶる神があるといふのとも、そこに上記の如き接觸點はあるが、本來全く違つたことであるから、其の間にくひちがひがある。古事記や書紀の本文の物語の上で、オホナムチの命と荒ぶる神との間の關係が曖昧になつてゐる理由は、こゝにあるのであらう。
 これに關聯して今一つ考ふべきは、此の段の書紀の後の方の注の「一書」に、顯露のことは皇孫が、幽事はオホナムチの命が、治めるといふ約束で妥協ができたやうに書いてあるので、これによれば、オホナムチの命は宗教的に荒ぶる神でないばかりでなく、立派な神社の祭神となつてゐる、といふことである。しかしこれは、前にも述べた如く、キヅキの神及びイヅモの國造の由來を説くために、其の國造に縁のあるものによつて構造せられたことらしく、此の話も、また同じく此の書に載せてあるホヒの命がオホナムチの命の祭祀を主るといふことも、共に出雲國造神賀詞に見えてゐることによつて、それが推測せられる。オホモノヌシの神の名をもつオホナムチの命が(コトシロヌシの神と共に)タカマノハラに上つて、タカミムスビの命の女と結婚するといふことがあり、また此の神が八十萬の神を領して皇孫を奉護するとせられ、フトダマの命やアメノコヤネの命の祭祀の職務の起源をも、此の神に結びつけて説いてあるのを見ても、此の本の説にイヅモの神の地位と勢力とを強調して説かうといふ意圖のはたらいてゐることが、知られる。キヅキの神社の構造の莊嚴をすらも、力をこめて述べてゐるではないか。此の神社の話は古事記にも見え、(506)またそれには此の神に對する「御饗へ」のことまでも説いてあつて、それは、オホナムチの命の父祖や子孫の系譜ならびに此の神に關する種々の物語が多く載せられ、また此の神がオホクニヌシの神の名で記されてゐることと共に、古事記にもやはりイヅモ人によつて行はれた潤色の加はつてゐることを示すものではあらうが、此の「一書」の説は、それよりも更に一歩を進めたものと解せられる。だからこれは、國ゆづりの物語の本來の意味を傳へたものではない。(上にも一言した如く出雲國造神賀詞に、國造の家の祖先とせられてゐるホヒの命を、オホナムチの命の退讓について大功があつたもののやうに記し、記紀の所説と正反對のことを書いてゐるのも、また國造の家に於いて爲にするところあつてした變改らしいことを、參考するがよい。)
 さて古事記や書紀の本文の物語は、二つの話の混和せられたものであるとしても、原の話がそれ/”\其のまゝに現はれてゐるのでないことは、上に述べたところによつても知られよう。タカミムスビの命の現はれてゐることも、ホヒの命の話も、みな後の添加に違ひない。ワカヒコの死んだ時の種々の物語も、前後の例から考へると、やはり同樣ではあるまいか。此の話のモ山のことは例の地名説話であり、雉のことは俚諺の説明であるが、葬儀にいろ/\の鳥の現はれる一段は、實際の風俗にもとづいた童話めいたものであつて、それは多分、世間にいひ傳へられてゐたのを神代史の潤色者が採つて、此の話にあみこんだのであらう。日八日夜八夜あそぶといふのも、古い時代の呪術的儀禮に由來があらう。また生存者の容姿が死者に似てゐるところから起つたといふ葛藤は、何か潤色者の見聞した事實でもあつて、それから材料を得たのかも知れない。要するに此等の話は、荒ぶる神たちを平定するといふ物語の全體の意味には、何の關係も無いものであつて、特にその中には、物語の原形の面影が殘つてゐる書紀の注の第一の「一(507)書」には、見えないものもあるから、それらが後に加へられたものであることは、ほゞ疑があるまい。さうしてタケミナカタの神の話、シタテルヒメの歌、及び上に述べたキヅキの神の社のこと、竝にタカミムスビの命の一名のタカキの神といふ稱呼、などは、古事記にのみあつて書紀には無く、またホヒの命の子のオホセイヒミクマの大人(一名タケミクマの大人)のこと、フツヌシの神の話、などは、古事記に無くして、書紀のみの説であることを思ふと、此の段の二書のもとになつた舊辭は、互に親近の關係を有つてゐるものではあるけれども、別々に潤色の加へられた異本であることが知られる。さうして書紀が、前の方の記載と調和しないやうな種々の物語を、此の段に載せてあるのは、編者の杜撰なのであらう。さて古事記にのみ見えるタケミナタカの神は、オホナムチの命の子孫の名の多く列擧してある此の書のイヅモ系統の神の系譜には出てゐないものであるから、これははるか後世の人の附加したものらしい。物語としては、平和なコトシロヌシの神の對照として、またタケミカツチの神の對手として、武勇な此の神のあるのが、興味を深くする所以である。シナヌのスハにそれを結びつけたのは、此の地に古くから附近の住民の呪術祭祀を行ふ場所があつて、それが有名であつたためであらう。(ところ/”\の民間信仰の中心となつてゐる地點が、かういふやうにして神代史の神に附會せられることについては、後文參照。)またキヅキの神社の祭祀の話が、特殊の意圖に基づいた後人の増補であることは、上に説いたとほりであるが、そこにカミミムスビの神の現はれてゐることも、また此の話の新しい一證であらう。それから、書紀に見えるオホセイヒミクマの大人は、タケミクマの命として遷却祟神祭祝詞にも出てゐるが、其の「大人」といふ稱呼は他に例が無いことを思ふと、これは何か特殊の材料から取られたものらしく、初から此の物語にあつたものでないことが推測せられる。祝詞のはそれを「命」として普通の(508)稱呼に改めたのであらう。なほフツヌシの神といふ名は、古事記には何處にも見えず、上にも述べた神武の卷にあるオホナムチの命の國ゆづりの話を聯想させる夢物語にも、タケミカツチの神ばかりが現はれてゐるのであつて、それは書紀でも同樣であるから、これも後人の増補したものに違ひない。さうしてそれは、記紀の神武の卷にある如く、刀をフツノミタマ又はフツの神といふところから、古事記のカグツチの神の斬られる段に見えるやうに、先づタケミカツチの神の別名として、タケフツの神もしくはトヨフツの神といふ名が作られ、其の次に同じ段の書紀の注の「一書」に出てゐるやうに、獨立の神となつてフツヌシの神となり、それがまた物語に現はれて、タケミカツチの神と協同してはたらくやうになつたのであらう。(書紀の此の段に見える此の神の系譜と注の「一書」に見えるそれとは、何れも刀もしくは血に縁がありながら、少しく一致しない點があるが、かういふことはさま/”\に作り得られるので、タケミカツチの神の血統關係も、また書紀のこゝの記載と古事記及び注の「一書」の説とは違つてゐる。)今一つ注意すべきは、書紀の此の國ゆづりの物語に、初からホノニニギの命の名の見えることであつて、これは或は荒ぶる神を平定するといふ物語の最初の形が遺存してゐるのかとも思はれるが、このことは後に考へよう。さて古事記と書紀の本文とから、かういふ後人の潤色したところを除き、さうして、兩方に共通の物語、即ち此の二本に分れない前の舊辭、から上に述べた如くやはり物語の原形には無かつたタカミムスビの命の名や、アメノホヒの命の話や、又は童話めいた物語などを、取り去つて見れば、始めて、荒ぶる神の平定の話とオホクニヌシの命の服從の物語との、結合せられた最初の形が現はれて來るのであらう。なほこゝに取り去つて見るといつた神の名や物語が、書紀の本文にあるのは、此の段の編者がさういふものの記されてゐる舊辭によつて本文を書いたからのことらしいが、それがために(509)同じ本文の前の方と不調和が生じてゐるのは、前の方の本文の主なるよりどころとなつた舊辭が、比の段のと違つてゐたからのことかもしれぬ。
 然らば此の物語を組成する二つの分子のうち、どれが前にあつたのであらうか、さうして既にさういふものが一つあるのに、何故にまた別のものが後になつて現はれて來たのであらうか。それを知るには、オホナムチの命の國ゆづりといふことの意味を明かにしてかゝらねばならぬ。オホナムチの命にイヅモの國造によつて代表せられる政治的勢力の背景があるとすれば、即ちそれが歴史的事實に由來するものであるとすれば、此の國ゆづりもまたさうであらうか。いひかへると、イヅモの勢力が我々の民族全體を支配してゐたといふことが、事實あつたであらうか。これは、オホナムチの命が此の國を領有してゐたといふ物語の意味について、前章の終に提出して置いた問題の背後に存在する疑問であるが、本章に於いて國ゆづりの物語を考へて來ても、それだけではその間題に何等の解答を與へることができなかつた。そこで次には、此の國ゆづりの結果として生じたことになつてゐるホノニニギの命の天降りの物語を研究し、それによつて、此の疑問が解決せられるかどうかを、考へてみよう。
 
(510)       第十四章 ホノニニギの命の天くだりの物語 上
 
 所謂皇孫降臨、即ちホノニニギの命がタカマノハラからヒムカのタカチホの峯に降られた、といふ天くだりの話は、政治的君主として我が國を統治せられる我が皇室が、如何にして始めて此の國土に君臨せられるやうになつたか、の物語である。それは神代史に明白に記載せられてゐることであつて、オホナムチの命の服屬の物語も、此の神が此の國土を領有してゐたがために、其の地位を退いて國土を天つ神に奉獻した、といふのである。古事記と書紀の注の第一の「一書」とに見える、ホノニニギの命の天降りの時のアマテラス大神の勅といふものも、君主として此の國を統治せよ、といふのである。其の時に神寶を授けられたといふのも、神々に隨從を命ぜられたといふのも、みな此の意味に於いてであつて、それは或は君主の地位の象徴としてであり、或は君主の政治的また宗教的任務を補佐するもののことである。所謂皇孫降臨の意味がこゝにあることは、一點の疑も無い。それは決して人類のはじめを説いたものでもなく、民族の起源を語つたものでもない。どこまでも君主の地位の由來に關する物語である。神代史に於いてこれほど明白なことはあるまい。
 ところが、この天くだりの物語に於いて注意せられるのは、こゝでも本によつて物語に少からぬちがひのある、そのちがひの大きいことである。表にして示すと次のやうになる。
  1は古事記、2は書紀、3は書紀の註の第一の「一書」、4はその第二の「一書」、5はその第四の「一書」、6はその第六の(511)「一書」。
  タカマノハラの主宰者、 降られる神     神寶                神勅                    隨從の神
  天降りを命ずる神
1、初、日の神                                   日の神のオシホミミに對する          ――
                                  
  中間、タカミムスビ   }初、オシホミミ                   二神のオシホミミに對する           ――
     日の神    }の共同
  後、日の神        後、ホノニニギ  日の神がホノニニギに三種神寶授與 日の神のホノニニギに對する          五伴緒、オシヒ、クメ、など
2 タカミムスビ        ホノニニギ   ――                ――                    ――
 
3 日の神        初、オシホミミ
             後、ホノニニギ    日の神がホノニニギに三種神寶授與  日の神のホノニニギに對する        五部神
4 初、タカミムスビ
  中間、タカミムスビ
 日の神        初、オシホミミ    日の神がオシホミミに鏡授與     タカミムスビのコヤネ及びフトダマに到する
                                          日の神のオシホミミに對する        コヤネ、フトダマ
  後、――      後、ホノニニギ    ――                 ――                   コヤネ、フトダマ  諸部神
5 タカミムスビ       ホノニニギ    ――                 ――                   オシヒ
 
6 タカミムスビ      ホノニニギ    ――                 ――                   ――
 
 天くだりの物語は神代史に於いて最も重要なるものの一つであるのに、それがかういふやうになつてゐるのは何故であらうか、またそのうちでどれが原の形のであり、どれが新しいのであらうか。
 そこでまづ問題となるのは、タカミムスビの命のことである。日の神としてタカマノハラにゐられるアマテラス大(512)神が皇祖であるならば、その子孫のたれかが、いつの時にか、そのタカマノハラからこのトヨアシハラノミヅホの國に降られたはずである。だから、天くだりの物語は神代史に於いてぜひとも無くてはならないものである。ところで、そのタカマノハラもまた此のミヅホの國も、共に日の神の統治せられるところとせられてゐる。さすれば、タカマノハラから日の神の子孫がこの國に降られたのは、日の神の命によつたものでなくてはならぬ。然るに、古事記や書紀の注の第二の「一書」では、この場合にタカミムスビの命が、日の神と並んではたらいてゐる、むしろ日の神よりも優位を占めてゐるといつた方が適切なほどであるし、書紀の本文では日の神は全く影をかくしてゐて、タカミムスビの命のみがすべてを主宰してゐる。ホノニニギの命を此の國の君主として降すについても、タカミムスビの命がその女の生んだ子であるがために特にこの命を愛したからであると、書紀の本文にはいつてあつて、これは、此の國に於ける皇室の起源を語るといふ、神代史に於いては重要なる意味のある天くだりの説話としては、甚だふさはしからぬことであるが、それほどまでにタカミムスビの命が、書紀の本文では、重く見られてゐるのである。この章で考へようとしたために前章では立ち入つていはなかつたが、天くだりの前に行はれてそれと表裏の關係にあるオホナムチの命の國ゆづり、物語としては天くだりの話の一部分となつてゐるその國ゆづり、の物語に於いても、またこのことについてのこれらの書のかきかたは、此の話のと同じである。これは日の神のタカマノハラに於ける地位と皇祖としての權威とを損ふもののやうに見えることであるのみならず、次にいふやうにタカミムスビの命はもと/\人の形をもつてゐない神であるから、それがかういふはたらきをしてゐるといふことは、この神の本來の性質にも背くものである。そこで、どうしてかういふことになつてゐるか、またそれは天くだりの物語のもとからの形であつたかどう(513)か、といふ二つの問題が起る。
 先づ第二の問題について考へるに、書紀の注の第一の「一書」では、書紀の本文とは反對に、すべてが日の神のはからひとなつてゐて、タカミムスビの命は少しも姿を見せず、またタカミムスビの命が日の神と並んではたらいてゐる古事記や書紀の注の第二の「一書」やに於いても、神寶を授興したり、ホノニニギの命(もしくはオシホミミの命)に對していはゆる神勅を下し此の國に降つてその君主となるべきことを命じたりせられたのは、日の神であるやうに語られてゐる。(古事記に於いては、神寶を授けられたのが二神の共同のしわざであるか日の神のみのであるかは明かでないやうであるが、その時の神勅に鏡を「我がみたまとして」といふ語のあるところから考へると、日の神のみのこととせられてゐるらしい。)日の神のみの命令ですべてが行はれたことになつてゐる第一の「一書」においては、なほさらである。このことを、上にいつたタカミムスビの命の本來の性質に參照して考へると、第一の「一書」の説が、この點に於いては、物語の最初の形を傳へてゐるので、神寶や神勅やについての古事記や第二の「一書」の説も、またその思想の繼承せられたものではなからうか。もしさうならば、二神の並んではたらいたやうになつてゐるのは、タカミムスビの命がこの物語に現はれたはじめの形であり、日の神が影をかくしてこの神のみが表にあらはれてゐるのは、それから更に轉化したものと解せられよう。第二の「一書」には、タカミムスビの命のことばとしてオシホミミの命を「吾孫」(アガミコ)と呼んであるが、これは、もとは日の神のことばとして書かれてゐたものではなかつたらうか。オシホミミの命をわが子と呼び得るものは、日の神の外には無いはずだからである(第四篇で考へるやうに、こゝの孫の字はコの語にあてて書かれたものと、解せられる)。古事記には二神がオシホミミの命(514)を「我御子」と呼んでゐるやうに書いてあるが、二神が共にかういつたといふのは當らぬことであるから、この場合のタカミムスビの命の名は後から添加せられたものと、解せられる。これらから推して考へると、第一の「一書」や古事記やには、この物語のもとの形に於いては日の神としてあつたのを、或はそれにタカミムスビの命を書き加へ、或はそれをタカミムスビの命と改めたところが、あるのではなからうか。これがタカミムスビの命をこの場合ではたらかせるやうにした一つのしかたであつたらう。(古事記のタケミカツチノヲの神をイヅモに遣はされるところには、その前後に二神の名が並べあげてあるにかゝはらず、日の神のみが記されてゐるが、これはタカミムスビの命の名を加へることが偶忘れられたのであらう。或は後世の傳寫の際に脱ちたのかとも思はれる。)さうしてこのしかたは、書紀の本文の如きものの書かれた時にも、或は行はれたかもしれぬ。神武紀の卷首には、ホノニニギの命に此の國を授けられたのは、タカミムスビの命と日の神(オホヒルメの命)との二神であつたやうにいつてあり、またオホナムチの命の國ゆづりの時の話を想起して語られてゐるところには、日の神の名だけを出してあつて、神代紀の本文にこれらのことをすべてタカミムスビの命のみのはからひのやうに記してあるのとは、一致してゐないことを考へると、書紀の編纂の時にも、或は日の神のしわざとし、或は二神の共同のとし、また或はタカミムスビの命のとする考の、並び存してゐたことが知られるが、これは、これらの三つの考へかたがそれ/”\歴史的變化の三つの段階であることを、示すもののやうである。古事記の神武の卷には、國ゆづりの話に關聯して語られてゐるところに二神の名を擧げてあつて、書紀とは違つてゐるが、これはこの書の神代の卷の記載と一致してをり、何れも第二の段階にある考であることをも、考へあはすべきである。ヤタガラスの話に於いて、書紀には日の神の名のみを、古事記にはタカミムス(515)ビの命の名のみを、擧げてあるが、これはそれ/”\第一と第三との段階にある考であらう。要するに、この物語にタカミムスビの命の現はれたのは、物語の原の形に於いてではなく、後になつて生じた變化であり、さうしてそれが現はれたはじめには、日の神と並び立つことになつてゐたのを、後には日の神に代つてその地位を占めることになつたのである。しかし今日に傳はつてゐるいろ/\の異本には、これらの三つの考の混雜して現はれてゐるものが多いので、それは、それらの何れもが後世になつていろ/\に手の加へられたものだからのことであらう。古事記には、物語の中途からタカミムスビの命をタカキの神の名で記してあるが、これはことがらは違ふけれども、名の記しかたの混雜してゐることの例にはなる。
 第二の問題についてはかう解せられるとして、次には立ちかへつて上にいつた第一の問題を考へねばならぬのであるが、それは便宜上、後章に於いてすることにしよう。たゞ日の神の岩戸がくれの物語にもスサノヲの命の追放のにも、タカミムスビの命は現はれずして、天くだりとそれと表裏一體となつてゐる國ゆづりとの話に至つて、始めてその名の見えることには意味があらう、といふことをこゝで一言しておく。
 次の間題は天くだられた神のことであるが、これについては、書紀の本文では、最初からホノニニギの命が降られることになつてゐて、注記の第六の「一書」も同樣であるが、古事記では、初めはそれがオシホミミの命の任とせられてゐたのを、オホナムチの命が國をゆづつてアシハラノナカツ國が平定した時に、てうどホノニニギの命が生まれたので、此の命が降られることになつた、としてかる。また書紀の注の第一の「一書」には、ほゞ古事記と同じことが語られてゐるが、第二の「一書」には、オシホミミの命が日の神から寶鏡を授けられ、アメノコヤネとフトタマと(516)の二神さへ隨從の命を受けて、既に出發せられた途中でホノニニギの命が生まれたため、父の命はタカマノハラに還り子の命が代つて降られた、としてある。此の中で最後の説は、あまりに話のすぢが迂曲であることからいつても、また此の書の全體の性質が後世の潤色を經てゐるものと認められる點からいつても(上文參照)、古事記に見える如き話がもとになつて、それが更に變化したものらしい。さすれば、古事記の説と書紀の本文のとはどちらが古い形であらうかといふに、オシホミミの命といふ何のはたらきをもしない神の名がこの物語の作られた初からあつたかどうかが、根本的に疑問の存するところであるので、此の點から先づ考へてかゝらねばならぬ。
 オシホミミの命について、殆んど唯一の語られてゐることは、タカミムスビの命の女のヨロヅハタトヨアキツシヒメ(又はタクハタチチヒメ)を妃とせられた、といふ話であつて、ホノニニギの命は此の結合によつて生まれたのであるが、幾度も述べた如く、タカミムスビの命は神代史の物語が一ととほり成り立つてから後に現はれた神であるから、少くとも此の話は後人の添補したものに違ひない。古事記に此の神を獨神隱身としてあるのは、抽象的概念の擬人せられた此の神には、甚だふさはしいのであるから、それは初から此の神の性質として考へられたものであらう。もしさうとすれば、此の神に女の子があるといふ話は、それがこの神の名の現はれたよりもはるか後になつて作り加へられたものであることを、示すものである。初からかういふ話があつたのに、何人かが後になつて獨神隱身といふ性質を此の神に與へた、と見るよりも、獨神隱身とせられてはゐたが神となつてゐるために、後人が人の形と性質とをそれに與へてかういふ話を作つた、と考へる方が妥當である。この神が本來宗教的意義をもつてゐる神であるかどうかは別の問題として、人の形をもち人としてのはたらきをする神でないことは明かであるから、それが子をもつて(517)ゐるといふことは、皇祖たる日の神と共にタカマノハラを主宰したやうになつてゐることと共に、この神の性質がこの物語に於いて全く變へられてゐることを示すものである。ところが此の物語に於けるオシホミミの命は、このやうにして性質の變へられてゐるタカミムスビの命と離るべからざる關係にあるものであり、さうしてそのタカミムスビの命が此の物語の後の潤色に於いて初めて現はれたものであるとすれば、天くだりが最初はオシホミミの命の任であつたといふことは、この物語の最初の形には存在しなかつたのではあるまいか。もしさうならば、上記の問題については、古事記よりも書紀の本文の方に古い形が傳へられてゐるといはねばならぬ。書紀の説の單純であることも、最初の話の形として見るに適してゐる。書紀の本文にも注の第四の「一書」にも「眞床覆衾」をホノニニギの命にきせて降されたといふことがあるが、この場合では、これは此の命を生まれたばかりの嬰兒としての話であらうと解せられるから、古事記に見えるやうな説から派生したものであり、從つて書紀にさう書いてあるのは最初からホノニニギの命の名を出してあることと矛盾してゐるが、これはもとの物語と後に修飾せられた話とが機械的に結びつけられたからのことである。(ホヲリの命が眞床覆余の上に寛坐したといふことが海の宮の段の注の一つの「一書」に見えてゐるが、こゝのはそれとは違つて、ホノニニギの命を覆ふとか裹むとか書いてある。)もつとも此の書紀の説では、ホノニニギの命をタカミムスビの命の女の生んだ子としてあるが、それはオシホミミの命がタカミムスビの命の女を娶つたといふ話の現はれた後に書かれたものを材料として綴り合はせたからである、と解釋して差支が無からう。比較的古い形の遺つてゐるところのある書紀の注の第一の「一書」に同じことが見えるのも、後人の潤色したものであらう。さて何故にオシホミミの命がこの物語に現はれたか、といふに、それはタカミムスビの命をはたらかせるため(518)であつたと推測せられる。このことについてはなほ後にも考へる機會がからう。
 次に問題となるのは、ホノニニギの命に授けられたといふ神寶の話である。書紀の本文には神寶の話はまるで無く、前章に述べたことのある注の第六の「一書」も同樣である。ところが其の第二の「一書」には鏡のことが見えてゐ、(オシホミミの命に授けられたことになつてゐるのは、もとホノニニギの命としてあつたのが、かう書きかへられたものであらう、)古事記と書紀の注の第一の「一書」とには、勾玉と鏡と劍とが記されてゐる。なほはるか後に編纂せられたものではあるが古語拾遺には、鏡劍二種の神寶といふことがあつて、矛と玉とがそれに附隨してゐたやうに書いてあり、延喜式に見える大殿祭の祝詞にも、鏡劍の二つが天つ璽として皇孫に傳へられたとある。かういふいろ/\の異説のあることは、どう解釋すべきものであらうか。これが問題である。そこで先づ、物語自身が此の神寶を如何なる意味のものとして説いてゐるかといふに、鏡をのみ擧げてゐる書紀の注の第二の「一書」には、此の寶鏡をわれとおなじく視、おなじ床おなじ殿に置いて齋ひの鏡とせよ、と日の神がいはれたとあり、三種を列擧してある古事記にも、鏡のみについて、これをば我が御魂としてわれをいつく如くいつきまつれ、といふ日の神のことばを載せてあるが、やはり三種を擧げてある書紀の注の第一の「一書」には、たゞ賜はつたとあるのみで其の意味は述べてなく、それとは別に、いはゆる天壤無窮の神勅が記してある。これについても種々考ふべきことはあるが、しかしそれは何れにしても、皇孫に授けられたといふことは、それがおのづから其の子孫にも傳へられるものである、といふ豫想の下に話されてゐるに違ひないから、これは天皇の御位のしるしとして歴代に傳へられるものとしての神寶の觀念に基づいた物語、いひかへると神寶の起源を説いた話であらう。さすれば、此の物語について上記の問題を解釋する(519)には、歴史的事實として神寶が何々であると思はれてゐたか、といふことを考へる必要がある。
 そこで書紀を開いて即位もしくは踐祚の記事をしらべて見ると、古いところでは繼體紀に「上天子鏡劍璽符」といふことがあり、宜化紀に「奏上劍鏡」と書かれてゐる。繼體紀に見える「璽符」の「璽」は、允恭紀の「上天皇之璽」または「捧天皇之璽符」、推古紀舒明紀の「以天皇之璽印獻」、孝コ紀の「授璽綬」などの「璽」と同じく、「しるし」といふことであり、「符」または「印」と同じ意義に外ならぬのであつて、それは、秦漢以來のシナの天子が代々持ち傳へたといふ璽の、其の名稱と文字とを借り用ゐたものであるから、例へば鏡とか劍とかいふやうな器物そのものの名でないことは明かである。(璽が勾玉をさすのでないことはいふまでもあるまいが、此の文字にはシナでいふ玉の意味も無い。)さて繼體紀の此の「璽符」が、其の上に書いてある「鏡劍」を指すのか、または「鏡劍」の外に何物かがあつてそれをさすのか、甚だ曖昧であるが、不用意にシナの成語が列べてある場合の多い書紀のことであるから、かういふことを深く詮索するにも及ばず、また全體からいつても、繼體紀宣化紀ころの書紀の記載を、其のまゝに歴史的事實として見ることはできないから、此の二つの場合に於いては、たゞ歴代に傳へられる神寶として書紀の編者に鏡劍の二つが明瞭に思ひ浮かべられてゐた、といふことを注意して置けばよからう。それから持統紀には「奉上神璽劍鏡」と見えてゐるが、此の時代になると、書紀の記載も大體は確かな事實として認められるから、持統天皇のころには、朝廷の儀禮に於いて劍鏡の二つが神寶として取扱はれたことがわかり、從つてまた一般にもさう思はれてゐたことが知られる。此の文の「神璽」が、次につゞけて書いてある鏡劍を指すものであることは、神祇令に「凡踐神之日、中臣奏天神之壽詞、忌部上神璽之鏡創、」とあるのによつて確かめられる。持統紀には「之」の字が無いが、意義(520)は神祇令のと同じであるに違ひない。持統紀をもつと詳しく引用すると「神祇伯中臣大島朝臣讀天神壽詞、畢、忌部宿禰色夫知奉上神璽劍鏡於皇后、皇后即天皇位、」といふのであつて、其の儀禮が此の令の本文と全く同じであるのを見るがよい。さすれば、書紀編纂の時代にもやはり同樣であつたので、上に引いた繼體紀や宣化紀に鏡劍の二つが擧げてあるのも、かういふ事實を基礎として書かれたものであらう。古語拾遺に、崇神天皇の時に護身の御璽として新に鏡劍が造られたので、それが踐神の時に天皇に上る神璽である、といふ話の載せてあるのも、またこゝに由來があると見なければならぬ。此の古語拾遺の本文にも「神璽鏡劍」としてあつて「之」の字が無いが、此の「神璽」が「鏡劍」をさしてゐることは、「更鑄鏡造劍、…………是今踐神之日所獻神璽鏡劍也、」とある文章の上から明白である。もつとも平安朝に於いては、「璽」または「神璽」といふことばが全く別の意義に用ゐられるやうになつてゐたので、續後紀以後の國史の天皇の崩御もしくは踐祚即位などの記事には、それと寶劍とが列記してあるが、それはともかくも、古語拾遺の文意は何等の疑を容れないものである。これは多分、もつと前からあつた何かの本文を、そのまゝ採つたのであらう。なほ「儀式」の大甞會の辰日の條に「神祇官中臣……奏天神之壽詞、忌部奉神璽之鏡劍」とあり、延喜式にも同じことが書いてあるが(奉が奏になつてゐる本のあるのは傳寫の誤らしい)、これも多分、古い記録の文字が襲用せれらたのであらう。(北山抄や江家次第には「神璽鎭劍」とあつて「之」の字が無くなつてゐるので、これは或は、持統紀や古語拾遺の場合とは違つて、これらの書の書かれた時には璽が鏡劍と並んで別のものと考へられてゐたからかも知れぬが、それよりもむしろ、「之」の字の無い書きかたが文章の上で遺存してゐる、と見るべきであらう。江家次第に「近代無比事」と記してある如く、實際には忌部の職掌になつてゐる此の儀禮は廢れてゐたらし(521)いからである。)かう考へて來ると、上に述べた大殿祭祝詞や古語拾遺やの、皇孫降臨の際に授けられた神寶が鏡劍の二種であつたといふ、話の由來もおのづから推せられるであらう。いひかへると、それは歴代に傳へられる神寶が此の二つであると考へられてゐた持統朝文武朝ごろ(に限らないであらうが明白に史籍に現はれてゐるところでいふと此の時代)の思想が基礎になつて語られた話であつて、古語拾遺の話も、少くとも其のころから傳へられたものに違ひない。古語拾遺は固よりイミベ氏の一家言であり、大殿祭祝詞もイミベ氏に縁の深いものではあるが、此の話が必ずしも此の家の私説とのみ見ることのできないのは、それが書紀や令に明文のある思想と聯絡を有することによつて、知られよう。
 ところがこゝで問題の生ずるのは、古事記や書紀の注の第一の「一書」に、皇孫に授けられた神寶を三種としてあることについてである。古事記は天武天皇の時に存在した舊辭によつたものであり、書紀の注の「一書」とても書紀編纂の前から傳はつてゐたものに違ひないが、此の話が何時ころからあつたものであるかは、明かで無い。ところが、もし此の話の由來を考へるに當つて、大殿祭祝詞や古語拾遺やの記載について取つた方法を逆に用ゐるならば、少くとも天武朝以前に於いて、歴代に傳へられる神寶が三種であると思はれてゐた時代があつた、と推測し得られるかも知れぬ。もしくは二種と考へるものがあつた傍に於いて、三種と思ふものもあつた、といふ想像ができるかも知れぬ。けれども文獻の上に於いてさういふ徴證は全く見えず、特に三種と信ぜられてゐたのが一種を減じて二種と思はれるやうになつたといふことは、時代の經つに從つて數の増す場合の多い、かういふことについて、容易に首肯し難き話であり、また同時に二樣に考へられてゐたといふのも、かなり無理な臆測である。のみならず、歴史的事實の記載を(522)もとにして物語の由來のそこにあることを推測するのはよいが、其の逆の考へ方は必しも妥富であるとはいはれぬ。だから古事記などの話については、別に其の理由を求むべきものであるかも知れぬ。が、それはしばらくあとまはしとする。
 然らば歴代に傳へられた神寶は、初から鏡劍の二種として世に考へられてゐたかどうか。それはなほ考ふべき問題であるが、歴史的事實の記録としての文獻の上からは、これについて何等の推測をも下し得ない。のみならず物語の上に於いても、此の點は不明瞭である。古語拾遺には、崇神天皇の時に前に述べたやうな意味で新に鏡劍を造られたのは、今まで同殿に安置せられた鏡と劍とを別にヤマトのカサヌヒに祀られたからだ、としてあり、さうして鏡の祀られたのは即ちそれを日の神の象徴としてのことであらうから、此の日の神としての鏡は、即ち歴代に傳へられた神寶としての鏡であつたことになつてゐる。ところが書紀の記載では、此の朝に日の神の祭祀の話があるのみであるが、此の日の神の祭祀が、もし古語拾遺の記載によつて推考せられる如く、歴代に傳へられた神寶としての鏡を日の神として奉祀したといふのならば、そこに劍が大神とは別のものとしてあるのが問題であつて、そこから、或る時代には鏡のみが神寶として考へられてゐたことがあつた、と推測し得られるかも知れぬ。もつとも書紀には、神寶としての鏡を日の神として奉祀したといふ明文の無いことからも、ヤマトのオホクニダマの神の話が此の日の神の物語と同じやうに記されてゐることからも、また神代紀の本文には全く神寶の話が無いことからも、さう單純に決めてしまふわけにはゆかないやうである。が、オホクニダマの神の話は他には全く見えないのであるから、これは後からの添加とも解し得られる。(注記してある一説には、ヤマトの大神、即ちオホクニダマの神、と日の神との間に特殊の關係が(523)あるやうに記してあるが、これはオホクニダマの神の話の作られた後に加へられた潤色であらう。此の一説には種々の點に於いて新しい分子が多い。)また前後に不調和な記事の多い書紀のことであるから、神代紀の物語とこゝの話との間に主旨の一貫しない點のあるのは、其の理由を別に求むべきものかも知れず、少くとも此の話は此の話だけで解釋してよいやうにも見える。さうして日の神が皇居に祭つてあつたといふ崇神紀の記載は、明文こそ無けれ、神寶としての鏡の祭られてゐたことを暗示してゐるやうでもある。さすれば、上記の推測も全く理由が無くはなからう。さうしてかう推測すると、皇孫に授けられた神寶として鏡のみを擧げてある書紀の注の第二の「一書」の説が、想起せられる。古事記に三種を擧げながら、其の意味を説明する日の神のことばは、たゞ鏡のことのみであるのも、注意を要する。天皇の御位が日の神から傳へられた「天つ日嗣」であり、鏡が日の神の御魂とせられてゐる以上、その天つ日嗣のしるしが鏡であると信ぜられるのは、極めて自然の話である。少くとも劍は、天つ日嗣のしるしとしては、鏡と同じやうには見られてゐない。何故に鏡が日の神の御魂とせられたかといふと、それは鏡の形と光輝とのためであつたらしく、書紀の注の「一書」に鏡を日の神の象としてあるのも、同じ意味からであらうが、これらは物語としての構想であつて、事實として鏡の尊重せられたのは、それに大なる呪力があるとせられたことに由來があり、同じく呪力があるにしても、劍や玉よりは、それが優れてゐるとせられたためであらう。それが物語に於いてかういはれたのは、日の神に關聯して語られたからであらうが、鏡が特に重んぜられたことは、かういふ由來から考へても、意味のあることであつた。もつとも書紀の注の此の第二の「一書」は、鏡のことの前に書いてあるオホナムチの命の物語が、上にも述べた如く、後世の潤色を經たものであり、また後に述べるやうな理由もあるので、全體としては決し(524)て舊辭の舊い形を具へたものではないから、こゝに鏡のみを擧げたのも、例へば古事記の話に見える如く、日の神のことばとして、鏡についてのことのみ傳へられてゐたために、それだけを特に取り出して記したのかも知れず、從つてあまり性急な判斷をするわけにはゆかないが、しかし世間一般に劍があると思はれてゐた時に、其の劍を故らに省いて、鏡のみを記すといふことは、ことがらがことがらだけに、想像し難くも思はれるから、それは鏡のみと思はれてゐた時代に書かれたものが此の「一書」に採られてゐたので、古い思想の名殘がこゝに遺存してゐる、と見る方が妥當ではあるまいか。一般的に考へても、一種から二種となるのはあり得べきことであらう。
 しかし、崇神紀の日の神の奉祀の記事をかう解釋して來ると、さういふ記事のある書紀に此の朝の神寶新造の物語の無いのが、やゝ解し難くなる。かういふ解釋は、神寶の起源に關する物語、即ち皇孫に神寶を授けられたといふ話、の存在を豫想してのことであるから、それに伴つて崇神朝新造の話があるべきはずである。一體、古語拾遺に出てゐる神寶新造の物語は、古事記にも書紀にも全く見えないのであるが、一方には現に神寶が歴代に傳へられてゐる事實があり、他方に皇孫が其の神寶を日の神から受けられたこと、それが崇神朝になつて別のところに奉祀せられたことの物語がある以上、それが一つと思はれてゐたか二つもしくは三つと考へられてゐたかの如何に關せず、それに應じて、かういふ新造の話は無くてはなるまいに、それが記紀に見えないのは何故であらうか。偶然遺脱したと見るには、あまりにことがらが重大ではなからうか。もつとも古事記には、崇神天皇垂仁天皇の時に日の神をカサヌヒにもイセにも奉祀せられたやうな話は無いので、そこにやはり一つの問題があるが、トヨスキイリヒメの命とヤマトヒメの命とが、イセの日の神を拜祭したといふことは見えてゐ、また皇孫降臨の段には、皇孫の受けられたといふ鏡がイセに齋(525)き祭つてあるやうに書いてあるから、今日の形に於いての古事記で見ると、やはり新造の物語が無くてはならぬのである。ところが、こゝに見かたを一變し、神寶の起源についての話が全く出てゐない書紀の神代紀の本文を根據として考へて見ると、日の神をイセに奉祀したといふ話は、神寶の物語とは關係が無く解釋せられるので、從つて崇神朝新造の話は無いのが自然だといふことになる。神寶の起源を説いたあのやうな物語があればこそ、其の神寶を日の神の象徴として別の場所に奉祀したといふ話が生ずるのであるが、それが無ければかういふ話も無いはずであるから、日の神奉祀の由來に關する物語があるにしても、それは神寶の話とは關係なく成り立ち得るのである。實際、崇神紀の日の神の奉祀の物語を表面の文字のまゝに讀めば、それは神寶の話から全く離れても解釋せられる。書紀にも日の神が皇居に祭つてあつたやうに書いてあるので、此の話の筆者には神の象徴として何かの品もののあるべきことが考へられてはゐたらうが、それは必しもかの神寶であるには限らない。同じところに日の神と竝んでヤマトノオホクニダマの神が祀つてあつたとあり、さうしてそれは神寶とは何の關係も無いものであることを參考するがよい。しかし裏面の意味を摸索して皇居にあつた神寶としての鏡がイセの大神として祀られることになつたと解することも、必しも無理ではなからうが、もしさうとすれば、それは次にいふやうに後になつて世に現はれたこの物語の添加せられたものと見ることができる。だからそれはどちらにしても、こゝにいふ主旨には妨が無い。從つて、神代の物語に神寶の話の無かつた時代があり、從つて崇神朝の物語にも神寶新造の話の無かつた時代があつたので、書紀にも古事記の崇神の卷にも、其の時代の面影が遺存してゐる、と推測しても差支が無からうではないか。後にいふやうに、歴代に神寶を傳へられることは、それが何々と思はれてゐたかは別問題として、古くからの習はしであつたらうが、それを(526)基礎にした話がまだ神代の物語にできてゐなかつた時があつたらう、といふのである。なほ古事記の皇孫降臨の物語には、アメノコヤネの命以下の所謂五伴緒を隨從させられるといふことが主になつてゐて、玉や鏡や劍は、オモヒカネの神、タチカラヲの神、アメノイハトワケの神、と共に「副へ」賜はつたことになつてゐるので、こゝに神寶の物語が後に加へられたものである形跡が見えるやうでもあるが、しかし次にいふやうに五伴緒隨伴の物語が古くからあつたかどうか問題であるから、さう簡單に説き去り難い。また此の書き方には幾分か神寶を輕く見てゐる傾があるが、鏡を日の神たるイセの大神とする思想、また鏡についての日の神のことばといふものには、それを極めて重要視してあるのであるから、此の二つは互に調和し難い考のやうである。鏡についてのかういふ思想のあらはれてゐる物語と、神寶を皇孫に賜はつたといふその起源説話とは、別々に世に現はれたものであつて、それがかういふやうに結合せられたのではあるまいか。
 もつとも神寶が歴代に傳へられてゐるといふ事實に基づいて其の起源を説いた話が、皇孫降臨の物語に於いて存在してゐたにせよ、イセの神宮と此の神寶の話とを結合する物語が現はれなければ、崇神朝の新造説話は無くてよいのであるから、書紀の神代紀の本文は、神寶の起源に關する話が遺脱してゐるもの、もしくは省略せられてゐるものとして、説明することができなくもない。たゞそれには、崇神紀の記載を神寶と關係なく解釋することが、必要なだけである。しかし書紀の編纂せられた時には、神寶が歴代に傳へられてゐる事實も一般に知られてゐ、また其の起源についての物語、即ち皇孫降臨の時に日の神から與へられたといふ話も、明かに世に存在してゐたのであり、さうして其のことは思想上頗る重大なるものであるから、偶然それが本文に遺脱したと考へるのは、無理であらうし、書紀の(527)編者が其の物語を採用してはならないやうな、或はそれを省略しなければならないやうな、理由があつたとも思はれないから、本文に其の物語の見えないのは、本來それが無かつた舊辭の説を其のまゝに承けついだものと、推測する方が妥當であらう。
 要するに、神寶を歴代に傳へられることとイセに日の神が奉祀してあることとは、或る時代から後の嚴然たる歴史的事實であるが、此の二つの事實を結合して説いた物語も、また皇孫降臨の場合のこととして神寶の起源を説いた話も、舊辭の最初の形に於いてはまだ無かつた、と見ることができるのである。ところが何時からか神寶の起源についての物語が世に現はれ、その後になつて、イセの大神として祀つてあるのがその神寶である、といふ話がいひ初められ、さうしてそれらが舊辭の或る本にのせられ、從つて崇神朝新造の物語もまた語られるやうになつたのであらう。だから、神寶の起源についての物語が始めて世に現はれた時には、後世まで歴代に傳へられてゐる神寶は、日の神が皇孫に與へられたそのものとして、考へられてゐたのである。もと/\神寶の起原の話と新に神寶を造られたといふ話とは、其の精神に於いて調和しない點があるが、それにもかゝはらず此の二つが並び存するのは、イセの大神の奉祀と神寶とを結合した物語の世に現はれたためであつて、此の物語が實は既に神寶の起源の話と根本に於いて幾分の牴牾するところがあるのであるから、それは本來別の思想から、また多分別の時期に、出た物語らしい。神威を畏れて同殿に安置せられることを憚られたといふことが、神寶の起源説話の思想とは一致しないのである。それから、神寶の起源の話に於いては、初は鏡のみが語られ、次に鏡劍二種の物語が現はれたのではあるまいか。鏡のみが語られたといふことは、神代紀の注の第二の「一書」と崇神紀との記載から、必然的に導かれる歸結ではないかも知れぬが、(528)上に述べた其の他の理由は依然として價値を失はないから、そこから此の推測ができるのである。さうして此の推測ができるならば、崇神朝新造の話に於いても、最初は鏡のことだけであつたかとも思はれる。神寶とイセの大神とを結合した物語の現はれたのは、神寶を二種としての話が世に出たよりも後であるかも知れないから、單純にさう決めてしまふわけにはゆかぬが、次にいふ劍のことから考へても、さう推測する方が妥當のやうである。かういふ風に次第に新しい物語が世に現はれて來たが、しかし舊辭のうちにはもとの形を變へない本もあつたので、後に潤色せられた種々の異本には、それらの説がさま/”\に混淆して載つてゐたらしい。書紀の神代紀の本文や古事記の崇神垂仁の卷に舊辭の最初の形が遺つてゐるのは、此の故であらう。
 さて神寶が鏡劍の二種であると思はれてゐた時代のあつたことは、前に述べたところによつて疑は無からうが、其の起源を説いた物語に於いては、劍が草薙劍として古語拾遺に記されてゐる。ところが此の劍のことの見えるヤマトタケルの命の物語に於いては、記紀ともに、それが神寶であつたといふやうなことは全く述べてない。さうしてヤマトタケルの命についての此の劍の話と、神寶の起源を説いた物語に見える神寶の觀念との間にも、また調和し難い點がある。ヤマトタケルの命の話では、劍を比較的輕く取扱つてあるのである。だから、神寶を二種とした物語に於ける劍が、初から草薙劍として説かれてゐたのならば、此の劍に關するヤマトタケルの命の話は、神寶二種説の初めて現はれたよりも前から、神寶といふ觀念とは關係なく、存在してゐたのではあるまいか。さうして本來獨立した説話に見えてゐた草薙劍が、何等かの事情から、神寶物語の中に地位を占めるやうになつたのではあるまいか。古語拾遺に見える話には、斯ういふ歴史があるのではあるまいか。(書紀のヤマタオロチの物語の條に注記せられてゐる二つ(529)の「一書」には、此の劍がヲハリに祀つてある神であると記してありながら、スサノヲの命が日の神にそれを獻上せられたといふ話が出てゐず、從つて此の章で述べて來たやうな意味での神寶として考へられる徑路を缺いてゐるから、これには此の劍の話の古い形が遺存してゐるのではなからうか、とも思はれるが、しかし此の劍が特に尊重せられ、またそれがスサノヲの命の得られたものであるといふのは、神寶として日の神から傳へられたといふ物語の故であらうと思はれるから、此の「一書」どもの記載に日の神に獻上したことの無いのは、偶然遺脱したのであらう。或は劍のことをいふのが主であるために、單に其の所在を記したのであつて、其の他のことに説き及ばなかつたからでもあらう。此の「一書」どもは、草薙劍が神寶として語られた後に書かれたものらしい。)なほ草薙劍がスサノヲの命から日の神に獻上せられたものであるといふ話は、神寶物語にそれが現はれてから後に生じた思想であらうが、其の意味については後に考へよう。
 こゝまで説いて來ると、古事記及び書紀の注の第一の「一書」の神寶物語にそれを三種としてあるのが、最後に世に現はれたものであることは、おのづから推知せられよう。いひかへると、古語拾遺などによつて傳へられたものに、更に勾玉の一つを加へたものである。三種あつたやうに語られてゐる古事記及び書紀の注の「一書」には、古語拾遺と同じく、劍を草薙劍としてあることをも考へるがよい。しかし上に述べた如く、持統朝文武朝ごろに於いては、朝廷の儀禮でも神寶は二種とせられてゐたから、此の新説は、當時の朝廷の儀禮にもまた一般の思想にも根據があるのではなく、勾玉も鏡や劍と同じく靈物とせられ神と視られ、また同じく祭祀の場合に用ゐられるものでもあつたために、物語の上でそれが補はれたまでのことであらう。矛と玉とがおのづから神寶に附隨してゐたといふ、古語拾遺に(530)よつて傳へられてゐる物語の思想が、玉について更に一歩を進めたものであつて、それには三の數を重んずるやうになつた特殊の思想の影響もあるらしい。古事記のもとになつた舊辭は、崇神の卷に於いて、イセの大神奉祀の物語も崇神朝の神寶新造の話も無い舊形を保持しながら、神代の卷の此の段に於いては、かういふ新しい話が加はつてゐたのであらう。なほ古事記にはこの文に「遠岐斯八尺勾?、鏡、及草那藝劍、」とあつて、上にも述べたことがあるやうに、此の「遠岐斯」は岩戸がくれの時の話として解すべきものであらうが、イセまたはヒノクマに奉祀してあるといふ鏡を、岩戸の物語に結合することが、本來後人の思想であることをも考へるがよい(上文岩戸がくれの物語に關する考説參照)。岩戸がくれの話とは全く關係の無い草薙劍が、其の場合の鏡と玉とに加へて取扱はれてゐるのも、注意を要する。それから玉については、古事記の日の神をタカマノハラに送り上げられるところに、イサナキの神がみすまるの玉を大神に授けられたといふ話、その玉はミクラダナの神と名づけられたといふ話があつて、これは他の異本には全く見えてゐないことであるが、これを思ふと古事記のもとになつた舊辭には、何等かの理由で、特に玉を重んずる傾向があつたのではあるまいか。しかし後になると、この三種説が公式に採用せられ、それによつて玉が神寶の一つとして加へられるやうになつた。
 上記の考説は記紀に見える神寶の物語についての觀察であるが、我が皇位の象徴として神寶を傳へられたといふことは、極めて古い時代の風習に其の由來があらう。君主、特に宗教的地位を兼有する君主に、かういふ性質の器物が隨伴してゐることは、他の民族にも其の例が多い。さうして鏡も劍も又は玉も、それみづからが呪力を有するもの、靈威のあるもの、即ち神、であると考へられてゐたことは、イセの大神やヒノクマの神が鏡であり、劍にイツノヲハ(531)バリの神ミカフツの神などの名があり、又は玉がミクラダナの神といはれたとあるのでも、知られるが、かういふ類のこともまた、上代人に於いては、世界の諸民族に普通な宗教思想であるのみならず、君位の象徴とせられてゐる器物は、大抵の場合、やはり靈威あるものとせられ神とせられてゐるのである。それからまた、神寶の物語とは關係のないものとして考へても、イセに鏡の奉祀してあつたことは事實であらうが、それも、鏡が神として信ぜられた以上、自然のことであり、特に非の神に鏡が聯想せられることには、上に考へたやうな理由があり、書紀の注の「一書」に見える日の神(及び月の神)の生誕の話に鏡の用ゐられてゐるのもそのためであらうから、これもまたイスズの宮が日の神を奉祀してあることになつた最初からのことであるらしい。或はもつと古くからのことかも知れぬ。また草薙劍の物語とは別に考へても、アツタに劍の祀つてあることの起源は古いに違ひない。アツタは遠い昔から其の地方の民衆の祭祀などを行ふ靈地であつたらうと思はれる。
 次にはいはゆる神勅のことが問題になる。古事記と書紀の注の第二の「一書」とには、神寶としての鏡を與へられたにつれて、この鏡をわが魂としていつきまつれ、またはわれと思うて齋ひの鏡とせよ、といふ日の神の勅語があるので、これは宗教的意義のことになつてゐる。鏡が宮中に奉祀してあるものとして、それが日の神の象徴として考へられてゐたことの起源を説いたものであらう。古事記では、この降臨の物語に岩戸がくれの話が思ひ出されてゐるが、それにも或は、鏡を日そのものとしての日の神の象徴とする考が潜んでゐるかもしれぬ。また次にいふやうに、「一書」の方では、ホノニニギの命に隨從してこの國に降つたものをコヤネの命とフトダマの命との二神とし、またタカミムスビの命がこの二神に對して、天つひもろぎをもつて降るやうに命じたとしてあるが、これも天皇が神を祭つて(532)その加護を求められることの起源説話である。上記の意義で鏡を祭るのと、ひもろぎをたてて一般の神を祭るのとは、同じく宗教的の儀禮であつても、その意味は違ふやうにも見えるが、鏡によつて象徴せられてゐる日の神が皇祖神ではあるものの、それに日そのものとしての日の神のおもかげがあるとするならば、その鏡をいつくことにも、やはり、一般の神を祭るのと同じ意味が含まれてゐよう。これはこの話の鏡に日の神の象徴であるといふ特殊の意義をもたせての考であるが、單に鏡として見るならば、神の宿るところとしての樹木に鏡をつけるのは、上代の風習であつて、ひもろぎといふのもさういふ樹木であらうから、この二つの神勅の間に思想上の結びつきのあることは、一層明かであらう。また書紀の注の第一の「一書」の神勅は、皇位の無限の永續を祝福したものである點において、全く政治的意義のものとなつてゐるが、この神勅には天地を無窮とするシナ思想が含まれてゐることから見ても、かなり後世に書かれたものであることが知られる。古事記及び第二の「一書」のよりは、後の潤色であらう。かういふやうに、本によつて或は宗教的意義のものであり、或は政治的のものであるのは、何れも現在の皇室のそれ/”\の側面を示すものであるから、これは、そのうちのどれかがもとになつて他のがそれから變化したのではなく、別々に考案せられたものであらう。ところで、これらの神勅の作られたのが神代史の潤色のいかなる段階に於いてのことであるかは、鏡に關するものは神寶の物語について上に考へたところにより、またひもろぎに關するものはフトダマの命について次に考へるところによつて、ほゞ推測せられよう。いはゆる天壤無窮の神勅については、別に第五篇で考へることにする。
 次には皇孫に隨伴して降つたといふ神々のことを考へて見なければならぬ。此のことも書紀の本文には全く見えて(533)ゐないが、其の注の第二の「一書」にはアメノコヤネの命とフトダマの命とが擧げてあり、第一の「一書」と古事記とには所謂五伴緒が揃つてゐるし、古事記には別にオモヒカネの神、タデカラヲの神、アメノイハトワケの神、がある。それから古事記には降臨の際にアメノオシヒの命とアマツクメの命とが前衛を奉仕したといふ話があるが、このことだけは、アマツクメをアメノクシツオホクメとし、なほそれがオシヒの命に帥ゐられたとして、書紀の注の第四の「一書」にも出てゐる。さてアメノコヤネの命とフトダマの命とは、共に祭祀を司るナカトミ氏とイミベ氏との祖先であるが、此の二神のみを擧げてある「一書」では、二神に對してあまつひもろぎを持ち降つて皇孫のために齋き奉れといふ、タカミムスビの命のことばをのせてあり、神寶は上に述べた如く鏡のみであつて、それを齋鏡とせよといふ日の神のことばが記してあるから、全體が宗教的意義の話になつてゐる。政治に於いて祭祀が重要視せられた上代思想から見れば、かういふ話のあるのは自然のことである。ところが古事記などに於いて所謂五伴緒としてあるのは、ウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ、などの神がアメノコヤネの命などと同列に置かれてゐる點に於いて、やゝ妥當を缺いてゐるやうである。これは此の時の話を岩戸がくれの物語と連結したために生じたことらしく、それはオモヒカネの神、タヂカラヲの神、アメノイハトワケの神、がこゝに現はれてゐるのでも推知せられる。タヂカラヲ以下の神は、本來かういふ大切な役めをこゝでつとめる理由のないものであらう。かの玉と鏡とが岩戸がくれの時に造られたものとしたのが同じ動機から來てゐることは、既に前に述べた。だから、これは物語の古い形ではあるまい。それからオシヒの命とクメの命とはオホトモ氏とクメ氏との祖先であるから、これは、武人としての此の二家の職掌の由來を、説話の上に表はしたものであるが、それが降臨物語の初からあつたものかどうかは、これだけでは判斷し(534)かねる。そこで、これらの隨神の話の全く出てゐない書紀の本文のことを考へねばならぬが、もし上に説いた如く、神寶の物語の無いのが舊辭の最初の形であつたとすれば、それから類推して、これらの神々の現はれない書紀の本文の説もまた、やはり舊辭の古い形が遺つてゐるもの、と考ふべきではなからうか。はじめには有つたものを書紀の編者が省いたと見るよりも、無かつた本を採つたとする方が妥當ではあるまいか。省いたと見るには、省くべき理由のあつたことが推測しかねるのである。さうして家々の祖先の名を神代史の上に列べようとする欲求から、最も勢力のあるものが先づ加へられ、後になるに從つてそれが次第に増して來たのだと、推測するのが自然ではあるまいか。さう考へると、オシヒの命などの話は、コヤネの命の現はれたよりも後に作られたものではなからうか。また此の命などの見える本でも、クメ氏の祖先がオシヒの命の部下であるやうに書かれたのと、アマツクメの命をオシヒの命と同列に置いたのとを比較すると、前のが早く世に現はれてゐたのをクメ氏に關係のあるものが後のの如く作りかへたのか、或は後のは單獨にクメ氏の側の考から加へられたのか、どちらかであらう。クメ部は事實上オホトモ氏の部下であつたやうに見えるからである(第二篇第四章參照)。フトダマの命をコヤネの命と同じ位置にすゑたのも、また最初に現はれた思想ではないかも知れぬ(上文第八章および第二篇同上參照)。それらはともかくも、かういふ風に諸家の祖先が多く列擧せられて來ると、此の話の主要なる意味をなしてゐた宗教的色彩がやゝ薄れたやうに見える。が、其の宗教的要素も實は政治的意義に伴ふものであり、さうして諸家の祖先がこゝに現はれたのもまた政治上の制度としての氏族制に由來するのであるから、それは畢竟同じ精神から出たものと見ることができよう。皇孫降臨の物語には、後から添加せられた部分にも、かういふ政治的意義がある。
(535) さて以上は、はじめに表示しておいた異説の多いことがらの一々についての考説であるが、これで見ると、一つの本にも新舊本末のいろ/\の思想が錯綜して現はれてゐることが知られる。どの本の説も長い年月の間にさま/”\の手が加へらたものだからであらう。しかしどのやうに異説が生じても、ホノニニギの命がタカマノハラから此の國に降られたといふことに、違ひはない。さすれば、タカミムスビの命が現はれても現はれなくても、またオシホミミの命のことがあつてもなくても、天くだりの物語そのもの、從つてまた神代史に於けるその地位は、同じである。タカミムスビの命もオシホミミの命も、この意味に於いては、重要性の甚だ乏しいものである。神勅や神寶のことも、物語としては、装飾の用をなすまでのものであるが、たゞ神勅は、皇室の地位を明かなことばでいひ現はしたものである點に於いて、思想的意義があり、神寶は、皇室の政治的宗教的儀禮に關するものである點に於いて、現實的意義があるので、さういふ話のあるのは、天くだりの物語の精神を一層明かにすることになる。思ひ/\に添加せられたものであるにしても、添加したものの意圖と世に及ぼしたその效果とは、かういふところにあつたと考へられる。
 
(536)       第十五章 ホノニニギの命の天くだりの物語 下
 
 ホノニニギの命の天くだりの物語に於いて異説の多いことは、前章で考へたとほりであるが、たゞその降られたところがツクシのヒムカであるといふことに於いては、諸説がみな一致してゐる。そこでこのことにいかなる意味があるかが、次に考へてみなければならぬ問題である。さてヒムカが後の日向國(今の日向大隅薩摩を含む地方)であつて、タカチホの峯は、その名が固有名詞として一般に用ゐられてゐたものかどうかは別問題として、今の霧島山を思ひ浮かべて記されたものとしなければならぬことは、明かであらう(書紀の本文と其の注の二つの「一書」とには、タカチホの峯がソにあるとしてある)。ところが、此の地方は所謂クマソの地域であつて、此のクマソの勢力がヤマトの朝廷に服從したのは、いかに早くとも四世紀の終より前ではなく、大體は五世紀の前半のころであつたらうと思はれること、さうしてその勢力は、今の九州地方全體がまだヤマトの朝廷の版圖に入らなかつた前から、引績いて存在したものと認めねばならぬこと、我が皇室の發祥地として其の地方を考へることは決してできないといふこと、これらは第二篇の第六章に於いて既に説いたところである。後にいふやうに、ホノニニギの命からウガヤフキアヘズの命までの物語に、政治的意義のあるものが全く無いこと、それが何れも民間説話の類であつて、歴史的事實に基礎のあるやうなものは一つも見あたらぬこと、物語の地理的記載が不確實であり、土地とそこでの話とが不調和であること、竝に神武天皇東遷の物語がヤマトとヒムカとを概念的に連結してあること、いひかへると、物語の作者がヒムカ(537)といふ一地點のみを思ひうかべてゐて、一直線にそれをヤマトに結びつけたものであること、從つてツクツ地方をはじめとして沿道諸國の平定といふやうな話がないこと、などをも考へねばならぬ。然らば何故にヒムカに降られたといふことにしてあるかといふに、それに對する私考も既に第二篇(同章)に述べて置いた。日の出る東の方に面してゐるので、日に向ふといふ意義に解し得られるヒムカといふその土地の名が、日の神の子孫として天つ日嗣を傳へてゐられる皇室が始めて都を置かれた土地としては、最も適當であつたのである。ホノニニギの命にもホホデミの命にも、その名にアマツヒタカといふ美稱のつけてあることが、參考せられよう。また古事記と書紀の注の「一書」とに見えてゐる、日の神がツクシのヒムカで生まれたといふ、物語の由來も、またこゝにあるといはねばならぬ。ヒムカがヤマトよりも前の皇室の都の所在地、即ちヤマトの皇室の發祥地、とせられてゐた故に、そこを皇祖たる日の神の生誕地としたのではあらうが、其の根柢にはやはりヒムカの名の解釋が存在してゐる。(禊をせられたといふタチバナの小門は、多分、空想の地であらう。あの禊の物語に具體的の地理的觀念が無いことは、イヅモにあるといふヨモツヒラ坂から一足飛びにツクシのヒムカに話が移つてゐるのでも、明かである。何故にタチバナといふ名がつけられたか、そのタチバナが橘の意義であるかどうか、はわかりかねるが。)なほヒムカ説話には、或は、すべての文化がツクシの方から來るので、西國に對してヤマト人が有つてゐる一種のあこがれといふやうなものが、助をなしてゐるかも知れぬ。ヒムカは僻陬の地、未開のところで、固よりさういふ意味のある場所ではないが、ツクシの北部に對するかういふ思想が、實際の地理を詳にしないヤマト人に於いては、ひろく西國の全體に推し及ぼして考へられたかも、知れないのである。或はまたヒムカ地方との何等かの交渉や、ヒムカに行つたものの何かの知識が、偶然にかういふ思想(538)の發生を助けておるかも知れぬ。またホノニニギの命の降臨の話についていふと、天から下りて來たことになつてゐるかういふ物語は、ヤマト人の日常の見聞から遙に離れてゐる遠方の土地のこととして語ることが、要求せられたかも知れぬ。推測はいかやうにも加へられるから、それは論外としても、歴史的事實としてヒムカの地から我が皇室が起られたのでないことだけは、もはやこと新しく説くまでもなからう。
 ホノニニギの命のヒムカ降臨に關聯して、書紀の注の第一の「一書」には、命を先導して降つたといふサルダヒコの神がイセのイスズの川上に往つたといふ話がある。此の「一書」の記載は、種々の點に於いて古事記の所説と極めて親近の關係のあるものであつて、サルダヒコの神に關する話もほゞ同樣であるが、たゞ此のイセのことだけは、古事記には見えてゐない。しかし古事記にもウズメの命が此の神を送つていつたといふことがあつて、それが何處へ送つていつたのかは書いてないが、「一書」の説の如くイセであるとすれば意義がよく通ずるから、古事記のもとになつた舊辭には、本來あつたはずの此のことが脱ちてゐたものと推測せられる。古事記も、鏡がイセに祭つてあることを記し、オモヒカネの神をさへ同樣に記してあるなど、此の段の話に於いてイセに特殊の注意がしてあるのである。さて此のイセの話は、イセの神宮が日の神を祭つたことになつた後に生じたものに違ひないが、さういふことになつたのは、第二篇の第五章で考へたやうに、始めて神代史の作られたよりも後のこととすべきであらう。此の話が古事記とそれに關係のある書紀の注の「一書」との、外には見えないことを思ふと これは神代史の最初の形のものには含まれてゐず、後になつて添加せられたものと推測せられることを、考へ合はすべきである。日の神の祭つてある場所と此の降臨物語とを連結するために、補はれた話らしい。ついでにいふ。垂仁紀にイスズの川上を日の神が始めて天(539)から降られたところとしてあるのは、神宮の所在地を日の神それ自身に結びつけて、其の由來を説かうとしたものであつて、サルダヒコの神の話と同じ意圖が更に一歩を進めて現はれたものである。サルダヒコの神の話の作られたよりも、もつと後にできたものであらうが、參考するに足りよう。イセの神宮のある場所は、古い時代から其の地方の民衆が祭祀などの宗教的儀禮を行ふ聖地であつたらうと思はれるが、地形の上から推測すると、それは日そのものの崇拜とは直接の關係が無かつたやうである。そこが日の神を祀つてあることになつたのは、多分そこを含む廣い地域としてのイセが、ヤマトから考へて東の方、即ち日の出る方、の陸地のはてに當つてゐる、いひかへると日の出る方に向つてゐる海邊の土地である、からであらう。この意味に於いてイセは、地理的にはヒムカと同じやうにヤマト人には思はれたのであらう。從つてイセを日の神を祭るところとしたのは、ヒムカに日の神の子が降られ日の神がそこで生れられたことにしてあるのと、同じ思想のあらはれとして解せられる。(この點については、東方のはてと思はれてゐたヒタチ及びエミシの地にヒタカミの國があつたとせられてゐたこと參照。)たゞ既に日の神の神宮として知られた後になると、その起源を説くために上に記したやうないろ/\の説が現はれるのである。なほ古事記の此の段のイスズの宮のことの書いてある次に「次登用宇氣神、此者坐外宮之度相神君也、」の一句があるが、これは此の場合に何の縁も無いことであるから、古事記のもとになつた舊辭に於いて、何人かが無意味に書き加へておいたのであらう。
 なほ一言する。サルダヒコの神の特質は其の異樣な眼光、即ちいはゆる邪視、にある。(書紀の注の「一書」の方には、鼻が七咫あり背が七尺あつて口と尻とが輝いてゐるとあるが、これは此の神を一層異樣に見せようとしたのとサルの名とから來たもので、後人の潤色であらう。七咫七尺の七の數も、古くからの話としてはふさはしくない。前(540)にも述べたことがあるやうに、異樣の眼光を恐れることは、未開人一般の風習であるが、それは異人種もしくは異郷人に於いて、常に經驗せられるところであるから、此の話は、天つ神が異郷たる此の國土へ降られるといふ意味から、こゝに結合せられたものらしい。異郷に入る時にかういふ神が道のちまたにゐるといふやうなことは、民間信仰として、從つてまた民間説話として、存在したものであらう。なほウズメの命を此の話のうちの人物としたのは、サルメの君の名の起源を説くに都合がよかつたからではあるまいか。サルメといふ名の意義は明かでないが、此の話からそれが起つたのでないことは、いふまでもない。名稱の起源に關する説話は記紀の物語に甚だ例が多いことを考へねばならぬ。それから「一書」の方にウズメの命が胸乳を露はし裳帶を臍の下におしたれて此の神に對向したと、といふことがあるが、これは、サルダヒコの神の邪視を克服する呪術として語られてゐるものと解せられる。臍下云々はほとを暗示したものと解せられるので、岩戸がくれの物語に於けるこの命のしわざと對照して、その意味を知ることができる。また古事記にはサルダヒコの神とウズメの命とについて、ひらふ貝に手をかまれたとか、なまこの口を小刀でさいたとか、いふ話があるが、これらは何れも民間信仰や民間説話をこゝに結合したのみのことである。一體に古事記にはかういふことが多いので、其の最も著しい例は、オホナムチの神の話に見えてゐることであるが、これらは何れも古事記のもとになつた舊辭が、多く後人の潤色を經たものであることを、示すものであらう。
 話はやゝ横みちに外れたが、ヒムカ降臨の物語が、歴史的事實に何等の根據をも有つてゐないといふことは、以上述べたところでほゞ説明せられたことと思ふ。さすれば、其の土地がヒムカとなつてゐるのは、何處かにさういふ場所を求めねばならなかつたために、上に考へたやうな理由からヒムカが選ばれたものと解すべきである。また其の地(541)點がタカチホの峯としてあるのは、タカマノハラ即ち天から降られたことになつてゐるためであつて、かういふ話に於いて高い山が指定せられるのは、自然のことでもあり世間普通のことでもある。さうして天から降られたのは、日の神の孫として天に生まれたホノニニギの命のことだからであつて、此の降臨の話は、此の國を統治する君主としての日の神を天に上せた物語と、遙かに相照應するものである。かういふやうにして日の神の子孫が始めてアシハラノナカツ國に下られ、その統治者となられた、此の國土に在つて此の國土を統治せられるのは、ホノニニギの命にはじまる、といふのである。此の物語の主旨が皇位の由來を説く點にあり、物語そのものが政治的意義のものであることは、これで明かである。
 勿論、皇位には宗教的權威が伴つてゐる。天皇が現つ神であられるといふ意味に於いて、ホノニニギの命も現つ神であつたらう。天皇の御祖先であるこの命もまた天皇だからである。しかし天皇は、宗教的意義に於いて民衆の日常生活を支配する神ではない。宗教的信仰の對象としての神ではない。またホノニニギの命はたゞの人と同じやうにして生まれ、同じやうに崩ぜられた。タカマノハラで生まれタカマノハラから降られたにしても、人とかはつた何等の特色も無い。さうして降られた後は再びタカマノハラに上られることは無かつた。カササの崎の宮居もたゞの皇居である。タカチホの峯に降りつきながら、そこに留まらずしてカササの崎に宮居を定められたのが、既に人としての性質を示すものである。人代の始めは實はホノニニギの命である、といつてよい。だからタカチホの峯は神のゐるところでも、特殊の靈地でもない(ずつと後世の考は別として)。山には山の精靈たる神がゐるといふ意味に於いて、霧島山にも神がゐたであらう。それが不思議な烟を吐く火山である上は、なほさらである。けれども、それは到るとこ(542)ろの山、何處の火山、でも同じであるので、國民全體の信仰をあつめてゐる神の居所でもなく、さういふ靈地でもないのである。さてかういふ風に、此の物語が一般民衆の日常生活とは交渉の無いものであり、政治的意義のものであるとすれば、其の根柢に民間説話などの無いことも、またおのづから推知せられよう。人類最初の故郷が天にあるといふやうな話だとすれば、それは未開民族の説話にも例のあることであるが、此の物語がさういふ性質のものでないといふことは、既に述べて置いた。なほ此の話が、遠くは扶餘や高句麗、近くは清朝、の祖先の物語などとも、全く性質を異にするものであることは、いふまでもなからう。それらは一種の感生説話であつて、王室の祖先の懷胎の由來を神秘にし其の本源を天に歸したのであるが、これは、政治的君主であられる皇室が天上の國から此の國土に降られた、といふのであることを考へるがよい。
 さてホノニニギの命がヒムカに降られたのは、オホナムチの神が服從してアシハラノナカツ國が既に平定したからだ、といふ話になつてゐる。アシハラノナカツ國が平定したのに、何故に僻陬のヒムカに降られたとしたのか。また後の話として更にヤマト地方の平定の物語があるのは、此のナカツ國の鎭撫の話とは矛盾してゐるではないか。ましてオホナムチの神の本據は、イヅモであるやうになつてゐる。イヅモを中心にしてゐた勢力が滅びたためにヒムカに降られた、といふのは、地理の上から見ても、つじつまのあはない話ではないか。しかしホノニニギの命の降臨の物語がヒムカの土地に由來するものでないとすれば、ヒムカが僻地であることも、またそことイヅモとの地理的關係が奇異であることも、初から問題にはならぬ。さうして後に置かれた東遷物語は、降臨の地がヒムカと定められた自然の歸結として、見ることができよう。物語の上に於いてヒムカに皇都があつたやうになつてゐるために、そこから現(543)實の皇都の地であるヤマトに遷られる話が作られねばならなかつたのである。それからホノニニギの命の降臨の物語が上に述べたやうな性質のものであるとすれば、何者が勢力を有つてゐたとせられるかにかゝはらず、降臨の前には此の國の全體が平定せられた話のあることを要する。此の國に威を振つてゐた荒ぶる神はすべて征服鎭撫せられた、としなければならぬ。ところが、物語ではオホナムチの命の服從によつて此の國が悉く平定せられたとしてあり、さうして其のオホナムチの命が、歴史的事實として存在したイヅモの勢力を代表する神であるとすれば、第十三章の終に於いて提出した問題は、再びこゝで顔を出すことになる。此の問題は單純には解決ができないが、一方のヒムカの物語が歴史的基礎をもたないものであるとすれば、其の前幕であるイヅモの神が此の國の全體を領有してゐたといふことについても、また必しもそこに歴史的事實の基礎があるとする必要が無いことだけは、推知せられよう。さうしてもし第十三章で説いた如く、此の國の平定の物語には、本來性質を異にする二つの話があつて、今の形の神代史に於いてはそれが一つに結合せられてゐるとすれば、オホナムチの命に關する分子だけをそこから取り除けると、其の物語と此のホノニニギの命の降臨の話とは、何れも歴史的事實と交渉の無いものとして、そこに少しも不調和の跡が存在しないことにならう。さすればオホナムチの命の物語の意味は、それだけで別に研究しなければならぬ。が、問題はしばらく問題として置いて、次にホノニニギの命以後のヒムカに於けるいろ/\の物語を考へて見よう。
 
(544)       第十六章 ヒムカに於けるホノニニギの命からウガヤフキアヘズの命までの物語
 
 ホノニニギの命がヒムカに降られてから後のこととしては、コノハナサクヤヒメの物語がある。此の姫は、古事記にも書紀の注の何れの「一書」にも共に、オホヤマツミの神の女としてあるが、書紀の本文だけには、オホヤマツミの神の女を妻として生んだ天つ神の子となつてゐる。コノハナサクヤヒメといふ名から考へても、また次のホホデミの命についてワダツミの神の女の物語があつて、それとこれとは山と海との對照をなしてゐるらしいことから考へても、古事記などの説が本來の形であつたらしい(上に述べた如く、コノハナチルヒメをオホヤマツミの神の女としてあること參照)。さて此の姫に關する物語は、命がイハナガヒメをすてて此の姫を選んだといふのと、産屋に火をつけて子を生んだといふのとの、二つの話であるが、前の方のは書紀の本文には無く、古事記と書紀の注の二つの「一書」とに見えてゐる。ところで此のイハナガヒメに關する話は、木の花の如く移ろひ落ちよといふウケヒをしたのが、オホヤマツミの神であるといふのと、イハナガヒメであるといふのと、また人のいのちの短いといふことが皇孫についていはれてゐるのと、すべての人についていはれてゐるのと、の二説があつて、前のは古事記の、後のは書紀の注の「一書」の、であるが、それは何れにしても、此の話は美を好み醜を惡む人情と人のいのちの短い事實とを結合して、石と花との對比によつてそれを興味のあるやうに説明したものであつて、多分、民間説話として存在したのであ(545)らう。さうして婦人の名が木の花と石とであるがために、父をオホヤマツミの神として、神代史のホノニニギの命の物語に編み込んだのであらう。アタツヒメ又はアタカアシツメなどの名をつけたのは、此の命のヒムカの物語に結合するために違ひない。さすれば、説話の本來の形では、人のいのちの短いことがすべての人について語られたのであらうが、ホノニニギの命の話となつたため、古事記の説のやうな變形も生じたものと解せられる。ウケヒをしたものも、イハナガヒメとする方が自然らしい。(但し此の話は、多くの民族に例のある如く、人に死があることの由來を説いたものとしては、そのことがあまりに輕く取扱はれてゐるやうであり、それに對照せらるべき不朽の生命といふ考も強く現はれてはゐないから、さういふ意味のものではないかも知れぬ。)それから、一夜にして娠んだのを怪まれたといふことは、神武天皇についても雄略天皇についても語られてゐる話であつて、男が女に通ふ風習の世の中に於いては、有りがちのことであり、産屋に火をつけてまことの子であることを證したといふのは、クカタチの思想と同じことであるから、此の話もまた民間説話であつたらう。それは勿論、前の話とは全く別のものであるが、神代史の述作者が一つにつなぎ合はせたのである。前の話が無くて後のばかりが見える書紀の本文の如き説があり、さうしてそれで何の缺陷をも生じないのも、此の故であるが、しかしこれは或は皇孫の御壽命が短いといふやうなことを避けるために、書紀の編者が故らに前の話を省いたのかも知れない(一般の人についての話とすれば、特に避けねばならぬことでもないから、これは斷言しかねるが)。なほ書紀の注の他の「一書」に、火をつけて室を焚いたのは子が既に生まれた後であり、其の子が火の中から躍り出て天神の子であることを宣言したとあるのは、後の變形に違ひなく、今一つの「一書」に、姫が皇孫を恨んで言をかはさなくなつたので皇孫が歌をよまれたとあるのも、其の歌が五(546)句三十一音の短歌の形式であることから考へると、はるか後の潤色であらう。
 しかし此の後の方の話も、果して神代史に初から存在してゐたものか、どうか、やゝ疑はしい點がある。此の時に生まれた子については、書紀の本文にはホノスソリ、ホホデミ、ホアカリ、の三子としてあり、「一書」として注記してあるものには、或はホスセリ、ホアカリ、ホヲリ一名ホホデミ、或はホアカリ、ホスセリ、ホヲリヒコホホデミ、或はホアカリ、ホヨオリ、ホホデミ、の何れも三子、また或はホアカリ、ホススミ、ホヲリ、ホホデミ、の四子となつてゐるし、古事記にはホデリ、ホスセリ、ホヲリ一名ホホデミ、の三子としてある。なほ或はホスセリ、ホヲリ一名ホホデミ、或はホスセリ、ホホデミ、の二子のみを擧げてゐる書紀の注の「一書」もある。本によつて幾らかづつの變異が生じてゐるが、ホスソリ(ホスセリ)、ホアカリ、ホヲリ、ホデリ、は何れも火に因んだ名であるのに、ホホデミばかりは、*宣長などの解釋した如く、ホノニニギと共に、稻の穗からつけられたものらしく、火とは縁が無い。同じ時に同じやうにして生まれた子たちに、全く別の意味から來てゐる二樣の命名法のあるのは、初から一つの物語として成立したものとしては、甚だ解し難いことではなからうか。特に多くの本にホヲリの命の一名がホホデミの命であるやうになつてゐるのは、ホホデミの命の名のあるのとホヲリの命のと、本來別々に存在した系譜を一つに結合したため、ひとりの神に二つの名があることにしたものであつて、ホヲリ・ヒコホホデミといふのは、其の二つの名を一つにつなぎ合せてしまつたもの、ホヲリとホホデミとを別に擧げてあるのは、却つてそれをもとの二つに分解したもの(だから此の説では合せて四子となつてゐるか、又はホスセリが除かれて三子の數を保持してゐるかである)、また書紀の本文の如くホヲリの名が無いのは、ホホデミが表に現はれたためにそれが隱れてしまつたもの、いひかへる(547)とホホデミの一名たるホヲリの名が省かれたもの、と解すべきではなからうか。ところで、ホヲリが、ホスセリ、ホアカリ、と共に、産室を焚いた物語に於いて現はるべき名であるとすれば、ホホデミの命の名は、此の物語とは本來關係なく存在したものと推測せられる。さうしてホホデミの命は、神代史の骨幹たる所謂帝皇日繼に於いて、其の正系にあるのであり、從つて其の名はかういふ系譜に於いて早くから記されてゐなくてはならず、またそれがホノニニギの命の名の意義とも由縁の深いものであるとすれば、此の産室の物語は系譜の既に一とほりできた後になつて加へられ、さうして此の命に結合せられたものと見るべきであらう。が、もしさうとすれば、前のイハナガヒメに關する話もまた同樣であつて、畢竟、コノハナサクヤヒメの物語の全體が、後人の補入したものとすべきではあるまいか。(ホスセリとホヲリ一名ホホデミと、またはホスセリとホホデミとの、二神のみを擧げてある二つの「一書」には、別のところに於いてホアカリをオシホミミの命の子にしてあるのを見ると、それがために此の一神がこゝから除かれたのであらうし、そのうちの一つの方にホヲリの名の無いのは、書紀の本文と同じ理由からであらう。古事記にもホアカリはやはりオシホミミの命の子としてあるが、その補缺としてホデリといふのが入つて、三子の數に合ふやうにしてある。このホデリといふのは、他の本にはどれにも見えないから、古事記のもとになつた舊辭にのみあつたものらしい。ホアカリは、其の名から考へても、多くの本の説の如く、ホスセリ、ホヲリ、と同じ場合に生まれた神としてふさはしく、オシホミミの命の子としては縁が無いから、古事記などの説は後人の變改したものに違ひない。ついでにいふが、此の考はホスセリとホススミと、またホヲリとホヨオリとを、同じ名の轉訛と見てのことである。)
 次にホホデミの命については、かの山幸海幸のことから兄のホスセリ(古事記ではホデリ)の命との爭が起り、そ(548)れからワダツミの神の宮へ行かれた、といふ有名な話がある。これは、古事記のも書紀の本文のもまた其の注の幾つかの「一書」のも、大體は同じであつて、變異は些細の點にとゞまつてゐる。古事記でも書紀の本文でも魚の名が赤女(鯛)であるのに、注の「一書」の或るものでは口女であつたり、命の乘つてゆかれたのが「まなしかたま」でなくてワニであつたり、或は潮滿玉潮涸玉を與へられた代りに「風招」が教へられたことになつてゐたり、さういふ類の違ひがあるのみである。古事記では三年經つてから後に鈎を見出す話になるのは、書紀の本文では、其の順序が逆になつてゐるなども、物語そのものの意味に變動が生ずるほどのことではない。ただこゝに注意すべきは、此の物語が何れの本に於いても、新しい思想の分子を多く含んでゐることである。古事記でも、五百の鈎一千の鈎を作つたとか、トヨタマヒメと三年の間住んだとかいふのが、他の物語には例の少い書き方や數であるが、書紀の本文では、(雉?整頓臺宇玲瓏といふやうなことは漢文式の修飾に過ぎないものとして論外に置いても、)龍さへ現はれてゐるではないか。この龍がワニの轉じたものであることは、いふまでもないが、海神の女が龍身を現じたといふのは、シナ思想よりは寧ろ佛典に由來があるのではないか、とさへ疑はれる。或る「一書」にトヨタマヒメが龜に乘つて來たとあるのも、本身がワニである海神の女としては、ふさはしくない。それから古事記と一つの「一書」とに短歌式の歌のあることをも、考へねばならぬ。(此の短歌のある「一書」は、コノハナサクヤヒメの話のところに歌の出てゐる「一書」のつゞきであらう。兩方ともホスセリに火酢芹といふ文字が使つてあること、前の條にホアカリの命をオシホミミの命の子としてあるのと、此の條に歌の出てゐるのとが、何れも古事記の記載と同樣であること、などから、さう考へられる。)ところで、ワニを龍にしたり歌を添へたりしたことは、後の變改潤色であるとしても解せられようが、(549)上に述べた如き古事記の文の新しい分子は、それだけを書きかへられたものとして見ることは、むつかしからう。さすれば、此の物語は、全體が後人の手によつて添加せられたものではあるまいか。ホノニニギの命についての物語が、上に説いたやうなものであることを思ふと、ホホデミの命に關する此の話もまた、神代史の最初の形に於いて存在したかどうか、頗る疑はしい。
 しかし此の物語が神代史に編みこまれたのは新しいにしても、物語そのものは決して新しいものではない。「まなしかたま」の名といひ、ワニの物語といひ、又は赤女口女の話といひ、すべてが古くからあつた物語を其のまゝに取り入れたらしい形跡のあることからも、さう考へられる。さうしてホホデミの命が海神の宮にいつて其の女を妻にした話は、ゆき難きところにゆき人類ならぬ人類と結婚したこと、トヨタマヒメが子を生むときにワニの本身を現じたこと、それを見るなと禁制したこと、男の命が其の禁制を破つたがために夫妻の契が絶えたことなど、さういふ種々の話の意味が如何に解釋せられ、如何なる起源を有し如何なる生活?態から生まれたと考へられるにせよ、世界に例の多いものであることを思ふと、此の話は民間説話として古くから世に傳はつてゐたものであらう。此の話の海神は、古事記にもたゞワダツミの神とのみあつて、イサナキ・イサナミ二神の子としてのオホワダツミの神でもなく、またイサナキの神の禊の時に生まれたといふウハツワダツミ、ナカツワダツミ、ソコツワダツミ、の三神の何れでもないやうになつてゐる(いひかへると固有名詞ではなくして普通名詞である)し、書紀では本文でも注の幾つかの「一書」でも、單に海神とのみあり、中にはトヨタマヒコといふ名の與へられたものが二つもあることを考へると、これもまた民間説話に於いてたゞ海の神として傳へられたのが、そのまゝに、或はトヨタマヒメに對してトヨタマヒコと稱せ(550)られて、こゝに現はれてゐるのであらう。また兄弟の爭ひとその復讐との物語は、此の海神宮の話とは本來別のものであつたのが、こゝで一つに結合せられてゐると見なければなるまいが、此の物語もまた、兄弟の爭ひに於いて弟が最後の勝利を占めるといふ、例へば古事記の應神天皇の卷に見えるハルヤマノカスミヲトコ・アキヤマノシタビヲトコの物語の如く、民間説話としてありふれた型を有つてゐるものであり、潮滿珠潮涸珠や、鈎による呪詛や、又は「風招」といふ呪術やが、何れも民間の風習に起源を有するものであることを思ふと、やはり民間説話として存在してゐたものを採つたのであらう。さてこれらの二つの物語の結合せられたものが、神代史の潤色せられつゝある時代に於いて、民間に語られてゐたのか、または民間に於いては別々の物語として存在したものを、神代史の潤色者が採つて結合したのか、そこは明かに推測しかねるが、此の二つの中の何れかの徑路によつて神代史にあみこまれ、ホホデミの命の話としてこゝに現はれたものであらう。上に述べた如く、ホノニニギの命には山の神の女の話を、此のホホデミの命には海の神の女の物語を、結合したとすれば、そこに神代史の潤色者の一つの意圖があるやうである。さうしてホホデミの命の物語として見れば、てうど其の場所がヒムカになるところから、後の方の話を、ハヤトの歌舞の起源を説明するために、利用したのであらう。(「一書」のうちには此の話の無いのもあるが、それは省かれたものであらう。此の話の無いものは、有るものよりも後出の本らしいからである。)ハヤトがヤマトの朝廷に於ける宮門の護衛となり、また特殊の歌舞を演じたことは、歴史的事實であるが、それがクマソの平定の後にはじまつたものであることは、いふまでもない。なほ附記すべきは、古事記と書紀の注の「一書」とに於いて、トヨタマヒメが海神の宮に歸つてから後、なほホホデミの命との間に音信が通ぜられ、歌の贈答があつたやうになつてゐることであつて、こ(551)れは話そのものが、トヨタマヒメの「うなさかせきて」歸つてしまつたといふ此の物語の根本思想と、矛盾してゐる點から考へても、また他の民族の物語に見える多くの類例から見ても、本來民間説話として存在したのではなく、また神代史に取入れられた最初からあつたのでもなく、後人の添加したことであらう。書紀の本文にそれの無いのが、原の形に違ひない。ウガヤフキアヘズの命にタマヨリヒメを結合したについて、そこから派生したものかも知れぬ。なほ古事記には、ホホデデミの命の年齡を五百八十歳としてあるが、これは古事記には例の無いことであるのみならず、他のどの本にも見えてゐないから、古事記のもとになつた舊辭に、何人かがそゞろに書き加へたものであらう。前章に述べた外宮の記事のやうに、古事記の記載にはかういふことが所々に行はれてゐる。なほ此の長壽の思想の由來については、後に述べよう。
 最後にウガヤフキアヘズの命については、叔母のタマヨリヒメを娶られたといふことの外に、何の物語も無い。さうして前の二代の名は、ホノニニギまたホホデミといふ稻の穗に因んだ美稱であるのに、此の命のはそれらと全く性質のちがつた名であるのを思ふと、あれとこれとは別の時期に於いて名づけられたものと見るのが、妥當ではあるまいか。さうして此の名は、前のトヨタマヒメの産屋の話から出たものではあるまいか。さうでなくては、あまりに特殊の意義を有する名である。さすれば、此の名の現はれたのもまた、神代史の最初からのことではないかも知れぬ。ホノニニギの命から三世め、大神から五世めであることも、三と五との數が要求せられるやうになつてからの思想であるらしい。さうして此のことについては、ウガヤフキアヘズの命の御子たちのことを一考する必要がある。これは古事記、書紀の本文、及び其の注の四つの「一書」の何れにも、イツセ、イナイヒ(イナヒ)、ミケヌ(ミケイリヌ)、(552)及びカムヤマトイハレヒコ、の四子としてあるので、此の點は同じであるが、本によつて其の順序に差異があり、またカムヤマトイハレヒコの命にサヌ(一つの「一書」)、ホホデミ(三つの「一書」)、ワカミケヌまたはトヨミケヌ(古事記)、の名があるやうに書いてある本もあり、ミケヌをワカミケヌとしてある「一書」もある。ワカは年少の義であるから、ミケヌの弟がワカミケヌであるのはよいが、トヨは美稱であるから、ミケヌの外にトヨミケヌがあるのも、それをワカミケヌの別名とするのも、をかしい。これは初からの話ではあるまい。古事記にはミケヌの命がトコヨの國に、イナヒの命が母の國たる海原に、入られたといふことがあつて*、これは書紀の神武紀に見えるやうな話から出たものらしいが、古事記に其の話が載せてないのを見ると、此の書のもとになつた舊辭には、それが脱ちてゐたのであらう。これらの點に於いても、古事記の記載にはいろ/\後人の手の加はつてゐることが知られる。さすれば、ワカミケヌの名もまた後からつけ加へられたものであらう。
 しかしこゝに問題になるのは、イハレヒコの命の名がホホデミであるといふことであつて、これはイハレヒコとホホデミとを結合してこの命の名としてある「一書」が三つもある上に、スサノヲの命のイヅモの物語の條に注記してある第五の「一書」にもさうなつてゐるのみならず、神武紀の卷頭には明白にイハレヒコ天皇の名はホホデミであると書いてあるから、決して根據の無い説と見なすべきものではない。ところが、帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話であるから、これには必ず理由があるに違ひないが、それは神代史の改作のために生じたことではあるまいか。詳しくいふと、もとは一人のホホデミの命であつたのが二分して二人になり、その中間にウガヤフキアヘズの命が插まれたのではあるまいか。さうして此のことを、世數に關(553)する前述の考、ウガヤフキアヘズの命の、名の性質と其の現はれた時期とが上記の如きものであること、此の命について何の物語も無いこと、タマヨリヒメが海神の女たる地位に於いても、其の名に於いても、トヨタマヒメの分身として見るにふさはしいこと、從つてそれは、トヨタマヒメの物語の既に存在する時代になつて、新に作り添へられたものらしいこと、またホノニニギの命とホホデミの命とに關する上記の物語の全體が後の添加であるべきこと、さうしてそれは除き去つても少しも差支の無い、神代史の全體の組織からは遊離してゐる、ものであること、竝にカムヤマトイハレヒコの名がヤマト奠都の物語から出たものであつて、ヒムカでの話に於いての名としては考へられないこと、などに參照して考へると、神代史の説話の最初の形に於いては、後に神武天皇のこととせられた東遷物語は即ちホホデミの命の東遷物語であつて、ホノニニギの命の天降りの物語の次がすぐにホホデミの命のヤマト奠都の話となつてゐたことが、推測せられるのではなからうか(東遷物語そのものもまた今の形のまゝではなかつたらう)。ホノニニギの命がタカチホの峯に降られ、ホホデミの命がタカチホの宮からヤマトに遷られたとすれば、話は極めて自然であることをも、考へるがよい。(カササといふところに宮のあるといふ話がすべての點に於いて不調和である、といふことはすでに第二篇の第六章に説いて置いた。)更に詳しく此の改作の徑路を説明すると、最初ホホデミの命がヤマトに遷られることになつてゐたのを、此の命の次に新にウガヤフキアヘズの命の一代を置いて、それまでとヤマト奠都の後とを區別することになり、それがために、東遷物語の主人公たるホホデミの命を、その物語と共に、本來の系譜の上のホホデミの命から分離して、東遷物語の主人公としての神武天皇及びその物語としたので、そこに新しく神武天皇東遷物語(今のとはいくらか違つてゐるもの)が形成せられ、東遷せられた天皇の名は依然としてホホデミで(554)ありながら、カムヤマトイハレヒコといふ稱號もその時から現はれ、從つてまた神代紀の終に注記してある上記の三つの「一書」や、イヅモの物語の條の注の「一書」やに見える如く、この二つを結合したイハレヒコ-ホホデミといふ名も作られたのであるが、もとの系譜に殘つてゐるホホデミの命には、新に民間説話から取つた物語を結びつけて、東遷物語を取去つたあとの空虚を填め(それと共にホノニニギの命にも民間説話をつなぎ合せ)たのであらう、さうして系譜の上では二人のホホデミの命の中間にウガヤフキアヘズの命が插まれることになつたのであらう、といふのである。カムヤマトイハレヒコの命の名をサヌと記した書紀の注の「一書」、またミケヌにワカもしくはトヨを加へて其の別名とした古事記の説などは、もとのホホデミの命から東遷物語が分離した後になつて、其の名のホホデミを除かうとしたために生じたものではあるまいか。なほイナイヒ(稻飯)とミケ(御食)とは何れもミヅホの國にふさはしい名であり、イナセがもし宣長のいつた如くイツシネ(嚴し稻)の義であるとすれば、これもまた同樣であつて、みな*ホノニニギ、ホホデミ、の名と同じ思想からつけられたものであるが、これは本來ホホデミの命の同胞として語られてゐたものかどうか、明かでない。ホホデミとホスセリ、ホアカリ、ホヲリ、などとが、別の觀念に基づいたものであつて、ホスセリなどは、後人の添加した産室の物語から派生したものだとすれば、ホホデミの命の同胞としてはイツセ、イナイヒ、ミケヌ、などの名のあるのが、*却つて原の姿であつたかと思はれないでもないが、そこまで考へるのは考へすぎでもあらうか。
 翻つて考へるに、ホノニニギの命の天降られてから後の三代(神代史の原形に於いては二代)の物語には、政治的にも宗教的にも君主としてのはたらきが全く語られてゐない。いひかへると國家經綸の話が無いのである。ハヤトの(555)歌舞の起源を説いた話はあつても、それはハヤトの部落が政治的意義に於いて服屬したといふことではない(オホナムチの神の服從の物語とは、語りかたに大差のあるのを見るがよい)。またアメノコヤネの命もフトダマの命も、その他のホノニニギの命に隨從して降つたといふ神々、即ち政治的宗教的任務を有つてゐる神々も、全く影を隱してゐる。これは何を語るものであらうか。皇祖がヒムカにゐられたといふ話に歴史的根據が無いとすれば、それは天から降られる場所を物語の上でヒムカに求めたために過ぎないのであるから、降つてしまはれたら、それでヒムカに用は無い。次には、そのヒムカの皇都が現實の皇都のあるヤマトに遷される話があれば、それでよいのである。さすれば既に天降りのことが行はれた後に於いて、ヒムカを皇都の地としての政治的經綸の物語は、無いのが當然であらう。もつとも神代史の根本精神から考へると、このことにはもつと重要な意味があるので、それは、ホノニニギの命が始めて此の國にゐて此の國を統治する地位につかれたのは、命みづからのはたらきではなく、即ち命みづからいはゆる肇國の大業を成就せられたからではなく、本來この國の統治者である日の神の繼承者であるからであり、たゞ天くだりによつて皇都がタカマノハラからヒムカに遷されたのみのことであるから、この命に國家經綸の物語は、無いのが當然だといふことである。さうして次の二代はホノニニギの命の地位を繼承せられたまでであるから、この點に於いてはやはり同樣である。(このことについてはなほ後にいはう。)帝紀舊辭の述作者は、またヤマトの奠都を物語として構造し、それを人代の始りとしたのであるが(第二篇第六章參照)、すでにヒムカといふ土地に降られ又はそこにゐられるからには、ホノニニギの命から後は、人として生活せられねばならぬ。事實、ホノニニギの命もホホデミの命も(またウガヤフキアヘズの命も)、純然たる人として語られてゐる。たゞ民間説話や民間の風習に由來のある話を(556)結びつけたために、神異のことがそこに見えてはゐるが、それは固よりこれらの命たちが宗教的意義での神であることを、示すものではない。從つてこれらの二代(もしくは三代)は、實は神代とすべきものではないのである。神代といふ語の意義が皇祖神の代といふことであつて、皇祖神の觀念が宗教的崇葬の對象としての日そのもの、その意義での日の神、を皇祖とすることによつて形づくられたものであるとすれば、さうして日そのものが天上の存在であり、皇祖神の居所がタカマノハラであるとすれば、その點からでもホノニニギの命の天くだりの後は神代ではないはずである。(この意味からいふとオシホミミの命の代もまた、嚴密には、神代ではないことになるやうでもあるが、この命は日の神と共にタカマノハラに留つてゐることになつてゐるから、昔の人はさうまで考へなかつたであらう。もしまた後にいふごとく此の命が神代史の原形には無かつたものであるとするならば、その限りに於いて、このことは問題にならぬ。)しかし天くだりの後は神代でないとすれば、それはヤマト奠都を人代の始まりとする思想とは矛盾する。もし此の矛盾の無い、もしくは矛盾があまり強く目立たない、物語があるとすれば、それは天くだりの話と東遷の話とをすぐに接續させたものでなくてはならぬ。ところが、さういふ物語はまたおのづから天くだりの場所を定める必要からのみヒムカを選んだ意圖とも調和する。ホノニニギの命の天くだりの物語の次にすぐにホホデミの命の東遷の話が來るのが、寧ろ其の意圖にかなふものである。實をいふと、初めからヤマトに降られるのが最も適切であり、簡明であり、さうすれば上記の矛盾が全く無くなるのであるけれども、前章にも述べた如く、さうはし難い事情が別にあつたのだから、これだけはしかたがあるまい。從つて矛盾は全く取り除かれるやうにはならないが、上記のやうにすれば、それがさう強くは目立たないですむのである。さうしてさうすれば、オホナムチの神の國ゆづりから、すぐにホ(557)ノニニギの命のヒムカ天降りとなり、それがまたすぐにホホデミの命のヤマト奠都となつて、その移りゆきが自然になる。かう考へて來ると、神代史の最初の形に於いては、ホノニニギの命の天降りの次がホホデミの命の東遷の物語であつたらう、といふ上記の臆測は決して理由の無いものではなからう。さうして、或は單純なものから複雜なものになつてゆく物語の發展の自然の傾向から、或は何等かの特殊の要求から、それが漸次變化して今見る如き形となつて記紀に現はれることになつた、と見るのもまた決して意味の無いことではない。ところがかうなつた上で見ると、神異のことの語られてゐる民間説話の類のあてはめられたヒムカに於ける三代の物語は、おのづから神代と人代との限界を和らげ、もしくはそれをぼかす效果を生ずるので、神代史にかういふ潤色を施したものの意圖の一つは、こゝにあつたかも知れぬ。たゞヤマト奠都が人代のはじめとせられてゐる以上、ヒムカの三代は人代の前の代とせられねばならぬので、名稱の上に於いてそれを神代のうちに含ませたのである。いはゞそれは皇祖神の代の延長として取扱はれたのである。けれどもこれは本來むりなことであるから、それがために、上記の如き破綻が生じてゐるのではあるまいか。ヒムカに於ける物語は、斯う考へてはじめて解釋し得られるやうである。*さうして神武天皇の東遷の物語が、もとはホノニニギの命の子としてのホホデミの命の東遷として語られてゐたものである、とすれば、神武天皇の東遷が歴史的事實でないことは、この點からもまた明かになるのである。
 なほ一言する。ホノニニギの命のカササの宮が、ヒムカ物語の全體から見て、地理上、不似合なものであるといふことは、上にも述べたが、此の命からウガヤフキアヘズの命までの御陵に關する記紀の記載もまた奇異なものである。かういふ記録めいた記載は、前後の物語から見ると、全く調子はづれであり、また實際、物語とは關係なく記されて(558)ゐる。だからこれは、物語とは別の人の手によつて、後から插入せられたのであらう。記載の内容からいつても、記紀の間に一致してゐない點があるし、また書紀の方のは何れもタカチホから遙に隔つた土地であり、その間の相互の距離もまた遠い。詳しいことは第二篇(第六章)に述べて置いたが、それで見ると、これは後人がいろ/\な思ひつきからさま/”\に書き加へたものであり、また實地を知らないヤマト人が、タカチホもアタもエもアヒラも、名のみを聞いて互に近いところのやうに思つたのであるとすれば、解釋ができよう。神代史の最初から存在してゐたものとは考へ難い。しかしかういふ添加の行はれたのは、此の三代が地上に生活せられたこととなつてゐるため、それを現實の皇室と同樣に見たからのことであらうが、それが即ちヤマト奠都を人代の始とする根本思想に適合しない點であるので、此の齟齬の生じたのは、天上のタカマノハラと地上のヤマトとの間に、やはり地上に於いてヒムカといふ中間地を置いたためであるから、これは神代史の最初の企圖にその由來がある。物語の上に於いて東遷が何人によつて行はれたとせられるにせよ、東遷は要するに東遷であり、その前も後も共に地上の君主の居所であることになるから、それによつて神代と人代の區別は生じないはずである。上にいつた如き皇居や山陵の記載のあるのも、これがためである。それにもかゝはらず、ウガヤフキアヘズの命までを神代とし、神武天皇が人代になつての第一代としてあるのは、もと/\ヤマトにある現實の皇都のはじめの時を思想の上で設定し、それを現實の皇室のはじめとしようとするのが、帝紀及び舊辭の述作者の根本の意圖であつたからのことである。
 さて比の見解にもし理由があるとするならば、ヒムカに於ける種々の物語は、神代史の本すぢから取り分けてよいものである。さすればそれは、前々から提出して來た問題に對しては何の解答をも與へないことになる。だからこれ(559)らの問題については、更に別方面からの研究を要するとしなければならぬ。
 
(560)       第十七章 神代史の結構 上
 
 以上、第二章から前章までの長い考察は、記紀の神代史を細かく分解して其の内容を一々點檢し、さうして一つ一つの物語とそれらの間の相互の關係とを觀察することと、記紀のもとになり或はそれに採られてゐる帝紀舊辭の種々の異本を比較對照して、それらの物語の有無や同じ物語の種々の變異やを調査することとによつて、其の物語の意義をたづね、またそれに伴つてできるだけ物語の原形を摸索することであつた。物語をなしてゐない神々の系譜についても、また同樣である。さうしてそれによつて、記紀のさま/”\の所傳は、何れも神代史が初めて形づくられた時のまゝのものではないこと、全體として見れば、それは長い間にいろ/\の人の手によつて、さま/”\の考から、幾度もまた幾樣にも施された潤色變改のあとが、種々の形に於いて、もつれ合つて現はれてゐるものであること、從つて首尾を通じて連絡のある一篇の神代史として考へる場合には、どの所傳でも、互に不調和な説話や矛盾した思想やが混在してゐること、それにはまた、前後の物語にも神代史の全體にも有機的關係の無い遊離分子が數多く存在してゐること、其の遊離分子には理智の所産である抽象的觀念から出たものもあり、また民間の風習や説話やが、其のまゝに或はいくらかの變改を加へて、取り入れられたものもあること、などを知ることができた。が、神代史は決して無意味に種々の物語を集めたものではない。それは上記の遊離分子や後人の添加した部分やを除去して見ると、あとに殘つた種々の物語の間には互に密接な連絡があり、また首尾相應ずるやうになつてゐるからである。遊離分子や後人(561)の増補した部分とても、また恣に添加せられたものではなく、それにはまたそれだけの意義があり、主要なる物語と何等かの關係のつけられてゐる場合もある。種々の潤色變改にもそれ/”\の理由があることは、勿論である。それらのことについても、部分的には其のをり/\に既に述べて置いた。しかし神代史をまとまつた一つのものとして、其の精神を闡明し其の意義を解説するには、一々の物語や系譜について考察したところを更に綜合して、全體の上からそれを大觀するを要する。さうしてさうすれば、前に投出して置きながら其のまゝに經過して來た幾多の疑問も、またおのづから解決せられることになるであらう。或はまた逆に、これらの疑問を更に考察することによつて、神代史全體の精神と其の結構とが解釋せられるでもあらう。これがこれからさきのしごとである。
 さて上に述べた遊離分子を除き去つて見ると、神代史には大體、三つの中心點があり、その中心點をめぐる三群の物語から神代史が成り立つてゐる。即ち始に、(い)イサナキ・イサナミ二神がオホヤシマと其のオホヤシマの統治者としての日の神とを生んだ、といふことがあり、終に、(は)日の神の子孫がタカマノハラから此の國に降られるについて、其の前に此の國土を支配してゐたオホナムチの命に迫つて國をゆづらせ、さうしてヒムカに降られたといふことがあり、さて其の中間に、(ろ)スサノヲの命がタカマノハラであばれて放逐せられ、先づイヅモに降り、それからヨミの國にいつた、といふことが插まれてゐるのである。此の(ろ)はスサノヲの命が日の神の弟であるとして(い)に結びつけられ、其の子孫がオホナムチの命であるとして(は)と接合せられてゐる。さて此の(い)と(は)と、即ち神代史の始終をなす物語は、すべて皇祖神たる日の神と其の父母と其の子孫とが主人公であつて、何れも政治的意義のものである、といふことは既に述べたとほりであるが、(ろ)については、其の意義のあるところをまだ十(562)分に明かにはして置かなかつたから、これからそのことを考へねばならぬ。が、その前に、上にも記した如く、前章までの考察に於いて未解決のまゝに放置して來た問題を回顧して見る必要がある。それを簡單にくりかへして述べると、先づ(い)については、イサナキ・イサナミ二神がオホヤシマを生むといふ點に特殊の意味が無ければならず、また日の神が皇祖神でありながらそれに父母があるとせられ、さうして其の父母たる二神は皇祖神とはせられてゐない、といふところに問題が潜んでゐる。また(は)に關しては、本來日の神の統治せらるべきアシハラノナカツ國を、何故にオホナムチの命が支配してゐたのであるか、即ちオホナムチの命が、日の神に對する反抗者であるといふ意味で、荒ぶる神とせられねばならなかつたのは、何に由來するのであるか、其の荒ぶる神がオホナムチといふやうな美名を有するのは何故であるか、またイヅモに本據のあつたオホナムチの神の支配權が此の國の全體に及んでゐたといふことに如何なる意味があるか、といふ點が研究を要するところなのである。それから中間に插まれてゐる(ろ)については、スサノヲの命が日の神と同時に生まれたとせられ、而も其の間の結びつきが甚だ異樣であるのが、如何なる理由から來てゐるのか、何故にスサノヲの命がヨミの國にゆかれることになつてゐるか、またヨミにゆくべき運命を有つてゐながら、何故にイヅモに降つたか、現し國の一部たるイヅモを本據とし現し國たる此のアシハラノナカツ國を支配してゐたオホナムチの命が、ヨミにゆくべく定められたスサノヲの命の子になつてゐるのは何故か、そも/\イヅモとヨミとの間に特殊の關係があるやうにせられてゐるのは何のためであるか、これらの問題が存在するのみならず、なほ細かい點をいふならば、此の命が、日の神に對して從順を缺く亂暴ものでありながら、心が正しいとせられた意味が何であるか、日の神とのウケヒに於いて此の命が、日の神の御子でありホノニニギの命の父であり、皇室の(563)系譜に於いて第二位にあられるオシホミミの命を生んだとせられ、而もそれと同時にイヅモの國造の祖先とせられたホヒの命を生んだとせられたのは、何を語るものであるか、といふやうな疑問もある。
 先づ第一の(い)に關する問題を考へてみよう。さてイサナキ・イサナミ二神の生んだオホヤシマが、政治的意義に於いての我が國の領土のことであり、また日の神が單純な日そのものとしての神ではなくして皇祖神でもある、といふことは、前に述べて置いた。日を皇室に結びつけることに如何なる意味があるにせよ、日の神が日そのものであると共に皇祖神であるとせられてゐることは、明かな事實であるが、其の日の神は天上にあるのであるから、それと現在の皇室の統治せられる此の國土とを結合するには、其の間に何等かの連絡をつけねばならぬ。日の神の子孫が日の神の地位を繼承し、此の國の統治者として天から降りて來られたとすれば、それで一とほりの由來は説明ができるが、それだけでは、何故に日の神が本來此の國の統治者であつたか、其の根本の理由がわからぬから、もう一段溯つて、其の本源に於いて日の神と國土とを結合させなければならぬのである。其の結合にはいろ/\の方法があらう。ところが神代史に於いては、日の神を國土と同じくイサナキ・イサナミ二神の子であるとし、同一父母から生まれた同一血族だとしたのである。勿論、國土が子として生まれるといふのは、當時の思想に於いても無理な考へかたである。神代史が其の無理を敢てして、かういふ説明をしたのは、生むといふことに特に重きを置いたからであらう。然らば何故に生むといふことがそれほど重んぜられたか。上代人の思想に於いて其の理由を求めると、子を生むといふことから生ずる親子血族の關係を政治組織の紀綱としてゐた氏族制度の反映が、そこに現はれたものとする外は無からう。本來、日の神を皇祖神とすることが、既に此の考から來てゐるので、日を皇室に結びつけるに當つて、それを(564)祖先としたのは、皇位が世襲的である現在の事實に本づいてゐるのであるが、思想的には、國土が二神から生まれたとするのと同じ意味がそこにあるのであり、血統といふ觀念で其の關係を説明しようとしたからである。國土と日の神とが同じくイサナキ・イサナミ二神の子である、とせられたのは、かういふ意味からであるが、日の神が地上で生まれたのも、またおのづからそれを一層強めることになる。それは本來、二神が地上の神であるからではあるが、國土と同胞である日の神としては、地上で生まれることによつて、國土との關係が特に密接になるから、神代史に於いては日の神を地上で生まれさせなくてはならなかつたのである。だから皇祖神も、決して天外遠きところから來られたものではなくして、此の國土で國土と共に、同一の國土の神から生まれて、其の間に血族關係がある、といふのが神代史の此の物語の精神である、と見なければならぬ。さうしてそれがために、皇祖神たる日の神にもなほ其の父母があることになつたのである。イサナキ・イサナミ二神が日の神の父母でありながら、皇祖神とはせられず、皇祖神はどこまでも日の神とせられてゐる理由は、こゝにある。日の神が皇祖神であるといふ觀念が先づあつて、其の日の神の本源を説くために二神が現はれたので、二神が日の神の親であるといふ思想が本になつて、それから其の日の神を皇祖神としたのでは、ないのである。
 しかし、こんな考へ方はあまりに詮索に過ぎてゐるので、神代史のやうな物語を取扱ふにはふさはしくない、といふ非難があるかも知れぬ。國土も日月もすべてが二神によつて産み出されたといふ、いひかへると二神の生殖によつて一切萬物が生成したといふ、一種の創造説話として、單純にかたつけてはどうかといふ説もあるかも知れぬ。けれども既に上に述べた如く、此の物語は我が國と其の統治者たる日の神との生まれたことを説いたものであつて、宇宙(565)萬有の起源を語つたものでないとすれば、さういふ解釋はしがたいのであり、またこれだけに政治的意義を寓した物語を作るほどに、政治の觀念や知識の進歩した時代の製作であるとすれば、それに對して上記の如き考察を加へるのも、決して不當ではあるまい。
 此の國土の統治者たる日の神は、かういふやうにして此の國土に生まれたけれども、もと/\日は天上にあるものであるから、物語を其の事實に調和させるには、それを天上に置かねばならぬ。そこで日の神がタカマノハラに送り上げられるといふ話ができた。これがために、何時かは地上に其の子孫を降すべき運命を有つてゐる日の神が、一旦は地上から天上に上らなければならぬことになつて、其の間の徑路が甚だ迂曲になるのである。さて日の神は天に上されたけれども日そのものとしては其の光輝が此の國土に及ぶものであることは、いふまでもない。但し皇祖神としては後の物語との間に矛盾がある。それは、前にもいつて置いた如く、此の國土も日の神の勢力の下にあるものならば、日の神の外に此の國の君主があるはずがないのに、オホナムチの命がそれを領有してゐたといふことである。そこで次には(は)のオホナムチの命に關する物語を今一應研究して見なければならぬ。
 オホナムチの命が物語の上に於ける政治的君主としての神であつて、其の根柢には歴史的事實として存在したイヅモの政治的勢力があり、イヅモの國造が其の勢力の名殘である、といふことは既に上に説いて置いた。此のイヅモの勢力が、曾ては我が皇室の統治せられる國家に對して獨立してゐたものであり、後には皇室に服從したものである、といふことは、其の服從の儀禮的表示が出雲國造神賀詞の奏上として、朝廷に於いて長い間、行はれてゐたのでも推知せられる。もつとも此の神賀詞は、大體神代史の物語に本づきながら、それを國造の家につごうのよいやうに改作(566)した點もあつて、表面にはイヅモが對抗者であつたやうなことが現はれてはゐないが、オホナムチの命のことについておぼろげながらそれが示してあり、さうして國造自身が其の儀禮を行つたのを見ると、少くとも服從してゐなかつたものが新しく服從したといふだけのことは、國造が承認してゐたはずであり、さうしてそれは動かし難い歴史的事實があつたからだ、と考へねばならぬ。垂仁朝や景行朝の物語として記紀に記されてゐるイヅモに關する説話も、また同じところに基礎があるのであらう。しかし其の獨立してゐた時代のイヅモの勢力がどれだけのものであり、また我が皇室に對し如何なる關係、如何なる?態、に於いて對抗してゐたかは、文獻の上に何等の徴證をも求めることができない。たゞ其の服從が比較的新しいことであり、我が皇室の威力が既に我々の民族の大部分に及んでゐた時代であつたといふことは、ほゞ推測せられる。垂仁朝や景行朝の物語の含まれてゐる舊辭の書かれた時には、それがなほ人に知られてゐたらしいこと、出雲國造神賀詞が、朝廷の儀禮の整つた時代から考へても、其の文體が他の祝詞とほゞ同じやうであることからいつても、また神代史の一とほりできてゐた後の作であることから見ても、さほど古い時代のものではなく、さうしてそれの作られた時には服從の事實が記憶せられてゐたに違ひないこと、などを思ふと、それはクマソの服屬とひどくは時の隔つてゐない四世紀の末か五世紀の初のころかの事實ではなかつたらうか。此の時代だとするとツクシの北半が皇室に服屬したよりも後の話にはなるが、對抗してゐたといつても斷えず戰爭してゐたといふのではなく、また瀬戸内海の沿岸が服屬してゐれば、ヤマトからツクシを經略することはできるのである。これはもとより臆測に過ぎないのではあるが、もし此の臆測が許されるならば、皇室に服從したところのイヅモの勢力は單に地方的のものに過ぎないので、其の點に於いてはクマソとほゞ同じやうなものであつたらう。我が皇室は、(567)四世紀の中ごろには、既に瀬戸内海の兩岸からツクシの北岸を領有せられてゐたらうと思はれるからである。しかしそれは別問題としても、イヅモのやうな日本海岸の僻陬の地を根據として、我々の民族の全體に威力を振ふといふことは、地理上むつかしかつたらうと思はれ、またそのことは後の歴史からも類推せられるから、單に此の點から考へても、イヅモの勢力が地方的のものであつたことは想像せられよう。歴史的事實としての我が皇室の由來については、到底、確實なことが知られないであらうが、最近の考古學的研究によつて、後の所謂近畿地方には、遲くとも二世紀のころには、既にシナの影響をうけた或る程度の文化が發達してゐたことが知られ、さうしてそれが(論理的嚴密を以ていふことはできないけれども)其の地域に於けるかなり大なる政治的勢力の存在に伴つてゐたらしく推測せられるとすれば、其の勢力が皇室の御祖先を君主としてゐたものであつたと考へても、差支が無いやうである。そのころの日本民族は、民族としては一つであつたけれども、政治的には多くの小さい國に分れてゐたので、その國の一つが、ヤマトを中心としたこの近畿地方のであつたと考へられる。四世紀の前半に於いてツクシの北部を服屬させ、それから後まもなく海をこえて半島に手をのばし得たのは、其の勢力が決して新しいものではなく、根柢の深い由來の遠いものであつたからであらうから、かう推測するのは決して無理ではあるまい。しかしそれがいつからあつたものであるかはわからぬ。ヤマト地方の君主であられた皇室の起源を考へようとして、時代を溯つてたづねて行けば、我々の知識の及ばない雲の裡に入つてしまふのである。對抗者たるイヅモの勢力が地方的のものであつたことは、この點からも知ることができよう。さすれば、神代史に於いてオホナムチの命がアシハラノナカツ國、即ち我々の民族の全體、を支配したやうに語られてゐるのは、それが歴史的事實だからではなく、物語作者の特殊の構想として解釋する外は(568)なからう。さうしてこれは、上に述べた如く、ホノニニギの命がヒムカに降られたといふ話に何等の歴史的根據が無い、といふことによつて一層確められはすまいか。ホノニニギの命の天降りは、オホナムチの神の服從の結果として語られてゐるので、かれとこれとは相關的のものだからである。
 然らば、神代史の述作者は何故にかういふ構想をしたのであらうか。それはホノニニギの命の天降りを物語として語るために必要であつたと共に、一つの意味に於いては皇室の威力がそれによつて示されることになるからであつたらう。日の神は此の國土の君主として生まれた。しかし日の神自身はタカマノハラに上つたのであるから、あらためてその子孫を此の國土に降さねばならぬ。これは日を皇祖神として考へる根本思想から、必然的に展開せられねばならぬ神代史のすぢみちであるが、あらためてホノニニギの命を降すには、そこに何事かが起らなくては物語となりかねる。宗教的意義に於いての多くの荒ぶる神が此の國に充ちてゐたのを平定せられたといふのは、多分、其の要求に應じて作られた、最初の説話であつたらう。神武天皇の東遷物語にも同じやうなことのあるのを參考するがよい。皇室の政治的權力に宗教的意義があるとする思想から見れば、これは自然の構想であつて、遷却祟神祭の祝詞などにもその思想が明白に現はれてゐる。日の神の岩戸がくれの時に荒ぶる神があばれ出したといふのは、日の光の見えない暗いところに邪靈がはたらくといふのではあるが、日の神を皇祖神として、その威力の及ばない場合に荒ぶる神があばれるとする考が含まれてゐる、と見られなくもなからう。もしかう見られるならば、それもまた同じ思想のちがつた形であらはれたものである。ところが、こゝに歴史的事實として皇室に對する對抗者であつたイヅモの勢力があつた。それは地方的勢力ではあつたが、ヤマトから甚しく遠くは隔つてゐず、其の根柢は深く其の抵抗も頗る頑強で、(569)長い間ヤマトの朝廷を惱ましたものらしく、從つてその印象はヤマト人に強く刻みつけられてゐたであらう。神代史は此の事實を材料として、それを物語に編みこみ、オホナムチの命の名によつてイヅモの勢力を表徴させ、さうしてそれを此の國に充ちてゐたといふ荒ぶる神たちに結合したのであらう。オホナムチの命の國ゆづりの物語に二つの説話の混和せられた形跡がある、と上に考へたのは、これがためであつて、オホナムチの命の話は、ホノニニギの命が荒ぶる神を平げて此の國に降られた、といふ物語が一度でき上がつた後になつて、作られたものらしい。が、かう結合せられると、オホナムチの命はもはやイヅモの地方的勢力を表徴するものではなくなり、アシハラノナカツ國の全體の支配者とならねばならなくなつた。それは、説話の上に於いて、此の國に充滿してゐる荒ぶる神の首領とせられたからである。また此の國の全體の統治者としてタカマノハラから降られるホノニニギの命に對しての、抵抗者とせられたからである。オホナムチの命が、神代史の物語の上に於いて、此の國の全體の支配者とせられてゐること、また日の神及びその子孫が最初から此の國の統治者と定まつてゐるのに、オホナムチの命がかういふ地位を占めるやうになつたことには、此の如き由來がある。さうしてかういふオホナムチの命を服屬させたとしたところに、天降りの物語が物語の形をなす所以があり、それと共にその物語の内容に於いて皇室の威力が示されることになるのである。此の命の話について上に述べた疑問は、之によつておのづから氷解せられたであらう。
 さて、皇室に對するかういふ抵抗者が、何故にオホナムチといふやうな美名を有つてゐるであらうか。此の問題を解決するには、ヤマトの朝廷が服屬したイヅモの勢力に對して如何なる態度を取つてゐたかを、一考する必要がある。出雲國造神賀詞によれば、オホナムチの命の和魂をオホモノヌシ・クシミカタマの命の名によつてミワに祀り、またア(570)ヂスキタカヒコネの神をカモに、コトシロヌシの神をウナデに、カヤナルミの神をアスカに、オホナムチの命の子たちをそれ/”\ヤマトの所々に祀つてあるといふので、これは、大體、神名帳の記載にもまた後の時代の國史の記事にも、符合する。(コトシロヌシの神とカヤナルミの神との祀つてある場所については、少しく疑問も無いではないので、宣長の出雲國造神壽後釋には、それについての意見も述べてあるが、今の場合には用が無いから、そこまでは論及しないことにする。)此のうちでオホモノヌシの命のことについては、既に前に述べて置いた。其の他のもまた之と同樣、カモやウナデやアスカや、民間信仰の中心として祭祀などの行はれてゐたところ/”\に、これらの神代史上の神々の名を結合したものであらう。(カヤナルミの神は記紀の神代史には全く所見が無いから、これは神代史に於いてオホナムチの命の子孫の系譜の作られた後になつて、新に其の系統に加へられたものであらう。カヤナルミといふことばの意義も明かでない。またアヂスキタカヒコネの神がカモの神であるといふことは、古事記にも見えてゐるが、コトシロヌシの神がヤマトに祀つてあることは、それには出てゐないから、これは、古事記のもとになつた舊辭の書かれたよりも、後に附け加へられたものであらう。神代史上のイヅモ系統の神々の名とヤマトの其々の土地との間に關係をつけることは、一時に行はれたのではなくして、漸次に案出せられたものであり、さうして其のはじめは、多分オホナムチの命とミワ山との結合であつたらう。)さて神賀詞には、此のことがオホナムチの命のはからひである如く述べてはあるが、それは勿論、神代史の物語を背景としていつたものであるので、歴史的事實としては、ヤマトの朝廷のしわざか、少くともそれが承認を與へたものかであらう。イヅモに關係のあるものの意圖から出たことかも知れないが、ヤマトの朝廷が承認しなければ、かういふことはできないはずだからである。出雲風土記には、カモ(571)のアヂスキタカヒコネの神の神戸がオウ郡にあるやうに記してあるが、かういふ行政上財政上の關係があることから見ても、また神賀詞が朝廷の儀禮として奏せられることから推測しても、朝廷の公認したものであることは明かである。また其の神賀詞に於いて、國造の祖先とせられてゐるホヒの命の功績を稱へてゐるのが、神代史の所説と正反對であり、オホナムチの命の日の神に對する地位をも極めて曖昧にしてあるにかゝはらず、朝廷がそれを承認してゐたことをも、見のがしてはならぬ。
 ところでかう考へると、こゝにヤマトの朝廷に於いて、イヅモに對する一種の妥協的親和的態度のあつたことが、知られはすまいか。イヅモの勢力とヤマトの朝廷とを緊密に結合させ其の間の融和を計らう、といふ考のあつたことが、推測せられはすまいか。また書紀のオホナムチの命の國ゆづりの段の注の第二の「一書」には、タカミムスビの命がオホモノヌシの神(こゝではオホナムチの命のこと)に我が女のミホツヒメをめあはされた、といふ話がある。此の「一書」は、前にも述べた如く、イヅモに特殊の縁由のあるものの潤色が加はつてゐる異本らしく、從つて此の話もイヅモと皇室との關係を親しくしようとする意圖から出たものであらうが、それにしてもイヅモの方でかういふ妥協的精神を有つてゐたことが、やはりヤマトの朝廷の同じ意向の反映として、見ることができよう。これらは神代史がほゞ今の形をもつやうになつた後になつて、始めて現はれたことであり、オホモノヌシの神をオホナムチの命に結合するが如きは、崇神朝の物語として記紀に載つてゐるミワの神の祭祀の話の書かれたよりも、後の造作であらうと思はれるほどであるが、しかし神代史の多くの異本に共通な系譜に於いて、イヅモの國造の祖先とせられてゐるホヒの命が、オシホミミの命と共に、日の神の子とせられてゐるのを見ると、今の形での神代史の主要な骨ぐみのほゞ(572)できるやうになつて來た時から、此の精神のはたらいてゐたことが知られよう。(書紀のヤマタヲロチの話の段に注記してある「一書」に見える神婚説話と神武紀とによると、神武天皇の皇后としてあるヒメタタライスズヒメは、コトシロヌシの神の女となつてゐるから、これもまた同じ思想の所産として見るべきもののやうであるが、古事記の神武の卷では、それがオホモノヌシの神の女となつてゐて、それに伴ふ神婚説話は崇神の卷の有名な物語の變形として取扱ふべきものであり、從つて此のオホモノヌシの神は本來の意義に於いてのミワ山の神をいふのであつて、オホナムチの神の別名として見るべきものではなく、さうしてこの「一書」の説話の原形は、古事記の此の説話であらうと考へられるから、單純にかう論ずるわけにはゆかぬ。コトシロヌシの神のこととしたのは、オホモノヌシがオホナムチの命の別名とせられた後になつて、それから轉訛したのであらう。こゝに引いた「一書」のうちにもヒメタタライスズヒメをオホナムチの命の魂としてのオホミワの神の女としてあるところのあることを、參考すべきである。が、かういふ轉訛の行はれた一因由としては、上記の如き思想があつたのかも知れぬ。)ところで、朝廷の儀禮や神代史の物語の上に見えるかういふ態度は、多分イヅモの勢力の服從した實際の事情を暗示するものであらう。ヤマトの朝廷はイヅモの勢力に對し、妥協的態度でそれを服從させたものらしい。イヅモの國造が依然として存在し、それが一種の宗教的權威をも有つてをり、また朝廷から特殊の待遇を受けてゐることが、其の明證である。イヅモの勢力はその基礎が固くまた強かつたので、ヤマトの朝廷はそれを或る程度に於いて尊重し、それに對するに親和的精神を以てし、或は何等かの方法を以て感情の融和を計つたであらう。ヤマトの朝廷が次第にその領土をひろげていつた時、從來獨立してゐた多くの國を服屬させたのも、概していふと同じやうな親和的妥協的態度によつたものと推測せられるから、(573)これはイヅモに對する場合に限つたことではないが、イヅモについてはこゝにいつたやうな事情があつたらうと考へられる。さうしてそれが説話の上に反映してゐるので、國ゆづりの物語そのものに此の親和的精神が現はれてゐる。もつともヤマトの朝廷とても、場合によつては武力を用ゐることもあつたらうと思はれるので、クマソに對しては或はかういふ態度がとられたかも知れぬ。ところがイヅモ服從の物語はクマソの討滅などと同じやうには語られてゐない。もしかう考へることが許されるならば、神代史の物語の上で對抗者とせられてゐるオホナムチの神が尊重すべき名稱を與へられてゐるのも、怪しむべきではなからう。
 さて、こゝまで述べて來たことは、イヅモの勢力の始めて皇室に服從した時の記憶が、神代史の材料となつたものとしての、考であるが、更に一歩進んで臆測を加へるならば、はじめてイヅモの服從したのは、かなりに古い時代、即ちツクシ地方がまだ離れてゐた昔、の話であつて、それは神代史の述作者の思想には無かつたことである、けれども其の述作せられた時から遠からぬ前に於いて、何等かの事情から、一旦服從してゐた此のイヅモの勢力が朝廷に對して反抗を企てたことがあり、さうして其の反抗が頗る力強く、鎭定するにもほねがをれたので、妥協的の態度でそれを服從させた、そのことがヤマト人の記憶に鮮かな印象を殘してゐたため、それを神代史の述作者が利用し、皇孫降臨の時の物語としてあのやうな形に作り上げたのではないか、と思はれないでもない。上に説いたやうなイヅモの國造に對するヤマトの朝延の妥協的態度は、神代史の一度述作せられた後になつてもなほ存在してゐたとしなければならぬが、それはイヅモの反抗を鎭定した時から引續いてゐるものであつて、遠い過去の記憶としてではなく、現實の?態として其の勢力を尊重しなければならなかつたからだ、と考へる方が穩當ではあるまいか。國造の朝廷に對す(574)る態度があのやうであつたことも、かう見た方が適切に解釋せられるやうである。さうして、よし瀬戸内海の沿岸だに服屬して居れば、ヤマトからツクシ地方を經略し、また海を越えて韓地に手を出すにはさしつかへが無いにしても、なほ今の山陰山陽地方全體がほゞ統一せられた後になつて、皇室の威力がツクシに及んだと想像する方が自然なやうでもある。もしさうならば、イヅモがはじめて皇室に服屬した時期は、四世紀のはじめか三世紀のをはりかのころであつたことにならう。勿論かう考へるにしても、イヅモが上に述べた如く朝廷に對抗するだけの遠い由來と堅い基礎と根強い力とを有つてゐたものであることは推測せられるので、それであるからこそ反抗もしたのであり、それを鎭定することが困難であつたのでもあるから、さういふ事件の起る前に既に一度皇室に服屬してゐたにしても、地方的勢力としては侮るべからざるものであつたことは、明かである。此の考は今のところたゞ一臆説として述べて置くに過ぎないが、成立ち得べき見解ではあるまいか。
 オホナムチの命の物語に關して前に述べて置いた疑問は、上記の考察によつて解釋せられたことと思ふ。但し、かうしてでき上がつた神代史の上から見ると、國土を領有してゐたといふオホナムチの命の地位が、日の神を此の國の統治者として見てゐる神代史の根本精神と矛盾してゐることは、どうしても免れ難い。上にオホナムチの命の服從の物語が「一つの意味に於いては」皇室の威力を示すことになるといつておいたのは、これがためであつて、根本的に考へると、それにはまたかういふ別の意味があることになる。が、これは日を皇祖神とする思想と、歴史的事實を利用して結構した神代史の述作者の考案との、結合から生じたことである。(荒ぶる神が此の國に充ちてゐる、といふのならば、オホナムチの命の如き政治的君主が無いだけに、此の矛盾が目だたない。)しかし物語の上に於いて、オホ(575)ナムチの命が此の地位を有するやうになつた由來を説くことができるならば、此の矛盾がそれによつて幾らか緩和せられないでもなからう。さういふ説話が果してあるであらうか。こゝに於いてか此の神の父であるスサノヲの命の物語を更に考へて見る必要が生ずる。それが即ち(ろ)の問題なのである。
 
(576)       第十八章 神代史の結構 下
 
 スサノヲの命は、上に説いて置いた如く、日の神や月の神のやうな自然現象に基礎のある神ではなく、また民間信仰の對象として崇拜せられたのでもない。それは神代史に於いて始めて現はれた物語の上の人物としての神であり、さうして皇祖神たる日の神に反抗するところに其の本質のある、約言すれば政治的意義の寓せられた、神である。けれどもまたそれは、オホナムチの命の如く歴史的存在としての政治的勢力を直接の基礎としてゐる神でもない。オホナムチの命がキヅキに本據のあるイヅモの勢力を表徴してゐるのとは違つて、スサノヲの命は、イヅモに下つたとせられながら、其の居所としての土地すらも語られてゐないのを見るがよい。スカの宮の話はあるが、それは記紀の物語の多くの例から考へると、スカの名の起源についての地名説話に過ぎないことは、明かである。出雲國造神賀詞に「伊射那伎日眞名子、加夫呂伎、熊野大神櫛御氣野命、國作坐大穴特命、」といふことがあつて、此のクマヌの大神は、イサナキの神の子とせられ、さうしてオホナムチの命と並べて其の前に擧げてあるところから見ると、宣長などの説いた如く、スサノヲの命をさしてゐるやうであるから、此の神がイヅモのクマヌに何か由縁がありげにも思はれる。(スサノヲの命の名をクシミケヌといつたことは神代史には無い話であるが、名はいろ/\につけられるから、強ひて怪しむにも及ぶまい。但しクシは例の美稱、ミケは御食であるとすれば、それは此の神の後裔に農業の神の多く擧げてある古事記の説と、思想上、何等かの關係があるかも知れぬ。なほウガヤフキアヘズの命の御子の名にミケ(577)といふのがあること參照。)クマヌは後の國府の所在地でもあり、またそこに有名な神社も建てられたところであるから、古くからイヅモに於いて何等かの地位を占めてゐた土豪の住地でもあつたらうし、また其の附近の民衆の宗教的祭祀が行はれた場所でもあつたらうが、さうしてそれ故にこそスサノヲの命をそこに結びつけたのではあらうが、イヅモの勢力の中心がキヅキにあつた以上、クマヌがそれに匹敵して、もしくはそれより以上に、重要なる土地であつたとは考へられぬから、土地そのものから見ても、スサノヲの命に結合するには不似合である。またそれは、此の神の宮がスカにあつたといふ話とも調和しない。さうして記紀に於いては、クマヌとスサノヲの命とを結合してある話が何處にも無いことを思ふと、此の神賀詞に書いてあることは、後世の造作と見る外はあるまい。さすればスサノヲの命については居所としての土地が示されてゐないことになるが、これはやはり此の神に歴史的基礎が無い故であらう。(ついでにいふ。出雲國造神賀詞の「加夫呂伎」の語が祖先の意義で用ゐてあるとすれば、これは少しく解し難いことである。それを國造の家の祖先といふ意義とすれば、スサノヲの命をさう解することは、ホヒの命を祖先とする通説に背く。さりとて、神代史上の他の神を此の稱呼にあてはめることもむつかしい。或は國造の祖先がスサノヲの命とせられてゐた時があつて、その話が何等かの形で後に傳へられ、それがまたかういふ形で、偶然、此の神賀詞に混入してゐるのではあるまいか。勿論、神賀詞には明かに「我遠組天穗比命」と記してはあるが、それは新しい思想によつて變改せられたのであつて、これは、それよりも前に一たび唱へられてゐたことが、不用意の間に茲に遺存したのだと見るのである。あまり強く主張し得る考でもないが、一臆説として附記して置く。もつともこの語、即ちカムロキ、はその原義に於いては單に神といふことであるから、神賀詞にこの意義で用ゐてあるとすれば、問題は(578)無いことになる。)
 かう考へて來ると、スサノヲの命は全く神代史の述作者によつて生み出されたものとする外はないが、それにしても何か由來があつたのではなからうか、といふ疑が生ずる。ところでこゝに氣のつくことは、此の神とオホナムチの命との類似である。試にそれを對照してみるならば、一は日の神に對して亂暴したので、其の名もスサノヲであり、他は初め皇孫に服從しなかつたので荒ぶる神に結合せられ、一は罪せられて放逐せられ、他は國を讓つて退避し、一は亂暴ものではあるが心は清いとせられ、他は對抗者ではあるがオホナムチといふやうな美名を有つてをり、また一は日の神に對して反抗もし亂暴もして罪せられはしたが、それによつて生れた子のオシホミミの命は日の神の嫡子となつて天つ日嗣を傳へ、他は一旦は日の神の統治せらるべき此の國を占領してゐたが、服從した後は皇孫を擁護することになり、二つながら葛藤の後には美しい和解と結合とが行はれてゐる。二神の性質と行動とは互に並行してゐるではないか。なほいはうなら、スサノヲの命の生んだ子のオシホミミの命とホヒの命との兄弟が、皇室の御祖先とイヅモの國造の祖先とになつてゐるところに、日の神と此の命との間に行はれた妥協的態度が現はれてゐるが、それはホノニニギの命の子孫とオホナムチの命及びその子どもたちとの間に存する調和的思想(上文參照)と同樣であり、此の命が草薙劍を日の神に上つたのも、オホナムチの神が國を獻じたことの象徴として見られよう。(後に補はれたらしい話に於いては、オホナムチの命が矛をホノニニギの命に上つてゐる。)ところが、かういふことは決して偶然にできたことではなからう。さうして、オホナムチの命の國ゆづりの物語に歴史的事實から出たところがあるとする以上、オホナムチの命がもとになつて、スサノヲの命はそれから生まれた分身である、と考へるのは無理ではあるま(579)い。スサノヲの命の物語は、神代史に於いてかなり多くの部分を占めてゐるけれども、此の神それ自身は、皇室の御系統に於いて、何等重要の地位のあるものでないこと、いひかへると獨立の人物としてはさしたる意味の無いものであることも、また此の考を肯定するものであらう。さうしてさういふ分身の現はれたのは、神代史の結構の上から考へると、オホナムチの命の父となるためであつた、と見る外は無い。スサノヲの命がイヅモに降らねばならぬ理由は全くこゝにあるのである。然らば何故にオホナムチの命にかういふ父のある必要があつたかといふと、それは、オホナムチの命が皇孫に服從する前に國土を占領してゐたことの、由來を説くためであつたのであらう。それは、一方に於いて、スサノヲの命が日の神の弟であり、日の神と同じくイサナキ・イサナミ二神の子であるとせられてゐるから、其の子たるオホナムチの命が日の神の統治の下にあるべき此の國土を一時占有したのも、由縁の無いことではないやうに見えて來るので、神代史の述作者の意志がこゝにあつたらしく思はれるからである。(かの三神分治の物語に於いてスサノヲの命の領土が「天下」となつてゐる書紀の注の「一書」のあるのも、或はこゝに理由があるかも知れぬ。此の國を領有してゐたといふオホナムチの命の父としては、かう考へられるのも全く無意味ではない。)して見れば、スサノヲの命が日の神の同胞となつてゐるのもやはり其のためであつた、と推測せられる。本來、日の神の君臨せらるべき國土を、オホナムチの命が理由なくして領有してゐるのでは、日の神が、國土の王として生まれた精神が徹底しないから、そこにさういふことのあり得べき何等かの事情がなければならぬ。スサノヲの命といふ中介者のあるのは、此の點に於いて甚だ都合がよいのである。
 以上の考説を概括していふと、オホナムチの命が國土を領有した由縁を説かうとしても、それをすぐに日の神に結(580)びつけることができないから、別にオホナムチの命の分身ともいふべきスサノヲの命を現出させて、それを一方でオホナムチの命の父とすると共に、他方では日の神の弟としたといふのである。けれども、本來、皇室に對する反抗者であつたイヅモの勢力を象徴するオホナムチの命の分身たるスサノヲの命であるから、日の神の弟とするにしても、其の間に何等かの區別がつけられねばならぬ。日の神(及び月の神)と同じ場合に生まれたことにしてありながら、其の結合に無理な不自然な點のあるのは、或は一種異樣な生まれかたになつてゐるのは、これがためである。けれども、ともかくもかうすれば、日の神とオホナムチの命との間接の關係によつて、後者の國土領有が寛恕せられるのみでなく、中間に立つてゐるスサノヲの命の行動によつて、それに歴史的由來がつき、成り行きがよほど自然らしくなつて來るのである。さうしてオホナムチの命とスサノヲの命とを父子とし、またスサノヲの命と日の神とを同胞としたのは、何れも血族關係を以て皇祖の地位を説明しようとする神代史の主旨から來てゐる、といはねばならぬ。もつともかうしたところで、スサノヲの命は此の國に居るを許されずしてヨミに放逐せられたほどであるから、其の子のオホナムチの命が此の國土を有すべき理由は毫も無く、神代史にも其の説明は少しもしてない。畢竟、矛盾は依然として存するのであり、從つて敍述も曖昧になつてゐる。たゞスサノヲの命の現はれたがために、オホナムチの命は外部から起つた叛逆者でもなく、根柢からの皇孫の敵でもないことになつて、日の神の此の國土に於ける權威が一層確かめられることになつたのである。それと同時に、スサノヲの命があばれものでありながら心は正しく清しとせられ、この命によつて生まれた子のオシホミミの命が日の神の嫡子とせられ、また同時に生んだホヒの命がオホナムチの命の歴史的背景であるイヅモの國造の祖先とせられたことの意味も、一層強くなつて、ヤマトの朝廷とイヅモの勢力と(581)の間に存する調和的精神が、著しくあらはれることになつたのである。
 スサノヲの命がオホナムチの命の父として現はれ、それがイヅモに降り、またそれが日の神の同胞とせられた事情は、これで知られたが、此の命がヨミにやられた理由については、なほ考へねばならぬことがある。スサノヲの命がヨミにやられたことになつてゐるのは、イヅモにゆくべき運命を有つてゐたからであつて、イヅモとヨミとが結合して考へられた故であらう、といふことは前に説いて置いたのであるが、其のイヅモとヨミとの結合せられた理由が、まだ明かにしてないのである。これについての一つの考は、日の没することと死とを聯想して死者の國を西方に置く習慣が、他の民族にもあるから、それと同じ理由で、死者の國のヨミをヤマトよりは西方に當つてゐるイヅモに結合したのではなからうか、といふことである。が、これには種々の疑問が生ずる。第一、イヅモがヤマトの西方として普通に考へられてゐたかどうかが、既に問題である。上代に於いてヤマトからイヅモヘゆくには、北方のタニハを經過するのと西方に當る今の山陽道から北折してゆくのと、二つの途があつたらしい。古事記の垂仁天皇の卷に、イヅモヘゆく三つの口が擧げてあつて、ナラド、オホサカド、キド、としてあるが、ナラドは北方のナラから出てタニハ路へかゝるもの、オホサカドとキドとはカツラキ方面とキの川方面とから西へ出てナニハから山陽道へ出るものであらう。さうして播磨風土記の、イヅモのアホの神が三山の爭を仲裁するために、ヤマトへ行かうとしてイホ郡まで來た、といふ話を見ると、山陽道にかゝる道は、ハリマ方面から北へ折れたのであらう。或はスサノヲの命のヒの川上、トリカミの里、の物語は、今の備中または備後地方から北へ分れ、伯耆の西南境を經て出雲のニタ郡に入る路(出雲風土記の東南道につゞくもの)が主要なる道すぢであつた、といふ事實を暗示するものとも見られる。此の交通路の(582)何れによるにもせよ、ヤマトからイヅモへゆくには半ば北方に向つて進まねばならず、特に最初から北方に向ふものさへもあつたのであるから、ヤマトの人はイヅモを單純に西方とのみは思つてゐなかつたらう。
 それから、西方を死者の國とする考が果して上代にあつたらうか、それも疑問である。日の神がツクシで生まれたといふのは、神代史に於いては後人の増補した物語であり、さうしてそれはホノニニギの命のヒムカ降臨説話と關聯して作られたものではあらうが、西方とヨミとが普通に聯想せられてゐたならば、かういふことは考へられなかつたであらう。もう一歩進んでいふならば、ヒムカ降臨説話そのものすらも生じなかつたであらう。西方といへば何よりも先づツクシを思ふのが自然であり、さうして現し國の統治者であり光明の神である日の神も、また天つ日嗣を傳へられたホノニニギの命も、ヨミの國とは正反對の地位にゐられるからである。またよし假に西方とヨミを聯想する習慣があつたと考へるにせよ、其の西方の國はわれ/\の民族の住地の外、即ちオホヤシマの外、に置かるべきはずではないか。これは他の民族の例から類推しても、またさういふ思想は民族全體に共通のものであるべきことから考へても、當然の話であるが、特にヨミの國を闇い汚い穢がれた國とし、そこから惡いものが荒びて來るとし、生きてゐる我々の住む明るい此の國を現し國としてそれに對立させ、アキツシマ(現つ島、明つ島)といふ名をさへつけてゐる我々の民族に於いては、なほさらのことである。のみならず、ヨミの國が西方にあるといふやうな思想はどこにも見えない。すべての文獻に明記せられてゐるところによれば、そこは船に乘つてゆくべきオホヤシマの外ではなくして、ヨモツヒラ坂を境とする、またそれによつて交通せられる、地下の世界である。イサナキの命は千引の石をヨモツヒラ坂に置いて呪詞をとなへたといふ。またヨミの國のイサナミの命は、此の國をさして上つ國といひ自分の國を(583)下つ國といつてゐるではないか(鎭火祭祝詞)。上にも述べた如く、死者とヨミの國との觀念が、死後の生活者及びその住む世界として發達せず、な伍屍體と墓地とを離れることができなかつた上代に於いては、ヨミの國は屍體の葬られる土地の下にあるべきであつた。其の上にまた、落日と死との聯想もあつたらしくはない。上代人は朝日と共に夕日をうけることをも喜んだ。古事記のホノニニギの命の物語に「朝日のたださす國、夕日の日照る國、」とあり、雄略天皇の卷の歌に「朝日の日照る宮、夕日の日かげる宮、」と見え、龍田風神祭の祝詞に「吾が宮は朝日の日向ふところ、夕日の日かくるところ、」とあり、住居にも神社にも夕日をうけることを讃美してゐるのを、見るがよい。夕日は決して死の象徴でもなく、ヨミの國を聯想させるものでもなかつた。播磨風土記に「朝夕日のかくろはぬところに墓を作る」とあるのも、夕日をうけることを朝日と同樣によしとしたのであつて、それは生きてゐるものの住居に於ける好尚を、墓地にまで及ぼしたものに過ぎないのであり、死と夕日との聯想から來たものでないことは、いふまでもあるまい。かう考へて來ると、イヅモとヨミとの結合を日の没する西方であるといふ理由から説明し難いことは、明かであらう。
 それならば現し國たるイヅモとヨミの國との結合は、どこに其の理由を求むべきであらうか。これは、本來、現し國の物語たる神代史であるから、ヨミをイヅモに結合する必要があつてのことではなく、イヅモをヨミにひきつけたかつたのであらう。さうして現實に存在する國土の一地方たるイヅモを、ヨミといふ別世界に結合するのであるから、そこに何等かの特殊の意圖がなくてはならぬ。ところで、イヅモの神代史上の地位が皇祖神に對抗したといふ政治的意義に於いてであるならば、此の考の由來もまたやはりそこにあるのではなからうか。オホナムチの命は現し國の人(584)物としての神であるけれども、日の神の權威に服從しない荒ぶる神であるといふ點では、現し國の主たる光明の神の反抗者であつて、それはおのづから闇黒の國としてのヨミの觀念と連結せられる。神代史の述作者は、此の聯想を利用して、イヅモをヨミに結合したのではあるまいか。皇祖神が現し國の光のもとである日の神であることを、思想上から明かにするには、おのづからそれに服從しないものを、現し國の敵たるヨミのものとしなければならぬのである。さすれば、ヨミは畢竟イヅモの影にすぎない。ヨモツヒラ坂をイヅモ地方とし、それに對して其のヨミの穢れの洗ひ清められたところ、皇祖神の生まれた土地をツクシのヒムカとした古事記の話は、後人の添加した物語ながら、よく此の思想に適したものであつて、かういふ遠隔の地を一直線に結びつけたのは、地理的觀念から出たことではなくして、別に其の理由があるに違ひないが、それはイヅモにヨミを結合し、日の神の孫の天降られたといふヒムカを我が現し國の統治者たるその日の神の生誕地として、それと對照させたのだ、と見る外は無からう。さうして皇孫のヒムカ天降りの物語が政治的のものであるとすれば、イヅモの方もまた同樣であるとしなければならぬ。イヅモとヨミとの連結せられた理由は、かういふ考へかたによつて説明せられるであらう。ところでかう考へると、日の神の生まれたところをヒムカとしたことと、ヨミの穢れをそゝいだ時にこの神が生まれたとしたこととに、重大の意味がついて來る。日の神の生まれたのをさういふ時のこととしたのに不似合の感じもある、と上にはいつたが、その不似合を顧みなかつたほどに重大な意味をもつものとして、この話が作られたのである。のみならず、イサナミの命のヨミにいつた物語も、またこの點に於いて神代史の本すぢに關係があることになるので、この物語の後から神代史に插入せられたことに意味が生ずるのである。神代史にかういふ變改と潤色とを施したものの意圖は、多分こゝにあつたのであ(585)らう。さうしてその變改潤色はスサノヲの命の話のできた後に行はれたのであらう。
 此の考がもし正しいとすれば、イヅモにゆくべき運命を有つてゐたスサノヲの命をヨミにやることにしたのは、極めて自然の着想である。實はスサノヲの命自身の物語に於いて、こゝにもまたオホナムチの命との竝行が發見せられる。此の命には本來ヨミの性質があるのではないが、此の命のために日の神が岩戸にかくれて世がくらくなつたのであるから、其の行動はおのづから光ある明るき現し國に反對するヨミと聯想せられるので、スサノヲの命がヨミにゆくのは此の點から見ても無理の無いことである。が、スサノヲの命のために日の神が岩戸にかくれて世が闇くなつたといふ物語のあるのは、此の命が、オホナムチの命をとほして、イヅモの政治的地位を間接に象徴してゐるからであつて、イヅモとヨミとの連結せられてゐる意味がこゝにも現はれてゐる。いひかへると、ヨミがイヅモの影であることが、それによつても知られるのである。さうしてヨミといふ觀念に附隨する宗教的意義、即ちそこから荒びすさぶ邪靈が來るといふ思想も、またおのづから、オホナムチの神を荒ぶる神に結合し、スサノヲの命をスサノヲの命と名づけたことと關聯してゐるのであつて、それはまた皇祖を神とし政治的君主の地位に宗教的意義があるものとする考にも、いくらかの由縁があらう。けれども、イヅモはどこまでもイヅモであり、現し國であり、さうしてオホナムチの命は其のイヅモの勢力を表徴してゐるものであるから、それとヨミとの結合は單に外部的のものであり、神代史の述作者が強ひて施した色彩に過ぎないのである。だから物語の上でも、イヅモはイヅモであつて、ヨミにはなつてゐず、ヨミの國はイヅモの物語に於いて却つて殆ど影を隱してゐる。ヨミにやられたスサノヲの命が、長い間イヅモに留つてイナダヒメの物語を世にのこし、現し國の神を多く生む、といふつじつまのあはぬ話も、こゝから生ずるので(586)ある。またオホナムチの命からいふと、此の現し國の神がヨミにゆく運命を有つてゐるスサノヲの命の子である、といふ矛盾が起るのである。後人の増補と見なすべき古事記の物語で、オホナムチの命をヨミにやりスセリヒメと結婚させたのは、此の神をスサノヲの命と結びつけるためであらうが、それにしてもこのヨミにはヨミの特質が無く、またヨミの名に重きを置いて考へると、そこから却つて現し國の神がヨミの神の力を借りヨミの系統に入るといふ矛盾が生ずるのも、此の故である。が、それが即ちヨミがイヅモの影に過ぎないことを示すものである。
 スサノヲの命に關して提出した疑問は、上記の考説で悉く解釋せられたと共に、それによつて、神代史全體の結構を知ることができたであらう。約言すると、皇祖神を日の神として、其の子孫が此の國に降つて我が國土に君臨せられた、といふ主旨を徹底させるために、日の神と此の國土とを同じくイサナキ・イサナミ二神の子であるとして、皇室と國土とは同源に出でた、本質的に一つの、ものであるとしたのであるが、皇孫降臨の物語に於いて、此の國に充滿してゐる荒ぶる神たちを平定せられたことにし、さうして其の荒ぶる神たちを、歴史的存在としての、皇室を首長とするヤマトの朝廷に對する有力な抵抗者であつた、イヅモの勢力と結合して説いたがため、皇祖神が最初から此の國の統治者として生まれたといふ思想と矛盾を來したので、それを緩和するために、スサノヲの命の説話を、國土及び日の神の生まれたことと荒ぶる神の平定及び皇孫降臨との、二つの物語の中間に置いて、それをつなぎ合はせることにしたのである。なほ地理的にいふと、神代史の原形に於いては、日の神はオノコロ島で生まれたことになつてゐるので、そのオノコロ島は、後章にいふやうに、廣義に於けるヤマトの地域に屬するものとして考へられたであらうが、後に改められた説話では、ヒムカで生まれたやうに語られてゐ、さうしてその何れの話でも、生まれたところ(587)からタカマノハラに上つたとせられ、さてそのタカマノハラから日の神の孫がヒムカに降つたといふのであるから、日の神及びタカマノハラとヒムカとは、二重に結びつけられてゐる。次に日の神のヒムカで生まれたのは、イサナキの命がイヅモとつながつてゐるヨミから歸つてのこととせられ、また日の神に反抗したスサノヲの命は、ヨミに追ひやられてまづイヅモに降り、さうして日の神及びその子孫の統治すべき此の國を、ヨミにいつてスサノヲの命の女を娶つたイヅモのオホナムチの命が領有してゐたために、此の命の國ゆづりが行はれ、その結果として日の神の孫がヒムカに降つたといふのであるから、日の神及びタカマノハラとイヅモ及びヨミとは三重に、またヒムカとイヅモとは二重に、對立の關係に置かれてゐるのである。今の形の神代史はかういふ組みたてをもつてゐるのである。今の形といつても、これは日の神の生まれたところをヒムカとした説によつたのであり、またオホナムチの命については古事記にのみある話をとつた點があるので、これらは何れも後になつて變改増補せられたものであるが、後の潤色がかういふ方向をとつて來たことに意味がある。このことについてはなほ後章に考へよう。
 神代史の結構がもし果して此の考のやうであるならば、其の精神のあるところもまたおのづから明かであらう。一くちにいふと、神代史は、皇祖を日の神とするといふ思想を中心として、皇室の由來を説いたものである。ホノニニギの命のヒムカへの天くだりも、オホナムチの命の國ゆづりも、スサノヲの命のヨミへの放逐も、みな皇祖が日の神とせられてゐることによつて構想せられた物語である。たゞそれには種々の考が入用であつた。皇祖を日の神としたのは、天皇の地位に神性があるといふ思想と、天皇の統治の?態を日そのもののはたらきに類比する考とに本づき、日の崇拜の宗教的觀念をそれに結合し、更に上代の政治上の制度に現はれてゐる血統を重んじ血族關係を尊ぶ風習を以てそ(588)れを色づけたのであるが、國土と日の神との生まれた話は、血族の觀念を以て國土と皇室との政治的關係を説かうとするのであり、またイヅモに關しては歴史的事實が採られ、スサノヲの命についてヨミの觀念が結びつけられてゐる。しかしかういふ種々の思想が結合せられてゐるから、其の間にいろ/\の矛盾や不調和ができた。即ち前に述べた如く、血族といふ觀念と日の崇拜から出た考とを結合した爲に、國土が人から生まれたり最初の皇祖神にも父母があつたりする無理が生じ、日を皇祖神とする考、また皇室の政治的君主としての地位に宗教的意義があるとして、それが荒ぶる神を平定せられるとする思想と、歴史的事實として存在したイヅモの勢力とを結合したがため、オホナムチの命の國土領有が無理なことになり、また歴史的事實と齟齬するやうになつたのである。が、其の矛盾を調和しようとして、却つて新しい不調和が生ずることもあるので、或はスサノヲの命といふ神を作り、或はヨミといふ思想を捉へて來た爲に、ヨミにゆくべき神が日の神と共に生まれるといふ無理ができ、またヨミの觀念と歴史的事實とが結びついて、現し國のイヅモがヨミと連結せられるといふ矛盾が生じたのである。けれども歴史的事實は事實であり、ヨミの觀念は從屬的のものであるから、主なる思想は皇祖神としての日の神の觀念を構成する諸要素と血族關係を重んずることとの二つである、といつてもよいので、しかも前者は後者によつて包容せられてゐる。日の神が皇祖神としてのみ語られてゐるところにそれが示されてゐるが、全體からいつても神代史に於いては、宗教的信仰は背後に潜んで政治的意義を有する血族の觀念が表面に現はれてゐる。すべての宗教的意義を有する神々が、みなイサナキ・イサナミ二神の子孫とせられ、また家々の祖先とせられるものもあるやうに、なつてゆくのを見ても、それが知られる(後文參照)。スサノヲの命が血統によつて日の神にもオホナムチの命にも連結せられてゐるといふことも、やはり此の(589)觀念が神代史の全體にゆきわたつてゐることを、示すものであらう。
 上記の所説は、曩に分解を試みた神代史の一々の物語の間に於ける相互の關係を考へることによつて得たところに本づいて、更にそれを綜合して全體の骨組みを構成してみたのであるが、その間におのづから神代史の形づくられた順序が暗示せられたことと思ふ。日の神を皇祖とすることは、すべての物語に通ずる根本思想であるから、これは最初に定められたに違ひない。なほこれは、皇位を天つ日嗣といひ天皇を日のみ子といふことが、一般に行はれてゐるのでもわかる。さて、それに直接に連結せられてゐるのは、一方で日の神と其の統治せられるオホヤシマとの起源、即ち國土日月の生まれたことを説いた物語、他方では日の神と現在の皇室との連結、即ち皇孫降臨、を敍した物語であるが、神代史の目的が、前に述べた如く、現在の皇室の由來を説くのであるならば、先づ後の方を作らねばならぬ。のみならず、神代史を人代の物語の前に置くに就いては、それをヤマト朝廷の説話に接續するやうにしなければならぬ。さうして、日の神と現在の皇室との關係が皇孫降臨によつて説明せらるれば、それだけで既に一とほり皇室の由來はわかるわけである。(國土日月の生まれたことだけでは日の神と現在の皇室との關係が明かでなく、またそれがヤマト朝廷の説話に接續しない。)だから日の神を皇祖神とする思想の形成せられた上は、それと同時に、或はそれに引き續いて、先づ皇孫降臨の物語ができたに違ひない(第一段)。皇孫降臨が一般に國家の起源、皇位のはじめ、として考へられてゐたことは、出雲國造神賀詞はいふまでもなく、大祓をはじめ、大殿祭、鎭火祭、鎭御魂齋戸祭、遷却祟神祭、等の祝詞に、何れも皇御孫の命がタカマノハラから降られたことを擧げ、また宣命にも神龜元年の聖武天皇即位の時のをはじめ、其の他の場合のにも、同じことが見えてゐるのでわかる。これでみると、皇位の起源をい(590)ふ時には、祝詞でも宣命でも、イサナキ・イサナミ二神まで溯らずに、必ず皇孫降臨をいふのであるが、これらは神代史の作られた後のものとはいへ、天つ日嗣と稱せられる皇位の始まりは、日の神の子孫の降臨で説明がつき、それだけで一應滿足せられ、またそれが何人にも承認せられ得べきことであつたからであらう。だから、神代史の作にも、最初にこのことが案出せられたと見なければならぬ(鎭火祭祝詞のみにはイサナキ・イサナミ二神のことが出てゐるが、これは火の神のことをいふについて、イサナミの神をひき出したので、皇位の起源について述べたのではない)。しかし、皇孫降臨では日の神もしくは其の子孫と國土とが對立してゐるやうであり、また日の神が皇祖神であるといふことを示したのみで、日の神の皇祖神たるべき理由が示されてゐないから、それを明かにするために、かの國土日月の生まれた物語が作られたのであらう(第二段)。けれども、皇孫降臨の物語にオホナムチの命が現はれるやうになると、それと國土日月の生まれたこととの間には、思想上の矛盾ができたから、そこでスサノヲの命の物語が案出せられた(第三段)。かういふ順序で、前に述べた如き神代史全體の骨組みが成り立つたものであらうと思ふ。
 ところで、上記三段の順序は、神代史のかういふ骨組みを一時に作つた其の作者の心理的經過か、又は時代を追うて或る歳月の間に漸次積み重ねられたものか、といふ問題が起るが、結構に無理があり物語の精神に不調和なところのあるものに於いては、それは歳月を經て附け加へられたと見る方が妥當ではあるまいか。だから少くともスサノヲの命の物語は、一旦神代史の作られた後に添加せられたものらしい。それは前にのべた如く、日の神と同時に生まれたといふ話に於いて、或は日月二神とヒルコを隔ててゐ、或は鼻からとか、ふりかへつた時とか、日月二神の場合とは趣を異にしてゐて、いかにも外部から無理に附け加へたやうな趣がある*。またオホナムチの命が、此の國を領有し(591)てゐたといふことの由來を此の神に歸するについても、曖昧な點があつて、強ひて首尾を前後の物語に接合したやうに見えること、此の神によつて生まれた子のオシホミミの命について何の話も無く、天くだりの物語に於いて此の命の現はれてゐるものでも、結局、何のはたらきもしないやうになつてゐること、ホヒの命が國ゆづりの物語の舊い形のものに於いて現はれてゐないこと、日の神とのウケヒに於いて生まれた子の數が三女神と五男神とになつてゐて、此の三と五との數はシナ思想に由來があるらしいこと、またこの命に結合せられたヨミの觀念が、實は空虚なものであること、などから*推知することができよう。オシホミミの命は日の神の子孫の系譜の上では重要な地位を占めてゐながら、それがあの物語のごとき場合に生まれたといふのは、甚だ不似合のやうであるが、これは、日の神の嫡子としての此の命を何等かのしかたでスサノヲの命に結びつけようとして、ウケヒの物語にとりこんだのか、またはウケヒの物語がそのために作られたのか、何れかのためではあるまいか。ウケヒの物語そのものが、實は日の神の地位と權威とを示すには、ふさはしいものでなく、從つて神代史の作られた初からあつたものらしくは、考へられないのである。さすれば、このことはやはり、スサノヲの命に關する物語があとから作り加へられたことの、一證となり得よう。オシホミミといふ此の命の名が、ホノニニギやホホデミと同じく、稻の穗にゆかりのあるものであつて、ミヅホの國の君主の名としてふさはしいものであるとすれば、これらの三神の名は同じやうにして作られたものであり、從つてホノニニギの命の天くだりの物語のできた時には、此の命も、日の神の嫡子としてのその名だけは存在したものとして解し得られるやうでもあるが、上に説いた如く、天くだりの物語の最初の形に於いては、オシホミミの命のことが無かつたとすれば、この命が日の神の子とせられたのは、天くだりの物語より後に作られたウケヒの話に始まつ(592)たことであり、從つてこの命は、スサノヲの命のこの話に於いてはじめて現はれたもの、神代史の原形には無かつた神、として解することもできるので、この方が適切な考へかたであるかと推せられる。オシホミミの命は、天くだりの話に現はれる外には、何のはたらきも無い神だからである。この命が後から現はれた神であるからこそ、天くだりの主人公がホノニニギの命として語られてゐるのだ、と考へ得られるのである。さうしてかう解すれば、スサノヲの命の物語が後から神代史に插入せられたことは、一層たしかめられる。たゞこの場合に、オシホミミの名がホノニニギとホホデミとに倣つて作られた、としなければならぬのみである。のみならず、皇孫降臨の前にオホナムチの命が此の國を支配してゐたといふ話が、神代史の最初の形には無かつたものだとすれば、スサノヲの命が後になつて現はれたといふことは、さらに強く主張せられよう。(此の命のウケヒの話に男尊女卑のシナ思想が入つてゐることも注意すべきであるが、これはイサナキ・イサナミ二神の國土生成物語にも存在するのであるから、此の神の話があの物語よりも後のものである證とはなりかねよう。從つてこゝでは論じないことにする。)なほ全體の上から見て、スサノヲの命の物語そのものは、タカマノハラでの行動でもヤマタオロチのことでも、神代史の精神たる皇室の由來を説くには、さして必要なものでないが、これもまた此の物語が後から加へられたことを示すものではなからうか。但しオシホミミの命は、皇室の系譜に於いて重要の地位が與へられたのみならず、上に述べたやうなヤマトの朝廷のイヅモに對する妥協的親和的精神を象徴するものとなつてゐるところに、大なる意味をもたせられたのである。この命を新に系譜に加へたのが、そも/\その意味に於いてであつたと考へられる。
 これまで述べたところによつて約説すると、神代史の最初の形に於いては、先づイサナキ・イサナミ二神が國土と(593)日の神とを生んで日の神を天に上ぼせた、といふ物語があり、それから引續いて、ホノニニギの命が荒ぶる神を平定してヒムカに降られる話となつてゐたのであるが、其の後、荒ぶる神の平定せられた話にオホナムチの命の服從といふことが結びつけられ、それからまたスサノヲの命の物語ができ、それにつれて日の神の子としてのオシホミミの命が系譜に加へられ、さうして此の物語がオホナムチの命の話の前に插みこまれ、かういふやうにして、大體、今の神代史のやうな骨組みが形づくられた、といふのである。日の神の天に上ぼられたこととホノニニギの命の天くだりとが直ぐに續いてゐては、物語としてすぢが立たないから、原の形のに於いても其の間に何か簡單な話があつたかも知れず、さうしてそれは後にできたスサノヲの命の物語に結合吸收せられてしまつたのではないか、*とも思はれるが、さう推測すべき明かな手がかりが、今の物語に於いては見出し難い。スサノヲの命のタカマノハラでの行動は、上にも述べた如く、皇室の由來を説くにはさして必要の無い、傍話としてはあまりに複雜であり、而も暴威を示すこと二度(一度はタカマノハラに上る時の樣子)、そこに重複の感があること、またウケヒの話に於いて心の正しいことが證せられたのと、其の後で罪せられたこととは、不調和であるやうに見えること、などを思ふと、日の神の岩戸がくれの話は、もとはスサノヲの命には關係なく語られてゐたので、それが神代史の原形にあつたのではないかと考へられ、またそれは子を生む一段がスサノヲの命から離し難いものであるとは違ひ、日の神の觀念の基礎たる日そのものに附隨して生じた物語であつて、スサノヲの命とは本質的に縁のないものであることも、また此の考を助けるやうであり、曾て注意した如く、此の命のヨミ放逐が二重になつてゐるのも、かう見るとおのづから其の理由が解釋せられて、後の方のは本來別であつた岩戸がくれの話を此の命に結合したために生じたものと推測せられ、種々の點に於い(594)て理解しやすくなるのである。またもし神代史の原形が果してかういふしぐみになつてゐたとすれば、日の神の岩戸がくれによつて騷ぎ出したといふ惡神と、ホノニニギの命の天くだりの前に此の國で暴れてゐた荒ぶる神との間に、何等かの連絡があるやうに語られてゐたのではあるまいか。タケミカツチの神などによつて征服せられたといふ天上の星としての邪神カガセヲも、此の國の荒ぶる神のなかまとしては甚だ不似合であるが、日の神が光をかくしたために現はれた惡神*だとすれば、意味があるではないか。岩戸がくれの時に惡神が騷ぎ出したといふ話は、古事記にのみ書いてあるが、上代の宗教思想から見ると、當然考へらるべきことであるから、もとの物語には、何等かの形でのこの話があつたに違ひない。たゞしそれは必しもスサノヲの命と關聯して語られてゐたには限らぬ。この命が海山を泣きほし泣きからすので惡神がさわぎ出したといふこともいはれてゐるが、その意味は上に述べたとほりであつて、この命と惡神との間には直接の關係が無く、さうして岩戸がくれの場合の惡神は暗いところではたらくものとしてのだからである。*しかしこの推測はあまりに詮索に過ぎてゐるのかも知れぬ。日の神を岩戸にかくれさせたならばその起因としての何ごとかが語られてゐたらうと思はれるのに、その痕跡が今の神代史には見えないからである。だからこれは試にいふにとゞめる。このことを除けて考へても、神代史の骨組みとそれのできた道すぢとが上にいつたやうなものであることは肯はれよう。ところで、かういふ骨組みができた後に、始の方にはイサナキ・イサナミ二神以前の神々が附け加へられ、終の方では皇孫降臨の物語のすぐ次にあつたホホデミの命の東遷物語が、ずつと後に押しやられて、そのあとにホノニニギの命とホホデミの命とに關する物語とウガヤフキアヘズの命とが加へられ、さうして今の神代史の形がほゞ整つたのであらう。さてこれまでは、記紀によつて傳はつてゐる帝紀舊辭の種々の異本に共通な(595)話のすぢであるから、それらの異本にあらはれてゐる變異のまだ生じない前に行はれた神代史の潤色の過程である。ところが、此の大すぢが構成せられた後に於いても、また斷えず種々の修飾が施されたので、それがために多くの異本が現はれたのであるが、イサナミの神のヨミの物語やオホナムチの命に關する多くの説話など、古事記に載つてゐるものは、かうして行はれた添加の最も大なるものである。細部に渉る變異については既に一々の物語を研究した場合に述べても置いたが、次章に於いて更にそれを考へて見よう。
 
(596)       第十九章 神代史の潤色 上
 
 前二章は記紀によつて傳はつてゐる神代史の骨組みが如何にして形成せられたかを考へ、それが神代史の精神と如何なる關係があるかを究明しようとしたものであるが、さういふ骨組みの形成せられるまでに歴史的發達の過程があつたことは、上にくりかへし述べておいた。日の神がヒムカで生まれたといふのもそれであり、スサノヲの命の現はれたのもそれであり、オホナムチの命の國ゆづりも多分それであらう。さうしてそれによつて神代史の精神がます/\明かにせられて來た。のみならず、それが形成せられてから後にも、種々の潤色が施されたことは、これもまた既に考へたとほりである。其の潤色には、神代史の精神とはさして關係の無いものもあるが、また其の精神を擴充し、或はそれを徹底させたものと解すべきものもある。皇室と、いはゆる伴造國造、即ち朝廷に地位があり又は地方的首長である諸氏族の祖先および宗教的意義のある神々とを、血族關係で結びつけてあるが如きは、其の後者である。
 記紀の神代史には、例へばホヒの命をイヅモの國造などの祖先とし、アマツヒコネの命をオフシカウチの國造などの、またホスセリ(又はホデリ)の命をハヤトの、ホアカリの命をヲハリの連の、祖先としてある如く、(本によつて多いと少いとの差異はあるが)、皇室と同祖から出た氏族の名が擧げてある。これは神武天皇以後の皇族を祖先としてある氏族、即ち姓氏録の所謂皇別の家と同樣の關係を皇室に對して有つてゐる、といふのであつて、たゞ其の祖先が神代にあるとせられたのみである。(姓氏録がこれらの家を神別の中に編入して皇別と區別したのは、神代と人代(597)との觀念を分類の規準としたためである。)さて皇族を諸氏族たる家々の祖先としたのは、少くとも其の皇族が仲哀天皇までの系譜に記されてゐる歴代のである場合に於いては、其の部分の皇室の系譜が一應形成せられた後になつて行はれたものであること、またそれは家々が其の家系を尊貴にしようとする欲求から出たものであり、さうして其の欲求は、政治上の地位が世襲であるいはゆる氏族制度の世の中に於いては、自然に生ずべきものであることを、第二篇(第四章)に於いてすでに述べておいた。さすれば、それと同樣な意味を有する神代史の記載も、また同樣に觀察すべきものであつて、神代史の系譜の既に一とほりできてゐた時代に於いて、家々の祖先をそれに結びつけたことから起つたことと、考へられる。さうしてさういふ結合をしたのは、多分家々の系譜に始まり、神代史はそれを採用したのであらう。神代の系譜のまだ形成せられない前に、かういふことのあるべきはずは無く、またかうすることの必要は諸家の方にあるからである。だから、記紀の神代史に現はれてゐる此の記載は、後人の添加と見るべきものであつて、それが古事記に於いて多いのは、或は古事記の原本が他の異本よりも後にできあがつたものである一證かも知れぬ。
 此のことはなほ次のやうな例から類推しても知られよう。ナカトミ氏、イミベ氏、オホトモ氏、などは、朝廷に於いて最も重要な地位を占めてゐる家々であるが、其の祖先とせられてゐるアメノコヤネの命、フトダマの命、またはアメノオシヒの命、などは、記紀の何れに於いても皇室と血族關係があるやうには記してなく、またこれらの神々は家々の始祖であつて、更に其の上の祖先といふものがあるらしくは見えない。たゞ書紀の注の一つの「一書」にのみコヤネの命をコゴトムスビの子としてあつて、それは此の「一書」に限つて見えるものであることから考へると、一(598)般に承認せられてゐたことではなく、多分ナカトミ氏の家譜から出たことであり、さうしてそれはかなり後世になつていひだされたことであらうと思はれるが、其のコゴトムスビの出自については、何も記してない。だから神代史及び神代史の潤色が行はれつゝあつた時代のこれらの諸家の系譜に於いては、其の諸家が皇室と血族關係があるとか同祖であるとかいふやうな考は、無かつたとしなければならぬ。然るに古語拾遺や姓氏録になると、それらがタカミムスビの神(命)やカミミムスビの神(命)などの子孫となつてゐるが、これは何れも諸家の系譜から取つたものであらうと思はれるから、神代史が今の形にでき上つた後に於いて、さういふ附會が行はれたものに違ひない。(タカミムスビやカミミムスビなどの神が、神代史に於いても後世に添加せられたものであることは、上に?述べて置いた。)さてタカミムスビの命カミミムスビの命などは、神代史に於いて既にオモヒカネの神、スクナヒコナの命、などの親となり、特にタカミムスビの命はヨロヅハタトヨアキツシヒメの父として皇祖と極めて深い關係がつけられ、またいはゆる皇孫降臨の物語に於いては、日の神と並んで、或はむしろそれよりも、重要な地位にあることになつてゐるが、皇祖神とはせられてゐない。しかし顯宗紀に於いてはタカミムスビの命は日月二神の祖となつてゐるので、それはオシホミミの命の妃の父とせられてゐる地位が更に一歩を進めて、皇祖神と考へられるやうになつたものと、解せられる。さすれば、上記の諸家の祖先がタカミムスビまたはカミミムスビの命の子孫になつてゐるのは、この考と關係のあることであつて、畢竟、其の家々を血族關係によつて皇室に結合しようとして、案出せられたことに違ひない。多くの氏族がそれ/”\其の祖先を神代史上の神々に結びつけ、それがまた神代史に載せられるやうになつたといふことは、この事例から考へても肯定せられなければなるまい。たゞコヤネの命とかフトダマの命とかいふ祖先の(599)名は、神代史に於いて先づ現はれたのか、又は家々に於いて作られたのか、その點は明かでない。これらの神々は神代史の上でそれ/”\のはたらきをなしてゐ、さうして、それが家々の朝廷に於ける地位や職務を反映してゐるのみならず、タマツクリ氏の祖先をタマノオヤといひ、クメ氏のをアマツクメといふやうに、業務や氏族の名から祖先の名を作り出したことの、明白なものさへあるので、それは神代史の物語に現はれる人物として、其の物語の述作者によつて生まれたものとしても、又は家々で作つたものとしても、解釋はできるが、オモヒカネの神とかタチカラヲの神とか、物語の記者によつて作られたとしなければならぬ神々の名が、同じ場所に現はれてゐるのを見ると、或は前の方の解釋によるべきものかも知れぬ。たゞそれにしても、例へば上に記したアマツヒコネの神をオフシカウチの國造の祖としたやうな、家々の地位にも業務にも關係の無い神々を祖先とするのとは、幾分か意味の違つた點があることを、注意しなければならぬ。コヤネの命やフトダマの命を物語の上に現はしたのは、ナカトミ氏やイミベ氏そのもののことを説くためだからである。
 次に考ふべきは宗教的意義を有する神々がすべてイサナキ・イサナミ二神の生殖によつて生まれた子孫とせられ、もしくは二神または其の子孫によつて化生したとせられてゐることである。二神がオホヤシマを生んだ後に神々を生んだといふことは、書紀の本文には見えてゐないが、それは漢文にしたために意味が變つたからであつて、物語の原形に於いては、やはり神々が生まれたことになつてゐたのであらう、といふことは上に既に述べて置いた。神々の名や數に異同はあるが、書紀の注の幾つもの「一書」にも古事記にも、みな其の話が見える。さて生殖によつて生まれた神は、その點に於いては人の形と性質とを有つてゐることになるが、化生した神もそれに一々人に擬せられた名が(600)ついてゐ、また生殖によつて生まれた神と何の差別も無く取扱はれてゐる。但し生殖によつて生まれた神が人の形と性質とをもつてゐるとしても、さういふ神は神代史に於いて何のはたらきもせず、それについての物語がないから、それとても實は人に擬せられた名を與へられたのみではある。が、ともかくもかういふ神が神代史にあらはれてゐるとすると、こゝに問題が起るので、それはさういふ性質の神が實際の民間信仰に於いて存在したかどうかといふことである。これについては上文にも一とほり所見を述べて置いたから、再びそれを説くには及ぶまいが、こゝでいはうとする點に關して更に一言するならば、一般には人の形と性質とを具へない精靈もしくは靈物が崇拜せられてゐたので、神といふものの多くもそれであつたらしい。廣く諸民族について考へると、かういふ神はどの民族にもあるが、それが人の形と性質とをもつ神になる徑路はさま/”\であつて、精靈そのものが生きてゐるものと思はれ、また生きてゐるものに自己を投影してそれに何等か人らしいところがあるやうに見る傾向があるとすれば、そこに既に人の形と性質とをもつ神の生まれる基礎があるのであり、さうしてそれには、動物を神とすること、多くの童話や民間説話に現はれてゐる如く、其の動物と人との間に劃然たる區別がないこと、巫祝もしくは君主の如き現實の人が神とせられる場合のあること、*もしくは種々の呪術、或はまた民族によつては祖先崇葬や英雄崇拜の風習などが、それを助けまた促す機縁となるのであらう。さすれば、われ/\の民族の上代に於いても、民間信仰として少くとも其の萌芽はあつたと考へられる。しかし記紀の宗教的信仰に關する種々の記載、祝詞に現はれてゐる思想、または神社の性質などから推測すると、それがまだ發逢してゐなかつたに違ひない。さうして上に述べた如く、記紀に見えるオホヤマツミの神、オホワダツミの神、又はアメノミクマリ・クニノミクマリの神、などが、一般的に山や海やミクマリを支配(601)する人の形と性質とをもつた神として、古い昔から信仰せられてゐたものらしくはなく、また次にいふやうに、神の名が幾らでも増加し得られるものであることを思ふと、概していへば、宗教的性質を有つてゐる記紀の神々の多くは、實際民間に於いて崇拜せられてゐたとは見なし難いので、それは神代史の述作者もしくは潤色者もしくは其の他の知識人の思想に於いて生まれたものと考へられる。またかういふ神の現はれたことには、シナから入つた知識、特に道教思想や彼の國の民間崇拜に關するものから受けた刺戟が、助をなしてゐるのではあるまいか、とも思はれる。
 勿論、?説いた如くかういふ神々の一々の基礎は民間信仰にあり、中には其の名もまた民間に行はれてゐた何等かの稱呼を其のまゝ取つたものさへあるであらうし、さうしてまた民間信仰に於いて既に人の形と性質とをもつた神の形成せられるやうになる傾向はあつたと見なければならぬが、一度かういふことが行はれると、民間信仰とは直接の交渉なしに、神代史の上に於いて、もしくは知識人の思想の上に於いて、其の趨勢が次第に力を増して來、いろ/\の神と其の名とが現はれるやうになる。古事記と書紀の注の「一書」とに此の種の名の多く載つてゐるのは、即ち其の結果であつて、長い間の神代史の潤色によつて漸次それが添加せられたのであらう。もつとも既にそれが神代史に現はれた上は、種々の徑路によつて民間信仰にも結合せられてゆくのであるが、それがまた神代史の潤色者に採用せられて、其の面影を記紀の上に見せることもある。例へばウハツツノヲ、ナカツツノヲ、ソコツツノヲ、の三神がスミノエの大神として古事記に記されてゐる類がそれであつて、これは神代史上の此の三神が民間に崇拜せられてゐたスミノエの神の名とせられ、それが更に神代史に採用せられたのであらう(スミノエは漁民または舟夫が海の精靈を祭り又は何等かの呪術的儀禮を行ふ場所であつたらう)。それからオホモノヌシの神もまた此のなかまに入れるべき(602)ものかも知れぬ。ミワ山の精靈もしくは蛇神が、オホモノヌシの神として、人に擬せられた名を有する神になつたのは、神婚説話に關係があるであらうが、それと共に、一般的に神代史に於いて宗教的意義での神に人の如き名の與へられたことによつて、促がされたのであらう。もしさうとすれば、これは神代史に一つの由來があるが、それがまた神代史の潤色者によつて取り入れられたのである。なほこのことについては、神代史の物語に於いて現はれた鏡がキの國のヒノクマの神であると考へられ、それが書紀の注の「一書」に載せられてゐることを參考するがよい。何れも同じ徑路である。しかしまたかういふ例が開かれると、初から或る場所の神(精靈)に人に擬せられた名をつけることも行はれたらしく、古事記にヒエの山の神をオホヤマクヒの神としてあるなどは、さういふところに由來があるかと思はれる(ワカヤマクヒの神はオホヤマクヒの神の分身として神代史の上で生まれたのであらう)。それから本來は宗教的性質を有つてゐない神代史上の神が民間信仰と結合せられることもあるので、タカミムスビの命(神)が、一方では、物語の上の人物とせられ、オシホミミの命の妃の父として、また日の神と並んで、活動することになつたと共に、他方では、タカキの神と稱せられることになつたのが、その一例である。タカキの神はその名から考へると、樹木によつて象徴せられたものらしいから、これは民間信仰に於ける何等かの儀禮に於いて、神として樹木または柱をたてることが行はれ、それがタカミムスビの神とせられてゐたことを、示すものであらう。さうしてそれがタカミムスビの神とせられたのは、樹木または柱を生産力の象徴として見たからであらう。このタカキの神の名が、古事記によつて傳へられた神代史にとり入れられたのである。また古事記に*イサナキの命がアウミのタカに坐すとしてあり、書紀の注の「一書」に於いてイサナミの命がキの國のクマヌで祀られることになつてゐ、なほタカマノハラでスサノ(603)ヲの神の生んだといふ三女神がムナカタ(一説によればミヌマ)の君の祭る神とせられ、アヂシキタカヒコネの神がカモの神とせられてゐる類は、かういふ徑路で民間崇拜に取入れられたものが、再びその名を神代史に現はしたのであらう。宗教的性質を具へてゐる神代史の神と官府の祭祀などとの交渉は、一層密接であつて、其の間には相互の影響があつたらうが、中には既に官府で祭られてゐる神が神代史に編入せられたものもあるらしい。例へばアスハの神、ハヒキの神などは、古事記にも祈年祭の祝詞にも見えてゐるが、これは祝詞にヰカスリの御巫の祭る神のやうに書いてあるのを見ると、本來民間に崇拜せられてゐた神であつたのを、官府の祭祀に於いて先づ採用せられ、さうしてそれを古事記の原本となつたものが更に取り入れたのではなからうか。
 さてかういふやうに多くの神々が神代史の潤色に於いて漸次加へられて來たのであるが、それが何れもイサナキ・イサナミ二神の子孫とせられ、もしくは二神または其の子孫たる神々によつて化生したことになつてゐるので、そこに宗教的意義を有する神々と皇室とを同祖とし、血族關係でそれを結びつけようとした意圖のあること、並にさういふ考の後になるほど強くなつて來たことが、示されてゐる。これらの多くの神々は神代史に於いて何のはたらきをもせず、從つて何の物語にも關係の無いのが多いから、それを故らに神代史に載せる必要があるとすれば、それはたゞさういふ神々がイサナキ・イサナミ二神の子孫であつて、皇祖と血族關係を有つてゐることを示すより外に、何もなささうである。もしまた、そのうちに神代史に於いて何等かのはたらきをしてゐる神があるとしても、それは本來神の性質とは無關係のことで、たゞ神代史上の物語に其の名が結びつけられたまでである。實は日の神の皇祖神とせられてゐることが、宗教的性質を有する神と皇室との間に血族關係をつけた根本であるが、それが既に神に固有でない(604)性質の附加せられたものである。神代史に於いてそれほど重要性の無いものでも、例へばオホヤマツミの神とワダツミの神とが、それ/”\ホノニニギの命とホホデミの命との妃の父とせられてゐる如き、ただ山神海神といふので、一はコノハナサクヤヒメの父とせられ、一は海神の宮の主人公とせられたのみであつて、それらは宗教的意義に於ける神としてのはたらきではないのである。だから宗教的意義での神としてこれらの神々が、神代史に載せられたのではない。また神々の間の血統關係が無意味であつたり、或は生まれ又は化生した場合と其の神の性質とが無關係であつたりするのは、神の性質から自然に其の間の血族關係が想像せられたのではなくして、強ひてさういふ關係がつけられたからである。神代史の上では、全體として見ると、多神教らしい形を具へてゐるものの、神々の間に何等の統制が無く組織が無いのは、信仰の實質に於いて眞に多神教が發達してゐるのではないからであつて、それは、神々が人に擬せられた名を有つてゐるのが、主として神代史の上で始められたものである一證となるべきことでもあるが、其の神代史の上に於いてこれらの神々を結び合はせた血族關係は、極めて恣なものであつて、神々の本質とは殆ど關係が無い。さうしてそれは、血族關係をつけるといふ意圖の下で行はれたことであり、またそれが唯一の意圖であつたからだ、と見なければならぬ。
 神々の間に血族關係をつけることがこれほど大切であつたとすれば、さうして家々の祖先を神代史上の神に結合することが行はれたとすれば、宗教的意義を有する神が家々の祖先とせられるのも、また自然に起り得べきことである。ウハツワダツミ・ナカツワダツミ・ソコツワダツミの三神がアヅミの連の祖先神ウツシヒガナサクの命の父とせられてゐる類がそれであつて、これもまた古事記にのみ記されてゐるところを見ると、後になつて案出せられたのであら(605)う。三柱のワダツミの神といふものが、をも/\神代史の最初の形には無かつたものだ、といふことは上に述べて置いたが、三神が一人の神の父であるといふのは、かういふ血統關係が如何に詩恣につけられたものであるかを知るに十分である。ところが、全體の上から見ると、宗教的意義を有する神とても、畢竟はイサナキ・イサナミ二神の子孫、もしくは二神によつて化生したものとせられてゐるから、それを祖先とする家もまた結局、皇室とその祖を同じうすることになるので、家々の祖先について前に述べたところは、やはりこゝにも適用せられるわけである。
 そこでかういふ潤色の施された神代史を見ると、その骨組みが血族關係でできてゐ、國土と日の神とも血族として説かれ、朝廷に地位をもつてゐたり地方的首長であつたりする貴族豪族の家々たる諸氏族の祖先も、宗教的意義を有する神々も、悉く皇室と同一系統の血族とせられてゐる。國土と其の上の諸氏族とは、その統治者たる日の神と共に、ひとしくイサナキ・イサナミ二神の後裔となり、諸氏族のみならず、山川河海の神々、日常の民族生活を支配する神々も、また共に二神の子孫、もしくはそれによつて生まれたものとなり、此のオホヤシマも其の上にある神も諸氏族も、共に日の神の後を承けられた皇室を中心とし宗家とする一大血族となつたのである。こゝで皇祖神たる日の神にも父母があるといふ物語が、意味の深いものとなると共に、イサナキ・イサナミ二神の生殖神話で神代史を開いた結構が、極めて大切なものとなる。即ちこの生殖神話から開かれた血族關係によつて、國土神人が統一せられたのである。特に氏族についていふと、國土と日の神との關係を血族として説いただけでは、皇室の地位の由來を明かにするには足りるけれども、半ば抽象的な理説ともいふべきことであるから、一歩を進めて、現實の諸氏族が皇室と同一血族であつて、それらの祖先が、皇室と同じくイサナキ・イサナミ二神の後裔であるとするに至つて、始めて皇室と諸(606)氏族との關係が具體的になる。諸氏族がその祖先を神代の神なり後の皇族なりに結びつけたのは、諸氏族のそれ/”\が各その家を貴くしようとする欲求から起つたことであつて、こゝにいつたやうな意味がそれにあつたのではないが、さういふ諸氏族の欲求を是認し、それによつて作られた諸家の多くの系譜を一つの材料として構成せられた神代史の上について見ると、かういふ精神がそこに看取せられるのである。また宗教的性質を有する神々についていふと、神々の間にその本質から形成せられた統制が無い代りに、血族關係によつて皇室と結合せられてゐるので、それは神代史が政治的意義のものであり、從つて上にも一言した如く、神についてもその宗教的性質は裏面に隱れて政治的意義が表面に顯はれてゐる、全體の精神とおのづから調和してゐる。國土と日の神との生まれた物語はこゝまで擴充せられて、はじめて其の精神が徹底するのである。皇室の由來を語るために述作せられた神代史の潤色が、かういふ方向をとつて進んで來たのは、極めて自然のことである。ついでにいつておく。皇室と血族關係のつけられたのは上にいつたやうな諸氏族に限つてのことであつて、一般民衆のことではない。神代史の系譜に於いても、物語に於いても、民衆のことはすべて考へられてゐない。なほ諸氏族に於いても、上記のやうにしてつけられた皇室との血族關係が事實を示すものでないことは、いぶまでもないが、その祖先が神代の神とせられたり、宗教的意義での神とせられたりしてゐる場合のあることからも、それは明かである。實をいふと、皇室の御祖先の日の神となつてゐることが、かういふ系譜の性質を最もよくあらはしてゐる。だから、諸氏族が皇室を中心とし宗家とする一大血族となつてゐるといふのは、事實を語るものではなくして、思想の上で構成せられたことなのである。
 かう考へて葬ると、局部的のことであつて神代史の全體にはさしたる關係のないことがらに於いて、この血族の(607)思想が適用せられるやうになるのも、また怪しむに足らぬ。例へば古事記のカグツチの斬られたところではミカハヤビの神、ヒハヤビの神、またタケミカツチノヲの神は、刀の血から順次に化生したことになつてゐるのに、イヅモ平定の話では、タケミカツチノヲの神をイツノヲハバリの神(刀)の子と記してあり、書紀の同じ條では、イツノヲバシリの神の子がミカハヤビの神、その子がヒハヤビの神、その子がタケミカツチの神、となつてゐる*。(古事記の崇神の卷にはタケミカツチの命をオホモノヌシの神の曾孫、オホタタネコの父、としてあるが、これはあまり縁遠い系統に組みこんだものである。)書紀のイサナキ・イサナミ二神より前の神々の生り出でたことを記した條の注の「一書」に、クニノトコタチの神からイサナキの神までの數代を父子相承としてあるのも、それに似てゐる。これらは原の系譜に於いては父子でなかつたものを、後の潤色者がかう變改したものらしく、後になるほど神々の間に血統關係がつけられて來たことを、示すものであらう。もつといふと、タカミムスビの神などに子があるとしたのも、根本は同じである。氏族制度の下にあつた時代の人々の考へ方はこれでもわからう。
 神代史の潤色に於いて次に考ふべきは、神の名がいろ/\に作り加へられ、またそれに男女の性のつけられてゆくことである。これについてもまた上文に既に言及したことがあるから、やゝ重複に渉る嫌も無いではないが、此の場合に概括的の考察をして置くのも無益ではあるまい。さて神代史、特に古事記のそれには、何の物語もなく何のはたらきも無い神々が多く記されてゐて、それには宗教的意義のあるものと抽象的觀念の神格化せられたものとの二種類があるが、これらの神々には、同じ性質を有し又は同じ觀念を示す同種類同性質の神の、二つ以上ある場合が甚だ多い。けれども幼稚な精靈崇拜の?態で同じ精靈が幾樣にも見られてゐたとは思はれず、また抽象的觀念が神とせられ(608)たのならば一つの觀念が一つの神となるべきはずであるから、同じ性質の神が幾つもあるといふことには、そこに發達の歴史が含まれてゐなければならぬ。即ち民間信仰に於いて存在する精靈が人に擬せられた名をもつた神として取扱はれ、或は抽象的觀念が神とせられるやうになつてから、古事記などの神々となるまでには、其の間に變化があつたと見なければならぬのである。さうして、それは神々の名稱から證明することができよう。
 神代史を見ると、タカミムスビ・カミミムスビ(神名帳にイクムスビ・タルムスビがある)、アメノミクマリ・クニノミクマリ、アメノサツチ・クニノサツチ、イハサク・ネサク、ミカハヤビ・ヒハヤビ、タケフツ・トヨフツ、ヤソマガツヒ・オホマガツヒ、カミナホビ・オホナホビ、などのやうに、同じ名にタカ、カミ、イク、タル、アメ、クニ、ミカ、ヒ、タケ、トヨ、カミ、オホ、などの美稱的形容詞を冠らせたものが多い。ところが、タカミムスビとカミミムスビと二神があるけれども、其の基礎になつてゐる觀念は「ムスビ」であり、カミナホビとオホナホビとの二神も其の屬性は「ナホビ」であつて、何れにも二神として區別せられねばならぬ特質がない。さうして「タカ」、「カミ」、「オホ」、は單に美稱たるに過ぎない。これは初から二つの神であつたのではなくして、もとは一つの神であつたのが分身したことを示すものではなからうか。すべての神々が一々此の徑路を踏んで來たものとはいはれないので、既にかういふ例が開かれた後に作られた神には、初から一つの名に異なつた美稱の冠せられた同性質の二神として現はれたものもあらうが、其の淵源に溯ると、かういふ歴史的發達があつたと見られる。それならば、どうしてこんな歴史ができたかといふに、先づ注意すべきは、此の同じ性質の二つの神は古事記にも常に續けて書いてあるが、それをよみつゞけると一種の疊語になることである。また美稱的形容詞が加はつてゐないでも、例へばウヒヂニ・スヒヂニ、(609)ツヌグヒ・イクグヒ、イサナキ・イサナミ、ツラナギ・ツラナミ、などの如く、連稱的に書きつゞけてある二神の名に、同じ詞が重なり同じ語調が重なつてゐる場合が少なくない。
 ところで延喜式の祝詞や、古事記の國語でかゝれた部分を見ると、明妙・照妙・荒妙・和妙といひ、生井・榮井・津長井といび、奇魂・幸魂といひ、淤煩鉤・須々鉤・貪鉤・宇流鉤といふやうに、一つの詞にほゞ同じ意義を有する異なつた形容詞を冠らせて連稱する例が甚だ多く、たまには生太刀・生弓のやうに異なつた名詞に同じ形容詞をつけて、同じやうな形式を作るのも見える。文章となつたものでも「八束穗の伊加志穗に」とか「天津祝詞の太祝詞」とか、「神直備大直備に」とか、また長い例では「朝の御霧・夕の御霧を、朝風・夕風の吹き掃ふことの如く、大津邊に居る大船を舳解き放ち、艫解き放ち、」とか「荒汐の汐の八百道の八汐道の汐の八百會」とかいふやうなのが多い。この「朝風・夕風」とか、又は「和魂・荒魂」とか、「高山の末・短山の末」といふやうな例を見ると、かういふ語のつづけ方は反對の觀念を對照させたやうにも思はれるが、實は語を重ねるのが主旨であることは、前に擧げた多くの場合に、同一語もしくは同一觀念をくりかへしてゐるのでわかる。明と照と、生と榮と、奇と幸と、大と神と、天と太と、みな同じやうな美稱であつて、其の間に對照の意味は無く、たゞ語をかへたまでである。人の名でも顯宗紀にアメヨロヅ-クニヨロヅ-オシハの命といふ皇子の稱呼があるが、此のアメとクニともまた同じやうな美稱を重ねたまでである。上代人はかういふやうにひどく疊語を好んだものである。さて此の習慣と神の名の疊語的になつてゐることとの間には、關係が無いといはれまい。さすれば、一つの神の二つに分身する傾向は、もと一つの神に異なつた美稱を冠らせて、それを連稱したことから生じ、それが或る場合に分離して全く二つの神となつてしまつたのではあるま(610)いか。これが一つの神から他の神を分出させ、又は同性質の二神のできた理由であらう。古事記にイクタマ-サキタマヒメといふ神があり、書紀にイハサク-ネサクといふ神を載せ、延喜式の神名帳にはイクシマ-タルシマ、またイククニ-サククニダマといふ名がある。アメニギシ-クニニギシ-アマツヒコホノニニギ、コトカツ-クニカツ-ナガサ、なども其の例と見てよい。また古事記にはトヨフツとタケフツと、クシイハマドとトヨイハマドと、アメノヲハバリとイツノヲハバリとを、それ/”\一神の二名としてある。これらは疊語がまだ分離せぬ場合、又は分離しかけた例であつて、それがもう一歩進むと、タカミムスビ・カミミムスビ、アメノミクマリ・クニノミクマリ、ツヌグヒ・イクグヒ、などのやうに全く獨立の二神に分れてしまふ、其の變化の中間にあることを示すものである。古事記のイクタマ-サキタマヒメの外にサキタマヒメがあつたり、また書紀のイハサク-ネサクの神が古事記にはイハサクとネサクとの二神になつてゐたり、御門祭の祝詞に「カミナホビ・オホナホビに」と副詞的に用ゐてある語が、カミナホビとオホナホビとの二神になつてゐたりするのでも、それがわか*る。美稱の加はつてゐないものに於いても、名そのものが疊語的になつてゐる場合は、やはり同じことである。神代史の神には、かういふ風に言語によつて一つの神から分身したものが多からうと考へられる。
 もつとも前に擧げたイクタマ-サキタマ、またはイハサク-ネサク、といふ神の如きは、イクタマとサキタマと、またイハサクとネサクとの、二神が結合せられたものとして見ることもできるので、アシナツチとテナツチとの二人が書紀の注の「一書」に於いてアシナツ-テナツといふ一人になつてゐるが如きは、明かにかういふ徑路を取つてゐるものと考へられるが、しかしかういふことの行はれるのも、神の名が連稱的疊語的になつてゐるからであつて、その由(611)來は上記の如き點にあるのであらう。ホノニニギの命のアメニギシ-クニニギシといふ形容詞の如きは、決してアメニギシとクニニギシとの二神が一神に結合せられたからと見るべきものではないので、マサカツ-アカツ-カチハヤビ-アメノオシホミミの命といふ名と同樣、本來疊語にできてゐたものとしなければならぬ。さうしてかういふ疊語が分離して二つの名となるべき傾向を有することは明かである。(人の名が連稱的になつてゐることは神武天皇以後の物語や系譜の上にも多い。第一篇第五章、第二篇第二章第一節など參照。また疊音疊語を好む上代人の趣味については「貴族文學の時代」第一篇第二章參照。)勿論、神の名のふえてゆくことには他の理由もあるので、ワダツミの神やツツノヲの命やが三柱づつになり、ヤマツミの神やイカツチの神やが八柱づつあるやうに、神の性質居所などから分化したと認むべきものもあるが、此の例はあまり多くない。さうしてかういふ風にして分化した神の名の見えるのが古事記もしくはそれと親近の關係のある書紀の注の「一書」であるとすれば、それは神代史の最初の形に於いて存在したものではなく、從つてそれは後の潤色によつて漸次現はれて來たものとすべきであらう。
 
(612)       第二十章 神代史の潤色 中
 
 前章に述べたやうな性質の神々、即ち宗教的性質を有するもの、又は抽象的觀念の神とせられたものの名には、往々男女の性の表示せられてゐるものがある。神に性をつけることは、それが人の形と性質とを與へられてからでなくては行はれないはずであるが、民間信仰に於いては、概していへぼまだそこまで進んでゐなかつたらしいことを考へると、これもまた主として神代史の上だけのこととしなくてはなるまい。概念から作られたものに於いては勿論である。第一、神々には性を表示することばのついてゐるものと、ゐないものとがあるので、ついてゐないものは性の無いものとして考へる外はなく、さうして性の無い神の數が多いといふことは、一般の宗教思想に於いて神に人の形と性質とを與へることがまだ發達してゐなかつたためであると共に、性をつけることが特殊の知識人のしわざであつた一證としても見られよう。民間信仰が大體に於いて精靈崇拜である以上、其の精靈には性のあるはずがなく、從つてそれをすぐに人化した神代史の上の神々に性の無いのは當然である。ワダツミの神もヤマツミの神も、或は祖先神とせられ或は人の親とせられると、男性の側に置かれてゐるやうに解せられないでもないが、それとても曖昧であつて、ワダツミの三神に一人の子があつて、それがアヅミ氏の祖であるとさへ記されてゐるのを見ると、無性のまゝで祖先とせられてゐても不思議ではなく、まして本來の宗教的意義に於ける神としては、勿論、性を與へられてゐないのである。また祭祀などに於いても、儀禮の上に性による特色があつたらしい形跡は無いが、これもまた上記の考説を助(613)けるものであらう。さうして上に既に説いた如く、神代史上の神に性の一定してゐない場合が多く、例へば野の神のカヤヌヒメがヌツチといふ無性の名を有つてゐるやうに、同じ神が一方では性を具へながら他方ではそれが無いこともあり、また古事記にオホヤヒコといふ神があるのに書紀の注の「一書」には別にオホヤツヒメといふのがあつて、名から考へると、それは同じ信仰の對象であるらしく思はれるやうに、一方では男性とせられながら他方では女性とせられてゐることもあるが、これもまた性の表示がかなり恣であること、從つてそれは實際の信仰とは深い交渉の無いものであることを、示すものである。(性が一定してゐないことについては第三章に擧げた例證參照。こゝに述べたカヤヌヒメのことは、その一名であるといふヌツチが、本來、野の精靈といふ意義の語であつて、民間信仰に於いて到るところにある野の精靈を呼んだ普通名詞に過ぎないのであり、一般的に野を支配する神として人の性質を與へられた上では、カヤヌヒメといふ固有名詞がつけられたものとも考へ得られるから、或は上記の場合の妥當な例でないかも知れぬが、第四章にいつて置いたトヨウケヒメやオホゲツヒメとウケモチの神やウカノミタマとの關係は、一層適切にこの考説にあてはまるであらう。)
 性の區別をすることが、このやうに恣なものであるとすれば、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ、カナヤマヒコ・カナヤマヒメ、のやうに、一つの名にヒコ、ヒメ、といふ詞を加へて、同じ語調で連稱せられるやうな男女の二神とし、ウヒヂニ・妹スヒヂニ、ツヌグヒ・妹イクグヒ、といふやうに、疊語的に連稱せられてゐる二神を強ひて男女として配偶させたのも、怪しむに足らぬ。前のは性を示す詞を除けば男も女も同じ名であつて、二神になつてはゐるが神の性質は一つしか無く、後のもまた名稱にも性質にも性の區別があるのではないから、何れにしても性をつけたの(614)は、無意味である。同じ性質また同じ名の男女二神があり、或は同じ意義また同じ語調の名であるがために二神が夫妻とせられたのならば、その男女の性も夫妻の關係も甚だ空疎なものである。だから、前の例では、書紀にハヤアキツヒといふ性の無い神が現はれてゐるし、後の例では、これもまた既に説いた如く、タカミムスビとカミミムスビとのやうな二神が男女となり得るのである。さうしてかういふ風に性をつけることは、前章に述べた神の分化と同じ心理から、またそれと關聯して行はれたのであり、從つてそれが神代史に現はれたのは、概して後人の潤色によるものと考へられる。
 勿論、神の性がかうしてのみつけられたとはいひ難いので、中には神の性質上、男性または女性となるべき慣向を有つてゐるものもあらう。例へばタケミカツチノヲの神といふ如き武神は、おのづから男神として考へられるべきものであり、オホゲツヒメの神の如きも、女性たるべき理由はある。それからウヂノワキイラツコ・ウヂノワキイラツメ、といふやうな兄妹の呼び方が、實際の風俗の反映であるとすれば、一つの名にヒコ、ヒメ、を加へて男女の二神とするといふやうなことも、それと全く縁が無くはない。が、少くとも性を有つてゐる多くの神のうちに、上記の如き徑路でできたものがある、といふことは否まれまい。上にも一言した如く、道饗祭祝詞にヤチマタヒコ・ヤチマタヒメといふ神があつて、それは、古事記のイサナキの神の禊の段に出てゐる、チマタの神から展開せられたのであらうと思はれるが、チマタの神は、古事記では人の形をもつた神として記されてはゐながら、其の名は到るところの衢にゐる精靈をさした普通名詞を、其のまゝ取つたに過ぎないので、神としての固有名詞でもなく、性もついてはゐなかつたのが、祝詞に至つて此の男女二神となつてゐるのである。これは神代史の上のことではないが、神が分化し、(615)また性を具へるやうになつた徑路は、神代史に於いてもまた同樣であつたらう。さうして、かういふやうに連稱せられてゐる男女の二神が、或は明白に夫妻とせられ、或は夫妻らしく思はれるやうに記してあるのは、やはり神代史が氏族を基礎としてゐる上代の政治制度の下に於いて作られたものだからであり、また家族生活に於いて妻が夫と竝んで同等な地位を占めてゐたからのことであらう。風土記などの物語に見える人物にも往々同じ例のあることを、參照するがよい(第二篇第二章參照)。
 かういふやうにして神の名は漸次増加して來たが、それは神の屬性やはたらきやが分殊して來たために、それに相應する神が現はれたのではなく、たゞ名が分れたのみであるから、神そのものの性質には何も加はつたところが無い。畢竟、名のみあつて實のない神の數が、多く現はれたに過ぎないのである。神の名は多くできたけれども、其の神に何等の特質がなく、何等のはたらきも無い。さうしてそれは、かういふ神々の出現がたゞ神代史の上だけのことであつて、實際の民間信仰とは交渉のないものだからである。
 神の性に論及したついでになほ一言すべきことがある。それは日の神を女性とするのが初からのことであつたかどうか、といふ問題である。古事記には日の神の性を明かに示すやうな文字は少く、從つて女神としなければならぬやうな記事はまれである。いかめしい武装は、勿論、男の姿である。「御髪を解かして御美豆羅に纏く」とあるのも、女子の男装と解釋しなければならぬことではない。其の他「忌服屋に座まして神御衣を織らしむ」といふのも、日の神自身に御衣を織られたのではなく「天衣織女」が別にあるのであるから、この忌服屋は「大甞をきこしめす殿」と同じく、またそれと共に、日の神が神を祭られるに必要な設備として擧げられたのみであり、日の神が女性であること(616)を示すものとは解せられぬ。日の神が田を作られるのも、斯ういふ物語の作られた時代の文化の?態に於いては、男性としてふさはしいことであらう。要するに日の神に關する古事記の記載には女神らしい特徴が明かに見えない。女性としての感情も全く現はれてゐない。たゞ日の神がスサノヲの命に對していはれたといふ「なせの命」は女性のことばらしく思はれる。セは女に對する場合の男の稱呼だからである。だから、日の神を女性とする見かたが古事記に現はれてはゐるが、それは上記の種々の話とは不調和なものである。しかし書紀の本文では、スサノヲの命のことばとして「與姉相見」、「阿姉翻起嚴顔」、「請與姉共誓」、などとあり、忌服殿についても「天照大神方織神衣齋服殿」と書いてあつて、明かに日の神を女神とし、またみづから衣を織られるやうにしてある。また書紀の注の幾つもの「一書」にも、日の神をスサノヲの命の姉とし、日の神自身のことばとして「吾雖婦女何當避乎」とも書いてある。神功紀のアマサカルムカツヒメも(やゝ明白でない點はあるが)やはり日の神のことであらう。さすれば書紀編纂の時に日の神が女性と考へられてゐたことは明かであらうし、古事記にも上記の「なせの命」の語のあるのを見ると、それはかなり前からのことかも知れない。たゞ古事記には女性らしい行動が記してないのみである。子を生む話が古事記に限つて「女なれば心清し」となつてゐる理由は前に述べて置いたが、或はこのことを考へての改作ではないかとも疑へば凝はれる。たゞ一考すべきは、古事記に於いて、日の神はイサナキの神が左の目を洗つた時に、月の神は右の目を洗つた時に、生まれたとせられ、書紀の注の「一書」には、日の神は同じ神が左に白銅鏡を持つた時に、月の神は右にそれを持つた時に、生まれたとしてあることである。左右の位置と男女の性との關係について他の例を見ると、イサナキ・イサナミ二神の國土を生んだ話には、男神は左より女神は右より柱を旋つたとあり、書紀の注の「一書」(617)には、初め女神が左から旋つて不吉であつたから、改めて男神が左から旋つたことになつてゐるので、これで見ると、此の話の述作者は左と男性とを聯想したらしいが、日の神の化生が左の位置を取つてゐるのも、やはり同じ思想から出てゐるのではなからうか。もしさうとすれば、日の神は上記の物語に於いては男性とせられてゐる、と見なければなるまい。またスサノヲの命と子を生む時のウケヒが、古事記の一説を除けば、すべての本に男を生まば心正し女を生まば邪なりとしてあるが、日の神が女神ならば、こんなウケヒの詞があらうとは思はれない。それから日の神が生殖によらずして子を生むことになつてゐるのも、女性でないからのことではあるまいか。男神たるスサノヲの命と對等の位居に立ち、全く同じ方法、同じ態度、で子を生まれたとしてあるのを見るがよい。日の神が女性であるならば、こんな話はできなくはなからうか。かう考へて來ると、日の神は或は女性ともせられ、或は男性の地位にも置かれてゐるやうであつて、甚だ曖昧である。これは何故であらうか。
 そこで先づ考ふべきは、日の神の性は其の自然的基礎である日(太陽)の性であるかどうか、といふことである。世界の諸民族の説話などを見ると、日が男とせられてゐる例は固より多いが、女となつてゐることもまた少なくない。日を神とする場合に於いても、種々の理由から或は男となり或は女となつてゐる。ところが我が上代人の間には、自然現象としての日そのものを主題とする説話が無い。少くとも文獻の上にそれが見えない。だから此の點からは、日に性があるとせられてゐたか、もしゐたならばそれが男女の何れであつたか、を推考する材料が殆ど無いといつてよい。古事記の應神の卷に出てゐるアメノヒボコの物語に、女が日光にほとを照されて懷姙したといふ話があつて、これで見ると日が男性らしく考へられてゐるやうでもあるが、これは其の語の起源が外國にあるらしいから、すぐにそ(618)れをわれ/\の民族の思想として取扱ふことはできないかも知れぬ。またこれは所謂感生説話の一種であつて、日そのものの性に重きが置かれてゐるのでもない。しかし感生説話であるとしても、女が日光によつて懷胎したとすれば、少くとも此の説話の上では、それを男性の側に置いて見る傾向はあつたとしなければならず、さうしてまたそれが外國傳來の物語であるにしても、われ/\の民族がそれを受け入れたのは、それに反對の思想を上代人が有つてゐなかつた一證として、見ることができないでもなからう。が、もとより強い證據にはなりかねる。また日は月と對稱せられ、その性も反對になつてゐるのが普通の例であつて、多くの民族の説話に於いても、或は夫妻、或は兄妹、となつてゐる場合も少なくなく、從つてその月が或は男性であり或は女性であるのであるが、われ/\の民族の固有の思想に於いては、月の性もまた明かでない。萬葉には「月の桂男」とか「月人男」とかいふ語があるが、これはシナ思想に淵源があるとしなければなるまい。シナの陰陽思想では、日が陽、月が陰であり、從つて性にあてると月は女性となるのであり、説話の上に於いても嫦娥の如く女性に結合せられた例もあるが、また一方では男性をも斥けず、月中の桂樹を常にきつてゐるといふ呉剛の話が、虞書の安天論にある。月の桂男、從つてまた月人男、はこゝから來てゐるのであらう。さすれば、月を男性的に見ることはわれ/\の民族に固有のものではないが、その他に於いても月に性があるやうに思はれてゐた形跡は無い。從つて此の點から日の性を推考することもできぬ。
 それから宗教的に考へると、上に説いた如くわれ/\の上代の宗教思想に於いて、日が神としてまだ人の性質を與へられてゐなかつたとすれば、それに性のあるはずが無いのである。民間信仰に於ける靈物なり精靈なりが性を具へてゐないこと、神代史の上に於いてそれが人の性質を與へられるやうになると、その中には性をつけられたものもあ(619)るが、さうなつてもなほ性の無い神の多いことを、參考するがよい。天體についていふと、星の名をカガセヲと稱することが書紀に見えてゐるが、この名も民間信仰には關係が無く、物語の上で人の性質を與へられたのみであつて、それが男性になつてゐるのは、多分、星の光を恐れたからのことであらう。また神代史上の月の神としてのツクヨミといふ名に性を示すことばが無いのを見ると、民間信仰に於ける神(靈物、精靈)としての月にも性はついてゐなかつたことが推測せられる。さすれば日そのものとしての日の神もまた同樣であつたことが、此の點からも知られよう。たゞ古事記にはナツノメの神をナツタカツヒの神の一名としてあるが、同じ場所にアキヒメといふのもあるから、この「メ」は女の意らしく、從つてこれは夏の日を女と見たやうに聞える。しかしナツノメはオホトシの神の裔、ワカトシの神の妹で、農作と關係があるやうに思はれたらしいのを見ると、稻の實のるさまなどから夏に女性的意義を寓したのではあるまいか(アキヒメの名もまた穀物の生産といふことに由來があらう)。さうして夏を夏の日(太陽)と聯想して、ナツノメをナツタカツヒに結びつけたので、夏の日を女性としたのではなからう。(穀物の生産と女性とを結合する考へ方はかなり原始的なものであつて、他の民族にも其の例は少なくないから、これらの神の名などもまた古くから語り傳へられてゐたのではなからうか、といふ疑問も生ずるが、宗教的意義を有する神に人の性質を與へることが新しいとすれば、單純にさう決めてしまふわけにはゆかぬ。)かう考へて來ると、日の神に性のあるのもまた日そのものもしくは民間信仰に於ける神(靈物、精靈)としての日に於いてではなくして、神代史上の皇祖神としてのことと考へられる。
 然らば皇祖神としては日の神が男性であるべきか女性であるべきか、それが問題である。そこで先づ皇祖といふこ(620)とを考へるに、家々の祖先が男として記されてゐることを思ふと、皇宝の御祖先もやはり男神であるのが自然のやうである(ウズメの命はサルメの君の祖となつてゐるが、これはいはゆる五伴緒の祖先を岩戸がくれの物語の神々に結合しようとしたからのことであるから、一般の例とはならぬ)。歴代の天皇の性を見ても女性のは特殊の事情によつて即位せられた極めて僅少の例外であり、而もそれは推古天皇にはじまるのであるから、此の點から見ても御祖先は男性であるべきではなからうか。御祖先もまた天皇であられるからである。皇祖神としての日の神に天皇が反映してゐることは、上に既に考へておいた。それから一般的にいふと、氏族制度の根幹をなす家々の長は男性であるから、その制度の頂點にある、或はその中心たる、皇室の家長として考へらるべき天皇にも、從つてまたその御祖先にも、男性がふさはしく思はれる。神功皇后の物語ができても、その物語の上で偉大なる事業をしたことになつてゐる女性が天皇として語られなかつたことを考へるがよい(新羅征討の物語の主人公を皇后としたことには別の理由があるにしても)。なほタカミムスビの命を日月二神の祖としてある顯宗紀の説話も、顧慮せらるべきである。タカミムスビの命は、カミミムスビの命に對する地位、またイヅモ平定、皇孫降臨の物語に於ける行動から見ると、それが物語の上の人物とせられた場合には、男性らしく考へられてゐたやうである。少くとも女性ではない。もつとも魏志倭人傳の女王卑彌呼の如き實例もあり、景行紀及び風土記の物語に女の土蜘蛛が多く記されてゐるやうに、女性が政治的君主もしくは地方的首長として想像せられてゐることもあり、また古事記の物語にミオヤとしてあるのは何時でも母のことであり、さうして記紀の種々の物語や系譜によると、子に對する母の權力はかなり強大であつて、必しも父に劣つてはゐなかつたから、これらのことから推測すると、皇祖神が女性であつても、さして怪しむには足らないやうで(621)あるが、しかしミオヤは母のことであつて、家の祖先をいふのではなく、三世紀に於ける卑彌呼の例は、國家が統一せられて我が皇室の權力の確立した時代、氏族制度の整頓した時代、の思想を推測するには、やゝ縁遠い感じもせられる。のみならず、女性たる卑彌呼が君主の地位にゐたのは、相續上の特殊の事情から來たものらしく、其の死後に一たび男王が立つたといふことからも、それは推測せられるのではあるまいか。ともかくも、いはゆる女王國の君主が常に女性であつたとは考へ難い。さうして歴代の天皇が事實上、男性であられる以上、物語に現はれてゐる土蜘蛛などの例は、皇室のことを考へるには、さして重きをなすべきものではあるまい。物語は要するに物語だからである(第二篇第二章附録第二參照)。勿論、神功皇后の物語があつて、それが仲哀天皇の物語としては語られなかつたこと、さうしてそれには何等かの理由があるべきはずであることは、考慮せられねばならぬが、皇后は皇后であつて、天皇として語られなかつた點が、こゝでは重大な意味を有するのである。なほ天皇の政治的君主としての地位には神を祭るといふ宗教的任務が伴つてゐるが、此の宗教的任務は性には關係が無い。一般的に考へても女性が神人の媒介者となるのは世界に普通のことであるが、しかしまた男性がその地位にあることも勿論であつて、さういふ男性のものが政治的權力を有するやうになる例も、多くの民族に於いて見られるところである。かの卑彌呼の宗教的地位も、女性の故であつたと考ふべき明徴は無いやうである。が、それはともかくも、かういふ地位を有せられる我が國の天皇が通常男性であられたことは、嚴然たる事實である。だから天皇といふ觀念を基礎として形成せられた皇祖神に、もし性がつけられてゐたとすれば、それは男性であつたと見る方が、妥當ではなからうか。女性としては解しがたいことが多い。
(622) けれども更に一歩進んで考へると、皇祖神としての日の神に果して初から性があつたかどうか、を一顧する必要があらう。宗教的性質を帶び民間信仰に幾らかの基礎を有する神々には、性が無いのが多く、さうしてそれが、ワダツミの神などの例の如く、場合によつては家々の祖先ともせられてゐることを考へると、日の神もやはりさうではなかつたらうか、といふ疑問も生じ得るのである。少くとも其の名には性を示すことばがついてゐない。アマテラス大神といひ日の神といふのは、勿論のこと、すでに考へた如く、書紀に出てゐるオホヒルメの名さへも言うである。此のヒルメの「メ」には「?」の字があててはあるが、ことばの意義は「女」の義ではなくして一種の尊稱であり、眞淵が説いてゐる如くツクヨミの「ミ」と同じであらう。神の名に「ミ」といふ語を添へることはヤシマジヌといふ神をヤシマジヌミとも書いてある一例からも推知せられ、さうして「ミ」と「メ」との轉訛は普通のことであり、またヒルメはツクヨミに對する稱呼として考ふべきものだからである。月の神としてツクヨミの名があるが、それに對する日の神の名はヒルメの外には無く、さうしてツクヨミに性を示すことばが無いとすれば、ヒルメもまた同樣に見るのが自然である。さすればこれは、上にも一言した如く、ヒル(晝)とツクヨ(月夜)とを照らす日と月とを、ヒルメ(ヒルミ)とツクヨミとの名を以て呼んだものであらう。オホヒルメのオホはもとより讃美の詞である。(オホヒルメのムチといふ稱呼は、某の神とか某のミコトとかいふのと同じいひかたでムチといつたので、ムチは尊稱である。オホナムチのムチはそれと同じことばであるが、たゞ名の一部分となつてゐる點がちがふ。)またツクヨミは「ツクヨ」に「ミ」をつけたのであつて、月とヨミとを連ねた語ではないことを注意しなければならぬ。ヨミといふことばがあるならばそれは闇の義であらうが、月と闇とは矛盾した觀念であるから、それが結合せられるはずはなく、月の神が目に(623)よつて生まれたといふのも、鏡によつて生まれたといふのも、光明を豫想した物語であるから、月も夜の光として見られたので、闇と連結して考へられてはゐない。或は、ヒルに對するものはヨルであるから、ヒルメに對するものがあるならば、ヨルメであつてツクヨミではない、といふ論があるかも知れないが、これは本來、晝夜といふ觀念が基礎になつて、それを支配する神の名を定めたのではなく、日と月とを光の神としてそれ/”\の名をつけたのであるから、日の照す時のヒルと月の照す時のツクヨとを對稱させるのが、當然である。なほヒルメの「メ」が「女」の義でないことは、神の名の多くの例からも知られる。神代史を通覽すると、神の女性たることを示す語は、大抵「ヒメ」であつて、「メ」といふのは極めて少い。古事記に見えるミヅハノメ、ウズメ、イツノメ、ワカサナメ、ナツノメ、などの「メ」が果して女の義ならば、僅かにこれくらゐのものである。神武天皇以後の皇族にも「イラツメ」といふ稱のついてゐるのはあるが、單に「メ」としてあるのは一人も無い。また普通名詞にしても、織女とか醜女とかいふ語はあるが、高貴の人を指すには「メ」といふ語はつかはないやうである。こゝに擧げた神でも、ミヅハノメ、ウズメ、など、何れも貴からぬ神である。だから、最高の神たる日の神を、女性としてヒルメといつたとは、思はれぬ。なほ神または人の女性たるを示すために、名詞の下にすぐに「メ」の語をつける例が、極めて少いやうに思ふ。オリメ、シコメ、みなその女の性質職業等をあらはす形容詞、又は形容詞的に用ゐた動詞、を「メ」に冠せたのであつて、オリ又はシコといふ名のものがあつて、それを女性としたのではない。さうして、もし名詞をうけてそのものを女と見る場合には、「ノ」の語を插むのが最も多い例のやうである。(「ヲ」といふ稱呼もこれと同じである。男性の神に「ヲ」とあるのは、やはり貴くない神、むくつけき神で、其の用法も「メ」と全く同一である。ヤギハヤヲ、タケミ(624)カツチノヲ、スサノヲ、普通名詞としてシコヲ、の類。また例へばタヂカラヲは力のある男といふ意義の名であつて、「タヂカラ」といふ名に「ヲ」を添へて男性としたのではない。)これらの例から見れば、ヒルメの「メ」が女の義でないことが推測せられよう。さすれば日の神の名には、どれにも性を示すことばがついてゐないのであるが、それは即ち、此の神の現はれた最初に於いては、まだ性がつけられてゐなかつたことを示すものではあるまいか。
 然らば何故に日の神が女性とせられ、或は男性らしく取扱はれるやうになつたであらうか、といふ問題が起るが、女性とせられたのは文字上の錯誤から來たものではあるまいか。即ちヒルメを「日?」と書いた如く、「メ」に女性を示す文字をあてたのがもとになつて、日の神が女性と見なされてしまつたのではあるまいか。神の名を記す場合に語の意義とは無關係な文字をあてることはめづらしくないので、現にツクヨミも「月讀」または「月弓」と書かれてゐるから、ヒルメに「日?」のやうな文字をあてたのも、同じやうな借字であつて、?を女の義に用ゐるつもりではなかつたのであらう。イシコリドメは書紀の「一書」には石礙姥と書いてあるが、鏡作りが女性であるのは怪しい。姥の字をあててあるトメは、別の「一書」にはトベ(戸邊)とあるが、何れにしても女の義とは限るまい。神武紀のナクサトベまたはニシキトベは男であるが、此のトベは地名の下についてゐるので、こゝのとは用法に幾らかの差異があるかとも思はれるものの、トメ又はトベの語が女性を示すものでないことの例にはなるであらう。ともかくも、姥の字のあててある一本があるために、此の神を女性と解するわけにはゆかぬ。文字の用法がかういふものであるから、ヒルメの?についても上記の如く推測せられる。しかしこれは或は本末顛倒であつて、ヒルメの「メ」が女の義と考へられてから、また考へられたために、それに?の字があてられたのだ、と見ることもできなくはなからう。も(625)しさうとすれば、それを單純に言語上の錯誤と見なし、ヒルメの「メ」の原意義が忘れられて、それを女の義に解するやうになつたためである、といふことができるかも知れぬ。前にいつた如く、神の名にも人の名にも女に對してメの語をつけるのは、貴くないものの場合が例であるとすれば、日の神の名にあるメを女の意味に解するといふのは非合理である、ともいはれようが、これは始めて名をつける時とは違つて、もと/\不用意の間に起りがちの錯誤から生じた意義の混淆であるから、さうまで考へるには及ぶまい。日の神の女性とせられた主なる理由は、此の二つの何れかにあらうと思はれるが、しかしかういふ錯誤の生じたことの背景としては、家に於いて母を尊重し、それをミオヤと稱する如き上代の風俗が、幾分か役立つてゐたらうかとも考へられる。此の風俗は家の祖先を女性とするといふのではなく、母系によつて相續する家族制度の現はれとして見るべきものでないことも、また勿論であるが、家に於ける女性の地位が之によつて知られるのである。もつとも神代史の日の神には、一般的な女性としての感情が全く與へられてゐないと共に、母性らしい點は物語の上に於いて少しも見えてゐないので、それは此の神の女性であることが民間信仰から來てゐないことを示すものであると共に、母といふ觀念とも緊密な關係を有しない一證であらうから、この點に重きを置くことはできまい。次に日の神を男性の地位に置くやうになつたことについては、シナ思想の影響を認めねばなるまい。陰陽思想に於いては日も男も共に陽に屬するものであるから、上に述べた古事記などの説が生ずるのである。しかしこれもまた、家々の祖先が男であり、歴代の天皇が男性であられることによつて、助けられてゐよう。要するに、男性としたのも女性としたのも、神代史の一たびでき上つた後になつて行はれたことであつて、神代史の潤色者の別々の考から、或は男とし或は女としたのではあるまいか。が、後には女性の方が勝つて來たので、(626)男性の方は其の痕跡が記紀に遺存するに止まり、際立つて表には現はれてゐなくなつたのであらう。然らば何故に女性の方が勝つたかといふと、それは明白にはわかりかねる。推古朝に於ける或る政策がはたらいてゐたらう、といふやうなコ川時代の學者の考は、日の神の性が、民間説話や一般の信仰とは關係が無く、神代史に於いて始めて現はれたものである以上、全く理由の無いことではないかも知れぬが、要するに臆測に過ぎない。
 日の神の性についてはほゞ上記のやうに考へられる。なほこれについては種々の考へ方もあつて、例へばイセ神宮の祭主が昔から處女であることを思ふと、それが此の神の女性たることに關係があるやうに見えるかも知れぬ。が、男神にも女子をつけ女神にも男子をつける例があるので、日の神、ワカヒメ、コトシロヌシ、の三神を祭るに當つて、男神コトシロヌシの神を女性ナガヒメに祀らせ、女神ワカヒメに男性ウナカミノイサチをつけた、といふ神功紀の記事さへもあるのであるから、これはさして顧慮すべきことではなからう。多くの民族の風習を見ても、神の性の如何に關せず、巫女がそれを祭るのであつて、處女の侍するのは寧ろ男神の方が多いかと思はれる。其の他、日と農業との關係から日の神が農業神とせられ、さうして或は穀物の生産と女性とが聯想せられ、或は農業に於ける女性の地位がもとになつて、日の神が女性とせられたのではなからうか、といふやうな考が生ずるかも知れぬが、既に説いた如く、日の神に人の形と性質とを與へたのが皇祖神としてのことであつて、宗教的信仰とは交渉の無いものであるとすれば、此の考もまた成立つまい。のみならず、神代史上の日の神が農業と特殊の關係のあるやうに信ぜられてゐた證跡は無ささうであり、また日の神に性の與へられた時代の文化?態としては、農業が女性のしごととせられてゐたらしくもないやうである。だからこれもまた日の神の性を考へる役にはたちさうもない。
 
(627)       第二十一章 神代史の潤色 下
 
 神代史の潤色變改は前二章に述べたことの外に、なほ種々の點に於いて行はれてゐる。それは既に一々の物語の意味を考察した場合に述べた如く、いろ/\の人のさま/”\の考から出てゐるので、所謂帝紀舊辭に種々の異本のできたのは畢竟それがためであり、古事記、書紀の本文、および其の注の多くの「一書」では、またそれらが錯綜して現はれてゐる。その中で第一に氣のつくのは、特殊の政治的意義の含まれてゐるらしいものであつて、イヅモの征服とホノニニギの命の天降りとの物語に於いて、タカミムスビの命の活動して居るが如きは、その一例ではあるまいか。上に述べた如く、此の二つの物語では日の神とタカミムスビの命とが並んで立つてゐるのみならず、本によつてはタカミムスビの命が却つて主要な地位にあるやうに見えるもの(書紀の注の第二の「一書」)、甚しきはタカミムスビの命のみがはたらいてゐて日の神の全く現はれてゐないもの(書紀の本文)、すらもあるほどであるが、何故にかういふことになつてゐるかは問題である。ところが、タカミムスビの命がオシホミミの命の妃たるヨロヅハタトヨアキツシヒメの父、ホノニニギの命の祖父、とせられてゐることを考へると、物語の上に於いてはこゝに理由があると見る外は無いが、それは外戚が勢力を有つてゐた時代の反映ではあるまいか。もう一歩進んでいふならば、さういふ時代に特殊の意圖を以て添加もしくは變改せられたのではあるまいか。獨身隱神で子のあるべからざるタカミムスビの神(命)を、わざわざ物語の上に顯はしたのも、此の神が最初に天になり出でたといふ尊い神であるため、それによつて外戚(628)の地位を重からしめるためであつたのかも知れぬ。もしかう考へることが許されるならば、それはおそらくは蘇我氏の權勢を振つてゐた時代の潤色ではあるまいか。書紀の注の一つの「一書」(第二)に此の命の現はれてゐないものがあるといふことは、既に上に説いて置いたが、それは多分かういふ添加の行はれない前の形が、遺存してゐるのであらう。(ついでにいふ。日の神が女性とせられるやうになつたことについて、推古朝の政治的事情がはたらいてゐる、といふ臆測が全く無意味ではないかも知れぬ、と前に述べたのは、このことから類推したのである。)次に考に入つて來るのは、重要な地位を占めてゐる家々で行つた、爲にするところあつての、改作であつて、タカミムスビの命のことも、或は此のなかまに入れてよいかも知れぬ。イヅモの國造の家の誇りを示すための變改や添補が、國ゆづりの物語の書紀の注の第二の「一書」や古事記に見えてゐるといふことは、既に述べたとほりである。或はまたオホナムチの命の國作りの物語の現はれたのも、同じ命にヤマトのミワ山を結びつけた話の作られたのも、古事記にスサノヲの命やオホナムチの命の子孫の名が數多く記されてゐるのも、またみなそれである。またイミベ氏やクメ氏の地位を高めようとする意圖から出た筆のあとが、古事記に於いて認められるやうであつて、これは第二篇(第四章第一節)にも説き、また上文にも一言して置いた。家々の祖先を神代史の神々とすることも、畢竟おなじ意圖から來てゐるので、それを帝紀か舊辭かの或る本が採用したのは、やはり後の潤色者のしわざとしてこゝに附記してもよからう。
 それから、かういふやうな特殊の目的なしに、たゞ物語の興趣を添へるために作り加へられた話も多からう。種々の民間説話や童話めいたものを取り入れた部分は、大體それであるが、或る事物または風俗習慣や俚諺などの起源、或は地名の由來、を説明した話も、やはり同樣である。さうしてさういふものには、初から存在したのもあらうが、(629)或る本には無くして他の本にはあるといふやうな場合には、やはり後から加へられたと見るのが、妥當であらう。いくらでも插入し得る性質のものだからである。事物の起源については、草木砂石に火を含んでゐるのはカグツチを斬つた血が染みついたからだといひ(書紀の注の「一書」、これは上代の發火法が基礎になつてゐるのであらう)、海鼠の口のさけてゐるのはウズメの命が小刀できつたためだといひ(古事記)、簑笠を着て他人の屋内に入ることを諱むのはスサノヲの神の故事から起つたといひ(書紀の注の「一書」)、さういふ話が幾つもある。サルダヒコの神をイセにやつたのも(書紀の注の「一書」)、神宮の位置の由來を語るためであつたらう。現在の事物や風俗をもととして作つた話であるが、其の話にあらはれてゐる故事から現在の事物や風俗が起つたやうに、説かれてゐるのである。地名に關するものは、スカやモ山の話などの外にはあまり見えないが、古事記の「八雲たつ」の歌は、多分イヅモの名の由來を説くために作られたものであらう。地名説話は記紀、特に書紀の神武天皇以後の部分、には甚だ多く、また風土記は其の大半がこれで滿されてゐるが、神代史は土地の上に起つた事件としての話が少いから、かういふ例も從つて稀なのであらう。さて此の地名説話は、言語の同一もしくは近似をたねとしたものであるが、これと同じやうな徑路で新しい物語のできることもあるので、スサノヲの命がクシイナダヒメを櫛にしてみづらにさしたといふのは、イナダヒメの名に冠せられてゐる美稱のクシが櫛にとりなされて、それから作られたのであらう(古事記には借字で櫛名田比賣とかいてある)。アハの國をオホゲツヒメといふなども、地名のアハを食物の粟としてのことであらう、といふことは既に述べた。我が國民は上代から言語上の遊戯を好んだらしいから、かういふ物語が多いのである。なほ神代史全體の上からいふと、例へばヒムカに於けるホノニニギの命やホホデミの命の話の如く、後人の補つたまとまつ(630)た物語があるが、これがやはり特殊の目的なしに附け加へられたものである。古事記にのみ出てゐるオホナムチの命の戀物語などもまた同樣であつて、大きく見るとイヅモの色彩を濃厚にする役には立つであらうが、物語そのものにはさういふ意味が無い。特に長々しく幾首もの歌を並べたのは、前後の敍述に比べて、あまりに調子外れであつて、それだけ切り離して讀めばこそいろ/\の興味もあれ、神代史の一部分を構成するものとしては、美しい装飾にはならずして、却つて全體の組み立てを亂雜にし力を弱めた感じがする。これは、これらの歌が語部の語りものをとつて後人のみだりに加へたものであることを、證するものであると共に、それが與味本位のものであることを示してもゐる。なほ、一々の物語の精神や全體の上には大した影響のない程度で、局部的に少しづつ精粗詳略の差があつたり變異があつたりするのは、やはり特殊の目的を以て施された添削ではなく、かういふ物語が長い年月の間に種々の人の手を經て傳へられる場合には、常に起ることであるが、これもまた神代史に變化のあつたことを語るものである。
 民間の風習も説話も又は俚諺の類も、神代史の修飾に寄與した材料として見るべきものであるが、シナ傳來の知識もまたその一つに加へらるべきであらう。シナ思想の直接間接の影響は、神代史が最初に形づくられた時から既に存在してゐたらしく、それは上文に於いてそれ/”\指摘したところであるが、後の潤色に於いてもまたそれが常にはたらいてゐるのであつて、三や五や七の數が重んぜられたのも、日月と左右の方向との關係も、其の例であり、トコヨの國といふ觀念が神僊思想に由來のあることも、既に述べたとほりである(數については一方に八が尊ばれてゐるのに對照するがよい)。古事記にホホデミの命の壽を五百八十歳としてあるが、これは緯書の思想から出てゐるのではあるまいか。春秋緯の保乾圖や尚書緯の運期授などに、黒帝や蒼帝の治を八百歳とか七百二十歳とか又は八百二十歳(631)とかにしてあるのは、水コや木コを以て王となつたといふ殷周二朝の治世年數として、算出せられたものではあるが、文面だけを見ると、黒帝蒼帝といふ古帝王の在位年數らしく解せられるからである。書紀の神武天皇の條に「自天祖降跡以逮于今、一百七十九萬二千四百七十餘歳、」とあるのが、易緯の乾鑿度に天元から文王の受命までを二百七十五萬九千二百八十歳とし、春秋緯の元命包や命歴序に開闢から獲麟までを二百七十六萬歳とか二百二十七萬六千歳とかしてあるのに、由來してゐるらしいことを參考するがよい。(此の緯書の説の根據は一種の暦法にあるが、記紀のこれらの年數には、それは考へられてゐなからう。)、しかし古事記や書紀にあるやうなかういふことの考へ出されたのは、天から降られたといふホノニニギの命から神武天皇までがたゞ三代であるといふのでは、その間の時間があまりに短かすぎるために、それを長くしようといふ意圖がはたらいてゐたのではあるまいか。それから古事記のシタテルヒメの歌の「天なるや、おとたなばた、」といふのも、シナ傳説の天上の織女の思想に本づいたものらしい。(スサノヲの命のあばれた時の古事記の物語に「天衣織女」といふ語はあるが、それは日の神の營田などと同じく、ある特殊の場合を想像したもので、此の歌に見える如き天上の織女といふ一般的觀念とは違ふ。)しかしシナの知識の影響の最も著しいのは、記紀の卷頭に見える神々や説話である。神代史が説明しようと企てた皇室の由來は、二神の生殖神話で其の第一原因まで説明せられたけれども、それはどこまでもオホヤシマ國のことにとゞまるのである。イサナキ・イサナミ二神は世界の土地の全體を生んだのでもなく、宇宙萬物の父母でもなく、どこまでも日本國と其の統治者との本源なのである。しかし、漸次シナの學問に習熟して知識が廣くなつて來ると共に、單に國家の由來を説くのみでは滿足ができず、ひろく土地そのものの起源、もしくは宇宙萬物の由來、についての説明がほしくなる。國稚く(632)してくらげの如く漂へりといひ、葦牙の如く萌え上るものありといふのは、之に感じた最初の説明であつたらうが、更に一歩進むと、クニノトコタチといひ、アメノミナカヌシといひ、或はムスビの神といひ、土地の永久性、天地の主宰者、或は萬物生産の作用、といふやうな觀念を擬人した神が、作られて來るやうになる。さうしてそれは、既に述べた如く、シナの知識に直接もしくは間接の由來がある。これらの觀念があまりに抽象的であると共に、多くの物語にはこれだけの思惟が無く、神代史の全體から見て甚だ不調和な感じのするのは、畢竟それが外部からのかりものだからである。さうしてこれらの話や神は、天地萬有の本源を説くために作られたのであるから、神代史の卷頭に置かれることになり、作られた順序からいへば最後の神が、でき上がつた神代史の上では最初に現はれてゐる。
 シナ傳來の知識ではないが、ヨミの物語が插話として編みこまれたのも、一つは、政治的に皇室の由來を説くだけでは滿足せず、生死といふやうな人類一般の問題についての説明が神代史に欲しくなつた、といふ事情があつたからでもあらうか。この物語は、物語そのものとしては、神代史の中心思想とは關係の無いものであるが、それをイサナキ・イサナミの二神のこととしたために、神代史の語らうとすることと交渉が生じて來るのである。少し趣は違ふが、穀物の起源とか上に述べたやうな風俗習慣の由來とかを説いた話の添加せられたのも、神代史を幾らか人の生活に近づけようとする欲求がはたらいてゐるかも知れぬ。一體に神代史の本すぢとなつてゐる主要な物語には、民衆の日常生活に關係のあるものが無いので、それは皇室の本源を語るのが主旨の神代史としては當然のことであり、從つて後人によつて書き加へられた話に於いても、さういふものは甚だ少く、僅かに三四の例を擧げ得るにとゞまる。さうしてそれとても、必しも生活上の重要なことがらについてではない。例へば多くの民族の説話に於いて其の由來の語ら(633)れてゐる火についても、何の話も無い。カグツチの神のことはあるが、それは寧ろ物を燃燒する力としての火であつて、生活に必要なものとしてのではなく、またそれは神の生まれたことであつて、火そのものの起源ではない。これも畢竟、神代史が人の生活について語らうとしたものでないからであつて、後人の添加とても、其のをり/\のふとした思ひつきから出てゐるに過ぎなからう。が、僅かでも上記のやうな潤色の行はれたことには、よし意あつてのことではないにせよ、どこかにかういふ欲求が潜んでゐたからではあるまいか。(禁厭醫療の起源とか樹木の由來とかについての話には、既に述べたやうな特殊の意味があらうが、おのづから此の考とも通ずるところがある。)
 かういろ/\に考へて來ると、國家の經營に關する特殊の思想が、神代史の或る潤色者によつて物語の上に加へられたのも、怪しむに足らぬ。古事記にはイサナキの命がヨミにいつた時、イサナミの命に對して「吾と汝と作れりし國、未だ作り竟へずあり、」といつたとあり、書紀の注の「一書」にはスクナヒコナの命がオホナムチの命の「われらの作れる國、善く成れりと謂はんか、」といつたに對して、「成れる所もあり、成らざる所もあり、」といつたとある。上に述べた如く「國作り」といふことが政治的意義のものであるとすれば、前の方の場合のは、イサナキ・イサナミ二神の物語そのものにふさはしからぬことであるが、イサナキの命のことばといふものを後から作り添へた神代史の潤色者は、或は物語との關係などを考へずに、國を作るといふことばを政治的意義のあるものとして用ゐたかも知れず、また後の方の場合のは、明らかに國家の政治的經營といふ意義でそれを用ゐてある。ところが、政治的經營の意義であるとすれば、これは、昔からの?態に滿足せず、大に外國の制度文物を學んで我が國を改造しようといふ、爲政者の精神の反映ではあるまいか。特に後の方の話には、海の外から來て海の外へ去つたといふスクナヒコナの命そ(634)れ自身に於いて、既に外國を聯想させるものがある。もしさうならば、かういふ物語の作り添へられたのは、多分推古朝乃至大化改新前後のことであらう。
 なほ知識人の間に於ける宗教思想の發達として考ふべきことも、かういふ潤色の間に認められるので、ナホビの神マガツヒの神の現はれた如きがそれである。これは單に名のみが作られた例とは違ひ、到る處にゐて人に禍する精靈をマガツヒの神によつて統一し、またそれをヨミに連結すると共に、ナホビの神との關係に於いて、よいこととわるいこととの對立、並にわるいことに對するよいことの勝利、といふ觀念を導いて來たのである。但しそこに道コ的意義が明かになつてゐないこと、また此の二神が宇宙と人生とに於ける善惡禍福の對立した二つの力を表徴する高い地位には進まず、且つマガツヒの神がヨミに結合せられながら、日の神がそれに對する神として考へられなかつたことに於いて、當時の人の思索の程度が知られる。日の神が宗教的に深められてゆけば、惡と禍と闇黒とを征服する善と幸福と光明との神となるべきものであるのに、上にも一言したやうに、さうはならなかつた。ヨミの穢れが清められた後に日の神の生誕があつたといふ話には、さうなる傾向が見えてゐるかとも思はれるが、ナホビの神が別に現はれたことを注意しなければなるまい。さてこれは、全體として見ると、人智の進歩に伴つて生じたことであらうから、其の意味に於いて間接にシナの學問の影響が認められるかも知れぬが、シナ思想にはかういふ宗教的の一面が無く、さうして此の考にはシナに於いて發達した道コ觀念が含まれてゐないから、直接にはシナ思想に負ふところが無いといつてよい。一體に宗教思想に於けるシナの文化の影響は少いので、日の神が宗教的意義に於いての最高の神には發達せず、さうして別に上帝の觀念から轉化して來たアメノミナカヌシの神が現はれたのは、シナ傳來の知識によつて(635)宗教思想の自然の發達が阻止せられたことを示すものであらうが、しかしアメノミナカヌシの神は、既に述べた如く、宗教的信仰とは何等の接觸をも有するに至らなかつたのである。
 以上は、種々の動機から種々の材料を用ゐて神代史が修飾せられて來たことを、概説したのであるが、かういふやうに新しい神なり物語なりが加へられると、それと從來の物語とを結合するために、またはそれによつて新しい思想が展開せられ、或はそれを寄託するために、更に新しい物語が作られ、又は物語に變形ができる。例へばスサノヲの命の話に於いてイヅモがヨミと特殊の關係を有することになつたために、イサナミの命の場合でもイヅモ方面からヨミに通ふことにせられたが、其のイサナミの命がヨミに行つたとせられたから、こんどはスサノヲの命のヨミヘゆくのが、妣の國へゆきたいといふことになつて來た。或はタカミムスビ・カミミムスビの神があらはれたから、その性質の變つたタカミムスビの命は、天くだりの物語に於いて、オシホミミの命の妃の父としてタカマノハラではたらくことになり、またオモヒカネの命の父ともせられ、カミミムスビの命もスクナヒコナの命の父となつたのである。なほオシホミミの命の方からいふと、スサノヲの命のウケヒの物語に於いて、この命が日の神の子として生まれてゐるために、前からあつたホノニニギの命の天くだりの物語が變改せられて、その物語に現はれることになり、タカミムスビの命の女を娶ることにもなつたのであるが、これは、この物語に於いてタカミムスビの命をはたらかせるためであつた、と考へられる。かういふ例は所々に發見せられるが、今一々それを述べるには及ぶまい。上文に於いてそれは既に示されてゐる。
 記紀の神代史に關する上記の觀察は、記紀のでき上がつた後に生じた變化、或は記紀にとられなかつた異説を、考(636)へてみることによつて、一層確められよう。家々の祖先として姓氏録に種々の神が現はれ、それが記紀の神代史上の神といろ/\に連結せられてゐることは、いふまでもなからうが、宗教的意義を有する神についても、神代史上の神に由縁がありながら、それに見えないものが祝詞に出てゐるので、既に述べたヤチマタヒコ・ヤチマタヒメも其の一例であり、祈年祭の祝詞にあるイクムスビ・タルムスピ、クシイハマド・トヨイハマド、龍田風神祭のアメノミハシラ・クニノミハシラなども、記紀には出てゐず、廣瀬大忌祭のワカウカノメといふのも同樣である。しかし、これらは何れも上に説いたやうな徑路で作られた神の名であつて、或は一つの觀念に類似した、若しくは相對的意義を有する、美稱を冠らせて、連稱せられ得る二神としたのであり、或はオホヒルメに對してワカヒルメ、オホトシに對してワカトシ、があるやうに、オホゲツヒメといふやうな神の觀念からワカウカノメを派生させたのであらう(イツノウカノメといふ名が神武紀に見える)。それから各地の神社を神代史上の神に結合することも、記紀の編纂せられた後になつて益盛になつたらしく、有名な神社についていふと、春日祭祝詞に見える如く、カシマの祭神をタケミカツチノヲの神とすることも、出雲國造神賀詞にあるやうに、ウナデをコトシロヌシの神とすることも、記紀には出てゐない。しかし其の結びつけ方は記紀に見えるヒノクマの神、アツタの神、またはアヂシキタカヒコネの神、などと同じことである。タカミムスビ・カミミムスどの二神が宮中に祭られるやうになつたことも、こゝに附記してよからう。それからイサナキ・イサナミ二神より前の神々の名やその間の關係についても、種々の説が生じたらしいので、後世に編纂せられたものではあるが宋史の日本傳に引いてある、「然のもつていつた、年代記の神代の系譜も、もつと前から存在してゐた異説ではあるまいか。それは其の中の、クニノトコタチ、アメノカガミ、アメノヨロヅ、アワナギ、(637)イサナキ、といふ順序が、書紀の注の「一書」に出てゐるのと全く同じであることから推考せられる。此の「一書」の説は、他の諸説とはあまりに懸隔が甚しいから、書紀編纂前に於いて最も新しく生じた變形だらうと思はれるが、かういふものがもとになつて其のうへに更に潤色の加へられた系譜が、「然の時代にも傳はつてゐたのではなからうか。(新唐書日本傳の神代の系譜は、節略してあるから明かでないが、之と同じものらしく思はれ、世數を三十二としてあるのは誤寫であつて、もとは宋史の如く二十三世であつたのではなからうか。新唐書の編纂は「然の入宋よりは後のことである。孝コ紀白雉五年の條に遣唐使が「日本國之地里及國初之神名」を問はれてそれに答へたといふことが見えるが、これは現存の唐代の文獻にも唐書などにも記されてゐないやうである。)かう考へて來ると、今の舊事記の陰陽本紀乃至皇孫本紀の如きも、やはりかういふ變形の一つとして見られよう。聖コ太子が撰んだものらしくしてある點に於いては僞作であるが、それ自身は神代史の潤色もしくは改作せられたものに外ならぬのである。なほ物語に於いても、出雲國造神賀詞のホヒの命に關する話が、記紀とは反對になつてゐ、また出雲風土記にも、スサノヲの命やオホナムチの命について、種々の説話が作り加へられてゐる。はるか後に書かれた古語拾遺に、記紀に見えない又は違つた話があることは、いふまでもない。これらもまた畢竟、記紀のまだできない前に於いて神代史に種々の變改が施され種々の異説が生じたのと、同じことである。たゞ記紀にまとめられた前の多くの異本は、全き形に於いて今日に殘つてはゐず、其の異本の一つとも見なすべき古事記とても、もとになつた帝紀舊辭の其のまゝの姿ではないから、それらの異説の發生した徑路を考へることは、上に試みたやうな方法による外は無いけれども、記紀より後に作られ、其の書物の今日に傳はつてゐるものに關しては、それを簡單に記紀と比較對照することができるから、(638)それに對する我々の感じが少しく違ふのであるが、それはたゞ外見だけのことである。特に出雲國造神賀詞の説のうちには、記紀の編纂以前から、存在してゐながら、それに採られなかつたものもあらうと想像せられるし、古語拾遺にも僅かながら、但し重要な意味のあるものに於いて、それがあるから、此の違ひは一層少くなる。要するに、記紀の編纂によつて神代史が一度まとまりはしたものの、それから後も局部的の變改はなほいくらか試みられたのであるが、それは即ち其の前から行はれてゐたことの引き續きであるといはねばならぬ。神代史はかういふやうにして長い間にいろ/\に潤色變改せられて來たのである。
 
(639)       第二十二章 神代史の性質及び其の精神 上
 
 神代史の一々の物語の意味を考へ、次に其の全體の結構とそれに現はれてゐる精神とを視、更に時代を追うて漸次に施された種々の潤色によつて生じたいろ/\の變異を觀察した著者は、もはやそろ/\最後の歸結をなすべき時期に達したやうである。そこで、今一度、神代史の性質を考へ、其の全體の精神を看取する必要がある。
 くりかへしていふが、神代史は、オホヤシマグニと名づけられアシハラノナカツクニもしくはアシハラノミヅホノクニと呼ばれた我が國土の起源と、それを統治せられる我が皇室の由來とを、説いたものである。しかし其の國土は皇祖神と同一の父母から、また皇室に統治せられるものとして、生まれたものであるから、約言すると、神代史は我が國の統治者としての皇室の由來を語つたものに外ならぬのである。神代史の中心觀念は日の神であるが、その日の神は皇祖神であり、從つてそれには天皇が反映してゐる。神代史を構成する幾多の物語は、皇室の御祖先であるといふ神々の話のみである。すべてが皇室のことであり、統治者のことである。スサノヲの命といひオホナムチの命といふ、皇室の外の神々についての話もあるが、それも皇室と同一血族であるとせられた神々の、また皇室の統治の權威を確立するための、物語である。神代史に於いて皇室の外にはたらいてゐるものは、たゞ直接に皇室に從屬する少數の家々、即ち後のいはゆる伴造の家々、の祖先のみであり、從つてそれはたゞ皇室の權力が活用せられる機關に過ぎない。のみならず、國うみの物語に於ける、また物語の原形では日の神の生まれたところとなつてゐる、さうして後(640)にいふやうに廣義のヤマトの地域に屬するものと考へられてゐた、オノコロ島と、變改せられた物語では日の神の生まれたところとなつてゐ、またホノニニギの命から後の皇都とせられてゐるヒムカと、皇室に國を献じたオホナムチの命の、またその父のスサノヲの命の、住地としてのイヅモとの外には、一定の土地を示した話が無いといふことも、すべてが皇室と其の權力とについてのみ語られてゐる明證である。さま/”\の神の物語はあるが、さうして其の物語の主人公たる神々のうちには一種の英雄と目すべきものもあらうが、それに國民的生活が反映せられてゐるやうな形跡は見えず、國民的活動の面影などは、勿論、認められぬ。全民族の欲求によつて動いてゐると思はれる神は一人も無い。いひかへると、神代史上に何等かの行動をしてゐる神々は、民族的もしくは國民的英雄ではないのである。何れの民族にも共通な性質を有する民間説話もしくは個人的戀愛譚の場合を除けば、すべてが皇室の權力に關係のある物語に於いてのみはたらいてゐる。皇祖神もその子孫も民族的または國民的英雄として語られてゐないことは、いふまでもない。要するに神代史はたゞ、統治者の地位に立つて、其の地位の本源と由來とを語つたものである。
 皇室の御祖先は日の神であり、皇位はそれから順次、血統によつて傳へられる「天つ日嗣」であるといふ。さて上代の政治思想に於いては、天皇の政治的君主としての地位は「現人神」または「現つ神」として表現せられる。オホヤシマグニを統治せられるのは「現つ神」としての天皇である。神代とは、觀念上、此の神性を「現つ神」から抽出して、それを思想の上で形づくられた遠い過去の皇室の御祖先に於いて具象化せしめ、其の時代を名づけたものであるが、宗教的崇拜の對象であり靈物として見られてゐた日そのものとしての、日の神を皇祖神としたことによつて、それがおのづから充實せられ、また神代としての其の色調が鮮明になつた。皇祖神としての日の神が此の具象化の核心(641)となつたのである。さうして此の神代を、同じく思想の上で形づくられたヤマト奠都の前とし、それから後を人代としたことは、神代といふ觀念が政治的意義のものであり、また皇室についてのもの、皇室によつてのみ意義のあるものであることを、示すものであるが、それは即ちまた神代史の性質が上記の如きものであることを語るものでもある。更に具體的にいふと、神代史は皇室が「現つ神」として我が國を統治せられることの由來を、其の御祖先である日の神の御代、即ち神代、の物語として説いたものである。さうしてその神代を御祖先の代としたのは、皇位が世襲である現在の事實を基礎として、それを思想の上に構成せられた遠い過去に延長したものに外ならぬ。日の神を遠い過去に生まれたものとし、その「天つ日嗣」が血統によつて現實の皇室に傳へられるといふ考は、こゝから生じてゐる。さうしてかういふ神代史の思想からいふと、天皇の神性は日の神の子孫であることによつて與へられたものとなるのである。事實上の起源は、既に考へた如く極めて遠い昔の未開時代の風習にあるけれども、神代史ではそれがかういふ風に解釋せられることになる。
 さて神代史に於いては、我が國は、國土がはじめてできたといふ形に於いて表現せられてゐる極めて遠い時代から、その全體を皇室が統治せられたことになつてゐるので、皇祖神としての日の神の説話にそれが明かに示されてゐる。しかしこれは神代史の思想であつて、歴史的事實に基礎のあることではない。歴史的事實としては、皇室が我が國の統一を完成せられたのは、ほゞ五世紀の始のころであり、皇室の存在のはじめて世に知られた時代には、それはヤマトを中心としてその附近を領有してゐた小國の君主であつたと、推定せられるからである。神代史は、國土が皇室の下に完全に統一せられてゐる時代の?態に基づいて、その皇室の地位のはじめを説話上の國土のはじめにまで溯らせ、(642)さうしてまた皇祖を日の神とすることによつて、それを日がこの世界に現はれたはじめの時にまで溯らせたのである。日の現はれたはじめをいふことになると、そこに宇宙生成説話の一側面が見えるやうではあるが、實はさうではなく、日の生まれた話は實は、日本の國土の全體の統治者としての皇室のはじめを、さういふ形で説いたものである。(皇祖を日とすることが、古くから傳へられた話ではなくして、新しく案出せられたものであり、皇室の國土の統治を日の國土を照らすことに比擬したところから生じたものである、といふ第五章の考説は、かう見ることによつていよ/\確かめられる。)なほこゝでいひそへておくべきは、上代人に於いても極めて遠い昔のことと考へられてゐたらうと推測せられる國土のはじめも、日の現はれたはじめも、神代の系譜の上では、その時期が人代のはじめとせられてゐる神武天皇からわづか五代(系譜の原形では、多分、三代)の前に當る極めて近い世のことになつてゐる、といふことである。これもまた神代の説話が、日や國土のはじめを説くためのものではなくして、皇室とその統治の下にある國家との起源を語るために作られたものだからであつて、始めてヤマトに都を定めた神武天皇が、ヒムカからそのヤマトに移り、その三代の祖(原形では父)が、天からこの國土のヒムカに降り、さうしてその祖父(原形では父)としての皇祖神たる日の神が、國土と共に地上で生れてそれから後、天に上つた、といふことになれば、それでよかつたのである。時間の長短遠近は、始から問題でなかつたと考へられる。神代史の性質が皇室の由來を語つたものであるといふことは、このことによつても明かであらう。
 なほ神代史の思想に於いて重要なことは、日の神は、その本質として、生れながらにオホヤシマの統治者ミヅホの國の政治的君主であつたので、いひかへると、此の國の君主として生まれたのであつて、皇祖が日の神であるといふ(643)のが、もと/\その意味でいはれてゐることであり、從つてそれは、創業の主であるといふやうな性質をもつてゐない、といふことである。こゝに神代史の根本精神があるので、日の神はみづからの力みづからのしごとによつて肇國の大業を成就したのではない。この神について何等政治的經略の功業が語られてゐないのは、そのためである。オホナムチの命の國ゆづりは、日の神の命によつて行はれたことにはなつてゐるが、その前からミヅホの國は日の神の統治の下にあつたのである。此の國ゆづりとホノニニギの命の天くだりとに於いて、タカミムスビの命が日の神と共に、或はそれに代つて、はたらいたやうな話ができても、それによつて日の神の地位と權威とが少しも傷けられないのも、そのためである。(第十四章で損はれるもののやうに見えるといつておいた如く、一應はさう見えるが、實は少しも損はれてはゐない。)さて、日の神に肇國創業といふやうな事功が無いといふことは、その根本の意味はこゝにいつたところにあるが、神代史に殺伐な戰闘の物語の殆ど見えないこととも、關係があらう。どの民族のでも、上代の帝王の説話には、はげしい戰爭の語られてゐるのが普通のありさまであるので、それは上代に於ける國家の建造には、事實さういふことが行はれたからである。然るに、神代史にはそれが無い。これは、島國であるために異民族との接觸が無いと共に、この國土の住民が民族としては一つであつたために、民族的の爭闘が國土のうちで行はれなかつたこと、從つて上代の我が國には一般に平和の空氣がみちてゐたこと、皇室がこの民族を統一せられた實際の情勢としても、武力によることが(全く無かつたではないにしても)極めて少かつたと推測せられること、などの故でもあるので、特にこの最後の事實は、その反映を皇祖神の物語に現はしてゐるやうにも考へられる。上代に於いて建國創業の事功を語らうとすれば、戰闘に於ける勝利をいふより外に、いひやうが無からうと思はれるからである。建國でも(644)創業でもないが、神武天皇の東遷説話のうちに戰爭がいくらかは語られてゐることを、參考すべきである。なほ皇祖神が國民的もしくは民族的英雄として語られてゐないといふことは、上にいつたやうな事情のためではあるが、このこともまた或る程度には考に入れてもよからうか。上代に於けるかういふ英雄の事業は、多くは他國なり異民族なりに對する戰爭に於いて勝利を得るところにあるからである。
 さて皇祖神たるこの日の神は此の國で生まれたが、後にタカマノハラに上せられ、其の子孫があらためて此の國に降られた、といふ。タカマノハラはいふまでもなく天であるが、其の天が此の話に於いては、明かに政治的意義を有する。神代史の上でタカマノハラといふ語が如何なる意義を有つてゐるかを考へるに、「高天原に千木高しり底つ岩ねに宮柱太しり立て」といふやうなのは、地に對する天そのものを指してゐることが明かであり、古事記の卷頭にあるアメノミナカヌシの神などが生り出でたといふタカマノハラも、やはり同じことであつて、後の方のは其の思想の淵源であるシナ人の知識から見ても、さうあるべきはずである。ところが一方では、タカマノハラを天上に於ける一つの國と見なさなければならぬ場合があるので、物語に現はれてゐるのが即ちそれである。日の神はタカマノハラにゐて其の國と此のアシハラノナカツクニとを統治せられる、スサノヲの命がそこに上つて行つたので日の神との間に葛藤が起つた、神々がそこで日の神のためにいろ/\の活動をした、日の神がそこで此の國にはびこつてゐる荒ぶる神の平定を畫策せられた、日の神の孫たるホノニニギの命がそこから此の國に降られた。これがタカマノハラに關する物語であるが、それは何れもタカマノハラが日の神の居所として語られてゐること、日の神を離れては存在しないことを示すものである。日月二神の領分の定められた話に於いてタカマノハラは日の神についてのみ語られ、同じく(645)天にある月の神については此の名が用ゐられてゐないのも、この故であらう。物語に於けるタカマノハラは一つの國ではあるが、それは日の神がそこに上せられてから始めて開かれたところであり、ホノニニギの命がそこから降られた後は全く鎖されてしまつた。神代史に於いて日の神の生まれない前にタカマノハラの國が現はれてゐないことは、いふまでもない。ホノニニギの命の天降りによつて、或はそれに伴つて、タカマノハラの神々がみな此の國土に降りて來てしまつたことも、また明かであらう。此の天降りの後、タカマノハラは空虚である。少くとも此の國土にとつては空虚と同樣である。勿論、日は天にある。日の神は、その意味に於いては、長へにタカマノハラに留まつてゐるといへよう。が、神々の住んでゐた國はたらいたことのある國としてのタカマノハラの消息は、杳として聞こえぬ。タカマノハラへいつたものも無く、タカマノハラから來たものも無く、此の國とは全く無關係になつてしまつたではないか。さすれば其の後の日の神は、實はもはや皇祖神としての日の神ではなく、たゞ日そのものとしての日の神であり、從つて其の居るタカマノハラはたゞの天である。國としてのタカマノハラの存在が、皇祖神としての日の神と始終し、其の居所としてのみ意味のあるものであることは、これでもわかる。だから、タカマノハラの國は、日の神のために成立したものであつて、本來タカマノハラといふ世界があつてそこに日の神が現はれたのではない。タカミムスビの命もタカマノハラで活動してゐるが、それは日の神を助けもしくはそれと協力してのこと、むしろ日の神の地位にゐてのことであるから、そのタカマノハラはやはり日の神の居所としてのである。此の神の生り出でたといふ話に見えるタカマノハラは、たゞ天のことであるが、それがかうなつてゐるのは、既に述べた如く、神自身がその性質を變へてゐるためである。
(646) さて日の神が皇祖神であるとすれば、其の居所たるタカマノハラもまた政治的意義のものであるといはねばならぬ。タカマノハラに於ける上記の種々の物語の精神が、何れもみな皇室の國家統治に關すること、即ち政治についてのことであるのを見るがよい。此の意義に於いてのタカマノハラは、アシハラノナカツクニに對するものであるが、其のタカマノハラの神を「天つ神」とするに對して、此の國にゐる神を「國つ神」といふのも、また此の政治的意義の上に立つてのことである。天つ神と國つ神との對照は、古事記のサルダヒコの神が現はれたところ、コノハナサクヤヒメの話、又は神武天皇の物語、などに於いて最も明かであり、なほオホナムチの神の服從の段に天つ神、ヤマタヲロチの話に國つ神、の名が出てゐるが、天つ神は何時でも日の神もしくは日の神の御子孫のことであるのを思ふと、それは此の國を統治し國つ神を服屬させる地位にあるものであることがわかる。(古事記には天つ神がイサナキ・イサナミの二神に國を作ることを命ぜられたやうに書いてもあるが、この天つ神は、アメノミナカヌシの神などが天に生り出でたといふ話をうけてのことであるから、國つ神に對する天つ神ではなく、天上の神といふ意義でいはれたものである。それは、イサナキ・イサナミ二神が此の國土の神ではあるが、所謂國つ神ではないのと、同じである。天つ神・國つ神といふ相對的の稱呼は、日の神が天に上つてタカマノハラの國が開かれてから、始めて生じたものである。)
 ところが斯う考へて來ると、日の神の居所としてのタカマノハラは、廣い一つの國と見るよりも、寧ろ或る狹い場所とする方が適切である。アメノカグ山があり、アメノタケチがあり、アメノヤスの河があるが、事はいつでもそこで行はれてゐて、其の外には出てゐない。さうしてこれらは、ヤマトに實際ある山や市やの名、又はそのあたりの河(647)の?態其のまゝであるから、タカマノハラはヤマトを天上に反映させたものである、といふことができよう。これはタカマノハラの性質を知る上に大切な點であるから、少しく煩雜ながら、こゝにそれを説明して置かう。さてカグ山はウネビ山ミミナシ山と共に三山と稱せられ、それらが平地に立つてゐる姿の特に目について美しいところから、またそれらが上代の皇居の多く置かれた地域にあるところから、丘ともいふべき小さい山ながら、名高いものになつてゐたことは、いふまでもあるまい。中にもカグ山は最も愛せられたと見えて、萬葉にもそれを美しく讃めて詠んだ歌が多く、また崇神紀(十年の條)に「武埴安彦之妻吾田媛密來之、取倭香山土、裹領巾頭、祈曰是倭國之物實、則反之、」とあるのを見ると、ヤマトを代表するものと思はれてゐたとさへ推せられる。歴史的事實とは見なせないが、神武紀には、天皇が神の教によりカグ山の埴を取つて天の平瓮、天の嚴瓮、を作り、ニフ川上で神を祭られた、といふ話がある。これもカグ山が重んぜられてゐたことを示すものである。だから、神代史の述作者が天上に於ける日の神の居所を想像するに當つて、其處の山の名をアメノカグ山としたのは、自然のことであらう。次にタケチは、廣く用ゐられてはヤマトの六の縣の一つの名ともなつたが、その名義から考へると、むかし市の立つた所があつて、そこをいつたものであるらしい。トイチといふ縣もありツバキノイチといふ土地もあることから、さう類推せられる。さすればタケチは上代に於いて民衆の集まるところであつたらう。さうして其の位置は、?皇居となつたアスカ地方に遠からぬところであつたに違ひない。從つて、タカマノハラに於いて日の神が石戸に隱れられた時に八百萬の神が集會したといはれ(書紀の注の「一書」)、或は皇孫降臨の際に神々が會したとせられた(遷却祟神祭祝詞)場所の名が、アメノタケチとせられたのも、また自然のことであらう。(書紀の注の別の「一書」にある、オホモノヌシの神が八十萬(648)の神を招集したといふアメノタケチは、地上にあることになつてゐるが、これは天に昇ることになつてゐるところから來た思想の混亂のためであるらしい。或はタカマノハラの地名をこゝに適用したものとも解せられる。)然らばアメノヤスの河はどうかといふに、カグ山とタケチとの例から推すと、これもやはりヤマトの河の名であつてよささうであるが、事實さういふ名の河はヤマトには無いらしい。古語拾遺には「八湍の河」といふ文字が擬ててあるが、それもまたヤマトの河の名ではない。「アスカ川七瀬の淀」などといふこともあるから、アスカ川に八瀬の語も適用せられないことはなく、其の名のアスカは歴代の皇居のあつた土地であるから、「八湍の河」はアスカ川を指したもので、アメノヤスの河の名もそこから移し用ゐられたのかとも思はれるが、瀬の多いのは必しもアスカ川に限らず、また此の名は晩出の古語拾遺にのみ見えるのであるから、これは書紀の注の「一書」に「天の八十の河」と書いてあるのと同じく、ヤスの河の音が轉訛したものと解すべきであらう。さうして別の「一書」に、スサノヲの命の田が天の※[木+織の旁]田、天の川依田、天の口鋭田、といふ名を附けられてゐるに反し、日の神の田が天の安田、天の平田、天の邑并田、といふ名になつてゐて、其の一つに安田といふのがあるのに參照すると、ヤスの河もやはり之と同じく「安の河」であつて、よい河、平安な河、といふ意義で命名せられたものと察せられる。然らば、アメノカグ山とアメノタケチとにはヤマトの地名が適用せられてゐるのに、アメノヤスの河ばかりは其の例と違つて、實際ヤマトに無い名を新しく命じたのは、何故かといふに、臆測に過ぎない考ではあるが、カグ山なりタケチなりは最も有名な、さうしてそれ/”\いくらかの特色を具へてゐる、ものであるのに、河は同じやうなのが皇居附近の地域に數多くあつて、どれにも其の一を撰んで取るといふほどのものが無いためでは、なかつたらうか。しかし名稱こそはヤマトにある河の名から取られ(649)なかつたけれども、ヤスの河の觀念は、やはり、ヤマト地方の河が其礎になつてゐる。それを明かにするには、先づ神代史に於いてヤスの河がいかなる場所として取扱はれてゐるかを、知らねばならぬ。
 神代史にヤスの河の現はれるのは、常にヤスの河原、又はヤスの河の河上、即ち河の畔、としてのことであつて、河水そのものはたつた一つ、しかも緊要ならぬこととして、見えるのみである。それを擧げてみると、日の神が石屋戸にこもられた時に八百萬の神がアメノヤスの河原に集つたこと、(古事記、書紀本文)、オシホミミの命が此の國土に降らうとせられた時にタカミムスビの命と日の神との命令でアメノヤスの河原に八百萬の神を召集したこと(古事記)、日の神とスサノヲの命とがアメノヤスの河を中に置いてウケヒをせられたこと(古事記、書紀の注の「一書」)、アメノワカヒコの雉を射通した矢がアメノヤスの河原に坐す日の神とタカキの神とのところに屆いたこと(古事記)、などが最も主要なことであつて、次には日の神の石戸がくれの時、アメノヤスの河の河上の天の堅石を取つて鏡を作るときの道具としたといふ話(古事記)、カグツチを斬つた時の血がアメノヤソの河にある五百箇磐石に染みついたとか、五百箇の磐石になつたとか、いふこと(書紀の注の二つの「一書」)、があり、また日の神が此の國土を平定しようとせられた時のこととして、アメノヤスの河の河上の天の石屋にゐるイツノヲハバリの神が、其の河の水を逆に塞き上げて道をふさいでゐるといふ話(古事記)がある。これで見ると、アメノヤスの河原は(一)神々の集合するところとして、(二)日の神の居所として、(三)神の誓約の場所として、(四)石のあるところとして、(五)石窟のあるところとして、記されてゐる。なほ日の神の石戸がくれのときには、祭祀の儀禮が行はれたとも見られるから、アメノヤスの河原は神を祭る場所としても考へられたやうである。これらの中で、第四は、どこにでもある河の?態で(650)あるが、第一から第三までは、皇都の地であるヤマトの河々の政治的地位を聯想させるものである。書紀を見ると、朝廷でいろ/\の事の行はれた場所が、河原もしくは河上の名で呼ばれてゐることが多く、さういふ名が無くとも、事實、河の附近であつたと見なければならぬことが少なくない。應神紀(九年)にタケウチノスクネ、ウマシウチノスクネの兄弟がシキ川の濱でクカタチをしたといふことがあり、允恭紀(三年)の有名なクカタチもアマカシが岡で行はれた(アマカシが岡は齊明天皇五年に其の東の川上でエミシを饗せられたことがあるから、アスカ川の沿岸であらう)。また用明紀(二年)にはイハレ河の河上で新甞をきこしめしたことが見え、皇極紀(元年)には天皇がミナブチ河上で四方を拜せられたとあり、天武紀(七年)には齋宮をクラハシ河上に建てて神を祭られたことが記されてゐるし、神武紀にはニフ川上で神を祀られた話がある。崇神祀(七年)にもカムアサヂハラに八十萬神を集へて卜問をせられ、また八十伴緒を集められたといふことがあるが、此の時の皇居はシキノミヅガキの宮とせられ、また此の話はミワのオホモノヌシの神を祭るについてのことであるから、カムアサヂハラはミワ川かマキムク川かの附近であつたらう。神武紀などの話は固より歴史的事實とは認め難いが、かういふ話の作られたのは、上代に於いて河の附近で神を祭り衆人を會する習慣があつたからのことであらう。次に歴史的事實と見なすべき記載に於いて皇居を河の名で呼んであるのは、齊明天皇のアスカノカハラの宮の外に見當らぬやうであるが、皇居または皇族の邸宅で河に關係のあることの書紀に明記せられてゐるのは、推古紀(九年)にミミナシの行宮が河水につかつたことが見え、舒明紀(十一年)にクダラ川の側に宮を造つたことがあり、孝コ紀(五年)に河邊の行宮に中の大兄と其の皇祖母とがゐられたことがある。川上といひ河原といつても必しも河岸といふのではなく、もつと廣い意義に解すべきものではあ(651)らうが、上代の皇都の多く置かれた地域にはヤマト川に注入する支流が幾らもあるから、大抵のところは斯う呼ばるべきであり、また實際、河の近くに皇居なり行宮なりのあつた場合もある。さてこれらの記事によると、群臣を會するところ、誓約をするところ、神を祭るところ、皇居のあつたところを、某の河原または某の河上の名で呼ぶ習慣のあつたことが、知られるが、アメノヤスの河原で八百萬の神が集會し、日の神とスサノヲの命とがウケヒし、神たちが呪術または祭祀の儀禮を行ひ、また日の神が其の河原にゐられた、といふのは、かういふ習慣の反映として考へられ、さうしてそれは皇都の置かれたヤマト地方の地理的?態から來たことである。ところが、こゝに殘る一つの問題は、この河原にあるといふ石窟についてであつて、ヤマトの皇居附近の河々にさういふものがあつたらしくはないから、そこに疑問が生ずるのである。さて前にも述べたイツノヲハバリの神の石窟がアメノヤスの河にあるとしてあるのは、古事記ばかりであつて、同じ話のある書紀には河のことが見えない。しかし日の神のこもられた石窟も、やはり此の河の河原にあるとしなければなるまいから、アメノヤスの河と石窟とが聯想せられたことは疑が無い。それは何故であらうかといふに、石窟が神の住むところとして考へられてゐたことは、萬葉(卷三)の「大汝少彦名の座しけむしずの石室は幾代經ぬらむ」によつてもわかるので、奧底