津田左右吉全集第10巻・日本文藝の研究、岩波書店、424頁、3200円、1964.7.17(87.6.24.2p)
 
(1)     まへがき
 
 この書には日本の文擧藝術に關する舊稿のうちで左記の十三篇を收載した。
 第一、世界文學としての日本文學。文學、昭和二二(一九四七)年一月號所載。
 第二、愚管抄の著作年代についての疑。思想、大正一三(一九二四)年九月號所載。
 第三、平家物語と源平盛衰記との關係について。史學雜誌第二六ノ七、大正四(一九一五)年七月號所載。
 第四、日本の文學史に於ける歴史文學。文學、昭和二六(一九五一)年一〇月號所載。
 第五、漢字と日本文化。國語運動、昭和一四(一九三九)年八月號所載。
 第六、神樂考。東洋學報第四ノ二、大正三(一九一四)年七月號所載。
 第七、伎樂考。東洋學報第五ノ三、大正四(一九一五)年九月號所載。
 第八、高麗樂考。東洋學報第三ノ二、大正二(一九一三)年七月號所載。
 第九、林邑樂考。東洋學報、第六ノ二、大正五(一九一六)年五月號所載。
 第一〇、能の源流。東洋學報、第一ノ三、明治四四(一九一一)年一〇月號所載。
 第一一、神僊思想の研究。滿鮮地理歴史研究報告第一〇、大正一三(一九二四)年八月發行所載。
 第一二、唐詩における花と酒と。東洋史會紀要第五、昭和二二(一九四七)年四月發行所載。
(2) 第一三、長恨歌にちなみて。史苑、第一三ノ一、昭和一四(一九三九)年一〇月號併載。
 第二以下の三篇はシナ思想を取扱つたものであるが、日本の文藝の題材として多く用ゐられたことがらについての考、または日本のと對照して考へたところのあるものであるために、こゝに附載した。
 收載の順序は、發表の年月にはかゝはりなく、主題の性質によつた。また題目には、例へば第一〇のがもとは「雜劇と能と」としてあつた如く、いくらかの變改を加へたものがある。なほ第三と第一〇との二篇については、今日となつてはもはやかゝる舊稿を存録する必要は無からうと思ふが、それ/\の篇首にいつておいたような事情で起草したものであるから、その點にいさゝかの歴史的意味があらうかと考へる。
 近ごろ書いたものの外は、どれにも多かれ少かれ筆が加へてある。中には幾度も添削を施したものがある。
 文體、筆致、かなの書きかた、漢字の用ゐかた、などは篇によつてまち/\になつてゐるが、これは概ね書いた時のまゝにしておいたからである。支那をシナと改めたようなのは特殊の例である。
 こゝに收載した諸篇には、「文學に現はれたる國民思想の研究」の補説の用をなすものがある。また「おもひだすまま」に採録した諸小篇にも、この書の諸篇と互に參照すべきものがある。
 校正と索引の製作とには、例によつてクリタ君とコバヤシ君とを煩はした。この書の形を成したのは、兩君とイハナミ書店出版部の諸氏とのおかげであることを記して、こゝにお禮を申し述べる。
   昭和二十七年十二月
                   つだ さうきち
 
(1)     目次
 
まへがき
第一 世界文學としての日本文學……………………………………………………一
第二 愚管抄の著作年代についての疑……………………………………………二三
第三 平家物語と源平盛衰記との關係について…………………………………三五
第四 日本の文學史に於ける歴史文學……………………………………………五三
第五 漢字と日本文化………………………………………………………………六三
第六 神樂考…………………………………………………………………………七九
第七 伎樂考………………………………………………………………………一〇八
第八 高麗樂考……………………………………………………………………一一九
第九 林邑樂考……………………………………………………………………一三六
(2)第一〇 能の源流………………………………………………………………一五二
第一一 神僊思想の研究…………………………………………………………一七二
第一二 唐詩における花と酒と…………………………………………………三三四
第一三 長恨歌にちなみて………………………………………………………三九六
索引
 
(1)     第一 世界文學としての日本文學
           ――文學の比較研究について――
 
 こゝにいはうとするのは、これまでの日本の文學が世界のいろ/\の民族の文學の間に立つてどういふ地位をもつてゐるか、どういふ點にその普遍性もしくは共通性があるか、どういふところにその特殊性があるか、を明らめる方法についての、一つのおもひつきである。新しいおもひつきといふのではなく、だれでも考へてゐたことであらうとは考へられるが、たゞそれが多く實行せられてゐなかつたようであるから、日本の文學の研究が世界的のたちばからせられねばならぬといふことの、いまさららしく、いはれて來たのを、よいをりとして、そのことをざつと書いてみようと思ふ。
 それは一くちにいふと、文學の比較研究といふことである。たゞヨウロッパで一般に行はれてゐる文學の比較研究は、一つの民族の文學と他の民族のとの間の互ひの影響、またはいはゆる交流、を考へるのが、おもなしごとになつてゐるようであるが、日本の文學を本位とする、または中心とする、比較研究は、それよりもむしろ、ほかの方面にたいせつなしごとがあるのではないかと、おもはれる。ヨウロッパで行はれてゐるような、さういふ研究は、わが國でもこれまでかなりに試みられてゐたので、日本のむかしの文學がシナの文學から、また明治時代から後のがヨウロッパのから、どういふ影響をうけてゐたか、といふことが、問題とせられてゐたのである。もつとも、日本の文學が(2)シナの文學にいくらかの影響を與へたのは、近いころになつて始まつたことであり、またヨウロッパの文學に對しては、ほとんどさういふことが無いから、文學の交流といふことは多く考へられず、日本の文學の他からうけた影響のみが、おもな問題となつてゐた。また日本の文學には、シナで譯せられた佛典をとほして、インドの説話などからその資材を得たものもあるが、それは間接のことでもあり、また文學としての形をもつたものからではないから、それはインド文學の影響とはいひかねる。なほ日本の文學がシナのから影響をうけたのは、同じ時代のものからのは、全く無くはなかつたにしても、わりあひに少く、多くはその古典、もしくは前の時代の作品、からのであるから、この點ではヨウロッパの近代文學がギリシャやロオマの古典からその資材を得てゐるのと、同じではないが、似たところがあり、從つてかういふ影響を考へることは、比較研究としては、當らぬところがある。こゝにいつたような研究がわが國で行はれてゐたとしても、それが比較研究と呼ばれてゐないようであるが、その理由はこれらの點にあらうか。さうして日本の文學と他の民族のとの關係が、かういふふうに一方的であるといふことは、日本の文化の他の民族の文化に對する地位から來たことである。
 なほもう少しこのことについて考へてみよう。シナとの關係についていふと、日本はシナとは離れて存立し、文學にたづさはるものの間にもその接觸が無かつた。日本の文人がシナにいつたものもほとんど無く、シナについての知識は書もつによつて得ただけであり、さうしてその書もつは古典がおもなものであつた。シナの文人が日本に來たことはなほさら無く、また中華を以てみづから誇り、まはりの民族を輕んじてゐたかれらは、よし日本に文學のあることを知つてそれに接するをりがあつたとするにしても、それには見むきもしなかつたにちがひない。日本人は、日本(3)のとは性質の全くちがつてゐるシナのことばのしるしであるシナの文字を學ぶと共に、それによつて日本のことばを寫す方法を考へ、またその文字から日本の音のしるしとしての文字を作りだし、それによつて日本の文學を發達させたが、近ごろまでのシナ人は、さういふことには全くきをつけなかつた。きをつけるだけの心もちゐがなかつたのである。これはむかしの時代の日本とシナとの關係であるが、いまの日本の文化のヨウロッパのに對する地位は、それとはちがつてゐる。ヨウワッパ人は日本に日本の文學があることを知り、それを翻譯したり研究したりしようとするものさへも、無いではない。しかし現代の日本の文化は、そのもつともたいせつな面において、ヨウロツパに源を發した世界の文化の一つのあらはれと見なすべきものであるから、その點で、ヨウロッパよりも後進の地位にあり、文學においてもまたさうであるために、むかしからの日本の文學もまた同じように見られる傾きがあるのと、ことばと文字とが全くヨウロッパのとちがつてゐるのとのために、その存在も、一般には、まだよく認められるまでになつてゐない。日本のむかしの繪畫がフランスのに或る影響を與へたことは、だれでも知つてゐるし、劇でも、ヨウロッパの演出家のこゝろをいくらか動かしたところがあつたらしいのに、文學の方面では、例へばハイクといふ名で短い詩を作ることが、一時のものずきとして、フランスの詩界のかたすみに行はれたようなことがあつた、とはきいてゐるが、一般にはほとんど影響を與へてゐない。これは一つは、文學がことばと文字とによるものだからである。日本の文學とヨウロッパのとの關係はこのように一方的なのである。
 なほ比較研究といふことは、何ごとについてでも、比較せられるものがそれ/\に特殊なところをもつてゐると共に、またそれらの何れにも共通なところがあるばあひに、せられるのであるから、民族としては別々に形づくられて(4)ゐるにしても、その間にいろ/\の混和が行はれてゐるのみならず、根本的には一つの人種であるし、ことばもまたその間にちがひがありながら同じ系統のものである、ヨウロッパの諸民族、また政治的には分れてゐながら文化の點では、大きく見ると、一つのものであつて、すべての文物がそれ/\の民族性を具へてゐると共に、その根柢に共通なところ普遍なところがあるのみならず、ほゞ同じ地域にゐて何ごとについてでもむかしから互ひに接觸が多く混和もしてゐた、ヨウロッパの諸民族においては、その文學について、比較研究の行はれるのは、自然のことである。その比較研究が上にいつたような意義のものであるにせよ、互ひの影響とか交流とかいふことには、一つの民族が他の民族の文學に接するばあひに、それをうけ入れるといふ一面と、うけ入れながらそれを變化させるといふ一面とがあるべきはずであるから、そこに上にいつた共通性普遍性と特殊性とがはたらき、さうしてそれがどの民族の間にも互ひに行はれてゐるところから、この意義での比較研究が成りたつたのである。さすれば、むかしの日本の如き、人種もことばも全くちがつてゐるのみならず、一般の文化にも共通性の無いシナから、いろ/\の文物を學びとつた、といふ關係のみのあつた民族の文學については、同じ意義での比較研究といふことは、十分の意味をもたないことになる。たゞ現代の日本の文學とヨウロッパのそれとの關係は、全體としての文化に世界的普遍性があるといふ點において、シナに對するそれとはちがつたところがあるが、影響の一方的であることは、それと同じである。そこで、日本の文學を主位においての比較研究といふことがいはれるとすれば、それは別の意義でのこととしなければならず、別の方面にそのしごとのあるべきことが考へられるのである。
 それは何かといふと、文學は、その形において、それに表現せられてゐることがらにおいて、またその歴史的發達(5)のみちすぢにおいて、別々の民族に別々のすがたがあり、民族によつてそれがちがつてゐること、何ゆゑにさういふちがひがあるかといふことを、それ/\の民族生活とその歴史的展開との上から觀察すると共に、それらを對照し比較することによつて、文學が人生のいかなる要求から生まれ、人生にいかなるはたらきをするものであるか、それが一つの民族の民族生活およびその一般の文化といかなる關係をもつものであるか、またいかに變化し發達するものであるか、などの問題を考へることである。このばあひには、われ/\が文學といつてゐるものをどの民族ももつてゐてそれに人として人類としての生活が表現せられてゐる、といふところにその共通性普遍性があるので、そこでかういふ比較ができるのである。日本の文學の特殊性がどこにあるか、その特殊性がどうしてできて來たか、どうしてそれが現にとほつて來たようなみちすぢをとほつて來たか、或は來なければならなかつたか、それにすぐれた點がありまた足らない點があるとすればそれは何か、といふことも、かういふ考へかたをすることによつて、はじめて知られるであらう。さてこれは、理論的には、互ひの間に全く關係の無い別々の民族の文學についてもなし得られることであり、またしなければならぬことであるが、上に述べたような意義での比較研究の問題となることがらについても、その研究の根柢にはやはりかういふ考へかたが潜んでゐるはずである。
 一つの例を、文學の基本であることばに關することについて、擧げてみよう。日本に「うた」がありシナに詩または歌もしくは謠とよばれるものがあつて、この二つはむかしからほゞ同じような性質のものと思はれ、「うた」には普通に歌の字があてられ、或るばあひには謠の字も用ゐられてゐた。この日本のとシナのとを同じ性質のものと見てよいかどうかには、考ふべきことがあらうが、一おうかう見ておくとして、今日本で普通に詩といはれてゐる、六朝(6)時代にほゞその形を成した、ものと大化改新のころからその形がきまつて來たように考へられる歌(うた)との間に、特に短い形の詩と短歌との間に、どういふちがひがあるかといふと、歌には句のをはりの韻のきまりが無いのに詩にはそれがあり、歌には五音の句と七音のとがかたみがはりにくりかへされるのに、詩には原則としては一句の音の數がきまつてゐ、また詩には歌には無い平伏のきまりがあり、歌には詩には少い頭韻が、歌の形のきまりとしてではなく修辭の一つのしかたとしてではあるが、かなり用ゐられてゐる。これらは今さらいふまでもないことであり、またそれが日本のことばとシナのとのちがひから來てゐるといふことも、だれしもきがついてゐる。しかし、ことばのどういふちがひから、歌と詩とのこのちがひが來てゐるかが、はつきり考へられてゐるかどうかといふと、それにはいくらかの疑があるのではなからうか。
 言語學の知識をもたぬために、たしかな考をたてることはできないが、試にいはうなら、歌に韻をふむことの無いのは、よくいはれてゐるような、日本のことばのくみたてでは、數が少くことばがきまつてゐる、助辭またはテニヲハが句のをはりに來るために、またどのことばもそれをくみたてる音がすべて聲の單純な母韻をふくんでゐて、その母韻は五つに限られてゐるために、韻をふむゆとりと自由とが無い、といふことの外に、いくつかの句をつゞけてはじめて一つのまとまつた意義をもつようになる日本のことばでは、一句ごとにそれだけでまとまつたことのいひあらはされるシナのとはちがつて、讀むばあひに、句ごとにそのをはりでいきをついたり休んだりするひまがないので、その點からも韻をふむことができない、といふ理由があるのではなからうか。五句の歌が上三句と下二句とに分けられるようになつたのでも、このことは知られるのではあるまいか。かういふこともシナの詩には無い。詩は五言にせ(7)よ七言にせよ、一句ごとにまとまつた意義をもつてゐるから、一句のをはるごとに、いはゞ休止符をつけることができ、從つてそこで韻をふむことができるのである。もと/\句のをはりに同じ韻の音を用ゐるといふことは、吟ずるばあひにそれによつて音調を統一させるためであらうから、その音がきはだつて耳にひゞくところでなくては、そのかひが無いが、句のをはりがてうどさういふところなのである。さうして詩が一句ごとにまとまつた意義をもつのは、一つのことばが一つの音であり、さうしてことばとことばとの關係をいひあらはすことばが、ほとんど無いといつてもよいほどに少く、おもなことばとことばとをならべるだけで一つの意義をなす、いはゆる孤立語であるシナの古典のことばの性質から來てゐることではなからうか。それ/\に獨立の意義をもつ句と句とが、即かず離れずといふような關係でつながつてゐるのは、シナの詩の特色であり、おもしろみのある點でもあるが、それがやはり、かういふ性質のことばによつて一句が成りたつてゐるからである。
 ところで、韻をふむにしても、どの句でもさうすることになると、全體が平板になり單調になるから、韻をふまない句をその間に置くことがおのづから考へられ、それによつて音調に變化が與へられるのであるが、韻のきまりの無い歌においては、一句の音の數が五と七と(またはいくらかのその變形)の二いろになつてゐて、この二つがかたみがはりにくりかへされることによつて、音調の變化と統一とができることになつてゐる。詩には無いかういふ形の上のきまりが歌にできたのは、一つは、一つのことばが一つの音であつてその音ごとにそれに固有な四聲の區別があるシナのことばとはちがつて、音が單純で聲の抑揚強弱高低などが無いといつてもよいほどに少く、或はかすかであり、よしあつてもそれは他の音とくみあはされて一つのことばとなるばあひ、または他のことばとつながるばあひ、に生(8)ずることの多い、日本のことばの性質にもよることであるが、一つはまたこのためではなからうか。(歌にかういふ音の數がきめられたのは、歌ふものとして聲樂の詞章としてではなくして、吟ずるものとして作られるようになつたからであらう。こゝでは吟ずるものとしての歌のことをいつてゐる。)もつとも、日本のことばは上にもいつたような性質のシナのとはちがふから、歌では五音のでも七音のでも、一つの句は一つもしくは二つのおもなことば(名詞動詞形容詞いはゆる副詞)とそれに附屬するテニヲハなり助辭なりとで成りたつてゐるばあひが多いので、一句といつても詩の一句とは同じでなく、多くの句をつゞけてゆくことによつてはじめて一つの意義をなすのであり、形の上の句は意義の上では句とはいひがたいものである。音に四聲の區別があり、一句のリヅムが音そのもののかういふ聲のくみあはせできめられてゐる詩とはちがひ、形の上の一句にかういふリヅムの無い歌では、ことばのつゞけかたと、そのことばをくみたててゐる音のうつりゆきのありさまとにおいて、いひかへると形の上の句のつゞけかたによつて、從つてそれが、一つのまとまつた意義を成りたゝせてゆき或る情思を表現してゆく、その成りたゝせかた表現のしかたのみちすぢにおいて、一首の全體としてのおのづからなるリヅムができてゆくのである。詩は意義を離れた音の上だけでその形がきめられ、リヅムも定められてゐるのに、歌では歌はうとする情思とその動きかたとを離れてリヅムは成りたゝない。むかしの或る學者が「しらべ」といふことをいつたのも、こゝにその理由があるらしい。表現しようとする情思とその動きかたとによつては、五音の句と七音の句とをくりかへすといふ形の上のきまりが早くから無視せられ、意義の上では或は七五のつゞけかたになり或は七七のになつてゐたのも、このためであり、それが一歩進んで、五音または七音の一句のうちでことばの意義のきれるところが生じ、またはさうしてきれたそのことばが他の(9)句と紆びついて一つの意義をなすばあひがあり、意義の上では一句が五音または七音で成りたつといふ根本の形がくづされて來たのも、そのためであらう。短歌の第五句が七音になつてゐるのは、もとは歌ふばあひに第四句を(そのまゝに或はいくらかことばをかへて)くりかへすならはしから生じたものと考へられるが、それが形としての一つのきまりとなつたうへは、そこから七七二句をつゞけることによつて或る意義が成りたち、從つて下二句と上三句とが分けられるようになり、しらべのためにたいせつなはたらきをすることになつた。(一首が上下二句に分れた主なる理由は、吟ずるばあひに中途で息をつぐ必要があるからであらうが。)頭韻といふようなものも、一つの修辭のしかたではあるが、やはり同じ意味がそれにあるのではあるまいか。さうしてかういふ點で日本の歌とシナの詩との間にちがひのあるのは、ことばの性質のちがひから來てゐるのであらう。この考が當つてゐるかどうかについては、專門家の教をまたねばならぬが、民族生活の特殊性の最も著しいものであることばの性質が、文學の形の特殊性となつてあらはれることは、疑があるまい。その生活の特殊性がどういふふうに文學の特殊性となつてあらはれてゐるかを考へることが、文學の比較研究の大きなしごとであらうと思ふ。
 しかし、ことばはたゞ音のくみあはされたものではない。それは人の心生活の表現である。民族によつてちがふ全體としてのことばの性質、また一つ/\のことばのもとになつてゐる音の出しかたやそのくみあはせかた、さういふ一つ/\のことばによつて成りたつ辭句の形やそのくみたてかた、一くちにいふとことばの形は、そのことばを用ゐる民族の感情の動きかた、ものごとの考へかた、生活の態度、などの表現である。が、それと共に、かういふことばの性質とその形とが、さういふ心生活を規制してもゆく。ことばのくみたてなどが歴史的にいくらかづつ變つてゆく(10)のも、一つはこれがためであるが、變るにしてもそれに或る方向があるのは、やはりこれがためである。さすれば、日本人とシナ人との生活態度、ものごとの考へかた、感情の動きかた、などに大なるちがひのあるのも、ことばの性質とその形との全くちがつてゐることと、深い關係がある。特にシナ人のものの考へかたが、われ/\のいふ意義での論理的でないことや、いひかたに甚しき誇張のあることやは、孤立語の性質から來てゐるところが多い。ところで、ことばはいふまでもなく社會的のものであり、人の心生活もまたそれと同じであるのみならず、心生活の表現としてのことばが文學として形づくられるばあひには、その文學が社會的のはたらきをすることになるが、そのはたらきかたに民族によるちがひがあるので、そこから文學の内容にも民族によるちがひが生ずる。さうして社會のくみたても、その間における生活のありさまも、歴史によつて形づくられ歴史的に變つてゆくものであつて、その歴史が民族によつて特殊なものであるとすれば、文學の民族的特殊性もまたそれによつて次第に成りたつて來る。
 再び日本の歌、特にナラ朝ヘイアン朝ころのそれと、シナの詩とについてそのことを考へてみると、例へば歌にはいはゆる戀歌が多く、それが歌の本體となつてゐるといつてもよいほどであるのに、詩にはそれが無いが、これは日本の上代の婚姻のならはしがシナのとは全くちがふところにおもな理由があり、さうしてそれは日本人の豪族の形態とその精神とその社會的の地位およびはたらきとが、シナのとはちがつてゐるからである。もつとも、日本の戀歌とは性質のかなりちがつたものながら、民謠としては、戀愛詩といつてよいものがシナにも古くからあつたと考へられるので、それは儒教の經典とせられてゐる詩經によつてもおしはかられ、後世にもさういふものが民間には行はれてゐたであらうが、詩を作るような知識人にはそれがとり上げられなかつた。これは、知識人が民衆とは離れた地位に(11)あるシナの文化のありさまのゆゑでもあり、また儒教によつて代表せられるかれらに特殊な道徳思想のためでもあるが、その道徳思想はやはりシナの家族制度から生じたものである。日本の歌も、その形はやはり知識人といはゞいはるべき地位のものによつて形づくられたのであつて、民謠と見なすべきものではないが、さういふ知識人とてもその生活においては、民衆と離れてゐたのではなく、從つてまた戀歌によつて表現せられる情思も、民謠のそれから離れたものではない。なほこのことは、詩が朗吟せられるように作られたものであるにしても、文字に記すところに大なる意味があり、さうして文字は、民衆には全く、といつてもよいほどに、縁の無いものであつたのに、歌は文字に記されはしたけれども、吟じまたは唱へるのがその本質であつたこととも、關係があるので、このことがまた日本の社會および文化とシナのとの性質のちがひを示すものでもある。いはゆる萬葉時代において、歌の内容に民謠ふうのものがあり、民衆の間に歌を作るものが生じたのも、またこのためであつて、そこに歌の社會的のはたらきの詩とはちがつたところがある。
 こゝに歌といつたのは、短歌のことであるが、戀歌などの如き單純な戀愛生活の情思を表現するには、短歌の形がそれにふさはしいので、事實、戀歌のほとんどすべては、この形をとつてゐる。ヘイアン朝の貴族の戀愛生活において歌の唱和が盛に行はれ、口とく應酬することの喜ばれたのも、またこのことを語るものであり、それは短歌であるからこそできたのである。さうしてまた一方では、かういふしかたで戀歌が作られたことは、戀愛生活そのものの情趣をこまやかにするはたらきをもしたので、それはまたさういふ生活のできる社會的のならはしの讃美ともなり、よしそのならはしを、事實において、長くつゞけてゆかせるほどのはたらきはしなかつたにせよ、そのならはしの無く(12)なつてしまつた後世まで、人のこゝろにそのおもかげをとゞめその情趣を思ひうかべさせたことは、題詠としてかういふ戀歌が作られたのでも知られよう。詩にも艶詩のようなものはあるが、それは作者みづからの戀愛生活を直接に表現したものではなく、しかもそれは詩としては重んぜられなかつた。
 短歌が歌の本體のようになつたこともまた、戀歌がこの形で作られたことと關係があるのではあるまいか。歌は萬葉においてすでに四季にわけてそれをあつめてある卷々があり、古今集から後にはこれが歌のあつめかたの例となつてゐるのでも、知られるごとく、自然界の風物をよんだものが歌には多いが、さういふ歌にも戀歌が少からず含まれてゐると共に、戀歌にもいはゆる花鳥の色とねとを用ゐたものが多いので、四季をり/\の風物をめでることには、戀愛生活によつて導かれたところがあつたと考へられる。日本人の見る自然は人の生活ととけあつてゐるものであつて、詩に常にあらはれてゐるような世外の風物ではないが、その一つの由來がこゝにあるのではなからうか。詩を四季にわけてあつめるといふことは、シナの集には無いようであるが、これは一つは、絶句のごとき短い形のものでも、その内容が歌のように單純ではなく、自然の風物を主題としたものでも、その風物のもつ地位はわりあひに輕く、日本の歌の如く、風物そのものの情趣、もしくはそれに對する詩人の感觸を、直接にまた單純に表現するのとはちがつてゐるので、それは一つは、詩の形とシナのことばの性質とにより、一つは、次にいはうとする詩人の詩を作る態度によることであらうが、また風物そのものに對する親しみが、日本の歌人よりは薄いところからも、來てゐるようであり、さうして歌人においてその親しみの深いことには、こゝにいつたような事情があるのではあるまいか。艶詩などには花鳥風月が常に用ゐられてはゐるが、それは一種の感傷を誘ふものとしてであつて、戀歌におけるそれとは、(13)とりあつかひかたがちがつてゐる。この點では、世外の風物を翫ぶように考へられてゐながら、人の生活のためにそれをやくだたせるところに意味のあるのと、同じであつて、風物と生活とは、結びつけられてはゐるが、別のものであり、一つにとけあつてはゐない。このちがひは、日本の自然の風物がシナのよりもはるかに變化に富んでゐて、而も人に親しまれ易い、といふちがひからも來てゐるが、生活のちがひにもそのもとづくところがあらう。
 なほ日本の歌とシナの詩とでは、作者の態度にもちがひがある。詩はそれを讀むものもまた特殊の知識人であるから、作者はおのづから詩によつてその知識を示しその知識をはたらかせる技倆を示すことになるので、故事を多く用ゐるのも、一つはそのためである。從つてまた事に託し物をかりることによつてその情思を表現するので、單純に率直に情思を情思としていひあらはす日本の歌とは、ちがつた趣がそこに生ずる。これには、上にいつたようなシナのことばの性質がかういふ表現のしかたにつごうがよい、といふ事情もあらうし、おのが情思をそのまゝに、あからさまに、いひあらはすことを好まない一つの生活態度から來てゐるところもあらうが、こゝにもまたその理由があるらしい。ところが、日本の歌はそれとは同じでない。おしなべていふと、歌を作るものも讀むものも、廣い意義での教養のある社會に屬するものではあつたが、短歌においてはさま/”\の知識をそれによつて示すだけのことばの數が無いのと、戀歌としては率直にその情思をいひあらはすところにその本質があるのと、また讀むものはもとより作るものとても、特殊の知識をもつてゐるには限らず、歌をよむことはむしろ教養ある社會のその教養の一つであつたのと、これらの事情のためにかうなつたのであらう。もとより歌によいのとよくないのとのけぢめはあるので、そこに作るものの技倆が示されはするが、それは、おもにいひあらはしかた、上にいつた「しらべ」、においてであつて、知識(14)による修飾においてではなかつた。ヘイアン朝において歌あはせといふことの行はれるようになつたのも、またこれらの事情のためであつて、これはシナの詩には無いことである。
 このことは、シナではいろ/\な名をもつてゐる長篇の詩が作られてゐるのに、歌では、ヘイアン朝からは長歌がほとんど作られなくなつたこととも、關係があらう。長篇の詩が作られたのは、作者の知識と技倆とを示すところに、少くともその半ばの意味があつたが、歌をよむにはさういふ態度の無かつたことを、考ふべきである。萬葉の長歌のできたことの一つの由來は、民謠もしくはそれから導き出された謠ひものにあつたらうが、それよりもたいせつなのは、シナに長篇の詩のあることを知つてそれをまねようとしたところにある、といふことである。しかし歌の本質が上にいつたようなものであり、さうしてそれが日本のことばの性質と深い關係があるとすれば、短歌の形ができて來たその方向をさらに進めて長歌のあのような形がきまつて來たのは、自然のことであらうが、その形は實は長歌としてはふさはしくないものであり、吟ずるものではなくして文字に書くだけのものとなつたのも、そのためであらう。短歌の形は五音の句と七音のとがかたみがはりにくりかへされるのであるが、長歌では五七の二句を一くさりとしたものが限りなく、またその間に意義の上の句ぎりも段落もなく、くりかへされる、といふべきであつて、そのために全體が平板な單調なものとなり、吟ずるとすれば、すぐ厭いてしまふ。文字に書くのは、詩をまねたからであるが、一つはこゝにも理由がある。長歌が吟ずるものとして作られたならば、あのような形のものとはならず、別の形をとつてあらはれたであらうに、さうならなかつたのは、多數の人に吟じてきかせるといふ、社會生活の上のならはしが、そのころの教養ある社會には無かつたからであるらしい。かう考へると、あのような長歌の作られたのは、かういふことについてもシナのを學ばうとしたといふ、シナに對する日本の文化上の地位と、日本人の教養のある社會の生活状態とから、來たことであると共に、その根柢には日本のことばとシナのことばとのちがひがある。が、ともかくも長歌がかういふ形のものであるために、それはシナの詩人と似たような態度で、作者の知識と技倆とを示すために用ゐられただけであり、また一時のはやりとして作られたのみであつて、後にはそれがすたれるようになつたのである。文人の知識と技倆とを示すには、シナの詩そのものをそのまゝまねて作る方に向つたのである。長歌の作られたことには、日本でも、或は日本のことばでも、かういふものを作ることができる、といふ一つの誇りがあつたかと思はれ、さうしてそれはいろ/\の方面にあらはれてゐるそのころの日本人の一つの氣魄から出たことであつたかとも考へられるが、よしさうであつたにしても、長歌においては、それはこゝにいつたような事情のために、すたれて來たのである。
 歌はヘイアン朝より後の歴史においても、また詩とはちがつたところがある。口でいふことばが時代によつて變つて來たのみならず、いはゆる散文のことばにもいくらかづつのちがひが次第にできて來たにかゝはらず、歌にはいつまでも古典時代のが用ゐられ、その形にもまた變りが無かつたので、このことは詩においてもほゞ同じであるが、婚姻のならはしや家族生活のありさまが全くちがつてゐる後世にも、題詠としてむかしながらの戀歌の作られたことが、その内容において、また武士にもみぶんの低いものにも歌を作るものがあるようになつたことが、その社會的のはたらきにおいて、日本の歌のみのことである。これは古典の知識をもつことが一つの教養となつてゐたため、またその教養の行はれる範圍が次第に廣くなつて來たため、或は時勢の變りにつれて教養の無かつた社會のものがさういふ教(16)養を得ようとして來たため、であらうが、それには生活のしかた文化のありさまがちがつて來たために、却つて上代の文化、上代人の生活、になつかしみが生じた、といふ事情もあらう。歌を作ることが學問のようになつたのも、このことと關係がある。ところが、これらはシナの詩においては無かつたことである。日本ではむかし現實にあつたヘイアン朝時代の文化が、後世のあこがれのめあてとなつてゐたのに、シナではさういふ特殊の時代をなつかしむことが少く、古をたうとぶとはいはれてゐるが、その古は、現實にあつたのではない、思想の上にのみある、太古の時代のことである。こゝに斷えず歴史的變化の行はれて來た日本と、それが甚だ少かつた、從つて文化の固定してゐた、シナとの、ちがひがあるので、歌と詩とについてこゝにいつたようなちがひのあることにも、それがあらはれてゐる。また歌から連歌が生じ、連歌から俳諧の連句が生じ、その俳諧のから發句だけが獨立して作られるようになつたこと、その連歌が武士の社會に、俳諧が武士や民衆の間に、行はれ、從つてまたその指導を職業とし、それによつて衣食する連歌師や俳諧師の生じたのも、日本に特殊のことである。連歌の生じたのは、もとは、短歌を口とく唱和するならはしから出たことであり、それが廣く行はれるようになつたのは、文化の武士化民衆化に伴ふことであつて、それもまたシナとは全くちがつてゐる日本の歴史、日本の文化、のすがたである。シナにも唐代から「詞」が作られるようになつたが、これは詩から出たものではなく、またその作者が廣い世間にあつたのでもない。シナでは、文辭のことはいつまでも少數の知識人に占められてゐた。或はまたヘイアン朝のむかしにおいて、同じ時代のシナにはまだ無かつた長篇の物語が作られ、その物語に、やはりシナには例の無い、こまかな心理描寫が試みられてゐるのも、歌によつて導かれたところが多いように考へられるが、これもまたシナの詩においては無かつたことである。
(17) さて、これまで見て來たことは、おもに歌と詩との形についてのことであつて、それに表現せられてゐることがら、即ちその内容、には多くふれなかつたが、それを考へることになると、二つのもののもつ特殊性、またそれが日本人の生活とシナ人のとのちがひから來てゐることが、一しほ明かになるであらう。が、こゝにいつたことだけからでも、日本の歌とシナの詩とのちがひと、その由來とは、知られたはずである。しかし、かう考へられるにしても、歌と詩とには共通性が無いではない。それは二つとも、われ/\が現代的意義で「詩」といつてゐるもの、特に廣い意義での抒情的の「詩」、として見られるからである。上に二つが同じ性質のものとして見られるかどうかについては考へねばならぬことがあるといつたのは、その特殊性についてであつて、一おうさう見ておくといつたのは、この共通性のためである。さうしてそこに、かういふ歌と詩とを比較することのできる根據がある。
 ところが、われ/\のいふ意義での「詩」の一體でありながら、日本にもシナにも無いといふ點では共通であるが、それの無い理由はちがつてゐる、と考へられるものがあるので、それは敍事詩のことである。「詩」としての何等かの形を具へ、さうして朗吟するように作られた敍事詩は、どちらにも無かつた。しかし日本にそれが作られなかつたのは、上代においては、多くの民族の敍事詩の主題となつてゐる戰爭が、ほとんど無かつたといつてもよいほどであり、從つてまた戰爭の中心人物としての英雄が無かつたからであるらしいが、戰爭の無かつたのは、民族の内部に多くの部族が對立してゐるようなことがなく、また島國である地理的事情から、他の民族との接觸も無かつたからであらう。よし戰爭の行はれることがあつたにしても、それは民族的のもの、全民族の感情を昂奮させるような性質のものではなく、從つてまたそれによつて民族的英雄が現はれるようなこともなかつた。戰爭と英雄とが敍事詩の主題と(18)なるのは、それがかういふ性質をもつてゐるばあひにおいてであり、またそれがためであつたと考へられる。多くの民族の敍事詩にはその主題としての戰爭またはその英雄に女性のかゝはるばあひが多く、また神のはたらくのも常のことであるが、これらもまた部族または民族の運命にあづかるものとしてである。ところが、部族の對立も他の民族との衝突も無かつた日本の上代では、かういふことも思ひうかべられなかつたのである。人の形を具へた神の無かつた日本では、宗教思想の上からもまた、神のはたらくことが想像せられなかつた。なほ上代の日本人は日常の生活におけるかれらみづからの戀を歌ひまた歌ひかはし、それについてわかものたちの踊り興ずることは多かつたが、人々のつどふつどひにも、他人のものがたりをきいて喜ぶといふならはしは少かつたようである。さういふものがたりの主人公となるような民族的英雄が無かつたからでもあらうが、藝術的の表現において一般に抒情的な傾向のあつた日本人には、その點からもまたかうなつたのではなからうか。民間説話の如きものは語り傳へられたが、それは個人の間のことであり、またそれは「詩」としての形をもつてゐるものではなかつた。
 これは遠い上代のありさまであるが、文化が發達してその中心が宮廷とそのまはりの貴族とにあるようになつたナラ朝ヘイアン朝のころには、その宮廷と貴族とは戰爭には縁が遠く、從つて敍事詩がさういふところで作られはしなかつた。また武士といふものが形づくられ、はな/”\しい戰爭が行はれて來た後世では、例へば琵琶法師が「平家」を語るといふようなことがあつても、それは「詩」としての形を具へたものではなかつた。このころになると、日本のことばの發達の方向と、吟ずるものとしての歌の形と性質とが、すでにきまつてゐて、敍事詩のために新しい「詩」の形を作ることが考へられなかつたのと、戰爭の物がたりは書物として文字に書かれることになつてゐたのとで、や(19)はり敍事詩は作られなかつたのであらう。廣く見わたしても、人々の集まつてゐるところで朗吟せられるものとしての敍事詩の作られたのは、文字に書かれる文學のまだ發達しなかつた時代のことであるらしいことが、考へあはされよう。
 ところが、シナにはむかしから戰爭が斷えまなく行はれた。しかしそれは君主のしわざであつて、民衆のではなかつた。さうして文字のたうとまれたシナでは、君主のしわざは文字に書かれるのが常であつた。從つてシナでも、敍事詩は作られなかつたのではあるまいか。王なり諸侯なりの宮廷では、歌舞の奏せられることはあり、樂部のまうけもあつたらしいが、敍事詩の朗吟せられたようなあとかたは見えない。なほ政治的權力と結びついてゐた知識人の思想には、戰爭をよくないものと考へ、女性がおもてだつたことにあづかるのを道徳的に非難する傾向が強かつたので、そこにもまた敍事詩の作られなかつた一つの事情があつたらう。日本の文學史上の事實とシナのそれとを對照してみると、かういふ例のあることにも氣がつくので、そこからもまた文學と民族生活との關係がうかゞはれるであらう。
 歌と詩とについて語りすぎたようであるが、これは一つの例である。文學の他の方面においても同じ問題はいろいろある。例へば、上にも一こといつておいたごとく、同じ時代のシナにはまだ無かつたにかゝはらず、早くヘイアン朝のむかしにおいてあれほどのものがあらはれたいはゆる「物語」、武士のはたらきがはな/”\しくなつた時代に作られた戰記物語、或はまた舞臺藝術としての能の詞章である謠曲、語りものとしてのエド時代の淨瑠璃など、シナには全くたぐひの無いもの、またはいくらかの似たところがあつても、その性質のちがふものが、日本にあり、それと共に、日本にはできなかつた特殊の構造をもつてゐる劇曲のシナで作られたこと、などを對照して、そこにどういふ(20)共通性と特殊性とがあるか、またそれが二つの民族の生活、文化、およびその歴史的發達もしくは變遷、また文學そのものの歴史、とどういふ關係をもつてゐるかが、考へらるべきであらう。ところで、かういふことが考へられると、それによつて、日本の文學がどれだけ、またどういふ點で、シナのから影響をうけたか、またうけたばあひに、そのうけかたのどういふものであつたかも、また從つて知り得られるであらう。これまで世に行はれてゐる説では、何等かの點でシナの文學の影響があるにかゝはらず、日本で獨自に發生したように考へられてゐるもの、またはその反對に、日本で獨自に發生し成長したものをシナの影響をうけたもののごとくいはれてゐるものが、ありはしまいかと思はれるが、それもまたかういふ意義での比較研究によつて、正しく解釋せられるであらう。シナの詩をあれだけ知つてゐた日本人は、それを日本のことばに翻譯しさうなものであつたのに、それがせられなかつた、といふようなことも、またかういふ研究によつてその理由が知られるであらう。
 これまで考へて來たことは、シナの文學との比較であり對照であるが、これは比較研究の一部分であり、從つてまたその一例である。ヨウロッパの諸民族のそれ/\の文學、またそれらを含む全體としてのヨウロッパの文學、との比較研究もまた同じようにしてせられるであらう。これについてもこれまで試みられたことが全く無いではない。日本の武士とヨウロッパの騎士との比較といふようなことも、その一つであるが、しかしこれも、武士を描いた文學と騎士を寫した文學との、文學としての、對照ではなかつたようである。文學の比較がおのづから武士の生活と騎士のとの比較を含むことにはならうが、文學としてはそのほかにもいろ/\の問題がある。が、それについての研究はまだ試みられてゐないのではあるまいか。またひろく考へると、或は上に考へたことに關聯していふと、文學の基本で(21)あることばのちがひがいかに文學の、特に「詩」の、ちがひとなつてあらはれてゐるか、といふようなことは、大きな問題であるにかゝはらず、まだよく説明せられてゐないのではなからうか。さてかういふ比較研究を、シナの文學と、インドの文學と、西南アジヤの諸民族の文學と、またヨウロッパのむかしから今までの諸民族のそれと、にわたつて、こまかく行つたならば、その間における日本のこれまでの文學の特殊性、それが成りたつた事情、その價値、そのすぐれたところと足らぬところと、竝にその由來とが、そこから知られて來るであらう。さうして、これから後の文學の進んでゆくべき方向も、またその間におのづから定められるであらう。日本の文學がヨウロッパの文學から學ばねばならぬところがあるにしても、いかなる點がいかに學び得られるか、といふことも、またかういふ比較研究によつてわかつて來るであらう。現代文化は一つの世界文化であるにしても、それには民族による特殊性が含まれてゐる。言語、宗教、思想、感情の動きかた、ものごとの見かた考へかた、などはもとよりのこと、日常の生活のあらゆる面にそれがあり、さうしてそれが文學に表現せられてゐる。さうしてそこに、一つの民族の文學が他の民族のから學び得られることの制約がある。民族性とても固定してゐるものではなく、常に變化してゆくものではあるが、その變化には、おのが民族の歴史とそれを含む世界の歴史とによつて、おのづから形づくられてゆく方向がある。さうしてそれは、われ/\みづからの日本民族においても、また同じである。民族の生活は歴史的に動いてゆき、歴史は生活において展開してゆく。さうしてそれによつて民族生活の特殊性が形づくられてゆき、それが文學にあらはれてゆくのである。しかしその根柢には、人として人類としての生活において、文學としての表現の要求があつて、そこに文學の世界的共通性または普遍性が成りたつと共に、民族生活、從つて人間性のはたらき、の深さと廣さと、また(22)その文學的表現のしかたのちがひとによつて、民族の文學において世界的意義の多いのと少いのとのけぢめがある。さうしてそれを考へることが文學の比較研究の意義である。これから後の日本の文學を世界の文學としての高い意義と大きいはたらきとをもつようにするには、このような研究をすることが、そのための一つの方法ではあるまいか。
 
(23)     第二 愚管抄の著作年代についての疑
 
 一種の歴史觀として、また承久のころの政治上の情勢に對する一家の批評として、愚管抄の所説がわが國の思想史上注意すべきものであることには、何人も異存はあるまいが、その著者と著作の年代とについては、不明の點があつた。著者については先年三浦周行氏の新研究が史林(第六卷第一號)誌上で發表せられたが、それは、結論に於いては比古婆衣に見える伴信友の説と同樣、慈鎭和尚即ち慈圓であるといふことであつた。余もまたかねてから信友の説に同意であつたので、三浦氏の論を讀んだ時、この見解の一層確かめられたのを喜んだ。ところが著作の年代については、余に早くから有つてゐた一つの疑問があるから、こゝにそれを述べて識者の教を請ひたいと思ふ。
 問題の焦點は、承久の亂の前か後か、といふ一事にある。さうしてその何れであるかによつて、著作の動機や目的やまたは著者の意見の由來に對する解釋が違つて來なければならぬ。そこで便宜上、先づ余の疑問を約言しておくが、余はそれを承久變亂後の著作ではあるまいかと思ふ。さうして著者はそれを變亂前に書いた如く裝つたのではあるまいかと思ふ。その理由は極めて簡單であつて、要するに書物の内容が變亂前に書いたものとしてはふさはしくないやうに思はれる、といふだけのことである。
 勿論、卷首の「漢家年代」の終のところには「承久二年注之」とあり、卷二皇帝年代紀の順徳院の條の末に「承久二年十月ノ比記之了」と見え、また卷六の終のところにも「コトシ承久マデノ世ノ政」云々とある。それから卷三に(24)は「神武天皇ノ以後、百王トキコユル、既ニ殘リスクナク八十四代ニモナリニケル、」とあり、卷七には「百王ヲ數フルニ今十六代ノコレリ」などとあるが、八十四代は皇帝年代記によつてみても順徳院であつて、現に卷五卷六にはこの天皇のことを「當今」と書いてある。だから、これだけで見ると變亂前の著作であることは明白のやうである。從つて皇帝年代記に順徳院の在位を十一年と記し、仲恭天皇および後堀河院のことを何れも今上としてあるのは、皇帝年代記といふこの卷の性質上、一旦この事の作り上げられた後、次ぎ/\に書きたして來たのであり、承久の亂をも簡單に敍し貞應三年の義時死去のことまで書いてあるのも、やはり同樣に解すべきものらしく見える。(順徳院の御稱號は建長元年になつて定められたのであるから、年代記に順徳とあるのは後人の筆であつて、もとの本にはやはり今上と書いてあつたのではあるまいか。なほ仲恭天皇をさしてゐる「今上」の條の最後に「順徳院太子」とあるのは、その順序がこの年代記の一般の例とは違つてゐる。立坊の次に某院第何子とあり、母は最後に書くのが通例のやうであるが、これは母の次にかう書いてある。これも後人の加筆があつたため、傳寫の際に順序が狂つたのであるまいか。なほ後鳥羽院の御稱號を用ゐてあるのも後人のしわざであらう。この御稱號は仁治三年に定められたものだからである。しかしこの院のことを原文に何と書いてあつたかは、わかりかねる。)
 しかし更に考へて見ると、こゝに既に疑問が生ずる。皇帝年代記に於いて仲恭天皇を今上としてあるが、天皇は四月二十日に受禅せられ、まもなく騷亂が起つて七月九日には位を去られたのであるから、その間に落ちついてかういふ補足をする餘裕がこの書の著者にあつたかどうか、疑はしくないでもない。もつともこれは、その餘裕があつたといへばそれまでである、と一應は考へられる。しかし上にいつた「承久二年十月ノ比記之了」の「ノ比」は程經た後(25)から追記したものならば支障が無からうが、實際この年の十月に書いてその時すぐに注記したものとしては、少しく異樣ではあるまいか。(文章の前後の續きから見て、この一句だけが後から補はれたものとすることはできない。)また「コトシ承久マデノ世ノ政」云々とある「コトシ承久」もやはり異樣に感ぜられるし、卷七に「神武ヨリ承久マデノ事、詮ヲトリツヽ心ニウカブニシタガヒテカキツケ侍リヌ、」といふ「承久マデ」も、その承久の二年に書いたものとしては妥當ならぬ文字のやうに見える。「コトシ」といふからには承久の何年であるかを明記しなくては意義が通じないし、「神武ヨリ承久マデ」も、承久が過去になつた時に書いたとすれば、何の障りも無く了解せられる。もつともかういふ書き方が慈圓の時代に普通な習慣であつたならば論は無いが、果してさうであつたかどうか、少しく首が傾けられる。なほ考ふべきは、皇帝年代記の終の一節のはじめに「此皇代年代ノ外ニ神武ヨリ去々年ニ至ルマデ世ノ移リ行道理ノ一通リヲ書リ、是ヲ能々心得テミン人ハ見ラルベキ也、」とあることである。この一節は皇帝年代記の結語として、特に卷七の首にも反覆言を費してゐるので知られる如く、著者がよほど氣にかけてゐたらしい、假名で書いた理由の説明として必要なものであるのみならず、その結末の「カク心得テ是ヨリ次々ノ卷共ヲバ此時代時代引合セテ見ルベキ也」が、卷三の首の「皇代年代記アレバ、ヒキアハセツヽミテ、フカクコヽロウベキナリ、」に照應するものであることから考へても、卷三以下の述作と同時に書かれたものであることが推知せられる。(この書はかなりの長篇であるから、それを書き了へるまでには短かからぬ月日が費されたであらうし、從つてまた一卷のうちでも時を距てて筆が加へられたでもあらうが、こゝでいふのは、全體がまとめ上げられるまでの間にこの一節も記された、いひかへると後からの補入ではない、といふ意義である。)ところが、それに「去々年」までのことを書い(26)たとあるのが注意を要するのである。この「世ノ移リ行道理ノ一通リ」を書いたものは即ち卷三以下であらうが、本文を通覽すると、それは承久元年の事件までは明白に記されてゐる。卷六の順徳院の條に、頼經の鎌倉に下つたこと、頼茂の事變、忠綱の解官のこと、まで記してあるが、それは何れも承久元年の事件である。ところがこの年が「去々年」であるとするならば、この書の書かれたのは承久二年ではないはずであつて、そこに二年に書いたといふこととの矛盾がある。それと共に、上記の「去々年」には「承久二年ナリ」といふ傍書があるが、それがもし著者自身の筆であるならば、承久元年の記事で終つてゐることとも、また承久二年に書いたといふこととも、齟齬してゐる。それでこの傍書に重きを置いて考へるならば、表面に現はれた著しい事件の無かつた承久二年のことが書いてなくとも、大勢に對する觀察に於いてはこの年をも含めて書いたつもりであつたとも解し得られようし、また承久三年はかの大變亂のあつた年であるから、後から追想する場合に、その前年、即ち承久二年、以前が一つの時期として思ひ浮かべられるのは極めて自然のことであるから、著者はかういふ心理から、特殊の事件については元年までのことを書いておきながら、二年までのことを記したやうに思つたのではなからうか。もしかういふ推測ができるならば、この書を承久二年に書いたといふのは事實ではなく、著作の年は貞應元年にならう。もしまた傍書が著者自身のでないならば、それにはさしたる價値があるまいから、かういふ推測をするには及ばず、「去々年」を元年のことと見て、著作の年を承久三年とすることもできよう。たゞこの場合に戰亂の前か後かが問題にならうが、その何れであるかを判定することのできるやうな材料は、これまで考へて來た如き外面的の記載の上には求められない。のみならず根本的にいふと、傍書が著者のであるかないかが、今日からはわからぬことであるから、それを根據として著作の年代をきめることは、(27)そも/\できないはずである。そこでそれを考へるのは、書物の内容の上に於いてするより外は無いことになる。(或は、「去々年」云々といつてある一節は、この書の全體ができ上つてから或る年月を經た後に書き加へられたのではなからうか、といふ疑を抱くものがあるかも知れぬが、他に明證があれば格別、この一節そのものに於いては、さういふ疑を容れるべき理由は少しも無い。またこの一節の前に、承久三年四月尊快の天台座主補任から貞應三年六月北條義時死去のことまで書いてあるところがあるから、それとこの文の書かれた年との間に關係があるやうに推測をしたものもあるが、それもむつかしからう。本來、この承久三年四月云々からはじまる一段の記事は、仲恭天皇及び後堀河院をそれ/\今上として擧げてある年代記の本文とは離して見なければならぬので、それは、承久の亂は仲恭天皇の時のこと、三上皇配流以下は後堀河院の時のことであるにかゝはらず、それ/\の天皇の條下には記されず、別に一まとめにしてこゝに書いてあるのは、この記事が年代記のこの部分の既に書かれてから或る時期を經過した後に補入せられたからだとしなければならぬからである。またこの記事だけは一時に書かれたものであつて、文中「今年天下有内亂」とある「今年」は最初に承久三年と書き出したのをうけて「此ノ年」といふ意義に用ゐたもの、「去年ノ春御出家」云々の「去年」は事件のあつた年の前年といふことであり、何れもこの記事の書かれた時とは關係のない文字である。これは、この記事が全體として順序立つてをり、まとまつた書き方になつてゐることからも、また年代記とは離れたものであることからも、疑は無からう。なほその前の「貞應、二年、」云々の一行もこれと同時に補入せられたものかと思はれる。これは元仁改元、即ち貞應三年十一月二十日、の後に書かれたはずであるが、この記事の終は同じ年の六月十九日の事件であるから、その間に大なる隔りは無い。)
(28) そこで、書物の内容であるが、愚管抄の著作年代について余の疑を抱いてゐる重要な點は、實はこゝにある。愚管抄全體の精神がどこにあるかは且らく措き、作者が當時の政治上の情勢を念頭に置いて書いたに違ひないことで最も力をこめて説いてゐるのは、第一に、君主が近臣を寵用しまた有力な臣下を疑ひ惡むことを非とする點であつて、後三條院の頼通に對する態度を所々で難じてゐるのもこの故である(卷四卷七など)。第二には君主の威勢のみで世は治まらないといふこと、君主が自己の權を張らうとし思ふまゝに政をしようとするのはよくないといふことであつて、これに關しては鎌足や後の攝?の家の功績を説いてゐる(卷三卷七など)。さうしてこれらを一方に於いて武家の功勞を讃美し武家は無くてはならぬものであると力説してゐることに參照すると、著者が武家を抑へようとする公家の態度に賛成してゐないことは明かである。だから卷七に於いては、武家を惡むことの非を強いことばで極論してゐる。さうして、君主は攝?と心を合せ、また當時の情勢に於いては武家とも一體になつて、政をすべきであり、頼經が將軍となつたのは、恰も攝?と武家とを結合したものであるから、いはゆる「文武兼行」の理想の實現せられる時が今正に來たのであるとし、その由來を伊勢大神宮と鹿嶋大明神との、また八幡大菩薩と春日大明神との、約束に歸したのである。さてこれらの意見は、後鳥羽上皇の御心事につき憂慮するところあつての言として解釋せられもしようから、これは承久三年四月より前に書かれたものとしても支障が無い。(慈圓が時事を憂ひてゐたことは、大日本史料四編ノ十五、承久元年六月及び二年の條に採録せられてゐるこの人の書簡にも見えてゐる。但しこの書状が承久二年のものであるかどうかは明かでない。)しかし基經の廢立を是認もしくは賞讃して反覆それを説き(卷三卷七)、清盛や義仲の後白河法皇に對する態度についてすら「武士ガ心ノ底ニ世ヲシロシメス君ヲアラタメマイラスルニテアル(29)也」といひ(卷七)、また崇唆天皇弘文天皇の御最期さへ道理の現はれとして見てゐるのが(卷一卷三)、もし單なる史論でなく上皇の御運命を胸に描いての言であるならば(さうしてそれは卷七の記述から明かに推測し待られるやうである)、よしや上皇の畫策の失敗が豫想せられてゐたにせよ、事變前に於いて果してそこまで明かに見とほし得られたかどうか、疑はれる。これとても強ひて事變前の筆でないと斷言するわけにはゆかぬかも知れぬが、假に著者に先見の明があつたにしても、それは上皇の計畫がおぼろげにでも著者に知られるほど具體化してからでなくてはならず、さうしてそれは事變の起つたより甚しく時を隔てた前のことではあるまいから、その時から事變の起るまでの短日月の間にこの書が述作せられたとは信じ難いやうであつて、こゝにも疑問が生ずるのである。しかし、それは且らく措くとしても、卷六の順徳天皇の條の終に「コノサキザマノ事はヨキ物語ニテ目モサメヌべク侍ルメリ〔コノ〜三字右○〕、殘ル事ノヲヽサ、カキツクサヌ恨ハ力及バズ、サノミハイカヾ書盡スベキナレバ、是ニテ人ノ物語ヲモ聞加エン人ハ、其マコトソラ事モ心ヘヌベシ、……サテ、コノ後ノヤウヲ見ルニ、世ノナリマカランズルサマ、コノ二十年ヨリコノカタ、コトシ承久マデノ世ノ政、人ノ心バヘノ、ムクイユカンズル程ノ事ノアヤウサ、申カギリナシ、コマカニハ未來記ナレバ、申アテタランモ誠シカラズ〔コマ〜右○〕、八幡大菩薩ノ照見ニアラハレマカランズラン、ソノヤウヲ又カキツケツヽ、心アラン人ハシルシクハヘラルベキ也、」とあるのは、果して承久の變亂前に書き得られたことであらうか。事變の結果が豫め透察せられたにしても、さういふ豫想とそれに對する憂慮とだけで、かういふいひ方をすることができたであらうか。特に傍點を施して置いた部分についてその態度と語調とをよく味つてみなければならぬ。ところがこの一節は卷三以下、即ち「神武ヨリ承久マデ」の史的觀察の結語をなすものであるから、後からの追補と見なすわけにはゆ(30)くまい。さすれば、この一事だけでも、愚管抄の著作が承久變亂の後であることが推測せられはすまいか。(卷七に「サテモ/\コノ世ノカハリノ繼目ニ生レアイテ、世ノ中ノ目ノマヘニカハリヌル事ヲ、カクケザ/\トミ侍ル事コソ、世ニアハレニモアサマシクモ、ヲボユレ、」とあるのも、また承久の事變を目の前に見たものでなくてはいひ得られないことではあるまいか、即ち漠然たる時勢の變化といふやうなことについてではなく、強く人の心を刺衝した重大なる事件に面接しての感慨ではあるまいか、と思はれるが、この文を承けた數行の文字の意義が明かにわかりかねるから、これはしばらく疑問としておく。)
 さらにこの事の精神から考へて見る。愚管抄は國初からの皇室の地位の變遷、政權の推移、竝に王法と佛法との關係、などを歴史的に觀察したものであるから、その根本の意圖は批評にある。政治上の經綸を説いたものでもなく時務策を講じたものでもない。勿論、上に述べたところでも知られる如く、時事を念頭に置いて古人の批評をしたところは所々にあり、また卷七の一部分では、皇室が如何に當代に處せらるべきかを明らさまに説いてもゐる。のみならず、述作の主旨が今日の學者の如く單なる學問上の問題として歴史を講ずるのでもなく、また故事を故事として詮索しようとするのでもなく、全體が慨するところあつて書かれたものには違ひない。しかしその實現を目前の政治の上に期待する時務策としてこの書のすべてを見ることは困難であらう。それは、さういふ性質の文字が極めて一小部分を占めてゐるに過ぎないことからも知られるのみならず、著者の態度からもまた推測せられる。當時の状態に於いて何等かの時務策を立てるならば、それは當局者に對する直接の進言もしくは獻策として提出せられねばならぬのに、この書は著者の名をすら明かにせず、故らに自己を三人稱によつて記してゐるではないか。だから、著者の思想を思(31)想として後日に傳へようとするのがこの書の述作の本意であつたらしく、時事に直接の關係のあることについてですら卷七に「コレヲコノ人々ヲトナシクヲハシマサンヲリ御覽ゼヨカシ」といつてゐるのでも、それが知られる。卷六にも「後ノ人ノ能々ツ、シミテ世ヲ治メ、……佛法王法ヲ守リハテンコトノ、先カギリナキ利生ノ本意、佛神ノ冥志ニテ侍ルベケレバ、ソレヲ詮ニテ書ヲキ侍ル也、」とある。また皇帝年代記の終に「後見之人此趣ニテ可事續也」といひ、上にも引いた如く卷六の終に「ソノヤウヲ又カキツケツヽ心アラン人ハシルシクハヘラルベキ也」といつてあるのも、書物を書物として後世に傳へるつもりだからである。ところが、その書物に現はれてゐる根本思想は、すべての歴史的事實を道理の現はれたものとして正當視することである。だから著者の用意は、與へられたる事實を見、それによつてその事實を是認する理論を案出するところにある。頼經の東下を春日大明神と八幡大菩薩との約束の故とし、文武兼行の理想が實現せられるのだといふのも、實朝の死といふ偶然の事變の結果として生じた頼經の東下が、やはり偶然の事實として與へられたからである。この事實の發生しない前に、かういふ考は起り得なかつたのである。これはこのころの思想家の一般の傾向ではあるが、この書の著者は最もよくそれを代表してゐるといつてよからう。さすれば、上に述べた如く、廢立を行つた臣下の行爲を是認し、主上を幽閉した武士の態度を正當視するに力を用ゐてゐる著者の腦裡に、もし何等かの眼前の事實が潜んでゐたとするならば、それは即ち承久三年の大變亂の結果として現はれたことではなかつたらうか。直言すれば、この事實を正當視する理論を過去の歴史から歸納しようとしたのが著者の主意ではなかつたらうか。全體にこの書の考へかたは、事の成敗によつてその事に當つたものの功過を定めるところにあることを、注意しなくてはならぬ。だから、余はかく觀察することが必しも不當ではなく、また上に述(32)べた疑問はかう考へて始めて氷解し得られるのではなからうかと思ふ。勿論、かういふ考へ方なり大體の意見なりは、變亂前から漠然著者の有つてゐたところでもあらうが、それがこの書の如き明かな形をとつたのは、變亂そのことが事實として現はれたからではなからうか。著者はまた變亂に先だつて憂慮するところがあり、時に處するの道を講じたこともあらう。前に述べたこの人の書状はそれを證する。さうしてその書状に「大神宮鹿島御約諾ハ道理一〓ニ書進候了」とあるのは、かゝる一種の時務策を含んでゐるものかも知れず、またこの書の卷七の或る部分はそれを(多分幾らかの添削を加へて)取り入れたものかも知れぬ。けれどもこの卷とてもその大部分は事變後に筆を執つたものであり、またそれが時務策として述べられたものではなくして後に傳へんがために書かれたものであることは、その歴史觀が卷六以前のと照應するものであり、また卷首に假名書きにする理由を詳説してゐるのを見ても、推測せられはすまいか。皇帝年代記の終のところに「不能外見」と特筆してある「別記」は或はこの卷かも知れないが、それはこゝに時務策として説かれた部分が含まれてゐるからであらう。この卷の大部分は卷六以前と同一論旨を述べたものに過ぎないから、その全體を特別に取扱ふ理由は無ささうである。
 さてかう考へることがもし許されるならば、上に述べた皇帝年代記の結語の「去々年」の傍書を著者の筆と見て考へたことが、内容の上から證明せられ、この書の著作せられたのは貞應元年であることにならう。從つてまた「神武ヨリ承久マデ」云々といふ書き方についての疑問もおのづから解釋せられるので、それは承久が既に過去となつた時に書かれたからのことではあるまいか。さすれば「承久二年注之」としたり、順徳院を當今といつたりしたのは、著者の假託であるので、「承久二年十月ノ比記之了」といひ「コトシ承久」と書いた點に、その破綻が現はれてゐるので(33)はなからうか。後から書いたからこそ、不用意の間に「ノ比」といふやうな語が出て來たのであり、また「コトシ」と「承久」としつくり一致しない文字がつなぎ合はされたのであらう。さうして特に承久の二字が目標とせられたのは、三年の大變亂によつてこの元號に特殊の意義が生じたためであつて、かういふいひかたそのものが即ち變亂後のことばつきではあるまいか。かう考へて來ると、皇帝年代記の仲恭天皇及び後堀河院をそれ/\今上としてあるのも、或は後から書き足された如く裝つて初めから書いてあつたものであるかも知れぬ。さうして、或る場合には承久二年に書いた如く裝ひながら、或る場合には承久二年を去々年として、その年までのことを述べたやうにいつてゐるのは、破綻の最も大なるものである。これは著者自身がこと/”\しい假面を被てゐながら、その下からほんとうの顔を出してゐるのと同樣であつて、假託は到底滿足にしとほされるものでないことを示してゐる。
 然らば何故にこんな假託をしたのであらうか。著者自身が既に假面をつけてゐるとすれば、それだけでも、この著者がかういふ假託をするに躊躇しない人物であつたことが知られるのみならず、この二つの間には何等かの關係があるのではあるまいか。察するに著者は承久の變亂に際會して世の末の感を一層深くしたに違ひない。或はまた事前に懷いてゐた憂慮が幾層か激しい事實となつて現前したことを且つ悲しみ且つ驚いたであらう。ところが著者はその由つて來るところを尋ねて、すべてそれを後鳥羽院の責に歸した。既に後鳥羽院の責であるとすれば、その隱岐遷幸はおのづから正當視せられることになる。しかし著者の如き地位と閲歴とを有するものは、それを公言するには忍びなかつたであらう。失敗者に向つて容赦なき鐵槌を加へることの痛々しさに堪へなかつたであらう。從つてまた精細にその事變を記すにも躊躇せられたであらう。しかし事實は爭ふべからざる事實であり、それに對する意見もまた動か(34)し難き意見である。是に於いてか著者は覆面する必要を感じた。と共に、事變を事變として記すことを避け、筆をその前に絶つたのではあるまいか。もつとも筆を事前に絶つにしても、必しも事前に書いたやうに假託する必要は無いが、さうするのが覆面するには便宜であつたらう。のみならず、それには著者の、いはゞ一種の、趣味さへもはたらいたのではあるまいか。單に覆面してゐるといふばかりでなく、往々三人稱の名によつて自己のことを記したところがあるのは、この書としては甚だ不似合であるが、それには輕い遊戯動機から出てゐるらしい點もあることが、推測せられよう。或は、頼經の東下を遠き昔に決定せられてゐたこととして説いたと同じ考へかたを著者自身の態度に適用し、「未來記」を語るところに興味があつたのだと解せられるかも知れぬ。特に、事の起らんことを憂慮してゐただけに、それが實現せられたのをみては、心の底のどこかに「果せる哉」の感があり、何等かの形でそれを暗示しようとしたといふ事情が無かつたともいはれぬ。「コマカニハ未來記ナレバ申アテタランモ誠シカラズ」とあるのは、一面に於いてこの間の消息をもらしてゐるものとも見られはすまいか。自賛を敢てしてゐるこの著者だけに、かうも推測せられる。なほこの著者は漢代の流行であつて緯書にも多く説いてある歴運の思想を取入れてゐるが、その緯書と密接の關係のある讖文についても何等かの知識を有つてゐたかも知れぬ。さすれば豫言といふやうなことについての興味は或はそこからも來てゐるのではなからうか。しかしこのことは著者の思想の系統について、もつとたしかな研究をしてからでなくては、強くいふことはできぬ。
 以上が余の考説の大要である。たゞこの考は主として余の主觀的感想の上に立つてゐるので、客觀的の證據には乏しい。だから人によつてはおのづから違つた見解もあらう。疑問としてこゝに述べたのはそのためである。
 
(35)     第三 平家物語と源平盛衰記との關係について
 
 平家物語と源平盛衰記とのどちらがもとであるかといふことについては、いろ/\説もあるやうであるが、卑見では、これはさまでむつかしい問題ではなく、全篇を通讀して見れば、大體上、平家が前にできてゐて、盛衰記はそれを増補したものだといふことは、誰でもすぐに氣がつくことのやうに思ふ。わたくしは久しい前から一人でかう決めてゐて少しも疑はなかつたのであるが、世間では却つてそれとは反對の考、即ち盛衰記がもとで平家はそれを簡略したものだといふ説、が有力であるらしく、つい近ごろ公にせられた故藤岡作太郎氏の鎌倉室町時代文學史にもさう説いてある。それで、なほよく考へてみたが、わたくしだけではどうも上記の考を改める必要を認めない。そこで一應卑見の概要を述べて大方の教を受けたいと思ふ。
 平家には多くの異本があつて盛衰記も實はその異本の一つであるのみならず、長門本平家などは盛衰記によほど近いものである。しかし普通本の平家と盛衰記との前後本末がわかればこの問題は大體かたがつくと思ふから、こゝでは主としてこの二つを對照することにする。さて平家は一部のまとまつた物語ではあるが、その内容は多くのきれぎれの物語を列べ立てたものといつてもよいくらゐであるから、その一々の物語は、全體の組みたてや他の部分に大した影響を及ぼさずに、いくらでも改作ができ、ぬきさしもできる。異本の多いのは一つはこれがためである。勿論、いはゆる鎌倉時代から室町時代へかけて、書物の改作が普通のこととして行はれてゐたのであるから、平家の改作が(36)多くの人によつて幾度も試みられたのは、この風習のせいもある。とにかくこんな風のものであるから、よし盛衰記が平家をもととしてそれを増補したものだとしたところが、盛衰記のできてから、そのうちの插話を採つて來て更に平家に附け加へることも自由である。(だから今日に傳へられてゐる普通本の平家が盛衰記以前のものそのまゝだといふのではない。このことはなほ後にいはう。)從つて、この二書の前後を論ずる場合には、單に一つ/\の物語なりその文章なりを比較するだけでは不十分である。もつと大局に眼を著けて、全體の結構、全篇に通じて現はれてゐる作者の態度なり思想なりを、看取しなければならぬ。
 しかし、順序として先づ盛衰記の文章が普通本の平家をもととして、それを増補したと認めねばならぬ二三の例を擧げてみよう。卷一の禿童の事を記した章末に「昔唐に弘農の楊玄玄?が女」云々と書き出して楊貴妃のことを述べた一節があるが、これは前後の文章に何の連絡も無いことがらで、これだけ讀むと何のためにこんなことを書いたのか、その意味が全くわからぬ。ところが平家を見ると、禿童の記事の終に「禁門を出入すと雖も姓名を尋ねらるゝに及ばず、京師の長吏是がために目を側むと見えたり、」といふ句がある。これは長恨歌傳の文を取つて禿童に適用した作者の機轉である。盛衰記の作者はこの句からその出所をたづね、その出所によつて無關係な楊貴妃を持ち出して來たのであらう。平家の文章が無くては盛衰記の文章は決してできるものでない。また卷七の「成親卿流罪の事」の初めの方を見ると、そこに平家のと同じ文章があるが、その前後にそれと不調和であつたり重複したりしてゐて而も平家には見えない文章がある。「近く候ひける武士を召してこれは誰人ぞと問ひ給へば、難波次郎經遠と名のる、」とありながら、その前に「難波次郎經遠を以て」云々といつてあるのは(少くとも文章の上からいふと)不調和であり、(37)「我れ世にありし時附きて仕へしものの一二千人はありけめど」云々といつた後で別に「命に替り身に替らんといひ契りしものどもはこの程にも一二百人はありけんものを」云々といふのは、重複したいひやうである。「この御所へ御幸なりしには一度も御供に闕ることなかりき」といつておきながら、後にまた改めて御幸の際の御遊の話をするのもをかしい。これはどうしても盛衰記の作者が平家をもととしてその前後によけいな文章を附け加へたからのことと見なければならぬ。それから卷十一の「靜憲入道と問答の事」に「唯今もいかなる目にかあはんずらんと、とかく案じ申しけるに、龍の髭を撫で虎の尾をふむ心地せられ、」云々といふ平家とほゞ同じ句の前に「新大納言のやうに引張などせんずるにやと心迷ひしければ」云々と同じ意義の句のあるのも、これと同じ關係である。卷十七の「福原の京の事」「新都の有樣の事」「隋堤の柳の事」と平家卷五の「新都の事」とを比較しても、同じことが知られよう。ここの平家の文章には、方丈記から取つた句があつて、それは最初からあつたものではないらしい(このことは後にいはう)が、ともかくもまとまつた書きやうである。ところが盛衰記ではそれと同じ文句が所々に分割せられて現はれ、その間に平家に見えない文章が織りこまれてゐて、全體を讀んで見ると敍述の順序が甚しく錯雜してゐる。例へば民の煩人の歎といふやうなことや平家の運命を危むといふ意義の句が諸所にくりかへされ、また祇王祇女の話が長々しく中間に插まつてゐて、思想上密接の關係のあるべき前後の章がひどく疎隔せられてゐるのみならず、その連絡が亂れてゐる。こんなしどろもどろな書きざまは、剪截補綴の結果でなくてはできるものでない。「車に乘るべきは馬に乘り」云々の方丈記の文も平家をまねて別のところを取つて來たのである。卷三十一から卷三十二へかけての平家都落の記事も同前であつて、特に卷三十二の卷頭に見える「落ち行く平家の人々或は式津の浪枕八重の潮路に日を經つ(38)つ船に竿さす人もあり」云々の數句は、盛衰記のやうに平氏の一族が京から福原へ落ちてゆくこととしては無意義であるが、平家のやうにその家人どもが主家を離れてめい/\方々へ落ちてゆくこととすれば初めて解せられる。盛衰記のやうなことが初めから書かれるはずが無い。また卷三十五の粟津の合戰の條に「旗の足を見て五十騎三十騎こゝかしこより馳せ集まる、勢多より落ち來るもの二十騎三十騎集まり加はりければ四五百騎に及べり、」とある「勢多より」云々の一句は如何にも調子はづれであるが、これが平家の「是を見つけて京より落つる勢ともなくまた勢田より來る者ともなく馳せ集まりて、程なく三百騎ばかりになり給ひぬ、」から轉化したものだと見れば、なるほどとうなづかれる。なほ擧げると例は多いが、このくらゐでやめておく。これだけで見ても、盛衰記の文(の少くとも一部分)に平家をもととしてそれを補綴したものがあることには、疑があるまい。
 なほ文章についていふと平家には武士のことを敍する場合に往々彼等の間に用ゐられた口語をそのまゝに寫してあるが、盛衰記は概ねそれを文語にしてゐる。例へば平家卷十一の「遠矢の事」の條に「九郎はせいの小き男の色の白かんなるが、むか齒のすこしさし出でて特にしるかんなるぞ、」とあるのを盛衰記(卷四十三)には「面長うして身短く白色にして齒出でたり」と書いてゐる。その他、平家には「あつはれおのれは日本一の剛の者とくんでうすよなうれ〔九字傍点〕とて」云々(卷七「實盛最後の事」)、「ねつたい〔四字傍点〕さらば景季も盗むべかりけるものを」(卷九「宇治川の事」)、「そこをばなつく〔三字傍点〕逃げのび」(卷九「六度合戰の事」、「重衡生捕の事」、)、「いざうれ〔四字傍点〕源太とてかい具してぞ出でたりける」(同卷「二度のかけの事」)、「罪つくりに矢たうなに〔五字傍点〕とぞ制しける」(同卷「逆落の事」)、などといふ語があるのに、盛衰記には一切こんな語を用ゐてない。これらは平家の記者は實際武人から親しく聞いたまゝを記したのに、盛衰記(39)の作者はそれを机の上で書きなほしたと見る外は無い。平家の文をもとにして盛衰記のは作られるが、盛衰記のから平家のは決して出て來ないのである。
 さて同じ事がらを敍してゐる盛衰記の文と平家のとを比較して見ると、どの話を見ても盛衰記の方が平家のよりは煩雜になつてゐる。けれども前に述べたやうな文章の構造の上から特に證明せられるものの外は、單にこれだけのことでは盛衰記のが一々みな必ず平家のを補つたものだと斷定することはできない。その反對の推測もすればせられないことは無い。けれども、すべての物語を通じて同一傾向があり、さうしてその中に平家のが本になつて盛衰記の文ができたと認められるものがあるとすれば、その他の部分についても同樣の推測を加へることは無理なしかたではなからう。
 それから、盛衰記は本筋の物語の連絡が何時も亂れ勝になつてゐるほど絶えずわき路に入つて故事來歴を一々うるさく述べたててゐる。例を擧げると、卷七に丹波の少將に成親の宿所の近いのを知らせまいとして、つい近所なのを行程十三日といつて聞かせた、といふ話があるが、それについて日本の廣さをいふために國の數から陸奧出羽の話をもち出し、それによつて無關係な實方のことをいひ、實方の最後を敍するため縁もゆかりも無い笠島道祖神の縁起まで附け加へたなどは、その最も甚しいものであるが、すべての部分を通じてこの傾向がある。本筋の思想の連絡が妨げられるほどに、また妨げられるやうな體裁で、かう管々しくよけいなことを書き連ねるといふことは、創作者の心理としてはあるまじきことであつて、漢籍、特に佛書、の注釋家が本文に幾らかの關係のありさうな故事來歴を煩はしく引用説明するやうに、既にまとまつてゐる書物をもとにしてそれを補ふ場合に於いて、初めてなし得られること(40)であらうと思ふ。さすれば盛衰記の作られる前に、もつと簡單な本筋だけを書いたもののあつたことが察せられようではないか。さうしてそれは即ち(普通本とひどくは違はない)平家であつたのではあるまいか。
 この關係は大切な卷頭の數章を見てもよくわかる。平家は「祝園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす、奢れるもの久しからず、たゞ春の夜の夢の如し、猛き人も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ、」と先づ全曲の主題を力強い旋律で響き渡らせ、さてしばらく緩かな伴奏で異朝の例を引いた後、「間近くは、六波羅の入道、前の太政大臣、平朝臣清盛公と申しゝ人の有樣、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね、」と調子を高めて堂々と偉大な主人公の名のりを擧げさせる。それから系圖をのべて「殿上の仙籍をぼ未だ許されず」までで皇胤ながら身分の低かつたことをいひ、「然るに」の一轉語を直ちに下して忠盛に至つて初めて昇殿を許されたことを述べるが、それと共にまだ時の殿上人に侮られたといふ話をする。次に「その子どもはみな諸衛の任になる、昇殿せしに殿上の交を人嫌ふに及ばず、」の一句でそれを承けて、身分の一段高まつてゆく子どもの時代に入り、「清盛嫡男たるによりてその跡をつぎ」から主人公發達の歴史を簡單に敍して「我が身太政大臣に至り子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶速なり、九代の先蹤を超え給ふこそめでたけれ、」と結び、出家の後の榮華を附言する。さて「我が身の榮華を極むるのみならず」と轉調を行つて一門子孫の顯榮を敍し、「日本秋津洲は纔に六十六箇國」云々の數行で大きく全體を結ぶ。簡單で、ひきしまつてゐて、調子がよく整つてゐる。ところが盛衰記を見ると、まるで反對である。「未だ殿上の仙籍をば許されず」まではほゞ平家のとほりであるが、それから得長壽院の昔話を長々としだしたので、清盛も忠盛も何處かへ消えてゆく。それからもとへもどつて殿上の闇討になるかと思ふと、またも項羽やら(41)沛公やらが飛び出して來た上に五節の舞の由來の講釋がはじまる。やつとのことで清盛が現はれては來るが、大威徳の法や陀天の法を行つたり化鳥を揃へたりして、道草ばかり食つてゐるから、「平清盛と申しける人の有樣傳へ聞くこそ心も詞も及ばれね」と強くいひ出した當初の氣勢は何時の間にやら失せてしまふ。讀者はこの間に天武天皇の時に唐の天子から崑崙の玉が五つ來たとか、辨才妙音に祈ると財寶が得られるとか、いふやうなことを教へられるが、平家の繁昌についても清盛の發達についても何の感じも起らない。文章としては支離滅裂である。最初からこんな文章の書かれるはずがなからうではないか。これはどうしても平家の文をもとにしてそれを補綴したものとしなくてはならぬが、卷頭のこの調子はずつと盛衰記の全篇を貫いてゐる。
 次には一々の物語の内容に入つて考へてみるに、これにも盛衰記のには平家のがもとになつて、それを潤色したと見なければならぬものが多い。すべてかういふ戰記物は記録などに根據があつたのだらうと思はれる歴史的事實らしいことでも、その多數は作者の想像でその場合の光景なり人物の言動なりを構造するのが例であるが、そのしかたは平家の方が簡單で盛衰記の方が複雜である。平家の方では事實らしく見えることでも盛衰記には傳説的色彩が多く加はつてゐる。さて、どちらも作者の想像から出たものだとすると、單純な事實らしい方が前にできたもので、複雜な傳説的色彩の濃い方はそれをもととして尾鰭をつけたものと見るのが、作者の心理の上から考へても、かういふ場合の一般の例から考へても、自然の解釋法である。例へば平家に敦盛の最期の物語があるが、盛衰記にはその前後に熊谷父子出陣の譚(卷三十五「範頼義經京入の事」の章末)、一の谷に攻めよせる時の同じ父子の對話(卷三十七「熊谷父子城戸口に寄す……る事」の章首)、熊谷等が深夜城中からもれて來る管絃の聲をきくこと(同章末)、戰に臨ん(42)で父子の互ひに助け合ふこと(「平家城戸口を開く……事」の章)など、平家には無い記事が見える。これはいかにも造作の跡が明かであつて盛衰記が平家をもととしてその話を完備させるために附け加へたものと思はれる。或はかう一々に考へるまでもなく、時代の後れるほど事實の傳説化が加はつてゆくといふ漠然たる推測を下しても、盛衰記の記載が平家のよりも後のものであることが察せられようではないか。しかし、これは詳密なものを後に簡略にしたものだと強ひていへばいはれぬことはないかも知れぬ。けれども、文章の構造の上から、平家の記載をもとにして盛衰記の作者がそれを潤色したと見なければならぬ場合がある。例へば前に擧げた成親流謫及び靜憲清盛問答の記載などがそれである。それから、事實譚でない説話と見なすべきものの多數は、明かに平家のから發展して盛衰記のとなつたものである。例へば平家卷五の文覺上人の物語に伊豆の御山に七日參籠といひふらしておいてその間に福原に往復したといふ話があるが、盛衰記(卷十九)では七日入定といふことになつてゐて、その有樣を諸人に拜ませたり、庵室を作つたり、床下にぬけ道をこしらへたりしてゐる。盛衰記のは平家のから發展したものに違ひない。平家卷十一の「遠矢の事」の章末に「しばし白雲と覺しくして虚空に漂ひけるが雲にてはなかりけり、主もなき白旗一流舞ひ下りて源氏の船艫に竿つけの緒のさはる程にぞ見えたりける、」とあるのが、盛衰記ではそれがずつと發展して、源氏方が負色になつたので義經が八幡大菩薩を祈念すると白鳩が二羽飛んで來て義經の旗の上にとまる、するとまた東方から黒雲がたなびいて來てその中から白旗が一流現はれ、義經の旗頭にひらめいて雲と共に去つた、となつてゐる。平家では白旗によつて八幡宮の加護を暗示したのみであるのに、盛衰記では、たゞそれだけでは興が薄いから、義經に祈念をさせ、祈念させるために源氏方の負色を見せたのみならず、白旗から白鳩を産み出させ、白雲から黒雲を現(43)出させ、方角や行くへまでも具體的に見せてゐる。この白旗の下りたことから白鳩の飛んで來たことを作り出したやうに、似たことを重ねて物語を複雜にするのは、他にも例があつて、平家に見えるかの佐々木梶原の宇治川先陣爭ひの物語に、盛衰記が鎌倉に遣した二人の早馬が初めは梶原のが早かつたのに足柄の中山で佐々木のが追ひ越したといふ話を附け加へたのも、同じしかたである。また師長が熱田で琵琶を奏したといふ平家の話をもととして、盛衰記にはその上に宮路山で同じく琵琶を彈いたといふ一段を加へてある。それから、平家に見える高倉天皇と葵の前との話について、盛衰記が葵の前の外に宿禰といふ一人を加へ、平家の浮島が原の段の生月磨墨について、盛衰記が若白毛といふ馬を一頭多くひき出し、また時頼横笛の物語について、横笛の外に苅萱といふ女を擧げてゐるなどは、それらが物語に何の關係も無い名ばかりの人物なり馬なりであることから見ても、後に附け加へたものであることが明かである。その他、平家卷五の「物怪の事」の章に見える青侍の夢の話が、盛衰記では平家よりも細かに敍述してあつたり、かの禿童のこと、重衡の千手の話、那須與一の扇の的の物語、などが盛衰記には平家のよりずつと誇張せられ複雜にせられてゐたりするなど、説話發展の跡を示してゐる例はなほ多い。要するに、盛衰記に見える物語は、事實らしいものでも平家のよりは説話的色彩が濃厚になつてゐるし、初めから説話と見なすべきものは平家より一層發達した形を具へてゐる。だから、少くとも平家には盛衰記よりも前にできてゐなければならぬ部分のあることは明かであらう。
 さてこれまでいつたのは、兩方に共通な物語についての比較であるが、盛衰記には平家に見えない物語が甚だ多く、さうしてそれが多くは事實らしくないもので、中には説話發展の徑路のわかるものもある。例へば卷十四に清盛が化(44)鳥を捕へたことがあるが、これは頼政の鵺退治の傳説から生まれたものであらう。卷十六の頼政の菖蒲前の物語が沙石集の梶原の話から脱化したものであることは參考本が暗示してゐる。卷四十六(「平家虜都入……の事」)に見える安徳天皇が清盛の子だといふ噂は清盛が白河院の子だといふ話を反對に適用したものらしい。かう考へるのは獨斷だといへばそれまでであるが、説話といふものはこんな風にして作られてゆくものである。太平記(卷十六)の本間の遠矢が那須與一の摸倣で、同書(卷十八)の一宮御息所の物語に見える嵯峨のわびずまひの一段が小督説話から脱化して來たものだ、といふことは誰でも氣がつく。盛衰記自身でいつても、卷十九の袈裟説話が今昔物語(卷十)の長安の女を摸倣したものだといふ見解は、定説といつてよからう。また卷五の成親の妻も、かの菖蒲の前も、又は卷三十一に見える維盛の妻も、一度はみな主上の寵を受けたのか又は御心をかけられたかした女といふことになつてゐるが、これも美人とあれば必ず「女御后にもと」心がけてかしづき育てるといふことにするのと同じ思想の産物で、一つ型ができるとどれも/\それを踏襲するのである。だから化鳥や安徳天皇についての説話をかう考へるのも、妄斷ではなからう。それから、卷十一(「經俊布引瀧に入る事」)の瀧壺の龍宮城の話は平治物語(卷三)に淵源があり、卷十二の教盛の夢は保元物語(卷三)から來てゐる。單にこれだけのことをいつたのでは、盛衰記が平家より後のものであるといふ證據には少しもならぬが、かういふ風に盛衰記には既に世に行はれてゐた或る説話から發展し又は變化したと認められる説話が多く含まれてゐることを考へ、さうしてそれが前に述べておいた平家に見える説話から發展したものと同じやうに取扱はれてゐることを思ひ合せると、これらの説話もまた平家よりは後に作られたものとするのが自然の推測であらう。故事として説かれてゐるものでも、例へば卷十八に神護寺の縁起があるが、それには和(45)氣清麻呂を松名といふ名にして、高雄の山で左右の脛を切られることにしてある。この名とこの話とは水鏡にも出てゐるが、脛を切られるのは日本後記清麻呂薨去の條に見える「脚痿不能起立」から作り出された説話らしい。ところが平家にはたゞ和氣清麻呂が建てた伽藍とあるばかりで、こんな説話がまだできてゐない。だから、この話は平家よりは後に作られたものと思はれる。これらは一々の物語についてのことであるが、全體から考へても、盛衰記では、一々の説話が平家のよりも發達した形を具へてゐると同樣、平家よりは説話の數が多く、うるさく述べたててある故事來歴も多くは事實から縁の遠い説話であつて、一口にいふと説話化の程度が進んでゐる。ところが前に述べたやうに多くの説話の中に平家より後のものが含まれてゐるとすれば、さうして今いふやうに全體としての盛衰記の性質がそれと一致してゐるとすれば、盛衰記の編纂が平家よりも後のものであると推論するのは、あながち牽強附會ではなからう。
 更に考へるに盛衰記には足利時代の小説などに於いて最も多く見られる用語がある。管絃を敍する場合に「笛の役」とか「琴の役」とかいふ語の屡々用ゐられてゐるなどが、その一例である。(ついでにいふが卷三十二に見える福原の管絃講には琴や簫がある。このころにかういふ樂器は使はれてゐないから、この記事が事實を敍したものでないことがわかる。)「尋常」といふ語を立派とか美しいとかいふ意義に用ゐた場合もある(卷三十三、緒方三郎の傳説)。それから用語ではないが、大黒天(卷一、「清盛化鳥を捕ふ……事」)や夷三郎(卷九、「宰相丹波少將を申し預る事」)の信仰が見えてゐるが、これも足利時代に於いて盛にもてはやされたものである。もつともこれらの用語や信仰が何時ころから行はれ初めたものであるかといふと、それを斷言することには躊躇せられるが、少くとも足利時(46)代に流行してゐたことは明かである。さうしてこれらが何れも平家には見えないものであるのを見ると、盛衰記のかういふ文字のある部分が、少くとも平家よりは後のものであるとだけはいつてもよからうと思ふ。(「笛の役」といふ語が平家卷六の小督の段にたつた一つあるが、この一段は後人の増補らしい。なほ後にいはう。)但しこれらは零碎なものであるから後から補つたものだともいへばいはれぬことはなからう。けれども、盛衰記には鎌倉時代には起り得ないと考へられる思想が所々に散見してゐる。それは何かといふと、「天をも度りつべし、地をも度りつべし、たゞ度るべからざるは人の心、」(卷七「信俊下向の事」、卷二十一「大沼三浦に逢ふ事」、卷四十三「源平侍遠矢付成良返忠の事」)とか、「當世は親も子も無き作法なり」(卷二十二「宗達小次郎に値ふ事」)とか、或は一族兄弟などが敵身方に分屬して、どちらか勝つ方のものを憑まうと約束する(卷二十「佐殿大場勢汰の事」、卷二十一「大沼三浦に逢ふ事」、「小坪合戰の事」)とか、すべて戰爭が絶え間なく起り敵身方が何時かはるかも知れぬ、親子兄弟すらも頼み難い、といふ兵亂時代の人心が明かに現はれてゐることである。勿論これらは源平時代のそれ/\の物語を敍述する場合に用ゐられてゐるのではあるが、源平時代にはかういふ語の作られるまでに痛切に人情の反覆を味はねばならなかつたとは考へられず、またその時代を遠ざかつて來た鎌倉時代の平和の世には、かういふことを力強く筆にも口にも現はすやうな刺戟が無かつたであらう。さうしてこの事實は、北條の滅亡から幕があいて南北朝時代に進行してゆく全國の大爭亂によつてあらゆる人々が幾度か經驗もし目撃もしたことであるとすれば、これらの文字がやはりさういふ世を經た人々の手によつて記されたものだと推測するのに無理は無からう。かう考へると、卷二十九「俣野五郎并長綱亡ぶる事」の入善小太郎叔父甥が一つの首を卑劣な態度で爭ふ話なども、やはり時代の風習の反映らしい。平家には(47)入善が早業だといふ一句があるのみである。特に「五畿七道は兵亂、家門には哀聲、臣下卿相煩ひて君憂き目を見給ふべし、」(卷十八「文覺流罪の事」)とさへいつてゐるのは、どうしても南北朝時代の形勢を觀たものの口つきである。さうしてこれらの文字は平家にはすべて見えてゐない。この點からも盛衰記が平家よりも後のものだと推測せられる。
 こゝまで論じて來ておいて、さて次には平家と盛衰記とにはその全體の精神に於いて一大差異のあることを考へてみたい。祇園精舍の鐘の聲で始まつて六代のきられ女院往生で終つてゐる平家物語の一篇は、その目的が平氏一門の榮華とその凋落とを敍するにあることはいふまでもなからう。盛者必衰のためしを最大のスケエル最高の色調で目前に示したのみならず、目ざましくも花やかな二十年の榮華、武士ながらも優雅な大宮人となりすました多くの公達と東夷との對照、四百年の歴史を一朝にして破壞しようとした都うつり、衣冠の都が兵馬の巷となつた時勢の大變化、それに伴ふすべてのものが時の人心に強い印象を與へた平家の始終は、近い世の事實としてそれをいひ傳へ聞き傳へてゆく都人の情を動かすことも深く、鎌倉時代の初めに於いてはまことに恰好の詩題であつたのである。平家物語が全篇を通じて抒情詩的趣味に富んでゐて、主として讀者の感傷をそゝるやうに書かれてゐるのは、その作られた動機がこゝにあつたからだとすれば、よく説明せられ、また盲法師が彈く琵琶の哀調もよくそれに適合してゐたのであらう。ところが、盛衰記は甚だしく知識的である。事がらを詳しく述べようとする。故事來歴をうるさく説明する。感傷的な文字を平家よりも誇張した筆でくだ/\しく書きつらねてあるにもかゝはらず、全體として讀者に與へる效果は感情を動かすよりは却つて知識を與へることである。これは、平家の事蹟によつて強く感動するよりは、寧ろ知識(48)的な好奇心を以て、遠き世の事として、それを視るやうになつた時代の所産だからではあるまいか。
 次に平家には平氏と直接の關係の無い源氏の行動を記すことが極めて簡略であつて、頼朝の擧兵などについても殆ど記事が無いが、これはこの物語が平氏の盛衰を敍して讀者を感動させるための詩篇であるとすれば、當然のことである。だから平氏と關係のあることは書かねばならないので、頼朝についても富士川の戰は述べてある。かう考へると、平家物語といふ題號もよくその内容に適合してゐる。しかし事蹟を傳へる歴史と見れば不完全であるから、知識の上に滿足を求めるには源氏の事蹟も記さねばならぬ。盛衰記に頼朝の擧兵から關東を統一するまでの有樣が書いてあるのは、かういふ要求から出たもので、源平盛衰記の名の由來もやはりそこにあるのであらう。ところが源平盛衰記の初めの書き出しは平家物語と全く同じであつて、一篇の主題が平氏の盛衰であり、主人公が清盛であることを示してゐるし、全篇の結末もまた六代や建禮門院の物語であつて、平家物語と變りが無いところを見ると、盛衰記が當初から源平二氏を對等の位麿に置いてその一盛一衰を敍するといふ考で作られたものではないことが知られる。だから、盛衰記に源氏のことが多く書いてあつたり、題號に源平の二字が竝べてあつたりするのは、首尾を對照して知られる全篇の結構とは不調和なことである。なぜこんな不調和があるかといふと、それは平家物語が前にあつてそれを増補したものであるからだ、としなければ説明がつかぬ。もつとも長門本には既に源氏擧兵の物語があつて、それは盛衰記よりはよほど素朴な筆つきであるから、盛衰記よりも前にかういふものが補はれてゐたと見なければならぬ。源平盛衰記の名はそれをさらに潤色して今の盛衰記とした時の命名であらう。
 題號のことをいふとなほ考ふべき點がある。琵琶法師は平家を語るといふが盛衰記を語るとはいはぬ。徒然草にも(49)平家物語の名は見えるが、源平盛衰記とは書いてない。だから平家物語の名が古くて源平盛衰記の名が新しいことは、反證の無い限り許されねばならぬ。また鎌倉時代のかういふ讀みものは、平安朝時代からの習慣に從つて「物語」といはれたものらしく、保元物語平治物語もその例である。さうして、室町時代になると太平記といふやうな名になる。曾我物語は鎌倉時代にできてゐたらしいが義經記はどうしても室町時代のものであらう。平家物語の名が源平盛衰記よりも前にできてゐたことは、かういふ例證からも察せられる。然らば何時になつて源平盛衰記といふ名が平家物語に加へられたかといふに、少し大膽な臆測ではあるがそれは南北朝のころではあるまいか。それは、北條が仆れて足利が起つた時、源氏が平氏に代つたといふ思想が世に現はれて、源氏の名が新しい意義と勢力とを以て世人を動かした事實を考へ合はせると、源平盛衰記の名にかういふ世情の反映を看取することができると思ふからである。また平氏一門の榮枯といふよりも源平の更迭といふ方が、少くとも觀念の上で、舞臺が大きくなるが、これもやはり全國の大動亂が起つて眼界の廣くなつた時勢の影響で、文學の上では太平記といふやうな名のつくものが生まれる前驅だらうとも考へられる。これらのことを思ひ合はせると、やはり平家が前で盛衰記は後に現はれたものでなくてはならぬ。これも他に反證の無い限り、今の平家は初めから平家物語と名づけられてゐたもので、源平盛衰記はやはり今の盛衰記の題號であつたとするのが、自然の推斷だからである。多くの異本が源平盛衰記とはいはないで平家物語といつてゐるのを見ても、源平盛衰記の名が今の盛衰記に限つての特殊の書名であることがわからう。かう考へて來ると、盛衰記の作り上げられた時期がほゞ察せられる。前に擧げた例の外にも盛衰記に見える傳説は概ね室町時代のころの思想と最も密接な關係を有つてゐるものであつて、卷十四に見える天武天皇の傳説、卷四十四に出てゐる神劍の物語な(50)どがみなさうである(神劍物語は劍の卷のとほゞ同樣である)。
 平家と盛衰記との關係は、以上述べたところでほゞ明かにし得たことと思ふ。然らば普通本の平家が最初に作られた平家物語そのまゝのものかといふに、さう輕率に決めてしまふことはできない。普通本の平家には明かに後人の補綴した跡があつて、中には盛衰記から採つたらうと思はれるものさへある。例へば第一卷の「祇王の事」の一章は前に説いたやうな卷首の文勢と作者の精神とに甚だ不調和なものであつて、「日本秋津洲は纔に六十六箇國」云々の數行で平家の榮華を概説した筆を結び、それから直ぐに(祇王の一章をぬいて)「昔より今に至るまで源平兩氏朝家に召しつかはれて」云々といひ出して漸次事實の敍述に入るやうにすれば、思想の推移が自然である。現に普通本と盛衰記との中間に位する長門本にはさうなつてゐて、祇王の話はまるで無く、盛衰記にも祇王傳説は清盛薨去の場合に出てゐるから、こゝの文のつゞきかたは長門本と同樣である。さうして祇王の物語は、他の多くの説話と同樣、盛衰記作者の構想か、さうでなくともよほど後世に作られたものらしく、藤岡氏が鎌倉室町時代文學史に於いて暗示してゐるやうに著聞集の千手の話から脱化したものかも知れぬ。平家のも盛衰記から採つてそれを改作したものらしく、盛衰記に見えない文字が含まれてゐる。だからこゝの平家の原形は却つて長門本や盛衰記に遺つてゐるものと見られる。この物語の前にある忠盛と女房との歌の話も後人の加へたものらしく、文勢が前後と調和しない。これも盛衰記に原形の面影がある。それから、重感薨去の場合の燈籠の話や育王山へ金を寄進したことなども、長門本には見えてゐないが、これも多分平家の原形がさうであつたらう。かういふやうな事實らしくない傳説は後になるほど漸次に附加せられて來たらしいから、最初の平家にはさういふものはよしあつても、普通本よりずつと少かつたらうと思ふ。さう(51)して偶然その原形の遺存してゐる箇所が異本の中に發見せられるのは、不思議ではないのである。なほ一二の例を擧げると、普通本には鵯越の段に鷲尾の話が出てゐて盛衰記にはそれが一層發達して現はれてゐるが、長門本には全く無い。これも長門本に原形が遺つてゐるのであらう。(盛衰記に鷲尾を義經北國落の時のにせ山伏の一人だとしてあるのは、にせ山伏説話の作られた後に補つたものであらう。義經に關する他の物語から推測すると、盛衰記のできたころにはさうまでに判官説話が發展はしてゐなかつたらしい。)小督説話も普通本のと盛衰記のとは同系統に屬してゐながら、長門本のはよほど違つてゐるので、その間の關係はなほ研究を要することであるが、最初の平家には無かつたものと思はれる。この章には「主上はかやうの事どもに御悩つかせ給ひて遂に崩れさせ給ひけるとかや」とあつて、小督の事が御病氣の主なる原因のやうに書いてあるが「新院崩御の事」の章には「さしも容易ならぬ天下の大事、都うつりなど申すことに御惱つかせ給ひて、御煩はしう聞えさせ給ひしが、今又東大寺興福寺の亡びぬる由聞し召して御惱いとゞ重らせおはします、」と明かに御惱みの由來が示してあつて、小督のことなどとはまるで關係がないことになつてゐる。初めから小督説話があつたならば何とかその間に連絡のつけやうがあつたに違ひないから、これは後から添加したものであらう。(小督説話の文中に「笛の役」といふやうな後世の用語のあるのも、かう考へると解釋ができる。)その他一々指していふことはできないが、これと同じやうに後世から増補した物語などが普通本には少からずあるだらうと想像せられる。第十二卷の義經に關する物語などは前後に無關係なことであるから、これなども最初の平家には無かつたものと解せられる。それから單に文章からいつても、後に補綴した形跡の明かな場合がある。例へば第五卷「新都の事」の章には二ケ所に方丈記の文を採り入れてあるが、それがために前後の文意がつゞか(52)ぬやうになつてゐる。ところがこの方丈記の文を除けて見ると、思想の推移が極めて自然になつてゐるから、これは最初の作者が方丈記を剽竊したのではなく、後人が叨りに添加したのであらう。現にそれの添加されてゐない平家の原形が長門本に遺つてゐるのみならず、盛衰記にもほゞその面影をとゞめてゐる。(ついでにいふ。方丈記そのものの眞僞は別問題としても、平家のこの文によつて方丈記を疑ふことはできない。)
 要するに、普通本の平家物語は、大體に於いて長門本よりも源平盛衰記よりもずつと原作に近いものであつて、盛衰記などはそれをもととして増補潤色したのではあるが、この普通本とても決して最初の平家物語そのまゝのものではなく、長い間に幾度も添削を經たものだといふのが、わたくしの考である。(長門本は普通本と盛衰記との中間に位するものではあるが、用語や文體から考へると、中にはずつと後世に附加せられたところもあるらしい。)それならば最初の平家物語が作られた時代はといふに、それは平家の滅亡からあまり遠くは隔つてゐない時分だらうといふ漠然たる推測以上に、何ともいふことはできない。作者についての徒然草の説も何かの根據があつて書いたものであらうが、あの記事には疑はしいことも交つてゐるので、初めから琵琶法師に語らせるために作つたものらしくいつてあるのも、九郎判官のことも、武士のことは生佛が東國人に聞いたのだといふのも、みな事實らしくない。しかしそれがために作者を行長としたことまで疑はなくともよいかも知れぬが、絶對の信用をこの説に置くことはできない。たゞ行長が何かの關係を平家物語に有つてゐたとすれば、前に述べた漠然たる時代の臆測には合ふが、それにあまり重きを置くわけにはゆかぬ。なほ作者が如何なる階級のものであつたかといふことを推論するには、戰記物全體にわたつて考へる必要があると思ふが、それを説き出すとあまり問題が大きくなるから、こゝで筆をとめておく。
 
(53)     第四 日本の文學史に於ける歴史文學
 
 「歴史文學」といふ語はいろ/\の意義で用ゐることができよう。第一には、歴史そのもの、いひかへると歴史的變遷または發展の過程を具體的に敍述したもの、が廣い意義での文學の一つの形態として見られる。文學といふ名稱にかういふものを含ませるのは、今の日本でははやらないかも知れぬが、廣く見るとめづらしい例ではない。第二には、前にいつた意義での歴史に文學的色彩の施されたものである。第三には、題材を歴史に採つた文學的作品であつて、これは、普通には歴史的人物または歴史的事件を主題としたものであるが、或る時代の社會状態、風俗、思想、人心の動きかた、といふようなものを材料とはするが人物や事件は作者の構造したもの、いひかへると架空の人物と事件とによつて歴史上の或る時代の世相人心を描いたもの、もあるべきはずである。いま普通に歴史文學といはれるものは、この第三のが主になつてゐるかと考へられる。なほ第四として、過去の時代に形づくられた傳説を材料としたものを加へてもよからうか。さういふ傳説は歴史上の存在だからである。さて第五には、歴史に擬して書かれたものを一種の文學的作品として、それを歴史文學と呼ぶことができるであらう。一おうかう列べてみたが、しかし五つのそれ/\の間に、はつきり區別がつくわけではなく、また或る作品を五つのどれかにあてはめようとすると、どちらつかずのもの、どちらへ入れてよいか明かでないもの、などがあらう。さうしてそれは、歴史と文學とはその根本に共通の性質があるからである。
(54) これらのうちで先づ第一の意義での歴史文學を考へてみるに、ヨウロッパで一般に歴史といはれてゐるものは、近代になつて始めて現はれた文明史または文化史を除けば、概ねかういふものであるが、日本には昔からそれが少い。たゞ大鏡またはそれに類似のものがそれに當るといへばいはれようか。或は、漢文で書かれてはゐるが、サンヨウの日本外史の如きも、これに類似したものとしてよからう。攝關の地位にゐたものまたは武家の行動とかその權力の盛衰とかに關する記述に過ぎないけれども、ともかくも歴史敍述を試みたものではある。かういふものの少いのは、日本の知識人が何ごとについても模範としたシナに、この意義での歴史が無かつたからであらう。大鏡も日本外史も、シナに模範の無い、日本人が獨自に案出した、歴史の形態であることが、このことについて深い意味をもつ。明治時代から後にも、歴史の研究はいろ/\の方面で進んで來たにかゝはらず、この意義での歴史として書かれたものは殆ど無いといつてよからう。これは、歴史の過程に於いて現はれる一つ/\の事實を明かにすることに主な力が注がれ、從つてそのための史料批列などが歴史家のしなければならぬしごととなつたのと、歴史が學問の對象としてのみ取扱はれ、從つて歴史的現象に對して、その間の因果の關係を考へること、または政治、社會、經濟、及びその他のいろいろの觀點から、何等かの考察または何等かの解釋を加へること、が要求せられ、さうしてそれが歴史敍述とは離れて行はれたのと、また知識が專門化せられたに伴つて經濟とか法制とか社會組織とか宗教とかいふような一部面のことがら、而も歴史的變繊の過程を具體的に敍述することのむつかしいことがら、が研究の對象とせられるようになつたのと、これらの事情のためであらうか。
 もと/\歴史を敍述するには、といふよりも歴史的變繊の過程を會得するにはといふべきであらうが、そのときど(55)きの状態に於いて人の心理がどうはたらき世がどうして動き、それによつてどういふ事件が起りどういふ事態が生じ、さうしてそれがまた人のこゝろ世のありさまをどう變化させたかを、史料から正しく讀みとり、それを具體的な姿として思ひ浮かべねばならぬ。それは、史料を機械的に組みたてたり分解したりすることのみによつて、できるしごとではないのみならず、いはゆる「研究」といふ態度だけではできないことである。生きた人を生きた人として、また生きた世を生きた世として、その生きた姿を目の前に現前させる詩人的の心情がはたらかなくては、できないことである。さうしてその具體的の姿を敍述するにも、やはり詩人の筆が無くてはならぬ。歴史的現象に對して何等かの考察または解釋を加へるのも、かゝる具體的の姿を思ひ浮かべるために行はるべきことであり、從つてその考察その解釋は敍述そのものの上におのづから表現せらるべきものである。歴史が文學と共通の性質をもつといふのも、このことであり、歴史そのものが文學の一つの形態と見られるのも、そのためである。今の日本にかういふ歴史が書かれてゐないのは、寂しいことである。かゝる歴史を書くには一つ/\の歴史的事實を明かにした上でなくてはならず、それには史料の批判もしなくてはならぬが、それらのしごとが殘すところなくでき上つた上でなければ敍述ができないとすれば、歴史は永久に書く時が來ない。だから既に明かにせられた事實によつて歴史の過程を會得し、それによつて敍述をすべきであり、事實とせられたことに誤のあることが後になつて知られたり、まだ明かにせられないことが後になつて明かにせられたりするばあひがあるならば、それは後人の補訂にまつべきものである。その點は文學上の作品がそれみづからに完成したものであるのとは違ふが、歴史とても、その人のその時の著作としてはやはり完成したものなのである。
(56) ところで、むかし大鏡の書かれたのは、フヂハラ氏の權力の衰へた後になつて、その權力がどうして得られどのようにはたらいたかの歴史的過程を、ふりかへつて見ようとしたためであるらしいが、それには、政府のしごととしてのシナ風の年代記の編纂が行はれなくなつたと共に、そのころのシナにはまだ發生するまでになつてゐなかつた文學の形態で日本人の創意になつた「物語」が多く作られたことに、誘はれたところがあらう。後の日本外史も、武家の權力の變遷を全體として敍述しようとしたものであるが、それには平家物語や太平記などに語られてゐるようなことを、美しく漢文に書き現はさうとする興味も加はつてゐたに違ひなく、そこにも、當時の文壇のありさまに於いては、文學的のしごとと見られる點があつた。日本外史は歴史ではなくして詩であり文學である、といふ批評が明治時代に現はれたのは、たしかな歴史的事實を記したものではなく、またヨウロッパの歴史を讀んだものの目には、歴史としての結構と内容とを具へてゐないといふ意味もあつたらうが、一つはこのためでもある。しかしこれも、シナには例の無い歴史の形態である。
 しかし、過去の人物の心情や行動や世のありさまやその移り變りやを具體的に思ひ浮かべるには、どれだけかの程度に於いて想像力がはたらかなくてはならぬ。想像力といつたのは具體的なイメエジを構成するはたらきのことである。すべて史料といふものは何ごとにつけても十分には具はつてゐないし、よし具はつてゐるとするにしても、それだけでは具體的なありさまを思ひ浮かべることはできないからである。さうしてさういふ想像力をはたらかせるには、一般に人といふもの世といふものについての、またそれ/\の時代に特殊なところのある人の心理の動きと世相とについての、深い理解と洞察とが無くてはならぬ。と共に、歴史家はかくして思ひ浮かべられたところを敍述の上に現(57)はさねばならぬ。そこに詩人の創作と同じ性質のしごとがある。大鏡の如きも、かゝる理解と洞察との深淺はともかくも、ほゞかゝる用意の下に書かれたものであつて、何等かの史料によりながら、史料だけでは知ることのできない敍述によつて、その史料が生かされてゐる。ところがかう考へると、かういふ歴史は第二の意義での歴史文學、即ち歴史に文學的色彩の施されたものとの接觸が生ずる。
 日本の文學に於いてこの意義のものを求めるならば、保元物語平治物語などが、さしあたつてその例と見なすべきであらう。これらは保元平治の亂の經過を敍するその骨ぐみは歴史であるが、歴史的事實の敍述とは見なしがたいいろいろの光景が、その間に數多く插まれたり添へられたりしてゐるので、そこに文學的色彩の施された迹が見える。大鏡とこれらの物語とは殆ど同じようなものに見えるが、大鏡に於いては、作者の想像力が歴史的事實によつて、またそれを離れずして、はたらき、歴史の敍述にそれが融けこみ、或は歴史の敍述としてそれが現はれてゐて、すべてがありさうなこととして感ぜられるのに、これらの物語では、事實の敍述とそれに加へられた文學的色彩とが、混合せられながら、實は離れ/”\になつてゐて、後の方にはありさうでないことまたはひどく誇張せられたことが多い。一々の敍述について見ると、かうはつきり區別することはできないが、おほよその傾向としてかういふことがいはれよう。さうしてそこに第一の意義でのと第二のとの違ひがある。平家物語になると、こゝにいつた色彩が強くも濃くもなつてゐるが、なほこの類のものといつてよからう。かゝるものの作られるようになつたのは、戰争の始末と經過とを敍するのが主旨であるために、武人のはたらきとその心情とを、一つ/\のきはだつた場面として描き出さうとしたからであらうか。
(58) 第三の意義での歴史文學は、ヨウロッパの文學に示唆せられて明治時代から後に多く現はれたが、その前には殆ど無かつた。ムロマチ時代の舞曲や謠曲に歴史的人物の現はれてゐるのは、むしろ古傳説を題材としたものとすべきであり、またチカマツの時代ものやバキンの演義小説などは、人物の名を歴史にとつたまでのものであつて、こゝにいふ歴史文學上の作品ではない。どうしてかういふ歴史文學が作られなかつたかといふに、それには、近いころのこの類のものは、昔の或る人物とその事蹟との何の點かに、時代のちがひを超越した普遍な人生とその意味とを認めて、それを描かうとするのか、または現代とは違つた昔の時代の人心なり世相なりに興味をもつて、それを寫さうとするのか、何れかが主なる動機となつて作られてゐるものらしく、さうしてその何れにしても、人の生活なり世の姿なりに歴史的變化のあることを認めるところに根據があるが、昔はさういふことが明かに考へられてゐなかつたからであらう。古人の心事や行動に新解釋を施さうとする動機から出たものもあるが、その新解釋とても、その時代の思想によつてせらるべきである。從來の解釋はその時代の思想に適合しないとしてそれに適合するような解釋をするとか、その人物自身には明かに意識せられなかつた心情をその時代の思想によつて明かにするとか、さういふ性質のことでなくてはならぬ。もしさうでなくして、それとは違つた現代人の思想に本づいてせられたならば、それは歴史的變化を無視したものであるから、かゝるものは文學上の作品ではあらうが、歴史文學とはいひかねよう。かういふものは、現代に至つて始めて生じた社會思想などによつて昔の状態を説明しようとするのと同じであつて、それが歴史の正しい取扱ひかたでないと同じく、かゝる作品は古人の名とその事蹟の外形とを借りたのみのものである。
 次には第四の意義での歴史文學であるが、例へばヨシツネとかソガ兄弟とかいふような、前の時代からいひ傳へら(59)れて來た傳説を主題として、或る時代に作られた文學上の作品は、昔から多い。傳説といふものは、時代を追うてその時代々々のそれ/\に違つた色彩が施されつゝ、次第に發展して來たものであるから、かういふ作品はおのづから傳説の發展の過程のうちの一つの段階を形づくるものとなる。しかしそれは必しも歴史文學ではない。前の時代の特殊の色彩を帶びてゐる傳説を題材として、その時代を描くばあひに、はじめて歴史文學と呼び得られるであらう。例へば現代に於いて、ムロマチ時代のヨシツネ傳説を題材として、そのムロマチ時代の武士の思想を描いたものがあるとすれば、それがこの意義での歴史文擧なのである。かういふ作品は時代による思想の變化といふことをよく考へなかつた昔には無かつたし、現代でも、事實、作られてゐるかどうか、よくは知らぬ。今はたゞ作られ得べきものとしてこゝにそれをいふのみである。
 最後に第五の意義でのは、皇室の御系譜の大部分を除いた古事記がその主なるものである。このうちの神代の部分は特殊の意圖があつて構成せられたものであるが、その他は歴代の皇室の御事蹟を記した歴史を書くことが要求せられたけれども、それを敍述するだけの資料が無かつたために、いろ/\の説話を作りまた幾らか世間に知られてゐる説話を作り變へて、それらを御歴代のそれ/\にあてはめ、全體としては順序だつた一つの歴史である如く裝つたものである。吟唱すべき敍事詩といふものが遠い昔から作られたこともなく、從つて世に傳へられてもゐなかつた日本の上代であるから、皇室に關することについても、かういふものが書かれたのである。だからそれは、一種の文學的作品とすべきものである。しかし、年月がたつに從つてそれが歴史的事實を記したものとして信ぜられるようになつたが、それのみならず、作者とても、既にそれが作られた上は、一面に於いては、やはり同じような感じを抱いたで(60)もあらう。日本には無かつたが、敍事詩を作つた詩人は、その詩を幾たびか吟唱しまたそれを人にきかせてゐるうちに、いつのまにかそれが實際あつたことを歌つたものと思ひなすようになつたであらう、と推測せられる。人のうはさ話といふものは、斷えず何ごとかが語り加へられつゝ傳はつてゆくものであるが、みづから何ごとかを語り加へながら、それを前からあつた噂を語りついだだけである如く錯覺する。といふよりも語りつぐことと何ごとかを語り加へることとの間に、心理的には、はつきりした區別が無い、といふ方が當つてゐよう。傳説が時代によつて次第に變つてゆくのも、つまり同じことである。或はまた日々の新聞の記事に、見聞のまゝではなくして、記者の推測や想像を加へてまとめあげたものが少なくないが、それが記事となつて世に現はれた上は、恰もそれが見聞したまゝを記したものである如く、その記者みづからも思ふばあひが多からう。歴史といふものがいひ傳へやうはさ話などを記したことに始まつたといふような考が、どこまで當つてゐるかは問題でもあらうが、説話を作りまたはそれを書き傳へるのと、事實を記し歴史の敍述をするのと、二つの間に明かな區別をつけることのむつかしいばあひが、特に上代にはあり、またその何れにも同じような心理のはたらきがあることも、考へられる。歴史に擬した文學的作品のできたことにふしぎは無い。また上代に限らず、一般の讀者にとつては、作られた説話でも事實を敍した歴史でも同じであつて、小説などの讀まれる根本の理由はそこにある。それに現はれてゐる人物や事件が現實にあつた人物であり事件であるように思ひなされるところに、意味があるのである。浦島も光る源氏も實在の人物であるかの如く昔の人は思つたほどである。上にいつた第二または第三の意義での歴史文學の作られたのも、また第二の意義でのが第一の意義でのと明かな限界のたてがたいばあひのあるのも、讀者のこのような受けとりかたに一つの理由がある。
(61) 歴史文學といふ名稱はかういふいろ/\の意義に用ゐることができるので、昔からの日本の文學上の作品を見わたしてその一つ/\にあてはまりさうなものを求めると、ほゞこゝに擧げたようなものが得られるが、はじめにもいつておいた如く、どちらつかずのものもある。例へば榮華物語といふものは、全體の上から見ると一種の歴史敍述をしたものであるが、そのうちには、作者が敍述しようとする過去の時代に書かれてゐた日記などをそのまゝ寫しとり、それをつなぎあはせることによつて、何ほどかの敍述ができてゐるところがある。しかしこれは普通の意義での史料としてさういふものを用ゐたのではないから、實は歴史的敍述とはいひかねる。この點で大鏡とは違つてゐるが、これはこの事が、一つの意味に於いては、その時々の漢文の記録を年代記として編纂したシナ風のいはゆる「實録」をまねようとして、漢文の、その多くは政府または官人の、記録の代りに、國文で書かれた私人の日記を用ゐたものと、いふことができるので、大鏡の如く作者みづからの筆でまとまつた敍述をするまでには、まだなつてゐなかつた時代の著述だからのことであらう。だからこれは、第一の意義での歴史文學ではないが、さりとて第二の意義のでもない。或はまたムロマチ時代の義經記の如きは、その作者は世に傳へられてゐるヨシツネとその事蹟とを潤色して、一つの新しい讀みものとして書いたものであらうから、その意味では第三の意義での歴史文學としても見られさうであるが、しかしその材料としたヨシツネの人物もその事蹟も既に傳説化せられてゐたものであり、作者の意圖も源平時代の思想なり風尚なりを描かうとしたのではないから、今日から見ればその作品は、ヨシツネ傳説の發展の過程に於いて、ムロマチ時代の特色を帶びた一つの段階を示すに過ぎないものである。その他、ムロマチ時代からエド時代の初期までに現はれた軍記もののうちには、いくらかの文學的色彩を施したものが無いではないが、それらは事變の記録ではあつ(62)ても歴史敍述をしたものとはいひがたいと共に、文學上の作品とするにはその色彩があまりに乏しいので、どの點から見ても歴史文學とは見なしかねる。それで、こゝにはさういふものは除くことにした。
 これまでいつて來たことは、いろ/\の意義で歴史文學といひ得られるものが、どうしてそれ/\の時代に作られたか、を考へてみたのであるが、文學の發達の歴史に於いてそれらのもつ意味、歴代の文學の上にそれらがどういふはたらきをして來たかといふこと、には觸れなかつた。さういふことを考へようとすれば、文學史そのものを説くことになるので、こゝでそれを試みることはむつかしいからである。
 
(63)     第五 漢字と日本文化
 
 わたくしはことばの學問、すなはち言語學、についての知識をもつてゐるものでもありませず、また日本のことばについても深い研究をしてゐるわけでもありませんので、いろ/\のおしらべなりおしごとなりをしてゐられます國語協會の集りにおいて、わたくしがわざ/\申しあげるやうなことは、實は無いのであります。しかし何か申しあげるやうにといふことでありますから、平生たづさはつてゐる方面から思ひついたことを二三申しあげて、皆さまの御批判をあふぎたいと思ひます。
 話の題目は「漢字と日本文化」といふことになつてゐますが、わたくしがたゞいま、おもにたづさはつてゐるのは、シナの文化とか思想とかいふ方面であり、讀んでゐる書物もシナのものが多いのであります。漢字――シナ文字を多く取扱つてゐるわけであります。それで、漢字とシナの文化との關係がどういふものであるかを考へ、それにもとづいて漢字と日本の文化との關係を申しあげてみたいと思ひます。
 わたくしはこれまで、シナの文字は日本のことばにはあてはまらない、日本のことばとシナの文字とは性質のちがふものである、日本語――日本のことばをシナの文字をつかつて書くといふことは不都合である、日本はできるだけ早くシナの文字をつかふことをやめなければならぬ、大體かういふことを申したり書いたりしたのであります。ところで、さういふことをわたくしが申しますので、しばしばお叱りを蒙つてゐるのであります。――といふのは、おま(64)へはシナの學問をしてゐるのではないか、それにもかゝはらずシナの文字がいけないといふのは不都合だ、かういふお叱りであります、しかしわたくしは、シナの書物をたえず讀み、シナのことを考へてゐるからこそシナの文字がいけないといふことを深く感じてゐるのだ、と申したいのであります。
 シナの文化は、御承知のとほり、一旦でき上りました後は、長い間、滯つてゐました。わたくしは時々、誇張したことばではありますが、シナには歴史が無いと申します。歴史が無いといふのはをかしいが、歴史といふことばに文化の發展とか進歩とかいふ意味を含ませて考へる場合には、歴史が無いといふことを申しても大きなあやまりではないのではないかと思ひます。――といふのは、シナの後世の或る時代の文化とそれより百年まへ、二百年まへ、三百年まへ、或はまた何百年まへの文化とくらべてみて、後世の文化がそれよりまへの文化より發逢してゐるとはいへないと、わたくしは考へます。或る場合にはむしろ退歩してゐるとさへ考へられます。
 日本の歴史、或はヨウロッパの歴史を、シナの歴史とくらべてみますと、日本におきましては、平安朝の文化、鎌倉時代の文化、或は江戸時代の文化、みなそれ/\に、その時代々々の著しい特色があります。鎌倉時代の文化は、平安朝の文化とは甚だしくおもむきが違ひます。江戸時代のは鎌倉時代のとまた違つてをります。申すまでもありませんが、ヨウロッパにおいて中世時代の文化、或は近代の文化、――さういふことを申しただけで、それ/\特殊な社會の状態、特殊な學問、特殊な藝術、が目に浮んで來るのであります。
 ところがシナにおきましては、例へば、漢代であるとか、唐宋時代、或は清朝時代、であるとか、さういふ名はありますけれども、それにはそれ/\の特殊な文化、或は特殊な社會、特殊な人の生活、といふものが伴つてゐないで、(65)いつも同じやうな社會、同じやうな文化、同じやうな生活、であります。ですからシナには文化の發展が無い、いひかへれば歴史が無いのであります。
 無論、シナとても、ごく古い原始時代からある程度の文化のできあがるまでの間には、進歩も發達もありました。しかし一旦それができあがつてしまひますと、それから後には大した發達をしなくなりました。こまかく考へれば、その時代その時代によつていろ/\の違ひはありますが、大きく見ますれば、ほゞ同じやうなありさまであります。これはどういふわけであるか。シナの文化を考へる場合にはこれは大切な問題であります。しかしさういふことを今こゝで立入つては申しません。たゞそれに關聯したこととして、シナの文字といふものが考へられるのではないかと思ふのであります。そこでそのことを申しあげたいと思ひます。
 シナの文字は、申すまでもなく、一つのことばを一つの文字にしたのであります。從つてことばの數だけ文字があることになります。また多くの文字が一々なにかの意義をもつてをります。さて、ことばは音からできてをりますが、シナでは一つの音が一つのことばになつてをります。しかし、ことばが多いだけ音が多いわけではありませんから、同じ音のことばが澤山あります。そこで、もと/\音をうつした文字ではなく、ことばをうつした文字でありながら、音が同じである場合に他のことばをうつした文字を使ふといふ使ひ方が起りました。それはつまり文字からことばの意義をとりのけて音だけにして用ゐること、一くちにいふと音を示す文字として用ゐるといふことになります。古い時代にはかういふ例がかなり多いやうであります。それにもいろ/\のしかたがありますが、およそ三つに分けて考へることができると思ひます。
(66) その第一は、例へば要と書いて腰の字の意義をもたせるやうに、文字のくみたての上で音符のはたらきをしてゐる部分だけを書いて、その文字に代へることであります。腰の字の音符の部分である要は、それだけで獨立の意義をもつた獨立のことばを示す獨立の文字でありますが、腰といふことばを寫す文字を作る場合に、そのことばの音が要と同じであるために、その音のしるしとして要の字を用ゐ、それと肉の字とを結びあはせて腰の字を作りました。形聲または諧聲といはれる文字のくみたてかたであります。そこで要と腰とは同じ音であり、耳にきゝ口でいふ場合には同じことばであるやうに感ぜられるために、要の字を腰の義に用ゐることが生じたのであります。しかし要の字はその意義が腰ではなく、それとは全く別の意義のある別のことばをうつしたものでありますから、それを腰の意義につかふのは、文字の意義、いひかへるとことばの意義、をすてて、たゞ音だけを用ゐたのであり、文字をことばのしるしとしてではなく、音のしるしとして使つたのであります。この例は古典には多いのでありまして、道を導、員を圓、見を現、共を恭、郷を皇嚮、御を禦、放を倣、莫を暮、の意義につかふなど、みなそれであります。これは字の劃を少くして、即ち略字として、つかつたもののやうでもありまして、その意味も含まれてゐませうが、それよりも音の同じであるところにおもな意味があらうと思ひます。或はまた性を生の義に用ゐるやうに、これとは逆のしかたによるものもありますが、その原則は同じであります。もつとも性の字の一部分である生は、音符としてのみ用ゐられたのではなく、意義をもとつてあるかと思はれますが、音符としてのはたらきをしてゐることは、たしかであります。
 次に第二は、同じ音符を用ゐてある別の文字を用ゐることであります。例へば『論語』のはじめに説の字を悦の意義につかつてありますが、これは説も悦も同じく兌を音符にもつてゐるために、いひかへると、悦と説とは、ことば(67)としては別々の意義をもつてゐるが、音からいふと同じであり、從つてこの二つの文字は同じ音のことばをうつしたものであるために、説と書いて悦の義をもたせたのであります。假を暇の代りに用ゐ、振と震と、または板と版と、を通はしてつかふやうなのも、同じ例でありまして、これもまた古典には少なくないことであります。
 第三は、文字の形には關係がなく、たゞ同じ音であるために、別の文字をつかふことであります。信と伸と、陳と田と、捷と接と、?と耽と、苟と孫と、福と市と、泰と太と、慈と字と、の類がそれであり、太一と太乙と、伏羲と伏戯と庖犧と、皐陶と咎?と、須臾と斯須と、の如く二つのことばをつらねて一つのことばとする場合にもそれがあります。於、于、または日本語で「いづれ」といふ場合の何、曷、または「いづくんぞ」とよんでゐる場合の曷、惡、烏、または「この」とか「これ」とかいふことばの斯、此、之、是、時、または「ない」といふことばの無、亡、罔、无、莫、勿、毋、などが、それ/\同じ意義に用ゐられてゐるのも、同じ例であります。これらのうちには、後世では、別の音になつてゐるものもありますが、それらもむかしは同じ音であつたと思はれます。
 これらの三つのしかたで、ことばを寫した文字が音を寫した文字の如くに取扱はれたのであります。もちろん、すべての文字がかういふ風につかはれたのではありませんが、かういふ例も少くありません。むかしのシナの學者が古典の文字の意義を説明する場合に、例へば神は申なりとか、鬼は歸なりとか、いふやうに、いはゆる音通で解釋することが多かつたのは、これがためであります。かういふ解釋にはむりなものも多く、たゞいま申しました例などは明かにこじつけでありますが、これが解釋の一つのしかたとなつてゐるのは、事實として、音だけで文字を用ゐるならはしがあつたからに違ひありません。ところで、どうしてこんなことが行はれたかと申しますと、これは、ことばだ(68)けの文字をすべて知つてゐて、それをまちがひなく書くことがむつかしいからでありますが、それと共に、また一層根本的には、ことばはもと/\耳にきく音からなりたつてゐるものであるから、ことばを文字に書く場合には、その音を寫すのが自然だからであります。文字を使ふことが少く、文字をしるした書物のやうなものも少かつた上代では、文字により文字を見てそれを寫しとるよりも、耳にきいて、または口にいつて、それを文字に書きあらはす場合が多いのでありますから、上代にかういふことの多かつたのは、あたりまへであります。それのみではありません。文字はもと/\ことばのしるしでありますから、それによつて口にいふことばを思ひ出すのが文字の主なるはたらきであり、從つて目に文字を見ると共に、口に出してそれをよむのが普通であります。文字の作られた時に既にこのことが考へられてゐましたので、諧聲といふくみたてのあることは、それを示すものであります。諧聲は、文字がどういふ音であるか、いひかへると、それをどうよむか、を知らせるために工夫せられたものでありまして、それは即ち文字を見ればそれを口に出してよむことを豫想した文字の作りかたであります。その諧聲による文字のくみたてがシナの文字の大部分を占めてゐることを注意しなければなりません。口にいふことば、即ち音、が同じであれば、どんな文字を書いてもさしつかへがなかつたといふことは、これからもわかるのであります。なほ前に略字のことを申しましたが、文字が劃の多い、從つて書きにくい、まちがひやすい、ものである以上、略字を用ゐるやうになるのも、自然なことであります。
 そこで、もしこの傾向がだん/\進んでいつたならば、シナでも意義のあることばを寫す文字から純粹の音を寫す文字に變り、語の數だけある文字が音の數だけに減り、從つてその文字の形も複雜なものから簡單なものになつてゆ(69)くことができたのではないかと思はれます。日本ではむかし、シナの文字をつかひながら、その意義をすてて音ばかりをとり、それで日本語をうつしました。いはゆる萬葉假名であります。前に申しました音だけによるシナの文字のつかひかたは、つまりそれと同じでありますから、それはいはば假名として用ゐたのであります。ところが日本では、そのシナ文字のまゝの假名から、シナには無い純粹の音の文字であるカナ、ことばとしての意義をもたない文字、を作り出しました。シナでもさういふことができるはずではなかつたでせうか。ところが、事實はその反對でありました。前に申しましたやうな文字のつかひかたは、後世とても全くなくなりはしませんでしたが、しかし、それよりもむしろ、文字をその意義どほりにつかひ、また同じ音であるためにもとは同じ意義につかはれてゐたいくつもの文字も、文字がちがへばそれに一々ちがつた意義があるものと考へられるやうになりました。例へば、むかしは無も勿も同じ意義に用ゐられたのを、一つは「ない」といふ説明のことば、一つは「なかれ」といふ命令のことば、といふ風に區別するやうなことであります。それがために、文字のつかひかたが却つてむつかしくも複雜にもなり、せつかく音をうつす文字の方へ進んでゆきさうな傾向が見えはじめながら、却つて逆の方向へあともどりをしてしまひました。それで今日までもあのやつかいな文字がつかはれてゐるのであります。
 これはなぜでありませうか。考へてみなければならぬ問題だと思ひます。そこで、試にわたくしの思ひつきを申してみますならば、第一に、シナ人は、ことばの違つたいろ/\の文化民族に親しく交はることが無く、自分たちのことばと違つたいろ/\のことばを文字に寫さうとする欲求が無かつた、といふことが考へられます。シナのことばと違つたいろ/\の民族のことばを寫さうとすれば、シナのことばを寫しシナのことばの意義をもつてゐる文字では、(70)やくにたゝないので、どんなことばでも寫される音の文字がほしくなります。然るにシナ人は、ことばの違つた文化民族に親しく接觸することがありませんでした。シナのまはりに居る異民族との按觸はありましたが、それらは概していふと、未開民族ばかりであつて、シナ人はそれらのどれをも輕しめてゐました。從つてさういふ民族のことばを重んじてそれを文字に寫さうとはしませんでした。人の名や土地の名などを寫す必要はありましたが、それくらゐのことは、前に申しました假名式のかきかたによつてシナ文字で寫すことができました。特にさういふ未開民族には文字がありませんでしたから、シナ人は自分たちが文字をもつてゐることに大きな誇りを感じ、それをシナ民族がどの民族よりもすぐれてゐることのしるしだと思つてゐました。ですから、シナ文字そのものに缺點があるなどとは、ゆめにも思はなかつたのであります。たゞ佛教が入るやうになつてから、自分たちのとは違つた文化違つた思想に接し、また違つた文字のあることを知つたのでありますが、それにしてもシナ民族とインド民族との按觸があつたのではなく、多數のシナ人が日常生活の上でインド語を知りインド語を文字に寫す必要を感じたのではありませんでしたから、それがためにシナ文字を不便な文字だと考へるやうにはならなかつたのであります。インドの文字が音を寫したものであつて、さういふ性質の文字がいかに便利であり、シナ語のしるしのシナ文字がいかに不便なものであるか、といふことを悟らなかつたのであります。話が少しわきみちにそれたことになるかも知れませんが、一たいにシナの文化に歴史的發展がなく、いつも同じようなありさまであつた一つの理由は、ちがつた文化に接觸してそれをうけ入れることが無かつたところにあると思ひます。さうして文字が進歩しなかつたことにも、また同じ理由があらうと考へられます。佛教をうけ入れても、シナの文化がインドの文化によつて變つたのではなく、たゞシナの神に佛といふ神が(71)加はり、また少數のものが、シナのことばに翻譯せられシナの文字で書かれた經典によつて、佛教の知識を得たといふにすぎないのでありますから、シナの文化、シナの文字、の誇りは決して傷けられはしませんでした。佛教が入つて來た後でも、シナ人は自分たちが世界のうちで最もすぐれた民族であることを堅く信じ、從つて自分たちの文化をどこまでももちつゞけてゆかうとしました。シナの保守性はこゝから生じたのですが、保守的氣分が強いところに文化の進歩はありません。文字についてもそのことが考へられます。
 第二は、シナの文化が政治的權力者とそれに從屬してゐる少數の知識社會との專有物であつて、一般民衆のものではなかつた、といふことであります。大多數の民衆はいつまでも原始的といつてもよいやうな生活をしてゐまして、文化の賜にはあづからなかつたのですが、文字もまたその一つでありまして、文字をつかふものは少數の文化階級のものだけでありました。從つて文字をわかり易く書き易いもの、だれでもつかふことのできるもの、にしようとはせず、一般にはつかはれないむつかしいものにしておき、そのむつかしい文字を知りそれをつかふことが、文化階級の誇りでもあり特權でもある、と考へてをりました。さうしてそこから文字に對する保守的な氣分が養はれました。保守的といふよりもむしろ逆もどりをして、文字のつかひかたがだん/\複雜になり、だん/\むつかしくなつたのであります。むかし秦の始皇帝の時に、賤しいものでもつかひ易いやうな文字にしようとして、篆書を隷書にしたといふ話がありますが、これは事實とは思はれません。あの時代に文字を民衆がつかつたとか民衆につかはせようとしたとかいふことは、どの點から見ても信ぜられないのでありまして、これは僕隷奴隷などの隷といふことばのついている隷書といふ名から思ひついて作られた話だと思はれます。隷書といふ名の意義はわかりませんが、賤しい奴隷など(72)に書かせる字體といふ意義でないことだけは、明かだと考へられます。隷書が楷書になつてからも、それをつかふことは、やはり少數の文化階級のものの特權でありました。要するに文字は、民衆のものでないといふ點において、シナの文化の一般的性質をもつてゐるので、それがために文字の平易化單純化が妨げられたのであります。
 さて第三には、それとは別の意味でのシナ文化の性質が文字にも現はれてゐるのではないか、といふことであります。一たいにシナの文化は、原始的なもの幼稚なものを、その實質を進歩させることによつてではなく、その外形を複雜にすることによつて成立つてゐるやうであります。從つて、その本質としては原始的なありさまにとゞまつてゐるといふことができます。ことばが既にさうでありまして、いはゆる孤立語に屬するシナのことばは、極端ないひかたをすれば、子どものかたことと同じであります。ことばとことばとの關係を示すことばが無く、いくつかのおもなことばを竝べるだけで何ごとかをいはうとするのが子どものかたことですが、シナのことばはそれからひどく進んでをりません。さうしてことばの數はだん/\ふえて來ましたが、ことばのくみたてかたは進歩しませんでした。從つて、シナのことばでは精密な思想をいひあらはすことはできません。今のいはゆる白話などでは、この點にいろ/\の違ひができては來ましたが、決して十分とはいはれません。またシナ人の生活を支配してゐる宗教思想や道徳觀念も、概していふと原始的であり、未開人のと共通の點を多分にもつてをります。佛教の如きものも、シナに行はれると原始的なものに退化しました。儒教とても實生活にかゝはりのあることにおいては、やはりそれがあるといつてよいと思ひます。占ひの術である易を重んじたり、吉凶禍福を説いたり、大事なものとせられてゐる禮に呪術的のものが多かつたり、さういふところにそれが見えてゐますが、禮の基本として説かれている道徳觀念も、決して高い意義(73)のものではありません。或はまた、ものの考へかたといふやうなことも未開人に似たところが多いのであります。シナ人の考へかたはすべて聯想によるのでありまして、推理といふことがありません。學者の思想といふものがみなそれから成立つてゐますので、いはば原始的な考へかたをたゞ複雜にしただけのことであります。さすれば文字においてもまた同じことのあるのに、ふしぎはありません。いはゆる象形や指事やの原始的な考へかたによつて作られた文字、さういふ文字をいろ/\にくみ合はせて複雜な形にした文字が、むかしから今日までも變らずにつかはれてゐるのであります。
 シナの文字が音を寫す方に進んで來なかつた理由を、わたくしはかう見るのでありますが、それはつまり、シナの文化の一般的性質が文字にも現はれてゐるといふことになります。しかしまたシナの文字のかういふありさまであつたことが、一般にシナの文化を發達させなかつた一つの重大な原因となつた、ともいはれませう。ところが日本におきましては、それとひどく樣子が違つてをります。日本人はシナ文字から日本のカナ文字を作り出しましたが、これは日本のことばとシナのことばとが全く性質の違つたものであるために、シナのことばの意義をもつているシナ文字では日本のことばを寫すことがむつかしいから、或はできないから、でありました。(これは、假にシナ人がシナ文字で日本のことばを寫さうとしたと想像しましても、同じことであります。)さうしてカナ文字ができたために、文字が民衆の間にもひろまり、子どもでもだれでも文字をつかふことができるやうになりました。カナ文字と共にシナ文字もつかはれ、シナ文字がもとのシナよりもずつと廣くゆきわたることになりましたが、これとてもカナ文字に導かれたからであります。讀みやすく書きやすいカナ文字をつかふことから、文字といふものに親しみができ、それに(74)よつてむつかしいシナ文字をつかふことにも、だん/\なれてきたのであります。子どもに文字を教へるには、まづカナ文字から始めるではありませんか。日本人のシナ文字の書きかたがいろ/\の點でシナ人と違ふのも、このためかと思はれます。てがみ、または公の文書でも、行書または草書風の書きかたによつて、いくつもの文字をつゞけて書くのが日本人のならはしでありましたが、これはひらがなの書きかたが適用せられたもの、またはひらがなとまぜて書くところから生じたことと考へられます。ともかくも、かういふ風にして文字が民衆の間にゆきわたることになりましたが、これは日本の全體の文化が民衆的性質をもつてゐることと深い關係があります。なほ日本人の生活が、どの方面でもたえず實質的に精錬せられ、日本の文化が歴史の發展と共に、次第に内容をゆたかにし高めも深めもして來たことは、カナ文字をつかふことと離しては決して考へられません。日本の文學も藝術もまた學問も、カナ文字がなくては決して發達しなかつたのであります。第一、カナ文字がなくては、どういふ意味においてにせよ、民衆教育といふことはできなかつたでせう。しかし、カナ文字に誘はれてシナ文字が廣くゆきわたつたことは、――あまりにゆきわたりすぎたことは、かへつて日本の文化の發達を妨げることになりました。あまり弘まりすぎてそのしまつに困つてゐるといふのが、現在のありさまであります。
 ところで、これまで申してまゐりましたやうに、シナの文化の發達しなかつたこととシナ文字とは密接の關係があり、日本の文化の發達したことはカナ文字によるところが大きかつたとするならば、これから後、シナ文字をつかひつゞけてゆくことが日本の文化の發達のためには大きな妨げになる、といふことは、改めて申すまでもないことと思ひます。シナ文字が文化の發達を妨げるといふことは、文字そのものについていふと、シナのことばの數だけ文字が(75)あり、またその文字が複雑な形をもち劃の多いものであるために、それを多く知りそれを正しくつかふには、ひどいほねをりをしなければならず、それがためにほんとうの心のはたらきが弱められるといふことが、おもな理由でありませう。シナ人の學問がいはゆる記誦の學であつて、さういふ學問をして來たシナ人にほんとうの知性が發達せず、科學的にものを考へる力が足りないといふのも、一つは文字のためであります。近ごろになつて注音字母といふやうなものを作り、おひ/\音をうつす文字に改めてゆかうといふ企てをしましたのは、シナ文字をつかふことから來るこの弊害に氣がついたからであらうと思ひます。注音字母は一種のカナでありますが、日本が千年も前に作つたものを、今になつてやつと作るやうになつたのであります。シナですらさうですから、シナのことばとはまるで違ふことばをもつてゐる日本人がシナ文字をつかふ弊害は、實に大きなものであります。シナ人にも生ずる弊害の上に、日本人がつかふために起る弊害が加はるのであります。日本のことばの外に、それに相當するシナの古いことば、即ちシナ文字の古い音、とシナ文字とを、一々知らねばならず、一つのことばについて二重三重の知識をもたねばならぬことだけを考へても、いかにそれが日本人の知性の發達を妨げるかがわかるはずであります。なほシナ文字はシナのことばを寫したものでありますから、それは一つ一つのことばのしるしとしての文字であるばかりでなく、その文字のつかひかたはシナのことばのくみたてと關係があります。ところが、そのシナのことばのくみたてが、前に申しましたように、甚だ幼稚なものであり、その幼稚なしかたで複雜なことをいひあらはさうとするために、むりな、或はきまゝな、或は曖昧な、いひかたが多く、それが一々文字のつかひかたの上に現はれてをります。從つてさういふシナの文字、またはそれによつていひあらはされてゐるシナの古いことば、を日本人がつかふことは、日本人の思想を混(76)亂させ、日本のことばを混亂させ、或は退化させることになります。このことについては、もう少し詳しく申しあげねばなりませんが、今日はそれを省くしことにします。
 たゞ最後に一つ申しあげたいと思ひますのは、今日の時勢において、日本はシナで大きなはたらきをしなければならぬが、それには日本人がシナ文字を使はなければならぬ、シナのことばを學ばなければならぬ、かういふ考が出てまゐりまして、それがためにシナ文字が今までよりも一層日本にひろまつて來る、或はそれをひろめようとしてゐる傾向がある、といふことであります。これは日本の文化にとつてはまことに危險なことであります。なぜ危險であるかは、これまで申しましたところで十分明かだと思ひます。日本人がシナではたらくといふことは、日本の文化の力でシナを開發するといふことであり、それには日本のことば日本の文字をシナ人の間にひろめてゆくといふことが伴はねばなりません。さうして、日本のことばをシナ人の間にひろめるには、シナ文字をつかふことは、却つて大きな妨げになります。特殊の任務をもつてゐる人々には、シナのことばを知りシナの文字を知ることが、もとより必要でありますが、日本人全體にさうさせる必要は少しもありません。日本人がシナに對して效果のあるはたらきをするについて何よりも大事なことは、日本人がすぐれた文化をもつこと、從つてまた日本の文化をます/\進めてゆくことでありますが、それについて大きな妨げになるものは、シナの文字を日本人がつかふことであります。このことをよく知つておかねばなりません。これから後は、いろ/\の點において日本人のシナ化を警戒する必要があると思ひますが、それには、日本からシナ文字をとりのけるといふことが、一つの方法であると思ひます。
 然らば、どうしてシナ文字をつかはないやうにするかと申しますと、その方法なり順序なりには、いろ/\むつか(77)しい問題がありませう。しかしそれについては、この國語協會において既にそれ/\おしらべなり御研究なりがあると承はつてをりますから、それによつて一歩一歩、この目的に近づいてゆくやうになることを、日本のことばのため、日本の文化のために、祈つてゐる次第であります。
 
       おひがき
 
 この小稿でいつたのは、日本人はこれから後シナ文字をできるだけ用ゐないやうにすべきだ、といふことであり、それには、シナ文字とそれによつて記されてゐる古典的シナ語とを用ゐずして、何ごとをも表現することのできるやうに、日本のことばを精練してゆかねばならぬ、といふことが伴つてゐる。しかし不幸にして昔からの日本の文獻は、カナ文字の作られた後でもシナ文字を多く用ゐてあり、またおもてだつたもの學者の書いたものの多くは、いはゆる漢文である。だから日本のこと日本人の思想なり事業なりを知るには、どうしても多くシナ文字を知りまた漢文の讀めるやうにしなくてはならぬ。それができなくては日本のことがわからぬ。今の日本人に日本のことを知らないものの多いのは、シナ文字と漢文との知識の無いことが大きな原因になつてゐる、とわたくしは考へる。今の日本人の生活、日本の文化、が歴史的に發達して來たものである以上、過去の文化、過去の生活、から離れて、今の日本の文化、今の日本人の生活、は無いからである。これからシナ文字を用ゐないやうにすることと、これまでに書かれた漢文を讀みシナ文字を知らぬばならぬといふこととは、矛盾する考のやうであるが、兩方ともに必要であることは事實である。その間にはいろ/\のいりくんだ關係があるが、事實はどこまでも事實である。シナ文字をできるだけ用ゐない(78)やうにせよといふことは、シナ文字を知らなくてもよいといふことではない。漢文がわからなくてもよいといふことでもない。誤解があるといけないから、これだけをいひそへておく。(昭和二十七年四月〕
 
(79)     第六 神樂考
 
 今日に傳はつてゐる古い謠ひもののうちで最も大切なのは神樂歌であらう。應仁の亂後に於ける朝廷の式微につれて、内侍所の御神樂も一たびは中絶したが、世の太平に歸すると共にまた復興せられて、今も宮中の貴重なる儀禮として行はれてゐる。代々神樂を傳へて干餘年間も連綿とつゞいて來た多家も、今なほ宮廷の樂人である。いくらかの變化は長年月の間にあつたであらうが、ともかくも大體に於いて古調の保たれてゐることは疑が無い。平安朝のころ既に絶えてゐたものを江戸時代で再興した久米歌などとは趣がちがふ。しかし、この神樂の起源竝にその性質などについては古來種々の説があるにかゝはらず、なほ不明の點が多いやうであるから、これに關する卑見の一二を述べて識者の教を乞ひたいと思ふ。
 普通の説によると、神樂は神前に於いて奏する歌舞であつて、その起源はアマテラス大神の岩戸がくれの時にある、即ち神代から傳はつた我が國固有の音樂で、その旋律も伴奏樂器の和琴や神樂笛も日本特有のものだ、といふことである。事物の起源をいはゆる神代に置くのは、いふまでもなく、學術的價値の無いことであるが、神樂がもし外國樂の入つて來なかつた前から存在し、さうして後世になつても外國樂の影響を蒙らずに保存せられたものならば、これは音樂史上、甚だ興味の深いことである。けれども、かういふやうな通俗の説は、あてにならないのが常である。それで先づ神樂が何時ころから如何にして行はれたかをしらべてみよう。
(80) しかし本文に入る前に、神樂とはどういふものかを一言しておかう。神樂の歌として今傳はつてゐるものは、だれでも知つてゐる如く、庭燎、採物、大前張、小前張、星、雜歌、などの名で分類せられてゐる三十餘曲であるが、採物といふのは榊、幣、弓、劍、鉾、などの題目があつて、形式は三十一音の短歌、曲としては第五句をくりかへす、さうして二首づつを本末に組み合せて一題目の下に收めてあるが、その間に歌としての意義の連絡は無い。また歌の内容は神祇に關係の有るものも無いものもある。その大部分は、歌風から考へると、平安朝に入つてからの作らしい。なほ雜歌に編みこまれてゐる晝目、竈殿、酒殿、及び弓立の一部は、すべての性質が採物とほゞ同じである。大前張以下のには、短歌と形式の定まつてゐない俚謠めいたものとがあつて、中には星の吉々利々のやうな法華懺法の晨朝偈の句をそのまゝに採つたものさへある。星を除く外は短歌の形式のものも俚謠めいたものも、一首が本末に分けてあつて、早歌などの僅少のものの外は、何れもくりかへして歌ふ句が多い。歌の意義は神祇に關係のあるものは無く、俚謠らしいものの中にはかなり猥雜なものもある。さうして前張、特に大前張、の短歌は、いはゆる萬葉調に近いものである。但し今日宮中で演奏せられるものは、これらの全部ではなく、庭燎、採物の榊および韓神、小前張の薦枕および篠波、それから、千歳早歌と星と雜歌の朝倉および其駒とであつて、はじめに阿知女作法といふのが別にある。さて演奏は歌人が木方末方に別れて唱和し、舞人は人長といふもの一人で、その舞は歌とは關係の無いものである。伴奏の樂器は和琴と大笛(一名神樂笛)と篳篥とで、拍子は笏拍子である。
 さて、中古以來、宮中の儀禮として神樂の奏せられる場合は、十一月の内侍所の御神樂が主なるものであつて、その他には、賀茂臨時祭の時の還立の神樂がある。江次第によると、内侍所の御神樂は先づ勸盃があつて、それから、(81)採物の榊、幣、韓神、を奏し、それが了ると人長の舞がある、さて酒一巡の後、才の男の散樂があり、次に前張、朝倉、其駒、を歌ふ、其駒の時、人長がまた舞ふ、といふ順序である。その演奏者は近衛の召人と殿上地下の陪從とであつて、人長は近衛の召人から撰ばれる。次に賀茂臨時祭の邊立の神樂に關する江次第の記事は、曲目にやゝ明瞭でない點があるが、ほゞこれと同樣であるらしい。近世の神樂式は大體に於いてこれらの記事に似てゐるから、やはりそのころからの習慣が持續せられて、時と共にいくらかの損益があつたものと思はれる。次に江次第より前に溯つて見ると、内侍所の御神樂の始めは、樂家の傳では、寛弘の内裡燒亡後のこととも長保年間のことともいはれてゐて、確かな年代はわからないが、西宮記にも北山抄にもそのことが見えないから、江次第に一條天皇の時からだとしてあるのは、事實を傳へたものらしい。また賀茂臨時祭の始めは宇多天皇の寛平元年であるが、その場合の神樂については、北山抄に延喜二十二年にもまた延長三年にもあつたことが見える。のみならず、醍醐御記の延喜九年十一月二十三日の條に「使等還參、賜飲食如初、次召群臣於庭燎前、依次令奏神歌、左兵衛佐敏相爲人長、歌了、奏神樂如常、宴了給禄、」とあるのによると、この年よりも前から行はれてゐたのである。多分臨時祭の始まつた時からの習慣であらう。ところでこの場合の神樂の曲目はどうかといふに、西宮記に「御神樂儀、出御、召公卿、召舞人等、着座了後、先三獻、次人長參任、御神樂取物、了後一獻、次人長進出、次前張、歌其駒間、給禄、」とあるから、源高明の時代にはほゞ後世のと同じであつたやうである。その前になると、延長三年の時には才の男の態も人長の舞もあつたやうに北山抄及び政事要略に引いてある吏部記に見えてゐる。また貫之集の延喜五年の屏風の歌に「十一月神樂、置く霜に色もかはらぬ榊葉のかをるや人のとめて來つらむ」といふのがある。この神樂は賀茂臨時祭のであらうが、歌の(82)「置く霜」は「霜八度び」とある採物の榊の歌のことばによつたものである。(屏*風の歌であるから實景を詠んだものであり、從つてこの神樂が夜行はれたものであることが知られる。)これらから考へると、延喜のころから神樂の歌として採物の歌を含んだものがあつたらしいが、或は前張もそれに含まれてゐたかと思はれる。(前に引いた醍醐御記にある「神歌」は採物の歌であらう。このことは後にいはう)。多分これは臨時祭のはじまりからの例かと思はれる。普通には今の神樂譜が一條天皇の時の編纂だといはれてゐて、内侍所の御神樂が同じ天皇の時に起つたものであるのに參照すると、それは事實らしく見えるが、歌にいくらかの増減はしば/\行はれながら、大體に於いて同じやうな組合せのもの、少くとも採物と前張との含まれてゐる神樂曲が寛平延喜時代から存在したのであらう。かう考へると、賀茂臨時祭よりもずつと後にはじまつた内侍所の御神樂の曲目は、初めからほゞ今傳はつてゐるものと大同小異のものであつたらう。從つて内侍所の御神樂は賀茂臨時祭の還立の神樂を摸倣したものであることが推察せられる。その演奏者についても、年中行事秘抄の賀茂臨時祭の條に寛平元年の御記を引いて「習東舞、近衛府官人中堪哥曲者十五人爲倍從、」とあるが、朝野群載に引いてある外記日記には「寛平三年十一月廿四日…勅使右兵衛督藤原高經、率遊男二十人、參上下社、皆着青褶、歌舞如例、其遊男、左右近少將侍從殿上藏人衛府列官等奉仕、」とあるから、少くともこの年からは、近衛の樂人や殿上人が參向したらしいので、還立の神樂も同じ人々によつて奏せられたであらう。さすれば内侍所のも、初めから殿上人が陪從として加はつてゐたらうと思はれる。
 さて以上の二つの場合の神樂は、神事に關係はあるが、何れも神前で奏するものではない。内侍所は神器を奉安してある尊い場所ではあるが、勿論、神殿ではなく、賀茂臨時祭の還立の神樂は、宮中から賀茂神社へ差遣せられた舞(83)人等が歸參した時、餘興として庭上で演ぜられたものである。さうして、どれにも神事に關係の無い前張の類があり、また才の男の散樂めいたものがある。宇治拾遺にある家綱兄弟の話を見ても、内侍所の御神樂の有樣が想像せられ、それに餘興的性質の伴つてゐることが知られる。
 ところが、なほ別に宴樂の餘興として奏せられた神樂がある。それは大嘗會の巳の日に行はれる清暑堂(豐樂院の後房)の御神樂であつて、江次第によると、その演奏者は殿上人であつて、人長の舞も才男の態もなく、たゞ神樂歌として採物の榊、幣、杓、韓神、を歌ひ、次に前張、朝倉、其駒、を奏するので、それからすぐに管絃の御遊(即ち唐樂や催馬樂の演奏)になる。だからこれは神樂を奏するといふよりも神樂歌を歌ふといふ方が適切である。これが何時から行はれたかは明かでないが、北山抄に溯つてみると、「有御遊事」として「宸儀御御座、殿上王卿依召着座、即給酒肴、并賜管絃器、先彈和琴、唱神歌、次變調、奏律呂歌、」とある。御遊としてあるから、律呂歌は催馬樂であらう。さてこゝには神樂の文字が無いが、その順序が江次第とほゞ同じであるから、「神歌」としてあるのが江次第の「神樂歌」に當るらしく見える。けれどもその歌が後の神樂歌と同じであるかどうかは疑はしい。神樂歌と書いてないのみならず、神歌の名は同じ書の同じ大嘗會の場合に引いてある承平記及び新式にも出てゐて、新式には午の日の饗宴に神祇官がそれを奏することが見えるからである。(新式は新儀式のことである。その作られた時代は明かでないが、群書類從にある殘缺本に天暦九年までのことが例に引いてあるから、それよりは後であらう。)それがどんなものかはよくわからないが、神樂の語が世に行はれてゐる時代に特にこれを神歌といつてあるのを見ると、少くとも兩者の間に何かの相違があつたであらう。(清暑堂御神樂といふ語は日本紀略の後一條天皇長和五年の條に見え(84)るから、遲くともこのころからはそれを神樂と稱へてゐたことが知られ、從つてこの時のはその歌も江次第に見える如く後の神樂歌であつたらうと察せられる。)ところが北山抄時代より前になると、この場合のことはなほさらわからない。清暑堂の賜宴と絃歌とは古くからあつたので、三代實録の貞觀と元慶との大嘗會の條にも「琴歌神宴」とあるが、琴歌の性質もまた明かでない。中右記の天仁元年の條に「舊神樂譜云、昔貞親御時神宴之日、被撰定神樂歌者、若是此御神樂之事歟、彼時磯等前ト云歌依有禁忌不被歌云々、此事可尋知、依何詞哉、然而其後又歌也、」とあつて、これによると中右記の書かれたころには貞觀の時に神樂歌を定められたと云ふ傳説があつたことがわかるが、それが後の神樂歌だかどうだかは、當時でも明かでなかつた如く、今でもやはり疑問である。その疑問を解くには別の方面から考へてかゝらねばならぬが、それは後にいふことにする。
 大嘗會に關する神樂については、なほいふべきことが一つある。それは悠紀主基兩國の風俗歌に御神樂の歌といふものがあることであつて、榮華物語の日蔭の鬘の卷に見える長和元年の大嘗會の記事に、稻舂歌、御神樂の歌、參入音聲、樂の破の歌、樂の急の歌、退出音聲、とて六首の歌がある。大嘗會の風俗歌は勅撰集や家集にも散見してゐるし、中にも稻舂歌と神樂歌とのことは、袋草子や八雲御抄などにも見えてゐる。さて榮華物語の記事に參入音聲以下の四首は二日(悠紀の方には何の日とも書いてないが主基の方には辰の日と巳の日とになつてゐる)に渉つて奏せられるので、毎日の分が別々に作られてゐるが、初めの二首は一つづつしか無い。ところが「儀式」の卯の日のところに「造酒童女先舂御飯稻…且舂且歌【歌詞當時製之、】」とあるから、稻舂歌はこの場合のものであらう。北山抄以下には見當らないやうであるが、匡房卿の大嘗會の記といふものにはあるから、名義だけなりとも後まで續いてゐたらしい。けれ(85)ども神樂の歌のことは「儀式」以下どの書にも見えない。(たゞ古事類苑に引いてある長和元年記といふものに、隼人の吠聲の後に「左右近神樂」の語が見える。「儀式」や北山抄には隼人が吠聲を發した後、國栖の風俗歌舞があり、次に「悠紀奏國風四成」とあつて、後々の記録にもみなさうなつてゐるから、神の字は衛の字の誤かと思はれる。兩國の風俗歌舞は、もとはその國人が土地固有のものを奏したのであらうが、それは早くから廢れてゐたらしく、記録の殘存する時代では、その國の名所に因んで新しく作つた短歌を樂所で作曲し、雅樂寮または近衛の樂人が奏することになつてゐた。承和元慶の大嘗會の風俗歌は現に古今集に見えてゐる。)だから榮華物語に神樂の歌といつてあるものが如何なる場合に奏せられたかは不明であるが、特に神樂の歌として別のものがあるのではなく、國司の率ゐる歌人等の奏する風俗歌の一つであつたことだけは推測せられる。さうして神樂の歌の名が「儀式」などの書に見えないことから考へると、それを神樂の歌といふのも公式の名稱ではなかつたのではあるまいか。金葉集の賀の部に辰の日の參入音聲の歌と巳の日の樂の破の歌とがあるが、何れも風俗歌であることを參考すべきである。歌の破とか急とかいふことも風俗歌としては不相應な名であるが、これは或は參入音聲のを序として次の二つを破急にあてたものかも知れぬ。但し參入音聲の歌といふ名は續千載新千載によると天慶九年の村上天皇の大嘗會の時のに見えてゐる。
 なほ他の場合のこととしては、園韓神祭の時の神樂がある。この祭については、北山抄に「神遊、御巫舞、畢、神部等持神寶舞廻、…次倭舞、」とある(江次第にも「神祇官歌遊、御巫舞、…次神部四人持神寶舞退、榊、鉾、弓、劍、等也、…次倭舞、」とある)のみであるが、「儀式」には神子や神部の湯立舞、官人の和舞、等が奏せられ、大臣以下の退出することを記した後に「神祇官率御巫物忌神部等歌舞、即調神樂於兩神殿前、造酒司史生酒部等候、進朝神樂(86)料酒一缶、」と見えてゐる。延喜式の四時祭式の園并韓神三座祭の條に「五色帛各三尺【朝神樂※[米+斤]】」とある朝神樂も同じものであらう。こゝに特に朝神樂としてあるのは、夜になつてから始まるこの祭が、神樂のころには翌日の朝になるからのことと思はれる。さうして、それが大臣以下退出後のこととしてあるのを見ると慰勞的餘興的のものらしいのである。兩神殿前に調すとはあるが、それは場所を示したまでであつて、必しも祭儀の一部として神前に奏するといふのではなからう。たゞその神樂の曲がどんなものであつたかは、これだけではわからないので、後の神樂の曲の如き組み立てであつたと想像すべき材料は無い。また演奏者も後世の神樂とは違つて、神祇官所屬の御巫、神部、及び神琴師、笛工、などである。たゞ「儀式」の作られたころに於いて神樂が、神事の後のことながら、娯樂的のものとして演ぜられてゐたことはこれでも察せられる。(「儀式」は貞觀のものだといふ説もあるが明かでない。けれども延喜よりは前のものらしい。)さすれば三代實録の仁和元年十月の條に「天皇御紫宸殿、右近衛右衛門右兵衛三府并右馬寮献物、是去五月六日武徳殿前競走馬之輸物也…奏音樂種々散樂、日暮…於玉階前奏神樂、歌※[人偏+舞]極歡、喚諸衛宮人内竪等能歌者預之、」とある如く、神事に關係なく單に娯樂として奏せられたのも不思議ではない。(この神樂の内容はやはり不明であるが。)
 次に今一つ神樂の演ぜられた場合は鎭魂祭の時であつて、北山抄に「神遊、【衝宇氣間、女藏人開御服箱振動、】所司羞饌如常、事畢、中宮同行、神樂、畢、倭舞、」とある(江次第には「神祇雅樂神樂、次御巫衝宇氣、神琴師彈和琴、衝宇氣神遊儀也、…次神樂、畢、次倭舞、」と見えてゐる)。この神樂もまたどんなものか不明であるが、とにかく神遊とは別なもので、而も神前で奏するもの、といふことだけは知り得られる。その演奏者もやはり神祇官の巫女もしくは神部などであらう。(87)前に神遊とあり次に神樂とあるから、神樂は即ち神遊のことと見られないでもないやうであるが、かういふ次第書きの書き方にはほゞ一定の樣式があつて、同じことを重ねてはいはない例であり、且つ同じものならば前に神遊と記しながら、すぐあとに語を換へて神樂といふはずも無からうから、この二つは別のものと見るのが當然である。この次第を「儀式」に「御巫始舞、毎舞巫部譽舞三廻…御巫覆宇氣槽、立其上、以鉾撞槽…訖、御巫舞、訖、次諸御巫※[獣偏+爰]女舞、畢、次宮内巫一人、次侍從二人、次内舍人二人、次大舍人二人、舞訖、」とあるのに對照して見ると、神遊が御巫の舞及び宇氣槽をつく作法であり、倭舞が侍從以下の舞であるらしいから、神樂といふのは「御巫※[獣偏+爰]女舞」に當るものとも解せられる。しかしこゝに注意すべきことがある。宇氣槽を撞くといふのは、神代の物語に見える鈿女命がうけふせてふみとゞろかした故事をうけついだものだといひ傳へられてゐて、それは學術的に無價値な説明であるが、この作法が遲くとも大同以前から鎭魂祭の場合に用ゐられてゐたことは、古語拾遺に「凡鎭魂之儀者天鈿女命之遺跡也」とあるので知られる。さうしてこのことと、同じ書に「猿女君氏供神樂之事」とあるのとを、結びつけて考へると、※[獣偏+爰]女君は鈿女命の裔だといふのだから、少くとも大同のころには宇氣槽の作法などを神樂といつてゐたらしく見える。けれども「儀式」では、この作法が※[獣偏+爰]女でない御巫の奉仕することになつてゐる。さうして、當時それを神樂といつてゐたかどうか、この文字が見えないから不明である。北山抄は明かにそれを神遊のうちに入れて神樂とは別のものとしてゐる。時代と共に稱呼にも演奏者にも變化を生じたのであらう。
 記録の上で神樂の名の見える場合はほゞ右に述べたとほりである。その他には忠見集に「水のほとりに神樂する、水上のこゝろ流れて行く水にいとゞなごしの神樂をぞする、」といふのが見えてゐるから、延喜前後になごしの神樂(88)(即ち夏神樂)があつたことが知られる。しかしこれは、野外の演奏でもあり、公の儀禮としては記録にも見えてゐないものである。たゞ三代實録及び類聚三代格に載せてある貞觀八年の太政官符に、六月十二月の祓除神宴に諸衛府舍人并に放縱の輩が酒食を求め被け物を要めることを戒めてゐるのがあるから、「なごしの神樂」はこの神宴の時に行つたものらしく推測せられる。さすればやはり遊戯的のものである。
 さて以上述べて來たところを總括していふと、後世普通に神樂といはれてゐるものの如く採物の歌や前張やを組み合はせた樂曲を近衛の樂人や殿上人などが餘興的娯樂的に奏することは、早くとも寛平延喜ころより前に溯つて史上に明證を求めることはむつかしいが、神樂と名づけられたものを娯樂として奏することは仁和時代にもあり、また神人等が神事の餘興として奏することも延喜以前の時代までたどつてゆかれる、しかしまた別に神樂の名で神人などによつて祭儀として神前に奏せられたものが、後世北山抄の作られた時代にも存在し、これとは違ふものでありながら、同じやうに神前で奏する作法を古く大同時代でも神樂といつてゐた、といふことである。それより前は萬葉に「神樂聲」とかいて「ササ」と訓ませてあるくらゐのことより外、文獻上の徴證が何も無い。これは勿論殘存の記録でわかることだけであるから、史上の初見がその事の起源として考へられるはずのものではないが、知り得る限りではまづこんなものである。ところで、知られたことの範圍内に於いて考へる場合に、神前に奏する神樂と餘興的のものとの間に、または神部等の奏するものと近衛の樂人や殿上人の奏するものとの間に、どんな關係があるか、また上にわからないといつておいた種々の場合の神樂について何か臆測ができないか、といふ問題が起るが、それには今一度立ちもどつて後の神樂の曲の内容をしらべ、その發達の徑路を研究する必要がある。
(89) 後のいはゆる神樂歌には上に述べた如く早くから採物の歌と前張との二つのものが含まれてゐたらしいが、先づ採物のを吟味すると、その中には古今集に神遊の歌として載せてあるものがある。神遊がいはゆる宇氣を衝くことばかりでなく、御巫神部の歌舞を總稱したものであることは、上に引いた北山抄の園韓神祭の次第でも知られる。採物といはれたものは神祭の場合に神遊として御巫か神部かが物を持つて舞ふことをいつたのであらう。現に北山抄の園韓神祭のところに神部が持つて舞ふとある神寶を、江次第に榊、鉾、弓、劍、などだとしてあるのは、古くからの習慣によつたものらしく、さうして神樂歌の中の採物にやはりそれらのものがあるのである。また採物の中に組みこんである韓神は園韓神祭の神遊に歌はれたものであることが、名稱の上から察せられる。なほ弓の歌の「獵夫らが持たせの眞弓」と、劍の歌の「石の上ふるや男の」とは、年中行事秘抄に見える鎭魂祭の歌と同じものであつたらう。(この鎭魂祭の歌は後世に記されたものであるから訛つたところが多いが、昔から歌ひ傳へられたものであらうと思はれる。もつともこの二首も、また「三輪山にありたてるちかさを」及び「吾妹子が穴師の山の」なども、その意義が鎭魂にも神事にも何の關係の無いものであるが、神事に奏する神遊の歌が必しも神事を詠んだもののみでないことは、古今集の神遊の歌によつて見ても知られるから、これらもやはり昔から鎭魂祭の神遊に用ゐられたものであらう。現に最後のは古今集に採られてゐる。)それから、後世では別に阿知女作法といつてこと/”\しいものになつてゐるアチメ、オケ、といふ詞も、鎭魂祭の歌の各首ごとに見える。(阿知女作法といふのを、歌曲と離して、神樂のはじめにのみ奏するのは、ずつと後世のことである。江次第などにもさういふことは見えず、古い神樂譜には一曲ごとにそれが記されてゐたといふことである。これはもとは一種のハヤシのことばであつたに違ひない。現に神樂歌の弓立や(90)催馬樂の青柳には、オケ/\といふ詞が一節の終ごとにある。鈿女の語から訛つたなどといふのは取るに足らぬ。)その他、幣、杖、鉾、の歌は豐岡姫の神に關係がある。(雜歌の中には入つてゐるが、竈殿と酒殿とは、眞淵の説の如く、竈神と酒造司の祭神との祭に用ゐたものであらう。晝目の歌といふのも、歌はちがふが、神遊の歌として古今集に同じ題のが出てゐる。多分アマテラス大神を祭る場合のものであつたらう。また弓立といふのも湯立舞の歌らしい。)これらの歌はそのとき/”\に作られたのもあらうし、或は舊いものをそのまゝに歌ひついだのもあり、または古歌などを適用したのもあらうが、數はかなり多かつたに違ひない。歌として古今拾遺に撰び入れられ、樂としては神樂曲に取り入れられて今に傳はつたものは、その一部分に過ぎなからう。現に古今拾遺に見えてゐても今の神樂曲の中に無いものがある。かう考へて來ると、いはゆる神樂歌(主としてその中の採物の歌)に神遊の歌が採りこまれてゐることは疑があるまい。さすれば、初め神樂といつたのはかういふ神遊のことであつて、後に神樂の曲目が定められた時、それに前張以下が附加せられたのである、即ち神遊が神樂の本體である、といふ舊來の説が一應は承認せられさうに見える。けれどもよく考へると、さう輕率に斷言することはできない。
 第一に、前に述べた如く神遊の名と神樂の語とを同じ意義に用ゐた明證が見當らない。それから、神樂は廷喜以前から既に餘興的なものの稱呼として用ゐられてゐるが、神遊はその後も神前で奏するもののみを指してゐて、二つの間には截然たる區別があつたらしい。第二に、採物としてある歌の一部は神遊の採物から來てゐるらしいけれども、さうでないものも入つてゐる。即ち篠の或説の「笹の葉に雪ふりつもる」、弓の或説の「梓弓春來るごとに」は、饗宴の歌で、劍の或説は本末共に解齋の倭舞の歌らしいのである。(倭舞の歌が三十一音の短歌であることは、古今集(91)に古き倭舞の歌があるのでわかる。)採物の歌といふのは本來神遊の歌であるべきはずであるのに、神樂のうちの採物の歌が神遊の歌でないものを含んでゐることから考へると、神遊が神樂の本體であると見るのは困難であらう。もつともこれには或説としてあるから、後世に附け加へたものだとすればそれまでであるが、第三にかういふことがある。神樂は歌人が本末二組に分れて唱和することになつてゐて、これは歌垣などの例でも知られるやうに、多人數の合唱する場合に古くから行はれてゐた習慣であるが、それには一首の歌を兩方にわけて歌ふのが自然である。本末といふ語がすでにそれを示してゐるのみならず、短歌の方では昔からこの意義に用ゐられてゐる。神樂の一部をなしてゐる前張のはこの自然の状態にかなつてゐるが、採物の歌では本末が一首づつ各別になつてゐるのみならず、その間に意義の連絡の無いのが多い。これは甚だ不自然なしかたであつて、本末兩方に分れて歌ふ本意に背くものである。現に園韓神祭や鏡魂祭などの祭儀に行ふ神遊の時には、かく本末に分れて歌ふことが見えない。さすれば、本末の唱和は、神遊の方式が前張に適用せられたのではなく、却つて前張が本末に分れてゐるのを見て採物の歌にも強ひてそれを適用したものであらう。さすれば、神樂としてはむしろ前張がもとであつて、採物の歌があとから附け加へられたのではなからうか。また前張はその歌が一定して居るのに、採物の歌は或説といふものがどれにもある。かういふことのあるのも、後の神樂歌は前張が本體であつて、採物の歌がその中にあるのは、後になつていろ/\ある神遊の歌をとき/”\に採り用ゐた故であらうと思はれる。それから第四に、神樂の樂器には篳篥がある。篳篥が何時から加はつたかは明かでないが、天慶五年に石清水に奉納せられた東遊にやはりそれがあるのを見ると、賀茂臨時祭の東遊にも初めからこの樂器があつたらしく思はれ、從つてその時の還立の神樂にも、やはりこれが加はつてゐたのであら(92)う。然るに神遊の樂器はいはゆる神琴神笛のみである。鎭魂祭の神遊が、後世になると名は神樂といはれるやうになるが、樂器は昔のまゝであつて決して篳篥が加はらない。例へば長秋記の大治二年の鎭魂祭の條に「始神樂、纔琴笛許也、」とある。これで見ると、神遊は後世までも神遊として昔のまゝに行はれ、名は神樂とせられる場合があつても、いはゆる神樂とは全く別のものとなつてゐるのである。だから神遊が神樂になつたのではない。また神琴は和琴であらうが、神笛は後の神樂笛と同じものであつたかどうか疑はしい。(このことについてはなほ後にいはう。)さて第五には、内侍所の神樂、またそのもとになつてゐる賀茂臨時祭の還立の神樂は、演奏者が近衛の官人竝に殿上地下の陪從であつて、神祇官にも何の關係が無く、勿論神遊に奉仕する御巫や神部ではない。神樂の演奏者は、賀茂社へ參向した時でも、神遊を奏すべき身分ではない。まして祭儀を終へた後に宮廷に歸つてから餘興として演奏する神樂であるから、それが神遊を奏するのでないことは明かであらう。演奏の有樣からいつても、人長の舞ふのは採物の歌の了つた後であり、また採物を歌ふ時でも實際物を持つて舞ふのではない。だから、神樂では神遊の歌や採物の歌を歌ふけれども、神遊を奏するのではないのである。かう考へると、いはゆる神樂の本體が神遊でないことは明かであつて、神樂に神遊の歌を歌ふのは、清暑堂の御遊の前に神歌を歌つた如く、神事に關係があるだけに儀禮的に歌つたまでのことであらう。
 いはゆる神樂の本體が神遊でなく、採物の歌が主でない、といふことがわかれば、前張がもとになつてそれから發達したのではあるまいか、といふ上記の臆測が力を得て來る。前張は前にも述べた如く、古歌俚謠の類を含んでゐて中にはかなり猥雜なものもあるが、さういふものだけにおもしろく興あるものとして古くからもてはやされてゐたら(93)しい。もつともこれは大前張小前張の二つに分れてゐて、小前張は歌風から見て幾分か後のものらしく見えるが、少くとも大前張の中の短歌の形式のものは傳來が古いと見なければならず、さうして俚歌俗謠などはよし後に加はつたものにせよ、それが加へられても不調和でないだけの性質が樂曲としての大前張に存在してゐたのであらう。(ついでにいつておく。前張の名は、その中の一首である「裂榛に衣は染めん」の歌を裂榛即ち前張と呼んだのがもとで、それと同じ種類のものの總稱になつたといふ説に從はねばならぬ。前張に屬する曲名のつけかたも、みな同じである。催馬樂と同じ語だといふ説があるが、催馬樂は唐樂または高麗樂の旋律で歌はれ、伴奏にも和琴の外に唐樂などの樂器を用ゐるのに、前張は本末に分れて歌ふ古風が保存せられてゐて、その樂器も和琴と笛とであり、その他には何時のころからか篳篥が加はつてゐたのみであるから、樂の性質から見てもこの二つは同じでない。)さて前張は歌の内容からいふと神事には何の關係も無いものが多く、また本來神前で奏すべきものではなからうが、祭事または神宴などの餘興に歌ふにはふさはしいものであつて、現にその中の宮人は古語拾遺に當時宴樂に用ゐられたことが明記してある。饗宴の際に琴を彈じ和歌を唱ふことは奈良朝以來の習慣であるから、平安朝になつてから、さういふ歌が或る時期に前張の名の下に一括せられ、神宴の場合に歌はれるものとなつた、と考へられる。(今は前張の中で短歌の形式を具へてゐるものは少いが、これは幾度か増減せられた結果であつて、初めからあの通りに定められてゐたのではあるまい。)もしさうとすれば、神樂の名そのものが本來この前張などの稱呼ではなかつたらうか。後の神樂も舞よりは歌の方が主であること、むしろ舞は歌と無關係なものを附け加へたのみであることを考へても、それが前張の系統をひいてゐることが推察せられる。「儀式」の園韓神祭の時の神樂は即ちこれではなからうか。また上に述べた三(94)代實録の仁和元年の條に見える神樂も、これと同じものだとすれば都合よく解釋ができる。神遊、即ち巫女神部の舞や神祇官の琴師笛工等の奏する樂、によつて「歌舞極歡」といふほどの興があらうとは思はれぬ。神祇官の琴笛がしばしば絶えんとして纔かに命脈の維がれて來たものであることは、類聚三代格に見える延暦十八年及び承和十四年の太政官符などによつてもわかるが、これはその琴笛が儀禮的に奏せられるのみで興味のないものであつた故であらう。時の人がおもしろいと思ふものに學びてのないはずはない。さすれば「歌舞極歡」といふやうな神樂は、この神遊とは別のものでなくてはならぬ。それを前張だと見るのに無理はなからう。前張の歌がこんな風におもしろいものであるならば、神部等も祭の後の神宴に歌ひ興じたであらうし、殿上地下の音樂好きにももてはやされたのであらう。さうしてその間には時に臨んでいろ/\の俚謠なども附加せられ、また小前張の一組もできたものと察せられる。賀茂臨時祭の還立の神樂といふものも、その主とするところはやはりこれであつたらう。
 しかし、前張のやうな謠ひものは本來神樂としては不相應でないか、といふ疑が起るが、それには一應神樂の歴史を考へてみる必要がある。神樂の文字についてもカグラの稱呼についても、その意義と由來とは今なほ明かになつてゐないが、ともかくも、神を祭る場合の遊宴歌舞を指したものには違ひあるまい。神の祭祀に歌舞し飲食することは原始時代からの風習ともいふべきものであるので、そのことが祭祀の儀禮の一つでもあるから、かういふことが行はれたのである。ところがシナの文物が入つて來て、朝廷の儀禮が嚴めしくなつて來ると、一方では祭祀がおも/\しい儀禮とせられると共に、他方ではそれに伴ふ宴樂も盛に行はれるやうになるのが、當然であるから、原始的の祭祀遊宴はこゝで二つに分れた。奈良朝時代は恰もその時であつて、いろ/\の祭祀はいふまでもなく、猿女が神前で宇(95)氣槽をつくといふやうな呪術も儀禮として行はれると共に、祭祀などの儀禮の後の神宴で歌舞して興を助けることになり、さうしてそれらを總稱して神樂といつてゐたのではあるまいか。臆測に過ぎないことではあるが、かう考へると上に引いた古語拾遺の説も都合よく解釋せられさうである。これには猿女氏が神樂に奉仕するとあり、また神祭の後に絡夜宴樂して宮人を歌ふとある。(崇神天皇云々は歴史的事實ではないが、大同のころにかういふ風習のあつたことは疑がなからう。)宴樂の歌舞を神樂と稱したといふ明文は現存の記録には無いが、神樂の由來と、かういふ場合に神宴といふ語が常に用ゐられ、また宮人の曲が後の神樂の前張に含まれてゐるのとを、互に參照すると、この推測に無理はあるまい。上代の民間の風俗が貴族化せられまたは儀禮化せられながら、朝廷に用ゐられたことは、寶龜元年の歌垣などからも類推せられるのである。然るに弘仁天長のころになると、朝廷の儀禮にシナ風の取扱ひかたが取入れられ、從つてまたそれが甚しく煩雜になつて來たので、祭祀の儀禮も同じ徑路をとらなくてはならなくなつた。現に桓武文徳の朝には郊祀の禮をさへ模倣したほどである。そこで神祭の場合にもシナの宗廟社稷の祭祀にならひ、三十一音の短歌を樂章として神前に歌舞を奏することになつたらしい。神遊が即ちそれである。神遊といふ名はもつと古いもので、またそれがもつと廣い意義を有つてゐたであらうが、記録に見えるやうになつてからはみなこの意義に用ゐられてゐる。歌舞をアソビといふことは古いいひかたであり、神事に關する歌舞とても、もとは單にアソビといつてゐたらしいが、特に「神」の語が加へられたのは、外國風の歌舞が行はれるやうになつてから、それとは性質の違つた古風の歌舞が神事に奏せられたからのことではあるまいか。さてこの神遊の舞には、榊とか弓とかのいはゆる採物をもつて舞ふものがあり、從つて歌にも採物の歌と稱せられるものがあつたのであらう。神歌といはれたのも、(96)やはりこの神遊の歌のことではあるまいか。前に引いた延喜九年の御記の神歌も、西宮記の賀茂臨時祭の記事と對照して見ると、やはり採物の歌とするのが穩當の解釋であらう。承平記及び新式に見える神歌も、神祇官の奏するものであるから、これもまた同じものと考へられる。後の神樂曲にある採物の歌や古今集に見える神遊の歌は、その中の一部分が遺存してゐるのであるが、それがさして古いものでないことは、歌風から見てほゞ平安朝初期ごろの作であるらしいことから、推測せられる。それで、儀禮としての神遊は一種神聖なものとして神樂から分離したが、いはゆる神宴の餘興としての神樂、即ち宴樂の歌舞は、依然として神樂の名によつて行はれ、或る時代にその歌が前張としてまとめられたのであらう。貞觀の時に神樂歌を制定せられたといふ傳説がもし信ずべきものであるならば、その神樂歌は即ちこれであつたであらう。前張が神樂の名を負ひ、神遊とは別なものとして行はれるやうになつた由來は、こんな風ではなかつたらうか。
 さて、この神樂は、上に述べた如く園韓神祭の場合などのやうに、神祭の後で神遊に奉仕した神部等が演じたこともある。それは興あるものだからであるが、反對に、神遊の歌、即ち神歌は、一般にはひろく行はれなかつたであらう。しかしいはゆる神宴の時などには、半ば儀禮的に半ば遊戯的にそれを歌つたこともあらう。清暑堂の饗宴の神歌といふものは即ちそれではあるまいか。もしさうとすれば、賀茂臨時祭の還立の神樂に當つて先づ神遊(採物)の歌を歌つたのも、同じ事情から來たものであつて、それが慣例となると、曲目が自ら定まり採物の歌と前張とが組み合はせられたいはゆる神樂曲ができ上がつたのであらう。こゝで一旦分離した神樂と神遊とが再び結合した姿になつたが、それは或る特殊の場合のことであつて、神遊は神遊として後までも存在し、さうして神樂の本體はやはり前張で(97)あつて、二つのものが混淆したのではなく、特に神樂にとられた神遊はたゞ歌のみであつて、神遊そのものでないことは上に述べたとほりである。しかし前張の神樂も、始めのうちこそ神遊とはちがつて娯樂的のものであつたけれども、時代が經つに從つて次第に儀禮的になり、しまひにはそれをも神前に奏するやうになつたらしい。鎭魂祭の場合に神遊の後で奏したと北山抄に見える神樂は、即ちこれであつて、「儀式」時代の御巫※[獣偏+爰]女の舞に代つたのではあるまいか。(後世には神遊のことを神樂ともいふやうになつて名稱が混亂して來たが、北山抄時代にはさうでなかつた。古今集に神遊の歌としてあるのと同性質のものが拾遺集には神樂歌となつてゐるが、これはいはゆる神樂曲に編みこまれた採物などから採録したからのことであつて、一般に神遊を神樂と稱したからのことではなからう。その中に前張に屬するものが入つてゐることからも、さう考へられる。)また内侍所の御神樂に至つては、娯樂的の神樂が儀禮化せられたと共に、その娯樂的性質がなほ殘つてゐることを示すものである。平安朝貴族の趣味としては、如何なる場合でも儀禮が娯樂化せられてゐると共に、娯樂もまた儀禮的になつてゐる。例へば儀禮に饗宴的性質が含まれてゐると共に、饗宴が儀禮ばつたものである。神祭の場合などは殊にさうであつて、祭祀か饗宴か明かな區劃がないくらゐに見える。饗宴が祭祀の儀禮の一つであつたことは古くからの習慣であるが、平安朝に於いてはかういふ特殊の意味もある。さうして神前で奏する歌舞にも宗教樂らしい性質は少しもなく、またシナ風の儀禮の取扱ひかたが學ばれたらしくはあるが、その歌詞樂章は少しもシナ的の業々しいものではない。これは古代ながらの神樂の遺風もあり、日本人の性情にもよらうが、また平安朝人の趣味の發現でもある。それからまた、時勢の推移と嗜好の變化とから、古い歴史を有つてゐる或る事物について實際上の興味が無くなると、その古くから行はれてゐるといふ點が却つてそ(98)のことを神聖視する原因となつて、本來は娯樂的のものが一種の尊い儀禮として保存せられるのが、當時の風習であつた。例へば大嘗會の儀禮などにはかういふ性質のものがある。内侍所の御神樂が儀禮として行はれるやうになつたのも、また同一の現象であらう。ついでにいふ。佛教にも宗教樂は無い。法會に樂は奏せられたが、その樂は少しも宗教的性質を帶びてゐない唐代の燕樂であつた。日本に來てから本來の燕樂たる性質を失ふと共に、日本人はそれを燕樂として受用することができなかつたから、莊嚴なものとして用ゐられても怪まれなかつたのである。神樂が後世神聖なものとせられて來たのは、それが神事に伴ふものであつたからであるが、一つはこれに似た事情からでもあつたらう。
 さて、かういふ風にして後のいはゆる神樂曲が編成せられたが、今傳はつてゐるものはその後に幾度か變改が加へられたものであらう。饗宴の歌や倭舞のなどを採物のとして組みこんだのも、後のことかも知れず、また神遊の歌らしいものが雜歌の中に入れられてゐるのも、一旦採物の歌の曲目が定まつた後に増補したからのことであらう。それから、星などの入つたのはずつと遲いことかと思はれる。さうして採物などは、本來あまりおもしろいものでないから、漸次すたれていつて、江次第の書かれたころには、公に演奏せられたものは三四曲に限られてゐたらしい。さうしてそのころには、人の感興をひくものとしては別に今樣などが起つてゐたのであるから、昔のおもしろく思はれた前張なども、單に儀禮的演奏となつて了つて、はてはかの傳授といふやうな風習が生ずるやうになつた。たゞさうなつてからも、神樂の秘曲が宮人とせられてゐたのは、神樂の本體が前張であつた歴史的由來の全く忘れられずにゐたものらしく、その點に興味がある。
(99) 然らば前張の神樂は本來如何にして傳へられたか、また神遊の歌をとり入れて後の神樂曲が編成せられたのは何時のことであるか、といふのが次の問題である。前張はもとより公式のものでないから、特にそれを學び傳へる官衙などがあるはずは無いが、近衛府などの樂人がそれを傳習したものらしい。近衛府の奏樂は天長ごろから史上に見え、その後漸次盛になつて、雅樂寮よりもこの方に勢がついて來た。舞樂が左右二部に組織せられたのも、このことが縁になつたのであらう。さうしてその樂人は唐高麗の樂のみならず、國風の歌舞をも演じてゐたので、東遊の演奏者なども殆ど彼等に限られてゐた。東遊または東舞の名で明かに史上に見えるのは、三代實録に出てゐる貞觀三年の大佛供養の時が始まりで、この時も近衛の樂人が演奏した。逸史天長三年十二月の條に「近衛奏東國之歌」とあるのも同じものらしい。さすればそのころに近衛の樂人が同じく國風の歌たる神樂(前張)を傳習しまた演奏したと考へるのも、失當ではなからう。貞觀年中に右近衛將藍であつた多自然麿が神樂道の祖であると傳へられてゐるのも、根據の無いことではないであらう。(この傳説が事實だとすれば、當時の神樂が神道でなかつたことはいよ/\明かである。彼は神祇官に屬する神部などの奏する神遊に參與する身分のものではない。)前に述べた仁和元年の神樂も、あの記事によれば主として近衛等の官人が演奏したものらしく見える。東遊や後の神樂の樂器に篳篥のあるのも、平素、唐高麗の樂を演奏してゐた近衛の樂人がそれを用ゐたからのことであらうから、前張の伴奏にも早くからこの樂器が入つてゐたことと思はれる。以上は前張のことであるが、神遊の歌と近衛の樂人との間に何か關係があつたかといふに、神遊そのものは近衛の樂人と何等の關係も無いけれども、その場合の歌人歌女は雅樂寮から出張する例であつたから、近衛が樂界の實權を握るやうになつてからは、この歌人歌女の練習は近衛で行つたのではないかと思はれる(名義は(100)雅樂寮であつても)。三代實録を見ても、仁和以後は雅樂寮奏樂の記事が殆ど無いから、雅樂寮は事實上そのころから廢れてゐたのであらう。さすれば、それに代るものは近衛府である。かう考へると、神樂(前張)と神遊の歌とを結びつけて後の神樂曲を編成した時代も、ほゞ推察せられる。多分寛平に賀茂臨時祭が始まつた時、東遊を奏する爲めに派遣せられた近衛の樂人が、歸參の後に餘興として神樂(前張)を歌ふに當り、神遊の歌をその前に加へたのが慣例になつたものらしい。後世のやうな演奏法もこの時から始まつたので、舞人が人長と稱するのも、近衛にさういふ稱呼があつたのではなからうか。採物の歌の伴奏樂器に篳篥の加はつたのも、この時からであらう。
 以上は後のいはゆる神樂曲が寛平延喜ごろに編成せられ、その性質は神前に奏する嚴めしいもの神聖なものではなくして、餘興的娯樂的のものであつたこと、竝にそれが從來行ほれた神事の場合の宴樂の歌、即ち古い意義での神樂歌、から來たものである、といふ臆説の大要である。さてこの古い神樂は、奈良朝ころから引き續いて行はれたものであるらしいが、その時代のことは文獻の上から推察することはむつかしい。そこで次には、この神樂の音樂的性質について、いさゝかの臆測を試み、それが果して我が國固有の樂であるかどうかを調べ、傍ら奈良朝時代の神樂の有樣に論及してみよう。
 まづ樂器から考へてみるに、後の神樂の樂器は和琴と大笛(神樂笛)と篳篥とであるが、篳篥がシナ傳來のものであることはいふまでもない。和琴についても、それがシナ系統の樂器であることは高麗樂考で略述しておいた。また大笛も唐樂の横笛や狛笛やまたはむかし東遊に用ゐられたといふ中管やと、音律に二律または一律づつの差があるのを見ると、これもまた同一種類のもので、やはり唐樂と共に輸入せられたものであらう。但しその中でも和琴は最も(101)早く傳來したものらしいから、それが我が國に固有のもののやうに思はれたのである。さて、神樂にこれらの樂器を用ゐることは、遲くともその練習なり演奏なりが唐高麗の樂に熟達してゐた近衛の樂人の手に歸した時代からの、即ち後の神樂曲のまだ編成せられなかつた古い神樂の時代からの、ことであつたらう。しかし神祇官の神遊の樂器がこれと同じものであつたかどうかは、問題である。神遊に篳篥の無かつたこと、いはゆる神琴が和琴であつたことは、疑が無からうが、神笛が後の神樂笛だかどうだかがわからないのである。神笛は前にもいつた如く、延暦十八年の太政官符で、特に神笛生二人を置き特典を與へてそれを奨勵したほどであり、また延喜の雅樂式に「凡諸樂横笛師等不解和笛、不得任用、」とある和笛も、この神笛と同じものらしいから、習ひての少かつたものである。但し承和十四年の官符に見える如く、神琴もまた絶えさうになつたのに參照すると、これは神笛を用ゐる樂曲をさしてゐるには違ひないが、大笛が唐樂の笛と關係が密接であるならば、神笛として神祭にそれを用ゐてゐたかどうか疑はしく、或は東遊の中管が廢れて狛笛になつた如く、神樂で神遊の歌を奏するやうになつてから、神笛(和笛)が亡びて大笛になつたのではなからうか。(中管が廢れたのは體源抄によると堀河院の時であるから時代は違ふが。)和笛といふ名が後に傳はらないのも理由ありげである。けれどもその和笛とても、日本に固有のものだとは考へられず、雅樂式のこの文を見ても、それがやはり外來の笛の一種である横笛であつたらしく思はれる。コトもフエも日本語であり、また原始的の管絃樂器は如何なる未開民族の間にも存在するものであるから、外國樂の入つて來なかつた前からとういふものがあつたことは、推測し得られる。フエは吹奏樂器の擬音から作られた名にちがひないが、コトが彈絃樂器の擬音として解せられるかどうかは、問題である。絃樂器は管樂器よりも後れて發生したものとは考へられるが、絃をうて(102)ば音が出ることは知られてゐたであらうから、コトの語の由來如何にかゝはらず、簡單なひきもののあつたことを推測してもよからう。繼體紀に見える春日皇女の歌によると、竹で作つた琴があつたらしく、さうしてそれは日本に固有のものであつたかも知れない。(古事記の清寧天皇の卷に八絃琴の名が見える。もしその琴が實際文字どほりに八絃であつたとすれば、シナ傳來のものではないやうに見えるが、固有の琴に八絃もあつたといふことは信じられないから、これは十二舷の新羅琴、六絃の玄琴、もしくは七絃の琴、の絃數を八に改めて日本人の趣味にかなふやうにいつたのではあるまいか。また東遊の歌に「七緒の八緒の琴」といふ語があるが、當時果して八絃の琴があつたのか、疑はしい。恐らくは口調の上から七につゞけて八といつたまでであらう。かう考へると、古事記の八絃琴の八もまた數詞としての八ではなくして、絃の數が多いためにかういふ名ができたのかも知れぬ。)それから笛についていふと、後世まで大嘗會に奏せられた吉野國栖の楢笛の如きものは外國の傳來ではあるまい。その楢笛もどんなものかわからず、北山抄に引いてある承平記に「其笛似以指摩孔」とある頗る要領を得ない一句がこれに關する唯一の記録であるほどであるが、多分竪吹の極めて單純なものであつたらう。(伊勢大神宮の鳥名子舞に吹く笛は律管のやうな竪吹だといふ。これにも古風が遺つてゐるのであらう。横笛は竪吹よりも發達したもので、シナに於いても漢以後になつてから行はれたらしい。)ところで、これらの固有のものは、外國樂器が入つて來ると共に、容易にそれに壓倒せられたので、また壓倒せられるほどに幼稚なものであつたらう。だから和琴や和笛は、朝鮮及びシナから、一般文物と共に輸入せられたものと見なければならぬ。但しその文物の輸入は長年月の間に徐々に、また絶えず、行はれたのであるから、樂器についても種々のものがおひ/\に傳來し、また初めには樂器のみ入つて來たのが、後には樂曲と共にそ(103)れを奏する新しい樂器が齎された、といふやうなことがあつたので、前に入つて來て早く行はれ、またそれがために日本の歌舞に適用せられてゐたものは、後から入つて來たものと區別するために、和琴、和笛、などと稱せられたのであらう。(和琴は萬葉に日本琴と書いてあるところがある。)和琴の名は、元正紀養老五年の條に和琴師の名が見えてゐるから、その前からあつたに違ひない。和笛の稱も同じころには行はれてゐたのであらうが、今殘つてゐる記録の上では延喜式が初見かと思はれる。職員令に唐高麗などの外國樂師の外に笛師笛工があるのは、天武紀に見える詔勅に歌人歌女笛吹はその業を世襲せよとあるのと共に、この和笛を吹くもののことであらう。和琴のことは雅樂寮の官制には見えないが、寶龜四年の太政官符で神琴生が神祇官に置かれてゐる。さて三十一音の短歌を詠ずる時に和琴を伴奏にしたことは、萬葉にも續紀にも所々に見え、孝徳紀に川原史が短歌を上つた時琴を授けて之を唱はしむとある琴も、やはりそれらしいから、神事に關係のある歌舞にも早くからそれが適用せられて、神琴ともいはれるやうになつたのであらう。和笛もまた神事に用ゐられたことは上に述べたとほりである。但し神事でも饗宴のをりの奏樂(即ち前張など)になると、いくらか變通がきくから、樂器も奏法も興味のあるものになり、弘仁承和の前後、シナ風の流行につれて新に入つて來た唐樂の笛なども、それに應用せられたらうし(後の大笛、即ち神樂笛、はこのころから前張に適用せられたのではあるまいか)、また俚謠を唐高麗の樂の旋律に合はせて改作した催馬樂に和琴の用ゐられてからは、和琴の奏法も進歩して來たことと思はれ、從つて、近衛の樂人などによつて練習せられた神樂(前張)は、時勢の變化につれて、當時の人にも喜ばれるやうになつたらうが、神前の神遊は純然たる儀禮として行はれたものだけに、古風が維持せられたので、從つてその場合に用ゐられる神琴神笛は、興味の無いものとして嫌はれたので(104)あらう。要するに、前張を正系としてゐる神樂の伴奏樂器が外國傳來のものであるのみならず、神遊の樂器も決して我が國に固有のものではない。
 次に舞を見ると、手掌もやらゝに打ちあげるといふことが顯宗紀に見えてゐるが如く、我が國に固有のものは手拍子足拍子で踊つたので、舞といふよりは踊りといつた方が適切なものであつたらう。後世の盆踊がその系統に屬するものである。然るに奈良朝以後の大宮人の舞はそれとはちがふ。續紀に寶龜元年の歌垣の有樣を記して「毎歌曲折、擧袂爲節、」といつてある。手拍子足拍子ではない。これは、昔ながらの民間の風俗が、大宮人によつて、貴族化せられ唐化せられて行はれたことを示すものである。久米舞、楯節舞、田?、なども、名稱は昔のまゝながらその實は違つたものになつてゐたことは、この歌垣からも類推せられる。服装が唐化しただけでも、舞踊の姿態は變らねばならぬ。ましてシナ崇拜の當時、閑雅優美の風姿を喜んだ大宮人には、古代の快活な踊りは好まれなかつたであらう。五節舞の如きは、その起源を天女の舞に歸してゐるだけでも、翩々たる舞袖を翻すものであつたことが知られる。倭舞の如きも同樣であつたらう。この名は前に述べた歌垣の時から史上に見えてゐて、官人の奏するものである。倭といふのは外來の舞樂に對した稱呼であるが、舞そのものは新しく作られ、從つて唐風の影響をうけてゐるものに違ひない。かう考へると、奈良朝時代の神樂に舞があつたとしても、それは決して我が國固有の舞踊でなかつたことが類推せられる。たゞ後の神樂に於いて歌の拍子をとるに笏を用ゐるのは、神樂がもと/\即興的遊戯的のものであつたからでもあらうが、一つは木のきれなどを打つて拍子とした古風の傳へられたためでもあらうか。鼓などの用ゐられなかつたことから、かう考へられる。(萬葉卷六に神龜八年の作らしい短歌があつて、その題に「歌?所之諸王臣子(105)等…宴歌」とあり、序に「比來古?盛興…」と見えてゐる。この古?は新來の舞樂などに對していつたものかも知れぬが、やはり貴族的のもの、從つて純粹に國民約のものではなかつたに違ひない。その歌の短歌であるところからもさう見なければならぬ。また歌?所といふのは公の名かどうか疑はしいが、もしさうとすれば後の大歌所などの淵源ではあるまいか。)
 さて樂器が外來のものであり、舞踊も外來樂の影響をうけてゐるとすれば、それらと合はなくてはならぬ歌曲の旋律や節度も、また決して我が國に固有のものではなかつたらう。神樂については奈良朝時代の有樣は少しもわからないが、このころの神前に奏する儀禮の歌も宴樂のものも、概ね短歌の形式であつたことは、萬葉卷九にのせてある佛前唱歌、續紀天平十四年の條に見える宴樂の歌、さてはかの歌垣の歌、または後の前張、などから類推せられるが、短歌である以上、その曲節も、上代に民間に行はれた俚謠などとはおのづから趣を異にしなければならず、また短歌が製作詩である以上、それを作曲しなければならぬ。さうして公事に關するこの種の作曲は、多分雅樂寮の手でせられたであらうと思はれる。平安朝になつても神祭の場合の歌人歌女はみな雅樂寮から出張し、大嘗會の際の風俗歌も、雅樂寮から補任せられたらしい風俗所で作曲せられ、その歌人等もやはり雅樂寮のものであるから、奈良朝でも同樣であつたらう。雅樂寮では唐高麗等の外國樂の外に日本風の歌舞をも練習してゐたから、かういふ任務に當ることができたけれども、その歌舞が純粹の國風のものでなかつたことは前にも述べたところで推察せられる。(ついでにいふ。何時ころからか大歌所といふものが雅樂寮の外にできて、續紀天應元年の大嘗會の條にはその奏樂のことがある。世間往々この大歌所を神樂催馬樂などの謠ひものを司る所と説くものがあるが、それは誤であらう。大歌所の奏樂の(106)ある場合は、「儀式」、内裏式、西宮記、北山抄、江次第、などの諸書を綜合して見ると、正月元日の豐樂院饗宴、七日の會式、十六日の踏歌、十一月の新嘗會及び大嘗會の節會、などである。神樂などには關係がない。特に催馬樂はもと/\殿上人の遊興であつて公事ではないから、これに關する官司などのあるはずがない。)
 平安朝の神遊の神歌は、かういふやうにして作られた奈良朝時代の曲節が大體に於いて保持せられたものらしいが、神樂の前張は、上に述べた如く時と共に曲節も變遷して來たのであらう。さうして前張に俚謠が加はるやうになつても、その曲節は實際民間で行はれたまゝのものではなく、著しく改訂せられてゐたに違ひない。民謠そのまゝの歌ひかたでは樂器にも合はず、また貴族の趣味にも適はなかつたと思はれるからである。現に同じく民謠をとつた催馬樂の如きは全く唐樂化または高麗樂化せられてゐる。また東遊の歌も決して東國人の曲節とは思はれない。近衛の樂人が唐樂から來た中管などを伴奏にして歌ふのであるから、この點から見ても、それが本來の東國風とは著しく變つたものであることは推測せられる。(もつとも今傳はつてゐる譜は、歌が半分になつてゐたり、そのつゞけがらが整つてゐなかつたりするところから見ても、よほど後のものらしい。)これらのことから類推して、前張の歌の有樣もほぼ想像せられよう。少くとも後世の三絃に上つた田舍歌が眞の田舍歌でないと同じ程度の變化は、あつたに違ひない。神樂として後世に傳はつてゐるものは種々の分子があるので、その旋律法も一樣ではなかつたらうし、またその歌ひかたなどは、神樂曲が定められた後にもいくらかづつ變化して來たらしく、大笛の太さも和琴の調絃法も古今必しも同じでないことが、教訓抄や體源抄などを見ても察せられ、一般樂界の形勢からいつても、堀河院前後が變動の時期であつたらしく見えるから、後世の樂家が神樂を一越調だとか盤渉調だとか或はまた平調だとかいつてゐるのには、(107)從ひ難いが、體源抄は出てゐる一説の如く上代は無調なりといひ、また樂家録に見える説のやうに神仙調なりといふのは、或は確かな古傳により、或は實際歌曲を調べた上の説らしく、根據ありげである。神仙を主調音としてゐるものはいはゆる唐樂の六調子には無いから、無調なりといふのも、畢竟これと同じことになるかも知れない。しかし神仙調といふのは大笛(神樂笛)と密接の關係があるらしいから、後に傳へられた唐樂の樂曲にこそこの調子は無いが、外國傳來の樂器たる大笛に影響せられてゐることは、推測せられる。さすれば、後の神樂歌の曲節が決して上代から傳はつたものでもなく我が國に固有のものでもないことは、ほゞ察せられる。古い神樂、即ち前張、も大體はこれに似たものであつたらう。
 しかし神樂は、後には神事そのものとなり、從つてその演奏には、唐高麗の樂舞とは全く異なつたものとして、本來もつてゐたその特殊な情趣がます/\濃かになつて來た。これには、それに含まれてゐる神遊のから傳へられたところもあらうが、その樂曲も舞人の舞容及びその服装も、簡素であり清楚であり、特に内侍所のに於いては、その季節と場所と設備とがそれと相應じて、一種森嚴の氣を漂はせる。今日もなほ昔ながらに奏せられる宮廷の御神樂が即ちそれである。
  * (  )内の文章につき、〔コレハ誤デアラウ〕の傍記がある。
 
(108)     第七 伎樂考
 
 我が國の音樂史には解釋を要する幾多の問題が問題のまゝで遺つてゐる。シナから傳來した樂曲について、そのシナの如何なる樂が如何なる徑路によつて傳來したかといふやうな外面的の問題すらも、まだ十分に解決せられてゐないものが多い。推古天皇の朝に百濟人味摩之が傳へたといはれてゐる伎樂の如きも、その一つである。伎樂は寺院樂として用ゐられたものであるが、後世の多くの民間演藝が寺院の裡から現はれて來たその一例として、伎樂もまた民間樂の主要なる一淵源となつてゐる。樂器についていふと白拍子の伴奏に用ゐる銅?子や掌で打つ鼓、舞についていふと獅子舞も伎樂から出たものらしい。謠曲の石橋から出て長唄の文句にまで使はれてゐる「獅子團亂旋の」といふその「獅子」は、唐樂としても行はれたが、教訓抄に「笛と大鼓鉦鼓とばかりなり」とあるやうに、普通の唐樂とは樂器も違つて、後に述べる伎樂の樂器に近いから、もとは伎樂の曲であつたらう。それほど民間演藝に關係の深い伎樂の由來が明かにわかつてゐないのは、遺憾のことである。
 伎樂は古くから傳はつてゐるにかゝはらず、今日では鎌倉時代に作られた教訓抄によつて、始めてその曲目などを知ることができる。それには、師子、呉公、迦羅樓、金剛、婆羅門、崑崙、力士、大孤、醉胡、といふ順序に記されてゐて、その後に武徳樂が附け加へてあるが、これは唐樂の曲である。しかし天平年間の法隆寺資財帳に伎樂の調度として面の名が見えてゐるが、それがてうどこの曲目と同じで、たゞ冶道といふのがその外に一つあるばかりである(109)から、教訓抄の伎樂は大體昔のまゝのものであることが知られる。さて味摩之がこの伎樂を傳へたのは、書紀によれば推古天皇の二十年だといふ。もつとも姓氏録には欽明天皇の朝に歸化した呉人が伎樂の調度一具をもつて來たといふ話があるが、この時に樂もしくは舞をも傳へたのかどうか明かでないし、またその伎樂が味摩之の傳へたものと同一であるかどうかもわからないから、いはゆる伎樂は推古朝に始めて傳來したものと見るのが穩當であらう。さて書紀には味摩之の言として「學于呉、得伎樂?、」と明記してあるから、伎樂は呉即ち南朝で行はれてゐたものには違ひあるまい。百濟と南朝歴代との關係を考へると、南朝に行はれてゐた樂が百濟に傳へられたことは、自然の徑路であらう。推古天皇二十年は隋煬帝の大業八年に當るので、陳の滅びてから二十四年も後であるが、公式の交通は絶えても、百濟人が六朝の舊都に往復することは、隋代になつてからも行はれたであらうし、また味摩之が彼の地で舞を學んだのは陳代のことであつたかも知れない。何れにしても伎樂が呉から傳へられたといふことは事實らしく、奈良朝時代にはそれを呉樂とも稱へてゐた。天平勝寶元年に東大寺で、天平寶字五年に藥師寺で、また神護景雲元年に山階寺で、呉樂を奏したといふことが續紀に見えてゐるが、令の雅樂寮の條に見える伎樂を、義解にも集解にも「謂呉樂」と注してある。さてこれまでは明かであるが、然らばその呉で行はれた如何なる樂であるかといふと、話はそこでゆきつまる。
 この難關を何とかきりぬけようとして、南朝の樂に關する史上の記載をかれこれ渉獵すると、隋書音樂志に見える梁の武帝が無遮大會に用ゐたと傳へられる法樂童子の伎といふものが見あたる。伎樂が寺院に於いて行はれたこと、また伎樂の曲目に婆羅門とか迦羅樓または金剛とかいふインド風の名があることから考へて、伎樂をシナでもやはり(110)寺院樂であつたものと推斷すると、この法樂童子の伎に由縁がありさうに見える。吉田束伍氏がこの二つを結びつけたのは確かに一つの見解である(史學雜誌第十六編第九號「日本音樂史の古代について」)。しかしその法樂童子の伎がどんなものであつたかといふと、これもまたよくわからない。たゞ隋書の本文には「帝既篤敬佛法、又制善哉大樂大歡天道仙道神王龍王滅過惡除愛水斷苦轉等十篇、名爲正樂、皆述佛法、又有法樂童子伎、童子倚歌梵唄、設無遮大會則爲之、」とあるから、それによつていくらか樣子がわかる。これらの記事は歌曲のことを迷べてゐるところにあるので、武帝の時には普通の歌曲の外に佛教の功徳を歌つた曲もあつたといふのが大體の主意で、法樂童子の伎についても「倚歌梵唄」といふ點に重きを置いて述べてある。元來漢魏の遺聲を傳へてゐる南朝歴代の樂は、いはゆる宗廟社稷の祭祀に用ゐられる雅樂は勿論、民間のものでも歌曲が主になつてゐるので、このことはそれが傳へられた隋唐の清樂(一名清商樂)によつて見てもわかる。我が國に唐樂の一として、歌曲の無い舞樂としてのみ傳へられてゐる玉樹後庭花も、本來は、かの杜牧の秦淮の詩でだれでも知つてゐる如く、南朝人の間に行はれてゐた歌詞に絃管をきせたものであつて、その歌は陳の後主の作といはれてゐる。だから梁の武帝によつて宗教樂として起された法樂童子の伎も、やはり歌曲が主であつたに違ひない。「倚歌梵唄」の語は歌と梵唄との關係がよくわからぬが、童子等が自ら歌ふにせよ、別に歌者があつたにせよ、その歌につれて何かの伎を奏するのであつたらう。或はこの語は歌と梵唄とに倚るといふ意味で、歌は漢語の歌詞のことかとも思はれるが、さうすると、その歌は上に列擧してある十篇もしくはその類のものであつたらうと察せられる。さうしてその伎は、同じく南朝の歌舞で隋書や唐書に見える清商伎によつて、類推すべきものではなからうか。舊唐書音樂志にはこの清商伎を評して「舞容閑婉、曲有姿態、」といつ(111)てあるが、南朝人の趣味から考へてもさうありさうなことである。法樂童子の伎も同樣ではあるまいか。樂器についても明かな記事は無いが、佛教的歌曲が正樂として取扱はれてゐたとすると、さうして法樂童子の伎の、歌曲がそれと同樣なものであるとすると、その樂器も正樂、即ち宗廟社稷に用ゐる雅樂、と同一のものであつたらうと思はれる。ところが我が國に傳はつた伎樂はこれらの點に於いてひどく樣子が違ふ。
 伎樂は初めから舞として取扱はれてゐる。書紀には前にも引いた如く「伎樂舞」とあり」それを學んだものも「習之傳其舞」と書いてあるから、よし樂があつたにしても、樂よりは舞の方が主になつてゐたに違ひない。即ち耳にきく樂として感ずるよりは、目に見る舞として時の人に認められたものである。その樂はどんなものかといふと、教訓抄によれば、樂器が笛と三鼓と銅?子とだけである。笛があるから旋律ある樂聲を奏することができるかも知れないが、あとは鼓と銅?子との打ち物ばかりで、絃樂器は何も無い。これだけ見ても樂としては甚だ貧弱なものであることがわかる。令によると、雅樂寮の唐樂師は十二人であり高麗百濟新羅樂師は各四人であるのに、伎樂師はたつた一人である。その外に腰鼓師が二人あるが、腰鼓はクレツヾミといはれてゐるから、伎樂の鼓は腰鼓師が教へて伎樂師は?と笛とを教へたのであらうか。これで見ても伎樂の樂器は鼓が主であることが知られ、從つてそれが樂としては程度の低いものであることが知られる。さうしてその學生は樂戸から取ることになつてゐるが、これは推古朝以來の歴史的關係からでもあらうけれども、續紀に見える天平三年の雅樂寮學生の規定に、唐百濟新羅樂等の學生はそれそれの樂の教習に堪へるものを取るのに、度羅諸縣筑紫舞等は樂戸から取ることになつてゐるのを參考すると、樂戸から取られるのは樂として價値の少い、殆ど樂らしくない、ものだからであらう。教訓抄では伎樂の笛を一越調や盤渉(112)調に吹くことになつてゐるが、これは後世になつて唐樂の旋律を適用したのであらう。樂曲そのものも「雖有別曲、近來用承和樂、」とあるやうに、固有の曲をすてて唐樂を假用し、また武徳樂のやうな唐樂を終に附け加へたことによつても、それが推測せられる。さうして固有の曲の廢れたのは、それが幼稚でおもしろくないものであつたからであらう。笛そのものも本來の伎樂の笛は廢れて唐樂のものに變つてゐたに違ひない。(ついでにいふ。教訓抄では伎樂の鼓が三鼓になつてゐるが、本來は三鼓ではなくして腰鼓である。腰鼓は體源抄に「俗云三ノツヽミ」と注しながら「古老傳曰腰に付て撥をば不用して以手打之。光時云此鼓者興福寺常樂會の中門に新樂一部あり、この樂器の内に立【細長鼓也、】他所不用、…今世に更に不用之、仍而如絶也、」と記してある。三鼓は今でも高麗樂の鼓として用ゐられてゐるから、廢絶した腰鼓は三鼓ではなからう。光時の言といふうちに新樂一部云々といふ語は解し難いが、興福寺の常樂會に獅子のあることから考へると、これは手で打つ腰鼓が伎樂のもので、光時の頃にはそれが廢つてゐたことをいつたものであらう。興福寺に伎樂の傳はつてゐたことは教訓抄に見えてゐる。)伎樂の樂はかういふ貧弱なものである上に、歌曲は初めから無かつた。さうしてその舞といふのも、今東京帝室博物館に陳列せられてゐるやうなあの面をつけてのしぐさであるから、一種の物まねらしいものであらう。教訓抄にも、崑崙、力士、大孤、等の曲を説明して、女を懸想するさまだとか、崑崙の降伏する樣だとか、または佛を禮するのだとかいつてゐる。かういふやうな説明は信用することができないが、ともかくも舞といふ文字によつて普通に聯想せられるやうな閑雅なものではなく、物まねらしく見えること、從つて歌曲の伴ふものらしくないことは、ほゞ想像せられる。また萬葉卷十六に「池上の力士舞かも白鷺の鉾食ひもちて飛び渡るらむ」といふ歌があるのを見ると、そのころ鉾のやうな長いものを持つてはねま(113)はる力士舞といふものがあつたらしいが、力士といふやうな名は外來のものに違ひないから、多分伎樂の力士から出てそれを學んだものであらう。池上は十市郡にある郷名で、伎樂を傳習する樂戸は櫻井にあつたから、場所も遠くない。して見ると、伎樂には長い竿を持つて飛びまはる輕業めいたものもあつたらしい。要するに、笛と鼓と銅?子とで囃したてて、獅子頭をふり動かしたり、滑稽じみた物まねをしたりするものである。さうしてこれらの樂器は西域樂系統のものであつて、シナの雅樂に用ゐられたものではない。なほ婆羅門といふやうなインド風の曲名はあるが、佛教の功徳をのべたものなどがあるやうには見うけられぬ。教訓抄には大孤について佛を禮するさまだといふ説明を與へてあるが、その前の崑崙力士や後の醉胡から考へると、これは附會の説らしく見える。佛教に關係ある樂曲の名としては、前に引用した梁の歌曲や、少し後の書物ではあるが南卓の羯鼓録に見える諸佛曲調に、盧舍那仙曲、阿彌陀大師曲、菩薩阿羅地舞曲、といふ類のがあることやを考へて見ても、佛教そのものの教理なり功徳なりまたは佛の名なりが表はれてゐるべきはずのやうに思はれる。かう考へると梁の法樂童子の伎と伎樂とは、その間によほどの距離があるらしい。
 しかし樂や舞が日本に傳はつた後にシナの原曲と趣の異なつたものになることもあるから、伎樂についてもさういふことが無かつたとは限らない。例へば歌曲の如きは、もとあつたものが無くなつたのではないか、と疑へば疑はれないこともない。現に唐樂にその例がある。我が國に傳はつた唐樂は讌樂なり教坊の樂なりであつたらうが、それには前に述べた玉樹後庭花のやうに清商樂から來たものもあり、破陣樂や慶善樂のやうに立部伎の堂々たるものから來たものもあつて、かういふシナで作られたものには、歌詞があつた。それから龜茲樂などの西域樂でも大抵は歌詞が(114)あつたらしい。隋書音樂志の西涼樂龜茲樂天竺樂康國樂疎勒樂等の條下を見ると、何れも歌曲の名が出てゐる。これらのうちには通典に胡樂のことを記して「按此音所由、派出西域…胡語直置、難解、」といつてあるやうに、原語の詞を用ゐたものもあつたらしく、隋書に見える龜茲樂の歌曲の善々摩尼解曲、婆伽兒舞曲、などは、その曲名も原語のまゝらしいが、中には隋書の同じ條に見える汎龍舟などのやうに、新に漢語の歌詞をつけて改作したものも多かつたらう。李白集に于?採花曲といふのがあるが、これは古樂府の題をとるのと同じく、胡曲の題によつて新作を試みたもので、それには本辭があるのを見ると、隋書の西涼樂の條に見える于ゥ佛曲もその類であつて、胡曲に漢詞を附した一例であらう、だから、我が國人の學んだ唐樂の樂曲にも大抵は歌詞があつたことと思はれるが、それが全く傳はつてゐない。後世には咏または囀といふ詩のやうなものが附いてゐるものもあるが、これは文獻通考に「歌詞雖甚彫刻而膚淺」と評してあるやうに、極めて拙いもので、日本人の作らしく、而もそれは舞人みづから詠ずるものであつて、歌者があつて歌ふべき本來の歌曲とは趣がちがふ。(その咏さへも後には行はれなくなつた。)もつとも大同四年及び嘉祥元年の官符によると、令に定められた唐樂師唐學生のうちには歌師歌生があつたらしいが、それは何を教へ何を學んだものかよくわからない。或は最初は歌曲を傳へようとしたのが、實際はそれが外國語であるために行はれなかつたのかも知れない。かういふ變化は、むかし外國樂を傳へた場合にはありがちのことであつたらう。だから伎樂でも、單に傳來の有樣から考へると、これに類似したことが無かつたとはいはれず、特に一百濟人が傳へたものとすれば、原曲のまゝに少しの遺漏も無く傳へることはできなかつたので、歌詞なぞは本來あつても傳へられなかつたのではないか、ともいへばいはれる。けれども上に述べたやうな伎樂そのものの性質から考へると、歌詞などは本來(115)無かつたものらしく推測せられる。それからまた全體の情趣が佛教樂らしくないといふことは、動かせない事實であらうと推斷せられる。伎樂を我が國の寺院で用ゐたのは、それが佛教樂であるためではなく、唐樂などもまだ傳來しなかつた時代のことで、法會などに用ゐる音樂が何も無かつたために、それを假用したのではあるまいか。てうど唐樂が來てから、それが毫末も宗教的意義の無いものであるにかゝはらず、寺院で盛にそれを用ゐるやうになつたのと同じことであらう。さうして唐樂が盛に行はれるやうになると共に伎樂が漸次廢れて來たのも、伎樂に特殊な宗教的情趣があつたのではなかつたためであらう。伎樂といふ名も、寺院樂に用ゐたために我が國で付けたものと思はれる。佛教では音樂を伎樂と稱へるのが普通の慣例で、佛の説法の場合に天から花がふつて伎樂がきこえるといふやうな話も見え、極樂では天人が伎樂を奏するともいはれてゐる。舒明紀二年の條に「五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺、」とあるのも、それから來た物語であつて、これで見ても、當時の人が伎樂といふ名に對する觀念が知られる。以上述べて來たところから考へると、伎樂を宗教樂と推斷するのが既に誤である。少くとも不確實である。從つてこの推斷を基礎として梁の法樂童子の伎にそれを結びつけようとするのは、一層危險なことではあるまいか。
 それならば伎樂は何であらうか。前に引いた論文で吉田氏が説いてゐる如く、その曲目を見ても樂器を見てもまた面を見ても、それが西域系統のものであることには疑があるまい。獅子舞は太平樂即ち五方獅子舞として唐の立部伎に取られ、繩を持つものが崑崙の服飾をするといふことが、舊唐書音樂志に見えてゐて、伎樂と遠い因縁がありさうだが、段安節の樂府雜録によるとその樂曲は龜茲樂らしい。それから吉田氏が、同じ樂府雜録に見える鼓架部の樂を引いて、面などのことを論じたのも適切である。この鼓架部は、笛、拍板、答鼓(即ち腰鼓)、兩杖鼓、といふ樂器(116)から見ても、面のあること、また九頭獅子などといふ曲目があることから見ても、最もよく伎樂に似てゐるのであつて、伎樂の銅?子の代りに拍板があり、また伎樂に無い兩杖鼓(羯鼓か)のあることなどは、取り立てていふにも及ばぬほどの些少の差異である。樂器が笛の外は打ち物ばかりであるといふことは、全く同一である。またその曲目に尋撞跳丸吐火呑刀といふやうな、散樂百戯に屬するものが加はつてゐること、その部に屬してゐる撥頭(我が國にも來てゐる唐樂の拔頭)などが、唐書音樂志ではやはり弄椀珠伎などと同樣に散樂として取扱はれてゐ、文獻通考にも、陵王(これも我が國に傳はつてゐる唐樂の一である)撥頭などの、面を用ゐるものを散樂の部に入れてあることを思ふと、鼓架部の曲は面を被つて踊る卑俗な物まねと輕業ともいふべきものとであつて、本來樂といふ名のつけられるほどなものではなく、大體からいふと歌曲なども無いものであつたらう。これがやはり上に述べた伎樂と似てゐる。(たゞ隋書音樂志の煬帝が散樂を好んだといふ話について「其歌舞者多爲婦人服」といふことがあるから、散樂でも物によつては歌のついてゐるものがあつたかと思はれるが、散樂といふものの性質から考へると、それは稀有の例であらうと思ふ。)なほ唐書音樂志には散樂の樂器は横笛一、拍坂一、腰鼓三、とあるが、これも樂府雜録の鼓架部及び我が國の伎樂の樂器とほゞ同樣で、伎樂との相違は銅?子が拍板となつてゐるだけである。ところでかういふ散樂はシナでも西域傳來とせられてゐる。古くは漢代に入つて來たものもあるらしいが、符堅呂光の頃からまた新に入つて來て、北魏から北齊周にかけて盛に行はれたことは、隋書や唐書の音樂志及びその他の樂書に詳かに書いてある。漢代に入つたものもだん/\内地に廣がつてゐたには違ひないが、面を用ゐる物まねや、または横笛拍板腰鼓といふやうなもので囃し立てることは、その面やこれらの樂器やが入つて來てからのことで、それは北魏のころに龜茲など(117)の西域樂が傳來した時に始まるのであらう。面は北齊の蘭陵王がもとだといはれてゐるが、それはシナで作つたことの話で、西域傳來の伎に面のあるのを摸倣したまでである。
 さてこのころのシナは、政治上でこそ南北に分れてゐたけれども、民間に於いては必しもその間に嚴重な畛域があつたのではないから、民間演藝の類は北方のものが自由に南方にも傳へられたであらう。他の藝術、例へば建築などにしても、西域の系統を引いてゐる北魏風のものが南朝にも行はれてゐて、南北兩朝の間に差異が認められない、といふ話であるから、文化の上に於いては南方だとて北方と變つてゐたわけではないらしい。隋書に見える梁の設跳鈴伎、設跳劍伎、投擲倒伎、擲倒案伎、などといふものも、この散樂百戯の類であつて、現に唐書音樂志では散樂として取扱はれてゐるが、これは或は漢代ごろから傳へられてゐたものかも知れない。けれども北方で盛に行はれてゐた新しい囃しもの入りの輕業や面を被る物まねの類も、記録にこそは現はれてゐないが、南方に傳はらないはずはない。かう考へて來ると、西域系統のもので而もその内容が散樂の一種であるらしい伎樂は、南朝の終のころにその都の建康地方、即ち我が國のいはゆる呉、で行はれてゐた民間演藝ではあるまいか。さうしてそれが我が國では伎樂と呼ばれ、寺院樂として用ゐられたけれども、シナではどこまでも散樂として取扱はれ、或は鼓架部とも名づけられて、唐代に傳へられたのではあるまいか。シナで我が國の伎樂のやうな散樂は寺院樂としては用ゐられず、寺院樂には別に上に述べた樂府雜録に見えるやうな佛教的歌曲があつたらしい。さすれば、伎樂は後に唐樂として我が國に傳はつたものと出所は同じ西域であり、樂器その他の點に於いてもいくらかの關係はあるが、一は目に見る伎藝であつて樂としては殆ど價値の無いものであり、他は目に見る舞と共に耳にきく樂が大切な要素でもあり、また樂としても發達し(118)たものであるから、この點に於いて大なる相違があらう。なほ後になつて猿樂や田樂の一つの淵源となつた散樂は、この伎樂から系統をひいたものではなく、唐樂と共に新に入つて來たものであつて、續日本後紀承和四年の條に「弄玉及刀子」とあり、三代實録貞觀三年の條に「種々雜伎散樂、透撞咒擲弄玉等之戯、」とあるものなどがそれであらう。伎樂には力士舞のやうなものがあるにしても、さういふ輕業めいた分子は割合に少く、それよりも面を被つた物まねが主要な部分を占めてゐるから、田樂に入つた高足とか刀玉とかいふものは伎樂には無かつたであらう。しかし猿樂などの「はやし」に用ゐられる鼓が手でうつものであつたのは、少くともその打ちかたに於いて間接に伎樂から傳へられたところがあつたといつてもよからうか。
 
(119)     第八 高麗樂考
 
 今も我が國に遺存してゐるいはゆる雅樂のうちに高麗樂(狛樂)といふものがあつて、高麗(高句麗)から傳來した樂だといはれてゐる。高麗樂は果して高句麗の樂がそのまゝに今に傳はつて居るのであらうか。もしさうでないとすれば、それが何處で如何なる變化をうけたものであらうか。そも/\高句麗の樂はどんなものであつたらうか。これらは未だ十分解釋せられてゐない音樂史上の問題である。
 中古以來、いはゆる雅樂のうちの外國樂は、左右二部、即ち唐樂と高麗樂とに區別せられてゐて、舞樂にはかならずこの二部の樂が相對して一曲づつ交互に演奏せられる慣例である。唐樂と高麗樂との特質を簡單に説明することはむつかしいが、外形上、明かにわかるのは樂器の違ひであつて、唐樂が横笛、笙、篳篥、一鼓(又は羯鼓)を用ゐるに反し、高麗樂では横笛の代りに高麗笛(狛笛)を、一鼓(又は羯鼓)の代りに三鼓を用ゐ、また笙を用ゐない。横笛と高麗笛とは何れも横笛でありながら、高麗笛の音律は唐樂の横笛より二律(歐洲樂の語でいへば一音)づつ高く、從つて音程が違つてゐる。そのために高麗樂では笙を用ゐることができない。また同じ理由から音名を唐樂の同じ名よりは二律高いところにあててゐる。即ち唐樂の平調を狛一越といひ、下無を狛平調といひ、黄鐘を狛双調といつてゐる。(一越とか平調とかいふ語は本來調子の名であるけれども、我が國ではそれを音名として用ゐてゐる。しかし高麗樂で十二律の一々の音名をかういふ風に呼ぶのではなく、たゞ樂曲に用ゐられてゐる調子の主調音のみに特別にこ(120)んな名がついてゐるのである。高麗樂にはこの三調子しか無い)。さて樂器の上にかういふ差異はあるけれども、演奏の上では左右の二部は相對の資格を有つてゐる。
 けれども高麗樂が前に述べたやうな樂器を用ゐ、また唐樂に對して同等の位置を占めたのは、平安朝の申ごろ以後のことであつて、その前は全くこれと趣を異にしたものであつた。それは、類聚三代格に見える大同四年の太政官符に雅樂寮の樂師の員數が定めてあるが、その中に「唐樂師十二人、横笛師、合笙師、簫師、篳篥師、尺八師、箜篌師、箏師、琵琶師、方磬師、鼓師、歌師、?師、」「高麗樂師四人、横笛師、※[竹/軍]篌師、莫目師、?師、」とあり(後に齊衡二年の官符で高麗鼓師一員が増置せられた)、また嘉祥元年の官符で定められた樂生の員數が、唐樂は三十六人であるのに高麗樂は十八人であるのでもわかる。この樂師の數は大寶令の規定と同一で、樂生は令に唐樂六十人高麗樂二十人とあるのを減少したのである。この外に、令には百濟樂師四人、樂生二十人、新羅樂師四人、樂生二十人、とあつて、大同四年の官符にも「百濟樂師四人、横笛師、箜篌師、莫目師、?師、」「新羅樂師四人、琴師?師、」とあるが、樂生は嘉祥元年の官符によつて、百濟樂は七人、新羅樂は四人、に滅ぜられてゐる。(天平三年に雅樂案樂生の員數を、唐樂は三十九人、百濟樂は二十六人、新羅樂は四人、高麗樂は八人、と定められたやうに續日本紀には記してあるが、大寶令の定員と嘉祥元年の官符に見える舊定員とが符合してゐるから、この記事は容易に信用し難い。百濟樂が高麗樂の三倍以上であるのも、またその次に度羅樂六十二人とあるのも、甚だ疑はしい。この數字には誤があるに違ひない。)これで見ると、大寶令の制定の時から平安朝の初期までは、高麗樂は唐樂に比べては遙かに小規模なものであつて、百濟樂や新羅樂とほゞ同じほどのものであつたことがわかる。もつとも續紀を見ると、「幸弓削寺禮佛、奏唐(121)高麗樂於庭、…百濟王敬福等亦奏本國  、」(天平神護元年十月)、「幸弓削寺禮佛、奏唐高麗樂及黒山企師部 倒、」(同年閏十月)、「御大極殿、…奏唐高麗樂及内教坊踏歌、」(神護景雲元年十月)、などとあつて、高麗樂は唐樂と竝稱せられてゐるが、百濟新羅の樂にはさういふ例の無かつたこと、また嘉祥元年の定員改正の際にも百濟樂新羅樂が甚しく減少せられたにかゝはらず、高麗樂が殆ど舊のまゝであつたこと、竝にその後、百濟樂新羅樂が何時のまにか消滅してしまつたのに、高麗樂のみは(その實質はよし變つたとするにせよ)大に發展して唐樂と肩を竝べるやうになつたこと、などを考へると、高麗樂は百濟樂新羅樂に比べて初めから一段重んぜられてゐたらしくは思はれる。けれども樂器の貧弱な點からいつても、樂人の少いことから見ても、大規模の唐樂とは比べものになるものでなかつたことは明かである。
 ところでその樂器である。大同四年の官符に見える樂器の名は、平安朝初期以前の高麗樂と後世の高麗樂との相違を示す大切なものであるが、不幸にしてその名稱によつて實質の何たるかを明かに知ることができぬ。横笛がいはゆる高麗笛であるか否かすらわからぬ。我が國に行はれた横笛には後にその名を占有してしまつた唐樂の横笛と高麗笛との外に、横笛より二律づつ低い神樂笛があり、また後世には遺つてゐないが、むかし東遊に用ゐた中管といふ横笛より一律高いものがあつた。が、それらが、ふるくからかういふ風に、各部の樂の專用のものであつたかどうか、明かでない。また百濟樂にも横笛があるが、それが百濟樂衰滅の後どうなつたかもわからぬ。だからいはゆる高麗笛が昔から高麗樂專用の横笛であつたとは斷言がしにくい。次に※[竹/軍]篌が箜篌と違ふことは、延喜式にもこの二つを列記してあるので疑ひは無いが、その實質は明かでない。たゞ箜篌と※[竹/軍]篌との名がいかにも類似してゐて全く無關係の稱呼(122)ではないらしいから、栗原信充や狩谷?齋が承平樂器目録に箜篌一張、※[竹/軍]篌四面、とあるのによつて、箜篌はシナでいふ竪箜篌、※[竹/軍]篌は臥箜篌だらうといつたのが、當を得てゐるのではなからうか(律呂集義、和名抄注)。竪箜篌は西域傳來のハアプ型のもの、臥箜篌はシナで作られた琴の一種である。箜篌にクダラゴトの名があり、續紀寶龜八年の條に百濟※[竹/軍]篌師の稱が見え、また大同の官符の百濟樂に箜篌師とありながら、嘉祥の官符に※[竹/軍]篌生とあるのを見ると、箜篌と※[竹/軍]篌との區別が混亂してゐるが、法令に文字を異にして記されてゐる以上、別のものと見ねばなるまい。クダラゴトは實は※[竹/軍]篌であつて、大同の官符の百濟樂の箜篌は※[竹/軍]篌の誤であらう。また莫目は續紀には莫牟とも書いてあつて、百濟樂にも用ゐられてゐる。これは延喜式の絃樂器を列記した條に見えないから、和名抄に吹物(管樂器)と同列に記してあるのに誤は無からう。シナの樂書では曾て目にふれぬ樂器であるから、多分韓地特有のもので、その名も韓語であらうか。唐書音樂志に見える高麗樂と百濟樂とに共通の樂器に桃皮篳篥があるが、或はそれかも知れぬ。こんな風に樂器の實質は今から明かに知ることができぬけれども、とにかく絃樂器一個管樂器二個といふ貧弱なものである。それが管絃種々の樂器を配合した唐樂にくらべて甚しき差異のあることは、いふまでもなからう。(當時の唐樂に用ゐた樂器の種類が後世のよりもずつと多かつたことは、前に掲げた大同四年の官符で明かである。)
 さて古い高麗樂の樂器が後世のと違つてゐることは、以上述べたところで知られたが、しかし樂器の差異は必しも樂曲の相違を示すものとは限らぬ。特に古い高麗樂の横笛がもし後の高麗笛であつたならば、篳篥が後に加はつたことや※[竹/軍]篌が廢れたことなどは、樂曲そのものには何ほどの影響をも與へなかつたかも知れぬ。篳篥は奏法の頗る自由なもので大抵な音は出すことができ、神樂にも東遊にも用ゐられたくらゐであるから、高麗樂に使はれるやうになつ(123)たのに不思議は無い。また打ちものが後の高麗樂では大切なものになつてゐるが、西大寺資財帳に高麗樂の樂器として、箜篌、横笛、大鼓、小鼓、百子、銅?子、※[竹/軍]篌、莫目、の名が出てゐるから、奈良朝時代でも多くの打ち物を用ゐてゐたらしい。して見れば、これも樂曲の上に大した變化を及ぼさなかつたであらう。(資財帳の樂器を大同の官符に見えるものと比べると、箜篌と打ちものとが多いだけである。)鼓師は齊衡に始めて置かれたけれども、官符に「有高麗鼓生四人、習業之日無有其師、」とあるのを見ると、鼓を用ゐたのがこの時に始まつたのでないことは明かである。けれども、肝心な横笛が果していはゆる高麗笛であつたかどうかが問題である。
 後世に傳はつて居る三種の横笛がみな二律づつ違つてをり、中管が唐樂の横笛と一律の差があるといふのは、偶然のことであらうか。唐樂の横笛は吹穴の外に七孔があるのに神樂笛と高麗笛とは何れも六孔で、その間に差異があるやうであるが、横笛の「次」といふ孔は、懷竹抄には「次穴非別條、名爲無調、是諸音鹽梅故也、」とあり、樂家録には我が國で附け加へたものであつてシナ傳來でないとさへいつてあるから、これは特別のものとして考へてよからう。もつとも正倉院御物中の横笛は七孔だといふから(友人東儀鐵笛氏の實見談による)、シナ傳來でないといふ説には疑問があるが、他の六孔の音律が神樂笛及び高麗笛と二律の差があるといふ事實は、動かすべからざることである。我が國へ傳來した唐樂の横笛がシナで何といはれてゐたものであるか、よくわからぬが、限りある孔によつてあらゆる音を出すことはできないから、樂曲の旋律と調子とによつてそれ/\異なつた笛、即ち或る旋律或る調子にあてはまる音の出るやうに孔をあけたもの、を用ゐたに違ひない。我が國へ傳へられた樂曲はいはゆる呂旋と律旋とを合せて六調子しかなかつたとしても、横笛がたゞ一種のみであつたとは思はれぬ。もし果して數種の横笛が傳はつてゐた(124)ものとすれば、それはどうなつたであらうか。後世まで唐樂の横笛の外に少くとも三種の横笛、しかもその音が都合よく二律もしくは一律の差を有つてゐるもの、が傳はつてゐたとすれば、それがシナ傳來の唐樂の横笛と何等かの關係がなくてはならないのではあるまいか。別々の國に起つてその間に全く關係がなく發達した音樂の樂器が、かう都合よくできるものではないからである。神樂考でいつておいたやうに、神樂笛は決して我が國特有の樂器ではなく、シナ傳來のものであるが、高麗笛もまた同樣に考へられないであらうか。後世では、唐樂の横笛でも高麗笛でも決してそれ/\の孔の自然の音ばかりでなく、種々の技巧によつて多くの音を出すやうになつたが、これは樂器の不足から強ひて工夫せられたことであつて、その笛本來のはたらきではなかつたらう。さうしてかういふ技巧が必要になつたのは、何かの事情で一種の笛が麿樂なり高麗樂なりそれ/\の樂に專屬するやうになつたからではあるまいか。但し高麗笛がもし果してシナ傳來であるとしても、それが高麗樂に適用せられたのは必しも我が平安朝に始まつたとはいはれない。その事情を明らめるには、高麗樂の我が國に傳來した時にどんな笛を用ゐてゐたかを考へねばならぬ。さうしてそれには、高麗樂がどこからどうして傳來したかを知らぬばならぬ。
 普通には高麗樂は高句麗から直接に傳來したとせられてゐるが、果してさうであらうか。我が國の高麗樂には吉簡のやうな西域樂、また胡徳樂とか歸徳侯とかいふシナ風の名のついた曲があるが、それはシナで高麗樂に混入したものではあるまいか。シナ人が高句麗の樂を知つたのは南北朝時代からのことで、北周の王褒が既に高麗曲といふ詩を作つてゐる。隋代には開皇時代に置かれた七部樂中に高麗伎があり、唐代にも燕樂九部の中に高麗伎が置かれてゐる。これらのことを考へると、高麗樂は唐樂と共にシナから傳へられたのではなからうか、といふ臆測ができさうである。(125)もしさうならば、高麗樂に唐樂の横笛を用ゐたことは既にシナに始まつてゐたかとも思はれる。といふのは、隋唐のいはゆる高麗樂は必しも高句麗本國の樂そのまゝのものではなく、シナに於いて變改せられたものらしいからである。隋書の樂志に「高麗歌曲有芝栖、舞曲有歌芝栖、樂器有彈箏、臥箜篌、竪箜篌、琵琶、五絃、笛、笙、簫、小篳篥、桃皮篳篥、腰鼓、齊鼓、擔鼓、貝、等十四種、一部工十八人、」とあり、舊唐書の樂志の高麗樂器にはこのうちの五絃が無い代りに大篳篥と?箏とがあり、また笛が義觜笛となつてゐるし、新唐書にはその外に鳳首箜篌、龜頭鼓、鐵板、があるけれども、横笛の名は何れにも見えぬ。たゞ通典には義觜笛の外に横笛が記されてゐるが、この横笛がどんなものかは明かにわからぬ。しかし前に擧げた樂器は多く龜鼓樂系統のもので、隋唐に行はれた西域諸國の樂には大抵同じやうなものがあるから、それが盡く高句麗の本國に於いて具はつてゐたとは考へられぬ。特に隋書の高麗傳には「樂有五絃、琴、箏、篳篥、横吹、簫、鼓、之屬、吹蘆以和曲、」とあつて、樂志に出てゐる高麗伎の樂器とは同じでないところを見ると、いよ/\さう思はれる。さて隋唐の高麗伎が龜茲樂系統の樂器を用ゐてゐたとするならば、通典に記されてゐる横笛もまた同じ系統に屬する燕樂、即ち我が國に傳はつた唐樂、の横笛かも知れないのである。なほ唐書の高麗伎を説いてゐる條に「琵琶以蛇皮爲槽、厚寸餘、有鱗、楸木爲面、象牙爲桿撥、畫國王形、」とあるが蛇皮を張るのも象牙を用ゐるのも南方の樂器らしい。文獻通考に「蛇皮琵琶、扶南、高麗、龜茲、疏勒、西涼、等園、其樂皆有蛇皮琵琶、以蛇皮爲槽、厚一寸餘、鱗介具焉、亦以楸木爲面、其桿撥以象牙爲之、圖其國王騎象、」とあるのは、之と同じものと思はれるが、この記事によると蛇皮琵琶は扶南あたりのもので、それがシナに傳はつてから、シナ人が高麗樂にも西域諸國の樂にも適用したものらしく、高句麗の本國の樂器ではないに違ひない。また唐(126)書の同じ條に「胡旋舞、舞者立球上、旋轉如風、」とあるが、通典の康國樂の條に「舞急轉如風、俗謂之胡旋、」とあるから、もし唐の高麗伎が果してこんなことをしたならば、それは西域の散樂から轉じて高麗伎のうちに混入したのであつて、高句麗本國の舞ではなからう。これらはみな唐の高麗伎が純粹の高句麗樂ではないこ上を示すものである。從つて龜茲樂系統の横笛の用ゐられた高麗伎が唐から我が國に傳へられたと見られなくはないのである。けれども他方からいふとかういふ臆測は、隋唐の高麗伎の樂器と前に掲げた我が國のそれとの間に甚しき差異があるのと、天平三年の雅樂寮樂生の員數を定めた時に「大唐樂生、不言夏蕃、取堪教習者、百濟高麗新羅等樂生、竝取當蕃堪學者、」とせられ、高麗樂樂生を唐樂とは違つて高句麗人から採つたのと、この二つの理由で成りたゝないではないか、とも考へられる。さすれば、さういふ臆測をするよりも、高句麗滅亡の前後にその國人の我が國に歸化したものが多いから、高麗樂もそれらの人々の手によつて傳へられたと見るのが、むしろ穩當ではあるまいか。前に引用した如く隋書によると高句麗に種々の樂器があるのに、我が國に傳はつた樂器が極めて僅少であるのを見ても、いはゆる高麗樂は專門の樂人の團體がその國樂を傳へたのではなく、歸化人中の樂の心得のあるものが不完全な演奏をしたことから始まつたものと推測せられる。もしかう考へ得るならば、高麗樂がシナから傳來したといふ臆測を本にして、高麗笛が始めから唐樂と同じ系統の横笛であつたと解することはできなくなる。
 しかしもう一歩進んで考へると、高句麗の本國に於いて既に龜茲樂系統の樂器が入つてゐたので、高麗樂が本國から直接に我が國へ傳はつたにしても、その初めから唐樂のと同系統の横笛があつたのではないかと思はれもする。現に隋書高麗傳に見える樂器でも、篳篥の如きは、陳氏樂書に「?篥一名悲篥、一名笳管、羌胡龜茲之樂也、」とあつ(127)て、龜茲樂策系統のものである。五絃、琴、箏、の如きシナから入つたことの明かな樂器もあるのであるから、これらのものと共にシナを經て龜茲樂の或る樂器が高句麗に傳はつたと考へるのは、決して無理ではない。高句麗は拓跋魏及びその後を承けた北齊とは親密の關係があり、さうして魏齊に既に西域樂が傳はつてゐたことは、隋書に「太武帝平河西、得沮渠蒙遜之伎、此樂所興、葢符堅之末、呂光出乎西域、得胡戎之樂、」とあり、同じ書の齊の樂を述べてゐるところに「雜樂有西涼、?舞、清樂、龜茲、等、」とあり、また通典に「龜茲樂者起自呂光破龜茲因得其聲、呂氏亡、其樂分散、後魏平中原獲之、有唐婆羅門、受龜茲琵琶於商人、代傳其業、至於孫妙達、尤爲北齊文宣所重、常自撃胡鼓和之、」とあるのでもわかるからである。佛教や佛教藝術が北朝から高句麗に傳はつたと同じ關係が、音樂の上にもあつたのであらう。けれども、かういふ大體論から直ちにいはゆる高麗笛が高句麗の本國に行はれてゐたと推斷するのは、早計である。といふのは、前に掲げた隋書高麗傳の横吹、樂志の笛は、唐書の義觜笛に當るものと思はれるからである。義觜笛は文獻通考にも「如横笛而加觜、西梁樂也、而今高麗亦有用焉、」とあつて高麗樂には必要のものと見える。さうして隋書にも唐書にもこの外に横笛が無く、通典にのみ別に横笛の名が出てゐるのを見ると、高句麗の本國では横吹のものは義觜笛のみで、通典にいふ横笛は唐の高麗伎に於いて特に加へたものと考へられる。さすれば高麗樂が本國から直接に我が國に傳はつたもので、その中に横吹の管樂器があつたとしても、それは後の高麗笛のやうなものではなくて、この義觜笛であつた、と推察するのが妥當ではあるまいか。
 かういふ風に、初めて我が國に傳來した高麗樂では後のいはゆる高麗笛を用ゐてゐなかつたと考へると、大同四年の官符に見える高麗樂の横笛もやはり高麗笛ではなくして昔のまゝの義觜笛ではなかつたらうか。百濟樂や新羅樂が(128)依然として存續し、唐樂にも仁明天皇のころの新連動がまだ始まらず、林邑樂もまだ後世の如く唐樂の一部とはせられず、獨立の樂部として主に寺院に行はれてゐた時代であるから、高麗樂もほゞ傳來當時の状態を維持してゐたものと見なければなるまい。然らば、何の時から、また何故に、今の高麗笛を以つてそれに代へたのであらうか。思ふに、仁明天皇のころから一方では唐樂が新に活氣を帶びて來たと共に、他方では左右近衛府などで奏樂をする習慣が開けて來たが、左右相對しておのづから競爭の姿となるに當つては、同じ唐樂では興味が無いために、唐樂に對抗するに足る他の樂を要求することになつた。然るに、百濟樂や新羅樂は幼稚なものであつて、前に述べたやうに雅樂寮の樂生員數すら僅かにかたを遺すばかりに減少せられたほどであるから、この要求に應ずるには足らぬ。また伎樂や林邑樂は主に法會の樂として寺院に行はれたものであるから、これもふさはしくない。從つて唐樂に對抗するを得べきものは、高麗樂の外には無かつた。高麗樂もその規模は百濟樂などと大差の無いものではあるが、奈良朝時代から既に唐樂と竝び奏せられ、また嘉祥の雅樂寮定員の改正の時にも樂生の數が減少せられなかつたほどであるから、その樂なり舞なりに何か特殊の興味があつて世人に喜ばれたのであらう。けれども唐樂に比べてはすべてが貧弱であるから、いよ/\唐樂に對抗する位置にそれを据ゑるには、よほどの潤色を加へねばならぬ。それがためには種々の管絃樂器をも加へたのであらう。後世には高麗樂に笙を用ゐないけれども、教訓抄によると、興福寺の薪宴には高麗笛に笙を付けることがあるといふから、何か古例がそこに遺つてゐたものと思はれる。後世高麗樂に笙を用ゐないのは、高麗笛の音律が横笛より高く、また音程が違ふために、笙がそれに合はないからであるが、笙そのものが昔から今用ゐられてゐる一種のみであつたかどうかは、問題である。今の笙に不協和音を吹くことのあまりに多いことから考へても、(129)また、「也」「毛」の二管を用ゐないことを見ても、昔は樂曲の旋律と調子とにより、それ/\管をさしかへて吹いたのが、後世その法が廢れて管が固定したのであらうと想像せられる。もしさうならば、高麗笛にも笙を合はせることができなかつたには限るまい。(文獻通考に義管笙といふものがあつて、「十七簧、舊外設二管、不定置、謂之義管、毎變均易調、則更用之、」と説明してあるが、今我が國に用ゐる笙は全體十七管の中、二管だけ用ゐないのであるから、これとは違ふ。)また宇津保物語の樓の上の卷に高麗笛に琴を合はせることがあり、源氏物語の紅葉賀の卷にも、保魯倶世利(高麗樂の曲名)を笛で吹いて箏に合はせたことが見える。これも單に消閑の興として高麗笛と絃樂器とを合奏したことがあるのみでなく、室内樂たる管絃御遊または庭上の舞樂に於いて高麗樂に絃樂器を用ゐる慣例があつたからのことではあるまいか。催馬樂の櫻人などが高麗樂の地久などの曲節をつけたものだといふ傳説のあるのも、やはり、高麗樂を御遊に用ゐた習慣があつたからかと思へば思はれる。高麗樂に太鼓や鉦鼓の加はつたのも同樣の事情であらう。扶桑略記に見える村上天皇康保三年の侍臣舞の記を見ると、樂曲は唐高麗の二種であるが、樂器は箏、琵琶、笙(二人)、横笛(二人)、大篳篥、小篳篥、銅?子、掲鼓、摺鼓、拍子、大鼓、鉦鼓、等で、特に高麗笛の名もなく、また高麗樂特有の樂器がその中にあるらしくも見えぬ。これは高麗笛も横笛の名のうちに含まれ、その他の管絃樂器や打ち物は兩方の共用であつたのではなからうか(鞨鼓は唐樂に限ると思はれるが)。もし唐樂に種々の管絃樂器を用ゐながら高麗樂にのみそれを用ゐなかつたならば、延喜樂、歸徳侯、納蘇利、などの高麗樂を奏する場合には急に寂寥を感じて興味索然となつたであらうから、さうは考へられぬ。これらの事情から推測して、唐樂と高麗樂とが左右相對立するやうになつたころには、高麗樂も種々の管絃樂器を用ゐる大規模のものにせられたことと思は(130)れる。さうして高麗樂に仁和樂、延喜樂、蝴蝶、などの新作樂曲が現はれ蘇志摩が改作せられたといふ延喜前後が、恰もこの規模の整つた時ではあるまいか。後には唐樂も衰頽して樂器も廢れたものが多く、舞樂にも絃樂器を用ゐぬやうな風になつたので、高麗樂もこれと同じ運命に逢ひ、また御遊などの曲目もほゞ定まつて高麗樂はそれに用ゐられなくなり、終に今日のやうなものになつたけれども、延喜前後の盛時、左右二部の樂が互に相競つたころにはそれとは違つてゐたであらう。しかし古い高麗樂をこれまでにするには、外形ばかりでなく、その内容にもよほどの潤色を施す必要があつたに違ひない。いはゆる高麗笛の用ゐられたのも、これがためではなかつたらうか。高麗樂の中には唐樂から移つたものもあるらしく、返宿徳進宿徳の二曲は、もと黄鐘調の樂(即ち唐樂)であつたといふ説が體源抄に見え、吉簡が西域傳來の散樂であることが明かであり、また崑崙八仙、貴徳侯、胡徳樂、なども唐樂らしい名稱であることを考へると、よしそれらが古い高麗樂の旋律や調子に准じて改作せられたにしても、唐樂の影響が少からず高麗樂に及んだことだけは推測せられよう。(胡徳樂はもとは横笛の樂であつたといふことが舞曲口傳に見えてゐる。)舞の手なども唐樂のを摸して表裏左右を反對にしたやうなものがあるとのことである。いはゆる番舞として相對せしめるのであるから、自然にさういふことにもなつたであらうが、高麗樂が唐樂化する形勢のあつたことは爭はれまい。だから、古い高麗樂の笛が廢れて、唐樂系統の横笛の一種が高麗笛として適用せられたと考へるのも、さほど亂暴のことではなからう。
 もとより如何に變改を加へたとしても、全く新しいものにしてしまつたのではない。高麗笛がよし果してこの臆測の如くもとは唐樂の横笛の一種であつたとしても、それを高麗樂に適用したのは、音の上か旋律の上か、何かに於い(131)て古い高麗樂に都合のよいものであつた故であらうし、今でも高麗樂の曲節と拍子とには唐樂ろ異なつた特色がある。これも東儀鐵笛君にきいたことであるが、高麗樂の舞の手には樂句と合はぬものがあるといふことである。これは舞が唐樂に摸して變改せられながら、樂が古い趣を失はずにゐるからであらう。また樂曲の名稱を見ても、唐樂系統ではない高句麗固有のものと思はれるものが多い。けれども、古い高句麗樂の旋律なり節度なりが、そのまゝに傳はつてゐるかどうかは疑問であつて、横笛の適用は高麗樂の内容即ちその旋律などにも、幾らかの變化を來したのではあるまいか。かう考へて來ると、更に一段溯つて高麗樂の音階や旋律の法を研究せねばならぬが、これはわたくしの力の及ばぬことである。たゞ臆測として次のやうなことがいはれないであらうか。
 いはゆる高麗笛は横笛と同じく七聲音階の旋律を吹くことになつてゐるが、高句麗の樂が果してそれまでに進歩したものであつたかどうか。シナでも昔は宮商角徴羽の五聲音階であつた。變徴變宮の二を加へた七聲音階が何時から現はれたかは明かでないが、韋昭(三國時代の人)の國語の注にも後漢書の律暦志にもその名が見えるから、漢代にはあつたであらう。けれども、ずつと降つた隋代になつて鄭譯が北周に西域樂の七聲を傳へた龜茲人蘇祇婆の説を敷衍して説いた時、二變の説に歴史的根據が無いといふのでそれを論駁したものがあつたくらゐだから、當時でも七聲音階は理論上正當なものとして一般には承認せられてゐなかつたかと思はれる。もつとも實際に存在する事物でも古傳に見えないものは強ひてそれを非難するのがシナ人の癖であるから、學者が七聲を否認しても實際の音樂にそれが無かつたといはれぬが、名稱が五聲のみであつて、他の二聲は宮徴に變の語を加へて呼んだのを見ると、樂律の論が起り五聲の名のできた時代には、事實、五聲音階であつたらうと思はれるから、七聲音階は早くとも漢代に至つて現(132)はれたのであらう。我が國の謠ひものも今日に至るまで大體五聲音階だといふことである。して見ると、文化の程度のさまで高くなかつた高句麗の樂に七聲音階が具はつてゐたとは思はれぬ。もしシナから傳はつた樂器が七聲音階を具へて居るものであるか、または樂器と共に樂曲も傳はつてその樂曲が七聲音階から成り立つてゐたものならば、高句麗に七聲音階の樂が學ばれたことはあらう。しかし高句麗人がそれを十分に消化してすべての樂を七聲音階によつて組みたてるまでに進んでゐたかは、疑問である。さうして、前に述べたやうに横笛が高句麗に行はれず、義觜笛のみがあつたものとすれば、その義觜笛が果して七聲音階を吹き得るほどのものであつたかどうか、大なる疑問といはねばならぬ。(義觜笛は上に引用した如く文獻通考に西梁樂としてある。西梁は西涼のことかとも思はれるが、隋書、唐書、通典、文獻通考、などに載つてゐる西涼樂の樂器中にはその名が見えず、たゞ高麗伎にのみそれがあるから、他に反證の無い限り、高句麗固有の樂器と見るのが穩當であらう。)從つてまた、今の高麗樂のやうな旋律の法が高句麗に存在してゐたか否かも、疑問である。
 更に考へると、高句麗の本國に西域もしくはシナの樂曲が輸入せられてゐたかどうか、甚だおぼつかなく思はれる。我が國に傳はつてゐる高麗樂の曲の名を見ると、シナもしくはシナに傳はつた西域樂の名に似たものが無い。もつとも前に述べた昆崙八仙とかまたは歸徳侯とか胡徳樂とかが高句麗に於いてシナから輸入せられたものだといへば、いはれないこともなからうが、もしさうとすれば、僅々これら二三曲のみが輸入せられたとは思はれぬ。またもし多くの樂が傳はつて高句麗の樂がシナ化したのならば、その他の多くの樂曲の名がシナめかしくないのが不思議である。だから、我が國の高麗樂に見えるこれら二三のシナめかしい樂曲は、やはり我が國で加へられたものと見るのが穩當(133)であらう。なほ參考のために隋唐の高麗樂曲を見ると、隋書に芝栖といふ名があり、文獻通考に「唐武后時尚餘二十五曲、貞元末唯能集一曲、衣服亦?衰敗、失其本風、傀儡、并越調夷賓曲、李勣破高麗所進也、」とあつて、越調夷賓曲の名が見える。けれども隋書のかきぶりを見ると、芝栖といふ曲はシナの樂ではないらしく、また夷賓曲は同じ文獻通考の別の條に「及遼東平、行軍大※[手偏+總の旁]管李勣作夷美賓之曲、以獻、」とあるから、高句麗の樂とは全く關係の無いものである。これらの零碎の記事の外に高麗伎の内容を覗ふに足る材料が無いから、明かな判斷はできかねるが、高麗伎にシナの樂と同一のものがあるといふやうなことは、すべての樂書に見當らぬやうであるから、シナ人は高麗伎をシナの樂とは全く別種の夷樂と見なしたものと推測せられる。舊唐書楊再思傳に「請剪紙、自帖於巾、却披紫袍、爲高麗舞、?頭舒手、擧動合節、滿座嗤笑、」とあるのも、高麗舞といへば一種特殊のものと見られてゐたといふ一證であらう。從つて高句麗にシナの樂曲が入つてゐたとは考へられぬ。さすれば、高句麗の樂は樂器にシナから傳へたものがあるけれど、樂曲そのものは純然たるその國特有のものであつたと思はれる。だからシナもしくは西域系統の七聲音階や旋律の法は、高句麗にはまだ行はれてゐなかつたものと見ねばなるまい。
 かう考へて來ると、我が國に傳はつた高麗樂は、どこかに特殊の興味はありながら、かなり幼稚なものであつて、その旋律も今傳はつてゐるやうなものではなかつたのではあるまいか。さうして平安朝に於いて唐樂系統の横笛をそれに適用すると共に、多くの潤色を施したのではあるまいか。
 最後に附言して置きたいことは、高麗樂と百濟樂及び新羅樂との關係である。百済樂新羅樂の廢滅してしまつた今日、それを明瞭にすることはできないけれども、大體の推測はつかぬでもない。新羅樂は大同四年の官符によると樂(134)器は琴のみである。琴はいはゆる新羅琴で十二絃のものであるから、加羅(任那)の嘉悉王(新羅の眞興王、我が欽明天皇の時代より少し前に當る)が于勒に命じて造らせたといふ傳説のある同じ十二絃の加耶琴であらう。琴もしくは箏の類から轉じたものに違ひないから、西域樂の影響を蒙らないシナ系統に屬するものである。(ついでにいふが、新羅に玄琴といふ六絃のものがある。倭琴と關係がありげではないか。同じ長さ同じ太さの絃を槽の上に張つて柱によつて調絃する琴の類は、シナ特有の樂器で、玄琴も、倭琴も、加耶琴もみな同じ系統のものである。その創製の時代はわからぬが、加耶琴についても嘉悉王云々の傳説には必しも信を措くことができぬ。)三國史記の樂志に「新羅樂三竹、三絃、拍板、大鼓、歌舞、舞二人、放角?頭、紫大袖、公襴、紅鞋、鍍金?、腰帶、烏皮靴、三絃、一、玄琴、二、加耶琴、三、琵琶、三竹、一、大※[竹/今]、二、中※[竹/今]、三、小※[竹/今]、」とあるが、これは新羅一統の後、幾分か唐の俗樂などの影響をうけてからの組織で、我が國に傳來した新羅樂はそれよりも前、加耶琴を彈じて舞つた單純のものであつたらう。同じ書に于勒所製十二曲の名があるが、その中に師子伎などといふのがあるのを見ると、これも于勒時代の舊いものではあるまい。とにかく我が國の新羅樂の樂器はたゞいはゆる新羅琴のみで笛の類すらも無い。新羅琴は文徳實録に「新羅人沙良眞熊、善彈新羅琴、(興世)書主相隨傳習、遂得秘道、」とも見えてゐるから、或る好事者には愛せられたであらうが、一般の興味をひくほどのものではなかつたらう。さうして、こんな琴のみで笛も無くまた拍子をとる打ち物も無い樂の舞が、如何に單純なものであつたかも想像せられる。高麗樂曲の蘇志摩は曾戸茂利で素戔嗚命の故事を象つたものだから、もとは新羅樂であつたらう、といふやうな説もあるが、これは神話の素戔嗚尊が實在の人物でない以上、全く無意味のことであるのみならず、樂の上からいつても、新羅樂は後の右部の樂に攝(135)取せられるほどの價値のあるものではなかつたらう。次に百済樂の樂器には横笛、※[竹/軍]篌、莫目、の三つがあるが、百濟の對外關係から推察して、横笛※[竹/軍]篌はシナの南朝方面から傳へたものと思はれる。※[竹/軍]篌は前にも述べた如くシナ流の臥箜篌らしいが、横笛はどんなものか、まるでわからぬ。たゞ隋書の百濟傳に「有鼓角、箜篌、箏、?、?、笛、之樂、」とあり、舊唐書樂志に見える百濟樂の樂器に箏、笛、桃皮篳篥、箜篌、の名が見えるが、何れも西域樂の系統のものでないから、横笛もシナのものであらう。ここの箜篌は臥箜篌である。シナに※[竹/軍]篌の文字は見當らぬが、特に竪箜篌と書いてない場合のは臥箜篌らしい。)樂器にはかういふシナ輸入のものがあるが、樂は國風のものであつたらしく、國史に百濟人の風俗舞を奏すといふ記事が屡々見えるので、その有樣が推察せられる。多分我が國の諸縣舞楯節舞などといふものと大差のないものであつたらう。從つてこれも高麗樂とは全く系統を異にするものである。從つてまた、ある論者の説の如く後の右舞に百濟樂が採り入れられたとは思はれぬ。樂器の名が似てゐるために高麗樂と百濟樂とを同一視してはならぬ。
 以上は主として文獻の上より見た臆説である。もとより臆説にとゞまるので、敢て最初に提出した問題の解決に一歩を進めたと信ずるのではない。試に卑見を述べて大方の教を仰ぐのみである。
          (136)     第九 林邑樂考
 
 奈良朝から平安朝の初めにかけて我が國に行はれた種々の樂のうちに林邑樂といふものがある。その名の國史に見えるのは續日本紀天平寶字四年の條に「作唐、吐羅、林畠、東國、隼人、等樂、」とあるのが初めであるが、東大寺要録によると、天平勝寶四年の大佛開眼供養のをりに、唐古樂、唐中樂、唐散樂、高麗樂、などと共に林邑樂が奏せられたらしいから、遲くともこのころからは既に我が國に行はれてゐたのであらう。もつとも雅樂寮に林邑樂の置かれたのは平安朝に入つてからのことで、大同四年に雅樂寮樂師の定員を改正した時の太政官符に「林邑樂師二人 今置」と見えてゐる。しかし、本來林邑樂は朝廷よりは寺院の方に多く用ゐられたもので、樂人も寺院に於いて養成せられてゐたらしく、國史の記事を檢べてみても、「幸山階寺、奏林邑及呉樂、」(續紀神護景雲元年)とあるやうに、寺院樂たる呉樂(伎樂)と同樣に取扱はれてゐたから、大同時代になつて雅樂寮にも樂師を置きはしたものの、やはり寺院の方が盛であつたことと思はれる。續日本後紀承和十一年の條に「天皇御仁壽殿、令奏林邑樂、未曾覽此樂故也、」とあるが、平生樂を好まれて御自身にも鼓琴吹管に長ぜられた仁明天皇が、宮廷では斷えず唐高麗の樂が奏せられてゐたにかゝはらず、林邑樂をまだ御覽にならなかつたといふのを見ると、それが主として寺院樂として用ゐられてゐたことが推測せられよう。さうしてこの樂は寺院のうちでも大安寺の特技であつたらしく、東大寺要録に載つてゐる貞觀三年の大佛供養のことを書いた惠運僧都の記録にも、諸大寺音樂とある下に「大安林邑」と注記してあり、三代(137)實録貞觀十六年の貞觀寺大齋會の條にも「雅樂寮唐高麗樂、大安寺林邑、興福寺天人等樂、交奏、」と見え、同じ書の元慶七年のところにも「林邑樂人百七人、於大安寺令調習、」と見えてゐる。
 さてこの林邑樂とはどんなものかといふに、曲名も傳はつてゐなければ樂器もわからず、樂としても舞としても一切不明である。平安朝の中期から雅樂寮が衰へて朝廷の音樂の中心が左右近衛府に移ると共に、外國樂は唐高麗の二部に攝取せられてしまひ、寺院にもまた變遷があつて大安寺などは漸次衰微し、さうして一種特殊の平安朝趣味が養成せられるに從つて、その趣味に適せないものは或は改造せられ或は排斥せられる、といふ有樣であつたから、この林邑樂も、またかの百濟樂、新羅樂、または度羅樂、などと同樣に、獨立して存在することができなくなつたのであらう。しかし、それが全く滅びてしまつたかといふと、必しもさうとは斷言せられない。源爲憲の口遊に、菩薩、迦陵頻、陪盧、拔頭、の四曲の名を擧げて、「謂之林邑樂」といつてあるから、この書の作られた天禄のころには、少くとも林邑樂の名は用ゐられてゐた。また平安朝の末に書かれた大神基政の龍鳴抄に、菩薩、迦陵頻、倍臚、の三曲は林邑の亂聲で舞ひ出るもので、還城樂にも同じ場合があるといつてある。それから鎌倉時代に書かれた狛近眞の教訓抄には、四種亂聲(新樂亂聲、古樂亂聲、林邑亂聲、高麗亂聲、)といふことを説いて、林邑亂聲を以て出て舞ふものは菩薩、迦樓頻、拔頭、陪臚、の四曲だといつてある。(亂聲は舞人の舞臺へ出る時に樂屋で奏する一種の前奏曲めいたものをいふのである。)ところがこの林邑亂聲といふものについては、龍鳴抄の迦陵頻の條下に「林邑の亂聲にて舞ひ出づ、これは古樂の亂聲ともいふなり、菩薩の出でん時は林邑といふべし、異舞出でん時は古樂といふべし、と見えたることあり、」といつてあり、還城樂の條下に「出でんとするに亂聲、陵王の如し、但し放生會には林邑亂(138)聲をす、その故は其の樂屋の名をりんをく(林邑)と名づけたるが故なり、外には新樂の亂聲をすべし、」とあり、また教訓抄にも林邑亂聲は「古樂亂聲と同詞なれども四部樂屋の片取時に林邑と呼ぶなり」とあるのを考へると、林邑亂聲といふのはたゞ名ばかりのことで、實は古樂亂聲と同一であつたらしく、さうして特にこの名のあるのは、これらの曲を奏する時の樂屋を林邑といふからだと、この時代の人には思はれてゐたことが知られる。(龍鳴抄に見える還城樂についての説明は、時によつて林邑亂聲を用ゐることもあり、新樂亂聲を用ゐることもある、といふので、これは亂聲そのものが違ふといふ話、迦陵頻の條のは、菩薩と共に演ずる時には林邑亂聲と呼び、その他の曲と共に奏する時には古樂亂聲と呼ぶといふので、場合によつて同じ亂聲を異なつた名で稱へるといふ話である。混れ易いから注意して置く。しかし還城樂の場合でも、林邑亂聲といふ別のものは無く古樂亂聲をさう呼ぶだけだ、といふことは同じである。新樂亂聲ではないといふのであるから、古樂亂聲に違ひない。陵王は教訓抄に古樂としてある。)さて林邑の樂屋とは何かといふに、東大寺要録に見える貞觀三年の御頭供養日記に、舞臺の東西に幄舍が建てられて、東方第一幄が高麗樂屋、第二幄が林邑樂座、西方第一幄が新樂座、第二幄が胡樂座、都合四つの樂屋がそれ/\に設けられた、とあるのでその由來が推測せられる(これは國書刊行會本から引用したのであるが、高麗樂にのみ樂屋とあつて、あとはみな樂座とあるのは、どちらかの誤寫か誤植かであらう。座とあつても樂屋のことに違ひない)。後には舞樂のをりの樂屋は左右、即ち唐高麗、の二つに定まつたのであるが、それは外國樂のすべてがこの二部に攝せられてからのことで、貞觀ころにはまださういふ變化が起つてゐなかつたから、大佛供養の時に四部の樂屋の設けられたのは當時の習慣に從つたものであり、そのころの舞樂は高麗と林邑と唐樂の新古二つと、都合四部から成り立つ(139)てゐたのであらう。(前に引いた記録に胡樂とあるのは古樂のことであつて、音通から胡の字を書いたまでである。なほ後はいはう。)同じ記録には「新樂高麗等四樂」とも書いてある。なほ承平五年の講堂竝に新佛開眼會の時にも四部の樂のことが見えてゐるが、これは貞觀の時と同じやうに實際四部樂があつたのかどうか、書きかたが混雜してゐて明かでない。ともかくも貞觀時代に四部樂があつたことは事實である。さうして後の教訓抄などに見える亂聲の四種の名が、上に述べた如く、この四部と相應ずるものであるとすれば、また林邑の樂屋といふ名がこれらの書に見えてゐるとすれば、舞樂が左右二部に固まつてしまつた後も、形式上四部の樂屋の名稱だけは平安朝末乃至鎌倉時代までも遺つてゐて、重要な儀禮の場合には、やはりその名を用ゐたのであらう。現に上に引いた教訓抄にも「四部樂屋」の語が見えてゐる。さすれば林邑の樂屋で奏すべきはずの林邑の亂聲を用ゐる菩薩、迦陵頻、倍臚、拔頭、の四曲は、もと林邑樂といはれてゐたものであつたらしく、上にいつた口遊の説によつてもそれが推測せられる。これらの樂は後にはみな唐樂となつてゐて、菩薩と迦陵頻とは一越調、倍臚は半調、拔頭は大食調、の何れも古樂とせられてゐるが、それは唐樂部に組みこまれてからのことで、林邑亂聲が名ばかり遺つてその實は古樂亂聲となつたと同樣の變化が、樂曲そのものの上にも行はれたのではあるまいか。さもなければこれらの曲に限つて林邑亂聲を用ゐるといふ言ひ傳へのあるはずが無からうと思はれる。いろ/\わからぬことはあるが、ほゞこのやうに推測せられる。なほ龍鳴抄には拔頭の名が見えないが、これは脱漏であらう。また還城樂に林邑亂聲を用ゐるのは放生會の場合に限るといふことであるから、それは林邑亂聲の曲に引き續いて演奏せられる習慣にでもなつてゐたためでもあらうか。例外と見てよからう。
(140) 然らばこれらの四曲は奈良朝時代からの林邑樂であらうか。もしさうならば、それは外國傳來のものか、我が國で作られたものか、もし外國傳來ならば如何にして我が國に傳はつたものであらうか。これについて舊來の傳説を見ると、龍鳴抄には菩薩と倍臚とについて婆羅門僧正が傳へたものだといふ説があり、藤原師長の仁智要録にも同じことが見え、教訓抄には、四曲ともに天竺樂で、菩薩と迦陵頻とは婆羅門僧正及び佛哲の所傳、拔頭については婆羅門僧正傳來、一説に佛哲傳之、とあり、また倍臚には婆羅門僧正所傳としてある。教訓抄の別のところに婆羅門僧が天竺から四つの曲を傳へたとも見えてゐるが、この四つは即ち前に述べた四曲に違ひない。それから東大寺要録に引いてある大安寺菩提傳來記には菩薩、部侶(倍臚であらう)、拔頭、は林邑僧佛哲が本國で學んだものを天平勝寶四年の大佛開眼供養の時に傳習させたものだといひ、それについて一つの奇蹟めいた話をも附記し、またこの樂が大安寺の特有の技であるのもこの因縁からだといつてゐる。といふのは、大安寺にゐた菩提がこの時の開眼師であり、佛哲も同じく大安寺にゐて寺僧にこの樂を傳習させたからだ、といふ意義らしく解せられる。これらの傳説で見ると、上に記した四曲もしくはそのうちの或るものは、インド僧菩提(いはゆる婆羅門僧正)または林邑僧佛哲がその本國の樂を直接に我が國に傳へたのであるらしい。が、かういふやうな佛者や樂家の言ひ傳へには、容易に信用し難いものが多いから、これもまた、よく吟味してからでなくては肯ふことができぬ。
 婆羅門僧菩提の事蹟については、難波津に着いた時に迎ひに出た行基と歌を詠み交はした、といふやうな物語を始めとして、後世に作られた話は多いが、事實と認められるものはさういふ傳説のうちには殆ど無い。たゞ續紀に「唐僧道?、婆羅門僧菩提、」と列記してあるから、唐僧でないインド僧であつたことだけは一應確實と見てよいやうで(141)ある。しかしこれにも疑問はある。續紀天平八年八月の條に「入唐副使……率唐人三人波斯一人、拜朝、」とあるが、十月に「施唐僧道?婆羅門檜菩提等時服」、十一月に「唐人皇甫東朝波斯人李密醫等、授位有差、」と見えてゐて、後の方の二ケ條に記されてゐるのは入唐副使に從つて來朝したものらしく、從つてそれが前の方の四人に當るやうに思はれる。もしさうならば菩提は唐人であることになる。こゝに名の見えない唐人で同時に來朝したものが無いとはいはれないから、かう速斷することもできかねるが、それにしても疑問があるには違ひない。また名が菩提とだけいはれてゐるのも、インド僧の名のシナでの書きかたとは違つてゐるやうであつて、こゝにも一つの疑問が無いでもない。よしまたそれがインド僧であつたとしても、その故郷や來朝するまでの徑路などは全く判らないので、それを扶桑略記に引いてある或記のやうに迦?羅衛國の人だなどといふのは、かの「迦?羅衛に昔契りし」の歌と共に、釋迦の生れた國の名を附會したまでのことであらう。ところが佛哲になると、一層疑はしいことが多く、それが果して實在の人物であつたかどうかすら、疑へば疑はれぬことが無いほどである。前にもいつた大安寺菩提傳來記には、佛哲や瞻波國僧とし(國名の下に「此云林邑北天竺」と注記してある)、菩提と天竺で逢つて共に流沙を渉り險路を踏んで唐の五臺山に來、それから道?と三人同時に我が國に來た、としてある。ところが扶桑略記に引かれた或記には、名を佛誓として北天竺林邑國僧とし、海上で菩提が南天竺から來るのに逢つて、それから伴れだつて我が國に來た、といふことになつてゐる。(扶桑略記の別のところに引いてある爲憲記といふものにも佛誓とある。)また群書類從傳部に收録してある「南天竺婆羅門僧正碑」には林邑僧佛徹と記し、菩提道?と同伴して來朝したとある。哲と誓とは字形の類似から起つた錯誤であり、哲と徹とは音の類似から生じた變形であらうから、これはさして怪しまるべきことで(142)はない。ところがこの僧が林邑人であるといふことだけは何の説でも一致してゐるけれども、渡來の徑路などについては諸説區々であつて、且つ何れも信用せられないものであり、林邑を北天竺といふなども、シナまたはインドに於いては例の無い言ひやうである。(瞻波は玄奘の西域記の三摩?※[託の言が口]國の條に「摩訶瞻波國、即此云林邑是也、」とあるから、林邑の別名として支障は無く、鑒眞和上東征傳に見える瞻波國もこれであらうと思はれる。)また佛哲の名は續紀にはまるで見えず、平安朝以後のものにのみ現はれてゐることも、注意せられる。(大安寺菩提傳來記は大安寺に林邑樂が傳はつてゐたころの作ではあるが、かの菩提の歌を載せてゐるところから見ると、平安朝の中ごろより古いものではないことが、その歌の風體から判る。また婆羅門僧正碑には神護景雲四年云々の日附があるけれども、後人の僞作であることは、天平五年に我が國を出發して入唐した使節の歸朝に伴つて八年に來朝してゐる菩提を、開元十八年、即ち天平二年、に唐を出發したとしてあるのでも知られる。)正史に見えないからとて實在の人物でないといふ論は立たぬが、もし傳説の如く菩提(或は菩提及び道?)と同時に來朝したものならば、その來朝の場合に菩提道?の名のみ續紀に載せられて佛哲が省かれてゐるのは怪しいことといはねばならぬ。鑒眞和上東征傳にも道?と菩提との名は出てゐるが、佛哲は無い。この時代の東方アジヤの交通の形勢から考へると、インド人林邑人が遣唐使に隨つて我が國に來るといふことは、決して不可能のことではないから、輕々に佛哲を抹殺することはできないが、ともかくも事蹟の明かでないものだとだけはいはねばならぬ。佛哲が悉曇章を傳へたといふ説もあるが、これは平安朝になつてからの記録に始めて見えることであるから、事實かどうか、問題である。
 かう考へて來ると、菩提と佛哲とが樂曲を傳へたといふことも容易に信用はできない。またよし樂曲を傳へたとす(143)るにしても、一人はインド人であり一人は林邑人である以上、同じ樂を二人で傳へたといふのは甚だ怪しいことである。またもしそれが菩提の所傳だとすれば、それに林邑樂といふ名のあるのは不思議である。平安朝末や鎌倉時代の人たちが天竺と林邑とを混同するのに無理は無いが、天平時代に來朝した天竺人林邑人自身には、そんなことは無かつたに違ひないから、天竺人がその本國の樂を林邑樂と稱して傳へる理由はあるまい。或は實は林邑僧佛哲の傳へたのを、菩提が同時代の外國僧でそれよりも有名であつたから、後世には誤つて菩提の所傳といふやうになつたのだ、と臆測すればせられないこともなからうが、もとより根據の無い臆測にとゞまる。なほ佛哲はどこにゐたか判らないが、菩提が大安寺にゐたことは確からしい。さうしてもし林邑樂が傳來の當時から大安寺の特伎であり、菩提がそれに關係のあるものであつたならば、天平八年から間の無い時にこの樂がこの寺で行はれたはずであるのに、天平十九年の大安寺流記資財帳(大日本古文書卷二)には、唐樂の調度と伎樂の具とは見えてゐるが、林邑樂のそれについては何の記載も無い。これも疑問の一つである。更に一歩を進めて考へると、僧徒に樂の心得のあることに不思議は無いけれども、菩提なり佛哲なりが多人數で奏する舞樂、特に倍臚のやうな武舞、にも通じてゐたといふのも怪しむべきことである。要するに、林邑樂を菩提や佛哲の所傳とする傳説には、疑を插むべき點が甚だ多い。
 しかし林邑樂の由來については他の傳説もある。それは倍臚についてであるが、やはり教訓抄に、樂は菩提の所傳だといひながら、舞は聖徳太子の時の作だといふ説が載せてあり、また鑑眞和尚の所傳といふ言ひ傳へがあることも出てゐる。これは、この曲が教訓抄に「天王寺舞之」とあり、また別に「唐招提寺にもあり、四月八日陪臚會、此曲を舞ふ、」とあるやうに、そのころには天王寺と唐招提寺とのみに傳はつてゐたために、その由來を各々その寺の創(144)立者に附會したものと思はれる。(陪臚が唐招提寺の樂であつたことは教訓抄に明記せられてゐるのみならず、續教訓抄の著者狛朝葛が、招提寺僧隨法房からこの曲を學んだ、と書いてゐるのでも知られる。)傳説は概ねかういふものであつて、教訓抄に唐樂の萬秋樂について「此曲は佛世界曲也、自百濟國波羅門僧正所傳來也、」とあるのも、その類である。だから眞に樂曲の由來を考へるには、全く別の方面から出立しなければならぬ。
 そこで先づシナにこれらの曲があるかと考へて見るに、拔頭が西域傳來の散樂めいたもので唐代に行はれてゐたことは、舊唐書音樂志にも段安節の樂府雜録にもまた文獻通考にも出てゐる明白の事實であるから、今さらいふまでもない。次に陪臚であるが、これは正しくは陪臚破陣樂といふのであつて、教訓抄にも皇帝破陣樂、秦王破陣樂、散手破陣樂、武將太平樂、と共に武舞のうちに入れてある。破陣樂は唐の立部伎八部の一つで、もと太宗の作といはれてゐる大規模のものであるが、讌樂にも移し用ゐられたので、樂府雜録の龜茲部にも見え南卓の鞨鼓録には太簇商調の曲として載せてある。我が國に傳はつた諸種の破陣樂がそれから系統をひいてゐるものであることは、名稱の上からも容易に推測せられるから、陪臚もその一つに違ひない。それを陪臚といふのは陪臚會に奏せられる慣例であつたからのことであらう。(陪臚の字で寫された語がどこの語でありその意義が何であるかは、余にはわからぬ。たゞ陪臚會の名が陪臚破陣樂を奏するために起つたのではなく、法會の名から樂の名が出たものであることは、破陣樂の性質からも、法會には種々の樂が奏せられる慣例であるにかゝはらず、樂の名から法會の名稱が出た例が無いことからも、推察せられる。もつとも陪臚會といふ名は唐招提寺にのみ用ゐられてゐるのに、樂は天王寺でもやはり陪臚破陣樂といつてゐるのは、名稱の起源が唐招提寺にあつたのだとすれば不思議は無い。)かう考へると、拔頭と陪臚とは西域系(145)の散樂と龜茲樂に屬する武舞とであるから、それを菩提などが傳へたといふことはます/\信じられなくなる。ところが菩薩と迦陵頻との二曲については、それらしいものがシナには見つからぬ。たゞ崔令欽の教坊記に菩薩蠻といふ曲名が載つてゐて名稱が菩薩と類似してゐる。李白に菩薩蠻詞のあることも參考してよからう。古人もそれに氣がついたと見え、教訓抄の菩薩の條に「古抄曰唐有菩薩蠻曲、何事か可尋之、」とある。ところが教坊記に見える他の樂曲から類推すると、この曲もまた西域を經て入つたものであるらしい。(杜陽雜編に女蠻國から入つたものと説いてあるのは蠻の字からの附會であらう。中村久四郎氏の説では菩薩蠻の文字は mussulman の音譯であるといふ。)それはともかくも、この菩薩蠻と我が國の菩薩との間に何か關係があるかといふに、羅陵王を陵王といひ、迦陵頻伽であるべきものを迦陵頻といふやうに、樂曲の名を略して稱へることがあるから、菩薩蠻を菩薩と略稱し、菩薩の文字から寺院樂として適用せられたと臆測すれば、せられぬことはないかも知れぬ。一般的にいふと、寺院に用ゐられる樂は宗教的意味を有つてゐるものではないが、これだけのことは考へられなくはなからう。けれどもこれも根據の無い臆測にとゞまるので、さう推定すべき理由は何もない。特に菩薩に用ゐる面は純粹の菩薩の相好であるから、この曲名は初めから菩薩を意味するものと解するのが穩當である。また迦陵頻については唐人の記録には全く所見が無いやうである。
 ところがこゝに菩薩と迦陵頻との二曲の起源を推知することのできる記事が東大寺要録に見える。それに引いてある貞觀三年の大佛供養の時の儀式の次第を記録したものに「誦讃之間、普驚菩薩象王臺上舞畢、象王北面而立、伽陵頻伽二行對立奏【新造舞、唐舞師某位文屋富、新造音聲、笛師某位和邇部大田麿、】奏舞了、還着本幄、」とあつて、次に古樂を奏して多門天王及び吉祥天女が鬼(146)と天女とを從へ華や果物を捧げて佛前に獻ずることがある。さうしてそれが實際に演奏せられた状況を、御頭供養日記に記して、先づ林邑樂人と胡樂人とが中門を入つて幄舍に就くことをいつた後、「林邑樂人鳥等捧供盛物等、東西分、經?臺、參於堂上、奉並、即有一人白象、立於前、其象皆構?臺、着菩薩於其上、白乘杓《?》留於 儀臺、待佛供者、自堂還、共 儀了、」といひ、次に胡樂で天女及び十二葉叉などが菓華等を捧げて佛に供することがいつてある。この二つの記載を互に參照すると、象に乘つた菩薩が舞ふのも、迦陵頻伽(鳥)が佛前に供物を捧げ、それが畢つてから?臺で舞を奏するものも、林邑樂を奏する場合であることが知られ、また胡樂が古樂であることもわかる。さて後世のいはゆる林邑亂聲を用ゐる菩薩と迦陵頻とは多く關聯して奏せられるもので、何れも佛前に華を供へる儀式のあることは、龍鳴抄にも「十種供養する時は菩薩と迦陵頻とをするなり、……まづ菩薩花を奉りて還るに舞ふなり、鳥同じことなり、」と記されてゐるので知られる。(鳥とは迦陵頻の俗稱である。後には延喜時代に作られたといふ高麗樂の蝴蝶と竝べて喋鳥と呼ばれ、多く法會に奏せられる。)さすれば、後世の菩薩が象に乘らない代りに花を捧げるだけの違ひはあるが、その他のことについては菩薩と迦陵頻との二曲の演奏の有樣とこの東大寺要録の記載とが全く同一である。かう考へると、貞觀三年の大佛供養の時に林邑樂によつて演ぜられた菩薩と迦陵頻とが後世の同じ名の樂舞曲の起源ではあるまいか。後世の菩薩に象を用ゐないのは、場所の熈狹にもより趣味の變遷にもよることであらうし、また多門天や吉祥天女を出さない代りに、菩薩に花を捧げさせることにしたのであらう。さうして象を出さなくなつたから、普賢の名が消えて菩薩だけになつたのであらう。上に一言した承平五年の法會の記録には「林邑樂發音、以菩薩四十人、東西相分供花、還却之次、奏菩薩舞、……次以迦樓頻並天人四十人、相分供小佛供、還次同奏迦樓頻舞、」(147)とあつて、菩薩が象に乘らずして花を供へ、またその數が四十人となつてゐるし、古樂のことも見えずして迦樓(陵)頻と天人とが共に動作し共に舞ふことになつてゐる。貞觀の時のから後世の演奏法に變化してゆく中間の状態として解せられるやうである。ところが、貞觀の記録に新造舞、新造音聲、と注記してあるのを見ると、二曲の樂も舞もこの時の新作であつたことが明かに知られる。この考説がもし誤らぬものであるならば、林邑亂聲を用ゐる四曲中の二つは日本で作られたものであることが知られる。さて拔頭と陪臚とが西域系統に屬する唐樂であるとすれば、四曲の何れもが菩提や佛哲に關係の無いことは明かであらう。
 が、解決のできない疑問はなほある。貞觀ころに菩薩と迦陵頻とが唐樂の新古の何れでもなく、林邑樂として作られたとすれば、それは樂曲か、舞の手ぶりか、何かに於いて前から行はれてゐた林邑樂の特色を有つてゐたであらうが、それならばこれより前の林邑樂はどんなものであつたらうか。前に述べた拔頭と陪臚との二曲がその一部分であらうか。もしさうとすればこれは西域系統のものであるのに、それが林邑樂として我が國に傳へられたは何故であらうか。これらの問題は上記の考説から自然に生ずるものであるが、しかし何れも今日からは到底解決することができさうにない。しかたが無いから、林邑樂といふ名稱がどうして我が國に入つて來たか、といふことについて漠然たる推測を試み、それでこの稿を終らうと思ふ。
 林邑樂は隋書や唐書の音樂志には獨立の樂部としては見えてゐないが、林邑の樂は隋書の林邑傳にも「樂有琴笛琵琶五絃、頗與中國同、毎撃鼓警衆、吹蠡以即戎、」とあつて、シナ人には知られてゐた。さうして舊唐書音樂志に林邑の附近の扶南や驃の樂としての扶南樂や驃國樂があるのを見ると、宮廷の樂部としては存在しなかつたにもせよ、林(148)邑樂が唐に入つてゐたことは想像せられよう。さすれば林邑の樂が、唐に行はれてゐた西域系統の樂と共に、何等かの機會に於いて唐から傳來したとしても、不思議はあるまい。現に我が國の唐樂の樂曲に扶南といふのがあつたが、これは、少くともその名は、扶南樂から來たものであらう。扶南樂系統のものが傳來したとすれば林邑樂も入り得べきはずである。なは舊唐書音樂志に「煬帝平林邑國、獲扶南工人及其匏琴、」とあり、唐の樂部の扶南樂はそれを繼承したものであるのを見ると、扶南樂と林邑樂とは或は混同せられてゐたかも知れない。よしさうでないにしても、唐から入つて來た夷樂で唐の宮廷の樂部にも名が見えず傳來の徑路のわからないものは、いはゆる林邑樂に限らないので、度羅樂の如きもその一つである。(令集解に見える度羅樂の樂曲の韓與楚奪女舞などはシナで作られたものであらうが、婆理、久太、邪禁女、などの名は漢語とは思はれないから、その起原はどこかの外國にあるのであらう。唐書の樂志などには見えないが、それは宮廷の樂部に無かつたからのことで、民間に行はれてゐたことを否認する理由とはならぬ。)だから、もし林邑樂が唐の宮廷の樂部に無かつたとしても、それが民間から我が國に傳はつたとすれば少しも支障が無い。但しこのいはゆる林邑樂の樂曲が眞の林邑樂そのまゝのものか、または唐に於いて何等かの變改の加へられたものか、といふに、他の例から見ると後の方らしい。のみならず、舊唐書音樂志の扶南樂の記載には本來の樂器を「陋不可用」として天竺樂の樂器を以て之に代へたとあるが、もしいはゆる林邑樂が扶南樂であつたとすれば、この時既に大なる變化をうけてゐる。(天竺樂は西域を經て入つたものであつて、大體に於いて西域樂の系統に屬すべきものである。)また林邑などの南蠻の樂は貝を吹くのが特色であつて、これは西域樂には無いことであるが、我が國の林邑樂で貝を用ゐたかどうか。貝を樂器と考へたことは我が國の記録には見えないやうであるから、(149)それは用ゐなかつたらしい。さすれば、いはゆる林邑樂は唐から我が國に傳はる間に於いてもまた變化があつたのである。なほ前に述べた貞觀三年の大佛供養の時の林邑樂の作曲者は和邇部大田麿であるが、三代實録によると、この人は笛の名人で、この年には雅樂少允であり、また教訓抄によると、この人について唐樂の輪臺の改作者だといふ樂家の傳説があつたらしい。さすれば、林邑樂として作つたこの時の曲も、大體は唐樂的のものであつたらうと思はれ、さうしてそれが林邑樂といはれたのは、その前から行はれてゐた林邑樂も唐樂とあまり變らないものであつたからではあるまいか。唐樂にも古樂新樂の區別があるが、いはゆる林邑樂と唐樂との差異も同じ程度のものではなかつたらうか。唐樂の新古の區別については古來種々の説があるが、天平寶字八年の正倉院文書(大日本古文書五)に古樂、中樂、の名があつて、破陣樂が古樂、三臺と宗明樂とが中樂、の部に入れてあり、また前に引いた東大寺要録の天平勝寶四年の大佛供養の記録にも、古樂中樂の名が散樂と竝記せられてゐるから、この區別は唐に於いて既にあつたのではあるまいか。後世の樂家では、一鼓を用ゐるのが古樂、鞨鼓を用ゐるのが新樂、といふことになつてゐるが、龍鳴抄の倍臚の條を見ると拍子にも區別があつたらしい。いはゆる林邑樂と唐樂との差異も、これと似たやうなものであつたらう。後世になつて全く唐樂の中に組みこまれてしまつたことからも、さう推察せられる。但し唐樂であるべき拔頭や倍臚が初めから林邑樂とせられてゐたかどうかは、全くわからないが、多分、後世になつて林邑樂に編入せられたのであらう。さうして上に述べた扶南などが、却つて奈良朝時代の林邑樂の一つではなかつたらうか。
 林邑樂についての卑見はほゞこれで盡きた。要するに、菩提とか佛哲とかが傳へたといふのは附會説で、それはこの樂が大安寺特有の技であつたために、その大安寺に縁故のある菩提などに假託せられたに過ぎない。多分、大安寺(150)から出た説であらう。さうして特に菩提の名を用ゐたのは、それが佛教の本國たるインド人として考へられてゐた故であつて、恰も萬秋樂を佛世界の曲だといふのと同じやうな考へかたから來てゐるのであらう。また佛哲をそれに結びつけたのは、林邑樂といふ名稱と、林邑を北天竺と思つたのとのためであらうが、余はむしろ、この佛哲は林邑樂を傳へたといふ話を作るための烏有先生ではないか、と疑ふのである。佛哲は林邑樂を傳へたといふことの外には何の事蹟も傳はらないからである。(悉曇章を傳へたといふのは、林邑僧佛哲といふ名の既に作られた後に、悉曇章の傳來をそれに附會したものとして解せられよう。)インド人の菩提では、林邑樂の祖とするにはふさはしからぬ感じがするではないか。しかし本來インド僧の菩提が佛教の本國から尊い樂を傳へたといふのが、大安寺の誇として世に示さうとする根本の考であるから、林邑僧をも菩提に隨伴して來たものとし、また林邑樂を教へたのも菩提が開眼師となつた大佛供養の場合として、どこまでも菩提を表面に立てたのではあるまいか。大安寺菩提傳來記に佛哲が何處にゐたかを明記せず、しかも菩提と共に大安寺にゐたらしくほのめかしてあるのも、この故かと思はれる。
 最後に一言附け加へておく。ずつと後世には林邑八樂といふ名があつて、上に擧げた四曲の外に、蘇莫者、胡飲酒、劍氣褌脱、輪鼓褌脱、を數へてゐるが、これらは何れも西域系統のものであつて、林邑樂とは何の關係も無い。(このことは吉田東伍氏の「日本音樂史の古代に就いて」に於いて既に説明してある。)どうしてこれらが林邑樂として説かれることになつたかは判らないけれども、教訓抄や舞樂要録などによると、これらの書の作られたころには蘇莫者は天王寺にのみ傳はつてゐた舞である。また藤原孝道の雜秘別録によると、胡飲酒も天王寺(ばかりではないが)に傳はつてゐて、それには特殊の風體があつたらしい。ところが同じ雜秘別録に菩薩の舞もまた天王寺にのみ後まで(151)存在してゐたことが見え、前に述べた如く倍臚も(唐招提寺の外には)天王寺にのみ傳はつてゐたのであるから、さういふ關係から天王寺でいひ出したことではあるまいかと思はれる。しかしこれは臆測に過ぎない。また二つの褌脱については何とも考へやうが無い。
 
(152)     第一〇 能の源流
 
 藝術史家が國民藝術について何ごとかを考へるに當つて、廣くそれを文化上の關係のある他の國民の藝術と比較し、その淵源と由來とを探求しようとすることは、いふまでもなく必要であつて、特に日本の如く常に他國の文物を學んで來た國民の藝術を論ずる場合には、無くてはならぬ大切の用意である。しかし、もし單に外形上一二の類似點があるのを見たばかりで、直ちに一が他を學んだものと斷ずるやうなことがあるならば、それは却つて輕率のしわざであらう。能の淵源がシナの雜劇にあるといふのも、またこの輕率なる判斷の一例ではあるまいか。
 能が元の雜劇を摸倣し、もしくはその刺激をうけて形成せられたものであるといふ説は、ふるく白石や徂徠によつて唱へられたが、近ごろになつても同樣の意見をもつてゐる人が多いやうである。傳奇研究の權威といはれた森槐南氏もこんな風に考へてゐたらしく(【藝文第一號、卒塔婆小町合評】)、三宅雪嶺氏もさう決めてゐる(【日本及日本人所載東西美術の關係】)。徂徠は「元僧の來り教へたるなるべし、こればかりの事もこの國の人の自ら作り出せるわざにてはあらじかし、」と例のシナ崇拜から無雜作に決めてしまつたらしいが、白石は、能がシナで雜劇傳奇の盛行した時代にできたこと、曲のくみたて方が似てゐることなどを證とし、一歩を進めて「彼國の俳優はみな頭髪髭鬚を剃り除きしものなり、これは男となり女となり僧となるに便あらんがためなり、我國の田樂法師といふものも亦かくの如くなれば、彼國の雜劇に倣ひしは先づ田樂に始まれるなるべし、」とまでいつてゐる。さすが白石だけに議論に一ととほりの根據はある。曲のくみたてが似てゐ(153)るといふことは、森槐南氏がやゝ詳しく比較してゐる。
 かういふ説の出るのは、一つは能と雜劇とを比較してその間に幾分か類似の點が認められるからでもあるが、今一つは能が南北朝時代から室町時代の始めにかけて忽然と世にあらはれたので、その前身たる鎌倉時代の猿樂や田樂との關係がよくわからず、發達の徑路が明かに知られぬからのことでもあらう。鎌倉時代の猿樂や田樂と後の能との間に大なる懸隔があつて、而もそれが短時間に起つた變化であるとすれば、能の形成には外から來た何物かの影響があるだらうと考へるのは、無理のない推測である。
 能がもし元の雜劇を學んだものとすれば、日本人が何等かの機會で雜劇を知つてゐたものとせねばならぬ。それには元の俳優が日本に來るか日本の俳優が元に往くかして、猿樂田樂の役者が雜劇の演奏を實際に觀、もしくはそれを學習したのか、または彼の地から元曲の詞章が傳來したのか、さもなければ、彼の地で雜劇を觀て來たものの話などによつて、おぼろげにその演奏ぶりが知られたのか、これらの三つの外には出まい。ところが第一のやうなことは當時の状態から考へて、あつたとは思はれぬ。第二第三は、或はその一方が、或はまた兩方が共に、あつたと思はれぬでもない。けれども、さういふ事實は、わたくしの知つてゐる限りでは、記録に見えてゐないのであるから、能の内容をしらべてそのうちに元曲を學んだ痕跡があるか否かを考へ、また周圍の事情がかゝることを許したか否かを研究してみる外は無い。
 能は一種の樂劇らしいものである。こゝに「らしい」といつたのは、樂の分子も劇の分子も極めて不完全なもので、實は其の意義で樂とも劇ともいはれないほどのものだからである。その理由は後に説くこととするが、とにかく樂劇(154)らしいもので、その詞章(謠曲)は曲の部分と白の部分とを組み合せてできてをり、俳優が舞臺に上つてこれを演ずるのである。この大體の性質が雜劇に似てゐる。次に能はその詞章の組み立て方にほゞ一定した順序がある。曲によつていくらかの差異はあるが、その最も例の多き形式は、はじめにワキが出て「次第」といふ短い曲を歌ふ、(これは無いこともある、)それから名のりをあげ、こゝにあらはれた理由を簡單に説明する。次に「道行」の曲になつて、それがすむと、到着した場所を語る。これが全曲の發端であつて、その次にシテが現はれワキとの問に問答が始まる。この發端の順序が幾分か雜劇に似てゐるのである。能の内容が雜劇に類似してゐるのは、まづこの二點である。
 次に雜劇が能の形成に何等かの寄與をなし得る事情があつたかといふと、一つは能の形成せられた南北朝時代が恰も元未明初に當るといふこと、一つはこの時代に禅僧のシナに往復することが頻繁であつて、彼の地の文物が之によつて幾分か輸入せられたといふこと、この二つの事情がある。そこで元曲を我が國に傳へ、もしくは雜劇の樣子を話してきかせた禅僧があつたであらうといふ推測ができる。それから謠曲にあらはれた思想が甚しく佛教的色彩を帶びてゐるといふことも、或はこの推測を強めることになるやうにも思はれる。
 しかし、これだけで、能が雜劇を模擬したもの、少くともその影響をうけて形成せられたもの、といふことができるかどうか。もつと詳しく考へて見なければならぬ。
 先づ能と雜劇との相違點を調べて見よう。第一に、雜劇はその詞章が普通にいふ戯曲の體裁を具へてゐるのに反し、謠曲は敍事的で地の文がある。さうしてそれが曲中の人物の獨唱などになつてゐることさへある。演奏の場合には地謠があつて、地の文を謠ふのみならず、人物の獨唱であるべき部分をも同吟することがある。殆ど劇としては見られ(155)ぬほど、不合理不體裁のものである。第二に、雜劇には時間的に進行して行く筋があり、曲中の人物の間に何等かの葛藤が起つて何とかそれを解決することになつてゐる。能は殆どそれが無いといつてよい。たまにあつても極めて單純である。以上の二點は能が劇として甚だ不完全なものであつて、雜劇の方が遙に進歩したものだといふことを示す。元來能は幾分か劇らしいところはあるにせよ劇の特色である個人といふものが殆どあらはれてゐない。劇ならばその曲の部分は人物の個人的感情の最も高潮に達した時でなければならぬのに、能では地の文や道ゆきなどに曲の形になつてゐるところがあるのを見ても、それが劇らしくないことがわかる。全體の上に一種の抒情詩的情趣が流れてゐてそれを舞臺の上に漂はせるところに、能の生命があり興味があるので、謠曲の詞章が敍事的であつて、地の文と獨唱とが無意味に混淆してゐても支障がないのも、この故である。けれどもこれがオペラとも性質を異にし、雜劇とも趣を同じうせざる所以である。雜劇には(もとより特殊な性格をなしてはゐないが、ともかくも)個人的感情とそれから起る葛藤とがあるのである。第三に、雜劇の歌曲は旋律をなしてゐる曲節である。能は曲らしい部分でも旋律をなしてゐない。それは調子の無いのでもわかる。雅樂はいふまでもなく、近世の俗曲でも「二上り」とか、「三下り」とか、「平調子」とか「雲井」とかいふ調子がある。雜劇の歌曲にも仙呂調とか越調とかいふ調子が定まつてをる。能の謠にはそれが無い。調子がなくては旋律ができない。能は眞の意義で樂といふ事ができぬといつたのはこれがためである。第四に、雜劇には歌曲が重要な位置を占めて居るけれども、舞踊らしい分子は無く、俳優の動作は寫實的のものらしい。然るに能は舞踊が主である。舞踊の無いものには物狂ひなどで同樣の感じを觀客に與へる所作が必ずある。それからまた、能でいふシテやワキなどの名稱が雜劇の生旦、生末、冲末、などと似てゐるといふ説もあるが、(156)これは却つて命名法の原則が異なつてゐることを示すものである。シテ即ち爲手と云ふのは曲の主人公といふ意義の名ではなく、主たる役者または舞人《マヒテ》といふことである。またワキはそれを補助する役者といふことで、全く演奏上の地位から命名せられたものである。旦とか末とかいふ語の意義はわたくしにはよくわからぬが、生旦とか生末とかいふのはいつでも曲の主人公をさしてゐるやうである。かういふ風に雜劇に用ゐる俳優の稱呼は劇の脚色の上から命名せられたものであつて、男女老少その他人物の性質により種々の區別のあるのもこれがためであらう。然るに能では、男でも女でも幽靈でも鬼神でも、主なる役者は皆シテといはれてゐる。その間に區別をする必要がない。この命名法の差異が取りも直さず、雜劇と能との性質の違つてゐることを示すもので、能は何よりも目に見せる舞の姿を重んずるものであるといふことがわかる。次に演奏についていへぼ、雜劇には一般には假面が無いが、能にはそれを用ゐる。また雜劇には能のやうに地謠らしいもの、またはコオラスめいたものが無いし、樂器などもまるで違つてゐる。元代の雜劇にはどんな樂器を用ゐたか確かには知らぬが、今日のものから推測し、また唐宋の音樂から變遷していつた形跡を考へて見ても、種々の管絃樂器を用ゐて合奏したものであらうと思はれる。これに反して能の囃では殆ど樂器らしい樂器が無い。主なる樂器は打樂器である鼓であつて、本來は旋律を奏し得る笛も實は打樂器と同じほどな效果を生ずるものとして取扱はれてゐる。雅樂に用ゐられた種々の管絃樂器があるにかゝはらず、能にはそれが使はれない。雜劇と能とはかくの如き大差異がある。そこで、日本人がもし雜劇を知つてゐて能がそれを模擬したものであるとすれば、何故にこんな差異があるかといふ疑問が起る。もつとも模擬するにしてもその程度はいろ/\ある。似た點が少いからとて模擬したものでないとはいはれぬ。第一、前にも述べたやうに日本の俳優が雜劇の演奏そのものを實際(157)に見たことが無いとすれば、演奏ぶりにいくらかの差異のあることや樂器の違ふことなどは、當然であるとも思はれよう。けれども、もし元曲を詞章の上で知つてゐてそれを模倣しようとしたならば、大體の詞章のくみたてが戯曲的であるところに目がついたはずである。戯曲が筋のある物語であることにも氣がつきさうなものであつた。或はまたシナがへりの禅僧などから、あちらで見て來た演奏の模樣などを聞いたとするならば、俳優の舞臺に於ける唱歌や科白や伴奏樂器のことなども、ほゞわかつてゐたはずである。ところがさういふ點に注意した痕跡が毫も能の上に存してゐないのは、雜劇から何等かの刺激をうけたものとしてはあまりに不思議ではないか。
 次に、能と禅僧との關係を考へて見よう。能の前身たる猿樂や田樂は、南都北嶺の僧徒とこそ深い關係があれ、禅僧とは殆ど交渉の跡が無い。猿樂の座は所々にあつたが、直接に能の形成に與かつた者は近江のと大和のとであつて、近江猿樂は日吉神社に、大和猿樂は春日神社に、附屬してゐた。日吉が延暦寺に、春日が興福寺に、深い關係があることはいふまでもなからう。田樂もまた叡山に密接の關係がある。(世阿彌の申樂談義に田樂法師は山法師が田樂を學んだのに始まるといふことがいつてある。田樂法師は鎌倉時代からあつたのであるから、時代のよほど後れてゐる世阿彌の言ばかりで直にこれを信ずるわけにはゆかぬが、田樂法師の間にかゝる傳説があつたものと見える。嚴秘抄に八王子權現の祭禮の時、その神體を本座の田樂が首にかけて渡すとあるのを見ても、田樂と叡山との關係が推測せられる。)ところが南都も北嶺も新來の禅宗とは宗旨敵きである。從つて猿樂や田樂と禅僧との間に直接の關係が無いことも推測せられる。それから謠曲と禅僧との間に何かの關係があるかと考へて見るに、先づ謠曲に禅宗的趣味もしくは禅家の口吻らしいところのあるものは甚だ少い。普通に知られてゐるものでは、東岸居士、卒都婆小町、山姥、(158)江口、放下僧、殺生石、車僧、などに禅宗的思想が入つてゐるが、その他には殆ど見當らぬ。しかしこの中で禅家の口吻の最も多い東岸居士ですら、一方には一遍上人縁起を採り入れてゐる。謠曲中の人物の對話の方法が禅家の問答に似て居るやうにいはれてもゐるが、卒都婆小町など故らに禅家の口吻を摸したものは別として、さもないものはさうとは思へぬ。却つてロンギなどに於いて南都北嶺の僧徒間に行はれてゐた「論議」から來た徑路の明かなものがある。また禅僧の方からいつても、極端のシナ崇拜家たる彼等はシナの文學を日本にそのまゝ移植しようと勉めた。またシナ趣味を鼓吹するために國語で注釋ものなどをば作つた。けれども彼等のうちに、國文學に手を染めたものは極めて少いといつてよい。歌人として世に知られたものは幾人かあるが、そのうちで有名な徹書記は、歌に志してから後に禅に入つたので、禅僧として歌を學んだのではない(徹書記物語)。また當時流行した連歌などでも、禅僧の加はるやうになつてから「漢和」とか「和漢」とかいふものができ、彼等は常に漢句をつけたのである。なほ、室町時代に作られた小説や物語の類にも禅宗的趣味は殆どあらはれてゐないから、禅僧はこの方面にも無關係である。多數のうちには例外がないでもなからうし、夢窓國師の如きは歌集が殘つてゐるくらゐであるが、概言すると禅僧の國文學に手をつけたものが少かつたことは明かである。さすれば謠曲の如き、新來のシナ趣味に對していへば、日本趣味のものと禅僧との間に直接の關係の無いことも、推測ができる。謠曲に佛教的着色の著しく目立つことはいふまでもないが、それは決して禅宗趣味ではない。謠曲が當時あれだけの勢力を有つてゐた禅宗に關することを詩材として採ることの極めて少かつたことを見れば、禅宗と能との關係が殆ど絶無といつてもよいほどであることが知られる。もつとも、禅僧と猿樂、田樂、もしくは今に傳はつてゐる能、との間に直接の關係が無いからとて、それがすぐに禅僧」(159)が元曲を日本に傳へなかつたといふ證據にはならぬ。が、禅僧が元劇と能との媒介者であるといふ可能性を甚だ少くすることにはなる。それのみならず、禅僧自身も能と雜劇との間に關係があるらしく思つたことがないやうである。宜竹が翰林葫蘆集で能の起源を説いて居るところは、全く猿樂家の傳説そのまゝである。その他、禅僧が能を見た記事を讀んでみても少しも元曲を聯想した樣子が無い。五山僧の著作をすべて讀んだのではないから概言することはもとよりできぬが、讀んだ限りに於いては、どうも彼等が雜劇に言及したものを見ないやうである。東坡や黄山谷の詩を崇拜する彼等の趣味は、雜劇などとは相容れぬものではなからうか。謠曲や元曲の、或は花やかな、或は艶かな、もしくは甚しく感傷的な、趣味は、冲澹夷希たる宋元畫を愛好した彼等の趣味とは相隔たること千里であつたであらう。これらの點もまた積極的に禅僧が能と樂劇との媒介者であることを否定する材料とはならぬ。けれども、少くともその媒介者たる資格を甚だ薄弱にするものである。もし雜劇と能との内容が十分に近似してゐるならば、かゝる薄弱な資格のものでもその間の媒介者となつたことがあるといふ想像ができぬでもなからうが、前に述べた如く兩者の性質があまり似てゐないとすると、或はまた能が外からの刺激をまたずに日本に於いて成り立ち得べきものであつたことが明かになるならば、かゝる薄弱な資格では、殆ど彼等をしてその間の媒介者たる位麿に立たしめることができぬことになるのである。
 然らば、上にいつた二つの類似點はどうかたつけるか。わたくしはこれが却つて能が純粹に我が國で發達して來た明證であると信ずる。その理由を述べるには、少しく時代を溯つて猿樂及び田樂の歴史を囘顧する必要がある。
 猿樂といふ名は散樂の轉訛で、滑稽な姿態で踊つたり輕業めいたことをしたりして、人を笑はせるのが本色であつ(160)た。もとは唐から傳來したもので、平安朝の中ごろには宮中で相撲の節會などの時、舞樂のあつたあとに餘興として演ぜられたものである。それから内侍所の神樂の後でも、餘興に滑稽なしぐさをするのを猿樂といふやうになつた。これは宮中でのことであるが、民間にもそれを職業とするものができて、神社などで祭禮の餘興として公衆の前で興行するやうになつた。藤原明衡の作といはれてゐる雲州消息を見ると、稻荷神社の祭禮で猿樂を演じたことがわかる。それによると、彼等の技藝の中で最も喝采を博したものは、滑稽にして猥褻なる「物まね」である。同じ人の新猿樂記によれば、猿樂師は品玉や輪鼓などの輕業らしいこともし、または傀儡などもつかつたのであるが、猿樂の猿樂たる特色がこの「物まね」であつたことは明かである。さすれば、猿樂が他日能となる基礎は既にこの時から存在してゐたのである。「物まね」であるから猿樂の俳優は動作を以て身ぶり姿態をあらはすと共に、對話獨白などの形によつて言語を用ゐねばならぬ。當時の猿樂は「假成夫婦之體、學衰翁爲夫、摸  柁女爲婦、始發艶言、後及交接、」とあるのでその「物まね」の樣子がわかり、「福廣聖之袈裟求、妙高尼之襁褓乞、形勾當之面現、早職事之皮笛、目舞之翁體、巫遊之氣装貌、京童之虚左禮、東人之初京上、」とある曲目でその題材と性質とが推測せられるが、この野卑なる滑稽を去つて、まじめな「物まね」とし、それに歌舞の分子を加へると、ほゞ能のやうな形のものができるのである。さうなるまでには長年月を要したのであるが、ともかくも、俳優の科と白とで人の行爲言動を摸寫して見せるといふことは、この時から既に行はれてゐる。これは能の發達を考へるに當つて看過すべからざることである。さて猿樂が流行すると共に、田樂もまたこの頃から都人士の間に知られて來た。これは、散樂が雅樂に附屬した伎藝から起つて京都に先づ行はれたのとは反對に、地方の農民の踊から起つたものであるから、鼓舞跳梁(洛陽田樂記)がその特色(161)である。その始めは、多分、盆踊的のものであつたらう。ところが、これがまた京都に流行つていつた。時は恰も平安朝の華の盛りであつた一條天皇の時代を過ぎて、爛熟せる女性的宮廷的文化に飽滿した京都の貴族に、新鮮にして粗野なる戸外的空氣を吸はうとする欲望が出て來た時であつて、長い間、窮屈な、うすぐらい、深宮の裡に放縦なる生活を送つて來た彼等が、その卑猥な肉感的な欲求の滿足を、きら/\とかゞやく日の光の下に求めたのが、新猿樂記や洛陽田樂記に見える狂躁的状態である。こゝに注意すべきは、猿樂はこの時既に專門の職業として行はれたが、田樂はまださうでなかつたことと、猿樂が田樂の歌舞をもその技藝の一つとして採り入れたと共に、田樂も高足刀玉などの輕業めいた拔藝を猿樂から學んだこととである。猿樂は「物まね」が本色であるから、觀客の喝采を博すべきものは何でも採り入れてその材料とするので、田樂の歌舞を採つたのもその故であるが、それがために猿樂が「物まね」と歌舞との二分子を有するやうになつたことは、注意せられねばならぬ。また田樂は單純な盆踊のやうなものばかりでは技藝らしくなくて興が薄いので、自然にかういふものをもまねたのであらう。かういふありさまで、京都に流行つて來た猿樂や田樂の平民的娯樂は、院政時代から源平時代にかけて田舍武士が京都に跋扈するやうになり、藝術の上では今樣などの郢曲が下流社會から起つて貴族に弄ばれるやうになつたのと、同じ潮流に乘じてます/\盛になつた。さうして田樂は、猿樂がそれを採つたのみならず、神社に奉仕する巫女もこれを學び(高倉院嚴島行幸記、山槐記)、前にも述べたやうに山法師などもまたそれをまねたらしい。その技藝は田樂固有の歌舞と刀玉一足高足などの輕業めいたものとであるが、かういふ伎藝を演ずるには、おのづから專門の修養が要るやうになつて、田樂を職業とするものが起つた。また猿樂は依然として滑稽な物まねを特色としてゐた(守覺法親王釋氏往來)。鎌倉時代に(162)はこの田樂と猿樂とが竝び行はれて、神社の祭禮や佛寺の法會などの餘興に用ゐられることになり、さうしてそのために、それ/\の座がきまつた。猿樂で最も有名なのは大和の四座と近江の三座とで、田樂には本座新座があつた。
 それからまた別の方面を見ると、院政時代から鎌倉時代へかけて起つた娯樂ものがいろ/\ある。世間的に行はれたものには、白拍子があり、瞽法師の琵琶があり、また僧侶の娯樂としては南都北嶺をはじめ各地の寺院に流行した延年舞や童舞がある。南都北嶺の如く幾多の僧徒を擁してゐる寺院に、種々の娯樂の方法が發達して來るのは自然の勢であるが、法會の際に音樂歌舞を奏する慣例があるところから、それらをくづしまたは變改して、娯樂的の謠ひものや舞踊を作るやうになつたのである。但し佛徒だけに、それらの歌舞もいくらか宗教味を帶びてゐる。嘉慶元年春日臨時祭記によると、奈良法師が倶舍舞や踊和讃などを演じ、また俗裝して種々の歌舞を奏したことがある。新撰類聚往來には倶舍舞聖道舞などの名がある。倶舍舞は勿論、聖道舞といふのも、名稱から推測して佛家のものであつたことが知られる。その他、群猿樂といひ多武峯樣といひ、如何なものであるかを詳しく知ることはできないが、何れも僧徒の娯樂に供せられた歌舞や物まねの類であることは明かである。また法會の時に儀禮として、伎樂や唐高麗の樂を奏するのみならず、假面をつけて幾分の物まねらしい動作をすることもあつた。それは東寺の法會で十二天の假面をつけることがあり、他にも舍利會に八部衆の假裝をすることがあるので知られる(建武元年東寺供養記)。高野山にある天野社の所藏であるいろ/\の假面なども、やはり僧徒の用ゐたものであらう。假面假裝が法會に用ゐられたとすれば、それが一轉して娯樂の場合に適用せられるのは自然の勢である。以上の事例は何れも南北朝以後の記録から引いたのであるが、事實は鎌倉時代から行はれてゐたに違ひない。かういふ状態であるから、猿樂田樂の流行し(163)た時に、南都北嶺の法師等が、或は猿樂田樂の徒を近づけ、或は彼等みづから猿樂田樂をまねるやうになつたのは怪しむに足らぬ。田樂、近江猿樂、及び大和猿樂が、それ/\叡山や興福寺に關係を有つて來たのは、一つはこの故でもあらう。
 鎌倉時代に、田樂は依然として歌舞と刀玉一足高足などの輕業めいたものとを演じてゐたが、南北朝以後の記録に見える中門口とか立逢とかいふ稱呼や演奏の順序は、この間に定められたものであらう。祭禮や法會に用ゐられるやうになると、かういふものがその間にできて來るのは當然である。中門口とは寺院の中門で踊つた曲であらう。また立逢といふのは歌舞の一形式で、幾人かの役者が唱和應酬しつゝ舞つたものと見える。散文的の對話でなくして、歌詩を以て唱和するのである。これは歌舞を本色とする田樂に於いて自然に發逢したもので、猿樂の「物まね」に於ける對話と性質を異にしてゐるが、後には猿樂にも採られて能に用ゐられるやうになつた。次に猿樂はこの時代にどれほどの變化をしたか、明かにはわからぬが、やはり、滑稽な「物まね」と、同じく滑稽な歌舞とが、その本色であつたことだけは、推知せられる。新猿樂記に「目舞の翁體」といふのがあるが、それは歌舞を滑稽化したものである。鎌倉時代から行はれてゐたらしい翁の舞もこんなものから系統をひいてゐるかも知れない。翁の舞は今では儀禮めいたものになつてゐるが、その歌詞から考へると實はふざけたものである。しかし滑稽な「物まね」、滑稽な歌舞、からまじめなものに移るは何の造作もないことである。神事などに奉仕するやうに定まつてからは、甚しく猥雜なことはおのづからやめられねばならぬ。從つて、田樂に演奏の順序が定まつたと同じ事情で、幾分か形も整頓して來たことと思はれる。かういふ變化が内部に起ると共に、南都北嶺との關係は、彼等に延年舞やその他の前に述べたやうな僧家(164)の歌舞物まねを學び、それを採り入れる機會を與へた。これは後の「能」から十分に推測ができる。能に大へしみ小へしみなどといふ假面があるが、これは謠曲にあらはれてゐる情調とはあまりにも調和しないものであるから、多分始めから能のために作られたものではなく、既に存在してゐたものを能が採用したものとしか思はれぬ。それでなければ、かういふやうな日本人らしくない假面の作られるはずがない。外の假面とは全く性質が違つてゐる。それでかういふ面がどこに用ゐられてゐたかといふと、やはり僧家と答へる外は無からう。古い面打ちに日光とか彌勒とか夜叉とかいふ名のあるのでも、その間の關係が推測せられる。また謠曲にロンギといふところがあるが、これも僧徒から來たものである。既にかういふ例があれば、その他にも僧家から學んだものがあることを推測することができる。謠曲が佛教的思想を以て貫いてゐるのも、由來するところは甚だ遠しといふべきである。その外、猿樂は例の「物まね」の本色から、俗間に行はれてゐる種々の歌舞などをも自由に自家藥籠の中に收め得たのであらう。猿樂はこんな状態で南北朝時代に入つたのである。
 ところが、こゝに一つ注意すべきことがある。それは鎌倉時代から漸次行はれて來た歴史的物語がます/\盛になつたことである。瞽法師が語りもした平家物語はいふまでもなく、それを敷衍して種々の傳説を附加した源平盛衰記、その他、曾我物語、義經記、太平記、などが或は行はれ或は將に行はれんとしつゝある。これには功名を子孫に傳へんとする武士的精神の影響もあらう。文化の程度の低い武士が、或は古代に或は上流社會に、憧憬の情をよせたためもあらう。またはその他にも原因があらうが、とにかくかういふ事實がある。今から見れば殆ど謠ひものとするに堪へぬほどな宴曲といふ敍事的のものが行はれたのでも、當時の風潮がわかる。曲舞などもまた敍事的詞章である。そこ(165)で讀みもの謠ひものとしてかういふ敍事的歴史的のものが流行する世となれば、これを形にあらはして演じようとするやうになるのも自然の勢である。「ものまね」を本色とする猿樂がそれをとつて題材としたのは偶然でない。猿樂の「物まね」はもはや當時の世相を滑稽的に取扱ふばかりでなく、一轉して歴史的物語をまじめに演ずるに至つたのである。能の思想の方面の材料はこゝででき上つた。
 然るに猿樂がかういふ題材をとるに至つた時は、前に述べた如く、歌舞や物まねの技藝の方面に幾多の新材料を加へた時であつた。そこで猿樂はこの歴史的題材を演ずるに當つて大なる便利を得、便利を得ると同時に新工夫を加へた。それは物まねと歌舞とを結合することである。詞章の上では曲と白とをむすびつけることである。一方に物まねを、他方に歌舞を、演じてゐた猿樂が、一歩を轉じてこの二方面の技藝を結びつけようとするのは、自然の成りゆきであるから、多分その端緒は鎌倉時代から開かれてゐたのであらうが、歴史ものといふ新しい題材を得るに至つて、ます/\その必要を感じたに違ひない。さうしてこの企圖が成功して「能」となつたのである。
 これについて參考とすべきは、曲と白との結合は延年舞にも見えてゐることである。延年舞も、鎌倉時代に廣く行はれてゐたのは、一場の座興にも演ぜられるやうな單純なものであつたらしいが、室町時代のには、かなり大げさなものがある。今日に傳はつてゐる興福寺延年舞式は、康正(足利義政の時代)以後のものであるらしいが、その形式と詞章とは、よしいくらかの變改はあつたにせよ、もつと前から行はれてゐたものであらう。これによれば、白拍子、亂拍子、または越天樂、糸綸、などと稱する謠ひものの間に、散文的の獨白もしくは對話が入つてゐる。延年舞は固より「物まね」でなく、曲中に人物が現はれるのでないから、對話とても演奏者の問答に過ぎないものでもあり、ま(166)た唱歌とこれらの對話との間にも、意義の上の連絡があまり無いやうである。畢竟機械的に結合したといふのみで、有機的に組織せられたのではない。が、ともかくもかういふ性質の異なつたものをつなぎ合せてあるといふことは、注意すべきことである。しかしこれには歴史的由來がある。佛家に「論議」といふことがあるが、それは、半ばは豫め定められたことを複誦する一つの儀禮めいたものであるから、對話の暗誦といふ習慣は既にこんなところに存在してゐた。また法會の儀禮などはそのまゝ既に一種の演藝と見なすべきものであつて、それには伽陀とか梵唄とかいふ唱歌らしいものがあり、その間に願文の朗讀などがあるから、全體の上から見れば、その演藝は獨白や唱歌やを組み合せたものである。延年舞の組織はつまりこんなところから出たものであらう。何時ころからかういふ組みたてになつたかはよくわからぬが、かなり前の時代から之良拍子と亂拍子とは常に結合して奏せられ(後鳥羽院熊野行幸記、萬葉緯所載春日若宮神樂歌)、また延年舞に兒白拍子といふものがある(著聞集)ことから考へると、延年舞は、本來、種々の歌や舞をつなぎ合せたものであるかとも思はれる。從つて延年舞式に見えるやうな組みたては早くからできてゐたのかも知れない。能の形成せられた傍に、もしくはその前に、こんな風のものができてゐたといふことは、能の形成せられた事情を知るに於いて參考すべきことであらう。猿樂はその延年舞の機械的につなぎ合せた曲と白とを有機的にくみたてたのである。さうして猿樂がこれだけに進歩したのは、その本質が「物まね」であるからである。曲中に人物があらはれて何かの言動をするのであるから、その言語の或る部分を曲とし或る部分を白とするといふことは、だれでも思ひつくことであらう。白としての對話は猿樂固有の形であつて、また曲を以て唱和することが田樂に前蹤のあることは前にもいつたとほりであるから、曲と白とを交へて應酬問答することは容易に行はれるのである。(167)猿樂が能に進化した徑路はほゞこれでわからう。なほ一言しておかねばならぬのは田樂のことであるが、これがややはり南北朝時代には「物まね」を演ずるやうになつて、能の形成に少からぬ關係があるらしい。しかし田樂は後までも中門口立逢などの舞や刀玉などの技藝を本色としてゐるから、その「物まね」を演じたのは、猿樂の流行につれてそれを摸倣したものであらう。鎌倉時代の末から田樂は大に流行つたやうであるが、これは本色たる歌舞が世人に愛好せられたのである。世阿彌の書いたものによると、田樂が能に貢獻したところもまた主として謠の方面であつたらしい。立逢の形が能に採られたことは前にも述べた。これは田樂としては當然のことである。
 世阿彌の書いたところによると、能の形成に大功のあるものは田樂の一忠及び喜阿、近江猿樂の犬王、大和猿樂の觀阿彌、などであるが、一忠はこれらのうちの先輩で、貞和五年に行はれた有名な四條河原の勸進田樂に演奏したうちの一人である。犬王、觀阿彌、喜阿、はほゞ同時代で、概ね南北朝時代と始終してゐる。さて、一忠は當道の祖とはいはれるものの、貞和五年に演じた田樂はまだ能の形をなしてゐなかつたと思はれる。八人にて「戀の立合」をしたといひ(申樂談義)、また山王の示現利生新なる猿樂を演じたといふ(太平記)が、前のは田樂固有の歌舞、後のは幾らかの輕業めいた要素を含んでゐる單純な「物まね」であらう。(【こゝに猿猥樂とあるのは「物まね」といふ意義で、いはゆる「猿楽」または「能」をさすのではない。「物まね」を猿樂といつたことは他にも例がある。但し神田本太平記のこゝのところには猿樂といふ文字は無い。小中村氏の歌舞音樂略史にこれをいはゆる「猿樂」のやうにとつてあるのは誤解であらう。】眞に「物眞似」と歌舞とを結合して能の形を成したのは、それよりやゝ後れた犬王、觀阿彌、喜阿、の時代である。しかし觀阿彌の作といはれる自然居士、百萬、などを見ると、詞章の形式が後のものほどに定まつてゐない。また演奏の方からいつても、世阿彌がこの時代の能を古風といつてゐるところを見ると、今の能の形式が整頓したのは應永ごろを盛りに過ごした世阿彌の時代であることが推測せられる。(168)能はかくの如き歴史を以て漸次に徐々に發逢して來たものである。 かういふ能の歴史を吟味して見ると、能が歌舞と物まねとを結合したものであること、從つてその詞章が曲と白とで成り立つてゐることが、自然の發達の結果として、何の不都合もなく解釋せられる。前に能と雜劇との類似點として擧げたうちの一つはこゝに至つて能に固有な形式であることがわかつた。のみならず、能の詞章が純粹の戯曲的形式をなさずして敍事詩的であることも、それが平家や宴曲やまたは曲舞などの詞章から發達した故であつて、その間に元曲の影響をうけてゐないといふ一證とすることができる。演奏の方からいつても、舞は、地謠があつて舞人がそれに應じて舞ふのであるから、この舞をそのまゝ「物まね」に結合する場合に、地謠が全體にわたつて配置せられるのは當然であつて、雜劇と全く趣を異にする所以もこゝにある。次に今一つの類似點、即ち發端の組みたて方が似てゐるといふことも、これから自然に解釋ができる。すべて「物まね」には、何か著しい特色があつて如何なる人物が如何なる場所でいかなることを演ずるかが、觀客にすぐに了解せられるものの外は、作者は先づ何等かの手段によつて、その人物や場所やを觀客に示さねばならぬ。特に背景などの無い簡素な舞臺では、ぜひとも、そこが如何なる場所であるかを明かに知らせねばならぬ。雜劇に楔子といふものがあり、ギリシヤの劇に往々プロログのあるのは、あらかじめ曲の由來を觀客にわからせるやうにするためであるが、人物や場所を示すには曲中の人物にみづからそれをいはせることが最も簡單な方法である。それであるから、劇の幼穉な時代にはこの方法をとるものが多い。十六世紀ごろのイギリスの劇などもその一例である。シナの雜劇のも我國の能のも、みなこの必要から自然に發達したものであり、必しも一が他からこの方法を教へられたとすることはできない。特に道ゆきは戰記物語に常に用ゐられてゐる(169)のみならず、宴曲の一つの形ともなつてゐて、わが國特有のものである。能に於いて人物と場所とを示した後に、この道ゆきに移るのは、敍事詩的詞章に最も自然な方法であり、また謠ふ部分即ち曲と、語る部分即ち白とを、交互に錯綜する點からいつても、この方法がとられるのであつて、それはもとより元曲の模倣とすることはできない。して見ると、能と雜劇との間に存する二つの類似點も、また能が雜劇の影響をうけたといふ證據にはならぬのである。要するに、猿樂は雜劇を學ばずとも能に發達することができたのである。もし既にこれだけの素地のあるものが、更に雜劇のあることを知つてこれを學ばうとしたならば、いくらでも雜劇からとるべき點はあつた。けれども、さういふ痕跡の見えないところを見ると、猿樂に從事してゐたものは雜劇を知つてゐなかつた、よし知つてゐてもそれを學ぶ意がなかつた、とするより他はない。
 最後に一言を附加してこの小稿を終ることにしよう。概していふと、室町時代の文藝を貫通してゐる主なる思潮は、みな前代から自然に流れて來たものであつて、別に新しいものが加はつたのではない。連歌も物語も土佐繪もみな前代の遺物であつて、その趣味は花鳥風月を弄ぶ平安朝以來の因襲的なものと、鎌倉以來特に著しくなつた悲哀なる佛教的情調とである。前代のあらゆる平民的演藝を綜合してでき上つた能も、またこれと同じ趣味に支配せられてゐる。たゞそれが新に形を成し、そのころ天下に志を得た武士どもの保護をうけて發達しただけに、頗る花やかな艶麗な色彩を帶びてゐる。はじめて京住ひをした田舍もの、はじめて貴族と肩を竝べた關東武士は、顧みて今まで文化圏外に置かれたおのれらの粗野なることを悟つた。彼等の目には頽廢してゐる平安朝文化の遺物がいかに美しく見えたであらう。是に於いてか彼等はそれを手に取らうとした。けれども當時の成り上りものにとつては、雅樂や和歌はあまり(170)に縁が遠い。義滿の如きは急に貴族になつた虚榮心から、わけもなく雅樂などをありがたがつて、傳授までも受けたけれども、一般の武士はさうはゆかぬ。といつて、やはり高尚がりたい。恰も好し、能はこの時に形成せられつゝあつた。平民的演藝から起つて貴族的な花鳥風月趣味を採り入れながら、どこやらにまだ土の香の殘つてゐる猿樂田樂の能は、恰もこの要求に應じたのである。打樂器と笛とのみを用ゐる囃も、武士の氣風に適合してゐる。能は南北朝時代の始めからそろ/\形をなしかけ、室町時代に至つて完成したので、正に武家勢力の發達と相伴うてゐることが、注意せられねばならぬ。一代の成り上りものに歡迎せられた成り上り藝術の眞面目はこれでもわかる。今日能を見るものは、何となく陰氣な感じを喚び起すか、さらずば現世をはなれたやうな淡い感興を生ずるに過ぎないのであるが、それは今日の思想を以て幾百年のさびのついた古代の遺物を見るからのことであつて、能のできた當時の人は決してさうは見なかつた。これは貞和五年の田樂を敍した太平記の文を讀んでもすぐわかる。當時の人の能を喜んだのは、實に華美にして艶麗なる舞容と急調にして殺氣だつたしぐさとの故であつた。ところが、室町時代にはこの主なる潮流の傍に別に一條の細い流があつた。それは禅僧によつて鼓吹せられまた代表せられてゐるシナ趣味である。周文や如拙や啓書記の畫にあらはれてゐる趣味である。これは後にこそわが國民的趣味の一つの要素となつてゆくやうになつたが、當時はたゞ禅僧もしくは彼等と交のある一部の好事者の狹い範圍を流れてゐるに過ぎなかつた。東山時代といふとその趣味の絶頂に達した時のやうに考へるものもあるが、義政は宋元畫などを奢侈の料に用ゐたのみであつて、決して箇中の趣味を解してゐたのではない。後人はあまりにその勢力を買ひ被つてゐる。もしかういふ趣味が室町時代東山時代の時代精神をあらはすものであると思ひ、さうして、その時代にできた能などもやはり同じ趣味の發現と(171)見るやうなことがあるならば、その上にもう一歩を進めて、この點から禅僧と能との間に何等かの關係があるやうに考へ、更に一轉して元曲と能とを結びつけようとするならば、それは全くこの時代の時代精神を誤解したところから生じた謬見であらう。
 
(172)     第一一 神僊思想の研究
 
       一 緒言
 
 シナに僊人といふものがある。秦の始皇や漢の武帝がそれを求めたことは有名な話であるが、この僊人は詩賦にも現はれ、繪畫にも寫され、鏡の銘にも記され、或はまた指南車に置かれ、大牙の上にも立たせられて、周く世間に知られてゐる。しかし、或は蓬莱崑崙に住むと傳へられ、或は五嶽の間を遊行すといはれ、また或は龍に乘つて雲霄に昇り、或は鶴に化して下土を訪れ、僊官として威儀を天上に正すを常とするも、時には山に下つて藥を采るとも物語られ、飄忽として往くところを知らず、冥漠にして來るところを識らざるものが、僊人である。僊藥は海のあなたにあるとは聞くが、曾てそれを得たものが無く、金丹を山の奧に煉つたといふ道士の數は多いが、未だそれをなし遂げたものを見ない。僊術の書は山の如く作られたが、作つたものが僊人になつたかどうかは何人も知らぬ。有るが如く無きが如く、すべてが縹渺の間にある。一體、僊人とは何ものであらうか。
 余がこの一小篇は、僊人といふものの性質、さういふ觀念の由來、それが如何にして世に現はれ、如何に人から取扱はれ、またそれが如何に變遷して來たか、それはシナ特有のものであるか、もしさうとすれば、それはシナの民族性と如何なる關係があるか、などの諸問題について試に二三の臆見を述べたものである。神僊の説はシナの思想史上(173)に重要な地位を占めてゐるのであるのみならず、古くは神代の物語を初めとして、わが國の文獻にも斷えず現はれてゐる興味ある思想であるにかゝはらず、それに關する研究がまだ多く世に出てゐないやうであるから、卑見をここに開陳して大方の教を乞ふのも、全く無益のことではあるまい。檢索の足らず考察の熟せざるところのあることはもとよりであつて、余は敢て雲霧をひらき崢エを擧ぢて神僊の窟宅をきはめその本身を呈露させたといふのではない。たゞ蓬莱をおもかげに見、崑崙の道を尋ね得れば、幸なりとするのみである。
 
       二 僊人の意義
 
 余は前節に於いて僊もしくは神僊といふ語を漠然と使つておいたが、いはゆる神僊の思想を精細に考へるには、先づこれらのことばの意義から詮索してかゝる必要があり、さうしてそれには一應その用例をしらべて見ることが便利である。さて、この思想が何時からあつたか、といふ問題については後に述べるつもりであるが、今日に傳はつてゐる文獻でこれらのことばの出てゐる古いものを擧げようとすれば、何よりも第一に史記を推さねばなるまい。その史記には始皇本紀二十八年の條に「海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之、」とあり、三十二年の條に「求僊人不死之樂」と見え、また封禅書にもやはり始皇について「求僊人羨門之屬」、「三神山……諸僊人及不死之藥、皆在焉、」とある如く、「僊人」といふ名が見え、なほ武帝に關する記事にもこの語はしば/\用ゐられてゐる。封禅書の「海中蓬莱、僊者乃可見、」「安期生僊者、通蓬莱中、」または「僊者非有求人主、人主者求之、」の「僊者」も「僊人」と同意義であらう。楚辭に收めてあつて嚴夫子の作と傳へられてゐる哀時命にも「僊者」の稱がある。「僊人」(174)もしくは「僊者」は人についていふのであるが、司馬相如傳に「列僊」といふ語のあるのを見ると「僊」だけでも人を指すことにはなるのであり、さうしてそれは「僊人」を略していつたのであらう。「僊」とは本來その僊人の境界を意味するものらしく、その境界にある人が「僊人」なのである。封禅書や司馬相如傳に「僊道」もしくは「僊意」といふ語のあることからも、それは知られる。次に「神僊」の語は、始皇の場合には見えないが、封禅書の武帝の條には「有禁方、能神僊矣、」「東巡海上、考神僊之屬、」などとあつて、始めのは神僊の境界のこと、次のはその境界を得た人のことらしいが、人についていふ場合には「僊」を「僊人」の意に用ゐるのであらう。ところで、これらの文字は何れも史記の材料となつた記録からそのまゝ採られたものらしく、さうしてその記録は事件の起つた當時のものであらうと思はれるから、始皇に關することについては秦代の記録の文字がこゝに現はれてゐるのであらう。
 この「僊」と「神僊」との異同如何は後の問題としておいて、先づ「僊」の語の意義を考へるに、史記よりは後出のものながら許愼の説文に、「僊、長生僊去、从人〓」とあり、段注に「僊去、疑當作※[僊の旁]去、莊子曰千歳厭世、去而上僊、小雅婁舞僊々、傳曰婁數也、數舞僊々然、按僊々舞袖飛揚之意、正引伸假借之義也、〓升高也、長生者※[僊の旁]去、故从人※[僊の旁]、會意、」と見えてゐる。「僊」の字の本義は飛揚升高のことであるらしい。封禅書に「黄帝僊登于天」、「黄帝已僊上天」、また「上封則能僊登天矣」、とあるのは、この意義を最も明かに示してゐる。説文の段注に引いてある「莊子」(天地篇)の文も「千歳厭世、去而上僊、」の次に「乘彼白雲、至帝郷、」とあるから、その上僊はやはり天に昇ることである。さすれば「僊人」は天に昇る人の義であつて、帝王の僊意を賦したといふ司馬相如の大人賦に「輕擧」とあるのも、やはりこの上僊の意であることが、後人の用例から推測せられる(後文參照)。武帝が僊人は(175)樓居を好むと聞いて益延壽觀などを建てたといふのも、また僊人が空中を飛翔するものであるといふところから來てゐるので、それは昇天の思想から派生したものであらう。しかし説文には「僊去」の上に「長生」の二字がある。「僊」といふ語そのものには長生の義は無いから、許愼がかういふ説明をしてゐるのは、僊人が長生不死であるといふ考が一般に存在してゐて、それは自明のことの如く思はれてゐたからであらう。僊人と不死とが連結して考へられてゐたことは、上に引いた秦始皇に關する始皇本紀や封禅書の記事でも知られるが、なほ封禅書に「黄帝不死」とあつて、昇天した黄帝が一方では不死とせられてゐるのを見れば、それはいよ/\明かであらう。楚辭に收められてゐて前漢時代の作らしい惜誓にも「長生而久僊」の句がある。但し長生不死と昇天とは全く別の觀念であるから、歴史的にいふと、そのどちらかがもとであつて、他は後から結合せられたものであらうが、秦漢時代の「僊人」がこの二つの性質を兼ね具へてゐることは、「僊」の字の意義と僊人が不死であるといふ思想のあつたこととから疑が無く、説文の解説はよくそれに適つてゐる。たゞこの二つの何れがもとであるか、即ち長生不死の人といふ思想が先づあつて、後に昇天といふ觀念がそれに附加せられ、さてそれを僊人といふやうになつたのか、または昇天する人、即ち僊人、といふ考がもとであつて、それに不死の觀念があとから結合せられたのか、といふ問題は、後に至つて考へることにしよう。
 ところが「僊」はまた「仙」とも書かれ、後世にはこの方が一般に用ゐられることになつた。「仙」の字が何時から使はれたかは明かでないが、史記でも漢書でも概ね「僊」としてあるから、前漢時代までは少くとも僊と書くのが普通であつたらう。本に土りところによつては、史記や漢書にも「仙」としてある場合が一二無いではないが、これ(176)は傳寫の誤かまたは後人の改めたのかも知れない。例へば史記の封禅書には「承露仙人掌」とあるが、漢書の郊祀志には「仙」が「僊」になつてゐるから、史記の方でも「僊」の字が用ゐてあつたらうと思はれる。前に述べた惜誓や同じく楚辭にある嚴夫子の哀時命にも「僊」の字が用ゐてある。しかし後漢になると「仙」がかなり多く現はれて來るので、王充の論衡などにもみなこの字になってゐる。後漢時代の鏡の銘にも「仙」とある。さすれば「仙」の字は「僊」よりも遅く世に行はれるやうになつたと見て大過は無いらしい。さて「僊」の字が既にあるのに別に同意義の「仙」の宇が行はれたのは何故であらうか。「仙」は全く「僊」と同意義の語であつたらうか。これが考ふべき點である。そこで劉煕の釋名を見ると「老而不死曰仙、仙遷也、遷入山也、故其制字人旁作山也、」とあつて、これによると「仙」は不死の意義ではあるが、しかし昇天の義はこの字には無いらしい。「仙遷也」といふのは當否やゝ疑はしいやうであるが、文字の構成の上からいっても山に関係のあるものと解するのは自然であらう。さすればこれは本來の意義に於いては「僊」とは同じでない。さうしてそれに不死の義のあることも、一次的のものであるかどうかは問題であらう。しかしその本來の意義が何であるにせよ、後漢時代になって「僊」と「仙」とが同じ意義に用ゐられてゐることは事實であつて、それは或は音通から來てゐるかも知れぬが、またこの時代には「僊」を「仙」と書いてもよいやうな事情があつたことを示すものではあるまいか。詳しくいふと、僊人は天に昇る人であるといふことの外に山にゐるものであるといふ考が著しくなつて來たのではあるまいか。劉煕が「仙」の字を解釋して「遷入山也」といつたのは、この字の制作の由來を説いたものとしては當否如何を知らぬが、彼の時代にこの字によつて示されてゐた概念を語つたものとしては價値があり、さうしてそれは上記の臆測を助けるものであらう。そこで次には「僊人」も(177)しくは「仙人」が後世まで如何なるものとして世間に知られてゐたかを調べて見よう。
 僊人の第一の性質は長生不死といふことであるので、これは事新しくいふまでもない。一般の知識としてさう考へられてゐたことは漢鏡の銘などでもわかるので、「有仙人不知老」といふ語もある。學者や詩人の思想に於いても、王充の論衡(無形篇)に「稱赤松王喬好道爲仙、度世不死、是又虚也、」とあり、曹植が贈白馬主彪詩に「虚無求列仙、松子久吾欺、變故在斯須、百年誰能持、」といつてゐるなど、僊人の存在を認めないものが第一に指摘するところは長生不死があるべからざることであるといふ點である。僊術を主張するものが不死をその第一の標語とするのは勿論であつて、抱朴子の論僊篇のはじめに「或問曰、神僊不死、言可得乎、抱朴子答曰、……不死之道、曷爲無之、」と喝破してゐるのが標本的のものである。列仙傳に見える多くの僊人が、或は数百歳の長壽を保つたものとせられ、或は老いても顔色が少壯者の如しとか齒が落ちてまた生へたとかいはれ、或はまた死して後なほ生存することが知られたとかしば/\死してしば/\生きたとかせられ、また或はゆくところを知らずとか山に入つてから長年月の後に里に現はれたとかいはれてゐるのも、要するに長生不死を僊人の本色と見たからである。神仙傳の僊人とてもまた同様であることは勿論である。
 僊人の第二の性質は天に昇ることであるが、これもまた普通に知られてゐる。風俗通や論衡(道虚篇)には僊術を修めた淮南王安が擧家昇天したといふ話があり、後漢書(方術傳)にも仙を得て空に昇つたといふ上成公の傳がある。列仙傳には龍に駕して上天したもの(黄帝、陶安公、陵陽子明、等)が收められ、神仙傳にも白日昇天の話が少なくない。特に神仙傳には天から下りて來たり上天したものが空中から聲を出し形を現はしたりした話がある(王遠、衛(178)叔卿、仙公、等)。その他、述異記などにも昇天した僊人の傳説が見えてゐる。晉書の許邁傳に僊術のことを「升遐之道」といつてゐるのも、この故である。文學の方面を見ると、張衡の思玄賦に「超踰騰躍絶世俗、飄遙神擧逞所欲、天不可階仙夫稀、柏舟悄々※[?の旁]不飛、松喬高峙孰能離、結精遠遊使心攜、」とあるのも、この思想を根據としてのことであり、鮑昭の升天行に「風餐委松宿、雲臥悉天行、冠霞登綵閣、解玉飲椒庭、」とあるのも僊人に思を寄せていつたのであつて、かういふ例は一々擧げるまでもなからう。學者としては王充が僊術を非難するに當つて昇天の妄なることを説いたのも、この故である(論衡道虚篇)。なほ僊人が飛行するといふのもこの昇天浮空の觀念から出たことらしい。蓬莱や崑崙に僊人の往復する物語は甚だ多いが、それはみな空を翔つたのであり、神僊傳には五嶽の間を飛行するといふことも見えてゐる。漢武帝内傳に西王母が多くの僊人を從へて空を飛んで來たといふ話のあることは、たれでも知つてゐよう。
 僊人が羽衣をき、もしくは羽翼を有すると考へられたのも、また昇天及び飛行の思想から派生したものであらう。やはり論衡(無形篇)に「圖仙人之形、體生毛、臂變爲翼、行於雲、則年増矣、千歳不死、此虚圖也、」とあるのを見ると、後漢時代には僊人をこの圖のやうに想像してゐたことがわかる。もつとも體に毛を生ずるといふことは、列仙傳に  僅俺のことを「體生毛長數寸、兩目更方、能飛行、」といつてあり、神仙傳には彭祖、劉祖、劉根、仙公、などについて似た話があり、また抱朴子(論僊)にも「上藥令人身安命延、昇爲天神、遨遊上下、使役萬靈、體生毛羽、」とあつて、それは神仙傳の劉根の條の「冬夏不衣、身毛長一二尺、」といふのを參考すると、鳥獣のやうな自然の生活をするといふ考から來たらしくもあるが、羽翼があるといふのは空を翔ける意味としなければなるまい。文選(179)の海賦の李善の注に、列仙傳の安期先生の條に「仙人以羽?爲衣」とあると見え(1)、神仙傳の沈羲の條に羽衣を著た僊人が天から下りて來たとあり、拾遺記に周の昭王の夢に羽人が上僊の術を教へたと記され、また晉書の超王倫の傳に僊人を裝はせるために羽衣をきせたといふことが見える、などを參考するがよい。(史記の封禅書に欒大が羽衣を著たことが見えるが、これもやはり同じ意味のことであらう。)かう説いて來ると、列仙傳の王子喬のやうに鶴に乘つてゐたり、神仙傳の茅君または成仙公の條に見える僊人のやうに鶴に化してゐたりするのも、また同じ思想から生じたものと推測せられる。もつとも鶴はそれ自身に長生するものとせられ、鮑昭の舞鶴賦に「胎化之仙禽」といはれてゐるほどであるから、その點で僊人に結合せられてゐるのでもあらうが、神仙傳には鳥になつてゐたといふ李仲甫の話も見えるから、昇天もしくは飛行といふ觀念と鳥類とが聯想せられてゐたことも疑があるまい。列仙傳などに僊人が龍に乘つて昇天することのあるのも、この點に於いては同じであらう。人が鳥に化するといふ話は昇天思想の一淵源としても考へられるので、それについては後に述べようと思ふが、こゝでは、昇天の思想が既に存在するやうになつた後に於いて、僊人に羽翼があると考へたり鳥に化ると想像したりすることをいふのである。
 さて上記の二性質、即ち不死と昇天とは、前にも説いた如く、僊人に於いて結合せられてゐるのであつて、漢書の郊祀志に見える谷永の上書に「服食不終之藥、〓興輕擧、登遐倒景、」とあり、阮籍が詠懷詩に「焉見王子喬、乘雲翔ケ林、獨有延年術、可以慰我心、」といひ、木華が海賦に「群仙飄眇、餐玉清涯、履阜郷之留※[潟の旁]鳥、被羽?之??、翔天沼戯窮溟、甄有形於無欲、永悠々以長生、」と述べてゐるのも、みなそれである。楊固の演?賦(魏書楊固傳所載)に「攜羽民而遠遊兮探長生之妙術」とあるのは、前漢時代の作らしい遠遊(楚辭所收、後文參照)に「仍羽人之丹丘(180)兮留不死之舊郷」とあり、劉向の遠逝に「譬王僑之乘雲兮載赤霄而凌太清、欲與天地參壽兮與日月比榮、」といつてあるのと同じであつて、前漢時代も六朝時代も、この點に於いては何等の變化が無い。後漢の王充が、羽民と不死の民とは別々であるといふので、僊人を否認してゐるのも、またこれがためである(論衡無形篇)。
 ところがその間に、不死を得ても昇天し得るものと然らざるものとがあるといふことを説いて、僊人に階級を附したものがある。晋の葛洪の主張するところがそれであつて、抱朴子(論僊)に「上士擧形昇虚、謂之天僊、中士遊於名山、謂之地僊、下士先死後蛻、謂之尸解僊、」とも、また「上士得道、昇爲天官、中士得道、棲集崑崙、下士得道、長生世間、」ともいつてある。この二條は嚴密にいふとその間に幾分の差異があるが、それはともかくもとして、いはゆる地僊も尸解僊も長生不死であることは天僊と違ひが無いので、たゞ昇天することができないまでである。これは僊經と太清觀天經との説だといふのであるが、これらの經は葛洪の時に實際世に存在したものかどうか明かでない(2)。さうして、同じ人の書いた神仙傳の彭祖の條に「欲擧形登天上補仙官、當用金丹、……其次、當愛養精神服藥草、可以長生、但不能役使鬼神乘虚飛行、」とあり劉根の條に「夫仙道有昇天 躡雲者、有遊行五岳者、有屍解而仙者、」とあるのも、類似の思想であり、不死を得たけれども登天の法を得なかつたといふ王遙、孔安國、李根、黄敬、などの話はその實例として考へられるから、葛洪自身にかういふ説を唱へたと見て大過は無からう。これは一つは、僊道といふものがむつかしく説かれるやうになるにつれて、道を得たものに階級的等差を附する必要を生じたためであつて、それにはまた修業もしくは機根によつて果位の異なることを説く佛教の影響があるかも知れず、また一つは神丹の效果を強調して説かうとする葛洪自身の特殊の意圖がはたらいてゐるのでもあらう。(南斉書顧歡傳に見える歡の論に(181)神僊に二十七品があると説いてゐるなどは、後のことながら、明かに佛教の影響である。)かういふことをいつたのは葛洪には限らないので、漢武帝内傳に武帝を評した西王母の語として「何能得成眞仙浮空參差十方乎、勤而行之、適可度於不死耳、」とあるのもほゞ同じ考らしい。但し天僊が上位に置かれたり、昇天しなければ眞僊でないとせられたりするところに、古くからの、いはば正統的、思想が現はれてゐる。もつとも神仙傳の白石先生の條に「不肯修昇天之道、但取不死而已、」とあり、また抱朴子(金丹)に用ゐかたによつて昇天するもせざるも自由になる金丹があるといふ話もあり、昇天するとしないとは必しも修道者また服藥者の力量とか素質とかにのみよるものではないやうに説かれてもゐて、それには後に述べるやうな重要の理由もあるが、ともかくも晉代になると、不死ではあるが昇天しない遷人があると思はれてゐたことが、これらの記載によつて知られるので、これは僊人に關する思想の變遷として注意すべきことであらう。
 さて抱朴子の説では天僊となれないものの一つは地僊であつて、それは名山に遊ぶものとなつてゐるが、神仙傳の玉遙のやうなものがその實例であらう。しかし神仙傳には山に入つてから昇天したものも記されてゐるので、例へば左慈の如き孫博の如き玉子の如きがそれである。葛洪の思想に於いては昇天の道の最も主要なるものは丹を服することであるが、その丹を煉るには人寰を離れた深山に於いてするのがよいといふ特殊の理由もあるので(抱朴千金丹)、神仙傳の記載がその實證を提示してゐるのであらう。僊人が山に入るとせられたのは天僊の外に地僊があるといふ思想の明かに生じない前からのことであつて、列仙傳にも山に入りもしくは山にゐた僊人の話は少なくなく、さうしてそれは必しも昇天しないものではない。王子喬の如きも嵩山にゐたといふ。「上泰山見仙人」または「上華山見仙人」(182)といふ銘のある漢鏡もあり、焦氏易林には「華首山頭、仙道所遊、」といひ「南山之蹊、眞人所在、」といふ語も見え(眞人のことは後にいはうと思ふが、こゝでは僊人と同意義のものとしておく)、また溯つていふと、史記の司馬相如傳に「相如以爲列僊之偉、居山澤間、形容甚?、此非帝王之僊意也、」ともあるから、前漢時代にも既に僊人が山居するといふ考はあつたのである。が、これらの僊人を昇天しないものとして考へることはできなからう。前にも引いた惜誓に「乃至少原之野兮赤松王喬皆在旁、」とあり、哀時命に「與赤松而結友今兮王僑而爲?、使梟楊先導兮今白虎爲之前後、浮雲霧而入冥兮騎白鹿而容與、」とあるのもまた、赤松王喬の如き僊人が山野にゐることを述べたものと見なければならず、列仙傳の王子喬のやうな説は前からあつたのである。この思想の由來、またそれが僊人の觀念に於いて本質的のものであるかどうか、は後の問題として殘しておくが、ともかくもかういふ思想はずつと後世までも存在するので、列仙傳や神仙傳にはそれ/\の僊人の入つたといふ山の名が一々示してあり、抱朴子にも名山が列擧せられてゐるし、晉書の許邁傳には、邁の著書から「自山陰南至臨安、多有金殿玉堂僊人芝草、左元放之徒、漢末諸得道者皆在焉、」といふ一節が引いてある。五嶽眞形園といふものが尊重せられたのも(抱朴子、神仙傳、漢武帝内傳、など)、僊人が五嶽を遊行するといふところに淵源があらう。文學上の作品に於いても、上にも述べた鮑昭の升天行に「從師入遠岳、結友事仙靈、」といつてあるのは、かういふ一般の考があるからであり、また孫綽の遊天台山賦にこの山を「玄聖之所遊化、靈仙之所窟宅、」といひ、謝靈運の山居賦にも同じ山について「駭彼促年、愛是長生、冀浮丘之誘接、望安期之招迎、」といつてゐ、或は江淹が香爐峰に登つて「此山具鸞鶴、往來盡仙靈、」と歌つたのは、文人の詞藻ではあるが、やはりこの考が基礎になつてゐる。かの僊人の居るといふ蓬莱もまた崑崙も共に山で(183)あるが、これにはまた別の意味があるから、こゝでは且らくそれを論外にしておく。
 地僊を説いたついでに一言すべきは水僊のことである。楚辭の遠遊の注に於いて王逸は馮夷を「水仙人」と解してゐるが、拾遺記には屈原を水僊とし、神仙傳には郭璞をやはり同じやうに書いてあり、述異記にも聖姑といふ水僊のことが出てゐる。列仙傳の琴高などもやはり水僊と稱すべきものではあるまいか。水僊は水中にゐて不死なるものであらう。僊人が天上に昇り得るとすれば、それに對して水中に潜み得ることもまた考へられよう。地僊は山にせよ何所にせよ人の住み得られる地上にゐるのであり、從つてそれは人界にとゞまつて昇天し得ざるものの境地とせられるのであるが、水僊は考へ方の根據がそれとは違ふ(3)。
 今一つ述べねばならぬのは尸解僊であるが、これは抱朴子によつて僊人の下級に置かれたのみならず、漢武帝内傳の如きものにも西王母をして「至尸解下方」といはせてある。けれどもその話は列仙傳にも神仙傳にも數多く出てゐるし、正史にも記載せられてゐる{後漢書王和平、晉書葛洪、など)。尸解は一たび死を示して後に脱化し去るのであつて、棺を發いて見れば屍體が無かつたといふのが即ちそれである(抱朴子論僊、述異記下、博物志五、など參照)。この思想もまた漢代からあるので論衡(道虚篇)にそれが論じてあるし、もつと溯つていふと、封禅書の「形解銷化」を服虔が尸解と注してあることをも考へねばならぬが、これは果して服虔の説に從ふべきものかどうか、問題であらう。さて尸解した後にどうなるかは明かでないが、人の形で生きてゐると考へられた場合もあり(神仙傳の孫登、成仙公、など)、妻を娶つた話さへもある(同書の李常在)。しかしまた初めは普通の人の形で生きてゐて後に水僊となつたといふ話もある(同書の郭璞)。人として生きてゐるといふことは上に引いた抱朴子の「下士得道、長(184)生世間、」がもし尸解僊に當るのならば、よくそれにあてはまるが、この語の意義はさう限定せらるべきものではなく、神仙傳の馬鳴生の條に「爲地仙、……架屋舎畜僕從車馬、竝與俗人皆同、」とあるのを見ると、地僊にもこの類のものがあるから、尸解僊の説明としてそれを見ることはできなからう。要するに尸解僊の行方については明解が無い。章懐太子の後漢書(方術傳王和平の條)の注には「尸解者、言將登仙假託爲尸以解化也、」とあるが、この登仙がもし昇天の意義でいはれてゐるならば、それは抱朴子などの所説とは少くし趣を異にしてゐるやうである。尸解といふ概念には頗る曖昧な點があるやうであるが、それは、本來不死であるべき僊人が死の形をとるとするところに、或は死んだものが實は不死の僊人であるとするところに、根本の理由があるのであつて尸解僊が僊人の下級に置かれるのもまたこれがためであらう。が、もつとつきこんでいふと、人はみな死ぬといふ動かせない現在の事實を事實として認識しながら、不死の僊人があるといふ神僊家の主張を成立たせようとするところに、尸解といふことの構想せられた理由があるので、そのことみづからが神僊説の成立ちがたいことを示したものである。
 要するに、僊人が不死であるといふことは如何なる時代に於いても變りの無い考であり、昇天もまた僊人に必須な資格として見られたのであるが、しかし後になると昇天のできない、または昇天を欲しない、僊人があるといふ思想が生じたのである。さすれば何時の世の考でも變らない僊人の本質は昇天といふことよりも不死といふことにあるのであるが、それは上に引いた説文に僊人の長生を自明のこととしてあるのと、おのづから契合する。だからもつと溯つて考へると、「僊」の字の意義は上昇することであるが、それは不死なる僊人に附随する二次的性質であつて、不死を得たものが如何にしてその生を無窮に持續するか、といふ問題を昇天によつて解釋しようとし、不死者はすべて(185)昇天するものと思ふやうになり、さうしてそれを「僊人」と稱したのではあるまいか。さう考へると「僊の字の外に「仙」の字が用ゐられるやうになつたのも不思議でなく、文字の意義に於いては「仙」も「僊」と同じく僊人の本質からいふと二次的のものであつて、昇天するものもしないものも、僊人の多くが山に入り山に住むと思はれてゐたところから、この字が用ゐられたのであらう。
 然らば僊人の本質である不死といふ觀念は如何にして生じまたそれが如何にして昇天の觀念と結合せられたであらうか。
 
       三 不死の觀念の由來
 
 長生不死の僊人があるといふことが何時から考へられてゐたかは、固より明かではない。たゞ秦始皇の時にかういふ思想があつたとすれば、遲くとも戰國末にはそれが世に行はれてゐたに違ひない。史記の封禅書に「自齊威宣之時、?子之徒、論著終始五徳之運、及秦帝而齊人奏之、故始皇采用之、而宋母忌正伯僑充尚羨門子高最後、皆燕人、爲方僊道、形解銷化、依於鬼神之事、?衍以陰陽主運、顯於諸侯、而燕齊海上之方士傳其術、不能通、然則怪迂阿諛苟合之徒、自此興、不可勝數也、自威宣燕昭、僊人入海求蓬莱方丈瀛州、此三神山者、其傳在勃海中、去人不遠、患且至則船風引而去、蓋嘗有至者、諸僊人及不死之藥皆在焉、其物禽獣盡白、而黄金銀爲宮闕、未至望之如雲、及到三神山反居水下、臨之風輙引去、終莫能至云、世主莫不甘心焉、」と記してあつて、これによると、三神山に僊人がゐ不死の藥があるといふことは齊の威王宣王、燕の昭王、のころから世に知られてゐた話らしくも解せられるが、史記のこ(186)の文は、(他の多くの場合と同樣)幾つもの史料を無批判に繼ぎ合はせたものであり、またその史料の文章を節略して寫し取つたところもあるらしく、從つて意義がよく通じない憾があるので(4)、威王宣王昭王などのころの話は三神山を求めただけのことであつて、僊人や不死の藥が三神山にあるといふことは、それとは關係が無いのかも知れぬ。鄒衍と三神山の説ともどういふ關係があるか明かでない(漢書の劉向傳に「鄒衍重道延命方」のことを述べてある書物の話があるが、この「延命」も不死の義であるかどうか、わかりかねる)。さうして今日に殘つてゐる戰國時代の文獻では明白に僊人のことの書いてあるものが見當らぬ。たゞ屈原の作であると稱せられてゐる遠遊に「願輕擧而遠遊」といひ「聞赤松之清塵兮願承風乎遺則、貴眞人之休徳兮羨在世之登(5)僊、與化去而不見兮名聲著而日延、」といひ、また「軒轅不可攀援兮吾將王喬而娯戯、餐六氣而飲※[さんずい+〓]兮漱正陽而含朝霞、保神明之清澄兮精氣入而?穢除、順凱風以從遊兮至南巣而壹息、見王子而宿之兮審壹氣之和徳、」ともいつてあり、さうしてこの赤松王喬は漢代には僊人と目せられてゐるものであるのみならず、「輕擧」「登僊」の文字さへもこゝに出てゐる。けれどもこの遠遊は果して屈原の作であるかどうか、甚だ疑はしい。この篇には離騷の天上遊行を敍してあるところと殆ど同じ辭句があるが、離騷の後を追ひそれに倣つて同じやうな賦を作ることは漢代以後の因襲となつてゐることを考へねばならぬ。それから内容についていふと「羨往世之登僊」は僊人の昇天した話が一般に弘まつた後でなくてはいはれないはずであるが、それほど世に知られてゐたならば、もつと戰國時代の他の文獻にそのことが現はれてゐてもよささうなものであるのに、それが見えないのも不思議である。また「軒轅不可攀援」は封禅書に出てゐるやうな黄帝上天の物語を豫想しなければ解し難いものであるが、これも屈原時代に既にあつた話であつたらうか、疑はしく感ぜられる。なほ赤松子も王喬(187)もこゝでは人界を超越して天に昇つたもののやうに解せられるが、秦の昭王のころのこととして戰國策に見える話には「君何不以此時歸相印讓賢者授之、必有伯夷之廉、長爲應侯、世々稱孤、而有喬松之壽、孰與以禍終哉、」とあつて、長壽者とはせられてゐるけれども、こゝに見えるやうな僊人とはせられてゐないことも、顧慮しなければなるまい。これらの種々の疑問がある上に、「羨韓衆之得一」とある韓衆は古人の名らしく見えるのに、それは史記の始皇本紀三十五年の條の始皇の語に徐市(徐福)や盧生やと竝び稱せられてゐる實在の人物で、方士の一人であつたらうと思はれるから、この名を古人らしく書いてゐる遠遊は先秦の作ではないに違ひない。(始皇本紀三十二年の條に「使韓終侯公石生求僊人不死之藥」とあるが、三十五年の條に侯生の名が出てゐて、上記の韓衆はそれを承けていつてゐるらしい。その間の關係が頗る曖昧であるが、韓終は韓衆の字を異にして寫されたものであらう。漢書の郊祀志に見える谷永の上言にも韓終を徐福と連記し始皇の時の人としてゐる。)なほこの篇と司馬相如の大人賦とは起首と結末とが殆ど同じであり(後文參照)、その他にも酷似してゐる一二の句が見えるが、これは偶然の暗合とは認め難く、さうして相如は前人の作からそれを取るやうな作者とも思はれぬ。これらを綜合して考へると、遠遊は相如よりも後の作ではあるまいか。だからそれを屈原の作として取扱ふこと、從つて屈原時代に僊人の話があつたと見ることはむつかしからう。かう考へると、現存する先秦の文獻に僊人のことの明記せられてゐるものは、無ささうである。現存しないものにあつたかも知れぬが、少かつたではあらう。
 僊人の思想の明かに現はれてゐるものは戰國時代の文獻に少いとしても、不死の觀念も昇天の思想も明かに存在してゐた。先づ不死の觀念について考へるに、韓非子(説林篇)に不死の藥を荊王に獻じたものがあるといふ話があつ(188)て、それは戰國策(楚策)にも見えてゐるし、また不死の道を燕王に教へようとしたものがあるといふ話が、やはり韓非子(外儲説篇)に出てゐる。但しこの荊王も燕王も何人のことか不明である。それから、やはり屈原の作とせられてゐる天問にも「何所不死、長人何守、」といひ「延年不死、壽何所止、」といふやうなことが見える。(天問もまた果して屈原の作であるかどうか疑はれるが、史記の屈原傳の賛には離騷と共に屈原の作らしく書いてあつて、司馬遷のころにはさう思はれてゐたであらうから、しばらく戰國末ごろのものとしてこゝに引用する。)さてこれらの斷片的章句の中で、韓非子と戰國策とにある不死の藥は如何なるものであるか書いてないが、服藥によつて不死を得ようとする考のあつたことはこれでも知られるので、それはかの三神山に不死の藥があるといふ思想に縁があるのであらう。また燕王に教へようとしたといふ不死の道もその内容を知ることはできぬが、不死を得る道があるとせられたことだけは、これでわかる。これらは何れも人が不死の境界を得られるといふ考であるが、天問の「何所不死」はそれとは少し違つて、不死のもののゐる特殊の郷土があるといふのである。呂氏春秋(愼行論求人篇)に南方にあるとしてある「羽人裸民之慶、不死之郷、」の不死之郷もやはり同樣であらう。後の淮南子の墜形訓に海外三十六國の一として「不死民」のゐる國があるとせられ、漢代の作と見る他はなからうと思はれる上記の遠遊にも「仍朋人之丹丘兮留不死之舊郷、」とあり、また河圖括地象(王逸楚辭注所引)に「有不死之國、長人長狄、」とあるなどは、何れもこれと同じ思想の系統に屬する。特に括地象のは天問のと全く同じことをいつてゐるらしい。山海經の海外南經や大荒南經に「不死民」また「不死之國」があるやうに記されてゐるのは、これらの篇が六朝ごろに添加せられたものらしいことから考へると、書物によつて得た知識に過ぎなからうと思はれるが、こゝに附記しておく。ついでにいふ。莊(189)子(山(6)木篇)に「不死之道」といふことがあるが、これは禍を避け害を免れる處世の法を説いたものであるから、その「不死」は天年を全くするといふやうな意義のことらしく、普通にいふのとはやゝ趣を異にしてゐる。
 必しも不死をいふのではないやうであるが、長壽の思想もまた戰國時代に存在した。「喬松之壽」については既に上文に述べておいたが、「莊子」(逍遙遊篇齊物論篇など)に彭祖の壽といふことが出てゐる。同じ書(大宗師篇)に「彭祖得之、上及有虞、下及五伯、」とある有虞云々もまた長壽をいつたものらしい(「之」とは道のことである)。なほ「荀子」(修身篇)、呂氏春秋(審分覽執一篇)、などにも彭祖のことが見える。それからまた「莊子」(在宥篇)には廣成子が身を脩めて千二百歳になつたといふ話もある。長壽の觀念もかうなれば殆ど不死と同じことであつて、全く空想的のものであり、さうしてさういふ長壽は身を脩め道を得たもののことであるといふところにも、不死の道があるといふ考と接觸する點がある。なほ史記の老子の傳に「蓋老子百有六十餘歳、或言二百餘歳、以其脩道而養壽也、」とあるのも、戰國時代からの傳説かも知れぬ。百六十歳とか二百歳とかいふ算數の由縁が何にあるにせよ、道を脩めて長壽をしたといふ思想が注意すべきことなのである。
 さて極めて未開の民族は且らく措き、少しく知識が發達し人に死のあることを自覺するやうになると、何等かの方式に於いてその死を超越しようといふ欲求が生ずる。いひかへると、死によつて一切が斷滅し了ると考へず、何等かの形でこの生が繼續せられると思ふのである。靈魂不滅の思想、轉生輪廻の考、などはその由來するところは別にあるにしても、おのづからこの欲求に應ずることにもなる。一と度び遊離した靈魂が再び屍體に還つて來ると考へたり、死者が他界で生活すると想像したりするのも、これがためである。しかし現實の人生をこの肉體のまゝ無期に延長し(190)よう、即ち不死を得よう、といふ考が多くの民族に廣く存在したかどうかは問題である。人類のはじめには死が無かつたのが後に何かの理由で死があるやうになつたとか、不死を求めて遂に得なかつたとか、または壽命の長かつたのが短くなつたとか、さういふやうな物語の所々にあるのも、人に死があるのは人力の如何ともし難き事實であるとあきらめ、敢てそれを動かさうとしないのが、むしろ一般の人情であることを、示すものではあるまいか。たゞ多くの民族に於いて神が不死とせられたり、バビロニヤ人ギリシヤ人やケルト人などにも例のある如く、永へに若く永へに死を知らぬものの住む島があると信ぜられたりするのを見ると、長生不死の境地が想像せられることはあるが、さういふ境地にあるものは普通の人ではなくして人生もしくは人間界を超越したものなのである。現實の人間界に於いて現實の人生そのものを無限に持續しようとしても、それは、經驗上、到底不可能であることが知られるであらう。だから假にさういふことが人の思慮に上るにしても、それは何等かの空想的な形を取るのが自然である。かう考へて來ると、シナ人の間に生じた「長生不死」の思想は、人のゆくべからざる遼遠の地に不死の民があり不死の民の郷土があるといふのが最初の形ではなかつたらうか。さうしてそれが民間傳承として存在してゐたのではなからうか。前に述べた淮南子などの記載は、それが斷片的に文獻に現はれたものと見ることができよう。不死の郷にゐるものは長人であるといふ話も、それが民間傳承から來てゐることを示すものではなからうか(7)。
 然らば現實の人間界に於いて不死を得ようといふ希求は、どこから起つたのであらうか。上に述べたやうな「不死の民」の觀念もその背景にはなつてゐようし、またその根本には、後にいふ如く、現世を終局のものと考へ、現世以外の存在を想像し得ない、さうして、どこまでも現實本位なシナ人の人生觀があるに違ひないが、しかしさういふ希(191)求が具體的に現はれるには、別にそれを促すものがあつたのではあるまいか。さうして余はそれを長壽の欲求であらうと考へる。いひかへると長壽の欲求が更に一歩を進めて不死の欲求になつたものと思ふ。長壽とは畢竟天年を全くする所以に他ならぬのであるが、天年を全くし長壽を得ようといふ欲求が戰國末に於いて特に盛であつたことは、文獻の上から明かに知られる。養生主篇に「可以保身、可以全生、」とあり、人間世篇に「養其身、絡其天年、」とあり、繕性篇に「存身之道」、讓王篇に「尊生」、といふ語があるのでもその一斑が知られる如く、「莊子」には到るところにいはゆる養生の道が説いてあるが、或はむしろ「莊子」の全體を貫通する精神がこゝにあるといつてもよいほどであるが、「老子」にも長生を説き攝生を論じてゐるところがある(王弼本老子第七章及び第五十一章、この長生は不死のことではない)。しかしこれは必しもいはゆる道家の書に限らないことであつて、呂氏春秋などにもこの思想は極めて濃厚に現はれてゐ、「全性之道」(孟春紀本生篇)、「貴生之術」、また「完身養生之道」(仲春紀貴生篇)、「終其壽、全其天、」(仲夏紀大樂篇)、といふやうな語が頻出累見してゐるではないか。(呂氏春秋にも、例へば孟春紀重己篇に「長生久視」といふやうな語が見えてゐるが、これもまた不死の意ではなからう。孟冬紀節喪篇に「凡生於天地之間其必有死、所不免也、」ともあり、この書の全體にわたつて不死が求め得られるとするやうな考は何處にも無いやうである。)また韓非子(解老篇)にすら老子に本づいた攝生の話が見える。これらは何れも天壽を全くするにはその道もしくは術があるといふことを述べたものであるが、それは當時に於いてかういふ欲求の甚だ張かつたことを示すものである。道とか術とかいふことには關係が無いが孟子(離婁篇)の「養生者不足以當大事、惟送死可以當大事、」の「養生」も、古來の注釋家の説いたやうな孝子の親を養ふことではなくして、やはり自己の生を養ふといふ意義ら(192)しい。さてこの欲求は人として何人も有つてゐるところではあるが、戰國末に於いて特にそれが著しく現はれたのは、當時に於ける物質的文化の發達が促した人々の生活欲が却つて生命を失はせる機縁となり、また時勢に刺戟せられて盛に起つた人々の功名心が却つて身を亡ぼす機會を多くする、といふ事情があつたからであらう。「莊子」などに説いてあるところによると、かういふ事情が當時の心ある人士を深く惱ましてゐたことが知られる。
 然らばその養生の道は何であるか。その一は純然たる生理的のものであつて、「莊子」(刻意篇)に「吹?呼吸、吐故納新、熊經鳥申、爲壽而已矣、此道引之士、養形之人、彭祖壽考者之所好也、」とあるのが、それである。一種の呼吸法と筋肉運動法とによつて身體の健康を保ち長壽を得ようとするのである。(道引は導引とも書き、身體を屈伸して筋肉を連動させることをいふのが普通の用語例であるらしく、こゝの文では「熊經鳥申」が即ちそれに當るのである。だから「吹?呼吸、吐故納新、」の呼吸法はそれには含まれてゐないが、こゝでは一を擧げて他を含ませてあるのであらう。)後世になると、これに一種の形而上學的説明が施されるが、戰國時代には、まださういふ形跡が見えないやうである。滋味を去り聲色を遠ざけるといふやうな、今日の意義での攝生法もまた説かれてゐるので、呂氏春秋(孟春紀本生篇)に「出則以車、入則以輦、務以自佚、命之曰招  壁之機、肥肉厚酒、務以相彊、命之曰爛腸之食、靡曼皓齒、鄭衛之音、務以自樂、命之曰伐性之斧、三患者貴富之所致也、故古之人、有不肯貴富者矣、由重生故也、」とあるが、生を重んずるのは即ち生を全くするためであることは、いふまでもない。だから「所謂尊生者全生之謂、所謂全生者六欲皆待其宜也、」(仲春紀貴生篇)ともいつてゐる。同じ書に「天生陰陽、寒暑燥濕、四時之化、萬物之變、莫不爲利、莫不爲害、聖人察陰陽之宜、辨萬物之利、以便生、故精神安乎形、而年壽得長焉、長也者、非短而續(193)之也、畢其數也、畢數之務、在乎去害、何謂去害、大甘大酸大苦大辛大鹹、五者充形則生害矣、大喜大怒大憂大恐大哀、五者接神則生害矣、大寒大熱大燥大濕大風大霖大霧、七者動精則生害矣、故凡養生莫若知本、知本則疾無由至矣、」(季春紀盡數篇)とあるのも、やはりこの種の攝生法であり、畢竟人の欲望と受用とをできるだけ抑制せよといふのである。しかしかういふ養生法は時代の思潮と深く關するところが無い。だから「莊子」などに説いてあることには別に重要なものがある。それは即ち處世の術である。
 「莊子」の山木篇に大公任といふものの言として「予嘗言不死之道、東海有鳥焉、名曰意怠、其爲鳥也、????、而似無能、引援而飛、迫脅而棲、進不敢爲前、退不敢爲後、食不敢先嘗、必取其緒、是故其行列不斥、而外人卒不得害、是以免於患、」といふことが載せてある。この「不死」は上にも述べた如く害を避け危を免れて天年を終へるといふ意義のであつて、その道は即ちこゝに述べてある如き處世の術なのである。これは「莊子」の到るところに説いてある思想であつて、人間世篇に、有用の材は「未終其天年、而中道之夭於斧斤、」といつてゐるのも、畢竟同じことであり、「直木先伐、甘井先竭、」無用のものにして始めて生を全くすることができるといふのである。老子の「天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生、是以聖人後其身而身先、外其身而身存、」といふのもまた長生のための一種の處世術である。易の繋辭傳に「龍蛇之蟄以存身也」とあるのもやはり同じ思想であるが、この傳には老莊めいた考が他のところにも見えてゐる。シナの如き社會組織や政治状態の下にあるものとしては、爭闘の激しい世の中に於いて明哲保身の道がこゝにあるとせられたのは、怪しむに足らぬ。實際、いはゆる隱逸の士や世を韜晦するものの少なくなかつたことを見ても、この思想の由來するところは、おのづから知られよう。
(194) 上記の攝生法も處世の術も、見やうによつては一種の道徳的意義がそれに伴つてゐるのであるが、それが一歩進むと、思索の上に於いておのづから一種の形而上學的觀念とも結合せられる。或はむしろあのやうな處世術の形而上學的根據とも見るべき思想が存在する。「莊子」(天道篇)に「夫虚靜恬淡、寂漠無爲者、天地之平、而道徳之至、故帝王聖人休焉、休則虚、虚則實、實者倫矣、虚則靜、靜則動、動則得矣、靜則無爲、無爲也、則任事者責矣、無爲則兪兪、兪兪命者憂患不能處、年壽長矣、」とあり、同じ書(刻意篇)に、上に述べた呼吸法や運動法を低級のものとして、「不道引而壽」なることを稱し、それを恬淡寂漠虚無無爲によるとして、「純粹而不雜、靜一而不變、淡而無爲、動而以天行、此養神之道也、」といつてゐる類がそれであつて、寂漠無爲が天の性であるとして人もまたその天に順へば天命を全うし長寿を得るとするところに、道家一流の養生法がある。この「養神」は「養形」に對する語らしく、道引などは養形の士のすることであるが、無爲恬淡であれば「憂患不能入、邪氣不能襲、故其徳全而神不虧、」が故に長壽するのであつて、そこに「養神」の道があるのである。在宥篇にかの千二百歳を得たといふ廣成子が黄帝に教へたといふ語を載せて「吾語女至道、至道之精、窃々冥々、至道之極、昏々黙々、無視無聽、抱神以靜、形將自正、必靜必清、無勞女形、無搖女精、乃可以長生、」といつてゐるのも、同じことであり、また上に引いた如く彭祖が長壽を得たのも道を得た故であるとせられてゐるが、いはゆる道は即ちこの無爲を得ることであり、それが即ち天の道なのである(大宗師篇)。だから「無爲爲之、之謂天、」(天地篇)といつてゐる。さてこの道を得この境地に至つたものが眞人もしくは至人であるので、それは畢竟「與天爲一」(達生篇)なるものである。この眞人は肉體的には「其寢不夢、其覺無憂、其食不甘、其息深々、」であり、また「登高不慄、入水不濡、入火不熱、」であるといふ(大宗師(195)篇)。それが長壽であるのは自然であらう。かういふ養生の觀念は戰國末に於いてはかなり廣く世に行はれてゐたらしく、前にいつた韓非子の攝生法もそれであり、呂氏春秋などに見えるところもほゞこれと同じである。後者に「精氣日新、邪氣盡去、及其天年、此之謂眞人、」(季春紀先己篇)といつてゐるのは、「莊子」のいはゆる「養神之道」を得たものに外ならぬのであらう。儒家に屬すべき「荀子」の修身篇に論じてゐる「治氣養生之術」は、それとは違つて、むしろ道徳的修養の意であるが、かういふことばを使ふところにこのころの思想の傾向が見える。少し時代を溯つて考へると、「孟子」の盡心篇にある「存其心、養其性、所以事天也、殀壽不貳、脩身以俟之、所以立命也、」の存心養性の思想もこれと關係があらうし、有名なことばである「養浩然之氣」もまた全く縁が無いではない。
 しかし「莊子」には不死を希求する思想は見えない。大宗師篇に「古之眞人、不知説生、不知惡死、其出不訴、其入不距、?然而往、?然而來而已矣、」とあるのを見るがよい。至樂篇に「人之生也、與憂倶生、壽者?々、久憂不死、何之苦也、」といひ、また髑髏の言として「死無君於上、無臣於下、亦無四時之事、從以天地爲春秋、雖南面王、樂不能過也、」といふやうなことをさへ載せてゐるのは、生を尊ぶ根本の思想とは調和しないが、しかし世俗の樂を樂にあらずとし、また生死に拘泥すべからざることを張調して説いたのだとすれば、道家の言として時にかういふもののあるのも甚しく怪しむには及ばないかも知れぬ。何れにしても無窮の生を得ようとするのでないことは、明かである。老子に「死而不亡者壽」とあるのもまた、不死を肉體の外に認めたものと考へられよう。けれども老莊の思想は、その根柢が人をして天と一ならしむるところにあり、さうして天が長久のものであるとすれば、この點に於いて不死の觀念と接觸し得る契機がある。(やはり屈原の作といはれてゐる九章の渉江に「與天地兮同壽」といふ語のあ(196)るのは、道家の思想とは關係が無いが、天地の無窮と長壽との二觀念が結合し得ることを示す一例である。)これは道家の思想に於いてのことであり、また單に抽象的な觀念の上だけのことであるが、一般的に考へると、長壽の觀念が不死の思想に移つてゆくのは極めて自然のことであらう。もつともかの彭祖や廣成子の長壽は、人の天年としては決して考へられないものであつて、かういふ空想的の長壽がどうして考へ出されたかは明かでなく、「莊子」などに説いてあるのは、既に世に存在する傳説を採つて著者の思想を託する具としたものであるか、または著者がそのいはゆる道を説くに當つて寓言としてかういふ話を新作したのであつて、それは恰も後にいふ藐姑射の神人の如きものと同じやうに見るべきものであるか、それもよくわからぬが、かういふ特殊の思想を有するものの腦裡に生まれた特殊の長壽は別としても、一般に長壽が希求せられた上は、そのための攝生法も説かれ、長壽者の傳説も存在したであらうから、そこから不死の觀念が導き出されるのは、怪しむに足らないであらう。現に「莊子」には、上に述べた如く天年を終へるための用意を「不死之道」と稱してゐるが、その「不死」の語が本來、生命を無窮に持續するといふ意義であることはいふまでもないから、かういふ用語例が取りも直さず長壽から不死に觀念の移つてゆくことの可能を示すものである。その上に、よし空想的の話であるとはいへ、彭祖や廣成子の物語もあるとすれば、同じく空想的な不死の觀念がそれによつて一層實現し易く考へられるやうになる。遼遠の地に不死の民の郷土があるといふ話もまたこの考の形成を促進したのであらう。さうしてさうなると、傳説上の長壽者がおのづから不死の僊人に變つて來る。後にいふやうに、淮南子に赤松と王喬とが天に昇つたやうに書いてあるが、人界を超越した天上の人となつたとすれば、それは死を免れない普通人としてではなくして不死の僊人としてのことであらうから、この書の作られたころに(197)は赤松も王喬も不死の壽を得たものとして考へられてゐたのであらう(第八章參照)。赤松については張良の時すでにさう思はれてゐたらしい(同上)。韓非子の解老篇の「赤松得之、與天地統、」の「統」が「終」の誤ならば、赤松が不死の人とせられてゐたことは、この語によつても知られる(この篇は漢代の作である)。また長壽者が僊人とせられると共に長壽の法がそのまゝ不死の術として見られるやうにもなるので、實際、漢代以後に於いては、上に説いたやうな養生の法は僊術として取扱はれ、眞人は僊人と同意義になり、また全體として老莊の思想が僊道に取入れられる(第九章參照)。戰國時代に於いてさういふ傾向があつたかどうかは、遺存する文獻の少いために明かには知られないが、燕王に不死の道を敦へようとしたといふ韓非子の記載を見ても、何事かが不死の道として説かれてゐたには違ひないから、それは或は上記の養生の法のやうなものではなかつたらうか。
 しかし不死の道があり養生の法があるにしても、それを修めることは容易でない。況や人の不死を求めるのは、本來、人としての生活欲を無限に充たし、その快樂を無期に享受しようといふのであるのに、前に述べたやうな養生の法、從つてまた不死の術は、その生活欲を最少限度まで抑制し、その受用の殆ど全部を排斥するものである。かういふ方法によつてよし不死の境に入るを得るとしても、その不死の生は殆ど生とするに堪へないものであり、從つてまた人の希求するところではないといはねばならぬ。是に於いてか同じく不死を得るためにも別の方法が要求せられる。「不死の樂」はこの要望に應じて現はれたものであらう。さてこの「不死の藥」の觀念はどうして形成せられたであらうか。醫藥によつて病を癒す方法が知られてゐた戰國時代に於いて、長壽のためには生理的の養生法が案出せられてゐたほどであるとすれば、服藥もまたその一方法として考へられてゐたと推測するのは、必しも妄想ではあるまい。(198)さすれば不死の藥といふことも、またそれから一轉したものと見ることができよう。さて病を癒す藥は自然生のもの、特に植物、が主であるから、不死の藥もまたおのづから同じ性質のものとせられたであらうが、それは何處に生ずるのであらうか。戰國時代の文獻に於いてそれを知るたよりは無いやうであるが、秦の始皇の物語に於いて僊人のゐる三神山に不死の藥があるとせられるのを見ると、不死の民のゐるところに不死の藥があると思はれたのではなからうか(三神山のことは後にいふつもりであるが、こゝでは且らく不死の僊人のゐるところとして考へておく)。淮南子の墜形訓に南方に不死の草があるとしてあるが、いはゆる海外三十六國中の不死の民がやはり南方にあることも參考せられる。(同じ書に崑崙の丹水を飲むと不死になるといふ話があるが、淮南子の書かれたころに崑崙が僊人の居所となつてゐたかどうか不明であるから、こゝではそれを問題外に置く。)もし果してさうであるとするならば、それは「不死の藥」の觀念に今一つ別の由來のあることを語るものではなからうか。詳しくいふと「不死の藥」は實は不死の民の特殊の食物をいふのではなからうか。後のものに見えることながら、例へば述異記には武陵源に桃李があつてそれを食つたものがみな僊人になつたとあるが、これは武陵源にあるものが長生者であるといふ話がもとになつてできたことらしく、また海内十洲記や洞冥記や拾遺記などにも、僊人のゐる所々の國土には食ふと長生する植物などがあるやうに記されてゐる。かういふ話は單に僊人がゐるところだからそこに僊人になれる食物があるといふ想像から作られたのみではなく、特殊の境地のものには特殊の食物があつて、それを食つて始めてその仲間入りができ、またそれを食ふと普通の人間界には歸られないといふ、例へば昔のギリシヤに於いて神になるにはアムブロジヤの酒を飲むといはれ、ヨウロッパの各地方に於いて fairy には fairy の食物があると信ぜられてゐるのと、同じ意味のこ(199)とであり、不死の民がありその民の居る土地があるといふ話に、その民には特殊の食物があつてそれを食へば不死の民になり得られる、といふことが伴つてゐたので、それが古くから民間傳承としていひ傳へられ、僊人といふ觀念が成り立つてから後はそれが僊郷と僊人の食物とになつて語られたのではあるまいか。不死の藥は人界にあるものではない、それを求めるには僊郷に入らぬばならぬ。秦の始皇や漢の武帝の物語はかう考へて始めて解釋せられるのではなからうか。もしさうとすれば、戰國時代に於ける「不死の藥」はこの思想と長壽の藥といふ考とが結合せられたのであらう。或はまた北歐神話などにその例のある如く、何かの果物に人を若がへらせる力があるといふやうな民間傳説でもあつて、長壽の觀念が一轉して不死となると共に、それが不死の力を與へる食物として考へられるやうになつた、といふやうなことがあるかも知れぬ。直接の證據の無い考ではあるが、かういふ想像はなし得られよう。何れにしても不死の生が得られる食物があるといふのは民間傳承から來たことであるが、それが「藥」となつたのは醫藥の思想によつて變化させられたのであらう。なほこのことは僊術の一つとしての服食の法、辟穀の術、とも思想上の連絡があるが、このことは後に述べよう。
 以上は長生不死といふ觀念の由來についての管見である。ところが僊人には別に昇天といふ資質がある。次にその問題に移らねばならぬ。
 
     四 昇天の觀念の由來
 
 前に述べた如く秦の始皇の時に僊人といふ觀念が成り立つてゐて、その「僊」の語の意義が高く擧ることであると(200)すれば、昇天の思想は戰國未に既に存在してゐたに違ひない。かういふ考はどうして生じて來たであらうか。
 第一に考に入れねばならぬのは、不死の民が人のゆくことのできぬやうな遼遠の地にあると信ぜられてゐた如く、空を翔り得る民とその民の住む場所とが、やはり何處かにあるやうに想像せられてゐたのではないか、といふことである。上に引いた如く呂氏春秋には「不死之郷」と竝んで「羽人之處」が擧げてある。漢代のものではあるが淮南子の墜形訓に海外三十六國の一として「羽民」の國が記されてゐて、それが恰も上文に述べた「不死民」とおなじ態度で取扱はれてゐるのを見ると、羽人といふ觀念は民間傳承として存在してゐたものであらう。山海經の海外南經及び大荒南經にも「羽民國」の名を載せて、或は「其爲人長頭、身生羽、」といひ、或は「其民皆生毛羽」といつてあるのは、上にいつた「不死民」などのと同じであらうが、やはりこゝに附記しておく。ところが、かゝる羽民の觀念の由來は、かの白鳥處女説話などに現はれてゐる古代人の想像にあるのではなからうか。世界到るところに廣布せられてゐる有名なこの説話がシナにもあつたことは、捜神記や玄中記などによつて知られ、またわが國の比沼山や伊香の小江の物語の淵源がシナにあるべきことからも推測せられるが、それはこれらの書の編述せられまたはかういふ話のわが國に傳はつた六朝時代に於いて始めて世に現はれたものではなく、實はずつと古い時代から民間にいひ傳へ語りつがれて來たものであらう。極めて遠い昔から存在した種々の民間傳承が、上代の文獻には載せられず後世になつて始めて人の筆に上る例の少なくないことは、余が曾てシナの開闢説話を考へた時に述べたところである(「日本・シナ思想の研究」)。さてこの説話では婚姻が一つのモチイフとなつてゐるが、白鳥の處女になつたことはそれとは別に考へることができるので、それは動物と人類との間に明かな區別をしなかつた遠い昔の未開時代の思想から生まれた(201)ものであらう。洞冥記には漢の武帝の話として白鳥の神女に化したことだけが見えるが、これも古くから民間傳承として知られてゐたことではあるまいか。かう考へて來ると、その人と鳥との混同が一轉して羽民といふ觀念となつて現はれたことも不思議ではあるまい。山海經の注に歸藏啓筮といふものを引いて「羽民之状、鳥喙赤目而白首、」といつてあるのは、羽民の觀念から派生した考かも知れないが、羽民の觀念の由來を語るものとしても解し得られなくはなからう。少くとも羽民と鳥との聯想は何人にも起り易いものである一證として見られよう。さうしてまたさういふ特異の人類は日常の經驗から遙に隔絶してゐるものであるがために、不死の民と同じく遼遠な土地にゐるやうに考へられたことも、怪しむべきではなからう。もつとも、呂氏春秋の「羽人之處」や「不死之郷」は四方にあるといふ種々の國土と共に列擧せられてゐて、その中には飲露吸氣之民といふやうな、知識社會の特殊の思想によつて形成せられたものもあるのであり、淮南子の不死民や羽民とても、結胸民とか修臂民とかまたは深目民無腸民とか、その他大人國君子國女子民丈夫民とかいふいろ/\のものの中の一つであつて、それらのものがみな民間傳承として世に存在してゐたものとはいひ難く、多くは強ひて奇怪な身體や特異な性質を知識人の考案したものであるから、呂氏春秋や淮南子とについてのみ考へるならば、羽民と不死民とに限つてかう論ずるのはやゝ妥當を缺くやうではあるが、しかしこの二つは上記の如くそれ/\に民間傳承として存在したと認むべき理由があるから、この臆説も甚しき無理ではあるまい。余はかう考へて羽民の觀念は先秦時代に既に存在したものと思ふ。
 しかしこの羽民は羽翼を具へて空を飛ぶものとはせられたであらうが、必しも天に上るものとは思はれなかつたらう。けれども長壽が不死となる如く、空を翔けることが天に昇ることとなるのは、極めて自然な觀念の推移である。(202)白鳥處女説話の處女も、わが國ではみな天女となつてゐて、天に昇り去つたやうに説いてあるが、それもやはりシナ傳來の思想に違ひない。さすれば民間傳承に於いて既に羽民が上天すると考へられてゐたかも知れぬ。が、それは何れにもせよ、前漢時代になると羽民の觀念が昇天の思想と結合してゐるので、それはかの遠遊に「仍羽人於丹丘兮留不死之舊郷」といつて羽人を捕へ來ると共に、或は上にも引いた如く王喬赤松と共に輕擧することを敍し、或は「載營魄而登霞兮掩浮雲而望予、召豐隆使先導兮問太微之所居、集重陽入帝宮兮造句始而觀清都、」といひ、作者の空想がその主人公をして高く?氣を凌いで蒼穹に上り、星辰の間を周遊して天帝の居るところに到らしめたのでも知られよう。さうして上文に述べた如く、後世には僊人に翼があると思はれたり、または鶴に乘つたり鶴に化したりしたといはれてゐるのを見ると、羽人の觀念が僊人の思想と結合し得られることもまたおのづから知られよう。既に昇天の思想が生じた後に於いては、それに本づいてかういふ僊人の話も作られるやうになつたであらうが、それは決して昇天の思想の一淵源として古くから羽民の觀念があつたとすることを妨げないのである。王充が論衡に於いて不死の民と羽民とは同一でないといふので「毛羽未可以效不死、仙人之有翼、安足以驗長壽乎、」と説き、僊人を否認しようとしたのは、後漢時代のことではあるが、羽民と僊人とが結合して考へ得られる一證であらう。
 昇天の思想の由來として第二に考ふべきは、いはゆる騷人の空想である。「朝發?蒼梧兮夕余至乎縣圃、欲少留此靈瑣兮日忽々其將暮、吾令羲和弭節兮望??而未迫、路曼々其修遠兮吾將上下而求索、飲余馬於咸池兮ハ余轡乎扶桑、折若木以拂日兮聊逍遙以相羊、前望舒使先驅兮後飛廉使奔屬、鸞皇爲余前戒兮雷師告余以未具、吾令鳳凰飛騰兮繼之以日夜、飄風屯其相離兮率雲霓而來御、紛總々其離合兮斑陸離其上下、吾令帝?開關兮倚?闔而望予、……」。あらゆ(203)る人間の繋縛を離脱して自由に天空を飛翔してゐるその寓意が那邊にあるかはしばらく措いて、鬼神を驅使して六虚を周流し天庭を博訪して帝宮に上るといふその著想は極めて明かである。さうしてそれが、例へば司馬相如の大人賦もしくは楚辭に收められてゐる漢代の諸篇を始めとし、後の賦を作るものが争つて摸倣するところであるのを見ると、世に及ぼした影響の甚だ大なることが知られ、從つてまた輕擧登僊の思想もそれと無關係ではなかつたことが想像せられる。楚辭についていふと、遠遊の一篇が最もよくそれを證するものであつて、その着想はこの離騷の一節を踏襲したものであるが、上に述べた如くそこに僊家の思想が結合せられてゐるのを見るがよい。輕拳といひ登僊といひ度世といふことばすらも用ゐてあるではないか。王逸が彼の時代の僊人に關する知識を以てこの篇を解釋しようとしたのは、必しも當つてはゐないが、その思想の存在することは否み難い。その他の漢代の諸篇、例へば作者不明の惜誓、東方朔の作と傳へられてゐる七諫の自悲、嚴夫子の哀時命、また劉向の作といふ九歎の遠逝、などの何れも、離騷によつて屈原を紹述し、さうしてそれに僊人の傳説なぜを絡ませてある。これは、僊家の思想の一淵源として離騷を見てゐた前漢時代の考であつて、事實、離騷が登僊の觀念を誘起したといふ證據にはならないが、登僊の觀念が離騷及びその後の騷人の作によつて強められたとだけはいひ得られよう。
 第三に注意すべきは道家の思想である。前にも引いた如く「莊子」(天地篇)に「天下有道、則與物皆昌、天下無道、則脩徳就間、千歳厭世、去而上僊、乘彼白雲、至於帝郷、三患莫至、身常無殃、」とあつて、これは固より寓喩の言に過ぎないが、しかし寓喩としてもかういふことがいはれたのは、天に昇るといふ想像の可能であり、竝にそれが道家の思想の象徴として適切であることを示すものである。何人も知つてゐる逍遙遊篇の、「藐姑射之山、有神人居焉、(204)肌膚如氷雪、?約若處子、不食五穀、吸風飲露、乘雲氣、御飛龍、而遊乎四海之外、」に至つては、一歩を進めていはゆる神人が現實に存在するものの如く説かれてゐるので、その「乘雲氣、御飛龍、」は恰も騷人の空想から出た天界の飛翔と同樣でありながら、一層現實性を帶びて讀者の目に映ずる。さうしてそれが道家の思想の具體的な象徴であることはいふまでもない。「神人」といふ稱呼は逍遙遊篇では至人聖人と竝んで擧げられ、人間世篇では他の場合に眞人と書いてあるのと同樣の意義に用ゐられてゐるが、それは徐無鬼、外物、天下、などの諸篇に於いても、ほゞ同じである。「神」は「人」の形容詞であつて宗教的崇拜の對象たる神をさすのではない。畢竟道家の理想的人格なのであるが、たゞそれは現實の人としてはあり得ないものである。自然に本づき虚無を宗とし從つてまた無爲を主とする道家の「道」が、現實の人生に於いては到底體現すべからざるものであるだけに、その理想的人格もまた空想的であるので、そこに蒼穹に上り「吸風飲露」によつて生きてゐるやうに説かれる契機がある。特に大虚とも稱せられる空中は虚無の觀念の象徴として最もふさはしいものであり、俗塵を離脱した生活は霞を食ひ露を飲むといふ想像によつて具體的に表現せられる。さてこの藐姑射の山の神人は後には神僊として考へられるやうになつたらしく、「列子」(8)の黄帝篇にはそれを列姑射山の神人として「仙聖爲之臣」と書いてある。(仙聖といふ語は湯問篇にも出てゐて蓬莱瀛洲などにゐるものをかう稱してあるから、それは僊人のことに違ひない。)また「吸風飲露」も僊人の一資質とせられ「不食五穀」も僊術の一つとなるのである。だから寓言として説かれたこの道家の思想が天に昇るといふ僊人の觀念の形成を助けたことは、おのづから推測せられよう。(藐姑射の山は空想の所産であらう。「汾水之陽」と連記せられてゐて、汾水は今の山西省の地域にある實在の水名と同じであるが、必しもそれを指したのではなからう。(205)それから「列子」の列姑射は山海經の海内北經に見える。勿論空想上の土地である。何故に藐の字が列に變つてゐるかについては余に考が無い。)
 最後に今一つ擧げてよいかと思ふのは、天上にありもしくは天地の間を往來する神もしくは靈物のあることである。「墨子」の非攻篇に湯が桀を伐つた時、天が祝融に命じて火を夏の城にふらせたといふ話があり、明鬼篇には句芒が鳥身であつて上帝の意を鄭の穆公に傳へたといふ物語があるが、これで見ると、祝融とか句芒とかいふ神は或る形を有つてゐて空中を飛翔し、また天にも上り地にも下るものとせられてゐる。天に在る五帝の佐として考へられてゐるのであるからこれは當然である。ところで蓐收も晉語には人面白毛虎爪の神と書いてあるから、五神にはそれ/\形があると思はれてゐたらしく、山海經(海外南經)に祝融を「人面獣首乘兩龍」としてあるのも漢代ごろからの考であらう。さて異樣な形ではあるが半ば人體を有するこれらの神が天にゐて、そこから地にも下るとするならば、地上の人もまたそれと同じく昇天し得ると考へられるのも不思議ではない。さうして後にいふやうに僊人ともせられた西王母が山海經に「豹尾虎齒」と記されてゐて、それが上記の蓐收などと同じ性質の想像から産まれたものであることを思ふと、かういふ神の飛翔が僊人輕擧の思想と連結せられてゆくことを推測してもよからう。また神ばかりでなく、龍といふやうなものも空を凌いで上升する靈物である。さうして黄帝が龍に乘つて登僊した話などのあるのを見ると、これもまた僊家の思想の形成を助けたものではあるまいか。後には龍に乘つて上天したといふ僊人の話の作られることをも參考するがよい。なほしば/\引用した遠遊にも、天界を周遊するに當つて鈎芒、蓐收、祝融、玄冥、などが使役せられ、また龍にも駕するやうに敍してあるが、それをその傍に於いて赤松や王喬と共に登僊するといふ思想の(206)あるのに對照し、なほ僊家の思想が濃厚に加はつてゐるこの篇全體の情趣から見ると、上記の神や龍の話が登僊の思想に融けこんでゆく徑路を知ることができよう。
 以上、余は昇天の觀念の由來と考へられる四種の思想を擧げた。しかしこれらのうちの第二第三の如きは、或は昇天の思想の既に生じた後にそれを發達させるはたらきをしたに過ぎないのかも知れぬが、發達した後の昇天思想からいへば、やはりそれらを由來のうちに數へてもよからう。要するにこれらの四つが互に結合せられて僊人の觀念を形づくり、或はかためて來たので、羽人や五神や龍が騷人の空想に織りこまれてゆくことは遠遊に於いて知られるし、その騷人の空想が道家の思想と融合してゐることは、大人賦の結末に「下崢エ而無地兮上寥廓而無天、視眩眠而無見兮聽??而無聞、乘虚無上假兮超無有而獨存、」とあり、また遠遊に「漠虚靜以恬愉兮澹無爲而自得、」とあるのを見ても明かである。(この遠遊の起首は「世俗」が「時俗」に「迫隘」が「迫阨」に「?輕擧」が「願輕擧」になつてゐ、またその結末は「眩眠」が「?忽」となり「乘虚無」以下が「超無爲以至清兮與泰初爲鄰」となつてゐる外、大人賦のと全く同じである。)漢代の著作によつて考へたのではあるが、それに含まれてゐる思想の淵源は先秦時代にあるのであらう。
 さて登僊の觀念の由來は上述の如きものであるとして、その天に昇るには何か目ざすところがあつたであらうか。空を翔けるのが本質である羽人にとつては特にさういふものはあるまい。騷人の空想に於いても俗界を離れ人寰を脱するのが本意であるやうであり、道家の思想とても升虚凌冥して〓を飲み六氣を餐へばよいのである。だから或は「覽相觀於四極兮周流乎天」(離騷)といひ、或は「遊乎四海之外」(「莊子」)といつてゐる。けれどもまた一方では、(207)上に引いた如く、帝宮に入り帝郷に至るといふ思想もあるので、既に昇天の觀念があり、さうして天帝の存在が認められてゐる以上、かういふ思想がそれに伴つて生ずるのは當然であらう。詩人も「文王陟降、在帝左右、」(大雅文王)と歌ひ、また人が天帝の傍にいつたといふ種々の説話も作られ、上に述べた如く神が天帝の命によつて使命を人間に傳へたといふやうな物語もある世の中に於いては、なほさらである。さうしてこれもまた後の神僊家によつて相承せられてゐる(後文參照)。たゞ帝宮に上つてさてどうするかは、この時代に於いては全く問題になつてゐない。これは一つは昇天の思想が下土を離脱するといふ考から生じた消極的のものであつて、人界を超越した至高の境地に何ものかを希求するといふ憧憬の情から起つたのではないのと、一つは天帝が概念の擬人に過ぎない抽象的のものであり、また天といふものがたゞ日月の運行し星辰の羅列する蒼穹であつて、天上の世界の想像せられてゐないのとの故であらう。特に虚無を尚ぶ道家に於いては天はたゞ寥廓たるものである。そこに何等の求むべきものが無い。彼等の天は天といふよりも寧ろ虚空であつて、「太清」といふやうな名のあるのもこれがためである。極言すれば彼等の天は一つの否定である。人間生活を否定したところに天がある。この點はインド思想の影響をうけた後世の道教になると頗る趣を異にして來るが、しかしそれにしても根本にはこの考が依然として存續し、そこに奇怪な觀念の混淆が生ずるので、僊人の思想を生んだシナ人の特色は後までも認められる。上代のシナ人は天上に於ける人としての生活を想像せず、從つて人としての生活は地上に限られ、昇天すれば肉體のみは保存せられるけれども人としての生活を繼續することはできないやうに考へたのである。このことはなほ後に述べよう。
 
(208)     五 不死と昇天との結合
 
 昇天の思想の由來とその意義とが果して上に述べた如きものであるとするならば、それが不死と結合して僊人の觀念を形づくつたのは何故であらうか。この問題に對しては明快な解答を與へるに苦しむのであるが、試に卑見の一二を述べるならば、不死を得るには人としての欲望と受用とを極度に制限し、畢竟は人としての生活を離脱することになるのであるから、足の終に地を離れることのできない人生から區別するために、それを高く天上に昇せたのではあるまいか。思想としてはそこに道家の考と接觸するところがある。或はまた天上に住み虚空を飛翔する神や靈物が本來生死を超越したものであるために、人も昇天すればまた不死であると考へ、それがこの二つの觀念の結合せられる一因由となつたかも知れぬ。が、更に進んで考へると、こゝから昇天についての一層重要な觀念が導かれるので、それは不死の生が人界のものでなくして天上のものであるといふことである。地上の人には死のあるが常である。天上にあるものにして始めて不死なるを得るのである。これは觀念としてのことであるが、事實としても不死の人は地上に存在しないのであるから、それは昇天し去つたものとするのが最も自然な考へ方である。この點からいへば、僊人の郷土が人の到る能はざる遼遠の地にあるとせられ、またその居所が人跡を絶した深山幽谷の裡にあるとせられたのも、畢竟、同じ心理から來てゐるので、それはまだ僊人の觀念の成熟しなかつた前に不死の郷や羽人の國がそれ/\遠方にあるやうに傳へられたのと變りはないが、知識が發達して人に對する天といふ觀念が生じ、その天に人とは反對な、或は人を超越した、屬性が附與せられるやうになると、人の生活の無常なるに對し永遠の生命を天に認めるこ(209)ととなり、從つて不死なる僊人を天に置くのが最も適切に思はれて來るのである。が、實をいふと昇天の觀念と結合せられることによつて、不死の希求はその根柢を破壞せられたのである。本來、不死の希求は人として、地上に生活する人として、その生を無窮にせんことを欲するものだからである。昇天した不死はたゞ不死を得たのみで、人としての生活が無い。これは不死を求めるものの求めるところではないはずである。だからそこに僊人の觀念の破綻があるので、それが後になつて僊家の思想そのものの上に現はれて來る。
 ところでこゝに一考すべきは、僊人といふ觀念が如何なる社會に於いて形成せられたかといふことである。不死の郷があり羽人の國があるといふことは、一般民衆の間にいひ傳へられてゐた話であらう。しかし彼等には彼等自身の心内の事實として不死と昇天とに對する強い欲求があつたであらうか。廣く世界の民衆の現實の状態と人の心理とから考へると、それはかなりに疑はしい。不死も昇天も、自己の痛切なる欲求としてよりはむしろ一種の空想として、もしくは一つの觀念として、特殊なる知識社會の人々の腦裡に形成せられたのではあるまいか。勿論、長壽は人の欲するところである。しかしそれから不死の希求に移つてゆくことは、知識の上に於いては可能でもあらうが、實生活の問題としてはあまりに日常の經驗と懸隔してゐる。昇天に至つては恐らくは纔かに人の空想に上るに過ぎなかつたのであらう。上文に於いてこの二つの觀念の由來を考へるに當り、主としてそれを思想家の言説と詩人の空想とに求めたのは、否むしろそれより外に求めやうが無かつたのは、實にこれがためである。前に述べた種々の思想の中には、例へば天地の間を上下する神があつてその形が鳥身人面であるといふやうな民間傳承的色彩の頗る濃厚なものも無いではないが、それとても、もしそれが登僊の觀念に何等かの刺衝を與へたとすれば、やはり知識の上のことであつた(210)らう。もしさうとすれば、不死と昇天とが結合して、形づくられた僊人といふ觀念もまた、或る知識社會に於いて形づくられたのではなからうか。勿論、知識社會の思想としてもその根柢には一般民衆と共通な民族性の現はれがあるのであり、前にも一言した如く不死の觀念の由來が現實主義の人生觀にあるとすれば、特にさう見なければならぬが、かういふ思想の具體的に形成せられたのは知識社會に於いてであつたらう。たゞそれが既に一つの思想として形成せられ、さうしてまた巧みに宣傳せられると、民衆もまたそれを受け入れようとする。特にその基礎的觀念となつてゐる不死の生は、よし痛切な欲求ではないにもせよ、人の興味をひくことが深いものだからである。それがシナ人の民族性に深い根柢があるものだとすれば、なほさらであらう。秦漢以後に於いて僊道が流行するやうになつたのは、これがためであらう。しかし民衆に於いては實生活に縁遠い單純な僊道では物足りない。日常生活に於ける彼等の欲求に應ずる何ものかがそれに伴ふことを要する。秦の始皇や漢の武帝が三神山を求めたことに於いても、またそれを認めることができよう。
 
     六 三神山と神僊
 
 僊人といふ名稱が始めて現存の書に見えるのは、秦始皇が海中の三神山にそれを求めたといふ話に於いてである。それから後、いはゆる蓬莱、方丈、瀛洲、は僊人の居所の最も重要なるものとせられ、僊人を説くものの第一に口に上すところとなつたのである。しかし三神山は本來さういふものであつたらうか。また三神山は單に僊人についてのみ語られたのであらうか。
(211) 三神山の名が初めて現はれる史記の始皇本紀二十八年の條を見ると「齊人徐市等上書言、海中有三神山、名曰蓬莱方丈瀛洲、僊人居之、請得齋戒與童男女求之、於是遣徐市、發童男女數千人、入海求僊人、」とある。僊人を求めるといふことが何の意味であるか、また童男童女を何のために要するのか、これがこの記載について先づ問題となるところであるが、それについては後に考へることとして、この三山が神山と呼ばれてゐること、竝に僊人を求めるに齋戒することは、そこに何等かの宗教的意義があるとしなければ解釋ができなからう。ところが封禅書の漢の武帝が元封元年に泰山に封じた時のことを敍した條には「益發船、令言海中神山者數千人、求蓬莱神人、」とあり、「方士吏言、蓬莱諸神若將可得、」ともあつて、蓬莱に神がゐるやうに書いてあるし、また漢書の武帝紀の太初元年の條には「束臨渤海、望祠蓬莱、」と見え、封禅書にも同じことがあるのを考へると、そのいはゆる神もしくは神人が如何なる性質のものであるかにかゝはらず、蓬莱が宗教的性質を帶びて當時の人に見られてゐたことは、いよ/\明かである。こゝにいふ「蓬莱神人」の神人が「莊子」に見える藐姑射の山のとは違つて、人の形を具へた神の義であることは、一方にそれを「蓬莱諸神」としてあるのでもわかる。かう考へると、封禅書の李少君のことを記してあるところに「遣方士入海、求蓬莱安期生之屬、……莫能得、而海上燕齊怪迂之方士、多更來言神事、」とある「神事」も蓬莱についていつてゐるので、もう一歩進んで考へれば、始皇本紀三十二年の條に「始皇之喝石、使燕人盧生求羨門高誓、……盧生使入海還、以鬼神事、」とあるのも、やはり蓬莱などの三神山に關係のあることらしく推測せられる。三神山は燕齊の方士の口にするところであつて、渤海中にあると傳へられてゐるからである。この始皇本紀に見える羨門高誓は、史記の集解や正義には「古仙人」と解してあるが、本來さうであるかどうか疑はしいので(封禅書の始皇のと(212)ころに「求僊人羨門之屬」とあるのも「僊人と羨門との屬」といふ意義に解し得られる。さうして宋玉の作と傳へられてゐる高唐賦(9)に「有方之士、羨門高谿、上成鬱林公樂聚穀、進純犧、??室、?諸神、禮太一、」とあるのを見ると、羨門は祭祀を行ふ巫祝の徒として見られてゐたやうである。こゝに「有方之士」とあるのはいはゆる方士のことに違ひないが、封禅書に「萇弘以方事周靈王、諸侯莫朝周、周力少、萇弘乃明鬼神事、設射狸首、狸首者、諸侯之不來者、依物怪、欲以致諸侯、……周人之言方怪者、自萇弘、」とあるのを見ると、呪術を行ふものをも方士と稱すべきであり、さうしてこの時代の呪術はおのづから鬼神の事にも關與するのであるから、方士は巫祝と同じく祭祀祈?を行ふものであつたらう。羨門が如何なるものとせられてゐたかは、これでも知られよう。もつとも漢書の藝文志には羨門式法二十卷、羨門式二十卷、を五行家のうちに擧げてあり、さうしてそれは一種の占法を説いたものであるから、祭祀祈?の法もしくは呪術を説いたものではないが、神僊家の列に入れてないのを思ふと、僊術のことがその書に述べてはなかつたであらう。さうしてやはり封禅書の「?衍以陰陽主運、顯於諸侯、而燕齊海上之方士、傳其術、不能通、然則怪迂阿諛苟合之徒、自此興、不可勝數也、」によると、方士の術が陰陽五行の説に附會せられてゐることも推測せられるから、方士だといふ羨門の名を冒した書物が五行家の中にあるのも不思議でなく、それは一方に於いて鬼神と接する呪術師もしくは巫祝の徒として考へられることを妨げるものではない。理論的説明としては如何なることにも陰陽説五行説を結合するのがこのころの一般の思潮であるから、呪術や祭祀祈?にそれが附會せられたとしても少しも怪しむには足らぬ。さすれば、前に引いた姶皇本紀の記事に「鬼神事」とあるのもおのづから解釋せられるので、盧生は三神山に羨門などを求めてそこの神を祀らせようとしたのではあるまいか。漢の武帝が蓬莱の神を祠(213)つたことをも考へ合はせられる。もし祭祀といふことができなければ何樣かの呪術で三神山の鬼神を動かさうとしたのであらう。(高誓は他に所見が無いやうである。李善が文選の注でいつてゐるやうに高唐賦の高谿がそれで谿は誓の誤だらうといふやうな推測をするにも及ぶまい。)なほ藝文志の方技の部に屬する多くの書物の著者として記されてゐるものは何れも實在の人物ではないから、それから類推すると、羨門もやはり同樣であるらしく、「求僊人羨門之屬」とあつて僊人と竝べ擧げてあるのも、さう見なければ意義が通じない。
 後に述べようと思ふことにも關係があるから、方士の性質について附言しておく。方士が巫祝めいた祭祀祈?呪術を行つたことは漢書の郊祀志の成帝の時のことを記したところに、「郡國侯神方士使者所祠、凡六百八十三所、」と見え「方士瞋目※[手偏+?]撃、言有神僊祭祠致福之術者、以萬數、」とあり、王襃傳に「方士言、益州有金馬碧?之寶、可祭祀致也、宣帝使襃往祀焉、」とあるのでも知られ、郊祀志の同じところに「言祭祀方術者」とあり、哀帝の時の記事に「方術士」とあるのも、やはり方士のことである。「方士」は「方術之士」の意に違ひない。また史記の?事及び天官書には方士の唐都といふものが天文に通じ暦を造るに與かつたことが見え、漢書の王莽傳には符命を作つた甄豐が方士に隨つて華山に入つたとあり、また後漢書の光武紀の論に歴運受命に關する上言をした夏賀良を方士と稱してあり、楚王英傳にも英が方士と交通して符瑞を作つたことが記されてゐる。なほ桓譚傳には「方士黄白之術」といふことがあり、また方術傳中の甘始傳には御婦人術(後文參照)を知り種々の奇術を行ふ甘始などを方士といつてある。さうして方士が方術の士のことであるとすれば、史記の太倉公傳に「醫、方術、」と列記せられ、漢書の淮南王傳に方術の士を招致して書を作らせたとあり、後漢書の方術傳に天文圖讖占候などのいろ/\の術に通じたものを收めて(214)あることなどから推すと、漢書の藝文志に方技として載せてあるやうな知識技術を有するものは勿論、陰陽五行天文圖讖などのことを説くものも、やはり方士の總稱に含まれるのであらう。論衡(自然篇)には、武帝のために死せる夫人の姿を現はさせた李少翁の術をも方術といつてある。前に引いた封禅書の文に「方怪」といふ語のあるのも想起せられる。要するに、方術は何等かの點に於いて神怪の分子を含んでゐる知識技術のことであつて、占星の思想に包まれてゐる天文や暦は勿論のこと、前漢末になつて圖讖符瑞の談が流行するやうになれば、それもまた方術の一種と考へられたらしい。醫術とても上代に於いては神怪の技と考へられ、この中に含められてゐたのであらう。?といふ文字の構造からも、また巫醫といふ語のあることからも、それは知られる。さすれば神僊を談ずるものもやはり方士と稱してよいのであるが、方士は僊人の思想の世に現はれない前から存在したに違ひなく、從つて方士が僊人を説いたのは、本來僊人のことには關係の無かつた方士が僊人の思想の世に現はれるやうになつてから、それを取りこんだものと考へねばならず、それは始皇の時からあまり前のことではなかつたらう。
 然らばその神とは何であるか、またそれと僊人との間には如何なる關係があるか。三神山には鬼神もゐたであらう、僊人もゐたであらう。しかしその間に交渉が無いではない。先づ一般的に考へるに、封禅書に始皇の時のことを記して「宋母忌、正伯僑、充尚、羨門、子高、最後、皆燕人、爲方僊道、形解銷化、依於鬼神之事、」とあり、始皇本紀三十五年の條に「盧生説始皇曰、臣等求芝奇藥、仙者常弗遇、類物有害之者、方中人主、時爲微行、以辟惡鬼、惡鬼辟眞人、至人主所居、而人臣知之、則害於神、眞人者入水不濡、入火不?、凌雲氣、與天地久長、今上治天下、未能恬淡、願上所居宮、毋令人知、然後不死之藥、殆可得也、」と見え、また封禅書の漢武帝の元鼎五年の時のことを記(215)した條に「黄帝且戰且學僊、患百姓非其道者、乃斷斬非鬼神者、百餘歳、然後得與神通、」といつてあるのを見ると、この時代には僊道そのものが鬼神と關係があることとして考へられてゐたやうである。數百歳の人であるといふ李少君が「祠竈穀道却老方」を武帝に勸説したといはれ、その言に「祠竈則致物、致吻而丹沙可化爲黄金、黄金成以爲飲食器則益壽、益壽而海中蓬莱僊者乃可見、見之以卦禅、則不死、黄帝是也、」とあるのも、また不死の術を祭祀に本づくとしたのである。封禅によつて不死もしくは登僊を得るとし、黄帝をその模範として説くことは、封禅書の所々に見えてゐるので、「封神七十二王、唯黄帝得上泰山封、申公曰漢主亦當上封、上封則能僊登天矣、」といひ、「黄帝時雖封泰山、然風后、封巨、岐伯、令黄帝封東泰山禅凡山、合符、然後不死焉、」ともいはれてゐるが、封禅は即ち天子の祭祀であることはいふまでもない。これは皇帝のために僊を説いたからのことであり、封禅書に僊人を求めることを記してあるのもそれがためであるが、よしそれにしても僊道と祭祀とを結合して考へてゐたところに、注意すべき點があるといはねばならぬ。かう考へると、同じ封禅書の?氏城のことを書いた條に「僊者非有求人主、人主者求之、其道非少寛假、神不來、言神事、事如迂誕、積以歳、乃可致也、」とあり、武帝が益延壽觀を建てたところに「公孫卿曰、僊人可見、……置脯棗、神人宜可致也、」とあつて、僊者と神と、僊人と神人と、が同じ意義に使はれてゐるのも怪しむに足らぬ。なほ欒大の上言の「黄金可成、而河決可塞、不死之藥可得、僊人可致也、」と「神人……可致也」と、また武帝が泰山に上つた時の話の「求蓬莱神人」と「宿留海上……求僊人」とを對照して、封禅書に於ける僊人と神人との用語例を知ることができよう。さうしてこれらの神人が宗教的崇拜の對象たる神の義であることは、上に引用したところを交互對照して知られるやうに、神人と神とが同意義であるのでもわかる。武帝本紀太始四年の(216)條にも「祠神人於交門宮」とあるが、交門宮が琅邪縣にあることを思ふと、この神人もまた僊人に關係があるらしい。かう考へて來ると、これらの場合の僊人は單に長生不死を得て天に昇つたといふだけのものではなく、少くともそれが宗教的に崇拜せられ、またその崇拜によつて人が何物かを與へられるものでなくてはならぬ。なほやゝ後の話ではあるが漢書の郊祀志及び地理志(左馮翊の條)に五牀山などに僊人の祠のあることが見え、甘泉の泰 時にも五帝壇群神壇と共に僊人祠があつたらしい。これもまた秦の始皇や漢の武帝ころからの傳統的思想に本づいてゐるのであらう。これらの點から考へると「僊」の上に特に「神」が加はつて「神僊」といふ熟語の作られた理由も、またおのづから解せられるので、それは僊道に宗教的意義が附加せられたことを示すものであらう。封禅書に「欲放黄帝以上接神僊人蓬莱士、高世比徳於九皇、」といふことがあり、また「作通天臺、置祠具其下、將來僊神人之屬、」とも見えるが、これは神人と僊人とを併せ稱したものであつて、「神僊」もしくは「僊神」といふ熟語に「人」を附けたのではなからうが、しかし「神僊」といふ語の作られた徑路はこれでも推測せられるやうである。(漢書の郊祀志には前の方が「欲放黄帝以接神人蓬莱、高世比徳於九皇、」となつてゐるが「接神人蓬莱」は意義が通じ難いからこれは「僊」と「士」との二字を削つたものらしく、史記の方が正しくはあるまいか。また後の方の「僊神人之屬」は同じく郊祀志に「神僊之屬」となつてゐるが、これも漢書の改修であらうと思ふ。始皇本紀三十六年の條に「使博士爲僊眞人詩」とあることも參考せられる。)もつとも後には「僊」も「神僊」も全く同じ意義に用ゐられ「神僊」の語にも必しも宗教的意義が伴はないやうになるが、その起源を考へると、かういふ事情があつたのではあるまいか。
 かう説いて來ると、始皇や武帝が僊人を求めたといふ意味もまたおのづから推知せられよう。彼等はみづから道を(217)修めて僊人にならうといふのではなく、僊人を招來し僊人を見て、それによつて何物かを得ようとしたのであつて、三神山を求めたのも、益延壽觀や通天臺を建ておのも、みなこれがためであるが、その得ようとするところは即ち不死昇天、特に不死、であつたことが、前に引いた李少君の語によつても知られる。僊人に期待するところが僊人になるために助力を得ようとすることであるのは、當然であらう。しかしそれは僊道の教をうけ僊術を學ばうとするのではなく、不死の藥を得ようとしたのである。前に引いた始皇本紀三十五年の條の盧生の言、竝に封禅書の欒大の言に、不死の藥をいつてゐるのでも、それは知られ、やはり封禅書の武帝が東莱に至つて宿留しても僊人を見ることができなかつたといふことを書いた條に「復遣方士、求神怪、采芝藥、以千數、」とあるのも、またこれを證する。しかしもう一歩進んでいふと、或はむしろ僊人を見ることが即て僊人になり得ることででもあるやうに漠然と考へられたかも知れぬ。僊人を祀ることの行はれたのでもそれが推測せられる。これもまた祭祀によつて不死を得んことを欲したのではあるまいか。封禅書に、武帝が黄帝の冢を祭つたとあるのも、やはり黄帝を僊人と見たからのことであらうが、それにもまたこの希求が潜在してゐたと思はれる。さて既に祭祀であるとすれば、それはおのづから世のつねの宗教的崇拜と混合せられて來るので、郊祀志に見える谷永の上言に「神僊祭祀致福之術」とあるのでも、その状態が推測せられるが、特に僊人を祀るといふことが始められたとすれば、それは不死の希求と無關係ではなかつたに違ひない。本來不死も昇天も事實としてあり得べからざることであるのみならず、秦漢時代のシナ人とても、それが日常の經驗と背馳する觀念であり神怪な話であることを知つてゐたに違ひないから、もしさういふ思想が世に存在したならば、それがおのづから宗教的傾向を帶び、或は種々の民間信仰と結合せられて來たのは、自然の趨勢である。不死と昇天(218)とは思想そのものに於いては來世の生活や死後の世界に關するものとは性質を異にしてゐるが、それに對する人の心理に於いては、これらの宗教的信仰と共通の點があり、さうして後者の發達せずして前者の流行したところにシナ人の精神生活の特色があるが、前者とてもまた宗教的迷信と混和せられねばならなかつたのである。なほ藥によつて不死を得ようといふ考には本來宗教的意味は無く、むしろそれとは反對のことであるが、それすらもかう思はれて來たのは、不死といふことから來る上記の理由があると共に、多くの民族に於いて醫術が呪術とせられ、或は醫藥が呪術もしくは宗教に結合せられる傾向のあることとも、關係があらう。
 以上は一般的に僊人の觀念に宗教的意義が結合せられ、僊人が神とせられたことを述べたのであるが、このことはいはゆる三神山についてもまた同樣であつたに違ひない。この時代の僊人の思想が主として燕齊方士の鼓吹するところであつて、三神山がその中心觀念となつてゐることを思ふと、なほさらである。神山といふ名稱そのものが既にこの意義のあることを示してゐる。三神山には神があり僊人があり、或はその僊人が即ち神なのであるが、本來不死の藥を得るために三神山が求められ、それについて鬼神の話が出たとすれば、その鬼神はよし僊人自身でないにせよ、それと無關係に考へられてゐたのではなかつたに違ひない。史記の淮南王安の傳に、徐福が海中の大神に延年益壽の藥を請うたが許されなかつたといふ話があり、それが蓬莱山に關聯して説かれてゐるのも、その一證である。これは始皇本紀三十七年の條の、海神として見るべき鮫魚のために妨げられて蓬莱に近づき得なかつたといふ話と同じ物語の變形であつて、共に徐福(徐市)の詐言として記してあるが、不死の藥を與へるも與へぬも蓬莱の海にゐる神の意志であるといふ思想のあつたことは、これによつて知られよう。況や僊人そのものも神と考へられてゐたことは上記(219)の考説で明かである。始皇や武帝は方士、即ち呪術祭祀を職とするもの、そしてこの三神山の神を致し、僊人を致し、さうして不死の藥を得ようとしたのである。始皇が方士の羨門などを求めたといふのも、やはりこれがためであつたらう。さう考へると、徐市等が齋戒して童男童女を率ゐ海に入らんことを請うたといふ話の意味も、また祭祀か呪術かの思想によつて説明せらるべきことであつて、童男童女は犧牲として用ゐらるべきものではなかつたらうか。人身の犧牲は上代のシナに於いてその例が多く、また女を用ゐる場合には處女たるを要することが一般の例である。齋戒するとあるのでも普通の俗事でないことが知られはすまいか。數千人を發したといふのは、犧牲としては多きに過ぎること勿論であるが、それが果して事實を記したものであるかどうかは甚だ疑はしい。實行し難きことらしく思はれるのみならず、封禅書に(上に引用した如く)海中の神山を言ふもの數千人をして蓬莱の神人を求めさせたとあつて、これも誇張の筆と見られることを參考するがよい。淮南王安の傳の、上にも引いた、徐福の詐言といふものに、延年釜壽の藥を與へないのは秦王の禮が薄いからだと海神がいつたとあり、さて「臣再拜問曰宜何資以獻、海神曰以令名男子若振女、與百工之事、即得之矣、」と述べてあるが、記者はそれを承けて「秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種々百工而行、」と記してゐる。この記載は始皇本紀の記載とは順序が前後?倒してゐるし、徐市と徐福と同じ音ながら文字も違つてゐるから、本紀のとは別の資料によつたものらしく、後にもいふやうにそれはもとの話の變改せられた部分を含んでゐるが、童男童女が神に獻ずるものとして、即ち一種の供物として、考へられてゐたのは、徐福の話の作られた初めからのことではあるまいか。多分この點がこの話の本來の意義であつて、百工云々は後から附加せられたものであらう。
(220) 三神山の話は僊人の思想に宗教的意義の附加せられたものであるとして、こゝに一考すべきは、この二要素の中の何れが本質的のものであるか、即ちもとは僊人の居所として考へられてゐた空想國土が後になつて神山とせられたのか、またはもとは神山であつたものが僊人に結合せられるやうになつたのか、といふことである。さて不死の民も羽人の國も、それが渤海中にあると思はれてゐたやうな形跡は、現存の文獻には見當らず、また僊人の思想の一淵源をなしてゐる「莊子」や楚辭(の前漢時代以前のもの)の何れにも、不死が説かれ凌虚が語られながら、三神山の話は全く出てゐない。さうして戰國時代に於いて不死を説くものは上に述べたやうに楚の地方にもあつたはずであるから、その思想はかなり世に弘まつてゐたであらうに、三神山のことは獨り燕齊方士の宣傳するところであつた。その上、一方では僊人として最初に現はれまた最も廣く知られてゐる赤松や王喬が、三神山に關しては説かれてゐないと共に、他方では三神山について喧傳せられるものが羨門などの昔の方士であつて僊人ではない。たゞ封禅書には安期生といふ蓬莱に通ふ僊者の名が出てゐるが、安期生は史記の樂毅傳の論賛によると黄老の道を説いた河上丈人の門人として傳へられてゐたらしいから、一般に僊人として信ぜられてゐたのではなかつたらう。實在の人物らしくはないが、それはともかくも、かういふ傳説的人物を僊人として方士が利用したものらしい。これらの點を、三神山を説くものが方士であることと、僊人の思想には本來宗教的意義が無いこととに參照して考へると、三神山はもとから僊人の居所として傳へられたものではないことが推測せられはすまいか。
 なほ三神山の名稱を考へるに、瀛洲は海上の空想國土としてふさはしいものであり、蓬莱は、後にいふ扶桑と同じく、東方にあるがために五行思想にもとづいて名づけられたのであらう(11)。だからこれらの稱呼には僊人の郷土である(221)といふやうな意義は全く含まれてゐない。方丈は余には不明であるが、僊人に關係の無いことだけは推測せられる。ところでかういふ島々の存在は、單に空想的地理説として唱へられたものであるか、または別に由來があるかといふに、それには登州地方に於けるいはゆる海市(蜃氣樓)の現象から起つたものだといふ説があつて、この山が大洋の外にあるとはいはれずして渤海中にあるとせられてゐることを思ふと、單純な空想から出た東方の土地と考へるよりも、かう解釋する方が妥當であらう。陸地を距ること遠からず、而も二つの半島によつてその口を扼せられてゐる嚢の如き内港に置かれてゐることを注意すべきである。現實の地理に何等の根據の無いものであることは、いふまでもない。さうして史記の天官書の望氣の條に「海旁蜃氣象樓臺、廣野氣成宮闕、」とあるのを見ると、蜃氣樓の現象が當時の人の注意をひいたことは疑が無い。もしさうとすれば「重樓翠阜」が縹緲の間に現じ「?囘?變」、人目を眩するその神怪の幻影は、僊郷であるよりもむしろ神の居るところとするにふさはしい感がある。方士がそれを弄ぶのも當然である。(封禅書の「未至望之如雲、及到、三神山反居水下、臨之風輙引去、」は海市そのものの説明としては適切でないが、これは海中の山としての想像と見なければなるまい。)さすれば、三神山は齊の威王宣王、燕の昭王、の時代から神の居るところとして、燕齊方士の口にするところであつたのを、僊人の話が世に弘まつて來た戰國末に至り、方士がそれを取り入れて三神山に附會したのであらう。海市がもし初めから僊人の思想に結合せられたならば、僊人が登僊するものである以上、その居るところとしては海市をそのまゝ空中の現象として説くのが當然であるのに、それが却つて下界に引きおろされ、海上の神山として、船に乘つて到り得るところとして、傳へられてゐるのは、一と度び僊人とは關係の無いものとして考へられたことがあるためではあるまいか。僊人が天に昇るものであるとすれば、(222)その居所は天上にあるのが當りまへであるのに、三神山と天との關係が少しも説かれてゐないことは注意を要する。さすれば三神山を僊郷としたのは本來方士のしわざであつて、僊家から出たのではないが、しかし結果に於いては、僊人の觀念に呪術的宗教的要素を加へ、それによつてその思想の弘通を助けたことになるのである。
  附記。「列子」の湯問篇には渤海の東に岱輿、員?、方壺、瀛洲、蓬莱、の五山があつて、そこに「仙聖之種」がゐ、そこに叢生してゐる珠?之樹の華實を食ふと不老不死になる、五山の中で岱輿員?の二つは北極に流れて海に沈んでしまつた、といふ話がある。「列子」がもし「莊子」に見える列子の語を記したものならば、蓬莱などが僊人の居所として説かれたことは、ずつと古くからの話となる。しかし今傳へられてゐる「列子」は先秦のものではないから、これは論外に置く。この話のみについて考へても、「渤海之東、不知幾億萬里、有大壑焉、實惟無底之谷、其下無底、名曰歸墟、八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無増無減焉、其中有五山焉、」といふのが渤海の中に三神山があるといふ説話を一轉し、海を空想化してそれを渤海の外の大洋としたものであり、五山の中の二つが失せて三つだけ殘つてゐるといふのが、古くからの三山の傳説に本づいてそれを潤色しながら、やはり傳説に契合させるやうにしたものであることを思ふと、何れも漢代よりも後、多分晉代、に作られた話であることが知られる。失せたといふ岱輿は他に所見があるかどうか知らず、員?は述異記に出てゐるが、そこには僊人の話は無く所在も記してない。(但し續博物志には述異記の記載をそのまゝ取りながら東海員?山としてある。)拾遺記(卷一〇)には三山の次に員?岱輿の二山を擧げ、共に僊人と關係があるやうに説いてはあるが、やはり所在は明かでなく、またそれが現に存在するもののやうになつてゐる。しかし同じ拾遺記(卷一)の別の條には、三壺として三神山の(223)名が出てゐるのを見ると、上記の説は二山を三神山と關係ありげにいひ添へたものであることが知られる。さうしてそれに一歩を進めたものが今ある「列子」の記載なのであらう。三神山の説話はかういふやうに次第に變化したのであるが、それから更に類推するならば、三山といふことが既に神山の話の最初の形ではなかつたので、もとは蓬莱一つではなかつたらうか。三山とはいふけれどもその主なるものが蓬莱であることは、上に引用した封禅書などの多くの記載によつて明かであり、また東方の僊郷として漢代以後の文獻に現はれるものは主として蓬莱であるが、それは即ち一般の傳説として蓬莱のみが古くから人の口に上つてゐたことを示すものである。他の二つの比較的閑却せられてゐるのは、後から附加せられたものだからではあるまいか(12)。
 
       七 崑崙山と神僊
 
 東海の中にあるといふ神山の蓬莱が神僊思想に結合せられたと同じく、西方の崑崙山もまた僊人の居所とせられるやうになつた。崑崙は禹貢に「崑崙析支、渠捜、西戎即敍、」とあるのを見ると、西方の地名もしくは民族名として考へられてゐたらしいが、何時からかそれが山の名とせられてゐる。「莊子」の大宗師篇に「堪杯得之、以襲崑崙、」とある崑崙も、その次の「馮夷得之、以遊大川、肩吾得之、以處太山、」から類推すると、山として取扱はれてゐるらしいが、天地篇の「黄帝遊乎赤水之北、登乎崑崙之丘、而南望還歸、」また至樂篇の「崑崙之虚、黄帝之所休、」の崑崙は明かに山である。離騷にも「?吾道夫崑崙兮路修遠以周流」とあるが、同じ篇中に「朝發?於蒼梧兮夕余至乎縣圃」といひ「忽吾行此流沙兮遵赤水而容與」といつてある縣圃や赤水は、或は崑崙山にあるとし或はそこから出る(224)として淮南子の墜形訓に記されてゐるのを見ると、離騷の作られたころにも、既にさういふことがいはれてゐたのであらう。さすればこの崑崙もまた山に違ひない(13)。尸子にも「赤縣神洲者、實崑崙之墟、」とあるといふ(太平御覽人事部)。或は地名もしくは民族名とせられてゐたのも、もとは山の名から轉じて來たものであるかも知れぬ。しかし「莊子」や離騷の崑崙山は決して實在の某の山を指したのではないので、「莊子」に於いては黄帝がそこに上つたとせられ、離騷では縣圃の名が用ゐられてゐるのでも、それは知られる。崑崙は本來西域の交通路に當る地域の實在の土地もしくは山の名であつたらうが、その方面の地理的知識が不確實であつた戰國時代のシナ人は、たゞそれを西北方にあるものとのみ考へ、さうしてそれを空想化したのである。これは張騫の遠征以後西域の地理のやゝ確實に知られた漢の武帝のころでも同樣であつて、史記の大宛傳の論賛に「其高二千五百餘里、日月所相避隱爲光明也、其上有醴泉瑤池、」といつてある。ところがこの傾向の最も著しいのは、武帝のころに編述せられた准南子に見えるものであつて、墜形訓を讀むと、山そのものがます/\空想的になると共に、そこから天に上り天帝の居に到ることができるとせられてゐる。「掘崑崙虚以下地、中有増城九重、其高萬一千里百一十四歩二尺六寸、……旁有四百四十門、……」といひ、「崑崙之邱、或上倍之、是謂涼風之山、登之而不死、或上倍之、是謂懸圃、登之乃靈、能使風雨、或上倍之、乃維上天、登之乃神、是謂太帝之居、」といつてゐるので、それは明かである。なほ溯つていふと、離騷の崑崙は准南子の説によつて解釋せらるべきものらしく見えるから、崑崙と帝居との結合は既に離騷に於いて存在してゐたと推測しても大過は無からう。それから封禅書の武帝が泰山に封じた時のことを記した條に「濟南人公玉帶、上黄帝時明堂圖、明堂圖中、有一殿、四面無壁、以茅蓋、通水圜宮垣、爲複道、上有樓、從西南入、命曰昆侖、天子從之入以拜祠(225)上帝焉、」とある樓の名の昆侖は、この空想の山の名を取つて名づけたものに違ひなく、さうしてそれが上帝の祭祀に用ゐられたとするのは、崑崙山から帝居に上られるといふ思想から來てゐるのであらう。「崑崙之丘、是實帝之下都、」といふ山海經(14)(西山經)の記載も天帝に關するこの思想の一歩を進めたものらしい。劉向の作といはれる九歎の遠逝に「排帝宮與羅囿兮升縣圃以眩滅」とあり、楊雄の甘泉賦に「配帝居之懸圃兮象泰一之威神」とあるのも、また懸圃をすぐに帝居と見たのである。なほ崑崙から天に上られるといふことは一般に考へられてゐたので、焦氏易林(15)にも「登崑崙、入天門、」とある。
 さて、かういふ考は崑崙山が天地の中心として、天柱として、傳へられてゐたところから來てゐるらしい。河圖緯の括地象には崑崙をシナ(神州)の西北方にあるとすると共に、「崑崙山爲天柱、氣上通天、」とも「崑崙者地之中也」ともいつてあるが、淮南子にも曖昧な書きかたながら既にこの思想があるやうに見える。シナは西北方に高山峻嶺があるためその方面に天柱があると考へられ、從つて土地の中心もそこであると思はれたらしく、やはり西北方にあるとせられてゐるかの不周山に共工氏の頭がふれたため天柱が傾いたといふ話も、同じ思想から出てゐるのであるが、崑崙山の名が喧傳せられてからはそれが天柱とせられるやうになつたのであらう。(高山峻嶺は西方一帶にあるのであるがそれが特に西北方に於いて注意をひいたのは、西域に對する交通路に當る方面だからである。)さうして崑崙山の四方に國があり、またこの山から各方面へ水が流れ出ると思はれたので、そこに現實の地理的知識と空想的地理説とが奇怪な形で混和せられる契機がある。前に引いた尸子の言はあまりに斷片的であるからその意義がよくわからぬが、崑崙を西極にあると見たのでないことは推測せられるから、やはりこの思想と關係があらう。淮南子の墜(226)形訓にもそれが見えるのである。(もつとも同じ淮南子の時則訓には世界を五方に分け、崑崙は中央の西極であると同時に西方の東端であるやうになつてゐるが、これは崑崙が現實の地理的知識のまゝこの半ば空想的な世界志に利用せられたのである。)ところが崑崙山が天柱であるとすれば、そこから天に通じ天帝の住居に通ずることとならねばならぬ。そこで上記の思想が生まれたのではあるまいか。しかしまた歴史的にいふと、黄帝の登つたといふ話がそれを導き出したのでもあらう。黄帝は方位に於いて中央の位置を占めてゐる天の五帝の一つで、畢竟、天の中心となるものであるから、それはおのづから天帝に結合せられる。崑崙に登つたといふ話の黄帝は上代の帝王としてのではあるが、それは本來、五行思想に本づく天の五帝の一つから出て、やはり同じ名を有つてゐるのであるから、それが互に融合混同せられ得るのである。さて崑崙に黄帝を登せたのは、後にいふやうに黄帝が種々の事物の創始者もしくは建設者として考へられ、説話として傳へられた上代の帝王中最も尊重せられてゐたからであらうが、やはりそこに漠然ながら崑崙を世界の中心とするやうな考のあつたことが認められはすまいか。呉越春秋(卷五)に越王の言として、崑崙を「上承皇天」また「下處后土」とし、さうしてそれを五帝三王の觀念に結合してあるのも、またかういふ思想から一すぢの絲をひいてゐるのであらう。
 ところがこの崑崙が神僊思想と結合せられたのである。前にも引いたことのある、屈原の作と稱せられてゐてその眞僞の甚だおぼつかない九章の渉江に、「登崑崙兮食玉英、與天地兮同壽、與日月兮同光、」とあるのは、必しも僊人としての不死の觀念が現はれてゐるとのみ解釋すべきものでもなからうが、上に説いた如く、屈原の作もしくはさう考へられてゐた楚辭の諸篇が僊家の思想の發達を助けたとするならば、しば/\それに説かれてゐる崑崙懸圃が僊家(227)の藥籠中に取り入れられてゆくのも、自然の傾向であらう。淮南子になると、崑崙山上に不死の樹があり、その山の中に流れてゐる丹水を飲み、或はその上にある涼風之山に登れば、共に不死を得るとしてあつて、崑崙に關する不死の觀念が一層明白に現はれて來る。たゞそれが僊人の思想と結合せられてゐたかどうかは、やはり確言し難い。全體に淮南子には僊とか僊人といふ文字が使つてないのであり、さうしてこの書の編述せられた時代には僊人の思想がかなり流行してゐたのであるから、このころには僊人を説くものが崑崙をそれに附會してゐたと見てよいやうでもあるが、それにしても武帝の神僊を求めた話があれほどに有りながら、それがみな蓬莱についてであつて崑崙に關するものが一つも見えないことを思ふと、これはまだ廣くは承認せられてゐなかつたかも知れぬ。もつともそれには他に理由がないでもない。蓬莱も固より無何有郷ではあるものの、それがいはゆる海市に起源を有するものだとすれば、ともかくも具體的の根據はあるので、その海市は場合によつては空中に望見せられないでもなく、また神山としては渤海の中にあるといふので近づき易き感があると共に、到りがたいのは風波の故であるとするにも便利であるが、崑崙は陸地にあるとせられながら全く空想化せられた山であるから、方士の徒もそれを利用することができなかつたのでもあらう。また蓬莱に神のあることは戰國時代から方士によつて民間に鼓吹せられてゐたのに、崑崙は知識人の思想として文獻の上にのみ現はれてゐたので、さういふ歴史的由來が無かつたからでもあらう。何れにもせよ武帝のころには崑崙がまだ僊郷として十分には發達してゐなかつたらしい。司馬相如の大人賦にも崑崙の名は出てゐるが、それは離騷以來の因襲に從つたのみで、僊人の居所として見られてはゐないやうである。しかし漢書の郊祀志に成帝の時の谷永の上言として「世有僊人、服食不終之藥、※[?から系を取る]起輕擧、登遐倒景、覽觀縣圃、浮遊蓬莱、」の語があつて、これ(228)には縣圃と蓬莱とを同樣に取扱つてあるのを見ると、そのころには崑崙と僊人との關係がよほど確かになつてゐたのであらう。王莽傳にも太一黄帝が僊人となり上天して樂を崑崙虔山の上に張つた、といふ話が見えるが、河圖緯の括地象に至つては、明かに崑崙山を「聖人仙人之所集也」といひ、そこにあるといふ銅柱について「有仙人九府治之」と書いてある。括地象にはまた「崑崙之墟、有五城十二樓、」とあるが、この五城十二樓がもし史記の封禅書に見える黄帝が作つたといふ話のそれに連絡のあるものならば、そこにもまた神僊思想との交渉がある。張衡がその思玄賦に「登?風之曾城兮構不死而爲牀」といつたのは、淮南子の所説をそのまゝ相承したものではあるが、この賦に蓬莱瀛洲や松喬の話があることからも、またこの時代に不死といへば神僊思想から離してそれを考へることは無かつたらうと思はれることからも、この句の意義は推測せられ、王逸が楚辭の注に「不死之舊郷」を「蓬莱崑崙」と解してゐるのも同樣であるから、後漢時代にはこのことが一般に承認せられてゐたらしい。列仙傳(16)になると赤松子の崑崙山にゆくことが見えてゐる。
 然らば崑崙は何故に僊郷とせられるやうになつたであらうか。一般に山が僊人の居所として考へられてゐたこと、また僊人が人の近づき難い遼遠の地にゐるとせられてゐたことも、その思想的背景となつてゐようが、崑崙に於いては、そこから天に昇り得られるといふ話が昇天するものとしての僊人に最もふさはしく感ぜられた故ではあるまいか。論衡(道虚篇)に「天無上升之路、何如穿天之體、人力不能入、如天之門、在西北、升天之人、宜從崑崙上、」といつてあるのは、既に僊郷とせられた後の論ながら、後漢時代にかう考へるものがあつたといふ事實が、即てこの憶説の無意味でないことを證するものではなからうか。なほ或は、東方の蓬莱に對して西方に一つの僊郷を置かうといふ考(229)も、それを助けてゐるかも知れぬ。たゞこゝで注意すべきは、崑崙に不死の觀念の結合せられたことについてであつて、これは僊郷とせられたためにさうなつたのか、または僊郷とせられない前から不死の觀念だけが寄託せられてゐたのかが問題であり、もし後者であるならば、それもまた、昇天の思想と共に、崑崙が僊郷とせられる一事情であつたと見られる。が、これについては何れとも考へ得られるので、二者の一つを撰ぶことがむつかしい。たゞ空想の山としての崑崙は知識社會の思想に於いて始めて形成せられたものであるから、そこが不死の郷土とせられたのも、また民間傳承などから起つた話とは思はれぬ。だからもし後者であるとすれば、地の中心にあつて天に上る道であるといふ崑崙の概念から推考して、不死の觀念がこの山に結合せられたのは、天地の長久といふやうな考から聯想せられたものであることが、知られはすまいか。前に引いた渉江や淮南子の所説、特に涼風の山に登れば不死であるといふやうな考は、最もよくこの見解を助けるものである。しかしこの間題をどう解釋するにしても、崑崙が初めから不死の國として、もしくは僊郷として、知られてゐたものでないことは動くまい。この點に於いては蓬莱などの三神山と同樣である。但し三神山が宗教的呪術的性質を帶び、早くから燕齊地方の民間に知られてゐたとは違ひ、崑崙は知識社會の所産であり、また三神山を僊郷としたのは方士が僊人の思想を取入れたのであるのに、崑崙については僊道を鼓吹するものがそれを自家の所説に援引結合したといふ差異がある。もつとも漢書地理志の金城郡の臨羌縣の條に「西有……弱水、崑崙山祠(17)」と注記せられ、論衡(感虚篇)に「神棲崑崙」といふことがあり、また山海經にも崑崙之丘について「神陸吾司之」と見えてゐるから、この山にも宗教的意義が幾分か附加せられてはゐる。これは山といふものが一般に宗教的に取扱はれ、そこに神がすむやうに思はれてゐたからでもあらうが、それよりも、三神山の話(230)などによつて神僊思想そのものに一種の宗教的色彩がついて來たため、それが僊郷としての崑崙山にも適用せられたのだ、と解する方がよいかも知れぬ。
 崑崙山を説いたに因んで閑却すべからざる一間題は西王母のととである。西王母は神僊であつて崑崙山にゐると考へられるやうになつてゐるからである。しかしこれは西王母といふものの現はれた初めからのことではないから、一應さうなるまでの徑路をしらべてみる必要がある。さて西王母が西極にある地名もしくは民族名として知られてゐたといふことは爾雅の釋地に「觚竹、北戸、西王母、日下、謂之四荒」とあるのでも疑が無い。淮南子の墜形訓の「西王母在流沙之瀕」は高誘が注してゐる如く人として見られなくもなからうが、それよりも民族名または地名として見た方が、前後の文章の關係上、適切のやうであり、史記の大宛傳の「安息長老傳聞、條支有弱水西王母、而未嘗見、」も、弱水と列記してあるところを見ると、地名として考へられたものらしい。(この話は地理的知識の西進と共に西極にあるといふ弱水と西王母とを條支まで進めていつたものに違ひない。魏志に引いてある魏略の西戎傳には弱水を太秦の西にあるとしてあるのを見るがよい。)だから武帝のころまでは西王母をかう考へてゐたものもあつたので、それはもう少し前からの知識が繼承せられてゐるのであらう。ところが、漢初の作であらうと思はれる「莊子」の大完師篇には「西王母得之、坐乎少廣、」の語があり、淮南子の覽冥訓に「?請不死之藥於西王母、?娥竊以奔月、」といふ話が載せてあり、また史記の趙世家に「繆王使造父御、西巡狩、見西王母、樂之忘歸、」とあるのを見ると、漢代に於いて西王母が人ともせられてゐたことがわかる。さて土地または民族としても人としてもそれが何時から世に現はれたかは明かでなく、この名が見えてゐてよささうな離騷にそれが全く現はれてゐないことを考へると、少くとも(231)それが書かれたころにはまだ廣く人に知られてゐたのではないやうにも思はれるが、遲くとも漢初には、或はもう少し早く見て戰國末には、土地または民族と人との兩樣の意味に於いてシナ人の知識にそれが入つてゐたのである。西王母といふ名の由來をどう見るにしても、また何故にそれが地名または民族名としても傳へられ人名としても考へられてゐたか、といふ問題をどう解釋するにしても、これだけは確實であらう。さうして、それが人としては女性とせられるやうになり、もしくは初めから女性として想像せられてゐたことは、文字の上から推測せられるので、傳説中の人物としてもてはやされるやうになつた主なる理由はそこにあるのであらう。(「莊子」に於いては女性であるかどうか不明である。また穆(繆)王に附會せられたのは、この王が西戎を征したといふ傳説に本づいたのであらう。)
 さて西王母が人とせられたとして、その居所がどこに置かれてゐたかといふに、「莊子」の「少廣」は意義がよくわからぬから且らく措き、司馬相如の大人賦には「經營炎火而浮弱水兮杭絶浮渚而渉流沙、……西望崑崙之軋、?洸忽兮直馳乎三危、排?闔而入帝宮兮載玉女而與之歸、舒?風而搖集兮亢鳥騰而一止、低囘陰山翔以紆曲兮吾乃今目睹西王母、……囘車?來兮絶道不周、」とあつて、崑崙の方面らしくは書いてあるが極めて曖昧であり、楊雄の甘泉賦には「梁弱水之??兮躡不周之透蛇、想西王母欣然而上壽兮……」といつてあつて、これも茫漠としてゐる。焦氏易林にも「弱水之西、有西王母、」と見えるのみである。ところが前にも引いた漢書地理志の金城郡臨羌縣の原注には「西北至塞外、有西王母石室、……西……有弱水崑崙山祠、」とあるから、こゝでは西王母の石室と崑崙とは明かに別のところと思はれてゐたやうである。論衡の恢國篇にも前漢の平帝の時の話として金城塞外の羌が歸服したために西王母の石室を得たとある。なほ時代を溯つて考へると、淮南子の上に引いた「西王母在流沙之瀕」の西王母を假に人と(232)して見れば、その次に「樂民拏閭在崑崙弱水之洲」とあつて、崑崙とは離して説いてあるし、「莊子」でもまた淮南子(齊俗訓)でも、崑崙に結合せられたものは堪杯または鉗且であつて西王母ではない。かう見て來ると、現存する前漢時代の文獻には、西王母が崑崙山にゐるやうに説いてあるものが一つも無いことに氣がつかう。それから述作の時代は不明ながら山海經には、西山經に「玉山、是西王母所居也、」といひ、海内北經に「西王母……其南有三青鳥、爲西王母取食、在崑崙墟北、」といひ、大荒西經に「有大山、名曰崑崙之丘、……其外有炎山之山、……有人……名曰西王母、」また別に「有王母之山」といつてあるから、これで見ても、崑崙の外に別に西王母のゐる山があるやうに考へられてゐたらしい。穆天子傳に、穆王が崑崙之丘に升つて黄帝の宮を觀た後、別に西王母を訪ねたことを記し、さて「乃紀兀跡于?山之石而樹之槐、眉曰西王母之山、」といつてあるのが、もしこの事の世に現はれたよりも前からの思想を傳へてゐるものだとすれば、これもまた同樣に解せられる。(山海經の大荒西經のは最も崑崙に近いが、それでも崑崙そのものとはしてなく、その上、山海經の卷々のうちでも、これらの部分は後世に添加せられたものらしいから、かういふ考すらも前漢のころにあつたとは勿論見なし難い。)要するに西王母が西方にゐるとせられたため、漠然、崑崙や弱水や流沙や不周などのある方面にそれを置いたので、その居所をはつきり定めるまでにならなかつたのが最初の状態であつて、大人賦や甘泉賦の如きはその思想を適切に現はしてゐるのであらう。地理志によつて知られる當時の考も、これと遠からぬものである。しかし後にはそれをどこかに定めようとする考が生じ、崑崙の西にあるといふ玉山や?山にそれを擬する説も出たのであるが、それは恐らくは後漢時代以後のことであらう。大人賦にも甘泉賦にも西王母に關してかういふ山の名が記されてゐないからである。(魏略の西戎傳に「大秦西……有白玉山、白(233)玉山有西王母、西王母西有脩流沙、……」とあるのは、西王母が人のやうにも土地のやうにも見えるが、それはこの二つの思想の曖昧なる混淆であつて、人としては白玉山にゐるといふ説によつたものであらう。西山經の記事と參照すべきである。大秦よりも遙かに西方にあるやうにしたのは、史記の大宛傳やそれから出た漢書の西域傳の思想を更に遠くおし進めたのであるが、一方でその西に更に流沙があるやうになつてゐるのは、西王母が流沙の瀕にあるといふ古い思想をそれにつきまぜたからである。この記載は一體に考が混雜してゐて要領を得がたい。)西方に於いては、崑崙山が第一の目標であるのに西王母をそこに置かなかつたのは、上に述べた如くこの山が天帝の居とせられてゐたからであらう。大人賦にも甘泉賦にも山海經にもさうなつてゐるのを見るがよい。しかし西王母が重要視せられて來ると、それはおのづから崑崙に結合せられるやうになるので、一方では後漢時代に於いて既にこの説が形成せられてゐる。尚書緯の帝命驗に「王母之國在西荒、凡得道受書者、皆朝王母於崑崙之闕、」と見えるのがそれであつて、この書は後漢時代の初めには存在してゐたものである。河圖玉版(山海經大荒西經注所引)にも「西王母居崑崙之山」とある。この考は後になつてずつと發展してゆくが、西方第一の神人である西王母と西方の第一山である崑崙とは、かうして結合せらるべき運命を有つてゐたのである。列仙傳の「赤松子……往々至崑崙山上、常止西王母石室中、」に至つては、いふまでもない。
 列仙傳の西王母は神僊としてのであるが、溯つて考へると、上に引いた如く淮南子に不死の藥を西王母に得たといふ話があつて、この事が僊道の流行してゐる時代の編述であることから考へると、この時すでにそれを僊人と見てゐたらしく思はれる。(穆天子傳でも不死の觀念が附隨してゐるが、これは且らく問題外に置く。)司馬相如が大人賦(234)にこの名を擧げ「吾乃今目睹西王母、※[白+霍]白首、戴勝而穴處兮亦幸有三足烏爲之使、必長生若此而不死兮雖濟萬世不足以喜、」といつてゐるのは、明かに神僊思想を以てそれを取扱つてゐるのであり、少し下ると甘泉賦にも「上壽」の語がある。後漢時代では、論衡(無形篇)に「禹益見西王母、不言有毛羽、」とあるのも僊人と考へたからのことであり、思玄賦の「聘王母於銀臺兮羞玉芝以療飢」もやはり同じところから來てゐよう。また後にいふやうに後漢時代の作であることの明證のある鏡の銘文にも西王母を神僊として見てゐるものがある。それから焦氏易林にも「弱水之西、有西王母、生不知老、與天相保、」また「從喬彭祖、西遇王母、」などとある。かう見て來ると、西王母の神僊であることには何の疑も無いやうであるが、しかし「莊子」に見える西王母は、道を得たものではあるが僊人ではないに違ひない。(「莊子」が何故に西王母を道を得たものとしたかは、わかりかねる。)また大戴禮(少間)に舜の時のこととして「西王母來獻其白?、粒食之民、昭然明視、」とあり、尚書大傳にも同じことが見えるが、緯書にはこの思想があちこちに現はれ、禮緯の斗威儀、尚書緯の帝命驗、などにも舜に地圖や玉?もしくは宝?などを献じたとある。魏志の文帝本紀の裴松之の注に引いてある獻帝傳といふものにもこのことが見えるから、緯書の流行と共に後漢時代にはかういふ話が弘まつてゐたのであらう。また説郛に春秋緯の逸文として出てゐるものにも「帝伐蚩尤、乃睡夢西王母遣道人披玄狐之裘以符授之、」とあるが、これは黄帝の時のこととしてあるのであらう。これらは聖王が上にあつて天下の治まつた時の休祥として、また天子の擁護者として、西王母を見たものであり、從つて神僊思想とは何の關係も無いらしい。後に作られた瑞應圖にも黄帝及び舜の時のこととして同じ話のあるのを參考するがよい。漢書の?方進の傳に「太皇太后、肇有元城沙鹿之右、陰精女主聖明之祥、配元生成以興我天下之符、遂獲西王母(235)之應、神靈之徴、以祐我帝室、」とあり、元后傳に見える符命のことについての王莽の詔に「爲西王母共具之祥」とあるのも、やはりこの緯書のと同じ思想から出てゐるやうである。更に山海經を見ると、西山經には「西王母、其状如人、豹尾虎齒而善嘯、蓬髪戴勝、是司天之視y五殘、」とあり、海内北經には「西王母、梯几而戴勝杖、其南有三青鳥、爲西王母取食、」とあり、また大荒西輕には穴處するとあつて、これらによると therio-anthropomorphism ともいふべき思想の現はれとして解釋すべき神であるらしい。列仙傳には石室にゐるやうになつてゐるが、これも神としての西王母から轉じて來たのではあるまいか。石室に神がゐるとすることは、多くの民族に通有の思想である。また鏡の銘にも神僊との聯想を認め難いものが見える。
 さてこれらの種々の文獻や遺物に見えるところを綜合して考へると、人としての西王母はいろ/\の思想に結合せられ利用せられたので、道家はそれを道を得た眞人とし、儒家はそれを個人とし、圖讖符瑞をいふものもまたそれを自家の所説に附會し、民間信仰に入つては神ともせられたのである。史記索隱の趙世家の條に引いてある?周(三國時代の人)の言に「余嘗聞之、代俗以東西陰陽所出入、宗其神、謂之王父母、」とあつて、これによると、西王母を西方の神としてゐる土地もあるやうであるが、これもまた西王母が本來さういふ神として生まれたことを示すものではなくして、西王母といふものが現はれてからそれを神とするやうにもなつた一例證として見るべきものであらう。呉越春秋(卷五)に「立東郊以祭陽、名曰東皇公、立西郊以祭陰、名曰西王母、」とあるのもまた同じやうな考であるが、たゞこれは民間信仰といふよりも知識社會の思想である點が違ふ(東王父または東皇公のことは次にいはう)。このうちで僊人とせられたのは、淮南子の編纂せられ大人賦の書かれたころよりも前からのことではあらうが、しか(236)し封禅書にその名が一度も見えないことを思ふと、武帝の時代には、僊郷としての崑崙の觀念がまだ十分に發達してゐなかつたと同樣、西王母も僊人としてそれほど有力のものではなかつたであらう。が、その後、一方では崑崙の僊郷たることが次第に世に知られ、それと共に僊人としての西王母もまた世に勢力を得るやうになり、從つて西王母の居所が崑崙に擬せられるやうになつたので、神僊を説くものの間に於いては後漢時代から漸次さう考へられるやうになつたらしい。西王母はかういろ/\の姿を現じて來たのであるが、しかしまた場合によつてはそれが相互に結合せられもしたので、大人賦の所説の如きは僊人でありながら神としての性質をも保有してゐるやうである。漢書の哀帝本紀及び五行志(下之上)に哀帝の建平四年に京師郡國の民が歌舞して西王母を祠つた事を記し、またその時「母告百姓、佩此書者不死、不信我言、視門樞下、當有白髪、」と書いたものが傳播せられたとあるのも、やはり同じ思想の現はれである。さうしてこれは蓬莱について述べた如く僊家の思想と宗教的觀念とが混和せられるやうになつたことの一現象であり、崑崙と結合せられた後にはこの山そのものが既に宗教的色彩を帶びてゐることも、またそれを助けてゐよう。
 西王母に對する東王父についてもこゝに一言を附記しておく必要があらう。上に引いた  語周の言や呉越春秋によると、後漢時代には既に東王父(東皇公)が現はれてゐるのであるが、漢鏡にも東王父西王母と竝記してあるものが少なくなく、中には後漢時代の年號のあるものにもそれが見える(富岡謙藏氏「古鏡の研究」)。この中で  謙周の説や呉越春秋の記載では、東王父は、西王母と同樣、僊人ではないことになつてゐる。鏡の銘では「壽如東王父西王母、仙人。」または「延壽命長、上如東王父西王母、」の如く僊人と結合せられ、もしくは長壽の希求を寄託せられてゐるも(237)のがあり、特に「服之竟者不知老、壽而東王公西王母、山人子高赤松、」に至つては子高赤松とさへ列記せられてゐるが、また一方では「長保二親宜孫子、東王公西王母、大吉羊矣、」「東王公西王母、青龍在左、白虎在右、刻治分守、悉皆左、大吉、」などとあつて、僊人と聯想せられてゐないのもある。(上記の銘は「古鏡の研究」に見えるものであるが、金索などに載せてあるものに於いてもやはりこの二種類がある。)さて西王母は戰國時代から世に知られ、前漢時代の文獻にも多く現はれてゐるのに、東王父の名がそのころの著作として傳はつてゐるものに一度も出てゐないこと、特に西王母と東王父とは對稱的のものであるのに、一方のみが人の筆に上つて他方が全く顧られなかつたとは、さういふ對稱を好んで用ゐるシナ人のしわざとして、信じ難く思はれること、から推測すると、東王父は西王母よりも晩出であり、西王母に對する人物として後漢のころの人の思想に現はれたものらしく考へられるが、しかしそれはなほ研究の餘地があるとしても、この二つが相對的のものである以上、東王父の性質もほゞ西王母と同樣であるとしなければならぬ。さすればそれが僊人ともせられながらまたそれと關係なく取扱はれたのも、怪しむに足らぬ。さて僊人としての東王父は、西王母の崑崙に對して、扶桑にゐるやうになつてゆくが、それについては後に述べることにしよう。
 以上の考説にはやゝわき途に入つたところもあるやうであるが、僊人の思想に宗教的呪術的の分子が加味せられてゐるといふことは、蓬莱や崑崙の話に於いて明かに知られよう。しかし加味せられたのは單に宗教や呪術の要素ばかりではない。次には別の方面に目を轉じてそれを觀察しよう。
 
       八 神僊と方術
 
(238) 漢の武帝の時にいはゆる方士が神僊の話に絡んで盛に怪迂の言を弄したことは、封禅書などによつても知られるが、そのうちには一種の幻術を行ふと稱するものがあつた。帝のために王夫人及び竈鬼の貌を致したといふ齊人少翁(文成將軍)は僊を説いたとは書いてないが、その同門であるといふ欒大(五利將軍)は僊人の致すべきことを述べてゐる。祠竈を帝にすゝめた李少君が蓬莱を説いてゐるのを見ると、やはりその徒であつたらう。前漢の文獻にはさういふ例がさまで多くは見あたらぬが、後漢書の方術傳の費長房に壺中の天地を見せ、竹杖を與へて人の形を現ぜしめ、また道を傳へんとしてその成らざるを惜み、鬼神を驅使することを教へたといふ「神仙之人」の話は、この時代の僊術がかういふ意義での方術と結合してゐたことを最もよく語るものである。同じところに出てゐる王喬は實在の人とせられながら「或云此即古仙人王子喬也」といはれてゐるが、それが人知れず空を飛んで任地から入朝したといふのは、やはり一種の變身隱形の術を行つたものとして考へられ、さうしてそれを「古仙人」としてゐるところに、神僊思想と幻術との結合が見られる。また曹植の辯道論に、甘始といふ方士の言として、鯉魚を生きてゐるまゝ沸膏中に投じて置くといふやうな奇術の話を載せてあるが、この甘始もやはり神僊を説くものであつたらしい。後の神仙傳になると、かういふやうな話が甚だ多く、抱朴子などにもそれを説いてあるが、それより前の列仙傳に赤松子を「能入火自燒」とし、?子を「能致風雨」とした類も、一面の意味に於いては、やはりこの思想によつて解釋すべきものであらう。
 さて幻術ともいふべきものは漢代に於いてかなりに流行したらしく、それには史記の大宛傳に、武帝の時に黎軒善眩人が漢に來たことを記してある如く、西域との交通によつて極々の技藝が入つて來たことも、助けになつてゐるで(239)あらう。張衡の西京賦に「蟾蜍與龜、水人弄蛇、奇幻?忽、易貌形、呑刀吐火、雲霧杳冥、畫地成川、流渭通」と見えるのも前漢時代からあつた話らしいが、魏志に注記してある魏略の西戎傳が犂軒の風俗を記して「俗多奇幻、口中出火、自縛自解、」といつてゐるのに參照すると、この間の消息が知られるやうである。史記の索隱にもこの西戎傳の記事を引いて善眩人の意義を解釋してゐる。いはゆる犂軒もしくはその他の西域に果してかういふ奇幻の術が行はれてゐたか、余はそれを詳かにしないから、これらの記事に果してどれだけの事實的基礎があるかは別問題として、犂軒人が幻術を行ふやうにシナ人が思つてゐたのは漢代からのことであらう。幻術といふやうな考は古くからシナにもあつたであらうし、また西域人が何かの奇術を傳へたかも知れないが、しかし一つは、わが國でキリシタンが魔法つかひと思はれてもゐたやうに、未知の風俗や見なれない技藝に接して、そこに幻術があると考へた、といふやうな事情もあるのではなからうか。前に引いた辯道論に甘始が西域の胡人のことをいつてゐたとあるのも注意すべきである。後の晉書が佛圖澄を方伎傳の中に載せたのも、一つはこの胡僧がかういふ意義での方術を知つてゐるものとしてのことであらう。かう考へると「列子」の周穆王篇に「西極之國、有化人來、入水火、貫金石、反山川、移城邑、乘虚不墜、觸實不?、千變萬化、不可窮極、既已變物之形、又且易人之慮、」といひ、穆王がその幻術によつて天に上つたことを説いてゐるのは、特殊の思想を託するための寓言ではあるが、それを西極の國から來た化人の術に歸したところに、かういふ俗説の影響があらう。同じ篇に老成子といふものが幻を尹文先生に學び「存亡自在、?校四時、冬起雷、夏造氷、飛者走、走者飛、」を能くしたといふ話もある。さうしてそれが西王母を訪うたといふ穆王のこととしてある點に、この幻術が神僊思想と結合せられてゐたらしい形迹が見える(18)。一般人に神怪の感を抱かせる幻術は(240)方士の掌中に弄せられた神僊の説と接觸する點があるからである。(西域から、事實、何かの幻術が傳へられたならば、それは單なる奇術ではなく、呪術の分子が伴つてゐたのではないかとも思はれ、史記の大宛傳に「上方數巡狩海上、乃悉從外國客、」とあるのも、これに關聯して考へられるが、もしさうとすれば、神僊説との結合は一層可能になるのである。しかしこれは一つの臆測に過ぎない。)それから赤松子の「能入火自燒」などは、思想として見れば「莊子」の齊物論篇に「至人神矣、大澤焚而不能熱、河漢沍而不能寒、」とあり、大宗師篇に眞人を稱して「登高不慄、入水不濡、入火不熱、」といつてある如く、寓言として説かれたことが文字のまゝの意義に解せられた點もあらう。始皇本紀三十五年の條に見える盧生の言に「眞人者、入水不濡、入火不熱、凌雲氣、與天地久長、」とあるのはこの「莊子」の思想から來てゐるらしく見えるが、不死の藥を求めることに關聯して説いてあることを思ふと、それが文字のまゝの意義に用ゐられたのであつて、眞人は即ち僊人として見られたのであらう。また「能致風雨」などは遠く原始時代の呪術から系統を引いてゐるものと解せられる。神僊思想に結合せられた幻術には、これらのいろ/\の由來があるらしいが、本來、僊人の天に登るといふことが人のなす能はざる幻怪の話であるから、かういふものがそれに附會せられるのも當然である。さうしてそれは、神僊思想を世俗化しまたそれを普及させる助けとなつたのであらう。
 前に述べた費長房の傳に見える「神仙之人」は地上の鬼神を主る符を長房に授けたといふが、同じ方術傳の中には神僊思想とは關係なく鬼神を驅使するものの話が幾つもあり、符を用ゐることも見えてゐる。この思想もまた原始時代の呪術に遠い淵源を有するものらしく、それがシナに於いては特殊の發達をしたのであらう。未開人の間に存在する呪術師はそのいろ/\の呪術を以てさま/”\の demon を左右する。シナ人のいはゆる鬼神はこの demon である(241)が、後にはそれが何物かの形を現ずるやうにも考へられたらしいので、長房傳に「鞭笞百鬼」とあり、解奴辜傳に「能劾百鬼衆魅、令自縛見形、」とあるのも、この故である。符もまた言語や特殊の物品に呪力があるやうに考へる未開人の思想と同じことであるが、言靈に重きを置くインド人の間に於いて音もしくは言語にその力が認められたとは違ひ、文字の國のシナに於いては文字に書かれた符が用ゐられるやうになつたのであらう。これらは本來神僊思想とは縁の無いものであるが、上に述べた幻術と同樣、神怪の性質を有する點に於いて互に接觸し得るのであるから、世間にそれが流行してゐたため神僊を説くものが魔術に附會したのである(19)。桓譚の新論(文選にある郭璞の江賦の李善の注所引)に「天下神人五、一曰神仙、二日隱淪、三曰使鬼物、四曰先知、五曰鑄凝、」とあるのを見ると、「使鬼物」は神僊とは別のことともせられてゐたらしく、純粹の神僊説からいへば、それが當然であるが、なほそれを神僊と同じく五神人の一つとしてあるところに、この説が純粹の神僊説から鬼神の驅使を神僊のこととする上記の思想に達する中間の段階をなすものであることが示されてゐる。(隱淪は抱朴子の雜應篇の説明によれば、上に述べたやうな隱形變身のことらしいが、それと神僊との關係は、恰も「使鬼物」についてこゝにいつたのと同じことである。鑄凝のことは後にいはう。)
 神僊思想はまた漢代に流行した瑞徴説とも結合せられたことがある。漢書の王莽傳に見える莽の書に紫閣圖といふものを引いて「太一黄帝皆得瑞以僊」といふことが述べてあるが、瑞を得て僊となるといふのは符瑞を王者受命の徴とするのと同じ思想であつて、王莽自身が帝を稱したことを僊人に適用したのであらう。だからこれは帝王の地位に居るものに限つた話であつて、封禅によつて上僊するといふことが武帝の時に唱へられたと同じ動機から出てをり、(242)兩方ながら黄帝を先例としたのもそれがためである。王莽の場合に太一を擧げたのは、當時天帝がこの名によつて最も崇敬せられてゐたからであらうが、なほ春秋緯の合誠圖に「黄帝請問太一長生之道、太一曰齋戒六丁、道乃可成、」とある如く、長生の觀念について黄帝と太一とが結合せられてゐたことをも、參考するがよい。もつとも合誠圖の作られたのは後漢時代であらうから、かういふ考の生じたのは或は王莽の後かも知れぬが、瑞徴を説くことの多い緯書にも神僊思想は結合せられてゐるので、例へば春秋緯の元命包にも「聖人一其徳、智者循其轍、長生久視、」とあり、また論語讖にも「帝?師赤松子」と見えてゐる。讖緯を説くものも世に行はれてゐる神僊思想を取入れたのであらうが、神僊家の方でもまた瑞徴説を附會したのである。この帝王の上僊に關する話は多分一時的のものであつたらうが、魏志の青龍元年の條の裴注に引いてある魏氏春秋及び捜神記に、帝王受命の符として僊人の像の現はれたといふ話が見えることを思ふと、神僊思想がさういふ方面に利用せられたことは、魏晉のころにもあつたのである(この話は宋書符瑞志にも取つてある)。
 次に一言すべきは神僊思想に存在する exoticism の一面である。かの劉晨阮肇が天台の僊郷に入つたといふ話は晉代にできたものらしく、わが國の浦島物語も六朝時代のシナの説話にその一つの淵源があらうと思はれるが、これは人の世を離れた歡樂郷に淹留したといふのと、異郷の短時間が人間世界の長時間に當るといふのと、由來の極めて古いこの二つの民間説話を結合して、それを神僊思想で色づけたものであり、さうしてそれは神僊思想が exoticism の一面を具へ得べきものであつたからであらうから、少くともさういふ傾向は漢代から既に存在したに違ひない。説話の上にはそれがまだ明かに現はれてゐないやうであるが、詩經の含神霧に太華之山について「上有明星玉女、持玉漿、(243)得上服之即成仙、」とあり、王延壽の魯靈光殿賦に「神仙岳々於棟間、玉女?而下視、」と見え、後漢時代の鏡の銘に東王父西王母仙人玉女と列記したものがあるなどは、少くとも僊人と玉女の名を有する女性とが連結して考へられてゐたことを示すものである。玉女は前にも引いたことのある惜誓に「飛朱鳥先驅兮駕太一之象輿、蒼龍??於左驂兮白虎騁而爲右?、建日月以爲蓋兮載玉女於後車、」とあり、大人賦に「排?闔而入帝富兮載玉女而與之歸、」とあるから、天帝に侍する女として考へられてゐたらしいが、甘泉賦に「想西王母欣然而上壽兮屏玉女而卻?妃、玉女無所眺其清廬兮?妃曾不得施其峨眉、」といつてあるのを見ると、地上に引下ろされて?妃の同輩ともせられてゐるので、前に述べた太華の玉女もそれと同樣であり、思玄賦には「戴太華之玉女兮召洛浦之?妃」とも見える。漢書の郊祀志に五牀僊人と竝んで祀られたとあるのも、また地上にゐるものとしてのことであらう。ところがその思玄賦にこの玉女と?妃とを形容して「咸?麗以蠱媚兮増?眼而娥眉、舒妙?之纖腰兮揚雜錯之袿徽、離朱脣而微笑兮顔的|以遺光、」といつてあるのによると、作者の二女を見ること頗る肉感的であることが知られ、更にその詠んだといふ「天地烟?、百卉含※[?の爲の左に口]、鳴鶴交頸、雎鳩相和、處子懷春、精魂囘移、」を讀めば、そこに exoticism の分子のあることがわかるであらう。この玉女と竝稱せられてゐる?妃は洛水の神とせられてゐるもので、早く離騷にも出てゐ、漢代の文人の常に見のがさなかつた材料であり、張衡の東都賦にも現はれてゐるが、?妃そのものを主題としたのは、曹植の洛神賦である。さうしてその容姿は、ずつと前に作られた司馬相如の上林賦に「絶殊離俗、妖冶嫻都、?粧刻飾、便※[女+環の旁]綽約、柔橈?々、?媚纖弱、」とあるので知られ、如何なる意味に於いてこの神女のもてはやされたかは、洛神賦が「感宋玉對楚王神女之事」で作られたといふのでも明かである。宋玉の高唐賦に巫山の朝雲行雨が何樣に敍せられてゐるか(244)は、いふまでもあるまい。かういふ?妃と竝稱せられてゐることを思ふと、玉女の性質はいよ/\明かであらう。その玉女が僊人と結合せられてゐるのである。さうしてそれは、一つは僊人が昇天するといふ思想からも來てゐようが、またそこに微かながらも神僊思想を彩る eroicism の要素を認めねばなるまい。天上の玉女が地上に下つて洛水の神の?妃と同輩とせられてゐるのも、實はこれがためであつて、それがまた華山などに置かれたのは山にゐるといふ僊人に隨伴させられたのではあるまいか。
 なほ天にゐる女性としては素女の名が封禅書に見え「太帝使素女鼓五十絃瑟」とあるが、王逸も九思の傷時で「登太一兮玉臺、使素女兮鼓簧、」といつてゐる。さうして王襃が九懷の昭世に「開素女兮微歌」といつたのを王逸が「神仙謳吟、聲依違也、」と注してゐるのを思ふと、後漢時代には素女もまた神僊とせられてゐたやうである。この素女もまた或る場合には天から下つて來るので、晉初の作ではあるが左思の呉都賦に「増岡重阻、列眞之宇、玉堂對霤、石室相距、藹々翠幄、嫋々素女、江?於是往來、海童於是宴語、」と見え、これもやはり神僊に結合せられてゐる。この素女が肉感的に取扱はれたり eroicism の色彩の濃厚に現はれたりしてゐる記載は見當らないやうであるが、玉女から類推してそれと同じやうに考へても大過はあるまい。玉女は本來天上の女性を讃美した名であらうが、素女もまたもとはそれを純白なものとして呼んだのであり、畢竟同じく天女をさしてゐるらしいからである(20)。
 さて神僊にかういふ分子の結合せられたのは何故であらうか。本來肉體の永存を欲するものが、性的欲求を棄てないのは當然であつて、それがかういふ形に於いて現はれたのだと見ることもできよう。このことは後にいふ如く神仙傳に於いて明白に説かれてゐる(後文參照)。さうして時代を溯つていへば、かの高唐賦の結末に突如として「延年(245)益壽千萬歳」の語を著けてゐるのも、或はかういふところに理由があるかも知れぬ。しかしもつと手ぢかな觀察をすれば、神僊説の流布に於いて恰も上に述べたやうな種々の方術が附會せられたと同じ意味で、かういふ色彩がつけられたのだといふこともできよう。高唐賦や好色賦やまたは神女賦の作られ、さうしてそれのもてはやされたのが、人間生活の根本的なる一欲求に由來するものであるとすれば、神僊思想の流行につれてそれとこれとが結合せられるのは、自然の勢であらう。西王母が一般にもてはやされたのも、またそれが僊人とせられたのも、もとをいへばやはり同じところに一原因があるのでもあらう。
 かう考へると、漢書の王莽傳に符命の文として「黄帝以百二十女致神僊」とあるのがおのづから思ひ出されるが、これはいはゆる房中之術を僊道の一つと見たものであらうか。邊讓の章華賦(後漢書文苑傳邊讓傳所載)に「黄軒之要道」とあるのを章懷太子はこの術と解してゐるが、辯道論によると左慈はそれに通曉してゐたといはれ、後漢書の方術傳にも冷壽光や甘始が容成公御婦人術を行つたとある。房中は漢書藝文志にも方伎の一として記載せられ、黄帝三王養陽方、天老雜子陰道、容成陰道、などの書名が出てゐるし、容成子のことは列仙傳にも見えてゐる(天老は黄帝の師として韓詩外傳などに出てゐる)。なほ列仙傳の毛女の條に見えることも、やはりこれを指すのであらう。これもまた本來神僊とは無關係のものであつたので、藝文志が神僊の外に別に房中の一項を立ててゐるのもこの故であるが、それが何時しか神僊に結合せられるやうになつたらしい。これは房中術が一面の意味に於いては養生の法として説かれたので、そこに長生の道となるべき理由があり、また性慾の衰へざることを不老の徴として見る考もあつたからであらうが、他面に於いてはやはり、前項に述べたと同じ理由から、僊術として取扱はれるやうになつたのでも(246)あらう。神僊説の通俗化にはそれが甚だ適切であつたのである。
 かう説いて來ると、醫術の神僊に附會せられたことも怪しむには足らぬ。醫は養生の一方法であるのみならず、上にも一言した如く、それには一般人から見て神怪視せらるべき分子を含んでゐるからである。魏志の華佗傳の裴注に、佗が僊人の青黏を服することを知つてゐたといふ話が載せてあり、後漢書の同じ人の傳に「年且百歳、而貌有壯容、」といふ魏志の文を殆どそのまゝ取つてそれに「時人以爲仙」の一句が加へてあるのを見ても、僊術と醫術とが漠然聯想せられてゐたことが知られる。後にいふやうに、僊術の重要なものとなつた導引の法も、また華佗が特に重んじたものらしい。
 要するに、僊道がはじめて形をなした時とも稱すべき漢代に於いて、早く既にそれは種々の異分子を伴つてゐたのであるが、これは僊人の思想の普及する上に重要な意味があつたのである。しかしまたそれと共に、僊道は僊道として獨立の領分をも有つてゐた。次にそれを考へよう。
 
       九 僊術
 
 漢書の藝文志を見ると神僊家に屬する書名が十種擧げてあるので、それは、?戯雜子道、上聖雜子道、道要雜子、黄帝雜子歩引、黄帝岐伯按摩、黄帝雜子芝菌、黄帝雜子十九家方、泰壹雜子十五家方、神農雜子技道、泰壹雜子黄冶、である。これらのうちで、芝菌については顔師古が「服餌芝菌之法也」と注してゐるのが正しからうし、黄冶については郊祀志に見える谷永の上言の僊人のしごとを列記してゐる中に「黄冶變化」とあり、また「齊人少翁、公孫卿、(247)欒大等、皆以僊人黄冶祭祠事鬼使物入海求僊采藥、貴幸、」ともいつてあるので、晉灼がそれを「冶丹砂、令變化可鑄、作黄金也、」と釋し、いはゆる錬金術のこととしてゐるのに從ふべきであらう。また歩引と按摩とはその字義から考へるに、筋肉の連動による攝生法で、一般に導引と呼ばれるものの中に含まれてゐるのではなからうか。しかし單に雜子としてあるものはその内容が全くわからぬ。(雜子といふのは芝菌とか黄冶とかにもその名がついてゐ、また天文家のうちに泰壹雜子星、黄帝雜子氣、皇公雜子星、泰壹雜子雲雨、があり、雜占のうちに泰一雜子候歳、子?雜子候歳、などの名を擧げてあるのを見ると、僊道そのものの名でないことだけは明かである。)そこで知られただけのものからいふと、こゝに擧げてあるのは、僊人になる修業としての導引もしくはそれに類似のこと、僊人になるための服餌のこと、及び錬金のことであつて、それが、僊道の本質として考へられてゐたのであらう。呼吸のことはこゝに明記してないが、導引がある以上、これもまたそれと同樣に考へてよからう。内容の不明なものも、十九家方、十五家方、もしくは技道、の名から推測すると、やはり僊人となる方法を説いたものらしい。
 なほ上にも引いた谷永の上言には「世有僊人、服食不終之藥、※[しんにょう+(炙の火が言)]興輕拳、登遐倒景、覽觀縣圃、浮遊蓬莱、耕耘五徳、朝種暮穫、與山石無極、黄冶變化、堅氷?溺、五色五倉之衛、」とあるが、この文の「※[しんにょう+(炙の火が言)]興輕擧」から「與山石無極」までは僊人の性質を述べたに過ぎないのであり、「五色五倉之術」は「思身中有五色、腹中有五倉神、五色存則不死、五倉存則不饑、」といふ解釋を下してゐる李奇の言によれば、この五色五倉を存するための道として説かれてゐた何等かの方術をさすものらしく(21)、畢竟長生の術としての導引や服食と同じ部類に屬すべきものであらうから、この上言に於いても僊術としては藝文志によつて推測せられるものと大差が無い。(堅氷?溺は藥石を以て冰を融かす(248)ことであるといふ晉灼の注解によれば僊術とすべきほどのことではないらしい。)また郊祀志の王莽のことを述べてゐるところに「種五梁禾於殿中、各順色置其方面、先煮鶴髓毒冒犀玉二十餘物、漬種、計粟斛成一金、言此黄帝穀僊之術也、」とあるが、意義の不明な點があり、それが神僊と如何なる關係があるかもわからぬから、これは且らく他日の考察に讓ることとする。少し後の王充が神僊の説を難じて、その虚なることを説いてゐる論衡の道虚篇を見ても、僊道として考ふべきものは上記の外に出でないやうである(論衡のこの篇には黄冶のことは見えてゐない)。
 導引及び呼吸の術が戰國時代に於いて養生の法、天壽を全うする術、として唱へられたことは前に述べておいたが、それが僊術として考へられるやうになつたのは漢代からのことらしい。史記の留侯世家に張良のことを記して「留侯性多病、道引不食穀、杜門不出、歳餘、」といつてあるのは、必しも僊を學ぶものとして見るを要しないが、「願棄人間事、欲從赤松子游耳、乃學辟穀道引輕身、」といふのは、「輕身」の二字が「輕擧」と同義に解せられ、赤松子もまた僊人としてのであらうと思はれる(漢書の張良傳には明かに「學道欲輕擧」としてある)から、漢初に於いて既に導引は僊術とせられてゐたらしい。それから淮南子の齊俗訓に「王喬赤松子、吹嘔呼吸、吐故納新、遺形去智、抱素反眞、以遊玄眇、上通雲天、」とあるのは、呼吸法がこのころ既に僊術と見なされてゐたことを語るものである。同じ書の泰族訓にもまた「王喬赤松、去塵埃之間、離群慝之紛、吸陰陽之和、食天地之精、呼而出故、吸而入新、※[足+棄の下半が木]虚輕擧、乘雲遊霧、可謂養性矣、」とあるのを參考するがよい。漢書の王吉傳に「休則俛仰?信以利形、進退歩趨以實下、吸新吐故、以練藏、專意積精、以適神、於以養生豈不長哉、……則心有堯舜之志、體有喬松之壽、」とあるのは、導引と呼吸とをやゝ細敍してゐるものであるが、導引については、魏志の華佗傳に佗の言として「古之仙者、爲導引(249)之事、熊頸鴟顧、引輓體、動諸關節、以求難老、吾有一術、名五禽之戯、一曰虎、二曰鹿、三曰熊、四曰?、五曰鳥、亦以除疾、竝利蹄足、以當導引、」とあり、それによつて導引の方法とそれが專術とせられたこととが一層明かに知られる(22)。また呼吸法は行氣とも稱せられ、後漢末の郤儉や甘始がそれを善くしたといふことが典論や辯道論に見えてゐる。後漢書の方術傳の王眞の條に「行胎息胎食之方」とある胎息の方もやはり呼吸法の一種であらう(後章參照)。章懷太子の注に引いてある漢武帝内傳に「習閉氣而呑之、名曰胎息、」といふとある(23)。眞と竝んで記されてゐる?邦孟節について「能結氣不息、身不動搖、状若死人、可至百日半年、」とあるのはむしろインド人の禅定の法に類するものがあるやうに見える。(?孟節のことは佛教渡來以後の話であることを思ふと、その間に何か關係があるのではなからうか。後の話ではあるが晉書の佛圖澄の傳に「常服氣自養、能積日不食、」とあるのも參考せられる。これはシナ人の慣用文字を以て禅定の状態を記したものらしく推測せられる。)
 さて天年を全うする意味に於いての養生の法が、長壽の欲求から不死の希望に進むにつれて僊術として考へられるやうになるのは、自然の徑路であらうが、呼吸術についてはそれに特殊の意義も附加せられてゐる。論衡の道虚篇に「聞食氣者不食物、食物者不食氣、……如不食氣、則不能輕擧夫、」とあるのは、當時の神僊家の説によつて述べたものらしく、「道家相誇曰、眞人食氣、以氣爲食、故傳曰、食氣者壽而不死、雖不穀飽、亦以氣盈、」ともいひ、さうして「食氣者必謂吹?呼吸、吐故納新也、」と書いてある。特殊の呼吸法を氣を食ふと考へたのであるが、氣を食ふものは身が輕いので昇天し得られるとし、また形ある物體の腐朽するに對して形なき氣に永久性を與へ、それを食ふものが不死であるとしたのであらう。食氣の語は既に淮南子にも見えてゐるので、墜形訓に「食氣者神明而壽」とある。(250)それが吐故納新の呼吸法をさしてゐるかどうかは明かでないが、論衡にいつてあることは前漢時代から行はれてゐた説であらう。のみならず淮南子は更に一歩を進めて、この呼吸法に對しシナ思想に特有な一種の形而上學的解釋を下してゐるので、前に引いた加く泰族訓に「吸陰陽之和、食天地之精、」とある。宇宙、從つてまた人、が形と氣とで成り立つてゐるといふのは古くからの考であつて(「莊子」の至樂篇達生篇など參照)、その氣が即ち宇宙の精であらう。これは氣息が生命であるといふ原始時代の考に遠い淵源があるので、これを宇宙におし擴めたものかも知れぬ。
 僊術として次に考へられてゐたのは、いはゆる服餌の法である。それは特殊の食物を取ることであつて、五穀を食はないといふ辟穀の術に伴つてゐるらしい。辟穀は上に述べた如く既に張良についていはれてゐるので、そのころにこれが一つの術として知られてゐたとすれば、それはやはり戰國末からのことであらうが、その由來については余に明かな見解が無い。またそれを行ふものが何によつて生を維いでゐたかも、よくわからぬ。けれども後世に「辟穀餌伏苓」と記された郤儉、棗核を含んで食はざること五年十年といふ?孟節、などの例があること、また列仙傳などに見える服餌の記事によつて推測すると、それは種々の野生の草木や菌類や果實を食つたのであらう。史記の封禅書に「安期生、食巨棗、大如瓜、」とあるのも參考せられる。鏡の銘にも僊人について「渇飲玉泉、飢食棗、」と書いたものがある。もしさうとすれば、その起源もまたかういふ野生の植物を食料とする原始的生活をするものでもあつて、それが何等かの事情から人の注意をひいた、といふやうなところにあるのではなからうか。さうしてそれは本來、僊術として考へられたものではなかつたらう。しかしかういふ野生の植物の多くは山に於いて採集せられるものであり、またさういふ生活は山居のものにふさはしい。そこでこの食餌は、同じく山に入つて求むるを要する藥物と混同せら(251)れ、そこからまた不死の藥の觀念と連結せられるやうにもなると共に、他方では常人と異なつた食物を取ることが常人とは異なつた生活をするものの必要條件とも考へられて僊人に附會せられ、さうしてまたそれが、上に述べた如き、不死の國とか僊郷とかいふ特殊の社會には特殊の食物があるといふ思想、或は何かの果物が人を不死ならしめる力を有つてゐるといふやうな傳説、とも結合するに至つたのではあるまいか。本來は僊術と關係なく起つたらしい辟穀の法が僊術として見られるやうになつたことには、かういふ徑路があらうと思はれる。
 ところがこゝに起る問題は、その服餌の一つとして最も重要視せられてゐる芝草のことである。かの三神山には芝草があるといふので、それは始皇本紀三十五年の條に「芝奇藥」と見え、封禅書にも「芝藥」とあつて、いはゆる「不死之藥」がそれであるらしいが、何故に芝草がそれほどに重んぜられたかは余にはわからぬ。芝草は祥瑞とせられてゐ、元封二年に甘泉宮にそれが生じたといふので芝房之歌(齊房)が作られたほどであり、また孝經緯の援神契に「徳至於草木、則芝草生、」とあり、漢書の王莽傳に見える莽の上奏に「今幸頼陛下徳澤、間者風雨時、甘露降、神芝生、……」とあるのを見ると、(それが祥瑞とせられた理由が何であるにせよ、)世に稀なるものと思はれてゐたやうであるが、もしさうとすれば、それは辟穀の場合の食餌として普通に取り得べきものではなく、從つてそれが僊人の食物とせられ不死の藥とせられたのは、別に由來が無くてはならぬ。或は初めは何かのための藥物とせられてゐたのが一轉して不死の藥となつたのではなからうか。詩緯の含神霧に「少室山、其上有白玉膏、一服即仙、」とあるやうなのも、また藥物から不死の藥に轉化した一例であつて、不死の藥とせられた鑛物は概ねこの部類に屬すべきものであらう。それはもと/\食用とせらるべきものではないからである。今一つの例を擧げるならば、列仙傳の任光、(252)主柱、などの條に丹砂を餌ふことが見えてゐるし、赤斧の條には、錬丹を服することがあるが、この話が事實の、もしくは世間に行はれてゐた思想の、反映であるならば、丹砂をそのまゝに、或は水銀の形で、或はまた何等かの方法でいはゆる錬丹として、それを醫藥に用ゐたこと、もしくはそれが醫藥であると考へられたことがあるらしく、神僊を説くものがそれに本づいて丹砂を不死の藥としたのではあるまいか。後のものではあるが捜神記に、丹砂の汁の滲入した井水を飲んで長壽を得たといふ話がある。また抱朴子の僊藥の條に丹砂を第一に擧げてあるのも、前々からの言ひ傳へに從つたものであらう。抱朴子のは、或は丹砂が鋳金の主なる材料であるためかも知れぬが、それにしても、藥として一般に考へられてゐたからだと見るのが妥當であらう。丹砂が藥であるといふ考の如何にして起つたかは、解釋に苦しむ問題であるが、さういふ考のあつたことは事實と見なければなるまい。淮南子の墜形訓に見える如く、崑崙山中の丹水を飲めば不死を得るといふ話も、この思想と何かの關係があるのではあるまいか(24)。服藥が僊術に於いて重要視せられたのは、不死の觀念が養生の思想に一淵源を有する以上、當然のことであつて、それは醫術が僊術と結合せられたのと同じであり、列仙傳などに僊人の藥を賣ること(崔文子、任光、瑕丘仲、安期先生、など)が記されてゐるのも、この故であらう。さすれば芝草の由來を上記の如く考へるのも必しも無稽ではあるまい。たゞ不死の藥は病を癒すための藥とは違ひ、それを以て食物に代へるといふ意味が伴つてゐるらしく、僊人の與へた藥を服して饑を忘れたといふやうな話のあるのも、それがためであるから、これらは食餌から出て藥物とせられたのとはその順序が反對になつてゐるのみで、畢竟おなじところに歸著する。ついでにいふ。離騷に「朝飲木蘭之墜露兮夕餐秋菊之落英、」また「折瓊枝以爲羞兮精瓊?以爲?、」といふやうな句があるが、これはたゞ騷人の比喩であつて、菊花を食(253)ひ玉屑を服する服餌の法とは交渉が無からう。しかし大人賦に「呼吸〓兮、?朝霞兮、?咀芝英、?瓊華、」とあるのは、離騷を踏襲したに過ぎないものでありながら、僊人を賦してゐる場合だけに、讀者に於いてはおのづからいはゆる食氣と服餌とが聯想せられる。かういふ文人の詞の華が幾らかは服食の法に刺戟を與へたことも無いではなからう。辟穀の術もまた或は藐姑射の神人の「不食五穀」によつて古典的根據を得たのではあるまいか。(「莊子」のこの語は「吸風飲露」をいふのであるから、自然生の植物などを食ふのとは本來の意味は違ふけれども、人爲をすてて自然に歸る道家の思想からいふと、農耕の産物を食ふよりも野生のものを取る方が道にかなつてゐるともいひ得られよう。)淮南子の墜形訓に「食穀者知慧而夭、不食者不死而神、」とあるが如きは、その思想の由來を解しかねるが、多分、辟穀が既に僊術とせられた後になつて、それを概念的にいひあらはしたに過ぎないのであらう。
 僊術として最後に考ふべきはいはゆる黄冶の法である。錬金術は後には僊藥としての還丹または金液を作る方法と考へられたのであるが、これも初めからさうであつたかどうかは不明である。封禅書に李少君の言として「祠竈則致物、致物而丹砂可化爲黄金、黄金成以爲飲食器則益壽、益壽而海中蓬莱僊者乃可見、見之以封禅則不死、」とあるが、これは黄金を服するのではない。漢書の武帝紀元封六年の條に「詔曰、朕禮首山、昆田出珍物、化或爲黄金、……」とあつて、これも錬金術と思想上幾分の關係はあらうが、直接に僊術と連絡のあるやうにも見えぬ。封禅書にはまた欒大の言として「臣之師曰、黄金可成、而河決可塞、不死之藥可得、僊人可致也、」とあるが、これは不可能なことを列擧したに過ぎないのであつて、黄金と不死の藥との間には關係がなささうである。シナの錬金術が如何なる起源を有するか、またそれがシナに於いて發生したものであるか、西方から傳來しもしくはその影響を受けたものであるか(254)は、重大なる問題であつて、余はまだそれについて明確な意見を提出し得ないのであるが、前漢時代に於いてはそれが必しも僊術としてのみ考へられてゐたのではなく、本來はそれとは關係の無いものではなかつたらうか。また僊術と結合せられてゐたにしても、必しも藥として服用すべきものを作るには限らなかつたのではあるまいか。淮南王安が神僊黄白の術二十餘萬言を述べたといふ説(25)、劉向が「神僊使鬼物爲金之術」を記してあるといふ枕中鴻寶苑秘書によつて錬金を試みたといふ話、のあるのを見ても(漢書淮南王安傳及び劉向傳參照)、かなり早くから神僊思想と結合せられてゐたことは明かであるが、それにしてもその結合が如何なる意味に於いてであるかは判然しない。焦氏易林に「茄芝餌黄、飲食玉英、」とあるのも僊人のことであらうし、論衡の道虚篇にも「聞爲道者、服金玉之精、食紫芝之英、食精身輕、故能神仙、」とあるのを見ると、前漢末から後漢時代にかけて、既に金が僊藥であるといふ考はあつたらしいが、それは必しも錬金術によつて得たものとして解釋する必要は無く、特に玉がそれと竝稱せられてゐることを思ふと、自然の金とする方が穩當のやうである。錬金術はその性質上、一種の幻術に類するものであるから、いはゆる方士がそれを宣傳するのは極めてふさはしいことであり、從つてそれは同じく方士に利用せられた神倦思想とおのづから結合することになつたであらうが、黄金が貴金屬として尊重せられた以上、致富の法としても錬金術が歡迎せられるのは當然であつて、一般にはむしろこの意味に於いて世人の注目をひいたのではあるまいか。後のものではあるが抱朴子(黄白篇)に「至於眞人作金、自欲餌服之致神僊、不以致富也、」といつてあるのは、錬金術が致富の道として考へられてゐたことがあるためではなからうか。葛洪が金丹の效果を説くに當つてかういふ辯解をする必要があつたと見るのも、必しも無理ではあるまい。辯道論に甘始が「嘗與師於南海作金、前後數四、投數萬斤金於(255)海、」といつたとあつて、これも錬金術の一宣傳であらうが、多額の金が得られたやうにいふのは、藥用としてのみそれが考へられてゐなかつたことを示すものかも知れぬ。それから論衡の率性篇に「道人消爍五石、作五色之玉、比之眞玉、光不殊別、」とあるのを見ると、玻璃のやうなものを作る術もあつたらしいが、僊藥と考へられた玉はそれではなくして眞玉であつたに違ひなく、人造玉は裝飾品として、もしくは工藝の料として、用ゐられたのであらうから、錬金術にもまたこの意味さへ加はつてゐたのではあるまいかと思はれる。しかしそれは且らく問題外に置くとして、いはゆる黄冶の術が神僊に於いて何の用をなしたかは、漢代に於いては不明であるといふより他にしかたがない。(上に引いた桓譚の新論に見える鑄凝は錬金術のことではあるまいか。もしさうとすれば桓譚はそれを僊術とは見てゐないので、それは錬金術が本來神僊説とは別のものであつたといふ上記の臆説を助けるものではなからうか。)
 以上は漢書の藝文志に見える神僊家の書目によつて、それから推測し得られる當時の僊術の如何なるものなるかを考へてみたのであるが、それらは畢竟僊人の境界に入る方法を説いたものに過ぎない。だから次には僊人となることに如何なる意義があるとせられたかをしらべて見なければならぬ。が、さうなるとおのづから道家の思想が考へられて來る。
 
     一〇 神僊説と道家の思想
 
 漢書の藝文志には前節に述べた書目の後に「神僊者所以保性命之眞、而游求於其外者也、聊以盪意平心、同死生之域、而無?タ於胸中、然而或者專以爲務、則誕欺怪迂之文、彌以益多、非聖王之所以教也、孔子曰、索隱行怪、後世(256)有述焉、吾不爲之矣、」と書いてある。これは、漢書の編者の意見といふよりも、劉向か劉?かの筆になつたものらしく、その上に藝文志に見えるかういふ解説は、或は牽強附會に陷り或は杜撰鹵莽の失があり、妥當でないものが多いやうであるから、こゝに引いたものとても、そのまゝにそれを神僊家自身の主張として認めるわけにはゆかぬかも知れぬ。のみならず「同死生之域」は長生不死を本義とする神僊の思想とは明白に矛盾してゐるし、全體としてもこの解釋はいはゆる芝菌黄冶の術などにはあてはまらないやうである。藝文志はまたこの神僊を、醫經、經方、房中、の三道と共に方技に屬せしめ、さうして方技をば「皆生生之具」と説いてゐるが、上記の如く解釋せられる神僊は他の三道と同じ意義に於いて方技とするには適しない。そこで、なほよくこの解釋を見ると、それは第三章に考へておいた道家の思想と同じであることが知られる。さすればこれは藝文志の記者が道家の思想によつて神僊を説いたのか、または神僊家自身が道家の所説をその術に附會して宣傳してゐたためにそれをそのまゝこゝに取つてあるのか、何れかでなくてはなるまい。かう考へて來ると、道家の所説と神僊家の主張との間にどういふ關係があつたかを一顧する必要が生ずる。
 不死の觀念がその本質に於いては道家の所説と同じでなく、或はむしろ矛盾してゐるものでありながら、またそれと接觸する一面をも有するといふこと、竝に道家の思想が神僊説に融けこんでゆくといふことは、既に上に述べておいた。のみならず、漢代に於いて神僊をいふものは往々それを道家の思想に附會してゐるので、例へばかの淮南子の呼吸術を述べたところに「遺形去智、抱素反眞、以遊玄眇、上通雲天、」といつてゐるのは、明かに道家の考へ方である。さうして史記の始皇本紀三十五年の條に見える盧生の言に「眞人」を不死の人の義に用ゐてあり、三十六年の(257)條にも「僊眞人」といふ語があるのみならず、大人賦にも眞人の語が出てゐるのを見ると、このころ既に道家の理想的人格が僊人とせられ、もしくは少くとも僊人と聯想せられてゐたことが明かである。文學の上に於いては前にも述べた如く大人賦や遠遊に於いてこの二つの結合が現はれてゐるが、やゝ後の張衡の思玄賦などもその思想を繼承してゐる。王逸が遠遊の注に於いて赤松や王喬を眞人と稱してゐることも、こゝに附記してよからう。しかし根本に於ける矛盾は決して除き去ることができないので、淮南子の精神訓に死生の齊きを説き、司馬談が道義の思想によつて生死の本質を論じ(史記太史公自序)、黄老の術を學び養生に於いて致さざるところ無しといはれた楊王孫が死を以て眞に反るものとしたこと(漢書楊王孫傳)、などを見れば、道家の思想が長生不死の觀念と相容れざることは、漢代に於いても知られてゐたはずである。賈誼の?鳥賦の結末に「眞人恬漠兮獨與道息、釋知遺形兮超然自喪、寥廓忽荒兮與道?翔、乘流則逝兮得?則止、縱?委命兮不私與已、其生若浮兮其死若休、澹乎若深淵之靜氾兮若不緊之舟、不以生故自寶兮養空而遊、徳人無累兮知命不憂、細故?薊兮何足以疑、」とあるのも、また道家の眼孔を以て生死を視たものであつて、その思想は淮南子などに見えるのと同じである。この生死觀の根柢には、人は天にもとづく神(もしくは氣)と地に屬する形との結合によつて生存するものであるといふ二元論があるので、死はこの二つが分離して各々そのもとに歸るのだ、といふのである。だから死は人が自然に歸するので、それがまた自然的の現象なのである。この考は養生の思想とはその由來を異にするものであるが、道家の養生は天壽を全くすることであつて、死を避けるのではないから、兩者は背反することなく結合せられるのである。こゝに道家の考が神僊思想と相容れぬ點があるのみならず、既に不死を求めない以上は昇天の觀念も道家には無いはずであつて、「抱素守精、蝉蛻蛇解、游於太清、(258)輕擧獨往、忽然入冥、」(淮南子精神訓)の「輕擧」は單に寓喩に過ぎないのである。(僊人の一資質である昇天の觀念の一由來が道家の寓言にあるといふこと、この觀念が根本的には不死の希求と矛盾するものであるといふことは、前に述べておいた。この時代に於ける二家の交渉も畢竟こゝに由來する。)かういふ相反する思想を有ちながら、上に述べた如く道家の言と神僊の説とが結合せられたのは何故であらうか。それは道家の思想そのものに於いて僊人の觀念と接觸し得べき一面を具へてゐることに由來があるには違ひないが、漢代の道家が當時世に流行しはじめた神僊思想を閑却することができずして、それを抱容しようとしたと共に、神僊を説くものがその主張の思想上の根據を道家に求めたからではあるまいか。淮南子に呼吸術に關して上に引いたやうな文字が見え、また寓喩の言であるとしても輕擧上昇をいつてゐるのは、これがためではなからうか。上に擧げた如く、僊術を説いた書物に道家の祖とせられてゐる黄帝の名を冠したもののあるのも、またこの故であらう。もしさうとすれば藝文志が神僊を解説するに道家の思想を以てしたのも、漢代に於けるかういふ思潮の一沫と見なすべきものであり、それが僊術そのものと適合しないのもまた當然であるといへよう。
 さて僊術を説くものが道家によつてその主張を支持しようとしたのは、不死と昇天との觀念があまりに現實の經驗と離れてゐる上に、その方術もまた人の信奉を得るに足りないがためであつたらうが、また道家の説が當時に流行してゐたからに違ひない。司馬談は儒者を抑へて道家を揚げるやうなことをいつてゐるが、事實、漢代には一方で儒者の學が官學として立てられながら、他方では道家の言が多くの人に歡迎せられてゐたのである。天下が統一せられ四夷の來朝するものが多くなつたこの時代は、儒教の政治の理想が殆ど實現せられた如き觀があるのであるが、それは(259)また儒教の思想が漢の帝室の權威に理論的基礎を與へる所以でもあり、さうして禮樂制度を以て民を秩序づけようとするのは、帝王の地位を尊貴にし鞏固にするには便宜な考であつた。けれどもその古を尚び形に泥みまた事々に權力の威壓を感ぜしめることが、人に煩しい思をさせるものである上に、政治に興味を有たないものに取つては、儒教は多く關心するところが無い。(この時代の儒者の説には種々のまじりものが多く入つてゐるのみならず、全體の傾向が却つて儒教の本旨に背反するやうにさへなつてゐるが、その標榜するところはやはり主として治國平天下の道である。)ところが道家の説によれば、司馬談が「與時遷徙、應物變化、立俗施事、無所不宜」、といつてゐる如く、自由なこゝろもちで世に處し事に從ふことができるので、自己の生活の安易を人生の第一義とするシナ人に於いては、それが最も適切なる思想であつた。王符が潜夫論で「治身有黄帝之術、治世有孔子之經、」といつているのも、この點で參考せられる。のみならず、政治についても無爲にして化するのが實生活の上から古今を通じてシナ人の要望する理想的帝王の資格である。そのうへに、道家の説には幾らかの形而上學的考察が含まれてゐて、人の思索欲を滿足せしめ、またその奔逸な空想的寓言が一種の詩的感興をも喚び起すので、易と共に萼者の間に喜ばれ、また騷人の資材として採られたのである。藝文志に載つてゐる道家の書は頗る多く、雜家の部に入つてゐる淮南子もそれを貫通してゐる思想は道家の説であり、また楚辭の諸篇やその他の漢代の賦の多くに道家の考の取入れられてゐることは、上文のところ/”\に引用しただけでも知ることができよう。それから史記や兩漢書の列傳にも、竇太后を始めとしていはゆる黄老の術を喜びもしくは學んだといふ人々の話があつて、これらは纔かにその一斑を示すに過ぎないものではあらうが、それによつても當時の傾向は覗はれる。藝文志の陰陽、小説、兵、數術、方技、の部に黄帝の名を冠したも(260)のが少なくないのは、必しも道家と直接の關係があるのではないが、また黄帝を祖とする道家の思想の流行に伴ふ一現象ではあらう。黄帝を祖とするのは儒家の堯舜に對立させまたそれを凌駕せんがために、道家の間から始まつたことらしく、現に藝文志の道家の部にも黄帝を標榜するものがあるからである(26)。
 さて道家の思想の實際的方面に現はれたものは第一に養性の考であつて、早く淮南子(泰族訓)に「神清志平、百節皆寧、養性之本也、肥肌膚、充腸腹、供嗜欲、養生之末也、」とあり、その主要な點は藝文志の神僊の解釋とほゞ同一であるが、後漢になつても、蔡?が「釋誨」の中の歌詞で「練余心兮浸太清、滌穢濁兮存正靈、和液暢兮神氣寧、情志泊兮心亭々、」といひ(後漢書蔡?傳)、李固が「氣之清者爲神、人之清者爲寶、養身者以練神爲寶、」といひ(同上李固傳)、或は馬融の廣成賦に「平和府藏、頤養精神、致之無彊、」とある如き、何れも道家の思想であつて、仲長統が「安神閨房、思老子之玄虚、呼吸精和、求至人之彷彿、……逍遥一世之上、睥睨天地之間、不受當時之責、永保性命之期、」といふに至つては、明かに老子の名を出してゐる(同上仲長統傳)。僊人の虚なるを痛論した王充すらも「造養性書十六篇、裁節嗜欲、頤神自守、」と傳へられてゐるではないか(同上王充傳)。養性といふ考のあることは必しも道家には限らないので、例へば韓詩外傳にも「安命養性者、不待積委而富、」とも「喜養生者、故人尊之、」ともいつてあるが、後には道家の流行につれてその考へ方が道家風になつたのである。次には隱逸の風習であつて、嚴君平が老子を徒に授けたと傳へられ(漢書王貢兩?鮑傳)、黄老を好んで吏とならなかつたといふものもあり(後漢書樊曄傳、)また老易に通じた向長が隱れて仕へず、高恢が老子を好んで華陰山中に隱れたといはれてゐる(同上逸民傳)、などがその例である。隱逸の風は、禄仕するのが常であるシナの知識人が、その禄仕には身の危險の伴ふこ(261)とが多い戰國時代に於いて、一身の安全を保つために禄を棄て仕を致して野に隱れたことに始まるのであつて、そこに上文に述べたやうな道家の思想と通ずるところがある。道家の處世術にはこれとは違ふ一面もあるが、かういふ一面もある。ところが道家によつて思想的根據が與へられると、それによつて更にこの風が助成せられもするので、漢代以後に於いてそれがます/\盛になつて來たのは、當時の政治上の状態にもよることながら、かういふ意味も加はつてゐるらしい。隱士が老子を宗とするのは當然である。
 さて道家の思想がかういふ風に世に行はれてゐたとすれば、僊術を説くものがそれを自家の主張に附會しようとしたのは怪しむに足りなからう。勿論、道家は道家として別に存在するので、神僊家に没入したのではない。藝文志にもこの二つは各別に記されてゐる。桓譚の新論(弘明集卷五所載)に「老子用恬淡養性、致壽數百歳、今行其道、寧能延年却老乎、」といふ問に對して意見を述べてゐるところがあるが、この延年却老は神僊家のいふ如き不死の意であるやうには解せられず、昇天の觀念もそれに伴つてゐるらしくはないから、これは老子を僊人と見たのではなく、たゞ長壽の人として考へたのであらう。さうしてその長壽の法としての「恬淡養性」もいはゆる僊術ではなくして純粹に道家の思想である。ところが王充の論衡(道虚篇)に「世或以老子之道、爲可以度世、恬淡無欲、養精愛氣、夫人以精神爲壽命、精神不傷、則壽命長而不死成事、老子行之踰百度世、世爲眞人矣、」といつてゐるのは、それよりも一歩進んで長壽を不死の意義に用ゐてゐるのみならず、「度世」といふことばをさへ使つてゐるから、これは老子を僊人と見たものらしく、從つて文中の「眞人」は僊人の義であらう。列仙傳に老子を僊人とし僊人たる崔文子が黄老を好むとしてあるのは、この思想の繼續せられたものである。しかし老子を僊人とすることは決して道家本來の思想(262)ではないので、道家の思想と神僊説とを無意味に混合したのであるが、それと共に恬淡無欲を以て僊人の境地に入る方法と考へるのは、神僊の術に於いて、導引や呼吸法やまたは服餌や黄白の術の外に、別に一つを加へたのであつて、こゝでも二つの思想が結合せられてゐるのである。かうなると、道家の説を取り入れた神僊家もやはり道家と稱せられるやうになつてゆくので、法琳の辨正論に引いてある袁宏の後漢紀の郊祀志に「道家者流、出於老子、以清虚淡泊爲主、……其修行不已、得至神仙也、」とあるのも、またかういふ考が後漢時代になつてから漸次弘まつて來たことを示すものであらうか。(後漢紀には郊祀志といふものは無く、またこの語は後漢紀に見えないやうであるから、これには何かの誤があらうが、後漢時代のことを記したものに出所があらうと推測せられる。廣弘明集に後漢紀の佛に關する記事を後漢書郊祀志の文として載せてあるやうの例のあることを、參考すべきである。)また論衡にも神僊を説くものを道家と稱し、神僊の虚を論じた一篇を道虚諭と名づけてある。後漢書の竇章の傳に「道家蓬莱山」の語のあるのも參考すべきであらう。さて老子がかういふやうに僊人とせられたのは、史記の本傳に見える如く道を修め壽を養つて百六十餘歳もしくは二百餘歳の齡を得たといひ傳へられたのも、一原因であらうが、道家の宗師とせられてゐることがその主なる理由であつたらう。それから隱逸の風と神僊との結合もまた史上に見られるので、後漢書の逸民傳の矯愼の條に「少學黄老、隱遯山谷、因穴爲室、仰慕松喬導引之術、」とあり、死後に生きてゐたといふ話をも載せて「或云神僊」と記してゐるなどが、その一例である。文苑傳の蘇順の條に「好養生術、隱處求道、」とある養生術も多分僊道としてのであらう。隱者の焦先が僊人ともいはれてゐたといふこともある(魏志管寧傳裴注所引魏氏春秋)。
 それのみならず、後漢末には老子に神格をさへも與へてゐる。後漢書の禮儀志に「桓帝……好神僊事、延熹八年初(263)使中常侍、之陳國苦縣、祠老子、九年親祠老子於濯龍、」とあるのを見るがよい。これもまた老子が道家の宗師であると共に僊人とせられてゐるためであらう。それはこの卷の論賛に「祠浮屠老子」とあり襄楷傳にも同樣のことが見えるので、それから推測すると、老子を祠ることには佛に對抗する意味が含まれてゐたらしいからである(この佛を祠つたのが延熹九年のことかどうかは明かでないが)。なほ濯龍宮の祭祀は本紀には黄老を祠ることになつてゐるが、論賛の注に引いてある續漢志にも老子のみを擧げてあるから、黄帝のことはやゝ不明である。しかし後漢書の陳敬王羨の傳に「祭黄老君、求長生福、」とあるのを見ると、黄帝と老子とを祭ることが長生を祈るためとせられてゐたことも推知せられ、さうしてそれは黄帝を道家の祖として黄老と連稱する一般の風習の上からも是認せられよう。(漢書の高帝紀に高祖が黄帝及び蚩尤を祠つたことが見え、史記の封禅書には武帝が黄帝を祭つたこと、また漢書の郊祀志には宣帝の時種々の神と同時に黄帝を祭つたことがあるが、それは或は天下を一統した古代の君主として、或は上僊したものとして、また或は神としての話であつて、道家の祖としての黄帝ではない。)さて、かう述べて來ると、道家の名を傳へながら本質に於いてそれと異なつたものが世に勢力を得、または道家の宗師が別の意味に於いてもてはやされてゆくことがわかるので、後にいふやうに張陵や張角の呪術に黄老の結合せられるのも、かういふ趨向から生じた一現象である。しかし黄老の思想は思想としてどこまでも存在し、神僊説の外に別にその權威を有つてゐる。その恬淡虚無を尚び眞に反り性を養ふことを主とする教が依然として世に尊重せられてゐるのみならず、或は隱逸の風習を一層盛にし、また或は横みちに外れて放縱自恣に陷つた竹林の徒を生み出してもゐる。
 「道家」といふ語を用ゐたついでに、その意義について一言しておく必要がある。通常いはゆる黄老の道もしくは(264)老莊の學を奉ずるものを道義上稱するので、漢書の藝文志にもさうなつてゐるが、道といふことは儒家に於いても説かれてぬるにかゝはらず、老莊の學派のみをさう稱するのは、この派の「道」に特殊の意義があり、この語を強調して説いたからてあらうか。儒家の本旨はむしろ「教」の觀念にあるが、老莊の思想の根柢はその「道」にある。「老子」五千文は「道」の字に始まつて道を説くに終り、全篇を通じてこの「道」を反覆解説してゐる。さうして「莊子」にはそれから「道術」といふ語が作り出されてゐるので「魚相忘乎江湖、人相忘於道術、」といふ有名な句が大宗師篇に見える(孔子の語として述べてはあるが、それは假託に過ぎない)。もつとも一般にはこの「道術」の語がかなり廣義に用ゐられてゐるので、呂氏春秋(審分覽執一篇)に「田駢以道術説齊」とあるのを、史記の孟子荀卿傳の「自鄒衍與齊之稷下先生、如淳于?、……田駢、……之徒、各著書、言治亂之事、」に對照して考へると、政治の道をもさう稱したらしい。但し呂氏春秋の記するところによれば、田駢のはその思想が老莊の系統に屬するものらしいから、その意味でいつたのかも知れず、淮南子(詮言訓)に「道術之可修、明矣、」とあるのも、この書の全體の精神から考へて、やはり同樣に解してよからうが、韓詩外傳(卷六)に「不聞道術之人、則冥於得失、不知治亂之所由、」と記してあるのなどは、必しも道家の思想に於いての道に限つたことではあるまい。漢書地理志の齊の條にも「太公治齊、修道術、……至今其土多好經術、」と見えてゐる。術は儒術墨術(「荀子」富國篇)、孔子之術(淮南子泰族訓)、堯舜之術(史記鄒陽傳)、三王之術(同蓋寛饒傳)、老子之術(同莊子傳)、黄老道徳之術(同孟子荀卿傳)、などの如く用ゐられると共に、渾沌氏之術(「莊子」天地篇)、帝王之術(史記李斯傳)、君臣之術(同)、陰陽之術(太史公自序)、長短縱横之術(同主父偃傳)、などともいはれてゐ、淮南子(人間訓)に「見本而知末、觀指而睹歸、(265)執一而應萬、振要而治詳、謂之術、」と解釋してある如く、すべての知識に通じての稱呼であつて、公孫弘が仁義禮智の智を「術之原也」と説き、その術を「擅殺生之柄、通壅塞之塗、權輕重之數、論得失之道、使遠近情僞必見於上、」と解してゐるのでも(漢書公孫弘傳)、それは知られる。「秦絶先王之道、殺術士、」(史記淮南王安傳)ともある如く、術士を儒者の義に用ゐてゐるのもそのためである。だから「四方道術之人」(漢書河間獻王傳)、また「夏侯勝、?孟之徒、以遺術立名、」(後漢書張衡傳)、或は「?頓六經、服膺道術、」(同崔 驛傳)、などの如く、儒術を指して道術といつてゐる場合もある。秦が經書を燔き儒士を坑にしたことを「道術由是遂滅」と書いたものもある(漢書劉?傳)。一方に「道家」が特殊の學派の稱呼とせられながら「道術」がかう廣義に用ゐられるのは、道といふ語が何ごとにでも適用せられるものだからであらう。さすれば「好道術、自以當仙、」(後漢書方術傳王和平の條)の如く、僊術を指すことになるのも不思議でない。のみならず、「好道術、明天文、」(同王景傳)、「試對政事天文道術、」(同?輔傳)、「道術秘方」(同東平憲王蒼傳)、「有道術、能役鬼神、」(同欒巴傳)、ともあるのを見ると、方術といはれてゐたものをもこの名で呼ぶやうになつたことがわかり、また漢書の藝文志の「數術」も概ねそれに含まれてゐることも知られ、現に數術の一種である歴譜の條には道術の名が用ゐてある。論衡(道虚篇)に「奇方異術」を唱へるものを「道術之士」といつてゐるのも、この意義に於いてである。道士といふのはこの「道術之士」を約言したものしらしく、それは「自前世博物道術之士、谷子雲夏賀良等、、建明漢有再受命之符、言之久矣、」(後漢書竇融傳)とある夏賀良が、天文讖記を好んで道士といはれた西門君惠(漢書王莽傳、後漢書竇融傳)、また「豐(張豐)好方術、有道士、言豐當爲天子、以五綵嚢裹石繋豐肘、云石中有玉璽、豐信之、遂反、」(後漢書祭遵傳)の其道士と同じやうなものであることか(266)らも知られる。さうして夏賀良が上に述べた如く方士とも稱せられてゐることを思ふと、道士と方士とは互に通はしても用ゐられたらしい。後漢書の方術傳の許曼の條に「祖父峻……善卜占之術、多有顯驗、……自云、少嘗篤病三年不愈、乃謁太山請命、行遇道士張巨君、授以方術、」とある「方術」は延命の術か卜占の術か曖昧に聞えるが、何れにしてもそれを授けた道士は方術の士、即ち方士、に違ひない。王夫人の姿を武帝の前に現ぜさせた李少翁が道士といはれたのもこの故である(論衡自然篇)。さうして僊術が道術であり、また既に述べた如く僊術を説くものが道家と稱せられるならば、僊を談じ僊を修めるものもまた道士といつてよいはずであつて、列仙傳に稷丘君、黄?丘、などを道士としてあるのは、この意義に於いてであらうか。たゞ純粹の道家即ち黄老の學説を傳へるものを道士といつた例は見當らないやうである。後にいふ道教の由來を考へるについて、これは注意すべきことであらう。
 以上は神僊思想の始めて形を成した漢代に於いて僊術と結合せられてゐる道家の思想を觀察したのであるが、こゝでふりかへつて考へて見なければならぬのは、かういふ風に説かれた神僊がどれだけ現實に存在してゐると思はれてゐたかといふことである。現存の漢代の文獻には赤松王喬の外には僊人として明かに記されてゐるものがさして多くは見えない。封禅書は連りに神僊を説きながら僊人としてはたゞ蓬莱に通ふといふ安期生一人の名を擧げてゐるのみである。大人賦に「反太一而從陵陽」とある陵陽を漢書音義には僊人と解してあるが、司馬相如がさう考へてゐたかどうかは不明であり、「厮征北僑而役羨門」の北僑や羨門も必しも僊人として見るべきものとは限らない。また上林賦の「靈圉燕於間觀、??之倫暴於南榮、」甘泉賦の「雖方征僑與??兮猶?佛其若夢」に見える靈圉、??、征僑、(267)をも後人は僊人として説いてゐるが、これについてもこれらの賦の作られた時からさうであつたかどうかは疑問である。しかし張衡の西京賦に「美往昔之松喬、要羨門乎天路、」とあるのは、羨門を松喬に對してあること、また要乎天路といつてあることから考へて、このころにはそれが僊人とせられてゐたらしく思はれ、王逸も楚辭の遠遊にある「羨往世之登僊」の句に「羨門子喬古登眞也」と注してゐる。それから同じく王逸が馮夷を「水仙人」とし、天問に注しては王子喬に僊を學んだといふ崔文子の話を載せ、七諌の自悲に見える「見韓衆而宿之兮問天道之所在」の韓衆をも僊人と説いてゐる。遺漏はあらうが、余の寓目したのはほゞこのくらゐのものに過ぎず、その他には黄帝や西王母や、またずつと後になつて老子が、神僊家から僊人として取扱はれてゐるのと、後漢書の方術傳に上成公の白日昇天した話が見えるのとを擧げ得るにとゞまる。けれども後漢書にかういふ話のあるのは、僊術を修めて僊人になつた物語の一二に止まらなかつたことを暗示するものであらう。列仙傳もしくはそれに載せてある物語も、後漢時代に作られたのではあるまいか。後漢書の東平憲王蒼の傳に蒼が列仙圖を章帝から賜はつたといふことが見えるのを思ふと、或はそのころ既に列仙傳のやうなもの(現存のではないが)もあつたかも知れず、さうしてそれは僊人とせられたものが少なくなかつたことを語るものでもあらう。列僊といふ語は班固の西都賦にも見え「列仙之攸館、非吾人之所寧、」とあるが、もつと溯ると既に史記の司馬相如傳にも出てゐるから、僊人が多くゐるといふことは前漢時代からいひ傳へられてゐたのであらう。しかし僊人のことをいふ場合には松喬の名を擧げるのが例のやうになつてゐることから考へると、その他に幾多の僊人が名ざされてゐ、またその傳記などが作られてゐたかどうか、輕率に肯定しかねる。それはほゞ後漢の初めごろから始まつて、それから漸次數が加はつて來たのではなからうか。上に記したものに(268)於いても、羨門は方士であるし、韓衆(韓終)も始皇本紀や漢書の郊祀志に見える谷永の上言に徐市(徐福)と同樣に取扱はれてゐたものであり、さうしてそれが何れも史記と漢書とに出てゐるのであるから、彼等の僊人となつたのはほゞ後漢時代からと見てよからう。また馮夷は「莊子」の大宗師篇に道を説いて「馮夷得之以遊大川」とあつて淮南子にもさう見えてゐるから、それが僊人となつたのも甚しく古いことではないに違ひない。
 なほ列仙傳を通覽すると、前漢時代から僊人として知られてゐるものは、赤松子、王子喬、安期生、があるのみである。漢代の歴史的人物として東方朔と鉤翼(弋)夫人とがあるが、前者は風俗通に於いて既に太白星の精とせられ異人とせられてはゐるものの、まだ僊人とはなつてゐず、後者は漢武帝の寵姫として漢書外戚傳にも見えてゐるほどであるから、それが僊人となつたのはよほど後のことであらう。先秦の歴史的人物として、介子推、范蠡、があり、傳説的人物として、關令尹、呂尚、陸通(楚狂接輿)、などがあるが、それらが僊人らしく取扱はれた例は他には見えぬ。老子の僊人になつたのが後漢の世であることは既に説いた。古くから知られてゐる空想的人物では容成公、彭祖、があるが、容成公は漢書の藝文志には陰陽家と房中家との中に擧げてあるから、僊人となつたのは後漢時代に房中術が神僊説と結合せられてから後のことであらう(27)(上文參照)。彭祖は昔から長壽者とせられてゐたためであらうが、僊人としての話はこれも前漢のころには見えないやうである。江妃二女も多分湘娥の物語から出たのであらうが、その名が楚辭及び前漢時代の賦にしば/\現はれながら僊人としては取扱はれてゐない。方囘も後漢書の周磐(和帝のころの人)の傳に古人の名として出てゐるが、僊人とは明記してない。幾分のてがゝりのあるものだけを調べて見てもかういふ状態であるから、列仙傳中の僊人の大部分が僊人として現はれた時期はほゞ推測せられよう。さすれば(269)後漢書の方術傳に白日昇天した話の出てゐるのも、かういふ世の中だからではあるまいか。さう考へると、封禅書に見えるやうに、僊郷を説き僊人を説く方士が一と度びもその僊郷に入つたことをいはず、また僊人に逢つたといふ話をしたことも極めて少く、まして彼等みづから僊人になつたやうに記されてゐないことが、首肯せられるので、當時に於いては、僊人の境地は殆ど人の達する能はざる遠き彼岸にあるとせられてゐたのであらう。(李少君が死んだ時、武帝はそれを信ぜずして化し去つたと思つた、といふことが見えてゐるが、當時の思想に於いてそれを僊人としてゐたかどうか、不明である。尸解僊といふ觀念の發逢してゐたかどうかが問題だからである。)これは僊人といふ觀念そのものの性質上、當然のことであるが、後になるに從つて人間界との接觸が加はつて來、人の度世して僊界に入つたといはれるものも多くなつたので、上に説いたやうに天僊の外に地僊があり尸解僊があるやうに語られるのも、また種々の幻術などがそれに結合せられてゆくのも、おのづからこの趨勢と關係があらう。神僊を説くものはその説が實現せられ得るものとしてその證迹を示すことが必要であり、さうしてそれには、一方ではその術の困難なることを説くと共に、他方では何の點かに手の屆き易きところのあることをほの見せ、また迷信深い民衆の心理に適應するやうな神怪な分子を附加することが、巧みな方法だからである。道家の思想を取り入れてその説を深奧にすると共に、かういふ方面にもその力を向けていつたのが神僊家の態度であつた。晉代以後の神僊説を見ればそれはいよ/\明かになるであらう。
 
     一一 晉代以後の神僊説
 
(270) 神僊思想に關してその歴史的發達の跡をたづねることは甚だむつかしいが、特にこの時代に於いてさうである。遺存する文獻が乏しい上に、それが多くは古人に假託せられ、然らざる場合に於いても、或は著者の傳記が不明であり、或は著者の誠實さが疑はれる。道教の書に至つてはなほさらである。さうしてまたいはゆる正史の上からは極めて斷片的の材料しか得られない。考察の正鵠に中らんことを期するは殆ど不可能である。もし遠からざるを得ることあらば幸なりとしなければなるまい。
 晉代以後には僊人が必しも昇天するに限らなくなつた、といふことは既に述べておいた。のみならず、天僊となるものも單に天に昇るばかりではなく、そこで僊官の籍に入るものとせられた。神仙傳の彭祖の條に「欲擧形登天上、補仙官、當用金丹、」とあるが、同じ著者の書いた抱朴子によると(後にいふやうに)金丹は昇天させるものであるから、昇天したものは悉く僊官に補せられるのであらう。現に抱朴子(金丹篇)には「上士得道、昇爲天官、」といつてあつて、この天官は即ち僊官なのであらう。もつとも神仙傳の劉安の條にあるやうに、官職を得ずして「散仙人」となつてゐる特殊のものもあるが、それは普通の例ではなく、また何か缺陷のある場合のこととせられてゐるらしい。この僊官にはそれ/\の地位と職掌とがあるらしく、神仙傳の魯女生の條には「三天太上侍官」の稱が見える。同じ書の彭祖の條と抱朴子對俗篇とには「天上多尊官大神、新僊者位卑、所奉事者非一、但更勞苦、」とさへいつてある。さてかういふ考の根柢には、天上の世界が官府組織になつてゐる、といふ思想があるので、昇天した僊人がその官僚に補任せられるわけであるが、葛洪の時代にその官府組織がどれほど具體的に想像せられてゐたかは明白でない。漢武帝内傳や、葛洪の著として傳へられてゐる枕中書や、または海内十洲記などを綜合して考へると、天の中心(271)に玄都玉京があり、そこに元始天王がゐて宇宙を主宰し、太上眞人、金闕老君、などを始めとして幾多の大官がそれを輔佐してゐるのであり、崑崙、蓬莱、扶桑、及びその他の名山大嶽に居所を置いてそれ/\の僊官を領するものも、畢竟その統治の下にあるらしく、また玉女を率ゐる上元夫人の如き女性もあるといふのであるが、これは或は葛洪よりも後になつて發展した思想かも知れぬ(28)。神仙傳の沈羲の條に、黄老が僊官を遣してその昇天を迎へさせたといふ話、昇天した時に帝(黄帝らしい)を見ることはできなかつたが老君には謁したといふ話があるが、それには事々しい官府的稱號などの用ゐてないことが注意せられる。抱朴子には昇天を説くことが多いにかゝはらず、一度もかういふ官府組織を述べてゐないのも、この故ではなからうか。微旨篇に大元之山、長谷之山、のことを説き、大元之山について「百二十官、曹府相留、離坎列位、」と述べてあるが、いはゆる百二十官の何であるかは書いてない。さうしてそれは必しも天上の官府とも見なし難いやうである。?惑篇の人が昇天したといふ話をしたのが妄語であるといふことをいつてゐるところにも、紫府と天帝との名を擧げてゐるのみである。しかし僊官の思想が葛洪の時に存在したことは明白であるから、その前から何等かの官府組織は考へられてゐたであらう。神仙傳の呂文敬の條に「太清太和府仙人」とあるなどはその片鱗が現はれたものらしい。魏書の釋老志には「及張陵受道於鵠鳴、因傳天官章、……三元九府百二十官、一切諸神咸所統攝、」とあつて、これによると張陵の時から整頓した組織が考へられてゐたやうに解せられるが、彼の事蹟は明白に知られないことが多く、また道教の書には張陵に假託せられてゐるものもあるらしいから、この記事は必しも的確な事實として信ずるわけにはゆかぬ(29)。たゞ概言すると、初めは簡單なものであつたのが、後になるに從ひ漸次業々しくなり複雜になつて來たものらしく、葛洪の時代はその初期に當つてゐるのではあるまい(272)か。釋老志などに述べてあることは、よほど後の形であらう(後章參照)。
 ところで、かういふ思想は何に由來するであらうか。シナには古くから天帝の觀念があつて、後にはそれが人の形を有するものの如くも思はれ、上に説いた如く僊人となつて昇天するのも帝宮にゆくもののやうにいはれたこともある。それから北極星を天帝の象徴もしくは居所と見、それとそれを中心として圍繞する幾多の星辰とによつて一大官府組織が形づくられてゐるやうにも想像せられてゐたので、史記の天官書にそれが見え、その題號となつた天官の意義もこゝにある。さうしてまた星もしくは星の精を人である如く考へることも行はれてゐた。また司命といふやうな神が昔からあるとせられ、その司命が星の名となつてゐるから、長生不死の觀念も星辰と縁が無くはなく、西京雜記に「就北辰星求長命」と見えるのも、必しも後世の思想ではあるまい。前に述べた如く緯書には太一が長生の道を説いたことが見えるが、太一は天帝でもあり星でもある。これらの考が綜合せられると、何等かの官府組織が天上にあつて昇天した僊人がその官籍に入るといふ考のそこから導き出されることも、自然の徑路であらう。さうして僊人の側からいへば、上にも引いた河圖括地象に見える崑崙の「仙人九府」は或はその先驅であつたかも知れぬ。崑崙は山ではあるが天柱とせられてゐるからである。要するに昇天した僊人を組織だてるに官府の形を以てしたのは、シナ特有の思想である。「上皇清虚元年」(漢武帝内傳)のやうに、天帝の統治に地上の帝王と同樣な元號があるとしたのを見ても、その考の如何にシナ的であるかがわかる。しかし枕中書や漢武内傳に出てゐる玄都玉京や元始天王は、純粹のシナ思想から産まれたものとしてはやゝ解し難いやうである。玉京については、帝居が崑崙の上にあるといふ考が既に漢代からあつたので、そこから一すぢの絲を引いてゐるのかも知れぬが、枕中書には崑崙玄圃は別にあつて西(273)王母の居所とせられ、玉京には關係が無いやうになつてゐるのを見ると、これには多分別の由來があるのであらう。さうしてその玉京にゐる元始天王は宇宙生成説話に於ける神人とせられてゐるが、これもまたこれまでのシナの開闢思想とは縁が無く、盤古の名を有つてゐるのも、強ひて在來の説話と結合したのみのことである。かう考へると、この思想には佛教の、もしくは佛教によつて傳へられたインドの、宇宙志や神話の影響があるのではなからうか。枕中書に宇宙生成の時間的經過を劫によつて説明してゐるのは、その一證とも見られよう。王嘉の拾遺記に崑崙山を須彌山に擬してあるのを見ても、シナの説話とインドの世界志乃至宇宙志とを結合しようとしてゐた時代の思潮が覗はれる。元始天王と竝んで太元聖母がありまた上元夫人の如き女性のあるのも、シナ思想とは見なし難くはあるまいか。さすればこれは、佛教に對抗してその勢力を張らうとし、それがために佛教から種々の思想を取り入れた道教に於いて形づくられたものであつて、それが道教に融けこんではしまはず、それとは別に存在してゐる神僊家にも採用せられたのであらう。さてこれは、葛洪などよりは後に生じたらしい説話についてのことであるが、抱朴子や神仙傳の書かれた時代の思想としての天官の觀念に佛教の影響があるかどうかは、明かでない。神仙傳の老子の話は佛教から得た知識によつて潤色せられてゐるのであつて、老子化胡説の存在した時代の思想がそれにも示されてゐるが、天官に關しては多く語ることができないのである。これらの點について精密に考へるには、インドの宇宙志や神話の現はれてゐる佛教の經典の翻譯せられた時代を研究した上で、それらの經典の記載と神僊説に於ける天官の思想とを對照してみることが必要であるが、今は遺憾ながらそこまでは手が屆きかねる。
 さて僊官の觀念が生じて來ると、僊人もまた官人らしい威儀を整へなくてはならぬやうになる。「宮殿鬱々如雲氣、(274)玉色玄黄不可名状、侍音數百人、多女少男、庭中有珠玉之樹、衆芝叢生、」が老君のゐる天上の宮闕の状態であり(神仙傳沈羲の條)、「冠遠遊冠、朱衣虎頭?嚢、五色綬、帶劍、……乘羽車、駕五龍、龍各異色、前後麾節、幡旗導從、威儀奕々、如大將軍也、」が天から降りて來た僊人王遠の容儀である(同上王遠及び麻姑の條)。白鶴に騎して?氏山巓に下つた列仙傳の王子喬などと如何に懸隔があるかを見るがよい。漢武内傳の西王母や上元夫人の容姿と儀衛ともまた似たものであつて、女性であるだけに華麗と艶美とが特に目立つ。かういふ一面に於いては神僊説は、それに結合させようとした道家の虚無恬淡を尚ぶ思想とは、正反對の方向に進んでゆくのである。僊官といふ觀念そのものが既に道家の根本義とは背馳している。しかしそこにおのづから現實主義であるシナ人の民族性と官人の尊重せられるシナの社會の特色とが現はれてゐるのであり、さうしてそれと共に、さういふシナ人の間に立つて神僊を通俗化するには、これが必要でもあつたことが知られるであらう(後章參照)。
 不死を求めても昇天を望まないものがあるといふ思想の現はれたことも、またこれに關聯して考へられる。神僊傳の白石先生の條に「不肯修昇天之道、但取不死而已、不失人間之樂、…彭祖問之曰、何不服昇天之藥、答曰天上復能樂比人間乎、但莫使老死耳、天上多至尊、相奉事、更苦於人間、」とあり、彭祖の條にも「仙人…雖有不死之壽、去人情、遠榮樂、有若雀化爲蛤、雉化爲蜃、失其本眞、更守異氣、余之愚心、未願此、已入道、當食甘旨、服輕麗、通陰陽、處官秩耳、骨節堅彊、顔色和澤、老而不衰、延年久視、長在世問、…乃可爲貴耳、」と見え、長へに人生の樂を享受しようといふ考が生じたのである。抱朴子の對俗篇にもこの彭祖の言といふものを載せ、更に「若委棄妻子、獨處山澤、?然即絶人理、塊然與木石爲隣、不足多也、……篤而論之、求長生者、正惜今日之所欲耳、本不汲々於昇虚、(275)以飛騰爲勝於地上也、若幸可止家而不死者、亦何必求於速登天乎、」といはせてゐる。金丹篇に「若未欲去世、且作地水僊之士、……長生不死、……可以蓄妻子、居官秩、任意所欲、無所禁也、」とあるのも同じ意義のことであり、かの尸解したものが妻を娶つて生きてゐたといふ話も(上文參照)、この思想の具體的に示されたものであらう。これは長生不死の欲求の根本義を率直に道破したものであつて、しば/\述べた如く不死を得んがために説かれた方法とそれに結合せられた昇天の觀念とが、却つてこの根本義に背馳する結果を生じて來たのを、こゝに至つて再びその出發點に立ち還らせたのである。これは一つは僊藥としての金丹の效果を説かうとする葛洪の特殊の意圖から出たことでもあるが、むかし不死の藥を求めたのも、やはり享樂を抑制するやうな修養の力によらず、服藥によつて不死を得ようとしたものでありながら(第三章參照)、終にその藥を求め得なかつたのを、今新しく金丹の威力を説かうとするに當り、再びこの欲求を力強く喚び起したのであつて、それは畢竟神僊思想の根柢に潜在してゐたことを明るみに引き出したのである。こゝにもまた神僊説を生んだシナ人の民族性が示されてゐると共に、それを通俗化しようとする考が現はれてゐる。特に「處官秩」を人生の一大事と見てゐるところに、僊官の觀念を作り出したシナ人の特性がある。たゞかういふ欲求に應ずる不死を眞の僊人の状態としないのが、神僊説の既に成立した後の思想であるので、そこにまた神僊家の立ち場もあるのである。
 ところで、人としての欲求の第一が性的のものであるとすれば、かういふ思想の現はれると共に、神僊説に附加せられた eroticism の色彩のます/\濃厚になつてゆくのも、當然であらう。さうしてそれは神僊説を民衆に親しませる一事情でもあつたに違ひない。郭璞の遊仙詩に「靈妃顧我笑、粲然啓玉齒、」とあり、陸緩聲歌に「遊仙聚靈族、高(276)會曾城阿、長風萬里擧、慶雲鬱嵯峨、?妃興洛浦、玉韓起太華、北徴瑤臺女、南要湘川娥、」とあるなどは、第七章に述べた多くの例と同樣であり、またその因襲に從つたまでのことであらうが、神仙傳を見ると山中の賤人にも玉女が隨伴してゐることがあり(劉根魯女生などの條)、抱朴子によれば丹を煉る時には玉女が來つて侍するといふ。また神異經には崑崙に玉童玉女がゐるやうに記され、漢武内傳によると、玉女が西王母に從つてをり、上元夫人は十萬の玉女を統領してゐる。女が神僊に伴はねばならぬもののやうになつてゐるのである。もつともこれだけでは神僊と玉女との關係は極めて淡いものではあるが、捜神記に天上の玉女が下つて人の妻となつた話を載せ、その夫に贈つた詩に「神仙豈虚感」といふ句があつたとしてあるのを見ると、玉女は即ち神僊であつて、それが人と契を結ぶことさへあるとせられてゐたらしい。(述異記に天漢中の白水の素女が天帝の命によつて人の婦とならんがために下りて來たといふ話が見えるが、これは明かに僊人とは書いてないけれども、物語そのものはこの捜神記のと同じである。)拾遺記の燕の昭王の條にも、王が神僊の術を好んだため玄天の二女が下つて舞女となり終に枕席を設けて寢讌した、といふことが見える。飛燕外傳に飛燕を神僊に比してあるのも、神僊に eroticism の分子があるやうに思はれてゐたことを示すものである。拾遺記の後漢の靈帝の條に見える話は事がらが少しく卑陋であるが、帝がみづから「使萬歳如此、則上仙也、」といつてゐることを注意すべきである。かう考へて來ると、かの劉晨阮肇のたづねて入つたといふ天台が僊郷とせられたのも當然であり、それが更に一歩進むと後の遊仙窟の如きものになるので、さうなつてゆく徑路が覗はれる。鮑照の樂府の「淮南王、好長生、服食錬氣讀仙經、琉璃作?牙作盤、金鼎玉匕合神丹、合神丹、戯紫房、紫戸綵女弄明?、鸞歌鳳舞斷君腸」が(淮南王に假託せられたことは別問題として)僊術と綵女の情思とを(277)結合してゐることも無意味ではない。不死をば求めながら人として生き人としての快樂を享受しようといふ考を神僊家自身が正當視して説くやうになつた時代に於いて、かういふ思想がます/\流行して來たことは怪しむに足らぬ。
 かうなつて來ると、僊人の風姿もまた人らしくなる。晉書の王恭傳に「美姿儀、人多愛悦、或目之云濯々如春月柳、嘗被鶴?裘、渉雪而行、孟昶窺見之、歎曰此眞神仙中人也、」とあり、裴氏語林に「王右軍見杜宏治、歎曰面如凝脂、眼如點漆、此神仙中人也、」と見えるのは、後の宋書の隱逸傳の?祈の條に「風姿端雅、容止可見、中書郎范述見而歎曰此荊楚仙人也、」とあると同じく、當時の僊人觀を見るべき材料であつて、清楚であり端雅であるのが俗人と異なつてゐることを述べたものではあるが、その美しさは人としての美しさである。
 さて人の生活を棄てない不死の人は抱朴子のいはゆる地僊と目し得べきものかどうか、やゝ曖昧であるが、山にゐる僊人とても金殿玉樓に住んでゐるやうに考へられた點に於いて、上記の思想と連絡がある。第二章に引いた晉書の許邁傳の記事を一顧するがよい。僊人が山に住むといふ思想は既に述べた如く漢代からあるので、それには山の中が俗界を離れたところとして人事を超越した僊人のゐるにふさはしく思はれること、「徘徊神山采之草」(之は芝である)と鏡の銘に見え、列仙傳や神仙傳にも話のあるやうに藥を採るには山に入るを要すること、などに由來があらうが、人の到る能はざる深山幽谷は天上界と同じく、殆ど一種の空想界であるから、不死の生を得たものを天上に送り上げると同じ心理から、それを山中に置いたのでもあらう。或はまた有無縹渺の間にある海中の神山を僊郷としたのと同じであるともいへよう。現實には存在せざる僊人を、天の高きにあらず海の遠きにあらずして、地の上に住まはせるには、山の奧を選ぶ外は無いからである。なほ道家の思想と因縁の深い山林隱逸の思想もそれを助けたに違ひな(278)く、また平地の上に聳え立つて雲烟を呑吐する外觀からも、幽遠なる山中の光景からも、山そのものが一種神秘の感を人に與へて、神靈の宅るところとせられるのが原始時代からのならはしであるので、この宗教的感情もまたそこに はたらいてゐるのであらう。五嶽が神僊思想に於いて重んぜられるのは、明かに山靈崇拜の官府的儀禮に由來を有する。更に文獻の上からいふと、離騷をはじめとして楚辭の諸篇が多く山岳を材としてゐること、また「莊子」に神人を藐姑射の山に置いてあることなども、かういふ思想の先驅として考へられるが、實はそれがそも/\上に述べたやうな山の性質から來てゐるのである。僊人を山に住まはせた理由はほゞこれで説明がつくやうであるが、また既に述べたことのあるやうに、金丹を煉るには俗塵に汚染せられざる名山に於いてするを要する、といふ特殊の理由も抱朴子に説いてある。何れにしても山に入るのは俗界を超越するのであるが、それにもかゝはらず山中の僊居が金殿玉堂であるといふ考の生じてゐるのが、注意すべきことなのである。勿論、始皇本紀には三神山の宮闕が金銀で作られてゐたやうに書いてあり、西王母も銀臺に住み瑤闕にゐるやうに思はれてゐたから、かういふ考は晉代に始まつたのではない。のみならず、金玉の文字を用ゐるのはむしろ寓喩と見なすべきものかも知らぬ。けれども、淮南子には珠玉の樹があることのみいつてある崑崙が、枕中書に於いては「金臺五所玉樓十二、瓊華之屋、紫翠丹房、七寶金玉、積之至天、」とせられ、單に金銀の宮闕があるとせられた三神山中の瀛洲が拾遺記に「嗅石則知有金玉、吹石則開金砂寶璞、粲然可用、」と記されてゐるのを見ると、思想の推移がその間に看取せられはしまいか。もしさうとすれば山中の僊居が金殿玉堂であるといふことの意味もほゞ推測せられる。要するに、昇天したものが僊官となり堂々たる官人的威儀を具へてゐるやうに考へられたのと、同じ心理から出たことである。
(279) 話がおのづから蓬莱や崑崙に關聯して來たから、他の方面に於いてもこれらの僊郷の物語に新しい色彩がついて來たことをこゝで一言しておかう。その第一は、前にも言及した如く天官の思想の發達につれて、蓬莱に九老丈人九天眞玉宮があるとか、崑崙が眞官仙靈の宗とする所だとかいふやうに、僊郷がそれ/\の天官の治所になつて來たことである(神異經、海内十洲記、枕中書、等)。蓬莱や崑崙ばかりでなく、玄洲には仙伯眞公、方丈洲には九源丈人、の治所があり、滄海島には九老仙都がある、と十洲記に見え、枕中書にも似たことが出てゐるが、これらの諸洲は或は從來の傳説の變化により、或は新なる想像によつて現出したものであつて、この種の空想的地理説に新形體の與へられたのが、僊郷について第二に注意すべき點である。海内十洲記は三神山中の瀛洲を特にぬき出して十洲の一つとし、方丈洲をも四面各々五千里の大島としたが、その方丈洲には「群仙不欲昇天者」を往來させ(枕中書では「未昇天者」を置き)、飛僊のみが到るを得るといふ蓬莱山と區別して、新しくできた僊人の階級的等差に適應させた。これらの島々の方位や距離やその地形などを具體的に示したのも、また地理的説話の一發展であつて、特に昔は渤海中にあるとせられた瀛洲を會稽の東にあるとしたところに、東晉人もしくは南朝人の思想が現はれてゐる。(拾遺記の卷一及び一〇に三神山を古傳説のまゝに取扱ひながら、その状態を具體的に描寫してゐることも、またこゝに附記してよからう。)神異經や海内十洲記の着想は?衍の九州説や山海經から來てゐるが(30)、それを神僊説によつて彩つてあること、特に十洲記は神僊を説くがために作られたらしいことが、その特色であつて、昔の三神山が上記のやうなものに變つたのも、この二つの思想が結合せられたためである。だから十洲記は祖州を徐福のたづね求めて留まつたところとしてゐる。始皇本紀によると、徐市(徐福)は童男童女を率ゐて一度海に入つた後にも依然として始皇に神藥(280)のことを説いてゐたので(二十八年、三十五年、三十七年、の各條參照)、行くへ不明になつたのではないが、同じ史記の淮南王安傳には「得平原廣澤、止而不來、」とあり、漢書の伍被傳にもこの記載を襲用してあるので、それは恐らくは史記編述の前に於いて既に徐福の物語が傳説化してゐ、淮南王傳にはさうなつたものが取られたのであらう。ところがこの話はその後さらにいろ/\に變化して來たので、呉志の黄龍二年の條には徐福が亶洲(31)に止まつて還らなかつたとあり(史記正義所引括地志にこの説がそのまゝ取らてある)、後漢書の倭傳はそれを夷洲?洲とし、十洲記はまたそれを祖洲に擬したのである。呉人が會稽の海上にあるといふ亶洲に徐福を結合したのは、やはり渤海の話を南方に引きよせたのであるが、十洲記の祖州もまたその思想をうけついで、その位置を上に述べた瀛洲と同樣に考へたものらしい。孫綽が遊天台山賦に「渉海則有方丈蓬莱、登陸則有四明天台、」といつてゐるのも、また方丈蓬莱を四明天台と相對する方面に置いたのである。それから玄洲は、神仙傳の劉安の條に安が左呉等の五人と共にいつたとしてあるところであるが、これはその名稱から推測するど道家の思想によつて案出せられた空想國であつて、十洲記はそれを取つてその十洲の一としたのであらう。抱朴子(道意篇)に「夫得僊者、或昇太清、或翔紫霄、或造玄洲、或棲板桐、」よあるのでもそれが知られる。その他の諸洲については由來するところがあるかどうかを知らぬが、その名稱から察するに、古傳説などから出たものは無ささうであつて、特に長洲といひ生洲といふ類は、何れも長生不死の觀念から名づけられたものであらう(32)。
 崑崙もまた幾らか面目が變つて來たので、十洲記では崑崙を西王母の治所とし、天帝の居るところを鍾山としてあるが、これは本來崑崙の上にゐた天帝が後から入つて來た西王母に逐ひ出されたのである(第六章參照)。これも僊(281)人としての西王母の權威が加はつて來たことを示すものであつて、崑崙は「眞官仙靈之所宗」とせられてゐるが、その地理的位置は西方であつて、現實のシナの地勢に本づいた考である(枕中書の説は十洲記と同じである)。ところが神異經では崑崙を世界の中心としてあるらしく、さうして西王母と東王父とをその右と左とに置き、崑崙には九宮(33)があるとして、その中央を天皇之宮と名づけてあるが、これは上に説いたことがある淮南子の墜形訓などの空想的地理説から展開せられた思想であり、從つて西極にあるべき西王母は崑崙の西方に移され、天皇がそれに代つてゐるのである。(この九宮の所在については書きかたが極めて曖昧であるが、崑崙にあるとするのが穩當であらう。或はそれを全世界の九方にあるものとして見るべきものかも知れぬが、それにしても天皇之宮は中央にあるのであるから、これだけはおのづから崑崙にあることになる。またこゝの天皇は地皇及び人皇に對するものとして記されてゐるから、かの天皇氏から脱化して來たものには違ひないが、古帝王の性質はこゝでは失はれてゐる。さうして、その宮が世界の中心である崑崙九宮の中央にあるといふのを見ると(天皇には天帝の觀念が含まれてゐるらしく、從つてそれは崑崙を帝居とした古い思想を繼承したものであらうが、新しい形を以て現はれてゐるところに意味がある。或は天帝が一旦西王母に奪はれた崑崙を再び取りかへしたものとも見られる。それから枕中書にもやはり三皇の名が用ゐられてゐるが、そこでは天皇が次にいふ東王公に結合せられてゐるから、神異經の所説とは少しく違ふ。かういふことはいろいろに考へられさま/”\に説かれるのであるが、地皇人皇に對する天皇を束王公とするのは本來不自然である上に、一方の西王母に結合するものの無いことから考へても、無理なしかたであるから、神異經などの思想よりも後のものであらう。)が、そこが九府の所在地で「玉童玉女、與天地同休息、男女無爲匹配、而仙道自成、」といはれてゐると(282)ころを見ると、神僊思想がこの地理説の基調をなしてゐることは明かである。三皇の名が現はれてゐるのも(枕中書の説と共に)やはり神僊家の説に由來があらう。抱朴子に三皇内文天地人三卷といふものを道書の最も重要なるものとし、枕中書にも三皇天文といふもののあることが記されてゐるのを、見るがよい。
 こゝまで説いて來たところでおのづから考に入るべきものは、東方にあるといふ扶桑である。從來、蓬莱と崑崙とは東西に相對して置かれた僊郷であつて、上文に述べた如く文獻の上にもそれが常に對稱せられてゐ、漢武内傳に「貴昆陵以舍靈仙、尊蓬丘以館眞人、」とあるのもそれを相承したものであるが、十洲記や枕中書の思想では、崑崙に對するものは扶桑であつて、前のは西王母の、後のは東王父の、居所となつてゐる。神異經では扶桑を説きながら東王父の治所は別のところに置いてあるが、これは西王母を崑崙より更に西方に追ひやつたのと相對するものかも知れぬ。扶桑は日の出づるところにあるとして、古くは離騷にも見え淮南子の天文訓にも記されてゐるが、それは地上の國土として具體的に考へられてはゐなかつた。「ハ余轡乎扶桑」といひ「日……拂於扶桑」といつてあるのを見ると、木の名とせられてゐたらしい。また淮南子の墜形訓の榑桑も、同じ卷の扶木、時則訓の榑木、と同じく、やはり木である。それから西京賦に「日月於是乎出入、象扶桑與濛氾、」とあるのも、天文訓のと同じ思想であつて、後漢時代にもなほさういふ考が普通であつたらう。もつとも春秋緯の元命包に「姜源游?宮、其地扶桑、履大迹、生后稷、」とあるのを見ると、後漢のころにはそれを地上に置くやうになつたらしくもあるが、實はこれもやはり木の名として用ゐたもののやうであつて、宋均も「生后稷於扶桑之下、出之野、」と注してゐる。后稷の名により蒼帝に關聯させて説明してゐるところを見ると、思想上、東方に縁はあるが、周の祖先の生まれた地を日出づるところの扶桑とはし(283)なかつたであらう。山海經の海外東經に「湯谷上有扶桑、十日所浴、在黒齒北、居水中、有大木、九日居下枝、一日居上枝、」とあるのも、また文字どほりの木であつて、大荒東經に扶木とあるのがそれであらう。阮籍の大人先生傳に見える扶桑もやはり木である。しかし論衡(説日篇)に「儒者論日、旦出扶桑、暮入細柳、扶桑東方地、細柳西方野也、桑柳天地之際、日月常所出入之處、」とあるのは、少し後の左思の呉都賦に「出乎大荒之中、行乎東極之外、經扶桑之中林、包湯谷之滂沛、」とあるのと共に、扶桑が東極もしくは東海のはての或る土地らしくなつて來る傾向を示してゐるやうに感ぜられる。後漢時代や晉初から、一方では既にかういふ考が生じてゐる。成公綏の天地賦(晉書の成公綏傳所載)に「扶桑高于萬仞、尋木長于千里、」とある扶桑も文字の上では木らしいが、地理を敍してゐるところであつて而も、昆吾、燭龍、崑崙、赤縣、と竝べてあるのを見ると、曖昧ながらこの名によつて土地が想像せられてゐたやうに見られなくもなからうか。ところが拾遺記になると、周穆王の條に「扶桑東五萬里、有磅?山、」とあり、前漢宣帝の條には「樂浪之東、有背明之國、來貢其方物、言其郷在扶桑之東、見日出於西方、」とあつて、これは一つの土地としてそれを見てゐたと解すべきものであらう。特に扶桑が日の出るところでありながら東極でなくなり、その東に更に土地があるやうになつたところに、扶桑に關する思想の一大變化が見える。扶桑が一つの國土であるといふ觀念は是に至つて定まつたのである。もつともこの書には扶桑國そのものの記述は無いが、神異經には、扶桑山に玉?がゐてそれが鳴くと天下の?がみな之に應ずる、といふ話がある。この話は玄中記及び述異記には桃都山といふ山のこととしてあるが、桃都山は風俗通、論衡、獨斷、などに見える東海中の度朔山から轉化して來たものではあるまいか。?が鳴くのは日の出るところにあるとせられた扶桑の名を負ふ山のこととしてふさはしい話ではあるが、(284)初めから扶桑國のことであつたかどうかは明かてなく、或は扶桑が新しく國土とせられたために桃都山の話をそれに適用したのではあるまいかと思はれる。ところが海内十洲記にはそこに太帝宮があつて太眞東王父の治所であるとせられてゐ、枕中書にもそれとほゞ同じことが説いてあつて、東王公(東王父)は扶桑大帝と稱せられてゐる。これで扶桑は崑崙と相對する僊郷となつたのである。漢武内傳には崑崙にゐる西王母の使の扶桑に往來する話があるから、この書でもまたそれを東王父の居所と見てゐるらしく、「?太帝于扶桑之墟」とある太帝は東王父を指すのであらう。しかし他方では、梁書にある如く、文身國大漢國などと共に、實在の國として扶桑國を取扱ふものも現はれて來るので、それは多分、同じ時代の思想の所産であらうが、神僊家はそれを自家の藥籠中に取り入れたのである。空想國土は神僊郷とするに最もふさはしいからである(34)。
 僊郷はこれらの外になほ所々に現はれて來た。十洲記の十洲及びそれに附屬する土地には、どこにも僊人がゐるので、「此十洲大丘靈阜、皆是眞仙?墟、神官所治、」といつてあるが、拾遺記、洞冥記」述異記、博物志、の類を見ると、遼遠の地の所々に僊人がゐたり、その食物や不死の藥やがあつたりすることになつてゐる。煩を厭つて一々列擧しないが、拾遺記の堯の條には四海を浮繞する巨査の上に羽人や神僊がゐるといふやうなことさへ説いてある。これは一方からいふと、僊郷を人の往くべからざるところに置き、不死の藥を近づく能はざる地にあるとしたのであつて、神僊の境が人界と遙かに懸絶してゐることを示したものであると共に、他方に於いては、さういふ僊郷が、蓬莱や崑崙のみでなくして、各方面にあるとせられたところに、神僊と人界との接觸が加はつて來たことを示すものでもあるので、僊人となつたものが多くあるやうに説かれ、いはゆる地僊が到るところの名山にゐるやうに考へられたことと、(285)同じ思想の傾向を示すものであらう。さうして天台や桃源が僊郷に擬せられ、抱朴子の所説の如く、道を修めるものの往くべきところとして、いはゆる江東の名山が多く指示せられ、また海中には會稽や徐州の島々が擧げられてゐるのは、かの瀛州を會稽に對する方位に置いたことと共に、江南偏安の時代の思想であつて、それもまた神僊説に一種の民衆化が行はれたものといはばいはれよう。海内十洲記がその十洲を悉く海上の島嶼としたのも、やはり海に親しい南人の腦裡に生まれたものであつて、この點に於いても山海經などとは根本の着想が違つてゐるが、扶桑の重んぜられるやうになつたのも、また同じ理由から來てゐるかも知れぬ(35)。要するに神僊がおのれ等の生活する世界と遠からぬところにゐるやうに考へられて來たのである。空想的地理説の思想的發展にはかういふ意味も含まれてゐる。
 僊人に關する種々の物語の作られたこと、特に古くからいひ傳へられてゐた民間説話を僊人に結合したらしい形跡のあることもまた、神僊思想の民衆化として考へ得られよう。劉阮天台の物語が世界に類の多い民間説話から出てゐるといふことは既に前に述べた。天台や桃源が本來の民間説話に於いて物語の舞臺としてあつたかどうかはわからぬが、土地は無何有郷として何處に置かれてゐたにせよ、さういふ話はあつたらう。さうして桃源でも天台でも人の留まり得るところでなく、一たび失へば二たび近づくことができないといふのも、人は到底死を免れ得ないといふ意味に於いて、神僊譚に結合するに適してゐる。列仙傳の園客の條に、客の種ゑておいた五色の香草の上に來てとまつた五色の蛾から蠶が生まれ、夜な/\美人が來てそれを養つた、といふ話があるが、これは本來、蠶の起瀕を語る民間説話ではなかつたらうか。神仙傳の呂文敬の條に、大行山中に入つて僊人から藥を與へられそこに居ること二日にして家に歸つたが、その間實は二百年經つてゐた、といふ話があるが、これもまた後漢書の費長房傳に見える長房の言、(286)劉阮天台の説話の一要素をなしてゐること、或は王質爛柯の物語、などと同じ思想から出たものであり、さうしてそれが僊人とは關係の無い民間説話であつたことは、世界の多くの類例から推測せられる。同じ書にある仙公の傳に、昇天するものを迎へに來た白鶴が化して少年となつたとあるのも、白鳥處女説話もしくはそれに類似したものの變形らしい。鶴とし少年としたのは神僉譚とするために作りかへたのであらう。鳥になつて飛んだといふ話はシナにその例が多い。それから續齊諧記には牽牛織女の物語を僊人に結びつけてあるし、雀を助けた話の雀を蓬莱に使した西王母の使者とした一條もある。その他、詮索したらばなほ幾らもあらうと思ふが、枕中書に盤古を元始天皇にしてあるのもまたこゝに擧げてよからう。(かの淮南子に?娥と不死の藥とを結合してあるのは、かういふことの先驅である。)民間説話ではないが、三皇五帝以來の歴代の有名な君主の殆どすべてに神僊譚を結合した拾遺記のやうなものさへある。洞冥記は漢武帝にさま/”\の神僊譚を附會してゐるが、特に西王母の來た物語を構造したものに漢武帝内傳があることはいふまでもない。古人もしくは古人と考へられてゐるものを僊人として取扱ふことは、早く黄帝などについて企てられ、前々から行はれてゐたことであるが、六朝に至つてそれがます/\盛になつたらしく、東方朔が僊界の偉人となつたのもこのころのことであらう。さうしてそれは、世人の周知してゐる人物やその事蹟を神僊化する點に於いて、神僊説の民衆化と認むべきものである。この點からいへば神僊傳に墨子や孔安國を僊人としてあるのが既にその例であるが、符子が太公望に蓬莱を語らせてゐるなども、同じ意味のことであらう。そのために僊人の數が次第に増加して、列仙傳時代に比べるとずつと多くなつてゐる。空想的の人物としては西王母に關する物語が多く作られ、神異經や洞冥記には東王父を訪ふ話も出てゐるが、それもまた東王父の居所や容姿の想像せられ、それが畫(287)として描かれもするやうになつたことと共に、この趨勢に關係がある(36)。西王母や東王父に限らず、神僊は當時の畫題の一つになつてゐたことが歴代名畫記や貞觀公私畫史などによつても知られるが、これもまた僊人や神僊譚やの多くなつたのに伴つて生じたことに違ひない。列仙圖といふものが後漢時代にあつたことは上にも述べたところによつても知られるから、これもまた六朝に始まつたのではないが、盛になつたのはこのころからであらう。
 更に附記すべきは、神僊思想と呪術祭祀及び種々の幻術との關係であつて、これもまた上に述べた如く漢代から既に説かれてゐたが、それが後までも繼續する。僊人が祠廟を立てて祀られるといふことは列仙傳にも多く見え、神仙傳にも出てゐるので、一々の話としてはそれは事實譚ではないが、さういふ思想は存在してゐたらしい。多分長生を祈る意味であつたらう(第五章參照)。また抱朴子には錬丹の場合に神を祭ることが説かれてゐるので、これは神の加護によつて神丹を成就させようといふのである。金液を太乙の服したものとしたのも、やはり僊藥の由來を神に歸したのである。それから晉書の隱逸傳の張忠の條に、泰山に隱れて服氣餐芝導養の法を修めてゐた忠が道壇を立てて毎朝それを拜したとあるのも、神を祀つたのであらう。これもまた僊術に神の力を借りようとしたものらしい。また神仙傳(王興及び王遠封衡の條)には、九嶷の神が嵩山に上つた武帝の前に僊人として現はれたといふ話があり(37)、山海の神が僊人を迎拜するといふことも見えるが、呉都賦の注に李善の引いてゐる呉歌曲には、僊人が物を捧げて海童に謁するといふやうな意義の句がある。神に僊人の形を現ぜさせたのは河伯を僊人であるやうに説くのと同じく、僊人を神秘にしたのであり、神が僊人を拜したり僊人が神に禮したりするのも、畢竟同じところに由來する。なほ神を僊人の下位に置くことは、僊人が鬼神を使役するといふ思想とも關係があるらしく、從つて神僊説と幻術などとの結(288)合にその一原因があらう。分身隱形の法、水上を歩行する術、鬼神を使役する道、また或は禁呪の法といひ、或は隱淪の道といひ、いろ/\の方術のことが抱朴子(至理、雜應、登渉、地眞、などの諸篇)に見え、符を用ゐることもさま/”\に説いてあるが、その實例とも考ふべきことが神仙傳の所々に記され、また晉書の藝術傳にも占候風角などのことが多く見えてゐて、その中に僊術を修めたといふ鮑?の傳をも收めてある。漢武内傳にも幾多の方術が十二事として説いてあるのを參考するがよい。抱朴子(雜應篇)に「西王母兵信之符」といふことのあるのを見ると、西王母さへかういふ方面に利用せられたことが知られよう。さうして裴松之が種々の幻術などを稱して「神仙之術」といつてゐるのを見ると、これらが僊人のすることとして一般に信ぜられてゐたらしい(呉志卷一八評論注)。これもまた神僊説の通俗化として重要なことであり、道教の成立してゆく思想の傾向がその道教の外にも存在したのである(38)。
 次に僊術そのものについては導引、呼吸、服餌、の法に於いて特に新しい考が加はつた樣子は無く、抱朴子にも畢竟同じことが説いてある。釋滯篇に行氣の法を説き胎息の術を述べて「初學行氣、鼻中引氣而閉之、隱以心數至一百二十、乃以口微吐之、」とあるなどは、或は佛家の數息觀などと何かの關係がありはしまいかとも思はれるが、必しもさう見なければならぬことでもない。晉書の許邁傳に「常服氣、一氣千餘息、」とも見えてゐる。たゞ一言を要するのはいはゆる房中の術であつて、これは抱朴子(微旨篇、釋滯篇)に於いて行氣導引藥餌と竝んで説かれ、神仙傳の彭祖にもそれを述べさせてゐ、僊術中の重要なものとせられてゐる。房中の術が神僊に結合せられたのは、上に述べた如く、後漢時代からのことであるが人生の享樂を失はずして不死を得ようとする考の是認せられる時となつては、それが僊術としてます/\喧傳せられるやうになるのも自然の勢であつて、列仙傳の彭祖にはその痕迹も見えないの(289)に、神仙傳に至つてこの長壽者が房中術の祖であるが如く書かれてゐるのでも、それがわからう。このことは漢武内傳にも説かれてゐるので、いはゆる益易之道も主としてそれを指すものらしい。さうしてこれもまた神僊説の、通俗化を助けるものであり、もしくは通俗化の結果であることは、いふまでもなからう。
 こゝでいつておくべきことは漢武内傳に見える西王母の桃の話である。神異經にある東荒の梨、桃、南荒の相、稼、※[木+匿],如何、北荒の棗、または洞冥記の塗陰の紫梨、琳國の碧李、など、或は僊人の食物とせられ、或はそれを食ふと地僊になるとか延年益壽の效があるとかせられた果物の話は、いろ/\あるので、かういふ考の由來については上にも述べたところであるが、遠方に珍果があるといふ現實の知識も幾分かそれを助けてゐるらしく、特に南方人に於いてそれが強かつたらう(美味な果物は南方に多い)。しかし僊人の食物は普通に得られるものではないので、三千歳にして華がさき九千歳にして實が結ぶといふやうなことが往々それについていはれてゐる(神異輕參照)。さて西王母が僊人であれば、それがかういふ食物を有つてゐるとせられるのは自然に生ずる考であつて、既に拾遺記にも周穆王に棗や桃などを贈つた話があり、それがまた百歳一熟、萬歳一實、と書かれてゐる。西王母の棗は武帝に與へたものとして洞冥記にも見え、また洛陽伽藍記にも出てゐるから、後までもその話が傳へられてゐるらしく、さうしてそれはこの果物が古くから僊人の食物と考へられてゐたからであらう(第三章參照)。なは拾遺記の明帝の條には西王母と瓜との關係も見えてゐるが、瓜もまた僊人の食物である(洞冥記參照)。ところが西王母について最もよく人に知られるやうになつたのは桃であるので、それは多分漢武内傳が媒介をしたのであらう。桃は惡鬼を拂ふ力があるものとして早くから呪術に用ゐられてゐたが、それは齊策に「東國之桃梗」の語があるのを見ると、戰國時代には東方(290)の産とせられてゐたらしい。桃に呪術的效果があるといふ考の起源は何であるにせよ、戰國時代のかういふ思想は白鳥教授の説の如く五行説に由來し、扶桑や蓬莱の名を東方の空想郷につけたのと同じ意味なのであらう。この考は後まで持續せられてゐるので、東海中の度朔山に大桃があるといふ話が論衡(亂龍篇)、風俗通、獨斷、などに見え、史記の五帝本紀の集解に引いてある海外經、文選の呉都賦の李善の注に引用せられた水脛、にも同じことがある(39))。玄中記や述異記に見える東南方の桃都山は、この度朔山の名が改められたものらしく、拾遺記に扶桑の東の磅?山に桃樹があるとしてあるのも、同じ話の一變形であらう。さすれば桃は東方の産であるのに、それが西方にある西王母の贈りものとなつたのは、僊人の食物とせられてゐたために違ひない。「三千年一生實」と漢武内傳に書いてあるのでもそれが知られる。しかし既に西王母に關聯して考へられるやうになると、「崑崙山有玉桃」といふ述異記の説となつても現はれるので、思想の變化してゆく徑路がこれによつてもわかる。なほ拾遺記に「恆山巨桃、……仙人所食、」とあり、述異記に武陵源のことを記して「食桃李實者皆得仙」とあるなどは、僊郷が内地の所々にあるやうに思はれたところから來てゐるらしく、これもまた神僊を民衆に近づかしめたものである。
 しかし服食藥餌に關して最も重要なる思想の變化が見えるのは、還丹と金液との服用説であつて、この二つはいはゆる錬金術によつて作られる(以下、抱朴子に從ひ、便宜上、略して金丹といふ)。上に説いた如く、黄金が不死の藥であるといふこと、竝に丹砂を化して黄金となす術があるといふこと、また丹砂そのものが樂であるといふことは、漢代から唱へられてゐたが、錬金術によつて得た黄金を僊藥として服用するといふ考がそのころにあつたかどうかは、明證が無い。ところが抱朴子と神仙傳とに於いてこのことが極力主張せられるやうになつた。抱朴子の金丹篇に「黄(291)帝九鼎神丹經曰、黄帝服之、遂以昇僊、又云雖呼吸導引及服草木之藥、可得延年、不免於死也、服神丹、令人壽無窮已、與天地相畢、乘雲駕龍、上下太清、」とあり、黄白篇に「僊經曰……朱砂爲金服之昇僊者、上士也、茹芝導引咽氣長生者、中士也、?食草木千歳以還者、下士也、」とあり、また神仙傳の彭祖の條に「欲擧形登天上神仙官、當用金丹、……其次、當愛養精神、服藥草、可以長生、但不能役使鬼神乘虚飛行、」とあるのを始めとして、この二書の到るところに金丹の功徳が説いてある。金丹を服しないものの境地については、精密に一致しない點があるが、それは著者の主張の中心點でないからであつて、不死と昇天とを併せ得て天僊、即ち眞の僊人、になるには金丹を用ゐるに限るといふことは、動かない。さうして昇天するを欲せざるものは、その用法如何によつて地僊となり、或は人間に止まることもできるといつて、僊人の階級的差別の觀念に適合させてゐる。地僊の境地には金丹でなくとも達し得られるので、上に引いた抱朴子の中士は即ち地僊と見なすべきであらうし、神仙傳の孔安國、李根、黄敬、などの條にもそれが見えてゐるが、しかし金丹の半劑を服して地僊となることができることは、神仙傳の馬鳴生の傳などにもある。葛洪が如何に金丹の效果を宣傳しようとしたかは、神仙傳を見ればすぐにわかるので、それを假託してゐる老子や彭祖の傳を列仙傳のに比較し、また左慈、劉根、のを後漢書の方伎傳の同じ人々のと對照し、また張道陵のを魏志の張魯傳の裴注に引いてある典略の張陵に關する記事にくらべると、神仙傳のは主として金丹を説くために書かれたものらしいことが、推測せられる。李少君の傳に封禅書の「丹砂可化爲黄金、黄金成以爲飲食器、則益壽、……」とあるのを書き改めて「丹砂可成黄金、金成、服之昇仙、」としたのも、同じ理由からであらう。
 さて不死の藥として黄金を服する理由は、抱朴子の僊藥篇に「服金者、壽如金、」とある如く、黄金の不滅性が人(292)體に附與せられるといふのであらう。但しそれならば自然の金でよいはずであるのに、殊に錬金術によつて得たものを撰ぶのは何故かといふに、同じ書の黄白篇に「世間金銀皆善、然道士率皆貧、……又不能遠行採取、故宜作也、」とあるので一應の説明はつくやうであるが、それでは、いはゆる作金が眞金に勝る理由とはならぬ。そこで更に考へると、同じ篇に「化作之金、乃是諸藥之精、勝於自然者也、」とあるが、それは詳しくいふと金丹篇の「金丹之爲物、燒之愈久、壷化愈妙、黄金入火は不錬不消、埋之畢天不朽、服此二藥、錬人身體、故能令人不老不死、」また「丹砂燒之成水銀、積變又還成丹砂、……故能令人長生、」といふことになるのであらう。錬金の過程が人から僊人になる錬形の過程に比せられ、變化しながらも本の性質を失はざることと、それによつて得た黄金の不朽なることとが、僊人が人のまゝで存在しまたその生命の不朽なるに擬せられるのである。philosopher's stone が、劣等の金屬を鑄冶して黄金たらしめると同じく、人の身體をも變化させて延年長壽ならしめる、といふのとは少しく趣を異にするが、錬金の過程と人體の精錬とを同一視する點は似てゐる。さて錬金の過程が重要視せられるのであるから、自然の金よりはその過程を經た作金が尊ばれるので、この過程を經ることが長くして精錬が加はれば加はるだけその尊さも加はつて來る。だから還丹には一轉から九轉までの種類があつて、九轉の丹が最も效果が多いといふ。勿論、これは後から附與せられた理説であつて、錬金術によつて不死の藥が得られるといふことは、それよりも前から行はれてゐた考であらう。さうしてそれは黄金が不死の樂であるといふのと、丹砂が同じ意味で服用せられたのと、この二つの思想が結合したところから生じたのではあるまいか。歴史的事實としてそれが何時ころからのことかは明かでなく、抱朴子にそれを古人に假託してあることは勿論、近い世の人の話として説いてあることも、あてにはならぬが、葛洪の主張にも(293)幾らかの由來はあるであらう。干寶の捜神記にも葛玄が左元放から九丹液仙經を受けたよいふ話があり、山に入つて神仙丹訣を得たといふ人のことも見えてゐる。しかし後漢書の方伎傳などにも金丹のことは少しも無く、曹植の辯道論にも明かにそれと知られるやうな文字は見えず、列仙傳にも出てゐない。さうしていはゆる服餌は植物性のものが多く、稀に丹砂を用ゐてもそのまゝのであり、幾らか精錬が加へられても金としてではなかつたらうと思はれる(第八章參照)。だから金丹の考の起つた時期はほゞ推測せられよう。即ち早くとも後漢末ころからのことではあるまいか。神仙傳の魏伯陽の條に、この人が參同契、五行相類、凡三卷を著して作丹の意を論じたとあつて、それに「世之儒者不知神丹之妙、多作陰陽注之、殊失其旨矣、」と附言してあるが、陸徳明によると虞翻が參同契を注してゐるらしいから、葛洪の時にこの名の書があつたことは事實と思はれる。が、著者の魏伯陽が實在の人か假託の人か、もし實在の人であつたとすれば何時の人かは、よくわからぬ。後漢の桓帝のころの人といはれてもゐるが、明證は無い。また今傳へられてゐる參同契は、全體が作丹を論じたものとは見がたいけれども、錬金術や作丹を述べてゐるところもそれにあり、「還丹可入口、金性不敗朽、故爲萬物寶、術士伏食之、壽命得長久、」といつてゐて、抱朴子に述べてあると同じやうなことも書いてあるから、葛洪のいふ參同契はほゞこの本に當るらしいが、それが虞翻の注したこの名の書のまゝであるかどうかは明かで無く、疑ふべき點はいろ/\ある。だから神仙傳のこの記事は、或は葛洪の前から金舟の説があつたことを暗示する用にはたつかも知れぬが、畢竟それだけのことであらう。
 金丹の説は古來僊藥の第一と信ぜられてゐた芝草の價値を少からず下落させたものであるが、しかし抱朴子もさすがにそれを甚しく輕侮するほどに革命的ではなく、僊藥篇では白日昇天するを得る芝草のことを述べてゐる(これは(294)金丹を説いてゐる場合とは矛盾した言ひ方である)。けれどもこれから後、いはゆる九轉神丹の説は漸次世間に傳へられたらしく、拾遺記にも洞冥記にもその名が出てゐる。道士の金丹を煉らうとした話も所々にあり、詩賦の上にも現はれる。しかし蓬莱の求め難く不死の芝藥の終に得られなかつたと同じく、昇僊の靈藥たる金丹も畢竟作り得ないものである。抱朴子にはその方法が述べてあり、神仙傳にはそれによつて昇天した僊人の話を載せてあるが、事實としては曾て錬丹に成功したものが無い(魏書徐謇傳、釋老志韋文秀の條、隋書經籍志道家の條に見える陶弘景のこと等、參照)。梁書の陶弘景傳には彼が梁の高祖に二丹を獻じたといふことがあるが、それが佳寶とせられたといふのを見ると、昇天の效をば示さなかつたであらう。それにもかゝはらず金丹の説は傳へられた。けれどもまた神僊家にはこの説のみが行はれてゐたのではなく、芝草をはじめ種々の藥草も依然として重んぜられてゐるので、それは海内十洲記のやうなものを見ても明かであり、洞冥記にも躡空輕擧することのできる食餌を述べてある。有名な顧歡の論(南齊書本傳所載)にも「服食茹芝」を延壽の方法として見てゐるではないか。拾遺記の燕昭王の條には、西王母が炎帝鑽火之術といふものを説いた時、その火の光に集まつて來た神蛾があつたが、それは九轉神丹に合せるものだ、といふ話があるが、玄中記に記してある殷帝が西王母に使をやつて藥を求めさせたといふ藥は、多分、金丹をいふのではなからう。
 さて金丹の説は服藥によつて昇僊することを教へる點に於いて、やはり神僊説の通俗化であるといへよう。導引も呼吸もその他の僊術も畢竟無用に歸し、自力の修業によらずして專ら藥の他力にすがらうといふのだからである。抱朴子には古來の僊術を服藥の神助として價値があるやうに説いてゐるが、これは思想としては不徹底である。況や虚(295)無恬淡にして生を養ふといふやうなことは、金丹によつて僊となることとは全く没交渉であるべきはずである。しかし抱朴子はやはりその卷首の暢玄篇に於いて道家(純粹の意義での)の玄を談じてゐる。神僊と道家の理論との無意味なる結合は、葛洪に於いてもまた認められる。これは對俗、微旨、などの篇で僊術と世間的道徳とを關聯させてゐるのと大差は無い。が、彼に於いては、老子はむしろ方術の祖であるので、抱朴子(金丹篇登渉篇)には、還丹金液も符によつて惡鬼を避けることも、すべて老子から出たことらしく書いてあるし、神仙傳には「九丹八石、金醴金液、次存玄素、守一思神、歴藏行氣、錬形消災、辟惡治鬼、養性絶穀、變化厭勝、教戒役使鬼魅之法、凡九百三十卷、符書七十卷、」はみな老子の説だといつてある。老子を口にすることは必要であるが、その學説は民衆には縁遠いから、名のみを取つて自己の方術に結合したのである。(この思想は後にも傳へられて牟子の理惑論(40)といふものにも辟穀不老が老子の道として考へられてゐたことが記されてゐ、隋書經籍志の醫方の部にも老子禁食經一卷の名が見える。)清談玄言の盛にもてはやされたのも、山林隱逸の風が士人の間に尚ばれたのも、または竹林の徒さへ出るに至つたのも、當時の社會情勢がそれを刺戟したことは別問題として、思想としては道家の影響であり、晉代以後に於いてはそれほどに老莊の説が流行を極めたのであるから、漢代から既に神僊家に利用せられて來た老子が、かういふ思潮に乘じてかういふ取扱をうけるやうになつたのは、當然であらう。
 勿論、老莊の説を好むものがみな神僊に心を傾けたのではない。皇甫謐でも向秀でも郭象でも、その他の老莊を講じまたは愛讀した幾多の士人でも、決して神僊家ではない。易と老子の説とはこの時代になつても多くは結合して考へられ、老易を談ずといふやうな記事が正史の列傳の到るところに見えるが、これもまた老子の説が學問として、も(296)しくは思想として、取扱はれてゐたことを示すものである。※[禾+(尤/山)]康の如きは山に入つて藥を求め長壽を望んだほどではあるが、その養生論を讀めば、神僊は無しとはいふべからざるも學んで達すべきにはあらず、長壽は期すべければその道を修むべし、要は清虚靜泰少私寡欲にあり、といふやうなことをいつてゐて、その「頤神養壽」の考は全く道家の思想である(晉書※[禾+(尤/山)]康傳、文選所收養生論)。「莊子」を注した郭象もまた「養生非求過分、蓋全理盡年而已、」といつて、天年を全うする意義に於いての養生を認めてゐるのみである。後のことではあるが、明僧紹の正二教論も神僊家の所説を老莊の本義に背くといつてゐるし(南齊書顧歡傳、弘明集卷六所收正二教論、參照)、顔氏家訓の養生論もほゞ※[禾+(尤/山)]康の説と同じであつて、かういふ考は後まで繼承せられてゐる。「鷦鷯之微禽、亦攝生而受氣育、」(張華鷦鷯譜)、養生といふ考は廣く行はれてゐたけれども、それは必しも不死昇天を希求することではなかつた。またいはゆる導引服食を行ひもしくは山に入つて采藥したと正史に載つてゐるもののうちで、晉書の藝術傳に見える數人、または隱逸傳中の張忠、陶淡、梁書の處士傳中の陶弘景、などは神僊家の流を汲んだものらしいが、王羲之などはさうらしくはなく、※[禾+(尤/山)]康については前に述べたとほりであり、また宋書の隱逸傳の劉凝之、?法賜、南齊書の高逸傳の宗測、なども同樣であらう。さうしてこれらの隱逸の士は概ね老莊をその思想の根據としてゐるものである。抱朴子(至理篇)には昔の商山の四皓などを僊人としてあり、神仙傳は近いころの孫登を擧げ、枕中書は※[禾+(尤/山)]康をも僊官としてゐるが、これらは何れも隱者もしくは老莊の徒ではあるものの、神僊を擧んだものではない。神僊家は老莊を學ぶもののすべてをおのれらの徒としようとしたかも知れぬが、それは固より事實に背くものである。また陸機の漢高祖功臣頌に「託迹黄老、辭世却粒、」といひ、張良について黄老と僊術とを關聯させてゐるやうな例は多く、孫綽の遊(297)天台山賦に至つては全體が神僊思想と道家の説との抱合によつて成り立つてゐるが、これらはたゞ前々からの因襲によつたものであつて、畢竟文人の遊戯に過ぎなからう。神僊譚は詩賦の作者に好材料を供給するので、しば/\彼等の筆に上つてゐるが、それは固より作者が神僊を信じてゐるためではない。例へば郭璞が遊仙詩を作り、特に「朱門何足榮、未若託蓬莱、」とさへいつてゐても、それは事實蓬莱の僊人を尚慕してゐたからではないので、「靈谿可潜盤、安事登雲梯、」がむしろ作者の眞意であらう。晉書の本傳を見ても、彼は老莊の説を奉じてゐたらしいけれども僊術を信じてゐたやうには見えない。陶淵明に神僊を詠じた作があり、また彼の思想には老莊の説が重きをなしてゐることは明かであるが、さりとて彼を神僊家と見なすわけにゆかないことは、勿論である。
 しかし老莊の思想が、一方に於いては單なる思想として解釋せられ、もしくは隱逸の士や竹林の徒の標識とせられたにしても、他方では老子が通俗化せられてゐることもまた明かであつて、晉書の藝術傳の戴洋の條の記載によつて考へると、その祠も所々にあつたらしい。ところがこの老子を教主として一つの教團の成立したのが、いはゆる道教であつて、神僊説もまたそれに結合せられた。道教のことはこの小篇で考へようとすることの範圍外であるが、その成立した後に於いては神僊説とそれとは離るべからざる關係があり、神僊は專ら道教の徒の説くところであつた如くも見られてゐるらしいから、こゝに神僊説が道教に包攝せられるやうになつた徑路だけを一瞥しておかうと思ふ。
 
     一二 神僊説と道教
 
 道教といふ名が何時から始まつたか、余はまだそれを詳かにしない。魏書の釋老志の太上老君が寇謙之に告げたと(298)いふ語の中に「清整道教、除去三張僞法、」とあるが、この老君の語と稱せられるものが、もし謙之の時、もしくはそれから遠く下らない時、に書かれた道書から取つたのであるならば、それはこの名の世に現はれた初期に屬するものではなからうか。しかしそれはともかくも、宋齊間の明僧紹がその著を正二教論と題してゐるのを見ると、彼のころには佛教に對して道教といふ稱呼が或は存在してゐたかも知れぬ。もしさうならばそれは謙之の唱へたものの名であつたらうか。(この論には道教といふ語は用ゐてないから、これは臆測に過ぎない。)ところでこの名が「道家」「道士」また「道術」の語に由來してゐることは疑が無からうし、また道教の成立した後もこれらの稱呼は依然として道教の宣傳者とその教法とに適用せられてゐる。さて「道家」の名は上に述べた如く前漢時代に於いてはいはゆる黄老の道を説くものを指したのであつて、神僊家は勿論のこと、種々の方術をいふものも、それに含まれてゐなかつたが、後漢時代になると神僊を説くものも道家といはれ、錬金術またはその他の方術の士が道士と呼ばれ、それらの所説や方技が漠然道術と稱せられてゐた(第九章參照)。これは魏晉時代に於いても同樣であつて、神僊家が道士の名を有つてゐたことはいふまでもなく、魏志の管輅傳の裴注に引用せられてゐる輅の別傳、晉書の藝術傳の陳訓、戴洋、佛圖澄、の條、または趙王倫傳、孫恩傳、などを見ると、陰陽占候風角の技、または巫覡の行ふやうな呪術、もしくは鬼神を驅使するといふやうなこと、或は幻術魔術の類、がすべて道術といはれたことが知られる。抱朴子にも同じ意義にこの名が用ゐられてゐる。拾遺記(卷四)にも幻術を道術といつてある。さすればこれらの稱呼によつて知られてゐるものといはゆる道教との間には如何なる關係があるであらうか。
 前に引いた老君の寇謙之に告げた語といふものには、なほ「專以禮度爲首、而加之以服食閉練、」といふことがあ(299)るが、禮度はいはゆる章?潔齋受?のことであるらしいから、謙之の道教の中心點はこれであつて、昔から僊術とせられてゐた服食導引呼吸の法などは、たゞそれに從屬したものとして取扱はれたに過ぎなからう。(閉練の閉は閉氣のこと、練は練形の意と解せられるから、閉練は呼吸導引のことらしい。)さて魏書の釋老志と隋書の經籍志の道家の條とを綜合參酌して考へると、章?は祭祀呪術によつて消災度厄を求めるのであつて、祭祀の對象たる神に天尊、老君、及びその他の僊官があると共に、天皇、太一、五星列宿、があり、またその理論としては陰陽五行の思想及び古來の道家の説が適用せられてゐ、その道を傳へる方式として潔齋受?が行はれたものらしく、さうしてその道を説いた教主が老君であるとせられてゐるのである。(謙之の時代から魏書が作られ隋書が編纂せられるまでにはかなりの年月があつて、この間に道教そのものにも變化があり、從つて謙之の事蹟も種々に修飾せられたであらうから、この二書の記載をそのまゝに謙之の時の状態としては受けとりかねるが、後人の假託の多い道書よりもこの方に信じ得べきものが多からうと思はれるから、しばらくそれによるのである。)
 さて謙之は天師の位を老君から授けられたといふのであるが、天師の稱は前からあるので、顧ト之の雲臺山の畫には山中に天師のゐるところがあるといひ(歴代名畫記所載雲臺山記)、晉書の?超傳には超の父の?(東晉の中ごろの人)が天師道を奉じたとある。この天師もしくは天師道といふものは何をさすかといふと、釋老志にはかの老君の語といふものに「自天師張陵去世已來、地上曠誠修善之人、無所師授、」と記してあつて、後漢末の張陵が天師とせられてゐるし、李膺暦の蜀記(41)(道安の二教論所引)といふものにも陵が天師と稱したとある。但し正史に於ける張陵の事蹟の唯一の記載ともいふべき魏志の張魯傳には、陵の孫の魯のことを「自號師君」といつてあるけれども、陵が天(300)師と稱したといふことは見えず、集注に引いてある典略にも書いてない。後漢書の劉焉傳にも上記の魏志のと同じ記事があるが、これは魏志から取つたものらしく思はれる。華陽國志の張陵の話には「自稱太清元々」とあるが、これはどれほど信用のできるものか、問題であらう。何れにしても天師のことは無い。だからそこに疑問があるのである。さうして張陵の術として魏志にも明記してある五斗米道が晉代に信奉者を有つてゐて、晉書の孫恩(東晉末の人)の傳に「世奉五斗米道」と見えることを思ふと、同じ時代に存在した天師道は張陵から傳へられたもの、少くともその正系に屬するもの、ではなかつたらう。しかしもし寇謙之のころに張陵が天師と稱した如く考へられ、さうして謙之がそれを繼承したものだとすれば、かういふ傳説は晉代から存在したであらうから、それは名を昔の張陵に假りて何等かの道術を宣傳したものが陵に天師の稱を附したことからでも起つたのではあるまいか(42))。さうしてその道術がいはゆる天師道ではあるまいか。またそれが張陵の名を假りたとすれば、それは事實上、陵と無關係なものではないので、或は五斗米道の別派などであつたかも知れぬ。かう考へて來ると、謙之と天師道、およびそれをとほして張陵、との間に一路の絲はつながつてゐるらしく推測せられる。釋老志に謙之のことを「少修張魯術」とあるのも、この意味に於いて注意を要する。もつとも謙之の道教が事實として張陵張魯の術とどういふ關係があるかは、これだけで明かでない。そこで道教の由來を知るために、張陵を囘顧する必要があらう。
 張陵の術は魏志の張魯傳、及びその裴注に引いてある典略に張修の法として記してあるところによると、符水請?を以て病を癒すといふのであるから、畢竟ありふれた巫覡の徒の行ふ呪術祈?の類である(典略の張修の術は即ち張陵から傳へられたものに違ひない(43))。たゞ典略に「加施靜室、使病者處其中思過、」といひ「請?之法、書病人姓名、(301)説服罪之意、」といつてある如く、病氣に罪過の意を含ませたのと、老子五千文をその徒に習はせたといふところとに、特色がある。張魯に至り信者の多いのを利用して一種の統制ある教團を組織し、また義舍を設けたり、時候によつて禁殺禁酒を令したり、罪過を赦す法を定めたりして、幾らかの社會事業を行ひ道徳的意義のある規制を立ててゐるが、根本の變らないことは「以鬼道教民」といはれ、または道を學ぶものを鬼卒と名づけ、學び得たるものを祭酒と稱したのでも知られる。後漢書の靈帝紀中平元年の條に「妖巫張修」とあり、その注に引いてある劉艾記に「巫人張修療病」と見えるのでも、當時一般に彼等を巫覡の徒として考へてゐたことがわからう。典略は張修の術がほゞ張角の太平道と同じものであるといつてゐるが、後漢書の皇甫嵩傳によると、張角は自ら大賢良師と稱し、黄老に奉事し符水呪説を以て病を療したとある(角のしごとが呪術的であつたことは兵を起した時「殺人以祠天」とあるのでも知られる(44))。後漢書の襄楷傳によるとこの張角の術は干吉の神書太平清領書に一由來があるらしいが、その神書については「其言以陰陽五行爲家、而多巫覡雜語、」と評せられ、その書を上つた楷を彈劾した尚書の上奏に「假借星宿、僞託神靈、」と見え、また章懷太子の注に引いてある江表傳には、干吉の事蹟を記して「立精舍、燒香獨道書、作符水以療病、」といつてある。これらを綜合して考へると、後漢末には巫劇の行ふやうな呪術や祈?を以て民衆を誘惑し、さういふ呪術の思想的側面として陰陽五行説や黄老の説を附會するものが幾人もあつたらしく、張陵もその一人であつたと思はれる。低級な呪術や祈?の民間に行はれてゐたのは昔からのことであるが、一方に陰陽占候風角などのいはゆる方技もしくは道術が流行し、他方に黄老の教が士人の間にもてはやされてゐた世の中であるから、それらをこの民間信仰に結合して、幾らか知識のある方面の要求にも適應させようとしたのであらう。さうして干吉が太平の二(302)字を標榜してその術に政治的色彩をつけ、張角の徒が終に黄巾の賊となり、張魯もまた政治的勢力を形づくつたのは、シナ人の思想とシナの政治状態とから來る自然の傾向であって、民衆の迷信を利用して養ひ得た勢力が、政府の紀綱が弛んで世情の動搖する際に常に起る地方的騒擾の一として、現はれたものである。後漢書の馬援傳や臧宮傳に見える妖巫維の弟子の李廣、單臣、傳鎭、などが百姓を誑惑し徒を聚めて亂をしたといふのも、既にその先蹤をなすものであるが、後の東晉末の孫恩、または梁書の陸襄傳に見える解干?の亂の如きも、やはり同じことであらう(45)。
 張陵の術をかう観察すると、それは神僊思想とは關係の無いものであることがわからう。上に引いた史上の記載にもそのことは見えない。陵の事蹟は明白でなく、魏志や後漢書の簡單な記事でその全部が知られるのではないから、正史に神僊のことが見えないといふので、それを否定するわけにはゆかぬが、彼の事業の性質から推してさう思はれるのである(46)。(神仙傳に張陵が張道陵の名によつて記載せられてゐることは固より問題とするに足らぬ。この書には孫登などが僊人になってゐる如く、何かの便宜があればだれでも僊人にしてある。)たゞ考ふべきは張魯の後に彼の五斗米道が如何なる形に於いて繼續せられたかであつて、前にも引いた孫恩傳には、五斗米道を奉じた孫泰は道術を以て百姓を誑誘したとあるが、そのいはゆる道術には奇術幻術の類もあり、それについて「愚者敬之如神、皆竭財産進子女、以求福慶、」といってある。が、それと共にまた養性を説き登僊をも宣傳したらしく書かれてゐる。孫恩は孫秀の族とあるが、この秀は趙王倫傳に倫の嬖人として記されてゐる孫秀のことらしく、さうしてそれは「惑巫鬼、聽妖邪之説、」とも、「日爲淫祠、作厭勝之文、使巫祝選擇戰日、」ともいはれてゐるのを見ると、五斗米道を奉じてみたものらしいが、それがまた「令近親於嵩山、著羽衣、詐稱仙人王喬、作神仙書、術倫祚長久、以惑衆、」とあるの(303)によれば、この點からも五斗米道に神僊説が結合せられてゐたやうに推測せられなくもない。孫秀は晉初の人であるから、そのころには五斗米道がかういふ風になってゐたのではあるまいか。(倫は道士胡妖を太平將軍に拜して福祐を招いたとあるが、太平將軍の名から考へるとこの道士は干吉もしくは張角の流を汲んだものではないかとも思はれ、從つてまた孫秀もいはゆる太平道に關係があるのではないかとも考へられるが、倫は皇帝を僭稱して自己の政治的勢力を立てようとしてゐたのであるから、この名はその意味でつけられたものと解する方が適切であらう。)また天師道も、それを奉じたといふ??が棲心絶穀して黄老の術を修めたと晉書の本傳にあるから、やはり神僊説を取り入れてゐたやうである。この間の事情は甚だ不明であって、零碎なる一二の資料から漫に臆測を試みることは愼しむべきであるが、神僊思想の民衆化が行はれつゝあった晉代のこととしては、かういふ臆測をすることも全く無意味ではあるまい。神僊家が種々の道術を自家の藥籠中に取り入れたと同じく、呪術祈?もしくは幻術の類を行ふものもまた神僊説を援引附會し得るのである。天師道といふ名稱も晉代に始まったものかも知れぬ。(天師といふ名は「莊子」の徐無鬼篇に見えてゐる。多分そこから取つたものであらう。)張魯によつて弘められた五斗米道の特色はその教團組織にあるが、漢中に起ったそれがそのまゝ廣く各地方までも普及してゐてまたそれが永續したかどうかは疑問であり、孫恩傳に見えるやうな琅邪の地方に後までも行はれてゐた五斗米道は、或はその呪術祈?の法のみがこの名によつて傳へられたのではなからうかと推測せられるが、もしさうとすれば神僊説がそれに取り入れられるやうになるのは、自然の勢である。釋老志の謙之が張魯の術を修めたことをいつてゐるところに「服食餌藥、歴年無效、」と書いてあることも參考せられる。呪術を行ふものには何等かの思想的權威を背後に有することが便利だからである。天師道の(304)如きは初めから神僊説を加味した呪術であつたかも知れぬ。
 かう考へて來て、上に述べた寇謙之の道教を見ると、祈?呪術を中心としてそれに神僊説を加味したのが晉代の五斗米道もしくは天師道に何等かの由來があり、少くとも前蹤があることは、推知せられるやうである。祈?や呪術は消災度厄または療病などのためであることは勿論であつて、それは古くから民間に行はれてゐた巫覡の術であり、必しも五斗米道などを俟たないが、それに或る形を與へ、幾らかの理説と道徳的意味とを附會したのが、張陵の術もしくはそれから變化して來た晉代の五斗米道や天師道などであるとすれば、謙之の唱へたところが、それから縁をひいてゐると考へるのは無理ではあるまい。上に引いた「除去三張僞法」が何ごとを指したものであるかは明かでないが、これはたゞ謙之の立てた教が三張のとは違つた新しいものであることを宣傳するところに主なる意味のある言であらう。さすれば謙之が道士と呼ばれ(釋老志)、その術が道術といはれてゐる(魏書寇讀傳)のは、晉書の趙王倫傳に胡妖を道士といひ孫恩傳に孫泰の術を道術といつてゐるのと、甚しき懸隔のあることではなからう。捜神記(卷一七)に巫覡の類を道士といつてあることも注意せらるべきである。勿論それが神僊説と結合せられてゐる以上、神僊を説くものとしての道士、僊術としての道術、の意義もそれに含まれてはゐようが、彼の道教の本質が呪術祈?にあるとすれば、いはゆる道士と道術との主なる意義が何處にあるかはほゞ推測せられ、從つて道教の名の由來もまたそこにあることが知られるであらう。もつとも五斗米道天師道などの遠き淵源をたづねると、張陵の術に黄老の説、即ち純粋な意義に於いての道家の説、が援引附會せられてゐたのであり、それを繼承して道教にも規に道家の説を取り入れてあるのであるから、道教の名はそこからも絲をひいてゐるには違ひなく、道教がやはり道家の名をもうけついで(305)ゐるのもその故であるが、これは道教が老子を教祖としてゐるところにその主因があるらしい。それは次に述べるところによつて知られよう。
 謙之の道教に於いては、その祭祀の對象にシナ固有の神があると共に、インド思想の影響をうけて形成せられた天上の諸尊があり、その理説としての陰陽五行説や老莊の思想、その方術としての符?、のやうなシナ的分子があると共に、その道を傳へる方式には佛教から學ばれたらしい受?の法があるので(47)、この佛教から來た分子のあるのが張陵の時のとは大に面目を異にしてゐる點である。さうしてそれは佛教に對抗するためであつたに違ひない。さすれば神僊説を結合したのも五斗米道か天師道かに前蹤はあるものの、涅槃に對する意味に於いて登僊を主張するところに特殊の意圖があつたらしく、これは顧歡の夷夏論に「泥?仙化各是一術」とあることからも類推せられるし、いはゆる僊官を天上の諸神と結合したのも、それに伴ふことであらう。それから老子を教祖としたのは釋迦に對するためであつて、それは次にいふやうに道家(老莊の學の意義での)から繼承せられたことであり、また一つは、神僊家が老子を尊重してゐたため、神僊説を包攝した道教が自然にそれを受け入れたといふ理由もあらうが、張陵などに於いて見られる如く、呪術祈?の巫覡の業を行ふものが既に老子を抱きこんでゐたからでもあつて、それは漢代に於ける黄老の術の流行にその起因がある。
 なほ神僊家の老子の取扱ひかたと謙之以後の道教のとの違ひをいふならば、上に説いた如く老子が僊人とせられまた宗教的儀禮を以て祭られたのは、後漢末からのことであり、なほ葛洪の時代には僊術竝にそれに結合せられた種々の方術が老子によつて説かれたことにせられてゐたのであるが、しかし神僊説はよしそれに宗教的崇拜が結合もしく(306)は附會せられてゐたにせよ、本來宗教ではなく、また宗教としての形體と組織とを有つてゐないものであるから、老子も全體として神僊説の教祖といふやうな地位に置かれはしなかつた。たゞ儒家に對する意味での道家は孔子に對して老子を宗師としてゐたために、道家の流行につれてその説を取り入れた神僊家が自然に老子を重んずるやうになつたまでである。しかし道家では儒家の堯舜に對して黄帝を道の祖としてゐたので、神僊家もその因襲に從ひ黄帝を僊人としまた僊術の祖としてゐた。ところが佛教に對抗する場合には黄帝の用が無いから釋迦に對する老子のみが重んぜられるやうになる。道教の取つた態度が即ちそれである。神仙傳に於いては黄帝老君が天上にゐることになつてゐるが、その地位はいふまでもなく黄帝が老君の上にあるので、これは前々からの傳統的精神に從つたものである。ところが枕中書などになるとその黄帝が殆ど影を隱し、反對に老君が著しく地位を高め、さうして老君の上にはずつと高く天帝が元始天王といふ新しい名稱をとつて現はれて來てゐるが、これは即ち道教の思想であらう。神仙傳では一方に老子が老君の名で天上にゐることになつてゐながら、老子の條にはさういふ記事が無いのを見ても、神僊家の正統思想が覗はれる。さて道教のこの傾向は後になるほど甚しくなり、隋書經籍志の道家(道教)の條によると、元始天尊の他には太上老君が首位を占め、魏書の釋老志では老子が「先天地生、以資萬類、上爲玉京、爲神王之宗、下在紫微、爲飛仙之主、」とせられ、隋書に「生於太元之先、稟自然之氣、……天地初開、或在玉京之上、或在窮桑之野、」としてある元始天尊の性質と地位とを與へられてゐる。さうして黄帝の名は全くそこに現はれてゐない。神仙傳の老子の條にも老子が「先天地生」とせられてゐて、これは道家の道の象徴として老子を見たのであらうが、釋老志のはその語をとつて別の意義に用ゐてあるので、それは明かに佛教が佛を無始無終のものとし、或はそれを諸天の上に位(307)する無上の境地に進めたのに倣つて、老子を同じところまで高めたのであらう(48)。この釋老志の説は寇謙之よりは後に發達した思想らしく、謙之の時に老子が如何なる地位に置かれてゐたかは明かでないが、枕中書などの説は多分謙之の時代、もしくはそれからさほど下らない時代のものであつたらうと想像せられる(49)。もつとも老子を釋迦に對立させたのは謙之の道教にはじまつたのではなく、それよりも前からのことであつて、既に述べた如く後漢末に於いてさういふ樣子が見えてゐるし、同じ時代から一部人士の間に行はれてゐた老子化胡説もやはりこの思想から來てゐる(後漢書襄楷傳、魏志卷三〇裴注所引魏略西戎傳參照)。が、それは昔からの意義での道家のしごとであつたらしい。現實の人生を肯定する道家の思想とそれを否定する佛教のとは、根本的には大なる相違があるけれども、世間的生活を離れるところに二教の接觸點もあるので、實際、佛教には老莊の思想から入るものが多かつたほどであるから、道家と佛教とは一方で親しい關係があるとせられながら、それと同じ理由から他方では對立するもののやうに思はれ、從つて道家に於いては老子を釋迦に結合したりまたはそれに對立させたりしたのであらう。道教はこの點に於いては道家を繼承してゐるといつてもよいので、道教が老子を教祖とした理由の一つはこゝにもあり、さうしてそれは佛教に對抗することが道家と同じであつたからである。神僊家の方でもこの道家の影響をうけてはゐたので、葛洪があらゆる僊術の祖としてそれを見たのもその一例ではあらうが、しかし思想としての體系を有つてゐない神僊家自身に於いては、佛教に對抗する考も無かつたのであるから、老子に釋迦のやうな地位を與へなかつたのである。
 上記の考説にしてもし大過が無いとするならば、道教はその教を成立させるために、神僊説を取り入れたのであつて、道教の本質は別にあるとしなければならず、神僊説が發達して道教となつたのではないのである。だから道教が(308)成立して後は職業的の道士などが漸次道教に包攝せられていつたらうが、練養服食の士は必しも道教を奉じたものばかりではなく、また思想としての神僊説も、道教の影響をうけながら、それとは別に存在する。前章に述べたところによつてそれが知られよう。けれども、道士が道教に包攝せられてゆくと共に、神僊説も道教の一側面としてのみ世間と交渉を有するやうになつてゆき、從つて神僊説の變化も發達もそこでのみ行はれることになる。さうして純粹の形に於いての神僊思想は、文藝などの上にありしまゝの姿を現はすのみとなるのである(50)。
 
     一三 概括、神僊思想とシナの民族性
 
 上來、余は神僊思想の起源とその發達の徑路とを尋ねて、ほゞ説かんとするところを説き了り、それが道教の一分子を形づくるに至つて筆を止めた。それを約言すると次のやうなことになる。僊人といふ觀念は不死の希求と昇天の想像との結合によつて成りたち、戰國末に發生したものであるが、前者は不死の郷の存在に關する民間説話、長壽に對する戰國時代の特殊の要求、それに應ずる教として道家が最も強く説いてゐる養生の説、竝に醫藥の法、などに起源があり、後者もまた羽人に關する民間説話、道家の寓言、騷人の空想、及び宗教思想の一面、などがその由來をなすものである。僊人の境地を得るには長壽のための養生法として説かれてゐた導引呼吸などの修練によるのと、服藥食餌によるのとの二方法があるが、秦皇漢武の如きは不死の奇藥を得んとしてそれのあるといふ三神山を求めた。三神山は呪術祈?などを行ふ方士の口にする神秘の地であつたが、僊人の説の世に現はれると共に彼等はそれを僊郷としたのである。そこで僊人の觀念に呪術的宗教的意義が加へられ、神僊といふ熟語もそこからできたのであるが、そ(309)れと共に錬金術の如き特殊の方術とも結合せられた。これは僊道の實際的方面のことであり、從つてまたその通俗化でもあるが、その理論的方面としては、本質に於いて神僊思想とは矛盾するものであるにかゝはらず、道家の説が援引附會せられ、この相反する二つの思想が奇異なる形に於いて混淆するやうになつた。後漢時代には概ねそれが繼續してゐるが、種々の幻術魔術のやうなもの、房中の術、または當時に流行してゐた種言の方技、などもそれに結合せられ、ます/\通俗化の傾向を強めて來た。それが晉代に至つて一層激しくなると共に、昇天しない個人として地僊尸解僊の如き觀念が形づくられ、また不死を得ると共に人として生活せんとする欲望が正當視せられるやうになり、天僊もまた俗人的威儀を具へると共に、天上に僊官があるといふ考が生じ、僊人が甚しく俗化した。さうして錬金術によつて得られるといふ金丹が僊藥として見られるやうになつた。また神僊には eroticism の色彩が漢代からついてゐたが、それもまた時代と共に漸次濃厚を加へて來て、ます/\神僊の俗化を助けた。ところが一方では別に呪術や祈?を主としてそれに幾らかの方式と或る種の教團的組織とを具へたものが起り、それが民間にひろがつたが、そのころ漸次勢力を得て來た外來の佛教に對抗するために、この種の民間信仰を基礎とした道教が形成せられ、さうして道家の思想と共に神僊説がそれに取り入れられるやうになつた。それが南北朝の初めのころのことである。大體かういふのである。僊人といふ觀念は元來知識社會に起つたものであるから、それが世に弘まるには通俗化せられねばならぬと共に、その本色を維持するには知識としての要求を充さねばならぬ。從つて神僊説は常にこの二面を具へてゐるのである。
 さて余は神僊思想の變遷を述べるに當つて、主として思想を思想として取扱ひ、それに心を傾けたものの個人的性(310)格や境遇や、またはそれが行はれた時代の特殊の思潮、といふやうな點には、殆ど觸れなかつた。それはこの點に關して明かな見解を立てかねてゐるからである。例へば世には、秦の始皇が僊人を求めたのは、帝王として爲し得べき限りの事功を遂げた彼がその限り無き欲望を更にこの方面に向けたのだ、といふ説があるらしく、さうしてそれに一理はあらうと思ふが、漢の武帝の神僊にあこがれたのが即位の後まもない時からであつて、それは帝王としての彼自身の事業とは大なる關係が無い、と見なければならぬことから考へると、始皇についてもこればかりで説明することはむつかしいやうである。秦皇漢武の時にあれほどやかましかつた燕齊の方士が、その後はさして史上に現はれて來ないのも、何故であるか、推測はいろ/\に加へられようが、要するに不明である。なほ重大な問題は、後漢末から晉代にかけて神僊説がびどく流行したやうに見えるが、それには何か時勢の影響があるか、といふことである。山林隱逸の習、放曠自恣の風、もしくはいはゆる玄言清談の流行は、世間的生活から遊離したところに自己の生くべき境地を見出さうとするのであつて、そこに現實を超脱した心の生活の一種の昂揚があるやうにも見えるが、しかしそれは本來明哲保身の道として我が一身の安らかさを求めるのか、但しは遊戯の世界に力を弄び、そこで纔かに自己の生きてゐることを自己に示さうとするのかであつて、實生活の上にはたらきかけてゆくことを退避するところに、實は士人の精神の萎縮し銷沈してゐることが示されてゐる。玄言清談も思索としては重んずるに足らず、幾多の隱士が山にこもつてゐても、そこからインドの ?ranyaka のやうなものは生まれて來なかつたのを見ると、現實を離れた生活も決して充實したもの意味の深いものではなかつたのである。さうして昔の戰國時代が、これと同じ思想でありまた知識の上に於いてその由來をなしてゐる老莊を生んだとすれば、この氣風にもまた魏晉間の社會情勢から誘發せら(311)れた點があるとも見られよう。さうして佛教の漸次行はれて來たのも、一面の意味に於いては、おのづからこの時勢に投合したものとして考へ得られよう。さすればかういふ世の中に、人間生活を離れた境地を得てそこに長生しようといふ神僊説が弘まつたのも、理由の無いことではなからう。阮籍がその詠懷の詩に於いて神僊を尚慕し、隱士の幾人かが僊術を學び、少しく時代は後れるが、宋の謝靈運が山居賦(宋書本傳所載)に於いて黄老の説と隱逸の思想と神僊説と佛教とを結合してゐるのでも、この間の消息は覗はれる。民衆の間に巫覡が信ぜられ、種々の呪術祈?が行はれてゐたのは、昔から變らぬことであるが、それがこの時代に於いてもし士人の思想をも支配してゐたとすれば、それは後漢書の方術傳や晉書の藝術傳に見えるやうな種々の方伎の流行と相まつて、明かな理智と堅實な意志とによつてまじめな生活をうち立ててゆく意氣が無くなり、全體に一種の頽廢的氣分が當時に漲つてゐたことを示すものであつて、それにはまた落つきの無い、物騷しい、動亂の世、特にシナの半分が北狄の馬蹄に蹂躙せられ、シナ人の誇りがひどく傷けられながら、それを如何ともすることのできなかつた、世の中の影響があるかも知れぬ。さうしてかういふ巫覡の方術に神僊説が結合せられてゐたのである。が、これにはなほ幾多の疑問もあるので、當時のシナ人の生活を精細に考へ且つそれを前後の時代のと比較して、そこに著しい差異を看取した上でなければ、輕率に概論し去ることはできない。だから余はこれらの點については且らく臆見を述べることを控へておく。余の考へようとするのは、それよりもむしろ、上に約説したところによつても知られるやうな神僊説とその變遷の徑路とが、シナ思想史上の一現象として如何なる意味を有するかの點にある。
 上に述べたところを囘顧すると、僊道といふやうなものは、殆どその最初から純粹な形に於いては存在しなかつた(312)ことがわかる。僊術といふものが考へられてゐながら、それだけの獨立したものとしては主張せられず、或は呪術祈?と結合し、或は道家の理説を援引し、いろ/\な異分子を伴つて世に現はれたのであるが、後になるほどさういふ異分子が多くなつて來る。これは一つは、不死も昇天も事實としてあり得べからざることであり、從つて僊人といふものも現實には存在しないものであるから、僊術と稱するものをそれだけで唱へるのは明白な虚僞を傳へることになるので、それが行はれ難かつたのと、一つは、不死昇天そのことが現實の人生に切實なことではなく、從つてさういふ欲求がまじめにもまた強くも起らなかつたので、おのづからもつと實生活に接觸を有する何ものかをそれに結合することになつたのとが、主要なる理由であらう。一般の民衆からいへば、僊人になることよりも呪術や祈?によつて禍を去り福を求める方がどれだけ切實であつたか知れない。ありさうにもない芝藥を求めたり、できさうにもない金丹を作るよりも、符水によつて目前の病を癒す方が必要である。同じ不思議なことを見ようとするにも、話にばかり聞いてゐる白日昇天よりは、もつと手ぢかな幻術の方が興味があらう。僊道が僊道のみで立ち得ないのは當然ではないか。たゞかういふ見えすいた虚僞、實生活とは交渉の無い空疎な話が、事實として存在するが如く、また人生の大事であるが如く、鼓吹せられ宣傳せられたところに、シナ人に通有な思想の一面が認められる。てうど同じ時代に盛に行はれた圖讖の説、休祥符瑞の談も、やはりこれと同じであつて、世の治亂なり政治の善惡なりは、事實が事實として明かに認識せられてゐるにかゝはらず、毫もそれを顧慮せずして空虚な休祥を説くのである。儒教の政治道徳論の如きも一面の意味に於いてはやはり同樣であつて、その根本をなす天命説も、禮樂制度についての理説も、現實の事情や状態とは殆ど接觸が無い。だから神僊家が世を欺くと同じ心理で、簒奪者を謳歌したり王者に媚びたりする學者(313)も多く出る。勿論、かういふ言説の主なる動機は彼等の私心、彼等の名利欲にあるが、單にそれを思想として見ると、それにも一つの意味がある。それは何かといふと、彼等に於いては實生活と知識とが別々に存在し、實生活から遊離してゐる知識が知識だけの世界で極めて放縱な活動をすることである。實生活の變化を要しない、或はそれを欲しない、また或はそれのできない、社會に於いて、何の點かに智力または知識をはたらかせようとするからでもあらうか。しかしそのはたらかせかたは、放縱ではあるが自由ではない。或る思想が一たび形成せられると、それで型が決まつてしまひ、そこから論理的に新思想の展開せられることが無い。實生活と交渉の無い知識であり、實生活そのものに變化の無い社會であるから、生活の展開に伴つてそこから新思想が發生することの無いのは固よりである。儒家も道家も一旦その型がきまるとそのまゝに後まで傳はる。だから思想の變化は、たゞ型にはまつてゐる在來の種々の思想を種々に結合混和することによつてのみ生ずる。さうしてその結合法が極めて放縱なのである。だからシナの思想には變化はあるが發達と展開とは無い。シナ人の思想の論理的でないことは、殆ど比喩と聯想とを以て成り立つてゐるその文章、毫も組織の無いその著書を見ても知られるが、順序を追うて觀念が縱に展開せられる代りに、雜多の觀念が横に連結せられる。陰陽五行説があらゆるものに附會せられ、天文暦數易占などがさま/”\に混合して、奇怪な思想を形づくつたのも、畢竟この故であつて、些少の觀念の類似をたよつて、際限なく種々の事物や思想を結合するのである。さうしてこのことは、神僊説もしくはそれに關係のある種々の思想の變遷に於いても、また認められる。神僊説に道家の思想の結合せられたのも、道家の思想と五行説とが同時に呪術に附會せられたのも、老莊の言と易とが混同して考へられたのも、種々の方技が互に關聯して説かれてゐたらしいのも、みなそれである。こゝに思想の上か(314)ら見た神僊説の變化の意味がある。もつともこれはおほよその概觀であつて、細かく考へるとさうばかりいひ難いこともあり、神僊説についても、天僊の外に地僊があるやうに説かれたり、不死を求めながら昇天を欲せざる思想が生じたり、または新しく金丹效用説が出たりするやうなことはあるので、それには上に述べた如きそれ/\の事情があるから、これらの點に於いて神僊説そのものの一種の發達が認められないでもないが、神僊思想の全體から見ると、これらは何れも局部的の話である。地僊があるにしても眞僊は天僊であり、不死を得たものは人間に留つてゐても終局には昇天すべきものと考へられ、金丹の效能が説かれても古來の僊術や服餌が棄てられたのではないからである。
 神僊説にはかういふやうに種々の思想や方術が附會せられたり結合せられたりしたのであるが、その根本が不死と昇天とにあることは始終變らないから、そこに識者から不經を以て目せられ虚僞を以て斥けられる理由がある。漢書の郊祀志に見える谷永の上言にそれを迂怪とし、王充が論衡でその虚僞なるを極論し、下つては魏文帝の典論や曹植の辯道論にもその愚謬が指摘せられ(51)、武帝は善哉行に於いて「痛哉世人、見欺神仙、」といつてゐる。呉の虞翻もまた「世豈有仙人也」と嘲笑した(呉志本傳)。「神仙愚惑、如繋風捕影、非可得也、」(華陽國志の漢中士女志)といふのが、少しく考のあるものの一致した意見であつたらう。また楊雄(法言君子章)、桓譚(弘明集卷五所引新論)、荀悦(申鑒俗嫌章)、なども、或は生あるもののかならず死あるを説き、或は導引呼吸の如きは眞の養性の道にあらざるを論じて、何れも神僊説を非としてゐる。「萬載更相送、聖賢莫能度、服食求神仙、多爲樂所誤、不如飲美酒、被服?與素、」(文選に見える古詩十九首の中)といふものさへあつたではないか。晉代になると、さういふ反對論は多く聞えないやうであり、詩人の如きもむしろ神僊を詩材として利用するものが多かつたが、さうしてそれは神僊説の流(315)行を語るものではあるが、上に説いたやうに黄老の徒や隱逸の士に於いてすら神僊を信じないものが多かつた。南北朝時代になつても、例へば宋の顧凱之の定命論などは、穩和な口調ながら神僊に反對してゐる(宋書本傳)。
 けれども、それにもかゝはらず神僊説は世にもてはやされ、佛教に對抗して起つた道教もそれを取り入れたのである。それは一つは得難きものを得んとする願望が人の生活の奧底に潜んでゐるので、神僊は恰もそれに應ずるものであつたからでもあらう。既に述べた如く、長生不死といふことが、よし實生活の上から痛切に欲求せられるものでないにしても、少くも人の興味をひく所以であつたからでもあらう。現實主義、物質主義、肉體本位、のシナ人に於いてはなほさらである。が、知識社會に於いては、それに一種の美しさを認めたこともまた一原因であつて、詩人が好んでその題材としたのは主としてこれがためであり、さうしてそれもやはりシナ人特有の趣味の上から來てゐる。霞を餐ひ露を吸ふといひ、薛羅をまとひ?衣をきるといひ、藥を白雲の裡に采るといひ、人間ばなれのしたその生活と境地とを喜んだのである。史記の司馬相如傳に「列僊之傳、居山澤間、形容甚?、」とあるのを見ると、後世に清?鶴の如しといふやうな形容があると同じやうに、僊人の風姿は早くからかう考へられてゐたらしいが、それもまた身體の上に於いてできるだけ人らしい分子を取除けたことを意味するものであらう。「道人讀丹經、方士錬玉液、朱霞入??、曜靈照空隙、」(江淹)、修道の士さへも人の世の風塵に汚されないけだかさがあるとせられた。これは遠く人寰を離れた山水を愛し、世に背いた隱逸の士を高しとし、また江湖に放浪するを讃美するのと同じ趣味であつて、「一朝棄妻子去九江」と傳へられたものを僊人と思ふのも、これがためである(漢書梅福傳)。いはゆる道士や隱逸の士などが、事實、如何なる生活をしてゐたかは別問題として、思想の上ではかう見られてゐたのである。が、人間ばな(316)れがしてゐるだけに、さういふ僊人は甚だつめたい。冬の夜の月の如き感じがする。人らしい温かみと和らかみと潤ひとが無い。我々から見ればあまりに懷かしみが缺けてゐる。生き/\した氣分のないことは勿論である。蓬莱や崑崙の僊郷が人の近づき難いところであるのは當然だとしても、人の住むを欲するところとして心をひくことの何も無いのを見るがよい。そこには金銀の宮闕があり五城十二樓があるとはいふが、花も咲かず、鳥も啼かず、瑤臺いたづらに白露の冷かなるを見るのみではないか。それは恰もシナ人の尚慕する自然界がたゞ青山白雲のみであつて、色もなく香もないのと同樣である。さうして、本來人として長生してゐるべきはずの僊人がかういふ性質のものであり、かういふところにゐることになつてゐる點に、シナ人の人生觀があるのである。
 それは何かといふに、實生活に於いて極度に現實本位であり物質主義であり、從つて利己主義であり、名利の他に念の無い彼等が、その現實のあまりの醜さにえ堪へずして、思想の上でその反對の境地を想像し、それを尚慕の的としたことである。シナ人にとつては、その現實本位物質主義の生活をそのまゝに肯定するか、然らざれば思想の上に於いてそれを否定するか、この二途の外に考が無い。一般人はかくの如き生活によつてその自我を擴大せんとし、それがためには何事をなすをも憚らない。それから生ずる弊を救はんとして起つたのがいはゆる教であるが、政治的もしくは社會的規制によつて外部からこの生活を秩序づけ、社會全體を組織だてることによつて、その弊害を緩和しようとするのが儒教であり、かくの如き生活によつて自我を擴大せんとすることは却つて自己の生存に危害を招くものであるとし、同時に儒教の説く如き外部的規制は人性の自然を損するものであるとし、社會全體よりは個人に重きを置いて、一身の安全を圖るがために社會生活から退避すると共に、自我を最少限度に抑止しようとするのが、道家で(317)ある。何れにしても、硯實主義物質主義の基礎の上に立つて、それを肯定するものである。現實の生活そのものの内部から何等かの理想を造り出し、それによつてこの現實を精練し一段高い生活をそこから展開してゆかうといふのではない。たゞ道家の消極的利己主義消極的物質主義を、論理上、極度に押しつめると、その生活の方式に於いては、究竟は我なく物なきところに至らねばならぬ。いひかへると現實生活の否定に移つてゆかねばならぬのである。しかし人生觀としては決して人生そのものを否定するのではない。むしろ物質的生活と肉體的生命との保存が根本の、或は終局の、目的であるので、さういふ生存のために、物質的欲望を極度に制限し生活の内容を極度に稀薄にするを要する、と説かれるのである。さうしてそれを象徴するものが露を飲み霞を食ふ神人であるとせられる。霞を食ひ霧を飲んで生きてはゐるが、やはり人ではある。人ではあるが人間性の最も乏しいものである。現實生活を肯定せんとする現實の要求と思想の上に於いてそれを否定せんとする傾向とが、奇怪な形で結合せられたため、かうなつたのである。從つて彼等の考は生活するための生活、生存するための生存、といふことに歸着するので、その點に於いては儒教の根本思想と同樣である。そこに生活の意味を高め或はその内容を豐富にしようといふやうな欲求の無い、またはロマンチックなあこがれの無い、シナ思想の通相があり、それが即ち現實主義物質主義の生活觀をなす所以でもあるが、たゞ道家の思想はその現はれかたに於いて一般人の現實生活から遠ざからうとするのであるから、そこに隱逸といふやうな風習と契合する點もあり、世を離れて自然に親しむといふ考と調和するところもある。(道家の思想の一面には世に處して世に離れるといふ態度も存在し得るので、我なく物なき境界は世に處し身を保つについての心のもち方としても考へられる。滄浪の水、清まば以て我が纓を洗ふべく濁らば以て我が足を濯ふべし、といふ心境、物に(318)應じて凝滯せざる態度、がそれであつて、竹林の徒の處世觀はそれがやゝ横みちに外れたものである。道家の理想は實現し難いものであるから、現實の生活に於いては隱逸となるか竹林の群に入るか、何れかの途を取るのが自然の趨向であらう。)
 ところで、神僊思想の根本をなす不死の觀念は、人の肉體的欲求の滿足を無期に享受しようといふところから來るのであつて、それもまたやはりこの現實主義から生まれたものであるが、それと結合せられた昇天の觀念は、却つてこの欲求を根本から却けることになるので、そこに道家の思想と接觸する點があり、僊人に上記の神人と一致するところがあるが、知識社會の僊人を讃美するのは主としてこの一面に於いてである。神僊家が道家の説を援引附會するのも、またこれがためであらう。知識社會に尚慕せられる僊人が人でありながら人間性を失つた冷たいものであるのは、當然といはねばならぬ。かういふ意義での僊人は昇天する點に於いて人以上のものではあらうが、それは人としての内容の無い、空しき形骸である。しかしそれでは一般民衆の欲求とあまりに懸隔がある。不死の觀念の由來するところともまた矛盾する。そこで神僊説が他の一面に於いて eroticism の色彩を與へられたり、房中術などが入つて來たり、または世間的生活と種々の點で結合せられたりして來る。が、かうなると僊人は全く現實の生活に於ける人そのまゝである。神僊家はこの矛盾した兩面を何等の媒介もなく卒然として結びつける。それは恰も極度の物質主義的生活とそれを否定する思想とが、或は仕官を目的とする思想と隱逸主義とが、竝存すると同じであつて、僊人といふ觀念を形成する不死と昇天との二要素が實にこの矛盾した二面を象徴するものである。現實生活と知識との背反、實利主義の生活をしながら思想の上でその反對の境地を尚慕し、それでありながら現實生活を事實の上で肯定してゐ(319)る、シナ人の生活態度を最もよく表現してゐるものが、この神僊説なのである。さうしてその本質が昇天でなくして不死であるのは、硯實的であり物質的であり肉慾的である彼等の實生活から來てゐる。神仙傳の彭祖や白石先生の主張の現はれたのは、即ちそれを示すものに他ならぬ。
 神僊思想の知識社會に喜ばれた理由を考へてゐた余は、何時のまにかその思想の由來が現實本位であり物質主義であり肉體の生存を究寛の目的とするシナ人の人生觀にあることを、述べねばならなくなつてしまつた。前にも説いた如く、人生が死によつて全く斷絶せられるやうに思ふことを欲しないのは、すべての人類に通有な傾向であるが、他界に於ける生活などを想像しないで、現世に於ける肉體のまゝの永存を希求する考の起つたのが、シナ人の特性であつて、それは實に彼等のかういふ人生觀に基礎があるのである。シナ人の間に高い意義での宗教が發達しなかつたのも、神僊説がその本質に於いて宗教的性質を有つてゐないのも、また同じ思想の傾向にその遠い一淵源があらう。民間信仰としてはシナ人とても靈魂の存在は認めてゐたらしいが、そのゆくへについて確かな思想が形成せられず、他界の觀念も發達しなかつた。知識社合の思想に於いても、道徳的因果は過去世や未來世との關係に於いてではなくして、祖先と子孫との間に行はれることになつてゐる。世を主宰するものは帝王であり、人を支配するものは父母であり、すべてが現世に始終し、あらゆることが人と人との關係で規定せられる、とするところに、現實の人間生活を究竟のものとするシナ思想があるので、神僊説もまたその一面の現はれに他ならぬのである。人生には限りがある。人は死なねばならぬ。これが人の運命である。さうして、限りなき生を欲する心を限りある生に包んで免れ難きこの運命の威力に服從してゐるところに、久遠なる神を求むるの情、不滅なる宇宙に對する敬虔の念、がおのづからにして(320)湧く。宗教家はかういふであらう。みづからこの身の不死を欲し壽を天地と等しくせんといふが如きは、かういふ宗教思想から見れば、神に對し宇宙に對する大なる冒?でなければならぬ。敢て不死を求めんとするシナ人は人の力の限りあることを知らないものではあるまいか。必しも生命に關してばかりではなく、あらゆる點に於いて人生は缺陷に充ちてゐる。むしろ缺陷そのものである。道徳的にいへば罪惡を離れ難い。切實にこの缺陷を體驗するものにして、始めて神を思ひ、神の救濟を思ひ、或は何等かの意義に於いての解脱を思ふ。宗教家はまたかうもいふであらう。あるがまゝの人生を無上のものとし究竟のものとするシナ人にはこの宗教心が無いではないか。道家は人を自然に合致させようといふ。さうしてその根柢は人の本質を自然そのものとするところにある。彼等も自然に對する人爲を認め、それを以て自然を損するものとする。しかしその人爲が如何にして發生したかは考へられず、さうしてそれを人の本質、もしくは人から離れ難いものとはしない。彼等の考では、人と自然との合一、もしくは自然への復歸が、現實の生活に於いて何等の神秘なしに行はれ得るものとせられる。從つて彼等は自然と人との間に超え難き限界のある事を認めない。自然、宇宙、もしくは神、と人との間に存する限界を認めながら、何等かの超越的境地に於けるその合一を思ふところに宗教があるとするならば、道家の思想が宗教的でないことは明かであらう。さうしてそこに天地と壽を同じくしようとする神僊説とおのづから相通ずるところのある道家の一面があり、人生そのものに缺陷のあることを認めないシナ人の特性が現はれてゐる。生命の問題について道家が死を以て自然に歸するものとするのも、實は人生の限りあることに不滿足を抱かず悲哀をも感じないことを示すものであつて、それが不死の欲求と反對であるのは、同じ根から出たことでありながらたゞ異なつた方向をとつたからに過ぎない。何れにしても現實の人生を究竟のもの(321)としてゐるのである。さうしてこの點では儒家の思想とても根本に於いて違ひが無い。天とか命とかいふ觀念があつて、それが生死を支配するといはれもするが、その天にも命にも安んじて服從する、否むしろあるがまゝの人生が天であり命である、とするところに、人生を超越しようとする欲求、人生以上の境地に對する尚慕の情の無いシナ人の特色がある。「樂天知命」(易繋辭傳)といふ樂觀主義が即ちそれではないか。さて宗教の發達しないシナ人に於いては、道徳は全く人と人との關係、即ち社會的規制として考へられるのであるから、さういふ規制を否認しようとする道家の道徳觀念が極めて空疎であるのは當然であつて、彼等の考は、それが實踐的に取扱はれる場合には、結局、一種の利己主義に落ちつく外は無いが、神僊思想とてもその根柢が自己の肉體を永存させようといふ欲求にあつて、そこに何等の社會的意義も無い以上、それが宗教的でないと共にまたそれに道徳觀念の存在しないのも、怪しむに足らぬ。神僊郷も天上の世界も道徳的には無意味であるではないか。たゞ僊術が一種の修養として見られる點に少しく道徳觀念と接觸する點があり、また天上に官僚組概が現はれると共にそこに人界の道徳が反映せられもするので、謫僊といふやうな觀念も生じて來たのであるが、それとても見るべき發達を遂げずにしまつた。さうしてそこにもまたシナ人の實生活の一面が反映してゐるのであらう。勿論シナ人とても低級な殆ど原始的ともいふべき宗教は有つてゐたので、巫覡の徒が勢を振ひ、神僊説がそれに附會せられ、さうして道教がそれを基礎として成立したのであり、またその道敦が何等かの教團組織を有する以上、そこに道徳的規制も附加せられてはゐるが、しかしその實質がどこまでも消災度厄の呪術祈?であつて、それより上に進んでゆかなかつたところに、シナ人の宗教思想の特色がある。さうしてその道教が神僊説を取り入れたのも肉體の永存を意味する不死の希求に人の心をひく點があるからであつて、イ(322)ンド傳來の佛教に對しシナの民族的宗教として道教を成立させるには、それが最もふさはしかつたのである。
 
 注
 (1) 通行本の列仙傳にはこの語が見えないやうであるが、李善の引いたところに誤はあるまい。
 (2) 神僊に關する書物は抱朴子の所々に引用せられ、また遐覽篇には一まとめにして數多く列擧してあるが、どれだけ眞にあつたのか、甚だ疑はしい。
 (3) 水僊の外に火僊といふものがある。白澤圖(史記封禅書索隱所引)に「火之精曰宋母忌、蓋其人火仙也、」とある。魏志の管輅傳に「宋無忌之妖、將其入竇也、」とあるを見ると、火僊といふのは火に縁のある鬼神のことらしい。文選の郭璞の遊仙詩の李喜の注に引いてある遁甲開山圖榮氏解といふものには、木仙、火仙、金仙、水仙、土仙、の名が五龍にあててあるが、これもいはゆる僊人のことではない。僊といふ名稱がいろ/\に利用せられたのであらう。ついでにいふ。宋母忌は封禅書に燕の方士の名としてある。どうしてそれが「火之精」になつたのか、わかりかねる。
 (4) この文の「去人不遠」の下の「患且至、則船風引而去、」と「臨之」の下の「風輙引去」とは重複してゐる。漢書の郊祀志には前のを削つてそれを後の方に結びつけ「臨之、患且至、則風轍引舶而去、」に作つてあるが、さうすれば意義はよく通ずる。しかしこれは、今傳はつてゐる封禅書の文に錯亂があると見、もとは郊祀志のやうであつたと解すべきものかどうか、問題である。余はむしろ、封禅書の文に重複したところがあるやうに見えるのは、二つの史料を結合したがために生じたことであらうと思ふ。?衍のことのニケ處に出てゐて而もそれが僊人の問題と如何なる關係があるのか不明であり、また齊の威宣二王の名が兩度書かれてゐるのも、やはり同じ事情から來てゐるらしい。
 (5) 多くの本にはこの「僊」が「仙」になつてゐるが、余は前に本文に述べたやうな理由で、もとは「僊」の字であつたらう(323)と考へる。
 (6) 「莊子」に收められてゐる諸篇は戰國末から漢代にかけての述作である。「道家の思想と其の展開」第一篇第二章參照。
 (7) 郭璞の遊仙詩の李善の注に引いてある魏の文帝の典論に、不死の國を丹谿といふとあるのは、遠遊に見える羽人の國の丹丘から轉じたのであらうか。拾遺記(卷一)にも丹邱之國があるが、これは不死民にも羽人にも關係が無い。
 (8) 今日傳へられてゐる「列子」は前漢時代に書かれた部分と晉代に記された部分とを含んでゐる。「道家の思想と其の展開」第一篇第四章參照。
 (9) 高唐賦は果して宋玉の作であらうか。太一を祭ることが見えてゐる一事だけでも頗る疑はしい。太一の祭祀は漢代になつてから始まつたのではあるまいか。
 (10) 神人と僊人とが同意義に用ゐられてゐることは鏡の銘でも知られる。例へば「上大山見仙人、食玉英飲?泉、駕交龍乘浮雲、……」といふのと「上大山見神人、食玉英飲?泉、駕交龍乘浮雲、……」といふのとを對照して見るがよい(金索)。
 (11) 後のものではあるが、拾遺記(卷三)に扶桑の東の條陽山に神蓬を出すといふ話のあることも、參考せられる。
 (12) 「列子」の製作年代については「道家の思想と其の展開」第一篇第四章參照。ついでに附記する。史記の封禅書に太液池のことを記し「中有蓬莱方丈瀛洲壺梁、象海中神山龜魚之屬、」とあるが、この中の壺梁の意義が余にはわかりかねる。「龜魚之屬」としては解せられないやうであるが、蓬莱などと同じやうな神山の名としては他に所見が無い。なほ漢書王莽傳に「蓬莱東南、五城西北、昭如海瀕、」から來たといふ巨人の話がある。五城も昭如海も恣に作つたものではあるが、蓬莱にいろ/\の空想の土地が附加せられ得ることは、これでもわかる。五城は封禅書に「黄帝時爲五城十二樓、以候神人、」と見えるのに由來がからうか。後には崑崙山に五城十二樓があることになつてゐる(泡朴子など)。
 (13) 離騷が果して屈原の作かどうかにも、種々の疑があるが、早くとも戰國末のものとしてこゝには引用する。なほ「道家の(324)思想と其の展開」第五篇第二章參照。
 (14) 山海經が漢代からあつたことは、その名が漢書藝文志にも見え、論衡(龍虚、説日、別通)や後漢書(王景傳)にも記されてゐるので明かであるが、今傳へられてゐる山海經がそれであるかどうかは問題である。今の山海經は、東西南北中の五山經と海外、海内、大荒、の諸經及び海内經とが、それ/\異なつた意圖の下に書かれてゐて、その間に統一が無く、また互に重複し齟齬しもしくは矛盾してゐる記事が多いことから考へると、長い年月の間に漸次に繼ぎ足されたものらしい。多分最初の五山經が本であつて、それはほゞ漢代のものであり、海外輕以下はそれより後の作ではなからうか。海外といひ海内といふ意義すらも明白でなく、またその一々の記載も甚だ混雜してゐて、作者が世界の如何なる圖形を思ひ浮かべてゐたか、想像し難いが、これも幾度か無意味に手が加へられた故かも知れぬ。なほ史記五帝本紀の集解に引いてある海外經、大宛傳の正義に記されてゐる大荒西經などの文が、今の山海經には見えないことも參考せられる。
 (15) 焦氏易林は漢の焦延壽の著といはれてゐるが、史記と漢書との儒林傳の延壽のことを書いてあるところには、易林といふ著書のあることも見えず、漢書の藝文志にもこの名は出てゐない。内容から考へても前漢時代の作としては疑がある。しかし西王母の名がしば/\現はれてゐながら、東王父の一つも見えないことから考へると、この二つが相對して盛に用ゐられた時代のものではないらしい。且らく舊によつて前漢末ころの作と見なしておく。
 (16) 列仙傳は普通に劉向の著とせられてゐるが、これは疑はしい。漢書の劉向傳に向が洪範五行傳論、列女傳、新序、説苑、を著したことは見えてゐるが、列仙傳を書いた話は無い。また藝文志にも劉向五行傳記、劉向所序(新序、説苑、世説、列女傳頌圖)、劉向説老子、の名はあるが、列仙傳は出てゐない。さうして本傳によつて向の閲歴と思想の傾向とを察すると、成年の後には僊術の方面に力を入れたとは推測し難いやうである。しかし抱朴子(論僊)には劉向が列僊傳を書き七十餘人の僊人の傳を輯めたことが見えるから、葛洪の時には今傳へられてゐる列仙傳が劉向の著として信ぜられてゐたらしい。(顔氏家(325)訓書證篇によると向の造つたといふ列仙傳の人數は七十四人らしく、今の本とすこし違ふが、幾分の出入はあつても、大體は同じであらう。章懷大子の後漢書の注、李善の文選の注、などに引用してある列仙傳の章句を今の本に比べて見ても、それは知られる。)さうして楚辭の天問の王逸の注や應邵の漢書音義に列僊傳が引いてあるのを見ると、多分後漢時代の何人かの編述であらう。それを劉向に附會したのは、向が少時黄白の術に心を傾けたといふ本傳の記事があるからではあるまいか。説郛に收めてある列仙傳の序文はこの劉向傳の記載を節略したものである。
 (17〕 地理志の崑崙山祠は崑崙山そのものをさしたのか、崑崙山の神を祠るところか、不明であるが、弱水と竝記してあるところを見ると、山そのものをいふのであらう。しかし地理志にかう書いてあつても、それが實在の某の山をさしたものであるといふ證據にはならぬ。次の本文にいふやうにこれと同じ條には「西王母石室」といふものが出てゐるほどである。史記の大宛傳によると、武帝の時に行はれた張騫の遠征以後でも、昔から言ひ傳へられた崑崙の所在がわからなかつたといふではないか。だから臨羌縣の西に崑崙や弱水があるといふのも、よいかげんの想像であつて、山も川も確かに指すところがあつてのことではあるまい。なほ地理志の敦煌郡廣至縣の條に「宜禾都尉、治崑崙障、」とあるが、同じ崑崙が方角も違ひ距離も近からぬ金城郡の西方の山と敦煌郡の障塞との名になつてゐるのでも、漢代に於ける崑崙の稱呼が現實の地理から離れてゐることを知るに足りよう。さうしてこの崑崙障もたゞ昔から西方にあるといふ崑崙の名をとつてつけたに過ぎなからう。淮南子の墜形訓に「西北方之美者」として「崑崙之球琳琅?」を擧げてあり、爾雅の釋地にも同じことが「崑崙虚之?琳琅?」と書いてあるのを見ると、崑崙は玉の産地として昔からいひ傳へられてゐたらしいが、禹貢には球琳琅?が雍州の貢となつてゐる。ところが玉の産地の最も有名なのは于?地方であつて、美玉はその方面から將來せられたのであらうから、それを崑崙としたのも、雍州としたのも、たゞその玉の輸入者、もしくは最初に手に入れて中原に運んで來るシナ人、の住地をいつたものであらう。さうしてその崑崙がどこであるかは、中原の知識社會に於いては恐らくは明確に知られてゐなかつたらう。爾雅の釋水に見える(326)やうな、河源が崑崙であるといふ話も戰國時代からあつたであらうが、現實の地理的知識としてはその河源の觀念も漠然たるものであつたらう。崑崙が空想的の山の名に發展して來たのも實はこれがためである。さうして張騫の遠征以後も有名な崑崙の所在は終に明かとならず、空想的の山としてのみ人の知識に存在し、またそれがいろ/\に變化發展してゆくのである。(ここにいふのはシナ人の知識としての崑崙のことであつて、崑崙そのものについてのことではない。)
 (18) 西王母のことについての「列子」の記載には神僊の文字が見えないが、これは西王母が神僊化せられない前の書から寫し取られたからであらう。「列子」には「莊子」や「墨子」や淮南子などの文をそのまゝに、または幾らかの變改を加へて、取つてあるところが少なくないことを考へるがよい。なほ本文に記したことから推測すると、「列子」のこの篇は晉人の手になつた部分ではあるまいか。
 (19) 後漢書の方術傳には正史としては體を失するやうな奇怪な記事が多く、上成公傳の如く僊人となつて白日上天したといふやうな話さへも載つてゐるし、またこの書の編纂せられたのが後の劉宋の時代でもあるから、その記載を後漢時代の思想として解するには、幾らか躊躇せられる點が無いでもないが、しかしそのうちの王喬のことが風俗通に出てゐて文章も殆ど同一であり、また王和平の傳を魏の文帝の典論と比べて見ると、その一節をそのまゝに取つたことが明かに知られる如く、今日出所のわからぬものも後漢時代の典籍によつたのであらうと思はれるから、上記の如く解しても大過はあるまい。この卷の卷首に列擧してあるやうな種々の方術の盛に行はれた世に、かういふ思想があつたとしても怪しむべきではなからう。
 (20) 龍魚河圖に「天遣玄女、下授黄帝兵符、伏蚩尤、」とあるのを見ると、天女には玄女といふ名もあつたらしい。これは天を玄天といふ如き意義から來た稱呼であらう。
 (21) 抱朴子(微旨)や神仙傳(劉根の條)に見える三尸の説も、この五色五倉の説と同じやうな考から來てゐるらしい。
 (22) 文選の郭璞の遊仙詩の李善の注に「道家之言、鶴曲頸而息、龜潜匿而噎、此其所以爲壽也、服氣養性者法焉、」とあり、抱(327)朴子(對俗)にも導引呑氣は龜鶴を學んだものだといふ説が見える。導引呼吸の法の如何なるものであるかは、これでも知られよう。
 (23) これは今の流布本の漢武帝内傳には見えない。随書經籍志に漢武帝内傳三卷とあるが、今本は三卷とすべきものとも思はれぬから、これはもとのまゝの本ではなからう。なほ章懷太子は後漢書の華佗傳に附載せられてゐる魯女生の條及び甘始傳の東郭延年、卦君達、の條にも同じく漢武帝内傳を引いてゐるが、これも今の本には無いことを考へねばならぬ。しかし章懷太子の引用文によつて見ると、いはゆる漢武帝内傳には方士もしくは僊人の列傳めいたものがあつたやうであり、現に魯女生の條のは、神仙傳(卷一〇)の所載と一二の文字の變異があるのみで文章は全く同じであるが、かういふものが漢武帝内傳と名づけられた書物に本來あつたとは考へられないやうである。或はかういふものが漢武帝内傳に附載せられ、それがために隋書に見えるやうに三卷となつてゐたのでもあらうか。ついでにいふ、三輔黄圖の甘泉宮の條にもやはり漢武帝内傳として魯女生の一條が引いてあるが、これには節略が加へてある。また王眞や封君達の傳は神仙傳にもあるが、これは上記の引用文とは違つてゐるから、神仙傳といはゆる漢武帝内傳との關係も不明である。
 (24) 水に生の力があるといふやうな考は原始的思想として存在したかと思はれるので、飲めば不死になる靈泉があるといふやうなシナ人の言ひ傳へには、さういふところに一淵源があるかも知れぬ。しかし丹水についてはその名に意味があらうと思はれる。
 (25) 淮南王安が方術の士を招致して内書二十一篇及び多くの外書を作つたこと、また神僊黄白之術を述べた中篇が八卷あるといふことは、漢書の本傳に見えてゐるが、藝文志には「淮南内二十一篇准南外三十三篇」を雜家の中に擧げてあるのみで、神僊家の條にも淮南王の編纂させたらしいものは見あたらぬ。さうして淮南王が神僊を信じたといふやうなことは、史記の本傳は勿論、漢書にも記してない。いはゆる内篇であらうと思はれる現存の淮南子の齊俗訓には、王喬赤松について「乘雲升遐」(328)といふことが記されてゐるけれども、これは當時の僊人に關する知識がそこに現はれてゐるのみであつて、淮南王が神僊を信じたといふ證にはならぬ。淮南王が神僊家であつたといふことは疑はしい。
 (26) 黄帝と老子とを結合して黄老と稱することは史記の申不害傳、韓非傳、竝に孟子荀卿列傳中の愼到の條、などに見えてゐて、漢代に始まつた習慣のやうである。このことについては「道家の思想と其の展開」第四篇第七章に詳説してある。
 ついでにいふ。藝文志の神僊家の書目のうちには、黄帝ばかりでなく、神農、?戯(伏羲)、及び泰一、の名を冒したものもあるが、それは黄帝の名を用ゐたのと同じ意味である。
 (27) 容成子は晉代の符子(玉函山房輯佚書子編道家類)にも僊人とはしてないから、後までもその思想は傳はつてゐたらしい。拾遺記(卷三)の周靈王の條にあるのも僊人らしくない。なほ古く溯つて見ると、容成氏の名は伏羲神農の如き古の天子として莊子の?篋篇に出てゐるが、それとこれと關係があるかどうかわからぬ。
 (28) 枕中書は葛洪の著とせられてゐるが、これは恐くは事實であるまい。廣くいへば六朝ごろの作ではあらうが、僊官の中に鮑??康などの晉人の名が出てゐることを思ふと、これらの人が世を去つてから幾らかの歳月を經た後に書かれたものらしい。また晉書の本傳にも抱朴子の自敍にもこの書の名は見えず、この書に載せてある眞書とか眞記とかいふものも、抱朴子(遐覽卷一九)の道經の名を列記してあるところに出てゐない。しかしその序文ともいふべきところを讀んでみると、かういふ思想のまだ世に周く知られない時分に書かれたものらしく考へられる。老君の地位が釋老志の記事ほどに高くなつてゐないことも、この書の作られた時代がさして遲くないことを示すものであらう。また漢武帝内傳の天官組織はほゞ枕中書のと同じ程度のものらしく、さうして海内十洲記の十洲が漢武帝内傳に説かれてゐることを考へると、この三書は前後して東晉か南朝の初期ごろかに作られたものではあるまいか。なほ海内十洲記が南方偏安時代の作であることは、後にいふやうにその記載の上からも知られる。
(329) (29) 道家の書には假託が多いから、その著作の年代を推考することは甚だ困艶である。弘明集や廣弘明集に輯めてある佛家の著作に利用せられてゐるものも、どれだけの程度で信ずべきものか、それにはかなりむつかしい研究が必要であらう。今はそこまで考へる餘裕を有たないことを遺憾とする。
 (30) 神異經に八方の大荒を擧げたのは、山海經の大荒を四方に置いたのと同じ思想であるが、大荒は本來シナを中心としてその周圍の極めて遙遠な地方を指す名稱であつて、山海經ではなほその意味があるのに、神異經は八方の中心を中荒と名づけてゐるので、それは荒の語の本義に背くものである。しかしその中荒に崑崙があるといふのを見ると、神異輕の世界は崑崙を中心としてゐるものであることが知られるが、崑崙はシナの西方遠きところにあるから、中荒といふ概念にはこの二つの考が寄異な形で結合せられてゐるのであらう。
 (31) 亶州は呉志によると實在の島らしく見える。兵を發してそれを求めさせたといふのであるから、少くとも呉人はさう考へてゐたのであらう。その島民をかの童男童女の後裔としたのは、勿論、古傳説に附會したものであるが、島の名には何か微かな根據があるのかも知れぬ。抱朴子の海中の名山を列擧してあるところにも「會稽之東、翁洲、亶洲、紵與洲、」と書いてあるが、これはたゞ名を取つただけでもあらう。
 (32) 炎洲と聚窟洲とのことが述異記に見えるが、これは多分十洲記から取つたものであらう。また演武帝内傳には同じ順序で洲名を列記してゐながら流と生との間に「光」の字があるが、これは一洲の名であつて洲の數が十一になるのか、但しは「流」につゞいてゐるもので流光洲といふ一洲になるものか、不明である。
 (33) 本文には七宮しか書いてないが、これは傳寫の間に遺脱したものであらう。東北、西南、の二つとそれに應ずる人皇及び天地長女とが無くてはなるまいと思はれる。この九官の考は易の説卦傳に起源を有し、易經乾鑿度の鄭注に於いて太乙の九宮となつて現はれ、それが更に變じてかういふ形をとつたものである。
(330) (34) 本文に扶木の名について一言したが、呂氏春秋(離俗覽爲欲篇および愼行論求人篇)にも古聖王の領土の四境を記して「東至扶木」また「東至榑木之地」と書いてあるところがある。前者は正しくは「東至扶木之地」とすべきものであって、扶木が直ちに地名として用ゐられたのでないことが、後者との對照によつて知られる。扶木もしくは榑木の地は、勿論、空想郷であるが、堯典の暘谷、南交、昧谷、幽都、に先例のある如く、かういふことはしば/\いはれてゐる。
 ついでにいふ。日の入るところとしては、離騷に??山があり(王逸の注による)、淮南子の天文訓に蒙谷(堯典の昧谷)があり、論衡に細柳の名が出てゐるが、これは扶桑とは違って國土には發展しなかった。東方は果てなき大海で、限りなく空想をはたらかせるに適してゐるが、西方にはそれができなかったからであらう。崑崙は早くから空想化せられたが、それは西のはてとはせられず、却つて世界の中心となり、弱水西王母は一たび西極におしやられたことがあるけれども、それも何時のまにか消えてしまひ、さうしてまた日の入る國にはならず、日の入るところは後までも蒙谷などとせられてゐた。堯典の暘谷は扶桑に結合せられたが、昧谷はそのまゝで後に傳へられたのである。
 (35) 山海經の海内北經に列姑射を海中に置いたのも、やはりこの時代の考ではなからうか。姑射之山、南姑射之山、北姑射之山、が東山經の中にあるが、これらは海上とはせられてゐない。それと重複しまた矛盾する海内北經のこの記載は、東山經の書かれたよりも後の増補に違ひない。かういふものが郭璞の前から存在してゐたかどうかも疑はれる。大荒四經に記してある土地が悉く海外にあるやうになつてゐるのは、十洲記の意圖と類似してゐて、海に親しいものの考から出たことらしく思はれる。ついでにいふが、鄒衍の説に於いて九州が海に圍まれてゐるやうになつてゐるのも、また半ば海に圍まれてゐる齊人の考だからであらう。「四海」といふ語もまたかゝる空想的地理志に由來があるに違ひない。
 (36) 神異經には東王父が蓬莱山中の石室に居るとしてあるが、これは列仙傳に見える西王母の石室に對せしめたのであらう。その容姿を「長一丈、頭髪皓白、人形鳥面而虎尾、戴一黒熊、」としてあるのも、山海經に見える西王母から轉じて來てゐる(331)らしい。しかし歴代名畫記に載つてゐる顧ト之の論畫によると、人の形に於いて畫かれてゐる場合があるやうである。
 (37) 雄略天皇の前に現はれた葛城の神の粉本はこれではあるまいか。
 (38) 隋書經籍志の五行の部には「仙人」の名を冠した雜占の書が數種擧げてある。何時ころ作られたものかわからぬが、僊人がさういふ方技に通ずるといふ考はずつと續いて存在してゐたのであらう。もつとも、この經籍志には婆羅門諸仙、西域諸仙、の名を冠した天文醫方の書のあることから考へると、これにはインドの影響も手つだつてゐるかも知れぬ。インドの修行者學者などにシナの譯經者が仙人の稀をあてたことは、周知の事實である。
 (39) 今日傳はつてゐる水經や山海經にはこのことが見えないやうである。ついでにいふ。度朔山の名は正月朔日に桃梗を門に置く習慣から出てゐるのではなからうか。度索と書くのは音通でからう。
 (40) 牟子は漢人といはれてゐるが、これにはいろ/\の問題がある。多分六朝ごろの何人かが古人に假託して書いたものであらう。東洋學報第一〇卷第一號所載「漢明求法説の研究」に見える常盤大定氏の意見參照。
 (41) この李膺は黨錮で有名な人であるかどうか、知らぬ。あの李膺は蜀郡太守に補せられたが、任地にいつたかどうかすら不明であり、蜀記の著があるかどうかもわかりかねる。さりとて他に同名の人のあることも聞かぬ。從つていはゆる蜀記の史料としての價値は判定しかねる。(追補。近刊の福井康順君の「道教の基礎的祈究」に一考説がある。)
 (42) 神仙傳の張道陵の條にも天師のことが見えないから、葛洪のころには張陵が天師の祖であるといふ話が無かつたかとも思はれるが、この書は金丹の效果を説くのが主であつて、必しも世間の所傳を記さうとしたのでないから、さう考へるには及ぶまい。陵を道陵としたのも何かよりどころがあるのか、余はそれを知らぬ。なほ廣弘明集卷一二に載せてある明?の「決對傳、奕廢佛法僧事」に「晉武帝咸寧二年爲道士陳瑞以左道惑衆、自號天師、徒附數千、積有歳月、爲益州刺史王濬誄滅、」と見えるが、これがもし事實であるとすればその地理的關係から考へて、この陳瑞は張魯の五斗米道と何等かの連繋があるかも知れぬ。(332)さうしてそれが天師と稱したことは注意を要する。しかしこの説はたしかな記録に出所のあるものかどうか、余は今それを明かにしないから、參考のため附記するに止めておく。晉書の本紀にも王濬傳にもこのことは見えてゐない。
 (43) 典略には張脩の法として記してあり、裴松之は脩は衡の誤寫だらうといつてゐる。衡は陵の子で魯の父である。しかし張脩といふものも、張魯の時にその部將として活動してゐた實在の人の名であることが張魯傳によつてわかるし、また後漢書の靈帝本紀にもその裴注に引いてある劉艾記にも見えてゐるから、時の中央政府にはこの名がよく知られてをり、張陵から衡魯に傳へられた巫覡の術を脩の名によつていひあらはしたものとも解せられる。それは何れにしても、この典略の記載は陵の術を説いたものとして差支が無いはずである。張魯傳に「陵死、子衡行其道、」とあるから、衡のこととすれば勿論であるが、脩とても陵衡の術を奉じてゐたに違ひない。
 (44) 廣弘明集卷二に載せてある法琳の論中に後漢皇甫嵩傳として引いてあるものには、張角について「行張陵術」といふ一句があるが、現存の後漢書のにはそれが無い。この外にも二三文字の出入がある。なほ張角のことについては後漢書の靈帝紀、楊賜傳、劉陶傳、張讓傳、などにも記事がある。
 (45) 前にも引いた如く廣弘明集卷一二にある明?の論には、陳瑞の話があるが、その他にも晉の文帝の太和元年に彭城の道土盧悚がみづから大道祭酒と稱し衆を聚めて兵を起した、といふことが書いてある。
 (46〕 道家の書に見える張陵の事蹟は種々に修飾せられてゐるであらうから、それによつて歴史的事實を知ることはむつかしい。例へば弘明集に見える玄光の辯惑論によると、陵が昇天したといふ傳説のあつたことがわかるが、これも後の人の構造したことらしい。張陵が佛像を供養し佛經を讀んだ如くいふのも、佛家の造作であらう(廣弘明集卷一一所收、法琳の論參照)。
 (47) 東洋學報第一〇卷第三號所載「道教概説」に見える常盤氏の説參照。
 (48) 甄鸞の笑道論に「老子變形、左目爲日、右目爲月、頭爲崑山、髪爲見宿、骨爲龍、肉爲獣、腸爲?、腹爲海、指爲五嶽、(333)毛爲草木、心爲華蓋、乃至兩腎合爲眞要父母、」といふ道家の言を引いてある。盤古が老子に化けたのであるが、天地に先だつて生れたといふ老子としては、かういふ話の作られるのも當然であつて、こゝでも老子は元始天王の地位を占めてゐるのである。
 (49) 現存の道教の經典などは古人に假託したものが多くその製作年代が明かでないから、この方面の研究をしてゐない余は今のところそれを考慮の外に置く他はない。
 (50) 道教が如何なる徑路で弘まつてゆき、神僊家が如何なる状態でそれに包容せられていつたかについては別の研究を要する。今の余はそれについての知識を有たない。しかしそこに地理的事情もあつて、道教は先づ北方に行はれ、南方では道教の影響を受けつゝもなほそれに入りこんでしまはない神僊家が或る時期の間はあつたのではなからうか、さうして神異經や海内十洲記などのやうなものは、さういふ人々の手によつて作られたのではなからうか、とも臆測せられる。しかしこれとても臆測の程度を出ない。
 (51) 抱朴子(論僊)には文帝も曹植も後には神僊を信じたやうに書いてある。葛洪の曲説であらう。
 
(334)   第一二 唐詩における花と酒と
 
     一 花
 
 東洋人は自然を愛するが西洋人はさうでないといふことが、いつのころからかいはれてゐて、ことによると、今でもさう思つてゐる人があるかもしれない。これはおもに文藝の題材から見たことのやうであつて、シナでは山水畫が重んぜられ、また花鳥畫などもあるが、西洋ではそれが輕くとりあつかはれたり少かつたりするとか、詩にあらはれてゐるやうなシナ人の風月に對する趣味が西洋の文學には見えないとか、さういふところに、この説の根據があるらしい。このやうにいはれてゐるばあひの「東洋」はシナをさしたもの、もしくはそれにニホンを附屬させたもの、と解せられるからである。しかしこれは、ほんとうのことであらうか。またこんなふうに考へてよいのであらうか。ここには、自然の風物において人のこゝろをひくことの最も深い花をよんだ唐人の詩を見ることによつて、それを考へてみようと思ふ。
 しばらくシナを離れて考へると、どこの文化民族の文學を見ても、そこに自然界、特に花、に對する關心のあらはれてゐないものは無い、といつてよいのではあるまいか。インド人が森林に親しみ、そこに咲く花のすがたに深い愛着をもつてゐたことは、人のよく知るところである。自然の風土が奧ふかい森の木をそだて、色の美しく香の強いさ(335)まざまの花を咲かせるのと、人生の或る時期にはさういふ森林のうちに入つて冥想し修行するのが、インドの知識人たるバラモンのおきてであつたのとの、ためであらうか。さうしてそれが文學の上にもいろ/\の形であらはれてゐる。ラァマヤァナにおけるチトラクタの森や、ゴダバリ川のほとりのパンチャバテの森と、そこに咲いてゐるいろいろの花との、描寫がその一つの例である。カァリダァザの戯曲のシャクンタァラ姫の四幕めにある、森のうちで姫の侍女たちが花をつんでゐる場面の美しさは、人々の語りぐさとなつてゐるが、この曲の幕あきの前の序において演ぜられる女優の合唱にも、すでに花の香がたゞよつてゐる。文學史家の説くところによれば、一般にインドの戯曲には、自然の風物や草木の花が曲のうちの人物の心情に及ぼす影響がよく敍してあるといふことであり、また戯曲ではないが、カァリダァザの季節の循環を歌つた詩には、自然の風物と季節々々に咲く花との巧みな描寫があるといふ。文學においてのみならず、繪畫や彫刻においても花をとりあつかつたものはいろ/\ある。また佛教の經典には、天から華のふつて來ることが常に敍してあり、ブツの像に花を供することも一般のならはしであつたし、さういふならはしに本づいて作られたものと思はれる、或る王の後宮の?女が城外に出て採りあつめた花を途中で逢つたブツに捧げた話の語つてある、採花違王上佛授決號妙花經といふものもあるが、これらもまたみなインド人が花を愛するところから來たことである。
 次にヘブライ人の花を愛したことについては、舊約書には多く記されてゐないが、ソロモンの雅歌といはれてゐるものには、野の花(イギリス語譯では rose)、谷の百合の花(と譯せられてゐるもの)、サフラン、菖蒲、葡萄の花、石榴の花、コペル、などが見えてゐるから、これらの花の喜ばれてゐたことは、おのづからおしはかられる。新約書(336)のマタイ傳のよく人に知られてゐる、榮華を極めたソロモンの服装が野の百合の花の一つにも及ばぬ、といふことばにも、このさゝやかな花の清らかな姿をめでるこゝろの深さがあらはれてゐるではないか。ギリシヤ人もまた自然界のさま/”\の現象をこゝろをとめて見てゐたので、古くはホメロスの譬喩のことばにもそれが多くあらはれてゐるが、イリヤスの第一の卷には、美しいいろ/\の花の咲いてゐる軟い草のしとねの上にこがね色の雲のふすまをきて、神の眠つてゐるさまを敍したところがあり、オヂシゥスの第五の卷のカリプソの島の森の、また第七の卷のアルキノユスの園の、敍述にも、いろ/\の木と共に草花の名がいくつか出てゐる。ギリシャには草木の貧しいところも少なくないが、それのよく生ひ立つところもあるので、そのどちらにも花のめでられる事情はある。サッフォの詩に花を咏じたものの多いことは、いふまでもないが、この名だかい抒情詩人の住んでゐたレスボスの島は、花の國といつてもよいほどに、色うつくしきさま/”\の花のさきみだれてゐるところであるといふ。戯曲詩人ソフォクレスのエヂプス・コロネウスに見えるコロノスの森にも、水仙やサフランの花が咲いてゐる。
 さて時代はずつと下るが、しば/\ホメロスと對比せられてゐるスコットランドに傳へられた史詩オシアンにも、自然界の風物を譬喩に用ゐたところ、またそれを寫したところは、極めて多く、その人物はいつでもこの北方に特殊な、明るいギリシヤとは反對な性質をもつてゐる、自然界の何等かの光景のうちで行動したやうに敍してある。たゞそこでは、草をいふことはしば/\あつても、花をいふことは殆ど無いが、これは風土のゆゑであらうか。北ヨウロッパの中世の文學には、この世界に闇い陰鬱の感じを與へることになつたカトリックの教義の抑壓があつてか、自然界を美しく見てそれに親しみをもち花にこゝろをよせたものは少いらしいが、ドイツのミンネジンゲルの歌つたもの(337)のうちには、それがあるといふ。戀には花の色香を思ひよせるのがふさはしいからでもあつたらう。イタリヤでは、ダンテの神曲のプルガトリオの二十八の卷の、清らかな水の流れてゐる川のあなたの木だちもくらき森のうちで、色さま/”\の美しき花をつみつゝ、女が歌をうたつてゐる光景の敍述は、ラスキンがいつてゐるごとく、ホメロスのカリプソの島などの描寫にもとづいたところもあらうが、中世時代にもかういふもののあることを忘れてはならぬ。花をめでるのは人の自然の情でもあるから、文藝の主題が神のこと人のことに集中せられてゐた時代にも、それが全く無くなりはしなかつたのである。さうしてそれには、ラテン語をとほしていくらかは傳へられてゐたギリシヤ文學に關する知識によつて助けられたのでもあらう。だから、ルネサンスの時代に入ると、それがいろ/\の方面に力を得て來たのであるが、キリスト教のほうでも、自然界の美しさを神の力と恩寵とのあらはれとして見るやうな考へかたが、中世紀の末からすでに少しづつ生じて來たので、樂園のありさまをおもひおうかべるにも、そこをさま/”\の花咲きにほふ美しいところとするようになつた。近代に至つては、文學にも繪畫にも自然界の描寫が次第に多くなり、十七世紀には既にオランダに風景畫家の一群が活動してゐたが、十八世紀の中ごろから後に特にそれが著しくなつたことは、今さらいふまでもない。十九世紀の文學と繪畫とから、自然界の描寫を除いたら、少くともこの部面の文藝の幾らかは消えうせることにならう。從つてまた花の翫賞もそこに大切な地位をもつてゐる。これがヨウロッパの近代文藝の一般のありさまである。
 ところで、この近代ヨウロッパの文藝、特に文學に於ける自然界の觀察には、その根柢に汎神論ふうの思想の潜んでゐるばあひが少なくないので、そこに近代人の自然觀の重要なる思想的意義がある。ヨウロッパの近代の汎神論的(338)思想はキリスト教の一神の思想に導かれて生じたものであつて、その歴史的由來をたづぬると、古代のキリスト教神學の或る方面にあるらしく、超越的な存在としての一神の信仰を理論的に説明することになると、何等かの意義で神の内在を考へることになり、從つて思索がおのづからこの方面にむかつて來るのである(それにはギリシヤの哲學思想の影響もあつたらうが)。ところが、かういふ思想が、近代に至つて、思索の深められたことや、知識の廣くなつたことや、自然界の觀察のこまかくなつたことや、または人の思想が中世ふうのカトリックの教義から次第に解放せられて來たことや、それらの事情に誘はれて、哲學や文學の上にもいろ/\の形であらはれることになり、自然の翫賞なり讃美なりにも、それが見られるやうになつた。或は自然の讃美と翫賞とがこの思想を發展させた、といふ一面もあるやうであつて、汎神論的思想に宇宙の美的觀照といふ性質を帶びてゐる側面のあるのは、そのためらしい。從つて花を咏じた詩にも、またその思想のあらはれたものがある。
 花の愛翫はどの民族の文學にもあらはれてゐるが、その愛翫のしかたは民族により時代によりて、それ/\にちがひがある。ベダの讃歌にその芽ばへがありながらウパニシャッドにおいてはじめて形をなしたといふべきインドの宗教−哲學思想にも、また一種の汎神説があり、それから後、それがさま/”\の裝ひをして、バラモン教の正統思想ともいふべきものとなり、いはゆる大乘佛教の一面にもそれは傳へられてゐるが、しかしこのインドの汎神説では、萬法を宇宙精神としての神に歸入させることに重きが置かれたので、そこから萬法は夢幻とせられ假現とせられる傾向が生じて來たり、さういふ考へかたに結びついたりしたので、萬法そのものに神のすがたなりはたらきなりを見、從つて世界と世界のあらゆるものとが生き/\した存在とせられる近代ヨウロッパの汎神説とは、ちがつたところがあ(339)る。從つて自然の讃美も花の愛翫も、かういふ思想とは深いかゝはりが無いことになる。佛教は、その原始的な思想においては、或は根本的には、汎神説とは接觸の無いもの、それとは反對の方向をとつてゐるものであり、從つてまたそれをうけ入れることのできないものであるが、バラモン教もしくはインド教の宗教−哲學思想をとりこむことによつて佛教そのものの思想が變つて來ると、特殊な形をもつてそれが結びつけられることになつた。しかし佛教が宗教化するにつれて、崇拜の對象として設けられたブツの像に花をさゝげることが行はれても、それにさしたる思想的意義はなく、たゞインド人の一般の趣味なり風習なりが佛教の儀禮にも移し用ゐられたまでであらう。またギリシヤでは、そこで特殊の發達をした多神教の思想と同じ精神によつて、またそれと結びついて、自然のいろ/\の姿に人のおもかげを見、花にも木にも人のこゝろもちを與へて見る傾向が強く、その意義で人も自然界のあらゆるものも一つの世界にすむ同類のものとせられたので、花に對する親しみにも、さういふきぶんがこもつてゐたやうである。さてこれだけ見ておいて、シナにたちかへり、唐人の詩について考へることにする。
 唐詩を讀んで第一に氣がつくことは、それにあらはれてゐる花に草花の少いことである。全體に花の種類は多くはないが、そのうちでも草花よりは木の花のほうが多い。その木の花で最も多く詩人の目にとまつてゐるものは、桃李であり、そのほかには梨、杏、櫻桃、海棠、梅、藤、山石榴、木蘭、桐、薔薇、などが、おもにかれらの翫賞に入つてゐる。柳絮楊花もしば/\歌はれてゐるが、楊柳は花よりもむしろその枝その葉が詩人のこゝろを強くひいてゐる。それに對して草花では、菊とか、それについで蘭宸ニかの名が、とき/”\見え、そのほかには芍藥とか蜀黄葵とか杜若とかいふやうなものが、たまにあらはれて來るのみである。まへ/\から詞曲に上つてゐた蓮の花は、唐代でも喜(340)ばれてゐたし、この時代の新しい流行として都人士の心を奪つたらしい牡丹も、植物學的にはともかくも、常識的には、草花のなかまに入れてよからうか。もつとも、百花とか野花とか庭花とかいふ名で總稱せられてゐるもののうちには、何かの草花が含まれてゐるばあひがあるかもしれず、劉禹錫の烏衣巷の詩に「朱雀橋邊野草花」の句のあることも、それについて思ひ出されるが、よしそれにしても、一つ/\の名のとりあげてないのは、さういふものが重んぜられてゐなかつたからでもあらう。詩にあらはれてゐる花はほゞかういふやうなものであるが、陣仲醇の花寵幸に、梅、杏、梨、荷、海棠、桃、李、牡丹、芍藥、芳桂、幽蘭、を擧げ、袁中郎の花沐浴には、梅、海棠、牡丹、芍藥、榴、木穉、蓮、菊、臘梅、の名を記し、また罹?の花九錫には「花九錫、亦須蘭對~蓮輩、乃可被襟、若芙蓉、躑躅、望仙、山木野草、尚錫之云乎、」といつてあるのに、それをひきあはせてみると、シナ人の花の好みがほゞ察せられよう。
 ところで、このように草花の少いのは、一つは、シナに人によろこばれるほどな美しいものが少いからのことらしい。牡丹は新しい輸入品であるし、蓮とても、それがもし??の名で「詩」にあらはれてゐるものであるとすれば、古くからシナにあつたことになるが、果してさうであるかどうかは問題であつて、普通に蓮といはれてゐるものは、やはり後になつて南のほうから入つて來たものではあるまいか。シナにもとからあつたものは菊であるが、これとてもさして見ばえのあるものではなかつたやうであり、多くは瓣の黄いろな、野菊に似たものであつたらう。それが詩人にもてはやされたのは、一つは、九月九日にその英を杯にうかべて飲むといふ、呪術的意義をもつた古くからのならはしがあるため、一つは、後の宋人がそれを花の隱逸なるものといつたごとき特殊の趣味のため、むしろ一種の思(341)想的意義がそれに託せられてゐたためであらう。同じやうに人の目を刺戟する美しさの無い蘭宸フもてはやされたのも、また特殊な思想的意義がそれに與へられたためであることは、いふまでもあるまい。菊にも蘭宸ノも、ほのかな香と素朴なまたは清らかな姿とはあるが、蓮のようなにほひの強さも牡丹のような色のはなやかさもない。牡丹や蓮がよろこばれたのであるから、もしシナに香や色のそれにくらべられるものがもとからあつたならば、それがかならず好まれたにちがひないが、さういふ花か無かつたのである。六朝時代に書かれた南方草木状に「耶悉茗花、末利花、皆胡人自西國移植南海、甫國人憐其芳香、競植之、」といふ記事があつて、それによると、ジャスミンなどの異國の花がその芳香のために喜ばれたことを、考へあはすべきである。潘安仁の閑居賦に庭園の樹木の名がいろ/\記してあるが、草花はほとんど無く、たゞ??が見えてゐるのみであるから、前代の詩人にも草花はあまり目にとまらなかつたらしい(たゞしこの賦には桃李梅杏についても、花よりはむしろ實のほうをおもにいつてあるから、實用的價値の無い草花は植ゑてなかつたかもしれぬが、よしさうであるにしても、草花が賞美せられなかつたことは、思ひやられる)。唐人では李徳裕が嘉樹芳草を集めて庭に植ゑたといふが、その平泉山草木記にも、草花としては、やはり白蓮芳?などがわづかに記されてゐる。嶺表録異や北戸録のやうなものに、珍らしい草木花實のことが記してあるのを見ると、内地においても草花に美しいものがあつたならば、それが人の目にとまつたであらうに、庭園にさういふものが植ゑられなかつたのは、目にとまるほどなものが少かつたためと考へられる。百花とか野花とかいふ語にもし何かの草花が含まれてゐるならば、それは、花ではあるが、特に目だつやうなものではないからのことであつて、一つ一つの名が擧げられてゐないのも、そのためではあるまいか。
(342) しかしまた百花とか野花とかいふことばの用ゐられたのは、花そのものをいはうとするのではなくして、春の風物として、または春の來たことのしるしとして、それを見るところに意味があるからでもあらう。杜甫の麗春の詩に「百草競春華」といふ句があるのは、それを示すものである。もしさうならば、このばあひには、一つ/\の花の名には重要さが無いので、名を擧げないのも、そのためとして解せられるかもしれぬ。のみならず、百花または干花といふような語は木の花を含んでゐる、といふよりもそれをおもにいつてゐるのであつて、いろ/\の美しい花の咲きみだれてゐる春のながめの花やかさを、この語で示してあることが多く、李白の「三月咸陽城、千花晝如錦、」がその一例である。野花の語とても、庭花でない、すなはち栽培した花でない、ものをかういつたのであつて、それもまた一般には木の花をさしてゐる。さすれば名を擧げないのは草花にかぎらないことになる。花とのみいつて何の花であるかを示してないこともまた少なくないが、それにも春の風物として何かの花を見たばあひが多い。杜甫の「無頼春色到江亭、即遣花開深造次、」、王維の「落花寂々啼山鳥、楊柳青々渡水人、」、または白居易の「花時同醉破春愁、醉折花枝當酒籌、」、魏承斑の「一庭春色惱人來、滿地落花紅幾片、」、或はまた韋莊の「嫩煙輕染柳絲黄、勾引花枝笑凭牆、」など、例を擧げれば限りが無いが、どのばあひでも木の花をさしてゐるらしい。杜甫の「多事紅花映白花、報答春光知有處、」のように、色の紅白をいひながら花の名を擧げないこともあるし、杜牧の「千里?啼緑映紅」のごとく、紅の一語で花を示してはゐるが、何の花かを語らないばあひさへある。もつともこれらは桃と李とを、または桃を、暗示してゐるかも知れないが、作者のいはうとしたのがおもに色であることは、詩そのものによつて明かである。元?の「等閑弄水浮花片、流出門前賺阮郎、」のやうに、花とのみいつても桃花であることの明かに知られるば(343)あひもあるが、さうでないことが多いやうである。木の花についてかういふことがあり、さうして木の花には、桃李のごとく、シナ人に愛せられたものがあるとすれば、草花について花の名を擧げないことがあつても、それはかならずしも美しく思はれる花が無かつたからだといふことはできないかもしれぬ。たゞ木の花については、花の名を示してあるばあひも多いけれども、草花については、それが少いといふことは、いひ得られようから、その點で、上に述べたやうなことも考へられなくはなからう。
 なほこのことについては、春の風物として青草(碧草、緑草、芳草、野草、春草、)をいふことが極めて多く、春のしるしはそれにあらはれてゐるやうにいひならされてゐる、といふことをも考へあはせてよからう。一つ二つの例を擧げるならば、李白の「東風歸來、見碧草而知春、」、白居易の「三月草萋々、黄鶯又欲啼、」、杜牧の「暖風芳草竟?綿」、温庭?の「碧草?々晴吐芽」、または韋莊の「自有春愁正斷魂、不堪芳草思王孫、」、などがそれであつて、同じやうなことをいつた句は唐詩のうちには數おほく見いだされる。シナの風土において青草が特にめだち、春の來たしるしとして特に喜ばれるのかと思はれるが、それがこのよなに詩に詠まれてゐることから考へると、目だつ草ばなが多くあつたならば、それがやはり詩人に捉へられたであらうに、さういふようすが見えないめである。また、秋草の花も無くはなかつたにちがひなく、わが國で歌によまれて來たいろ/\のもののうちには、シナにもあるものがあつたはずであるのに、それらが詩に多くあらはれてゐないのは、菊のような思想的意義のあるものは別として、一般には、秋草のやさしい花がシナ人の趣味にあはないからのことではないか、と考へられる。全く無いではないので、例へば杜甫の句の「稀疎小紅翠」は秋の花をよんだのだといふことであるが予それはたぶん草花であらうと思はれる。(344)そのほか、秋草の花らしい白葛花とか紅蓼とかが詩人の目にとまつたばあひもある。(戴叔倫の「日暮秋風吹野花」の野花は草花であるかどうかわからぬ。)けれども、かういふのは稀な例ではあるまいか。もしさうならば、春の草花が詩人の翫賞に入らなかつたのも、また同じ理由からであつて、それはやはり、美しい、花やかな、強い刺戟を與へる草花が、春にも少かつたことを示すものとして解せられよう。
 シナ人の花に對する趣味は、かれらの喜んだ花が、色の美しい桃李、特に紅桃、紅杏、のたぐひであり、花紅柳緑といはれてゐるように、花といへば色の紅なのがそれを代表するものであるがごとく思はれたことからも、知られる。王維のごとき作者の田園の詩にも、紅桃がしば/\用ゐられ、山居のに紅蓮がとられてゐることにも、きがつく。白居易が「一叢千朶壓欄干、剪碎紅?却作團、」といつた山石榴または山躑躅、「殷紅稠疊花」と元?にいはれた紅薔薇、「深淺兩般紅」と唐彦謙のいつた?瑰、また「高低深淺一欄紅」と温庭?に敍せられた牡丹、みな紅い色である。紅蓮が喜ばれたことはいふまでもない。紅にゆかりのある紫にもまたこゝろのひかれたばあひがあるので、紫桐は花やかとはいはれまいが、紫藤花に至つては十分のつやゝかさが見られる。梅にも紫梅と名づけられたものがあつて、それはほんのりとあかみを帶びたもののことらしく、羅隱が「愁憐粉艶飄歌席」といつたのは、この種の梅にふさはしく思はれるが、艶の一語にこの花の情趣があらはれてゐる。桃李の白いのも愛せられたが、それにも、多くの花の咲きそろつたところに、やはり一種のはなやかさがあり、梨でも「林上梨花雪壓枝」の韋莊の句には、同じ感じのあることが示されてゐる。紅緑さま/”\の色を用ゐた家に住み、紅袖緑衣を愛したシナ人が、花についてもかういふ嗜好をもつてゐたことは、自然である。シナ人が蘭や竹ばかりを愛してゐたやうに思ふものが世間にはあるらしいが、こ(345)れほど大きな誤はない。繪畫においても、花鳥を描くのはその艶麗な色を喜んだからである。花そのものがもと/\何ほどかの、または何等かの、美しさをもつてゐるのであつて、花の目にとまるのはそのためであるから、花のうちでもできるだけ美しい、その意味で花の最も花らしい、ものが喜ばれるのは、自然のことである。たゞどういふ色なりすがたなりが美しいとせられるかは、人々の趣味の問題であつて、そこに俗人と高士とのちがひがある、ともいはれようが、おしなべて見ると、艶麗なものが美しいとせられるのも、また自然なのである。
 ところが、シナにおいては、この艶麗なのが草花よりも木の花において見られたらしい。白居易が「東坡種花」の詩において「但購有花者、不限桃杏梅、百果參雜種、千枝次第開、…紅者霞?々、白者雪皚々、…花枝蔭我頭、花蕊落我懷、…」といつてゐるのも、それを示すもののやうである。さうして、何の木でもかまはずたゞ花のあるのをうゑる、とこの詩にいつてあるのも、花をよろこぶのはたゞ花であるため、美しく見えるため、であるからのことであらう。さすれば、花とのみいつて何の花であるかをいはないばあひの多いのも、百花とか干花とかいつていろ/\の花の咲ききそつてゐるのをめでるのも、花であればよく、美しく花やかであればよい、とせられたところに、一つの意味があることと解せられる。或はまた杜牧に「莫怪杏園??去、滿城多少插花人、」の句があり、これと同じやうなことが他の作者によつてもしば/\いはれてゐるのは、「長安士女、春時闘花、戴插以奇花、多者爲勝、皆用千金、市名花、植於庭苑中、以備春時之闘也、」と開元天寶遺事に記されてゐるやうな特殊の意味のある流行とはちがつて、興に乘じて花を折りかざすならはしのあることをいつたものであるらしく、それもまた花を見る目に美しいものとしてのことであらう。(同じ人の「塵世難逢開口笑、菊花須插滿頭歸、」は九日登高の詩であるだけに、これとはちがつ(346)た意義をもつてゐる。)
 しかし花はたゞ美しくながめるものとしてのみ見られたのではなく、それと人の生活とのいろ/\の交渉が詩にもあらはれてゐる。その一つは、花と人もしくは人の生活の何等かのありさまとの比擬であるので、白居易の長恨歌の「梨花一枝春帶雨」のやうに、美人を花に見たてるのがその最も多い例であることは、いふまでもあるまいが、その反對に同じ長恨歌の「芙蓉如面柳如眉」のごとく、花を人の容顔に擬するばあひもある。同じ作者には「膩如玉指塗朱粉、光似金刀剪紫霞、從此時々春夢裏、應添一樹女郎花、」(木蘭花)、また「梨花有思縁和葉、一樹江頭惱殺君、最似孀閨少年婦、白粧素袖碧沙裙、」(江岸梨)、といふやうなものもある。杜牧の「狂風落盡深紅色、緑葉成陰子滿枝、」がこのたぐひの比擬であることはいふまでもなく、作者のわからぬ「…歡君須惜少年時、有花堪折直須折、莫待無花空折枝、」も、やはりその例であらう。かういふことはシナの詩にかぎらぬのであるが、元?の「努力少年求好官、好花須是少年看、」は、好官と好花との聯想によつてできてゐて、その根柢には二つの間の比擬があり、さうしてそれはシナの知識人に特殊な考へかたであらう。高蟾が下第したときの詩の「天上碧桃如霹種、日邊紅杏倚雲栽、芙蓉生在秋江上、不向東風怨未開、」といふやうなものもある。大官の生活を花のさかりにたとへるも常のことであるが、白居易が「繞廊紫藤架、夾砌紅藥欄、攀枝摘櫻桃、帶花移牡丹、主人此中坐、十載爲大官、」と、その邸宅のありさまを敍したのは、花を豪奢の料として見たものであると共に、華美な花のみを擧げたところに、やはりこの二つを比擬するこゝろもちもこもつてゐようか。
 しかし、かういふのは、たゞ美しく花やかであるといふ點においての聯想によつて形づくられた、外面的の結びつ(347)けに過ぎないが、もつと内面的な意味をもつてゐるのは、花またはそれと同じやうにとりあつかはれてゐる楊柳とか碧草とかによつて心情の動かされることであるので、例へば李白の「天津三月時、千門桃與李、朝爲斷腸花、暮逐東流水、」、王維の「向晩多愁思、閑?桃李時、」、張泌の「恨從芳草起、愁爲晩風來、」、温庭?の「…堪恨是春風、二月艶陽節、一枝惆悵紅、」、薛能の「數首新詞帶恨成、柳絲牽我我情傷、」、劉芳平の「寂莫閑庭春欲晩、梨花滿院不開門、」、韋莊の「自有春愁正斷魂、不堪芳草思王孫、落花寂々黄昏雨、深院無人獨倚門、」、または唐彦謙の「春思春愁一萬枝、遠村遙岸寄相思、」、といふやうなのがそれであるが、これには離愁とか客愁とか閨怨とか、またはそのほかの何等かの特殊の情思のはたらくばあひも多いので、杜甫の「感時花濺涙」、李白の「上有無花之古樹、上布傷心之春草、」(送別)、鄭谷の「楊子江頭楊柳春、楊花愁殺渡江人、」(離愁)、杜牧の「芳革又芳草、斷腸又斷腸、」(送人)、韋莊の「滿目牆匡春草深、傷時傷事更傷心、」(舊里)、「暖絲無力自悠揚、牽引東風斷客腸、」(思歸)、など、かういふものを擧げれば限りがない。ところが、孟浩然の「愁心極楊柳、一種亂如絲、」(春怨)になると、愁ふるものはわが心であるか、楊柳みづからであるか、わからぬやうないひかたであつて、それがもう一歩進むと、杜牧の「露挑猶自恨春風」、張泌の「香清紛澹怨殘春、蝶翅蜂鬚戀蘂塵、」、または「微雨小庭春寂寞、…香花凝恨倚東風、」、或は顧夐の「杏花愁」、さては李商隱の「芭蕉不展丁香結、同向春風各自愁、」などのごとく、花なり柳なりがみづから愁ひみづから恨むもののように、いひなされることになる。温庭?の「愁紅帶露空迢々」、「恨紫愁紅滿平野」、或は牛?の「恨翠愁紅流枕上」のごとく、花そのものに恨とか愁とかいふ形容詞をつけるのも、また同じ態度である。これらはいづれも一片の感傷を詠じたにすぎないものではあるが、ともかくもかういふやうにして、花が人の心情にかゝはるとこ(348)ろのあるものとして見られてゐる。
 ところが、こゝに擧げた例を見てもおのづからわかるごとく、花に恨をよせ愁を帶びさせるのは、シナ人が閨怨といつてゐるやうな心情を敍するばあひに最も多いので、それは花がかういふ心情を託するにふさはしいものと思はれたからのことであらう。花と女とはおのづから聯想せられるのみならず、花の色や香や、その咲き出づるさま散りゆくさまは、人の情思を動かすことが強く、特に花の多い春の氣候は、その全體の空氣が人を惱ましがちのものであつて、そこからいはゆる春怨なり春愁春恨なりが誘はれもするので、そのためにかう思はれたものと考へられる。さすれば六朝時代からの因襲をうけついで採蓮の曲のさま/”\に作られたのも、曹唐が「細筆桃花擲流水、更無言語倚?雲、」といつてゐるやうに、桃源の仙女に劉郎を憶はせたのも、或はまた柳宗元が書いたといふ龍城録に見えてゐる月色微明の夜に淡粧素服の女となつてあらはれた羅浮の梅の物がたりのできたのも、いろ/\の形においてそれがあらはれたものと解せられる。(陶潜の桃花源は仙郷ではないのに、唐代ではそれが仙郷化せられてゐたので、その間からこゝに引いたような詩も生れて來たのであるが、仙郷がかういふ意義のものともせられたのは、巫山十二峯の説話が好んで詩材とせられた時代のこととしては、さもあるべきことであつた。)詞曲でとりあつかはれてゐる花はみなこのような情趣を與へられてゐるのであつて、上に引いた張泌や温庭?や牛?などの句には、それからとつたものがあるが、また例へば劉禹錫の楊柳枝の「山桃紅花端上頭、蜀江春水拍山流、花紅易衰似郎意、水流無限似儂愁、」とか、温庭?の荷葉盃の「南浦朝雨濕愁紅」とか、韋荘の浣溪沙の「指點牡丹初綻朶、日高猶自覺朱欄、含?不語恨春殘、」とか、または李詢の「月朦朧、花暗澹、鎖春愁、」とかいふやうに、花のすべてがそこでは脂粉の氣を帶びてゐ(349)る。李後主の長相思の「菊花開、菊花殘、塞雁高飛人未還、一簾風月閨A」を讀むと、菊花さへもそのなかまにとり入れられてゐることがわかる。詞曲においては、道士についても同じ情思の託せられたばあひがあるので、牛?の女冠子の「?壇春草緑、藥院杏花香、青鳥傳心事、寄劉郎、」といふやうなのがそれである。桃花を流水に浮かべさせて桃源の仙子に劉院の去つて歸らざるを恨ませたものは、詞曲にもいくつか見えてゐる。唐代の詩人が花の風趣をこの方面に求めたことは、これによつてもうかがひ知られるであらう。さてこれらの詩や詞曲が一種の戀愛詩ともいはばいはるべきものであるとすれば、かゝる心情の表現にあたつて花を用ゐるのは、シナ人に限らぬことであり、自然の聯想から出たことであるが、たゞシナの詩においては、そのほとんどすべてが女のがはからいはれてゐることと、希望をこめたよろこびのきぶんがそれにあらはれてはゐないで、どれも/\恨みと愁との託せられてゐるものであることと、この二つの點にシナのこの種の詩の特色があり、さうしてそこにシナの知識人の女性觀が見えるのである。
 しかし、女性には關係のない何等かの情思の花に託せられ、または花によつて誘はれてゐるばあひでも、斷腸とか斷魂とか怨恨とか愁思とかいふ、感傷的なことばが常に用ゐられてゐるので、詩人のこゝろはこの方向にのみ動いてゐるやうに感ぜられる。上に引いた李白の句の「斷腸花」は、花みる人の時と共に常にかはつて來たことを思うて、功名の保ちがたき憾みを花に寄せていつたもののやうであるが、斷腸といふごとき語を用ゐてなくとも、賈曾の「今歳花開君不待、明年花開復誰在、…年々歳々花相似、歳々年々人不同、」にも、また同じ感傷があり、羅?の「買栽池館恐無地、看到子孫能幾家、…歌鍾對此爭顧賞、誰信流年鬢有華、」(牡丹)には、それと共に人の身の老い易きを歎ずるこゝろもちも加はつてゐる。特殊の故事によつたものではあるが、許渾の「花在舞樓空、年々一番紅、涙光停(350)曉露、愁態倚春風、開日妾先死、落時君亦終、末流兩三年、應到夜泉中、」(金谷園桃花)のやうなもののあることも、見のがされぬ。富貴榮華を欲するものがその富貴榮華の久しからざるを思ひ、それにつれて人生の短きをも歎じ、美しい花に對しても、それによつて悲傷の情のよび起されるのは、自然のことでもあらうが、科擧のために半生の心血を濺ぎつくして、健全な意欲の衰へた知識人の、或はなすべき事業の無いひまな階級のものの、こととしては、なほさらである。現世の生活にすべての力を集めてゐるかれらが、その生活の明るい面に目を注ぎ喜ばしいきぶんでものごとに接するよりは、その反對の方にこゝろがひかれ、ともすれば悲傷の言をつらねるのは、ふしぎなことのやうであるが、それはかれらの生活といふものが、事業の面からではなく、享受の面からのみ考へられてゐるためであるので、富貴名利の久しきを得ざること、人生の短きことを歎ずるのも、かういふ生活態度においては、自然のことである。一般的な感じとしては、草のあをみ花のあからむを見て、春の來たことを知り、世の春になつたことを喜ぶこゝろもちのあらはれてゐる詩の句のあることは、いふまでもなく、例へば白居易の「立春後五日、春態紛婀娜、殘氷柝玉片、新萼排紅顆、遇物盡欣々、愛春非獨我、」のやうなものがあるが、知識人に特殊なきぶんとしては、こゝに述べたやうな傾向が強いのである。
 ところが、唐代の詩人は、花に對してまた別の見かたをもしてゐる。白居易が牡丹の價の高いことを敍して「一叢深色花、十戸中人賦、」といつてゐるのは、詩の使命を諷刺と見る考からいはれたことであつて、かならずしも花の美しさに目をふさいだのではなからうが、李白の「開花必早落、桃李不如松、」は、託するところあつての言ではあるものの、この句だけについて見ると、桃李を美しくながめるのとはちがつた態度でそれを見たものである。また菊(351)や蘭宸フ花を喜ぶことに特殊の思想的意味があるとするならば、それもまた花を愛するのが花そのものの美しさのためではないことを、示すものであらう。シナの詩人の一面には、かういふ態度のあることを忘れてはならぬが、それはかれらが書もつのなかからとり出して來た知識のはたらきであつて、因襲的な政治思想道徳思想がそこに見られる。李白の「問余何意棲碧山、笑而不答心自閑、桃花流水杳然去、別有天地非人間、」は、桃源説話を別の方面に轉化させたものであるが、これには、いはゆる塵世から離れようとする思想があらはれてゐるので、その思想にはやはり一種の因襲的な人間觀世間觀がある。シナの知識人の山水風月の愛はみなこれであつて、さういふ目で見ると、花の美しさをめでることは、女性に心のひかれることと共に、俗士のことであらう。
 シナの知識人はこのやうにして、或る思想の型にあてはめ、または或る特殊の眼を以て、自然を見るのであつて、自然を自然としてそのまゝの姿に接しそのまゝのはたらきをうけ入れるのではない。だから、シナ人は自然の美しさを自然そのものについて求め自然そのものから發見しようとせず、自己の知識とそれによつて養はれた趣味とによつて自然を歪めて見る、少くともまづ何等かの主觀的な規準をきめておいて、それによつて自然を撰擇するのである。自然に自己を没入するのではなく、自己を主として自然をそれに從屬させようとするのである。ところが、かういふ態度の根本には、人と自然とを永久に對立するものとする考がある。恨みや愁ひ花に託し、花みづからに愁ひと恨みとをいだかせるのも、またこれと同じ態度であつて、いかなる花にもいかなるばあひにも悲傷の情をそれに寄せるのは、見るものの情思に花を從屬させることであり、花を自己の情思のわくにはめこむことであり、或は花を自己の情思で色どることである。かういふ花のとりあつかひかた自然のとりあつかひかたが、ほんとうに自然を愛し花を愛(352)するものでないことは、いふまでもあるまい。ほんとうに自然を愛するには、自然に自己を投入しなければならず、ほんとうに花を愛するには、花そのものを尊重しなければならぬが、シナ人にはそれができなかつたのである。さうしてそれができないのは、花の表面の美しさをめでるのみで、それが大なる宇宙の生き/\した力のあらはれであるやうには考へず、山にも水にも風雲月露にも、神のすがたをそこに看取することができなかつたことに伴ふものである。シナには汎神論ふうの思想が生じなかつたので、それはかれらの宗教思想に一神の觀念が形づくられてゐなかつたからでもあり、宇宙の間のさま/”\の現象を一つの力のはたらきに歸し、一つのもののあらはれとするほどな、思索の深さが無かつたからでもあるが、また自然に對する觀察が表面的であり粗大であると共に、自然を自己に從屬させようとする態度をもつてゐたからでもあるので、それがかれらの風月觀にも花のとりあつかひかたにも、あらはれてゐるのである。花については、ひたすらにそのはなやかさをめで、小さいさびしい花にもそれ/\の美しさのあることを知らなかつたこと、草花に目をとめることの少かつたことも、このことと關係がある。こまかに親切に心をこめて觀察すれば、目にたゝぬ木の葉がくれのさゝやかな花の色にも、生き/\した力と美しさとのあることが知られ、そこからそれが大なる宇宙の限りなき力のあらはれであることが感じ得られると共に、あらゆるものに神のすがたを認め得れば、みちのべの名もない小草の花にも美しさと神々しさとのあることが感ぜられる。さうしてそれが知り得られ感じ得られれば、自己の小さい感傷は花によつて慰められもし消されもすると共に、その美しい色によつて自己の情思が淨められ、生き/\した姿によつて自己の生活に新しい力がつけられる。自然に没入し自然の懷に抱かれることによつて、宇宙の力が自己の力となり、神のはたらきが自己のはたらきとなる。けれどもシナの詩にはさういふ(353)ところが見られないやうである。これは理智の方面においての自然觀にもあらはれてゐることであるので、陰陽説や五行説にあてはめて自然を見るのがそれであり、さうしてそこにもまたこまかに深切に自然を觀察しない態度が示されてゐる。
 シナの詩人の自然界の觀察が深刻でないことは、花の寫しかた、花さくさまの敍述のしかた、によつても知られる。花の名をいはずしてたゞ花といひ、または百花千花とか山花野花とかいふやうな、いひかたをして、何の花であるかすら敍してゐないばあひの多いのは、よしその意味が春の風物を示し目に見るはなやかさをいはうとするところにあるとしても、少くともそこに、一つ/\の花の特色、花の個性、に目をつけない態度のあることは、否まれない。花の色や香すらも、語られてゐることがむしろ少いといつてよい。花の名をいへばその色や香はいはずともおのづから知られる、といふ事情もあるが、名の示されてゐないばあひには、さうは考へられぬ。色については、紅とか白とか紫とか黄とかいふ文字によつて、それの語られてゐることも少なくないが、かういふ概念的抽象的のいひかたでは、こまかい色あひを具體的に示すことができぬ。春草が緑草とも碧草とも青草ともいはれてゐて、どれもみな同じであるとすれば、その色の見かたのいかに粗大であるかがわかる。白居易の詩に「日出江花勝火紅、春來江水緑如藍、」の句があるが、火に紅といひ緑を藍の色とするのは、ふさはしからぬいひかたであつて、色の感じの切實でないことが、これによつて示されてゐるのではあるまいか。柳の色もまた青でもよく緑でもよかつたらしい。もつとも時には白居易の「嫩於金色軟於緑」、または韋莊の「嫩煙輕染柳絲黄」のごとく、金色であり黄であることがいはれてもゐて、それは芽のはじめて出た時の特殊の色を示したものであるらしい。或はまた上に引いた句に見られるやうに、同じ花(354)の色についてもその深淺に目をつけたものもあり、特に陸龜蒙の薔薇の詩の「濃似猩々初染素、輕於燕々欲凌空、可憐細麗難勝目、照得深紅作淺紅、」のやうに、日光による色の感じのちがひを敍したものさへもある。杜牧の「菱透浮萍緑錦池、夏鶯千囀弄薔薇、盡日無人看微雨、鴛鴦相對浴紅衣、」は、花を主としたものではないが、あざやかな色の描寫である。けれども、かういふのは多く見られない例である。香に至つては、たゞ「香」といふのみであつて、いかなる香であるかはほとんど語られず、時に幽香といふやうな文字の用ゐられるばあひのあるのにきがつくくらゐである。羅隱は梅花について「靜愛寒香撲酒吹vといつてゐて、寒香といふことばは梅にふさはしくきこえるけれども、それは梅であるからかういつたのみのことで、香そのものを寒の語で形容したのではない。(暖香といふ語もあつて、春の花について用ゐられた例があるが、それも春の花だからのことらしい。)香のさま/”\をことばでいひわけることはむつかしいので、それには、香のある花とか果ものとかいふ具體的のものを例としていふか、それの聯想せられる味などをかりて形容するか、然らざれば香の人に及ぼす效果をいふか、さういふやうなしかたによるほかは無いが、寒暖のごとき皮膚の感じは、香そのものにはあまりに縁どほいので、たゞ寒香といつたのみではどんな香かわからぬ。かういふことのいはれるのは、語と語とを制限なしに結びつけ得るシナ語の性質から來てゐるやうであつて、いかなる香であるかを示すよりも、かういふいひかたをするところに興味があるのであらう。從つてこれは、香そのものをこまかに識別したことのしるしにはならぬ。のみならず、李白の「風吹柳花滿店香」とか「一枝濃艶霹凝香」とか、または曹唐の「流水桃花滿澗香」、毛煕震の「梨花滿院飄香雪」、和凝の「海棠香老春江晩」、などのやうに、香らしい香の無いものでも、花であるがために香の字をつけたとしか解せられないようなばあひも多い。これら(355)は修辭のために實を失つたものである。
 修辭のために實を失ふことはほかのしかたでもいろ/\行はれてゐる。句を對?にするため、または同じいひかたの語を重ねるために、むりな敍述となるようなのもそれであるので、李白の「寒梅雪中盡、春風柳上歸、宮鶯嬌欲醉、簷燕語還飛、」とか、杜牧の「弱柳未勝寒食雨、好花爭奈夕陽天、」とかいふやうに、或は時期のちがふものを、或は場所の異なるものを、對?としてまとめ、蘿隱の「愁憐粉艶飄歌席、靜愛寒香撲酒吹A」のごとく、反對の情趣を結びつけ、または「碧桃紅杏」といふごとく、桃の花の色を示すものとしてはふさはしくないが、紅に對するために碧の語を用ゐたやうなばあひがある。紅蓮について緑莖紅花といふことがしば/\いはれてゐるが、蓮の花と莖とは、見るものにとつては對等の價値をもたないであらう。このたぐひのことは、二三首の詩をよめばすぐに見つけられる。花紅柳緑といふのも修辭のしかたとしてはこれと同じであるが、しかしかういふやうに紅の一語で花を示すのは、よしそれが實際においては桃の色を暗示してゐるにしても、いひかたの上では花の色にいろ/\あることを輕んずるものである。花のみを擧げたばあひでも、例へば杏艶桃嬌といつたのでは杏も桃も同じもののやうに見えて、二つの花のそれ/\の特色はあらはれない。花が概念化または類型化せられて、その個性がなくなつてゐるといふことが、かういふ修辭の上からも知られる。さうしてこれらはみな、花を見る見かたの深切でないことを示してゐるのである。
 さてこゝに擧げた碧桃紅杏とか杏艶桃嬌とかいふやうないひかたは、一つの花の色なり姿なりに心をこめてながめいるよりも、二いろの花を竝べて見るところに興味をもつたからでもある。野梅山杏といふのもまた同じであつて、實景であるかどうかは別としても、この二つはかなり情趣のちがつたものであるのに、それがかう竝べていつてある(356)のも、同じ態度からであらう。かういふ態度が花の外面的の美しさにのみ目をとめることになるのは、自然の傾向であるが、また外面的の美しさをのみ見るからこそ、かういふ態度が生じたのでもあらう。花ばかりのばあひのみではない。李白の「溪傍饒名花、石上有好月、」元?の「風弄花枝月照?」、または許渾の「月滿花開嬾獨遊」、高?の「花滿西園月滿地」などのごとく、花と月とを竝べていふやうなこともまた多い。月がさかりの花を照すことは實際にも無いとはいはれず、上にいつた羅浮の物がたりは、梅の精を微月の光にたゞよはせたのであるが、これらの詩の句はさういふ光景をいつたのではなくして、花と月とを別々のものとして、その花のみごとさと月の光の明かさとを同時に見るといふのであるから、そこに造作のあとがある。從つてこれは、月と花との美しさをめでるよりも、かういふいひかたをするところに興味の中心があるらしい。同じやうなことがいろ/\の作者によつていはれてゐることからも、それがおしはかられる。さすれば、これもまた修辭のために目の前の風光の描寫をゆがめたものといふべきであらうが、それと共に、月と花とを別々のものとして而もそれらを竝べて見ることにおもしろみをもつた、といふ意味もあるので、その點からいふと、やはり月にも花にも心をいれてしみ/”\とその美しさを愛するのとは、ちがつた態度がそこに示されてゐる、といはねばならぬ。
 なほ詩に用ゐられてゐる辭句の形容のことばについていふと、花を人工のもののやうに見なす見かたのそれにあらはれてゐることをも、こゝにいひそへておくべきであらう。上に引いた白居易の山石榴の詩の「剪刀裁破紅?巾」はその一つの例であるが、賀知章の柳枝詞に「碧玉裝成一樹高、萬條垂下緑綵?、不知細葉誰裁出、二月春風是剪刀、」もそれである。こゝに碧玉の文字が用ゐてあるが、玉樹とか瑤朶とかh樹瑤草とかいふ語のしば/\用ゐられてゐる(357)ことも、生きた草木を無生物の玉と見なしたところに、これと似た見かたがある。玉の素材は自然のものであるが、生物ではないのみならず、玉として愛玩せられるのは人工を加へたものだからである。シナで尊重せられる玉によそへたのであるから、それは美しいものとして草木を賞めたのではあるが、シナ人ならぬものにとつては、その賞めかたが草木にはふさはしくないのである。生き/\したもの柔かいものが、死んだもの堅いものとして感ぜられるからである。さうして花を人工のものに見たてることには、自然を自然として愛するよりは、人の用をなすものとしてそれをとりあつかふこゝろもち、花を生命あるものとしない態度、が潜んでゐると共に、かういふいひかたが修辭の一つの形であるかぎり、これはやはり修辭のために花のほんとうの風情を矢はせたものであり、特にどのような草木も同じやうに玉によそへてそれをめでるのは、さま/”\の草木の個性を認めないものであるので、これらはすべて、草木なり花なりをこゝろをこめて深切に觀察しないところから來てゐるもの、と解せられよう。なほこゝには、いろいろの點において修辭がはゞをきかせてゐることを見て來たが、これは、上に考へたやうに、自然そのものについてその美しさを求めず、人の何等かの考へかたにあてはめて自然を見、自然を人に從屬させようとする態度の、一つの形であることを示すものである。
 花に對する態度や花を寫す寫しかたがかういふものであるとすれば、花の詩が、花の詩でありながら、花を主として花の情趣をつぶさに敍述しようとしたものでないことは、おのづから知られよう。花の詩の最も抒情的なものは絶句において見られるが、それは、例へば李白の「蜀國曾聞子規鳥、宣城還見杜鵑花、一叫一廻腸一斷、三春三月憶三巴、」とか、王維の「緑艶閑且靜、紅衣浅復探、花心愁欲斷、春心豈知心、」(牡丹)とか、或は白居易の「村南無限桃(358)花發、唯我多情獨自來、日暮風吹紅滿地、無人解惜爲誰開、」また「膩如玉指塗朱粉、光似金刀剪紫霞、從此時時春夢裏、應添一樹女郎花、」とか、元?の「桃花淺深處、似艶[淺粧、春風助腸斷、吹落白衣裳、」とか、または韋莊の「滿街芳草卓香車、仙子門前白日斜、腸斷東風各廻首、一枝春雪凍梅花、」とか、いふたぐひのものであつて、花に對する作者の感興を詠じたものが多い。王維の「木末芙蓉花、山中發紅萼、癇戸寂無人、絲々開且落、」(辛夷塢)のやうなのは、これらとはやゝ趣がちがつてゐるが、これは寂として人なき山中のありさまを花によつて敍したものであつて、花をいふのが主旨ではない。また元?の「櫻桃花、一枝兩枝千萬朶、花?曾立摘花人、突破羅裙紅似火、」のごときものもあるが、これとても即目の光景に美しさを感じたのである。さうしてこれらの詩においては、花はどこまでも作者と相對するもの作者の外にあるものとなつてゐる。作者が花と同化し花となつて花の情思を歌つたものは、見られない。これは一つは、詩人の想像力が豐かでなく、また花と同化するほどにそれに親しみをもたないからであるが、それはやはり、花をこまかに觀察しないのと、思想の深さが無いのとの、ためであらう。
 一體にシナの詩の抒情味は、作者が自己の實生活における或るとき或るばあひの特殊の感興なり情懷なりを詠ずるところにあるので、思家とか離別とか寄人とか舊遊とか下第とかいふやうなものが多いのも、そのためであるが、花に對してもまた同じであることが、上に引いた四五首によつても知られる。從つてそれは一般的普遍的意味をもたないものである。特殊のばあひの情懷とても、それにおのづから普遍な人間的感情はあらはれるのであるが、それは、同じばあひにはだれにでも同じやうな感情が起るといふ意義での普遍なのであり、從つて或る詩のもつ特色は、詩材としてのその地理的風土的もしくはその他の外面的なことがらと、表現のしかた即ち技巧とにのみ、あることになる。どの(359)詩人の作でもそのいふところはほゞ同じであつて、個人的の特色はなく、人によつて違ふのはその技巧だけであるのは、これがためである。花の詩において花の個性が重んぜられてゐないばあひがあると共に、花の見かたや花に對する感情にも、また詩人にょる個性が無いのである。こゝに普遍的といつたのは、それとはちがつて、或るとき或るばあひの生活上の實感としてではなく、よしそれによつて誘發せられたにしても、情懷そのものは、それを超越した一般的意味をもつものとして、表現せられてゐることをいふのである。かういふことは、詩人が自己を現實の自己から超出して對象と同化し對象に自己を投入することによつて、なし得られるのであるが、それには、詩人の對象に對する深い親しみ、その内面にとほる鋭い觀察、その神髄を捉へるはたらき、そのはたらきを具體化する想像もしくは空想の力、などにまつところが多く、さうしてそれにはまた詩人の個性がはたらくのであるから、そこに却つて詩の特殊化がある。いひかへると、かういふ一般的意味をもつ情懷は、詩人の個性によつて精練せられ、深められ、もしくは豐かにせられたものであり、特殊性をもつた普遍的のものである。シナの花の詩にはかういふものが少いのである。
 もつとも絶句は詩形が短く語が少いために、作者の情懷を十分に敍することができず、從つておのづから上に述べたやうなものになる、といふことが考へられるかもしれぬが、いはゆる律詩やまたは古詩に擬したものやにおいては、多くのことがらを竝べ擧げ、かならず故事や説話を用ゐ、また對?によつて句が形づくられるために、感情が散漫になつて抒情的效果が弱められるのみならず、詩人の態度はやはり絶句におけるのと同じである。多くのことがらを竝べ擧げるために、描寫は一層外面的になり、故事や説話を用ゐるために、花そのものよりはその故事や説話にあらはれてゐる人のおもかげが目に浮ぶ。薛能の「去年零落暮春時、涙濕紅牋怨別詩、常恐便同巫峽散、因何重有武陵期、(360)傳情毎向馨香得、不語遠慮彼此知、見欲襴邊安枕席、衣深閑共説相思、」(牡丹)、羅隱の「暖觸衣襟漠々香、阡~遮柳不勝芳、數枝艶拂文君酒、半里紅欹宋玉墻、盡日無人疑怨望、有時經雨乍凄涼、舊山々下還如此、囘首東風一斷腸、」(桃花)など、一二の例を見てもこのことは知られよう。が、シナの作者がかういふ詩を作るのは、概していふと知識と拔巧とを示すためであつたから、これでよかつたのである。さうしてまた詩に材料を多く用ゐることは、一つは孤立語としてのシナ語の性質にもよることであるので、自由に熟語が作られ、名詞と名詞とを竝べるだけでも句ができるために、おのづからかうなるのである。あまりにさま/”\のことがいはれてゐるために、われ/\には、うるさい感じがせられ、讀んでゆくのに、いそがされるような、おちつかない、こゝろもちが伴ふのである。一句だけをとり離して見ると興趣の深いものがあるが、全體としてはかういふ感じがせられるために、その興趣がそがれる傾きがあり、さうしてまたその興趣とても、巧みないひかたによつて生ずるばあひが多い。
 ところで、これまで考へて來たやうな詩の性質は、繪畫においてもまた見られる。唐の繪畫がどのようなものであつたかは、よく知らぬが、畫史に記されてゐることや詩に咏ぜられてゐる畫圖のすがたやを、いま殘つてゐる宋畫とひきあはせて見、なほこの時代の詩文にあらはれてゐる風景の敍述をも考へあはせると、その風景畫においては、山水畫といふ稱呼の用ゐられたことによつてもわかるごとく、山あり水あり、山には奇峯が望まれ、水には瀑布もかゝり、樓臺隱顯して漁舟往來し、白雲幽徑をとざして女蘿の松枝にかゝるやうに、さま/”\の景物が一幅のうちに集められたものが多かつたのではあるまいか。かういふものは、表面の變化に富んではゐるが、統一が無く、ながめ渡す廣さはあるが、つく/”\と見入る奧深さが無い。シナ畫の材料(筆墨絹紙顔料など)と技巧とにおいては、すべてを(361)平面的にかき竝べることになるため、特にこの感じが強い(壁畫の題材にも山水はかなり用ゐられてゐたが、その技巧についてはよく知らぬ)。しかしその根本はシナ人の自然を見る態度にある。いはゆる「人間」を離れたところに、「別」に自然の「天地」があるとする特殊の思想からも、その「天地」そのものが一つのまとまつた世界をなしてゐることが求められた、といふ意味もあらうし、廣漠たる中原とはちがつた地域に山そばたち水流れるところのあるのを見て、それを喜びそれを寫さうとしたことに、山水畫の由來があるとするならば、そこにもまたかういふ畫風の導き出された理由のあることが知られ、またそれにつれて山姿水態の奇を求めることになつた事情も解せられるやうであるが、目なれた一むらの木立ちも、とある森のしげみも、さては道のべの一もとの小草も、こまかにそれを觀察してそこに美しさを求め美しさを發見することをしなかつたのであり、さうしてそれは上に花の詩について考へたところと同じである。なほ唐代の花鳥畫については、山水畫ほどにそれを思ひうかべる資料をもたぬが」それは或は見た目に美しいさまを寫したものではなかつたらうか。もしさうならば、それもまた詩についていつたのと同じである。山水畫にも花鳥畫にも、筆力の重んぜられたことはいふまでもないが、これもまた詩における修辭と、そのはたらきの似たところがあることが考へられる。
 さて、このやうに見て來ると、シナ人の意義での東洋人が特に自然の愛に深かつた、といふことが考へ得られるかどうかは、いはずともおのづから知られたであらう。こゝにとりあげた唐詩についてみても、それに詠ぜられてゐることは、何よりも人の生活のさま/”\のすがたである。これはどの詩集をあけて見ても、すぐにわかることである。自然の風物を題材とするばあひでも、それを主としてはゐない。繪畫とても、人物畫が大部分を占めてゐることは、畫(362)史を見ても明かに知られる。六朝時代から少しづつ行はれて來た山水畫は、唐代に入つて、次第に多くはなつてゐるが、それが唐代の繪畫を代表するものではないことは、いふまでもあるまい。唐代に山水畫の多くなつた理由については、はつきりした考をもたぬが、自然を愛することが強くなつたといふのではなくして、道教の流行につれて神仙説や隱遁思想が思想として知識人の間にしみこんで來たことと、關係があるのではあるまいか。或は技巧の發達といふことも、それを促した一つの力であつたかもしれぬ。詩の題材として山水をとり入れることも、また唐代においては六朝時代よりも多くなつて來たやうであるが、これも詩に新體の生じたことと關係があるのではなからうか。ところで、唐代の詩や繪畫についてこゝに考へたことは、これから後もほとんどそのまゝに續いてゐる。インドはしばらくおいて、ヨウロッパでは、詩における自然の愛は遠いむかしのギリシヤからの傳統をもつてゐる。唐代にあたる中世の初期には、新しく興つた北方民族の生活において古典文化の力が弱められたのと、カトリックの教會に偏固な教義ができて來たのとのために、それがまだ明かな形を具へるに至らなかつたが、近世となつて次第にそれがあらはれ、十八世紀から後に至つて著しく發達し、その思想的内容も深められた。文化の停滯してゐたシナには、かういふ變化はなく、近いころになつても、新しい精神をもつた新しい翫賞の態度が生ずるようには、ならなかつたのである。
 こゝでついでにいひそへておきたいのは、わが國の花の歌のことである。萬葉と古今との歌は唐代とほゞ同じ時代のものであるから、この二つの集の歌にあらはれてゐる花のすがたを、かたはしなりともおもかげに見ることは、わが國の歌を唐詩のそれと對照するために、いくらかのやくにたつであらう。そこで、まづはじめにきがつくのは、萬葉の歌には、手ぢかにあつて見なれてゐる花、道ゆきずりに手をられるやうな花は、木のでも草のでも、自由によま(363)れてゐる、といふことである。萬葉の歌の作者は、どのような花にも親しみとなつかしみとをもち、それを朝夕の玩びぐさともし、こゝろをよせおもひを託する料ともしたのであつて、花と人生との一つにとけあつてゐるありさまが、歌の上によくあらはれてゐる。「春の野にすみれつみにと來しわれぞ野をなつかしみ一よねにける」、「夏まけてさきたるはねずひさかたの雨うちふらばうつろひなむか」、「つき草にころもはすらむ朝つゆにぬれての後はうつろひぬとも」、「草まくらたびゆく人もゆきふらばにほひぬべくも咲ける萩かも」、「高まどの野べのかほばなおもかげに見えつつ妹はわすれかねつも」、などがその例である。花の名を序詞に用ゐたまでのものも多いが、それとても、その花に親しみをもつてゐるからであり、さしたる色も香もない花のよまれてゐるのも、また同じことを示すものである。歌材としてとられてゐるのは、かならずしも花の美しさをめでる意味からばかりではないが、親しんでそれに接すれば、さまででない花にも美しさが見られるので、歌の上にそのこゝろもちがあらはれてゐなくとも、花の名をとりあげたところにそれがひそんでゐる。一くちにいふと、萬葉の歌に花のよまれてゐるのは、日常の生活のそのまゝなるあらはれであるので、書もつによつて得た知識から來てゐるのではなく、特殊の思想的意義がそれに含まれてゐるのでもない。さうして相聞の歌に多く花の用ゐられてゐることから考へると、萬葉人が花に深い親しみをもつてゐたのは、一つは、かれらの戀愛生活に誘はれたところがあるのではなからうか。(花ばかりではない。月にでも露にでも雪にでもかすみにでも、同じことがいはれよう。)かういふ萬葉の花の歌が唐詩のそれとひどく趣のちがつたものであることは、いふまでもあるまい。相聞の歌においても、花が感傷的にとりあつかはれてはゐないので、そこにシナの閨怨の詩や詞曲とのちがひがあり、詩や詞曲の作者としてのシナの知識人の生活および生活感情と萬葉人のそれとのち(364)がひが、そこにも見えてゐる。
 のみならず、そのちがひには歌と詩とのことばの性質から來てゐるところもある。三十一音の歌は、いくつかの音をくみたてて一つのことばができてゐる日本語の性質として、一音一語であるシナ語の詩にくらべると、ことばの數が、その最も短い詩形である絶句よりもはるかに少い上に、いはゆる孤立語であるシナ語とはちがつて、シナ語には無いテニヲハや、多くの助動詞や、または動詞や助動詞の形のさま/”\の變化や、さういふものによつて、その意義の表現せられる日本語の歌であるために、一つのことをいふにも多くのことばがいるので、一首にいひ得られることがらは、おのづから單純であり、詩にくらべるとその一句にあたるほどである。詩は一句ごとに一つのまとまつた意義をもつてゐるので、さういふ句を、つかずはなれずに、いくつか結びつけることによつて一首ができあがるのであるが、日本語の歌は一首においてはじめて一つの意義がまとめられるから、その點からも同じことがいひ得られる。(後に詩の句を題にした歌を作ることの行はれたのは、適切な思ひつきである。)絶句はシナの詩としては最も單純なものであり、それだけ抒情詩としてふさはしいものであるが、それにしても三十一音の歌とくらべると、その内容がはるかに複雜であり、多くの材料を用ゐ、いはば繪畫的にそれらをならべたてることによつて、一首が形づくられる。歌にはそれができない。しかしそのかはり、單純な情思を、その情思の動くがまゝに、それに適應することばつかひとそのつゞけかたとによつて、いはば音樂的に、それを歌つてゆく。だから、歌には一首の調子ともいふべきものがあり、ことばの動きに旋律的なものがあるが、これは、ことばの面からいふと、テニヲハやいろ/\に形の變化する動詞や助動詞のはたらきによるのである。一音々々においてはシナ語のような強弱抑揚は無いが、音のつゞけか(365)たから或る律動が生じてくるので、こゝに孤立語であるシナ語の詩とはちがつたところがある。
 日本語の歌はかういふものであるために、その律動には、おのづからなる傾向として、ゆるやかなものが多く、それがまたおのづからその内容をなす情思の單純なことに相應ずる。技巧の點においてわりあひに素朴である萬葉の歌に、内容と外形とがよく調和して抒情詩的效果の著しいもののあるのは、このためであらう。「いははしるたるみの上のさわらびのもえ出づる春になりにけるかも」、「春雨のしく/\ふるにたかまどの山の櫻はいかにかあるらむ」、「秋づけば尾花が上におくつゆの消ぬべくもあはおもほゆるかも」、どの卷の花の歌を見ても、このやうなものが限りなく見いだされるので、單純な情思であるだけに、その情思には深いもの切なるものがあり、それが上に述べた花に親しみ花をなつかしむこゝろのこまやかさと相應ずることになる。「かはづなくかみなびがはにかげ見えていまか咲くらむ山ぶきの花」などは、むしろ材料の多いものであるが、それは觀察のこまかであり深切であるからのことであつて、かはづの聲と水の流れとその水にうつる花のかげとが相和して、美しい一幅の光景をさながらに眼の前にうきあがらせてゐる。(しかしこの歌の中心點は「今か咲くらむ」の一句にあるので、そこに抒情詩としての生命があり、またことばからいふと「か」の音をくりかへすことによつて、音調の統一ができ、表現が力づよくなつてゐる。「あきづけば」の歌にも「あ」の音と「お」および「を」の音とのくりかへしがある。)長い文化の歴史をもつてゐるシナの唐代の詩と、文化的にはなほ齡が若くはるかに後進の地位にあるわが國の萬葉時代の歌とを、くらべるのは、その點においてはむりなことのやうでもあるが、こゝに考へたことは、それだけで一おうの意味はあるであらう。ところが、わが國でも古今集の歌になると、かなり違つた趣が生じてゐる。
(366) 古今集の花の歌を讀んで第一にきがつくのは、花の種類が少く、またそれがほゞきまつてゐる、といふことである。四季の部を見ると、そのおもなものは、春のはいふまでもなく櫻であつて、そのほかには梅とか山吹とか藤とかがあり、秋のは萩と女郎花と藤袴と尾花と菊とがほとんどそのすべてである。「秋はいろ/\の花」といひ「もゝくさの花のひもとく秋の野」といつてもあるやうに、さま/”\の秋草の花をめでてはゐたらうし、物名の部のには四季の部に見えない花の名が用ゐてもあるが、春秋の歌によまれてゐるものはこのやうに種類が少い。次には、花がことさらなる翫賞の對象となつてゐることであつて、花そのものを咏じたものが多いのも、戀歌に花の名のあらはれてゐるもののわりあひに少いのも、そのためであらう。萬葉とくらべて著しくちがふこの二つのことがらは、歌が貴族もしくは特殊の知識人の玩びぐさとなつたために生じたものと解せられる。抒情詩としてはふさはしからぬほどに一首の構想の智巧的説明的なものの多いのも、一首をくみたてる材料のわりあひに複雜なものの少なくないのも、こゝから出たことであるらしい。しかしまた、同じ花についても、いろ/\のすがたやありさま、さま/”\のばあひが、想像せられてゐることは、花の咲くのをまち、咲いたのをよろこび、散つたりあせたりするのを限りなく惜しんでゐることと共に、花に對する親しみと愛着との深いことを示すものであつて、そこに萬葉時代から傳へられてゐる精神がある。
 なほこの古今集の歌を唐詩とくらべてみると、花そのものを詠じたもののあること、さういふものにおいては、作者の實生活における或るばあひの主觀的感情を含まない、一般的普遍的なきぶんのあらはれてゐるもののあることが見られ、また單純な思想ながら人生觀處世親のそれに託せられてゐるものはあるが、唐詩に多い感傷的のものの無いことが知られる。春愁や春恨に至つては、さういふきぶんそのものがそのころの歌の作者には體驗せられなかつたの(367)であらう、歌の上にもあらはれてはゐない。「さく花は千草ながらにあだなれどたれかは春をうらみはてたる」は、唐の詩人の春恨でも春怨でもない。また一首の着想が智巧的であり説明的であるといつても、萬葉の歌について上に述べたような日本語の歌であり三十一音の歌であるその本質に伴ふ特色は、どこまでも保たれてゐるので、そこにシナ語の詩との根本的なちがひがある。花そのものを咏じたもののあるのも、一つは短い三十一音の歌だからのことである。また歌のすがたの上からいふと、「淺みどりいとよりかけて白つゆのたまにもぬける春の柳か」、「人はいさこころも知らず古さとは花ぞむかしの香ににほひける」、「たれこめて春のゆくへも知らぬまにまちし櫻もうつろひにけり」、「をりてみればおちぞしぬべき秋萩の枝もたわゝにおける白つゆ」、「ぬれてほす山ぢの菊のつゆのまにいつか千とせをわれは經にけん」、などのごとく、縁語のような特殊の修辞の法から一首が展開せられてゐるものでも(その修辞法が、「いひかけ」と共に、日本語に特殊なものである)、ことばのつゞけかたいひかたに新しい、或はいくらかむりな、ところがあるものでも、またはシナの故事が用ゐてあるものでも、一首としての音樂的な旋律的なことばの進行とそれに伴ふ情緒の動きとが感ぜられる。さうしてそこに抒情詩としてふさはしい歌の姿がある。詩をまねて作ることがはやり、いくらかは唐詩も知られて來てその新しい作風を學ばうとするものさへ生じたほどの平安朝初期の時代を經ながら、日本語の歌はどこまでも日本語の歌であつた。
 
     二 酒
 
 花の詩のことを考へたにつれておのづからおもひだされるのは、酒の詩である。李白の「縦酒無休歇、泛此黄金(368)花」、また白居易の「黄花助興方携酒」、のやうなのは、陶潜の「秋菊有佳色、?露?其英、況此忘憂物、遠我遺世情、」から來てゐるところがあると共に、風俗としての長壽延年の呪術にそのもとがあらうと思はれる特殊のことであるが、その李白が「東風吹山花、安可不盡杯、」といひ、白居易が「遇酒逢花還且醉」といひ「可惜鶯啼花落處、一壺濁酒送殘春、」といつてゐるやうに、花にはさくにつけちるにつけ酒の伴ふことがおほいのである。「把酒直須判酩酊、逢花莫惜暫淹留、假如三萬六千日、半是悲哀半是愁、」といつて、花と酒とに同じやうな感慨を託し、「風吹柳帶搖晴緑、蝶遶花枝戀暖香、多把芳菲泛春酒、直教愁色對愁腸、」といつて、酒によつて愁人と愁色とを結びつけた杜牧の詩もある。花の詩から酒の詩に思ひをうつすのは、むりではあるまい。
 酒をもたない民族は世界になく、それに昂奮と麻痺とのはたらきがあるところから(これは嚴密なる學問的意義でいふのではなく、たゞ常識的に一おうかういはれるといふだけのことであるが)、或はそれみづから神性を與へられ、或は神と人とを一つにさせるものとせられて、宗教的に重んぜられたためしの多いことも、またいふまでもあるまい。文化の發達した民族において社交の上になくてはならぬものとせられてゐるのも、またそのためであるが、ひとり飲んでひとりそのはたらきをうけようとするばあひも多く、さうして酒の味ひなり香ひなりまたは色なりから生ずる快感も、その興趣を助ける。酒がさま/”\の民族の民謠なり詩人の作なりによつていろ/\に歌はれてゐるのは、これがためであらう。シナの知識人もまたむかしから一般に酒を嗜んでゐたので、酒の詩が少からず作られたが、その詩にあらはれてゐる思想なり情趣なりには、シナ人に特殊のものがある。こゝでは唐代の詩人で酒の詩を最も多く作つたと思はれる李白と白居易とのについて、それを考へてみることにする。たゞこのふたりの詩には、陶潜のに本づい(369)たところ、それからすぢをひいたところのあるものが見えるから、晉末の詩人ではあるが、順序としてまづこの人の詩を一わたり讀んでみよう。
 陶潜が酒を好んだといふことは、かれが隱逸の士であつたといふことと共に、あまりにもよく人に知られてゐる話である。しからば、酒を好んだことと隱逸の生活との間に何か關係があるのであらうか。歸去來兮辭にも「有酒盈樽、引壺觴以自酌、」とあるから、官をすてて家に歸つた時に酒のあることをまづ喜んだにちがびないが、この辭の序には、官についた時のことを記して「公田之利、足以爲酒、」といつてあるから、禄を求めたことにも酒の得られるやうになるのを樂しみにしてまつこゝろもちがこもつてゐたのかもしれぬ。もつともこの序のことばは、かならずしも文字どほりに解すべきものではあるまいが、官にゐても酒をすてなかつたことだけは、これによつてもおしはかられる。さすれば、陶潜においても、酒は隱逸によつてはじめて味ひ得られるものではなかつた。五柳先生傳にみづから書いてゐるように「性嗜酒」であつて、それと隱逸とはおのづから別のことであつたと考へられる。しかし、これは生活の外面にあらはれてゐる事實を見たのみのことであるから、隱逸と酒とは、その情趣そのきぶんにおいて、何か通ずるところ、かゝはりのあるところが、あるのではなからうか、といふことを、一おう考へてみなければならぬ。
 さて隱逸とは、官につくことによつて人みなの求めようとする富貴と名利とを求めず、從つてまた官を求めずして、或は官を去つて、野居することであるが、かゝる生活は、官界に免かれがたきいろ/\の羈束と抑壓とをうけず、または富貴と名利とを求めることによつて生ずる身の危さと心の苦しみとを免れ、さうしてそれによつて心を安くし身を全くすることができるところに、意味があるとせられてゐたのである。そこで、歸去來兮辭を読んでみると「已矣(370)乎、寓形宇内復幾時、曷不委心任去留、胡爲乎遑々今欲何之、」といつてあるので、それによると、心のまゝにふるまはうとするそのこゝろの底には、つかのまのいのちなるにといふ悲傷のきぶんが潜んでゐることが知られると共に、「聊乘化以歸盡、樂夫天命復奚疑、」といつてあるのをみると、それには死生を天にまかせるといふ安らかなこゝろもちがあらはれてもゐることがわかるが、これは、一般的にいふと、隱逸といふ處世の態度とは、かならずしも本質的にかゝはりのあることではない。死生を天にまかせる心の安さは、隱逸のきぶんと一すぢのつながりはあるが、その意味は同じではないはずである。もつとも、死生を天にまかせるといふこゝろもちの生じたのは、生は求めても得られず死は厭うても避けられない、といふあきらめから來たことであるので、そのあきらめのもとには、どこまでも生を求めてやまぬこゝろもちがあり、そこから短いのがいのちであるといふ悲傷のきぶんが生ずるのであるが、このあきらめとこのきぶんとは、富貴は願うても達せられず名利の地は久しく居りがたい、といふ、まことは富貴と名利とを求め、一たび求め得たならば長くそれを失ひたくない、といふ欲望にねざしてゐる、一般士人のあきらめと悲傷とに似たところのある心理であり、從つてそこにもやはり隱逸の態度と通ずるふしがある。「富貴非吾願、帝郷不可期、」といつてゐるのも、そのためかとおしはかられもするので、むかしから「富貴在天」が「死生有命」とつゞけていはれてゐることも、これについて考へあはされるが、生死觀と處世觀とは、思想としては、その根本がちがつてゐる。だから、こゝに生死を語つてゐるのは、本質的に隱逸と伴つてゐることではなからう。(身を保ち天壽を全くするといふ隱逸の一つの精神は、陶潜においては、或は明かに考へられてゐなかつたかもしれぬ、といふことも考へられるが、それはこゝにいつてゐることとは、別の問題である。)ところが、生死についてのこの思想は、かれの酒(371)の詩においてもまたあらはれてゐる。
 陶潜には、酒についていふをりに、人生の短いことを思ひ死を思つてゐるばあひが少なくない。飲酒二十首のうちに「一生復能幾、倏如流電驚、鼎々百年内、持此欲何成、」といひ、「吾生夢幻間、何事紲塵羈、」といつてゐるところがあるが、これは、「但顧世間名」ために「有酒不肯飲」ものもあるが、短い人生に世間の名をはゞかつて何にならうぞ、飲みたい酒は飲むがよいではないか、世事にしばられてどうなるものか、酒でも飲まねば生きてゐるかひが無い、といふのであらう。また形影神三首のうちの形贈影に「適見在世中、奄去靡歸期、」から「我無騰化術」に轉じて「得酒莫苟辭」と結び、影答形に「存生不可言、衛生毎苦拙、……身没名亦盡、念之五情熱、」といつて、そこから「酒云能消憂」を思ひ出し、さらに神釋には「老少同一死、賢愚無須數、日醉或能忘、將非促齡具、」といつてあるが、これは、死の免れがたきこととそれを思ふ心の憂ひとを酒によつて忘れよう、といふのであるらしい。或はまた九月九日の詩で「從古皆有没、念之中心焦、何以稱我情、濁酒且自陶、」といつてゐるのは、「千載非所知、聊以永今朝、」と結んでゐるところから見ると、死んだ後のことは思はず、酒によつて今の生を樂しまう、といふところにその意味があるやうである。遊斜川の詩に「提壺接賓侶、引滿更獻酬、」につれて「中觴縱遙情、忘彼千載憂、且極今朝樂、明日非所求、」といつてあるのも、「千載憂」の語のあるところから見ると、一つは同じこゝろもちをあらはしたものであるらしい。酒はすべての憂ひを忘れさせるもの、この上もなき樂しみを與へるものである、かういふ酒によつて人生の短いことも忘れ、死の來ることも忘れ、死後のことも忘れる、といふのである。「世短意常多」といひ出してゐる九月閑居の詩に「酒能?百慮」の句のあるのも、そのためであらうし、讀山海經の詩でも「歡然酌春酒、……俯仰(372)終宇宙、不樂復何如、」といつてゐる。しかし、これでは、酒によらなければ人生の短いことが思ひをなやまし心を苦しめるといふことになるから、醉うた酒がさめると、またその憂ひがせまつて來ることを、認めるものである。だから、かゝる歡樂の底には一抹の悲傷の氣があることを否みがたい。酒によつて憂ひを忘れるのは、その麻痺作用によつて、しばらく我を欺くに過ぎない、といはねばならぬ。
 しかし、陶潜においては、別に隱逸の生活によつて、死の免れがたいことも、また死を思ふことから來るこゝろの憂ひも、生じないやうにすることができる、とせられてゐたらしい。隱逸は生きてゐる間における處世の態度ではあるが、富貴名利を求めないこゝろもちをおしひろめると、怨詩楚調において「吁嗟身後名、於我若浮煙、」といつてゐるごとく、おのづから身後の名をも求めないことになるので、そこに生死の問題とのかゝはりが生ずる。陶潜においては、かういふやうにして、富貴を願はぬことがおのづから生を求めず死を避けぬことにつながるものと、せられたのではあるまいか。隱逸といふ處世の態度と生死觀とは、かれにおいて、かうして結びつけられてゐたやうである。もしさうならば、酒によつて我を欺かずとも、生死の問題に對する心の安さは、隱逸によつて得られたはずである。しかし、上に引いたことのあるやうに「遠我遺世情」は酒の力であるといつてもゐる。世情から遠ざかるにもまた「忘憂物」たる酒に助けられるとすれば、隱逸そのことにおいて酒の力にまつところがあるのではないか。憂ひはかならずしも死を思ふことからのみ生ずるものではない。人死すれば名もまた没すといひ、身後の名を求めずといひ、或はまた世間の名に羈束せられないといひ、名、名、としきりにいつてゐるのは、まことは名にこゝろがひかれてゐるからであり、富貴を願はぬことをいろ/\のばあひにくりかへしていつてゐるのもまた、それと同じく、こゝろの(373)底のどこかに富貴といふ念がこびりついてゐるからのことである。さすれば、名利を求めないことの裏面には、名利の得られないことから生ずる憂ひのきぶんが潜んでゐる、といふべきであらう。さうしてこの憂を忘れるには、やはり酒の力によるところがあるのではあるまいか。隱逸の生と酒とは、かくして離れないものとなるのであらう。隱逸の生を送つた陶潜の酒を好んだのは、「性」ではあらうが、かういふ意味もまた無かつたとは、いはれまい。飲酒の詩のうちに飲酒をいはずして「結廬在人境、而無車馬喧、」をいひ、「採菊東籬下、悠然見南山、」をいひ、さうして「此中有眞意、欲辯已忘言、」といつてゐるもののあるのは、酒の情味と隱逸のきぶんとを離れないものとしてゐたことを示すものであるが、この一首にかぎらず、また飲酒の詩にかぎらず、この思想はかれの詩の多くに見えてゐる。かう考へて來ると、陶潜においては、隱逸の生活によつて死を思ふことの憂ひが忘れ得られるとするにしても、それにはやはり酒の力がはたらくやうに思はれてゐたのであらう。さうして、そこに酒と隱逸との結びつきの一つの意味がある、とせられたのであらう。一くちにいふと、酒によつて世情が忘れられ、それによつて隱逸の生活が助けられると共に、酒の力とその隱逸の生活とが、死に對する心の憂ひを忘れさせるはたらきをするもののやうに、陶潜の詩には歌はれてゐるのである。
 さて酒が憂ひを忘れさせるのは、それによつて醉ふことができるからであるが、醉ふとは酒の麻痺作用によつて我を失ひ我が思慮を失ふことである。「酒能?百慮」、憂ひが忘れられると共に、あらゆる思慮が忘れられる。五柳先生傳の「期在必醉」の醉は、この境地であるにちがひない。しかし飲酒二十首の序に「既醉之後、輙題數句、自娯、」とあるごとく、醉うても詩は作られる。或はまたいろ/\の詩に見える「陶然自樂」とか「閑飲自歡然」とかいふやう(374)な、またはそれと同じ意義のさま/”\の句の示すがごとく、醉うてもそこに歡樂は感ぜられる。これは、我を忘れてもなほ我の遺つてゐることと、思慮には憂愁が伴ふこと、或は思慮することはすなはち憂愁を感ずることにほかならぬこととを、示すものであつて、それはまた、醉によつて失はれる我は思慮し憂愁する我であることを、語るものである。しかし酒を好み醉を得ても、醉は忽ちにして醒めねばならぬ。醉つてゐる時は短く醒めてゐる時は長い。醉は常と異なつた境界で、醒は常の生活である。そこで、短い醉時の歡樂をあくまでも遂げようとすれば「且極今朝樂、明日非所求、」といふ態度とならねばならず、これがこの句のもつてゐる一つの意義であるらしい。さうしてこれは、醉といふもの、すなはち酒によつて得られる歡樂、の本質である。
 然るに陶潜は、酒について、これとは全くかはつたことをも考へてゐたやうである。飲酒の詩のうちに「一觴雖獨進、杯盡壺自傾、……嘯傲東軒下、聊復得此生、」といふ句があるが、これは、醉によつて眞の生が體得せられた、といふのではないか。眞の生とは、歸去來兮辭にいつてある「以心爲形役」でない生であり、形を忘れて心の存する生であらう。連雨獨飲の詩の「試酌百情遠、重觴忽忘天、天豈去此哉、任眞無所先、……形骸久已化、心在復何言、」は、それを別のことばでいつたものであつて、形を忘れた生は天を忘れた生であると共に、それがすなはち天と一なる生だ、といふのであるらしい。かゝる生は道家の理想とするところであつて、「心在復何言」もまた道家のいふ無事の心、無爲の心、のさまをいふのであらう。たゞ道家においては、それは醒めてゐる時の生であり常の生であつて、醉うてゐる時の生でもなく、醒めることのある生でもないのを、こゝではそれを酒により醉によつて得たものとしてある。けれどもまた、この詩に「形骸久已化」をいふについて「自我抱茲獨、?俛四十年、」といつてあるのを見る(375)と、この境界は長い間の修養によつて達したものとせられてゐるやうであるが、もしさうならば、その修養はすなはち隱逸の生活であることにならう。隱逸の生活が道家の思想とかゝはりのあるものとして、一般に、考へられてゐたことを思ひあはすべきである。
 ところで、隱逸のきぶんにも、上に述べたやうに、酒のはたらくところがあるごとくいはれてゐるが、しかしその隱逸の生活は、醒めることなく常に醉うてゐることをいふのではない。さうして道家の理想としてのこの境界が、酒の力によつて達し得られるものでないことは、道家の思想そのものによつてもおのづから知られる。さすれば、醉うて陶然たるこゝろもちを、上にいつた意義での眞の生を得たもののごとくいつてあるのは、酒によつて一時的に我を忘れ憂ひを忘れることを、知識としてもつてもゐ、またそれを尚慕してもゐた、我なく憂ひなく無事無爲の境界のあることを説いてゐる道家の思想に結びつけたもの、またはことばの上でそれに附會していつたに過ぎないもの、と見るべきであらう。或はまた、このようにいひなすことによつて、事實さうであるがごとく思ふようになつたのでもあらう。さうしてそこに、現實の生活を古典のことばでいひあらはすことによつて、その生活をことばの上で古典化し、さうすることによつて、現實の生活が古典のうちのものであるかのごとく、みづから錯覺し、もしくはみづから欺く、といふ、シナの知識人に通有な心理があらはれてゐるのであらう。現實の生活としての隱逸、すなはち官につかずして野居することを、道家の思想の實現であるがごとくいひなし、または美化せられてゐる古典のうちの隱士逸人と同じであるごとく思ひなすことにも、また同じ心理がはたらいてゐるのである。陶潜が五柳先生傳の賛において、みづからを無懷氏や葛天氏の民に擬してゐるのが、どれだけかれの現實の生活にあてはまるものであるかはしばらく問は(376)ないまでも、「不戚々於貧賎、不汲々於富貴、」といふ古人のことばを引いて、おのが身を貧賎であるかのごとくいひ、傳においても「家貧」といひ、歸去來兮辭の序でも「貧苦」といつてゐるのは、三逕の田があり歡迎する僮僕があつたかれとしては、かならずしも事實を語つたものではないことを、知るべきである。(もつとも、シナの知識人としては、この程度の生活は貧賤または貧苦であると思はれたのでもあらうから、その點は考へてやらねばならぬ。そのかはり、さう思はれてゐたほどに、かれらの目には常に富貴の生活がまぼろしに浮かんでゐたことをも、また認めねばならぬ。)けれどもまた一面においては、現實の生活をことばのうへ思想のうへで古典化することには、それによつて現實の生活が精練せられる、といふ效果が伴はないでもなかつたらしく、陶潜が「  偶俛四十年」といつてゐるのは、それを示すものかとも解せられる。
 しかし、すべての隱士逸人といはれるものにおいて、みなこのやうな生活の精練があるのではない。陶潜においてすら、富貴の得られず名利の求めがたいことを歎ずるきぶんが、かすかながらに、或は自覺しないながらに、その痕迹を殘してをり、人生の短いことから生ずる悲傷の情に至つては、明かにそれがかれの心にはたらいてゐた。富貴を願はず死生を天に任せるといふのは、もとより眞實であつたらうが、それは實は理智の上でのことであつて、そのかたはらにはこのやうな心情があつたことを、否みがたい。生を求めてやまず目にうかぶ富貴のおもかげをぬぐひ去りがたいシナの知識人においては、このやうな心情のうごくことはあたりまへであるので、そこから人生は憂愁のみといふ感傷も生ずる。だから、その心情の動くのを抑へるには、酒をかり醉をかりねばならないのである。上に酒によつて我を忘れるといひ思慮を忘れるといつたのは、このやうな心情のはたらきを忘れることであるが、その結果は(377)却つて理智の示すところと一致することにもなる。醉つて詩を作り、詩によつて「樂其志」といふのは、むしろこの理智をはたらかせることであるので、我を忘れてもなほ殘つてゐる我は、すなはちこの側面のである。ほんとうに陶然たる間は、みづからその陶然たることを意識しない。麻痺作用が衰へはじめ、醉がさめかけ、陶然たるきぶんが薄れかゝる時、はじめて陶然として醉つてゐること、またはゐたことが、意識せられて來る。さうしてそれは、理智がはたらきはじめ、醒めた生活にたちかへりはじめる時である。詩はかゝる半醉半醒の間に作り得られるのであるが、作つてゐる間に醉は次第に醒め、理智のはたらきは加はつてゆくにちがひない。然らざれば、詩を作ることはできないのである。たゞその間にも、醉ごゝちが意識のまはりに月の暈のごとく殘つてはゐるので、我の忘れられ憂愁の忘れられた陶然たるきぶんから、離れてしまつてはゐない。かゝるきぶんと理智のはたらきとの、奇なる結合によつてできたものが、或はむしろ、隱逸の生活や、道家の思想についての知識や、それらとからみあつてゐる平素の何等かの修養や、さういふものによつて次第に形づくられて來た理智の示すところを、酒の麻痺作用によつて得た陶然たる醉ひごゝちから生れたもののやうに、思ひもしいひもしたのが、陶潜の酒の詩なのではあるまいか。
 陶潜の酒と酒の詩とは、このような情趣のもの、このような意味のもの、と解せられる。梁の昭明太子が陶靖節集の序で「有疑陶淵明詩篇々有酒、吾觀其意、不在酒、亦寄酒爲迹者也、」といつてゐるのは、陶潜をいはゆる高士としようとすると共に、詩には道徳的もしくは政治的意義のあるべきものとする考によつて、かれの詩を見ようとしたものであつて、もとより問題とするには足らぬ。かれはほんとうに酒を好み、醉を求め、さうしてその情趣(と思つたところ)を詩に詠じようとしたのである。たゞその求めた情趣は、酒のはたらきの一面のみであつた。酒には昂奮(378)と麻痺とのはたらきがある、と上にいつておいたが、陶潜の詩にあらはれてゐるところは、その麻痺のほうのみである。これは一つは、かれの酒が隱逸のきぶんと結びついてゐるからでもあるので、友と共に飲まんことを思ひ、親舊に招かれて醉に至ることもないではなかつたが、それよりもむしろ、獨り酌み獨り醉ふところに酒の情趣があるやうに思つてゐたらしいのも、そのためであらう。隱逸の極みは獨居にあることを思ふと、これは自然のことである。昂奮のはたらきは、多數人と共にすることにおいて、或は社交上に用ゐられるばあひにおいて、あらはれることが多い。いま一つは、青春のいき/\したきぶんがその詩に見えないことと關係があるので、これもまた、隱逸を求めるやうになつたかれの性質や閲歴に伴つたものとして、考ふべきことであらう。かならずしも年齡にかゝはることではなく、若い時から老成の人であることの尊ばれるシナの知識人のならはしも、このことについてきをつけねばならぬことであるが、今日に傳はつてゐるかれの詩には、若かつた時の作と思はれるやうなものは無い。かれがどうして隱逸を喜ぶようになつたかの事情も、よくわからないが、これだけのことは事實として認められよう。
 陶潜の酒の詩についてこれだけのことを考へておいて、次に李白のを讀んでみる。李白の酒の詩には、陶潜の詩の句、またはかれの事跡として傳へられてゐることによつて、書かれた句がいろ/\あるので、これは、唐代の詩人が酒をいふについて、陶潜をおもひうかべるならはしのあつたことを示すものである。李白のにかぎらず、次に見ようと思ふ白居易のにおいても、このことは同じであり、また一般に故事成句を用ゐることはシナの詩の作者の常套手段でもあるが、それにしても、酒といへばすぐに陶潜が思ひ出されたことは、事實である。ところが、これは辭句の上のみのことではなく、一首全體の情趣においても、陶潜のおもかげの見えるものがあり、表現のしかたにこそいくら(379)かのちがひはあれ、思想においては全く同じであるものさへもある。思想の同じであるものを擧げてみると、人生は短く長生は求むべからず、世は夢のごとし、といひ、そこから酒の飲むべきことを展開して來たものも、その一つである。「人生飄忽百年内、且須酣暢萬古情、」また「自古帝王宅、城闕閉黄埃、君若不飲酒、昔人安在哉、」また「……古之仙、羽化竟何在、浮生速流電、?忽變光彩、天地無彫換、容顔有遷改、對酒不肯飲、含情欲誰待、」また或は「處世若大夢、胡爲勞其生、所以終日醉、頽然臥前楹、」といふやうなのが、その例であつて、これに似たものはほかにいくつもある。これらは、どうせ死ぬ命だ、まじめな顔して何になる、飲んで醉うて、一生を送らうではないか、といふのであるか、それとも、短い一生と思へばつらい、酒でつらさを忘れよう、といふのであるか。前のほうのには、人生を輕く見、うき世を輕く見るきぶんがあるが、それとても悲傷の情から生れてその情をおほはうとするものであり、後のほうのが、人生を憂愁とするものであることは、いふまでもない。愁にはいろ/\あるので、「美酒樽中置千斛」は「功名富貴若長在、漢水亦應西北流、」と思ふその愁を銷すためであり、「擧杯銷愁愁更愁、人生在世不稱意、」の愁も、世に處するについてのことであらう。「孤雲還空山、衆鳥各已歸、彼物皆有託、吾生猶無依、對此石上月、長醉歌芳菲、」の「無依」もまた愁の一つのすがたと見なされる。しかし「愁多酒雖少、酒傾愁不來、」は、金液蓬莱がそれについて思ひ出されてゐることから見ると、長生の求めがたい愁がそれに含まれてゐるらしく、「且樂生前一杯酒、何狩身後千載名、」もまた、名についていつてはゐるものの、生死に關するところがそこにある。李白の酒の詩に憂愁の情が伴ひ、特に人生の短きことから來る悲傷の氣がみちてゐることは、これだけの例から見ても明かであつて、それは陶潜の詩と同じである。
(380) しかし「當代不樂飲、虚名安用哉、」において陶潜と同じことをいひながら、「且須飲美酒、乘月醉高臺、」でそれをうけたり、「君不見、高堂明鏡悲白髪、朝如青絲暮成雪、人生得意須盡歡、莫使金樽空對月、」と歌つたり、してゐるところには、物しづかな陶潜には見られないはれがましさがあり、「笑春風、舞羅衣、君今不醉將安歸、」といつたり、月下に獨酌して「擧杯邀明月、對影成三人、……我歌月徘徊、我舞影零亂、」といつてゐるやうに、醉に乘じて高く歌ひ輕く舞ふさまを敍したり、もしくは「滌蕩千古愁、皆連百壺飲、……醉來臥空山、天地即衾枕、」と詠じたり、してゐるのも、また陶潜とはその情趣にちがつたところのあることを語るものであり、さうしてそれには、酒の昂奮作用がはたらいてゐるところがある。李白にはいはゆる隱者のごとききぶんの無かつたことが、このことと關係があらう。もつとも「春草如有意、蘿生玉堂陰、東風吹愁來、白髪坐相侵、猶酌勸孤影、閑歌面芳林、長松爾何知、蕭瑟爲誰吟、手舞石上月、膝横花間琴、過此一壺外、悠々非我心、」といふやうなものもあつて、隱者のすがたがそこに認められるやうでもある。上に一首の情趣の上に陶潜のおもかげのあるものといつたのは、かういふたぐひのもののことであるが、李白の多くの詩にあらはれてゐるところから見ると、かういふのがかれの本色を示すものであるかどうかは、疑はしい。けれどもまた「陶然共忘機」とか「對酒還自傾、浩歌待明月、曲盡已忘悲、」とかいひ、或は「窮通與修短、造化夙所禀、一樽齊死生、萬事固難審、醉後失天地、兀然就孤枕、不知有我身、此樂最爲甚、」とも「仙人殊恍惚、未若醉中眞、」ともいつて、醉を道家ふうの思想に託したもののあることは陶潜と同じである。そのいひかた、從つて詩のうへにあらはれてゐる情趣、には同じでないところがあり、「三杯通大道、一斗合自然、」といふやうなものに至つては、なほさらであるが、大道をいひ自然をいつてゐるその思想は、陶潜のとかはらず、醉うて我を忘(381)れることを、それとは全くちがつてゐる道家の思想における忘我の境界であるがごとくいふのが、陶潜について上に考へたのと同じであることも、また明かであらう。
 李白の酒の詩がほゞかういふものであるとすれば、その思想においては、かれに特殊なものはほとんど無いといつてよい。「天若不愛酒、酒星不在天、地若不愛酒、地應無酒泉、天地既愛酒、愛酒不恥天、」とか「遙看漢水鴨頭緑、恰似葡萄初發  酷、此江若變作春酒、壘麹便築糟丘臺、」とか、いふやうなことは、かれでなくてはいはれないのかも知れぬが、思想としてはそれに何の意味も無い。ことばの上の戯れでなければ、たゞ酒を好むことの甚しさがそれによつて示されてゐるまでである。李白の詩にはかれに特殊の情趣があるが、それは思想においてではなくて、多くは表現のしかたにおいてであり、そのしかたに、かれの知識と才能と性情の向ふところと處世の態度とから成り立つてゐるかれの特色が、あらはれてゐるのである。たゞ見のがされないのは、一般に豪放とか壯快とか氣宇が大きいとかいはれてゐるかれの詩にあらはれてゐる情懷のそのおくぞこには、世に對し生に對する悲傷の感と憂愁の情とが潜んでゐること、むしろさういふ情感から豪壯の氣が生まれてゐることである。人生の短きを悲しみ功名の保ちがたきを憂へるのは、知識人に通有の思想であるのみならず、それを文字にあらはすのは、半ばはかれらの因襲でもある。しかし上にも述べたごとく、そこにシナ人としてのかれらが、生に對し世に對する眞の希求から出てゐるものがあるので、さればこそそれがかれらに通有の思想となつてゐるのである。從つて詩にあらはれてゐるさういふ思想は、どの詩人の作においても同じである。たゞ或る詩人の個人的特色は、それをいかに表現するかの點にある。陶潜と李白とのちがひもまた、そこにあるといはねばならぬ。このことは、白居易の詩を讀むことによつて一層明かになるであらう。
(382) 白居易もまた、その酒の詩においてしば/\陶潜を思ひ出してゐるのみならず、「效陶潜體詩十六首」をさへ作つてゐるし、その「醉吟先生傳」も「五柳先生傳」にならつて書いたものと解せられる。さうしてその詩にあらはれてゐる思想にもまた、陶潜のと同じものがある。「重陽雖已過、籬菊有殘花、」といひ「但有?犬聲、不聞車馬喧、時傾一樽酒、坐望東南山、」といふのが、陶潜から來てゐることはいふまでもないが、「勿言身未老、冉々行將至、吉髪雖未生、朱顔已先悴、人生?幾何、在世猶如寄、雖有七十期、十人無一二」を思うては「唯當飲美酒、終日陶々醉、」と吟じ、富貴には憂處おほく貧賤に却つて安樂の境があることを知つては、「且以酒爲娯」と歌ひ、或は「願君且飲酒、勿思身後名、」といひ「勸君一杯君勿辭、……面上今日老昨日、心中醉時勝醒時、身後堆金挂北斗、不如生前一樽酒、」といひ、或はまた「不如且飲長命盃、萬恨千愁一時歇、」といひ、さては「今朝不盡醉、知有明朝不、」といふなど、ことばの上に現はれてゐる情趣には、いくらか違つてゐるところがあつても、この思想は陶潜のと同じである。「有時閑酌無人伴、猶自騰々入醉郷、」のごとく、獨り酌み獨り醉ふところに酒の情趣のあることをいつたものもある。
 ところで、人に死のあるのを知ることがどうして酒を飲めといふことになるかといふと、それは、どうせ短い命だから飲みたい酒は飲むがよい、といふのか、酒によつてそこから來る愁が忘られるからだといふのか、どちらかであるらしく、上に引いたやうに、死んだ後のことよりも生前一杯の酒をとるといひ、さうしてそれを「君不見春明門外天欲明、……白?素車爭路行、」に關係させてゐるのは、前のほうのであり、人の命の短いことから「胡爲方寸間、不貯浩然氣、」に轉じ、それから美酒を飲んで醉ふことに移つてゐるのは、後のほうのであらう。しかし白居易においては、かうはいひながら、死の免れがたいことに對する悲傷の情は、さまで深いものではなかつたやうである。人(383)はいつかは死ぬと嘆じながら、「幸及身健日、當歌一樽酒、」といひ、年老いてもなほ生を保つてゐることを喜んで、「眼前有酒心無苦、只合歡娯不合悲、」といつてゐるのでも、そのことがおしはかられる。さすれば、「委命隨修短」といふきぶんにもおのづからなり易かつたかもしれず、かういふきぶんが、たゞのあきらめからのみ來てゐるのではないようにも見える。これはてうど、身の富貴でないことを知り、さうして「貧賤非不惡、……富貴非不愛、」とさへいひながら、「衣食幸相屬、胡爲不自安、」とも吟じて、今の境遇に安んじてゐたのと、同じである。「心中又無事、坐任白日移、或開音一篇、或引酒一巵、但得如今日、終身無厭時、」といひ、上に引いた句の「一壺濁酒送殘春」のあとで「飽食安眠消日月、閑談冷笑接交親、誰知將相王侯外、別有優遊快活人、」といつてゐるのも、またみづから足れりとしてゐるのであるが、これらは短き命に安んじ貧賤を足れりとしてゐるといふのではなく、年老いるまでながらへ貧賤ならざる生活をしてゐることに滿足してゐることを、示したものである。「蹉?五十餘、生世若不諧、處處去不得、却歸酒中來、」といひ、不如來飲酒七首において、何ごとをしても困苦がある、飲んで醉ふに如かず、といつてゐるやうなばあひもあるが、世に處する困苦は、かならずしもこの滿足の情を損ふものではなかつたらしい。人生の短いことも、富貴の得がたいことも、或はまた處世の艱難も、少くともその半ばは、知識から得たことであり、知識人の口くせであつて、事實、それによつて深く心が動かされてゐたのではないやうである。
 このことはまた「朝飲一盃酒、冥心合玄化、」といひ、「一酌機即忘、三杯性咸遂、」といひ、また「一杯置掌上、三嚥入腹内、煦若春貫陽、喧如日炙背、豈猶支體暢、仍加志氣大、當時遺形骸、竟日忘冠帶、以遊華胥國、疑反混元代、一性既完全、萬磯皆破碎、」といふやうなものについても、いひ得られる。醉つたこゝろもちを道家の心境のやうに(384)いつてゐるのが書物から得た知識によつて、酒の麻痺作用をことばの上で道家化したものであることは、いふまでもないからである。わがことばかりでなく、陶潜について「還以酒養眞」といつてゐるごとく、古人の酒をもそのやうに見てゐたのである。「一盃復兩盃、多不過三四、便得心中適、盡忘身外事、吏復強一盃、陶然遺萬累、」は、酒の麻痺作用をそのまゝに敍したものと見られるが、上に引いたのはそれとは違つてゐる。陶潜でも李白でもみなかういふことをいつてゐるが、白居易もまたそれらと同じである。たゞかれの詩においては、それが知識の上ことばの上でのいひなしであることが明かに感ぜられるので、それは、かういひながら「詩思又牽吟咏發、酒酣閑喚管絃來、」とか「悶發毎吟詩引興、興來兼酌酒開顔、」とか、または「琴罷輙擧酒、酒罷輙吟詩、三友逓相引、循環無已時、」とかいつて、酒を琴詩と同じようにとりあつかひ、または酒に絃歌を伴はせ、さうしてまた「醉袖放狂相向舞、愁眉和笑一時開、」といふやうなことをいつてゐるばあひさへも、あるからである。琴も詩も世外のこととせられてゐるから、萬磯を忘れ玄化に合する心境がそれによつて表現せられるかもしれぬが、しかし少くともかれの詩がかういふ心境を咏じたもののみでないことは、詩そのものによつて明かである。「我有樂府詩、成來人未聞、今宵醉有興、狂詠驚四隣、」と效陶潜體詩のうちの一つにいつてゐるが、これは混元の代にかへり性を全くするのとは遙かにちがつたこゝろもちであり、陶潜の詩の情趣ともかけはなれてゐる。「陶然遺萬累」、ですらない。「花前置酒誰相勘、容坐唱歌滿起舞、」と妓輩の歌舞に與ずるに至つては、なほさらである。「人間榮與利、擺落如泥塵、」といふ隱士陶潜を慕ふといひながら、いつまでも冠冕をすてなかつたことは、ともかくもとして、世によく知られる如く、身後の名さへも求めてゐたかれの行ひを見ても、書物の上の知識から來た思想と現實の心情とが、彼において一致してゐなかつたことは、(385)知られるから、このやうな觀察をしても、大なるまちがびはなからう。
 要するに、白居易は酒がすきであつた。さうして或る時は醉うて陶然として何ごとをも忘れ、或る時は興に乘じて琴を彈じ詩を吟じ、また或る時は談笑放語し、妓に命じて歌舞をさせもした。たゞそれだけのことである。何處難忘酒七首において、春にも秋にも、いかなるばあひにも、酒が無くては、といつてゐるのも、かれの酒に對するこの態度を示すものといつてよからう。さうしてそこには、酒の麻痺作用ばかりでなく、昂奮作用もはたらいてゐるばあひがある。たゞかれは、酒と共に詩もすきであつた。さうしてそれと關聯して、シナの知識人としてのいろ/\の知識をも、かれらには因襲となつてゐた思想的傾向をも、もつてゐた。そこで、みづからは隱士でないのに隱逸を尊ぶべきものとしたと同じく、酒をのんで陶然として我を忘れるばあひのあるところから、その醉ひごこちを道家の心境であるがごとく、いひなしもしたのである。このことは「半醉行歌半坐禅」といひ「毎夜坐禅觀水月、有時行醉翫風花、」といひ「第一莫如禅、第二無如醉、禅能泯入我、醉可忘榮悴、……勸君雖老大、逢酒莫廻避、不然即學禅、兩途同一致、」といひ、禅の境地と酒の醉とを同じであるようにいつてゐるばあひのあることからも、類推せられよう。かういつてゐるのを、禅を冒?するものだなどといふにはおよばぬ。白居易の禅の修業がどれだけのものであつたかは、別のはなしとして、かういふいひかたをしたのは、半ばはことばの上だけのことであり、道家の用語で醉ごこちを示したのと同じである。或は禅觀に入つた時の境地を道家の忘我のそれと同じであるやうに、考へてゐたのでもあらう。「薤葉有朝露、槿枝無宿花、君今亦如此、促々生有涯、既不逐禅僧、林下學楞伽、又不隨道士、山中煉丹砂、百年夜分半、一歳春無多、何不飲美酒、胡然自悲嗟、」こゝでは修禅と煉丹とをさへ同じもののやうにとりあつかつてゐる(386)ので、それは、同じく死を免れるための道であるために、佛家の解脱と仙家の長生とを竝べあげたまでのことではあらうが、酒についてそれをいひ出したのは、やはりことばの上だけのことである。美酒を飲んで愁を忘れるのは、すなはち死の來るを一時的に忘れることであるが、それがすなはち禅を修めて生死を離れ、仙を學んで長生を得るのと同じく、死を免れることででもあるかのやうに、いひなされたところに、この詩の意味があるからである。
 もつとも、かういふやうにいひなすことによつて、事實、さうであるごとく思ひなされる、といふ心理もあるから、その點から見れば、それを單なることばの上のこととのみ見るにはおよばないでもあらう。さすれば、道家の心境であるごとくいひなしたことについても、やはり同じことが考へられるので、さういふ詩を作つてゐる時には、事實さうであるやうに思つてゐたとも解せられる。そのかはり、隱逸の生活を讃美したり、高歌放吟するといつたり、または妓輩の歌舞に興じたやうにいつてゐたり、するばあひにも、みなそれ/\さういふこゝろもちになつてゐたことになるので、つまりは、同じく酒に醉うても、をりにふればあひによつていろ/\のきぶんになり得たのであらう。そこに、何ごとにも感興をおぼえる點において、詩人としての白店易の個人的特色があるのかもしれぬ。
 ところが、このことは、陶潜や李白がそのいひあらはしかたにおいてそれ/\の著しい特色をもつてゐ、詩にあらはれてゐる情趣にもまたそれがあるのとは、少しくちがつて、いかなる情懷をも咏じいかなる事物をも敍することのできるような、いひあらはしかたをしてゐることとも、關係があるのであらう。しかし何ごとでもいひ得られるいひかたには、深さと強さとが缺けがちである。かれの詩が平易であるといふのも、この意味において考へられるべきことであり、一般に調子が低いやうに感ぜられるのも、またこの故ではあるまいか。例へば、かれの詩においては、上(387)にもいつたごとく、人生の短いことがいつてあつても、それに對する悲傷の情は強くあらはれてゐないように見える。陶潜の體にならつたといふ詩においても、そのもとの詩とはかなりの隔たりがある。同じなのはその思想であり、知識の上で理解せられる側面のことである。
 唐人で酒の詩を作つたものは、もとより李白と白居易とにはかぎらぬが、このふたりによつて、ほゞ唐代の詩人を代表させることができよう。そこでをはりに、宋人である蘇軾について一ことをいひたし、はじめに陶潜を考へたのと對應させることにしよう。蘇軾には陶潜の詩に和したものがいろ/\あり、歸去來集字十首のごとき作さへもあるのみならず、酒の詩としては和陶飲酒二十首があるからである。さて、かういふ詩において、陶潜の生活とその情趣とがそのまゝにいひあらはされてゐるところには、別に問題はないが、その間におりこまれてゐる蘇軾みづからの思想なり感懷なりには、考ふべきことがある。そのおもなものは、和陶飲酒二十首の引に「吾飲酒至少、常以把盞爲樂、」といひ「盖莫能名其爲醉爲醒也」といひ、またそれについて「歡不足、而適有餘、」といつてあることである。これは「一日須傾三百杯」といひ「但願長醉不須醒」といつた李白とも「終日陶々醉」を樂しみ「醉時勝醒時」といつた白居易とも、ちがつた酒の飲みやうであるばかりでなく、「閑飲自歡然」とし「快飲」して醉ふを娯んだ陶潜のそれとも、同じでない。詩においても「惟有醉時眞、空洞了無疑、」といつてゐるばあひもあるが、それと共に「得酒未擧杯、喪我固忘爾、」ともいつてゐるので、杯を擧げざるに我を喪ふのは、醉うて機を忘れるのとはちがつてゐる。かれが酒を樂んだのは、醉ひごゝちのよさを歡んだのではないやうである。「偶得酒中趣」とはいつてゐるものの、「空杯傳常持」では、その趣がほんとうに得られたのかどうか、もし得られたとすれば、その趣は陶然として醉ふと(388)ころにあつたのではあるまい。「歡」は得られないが「適」が得られるといつてゐるのは、これがためであるので、それは、酒を飲んで醉ふのが樂しいのではなく、杯を手にするきぶんがこゝろよいのであり、さうしてそれは、杯を手にすることが一時的に世事から遠ざかることだからであるらしい。「我不如陶生、世事纏綿之、云何得一適、亦有如生時、」は、すなはちそれを示すものであらう。こゝに、みづからは世に交はりながら隱逸のきぶんを尚ぶこゝろもちが見られる。
 しかし蘇軾みづからのこの一時的な隱逸のきぶんは、醉郷に身をおくこととはむすびついてゐない。「醉中雖可樂、猶是生滅境、云何得此身、不醉亦不醒、」は、不生不滅の解脱の境と不醉不醒の身と、もと/\何のかゝはりも無いことを、ことばの上で結びつけたのみであつて、佛教思想を酒の詩に導き入れたなどといふほどのことではないが、醉郷にこゝろがひかれてゐなかつたことは、これでもわからう。(この醉醒が比喩のことばでないことは、一首全體の着想から知られる。)ところで、醉郷にこゝろがひかれなかつたのは、醉中の趣を解し得なかつたからであらうが、それを解し得なかつたのは、麻痺作用にかゝるほどに、酒が飲めなかつたためであらう。たゞそこからかういふことをいひ出して來たところに、蘇軾の理窟やであることが示されてゐるのではあるまいか。さうしてそこに、宋代の知識人の一つの氣風があらはれてゐるのではなからうか。或はそこに、かれの詩人的でないところが見えるのでもあらう。喪我をいふについて「是身如虚空、誰受譽與毀、」といひ、醉時の眞をいふに當つて「人間本兒戯、?倒略似茲、」といつてゐるのも、また同じ例である。(こゝにも佛教の知識が加はつてゐる。)陶潜の詩に和しながら、もとの詩とはかなりにちがつた思想と情趣とが、蘇軾の詩にあらはれてゐるのである。たゞ酒についてこの晉代の隱士を思ひ出(389)してゐるところに、シナの知識人の因襲的なこゝろもちがあることは、忘れてはならず、杯を手にしてゐるうちは世事から遠ざかつてゐることに快適を感じながら、さうして杯を手から離すと共にその世事に纏綿せられてゐる身であることを知りながら、依然としてその兒戯の世界、毀譽の世界に身を置き、さうしてそれには名利の念が潜んでゐるところに、シナの知識人の世に處する態度の示されてゐることをも、また認めねばならぬ。
,さて、シナの酒の詩がこれまで見て來たやうなものであるとすれば、それにはやはりシナの知識人に通有な處世上の個人主義、自己本位の思想、のあらはれてゐることが知られる。獨酌閑飲、醉うて機を忘れることを喜ぶのは、おのれひとりの身の安さ心の安さを求める隱逸の態度や道家の心境と同じであつて、いづれもこの思想から出たことであるが、富貴名利を求めるのも、根柢の思想はそれとちがひが無く、一つの思想のおもてがでるかうらがでるかで、その心の向ふところがちがひ、身の動きかたがちがふのみである。生を欲し死を恐れ長生を希ふのが、わが身についてであることは、いふまでもない。シナの知識人は、世に立つて何等かの事業をするといふことには、考をむけなかつた。或はまた人生には避けられない愁があり世に立てば免れがたい惱みがあつても、それをわが力によりわがなすことによつて克服してゆかうとし、さうしてゆくことに心の喜びを求める、といふ態度は無く、世をさけ事業をさけ、もしくは醉郷に入ることによつて、一時的にそれを忘れ、忘れることによつて、愁や惱がなくなるごとく、みづからを欺くのも、また同じである。酒はその麻痺作用によつてかれらには生理的の醉を與へるが、かれらはまたみづからの生活と長い間のその因襲とによつて、その精神が、心理的に、すでに麻痺してゐるのである。これは知識人、いひかへると、讀書人、さらにいひかへると仕官を生命とするもの、のことであつて、かならずしもすべてのシナ人のこ(390)とではないが、詩はかゝる知識人によつて作られたものである。
 次には、生を欲し死を恐れ、人生の短いことに對する悲傷の情があつても、そこから生死についての深い思索が導き出されるやうなことが無く、長生を求めるにしても、それを歴史的社會的生活の上において、いひかへると永久にそのはたらきを及ぼす事業の上において、することには考がむけられず、たゞ命に安んずるといふ手がるなこゝろもちで免れがたき肉體の死を迎へるか、然らざれば酒によつて死の來ることを忘れるか、いづれかに過ぎないといふことが、知られるのである。命に安んずることはともかくもとして、酒によつて忘れることのできるやうな死であり、その死に對する悲傷の情であるならば、それはそれほど深い意味のあるものでもなく、痛切なものでもない、といへばいひ得られもしよう。白居易の詩に、上に見たようなきぶんのあらはれてゐるものがあるのは、この點からその意味を解することもできるであらう。さすれば、李白や陶潜についても、また同じことが、少くとも或る程度に、考へられるのではあるまいか。さうしてそこに、シナの知識人の生死觀の一つの傾向があるのではなからうか。生に執着することの深いシナ人が、死の免れがたきことに對して悲傷の情を抱くのは、さることながら、朝に夕にそのことのみが考へられてゐるのではなく、日常の生活においては生の營みに、知識人においては富貴名利を求めることに、すべての心を傾け、或はまた、よし明かに意識はしないまでも、生の間には生の樂しみを享受しようといふ欲求がおぼろげながらはたらいてもゐて、かういふことは却つて忘れられてゐるのが、實際のありさまであらうから、知識の上からそれが考へられ、從つて詩にもあらはれてはゐるが、詩人とても、まことはほど/\につけて生が樂しみ得られたのであり、酒もまたその意味においての樂しみの一つであつたらう。酒の詩をよむにつけても、かういふことが感(391)ぜられる。
 唐人の酒の詩についていはうとしたことは、ほゞこれだけであるが、こゝに一ついひそへておかうとするのは、酒の味とか色とか香とかの敍速が殆ど見えない、といふことである。全く無いではなく、李白の「玉椀盛來琥珀光」は色をいつたものであらうし、李賀の「琉璃鐘、琥珀濃、」も同じであらう(この次の句の「小槽酒滴眞珠紅」の紅が酒の色であるかどうかは、わかりかねる)。白居易にも「十分滿盞黄金液」とか「世間好物黄?酒」とか、または「緑?量盞飲」とか、いふ句がある。「一事新?色、萍浮春水波、」もまたいはゆる緑?であらうか。緑酒といふことばもしば/\用ゐられてゐるが、酒の色を緑といふのは美化したいひかたであつて、それにはまた、李白の「千杯緑酒何辭醉、一面紅粧脳殺人、」のように、修辭の法としての對?に便利であるといふ意味が加はつてゐるでもあらう。上に引いた同じ李白の句に漢水の色の鴨頭緑を「葡萄初發?」のさまに見たてたものもあるが、一般に緑酒といはれたのは、それではあるまい。皇甫嵩の醉中日月の酒の色のいろ/\を擧げてあるのを見ると、原料のちがひによつてさまざまの色の酒ができてゐたことが知られるやうである。が、その色が實はわからぬ。「色如金」は黄色であらうが「色黒」とあるのは、いくらか黒ずんでゐるのであつて、緑酒といふのもそれではあるまいかと臆測せられもする。李白の「白酒新熟山中歸」のやうに白酒といふ語も使はれてゐるが、これは色の無いのをいふのであらうか。が、それらのことはともかくもとして、酒を好むものがその色はどれだけの情趣を感じ、色によつてどれだけ酒の興を助けられたかは、明かでない。香に至つては、詩にあらはれてゐることが一層少いやうであつて、李白の「蘭陵美酒鬱金香」がもし香をいつたものであるならば、それは珍らしい例であらう。鬱金は香の一種だからである。が、この場合(392)かう解してよいかどうか知らぬ。(鬱金香は、上記の眞珠紅と共に或は酒の名ではないかとも思はれる。)味もまた詩には歌はれてゐない。醉中日月にはよい酒を「味醇且不苦者」とし、よくないのを「酸?者」としてあるが、醇なる味ではどんな味かわからぬ。これは、花の詩においてその形や色や香についての敍述が乏しいのと同じであつて、酒については、たゞ醉ふことをいひ醉つたきぶんとその效果とをいふことに、考がむけられてゐる。さうしてそれによつて見ると、シナの詩人は、機を忘れるとか性を全くするとか大道に通ずるとかいふやうな、書もつのうちから得て來た空虚な知識を弄ぶことにはなれてゐても、色や香や味やに對するこまかい感受性は、或は養はれてゐなかつたかもしれぬ。もしさうならば、シナの知識人の教養の一つの性質が、それによつても知られるのではあるまいか。
 花さけば酒をよび、花おつればまた酒をよぶ。はなやかな花の色と花さく春の光景とは、おのづから人のこゝろをうきたゝせる酒のはたらきを思はせるのであらうし、花落ちて春の去りゆくを見ては、その感傷をさらにそゝるところのある酒を求めるのであらう。これはむしろ酒の昂奮作用に依頼するのであるが、花に愁を感じ春に恨をよせるものは、また酒によつてその快を散じその愁を忘れんとして、こゝではまた酒の麻痺作用をはたらかせようとする。このような酒の效果は、詩人のよく知りよく咏じたところであるが、花にも酒にも、花そのもの酒そのものをこまかく觀察してその情趣を發見することは、かれらはしなかつた。酒の效果を説いても、醉うてゆく心理過程を内觀することのできなかつたことは、いふまでもない。上に引いた詩の如く、白居易が杯を重ねるに從つて次第に醉のましてゆくありさまを敍したものはあるが、それは道家のことばを用ゐ道家の心境に附會したところのあるものであつて、醉ごゝちのほんとうの内觀ではない。酒の詩においてばかりではなく、こゝにシナ文學の通相の一つがある。
(393) こゝまでいつて來たことにもし大なるまちがひがないならば、シナ人の酒の詩がヨウロッパ人のそれとひどく趣のちがつたものであることは、おのづから知られる。アナクレオンのむかしから酒を歌つた詩は少からず世にあらはれたが、それは多くは、青春の血をあわだてる酒の昂奮作用に關するものであるらしい。酒が憂をはらふといふこともいはれてゐないではないが、それとても、憂を去るそのことに消極的なたのしみを見いだすのではなくして、憂を除いて別に人生の歡樂を求めようとする積極的な意欲がはたらいてをり、そこにやはり昂奮作用のあづかるところがある。が、この方面についてはたしかな知識をもたないから、多くいふことをさしひかへる。たゞこの稿のおしまひにいま一つのそへごととして、萬葉卷三のオホトモノタビト(大伴旅人)の酒の歌のことをいつておかう。
 タビトの歌にシナ思想シナ文學の知識によつて作られたもののあることは、よく知られてゐる事實であるが、「あなみにくさかしらをすと酒飲まぬ……」といふのも、陶潜の飲酒二十首の第三の「有酒不肯飲、……」から來てゐるところがあらうかと考へられる。しかし、この歌の第四第五の兩句で「人をよく見れば猿にかも似る」と痛快に罵つてゐるその罵りやうは、シナの詩には見られないことである。「生けるもの遂にも死ぬるものにあればいまある間は樂しくをあらな」には陶潜の詩に見えてゐる情趣と似かよつた點があるが、「今の世に樂しくあらば來む世には蟲に鳥にもわれはなりなむ」のやうに、思ひきつてそれを強くいふことはシナの詩人はしなかつた(佛教の來世思想がここに用ゐてあることは別として)。蟲といひ鳥といつて具體的にそのものをさすのも、猿の名を擧げたことと共に、抽象的ないひかたをしない點において、素朴ではあるが、詩的な表現の法であつて、民謠ふうの興趣さへもそこにある。「なか/\に人とあらずは洒壺になりにてしがも酒にしみなむ」といつて、酒つぼをとり出したことにも、また(394)同じやうな感じがあるが、それと共にこの歌は、酒に溺れてゐることの深さをよく示してもゐて、それもまたシナの詩にはくらべるものが無い。さうしてこれらの歌の何れにも、輕い滑稽の感じのあらはれてゐることが、酒の歌にはふさはしい。一つ/\についていふまでもなく、十三首の全體にそれがあるともいへるが、酒を讃める歌のやうなものを作つたその態度に、すでに滑稽味があるとも見られる。「さかしみとものいふよりは酒のみて醉ひなきするしまさりたるらし」といつてゐる「醉ひなき」の語においても、やはりそれが認められるが、この作者にとつては、道家のことばを用ゐて醉うたきぶんをその道家の心境に託するやうなことは「さかしみとものいふ」ことの甚しきものと、思はれたであらう。道家の思想がすでに知られてゐたこの時代において、シナの詩のさういふところをまねようとしなかつたのは、おもしろい。名利の念をすてたとか富貴長壽を求めないとか、いふやうなことをいはないのも、また同じである。奈良朝の歌人はシナの詩人ではなかつた。しかし、さかしみはものいふことばかりにあるのではない。「もだをりてさかしらするは酒のみて醉ひなきするになほしかずけり」、酒をほめる歌はこの「醉ひなき」の一つの姿でもあらうか。さうしてそれもまた、タビトの歌がシナ人の酒の詩とちがつてゐることを、示すものである。
 タビトの歌ばかりではない。「年ごとに春の來らばかくしこそ梅をかざして樂しく飲まめ」、「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」、梅の花の宴だけにいくらかはシナ趣味が伴つてゐたらしいばあひの歌でも、花よりはむしろ酒をおもにしていつたところに、花の歌よりも酒の歌としたほうがふさはしい感じがあると共に、その酒の情趣も極めて單純である。「梅の花夢に語らくみやびたる花とあれ思ふ酒に浮かべこそ」のやうなものもあつて、それには文人ふうの趣味があらはれてゐ、特にあとのほうのは、その擬人法といひ、夢をかりたことといひ、ま(395)た風流の語を用ゐたことといひ、これらの點において一層そのことが知られるが、それにしても、春に愁をよせ花に恨を託するやうなこゝろもちは無い。酒に浮かんだ花のいろは、たゞあざやかに美しいのみである。
 
(396)     第一三 長恨歌にちなみて
 
 作られた時からひろく世間にもてはやされ、日本人にも親しいものになつてゐる白樂天の長恨歌の精神がどこにあるかといふと、一般には、唐宋詩醇に「哀艶之中、具有諷刺、」と評してある如く、いはゆる「女禍」を戒めるところにあるといはれてゐる。はやく陳鴻の長恨歌傳にも「欲懲尤物窒亂階垂于將來也」と書いてあるから、樂天の時代から既にさう思はれてゐたらしい。作者みづからにも、その考があつたであらう。歌のはじめの方では辭句の間にそれがうかゞはれるやうに思はれる。しかし此の歌に於いて最も力をこめて寫し出されてゐることは、明皇がなき楊貴妃に對する思慕の情と道士が仙宮に太眞をおとづれた時のありさまとであつて、そこでは明皇の帝王としての政治的地位も太眞の貴妃としての權勢も消えてなくなり、たゞひとりの男とひとりの女との纏綿たる情緒がこまやかに語られてゐるばかりである。何の政治的意義も無く、勿論、諷刺らしいけはひも見えない。さうしてその纏綿たる情緒が人のあはれをさそふのみならず、貴妃を仙子太眞としたことは、それを到りがたく及びがたき仙界にあるものとして、一種嘆美の情をさへ起させるではないか。勿論「雲鬢半偏新睡覺、花冠不整下堂來、」といひ、または「梨花一枝春帶雨」とか「含情凝睇謝君王」とかいふ風に寫されてゐる此の仙女は、仙界のものであるよりもむしろ人界のものではあるが、さりとて「傾國」といはれるやうな妖姫のおもかげがそれに見えるのではない。「長生殿」の「夜半」の「私語」を君王の不徳として責めるやうなこゝろもちの作者に無かつたことは、「天長地久有時盡、此恨綿々無絶期、」(397)を一曲の結語として、それを是認しそれに同情してゐる口つきからも明かである。曲名を長恨歌としたことによつても、作者の態度はうかゞはれる。このやうな情思をこのやうに寫したところに諷刺があるといふやうな見かたがあるかも知れぬが、敍述のしかたと詠嘆の態度とからは、さうは見がたい。長恨歌傳に此のものがたりを「希代之事」とし「深於詩、多於情、」き樂天が「感其事」じて長恨歌を作つたやうに書いてあるのを見ても、此の間の消息はうかがはれよう。詩人が多く宮詞といふものを作り、また中晩唐の詩人にはいはゆる艶詩の作の少なくないことも、考へあはされねばなるまい。
 長恨歌傳によると、道士が蓬莱宮に太眞をおとづれたといふ話は、樂天が此の曲を作つた前から既に世に傳へられてゐたやうに見えるので、それをそのまゝ信じてよいかも知れぬが、もしさうならば、樂天のしごとはたゞそれを歌の形にしただけのことである。或は此の話そのものが樂天の空想から出たものであつて、長恨歌傳はそれを事實らしく世に示すためにあのやうにいつたのではなからうかとも思はれる。樂天を單なる修辭家と見ないかぎり、かう考へるのがむしろ妥當ではあるまいか。しかしそれはいづれにしても、此の話が、史記の封禅書や漢書の外戚傳に記されてゐる、方士の李少翁が死んだ愛妃の姿を武帝に見せたといふ、昔ばなしによつて作られたものであることは、疑が無い。たゞ貴妃を仙女とし蓬莱宮に置いたのは此の昔ばなしには無いことであつて、それがために、死んだものの魂魄が仙人となつてゐるといふ、長生不死であるべき仙人そのものの本質に背くことになつた。「海上」の「仙山」にあるはずの蓬莱宮にゐながら「下望入寰」といひ「天上人間會相見」といつてあつて、蓬莱宮が海上にあるのか天上にあるのかわからなくなつてゐるのも、一つはそのためでもあらう。魂魄を求めて天に昇ると書いてあるのを見ると、(398)少くとも此の歌に於いては、魂魄の天にゐる場合があるやうに考へられたことになつてゐるからである。もつとも「升天入地」はあらゆるところをさがしまはるといふことをいつたに過ぎないので、天とか地とかは修辭のために用ゐられたまででもあらうが、文字の上ではかう解せられよう。(こゝに魂魄とあるのは魂が天に魄が地に歸するといふやうな考へかたでいはれてゐるのではなく、從つて「升天」と「入地」とも魂と魄とのそれ/\についていつたのではあるまい。魂魄は此の場合、一つのものとして見られてゐるらしい。)或はまた、仙人は天上にも蓬莱にもゐることになつてゐるから、そこからもまた上に述べたやうな混雜が誘ひ出されてゐるのであらう。蓬莱宮が天上にあるやうになつてゐるのは、違つた考へかたのやうであるが、そこに思想の混雜があると見るのである。また楊貴妃のやうな女を仙人としたのは、劉阮の天台に入つた話がもてはやされ、遊仙窟のやうなものが作られるやうになつた時代の作であることを思へば、ふしぎではない。蓬莱宮を「金闕」や「玉?」の設けられた「玲瑯」たる「樓閣」とし、太眞に「九華帳裏」に眠り「珠箔銀屏」のうちにゐる貴婦人の姿をさせたのも、一つは楊貴妃のおもかげを見せようとしたからであると共に、仙宮は昔から玉枝複閣のあるところとせられ、洛神の  広妃や巫山の神女が美しく着かざつた貴婦人の如く寫されてゐることから考へられるやうに、仙宮や仙女に反映してゐるシナ人の好尚が此の歌にあらはれてゐるのでもある。シナ人は山の神にも水の神にもギリシヤ人のやうに自然の姿をさせることが無いが、富貴な生活を人生の理想境とし、金銀珠玉錦?綾羅を以てする人工の裝飾を其の富貴の生活の象徴と考へてゐる物質主義のシナ人に於いては、神にもまたさういふ生活をさせたいからである。仙宮や仙女が上に記したやうに寫されてゐるのも其の例に外ならぬ。かういふ仙宮に於いてかういふ仙女と共に住むのが、シナ人の理想的の生活なのである。かゝる(399)仙女に eroticism の色彩の強いのも當然である。さうして、李白が清平調詞に於いて歌つてゐる如く、人界に於いて一たびかゝる意義での仙界の生活を領略し得ながら、終にそれを失つた明皇と、ありし日の貴妃の姿をそのまゝに仙界の仙女となつてゐる楊太眞とを、方士によつて夢の如くにむすびつけ、はなれぬこゝろとつきぬ恨みとをあはれにも美しく寫し出したのが長恨歌ではないか。此の一曲の興味の中心がこの點にあることは明かである、といはねばならぬ。
 こゝで少しくわきみちに入るが、世間ではシナ人には自然を愛好し自然に没入する態度があつて、そこに西洋人と違ふ東洋人の特殊な自然觀なり人生觀なりがある、といふやうなことがいはれてゐるらしい。しかしそれは、根本的には、まちがひだと思ふ。かういふ考は、山水畫といふものが作られたり詩に風月を詠んだものがあつたりするところから來てゐるやうであるが、それは、自己の生活の安易をはかるために、社會的關係から離れてひとりみづから自己のみの生活を守る、または自己のみの生活ができればそれで滿足しそのほかのことにはすべて無關心である、といふ生活態度の一つの現はれ、もしくはそれから生じた因襲的觀念の現はれ、にすぎないので、要するに自己だけの生活、それはとりもなほさず單なる物質的肉體的意義に於いての生活、を保つてゆかうとする欲求にねざしてゐる。だからそれは、かゝる生活を豐富にすること、即ち富貴を得ること、の欲求と本質的に同じである。山水畫が人を主にしたもの人のために存在する山水を畫いたものであり、風月の愛翫が別の意義での風流と結びつくのも、此の故である。ところで、富貴の生活は人工的裝飾に滿ちた生活である。金殿玉樓の生活、綾羅錦?の生活、美酒佳肴の生活、歌姫舞女の妖艶を競ふ生活である。決して自然の生活ではない。シナ人に尊ばれてゐる仙人の生活はかういふものと(400)は違つて人間ばなれのしたもののやうにも思はれてゐるが、もと/\肉體のまゝの長生不死をねがふのは、肉體としての欲求の滿足を永久にもちつゞけようとするところから出てゐるのであるから、其の仙人の住む仙界が上に述べたやうなところであり、上に述べたやうな仙女がそこに住むことになつてゐるのは、あたりまへである。たゞ長生不死を得るための方法として肉體的欲求を離れねばならぬとせられたため、其の一面に於いて人間ばなれのした仙人が想像せられたにすぎない。さうして其の長生不死の欲求は全く個人的のもの自己のみのことである。英雄首をめぐらせば即ち神仙といふことばがあるが、神仙首をめぐらせば即ちたゞの人なのである。シナ人には人の生活そのものを精練しそれを高め深めてゆかうとする考が無かつたが、これは、人の生活の歴史的社會的意義を知らず、つまるところ生活を自己のみの生活としてゐるところに主なる由來があるので、自己のみの生活である以上、それは肉體的物質的の生活とならねばならぬのである。さうしてかういふ生活は、人工的裝飾を以てみたされてゐる富貴の地に於いてはじめて豐かに領略せられる。シナ思想に於いて人爲を排して自然を尚ぶといふ考はあるので、道家の説がそれであり、儒家とても人の道徳の本源を自然に置くことはある。また陰陽説五行説とても、人を自然の運行に從はせようとするところにその精神がある。しかしこれらは、何れも思辨としてのことであり、その自然は抽象化せられた自然もしくは其の理法である。人の世界に對立するものとしての具體的な自然の世界に現實の生活そのものを投入することではない。
 そこで長恨歌に立ちかへつてみるに、此の歌の興味の中心が上に述べたやうなところにあるとすれば、一曲の精神が諷刺にあり女禍を戒めるところにあるといふことにはどういふ意味があるのか、それを考へてみなければなるまい。(401)後世の批評家がさう説いてゐるのみならず、作者みづからに於いてもさういふこゝろもちがあつたらしく見えるとすれば、なほさらである。帝王が婦人のために政をあやまり又は地位を失つたといふ話は古くからあつたので、姐己とか褒?とかの物がたりがその標本ともなるべきものであるが、かういふ話は、帝王もしくは政治的權力者にさういふ事例があつたためにそれによつて作られたものと見るよりも、一般に家のうちに於いて婦人の力の大きかつた事實の反映として考へらるべきものであらう。道徳の教として婦人を強く抑へねばならなかつたほど、事實に於いては婦人の力が大きく、それがために一家の統制が亂れがちであつたと思はれるからである。多くの妻妾を有つてゐる上流階級のものに於いては、特にさうであつたに違ひない。しかしそれが、帝王の場合に於いて、すぐに政治の亂れなり王朝の滅亡なりを誘つたものであるとは、必しもいひがたい。シナに於いてでも、政治は帝王ひとりのはたらきではなく、また王朝の興亡なり天下の治亂なりは帝王の行ひの直接の反應としてのみ見るべきものではないからである。だから姐己や褒?の物がたりは、すべての政治上の責任を帝王に負はせる政治道徳の思想に本づいて作られたものであつて、實際の事例に由來があるのではあるまい。勿論、君主國に於いて君主の行ひがいはゆる治亂の上に或るはたらきをすることは考へられねばならず、後宮に多く婦人を蓄へてゐるシナの帝王がその婦人によつて動かされる場合が無いとはいはれまい。しかし、例へば李白の蘇臺覽古に西江の月を見て「曾照呉王宮裏人」とよみ、越中懷古に越王の凱旋を敍して「宮女如花滿春殿」といつてゐるやうに、詩人が帝王の生活を描く場合に必ず宮女を前景に立たせてゐるのは、帝王の生活をさういふ方面から見るのが一般の考へかたであることを示すのみであつて、事實は必しもそればかりが帝王の生活ではないことを知らねばならぬ。唐代に現はれた隋の煬帝に關するいろ/\の物語についても、(402)また楊貴妃の話についても、やはり同じことがいはれよう。さうしてそれは、かゝる生活がすべてのシナ人の第一に希求するところであつたからである。政治らしい政治の無いシナに於いては、帝王にさしたるしごとが無く、從つて彼等の生活がさういふ方面の享樂にむけられてゐたことは、一面の事實として認めらるべきでもあらうが、その代り、もしさう見るならば、さういふ帝王の生活は直接には政治にかゝはりが無いことになる。後宮の生活は、政治にかゝはることよりも、むしろ多くの詩人がいはゆる宮詞によつて詩化したやうなところに意味があるのであらう。昔からの女禍の物語が上に述べたやうな意味のものであることは、此の點からもうなづかれるのではあるまいか。ところで、一方にかういふ思想があると共に、他方では詩の使命は諷刺にあるといふやうなことが昔からいひ傳へられてゐたので、そこで詩人は宮人のことを語る場合に女禍を戒める意味を合ませなくてはならなくなつた。樂天がやはりかういふ考をもつてゐたことは、彼が元微之に與へた書に於いて詩の本義を論じてゐるところからも、推測せられる。長恨歌の一部分に諷刺を寓したらしいところのあるのは、これがためである。しかし長恨歌について見る限り、それはいはゞシナの政治と詩とについての因襲的思想に本づいて施された外面的裝飾である。このことは、此の思想が長恨歌の興味の中心となつてゐるところと一致しないものであることによつて知られる。二つの間にはくひちがひができてゐるのである。
 ところで、問題はこゝから生ずる。長恨歌の作者は此のくひちがひをどう考へてゐたか、一曲の興味の中心と一致しない思想的裝飾を附け加へることを何とも思つてゐなかつたか、或はさういふ附け加へられた思想にどれだけの效果があると考へてゐたか、といふことである。が、よく考へると、これは必しも長恨歌のみについてのことではない。(403)詩は政治の諷刺であるといふが、其の諷刺はかつて政治の上に效果のあつたためしがない。それにもかゝはらず、詩人も學者も常にそのことをいつてゐる。これは、名分論といふやうなものが斷えず學者によつて説かれてゐながら、それが實際には意味のないことであり、亂臣賊子を懼れさせるはずの「春秋」が儒教の經典として尊ばれてゐながら、亂臣賊子の絶えたことがかつて無かつたのと同じである。儒教の天命説とか禮樂説とかいふやうなものも、やはり此の例である。シナに於いては、思想と現實の生活とは互に接觸することなくして竝行してゐた。思想は現實の生活を指導しようとせず、現實の生活はそれから何の思想をも生み出さぬ。思想が現實の生活から生み出されないから、思想として存在するものは昔から傳へられたもののみであり、現實の生活を指導する思想が無いから、生活はあり來りのまゝをつゞけてゆくのみである。思想にも生活にも進歩も發展もない。現實の生活に何等かの不滿足を感じそれを改めることによつて新しい生活を展開させてゆかうとすれば、どこに不滿足がありどうそれを改めてゆくべきかが思想として形づくられるのであり、または過去から傳へられた思想が現實の生活の要求と一致せずそれを抑壓する場合には、その思想の權威をうち破つてそれに代る新しい思想をうち立ててゆくので、そこに生活と思想とが互にはたらきあふところから生ずる歴史の發展があるが、シナに於いてはさういふことが無かつた。上代に於いてシナ人の生活のしかたが一旦きまりシナの文化が或る程度に發達すると、それから後には歴史的發展といふものが殆どなく、從つて時代の特殊性、時代精神、といふやうなものもなく、時代を代表する文藝は勿論なく、根本的には歴史的に時代の區別をつけることができず、またやゝ誇張していふならばシナの歴史のどこかで二三百年をきりとつてしまつても其の前後が無難につなぎ合はされてさしたる溝がそこにできないのは、このことをよく示すものである。思想は思想と(404)して知識の上でのみ玩ばれることに滿足し、生活を支配しようとはしないので、よしそれが現實の生活にあてはまらないものであるにしても、生活はそれにょつて抑壓せられることがなく、從つてそれをうち破らうとはしない。シナに思想革命といふものが一度も起らなかつたのは、此の故である。と同時に、生活の根柢にしつかりした思想が無いから、現實の生活に不滿足を感じそれを改めてゆかうとする要求も起らず、從つて生活みづからのうちから生活を指導してゆく思想を生み出すこともない。たゞ知識の上では、思想は生活を指導するものとせられ、さうしてさういふ意味で古くから傳へられて來た思想があるために、生活がその思想に適合してゐるやうに見せかけることが行はれる。力で奪つた帝王の地位を天命によるものとするのも、そら/”\しい儀禮の行はれるのも、小説や詞曲に於いて兩性間の情思を敍しながら文字の上だけで強ひてそれに道徳的色彩をつけたり、心に富貴を求めながら口に世外の山水を愛するやうなことをいつたりしてゐるのも、みなそれであり、詩に政治的諷刺の義があるやうに見せかけるのも、また此の例に外ならぬのである。シナの歴史に事實を明かにしようとする用意の足りないのも、傳記にありのまゝの人が描かれないのも、或はまた何ごとを考へるにも實證的精神が乏しく、それがために料學の發達しなかつたのも、他にいろ/\の理由があつて、その主なるものは、眞實を愛し眞實を求めようとする精神の乏しかつたことであるが、このことともまた關係があらう。さすれば、長恨歌の作者も「希代之事」に興味の中心を置きながら、鑑戒の意のあるを裝ふことに、さしたる矛盾を感じなかつたであらう。かういふことはシナの知識人の一般のならはしであつたからである。
 さて、長恨歌に於ける明皇と太眞とは、溺愛し溺愛された一君主と一宮人の魂魄とに過ぎないものであつて、よし(405)綿々たる情思と怨恨とに人の同情をひくものがあるにせよ、それはたゞそれだけのことである。長恨歌は仙女の列に上せた太眞にいさゝかの道徳的精神をも與へなかつた。太眞に傾國の妖姫のおもかげは無いにせよ、ありし日の榮華の生活についてみづから責める念もなく、なほ世にある明皇に對して罪を謝する心もちもない。生の破滅を體驗することによつて新しい生を開いてゆかうとする崇高なる道徳的精神を當時のシナ人に求めることはむつかしいが、シナ式な道徳觀念からいつても、あまりに道徳的な調子が無さすぎる。もつとも、道徳の世界の外にあるのが仙人の本色ではあるが、それならば、さういふ仙人の列に太眞を上せたところに長恨歌の貴妃觀があるといへよう。さうしてそれと共に宮人觀、女性觀、情愛觀、があることにもならう。長恨歌の諷刺を寓した部分が、女性を道徳眼から見て妖物とし、從つて女色に溺れることを戒めるシナ人の道徳思想によつて書かれてゐることはいふまでもないが、それは別問題として、さういふ諷刺を離れ單に明皇と太眞との纏綿たる情思を敍するところに於いて、太眞に何等の道徳的精神が與へられなかつたのは、宮人をも一般の女性をも道徳的に價値の無いものとし、兩性の情思にも道徳的意義のあることを認めなかつたからであらう。かういふ考へかたは道徳觀念と現實の人生に於ける女性の存在とを離してしまふものであつて、その結果は女性を永久に道徳の世界から放逐するものである。それによつて女性を道徳的に高め兩性の關係を道徳的に精練することはできない。それは恰も、日常生活を卑俗とし、それから離れて風月を玩ぶことを高雅とする考へかたが、日常生活そのものを精錬するやくにはたゝず、それを永久に卑俗の地位に置くのと同じである。さうしてそこに思想と生活とを離して取扱ふシナ人の態度が現はれてゐるのである。勿論、長恨歌は、貴妃なき後の明皇にもまた、太眞と同じやうに、毫も道徳的精神を與へてゐないが、これは、一つは貴妃に對する溺愛の繼(406)續として取扱はれてゐるからであり、一つは、太眞について述べたやうに、兩性間の情愛そのものに道徳的意義のあることが認められないからであらう。しかし更に一歩進んでいふならば、明皇は一たび帝都を失ひまた永久に帝位を失つたし、太眞に至つては人としての生命を失ひわづかに仙女として再生してゐる。さうして長恨歌は、人としての此の重大な閲歴によつてふたりのそれ/\の心情に何の變化をも起させてゐない。明皇は凡庸な一君主であり、太眞はたゞ才色ある一宮人の仙女となつたまでのものであつて、ふたりとも初から道徳的に價値のない人として取扱はれてゐるのであるが、さういふ凡庸な君主と仙女とを長恨歌の主人公とし、其の間の物がたりを一曲の主題としてとりあげたところに、シナの詩人がいかなる人いかなることを寫さうとしたか、詩の讀者が何ごとを喜び何ごとに同情したかが示されてゐるのであり、さうしてそれは根本的には、自己の生活によつて自己みづからを精練し斷えず新しい自己を創造してゆかうとする態度、即ち眞の道徳的精神、の無かつたことを證するものではあるまいか。シナに眞の意義での歴史が無く、シナ人の生活と文化とは歴史的發展の無いことも、つまるところはこれと同じであるので、現實の生活そのものによつてその生活を克服し、その生活のうちから新しい生活を創造してゆくといふ態度が無いからのことである。生活が思想を生み出さぬと上にいつたのも、このことであつて、此の場合の思想は新しい生活の方向を定める指導精神に外ならぬのである。
 ところで、創造の無い生活は要するに受用の生活、享樂の生活、jouissance の生活、enjoyment の生活である。シナ人の生活態度の根本はむかしからこゝにあつた。富貴を求めるのはかゝる生活を豐富にするためであり、富貴から離れようとするのは最小限度に於いてかゝる生活を享受しようとすることである。長生不死の欲求がかゝる意義で(407)の生活を無限に延長しようとするところから生じたものであることは、いふまでもない。女性は男性にとつては此の意義での享樂のために存在するものであり、その最も典型的なものが帝王のための宮人である。かゝる生活はすべての生活を自己のためのものとすることであるが、シナ人の生活が社會的集團的でなくして個人的もしくは孤獨的もしくは自我的であるのも、このことと深いつながりがある。シナでは知識人にすら鴉片をすふものがあつたが、これも、また同じことを示すものであらう。鴉片をすふことは、社會生活を離れて風月にかくれたり、詩酒に世をわすれたり、或はまた仙郷に「綽約」たる「仙子」を求めたりするのと、同じ要求から出たものだからである。さうして過去のシナの文藝の最も著しい特色の一つは、酒により鴉片によつて得られるのと同じ性質の人工的陶醉境を表現するところにあつた、とわたくしは考へる。
     2018年10月12日(金)午後5時52分、入力終了