津田左右吉全集 第二巻(日本古典の研究 下)、岩波書店、678頁、4500円、1963.11.18(86.10.24.2刷)
 
 
日本古典の研究 下
 
(1)下卷につ いて
 
 この『日本古典の研究』の下卷は、第四篇「應神天皇から後の記紀の記載」(舊版の『日本上代史研究』の第一篇)、第五篇「書紀の書きかた及び訓みかた」(舊版の『上代日本の社會及び思想』の第一篇)、第六篇「神とミコト」(同じ書の第二篇)、および、第七篇「古語拾遺の研究」(舊版の『日本上代史研究』の第二篇)から成りたつてゐる。また第四篇の附録として「百濟に關する日本書紀の記載」(舊版の『古事記及日本書紀の研究』の附録第二)と、「肅慎考」(舊版の『日本上代史研究』の第一篇の附録)とを、第五篇の附録として「掩八紘而爲宇といふ語の意義とその出典」と、「崇神紀の御肇國といふ文字の訓みかた」とを、收録した。
 なほこの書の附録として、第一に「三國史記の新羅本紀について」(舊版の『古事記及日本書紀の研究』の附録第一)を、第二に「魏志倭人傳の邪馬臺國の位置について」を、第三に「記紀の記載、特に神代史、の研究について」を、第四に「神代史及び記紀の記載の上代の部分に關する古來の種々の見解」を、また第五に「百濟の王室の系譜及び王位の繼承に關する日本書紀の記載」を、收めた。第三と第四とは、上卷のまへがきにいつておいた舊版の四册の書が、司法部の問題としてとりあげられた時に、當局者に提出した文書のうちの一部であるが、第四の編述について(2)は、クリタナホミ氏と故サガラヨシアキ氏との助力を得てゐる。また第五はもとは、第四篇の附録とした「百濟に關する日本書紀の記載」に接續して考説せられ、それと合はせて一篇の論稿をなしてゐたものである。舊版の『古事記及び日本書紀の研究』の附録第二ではこの部分が除いてあつたのを、この書において採録することにしたのである。半嶋の上代史の史料としての日本書紀の價値がそこで考へられてゐるからである。
 臺四篇は、舊版の『日本上代史研究』において、またこの書の附録の第一は、舊版の『古事記及日本書紀の研究』において、はじめて公にしたものであるが、臺五篇は一九三三年(昭和八年)刊行の『史學雜誌』に、臺六篇は一九三二年(昭和七年)の『史苑』に、また第七篇は一九二八年(昭和三年)の『史學雜誌』に、載せた論稿を、また第四篇の附録第一は、この書の附録の第五と共に、一九二一年(大正一〇年)出版の『滿鮮地理歴史研究報告』に、同じ篇の附録第二は一九二五−二六年(大正一四−一五年)の『文學思想研究』に、載せた考説を、それ/”\修正、補訂、もしくは節略し、それらを上に記した舊著に收録したものである。『日本古典の研究』の下卷として舊著を改編するに當つて、さらにそれらに多くの補訂を加へたことは、上卷のばあひと同じである。また第五篇の附録は一九四七年(昭和二二年)と一九三九年(昭和一四年)との『東洋史會紀要』に載せたもの、この書の附録の第二は新た起草したものである。
 索引の製作にはマツシマエイイチ君を煩はした。
                  りくちゆう ひらいづみ において
 一九四七年一〇月
 
                           つだ さうきち
 
(3)  〔この前書きの論考の一部は全集第二十四巻に編入したとの編集者の注記がある〕
 
(1)       目次
 
第四篇 應神天皇から後の記紀の記載………………………………………………  一
 緒 言………………………………………………………………………‥………  一
 第一章 古事記に見える應神朝から後の種々の物語……………………………  五
 第二章 古事記の物語のある時代に對應すべき部分の書紀の記載…………… 四七
 第三章 武烈紀から敏達紀までの書紀の記載…………………………………… 七七
 第四章 用明紀から天智紀までの書紀の記載……………………………………一〇五
 第五章 書紀の編述の經過、其の史料としての意義と價値……………………一五七
 附  録………………………………………………………………………………一九三
  第一 百濟に關する日本書紀の記載……………………………………………一九三
  第二 肅慎考………………………………………………………………………二六三
(2)第五篇 書紀の書きかた及び訓みかた…………………………………………二九一
 附  録………………………………………………………………………………三八九
  第一 掩八紘而爲宇といふ語の意義とその出典………………………………三八九
  第二 崇神紀の御肇國といふ文字の訓みかた…………………………………三九五
第六篇 神とミコト……………………………………………………………………三九七
第七篇 古語拾遺の研究………………………………………………………………四六一
附 録……………………………………………………………………………………五五一
  第一 三國史記の新羅本紀について……………………………………………五五三
  第二 魏志倭人傳の邪馬臺國の位置について…………………………………五六四
  第三 百濟の王室の系譜及び王位の繼承に關する日本書紀の記載…………五七一
      附 任那の名稱、加羅の位置、及び駕洛國記について
索 引 …………………………………………………………………………………六七四
 
    第四篇 應神天皇から後の記紀の記載
 
     緒 言
 
 余は第一篇に於いて、古事記と日本書紀との性質を考へ、古事記は帝紀、即ち皇室の系譜、及び舊辭、即ち神代にはじまる歴代の昔物語、として傳へられてゐた二つの書を綴り合はせて一つにまとめたものであること、此の二書は朝廷で編述せられたものであること、其の最初の編述は欽明朝ころであつたらしいこと、それから後、長い間に幾人かの手によつて、二書の内容に種々の變改修補が加へられ、從つてそれに多くの異本が生じてゐたこと、古事記のもとになつたものは、其のうちのそれ/\の或る一本であつたこと、其の舊辭は、内容こそ幾度かの修補を經たものであるが、それに記されてゐる時代の範圍はもとのまゝであつて、顯宗天皇仁賢天皇の物語で終つてゐるのに、帝紀はずつと後の推古朝までが書き加へてあつたものであること、また其の文章は古事記によつて殆ど其のまゝに傳へられてゐること、などを説き、書紀の神代、並に古事記に物語のある時代に對應する上代の部分は、やはり種々の異本のある帝紀と舊辭とによりそれに新しく作られた物語や記事を添加して書かれたものであること、などを述べた。さうして第二篇に於いて、神功皇后の物語から始めて、順次、上に溯り、神武朝までの記載を一々檢討し、記紀の此の部(2)分が如何なる性質のものであり、如何にしてそれが述作せられたか、それが事實の記載であるかないか、もしないとすれば如何なる意味で何ごとの史料となり得るものであるか、といふやうな問題についての所見を開陳した。また第三篇はそれに接續して、神武朝以前に置かれてゐる神代の物語につき、同じ方法によつて同じ研究をしたものである。さて、此の兩篇に於いて其の研究の範圍を上記の如くにしたのは、神代史はそれだけで特殊の意味のあるものであり、また神武朝の物語から神功皇后の説話までがおのづから一つのまとまりを有するものであるのみならず、帝紀から材料の出てゐるところに於いても、此の部分には應神朝以後とはおのづから性質を異にするところのあるものが含まれてゐるからであるが、それだけでは記紀の全體を通じての研究とはならぬから、こゝに補説として應神朝以後の記紀の記載に對する見解を述べようと思ふ。たゞ豫め一言すべきは、此の時代になると、書紀に於いて古事記と對照し得るところは僅かに其のはじめの方の一部分に過ぎないから、此の篇では、書紀のみに關する考説が其の大半を占めるやうになるはずであり、從つて考察の方法も、おのづから神功皇后までとは違つて來なければならぬ、といふことである。
 應神朝以後の古事記の記載に於いて、舊辭から出てゐる物語が、天皇及び皇族の私生活に關するもののみであつて、政治的意義を有するものは殆ど無い、といふことは、第二篇にも説いて置いた。かういふ物語とは全く性質を異にし、物語の形を有たない、さうして幾らかの政治的意義を有する、斷片的の記事が所々に插入せられてゐるが、かゝる記事は古事記に於いては重きをなさぬものである。僅少であり斷片的であり、その上に古事記の全體と調子のあはぬものだからである。さうして、古事記の此の時代の記載を通覽すると、それは歴代の順序によつて、皇室の系譜と上に(3)いつたやうな性質の昔物語とが列記してあるに過ぎないものである。ところが、書紀はそれとは大に趣を異にする。シナの史籍の形態を模倣して書かれたものではあるが、そのシナの所謂正史には見られない性質の記事が甚だ多い。政治的年代記でありながら舊辭から採られた歌物語などがそれに編み込まれてゐ、業々しい漢文の傍に國語の歌謠があり、或はシナの古典から寫しとられた文字とそれとは似もつかぬ日本人の思想の表現せられたものとが混淆してゐ、儒教式政治道コの思想に本づいた種々の記載と肉感的な戀愛譚とが隣り合つてゐる。或る部分は純然たる實録であるのに、他の部分には一見したのみでも事實とは思はれない説話が多く、或る部分にはシナ的色彩が濃厚であるのに、他の部分には日本的情味が失はれずにある。要するに、外形とそれに盛られた内容とが相應せず、文章とそれによつて寫された思想もしくは事實とが調和せず、種々の分子が混在し、衝突し、體裁も整頓せず、筆法も一貫してゐない。亂雜な、或はむしろ奇異な、典籍である。さうしてそれが、勅撰ともいはばいはるべき我が國の第一の國史とせられてゐるのである。此の如き書紀に如何なる意味と價値とがあるかは、此の書を讀むものの明かにして置かねばならぬことであるのみならず、それが如何なる心理によつて作られたかといふことも、我が上代文化史上の興味ある問題ではあるまいか。此の篇を起草した主旨の一半は、實に此の問題を解釋せんとするところにあるのである。
 更に一言する。書紀となつて完成せられた國史の撰修には、長い歴史がある。其の淵源を原ねれば、帝紀舊辭の述作と其の變改修補とにまで溯らねばならぬが、それは且らく措き、また聖コ太子等が天皇記國記などを撰述したといふ話も問題外として、明白なる事實の記録の上に現はれてゐるところからいふと、天武紀に天皇の十年に川嶋皇子等に命ぜられたと見え、元明紀に和銅七年に紀清人等に命ぜられたとあるのは、養老四年に完成せられた書紀の撰修の(4)過程に於けるそれ/\の段階を示すものといはねばならぬ。さうして、天武朝に稗田阿禮が帝紀舊辭の誦習を命ぜられたことも、和銅五年に太安萬侶が古事記を撰進したことも、また此の修史事業に何等かの關係があつたものと推測せられる。さて、天武天皇の十年から養老四年までには、約四十年の歳月が經つてゐる。其の間、此の事業が間斷なく繼續せられたのでないことは、元明紀の記事を見ても知られるが、元明朝のが書紀の編述と無關係でないことは、和銅七年二月から養老四年五月まで、僅かに六年餘に過ぎないことから見ても、明かであり、さうしてそれから類推しても、天武朝のがやはり同樣であることが知られよう。余は此の見解から、下文には、便宜上、天武朝以後の國史撰修に關與したものを「書紀の編者」と呼ぶことにする。
 
(5)     第一章 古事記に見える應神朝から後の種々の物語
 
 古事記に見える應神朝以後の物語に於いて最も多いのは戀愛譯であるが、其の中には極めて單純なものもあり、やや複雜なものもある。雄略の卷の日下女王の話の如き單なる妻どひの物語、また應神の卷の宮主矢河枝姫の話、やはり雄略の卷の吉野川の童女、引田部赤猪子、春日袁杼姫、などの話の如く、途であつた女をめでたといふ(神武の卷の伊須氣余理姫の話と同樣な)物語は、其の最も單純なものであるが、やゝ複雜なものとしては、二人の男と一人の女との關係が語られてゐる應神の卷の髪長姫や出石童女の話、仁徳の卷の女鳥女王の話(これは髪長姫の話と同じ主題のものであるが、事件の結末が反對になつてゐる)、清寧の卷の菟田大魚の歌垣の話、また一人の男と二人の女との間に生じた、女の嫉妬が葛藤の原因になつてゐる、仁コの卷の黒姫、八田若郎女、の話などがあり、其の他、兄妹間の戀愛を語つた特異のものとして、允恭の卷の輕王輕大郎女の話がある。なほ、雄略天皇が目弱王を討たれた物語にも女の話が絡まつてゐるし、安康の卷の大日下王を殺された話も、戀愛譚ではないが、其の原因が婚姻問題とせられてゐ、また殺した後に王の妻を娶られたといふ點に於いて、女に關係のあるものである。しかし、複雜であるといふのは、其の物語の主題に或る葛藤が含まれてゐるといふのみのことであつて、物語そのものは單純であり、それが物語をなしてゐるのは、主として物語のうちの人物の歌があるからである。單純な主題のものに於いてはなほさらであつて、歌が無くては物語にならない。たゞ應神の卷の出石童女の話には歌が一つも無いが、これは此の話がすべての(6)他の物語とは由來を異にするものだからであらう(このことは後にいはう)。
 第二に多いのは饗宴の話である。仲哀の卷の神功皇后が應神天皇を迎へられた時の話、應神の卷の吉野の國栖及び歸化人須々許理の御酒獻上、仁コの卷の日女嶋行幸(雁の子を生んだ話がある)、雄略の卷の長谷の百枝槻の下の豐樂、清寧の卷の志自牟の新室宴、などの物語がそれであり、前に述べた宮主矢河枝姫、髪長姫、春日袁杼姫、に關する戀愛譚、また後にいふ履仲の卷の墨江中王の物語も、饗宴の話に結びつけられてゐる。さて、第三に擧ぐべきものは狩獵の物語であつて、それには安康の卷の綿の蚊屋野の獵、雄略の卷の阿岐豆野及び葛城山の獵の話がある。仲哀の卷に見える斗賀野の「うけひ獵」は特殊の意味のある話ではあるが、やはりこゝに記すべきものであり、應神の卷の大山守命の討たれた物語にも、狩獵のおもかげがある。それから、第四に注意せられるのは、兄弟の勢力爭ひの物語である。仲哀の卷の香坂王、忍熊王、應神の卷の大山守命、履仲の卷の墨江中王、の話がそれであり、仁コの卷の女鳥女王についての速總別王、允恭の卷の輕大郎女に對する輕王の、戀愛譚にも此の意味のことが結合せられてゐる。また安康の卷の黒日子王及び白日子王が雄略天皇に殺された話は、勢力や地位の爭ひではなく、綿の蚊屋野で殺された市邊之忍齒王の話は、從兄弟の間に於いてのことではあるが、上記の物語に關聯して考慮せらるべきものである。以上は皇族の間のこととなつてゐるものであるが、應神の卷の秋山之下氷壯夫と春山之霞壯夫との戀爭ひの話(出石童女の物語)も、競爭者は兄弟としてある。ところで、戀愛譚が歌物語であると同樣、饗宴の話も狩獵譚も兄弟の勢力爭ひの物語も、みな歌によつて成立つてゐるので、歌の無いのは雄略天皇が黒日子王、白日子王、市邊之忍齒王、を殺された話のみである。さすれば、古事記の物語の大部分は、歌が興味の中心となつてゐるといはねばならず、さ(7)うしてそれは、雄略の卷の饗宴の物語に、三重の采女が歌を詠んだので罪を赦された、といふ話があることからも、是認せらるべきである。
 以上の品類に入らない物語は、仲哀の卷の太子が角鹿にゆかれた時の話、應神の卷の天の日矛の話、雄略の卷の葛城の一言主神の話の如き神異譚、仁コの卷の枯野の舟に關する話、安康の卷の大日下王を殺された話、目弱王の復讐及び雄略天皇が王を討たれた話、また清寧顯宗の卷の二王子の播磨避難と即位との、並にそれに附隨した種々の、話であり、仁コ天皇御兄弟の御位ゆづり、仁コ天皇が民の課役を除かれたといふ話も、こゝに附記すべきものであらうが、これらの物語で歌のあるのは、枯野の話と顯宗の卷の置目の媼の話とのみである。
 そこで、上記の種々の物語を形成してゐる歌を見ると、先づ注意せられるのは、歌の内容と物語との一致しないものが少なくないことである。例へば、應神の卷の宮主矢河枝姫についての天皇の御歌といふものには「わがいませばや」とか「あはしゝをとめ」とかいふやうな語が用ゐてあり、大山守命の話に見える宇治の稚郎子の歌には、此の物語とは何の縁も無い「妹を思ひ出」といふことがあるのみならず、敵を殺しながら「射きらずぞ來る」といつてある(此の歌は狩獵を詠んだものではないかと臆測せられる)。仁コの卷の黒姫の物語に見える「黒崎のまさづこわぎも」の名のあるのは、此の物語にあるべきものと思はれず、また姫が天皇に獻じたといふ二首の歌の第二は、人目をしのんで倭にゆく男のことを詠んだものであつて、天皇の御上としてはふさはしくないものである。(「やまとへに」といふのも、普通の習慣からいへぼ、難波に都のある天皇に上つた歌としては妥當でないやうであるが、萬葉卷三の「明石の門よりやまとしま見ゆ」の例もあるから、この點は問はぬことにする。)また、同じ卷の八田若郎女に關する話(8)に見える「つぎねふや」云々といふ第一の歌に大君を讃美してあるのも、此の話に見えるやうな場合の作としては受取り難いことであり、山代川をのぼつて來たといふ歌ひ出しも、一首の主想には相應してゐない。同じ話のうちにある天皇の御歌の第三の「つぎねふ山代女の木くは持ち」云々といふのも、女にあひながら知らず顔するものに戯れた歌らしく、此の話にあるべきものではない(これは男に向つていふべきことであつて、女に對しての言ではない)。履仲の卷の墨江の中王に關する物語に見える天皇の御歌といふ「たぢひ野にねむとしりせば」、「はにふ坂わが立ち見れば」、の二首も戀歌であつて、本文に記してあるやうな場合の作とは認めがたく、後のにある「かぎろひのもゆる」も、家の燒かれた火炎をいふのでないことは、明かである。允恭の卷の輕王輕大郎女の物語に穴穗御子の歌として記してある「大前小前宿禰が金とかげ」も、其の宿禰の歌となつてゐる「宮人の足結の小鈴」も、「擧手打膝?訶那傳」てかゝる歌の詠まるべき時とは思はれぬ戰爭の場合の作としてあるではないか。大前小前宿禰といふのが實在の人物らしくないことは、其の名稱からも推測せられるので、こゝに氏もカバネも書いてないことが、即ち其の假構の人名であることを證するものである。それから、輕王の作であるといふ「あまだむ輕をとめ」とある第二の一首は輕の少女に戯れた歌であり、特に、結句に「かるをとめども」とあつて、少女が複數になつてゐるのを見ると、此の物語のやうな場合のものでないことは、いふまでもなからうし、「大君を島にはふらば」も、大君がもし輕王をさしてゐるとすれば、輕王自身の歌でないことは明かである。また「こもりくの初瀬の川の」といふ長歌も、家にのこつてゐる妻も無いひとり身のさびしさを歌つたものであり、思ひ妻が故郷からあとを追うて來た時の詠とは解せられず、はつせの川を思ひ浮かべたことも、よしそれが「またま」の語を引き出す序に過ぎないとしても、此の話にはふさはしから(9)ぬことであつて、初瀬は王にも大郎女にも何の縁も無い(このことは、此の歌の前に記してある「こもりくの初瀬の山の」の歌に於いても、同樣である)。なほ雄略の卷に入つて見ると、日下女王の話の天皇の御歌として「日下部のこちの山と」といふ長歌があるが、日下といふ地名に部の語をつけてそれを地名の如く取扱ふことは、此の朝のころにあつたとは思はれず(「日本上代史の研究」第一篇參照)、歌を持たせてやるといふのも歌を文字に書いて贈答する習慣の生じた後でなければならぬことである(使をやつて、我が歌をいひ傳へさせることもあるので、仁コの卷にはそれを使が「白此御歌」と書いてあり、使の名を口子としたのも、それからの思ひつきらしいが、雄路の卷のは「令持此歌」としてある)。日に背いていでませるがかしこくて女が宮に參上したといふのも、日の御子の話であるがために作られたのであつて、其のころの實際の風俗としては考ふべからざることである。それなら、引田部赤猪子の話の天皇の御歌といふものに於いて「かしはらをとめ」の語のある一首は、この話には相應せざるものであり、赤猪子の歌の二首もそれに歌つてあることがこゝには全く縁が無い。また阿岐豆野と葛城山との獵の話の天皇の御歌に何れも「やすみしゝわが大君」の語のあるのも、をかしい。長谷の百枝槻の下の豐樂の時の采女の歌に「まきむくの日代の宮は」と歌はれ、大后の歌に「やまとの此の高市に」と詠まれてゐるのも怪しく、最後にある袁杼姫の「わきづきが下の板にもが」といふ歌が此の場合にふさはしくないことは、いふまでもあるまい。
 然らば何故にかゝる歌が記されてゐるかといふと、其の一は、これらの物語の書かれた時に歌曲として謠はれてゐたものが、物語のうちの人物に假託せられたことである。志都歌、本岐歌、志良宜歌、夷振、宮人振、天田振、讀歌、天語歌、宇岐歌、などと記してあるものは、さういふ特殊の稱呼があり、特に志都歌之返歌とか夷振之上歌、夷振之片(10)下とかいふ名目のあることから推測すると、多分、宮廷に於いて用ゐられた歌曲であらうが、その多くは饗宴の場合に謠はれたものらしい。現に雄略の卷の天語歌は、三首とも、其の詞章に宮廷の饗宴のことが述べてあるし、宇岐歌もまた同樣である(天語歌は歌曲としては特殊のものであるが、それについては後にいはう)。仲哀の卷の酒樂の歌、應神の卷の吉野の國栖の歌、が同じ性質のものであることは、或は其の名稱、或は「恒至于今詠之歌者也」と明記してあることからも、また歌の内容からも、明白である。また、仁コの卷の志都歌之返歌、允恭の卷の志良宜歌、夷振之上歌、天田振、などには、女のことを歌つたものが多いが、かういふ性質のものが饗宴に歌はれるのは、何時の世にも普通のことであつて、「けふこそは安く肌ふれ」といひ、「ゐねてむ後は人はかゆとも」といひ、「みだればみだれさねしさねてば」といふ如きもの、又は上にもいつた如く「つぎねふ山代女の、木くはもち打ちし大根、ねじろの白たゞむき、まかずけばこそ、しらずともいはめ、」や「天だむ輕をとめ、したゝにもよりねてとほれ、輕をとめども、」などの如き戯謔の言は、最もそれに適するものである。(書紀の神代の卷の出雲平定の段の第一の「一書」に夷曲としてあるうちの一つ「天さかるひなつめの」云々も、また同じ性質のものであらう。これは、石川かた淵に網を張つて寄り來る女どもを捕へようといふ、諧謔である。)なほ、應神の卷の矢河枝姫及び髪長姫についての、また雄略の卷の袁杼姫に關する歌が、何れも饗宴の際に作られたやうに記してあるのも、女に關する歌が好んで饗宴に歌はれたからのことであらう。主題は違ふが、上に述べた仁コの卷の「つぎねふや山代川を、川のぼりわがのぼれば、」といふ、天皇を讃美した歌も、また饗宴の歌らしいことが、天語歌のうちにある大后の歌と對照することによつて、おのづから推測せられよう。必しも饗宴の場合とのみ限らなくてもよいが、允恭の卷に、宮人振の歌の作者が「擧手打膝、(11)?訶那傳歌參來、」とあるのも、此の物語の書かれた時に此の歌がかういふ風にして謠はれてゐたため、それを物語中の人物に寄託したものと見る外はない。(神武の卷に見える「宇陀の高城に鴫わなはる」の歌も諧謔であるが、これもまた、大饗の時の歌としてあるのを見ると、やはり此の物語が作られたころの饗宴の場合に歌はれてゐたものであらう。饗宴の場合のではないが、景行の卷の倭建命の薨ぜられた話の哀悼の歌四首が、後世の大葬の時の歌を昔物語に用ゐたものであることも、參考せられる。)
 謠はれた歌曲であることが明記してなくとも、歌の形の上からさう推測せらるべきものがあるので、例へば仁コの卷の八田若郎女に賜はつた御歌といふのが、それである。これは短歌の體であつて、其の第五句「あたらすがはら」を少しく語を變へてくりかへした「あたらすがしめ」を第六句として附加したものであるが、其の中間に「ことをこそすげはらといはめ」といふ、やはり「すがはら」をくりかへした、句を插んである(「すげはら」とあるが、もとは「すがはら」であつたらうと思はれる)。さうして、此の插まれた句は歌ふ場合のハヤシめいたものであつて、歌詞そのものの一部をなしてゐるものではない。ところが、允恭の卷の夷振之片下としてあるものも、これと同じであつて、第五句の「わがたゝみゆめ」を少しく語を變へてくりかへした「わがつまはゆめ」を第六句として添加し、其の問にやはり「ことをこそたゝみといはめ」の句を插んである。さうして、それが夷振之片下と稱せられた歌曲であるとすれば、仁コの卷のも同樣に見なければならぬ。結句と同じ語調の句を更に一句添へることは、倭建命の歌として聞こえてゐる「尾張にたゞに向へる、尾津の前なる一つ松、アセヲ、一つ松、人にありせば太刀はけましを、衣きせましを、」にも其の例があるが、これにもアセヲ(書紀ではアハレ)といふハヤシがついてゐたり、「一つ松」をくり(12)かへして書いてあつたりするところに、それが歌はれたものであることが示されてゐる。(清寧の卷の歌垣にも、志毘臣の歌としてあるものに、かういふ形のがあるが、この歌は實際歌はれたものらしく思はれぬ。萬葉五の卷の山上憶良の「和爲熊凝述其歌六首」も、また藥師寺の佛足石の歌といふものも、同じ形であるが、これは單に歌の一形式として取扱はれたに過ぎなからう。この形は、本來、或る歌を歌ふ場合に、其の結句をくりかへしたところから生じたものらしい。)また、雄略の卷の葛城の山の獵の話に見える歌も、書紀の記載と對照して見ると、「しゝの、やみしゝの」、と語が重なつてゐるのは、歌ふ場合のくりかへしであるらしく古事記には記してないが書紀には歌の終にアセヲのハヤシがついてゐることからも、さう考へられる。さすれば、これもまた饗宴などの場合に歌はれたものらしく、多分猪に畏れて榛の木の枝に逃げ上つたといふ、其の有樣のをかしさが興じられたのであらう。さうして、それから類推すれば、阿岐豆野の歌もまた同樣に見るべきものらしい。同じく獵の歌で、同じく「やすみしゝわが大君」とあるからである。
 ところで、これらの歌曲の詞章が如何にして作られたかといふに、それは一樣ではあるまいが、其のうちには宮廷の饗宴のために特に製作せられたものがあるらしい。雄略の卷の天語歌はいふまでもなく、「やすみしゝ我が大君」といふ語のあるものは、みなそれであり、仁コの卷の大君を讃美したものも、同じ例であらう。此の天語歌の第一は、景行天皇の時のこととして人に知られてゐた物語によつて作られたものであることが、「まきむくの日代の宮は」と歌ひ出してあることから推測せられるので、舊辭にはもと其の物語があつたのを、記紀に採られたものにはそれが失はれてゐたのであらう。此の歌に「中つ枝はあづまをおへり」とあるのも、景行朝の物語によつたものとして見れば(13)由縁がある。なほ萬葉十三の卷にある「くゝりの宮」の名の出てゐる歌も、記紀に記されてゐない此の朝の話に本づいたもののやうであることを、參考すべきである。(この萬葉の歌には誤脱があるらしく、意義の明かでないところがあるが、「くゝりの宮」といふのは、特に宮といつてあるのを見ると、單なる地名として用ゐられたのではないに違ひないから、其の宮に關係のある話が此の歌の背後になくてはならぬ。また此の歌の奧十山または奧磯山が吉蘇の山であるならば、これは實際の地理に通じないものが作つたことを示すものであるが、昔物語によつて作られた歌であることは、この點からも證せられよう。なは此の歌は、萬葉の長歌の形式がまだ整はない前に作られたものであるらしい。)それから、天語歌の第二は、何時の世にか高市で新甞の行はれたことがあつて、其の時に作られたものであらう。これらの天語歌は、多分、語部の語つたものらしく、其の名稱と、歌の終に「ことのかたりごとも、こをば、」とある如く、それが「かたりごと」とも呼ばれてゐたらしいこととから、さう推考せられるのであるが、語部は宮廷の饗宴の場合に餘興としてかういふ「語りごと」を演奏する職掌を有つてゐて、それがためにこれらの詞章が作られたのであらう。「天語歌」の「天」の語は、語連が天語連とも稱してゐたのと同じ意味の、また多分それと關聯してつけられた、美稱である。さうして、其の第一の歌は、如何に早くとも景行朝の物語が作られた後、廣くいふと、舊辭が一と通り形を成した後、でなければできないものであることが、其の内容の上から知られる。それが古事記にのみ見えてゐるのは、古事記の資料となつた舊辭にのみ記されてゐたからであつて、其の舊辭は後人の潤色が加へられたものであつたらしい(古事記に採られた舊辭が舊辭の原形を具へてゐたものでないことについては、第二篇の結論參照)。なほかう考へて來ると、天語歌はアメノカタリウタの語を寫したものであり、天語連もまたアメノカタリノ(14)ムラジといはれたものであることが、おのづから知られる。
 天語歌の性質と語部がそれを語つたと思はれることとを明かにするには、考説が横みちに入るやうではあるが、ヤチホコの神、ヌナカハ姫、スセリ姫、の歌として、古事記の神代の卷に載せてあるものを、回顧する必要がある。これにもまた天語歌と同じことばが其の結末についてゐるから、それと同樣、饗宴のをりに語部の演奏した語りごとを、これらの神の製作として記したものらしいからである。さて、これらの神の歌が歌とせられながら、神語とも稱せられ、また「かたりごと」ともいはれてゐるのは、普通の歌曲と同じやうにして歌はれたものではなく、特殊の方式によつて歌はれ又は語られたものであつたからであらう。普通の歌曲に於いて?見る如きハヤシやくりかへしの記されてゐるものが無いのも、此の點に於いて注意せられる。普通の歌曲は、宴にあづかるものが合唱し、少くとも主なる歌手の歌ふのに對し、手を拍つて應じ聲を揚げて和するのが、常であつたと推測せられ、ハヤシやくりかへしの記されてゐるものがあるのも、其の故であらうが、天語歌の場合では、衆人は歌ひ又は語るものの歌ひまた語るのを聽くのみであつたらう。語部といふ專門家によつて演奏せられたものであるとすれば、かう考へるのが當然である。またこれらの歌は、結末の「ことのかたりごとも、こをば、」の句によつても知られる如く、物語として語られたものであるが、詞章そのものの上に於いては、物語であることを示す敍事的態度が一貫してゐない。ヤチホコの神の歌とせられてゐるものに於いては「やちほこの神のみことは八しま國つままぎかねて」と、此の命を三人稱で語り出してあるにかゝはらず、「おそぶらひ我が立たせれば」になると、忽然として命が一人稱に變つてゐる。「ぬば玉の黒きみけしを」の歌も、初めのうちは動作の敍述であり、土居光知氏の説に見える如く、語るものは其のことばにつれて幾(15)らかの身ぶりをしたのではないかとさへ想像せられるほどであるが、「いとこやの妹の命」からは一轉して主人公の情懷となり、其の間に、思想の連絡すらも殆ど無いではないか。かたりごとでもあり歌でもあること、むしろ兩者の混淆したものであることが、かういふ内容の上からも知られるのであるが、これは、一つは、後にいふやうに、これらの詞章がありふれた戀歌に前後の詞を添加して作られたからであると共に、一つは、といふよりも寧ろさういふ風にして作られねばならなかつたほどに、敍事的の語りごとの形がまだ成立つてゐなかつたからであらう。本來抒情的の歌謠がもとになつて、それから形成せられて來たかういふ詞章の形式に於いては、其の形式の上からも、また因襲の上からも、物語を純粹に物語として語ることが困難であつて、物語中の人物の情懷を、物語中の人物の情懷として、敍述することができず、それを敍述しようとすれば、其の人物を一人稱として取扱ふ態度になる、即ち敍事的な態度を抒情的なそれに變化する外はなかつたのであらう。(萬葉時代になると、例へば九の卷の「詠水江浦島子」や「見菟原處女墓」の長歌の如く、敍事的態度の首尾一貫してゐるものが作られたが、これらは歌ふものでも語るものでもなく、たゞ文字に書いたまでのものであるから、おのづから、かういふ態度が取られたのであらう。其の代りに、浦島の子や菟原處女の物語が外面的に敍述せられたのみであつて、其の情懷が強く歌はれてゐない。)實をいふと、上記の歌は物語として語られたものではあるが、人物が三人稱の形に於いて詞章の上に現はれてゐるものは、「やちほこの」云々といふ第一のもののみであり、其の他のものに於いては、物語であることが詞章の上には見えず、たゞ「ことのかたりごと」といつてあるのでそれが知られるのみである。(雄略の卷の天語歌もまたこれと同樣であつて、敍事的態度が分明でなく、特に其の第二第三のは、「ことのかたりごと」といはれてゐるにかゝはらず、其の内容は少(16)しも語りごとらしくない。)語部の語るものであるため、因襲的に、或は形式的に、結末の一句が附け加へられたのではあらうが、それにしても、かういふものが「かたりごと」といはれてゐるのは、否むしろ語部がかういふものを語らぬばならなかつたのは、一般に敍事的の語りものが發達してゐなかつたからであるとしなければなるまい。語りごとといはれながら語りごとの實の無い斯ういふものは、語部の演奏した重要なものではなく、時代からいつても後に作り加へられたものではあらうが、かういふものが語りごととして作り加へられたところに意味があるので、敍事的な語りものの萌芽が生じながら、それが成長せずして早く枯死せんとした形迹が、それによつて覗はれる。(さうしてそれは、朝廷を中心とする貴族文藝の當然の趨向である。)
 本來、語りごとは饗宴に於いて演奏せられるものであり、さうして人々の興ずるところは、既に述べた如く、戀愛であり、特に其の肉感的な、或は滑稽な、點であるが、さういふものは歌として歌ひなれ聽きなれてゐるのであるから、語りごとはたゞそれを物がたりとすればよいのである。從つて、其の主要部分はかういふ意義の歌であつて、それはヤチホコの神の歌といふものに於いて最もよく示されてゐる。此の一曲は、繼體紀に勾大兄の歌として記されてゐるもの、また萬葉卷十三の「こもりくのはつせの國に」云々といふのと、同じ主題をとりあつかつた戀歌であるのを見ると、これは世に知られてゐた戀歌を取つて幾らかそれを作りかへ、さうしてそれに前後の詞を添加したものであるらしい(萬葉のは萬葉風の長歌の形式にあてはめて、また繼體紀のは別の方法で、それ/\それを改作したものと見なされる)。歌の内容が遠く高志の國に妻どひしたといふ話にはふさはしくないのも、此の故である。ヌナカハ姫及びスセリヒメの歌といふものも、「たくづぬの白きたゞむき」云々が肉感的であると共に諧謔の氣をも帶びてゐ(17)ることを考へると、これもまた世に知られてゐた歌謠から採つたものらしい。「白きたゞむき」云々といふ歌が仁コの卷に出てゐることも、此の點に於いて參考せられる。もしさうとすれば、二つの語りごとに同じ歌が含まれてゐることも、また男のことばであるべきかういふ詞章が女の歌としてあることも、不思議ではない。(ヌナカハ姫の「今こそは」云々といふのは、既になじみを重ねた間がらでなくてはいひ得られぬことであつて、古事記の物語に示されてゐる話の筋とは一致してゐないが、かういふ話の筋は語りごとの詞章の上には見えてゐないものであることを思ふと、それは古事記のもとになつた舊辭の潤色者が、これらの語りごとを神代史に編み込むために、構造したものであり、語りごと其のものは、さういふ話によつて作られたものではなかつたかも知れぬから、且らく問題外とする。)かう考へると、上に歌でもあり語りごとでもあり寧ろ此の二つの混淆したものであるといつたことが、一層よく理解せられるので、分解していふと、主要部分は歌であり、さうしてそれは、後にいふやうに、歌と同じやうな曲節で「歌はれた」のであらうが、それに物がたりであることを示し又は人物の動作を敍した詞を添へてあるので、其の部分が、多分、歌とは幾らか違つた方式で「語られた」のであらう。「語り歌」といふ異樣な名稱も、そこから作られたものと考へられる。だから、かういふものは、語りごととはいはれても、何等かの事件の經過を敍してゆくものではなく、勿論、敍事詩と稱せらるべきものではない。たゞ、上記の語りごとの語られる部分には、ヤチホコの神がヤマトへ上る場合の如く、頗る精彩のある動作の敍述もあるが、其の他にかういふ例が無いのを見ると、これは多く人の興をひかなかつたものではあるまいか。天語歌の采女の歌とせられてゐるものにも、目に見える或る?態が寫してはあるが、實は語を重ね句を重ねて語つてゆくところから生ずる音調と言語との興味が、主となつてゐるのであつて、敍事には(18)なつてゐないではないか。古事記に載つてゐる僅かの篇章によつて直ちにかう判斷するのは、輕卒の譏を免れないでもあらうが、抒情的な民謠や唱和應酬せられた歌垣の歌から、記紀や萬葉に見えるやうな長短種々の歌、其の多數はいふまでもなく戀歌、が貴族文學として形成せられ、さうしてそれが廣く知識人の間に流行するやうになり、歌といへばさういふものと考へられて來たこと、萬葉の長歌に於いても、シナ文學の影響を多分に受けてゐるらしい人麻呂の作などには、敍事的分子の含まれてゐるものが幾らかは無いではないが、さういふものは一般には行はれず、人麻呂のものでも、序詞を長くつらねることによつて一篇の大部分が成立つてゐるやうなものが少なくなく、さうしてそれは當時の日本人に固有な趣味の發現であるらしいこと、上にも述べた如く、敍事的態度の一貫してゐる浦島子の歌のやうなものは、抒情的效果が薄弱であること、五の卷の梧桐日本琴や松浦仙媛との贈答の歌の如きは、全體が空想的の物語であるから、序として書いてあることが實は物語の主體であり、後世の用語でいふと地となるべきものであるにかゝはらず、それが歌とは離れて漢文で書かれてゐ、さうしてそれがために、物語の全體が浦島の歌よりも却つて抒情的興趣の深いものになつてゐるのは、歌の形に於いて物語をすることが發達してゐず、世間がさういふものに興味を有たなかつたことを示すものであること、などを考へ合はせると、かう推測するに大過はあるまい。のみならず、更に一歩を進めていふと、かういふ程度の語りごとそのものすら、多くは喜ばれなかつたのではあるまいか。人々は語部のかゝる演奏をきくよりは、彼等みづから聲を揚げて歌ひ手を打つて和するのが、おもしろかつたのではなからうか。歌垣に出てみづから歌ひ且つ和することに興じた彼等であり、さうして、さういふ歌垣が行はれながら敍事詩も作られず、演劇やうのものも發達しなかつたことが、參考せられる。(俳優といふ語が書紀に見えてゐるが、(19)これは滑稽な姿態で人を笑はせるもの、もしくはさういふこと、をいふのである。劇的動作をするもののことではない。)語部の職務を繼承したものが令の制度にも存在せず、其の語りごとも多く後世に傳はらず、語部の職務の何であつたかすら今からは知り難いほどに、文獻の上にもそれが現はれてゐないのは、かう考へると、偶然ではないやうに見える。語部は娯樂的の演奏をするものではあつたが、特に朝廷にそれが置かれたのは、かゝる演奏そのことが一つの儀禮として見られたからのことと推測せられるので、此の點からいふと、天語歌の二首が「日のみ子」の讃美であることにも、少からぬ意味があらうから、それがかうなるのも不思議ではあるまい。所謂舊辭が種々の物語から成立つてゐたのは、さういふ物語が貴族社會に喜ばれたからのことに違ひなく、從つてそれと同じやうな物語は人々の間に常に語りあはれたのであらうし、また古事記をとほして知ることのできる舊辭の文體は、其の時代にかういふ物語が日常の語り草として語られた語りぶりを其のまゝに寫したものであらうが、それが一定の詞章を具へた語りもの、即ち敍事詩、ではなかつたことをも考へるがよい。神代の物語が朝廷に於いて作られても、それが敍事詩の形に於いて傳誦せられるやうなものではなかつたこと、さうして一方に於いては、朝廷の宗教的儀禮に用ゐられる一定の詞章、即ち祝詞が作られ、またそれが後までも傳へられてゐることが、之に關して特に注意せらるべきである。
 さて、神代の卷のこれらの語りごとは、古事記のもとになつた舊辭に採録せられたよりは前から語り傳へられたものではあらうが、其の詞章の歌の部分はいふまでもなく、其の他の部分とても、短長二句を一くさりとしてそれを重ねてゆく形式が、古事記に記されてゐる長歌の多くと同じであり、さうして其の長歌は、短長二句が五音七音にかたまつてゐないのと反歌の無いのとが萬葉のそれと違つてゐるだけであるから、萬葉の長歌の形成せられてゆく途上に(20)於いて、よほどそれに近づいてゐるものとしなければならず、さうしてそれは、意義の上の句切りも段落も無く、歌ふものとしては甚だ不自然な形であることが、やはり萬葉の長歌と同樣であるのを見ると、それと同じ詞章の形を有する此の語りごとも、また決して古いものではなく、民間に於いて語られてゐたものでもない。(長歌がもし歌謠から自然に發達したものであり民間で歌はれてゐたものであるとすれば、短い獨立した章節を重ねてゆく形が取られ、從つて意義の上の句切があり段落があるやうになつてゐたらうと思はれるが、事實として長歌がさうなつてゐないことを、考へねばならぬ。長歌は、畢竟、僅々數句の一章を以て成立つ短い歌謠の形を其のまゝ長い詞章にあてはめ、數多く重ねられた句を強ひて一章につゞり上げたものであつて、もしそれを歌ふとすれば、一團として耳に受け入れられるほどの語句には、まとまつた意義も感じも現はれず、甚だきゝにくいものである。かういふ歌謠の形が自然に生じたとは思はれない。詞のつゞけがらや修辭法に於いては、民間の歌謠のそれが適用せられてゐるが、まとまつた歌としての形は、知識人の間に於いて成りたつたものであらう。古事記の歌曲には民謠の形を有つてゐるものと、かういふやうにして特殊の形のできあがつた長歌との、二種が含まれてゐるが、長歌については、民謠とはいくらか違ふ特殊の曲節なり歌ひかたなりが、工夫せられてゐたのであらう。語りごとは、上に述べた如く、其の演奏の方式が普通の歌曲とは違つてゐたらしいが、詞章の形が長歌と同じであるとすれば、それが直接に民間の濱藝などから來たものでないことが推知せられると共に、其の歌ふ部分の曲節などに於いては、ほゞこゝにいふ歌曲としての長歌のそれが適用せられてゐたことと思はれる。但し、長歌の詞章と語りごとのそれとの間には、形の上に一つの差異があるので、それは、長歌には、短歌の如く、其の結末に長句、それは概ね七音の句、を二つ重ねたものがあるが、語りご(21)とには一つも其の例が無い、といふことである。民謠にも、終結に同じ口調の句を重ねてあるものと然らざるものとの二つの形があつたらしく思はれるが、前者は唱和の場合に多く行はれ、歌垣などに於いて、歌の結句を承けてそれに應酬し若しくはそれを合唱した風習から生じた特殊の形式であるらしく、從つて、短歌にそれが適用せられたのは、短歌の形と、それが民謠と同じやうにして歌はれる場合があつたらしいことと、から見れば、自然であるが、長歌にそれのあるのは、上に述べた如く、短い歌謠の形を其のまゝあてはめたためであつて、歌としては無意味に近い。語りごとにそれが用ゐられなかつたのは當然である。)
 また内容の上からいふと、神代の卷の語りごとは、ヤチホコの神といふ神が物語の主人公として語られるやうになつてから後のものであり、さうして此の物語は、それが神代史の本すぢには關係が無く、また古事記にのみ記されてゐるものであることから考へると、神代史が形を成してから程へた後の製作であることが知られる。ヤチホコの神は、多分、もとはオホナムチの命とは別の神であつたらしく思はれるから、或は神代史とは無關係に語り出された神であるかも知れぬが、それにしても神代史が作られた後でなければ生まれないはずの神である。其の名稱から考へても、またこの歌から見ても、この神は宗教的信仰の對象たる神ではない物語の上の人物であるが、それが神といはれてゐるのは、神代史の物語に誘はれて初めて現はれたからのことと、考へられるからである。これらのかたりごとは神語といはれてゐるが、宗教的意義を有する神の語をさすのが本義であらうと思はれる此の稱呼が、かういふ饗宴の餘興的演奏に過ぎないものに適用せられてゐるのは、神代の昔語り、神代の神々の作として語られたからであらう。雄略の卷の天語歌が神語といはれてゐないことからも、かう解せられる。天語歌、天語連、また歌のことばの「天はせつか(22)ひ」などの「天」の語は、かういふ意義に於ての神語を語るところから、つけられたのであらうか。語部の任務の遠き由來は、或は宗教的意義のものであり、神に代つて、或は神として、神の語を語ることであり、從つてそれは巫祝のすることであつたかも知れぬが、よしさうであつたにしても、それが饗宴の場合にかゝるものを演奏するやうになつたことは、不思議ではない。宗教的儀禮には饗宴が伴ふものであり、さうしてそれは饗宴が宗教的儀禮として行はれたことに由來するものであらうから、宗教的儀禮としての神語を語ることが、それに伴ふ饗宴の娯樂的演奏をすることになり、さうして其の習慣が宗教的意義の無い饗宴の場合にも及ぼされるやうになるのは、自然の推移だからである。朝廷に於いても、制度として語部といふ名稱の部が置かれたころには、よし純粹な宗教的意義に於いての神語を語るやうなことがあつたとしても、それは中臣氏などの職掌となつてゐたらうと思はれるから、語部はよし神事に開與するにしても、それに伴ふ饗宴の場合に娯樂的のかたりごとを語るに過ぎなかつたであらう。民間の風習としては、或は朝廷でも遠き上代にあつては、神事もしくはそれに伴ふ饗宴に於いて巫祝の行つてゐたことが、朝廷の一般の制度が漸次整頓せられると共に、二つに分化し、かういふ語部が純粹の巫祝の外に別に置かれるやうになつたものと臆測せられる。(語部が朝廷の制度として置かれたものであつて、民間に存在したものでないことについては「日本上代史の研究」第一篇參照。)
 ひどくわき道に外れたが、以上の考察によつて天語歌に關する前記の所説が一層たしかめられたであらう。さて、もとに立ちもどつて古事記を見ると、それには天語歌をも、其の他の饗宴の時に歌はれた多くの歌曲をも、天皇皇后などの作として記してあるが、それはこれらの歌によつて物語を構成しようとしたからであると共に、事物の起源を(23)説かうとするのが舊辭の述作せられた主旨の一つであることを思ふと、さういふ歌曲の由來を語らうといふ考も、またそれに伴つてゐたのであらう。しかし、それは明白な附會であるから、長谷での作に「まきむくの日代宮」が歌はれたり、天皇の歌に「やすみしゝ我が大君」といふ語が現はれたりするやうな、矛盾が生じてゐるのである。
 以上は宮廷の饗宴の場合に用ゐるものとして特に作られた歌曲のことであるが、次には、既に世に存在する歌をとつたものがあつて、仁コの卷の「つぎねふ(や)山代……」と歌ひ出してあるものの第二第三のもの、允恭の卷の天田振の第一第二の歌などは、民謠であるらしく、「つぎねふ(や)山代……」の第一のは、第二のをもとにしてそれを改作したもののやうである(第一の歌の歌ひ出しと一首の主想とが一致してゐないのは此の故であるが、第二の歌の第三句の「宮上り」の語が解し難いことと「葛城高宮わぎへのあたり」が皇后の故郷とせられてゐる葛城の名を出したものであることとから考へると、これにも幾らかの變改が施してあるやうである)。また仁コの卷の「枯野をしほにやき」といふのは民謠ではないが、民謠風の形式で作られた謠ひものであり、それが宮廷用の歌曲として採られたものであらう。(神武の卷の「宇陀の高城」云々も民謠であらうし、「倭のたかさじ野を」云々の唱和も、やはり其の例であるらしい。)また、允恭の卷の宮人振や天田振の第三の歌などは短歌であり、夷振之上歌としてあるものも、本來二首の短歌であつたのを一つに結合したものであるが、短歌は貴族社會に於いて形成せられた製作詩の一形式でありながら、それが歌曲の詞章として採用せられることもあつたのであらう。仁コの卷の「八田の一本菅は子もたず」といふ、短歌に第六句を加へた形式のものも、また同じ例に入るべきである。
 以上は歌曲の詞章についてのことであるが、歌曲ならぬものもまた少からず存在する。さうして其のうちには、や(24)はり既に存在する歌の適用せられたものがあり、短歌に於いて特にそれが多い。仁コの卷の黒姫を見送られた御歌、天皇に獻つた黒姫の歌、履仲の卷の「たぢひぬに」、「はにふざか」、允恭の卷の「大前小前宿禰が」、雄略の卷の「みもろのいつかしがもと」、赤猪子に關する三首、吉野川の少女についての歌などは、その明かなものであるが、短歌でなくとも、允恭の卷の讀歌としてあるものの第二は、やはり同じ例に入るべきものらしく、萬葉十三の卷に、作者の名を記さずして、其の歌が載せてあることをも、參考すべきである。應神の卷の「ちはやびと宇治のわたりに」といふのも同樣であらう。これらは物語と歌の内容とが一致してゐないことから、さう考へられるのであるが、それから類推すると、應神の卷の髪長姫を賜はつた時の太子の歌、仁徳の卷の天皇の吉備での御歌、速總別王の歌、履仲の卷の「大坂に」といふもの、允恭の卷の輕王輕大郎女の作も、また同樣であつて、何れもありふれた歌、その多數は戀歌、がそれ/\の物語に適用せられたものであることが知られる。上記のと同じ形式の短歌だからである。(神武天皇の卷の「葦原のしけこき小屋に」、「さゐ川よ」、「うねび山」、の短歌も、此の例であらう。)さうして、かういふ短歌の形が定まつたのは、萬葉の長歌の形が定められたよりは早からうけれども、ほゞそれに近いころであつたと考へられるから、此の點から見ても、これらの歌が物語の示すが如き時代の作でないことが知られよう。
 こゝまで考へて來て、更に物語の歌を通覽すると、仁コの卷の大后の嫉妬の物語には「つぎねふ(や)山代……」と歌ひ出してある歌が多く、雄略の卷には「やすみしゝ我が大君」といふのが三首もある。これらは何れも、歌曲であることが明記せられてゐるもの、もしくはさう推測せられるものであるが、前者はそれらが一括して「志都歌之返歌」と記されてゐるのを見ると、一くみの歌曲として取扱はれてゐたもののやうであるから、物語の記者はそれを其(25)のまゝ採つて天皇と大后との物語にはめこんだのであらうし、後者もまた同じやうな姿のものであるため、それを集めて同じ天皇の卷に編入したものであることが想像せられる。なほ仁コの卷の此の物語には「山代の」を首句とした短歌が二首あつて、其の一首はやはり上記の歌曲の一つであるやうになつてゐる。これもまた「山代」の語があるため、同じ組に組入れてあつたのであらう。(附記。「つぎねふ」の下に「や」の語の有るのと無いのとがあるが、有るのは、歌ふ場合のハヤシが偶記されてゐるのであらう。また、雄略の卷の引田部赤猪子に關する四首の短歌は、何れも第三句で第二句の語をくりかへす形になつてゐるが、此の四首を一まとめにしてあることには、これが一つの理由になつてゐるのではあるまいか。)
 古事記の歌に對するかういふ見解は、萬葉の歌の考察からも助けられるであらう。卷九の卷首にある雄略天皇の短歌は、卷八には舒明天皇のになつてゐる(さうして卷九に載せてある舒明天皇の歌は、同じ卷に文武天皇のになつてゐる)。また卷一の首にある雄略天皇の「こもよ、みこもち、」の長歌は、前後照應せず疑問の多いものであるが、本來問答體の二首の民謠であつたものを結び合せて一首とし、さうしてそれを天皇の作としたため、幾らかの語句を改めたものとして見れば、疑問は自然に解釋せられるから、これは決して天皇の作とすべきものではない。(「家のらへ名のらさね」と「……こそはのらめ家をも名をも」とは對應する語であるから、此の二つの句をそれ/\結句とする前半と後半とは、唱和問答の體でなくてはならぬ。前半のにある「吉閑」の二字が「告閉」の誤寫であるといふ説は、かう見ると正しい考であり、また後半のにある「告目」が「告自」となつてゐる本のあるのも、誤寫から來てゐることがおのづから知られよう。「のらじ」では、語法の上からも、次の句につゞくものとしての意義の上からも、いひ(26)かたが妥當でない。「告自」のほうは、或はその前の六句の意義に適應させるために、「告目」とあつたのをかう訓んだのかもしれぬが、「われこそは」といつたのでは、實はそれに適應してゐない。)思ふに古事記に見えるやうな此の天皇の物語に誘はれて、かういふものが天皇に附會せられたのであらう。「こもよ、みこもち、」の歌に現はれてゐる情趣は、吉野川の少女や春日袁杼姫の物語のそれと同じものであることをも、考ふべきである。古の天皇の作として記されてゐる歌の如何なるものであるかは、此の一例からも類推せられねばならぬ。
 物語に見える歌の多數が上記の如く考へ得られるとすれば、歌は本來物語の語るが如き人物の作でないことが、一般的に知られるので、それから推測すれば、物語もしくは物語中の人物の名と緊密の關係があるやうに見える少數の歌は、物語中の人物の作に擬して新作せられたものと見る外はなからう。例へば應神の卷の「ほむだの日のみこ、大さゞき、大さゞき、」といふ歌は民謠風の(仁コの卷の枯野の歌と同じ)形式で、仁コの卷の「山代のつゞきの宮に」といふのは短歌の形式で、同じ卷の天皇と女鳥女王との唱和、清寧の卷の歌垣の歌、どもは、片歌や旋頭歌や短歌や短歌に第六句を添へたものや、其の他の種々の形式で、また應神の卷の矢河枝姫に對する歌、雄略の卷の日下女王に贈られた歌などは、長歌の形式のほゞ形成せられたころに其の形式で、それ/\の物語に適合するやうに作られたものであらう。應神天皇の歌といふものに「わがいませば」とか「あはしゝ少女」とかいふ語のあるのも、天皇のこととして物語の作者が作つたからであらう。仁コの卷の天皇と建内宿禰との唱和も、この宿禰が長生したといふ物語に本づいて作られたものであることは、いふまでもあるまい。(崇神の卷の「みまき入彦」云々といふ少女の歌なども、此の例のであり、特に「ほむだの日のみ子」といふのと好一對のものである。)歌のうちには、新作であるか、物語(27)とは無關係な歌を適用し或はそれを改作してはめこんだものであるか、明かに判定しかねるものもあるが、全體の性質は上記の考察でほゞ知り得られたであらう。さうして、かういふ歌はいくらでも増減のできるものであるから、舊辭の物語が古事記のやうな形を備へるまでには、長い間に幾人かの手を經て潤色せられたものであることが、歌についてもまたいひ得られよう。歌にさま/”\の形式のものが混在するのも、一つはかういふ事情からであつて、ほゞ長歌の形式を具へてゐるものや短歌もしくはそれを基礎とした形式のものは、よほど後世になつてから補はれたものと考へられ、歌を女のもとに持たせてやるといふ話のあるのも、また之がためであらう。
 さて、古事記の歌ものがたりの歌をかう見ると、さういふ歌が興味の中心となつてゐる物語の性質も、またおのづから明かになり、それが、畢竟、物語であつて歴史的事件の記載ではないことが、推知せられるのである。歌を除き去れば、物語が殆ど物語の形を失つてしまひ、事件らしいことがなくなるからである。さうして、中には物語そのものが歌によつて結構せられたらしく推測せられる場合すらある。例へば赤猪子の物語は、「引田の若くるすばら」の歌を本とし、それを誇張して作つたものであらう。此の物語が架空の物語であることは、物語そのものによつて明白だからである。また、輕王輕大郎女の物語の如きは、多くの歌をつなぎ合はせることにょつて其の話のすぢが作られてゐる。どの歌にも兄妹の間がらであるといふことが現はれてゐないのは、歌が物語に先だつて存在したことを示すものであらう。さすれば、上記の仁コの卷の大后の嫉妬譚に於ける地理的記載も、また歌をはめこまうがために案出せられたものと解しても、大過はあるまい。速總別王の話に倉椅山を、墨江中王に關する物語に波邇賦坂や大坂の名を點出したのも、また歌に本づいての造作であらう。しかし、歌に關聯した部分は架空譚であり、歌によつて結構せ(28)られた話さへあるにしても、多くの物語に於いては、其の基礎として歴史的事件から出た何ほどかの傳説があつたのではなからうか、といふ疑が無いにも限らぬ。
 そこで、更に立ちもどつて、これらの物語を檢討すると、其の主題は、畢竟、女と酒と獵と兄弟爭ひとの外には無いので、これらは上代人の日常の生活であり、娯樂であり、或は世にありがちの人間の葛藤であり、さうしてまた何れも人々の語り興ずる話柄である。女の話についていふと、つまどひも歌がきも一般の風俗であり、道ゆきずりの女に懸想するのも、こもり妻にかよふのも、兄弟の女爭ひも、女の嫉妬も、人々の常に經驗してゐること、朝夕に遭遇し見聞することであるのみならず、人妻を奪ひ兄妹相通ずることさへも、世にまれなる例ではなかつたかも知れぬ。戀に醉うては人の怒や世の譏を顧ないのも、常のことである。酒宴や遊獵については、いふまでもない。古事記のものがたりは、昔の天皇や皇族の御名に託して語られてはゐるが、語られてゐることは、かういふありふれた世の話柄に過ぎないものではないか。昔の皇族の間にも、事實、さういふやうな戀愛事件があつたであらうし、酒宴や遊獵も行はれたはずである。しかし、かゝる珍らしげもないことが、事々しく後にいひ傳へられたとは考へ難い。際立つて見える特異な事件でもなく、特異な人格の現はれたものでもないからである。歌があるからこそ、それ/\に幾らかの變つた色彩が見えるが、歌を除いてしまへば、何れも同じ、極めて平凡な、日常の些事である。兄弟間の權力爭ひの如きも、後世の事例から類推すれば、上代の皇室に於いても?生起したことであらうが、古事記の物語はそれが傳へられたものとは考へられぬ。それはたゞ爭ひの話のみが記されてゐて、而もそれは略型のきまつたものであり、またそれが個人的の問題としてのみ語られてゐて、歴史的事件としては必ずそれに伴はなくてはならぬ政治上の事變(29)などが、全く話頭に上つてゐないからである。御位爭ひの如きは、其のこと自身が政治上の事變ではあるけれども、物語に現はれてゐるところは、政治上の事變としてではなくして、單に爭ひとしてである。だから、これらの物語は、名を古の皇族に託して、ありふれた話柄を昔物語としたまでのものである、と見なければならぬ。速總別王と女鳥女王との、また菟田大魚についての志毘臣の、天皇に對するあのやうな態度が語られてゐるのも、或はこゝに一つの理由があるかも知れぬ。一方では、雄略の卷の志幾の大縣主の話の如く、天皇の尊嚴が説かれてゐることから、かうも考へられるのである。從つてまた、昔の皇族の事蹟が特殊の方法によつて世間に語り傳へられ、それが舊辭のかういふ記載の材料となつた如く、臆測するものがあるならば、それはこれらの物語の性質を全く了解せざるものである。物語を形成してゐる歌が上記の如きものであり、それを除けば物語の形が失はれるとすれば、それだけで既にかういふ臆測は破られてゐるのであるが、なほ其の内容について、これらの物語が皇族の私生活に關することのみであつて、民衆の生活には何等の關係が無く、また民衆の行動を指導した英雄的人格がそれに現はれてもゐないことを考へれば、かういふものが民衆の間に語り傳へられたはずの無いことは、おのづから知られるであらう。歴史的に存在した古人の事蹟が民衆の間に語り傳へられるには、其の事蹟が何等かの點に於いて民衆の生活と接觸するもの、其の人物が何等かの意味に於いて英雄的資質を有するものでなくてはならず、さうしてそれは必しも君主と其の行動とには限らないはずであることをも、考へねばならぬ。戀愛も狩獵も饗宴も、かういふ傳説になくてはならぬものであらうし、さうして、さういふことは民衆の日常生活に於けるそれと違つたものではないけれども、それとても傳説にあつては、其の主題たる大なる事件と結びついてゐなければならず、從つて其の規模が大きくなければならぬ。ところが、古事(30)記によつて傳へられた舊辭の物語には、さういふことが全く認められないではないか。さうして、かういふ物語によつて舊辭が成立つてゐるのは、それが廣く民衆に向つて呼びかけたものでなく、少數の貴族や豪族を相手としての述作だからである。
 もしまた、假にこれらの物語が朝廷内に於いてのみ傳承せられたものであるとするならば、それにはそれを語り傳へる職掌のものがなくてはなるまいが、さういふもののあつたらしいことは、どの方面からも證明せられず、世間でともすればいはれてゐるやうに語部の職掌がそれであつたと考へるにも、何等の根據が發見せられない。語部の「かたりごと」には、それが作られた前から知られてゐた物語に由來のあるものもあつたであらうし、また語部のかたりはじめたものがあつたかも知れないが、前者は其の物語が古い歴史的事件のいひ傳へられたものであることを證するものではなく、後者はたゞ「かたりごと」の内容としての物語の創作せられる一例を示すまでのことである。のみならず、上に述べた如く、語部の「かたりごと」には一定の詞章があり、さうしてその詞章が、歌と同じく、古事記の或る物語のうちに記されてゐるとすれば、その物語の全體が語部の語つたものでないことは、おのづから知られるであらう。語部の語つたものは「かたりごと」たることを示す一定の形式を具へた詞章なのであつて、さういふ「かたりごと」を語つたことが物語として古事記に記されてゐるのである(この古事記の物語は「かたりごと」の内容としての物語のことではない)。なほ一般的に考へても、かの神代史やヤマト奠都の説話や新羅熊襲の征服物語などすら、決して民衆の間に語りつがれたものでなく、朝廷に於いても古くからいひ傳へられてゐたものと見えないことは、第三篇と第二篇とに於いて試みた其の内容批判の上からも知られるのであるが、それから推測すれば、こゝに問題とし(31)てゐる種々の物語については、なほさらのことであらう。其の形の上からいつても、全體として何等のまとまりの無い斷片的の多くの説話であるが、これは舊辭がシナの史籍の刺戟をうけて述作せられたものであるため、其の史籍の如く、歴代のそれ/\について何等かの記載をとゞめようとして案出せられた物語だからであらう。さうして、神代や神功皇后までの物語に對する考察によつて、それらの物語を記載してあつた舊辭に異本が多く、從つて物語もいろ/\に増減せられ改作せられたことが知られるとすれば、こゝに問題とした種々の物語に於いてもまた同じことが類推せられるのみならず、中には、上に述べた天語歌の如く、後から舊辭に編入せられたことのほゞ明かなものもあるが、もしさうとすれば、これらの物語を古くからの傳承として取扱ひ難いことは、いよ/\確かめられるであらう。
 こゝまで考へて來たことは、古事記の物語の大部分を占めてゐる歌のあるものについてであるが、然らば、それの無いものはどうであらうか、これが次の間題である。そこで、先づ出石童女の物語を見るに、其のすぢは兄弟の戀爭ひに弟が勝つたといふだけのことであつて、物語の主題としては、戀爭ひは勿論めづらしいことでなく、兄弟の爭ひに弟の勝つのも、母が弟を助けるのも、普通の例である。やゝ特異な點は賭をしたことと呪詛を行つたこととであるが、賭もありがちなことであつたらうし、呪詛も記紀の物語に?現はれてゐる。さうして、秋山のしたび男と春山のかすみ男との名が空想的なものであること、また古事記のかういふ物語はすべて天皇皇后もしくは皇族のこととしてあるのに、これのみは其の例外であること、なほ應神の卷に記されながら此の天皇の時代の話となつてもゐないこと、などを思ふと、これは説話として世に行はれてゐたものであつたらしく、特に、少女の名に神の語をつけ、兄弟を神といつてあり、少女の求婚者に八十神があつたとし、母の語に神習云々とあることから考へると、それは神代の(32)昔がたりとして語られてゐたものではあるまいか。(「神習」といふのは神の世には神の習はしがあるといふ意義であらう。人の習はしに對していつてあるが、人の習はしのことをいつたのは、神代史のイサナミの命のヨミの話にうつしき青人草のことがいつてあるのと、同じである。「神習」は宣長の説の如く「かみならはめ」の語を寫したものではなく、「神ならへ」といふのであらう。)勿論、神代史の神銃に屬する神の話ではないが、神代史が世に現はれ神代といふことが人の知識に存するやうになると、其の神代の話としてさま/”\の物語が語られるやうになつて來るのは、當然であるから、これもまた其の一つであつたらう(かのヤチホコの神もまた或は其の例であるかも知れぬ)。それをこゝに記したのは、童女を天之日矛の女としたからであらうが、日矛の話と此の話とは、本來、何の關係も無いものであつて、それは、此の話が神のこととなつてゐるのに、日矛のが人のこととせられてゐることからも、明かである。日矛の物語の條には日矛を「是人」と書いてあるのに、此の話の條にはそれを「茲神」としてあるが、これは神の話に結びつけたために「人」が「神」に書きかへられたのである。さうして、かういふ結合の行はれたのは、童女の名がイヅシヲトメとして語られ、そのイヅシが但馬の地名のイヅシ(出石)としても解し得られるからのことであらうか。女の名としてのイヅシのもとの意義は、この地名ではなく、イヅはイツ(嚴)であつて、得がたく思はれた少女であるといふ意義で、イヅシヲトメとせられたのではあるまいか。雄略の卷に「ゆゝしきかもかしはらをとめ」といふ歌の記されてゐることも、參考せられよう。*イツをイヅといふことは、出雲國造神賀詞の「伊豆能眞屋」にその例がある。
 ところで、日矛の話を應神の卷に記したのは、神功皇后の母で息長宿禰王の妻であるといふ葛城の高額姫が其の後(33)とせられてゐたからかと思はれるが、古事記の此の系譜は、多分、後から作り加へられたものであらう。書紀にさういふ記載が無いのは、かゝる系譜の記されてゐない帝紀があつて、それによつたものらしいこと、古事記の開化の卷に息長宿禰王の祖として記されてゐる日子坐王の子孫の系譜が、例になく煩雜であつて、書紀の簡單な記載が帝紀の原形であつたらしいこと、また葛城は大和の地名に違ひないのに、それを但馬に居たといふ日矛の家に結びつけるのが不自然に感ぜられること、などからかう推考せられる。さうして、かういふ系譜の作られたのは、新羅を征討せられたといふ神功皇后の血統を新羅の王子であつたといふ日矛につないだまでのことであらう。それから、多遲麻毛理を日矛の子孫とすることも、また日矛傳説の初からあつたものではないやうである。これは書紀にも見えてゐて、垂仁紀の注に「一云」として或る本を引いてあるところに記されてゐるが、多遲麻毛理は常世の國へ行つた物語に於いて現はれた名であるのに、其の物語のどこにも新羅とのつながりが見えないことから考へると、この話と新羅から來たといふ日矛の話とは、本來、無關係なものであつたのを、土地が同じ但馬とせられてゐたため、此の二人の名を系譜の上で結びつけたのであらう。日矛を但馬に置いたのは、出石の神寶の由來を語るためであつたやうである。なほ、多遲麻毛理は橘を「縵八縵矛八矛」持つて來たとあるが、萬葉に橘を玉にぬくといふことが?見えてゐることから考へると、橘の實を緒にぬいて長くつらねたものを縵といふのであり、さうして、それから類推すると、矛といふのは(今の串柿の如く)串にさしたものらしく思はれる。橘をかういふ風にして、神にも捧げ人にも贈り玩びもし實用にも供した風俗が、此の物語に反映してゐるのであらう。(縵は宣長の説の如く内膳式などによつて「かげ」と訓んでもよからうが、やはり「かつら」の語にあてたものとするのが妥當ではなからうか。「かつら」は長く連なつたも(34)のをいふので、蔓草も、苔の「ひかげ」も、絲で物をつらねた人工的のものも、みな「かつら」である。それを「かげ」ともいふのは、「ひかげ」を單に「かげ」ともいひ、それが「かつら」であるところから、「かげ」と「かつら」との二つの語が混同して用ゐられたためであらう。「かつら」に縵の字を用ゐるのは、字義からいへば、不適當のやうであるが、奈良朝のころにはこれが習慣であつたらしく、萬葉卷二には蘰といふ字も用ゐてあつて、それは「ひかげかつら」をさしたものである。縵の字は、絲でつらねた人工的のものをいふ場合に、使はれたものではなからうか。安康の卷に見える玉縵は宣長も「玉かつら」と訓んでゐるので、それは或は上記の意義での「かつら」ではないかも知れぬが、「かつら」といふ語に縵の字をあてたことは、これでも證せられる。)
 次に考ふべきは、雄略天皇が葛城山で天皇と同じ装をして同じ鹵簿を具へた一言主神に逢はれたといふ話である。神はみづから「吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主之大神者也、」と名のり、天皇のさゝげものを受け、長谷の山口まで還幸を送つて來たとある。神の名の意義は、よいことともわるいこととも一言で判斷する神といふのであらう。「言離之神」の一句は、其の上の「まがことも一言、よごとも一言、」をうけていつたものであつて、其の間に意義の連絡が無くてはならぬから、かう解せられる。離の字をあててある語はサクであつて、それは截斷し判別し分離する義である。また「惡事」と「善事」とはマガコトとヨゴトとであつて、そのコトは「事」の字の意義であらうが、言も事も同じくことばはコトであるために、上記の神の語にはコトの語を六つも重ねてあることになり、そこに上代人の好んで用ゐた修辭法が見える。さうして、神が言を發するとすれば、それは託宣の外には無いはずであるから、これは、此の神の託宣が何時も一言であり、一言で事がらの吉凶禍福もしくは人の行ひのよし(35)あしなどを判斷するので、それが世間に評判となり、一言主と呼ばれるやうになつたものらしい。よごと、まがことのコトを「言」の義に解し、此の二つを託宣の兩方面をさすものとしてもよいやうであるが、言についてヨゴト、マガコト、といへば、よき事をあらせようとし、よからぬこと、即ち禍、をあらせようとすることば、の義にならう。神には人に禍を下す力もあるから、さう考へても解せられぬことはないが、なほ上にいつたごとく見る方がおだやかのやうである。さて考へるに、上記の神がいつたとしてある語も、また此の神の託宣のことばを利用して作られたものではあるまいか。書紀の仲哀紀の終と神功紀の始とに見える託宣のことばに一種の修辭法があらはれてゐるのを見ると、それは物語の作者が、當時、實際に行はれてゐた託宣の例によつて構造したものらしいことを、參考すべきである。但し、これを託宣のことばによつたものとして見ると、それが數言を重ねてゐることに疑が生ずるかも知れぬが、託宣を下すべき問題に對して一言であるのとこれとは、矛盾しないであらう。(言離は從來コトサカと訓まれてゐるが、コトサクの語を寫したものとする方が妥當ではなからうか。神代紀の注の「一書」に見えてゐる泉津事解之男の「事解」の「事」は「言」の義であるが、「解」がサカと訓まれてゐるのは正しいので、この場合ではコトサカといふ語が用ゐてあるものと解せられる。第三篇第六章にそのことを考へておいた。また孝コ紀大化二年の條に「コトサカの婢」といふ語があるが、これは離別を宣告せられた女といふことであらうから、やはりサカでよい。何れもサカルといふ義である。一言主神の場合は同じ語でもいひかたが違ふ。)さて、神が人の形をあらはすといふことは、神が人の性質を有するものとして考へられるやうになつてからでなくては、あるまじきはずであるが、記紀によつて推測せられる時代に於いては、さういふ考が生じつゝはあつたが、まだ十分に成長してゐず、神の多くは目に見えぬ(36)精靈や何等かの形を有つてゐる靈物やであつた。神籬といふもののあるのも、神が人の形を有たない精靈だからである。此の物語に於いて天皇が「かしこし我が大神、現し身まさむとは覺らざりき、」といはれたとしてあるのも、或は此の故であらうか。託宣は一般に行はれてゐて、巫祝の任務の一つはそれであつたらしく、また何等かの宗教的儀禮に於いて何人かが神に扮し神の語を傳へることもあつたであらうと思はれ、さうして、それらは人が神と一體になり神に化することであるから、此の意味に於いて、神に人の性質を付與することの一誘因になつたでもあらうと考へられるが、事實、多くの神が人の性質を與へられてゐたやうには見えぬ。神代史に宗教的意義を有する神の物語が殆ど無く、神の形體が想像せられてゐないのも、また實際の崇拜に於いて人の形をもつた神の像の作られてゐなかつたのも、其のためであらう。(何等かの儀禮の場合に、素朴な人の形をしたものを作つてそれを神とするやうな風習が全く無いではなかつたかも知れぬが、よしさういふことがあつたにしても、それは多分、呪術的の儀禮に於いてであつて、宗教的崇拜の對象として、また或る神の名をもつたものとして、人の像が作られたらしくはない。神社に於いて神もしくは神の象徴として形のあるものが置かれる場合に、人の形をしたものが用ゐられたやうな證迹は認められないからである。)さすれば、この一言主の神と天皇との會見の物語には、何か別の由來があるのではあるまいか。かういふ神異の話は雄略天皇の時の昔がたりとして後世に作られたものに違ひなく、葛城の神が長谷の山口まで送つて來たといふ地理的に極めて無理なことが語られてゐるのも、またこれがためであらう。長谷の宮が知識としてのみ存在する時になつて葛城と天皇の皇居の長谷とを概念的に結びつけたから、かういふ話ができたのである。余はかう考へて、そこにシナ傳來の分子のあることを推測しようと思ふ。シナにはかういふやうな神異譚が多いが、葛洪の神(37)仙傳にある漢の武帝が嵩山に登つて九嶷の神に逢つたといふのは、此の話の粉本ではなからうか。古事記の記載にシナ思想もしくはシナから得た知識の織込まれてゐる例は少なくないからである。たゞ、何故にそれを雄略天皇の話としたかはわかりかねるが、上に述べた如く此の天皇には物語が多く作られてゐるから、それに誘はれてのことであるかも知れぬ。或はまたオホハツセワカタケのタケを武と書いたからの聯想かも知れぬ。宋書に此の天皇を武としてあるのは、タケの意譯かどうか問題であるが、それとは別に、タケが武の字で寫されたことは想像せられよう。
 神の話には、なほ仲哀の卷に見える氣比の大神に關する物語があるが、これは氣比の地名の説明説話になつてゐる。其の説話は神が太子と名を易へることになり、易名の幣として御食の魚を神から太子に給はつたといふのであるが、仁コ紀のサザキとツクとの命名譚も交互に名を易へる話の變形であるらしく、さういふ風習が上代にあつたのであらう。さうして、それは呪術的意義のあるものであつたらうと臆測せられる。古事記の此の話に於いては、名が如何に易へられたか明かでないが、應神紀の卷首に注記してある「一書」にそれが見えてゐるから、古事記の話にも其のことがあるべきはずである。但し、ホムダが氣比の神の名であつたといふのは、無意味なことであるから、此の話はたゞ地名を説明するために假構しただけのものとしなければなるまい。かういふ説明説話はなほ他にも例が多い(後文參照)。
 それから、安康天皇が大日下王を殺された話は、目弱王の復讐の原因を作つたものである點に於いて、また雄略天皇が市邊忍齒王を殺された話は、意富祁、袁祁、の二王の播磨避難の由來をなしてゐる點に於いて、皇室に於ける特殊の事件と關係を有つてゐるから、その根柢には傳説によつて知られてゐた歴史的事件が存在するらしい。しかし、(38)それに關する幾つもの話に現はれてゐることが、事實に基づいた傳説であるとはいひ難い。七歳の目弱王が安康天皇を弑したり、婚姻問題から事變を惹起した雄略天皇が童男であられたりするのは、勿論のこと、雄略天皇が兄の王たちや忍齒王を殺された話にも、都夫良との戰爭の話にも、事實としてはあり得べからざることが多く記されてゐる。それは物語としての甚しき誇張であると解することもできようが、かく誇張し得られたのは、事實が明かに知られてゐなかつたからであらう。大日下王の殺されたのも、話のやうな事情からであつたとは必しも信じ難いので、此の話が雄略の卷に見える日下がよひの物語と調子の合はないのも、一を事實譚とし一を作り物語とする理由にはなるまい。上に述べて來たやうな古事記の記載の全體の性質から、さう推測せられる。二王の播磨に於ける物語とても、志自牟といふ地名が其のまゝ人名とせられてゐることだけから見ても、そこに造作せられた分子のあることが知られねばならぬ。咏に「八絃の琴を調べたるごと天下を治め」るとあるのも、シナ思想から來たことであり、山部連が針間國の宰となつたといふことも、針間國の宰といふ稱呼そのものも、大化改新以後の?態を知つたものでなくては、想像し得られず、書き得られないはずである(八絃琴といふものの事實上の有無如何に拘はらず、八といふ數から見れば、此の名は日本人のつけたものに違ひないが、天下を治めることの譬喩として琴のしらべを用ゐたのは、シナ思想に由來があらう)。二王が播磨に隱れてゐられたといふことは、いひ傳へによつたものであらうが、それに關する古事記の物語は、やはり單なる物語と見る外はあるまい。
 最後に一言すべきは、仁コ天皇が民の課役を除かれたといふ話についてである。これは政治的意義を有する物語の唯一の例であるが、「登高山見四方之國」とあつて、其の高山がどこであるかを説かず、「於國中烟不發」とか「於國(39)滿烟」とかいつてある「國」が、どこをさしてゐるかもわからぬやうに、すべてが抽象的ないひ方てあるから、實は具體的な物語ではない。さうして、此の物語の精神が儒教式仁君の觀念にあることは、物語そのものが明かに語つてゐるところであるのみならず、「聖帝」といふ語が用ゐてあることによつても、それは確かめられるし、課役を除いた期間を三年とした點にも、シナ思想が現はれてゐる。此の話の全體が、上に説いて來たやうな、すべての物語と調子の合はないものであることは、いふまでもない。かう考へると、天皇と宇治の和紀(稚)郎子との御位讓りの話も、また同じく儒教思想から出たものであつて、弟子が愛せられたといふ話に本づきながら、呉の太伯とか伯夷叔齊とかの物語を思ひ浮べて構想したものらしい。兄弟のうちで弟が位に即かれた話は、ホホデミの命、神武天皇、綏靖天皇、などにその例があるのに、この場合にのみ特に大雀命が稚郎子に天下を讓られたといふいひかたのしてあることを、考ふべきである。このいひかたは應神天皇が稚郎子が位を繼ぐやうに定められたといふ話に矛盾するので、そこに長子相續を原則とするシナ思想がある。(顯宗仁賢二天皇の御位ゆづりの話も、また同じ思想によつて潤色せられたものではなからうか。御兄弟の即位の順序が逆になつてゐたことは歴史的事實であらうが、其の理由として語られてゐることは、それとは離して考へ得られる。)兄弟の爭ひの物語の多い古事記に於いて、この仁コ天皇と宇治の稚郎子との相互の辭讓の話のみが異彩を放つてゐるのは、かういふやうにシナ思想によつて作られたものだからである。さうして何故にこの仁政と御位ゆづりとの話を仁コ天皇に結びつけたかといふと、それはすぐ前の應神天皇の朝にシナの典籍が始めて入り、儒教思想が始めて傳へられたやうに、記されてゐるからであらうと推測せられる。これらの物語は、古事記に見えるすべての物語とは別の時代に於いて特に作り加へられたものに違ひなく、さうしてそれは、儒(40)教思想が有力になつて來た大化改新以後のことであらう。特に仁政の物語については、その文章がほゞ四字を一句にした漢文風の書きかたになつてゐて、純粹の日本語を寫したものではないことを、考へねばなるまい。古事記にシナ思想から出た分子のあることは神代の物語にも既に其の例があるが、仁コ天皇の此の物語に「人民」の語のあるのは、崇神の卷や清寧の卷のそれと共に、やはりシナ思想に由來があらう。神代の物語にも政治的意義に於いての人民が問題とせられず、上記の種々の物語にも民衆といふ觀念が全く現はれてゐないのを見るがよい。このことから類推すると、古事記に見える崇神朝の祭神の物語にもシナ思想が混和せられてゐよう。そこには「人民」といふ語のみならず天下とか國家とかいふ文字も用ゐられてゐる。古事記のこの記載は此の物語の初めて作られた時のまゝのものではあるまい。また第二篇に述べた如く、大化以後に書かれたとしなければならぬ文字も崇神の卷などに見えてゐて、「定奉天神地祇之社」なども其の例であり、神祇官が全國の主要なる神社の祭祀を管治するやうになつた後でなければ書かれないことであるが、應神の卷の「百官恭敬往來之?」云々、允恭の卷の「百官及天下人等」云々なども、同樣に解するのが妥當であらう。前に述べた「針間國之宰」も其の一例である。(大化以後でなければ無いはずの行政區劃としての國の名が記されてゐる場合は他にもあるが、單に土地を示すために記したと思はれるものは、必しも其の記事の全體が新しいことを示すものとは限らぬ。)これらの例から類推しても、仁コ天皇に關する物語の性質は了解せられよう。
 歌の伴はない物語はほゞこれだけであるが、出石童女の話は既に存在する説話を其のまゝ取つたものであつて、話そのものに特殊の興趣が具はつてゐるから、故らに歌を以てそれを潤色する必要が無いし、ヒボコや一言主の神の話(41)も、また目弱王や、市邊忍齒王や、播磨での二王の話も、また政治的意義を有する仁コ天皇の物語も、戀歌などをそれに結びつけるにはふさはしくないものである。これらの話に歌の無いのは、此の故ではあるまいか。二王の播磨の話に咏といふもののあるのは、歌の代りになつてゐるとも見られるし、また忍齒王の物語の對話には、特に修辭上の工夫が費されてゐるところがあつて、それは歌のある話には例の無いことであるのも注意せられるが、これらは裏面から上記の理由を語るものではなからうか。香坂王、忍熊王、又は大山守命などの話に強ひて歌を結びつけてあるやうな例もあるが、概觀して斯う推測せられる。さすれば、歌の有無は、物語が一は事實でなく他がさうであることを示すものではないといはねばならぬ。但し、上記の考説によれば、歌の無い物語は大抵、後になつて作り添へられたものらしく、舊辭の原形には存在しなかつたもののやうである。
 古事記の物語が如何なる性質のものであるかは、これまで述べて來たところによつて、ほゞ明かにせられたのであらう。さうして、此の時代に於いて最も重大なる問題であり、それに關して種々の事件が起つたはずの韓地の經營、それに伴つて生じたシナの政府との交渉、また、やはり此のころに行はれたはずの熊襲の征服、などについては勿論のこと、朝廷に地位を占めてゐた有力なる氏族の盛衰興亡、地方の豪族の行動など、必ずあつたに違ひない政治上の事件が毫も傳へられてゐないといふことは、此の見解を一層たしかめるものである。重大にして顯著なる政治上の事件が傳へられずして、私生活に關することのみが後までも知られてゐたとは、信じ難いのである。もつとも、第二篇に述べて置いた如く、かういふ事件のあつたことが全く忘れられてしまつたのではなく、出雲服從譚や倭建の命の熊襲征討物語などは、さういふ記憶に本づいて作られ、それを遠い昔の時代に移したものとは考へられるが、物語その(42)ものが全くの説話であるのを見ると、事件の經過などが傳へられてはゐなかつたに違ひない。大和奠都や新羅征討が同じやうな物語として作られてゐるが、それは現在の?態の起源を説くがために構想せられたことであつて、奠都や征討に關する古傳説があつて、それに本づいたものとは認められないことをも、參考すべきである。要するに、舊辭を述作するに當つて歴代ごとに記事を作らうとしても、記すべきことが無かつたため、ありふれた世上の語り草を粉飾してそれにあてたのである。たゞ此の時代に入つてからの皇室の系譜は、后妃や皇族についてのことがらの含まれてゐるものが、そのとき/”\にほゞ記録せられてゐて、それが後にも傳はつてゐたらしく、所謂帝紀はそれに本づき、またそれを修飾して、編述せられたものと推測せられるから、それに關係のある、特に舊辭の最初の述作に近い時代の、重大なる事件は、おぼろげながら知られてゐたであらうと思はれるので、目弱王の復讐とか意富祁袁祁二王の播磨避難とかが其の例であるらしいことは、上に述べた通りである。ところで、系譜が傳へられてゐたとすれば、歴代の御治世の長短の如きも、不完全ながら、何等かの形で知られてゐたであらうと思はれる(第五章參照)。もしさうとすれば、歴代によつて物語の有るのと無いのと、またあつても多いのと少いのとの、差別があるのは、之がためではなからうか。いひかへると、舊辭の作者が御治世の短い御代には物語をわりあてず、長い御代にはそれを多くしたのではあるまいか。反正、安康、清寧、の諸朝に物語の無いのを見ると、さう解してよいやうである(安康朝の目弱王の話については、上文參照)。もつとも、古事記は本來別々であつた帝紀と舊辭とを一つによりまぜたものであるから、古事記の卷のわけかたが其のまゝ舊辭の原の姿を示してゐるとは限らぬ。例へば、大長谷王子の兄の王子などを殺された話が安康の卷に、意富み祁袁祁二王の播磨の物語や袁祁王の歌垣の話が清寧の卷に、編み込まれてゐるのは、(43)強ひて舊辭を分割し、それを帝紀の歴代のそれ/\の條に配合したためであるので、舊辭に於いては、前者は雄略天皇の、後者は顯宗天皇及び仁賢天皇の、物語として、記されてゐたのであらう(神功皇后の新羅征討及び其の凱旋後の話が仲哀の卷に載せてあるのも、之と同じであつて、もと/\帝紀とは別に記されてゐた舊辭の物語を帝紀の歴代に強ひてあてはめたからのことである)。だから、上記の考は、古事記の體裁に於いてではなく、舊辭の書きかたによつてのことである。舊辭が仁賢朝までを含んでゐたと見るのも、また之がためである。なほ、古事記にとられた舊辭は後人の潤色を經たものであるらしいが、新しく物語が添加せられても、やはりもとの姿にひかれて、同じやうなものが同じ天皇について作り足され、物語のない代は依然として空白のまゝに殘されたであらうと、推測せられる。
 それから、古事記の此の部分にも地名や人名の起源を説いた話が所々に見えるが、それに對しては、神功皇后までの物語に見えるものについて第二篇に述べたところを其のまゝ適用すればよい。雄略の卷の、呉人を置いた土地だから呉原といふのだといふ話も、呉原の名の起源説話であるので、事實はその逆であり、クレハラにゐたからその人をクレ人といふやうになつたのであらう。クレといふ地名はあちこちにあるので、呉人を置いたクレハラもその一つであり、クレといふのはもとからの地名であるが、呉人を置いたためにそのクレに呉の字をあてるやうになつたのである。クレといふ語は呉といふ文字とは何の關係もないのみならず、呉人の故郷である呉といふシナの土地ともかゝはりが無い。クレは、多分、木のクレの義であらう。或はまた顯宗の卷の市邊忍齒王の御骨が御齒でわかるといふ話も、話そのものは名の説明となつてゐないが、其の着想は同じである。また、應神の卷に二ケ條もある諺の由來、雄略の卷に見える一言主神の出現のそれを語るものなど、事物の起源説話が少なくないが、歌を記すについても同じ意味の(44)寓せられてゐる場合があるといふことは、上にも述べた。應神の卷に阿直史、文首、秦造、漢直、などの祖先の來朝のことをいつてあるのは、これらの諸家の起源説話であると共に、文首の祖について論語などのことをいつてあるのは、儒學の由來を説いたものでもある。(阿直史の祖阿知吉師、文首の祖和邇吉師、また漢直の祖阿知、が實在の人物でないこと、それらの來朝譚を應神朝にかけて記したのが、此の朝に外國との交渉が始まつたといふ知識に本づいたものであることについては、「百濟に關する日本書紀の記載」參照。秦造の祖の名は古事記には記載が無いが、來朝のことについては他の諸氏の例から類推せられる。またこゝに「若有賢人貢上」云々とあるのは、百濟から種々の學者を番上させた後世の事實によつて作られた話である。)なほ伴造の部や子代名代の部の設置に關する記事が、さういふ部の起源説話であつて、事實の記載でないといふことは、「日本上代史の研究」の第一篇「上代の部の研究」に考へてある。また、仁コの卷の池溝の開鑿、津の設定、履仲の卷の阿知直の藏官任命、雄略の卷の呉人の來朝、なども、やはりそれ/\の起源説話であつて、それらが事實でないことは、上記の種々の起瀕説話の性質から類推しても明かであり、なほ第二篇に述べた類似の記事に對する考察によつても知られよう。さうして、かういふ説話のあることは、第二第三の兩篇に説いた如き舊辭の述作の根本精神とおのづから相通ずるものであり、またそこに上代の説話作者の一般的態度が見えるのである。
 ところが、古事記には、かういふやうな事物の起源説話でもなく、また物語の形をも具へてゐない、斷片的記載が僅かながらあるので、允恭の卷の新羅の貢獻などがそれであり、部の設置、韓漢人の歸化、池溝の開鑿、藏官の任命、なども、起源を説いたものではありながら、記事の形からいふと、同じ部類に入るべきものであり、歴史的事件の記(45)載らしい外觀を有つてゐて説話らしくは見えない。允恭の卷の氏姓を定めたといふのは、書きかたにいくらかの違ひがあるやうであるが、やはりこの部類のものとすべきであらう。さうして、かういふ記事が、種々の物語から成立つてゐる舊辭の全體の姿と、調子の合はないものであることを思ふと、それが如何にして古事記に記されてゐるかが問題となる。それは、阿禮の誦習に供せられた舊辭に何人かが添加して置いたものであつて、崇神の卷などに見える如く、漢語を用ゐて物語を修飾したり、仁コの卷にある如くシナ思想に本づいた説話を作り添へたり、或は上にも述べたやうに、大化改新後の?態に本づいたことを書き加へたりしたのと、相伴つて行はれた、舊辭の補修の最も時代の後れたものとして、推測することができようか。允恭の卷の氏姓に關する記事に「天下氏氏名名人等之氏姓」とあるのは、孝コ紀の大化二年の詔勅に「卿大夫臣連伴造氏氏人等名名王民」とあるのと同じいひかたであることをも、考ふべきである。必しも大化のころにのみ行はれてゐたいひかたとすべきではあるまいから、このことによつてこの記事の作られた時代をきめるわけにはゆかぬが、氏姓の混亂といふことは氏姓がほゞ定まつてゐる時代にはじめて考へらるべきことであり、さうして氏姓の定められたのは帝紀ができてから後のことであるから、この記載が後世に作られたものであることは、明かである。言八十禍津日前といふのも、本來の地名ではなく、この話に於いて作られたものに違ひない。が、これらの記載について上記の如く推測する場合に、それらが舊辭の補修者の創案であつたか、但しは別に據るところがあつたのかが、問題であつて、もし前者であるとすれば、それが舊辭の物語とは甚しく不調和であることが怪しまれよう。さうして、舊辭には記載が無くなつてゐた時代の繼體朝に於いて、石井の話が古事記に見えてゐることから考へると(此の話が後からの?入と見なされない限り)、それと同じやうな形を有する上記の數條(46)の記事は、舊辭の補修者が他から材料を得たものではあるまいか。もしさうならば、それは何から採られたのか。ここに問題があるが、それについては適切な解釋が得がたい。從つてまた、帝紀を寫しとつたものと見なされる繼體の卷に、石井に關する記事のある理由も、また知りがたい。或は天武朝にはじめられた史局に於いて作られた國史の稿本に記されてゐたことが阿禮の誦召した舊辭に書き入れてあつたのではないか、といふ臆測が加へられるかも知れぬが、阿禮の舊辭を誦習したのが何時であつたかが知り難いから、さうも考へかねる。のみならず、それでは石井の記事が帝紀にあつた理由も、わからぬことになる。またその稿本の文體が古事記に見えるのと一致してゐたかどうかも、問題であり、稿本には多くの記事があつたらうと臆測せられるのに、古事記には僅かしか記されてゐないのも、疑問とすれば疑問になる。もつとも根本的にいふと、天武朝の史局でどれだけの稿本ができてゐたかが、もと/\わからないのであるから、かういふ臆測は單なる臆測にすぎない。從つて上記の問題は、實は何等の解決をも與へられないのである。
 しかし、以上の考察は古事記だけについてのことであるから、古事記には載つてゐない傳説や事實の記録が別にあつたのではなからうかといふ疑問も生じ得よう。そこで、書紀に移つて考へて見ることにする。
 
(47)       第二章 古事記の物語のある時代に對應すべき部分の書紀の記載
 
 年代記風の體裁になつてゐるのと漢文で記されてゐるのとのため、不用意に見ると、書紀の記載は古事記のそれとは甚しく趣を異にしてゐるやうであるが、熟讀すれば、書紀に於いても、此の時代については、其の主要部分が古事記と同樣、種々の物語の連續であることが知られる。勿論、物語の形をなさず、それとは全く趣を異にする記載もあるが、それについては後にいふこととして、先づこれらの物語を古事記のと對照して見ると、それと共通のものが多く、さうでなくとも、それと性質を同じくするものがあるが、古事記にあつて書紀にないものも少しは見える。戀愛物語では髪長姫、八田皇女、雌鳥皇女、輕皇子、の話は、古事記と共通であるが、古事記にある宮主矢河枝姫の物語は無く、雄略天皇に關したものもすべて出てゐない。(これで見ると、戀愛物語でも單純なものは書紀に記載せられてゐないことがわかる。應神紀六年の條に、古事記の近江行幸の記事が其のまゝ直譯してありながら、それに關聯して説いてある矢河枝姫の話を省いてあるではないか。神武紀にも、古事記にある七ゆく少女の話の無いことが參考せられる。雄略紀二年の條の采女の話が獨立して説かれず、遊獵の物語に結びつけられてゐるのも、また此の故であらうか。)また、古事記に於いても特殊の由來を有する出石童女の物語は、これには見えない。其の代り、仁コ朝の桑田玖賀媛の話、允恭朝の衣通姫の物語、は古事記に無いものであり、履仲朝の住江仲皇子の物語にある黒媛のことも、古事記には見えない。雄略紀元年の條に見える童女君に關することも、女の話としてこゝに附記してよからうが、そ(48)れも古事記には出てゐないものである。また、應神朝の兄媛の話、武烈朝の影媛の話は、古事記の仁コの卷の黒姫の物語、清寧の卷の菟田大魚の物語、の變形と見るべきものである。次に、饗宴の物語は古事記より少く、神功紀の太子を迎へられた時の話、應神紀の吉野の國栖の話、顯宗紀の新室宴の物語、ぐらゐが、それと同じやうに記されてゐるものであり、また髪長姫の話には、古事記の如く、饗宴が結びつけられてゐるが、雁の子を生んだ話や墨江中王の物語からは、それが除かれてゐる。それから、狩獵の物語は古事記とほゞ同じであるが、雄略紀には宍人部の起源説話に結びつけられてゐるものが一つ多くなつてゐ(二年の條)、また仁コ紀の大山守命の話に於いて其の面かげが薄れてゐる代りに、神功紀の忍熊王の物語の歌にそれが現はれてゐる。なほ、履仲紀五年の條と允恭紀十四年の條とに淡路島の獵のことが見えるが、何れも神の祟をいふのが主旨であるから、これはおのづから別の品類に入るべきものである。最後に、兄弟の勢力爭ひの話も、ほゞ古事記と同じであるが、清寧紀の始と雄略紀の終とに出てゐる星川皇子の話は古事記には無く、皇子の名すら古事記には見えてゐない。それから、上記の四つの品類に入らぬものとして上文に擧げて置いた古事記の物語は、何れも書紀に見えてゐる(日槍の話が垂仁紀に入つてゐることはいふまでもない)。
 そこで、先づ古事記と共通の、もしくはそれと性質を同じくする、物語について、古事記と對照して見るに、髪長姫の話に於いては、古事記では天皇の歌となつてゐる「水たまるよさみの池の」といふ一首を、書紀には大鷦鷯皇子の作としてあるが、これは歌の意義から考へて書紀の方に無理がある。八田皇女の話では、仁コ紀の卷首及び二十二年三十五年三十八年の諸條の記載は、全く古事記に無いことであるが、これは古事記の話に其の首尾を作り添へて物(49)語の始終を完備させたものと見なければなるまい。物語そのものに少し變つてゐるところがあり、歌にも増減があるが、さしたることではなく、的臣の祖口持臣(古事記では丸邇臣口子)の使となつたことまでがほゞ同じである。但し、こゝに注意すべきことがある。口特といふ名は口子から來たものに違ひないが、口子の名は天皇の歌を申し傳へるといふ話によつて作られたものであるにかゝはらず、書紀の此の物語には其の話が無いから、口持の名が無意義になつてゐる。これは書紀の物語が古事記に見えるのを本にして書かれたものながら、此の歌の話が省かれたために生じたことである。次に雌鳥皇女の話は、隼別皇子に對する天皇の態度に道コ的意味がつけてあり、また皇子を討つ將軍の名が變つてゐる上に、一人が二人になつてゐるが、近江山君稚守山といふ名のものを別に出したところに、古事記の山部大楯から轉化して來た跡が見える。皇女の玉を奪つた話も複雜になつてゐるが、これも玉を奪つたといふ古事記に見えるやうな話があつたため、それに本づいて、玉をとるなといふ命令を前に、玉を見たか、見なかつた、といふ問答を後に、作り添へたものと考へられる。それから、輕皇子兄妹の物語は、皇子を其のまゝにして皇女を流したこととし、皇子と穴穗皇子との爭ひを、兄妹相婚の問題から分離して、全く別の話としたのであるが、皇子について「淫于婦女、國人謗之、群臣不從、悉隷穴穗皇子、」と記してあるところに、もとの物語の名殘が見えるのみならず、「國人」以下の文字は古事記の文章を漢文に譯したものに違ひない。(書紀に古事記の文章が譯出せられてゐるのは、神武紀戊午の年、崇神紀十年、垂仁紀五年、二十三年、九十年、九十九年、景行紀二十七年などの諸條にも、其の例がある。なほ後文參照。)また、穴穗括箭、輕括箭、の名の出てゐるのも、これだけでは、いひかへると古事記のやうな話が無くては、解し難いことであり、太子の自殺も場所をかへたまでである。なほ、應神紀の兄媛の物語が古事(50)記の黒姫の話の改作であることは、姫が故郷の吉備に歸るに當つて天皇が「居高臺望兄媛之船」、さうして歌をよまれたこと、また淡路から吉備に行幸せられたことが、黒媛の話から來てゐるのみならず、「たがたされあらちし」といふ歌の詞が、黒媛について古事記に記してある如き「大后之嫉」が無くては、意義をなさぬものであることから、明かである。書紀では此の物語を吉備の上道臣下道臣などの家の起源に結びつけてあるが、古事記にはそれとは違つた二家の系譜が別に孝靈の卷に見えてゐることを思ふと、此の改作は二家の系譜から導かれたものかも知れぬ。また、武烈紀の影媛の歌垣の物語が、古事記の菟田大魚の話から轉化したものであることは、兩者を比較すれば直にわかる。書紀では、それに平群眞鳥臣の「專擅國政、*欲王日本、」といふ話を結びつけ、最後に此の臣が討たれることにしてあるので、媛の父が名門たる物部氏の麁鹿火となつてゐるのも、それに關聯してのことであらうと思はれるが、古事記に志毘臣を單に「平群臣之祖」と記してあるのを見ると(祖は始祖の義ではないにしても)、それには眞鳥といふものの存在の豫想せられてゐないことが知られるから、これもまた、古事記のがもとになつた、物語としての發展した姿であらう。なほ、影媛が鮪臣に心をよせたやうにしてあるのも、古事記の菟田大魚の話には見えないことであるが、これは、古事記にあつて書紀にも其のまゝ取つてある、女鳥女王の速總別王に對するのと同じであることを、注意すべきである。それから、仁コ紀の桑田玖賀媛の物語は、黒媛や八田皇女の話と同じく、皇后の嫉妬を動機としたものである。允恭紀の衣通姫のもまた嫉妬から起つた話であるが、衣通姫の名は古事記では輕大郎女の稱呼であるにかゝはらず、「艶色徹衣而晃之」といふ此の名に對する書紀の説明が、古事記のそれを其のまゝ採つたものであることを考へると、この話は美人であるために得たといふ、古事記の物語に見える、名によつて、別に案出せられたものに違(51)ひない。また、履中紀の住吉仲皇子の黒媛び對する物語は、髪長姫に於ける大鷦鷯皇子や雌鳥皇女に於ける隼別皇子の話と類似したものである(景行紀四年の條の大碓命の話も同じことであつて、これも古事記には見えてゐない)。最後に、雄略紀元年の條の童女君の話は、神代史のコノハナサクヤ姫についていはれてゐることと同じ主題のものである。さて、古事記に見えない物語でも、其の主題が古事記のと同じであるといふことは、古事記のが單なる説話である以上、これらもまた同樣であることを示すものといはねばならぬ。さうしてまた、同じ主題のものの作り添へられることは、説話の増加する場合に多く見られる例でもある。
 次に饗宴の物語に於いて注意すべきは、顯宗紀に見える新室あそびの話であつて、大體の筋は古事記のと同じであり、「居竈傍左右秉燭」といふ、古事記の文を直譯したらしい、語句さへあるにかゝはらず、弘計王の誥がすべて古事記にある咏と違つてゐる上に、別に、長々しい室壽の詞が唱へられたことにしてある。さうして、其の詞の終に餌香市の名の見えるのは、それが河内地方のものであることを示し、誥に「於市邊宮治天下」云々とあるのは、それが全く事實に背いてゐる點に於いて、後人の造作であることを證するものである。室壽の詞は呪術的意義のあるものであつて、家屋の新築せられた時にそれを唱へるのが一般の風習であつたらしく、さうして其の詞章は習慣上ほゞ一定せられてゐたでもあらうと思はれるが、地方により社會的階級によつて差異のあつたことは、いふまでもなからう。さすれば、これは物語の記者が、當時、河内地方の、多分、上流階級で唱へならはされた詞を、其のまゝ利用したものと見なければならぬ。なほ、此の詞の「出雲は新墾」以下は別の場合のかとも思はれるが、よしもとはさうであつたにしても、室壽の詞に結びつけて唱へられるやうになつてゐたものと見て支障が無い。饗宴にはふさはしいもの、如(52)何なる場合のそれにも適用し得られるものだからである。出雲は、山城愛宕郡にも此の名の土地があつたことから類推すると、やはり河内かどこかの地名であつたらう。國の名の出雲でないことはいふまでもあるまい。次に狩獵の物語については、多くいふべきことが無いが、雄略紀五年の條の葛城山の獵に猪を怖れて樹に逃げ上つたものを舍人とし、其の時の歌を刑に臨んでの舍人の作としてあるのは、歌の詞に「わが大君」云々とあるのとよく調和してゐるから、此の方が古事記のよりも自然らしく見え、從つて話の原形であるやうに解せられるかも知らぬが、既に述べた如く、此の歌の詞は他にも例がある(雄略紀でも四年の條の靖蛉野の歌にそれが見える)から、これは寧ろ古事記の如き話を變改したものとすべきである。後にいふやうに、此の場合の如く、天皇が人を刑せんとし歌をきいてそれを止められたといふ話は、雄略紀に?見えてゐることであつて、そこに此の話の改作者の意圖があつたらしいことも、考へ合はされる。さうして、それは古事記に見える三重采女の話と同じ主題である。また、兄弟爭ひの物語については、履仲紀の隼人刺領巾(古事記の曾婆加里)の話に於いて、古事記の文を其のまゝ取つたところがありながら、隼人をたばかるために大臣の位を與へたやうに見せかけたといふことの無いのが、古事記よりも單純であり、さうしてそれは、神功紀の忍熊王の話に、古事記の仲哀の卷にあるやうな、敵を紿くために喪船を作つたといふことが無いのと類似してゐるし、顯宗紀の雄略天皇に對して復讐を企てられた話が、やはり古事記の同じ天皇の卷に見えるよりも單純であるのも、之と同樣、人の注意をひく。これらについてもまた、書紀の方が物語の原形であるやうに思はれもするが、日本武尊の女装の如き話もあるから、前の二つについては、必しもさう決めるわけにはゆかず、從つて後の一つもまたそれに准じて考ふべきであつて、記紀の記載の何れがもとの話であるかは、上に述べて來たやうな、多く(53)の例から類推する外はなからう。それから、書紀のみにある星川皇子の物語は、此の皇子も其の母も、古事記の系譜に全く見えてゐないことを思ふと、例の多いかういふ話を新に作り添へ、從つて雄略紀の系譜をもそれによつて加筆したものであることが知られる。此の皇子の名の現はれてゐる雄略紀の遺詔といふものが、其の中に國司郡司といふ語があり、また其の主要な點が、後にいふやうに、隋書から取つて來たものであることも、此の點に於いて參考せられる。
 なほ、一言主神の神仙化せられてゐるのが、古事記の思想の一歩を進めたものであること(これは垂仁紀の田道間守に關する記載と古事記のそれとの關係と似てゐる)、仁コ天皇御兄弟の御位ゆづりの話に於いて、仁コ天皇の語にも稚郎子のにも、位に即くのは賢コあるもののことであるといふ思想があり、また稚郎子に兄弟長幼の序の重んずべきことをいはせてあるのが、儒教思想シナ思想であること(これは應神天皇が稚郎子を愛して位をそれに讓らうとせられたといふ應神紀にある話に矛盾する、應神紀のは古事記にも見えてゐることであつて、上代日本の風習であり、古事記には無いが崇神紀垂仁紀にある垂仁天皇景行天皇が弟でありながら位を繼がれたといふ話にもそれが見える、?坂忍熊の二皇子が兄だから弟には從はぬといつて應神天皇に反抗したといふ、書紀にのみある話は、やはりシナ思想と見なすべきであらう)、また稚郎子の自殺(從つて其の一時的蘇生)譚を作つてあるのが、やはり帝位を避けて自殺したといふシナの隱士の昔物語によつて、古事記の物語の着想を極端化したものであること、また枯野の物語が古事記のそれを仁コ朝から應神朝に移したものであること(仁コ紀六十二年の條に見える造船の記事は古事記の枯野の話の名殘であることが、大樹説話の面かげのそこに遺つてゐることから知られる)、などをも、こゝに附記して置か(54)う。其の他の物語については、一々細説する煩を避ける。
 次に、これらの物語に於いて古事記には見えない話、もしくはさういふ部分、に記してある歌の如何なるものであるかを考へて見る必要がある。八田皇女についての仁コ紀二十二年及び三十年の條の、衣通姫の話に於いての允恭紀八年及び十一年の條の、室壽詞に添へてある顯宗紀卷首の、また忍熊王に關する神功紀元年の條の、並に眉輪王の説にある雄略紀卷首の短歌は、短歌としての形の完成したものであり、武烈紀の影媛の作とせられてゐる長歌も、また長歌としての形がほゞ整頓し、特に結末において長句を重ねる方式が成立つた後の作である(雄略紀六年の條の泊瀬の山を讃美した長歌、また後にいはうと思ふ繼體紀七年の條の長歌も同樣である)が、かういふ例は古事記の歌に於いても少なくない。しかし、短歌については、舊辭の物語が無くなつてゐる時代、即ち武烈紀以後、の部分に記されてゐる歌が、極めて少數の例外を除けば、大抵、此の形のものであることを考ふべきであり(後文參照)、古事記に於いても、其の短歌については同じことが注意せらるべきである。さうして、歌の内容からいつても、仁コ紀二十二年の條の最後の歌は、此の話には縁の無い「ひかの小坂」の地名がよみこまれてゐることから見て、また允恭紀十一年の條のは、「是歌不可聆他人、……故、時人號濱藻、謂奈能利曾毛也、」と特記してあるのが、人に告げるなといふ話を作るために濱藻の語のある歌を採つたことを示すものらしい點から考へて、何れも、既に世にある歌をこゝに適用したものであることが推測せられるし、神功紀元年のは狩獵の歌らしく思はれる。また長歌については、影媛の作とせられてゐるものに三人稱としての影媛の名が用ゐてあるのは、それが物語の潤色者によつて作られたものであることを示すものである。其の他のものも、またこれらの例から類推し得られよう。たゞ、忍熊王の物語に見える「い(55)ざあぎ」云々の一首は、やゝ趣を異にしてゐるが、これは民謠風の形式によつて物語にはめこみ得るやうに作られたものであらう。また、同じところにある「をちかたの」云々の長歌は「たまきはる」以下を新作して「いざあはなわれは」までの世に知られてゐる歌謠に附加したものらしく、此の歌謠もまた狩獵に關するものであらう。應神紀二十二年の條の兄媛の物語にある歌も、また「よろしき島々」までは民謠であり、其の次の句から下を物語の作者が附加したものではあるまいか。(雄略紀の卷末にある吉備の尾代の歌つたといふものも、また民謠風の形のものであるが、此の歌のある物語が歴史的事件から出たものでないことは、附録の「百濟に關する日本書紀の記載」に考へてある。)これら一二の民謠らしい形式のものはあるが、それを除けば短歌及び形式のほゞ整つた長歌のみであり、從つて其の製作の時代は決して古くはないことが知られるのである。
 こゝまで述べて來たところを回顧してみると、古事記と共通の、もしくはそれと同性質の、物語は、古事記の、もしくは古事記に見えるやうな舊辭の、話を其のまゝ取り、或はそれを潤色したもの、もしくはそれを粉本として構想したものであることが推知せられる。上に記した二三の例、又は應神紀四十年の條の三皇子に其の任務を命ぜられた物語、履仲紀の卷首の少女との問答、雄略紀の卷首に見える眉輪王の話、綿の蚊屋野の獵の話などに於いて、古事記の文章の漢文に譯せられてゐる場合があることから考へると、書紀の編者が古事記をもとにして斯ういふ潤色を施したやうに見え、事實さうして作られたものもあつたであらうが、歌などに小異があり、特に雄略紀の蜻蛉野の歌や武烈紀の歌垣の歌に「一本」を引いて歌詞の變異を注記してありながら、本文のも「一本」のも共に古事記のとは同じでないやうな例のあることを思ふと、古事記のもとになつたものとは違ふ舊辭の異本の記載をとり、もしくはそれに(56)潤色を加へたものもあつたことが想像せられ、またそれから類推すると、古事記と文章の同じであるものも、成書としての古事記からではなく、そのもとになつた、もしくはそれと同じ本文を有する、舊辭から、それを採つた場合があるかも知れぬ。シナ思想の賦彩が濃厚であつたり、道コ觀念が加味せられたり、業々しい漢文が用ゐられたり、又は後にいふやうに年代記の體を具へさせるために潤色せられたりしたところは、書紀の編者の手になつたのであらうが、物語そのものや歌に小異のあるのは、異本の少なくなかつた舊辭に於いて既に存在した變異とも解せられるのである。さすれば、かの桑田玖賀媛や衣通姫の話の如き、古事記に無い物語も、舊辭の或る本から出てゐるかも知れず、さう見るに支障は無い(勿論、書紀の編者の潤色はあるので、例へば衣通姫の話に於いて、允恭紀十年の條に、シナ的道コ思想によつて書かれたところのある如きは、それである)。雄略紀の童女君の話に解し難き古語のあるのも、やはり、此の話が舊辭から出てゐることを示すものではなからうか。また、古事記に載つてゐる物語で書紀に見えないものがあるのも、或はそれの無かつた舊辭の異本、いひかへると比較的原形に近い舊辭、が書紀によつて繼承せられてゐる場合があるかとも思はれる。もしさうとすれば、古事記のよりも書紀のの方が單純な形を有する話のあるのも、また古事記のもとになつた舊辭が書紀にとられたそれよりも修飾の加はつたものを含んでゐたためであるかも知れぬ。(古事記のもとになつた舊辭が舊辭の原の形を傳へてゐるものでないといふことは、前章に述べて置いた。)後にいふやうに、書紀の編纂には長年月を要したのであるから、かういふ潤色の徑路も一樣ではなかつたらう。さうしてまた、同じ事情から考へると、其の編纂の過程のうちに於いて、一つの話に幾度も手が加へられた場合のあつたことも、想像し得られる。物語の人物の名が變つてゐることなども、或はかういふ事情から來てゐるのかも知れぬ。(57)それを説話の自然の發展と見るよりも、新しい形に於いて年代記を編纂する場合に、故意に行はれたことと解する方が妥當らしいからである。
 以上は古事記の物語と對應する説話についての考察であるが、同じ時代の書紀の記載に於いて、物語として見るべきものにも、古事記のそれとは無關係な話が少なくないから、それらが如何なる性質のものであるかを次の間題としなければならぬ。かういふ物語のうち、上に説いて來たやうな多くの説話をきゝなれた耳に先づ響くのは、女に關するものであつて、これは雄略紀に多く、二年の條の石河楯、九年の條の凡河内香賜、十三年の條の齒田根命の話がそれであり、何れも采女に通じたといふのである。この點から見れば一種の戀愛譚であり、特に最後の話には一首の戀歌さへ添へてあるが、これらの話のこゝに記された意味は、罪あるものとして罰せられたといふところにあるのであつて、戀愛譚としてではない。戀愛譚が戀愛譚として取扱はれてゐないことが、古事記の、從つてまたそれと對應する書紀の上記の、物語と性質を異にする所以であり、齒田根命の話を例外として見れば、それに戀歌らしいものの無いといふことも、やはり同じ理由から來てゐる。それから、十二年の條の闘鷄御田、十三年の條の猪名部眞根の話にも采女が現はれてゐるが、何れも戀愛譚ではなく、特に御田のは采女を奸した如く誤認せられたといふのである。さうして、此の二つの物語の主旨は、五年の條の舍人の話、從つて古事記の三重の采女のと同じく、一旦刑せられんとしたものが赦されたといふところにあり、たゞ第三者が歌を以て諷したといふ點がそれらと違つてゐるのみである。なほ、采女を奸した如く傳へられたといふことは、允恭紀の卷末に見える新羅人の話にもあるが、これらの物語の根柢には采女と通ずるものは罰せられるといふ思想があり、それによつて話ができてゐる。たゞ猪名部眞根のはそれと(58)違つてゐて、武烈紀八年の條の「使女?形」云々といふ記事と似通つた考がそこに潜在する。次には兄弟爭ひの話があるので、應神紀九年の條に見える武内宿禰甘美内宿禰の爭ひがそれである。兄弟爭ひの物語は記紀に例が多いが、それらは何れも皇族のこととしてあるのに、これは臣下の話となつてゐるところに、特異な點がある。其の次に注意をひくのは宗教的または呪術的意義のある物語であつて、神功紀元年の條に見える「あつなひ」の罪によつて晝が夜の如く暗くなつたといふ話、允恭紀二十四年の條の兄妹相通じたために異變があつたといふ話、履仲紀五年と允恭紀十四年との二條に見える神の託宣と祟りとの話、仁コ紀十一年の條の茨田の堤を築くために人を犠牲にして河の神を祭つた話、履仲紀五年、允恭紀十四年の兩條の神の祟の話、雄略紀七年の條の三諸岳の神が蛇であるといふ話、顯宗紀三年の條の日月二神の託宣の話、また雄略紀の卷首に見える井水についての詛の話などがそれである。なほ一つは奇聞異事とでも稱すべきものであつて、これは殆ど仁コ紀と雄略紀とに限られ、前者には、三十八年の條に兎餓野の鹿、五十五年に墓から蛇が出て人を食つたこと、五十八年に連理の木、六十年に人が白鹿に仕つたこと、六十五年に飛騨の宿儺、六十七年に百舌鳥が鹿の耳を咋ひ割いた話と?を斬つた話とがあるし、後者には、九年に馬が土馬に化つた話、十三年に人が白狗に化けてゐた話、また二十二年に浦島子の物語が見えてゐ、三年の條の皇女の屍の話もまた一種の怪異譚である。また、仁賢紀六年の條の「おもにもせ、あれにもせ、」といふ話も人倫についての異聞といふべきであらう。最後に、雄略紀十三年の條の播磨の文石小麻呂、十八年の條の伊勢の朝日郎の如き物語を擧げねばならぬが、かの飛騨の宿儺の話もまた同じ性質を帶びてゐる。其の他、允恭紀五年の條に見える玉田宿禰、雄略紀七年の條の吉備下道臣前津屋、十四年の條の小根使主の如き、皇室に對して禮を失し若しくは反抗の意があつたものの(59)話、又は允恭紀二年の條の闘鷄國造の如き、皇后に對して不敬の態度があつたといふ話もある。
 さて、これらの種々の説話を一々調べて見ると、其の中には後世に作られたことの明白なものがある。履仲紀の神の祟りの話は大化改新以後の思想が基礎になつてゐるので、それは「天子之百姓」といふやうな話のあることからも知られる(「上代の部の研究」參照)。また託宣の話にはイサナキの神の名が見えるから、これは神代史の作られた後の考であるのみならず、此の神を淡路に置いたのは、神代史の一たび形成せられた後になつて生じた種々の異説のうちの一つである。イサナキの命を宗教的に祭祀せられる神としてあることが、そも/\此の話の新しく作られたものであることを示してゐる。允恭紀の神の祟りのは單に島の神とのみあつてイサナキの神とは記してないが、同じく淡路であり同じく獵の場合のこととなつてゐるところから見ると、やはり同樣に解すべきものらしい。また、顯宗紀の日月二神の託宣に「我祖高皇産靈」とあるのは、それが神代史には現はれてゐない思想であり、神代史の血統關係をタカミムスビの神にまで及ぼしたものである點に於いて、記紀に見えるやうな神々の系統が形成せられたよりも更に後の思想であることが知られる。それから、浦島の物語に説話の主人公が丹波國餘社郡筒川の人となつてゐるのは、伊預部馬養が丹波の國司になつた時に構想せられたものらしいことが、丹後風土記の所説によつて推測せられるから、書紀の此の記載は、馬養のゐた時代、早くとも天武朝ころ、に書かれたものが材料となつてゐるのであらう。其の前には此の物語の場所が攝津の墨の江とせられてゐたので、萬葉の浦島の子を詠じた歌は、それを繼承してゐるものと思はれるからである。また「おもにもせ、あれにもせ、」の話は、工人を求めるために日鷹吉士を高麗に遣はした時のことになつてゐるが、我が國と高句麗との親和な關係は敏達朝以後でなければ生じなかつたはずであるから、これ(60)もまた後の造作であることは明かである(この話は異聞として世に知られてゐたものらしく、それを取入れるために日鷹吉士の記事を作つてそれに結びつけたのであらう)。
 次には、シナの説話の翻案がある。浦島の子の話が神仙思想の着色を帶びてゐて、よし其の一淵源としては、遠い昔から我々の民族の間にいひ傳へられてゐた、民間説話があつたと考へ得られるにせよ、シナの説話に由來するところの多いことは、いふまでもあるまいが、人が白鹿になつたり白狗に化してゐたりするのも、集解に引いてある異苑などに見えるやうな話から脱化して來たものに違ひない。述異記にも人の虎になつた話が見える。(白鹿の話は白鳥陵に關することとなつてゐて、白鳥の説話に誘はれた意味もあらうと思はれるから、日本武尊の物語の作られた後のものであることは、明かである。)?を斬つた話も、また集解に注記してある晉書周處傳や水經注の記載の如き話に淵源があるとしなければなるまい。馬が土馬に化つたのもまたシナ説話から來てゐるのであらう。之と同じ説話がシナにあつたかどうかは、余の未だ明かに知り得ざるところであるが、之に類似したものは、偶像の人に化つた話、墓地にからまる話の多いシナには、必ずあつたであらう。田邊史伯孫の女で書首加龍の妻に關する物語としてあるのも、此の話の由來のシナにあることを暗示してゐるやうであるが、此の記事が河内國からの報告とせられ、伯孫を飛鳥戸郡の人としてあることによつて、話の作られた時期の大化以後であることがわかる(但し、此の物語の文章に顔延年の赭白馬賦から取つたところの多いことは、必しも物語そのものの由來を示すものではない)。さすれば、人を以て河伯を祭るといふこともまたシナ傳來の話として見るに支障はあるまい。クシイナダ姫の話があり、橘姫の物語があるとすれば、人を犠牲とするといふことが我々の民族の間にもあつた如く傳へられてゐたとしても、よいやうである(61)から、これはなほ問題ではあるが、上記の如き類例から推して、かう考へる方が妥當であらう。屍を割いて見ると腹中に異物があつたといふのも、またシナの説話に由來がありはせぬかと思はれる。連理の木の忽然として生じたといふのが、シナ思想であることは勿論である。
 それから、民間説話の類が採られたものもあるので、兎餓野の鹿の物語は其の一例であり、それによつて佐伯部の鹿を獻じた話が作られ、またそれが安藝の渟田の佐伯部の起源説話とせられたのである。(佐伯部の起源説話は景行紀五十一年の條に見えるものもあるが、これとそれとは別の時期に別の作者によつて書かれたものらしく、景行紀のに安藝が含まれてゐるのでも、さう考へられる。)「俗曰」以下が其の説話であるが、攝津風土記の話はそれから發展して複雜な形となつたものである。飛騨の宿儺といふ畸形なものの話も、また世間の風説から出たのであらうが、「不隨皇命、掠略人民、」としてそれを征討させたのは、諸國の風土記に例の多い土蜘蛛の話と同樣の着想であり、播磨の文石麻呂伊勢の朝日郎の物語と共に、地方にかういふやうな亂賊の少なくなつたことの反映らしい。文石麻呂の話には幻術が結合せられてをり、また伊勢の亂賊の名を朝日郎としたのが倭から東方に當つてゐるからであつて、從つて物語の上の命名であることを、考へるがよい。物語が其のまゝ事實の記録ではないのである。かういふ亂賊がもしあつたとすれば、それは書紀の編纂せられた時代のこととして考へるに支障は無いが、漠然たる説話として其のころにいひ傳へられたものがあつたとしてもよい。しかし、何れにしても、これらの物語は事實もしくは説話のまゝではないに違ひない。さうして、これらの例から推考すると、かの吉備前津屋の話の如きも、或は地方の豪族に朝廷に對して反抗心を懷いてゐるものがあつたことの反映であるかも知れぬ。なほ、田道の墓から蛇が出て蝦夷を咋ひ殺したと(62)いふのは、蛇を靈物とする考と、イサナミの神のヨミの國の話に見えるやうに、蛇と死者とを聯想する考とから、作られた話であるが、三諸岳の神の話もまた蛇を神とする民間信仰の現はれに外ならぬ。「あつなひ」の罪や兄弟相婚についての異變の話が、さういふことを罪とする、さうして其の罪が宗教的呪術的意義を有する、思想の反映であることも、また勿論であらう。それから、井水に對する詛の話は、思想としては、かういふ詛が一般に信ぜられてゐたからのことであつて、そこにやはり上代人の呪術思想が現はれてゐるが、物語としては、三輪の磐井が民衆の飲料とせられてゐたので、其の起源を説明するために作られたものであらう。(武烈紀の卷首に鹽に對する詛の話があるが、これも角鹿の鹽が御料となつてゐたので、其の起源を説明する物語であらう。)なほ、説明説話の他の一例としては、百舌鳥が鹿の耳を咋ひ割いたといふ話を擧げることができるので、これは百舌鳥耳原の地名の説明である。履仲紀三年の條の稚櫻宮の、反正紀卷首の多遲比の、名の説明も同じ性質のものであつて、やはり書紀にのみ見えてゐるものである。またこれについては、部の起源説話、例へば仁コ紀四十三年の條の鷹甘部の、雄略紀二年の條の宍人部、六年の條の少子部の、話の如きもののあることを考ふべきであつて、これらもまた古事記には見えないものであるが、説話としての性質は、記紀の何れにも垂仁朝にかけて記されてゐる鳥取部鳥養部の起源説話と見なすべきものと同じであり、それと同樣に取扱はるべきものである。(古事記には部の起源説話が殆ど無く、其の設置を記してある場合にも簡單な記事となつてゐるので、垂仁の卷の鳥取部などの設置の記事も、鳥を捕へた物語とは別に書いてある。土師部の定められた記事はあるが、其の由來譚として書紀にあるやうな話は無い。此の時代の部分についてもまた同樣であるのを見ると、かういふ説話は舊辭には殆ど無かつたらしい。應神紀三十一年の條の枯野の物語は、上に説いた(63)如く、古事記にも見えるものであるが、それに結びつけてある猪名部の起源説話は古事記には無いのを見るがよい。これらが、書紀になつて現はれて來るのは、家々の系譜及び其の祖先の物語が後になるほど多く作られ、從つて古事記よりも書紀に多いのと、思想上の關係があらうと思はれるので、仁コ紀十二年の條に的宿禰の名の起源説話があるのも、此の點に於いて參考せられよう。)事物や名稱の起源の説明説話は前章に述べた如く古事記にも其の例が少なくないので、書紀のみのことではないから、こゝにこれをいふのは妥當でないやうでもあるが、書紀の物語が、古事記のそれと同じく、造作せられたものであることの例證として、それを擧げるのである。また、宗教的呪術的意義を有する説話の事實でないことは、説話そのものを見れば明白であるから、一々それをいふには及ぶまい。
 ところで、かう考へて來ると、かの采女に關する物語の性質もおのづから明かになる。宮女が多くゐれば彼等に關する種々の問題が起るのは免れがたき?態であるから、「悉劾奸采女者、皆罪之、」といふ舒明紀八年の條に見える記事のやうな思想もおのづから生じたのでゝ、これらの物語はさういふところから作られたものとすべきである(後にいふやうな舒明紀あたりの全體の性質から見て、此の記事が其のまゝに歴史的事實であるとは考へられぬが、それはおのづから別問題である)。其のうちの一つに齒田根命の話があるが、此の齒田根が實在の人物でないことは、命といふ不似合な尊稱がつけられてゐることからも明かであり、從つて此の話が單なる話であることも推知せられる。さうして、かういふ兩性間の關係が戀愛譚として語られず綱紀問題として取扱はれ、?といふやうな文字を以て記されてゐるところに、戀愛譚を語るのとは異なつた態度のあることが認められ、またそこにシナ的道コ思想の影響さへも看取せられるやうである。かの齒田根命の話に戀歌のあるのは、數多き戀愛譚に誘はれて其の戀愛の一面が偶然強調せ(64)られたものと見る外は無い。
 然らば、これらの説話は如何にして書紀に規はれるやうになつたであらうか。古事記の此の時代の物語は(日矛と出石童女とのは例外として)すべて皇族のことであるのに、これらの説話には臣下のことが多く、また古事記のは、兄弟爭ひのの外は、政治的意義が無いものであるのに、これらのは、何等かの點に於いて、それのあるもの、或は強ひてさういふ意義を附會したものが少なくない。采女に通じたものの刑罰譚はいふまでもなく、「あつなひの罪」や兄妹相婚によつて異變の現象が生じたやうに説いてあるのも、稀薄ながらにそれが認められる。輕太子の物語に「太子是爲儲君、不得罪、」として輕皇女のみを伊豫に流したことにしてあるのも、太子の地位に特殊の顧慮をした點に於いて、やはり政治的意義を與へたものであり、武烈紀の影媛の物語の如く、古事記の話を改作したものでも、其の改作に政治的意義のある平群眞鳥のことが加へられてゐることを、參考するがよい。勿論、?を殺したとか蓬莱にいつたとかいふやうな、何等の政治的意義の無い、ものもあるけれども、それにしても廣い天下の事件として記録せられてゐるやうになつてゐて、皇族の私生活の話ではない。こゝに書紀の古事記と異なる點があるといはねばならぬ。上に、單純な戀物語が書紀に取られてゐないことを説いて置いたが、其の理由はやはりこゝにあるかも知れぬ。さうして、古事記の物語の部分が舊辭(の或る本)を其のまゝ採つたものであるとすれば、古事記の特色は即ち舊辭の特色であつて、よしそれに幾つかの異本が生じてゐたにしても、此の特色は概ね失はれなかつたらうと考へられるから、古事記の物語と性質を異にする、かういふ説話は舊辭に存在したものではなく、從つてそれは書紀の編者の手に成つたものと推定すべきであらう。物語の内容の上から考へ得られる其の製作の時代についての上に述べた推測は、よく(65)之と一致する。采女に關する話には、齒田根命の他にも闘鷄御田と猪名部眞根とについて歌が記してあるが、それは既に述べた如く、猪を恐れた舍人の話に誘はれてそれを模倣したものであり、さうして舊辭が無くなつてゐる時代の書紀の記載にも歌のある例が多い。なほ其の歌を見ると、齒田根命の戀歌が短歌の形であり、猪名部眞根に關する歌も旋頭歌と短歌とであつて、共に後世の作として見るに支障が無い。たゞ闘鷄御田の話のは形式の整はない歌謠であるが、これは偶如何なる場合にか作られた斯ういふ歌謠のあつたのを、利用したものらしい。一方では、此の物語には縁のない伊勢の地名があると共に、他方では、工匠の名が見えないことから、かう推測せられる(采女を伊勢のものとしたのは、此の歌の詞から思ひついたのであらう)。だから、これらのこともまた、かういふ説話の作者が書紀の編者であつたことの妨にはならぬ。さうして、書紀が政治的意義のある物語を記載し、もしくは廣く天下の事件を録したやうに見せかけたのは、シナの史籍にならつて其の本紀めいたものを編述しようとする、所謂修史の、根本精神から出たこととしなければならぬ。が、其の記載せられたことが上記の如き性質の説話であるとすれば、それは修史の材料として歴史的事件の記録が無かつたことを示すものではなからうか。たゞ、斯ういふ説話の間にそれとは性質を異にしてゐる記事が所々にあつて、それが恰も歴史的事件の記録であるが如き外觀を呈してゐる。そこで、一度び眼を轉じて、さういふものを觀察する必要が生ずる。
 かゝる記載に於いて其の量の最も多いものは、いふまでもなく、韓地に關することであるが、其のうちで歴史的事件の傳へられたものと認められる記載は、百濟滅亡の後になつて我が朝廷の手に歸したらしい百濟の史籍から出てゐるのであり、そのやうに認められない記載は、我が修史家の手によつて製作せられたものとしなければならぬ、韓地(66)の經營に關して生起したはずの重大なる事件が、事實の記録としては、全く書紀に現はれてゐないことは、裏面からそれを證するものである、といふことは「百濟に關する日本書紀の記載」に述べて置いた。韓人及び漢人の歸化に關する記事がやはり事實でないといふことも、また同じところに説いておいたが、漢直の祖の阿知使主や秦造の祖の弓月君が多數の部民を率ゐて來たといふのは、古事記には見えない話であつて、それは古事記の記事の材料となつた此の二家の系譜が書かれたころには、まだ作られてゐなかつたのであらう。家々の系譜や祖先の物語は後になるほど漸次作り加へられてゆくのが、一般の例であるから、かう考へるに無理はあるまい。(應神紀の弓月君の條には秦氏の祖先であることが記してないから、古語拾遺や姓氏録にさう説いてあることは、書紀編述以後の造作ではないかと、一應は疑はれもするが、雄略紀十五年の秦氏に關する説話に於いても、此の家は雄略朝より前に歸化し、さうして部民の多かつたものとして取扱はれてゐること、翌十六年の條に漢氏に關する記事のあるのは、秦漢二氏を對立してゐるものとする考の下に書かれたものらしく、さうしてそれはおのづから應神紀の弓月君と阿知使主とに關する記事にやはり兩家の對立の意味が見え、また共に多數の部民を率ゐて來たやうに記されてゐることに照應するものであること、また古事記にも既に秦漢二氏の祖の來朝が並記せられてゐること、などを思ふと、さう疑ふべきものではなく、弓月君について秦氏の名の出てゐないのは偶然の遺脱と見るべきであらう。秦漢二氏の系譜は互に對抗の意味を以て作られたものらしく、一を秦とし他を漢とした氏の名のつけかたにも、既にそれがあるやうである。)シナとの交通に關する記載についても、また上記の論稿に於いてそれが歴史的事件を傳へたものでないことを述べたが、雄略紀十四年の條に呉から漢織を獻じたといふやうな自家矛盾の記事のあることを、こゝに附記して置かう(應神紀三十七年(67)の條にも同じことが見える)。これは織工について漢織呉織といふ對稱的の名稱を用ゐてゐたのを、呉から織工を獻じたといふ話に、不用意に結びつけたところから起つた混亂である。この條には古事記と同じ呉原の名の起源説話が記してあるが、それと共に古事記には無い呉坂の名の起源説話をも加へ、さうして古事記にはたゞ呉人としてあるのを呉國の使とし、その使を迎へたありさまをこと/”\しく敍してある。古事記の話をもとにして作られたものであることは、明かであらう。
 次には、伴造の部及び子代名代の部の設置に關する記事が所々にあるが、之については、古事記の場合にいつた如く、「上代の部の研究」に考へてある。たゞ、雄略紀二年の條の史部の、また十四年の條の衣縫部の、設置について、一言して置く必要がある。史部(史戸とあるが、戸は部の借字らしい)といふ名は記紀には見えず、其の伴造と認むべき家も史上に現はれてゐない。學令に東西史部とあるのは、東西の文字と其の規定の内容とから見て、東西の文部を指したものとしなければなるまいし、從つて續紀天平十二年十月の條にある東西史部もまた同樣であらうが、記紀に於いては阿知使主と王仁との來朝を東西文部の起源としてあるやうであるから、こゝの史部はそれをいつたものとは考へられぬ。此の記事の次にも史部身狹村主の名があるが、此の名の書きかたが既に異樣であるのみならず、八年十年十二年十四年等の諸條には單に身狹村主とあつて史部の二字が冠してないのに對照して見ても、甚だ奇怪である。史部が部の名であるならば、その部の名を省いて呼ぶことは無かつたはずである。さうして、史が阿直史、船史などの如くカバネとして用ゐられてゐたものであることを思ふと、部としての史部の存在は疑ふべきである。書紀の編者は、恐くは學令の文字などから思ひつき、また、昔の部の名が單なる氏の名となりカバネが單に尊卑を示す稱號とな(68)つた後に於いて、同じ氏の名を冒すものが多くなつたため、昔の部名であつた氏の名の下に住地の名をつけて呼ぶこともまた多くなつたので、其の例に從つて歸化人とせられてゐる身狹村主の名の上に史部の二字を冠し、さうして其の名の現はれる前に、史部の設定の記事を置いたのであらう(學令に史の字が用ゐてあるのは、文首文直を書首書直とも書くが如く、文字を異にしたまでのことであつて、文部の文の字と同じく、フミの語にあてられたものらしい)。また衣縫部の職掌はシナ風の衣服を調製するのであらうが、かういふことは、文化史上の大勢から見て、多分、推古朝ごろに始まつたものと思はれる。そのはじめを雄略朝にかけて記したのは、説話であつて事實でないからであり、應神紀に見えるものも、また同樣である(所々の衣縫部がみな女を祖先としてゐるのは、職業によつて附會したからであつて、猿女氏の祖がウズメの命となつてゐるのと同じである)。
 其の他、皇室内の事件、例へば皇后太子を立てられたとか、また某地へ行幸せられたとかいふやうなこともあつて、それが、外觀上、歴史的事件の記録のやうな形をなしてゐるが、立太子や立皇后といふやうなことが、上代に無かつたことは、いふまでもあるまいし、また、例へば應神紀六年の近江行幸が、上に述べたやうに、古事記に見える物語から、允恭紀九年の茅渟行幸が衣通姫の説話から、出たものであるが如く、さういふやうな記事も、決して歴史的事件を傳へたものではない。或はまた、始めて諸國に國史を置いて言事を記したといふ履仲紀四年の記載が、世間では歴史的事件らしく思はれてゐるやうでもあるが、これは國といふ地方行政區割が劃一的に定められた後、即ち大化改新以後、でなければ考へ得られないものであることが明かではないか。(言事といふ語は漢書藝文志の「左氏記言、右史記事、」に由來があらう。また履仲紀に此の記事をあてはめたのは、應神朝に文字が傳來したやうになつてゐるか(69)らのことであらう。)だから、かういふ記事は年代記の形を具へさせるために強ひて作られたものに過ぎないので、それは仁賢紀八年の條の如く、國中無事といふやうなことを以て或る年の記事を作り、又は反正紀六年や清寧紀五年などの如く、崩御の記事で一年を立ててあるやうなことからも、推測せられる。八田皇女に關する記事の如く、もとの物語の前後に話を附加したり、衣通姫や輕皇子兄妹のそれの如く、一つの物語を幾年かに分割記載し、また分割記載するために物語に潤色を加へてあるのも、同じ目的のためであるが、古事記の安康の卷に見える大日下王に關する話の玉縵を盗んだ根使主の罪が雄略紀の十四年に至つて發見せられたやうにしてあるのも、また同樣に見るべきものであらう。かう考へて來ると、古事記にもあるやうな、池溝の開鑿とか堤防の築造とか、氏姓を正したとかいふやうなこと、また古事記には見えない同じやうな記事、例へば仁コ紀十四年の條の橋梁の架設、道路の築造、土地の開墾などのことが、たしかな史料から出たものでないことは、おのづから知られよう。古事記とは違つて或る年月にかけて記されてゐるのは、たゞすべてに年代記的な形を與へようとしたからのことである。我が國にとつては最も重大な問題であり、また文字を用ゐることに關係もある韓地の經營やシナとの交通に關する事件について、書紀編纂の際に全く史料が無かつたとすれば、内地のことについてもまた同樣であつたとしなければならぬではないか。上に古事記について述べた如く、此の時代に於いて行はれたはずの熊襲の經略や、其の他、無くてはならなかつたやうに思はれる有力なる氏族の盛衰興亡などが、毫末も記されてゐないといふことは、書紀についてもまたいはるべきである。さすれば、此の時代のことについては、書紀の編者は帝紀と舊辭との外に、何の材料をも有たなかつたのである。さうして、何等の史料をも有たずして年代記を構造しようとしたのであるから、さま/”\の方法によつて記事を作る外は(70)なかつたのである。百濟の史籍によつて或る程度の材料が供給せられ、それを利用することができたのは、偶然の幸であつたといふべきである。舊辭から出てゐるものの外は、すべての説話が書紀の編述者の造作であるといふことは、此の點からも首肯せられねばならぬ。書紀の編述者は、舊辭のいろ/\な物語を採つて、それを潤色しつゝ年代記的に排置しようとしたけれども、それだけでは、シナ風の本紀めいた形を具へさせるには、あまりに貧弱であつたため、上記の如き種々の説話を作つて、それを年代記に編入したのである。
 しかし、かゝる説話は、どの天皇の紀にも同じやうに配置せられたのではない。其の最も多いのは仁コ紀、雄略紀、であつて、次には履仲紀、允恭紀、清寧紀、に少しづつあり、應神紀、反正紀、安康紀、には殆ど無いといつてよい。また其の内容から見ると、仁コ紀には奇事異聞ともいふべきものが多く、雄略紀のは多くの話が天皇の御性格と結びつけられてゐる。これは、一つは上に述べた如く古事記によつて知られるやうな舊辭の體裁にひかれてのことらしく、古事記と比べて見ると、それに物語の多い天皇の紀には、かういふ説話も多く附加せられ、それに少くもしくは無い場合には、これにもまた少いか無いかである。書紀の編述の際に存在した唯一の史籍らしいものは、帝紀と舊辭とのみであつたので、書紀もそれを基礎としたのであるから、新に説話を造作するに當つても、其の性質こそ舊辭のそれとは違へ、やはりそれに誘はれて、説話のある朝には更にそれを作り加へたのであらう。古事記の反正の卷には水齒の御名の説明説話のみがあるが、反正紀もその上に同じやうな多遲比の説明説話を重ねてゐるのみであるのを見ても、此の間の消息は覗はれよう。書紀が舊辭の物語をすら年代記的に排置しながら、時を隔てて漸次に加へられまた生まれられたはずの多くの后妃や皇子のことを一括して、其の天皇の或る年(概ね元年か二年か)にかけて記したのは、(71)古事記が卷首ごとに其の天皇の后妃と皇子とを記してゐるのと同じであつて、シナの史籍には例の無いことであるが、これは系譜が帝紀としてまとめてあつたため、それを其のまゝ寫し取つたからに違ひない。或は書紀よりも前にできてゐた古事記を學んだといふ意味もあるかと思はれるが、古事記がもと/\帝紀を寫しとつたものである。(雄略紀元年の條に三月皇后を立て是の月また三妃を立つとあるが如きは、強ひてそれに年代記的な形を與へたものである。後の繼體紀に元年三月癸酉にかけて「納八妃」としてあるのも、同じことである。)書紀の編者が知らず/\帝紀と舊辭とに拘束せられてゐたことは、これでも知られよう。仁コ雄略の二朝は治世が長くなつてゐるため、年代記の形を具へさせるには多くの説話を要することが、實際上、必要でもあつたらうが、これもまた、上に説いた如く、舊辭に於ける物語の多少は其の治世の長短を暗示してゐるやうに見えるのであるから、畢竟、同じ理由がはたらいてゐるのである。後章に述べるやうに、書紀の紀年が今見る如く定められるまでには、天武朝に設けられてから後の史局に於いて、幾度かさういふことが試みられ、種々の案が作成せられたであらうと想像せられるし、上記の説話もまた同じ史局に於いて、長年月の間に、漸次幾人かの手によつて作られたものと推測せられ、其の間にはかなりに複雜な過程がとられたであらうから、成書となつた書紀の記載のみによつて輕々に判斷し難い點もあるが、大觀して斯の如く考察せられる。舊辭との間に斯ういふ關係のあることは、説話の内容の上からも考へられる場合があるので、雄略紀に天皇が人を殺さうとして止められたといふ話の幾つも見えるのは、古事記に出てゐる舊辭の物語の一つの主題をくりかへしたに過ぎないといふことは、既に上にも述べて置いた。
 が、歴代の紀に説話の多いのと少いのとがあるのは、一つは筆者によつて編述の態度に差異のあつたところから來(72)てもゐるのではあるまいか。書紀の編述は幾人かによつて分擔せられたに違ひないから、其の間に或る程度の統制は存在し、もしくは全體を通じての校定が行はれたにしても、直接の筆者の個人的趣味なり意見なりが其の擔任した部分に現はれてゐることは、許容しなくてはなるまい。これもまた、同じ部分も幾人かの合作である場合があり、また書紀の編述事業が長年月を要したため、一つの記事にも時を異にして幾人かの筆が加へられてゐるところのあることを推測しなければならぬから、單純に觀察するわけにはゆかぬが、それにしても場所によつて調子の違つてゐるのは、こゝに一つの理由があつたとして大過はあるまい。例へば、シナ思想によつて着色せられ、シナの典籍の成語成文が適用せられてゐるのは、全篇を通じてのことではあるが、其の間にもおのづから濃淡厚薄もしくは多寡の差があるので、神功紀、應神紀、などにはそれが比較的稀薄であるのに、仁コ紀、雄略紀、顯宗紀、などには甚だ濃厚であるのは、やはり之がためではあるまいか。仁コ紀の元年四年七年及び十年の諸條の如きは、儒教式聖天子を描き出さんがために書かれたものであり、六十七年の條の終にもそれに應ずる文字があつて、これは古事記に見えるやうな、舊辭の後世に増補せられた部分の物語に於いて既に存在せる思想を、一層誇張したものに過ぎないのではあるけれども、かゝる誇張的な修飾をしたのは筆者の考からであらう。これらの諸條のうちの元年及び四年の記載には、六韜や魏志女帝紀の裴注や史記の大史公自序やに堯もしくは舜のこととして記してある文字をとつてあるので、それは仁コ天皇を堯舜と同じにしようとしたことを示すものである。雄略紀の終に隋の高祖の遺詔を隋書から借りて來てそれを天皇の遺詔にあてた如きは、全く雄略紀の編述者の考案であり、顯宗紀の首に莊子や梁書や後漢書や呉志から取つた文を補綴してあるのも、兄弟相讓の物語には必しも縁の無い無意味の修飾であるから、これもまた同樣に見なされる。か(73)ういふ文飾はどの天皇の紀にも施し得られるはずであるのに、それの有るのと無いのとがあるのは、或は偶然のことであり、或はまた他に理由のある場合があるにしても、筆者のちがふところからも來てゐるのであらう。顯宗紀に毎年、前後に例の無い、曲水宴の記事を作り、また二年の條に後漢書明帝紀から取つた一節を插入してあるなど、僅に三年に過ぎない此の朝の紀にかういふことのあるのは、やはり筆者の故であらうし、また雄略紀の卷首の綿の蚊屋野の獵の話や七年の條の田狹の妻の容姿を敍したところに見える美文的修辭の如きは、今人には滑稽な感を與へるものであるが(應神紀二十二年、允恭紀十四年、の條の淡路嶋を形容した文字は之と似てゐる)、好んでさういふ文字を弄したところに、筆者の特殊の趣味が見える。さうしてこれらは、同じく修飾を施すにしても歌を以てしたり地名説話を以てしたりするのとは、態度が違つてゐる。かう考へて來ると、仁コ紀や雄略紀のみにシナの説話から翻案せられた説話のあるのも、また同じ理由からであることが推測せられるのである。從つてまた、全體の上から見て説話の配置が平均してゐない理由の一つを、上記の如く考へることも、無意味ではなからう。(筆者による態度の差異は、他の部分に於いても見られることであり、またシナ式文飾の多少は史料の有無によつても生じてゐるが、これらのことは後にいはう。)なほ、此の時代に於いて治世の始終を通じて毎年記事のあるのは履仲、安康、雄略、清寧、顯宗、武烈、の諸紀であつて、其のうちの履仲、安康、清寧、顯宗、の諸朝は、治世が極めて短いために斯ういふことができたのかとも思はれるが、同じく治世の短い反正朝に於いて元年と六年とに記事があるのみであり、仁賢紀にも九、十、兩年が空白であることと、かなりに長い雄略朝には二十三年を通じて一年も闕けたところが無いこととを、對照して考へると、さうばかりも決めかねる。こゝにもまた或は擔任者の個人的意見がはたらいてゐるのではなからうか。(74)記事そのものは造作せられたものであつて、強ひて年毎にそれを配置する必要は無く、さうしてまた、例へば安康紀、清寧紀、などの如き形にて反正紀を作り、仁賢紀三年四年もしくは八年の如き記事を以て九年十年の空白を填めようとすれば填め得られたのであり、或はまたそれに反して、顯宗紀三年に、百濟の記録から取つた記事がある上に、故らに日月二神に關する説話を加へたやうな書きかたをすれば、清寧紀や仁賢紀には多くの空白の年を剰し得たはずであることを思ふと、此の點に關して編者に一定の方針の無かつたことが知られるが、それは或は筆者を異にしたためであるかも知れないのである。
 書紀の此の時代の部分に多く記されてゐる説話が上記の如きものであるとすれば、さういふ説話の上に現はれてゐる天皇の御性格が、歴史的事實としてのそれであるかどうかも、おのづから知られるであらう。古事記に於いては歴代天皇の御性格を覗ひ得るやうな記載は殆ど無く、書紀の各帝紀の卷首に慣例として載せてある御性行の概括的記述も、一二特殊の場合を除けば、徒に空疎な、抽象的な、或はシナの史籍から借りて來た、文字を形式的に羅列したのみであつて、固より問題とすべきものではない。たゞ、書紀によると雄略天皇にはやゝ特異の御性格があるやうに見える。それは、怒り易く、好んで人を殺し人を刑せられたやうな話が多く、之がために「國内居民、咸皆振怖、」と記され、また「大惡天皇也」とか「惡行之主也」とかいふ世人の批評が載せられ、安康紀の首にあるやうな、反正天皇の皇女たちが天皇を畏れて其の聘を却けたといふ、記事さへもあるからである。もつとも一方では、御心が和げば殺さうとしたものをも直に赦されるといふ話もあつて、かの采女に關することについての刑罰と赦免との物語が雄略紀にのみ集められてゐるのは、おのづから天皇の御性格の此の兩方面を示すもののやうでもあるが、全體としては「暴(75)強」(安康紀の語)の天皇であるといふ感じが強く、後になつて謚が雄略と定められたのも、此の故であらう。しかし、古事記では人を殺された話は、安康の卷に見える目弱王の變に關する場合に兄の皇子たちを殺されたこと、並に忍齒王を討たれたことがあるのみで、其の他には、志幾縣主の家を燒かうとせられ、また三重采女を殺さうとせられたといふことが、やゝ「暴強」に近く、或は怒り易く見えるのであるが、このうちで最後の話は歌にめでて采女を赦されたことになつてゐる。さうして、兄弟の爭ひや其の爭ひに於いて敵を殺されたといふことは、他の天皇にも例があると共に、此の天皇が兄の皇子たちを殺された時の話は、上に述べた如く、事實として有り得べからざることであり、また志幾縣主の話の背景をなす日下通ひの物語、三重采女のそれが、何れも物語に過ぎないとすれば、かういふ物語から、天皇の御性格を考へ得べきものではなからう。さすれば、これらの物語を粉本にして、或はそれを基礎にして、構造せられた書紀の説話によつて歴史的の天皇を知ることができないのは、勿論のことである。人を刑せんとせられた時に其の御心を和げたといふ話に於いて、道コ的意義の付與せられてゐるもの(獵場の舍人、闘鷄御田、猪名部眞根の話)があると共に、美しい采女の容色によるとした場合(二年の條、これは人を殺された後のこととはしてあるが)もあるといふことは、書紀の編者が或はシナ思想を附會し、或は天皇について古事記に多く見える物語のやうな女の話を結びつけたものであつて、それらが天皇の御性格に於いて何等の意味をもなさぬものであること、また別の點からではあるが「有コ天皇」の評語をも載せ、それと「大惡天皇」といふ批評との間に何等の調和をも示してゐないこと、なども參考せられる。たゞ古事記によつて傳へられてゐる如く、舊辭に於いても、天皇が強勇であられ、また怒り易い御氣質であつたやうに見える物語はあつたと考へられるが、さういふ物語がどうして作られたかといふこ(76)とは、問題になり得る。これは、舊辭が初めて編述せられた時には、天皇の御性格に關する何等かの傳説が遺つてゐて、それによつて構想せられたのではないかと、一應は臆測せられる。しかし天皇についての古事記の種々の物語、特に女に關するものには、天皇の特殊の御性格が現はれてゐず、また製作の時期からいつても、三重の采女の話などはずつと後になつて作り添へられたものらしいことを思ふと、強勇な物語のみにさういふ根據があつたとは推考しかねる。だから、もしそれに何等かの意味があつたとすれば、それは「タケ」といふ御名に本づいたことではなからうか。この「タケ」は必しも御性行をあらはすものではないが、物語を作るに當つて其の御名から示唆を得たのではなからうかといふのである。武勇な物語の主人公であるためにヤマトタケルといふやうな名をつけたのと、反對の徑路ではあるが、同じ考へかたであるから、かう推測するのも無理ではあるまい。次には、シナの史籍の筆法を學び天皇の御性行をいふについても概ね讃美の言をつらねてゐる書紀が、何の憚るところもなく、大惡天皇などの評語を載せてゐることにも問題があるが、これは書紀の全體の性質に關係することであるから、後になつてそれを考へることにしよう。
 以上述べて來たところによつて、古事記に物語のある時代の書紀には、古事記に見えない多くの記事があつても、それは決して古くから傳へられた史料から出たものではなく、書紀編纂の際に其の時代のこととして記されたものは、古事記、もしくは其のもとになつた帝紀舊辭、及び其の帝紀舊辭の異本、の外には何も無かつたことが知られたであらう(百濟の史籍は別として)。さうして、此のことは、武烈紀以後の書紀の記載を考察することによつて、一層よく確かめられるはずである。
 
(77)       第三章 武烈紀から敏達紀までの書紀の記載
 
 古事記に物語のあるのは仁賢天皇に關することまでであるから、所謂舊辭は其のころで終つてをり、武烈天皇以後については、系譜のみが記されてゐることから考へて、所謂帝紀のみ存在してゐたらしい、といふことは緒言に述べて置いた。さて、仁賢紀までの書紀の記載が前章に説いたやうなものであり、さうして其の大部分は、舊辭の物語を取り又はそれを潤色し、或はそれを粉本として構想せられたもの、即ち古事記の物語もしくはそれと同じ性質のものと、それとは性質が違ふけれどもやはり造作せられた種々の説話とであるとすれば、舊辭が無くなつてゐる武烈天皇以後の書紀の記載は如何なるものであらうか。しばらく順序を追うてそれを檢討してみよう。
 武烈紀には、既に述べた如く、古事記の清寧の卷に見える歌垣の物語を改作した話があるが、何故にそれを顯宗天皇からひき離して武烈天皇に結びつけたかといふことは、後の問題として、こゝでは且らくそれが、本來、武烈天皇に關する話ではなかつたといふことを注意するにとゞめる。ところが、それを除き去ると、殘るところの大部分は、天皇が暴虐の君主であつたといふことを示すいろ/\の事件を、年代記的に列擧したものである。そこで問題は、かういふ年代記的記載、即ちこれらの事件を某の年某の月にかけて記してあること、にどれだけの事實らしさがあるかといふことと、事件そのものが歴史的事實と見なされるかどうかといふこととであるが、第一の問題については、もし斯かる暴虐の君主があつて斯かることをしたのならば、それは?反覆せられた日常の行動であつたはずであり、(78)或る年或る月に於いてのみ或ることが行はれたとは思はれぬことを、考ふべきである。次に第二の問題については、一々の事件が、あまりに極端な、むしろ故らに考慮した上でなければ思ひもつかぬやうなことであり、さうしてそれは、我が國に於いては何時の世にも例の無いもの、當時の我が國の?態には該當しないものであること、卷首の御性行を記したところの一半が後漢書明帝紀の論に見える語句を其のまゝ取つたものであること、大伴金村の上表といふものに、文選に見える劉越石の勸進表中の句、もしくは左傳の介子推の言、を取つたところがあつて、其の全體の主意は天皇を英主としたものであり、少くとも暴君と見るやうな形迹の毫末も存しないものであること、また、影媛の物語を天皇に結びつけたのと、天皇を暴虐の君としたのとは、其の間に何等の調和點も連結點もなく、全く別の考から出たものであること、などに注意しなければならぬ。これらの諸項を互に參照して考へ、さうして全體の上からそれを觀ると、武烈天皇に暴虐の行があつたといふのは、事實に根據のあることではなく、シナ風の暴君虐主を文字の上で現出させたに過ぎないものであることが、推測せられはすまいか。暴虐の行爲の記載がみな、尚書の泰誓、韓非子、呂氏春秋、史記の殷本紀、列女傳、晉書の食貸志、などのシナの典籍に於いて、桀紂のこととして記されてゐる辭句を寫しとつたものであることが、それを證する。(仁コ天皇について曉舜に關するシナの書物の辭句をあてはめてあることと、對照するがよい。)年代記的に記されてゐる一々の事件が、あの如く思慮を費して考案せられたことのやうに見えるのは、即ちそれが机上の造作たることを示すものである。さうしてこれは、前章に述べたやうな仁賢紀までの年代記的記事、また次々に説くやうなこれから後の書紀の記載の性質によつて、おのづから證明せられるであらう。なほ、此の武烈紀は、次の繼體紀と共に、全體の上から見て漢文的文飾の最も豐富なものであつて、此の點(79)に於いては上に述べた仁コ紀、雄略紀、顯宗紀などと同樣であることを、注意すべきである。然らば、何故にかゝる暴君虐主を文字の上で現出させたかといふことが間題になるが、それは後に至つて考へる機會があらう。
 次に繼體紀を見ると、こゝにも七年の條に勾大兄皇子(安閑天皇)と春日皇女との歌の唱和の話があつて、それは、古事記によつて知られる如く、舊辭に例の多い單純な戀物語と同視すべきもののやうであるが、繼體紀の全體から見れば、孤立したものであり、不調和なものでもある。ところで、此の話の皇子の歌は、既に述べた如く、萬葉にも見えヤチホコの神の歌ともせられてゐるのと同じ意義のものであり、また妃の歌は、其の内容から見ると、決して皇子の歌に對する「和唱」の作ではないから、これは世に知られてゐる二つの歌を採つて、或はいくらかそれを潤色して、皇子と皇女とに附會したものであることが知られる。しかし、それが書紀の編者によつて作られた話であるか、又は書紀の材料となつた何かがあつて、それに存在したものであるかは、これだけではわかりかねる。だから、其の判斷は後にゆづることとして、更に繼體紀を通覽すると、其の年代記の殆ど全部が百濟の記録から取つた韓地に關する記事で充たされてゐて、それを除けば支流から入つて大統を繼がれたことの外には、二十一年及び二十二年の條に見える磐井のことと、時々の遷都のことと、春日皇女のために屯倉を置かれたといふこととが、目にとまるのみである。磐井のことは古事記にも見えてゐるから、書紀の完成よりも前から傳へられてゐた話には違ひないが、それにどこまで事實の基礎があるかは、やはりこれだけではわかりかねるので、其の判定は、これもまた、且らく後の考察にゆづらねばならぬ。之に關する書紀の記載は甚しく文飾が加へてあつて、尚書の文體を摸して書かれたところなどは滑稽にさへ感ぜられるほどであるのみならず、韓地の國々の年貢職船を誘致したとあるところに高麗の名が見えるのは、(80)此の時代に於いて我が國と高句麗とは相互に敵國であつた事實に背いてゐるし、新羅は勿論、百濟任那についても、年貢職船といふやうな文字を用ゐてあるのは、朝貢といふ觀念を以て對韓關係を説明しようとする思想から出たことに違ひなく、高麗の名を加へてあることと共に、神功紀などの記載と相應ずるものであつて、前からあつた傳へではない。それから、遷都といふのも、もと地方に居住せられたといふ特別の事情はあるけれども、此のころの習慣としては他に例の無いことであるから、これも事實かどうか問題であり、また春日の皇女の屯倉に關する記事(並に次の安閑紀の同じ性質の記載)が歴史的事實でないことについては、「上代の部の研究」に考へてある。なほ、韓地經略に關與した毛野臣と目頬子といふものとについて二首の歌が載せてあるが、前の短歌は、歌の意義からいつても、かかる場合のものらしくはなく、「けなのわくこ」が毛野臣をさしたものとも考へられない。また後の旋頭歌は女の韓地に來たことをめづらしがつたといふやうな話でもあつて、それによつて作られたものであり、目頬子の名もそれから出たものではあるまいか。女と見るに直接の證據は無いが、歌の意を思ふに、思ひがけぬものが來たといふ感じと、其の來たものに一味の愛憐を覺える心もちとが、現はれてゐるやうであるから、かう推測するのである。さすれば、これは、こゝには關係のない歌を毛野臣に結びつけて記したまでのものである。なほこのことについては、後にいふ大葉子の話と其の歌とについての考と參照すべきである。
 其の次は安閑紀、宣化紀、であるが、此の二朝は何れも治世が極めて短くなつてゐるので、其の記載もまた從つて僅少である。安閑紀には、后妃のために(元年の條)、またそれとは別に、所々に屯倉の置かれたこと(二年の條)が殆ど其の全部を占め、宣化紀には、諸所の屯倉の穀を筑紫に運ばせたこと(元年の條)が見えてゐる。后妃のために(81)屯倉を置かれたといふことは、上に述べた繼體紀の屯倉に關する記載と同じく、事實でないが、所々に置かれたといふその土地が、婀娜國の一つを除く外は、すべて大化以後の行政區割としての國の名によつて示されてゐることからも、そのことは知られる。(婀娜國の名は、昔から知られてゐたものであるため、偶然こゝに記入せられたのであらうが、其の地が備後に屬してゐることから考へると、これは其の前に備後國の屯倉を列擧して來たつゞきであつて、「國」の字は後からの?入ではなからうかとも推測せられる。)なほ、三島の縣に屯倉の置かれたこと、また武藏國造の地位の爭ひを朝廷が裁斷したので勝つたものが屯倉を獻上したといふ記事が、元年の條にあるが、前者が事實でないことは、これもまた「上代の部の研究」に於いて述べたとほりであり、後者についても、氏族制度時代に於いてかういふ紛爭を朝廷で裁斷せられたとは信じ難いから、これらもまた河内や武藏の屯倉の起源を説くために構想せられたものであらう。或は、國造の地位の爭ひを朝廷で裁斷したといふやうな事實が、書紀編述の時代にあつて、それがかういふ記事の材料となつたのではあるまいか。かう考へると、后妃のために屯倉を置かれたといふ記事の此の條にあるのも、また屯倉の起源説話であることがおのづから推測せられよう。(武藏國造を笠原直使主としてあるが、この書きかたでは笠原は氏の名のやうに見える。もしさうならば、武鞍の國造がかういふ氏をもつてゐるといふことが、既に氏族制度時代の習慣に背いてゐるので、この記載が事實を傳へたものでないことは、この點からも知られる。伊甚の國造を稚子直としてあるが、この稚子は名として解することができるから、この例ではない。しかし、伊甚の國造が屯倉を皇后に獻じたといふ記載は、ほかの例から考へても、事實を傳へたものではなく、伊甚の屯倉の起源説話として解すべきものである。)それから、宣化紀の屯倉に關する記事は詔勅の形になつてゐるが、それには郡とか(82)郡縣とかいふ語が用ゐてあることと、此の時代の詔勅は、後にいふやうに、すべて實際の詔勅らしくないこととから考へると、これは安閑紀の屯倉のことを記したのを承けて作つた記事であらう。
 欽明紀に入つて見ると、こゝには繼體紀と同樣、百濟の史籍から取つた韓地に關する記事が甚だ多い。しかし、二十三年の條の新羅が任那の官家(當時安羅にあつた我が官府、即ち後人の所謂任那日本府)を打滅ぼしたといふ記事は、韓史の所説と符合してゐて、正確なる事實と見なすべきものであるが、そこに「官家」と書いてあつて、百濟の史籍の慣用文字である「彌移居」とはしてないこと、原注に引いてある「一本」の記載が我が國で書かれたもののやうに見えること、並に此のことに關聯してゐる詔勅が、他の多くの例と同じく、書紀の編者の作であるらしいこと、などから考へると、これは百濟の史籍から出たものではないに違ひない。さすれば、それは何等かの史料が我が國にあつて、それによつたものであることが推測せられるが、たゞ其の史料が年代記の形を具へた當時の記録であつたかどうかは、なほ問題であり、從つて此の事件を二十三年に繋けてあることが其の史料によつたものであるかどうかについても、考究を要する。上記の「一本」の記載も後から書いたもののやうであるし、またそれには事件を二十一年のこととしてある。が、それはそれとして、上記の推測だけは動くまい。紀男麻呂などの出征の記事についてもまた同樣に考へられるので、よしそれが種々の説話的修飾の加へられたものであるにもせよ、其の基礎として何ほどかの事實の記録があつたとすべきやうである。また、三十一年の條に見える高麗の使人の越に來着したことも、やはり修飾は施してあらうが、事實と認められる。韓地に於ける國際的地位の變化から、高句麗をして從來の態度を改め我が國に親しましめるやうになつた事情が、恰も此のころに起つてゐたからである。もしさうとすれば、敏達紀のはじめ(83)に見える高麗の使人のことも、それに引つゞいた事件として、やはり同樣に見なければならぬ。勿論そこには、後にいふやうな、事實らしからざる説話も作り添へてあるし、また此の事件が果して欽明天皇の末年から敏達天皇の初年へかけてのことであつたかどうかも、不確實であるので、蘇那曷叱知や田道間守や阿知使主の呉から歸つた時やの物語が、何れも前後兩朝に跨つたこととなつてゐるのを見ると、初めて知られた外國に對する使人などの往來に關する説話に一つの型があるやうに見えることをも、考へねばならぬ。これは外國が遠方であるといふ考から出たことであるので、その意味からいふと、田道間守や阿知使主の如く我が國から外國に派遣せられた使節の話に適用せられたのが初であり、蘇那曷叱知や今の場合の高麗使の如く外國の使節の來朝譚にあてはめられたのは、後のことであらう。從つて此の記事もまた年代記的記録があつてそれによつたものとは、認め難い。けれども、ほゞ、此のころに高麗使の來朝したことは疑があるまい。四年六年などの條にある韓地との交渉に關する記事も、また根據のあることであらうか。これらの推測に誤が無いとすれば、韓地に關する書紀の記載に於いては、我が國の史料から出た確實なものが、欽明紀の末に至つて、はじめて現はれるのであつて、これは書紀の記事の性質を考へるについて注目すべきことである。
 けれども、欽明紀二十三年以後の韓地に關する記事とても、それがみな事實の記録に根據のあるものであるとはいひ難い。任那官家の滅亡に關する詔勅といふものが、既に純然たる虚構である。同じ年の七月及び十一月に繋けてある新羅の朝貢、二十六年の條の高麗人の歸化、などもまた同樣であつて、前者については、新羅の使節の歸國しなかつたといふ理由が理由になつてゐず、さうしてそれは十五年の條の終に見える新羅の一將の意見といふもの、又は雄(84)略紀二十年の條の高麗王の言といふものと、類似した思想であること、また後者については、當時まだ高麗人の歸化すべきやうな?勢になつてゐないことを、考ふべきである。さすれば、これはそれ/\の條に記してあるやうな土地にゐる新羅人もしくは高麗人の起源説話として作られたものであることが推測せられるが、かういふこともまた神功紀五年、雄略紀七年十一年十四年、または仁賢紀六年、などの條に其の例があるので、それらもまた事實ではなく、家々の祖先や部の起源を説いた話と同じ性質のものである。それから、新羅征討軍の插話として記されてゐる河邊瓊缶や調伊企儺の話も、單なる話らしいが、大葉子の歌といふのも大葉子みづからの作でないことは、歌そのものによつて明かである。大葉子といふものについての、多分、此の戰とは無關係な何等かの傳説があつて、こゝに記してある二首の歌は、それによつて作られたものであらう。さうして、歌によつて想像すれば、それは、別れて日本に歸つた男に對する思慕の物語であつたらしい。かういふことは敏達紀でも同樣である。高麗の表疏を三日かゝつて史どもが讀めなかつたとか、それが烏羽に書いてあつたとかいふ、元年の條の記載が事實でないことは勿論であつて、これらは、多分、漢文に通ずることが困難とせられてゐた思想の反映であらう。また十二年の條に見える日羅に關する記載は、「足食足兵、以悦使民、」三年にして百濟の罪を問ふべしといふ彼の意見が儒教思想であり、「火葦北國造刑部靱部阿利斯登」といふ日羅の父の稱呼が氏族制度時代のこととして不適當であり、「百濟人謀言、有船三百、欲請筑紫、」が事實らしくなく、また日羅に身光があつたり、殺されてから蘇生したりした奇異な話さへあるのを見ると、其のまゝには信用し難きものである。韓婦の韓語の話が附加へてあるなど、全體に説話的色彩が濃厚であることをも、考へねばならぬ。百濟の史籍から取つた記事は無くなつてゐるが、其の代りに現はれてゐるものが必しも事實の記録(85)から出たものであるとは限らぬ。
 かう考へると、欽明紀の二十三年よりも前の記載に於いて百濟の史籍に根據の無いものの眞僞如何も、またおのづから推測せられるので、十六年の條に見える神祇の崇敬に關することも、其の一つである。神功皇后の新羅征討物語に於いて最も力強く語られてゐる如く、國家の重大事業、特に海外經略の如き事業、は神の加護によらなければ成功しない、といふ宗教的信仰が、此の記事となつて現はれてゐるのであつて、欽明朝の事實が傳へられてゐるのではない。雄略朝に「建邦之神」を百濟に祀らせたこと、その神は「天地剖判之代、草木言語之時、自天降來、造立國家之神、」であることが蘇我臣の語として記してあるが、百濟が我が國の神を祀つたといふことが事實として信じがたいのみならず、我が國みづからに於いても、かういふ神を祀つた形迹が無いから、それを百濟にさせたといふことが、すでに事實らしからぬ話である。その神が天から降つて來て國家を造つた神であるといふに至つては、欽明朝ころには一應まとめられたと思はれる神代の物語にも見えず、その物語の精神とはむしろ一致しないことである。その國家の造立を天地剖判の代のこととするに至つては、なほさらである。だからこれは、滅びんばかりになつた百濟を建てなほしたのは我が國の神の力であつた、といふことをいふために、その神を「建邦之神」であるとし、建邦が上代のことであるために、それを天地剖判の時のこととしたのであつて、書紀の編者の作つた話であらう。神祇伯といふ官名の用ゐてあることも、またそれを證するものであらう。二十一年及び二十二年の條の新羅の朝貢もまた疑はしく、前者の使節の言が事實らしく見えず、後者は使節の忿恨したといふことが、允恭紀四十二年の記事の如く、他にも其の例があり、さうしてそれは、新羅が我が國の敵國であつたといふ知識によつて作られてゐるらしいからである。特に(86)使節の席次に關する話は、當時の我が國に於いて列國の使節を會同させるやうな儀禮があつたとも思はれないことから見て、後年唐に於いて我が使節の經驗し若しくは見聞したことから、案出せられたものではあるまいかと、臆測せられる。元年八月に「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職」とあるやうな、前に繼體紀の磐井の記事について述べたと同じ思想から作られたものに至つては、いふまでもない。この書きかたも、いはゆる四夷の來朝を記すシナの史籍の筆法をそのまゝまねたものである。さうして、これらは、欽明朝及び敏達朝に於ける韓地に關することについての年代記的記録が具はつてゐなかつたこと、少くともそれが書紀編纂の時代に傳はつてゐなかつたことを、語るものである。さすれば、任那官家の覆滅を二十三年としてあるのも、當時の記録から出てゐるのではなく、かういふ事件が欽明朝に起つたといふ漠然たる知識が何等かの史料によつて知られたのに基づき、書紀の編者が百濟の史籍か新羅人からの傳聞かによつて、それを此の年にあてたのであらう。また、注記の「一本」は書紀の稿本であつて、それが書かれた時には二十一年と考定せられてゐたのを、後になつて改訂せられたことと思はれる。同じ年に記してある大伴狹手彦の高麗攻撃の話が百濟の記録から出たものであつて、而も年次を誤つてゐることを、參考すべきである(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)。
 欽明紀に於いて次に注意せられるのは、佛教に關することであつて、十三年には佛教傳來に關する周知の記事がある。此の記事に見える百濟王の上表及びそれについての天皇の勅語が、唐の義淨が長安年間(我が文武天皇大寶年間)に譯出した金光明最勝王經壽量品及び四天王護國品中の文字を取つてそれらを變改補綴したものであるといふことは、書紀通釋が其の一端を示し、近ごろになつて更に確められた疑の無い事實であつて(史學雜誌第三十六編第八(87)號所載、藤井顯孝氏の考證、參照)、それはシナの典籍の成文を其のまゝ適用して作られた多くの詔勅と同じく、書紀の編者の手に成つたものであることが明かである。(扶桑略記の此の年の條に「一云」として記してある百濟王の上表の文字は、これとは少し違つてゐるが、「臣聞」とか「天皇陛下」とかいふ文字のあるのを見ても、それが後人の擬作したものであることは明かである。)しかし、此の年に百濟王が佛像などを獻じたといふことが事實であるかどうか、またそれが佛教傳來の始であるかどうかは、それとは別に問題とすべきである。孝コ紀大化元年の條に記されてゐる僧尼に對する詔勅にも、此の年に百濟王が佛法を我が國に傳へ奉つたといふことが見えてゐるから、其のころにはさう考へられてゐたやうであるが、後にいふ如く、孝コ紀の詔勅には書紀の編者によつて潤色せられた形迹のあるものがあるから、これもまた輕々に信用しかねる。さうして一方には、同じく欽明朝に百濟王から度し奉つたとしながら、それを戊午の年へ書紀の紀年によると宣化天皇三年に當る)のこととしてある、法王帝説及び元興寺縁起に見える、説があり、また司馬達等によつて繼體朝に既に傳來してゐたとする、扶桑略記が間接に引いてゐる延暦寺僧禅岑の記によつて傳へられてゐる、説もあることを考へねばならぬ。(推古紀三十二年の條に見える百濟僧觀勒の上表といふものに「我王……貢上佛像及内典、未滿百歳、」とある如きは、問題とするほどのことではなからう。シナ百濟に於ける傳來の經過をいふについても、頗る杜撰な點があるのみならず、精密に年數を記す主旨で書かれたものではないからである。なほ、此の上表には「日本天皇」の語があるのを見ると、少くとも、それは書紀の編者の修飾を經たものであることが知られるから、上記の句も果して觀勒の書いたものかどうか、疑はしくないでもない。)
 が、この間題を解決することは頗る困難である。百濟に佛教の入つたのが何時であるかすらも、明瞭ではないから(88)である。たゞ、文化史上交通史上の大勢から觀察すれば、それは五世紀よりも後れてはゐなかつたらうと思はれるが、もしさうならば、あれほどに百濟との關係が密接であり交通が頻繁であつた我が國へ、六世紀の中期である欽明朝に至つて始めて傳へられたといふのは解し難いやうであるから、事實は、もつと前から佛を祀ることが邦人の間にも知られてゐ、佛像などもいくらかは渡來してゐたのではあるまいか。其の時期も渡來の事情も明かには知られないが、上に反覆説いて來た如く、其のころの事蹟はどの方面に關しても殆どすべてが傳へられてゐないから、佛教についてもまた同樣であるのはぜひもない。狹く考へても、百濟を經由して入つて來たあらゆるシナの文化について、みな其の傳來の眞の時期と?態とが忘れられてゐたのであるから、佛教とても其の例にもれないのである。從つて、それを欽明朝のこととしたのは、恰もシナの典籍の傳來を應神朝の、種々の工藝技術のそれを雄略朝などの、こととしたのと同じではあるまいか。應神朝に百濟から始めて文字の術が傳へられたといふのは、有り得べきことでもあり、事實さうであつたらうとも思はれるが、其の事實は忘れられてしまつたので、儒教の典籍や學者が此の朝に來たといふ記紀の物語は、後世に構想せられたものである。書物の傳來や幾らかの知識あるものの來朝は、應神朝に限らず、其の後も斷えずあつたに違ひないが、所謂東西文部の家が其の祖先の來朝を應神朝のこととして説いたため、それに決まつてしまつたのである。雄略朝に工藝技術の傳へられたといふのも、また南朝との交通關係から見て、有り得べきことと想像せられるが、これについても、書紀の物語は事實でなく、さうして、事實としてはそれより前にも後にも不斷にさういふ工藝技術が傳へられたに違ひない。聖明王の名が特に記されてゐるところから見れば、此の王が何等かの機會に佛像などを獻つたことはあつたでもあらうが、それを佛教の初傳とし、またそれが特殊の事件であつたとす(89)るのは、事實ではあるまい。十三年といふ年紀に至つては一層信じ難い。それは戊午の年とする異説があるからばかりではなく、此の時代の書紀の紀年の全體の性質からも、さう思はれるのである(後章參照)。
 なほこれについては、欽明紀十五年二月の條に百濟から番上する學者などの交代した記事があつて、そこに「僧曇惠等九人代僧道深等七人」とあることを、參考しなければならぬ。これは百濟の史籍から出たものらしく、從つて事實の記録と考へられるが、これによると、此の年よりも前に僧徒が百濟から派遣せられて來朝してゐたはずである。それが書紀に見えないのは、多分、我が國にもち來たされた百濟の史籍に關漏があつたためであらう。ところで、かういふ事實があつたとすれば、いくらかの佛像や經典も、それと共に、將來せられたに違ひない。さすれば、聖明王獻上の説話は、或はかういふ事實が、漠然、後に傳へられ、それによつて結構せられたのかも知れぬが、それは其のまゝ事實を語つてゐるものではない。聖明王獻上の話が我が國で成立したものであり、百濟の史籍とは關係のないものであることは、此の話が上記の十五年の記事と何等の連絡が無く、さうして、そこに百濟の史籍に由來のあるらしい何等の證迹の無いのを見ても、明かであるが、一般的に考へると、此のころの百濟に關する記載に於いて歴史的事實を傳へてゐると見なさるべきものは、百濟の史籍から取つた部分のみであるから、此の點から見ても、此の説話は事實とは認められないのである。また、此の十五年の記事に見えることと、それによつて推測せらるべきそれより前の事實とは、佛教渡來もしくは其の流行の初期の?態に關する我が國の何れの説話にも、全く現はれてゐないものであるが、これもまた説話と歴史的事實の記載とを嚴に區別して取扱はねばならぬことを示すものであり、それと共に、十五年の記事が我が國で作られたものでないことを、證するものでもある。なほ敏達紀十四年の條に見える物語では、(90)この年はじめて佛教の信仰が馬子ひとりに對して許されたことになつてゐるから、この十五年の記事はそれと調和しないものである。こゝでもまた書紀の物語と歴史的事實の記載とを區別して見るべきことが、示されてゐる。たゞ此のころに僧徒がこれだけ來朝してゐたことが事實であるとすれば、佛教はその時すでにいくらかの信者を得てゐたか、または遲くともそれから後まもない時から次第に信仰せられるやうになつたか、いづれかであつたらうと思はれるのに、さういふ形迹が見えないのは、やゝ解し難いやうであるが、本來、官府から派遣せられたものであつて、彼等みづから宣教の熱情を懷いて來朝したものではなく、またかういふ僧徒の番上が永續したかどうかも明かでないから、そこまで深く考へなくてもよいのであらう。(新しい宗教の世にひろまるには、それが初めて唱へられ、又は傳へられてから或る時間を經ることが必要である。機が熱するといふのは、かういふことを説明する古いことばである。)或はまた、百濟の史籍から出た書紀の記事で年の配當を過つてゐる例があり、上に述べた大伴狹手彦の高麗攻撃の如きは十餘年の差異があるのであるから、これもまた百濟の史籍に於いては後年のこととなつてゐたのを、書紀の編者が誤つて此の年に記入したのではなからうかと、疑はれもするが、記事そのものに於いては、さう見るべき證迹が十分でない。此の番上の記事は崇峻紀以後の百濟僧來朝の記事とは性質が違ふから、よし年のあてかたに誤があるにしても、敏達朝までのこととしなくてはならぬ。のみならず、書紀にとられた百濟の史籍は欽明朝の中ごろまでのであるから、この記事が百濟の史籍によつたものであるとすれば、それは遲くとも書紀に記されてゐる年のころのこととして原の史籍にも見えてゐたであらう。以上は欽明朝初傳來説についての考察であるが、繼體朝渡來説とてもまた同樣である。敏達紀などに見える司馬達等に關する記事から見ると、彼が佛像を齎し來つたことは或は事實でもあらう(91)が、それを繼體の朝とすることにどれだけの根據があるかは、知り難く、從つて、これにもさしたる信用は置けないのである。
 さて、シナの學藝技術については、歸化人の家の系譜と結合して其の渡來譚が作られてゐるが、佛教については、佛家の所傳もしくは寺院の縁起がさういふ系譜と同じ役めを有つてゐるので、法王帝説や元興寺縁起の説も扶桑略記に見えるものも、それらの書の性質から考へると、何れも佛家の所傳であらう。書紀の記載も其の出所はやはり法王帝説などのと同じであつたにちがひないが、たゞそれに書紀一流の文飾を加へたものであり、さうして、それが十三年となつてゐるのは、後にいふやうに、書紀の紀年の定められた時に、その年に配當せられたのであらう。これより前の六年の條に見える百濟が丈六の佛像を作つたといふのが、十三年の此の記事に照應するやうに構造せられたものらしいこと、翌十四年の茅渟海から樟木の現はれた話もまた同樣である上に、それは吉野寺の縁起から出たものと推測せられることを考へると、欽明紀の佛教に關する記載が年月についても事件についても必しも確實とはいひ難いこと、またそれが朝廷の記録などに由來するものではないことが、おのづから知られよう。(六年の記事にある佛像についての願文は、其の内容からいつても、此のころにはまだ無かつた「天皇」といふ尊號が記されてゐることから見ても、百濟で當時作られるはずの無いものであり、さうしてそれが書紀の編者の造作であるとすれば、造佛のことのみが事實であるとは考へられず、また、我が國に關係の無い斯ういふことが書紀に記される理由も無い。此の願文に彌移居といふ文字はあるが、これは百濟の史籍に累見する文字を取り用ゐたのみのことである。なほ、吉野放光像の話が事實でないことは、説話そのものから明かに知られるのであるが、「河内國言」といふ大化以後でなければいは(92)れないはずのいひかたがしてあるのも、また其の虚構であることを示すものである。これは多分、高僧傳の慧遠及び慧達の條に見える、漁人が海中で阿育王像や佛光などを得たといふ、話を粉本として作られたものであらう。)佛家が何時から欽明朝の佛法初傳といふことを唱へだしたかはわからず、またそれには、上にも述べた如く、漠然たるいひ傳へなどが基礎となつてゐたかも知れないが、これも恐らくはかの吉野寺の話の如く、寺院の縁起などに由來があるのであらう。百濟に於いて佛教の行はれたのは、主として王室及び王室を中心とする上流社會であり、さうして、其の信仰は造像建寺などの貴族的な形に於いて示されてゐたらうと思はれるが、それが我が國に傳へられても、最も早くそれに接したものは、あらゆるシナの文物と同樣、朝廷及び其の周圍の貴族社會であつたらうと想像せられるから、其の信仰の具體的表示は、やはり造像建寺などにあつたであらう。が、それは技術の點からも容易には行はれ難いことであり、從つて、佛教の初めて傳へられてからさういふことの實現せられるまでには、かなりの年月が經過したに違ひなく、推古朝ころが斯ういふ意味に於いて佛教の信仰の形を具へるやうになつた時代なのであらう。ところで、佛像を造り寺院を建立した上は、其の寺院の、並に廣く佛教の信仰の、由來を説くことが必要であるが、さういふ時代には、もはや佛教のはじめて我が國に傳へられた事情などは忘れられてゐたので、聖明王の佛像獻上といふ傳説のあるのを幸ひ、それを佛教の初傳とするやうになつたのであらう。元興寺縁起に載せてある「丈六光銘」が、もし此の寺の丈六の銅佛の作られた推古朝に書かれたものであるならば、そこに此の話の記されてゐること、並に此の話と元興寺の由來との間に離るべからざる思想上の連絡をつけてあることは、此の意味に於いて注意すべきものであらう(元興寺縁起の本文には、聖明王獻上の佛像及び器具と元興寺そのものとをさへ結びつけてあるが、これが推古(93)朝からの傳へであるかどうかはわからぬ)。要するに、佛教の欽明朝渡來譚は、記紀に見える他の多くの事物起源説話の一例として見るべきものであつて、書紀の記載は其の最も發展した形を示すものである。
 なほ、この條に記してある蕃神禮拜の可否に關する蘇我氏と物部中臣二氏との爭ひについても、それが文字のまゝに信用せらるべきことであるかどうか、一應の研究を要する。新宗教の輸入せられる場合にそれに對する態度が歸向と拒否との二つに分れることは、自然の傾向であらうから、佛教についても、かゝる爭ひが起り得なかつたとはいはれぬ。現に之と同じ思想上の對抗はシナにもあつたので、「夫王者、郊祀天地、祭奉百神、載在祀典、禮有嘗饗、佛出西域、外國之神、功不施民、非天子諸華所應祠奉、」といふ王度の意見が、高僧傳の佛圖澄の傳にも出てゐて、物部氏等の反對理由として記されてゐる「我國家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬、祭拜爲事、方今改拜蕃神、恐致國神之怒、」にも、おのづから王度の此の言を想起させるものがある。何れも傍を神と見、自國の神に對する外國の神と見たものであつて、用明紀に記されてゐる反對諭に「何背國神、敬他神也、」とあるのも同じである。佛を神とすることは、四十二章經の序、後漢書の西域傳、ま声高僧傳の攝摩騰や康僧會の條などにもあり、魏書釋老志には胡神、晉書藝術傳には戎神、と書いてある。蕃神といふ名はこれらを學んだのでもあらうが、或はシナに於いて既に用ゐられた語であるかも知れぬ。敏達紀十四年の條及び元興寺縁起に「佛神」といふ稱呼が用ゐてあるが、これも高僧傳の康僧會の條に出てゐる。敏達紀十四年にはまた、馬子に關して「祭祀父神」といふいひかたもしてある(父神は父の祭つた神といふ義である)。佛(佛像)は福を祈るための祭祀の對象として取扱はれたために、それを神と考へたのであつて、これは佛像の渡來したはじめからのことであつたらう。しかし、かういふ思想上の爭ひの生(94)ずるには、新來の宗教に對抗し得るやうに思はれる何ものかが自國になければならぬ。所謂中華が其の特殊の文化を有するを誇つてゐるシナに於いて、それがあつたのは當然である。やはり高僧傳の康僧會の條に「周孔已明、何用佛教、」といふ孫皓の言が載せてあるが、シナ人の佛教拒否説の意味はこゝにあるので、祭祀の禮が中華に具はつてゐるといふのも、儒教の經典に説いてあり帝室の儀禮として實行せられてゐることをさすのである。が、それは知識社會の思想であつて、民衆のそれではない。さうしてまた、それは佛教が既に或る程度に行はれ、其の教説と崇拜の儀禮とが儒教と其の説くところの禮とに一致しないものであることの知られた後に、生じたはずの考である。ところが、當時の我が國に於いてはどうであつたらうか。百濟またはシナ傳來の事物のすべてが尊尚せられ學習せられてゐた時代である。知識社會といふものがもしあつたとすれば、それは百濟もしくはシナの文物を學習し又は愛用し得るものに外ならぬのであるから、其の一般の傾向としては、むしろ新來の宗教に歸向するのが自然であつたのではなからうか。上にいつた欽明紀十五年の記事が事實であるとすれば、それは朝廷においても佛教の拒否せられなかつたことを示すものであつて、おのづからこの推測と一致することになる。
 勿論、從來の民族的宗教は嚴として存在するので、そこに佛を國神に對する蕃神として見る意味はある。しかし、書紀の説話の如く、佛教の教義はいふまでもなく、其の儀禮すらも知られず、たゞ崇拜の對象として、神として、の佛像が齎らされたに過ぎない時に於いて、直にそれが此の民族的信仰に矛盾するものとして、感じられたであらうか。見なれない佛像は奇異の思を人々にさせたには違ひないが、同時に神秘の感をも喚起させたであらうし、それに對する崇拜が一種の新しい神を從來崇拜せられてゐた神々に加へるまでのことであつたとすれば、さうしてまた動物や木(95)石やの崇拜などが一般に行はれてゐたとすれば、佛像に對して強い反抗の情が生じたかどうか、問題ではあるまいか。勿論、すぐに佛像の禮拜が知識社會に行はれたといふのではない。初には珍らしげに見られたのみであり、其の後、徐々に人の耳目になれるに從つて何時の間にか注意と關心とをひき、何等かの機會が來るとそれが信仰として現はれるやうになる。所謂機縁の熱するのがそれである。こゝにいふのは、初から反對の意見が生じたといふことに對する疑である。はじめて佛像の獻ぜられた時に意見が可否の二つにわかれたといふやうなことがあり得たかどうかといふことである。もし斯ういふ反對意見が生じたとすれば、それは佛教が或る程度に行はれた後のことであつて、佛像傳來のはじめに於いてではなかつたのではあるまいか。さうして、蘇我氏と物部氏の勢力の爭ひは、それとは別な事情から起つてゐたやうであり、それと共に、蘇我氏が佛教を信じ寺院を建て僧尼を保護したことも、推古朝時代に於いては明確な事實であるから、後になつても蘇我氏をコとする佛家が物部氏を佛敵とし、兩家の爭ひに宗教的意義を附與してそれを世に傳へた、といふ事情が無かつたであらうか。中臣氏は神の祭祀を掌る家であるから、佛の崇拜には反對したやうに考へられるかも知らぬが、鎌足も佛教を信じたといはれてゐるほどであるから、それより前とても、果して反對の地位に立つたのかどうか、問題であらう。家の地位もしくは職掌の上からの反對が根強いものであつたならば、それはさう容易には消滅しなかつたらうと思はれるからである。佛教の始めて傳へられた年に行はれたといふ佛像の投棄や伽藍の燒却が、敏達紀十四年の條に見えるのと同じ理由、同じ方法、であつて、さういふ同じことが二度反覆せられたといふのも奇怪であり、またそれを投棄するに當つてわざ/\遠方の難波の堀江を撰んだのも、事實らしくないのみならず、此の年の「天無風雲、忽?大殿、」と敏達朝の「無雲風雨」とも、また同じ考へかたから(96)出たことであつて、共に棄佛燒寺を不祥視する佛家の側の所説であるのを見ると、此の二つの記事もまた其のまゝに事實として信じ得られるかどうか問題であつて、少くともそこに佛家の潤色があること、從つてそれは佛家から出た材料によつたものであることを、推測しなければなるまいが、これもまた上記の臆測を助けるもののやうである。敏達紀十三年の條に見える佛舍利に關する記事が佛家の造作したものから出てゐることはいふまでもなく、更に一歩を進めて考へると、本文の「以舍利、置※[金+截]質中、振※[金+截]鎚打、其質與鎚悉被推壞、而舍利不可摧毀、」は、上に?引いた康僧會傳の「置舍利於※[金+截]?上、使力者撃之、於是砧?倶陷、舍利無損、」と文字上の連絡さへもありげであるから、これもまた佛家の所傳によつたものらしいが、書紀の材料にかういふもののあることは、後にいふやうに、崇峻紀、推古紀、などにも其の例の少なくないことを、參考すべきである。(舍利のことと同年の條に記してある彌勒像の話、惠便及び三尼の話も、また佛家の所傳から出てゐるに違ひないが、これには何ほどかの事實の根據があらう。三尼のことは後にもそれと連絡のある記事がある。)
 たゞ上に引いたやうな物部氏等の反對理由が案出せられたのは、佛教が漸次興隆して來るやうになつた後、それに刺戟せられて一種の民族信仰維持主義(必しも反佛教主義には限らぬ)が形成せられた一段の思潮によつて助けられてもゐよう。用明紀に「天皇信佛法、尊神道、」とあり」孝コ紀に「尊佛法、輕神道、」とあるのに、どれだけの歴史的事實があるのか、甚だおぼつかないが、書紀の編者が佛法に對して神道といふものを立て、此の二つを對等に取扱つてゐることは、之によつても知られるので、それは多分、當時の、またそれよりはいくらかの前から生じてゐた、知識社會に共通な思想であつたらう。神道といふ名をシナの典籍の裡から探り求め、さうして佛教に對する意味に於い(97)て從來の民族的宗教の稱呼としてそれを用ゐるやうになつたこと、一方では、佛を神と稱して來た風習にも從ひながら、他方ではかういふやうに、神の稱呼を在來の民族的信仰の神の意義に用ゐて佛と對立させたこと、にも、既にそれが現はれてゐる。推古紀に、一方では佛教の興隆が花々しく記してあると共に、他方では、後にいふやうに事實とは考へられぬ、神祇の祭祀を事々しく載せてあるが、これもまた同じ思想の所産であらう。更に一歩を進めて考へると、大化改新の後に(多分、近江令に於いて)神祇官を設け、全國の主要なる神社の祭祀を統轄したことにも、幾らかは此の思想が關與してゐるかも知れぬ。神祇官は中臣氏忌部氏の職掌を繼承したものではあるが、その職掌がこのやうに擴大せられたのは、一つは中央集權制が宗教にも及ぼされたのであり、一つは禮部尚書に屬する祠部の官や太常寺の置いてある唐制の模倣でもあると共に、かういふ思想界の氣運もまた暗にそれを助けたのではないかと考へられる。宗教的信仰はおのづから保守的傾向を有するものではあるが、それに對立するものが現はれると、意識的に其の傾向を強めようとするやうになるのが、普通の?態である。さすれば、欽明紀の物語に於ける物部氏等の主張といふものには、かういふ思想が其の一材料となつてゐると見ても、大過はあるまい。事實に於いては、此の思想は反佛教主義ではなかつたけれども、物語に於いてさうなつてゐるのは、物部氏等が佛敵とせられたからである。(寺院が多く建立せられ、異樣の佛像がそこに安置せられて、異樣の僧侶が異樣の儀禮を行ふのを見ると、人によつてはそれに對して反感を抱くことが無かつたとはいはれぬが、佛教が漸次流行して來た事實から見れば、それは寧ろ稀であつて、そこから反佛教思想が發生したとは思はれぬ。)
 ともかくも、蘇我氏と物部氏などとの此の意味に於いての爭ひといふものは、佛像の初傳を欽明朝にかけて語つた(98)ことと同樣、恐らくは一つの説話であらう。欽明紀に「宜付情願人稻目宿禰、試令禮拜、」とあり、敏達紀に「詔馬子宿禰曰、汝可獨行佛法、宜斷餘人、」とあるのも、佛圖澄傳の「漢明感夢、初傳其道、唯聽西域人得立寺都邑以奉其神、其漢人皆不得出家、……今大趙受命、率由奮章、……國家可斷趙人悉不聽詣寺燒香禮拜、以遵典禮、」とゆかりありげにさへ思はれるではないか。西域人とあるのと個人の稻目馬子をいふのとは、指すところに廣狹はあるが、百濟王の上表を擬作するに當り、金光明經が餘經にまさるとある本文の意義を一轉して、佛法が餘法にまさることに改めたことから類推すれば、此の兩者の間に思想上の關係のあることを推測するのは、必しも妄想ではあるまい。さうして、もし斯う考へることが許されるならば、物部氏等の反對の理由として書紀に記されてゐることも、また佛圖澄傳の王度の言に由來してゐるかも知れぬ。佛の禮拜を、民衆の信仰の問題とはせずして、王者のこととしてのみ見てゐる點さへ同じであることを注意すべきである。
 附記。神道といふシナ語は「觀天之神道、而四時不?、聖人以神道設教、而天下服矣、」といふ易の觀卦の彖傳のが文獻上の初見であるが、これは自然の理法をいつたもので、此の場合の神は道の靈妙なることを稱讃した形容詞であり、それについては「陰陽不測之謂神」といふ繋辭傳の語と參照すべきである。同じ繋辭傳にはまた、神が名詞として用ゐてはあるが、「一陰一陽之謂道」をいふについて「神無方而易無體」といひ「知變化之道者、其知神之所爲乎、」ともいつてある。此の意義での神道の語は後までも襲用せられてゐるので、後漢の王延壽の魯靈光殿賦に「敷皇極以創業、協神道而大寧、」とある神道もそれであり、尚書の洪範から取つた皇極の語にそれを對せしめたのであるが、晋の陸士龍の詩に「神道見素、遺華反質、」とあるのは、それが道家の思想と混和したものであり、易と老莊と(99)が結合して説かれた魏晉時代の風潮から生まれた考へかたである。晉書隱逸傳の敍に「處柔而存有生之恆性、在盈斯害惟神之常道、」と見える「惟神之常道」もまた道家の道をさしたものであるが、こゝでは神が名詞として用ゐられてゐ、さうしてそれは「莊子」刻意篇の「純素之道、惟神是守、守而勿失、與神爲一、」によつたものである(この神は人の心にあるものとしてのそれであり、道家に於いてはそれが虚靜無爲の境地にあるものとせられてゐる)。ところが、佛家もしくは佛教を談ずるものも、また此の意義での神道の語を襲用するやうになつたので、晉の慧遠の桓玄に與へた書に「神道茫昧、聖人之所不言、」とあり、宋の鄭道子の神不滅論に「神道玄遠、至理無言、」とあり、宋の謝靈運の辨宗論に「同遊諸道人、並業心神道、求解言外、」と見え、また齊の明僧紹の正二教諭に「釋迦發窮源之眞唱、以明神道之所通也、」とあるが如き、何れも道家の用語例に從ひつゝ、それに佛家の道をも包含させたものであつて、これは道家から入つたものの多かつた佛徒の考としては、自然の傾向であらう。たゞ、宋の采炳の明佛論に「漢魏晉宋咸有瑞命、故知視聽之表、神道炳焉、」といつてあるのを見ると、祥瑞説となつて現はれてゐる如き所謂天人感應の思想を此の語に託するやうにもなつたらしく、「神道之感即佛之感也」といふに至つては、そこに宗教的神秘的傾向が明かに看取せられる。宗教家の思想としては、かうなるのが當然であらう。が、これはどこまでも思想の上の神道である。しかし、神といふ語は昔から宗教的崇拜の對象となるものを指すのが、むしろ一般の用例であるから、後漢書隗囂傳に「神道設教、求助人神者也、」と見える如く、易の語を用ゐながら、それを祭祀の意義に解するやうにもなり宗教としての道教が成立してから後は、魏書釋老志の「祗崇至法、清敬神道、」の如く、宗教そのものを神道と稱するやうにもなる。さうして、高僧傳卷十三の論に「祭神如神在、則神道交矣、敬佛如佛身、則法身應矣、」とあるの(100)によると、佛家もまた祭祀の意義に於いて神道の語を用ゐたことが知られるが、それはやがて神としての佛の祭祀をも神道とすることになるのであらう。後漢書西域傳の賛に「西胡天之外道、……若欲神道、何恤何拘、」とあるのを、同じ傳の論の「至於佛道神化興自身毒」といふのに參照すれば、所謂神道に宗教としての佛教を包含させてあることが推知せられるやうである。が、神道は啻に宗教的祭祀をさす語とせられたのみならず、種々の呪術や吉凶禍福を左右すると稱する所謂方術や神怪な行をする幻術の類、又は仙術、などをもさう稱するやうになつた。後漢書方技傳に左慈について「少有神道」といつてあるのも、抱朴子雜應篇に神道を説いてあるのも、みなそれであり、晉書藝術傳の敍の「神道設教、率由於此、」は、易の語を此の意義の神道に附會したものである。魏書釋老志に「神道幽味、變化難測、」とあるのも、また同樣であるが、高僧傳神異篇の論に「神道之爲化」を説いてゐるのも、やはりそれであるから、佛家もまた此の俗習に從つたのである。神變幻怪の術が變化を主とする易の思想から出た此の名を用ゐるに都合がよかつたからでもあらうが、一般的にはもと諸家の學説の稱呼であつた道術といふ語が呪術方術の類を稱することになつたと同樣の、またそれに伴つた、變化でもあるらしく、さうして、佛家は、シナ人の間に其の道を宣傳しようとして、彼等の信奉してゐる斯かる道術には僧徒もまた長じてゐたことを誇稱したのである。我が國で、佛法に對する意味に於いて、從來の民族的宗教に神道の名を適用したのは、カミの語に神の字をあてたところから導かれたものではあらうが、初めのうちは佛をも神と稱したのであるから、此の語の用ゐられたのは、佛教がかなりに世に行はれた後のことであらう。それは或は書紀の編者によつてはじめられたことかも知れぬ。
 なほ欽明紀に虚構の記事のあることは、二十八年の條の「郡國大水飢、或人相食、轉傍郡穀、以相救、」を見ても知(101)られる。これが事實でないことは、具體的に其の土地を示してないことによつても明かであるが、「人相食」といふやうなことさへいつてゐるのは、シナの史籍の文字をみだりに移し用ゐたからである(この一條は、集解が示してゐる如く、漢書元帝紀初元元年の記事そのまゝである)。三十年の戸籍のことの見える記事も、また事實でない。戸籍は大化の新政によつて始めて作られたものだからである。七年の條の馬の話が同じく大化改新後に書かれたものであることは、「倭國今來郡言」の語によつても知られるし、また五年の條にある肅慎人の話が此の朝にかけて記すべきものでないことは、別に附録「肅慎考」に於いて述べるであらう。敏達紀に於いても、十年の條の蝦夷に關する記事が机上の造作であることは第二篇に述べて置いたが、「大足彦天皇之世、合殺者斬、應原者赦、」とあるのが、景行朝の蝦夷征討の物語が作られた後でなければ書かれないはずのものであることも、またそれを證する。さうして、此の蝦夷征討の物語は齊明朝以後の形勢に本づいて作られたものである。六年の條に見える日祀部私部のことも、また部の設置に關する歴代の多くの記事と同樣、事實ではない(「上代の部の研究」參照)。繼體宣化欽明の諸朝には記事の無い年がかなりあるが、此の朝から後は毎年必ず記事があることになつてゐるので(推古紀に一年の闕があることについては後にいふ)、それは、時代が新しくなつて來たことに伴ふものであるとすれば、書紀の編纂の方針によつたことかも知れぬが、それにしても、かういふ體裁を整へるために強ひて記事を作らぬばならなかつたことを考ふべきである。九年と十一年との新羅の朝貢に關する記事が全く同じであるのも、或はこゝに理由があるのかも知れぬ(しかし、これは或は後人の誤寫などから來てゐるかとも思はれる)。
 欽明紀敏達紀に於いても、なほ、かゝる虚構の記事が多いので、さういふものを除去すれば、餘すところは任那官(102)家の滅亡、高麗使の來朝など、寥々たるものに過ぎないことが知られる。特に内政に關しては、蘇我物部二氏の間に於ける勢力の爭ひの此のころからあつたらしいことが後の?態から推測せられるにかゝはらず、それに關する具體的の記事が(佛教についての説話の外には)殆ど無く、敏達紀の終に守屋と馬子との間に交へられた嘲笑の言を記して「由是二臣微生怨恨」と述べてあるのも(書紀に於いては、これが佛教に關する兩家の反目を敍してあるのと調和しないものであることは措いて問はないにしても)、必しも信じ難いことを注意しなければならぬ。たゞ造作せられた記事があつても、それは皇族の私生活の物語、即ち戀愛や遊獵や饗宴などの話ではなく、またさういふ物語に多く伴つてゐた地名説話の類が少なくなつてゐる點に於いて、前章に述べた時代の記載とは頗る趣を異にするものがある。ところが、これは概していふと武烈朝以後を通じてのことであつて安閑紀宣化紀の如く、治世が短いためか、説話的色彩を帶びたものの全く無いものは、いふに及ばず、繼體紀に於いてもかの歌の唱和を除けばやはり同じであり、武烈紀には清寧朝から移された影媛の話があるのみである。さて、武烈朝以後については舊辭が無く、さうして舊辭の内容は種々の物語であり、特に應神朝以後に於いては、それが皇族の私生活に關するもののみであつたとすれば、これは當然のことであつて、武烈紀以後の記載が上記の如きものであるのは、即ち其の見解の誤らざることを證するものである。此の時代のことになると、舊辭が無くなつてゐるため、書紀の編者は、舊辭のあつた時代ののやうに、それから物語をとることができず、從つてまたそれに本づいて同じやうな性質の物語を作ることもせず、年代記の形を具へさせるために、歴史的事件の記録らしい外觀を有する記事のみを考案したのである。さういふ記事にも、いくらかの程度で説話的色彩はついてゐるが、それは記事そのものの性質としてよりも敍述のしかたに於いてのことであり、(103)從つて漢文風の文飾が加はつてゐるのと同じ態度から生じたことである。たゞ武烈紀に影媛の話を移したのは、これまで多く讀みなれてゐたやうな物語が忽然として消失し記事の體裁が急に變化するのを、緩和するためではなかつたらうか。もしさうならば、繼體紀にかの歌の唱和を加へたのも、また同じ理由からであつて、それは書紀の編者によつて作られたものであらう。かう考へると、同じ紀の終に毛野の臣や目頬子に關する歌、また欽明紀に大葉子の歌といふものが記されてゐるのも、一つはかういふ説話的興味を繼續させるためであつたらう。勿論、これから後の部分にもいろ/\の歌が載せてあるので、それはかういふことに興味を有つのが一般の風習であつたからであるが、それも、畢竟、同じところに歸着する。たゞさういふものも、韓地の經略、新羅の遠征、といふやうな大事件の插話として記してあるところに、應神朝以後の舊辭の物語とは性質の違ふ點がある。著しく説話的色彩を有する日羅に關する記事にも、また同じ意味があらうが、これはそれみづから政治上の重大事件とせられてゐる。其の代り、仁コ紀や雄略紀に其の例の多かつた、單なる奇事異聞を録したといふやうな記事は、むしろ少くなつてゐるので、欽明紀の肅慎人や馬の話の如きが、纔かにそれを繼承してゐる。これには次にいふやうな理由もあらうが、またシナ風の史籍、即ち政治的事件の年代記的記録、の形を具へさせるやうにしようとする根本精神の現はれでもある。けれども、歴史的事實としての政治上の事件の記録が、欽明紀や敏達紀に於いても、極めて乏しいことは、上に説いた通りである。さすれば、かの繼體紀の磐井に關する記事はいふまでもなく、其の基礎になつた傳へもまた確實なる史料から出たものではあるまい。かゝる事件が發生し得る事情のあつたことは、筑紫の地理的位置からも、對韓經略が朝廷の重要なる事業であつたことからも、推測し得られるし、事實さういふやうなこともあつたであらうが、それが繼體朝のことで(104)あり、またそれが磐井といふもののことであつたとは、必しも信じ難い。前後に類例がなく、此の一事のみが歴史的事件の記録であるとは、解し難いからである。それは恐らくは、何の時代かに筑紫の豪族に叛逆者があつた、といふ漠然たる傳説のあつたのがもとになつて、先づ古事記のやうな説が作られ、書紀はそれによつて更に修飾を加へたものであらう。
 しかし、書紀の材料としては舊辭が無くなつてゐた代りに、佛家の手になつたものが新に現はれたので、欽明紀から後にはそれが採られてゐる。其の中間には、偶然にも斷續的に存在してゐた百濟の史籍があつたので、それによつて材料の缺乏を補ふことができ、繼體紀、欽明紀の大半はそれにょつて填充せられた。此の二代の紀に造作せられた説話の少いのも二つは之がためでもあらう。もし百濟の史籍が無かつたならば、かなり治世の長い此の二朝の年代記を形成するには、仁コ紀や雄略紀に見えるやうな説話を多く作らねばならなかつたに違ひない。
 
(105)       第四章 用明紀から天智紀までの書紀の記載
 
 法隆寺の佛像の光背の銘、または釋紀に引いてある伊豫風土記の記載によつて知られる道後の碑文などが示す如く、推古朝に書かれたことの明白なものがわづかながら、今日に殘つてゐる。さうしてそれが、製作の時代の確實に記されてゐるものとしては、現時に遺存する我が國の最古の文獻である。(佛像の銘についてはそれを疑ふ學者があるやうであるが、その疑には確かな根據が無ささうに考へられる。)ところで、かゝるものが書かれた以上、或る程度の記録も同じころに作られたらうとは、容易に想像せられる。文字の用ゐられたのは古くからのことであるから、記録の作られたのが推古朝からはじまるとは、勿論、いはれず、從つて、推古朝に製作せられたものが遺存するといふことは、寧ろ偶然の事情からであるとも考へられるが、偶然にもせよ、遺存するもののあるのは、全體に文字を用ゐることが多くなつて來たためであるとも觀察せられ、さうして、それは隋との交通や佛教の興隆やシナ文化の採用やによつても知ることのできる當時の一般の文化?態からも、肯定せられるであらう。さすれば、書紀を讀むに當つても、推古朝、並に其の前の、或はむしろ其の一部分をなすものともいひ得る、用明崇峻の二朝からは、特殊の期待を以て、それに對することが當然であらう。このころからのことについては、書紀の編纂に際して、或る程度の記録が史料として採用せられたらしく豫想せられるからである。
 が、實際、讀んで見ると書紀の記載はさう筒單には觀察せられない。そこには佛家の手になつた材料から出たもの(106)のあることが先づ目につくが、それは既に欽明紀敏達紀について述べたと同樣、必しも事實の記録とのみは認められぬ。用明紀の終に見える南淵坂田寺の佛像の由來譚の如きは、さして疑ふを要しないもののやうであるが、崇峻紀の四天王寺及び法興寺の縁起、推古紀十四年の條の聖コ太子の經の講説や斑鳩寺のこと、二十九年の條の太子の薨去に對する高麗僧惠(慧)慈の言、などは、何れもみな假託の説であるらしい。此の中で、四天王寺の縁起として記されてゐる、軍中で而も敗軍の徴が見えはじめた倉忙の際に、太子が白膠木をきりとり、四天王の像を作つて頭髪に置いたといふ、話が所謂縁起に通有な性質を有する物語に過ぎないことは、いふまでもなからうし、法王帝説によれば當時十四歳であつたはずの太子が、よし軍に從つたにせよ、勝敗を左右する力を有つてゐるが如き態度で誓言をしたといふのも信じ難い(なほ後にいふやうに、此の戰爭の記事の大部分が後人の造作したものであることを、參考するがよい)。四天王寺の建立の動機が何であつたかはわからぬが、かういふ縁起は、金光明經四天王品に見える怨賊退散の思想によつて守屋との對戰の説話を利用して作られたものらしい。さうしてそれから考へると、四天王寺のたてられたのは、事實、そのことと關係があつたのかも知れぬ。しかし縁起に見える物語はいふまでもなく虚構である。さて、四天王寺に關する説話が斯う考へられるとすれば、同じ時に同じやうにして發願せられたとある法興寺についての物語も、また同じやうに見なければなるまい。但し、元興寺縁起に全くこのことが見えず、寺の起源と沿革とについてはそれとは違つた説明をし、皇室を主にして述べてゐるのを見ると、書紀の記載は、寺傳から出たのではなくして、別に由來するところがあらう。四天王寺の説話に誘はれて、それと同じやうに説いた俗傳が佛家の間にあつたのではあるまいか。書紀の説の如く、寺が馬子の建てたものであるならば、推古紀十三年及び十四年の條に見えるやう(107)に、元興寺の丈六の銅?佛像が天皇の發願で造られたといふのも、少しく異樣の感があるが、元興寺縁起の説のやうであれば、極めて自然である。もつとも、孝コ紀大化元年八月の條の僧雨に對する詔勅には、此の二つの丈六の像は馬子が造つたことになつてゐるが、上にも述べたごとく、此の詔勅が果して當時のものであるかどうかは疑問であるから、これは崇峻紀の記載によつて書かれたものかも知れぬ。ともかくも、崇峻紀の縁起譚には疑問がある。(法興寺と元興寺とはもと別のものではなかつたかとも考へられるが、さう斷定すべき確證が、文獻の上には、求められないやうである。また元興寺縁起とても其のすべてが信用せらるべきものでないことは勿論であり、造作の迹の明白なことも見えるが、其のうちには古傳の遺存してゐるものもあるに違ひない。)それから、惠慈の言といふものが佛家の手に成つた虚構の説話であることは、明かである。法王帝説に同じ話のあるのは、共通の材料から出てゐるのであらうが、書紀の方には、編者によつて、例の如き文飾が加へてある。なほ太子の講經のことについては後に述べよう。勿論、佛家にも尊貴として信ずべき記録があつたには違ひなく、崇峻紀元年の條の記載のごときは、さういふものに出所があるのではないかと思はれるが、上記のごとき説話は、それとは同樣に取扱ひかねる。
 佛家から出たと思はれぬものにも、また造作せられた記事は少なくない。崇峻紀に物部氏の戰敗を敍し、其の遺族について「逃慝葦原改換名者」云々といふが如き、萬といふものについて「朝廷下符稱、斬之八段、散梟八國、」といふが如き、或はまた「河内國司」の「牒上」などが載せてある如き、何れも虚構であることは疑が無い。同じ紀の二年の條の近江臣満を東山道に、宍人臣鴈を東海道に、阿倍臣を北陸道に派遣したといふのも、かゝる「道」の制度も名稱も當時に存在しなかつたことから見れば、勿論、事實とは認められぬ。近江臣といふ氏も他に所見が無い(108)から、これは後の東山道の首位にある國の名を取つて假構したものに違ひなく、東海道にやられた宍人臣鴈は景行紀に見える膳臣六鴈の話を粉本として作られ、また北陸道の阿倍臣は齊明紀に見える有名な事實から着想せられたものと推測せられる。崇神紀の四道將軍と同樣な、また多分それを複製した、話であるが、かういふことは天武紀十四年の條に其の記事がある如く、諸道に人を派して諸國を巡察させた後の事例によつて考案せられたのであらう。それから、推古紀に入つて見ると、二十五年及び二十七年の條にある出雲「國」、近江「國」、攝津「國」の報告が、當時に於いて、あるべからざるものであることはいふまでもなく、三十五年の條の陸奧「國」、上野「國」に於ける異聞もまた同樣であらう。三十四年の條にある嶋大臣の稱呼の由來譚もまた事實ではあるまい。嶋大臣といふ稱呼があつたならば、それは大臣の邸宅が嶋(二つの河の合流する中間地域)にあつたからであらうと考へられるからである(萬葉卷二にある島宮の稱呼參照)。
 また二二十二年の條の馬子が葛城縣を乞うて聽されなかつたといふのも、當時の權家の態度から見て、信を措き難い。これは天皇の賢コといふことを示すために作られたものであらう。なほこゝに馬子の言として記してある「葛城縣者元臣之本居也、故因其縣爲姓名、」は甚だ解し難い文字であることを注意して置く必要があらう。地名を氏の名とする家々の一般の例から見れば、蘇我氏の本居は蘇我であつたはずであり、また現に蘇我氏と稱してゐて、葛城を氏の名とはしてゐなかつたからである。しかし、皇極紀元年の條にも馬子の子の蝦?が祖廟を葛城高宮に立てたといふ話があつて、それとこれとは連絡のある思想に違ひない。此の祖廟の話は、後にいふやうに、事實とは考へられず、多分、書紀の編者の構造したことであらうが、蘇我氏と葛城とを關係させたことには、據りどころがあつたらう(109)と思はれる。そこで、何故にかういふことがいはれたかを考へねばならぬが、古事記の孝元の卷の建内宿禰の系譜を見ると、此の人の子どもの名を波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇我石河宿禰、平群都久宿禰、木角宿禰、葛城長江曾都毘古、若子宿禰、とし、さうして、これらの人々から多くの家々が分出したやうに書いてある。ところが、若子宿禰を除く外は、何れも地名が氏の名のやうに用ゐてあり、さうして地名を氏の名とすることは地方的豪族の通例であるから、これは系譜の作られた時に存在した波多臣、許勢臣、蘇我臣、平群臣、木臣、などの地方的豪族の家々の共同の祖先を昔物語に聞こえてゐる建内宿禰とするために作られたものと推測せられる。(林臣、雀部臣、川邊臣、など、上記の系譜に於いてそれ/\第二位以下に記してある家々は、多分、後から附會せられたのであらう。なほ、若子宿禰は末弟とするために附けられた名であつて、此の名は、それを祖とした家と共に、やはり後になつての添加らしい。)さうして、第二篇に述べた如く、建内宿禰、味師内宿禰、の兄弟が實在の人物でないとすれば、其の子どもとせられたものもまた同樣であらう。たゞ、葛城の曾都毘古の名は古事記の仁コ及び履仲の卷に見えてゐて、それは何れも后妃の父祖とせられてゐるのであるから、早くから帝紀に記されてゐたものらしく、從つて(このころからの帝紀がほゞ歴史的事實を傳へてゐるものであるとすれば)それのみは實在の人物であつたと考へ得られる(神功紀六十二年の條に注記してある百濟記の所謂沙至比詭が書紀の擬定した如く襲津彦、即ち此の曾都毘古、であるかどうかは問題であるとしても)。兄弟とせられてゐるもののすべてが某宿禰とあるのに、これにのみそれが無く、名のつけ方の違つてゐるのも、曾都毘古の名が獨り由來を異にしてゐる一證であらう。但し、仁コの卷にも履仲の卷にも、曾都毘古が建内宿禰の子であるやうには書いてなく、書紀にもそのことは見えないから、此の名を上記の系譜に取入れた(110)のは系譜の作者であつたらうが、何故にさういふことをしたかは問題である。さうして、それを考へるには、系譜に於いて此の曾都毘古の條下にのみ、他の例とは違つて、それと氏を同じくしそれから出た家として、葛城臣の名の記されてゐないことをも顧慮すべきであるが、これは、此の系譜の書かれた時には葛城臣の家がまだ成立つてゐなかつたからではあるまいか。(葛城臣の家については、全體に疑問がある。天武紀十三年の條の朝臣のカバネを諸家に賜はつた記事には、上記の系譜にある家々の多くが列記せられてゐるにかゝはらず、此の名が見えぬ。姓氏録には襲津彦の後と稱する葛城朝臣があつて、他の多くの例からいふと、それはもと臣のカバネの家であつたらうと推測せられはするが、此の家については、そのことがどこにも記されてゐず、また朝臣の家のものらしい名も續紀などに現はれてゐないやうである。雄略紀に見える葛城圓大臣の名は、葛城臣の家があるところから、それに本づいて構想せられたものかとも考へられるが、或は古事記安康の卷の都夫良意美の話に葛城の屯宅のことが見えるため、それによつて此の人の名に葛城を冠らせたのみであるかも知れぬから、これもさしたる根據にはならぬ。しかし、崇峻紀の卷首の馬子が守屋を滅ぼさうとした時の記事には、暮城臣烏那羅といふ名が出てゐて、それは事實らしく思はれ、少くともそれを否定するはどな強い理由も見出されず、また葛城臣の名は法興六年に書かれた伊豫温泉の碑文にも見えてゐるから、かういふ家があつたことは事實であらう。たゞ何時からそれが起つたかが明かでないのである。)ところで、上に記したやうな系譜の作られた時に葛城臣の家が無かつたと考へられるならば、現に存在する諸家の祖先の名を新に案出した他の例とは違ひ、葛城臣の家が無いにもかゝはらず、葛城長江曾都毘古の名を系譜に加へたことに、特殊の意味がなければならず、そこからもまた何故にさうせられたかの問題が生ずる。帝紀に其の名が見え古人として世(111)に知られてゐたためではあらうが、帝紀には他の名もあるのに、それらを措いて、特にこれをのみ取つたのは何故であるかが問題なのである。さうしてそれは、葛城の名が系譜の上に必要であつたからと見る外は無からう。
 そこで更に考へるに、波多、許勢、平群、木、の家々が蘇我と同じく地方的豪族に例の多い臣のカバネを有し、また蘇我氏と同じくそれ/\の土地の名を氏の名としてゐるのを見ると、本來、彼等と蘇我氏との間には地位の高下、勢力の強弱があつたのではなく、何れも同じやうな地位の家であつたらう。然るに、蘇我氏は如何なる事情からか朝廷に勢力を得るやうになつたので、それから推測すると、蘇我と接近してゐる土地、またそれと程遠からぬ葛城、平群、の地方の多くは、事實上、蘇我氏に占領せられたのであらう。さうして、それらの地方の舊來の豪族の中には、之がために滅亡したものもあらうが、また蘇我氏と妥協することによつて其の地位を維持したものもあらう。波多、許勢、平群、木、などの名を負うてゐる家々は、即ち此の後の方のものではなからうか。皇極紀二年の條に入鹿のことを林臣と書いてあるが、林臣は古事記の系譜では波多臣と同じく八代宿禰から出てゐることになつてゐて、それもまた蘇我氏に服屬した地方的豪族であつたらうから、何等かの事情で入鹿みづから其の家の名を名のつたのであらう。さすれば、これは上記の推測を確める一例である。(木臣の木が地名であることは他の例から見ても疑があるまいが、それは紀伊國のそれではあるまい。建内宿禰の母を古事記には木國造の妹、景行紀には紀直、即ち紀國造、の女としてあるから、木臣の木もそれと同じく紀伊國のそれであるやうに普通には考へられてゐるが、これはたゞ名を同じくするのみである。木臣の名から紀國造の女としての山下影姫を案出したのかも知れぬが、紀國造と木臣との間には何の縁も無く、二つの家は此の系譜そのものに於いても明かに區別せられてゐる。木臣の本居の木がどこであるかは明(112)かでないが、もし試にいはうなら、延喜の神名式に見える平群郡の紀氏神社の所在地がそれではあるまいか。この神社は天長元年に紀朝臣の請によつて官社に列せられたものであるが、紀朝臣は昔の紀臣の家であるから、此の神社は紀臣の故郷のであり、從つて紀臣は此の土地の豪族であつたと推測せられるのである。木臣が紀臣であることは、いふまでもなからう。木または紀の字で寫されたキといふ地名は、後には遺つてゐないかも知れぬが、上代の地名が後に廢れてしまつた例は多いから、これもまたその一つであらう。かう考へて來ると、上記の系譜は蘇我氏の勢力を得た時代になつてから、それとこれらの家々とを同族として取扱はうとする意圖の下に作られたものであることが、知られよう。蘇我氏の祖先の名を石河としたのも、其の領地となつてゐた河内の地名を取つたものであらうが、かういふ領地を有つてゐたのも、蘇我氏の地位が單なる地方的豪族ではなくなり、朝廷に勢力を得てからのことに違ひない。(木氏の角も或は地名をとつたのかも知れぬが、よしそれにしても、從來の説の如くそれを周防の都濃と見るのはどうであらうか。雄略紀九年の條の角臣の起源説話は、名の上の附會であるから、此の説話の作られた前に角臣、即ち古事記の系譜の都努臣、といふ家はあり、さうして、其の家の名の由來は必しも此の説話の地の角國には限らぬ。内宿禰の内は大和の宇智の名をとつたものらしいのに、味師内宿禰を山代の内の臣の祖としてあるのが、やはり名の同じであるところからの附會であることをも、參考するがよい。のみならず、角臣の祖を角宿禰とすることも、たゞ名が同じであるところからの附會であつて、角宿禰の角は地名ではないとも考へ得られ、此の系譜に見える多數の例からいふと、其の方が解し易い。)
 さて、地方的一豪族に過ぎなかつた蘇我氏が朝廷に地位を有するやうになつたのが何時からであるかは明かでない(113)が、稻目の女が欽明天皇の妃であり、稻目自身が此の朝の有力者であつたことは事實と認められるから、或は其のころからのことではあるまいか。上記の系譜は、古事記のもとになつた帝紀にあつたものと考へられるが、皇族として取扱はれてゐない斯ういふ家の系譜を帝紀に記入することは、甚しき異例であり、現に孝元紀にはそれが見えず、從つて書紀の材料となつた帝紀には、それがなかつたらしく推測せられるのであるから、これは帝紀の一たび編述せられた後になつて、其の或る本に附加せられたものと考へられ、さうしてそれが舊辭に語られてゐる建内宿禰を祖としてあることから見ると、系譜そのものの作られたのも、帝紀舊辭の既に世に知られた後であることが知られるから、それはいかに早くとも欽明朝のころ、多分それよりも後、の製作と見なすべきであらう。帝紀舊辭の始めて形を成したのは欽明朝のころらしいからである。建内宿禰を孝元天皇の皇子から出たもののやうにしたのも、また其の子孫の系譜と同時に作られたことであらうが、これは、勿論、其のころの帝紀が述作せられた後でなければ考案せられないはずのものである。(蘇我氏は伴造ではないから、其の祖先を天上の神に求めることはできず、それがために建内宿禰を選び、さうしてそれを皇室に結びつけたのであらう。或は更に一歩を進めて、建内宿禰の名と其の物語とも、蘇我氏の手になつたものではないかと臆測せられないでもなく、諸家の祖先の名と其の物語との作られた一般の例から、また神功皇后の朝に於ける此の宿禰と推古朝に於ける蘇我氏との地位を對照することから、さう考へてもよいやうである。(たゞし神功皇后の物語における建内宿禰には、魏志倭人傳の卑彌呼に關する記事に於ける一男子のおもかげがあるやうにも見えることが、これについて一應注意せらるべきであらうから、もしそれによつて考へることができるならば、この宿禰ははじめから神功皇后の物語に存在したと見る方が妥當であるかもしれぬ。)そこで、これまで(114)述べて來たことを互に參照して考へると、蘇我氏が朝延に於いて優勢になり、從つてまた多くの地民を占有するやうになつたのは、推古朝からあまり遠い昔のことではないやうに見える。ところが、他の豪族の領土の上に我が力を及ぼしたとすれば、其の間に種々の紛亂が生起するのは當然であるから、それについては種々の手段を用ゐねばならなかつたはずであり、上記の如き系譜を作つたのも其の一つであつたらうと思はれる。さすれば、葛城曾都毘古を此の系譜に取入れてそれを蘇我氏の同族としたのは、蘇我氏が葛城の地方を領有することに遠い歴史的由來のあることを示すためであつたことが、推測せられるやうである。いひかへると、新しく占領した葛城地方に對する支配權を確立しようとするためであつたと、考へられるのである。系譜に味師内宿禰の母を葛城の高千那姫としてあるのも、また建内宿禰の家と葛城の地とを結びつけるためであつたらう(此の葛城は葛城國造、即ち葛城直、の家を念頭に置いて考案せられたものらしく、曾都毘古とは何のかゝはりも無いが、葛城といふ名と、それによつて想起せられる土地とが、こゝでは重要である)。蘇我氏の本居が葛城縣にあるといふ書紀の馬子の言は、かういふところから出てゐるので、それは蘇我氏の勢力のあつた時代に記録せられた何等かの材料が書紀編述のころにも遺存し、それによつて構想せられたものであらう。或はもつと單純に、葛城地方が蘇我氏の領地であつたことが知られてゐたために、それによつて書かれたものとする方が、よいかも知れぬ。たゞ「因其縣爲姓名」は、葛城臣が蘇我氏の同族であるといふことから、不用意に筆に上ぼされたに過ぎないものであつて、書紀の編者の考の混亂か、又は其の書きかたの杜撰かを示すものらしい。かう考へて來ると、上に明かでないといつて置いた葛城臣の家の起源もほゞ推知せられるので、それは上記の系譜が作られた後になつて新に(多分、蘇我氏の配下のものからでも)起り、其の系譜によつて建内宿禰の子(115)たる曾都毘古の裔と稱したものらしく、崇峻紀及び伊豫の温泉の碑文に見えるのが、即ちそれであらう。曾都毘古の子孫として系譜に記されてゐる玉手臣なども、また多分、後からの附會であらう。
 なほ、應神紀仁コ紀に韓地に派遣せられたものとして紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰、(及び的戸田宿禰、)などの名の見えるのは、百濟記の沙至比跪を葛城襲津彦に擬定した縁にひかれて、上記の系譜に見える其の兄弟(及びそれから分出した家のもの)をみな韓地のことに關與させたのであらうし、履仲紀に、古事記にも見える襲津彦の孫の黒媛にならつて、矢代宿禰の女の黒媛を作り出してあるのも、同じやうな着想であることが知られる。(家々の系譜が事實を記したものではなく、また其の大部分は帝紀の一旦作られた後に、それによつて、構造せられたものであることは、今さらいふまでもないが、記紀によつて見ると、所謂皇別の家については、其の出自の大部分が應神天皇までの御歴代の皇子となつてゐることも、またそれを證するものである。それから後は、繼體紀にこの天皇から出た家のあることが記されてゐるが、古事記の應神の卷と對照すると、宣長の説いてゐる如く、これには何かの混亂があるらしく、書紀の此の記載は、それらの家々の系譜を如實に寫し取つたものとは信じ難い。さすれば、皇別の家の祖先が系譜のまゝに記紀に記されてゐるのは仁コ朝から後については、宣化天皇がはじめであつて、それから後とても、さういふ記載は極めて少いが、これは帝紀に關することだけに、ほゞ事實が傳へられてゐるからであらう。それより前、仁コ朝までの長い時代には全くさういふことが見えず、さうして、應神朝から前に於いて、それが多くなつてゐるのは、啻に仲哀朝までの帝紀の性質が?説いたやうなものであることからばかりでなく、其のことみづからに於いて、さういふ記事となつて現はれてゐる系譜の虚構であることを示すものである。建内宿禰の系譜に(116)ついて上に述べたことは、かういふ一般的考察の上からも肯定せられねばならぬ。)
 それから、十五年の條に見える神祇拜祭の詔勅とそれに關する記事とも、また造作せられたものにちがひない。神祇の拜祭は民族的風習であり、またそれは一定の場合に一定の儀禮を行ふのであつて、朝廷に於いてもそれに從つて神事の行はれてゐたことが、後の制度からも、遺存する祝詞などからも、推知せられるのであるから、かゝる漠然たる意味でかゝる拜祭があつたとは信じ難い。民族的風習を陰陽説やシナ式宗教思想でいひ現はしてある詔勅が當時のものでないことは、いふまでもなからう。何故にかゝる記事が作られたかは知り難いが、上に述べた如き、神道と佛法とを兩立せしめる、思想から、佛教に關する記載の多いのに對して、神道に由縁のあることを載せようとしたためではあるまいか。なほ七年の條に、地震があつたため「令四方、俾祭地震神、」とあるのも、疑はしい記事であつて、地震神といふものが、もし民間に崇拜せられてゐた神ならば、特に命令する必要は無く、また民間に知られてゐなかつた神であるならば、命令によつて信仰が生ずるものではないのみならず、當時の政治組織に於いては、かゝる命令を四方に行ふ機關なども無かつたはずではなからうか。佛教に關する記事に於いても、二年の條の三寶興隆の詔命、諸臣の佛舍競造などは、やはり机上の製作らしく、「即是謂寺焉」といふやうなわざとらしい書きかたからも、それは知られよう。
 對韓問題に關する記載にもまた事實でないものがある。推古紀八年の條に「新羅與任那相攻」とあるが、任那が加羅をさしてゐるならば、これは加羅が全く新羅の一部に編入せられてゐた當時の實?に背くものであり、從つて二王が上表したはずも無く、また天皇といふ尊號を用ゐることも、天上の神と地上の天皇とを併せて二神と稱することも、(117)新羅人などの思想としては、あるべからざるものである。さうして、これから考へると、崇峻紀四年、推古紀三年六年九年十年及び三十一年、の各條に見える新羅征討及びそれに伴ふ事件の記載にも、疑問が生ずる。大規模の征討軍が空しく筑紫から歸つたり、將軍の病んだために中止せられたり、任那まで行つたのみで終つたりしてゐるのが怪しいのであり、なほ細かい點をいへば、任那の復興を高麗に命じたとし、三十一年の條に任那人を達率奈末智と書いてあるなども、異樣に感ぜられるが、根本的には、任那復興といふやうなことが此の時なほ實際に計畫せられてゐたかどうかが、問題ではあるまいか。任那について新羅との間に何等かの交渉は行はれたらしく、使節の往復したことも事實であらうが、それは任那を領有してゐる新羅が任那の名を以て何程かの義務を負擔することによつて解決せられたのではあるまいか。十八年十九年三十一年の諸條の記事は、それを示すもののやうである。軍事的行動に關する記事にも幾らかの根據はあるかも知れぬが、文字のまゝには受取り難い。さうして、斯ういふ記事の作られたのは、歴代の朝廷が任那の復興に努力したことを示さうとすると共に、任那がなほ新羅に没入せず我が朝貢國として存在した如く装はうとする、編者の意圖の故ではあるまいか。其の他、十六年の條の「是歳新羅人多化來」なども、やはりシナ人の夷狄觀に於ける慕化來歸の思想から作られたものに違ひなく、「是歳」の二字を冠し、漠然かく記してあることがそれを證する。
 こゝまで説いて來て、余は聖コ太子に關する推古紀の記載について、重要なる疑問を提起しようと思ふ。推古紀元年の條に「當厩戸而不勞、忽産之、」とあるのが、例へば瑞齒別について「生而齒如一骨」といひ白髪について「生而白髪」といつてあるのと同じく(「上代の部の研究」參照)、厩戸の名の説明説話に過ぎないものであること(法王帝(118)説に太子の子として馬屋古女王の名のあること參照)、同じ條の「生而能言」、「兼知未然」、二十一年の條の片岡の餓者についての物語、並に上にも述べた二十九年の條の高麗僧惠慈の言といふものなどが、何れも太子の聖者たることを示すために作られたものであること、などは事新しくいふまでもない。(片岡の餓者の物語は、神仙説にいふ尸解仙の話であつて、神仙傳などに多く見えるものであるが、佛家もまた僧徒の神異を語るためにそれを利用したので、高僧傳の佛圖澄、竺佛調、渉公、などの傳にそれが記されてゐる。)それから、二十八年の條の馬子と共に議つて天皇記、國記、臣連伴造國造百八十部並公民等の本記、を録したといふ記事にも、信じがたい點があるといふことは第二篇に述べて置いたが、これについては公民といふ稱呼の上から少しく補説して置く必要がある。
 公民といふ稱呼が公文の上に現はれたのは大化元年八月の詔勅に「國家所有公民」とあるのが初めであつて、其の指すところは一般平民である。さうして、此の詔勅が其の首に、「隨天神之取寄奉」といふやうな、國語の語句を存してゐるところから考へると、當時、實際に宣命せられたものを漢文風に書きかへたものらしいから、公民の語も、やはり、もとからそれに用ゐてあつたものと推考せられるやうである。しかし、二年八月の詔勅には「品部、宜悉皆罷爲國家民、」とあつて、後ならば公民とあるべきところが國家民となつてゐること、二年二月の詔勅の首に「明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓」とあり、三月のの二つの詔勅のいづれにも「集侍群卿大夫及臣連國造伴造並諸百姓等、咸可聽之、」とあつて、續紀に見える宣命の多くには公民となつてゐるところが、こゝではみな百姓と書いてあり、天武紀の十二年正月のもまた同樣であることを思ふと、大化時代に於いて公民の語が一般平民の意義に用ゐられてゐたかどうかは、少しく疑はしい。古事記の垂仁の卷に「淨き公民」とあるのが、開化天皇の曾(119)孫とせられてゐる貴族をさしたものであることも、また參考せられよう。さすれば、元年八月の詔勅の「公民」は後になつて漢文に飜譯せられたときに書き改められたのではあるまいか。もつとも、この「國家所有公民」は「大小所領人衆」と連記せられてゐて、後者は皇族臣下の私有民を指してゐるのであらうから、前者は皇室直屬の民といふ意義とも解せられ、此の詔勅の發せられたのが、まだ私有民廢罷の令の出ない前であることからも、さう見なければならぬやうであるが、皇室直屬の民も其の性質は諸家の私有民と同じであり、また上に引いた二年八月の詔勅の「國家民」は、私有民に對立する意義に於いての、皇室直屬の民をさすものではないから、それらを互に參照して考へると、こゝに斯う連記してあるのは、前記の詔勅の一つに群卿大夫と臣連伴造國造とを並べ稱してあるのと同樣であつて、文章の上から嚴格に解釋すべきものではなく、從つて此の場合の「公民」は、私有民廢罷後の「國家民」の意義に於いて、後人の筆になつたものとするのが妥當であらう。特に二年八月の詔勅には「始於今之御寓天皇、及臣連等、所有品部、宜悉皆罷爲國家民、」とあり、天皇所有の民は臣下の所有の民と同樣に取扱はれ、さうしてそれと同じく廢罷されたのであるから「國家民」が昔からの意義での皇室直轄の民、即ち天皇所有の民、とは違ふ性質のものであることは明かである。從つて公民は此の新しい性質の「國家民」であると解しなければならぬ。「國家」は朝廷もしくは皇室の意に解すべきものでもあらうが、それにしても此の見解に變りは無い。さすれば、公民がかういふ意義に於いての一般平民を指す語と定まつたのは、大化よりは後のことであらう。二年の詔勅の終の「卿大夫臣連伴造氏氏人等」の次に「或本云、名名王民」と注記してあるが、此の「王民」は平民を指すものではなく「氏氏人等」と同意義であることが、詔勅の内容から明かであるから、もし此の語が或る本の記載の如く果して當時の詔勅にあつたとすれ(120)ば、それは古事記に公民の語が上に述べた如き特殊の意義に用ゐられてゐるのと、互に參照すべきことであり、公民の語についての上記の臆測を助けるものであらう。
 さて、推古紀の「公民」が何を指すものであるかは、此の本文だけでは明かでないが、「臣連伴造國造百八十部並公民」のすべてに一々本記として録し得られるほどのことがあつたかどうかが疑はしく、よし有力なる臣連もしくは伴造國造の家に於いては、系譜が作られてゐて、それが本記として採録せられたと想像するにしても、身分ある家のすべてを含むものと解せられる臣連伴造國造百八十部の諸家の外に、一々系譜を有するやうな家々が所謂公民の名を帶びて存在したとは思はれず、伴造と百八十部とを列記するのは重複でもあるから、これは孝コ紀の卷首の即位式の記事に「臣連國造伴造百八十部羅列匝拜」とある如く、諸家を絶稱する場合の習慣上の用語に、更に公民を加へたに過ぎないものであり、さうしてそれは、奈良朝時代の宣命の起首に皇子王臣百官公民と列記する例に從つたものであるらしく、恐らくは書紀の編者の造作に出でたものであらう。なほこのことについては、國記といふものが何であるかをも考へてみる必要がある。大化以前に國といふ稱呼が政治的意義に於いて用ゐられたのは、葦原中國とか豐葦原瑞穗國とかいふやうに我が國の全體をいふ場合か、もしくは國造の領土を指すのか、此の二つの外には無かつたやうであるが、國記の國が前者でないことは、天皇に始まつて臣連以下公民に終る本文の書きかたの上から明かであると共に、後者としては國記の外に國造の本記の記されてゐることが解し難く、また區域の狹小な斯ういふ國について一々「記」が作り得られたとも思はれず、國と同地位にあつた縣などを舍いて國のみを取つたのも、理由がわからぬ。さうして、臣連以下があらゆる家々を總稱したものならば、國もまた我が國の全體を通じての地方區劃を指したもの(121)と解するのが自然であるけれども、大化以前に於いては、事實さういふものが無かつたことを考へれば、國記といふのは「國」が劃一的に地方行政區劃の名となつた大化以後に於いて、始めて考へ得られるものであることが、知られはしまいか。これは、多分、書紀の編者が、所謂本記について諸家を列記したに對し、地方區劃によるものをそこに加へたのであり、其の場合、制度の變化したことが顧慮せられなかつたのであらう。天皇記以下すべて人を本位としたものの間に、それと不調和な、かういふものの插入せられたのは、此の故であらう。(皇極紀の蝦?が誄せられた記事に國記のことのあるのは、事實として信じ難い。もし國記といふものが事實作られてゐて、それがまた此の時に取出されたならば、それは天武朝以後の史局に傳へられ、從つてまた書紀の材料となつたであらうに、さういふものから出たらしい記事は書紀のどこにも見出されない。なほ後文參照。)かう考へて來ると、此の記事の公民の語は一般平民の意義で用ゐられたものであることが、おのづから知られると共に、此の記事の全體が文字のまゝに信用しかねることも、また明かであるといはねばならぬ。何等かの形に於いて皇室や諸家の記録が編纂述作せられたことは、或は事實でもあらうし、もし臆測するならば、此の朝に於いて所謂帝紀舊辭に重大な修補改刪が加へられ、また帝紀舊辭に本づいた諸家の系譜が定められたであらうとも思はれるが、此の記事のやうなものが撰述せられたとは考へられぬ。なほ次にいふ十七條法や經疏の製作のことまで記してある法王帝説のどこにも、かういふやうな記事の見えないことも、一應參考せらるべきであらう。
 これらのことよりも一層重要なのは、十二年の條に記されてゐる憲法十七條に對する疑問である。先づ文字の上から見ると、第十二條に「國司國造」とあるが、國司といふものが大化改新の前にあつたはずはない。國司は國の司、(122)即ち國といふ地方的行政區劃を管治するもの、少くともその事務を掌るもの、の稱呼であらうが、地方が國造(及び縣主)や伴造などの朝廷の貴族やに分領せられてゐた時代には、國といふ名を以て呼ばれてゐてそれを管治する官司のあるやうな、地方的區劃があつたとは考へられぬ。皇室の直轄地はあつても、それが國といはれたやうな證迹はどこにも無い。國といふ地方的區劃は大化改新によつて始めて設けられたものとしなくてはならず、從つて國司もまた同樣である。さうして、國司の置かれたと共に國造は政治的權力を失つたのであるから、國司と國造とを並記して此の二つを同樣に取扱ひ、それに對して同じことを命令するといふことは、それが實際の政務に關する場合である限り、何時の世に於いてもあるべからざることである。從つて、推古朝に於いてかゝることが書かれるはずが無いではないか。また國司國造に對して「勿斂百姓」といつてあるが、この語は其の次に「國靡二君、民無兩主、率土兆民、以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公、賦斂百姓、」といつてあるのを見ると、百姓から租税を徴收しそれを自己の有とするな、といふ意義のやうである。しかし大化改新前に於いては、一定の範圍に於ける土地民衆、即ち國、の領主であつた國造は、當然、百姓から租税を徴收しそれを自己の有とすべきものであつた。だから、國造についてかういふことのいひ得られるのは、國造が政治的權力を失つて領土民衆を有たなくなり、たゞその名稱と政務には關係のない地位とを保有することになつた、大化改新後のことである。改新後に於いては百姓の租税はすべて朝廷に納むべきものとなり、それを徴收するのは朝廷の官吏である國司の任務とせられたからである。「國靡二君」云々の語もかう解することによつて始めてその意義がわかる。國司に對しても同じことがいはれてゐるが、國司は朝廷から派遣せられた官吏であつて、その職掌のーつとして租税の徴收があり、さうしてその租税は朝廷に納むべきものであるから、(123)國造に對するのと同じ意義で「勿斂百姓」といふのは、妥當でない。もしかういふことがいひ得られるとすれば、それは、朝廷に納むべき租税を百姓から徴收してそれを自己の有とするな、といふ意義に於いてのこととするほかはあるまい。さうしてかう解すれば、「國靡二君」云々の語も、國造についていふのとは意義は違ふが、あてはまらなくはない。いひかたにはつきりしないところはあるが、ともかくも大化以後に書かれたものとすれば、この一條は、一應は解し得られる。けれども、推古朝のこととしては全く意味が無い。またこゝでは、國造が「所任官司」と認められてゐるやうであるが、これも推古朝のこととしては事實に背いてゐるではないか。國造は本來、地方の豪族だからである。官司のことについては、なほ第七條に「賢哲任官、……姦者有官、」とも「爲官以求人、爲人不求官、」ともあり、第十三條に「諸任官者、同知職掌、」と見え、また「群卿百寮」の語が第四條にも第八條第十四條にも用ゐてあるが、これらは大化改新以後の官僚政治制度の下に於いて、始めて意味のあることではなからうか。なほ第十二條の上に引いた「國靡二君、……」が全國の地民を悉く朝廷の直轄とした大化以後の制度に適合するものであることは、孝コ紀大化二年三月の條に見える子代入部御名入部を獻じた時の、皇太子の上奏に「天無双日、國無二王、」と書かれてゐることによつても、確められる(皇極紀二年の條の終に、上宮大娘姫王の言として、之と同じ語が載せてあるが、これは妥當ならぬ用ゐかたであるから、論外とする)。或は、こゝに國司とあるのは大化改新以後のそれではなく、たゞ文字の上でさういふ稱呼を作つたのみのことであつて、實は所謂國造縣主、などをいふのであり、群卿百寮の語とても、シナ風の稱呼を用ゐたまでのことであつて、實は所謂臣連伴造などを指してゐる、といふ風に解釋しようとするものがあるかも知れぬが、國造と並記せられてゐる國司は、さうは解せられず、また群卿百寮の語をさういふ世(124)襲的の地位にゐるものと見ては、第七條などは到底解釋ができないではないか。或はまた國司を臨時に國のことを主宰するために朝廷から派遣せられたものと解しようとする考があるかも知れぬが、大化改新前に於いては、國といふのは國造の領土のほかには無かつたから、その國にかういふものを派遣せられたことがあつたとは考へがたいので、さういふことのあつた證迹はどこにも無く、またそれは氏族制度の精神に背くことでもある*。
 また一々の文字を離れて考へても、憲法の全體が、もしそれを中央集權制度官僚政治制度の時代に作られたものとして見れば、官僚に對する一般的訓令としては、支障なく解釋せられるが、氏族制度の時代に適合するものとして特殊の意義を有することは、十七條を通じて其のどこにも發見せられないではないか。氏やカバネに關すること、家々の祖先に對すること、又は所謂伴造の任務、それと民衆との關係、などについての訓戒はどこにも存在せず、氏とかカバネとか又は伴造とかいふ語すらも現はれてゐないのである。これはそも/\何を語るものであらうか。大化改新は一朝にして成つたのではなくして、史上には明徴が無いが、中央集權的官僚政治的傾向は、其の前から、實際の制度の上に、徐々に形成せられつゝあつたので、例へば國司の如きも國造の外に、事實、存在したのである、憲法はさういふ新制度の新精神を鼓吹するために書かれたものである、といふやうな解釋が試みられるかも知れぬ。しかし、國司についてかう解釋することは、上に述べたやうな、國造の領土の外に國と稱せられた地方區劃が無かつたといふ、明かな歴史上の事實に背くことを、除けて考へても、孝コ紀に疊出累見する改新の詔勅が示すところとは、矛盾するではないか。孝コ紀の記載を信用する限り、中央集權制度官僚政治制度は、大化に至つて始めて定められたものと見なくてはならず、大化以後の歴史もまた此の見解を支持するであらう。從つて「國」を地方行政區劃の名とし其の官(125)司を國司と稱することも、大化に始まつたとしなくては、改新そのことが意味をなさぬ。本來「國」を一般的な地方行政區劃の名とすることは、シナの普通の例ではないから、大化の際にさう定めたのは、直接にシナの制度上の稱呼を學んだものとは思はれず、從つてそれは、地方的豪族の領有してゐる一區劃の土地がクニと呼ばれてゐて、其のクニに國の字をあて、其の首長たる豪族を國造と書いてゐた、從來の習慣に誘はれたものらしい。だから、國といふ名稱の用ゐられた點からいつても、國司は國造が政治的地位を失つたと共に設けられたものとしなくてはなるまい。普通には、國司といふものが大化改新前にもあつたやうに考へられてもゐるらしいが、それは、此の憲法が推古朝に作られたといふことを確實と見て、それに適應するやうに、強ひて案出せられた見解に過ぎない。かういふ考そのものには、たしかな根據が無いのである。なほ全體の上から見ると、推古朝に於いては冠位の如き、氏族制度の精神とは一致しない、新制も定められたし、朝廷の儀禮や宮殿の結構が漸次シナ風を帶びて來たことは、勿論、考へられる。また、文書を用ゐるやうになつたことに伴つて、事務の管掌法などの上には幾らかの變改が大化の前から行はれてゐたやうにも、想像せられなくはない。しかし、それは此の憲法に現はれてゐるやうな制度の根本、官府組織の全體に關する大改革が行はれたことを意味するものではないはずである。太子の胸臆には制度の改革に關する何等かの意圖があつたかも知れず、少くともそれについての或る理想的?態が描かれてゐたかも知れないが、よしさうであつたとするにせよ、それが大化に於いて實行せられたやうなものであつたと考へるのは、いふまでもなく妄想であり、從つて此の憲法が、大化に定められたやうな新制度を四十年の前に豫想して、それに適合するやうに作られたものであるとは、何人も觀察し待ないであらう。さりとてまた、太子がかゝる訓令めいたものにょつて新制度の出現を導かうと(126)したとも、思はれぬ。憲法には、例へば第三條第四條第十六條の如き、儒家の所説を其のまゝ書き現はしたまでのものもあり、君と臣と民との三階級を立てて臣は君の命を奉じて民を治めるものとするのも、シナ思想を其のまゝ適用したに過ぎず、其の他の諸條にも、一般的教訓としてより見られない抽象約言辭が多く、第五條に「頃」云々といひ第十一條に「日者」云々といつて、時弊を説いたやうに見える文字はあるが、此の二條に説いてあること、即ち訴訟に對する裁判の不公平と賞罰の宜きを得ないことと、に限つて特に時弊と目ざさねばならぬものであるとは思はれぬから、かういつてあるのもまた實は極めて空疎な言であり、いはゞ一種の修辭に過ぎないことを考へると、憲法に書きあらはされてゐることは實際的意義の薄いものであることが知られるが、たゞ前に述べたところは、如何にしても大化以後の?態を背景にしなくては考へ得られないもののやうである。十七條中、獨斷を戒め衆議によるべきことを説いてある最後の一條は、やゝ特色のあるものであつて、そこに或は何等かの實際的意義があるやうにも見えるが、もしさうとすれば、これは孝コ紀大化二年三月の詔勅に「夫君……不可獨制、要須臣翼、……」とあるのと互に參照すべきものではあるまいか。(この詔勅は君主の專斷を戒めたものであつて、大化改新の如き大變革を行ふ場合に、特に此のことの注意せられたのは、當然であり、さうして、一旦かういふ精神が發揚せられると、それが或る時期の間は持續せられるものである。神代史に八百萬神が神はかりにはかるといふことがあつて、それも或はいかなる時代かの事實の反映であるかもしれぬが、よしさうであるにしても、それは臣下が、特殊の問題に對し、協議して君主を輔佐することをいつたまでであり、大化の詔勅の精神とは同じでない。さうして、憲法に見えるやうなことは、聖コ太子の時代、即ち蘇我氏專權の時代には、何の意味をもなさぬものである。)
(127) 要するに、此の憲法の製作者が聖コ太子であるといふことには、疑を容れなくてはならぬ。かの第十二條に國司國造と連記してあることについては、上に考へた如く解釋はせられるが、しかしそれには、そこでも暗示したやうにいくらかむりなところもあるから、それは或は考へすぎであるかも知れぬ。大化の後の作者が憲法を太子の作に擬したがため、太子の時代に於いて地方的に土地民衆を領有してゐた「國造」の名を想起して、何となく「國司」とそれとを並記しただけのことであり、作者のいはうとしたのは、國司が租税を私することを戒める點にあつたとして、解釋する方が、むしろ妥當であらうか。「國造」の二字を除去し、さうしてそれを大化以後に書かれたものとして見れば、此の一條の意義は、このやうに解釋することによつて、よく通ずるのである。或はまた、天武紀十二年の條に見える詔勅のはじめに「諸國司國造郡司及百姓等、諸可聽矣、」とあつて、國造が國司と列記せられてゐ*、さうしてそれは、國造が政治的權力を失つてもなほ其の稱號とそれに伴ふ一種の地位とを有つてゐたため、一般國民に呼びかける場合に、それを加へたものであることを思ふと、上記の憲法の文字も、さしたる意味は無く、たゞかういふ習慣に從つて國司の次に國造を加へたまでのこととして、單純に解釋することができるかも知れぬ。持統紀元年十月の條の「皇太子率公卿百寮人等並諸國司國造及百姓男女、始築大内陵、」もやはり官民の全體をいふ場合であることを參考すべきであり、當時かういふいひかたが慣例となつてゐたらしく見える。大化改新前の?態を考慮する時には、國造の稱呼から當然聯想せらるべき伴造の名が、憲法のどこにも出てゐないことからも、此の解釋が當つてゐるやうに思はれる。さうして、伴造は國造とは違つて、大化改新以後、全くその地位も稱呼もなくなり、從つて公文の上にも史上の記載にもそれが見えなくなつたことを思ふと、憲法に伴造の名稱の無いのは、よくそれに適合することがわかる。(國司(128)の「國」は大化の改新によつて定められた行政區劃であり、國造の「國」は昔から地方的豪族の領有してゐた土地の區劃であつて、その意義がちがひ、その範圍にも廣狹の差があつて、新に置かれた國はもとの國造の國のいくつかを含んでゐる場合が多く、また國司の長官である國守と國造とは、その地位も同じでなく、國造は國司の治下にある郡司に任ぜられるほどのものであつたから、國司と國造とを連稱するのは、この點からいふと當らぬことであるが、それにはこゝに考へたやうな理由があると共に、一つはことばの上で、又は文字の上で、同じく國といはれてゐるために、かういふいひかたがせられた、といふ事情もあらう。)然らば、この憲法の製作の時期と作者とは、どう考へられるかといふに、其の文字にシナの古典の成語が多く用ゐられてゐて、其の點に於いて續紀に見える詔勅や書紀の文章と類似してゐることを思ふと、かういふことが文筆を掌るものの間に一般の風習となつてゐた時代であることが推測せられ、また内容から考へて、其の作者は儒家の系統に屬するものであつたらうと思はれる。「篤敬三寶」を教へてゐる第二條はあるが、それは太子の事蹟から見ても、製作せられた時代の思想から考へても、作者の如何にかゝはらず、怪しむには足りないことである。聖コ太子の作とはせられてゐるが、佛家から出たものではあるまい。思ふに、太子が聖者として尊崇せられ、またシナの文物を採用して冠位の制などを作り國政の上にも新施設をせられたことが傳へられてゐたため、律令の制定や國史の編纂などを企てつゝあつた時代の政府の何人かが儒臣に命じ、名を太子にかりて、かゝる訓誡を作らしめ、官僚をして歸向するところを知らしめようとしたのであらう。さうしてそれには、或は晉書武帝紀に記されてゐる武帝の六條及び五條の詔書、もしくは岡田正之氏が注意せられた周書蘇綽傳に見える六條詔書の如きものから思ひついた點があるかも知れぬ。多くの詔勅が書紀の編者によつて作られてゐることから類(129)推すると、これもまた同樣に見られないでもないやうであるが、あまりに特殊のものであることを思ふと、上記の如く解するのが妥當であらう。(上に儒家といふ語を用ゐたが、これは嚴密な意味に於いてではなく、むしろ漢學者といふほどのことである。持統紀七年十月の條に「賜大學博士……上村主百濟食封三十戸、以優儒道、」とあるのを學令の規定に對照して考へると、儒教の經典に通じてゐるものが儒者であつたはずであるが、それは必しも學派的意味に於いてではなかつた。さうして、當時のシナの政治や道コの學の中心が儒教である以上、さういふ知識を有するものを儒家といつても大過は無からう。それと共に、彼等が純粹の儒説ならぬ思想を容認してゐても不思議ではなく、佛教に反對しなかつたとしても怪しむに足らぬ。)
 次には所謂三經講説の問題がある。十四年の條に「秋七月、天皇請皇太子、令講説勝鬘經、三日説竟之、」とあり、またそれにつゞけて「是歳、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇太喜之、播磨國水田百町、施于皇太子、因以納于斑鳩寺、」と書いてある。此の二條の記事はそれ/\別の材料から出たものであることが、一つはそれを七月にかけ、一つはその月を示さず別に筆を起して「是歳」の二字を着けてゐるのでも知られるが、後のは其の記載から考へると、多分、法隆寺の所傳から出てゐるのであらう(「施于皇太子」も皇太子を僧に擬した筆法であつて、僧徒の手になつたものであり、「天皇請皇太子」も同じ事情から生じた異樣のかきかたである)。此の二つの記事から推測すると、勝鬘經と法華經とは別の機會に講ぜられたのであり、また播磨の水田の布施は法華經の講説に對するものであつて、勝鬘經のそれとは關係が無いことと解せられる。「是歳」から「納于斑鳩寺」までは同一材料から出た、まとまつた、記事と見るべきものだからである。さうして、法王帝説にも「戊午年四月十五日、少治田天皇請上宮王、令講勝鬘經、其(130)儀如僧也、諸王公主及臣連公民、信受無不嘉也、三箇月之内、講説訖也、」とあり(本文の嘉は喜の誤であらう)、また法華經を講ぜられた話がそこに見えてゐないことを思ふと、書紀の七月の記事は法王帝説の此の條と出所を同じくするものであつて、これもまた僧家、多分法隆寺、の所傳であつたらう(年月が書紀の記載と一致しないことについては、後に述べよう)。たゞ法王帝説には、此の文のすぐ次に「天皇布施聖王物播磨國揖保郡佐勢地五十萬代、聖王即以此爲法隆寺地也、」といふ一節があり、その下に「今在播磨田三百餘町者」と注記してあつて、これもまた法隆寺の所傳であらうと思はれるが、こゝに一つの問題がある。この布施が勝鬘經の講説と關係があるかどうかは明かに示してはないけれども、特に太子に布施せられたとあるのを見ると、此の講説のためとするのが妥當であらうが、もしさうならば、此の所傳とそれを法華經講説のためとしてある書紀の記載とは矛盾するからである。ところが、天平十九年に勘録せられた法隆寺縁起資財帳には、經の講説について法王帝説の記載とほゞ同じ文がありながら、「勝鬘經」の三字が「法華勝鬘等經」の六字になつてゐて、「播磨國佐西地五十萬代」の布施は其の講説に對するものとしてある。さうして、此の「等」の字によつて維摩輕の名が省略せられてゐることは、この文の次に記されてゐる太子の語といふものに「法華維摩勝鬘經」云々とあるので明かである。
 そこで考へるに、もし縁起のいふところが古くからの寺傳であつたならば、法王帝説や書紀の史料の一つに勝鬘經のみを擧げてあることが、甚だ解し難い。二書の記載は、やはり、法隆寺の所傳から出たものと推せられるからである。さすれば、これらは寺傳そのものに變化があつたことを示すものではなからうか。法王帝説の記載の材料となつたものが何時書かれてゐたかは、知り難いが、布施のことについては、其の土地が寄進せられた時の記録などによつ(131)たものとは思はれぬ。地積を記すに「代」の語を用ゐてある點に於いては、大化改新前のもののやうにも見えるが、其の數を五十萬としたのは、決して實際の計算によつたものではないからである。(法王帝説の編纂年代も明かでないが、其のうちに、記述の時代を異にする種々の材料が含まれてゐることは、全體がまとまつたものでなく、例へば法隆寺の佛像の光背の銘が寫しとつてある如く、材料が材料のまゝに羅列してあること、また例へば蘇我伊奈米宿禰が宗我稻目足尼とも書かれ、穴穗部が穴太部とも孔部とも記してある如く、同じ名に異なつた文字が用ゐてあること、特に太子薨去のことを記した後の數條は後から補足したものらしく見えること、などから知られ、さうして、最初の系譜の如きは、推古朝を距ること遠からざる時代に書かれたものによつて記されてゐるかと思はれるが、終の方の部分には、そこに近江天皇の名の出てゐることから考へると、早くとも天智朝より後のものから採つたところのあることが明かである。從つて、此の書の記載の記述年代は、各條毎に其の内容によつて考察する外はない。)けれども、法王帝説の所説を縁起の記載と對照すれば、前者が後者よりも前に書かれたものであることが、ほゞ知られるやうである。それは、法王帝説にある「三箇日之内講説訖也」の一句が縁起には見えないが、これは、勝鬘經のみの講説としてはともかくも、法華維摩をも含んだ三經の講説としては期間が短か過ぎるため、それを削つたものとして考へ得られること、法王帝説には法隆寺に納入せられたとしてある播磨の地の五十萬代を、縁起には法隆寺と中宮尼寺と片岡僧寺との三寺に分入せられたやうに書いてあるが、法王帝説にそれを三百餘町としてあるのと、資財帳に法隆寺の部分を二百十九町一段八十二歩としてあるのとは、畢竟、同じ土地をさしたのであつて、法王帝説のは大數を擧げたものと認められるから、所謂五十萬代の三分説は後からの造作と見るべきものらしいこと、などによつて推測せられ(132)る。(五十萬代は、田令集解及び政事要略に見えるやうに五十代を一段の割合にすると、一千町に當る。だから、古い記録に五十萬代とあるのと實際の地積が二百十九町餘であるのとを結びつけて説かうとしたため三分説が作られたのであらう。其の實、五十萬代が甚しく誇張せられた非實際的の數である。)
 さてかう考へて來て、經の講説に關する書紀の記載を見ると、それは恰も兩者の中間に位する説のやうである。法華經の名が出てゐると共に維磨經の見えないこと、其の法華經の講説が勝鬘經のとは別に記されてゐて、縁起の如く結びつけられてゐないことにょつて、それが知られる。(法王帝説の「語王公主及臣連公民信受無不喜」の一句は書紀に見えないが、これは、書紀には法王帝説と共同の材料を其のまゝ寫しとつてあるのに、法王帝説の編者は此の一句を附加插入したからであらう。講説が何處で行はれ聽講者が何人であつたかは、明かに記してないが、「小治田天皇請上宮王」とある以上、それは天皇のために説かれたと見るのが當然であるから、よし諸王以下が陪聽したとしても、それを主にして斯う書いてあるのは甚だ不自然である。だから、此の一句はもとの材料には無かつたに違ひない。此の一事については法王帝説の方に後の分子が加はつてゐるが、それは上記の考説を妨げるものではない。なほ「小治田天皇」といふ書きかたにも問題があるので、これは正しくは「小治田宮御宇天皇」とすべきものであるのを、かう書いてあるのは、比較的新しい時代の筆になつたものであることを示すもののやうであるが、書紀の完成せられた時よりも前にかういふ書きかたが行はれてゐたとすることに、支障は無からうと思はれる*。さすれば、太子の講説は、初は勝鬘經のみのこととして傳へられ、次に法華經が加へられたが、それは勝鬘經とは別の場合のこととして語られ、最後に更に維摩經が添へられて、而も三經が同時に講ぜられたことになつたのであらう。また、土地の寄進について(133)は、書紀の説も、法皇帝説のと同樣、縁起の説の前に作られたものであることが推測せられるが、それと法皇帝説のと、矛盾した二つの説のあるのは、どちらも事實ではなく、強ひて法隆寺領の由來を太子の講説に附會しようとして作られたからのことであらう。播磨の水田は、本來、太子が法隆寺の所領として定められたものであらうが、それが後になつて、或は勝鬘經の、或は法華經の、講説に對する太子への布施として語られるやうになり、更に一轉して、三經講説のための布施とせられたと共に、三寺へ分入せられたことになつたものと解せられる。太子が布施を得られたといふことが、そも/\信じ難い話である。さうして、此の三寺分入説は三經講説の話と三の數に於いて連絡があると共に、其の成立には五十萬代といふ非實際的な數字が便宜を與へたらしい(書紀に百町と記してあるのは、其の材料に五十萬代とあつたのを、漫然、書きかへたものに過ぎなからう)。要するに、書紀と法王帝説と縁起資財帳との互に齟齬する記載は、太子の講經に關する説話が歴史的に變化して來たそれ/\の迹を示すものである。
 然らば、勝鬘經を講じたといふ最初の説は事實を語つたものであるかといふに、それは單純には肯定し難い。經が如何に講ぜられたかはわからぬが、佛家の經典の因襲的解釋法を離れてゐたとは考へられず、從つてそれが專門家ならぬ聽講者の理解し得られるものであつたかどうか、また經としては短篇のものであるにせよ、それが三日にして講じ得られたかどうか、問題だからである。講説の場所の記してないことも、また此の話の眞實を疑はしめる一理由となるのである。なほ特に此の經の説かれたことが、佛を神として現當二世の安樂を祈願し、法隆寺の釋迦像の光背の銘に見える如く、釋迦の尊崇に於いてさへもそれが主となつてゐた當時の實際の信仰と、如何なる關係があつたかといふ點にも疑があるが、天皇が女性であらせられたといふことと勝鬘經とを後から結びつけるのは可能であることを(134)も、考へねばなるまい。さうして・法華維摩二經の次ぎ/\に加へられたのは、勝鬘經と共に、其の疏がシナに於いて種々撰述せられてゐ、それが我が國にも傳來して學匠間に尊重せられたからであるとすれば、自然に解釋せられよう。講經といふことは、信仰の點よりも學問の方面に於いて意味があるのであるから、太子に關する説話も學匠の側で作られまた發展したものと推測し得られるからである。なほ、勝鬘經の講説について法王帝説に、諸王公主臣連公民の參聽したやうに記してあるのは、釋尊説法の道場にあらゆる階級のものが集會し齊しく歡喜したといふ話に倣つて構想せられたものであり、諸王から公民までを列記した其の書きかたは、宣命などの例によつたものであらうが、「公民」の名の見えることから考へると、それは大化改新の後、ほど經てから書かれたものであらう。要するに、太子の講經の話は事實として信じ難いものであつて、それは、多分、齊の竟陵王や梁の武帝などの故事を想ひ浮かべて佛家の造作したことであらう。
 更に附記する。書紀には太子が三經義疏を作られたといふことは、全く見えてゐない。法王帝説には、上に引いたところとは別の條に、「造法華等經疏七卷」とあるが、法華經の他の經の名は記してなく、さうして、この記載は勝鬘經講説の記事とは別の材料から出てゐることが、本文の書き方から推測せられる。ところが、資財帳になると、明白に法華經疏四卷、維摩經疏三卷、勝鬘經疏一卷を太子の作としてあつて、これが上に述べた三經講説の説に應ずるものであることは、おのづから推測せられる。こゝにもまた、かういふ話の歴史的に變遷して來た迹が見られるのではなからうか。法王帝説の記載はその文章が立派な漢文であり、またそこに金人來教などの説話が記され、高麗僧慧慈が本國で太子の薨去をきいたといふ話の冒頭に「?上宮御製疏、還歸本國、流傳之間、」といふことさへ記してあるの(135)を見ても、新しい時代に書かれたものであることは明かであるが、その帝説にも三經の名の明かに記してないことを考ふべきであつて、これは經疏が三經についてのものとせられる前の段階にあるものと考へられ、從つて三經義疏製作譚はかなり後になつて世に現はれたものであらう。(慧慈が經流をもつて本國に歸つたといふことは、本國で太子の薨去をきいたといふ、法王帝説にあるのと同じ話を記してある書紀にも見えてゐないから、書紀の取つた材料にはこのことが無く、法王帝説のは、同じ材料を用ゐながら、それを書き加へたものと推測せられるので、それは上に述べた講經の話に諸王以下の參聽のことのあるのと同じである。)なほ經疏製作の話を憲法制定のそれと對照して見ると、經疏のことは、法王帝説のやうな段階にある説すらも、書紀にはまだ見えてゐないから、憲法制定説話よりも後に現はれたものであらうと一應は考へられる。太子についてあれほど傳説的なことまでも記し、特に二經講説の譚を載せてあるほどな書紀にそれが見えないことも、この考を助けるやうである。しかし、法王帝説には太子薨去の記事の前に、憲法制定説話が無くして、經疏製作のことのみが見えてゐるから、それによると、憲法の話よりも前に經疏の物語が作られてゐたやうに考へられるかもしれぬ。法王帝説と書紀との記載は、このやうに反對してゐるごとく見られるが、書紀も帝説も種々の材料から編纂したものであり、また何れも一時にできたものではないから、そのうちの記事に現はれてゐる説話の作られた時代を考へるには、今日の形での二書を單純に比較したのでは妥當な見解は得られない。長い年月の間の經過がいろ/\に想像し得られるのである。が、何れにしても、書紀があれほど太子のことを書いてゐながら、經疏製作のことを全く記さなかつたのは、この話が書紀の今の形を具へた時によしあつたにしても、新しく世に現はれたものであり、少くとも廣く知られてゐたものではなかつたからであらう、とは考へられよう。或(136)はまだ現はれてゐなかつたかもしれぬ。憲法は多分天武朝ころの製作であらうが、經疏の話は、帝説に見えるやうな程度のものでも、奈良朝に入つてから作られたものではあるまいか。また經疏を三經義疏とした話についていふと、それが作られたのは三經講説の物語の發展と見なければならず、從つて三經講説の物語よりも後に現はれたものとすべきである。書紀に講經の物語があつて經疏製作の話の全く無いのも、講經と經疏製作との關係の點に於いては、この推測と調和するものと見られよう。さうして三經講説の話が歴史的事實を語つたものでないとすれば、この點から考へても、三經義疏製作の話が事實を傳へたものでないことは、おのづから知られるやうである。
 さて、今日に傳へられてゐる三經義疏は資財帳に見えるそれであらうが、この義流が果して聖コ太子の作であるかどうかは、別に其の内容批評の上から、即ち六朝末から隋唐にかけてのシナに於ける三經解釋の歴史的發達の過程に於いて義疏の所説が如何なる地位を有すべきかを研究することによつて、それを決定する何等かの材料を供給することができるかも知れぬ。法華經義疏についていふと、それには提婆品が含まれてゐず、また、光宅法雲の説は引いてあるけれども、太子と同時代である天台の智によつて顯揚せられたやうな思想はそこに見えないらしく、全體に古い面影のあることは認められる。しかし、法王帝説に見える經疏に關する記事の書かれた時、また法隆寺縁起の勘録せられた天平時代より前、に於けるシナの經疏の將來や學説の傳承の?態を明かにしない以上は、單にこれだけのことで現在の義疏を太子の作として肯定することも、むつかしからう。かういふ問題については、時の前後のみでなく、それよりも寧ろ學派的傳承の方が重要だからである。(後世になつていろ/\に作り重ねられた太子傳説の上に現はれて來る義疏の製作や經の傳來に關する話の如きは、此の問題には固より關係が無い。太子の法華經に關する知識ま(137)たは所持の經を南岳慧思もしくは南岳の寺院に結びつけた話の如きは、天台の學派の思想が我が國に入つて來た後に作られたものである。)また一般的には、當時の漢文を書く技能の程度、シナ思想及び佛教教理の學習及び理解、特に經典の解釋の方法についての知識、の?態に於いて、果してかゝるものが作られ得たかどうかを、歴史的見地から觀察する必要があり、もし我が國の佛教史の初期に於いて早くも突如としてかゝるものが現はれ、さうして此の類の著作が其の後の或る年月の間、全くその迹を絶つたとするならば、其の理由について十分の説明をしなければならぬことをも、考へねばならぬ。高麗僧慧慈の力がはたらいてゐるだらうといふ臆測も加へられようが、然らばそれを太子の作とすることにどれだけの意味があるかを明かにせねばならず、當時來朝した高麗僧がどれだけの學識を有するものであつたかをも顧慮する必要があらう。聖コ太子を聖者とし、權者とし、歴史を超越したものとするならば、ともかくもであるが、歴史の世界に生活した人として見る場合には、是非とも此の點についての慎密なる考察を要する。なほ、專門に經典を講習すべき僧徒ではなく、攝政の地位にあつて何ほどか實務にも關興し、若しくは國家の重きに任じて其の經綸に志があつたと考へられてゐる太子が、義疏に見えるやうな煩瑣な學究的講説、實生活に對しては勿論のこと、佛教そのものについても、現當二世の安樂を祈る外は無かつた當時の生きた信仰とは寧ろ交渉の少い、かかる述作をすることに何の意味があつたかを考へることをも、忘れてはなるまい。が、今はたゞ書紀の記載の上に於ける上記の事實を注意するにとゞめる。(佛教の弘通と共に、長い間、權者として尊崇せられて來た聖コ太子が、江戸時代になつてから儒者や國學者にひどく攻撃せられたことは、周知の事實であるが、一つは其の反動でもあり、一つはシナ式名分論が歴史の解釋から遠ざけられ偏固な排外思想が消滅したからでもあり、また一つは、文化に重きが(138)置かれるやうになり、特に佛教とその藝術とに對する理解と好尚との發達した、思想の變遷にもより、明治時代末期からは太子に對する尊崇が一般に復活した觀があるが、其の尊崇には、どこやらになほ古い權者觀の面かげが遺存してゐるのではなからうか。もしさうとすれば、太子の人物と其の事業とを冷靜に檢討することによつて、歴史的人物としての太子の正當の地位を定めるのは、今日の史家の任務であらう。)
 以上指摘した如く、用明、崇峻、推古、の諸紀に於いても、事實の記録として信用し難いもの疑を容るべきものは、少なくない。其の他にも机上の製作と認められるものはあるが、考説の便宜上、それは後にゆづることにする。しかし、其の間に確かな記事のあることもまた勿論であつて、其の重要なるものを擧げると、十一年の條の冠位の制定、十年の條の觀勒、十八年の條の曇徴の來朝とそれに伴ふ種々の學藝技術の傳來、十五年十六年の條に見える隋との交通、二十六年の條の高麗からの報告、の如きがそれである。これらの記事に對しては、疑を容るべき點が無いからである。たゞ十六年の記事に隋を唐と記したり、裴世清の携へて來た國書に倭王としてあつたと思はれるのを倭皇と改めたりしてあるやうに、幾らかの修飾が加へてあることを考へる必要があるのみである。藥獵といふ特殊の遊戯に關する記事も、また事實に違ひない。さうして、推古紀にかういふ記事のあるのは、其のころに作られた記録があり、それが史料として用ゐられた故であらう。書紀編纂の時には隋書が舶載して來てゐたので、それは雄略紀の編者が此の書の記載を取つてゐることから明かであるが、それにもかゝはらず、隋との交渉に關する推古紀の記事に於いて、此の書を參考したらしい形迹が見えないことをも、考ふべきである。(我が國との交渉に關する隋書の記載は、本紀と列傳とに所謂朝貢の年について齟齬する點があるが、列傳のは書紀と一致する。しかし、列傳に見える開皇二十年の(139)は書紀には無く、書紀にある推古二十二年の遣使は隋書には記してない。開皇の遣使も事實であらうが、それは我が國の史料に記載が無かつたのであらう。隋書に所謂倭王を男性のやうに記してあることには疑問があるが、これは、此の時の使者が一般的に天皇の尊稱を語つたからのことらしい。タリシヒコが天皇の特殊の稱號として公式に定められたものであつたかどうかは明かでないが、此のころには一般に尊稱として用ゐられてゐたらしく、オホヤマトタラシヒコ、オホタラシヒコ、ワカタラシヒコ、タラシナカツヒコ、といふ稱號は此の普通名詞を其のまゝ固有名詞としたものに違ひない。)一方にはさういふ記録があつたにかゝはらず、上記の如き造作せられた記事の少なくないのは、或は聖コ太子に關するものの如く、太子を聖者とするために作られたものが材料となつたからであり、或は新羅に關するものに見える如く、書紀の編者に特殊の意圖があつた故でもあると共に、また正確なる記録が少く、それのみでは毎年の記事を作るに足らなかつたためでもあらう。開皇二十年の遣使が漏れてゐることも、記録の不完全を示すものである。なほ、記事そのものは事實であつても、それを記してある年月は必しも信じ難いことを、注意しなければならぬ。後にいふやうに、此のころに於いても、書紀の紀年は決して正確ではないからである。因にいふ。推古紀の三十一年が空白になつてゐることについては疑問がある。敏達紀以後は毎年必ず記事のあるのが例であり、推古紀に於いても、それがために強ひて記事を造作した形迹が明かに見えるほどだからである。これは轉寫の間に生じた混亂とも考へられるが、しかし、岩崎家の古寫本には普通本の三十二年から三十四年までをそれ/\三十一年から三十三年までとしてある代りに、三十四年が闕けてゐるのを見ると、かなり古い本にも記事の無い一年があつたらしい。集解が三十二年と三十三年とを三十一年と三十二年とに改め、三十三年を空白にしたのは、普通本をもとにしてのこ(140)とであるが、かう改めたのは干支の記載に對する本文批評から來てゐるので、そこに推古紀の原形如何を考へる、一歩進んだ、問題が潜んでゐる(後章參照)。
 舒明紀以後になつても、書紀の記載に事實の記録と認められないもののあることは、やはりこれまでと同じである。が、これから後には、造作せられた記事にも二三の特色がある。其の一は水旱、其の他季節はづれの氣候、などに關するものであつて、舒明紀八年の條の「夏五月霖雨大水」、「是歳大旱」、十年の條の「九月霖雨、桃李華、」の類がそれであるが、これは實は推古紀から始まつてゐるのであつて、其の三十四年と三十六年とに、同樣の記事がある(上に推古紀の机上の製作とすべき記事について後にゆづるといつて置いた一つはこれである)。しかし、其の最も頻繁に現はれてゐるのは皇極紀の元年と二年とである。單純に考へると、これらは文字のまゝに承認すべきもののやうであり、天武紀持統紀などにも類似の記事があつて、それらは事實の記録として見るに何等の支障が無いことから類推しても、さう解せられさうである。けれども、上記の短い時期に於いて特にかういふ記事があるといふこと、其の中には、例へば九月の桃李華の如き、實際からいへばさして異常とすべからざるもののあること、などを思ふと、さうばかりは見ることができぬ。特に皇極紀元年十月の條の「是月、行夏令、無雲雨、」また二年二月の條の「是月、風雷氷雨、行冬令、」や三月の條の「是月、風雷雨氷、行冬令、」などに於いて、シナの時令の説の一知半解な、怪しげな、適用のあるのを見ると、一層これらの記事の眞實さが疑はれる。政令は四時に應ずべきものであつて、もし王者がそれを過まれば季節の推移に錯亂を生じて自然界の現象に異變が起る、といふのが、所謂時令の説であるが、それは故らに季節に應ぜざる夏令とか冬令とかを行はんとして行ふものではなく、また勿論、自然界の異變によつてそれに應(141)ずる時令を行ふべきものではない。のみならず、時令といふものは單なる思想上の所産であつて、事實、さういふものの行はれたことはなく、行はれ得るものでもないのである。だから、かういふ記事が机上の製作であることは明かである。さすれば、かの「桃李華」なども、やはり此の思想から、時を失した現象として、作られた記事らしく、さうしてそれは、「春秋」をはじめとしてシナの歴代の史籍のさういふ記事を模倣したものに外ならぬのであらう。かう考へると、推古紀二十八年の條の赤氣の見えたことも、また同じところに由來があり、かの地震の記事の如きも、恐らくは事實ではあるまい。
 其の二は、「時人曰」として記してある時事に對する批評であつて、これも崇峻紀の卷首、推古紀二十年三十一年などに既に見えてはゐるが、舒明紀になると、卷首に歌の形によつたものがあり、皇極紀には二年の條に童謠の説明、三年の條に歌があり、孝コ紀大化三年、齊明紀二年、天智紀六年七年八年にも直截なる批評の言がある。皇極紀三年、孝コ紀大化元年及び三年、白雉五年の「老人」、「老者」、齊明紀六年の「國老」、皇極紀四年の「或人」のも、それと同樣に見るべきものであるが、天智紀八年には「時賢」と書いてある。「時人」の言といふものの記されてゐるのは、必しも此のころに始まつたのではなく、崇神紀、景行紀、仲哀紀、神功紀、仁コ紀、履仲紀、允恭紀、などにも其の例があつて、特に崇神紀六十年のは舒明紀卷首のと同じやうな歌の形による批評の言であるが、其の他にはさういふ特殊の意味のあるものが殆ど無く、また其の後の卷々には、時人といふ語すら殆ど見えなくなつてゐたのに、こゝに至つてまたそれが現はれ、舒明紀六年九年、皇極紀四年、などの少數の例外を除けば、何れも種々の形に於ける時事の批評として記されてゐる。さて、崇峻紀、推古紀、舒明紀、などのかういふ記載は、其のまゝ事實の記録としてよ(142)いやうにも見えるが、皇極紀以後のは、それが多く前兆の解釋もしくは豫言となつてゐるのみならず、童謠とも密接の關係があつて、其の意義を説明してゐる場合が少なくないのであるから、さういふものの性質を明かにしてからでなくては、それが事實であるかどうかを判斷することはできぬ。
 童謠もまた此のころに至つて現はれたものである。崇神紀十年の條の少女の歌といふものは、やはり童謠の意味で擬作せられたものであらうが、それから後は全く見えなくなつてゐたのである。ところで、明白に童謠として記されてゐるものは、皇極紀二年の條のが其の初めであるが、三年の條の猿の歌といふものも、やはり同樣に取扱はるべきものである。此の猿の歌は、民謠として世に歌はれてゐたらしいことが「さきてぞもや」のくりかへしからも、結句の終に「もや」の語が添へてあることからも、推測せられるが、其の内容が男女の情事に關するものであることは、一暦それを確かめる。これは戯れかゝる男を却ける女の歌として解すべきものだからである。(?古禰の禰は、橘守部の稜威言別に説いてある如く、デの音にあてたのではなからうか。次の歌に禰がネの假名に用ゐてはあるが、騰を此の歌にはトに、次の歌にはドにもあててあるやうに、文字の用法は一定してゐない。なほこの歌にある泥の字はデの假名として用ゐてあるので、その意義は手であらうが、同じ字が仁コ紀三十年の條及び顯宗紀卷首の歌にはネの音にあててあり、仁コ紀卷首の歌には、こゝのと同じくデとして用ゐてあることを、參考すべきである。)この歌はこゝに記してあるやうな、上宮王の戰敗の前兆を示すものではない(書紀の記載の上からは此の歌が前兆の用をなしてゐないが、これは、此の歌のすぐ後に記してある巫覡の話が二年の條のと重複してゐることと共に、編者の記事整理の手落ちから來てゐるのかも知れぬ)。また其の次に記してある三首の謠歌の第二第三も同じ性質の短歌であつて、第(143)二のはわが情事の人の噂に上つたことをいひ、第三のは女が家もおもても知らぬ男に誘はれて林の中であうたことをいつたものであり、四年の條に見える「或人」の解釋の如き豫言でないことは、明かである。(第一のは短歌の第三句以下を採つたものであらうが、初句と第二句とを省いたのは、豫言とするに都合がわるいからでもあらうか。但しこれは戀歌らしくは見えぬ。)それから、天智紀九年の條のは、連續してゐる二首の短歌であつて、第二首は第一首のはじめの二句をかへたまでのものであるが、これもまた歌垣か何かに女を誘ひ出さうとする意義のものであり、十年の條の終に見える三首の歌の第二と第三との短歌もまた戀歌であつて、特に第三のは萬葉十二の卷にそれが載つてゐることからも、このことは知られるが、第一の民謠體のも、多分同樣であらう。(皇極紀三年の條の三首の謠歌の第二第三、また天智紀九年の條の童謠は、短歌の形によつて作られた民謠らしいが、其の他の同じ形のものは、必しもさう見がたい。)戀歌ではないが、天智紀十年正月の條の「橘は」云々といふのも、文字の如く橘の實を詠じたものである。なほ、齊明紀六年の條の童謠も、農夫の間に行ほれてゐた民謠であらう。ところで、上に述べた皇極紀の童謠が前兆もしくは豫言として用ゐられてゐるのは、シナ思想によつたものであつて、古い例をいへば左傳の僖公五年の條にそれがあり、歴代の所謂正史の五行志に詩妖として記されてゐるものの多くは、やはり其の例である。童謠といふ稱呼も、實はそれらの典籍の用語を學んだものに過ぎない。また晋書の五行志には「識者曰」として童謠を説明してあるが、書紀の「時人」の言は即ちそれに當るものである。しかし、事實さういふ意味の童謠があつたのではないから、民謠もしくは何人かの作つた短歌、其の多くは兩性の關係を歌つたもの、を採つてそれに充て、強ひてそれを童謠と名づけ、また「時人」の言に託してそれに前兆の意を附會したのである。皇極紀二年の條の童謠もまた前(144)兆として解釋せられてゐるが、これは戀歌ではないけれども、やはり別の意義の短歌を適用したものであることが、他の例から類推せられよう(この歌のもとの意義は解し難い)。なほ、前兆や豫言の意は無いが、時事の批評として童謠を用ゐることもあるので、天智紀の橘の歌の如きは、多くの百濟人が位階を授けられたことに對する民衆の感想を現はしたものとして利用せられたのであらう。童謠をかういふ意味に用ゐることも、また左傳に例があるので、宣公二年の條などにそれが見えるが、同じ天智紀の六年の條に近江遷都のことを記して「天下百姓、不願遷都、諷諫者多、童謠亦衆、」といつてあり、童謠と諷諫とを結びつけてゐるところに、編者のさういふシナ思想を學ばうとした形迹が明かに現はれてゐる。(神武紀の「諷歌倒語」もやはり此の思想から來てゐる。)しかし、時事に關する書紀の童謠は、批評ではあつても必しも非難や諷刺には限らないので、舒明紀の卷首、皇極紀三年の條の「時人」の歌は其の例であり、特に此のうちの後者は秦河勝を賞讃したものである(これらの歌は、記載せられた事件に適合するやうに、書紀の編者の製作したものであらう)。かの橘の歌の如きも、守部などの解釋してゐる如く、天智天皇の百濟人登用を非難するために用ゐられたものとは思はれず、それ/\特異な學藝に長じてゐるものが同じく位階を授けられたとして、百濟人を賞讃した意義にそれをとりなしたものであらう(江戸時代の國學者は、其の外國排斥の思想、儒學嫌惡の感情、を以て歴史を觀てゐたため、天智天皇の政に對しては概ね不滿を懷いてゐたので、此の歌をも其の意義のものとして解釋したのであるが、それは決して書紀の編者の意圖ではない)。童謠に時政に對する讃美の意を寓したものは、シナにも其の例が無いではないが、それはむしろ稀であるのに、書紀にさういふもののあるのは、知識の上に於いては童謠を諷諫として考へながら、實際には、さうばかり取扱ひ得なかつたことを示すものらしい。なほ、上(145)に戀歌であるといつた天智紀九年及び十年の條の童謠、及び齊明紀六年の條のは、前兆もしくは諷諫の意をそれに附會するつもりであつたかどうか、本文には記してないから、知り難いが、多分さういふ意圖の下に記載せられたのであらう。更に一歩を進めていふと、天智紀のは壬申の亂の前兆とするつもりであつたことが、次にいふやうに、他の形に於いての同じ意味の前兆が其の前後に記されてゐることから、推測せられるやうである。童謠のみが見えてゐるのは、それについての説明を書かうとして書かなかつたのかとも思はれるが、或は後にいふ例のやうに、書紀の稿本には其の説明のあつたのが、削り去られ若しくは遺脱したのかも知れぬ。書紀には此の如き杜撰のことが少なくないからである。さて、民謠もしくは短歌、特にそれらの戀を歌つたものが舊辭の種々の物語、其の多くは戀物語、に利用せられてゐることは、既に上に説いたところであつて、書紀にもそれが採つてあるが、物語ではなくして、政治的意味を有する記事を作るためにそれが用ゐられ、而もそれがシナの史籍の摸倣であるところに、舊辭の作者とは違ふ書紀の編者の用意があつたのである。
 童謠の形によらない前兆の記事もまた、このころに多い。皇極紀四年、孝コ紀大化元年二年、白雉五年、及び天智紀五年、の諸條には、遷都もしくは築城についての前兆の記事が見えるが、第一のの外は何れもそれが鼠の移行である。また齊明紀四年六年、天智紀卷首及び元年、の諸條には、百濟または高麗の滅亡もしくはそれに關する我が救援軍の敗績についての前兆が記されてゐる。このうちで皇極紀四年、齊明紀四年、の記事には、前兆であることの説明が「舊本」もしくは「或本」の説として注記せられてゐるが、これらの本は後にいふやうに何れも書紀の稿本らしいから、本文にそれが記されてゐないのは、最後の整理の際に削られたのか遺脱したのかであらう。また天智紀五年の(146)にはかういふ注記も無いが、それが前兆として記されたものであることは、同じく鼠の移行を記してある他の例と翌年に遷都の記事のあるのとから、推定せられる。ところで、鼠の移行が遷都の前兆であるといふのは、集解に引いてあるのでもわかる如く、魏書武帝紀の記事を取つたものに違ひないが、それが三回までも用ゐられてゐるところに、書紀の編者の態度もしくは知識の程度が見える。また齊明紀四年のが「馬自行道於寺金堂」とあつて、其の寺の名が記されず、六年の「擧國百姓無故持兵往還於道」にいふ「擧國」が何處をさすものとも見えぬ抽象的の語であることによつても知られる如く、前兆とせられてゐることが何れも事實でないことを考へると、これらもまた左傳以來のシナの史籍の例によつてかゝる記事を作らんがため、強ひて案出せられたものであることがわかる。(皇極紀の二年と三年とに重複して記されてゐる巫覡の話に「國内」とあるのも、此の「擧國」と同じかきかたであつて、それは「橋」がどこの橋かわからぬことと共に、此の話のつくりごとであることを示すものである。かういふ例は、後にいふやうに、他にもある。)たゞ天智紀元年のは、釋道顯の占によつて前兆たることを知つたといふのであるから、全くの虚構ではないやうに見えもするが、それが後年の事件を的確に豫言してゐるところから考へると、さう考ふべきものではなく、書紀の編者が高麗の僧であるといふ道顯の名を借りてかゝる記事を作つたに過ぎないことが知られる。さうして、かういふ風の豫言もまた左傳をはじめとしてシナの史籍に累見するものである。また、天智紀九年の「邑中獲龜、背書申字、上黄下玄、」は、集解の説の如く、天地の位を易へたことの現はれとして記されたものであつて、壬申の亂の前兆と見られ、十年の條の「八足之鹿生而即死」及び「有?子四足者」、また「大炊省有八鼎鳴」も、同じ書に引いてある宋書及び漢書の五行志の言によつて、變亂の徴と解せられるが、これらの所謂咎徴もまた、史上のすべて(147)の前兆が後人の造作であると同樣、事實の記録でないことは、いふまでもなからう。龜を獲たところを「邑中」といふ抽象的な語で書いてあるのが、上記の「擧國」などと同じであることをも、考へるがよい。書紀には前兆たることを示す文字は無いが、記載の内容から見て、さう解するのが當然である。なほ、こゝに附記すべきは、所謂休祥に關する記事であるが、舒明紀七年及び皇極紀三年の條に見える一莖二花の瑞蓮の如きは、上に述べたやうな咎徴の記事から類推しても、机上の造作と見るのが妥當であらう。たゞ孝コ紀の有名な白雉については、さういふ名によつて何かの鳥の獻上せられたことは事實としなければなるまい。白雉が祥瑞であるといふ、文字から來た、知識が先づ存在し、それに適應するやうに企畫せられたことには違ひないが、獻上の事實を疑ふことはできぬ。しかし、それは祥瑞に關する記事のすべてが事實であることを示すものではない。
 さて、かういふ童謠や前兆が「時人」や「老人」によつて作られたり説明せられたりしてゐるのを見ると、直截に時事を批評してゐる「時人」の言も、また、眞の時人の言ではないことが類推せられる。さすれば、齊明紀二年の條に天皇が土木を起されたことを謗り、天智紀七年の條に「天皇天命將及乎」といひ、八年の條に築城を止められたことを感歎したとある「時人」の言なども、みな書紀の編者の造作したものに違ひない。このうちの第一のと第三のとは、いふまでもなく、シナ式政治思想から出たことであり、第二のもまた左傳に?見える一種の豫言である。「時人曰」は實は左傳の「君子曰」を摸倣したものであらう。(書紀の編者が左傳を摸倣したことは、持統紀元年及び二年の條の記事に「禮也」といふ語を添へたところのあるのでも知られる。)なほ考へるに、天智紀八年のは、同じ條に、其の年の冬に築城が行はれたとあるのを見ると、止められたといふ記事そのものが既に事實であるかどうか、疑(148)はしい。齊明紀のは、記事から推考すれば、朝鮮式の山城を築造せられたもののやうに見え、さういふことが此のころに行はれたとしても深く怪しむには足らぬが、皇極紀に於いては毫も天皇に對する非難の聲が聞えないのに、齊明紀に至つてそれが生じてゐるのは、此の紀の即位の後と崩御の時とに、恰も首尾相應ずるものの如く、怪異の記事のあることと共に、次にいふやうな編者の意圖の現はれであるかも知れぬ。四年の條にある蘇我赤兄の言といふものは、此の時人の批評と一致してゐるやうであるが、其の次に注記してある二種の「或本」にはそれが無いのであるから、これもまた史料とすべき何かの記録から出た記事であるかどうか、甚だ疑はしい。また天智紀のは、此の豫言が甚だ唐突に記されてゐるので、其の意のあるところがわかりかねるが、これもまた書紀の稿本には其の根據とせられた記事のあつたのが本書では削られてゐるのではないかと思はれる(或は此の豫言は「於濱臺之下、諸魚覆水而至、」といふ、やゝ怪異の觀のある、記事の次にあるべきものではないかと臆測せられないでもないが、此の記事そのものの意義がよくわからず、「濱臺」の何處であるかも記してないから、此の臆測の當否は甚だおぼつかない)。が、ともかくも、これらの「時人」の批評が當時の記録などから出たものでないことは明かであり、さうして憚るところなく天皇を非難してゐるもののある點では、雄略紀の「天下誹謗言大惡天皇也」などと相通ずるところがある。(「天下」は一般の民衆をさしてゐるのであり、「時人」や「老人」などは時の有識者をいふのであつて、シナ思想からいへば、其の間に差異がある。もつとも「天下」といふ語が、此の時代の記事に見えなくはないので、皇極紀元年の條に「天下百姓倶稱萬歳、曰至コ天皇、」とあるが、これは雄略紀の「百姓咸言有コ天皇也」と同一筆法である。)たゞ齊明紀及び天智紀に於けるかういふ非難の文字は、童謠や壬申の亂の前兆と見るべきことの記事が多いことから推考すると、變(149)亂の將に生ぜんとする?勢を記事の上に示さうとして作られたものらしいので、これもまた左傳に於いても最も明かに認められるシナの史籍に特有な筆法である。(これは必しも書紀の編者が天智天皇もしくは其の政治に対して非難を加へようとしたことを意味しない。たゞ壬申の亂といふ事變があつたため、さういふ事變の起つた理由をシナ式史觀で解釋し、天皇もしくは其の政治に對する非難の聲が當時にあつたかの如く構想したに過ぎない。奈良朝に於いて、天智天皇が新政の創始者、新文化の建設者として謳歌せられてゐたことは、例へば養老三年十月の詔勅や、慶雲四年七月、神龜元年二月、などの宣命や、又は懷風藻の序などにも見えてゐることであつて、それはまた一般の知識人に普通な考であつたらう。)
 以上は、舒明紀から天智紀までの造作せられた記事に於いて、それより前には現はれなかつた性質のものを擧げたのであるが、さういふ特色があるのは、多分、此の時代の部分を擔任した編者の個人的嗜好によるのであらう。崇神紀などに「時人」の言のあるのも、やはり同じ編者のしわざであらうか。しかし、一方では、これまでのと同樣な性質のものも散見し、さうして、其のうちにはシナに由來のあるものが少なくない。皇極紀元年の條の大旱の記事に「或殺牛馬、祭諸社神、或頻移市、或?河伯、」とあり、同じ條の常世神の話に「陳酒菜六畜」とあるのは、シナの祭祀や呪術についての、三年の條の芝草のことは仙人の食餌についての、知識によつて書かれたものであり、四年の條の虎から奇術を學んだといふのも、シナの説話または其の變形であらう。「殺牛馬」は歸化人によつてシナの風俗の移植せられたことを示すもののやうにも見えるが、さういふことの何處で行はれたかが記されず、「村々」といふやうな抽象的な文字が用ゐてあるのと、「移市」と共に列擧してあるのとから考へると、これは單に文字の上の知識に過ぎな(150)いことがわかるし(移市は後漢書禮儀志に見える請雨の呪術である)、「六畜」もまた同樣であることが、さういふ書きかたから推測せられる。芝草について「喫菌羮、無病而壽、」とあるのもまた知識を知識として書きあらはした筆法である。「無病而壽」なることが喫つた時に知られるはずが無いではないか。また虎の話については、虎から術を學んだといふことの根柢に、此の動物を神異の力のあるもの、また多分、人と化して人と語を交へ得るものとする考が存在するのであつて、それはシナの説話に?現はれてゐるのであり、また針のことは、符と同じく、それを得ると共に神異の力が與へられ、それを失ふと共に其の力がなくなつたといふ、これもシナに例の多い説話の片影らしい。天智紀三年の條の、忽然稻が生じてそれによつて富を得たといふ話の第二に記されてゐる、天から鑰が落ちて來たといふ物語とても、捜神記卷九の、鳩のもつて來た金鉤を得て家が富んだといふ説話と連絡がありげである。これらの話が捜神記などから出てゐるには限らないが、類似したシナの物語が何かの書物によつて傳へられてゐたと考ふべきである。かういふ説話めいたものが年代記に編入せられてゐるのは、所々に歌の記されてゐることと共に、一つは興味のため、一つは體裁上、上代の部分と或る程度の調和を保たせるためでもあつたらしいが、時代の新しい天智紀にまでかういふことのあるのは、後にいふやうに、史料たるべき記録が缺乏してゐたため、それを補はうとしたからでもあつたらう。歌については、皇極紀元年の條の蘇我蝦夷の作といふものが、こゝに記してあるやうな驕僭の行爲に關係のあるものとは見えず(「立已祖廟於葛城高宮、而爲八?之?、」とある八?の舞はいふまでもなく、祖廟を立てたといふことも、此のころの宗教思想から考へて、事實とは認め難いことを考ふべきである)、孝コ紀大化四年の條の二首も妻を失つた夫の歌であつて、他人の哀悼の作ではなく、また齊明紀七年の條の皇太子の作も短歌らしく聞える(151)ことを思ふと、其の他のものも本文に記されてゐるやうな場合に詠まれたものであるかどうか、疑はしい。推古紀二十年の條の饗宴のをりの御製といふものも、そこに記してある如く、大臣の壽歌に和せられたものとは受けとり難いのみならず、「大君の」云々の語も御製としてはふさはしくないから、これもまた文字のまゝには信ぜられぬ。大臣が歌つたといふ長歌は、特に蘇我氏のことをいつたものでないことが歌そのものによつて知られるが、「千代にも」云々といふ、歌ふ場合にくりかへされることばが其のまゝ記されてゐることから見ると、これは、多分、何等かの儀禮の行はれる時に合唱せられる習慣になつてゐたものであつて、それを賜宴の時の馬子の作のやうに説きなしたのであらう。たゞ舊辭にあつた饗宴の物語とは違つて、此の記事に蘇我氏のことが説いてあり、從つてそこに政治的意味が含まれてゐるところに、上に童謠について述べたと同じ編者の意圖が看取せられる。
 こゝまで説いて來ると、政治上重要なる意義を有する記載に於いても、またそこに事實の記録とは認め難いものの存在することが、さして怪しくも感ぜられないであらう。所謂大化の改新に關する孝コ紀の記載は、普通には、すべてが文字のまゝに信ぜられてゐるやうであつて、概していふと、それに大なる誤は無いのであるが、中には書紀の編者によつて潤色せられた點のあることをも注意しなければならぬ。些細なことではあるが、元年六月の天皇の即位の日に皇太子左右大臣を定められたとある次に中臣鎌子を内臣とするについて「増封若干戸」といつてあるのも、その一つである。この時早く封戸の制が設けられたとは考へがたいからである。また大化二年の「改新之詔」の第一の「降以布帛賜官人百姓有差」、三年の詔勅の「及諸百姓將賜庸調」の「百姓」の文字も、恐らくは不用意に書き加へられたものであらう。百姓にかゝる賜與があつたといふことは、事實として有り得べからざることだからである。のみなら(152)ず「官人百姓」と書いたのはシナの史籍の摸倣らしい。偶然目についた一例であるが、舊唐書高祖紀武コ元年の條にこの文字があるので、それはその史料となつた記録から出てゐるに違ひなく、從つて、同じ文字は他の史籍にも見えてゐたであらう。(百姓といふ稱呼は一般の平民を指してゐるので、それには書紀の全體を通じて變つた用法はない。二年の條の三つの詔勅のはじめに「集侍……諸百姓」とあるのによると、百姓が朝廷に參集したらしく、從つてそれを平民と見ることは困難のやうであるが、これは官僚を始として一般國民に呼びかけられる形式をとつたものであつて、必しも平民がそこに參列することを要しないのであらう。奈良朝時代の宣命に公民の稱が用ゐられてゐるのも、之と同じである。)かういふ例ばかりではなく、詔勅の全體が信じ難いものすらある。元年九月の條の「自古以降」云々と書き出してあるものは、其の一例であつて、全體の主旨から見て此の詔勅が翌年の始に發せられた改新の大號令とは連絡が無く、それとは獨立した意味を有するものであること、特に「勿妄作主兼併劣弱」といふ勢家の百姓に對する態度についての訓誡は、豪族貴族の私有地民廢罷および班田制度實施の直前に發せられたものとしては、甚だ無意味であること、「及進調賦時、其臣連伴造等、先自收飲、然後分進、」とあるのが、租税はすべて領主たる臣連伴造等の收入となつてゐたはずである氏族制度時代の實際の?態とは齟齬してゐるやうに見えること、易を引いたり「方今百姓猶乏」といふやうな抽象的な語を用ゐたりしてあること、此の詔勅の後に「百姓大悦」といふ一句の添へてあること、などから、それが推測せられる。「或者兼件數萬頃田、或者金無容針少地、」といふのは、班田制度施行の理由を述べたもののやうにも見えるが、これは文面からいふと「臣連等伴造國造」についてのことでなければならぬから、民衆の間に貧富の懸隔のあることをいつたものではなく、從つて、さう見ることはむつかしい。さうして、(153)臣連等に「無容針少地」ものがあるといふのも、事實らしくはない、この詔勅は、恐らくは、書紀の編者が班田制度の主旨についての見解と、氏族制度時代の?態に關する或る知識と、儒教的政治思想とを、混和して造作したものであらう。純粹な漢文で書かれてゐて、二年の條の詔勅と文體の違つてゐることも、また考へられねばならぬ。それから、二年二月の懸鐘設匱についての詔勅には、編者の潤色が施されてゐる。此の詔勅の「朕前下詔曰……詔已如此」とあるうちの大部分は、漢書文帝紀と魏志文帝紀及び其の裴注との文を取つて、それを補綴したものであるが、それは元年の此の事に關する詔には見えてゐないものであること(此の部分を除いたところだけはそれにあり、また同じ年の三月の國司についての詔勅に「以去年八月朕親詔曰……詔既若斯」とある去年の詔も元年の紀に記されてゐるものであることと、對照するがよい)、さうして、かういふ實務に關係の無い文字は、よし前年の詔にあつたとしても、それを再び反覆する必要の無いものであること、この二點から推考して、詔勅の此の部分は原文には無かつたものであることが知られる。さうして、これから類推すると、墓制及び葬儀に關する詔勅中、魏志文帝紀の文を取つてあるところも、やはり書紀の編者の添加したものとしなければなるまい。大化のころから後の詔勅は、後にいふやうに、それを記録した史料が書紀編纂の時に存在したに違ひないが、編者は漢文の調子を有たせるため、或る程度にそれを書きかへたらしく、從つて其の際に幾らかの刪潤も施されたやうであつて、このことは、葬儀に關する詔勅の終に二つの「或本」を引いて注記してあるところによつても知られる。此の「或本」は何れも書紀の稿本であつて、そこに見える句は相互の間にも本文とも互に出入があるからである。さうして、それが更に一歩進むと、シナの史籍の成文を借りて來てそれを修飾するやうになるのであつて、それは史料の無い時代の多くの詔勅を製作した方法を其のまゝ(154)適用したものである。かう考へて來ると、此の紀の卷首に見える盟の詞の如きも、また編者の手に成つたものらしい。これは、其の文字がシナの成語を補綴したものであることを別にして考へても、其の全體がシナ思想から成立つてゐるものであつて、もし盟といふやうなことが、事實行はれたならば、それは當時の生きた宗教的信仰を基礎としたものでなくてはならぬことと、矛盾するからである。(大化改新に關する孝コ紀の記載に於いて書紀の編者の手の加はつてゐる部分のあることについては「日本上代史の研究」第二篇「大化改新の研究」に詳しく考へてある。)
 孝コ紀にかういふことがあるとすれば、それより前の舒明紀及び皇極紀に於いてはなはさらであらう。皇極紀二年の條に「國司如前所勅、更無改換、宜之厥任、慎爾所治、」といふ詔が載せてあるが、國司といふものが、此のころにあつたはずのないことは既に述べたとほりである*(「前所勅」といふものは前に見えてゐないが、これは不用意に書かれたのか、又は稿本にそれのあつたのが削られたのか、何れかであらう)。詔勅ではないが、舒明紀八年の條に見える群卿百寮の參朝退出の時刻に關する大派王の意見といふものも、官僚制度の整頓した時代の思想から作られたものと認められる。「大臣不從」とあり、また公にせられた制令でもない、かゝる私議の後に傳へられたといふのが、そもそも事實らしくないのである。外面に現はれた事件についても、皇極紀の入鹿の殺された記事に、三韓の表文を讀みあげたとあるが、それが一つの表文であるやうに書いてあるのは怪しいではないか。こゝにも編者の潤色があらう。蝦夷が天皇記などを燒いたといふ記事も、かういふ書きかたのあることから類推すれば、信を措くに足らぬ。この記事は天皇記以下の撰述が虚構であるために作られたものであつて、現にそれが傳はつてゐないのは燒かれたからだとしたのではあるまいか。但し國記をとり出したとあることは、かう見ては解釋しかねるが、これはそこまで深く考へ(155)て書かれたものではなく、却つて天皇紀などが、事實、世に存在したものであるやうに見せかけようとした別の意味から作られたことであらう。元年の條に大寺を造り宮室を營まんとすとあるが、其の寺も宮も名が記されず、さうして徴發すべき民衆の限界を近江、遠江、安藝、などの國名によつて示してあるのを見ると、これもまたつくりごとであらう。(舒明紀十一年の條の百濟川の側に宮と寺とを建てたといふ記事と對照してみるがよい。此の記事は事實と認められる。)
 さて、以上、舒明紀から天智紀までを一團として取扱つて來たのは、造作せられた記事に於いて共通な特色がそこに認められるからであるが、信用すべき記載の多少からいふと、舒明紀及び皇極紀と孝コ紀以後との間には大なる差異があるので、舒明紀と皇極紀とはむしろ用明、崇峻、推古、の諸紀と同樣に見るべきものであり、孝コ紀からは上記の如きものが含まれてゐるにかゝはらず、概觀すれば確實なる史料から出たと認むべきものが多い。さうして、さういふ史料となるべき記録の遺されたのは、あの如き大改革が行はれ、而もそれがシナの制度に準據したものであるといふ事實から見ても、また其の背景をなしてゐる一般文化の?態から考へても、當然なことである。だから、そこに舒明紀や皇極紀と同じやうな思想で作られた記事が插入してあるのは、やはり編述の擔任者が同一であつたからのことと考へられる。たゞ齊明紀及び天智紀、特に後者、に於いて造作せられた記事が少なくなく、其の前の孝コ紀よりも却つてそれが多いのは、壬申の亂によつて近江朝の記録が亡失したため、史料が缺乏し、年代記に空隙を生じたので、それを補はうとしたからのことではなかつたらうか。近江朝の記録が遺存してゐたならば、内政、特に制度の完成を計つたこと、についての記事が書紀にも多く存在すべきはずであることをも、考ふべきである。ところで、天武(156)紀と持統紀とには、幾らかの疑はしい記事があるにしても、天智紀までとは全く其の趣を異にしてゐて、殆ど純粹なる記録の年代記的集成であるといふことができる。これは、記録そのものが多く作られたと共に、またそれが多く保存せられてゐたからであらう。此の二帝の紀には濫に文飾を加へた記事が殆ど無いが、これもまた全體が實録であることを證するものである。十分に史料たるべき記録があつたのであるから、虚構の記事を製作する必要が無く、また文飾を加へる餘地も無かつたのである。物語めいたものを作らなくてもよかつたことは勿論である。
 
(157)       第五章 書紀の編述の經過、其の史料としての意義と價値
 
 前三章に述べたところは、書紀の記載を檢討して、そこに事實とは認められないものの多いことを指摘し、それと共に、如何にしてかゝる記載が作られたかを考察することであつた。さうしてもし上述の見解が大過なきものであるならば、それによつて、書紀が如何なる程度に史料として信用し得られるものであるか、時代についていふと、どこまでが純然たる製作物であり、どこが製作物と記録との混合であり、またどこからが眞の記録であるかが、ほゞ明かにされたであらう。そこで、最後に遺されたのは、此の如き書紀が如何にして編述せられたか、それに如何なる價値があり、如何なる意味に於いての史料として取扱はるべきものであるかの問題である。
 第一に考ふべきは、如何にして年代記の形を具へさせるやうにしたかといふことである。書紀が、シナの史籍の形を學んで所謂正史の本紀めいた年代記を作らうとする意圖の下に、編述せられたものであるとすれば、其の基礎として先づ歴代の暦年上の位置を明かにしなければならなかつたはずである。これについては、從來世に傳へられてゐたことが不整頓でもあり不明瞭でもあつたらしいからである。もしそれが明瞭であり、またすべてが具備してゐたならば、(記録の全く無かつた仲哀朝までは問題外であるが其の他に於いては)、書紀の紀年の如き、事實に背いた、ものを造作することはできなかつたらうと思はれる。しかし、應神朝以後については、それが全く知られてゐなかつたとはいひ難い。古事記に記されてゐる歴代天皇の年齡は、應神天皇を百三十歳、雄略天皇を百二十四歳、としてあるや(158)うなことから見ても、其の全體が信用し難い性質のものとしなければならず、特に清寧、仁賢、武烈、の三朝及び安閑天皇以後の比較的近い世になつてからのが却つて記されてゐないのは、此の意味に於いて注意すべきことであるが、崩御の年月の記載は無意味なものとして全く却け去ることはできない。それによつて推算せられる履仲、反正、允恭、安康、雄略、の歴朝の時代が、シナの史籍に見えるところと、精細には一致しないながらに、ほゞ相當してゐるからである。これらの諸朝のは、漫然造作したものとしてはこれだけ宋や齊の記録に相當してゐるはずが無い。しかしそれがシナの史籍によつて書かれたものでないことは、兩者が一致してゐないことによつて明かであるから、それには何等かの據るところがあつたとしなければならぬ。しかし、今日からは、シナの史籍の記載に大なる誤が無いとしてそれを承認する外はなからうから、それと一致しない古事記のは、正確なものとはいひ難い。さうして、このことは、上記の諸朝以外のについてもまた同樣であらう。のみならず、余の見るところによれば初めて帝紀の編述せられた時に年代に關する史料の全く存在しなかつた、從つて本來かういふ記載のあるべきはずの無い、崇神、成務、仲哀、などの諸朝についても、それが記されてゐることから考へても、また月日までも書いてあつて、而も其の日が干支でなくして數字である點から見ても、其のまゝに信じかねるものであることは、勿論である。
 さて何等かの據りどころがありながら正確なものでないといふことは、其の據りどころとなつたものが既に正確でなかつたからなのか、又はそれは正確であつても、古事記に見えるやうな形をとるまでに種々の手が加はつて、其の間に錯誤が生じたからなのか、此の二つの事情が考へられるが、余は二つともにそれがあつたのであらうと思ふ。履仲乃至雄略天皇のころには、所謂文部によつて朝廷の記録が或る程度に作られたであらうと想像せられ、現に其のこ(159)ろの系譜がほゞ事實を傳へてゐるらしいことによつても、それは是認せられねばなるまいから、即位や崩御の年についての記録も、何等かの形に於いて、作られてゐたではあらう。しかし、これは一定の暦を基礎としなければならぬのであるが、暦法に關する知識は、いふまでもなく、當時に於いて殆ど存在しなかつたに違ひないから、それには、何等かの方法で、其の時々のシナの暦を手に入れてそれによる外はなかつたであらう。さうしてそれは、シナに對する直接もしくは間接の交通によつて、或る程度まで可能であつたらうが、當時の交通?態に於いては闕漏なく年々それが得られたかどうか、疑はしい。我が國と密接の關係のあつた百濟の王室は、南朝の暦を用ゐてゐたに違ひないが、それが一々我が國に傳へられたかどうかは、問題である。從つて、かういふ記録がよしあつたにしても、それに現はれてゐる年月は、必しも後世の暦の知識によつて推算したもの、もしくは其の時代のシナの暦と、同じであるには限らない、いひかへると、月の立てかた日の干支のあてかたが不確實なものであつたかも知れない、のであり、また其の記録が歴朝を通じて具備してゐたかどうかも、危ぶまれる。全體からいふと、暦が或る程度に用ゐられたとしても、記録がそれによつて年代記的に作られたとは必しもいひ難く、またよし作られたとしても、極めて粗笨幼稚なものであり、さうしてそれが後に傳はらなかつたことは、所謂舊辭の記載にさういふ記録から出たもののあるらしい痕迹が少しも見えないことからも推測せられる。舊辭の記載の無くなつてゐる武烈朝以後に於いても、書紀に記されてゐる事件そのことが事實でないものについては、それに關する年月の記載もまた虚構としなければならぬのであるから、さういふ記事のみが書紀に現はれてゐる欽明朝の中ごろまでについては、やはり仁賢朝以前と同じであつたと考へられる。欽明朝の末から敏達朝にかけても、書紀に見える事實らしい記載は極めて僅少であるから、其の材料となつた(160)記録が年代記的のものであつたかどうかは、疑はしい。百濟の史籍から出てゐるらしい欽明紀の記載によると、此の朝に暦の博士が來朝してゐるから、このころからは暦を用ゐることも一層たしかになつたではあらうが、推古朝に至つて觀勒が暦法を傳へたとあるのを見ると、暦に關する知識は其の時までも殆ど無かつたであらう。年代記を作るには暦そのものがあればよいのであるが、暦に關する知識の程度はこれでもわかる。天皇の即位や崩御の歳月に關する上記の觀察は、此の點からも確かめられよう。
 ところで、記紀を對照して知られる如く、系譜についても本によつて種々の變異が生じてゐることから類推すると、かういふ年代記的の記録にも長い間には錯誤や混亂が生じたであらうし、また仲哀天皇から前の歴朝の系譜が、應神朝以後の部分と共に、帝紀としてまとめられた時には、年代に關することについては、その應神朝以後の部分に於いても、意識的に何等かの造作が加へられたかも知れぬ。なほ、古事記の此の記載が何時書かれたものであるかは明かでないが、安閑天皇の乙卯が(月もしくは日の違ひはあるが歳は)書紀と一致してゐて、後にいふやうに、書紀の此の紀年は天武朝に始まつた國史編纂の過程の或る時期に於いて定められたものらしいことを考へると、其の他の部分にも同じやうな事情のあるものが無いにも限らぬ。應神天皇の九月九日といふ月日は、太田亮氏が指摘せられた如く、書紀に見える天武天皇のと同じであるが、それが偶然の暗合であるか、或は意識的に擬定せられたものであるかは、問題であつて、甲午といふ歳の干支が天武天皇のとは全く違つてゐることから見ると、多分前者であらうとは思はれるものの、もし後者であるとすれば、天武天皇のそれのみが特に用ゐられたことから見て、此の天皇の崩御の月日が強く人の印象に殘つてゐた時、いひかへると、それを距ること遠からぬ時、のしわざと認められる(應神天皇のは、(161)其の時代の文化の?態から考へるに、多分、古い傳へが無かつたであらう)。さすれば、古事記の此の記載には、第二章に述べた、政治的意義を帶びてゐる、斷片的の記事と共に、書紀の稿本の説の取入れられたものがあるかも知れぬ。或はさう見るのが妥當であらう。天皇によつて記載のあるのと無いのとがあり、あつても歳月のみで日の無い場合があつて、全體が亂雜であるのは、古い傳へと此の稿本による修補とが混在してゐる故か、或は修補が歴代を通じて行はれなかつたからか、又は稿本そのものが不備であつたためか、また或は其の他の事情の故か、知り難いが、景行天皇までの歴朝に(崇神の一代を除いて)全くそれが缺けてゐるのは、却つてそこに古傳のおもかげが見えるやうでもある。書紀の紀年の定められた後のものでないことは、上に述べた履仲朝から雄略朝までの記載が書紀の紀年からは決して作り得られないものであることによつて、明かである。
 歴朝の暦年上の位置が、應神朝以後については、全く傳へられてゐなかつたのではないにしても、それは、歴朝を通じた年代記の基礎とするほどに具足してはゐなかつたとすれば、さうして其の上に、帝紀に記されてゐる仲哀朝から前の諸朝については全くさういふものが無かつたはずであるとすれば、修史事業の初に於いて何よりもまづそれを定めねばならぬ。だから、それは天武朝に開かれた史局に於いても、必ず試みられたに違ひない。それが如何なるものであつたかは、固よりわからぬが、書紀の紀年は、それから後、更に幾度かの變改を經たものであらう。神武天皇の即位をシナの緯書の説によつて辛酉の年とし、それを遠い上代に置いたのも、魏志の倭女王卑彌呼に對應するやうに特に神功紀を立て、從つて應神朝から後の歴朝の時代を順次上代にくり上げ、特に應神、仁コ、允恭、の諸朝の年數を甚しく延長し、それと共に應神朝に始めて我が國と交渉を生じたと傳へられてゐる百濟の近肖古王乃至久爾辛王(162)の治世を干支二運の前に置きかへて、上記のやうにして作られた神功・應神、の二朝の時代に一致させたのも、初からの計畫ではなかつたらう。(時代をくりあげても應神朝と肖古王とを同時にしたのは、いひかへると、應神朝に伴つて肖古王の時代をくりあげたのは、書紀の編者に此の二つが同時であつたといふ知識が存在したからである。)始めてかういふ紀年を定めようとするには、古傳のあるのはそれにより、無いのも甚しく不自然な形にはしなかつたらうと思はれること、書紀の完成せられたまでには長い歳月と複雜な經過とがあつて、それには編述の方針の變化が伴つてゐたと推測せられること、後にいふやうに記載の内容に於いても幾度かの改訂が施された證迹のあること、特に紀年については、繼體天皇崩御の年に注記してあつて本文とは違つた説の記してある「或本」が、後にいふやうに、書紀の稿本らしいこと、などから、上記の如く考へられる。推古紀の卷首に見える敏達天皇の崩年と敏達紀のそれとが違つてゐて、書紀の記載そのものに矛盾があるのも、推古紀のはかういふ變改前のが偶然遺存してゐるのではあるまいか。もしさうとすれば、これもまた其の一實例を示すものである。余はかう考へて、少くとも欽明敏達朝ころまでの、不明なものが多かつた、歴朝の暦年上の位置は、天武朝の史局に於いて妄び新に設定せられ、その後更に變改せられて書紀に見える紀年となつたものと推測する。(古事記に見える天皇の崩年について上に述べたところは、此の考によつても支持せられよう。)なほ附言する。聖コ法王帝説に、欽明天皇の治世に戊午の年(書紀の紀年によれば宣化天皇三年)があるやうに記され、また其の在位年數を四十一年としてあるのは、書紀とは違ひ、從つて安閑宣化の二朝に關する書紀の紀年とも齟齬するが、これは書紀の紀年の定まらない前の紀年が偶佛家に遺つてゐたものと解し得られようか。佛教の傳來を此の戊午の年のこととしたのは、佛家の造作かも知れぬが、欽明天皇の治世の(163)暦年上の位置には、何かのよりどころがあつたことと思はれる。元興寺縁起にも、戊午の年を欽明天皇の七年としてあるが、これでは在位が四十年となる。これは或は數字に誤寫などがあるのかも知れぬが、何れにしても佛家にかういふ傳へのあつた證にはなる。勿論、これが正確なものであるとは必しもいひ難いので、それは、、安閑宣化の二朝が欽明朝の前にある以上、繼體紀の終に注記してある百濟本紀の説と衝突することからも、考へられねばならぬ。ところで、この紀年が朝廷の史局で或る時期に定められたものか、またはそれとは別に佛家の記録に存在したものかは、知りがたいが、ともかくもかういふものがわづかながら遺存してゐる。さうしてそれは、書紀の紀年の定まらない前にそれと違つた紀年のしかたが世に知られてゐたこと、または行はれてゐたことを、示すものである。
 しかし、書紀の編者のしごとは、單に上にいつたことばかりでなく、一々の記事を年月日にかけてゆかねばならぬ年代記を編成するには、其の基礎として先づ古今を通じての長期間にわたる暦を作る必要があつたであらう。欽明朝以前についてはいふまでもなく、それより後とても、虚構の説話などが或る年月にかけて記されてゐるのは、やはりかういふものによつたとしなければなるまい。年代記的になつてゐたらうと思はれる百濟の史籍の記事を取るにしても、それを暦日の順序に配列するには、やはりかういふ暦が要る(百濟の史籍から取つた記事には、日づけが無くして月のみ記してある場合が少なくないが、それが原書のまゝであるかどうかは、明かでない)。書紀に、歴朝の元年に必ず大歳の所在を擧げ、日に繋けた記事のある月に朔の干支を記してあるのは、實際かういふ過程のとられた痕迹を遺してゐるものらしい。これはシナの正史には例の無いことである。(此の暦は一定の暦法によつて推算したものか、一又はシナの史籍の暦日の記載を借り用ゐてそれに或る形を與へたに過ぎないものか、明かでない。持統紀四年の(164)條に「奉勅始行元嘉暦與儀鳳暦」とあるが、二樣の暦を行ふといふのは解し難いことであるから、元嘉暦は或は過去の暦日を整理するため、換言すればかういふ暦を作るため、に用ゐられたのではないかとも臆測せられ、後にいふ如く此の朝にも史局の事業が繼續してゐたらしいことが、此の點に於いても想起せられるが、暦についての知識を有たない余は、之についてしつかりした見解を立てかねる。たゞ推古紀三十五年三月の朔日の干支が唐書に記してある此の年のそれと一日の差のあることなどは、注意すべき點ではなからうか。)さて、歴朝の暦年上の位置が幾度も變更せられたとすれば、かういふ暦にあてはめて作られた記事の年月もまた?動かされねばならなかつたに違ひなく、從つて其の間に種々の混亂が生じたであらう。書紀と其の稿本と思はれる「一本」との間に、同じ記事の年月が違つてゐる場合のあるのも、こゝに其の一由來があるのではなからうか。これは主として暦日による記録の傳はつてゐなかつた時代についてのことであるが、さういふ記録の幾らかは遺つてゐたらしく思はれる推古朝ころから後の部分についても、其のころの暦日の記載と、上にいつたやうにして定められた暦との間に、齟齬が生じた場合があるかも知れぬ。もしさうとすれば、こゝにもまた書紀の暦日に錯誤のある一理由があるのではあるまいか。推古朝には隋との交通さへも行はれたほどであるから、シナの暦が傳來してゐたに違ひないが、それにしても、毎年のが必ず得られたかどうか、また觀勒の傳へたといふ暦法の知識がどれだけ實際に用をなしたかは、なほ考ふべきことであらう。
 ところで、書紀の暦日には現存する記録もしくは金石文と矛盾するものがあるので、其の明白なものを擧げると、聖コ太子薨去の年が法隆寺の釋迦像の銘より一年早くなつてゐる上に日さへ違つてゐる。(用明天皇の崩御の年も、藥師像の銘には書紀より一年早くなつてゐるやうに解せられるが、銘の文辭がやゝ曖昧であるから、或はさうでない(165)かも知れぬ。)かういふ齟齬が如何にして生じたかは問題であるが、それには種々の事情が臆測せられるので、朝廷の記録に忘失してゐる部分あがり、さうして、現代の修史家の如く、あらゆる方面の史料を採集して其の缺を補はうとするだけの用意が無く、從つて後世に遺存する記録が却つて書紀の編者の目には觸れず、推定によつて年月が決められた場合、記載の區々になつてゐる多くの記録があり、さうして書紀の編者に取られなかつたものが偶今日に遺つてゐる場合などが、其の重なるものであらうから、上記の齟齬には、かういふ事情によるものがあるかも知れぬ。しかし、これらの理由では解釋のできないものもあるやうに見える。上にも述べた高麗僧惠慈の言といふものには、聖コ太子薨去の日を二月五日としてあるが、法王帝説の同じ僧の語には二十二日となつてゐて、それは釋迦像の銘に符合するし、此の言そのものが本來佛家から出たものでもあるから、其の方が原の話であり、書紀のは己丑朔の癸巳、即ち五日、としてある本文に適應するやうに故意にそれを變更したものであることが知られるが、それから推考すると、此の本文のも、また史料となつた記録を改めたもののやうである。太子の薨日については、少くとも佛家には、記録があつたに違ひなく、さうして法王帝説の記載から推測すると、其の記録には二十二日申戍としてあり、それには異説が無かつたらうと思はれるが、書紀の編者は佛家から出た材料を多く用ゐながら、此の日づけを尊重しなかつたことから、さう見られるのである。更に考へるに、法王帝説には太子薨去の年を壬午としてあり、それもまた銘文に合ふのであるから、古記録にはやはりさうなつてゐて、それに對して疑は無かつたらしく、從つて書紀は年までも變更したと見なければなるまい。たゞそれが日の變更と關聯して行はれたことであるかどうかは、疑問である。(憲法制定の年についても書紀と法王帝説との間には一年の差異があり、勝鬘經を講じた年には八年の違ひがある上に、(166)月日も同じでないが、これらは當時の記録に基礎があるものとは思はれないから、且らく問題外に置く。)さて、何故にかういふ變更が行はれたかは問題であるが、それは知り難い。たゞ、理由の何であるかはわからぬにしても、それが書紀の編者の故意の改作であることは、明かであらう。また年の違ふのは、幾度も稿の改められたために其の間におのづから生じた錯誤ではなからうか。太子に關する記録は法興紀元の年次になつてゐたのを、書紀がそれを用ゐずして推古天皇即位紀元の年次に換算したところから、生じたものかとも思はれるが、かゝる換算は極めて容易の業であるから、さう見るのは無理であらう。(用明天皇の崩御の年がもし實を失つてゐると解せられるならば、これは或はそれより前の歴朝の暦年上の位置を新に設定したに伴つて、起つたことであるかも知れぬ。)
 書紀の歳月の記載が他の記録と齟齬してゐることは、後になつても其の例が見えるので、孝コ紀大化二年九月の條の古人皇子の謀反、白雉四年五月の條の僧旻の死、翌五年二月の條の遣唐使出發、齊明紀七年五月の條の皇居移轉、天智紀七年正月の條の天皇即位、などの各條下に、本文と差異のあることを注記してある「或本」または「一本」のうちには、史料として用ゐられた記録があらうと思はれるが、僧旻の死や天智天皇の即位に關するそれらの記載は、年まで違つてゐる。如何にしてかゝることが記録の上に生じたかはわからぬが、既にかういふ例があるとすれば、年月の錯誤は有りがちのこととして輕く看過してよいやうにも見えるけれども、聖コ太子に關するものの如く、さう考へられないものもある。要するに、書紀の歳月の記載は推古朝ごろになつても確實でないものがあり、それより前の時代に於いては、歴朝の暦年上の位置すらも多く變更せられてゐ、一々の事件をかけてある月日に至つては、全く造作せられたものであるが、これは年代記の基礎となるべき暦とそれによる記録との不十分な、もしくはそれの全く無(167)い、時代の年代記を作らうとしたからのことである。(上に述べた如く、任那の滅亡を欽明天皇二十三年としたのが、我が國の古い記録から出たものでないことも、かう考へて來ると、おのづから首肯せられるであらう。)しかし、隋との交通に關する記事が其の歳月に於いて隋書倭傳のそれと對應してゐることを思ふと、推古朝の暦年に正確なもののあることをも否むことはできないので、それは直接にか間接にか當時の記録から出てゐるのであらう。記録の多く後に遺されたはずの大化改新以後に於いては、造作せられた記事に關するものを除く外は、記載の確實性が益加はり、天武朝以後になると、もはや疑の無い年代記の實が具はつてゐる。(伴信友の考へた如く、はじめには大友天皇紀の立ててあつたのが後に削除せられたために、天武紀の元年であつたものが二年になつてゐるやうなことがあるとしても、それは別の問題である。)
 次に考ふべきは、年代記の内容をなす記事が何を材料として作られたかといふことであるが、これについては一々の記事を研究する場合に既に説き及ぼしたので、再びそれをいふの煩を避ける。たゞ、こゝで補つて置きたいのは、一種の史料としての記録から出た文字が推古紀、舒明紀あたりから僅少ながら散見することについてである。舒明紀の卷首の皇位相承に關する紛爭の記事に「立思矣居思矣」とか、「面日親啓焉」とか、「非輕輙言來國政」とか、「汝肝稚而勿誼言」とか、「愛之叔父勞思」とか、又は「天皇命以喚之」とか、「當時侍之近習者悉知焉」とか、或は「如嚴矛取中事而奏請人等也」とか、「汝不忘先王之思而來甚愛矣」とかいふやうな語句があるが、これらは國語を以て寫された一篇の記事があつて、それを漢文に翻譯しまたそれを潤色した場合に、原文の語句を襲用したものと見る外はなからう(推古紀の卷末に「汝肝稚之」云々とあるのも、この原文から取つたものであらう)。もしさうとすれば、そ(168)れは當時の記録であつたと推考せられる。なほ皇極紀の入鹿誅殺、孝コ紀大化五年の條の倉山田大臣の事變などの記事、白雉元年の祥瑞に關する賀詞、また天武紀の壬申の亂の記事などにも、同じやうな書きかたのしてある語句があるが、これらについてもまた同樣に見なされる。敏達紀十年の條に「子子孫孫、用清明心、事奉天闕、」とある蝦夷人の誓詞にも國語を寫したところがあるが、これは、こゝに記されてゐる話そのものが事實でないことから考へると、書紀編纂のころに一般に行はれてゐた誓詞の形式を適用して作つたに過ぎないものであつて、顯宗紀の室壽詞と同じやうな性質のものであり、用明紀元年の條に見える誄詞に「不荒朝廷、淨如鏡面、臣治平奉仕、」とあるのも、また同樣に見られようし、推古紀三十二年の條の「夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、」とても、一種の慣用語をそのまゝあてはめたものと考へられ、何れも國語であるといふことによつて、それが當時の記録から出てゐることを證することはできない。また、欽明紀五年の條の肅慎人に關する記事にも「彼嶋之人、言非人也、亦言鬼魅、」とか「採拾椎子、爲欲熱喫、著灰裏炮、」とか、又は「浦神嚴忌」とかいふ、漢文らしからぬ文字があつて、これも世に傳へられた説話を國語で書いたものが材料になつたことを示すものではあらうが、其の説話の内容には、欽明朝時代の事件たる特殊の意味が無く、またそれに肅慎といふ名稱の用ゐられてゐることから見ても、其の原文が欽明朝の作であるとは思はれぬ(附録肅慎考參照)。けれども、上記の舒明紀のは推古天皇崩後に生じた皇族間の紛爭として記され、又は一篇の記事の首尾を通じてかういふ語句が散在するのであるから、それは當時の、少くとも當時を距ること遠からぬころの、記録であつたと見るのが妥當であらう。かゝる文體がこのころ一般に行はれてゐたことについては、なほ後に述べるであらう。ところが、書紀に見える孝コ紀以後の詔勅にもまた此の例がある。
(169) 書紀には皇極紀以前の歴朝に、詔勅として多くの文章が載せてあるが、それらは何れも純粹の漢文であつて、シナの典籍の成語成句が多く用ゐられ、シナの帝王の詔勅を殆ど其のまゝ轉用したものさへある。然るに、孝コ紀になると、大化元年七月の高麗使及び百濟使に賜はつた詔勅には「明神御宇日本天皇」云々といふ前がきがあるのみならず、「高麗神子奉遣之使」とか「不易面來」とかいふやうな語があり、同年八月の東國の國司に下されたものに「隨天神之所奉寄」、二年三月甲子のに「代々之我皇祖等共卿祖考倶治」と見え、また二年八月及び三年四月のは其の全體の書き方が漢文らしくはなく、白雉元年正月のにもまた「以清白意敬奉神祇」とか「我親神祖之所知」とかいふ國語がある。さうして、元年八月、二年二月、同年三月辛己のも、其の主要なる部分は漢文として極めて拙いものである。これらは、當時の記録によつて傳へられてゐた國語の詔勅を、書紀の編者が漢文に書きなほしまたそれを修飾したけれども、書きなほすことのできなかつた語句、或は實務に關することであるがために十分に修飾することのできなかつた部分が、*遺存してゐるのであらう。二年三月の皇太子の上奏に、やはり、國語が多く混在してゐるのも、之と同じ事情からであるべきことが、參考せられるし、また詔勅については、二年二月及び三月の詔勅の前がきが續紀に多く記されてゐる所謂宣命のそれと同じ形式であり、さうして、二月の場合に「幸宮東門、使蘇我右大臣詔、」とあるのを見ると、これらは實際朗讀せられたものらしいから、此の點からも、それが國語であつたことを推測し得る。なほ、詔勅の前がきについては、天武紀十一年十一月及び十二年正月のもの、國語の寫されてゐることについては、持統紀三年五月の條に見える新羅使に對するものを一讀すれば、かういふ形式の詔勅が此のころにも(從つてそれは大化から續紀に宣命の見える時代まで引つゞいて)發せられ、また書紀の編者が其の文を或る程度に漢文化した形迹を知る(170)ことができよう。かう述べて來ると、孝コ紀の詔勅に於いて、シナの史籍の成文を其のまゝに、または少しく改作して、借り用ゐた部分、もしくは純粹な漢文になつてゐる部分が、書紀の編者の手になつたものであらうといつた前章の考説が證明せられると共に、皇極紀以前に詔勅として記されてゐる多くの文章が、書紀の編者の造作したものであることも、また確かめられたであらう。後世の詔勅には國語のもの、もしくはそれを含むものがあるのに、上代のにはそれが全く無くして、却つて其のすべてが純然たる漢文である、といふ一事だけでも、このことは明かであり、古く傳へられた詔勅を漢文に譯したものでないことが知られるのである。本居宣長が「上代のからざまの造り詔」といふ語でそれを評したのは、當然である。さて、孝コ紀から後の上記の詔勅が當時の記録によつたものであるとすれば、其の他の記事についても、朝廷に傳へられてゐた史料から出たものの多いことが、此の點からも推測せられる。勿論、大化のころの記録は國語で書かれたものに限らず、漢文で記されたものも少なくなかつたに違ひないので、それは留學生や留學僧が多く歸朝してゐ、特に大化の改新そのことが彼等の參畫によつて行はれたことからも知られ、現に齊明紀の注に引いてある伊吉博コ書といふやうなものがあつたことからも類推せられる。のみならず、朝廷の命令とても初から漢文風に書かれたものがあつたかも知れず、大化二年正月の所謂改新の詔の如きは、或は其の一例でもあらうか。詔とはしてあるが、衆人の前にことばを以て宣布したものではなく、いはゞ新政の大綱を規定した文書であるから、必しも純粹の國語による必要は無く、また其の内容が漢文風の書きかたによつて表現し得られることであると共に、無用の文飾を要しない實務的のものであることから、かう推測せられるのである(しかし、これにも書紀の編者が幾らかの潤色を加へたことはあつたであらう)。が、皇極朝以前に於いては、かういふ漢文の詔勅が書かれたと(171)は思はれないのみならず、朝廷の官府的組織が成立つてゐなかつた當時では、國語の詔勅を宣布することもまた無かつたであらう。さうしてそれと共に、其のころには、漢文による記録もまた多くは作られなかつたらしい。それは當時の文化の?態から推測せられることである。
 シナの文字が我が國に用ゐられるやうになつてからも、文部として朝廷の吏務を掌つてゐたものが、歸化人と其の子孫とであつたことは、周知の事實である。邦人の間にも幾らかづつ文字を學びまたそれに習熟するものが生じて來たではあらうが、文部が依然として歸化人の裔を首長としてゐたのは、必しも舊慣が無意味に存續せられたのではなく、純粹の邦人に、それに代り若しくはそれと同じ職掌の新しい部を起すだけのものが無く、また其の必要も無かつたからであらう。同じ職掌についても、新しい家によつて新しい部が?形成せられてゐることを考へると、かう推測する外はあるまい(「上代の部の研究」參照)。さうして、數は多くはなかつたらうが、時々歸化した百濟人や漢人がいくらかはあり、それらのものも、やはり幾らかの文字を知つてゐたため、朝廷の吏務にたづさはるやうになつたであらう。天武紀十二年の條に見える船史、壹岐史、阿直史、などの家が即ちそれであつて、文書を用ゐる吏務に從事したがため、史のカバネを有つてゐたのであらう。(これらの家の先祖が何時歸化したものであるかは明かでなく、應神紀の阿直岐史の話は勿論、敏達紀の船史のも、事實ではない。壹岐史の名が舒明紀に見えるのは歴史的事實らしいが、其の起源はわからぬ。)秦氏が、漢氏の内藏造と並んで、大藏造となつてゐたのは、藏すなはち朝廷の財政に關する事務に文書を用ゐる必要があつたからのことであらうから、これもまた此のなかまに入れるべきものである。(秦氏の歸化の時代はやはりわからぬ。應神朝としてあるのは、文字の傳來を此の朝のことにしたところからの附會(172)に過ぎない。)しかし、これらは吏務を處埋するだけの文字の知識を有つてゐたに過ぎなかつたであらうから、勿論、學者ではない。學問のことについては、別に百濟から番上した學者を要したのである。繼體紀七年十年の條及び欽明紀十四年十五年の條に見える百濟の學者の交代番上に關する記事は、百濟の史籍から出てゐるものであつて、當時の事實が傳へられたものであるらしい。かうして來朝した百濟人には、邦人の從學したものが少なくなかつたではあらうが、推古天皇の時に來朝した觀勒に就いて暦や天文を學んだものは陽胡史や大友村主といふ歸化人系統のものであつたことを知らねばならぬ(方術を學んだものは山背臣であるが)。もつとも、これには、邦人では言語が通じないといふ特殊の事情もあつたのではないかと推測せられ、同じ朝の遣隋留學生が古い歸化漢人の家のものでなければ今來の漢人のみであつて、純粹の邦人は一人も無かつたことにも、同じ理由があらうと思はれる。なほ、此の留學生の撰擇には、シナの附近の國家がシナと交渉をするに當つてシナ人を用ゐる例が昔から多く、我が國についても宋書倭國傳に倭の使として司馬曹達といふものの名が擧げてあり、また書紀の記載に於いても、吉士とか村主とかいふ歸化人に縁のあるカバネのものを外交の事務に當らせたことが少からず見えるやうに、故國のことに通じたものを採つたといふ事情もあつたであらう。が、彼等がシナの文物の知識に於いて概して邦人よりも優れてゐたことは、疑があるまい。佛教界に於いても、推古朝のころに、重要な地位を與へられた僧は概ね邦人でなかつたことも、參考せられる。(かういふ?態に於いて三經義疏の如きものが作り得られたとは、考へられないではないか。)さて、推古紀に見える所謂今來の漢人は、其の中に僧旻などがあつたことから考へても、かなりの知識を有つてゐたものらしく、冠位の制定、小野妹子の隋への差遣など、聖コ太子の事業として普通に考へられてゐる種々の施設には、或は彼等が參畫し(173)てゐたかも知れぬ(此の今來の漢人が何時來朝したものであるかは明かでないが、書紀に見えないで隋書には記されてゐる、開皇二十年の遣使の歸朝に伴はれて來たのではあるまいか)。もしさうとすれば、あれだけのことをするにも此の新しい歸化人の力を要したのである。隋への交通は百濟の朝貢に誘はれたのであらうが、それと共に、直接に文物の本源地からそれを學ばうとする欲求の現はれでもあつた。だからシナ人を招いたのである。もはや百濟と百濟人とで滿足しなくなつたからであらうが、それにしてもシナ人が必要であつた。要するに、推古朝のころでも、漢文に習熟し典籍に親しみを有する邦人は、極めて少かつたであらう。漢文を書き得るものに至つてはなほさらであつて、國語とシナ語とが全く性質を異にするものであること、漢字がシナ語の表象であるのみならず、それが學び難く解し難きものであること、また邦人が多くシナ人と接觸せず、主として文字によつて文字上の知識を得ようとしたこと、などから見れば、これは當然である。漢文の記録が其の時代にも多く作られなかつたのは、怪しむに足らないことである。さうして、稀に作られたとすれば、それは主として、歸化人、特に其のうちの僧徒の手に成つたものではあるまいか。(道後の碑文の如きも、また歸化人の作であらう。)邦人の間に漢文を書き得るものがやゝ多く現はれて來たのは、大化の新制度に刺戟せられたのが重なる事情であつて、佛教の興隆と、天智朝に百濟人の多く歸化したこととが、それを助けたのであらう。しかし、漢文を書くことに習熟しなかつた邦人にも、それを解釋する能力は漸次養はれ、從つてシナの典籍が讀まれて來たのと、歸化人などから聞き傳へる途が開かれてゐたのとで、推古朝以前とても、それによつて幾らかづつはシナの文物を知識として吸收することができたことは、いふまでもなく、從つて、當時南朝に行はれてゐた種々の思想も、或る程度に於いて、また極めて狹隘な範圍に於いてではあるが、邦人にも傳へられてゐ(174)たであらう。帝紀舊辭の編述せられたことにも、神代史の作られたことにも、其の效果が現はれてゐるのみならず、神代史の内容に幾らかのシナ思想が取入れてあることによつても、其の?態が推測せられる。天帝の意義での天皇といふ名稱を取りそれを尊號としたのも、或は推古朝よりいくらかは前からのことであつたかも知れぬ。推古朝にあれだけのことの行はれたのは、行はれ得るだけの準備がおのづから其の前にできてゐたはずであることを考へねばならぬ。が、それよりも重要なことは、早くから漢字を用ゐて國語を寫す方法を工夫し、それによつて國語の文章を作るやうになつた文化史上の一大事業である。漢文を書き得ずとも、或る程度に漢字を學びまたそれを利用することは、漸次世に行はれて來たに違ひなく、實務の上からもそれは必要であつたので、大化の新制に於いては戸籍や班田に關する文書を作製しなければならず、從つて郡の主政主帳には書算に工なものが撰任せられたはずであるが、これは此の時代になると、地方人の間にも、幾らかのさういふ能力を有するものがあつたことを、示すものらしい。かういふ實務的文書に於いても、國語を寫すために漢字の用ゐられる場合が多いのであるが、それは既にさういふ寫しかたが世に弘まつてゐたからである。けれども、朝廷及び其の周圍にある知識社會に於いては、もつと複雜な思想を表現するために此の方法が用ゐられ、そこから一種の文體が形成せられたのである。かゝる文體が一とほり形成せられるまでには短かからざる歳月を要したであらうし、またそれには歸化人の助力もあつたに違ひないが、かゝる方法を要求したものは日本人であつたはずであるから、其の形成に努力したものもまたさうであつたらう。欽明朝ころに一とほり作られてゐたらしい舊辭は、既に之によつて記されてゐたのである。さうして、推古朝ころにもそれは一般に用ゐられてゐたものであることが、遺存する金石文によつても證せられるが、大化の改新によつて官府の新組織ができた(175)後は、それが詔勅などの如き公文にも用ゐられることになつた。書紀の材料にかういふものがあつた事情は、かく觀ずる時、おのづから領解せられるであらう。けれども、大化以前のことに關しては、書紀編述の時に遺存してゐたさういふ材料の甚だ少かつたことは、上に説いたとほりである。
 推古朝以前に於いても、文部などの手によつて朝廷の記録が幾らか作られたらうとは、推測せられる。文部などは其の時々の吏務に從事するものではあつたが、吏務を處理するために文書が用ゐられたほどであるとすれば、記録の作られたこともまたおのづから想像せられるからである。それから、漢字で國語を寫す方法が習熟せられたとすれば、それによつて或る程度の記録が作られたことも、また推測し得られよう。然るに、書紀を見ると、欽明紀の中ごろより前には、それらの記録から出たと思はれる確實な記載が全く無く、それより後とても、さういふものが極めて少いのは、書紀編纂のころにさういふ記録が殆ど傳はつてゐなかつたからとする外は無からう。のみならず、?述べた如く、舊辭に歴史的事件の記録とすべきものが見えないことから見ると、其の最初の述作の時に於いて、それから程近き時代の記録が既に遺つてゐなかつたに違ひない。記録があつたにしても極めて僅少であり、またそれが朝廷で作られたものであつたとすれば、皇居が一定せず、しつかりした官衙が無く、さうしてまた朝廷に權威を有する家々も常に變動してゐたであらうと思はれる時代に、さういふ記録が散失し湮滅するのは當然であつて、其の根本は、記録の術が異國の文字を用ゐなければならず、從つてそれが一般には行はれず、また多數人がそれに興味を有たなかつた、といふ事實にある。舊辭の述作せられたのは、貴族社會知識社會に對してそれを示さうとしたからであり、從つてさういふ社會に讀者のあることを豫想しての企圖であつたには違ひないが、其の範圍の極めて狹かつたことはいふまで(176)もなく、世にそれが傳へられたのは、寧ろ記憶と口説耳聽とによることが多かつたであらう。また製作の方面からいふと、昔物語を作るのと現在の事件を記録して後に遺さうとするのとは、其の間に心理のはたらきの違ひがあり、後者はむしろ前者よりも、文化の發達の上からいへば、後の階段に屬するものと思はれるから、舊辭の述作のあつたことは、必しも記録の多く作られたことを示すものではない。かう考へて來ると、推古紀より前の年代記が殆ど架空の記事を以て充たされてゐる理由も、また領解せられるであらう。たゞ、諸家に於いて作られた其の家の系譜及び祖先の物語、百濟の史籍、並に欽明朝から後の時代に於いては佛家の所傳が、或る程度の材料を供給し、また古い時代のことについては舊辭が存在したので、書紀の編者はそれを其のまゝに、又は幾らかの手を加へて、年代記に編入することができたのであるが、百濟の史籍から採つたものの外は、それらの材料に歴史的事件の記録とすべきものは殆ど含まれてゐないのである。が、よし歴史的事件の記載でないにしても、材料だにあつたならば、書紀の編者は比較的容易に其の業を卒へることができたであらうけれども、それが少かつたとすれば、此の書の纂述は極めて困難であつたに違ひない。多くの記事を製作しなければならなかつたからである。それが長年月を要したのは當然である。
 人は或は前數章に述べて來た余の考察を疑ふであらう。あれだけの記事が書紀の編者によつて製作せられたといふのが、一見、信じ難く思はれるからである。が、このことは、第一に、舊辭に記載のあつた時代のことについては、その舊辭の記載の性質を考へることによつて、第二に、書紀の形に於いて完成せられた國史撰修の經過を囘顧することによつて、此の疑問がおのづから氷解せられるであらう。第一については、韓地の經營に關する應神朝から繼體朝ころまでの書紀の記載は、そのうちで歴史的事實の記録として認められるものが、盡く百濟の史籍から出てゐること(177)が注意せられる。これは書紀編纂の資料となつた舊辭にそれが見えてゐなかつたからであるらしく、舊辭をそのまゝに寫しとつてある古事記に、此のことについて事實としての記載が無いことからも、それは知られる。ところで、韓地に關することがさうであつたとすれば、同じ時代の國内の事件についても、また同樣であつたとしなければならぬので、古事記に見える物語の、畢竟、物語に過ぎないことが、それを證する。さうしてこれは、舊辭編述の場合に資料とすべき記録が無かつたからであらう。たゞクマソの征討やイヅモの服屬といふやうな大事件については、それがおぼろげながら幾らか人の記憶に殘つてゐると共に、或は簡單な記録があつて、それが昔のこととして作りなされた物語の材料となつたかも知れないが、よしそれにしても、それ以上の材料が供給せられたとは考へられない。それがあつたほどならば、舊辭はもう少し事實の記録らしくなつてゐるはずである。從つて舊辭の外に資料とすべきものの無かつた時代の記事は、書紀の編者の構想によつて作られたものとしなくてはならぬのである。
 次に第二については、まづ、天武朝にはじめて史局が開かれてから書紀の完成までには、約四十年の月日が經つてゐることを考へねばならぬ。其の間、編述の事業が間斷なく繼續せられたとは思はれず、?絶えてはまた復興せられたのであらうが、前後を通じて連絡のある事業であつたことは、後にいふやうに、書紀の記載の内容の上からも肯定せられねばならぬ。外面的に見ても、天武朝に開かれた史局に於いてもし其の稿本ができてゐたならば、それは天智朝を終とするものであつたはずであり、持統朝までを包含するやうにしたのは、それより後に行はれた修補の場合であつたに違ひないが、それは或は元明朝の終に復興した史局でではなく、もつと前のことであつたかも知れぬ。元明朝でのこととすれば、何故に文武朝を除外したかがわからないからである。さすれば、記録の上には現はれてゐな(178)いが、文武朝ころにも國史撰修の事業は繼續せられてゐたのではあるまいか。持統朝に天武朝のそれが依然として繼承せられてゐたらしいことは、一層明かに推考せられよう。持統紀五年の條に「詔十八氏、上進其祖等墓記、」とあるのも、史料として用ゐるためであつたらしく想像せられること、天武朝に國史撰修の事業のはじめられたとほゞ時を同じうして律令の改定が命ぜられ、持統朝に至つて令が諸司に班賜せられたことも、參考せられねばならず、また書紀完成の際に其の編輯總裁であつた舍人親王にそのことを任命せられた記事が元正紀のどこにも見えないことから類推すると、此の事業について現存の記録の上に現はれてゐない史局の變遷などがあつたことも、想像しなければなるまい。なほ、天武朝の撰修の詔勅には「令記定帝紀及上古諸事」とあるから、その撰修せられたものが書紀の如き年代記風のものであつたかどうかは明かでないやうであり、また其の文章が漢文であつたか舊辭の如く國語で書かれてゐたかも知り難いやうであるが、漢文學の勃興した天智朝の後をうけ、唐制に摸して律令を制定もしくは改修しようとしたほどな時代のことであるとすれば、特に執筆者の一人たる中臣大嶋は其の詩が懷風藻に採録せられてゐることを思ふと、やはりシナの史籍を學んで年代記を作らうとしたものであることが推測せられるので、此の點からも此の撰修が書紀の第一の稿本であつたと見るに支障は無い。ところで、其の完成までにかゝる長年月を要したのは、編述そのことが困難であつたからであり、さうして其の困難なのは、史料の無いのが主因であつて、それがために編述の方針をすら確立することができなかつたからであらう。このことについては、天智朝にはじまり歴代の改訂を經て大寶に一旦成立し養老に至つてまた修正せられた、律令制定の事例をも思ひ合はすべきであつて、これもまた此の事業が困難であつたからと見なければなるまい(困難の原因が國史撰修のそれとは違つてゐるにしても)。のみならず、(179)長年月を經過する間には編者も更迭し、時勢も推移し、從つておのづから編述の方針にも動搖や變化が起り、さうしてそれがまた事業を一層困難ならしめ、從つて其の新考を遲緩ならしめ、或はそれを停頓せしむるに至る場合を生じたのでもあらう。かういふ困難を辛くも切りぬけて、ともかくもまとめ上げたのが書紀であるが、それが長年月の間に幾人もの手によつて幾度も潤色修補せられたとすれば、上に述べたやうに多くの記事が種々の考へかた種々の態度によつて造作せられ、またそれが作り加へられたり書きかへられたりしたとしても、怪しむべきではないので、それだけの徑路がとられたと見るべき時間は十分にあつたのであり、或る場合の起草者が造作したものは、程經た後の潤色者には歴史的事實として受取られるやうになつてゐたかも知れぬ。(編者みづから幾多の記事や説話を作つてはゐたけれども、所謂帝紀舊辭の記載の如きは、彼等には殆ど史實として信ぜられてゐたでもあらう。)それと共に、後にいふやうな種々の齟齬や矛盾が其の記事の上に生じたのもまた當然であるが、それほどでなくとも、變改修補の迹を示すものが記載の上に遺つてゐる。それを總括的に知り得るのは、「一云」、「一本云」、または「或本云」などと注記してある其の本に書紀の稿本と認められるもののあることである。
 此の「一本」などといふものには種々の性質のものが含まれてゐるが、書紀編述の際に其の材料として採つた書の異本をさしてゐる場合が少なくなく、また同じ事件について本文にとつたものとは別の記載を有する別の材料を指してゐることもある。神代紀に例の多い「一書」は即ち此の第一の部に屬するものであつて、書紀の材料となつた舊辭の異本であるが、綏靖紀二年、安寧紀三年、懿コ紀二年、などの諸持統を始として系譜に關する異説の記してあるのは、帝紀の異本に違ひない。崇神紀十年の持統、應神紀の卷首、仁コ紀三十年の持統、安康紀卷首の「流伊豫國」とある(180)もの、又は武烈紀卷首の歌垣の話に見えるものなども、また舊辭の異本と見なされる。これらのうちには古事記と同じことの記されてゐるものがあるので、さういふ場合のは、古事記のもととなつた、もしくはそれと同じ本文を有つてゐた、舊辭であるか、或は古事記を指してゐるのか、判然しないが、古事記も大體に於て帝紀舊辭の一つの異本とすべきものであるから、何れにしても今の問題については同じである。其の他、例へば雄略紀四年の條にある如く、舊辭から出たはずの歌謠について詞のちがひをしらべてある場合のが、舊辭の異本であるべきことは、いふまでもなからう。次に第二の部に入るべきものは、史料の存在する時代になつてからそれが見えるので、敏達紀十四年の條の佛教に關するものが其の最も早く見える一つであらうか。これは、當時の記録ではなくして、後世に書かれたものではあらうが、佛家の手になつた書物らしい。孝コ紀白雉四年五月の僧旻、齊明紀五年の肅慎についてのも、また此の例であらう。これらは伊吉博コ書とか、道顯日本世紀とかを引いてあるのと同じであるが、書名を記してないのは、書名の無い記録などであつたからであらう。
 ところが、雄略紀二年七月、欽明紀二十三年八月、敏達紀十二年、皇極紀四年正月、などの諸條の注に「舊本」として引いてあるのは、上記の二つのいづれでもなく、書紀の稿本であることが知られる。舊本といふ名稱からさう考へられるのみならず、其の記載の内容が、雄略紀のは此の紀の全體の性質から見て事實を記したものではなく、欽明紀のは説話的色彩を帶びてゐて當時の記録から出たものとは思はれず、敏達紀のも架空譚であり、皇極紀のもまたそれが前兆を示すものである點に於いて、いづれも、既に述べたごとく、書紀となつて完成せられた國史編述者の造作した記事に關するものだからである。なほ、雄略紀二十一年の條の注に「日本舊記」を引いてあるが、これが書紀の(181)稿本であらうといふことは、「百濟に關する日本書紀の記載」に述べて置いた。特にかう書いたのは、百濟の史籍を基礎にしてつくられた本文と對照させるためであつたらう。それから、雄略紀七年の條に田狹について、十年の條に身狹村主について、注記してある「別本」も、また同じ理由から同じやうに見なすべきものであつて、別本といふ名稱もまた完成せられた書紀とは違ふ其の別本といふ意義でいはれたものと解せられる(これが、後にいふやうな、書紀の異本を指すのでないことは、記載の内容が本文と同じでなく、傳寫の間に生じた變異とは思はれないのでも知られよう)。さて、既にかういふ例があるとすれば、一本もしくは或本としてあるものにも、また書紀の稿本のあることを推測しても、無理ではあるまい。例へば、垂仁紀元年三年及び二十五年の條に「一云」としてあるものは、其の記載が何れも舊辭に存在した説話でなく、特に元年のは夷狄の慕化來歸を讃美する儒教思想によつて作られてゐる點に於いて、三年のは崇神紀七年の條の記載と連絡のある點に於いて、また二十五年のはそこに「丁巳年冬十月甲子」といふやうな年月干支が明記してある點に於いて、さう見なければなるまい(二十五年のは材料が倭直の家から出てゐるにしても)。一々いふことは煩雜であるから、それを避けるが、國史撰修者によつて造作せられた記事に關するもの、例へば安閑紀元年の大伴金村の奏言、欽明紀十七年の韓人高麗人の田部の起源、孝コ紀白雉元年の三國の貢獻、齊明紀四年の終にある前兆、などについてのそれ、また例へば、崇峻紀五年の馬子の弑逆、孝コ紀大化二年の墓制喪儀についての詔勅、齊明紀六年九月の百濟の上言、などに關するものの如く、本文の文章の由來を知り得べきもの(これは上に述べた欽明紀二十三年八月の條の舊本と同じであつて、書紀の本文は、注記してある或本の記載を要約し又は書き改めたものであることが知られるが、所謂或本の記載は何等かの史料によつたものではあるものの、故らにかう(182)注記してあるのを見ると、其の或本が史料そのものを指してゐるとは思はれない)、或はまた繼體紀二十年二十五年、欽明紀二十三年、などの諸條に見える如く、年代記的記録が史料として遺存しなかつた時代の紀年に關するもの(繼體紀二十五年の條のは、其の或本の記載が、安閑天皇の元年を繼體天皇の二十八年に置いてある、從つてまた宣化欽明二朝についての、書紀の紀年と密接の關係があり、さうして欽明朝の暦年上の地位を書紀の如くすることは、上に説いた如く、古い傳へとは見難いものである)、などがみなそれである。なほ、繼體紀二十三年の毛野の言、欽明紀十五年の百濟明王の敗死の物語、の場合の如く、百濟の史籍に見える材料に基づいてそれを潤色したと認められる記載のあるものは、やはり書紀の稿本としなければなるまい。(明王敗死の記事は書紀の編者の潤色を經たものらしく、王を斬つたものを飼馬奴としてあるのも、日本人の考によつて書かれたことであるが、十三年十六年などの百濟の史籍から出たものとは思はれぬ記事に聖明王としてあるのが、こゝでは明王となつてゐる點、または飼馬奴の名の苦都の又の名(實は文字の違ひにすぎない)を谷智ともいふとしてあつて、それが、日本人の案出したことらしくない點などから見ると、何等かの根據が百濟本紀などにあつたのであらう。)ところで、これらの場合に舊本もしくは別本と書いてないのは、書紀の用語例の一定してゐないことを示すまでであつて、其の實は同じであり、書紀の最後の修正の際に諸種の稿本が存在してゐたため、それらがかういふ書きかたで注記せられたのであらう。このやうな書紀の稿本が第三として擧ぐべきものである。
 さてこれまで見て來たやうな書紀に於ける注記は、其の數が頗る多く、中にはそこに記されてゐる本が上記の三種類の何れに屬すべきものであるか判斷しかねる場合もあるが、最後に述べた書紀の稿本と見るに支障の無いものが、(183)寧ろ大部分を占めてゐるやうに思はれる。其の他、書紀の完成せられた後に生じた此の書の異本をさしたものと見なさるべき場合もあるので、例へば神功紀の忍熊王の物語の條に「一云、多呉吾師之遠祖也、」とあるが如きはそれであり、孝コ紀大化二年八月の條の「名名王民」と「離宮」とのことの記してあるもの、白雉四年五月の條の留學僧留學生の名のあるもの、又は天智紀卷首の百濟救援の、七年十月の條の高麗の、物語に關するものなども、其の例であるらしいが、これらの注記は所謂傍書の?入の類であり、本來書紀にあつたものではない。其の内容も多くは文字の異同出入をいふに過ぎないものである。だから、これは今の問題には關係の無いことである。(上記の稿本が、書紀完成後、どうなつたかは明かでないが、世に現はれることなくして亡失したであらう。因にいふ。書紀の材料として蒐集せられたはずの、いろ/\の異本となつてゐた、帝紀舊辭も、またもとの所有者に返還せられずして、同じ運命にあつたことと思はれる。官撰の書紀ができ上がつた當時には、舊來の種々の異説の存在は許されなかつたはずであらう。これから後に作られた上代のことを説いたものは、何れも書紀に本づいてそれに新しい潤色が加へられてゐるのであつて、書紀編述の前から存在した帝紀舊辭を繼承し又はそれから直接に展開せられたと思はれるものの無いことは、事實に於いて、それを證するもののやうである。家々の系譜などには、其の家の傳へといふやうなものによつたところがあるにしても、概していふと、やはり書紀を本にしてそれを修飾し又は改作したものであることが、續紀以後の史上に散見する斷片的記載や姓氏録などから、推測せられる。正倉院文書の天平二十年の寫章疏目録のうちにある「帝紀二卷」は、書紀編纂前から傳へられてゐた此の名の書が、如何なる事情からか、世に遺存してゐたものであらうが、それとても單に古書として保存せられたに過ぎなからう。さすれば、古事記の後に殘つたのは、それがまと(184)まつた一つの典籍として、官府以外のところにも寫し傳へられてゐたからであらう。)
 さて、現存の書紀とはちがつてゐる其の稿本の存在を推測することによつて、最初の起稿から最後の完成までには幾度か改訂修補の施されたことが知られるとすれば、いまの書紀の本文の上にも其の形迹があらはれてゐようとは、容易に想像し得られる。上に述べたごとく、敏達天皇の崩御の年に關して敏達紀と推古紀の卷首とに齟齬するところがあるのは、紀年の點に於いて、また伴信友の説いた如く天武紀二年の條に元年にあるべき大歳の所在が記してあるのは、天皇紀の立てかたに於いて、一旦稿本が作られた後に變改が加へられたことを示すものである。天智紀七年の條に皇后宮嬪及び諸皇子の名が列擧してあつて、それは元年の條に記されるのが一般の例であること、さうして現に「即天皇位」の記事が此の年にあることから考へると、稿本では此の年が天智天皇の元年となつてゐたらしい。それを後に改めて、現在の本の如く、所謂攝政の元年から此の年以後をも通算することにしたものであらう。敏達天皇の立太子の記事が欽明紀と敏達紀とで年次を異にし、用明紀の卷首に「見炊屋姫天皇紀」と注記してありながら、推古紀にそれが見えず、また皇極紀元年(壬寅)に高麗使人の來朝のことを記しながら、二年の條に「高麗自己亥年不朝」といつてあるなども、やはり同じ事情から生じた矛盾であらう。或はまた、繼體紀七年の條に勾大兄皇子(安閑天皇)と春日皇女との歌の唱和があるのに、安閑紀元年の條に「有司爲天皇納采……春日山田皇女、爲皇后、」としてある矛盾、同じ紀の八年の條に春日皇女の名を後世に傳へんがため屯倉を賜はつたといふ記事のあるのに、安閑紀元年の條には皇后のために同じ理由で同じく屯倉を置かうとせられたことが見えるやうな重複もあるが、これらもまた同樣に見なすべきものではなからうか。なほ、推古紀に三十一年の一年が空白になつてゐるのも、こゝに由來がある(185)らしく推測せられる。三十二年は日の干支から考へると、三十一年であるべきはずであり、三十三年と三十四年との干支は、共に三十三年に適合してゐるやうであるが、もしさうであるならば、稿本を添削するに當つて、もとの記事の年のあてかたを動かし、其の結果として紀年に混亂と空隙とが生じたもののやうである。それから、或る記事の書かれた時代のほゞ推知せられるものも、稀にはあるので、例へば景行紀の日本武尊の蝦夷征討譚が天武朝の史局で製作せられたものらしい、といふことは第二篇に説いておいたところである。もつとも、これとても後に幾らかの修飾は加へられたであらう。
 しかし、書紀の本文に矛盾や不調和のあるのは、たゞかういふ事情からばかりではない。時代を異にする材料が其のまゝ寫しとられ、又はそれと編者の筆に成つた部分とが混在するところから來る場合もある。一二の例をいふと、神代紀などには中臣連遠祖天兒屋命、大伴連遠祖天忍日命、などと書きながら、欽明紀十四年の條には王辰爾について「今船連之先也」としてあつて、同じく連のカバネながら、一つは古い時代のそれ、一つはいはゆる八色として定められたうちのそれであり、其の性質が違つてゐるが、これは神代紀のが中臣氏や大伴氏の連であつたころに書かれた舊辭の文から出たものであり、欽明紀のが船史の家の連となつた天武天皇十二年以後に書かれた船氏の家譜から採つたものか、又は書紀の編者の筆に成つたものか、何れかであるからである。推古紀に隋のことを大唐と書きながら、二十六年の條の高麗の報告にのみは隋としてあるのも、此の例であらう。次には文章の上から來た矛盾があるので、武烈紀に英主であるが如く書かれたところがあると共に、暴君ともなつてゐ、繼體紀に容易く群臣の迎をうけられたやうにしてあると共に、辭讓せられたことにもしてある類がそれである。英主と見えるのは、既に説いた如く、文選(186)の勸進表の、また辭讓せられたといふのは漢書文帝紀の、文章を取つたからであつて、暴君であつたり、喜んで位に即かれたりしたのは、別の思想から出たことであるため、かうなつたのである。これらの相反する記事が一時にかゝれたのか、又は漸次に添加せられたのかは、わからぬが、何れにしても編者はかゝる矛盾の生じたことに氣がつかなかつたらしい。なほ、編者の筆に成つたところには、當時の思想と?態とで上代の記事を作り、もしくは舊辭の物語を書きかへたために生じた矛盾も多く、地名の書きかたが、新舊古今、互に錯雜してゐるが如きは其の例であるが、更に考へると、シナ思想を以て我が國の物語を記述し又は製作したところから起つた矛盾も少なくなく、大きく見れば、書紀の全體が此の矛盾のかたまりである。
 シナ思想が書紀の全體を蔽うてゐる觀があるといふことは、今さら説くまでもなく、明かな事實である。シナの文物制度そのものが學ばれるやうになつた時代のことについては、それに關する記事がおのづからシナ的色彩を有するやうになり、また漢文を用ゐ、シナの典籍の成語成文をさへ多く採つてゐるため、それに伴つておのづからシナ思想が文面の上ににじみ出すやうになつたことは、むしろ當然の傾向であるが、書紀の編者は故らにシナ思想に本づいて種々の説話を作り記事を作つたのである。休祥や災異を語り、童謠や時人の言を作り、或は慕化來歸の思想によつて蝦夷隼人韓人などの内附朝貢をいつてゐるのが、シナの史籍の記載を摸倣したものであることは、既に述べたところであるが、一方では  屡々天下泰平、五穀豐饒、百姓安富、の記事を作ると共に、他方ではそれに對して、時に飢饉をいひ、或は「人相食」とまで極言してゐるところがあるのも、シナの所謂正史に見えることを無意味に尊んだまでのことである。其の他、儒教的聖天子の觀念によつて作られた話があるのみならず、即位に際して辭讓を語ることが多(187)く、仁コ紀はいふまでもなく、允恭紀、顯宗紀、繼體紀、欽明紀、推古紀、などにもそれがあることを思ふと、シナ的な政治道コの思想が如何に編者を支配してゐたかが知られよう。かう考へて來ると、武烈紀に見えてゐる暴虐の行もまた、一方に堯舜の如き聖王の話があるに對して、他方に桀紂の如き暴君虐主があつたやうに記されてゐるシナの典籍の外面的摸倣に過ぎないことが、おのづから明かになつたであらう。さうしてそれを武烈天皇のこととしたのは、此の天皇の血統が絶えてゐたからのことらしい。桀紂の如き不コの君主は子孫が絶えるといふ考が、シナにはあつたからである。雄略紀や齊明紀天智紀などに見える天皇に對する非難の言がシナの史籍の摸倣であることは、いふまでもあるまい。たゞ、前朝の君主に對しては如何なる惡言をも放つて憚らない代り、時の王朝については常に諂諛の辭をつらねるのがシナ人の風習であるのに、書紀の編者があの如き記事を作つたのは、我が國が易姓革命のシナと同じでないことを知つてのしわざではなく、さういふシナ人の風習を解し得なかつたからであらう。推古紀に隋を大唐と書き改めてあるのも、王朝更迭の意を解せず、少くともそれを重要視しなかつたためらしいことを、參考すべきである。或はまた、風水の災害や饑饉の記事を作つても、それを君主の不コの致すところとする所謂災異説を根據にしてのことではないやうに見えるのも、之と同樣である。一知半解の譏を免れないところはあるに違ひないが、しかし、それは上記の考説を妨げるものではない。また、こんな記事の多く作られたのは、史料の無い時代の年代記を書かねばならなかつたからのことではあるが、それにしても、ひたすらにシナ風の史籍の形體を整へようとしたものであることも、否み難い。同じく造作せられた内容を有するにせよ、帝紀舊辭の著作は、皇室の權威の由來を説き其の地位を鞏固にしようといふ精神から出たものであるが、書紀の編述は寧ろ文華を粉飾しようとするところに重きが置かれてゐ(188)た。記すところの眞否如何を全く顧慮しなかつたのではなく、繼體紀の崩御の條に考證めいたことを注記し、又は所々に一本、或本、などの所説を書き添へた例さへあるが、所謂修史の目的はそこにあるのではなかつた。梁書の文を所々に取つてあることから考へると、宋書南齊書なども編者の手もとにあつたらうと思はれるにかゝはらず、それらの倭人傳に着目した形迹の無いこと、津輕方面の蝦夷を肅慎と稱し(肅慎考參照)、我が國から遠からぬところにゐたらしい民族の名を吐火羅、舍衛、などと書いてゐることなども、また此の點に於いて注意せられよう。眞實を記すよりもシナ風の史籍の形相を装はうとしたのは、外から與へられた思想の形式にあわたゞしく自己の生活を適合させようとして、却つて眞實の自己を忘れんとする、外國文化の摸倣に伴ふ、心理の現はれであり、其の漢文がみだりに古典の文字を剪裁補綴したものであり、それがために表現せんとする思想とは甚しき不調和を來し、今日の讀者をして滑稽の感を懷かしめるのも、また之と同じである。(附記。書紀のもとの名である日本紀の名は、前漢紀後漢紀のそれを學んだものであらうといふ折口信夫氏の説があつて、それは注意すべき見解である。しかし、編者の模範としたところは、やはり、所謂正史の本紀であつたらしく、それは歴代の正史の本紀から其の文字を借り用ゐたところの多いことからも、表に擬すべき系圖のついてゐたことからも、推測せられる。歴代毎に天皇の御性格らしく記してあることのあるのも、漢書の宣帝紀、元帝紀、成帝紀、哀帝紀、などの例を學んだものであり、現に孝コ紀には元帝紀の文字を其のまゝ取つて用ゐてある。列傳や志の作られなかつたのは、作るだけの材料が無かつたからであり、論賛めいたものの書かれなかつたのは、そこまで摸放しようとしなかつたからであらう。もしさうとすれば、それを紀と名づけたのは本紀に擬したからであつた、とも解し得られるやうである。それに日本の名を冠したのは、シナの史籍に(189)對する意味に於いてであつたらう。此の「日本」は、もとは、古くから用ゐられて來た倭の字にかへて、ヤマトの語を寫すために考案せられた文字であつたらしいが、その文字に美稱の意があらはれてゐるため、當時、一種の誇を以て用ゐられたものであり、本文にも?つかはれてゐる。)
 けれども、書紀は其の核心までシナ思想になりきつてゐるのではない。安閑紀から後は全く影を隱してしまつた天皇及び皇族についての歌物語や戀物語は、應神紀から雄略紀までに於いては全體の興味の中心となつてゐ、武烈紀、繼體紀、に於いてもなほ其の名殘をとゞめてゐる。雄略紀元年、清寧紀三年、の條などに見える話の如きは、いかにしてもシナ式正史の記載としては不調和であり、數多き兄弟爭ひの物語も、辭讓を美コとする思想とは一致しない。一々の物語を讀んで見ても、仁コ紀に於ける如く、聖帝の觀念の傍に戀物語が花やかに展開せられ、允恭紀の衣通姫の話に於ける如く、突如として儒教式道コ觀念が闖入しては來るが、話はどこまでも戀物語である。皇極紀や天智紀の時事に對する諷刺や豫言となつてゐる童謠が、實は戀歌の類であるではないか。或はまた、崇神紀や神功紀には神祇の祭紀とシナ的政治思想とが混在してゐるのを見るがよい。また單に外形からいつても、書紀の全體の結構がシナの史籍を摸倣したものであるにかゝはらず、歴代毎に必ず先づ系譜を掲げ、后妃と皇子とのことを一括して記してあるのは、シナの史籍には例の無い方式であるが、これは既に述べた如く、上代の部分については、帝紀と舊辭とを歴代の一々に分割してそれを結合した古事記の例に從つたのであり、それらの無くなつてゐる時代についても、また其の方式を踏襲したのである。シナの史籍を學ばうとしながら、かういふ書紀が作られたのは、何故であらうか。飜つて考へるに、帝紀舊辭のはじめて編述せられたことにも既にシナ文化の影響があるのみならず、其の内容に於いて(190)もシナ傳來の分子の存在することが認められるが、しかしそれは儒教的政治思想ではなく、神仙説や道家の宗教思想や、もしくは民間信仰か民間説話かの類であつて、そこに百濟を經由して傳來した六朝文化のかすかなる面影がほの見えると共に、欽明朝ころに於ける知識社會の思想の反映がある。シナの知識が傳へられたとすれば、儒教思想がそれに伴はなかつたはずが無く、其の經典の如きも、勿論、知られてゐたであらうが、當時はそれがまだ強く人心を動かすには至らなかつたらしい。もつとも、帝紀舊辭の編述せられた根本の精神は、上にも述べた如く、皇室の地位の由來を明かにして其の權威を鞏固にしようとするところにあり、治者階級の間に養はれて來た、もしくは當時勃興して來た、政治意識の現はれであるが、彼等の日常生活に於いて最も調子の高いものは、一方に於いては戀愛と其の表現としての歌謠とであり、他方に於いては祭祀や呪術であつたので、舊辭は此の政治的精神の發揚と日常生活の表現とを結合することによつて成立つてゐたのであり、シナ思想の如きは、纔にそれを潤色する用をなすに過ぎなかつた。ところが、推古朝に於ける隋との直接交通と新制度の設定とに端を發し、大化改新前後から急速に力を得て來たらしく思はれる儒教的政治思想は、一たび形を成した舊辭の内容をも動かすやうになつたので、古事記によつて後に傳へられた崇神天皇や仁コ天皇の物語は、其の頃に修補せられたものらしく見える。さうして、天武朝に開かれた史局及び其の繼承者は、時によつて弛張はあり抑揚もあつたであらうが、大體は、此の儒教思想の指導の下に其の事業を進行させたのであるから、そこで、舊辭の物語にも儒教的色彩を施し、また儒教思想によつて新に記事を製作したのである。しかし、知識社會に於いても、知識の上では儒教思想に服事しながら、實生活を支配するものは決してそれではなかつたので、彼等の喜ぶところは依然として肉感的な戀愛であり、其の表現である歌謠であり、或は遊獵であり(191)饗宴であり、また其の依頼するところは祭祀であり呪術であつたから、舊辭の物語に對しては依然として興味を失はず、興味のあるところはまた彼等の製作した同じやうな物語となつて現はれるのである。書紀の上代の部分に舊辭の物語が取つてあるのは、材料の關係上、當然のことではあるが、其の内面的理由はこゝにあり、さうして、書紀の記載の不統一は、シナ的政治思想によつて作られた記事と並んで舊辭の物語の存在することに於いて、最も著しく目につくのである。また神仙譚をはじめとしてシナの説話などの好まれたことはいふまでもなく、それもまたかういふ生活に適合する點があつたからである。シナ思想に準據しようとするのは知識の要求であつて、それがために自己の生活を歪めて觀るやうにさへなつたのであるけれども、眞實の自己は却つてそれに反抗して、そのいき/\した姿を現はさうとしたのである。修史者の態度が此の相背馳せる知識と實生活との兩者の間に彷徨し、動搖し、或はむしろそれを二つながら包容しようとするに至つたのは、當然であつて、書紀の記載が思想上、矛盾と撞着と混亂とに滿ちてゐるが如き感のあるのは、之がためである。序論に述べたやうな、奇異ともいへばいはれるほどな書紀の亂雜さは、實は書紀編述時代に於ける知識社會の思想と生活とをさながらに反映してゐるのである。懷風藻の詩と共に萬葉の歌が作られ、漢文の詔勅が發せられると共に國語の宣命がのられ、令の規定の下に氏族制度時代の因襲が持續せられ、シナ的朝儀と共に神々の祭祀が行はれ、唐風の衣冠に日本人の生活がつゝまれてゐた時代の文化相、書物の上の知識を尊重しながら、それに壓服せられてはしまはず、其の心情が溌溂として動き、制度の外形に緊縛せられながら、生活の自由を保たうとした奈良朝人の心理が、其のまゝ此の書に表現せられてゐるのである。勿論、奈良朝人には、上記の如き知識と生活との、又はシナ傳來の文物と自己の心情との、矛盾と衝突とに對する深い自覺と反省とがあり、そ(192)こから生ずる内面的な葛藤によつて大なる苦悩が體驗せられたのではなく、從つて、此の矛盾と衝突とに苦悩しつゝ其の間から新しい文化を造り出さうとする、意識しての努力があつたのではないが、これもまた、おのづから、種々の分子が雜然として混在するに過ぎず、それらを綜合し統一し、もしくは融合しようとする大なる精神の現はれてゐない、書紀の上に象徴せられてゐるといふことができよう。書紀の特色と價値とは、畢竟此の點にあるのであつて、ほゞ帝紀舊辭のおもかげを傳へてゐる古事記とも趣を異にし、それと共に、シナの史籍の單純なる摸倣でないことが、それによつて知られ、そこにおのづから一種の風格と生氣とが生じてゐるのである。上には書紀に歴史的事實の記載でないものが多く含まれてゐることを指摘したが、これはそれらの説話や記事が其の語つてゐる時代の史料とすべきものでないことを示すものであると共に、書紀編述時代の思想史の材料としては大なる價値を有することを證するものである。また物語などを古事記のもとになつた舊辭の如く國語で書かず、それを漢文に翻譯し、もしくは漢文風の書きかたで記してゐる點に於いて、日本人の思想と情調とを歪めてゐるのではあるが、それと共に、其のことみづからが、やはり、書紀編述時代の文化と思想とを現はしてゐるのでもある。古事記によつて傳へられてゐる舊辭と書紀との差異は、一が事實を記し他がシナ思想を以てそれを彩つてゐるところにあるのではなくして、一は比較的前の時代の思想を、他は後の時代のそれを、現はしてゐるところに存するのである。
 
(193)   附録
 
     第一 百濟に關する日本書紀の記載
 
       一 神功紀に見える百濟服屬物語
 
 最初に問題となるのは、百濟が始めて我が國と交渉を開いた始末を敍してゐる神功紀四十六年から五十二年までの記事である。全く年紀の見えてゐない四十八年の一年を除いた前後六年間の記事は、百濟關係のことのみであつて、其の他のことには一言も及んでゐず、さうして其の百濟との交渉は、年序を追うて順次に展開して來る首尾一貫した説話である。所謂編年體によつて構成せられてゐる書紀に於いて斯ういふ記事のあることが、先づ注意を要する。さて此の説話の發端は、百濟肖古王の使人が日本に朝貢しようと思つて卓淳國まで來たけれども、海を渡らなければならぬと聞いて一旦本國に歸つた、其の後卓淳國へいつた日本の斯摩宿禰が其のことを聞いて從者を百濟に遣した、肖古王は大に喜び、珍寶を多く有つてゐるからそれを貢獻するといつた、といふことであつて、四十六年の記事が即ちそれである。
 此の話に於いて第一に氣がつくのは、百濟人が其の本國から我が國に來るに海を渡らなければならぬことを知らな(194)かつた、といふことであつて、これは勿論事實ではない。四百餘年間海路によつて樂浪もしくは帶方と交通してゐた所謂倭が島國であるといふことを、其の帶方の故地たる漢城(今廣州)に首府を置き、其の交通路に沿うてゐる馬韓地方を併有した百濟が、知らぬはずのないことはいふまでもなからう。次に百濟の使節が卓淳國まで來たといふのも、事實としては甚だ疑はしい。百濟が倭に交通しようとしたのは、どうしても任那府が加羅(金海)に置かれた後でなくてはならぬから、其の使節がもし來たならば、それは加羅に來べきはずである。さうしてそれには海路を取るのが自然である。よし假に陸路を經たとしても、卓淳は今の漆原地方らしいから其の西には有名な安羅(咸安地方)があり、其の安羅もまた百濟の領地とは隔つてゐる。何故にそれらの中間の諸國をすどほりして卓淳まで來たか、卓淳まで來たほどならば何故に加羅に來なかつたか、全く理由がわからぬ。第三に交通の目的が珍寶の獻上にあるといふのが甚だ怪しい。要するに、此の發端の説話は受け取り難いことで充たされてゐる。
 次は四十七年の記事であるが、これは百濟の朝貢使が途中で新羅人に捕へられ、其の上に貢物をとりかへられたため、それが新羅のに比べて貧弱になつた、そのことが露見したので、日本から新羅に問罪使を派遣した、といふ話であつて、其の本文の一節に「失道至沙比新羅、則新羅人捕臣等禁囹圄、經三月而欲殺、」といふことがある。沙比新羅は何處のことかわからないが、かういふ記事のあるところを見ると、新羅の領土内でなくてはなるまい。然るに百濟から日本に來るのは、勿論、海路によるのであるから、どう道を失つたにしても新羅にゆくはずはない。だから、これも斷じて事實とは認められぬ。
 四十九年の記事は荒田別鹿我別の兩將軍が卓淳に根據地を置いて新羅を討ち、比自?以下の七國を平定した、とい(195)ふ有名の話である。こゝに加羅が此の時平定せられたとあるのが先づ怪しい。加羅に任那日本府の無い以上、かういふ活動をすることができないはずだからである。(書紀自身に於いては垂仁朝に加羅が既に服屬してゐるやうに書いてあるから、そこに矛盾があるが、此の垂仁紀の記事は事實ではない。)なほ此の記載を文字どほりに解釋すると、卓淳も此の時に平定せられたのであるが、これは卓淳が根據地とせられてゐる本文それ自身と矛盾するではないか。また加羅に日本府がある以上、而も其の加羅のすぐ東北が新羅である以上、何故に卓淳を根據として新羅を討つたか、これも領解し難い。話はまた其の後に、西方の南蠻忱彌多禮を屠つて百濟に與へたこと、比利、避中、布彌支、半古、の四邑が服從したこと、肖古王父子が意流村に來會したこと、千熊長彦が肖古王と共に其の本國にゆき避支山や古沙山で誓つたこと、を傳へてゐる。それから五十年には、多沙城を百濟に増賜して往還の驛とするといふことが見え、五十一年と五十二年とには、我が朝廷で百濟が玩好珍物を貢獻する事を喜ばれ、百濟は日本の大恩に感じて長く服事することを誓つた、といふやうな意味のことが述べてあつて、それは四十六年の條に見える發端の物語と照應して、其の歸緒を示したものである。
 これで見ると、日本と百濟との關係は、百濟が日本に珍寶を貢獻し日本はそれを欲するがために新しく半島で手に入れた土地を百濟に與へて往復の便を計つたことに始まるのであるが、其の土地の獲得もまた此の事件が誘因となつて起つた征討の結果であるのみならず、加羅や安羅や卓淳などもまたそれと同じ事情によつて同時に我が國の屬國となつたことになつてゐるので、すべてが珍寶問題から發展してゐる。帶方郡の故地の大半を領有しまた南方シナと交通してゐる百濟が、日本に所謂珍寶を貢獻したことは、勿論、事實であり、日本でそれを喜んだことも疑が無からう(196)し、そのことが日本と百濟との關係に於いて重大なる意味を有つてゐたことも、また推測せられる。しかし二國の交渉が單にそれから起り、またそれを中心として成立した、といふのは、日韓交渉史について一とほりの知識を有するものの首肯し難きところであらう。いひかへると、此の物語に於いて毫も政治的意味の現はれてゐないのが、事實譚として見る時、甚だ怪しいことなのである。のみならず、此の珍寶の話は、神功皇后新羅征討の物語に於いても、戰役の原因として説かれてゐることであるが、それが事實として考へ難いことは、この書の第二篇に於いて既に述べたところである。なほこゝに、半島に於ける日本の勢力の代表者であり活動の本據であつたはずの、任那日本府のことが全く見えないのも、甚だ不思議である。これが此の説話の全體について疑を容るべき點である。
 然らば此の記事は、全く信用のできないものであるか、或は其の中に何ほどかの歴史的事實が存在するものであるか、といふ問題が生ずる。が、それに答へるには、此の記事の出所が何にあるかを考へる必要がある。それについて第一に注意すべきは、最初の四十六年の記事に甲子年云々とあり、明確に干支を以て其の年を示してゐることであつて、これは書紀の所々に引用してある百濟の記録に其の例の多い書き方である。例へば神功紀六十二年の條、雄略紀二十年の條、に見える百濟記がそれであつて、雄略紀二年および五年の條に引いてある百濟新撰も同樣である。第二には、こゝの本文に日本のことを貴國と書いてあるが、これも神功紀六十二年、應神紀八年、同二十五年、等に百濟記の文として載せてあるところに用ゐてある語である。第三には、四十九年の條に木羅斤資といふ名が出てゐるが、これは六十二年及び應神紀二十五年の條に引かれた百濟記に見えるものである。かう考へると、此の記事の少くも一淵源として百濟の記録のあることが推測せられる。もしさうとすれば、四十七年の條の千熊長彦の名も、注に引いて(197)ある百濟記の職麻那那加比跪から來てゐるかも知れぬ。が、このことについては、もつと廣く書紀の記事と百濟の記録との關係をたづねて見る必要がある。そこで暫く本論を離れてわき途へ入る。
 
       二 書紀の材料としての百濟の史籍
 
 日本書紀に百濟の史籍から取つた記事のあることは、此の書を通覽したものには、すぐに氣のつくことであるが、それが、どれだけの程度に於いてであるかは、一々の記事の吟味をしてからでなくてはわからぬ。ところが、百濟關係の記事で内容の甚だ豐富であるのは、繼體紀、欽明紀、あたりであるから、研究の便宜上、まづ其の部分を調べて見よう。
 繼體紀に於いて、百濟の史籍によつて本文の記述せられたことの明證のあるものは、二十五年の條の天皇崩御の記事であつて、「取百濟本記爲文」と注記し、其の本文をさへ擧げてゐる。さうしてそれは、崩御の年に異説があるにかかはらず、百濟本記に從つた、といふのであるから、これによつて、書紀の編者が如何に百濟の史籍を尊重したかを、知ることができる。さうして其の史籍の名が百濟本記であることも、これで知られる。
 そこで少し前に溯るが、繼體紀七年の條から有名な己?に關する百濟と伴跛との係爭事件が見えてゐる。ところが、此の七年十一月の記事には、斯羅といふ文字がある。斯羅は新羅の異譯で梁書に見えてゐるが、我が國では一般に新羅の字を用ゐてゐて新羅とは書かぬ。だから、これは我が國の史料から出たものではないに違ひない。さうして此の記事の全體が百濟に關することであり、其の百濟が南朝と交通してゐて梁書の斯羅の文字も、本來、百濟人の用ゐた(198)ものであるらしいことから考へると、こゝに百濟の史籍の採られてゐることが推測せられる(なほ後にいふ欽明紀十五年の條參照)。次に十年五月の條に、百濟が日本の使を己?から迎へた時のことを記して「群臣各出衣裳斧鉞帛布、助加國物、積置朝廷、慰問慇懃、賞禄優節、」と書いてあるが、日本の記録としては百濟の政府を朝廷と記し、百濟から日本の使節に對する贈りものを賞禄といふはずがないから、これはどうしても百濟の史料から出た文字と見なければなるまい。なほ同じ年の終に「百濟遣灼莫古將軍、日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好、」と見えるが、日本人の名を「斯那奴、阿比多、」といふやうに書くのは我が國の慣例でないのと、欽明紀十一年の條に注記してある百濟本記に、阿比多の名が見えることとから、推測すると、これも百濟本記から採つたものに違ひなく、また「結好」の語も日本の記録としてはあるべからざることである。(應神紀八年の條の注に引いてある百濟記、及び雄略紀五年の條に見える百濟新撰に「脩先王之好」とあるのを參考するがよい。なは三國史記百濟紀の、珍らしく倭との關係を書いてゐる、阿?王六年の條に「結好」の語がある。)さて己?間題の始終が、斯ういふやうに、百濟の記録によつたものであるとすれば、中間の經過を敍してゐる八年と九年との記事も同樣であることが推測せられる。實際、九年二月の條に「副物部連【闕名】遣罷歸之【百濟本紀云物部至至連】」とあるが、これは至至といふ使節の名がわからず、比定すべき文字が見つからなかつたから、百濟本記の記事によつて文をなしながら、物部連の名を省いたものに違ひない。さすれば、三年二月の條の「遣使于百濟【百濟本紀云久羅滿致支彌從日本來、未詳】」とあるのも同樣であつて、これは氏も名も比定ができないため、單に「使」と書いて置いたので、此の條の記事も百濟本記を寫し取つたものであらう。ところが、七年六月の條に、「穗積臣押山【百濟本紀云委意斯移麻岐彌】」とあるのは、幸に比定すべき名が知られ、其の書き方がわかつたので、かう書きかへたのである。さうし(199)て、この三ケ條の記事には、何れも參考のために出所を注記したのである。(集解の著者がこれらの注を私記の?入と見たのは、大なる誤である。書紀の注に於いて集解のいふが如き私記などの?入があることは認められる。しかし集解のさう認めたもののうち、實はさうでないものが少なくないので、こゝに述べたやうなのは其の最も著しき例である。また集解は往々日本といふ文字、例へば雄略紀九年五月の條の「日本諸將」、二十一年の條の注にある「日本舊記」の日本の字を傍注の?入として削らうとする傾があるが、これも誤解であらう。これは、自國のことを三人稱で日本と書くことを嫌ふ、一種の稱謂論から來た僻見であるらしい。)
 次には、二十一年から二十四年までに見える任那問題の記事であるが、二十三年三月の條に「加羅結儻新羅、生怨日本、」とあり、日本を加羅新羅と對等に書いてあるのが、初から日本人の手になつたものとしては、をかしい。もつともこれだけでは、其の史料の百濟から出てゐることを推定するに薄弱のやうであるが、此の問題は欽明紀に至つて大に發展するから、引き續いてそれを讀んで見る。
 先づ一々の記載を見ると、二年四月の條に、任那旱岐等(加羅安羅等諸國の旱岐、日本府の吉備臣を含む)の言として、百濟王を「大王」と呼び、百濟王は安羅、加羅、卓淳、等の旱岐を「子弟」といひ、百濟がそれらの旱岐に贈物をしたことを「贈物各有差、忻々而還、」と書いてゐるし、また同年七月の條にも百濟王は任那に對して「我以汝爲子弟、汝以我爲父兄、」といつてゐるが、これは日本の史籍にあるはずのない筆法であらう。なほこの任那旱岐等が百濟王を「大王」と呼んでゐることは、五年十一月の條にも見えてゐ、贈物のことは六年九月の條にも「百濟遣中部護コ菩提等、使任那、贈呉財於日本府臣及諸旱岐、」とあつて、何れも百濟本位の書き方であることは、これと同じであ(200)る。百濟王の言として記したところに「近羞百濟」とあるのも、同じ筆法であらう。次に、やはり二年の條の終の方(及び五年二月の條)に紀臣彌麻沙、四年九月の條に物部麻薄エ、同年十二月(及び五年三月、十一月、十年六月)に移那斯、麻都、五年二月に物部用歌多、爲歌可君、印歌臣、同年三月に許勢歌麻、物部歌非、己麻奴跪、印支彌、十三年四月(及び十四年正月)に河内部阿斯比多、十五年十二月に有至臣、物部莫哥武連、物部莫奇委沙奇、といふやうな日本人の名の書き方があるが、これも出所は百濟の史籍であらう。此の中の移那斯、麻都、は二年七月(及び五年二月、十月)の條に注記してある百濟本記の「阿賢移那斯、佐魯麻都、」に違ひなく、歌麻は五年十月、己麻奴跪は同年正月、印支彌は同年三月の、それ/\の條の注に見える百濟本記に出てゐるから、其の他のもまた類推せられる。特に爲歌可君は其の名のすぐ下に百濟本記の記事を注記してあるので、其の出所が明かである。
 さて、二年七月の條の河内直は、そこの注にある百濟本記の「加不至費直」に適合すべき我が國慣用の文字をあてはめたのであるが、氏だけ有つて名の無いのは百濟本記に名とすべきものが出てゐなかつたからであり、五年二月の條の津守連はやはりそこに注記してある百濟本記の「津守連己麻奴跪」を取つたのであるが、名の己麻奴跪は比定すべき文字が見當らないため、それをすてて氏姓だけを本文に擧げたものである。十七年正月の條に「遣筑紫大君【百濟本紀云筑紫君兒火中君弟、】」とあるのもやはり同樣である。これを思ふと、二年四月の條に「吉備臣【闕名字、】」とあるのも、やはり百濟本記から來てゐるので、原本に名が書いてなかつたものと認められる。また五年二月の條に「汝先祖等【百濟本紀云、汝先、那千陀甲背、加臘直岐甲背、亦云、那歌陀甲背、鷹歌岐彌、語訛未詳、】」とあるのは、百濟本記の氏名が全く比定のできないものであるため、すべてそれを省いて「汝先」だけを取つたのである。同じ條の「爲歌可君【百濟本紀云、爲歌岐彌、名有非岐、】」に至つては、氏も名もわからないけれど全體を省くことができな(201)いので、岐彌を君に書きかへただけで、もとの文字を其のまゝに寫してゐる(爲歌可は爲歌とも書いたのか、印歌臣も同じ人らしい)。同年三月の條の「召日本府【百濟本紀云、還召爲胡跛臣、蓋是的臣也、】」は原本の爲胡跛が的の字に書き改めらるべきものであることを推測しながら、十分の自信が無かつたためか、それを省いて單に日本府の官吏としたのであるが、少し後には立派に的臣の字を本文に擧げてゐる(これは書紀の杜撰を示す一例である)。有至臣といふ原本の文字を其のまゝに用ゐながら、十五年正月の條に内臣と書いたのも之と同樣であらう。しかし的も内も百濟本記から取つたのであるから、氏ばかりで名は無い。十一年二月の條に「遣使詔于百濟【百濟本紀云三月十二日辛酉、日本使人阿比多率三舟來至都下、】」とあり、四月の條に「日本王八方欲還之【百濟本紀云四月一日庚辰、本使阿比多還也、】」とあるのも、阿比多を比定しかねて單に「使」とし「王人」としたのであり、特に前の方のは三月に百濟についたといふ記事によつて出發を二月にしたのであらう。また五年三月の條に「於印支彌後來許勢臣時【百濟本紀云、我留印支彌之後、至既洒臣時、皆未詳、】」とあるのは既洒だけを許勢に書きかへてあとはわからぬながら其の文字を寫して置いたのである。(これらの日本人には、二年七月の條の注に「紀臣奈率者、蓋是紀臣娶韓婦所生、因皆百濟爲奈率者也、未詳其父、他皆效此也、」とあるやうに、百濟で生まれたものもあらうが、それとても名は日本語らしく見え、また百濟の官位を有つてゐるものが必ず混血兒ばかりとは限るまい。)それから人名ではないが、六年五月、十四年八月、十五年十二月の諸條に、わが國では屯倉、官家、等の字で現はす慣例になつてゐるミヤケを、彌移居と書いてゐるのも、百濟本記の書き方であらうし、同じ十五年十二月の條には斯羅といふ文字が?見えるが、これも上文に既に述べて置いた如く、百濟で用ゐたものに違ひない。同じ條にある竹斯島も我が國では用ゐた例が無く、隋書倭國傳の百濟を經て我が國に來た使節の見聞録にそれが見えるから、これも百濟人の書いたものであらう。
(202) なほ二十三年八月の條に、大伴狹手彦が百濟の計を用ゐて高麗(高句麗)を討つた、といふことがあるが、これは後にいふやうに、注に引いてある一本から出たものであつて、其の一本には高句麗王の名まで記してあることから見ると、やはり百濟の記録に由來があらう。同じく高句麗王の名の見える六年の條の注は、百濟本記の文であるから、これも同樣に考へられる。さうして其の六年及び七年の條に見える高句麗の内亂に關する記事は、前後に全く例の無いことであるのと、記事そのものが日本に直接の關係の無いことであるのと、此の二つの點から見て、それが注記してある百濟本記によつて書いたものであることが推測せられる。(この一例だけでも、百濟本記の注記してある多くの記事が、みなそれから出てゐることを知るに足りよう。)それから、百濟が漢城及び平壤を占領しまたそれを放棄した、といふ十二年及び十三年の記事には、出所は書いてないが、上記の例から類推すると、これもやはり百濟本記から取つたものに違ひない。繼體紀二年の條の「南海中耽羅人初通百濟國」も同樣であつて、これは多分、耽羅が我が國に交通してゐる時代に於いて、修史家の目にとまつたものであらう。
 なほ欽明紀の以上列擧した各條を通覽すると、全體の調子の百濟本位であることが知られる。任那日本府の官吏も加羅安羅などの旱岐も、すべてが百濟の指揮を受くべきもののやうに書いてある。そのころ安羅にあつた日本府と百濟の政府及び百濟にゐた日本人との間に、斷えず衝突や軋轢があつて、百濟に乘ぜられる機會を多く作り、百濟は日本府を籠絡したり威嚇したり、或は日本の中央政府に對してそれを讒誣中傷したりして、其の間に自國の利益を計らうとしたことは、これらの記事によつて推測せられるし、またそれは、大體、事實であらうが、しかし、日本府が存立し安羅以下の諸國がなほ其の下に隷屬してゐる時代に於いて、本文の如く日本府に何等の權威も無く、一々百濟に(203)かきまはされてゐた、とは信じ難い。百濟が日本府を目の敵にして、其の排斥運動を執念く行つてゐたことが、即ち日本府の全く無爲でなかつたことを語るものである。寧ろ此の日本府が、百濟の野心と其の狡猾なる政策とに對抗して、任那に於ける日本府の勢力を維持するに努力したことが、これによつて推測せられるのではあるまいか。然るに、本文には日本府側の行動や意見は全く見えてゐず、すべてが百濟の觀察と主張と行動とのみである。それからまた、日本府の官吏などが、任那復興問題について、百濟に出かけていつたことも事實であらうが、本文の如く百濟に召集せられ、又は百濟王から日本政府の意思を傳へられた、といふやうなことは、頗る疑はしく、特に五年十一月の條に見える如く、百濟が卓淳方面に兵を置き、また南韓(晉州地方から蟾津江下流東岸までの一地域)を占領して、事實上、任那をわがものにしようとし、さうして日本府の吉備臣等を斥けようとする百濟王の政策に對し、其の吉備臣等が「大王所述三策、亦協愚情而已、」といつて隨喜讃嘆したやうなことが、あつたらうとは思はれぬ。自分等を排斥しようとする反對黨の政策に、雙手を擧げて賛成するものが、何處にあらうぞ。それから日本府が新羅と連和するとか(二年の條)、高句麗と密約を結んだとか(九年及び十年の條)、いふ百濟の言ひ分も、また百濟の猜疑か捏造かに違ひない。それは當時の形勢に於いて、事實上、行はれ得たことではなからうと思はれる。(任那問題に關して日本府の官吏が新羅と外交上の交渉をしたことはあらうし、後にいふやうに、新羅も日本に對して一も二もなく反抗的態度を取らうとはせず、或る程度の妥協には應じようとしたらしく、推測せられるが、連和とか盟約とかができるはずはない。高麗については勿論のことである。)すべてが斯ういふ調子であるのを見ても、これらの記事は百濟人の手になつた史籍を採つたものであり、さうしてそれは、?注記せられてゐる百濟本記であることが、推測せられる。(204)(欽明紀に百濟の記録を寫し取つた箇所があることは、菅政友が任那考に於いて既に其の幾分を指摘してゐることを、こゝに記して置く。)
 かう考へて來ると、上に述べた繼體紀二十一年乃至二十四年の各條に見える任那問題の記事の中に、やはり百濟本記に基づいてゐるところのあることが確かめられる。それは欽明紀に見える上記の記事と離すべからざるものだからである。特に二十四年の條の久禮牟羅城に關する記事の如きは、明かに欽明紀五年三月の條の久禮山の話と相照應するものである。また當時日本府を主宰してゐたらしい毛野臣の政治を非難してゐる記事も、上に述べた如く日本府を排斥しようとする百濟の態度から出たものであるかも知れぬ。現に此の年百濟は任那方面に出兵して毛野と衝突してゐる。それから、任那の阿利斯等が毛野臣を日本に還さうとしたといふのは、前に述べた如く、百濟が日本府の吉備臣等を本國に還さうとしたのと同じ態度であつて、さういふ筆法がこゝに適用せられてゐるのではなからうか。毛野臣が新羅に兵を請うたといふやうなことも、當時の形勢に於いては信じ難いことであるから、それを日本府と新羅との違和を疑ふ百濟の眼に映じた幻影だとすれば、解釋し易くはあるまいか。さすれば、二十三年三月の條の加羅に關する記事に於いて、阿利斯等の名の現はれてゐる加羅王と新羅の王室との結婚譚も、年代記的にはなつてゐないが、百濟の記録から材料が出てゐるらしく見える。(阿利斯等は垂仁紀二年の條の注に見える都努我阿羅斯等の阿羅斯等、于斯岐阿利叱智干岐の阿利叱智、と同語らしく、敏達紀十二年七月の條には百濟にゐた日羅の父の名を阿利斯登と書いてある。叱智はまた崇神紀六十五年の條の蘇那曷叱知、神功紀三年の條の毛麻利叱知の、叱知もしくは叱智で、魏志韓傳の臣智であることは、世に既に其の説があることと思ふ。欽明紀十三年十月の條に怒?斯致とある斯致も、同じ(205)ことであらうか。さすれば、阿利斯等は固有名詞ではなく地位を示す一種の稱號らしい。さうして、それは、加羅にもあつたでもあらうが、百濟で用ゐられてゐたことは明白であるから、我が國に知られたのは多分百濟から傳へられたのであらう。)なほこゝの「勅勸加羅、更建南加羅※[口+碌の旁]己呑、」も、欽明紀二年の條の「拔取新羅所折之國、南加羅※[口+碌の旁]己呑等、還屬本貫、遷實任那、」また「天皇詔勅勸立南加羅※[口+碌の旁]己呑、」とあるに應ずるものであり、書き方まで同じであるから、それは一つの史料から出たものと考へられる。さすれば、同じことを書いてある二十一年の條の冒頭の一節も、また同樣に見なければならぬ。全體からいつても、加羅に於ける任那日本府の覆滅は、我が國に取つては極めて重大な事件であつて、所謂任那復興が長い間の大問題となつたのも、その故であるから、もし我が國にそれについての確かな史料があつたならば、其の記事が必ず書紀の上にも際立つて現はれねばならぬのに、それが見えず、纔に此の繼體紀二十三年の「新羅恐破蕃國官家」(蕃國官家は蕃國に置かれた日本の官家の意であらう)の一句と後の記事とから、それを推測し得るに止まるのは、取も直さず史料の存在しなかつたことを示すものである。だから、それに關係のあるべき此の條の記事も、日本人の手になつた史料からのみ出たとは、考へ難いのである(こゝに日本の史料から出たらしい分子が混入してゐるが、それは後にいはう)。さすれば、大體に於いて此のあたりの記事が百濟本記から出てゐることは、疑が無からう。其の前の己?間題に關する記事、其の後の天皇崩御の記事、がみな百濟本記から出てゐて、其の中間に挾まれてゐることからも、これは推定せられる。其の己?間題に關する繼體紀七年の記事に見える斯羅、安羅、伴跛、の使節の名の書き方が、欽明紀二年四月及び五年十一月の條の諸國の使節と同じ書き方であることも、また此の記事が百濟の史籍から來てゐることを、一層たしかめるものである。
(206) たゞ繼體紀六年の上多?、下多?、婆陀、牟婁、の四縣(上に述べた南韓の地)を百濟に與へたといふ記事は、こ
れだけでは出所が明かでないが、翌年からの記事が百濟の史籍から來てゐるとすれば、この條だけについて特別の史料があつたと考へることは、困難である。後にいふやうにこゝの記事には史家の潤色が多いけれども、四縣賜與のことだけは、やはり百濟本記から取つたのではなからうか。さうして更に溯つていふならば、顯宗紀三年の條に見える官衙關係の記事も、また百濟本記から出たものであることが、推斷せられよう。こゝに「築帶山城、距守東道、斷運粮津、令軍飢困、」とあるが、これは任那に居る生磐が百濟に對して反對の態度を取つたことをいふのであるから、この「東道」は百濟の東、任那の西、でなくてはならぬ。然るにそれを東道といふのは、百濟人のいひ方であつて、任那人や日本人のいふべきことではない。なほこゝに任那左魯那奇他甲肖といふ名があるが、甲肖は百濟人の稱號の一つであるらしい甲背の誤ではなからうか。肖古王が背古主と書かれた如く、肖と背とは誤り易い。欽明紀五年の條に引いてある百濟本記にも、百濟王が日本人たる河内直に對していふ語に「汝先、那干陀甲背、加臘直支甲背、」とあるのに參照すると、任那人にも日本人にも百濟の稱呼をつけて置いたのであつて、それは此の記事の出所が百濟の記録であることの一證であらう。もう一歩進んで考へると、「紀生磐宿禰、跨據任那、交通高麗、」も、前に述べた毛野臣のことや欽明紀九年十年の記事と同樣、百濟の疑心暗鬼に過ぎないかも知れぬ。此の記事を、月日に繋けず、別に「是歳」として附記してあるのも、それが特殊の材料から取られてゐることを示すものであらう。(後にいふ武烈紀四年の條參照。この前後に百濟新撰が引いてあるが、此の記事の書き方から考へると、其の出所はやはり百濟本記ではなからうかと思ふ。)
(207) このやうに見て來ると、政治上の問題でないことでも、やはり百濟の記録からとられたもののあることが、推測せられるのではあるまいか。欽明紀十五年の條の學者や僧侶の、繼體紀十年の條の五經博士の、番上の記事がそれであつて、特に繼體紀のは、上に考へた如く、その前後の文章が百濟の記録から出てゐることによつて、このことが證せられるやうである。從つて欽明紀のもまた同樣に解せられる。
 以上の推定は、欽明紀二十三年以後の百濟に關する記事が、全く性質を異にしてゐて、而もそれが日本の史料から出てゐるらしいことからも、證せられる。先づ安羅に置かれた任那日本府の滅亡といふ二十三年に起つた事件につき、此の年七月の條に紀男麻呂等が兵を率ゐて出かけた時の記事があつて、そこに百濟に關する文字が見える。が、それには男麻呂が百濟の軍に對して命令的態度を取つたやうに書いてあつて、上に述べた百濟本記とは全く筆法が違ふ。それから、此の記事には百濟の行動を示す文字が殆ど無い。任那復興問題についてともかくも關係があり、特に安羅方面にも幾許かの兵を駐在させてゐたらしい百濟は、此の場合に表面上なりとも何等かの行動をしたはずであるのに、それが全く見えないのは、此の記事が百濟の記録から出たものでないことを、示すものであらう。なほ此の年の冒頭にある日本府滅亡の記事についても、分注に二十一年のこととしてある一本のあつたことが見えてゐるが、それを此の年に決めたのは、やはり日本の史料によつたものらしい。前に述べた繼體紀二十五年の條の記事の如く、もし百濟本記からでも取つたならば、そのことが注記してあるべきはずだからである。それから敏達紀十二年の條には、百濟から日羅を召還した記事があつて、百濟が内情の暴露を恐れて日羅の日本にゆくことを好まなかつたといふことが記され、また日羅の意見として百濟王の罪を問ふべしといふことが書いてあるから、これは決して百濟の記録によつた(208)ものではない(この記事は事實ではないが)。其の次に、百濟のことの見える推古紀三十一年の條になると、「百濟是多反覆之國、道路之間尚詐之、」といふやうな文字がある。これらは日本の政府で百濟の眞相がわかつて來た後に書かれたものであることを示すものであると共に、上に縷述したやうな欽明紀の初の方の記事が百濟の記録から取つてあ
るとは反對に、これが日本の史家によつて構想せられたもの、又はその何の點かが日本の史料から出てゐることを、語るものである。なほ全體からいふと、繼體紀及び欽明紀の前半に於いて、あれほどに多く、あれほどに詳密であつた百濟關係の記事が、其の後に至つて忽然として減少し、また粗略になつてゐるのは、書紀の編者の手許にあつた百濟本記があの部分だけしかなかつたからであらう。だから、其の後の記事は全く出所を異にしてゐるものと見なければならぬ。實際、此の時代になると百濟本記を引用した注記が全く無くなつてゐるし、百濟人でなければ書かないやうな筆法や人名の寫し方は、一つも無い。
 以上述べたところによつて、繼體紀欽明紀に於いて百濟本記の文を注記してあるところの本文は、すべて其の百濟本記から出た記事であることが知られ、よしさういふ注の無い場合でも、同じ書によつて書かれた記事の多いことが、明かになつたらうと思ふ。さうして此のことはそれより前の部分にも適用ができるはずである。例へば雄略紀二年七月の條に百濟の池津媛の話があつて、其の注に蓋鹵王が適稽女郎を天皇に貢進したといふ百濟新撰の記事を引用してゐるが、これも此の百濟新撰から本文が出てゐるのであらう(こゝの百濟新撰には年紀の誤謬がある)。百濟新撰はなほ、同じ雄略紀の五年四月及び六年の條と武烈紀四年の條との注にも引用せられてゐるが、武烈紀の本文に「百濟末多王無道、暴虐百姓、國人遂除而立島王、是爲武寧王、」とあるのは、百濟新撰の「末多王無道、暴虐百姓、國人共(209)除、武寧立、諱斯摩王、是混支王子之子、……混支向倭時、至筑紫島、生斯摩王、自島還送、不至於京、産於島、故因名島、今各羅海中有主島、王所産島、百濟人號爲主島、」の初の五句を殆ど其のまゝに寫したものである(こゝにも「是歳」の二字を冠してあつて月日に繋けてない)。また雄略紀の武寧王誕生物語は、此の「?支向倭時」以下を取つて少しく潤色を加へ、軍君(?支君)來朝の條に附記したものである。各羅海がどこのことか不明であるのも、それが百濟の記録から取られたものであつて、我が國の慣用の文字でないからであらう。たゞ軍君といふ文字を用ゐたのは、蓋鹵王を加須利君としてあることと共に、こゝに注記してある百濟新撰とは違つてゐる。これは多分別の百濟の記録から來たのであらうが、それを辛丑の年にあててある五年の條に書き加へたのは、百濟新撰の紀年に從つたので、注にそれを引いたのも之がためであらう。ついでにいふが、加須利は蓋鹵と同じ語であるらしい。三國史記には慶司とあり宋書には更に略して慶としてあるが、これもまた同じ語に違ひない。
 次には雄略紀二十年二十一年及び二十三年の記事であるが、二十年の條の注には百濟記が引いてあるから、本文がそれから作られたことは上に述べた多くの例から類推せられる。但し二十年は丙辰に當るやうになつてゐるのに、原書に乙卯の年としてある尉禮城(漢城)陷落をこゝに記したのは、編者の杜撰であらう。此の事件は三國史記の百濟紀でも蓋鹵王二十一年(乙卯)のこととなつてゐて、こゝに引かれた百濟記と符合するから、それを疑ふべき理由は無く、從つて、百濟記の外に史料があつて書紀がそれを取つた、と見なすべきものではない。二十一年及び二十三年の記事には、別に出所は注記してないが、二十一年の方に日本舊記に見えるといふ異説を擧げてそれを誤としてゐるのは、本文が日本の史料でないものによつて書かれたことを、示すものであらう。但し此の日本舊記といふものが(210)何時書かれたものであるかは明かでないが、それを?洲王や末多王の時のものとすべき理由は少しも無い。其の説に末多王とあるのは明白に誤であるから、單にそれだけから見ても、後世に記されたものであることが知られる。恐らくは、最後に書紀となつて現はれた修史事業の或る時期に於いて作られた、稿本の一つででもあらう。といふのは、久麻那利を百濟王に賜ふといふことがそも/\修史家の造作だからである(後文參照)。さすれば、其の舊記もやはり百濟の史料に基づいてそれに潤色を加へたものらしい。さて二十一年の記事が百濟の史料に基づいたものだとすれば、二十三年のも同樣に考へられる。引つゞいた記事だからである。但しこゝに文斤王薨去の記事があるにかゝはらず、其の即位のことが前に出てゐないのは、史料が不完全であつた故ではあるまいか。(?洲王、文斤王、及び末多王、の即位の年紀、並に其の間の血統關係に於いて、三國史記の所載と一致しない點のあることをも、考慮しなければならぬ。)
 さて仁コ紀から安康紀までの間には、仁コ紀四十一年の條に一つの記事があるのみで、其の他には全く百濟のことが見えてゐない。此の間は、後にいふ如く、日本が百濟の誘導によつて?シナの東晉及び南朝と交通をしてゐた時であるし、また高句麗の廣開士王の百濟侵略、並に廣開土王碑に見える倭軍の帶方攻撃、も其の初期のことであらうと推定せられる時代であるから、種々の方面に於いて日本と百濟とは關係が深く、日本の百濟に於ける活動も可なりに行はれてゐたはずである。ところが、そのことが全く書紀に見えてゐないのは、それに關する史料が絶無であつたからに違ひない。さうして雄略紀以後に百濟の記録から取られたあれだけの記事があるのを見ると、此の時代については、百濟の記録も書紀の編者の手もとに無かつたものと、見なければならぬ。さすれば、神功紀や應神紀の百濟關(211)係の記事は何から取つたものであらうか。
 最初に問題とした神功紀四十六年乃至五十二年の説話は且らく措いて、六十二年には「遣襲津彦、撃新羅、」の注に沙至比跪が新羅を伐つたといふ百濟記が引いてある。本文は此の百濟記から出たもので、汐至比跪に襲津彦の字を充てたものであることが、上に擧げた多くの例から類推せられる。次に應神紀八年の條の「百濟人來朝」が、同じく注記してある百濟記の「遣王子直支于天朝」から來てゐ、同紀二十五年の「大倭木滿致執國政」云々の記事が、注に見える百濟記のやゝ詳しい記事から出てゐることも、また縷説を要しなからう。さすれば、神功紀五十五年五十六年六十四年六十五年、並に應神紀三年十六年及び二十五年、の歴代百濟王の即位もしくは薨去の記事も、やはり百濟記から出たものと推測せられ、それは百濟の史料が無かつた仁コ紀乃至安康紀の間に於いて、百濟王であつた?有王の名が全く見えず、久爾辛王の薨去、蓋鹵王の即位、も出てゐないことからも、確かめられる(久爾辛王即位の年紀が三國史記と違つてゐるが、これは書紀の方が正しい)。
 以上は欽明紀以前の百濟に關する記事に就いて、其の出所が百濟の史籍であることの明かなもの、もしくは十分の確かさを以てさう推定せられるものである。たゞこゝに一言すべきは、書紀にとられた百濟の記録が應神紀ころには百濟記であり、雄略紀ころには主として百濟新撰であり、また欽明紀ころには百濟本記であることである。此の三者は注に明記してあるので知られるが、かういふ風に時代によつてほゞ其の引用書が定まつてゐるとすれば、三書とも完全に日本の修史家の手もとにあつたのではなく、或る時代のがそれ/\斷片的に遺存してゐたのであらう。其の名から考へると、三書とも百濟の上代からかなり後世までの事蹟がまとまつて編纂せられてゐる史籍らしいからである。(212)特に新撰といふのは、他に類似の史籍が既に存在してゐた後に撰述せられたものであらうから、或は此の三書のうちの最後にできたものかも知れぬ。これらの史籍の編纂の時代は固よりわからないが、百濟滅亡以前であることには疑が無からう。但し書紀の編者が持つてゐた百濟の史籍は、必しもこれだけであつたとはいひ難い。出所の注記してない記事が多いのであるから、其の中には三書以外の史籍から出たものがあるかも知れず、雄略紀五年の條の加須利とか軍君とかいふ名が、百濟新撰には別の文字で書いてあることなども、それを暗示する。また上記の三書の斷片は、ほゞ時代によつて一部分づつまとまつてゐるやうではあるが、百濟新撰の間に百濟記が出て來る事もあるから、劃然たる區別はできぬ。本來斷片であるから、或る時代のが飛び離れて極めて少部分遺つてゐる場合もあり得るのである。從つて引用書の明記してない場合には、同じ時代のでも、二つの史籍から取つてそれを結合したやうなことが、無いとはいはれない。例へば雄略紀二十三年の條に東城王の名が見えるが、百濟新撰には末多王とのみあるから、これは他のものから取つたのであらう。さうしてそれは百濟記か百濟本記かであつたかも知れぬ。
 ところが書紀には、以上列擧した外に、同じく百濟に關して出所不明の記事が少しばかりあるから、次にそれが如何なる性質のものであるかを、吟味しなければならぬ。が、それを述べる前に、百濟の記録から取つたものが、果して原書の記載の意義を其のまゝに現はしてゐるか、また百濟記云とか百濟新撰云とか明記して引用してある文章が、果して原書のまゝであるかどうかを、一考して置くことが必要である。少しく煩雜であるが、それについて逐條審査をしてみる。
 
(213)       三 百濟の史籍に施された日本修史家の潤色
 
 神功紀六十二年の條に引いてある百濟記に、日本のことを貴國とも大倭とも書き、また天皇といふ稱號が使つてある。百濟人が百濟の記録に日本を貴國と書くことは無いはずであつて、それは前にも述べたやうな百濟の日本に對する態度からも推測せられるのみならず、應神紀八年及び雄略紀五年の條の注にある百濟記もしくは百濟新撰に、「脩先王之好」としてある筆法と矛盾することからも、明かである。大倭の大の字を百濟で書くといふことも怪しい。百濟が日本のことを倭と呼んでゐたことは、それが廣開士王の碑文に見えるやうに、半島人一般の慣例であることからも、百濟に導かれまたそれと共に支那の南朝に交通してゐた日本が、みづから倭と稱してゐたことからも、知られるが、直接の證據としては、武烈紀四年の條に引いてある百濟新撰に「混支向倭時」とあるので、明かである。だから百濟人が自國の史籍に大倭と書くべきはずはない。また天皇の稱號は推古朝ごろからそろ/\用ゐ初められたと考へられるから、古いところにそれがあるはずはなく、後世とても、百濟人がそれを用ゐたことは疑はしい。だから、これは日本の修史家の潤色と見るべきである。さすれば、同じく貴國天皇とある應神紀三年の條の記事、竝に貴國といひ天朝といふ文字の用ゐてある同紀八年及び二十五年の條の注も、やはり同樣に見なければならぬ(天朝といふ語の用例については、景行紀四十年の條を參照するがよい)。特に三年の條の「百濟國殺辰斯王以謝之」は、記事そのものが事實として受け取り難い。このことが三國史記に見えないのは、所謂國惡を忌む筆法から省いたのだと見られなくもなからうが、辰斯王が日本に無禮であつたために殺されたのならば、其の日本のために立てられた阿花王が、八年の(214)條に引いてある百濟記の説の如く、再び日本に無禮をしたといふのは、疑はしく、單に同じことが引續いて行はれたといふ點だけから見ても、甚だ怪しい話である。だからこれは、兩方とも事實ではなく、三年の方のは辰斯王薨去の年紀だけが原本によつたもので、其の他のことは日本での造作であらう。また八年の方のは百濟記の本文らしく見えるけれども、「脩先王之好」と書くほどの百濟記が、斯ういふことを忌まずに書いたとは信じ難いから、これも日本での潤色であつて、何れも百濟が日本に服從して如何なる命をも聽いた、といふ意味を現はすために作られた話と考へられる。さすれば、其の結果として記されてゐる忱彌多禮などの土地没收も、やはり百濟記の原文ではあるまい。百濟人の例の態度から見ても、斯ういふことを書くはずがない。從つて、十六年に見える東韓の還附も、また百濟の記録には無かつたものであらう。もつとも東韓といふ名は、百濟の東方にあつて任那と接近してゐる地域をさすものとして、百濟の記録の如何なるところかに見えてゐたものであらうし(上に述べた顯宗紀三年の條の「東道」の語參照)、八年の條に注記してある?南、支侵、谷那、の名も同樣であらうが、此の没收及び還附の話は日本での造作と認められる。但し直支(三國史記の腆支)が質として日本に來てゐたことは、三國史記にも見えてゐるから、これだけは百濟記の原本にあつたものである。日本の修史家が百濟記の本文まで捏造したといふのは、やゝ妄斷に近いやうではあるが、次々に述べるところを見てゆくと、このくらゐの造作は到るところに行はれてゐることが知られよう。
 次に二十五年の記事であるが、これは木滿致の上に大倭の二字を冠して日本人としたことが、誤解か造作か、どちらかでなくてはならぬ。木滿致は百濟人であつて、こゝの百濟記の記事でも日本人らしくは見えないからである。木滿致の木は百濟の姓であつて、それは隋書百濟傳に見えてゐるのみならず、我が國の新撰姓氏録(左京諸蕃上)にも(215)出てゐる。さうして滿致の名は、三國史記の百濟紀の蓋鹵王二十一年の條に木滿致とあるそれと同じである。木もまた百濟人の姓で、それは書紀にも?現はれてゐる(繼體紀十年、欽明紀二年四年十三年十四年十五年、等)。ところが、木羅斤資の子が木滿致だとあるのと、「またはLの音が語の上にあることは無いから木羅が斤資の姓であらうと思はれることとを考へると、木は木羅の略稱らしいが、もう一歩進んでいふと、はрフ誤で木рヘ即ち木羅ではないかと思ふ。隋書には木氏の外にь≠ェあるが、この木ととを竝べ擧げてあることについては、三國史記の編者も既に疑を挾んでゐることであつて、復姓の少いシナ人が誤解したのではあるまいか。もしさうとすれば、或は木滿致は即ち三國史記の木滿致で、蓋鹵王の時の人であるかも知れぬ。三國史記によると、木滿致は文周(?洲)王南遷の際にはたらいたかなり有力な人であるらしいから、國政を執るに至つたとしても、不思議は無い。こゝの百濟記には年紀が出てゐないから明かにはわからぬが、書紀の編者が久爾辛王の時代に擬してゐる應神紀にそれを組みこんだのが、絶對に正しいとはいひ難く、其の父だといふ木羅斤資の話のある百濟記(神功紀六十二年の條引用)の壬午も、原書では 442 A.D.のそれであつたかも知れぬ。年紀を誤つた例は他にもあるので、上にも述べた如く、雄略紀二十年の條に百濟の漢城陷落を記したのは、明かに誤であり、從つて二十一年の條にある?洲王の百濟復興の記事にも、錯誤があらうと思ふ(後文參照)。また欽明紀十三年の貞觀にある「是歳百濟棄漢城與平壤、新羅因此入居漠城、」は三國史記新羅紀眞興王十四年(欽明天皇十四年)七月の貞觀の「取百濟東北鄙、置新州、」と同じことを指すらしいから、もし新羅紀の方が正しいとすれば、此の記事は誤つて一年前の條に組みこまれたのではあるまいか。もつとも、新羅紀とても絶對に正確であるとはいひ難いから、これはなほ疑問として殘して置くのが妥當であるかも知れ(216)ぬ。それは何れにしても、次の十四年十月の貞觀の百濟王子餘昌が兵を出して高句麗と戰つたといふ記事は、もしそれが事實であるならば、少しく年月が疑はしい。それは百濟のかういふ進撃的態度は、十二年、即ち百濟軍が漢城や南平壤(今の京城)の地方を回復した年より前のことでなくてはなるまい、と思はれるからである。但し新羅紀のいふやうに十四年七月に此の地方が新羅に取られたとすれば、其の前には百濟と高句麗とは境土を接してゐたから、二國間の戰爭が十四年に起らなかつたとはいはれぬが、それを十月としてあるのは、新羅紀とも矛盾する。だからこれは、書紀の編者が年の配當を誤つたものと見た方がよささうである。欽明紀二十三年の條の大伴狹手彦の高句麗征伐もまた同樣であつて、これは十二年の漢城及び南平壤攻撃の時か、さなくばそれよりも前のことでなくてはならず、注記してある一本の説が正しいとすれば、十二年のことである。(なほ雄略紀八年の條に見える筑足流域の戰は、三國史記新羅紀の慈悲王十一年、もしくは?知王三年の條に見える悉直城の役、または彌秩夫泥河方面の戰、に比定すべきものらしく、書紀の紀年による雄略天皇八年とは一致しないが、これは三國史記の記載も悉くは信用ができず、書紀の方も全體にまだ紀年の不確實な時代のことであるから、年紀について細かに論ずることはできぬ。また此の記事の出所については後に述べよう。)だから、百濟の國王の時代をあてはめるに當つて、干支二まはりも前にくりあげてあるはどな神功紀や應神紀あたりに於いては、いろ/\の混雜から史料たる百濟記にはずつと後のことになつてゐるものが前の方にはめこまれてゐる、といふこともあり得べき話である。固より確實にさうと斷定することはできないけれども、もしさうとすれば、書紀の編者の史料の取扱ひ方がかなり杜撰であることは、これでも知られよう。
 さて推略紀に移つて百濟關係の記事を調べて見ると、五年の條に軍君(?支)來朝の物語があるが、軍君が兄の蓋(217)鹵王から産月に當つてゐる姙婦を與へられてそれをつれて來た、といふことは日本の史家の潤色であることが、此の記事のもとになつてゐる百濟新撰(武烈紀四年の條所引)にかういふ話の無いことから知られる。(武烈紀の注に「今案」として「島王是蓋鹵王之子也」云々とあるのは、書紀の此の記載をもとにしての考であつて、これは集解の説の如く私記の?入であらう。)次に來るのは二十年の記事であるが「奚有少許遺衆、聚居倉下、兵粮既盡、憂泣茲深、」といふのは、勿論説話的構想である。首府漢城が敵軍に陷つたとて、百濟人のことを「少許遺衆」などといふべきはずはないが、これは「伐盡百濟」といふ觀念が誇張せられて、百濟が全部滅盡したやうにいひなされ、それから作られた話である。「於是高麗諸將言於王曰、百濟心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生、請遂除之、」とあるのも、此の倉下に聚居した遺民をさしたのであるが、それさへ討ち取つてしまへば、百濟はもう復活ができないといふのであるから、百濟人のうちでこれだけしか殘つてゐないといふのである。此の文を承けて書かれた二十一年の條の「百濟國雖屬既亡聚憂倉下、實頼於天皇、更造其國、」といふ書き方からも、それは確かめられ「以久麻那利、賜?洲王、救與其國、」とあるのも、此の思想から出た考である。此の久麻那利云々が事實でないことは熊津(久麻那利)が日本の領土であつた形跡の毫も見えないことから、明白である。さうしてこれは、百濟の記録としては決してあるべからざることであるから、日本の修史家の造作であることは、疑が無い。この一條もまた、上に引いた二十年の記事をうけて「王曰不可矣、寡人聞、百濟國者日本國之官家、所由來遠久矣、又王入仕天皇、四隣之所共識也、遂止之、」とあるのと共に、日本の權威と恩惠とを紙の上で示さうといふ主旨から來てゐることは、何人もすぐに氣がつく。既に百濟を滅ぼして置きながら、倉下に聚居するやうな「少許遺衆」を討つのが日本の權威を犯すに當る、といふはずがなか(218)らうではないか。欽明紀十五年の條に「新羅將等具知百濟疲盡、遂欲謀滅無餘、有一將云、不可、日本天皇以任那事、?責吾國、況復謀滅百濟官家、必招後患、故止之、」とあるのも、同一筆法であつて、何れも虚構であり、それによつて日本の修史家の態度を知ることができる。だから、この兩年の記事は、慰禮城陷落と熊津遷都とのことが書いてあつた百濟記をとつて、それに虚構の説話を附け加へたものである。
 繼體紀に入つてみると、三年の條に引いてある百濟本記に日本といふ文字があるが、これも原文のまゝではない。日本といふ國號の起原については從來種々の説があるが、それが日本人自身のいひはじめたものであり、またそれが唐と交通するやうになつてからのことであることは、ほゞ疑があるまい。「日出處天子」といひ「東天皇」といふのと同じ思想から出た名稱ではあるが、推古朝ごろにはまだ此の國號の用ゐられてゐなかつたらしいことが、隋書と唐書との倭人傳を比較して見ればわかる。だから、こゝの日本の字も後人の潤色である。同じ理由から、二十五年及び欽明紀十一年の條に見える百濟本記に日本とあるのも、八年十年二十三年の各條、並に欽明紀の所々の本文に出て來るそれも、或は百濟本記そのものを改訂し、或はそれから取つて本文の記事を作る場合に書きかへたのであることが、知られる。欽明紀二年四月の條に見え、それから後に?用ゐられてゐる任那日本府といふやうな名稱も、後世の修史家が紙の上で用ゐ初めたものであつて、其の日本府の存在してゐた時にはまだ無かつたものに違ひない(其の頃には官家の文字を用ゐてゐたらしい)。
 繼體紀六年十二月の條に、四縣の地を百濟に賜はつたのは、※[口+多]?國守穗積押山の斡旋によつたとあるが、國守といふ稱號が大化改新以後に書かれたものであることは、疑があるまい。のみならず、物部大連が妻の言に從つて使節を(219)辭したといふ話も、其の諫言の内容から見て、日本の史家の潤色であることが知られる。「胎中之帝」云々は、此の時よりも後に作られたらしい物語に於いて初めて現はれたことであつて、當時の百濟人の知つてゐるべきはずがないからである。これは恰も二十三年三月の條に、日本が加羅多沙津を百濟に與へた時に、使節物部連が加羅王の抗議をきいてから百濟にゆかなかつた、とある話と同じことであつて、同じやうな場合に同じやうな説話のあるのが、同じ思想から出たものであることを證する。さて此の多沙津の話の全體の意味は、此の賜與のために加羅が日本を怨んで新羅に好を通じた、といふのであるが、しかし「加羅王謂勅使云、此津從置官家以來、爲臣朝貢津渉、安得輙收賜隣國、違元所封限地、」とあるのは、事實としてあるべからざることであつて、それは事實の忘れられた後に日本の修史家の加へた虚構談と見なければなるまい。すぐ其のあとにある「賜扶余」の三字も、百濟本記などにあつた文字ではなささうであることを、考へるがよい。多沙津は蟾津江下流の東岸にある今の河東附近であらうから、それが加羅王の朝貢の津渉であるべきはずがない。また此の時に、物部連は加羅王の言を聞いてから百濟王に面會することを難じて大島に引きかへし、下僚を百濟にやつて旨を傳へさせた、といふが、さうすると、加羅と日本との中間に大島がなくてはならぬ。然るに事實そんな島は無い。だからこれも後人の構想から出た記事であらう。從つて加羅王の言といふのも、みな虚構であることが知られる。(地理の上から考へるに大島は、多分、百濟へゆく途中の島であらう。百濟の航路のどこかに大島といふ碇泊地があるといふ知識によつて、此の話ができたのであるが、加羅王をこゝへ持ち出したがため、地理が混雜してしまつたのである。なほ後にいふ雄略紀七年の記事に大島といふ名のあることを、參考すべきである。)さうして加羅が新羅に服屬したのは、當時の詳細な事情はわからないけれども、大勢上、新羅の勢(220)力の發展の自然の結果であるのみならず、加羅が日本に反抗したやうな形跡は、これから後にも見えてゐない。だからこれは、日本の修史家の常套手段である事件の起源を説くために作つた物語であつて、加羅が新羅に服屬した由來を、多沙津の問題に結びつけて、説明したものと見なければなるまい。此の物語と結合せられてゐる加羅王と新羅王女との結婚譚に於いて、其の結婚と兒息のあることとを同時に記してあるのでも、此の月の記事の全體が年代記的記載ではなくして説話的性質を帶びてゐることが知られる。(結婚譚の材料はよし百濟の記録から出たものであるにせよ、此の記載は日本の修史家によつて構成せられたものであらう。)こゝに多沙津が下※[口+多]?國守穗積押山の奏請によつて百濟に賜つたとあるが、繼體紀六年の條に既に下※[口+多]?が百濟に與へられたとある以上、其の後まで押山が此の地位にゐたはずがなく、また多沙津は多分下※[口+多]?の管内であつたらうと思はれるから、其の賜與は四縣の場合に含まれてゐたであらう。たゞ多沙津は交通路の要津であるため、百濟の記録などにも何か特別の記載があつたので、加羅背反問題の起源を説くに當つて、それを取り出したのではあるまいか。加羅の新羅に服屬したのは、三國史記の新羅紀及び三國遺事に見える駕洛國記に引いてある開皇録によると、法興王十九年(梁の中大通四年、書紀の紀年によれば繼體天皇崩御の翌年)であるが、其の前の九年(繼體天皇十六年)に既に「加耶國王遣使請婚、王以伊?比助夫之妹、送之、」とあり、其の十一年(繼體天皇十八年)にも「王出巡南境拓地、加耶國王來會、」とある。この年代が絶對的に正しいとは保證ができないが、此の時代になると三國史記の記載も大體信用し得られるから、反證の無い限り、漫りに疑ふべきでない。さうして繼體紀六年の四縣賜與のことも、それが百濟の記録から取つたものとすれば、年代に於いて大なる誤が無いものと見られる。さすれば此の點からも、本文の記事が事實の年代記的記述ではなく、年代の(221)違つた種々の事件を強ひて一つの物語に結びつけたものであることが、知られよう。なほ此の話の冒頭に、百濟が多沙津の賜與を請うた理由として「朝貢使者恒避島曲、毎苦風波、」とあるのも、多沙津の對岸が昔から百濟の領土である以上、此の津を得ることは航路の短縮になるはずがないからこれは無意味の言であり、また「因茲濕所賚、全壞無色、」も、百濟との關係を朝貢品(特に絹帛)に歸する我が國人の思想から出てゐることを、考へねばならぬ(朝貢品のことについては下文參照)。これらの種々の理由から見て、此の説話は日本の修史家が造作して百濟本記から得た材料と結合したものだ、とするに差支はあるまい。また此の説話は、次の四月の條に見える任那王が新羅の侵略を日本に訴へて救助を乞うた、といふ記事とも、明かに矛盾してゐる。此の記事もまた(後にいふ如く)百濟の記録から出たものではないが、三月の説話とはおのづから出所を異にしてゐる。一方に加羅となり他方に任那とあるのも、それが別人の手になつたものであることの一證である。だから、此のあたりの記事はいろ/\な材料を結合して作られたものらしい。なほ同じ四月の條の毛野臣が新羅百濟二國王を召集したとか、其の使節を大に責めたとか、いふことも、事實らしくなく、また百濟の記録にありさうでもない。特に百濟に對することは、それから後の經過が全く記載せられてゐない。これも多分、日本の修史家の加へた潤色であらう。
 欽明紀に於いて百濟本記をとつたところは、記事そのものに於いて潤色を要しないほど、或はむしろ潤色のできないほど、原書の記載が詳細であつたらしいから、こゝでは日本とか天皇とかいふ文字の上に潤色の結果が現はれてゐる外、内容に於いてはさしたる變改が加へてないやうである。たゞ十三年五月の條に「百濟加羅安羅遣中部コ率木今敦、河内部阿斯比多等、奏曰高麗與新羅通和、并勢謀滅臣國與任那……詔曰今濟玉、安羅王、加羅王與日本府臣(222)等倶遣使奏?聞訖、亦宜共任那并心一力、……」とある加羅安羅の名は、書紀の編者の加へたものらしい。「臣國與任那」といひ「共任那」といふ文字は百濟のみからの、又は百濟のみに對して、の言であり、また十四年正月の條には「百濟使人扞率木今敦、河内部阿斯比多等罷歸、」とあつて加羅安羅の名が無いからである。(十三年の條にコ率とあり十四年のに扞率とあるのは、どちらかが誤であらう。なほ阿斯比多は繼體紀十年九月の條に「日本……阿比多」とあり、欽明紀十一年四月の條には「在百濟日本人」としてある阿比多であらうが、これは原文にも二樣に書いてあつたものらしい。)またこゝに「高麗」とあるのも、原は「狛」の字ではなかつたらうか。十四年八月及び十五年十二月の條に見える百濟王の上表及び九年の條の百濟に賜つた詔勅といふものに、狛の字を用ゐてあることから、さう推測せられる。雄略紀二十年の條に引いてある百濟記、及び欽明紀六年七年の條に引いてある百濟本記に、同じく狛としてあることをも、參考するがよい。それから、前にも述べた如く十五年の條の、新羅が日本を憚つて百濟を滅さなかつたといふのは、勿論、日本人の思想によつて書かれたことであり、餘昌の言としてある「我事大國、有何懼也、」が、同樣であることも、またいふまでもなからう。なほ上にも述べた二十三年の條の狹手彦の高句麗征討の記事に、國王が墻を踰えて逃げたとあるのも、雄略紀の百濟の遺民が倉下に聚つて泣いてゐたといふのと、同じ性質の説話的構想であり、日本の修史家の潤色の際に於ける慣用手段に外ならぬ。かういふ小さい變改はあるが、大體からいふと、此のあたりの書紀の編者のしごとは、百濟本記にいくらかの取捨を施し、人名などの明かに知られるものを我が國慣用の文字に書き改めたぐらゐのことであつたらしい。たゞ十六年の百濟の王子惠に神祇の祭祀のことを蘇我 臣が語つたといふ話は、その全體が日本人の思想によつて書かれたものである。(ついでにいふ。二年七月の條の(223)「召到新羅任那執事、謨建任那、」また五年十一月の條の「新羅下旱岐、大不孫、久取柔利、」とある新羅は、何れも安羅の誤であつて、特に後のは二年四月の條に明かに安羅となつてゐる。これは書紀の誤か、又は後人の傳寫の誤か、何れかであらう。)
 しかし時には改訂すべくして改訂せられず、編者の注意を逸した文字が原文のまゝで殘つてゐる場合がある。例へば上に述べた「脩先王之好」といふこと(應神紀八年、雄略紀五年、の條所引百濟記及び百濟新撰)、倭といふ文字(武烈紀四年の條所引百濟新撰、欽明紀十五年十二月の條本文)、などがそれである。それから、上に日本人の筆らしくない書き方として指摘したもの、特に欽明紀に多い百濟本位の記事も、また同樣に見るべきものであらうが、これはあまり詳細な記載であるため、それに眩惑せられて、うつかり原文を其のまゝに寫しとつたためではあるまいか。また日本のことを貴國と改めたり(神功紀六十二年、應神紀八年二十五年所引百濟記、魔神紀三年本文)、大倭と變へたり(神功紀六十二年、雄略紀五年の條所引百濟記及び百濟新撰、應神紀二十五年本文)、又は日本としたり(繼體紀三年所引百濟本記等)、書き方が區々になつてゐるのは、幾人かの手で改訂が行はれたために統一が失はれたのであらう。
 以上は日本の史家の施した變改潤色であるが、百濟の記録そのものに於いてもまた、百濟史家の加へた虚構乃至修飾の記事がある。神功紀六十二年の條に引いてある百濟記のがそれであつて、日本の官憲が新羅と通じて加羅を討つたため、其の國王以下が其の人民を率ゐて〔八字傍点〕百濟に來奔したといふのは、事實としてあるまじきことである。天皇が百濟人たる木羅斤資を遣して加羅を復興させられたといふのも、またこの説話の捏造たることを示してゐるのではあるまいか。百濟に奔つたとしてある加羅人に國沙利といふのがあるが、國は隋書百濟傳及び欽明紀四年の條にも見えて(224)ゐる百濟人の姓であらう。これもまた捏造の一證とするに足りる。だから此の説話は、かの欽明紀二年の條に見えるやうに、百濟が任那日本府と新羅との連絡を疑ひ、且つ日本府に失政があるといふことを宣傳して、其の官吏を放逐し、みづから任那をかきまはさうとした思想から、作られた説話と解せられる。なほ「一云」として其の後に附記してあるものには、沙至比跪といふ文字が記してはあるが、此の一書が百際の記録であるかどうかはわからぬ。これは、百濟記がもとになつて日本で作られたもの(やはり書紀編纂の過程中の一稿本)ではあるまいか。また欽明紀に引かれた百濟本紀に曲筆の多いことは、既に述べたとほりであるが、十三年五月十四年八月及び十五年十二月の條に見える百濟王の上表に、新羅と高句麗とが聯合して百濟及び任那を攻めるやうに書いてあるのも、事實を述べたものとは考へ難い。新羅が漢口の流域を取つた十二年以後に於いては、高句麗は新羅に對して強い怨恨を抱いてゐたから、此の二國が聯合するやうなことは無いはずであり、また遲くとも十四年の末から後は、高句麗と百濟とは領土が全く隔絶してゐるからである。高句麗が遠隔の地の任那に對して野心を有つてゐないことは、なほさらである。だからこれは、百濟が敵の勢力を強くいひなして、日本から援軍を得んがために捏造したことであり、さうしてそれは、當時形勢が一變しつゝある時、もしくは一變したばかりの時であるために、日本の政府者の頭に深くしみ込んでゐる、高句麗の百濟侵略といふ長い歴史的關係の記憶を利用して、形勢の變化に十分熟してゐない彼等を欺き、其の同情を得ようとしたのである。但し十三年には(新羅紀によれば十四年の前半期までは)、まだ漢城地方を百濟が有つてゐたのであるから、高句麗新羅通和といふ點だけは(事實ではなさゝうであるが)、百濟人の猜疑心に映じたことを其のまゝ述べてあるのかも知れぬ。けれども、任那のことはすべて虚僞である。さうして故らに任那もしくは安羅(當時日本府(225)の所在地)の名を加へたのも、また日本の出兵を促すための詭計であつたに違ひなく、十五年の上表に「臣別遣軍士萬人助任那」といひ添へてあるのでも、それは知られる。遠く日本から援軍を求めようとするに當つて、任那保護のために自國から出兵するやうな餘裕のあるはずが無からうではないか。さすれば、十五年の表文の初に「百濟王臣明、及在安羅諸倭臣等、任那諸國旱岐奏、」とある安羅以下も、また虚構と見なければならぬ(これが日本人の補つたものでないことは、倭の字のあるのでも知られる)。實際、此の時の使節は百濟人ばかりであつたではないか。百濟が外國に對して虚僞の報告や上表をした例のあることは、梁書及び南齊書の百濟傳によつても知られる。さういふ表文が其のまゝ百濟本記に記載せられて、それがまた書紀に取られたのであらう。(十五年にはたゞ新羅と衝突したのであつて、安羅にあつた日本府の兵がそれを援けたことは、三國史記にも見えてゐる。百濟の記録から寫されたらしい書紀に於いても、事件そのことを記す場合には、新羅との戰爭ばかり見えてゐて、高句麗との話が少しも無いことは、此の十五年の條に於いて明白である。)かう考へて來ると、二年及び五年の條に見える卒麻、散半奚、斯二岐、子他、などの旱岐が百濟に集まつたといふのも、其のもとになつた百濟本記の捏造ではあるまいか。旱岐等の名の無いことも、疑を狹ませる一理由である。
 話は少しわき途へ入つたが、もとへもどつて其の要旨を約言すると、書紀の編者は百濟の記録を取つてもかなり大膽な變改や潤色を加へてゐるので、其の主旨は、多くの場合に於いて、日本の權威と恩惠とを文字の上で示さうといふ點にあり、それに或る事實の起源を説かうといふ考から出たものが加はつてゐ、さうしてその潤色にはお伽噺的説話的方式があるのである。かう考へて置いて、次に百濟の記録から出たらしくない百濟關係の記事を調べて見よう。
 
(226)       四 百済の鬼籍とは關係の無い記事
 
 應神紀十四年の條に「弓月君自百濟來歸、因以奏之曰、臣領己國之人夫百二十縣而歸化、然因新羅人之拒、皆留加羅國、爰遣葛城襲津彦、而召弓月之人夫於加羅、然經三年、而襲津彦不來焉、」といふ記事がある。弓月君といふのは、古語拾遺や新撰姓氏録(左京諸蕃上、山城國諸蕃)に參照すると、秦氏の祖先とせられてゐるものであるが、それは且らく別問題として、百濟から日本へ來るのは新羅人に妨げられて加羅に留まるはずの無いことは、明白であつて、それは恰も上に述べた百濟使が日本に來る途中で新羅人に抑留せられた、といふのと同じことである。だからこれは、加羅が滅亡して新羅の一部となり、また日本と加羅との交通が無くなつて、昔の?態の忘れられた後になつて、作られた話に違ひない。さうして其の根柢には、新羅が日本百濟間の交通の妨をする、といふ思想の存在することが明かであつて、此の點に於いては、垂仁紀の都怒我阿羅斯等の話に於いて、新羅と任那との爭闘の起源が説かれてゐることが、參考せられる。從つて此の話の結末をつけてゐる十六年の記事も、やはり之と同樣、後世の造作である。それから、百二十縣といふ其の縣は何を指すのか不明であるが、もしシナの制度の縣ならば、そんなに多くの縣の人民が歸化して來られるはずも無く、また勿論狹い百濟にそれを容れる餘地も無かつたに違ひない。だからこれも、次にいふ二十一年の記事の十七縣と同樣、事實として考ふべからざることである。なほ附言するが、仁コ紀四十一年の條に、百濟王の孫酒君が無禮であつたから襲津彦につけて進上した、といふ話がある。酒君の名は、雄略紀十五年の條に、秦氏の人の名として見えてゐる。弓月君と秦氏と酒君と百濟と襲津彦との間に、思想上の連絡がありはしまい(227)か。さうして、百濟の王族の無禮を責めるといふことは、應神紀三年及び八年の條にも見えてゐて、それは事實らしくないことは前に述べたとほりである。
 次には、十五年及び十六年の條に阿直岐と王仁とが來たといふことがある。古事記にはこれを阿知吉師、和邇吉師、としてあるが、吉師は一種の尊稱であるから、名は阿知と和邇とで、阿知は阿直岐の略稱であらう。さて此の阿直岐は本文に阿直岐史の祖としてあるが、天武紀十二年十月の條に見える阿直史、姓氏録(右京諸蕃下)に百濟人としてある安勅連が、それであらう。さすれば、王仁もまた百濟人として考へられてゐたに違ひない。續紀(卷四〇)延暦十年四月の條に見える文忌寸(河内の文氏、即ち所謂西文部の家)の上言には、王仁は漢高帝の後衛だといつてあるし、姓氏録(左京諸蕃上)にも同じやうに書いてあるが、これは必しもあてにならぬ。姓氏録だけを見ても、楊侯忌寸(左京上、和泉)、錦織村主(右京上)、若江造(同上)、朝妻造(大和)、高丘宿禰(河内)、などの諸家の祖先が、或は達率恩率などの位階を有し、或は明かに百濟人もしくは韓人と記されながら、漢人の部に入つてゐるし、百濟人でありながら漢人といふ姓になつてゐるもの(右京下)、百濟の部にありながら漢人の子孫とせられてゐる大原史の如きもの(右京下)、さへある。特に隋煬帝の後とせられてゐる楊侯氏の如きは、其の同族として楊胡史といふのが見え、推古紀十年の條にある陽胡史の家が即ちそれであらうが、この侯と胡とは同音の異譯であらうから、此の二つを對照して考へると、推古天皇の時に嚴存するものが煬帝の後であるといふ、時代錯誤が生ずる。これは多分、楊の字から思ひついて煬帝に附合したのであつて、實は百濟人であらう。南齊書百濟傳に楊を姓とするものが見えてゐることも、參考せられる。(祖先の名の附會法には、續後紀卷四承和二年十月の條に見える白鳥村主が魯公伯禽の後とせられたや(228)うなものもあるので、これは白鳥の文字をもぢつたのであらう。)また姓氏録(大和諸蕃)に漢人としてある己智氏がもし欽明紀元年二月の條にある百濟人己知部の家ならば、これもをかしい。これらは、ずつと後に作られた姓氏録に見えることであるが、書紀に於いてすら、神功紀五年の條に新羅の草羅城(歃良城)を跋いて得た俘虜が桑原、佐糜、高宮、忍海、四邑の漢人の始祖だとしてあるから、韓人が其の祖先を漢人と稱してゐたことは、かなり古くからのことかも知れぬ。(神功紀の記載と關係があるかどうかは明かでないが、桑原といふ家が姓氏録の左京諸蕃上及び大和諸蕃の部には、漢高祖の孫の萬コまたは萬得使主の後としてあり、攝津諸蕃の部には、高麗國大高コ使主の後としてあることも、參考せられる。)また雄略紀七年の條に「西漢才伎歡因知利」とあるが、此の名は同じ條の「新漢陶工部高貴、鞍部堅貴、畫部因新羅我、錦部安定那錦、譯語卯安那、」と共に、何れもシナ人らしい名ではない(西漢は河内の漢人とでもいふ意義であらうか)。要するに、家々で稱してゐる祖先よばはりは、帝王の子孫であるといふことが信ずべき限りでないのみならず、漢人であるか韓人であるかすらも確かなことではない、といはねばならぬ。さうして、書紀でも古事記でも同じころに歸化したやうになつてゐる阿知使主が、特に漢直と稱せられ、弓月君が秦造といはれながら、王仁が漢人たることを示す何等の稱呼を有つてゐないのを見ると、王仁を祖としてゐる西文部の家は、もとは(少くとも書紀の編纂せられたころまでは)漢人と考へられてゐなかつたことが、推測せられはすまいか。現に續後紀(卷三)承和元年五月の條には「左京人……文忌寸歳主、……同姓三雄、……河内國人……文忌寸繼立、……等之先、並百濟國人也」とあるが、この文忌寸の家は西文部に屬したものらしいから、此のころまで、其の祖先を百濟人としてゐた西文部の家もあつたことが、知られる。王仁といふ文字を見ると、漢人の名としてふさはし(229)いやうでもあるが、別に和邇とも書いてあることを考へると、文字に意義の無いことは明かであらう。王といふ姓が樂浪の漢人にあつたことから臆測して、王仁もそれと何かのゆかりがあるのではなからうかと疑ふものもあるやうであるが、王の字に意義が無いとすれば、それは始から問題にはならぬ。のみならず、百濟にも王氏はあつて、欽明紀十五年二月の條にも王氏の百濟人が數名あり、南齊書百齊傳にもさう解せらるべき記事がある。續紀(卷四〇)延暦九年七月の條に、船史王辰爾が百齊の王族から出たといふことが見えてゐて、其の王族であるかないかは不明であるが、百濟人であつたことは疑ふ必要が無いから、日本に歸化した百齊人にも、王氏を稱したものがあつたことは、確かであらう。だから、王仁の王の字を假に姓と見たところが、それによつて彼を漢人とするわけにはゆかぬ。さすれば、王仁が初は百濟人とせられてゐたと見るに、何の差支も無い。が、更に一歩進んで考へると、それが果して實在の人物であるかないかが疑問になる。さうしてそれには、次のことを參考する必要がある。
 同じ應神紀に倭漢直(大和の文氏、即ち所謂東文部の家)の祖の阿知使主が來朝したことが見える。しかしそれが十七縣の黨類を率ゐて來たといふことが信じ難いこと、後にいふやうに三十七年に呉に使したといふことも疑はしく、求めて來たといふ兄媛、弟媛、呉織、穴織、なども實在の人の名でないこと、また續紀(卷三八)延暦四年六月の條に見える苅田麻呂の上表にある祖先の話が事實と見なされぬこと、などを考へると、これも實在の人名であるとは考へ難い。帶方郡から來たといふやうな話も、帶方と日本との關係の記してある書物、例へば魏志の如きものを見れば、それから作り得られることである。靈帝の後とか獻帝の裔とか又は魏の文帝の子孫とかいふやうなことが、書物の上から來てゐるに違ひないことを、考へ合はせるがよい。同じく漢人だといふ弓月君も、其の事蹟として語られてゐる(230)ことが、上に述べた如く、事實でないとすれば、やはり同樣に考へられる。もし祖先の名が明瞭に傳へられてゐたほどならば、シナ人としては最も大切な姓氏が知られてゐるべきはずであるのに、それが書紀に全く見えてゐないことからも、これらの名が實在の人物をさしてゐないことが、推測せられはしまいか。阿知といひ弓月といひ、名すらも漢人らしくないのである。だからこれは、後に漢といひ秦といふ氏を冒した二家が、此のシナの有名な二王朝の稱號を採つて、それ/\の氏の名とすると共に、其の家の眞の姓を隱し、同時に祖先の名までも埋没させてしまつて、かういふ空想の名を作り出したのであらう。(漢氏と秦氏とのこれらの氏を冒したのが何時からであるかは、明確には知られないので、雄略紀十五年十六年及び欽明紀元年の條の二氏に關する記載も、其の内容から見ると、後からの造作らしいが、漢氏については欽明紀三十一年の條以後、秦氏については推古紀以後、に見える人名などは、大體實在のものらしいから、其のころよりも前のことではあつたらう。しかし姓氏録または苅田麻呂の上表、もしくは坂上系圖に見えるやうな系譜などが、其のころから二家によつて主張せられてゐたには限らないので、それは後になつて漸次作り加へられたものであらう。)さて阿知と弓月とに關する上記の考説に誤が無くば、王仁もまた同樣に考へてよからう。
 だからこれらは、すべて東西の文部または秦氏などが、其の祖先の系譜を作るに當つて、構成した家の由來に關する説話を取つたものではあるまいか。阿直支、王仁、阿知使主、について特にそれ/\の家の祖としてあることも、それを證する。また王仁が日本の政府の要求によつて百濟王から派遣せられたやうにしてあるのは、繼體天皇欽明天皇ごろから連りに史上に見える如く、百濟の技術家などが同じ事情の下に交代來朝したことなどを基にして、作られ(231)たものではなからうか。なほ古事記の履中天皇の卷に見える阿知直(書紀の阿知使主)は、始めて藏官に任ぜられたといふのであるが、姓氏録(山城)では雄略朝に始めて大藏官員が置かれ、秦氏がそれに任ぜられた、とあつて、傳説が一致してゐない。これも文筆の力のある漢人が(恐らくは漢氏も秦氏も)或る時期にさういふやうな地位を有つてゐたので、其の由來を説くために作つた話であつて、それを家々で恣にこしらへたため、かういふ矛盾が生じたものらしい。後世に編纂せられた古語拾遺などに見えることは、更にそれから發展したものであらう。かう考へて來ると、阿直岐の名は恰も久米氏が其の祖先を大久米命としたやうに、阿直岐氏の氏の名を其のまゝ用ゐたものらしい。さうして王仁の名は、それに對して案出せられたのであらう。白鳥先生は阿直岐は小の意義、王仁は大の意義を有する韓語として説明ができるから、王仁の名は阿直岐に對して作られたものであらう、阿直岐より王仁が秀でてゐるといふ説話も、それに適合する、といはれてゐる。阿直岐氏があまり世に知られてゐなかつた家であるに對し、王仁の西文部が有名であつた事實も、また此の解釋を助けるやうである。
 しかし、百濟にゐた漢人の中で日本に歸化したもののあることは、疑が無からう。百濟には其の領土に入つてゐる帶方郡の住民であつたシナ人もあり、また常に南朝と交通してゐるため新しく其の方面から移つて來たものもあり、學問技藝がさういふものによつて傳へられたであらうから、其の中の或るものが日本までも來たことは、あり得べき事情だからである。さうして、漢と呉とは我が國に於いて古くから對稱せられてゐたらしく、漢織呉織といふやうな名も作られたほどであるが、其の呉は南朝のことで、それは百濟人の習慣に從つたのであらうから、漢としてそれと對稱せられたのは、此の南朝人ではなく、それとは違つた系統のシナ人であり、從つてそれは昔の帶方郡の住民であ(232)つたかとも考へられる。(百濟人が南朝を呉と呼んでゐたことは、百濟本記の文を取つたらしい欽明紀六年の記事の中に「呉財」といふ語のあるのでも、知られる。これは南方シナからの舶來品といふ意義であらう。)が、漢の字に重きを置いて見れば、別に秦を稱する家のあつたことを注意しなければならず、またアヤといふ語は、ハタと共に、國籍には縁の無いものであるから、アヤとクレとの對稱は單に對稱するための對稱であつて、上代人のいひあらはしかたの趣味から來たことに過ぎないかも知れぬから、さう斷定することもできなからう。(アヤは漢の字音の轉訛、ハタは大和の地名、クレもまた同樣であらう。)但し彼等の歸化した時代は固より明かにはわからぬ。書紀が秦氏や漢氏の來朝を應神朝にあてはめたのは、固よりさしたる根據があるわけではないに違ひなく、外國と交渉のある事がらをすべて此の朝にはじまつたやうに、説かうとしたからのことであらう。何れにしても、書紀のこれらの記事が確實なる當時の史料によつたものと考へられぬことは、其の内容が一々事實らしくないことから明かである。なほ一言すべきは、此の歸化した漢人は、數に於いては極めて少かつたに違ひなく、秦氏漢氏の外にもしあつたとしても、それは幾らでもなかつたらう、といふことである。後世に作られた姓氏録を見ても、古代に歸化したやうになつてゐる家は、決して多くはない。而もそれには、實際、漢人でない家が含まれてゐることは、上に述べたとほりである。また書紀にも古事記にも、多くの家の名は傳へられてゐない。百二十縣の民とか十七縣の民とかいふ文字が書紀に見えるところから、多數の歸化人があつたやうに世間では考へられてもゐるらしいが、この文字は家々で其の勢力を大きく見せようとして作つたものであるから、歴史的事實として見るべきことではない。事實、多數人を率ゐて來たのならば、それを適切にいひ現はすべき方法は幾らもあるので、こんな見えすいた虚僞をいふ必要はないのである。こん(233)なことをいふのが既に捏造の證據であつて、これは多分、彼等の部民をみな祖先が外國からつれて來たもののやうに、説かうとしたのであらう。秦氏漢氏などの歸化人を政府で重用したため、一般貴族の例に從つて、彼等に租税を約める部民を支給したことは、おのづから想像せられるが、その部民は固より日本人であり農民である。勢力のある秦氏や漢氏には其の部民が多かつたであらうが、それは歸化人でもなければ、彼等と同一の業務を有つてゐたものでもない。要するに古代の歸化漢人は決して多數ではなく、團體的に渡來したやうな形跡は、勿論、見えないのである。
 こゝに附記すべきことは、武烈紀六年及び七年の條にある百濟調貢の記事が、やはり倭君の家系を説くための説話から出たものらしい、といふことである。「百濟歴年不脩職貢」とあるのも、法師君といふ名も、此の時代のこととしては頗る疑はしく、後人の筆になつたものであることが、推測せられる。倭(和)氏は續紀(卷四〇)延暦八年の條の終にも見え、姓氏録(左京諸蕃上)にも出てゐて、共に武寧王の裔となつてゐるし、特に續紀には其の祖先を「武寧王之子純陀太子」としてあるが、書紀の此の記事では、斯我を百濟王の骨族とこそ書いてあれ、武寧王の王子とはしてなく、勿論、純陀といふやうな名も見えない。だからこれらの系譜は、一層後世の造作である。純陀太子といふやうな書き方は、シナにも例がないではないが、佛家に於いて多く用ゐられてゐるものであること、法師君といふ名の佛教に縁のあることをも考へねばならぬ。和氏が百濟人の後裔であることは事實であらうし、麻那といひ斯我といふ名も、阿直岐や王仁とは違ひ、史的人物として何か據るところはあつたでもあらうが、此の記事は事實らしくないのである。
 仁コ紀四十一年三月の條に「遺紀角宿禰於百濟、始分國郡??、具録郷土所出、」とあるが、百濟に國といふ行政區(234)劃は無かつたのみならず、「始分國郡??」が國郡の區劃を始めて設けたといふ意義ならば、それは明かに虚僞であらう。日本よりも早くシナの文化を學んでゐる百濟が、日本の指揮をうけて始めて地方區劃を定めた、といふことは考へ難い話だからである。また百濟人や漢人から書記の術を學び、それがまだ熟せずして歸化人に文筆の事を委せてあつた此の時代に於いて、「録郷土所出」といふやうな企圖があつたとは思はれぬ。さうして國郡と連稱してあるところから見ると、これは大化改新以後の筆であることが推測せられる。なほ此の時の事件として記してある酒君の話が事實らしくないといふことは、前に述べて置いた。
 次には、雄略紀七年の條に任那の國司であつたといふ田狹の話に關聯して百濟のことが見えてゐる。この話の大體の輪廓が既に事實でないので、「汝宜往罰新羅」とある弟君の使命について「取道於百濟」といふのが、第一、地理上あるべからざることであり、その上に「率衆行到百濟、而入其國、國神化爲老女、忽然逢路、弟君就訪國之遠近、老女報言、復行一日、而復可到、弟君自思路遠、不伐而還、」といふのも、純然たるお伽噺的説話である。それから、此の文を承けて「集聚百濟所貢今來才伎於大島、託稱候風、淹留數月、」といつてある大島は、上に述べた繼體紀二十三年の條の大島で、日本と百濟との中間にあるらしいのに、その大島にゐるはずの弟君に對して「密使人於百濟戒弟君」といつてゐるのは、大島が百濟の内部にあるやうに見えて、そこに矛盾がある。何れにしても事實ではない。此の話は多分、百濟から種々の技手をつれて來たといふことを、田狹の物語に附合した小説であらう。なほ同じ雄略紀九年の條にも、新羅を討つてゐる大磐宿禰と韓子宿禰とが不和であつたといふ話を承けて、百濟王が國堺を觀せるためにこれらの諸將を招待し、諸將が河までいつた時に大磐が韓子を射殺したため、百濟王の宮に到らずして還つた、とい(235)ふことがある。河がどの河であるか、新羅のどこから其の河にいつたのか、まるでわからず、さうして河と百濟の王宮とは近距離にあるやうに見える。これは實際の地理を考へず、新羅と百濟とが共に韓地にあり、さうして百濟にゆくには河を渡らなければならぬといふ知識によつて、作られた話に違ひない。恰も新羅にゆくには海を越さねばならぬといふ知識から、神功皇后が船ですぐに新羅の都に攻め入られたやうに構成したのと、同樣である。勿論、事實の記載と見るべきではない。
 かう考へて來ると、百濟に關する記事で百濟の史籍から出た證跡の無いものは、何れも虚構の説話であることが知られる。さうして斯ういふ虚構は、恰も百濟記などを本にしてそれを潤色したのと同じ意味の、また同じ方式の、ものであることが、前節に述べたところで知られよう。即ち後世に存する事實の起源を説くためか、日本の權威を示すためか、の目的で作られ、それには往々一種の説話的色彩がつけられてゐるのである。
 これで欽明紀以前の百濟に關する記事の全部が吟味せられたことになるが、たゞ一つ殘つてゐるのは應神紀三十九年にかけて記してある「百濟直支王、遣其妹新帝都媛、以令仕、」の一條である。これは本文だけでは、何か出所があるのか、さうでないのか、不明であるが、他のすべての記事が、百濟の記録から取つてそれを潤色したものでなくば修史家の虚構であるとすれば、これもまた其の何れかの一例として見る外はなからう。新齊都といふ名は日本で作つたものではなささうであるから、或は應神紀に?引用せられた百濟記から出たものかも知れぬ。王女であるかどうかはわからぬが、婦人の貢せられたのは、雄略紀に引いてある百濟新撰の記事から見ても、あり得べきことである。けれどもまた、百濟人の名を何かから取つて編者が造作した記事でないとすることもできかねる。應神紀七年の條に(236)「高麗人、百濟人、任那人、新羅人、並來朝、」とあるなどは、あらゆる韓人をみな列擧したので、もとより事實と見るべきものでなく、それは恰も清寧紀三年の條に「海表諸蕃並遣使進調」とあり、また?(例へば欽明紀元年などに)「蝦夷隼人並率衆歸附」とあるのが、シナの史籍の外夷來朝の記事を摸したものであるのと、同樣である。特にここには「命武内宿禰、領諸韓人等作池、」とあるが、此の武内宿禰が實在の人物でないことは、この書の第二篇で考へたとほりである。
 以上の考察は、百濟關係のことに限つてのことであるが、もし任那や新羅との交渉について日本にたしかな史料があつたとするならば、此の推定は大に動搖しなければならぬ。そこで、更に其の方面の書紀の記載をしらべて見る必要が生ずる。
 
       五 任那、新羅、高句麗、及び呉、に關する書紀の記載
 
 任那に關する書紀の記載は極めて貧弱であつて、所謂日本府の創設に關する記事すらも全く缺けてゐる。垂仁紀に見える都怒我阿羅斯等の有名な物語が事實でなく、後世になつて任那の名稱の起源を説き、加羅新羅爭闘の由來を説くために作つた架空の物語である、といふことは、この書の第二篇に論證して置いた。其の後になつては、神功紀六十二年の條の百濟記の加羅の話が初見であるが、それは既説の如く百濟人の造作である。次には、雄略紀七年の條の田狹に關する話であるが、彼が任那に據つて政府の命令に從はなかつたといふことが語られてゐるけれども、其の結末がどうたつたか、まるで見えてゐない。かういふ重大の事件がたゞこれだけ出てゐるのが不思議である上に、それ(237)に結合せられた弟君の話が上に述べたやうな性質のものであるとすれば、この記事の價値もほゞ推知せられよう。さて其の翌年には、任那日本府が高句麗の侵撃に對して新羅を援けたことが見えてゐるが、これは年代こそ不確寶であれ、そのことがらは、大體、歴史的事實として承認せられる。百濟とは常に爭ひ任那府にも反對してゐながら、長壽王の南方經略以後に於ける高句麗の強い壓迫に對しては、百濟や任那の援助を求めねばならなかつた當時の新羅の地位、並に百濟もそれを支持してゐる任那府も、高句麗を防ぐために新羅を援ける必要を感じたに違ひない當時の形勢と、よく一致するからである。もつとも、話そのものには勿論、説話的潤色が施されてゐるので「新羅王夜聞高麗四面歌舞、知賊盡入新羅地、」などがそれである(これは翌九年の條に「新羅王夜聞官軍四面鼓聲、知盡得※[口+碌の旁]地、」とあるのと同じことであつて、何ごとでも具體的に述べねばならぬ説話のしかたである)。なほ其の事實と認むべきものが如何なる史料から出たか、といふことについては、後に述べよう。それから、顯宗紀三年の條の首に阿閉臣事代が任那に使したといふことがあるが、これは前後に何の連絡も無い遊離した記事であるから、記事そのものからは何とも判斷ができないが、任那に日本府がある以上、日本の官憲は斷えずそこと往復したに違ひないから、かういふ特別の記事がたつた一つあるといふことは、寧ろ不思議である。さうして上文に述べた如く、任那に關して正確なる史料のあつた形跡がどこにも見えない、から、この一條もまた、たしかな出處があるものとは思はれない。なほ同じ年の紀の生磐の話、及び繼體紀三年の條の任那に使を遣はされたことは、上に述べた如く百濟の記録から取つたものである。
 次に繼體紀二十一年の條に、毛野臣が新羅に滅ぼされた※[口+碌の旁]己呑、南加羅、を復興するために任那に在つた、といふことがあるが、これは二十三年三月の條に見える百濟の記録から取つたらしい「勅勸新羅更建南加羅※[口+碌の旁]己呑」の文と(238)相應ずるものであるから、其の出所もまた同樣に見なければならぬ。此の三國が新羅に滅ぼされたといふ記事が前に見えてゐないのも其の故ではなからうか。それから二十三年三月の條に見える加羅の新羅に服屬した由來に關する説話が事實でないこと、また、二國王室間の通婚譚が百濟の記録から材料を取つたものらしいことは、これもまた既に述べたとほりである。通婚譚について、こゝに新羅王女とあるのは、三國史記と少し違つてゐるがはこれは日本での潤色であらう。次に同年四月の條の任那王來朝の記事であるが、これについては己能末多干岐、伊叱夫禮智干岐の「干岐」が百濟記(例へば神功紀六十二年の條所引)及び百濟本記(欽明紀に例が多い)に常に用ゐてある「旱岐」と、同語でありながら文字が違ひ、後にいふやうに日本人が書いたらしい垂仁紀の于斯岐阿利叱智干岐(都怒我阿羅斯等の一名としてある)、神功紀新羅征討の條の微叱已智波珍干岐と同じ書き方であることを、考へねばならぬ。やはり日本の史料から出たと思はれる欽明紀二十二年の久禮叱及伐干の「干」の字も、參考すべきである(神功紀五年の本文には微叱許智伐旱とも微叱旱岐ともあるが、これは誤寫ではなからうか)。なほこゝにある「胎中天皇」云々の文字は、例によつて例の如き日本の史家の筆法である。それから、此の話を承けて書いてある毛野臣の行動に關する記事に於いて、地名の多々羅は、もはや百濟の史料の無くなつてゐる敏達紀四年と推古紀八年との條に見える。また此の文には百濟の使を毛野臣が詰責したといふ話もあつて、これも百濟の記録から出たらしくはない。だから此の月の記事には(史家の潤色もあらうが、其の外に)斷片的に存在してゐた日本の史料から出たことがありはしないかと、考へられる。但しそれが當時の確實な記録であつたかどうかは、疑問である。新羅王佐利遲は?知王のことかと思はれるが、三國史記の紀年によると、それでは時代が合はぬ。但し伊叱夫禮智干岐は異斯夫に當つてゐるやうであつて、(239)これは時代も合ふ。(三國史記卷四四異斯夫傳には智度路王、即ち智證王の時のこととして「以馬戯誤加耶【或云加羅】國取之」とあるが、新羅紀には此のことが見えず、法興王の時の加羅が服屬したやうになつてゐることとも一致しない。だから、これは或は眞興王二十三年に異斯夫が加耶、即ち安羅の日本府、を滅ぼしたことの誤では無からうか。けれども、新羅紀のいふ如く法興王のころに異斯夫が軍主となつてゐたとすれば、其の時代に加羅に出動したことは、勿論、あり得るのである。)不確實な點もあり曖昧なこともあるが、簡單なおぼろげな傳聞でも記したものが何か日本にあつたらしく、それを修史家が潤色したのであらう。時代ちがひの?知王が現はれてゐるのも、不確實な傳聞から出た故らしい。さうして其の傳聞は、多分、新羅人からのであらう(後文參照)。
 欽明紀になると、任那復興(加羅に於ける日本府の復興)問題について種々の記事があるが、それが百濟本記から出てゐることは既に縷説した。たゞ二十三年の任那の官家(安羅にある日本府)滅亡以後の記事は、日本の材料によつたものとして見ることに、異議が無い。
 要するに、雄略紀及び繼體紀に於いて仄かに覗ひ知られる如く、その時代のことについては、何か斷片的の史料が書紀編纂の時には存在してゐたらしいが、其の前の長い間について大切な任那日本府に關する記事が全く無いのは、當時の日本に於いて後に遺るやうな記録の作られなかつたのか、又はいくらかの記録も修史の際に無くなつてゐたのか、どちらかでなくてはならぬ。然らば、新羅に關する記事はどうであらうか。
 新羅に關する書紀の記載は神功皇后の遠征物語を除けば神功紀五年の條に見えるものが初めであるが、それは便宜上、後にいふことにする。次には、六十二年の「新羅不朝、即年遣襲津彦撃新羅、」といふのが來るが、これは明白に(240)百濟記から出てゐるので、原書の沙至比跪を襲津彦と書きかへたまでのものである。應神紀十四年の弓月君に關する新羅の話については、既に述べた。其の三十一年には武庫にゐる新羅使の宿所から失火したといふ記事があるが、新羅使の名の無いこと、これと結びつけられてゐる船の話が、五百籠の鹽によつて五百艘の船を得た、といふやうな説話的性質を有つてゐる上に、古い時代にありさうにも無い琴が出て來ることなどから見て、此の記事の事實でないことが、知られよう。仁コ紀十七年の新羅征討及び朝貢の記事にも、一千四百六十疋といふ調絹、八十艘といふ船の數が、後人の考であることは明かであり、五十三年の征討記事も、地理的記載が全く缺けてゐる上に、百衝といふやうな日本名の新羅人が出て來る點に於いて、作り物語であることがわかる。それから允恭紀三年には良醫を新羅に求めたといふ話があるが、此の時代の新羅にそんなものがあつたとは思はれず、特にすべての文物を學んだ百濟に對してでなく、新羅にそれを求めたとするのが、一層怪しい。四十二年の調貢の記事も、其の船數は仁コ紀十七年の場合と同樣である上に、樂人八十といふことさへ加はつてゐる。此の樂人のことは前の醫者と同樣であり、また八十の數が?反覆せられるところを見ると、それは多數を意味する語が實數として記されたので、從つてそれが後人の所作であることがわかる。「新羅人大恨、更滅貢上之物色及船數、」も例の史家の新羅觀を寄託したものである。
 さて雄略紀七年の條にある田狹の話、及び八年の高句麗に對する戰爭譚については、既に上に述べて置いたが、後の方の話にある、新羅が典馬の報告によつて高句麗の異志を知り、雄鷄を殺すに託して國内の高句麗人を鏖殺した、といふのは、例の説話的方式を有する物語である。九年にはまた親征の議があるが、其の時の勅語といふものの中に「阻高麗之貢」とあるのは、當時に於いて考へ得られることでない。但し※[口+碌の旁]の平定については「新羅王、夜聞官軍(241)四面鼓聲、知悉得※[口+碌の旁]地、」とあるのが、説話であつて事實ではないといふことの外に、批評が下しかねる。※[口+碌の旁]といふ地が或る時代に任那府の領土に入つてゐたことは、繼體紀欽明紀の記載によつて知られるが、それが何時からのことであるかは、明かでない。こゝの文によつて見ると、此の時始めて平定せられたやうに見えるが、前後の記事も此の征討の經過も、餘りに事實らしくないから、これだけでは十分に信用しかねる(なほ後にいはう)。また二十三年の條には、征新羅將軍吉備臣のことが出てゐるが、吉備で騷ぎ出した蝦夷を周防まで追つかけ、それから丹波まで追ひつめた、といふ話が、事實として受けとれぬことは、いふまでもない(此の將軍に關する征討そのことの話は全く見えてゐない)。
 次に繼體紀二十三年の條に見える任那關係の記事については、もはや繰返すに及ぶまい。それから欽明紀であるが、元年の條に百濟に任那の四縣を與へたがために新羅が久しく怨んでゐるとあるのは、地理的關係から見ただけでも全く虚妄であることが明かであつて、これは繼體紀二十三年の條に多沙津を百濟に與へたため加羅が怨んだといふのと同樣、任那・百濟・新羅の關係が全く忘れられた後に於いて、繼體紀六年の記事を基にして作つた話である。其の後には、欽明紀二十三年の安羅日本府滅亡の記事が出て來るが、これから後のは、別に疑ふべきふしが無い。もつとも、此の年の河邊瓊缶や調伊企儺の話は頗る怪しいものであり、大葉子の歌といふのも後人の作であることが、其の歌風から見て明かであるのみならず、戰が日本の勝利になつたといふのも、事實でないことが、任那府が滅亡のまゝに終つたので、推測せられる。かういふ風の潤色は、これから後の記事にも見えるので、例へば推古紀八年の新羅征討、新羅任那二王の上表、といふやうなことがそれである。けれども、欽明紀に於いては戰爭のあつたこと、推古紀に於(242)いては任那問題につき新羅に對して何等かの交渉をしたことは、前後の記事と大體の形勢とから見て、事實とすべきである。
 さて以上の記事を通覽すると、雄略紀の筑足流域の話に幾らか事實の根據があり、繼體紀の加羅服屬の記事がほゞ事實を傳へてゐる外には、欽明紀の中ごろ以前の書紀の記載は、すべて後人の作らしい。さすれば、かの※[口+碌の旁]平定の物語もまた同樣ではなからうか。大體からいつても、新羅との交渉や戰爭は、直接には、任那日本府の事業であるはずであるから、それがもし確かな史料で知られてゐたならば、何よりも任那に關する記事が書紀にも多く現はれねばならぬのに、それが前節に述べた如く全く見えず、また新羅との關係そのことについても、今少し具體的の記事がなくてはならず、交戰地なども明かに記されねばならぬのに、それが絶無といつてもよいほどなのは、やがてこれらの記事が正確な史料から出たものでないことを示すに十分である。廣開士王の碑文に見えるやうな新羅方面に於ける高句麗との衝突も、任那及び新羅に關する記録があつたならば、必ず書紀にも現はれなくてはならぬのに、それが全く見えないではないか。さて其の事實らしい話のあるのは、或る時代を經た後に新羅人から得た傳聞の記録でもあつたからではあるまいか。然らば、其の事實らしくない記事は何のために作られたかといふと、上に列記した種々の場合に於いて、新羅が朝貢しないのでそれを責めるとか伐つとかいふことが最も多く、かの欽明紀元年の記事すらも、新羅征討の計畫に關する意見として述べてあり、雄略紀二十三年の話のやうに直接新羅に關係の無いことでも征新羅將軍のこととしてあるのみならず、それが同じ九年の條の親征の議にまでも發展してゐることを思ふと、新羅を日本の敵國として見てみる思想が其の根柢にあることを、認めねばならぬ。さうしてそれは垂仁紀に見える加羅の物語にも、(243)神功紀四十七年の條に見える百濟人來朝の記事にも、また應神紀の弓月の物語にも、共通な考である。たゞ雄略紀に一度見える新羅援助事件は、味方としてある代りに日本の恩惠といふ思想を以て(恰も百濟に關して常に用ゐた筆法と同樣)それを潤色したものである。
 かう考へて置いて、さて神功紀五年の條の微叱許智の話を見ると、これは三國史記の朴堤上傳の記載とほゞ一致して居り、さうしてそれは神功皇后遠征物語のところに注記してある二つの「一書」の後の方の話が、同じく三國史記の昔于老傳の記事と相應ずるものであることから考へて、此の二つが、新羅に行はれてゐた昔物語の傳聞をもとにして、それを潤色したものであることが、察せられる。さうしてそれは、敏達朝以後、新羅人の頻繁に來朝するやうになつてから、彼等によつて傳へられたことではあるまいか。微叱許智の話に襲津彦を引き出したのは、それが對韓問題に常に用ゐられてゐる名だからであり、それに草羅城の現はれてゐるのも、新羅との交戰地點としてやはり新羅人から聞いたことを、こゝに結合したのであらう。幾度も行はれたらしい戰爭に於いて、一度も史上に現はれない交戰地の名が、此處だけに現はれてゐるのは、それが特別に得た知識であることを證するものであらう。さすれば、かの雄略紀の筑足流域の話や繼體紀の加羅服屬事件も、やはり之と同じ徑路によつて作られたものではあるまいか。雄略紀には見えないが繼體紀には出てゐる干岐といふ文字が、神功紀の此の二つの物語にも現はれてゐるのは、それが同じ性質の史料から出たことを證するものとも、見られさうである。三國史記によると、法興王の時に加羅王に嫁したのは伊  さん比助夫の妹であるが、繼體紀にそれを新羅王の女としたのは、恰も神功紀の注に宇流助富利智干を新羅王としたのと同樣であつて、此の點に於いても共通の態度が見られる。(繼體紀に己能末多干岐を任那王としてあるのも、(244)同一筆法である。)
 書紀には、なほ高麗(高句麗)に關する記載があるが、それもまた欽明朝から後でなくては、事實として認むべきものが無い。一々それを調べて見ると、古いところでは、應神紀七年二十八年の條、仁コ紀十二年五十八年の條に、高麗人來朝もしくは朝貢の記事があるが、これらは、半島の形勢から見れば勿論のこと、記事そのものの内容から考へても、虚構であることが明かである。應神紀二十八年の條に見える高麗の表文に「日本國」の文字のあるのが、第一に事實でない證據であつて、此の時代に高句麗が我が國を倭と稱してゐたことは、廣開土王の碑文でも明かである。のみならず「日本國」といふ名稱がこんなに昔から用ゐられたはずがない。次に仁コ紀十二年の、高麗人が鐡盾鐵的を上つたのを的の臣の祖盾人の宿禰が射とほした、といふのは、其の事柄が怪しいのみならず、人名からいつても架空譚らしく、恐らくは的の戸田の宿禰の名稱の起原を説明する物語に過ぎないのであらう。また同紀五十八年の記事には、呉が同時に朝貢したやうになつてゐるが、これは、次にいふやうに、事實とは見られないから、高句麗のこともまた信ずべからざるものであらう。なほ應神紀三十七年の條にも、高麗を經由して呉に使をやり、工女を求めさせたやうに書いてあるが、これもまた、呉について次にいふやうに、全く作り話である。嚮導者としてある高麗人の久禮波、久禮志、も上代の物語に例の多い連稱的の名稱であつて、實在の人らしくはなく、何れもクレ(呉)の名から作られたものであらう。仁賢紀六年の條に、高麗に工匠を求めて、須流枳、奴流枳、の二人を獻らしめたといふのも同じことである。かう考へて來ると、應神紀七年の條の高麗人來朝の記事も、百濟人、任那人、新羅人、とあらゆる韓人の國を列擧したため、其の上に高麗人を加へたに過ぎなからう。欽明枳元年にも同樣の記事があるが、これも(245)また同じ考からの造作と見なすべきものである。また繼體紀十年の條に、百濟から高麗使を送つて來たことが書いてあるが、これも當時の麗濟間の關係から見て、信ずるわけにはゆかぬ。同紀二十一年の條に高麗百濟新羅任那と列記してあるに至つては、上に述べた應神紀七年の條のと同樣である。なほ朝貢ではないが、欽明紀二±二年の條に見える大伴狹手彦が兵を率ゐ、百濟の計を用ゐて高麗を討ち、王宮に攻め込んで珍寶を鹵獲した、といふ話も事實らしくない。此の年は新羅が漢江の下流域全部を占領した眞興王の十四年から十年の後で、百濟と高句麗との間には、新羅の廣い領土が存在してゐるから、斯ういふことはできないはずである。もつとも、分注として引用してある一本には、このことを十一年にかけ、高麗王陽香を比津留都に逐ひ却けたとあるが、十一年ならば、百濟が舊都の漢城、及び高句麗南邊の重鎭である南平壤(北漢山、即ち今の京城)、を攻め落して一度そこを占領した、といふ有名の事件があつた年の前年で、三國史記によると百濟が高句麗の道薩城(今の忠州方面にあつたらしい)を取り、翌年の大發展の端緒を開いた年であるから、日本軍がそれに參加したことは、あるかも知れぬ。或はまた、道薩城がさほど大した場所でもないことから考へると、狹手彦の話として語られてゐる事件は、彼が十二年の漢城及び南平壤攻略に關係したといふことであつて、紀年に一年の誤があるのかも知れぬ。たゞ當時の高句麗王は陽原王と追稱せられた人で、名は平城(周書には成とある、城の字と同じ音を寫したのであらう)であるから、茲に陽香とあるのは少しく異樣であるが、これは或は此の記事が陽原王の稱號の知られた後に書かれたので、香は原の誤とすべきものかも知れぬ(二十三年のころの國王は、平原王といはれた陽成であるが、周書には湯とある、陽の字とどちらかが誤であらう)。もしかう見ることが許されるならば、注記してある一本の説は、そこに比津留都といふ地名が書いてあつたり高句麗王の名が記(246)されてゐたりすることと、此の年の前後の百濟に關する書紀の記事の性質とを、參照して考へると、百濟の記録から採つたものであらう。さうして書紀の編者は、それを説話化すると共に二十三年の條に編入したのであるが、これは此の年に任那日本府が滅ぼされたため、高句麗を討つた話も、それと關係があるやうに思つたからではあるまいか。本文の記事は、戰爭を物語り王宮を説いてありながら、其の地理が全くわからず、國王が墻を越えて逃げたことも、珍寶を得たことも、例の如き説話であつて、事實譚ではない。それから欽明紀三十一年の條に有名な高句麗使來朝の話があるが、此の年は高句麗が其の南邊の領土たる漢江の流域を失つた陽原王の七年(百濟聖明王の二十九年、新羅眞興王の十二年、我が欽明天皇の十二年)から二十年の後であり、百濟との關係から今まで我が國と敵對の地位にあつた高句麗が、態度を改めなくてはならぬやうになつた時であるから、使節來朝のことだけは、事實として考へられる。しかしそれに關する物語には事實らしからぬこともあるので、敏達紀元年の卷に見える高麗の上書が烏羽に書いてあつたいふ話も、其の一つである。我が國に何事かを要求する時に當つて、こんな兒戯に類した詭計を用ゐるはずはなからう。かういふ風に、虚構の説話も加はつてゐるが、此の記事の骨子は事實であり、さうしてそれは高句麗について我が國の史料から取られた確かな記事の最初である。
 呉に關する書紀の記載も、また決して當時の史料から出たものではない。それは第一に、東晉および南朝の政府に對する交通についての確からしい記載が、全く缺けてゐることからも、推測せられる。晉書安帝紀によると、義煕九年に於いて日本の政府は東晉に朝貢してゐるが、宋代になると、それが頻繁に行はれてゐて、所謂倭王の名が多く宋書に現はれてゐる。直接に此の通交の衝に當つたものは、百濟駐在の官憲であり、通交そのことが百濟に誘導せられ(247)てゐるといふことは、宋書倭國傳の記載によつても明かであり、また世の定論でもあるが、しかしそれは彼等の恣な處置ではなく、必ず本國政府の關知し承認してゐたことでなくてはならぬ。よしそれが本國政府の發意でないとしても、一度ならず二度ならず、少くとも六十餘年間の長年月に渉つて數囘も行はれたことが、本國政府に知られなかつたはずはなく、知りながらそれを引續いて行はせたのは、少くともそれを承認してゐたものと見なければならぬ。特に此の通交の結果として、もしくはそれに伴つて、行はれたシナの文物の輸入は、本國政府の歡迎しまた欲望したことであるから、通交そのこともまた本國政府の少くとも賛助の下に行はれたことは、勿論であらう。後世になつて此のことを否認したがるのは、一種の體面論からであるが、さういふ體面論が五世紀ごろの日本にあつたとは、考へ難からう。もつとも書紀編纂のころには、同じ意味の體面論があつたであらうから、倭王とか朝貢とかいふ文字は用ゐることを避けたであらうが、當時のことを記した確かな史料があつたならば、少くとも交通往復や將來品などについての事實を採つて、それを記載したはずであるのに、それが見えないではないか。
 なほ一々の記載を調べて見ても、それが後人の作つた説話と見なすべきものであることが知られる。其の第一は、應神紀三十七年及び四十一年の條に見える、阿知使主等が高句麗を經由して呉にゆき、工女兄媛弟媛呉織穴(漢)織四人をつれて來たといふのであるが、南朝に交通するに百濟によらずして高句麗によるといふことは、地理上からも當時の形勢からも、あり得べからざる話であり、工女の名も實在の人と見なすべきものではない。特にこれは、雄略紀十四年の條にやはり呉から來たとある工女の名と全く同じであることが、一層をかしい。雄略紀のも文字どほりに承認し難いが、古事記の此の天皇の卷にも呉人來朝の話があつて、此の朝に呉との交通が行はれたといふことは、「舊(248)辭」のどの本かに載せてあつたらしく思はれ、從つて書紀に於いても雄略紀のがもとであり、應神紀のはそれを取つて阿知使主の話に結合したものであらう。また「至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗、高麗王乃副久禮波久禮志二人、爲尊者、由是得通呉、」とあるのは、例の説話的構想であつて、上に述べた雄略紀七年の條の弟君が百濟から新羅にゆかうとして道をたづねたといふ話、神功紀の百濟人が卓淳まで來て日本の路を聞いたといふのと、同じ思想の所産である。また使主等が歸朝した時「天皇崩之、不及、即獻于大鷦鷯尊、」とあるのは、垂仁紀の都怒我阿羅斯等及び田道問守の話にあるのと、同一である。次に、仁コ紀五十八年の條の「呉國高麗國並朝貢」もまた怪しいので、それは恰も前に述べた應神紀七年の條の諸國人來朝と、同樣の筆法である。それから、雄略妃には八年十年十二年及び十四年の條に、身狹村主青などが呉に使したといふ話が見えるが、最後の條の漢織呉織兄媛弟媛の名が實在の人名でないことは、既に説いたとほりであり、從つて話の全體も事實とは思はれぬ。呉國の使の來たといふことも、恐らくは隋や唐の使節の來朝した後になつて、それに擬して案出せられたのであらう。晉書簡文帝紀や宋書百濟傳によると、晉宋の使節が百濟に來たことはあるが、宋書倭國傳にも我が國に使を遣はしたことは見えてゐない。さうして此等の記事には、呉に往復するについての地理的記載が全く無く、百濟を經由したことすらも書いてない。だから呉に關する記載も、またすべてが架空譚と見なければならぬ。呉と往復したといふことは傳説によつて知られてゐ、また呉人の裔といふものがあつたため、修史家がかういふ記事を作り、それを所々に配置したのである。けれどもそれが何れも事實らしくないのは、實際交通の行はれた時代に書かれた記録が一つも遺つてゐなかつたことを、示すものであらう。
(249) 以上述べて來たところを總括すると、任那、新羅、高句麗、及び呉の、何れの國についても、外國に關する書紀の記載は、欽明紀の中ごろ以前に於いては、すべて日本人の手になつた當時の記録から出たものではない、其のうち高句麗及び呉に關するものは、全く後の修史家の虚構であり、任那及び新羅に關するものに於いて一二の事實に近いものがあつても、それは後世になつて新羅人から聞いたことでも書きとめたやうなものがあつて、それから構成せられたのであらう、といふことになる。さすれば、上に百濟について述べたところも、決して誣妄の言とはいへないことが知られる。さうしてこれは、本篇に論證して置いた如く、此の時代の記録に見える歌が悉く後人の製作であるといふ事實、また六世紀に於いて一旦まとめられ、それから後種々に潤色せられて幾多の異本となつた舊辭(又は本辭)の比較的原形に近いものが含まれてゐる古事記に於いて、外國關係の記事が極めて少いといふことと、相應ずるものである。古事記にも、應神の卷に阿知吉師、和邇吉師、秦造、漢直、などの祖先の來朝のことが見え、允恭の卷に新羅使金波鎭漢紀武が八十一艘の調を貢進したことがあり、また雄略の卷には呉人來朝のことが記されてゐる。此の中で第一と第三とは、既に上文に説いたことであり、和邇吉師が論語千字文を獻上したといふのも、和邇吉師が實在の人物でないとすれば、やはり事實とは認められないので、それは此の話の書かれた時に二書が世に重んぜられてゐたことを、示すに過ぎなからう。また第二は、金といふ新羅王の姓を記してあることによつて、それが允恭天皇時代の事實でないといふことが知られる。金といふ姓が法興王の時(繼體天皇のころ)までまだ用ゐられてゐなかつたことは、梁書にそれを募泰と書いてあるのでも知られよう。八十一艘の事實でないことは、書紀に?記されてゐる八十艘と同樣である。な授照古王の名が應神天皇の卷に出てゐることについては、既にこの書の第二篇第一章に述べて置いた。(250)だから、これらの記事はみな後人の製作であるが、それは初めて書かれた時の舊辭にあつたのではなく、後人の插入したものであらう。舊辭の全體の體裁とは、調子が合はないものだからである。
 たゞ茲に生ずる問題は、これらの虚構の記事に現はれる人物の名が悉く烏有先生であるかどうか、といふことである。これについては一々的確な判斷を下すことはむつかしいが、欽明天皇の頃の吉備臣や河内直といふやうな、任那府の中心人物として活動したものすら、其の名が知られず、百濟本記によつて吉備といひ河内といふ氏のみが纔に推測し得られたとすれば、それより前に於いても、事實上、對韓政策に關與した人物には、全く忘れられたものが多かつたらしい。應神朝仁コ朝ごろの古い時代のは、なほさらであらう。さすれば、對韓問題に關して書紀に見える種々の人名、特に上代のものには、實在の人物と認められないものが多からう。なほ古い時代に於いて、蘇我氏の祖としてある武内宿禰の子孫とせられてゐるものが常に現はれて來るのは、そこに造作の跡のあることを示すものではなからうか。武内宿禰といふものが實は歴史的人物として考へ難いといふことをも、參考しなければならぬ。さうしてこれには、或は後世に於いて重要なる地位を占めてゐたもの、或は何かのしごとをしたものの、家の名を適用した場合もあらう。現に蘇我氏の同族で對韓關係の虚構の記事に?現はれる紀氏、巨勢氏、葛城氏、が後代に於いて、實際、韓地のことに關與してゐたことは、欽明紀、崇峻紀、にも見えてゐる。應神紀に見える的氏も、欽明紀に其の名が出てゐるので、其のころ實際にはたらいてゐたものである。雄略紀二十三年の吉備臣もまた、欽明紀に見える同名の歴史的人物から來てゐるのではなからうか。しかしまた、家々で潤色せられ構成せられた系譜から出たものもあらう。特に蘇我氏の同族に關しては、其の家系が蘇我氏の權力を有つてゐた時代に於いて種々に修飾せられたのであらうか(251)ら、さういふところに書紀の記載の重要なる一淵源があつたと見るのは、決して無稽の言ではない。應神天皇以後に於いては、皇室の系譜が比較的信據すべきものであるが、百濟やシナからの歸化人が用ゐられて書記を掌るやうになつた時代には、彼等の手によつて記録が作られたはずであるから、皇室の系譜の後に傳はつたのは、そのためであらう。この系譜は宋書の倭國傳に見える所謂倭王の名及び其の血統關係と一致してゐるし、また書紀の紀年で引きのばされてゐる應神仁特允恭の三朝(及び神功皇后)に於いて干支二運に當る百二十年を縮小すれば、古事記によつて推定せられる、もしくは書紀に記されてゐる、在位年數が、互に齟齬してゐながら、ほゞ漢史の記載と大差のないものになるのである。さすれば有力なる貴族の家に於いても粗雜なる系譜ぐらゐは作られてゐたので、後になつてそれを修飾し潤色して、今の記紀などに現はれてゐるやうなものができたのであらう。だから、對韓事業に活動した人物の名についても、また同樣の推測ができるのである。しかし、朝廷について歴史的事實として信憑し得べき事件は、應神朝以後にも殆ど見あたらず、古事記によつてほゞ原の形の遺されてゐる舊辭の説話が、概ね事實の記録と見なし難いことから見ると、諸家に於ける祖先以來の事蹟もまた、少くとも顯宗朝ごろより以前(最初の舊辭に記載せられてゐたらしい時代)については、たしかな記録が遺されてゐなかつたに違ひない。朝廷についても諸家についても、全く、記録が無かつたとはいはれなからうが、本來僅少であつたさういふものも、舊辭編纂のころには、消散したり紛失したりしてゐたのであらう。けれどもまた、比較的後代のは、何か簡單な家系や多少の傳聞ぐらゐが後に傳はり、それが修史家の材料となつてゐるかも知れないので、欽明紀などには幾分かさういふものもあらう。
 最後に今一つ起る問題は、書紀に於いて漢字で寫されてゐる百濟の言語や其の地名について、その訓み方が傳へら(252)れてゐるが、それは如何にして知られたものかといふことである。例へば顯宗紀三年の條の帶山城をシトロムレサシと訓み、繼體紀六年の條の上※[口+多]※[口+利]下※[口+多]※[口+利]をオコシタリ、アルシタリ、と訓むやうなことが、それであるが、これはもし、其の記事に現はれた事件の起つた當時に於いて、日本人が直接に百濟人から聞いたものであるとすれば、それが文字に寫されてゐなくてはならず、從つて日本人の手になつた當時の史料が無かつた、といふ上記の推測があたらぬことになるのである。けれども一方に於いて、百濟記、百濟新撰、及び百濟本記、に見えるものにも同樣の訓み方が傳はつてゐることを思へば、さういふ疑は忽ち氷解するであらう。例へば、雄略紀二十年の條に引いてある百濟記には、大后、王子、をコニヲルク、セシム、とし、武烈紀四年の條に注記せられた百濟新撰には、主島をニリムセマとし、また欽明紀七年の條に見える百濟本記には、中夫人、王、世子、をクノオリケ、オリコケ、マガリトモ、としてある類である。これは、書紀編纂の前もしくは後に於いて、文字について其の訓み方を百濟人にでも學んだものであらうと思ふ。帶山城の類も、やはり同樣に解すべきものである。從つて、かういふ文字が、百濟の記録から出てゐると認むべき記事の中にあるといふことは、少しも怪しむに足らない。のみならず、帶山とか上下とかいふ漢字を以て百濟語を寫してあるといふことが、却つて耳できいたことの傳へられたものでなくして、文字に書かれてゐたものを取つたことの、一證とも見られよう。
 
       六 神功紀の記載の批判
 
 さてこゝまで述べて來て、最初の問題に立ちもどると、既に説いた如く、神功紀の記事に百濟の記録から取つた分(253)子があると見ても、何等の支障の無いことが、明かにせられたであらう。しかし、それが此の記事のどれだけの部分であるか、さうして其の外に百濟の記録に關係の無い分子がどれだけあるか、あるならばそれは如何にして書かれたであらうか、といふ問題が次に生ずる。そこで再びあの記載を調べて見る。
 第一に百濟が日本に來る道を知らなかつたといふことは、既に述べた如く、高句麗及び新羅に關して應神紀にも雄略紀にも例のある説話的方式であるから、これは日本の史家の造作に違ひない。次に卓淳まで來たといふことは、如何にしても事實らしくないが、それは卓淳といふ名が何等かの事情で特に修史家の頭に入つてゐたために、構成せられたことであらう。さうして其の事情を書紀の記載に求めるならば、欽明紀二年と五年との條、及びそれと參照して考ふべき繼體紀二十四年の條に見えてゐて、繼體朝の事實として考ふべき任那百濟新羅間の紛爭に於いて、そこが焦點に當つてゐたことに想ひあたる。特に此の時、百濟が卓淳方面に出兵し、さうしてそこで新羅と衝突してゐることが、此の神功紀の記載と對照するに當つて、一層の注意を喚起するのである。日本の將軍が卓淳に兵を集めて新羅を討つたといふ神功紀の話も、此の時の事實にゆかりがある。もつともこれだけで神功紀の記事と此の事實とを結合して考へるのは、或は獨斷に近いかとも思はれるが、神功紀の物語で南蠻忱彌多禮及び多沙城を百濟に賜はつたとあるのが、やはり繼體紀六年及び二十三年の條に見える上下※[口+多]※[口+利]地方及び多沙津を百濟に與へたことと、甚だよく似てゐることを思へば、此の考の必しも牽強附會でないことが、知られよう。忱彌多禮の多禮は※[口+多]※[口+利]と同じ語であらうと思はれるが、其の位置は不明である。たゞ卓淳方面よりは西方に當つてゐて、百濟に近い地方であるとすれば、どうしても蟾津江の東方晉州までの間にあるとするか、もしくは其の附近の海島と見るかより、外に考へかたは無く、從つ(254)てそれは繼體朝に百濟に與へられた地方に含まれてゐるか附從してゐるかであつた、と考へるのが自然である。さすれば、卓淳のことも忱彌多禮及び多沙津城賜與のことも、此の繼體朝の事實を基礎にして作られた昔物語と認められる。後の事實を材料として昔物語を作るのは、舊辭の編者以來日本の修史家の慣用手段であることを、考へるがよい。
 もつとも茲に古奚津とか意流村とか又は比利、辟中、布彌支、半古、とかいふ地名が列擧せられてゐて、かういふ細かい地名の書紀に現はれてゐる場合には、其の記事は概ね百濟の記録から出てゐるのであり、また上に説いた如く、こゝにも明かに百濟記から出てゐる千熊長彦、木羅斤資、などの名もあるから、此の説話もまた百濟の記録に存在したものではあるまいか、といふ疑も生ずる。しかし百濟の記録の筆法は何時でも自國本位の書き方であるのに、こゝのはさうでなく、また辟支山、古沙山、などの地名は、日本の史家によつてこゝに適用せられたものらしいから、單に上記の理由だけで、此の説話が百濟の記録から出てゐるとすることは、困難ではあるまいか。避支は碧骨(今全羅北道金堤郡)、古抄は古沙夫里(今全羅北道古阜郡)で、百濟滅亡の際に於いて重要なる地位にあつた城池の名であり、特に碧骨は避城の文字で天智紀元年の條にも見えてゐるから、この二つは比本人の間にもよく知られてゐた土地であつたらう。此の二つの名の現はれた理由は、こゝにあると思はれる。然らざれば、多沙津の方面から百濟の都城たる漢城にゆくとしてある此の話に於いて、必しも通路に當つてゐない西方の、而も互に相接近してゐる、此の二つの土地のみが、其の長い道中に於いて特に選ばれる、といふことは甚だ解し難いからである。さすれば、古奚津や意流村や其の他の地名こそは、百濟の記録の如何なる場所からか取られたではあらうが、此の話そのものは日本の史家の構想から出たとした方が、むしろ自然ではあるまいか。繼體朝に百濟に與へられた土地が、何の時からか、日本に服屬(255)してゐたことは、明かであり、またそれが如何なる形かに於いて百濟の記録に現はれてゐたことも、想像し得られるから、神功紀の此の説話も、そこに由來があるではあらうが、此の説話そのものが百濟の記録にあつたとは、考へ難い。荒田別、鹿我別、といふやうな將軍の名も、上に引用した多くの例に對照して見ると、百濟の記録にあつた文字とは思はれず、さうしてそれは。二人連稱になつてゐる點からも、記紀の古物語に多い命名法記述法なのである。(忱彌多禮の名は應神紀八年の條の百濟記に出てゐるが、この記事にも日本での潤色が加はつてゐるらしいことは、既に述べたとほりである。)
 土地の問題に關聯して一言して置きたいのは、比自?以下七國の平定といふ記事を如何に見るべきか、といふことである。こゝに記されてゐる話の全體が事實でないとすれば、さうして加羅の服屬が對韓經略の最初に行はれてゐなければならぬとすれば、七國を同時に平定したといふ此の話も、また事實らしくないので、それは後世の修史家が、任那日本府の屬國もしくは領土として一般に知られてゐた幾つかの國の名を、漫然、列記したに過ぎなからう。しかし欽明紀二十三年の條の注に出てゐる斯二岐、子他、散半奚、卒麻、古嵯、乞?、稔禮、等の名がこゝに見えないことを考へると、任那府の屬領の全部が列記せられてゐるのではないことが知られるが、それが何故であるかは不明である。此の欽明紀の注記の中で、斯二岐、子他、散半奚、卒麻、久嵯(古嵯)、は百濟本記から出たことの明かである同紀五年及び二年の條に見える(二年には久嵯の名だけ無い)から、此の注記も多分百濟の何かの記録から拾ひ出したものであらう。ただ欽明紀では、何れの場合でも多羅が加はつてゐるのに、その多羅のみは神功紀にも見えてゐる。さうしてそれは、欽明紀の記載の外には、他に全く所見が無い。ところが、神功紀のみに見えてゐるものには、また(256)比自?がある。比自?の?は三國史記に於いて新羅の地名に常に用ゐられる火、伐、と同じくpol※[oにウムラウトあり]の音譯らしいが、これは百濟で用ゐられた文字ではなからうか。といふのは、天智紀四年及び十年の條に答?春初といふ百濟人の名があるが、※[火+本]といふ字は字書にも見えないから、?の誤寫ではなからうかと思はれる故である。(この名の答※[火+本]は、懷風藻には答季とあり、續紀には答本とあるが、何れも誤寫らしい。)もしさうとすれば、比自?もまた百濟の記録から出てゐるのではあるまいか。さてかう列べてみたところで、其の中から何等の推斷も抽き出せないが、神功紀の此の記事には、加羅、安羅、卓淳、といふ最も重要な國名が擧げてあり、それに繼體紀欽明紀に於いて喧しく述べてある南加羅と※[口+碌の旁]とが加はつてゐるのを見ると、これは百濟の記録の或る場所から其のまゝ取つたのではなく、卓淳や多沙を此の物語の重要な土地とした日本の修史家のしわざらしい。比自?と多羅とだけは、どうかいふ拍子でそれに結びつけられたに過ぎなからう。(加羅の外の諸國が任那府に隷屬した時期は、全く不明であるが、任那府設置の後まも無いことと推測せられる。今の昌寧らしい比自?が、果して日本の勢力範圍に入つてゐたかどうかは、たゞ此の一條の記事のみでは不確實のやうであるが、さりとて否定すべき有力な理由もない。また※[口+碌の旁]については雄略紀に征服の記事があるが、此の記事が事實であるかどうかは、既に述べた如く頗る疑はしい。)
 次には百濟との關係が結ばれた根本的動機として語られてゐる珍寶の問題に再び言及しなければならぬ。日本の朝廷や貴族が百濟の、寧ろ百濟に將來せられたシナの、財貨を得る事を深く喜び、またそれを熱望してゐたことは疑が無いので、上にも述べた欽明紀六年の條に見える呉財贈遺の物語、繼體紀十年の賞禄云々の記事(共に百濟本記から取つたもの)はよくそれを證するものである。穗積押山などが賄賂を取つたといふのも事實として考へ得られ、さう(257)してそれにはやはり斯ういふ特殊の意味があらう。任那が新羅の領土となつた後には、任那の名義で新羅から調を徴し(敏達紀四年、推古紀八年十八年三十一年、の各條參照)、その百濟に屬してゐる部分については、同じく任那の名義で百濟から調貢をさせてゐる(孝コ紀大化元年の條參照)、なども、如何に日本の朝廷が調貢品そのものに重きを置いてゐたかを、語るものである。もう一歩進んでいふと、遣隋遣唐の使節の主要な任務は、やはりシナの工藝品を將來することにあつたといつてもよからう。それから類推すると、仁コ朝もしくは履仲朝乃至雄略朝に於ける南朝との交通も、少くとも其の一半の意味はこゝにあつたのであらう。が、宋書に見える所謂倭王武の上表には、政治的意味が含まれてゐるのみならず、特に「句驪無道」の文字を點出してあり、また歴代の倭王が常に除正を求めてゐるのを見ると、他の半面に於いて、それに政治的意味のあることが、推測せられる。さうしてそれは、常に百濟を助けて高句麗と戰つてゐる事實とも、相應ずるものである。百濟を後援する必要がよし主としてそこから調貢を得、またそこを經由して呉財を求めるにあつたにしても、單にそれだけのこととしては、あまりにしごとが大げさであるのと、任那に根據を有つてゐる以上、そこを保持する必要があり、それにはまた半島に於ける政治的地位の確立を要することとを思ふと、百濟救援の意味が單に呉財の要求のみにあつたのでないことが、推測せられる。任那滅亡の後、又は任那府の直轄地を百濟に與へた後になつて、その任那の名で新羅や百濟から調貢を徴求したのも、任那存立の意味が全くそこにあつたためではなくして、政治的權力を失つたがため、せめて此の點だけに於いてでも或る程度の利益を得ようとしたからであらう。これは日本の立場からの話であるが、百濟の方からいふと、それが始めて日本に依頼し、もしくは日本を利用したのは、主として高句麗防禦のためであつたことが、當時の大勢から推測せられ、後には新羅(258)や唐の壓迫に對する防衛のためにも、此の親日策が適用せられたのである。さすれば、百濟が日本に交通を開いた動機を珍寶の獻上に歸してゐる此の説話が、百濟人の思想でないことは、いふまでもなく、日本人とても百濟と政治上の關係の深かつた時分に於いては、かう單純に考へることはできなかつたらう。だから此の説話は、如何に早くとも、任那府の滅亡してからずつと後、韓地に於ける政治上の關係が薄らいで、百濟についても彼の國から呉財の供給せられることのみ際立つて注意せられる時代になつて、初めて生じ得たものに違ひない。此の物語が古事記には無く書紀にのみ見えるのも、それが原の舊辭(本辭)には載つてゐなかつたことを、語るものである。神代紀の注に引いてある「一書」に「韓國之嶋、是有金銀、」とあるのも、顯宗紀元年の條の「金銀蕃國」、繼體紀六年の條の「海表金銀之國、高麗百濟新羅任那、」も、また同紀二十三年の條の百濟が多沙津の賜與を請うた理由として述べてあることも、みな同じころの史家がもつてゐた同じ思想の發現であり、仁コ紀十七年、允恭紀四十二年、などの新羅の朝貢の記事、繼體紀七年、欽明紀二十三年の伴跛や高句麗に關する珍寶の文字も、また同樣である。更に一歩進んでいふと、垂仁紀の都怒我阿羅斯等に絹を賜はり、それについて新羅加羅の間に事が起つたといふ話も、日本に於いて多くは韓地からの調貢品であつたらしい絹を珍重した思想の反映であり、それを物語の上で逆に利用したものであらう。もつとも、金銀珍寶に對する欲望を戰爭の動機とすることは、古事記にもある神功皇后の新羅物語にも見えてゐるので、それは舊辭の原本にも存在してゐたのであらうが、新羅は本來敵國であつて、此の話は其の敵となる由來を説いたものであるから、政治的に依頼し依頗せられてゐた百濟との關係の起原を説く物語とは、意味が違ふ。從つて新羅征討物語の珍寶の話が比較的早く作られてゐたとしても、百濟の此の話がそれよりも後の製作であることの、妨にはならぬ。
(259) *次に百濟の貢物を新羅が取りかへたといふ話、百濟の使節を新羅人が抑留したといふ物語が、書紀の記載に於いて多くの類例を見る、といふことも既に逃べたとほりであり、それがみな同じ思想から形成せられたことは、いふまでもなからう。たゞ百濟の貢物が不良品であり僅少であつたからそれを責めた、といふことは、後に實例があるので、皇極紀二年の條にそれが見えてゐる。かういふことが材料となつて、あの昔物語が作られたのであらう。(ついでにいふ。孝コ紀元年の條に、百濟に賜はつた任那の國境を觀察したこと、また調貢品について百濟使に「可具題國與所出調」と命じたことが見えるが、仁コ紀四十一年の條に百濟に使を遣して「分國郡??、具録郷土所出、」とあるのは、こゝから出たのではあるまいか。後世の事實から昔の物語を造り出す例のあることは、上にも述べて置いた。)なほこゝに百濟使の來朝について「先王所望國人來朝」とあるのも、前に呉に使したといふ阿知使主の歸朝物語を考へた時に説いたと同樣、他に例の多い著想であるが、これも敏達紀元年の條に見える高句麗の使人の來朝について「悲哉、此使人等名、既奏聞於先考天皇、」云々とある時の事實に由來があるらしい。それから、百濟が日本の鴻恩を感謝したといふのも、雄略紀二十一年及び八年の條に見えるのと同じ思想であり、百濟王の誓詞といふものが作られたのは、神功皇后の新羅物語にある新羅王のと同じ意味からである。
 最後に人名のことを一言して置かう。初めて卓淳に來たといふ百濟人は、久底、彌州流、莫古、の三人としてあるが、莫古は上に説いた如く百濟人らしく、彌州流は繼體紀二十三年の條に見える恩率彌騰利と同じ語であらう。久底は他に所見が無いやうであるが、上記の二つの例から類推すると、百濟人の名として聞こえ得べきものであらう。だから此の三人の名は、百濟の記録の何處かから拾ひ出して來たものかも知れぬ。卓淳王末錦旱岐も、旱の字から見る(260)と、やはり百濟の記録に出所があるらしい。斯摩宿禰に至つては、恐らくは烏有先生の類であらう。地名の沙比新羅もまた無何有郷ではあるまいか。
 以上述べたところを綜合すると、神功紀の此の説話は日本の修史家によつて構想せられたものに過ぎないのであつて、たゞ其の材料として百濟の記録から取られたものがあるらしい、といふことになる。百濟記の潤色せられた部分に例の多い「貴國」といふ語の用ゐてあることも、こゝでは百濟の記録を寫しとりながら日本を指す稱呼を此の二字に書きかへたのではなく、百濟のことを語る場合であるために、さういふ習慣に從つて此の語を用ゐたのであらう。さすれば、百済關係の由來として百濟の記録から出た分子が何であるかといふと、それは肖古王の名と甲子の干支とだけではあるまいか。始めて日本と交通を開いた百濟王が肖古王であつたといふことの、直接の證據は他に見えないけれども、廣開土王碑によると此の高句麗王の治世の初(392 A.D.)には既に倭が百濟を援けてゐたのであり、また晉書安帝紀に義煕九年(413 A.D.)に倭王の貢獻したことが見えてゐて、それは肖古王の世に始まつた百濟と晉との交通に誘はれたのであらうから、その時には既に日本と百濟とが密接な關係を有つてゐたことが推測せられ、從つて日本百濟の交渉はそれよりも幾らか前であつたことがわかる。375 A.D.に歿した肖古王の時と此の二つの事件との間には、少しく年が隔つてはゐるが、百濟本記から出てゐる欽明紀二年の條に「聖明王曰、昔我先祖速古王貴須王之世・安羅加羅卓淳旱岐等、初遣使相通、厚結親好、以爲子弟冀可恆隆、」とあるのも、百濟に於いて任那との關係が肖古王の時から結ばれてゐたといふ記録のあつたためであらうから、此の王の時に日本との交渉が始まつたことは、ほゞ誤が無からう。この百濟本記の文は、例の自國本位の筆法から來る誇張と潤色とが加はつてゐるため、文字どほ(261)りにすべてを信用するわけにはゆかぬが、これだけのことは採つて差支があるまい。なほ古事記に照古王の名の出てゐるのも、百濟の記録に基づいたものか、又は百濟人の所説によつたものかで、あるらしいことを考へるがよい。さすれば、肖古王の治世の中にあつて364 A.D.に當る年と解せられる甲子の干支も、また信用すべきものではなからうか。甲子は干支のはじめを組合せたものであつて、事物の起源を託するには都合がよいから、これは或は後世の造作ではなからうか、といふ疑も起り得るのであるが、肖古王が日本と交通を開いたことが承認せられるならば、そこまで疑はなくてもよいのではあるまいか。書紀の上代の部に於いては、全體が編年的になつてゐて、干支もそこに記されてはゐるが、或る物語の中で過去の事件を示すに斯ういふ書き方をした例が、垂仁紀二十五年の分注を除いては、他に無いやうに見えることも、考へ合はされる。もしさうとすれば、書紀の編者は百濟の記録に肖古王が甲子の年に初めて日本に交渉を開いたといふ記事のあるのを見て、それを基礎として此の一篇の説話を構成したのであらう。しかし、もし甲子の干支が造作に出でたものであるとすれば、それはやはり日本の修史家のしわざであらうから、百濟の記録から取つたのは、肖古王の名だけになるが、さう見ても差支は無い。それから、かの久底等の三人の名も、或は最初の使節として百濟の記録に見えてゐたものかも知れぬ。
 然らば、此の説話は何のために作られたかといふと、それは即ち、神功皇后の新羅征討物語が新羅の日本に對する關係の由來を説き、垂仁紀の都怒我阿羅斯等の説話が任那内附の起源を説くためのものであるのと同樣、百濟服屬の因由を説明するための物語である、と見なければならぬ。記紀の上代の物語は、概ね後世に存在する或る事實の起源を説くためのものであることを、參考するがよい。書紀に於いて其の例を求めるならば、繼體紀二十三年の條の加羅(262)が多沙津のことについて日本を恨んだといふ話が、此の國が日本に背いて新羅に服屬した事實の起源を説いたものであるといふことは、前に既に述べて置いた。さうして其の内容に於いては、日本の朝廷や貴族が百濟との關係に於いて最も重きを置いてゐた珍寶問題を中心とし、それに都怒我阿羅斯等の話と同樣、新羅が我が國に反抗するものであるといふ思想を加へ、また多沙方面の百濟に歸したことをもそれに結びつけて、説いたものと解せられる。
 以上は、神功紀の四十六年から五十二年までにわたつて記されてゐる百濟服屬物語ともいふべき一篇の説話に對する考察であるが、その間におのづから欽明紀以前に於ける對韓關係の記事の全部が吟味せられたことになつた。さうしてそれによつて、それらの記事の何れもが我が國の確かな史料によつたものでない、といふことが知られたのである。
 
(263)     第二 肅慎考
 
 肅慎といふ名の初めて國史に現はれるのは欽明紀五年十二月の條であつて、肅慎人が船に乘つて佐渡に來たといふ話がそこにある。しかし、肅慎について最もよく世に知られてゐるのは、齊明天皇の朝に阿倍比羅夫がそこを討つたといふことであつて、それは、齊明紀四年の條の末に「是歳、越國守阿部引田臣比羅夫討肅慎、獻生羆二、罷皮七十枚、」とあり、五年三月の條の蝦夷征討の記事の原注に「或本云、阿倍引田臣比羅夫與肅慎戰而歸、獻虜四十九人、」と見え、また六年三月の條に「遣阿陪臣、率船師二百艘、伐肅慎國、」とあつて、そこには戰爭に關する一場の物語も記されてゐ、なほ同じ年の五月の條に「是月、……阿倍引田臣獻夷五十餘、……饗肅慎四十七人、」とあることによつて知られる。欽明紀のはしばらく後まはしとして、先づ齊明紀に見える肅慎の住地が何處であるかを考へて見よう。
 齊明紀を讀んで第一に氣が付くのは、上記の五年の條の原注が「遣阿倍臣、率船師一百八十艘、討蝦夷國、」といふ本文に對するものであることであつて、蝦夷征討を「或本」には肅慎の征討と記してあつたことが之によつてわかる。注の「阿倍引田臣比羅夫」は即ち本文の「阿倍臣」に違ひないからである(「阿倍引田臣」が「阿倍臣」であることは上に引いた六年の條の二つの記事によつても明瞭である)。さう考へると、四年の「阿部引田臣比羅夫討肅慎」もまた同年四月の條に「阿陪臣率船師一百八十艘、伐蝦夷、」とある蝦夷征討に外ならぬものであることが類推せられる。肅慎の征討が四年の終に特に「是歳」の二字を冠して掲載せられてゐるのは、その史料となつたものに月の記載が無く、(264)從つて書紀の編者が或る月に繋けてそれを記すことができなかつたからであらうが、事實は四月に行はれた蝦夷征討を指したものであり、こゝでも阿倍引田臣比羅夫は即ち阿陪臣であると見なければなるまい。後に詳説するやうに、此の年の蝦夷征討軍は四月に出發し、其の征討によつて歸服した蝦夷が七月に參朝して敍授をうけてゐるから、此の征討とは別に肅慎の征討が行はれたとすれば、七月以後のことでなくてはならぬが、肅慎がどこであるにせよ、それが四月に出發して征討した蝦夷よりも近いところでない限り、同じ阿部臣が引き續いてさういふ遠征を行ひ得たとは思はれぬ。阿部臣の遠征する目的地は日本海方面でなくてはならぬが、それに對する遠征には時期が限られてゐて、日本海の風波の穩かな、さうしてひどく寒くならない、間に行ふ必要があり、またそれには少くとも二ケ月を要するからである(後文參照)。だから此の年に二度の遠征が行はれたとは考へられぬ。さて、四年と五年との兩年の記事を對照して見ると、書紀編纂の際に阿陪(倍、部)臣の征討に關する二つの史料があつて、一つのには主將を單に阿陪臣と記し、征討の目的を蝦夷としてあり、他の一つのには主將を阿部引田臣比羅夫、征討の目的を肅慎と記してあつたことが知られるので、編者は前の(假に甲と名づける)史料によつて四年四月の記事、五年三月の本文を作り、後の(假に乙と名づける)史料から四年の終の記事と五年の注記とを作つたのである。五年の條の注に「或本云」と記してあるのは即ち之を證するものであり、さうして四年の終の記事の出所も亦た即ち此の「或本」であつたと推斷せられる。(阿陪、阿倍、阿部、といろ/\に書かれてゐることには、後世の筆寫の際に生じた變異もあつて、必しも史料によつて字が違つてゐたとのみは見なし難いやうである。)此の推斷に誤が無いとすれば、肅慎は即ち蝦夷を指したものであるとしなければならぬ。ところが、こゝに疑問が起る。上に引いた六年三月の條の阿陪臣の遠征の記事は、(265)「遣阿陪臣、率船師二百艘、伐肅慎國、」といふ筆致が前二年の蝦夷征討の記事と全く同樣であること、また其の主將を同じく阿陪臣と書き引田とも比羅夫とも記してないことから推して、それと同一史料(即ち上記の甲の史料)から出たものとしなければならず、それと共に、やはり上に引いて置いた此の年の五月の記事は、特に阿倍引田臣の名が出てゐることから考へると、前の征討の記事とは出所を異にしてゐるものであること、またそれは五年の注の所謂「或本」(即ち上記の乙の史料)から取られたものであることが推知せられる。(こゝに「夷五十餘」とある「夷」は五年の注から推して「虜」の誤寫であらうと思はれる。さうして此の虜が肅慎人であることは「肅慎四十七人」が「虜五十餘」に應ずるものであることからわかる。またこゝには引田とのみあつて比羅夫の名が見えないが、これは原史料に於いて、前兩年の記事に姓名を詳記したため、それを省いてあつたのか、書紀の編者が同じ理由でか、又は偶然にか、それを省略もしくは遺脱したものか、何れかであらう。なほかう考へると、乙の史料から出てゐる記事は、三年ともに征討そのことについてではなくして征討の結果としての捕虜もしくは土宜の獻上に關するものであることがわかる。此の史料は多分かういふ方面の記録であつたらうと思はれる。)六年の記事に關する此の考察に誤が無いとすれば、乙の史料では三年にわたる遠征の目的を、前後一貫、肅慎としてあつたけれども、甲の史料に於いては、四年五年の遠征を蝦夷に對するものとしながら、六年に至つて肅慎の名を出し、それを蝦夷と區別してあるのであるから、少くとも甲の史料について考へる場合には、上に述べた如く肅慎は即ち蝦夷であるとはいへなくなり、そこに矛盾が生ずるのである。肅慎の何ものであるかは、これだけ考へても困難な問題であることがわかる。
 さて此の問題を解決するには、前後三年にわたつての阿陪臣の遠征の經過を齊明紀の本文によつて一々しらべて見(266)なければならぬが、其の前に當時の日本海方面に於ける我が國の領土と蝦夷の住地との境界を明かにして置く必要がある。そこで孝コ紀を見ると、大化三年に「造渟足柵」とあり、四年に「治磐舟柵、以備蝦夷、」とあるから、このころの邊境は渟足磐舟附近であつたらしい。越後國の所管として出羽郡が新置せられたのは、それより約六十年後の和銅元年であつて、それは、そのころからさまで遠からぬ前になつて、やつと越後から海岸の陸地つたひに經略の手が奧の方へ伸びはじめたことを示すものである。此の出羽郡は和銅五年に至つて獨立した一國となつたのであるが、其の時、これまで陸奧國に屬してゐた最上置賜二郡が新に出羽國の所管に移されたのを見ると、始めて置かれた出羽郡の範圍は今の羽前の南部の沿海地方に過ぎなかつたことが知られるからである。さすれば齊明天皇の朝には、渟足磐舟附近が日本海岸に於ける我が國の領土の限界であつて、それより奧の方はすべて夷地であり、其の蝦夷は概して化外の民であつたとしなければならぬ。ところが齊明紀を見ると、元年七月の條に「饗北蝦夷九十九人……仍授……津刈蝦夷六人、冠各二階、」とある。ずつと飛び離れた北方の津輕(刈)蝦夷が、此の時既に來朝してゐるのである。今の越後の北邊もしくは羽前の南邊がまだ純然たる夷地である時代に、津輕地方の蝦夷が來朝したといふのは、陸地つづきに漸次經略が進んで行つてそこまで及んだからではなく、何か特殊の事情があつたために違ひなく、またそれは海路の交通によつたものであるとしなければならぬ。其の事情の何であつたかは問題であるが、これだけのことは疑が無からう。さうして、三年の後に着手せられた阿陪臣の遠征が之と何等かの關係を有つてゐなければならぬことは、次に述べるところによつておのづからわかるであらう。
 四年に於ける阿陪臣の遠征に關する書紀の記載は「夏四月、阿陪臣、率船師一百八十艘、伐蝦夷、齶田渟代二郡蝦(267)夷望怖乞降、於是勒軍、陳船於齶田浦、……定渟代津輕二郡軍領、遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸、」といふのである。遠征軍の出發地點は明かでないが、阿陪臣は越の國守であつたから、それは多分今の越後のどこかであつたらう。或は渟足附近かと想像せられる。さうして其の到着地は齶田(秋田)であり、そこで渟代(能代)津輕の部落をも歸服させたのである。渟代や津輕の部落は酋長をこゝまで派遣して服從の意を表したので、郡領を定めたといふのも、酋長にかういふ稱號を與へたまでであることが、此の年の七月の條に見える渟代郡大領沙尼具那、少領宇婆左、津輕郡大領馬武、少領青蒜、などが蝦夷人の名であることによつて明かである。齶田浦から先へ進んだかどうかは明かでないが、これらの處置が齶田浦で行はれたのを見ると、多分こゝで舟をとゞめたのであらう。有間濱といふのも齶田浦の一部と考へられる(有間はアリマの音を寫したのであらう)。さて上記の遠征軍の行動に於いて、それが舟師であること、並に越から直に齶田まで進んだのであつて、其の中間の廣い地域を顧なかつたことは、注意を要する。齊明紀元年の條に見える津刈蝦夷の來朝と此の遠征との間に特殊の關係があらうといふことは、これでもわかる。たゞ、こゝで一應考へて置く必要のあるのは、齶田といひ渟代または津輕といふのはどれだけの範圍のものであるかといふことであるが、奈良朝及びそれより後に於いても、東方の山地にある諸部落は容易に服屬せず、また?反抗を企ててゐたこと、並に當時の蝦夷に多くの部落を統一するほどの大きな組織があつたやうにも見えないことから考へると、これらは何れも、海に沿うたそれ/\の地點に於ける部落を指したものであらうと思はれる。郡領の名を與へられたものが一部落の酋長らしいことも、またそれを示すものである。もつとも此の中で、齶田渟代は今の秋田能代、いひかへると御物川及び能代川の河口附近の部落として容易に理解せられるが、津輕には幾らかの問題があ(268)る。今の能代から海岸づたひに北上すれば船つきとしては鯵澤があるが、それは秋田や能代とは違つて有力な部落の所在地として見るには適しない。さすれば、津輕蝦夷の主力は、やゝ海を離れた東方にある、岩木河の流域を占めてゐた部落であつて、鯵澤方面の海岸にゐるものもそれに含まれてゐた、と見る外はなからう。齶田や浮代とやゝ?態を異にするのは、特殊の地勢のためである。しかし、あれだけの大きい岩木河流域の平野の住民が一つの部落に形づくられてゐたとは考へ難いやうであるから、此の年に服屬したもの、從つてまた元年に來朝したものも、其の一部分であつたのではあるまいか(なほ下文參照)。さて三つの部落の位置と?態とをかう考へて置いて、次に問題になるのが渡島である。
 渡島は其のことばから見ると、齶田、渟代、津輕、のやうな、本來の固有名詞ではないやうに感ぜられる。さうして上に引いた本文の筆致から考へると、これらの諸部落の總稱として解しなければならぬやうである。諸部落の酋長に郡領などの官名を授けた後、彼等及び其の部下の蝦夷を招宴したのが有間濱の大饗であり、それによつて此の年の遠征を終つたとすれば、極めて自然である。「大饗して歸る」とあるのを見るがよい。もしこれらの諸部落の外に別に渡島蝦夷といふものがあつて、それを大饗したといふのならば、何故にこれらの諸部落を招宴から除いたかがわからず、また大饗するほどの渡島蝦夷の取扱を何故にこれらの諸部落と區別し、彼等の酋長に官名を授けなかつたかがわからぬ(翌五年の條に飽田、渟代、津輕、膽振?、の蝦夷を大饗した、とあることを參考するがよい)。もし斯う解することが許されるならば、それは陸路によつて交通往復することができず海を渡つて行くところといふ意味で、便宜上、日本人によつて呼びなされた名稱ではあるまいか。島といふ文字があててはあるが、「シマ」といふ邦語が必し(269)も海水の圍繞してゐる土地をさすに限らないことは、神代紀の「越のしま」、また萬葉卷三の「倭しま」の例からも知られよう。さうして此の解釋は、元正紀養老四年正月の條にある「渡島津輕津司」といふ官職名によつて證明せれらる。これは「渡島の津輕の津の司」といふ意義に解する外はないから、渡島は津輕を含んだ廣い地方の稱呼として用ゐられてゐたはずである。養老のころは既に出羽國が置かれた後であるけれども、其の區域は越後に接近した地方に限られてゐ、それと渡島方面とは中間に廣い夷地があつて、まだ陸路の連絡ができず、從つて「津」が特に重要であつたため、そこに官吏を駐在させたので、それはおのづから渡島諸部落の監督官となつてゐたであらう。渡島諸部落は、名義上、郡とせられてゐても、日本の官憲によつて直接に統治せられるのではないから、彼等の上に立つ監督官が無くてはならぬからである。(津輕津司が渡島諸部落の全體を統轄したのか、又はかういふ津司が津輕のみでなく渟代にも齶田にも置かれ、それ/\の津にゐてそれ/\の部落を監督してゐたのか、不明である。もし前者であつたとすれば、其の駐在地即ち津輕の津は齶田であつたかも知れぬ。内地との交通の要津であり、内地と連絡を取るに便宜な場所としては、内地に最も近い地點が選ばれたらう、と思はれるからである。たゞかう見る場合には、津輕の名は齶田渟代をも含めた意義に用ゐられたとしなければならぬが、このことについては下文を參照せられたい。)かう考へると、渡島は養老の時分でも文字通りの意義を有つてゐたことが知られる。なほ扶桑略記、養老二年八月の條に「出羽并渡島蝦夷八十七人來貢馬千疋」とあり、渡島と出羽とを列記したのも、此の意味に於いてであつて、内屬してゐる日本海岸の蝦夷、即ち所謂蝦狄、の住地は、越後から陸地つゞきになつてゐる出羽と、それとは離れて海路遙に交通し得る渡島との二地方であつたのである。(渡島の名は後世にはその意義が變つた。このことは下文に述べよ(270)う。)
 阿陪臣の四年の遠征は齶田、渟代、及び上記の意義での津輕の三部落の綏撫を遂げたものであつたとして、翌五年はどの方面の蝦夷をめざしたのであらうか。書紀の本文には「三月、……是月、遣阿倍臣、率船師一百八十艘、討蝦夷國、阿倍臣簡集飽田渟代二郡蝦夷二百四十一人、其虜三十一人、津輕郡蝦夷一百十二人、其虜四人、膽振?蝦夷二十人於一所、而大饗賜禄、即以船一隻與五色綵帛、祭彼地神、至肉入籠、時間菟蝦夷膽鹿嶋菟穗名二人進曰、可以後方羊蹄爲政所焉、隨膽鹿島等語、遂置郡領而歸、*」とある。膽振?、肉入籠、問菟、後方羊蹄、の名が出てゐるが、其の所在を知るたよりが無い。たゞそれが前年に服從した飽(齶)田、渟代、津輕、と同一方面であることは本文によつて疑が無く、また膽振?の蝦夷が上記の三部落と同樣に取扱はれてゐるのを見ると、それらは隣接した部落であることがわかり、從つて肉入籠以下もやはりそれと遠からぬところであらうと思はれる。「遂置郡領而歸」とあるのは、前年の渟代や津輕に對する處置ほどに書き方がはつきりしてゐないが、部落を羈縻する方法が一とほり立てられ、其の酋長に何等かの權威の表號を與へたではあらうから、此の點から見ても、それが渟代津輕などと甚しく懸け離れてゐる土地でないことは知られよう。さすれば、今年の遠征は前年のよりも更に一歩奧へ手を伸ばしたものであつて、それを地理の上でいふと、多分、岩木河の流域の、廣い意義での、津輕部落で前年にまだ服屬しなかつたものの住地であつたらう。政所を置いたといふ後方羊蹄はアイヌ語のshiri-pet即ち大河の義で、岩木河から來た名稱ではあるまいか(但し余はアイヌ語の知識を有たないから、これは全く門外漢の臆測にすぎぬ)。前年には津輕の或る部落まで綏撫したけれども、その處置は齶田浦でのことであり、彼等の本土に臨まなかつた上に、同じ方面の幾多の津輕部(271)落にはまだ服屬しなかつたものがあつたから、今年はそこまで進んで彼等を威服したのだとすれば、此の間の事情はよく領解せられるやうである。膽振?などの名は廣義の津輕の一部であらうが、前年に服屬した部落を特に津輕の名で呼んでゐたため、それと列べてこの名を擧げたものと解せられる(此の年に綏撫した部落が津輕地方であることについては、後にいふ「伊吉博コ書」に關する考説、參照)。なほこゝには一々の部落の名は擧げてあるが、渡島といふ總稱は見えぬ。前年に服從した諸部落と區別して新しく經略したものを擧げることが必要であり、渡島の通稱はこゝでは用が無いから、これは當然である。しかし、渡島の意義が果して上記の如きものであつたならば、それは自然に此の年新附した諸部落をも含めて呼ばれるやうになつたであらう。五年の記事からはこれだけのことしかいはれないが、翌六年に行はれた第三回の遠征によつて、この臆測は確められさうである。それには「三月、遣阿陪臣、率船師二百艘、伐肅慎國、阿陪臣以陸奧蝦夷、令乘己船、到大河側、於是、渡島蝦夷一千餘、屯聚海畔、向河而營、營中二人進而急叫曰、肅慎船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣、阿倍臣遣船喚至兩箇蝦夷、問賊隱所與其船數、兩箇蝦夷、便指隱所曰、船二十餘艘、即遣使喚、而不肯來、阿倍臣乃積綵帛兵鐡等於海畔、而令貪嗜、肅慎乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗、齊棹近來、停於淺處、從一船裏出二老翁、廻行熟視所積綵帛等物、便換著單衫、各提布一端、乘船還去、俄而老翁更來、脱置換衫、并置提布、乘船而退、阿倍臣遣數船便喚、不肯來、復於弊賂弁島、食頃乞和、遂不肯聽、據己柵戰、于時能登臣馬身龍爲敵被殺、猶戰未倦之間、賊被殺己妻子、」と見える。さて甲の史料では、こゝに始めて肅慎の名が出てゐることは、既に前に述べたところである。
 六年の遠征に於ける肅慎が何處であるかを考へるに當つて、先づ注意すべきは、渡島蝦夷が此の戰に於いて重要な(272)る地位を占めてゐることである。さうして四年から連續して行はれてゐる此の役には、其の年に服屬したものは勿論、五年に新に服從した諸部落もまた關與したに違ひないから、こゝの渡島蝦夷はそれらのすべてを包含してゐるのであらう。此の場合には既に服從してゐる諸部落を一括して取扱つてゐるのであるから、それに渡島の總稱を用ゐたことは當然である。(本文によれば、此の年には渡島は既に服屬してゐるのであるから、それが前年までに綏撫せられたものであることは明かである。なほ本文に「陸奧蝦夷」とあるのは「渡島蝦夷」の誤ではなからうか。)さすれば、肅慎が越から見て渡島の方面に當つてゐることは、疑がない。さうして肅慎の行動について「據己柵」といつてあるのによると、此の記事に現はれてゐる戰地は肅慎の本土に接してゐたとしなければなるまい。かう考へて、更に過去三年間の出征時期を見ると、四年は四月、五年と六年とは三月である。日の干支が書いてないから詳細はわからぬが、ほゞ同時期である。これは三年とも同一方面に向ひ同一航路をとつて進軍したためであつて、それが三四月の交になつてゐるのは、氣候が暖くなつて軍の活動ができるやうになり、風波が靜まつて日本海の航行に都合のよくなつた時期であるからであらう。さすれば五年六年の三月は、それを四年の四月に對照して考へると、或は四月に近い下旬であつたかとさへ臆測せられる。さて四年には、四月に出征して、其の時歸服した蝦夷が七月甲申(四日に當る)には京に來てゐる(此の日附は「詣闕朝獻」についてであるから、六月中には着京してゐたに違ひない)。六年には、三月に出征して、其の時伴ひ歸つたと思はれる肅慎人が五月に京についてゐる。出征から凱旋までの時間がほゞ同じであるのを見ると、肅慎が齶田、渟代、津輕、などと甚しく隔つてゐない土地であることが之によつて推知せられよう。(五年には凱旋の時期を知るべき記事が無いが、前後兩年のと大差は無からうと思はれる。また出征時期の記載に於(273)いて、五年と六年とには阿倍臣について「遣」の一字が添へてあり、四年にはそれが無いのを見ると、三月にかけてある後の兩年は京から、四月となつてゐる前の一年は任地から、出發したことをいふのかとも思はれるが、さう嚴格な筆法を用ゐてあるとは斷じ難い。むしろ四年の記事には「遣」の字が脱ちてゐると見なすべきであらう。)以上の諸點を綜合して考へると、肅慎と渡島蝦夷の住地とは接近してゐたものと推測せられる。さうして、それを五年の征討の記事に對照して見ると、六年の記事に現はれてゐる肅慎は岩木河の流域よりも更に奧の方の部落であつて、實際の地理にあてはめていふと、十三濱の東方及び北方にゐたもので今の青森の方面までもつゞいてゐたらしい。さうしてそれに對する戰爭は、十三潟に注ぐ岩木河の河口附近で行はれたものと推測せられる。文中「大河」とあるのは河口附近の岩木河で、「海畔」は十三瀉の沿岸であらう。弊賂弁島といふのはわからぬが、岩木河のデルタの一つでもあらうか。全體に此の記事に見える説話は、狹いところに於ける小さい光景をいつたのであつて、決して廣い海や大きな島で行はれたことでないことを考へねばならぬ。阿倍臣の舟師は海路十三瀉へ入つたものらしい。かう考へると、四年から六年にかけて一歩一歩前進した形勢がほゞ覗はれるので、五年の征服地域に對する上記の推測の誤でなかつたことも、また之によつて知られるやうである。六年の遠征の目的地が、それに要した時日の上から、四年に服屬した部落の所在地と甚しく懸隔してゐないとすれば、單に此の點からでも、肅慎よりは近かるべき五年の征服地が津輕方面であつたことは推定せられねばならぬ。さうして渡島蝦夷が五年までに服屬したものである以上、其の土地がやはり津輕地方とそれよりてまへの方とを含んでゐることも、また明かである。
 以上は甲の史料から出たと推定せらるべき記事によつての考察であるが、これで見ると、前後三年にわたつての阿(274)倍臣の遠征は越國を本據としての經略ではあるが、中間に廣い夷地を隔てて陸路の連絡がなく、海上よりのみ往復し得る飛び離れた北方の蝦夷、即ち齶田以北、今の岩木河の流域を中心とする諸部落、に對するものであつて、其の最北に住し最後に征討した部落を肅慎の名で呼んだものである。此の肅慎が如何に處置せられたかは不明であるが、前二年に綏撫した諸部落とは違ひ、郡領を定めたといふやうな記事も無いから、多分其のすべてが完全に服屬の意を表するまでに至らなかつたのであらう。京に伴はれて歸つた肅慎人は捕虜の意味であつたのではあるまいか。後の天武紀五年の條に肅慎人七人が來朝したことが見え、持統紀八年には肅慎二人に位を授け、十年には一人に錦袍などを賜はつた記事があるが、其の人數も少く、また其の後は全く肅慎の文字が史上に消え失せてゐるから、ずつと後まで種々の交渉のあつた渡島蝦夷とは、遙に事情を異にしてゐる。持統紀十年の條に肅慎と度(渡)島蝦夷とを列記し、肅慎を度島の外に置いてあるのも此の故であつて、渡島は服屬した蝦夷の總稀として用ゐられ、肅慎は概して化外の民と見られてゐたのであらう。地理からいへば、肅慎も渡島に含まるべきものであるが、政治的關係から區別して稱へられたと考へられる。(天武紀には「肅慎七人從清平等至之」とあつて、新羅の使の金清平に從つて來たやうに書いてあるが、十一月丁卯に繋けて新羅使の筑紫に遣されて來たことを記し、更に「是月」として此の記事が出てゐるのは、清平の來朝を記してあつた史料には肅慎人のことが見えなかつたことを示すものであり、また翌年の清平の上京及び歸國の記事にも肅慎人がそれに伴つてゐたやうなことは見えないから、これは事實とは認められぬ。この記事は、肅慎が遠夷であるといふ考から、偶同時の記録に見えた新羅使の來朝にそれを結びつけて作つたものに違ひない。)さてこれは甲の史料に見える肅慎のことであるが、既に述べた如く、乙の史料から出たと認むべき記事には、四年と(275)五年との遠征をも肅慎に對して行はれたものとしてある。この矛盾はどう解釋すべきものであらうか。二つの史料の何れかに誤謬があるのであらうか、但しは兩方ともに眞實の記載であるとしてそれを調和させることができるであらうか。
 そこで再び立ちもどつて、日本海方面の蝦夷の?態を考へて見るに、齊明紀五年の條の原注に引用してある「伊吉連博コ書」に、遣唐使が唐の皇帝に對して蝦夷に三種あることを説き「遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷、今此熱蝦夷、毎歳入貢本國之朝、」といつたとある(「次者」の下に「名」の字が脱ちてゐるらしい)。蝦夷を熟麁に分けることは、我が國に於いては前後に曾て例の無い話であるから、これは使人の一時の思ひつきに過ぎなからう。陸奧や越の管内にゐる蝦夷、邊境に接近して半ば内屬してゐるもの、遠方の部族で全く服屬してゐないもの、などの區別は實際に存在したであらうが、熟麁といふやうな稱呼を蝦夷につけることも、さういふ分け方も、國史の上には他に一度も現はれたことが無い。熟蝦夷が毎歳入貢するといふのも、シナ人の夷狄觀を借用したまでであつて、事實を有のまゝに語つたとは見なせないことを、參考するがよい。(夷族を生熟に分けることは後世のシナ人の慣例であるが、それが何時から始まつたことであるかは明かでない。しかし、續紀天平十一年十一月の條の平群廣成の歸朝の記事に熟崑崙といふ名が見えるから、唐代に既にこの稱呼の用ゐられたことが推測せられる。さすれば、これもまたシナ人の用語例によつて、それを蝦夷に適用したものである。もつとも麁と熟とを對稱することは邦人の習慣であるから、それから思ひついたと考へられなくもないが、それは何れにしても、事貫さういふ稱呼や區分が蝦夷に對して行はれてゐなかつたことは、明かである。)ところが、蝦夷を熟麁に分ける以上、其の外に別の蝦夷があるといふの(276)は奇怪であつて、都加留は此の二つの何れかに編入すべきものである。然るに別に此の一類を立てたのは、使人の知識に於いて都加留が一種特殊の蝦夷とせられてゐたからであらう。さうして五年の七月三日に難波津を出帆したといふ此の倭人が、前年に於ける阿陪臣の征討は勿論、また上に記した四年と六年との凱旋の時期から類推すれば、多分其の年の遠征の結果をも知つてゐたはずであることを思ふと、「遠者」としてある此の都加留は即ち津輕であることが知られる。(此の使人が五年の遠征の結果を知つてゐたとすれば、此の年に綏撫した蝦夷を津輕の名に包含させることは、其の地域が上記の如く岩木河流域であつたことを示すものである。上に述べた如く津輕の名のさすところにはいくらかの混亂があるらしが、此の年の征服地が津輕の一部と見なすべきもの、少くとも四年に服屬した津輕部落と接續した土地であることは、之によつて知られる。さうして此のことは四年に服屬した津輕が岩木河流域の蝦夷の一部分であつたことをも證する。一部分であつたからこそ、五年にはそれに接續した地域の諸部落を新に綏撫したのである。)しかし使人のいふ都加留は單に四年五年に服屬した津輕地方の諸部落そのもののみではなく、齶田以北の諸部落を之によつて代表させたものであらう。既に述べたやうな日本海方面の蝦夷經略の形勢と阿陪臣の遠征軍の行動とから見れば、此の方面の蝦夷の諸部落が特別な一團として大和の官人の眼に映じてゐたことは當然であり、彼等は、此の一團を其の主要なる部落名によつて、便宜上、津輕とも總稱し、また交通路の?態から渡島とも呼んだのである。さうしてそれを津輕と呼んだのは、阿陪臣の遠征が津刈(輕)蝦夷によつて誘導せられたらしいこと、四年の綏撫で滿足せず、五年に更に津輕の本地に臨んで其の諸部落を服屬させたこと、並に、六年の遠征も、地理上から考へると、淨輕諸部落の統御もしくは保護に關する特殊の意味があつたらうと思はれること、から推測すれば、此の名によつて(277)知られた諸部落が、少くとも日本に對する關係に於いて、此の方面の中心勢力であつたためであらう。渟代齶田の部落は、多分何等かの意味に於いてそれと親密な關係を有するものであつたので、阿陪臣がまづ齶田まで進んだのは、畢竟津輕綏撫の準備行動もしくは第一着手であつたらしい。(上に説いた如く「渡島津輕津」の津輕が齶田地方をも含めていつた名稱として考へ得られるといふ理由も、これによつて解釋ができよう。此の場合の津輕は渡島と同意義なのである。)しかし、シナの知識を崇拜してゐた當時の官人にとつては、津輕とか渡島とかいふよりも、もつとシナめかしい名稱がほしかつた。乙の史料に見える「肅慎」はかういふ意味からつけられた雅名であつて、そのさすところは即ち渡島、もしくはそれと同意義での津輕に、外ならぬのであらう。
 こゝで少しくわき途へ入つて、シナの史籍に見える肅慎のことを考へて置かねばならぬ。肅慎(息慎、稷慎)といふ民族の名は、戰國末からはシナ人の知識に存在してゐたらしく、史記の周本紀に成王が東夷を伐つた時に來り賀したとあるのは、先秦時代から傳はつてゐたらしい書序によつたものと思はれる。それから、孔子世家び國語の魯語には、武王の時に肅慎が?矢石?を貢したといふ話が、孔子の言として載せてあるが、これも或は戰國時代に書かれた材料によつたものかも知れぬ。また、五帝本紀の舜の條、大戴禮記の五帝コ篇及び少間篇、逸周書の王會解、漢書武帝本紀の元光元年の詔勅、などにも、舜、湯、の時もしくは周初、に肅慎の來服したことが記されてゐるが、これらは何れも秦以後の知識として見なければならぬものである。さて、以上の諸書の記載に於いては、肅慎は東方もしくは北方の夷狄となつてゐるが、司馬相如の子虚賦や上林賦には、それを齊から海を越えて通ずる方面としてあり、左傳昭公九年の條には燕毫(貊)と連記してあつて、やはりそれと一致する。齊と燕とから交通し得べきところは、遼東(278)地方乃至今の朝鮮の西北部でなくてはならず、貊も其の方面の夷狄の名であるが、此の地域がシナ人の勢力範圍に入つたのは戰國の末期である。肅慎の名のシナ人の耳に入つたのが此のころからであることは、之によつても推測せられる。しかし、肅慎はどこまでも夷狄として、化外の民として、知られたのであるから、それは上記の地域よりも更に遠いところ、即ちシナ人の知識に於ける東北方の極にあるものと考へられたに違ひない。けれども、一方に於いては、淮南子墜形訓に肅慎を西北方乃至西南方の夷のうちに數へてある(山海經の海外西經もそれを繼承してゐる)ほどであるから、極遠の夷狄の名としては知られながら、地理的位置が忘れられてもゐたらしく、さうして此のことは、肅慎に關する諸書の記載が何れも遠い上代の説話としてであつて、當時の事實を記したものには此の名が一度も現はれてゐないことと共に、少くとも漢代に於いては、肅慎の名が單に説話上の稱呼に過ぎなかつたことを示すものである。其の説話に於いて、肅慎は古の聖王の世に來服したことになつてゐるが、聖天子が中國に出ると四夷が其のコを慕つて來朝する、といふのがシナ人の政治思想の一つであつて、其の夷狄に遠方のものがあればあるほど天子のコが高い、といふことになるのであるから、肅慎は、其の最も遠いものの例として考へられてゐたらしい。此のうちでも、書序に見える周の成王の朝のこととした話が最も古いもの、從つてまた斯ういふ意味で肅慎の名の用ゐられた最初のものであり、後になつてそれを武王や舜の場合に適用し、更に其の後、湯の時のこととしても語られるやうになつたのであらう。これは、五帝本紀などに見える種々の説話の作られた時代からも、類推し得られることである。さて、肅慎が説話上の名としてのみ知られてゐたのは、漢代を通じてのことであつて、魏代にもそれが繼續せられた。魏代の?婁(今の吉林省の東部、瑚爾喀河の上流域、にゐた部族)が説話上の肅慎の如く?矢石?を用ゐてゐたのと、(279)其の土地がほゞ同じ肅慎の位置に適合するのとから、魏志?婁傳には、それを「古之肅慎氏之國名」といつてあるが、肅慎はどこまでも古の名として考へられてゐたのである。
 ところが、茲に不思議なのは、魏志の明帝本紀青龍四年の條に「肅慎氏獻?矢」とあり、陳留王紀景元三年の條に「遼東郡言、肅慎國遣使重譯入貢、獻其國弓三十張、長三尺五寸、?矢長一尺八寸、石?三百枚、皮骨鐵雜鎧二十領、貂皮四百枚、」とあることである。魏の陳留王の代は、もはや司馬昭(晋文帝)が實權を握つてゐた時であるが、晉書文帝紀を見ると、同じ景元三年に繋けて「肅慎來獻?矢石?弓甲貂皮等、天子命歸於大將軍府、」とある。これで見ると、當時肅慎の名を有するものが現に存在したやうであるから、そこに疑問が生ずる。それは?婁を指してゐるものとは推測せられるが、?婁とせずして肅慎としてあるところに問題があるのである。が、晉書東夷傳に「武王時、獻其?矢石?、逮于周公輔成王、復遣使入賀、爾後千餘年、雖秦漢之盛、莫之致也、及文帝作相、魏景元末、來貢?矢石?弓貂皮之屬、魏帝詔歸于相府、」とあるのを見ると、此の疑問は容易に解釋せられるので、それは司馬昭のコと地位とが周公と符節を合はすが如きものであり、此の貢獻が司馬昭のコの致すところであるといふことを示すために、書かれたものであるに違ひない。「天子命歸於大將軍府」と記し、「魏帝詔歸于相府」と書いてあるのは、史記の周本紀の「晉唐叔得嘉穀、獻之成王、成王以歸周公于兵所、」から來てゐることが、明かである。さうしてこれは、漢書平帝紀元始元年の條の「越裳氏重譯獻白雉一黒雉二、詔使三公以薦宗廟、群臣奏言、大司馬王莽功コ比周公、」といふ記事と之に應ずる王莽傳の記載とが、尚書大傳(及び韓詩外傳)の「周公居攝六年、制禮作樂、天下和平、越裳以三象重九譯而獻白雉、」によつて構造したものであると同じであり、多分それを學んだものであらう。晉書にはまた武帝紀咸寧(280)五年の條に「肅慎來獻?矢石?」とあり、元帝紀大興二年の條にも同じ記事が見えるが、武帝(司馬炎)の時にそれが來獻したとあるのは、炎が周の武王と其のコをrしうしたからだといふのであらうし、中興の元帝もまた恐らくは其のコが武帝に比すべきものであつたとせられたのであらう。果してさうとすれば、それは?婁としてではなくして、必ず肅慎氏の名に於いてしたのでなくてはならぬ。其の貢獻品は、肅慎のものであるとして古典に記されてゐる?矢石?でなくてはならず、?矢と共に別に石?があれば一層よいのである。また?矢の長さは、孔子世家に「尺有咫」とある如く、必ず一尺八寸でなくてはならぬ。さうしてまたそれは、聖王を俟つて始めて至る極遠の民族であるから、必ず重譯を經て來なくてはならぬのである。上に引いた陳留王紀や文帝紀の記事は、かう考へるとおのづから解釋せられるではないか。たゞ問題は、かういふ記事の根柢に?婁の朝貢した何等かの事實があるのではないか、といふことであるが、魏志の?婁傳に此のことが見えないことからも、また遼東郡を經由することが當時の郡の配麿から見て無理であることからも、それを肯定することは困難である。けれども邊境の官吏が、爲にするところあつて、肅慎朝貢の名と形とに於いて?矢などを獻じたことは、あるかも知れぬ。如何なるものか知り難いが、皮骨鐵雜鎧といふやうな名が朝貢品中にあるのも、さういふ官吏の行爲から出たとすれば解し易いやうである。但し、青龍四年の朝貢については、そのころ司馬氏がまだ勢力を得てゐなかつたことから考へると、上記の解釋は適用せられないが、此の時は玄菟遼東が公孫淵の獨立的勢力の下にあつた時代であり、從つて?婁朝貢の事實があつたとは思はれぬから、これは晉人が釋來歸の事例を示すために捏造したことらしい。?婁といはずして肅慎氏といふ説話上の稱呼を取り、さうしてそれを現在の名として用ゐることが、?婁傳の記載と矛盾してゐるのでも、此の記事が?婁傳の材料となつた(281)魏の記録とは異なつた態度で書かれたものであることが知られる。それから、武帝の時には或は?婁の朝貢を誘致したことがあるかも知れぬが,晉室南渡後の元帝の時のは、實は遼東にゐた平州刺史崔の獻上であることが、山海經の大荒北經にある肅慎國の條の注記によつて知られるやうである。要するに、肅慎の名と其の朝貢の形式とが、晉人には必要であつたので、それがために種々の欺瞞が行はれたのである。晉書東夷傳に肅慎氏の一條を設けてあるのも其の由來は晉人の記録にあり、晉人が?婁よりも肅慎の名を用ゐることを好んだことを示すものである。なほ、?中記から出てゐるらしい晉書東夷傳の記事及び同書の載記には、石勒及び石季龍の時にも肅慎が?矢石?を獻じたとせられ、宋書武帝本紀にも此の帝の時のこととして同じやうな記事があつて、何れも上記の思想の繼承せられたものであり、其の他、晉書東夷傳や山海經の海外西經に見える肅慎の説話にも、同じ思想から展開せられた物語がある。それらについても考ふべきことはあるが、こゝには一々述べない。要するに、肅慎の名が晉に至つて復活したやうに見えるのは、?婁が?矢石?を用ゐてゐるといふ新しい知識を利用し、それによつて遠夷が慕化來歸したといふ古聖王の世が再現した如く宣傳したためであるので、實際の民族名としての肅慎は當時にも其の後にも存在しないものである。
 かう考へて來ると、シナの東北方に當る極遠の夷族であつて、古の聖代に服屬朝貢したといふ説話のある肅慎の名は、やはり東北のはてであり、邊境の蝦夷とは地理的に隔離してゐる極遠の夷族であり、さうして新に服屬したものである、渡島の部落を呼ぶに當つて假借擬用するには、最も適切なものであつた。特に津刈(輕)蝦夷は、齊明紀元年の條に見える如く、阿陪臣の遠征を待たずして早く既に朝貢内屬したものとして、慕化懷コの思想を附會するに極(282)めて都合のよいものであつた。シナの制度を學んで我が國の政治組織を一變した大化改新の事業が、なほ進行の途中にあつた時代のことではないか。孝コ紀白雉元年の條に見えるやうに、休祥の思想によつて白雉の元號が定められ、越裳氏朝貢の説話がもてはやされたのも、僅か八九年前のことである(上文、並に王莽の故事、參照)。遣唐使に蝦夷を伴はせて夷狄服屬の實?を異朝の皇帝に誇示しようとしたのも、シナ思想に於ける中國を以て自ら任じたものであることは、いふまでもない。書紀にはところ/”\に蝦夷隼人來朝といふ架空の記事があつて、現に齊明紀元年の條にさへそれが見えるが、これは書紀の編者の造作したことながら、やはり同じ思想から出てゐる。肅慎のさすところがどこであるにせよ、かういふ名をシナの典籍の中から索め出して來たとすれば、それには此の名に伴ふ外夷内屬の思想が伴つてゐたはずである。が、それは最もよく阿陪臣の征討した蝦夷の部落にあてはまるものである。四年の條に見えるやうに、これらの諸部落の酋長に官名を與へ位階を授けたのも、またシナ歴代の政府が夷狄を羈縻するために行つて來た慣例を學んだのであらう。さすれば、甲の史料に見える蝦夷が乙の史料に肅慎と記されてゐるのも、不思議ではないので、それは、一は實際の稱呼により、他は特殊の意義を有する雅名を用ゐたからのことである。わざわざ書物の中から探し出して來た肅慎といふ特殊の名をあてたのは、蝦夷とは違つた民族であつたためのやうに考へられるかも知れぬが、書紀の記載については單に文字や名稱の上から考が立てがたい。景行紀に蝦夷の他に別に夷を假構してあるやうな例もあるから、肅慎の名によつて其の民族の何であるかを臆測することはできなからう。
 しかし間題はなほ殘つてゐる。それは、六年の遠征を記すに當り、甲の史料が肅慎の名を以て其の相手を呼んだことである。肅慎が渡島の蝦夷に對する雅名であるならば、彼等と共に征討した敵の部落を肅慎と呼ぶのは奇怪だから(283)である。が、これは必しも解釋の出來ぬことではない。肅慎は本來、極遠の部族を稱する雅名であつて、實際の稱呼ではないから、筆者により場合によつて、其の適用の範圍を異にすることも起り得るのである。甲の史料の書かれたのが何時であるかはわからぬが、書紀の筆致から見ると、遠征の行はれてから幾らかの時日を經過した後になつて、總括的な敍述をしたものであるらしく推測せられる。一々についていふと、四年の記事に於いて郡領を定めない前のこととして既に齶]田渟代を郡と記してあること、距離の遠く隔つてゐる此の二部落について「望怖乞降」といふやうな記事のあること、齶]田蝦夷恩荷に位を授けたのが齶]田浦での處置としては慣例に背いてゐるから、これは後に行はれた朝廷の敍授であらうと思はれること、六年の記事で陸奧蝦夷とあるのが記憶もしくは傳聞の誤から出たものらしいこと(上文參照)、説話的な二人の老翁の行動のみが際立つて精細に寫され、戰役の經過が却つて曖昧であること、また全體からいふと、三年ともに同一の筆法を以て書き起してあることなどは、此の記事のもとになつた史料が其の時々の記録ではなかつたことを、暗示するやうである。同じ部落の名を齶]田とも飽田とも書いてあるのも、種々の記録を綜合したからのことであらうと思はれる。なほ四年と五年とには遠征に用ゐられた船の數を百八十としてあるが、これは神功紀のはじめ、仁コ紀十七年、允恭紀四十二年、などの諸條に八十艘といふ數が見えるのと同じく、多數をいふ語が實數として取扱はれたものであり、百八十の數は、推古紀二十八年の條や孝コ紀の卷首などに部の數を百八十としてあるのと同じである。(神代紀の上の終の「一書」に百八十一神といふ數があるが、これは古事記の允恭の卷に八十一艘とあるのと同じであつて、百八十もしくは八十に一の數を加へたものである。)また六年の條の二百艘は百八十艘に少しく變化を與へたまでである。なほ四年の條の齶]田蝦夷恩荷の誓詞といふものは、敏達紀十年の條の(284)蝦夷魁帥綾糟の誓詞と同じ着想から作られた話であつて、此のことばは書紀編纂のころに於ける誓詞の形式によつたものであらう。だから、これらの記事には書紀の編者によつて潤色せられた部分もあらう。けれども其のもととなつた材料はあつたはずであり、さうしてそれは乙の史料とは違つたものであつたとしなければならぬ。このことは、この考のはじめに述べた書紀の記載の分析によつておのづから知られる。もしさうとすれば、此の史料の筆者は、四年と五年との綏撫によつて完全に服屬してゐる諸部落と、最後の六年に征討しながらなほ眞に服屬させるに至らなかつた最北の部落とを、區別し、前者をば渡島蝦夷の通稱を以て呼び、肅慎の名を後者にのみ負はせたのであらう。肅慎の名には極遠の民といふ觀念が伴つてゐるから、かういふ考の起るのも自然の心理である。天武紀と持統紀との肅慎は即ち此の用語例に從つたものである。だから、これは肅慎の名を適用した範圍が狹められ、從つて其の意義にも幾分の變化を生じたものと認められる。乙の史料の方が却つて原義によつてゐるので、これは多分當時の政府の記録から出たものであつたらう。貢獻のことが記され、阿陪臣の姓名が完備してゐるのも、かう推測せられる一理由である。(上にも一言した續紀養老四年正月の條に見える「渡島津輕津司」は其の風俗を觀察する命を帶びて靺鞨國に遣されたとあるが、此の靺鞨も狹い意味での肅慎の觀念を繼承しつゝ、古の肅慎は今の靺鞨であるといふ唐人から得た知識によつて、それを靺鞨と改めたのであらう。大和の朝廷は此の肅慎を化外の民としつゝもなほ齊明朝以來の歴史的因縁を全く斷絶しかねて、其の向背を顧慮し、かういふ企てをしたのであらう。しかし其の效果は無かつたらしく、これから後、肅慎は全く離れてしまつた。なほ此の靺鞨が今の滿洲地方の實在の靺鞨でないことは、津輕津司を遣したのでも明白である。)
(285) 名稱の適用せられる地域が變化したことについては、渡島にも其の例がある。渡島の名は後までも史上に現はれ、續紀の寶龜十一年五月の條に「勅出羽國曰、渡島蝦狄、早効丹心、來朝貢獻、爲日稍久、方今歸俘作逆、侵擾邊民、宜將軍國司賜饗之曰存意慰諭焉、」とあるが、和銅五年の出羽國設置以來、此の方面の經略が漸次進んで、天平五年には出羽柵が秋田に遷されるほどになり、それより後は秋田が出羽國の重鎭となつたのであるから、こゝにいふ渡島が秋田附近を含まないやうになつてゐることは、いふまでもない。秋田方面との交通は陸路からすることになつたので、阿陪臣の時にそこを渡島と呼んだ意味は全く無くなつたのである。しかし古くからいひつゞけられた此の名稱は消え失せてはしまはないので、それは自然に出羽邊外の蝦夷の部落をさすことになり、其の範圍が奧の方に狹められたのであらう。其の範圍は明瞭ではないが、寶龜二年六月の條に「出羽國賊地野代湊」と書いてあるのを見ると、野代(能代)、從つて能代川の流域は出羽國の邊境であつたらしいから、渡島はそれよりも北方、即ち津輕方面の諸部落をさしたものであらう。津輕の名がこのころになつて少しも史上に現はれないことも、また之を暗示するもののやうである。上記の詔勅は、管内の蝦夷が動搖してゐる時、特に注意して渡島蝦夷が離叛しないやうにそれを懷柔せよ、といふのであるから、それは邊境に接近して少からざる勢力を有つてゐたものであることがわかるが、此の推測はよくそれに適合する。ところが、後には渡島の名が一層狹い範圍に用ゐられたことがある。時代を追うて調べてみると、渡島の名は類聚三代格に見える延暦二十一年の太政官符にも、日本後紀の弘仁元年十月の條にも出てはゐるものの、それらの官符や記事では、渡島がどこを指したものか明かでないが、陽成實録になると、元慶二年に秋田城附近の蝦夷が大叛亂を起した時のやゝ詳しい記事があつて、そこには津輕と渡島とが?連記せられてゐる。此の年九月の勅符に(286)「津輕渡島俘囚等所請之事、以夷撃夷、古之上計、」云々とあり、三年正月の出羽國の奏?に「渡島夷首百三人率種類三千人詣秋田城、與津輕俘囚不連賊者百余人、同共歸慕聖化、若不勞賜、恐生怨恨、由是遣從五位下行權介藤原朝臣統行……等、勞饗、」とあるのを見るがよい。津輕と列記せられてゐる渡島は津輕の外でなければならぬから、上に述べて來た渡島はそれにはあてはまらないやうである。しかし、夷を以て夷を制すと考へられるほどならば、幾分か頼みになるほどの勢力を有つてゐたものに違ひなく、少くとも秋田附近の夷俘に雷同しなかつただけでも、官憲から頼もしがられてゐたものであらう。さすればこれも、渡島が、場合によつては、秋田城と氣脈を通じて叛夷を背後から脅し得る位置にあつたことを示すものであらう。當時頻繁に朝廷に屆いた出羽國からの報告を綜合して見ると、叛夷は主として出羽國の邊境をなしてゐる能代川の流域にゐたものらしく、津輕蝦夷の中にも叛夷に黨したものがあつたやうである*。さすれば、渡島を津輕と列べ稱し、渡島から津輕を除外した形になつてゐるのは、渡島は全く此の時の叛亂に關係が無かつた比較的北方の諸部落をいひ、津輕は少くとも其の一部が叛徒に與してゐたほど出羽に接近してゐる南方の部落を指し、其の間に區別をつけて呼んだのではあるまいか。阿陪臣の遠征の時にも津輕の名に廣狹があつたことを參考するがよい。肅慎の名の適用せられた地域の變化について上に述べたところは、これらとは事情が違つてゐるが、時によつて同じ名も其の適用の範圍に差異を生ずる事例はこゝでも見られる。さすれば肅慎に關する二つの史料の矛盾は、一方が誤であるとしなくとも解し得られるのである。
 阿陪臣が征討したといふ肅慎についての余の考は、ほゞこれで盡きてゐる。たゞ一言附記すべきは、何故にかゝる飛び離れた渡島の蝦夷に對して遠征軍を出したか、といふことである。それは固より文獻上に徴證を求め得られるこ(287)とではないが、既に述べた如く、齊明紀元年の條に見えるやうな津刈蝦夷の來朝に誘發せられての企圖であつたことは、推測せられるから、それは或は、此の地方の諸部落が隣接せる他の部落と勢力を爭ひ、或はそれに壓迫せられ、越國に依頼して自己の存在をはからうとしたためではあるまいか。日本海の沼岸航路は早くから蝦夷人によつて開かれ、此の地方の蝦夷も、南は越に、北は今の北海道に、斷えず往復し貿易もしてゐたであらうから、かういふことも起り得たのであらう。假にかういふ事情があつたとして、其の敵とした部落は何であつたらうかといふに、それは或は、最後まで抵抗し、さうして終に服屬するに至らなかつた最北の部落、即ち甲の史料の所謂肅慎であつたかも知れぬ。それが渡島よりも南方のものでなかつたことは、阿陪臣の遠征軍が途中で所々に寄航したであらうに、どこでも妨害をうけたやうな形迹が見えないことから、推知せられる。さうして其の最北の部落は或は、今の青森方面、または北海道、の諸部落と何等かの特殊の連絡を有つてゐたものであるかも知れぬ。(今の北海道の蝦夷と今の陸奧方面の同民族との間に密接の關係があつたことは想像せられるので、齊明紀四年の條に見える阿陪臣の獻上品たる羆は多分北海道産であらうと思はれ、後の延暦二十一年の太政官符に見える渡島狄の「所貢方物」にも津輕海峽の彼方から舶來した物産が渡島蝦夷の手によつて京に齎らされたものが少なくなからう。渡島蝦夷は、北海道の同族と日本人との間に立つて、貿易の利を占めてゐたらしい。)さてかう考へると、出羽國の勢力が擴張せられて夷地の間に秋田城が設けられるに及んでは、むかし進んで服屬した其の地方の蝦夷が反坑を企てるやうになるのも、自然の勢である。遠距離にあつた時代の日本の勢力は、彼等を保護するものであつたのに、近くそれが逼つて來ては、彼等を壓迫し彼等の住地を奪ふものだからである。昔は名義上の官職が與へられて、それに件ふ榮譽と利益とがあり、さうして實權は(288)全く自己の掌中にあつたのに、今はすべてが日本の權力の下に立たねばならなくなつたからである。しかし、出羽國の權力は秋田城を距ること遠からぬところで限られてゐる。津輕方面の所謂渡島蝦夷は此の壓迫を蒙るに至らぬ。昔授けられた郡領などの名は多分何時のまにか(遲くとも、出羽國の權力が秋田附近に及ぶにつれて此の方面の蝦夷に對する駕御の方針が變化するやうになつたころには、もはや)消失してゐたのであらうが、時々國府に伺候することによつて物質上の利益は得られる。彼等が出羽國に對して反抗しなかつたのは、此の故であらう。所謂蝦狄の日本の勢力に對する關係は、陸奧の蝦夷のそれとは幾分か趣を異にした點があり、部落により時代によつて種々の差異があり變化がある。阿陪臣の遠征は實にそれがために生じた特殊の事件であり、蝦夷經略の一般的方略から出たことではない。
 最後に附記すべきは欽明紀の肅慎である。概していふと、此のあたりまでの書紀の記載は歴史的事實として取扱へないものであるから、これもまた欽明天皇の時のこととは認め難いが、何時の世にか佐渡に異人が漂着し、其の話が誇張せられ傳説化せられて京人の耳に達したことは、あつたらう。さうしてそれが欽明紀に編みこまれたのは、深い意味のない書紀の編者の思ひつきに過ぎなからう。其の異人を肅慎としたのは、固よりシナの古典によつて肅慎の名を知つてゐる京人のさかしらとする外は無い。肅慎はシナの古典に於いてのみ存在する名稱であるから、漂着者自身から此の名を聞き知るべきはずが無いのである。さうしてそれは、阿陪臣の征討した蝦夷が肅慎と稱せられ、此の名が京人の耳に親しくなつた後のことではあるまいか。佐渡漂着譚と肅慎の觀念とは、殆ど縁のないものであるから、極遠の夷族として此の名が我が國に用ゐられた後でなくては、此の附會は行はれ難かつたらうと思はれる。或は書紀の編者のしわざであるかも知れぬ。(當時の日本人には滿洲の地勢も古の肅慎の所在もわかつてゐなかつたはずであ(289)るから、地理的觀念から肅慎と佐渡の漂着者とを結びつけたのでないことは、明かである。)ミシハセといふ名も此の物語から起つたのではなく、むしろ阿陪臣の征討から來てゐるので、蝦夷の部落名か何かを附會したのではあるまいか。或は上に述べた六年の遠征の目的である最北の部落の名であつたかも知れぬが、これは固より一片の臆測たるにとゞまる。
 
(291)     第五篇 書紀の書きかた及び訓みかた
 
 書紀が漢文で書かれてゐるために、上代の物語がありのまゝに寫されてゐず、上代日本人の思想が歪められてゐるといふことは、今日では一般の常識となつてゐるが、どの點が如何に歪められてゐるかのまだ十分に明かになつてゐない憾みがある。のみならず、書紀には、國語で書かれたものを書きなほしたために、漢文になつてゐないところが少なくなく、特に神代紀の如きはさういふ部分が極めて多いにかゝはらず、書紀といへば一概に漢文とのみ思はれてゐて、さういふ部分と漢文で書かれたところとの區別が深く注意せられてゐないやうであり、そこからもまた上記の缺陷が生ずる。一つ/\の用語や文字の點からのみ考へても、書紀の編者が國語の意義を保たせようとしてそれを其のまゝ漢字に寫し、又は新しく漢語に譯出したところがあると共に、シナの成語を其のまゝ適用したところもあり、後者に於いても、其の適用の當つてゐる場合と然らざる場合とがある上に、日本人の思想とは全く縁の無いことを縁の無い漢語で書きつゞつてある場合も多い。だから、其の何れであるかを辨別するには相當の用意が要る。さうしてそれは、後世になつて漢語をできるだけ國語で訓まうとするやうになつて來たため、それが本來の國語を漢語に書きかへたものか、シナの成語に強ひて國語の訓をつけたのか、其の區別の知り難いこととも關係がある。國語で訓み習はされて來たため、普通には國語を書きかへた漢語であるやうに思はれてゐるが、其の實、シナの成語であり、從つ(292)て其の意義が日本人の在來の思想とは齟齬してゐるものもある。しかし、書紀の、編述は、漢字漢文が日本の知識社會で用ゐられるやうになつてからかなりの年月を經た後のことであるから、其のころには、國語の意義が、それに漢字をあてて用ゐたことによつて、既に變化してゐたものもあらうし、後世になると、國語の原義が忘却せられ、シナ思想化した意義で用ゐられてゐるため、それによつて漢語を訓むやうになつたものもある。此の間の關係は必しも單純でない。が、もしそれを辨別せず、後世の訓みかたによつて漢語を解釋するやうなことがあるならば、それは啻に編者の意に背くのみならず、それがために上代思想そのものの理解を誤ることが無いともいへぬ。余はこれまでも、をりにふれて此のことに言及し、從來の訓みかたには妥當でないもののあることを説いた場合もあるが、こゝに主として神代紀に見えるものについて、書紀の書きかたと訓みかたとに考慮すべき點のある二三の例を擧げ、それに關する私見を述べてみようと思ふ。用語や文字の書きかた訓みかたの如きは、さしたる問題ではないやうに見えるかも知れぬが、それには思想と其の變化とが現はれてゐるから、其の意味で輕視すべからざることと考へられる。
 が、これについては先づ全體として書紀の文章が如何にして成立つてゐるかを考へて置かねばならず、溯つては其の材料となつた古書及び記録の書きかたを知つて置く必要がある。さて、我が國で漢字を用ゐようとする場合に、第一に考へられたのは、國語の單語を漢字で寫すことであつたと思はれるが、それには漢字の意義をすてて其の音のみを取り、一種の音標文字、即ち所謂假名、として用ゐるのと、漢字の意義のみを取つてそれを國語にあてる、即ち所謂訓を用ゐる、更に換言すれば國語を漢語に譯して記すのと、二つの方法があつたはずである。さうして此の二つが並び行はれると、それを混合して用ゐること、即ち所謂音訓併せ用ゐる第三の書き方、も生じたに違ひない。なほヒコの(293)日子、ワタツミの綿津見、またはカグツチを迦具土と書きツクヨミを月讀とする場合の土とか讀とかの如く、寫さうとする國語と同じ音の他の國語に對應する漢字を用ゐること、即ち訓による假借、も行はれおやうであるが、これは所謂訓がひろく行はれた後になつて生じた習慣であり、はじめからのことではなかつたらう。さうしてこれは、名詞、特に固有名詞、を寫す場合に最も多い方法である。次には、やゝまとまつた思想を寫すことが要求せられたはずであるが、それにも、上記の第一の如くすべてを假名で記すのと、第二第三第四の方法による單語に假名で寫されたテニヲハや活らく詞などを添へるのと、二つの方法があつたらう。此の後の場合のテニヲハや活らく詞の添へ方は一定せず、それを全く、或は其の大部分を、省いて書かないことも多かつたであらう。ところで、テニヲハの類にも、それに應ずる漢字をあてはめることができる場合があるが、其の場合に漢語もしくは漢文についての或る知識を有つてゐるものが書けば、おのづから漢語の語法によつて文字を排列するやうになる。從つてまた、動詞の類をも同じ方法で書くやうになる。それは必しも正式な漢語の句になるには限らないので、一般には多く眞の漢語となつてゐないものであつたらうが、漢文に習熟したものが筆を下す時には、純粹な漢語になる、いひかへると或る一句を漢語に翻譯して記すことになるのである。さうなると、寫さうとする國語には必しもあてはまらない助字などを用ゐる場合が生ずるのである。しかし、純粹の漢語になつてゐないものは勿論のこと、漢語に譯された句とても、本來、國語を寫したものであるから、それを讀むには、やはり、國語によつたはずである。ところで、かういふやうないろ/\の漢字の用ゐかたが或る程度に行はれると、次にはそれを積み重ねて一篇の文章を作るやうになるのであるから、其の文章には上記の種々の書きかたが混用せられるのであり、全體としては國語を寫した文章ながら、文字の上では漢語の形に(294)なつてゐる、もしくはそれらしい、句が其の間に插まれることになる。さういふ句の多寡、また、それが如何なる程度で漢語らしくなつてゐるかは、人によつて一樣でなかつたに違ひないが、漢文の知識が世に弘まるに從ひ、おのづから、それが多くもなり眞の漢語に近づいても來たであらう。と共に、單語としての漢語そのものが次第に人の口にも上り、また本來の國語には存在しない事物や觀念が、漢語によつて知識の上に加はつても來るので、此の趨勢は一層強くなり、初から漢語が漢語としても使はれ、漢文で讀みなれた熟語や成語も利用せられるやうになる。さうして、かゝる漢語は、單語としては、多く原語のまゝに、即ち音によつて、讀まれたであらう。それにあてはまる國語の無かつたものはいふまでもなく、國語に譯し得るものでも漢語として學ばれたものは、必しも一々國語に譯して讀むには限らなかつたらうと思はれるからである。
 以上が今日遺存してゐる金石文(漢文でないもの)や、古事記によつて傳はつてゐる帝紀舊辭などの、文體が形成せられた徑路であらうと思ふ。これが日本人の書くものとしては、大化改新前後までの普通の文體であつたので、この書の第四篇や「日本上代史の研究」の第二篇に述べてある如く、大化改新に關する種々の詔勅も、概していふと、それであり、史料として書紀に採られた記録にもそれがあつた。伊豫の道後の碑の如き純粹の漢文で書かれたものもあるが、それは、多分、歸化人の書いたものであらう。法隆寺の釋迦像の光背の銘も漢文であるが、一方に藥師像の光背の銘の如きものがあることを思ふと、やはりこれも歸化僧の書いたものらしく、藥師像のは日本人の筆になつたものに違ひない。できるだけシナ風にすべてを作り上げようとする佛寺佛像に關することであるから、かゝる銘文も漢文に書きたかつたであらうが、藥師像の場合には、それが書けなかつたために、あのやうな文になつたものと推測(295)せられるからである。もつとも、一方では漢文を書くことも漸次學ばれて來たに違ひないので、それが、かういふ文體にも影響して、上記の漢語的要素が増加し、同時に漢文そのものも、日本人の書くものだけに、純粹の漢文とは見なし難いものも生じ、兩方が或る程度に接近したでもあらうが、大化の詔勅などから推測しても、一般には國語を寫す方が主であつたらうと思はれる。この書の第一篇と第四篇とに擧げておいたいくつもの例のやうに、書紀の記載に於いて國語を寫したと見なければならぬ語句の多いことについても、其の材料となつた記録が、全體としてはほゞ漢文で書かれながら、斯ういふ分子がそこに混和してゐたと考へるよりは、全體としては國語本位のものであつたのを、書紀の編者が漢文に改めたけれどもなほ原の語句が所々に遺存してゐると見る方が、妥當であらう。第一篇に考へておいたやうに、神代紀にかういふ語句が少からず存在することは、それを證するものである。神代紀の原文は(書紀編纂の際に書き加へられた漢文の部分は別として)古事記によつて傳へられてゐる如く國語で書かれた帝紀舊辭であつたからである。
 但し、これについては、當時の漢文がどういふ風に讀まれてゐたかがかなり重要の關係を有する。もしそれが漢語のまゝに、即ち音によつて、讀まれる習慣であり、文を作る場合にもまた同樣であつたとするならば、それが全體に、後人の所謂、和臭を帶びたものになることはともかくも、純粹な國語が國語のまゝで混入することはあり得なからうから、さう見る場合には上記の如き國語の交つてゐる記録が漢文のものであつたとは思はれない。が、よし單語、特に名詞の類、は音のまゝであつたにしても、文章としては國語風に讀まれてゐ、文を作る時にもまた同樣であつたならば、國語のそれに混入することは甚だ自然であるから、かう見る場合には上記の記録が全體としては漢文本位のも(296)のであつたとしても解し得られなくはない。だから、其の何れであつたかを考へる必要がある。これは、むつかしい問題であるが、國語の一句を漢語に譯して寫し、それを國語で讀む習慣があつたとすれば、それが起因となつて、まとまつた漢文をも同じやうにして讀む習慣になつてゐたと考へても、大過はあるまい。漢文の學問が、我が國のシナに對する國際的文化的地位から來る自然の結果として、口にすることばを學ぶのでなく、文字を解すること書物を讀むことであつたとすれば、此の點からでも、かういふ讀み方が、むしろ我が國民には便利であり適切であつたと思はれるが、しかし、それは漢文を解するために案出せられた方法と見るよりは、國語を漢語に譯して記すことから導かれたものと解すべきであり、從つて早くから、それが行はれてゐたのではあるまいか。けれどもまた、推古朝に於ける今來の漢人や、其のころから盛に來朝した僧徒や、又は天智朝に歸化した百濟人やによつて、漢文が學習せられたとすれば、それは原語のまゝに讀む方法によつてゐたと想像せられる。さすれば、大化前後の時代には、二樣の讀み方が世に行はれてゐたと考へるのが妥當のやうである。ところが、日本人で漢文を書くものが少しづつ現はれはじめたのは、ほゞ此のころからであり、さうして、それは新しい歸化人や僧徒によつて漢文の知識の弘められたことに關係があるのであらう。從つて其のころには、漢文は音讀しつゝ書いていつたのではあるまいか。もしさうとすれば、それを上記の二つの場合にあてはめて考へると、書紀の材料となつた上記の如き記録は漢文で書かれたものではなくして、國語で記されてゐたものと推測せられねばならぬ。またよしそれに反して、漢文が國語風に讀まれる習慣であり、從つて漢文の間に國語の混和したやうなものが書かれてゐたと考へ得られるにせよ、それと同時に、全體が國語本位の書きかたをした記録の作られてゐたことを否むことはできなからうし、さうして書紀の編者によつてさういふもの(297)が漢文に書きかへられながら、所々にもとの國語が遺存してゐることについては、舊辭の漢文譯、また大化の詔勅の漢文化の場合に同じ例があるから、此の點からやはり上記の推測に從ふべきであらう。だから、漢文のよみかたが上記の二つのうちの何れであつたにしても、書紀の材料となつた記録に國語で書かれたもののあつたことは、疑があるまい。さうして時が經つて漢文に親しみそれを作るものが漸次多くなつて來ると、作るに當つてもおのづから國語風に讀みつゝ書いてゆく習慣の生ずるのが、自然の趨向である。書紀の編者が國語で書かれた舊辭や詔勅や記録を漢譯するに當つて、原の國語を所々に遺して置いたものも、一つはかういふ習慣があつたからのことらしい。神代紀の如きは、シナの典籍の文字を寫し取つたところ又は新に漢文で書き加へたところなどは別として、概していふと、古事記の如き書きかたであつた舊辭の其の書きかたを改めて、幾らか漢語の措辭法に近いものとしてあるのみであつて、上に述べた如く殆ど漢文にはなつてゐず、漢譯せられたとはいひ難いところの多いものであるから、これは初から、其の全體をほゞ原のまゝの國語で讀ませるつもりで書かれたのであらうが、國語としてでなくては讀み得られないところが局部的にある場合でも、やはり全體を國語風に讀んで始めて、さう讀み得られるのであらう。もつとも、漢文を國語で讀むことは、其の内容の上からも、我が國の記録に對する場合に適切であり、從つて其の場合の一般の習慣となつてゐたであらうが、シナの典籍に對しては、さうすることに種々の困難を伴ふので、書紀の編述せられたころでも、どの程度でさう讀まれてゐたかは明かでないやうにも見える。しかし、その時代に於いても、上にいつたと同じやうに、日本人はシナ語を學ぶ必要は感じなかつたのであるから、漢字を用ゐる以上、一々の文字についてその音を知ることはしなければならなかつたけれども、漢文をシナ語として、その文その語のまゝに音讀するにはおよばな(298)かつたはずである。從つて一般にはシナの典籍をも國語脈になほして讀んでゐたと考へられる。(附記。純粹の漢文になつてゐない場合の書紀の上記の書きかたは、漢文が主體で其の間に國語を交へるのであるが、かういふ方法はかなり便利なものとして世に行はれたであらう。さうして、この書きかたと、國語本位でありながら漢語の語法を多く併せ用ゐる方法とは、漢文を國語風に讀む習慣によつて、漸次接近したはずであるが、其の何れかの方法によつて純粹の漢文ならぬ文章を書くことは、實用的には、奈良朝を通じて行はれたであらうと思はれ、平安朝の記録文にも一すぢの絲をひいてゐるらしい。)
 以上の一般的考説を念頭に置いて、次に神代紀の書きかた及び訓みかたを考へて見る。そこで第一に問題とすべきは天地といふ文字である。便宜上、先づ地の字の用ゐてある例をいふと、國生みの條の注の第一の「一書」に「有豐葦原千五百秋瑞穗之地」また「投戈求地」とあるが、これは、本文に「底下豈無國歟」と記され、注の第二第三及び第四の「一書」にも「吾欲得國……喜乎國之在矣」、「當有國耶」、また「蓋有國乎」などと見え、古事記に「修理國成是多陀用幣流之國」とあるのに對應する説話に於いてのことであるから、此の場合の二つの「地」の字は、何れも普通に「國」の字が用ゐられておるクニの語にあてて書かれたものであらう。古事記の語はいふまでもなく舊辭のまゝであり、また書紀の本文の上記の一句は、そこに「底下」といふやうな漢語になつてゐない文字のあることから見ても、それが舊辭の文章を直譯したものであることが知られるから、それらに「國」と書いてあるのは、もとからこの説話に用ゐられてゐた國語を其のまゝ傳へたものに違ひない。また「瑞穗之地」については、別の説話に於いてではあるが、現に古事記に「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國」と書いてあることが參考せられる。だから、これらの「地」(299)の字をクニと訓み習はしてゐるのは妥當である。しかし、書紀の編者が何故に「地」の字を書いたかといふと、それは、海水をかきなしてクニを固めもしくは求めるといふ話では、クニの語に於いて、陸地の觀念が最も明かに浮き出てゐるからであらう。其の前の條の第二の「一書」には「古國稚地稚之時、譬猶浮膏而漂蕩、」とあつて「國」と「地」とを併記してあるが、これは古事記の「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」に對應することであるから、「地稚」は國語で記されてゐた舊辭には無かつた語であり、書紀の編者の加筆であらう。其の次に「國中生物、?如葦牙之抽出也、」とあつて、そこに「地」の字の無いことからもさう推測せられる。たゞ此の場合に、書紀の編者は、「地」をやはりクニの語にあてて、文字の上で「國」と併記したのみであるか、但しは「地」をツチの語にあてたのであるかが問題である。此の句は漢文にはなつてゐないのであるから、國語で讀ませるやうに書かれたものと思はれるが、もしさうならば、それは後の方であつたはずである。同じいひかたのことばを重ねることは上代の風習であつて、「地稚」の語を「國稚」の下に重ねたのもそのためであらうが、クニワカク(クニワカキ)といふ一つの語を二つ重ねることは無意味だからである。さすれば、次には、それがクニとツチとを同義の語としたためであるかどうかが問題になる。
 文獻に記されてゐるクニの語のすべての用例を見ると、それは或る限界を有する一定の地域を指してゐるやうであり、一般に此の語が政治的區域の稱呼となつてゐるのも、此の故であらうと考へられる。然るに、ツチはそれとは違つて、今日用ゐられてゐるのと同じ意義の語であり、さうしてそれが人の生活に於いて重要なる意義を有するのは、主として農耕に關してである。耕作すべき土が、ツチの最も人生に親近なるものである。オホクニヌシの神が出雲の(300)國の政治的勢力の象徴としての杵築の神社の祭神の名として作られたものであるのに、オホツチの神または其の一名としてツチノミオヤの神が農業に關する神の名として解釋せられることを參考すべきである。かういふやうにツチはクニとは意義が違ふが、しかしまた漢字の地とも同じでない。地は陸地の全體もしくは其の一般的概念を示す語であり、從つてまた天に對する意義を有するものであるが、さういふ意義の國語は無かつたやうである。さすれば、地の字をツチと訓むのは妥當を缺くものであるが、地にあてはまる國語が無いために、已むを得ず、いくらか近い意義のあるツチをそれにあてることになつたらしい。從つて、何時のまにかツチが地の字の意義を帶び天地といふ熟字をもアメツチと訓むやうになつたが、これは地といふ漢字を用ゐることによつて、ツチの語に新しい意義が生じたのである。「國稚地稚」に於いて「地」がツチと訓まれるものとして書かれたのも、此の故である。しかし、ツチとクニとが同義でないことは、書紀の編者にも知られてゐたはずであるが、それにもかゝはらずクニとツチとを併記してあるのは、ツチが地の義に用ゐられるやうになつてゐるからであると共に、上にクニの語に地の字をあてた理由として説いたと同じく、此の説話ではクニの語に於いて陸地そのものが主として考へられてゐるからでもある。だから、地の字のかういふ用ゐかたは、これらの説話に於いて始めて意味がある。一般的にはクニを地と書くのは固より妥當でなく、また實際さう書いた例が他には少いやうであり、此の二つを連稱することもあまり見あたらぬ。が、上記の書きかたには、或はアメとクニとの對稱がシナの慣用語に於ける天と地との對稱に類似してゐることによつて助けられてゐるかも知れぬ。いひかへると、同じくアメ、即ち天、に對する觀念であるがために、クニと地とが結びつけて考へられたと見るのである。此の二つは全く違つた觀念ではあるが、その間に聯想が生じ、或は混治が起り易いからである。
(301) 上代の日本人がアメ(天)に對してクニ(國)といつてゐたことは、何人にも知られてゐる如く、明かな事實である。神の名などに天と國とが對稱的に用ゐられてゐることはいふまでもないが、例へば岩戸がくれの條の注の第三の「一書」にスサノヲの命の天に上る有樣を敍して「扇天扇國」といつてあり、出雲國造神賀詞に「天かけり國かけり」といふ語がある如く、敍事の文章にもそれが見える。天つ神と國つ神とが一般的に對稱せられてゐるのも、同じ精神から出たことである。アメノワカヒコをアメノクニダマの子としたのも、其の妻のシタテルヒメをウツシクニダマの女としたのに對照させるためであつたらしく、國のクニダマに對して天のクニダマといつたのである。クニダマは國のタマであるから、それに天のがあるはずはないが、既にクニダマといふ名が作られた上は、それに天のと國のとがあるやうに考へ得られるのである。對稱的に單なる美稱が加へられたに過ぎないものではあるが、地上の神たるミクマリの神にアメノミクマリとクニノミクマリとの名がつけられたのと似てゐる。クニノクニダマといふ名はどこにも記されてゐないが、それは本來の名がクニダマだからである。
 ところで、神代の物語の中心思想に於いては、後にいふやうに、對稱的に用ゐられてゐる天と國とに政治的意義があるのであり、さうして國の語を政治的意義に用ゐたのは、上に述べたやうな一般の習慣に從つたのであるが、政治的意義を離れて考へても、日本人に於いてはアメに對してはクニといふべき理由がある。天に對する觀念として土地が思ひ浮かべられるのは自然の傾向であるが、日本の地は島であつて、地に限界のあることが明かに知られてゐるから、日本人にとつては地は即ちクニなのである。地の字にあたる國語の生じなかつたのも、こゝに理由があるのではあるまいか。シナ人の如き大陸の民は、地をも天の如く無限なものと考へ、そこから天地對立の觀念が生ずるのであ(302)るが、島國に生活してゐる日本人には、天に對するものとしては地と海との二つが思ひ浮かべられる。(日の神月の神とスサノヲの命との所領配分の話に、それがいろ/\に語られてゐるにかゝはらず、海原の數へてあるものが多いことは、無意味でない。)たゞ人の生活は陸地に於いてするものであるから、其の意味で海は比較的輕視せられ、其の代りにアメに對するものがクニとせられるのである。はじめて海水をかきなして陸地を固め又は求めるといふ話、又それとは違つた思想ながら、初めは土地が固まつてゐなかつたといふ話に於いて、クニの語が用ゐられてゐるのも、一つは此の故である。勿論、これにも神代史の根本精神である政治的觀念が含まれてゐるには違ひない。イサナキ、イサナミの命の生んだのが、一粒の陸地でも世界の全體でもなく、日本の政治的領土たる大八嶋國であることに參照すると、話そのものとしてはそれとは全く別の意義のものであるけれども、此の場合のクニにも政治的領域としての日本の國土の觀念が潜在してゐるものと解すべきである。が、此の二つは互に關係のあることであつて、日本の政治的領土たる大八嶋がクニといはれたのも、上記の如き地理的意義によつて助けられてゐるのである。
 かう考へると、書紀の卷頭にある天地剖判説はもとよりのこと、それに本づいたものと考へられる古事記の天地初發の觀念が、日本人の思想としては甚だふさはしからぬものであることが、此の點からも知られる。天地剖判もしくはそれに類似する説話は、天と地とを對立するものとする考へかたから出たものである。但し、これとても必しも大陸民の間にのみ生じ得たものとばかりはいはれないかも知れず、さういふ説話の起源などについては別に研究すべきであるが、日本人の思想にそれが無かつたことは、アメに對するものが常にクニとせられてゐた點からだけでも、ほゞ推測し得られよう。さすれば、葦牙の如きもの、もしくはそれによつて化り出でたクニノトコタチの命を「天地(303)之中」に生じたとしてある書紀の本文の書きかたが、シナ思想によつて後から加へられた天地剖判説話と、クニのまだ固まらない時に萌え出るものがあり神が生じたといふ話とを、強ひて結合しようとするところから考へ出されたものであつて、上に引いた第二の「一書」に「國中生物」とあるのが説話の原の姿であることも、おのづから明かになるであらう。神の名のクニノトコタチであることも、またそれを證する。古事記にそれをアメノトコタチとしてあるのは後の變改であつて、クニノトコタチの命に對してアメノトコタチの命の名が新に作り添へられたがため、アメが常にクニに先だつて稱へられる習慣であるところから、それを初めに化生したものとしたのである。
 以上は地の字とツチ及びクニの語との關係を主として考へたのであるが、書紀には地を漢字のまゝの意義で用ゐてあるらしいところもあつて、イサナキの命の禊の話の注の第十の「一書」に「吹生大地海原之諸神」とあるのが其の例である。此の「大地」は海原に對する意義で陸地をいふのであらうが、それに當る國語が無いからである。ウナバラといふ國語と連記してあるから、それはオホツチといふ國語にあてられたもののやうに思はれもしようが、上に述べた如くツチの語に地の字の意義が與へられるやうになつては來たものの、かういふ意味での陸地をオホツチといつたかどうかは疑問である。萬葉十一の卷に「大土も採れば盡くれど世の中に盡きせぬものは戀にしありけり」といふのがあるから、オホツチといふことはいひ得られたに違ひないが、この歌の「大土」はツチにオホの美稱を加へたものであつて陸地の意義ではないことが「採れば」云々といつてあるのでも知られる。また垂仁紀二十五年の條の原注に大地官といふ名稱があつて、それが普通にオホツチノツカサと訓まれてゐるが、此の訓みかたの適否がわからぬ。大地官はアマテラス大神の治らす天原とスメミマの命の治らす葦原中國之八十魂神とに對し、倭の大神の治らすとこ(304)ろとして記されてゐるから、其の「地」は漢語の天に對する地の意味でもなく、また國土の意味でもないやうであり、從つて大地官の指すところが明かでないからである。假に此の訓が筆者の意圖するところに合つてゐるとするならば、大地官は、上に記したオホツチの神または古語拾遺に記してあるオホツチヌシの神の名から類推して、耕作する土を管治する官といふ意義に解すべきものかも知れぬが、もしさうならば、これらの神の場合のオホはツチの神もしくはツチヌシの神の美稱として加へられたものであるから、大地官のオホもまたツチノツカサの美稱であらう。しかし倭の大神と耕作との間に何の關係があるとせられたのか、わからず、全體の意義にも不明な點があるのみならず、大地官といふ稱呼から考へると、それにはシナ思想に由來するところがあるかも知れぬ。だから、これはしばらく論外に置く外はあるまい。(上記の神代史の話では特に陸地の神とすべきものは生れてゐないから、大地の神といふのはをかしい。これはイハツツの命ソコツツの命などといふツツ(ツチ)に土の字をあてたことからの聯想によつて書かれたのではあるまいか。)
 次は天であるが、國語のアメを天の字で寫したのは、それが仰ぎ見られる蒼天そのものを指す限りに於いては、ほゞ當つてゐるといはねばならぬ。たゞ神代の物語に於いては、天上の國土をタカマノハラといつてあるが、此の語にあたる漢語は無いから、それを直譯して高天原と書くのが習慣になつてゐた。しかし、高天原を指してゐながら單に天と書いてある場合が、スサノヲの命の話とアメノワカヒコの話とに於いて、古事記と書紀の本文との何れにもある。高天原といふ語の意義はたゞ天をいふのであつて、國原海原などと同じいひかたで天の原といひ、それに高の語を加へたのみであり、現に古事記の石戸がくれの條、書紀のスサノヲの命の昇天の條の注の二つの「一書」には、高天原(305)といふべきところに天原の語が使つてある。しかし、古事記の石戸がくれの條、及びホノニニギの命の天降りの條に、高天原と葦原中國とを對稱的に用ゐてあることによつても知られる如く、神代の物語に於いては、高天原が特殊の意義を有つてゐるので、それは漠然いへば天上の國土であるが、この書の第三篇「神代の物語」に述べて置いた如く、嚴密にいふと皇祖神としての日の神の居處、いひかへると天上に於ける皇居のあつたところ、である。思ふに、たゞアメとのみいつたのでは、かういふ特殊の意義を現はすことができないために、高天原の名がそれにあてはめられたのであらう。だから、此の意義での高天原を單に天と書くのは、やゝ妥當でないやうに見える。たゞ古事記にもさう書いてあるのを見ると、舊辭に於いても、高天原が天とのみ書かれたところがあつたらしいが、それは國語としてはアメの語にあてられたものに違ひない。書紀に天としてあるのも、やはり同じ話に於いてであるから、これもまた舊辭の書きかたを踏襲したものであらう。しかし、スサノヲの命の物語の注の第二の「一書」に「天上」と書いてあるのは書紀の編者のしわざであらう。アメノウヘといふやうな國語があつたらしくはないからである。のみならず、高天原を單にアメといふのも、神代の物語の始めて作られた時からのことであるかどうかは疑はしく、これも或は、余の曾て考へた如く、スサノヲの命やアメノワカヒコの話が後になつて神代史に插入せられたものであることを示す一證となるかも知れぬ。高天原といふ特殊の語が上記の意義を有するものとして物語の上に現はれた稱呼であるならば、最初の物語の作者はそれを單にアメとはいはなかつたであらうと推測せられるからである。
 ところで、こゝに考ふべきは、高天原といふべき天上の國土がアメともいはれるやうになつたのは、漢字の天が聯想せられたことも一つの事情ではあるまいかといふことである。古事記の卷首にアメノミナカヌシの神などが生り出(306)でたとある高天原は、上記の意義に於いてのではなくして、單なる天であり、さうして其の天は漢字での天、シナ思想での天であることが「天地初發之時」を承けていつてあることからも知られるから、古事記のもとになつた舊辭には、高天原とシナ思想での天との混淆が既に存在してゐたのである。國を作り固めることをイサナキ・イサナミの命に命ぜられたといふ「天神」も此の意義に於いての天の神である。神代史の原形に於いては、イサナキ・イサナミの命が自己の意志で國を産まれたことになつてゐたのが、古事記の説話では、シナ思想の影響をうけてかういふ天の神が生じたため、其の命令によつて國が作り固められ又は産まれたことになつてゐるのである。(この「天神」は神代の物語に多く現はれる「天つ神」ではなく、後に「天神地祇」の「天神」についていふ如く、アメノカミの語を寫したものであらう。但し後にはタカミムスビの神は「天つ神」と結合せられる。)書紀の國生みの條の注の第三の「一書」にイサナキ・イサナミ二柱が高天原にいますと書いてあるのも、また此の思想から派生したものであつて、此の「一書」は上記の天神の物語の作られた後にできたものであらう。シナ思想としては天に種々の特殊の意義が隨伴してゐて、天上に神がゐるといふ考も其の一つであるから、それが高天原に混淆せられたのである。だから、かういふやうな思想の變化によつて高天原が國語に於いてもまた單にアメといはれるやうになつたと推測するのは、必しも不當ではあるまい。勿論、高天原といふ語の意義は上にも述べた如くアメといふことであるから、シナ思想の媒介が無くとも高天原をアメといふやうになつたと考へられぬことはない。これは、其の反對に、例へば古事記のオホナムチの命の國ゆづりの條やホノニニギの命の笠沙のみ崎の條に於ける宮つくりの話に見える如く、天上の國土でなく單なる天であつて正しくはアメといふべきところを高天原と書くやうになつたことからも、類推し得られるやうである。(307)しかし、古事記のこれらの高天原は何れも「底つ石ね」に對する語として修辭上の必要からいはれたものとも解せられるから、一般の例とはなりかねよう。また祝詞でも宣命でも單なる天の意義のアメを高天原といつた例は無く、高天原とあるのは何れも神代の物語に見える天上の國土をさしてゐる。「高天原に神留りますカムロキ・カムロミ」といふ語には、後にいふ如く、シナ思想の天の觀念も加はつてゐるであらうと思はれるが、カムロキ・カムロミの語が皇祖の意義で用ゐられ、さうして皇祖が高天原に於いて皇孫に此の國の統治を任ぜられたことをいふ限りに於いては、此の高天原は神代の物語の高天原である。萬葉には高天原といふ語が無く、たゞ三の卷の大伴坂上郎女の祭神の歌に見える「天の原」は高天原の義かと思はれるが、「高」の語を省いたのは歌の句の形もしくは調べのためであらう。さすれば、天を高天原といふことは一般の例ではあるまい。アメノミナカヌシの神などの生り出でた天を高天原といつたのは、それらの神が人に擬せられた名をもつてゐるからの思想の混淆の故であらう。從つてそれから類推して高天原を普通にアメともいつたと考へることは困難である。
 なほ萬葉の歌を見ると、二の卷の人麻呂の日並皇子の殯宮の時の歌に「天てらすひるめのみこと天をばしろしめす」とある如く、高天原とすべきをアメといつてあるところもあるが、これもまた一つは音調のため、一つは書紀に「授以天上事」とあるのと同じくシナ思想の影響をうけたためらしい。人麻呂の如き漢文學の知識を多く有つてゐて歌の上にそれを利用したものが、斯う書いたことに不思議は無い。萬葉にはまた「天なるさゝらの小野」とか「天*なるひめすが原」とか、または「天なる一つたな橋」とかいふ名があつて、「天なる」の語が加へてあるところから、それらを天上の野原や橋として想像せられたものとする説もあるが、さう解する場合には、これは高天原といふべきを(308)アメといつたことになる。野や原や橋があると想像せらるべき天上の國土は高天原といびならはされて來たからである。しかし歌の意義には不明な點もあつて、さう解しても甚しき支障の無い場合もあるが、さうは受とり難いものもある。のみならず、高天原の國土は神代の物語のみに存するもの、神代の昔にのみあつたと考へられてゐたものであつて、所謂皇孫の天降りの後はそれと此の國との交渉が全く斷えてしまつてゐるから、現實に存するものとして、天上の國土がかゝる歌に現はれたとは思はれず、さうして神代の物語に見える高天原にはかういふ野原や橋の名は無い。だから此の語については、上記の如く解するよりも、「天なる」の語が當時如何に用ゐられたかを考へる方が重要であらう。香山に「天の」を冠していふのは、神代の物語に關係させてのことであるから別としても、また人麻呂の高市皇子の挽歌に「天つ御門」とか「天降りいまし」とかいふ語の用ゐてあるのは、皇族もしくは天皇の御上に關することであるからとしても、「さゝらの小野」の名の出てゐる同じ歌に「天の川原」といふこともあつて、それは實在の何れかの川の川原を思ひ浮かべていつたものらしく、さういふ例のあるのでも知られる如く、天といふ語が一種の美稱として用ゐられる習慣のあつたことを考へねばならぬ。要するに、神代の物語に於ける國土としての高天原は、一般的には單にアメとのみいはれたことが無く、さういはれたのは何等かの意義でシナ思想の天と混淆せられた場合のことであるらしい。書紀の岩戸の物語の注の第三の「一書」に「天國」とあるのは高天原をさしてゐるのであるが、これは「根國」に對していふために特にかう書かれたのかと思はれるものの、それにしても高天原を單に天とはいはずして國の語の添へてあることに注意すべきである。
 高天原とシナ思想での天との混淆は、書紀に於いて一層甚しくなつてゐる。書紀の本文の日神の生誕の條に「自當(309)早送于天而授以天上事」と書いてある。これは古事記に「所知高天原」とあり、書紀の注の第六及び第十一の「一書」に「治高天原」または「御高天之原」とあるのに對應することであるから、「天」または「天上」は高天原を指してゐるに違ひないが、それがかう書かれてゐる。さうしてこゝに「是時天地相去未遠、故以天柱擧於天上也、」としてあるのを見ると、所謂「天」は高天原を指しながらシナ思想での天の觀念がそこに混入してゐる、或はむしろ高天原が變つてシナ思想の天になつてゐる、ことが知られる。天が地の上に立つ柱によつて支へられてゐるといふ思想は、昔のエジプト人などの如く、シナ人にもあつたので、楚辭の天問にも見え、淮南子の天文訓にも記されてゐるが、シナ人はそれを天柱といつてゐた。世界の中心にあるともいふ崑崙山が其の天柱と考へられた場合もあり、此の山から天に上るともいはれてゐた。しかし、日本人にさういふ思想があつたらしい形迹は全く見えない。神代の物語についていふと、スサノヲの命の天に昇り天から降りたのも、ホノニニギの命の天降りにも、其の他の場合の高天原と此の國との間の往來にも、柱によつたやうに語つてあるところはどこにも無い。日の神の生誕の話に於いても、天柱のことは上に引いた書紀の本文にのみ見えてゐるので、古事記にも書紀の注の多くの「一書」にもそれは記されてゐない。更に進んで考へると、スサノヲの命が山川をゆり動かして天に昇り、ホノニニギの命が八重雲をわけて日向に降られたと書いてはあるが、其の他に於いては、如何にして高天原に昇降したかが説いてないので、それは實は如何なる方法によつて昇降したかが具體的に想像せられてゐず、たゞ概念的に天と國との間に於ける一直線な昇降が考へられたのみであつたからであらう。山川を動かしたといふのは、スサノヲの命の暴威をいふために用ゐられた語であつて、それを除けばたゞ空を昇つたことになるまでであるし、雲を分けたといふのも天から降りたことを語をかへていつたのみで(310)あり、畢竟、一直線な空中の昇降に過ぎぬ。雲を分けたとはあるが、雲に乘つて降りたのではなく、山川を動かしたとあるのも、風雨を驅つて昇つたといふやうな意義ではない。ホノニニギの命の天降りの條の注の第二の「一書」に、オシホミミの命が降らうとせられた時のことを記して「居於虚天而生兒、……復還於天、」と書いてあるが、ホノニニギの命の生誕の話のある古事記でも書紀の注の第一の「一書」でも、みなそれを高天原でのこととしてあるのに、こゝにのみ斯うなつてゐることの理由は且らく措き、虚天(虚空の義であらう)で兒を生むといふことは物語としては甚だ無理な構想であるにかゝはらず、斯う語られたのは、高天原を離れてまだ國に達しない前のこととせられたためであつて、それを虚空としてあるところに、上記の考説が證せられてゐる。超人間の能力もしくは形態を有する神ならば、如何なるところをも昇降するであらうが、高天原に往來するものは人であるのに、それが斯うなつてゐるのは、すべてが概念的に思慮せられてゐるからだと見なければなるまい。(神代の物語に活動してゐるものは人としての尊稱であるミコトと呼ばれてゐるので、それは神ではなくして人であるといふことについては、第六篇「神とミコト」に於いて詳説するであらう。)古事記及び書紀の注の「一書」には、ホノニニギの命の天降りの際に天の八衢にサルダヒコの神がゐたといふ話があつて、其の八衢は高天原の國土のうちにあると考へられたのか、高天原から高千穗の峯に降られる中間にあるとせられたのか、やゝ曖昧のやうでもあるが、其の神が古事記には「上光高天原、下光葦原中國之神、」と記されてゐるし、其の居たところを古事記には「吾御子爲天降之道」、書紀には「天照大神之子所幸道路」としてあり、またそこから伊勢にも日向にもゆき得られるやうに語つてあるのを見ると、それは後の方の意義に於いてであつて、天降りの空中の道を地上の道の如くに思ひなし説きなしたものであらう。さうしてそれは、概念(311)としては高天原を天上にある國土として考へてゐながら、物語の上に於いてそれを具體的に示すことができなかつたからである。(此の話は天の八重雲を分けて天降りせられたといふのと一致しないのであるが、それは別の考へかたによつて後から附加へられたものだからである。)また同じく古事記と上記の注の「一書」の別のところとに、オシホミミの命が高天原から此の國に降らうとして天の浮橋に立つて見下ろしたが國がまだ平いでゐないので還り登つて其のよしを具陳したとあるから、こゝでは天の浮橋によつて此の國に降るとせられてゐるやうでもある。しかし浮橋は語の示すごとく橋であつて、それは國ゆづりの話の注の第二の「一書」に海に遊ぶために高橋浮橋及び天の鳥船を造るとあるのでも知られる。ホノニニギの命の天降りの話にも浮橋が語られてゐるが、これも浮渚の上にかけられた橋として想像せられてゐるやうである。古事記に高天原から高千穗の峯に降られた中間に存在する如く書いてあるのがいひかたの混亂であることは、これもまた八重雲を分けて降られたといふ話に矛盾するのでも知られよう。書紀の本文や注の「一書」の書きかたも曖昧であるが、それが所謂國まぎに關していはれてゐることは明かである。また浮橋のハシを階梯の意義に解し天の浮橋を天に達する階梯と見るやうな考の非なることは、ウキの形容詞の加はつてゐることからも推測せられよう。釋紀に引いてある丹後風土記に「國生大神伊射奈藝命、天爲通行、而梯作立、故云天梯立、神御寢坐間仆伏、」とあり、仁明天皇の時に興福寺の僧の上つた長歌にも「ひさかたの天の梯立ふみあゆみ天降りまし」云々とあるが、神代の物語の天の浮橋は、かうは解することができぬ。浮橋のハシは梯のハシと語原に於いては同じであらうが、天の浮橋を海から高天原に達する梯として考へることは不可能である。これはたゞ天梯立の起源を神代の物語に結びつけて説かうとしたもの、もしくはそれから派生したものに過ぎない。丹後風土記にイサナキの命(312)の名を擧げながら、高天原といはずして天としてあることも、此の意味に於いて注意せられる。播磨風土記にも賀古郡の石橋について「傳云、上古之時、此橋至天、八十人衆、上下往來、故曰八十橋、」と見えてゐて、これもまた、同じくハシの語であるために、橋と梯とが混淆せられたもののやうであるが、それはともかくも、石橋の起源譚であることは天梯立のそれと同じである。だから、上記の書紀の注の「一書」の浮橋の話は強ひて浮橋を高天原に結びつけたものであり、さうしてかういふ無理な話の作られたのは、却つて高天原との交通の方法が具體的に想像せられてゐなかつたことを證するものである。神武紀にはニギハヤビの命が天磐船に乘つて天から降つたといふ話があるが、これもまた同じことを示すものである。この天もまた高天原とはしてないが、天とこの土地との交通の方法を語つた一例とはなる。これは空を海に見たてた想像から出たものであるやうに思はれるかも知れぬが、海を空に見まがふことは、視覺上、當然のことであつて、其の點から天の鳥船(これは鳥を船と見たのではなく船を鳥と見たものである)といふやうな語の作られたのに理由はあるが、其の反對に、仰ぎ見る天空を海に見まがふことは事實として不可能であらうから、天から船で降るといふのは、むりに構案せられたこととしなくてはならぬ。磐船で天から降りたといふことは萬葉十九の卷の家持の歌にも見えてゐるから、後にはさういふこともいはれるやうになつたであらうが、神代の物語には全く存在しないことであるから、古くからあつたものではない。さうして、かういふやうな種々な話の強ひて作られたのは、高天原が一般に上代人の思想に存在した特殊の世界でもなく、またそれが古くからの民間説話などによつて傳へられたものでもなく、或はまた詩人の想像から生まれたものでもなく、神代史の作者が物語をくみ立てるための構想から出た神代史の上だけの國土であることを示すものであり、さうしてそれは神代史の本質を考へるにつ(313)いて重要なる意味を有することである。天上の國土としてありながら、天上にあるものとしての何等の特色が無く、「神代の物語」に説いた如く、そこの土地の?態や地名が皇居の所在地たる大和地方のを其のまゝ適用してあるのも、高天原が朝廷の作者によつて概念的に構成せられたことの明證である。が、それはとにかくに、高天原に往來するための柱といふものが神代史に於いて考へられてゐなかつたことは、以上の考説によつておのづから知られたであらう。
 また高天原といふ特殊の國土の觀念を離れ、單に天として考へても、日本の如き四面環海の島國に於いては、天柱の存在は思ひ浮かべられないはずではあるまいか。(柱のハシもまた橋のハシと語原は同じであらうが、海に浮ぶ橋は柱ではない。)シナ人も、天問に記されてゐる如く、東南方には天柱が虧けてゐると思つてゐたことが、この點に於いて參考せられるかも知れぬ。これは、シナの東南部には天柱に擬すべき高山が無いからでもあらうが、また廣く視ると東南方は海であつて天柱を立つべき土地の無いことも其の一理由であつたらうと、推測せられるからである。さすれば、天柱がシナの説話から取られたものであることは明かである。たゞ「是時天地相去未遠」の一句だけは、天柱に關するシナの説話に無いことであるが、これは天柱を神代の物語、特に日月の生れたといふ太初の話、に利用したために加へられた文字である。かう考へて來ると、こゝの文に天とか天上とか書いてあるのが高天原を變へてシナ思想に於ける天としたものであることは、おのづから明かとなつたはずである。從つて、それをアメとかアメノウヘとか國語化して訓むのは、誤解を生ずる虞がある。アメがシナの天に當る語であるにしても、またシナ思想に於いての天の意義がアメの語に含まれるやうになつて來たにしても、なほそこに或る間隙があるからである。書紀の此の(314)條は其の全體がひどく漢文化せられてゐるので、それが何故であるかは知り難いが、日の神の出現譚であるために、それを莊重に書かうとしたものかと臆測せられる。此の時代には漢文が尊重せられてゐたからである。たゞ其の間に插まれてゐる蛭兒の話とスサノヲの命の性行を記したところの或る部分とだけが舊辭の文によつてゐるので、甚しく不調和の感を讀者に與へる。(蛭兒について三歳といつてあるのはシナ思想による數へかたであるが、これは書紀に採られた舊辭に於いて既にさうなつてゐたのであらう。)が、かういふことは次々にいふ如く書紀には決して少なくはないので、寧ろそこに書紀の特色があるといふべきである。
 ところで、かう考へて來ると、上記の天柱を普通に訓まれてゐる如くアメノミハシラといふのが妥當でないことは、おのづから知られる。これは寧ろ天柱の字のまゝに音讀すべきであらう。但し國産みの物語の注の第一の「一書」に天柱とあるのは古事記の「天之御柱」を漢語風に書きかへたものであるから、それはアメノミハシラであり、上代の民俗として行はれたらしく解せられる柱めぐりの柱にアメとミとの美稱敬稱を冠して、神代史の作者が用ゐたものである。同じ文字であるがために此の二つを混同すべきではない。もつとも、書紀の編者が既にそれを混同してゐたのではないかの疑もあり、本文に「以?馭廬島爲國中之柱」とあるのが、崑崙山が天柱であるといふやうな思想から導かれたものと解し得べきことも、それを助ける。勿論、こゝには天柱の語が用ゐてなく、却つて「分巡國柱」ともいつてあつて、「國柱」といふ語が作られてゐるほどであるが、それはもとの物語の「天之御柱」が、本來、天を支へる天柱でないことが編者にも知られてゐたために、斯う書かれたのであらう。が、「國柱」は「國中之柱」の略稱であり、さうして「國中之柱」の「國」は大八嶋國の全體を指してゐるのであらうから、これはオノコロ嶋を此の意義での國(315)の中心の柱と見たところから生じた稱呼に違ひなく、從つてむしろ此の稱呼に崑崙の面影が宿つてゐるのである。だから、それによつて、もとの物語にあつた「天之御柱」が、此の記載に於いては、シナ思想の天柱と混淆せられてゐることが推測せられる。けれども、これは「國柱」もしくは「國中之柱」の語の見える本文だけのことであつて、天柱の文字を用ゐてある注の「一書」に於いては、此の混淆は存在しない。「天之御柱」を天柱と書きかへたところに、シナの天柱との漠然たる聯想のあつたことが示されてゐるやうではあるが、混同せられてゐるとは考へられぬ。(「國柱」が、「天之御柱」に對する「國之御柱」といふ語があつて、それを略稱したものとすべきでないことは、オノコロ嶋がそれであるといふ説話そのものから明かである。從つてこれはクニノミハシラと訓むべきではない。また龍田の神社の神の名にクニノミハシラといふのがあるが、それとこれとの間に何のかゝはりも無いことは勿論である。この神の名をミハシラとしたのは、其の祭祀の儀禮に柱を用ゐる習慣であつたからのことであらうから、此の意味では、同じく民俗に基礎のある國産みの物語のアメノミハシラの稱呼と縁はあるが、それにアメとクニとの二神があるやうにしてあるのは、神代史にも例の多い名のつけかたから來たのであつて、アメとクニとはたゞ美稱に過ぎぬ。なほ書紀の此の「國柱」の話は物語の順序としては大八嶋國生成の前のことになつてゐるが、書紀の此の文の記者の脳裡に大八嶋が存在してゐたことは、いふまでもあるまい。)
 しかし、書紀の本文の日の神の生誕の物語に於いて高天原を天または天上と書きかへてあるのは、別な理由もあるので、それは即ち日の神を太陽神としての日そのものとしたところから來たことである。日の神について「此子光華明彩照徹於六合之内」といひ、月の神について「其光彩亞日」といつてあるのも、之がためであつて、この書きかた(316)では、日の神の皇祖神たる性質は背後にかくれ、日そのものが表に顯はれてゐるのである もつとも、最初に「何不生天下之主者歟」といふ語があつて、これは皇祖神の觀念から來てゐるのであるが、其の代り、寧ろそれがために、「授以天上之事」とあるのと此の語との間に、少くとも文字の上では、或齟齬が生じてゐる。ところが、高天原は皇祖神のいます國土の稱呼であるから、日そのものとしてはそれよりも天もしくは天上の語を用ゐる方が適切である。注の第一の「一書」に日月二神について「使照臨天地」と書いてあるのも、同じ理由からであり、第十一の「一書」に月の神に關して「配日而知天事」としてあるのも、また同樣であるが、たゞ後の方には日の神について高天原の語が用ゐてあるため、其の間に觀念の混亂が生じてゐる。これは舊辭の語をそのまゝ踏襲したところと書紀の編者の書きかへたところとがあるためである。のみならず「授以天上之事」とか「知天事」とかいふ政治的統治の意義を有する語の用ゐてあるのは、「所知高天原」と古事記にあるやうな語をかきかへたからであつて、日そのものでありながらそこにやはり皇祖神のおもかげがある。(第十一の「一書」にある「配日而知天事」の原文は、日の神の高天之原とスサノヲの命の滄海之原とが古事記の此の條の記載と同じであることから類推すると、古事記の如く「所知夜之食國」
などであつたかも知れぬ。「使照臨天地」もスサノヲの命の「下治根國」に對していつてはあるが、概括的のかきかたであるから、これは原語を其のまゝ漢譯したのではなからう。)また書紀の本文のスサノヲの命について「汝甚無道、不可以君臨宇宙、」とあるのも、日月二神の天上の統治に對照させていつたことであつて、「宇宙」の文字の用ゐられたのは、やはり天の語から誘はれたものらしい。日月二神とスサノヲの命とがそれ/\統治すべきところを配分せられたといふ話があつて、其の配分のしかたは舊辭の諸本の説がみな一致してゐないが、書紀の本文に、スサノヲ(317)の命について「固當遠適之於根國」といつてあるのは、漢語を用ゐた「君臨宇宙」とは違つて、國語を直譯したものと思はれるから、それは多分、此の命を根の國にあてた説によつて書かれたのであらう。注の第一及び第二の「一書」の説がさうなつてゐることを參考すべきである。ところで、其の第二の「一書」には「汝可以馭極遠之根國」と定められた理由を説いて「假使汝治此國、必多殘傷、」としてあるが、それは本文の、上に引いた、「汝甚無道」の語に對應するもののやうであるから、それから考へると「宇宙」はクニの語にあてられたものかとも思はれるが、字義から見ると、さうは解し難いやうである。宇宙は淮南子原道訓に「紘宇宙而章三光」といひ天文訓に「虚?生宇宙、宇宙生元氣、」といつてある如く、ほゞ今日一般に用ゐられてゐるのと同じ意義を有つてゐるからである。(集解が引いてゐる如く左思の呉都賦の李周翰の注には「宇宙天下也」とあるが、適切ならぬ解釋である。)さすれば、「君臨宇宙」は、よし第二の「一書」にあるやうな思想に本づいて書かれてゐるにせよ、「宇宙」がクニの語にあてられたのではなくして、クニを宇宙にまで擴大したものであり、さうしてさう擴大したのは、上に説いた如く天の語に誘はれてのことであつたらう。だから、此の「宇宙」をアメノシタと訓むのは、書紀の編者の意圖からいへば妥當ではあるまい。
 但し第一の「一書」に「御宇(または御宇宙)之珍子」とある「御宇」をアメノシタシロシメスと訓むことについては、別に考へねばならぬことがある。(流布本には「御宙」とあり類聚國史には「御宇」、丹鶴叢書本には「御※[ウがんむり/禹]」、また纂疏本には「御宇宙」とあるが、「御宙」は見なれぬ文字である。これはもと「御宇」であつた「宇」が「宙」と誤られたのか、或は「御宇宙」の「宇」が脱ちたのか、何れかであらうが、孝コ紀にも例のある如く「宇」は「※[ウがんむり/禹]」と書かれてゐたらしく、さうして※[ウがんむり/禹]が宙と誤られ易い文字であることを思ふと、多分、前の方であらう。「御宇」は晉(318)書武帝紀にも見えてゐるシナの成語であるが、我が國では宣命などにも多く用ゐられてゐることを考ふべきである。此の「御宇」が「御宇宙」の意義であることはいふまでもあるまい。「御宇宙」もまたシナの成語であつて、「秦皇御宇宙」といふ語が文選二十二の沈休文の「遊沈道士館」に見えてゐる。)さてシナに於いて「御宇」即ち天子が宇宙を御するといふことのいはれたのは、一つは、もと其の地位が天子に比擬せられた北極星が逆に天子の比擬に用ゐられるやうになつたのと、今一つは天下を統治することを極度に誇張したのとの故らしいが、其の根本の思想は、帝王が日月星辰の運行を統制し陰陽を調和するといふやうなシナ特有の考へかたから出たことである。けれども書紀に於いては「御宇」が「之珍子」とつゞけて書いてあるのを見ると、これは國語を譯したものと思はれ、さうして國語にはシナ語の宇宙にあたる語が無かつたのであるから、そのもとの國語はアメノシタシロシメスか又はオホヤシマグニシロシメスか、何れかであつたのではあるまいか。慶雲和銅ごろの宣命にも、また公式令にも、御宇の文字があるから、これは書紀完成前から既に用ゐられてゐたものであるが、慶雲四年の宣命に「藤原宮御宇倭根子天皇」また「近江大津宮御宇大倭根子天皇」とあり、天平元年のに「難波高津宮御宇……天皇」と書いてあつて、それは、神龜元年の宣命に「藤原宮天下所知……天皇」また天平神護二年のに「淡海大津宮天下所知行天皇」とあり、或は天平十五年のに「飛鳥淨御原宮大八洲所知…天皇」と見え、天平勝寶元年のに「近江大津宮大八島國所知天皇」また「奈良宮大八洲國所知…天皇」とあるのと同じいひかたであるから、「御宇」は「天下所知」か「大八嶋國所知」かの語を寫したものであらうと思はれるからである。特に和銅元年、天平元年、天平勝寶元年、などのに天皇の御稱號として「現神御宇倭根子天皇」と書いてあるのは、文武天皇元年、神龜元年、天平元年、及び其の他の多くの宣(319)命の同じ場合に「現御神大八島國所知倭根子天皇」としてあるのと同じ語であらうから「御宇」がオホヤシマグニシロシメスの語にあてられたことは疑がないやうである。それを明白に證するものは、天平寶字二年八月の禅位の宣命に「現神御宇天皇」とあると共に、同じ時の即位のに「明神大八洲所知天皇」とあることである。慶雲四年のにある「現神八洲御宇倭根子天皇」の「御宇」は「八洲」の文字がその上にあることから見ると、シロシメスの語だけを寫したものとしなければなるまいが、これもまた此の文字がオホヤシマグニシロシメスの語にあてられてゐたからの混亂であらう。もつともこの場合の「御宇」は或は「所知」の誤寫かとも思はれるが、しかし元明天皇奈保山御陵碑に「平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵」とあつて、この「馭宇」はシロシメスの語を寫したものとしなければなるまいから、もとの字のまゝでさしつかへがなからう。たゞし書紀の孝コ紀大化二年の條に「明神御宇日本(又は倭)根子天皇」とある「御宇」はオホヤシマグニシロシメスであらう。これは宣命體の詔勅の最初の部分が、もとの語のまゝに、記されてゐるのであつて、日本はヤマトの語を寫したものとすべきである。大化元年の條に見える高麗及び百濟の使に賜はつた詔勅に「明神御宇日本天皇」とある場合の「御宇」も、また其の例と考へられる。(たゞこゝの「日本天皇」は、ヤマトネコ天皇といふ稱號とはちがつて、ヤマトの天皇といふことであるらしい。高麗百濟に對していふ場合であるために、かういはれたのであらうか。これは、公式令に「明神御宇日本天皇」といふ書きかたがあつて、それが隣國蕃國に對する詔勅の辭であるやうに解せられてゐるのを思ふと、其の規定にあてはめて書紀の編者が書いたのではないかとも臆測せられるが、詔勅のうちに「高麗神子奉遣之使」とか「不易面來」とかいふ當時の記録から寫し取られたと考へられる語のあるのを見ると、さうではなく、かゝる書きかたは大化の時からあつたのであらう。(320)またヤマトに日本の字をあてることも大化の時に始められたのではあるまいか。)なほ「御宇」がオホヤシマグニシロシメスの語を寫したものであるといふことについては、大化二年の皇太子の奏請に「現爲明神御八嶋國天皇」とあり、天武紀十二年の條に見える詔勅の首にも「明神御大八州日本根子天皇」とあるのを參考すべきであり、また古事記の景行の卷に倭建命の語として「坐纏向之日代宮所知大八島國大帶日子淤斯呂和氣天皇」といふことの記してあることも、思ひあはされよう。(明神をアラミカミとよむのは誤で、これは現神と同じくアキツカミの語を寫したものである。また大化二年の條の「現爲明神」の「現」は衍文であらう。)ところで、かう考へて來ると、上に引いた宣命にある「天下所知」もまた同じくオホヤシマグニシロシメスの語を寫したものではないかの疑が生ずる。が、宣命には天下といふ文字が數用ゐられてゐて、それはアメノシタと直譯して讀まれたもののやうであり、萬葉一の卷の人麻呂の歌に「天下所知食之」とあるのもアメノシタシロシメシシであらう。また古事記には歴代について一々某の宮にいまして「治天下」と書いてあるが、これもアメノシタシロシメスの語にあてられたのであるらしい。のみならず、法隆寺金堂の藥師像の光背の銘にも「池邊大宮治天下天皇」などとあつて、それもまた同樣であらうから、此の語と此の文字とはかなり前から用ゐられてゐたものである。だから宣命の初頭に於いて莊重に唱へられる「現神」云云といふ天皇の御稱號に於いては、オホヤシマグニシロシメスといふ一定した語があり、それが「御宇」とも「大八島國(洲)所知」とも書かれてゐたけれども、其の他の場合には、アメノシタシロシメスといふ語も用ゐられ、それがまた「御宇」とも書かれたのではあるまいか。それで、余は書紀編纂の時代に於いても「御宇」の文字のあてられた國語には、上記の二つがあつたらうと推測するのである。たゞ其の本末前後を考へると、オホヤシマグニシロシメ(321)スにあてられたのが本であり前であつて、後にアメノシタシロシメスにも適用せられたのであり、用例の多寡からいつても前者が多く後者が少い。公式令には「明神御宇天皇」と「明神大八洲天皇」と二樣の書きかたが列記してあるから、御宇はオホヤシマグニシロシメスの語にあてられたのではないやうにも見えるが、これは書式であり文字のかきかたであるから、同じ語が文字を異にして書かれたものと解して支障は無からう。續紀に記されてゐる宣命に於いては、上に引いた例にょつても知られる如く「大八島國所知」と「御字」とが同じ語であるべき場合の多いことを參考すべきである。宣命に「御宇」とも「大八島國所知」ともなつてゐるのは、必しも公式令の規定のやうな意味で書きわけてあるには限らないが、文字のちがひが國語のちがひでないことの證にはなる。(公式令には宣命に常に見える「倭根子」の語が無く、また宣命には僅少の除外例はあるが概ね「現神」の文字が用ゐてあるのに、令には「明神」としてある。此の間の關係をどう考へるかは一つの問題である。)
 話がひどくわきみちへ入つたやうであるが、神代紀の注の「一書」に見える「御宇」もしくは「御宇宙」の文字にあてられた國語についての上記の考説は、これで證明せられたであらう。が、二つの語の何れであるにしても、此の文字は適切でない。當時の學者は或は、御宇の文字がシナの帝王に關して記されてゐるのを見、それをすぐに天下を統治する意義であると解してオホヤシマグニシロシメス又はアメノシタシロシメスの語を寫すに用ゐ、書紀の編者もまたそれに從つたのであらうか。さすれば、それには理由があるが、本文の「君臨宇宙」はさういふ成語とは違ふから、これについては、上記の如く考へられるのである。なほ此の語の用ゐてある本文に、上にも引いた如く、「六合之内」の文字のあることも、之に關聯して注意せらるべきである。これはほゞ宇宙と同義になるからである。國語には、(322)宇宙と同じく、それに當るものが無く、普通にアメツチノアヒダと訓んでゐるのも精密には當つてゐないが、宇宙をアメノシタと訓むよりは幾らかましであらう、石戸がくれの條にも「六合之内常闇」云々とあるが、これもまた古事記に「高天原皆暗、葦原中國悉闇、」と政治的意義のある語が用ゐてあるのとは違ひ、日の神を太陽神として斯う書いたのである。だから、此の六合をクこと訓むのは、やはり筆者の意ではあるまい。神武紀の卷首の詔勅にも「六合之中心」の語があり、また大和平定の後のには「兼六合以開都」といふ句が用ゐてあるが、この後の方のは王延壽の魯靈光殿賦の「廓宇宙而作京」によつてそれを少しく書きかへたものであるから、文字の上では六合を宇宙と同じ意義に用ゐたものらしく、從つて前の方のもそれと同じであらうかと思はれるが、この二つの場合の「六合」は、文字を離れた全體の意義からいへば、クニと訓んでも支障は無い。これは、天子の領土を天下と稱して世界の全體と考へ、更に進んではそれを宇宙にも及ぼしたシナ思想と、シナ人に特有な誇張した筆法とが、學ばれたものだからである。同じ文字も場合によつて異なつた意義に用ゐられてゐることを知らねばならぬ。
 天の字がシナ思想によつて書かれてゐたことの最も著しい例は、スサノヲの命の昇天の條のはじめの部分に見えるイサナキの命に關する一節のうちに「登天報命」とあるそれである。此の一節が、内容に於いても文體に於ても、前後の部分とは全く連絡が無く、シナ思想に基づいて書かれた漢文であり、書紀の編者がもとからあつた物語の中間に插入したものであるといふことは、第三篇に説いて置いた。またこれは、古事記や書紀の注の第一の「一書」に見える如くイサナキ・イサナミの命の國産みが天の神から命ぜられたものであるといふ新しく案出せられた話には相應ずるところがあるが、さういふことの記してない、即ち比較的もとの姿の保たれてゐる、書紀の本文の思想とは一致しな(323)いものである。書紀の本文からいふと「登天報命」はあるべからざることである。此の一節は書紀の國うみの物語の本文とは無關係に、古事記などに見えるやうな説に從つて、考案せられたものであることが、これによつて知られる。さうして、上に述べた如く古事記などの天の神はシナ思想の所産である。だから、上記の「天」は國土としての高天原として見るべきものではない。またイサナキの命の留まつた日之少宮といふのも、天にいろ/\の神の宮があるといふ道教の思想に由來があるらしい。ミコトの語に尊の字をあてることが道教の神の稱呼を學んだものであることを參考すれば、此の推測に誤は無からう。(道教の此の思想は、シナ思想としても起源の異なる種々の分子が混和して形成せられたものであるが、其の外にインドの諸天の説に由來するところもあるらしい。しかし當時の日本人には、單にシナ思想として受取られてゐたであらう。)登天報命といふことと天上の宮に宅るといふこととは、共にシナ思想にもとづいたものながら、シナ思想としては本來互に無關係なことであるのを、こゝでは其の二つを結びつけたのである。日之少宮の名は、多分、日の神の宮といふものの天に存在することを豫想した上で、其の少宮、即ちワカミヤ、といふ意義の名としてつけられたものであらうが、ワカは新しいといふことであるから、ワカミヤは新宮の義であるらしい。しかし日の神の宮があるといふことは、神代の物語の本來の思想ではない。現に記紀に於いては高天原の國土に日の神の宮殿があつたといふことは全く語られてゐず*、此の點に於いて皇祖神たる日の神に太陽神の性質が保たれてゐる。日の神の隱れたところが石窟となつてゐるのも此の故であつて、物語の結構の上から隱れる場所を作らねばならなかつたが、それを人工の宮殿とせず自然の石窟としたところに、太陽神の性質を損ねないやうにした作者の意圖が見える。だから、高天原に日の神の宮がある*といふのは、高天原そのものの性質に違背し神代史の精神と矛盾する(324)ものである。けれども書紀の編纂時代になると、シナ傳來の知識に誘はれて、さういふことが考へられても來たのであらう。たゞ書紀の編者は、日の神の宮があるやうに在來の神代の物語を書き改めはしなかつた。しかし、イサナキの命の昇天は全く新しい説話であるから、日之少宮の名が作り加へ得られたのであらう。(古語拾遺の石戸がくれの物語の條には高天原に宮殿を作らせた話があるが、これはこの書の第七篇「古語拾遺の研究」に於いて説く如く、宮殿建築に關與する忌部氏の職掌から附加せられたことであつて、もとからの話ではない。また此の宮殿は物語そのものに於いても意味の無いものである。なほ、書紀の國ゆづりの條の注の第二の「一書」に「天日隅宮」の話があるが、それに關聯して天安河や天高市の名が記されてゐるから、ふと讀むと、これは高天原の宮殿のやうに思はれるかも知れぬ。しかし、此の宮はオホナムチの命の住居として作られた明白に地上のものであり、天の語は美稱として加へられたに過ぎぬ。大祓の祝詞に「天つ祝詞」といふ語があるやうに、單なる美稱として天の語の用ゐられた場合があるのである。天安河や天高市も、この物語に於いては、天日隅宮と同じく、地上にある河や市の名として用ゐられてゐるが、それは、高天原やそこのタカミムスビの命と交渉があるやうに語られたために、或は又た八十萬神といふやうな語が用ゐられたために、生じた思想の混亂の故であらう。此の「一書」は晩出のものであつて、全體に新しい考が多く含まれてゐ、オホモノヌシの命について「昇天」といふやうな語も用ゐてあるし、上にも引いた如く、ホノニニギの命の天降りについても「復還於天」と書いてあつて、それらにもシナ思想の天の觀念がはたらいてゐるかと思はれるが、天日隅宮については、斯う解しなければならぬ。)
 さて、天の字がシナ思想によつて書かれた場合があるとすれば、それに縁のある熟字が用ゐられてゐるのも當然で(325)ある。神代の部分ではないが、神武紀のはじめに「火瓊々杵尊、闢天關、披雲路、」とあるのも、其の一つである。シナ人は天に登るに關門があると考へてゐたので、所謂「天關」がそれであが、書紀の編者はそれをホノニニギの命の天降りを形容するために利用したのである。だから、それをアマノイハトと訓むのは當らない。もし強ひて國語で訓まうとならば、アマノトとでもいふべきであらうが、此の文の記者は多分さういふ風に國語化して讀むつもりで書いたのではなからう。もつとも、神代紀の天降りの條の注の第四の「一書」に「引開天磐戸、排分天八重雲、」とあつて、これは國語を直譯したものに違ひないから、書紀編纂の時にも斯う書いてあつた舊辭の一本があつたらしい。しかし、高天原そのものを閉ぢる磐戸があつたといふことは、高天原の性質に背くものであるから、これは書紀の本文及び注の第一の「一書」にも、また古事記にも、見える如く、もと「離天磐座、排分八重雲、」などとあつたのを、石戸がくれの説話にある天磐戸との聯想によつて、磐座が磐戸に變化したものである。上にも引いた萬葉二の卷の人麻呂の歌に天武天皇の崩御を形容して「天の原岩戸を開き神登りいましにしかば」といつてあるが、これは、人の死が、埋葬の方式から、「石がくり」とか「石戸たてこもる」とかいはれてゐる例によつて、石戸を開いて其の中に入るといひ、さうしてそれと共に、シナ思想に於いて死せる帝王の靈が天にあると考へられたところから、それによつて天の原に上るといひ、此の二つが結合せられたものであらう。だから、これはホノニニギの命の天降りの場合とは意味が違ひ、また一般には適用せられないことである。(こゝに「天の原」とあるのは神代の物語の高天原をさしたのではない。たゞ歌の上でそれが聯想せられてゐるのみである。)神武紀の天關はこれらとは關係が無く、純然たるシナの成語を用ゐたのである。同じ文の中に「天業」といふ語もあるが、これは文選の用語例によると天子の事業といふ意(326)義であるらしいから、舊訓の如くアマツヒツギとかアマツヒツギノワザとかいふやうな訓をつけるべきものではない(崇神紀卷首の天業も同樣である)。辛酉の年の條に見える「天基」もまたアマツヒツギと訓まれてゐるが、基業といふ語が天香山の話の條に用ゐてあるところから考へると、これもまた天業と同じ意義であらう。(繼體紀元年及び七年の條に「承天緒」とある「天緒」もまた舊訓にアマツヒツギとなつてゐるが、これも文選に見えてゐる成語であつて、天子の緒業といふことであらうと思はれるから、もとの意義では、やはり御位をいふのではない。しかし、これは書紀の編者が御位の意義に轉用したのかも知れぬ。)神武紀にはまたニギハヤビの命の條に「天表」といふ文字があるが、これは宋書符瑞志では天子たる相といふ義に用ゐられた語である。こゝでは天孫たることを證する物品を指してゐるから、アマツシルシといふ訓をつけたことに一應の理由はあるが、本來かういふ國語があつてそれを此の字をかりて寫したのではなく、文字によつてかういふ訓がつけられたのであらう。戊午の年の條の「天道」をアメノミチと訓むのも同じやうな直譯であつて、上代日本人の思想としては無意味な語である。(繼體紀二十一年及び天智紀十年の條の「天罰」をアマツツミとしてあるのは、全くあてはまらない訓であつて、これは天の罰といふ義である。雄略紀二十三年の條の「天意」をアマツミココロと訓むのもまた當つてゐない。これらはみなシナの成語であるが、それらをかう訓んだのは、原語の意義を解しなかつたためであるのみならず、シナ思想に於ける天の意義をも知らなかつたのであつて、たゞ天の文字によつてそれをアメと訓み、それによつて更に或は罰といふ文字に縁のある國語の成語を附會し、或は意といふ文字を直譯してそれに結びつけたのである。天の字を含む熟字の訓であるためにこゝに附記する。)それから、大和平定の後の令といふものに「頼以皇天之威」とある「皇天」をアメノカミと訓み習(327)はしてゐるが、皇天は天をいふのであるから、シナの成語としては此の訓は當らぬ。たゞ天つ神の力によつて戰に勝たれたといふ大和平定の話の筋に對照して考へると、さう訓むことに一つの理由は無いでもないが、古語成句を補綴した純然たる漢文である此の令の全文の書きかたから考へると、書紀の筆者はたゞシナの成語を適用したまでのことであるらしいから、やはり此の訓は誤であらう。(この令の文章については、この篇の附録「掩八紘而爲宇」についての考説參照。)またニギハヤビの命に關する話に「不可教以天人之際」といふ一句があつて、其の「天人之際」をキミタミノアヒダと訓んでゐるが、これも正しくない。これは易や陰陽や歴數などの思想に耽溺してゐた漢代の儒者の常套語であつて、神秘的性質を帶びた天と人との關係をいふのであるから、こゝでもまたナガスネヒコが自己の運命をさとらぬといふやうな意義で用ゐられたのであらう。上記の訓は天人の語を譬喩的表現と見て君臣の分といふ義に解したのであらうが、それにしてもキミに對してはタミ(民)といふべきでなく、寧ろオミ(臣)とすべきである。のみならず、かういふ解釋そのものが當つてゐるらしくは思はれぬ。(孝コ紀大化二年の條の皇太子の上奏にある「天人合應」をアメモヒトモコタヘテと訓むのもまた此の語の意義を解せざるものであつて、これは天と人とが合一し感應することをいつたものである。また繼體紀元年の條の「天生黎庶」をアメヨリ云々と訓むのが誤であることはいふまでもない。これらは何れもシナ思想を解しないからの誤つた訓みかたである。或はまた皇極紀四年の入鹿の語といふものに「天宗」とあるのを普通本にキムタチと訓んであるのも、妥當ではない。これは書紀の編者の造語であるかと思はれるので、その意義は天つ神の系統の家といふことのやうであるが、語の形が漢語風になつてゐるから、こゝに附記しておく。ついでにいふ。こゝの入鹿の語には生硬な譯語があるので「天之子」もその一つである。これはア(328)マツカミノミコとあつたのをかう書いたものらしい。天子といふ稱呼を想ひ出してのことかも知れぬが、あたらぬ書きかたである。「日位」とあるのはアマツヒツギの語にあてたものかと思はれるが、これもまたふさはしからぬ譯しかたである。訓みかたではなくして書きかたのことであるが、書紀にはかういふものもある。)
 天に關係のある種々の熟字を考へたついでに、クニの語が漢譯せられて天下の字がそれにあてられたことを一言して置かう。スサノヲの命の出雲の物語の條の第五の「一書」に、オホナムチの命がスクナヒコナの命と共に「戮力一心、經營天下、」したと書いてあるが、これは古事記に「二柱神相並作堅此國」とあるのに對應するものであつて、現に此のことの説いてある一節の初には、オホナムチの命の名に「國作り」の語が加へてあり、彼の方にも「吾等所造之國」云々に始まるスクナヒコナの命との對話が載せてある。またスクナヒコナの命が去つた後のオホナムチの命の語に「其可與吾共理天下者、蓋有之乎、」といふことがあるが、これも古事記に「孰神與吾能相作此國耶」とあるのに對應するものであり、さうしてまた其の前には「國中所未成」をオホナムチの命が獨り巡り造つたと記され、其の後には海を照らして來たものの語として「汝何能平此國乎」といふことが記してある。これで見ると、書紀に「天下」の字を用ゐてあるのは、舊辭の此の「一書」の原文には「國」とあつたのを書きかへたものであることが推測せられる。天下はいふまでもなくシナの成語であつて、國語にはそれに當るものが無く、アメノシタといふのは其の直譯に過ぎないが、天子の領土として政治的意義に於いていはれる限り、國語のクニがほゞそれに近い意義を有する(天下といふ語の固有の意義は別問題として)。大八島國といふ場合のクニの語の如く、政治的に統一せられた國土の全體をもクニといつてゐたからである。しかし漢文としては國の字が天子の領土の全體をさすことにはならぬから、それ(329)を「天下」と書きかへ、たゞ「國作り」といふやうな特殊の語、または漢文化し難い語句に含まれてゐるものを、もとのまゝに「國」として置いたのが、此の一節の書きかたであらう。だから、こゝでは「天下」をクニと訓んでもよく、むしろ其の方が前後に「國」とあるのに調和しまた舊辭の原文とも一致する。それは、上文に述べた如く、地の字をクニと訓むべき場合があるのと同じである。
 しかし、書紀の編者がこゝに天下の字を用ゐたことには、別に理由があるかも知れぬ。クニは政治的に統一せられた國土の全體をさす語であると共に、地方的政治區劃の稱呼でもあるから、後にもいふ如く、其の間に意義の轉化が生じ易いが、天下と書けば其の意義が前者に限定せられる。此の一節に記してある物語についていふと、オホクニヌシの神は、本來、出雲の國の宗教的信仰の中心である杵築の神社の祭神の名として作られたものであり、さうしてそれは、出雲の政治的勢力を表徴する人物として神代の物語に現はれてゐるオホナムチの命と結合せられたのであるが、オホナムチの命が物語の上で日本の全國を領有したやうに説かれるにつれて、オホクニヌシの神もまた全國民の崇拜する神であるが如く考へられるやうになる。が、それは出雲といふ地方的區劃をさしてゐるクニの語が統一的國土の全體の稱呼でもあることによつて、助けられてゐるに違ひない。大化改新の後に、地方的政治區劃としての國に於いて新に其の國の神として祀られることになつた國々のクニダマの神は、出雲の國に於いてはおのづからオホクニヌシの神が其の地位を占めることになつたはずであるが、それが神代の物語に取入れられてウツシの語が加へられウツシクニダマの神とせられたのは、クニダマといふ其の名がうつし國の全體の神である如き感を與へるからであつたと思はれることを、參考すべきである。さて古事記に於いては、オホナムチの命がスクナヒコナの命と共に作り堅めたと(330)いふ其の國は、三諸山の話のあることから見ただけでも、日本全國をさしてゐるはずであるが、命の行動が出雲でのこととのみなつてゐるから、敍事の上ではそれが明かにせられてゐない。これはオホナムチの命の上記の性質から來たことである。ところが書紀の注の「一書」にはスクナヒコナの命の去つた後のことを敍して「國中所未成者、大己貴神獨能巡造、遂到出雲國、」といひ、さうしてオホナムチの命のことばとして葦原中國の強暴なものを盡く和順させたといふことが記してあるし、また此の書きかたからいふと、スクナヒコナの命の去らない前には二人の命たちは相伴つて日本全國を「巡造」したことになるはずであるから、其の點が明かになつてゐる。(スクナヒコナの命が常世の國に向つて去つたといふ熊野のみ崎または淡島が出雲の國の土地として考へられてゐないことは、此の書きかたからも知られる。オホナムチの命がはじめてスクナヒコナの命を得たのは出雲でのこととしてあるが、それから後には相伴つて各地を「巡造」し、スクナヒコナの命は其の途中で常世の國に去つたといふのである。余は第三篇に於いて熊野は紀伊の此の名の地、淡島は瀬戸内海のそれを思ひ浮かべて書かれたのであらうといつて置いたが、今かう考へて見ると、それに誤が無ささうである。)さすれば、二人の命たちの作り堅めたといふ國を天下と書き改めたのは、此の説話の精神に適合するものといふことができる。けれども、すべてをさう書かなかつたところに、書紀の編者の舊辭を取扱つた態度が見えるのである。
 なほ天下の語は日の神の生誕の説話にも用ゐられてゐるので、上にも言及した如く、書紀の本文には「天下之王者」を生まうといふことがある。これは明白に日神を皇祖神として、皇室の地位をそれに反映させたものであり、所謂「天下しは日本の國土の全體をいふのであるが、天下の文字を用ゐたのは、シナ思想による天子の領土の稱呼をあて(331)はめたに過ぎない。こゝの文は舊辭から譯出せられたものではなく、書紀の編者の筆になつたものであらう。ところが、注の第六の「一書」に日月二神の高天原と滄海原潮之八百重とに對して、スサノヲの命の治らすべきところを天下としてあるのは、舊辭に用ゐてあつた國語、それは多分、大八島國か葦原中國か、を書きかへたものと推測せられる。舊辭の異本が多く現はれたところには、既に漢語がかなりに行はれてゐたはずであるから、此の「一書」の原文に既に天下の字が用ゐてあつたと考へられなくもないやうであるが、前の二つが國語であることから考へても、此の「一書」の全體の書きかたから見ても、それは無理であらう。
 其の他、天地といふ熟字の用ゐてある場合についても、考ふべきことがいろ/\ある。其の一つは、ホノニニギの命の天降りの條の注の第一の「一書」に見える「與天壤無窮」の語である。天壤は天地と同じ意義であるが、天地を長久とし無窮とすることは、世界の終末、もしくは其の壞滅と再生との循環、といふやうなことを考へなかつたシナ人に特有な思想である。此のことは日本の學者にも知られてゐたらしく、經國集に見える延暦年間の策問に、天地の有始無終をいふ儒家の説と世界の遞成遞壞をいふ釋氏の教との優劣異同を論ぜよといふのがある。これは書紀の編纂よりはかなりの時を經た後の話であるが、シナ思想とインド思想との間に違つた考へかたがあるといふことは、シナの典籍に記してあるところと佛家の教説とを一と通り領解してゐたものには、早くからわかつてゐたらうと思はれる。が、それはともかくも、天地が長久であるといふことは、漢文に習熟してゐたものには一般に知られてゐた思想であるので、古事記の仲哀の卷にも「共與天地無退仕奉」といふ語を新羅王の言として記してあり、少し時代は後になるが、慶雲四年の宣命にも「與天地共長」の語があるほどであるから、この「一書」に斯う書いてあるのは怪しむ(332)に足らぬ。(孝コ紀大化二年の詔勅にも「共天地長往」とあるが、これは「隨日月遠流」と對句になつてゐるところに漢文風の修飾の加はつてゐる形迹が明かに見えるから、此の語が原文にあつたかどうかは確言しかねる。しかし「天地と與に終へむと」とか「天地のいや遠長く」とかいふやうな語が、萬葉の人麻呂もしくはそれと同じ時代の作者の歌にあるのを見ると、其のころにはかういふことがいひ習はされてゐたらしく、さうして「天地日月と共に」といふ語もまた人麻呂の歌にある。だから、少し時代は早いが上記の孝コ天皇の詔勅に於いても、書紀の記載とは違つたいひかたで天地と共に長久なることをいつたところが原文にあつたかも知れぬ。「天地の遠きが如く日月の長きが如く」といふ語が赤人の歌にあるが、これも漢語風のいひかたであらう。)たゞ問題は、此の「與天壤無窮」の語が「一書」として書紀の注にとられてゐる舊辭の此の本に既に記してあつたのか、又は書紀の編者がそれを新に書き加へたのかといふ點にある。天地といふ熟語は、舊辭の記載が其のまゝ取られてゐるはずの古事記の卷首にも明記してあり、上にもいつた如く仲哀の卷には天地と共に變らぬといふ意義のことさへ見えてゐるから、舊辭の一本に既にかう書いてあつたとしても支障は無く、特に此の本は、第三篇に述べた如く、新しい時代の増補を經たものであるから、なほさらさう解せられるやうでもある。此の語を含んでゐる一節の始めの部分に「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也、」と書いてあるのは、古事記のこゝの條に「此豐葦原水穗國者汝將知國」とあり、また別のところに「葦原中國者我御子所知國」とあるのを見ると、それと同じやうな語を漢文化したものに違ひない。國語のまゝにしてある瑞穗國の國の名と、「可王之地也」といふやうな漢文に譯したところとが混合してゐるのも、此の故である。此の「一書」の始めの方にも「豐葦原中國、是吾兒可王之地也、」とあるが、これもまた同樣であらう。(これらの場合にも原文の(333)クニの語が地の字で書かれてゐるが、これは主として漢文とするための修辭上の便宜から來たことであらう。)さすれば、同じ一節のこの語の用ゐてある部分もまた、編者が舊辭の原文によつてそれを漢譯したものとして、推測せられなくはないのである。しかし更に考へると、さうばかりはいひかねる。「宜爾皇孫……無窮者矣」は全體が漢文であつて、文章の上では、舊辭の文を書き改めたらしい形迹は見えず、此の點に於いて上記の一句とは趣を異にしてゐるし、國語で書いてあつた舊辭の面影が遺存してゐる前後の文とも全く調子が合はないからである。特に中間に「行矣」を插んであるのは、國語のいひかたらしくはない(これにサキクといふ訓をつけてあるのは、意味の無いことである)。さすれば、この漢文の部分は其の全體が書紀の編者の修補とすべきではあるまいか。此の本と種々の點に於いて同じ記載の多い古事記の此の條には、上に引いた一句のみあつて、此の部分に對應すべき語の無いことも、また參考せられよう。さうして、漢文で書かれた此の部分のこゝに補はれたのは、やはり莊重にこのことを記さうとしたからではあるまいか。たゞ思想としては、寶祚を遠き過去の神の代に始まつたとするにとゞまらず、無窮の未来にかけて其の隆盛を説いたところに、神代史の精神が一層強められ一層明かにせられてゐる。本文ではなく「一書」として採録注記せられたものに於いてではあるが、其の書きかへを擔任した編者にかういふ意圖があつたと考へられるのである。從つて「是吾子孫可王之地」はアガミコノシラサムクニの語を譯したものと解し得られるけれども、其の次からは上代の國語で讀むことは困難である。
 書紀には天地といふ熟字が數用ゐられてゐるのみならず、天と地とを、又は此の二つのそれ/\に從屬するものを、對稱的に連記してある場合があるので、其の最も重要なるものは天神地祇の語である。神代紀には無いが神武紀(334)にそれがあり、崇神紀神功紀及びずつと後の天智天武持銃の諸紀にも見えてゐる。これはいふまでもなくシナの成語であつて、天の神を神といひ地の神を祇といふ特殊の稱呼から來てゐる。だから、神祇とのみいつてもそれと同じ意義になるのであるが、此の文字もまた神武紀崇神紀を始として書紀の所々に記されてゐる。神祇令にも神祇官の祭祀の對象を天神地祇と書いてあるが、神祇令神祇官の「神祇」の語は即ち天神地祇をいふのである。令が制定せられ書紀が編纂せられたころには、一般に此の語が學者の間に用ゐられてゐたのであらう。古事記の崇神の卷にも「天神地祇之社」といふことがあるが、此のことの記されてゐる一節は、そこに「天下平、人民榮、」とか「國家安平」とかいふやうな漢語のあるのを見ても、古事記のもとになつた舊辭に於いては、最も後れた時代に潤色せられた部分であることが知られるから、これもまた、令の立案制定せられたころになつて舊辭に書き加へられたものと解せられる。さすれば、仲哀の卷の「天神地祇」もまた同樣であらう。さて天神地祇の稱呼は、人鬼と共に、帝王の祭祀するものとして、前漢末の作である「周禮」に見えてゐるので、そこでは、天神は昊天上帝を主として日月星辰風師雨師などをも含むものとしてあり、地祇は社稷や山林川澤の神などを指してゐるやうであるが、漢書の郊祀志によると地祇は皇天に對していふ后土の稱として用ゐられてもゐた。さすれば、天神と地祇とは、神としての天そのもの地そのものが主であつて、それに天上及び地上にあるとせられた神々がそれ/\分屬してゐるのであるが、單に祭祀の對象としての神々が天と地とに區別せられたのみではなく、祭祀の儀禮がそれによつて異なるとせられてゐた。漢より後の歴代の王朝は、其の所謂禮をかういふ儒家の説によつて定めたため、我が國の制度の模範となつた唐に於いても、またそれが踏襲せられたが、たゞ天神地祇に如何なる神々が含まれるかについては、典籍により時代によつて幾らかづつの(335)變つた見解、變つた規定が生じてゐる。
 ところで、かういふ意義を有する天神地祇の稱呼が用ゐてある日本の令の規定でも、書紀の記載でも、それが皇室もしくは朝延の祭祀に關していはれてゐる點に於いては、シナ思想を繼承したものであるが、祈?祭祀の對象としての神の性質はシナの帝王の儀禮に於ける神祇とは違ふから、これはたゞシナの成語を強ひてあてはめたものに過ぎない。第一、朝廷に於いて天の神の祭祀といふものは行はれず、天の神と稱すべきものすらも殆ど無かつたのである。日本の民族が天そのものを神としたことは固より無く、上帝に比すべき神をも有たなかつたから、朝廷に於いてもさういふ神の祭られたはずがないことは、いふまでもあるまい。上代人の一般の信仰として日は崇拜せられたに違ひなく、朝廷に於いても大化以前には日祀部といふ部司があつたことを思ふと、それに關する何等かの儀禮が行はれてゐたであらうが、神祇官の祭祀にはそれを繼承したものと見なすべきことが無いから、大化以後にはそれも廢れたやうであり、さうしてアマテラス大神は、日そのもの、即ち太陽神、としてよりは、皇祖神として祭られたのである。月も民間信仰としては神とせられてゐたかも知れぬが、朝廷の儀禮としては月の神の祭祀があつたやうには見えぬ。顯宗紀に月の神の託宣のことが記されてゐて、それは書紀編纂のころに月の神が朝廷の祭祀をうけてゐたことを示すもののやうに見えるかも知れぬが、これは月そのもののことではなく、壹岐の或る神社の神に月の神、それは多分神代史上のツクヨミの命、の名が與へられたものに過ぎなからう。其の託宣の語に「我祖高皇産靈」云々とあるのでもそれは知られるので、月そのものならば、かういふことが無いはずである。神名帳に見える所々の月讀神社が同じ例であるべきことを參考しなければならぬ。(顯宗紀の日の神もまた月の神と同樣である。)なほ民間信仰に於いて星を神と(336)して崇拜した形迹は全く見えず、農業を生活の基礎としながら、天に雨の神があるといふやうなことも考へられなかつた。雷は民間に於いては神とせられたやうであるが、それも天の神として祭られたかどうかは疑はしい。雷を祭つた神社はあつたらしいが、それは落雷の場所に於いてではなかつたらうかと臆測せられる。さうして朝廷の祭祀とても、かういふ一般の信仰の基礎の上に立てられたものであるとすれば、天の神の祭祀といふべきものが殆ど無かつたことはおのづから推測せられるので、現に神祇令の規定にもさういふことは見えず、またそれは、大體に於いて古くからの習慣の相承せられたものと見なされる。
 もつとも、朝廷で作られ或は朝廷を中心とする知識社會によつて潤色せられた神代史では、例へば風の神、火の神、水の神、といふやうな神にそれ/\の職能があるものとせられ、またそれに人に擬せられた名がつけてあるので、其の點に於いて多神教的形相がほゞ成立つてゐるやうにも見え、そこに、精靈もしくは靈物が神として崇拜せられ、また所々の神社の神が多くは何ごとの所願をもうけてゐた民間信仰とは、やゝ違つた趣があるが、しかし神代史に於いても、神の職能はたゞ名によつて知られるのみであり、人に擬せられた名がついてゐても、人の形と性質とが明かに與へられてはゐないから、多神教的形相は、實は、ほんとうには成立つてゐないといはねばならぬ。さうして、朝廷の祭祀の儀禮は、いくらかは神代史に語られてゐる神の名によつて行はれてもゐたが、それにしても、民間信仰と種々の點に於いて結びつけられてゐるから、神代史の思想と朝廷の祭祀の儀禮とには一致しない點がある。例へば神代史に於いては、ウカノミタマ、ウケモチ、トヨウケヒメ、などと名づけられた穀物の神、またはミトシの神とかオホトシの神とかいふものがあるにもかゝはらず、祈年祭はさういふ特殊の職能の無い多くの神社の神に對しても行はれた類(337)が、それである。神代史には風の神としてシナツヒコの神があるのに、祭祀の上で風の神とせられた龍田の神には此の名の與へられてゐないのも、同じ例であらう。ところが、天の神については、神代史の上でも宗教的意義に於いて明かにさう見なすべき神は、日そのものとしての日の神(或はそれと月と)の外には無く、朝廷の祭祀の對象としての天の神に至つては殆どそれが無かつたのである。アメノミナカヌシの神の如くシナ思想に由來のある天の神が神代史に現はれてはゐるが、それは宗教的に崇拜せられるやうにはならなかつた。同じやうにして現はれたタカミムスビの神、カミミムスビの神は、後には宮中の八神のうちに加へられ、宗教的意義に於ける神としての性質を與へられるやうにもなつたが、其の場合には天の神としてではなかつたらしく、それは其の他のものが天とは何の關係も無いこの八神の列に入つてゐることからも、推測せられる。要するに、朝廷に於いて祭られる神にはシナ思想に於ける天神の觀念にあてはまるものは殆ど認められない。
 地の神についてもほゞ同樣のことが考へられるので、第一、后土に比すべきものの無かつたことはいふまでもない。神代史に記されてゐる山の神とか野の神とかは、其の性質上、地祇にあて得られるものではあるが、朝廷では山の神や野の神としてそれを祭つたことはない。だから、少くとも朝廷の儀禮としては、地祇とすべきものもまた無かつたといつてよい。神祇官では各地の主要なる神社の祭神に幣帛を供したので、それらの神社は概ね地方的村落的集團の祭祀を行ふところであり、其の神の多くはそれ/\の場所に存在する精靈ともいふべきものであつたから、一般的には地上の神といふことはできようが、天神に對する意義での地祇とすべきではない。たゞ「日本上代史の研究」第一篇に於いて考へてある如く、宮中の祭神であるイククニ・タルクニの神が唐の「神州」に思想上の由來があるとする(338)ならば、其の意味ではこれは地祇とすべきものであらうが、既に宮中の祭神とせられた上は、それに他の神々と區別せらるべき何等の特色も無い。
 儀禮の上から考へても同樣である。種々の神が朝廷で祭られたけれども、シナの帝王の祭祀に於けるが如く、儀禮によつて區別せらるべき天神と地祇とがあつたのではない。またそれらの祭祀の儀禮に皇室の特權とせられたものがあつたのでもない。宮中の祭神とても、シナに於いて帝王のみの祭るべきものとなつてゐる皇天后土の如きものとは、全く性質が違ふ。だから、令などに天神地祇の語の用ゐられたのは、たゞさういふシナの成語を無意味に適用したに過ぎないものであり、書紀や古事記に於いてもまた同樣である。古事記の仲哀の卷の「天神地祇亦山神及河海之諸神」、また欽明紀十三年の條の「天地社稷百八十神」の如く、奇異な書きかたのしてあるのを見ても、當時の文筆に從事したものがどういふ風にシナの成語を取扱つたかを、知ることができよう。神武紀の「郊祀天神」もまた此の類であるが、たゞこれには「郊祀」といふ文字が用ゐてある點に於いて、シナの帝王の祭祀の記事を模倣しようとした特殊の態度が現はれてゐる。また書紀に單に神祇とのみ書いてある場合は、多くはたゞ神といふのと同じ意義に用ゐられたに過ぎなからう。
 天神地祇の文字はかういふやうにして用ゐられたのであるが、和銅元年の宣命に「天坐神地坐祇」の語があるのを見ると、其の頃には此の文字をアメニイマスカミ・クニニイマスカミと訓んだらしい。上に述べた如くクニの語に地の字をあてる場合があつたのと、アメに對してはクニといひならはしてゐたのとで、かうよまれたのであらう。(天平元年の改元の宣命及び天平勝寶元年の宣命には「天坐神地坐神」としてあるが、地の方の「神」は多分「祇」の誤(339)寫であらう。天平寶字二年及び寶龜元年の宣命には「祇」の字が用ゐてある。)この宣命にはなほ「天地の神」といふ文字があるが、これは多分アメツチノカミの語を寫したものであらう。「天地之心」とも見えてゐて、それがアメツチノココロであるべきことからも、さう類推せられる。天神地祇はシナの成語であり「天地之神」はシナ思想に本づいて作られた國語を寫したものであるから、同じ地の字にあてられた國語が一はクニ他はツチであつても、怪しむべきではなからう。但し萬葉の五の卷の山上憶良の作らしい「戀男子名古日歌」に「天神仰ぎこひのみ地祇ふしてぬかづき」とある天神と地祇とは如何なる語にあてて書かれたのであるか、問題である。これは音數の上から上記の宣命の如くは訓み得られないからである。普通にはアマツカミ及びクニツカミと訓まれてゐて、從來それについての異説は無いやうであるが、しかし宣命の語に對照して考へると、或はアメノカミとクニノカミとであつたかも知れぬ。アマツカミ・クニツカミもアメノカミ・クニノカミも同じことのやうではあるが、前者は特殊の意義を有する一定の稱呼であるのに、後者はたゞアメもしくはクニにいます神といふだけの意義に解せられるから、そこに二つの語の差異がある。ツとノとのすべての場合に此の差異があるのではなく、またアマツヒツギが萬葉の十八、十九、二十、の卷々に見える家持などの歌にアメノヒツギとしてある如く、後になつて用ゐかたの轉化した例もあるが、アマツカミ・クニツカミについてはかう考へられる。(四の卷の笠金村の歌に「天地神祇」とあるのは、句の形から見てアメツチノカミであつて、大伴駿河麻呂の歌に「天地之神祇」とあるのと同じであらうから、これは同じ卷の石川足人の歌や上記の宣命にある「天地之神」と同じ語であり、カミの語を神祇と書いたまでである。「天地之神」の語は萬葉には所々に見えてゐる。)けれども、此の歌の作られたころには既に存在したであらうと思はれる大祓の祝詞に、天つ神と(340)國つ神とが天にいます神と地にいます神との意義に用ゐられてゐるから、天神地祇がアマツカミ・クニツカミとも訓まれてゐたと解せられぬことはない。が、天つ神國つ神の原義は天神地祇とは同じでないことを知らねばならぬ。或はまた、神武紀に「敬祭天神地祇」が「祭天社國社之神」と同じ意義に用ゐてあるのを見ると、天神地祇がアマツヤシロ・クニツヤシロノカミとも訓まれたのではないかと臆測せられもするし、現に釋紀には大化元年の條の「神祇」をアマツヤシロ・クニツヤシロと訓んであるが、神武紀では同じ意義に用ゐられたまでであつて、同じ語とせられたのではないとも考へ得られる。崇神紀に「定天社國社」とあつて、それが古事記には「定奉天神地祇之社」となつてゐるのを見ると、此の二つが同じことをいつたものであるには違ひないが、天神地祇がアマツヤシロ・クニツヤシロなどと訓まれてゐたならば、それに「之社」を添へて書かれたはずがないことをも、注意しなければならぬ。のみならず、文字もしくはことばの由來からいつても、天神地祇と天社國社とを同視することはできぬ。次にこれらのことを考へてみよう。
 舊辭に用ゐられてゐた語が其のまゝに寫し取つてあるはずの古事記に於いては、オホナムチの命の服從及びホノニニギの命の天降りの物語から後に「天神御子」の語が?現はれ、神武の卷にもそれが記されてゐる。この語の意義は天神の御子孫といふことであるが、其の指すところはオシホミミの命、ホノニニギの命、または神武天皇であり、さうしてこれらの命たちは「葦原中國は我が御子のしらさむ國」として高天原から此の國に降されるはずの、或は降された、アマテラス大神の御子孫及び其の繼承者であるから、此の語は我が國の統治者といふ特殊の内容を有するものであり、政治的意義に於いての稱呼である。また此の場合の「天神」がアマツカミの語を寫したものであり、「天神御(341)子」がアマツカミノミコといふ一つの名稱となつてゐるものであることは、文武天皇元年の宣命に「天御子隨、天坐神之依隨、此天津日嗣高御座之業、現御神、大八嶋國所知倭根子天皇命、」とある「天御子」が上記の「天神御子」と同じ意義を有する同じ語であるべきことから、明かである。さうして其の天つ神がアマテラス大神をさしてゐることも、また上に述べたところから疑が無い。オシホミミの命を天つ神のみことしてあるからである。(此の宣命の「天坐神」の語については後にいはう。)ホノニニギの命は勿論、神武天皇をも「天神御子」としてあるが、「子」の字で寫してあるコの語は廣く子孫を稱するものであるから、かう考へるに支障は無い。神武の卷に「日神之御子」とあるのも「天神御子」と同じであることを參考すべきである。これは、日に向つて進むのがよくないといふ特殊の話の場合であるがために、かういふ稱呼が用ゐられたのである。しかしコノハナサクヤ姫及びトヨタマ姫の物語に「天神御子」とある「天神」は、ホノニニギの命及びホホデミの命を指してゐるから、天つ神は、廣義には、上記の「天神御子」をも含んでゐるものと解せられる。(此の二つの物語の「天神御子」はアマツカミノミコといふ一定の意義を有する一つの名稱ではなくして、アマツカミを父として生まれる御子といふことである。)ところで、この場合のアマテラス大神は、いふまでもなく皇祖としてのであるが、それが神といはれたのは、大神の他の一面に日そのものとしての日の神の性質があるからであると共に、皇祖には現つ神であられるといふ現實の天皇の宗教的地位が反映してゐるからである。しかし、天皇の宗教的地位を示す語である現つ神のはたらきは「現つ神と大八嶋國しろしめす倭根子天皇」といふ稱號の明かに示してゐる如く、政治的に國家を統治せられることであり、從つて皇祖神の本質もまた政治的君主であられる點にあるので、神ではあられても宗教的な祈?崇拜の對象としての神で(342)はない。神代といふ稱呼に於ける「神」もまた此の意義での神であるので、神代とは皇祖神の統治せられた代といふことである。また大神を天つ神といふのは高天原に坐した神だからであらうが、高天原は大神の居所としての天上の國土、むしろ大神の皇居のあつたところであり、從つてそれは政治的意義のものであつて、宗教的性質をば有つてゐない。宗教的意義での神の住所でないことは勿論である。「天神御子」または廣義の「天神」の稱呼に含まれてゐる大神の子孫は、オシホミミの命以下、すべて其の名が某のミコトと稱せられ、決して某の神とはいはれてゐないが、これもまた人であられる政治的君主の地位から來たことである。これらの命たちは宗教的に崇拜せられる神ではなく、さういふ性質を少しももたれない。それが廣義に於いての天つ神とも稱せられるのは、アマテラス大神の子孫だからのことである。
 次に書紀を見ると、オホナムチの命の服從及びホノニニギの命の天降りの條の注の幾つもの「一書」に於いて、古事記に「天神御子」と書いてあることが「天神」、「天孫」、「皇孫」、などと記してあり、稀には「天照大神之子」、「天神之子」、ともなつてゐるし、神武紀には「天神子」といふ書きかたがしてある。古事記のホホデミの命の物語には「天神御子」の名が見えないが、書紀またはその注の「一書」には、こゝでも天孫皇孫の稱呼が用ゐてあると共に、數「天神之孫」とも書かれてゐる。古事記に對照して見れば、「天神之子」、「天神子」、「天孫」、何れもアマツカミノミコの語を寫したものに違ひなく、從つて「天神之孫」もまた同樣であることが類推せられる。普通に「子」と書かれてゐるコの語を「孫」の字でも寫し得ることは、いふまでもない。なほ「天孫」がアマツカミノミコであることは、それがホホデミの命の物語に於いて常に「天神之孫」と並記せられ同義に用ゐられてゐるのでも知られるので、此の(343)文字は本來「天神之孫」を略記したものとすべきである。さすれば、舊訓にそれをアメミマとしてあるのは妥當でない。(「天神之孫」または「天孫」の上記のよみかたは平田篤胤も既に考へてゐたことであり、書紀通釋もそれに從つてゐる。また「皇孫」のことは後にいはう。)それから、古事記のコノハナサクヤ姫及びトヨタマ姫の物語にある天神は、書紀の同じ話には天神とも天孫とも書いてある。天神としたのは古事記の此の條のと同じ意義に於いてのことであるが、其の指すところがアマツカミノミコであるところから、其の意義に於いて天孫ともしたのであらう。天孫と同じ意義に天神の語の用ゐられたことは、上記の例でも知られる。かう考へると、これらの場合に於ける書紀の天神はやはりアマツカミであり、其の意義もまた古事記のと同じであることがわからう。神武紀の「天神子」は神武天皇をさしたものであり、さうしてそれはニギハヤビの命を「天神之子」としてあるのに對して、それと區別するために書かれてゐるやうであるが、これは書きかただけのことであつて、その語は兩方ともアマツカミノミコであらう。(ニギハヤビの命をアマツカミノミコと呼んであるのは、天から降つたことになつてゐるからであつて、そのアマツカミは特に指すところがあるのではない。この命の話が後から作り加へられたものであるため、アマツカミの稱呼についてかういふ異例の用ゐかたがしてあるのであらう。)
 以上はアマツカミノミコといふ稱呼から天神と書かれた語とその意義とを考へたのであるが、古事記にはアメノワカヒコの話にたゞ天神とのみ書いてあるところがある。これはアマテラス大神とタカミムスビの命とを指してゐるのであるが、タカミムスビの命は、神代史の出雲征服の物語から後の部分に於いては、大神と同じ地位に立ち大神と共にアマツカミノミコに此の國の統治を命ぜられたことになつてゐるから、これもまた上記の意義に於いてのアマツカ(344)ミと解すべきであらう。上にも一言した如く、此の話には高天原といはずして天と記してあるが、これはシナ思想での天に生り出でたといふタカミムスビの神の本質から來たことであるかも知れず、從つてこゝの「天神」にも別の意義があるのではないかと考へられもするが、これから後のタカミムスビの命は其の本來の性質を失つて大神と同心一體になり、いはば大神と共に皇祖の地位を占めてゐるのであるから、神代史の後半に於いて此の命が現はれたのは、むしろ其の性質が變化して上記の意義でのアマツカミとなつたことを示すものと見るべきである。書紀に於いても、其の注の「一書」の同じ話、また本文のオホナムチの命の服從の物語に見える天神、及び神武紀の卷首に天祖と、ニギハヤビの命の條に天孫と、對照してある天神、また夢の告げの話に現はれてゐる天神も、やはりアマツカミとしての大神及びタカミムスビの命を指してゐることが、それらの物語の全體の書きかたの上から知られるのみならず、神武紀の卷首には明白にさう記してある。孝コ紀の大化元年八月の詔勅に「隨天神之所奉寄、方今始將修萬國、」とある「天神」もまた、それを神代史の上記の物語と對照して解する限り、同じ意義でのアマツカミとすべきであらうが、たゞしこの語がそれほどにこの物語と關係をもつものとして用ゐられたかどうかは問題であり、また記紀のこの物語に見えるタカミムスビの命に關する部分が大化のころ既にこのやうな形になつてゐたかどうかも明かでないから、これは或はアマテラス大神のみのことであるかもしれぬ。なほ書紀には、スサノヲの命の八頭蛇の物語及び注の「一書」のスクナヒコナの命の話に天神の語が用ゐてあるが、前者は、古事記にアマテラス大神と記してあるのを見ると、それをかう書きかへたものであることが推測せられる。また後者は、タカミムスビの命と關聯して記されてゐるが、此の場合の此の命が千五百座の子どもの父、スクナヒコナの命の父としてあるのを考へると、後の時代の思想によ(345)つて作られた話であることが知られるから、この天神の文字もまたタカミムスビの命が上記の意義でアマツカミといはれるやうになつてから書かれたのであらう。もつともスクナヒコナの命は、古事記にはカミミムスビの命の子としてあるが、書紀の注の「一書」のこゝの天神はタカミムスビの命に關聯した稱呼と見なすべきである。それから、神武紀にイナヒの命の語として「吾祖則天神、母則海神、」と書いてあるが、此の天神はトヨタマヒメの物語に見えるそれと同じである。たゞ書紀の本文のホノニニギの命の天降りの話に見えるカアシツ姫の父としての天神、神武紀のニギハヤビの命を天神の子としてある場合の天神は、指すところが不明であるが、前者は書紀の本文にのみ見えてゐることであり、後者もまた、曾て考説したことがある如く、新しく作り添へられた話に於いてであるから、何れも後の思想で書かれてゐる。從つてそれは、上記の意義でのアマツカミの稱呼が一般に用ゐられてゐたため、漠然此の名を適用したものと解せられる。特に後者はアマツカミノミコたる神武天皇に對抗する意味に於いていはれてゐるのであつて、そこに政治的意義のあることが注意せられねばならぬ。要するに、天神の文字で寫されてゐるアマツカミの本義は、我が國の政治的統治者といふことであつて、宗教的に崇拜せられる神をいふのではなく、さうしてそれは、高天原が政治的意義のものであつて宗教的のものでないことと相應じ、またそれに伴ふことなのである。
 そこで問題は國神に移るが、古事記では此の語が、ホノニニギの命の天降りの物語及びコノハナサクヤ姫の物語に於いて、天つ神に對する稱呼として記してある。また神武の卷の吉野の條に於いては天つ神の御子に對していつた語としてあり、速吸の水門の條にも、天つ神の御子の語が明記してないだけで、それと同じ場合に用ゐられてゐる。それからスサノヲの命の八頭蛇の物語にアシナツチ・テナツチを國神としてあるが、これも物語の全體の意味から考へ(346)ると、天つ神に對する稱呼に違ひない。(葦原中國を平定するといふ話の條に「道速振荒振國神」といふことがあるが、かういふ語の一般の例から見て*、これは「國」の字の無い本に從ふべきであらう。)書紀でも大體それと同じであるが、其の他にアメノワカヒコの話に於いて、本文にも注の第一の「一書」にも此の名が見え、アメノサグメも國神としてある。神武紀に於いては、速吸の水門の條にも天つ神の御子に對する語となつてゐる。これで見ると、國神がアマツカミに對する稱呼であり、從つてそれがクニツカミの語を寫したものであること、またそれが宗教的意義での神でないことが知られる。現に上記の記紀の記載に於いて、國つ神が宗教的に崇拜せられる神として解せらるべきものは一つも無い。たゞ古事記にサルダヒコの神を國つ神としてあるのは、やゝ異樣であるが、これは物語に於いて天つ神の御子に對するものとなつてゐるのと、本來此の神が民間信仰に於いて衢にゐる邪鬼として考へられたものに本づいたものであるのとのために、さう稱せられたのであらう。書紀の注の「一書」の同じ話に國つ神と記してないのも、それが正しい意義での國つ神でないからではなからうか。また書紀にアメノサグメが國つ神としてあるのは、アメノサグメの性質が明かでないため、其の理由がわかりかねるが、多分、此の國にゐるものとして記されたからであらう。これも古事記には國つ神としてない。
 然らば國つ神の本義は何であるかといふに、神武天皇の物語の國つ神が地方的首長を指してゐること、アメノワカヒコの話のも、國つ神と戰ふとか國つ神の女を娶るとかあつて、葦原中國に於いて政治的地位を有するものを指してゐることを思ふと、國つ神は天つ神もしくは天つ神の御子と同じく政治的意義に於いていはれたものであることが知られるので、此の二つの對稱的に用ゐられてゐる意味も、そこにあるに違ひない。アシナツチ・テナツチの如く政治(347)的意義の明かに現はれてゐない場合のは、單に天つ神に對する稱呼として此の名が適用せられたものであらう。さすれば、國つ神は人であつて神ではないのに、何故に神と稱せられたのであるか。天つ神の稱呼は高天原に坐したアマテラス大神に其の基礎があるのであるが、國つ神はそれとは違ふから、そこに疑問が生ずるのである。が、これは天つ神に對する稱呼として作られたからであるとして、容易に解釋せられる。かういふ對稱的のいひかたをするのが上代人の一般の風習であり、特にアメとクニとの對稱は神代史に多く現はれてゐるものだからである。神代の物語に於いてのことであることも、またそれを助けてゐよう。神武天皇の東遷の物語にも見えてゐるが、此の物語はすべての點に於いて神代史の繼續であり、むしろその一部分とも見なすべきものである。たゞこゝに一言すべきは、國の語に二樣の意義があつて、アメに對するクニとしての國は此の國の全體であるのに、神武天皇の東遷の物語などに見える國つ神の「國」は地方的區劃をさすものとして解し得られることである。しかし、上にも述べた國々のクニダマの神と同じ意義に於いての出雲のクニダマの神でありながらウツシクニダマの神の名が與へられ、さうしてその名に葦原中國の全體のクニダマの神である如き感じがあるのでも知られる如く、同じ語であるために此の二つが混淆せられるやうになるので、本來、國つ神は天つ神に對する稱呼であるけれども、其の對稱的意義を保持しながら地方的區劃としての國の政治的首長をもさう呼ぶことになつたとしても、怪しむには足らぬ。
 ところでかう考へて來ると、大祓の祝詞に見える如く、天つ神・國つ神の稱呼が宗教的意義に於いて用ゐられるやうになつたのは、如何なる徑路によつてのことであるかが、問題になる。それは、一つは神の語による觀念の混淆であるとも考へられるが、そればかりではない。此の祝詞によれば、天つ神は、天の磐戸を開き天の八重雲をわけて祝(348)詞をきくといふのであるから、天にいます神といふ義であり、國つ神は、山に上り山のいほりをかきわけてきくといふのであるから、地にいます神の義と解しなければならぬが、上にも述べた如く、上代人の信仰に於いては、日そのものとしての日の神の外に天にいます神といふものは殆ど無く、さうしてまたこゝにいふ天つ神が日そのものをさしたものとは考へられぬから、この天つ神・國つ神の觀念は、シナ思想の天神地祇に誘はれて生じたものと見るべきであらう。國つ神といはれてゐながら「國」には關係が無くして地にいます神であるのも、此の故である。またかの和銅の宣命によつて天神地祇が「天にいます神・國にいます神」と訓まれたらしく考へられることも、之を證する。アメとクニとの對稱が天と地とのそれと混同せられたため、天神地祇が天にいます神・國にいます神と訓まれたが、意義は全く違ふけれどもそれに似た天つ神・國つ神といふ成語があつたので、それを此の意義でも用ゐるやうになつたのであらう。但し、これは稱呼の上のこと概念としてのことであつて、具體的には或る神々がそれ/\天つ神及び國つ神として考へられてゐたのではない。實際の信仰としてはさういふ区別が無く、特に天の神といふやうなものは存在しないからである。だから此の意味に於いては、天つ神と國つ神とを對稱することは、種々の事物にアメとクニとの形容詞をつけてそれを連稱しもしくは對稱する習慣が、宗教的意義の神の總稱としても適用せられたまでのものと解せられる。天つ罪・國つ罪とか、後に述べようと思ふ天つ社・國つ社とかいふのも、同じ例であつて、罪や社にアメのとクニのとの二種類があるのではない。天つ社・國つ社はどの場合でも抽象的な概念として連稱せられてゐるのである。たゞ天つ罪と國つ罪とについては、大祓の祝詞に於いて、具體的に種々の罪が此の二つに分屬させてあるけれども、「古語拾遺の研究」に説く如く、それは二つの名があるために強ひて附會したものに過ぎず、本來罪に二種類(349)があると考へられたためではない。天つ神・國つ神も、此の祝詞では連稱せられずして分けて記してはあるが、それは文辭の美を要する祝詞であるがために、敍述を具體的にしようとする用意から來てゐるのである。
 かう考へて來ると、天つ神・國つ神の語が天神地祇といふ漢語に誘はれて宗教的に崇拜せられる神の總稱として用ゐられるやうになつても、其の意義は天神地祇とは違つたものであることが知られる。天神地祇の文字を天にいます神・國にいます神と訓むとすれば、此の國語には皇天后土、即ち天そのもの地そのもの、の意義が含まれないはずであるから、此の點に於いても文字の意義とは違ふことに注意すべきである。しかし、よし概念としてであるにせよ、實際朝廷で行はれた大祓の儀禮に於いて讀まれる祝詞の如きものにそれが記されてゐ、また宣命にも天にいます神・國にいます神の語があるのを見ると、知識社會の知識としては、シナ思想の影響をうけて、さういふ神がある如く漠然ながら考へられるやうになつたのであらう。萬葉の天神地祇が如何なる語にあてて書かれたにせよ、此の文字が用ゐてあるとすれば、そこにやはり同じ思想のあることが知られるし、「天地之神」の語の用ゐられたのもまたそれがためである。けれども、これは知識としてであつて、信仰としてではないことを知らぬばならぬ。
 ところで、天つ神・國つ神の稱呼が宗教的意義に於いて用ゐられた場合にも、それが天神地祇とは同じ内容を有たないものであるとすれば、天神地祇の文字が、記紀の書かれたころに、果してアマツカミ・クニツカミと訓まれてゐたかどうかは、なほ疑問であり、特にずつと後の寶龜元年の宣命にすら「天坐神地坐祇」の語があることから、さう考へられる。が、漢字に國語をあてる場合には、精密に意義の一致しないことも多く、特に天神地祇と天つ神・國つ神との間には上記のやうな關係もあるから、さう訓まれなかつたとも斷言し難い。或は、奈良朝ころに於いては、二樣(350)の訓みかたがあつたのかも知れぬ。さうして、もし訓みかたが一定してゐなかつたとすれば、萬葉の戀男子名古日歌のは、アメノカミとクニノカミとの語にあてられたものとして考へるに支障は無く、アメツチノカミの語が作られてゐてそれが天地神祇とも書かれたことからも、さう類推せられよう。なほ附記するが、萬葉一の卷に「さゝなみの國つみ神のうらさびて荒れたる都みればかなしも」とあり、十七の卷に「道のなか國つみ神は旅ゆきもし知らぬ君をめぐみたまはな」とある「國つみ神」は宗教的意義での神には違ひないが、それは天つ神に對する國つ神ではなく、其の國の神といふことであらうから、これは「國」の語を地方的行政區劃としての意義に用ゐた別の稱呼である。新しい行政區劃としての國々にクニダマの神がたてられてから、かういふ意義での國つ神といふ稱呼が用ゐられるやうになつたのであらう。また雄略紀七年の條の百濟の「國神」や欽明紀十三年及び用明紀二年の條の「國神」をクニツカミと訓むのは、妥當ではあるまい。特に後の二つは蕃神に對して我が國の神をいふのであるが、それをクニツカミと稱した例は無い。これらは書紀の記者が漢語として書いたものであらう。
 さて、宗教的意義に於いての天つ神は天にいます神であり、それはまた現に天上に存在するはずであるから、其の天がむかし天上にあつた國土としての高天原ではなく、其の神が昔の神の代に高天原ではたらいた命たちでないことは、明かである。原意義に於いての天つ神でないことは、いふまでもない。が、上に引いたところでも知られる如く、文武天皇元年の宣命には「天にいます神」が高天原で「天つ神のみ子」に此の國の統治を命ぜられたといつてある。此の「天にいます神」は、記紀の記載と對照して考へると、アマテラス大神とタカミムスビの命とを指したものと解しなければなるまい。神武記の卷首にも「昔我天神高皇産靈尊大日?尊、擧此豐葦原瑞穗國、面授我天祖彦火瓊々杵(351)尊、」と明記してある。さすれば、これは、政治的統治者としての「天つ神」であつて、上記の意義での天にいます神ではない。神武紀の「天神」も、上にも引いた大化元年の詔勅に「天神」と書いてあるのも、この宣命の「天にいます神」にあたるのであるが、これらは「天つ神」の語を寫したものと解せられる。然るに文武朝の宣命にかう書いてあり、さうしてまた天神地祇を「天にいます神・國にいます神」と訓むことは必しも和銅にはじまつたのではなく、文武朝ころにも既に行はれてゐたであらうと推測せられるから、此のころには「天にいます神」が二樣の意義に用ゐられたやうである。大祓の祝詞の上に引いた部分が、記紀の書かれた時に既に存在したものならば、天つ神の稱呼についても、また同じことが考へられねばならぬ。此の祝詞に、天つ神について天の磐戸を開くといふことのあるのは、上に述べたホノニニギの命の天降りの説話に同じことの記してある書紀の注の「一書」の記載と同じ理由から來てゐるのであるが、それがこゝに記されたのは、やはり天つ神の名が原意義に於いて用ゐられたと共に宗教的意義に於いても用ゐられたからである。これらは、シナ思想に誘はれ知識として存在した宗教的意義での天つ神もしくは天にいます神と、神代の物語の天つ神とが、混同せられたことを示すものであらう。
 このことはカムロキ・カムロミの稱呼に於いても、また同樣である。カムロキ・カムロミは其の原義に於いては單に神をいふのであり、それを男女兩性として連稱したに過ぎないのであるが、男女兩性となつてゐるのは、神に人の性質を與へたものであるから、かういふ稱呼は新しく現はれたのであらう。さうして祝詞や宣命の現存の文獻では、それは或はアマテラス大神及びタカミムスビの命をさしてゐるかも知れぬ。聖武天皇の即位の宣命に「高天原神留皇親神魯岐神魯美命以、吾孫將知食國天下與佐……」と見え、多くの祝詞にも同じ意義のことがあるが、(352)之によると、此のカムロキ・カムロミは上記の文武天皇の宣命の「天にいます神」と同じ地位にある同じ神でなくてはならず、さうして、上に述べた如く、此の宣命の「天にいます神」は、上記の二神であるやうにも見られるからである。さうしてさう見る場合には、それは、多分、上記の二神を皇祖と見てのことらしく、「皇親」の語の添へてあるのも、此の意味に於いてであらう。祈年祭及び大甞祭の祝詞に「皇睦神漏伎神漏彌命以天社國社稱辭竟奉(または敷坐)皇神等」とある場合のは、ことがらは違つてゐるが、カムロキ・カムロミの意義は同じであらうし、出雲國造神賀詞に「親神魯伎神魯美命宣久汝天穗比命……」とあるのも、話のすぢから見ると、やはり上記の二神をカムロキ・カムロミと稱したものであることが、記紀との對照によつて知り得られよう(ホヒの命の功績を語る點は記紀とは違つてゐるけれども)。しかしカムロキ・カムロミは相對的の男女二神であるべきであるのに、アマテラス大神とタカミムスビの命とは、よしそれが神代史の後半に於いて同心一體の神として記される場合があるやうになつたにせよ、また大神は女性とせられタカミムスビの命は男性の地位に置かれてゐるにせよ、それをカムロキ・カムロミとして對稱することは、二神の性質に一致しない。二神が神代史に於いてかう取扱はれたのは、後の潤色に於いてであり、さうして二神は互に其の本質を異にしてゐる神だからである。もしタカミムスビの命に對するものがあるならば、それはカミミムスビの命であるのが當然である。(古語拾遺の記者がタカミムスビ・カミミムスビをカムロキ・カムロミとしたのは、之がためであらう。)だから、カムロキ・カムロミを上記の二神とするのは、此の名稱の本來の意義には適はないことであり、後に生じた思想と見るべきである。或は祝詞や宣命に見えるカムロキ・カムロミは、男女二神のやうになつてはゐるけれども、特に或る二神をさしたのではなく、たゞ「吾がみ子」に對することよさしのことをい(353)ふ場合であるために、「子」の語から父と母との存在が聯想せられ、そこからかういふことがいはれたのみであるかも知れぬ。從つてそれは、記紀の説話とは離れて考へられたものとも解せられよう。が、それはそれとして、此の意義でのカムロキ・カムロミは神代のむかし高天原の國土にゐられた命たちであるはずであるのに、祝詞にも宣命にも「高天原に神留ります」とあつて、現に天上に神として存在することになつてゐる。こゝに高天原の語が用ゐてはあるが、これは現に神のおるところであるから、國土としての高天原ではなく、天をさしたものとしなければならぬ。さすれば、こゝにもまたシナ思想の天神の觀念に誘はれて生じた宗教的意義に於いての天の神と、高天原にいました命たちとの、混淆がある。もつとも、カムロキ・カムロミをアマテラス大神とタカミムスビの命として見る場合には、アマテラス大神は日そのものとしては現に存する神であり、皇祖神としては昔の神代の君主であつて、大神に此の二面の性質のあることが、かういふ混淆を助けたでもあらうが、大神はこゝではタカミムスビの命と結合せられてゐる皇組神であり、日そのものとしての神の性質は背後に隱れてゐるから、今の問題については、それに重要なる意味は無い。カムロキ・カムロミの語は記紀の神代史には見えてゐないが、上に述べた祝詞や宣命から考へると、記紀の編纂せられたころには、それを此の混淆せられた意義で用ゐてゐたであらう。
 なほ之に關聯して考ふべきは、神武紀四年の條に「祭皇祖天神」とあることである。皇祖の文字もまたシナの成語であり、此の紀の卷首の詔勅には「皇祖皇考」として皇考と連書してもあるが、これもまた同じくシナ傳來の熟字である。書紀には此の文字が歴代の天皇を總稱する廣い意義にも用ゐてあるので、大化二年の詔勅に「代々之我皇祖等」とあり、持統紀二年の記事に「皇祖等之騰極次第」とある類がそれであるが、これは後にいふやうに別に國語が(354)あつて、それを此の文字で寫したまでであらうから、シナの成語としての皇祖の語を其の原意義に從つて用ゐたのではない。神代紀の下のはじめに「皇祖高皇産靈尊」とあるのも、此の場合では、後にいふやうに、多分、別の意義に用ゐられたのであらう。しかし神武紀のは、同じ條の詔勅に「皇祖之靈也、自天障鑒、光助朕躬、」とあつて、それが帝王の靈魂が天に在るといふシナ思想に本づいたものであり、さうしてそこにある「郊祀天神」がシナの帝王の儀禮であること、また此の條の全體が純粹の漢文であることを思ふと、これは此の文字の原義によつて書かれたものらしい。それならばそれは單なる概念としてであるか、又は具體的に指すところがあつての稱呼であるかといふに、同じ神武紀の八咫烏の物語の條に「我皇祖天照大神」とあるのによると、大神をさしてゐるものと解せられる。が、上にも述べたやうに神武紀に於いては、其のはじめにタカミムスビの命が大神と並稱せられてゐるのであるから、此の場合の皇祖もやはり此の二神を指したもの、少くともそれを思ひ浮かべて書かれたものとすべきではあるまいか。もつとも、高倉下の劍の話に二神が並記せられ八咫烏の物語にはタカキ(タカミムスビ)の神のみ現はれてゐる古事記とは違ひ、書紀では此の二つの話の何れにもアマテラス大神の名のみが記してあるが、劍の話に於いては、神代紀のタケミカツチの神の物語に對照して考へると、やはりタカミムスビの命の名がそこになくてはならぬやうであるから、上記の如くも推測し得られよう。神武紀の記者がタカミムスビの命を除外して考へたのでないことは「以高皇産靈尊、朕親作顯齋、」といふ語のあるのでも知られるので、こゝには却つて大神が記されてゐない。二神のうち一方づつを書いてある場合があるにしても、それは記者の脳裡に二神が並び存したからであらう。が、それはともかくも、其の皇祖の靈が天から見おろされるといふのは、皇祖を古の人と見たもの、いひかへると昔の高天原の君主、即ち原意義で(355)の天つ神、と見た考へかたであつて、それが此の文字の原義にもかなふのである。シナ思想に於いては天にある皇祖の靈は地上の人の靈が天に上つたのであるから、此の意味に於いては天つ神の靈とは違ふが、こゝにいふのは、皇祖が祖先、即ち古の人、を指したものである點に於いて、祖先としての天つ神に相當するといふことである。が、それに「天神」の語が添へられ「皇祖天神」としてあるのは、少しく異樣である。此の「天神」は「天にいます神」としての天神であり、宗教的意義に於いて現に天上に存在する神の義であることが、一方に「郊祀天神」の文字の用ゐられてゐることから知られねばならぬ。さすれば、こゝにも上に述べたのと同じやうな思想の混淆がある。勿論、これにはシナ思想として觀ても一種の矛盾があるので、皇祖の靈は「周禮」の用語例では天神でなくして人鬼に屬すべきものであるから、「皇祖天神」の文字は此の意味で妥當を缺くものである。しかしこれは、皇祖を原意義での天つ神と呼ぶ習慣があつたために、それにひかれてかう書かれたのであらう。さすれば、こゝにもまた、皇祖としての天つ神とシナ思想に由來のある天神との、混淆があるといはねばならぬ。「郊祀天神」といひながら「申大孝」としてあるのも、その天神を皇祖と見たからのことであるらしいことを考ふべきである。
 神武紀の皇祖の靈の祭祀は文字の上だけのことであるが、天武紀の十年五月の條に「祭皇姐御魂」とあるのは、事實の記録と解せられるから、神武紀の記載はさういふ事實を基礎として構想せられたのではないかの疑問がある。しかし、天武紀のが如何なる意義の祭祀であるかは明かでない。「皇祖」はアマテラス大神またはそれとタカミムスビの命との二神であるか、或は歴代の御祖先のことであるかも、知り難い。伊勢の神宮は、皇祖神としての大神を祀つたところとして、此の時には既に考へられてゐたであらうが、天武紀の此の記事は何等かの特殊の祭祀のやうである(356)から、伊勢の神宮に關することではあるまい。またタカミムスビの命を朝廷で祭られたことは、宮中八神の一としてより外には、史上に所見が無いやうである。宮中八神の祭祀が何時からのことであるかは問題であり、またそれが八神となるまでには沿革があつたらうとも思はれるが、此の命を含む宮中の祭祀がよし假に天武朝に行はれたとするにしても、それが皇祖としての意義に於いてであるとはいひ難い。八神の祭祀の性質から考へると、八神はすべて宗教的意義での神でなければならぬから、タカミムスビも、この場合には、皇祖としての命ではなく、神として見られてゐたに違ひないからである。もし皇祖としてであるならば、それに他の神々の加へられてゐるのも、或は加へられるやうになつて來たのも、また解し難いことである。此の命が大神と共に皇祖とせられてゐたと考へることは、既に述べたところから見ても、大過が無いやうであり、上に引いた顯宗紀の記事によれば、書紀編纂のころには、日月二神の祖にまで發展してゐたことが知られるが、其の意義で祭祀せられたかどうかが疑問なのである。しかしまた、天武紀の祭祀を歴代の御祖先を祭られたことと考へるにも、肯ひがたいふしがある。さういふことがもしあつたならば、それは年中行事としての祭祀であつたらうに、此の記事は、上にも述べた如く、特殊の祭祀に關することらしいからである。のみならず、年中行事としても、「日本上代史の研究」の第一篇及び第三篇に説いてある如く、さういふ祭祀が上代に行はれたやうな證迹は少しも無い。もつとも、天武朝には令の改定も行はれたので、それから臆測すると、祭祀についても現存の令などには見えない何等かの新しい儀禮が行はれたのではないかとも考へられ、從つてまたこのことも、さういふ點から解釋すべきものかも知れないが、もとより明かではない。さすれば、上記の神武紀の記載をこれと關係させて考へることは、困難である。
(357) 天神地祇についてなほ附言すべきは、神祇令の義解に、天神は伊勢、山代鴨、住吉、出雲國造齋神、等の類であり、地祇は大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神、等の類である、と記してあることである。集解によれば、これは「古記」の説と同じであるから、奈良朝のころに既に存在した思想である。これは神社の祭神に於いて天神と地祇とを區別したものであつて、神祇官が全國の主要なる神社の祭祀を管理する官司であり神祇令に天神地祇の文字が用ゐてある以上、かういふ解釋が加へられるやうになるのは自然であらうが、それが強ひて考案せられたものであり、またシナ思想での天神地祇の觀念に適合しないものであることは、いふまでもない。こゝに擧げてある例で見ると、天神には原意義に於いて天つ神といはれてゐる命たちと、一般に高天原の國土に生まれ又はそこから降り或は遣はされたとせられたものとをあて、地祇には原意義での國つ神に屬するものをあてたもののやうであるが、これらの天つ神と國つ神とは、本來、物語の上の人物であつて宗教的意義での神ではないから、それが神社の祭神の分類の例とせられたのは、やはり天つ神・國つ神と天神地祇との混淆である。が、此の場合の混淆は神代史上の人物が所々の神社に於いて宗教的に祭祀せられるやうになつてゐたところから來てゐる。神代史上の人物を神社の祭神の名とすることは、既に記紀にも見え、それから後は次第に多くなつて來たので、上記の例でいふと、山代の鴨の神社の祭神は八咫烏であるといふタケツヌミの命とせられ、三輪、倭、また高木の鴨、の神社の祭神は、オホナムチの命またはアヂスキタカヒコネの命と結びつけられてゐたから、それによつてかういふあてかたをしたのである。だから、神代史上の人物が神社の祭神の名とせられたのは、實際の祭祀に關係のあることであるが、しかし祭祀そのことに於いて天神と地祇との區別があるのではないから、かういふ區別は、實際に於いて無意味である。民間信仰の對象としての、即ち本來の宗教的意義に(358)於いての、神としては、山代や葛木の鴨のも、住吉のも、三輪のも、出雲のも、同じ性質の神であつて、其の間に區別の無いことは、いふまでもあるまい。またすべての神社の祭神が神代史上の人物の名をあてはめられたのではなく、それはむしろ少數の例に過ぎないから、あらゆる神社の祭神を天神と地祇とに分類することはできなかつたはずであり、琴實、さういふことも企てられなかつたに違ひない。これはたゞ神祇令に用ゐてある文字の意義を解釋するために、試みられたことに過ぎないのである。
 次に今一つは、姓氏録の神別の部に見える天神地祇の稱呼であるが、これは貴族豪族の家々の祖先に擬せられた神代史上の人物もしくは神代の人物として後から附會せられたものを指してゐるので、天神と地祇との區別は、概していふと、神祇令の上記の解釋と大差は無い。但し、神祇令の解釋は神社の祭神の分類であるのに、姓氏録のは諸家の祖先の區別であるから、同じく神代史上の人物についてそれがいはれてゐても、其の意味が違ふ。さうして、姓氏録にかういふ神代史上の人物を天神地祇としてあるのは、多分、記紀に見える原意義での天つ神・國つ神を宗教的意義の神と解したからのことであるらしく、それはまた、姓氏録の編述せられたところには、天神地祇の文字が普通にアマツカミ・クニツカミと訓まれてゐたことを示すものであらう。そこで、姓氏録のかういふ書きかたによると、神別の諸家の祖先は宗教的意義での神々であるやうに見えるが、事實は、神別の諸家とても一般にさういふ神々を祖先としてゐるのではないから、これはたゞ姓氏録の編者の書きかただけのことである。中臣氏とか忌部氏とかいふ少數の家に於いては、其の祖先を神として祭祀してをり、また大神氏とか鴨縣主とかの如く、或る神社の祭神の子孫たることを標榜してゐる家もあつて、それが姓氏録の編者にかういふ書きかたをさせる一助となつたかも知れぬが、すべての(359)家がさうではなく、むしろさういふ家は僅少であつたらしいから、このことはさしたる力にはならなかつたであらう。神別といふ名稱はさういふところから來たのではなく、神代史上の人物を祖先とすることを意味するのであつて、それは神別が皇別と對稱せられてゐることによつても知られる。皇別の家にも其の祖先を神として祭つたらしい證迹は殆ど無いが、これは神別ならぬ皇別だからのことではなく、一般にさういふ風習が無かつたからである。なほ姓氏録には、同じく神別としながら天神地祇の外に天孫といふ一類が立ててあつて、アメノホヒの命やホアカリの命がそれに入れてあるが、それが如何なる意味からであるのか、知りがたい。此の場合の「天孫」が書紀の神代紀に見える同じ名釋と無關係であることは、いふまでもなからう。たゞ後の舊事本紀に天神本紀地祇本紀の次に天孫本紀を立て、ニギハヤビの命をホアカリの命の一名として、そこに記してあるのは、姓氏録の此の分類と或る連絡がある。姓氏録ではニギハヤビの命は天神の部に入れてあり、ホアカリの命と結びつけてもないが、ともかくも平安朝のころには、かういふことが考へられるやうになつた。名釋がいろ/\に混亂して來たのである。
 要するに、神代史上の人物と宗教的意義での神とが種々の意味に於いて混淆せられて來たのであるが、それは固より天神地祇の文字に誘はれたからばかりではない。記紀に於いては、前者の稱呼である某のミコトといふ名が、往々某の神とも書かれてゐて、これもまた同じ混淆の一例であるが、それにはまた別の理由もある。しかし後になるほど此の混淆がはげしくなつて來たので、それには天神地祇の文字と天つ神・國つ神の稱呼とのまぎれあつたことが重要なる事情となつてゐるらしい。
 以上は天つ神・國つ神の語についての考説であるが、天つ社・國つ社の稱呼に關しても一言して置く必要がある。(360)此の稱呼は、書紀では、上に引いた神武紀の外に、崇神紀に「定天社國社及神地神戸」と見え、天武紀六年及び十年の條にも「天社地社」とある。それから、祈年祭、大甞祭、龍田風神祭、などの祝詞、天平神護元年の宣命にも、此の稱呼が用ゐてあつて、何れも「天社國社」と書いてある。アマツヤシロ・クニツヤシロの語を寫したものであることに、異議はあるまい。天武紀に「地社」とあるのは、天に對する語であるために、クニの語を地の字で寫した少數の例の一つであらう。ところが、これはすべての場合にかう連稱してあり、さうして天つ社と國つ社とを區別して記してあるところがどこにも無いのみならず、それが二つの種類の社であることを示すやうな書きかたすらも全く見えない。だから、これはヤシロにアメとクニとの美稱を加へてそれを連稱したまでのことであつて、其のアメとクニとの語には意味が無いとしなければならぬ。(ヤシロに社の字をあてたのは、社を神の祭祀を行ふ場所の名として解したからであるらしく、土地の神の意義でそれを取つたのではないはずである。)何時から斯ういふ稱呼が用ゐられたかは明かでないが、それがすべて朝廷の祭祀に關していはれてゐ、さうしてまたかゝることのいはれたのは、朝廷で全國の主要なる神社の祭祀を管理するやうになつてからのことであらうと思はれるから、多分、大化以後に始まつたのであらう。或は、確實なる現存の記録に於いての初見である天武朝のころからのことかも知れぬ。崇神紀や神武紀などの記載はそれに本づいて書かれたものである。さすれば、それは天神地祇とは全く違つた語であるから、天神地祇をアマツヤシロ・クニツヤシロ、またはアマツヤシロ・クニツヤシロノカミと訓むべきではない。たゞことばは違つてゐても、天つ社・國つ社の祭神は即ち天神地祇として總稱せられてゐる神であるから、書紀に「天社國社」と書いてあることが古事記に「天神地祇之社」となつてゐるのも、神武紀に「天神地祇」と「天社國社之神」とが同じ意(361)義に用ゐてあるのも、不思議ではない。
 天神地祇に關する考説がひどく長びいたが、天と地との對稱については今一ついふべきことがある。それは、ホホデミの命の條の注の第二の「一書」の物語に、此の命について「若從天降者、當有天垢、從地來者、當有地垢、實是妙美之虚津彦者歟、」といつてあることである。天垢地垢といふのは異樣ないひかたであつて、本來の國語であるらしくは思はれぬ。それにつゞけて書いてあるソラツヒコは國語であるけれども、天と地と對稱してあることによつて考へると、少くとも其の點に於いて、この語がシナ思想と交渉のあるものであることは、臆測せられよう。此の物語は海底にある海神の宮でのこととなつてゐるから、そこにかういふことのあるのは甚だ不調和であるが、これはソラツヒコといふ名に誘はれたものであつて、ソラを天と地との中間と見たからであらう。さうして此の名は、ホホデミの命をアマツヒタカの御子ソラツヒタカとしてある、古事記に見えるやうな、話に由來があらう。但し、古事記では此の命にもホノニニギの命にも同じやうにアマツヒタカの美稱がつけてあるから、此の命をかう稱するのは、それと一致せず、アマツヒタカとソラツヒタカとを名として用ゐてあるのも異樣であつて、多分、後に生じたことであらうと思はれるが、本文でも注の幾つもの「一書」でも、書紀にはホノニニギの命にも此の命にもアマツヒタカの美稱はつけてなく、ホノニニギの命には多くアマツヒコの語が加へてあるのを見ると、或はホノニニギの命のアマツヒコに對して此の命をソラツヒコと稱するいひかたがあつたかも知れず、さうして古事記の記載は却つてそれから轉化したものかとも臆測せられる。もしさうならば、此の「一書」のソラツヒコは、古事記に見えるやうな話から來てゐるのではない、とも考へられる。しかし、書紀のどこにも此の命の稱號としてソラツヒコの語が加へてあるところは無いか(362)ら、これは強くいふことはできぬ。神功紀の託宣の語に「於天事代、於虚事代、」といふことがあつて、それはアメニコトシロ,ソラニコトシロであらうから、書紀編纂の時代にはアメとソラとを並稱することも行はれてゐたやうであるが、此の場合、アメに次ぐものとしてソラの語を用ゐたのか、又は此の二つをば同義に用ゐ同じことを反覆したのか、不明であるのみならず、かういふいひかたをした例が少いことを思ふと、それが古くからの習慣であるかどうかも疑はしい。が、天垢地垢の語については上記の如く解せられる。
 次の間題は神代紀の「皇孫」である。これは普通にスメミマと訓まれてゐるが、此の訓みかたが當つてゐるかどうかは、一應の檢討を要する。上に述べた如く、皇孫が、アマツカミノミコの語を寫したものと思はれる天神之子、天神之孫、天孫、などと同じ内容を有する稱呼であるとすれば、これのみがスメミマといふ語にあてて書かれたものと見るには、疑問があるからである。さて、スメミマの語の明かに記してあるのは常陸風土記の久慈郡の條であつて、そこに「珠賣美萬命自天降時……」とあるが、此のスメが萬葉に須賣可未、須賣加味、須賣神、などと書いてある須賣と同じであり、ミマが續紀天平十五年の條に見える歌に「阿麻豆可未美麻之彌己止」とある美麻であることは、今さらいふまでもない。さうして、萬葉に皇神と書いてあるのが須賣神などと同じ語であるべきこと、從つて祝詞に例の多い皇神がやはりスメガミであるべきことを考へると、スメの語を「皇」の字で寫す習慣のあつたことも、また明かである。スメが如何なる意義の語であるかは問題であるが、「神」の上にそれが加へてあり、さうして此の語が加へられた場合でも、それがために神に特殊の意義が生ずるのではなく、スメカミといつても單にカミといつても畢竟同じことであるのを見ると、これは一種の形容詞的美稱らしく思はれるので、宣長が尊む詞と説いてゐるのも大過の無(363)い解釋であらう。祈年祭の祝詞に皇太御神とあるのは、神の上にスメとオホとミとの三つの美稱尊稱を重ねたものであることを、參考すべきである。さすれば、それがミマノミコトの上に加へられた場合にも、また同樣であらう。從つてまた此のスメの語に皇の字をあてたのも、皇を美稱としてのことであつて、それはタカミムスビ、カミミムスビを高皇産靈、神皇産靈と書き、ミの尊稱に皇の字をあてたのと同じである。
 次にミマの語の意義はどうかといふに、上記のスメミマノミコトは、常陸風土記に於いては、やゝ曖昧の點はありながら、ホノニニギの命を指してゐるやうに解し得られる。また續紀のミマノミコトは、歌の全體の意義がはつきりしないから一層曖昧であるが、「天つ神」のことを別の語でいつてそれを重ね稱したものには違ひなく、さうして其の天つ神は、歌の解釋のしやうによつて、皇祖か又は現つ神としての今の天皇か、何れかになるのであらう。さすれば、スメミマノミコトまたはミマノミコトは、天つ神もしくは天つ神の御子といふのと同じ内容を有する語として、支障は無いやうである。しかしミマの語義はわかりかねる。種々の祝詞にカムロキ、カムロミから「皇御孫之命」に此の國の統治を任ぜられた、と書いてあつて、此の皇御孫之命は記紀の用語例の天つ神のみ子を指すのであるが、それに皇と御との文字のあるところから考へると、普通に訓まれてゐる如く、これはスメミマノミコトの語にあてられたものであらう。けれども「孫」の字に當る國語はコでこそあれマではなく、またよし假に後世に用ゐられる意義でのマコといふやうな語が當時すでにあつたと想像するにしても、松岡靜雄氏が古語大辭典に説いてゐる如く、かゝる場合にコを省いてマといつたとは思はれない。だから、これはマの語を孫の字で寫したのではなく、スメミマノミコトが天つ神のみ子の稱呼であるところから、其の全體の意義をとつて斯う書かれたものとする外はあるまい。いひかへる(364)と、ミコの義である御孫の字を書いて、語としては無關係なミマの語にそれをあてたのである。垂仁紀二十五年の條の注に見える皇御孫尊、また天武紀元年の條の託宣にある皇御孫命、もまた同樣であつて、此の稱呼は一般に天つ神の御子を指していはれたものと推測せられる。天武紀のは當時の天皇のことであるが、何時の世の天皇でも天つ神の御子であられることは同じである。(スメミマノミコトもミマノミコトも同じ意義であり、從つてスメが美稱であることは、これでも知られる。)かう考へて來たところで、ミマの語義は依然として不明であるが、もし試に臆見を述べるならば、それはオホヒルメ(ミ)、ツクヨミ、オシホミミなどのミもしくはミミの語に關係があるのではなからうか。たゞこれらは一種の尊稱として名の下に添へられてゐるのであるから、獨立の語として用ゐ得られるかどうかは問題である。
 が、それはともかくも、上記の考説によれば、最初に疑問があるといつた皇孫をスメミマの語にあてられたとする普通の解釋も、一應は肯定し得られるやうである。けれども、ミマの語には常にミコトの語が添へてあるのに、皇孫の場合にはそれが無い。此の書きかたの違ひと、上に述べた如く皇孫と混用せられまたそれと同じ内容を有する天神之孫、天孫、などの稱呼が何れもアマツカミノミコであることとを考へると、疑問はやはり存在する。それで余はむしろ、皇孫はミコの語を寫したものであり、アマツカミノの語を省いてミコとのみ稱し、それをかう書いたのであらうと推測する。ミマの語の意義が何であるかは問題であるにしても、御子の義でないことは明かであり、さうして皇孫の文字の用ゐられてゐる場合にぜひともいひ現はさねぼならぬ最も重要なることは御子である點である。また皇の字をミの尊釋にあてる例のあることは上に述べたところでも知られ、コを孫と書くことは普通の習慣である。だから、(365)かう考へられるのである。さうして此のことは、ミオヤの語を皇祖の字で寫してある場合のあることからも類推せられるであらう。
 書紀を通覽すると、皇祖の文字が既に述べた如き意義に用ゐられてゐる外に、別のつかひかたをしたところもあるので、ミオヤの語にあてて書かれた場合が其の一つである。孝コ紀大化二年の條の皇太子の上奏に見える「皇祖大兄」とある皇祖は其の例であるが、神代紀の下の卷首にタカミムスビの命を皇祖としてあるのも、多分、同樣であらう。これはホノニニギの命の母の父であるといふ關係に於いて書かれたものと解せられるからである。此の二つの例では皇祖は何れも祖父に當るのであるが、オヤが父母祖父母もしくはそれより前の祖先の汎稱であり、さうして此の語が普通に祖の字で寫されてゐることは明かであるから、ミオヤの意義で一般に皇祖と書かれた場合には、天皇の御祖先の汎稱としてのミオヤの語にあてられたものらしい。さすれば、上文に一言して置いた大化二年の詔勅に「代々之我皇祖等」とある皇祖もまたミオヤであらう。ミオヤは天皇の地位についていふのではなく、血統上の稱呼であるから、御位に即かれない御父祖をも斯う稱し得るのであるが、歴代の天皇がミオヤであられることは、いふまでもない。ところで、此の皇祖は、書紀に於いては、皇室についてのみ用ゐられてゐる稱呼であるから、其の「皇」は天皇の義のやうでもあるが、皇祖がミオヤの語の寫されたものとして考へると、やはりミに當る尊稱として解すべきものであらう。古事記にはミオヤが御祖と書いてあるが、それが皇室及び神の物語に於いて現はれてゐることを、參考すべきである。(古事記の御祖はいつでも母をさしてゐるが、單に祖としてある場合のオヤは決して母に限られてはゐないから、古事記のもとになつた舊辭の筆者もミオヤを母のみのことと考へたのでないことは明かである。なほシナの(366)熟字の皇祖も、強ひてそれに國語をあてればミオヤといひ得るであらうが、其の指すところに廣狹の差があることだけから見ても、かう訓むのは適切とはいひ難い。神武紀の皇祖は書紀の編者も漢語のまゝで用ゐたのであらう。皇考と連記してある場合には特にさうである。シナに於いても皇祖の稱呼の用ゐかた、また皇の字の意義には變遷があるが、これだけのことはいひ得るであらう。)ついでにいふ。神武紀の卷首に神武天皇のことばとしてホノニニギの命を天祖といつてあり、普通にそれがアマツミオヤと訓まれてゐるが、天祖といふ文字はシナでは用ゐられてゐないものであると共に、アマツミオヤといふのもきゝなれぬ語である。アマツを美稱または尊稱としてミオヤの上に加へたものと見れば見られぬことはあるまいが、この場合ではこの稱呼がタカミムスビとオホヒルメとの二神をさしてゐる天神に對して用ゐてあるらしいから、その天神が上に考へたやうな意義でのアマツカミであるとすれば、アマツミオヤをかう解するのもむりなことである。のみならず、この意義での天神に對してホノニニギの命を天祖といふのが、そも/\むりないひかたである。多分これは、この命が高天原から降つてこの國土に於ける皇室の始祖となられたことになつてゐるために、書紀の編者が深く考へることなしに、天祖といふ稱呼を造つてこの命の名の上に加へたのであり、さうして、かういふ文字があるために後人がそれをアマツミオヤと訓んだのであらう。この場合の祖もオヤも、遠祖をさしてゐる。
 さて、皇祖がミオヤであるならば、神代紀の皇孫がミコの語を寫したものであることは、おのづから類推せられねばならぬ。コは子孫の汎稱であるから、ミオヤを皇祖と書くと同じ例でミコを皇孫と記したのである。さうして皇孫の文字がスメミマの語を寫したものでないといふ此の見解が許されるならば、神代紀の出雲平定皇孫降臨の條の注の(367)第二の「一書」にタカミムスビの命の語として「吾孫」と書いてあるのも、またアガミコであつて、普通に訓まれてゐる如くスメミマでないことは、おのづから明かであらう。現に同じ條の大神の詔勅にはそれが「吾兒」と書かれてゐる。これは何れもオシホミミの命を指すのであるが、此の二つの書きかたは、此の命が孫または子であるといふのではなく、ひろく子孫をコと稱する意義に於いてそのコの語にあてる文字を孫とも兒ともしたのである。第一の「一書」の「吾子孫」がアガミコであるべきことは上に述べて置いたが、それとこの「吾孫」とは同じ語を寫したものである。此の「一書」のはじめには同じ語を「吾兒」と書いてあることをも、考ふべきである。從つてまた聖武天皇の即位及び讓位の時の宣命及び孝謙天皇の讓位の際のに、カムロキ、カムロミから此の國の統治を任ぜられた場合の語として「吾孫」もしくは「吾孫之命」と記してあるのも、アガミコ又はアガミコノミコトであつて、孫の字をミマと訓むのが誤であることも知られよう。スメミマノミコトもアガミコトも同じく天つ神のみ子のことではあるが、前者は他からいふ尊稱であり、後者は天つ神みづからのいはれた語として記されたものである。大祓の祝詞に「我皇御孫命」、大殿祭のに「皇我字都御子皇御孫命」とある類は、後になつて此の二つが混合せられ、スメミマノミコトが天つ神のいはれた語であるが如く書かれたものである。(神代紀の出雲平定皇孫降臨の條の注の第一の「一書」の大神の詔勅にある「吾兒」と其の次の記事にある「皇孫」とは、見やうによつては對稱的になつてゐるやうでもあるが、もしさうならば、此の「吾兒」は子、「皇孫」は孫の義と解せられよう。が、すぐ其のあとの勅語の「吾子孫」は「爾皇孫」と同義であり、此の「一書」のはじめの方にも上に述べた如く「吾兒」を「吾子孫」の義に用ゐてあるから、この見かたは正しくあるまい。またもし假にさう見られるとするならば、それは此の話の場合に皇孫の文字を用ゐる習慣であ(368)つたために生じた筆者の思想の混亂の故であらう。古語拾遺に「皇孫命」に注記して「天照大神高皇産靈神二神之孫、故曰皇孫、」といつてあるのは、此の書の作られた時代に古語の意義の忘られてゐたことを示すものである。)
 なほミオヤ及びミコの語のことを説いたついでに附記したいことは、孝コ紀大化二年八月の詔勅に見える祖皇と祖子との文字についてである。これはミオヤ及びミコと訓まれてゐるらしいが、祖皇をミオヤとするのはともかくも、祖子はミコではあるまい。「祖子」は「王者」と對稱せられてゐるが、それは「其假借王名爲伴造、其襲據祖名爲臣連、」に應ずるものであり、さうしてそこでは「祖名」と「王名」とが對稱的になつてゐる。さうして王名の「王」に對する祖名の「祖」は諸家の祖先をさしてゐるらしいから、「王者」に對する「祖子」もまた同樣であるので、「始於祖子奉仕……」とあるのも、さう見て始めて解し得られる。祖子をミコと訓んだのは、それを祖皇に對する語の如く考へたためか、又は諸家の祖先を皇族から出たものとしたためか、何れかであらうが、前者は此の詔勅の全體の書きかたにかなはず、後者は諸家の系譜に齟齬する。上に引いた二句も、漢文流の對句としたために事實がありのまゝに示されてゐない。これはたゞ一般的に王名祖名が臣連伴造の家の名になつてゐることをいつたまでであるが、家々の祖名が必しも王名、即ち皇族の名、となつてゐないことは明かである。何故に祖を祖子と書いたかはわかりかねるが、王者の文字に對應させるための修辭上の要求からであつたらう。さうして祖皇が「時帝」とつゞけて記してあるのを見ると、これもまた必しもミオヤの語を寫したものとは限らず、漢語としての筆者の造語であるかも知れぬ。さすれば、祖子もまた同樣であつて、これらは音読するやうに書かれたのであらう。もし強ひて祖子を國語で訓むならば、單にオヤといふべきである。
(369) それから、皇祖の文字についても、なほ別の語にあててそれが用ゐられた場合のあることを一言して置く必要がある。それは孝コ紀大化元年、持統紀三年、の條に「遠皇祖」とあることである。元明天皇の即位、聖武天皇の讓位、の宣命などに同じく「遠皇祖」の文字があつて、それは文武天皇の即位の宣命に「遠天皇祖」とあるのと同じ語を寫したものに違ひないが、東大寺行幸の時の聖武天皇の宣命に「遠天皇」とあるのも、また同樣であらうから、此の場合の「皇祖」は、「天皇」と同じく、スメロキの語にあてられたものであらう。萬葉に多く見える須賣呂伎が何れも天皇のことであり、同じ語が天皇とも書いてあるから、スメロキが天皇であることは、いふまでもない。天皇は天平勝寶元年の宣命に「天皇」、また神護景雲三年のに「天皇」とあるのでも知られる如く、スメラと稱せられ、其の下にミコトを添へてスメラミコトともいはれたのであるが、またキをつけてスメロ(ラ)キとも呼ばれたので、スメロキはカムロキと同じ構造を有する語である。此の場合、スメは形容詞的美稱から轉じて名詞となつてゐるので、其の下にロ(ラ)が添へられたのは、カミ(ム)の下にロ(又はル)がつけられたのと同じである。もつとも語の發生の順序からいふと、多分、スメラミコトまたスメラキの語が先づ作られ、其の後にミコト又はキをつけずにスメラと稱することにもなつたのであらう。スメラが名詞として一人稱に用ゐられたのは、かう見なければ解し難いやうである。
 ところで、スメロキの語には祖先の意義は無いはずであるから、上代の天皇をいふ時には「遠」の語を冠したのであるが、和銅元年の宣命に「高天原與利天降坐天皇御世始而中今麻弖爾天皇御世御世」とある如く、遠い昔の天皇をいひまた廣く歴代の天皇を汎稱するにも此の名が用ゐられたところから、此の語におのづから祖先の意義が(370)含まれるやうになり、從つて皇祖または天皇祖の文字がそれにあてられることにもなつたらしい。萬葉に皇祖神、皇神祖、皇御祖、皇祖、などとあるのが何れもスメロキの語を寫したものであることは、句の形の上から疑はあるまい。上文に言及したことのある持統紀二年の記事に見える皇祖は即ち此の意義でのスメロキであり、孝コ紀大化三年の詔勅に「始治國皇祖」とある場合のもまた同樣であらう。白雉元年の條に「今我親神祖之所知穴戸國中有此嘉瑞」とある「神祖」もまたスメロキではあるまいか。我親の語はカムロキ、カムロミの上に加へられるのが一般の例であるから、此の神祖もまた普通に訓まれてゐる如くカムロキの語を寫したものかとも思はれるが、此の「神祖之所知」は「天皇のしろしめす」といふことであり、たゞ其の天皇が廣く歴代のをも含めていつてあるために「我親」の語が加へられたものと解し得られるから、カムロキよりは寧ろスメロキとすべき場合である。スメロキの稱が皇祖の義にも用ゐられるやうになつたのは、カムロキ、カムロミが皇祖の稱となつたのと似てはゐるが、それは高天原に於ける皇祖に限つて適用せられたのに、これは一般に歴代の天皇を稱するのであつて、其の間に差異がある。スメロキは現在の天皇をいふのがもとであつたからであらう。なほ上文に記した大化二年の詔勅にある皇祖も、またスメロキであるかも知れぬ。「我」の文字が上にあるところから見れば、ミオヤの方が適切のやうではあるが、「我親」の語が加へられた場合があるとすれば、スメロキとしても支障は無からう。但し萬葉の皇祖神、皇神祖、皇祖は、御祖先もしくは歴代の天皇をさしてゐる場合があると共に、これらの文字を用ゐながら現在の天皇をさしてゐる場合もあるので、其の點がやゝ解しがたく感ぜられるが、これはスメロキの語が現在の天皇と御祖先との二つの意義を有するやうになつたため、漢字のあてかたが混同したところから生じたのであらう。文字は皇祖などと書かれてゐても、現在の天皇の(371)意義でのスメロキの語を寫したものとして見るべき場合があるのである。
 かう考へて來ると、上に引いた孝コ紀大化三年の詔勅などの皇祖を、普通の訓の如くスメミオヤとよむことは、妥當ではあるまい。スメミオヤといふ語がもしあつたとすれば、其のスメは形容詞的美稱であり、さうしてミオヤに此の意義でのスメを加へることは、語の構造に於ては不可能ではなからう。たゞかういふ語のあつたことが確實でないのである。また文字からいつても、此の場合の皇祖の「皇」は形容詞的美稱ではなくして、天皇の意義であり、名詞である。こゝにいふ皇祖が天皇の御祖先といふ義であることは、宣命に天皇祖と書いてあるところのあるのでも知られるからである。(孝コ紀齊明紀天智紀などに見えてゐて皇極、齊明天皇のことである皇祖母尊をスメミオヤノミコトと訓み習はしてゐるやうであるが、これはオホミオヤノミコトの語にあてられたものである。それは、聖武天皇即位の宣命に同じ皇祖母の文字があつて文武天皇の御母としての元明天皇をさしてゐること、さうして、指すところは違つてゐるが聖武天皇の御母を大御祖《オホミオヤ》と呼ぶやうに定められたことから、推測せられるのである。皇極、齊明天皇をかう稱するのも、多分、天智天皇を本位としてのことであり、其の母であられるからのことであらう。孝コ紀などにそれが見えるのは後の稱呼の適用せられたものらしく、齊明紀の卷首に孝コ朝にかう定められたやうに記してあるのは、書紀に例の多い筆法に過ぎない。なほ孝コ紀に吉備嶋皇祖母とあるのも同樣である。皇の字はオホ及びミの美稱にあてられたもの、祖母はオヤの語を寫したものである。此の場合のオヤは母のことであるけれども、オヤの語の指すところは廣いからそれを祖母と書き、母の場合にも此の文字が用ゐられたのである。皇祖の文字とは關係の無いことであるが、スメミオヤといふ稱呼に言及したため、これだけを附記して置く。原の語が忘れられた後世には、皇の字が(372)あれば、すべてそれをスメと訓むくせがついたらしいので、皇孫をスメミマといふのも其の例である。)
 こゝまで述べて來た因みに一言したいのは、神代紀に見える文字ではないが、孝コ紀大化三年の條の詔勅の冒頭に記されてゐる「惟神我子應治故寄」といふ一句についてである。これは、いふまでもなく、漢文ではなくして國語を直譯したものであるが、普通にはそれを「神ながらも我が御子しらさむとことよさせ(し)き」と訓み、「惟神」の二字がカミナガラの語を寫したものと解せられてゐる。しかし此の訓みかたが果して當つてゐるかどうかは問題である。第一にかう訓むと、何人が「我子」に「故寄」させたのかが知られないのみならず、「我子」の「我」が何人であるかもわからないではないか。「我子應治故寄」は上にも數述べた天つ神が天つ神のみ子に此の國の統治を任ぜられたことをいつたものに違ひないが、此の訓みかたでは、其の主位にある天つ神が記されてゐないことになり、從つて全體の意義がわからぬ。詔勅の冒頭にかういふ書きかたがしてあるといふのは、解し難いことではあるまいか。此の意味のことは、皇位の起源、皇室の國家統治の由來、を莊重に述べるために、祝詞にも宣命にも數説いてあるが、其の何れの場合でも必ずそれが天つ神の命であることを明白にいつてある。上にも引いた文武天皇の即位の宣命には「天坐神之依之奉之隨……」とあり、其の他の宣命や祝詞にはカムロキ・カムロミの命によるとある。のみならず、孝コ紀に於いても大化元年八月の詔勅には「隨天神之所奉寄」と記してあつて、「天つ神」と明記してあるではないか。これは「天つ神のよさし奉りしまにまに」といふのであらう。然るにこゝにのみそれが書いてないといふのは、甚だ解し難いことであつて、それでは意義もわからず、文章の體をもなさぬ。それから第二には、「惟神」の文字で「神ながら」の語の意義を現はし得るかどうかが疑問なのである。「神ながら」のナガラを漢字で寫す場合には、宣命でも萬(373)葉の歌でも皆な「隨」の字を用ゐてあり、たゞそれに「在」を加へて「在隨」としてあるところが萬葉に一つ見えるのみであるが、それはともかくも、「惟」の字は此の語にはあまりに縁遠くはあるまいか。「惟神」の文字を一つの熟語のやうに用ゐることが晉書隱逸傳の敍に「處柔而存有生之恆性、泰盈斯害惟神之常道、」とある外に漢籍に其の例があるかどうか、余は今のところ、それについて確かな知識を有たないが、此の「惟神」は「莊子」刻意篇の「純素之道、惟神是守、守而無先、與神爲一、」のそれから來てゐるやうであつて、原文の「惟神是守」は神を守るといふことであり、惟と是との二字は修辭のために加へられただけのものであるのを、隱逸傳では惟神の二字をとつて「純素之道」を示すことにしたので、それがために此の二字が一つの熟語のやうに見えることになつたのである。ところがここの「神」は人の心のうちにある神(精神)の義であつて、國語のカミに當るものではなく、而もこの場合ではそれが道家の道を得た?態に於いてのそれをいふのであるから、惟神を一つの熟語と見るにしても、それは「神ながら」とは何の關係も無いことである。書紀の編者がもし「惟神」を一つの熟語として用ゐ、さうしてそれを晉書の上記の句から取つて來たのならば、それはたゞ「神」とあるがために其の文字を適用したのみのことであらうが、それにしても、此の文字によつて「神ながら」の語を譯しようとしたとは考へ難い。のみならず、書紀に於いて「惟神」が熟語として用ゐてあるかどうかが、根本的に疑問なのである。
 なほ第三には、「神ながら」の語の用ゐかたからも疑問が生ずるので、それには先づ、宣命に此の語のあるのは、何時でも天皇が「神ながら念ほしめす」といふ場合に限られてゐることが想起せられる。もつとも萬葉には、二の卷の人麻呂の歌に「飛鳥の淨の宮に神ながら太しきまして」とか「瑞穗の國を神ながら太しきまして」とかいつてあり、(374)八の卷の赤人の歌にも「八すみしゝ我が大君の神ながら高知らせる」といふことがあるから、此の語を「しらす」にかけていはれぬことはない。たゞ宣命にも祝詞にも、天つ神がみ子に此の國の統治を任ぜられたことをいふ場合に、此の語の添へてある例が一つも無いといふことを注意しなければならぬ。特に國語で讀まれる詔勅の冒頭に此の意味で皇室の國家統治の由來を述べることがあるのは、大化以來の慣例らしく、現に孝コ紀にも二つの例があり、またそれは、宣命の緒言ともいふべきところに「現つ神と大八嶋國しろしめす」云々といふことばのあるのが大化以來の定例であることからも類推せられるから、そこに「神ながら」の語の用ゐられてゐないことは、今の問題については重要なる意味がある。聖武天皇の即位の宣命に「高天原に神留りますカムロキ・カムロミの命もちて、吾がみ子の治らさむ食國天下とよさし奉りしまにまに」とあり、此の天皇及び孝謙天皇の讓位の宣命にもほゞ同じことがあるが、其の何れにも「神ながら」の語は見えないのである。孝コ紀の詔勅とても國語で讀まれたもの、即ち所謂宣命、を書紀の編者がいくらか漢文化したものであるから、そこにもやはり後の宣命と類似したいひかたがしてあつたと推測するのが當然であらう。但し問題の句は「まにまに」といふやうな語を用ゐることによつて其の下の文につゞける書きかたではなく、「ことよさせ(し)き」で句がきれてゐるやうであるが、これは大祓の祝詞の同じことをいつてあるところに「しろしめせと事よさしまつりき」とあるのに例がある。
 たゞ「神ながら」ではないが、結局それと同じ意義になる語の用ゐてある例が、宣命に一つだけある。それは  數々言及した文武天皇の即位の時の宣命に「天つ神のみ子ながらも、天にいます神のよさし奉りしまにまに、」とある「天つ神のみ子ながら」の語である。本來、天皇について「神ながら」といふのは天皇を神としての語であるので、「神な(375)がら念ほしめす」とか「神ながら太しきます」とかいつてあるのでも、それは明かであるが、天皇について特にかういはれたのは、「現つ神」の稱呼が用ゐられたのと同じ理由からであり、天皇が神であられることを示さうとしたためである。いひかへると「神ながら」の「神」は天皇に具はつてゐる神の性質をさしてゐるのであり、さうしてそれを天皇の國家統治の由來を説いた神代の物語の思想からいふと、「天つ神のみ子」であられるところに「神」たる意義があるのである。だから「神」も「天つ神のみ子」も畢竟、天皇の御ことであるが、さう考へると、「天つ神のみ子ながら」は、結局「神ながら」と同じ意義になる。此の宣命に限つてかういふことが書いてあるが、同じく天つ神がみ子に此の國の統治を任ぜられたことをいふにしても、此の宣命の書きかたは他の多くの例と違つてゐるから、これもまた其の特異の點の一つであらう。さうして、上に引いた句の上に「高天原に事始めて……いやつぎ/\に大八嶋國治らさむつぎてと」とあるのを見ても、「天つ神のみ子ながら」は「治らす」に關係させていつてあることが知られるから、それによつて類推すると、問題の孝特紀の詔勅の一句に於いて「我がみ子治らさむとことよさせ(し)き」の上に「神ながらも」とあつても、怪しむには足らぬやうである。此の詔勅もまた此の點に於いて特異な書きかたがしてあると見れば、それでよいのであらう。しかし其の代り、最初に述べた如く、それだけでは意義をなさないものであるから、假に上記の宣命の語でいへば「天に坐す神の」とでもいふやうなことばがそこに無くてはならぬことになる。のみならず、宣命及び祝詞の一般の例からいふと、此の場合に「神ながら」の語を加へることは必要でないが、カムロキ・カムロミなり「天にいます神」なり、何れの語を用ゐるにしても、何人が「ことよさせ」たかをいふことは絶對に必要である。さすれば「惟神」が「神ながら」の語にあてられたものとすることには、依然として支障がある。(376)然らば、此の一句は如何なる國語を寫したものであらうか。虚心平氣に、先入見をすてて此の一句を見ると、「惟」は發語であり「神」は「我子應治故寄」の文法上の主語のやうになつてゐる。神が「我がみ子治らさむ」と任ぜられたといふのである。しかし文法上の主語らしくなつたのは半ば漢文化せられたからであつて、宣命や祝詞の多くの例から考へると、それは「神の命もちて」といふやうないひかたをすべきところである。このやうに、漢文化のために「命もちての」の語がそのまゝには寫されてゐないことになつたが、全體の意義は變はらない。たゞかゝる場合に單に神とのみいつてある例は宣命にも祝詞にも無いから、これは「高天原に神留りますカムロキ・カムロミ」とあつたのが「神」の一字に書きかへられたのではあるまいか。上に記した聖武天皇の即位の宣命の語句と此の句とを對照して見ると、「吾がみ子の治らさむ」以下はほゞ「我子應治」以下に當るのであるから、「カムロキ・カムロミ」まではおのづから「神」に應ずることになるではないか。かう見れば、此の一句のまゝで意義もとほり、さうして上に述べた凝問はすべて氷釋し難點は消滅する。「高天原に神留りますカムロキ・カムロミ」は直譯のしやうの無い語であるため、「神」の一字にそれを要約したのであらうが、カムロキ・カムロミは本來、神の義であるから、これは寧ろ適譯とすべきである。また「惟」を發語の意義に用ゐることは、書紀に於いては、崇神紀四年の條に「惟我皇祖諸天皇等光臨宸極……」とある「惟」の字にその例があるのみならず、漢文においては常のことである。なほ「我子」の上に「瑞穗國は」といふやうな語、又は「應治」の下に「國と」といふやうな語のあつたのが省かれてゐるのではないかとも思はれるが、もしさうならば、これは或は、漢文化するに當つて、次の句に「君臨之國也」と書かれたためであるかも知れぬ。また「神」の原語は、必しもそれをカムロキ・カムロミと考へるには限らず、「天に坐す神」としても(377)「天つ神」としてもよいのであり、何れでも意義は同じであるが、たゞ此の二つの語ならば、上に引いた大化元年八月の詔勅の如く、簡單に「天神」と書くことができたはずであるから、余はそれよりも上記の如く推考したい。(ついでにいふ。「神の命もちて」といふいひかたは、祝詞や宣命に限らず用ゐられてゐるので、古事記の神代の卷や神武の卷にも所々に見えてゐる。なほ附言するが、古事記のイサナキ・イサナミの命の國生みの段のはじめに「天神諸命以」とある「諸」は衍文であつて、これもまた「天つ神の命もちて」の語が寫されてゐるのであらう。)
 ところで、問題は何故にかゝる書きかへをしたかといふことであるが、それは全體に此の詔勅を漢文化しようとしたからである。「我子」以下をほゞ原語のまゝにして置くほどならば、これもまた同じやうにしてよかつたであらうが、此の一句の次に「是以與天地之初君臨之國也、自始治國皇祖之時、天下大同、都無彼此者也、」とあつて、國語のまゝにしてあるところと強ひて晦澁な漢語に改めたところとがそこに混淆してゐるのを見ると、此の詔勅の漢文化が如何に無理なしかたによつたものであるかが知られるから、此の一句もまたそれと同じ態度で書かれたものであらう。「與天地之初君臨之國也」はこのまゝでは全く意義がわからぬが、これは多分「之初」の二字が後から書き加へられた衍文か、又は「共長」とか「長久」とかいふやうな文字の誤寫かであつて、其の意義は天地と與に永久に君臨せられる國といふことであるらしい。皇室の國家統治の起源をいつてある上記の一句を承けた文章であるがため、それから誘はれた誤解によつて、何人かが「之初」の二字を「天地」の下に加へたのか、又はかう誤寫したのか、何れかであらうが、それでは「與」の字が全くわからなくなる。普通にそれをヨリと讀んでゐるが、これは「天地之初」に應ずるやうに強ひてつけた訓であつて、與の字にかゝる意義のあるはずがないことは明かである。(「與」が比較の意義(378)に用ゐられる場合があつて、國語でそれを「よりは」と訓んでゐるが、それは此の場合のとは用ゐかたが違ふ。)しかし、此の句がかういふ形で詔勅の原文にあつたかどうかは問題であるので、上代人のいひかたとしては、上に述べた一句を承けてかういふことがいはれたらしくは思はれぬ。「天地といや遠長く」とか「天地と長く久しく」とかいふやうな語が「我子應治」の上に加へてあつたのを分解してかう書き現はしたのではないかとも思はれ、「瑞穗の國は」とか「國と」とかいふ語が原文にあつたのではないかといふ上に述べた推測も、此の點に於いて考へ合はされるが、かゝる場合にかゝることばのある例が他に一つも無いから、さう見ることにも躊躇せられる。たゞ此の句が神代紀の注の「一書」の「與天壤無窮」の句を含む一節のやうな漢文ではなく、國語を譯したらしい氣味のあるのを見ると、かういふ意義のことは原文にもあつたのであらうか。が、それにしても此の表現法と句の形とは原文とは遙かに違つてゐよう。(もし此の意義のことが詔勅の原文にあつたならば、神代紀の注の「一書」の上記の語はこゝに由來があらう。)或は全く見かたをかへて「與」の字に誤があるとし、もとはそれが「自」などであつたと考へてみてはどうかといふに、もしさうならば上の句を承けてかういふやうな語を用ゐることは、原文によつたのではなくして書紀の編者の書き改めたのであらう。宣命を參照すると、かゝる場合には「高天原にことはじめて」などといはれたかも知れぬが「自天地之初」とはせられなかつたらしく思はれる。しかし「與」を「自」の誤寫とすることは字體の上から困難であらうし、次の句の語とも重複するから、此の考は成立ちがたからう。また「始冶國皇祖」は國語を其のまゝに直譯したのであるが、隋書高祖本紀から「大同」の二字を求めて來てそれを適用した次の句に至つては、原語の意義の推測しがたいほどに修飾せられ、或は原語に無い文字が加へられてゐる。「惟神」の二字を用ゐたのも此の例で(379)あるとすれば、さして怪しむべきでもあるまい。(「大同」の文字のもとの出典は禮記の禮運篇であるが、書紀の編者は直接にそこから採つたのではなからう。)さうしてかう考へると、世に種々の論議のある「惟神者謂隨神道亦自有神道也」の注記が、此の文字をカミナガラと訓むやうになつてから、特にカミナガラの語に一種特殊の意義の與へられてから、後に加へられたものであることは、おのづから推知せられる。神道といふ名稱も、書紀に於いては、用明紀及び孝コ紀に見える如く、外國の神の信仰としての佛法に對する意義で、民族的風習としての神の崇拜を指す語として用ゐられてゐる。此の注に説いてあるやうな意義を神道の語に有たせることは、遙かに後世の思想としなければなるまい。
 なほ附記する。同じ詔勅中の「隨在天神」も亦たカミナガラと訓まれてゐるが、「神ながら」の語を寫すに「天」の文字を加へたとは考へ難いから、これもまた原語を正しく解し得たものではあるまい。萬葉の十三の卷の人麻呂歌集の歌としてあるものに「神在隨」とあるのはカミ(ム)ナガラらしいから、隨在の二字をナガラと訓むことはできようが、天の一字の加はつてゐるところに問題がある。思ふにこれは「天つ神ながら」か「天つ神のまに/\」かの何れかであらう。前の方ならば天つ神の御子ながらの意で、其の天つ神の御子は天皇おんみづからのことである。上にも引いた文武天皇の即位の宣命にある「天つ神の御子ながら」の語を參考すべきである。さうして天つ神の御子を單に天つ神ともいひ得るといふことは、上に述べて置いた。また後の方ならば「天つ神のみことのまに/\」の義であらう。古事記の出雲平定の條に「隨天神御子之命」とあるのは、これと同じいひかたである。マニマニの語に隨の字をあてるのが、一般の例であることはいふまでもない。二つの何れでも意義は通ずるが、文字に重きを置いて考へると、(380)多分、前の方であるらしい。さうして此の句を斯う解すれば、それを承けていつてある次の句の「屬可治平之運」の意にもよく適合する。此の句もまた國語の漢文化せられ修飾せられたものらしく見えながら、其の原語を推測することは困難であるが、全體の意義から斯う考へられるのである。
 なほ書紀の書きかたによつて原語の意義が誤解せられる虞のある一二を附記しようと思ふが、イサナキの命のヨミの物語に於いてコトドの語を「絶妻之誓」と書いてあるのも、其の例である。コトドは萬葉十九の卷の家持の歌にも見えてゐる語であつて、そこではかういふ意義は全く無いのであるから、これは本來もつと廣い意義の語であるのを、それに當る漢語の無いのと此の話の場合に適用させるためとで、かう書かれたのであらう。此の語は、別れゆく人に對して唱へる呪詞をいふのではあるまいか。ウケヒを「誓約」と書いたり「祈」としたりしたのも、之と同じである。またフナドノカミに「岐神」の字をあてたのも之と似た書きかたである。フナドはクナドともいはれてゐて、それは音通から來たことと思はれるが、道饗祭の祝詞にヤチマタヒコ、ヤチマタヒメとクナド(久那斗)とが連記せられてゐるのを見ると、それはちまたの神の名として考へられてゐたには違ひない。しかしフナドといふ語にちまたの意義は無いから、それを岐神と書いたのは、語の意義には當らないものである。フナドの神の語に岐神の字をあてたのではなく、フナドノカミをちまたの神の意義に於いて岐神と書いたのであり、從つてそれは書紀の記者の意圖ではチマタノカミと訓むつもりであつたと解せられるやうでもあるが、古事記に對照してみると、やはりフナドの神に岐神の字をあてたものらしい。フナドの神は古事記には橘の小門の禊の時にイサナキの命の棄てた杖に生じた神としてあり、書紀の注の二つの「一書」ではヨミから追つかけて來たイサナミの命またはイカツチを拒ぐために投げた杖としてあ(381)るが、これは多分、葬儀の際に邪鬼をはらふ呪力のあるものとして杖を用ゐる習慣があつたことから作られた話であらう。ところが、ちまた即ち道の岐れるところは、一般に邪鬼がゐたり來たりするところと考へられてゐたから、それを拒ぎ拂ふ呪力を有するもの即ち神として、杖の如き形をしたものをそこに建てる風習があつたらうと想像せられる。それが即ちフナド(クナド)と稱せられたのであらう。古事記にツキタツフナドとしてツキタツの語の加へてあるのも、フナドが地につきたててあるものだからのことと解せられる。上記の祝詞にヤチマタヒコ、ヤチマタヒメとは別にクナドの名が記され、而もそれにヒコとかヒメとかいふ語の添へてないのは、クナドが人に擬せられた名を有たないものだからであり、從つて此の書きかたはクナドを或る形を有する物體の稱呼として見るにふさはしい。ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメはそれから神たる性質を抽出して、それに人に擬せられた名を與へたものであらう。フナドの語義は余にはわかりかねるが、フナは杖とも竿とも又は柱ともいふべき形のものの稱呼ではあるまいか。大殿祭の祝詞にヤフネの命またはヤフネククノチの命といふ神の名が記してあるが、ククノチは木の精靈であるから、それに加へて呼ばれたヤフネは屋の材料としての木材の義であつて、木材をフネといつたのではあるまいか。(トヨウケヒメの命にもヤフネの語が加へてあるが、これは誤寫のやうである。此の神にかういふ語の加へてある例は他には無く、また神の性質からいつても家屋には特殊の關係が無いからである*。)さすれば、此のフネはフナドのフナと同じ語であらう。またドはコトド、トコヒド、チクラオキド、などのそれと同じではあるまいか。此の岐の神のフナドは葬儀の杖とは直接の關係は無いが、何れも邪鬼を拂ふ呪力のあるものと信ぜられ、また同じやうな形をしたものであるために、物語に於いて此の二つが結合せられたのである。或はまた死者を葬つた後、墓地から邪鬼の來るのを拒ぐために、(382)そこと家または村落との間にあるちまたに、葬儀に用ゐた杖を建てて置く風習があつたかも知れぬ。イサナキの命の物語も、上記の祝詞に於いてヨミの國から邪鬼が來るやうに語られてゐることも、かう解するにふさはしい。もしさうならば、かのツキタツフナドといふ稱呼も、こゝに特殊の理由がありげである。しかし、それにしても、ちまたにフナドといふものを建てることは、それとは別に行はれてゐたことであらう。柱とか石とかいふやうなものに呪力があるとして、それを道にたてることは、上代人の思想として容易に理解し得られるからである。要するに、フナドの神を岐神と書くことは、神の性質から見ると、誤ではないが、語の意義からいふと、當つてはゐないのである。(出雲平定の條の注の第二の「一書」にフツヌシの神が岐神を嚮導として周流削平したとある岐神は、フナドノカミではなくしてチマタノカミといふべきであらう。これは宗教的呪術的意義に於いていはれたのではなく、またちまたに建てられたフナドを指すのでもなく、各地を巡視するといふ話であるために、道路の神に道しるべをさせたといふ、物語としての構想に過ぎないからである。ちまたの邪鬼たるサルダヒコの神が、嚮導邪鬼の性質を失つて岐の神たる資格のみを保有し、そこから天つ神の嚮導者にせられたことが、參考せられる。)
 上記の例は書きかたが誤つてゐるのではないが、時には漢語を用ゐたため意義が全く違つてしまつたところもある。アメノワカヒコの死んだ時の話に「八日八夜啼哭悲泣」とあるのは其の一例である。これは古事記に「日八日夜八夜以遊也」と見える如く、もとアソブとあつたのを、かゝる場合であるために斯う書きかへたものらしいが、アソブは歌舞することであつて、それは死者のあつた時に行はれる呪術として解せられるから、此の書きかたは全く原義を失つてゐる。ヨミの國の物語の注の第九の「一書」の「到殯斂之處」も、多分、第一の「一書」や古事記に見える如く(383)黄泉とあつたのを、斯う書き改めたものであらう。これはヨミの國の觀念が死者の生活するところとして十分に發達してゐず、屍體の置かれたところから離れてゐないからであるが、それと共に筆者の思想の根底にはシナ式合理主義が存在するらしい。「言訖忽然不見、于時闇也、」はそれから派生した考である。だからこれらは原の物語とは意味が違つてゐる。第六の「一書」の泉津平坂のところに「或所謂泉津平坂者、不復別有處所、但臨死氣絶之際、是之謂歟、」とあるのは、更に一歩を進めた合理主義的解釋であるが、これは多分、舊事紀から寫し取つた後人の注記の?入であらう。しかし、漢語が用ゐられ漢文風の書きかたがしてあつても、それがみな書紀の編者の意から出たことであるには限らない。岩戸の物語の注の第三の「一書」にスサノヲの命の行爲を敍して「妬害姉田」と記してあるのは漢語風の表現になつてゐるが、これは、大神の田は良く此の命の田は惡いといふ話によつて書かれたものである。此の話はスサノヲの命の暴行に理由をつけたのであつて、そこに原の物語の精神には背反する點があるけれども、それは物語そのものの一つの發展であつて書紀の書きかたに於いてではなく、舊辭の此の「一書」に既に存在したものである。また書紀の書きかたは妥當であるにかゝはらず、後世の訓みかたが誤つてゐる例もある。皇孫の天降りの條の注の第一の「一書」の終に、ウズメの命に對する皇孫の語として「汝宜以所顯神名爲姓氏焉」と書いてあるが、これは古事記に「其神御名者汝負仕奉」と記してあるのと同じ意義のことであつて、サルメといふ氏の名の起源をサルダヒコの名に附合したものであるから、「姓氏」は文字のまゝの意義で用ゐられてゐる。だから國語で訓むならばそれはウヂといふべきであり、カバネ又はカバネウヂとしてある普通の訓は當つてゐない。姓とあれば必ずカバネとよむべきもののやうに思はれたからの誤であらう。ホホデミの命などの出産の話に「生出之兒」とある「生出」をナリイヅル(384)と訓むのも、此の種の誤である。ナルは化生の場合にあてはまる語であるから、これはアレマセルとでもいふべきである。國語の直譯ではあるが「生出」と書いたのに誤はなく、後世の訓みかたが正しくないのである。此の條のホノスソリの命の場合に「始起烟末」とあるのをハジメテオコルケムリノサキヨリと訓むに至つては、一層大なる誤といはねばならぬ。これは注の第二の「一書」に「?初起時」、また第三のに「初火?明時」とあるのと同樣、炎の立ち初めた時といふ意義である。但し「末」は或は「時」の誤寫かも知れぬ。
 神代紀の書きかた訓みかたについていふべきことは、以上説いたところに限らないが、これだけを見ても、書紀に於ける國語に對する漢字のあてかた、シナの成語の適用のしかた、或はある語句の漢字での寫しかた、又は漢譯のしかたの一斑が知られ、またそれによつて原語の意義が歪曲せられ、又はそれに新意義が附加せられたこと、また後世になると、さういふ風にして寫された原語の何であるかがわからなくなり、寫しかたも明かでなくなつたため、誤つた訓みかたの生じたことが、ほゞわかつたであらう。ところが、此の誤つた訓みかたから原語の意義が誤解せられ、從つてまたそれによつて表現せられてゐる上代の思想や生活が誤解せられ、現代の學者にまで其の累が及んでゐることは、注意しなくてはならぬ。もつとも書紀のはじめて編述せられた時に其の漢文の部分がどういふ風に讀まれたかは、其のころの漢文のよみかたが明かでない以上、大體の傾向を知ることすらむつかしい。また國語で書いてあつた舊辭を強ひて漢語風に書きかへた部分、從つてまた漢文になつてゐない部分は、初から國語で讀まれたであらうが、そこにも書紀の編者が漢文で書き加へたところが混入してゐるから、それを辨別することは頗る困難であり、今日からは到底十分にはできなからう。孝コ紀以後の詔勅についても、ほゞ同樣である。(皇極紀までの卷々に見える詔勅は、(385)其のすべてが書紀の編者によつて作られたものであるから、これにはかういふ問題は無い。)が、單語としての漢語についていふと、其のすべてを一々國語に譯して讀みはしなかつたらしい。よし文章全體としては國語風によまれたとするにしても、漢語の一々が國語に譯し得られたかどうかが問題だからである。漢語を一々國語にあててよまうとしたのは、多分、平安朝からであらうと思はれるので、それは弘仁以後、朝廷で講書のことが行はれたのと關係があらうと思ふ。古語拾遺を見ると、國語の寫された文字には、往々所謂古語の注記してあるところがありながら、書紀の文によつてゐるところに於いては、書紀よりも一層それを漢文化し、又は書紀の漢文になつてゐるところのみを取つて、それにまじつてゐる國語の部分を省略してある場合があるが、これもまた、そのころまでは書紀の漢語をすべて國語に譯して讀んだのではなかつたからのことではあるまいか。朝廷の講書が始まつてからも、後になるほど其の傾向が強くなつて來たので、初は音のまゝで讀んでゐたものを次第に國語に譯するやうになつたでもあらうかと想像せられる。さうしてこのことは釋紀に引いてある種々の私記の記載から推測し得られるので、單に私記として引いてあるものに於いてそれが最もよく現はれてゐる。此の私記は其の内容から推測すると元慶講書の時のであるらしいが、それによると、當時、一つの文字の訓に種々の説があつたやうであり、さうして、それは、それらの説が何れも比較的新しい考案であつたことを示すものであらう。いひかへると、これまで無かつた訓をつけようとして種々に考案せられながら、それがまだ一定せられなかつた?態にあつたことを、示すものであらう。さすれば、此の時代にかうして工夫せられた讀みかたがもとになつて(勿論いくらかの變化を經て)後世に傳へられてゐる訓に、誤謬があり原義を失つてゐるものがあるのも、怪しむには足らないであらう。
(386) なほ漢語によつてつけられた官職名などが上代に於いてどう呼ばれてゐたかも問題であつて、それにあたる國語が一々作られ、其の作られた國語でいはれてゐたとは、必しも考へ難い。國語の宣命がよまれたことや、平安朝時代の朝儀などから推測すると、官職によつては朝儀の場合などに國語で稱へられることがあつたかとも思はれるし、また國語になほして呼ぶのが便別なものは普通の場合でもさう呼ばれたでもあらうが、一般には漢語のまゝであつたらうと推測せられる。其の方が簡便でもあり、シナの文字を尊重した當時の風潮にも適つてゐるのみならず、例へば陰陽寮などの如く國語をあてることのできないものもあるからである。(カミとかスケとかいふ地位の名、または大藏とか主水とかいふ官職の名の如き、本來國語であつてそれに漢字をあてたに過ぎないものは別である。)位階の名の如きもまた同樣であつたらう。始めてかういふものの定められた推古朝の冠位の名稱については、括地志(張楚金の翰苑の雍公叡の注に引いてあるもの)に大コが麻卑兜吉寐といはれたやうに記してあるから、十二階の一々に國語の名稱があてられてゐたやうに思はれもしようが、此の時のは、コ仁禮信義智といふ名稱をつけたことに意味があるのであるから、其の名稱に關係の無い國語の稱呼を別に作つて一々それに配當したといふことは信じ難い。だから括地志の記載は、社會的地位の高いものがマヒトキミと呼ばれてゐるといふやうなことと、十二階の冠位の最上級のが大コであるといふこととを、結びつけて、かう書いたまでのことであらう。孝コ朝以後の冠位についてもまた同樣に考へられるので、それらは一々國語に翻譯していふことのできないものである。數字で位階を示すやうになると、それは國語でいひ得るのであるから、公式の朝儀などでは國語を用ゐる場合があつたかも知れぬが、普通にはやはり音讀したのであらう。だから、倭名抄に記してある官職名のよみかたの如きは、多くは平安朝になつてから考案せられたもの(387)ではあるまいか。孝コ紀の八省をヤツスブルツカサと訓んであるのも、後人が文字を直譯したものに過ぎなからう。元號の如きはいふまでもなく、漢語でいひ習はされたに違ひないので、白雉をシラキギスといふのも後からの直譯である。釋紀の「或説」に大化をハジメテナルとよんであるが、これは名詞としては適しない語であるのみならず、「或説」と特に記してあるのを見ても、普通に承認せられてゐない異説であることがわからう。
 或はまた書紀に於いて、純粹の國語を寫した文字すら誤つた讀みかたのしてある例があるが、そのいくつかは「日本上代史の研究」の第三篇に擧げておいた。原注または私記などに國語の記してある場合もあり、またいひ傳へのあつたものもあらうが、それですべてが知られたのではないからである。のみならず、固有名詞さへも訓み誤まられたものがあるので、繼體紀元年の條の「色部」がイロベと訓まれてゐるのは其の例である。これはシコフであらうと思はれる。孝コ紀大化四年の條の蘇我造媛は何といふ名であつたか明かでないが、ミヤツコヒメと訓んでゐるのは誤であらう。「日本上代史の研究」の第二篇で考へてある如く、造の字にミヤツコの意義は無いからである。部名のワクコベ(少子部)がチヒサコベと訓まれてゐるのも、また同じ誤である。
 なほ附記するが、普通に原注と考へられてゐる訓の注記は、或は養老の私記から寫し取つて後人の書き加へたものではなからうか。原注としてかゝる訓が記してあつたならば、それがもつと多くあるべきもののやうに思はれるのと、かういふ注記もなく而も後人には考へ得られさうもない訓みかたが後に傳はつてゐるが、それは養老の私記に記されてゐたものではあるまいかと思はれるのと、此の二つの理由から、かうも臆測せられる。釋紀卷十九の皇極紀四年の條に「努力」の訓に「養老……等私記、此云〔二字右○〕豆刀米、」とあるが、此の書きかたは所謂原注のかきかたと同じであるこ(388)とも考へ合はされよう。但し私記から出てゐるにしても、其の私記は書紀の編者の手になつたものであらうから、畢竟、原注と同じではある。
 
(389)     附録
 
       第一 掩八紘而爲宇といふ語の意義とその出典
 
 書紀の神武天皇紀の己未の年三月丁卯にかけて記してある「令」といふものに「兼六合以開都、掩八紘而爲宇、」といふ二句があつて、このうちの「爲宇」が、いつのころからか、「宇となさん」とか「宇とせん」とかよみならはされてゐるやうであるが、これは「宇をつくらん」とよむべきものであつて、その意義は「宮殿をたてよう」といふことである。「宇」は、このばあひ、家屋そのものをさすのであり、「爲」は作の義である。「爲宇」は前の句の「開都」に、從つて「宇」は「都」に、對することばであることからも、さう解しなければならない。この二句よりも前のほうに「恢廓皇都、規?大壯、」といふことがあつて、宮室の義である「大壯」を「皇都」に對することばとして用ゐてあるが、「宇」と「都」との關係も、それと同じである。易の繋辭傳に「上古穴居而野處、後世聖人、易之以宮室、上棟下宇、以待風雨、蓋取諸大壯、」と説いてあるので、そこから易の卦の名の大壯といふことばを宮室の義に用ゐることが行はれるやうになつたのであるが、この繋辭傳に「上棟下宇」とある「宇」が、このことばのもとの意義である「家屋ののき」をさしてゐることをも、考へあはすべきである。この「令」にはなほ、民の習俗として「巣棲穴住」といふことが記してあり、それと對應するやうに、皇位に即いて民を治めるためのこととして「經營宮室」といふことがい(390)つてあるが、この「穴住」とそれに對することばとしての「宮室」とをいふことも、また繋辭傳の説から來てゐるのであり、さうしてこの「經營宮室」が即ち「規?大壯」であり、從つてまたそれは「爲宇」に應ずる意義をもつことになる。(「巣棲穴住」は、集解にも引いてある如く、禮記の禮運篇の「昔者先王、未有宮室、冬則居營窟、夏則居?巣、」からとられたのであらうが、繋辭傳もまた考へあはされたであらう。この「令」には易の卦の名の屯と蒙とが用ゐてあり、蒙の彖辭の「蒙以養正、聖功也、」からとられた「養正」といふことばも使つてあるのみならず、「義必隨時」も隨の卦の彖辭の「隨時之義、大矣哉、」によつたものであるやうに、易から取られたことばの多いことを、考へあはすべきである。この「令」と對應するやうに書いてある日向での天皇のことばとしてあるものに、既に「蒙以養正」とあり、さうしてそれから類推すると、同じところにある「草昧」もまた屯の卦の彖辭の「天造草昧、宜建侯、」によつたものであらう。これらは、集解にも記してあつて、世に既に知られてゐることである。屯と蒙との卦の名と其の彖辭とを用ゐたのは、この二つの卦が、易の乾坤二卦の次にあつて、六十四卦の始に置かれてゐるのと、屯にも蒙にも草創聖功の義があるやうに説かれてゐるのとの、ためであるらしい。)
 もと/\この「令」の全體の主旨は、六年間の征討によつてヤマトの地(「中洲」)が平定せられたから、皇都を定め宮殿を建て、皇位に即いて民衆を治めるやうにしよう、ヤマトの外の地方はまだ平定せず、また民衆は巣棲穴住の?態であるが、今のばあひ、民のために、ともかくも宮室は造らねばならぬ、さてその宮室に於いて皇位についた後(「然後」)、ヤマトの外のすべての地方を平定して國土の統一を成就し(「兼六合」、「掩八紘」)、そのとき更に大に都を開き宮殿をたてること(「開都」、「爲宇」)にしよう、しかしそれは後のこととして、今はまづ「國之墺區」である(391)カシハラを都とし、急いでそこに宮殿をたてるやうに、といふのである。「然後」の語の意義はやゝ解しがたいやうであるが、「恭臨寶位、以鎭元々、……」をうけて、「その後」といつたものには違ひなく、さうしてそれは、「邊土未清、餘妖尚梗、」といふありさまの下に輕營せられる宮室においてのことであるから、その後のこととして「兼六合」といひ「掩八紘」といつてあるのは、邊土を鎭め日本の國土のすべてを平定する、といふ意義と解するほかはあるまい。しかしこの「兼六合」、「掩八紘」は、そのことをいふのが主旨ではなく、「開都」をいひ「爲宇」をいふのが本意であるので、さう見なければ前後の文意が通じない。この「開都」と「爲宇」とは、前にいつてある「恢廓皇都」と「規?大壯」とに對應するものでなくてはならぬからである。皇都を開き宮室を建てることをいふのが、此の「令」の全體の精神である。この「令」を承けてすぐに「是月、即命有司、經始帝宅、」とあるのは、それが實行にうつされたことをいつたものであり、辛酉の年の正月朔日に繋けて「即帝位於橿原宮」と記してあることによつて、その結末がついてゐる。己未の三月から始められたカシハラの宮の建築工事が、翌庚申の年の終にはできあがつたことに、なつてゐるのである。さうしてこのことは、東遷の前の天皇のことばとして記してある「東有美地、青山四周、……蓋六合之中心乎、……何不就而都之乎、」に應ずるものであつて、こゝの「六合」の文字が「令」の「兼六合」でくりかへされ、また「六合之中心」は「令」の「國之墺區」とつながりがある。青山四周するヤマトの地を我が國(「六合」)の中心とし、またカシハラをそのヤマトの中心(「國之墺區」)と見ての、いひかたであるやうに見える。東遷そのことがヤマトに都を遷すことであり、都を遷すといふのは、新しい都に宮殿をたててそこで位につかれることである。「令」といふものにはこの意味がまとめて述べてあるので、そのすべてが都と宮室とについてのことであり、その他(392)のことは何もいつてない。「爲宇」が宮殿を建てる義であることは、これでいよ/\明かになつた。(古事記にはこの「令」のやうなものは載せてないが、はじめ日向で「坐何地者、平菊看天下之政、猶思東行、」といひ、それから東遷が行はれてヤマトを平定せられ、「如此、言向平和荒夫琉神等、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也、」で、すべてが終つてゐるやうに記してあるから、話の始終は書紀と同じである。)
 ところが、この「開都」と「爲宇」とは、文選卷十一にある王延壽の魯靈光殿賦に「荷天衢以元亨、廓宇宙而作京、敷皇極以創業、協神道而大寧、……、錫介珪以作瑞、宅附庸而開宇、」とある「作京」と「開宇」とから來てゐるので、「京」(「都」)についていはれた「作」(「爲」)が「宇」についていはれ、「宇」についていはれた「開」が「都」についていはれることに、變へてあるのみであり、「開都」についていはれてゐる「兼六合」さへも、「作京」についていはれた「廓宇宙」のいひかへられたものである。(これはかの雄略天皇の遺詔となつてゐるものに、原文である隋高祖の遺詔の「率土之人」を「普天之下」と變へてあるのと、同じやうなしかたである。)さうしてこの「開宇」の「宇」が宮殿の義であることは、いふまでもない。(「開宇」の文字は「詩」の魯頌の?宮の「大啓爾宇」によつたものであり、この「宇」も宮室の義であるから、「爲宇」も間接にそれとつながりがある。但し「宇宙」の「宇」は、「宙」と結びついて一つの熟語となつたものであり、轉化した意義のであるが、これもまた明かなことである。)さてこゝに引いた賦のことばの、「大寧」までは漢の王室のことであり、「錫介珪」からは魯王のことであるが、書紀では、そのことにかゝはりなしに、賦の文字をとつてある。たゞ賦には「開宇」について「宅附庸」といつてあるが、これは王族の一人れる魯王のことだからであつて、神武天皇のばあひにはあてはまらないから、それがために「兼六合」と同(393)じ意義の「掩八紘」にそれを變へたのである。これだけは賦の文字と意義とをかへてあるが、全體から見て、書紀の文字が靈光殿賦から來てゐることは、明かであるといはねばならぬ。「兼六合以開都、掩八紘而爲宇、」といふいひかたが「荷天衢以元亨、廓宇宙而作京、……」とあるいひかたと全く同じであり、「以」と「而」とをかたみがはりに用ゐてあることさへも、かはつてゐない。宮殿建築のことをいふのであるから、靈光殿賦の文字が用ゐられたのである。なほ賦に「創業」の文字のあることも、カシハラの奠都を敍するばあひに、この賦の思ひ出された助けとなつたでもあらうか。さらにいはうなら、既に「坤靈」の語があるので、「令」に「乾靈」の文字の用ゐてあるのは、或はそれに導かれたところがあるかとも思はれる。しかし「乾靈」の語そのものは別に出典があるから、かう思ふのは、思ひすごしかもしれぬ。それはともかくもとして、「令」の「開都」と「爲宇」との文字が靈光殿賦の「作京」と「開宇」とから來てゐることは、もはや疑があるまい。さうして、この「令」と對應するやうになつてゐる日向での天皇のことばとしてあるうちの「鴻荒」の語が、集解に記してあるやうに、やはり同じ賦の「鴻荒朴略」から來てゐることによつて、一層それが確かめられるであらう。この語は、李善の注してゐる如く、揚雄の法言に既に用ゐてあるが、書紀には文選から取られた語の少なくないことを思ふと、これは靈光殿賦のを用ゐたものであることが、推測せられる。たゞ、「鴻荒」は遠い上古の世のことを後世からいふことばであるのに、天皇のことばとしてあるものには「是時運屬鴻荒」とあつて、天皇がかういはれたその世、いひかへるとその時での今の世、のことになつてゐるのは、甚だをかしいが、これは、書紀の編纂せられた時代から見ると神武天皇の世のころは上古であるところから生じた、錯覺のためであつて、編者の時代から上古をさしていふべき此の語を、その上古の天皇のことばとして用ゐたのであらう。つ(394)いでにいひそへておく。「爲宇」の「爲」に造作の義のあることは、あらためていふまでもないが、論語の先進篇の「魯人爲長府」、禮記の學記篇の「爲裘」「爲箕」、または史記の文帝紀の景帝の詔の「爲昭コ之舞」、漢書の藝文志の「賈誼……爲左氏傳訓故」などの例によつても、それは明かである。書をあらはし文をつくることについて、それを「爲」の語でいひあらはしてゐる例は、いくらもある。
 「掩八紘而爲宇」は、八紘を一家としようといふことではない。第一に、そのやうな場合には「家」の語を用ゐるのが普通の慣例であつて「宇」と書くべきではない。「家」は、もとは建築物としての家屋の義であつたらうが、後には其の家屋に住む血族集團をさすことにもなり、さういふ用ゐかたのほうが廣く行はれてゐる。しかし、原義に於いては家屋ののきのことである「宇」は、その意義が廣められたばあひでも、どこまでも建築物としての家屋をさすことになつてゐる。「宇宙」といふ語の作られたのも、その原義での字を、形の上から天に擬したためである(宙は舟車の蓋をいふ)。第二に、八紘を一家とするといふのならば、「以八紘爲家」といふやうないひかたをするのが自然であるので、禮記の禮運篇*の正義に「用天下爲家」といふ語のあるのを、參考すべきである。これは帝王が天下を我が家とするといふ意義に用ゐてある。これらの點から見ても、「爲宇」を「宇となさん」といふやうに訓むべきでないことは、おのづから知られるであらう*。
 
(395)       第二 崇神紀の御肇國といふ文字の訓みかた
 
 崇神紀の「御肇國天皇」は普通にハツクニシラススメラミコトとよむことになつてゐるが、これが正しい訓みかたであるかどうかは、問題である。(今は多く宣長の古事記の訓に從ひ、過去のことを語つたものとしてハツクニシラシシとよまれてゐるやうであるが、まへには現在のこととしてシラスといはれてゐたらしい。)ハツクニといへば、ハツはクニの形容詞となり、はじめての國、第一に作られた國、といふ義に解せられるが、「御肇國」ははじめて國をしろしめされたといふことであらうと思はれるから、かう訓むことに疑問があるのである。此の書きかたでは「肇國」の二字が一つのまとまつた意義を有つもののやうに見え、そこからハツクニといふよみかたが生じたらしいが、神武紀に「始馭天下之天皇」と書いてあつて、「御肇國」は此の「始馭天下」と同じ意義であり、多分、同じ語を寫したものであらうと考へられるから、「肇國」の二字もハツクニといふ一つの語として書かれたのではあるまい。孝コ紀大化三年の條にも「始治國皇祖」と書いてあるところがあつて、「始治國」は「御肇國」と同じ語を寫したもののやうである。ハツをクニの形容詞として用ゐハツクニといへば、はじめての國、第一にできた國の義になるといふのは、萬葉の歌に用ゐられてゐるハツコエ、ハツネ、ハツハナ、ハツカリ、ハツユキ、ハツアキカゼ、ハツヲバナ、ハツモミヂ、などの例からも明かであつて、これらはみなそれ/\に、續いて現はれて來る多くの同じものの最初のをさしてゐる。たゞハツハルといふ語があつて、それのみは春がいくつも出て來る其のはじめの春といふのではなく、春のはじめの義に違ひないから、ハツを形容詞として用ゐる場合としては特異ないひかたである。これは多分、春が一つ(396)の春でありながら、時間的に長くつゞくものであるからのことであらう。此のハツハルと同じいひかたとしてハツクニといふことがいはれるかも知れず、國が長く續くものである點に於いてさう考へられなくもないやうであるが、さういふ語の用ゐられた例が他には無く、またそれでは神武紀の書きかたとも一致しないから、「肇國」はやはりハツクニではなからうと思はれる。そこで余は「御肇國」をクニシラシハジメシの語を寫したものであつて「御肇」がシラシハジメシに當るのではないかと推測する。「始馭天下」も「始治國」も同じ語をシナ語風に書いたものであらう。古事記には崇神の卷に「所知初國之眞木天皇」と書いてあるが、「所知初」の三字はシラシハジメシの語によくあてはまるやうである。宣長が「初國」の二字を一つの語と見てやはりハツクニとよんでゐるのは、書紀のよみならはしにひきずられたのであらう。文字からいふと、「肇國」の二字は尚書の酒誥篇に用ゐてあるので、そこに「文王肇國在西土」と見えてゐるが、これは國を肇めてたてるといふことである。書紀の編者は或はそれを思ひ出したのかも知れぬが、しかし假に「肇國」をハツクニの語を寫したものと見るにしても、その意義は尚書のとは違つてゐる。だから「肇國」の文字に拘泥して考へるには及ばぬ。「御肇國」をハツクニシラスと訓むことは、いはゆる原注にも私記にも見えてゐないから、それがいつからであるかはわかりかねるが、平安朝ごろからのことではあるまいか。なほ常陸風土記の香島郡の條に「初國所知美麻貴天皇之世」とある「初國所知」は、やはり書紀の「初馭天下」や「始治國」と同じほどな書きかたであり、たゞ馭または治の字を用ゐずして所知と喜いたまでのことであらう。
 
(397)     第六篇 神とミコト
 
 余はこの書の第三篇「神代の物語」に於いて、神代史に何等かの行動の語られてゐる神々は、皇祖皇孫、及び諸家の祖先に擬せられてゐるものであつて、宗教的意義での神ではなく、宗教的意義での神には物語の無いのが一般の?態であることを説き、また「日本上代史の研究」の第一篇「上代の部の研究」に於いて、神とミコトとの稱呼の上から更にそれを敷衍し、同じく神と汎稱せられてゐても、其の神の名を某のミコト(以下「命」の字を用ゐる)としてあるのと某の神としてあるのとは性質が違ひ、前者は宗教的意義を含まない、人としての尊稱である、命の語の明かに示すが如く、宗教的意義での神ではなく、皇祖皇孫及び諸家の祖先であり、後者のみが宗教的意義での神であることを説いた。人の尊稱としてのミコトといふ語の意義はよくわからぬが、「命」の字のあてられたことに意味があるとするならば、コトは言の義で、ミコトは人々がそのみ言を奉ずるもの、即ち命令者、といふことであらうかと思はれる。これについては、古事記にも宣命にも命令を示す場合に「命もちて」といふ語が用ゐてあり、その「命」がみ言の義であることが、參考せられよう。しかしそれはともかくも、神代史の始めて作られた時代に、それが何等宗教的意義を有たない人としての尊稱として用ゐられてゐたことは明白である。(こゝに宗教的意義での神といふのは、必しも祭祀せられる神をのみいふのではない。呪力もしくは呪力を有するものも神であつて、それをも含めていふので(398)あるが、行文の便宜上、煩雜を避けるため、かういつて置くのである。後に至つてこのことはおのづから明かになるであらう。)宗教的意義での神にも物語のある例が一二はあり、また神と命との名の區別に幾らかの混亂も生じてはゐるが、大體は、また原則としては、上記の如く見なければならぬ。アマテラス大神のみは人としての皇祖であると共に宗教的意義での日そのもの即ち太陽神であつて、此の神が二つの性質を兼有するところに神代史の中心觀念が存在するのであるが、それにしても、神代史に於ける此の神の物語は宗教的意義での神としてのではなく、皇祖としてのである。これは、日本の神代の物語を考へるに當つて極めて重要なことであるにかゝはらず、世間ではあまり注意せられてゐないやうであるから、半ばは其の注意を喚起せんがため、半ばは前著にいひ足らなかつたことを補はんがために、此の一篇を起草することにした。さうして其の間おのづから、神代の物語の研究法に關する余の見解にも言及する場合があらう。
 余は先づ命と神との稱呼に混淆のある場合を考へることから始めようと思ふが、其の第一にいふべきはイサナキ、イサナミの命についてである。古事記には此の二柱の名を神とも命ともしてあるが、命が本來の稱呼であつて、神と書くやうになつたのは後の變化であるといふことは「上代の部の研究」に述べてある。書紀にはすべて命(「尊」の字で書いてある場合のもこゝではすべて「命」の字を用ゐる)としてあるので、そこに古い形が保存せられてゐる。たゞ古事記にはイサナキの命が淡海の多賀に坐すと記してあり、書紀にも淡路に幽宮を構へて寂然として長隱すと書いてあるので、それは淡海もしくは淡路で神として祭つてあることをいつたものらしく解せられるから、うつかり讀むと、此の命は其の本來の性質が宗教的意義での神であるやうに思はれるかも知れぬ。が、イサナミの命については記紀と(399)もに其の死が語られてゐ、古事記には出雲と伯伎との堺の比婆の山に、書紀の注の「一書」には熊野の有馬村に、葬つてあるといふことも見えてゐるから、此の命が古の人として語られてゐることは明かである。有馬村の話には土人が其の魂を祭るとしてあるが、これは「日本上代史の研究」の第三篇に述べてあるやうに、死者の靈に對する何等かの呪術的儀禮を墓地で行ふ民俗のあるところから、其の死者の靈をイサナミの命の靈といふことにして語つたのである。花時には花を以て祭り、また鼓吹幡旗を用ゐ、歌舞して祭るといふのは、鼓吹幡旗云々に幾らかの文字上の修飾があるかとも思はれるが、一般の風俗として、墓地で死者の靈に對して行はれたかういふ儀禮のしかたを記したものであらう。イサナキの命には明かに死のことが語つてはないが、此の命もイサナミの命と同じ性質を有つてゐなければならぬから、やはり古人として考へられてゐたに違ひない。死が明言してないのは、それを語る場合がないからであるが、書紀に於いては幽宮といひ寂然長隱といふ文字におのづからそれが暗示せられてゐる。(此の命に限らず、神代の物語の人物に死の話のあるのは極めて稀である。)イサナミの命に關する有馬村の話もイサナキの命の幽宮のことも、神代の物語としては後の潤色に屬するものであるが、かういふ潤色の行はれたのは、其の時に此の二柱が古の人として考へられてゐたからである。
 然らば何故にイサナキの命が淡海または淡路の神社の祭神として宗教的祭祀を受けるやうに語られてゐるかといふと、それは、神代史上の人物が、個人としての名は某の命といはれてゐても、神の代、即ち皇祖たる天つ神の治世、の人物であるがために、一般の汎稱としては神と呼ばれてゐるのと、宗教的意義での神の名がやはり神代史に現はれてゐて、それと、外觀上、同じやうに取扱はれてゐるのとのため、神代の物語が世に現はれて或る年月がたち、それに(400)思想上の權威がついて來た後になると、さういふ神代史上の人物の名を民間信仰として存在してゐる所々の神社に結合する習慣が生じてゐたからであらう(なほ後文參照)。書紀に於いては幽宮云々の語によつてイサナキの命の死が暗示せられてゐると共に、それがまたおのづから淡路の神社の祭神とせられたことの説明にもなつてゐるやうに見えるが、これは、第三篇に述べておいた如く、此の記事が後人によつて作られたものだからである。さうしてまたそれには、シナ思想に由來するところもあらうか。シナ人には祖先の靈を祭る風習があつたと共に、また儒教の經典の上では古の帝王とせられたものをも神として祭ることがあるやうに説かれてゐるからである。だから、これは始めて此の命が淡路の神社の祭神とせられた時の思想を語つたものではない。イサナキの命が神とせられたのは、古の人としての此の命が死者であるがために神として祭られたのではないのである。イサナキの命はかういふ意味で神化せられたのであり、履仲紀に載せてある淡路のイサナキの神の託宣の話も、さうなつた後に作られたものであつて、書紀には神代紀のすべての場合にイサナキの命と書いてあるにかゝはらず、こゝにのみイサナキの神としてあるのも此の故である。またイサナキの命が天に登つて日の少宮に留まるとしたのは、此の傾向が別の形に於いて更に一歩進められたものであり、前篇に説いた如く、天上に神がゐ神の宮があるといふシナ思想に基づき、古人としてのイサナキの命を其のまゝ天に上せて現に生存する宗教的意義での神としようとしたものである。(これはイサナキの命の靈の上天ではない。)さうしてかういふことの考へ得られたのは、イサナキの命が、やはり前篇に説いた如く、天及び天の神に關係をつけて語られるやうにもなつてゐたのと、上に述べた如く、此の命の名が宗教的祭祀をうける神社の祭神としてあてはめられてゐたとの故である。
(401) ところで、イサナキの命の上天は單に物語としての構想たるに止まり、實際の宗教的信仰から出たことではないので、信仰として天にイサナキといふ神があるとせられてゐた形迹はどこにも見えぬ。また淡海や淡路の話はそれらの土地の神社にイサナキの命の名があてはめられたのみのことであつて、さうなつた後でも、信仰の對象としては所々の神社の祭神と同じであり、神代史上の此の命の性質とは無關係である。允恭紀に淡路の島の神の祟の話があるが、その神がもしイサナキの神をさしてゐるならば、此の祟もまた神代の物語に見える此の命の性質とは何のかゝはりも無い。なほイサナミの命については、古事記のヨミの物語に於いて、此の命がヨモツ大神と名づけられたといふ話があるが、これは同じ物語の記されてゐる書紀の注の二つの「一書」にも見えないことであつて、古事記の材料となつた舊辭の潤色者の附加したものらしいといふことは、第三篇に於いて既に述べたとほりである。其の古事記に於いてすら、イサナキの命から現し國に還ることをすゝめられた時の話として、ヨモツ神と相談しようといつたといふことが記してあるが、これは明かにヨミの國に於けるイサナミの命を普通の人として考へたものである。(此の話だけについていふと、イサナミの命は此の場合、神代史上の特殊の地位と權威とをすら失つてゐる。)全體にヨミの物語に於いても、すべてイサナミの命と書いてあるので、ヨモツ大神と名づけられたとある場合でも此の點は同樣であるから、この物語でもまたイサナミの命は古人として語られてゐることは明かである。またヨモツ大神といふ神が宗教的意義での神ではなく、イサナミの命に此の名を負はせたのは物語作者の構想に過ぎないといふことも、ヨミの物語そのものが神代の物語の作られた初からあつたのではなく、後に添加せられたものであるといふことも、同じく第三篇に説いて置いた。
(402) さて、此の考が許さるべきものであるならば、イサナキ・イサナミの二柱の本質を宗教的意義での神として見ることは、根本的に誤謬であるといはねばならぬ。二柱は、本來、生殖の神として崇拜せられてゐたものでもなく、萬物生成の神として信ぜられてゐたものでもない。天の神とか地の神とかいふやうなものでないことは勿論である。天の神と地の神との對立が上代の宗教的信仰として存在したらしい形迹はどこにも無く、神代史に於いても天と地との對立は語られてゐない。大八島國を生んだといふのが二柱の物語の骨子であるが、それは宗教的信仰に關係のあることでもなく、また創造神話開闢神話の類でもなく、神代史を作るための特殊の構想の所産であり、政治的意義のものである。二柱が多くの民族の創造神話もしくは開闢神話に於いて常に見られるやうな神でもなく、人類以前の人類の如きものでもなく、普通の人として想像せられてゐる、といふことは第三篇に説いて置いた。古くから傳へられてゐた創造説話か開闢説話かが形をかへて國生みの物語となつてゐるのではないかと疑ふものもあらうが、神代史が民間説話などを取る場合には、神代史の筋にはめこむ必要上、或る程度にそれを改作したには違ひないけれども、原の形が無くなるまでにそれを變へないのが一般の例であること、また連稱的對稱的になつてゐるイサナキ・イサナミの名も他の多くの神や人物の名と同じやうな形に作られてゐることを思ふと、さう見るのは困難である。しかし、假にさう見るにしても、神代史の國生みの物語は神代史の國生みの物語であつて、神代史の解釋としては此の國生みの物語を物語どほりに取扱はねばならぬ。さうして、さう取扱ふ以上、これはどこまでも政治的意義に於ける日本の國土の生まれた話であつて、天地の創造譚でも宇宙の開闢譚でもない。國生みの物語の由來が別にあるとしてそれを考へることと、國生みの物語そのものの意義を考へることとを、混同してはならぬ。前の場合に於いて其の由來をなすもとの(403)物語が如何なるものであつたと考へるにしても、それが神代史では國生みの物語となつてゐるところに神代史の意味があり精神があるのである。さうしてそれは、同じく二柱から生まれた日の神が、日そのものの神としては古くからの民間信仰に存在したものながら、神代史に於いては、それと結合せられてゐる皇祖神、即ち國家を統治せられる皇室の始祖、であるのと、相應ずるものである。ところで、かういふ國生みの物語は人々の日常生活とは關係の無いことであり、特殊の政治的要求から生まれたものであるから、國を生んだ二柱が宗教的意義での神でないのは、此の點から見ても當然である。人々の日常生活を支配するものとして發生したのが宗教的意義での神だからである。世界の創造とか天地の開闢とかいふやうな説話とても、それは本來宗教的のものではなく、むしろ知識的要求から出たものであり、從つてそれに關與した神とか巨人とかは、其の本質として宗教的意義の神ではないが、後に至つてそれに結びつけられ、或は宗教的性質を與へられる傾向を有する。我が國に於いてはさういふ説話は無く、或は少くとも發達せず、其の代りに政治的意義での國生みの物語が治者階級によつて作られたが、其の物語の主人としての二柱は初から純然たる人として、古人として、出現し、さうして其の國生みの意義に於いては後までも宗教的に崇拜せられる神とはならなかつた。(淡海もしくは淡路の神社の祭神としてのイサナキの神が國を生んだ意義に於いてのでないことは、イサナミの命がそれに伴はないことからも知られる。)
 イサナキ・イサナミの命にはなほ御柱めぐりの話があるので、これには民俗として存在した呪術宗教的な儀禮が基礎になつてゐるのであらうけれども、それは物語を組立てる材料としてかゝる儀禮が用ゐられたのみであり、イサナキ・イサナミ二柱が宗教的意義での神であることを示すものではない。それは恰も、禊または祓の呪術的儀禮が(404)イサナキの命やスサノヲの命の物語の材料として採られてゐ、岩戸がくれの物語に呪術もしくは祭祀の儀禮が用ゐられてゐるのと、同じである。御柱めぐりの話の材料となつた儀禮の呪術宗教的意義は、生殖なり生成なりに關することであつたかとも思はれるが、もしさうならば、これは國を生むといふことの聯想から、此の物語の材料として採られたのみのことである。(婚姻の儀禮として柱をめぐるといふやうな風習があつたかどうかは知らぬ。少くともそれがあつたらしい證迹は文獻の上には見あたらないやうである。たゞ柱が祭祀または呪術の儀禮に用ゐられたこと、或はそれが神として又は呪力をもつものとして見られたことは、疑が無からう。また柱は樹木であり、さうして葉の茂つた樹木が神のやどるところとして、或は神として、また或は呪力をもつものとして、見られたことも明かであるが、其の意味は、さういふ樹木が生き/\とした力を有つところから、強いもの、物を生み出すもの、邪靈を拒ぎ又は克服するはたらきのあるもの、とせられたところにあるのであらうから、柱もまた同じ力とはたらきとを有つものとして考へられたのではあるまいか。多分、何かの儀禮に於いて樹木なり柱なりが建てられ、人々がそのまはりをめぐり歩くやうな習慣があつたので、それが此の物語の材料として用ゐられたのであらう。)なほ二柱は宗教的意義での神を生むことにもなつてゐるが、これは國土を生むといふのと同じであり、またそれから派生したことでもあつて、二柱自身が宗教的意義での神であるからではなく、また宗教的意義での神がすべて二柱から生まれたのでもない。二柱が神を生むといふことは、宗教的意義での神を政治的統制の下に置かうとする神代史の精神の發現であり、物語としての構想であつて、神そのものの性質から來たことではない。さういふ神の基礎となつた民間信仰に於いての神は、本來、政治的意義の無いものであり、從つて治者階級によつて作られた國生みの物語とは何の關係も無いのである。(405)ただ第三篇で述べた如く、イサナミの命が火の神にやかれ、たといふ話は、或は呪術宗教的な儀禮に由來があるのではなからうかとも推測せられるが、もしさうとすれば、此の話は此の命が神と呼ばれるやうになつてから後に生じたものである。が、これとても神代史の物語の上でさういふ儀禮に結びつけられたまでのことであつて、實際信仰の上でさうなつてゐたのではない。イサナキ・イサナミ二柱が實際宗教的に崇拜せられた神であるならば、朝廷に於いても特殊の崇敬を以て祭られたはずであるのに、さういふ形跡が少しも無いことをも考へるがよい。
 イサナキ・イサナミの二柱から生まれた日の神の名は、皇祖としてはオホヒルメの命であり、日そのもの即ち太陽神としてはアマテラス大神であるのが、本義であつたらう、といふことは「日本上代史の研究」の第一篇に説いておいた。古事記には、どの場合にもアマテラス大神としてあるが、これはこの神が二つの性質を具へてゐるために、日そのものとしての神の名によつて皇祖をも呼ぶやうになつたことを、示すものである。書紀にもその注の「一書」にも、同じ記しかたがしてあり、まゝヒノカミ(日神)と書いてあるところもあるが、ヒノカミの本義はアマテラス大神といふのと同じであらうけれども、皇祖をさす場合にも用ゐられてゐる。オホヒルメのミコトといふ稱呼は、書紀の神武紀の卷首に見えてゐるが、そこに却つてもとのつかひかたが傳へられてゐるものと解せられるので、この神の生誕の條の注の一つの「一書」にこの名の用ゐてあることと、互に參照すべきである。オホヒルメの命がアマテラス大神の名で呼ばれることは、宗教的意義の無い命たちの名が神とせられる場合のあるのとは、その理由は違ふが、人としての命と神との混淆である點は同じである。
 次にスサノヲの命については、其*の名が記紀の何れに於いてもすべて命と書かれてゐて、神とはなつてゐないこと(406)を注意すべきである。もしスサノヲの命が宗教的意義での神であるとするならば、同じく命の稱呼のついてゐるオシホミミの命、ホノニニギの命、ホホデミの命、などをも、やはり同じやうに見なければなるまいが、さういふことが果して可能であらうか。これらの命が宗教的意義に於いての如何なる神として説明せられ得るか。神代史の物語に現はれてゐろ命に限らず、例へばヤマトヒメの命でもヤマトタケルの命でも、またはウマシマヂの命でも、みなそれと同じであつて、物語が神代史の一部となつてゐるのと、所謂人代の部分に編みこまれてゐるのとは、物語の人物の名としての命の意義に差異のあることを、示すものではない。スサノヲの命もヤマトタケルの命も、物語に現はれてゐる人物の名としての命たるに於いて、同一である。その人物が物語の上のみのであるか、またはその基礎に歴史的存在としてのがあるかも、また問題ではない。このことは、ホ*ノニニギの命、ホホデミの命、ウガヤフキアヘズの命、トヨミケヌの命、ヌナカハミミの命、乃至ホムダワケの命、オホサザキの命、イサホワケの命、などが、連續した皇統として語られてゐて、其の間に何の差異が無く、コヤネの命やオシヒの命と、タネコの命やミチノオミの命とが、中臣氏や大伴氏の祖先の系統に於いて、全く同じに考へられてゐることからも、知られねばならぬ。神代史上の人物については、人としては不思議なはたらきをしたやうな物語もあるが、ヤマトタケルの命についても、宗教的意義に於いての荒ぶる神たちを服從させた、といふやうな話もあるではないか。説話としてさういふことが語られたのには、それ/\意味があるが、それは、それらの人物が宗教的に崇拜せられた神であるからではない。本來、神代と人代とは、思想上、皇統について大和奠都の前と後とを區別する名稱に過ぎないので、政治的意義のものであるが、一つは宗教的意義での神に政治的統制を加へようといふ精神から、また一つは事物の起源を神の代に置かうとするところか(407)ら、宗教的意義での神が所謂神代に生まれたり初めて現出したりするやうにも語られ、從つてまた僅かながら、さういふ性質の神についての物語も神代史に插入せられるやうになつた。けれども、それは神代が所謂人代と連續してゐる皇祖の統治時代であり、神代の物語とそこにはたらいてゐる人物とが、所謂人代の物語と人物とに對して何の差異も無いといふ、神代史の全體の精神を動かすほどのことではない。然るに後世になると、神代といふ名によつて、其の代の物語に現はれる人物を人でない神、即ち宗教的意義での神、と見る傾向が生じて來た。新井白石の神(と名づけられてゐるもの)は人なりといふ合理主義的解釋は此の傾向に反對したものであるが、神代史上の人物は、本來人であつて宗教的意義での神ではないのである。(白石の合理主義的解釋に於いて人といはれたのは、歴史的人物としての人であり、神代史上の人物を實在の古人と見たのであるから、かういふ解釋が物語の人物としての人を正當に理解したものでないことは、勿論である。また白石が神は人なりとしたその「神」は、宗*教的意義での神としてそこに記されてゐるものをも含めていつたのであり、さういふ神をもすべて古人と見なしたものであるから、かゝる考へかたが宗教的意義での神について語られてゐる神代史の精神を全く理解しないものであることは、いふまでもない。白石とは違ふ考へかたながら、神道者や國學者にも宗教的祭祀をうける神を古人の靈と見てゐたものがあるが、それには、神代史上のさういふ神を實在した古人と思つたのと、神代史上の人物が後になつて神化せられて來た歴史的變化を解し得なかつたのと、また彼等の時代には宗教的信仰に於ける神の性質やそれが發生した心理的社會的事情などが知られてゐなかつたのと、これらの種々の理由があらう。)
 かつてはスサノヲの命を暴風雨の神などとする見解もあつたが、何故に多くの命たちのうちで此の命のみを宗教的(408)意義での神としなければならぬのか、その根本が考へられてはゐなかつたらしい。もしこの命がさういふ神であるならば、何故に山の神や海の神などと同じやうな名になつてゐないであらうか。また此の命がさういふ宗教的意義で信仰の上に存在してゐたことが、果して證明せられようか。風の神として龍田の神が信仰せられたが、スサノヲの命を其の意味で祭つた話はどこにも無い。かういふ解釋は、此の命に關する神代史上の物語を根據としてのことらしいが、さういふ考へかたをするにしても、かゝる解釋は果して物語の意義を正しく知り得たものであらうか。天に上る時のすさまじい有樣が語られてはゐるが、それはたゞ強暴な性行を具體的に示すため、また天に上る話になつてゐて空をあばれてゆくやうにしなければならぬためのことである。それには或は暴風雨の?態が聯想せられてゐるのかも知れぬが、よしさうであるにしても、それはたゞ物語の作者が敍述の資料として借りたまでのこととして、何の支障も無く解釋せられるではないか。それは恰も、天上から此の國に下られるホノニニギの命を、天の八重たな雲をいつのちわきにちわきて天降りましたと語つたのと同じであるが、之がためにホノニニギの命を雲の神と考へるものはあるまいではないか。或はまた書紀の注の「一書」に此の命が天から放逐せられた時に青草をつかねた笠簑をきて風雨のうちを降りて來たといふ話もあるが、これもまた罪人としての放逐者の辛苦を語つたまでであることが、物語そのものによつて明かに知られる。此の話はまた、笠簑をきたり束草を負うたりして他人の家に入ることを忌むといふ風俗の起源説話としても用ゐられてゐるが、此の禁制を犯したものに對して解除を課する風俗は、本來呪術的意義のあるものであつたらうけれども、それはもとより神代史上のスサノヲの命の性質には關係のないことであり、また勿論、雨や風の神の信仰から出たことでもない。さうして此の話が、スサノヲの命の物語の原形には存在せず、後から附加せ(409)られたものであることは、それが比較的晩出の書としなければならぬ此の「一書」にのみ見えてみるのでも明かである。また天に上る時の話がよし暴風雨の?態を聯想して敍述せられたにしても、それと此の話とは、本來、何の連絡も無いものである。この話ではもはやスサノヲの命の強暴の性質は、どこにも現はれてゐないではないか。物語はいろいろに變化してもゆき、新しいことが附加せられてもゆくのであるから、さういふ變化を經、添加を經た後に記録せられたものによつて、すぐに物語の本來の意義を摸索しようとすれば、大なる誤に陷ることを免れない。
 勿論、變化には變化すべき理由があり、新しいことが附加せられるにしても、そこに附加せらるべき何等かの契機があつたはずであるから、物語の本來の意義を知るためにも、變化した後の形態や附加せられたものを考へることは必要であるが、それには先づ變化の徑路を明かにし、また如何なる意味で新しいことが附加せられたかを吟味してかからぬばならぬ。神代史には從來存在した民間説話を取つてそれを或る人物の物語につなぎ合はせたものが幾つもあるので、スサノヲの命の八またをろちの説話も其の一例であるが、かういふ場合でも、またつなぎ合はせらるべき理由が其の本來の物語の何の點かにあつたには違ひない。例へばこの八またをろちの物語に於ける蛇は明かに神であり、その神の力に反抗してそれをうち破つたスサノヲの命は明かに人であるので、これは、この世界的にひろがつてゐる説話の意義からも知られることであるが、このやうな物語がスサノヲの命に結びつけられたのは、もと/\この命が人として語られてゐたからである。が、民間説話は民間説話として獨立の意義のあるものであるから、其の説話の意義の全部が必しもそれの結びつけられた神代史の物語の意義を闡明するものではない。だから、此の場合でも先づ、或る人物の物語を檢討してそれを種々の要素に分解し、其の一々の要素について其の意義をたづね、さて如何なる意(410)味でそれらが結びつけられて一人物の物語とせられたかを考へて見ねばならぬ。もし然らずして、材料として取られた民間説話によつて直に神代史上の或る人物の性質を解釋しようとするやうなことがあるならば、それは正しい方法とはいはれない。例へば八またをろちの物語は、この命の神代史上の本質には關係がなく、たゞ出雲の土地にこの命を結びつけるために民間説話からとり入れられたものであり、從つてこの命と蛇ともまた本質的の關係の無いものである。だから、スサノヲの命に蛇の話があり、其の子孫とせられたオホナムチの命の別名となつてゐるオホモノヌシの神にも蛇の話があるから、出雲系統の神は蛇に縁があるといふやうな考がもしあるならば、それもまた同じ誤に陷つたものであるので、オホモノヌシの神が如何なる性質の神であるか、それが何故にオホナムチの命の別名として語られてゐるか、またオホモノヌシの神の蛇の話は果して三輪山のオホモノヌシの神に特有のものであるか、など、此の場合に當然起らぬばならぬ諸問題を檢討しないからのことである。オホモノヌシの神は物語の上の人物たるオホナムチの命とは全く性質の違つた宗教的意義での神であつて、此の二つは神代史の物語の上で結びつけられてゐるに過ぎないこと、オホモノヌシの神について語られてゐる蛇の話は廣く行ほれてゐた民間説話であつて、それが記紀の説話に於いて三輪山の神に結びつけて語られてゐるに過ぎないことを知るならば、かういふ考は出ないはずである。スサノヲの命の名も後には宗教的祭祀をうける神にあてはめられ、從つてまたそれに種々の性質が付與せられて來るし、新しい物語もます/\多く結びつけられるやうになるが、さういふものによつて本來の此の命の性質を推考するのが誤であることは、いふまでもあるまい。宗教的意義は無いけれども、例へば新羅の話の如き、後から此の命に附加せられた物語が本來の此の命の性質を示すものでないことをも、參考すべきである。但し新羅の話そのものはスサノヲ(411)の命の本質に關係が無いけれども、かういふ話の結びつけられたのは、此の命が宗教的意義での神でないことを示すものとは考へ得られよう。さういふ性質の神としては此の話は全く無意味であるから、當時此の命が宗教的に崇拜せられてゐる神であつたならば、かゝる話は結びつけられなかつたらうと思はれる。これは新しく附加せられた話が本來の物語の性質を知る助になるといつたことの一例であるが、全體からいふと、スサノヲの命の本質を考へるには、何よりも先づ此の命に固有な物語の何であるかを檢討し、それによつて此の命の神代史上の地位を明かにすることが必要であらう。さうしてさういふ方法によつて考究すれば、スサノヲの命を宗教的意義での神と見るべき徴證はどこにも無い。
 次にスサノヲの命の子孫として古事記に記されてゐるものは、殆ど其のすべてが某の神としてあるが、其のうちには宗教的意義での神、もしくはそれに擬して作られた神、の名が多いので、それは古事記の材料となつた舊辭の潤色者が宗教的意義での神を此の命の子孫として書き加へたからのことであり、書紀の方には殆ど見えないものである。記紀の何れにも見え、物語の人物としてはたらいてゐるものでも、多くは某の神としてあるのが古事記の書きかたである(まゝ命となつてゐるところもあるが)。さうして、スサノヲの命の子孫の系譜が斯うなつてゐるのは、所謂出雲の系統に宗教的色彩を付與し或はそれを神化しようとする意圖があつたので、そこから導かれたものである、といふことは「上代の部の研究」に考へてある。此の系統の人物には所々の神社の祭神に結びつけられてゐるものがあつて、それがかういふ人物の神と呼ばれるやうになつた一因縁でもあり、さうしてそれは上に述べた如く他にも例があるが、所謂出雲系統のものに於いては、かういふ特殊の理由があつたことと推測せられる。さて、スサノヲの命の子(412)孫に於いて最も重要なるはオホナムチであるが、これは古事記にはその名が神となつてゐるけれども、もとはやはり命であつたらう。書紀にもその注のいくつもの「一書」にも、やはり神としてあるが、たゞ八またをろちの段の注の第二の「一書」にオホナムチの命とあり、また第五の「一書」に於いても同樣であるのみならず、此の命に對するスクナヒコナをも命としてあるので、それは、もとの姿の遺存してゐるものと認められる。第五の「一書」にはオホクニヌシの神、オホモノヌシの神、ヤチホコの神、オホクニダマの神、ウツシクニダマの神、などをオホナムチの命の別名として列記し、さうしてそれらがみなそれ/\の神と書いてあるにかゝはらず、オホナムチに限つて命としてあることを考ふべきである。(もつとも此の「一書」でも後の方にはオホナムチの神としてあるところがあるが、それは此の命が神ともいはれるやうになつてから書かれたために生じた混亂であらう。しかしそれに對するスクナヒコナがやはり命としてあるのを見ると、この場合の神の字は或は命の字の誤寫かも知れぬ。)然るに此の命が神といはれるやうになつたのは、直接の事情としてはオホクニヌシの神と結びつけられたからであらう。オホクニヌシの神といふのは、古事記の物語に見える、ヨモツヒラ坂でオホナムチの命に對していつたといふ、スサノヲの命の語から推測しても、杵築の神宮の祭神の名として作られてゐたものと考へられるから、これは初から神であつたのである。オホクニヌシの神といふ名の作られたよりも後、またオホクニヌシの神とオホナムチの命とが結合せられたよりも後のことであらうが、杵築の神はまたウツシクニダマの神とも呼ばれるやうになつてゐたらしい。この名は、古事記の上記の物語に於いて、オホクニヌシの神の名と共に、スサノヲの命の語として、その起源が語られてゐるが、それはいふまでもなく説話であつて、事實は、諸國のクニダマの神と同じ意味に於ける出雲の國のクニダマの神の名として、杵築の(413)神にあてはめられたものであり、たゞウツシの語が加へられてゐるところに特異の點があるのみである。從つてそれは大化以後に作られた名である。古事記にある名であるために古いもののやうに思ふのは何の根據も無いことであつて、古事記のもとになつた舊辭は天武朝までの改竄を經たものであることを、忘れてはならぬ。なほ書紀の注の上に引いた第五の「一書」にはオホクニダマの神をもオホナムチの命の別名としてあるが、この神の名もクニダマの上にオホの美稱を冠したものであるので、ウツシクニダマの神と同じく、この場合では出雲のクニダマの神をかう稱したのであらう。(オホクニヌシの神やウツシクニダマの神や、またこの場合のオホクニダマの神は出雲國造の祭神であり出雲の國の神たるに過ぎないので、其の名のクニも、出雲をクニといひ諸國の國造の領地または大化以後の行政區劃をクニと稱する意義に於いてのクニであるが、物語の上で日本全體を領有してゐたやうになつてゐるオホナムチの命に結合せられたのと、オホといひウツシといふ形容詞が冠せられてゐるのとのため、思想の上では日本全體の國に關する神として考へられるやうになる傾向を有する。但し實際の信仰に於いては、ウツシクニダマの名は殆ど世に用ゐられず、オホクニヌシとても、ずつと後世は別として上代に於いては、やはり出雲國造の祭神の名たるにとゞまつてゐたらしく、却つてオホナムチがスクナヒコナと共に出雲以外の所々の祭神の名となつた。またオホクニダマについては、國々のクニダマの神にさう稱せられてゐるものが所々にあるが、それは名が同じなだけであつて、イヅモのはどこまでもイヅモのである。なほついでにいふが、ウツシクニダマの名は古事記の物語に於いてヨミの國からいはれたことのやうになつてゐて、ウツシの語の加へられたのはそのためらしくも解せられるから、これは物語の上だけの名かとも考へられるが、ウツシの語の用ゐかたをさうせまく解するにも及ぶまいから、古事記の物語は既に存在し(414)てゐたこの名の起源説話として作られたものと見ても支障はなからう。)
 また特殊の意圖によつてオホナムチの命に結びつけられたオホモノヌシの神が三輪山の神であることはいふまでもないが、第二篇に説いた如く此の結合は最も新しいことらしいから、それは勿論オホナムチが神といはれるやうになつた後である。オホナムチの命が出雲國造の祭神たるオホクニヌシの神に結合せられたのは、此の命が神代史に於ける出雲の勢力の象徴であるがためであり、オホモノヌシの神に結合せられたのは、出雲を大和に關係させようとするところから來たのであつて、共に政治的意義のあることである。しかし、前者は宗教的に見ても甚しき不調和は無いが、後者はオホモノヌシの神の性質から考へると全く無意味であつて、これはたゞ三輪山が大和に於ける有名なる神社であつたために撰ばれたのみのことであらう。神代史上の人物を神社の祭神に結びつける場合には、後にいふ墨の江の神の如く、人物の性質に適合するやうな神社に擬せられることもあるが、然らざることも多いので、三輪山の如きは後者の例である。これは其の結合が宗教的意義に於いてでなく別の理由から企てられたためである。またアシハラノシコヲとかヤチホコとかいふのも、もとはオホナムチの命とは別な物語の人物であつて、それが此の命に結合せられたもののやうであり、特にアシハラノシコヲは古事記の根の國の話及び書紀の注の「一書」には命とも神ともしてなく、古事記のスクナヒコナの命の話には命としてあるので、そこにもとの呼びかたが遺つてゐる。古事記の垂仁の卷にアシハラノシコヲの大神が出雲の石※[石+囘]の曾宮の神であるやうに書いてあるが、これは例の如く此の名が民間信仰の神社に結びつけられてゐたからである。但し杵築の神宮に附會せられなかつたところに、此の名が本來オホナムチの命とは別人として世に現はれたものであることが暗示せられてゐるのではなからうか。たゞヤチホコにはどの場(415)合でも神と書いてあるが、これは此の名の物語に現はれてゐる唯一の場合である古事記の歌物語によつて見ると、神たるオホクニヌシの名に結びつけられたからではあるまいか。
 要約していふと、オホナムチの命はスサノヲの命の子として國ゆづりの物語に活動してゐる人物でありミコトであつて、書紀の注の第五の「一書」に「國つくりオホナムチの命」としてあるのもそのためである。ところが、このオホナムチの命が、宗教的意義での神であり神社の祭神であるオホクニヌシの神、ウツシクニダマの神、オホクニダマの神、またはオホモノヌシの神、と結びつけられ、これらの神がみなオホナムチの命の別名とせられてゐるのは、物語の上の人物を宗教化したものである。
 以上はオホナムチの命についての考であるが、スクナヒコナの命についても一言を要する。此の命について、形が小さかつたといふ話、また常世の國へ去つたといふ話があるので、それを宗教的意義に解釋し、從つてまた此の命を其の意義での神と見る考へかたが世にあるやうである。が、スクナヒコナの性質を正しく理解するには、何よりも先づ此の命が如何なる事業をしたものとして語られてゐるかを記紀の記載によつて知らねばならぬが、それは即ちオホナムチの命を助けて國作りをしたといふことである。此の場合の國作りといふ語は國家の經營の意義に用ゐられたものであり、君主としてのオホナムチの命の事業をいふのであるが、それについてのスクナヒコナの命のはたらきは、神として、神の權威によつて、君主の政治を助けたといふのではないので、それはオホナムチとスクナヒコナとを同じ地位のものとして語つてある説話そのものによつて明かであり、名稱が既に對稱的になつてゐる。古事記の孝元の卷にオホヒコに對してスクナヒコといふ名のあることを參考するがよい。オホに對するスクナは大に對する小の義で(416)ある。だから、オホナムチの命はスクナヒコナといふ神を崇拜し國家經營の成就をそれに祈願しその助を得たのではない。さすれば、此の命が神としてではなく、人として語られてゐることは疑が無いではないか。形が小さいといふのは、多くの名稱説明の説話と同じく、スクナの名から出たことであり、さうして常世の國に去つたといふのは、君主たるオホナムチの命の事業を語るのが説話の本旨であつて、それに對立するものを永く此の國に存在させるわけにゆかないからではあるまいか。たゞオホナムチの命の物語の潤色者が何故にスクナヒコナの命を現出させたかといふと、それは國家の經營に神の助力を求めるといふことが聯想せられたからであると推測し得られるかも知れず、此の命の去つた後に海原を光して來た神があつたといふ話の附加へてあることが、此の推測を助けるもののやうでもある。が、よしさう見るにしても、それは作者の構想の由來であつて、物語として現はれてゐるスクナヒコナの命はさういふ神ではない。のみならず、かういふ推測が正しいか否かも問題であつて、海原を光して來た神が三輪山の神とせられてゐるのは、其の話が、神代史の出雲に關する物語を大和に於いて民間信仰の一つの中心となつてゐる神社に結びつけようとする意圖から出てゐることを示すものであり、神代史の潤色としては後れて行はれたものの一つであらうと思はれるから、それはスクナヒコナの命の物語の作られたよりも後に附加せられたものとするのが妥當である。さうして書紀の注の「一書」に於いて此の神がオホナムチの命の幸魂奇魂に變化し、終に三輪山の神のオホモノヌシがオホナムチの命の別名とせられるやうになつたことを思ふと、オホナムチの命が神の助力を得たといふ思想そのものが甚だ力の弱いものであつたことが知られよう。さすれば、古事記の此の話によつてスクナヒコナの命の物語の意義を推測することは、無理である。スクナヒコナの命の物語はたゞ國家の經營に於いて君主を輔佐するものが必要であ(417)るといふ考から作られたものとして解釋するに、支障はあるまい。なほ此の命の往つたといふ常世の國が宗教的意義を有たないことは明かである。トコヨのヨの意義については、夜か又は節、代、世などの文字で寫されるものかの二つしか考へ得られず、從つてトコヨが常夜の義でない場合には、文字のまゝの常世の義とする外は無いが、それは即ちシナ傳來の神仙譚に於いて語られてゐる長生不死の義として解すべきであつて、萬葉などの一般の用語例からも當然さう推測せられねばならぬ。顯宗紀の室壽の詞に老人をさして常世といつてあるのも、それから轉化したことに違ひなく、皇極紀の常世の神も「老人還少」とせられたところに此の名の由來があらう。さすれば常世の國は長生不死の國であり、神仙郷である。古典に於いても種々の意義に用ゐられてはゐるが、それは時の經つと共に語義に變化が生じたからであつて、其の根本は神仙郷の義であり、從つて多くは海上にあるとせられてゐる。神仙郷としては海上の蓬莱山が最も有名だからである。スクナヒコナの命の場合では、長生不死の義が除かれて、たゞ海外の遼遠なる國といふ意に用ゐられてゐるのであり、此の意義の轉化は、叛逆者としての地方的首長をさしてゐる土蜘妹の名が、單なる地方的首長の義に用ゐられた場合のあるのと同じである。スクナヒコナの命が海外に去つたことにせられたため、其のゆくさきが常世の國といはれたのである。常世の國をカミミムスビの命と結びつけて説いたり、神武紀の、やはり海上をさしてゐる、常世の郷を妣の國の義と解してそれをこゝに附會して考へたりすべきでないことは、勿論である。(スクナヒコナの命がカミミムスビの命の子であるといふのは、常世の國の觀念とは關係の無いことであり、また神武紀に妣のことのいつてあるのは、たゞ妣及び姨が海神の女であるといふ話から出たことに過きず、常世の國に妣の國の意義のあることを示すものではない。妣の話と、海に入つたことを常世の郷に往つたといふ語で表現したの(418)とは、本來無關係なことである。)
 オホナムチの命の子とせられてゐるものについても、また考へて置かねばならぬことがある。其の一人のアヂシキタカヒコネは大和の鴨の神社に結合せられてゐるので、神と呼ばれてゐるのも一つは此の故であらうが、所謂國ゆづりの物語に於いて一條の話が此の神について作られてゐるのを見ると、これもまたもとは命といはれてゐたのではあるまいか。それから、コトシロヌシは「日本上代史の研究」第一篇に説いてある如く名そのものに宗教的意義が含まれてゐるやうであるから、これはオホナムチの命が神化せられた後になつて、其の子として物語に添加せられたものであらう。書紀の注の「一書」に此の神がワニになつて女にかよつたといふ話があるが、これは三輪山のオホモノヌシの神のと同じ主題の物語である。ワニは海中の靈物でありその意味での神であり、多分、海蛇であらうと思はれるが、それが女に通つたといふ話は出雲風土記にも肥前風土記にもあつて、廣く行はれてゐた民間説話らしい。こゝでは此のワニが、物語の上で海に縁のあるやうになつてゐるコトシロヌシの神に結びつけられ、神がワニに化つたといふ形をとつたのである。オホモノヌシの神が本來蛇であるらしいのとは違ひ、コトシロヌシの神はワニではないやうであるが、ワニになるだけの神たる性質がコトシロヌシに存在したのである。蛇やワニが女に通つたといふ民間説話そのものは宗教的意義を有たないものであるが、他方に於いて蛇やワニが神とせられてゐたため、其の話が三輪山の神やコトシロヌシといふ神に結びつけられたのである。なほ、コトシロヌシの神の此の話の女は三嶋のミゾクヒ姫となつてゐて、古事記の神武の卷では此の女に通つた神をオホモノヌシの神としてあるから、此の點に於いては、どちらかの一つがもとで他はそれの轉化したものであるらしく、さうして此の話は、イススキ姫またはイスケヨリ姫の物(419)語が既にできてゐた後になつて、新にそれを神の女としようとする特殊の意圖から出たものと推せられるのと、大和に於いては三輪山の信仰が篤かつたこととから考へると、オホモノヌシの神とした方が前であり、それがコトシロヌシの神にも變つたのであらうと思はれるが、こゝでいふのはそのことではなく、一つがワニ、他が蛇の形によつて女に通つたといふ話についてである。或は、コトシロヌシの神が海中に入つたやうに語られてゐるところから推測すると、それは本來海にゐる神であり物語の上でコトシロヌシといふ名がそれに與へられたのではないかとも思はれ、さうして海の神としてはワニがあるので、コトシロヌシとワニとの結合はそこから生じたものと見られなくもないやうである。が、海に入つたといふのは出雲が海濱であるところからの構想に過ぎないので、退隱したといふことをかういふ形で示したまでであらうから、此の解釋は無理である。コトシロヌシの名に海神の意義は無いからである。たゞかう考へると、何故にコトシロヌシといふ名の神がオホナムチの命の子の名として撰ばれたかが解し難くなるが、雄略紀の注に三諸岳の神たる蛇がオホモノシロヌシの神といはれたとあるのによつて推測すると、オホナムチの命に結びつけられた三輪のオホモノヌシの神も、また或はオホモノシロヌシの神ともいはれてゐたので、語の構造の同じであるところから、其の聯想でコトシロヌシの神がかう取扱はれたのではあるまいか。雄略紀の三諸岳は飛鳥のであるらしく、三輪のではないやうであるが、同じく蛇神であるところから、かう考へられるのである。(ワニは、トヨタマ姫の物語に於いて見られる如く、陸に上り得るものとして考へられてゐること、また古事記及び書紀の「一書」に「匍匐委蛇」また「匍匐逶?」とある如く、形の細長いうね/\してゐるものとせられてゐ、其の大さが一尋とか八尋とかいつて長さで示してあること、を思ふと、海蛇であらうと推測せられる。ワニは人に恐れられるものであり、(420)ホホデミの命が小刀を頸につけてやられたからサヒモチの神といはれるとあることから考へると、?みついて人を傷けるものらしいが、これもまた海蛇にあてはまる。なほ陸上の蛇が靈物であり神である如く、同じやうな形をしてゐる海蛇が靈物とせられ神とせられたことにふしぎはないやうであり、古事記の垂仁天皇の卷のヒナガ姫が蛇となつて海上を照して來たといふ話は、海と陸上の蛇との觀念上の結合が可能であることを示すものであることも、此の點に於いて參考せられよう。出雲風土記の、海から遠い川の上流にワニが上つて來たといふ話にも、或は陸上の蛇との聯想がはたらいてゐるかも知れぬ。戀物語の主人公として陸上の蛇とワニとが同じやうに語られてゐることも、注意しなくてはならぬ。要するに、ワニとして知られてゐる動物は海蛇の外には考へやうがない。さうしてそれは、靈的な動物として、それ自身が神であるのみならず、海の神の一つの姿としても見られたやうである。八尋ワニといふやうな大きなワニがある如く語られてゐるのは、一つは物語としての誇張したいひかたであるが、一つはこのこととも關係があらう。)
 次にタケミナカタを神としてあるのは、此の神がオホナムチの命が神化せられコトシロヌシの神も現はれた後になつて作り加へられた物語の人物の故でもあらうし、諏訪の神社に結びつけられたからでもあらう。さうしてそれを諏訪の神社に結びつけたのは、信濃地方の服屬をオホナムチの命の國ゆづりに關聯させて語らうとしたものでもあらうか。信濃は山間の地であるから、時には其の地方の豪族が服從しなかつたこともあり、朝廷でも特殊の眼でそれを見てゐたことがあつて、そこから此の話が作られたのではあるまいかと臆測せられる。オホナムチの命に結びつけたのは、此の命が此の國土の君主としてそれを皇孫に獻上したといふことになつてゐるからである。此の神の話は國ゆづ(421)りの物語の最後の潤色に於いて添加せられたものに違ひないから、諏訪地方に何かの事件があり、それに刺戟せられて構想せられたものらしく思はれる。
 最後に、書紀の注の「一書」にのみ見えるスサノヲの命の子のイタケルの神は、紀伊に在す神とせられてゐることを知らねばならぬ。紀伊に在す神といふのは、此の神がオホヤツヒメ、ツマツヒメ、と連記せられてゐることを、續紀大寶二年の條や延喜の神名式の記載に對照して考へると、通説の如く伊太祁曾の神社の祭神をさしてゐるのであらうが、イタケルといふ名の意義が明かに解釋し難いことと、また此の神の物語の上の行動が樹木に關してであることとを思ふと、本來、此の神は伊太祁曾の神を物語化してそれをスサノヲの命に結びつけたものであり、其の名も伊太祁曾の變改らしく推測せられる。文獻上の種々の記載から考へると、曾の字を魯または留の誤と見ることは困難のやうであるから、余はむしろ物語化し人間化せられたに伴つて、某タケルといふ名の例が想起せられ、かう變へられたものと考へたい。書紀にイタケルの命と書いてあるところのあるのは、それと連記せられてゐるオホヤツヒメ、ツマツヒメ、が同じく命と書いてあることから考へると、後にいふやうな、宗教的意義での神が人に擬せられた名を與へられるやうになつてから生じた新しい風習に從つたものであらう。此の神の話は、書紀に採られた神代の物語のうちでも、最も新しく作られたものだからである。(古事記のオホナムチの命の話に見える木の國のオホヤヒコの神は、特に木の國と書いてあるのを見ると、木の國のどこかの神社の祭神に此の名が與へられてゐたので、それが木の縁から此の話に利用せられたのか、又はオホナムチの命をかうして木の國に結びつけるために木の話を作つたのか、何れかであらうと思はれるが、其の神社が普通に説かれてゐる如く伊太祁曾であるかどうかは明かでない。通説はオホヤツヒ(422)メの神が伊太祁曾と連記せられてゐることを理由としたものであるが、一方はオホヤヒコであり他方はオホヤツヒメであつて、ツの一語の有無だけではあるが名の構造が違つてゐるし、またオホヤツヒメはツマツヒメと對稱的になつてゐるのでもあるから、オホヤツヒメの對としてオホヤヒコを見ることは的確とはいひ難い。またよし伊太祁曾の神であるとするにしても、それにかういふ名の與へられたこと、またそれが古事記の物語にとられたことは、イタケルの神の名と其の物語との作られたのとは、別な事情からであり別の時期に於いてであつたと見なければならぬ。古事記の話も新しいものであるが、イタケルの神の話とどちらが前に現はれたかは明かでない。)
 以上は主として、某の命といはれた神代史上の人物が宗教化せられ神化せられて某の神ともいはれるやうになつた事情を考察したのであるが、其の間おのづから宗教的意義での神について物語が作られ、從つて其の神に人に擬せられた名のつけられたことにも言及した。此の後者の例は他にもあるので、其の一つはサルダヒコの神である。これは本來、ちまたに現はれると信ぜられた邪神であるが、それがホノニニギの命の天降りの物語に用ゐられて其の重要なる人物とせられたために、邪視をもつてゐることになつたので、それは邪視を恐れる思想が此の人物に結びつけられたのである。だから、それが神と稱せられてゐるのは當然である。サルダといふ名も此の性質によつたものかと想像せられるが、語の意義が余にはわかりかねる。(此の神がホノニニギの命の嚮導をしたといふのは、邪神の性質をすてて、ちまたの神たる性質のみを保有せしめ、それによつて作られた話である。上に述べた土蜘蛛の例、參照。)タケミカツチノヲの神やフツヌシの神も物語の人物として活動してゐるが、これは靈物でもあり精靈の宿るものでもありまた呪力を有するものでもある刀もしくは血に對する信仰が基礎になつて、神代史作者の脳裡に現はれたものであり、(423)從つて物語の原形に於いては宗教的意義でのあらぶる神を克服する使命を與へられてゐたのであるから、神であるのに論は無い。たゞ刀もしくは血が靈物とせられ神とせられたことは民間信仰に於いてであるが、それにタケミカツチノヲの神といふやうな名を與へたのは神代史の作者であることを注意すべきであり、それによつて此の神が物語の人物となる基礎を得たのである。これは三輪山の神にオホモノヌシの神といふ名をつけ又は民間信仰に於いては單にヤマツミとかワダツミとかいはれてゐる精靈であつて、人に擬せられた名を有つてゐない山の神や海の神に、神代史の作者がオホヤマツミの神とかオホワダツミの神とかいふ名をつけたと同じである。此のオホヤマツミの神がイハナガ姫の父としてホノニニギの命の物語に現はれるやうになつたことは、いふまでもあるまい。
 宗教的意義での神と物語の上の人物とについて神と命との名稱の混淆して來た事情は、ほゞ上記の考説で知り得られたであらう。なほ、タカミムスビ・カミミスビについて一言して置かうと思ふが、此の二柱は、本來、シナ思想に誘はれて生じた天の神として神代史に現はれたものであるから、實際の宗教的信仰に於いての神ではなくして、概念の擬人せられたものではあるが、神と稱せられたのではあらう。書紀の注の此の神の出現を記してある「一書」には命としてあるから、さういはれたことは事實であるが、天の神として出現したところから見ると、もとは神といはれたらしい。此の二柱とアメノミナカヌシの神とを含んだ所謂造化三神は、神代史の最初に現はれてはゐるが、本來、イサナキ・イサナミ二神の國生みの物語とも、また固まらない土地の上にアシカビヒコヂの神またはクニノトコタチの神などがなり出でたといふやうな話とも、無關係な、全く別の、思想から作られたものであるので、神代史の既に成立した後になつて新に其のはじめに加へられたものである。書紀に注記してある多くの「一書」に於いて此の三神の名(424)の見えるのはたゞ一本のみであり、さうして其の本に、天地初判の時にクニノトコタチとクニノサツチとの神がなり出でたことをいつた後「又曰」として三神の高天原に生まれたことが記してあるのは、此の故である。廣く世に知られてゐる話とは違つた別の説であるためにかう記されたのである。さうして、最初に現はれたといふ他の神々とは違つて、此の三神が高天原に生まれたとしてあるところにも、此の説の特異な點があり、新説であることがそれによつても知られる。さてこの二柱は概念の擬人せられたものではあるが、明かに人の形を與へられてはゐなかつた。しかし後には、神代史の潤色者によつて、タカミムスビはオシホミミの命の外戚として、カミミムスピはスクナヒコナの命の母として、物語の上の人物とせられた。此の意味では、當然、命と稱せられた。けれども、一方では天の神ともせられてゐたのであるから、後に宗教的祭祀をうけるやうになつて、所謂大御巫の祭る八神の列に入つたのは、此の故であらう。此の場合では、勿論、神といはれてゐる。タカミムスビの神は宮廷の祭祀とは別に、また多分、其の祭神とせられた前から、タカキの神といはれてゐたので、それは樹木を用ゐる呪術宗教的儀禮に結びつけられたからのことであらうが、カミミムスビの命にさういふことが無くタカミムスビの命のみが斯うなつたのは、其の儀禮に於いて用ゐられる樹木が一柱であつたからではあるまいか。古事記には所謂皇孫降臨の物語に於いて中途からタカキの神の稱呼を用ゐてあるが、此の物語に此の命がはたらくやうになつてからでも、はじめは全體にタカミムスビの命の名が用ゐられてゐたに違ひなく、書紀にさう書いてあるのが原の姿らしい。古事記の書きかたが其の材料となつた舊辭の記者の變改であることは、中途からさうなつてゐるのでも推知せられる。なほタカミムスビ・カミミムスビの二柱が古くからの民間信仰に存在した神でないことは、民間信仰の神はその一般的性質としてかゝる名を有つてゐなかつたこ(425)とからも、民間信仰としては天にこのやうな神がゐるといふ思想の無かつたことからも、また後世まで民間信仰として此の二柱が崇拜せられた形迹の無いことからも、明かである。後世に神社の祭神とせられても、それは名のみのことであつて、ムスビの性質を有する神としてではない。宮中の八神が、もし此の二柱がもとであつてそれに種々の神が漸次加へられたものであるとするならば、最初此の二柱の祭られたのはムスビの性質に於いてであつたかとも思はれるが、祝詞を見るとさういふ意味も現はれてゐないから、少くとも祝詞の作られたころにはそれが失はれてゐたのであらう。更に附記する。ムスビの語は、古事記に「産巣日」、書紀に「産靈」と書いてあることによつて、書紀の文字の如き意義に解するのが普通であるが、祈年祭の祝詞に「魂」の字があててあるのを見ると、それには幾らかの疑問が無いでもない。しかし、魂の字の義としては、特殊の神の名として、特に最初に天になり出でたといふ神の名としては、ふさはしく思はれないから、余はやはり通説に從つてそれを産靈の義とし、魂とも書かれたのは後になつてムスビの語と其の意義とが此の神について比較的輕視せられたためであらうと推測する。此の場合、魂の字はほゞ靈の字と同意義に用ゐられたらしい。ワクムスビといふ神があつて、古事記には此の神の子にトヨウケヒメの神があると記され、書紀の注の「一書」には此の神に五穀と蠶と桑とが生じたとあるから、ワクムスビのムスビは産靈の義らしいことをも參考すべきである。なほ此の神は、物を生産する力なりはたらきなりの擬人せられたものではあるが、後世の宣長などが説いた如く、あらゆる事物がみな此の神のはたらきによつて生成したと考へられたのではない。すべての事物の本源をムスビといふ特殊の神の力に歸するやうな思想が上代にあつたらしい形迹はどこにも見えぬ。ムスビの語を魂の字で寫すやうになつたのも、さういふ考が無かつたからであらう。それから、アメノミナカヌシの神が民間信(426)仰の神でもなく、後世まで此の神の名の示すが如き性質に於いて祭祀せられたこともないことは、ムスビの神と同じである。たゞ此の神が、二柱のムスビの神とは違つて神代の物語の人物としても現はれず、また朝廷の祭神の名として用ゐられもしなかつたのは、何故であるか、知り難いが、臆測すれば、ムスビの神はその名に特殊の内容があり神の性能が示されてゐるのに、アメノミナカヌシの神は天のまなかにゐるといふのみで、神としての性能がその名に示されてゐないからではなかつたらうか。信仰上の神としては天上に日そのものとしての日の神があり神代史上の人物としてはオホヒルメの命があつて、アメノミナカヌシの神の立つべき地位の無いことも、またそれを助けてゐるかも知れぬ。なほイサナキ・イサナミ二柱の前になり出でたといふクニノトコタチ、クニノサツチ、などは古事記には神としてあるが、書紀には、本文にも注記せられてゐる多くの「一書」にも、すべて命としてあるので、そのどちらがもとの稱呼であるかが問題である。これらは宗教的意義での神ではないが、また物語の上の人物でもないので、神とも命ともかたつけられないものである。しかしいはゆる造化の三神の例から類推すると、やはりもとは神といはれたのではあるまいか。
 今一つ考へて置かねばならぬのはオモヒカネの神及びタチカラヲの神のことであるが、これもまた「思ふ」といふこと「手力」といふことの擬人であり、本來、宗教的意義での神ではない。今では記紀の何れにもみな神と書いてあるが、もし此の神が神代の物語の作られた初から存在したものであるならば、上記の一般の例から推測して、もとはやはり命と呼ばれてゐたのではあるまいか。たゞ此の二人をはたらかせてある岩戸がくれの物語に於いて同じくはたらいてゐるコヤネの命、フトダマの命、其の他の命たちがみな諸家の祖先として作られたものであるのに、此の(427)二人はさうではない。コヤネの命などが何時までも命であるのに、二人が神と書かれるやうになつたのは、此の故ではあるまいか。しかし、これには別の考へかたもある。オモヒカネやタチカラヲが祖先になつてゐないのは、思ふことや手力を用ゐることを職掌とする朝廷の伴造の家が無かつたからであるが、岩戸がくれの物語に活動してゐる主要なる人物が家々の祖先であることから考へると、此の二神は此の物語の初めて作られた時からあつたのではなく、後に附加せられたものではあるまいか。オモヒカネといふやうな人物の作られたのは、思想の發達の上から見ても新しいことであらう。もしさうならば、此の二人は神代史上の人物が神といはれるやうになつた後に現はれたものであり、從つて初から神と稱せられたのかも知れぬ。(オモヒカネの神は古事記と書紀の注に引いてある「一書」とでは出雲征服の物語にも現はれてゐるが、書紀の本文にはそれが見えぬ。この神は本來タチカラヲの神と同じく岩戸がくれの物語の人物として作られたものであり、後になつて出雲征服物語にも利用せられたのであらうから、舊辭に於いては、本によつては、出雲に關する話にそれが現はれてゐないものもあつたと解せられる。)なほ古事記の皇孫降臨の段には、タチカラヲの神と並べてアメノイハトワケの神の名が記してあつて、名の意義から考へると岩戸がくれの話にあるべき神のやうであるが、そこには見えてゐない。多分、後になつてタチカラヲの神の分身として語り出された神であらうから、その名が神となつてゐることについては、タチカラヲの神と同じやうに考へらるべきである。記紀のどの岩戸がくれの話にもそれが見えないのは、その名の記されてゐた舊辭が後に傳はらなかつたためであり、名の類似からイハマドの神に結びつけられたもののみが古事記にとられてゐるのであらう。またウズメの命がサルダヒコの神に對する場合に限つて神と書かれてゐるのは、「日本上代兜の研究」の第一篇に説いてある如く、サルダヒコの神を克(428)服する呪力を有つてゐるところに重きが置かれてゐるからである。 さて神と稱せられ命と稱せられることに本質的の區別があるといふことは、上に述べた如く命が純然たる人としての尊稱であるのに、神が鏡や劍や玉や唾や境界の石や、さういふやうな呪力を有するもの、もしくはさういふものの有する呪力、又は蛇やワニや、山の精靈、海の精靈、として崇拜せられるもの、などの稱呼であることから、明かである。呪術と宗教的祭祀と、もしくは呪力と祭祀崇拜の對象たる超人間的存在、即ち普通に神と呼ばれるもの、のはたらきとは、記紀の記載に現はれてゐるところでは、明かに分たれてゐないので、呪力もしくは呪力を有するものも神といはれてゐたのである。玉にミクラダナの神といひ唾にハヤタマノヲといふ名をつけたのは知識人のしごとであつて、新しいことであるが、それは玉や唾に呪力があると考へてゐた古くからの民間信仰にもとづいたものである。かういふ呪術宗教的思想の下に於いて、神が人の形をも性質をも有しないものであることは、いふまでもなからうから、此の點からも神と命との間には截然たる區別があつたはずである。もつとも、同じ呪術宗教的思想から、呪術を行ひまたは神と人との媒介をするやうな特定の人が特定の場合に神と考へられることもあるので、遠い昔からの因襲としてところ/”\の政治的君主が一面に於いて神とせられたらしいのも、そこに一つの由來があるのであり、神代、即ち皇祖神の代、といふ觀念が生じたのも、もとをたづねればそれと關係がある。萬葉卷一に見える柿本人麻呂の歌に「山川もよりて仕ふる神の御代かも」とあり、卷十八の大伴家持の作に「すめろぎの神の大御代」とあるのは、天皇が神であられるといふ考から、其の意義での神、即ちスメラミコト、の現在の御代をかういふ語でいひ現はしたものではあるが、觀念の上で古代に置かれた皇祖神の代を神の代といふのも其の根本は同じである。萬葉の歌は神代といふ觀念の(429)生じたよりも後の作ではあるが、此のことについては同じ思想が持續せられたものと認められる。だから、所謂神代に於いても皇祖が神であられるはずであるが、こゝでは皇祖は宗教的崇拜の對象としての神である日そのものと結合せられ、それによつて神としての性質が明かにもなり固められもした。ところが、スメラミコトはその本質は政治的君主であり人であられるから、神代の物語に於ける皇祖の活動には、神としてではなく、政治的君主としてのスメラミコトが反映してゐるのである。命の稱呼が附せられたのも此の故であり、所謂天つ神のみ子たちが神ではない人として語られたのも、其の意味に於いてである。天皇が現つ神の名によつて表現せられてゐるにしても、それは宗教的崇拜の對象ではなく、さうしてそれが現つ神であられるのは、其の遠い由來はともかくも、當時の思想に於いては、政治的君主であるためであつた。多くの宣命の冒頭に記されてゐる稱號によつて知られる如く現つ神のはたらきは「大八洲國しろしめす」ことであつたのである。政治的君主としては現つ神であられるが、宗教的には神を祭られるのも、そのためであり、皇祖の物語にもまたそれが反映してゐる。神代史に於いて皇祖が日そのものとしての日の神と結合せられてゐるのは、かういふ形によつてその神性が明かに示されるからであるが、それとても畢竟は、それによつて政治的權力の淵源*の説明せられてゐるところに意味があるのである。さうして物語の上に於ける天つ神のみ子たちは、此の神性が其の血統に於いて保持せられるのみで、どこまでも政治的君主であり人であり命であられるのである*。皇孫たちのみならず、皇祖の父母であるイサナキ・イサナミとても同樣で、やはり人であり命である。神代史に於いては皇祖のみに神性が凝集せられてゐるので、日そのものとしての日の神との結合の意味もそこにあることを忘れてはならぬ。
(430) しかし物語に於いては、其の皇祖にすらも宗教的意義に於いての神としてのはたらきが見えず、日そのものの性質の現はれてゐる唯一の場合である岩戸の物語に於いても、第三篇に説いて置いた如く、日の光の隱れまたは現はれることから生ずる物理的效果と、上代の宗教思想に於いてそれに隨伴して起ると考へられたこととが、語られてゐるのみである。神に對する祭祀の儀禮が呪術的儀禮と混淆して物語に現はれ、さうして其の祭祀の儀禮はアマテラス大神に對して行はれたことになつてはゐるが、大神の出現は祭祀をうけて神が喜ばれたからでもなく、神が衆人の頗望を聽許したからでもない。神が神みづからの力によつて世を明るくしようとし又は惡神邪靈を退散させようとして岩戸を出られたのでないことは、いふまでもない。だから、そこには神としての宗教的權威と思惠とが全く語られてゐないのである。これは日そのものとしての日の神が宗教的に發達しなかつたことを示すものであるが、皇祖として、即ち人として、それを見るのが神代史の精神であるから、それは當然である。(岩戸の物語は、本來、太陽神話ではなく、皇祖が一面に於いて日そのものとしての日の神であるため、皇祖に對するスサノヲの命の反抗をかういふ形によつて語り、根本的には大和の朝廷に對する出雲の勢力の反抗をそれによつて象徴させたものである。從つて此の話に於ける日そのものとしての日の神は實は皇祖である。)其の他の物語に於いてはいふまでもないので、スサノヲの命に對する場合でも、人に對する神としては語られてゐず、ウケヒして互に子を生む話に於いても、すべてが全く對等であり、大神はスサノヲの命と同じく人となつてゐる。神としての宗教的權威はどこにも見えてゐない。これは一つは、次にいふやうに、宗教的意義での神に人の形と性質とを與へようとする傾がありながら、單に人としての名を附けるにとゞまり、其の資質は依然として精靈であり呪力であり、もしくはそれを有する動物であり器物であるといふ(431)程度であつたので、神そのもののはたらきを物語化することができなかつたからでもあるが、神代史としては、もともと現實の政治的君主の面影を物語に現はさうとするのが其の精神であつたためでもある。
 ところが、神代史は所謂大八嶋の國土と其の政治的統治者としての日の神、即ち皇祖神、とをイサナキ・イサナミ二柱から生まれたものとしたにつれて、宗教的意義の神々にも、またそれと同じく、二柱から生まれたものがあるとせられた。民間信仰としては、それらは神と呼ばれてゐても、本來精靈の類であつて、人の形や性質を具へてゐないものであるが、神代史に於いては、物語の上で、人たる二柱から生まれたものとせられたのであるから、少くとも名に於いて人に擬せられねばならなかつた。精靈そのものが、本來、生きたもの情意あるものと考へられてゐたのであるから、それはおのづから人のやうに思はれる傾向を有つてはゐたが、一般の?態としては人の形も性質も與へられてはゐなかつたことが、上に述べた如く呪力や呪力を有するものが同じく神と呼ばれてわたことからでも知り得られよう。さういふ神に神代史の作者が人に擬せられた名を與へたのである。神が人の形や性質をもつやうになつた徑路については單純には考へ難く、また民間信仰に於いても其の萌芽はあつたに違ひないが、それが明かな形を與へられたのは、人としての名のつけられた神代史に於いてのことであるので、それは神代史そのものの記載から知り得られる(上文及び第三篇の第四章第七章參照)。さうして知識人に於いてかういふ思想の生じたのは、或はシナの道教の神に關する知識が、いくらかそれを助けたかも知れぬ。けれども、神が精靈であり人の形も性質も有つてゐないことは、實際信仰の上の事實であるから、神代史の作者は、それに人に擬した名を附けながら人の性質を有する神としての行動を語ることができず、人の形體を與へることすら十分でなく、その出現についても、二柱から生まれたといふ話の(432)外にも多く化生の物語を作つた。神の化生の話は多く、書紀にカグツチが三段に斬られそれらがおの/\神になつたといふのも、其の例であるが、これはまたカグツチが人の形體を有つたものとして明かに想像せられてゐなかつたことを示すものでもある。三段といふのは人體としてはふさはしからぬ表現法だからである。書紀の注の一つの「一書」に五段として、それに肢體の名があててあるのは、古事記の説と共に、此の神に人の形體を與へようとしたものであつて、後の變改であらう。神代史の全體からいふと、化生したものがすべて宗教的意義の神ではなく、生殖によつて生まれたものが盡く物語の上の人物として見るべきものでもない。オシホミミの命、ホヒの命、アマツヒコネの命、などは化生であり、またスサノヲの命の子孫として種々の宗教的の神が生まれてゐるからである。しかし、これらの物語は何れも後になつて附加せられたものであるから、もとは宗教的の神にイサナキ・イサナミ二柱の生殖によるのと化生によるのとがあつて、その化生の物語は宗教的の神のみについて作られたものと見て大過はあるまい。また書紀にはクニノトコタチの命について「化爲神」と書いてあるが、その注のいくつかの「一書」には、それと同じやうないひかたのしてあるものもあると共に、「神人」といふ語の用ゐてあるのも「化爲人」としてあるのもあつて、これは此の命が人として考へられてゐたこと、從つてそれが、本來、命と稱せられてゐたことを示すものであると共に、人たる命が化生したやうに語られてゐるのであるが、これは土地のまだできない前のこととなつてゐるから、化生とする外はなかつたのである。クニノトコタチの命のみならず、ウマシアシカビヒコヂの命でもウヒヂニ・スヒヂニ以下の國土生成の前に置かれた命たちでも、それは人の日常生活に關係の無いものであり、知識的要求から生まれたものである點に於いて、上に述べた他の民族の開闢説話などに現はれる神に比擬すべき一面を有するものであるから、(433)其の意味からも、宗教的崇拜の對象としての神でないことは明かである。特にこれは物語をもなさず、単なる概念の擬人たるにとゞまるのであるから、後までも宗教的性質は與へられなかつた。それが化生したやうに語られてゐるのは、上記の理由からであらう。さて、神代史の作者は宗教的意義での神を擬人し、其の化生した物語を作つたと共に、同じく神といはれてゐたために、呪力を有するもの又は呪力そのものにも、やはり人に擬した名を附け、またそれの化生した話を作つた。また古事記に見えてゐてイサナキの神の涙に化生したとあるナキサハメの神は、萬葉卷二の人麻呂の歌に「なきさはの森にみわすゑ祈れども」といふ句のあるところから考へると、ナキサハといふ名の土地があつたので、其の名のナキが「泣」に附會するに都合がよかつたため、こゝの神社の祭神をナキサハメの神といふ名として、それを物語にはめ込んだものと思はれるが、これは或る神社の神に人としての名をつけて神代史に用ゐたものながら、やはり同じ意味のことである。
 ところで、神代史上の宗教的意義をもつてゐる神は、その名が何れも某の神と呼ばれてゐて、某の命とは書かれず、初から物語の人物として作られたものとの間に區別がつけられた。これらの神が殆ど名のみ記されてゐて、神としてのはたらきが語られてゐないのは、それが眞に人の形と性質とをもたず、語らるべき行動をすることができなかつたからである。かの太陽神も皇祖と結合せられたからこそ、否むしろ皇祖としてこそ、人の形體を具へて物語の上に現はれて來るのであつて、岩戸の話の如き太陽神そのものの或る?態が話の材料として取られてゐる場合ですら、宗教的意義での太陽神としてはたらいてゐるのではない。太陽神としては明かに人の形をもつてゐないので、橘の小門の禊の場合に化生したやうになつてゐる話の生じたのも、此の故である。神代史の原形ではイサナキ・イサナミ二柱の(434)生殖による子となつてゐたらしいが、それは主として皇祖としての一面から來てゐるのであり、化生の話はもつぱら太陽神としての一面に於いて考案せられたものである。禊の場合に生まれたといふのは、ヨミの國の物語が神代史に附加へられたためにそれによつて原の話のすぢを變改したのであつて、それは死の穢をそゝぎ去つて後にはじめて日の神が生まれるとしたところに意味があるのであらうが、生殖によるとしてあつたのと化生したことになつたのとでは、神の性質にまでいくらかの變化が生じたと見れば見られぬことはない。これは太陽神のことについてであるが、其の他の神にしても、もしそれが物語の上の人物としてはたらく場合には、純然たる人となり、神の性質を失つてしまふので、タケミカツチノヲの神などが其の例である。此の神の本質は刀もしくは血であるが、それが人に擬した名を與へられたために、物語に於いてあらぶる神を征服する任務をもつやうになつた。けれども、此の任務を行ふ場合には、もはや神ではなくして單なる武人たるに過ぎないではないか。(これは神代史の物語に於いてのことである。ずつと後には、神代史の作者の命名であるタケミカツチノヲが、刀または血そのものから離れて、宗教的祭祀を受ける神の名となつたが、それはこゝにいふのとは別のことである。)或はまたホノニニギの命の物語に現はれるオホヤマツミの神の如く、たゞ名が假り用ゐられたのみで、山の神たる宗教的性質がそれから除かれた場合もある。それはたゞコノハナサクヤ姫の縁によつて此の神の名が導き出されたのみのことである。何れにしても、神は神として物語の上にはたらき得ないのである。ホホデミの命の海神の物語は、ワニが人の妻になつたといふ民間説話がもとになつてゐるので、其のワニが民間信仰に於いて海の神とせられてゐたため、神として語られたのみであり、神代史に於いて人に擬した名を與へられたオホワダツミの神に關する話ではないことをも知らねばならぬ。(神に人の形體が與へ(435)られたといふやうな語を用ゐず、人に擬した名が與へられたといふやゝ曖昧ないひかたをしたのは、人のやうな名が與へられ人らしくも想像せられながら、多くの場合には、上に述べた如く明確に人の形體を有つてゐるものとまではなつてゐないやうに見えるからである。それは男女の性の區別が判然せず、一つの神が性があるやうにも無いやうにもなつてゐる場合のあることからでも、推測せられよう。山の神、海の神、風の神、穀物の神、といふやうな種々の神があるとせられながら、それらの一々の性能に應ずる特殊の形態、服装、其の象徴とすべき持ちもの、などが全く説かれてゐないことをも考へねばならぬ。要するに多神教的形相が殆ど成立してゐないのである。)
 しかし一方に於いては、命と神との混淆も早くから生じてゐたので、それは先づ一般的稱呼の上に現はれてゐる。物語の上の人物たる命たちは、神の代に生存したものとして語られてゐるために、一般的稱呼としては其の意味に於いて神といはれてゐたので、八百萬神といふ稱呼もあり、天つ神及びそれに對する國つ神といふやうなことばも作られてゐた。八百萬神が宗教的意義での神をいふのでないことは、岩戸の物語を見ても明かであらうし、天つ神・國つ神も同樣であるが、それらが神といはれてゐたのである。これは神代史の作られたはじめからのことであらうと考へられる。古事記に、オホナムチの命の兄弟として、また應神の卷のイヅシヲトメの求婚者として、記されてゐる八十萬神といふのも、八百萬神と同じいひかたであり、書紀の岩戸がくれの段の八十萬神、出雲平定の段の八十諸神も、またさうである。(書紀の注の一つの「一書」に諸神または衆神といふ語が用ゐてあるのは、八百萬神を漢語風に書きかへたものらしいが、それから考へると、八十諸神といふのは八十神といふ語と諸神といふ語とを混和して作つたもののやうである。なほ崇神紀七年の條の八十萬神は宗教的意義での神でなくてはならぬから、これはこの語の用ゐ(436)かたが轉化したことを示すものであらう。たゞし「會八十萬神」といふいひかたをしたのは、高天原での八百萬神の會合の話が聯想せられたからのことらしい。)高天原での命たちの行爲をいふに當つて「神集ひ」とか「神やらひ」とか「神ほさき」とかいふやうな語の用ゐられたのも、また此の故であつて、これらの語は宗教的意義を有する「神がかり」といふやうな場合のとは、神の語の用ゐかたが全く違ふ。(萬葉卷二の柿本人麻呂の日並皇子尊殯宮之時の歌に、所謂皇孫降臨のことを「神下し坐せまつりし」といつてあると共に、天皇崩御のことを「神登り坐しにし……」といつてある。これは「神下し」と「神登(上)り」とを對稱的にいつたのであるから、「神上り」はやはり上記の例と同じいひかたであらう。たゞ此の語には第一篇に述べた如く死者の靈魂の上天といふ思想が其の根柢に存在し、從つてそれには宗教的意義もまた含まれてゐる。勿論此の思想はシナ傳來のものであつて、單に知識として存在するのみであり、實際の宗教的儀禮などには關係の無いことではあるが、さういふ知識の存在したことは事實であらう。さすれば、上記の歌に「神上り」と「神下し」とを對稱的に用ゐてあるのは、當時の知識社會の思想に於いて神代の昔語りに現はれてゐる人物の行動と宗教的意義のこととが、大なる區別なしに取扱はれたことを示すものであらうか。もしさうならば、これもまた、神代の物語の人物が、思想上、宗教化せられて來たことに伴つて生じた一現象ではあるまいか。また書紀に於いてミコトに「尊」の字をあててあるのは、命を神と見たからであつて、當時神代史の人物が神化せられてゐたことを示すものである。「尊」は道教の神の稱呼をとつたものだからである。)
 ところがかうなると、次には、ミコトといはれた神代史上の人物が思想の上、名稱の上ばかりでなく、實際信仰の上に於いても、神とせられ宗教化せられてゆくのであつて、それはかういふ人物が所々の神社の祭神に結合せられる(437)ことに於いて現はれる。日の神とスサノヲの命とのウケヒに於いて生まれた女性の命たちが胸形の宮の祭神とせられたのは此の例である。(余は曾てこれらの命たちを胸形の祭神の名として作られたものであり、從つてそれは命とせずして神とすべきものであると考へ、「上代の部の研究」にさう説いて置いたが、今思ふと、やはり斯う見た方がよいやうである。神代史の物語では、宗教的意義での神として、これらの命の名が作られたのではないやうである。但しウハ・ナカ・ソコツツノヲの命の名は初から海神として作られたものであらう。ツツの終のツは精靈の意義のあるチと同じであらうと思はれるからである。たゞそれが墨江の神社の祭神とせられたのは後のことらしく、神代史に其の名が現はれたため、それを此の神社にあてはめたものであらう。)さうしてかうなつて來ると、必しも宗教的に崇拜せられる場合に限らず單に名稱の上で某の命が某の神といはれるやうにもなるので、古事記にアメノホヒの命がアメノホヒの神とも書いてあるところのあるのは其の例である。また宗教的意義での神も人に擬せられた名が與へられると、次にはそれが人の如く語られるやうにもなるので、スサノヲの命の子孫の系譜やホノニニギの命の物語などに於いて、かういふ神との間に姻戚關係が結ばれた話の作られたのも、此の故であり、またさういふやうな話は無くとも、其の名に神ではなくして命の語の附けられる場合が生じて來る。上記のウハ・ナカ・ソコツツノヲの命は其の例である。書紀の注の「一書」にはワダツミの神を命と書いてあるところもあり、かのナキサハメの神にも同じ場合がある。(古事記のオホトシの神の系譜に、オキツヒメのみが、他のすべてが神となつてゐる例とは違つて、獨り命としてあるのは、誤寫と考へられるから此の例ではない。)神功紀の託宣の語に「五十鈴の宮に居る神ツキサカキ・イツノミタマ・アマサカルムカツヒメの命」とあるのも、其の例であらう。記紀以外の文獻に於いても神を命と記してある場(438)合が祝詞にあるし、播磨風土記託賀郡の條に宗形の大神が伊和の大神の子を姙んで云々といふ話のあるのも、オキツシマヒメの命が既に宗形の祭神とせられた後のことであるから、この例に入れてよからう。またかういふ風習は、おのづから神代史には關係の無い神にも及んでゆくので、古事記の仲哀の卷には、氣比の大神をイザサワケの大神の命と記し、開化の卷には、淡海の御上の祝の齋く神の女を皇子が娶られた、といふ話が載せてある。諸所の神社が人の形體を有する神を祭つたものとせられたのである。例へば龍田の神社の祭神が彦神姫神と稱せられた如く、祭神の名に性を示す語が加へられて來たのも、また之がためである。かういふやうにして、時が經つに從つて、神代史上の人物が神化せられると共に、神が、多くは名のみのことではあるが、人のやうにもとりあつかはれ、兩者がおのづから接近し、或は其の間の區別がやゝ判然しなくなつて來たのである。そこで「神の命」といふやうな稱呼も生じ、古事記のヤチホコの神やスセリ姫の歌にもそれが見えてゐるし、萬葉卷三の大伴坂上郎女の歌にも「久堅の天の原より生れ來し神の命」といふ語がある。(萬葉には、卷一の人麻呂の近江荒都の歌に「すめろぎの神の命」とあり、卷六の久邇新京の讃歌に「わが大きみ神の命」とあるやうな例もあるが、これは現つ神としての現在の天皇をさすのであるから、おのづから別の意義である。また卷五の「たらしひめ神の命」とあるばあひの「神」は、尊敬してかういつたまでのもののやうである。)けれども、記紀の神代の物語の名の書きかたに於いては、なほ概ね命と神との區別が保たれてゐるので、それによつて二書に取られた帝紀や舊辭の潤色せられたころ、溯つてはそれらの初めて製作せられた時、の思想を知ることができるのである。
 以上の考説で命と神との稱呼と其の意義とに關する「日本上代史の研究」の第一篇の所説をほゞ補ひ得たと思ふが、(439)かう述べて來たところで、此の稱呼のちがひにそれほど重要な意味があるかを人はなほ疑ふかも知れぬ。從來あまり問題にせられなかつたことだからである。しかし、一方では神の名に神といふ語をつけて呼びながら、他方ではそれを命としてあることには、必ず何等かの意味が無くてはならないのではないか。さうして、もしそれに意味があるとすれば、上述の如く解する外は無いではないか。事實、記紀を精讀すれば、命と呼ばれてゐる神は宗教的意義に於いての神でないことが、おのづから知り得られるはずである。學者によつては、或は、かういふ命たちを英雄神と呼んでゐるやうであるが、それは適切ないひかたではない。命は、本來、神ではないからである。のみならず、それを英雄といふことすらもふさはしくはない。たゞ八頭蛇の物語に於けるスサノヲの命は英雄と呼ばれ得るであらうし、オホナムチの命やホホデミの命についても、所謂八十神との爭ひ及びそれにつゞく根の國の話や、山幸海幸の爭ひ及びそれに結びつけられた海津宮の話は、物語の形に於いて或る種のいはゆる英雄説話の型を具へてゐるものと見て大過が無いやうであるが、これらの物語は何れも神代史上に於ける上記の命たちの本質を示すものではなく、或は民間説話から採られたものであり、或は後から附け加へられたものである。さうして、其の他の場合に於いては、これらの命に何等英雄的資質を見ることができぬ。要するに、所謂天つ神の系統に屬する命たちは、政治的君主の地位の反映である。また天つ神に從屬する命たちに至つては、朝廷に於いてそれ/\の職掌を有する諸家の祖先とせられ、物語に於いて其の職務を執つたことになつてゐるまでのものである。
 ところで、神代史にはたらいてゐる命たちが英雄神といはれるのは、一般には、神代史を所謂神話の集成と見る考に由來するのではないかと思はれるが、もしさうならば、それは、余からいふと、神代史の本質を正しく解し得たもの(440)ではない。神話と譯せられてゐる語の指すところは、必しも宗教的意義に放ける神の物語のみには限らないので、此の譯語が賓は適切でなからうと思はれるが、それにしても所謂神話の人物は普通の人ではない。それを神と呼ぶにしても呼ばないにしても、人ではない。然るに神代の物語の人物は、上にも述べた如く純然たる人として想像せられてゐるので、其の點に於いても神代の物語と所謂神話とは性質が違ふ。(ひろく考へても所謂神話の意義は頗る曖昧であつて、そこから取扱ひかたの混亂も起り易いが、神話と譯せられたがために日本人に於いては一層の曖昧と混亂とが生じてゐるやうである。英雄神といふやうな語の用ゐられるのも、またこのことと關係があらう。)勿論、所謂神話には宗教的意義に於ける神の物語が多いことは、事實である。さうしてそれと共に、さういふ性質の、即ち宗教的意義に於いての、神話が、それ/\の民族の民族生活、其の宗教的信仰及び其の儀禮などから自然に發生した、種々の神に關し種々の主題に關する、種々の説話であることも、明かである。(こゝに「自然に發生した」といつたのは、一つは、さういふ説話が宗教的信仰の表現として、又は宗教的儀禮の解釋として、世に現はれたものであつて、その他の特殊の目的があつて作られたものでない、といふ意義に於いてであり、また一つは、かういふ説話とても、それ/\にその作者はあつたに違ひないが、その作者の何人であるかが考へられないほどに、その説話が民族生活の間に融けこんでしまひ、民族自身の間からいつとなしに生じたもののやうに思はれることになつてゐる、といふ意義に於いてである。)ところが、この點でも神代史は、さういふ神話とは、全く性質が違ふ。神代史が國家の統治者であられる皇室の權威の由來を説くために作られたものであることは、神代史を通讀すればおのづから知られるのであるが、それは、神代史の全體が皇祖及び皇孫の物語であつて、皇孫は國家統治の權威をもつて此の國に降られ、皇祖は其の權威の本(441)源として生まれられ、またイサナキ・イサナミ二柱は此の國土及び皇祖神の生みの親として現はれたことになつてゐ、一貫した精神と整然たる順序とを以てそれが構成せられ、主要なる一々の物語は此の全體の構成と有機的關係を有つてゐることによつても、明かである。歴史的存在であつた出雲の政治的勢力を表徴するものとして考へられるオホナムチの命及び其の父とせられたスサノヲの命の行動は、皇孫及び皇祖の權威に對する反抗者として、また最後には服從したものとして、語られてゐるに過ぎない。神代といふ觀念そのものが、政治的君主であらせられる天皇の神性を基礎として成立つてゐる。たゞ神性を基礎として神代といふ觀念が生じたのではあるが、其の神代は政治的君主としての天皇の權力のはじめて形成せられた時代として、皇室の御祖先の時代として、また大和奠都以前の時代として、語られてゐるのみであつて、其の他の點では所謂人代と何の異なるところも無いものである。神代は、宗教的意義での神のみの生活してゐた時代とか、又はさういふ神がすべてを支配してゐた時代とかいふやうなものでは、決してない。皇祖の皇居は高天原といふ天上の國土とせられたが、其の高天原は宗教的意義に於ける神々の住むところではなく、人代の皇都と同じ意義のもの、即ち國家の統治者であられる皇祖の居所である。從つてそれは人の生活する此の國土と何のちがひも無いものである。要するに、神代も高天原も宗教的意義のものではなく、政治的意義のものである。上にも一言した如く、神代史は宗教的意義での神々に政治的統制を加へようとしたのであつて、さういふ神々が、イサナキ・イサナミ二柱及び其の子孫から生まれ、又はそれらによつて化生したやうに語られてゐるのは、主として之がためであり、日そのものとしての日の神が皇祖に結合せられたのも、一面の意味に於いては、やはり同じ精神から出たことである。(此の精神は後までも相承せられ、また一般にも受入れられたので、諸所の神社の祭神に神代史上の(442)人物や神の名があてはめられたのも、また祭祀を朝廷の政治的儀禮として行ひ、又は朝廷で全國の主要なる神社に幣帛を捧げ、或はイククニ・タルクニとか國々のクニダマとかいふ政治的意義のある神が現はれ、それが祭祀せられるやうになつたのも、神に位階が授けられるといふやうなことが行はれたのも、或は其の發現であり、或は種々な意味に於いてそれと關係がある。)神代史の性質はこれらの點からも明かであるといはねばならぬ。さうしてまた神代史の作者についていふならば、政治的權力の本源と由來とが治者の立場から説かれてゐる其の叙述の態度を見のがしてはならぬ。すべてが治者の地位に立つて語られてゐるのである。そこに活動してゐる命たちは治者としての天つ神及び其の從屬者であり、其の從屬者は朝廷に地位を有する伴造の祖先となつてゐる。なほ他の方面から見ると、神代史は所謂人代となつてからの皇室の御系譜や物語に連續し、それと不可分の一體をなしてゐるものであるが、上代の政治及び文化の?態に於いて、皇室の御系譜や物語が朝廷でなくては述作し得られないものであることは、いふまでもなからう。其の内容に於いても、神代史が朝廷のことのみを語つてゐるのは、神武朝以後の物語と同じである。要するに、神代史は朝廷から出たものであり、政治的意義のものであり、或る時、或る作者によつて製作せられたものであつて、そのことが神代史そのものに於いて明かに知られるやうになつてゐる。然らざれば、上記の如き内容と形態とを有するはずが無い。其の材料としては民間説話の類が取入れてあるが、それは概ね物語の装飾としてである。またそれが記紀の記載によつて知られる如きものとなるまでには、幾段かの、また幾樣かの、變化を經てゐ、特に古事記の説話に於いてはオホナムチの命を中心とする出雲の説話に於いて著しい潤色が加はつてゐるので、其の間に宗教的色彩も付與せられたのであるが、これもまた神代史の本質をなすものではない。かういふ装飾や後の潤色によつて、(443)神代史の本質やそこに活動してゐる命たちの性質を臆測してはならぬ。さうして、それらが装飾であり後の添加であるといふことは、第三篇に於いて行つた記紀の本文批判によつて推知し得られることである。この本文批判は、神代史を構成してゐる一々の物語を仔細に分析すると共に、その多くの物語によつて構成せられてゐる全體の結構を綜合的に把握し、この二つを相互に參照することによつて、神代史を有機的に組織してゐる本質的の部分とそれに附加せられたる遊離的の分子とをえり分け、また一々の物語に於いても全體としての神代史に於いても、その原形がいかなるものであり、いかなることがらがいかなる順序でいかに變改せられ又は添加せられたかを明らめることによつて、行はれたのである。だから、例へば、もし古事記にオホナムチの命が多くの場合オホクニヌシの神の名によつて語られてゐるのを見て、此の命を神とし英雄神として見るやうなことがあるならば、それは神代史の潤色せられた徑路を考へないものである。オホクニヌシの神は杵築の神社の祭神の名として作られたものであり、それが物語の上のオホナムチの命に結合せられたのであつて、此の結合が、神代史のオホナムチの命の物語が既に世に傳へられた後になつて行はれたものであることは、上に説いたところでも明かであらう。また、もし此のオホナムチの命の物語を、遠い昔から出雲に存在してゐた神話と見るやうな考があるならば、それもまた全くの誤解であると、余は考へる。神代史の一度び作られた後になつて附加せられた部分を除いて見れば、此の命の物語は、其の領有してゐた國を皇孫に讓り奉つたといふことが其の全部であり、其の外に何ごとも無いのであるから、さういふ話を大和朝廷に關係の無い出雲固有のものとして解することは、できないはずである。出雲地方の民衆の間に存在したものでないことは、勿論である。それと同樣、日の神が皇祖としてのみ語られ其の從屬者が大和の朝廷に地位を有するものの祖先とせられてゐ(444)る以上、神代史に於ける日の神の物語の存在を大和の朝廷から離して考へることは、全く不可能である。日そのものは宗教的に崇拜せられた神であるけれども、神代史の物語は此の意味での日の神の話ではない。要するに、神代史の大綱をなす主なる物語は、決して古くから民衆の間に傳へられてゐたものではなく、所謂神話の類でもないのである。
 神代史を神話の集成とする考の根柢には、なほ種々の見解があるやうであるから、筆のついでに其の二三をこゝに檢討して置かうと思ふ。其の第一は、神代史に包含せられてゐる説話には時代を異にした、いひかへると思想の發達の段階を異にした、種々のものがあるといふことである。これは或る程度に事實である。しかし問題はかういふ事實が存在するといふことではなくして、かゝる事實が如何にして存在するかといふこと、詳言すればさういふ種々の説話が如何にして一つのまとまつた結構のある神代史の構成要素となり或はそれに包含せられてゐるかといふことである。神代史が一定の結構のあるものであるとすれば、それは何人かが或る意圖によつて組立てたものでなくてはならぬが、それが既に存在してゐる種々の説話を一定の意圖の下に構成したのみのことであるか、但しはさういふ説話を利用すると共に新しい説話をも作つたのであるか、もし後者であるとするならば、新作の説話は文化の進んだ後のものであり、然らざるものは、それより前の時代のものであることは當然である。さうして、神代史の根幹をなす主要なる幾つかの説話が、神代史全體の精神を説話の形に於いて表現したものであり、相互に有機的關係を有するものであることは、上に述べたところから明かであるから、それらの説話が神代史の作者によつて新作せられたものであることは疑ふ餘地が無い。なほ大和征服の説話やヤマトタケルの命の熊襲東國の鎭撫物語やが朝廷に於いて製作せられた(445)ことを思ふと、かういふ神代史の説話が同じやうにして作られたことに何の不思議も無いはずである。また神代史に民間説話が取入れてあるとすれば、それは神代史述作の前から存在したものであり、さうしてそれにはまた遠い昔から漸次に現はれて來た種々のものがあらうから、其の間にも製作の時代の違つたものがあるはずである。と同時に、神代史もまた一旦述作せられた後になつて、長い間に幾度か修飾變改せられたものであるから、其の修飾變改の場合に、或は新作の説話が編み込まれ、或は古くからの民間説話が利用せられてもゐる。のみならず、最初の神代史述作の際にも作者の脳裡に新しい思想と舊い思想とが混在してゐたはずであり、從つて同一作者の作つた説話にも、思想の發達の順序からいふと異なつた段階にあるものが併存し、或は一つの説話に文化の發達した後の思想と幼稚なものとが結合して現はれてゐる場合のあり得ることを、見のがしてはならぬ。概していふと、宗教や呪術は本來保守性に富んでゐるものであるから、一方で知識が發逢した後になつても、なほ他方では未開時代の信仰の遺存するのが、一般の?態であり、知識社倉の間に於いても此の二つが併存するのである。だから、古くから傳へられた呪術宗教的儀禮を材料として新しく作られた説話に於いては、其の内容をなす儀禮の意義と説話そのものとがおの/\別の思想から成立つことになるのである。例へば、岩戸の物語に於いて、ウズメの命の行ふ呪術的儀禮とコヤネの命の祭祀的儀禮とタチカラヲの命の、物語とするために考案せられた、行爲とは、それ/\全く別の思想から出たものであり、歴史的にいへば文化の發達の段階を異にする思想の所産である。また例へば禊の物語に於いて、禊をする呪術的儀禮と、其の時に種々の神が生まれたとして其の神々に一々名をつけるのとは、其の根柢に存する思想が違つてゐる。或はまた、オホゲツヒメの屍體に穀物が生じたといふのは呪術的儀禮に本づいたものらしいが、オホゲツヒメの名をつけまたそ(446)れを人の形をもつたものとして語つてゐるのは、それとは異なつた思想から出たことである(此の儀禮は、穀物の生産を誘ふために行はれたことであつて、其の儀禮の中心となつてゐた何ものかが呪力を有する意味で神といはれ、また儀禮の經つた後それを破壞する習慣であつたところから、食物の神オホゲツヒメが斬り殺されたといふ話ができたのではなからうか)。かういふ風に考へて來ると、神代史に包含せられてゐる多くの説話に種々の時代の思想が見えるとしたところで、神代史がさういふ説話の集成であるといふことはできぬ。神代史の説話に未開時代のもの又は未開時代の思想の現はれてゐるものがあるために、神代史そのものが遠い昔に成立してゐたやうに、漠然、臆測せられる傾があり、さうしてそれはまた、神代史の記載を日本民族の起源もしくは原始時代の社會?態を語つてゐるもののやうに考へる、誤つた見解によつて助けられてもゐるのではないかと思はれるふしもあるが、上記の如く見れば、かかる臆測には、實は、何の根據も無いことが知られよう。神代史の精神と其の根幹をなす説話の意義とは、現代人の思想によつて何の苦もなく領解せられるものであり、そこに活動する人物の心理は現代人の心理と大なる差異のないものである。たゞ其の説話は現代人によつては構成せられない性質のものであるが、これは主として知性のはたらきが昔と今と違つてゐるからである。また説話に含まれてゐる呪術宗教的なことがらは今日の知識人の思想とは違つてゐるけれども、それは上に述べた如く神代史述作の當時に於いて、遠い昔から傳へられたさういふ信仰が遺存してゐたからである。
 或はまた、神代史もしくは其の種々の説話を、巫祝によつて製作せられ傳承せられたものとする考もあるやうに思はれる。神代史に呪術宗教的な物語のあることが斯ういふ見かたを生ぜしめたのであらうが、それにはまた、神代史(447)を民間伝承とし、さうして民間傳承は巫祝によつて行はれたとする考が、潜在してゐるやうである。かういふ見かたをするのが、神代史の全體についてのことか、又は神代史に含まれてゐる一々の説話についてのことか、そも/\神代史の全體と其の一々の説話との關係をどう解してのことなのか、余にはわかりかねるが、一つのまとまつたものとしての神代史が民間傳承でも巫祝の手になつたものでもないことは、上に説いた其の性質から見ても明白であると、余は考へる。また一々の説話についていふと、插話として取られてゐるのみで神代史の根幹をなすものでない呪術宗教的なものには、巫祝の作つたものがあるかも知れず、例へば上に述べたオホゲツヒメの話の如きは、さういふものが材料となつたと考へられなくはないやうであるが、それとてもオホゲツヒメといふやうな人に擬せられた神の名は知識社會の所産であるから、それは民間の巫祝から出たものとは考へられぬ。上にもしば/\言及した如く、神代史に現はれてゐる宗教思想は民間信仰に基礎はあるけれども民間信仰そのまゝではなく、朝廷を中心とする貴族社會知識社會の思想によつて潤色せられたものであることを知らねばならぬ。(これは祝詞に於いても同樣である。)また神代史上の人物を所々の神社の祭神に結びつけ、或は新しく祭神の名を作つてそれを神代史上の人物に結びつけたことなども、主としてそれ/\の神社の巫祝のしわざであつたらうと思はれるが、これは神代史の既に作られた後のことであり、たゞそれが後の潤色の場合に神代史に取入れられたのみである。また物語そのものについていふと、世間で呪術宗教的意義に解釋せられ從つてまた巫祝の間から出たもののやうに説かれてゐる物語が、本來さういふ意義に解釋すべからざるものである場合が多い。例へば書紀の本文のホノニニギの命の天降りの時の話に眞床追衾で命を覆ふといふことがあるので、それに呪術宗教的意義がある如く解する説もあるが、これは「一書」のウガヤフキアヘズの命(448)の話にもあることであつて、嬰兒の取扱ひかたをいつたまでのものである。嬰兒についていつたのではないけれども、同じ「一書」に海神の宮に於けるホホデミの命について「寛坐於眞床覆衾之上」とあることをも考へるがよい。なほ民間説話の類が必Lも巫祝をまつて世に現はれまた傳へられたもののみでないことは、民間説話そのものの性質から明かであらう。コノハナサクヤ姫の説話の如きは何等宗教的意義を含まないものであり、スサノヲの命の八またをろちの物語の如きは、上にも述べたごとく、明白に反宗教的な精神の現はれではないか。神代史の重要なる構成要素となつてゐる呪術宗教的意義のある物語、例へば天の岩戸の話、または日向の橘の小門の禊の話などの述作には、朝廷の巫祝を管理する中臣氏などが關與したでもあらうが、本釆、巫祝の行ふ儀禮を材料としてそれによつて作られたものであるから、作者は必しも巫祝たるを要せず、たゞさういふ儀禮を見知つてゐるものであればよいのである。さうしてそれには、神代史の述作せられた時代に、朝廷に於いて斯かる説話を作るほどな知識を有するものが何人であつたかを、考慮する必要があらう。所謂出雲に關する物語に宗教的色彩の付與せられたことも出雲國造に由縁のあるものが潤色したからであり、從つてそれには巫祝としての國造もしくは其の配下の巫祝が關與したでもあらうが、其の潤色の主旨は、大和の朝廷に對する國造の地位を高めるところにあつたと見なければなるまいから、宗教的によりは寧ろ政治的に意味があるのである。一般の?態から見ても、現存の上代文學には朝廷の儀禮に用ゐられた祝詞の外には宗教文學と名づけられるやうなものが殆ど無いといふこと、巫祝が政治上にも社會上にもさしたる地位を占めてゐなかつたこと、巫祝などのはたらけないほどに政治的社會的統制ができてゐたことを考へるがよい。巫祝の民間に存在したことは事實であり、個人の生活に於いてはそれが重要なるはたらきをしたでもあらう。また朝廷にも呪術的宗(449)教的儀禮が重んぜられてゐたので、崇神天皇や神功皇后の説話などにも其の反映はあり、中臣氏や忌部氏がそれに關する任務を有つてもゐた。しかし、實際の政治が巫祝によつて動かされてゐた形迹は少しも見えぬ。中臣氏が鎌足の時から政治上に重要なる地位を占めるやうになつたのも、此の家が宗教的任務を有つてゐた故とは考へがたく、まして此の家が古くから政治の上に權勢をふるつてゐたらしい樣子は無い。よし假に我々の知識の及ばない遠い昔には巫祝がもつと勢力を有つてゐたと想像するにせよ、それが斯ういふ風に發達して來たことに大なる意味があるので、それは即ち我々の民族の上代文化の特質とそれが進んで來た趨向とを示すものであり、さうして神代史はさういふ發達を經た後の作である。またよし假に文學の遠き由來の一つが巫祝の手になつた宗教的のものにあつたと想像するにせよ、さういふものが世に傳へられず、さうして記紀や萬葉の歌が作られるやうになつて來たことによつて、我が國の文學の發達の方向が知られるのではなからうか。
 出雲に關する説話についてはなほ一言を要する。世には、スサノヲの命及び其の子孫として古事記の系譜に記されてゐる神々を出雲人の間に崇拜せられた神であり、それに關する説話を出雲人の傳承であるとし、さうして、それが神代史にあのやうな形で編み込まれたのは、出雲人が大和朝廷の治下に入つたためであつて、出雲の神が被征服者として取扱はれたのであるとし、神代史には大和の説話と出雲の説話とが結合せられてゐるとするやうな、解釋が行はれてゐるらしい。古事記に見えるスサノヲの命の子孫の系譜が、オホナムチの命の外は、後から添加せられたものであり、また其の神々及びそれについての説話が出雲特有のもの、もしくは出雲人の間に行はれてゐたものでないといふことは、第三篇に詳しく説いて置いたことであり、上文にも言及するところがあつた。オホナムチの命を御諸山の(450)神や木の國のオホヤヒコの神に關係させ、アヂシキタカヒコネの命を鴨の神として説いてあるのも、出雲人の物語としては解し難いことではないか。それは大和の説話との結合の結果であるといふかも知れないが、もしさうならば、どれだけが出雲固有の物語といふのであるか。いひかへると大和と關係の無い物語がどれだけあるといふのか。物語の上で直接間接に大和の朝廷と交渉のあるものを除いたならば何も殘るものが無いのではないか。スサノヲの命の話もオホナムチの命のも、出雲の政治的勢力が大和の朝廷に服屬したことを説話として語つたものではあるが、神代史には、出雲人に崇信せられてゐた特殊の神も、出雲に行はれてゐた特殊の説話も無く、從つて大和系統の神や説話と出雲系統のそれらと結合といふことも無い。杵築の神社は出雲人の崇拜してゐたところであらうが、其の祭神のオホクニヌシの神は、オホナムチの命に結合せられて初めて神代史に現はれるやうになつたものであり、ウツシクニダマの名が與へられたのも大化改新の後であらうと思はれるから、神代史の初めて作られたよりも後のことである。さうして、説話上の人物たるスサノヲの命もオホナムチの命も、本來、神ではなく、其の説話は其の名と共に神代史の作者によつて作られたものである。例へば古代のギリシヤに於けるが如く、民族の移轉や混合につれて或る民族に特有な神や説話が他の民族のそれらと結合せられることはあるので、上記の如き考もそれに示唆せられて生じたのではないかと臆測せられるが、大和と出雲とは民族を異にするものではなく、また民衆の移轉や混合があつたのでもないから、ギリシヤの例でそれを見るのは、根本的に誤である。出雲の政治的勢力が大和朝廷に服屬したことはあつたであらうが、それは民族の爭ではなく、また民衆のことでもない。たゞ朝廷が朝廷に反抗した出雲の政治的君主を服從させたのみである。
(451) 以上述べたやうなことに限らず、世間では神代史が民間に伝承せられたもののやうに何となく考へられてもゐるらしいので、そこから種々の臆見が現はれて來る。神代史に氏族の祖先のことが説いてあるために、氏族の傳承による古い物語が神代史の材料となつてゐるやうに推測することも、其の一つであり、更に進んでは、さういふ性質の物語が多く世に存在したらしく考へられてもゐるのではないかと思はれるが、それはまた上代の社會組織が氏族關係を骨子として成立つてゐて、氏上といふものが其の一々の氏族を統率してゐた、とする誤つた見解によつても、助けられてゐるやうである。神代史に見える氏族は、朝廷の重要なる職務を掌つてゐる少數貴族の家の祖先に限られてゐるので、それに關する物語も其の職掌の反映に過ぎず、從つてそれは朝廷に於ける彼等の地位から離れては考へられぬことであり、またそれは神代史の全體の結構と有機的の關係を有し、且つ諸家の祖先の話が同じ態度、同じ方法、で語られてゐるのであるから、それは決して諸家に傳へられた別々の説話を纂集したといふやうなものではなく、またかういふ物語によつて、氏族の傳承による物語が民間にあつたことを推測すべきではない。これらの説話の作られた時代の社會組織が氏族關係によつて成立つてゐたものでなく、一般の風習として遠い昔から氏上といふやうなものの存在した形迹も無い、といふことは「日本上代史の研究」の第一篇と第三篇とに詳説して置いた。或はまた、神代史にシナ思想の含まれてゐる説話のあるところから、それを民衆の間にシナ人から傳へられたものであるやうに見ようとする考もあるかと思はれるが、これもまたシナの思想が、多くは文字の上の知識として、朝廷及びそれを中心とする貴族の間に傳へられたものであること、一般的に考へても、シナの文化を取入れそれを學び得たものは貴族階級治者階級であつて、それが即ち當時の知識階級であつたこと、神代史がさういふ社會で述作せられたものであること、を理(452)解すれば、おのづから消滅すべきものである。書紀に秦氏や漢氏の祖先が多數の民衆を率ゐて歸化したやうに書いてあるので、そこから上記の如き考が生じたかも知れぬが、書紀の此の記載が事實でないことは、余の?説いたところである。それほど多數の移住者があつたならば、シナ人の風俗や習慣が民間に傳へられたであらうに、さういふ形迹の認められないことによつても、それは明かであらう。もつとも民衆と民衆との接觸は直接には無かつたけれども、其の間に於ける説話の傳播が間接に行はれ得たといふことは、抽象的理論としては否定すべきでない。けれども、事實、神代史の物語にはさういふ徑路によつて傳へられたと認めらるべきものは無く、神代史に存在するシナ的分子は、説話そのものに於いてではなく、説話の装飾として附加せられたもの、もしくはそれを記してある記紀の行文の上に見える思想、然らざれば説話の形をなさぬものであり、またそれは概ね後の潤色に屬する部分である。だから、それは朝廷に於ける神代史の述作者潤色者が文字の上から得た知識であるとしなければならぬ。
 或はまた神代の物語、並にそれを含んでゐる舊辭の全體を敍事詩の類と見なし、民衆の間に傳誦せられたものとする考へかたもあるが、これについてもまた余は?其の然らざる所以を説いた。外形に於いて吟誦すべき何等の律格を具へてゐない散文であるのみならず、其の敍事の性質からいつても詩人の作ではない。廣く舊辭の全體についていふと、物語であるからそこに幾らかの空想の力がはたらいてゐることは明かであるが、其の敍述は多く概念的である。戰爭の物語の如きは、詩人の作ならば、戰爭そのことの光景が具體的に描き出さるべきであるのに、それがどこにも見出せない。或はまた一般の例として、敍事詩の主題は戰闘であり、それには神の力と女性との關與することが多いのであるが、これは上代に於いて多數人の精神を興奮させるものが戰闘であり、さうして戰闘に當つては神の力に依(453)頼し或は神の力がそれに加はると考へられるのが常であり、また戰闘の原因が女性にあり、或は女性の關與することによつて戰闘が勢を得て來るといふ實際?態に其の理由がある。ところが、かういふ敍事詩に於いて神の力のはたらく場合には、それが神々の行動となつて現はれ、又は神もしくは英雄と惡神たる所謂荒ぶる神との闘爭の場面などが展開せらるべきである。敍事詩は行動を敍するものだからである。然るに、例へば神功皇后の新羅征服の物語に於いてもヤマトタケルの命の荒ぶる神を平定した話に於いても、毫もさういふ形迹が無いではないか。神功皇后は神の助を得られたといふのみであつて、我が國の神が新羅の軍を助けた其の國の神と戰つてそれに打勝つたといふやうなことは想像せられてゐないし、ヤマトタケルの命の燒津の話に於いて「ちはやぶる神」の名が現はれても、それは國造の詐言となつてゐる。上代の信仰の實際に於いては、宗教上の神は殆ど人の形を具へてゐないので、其の點からいふと、これは當然のことのやうであるが、物語に現はれる神がかういふ?態であるのは、物語そのものが詩人の作でないからでもある。神代の話に於いても岩戸がくれの物語の如きは、詩人の手になつたものであるならば、光明と闇黒との爭もしくは光明による闇黒の克服がもつと生彩のある敍述となつてゐたであらうに、たゞ日の神が現はれたために世が明るくなつたといふのみであるのを見るがよい。これもまた日の神が光明の神に發達してゐなかつたからであるが、さう發達しなかつたのは、一つは神代の物語が敍事詩でないからでもある。女性の問題についていふと、一體に舊辭に於いては政治的經略の説話と戀愛譚とが別々に存在してゐるので、稀にヤマトタケルの命の東國經略の話にミヤズ姫の物語が結合せられてゐるやうな例があつても兩者の間に内的關係はつけられず、姫は經略そのことに何の交渉も無いことになつてゐる。走水に至つて忽然として現はれたタチバナ姫の物語は、後から新に作り添へられたも(454)のか、又は他の物語とは無關係な別の主題の説話があつてそれが結びつけられたものか、何れかであるらしく、それは、命の出發の際にも伊勢に於いても妃として姫の伴はれたやうな樣子が少しも見えず、特にミヤズ姫の物語は此の姫の伴はれたこととは調和し難いものであることから、知られるのであるが、其の作り添へかた結びつけかたが甚だ機械的である。もし詩人がそれを取扱つたならば、燒津でのヤマトタケルの命の活動に姫を參加させ、またそこで「ちはやぶる神」を實際にはたらかせると共に、走水の渡りの神とそれとの間に關係をつけたであらうに、それがしてない。(のみならず、このことは、此の命の物語が傳説として存在し、傳説として發展したものでないことを示すものである。傳説として發展したものならば、新しい説話が加はり別の説話が結びつけられても、それはもとの説話、主なる説話の中に放りこまれたはずだからである。)また敍事詩の英雄は民衆的もしくは民族的感情の發現であり其の具體化であるべきものであるが、ヤマトタケルの命は單に朝廷から派遣せられた將軍であつて、民族的または民衆的英雄の面影は毫もそこに見られないではないか。神代史のスサノヲの命とても此の點に於いて同樣であることは第三篇にも説いて置いた。(上に述べた民間説話の英雄は個人として行動するもの、一般の人間的感情の象徴である。それに反して、敍事詩に於ける英雄は集團的精神の顯規である。)
 要するに、全體としての神代史と、其の構成要素となつてゐる、或はそれに包合せられてゐる、種々の説話との意義を知るためには、神代史が朝廷によつて作られたものであり、一つのまとまつた結構を有し一貫した精神を有するものであること、またそれが最初の述作から記紀によつて今日に傳へられてゐる幾つかの異本の書かれるまでには種々の變改を經てゐることを理解し、さうして種々の説話が其の精神、其の結構と如何なる關係を有し、また其の變改(455)の徑路に於いて如何なる地位を占めるものであるかを考へることが、大切である。其の説話のうちには、古くから傳へられてゐるものも民間から出てゐるものもあらうが、それが神代史に編み込まれるためには、もとの説話が幾らかなりとも變形せられてゐることを考へねばならず、さうしてそれを考へるには、やはり神代史の全體の精神と結構とを明かにするを要する。だから、或る一つの説話を神代史から切り離し獨立のものとして其の意義を考へるのは危險であり、其の危險なことは、種々の説話が如何なる意味で神代史に存在するかを討究せず、また神代史の作られてから後の變改の徑路を尋ねず、たゞ同じく記紀に記載せられてゐるといふことによつて無關係な幾つもの説話に關係をつけて考へるのと、同じである。或はまた一つの説話を解釋するにも、其の説話の素材となつてゐる上代人の思想もしくは宗教的呪術的儀禮などと、説話とするための構想とを、區別して考へる必要があり、一つの説話の變化を考へるにも、説話そのものの内的發展であるか外的理由による、例へば他の説話と結びつけるための必要から生じたといふやうな、變改であるかを區別して見なければならぬ。また一つの説話が種々の主題の物語を結びつけることによつて成立つてゐる場合に、或る物語がそれとは別の思想によつて色づけられ別の意味に變へられてゐることがあるから、さういふ場合には、一つの説話をそれ/\の要素に分解し還元して其の一々の意義を檢討すると共に、それらの諸要素が何ごとを契機として一つの説話に結合せられたか、また結合せられたために如何に變改せられたかを考へねばならぬ。またなし得るならば、其の結合が一定の意圖の下に一時になされたのか長い年月の間におのづからさうなつたのかを研究してみる必要もあらう。ところが、かういふことが一般には深く考へられてゐないやうであつて、そこから種々の誤解が生じてゐる。宗教的意義での神と物語の人物たる命との區別が、從來殆ど注意せられず、物語の人物(456)を宗教的意義での神として見ようとする傾があつたのも、一つはこゝに理由があるのであらう。
 かう考へて來ると、神と命との區別が後世の學者によつて注意せられなかつたことの根本は、記紀の神代史を誠實に檢討しなかつたからであることがわかるが、それはまた種々の先入見を以て神代史を解釋しようとするからでもあり、其の先入見には、神代史上の人物の名が所々の神社の祭神の名とせられ、また家によつては、例へば中臣氏忌部氏などの如く、其の祖先とせられてゐる人物を神として祭る風習が生じた後世の?態から、知らず識らず養はれたものがあると共に、近ごろに於いては、神代史のすべてを所謂神話として見ようとするところから來てゐるものもある。さうして此の最後の一事は、何ごとについても、ヨウロッパ人によつて形成せられた或る學説もしくは假説を準據とし、それにあてはめて概念的に事物を取扱はうとする傾のある、日本の學界の通弊の現はれでもある。神代史の一々の物語には所謂神話として取扱はるべきものも無いではないから、多くの民族の神話に關する知識と神話學の種々の學説とが參考せらるべきものであることはいふまでもなく、それによつて解釋し得られることがらもあるが、それと共に全體としての神代史は我が國に特異のものであることを考へねばならぬ。ヨウロッパ人のわが神代史をいふものは此の根本義を解することができず、神代の物語を彼等の所謂神話として取扱はうとするのであるが、我が國の學者もそれに追從する傾のあるのは遺憾である。自然科學の問題とは違つて、文化に關することは此の點に細心の注意を要するのであり、神代史についても、所謂神話の概念を先づ有つてゐて、それにあてはめて神代史を考ふべきではなく、先づ神代史を虚心平氣で文字のまゝに讀みとつて、其の意義と成立ちとを理解し、さて後にそれが所謂神話として取扱ふべきものであるか、又はさういふものを含んでゐるか、ゐるならば如何なる點に於いてまた如何な(457)る部分がさう取扱はるべきであるかを檢討すべきである。世にもし神代の話だから神話であるといふやうな單純な考で神代史を取扱はうとするものがあるならば、それは、同じく「神」といふ文字が用ゐられてゐるために、日本の上代に形成せられた神代といふ概念とヨウロッパ語の譯語としての神話とを無批判に結びつけるものであつて、其の誤れることはいふまでもなからう。また神話として取扱ひ得べきものについてそれを他の民族の神話と比較するやうな場合にも、一民族の神話は其の民族の全體の生活に根據を有し、其の民族の特殊なる歴史的發展の過程に於いて形成せられたものであつて、そこに其の民族の神話の特異性が存在すべきはずであることを知らねばならぬ。神話を考へるに當つて、それを作つた民族の生活と其の歴史とから離して取扱ふべきではない。敍事詩が生ぜず從つて英雄時代といふやうな觀念も形づくられず、また祖先崇丼の宗教的儀禮も發達しなかつた我が國の上代の物語、其の物語に現はれてゐる神の性質を考へるに當つて、さういふ時代があつたとせられ、又はさういふ儀禮の行はれてゐた民族のそれと、漫然對照することの誤であることは、明かであらう。人類に共通な生活のあらはれとして考ふべきもの、又は農業とか漁獵とか牧畜とかいふやうな生活?態から生じたために其の生活?態を同じくする多くの民族に共通なものもあらう。またもし人類の文化の發達に共通の順序と段階とがあるといふやうなことが、いくらかの程度に於いて許されるとするならば、其の或る段階に於ける共通の生活のあらはれとして見るべきものも無いではなからう。(但しこれについても、現存の未開民族を原始人もしくはそれに近いものと見なし、文化民族が遠い過去に一たび經過したことのある或る段階にあるものとして、考へることは、甚だ危險である。現存の種々の未開民族とても、長い年月の間に、またそれ/\の特異な經歴と環境とによつて、それ/\の變化を經て來たに違ひないから、よし其の變化が概(458)していふと所謂文化民族とは異なつた方向なり徑路なりをとつたものであるにしても、現在の彼等の生活は遠い過去の?態そのまゝのものではないと考へるのが妥當である。それ/\に特異相を有する現在の種々の未開民族の生活?態の差異を文化の發達の諸段階を示すものとして見るが如きは、一層大なる誤であらう。)なほ所謂傳播によつて他の民族から受入れられ、從つて其の民族と共通なものがあるべきことも考へ得られよう。が、すべてが上記の如きものではなく、またさういふものにしても民族によつて特殊の色合ひがあり、又は生ずることを考へねばならず、それと共に、同じやうな説話が異なつた生活、異なつた心理から異なつた徑路によつて形成せられる場合があり得べきことをも注意しなくてはならぬ。
 或はまた日本の民俗や民間傳承などを根據とする神代の物語の考説も世に多く現はれてゐるが、さういふ考へかたをする場合に、もし其の民俗や民間傳承の解釋が學問的方法によらない思ひつきであり、獨斷的のものであつたならば、そこから種々の無理が生ずるはずである。また民俗に立脚するといひながら實はそれを抽象的に取扱ひ、民俗の地方性や時代性を度外視し、或は其の歴史的變化もしくは發展を輕視乃至無視するやうなことがあるならば、そこからもまた幾多の誤謬が生じて來よう。民俗、特に山間僻地や海島のそれ、を上代の民俗がそのまゝに遺存したものとするやうな假定は、決して無條件に許され得べきものではない。のみならず、民俗や民間傳承として考へ得べきものが果して神代史に存在するか、存在するならばそれがどれだけであるか、またそれが神代史の全體に於いて如何なる地位を占めてゐるかを、豫め檢討し辨別せず、漠然すべてをさう見ようとし、さうしてそこから、後世の民俗や民間傳承を根據として神代史を解釋しようとする態度が生じたのならば、それは余から見れば、神代史を研究する正しい(459)方法をとつたものではない。宗教的信仰の一面について考へてみても?説いた如く、神代史は治者階級知識階級の手になつた政治的意義のものであるから、それに取入れてある神も信仰も、或は政治的統制の下に置かれ、或は知識人の思想を以て變形させられてゐるので、それは決して民間信仰に於ける神そのまゝの姿でもなく、民間信仰が如實に現はれてゐるのでもない。民間信仰は民族生活そのものに内在するものであつて、政治的權力とは本質的の關係のあるものではないから、村落的集團として行はれる呪術や祭祀にこそそれが純眞の形に於いて現はるれ、國家的儀禮や政權の象徴としての神は民間信仰そのまゝの婆を示すものではない。また神代史がシナの文字で書かれてゐるといふことは、それに記されてゐる宗教觀念が民間信仰とはむしろ對立的地位にあることを示すものである。シナの文字をあれだけに用ゐることができるやうになつた知識人の思想は、決して民衆の思想と同一でないのみならず、單にさういふ文字によつて記されてゐるといふことだけでも、それが民衆の思想其のまゝのものでないことを推測するに十分な根據となるものだからである。民間信仰とても時と共に幾らかづつ變化してゆくので、それには神代史の影響もあるが、それのみで變化するものでないことは勿論である。後世の神道者や國學者は、神代史を宗教上の經典視すると共に、それに現はれてゐる宗教觀念を民衆のものと誤信したのであるが、今日でもなほそれに追從する考へかたがあるやうに見えるのは、奇怪といふべきである。
 要するに、神代史を研究するには神代史そのものを基礎として考へねばならぬ。さうして神代史が文獻として傳へられてゐるものである以上、それを解釋するには何よりも先に文獻の綿密なる研究をしなければならぬ。さうしてそれと共に神代史を單に神代史として見ることなく、それを神代史の作られた時代の生活と文化と其の歴史的發展とに(460)關係させて考へねばならぬ。此の過程をふまずして恣に與へられた神代史の解釋はすべてが空中の樓閣であらう。
 
(461)     第七篇 古語拾遺の研究
 
 古語拾遺は短篇であり、其の述作者も述作の動機も明かであつて、さして問題とすべきことが此の書には無いやうに見えるが、記載の内容については、考へらるべくして未だ考へられずに遺されてゐることがあるのではないかと思ふ。書紀の記載に本づき、文章さへも書紀のを其のまゝ採つたところが少なくないにかゝはらず、それに見えない話、それと違つた物語も多く、古事記とも一致してゐないところの多いのは何故であるか、それだけでも明かにして置く必要はあらう。また疑問の極めて多い我が上代史の研究が此の書から何か寄與せられることは無いであらうか、それも一應考へて見なければなるまい。
 古語拾遺は忌部氏の愁訴?ともいふべきものであるが、自家の地位を説明するために其の歴史的由來を述べたところに、記紀によつて傳へられた幾多の物語と接觸する點があり、古語拾遺といふ題號の意味もそこにある。余の解するが如く、記紀の神代史や上代の歴史に擬せられてゐる種々の説話やが、皇室の地位と其の權威との由來を物語の形に於いて説かうとしたものであるならば、また記紀、特に書紀、に多く見える緒家の祖先の物語が概ね諸家の家譜から出たものであり、さうして其の家譜は何れも家々の地位や職掌やの起源を述べたもの、從つてそれは其の家を尊貴にしようとする意圖から出たもの、少くともさういふ意圖が伴つてゐたもの、であるとするならば、記紀の物語その(462)ものに於いて、既に此の書の記載と同一の精神が存在してゐるのであり、忌部氏の此の述作は、一面の意味に於いては、記紀の物語の製作の態度を繼承し、或はそれを延長したものである、といつてよい。記紀の物語に於いて異説が併存してゐること、或は書紀の注に「一書」として記されてゐるものの多いことによつても知られる如く、帝紀舊辭に種々の異本の生じた一つの理由が、やはり上記の意味に於ける家々の主張の異なるところにあつたとするならば、このことは一層確かめられるであらう。此の書のみならず、本朝月令や政事要略やによつて斷片の傳へられてゐる高橋氏文の如きものも、之と同一主旨から作られたものであり、續紀などに散見してゐる、諸家が其の祖先のことを述べた上言、また所謂本系帳や姓氏録やに記載せられてゐる祖先の系譜や物語も、また同じ性質のものである。舊事本紀に見えてゐる物部氏尾張氏の系譜も、多分、之と同じやうなものから採られたのであらう。たゞ、古語拾遺は中臣氏に對する抗爭的精神が其の主調をなしてゐるところに、特異の點があるのみである(高橋氏文にも阿曇氏に對しての同じ態度がある)。さて、かういつて來ると、此の書に見える種々の物語が如何にして作られたか、また同じ主題の説話が記紀の所傳と如何に、また何故に、ちがつてゐるかを考へることは、此の書に限らず、一般的に上代の物語作者の心理を知る有力な資料となるものであることがわかるであらう。余は先づ此の方面から考察の歩を進めることにする。
 が、其の前に、歴史的事實として、忌部氏が如何なる地位と職掌とを有つてゐたかを知つて置く必要がある。之については、忌部を氏とする家が如何にして成立したかといふことが第一の問題であるが、それは、便宜上、後に至つて考へることとして、こゝでは且らく、忌部氏が大化改新の前から中臣氏と共に朝廷の祭祀を掌る家筋であつたといふ、(463)疑の無い事實から出發しようと思ふ。大化改新の前に於いては、忌部氏に屬するものの名は殆ど史上に現はれてゐないが、其の祖先とせられてゐるフトダマの命が、中臣氏の祖先であるといふアメノコヤネの命と共に、神代史に於いて重要なる地位を占めてゐるのであるから、遲くとも神代の物語の作られた時には、既に其の家が成立つてゐたに違ひない。書紀に於いて歴史的事件の記録と認むべきものがそろ/\現はれ初めた欽明朝敏達朝ごろから後の部分に、中臣氏の名が?見えながら、忌部氏が出てゐないのは、前者が政治的に有力な地位を有つてゐて其の方面に活動したに反し、後者にそれが無かつたためであらう。しかし、其のころの忌部氏の地位と職掌とは、大化改新後の史上の記載と法制上の規定とから、推測することができる。大化の新制は、いふまでもなく、從來の氏族政治主義を一變してシナ式の官僚政治主義に改めたものであり、それを制度として大成したのが令の規定であるが、さういふ新令に於いて、なほ中臣氏や忌部氏が朝廷の祭祀に關して特殊の地位と職掌とを有するやうになつてゐ、またそれが實際に行はれてゐたことであるとすれば、それは新しく規定せられたことではなくして、氏族政治時代の因襲に從つたものと解しなければならぬからである。そこで、神祇令を見ると、「凡踐祚之日、中臣奏天神之壽詞、忌部上神璽之鏡劍、」とあり、「祈年月次祭者、百官集神祇官、中臣宣祝詞、忌部班幣帛、」とある。祝詞式によつて傳はつてゐる祈年祭及び月次祭の祝詞に「忌部弱眉太多須支取掛?持由麻波利仕奉【禮留】幣帛乎……」とあるのは、此の後の方の規定に應ずるものである。これでみると、忌部氏の任務は、踐祚の日に神璽の鏡劍を上ることと、祈年祭月次祭に、中臣氏が祝詞を奏するのに對して、幣帛を供することと、であつた。ところが、職員令に於いては、神祇官にも其の他のどこにも、中臣氏や忌部氏に何等特殊の地位を與へてゐず、それらの名すらも記してなく、さうして、それは官職の世襲を(464)認めないはずの新制に於いては當然のことであるから、これは官制上の任務ではなくして、二氏に關する舊慣を事實の上で容認し、それを一種の便宜法として存續したものと、見なければならぬのである。舊慣は一朝にして盡く廢除し得られるものではないから、何等かの形で幾らかの程度にそれが保存せられるのは、變革の行はれる場合には普通の?態であるが、宗教的儀禮の如きは特に此の保守性が強いものであるから、それが斯ういふ形に於いて認められたのである。また、それは單なる儀禮にとゞまつて、實際政治の上にはさしたる關係が無いから、保存せられても大なる妨にはならないことが、新制の制定者をしてかゝる態度をとらしめた一理由であつたかも知れぬ。さうして、中臣、忌部、の二氏はこれから後、神祇官の要職を占めた場合もあるが、勿論、他の官職にも補任せられ、それと共に神祇官の官人には二氏ならぬものも採用せられたので、上記の二氏の職掌が官制上の地位と無關係であつたことは、事實上、明かである。神祇令に「凡六月十二月晦日大祓者、中臣上御祓麻、東西文部上祓刀、讀祓詞、」とあつて、大化以前の習慣に從つて東西文部に特殊の任務を與へてあるのも、同じ意味であることを參考するがよい。「儀式」や延喜の神祇式に記されてゐる大甞會の場合の石上、榎井、大伴、佐伯、高橋、阿曇、の諸氏、又は神祇式に見える太神宮の神衣祭に於ける服部、麻續、二氏の職掌なども、同樣に見なされるので、其の細目については幾らかの變化があつたにしても、大體に於いては、何れも氏族制度時代からの舊慣が存續せられたものに違ひない。史上の記載を見ても、大甞會の場合に於ける石上、榎井、二氏のことは續紀に?現はれてゐるし、また高橋、阿曇、二氏は、高橋氏文によつても知られる如く、神今食などの場合に關興し、それがために二氏の間に爭が起つたほどであるから、それは奈良朝からの慣例であることが知られるが、家によつて世襲的に或る任務が與へられたのは、官僚政治主義の下に新し(465)く定められたことではないとしなければならぬ。中臣、忌部、の二氏に關する上記の推測は、これらの例からも肯定せられねばなるまい。なほ忌部氏については、祝詞式に「凡祭祀祝詞者、御殿御門等祭、齋部氏祝詞、以外諸祭、中臣氏祝詞、」とあるから、一般には祭祀に於いて祝詞を奏するのは中臣氏であるのに、大殿祭と御門祭とに於いては、それが忌部氏の任務とせられてゐたことが知られる。これは上計の令の規定と相補ふものであり、さうして大殿祭祝詞は宮殿建築にまだシナ傳來の新技法が用ゐられなかつた時代、少くともそれを距ること遠からず、儀禮の上に於いては、地を掘つて柱を立て桁や梁を繩で結びつける建築法が傳統的に尊尚せられた時代、の作であることが、其の内容から知られると共に、宮殿を建築する場合に忌部氏が神を祭り呪術を行つたこともそこに明記せられてゐるのであるから、これもまた大化改新前の習慣が持續せられてゐるものと見なければならぬ。多分、今は傳はつてゐない古い「式」などにそれが規定せられてゐ、延喜式にも其の文字が其のまゝ襲用せられてゐるのであらう。(大殿祭及び御門祭の祝詞には、「古語云」として漢字をあててある國語を注記し、往々意義の解釋をも施してあるが、これは他の祝詞には例の無いことであり、さうして其の注記の方式が古語拾遺のと同一であるのを見ると、これは忌部氏の手になつたものであり、忌部氏に傳へられてゐたものであることが知られる。拾遺の神武天皇の條の「殿祭祝詞」とあるところに「其祝詞文在於別卷」と注記し、「次祭宮門」に「其祝詞亦在於別卷」といつてあるのが、即ちこれであらう。祝詞の一般の例としては忌部と書いてあるのに大殿祭のに限つて齋部の文字が用ゐてあるのも、此の祝詞が忌の代りに齋を用ゐるやうになつた後の此の家から出たものであることを示すものである。御門祭のには此の名が見えないが、もしあつたならばやはり斯う書きかへられたのであらう。)
(466) 以上は法制上の規定であるが、それは實際にも行はれてゐた。踐祚の場合のは、持統紀四年二月の條に「神祇伯中臣大島朝臣讀天神壽詞、畢、忌部宿禰色夫知奉上神璽劍鏡於皇后、」と見えてゐる。續紀の踐祚もしくは大甞會の記事は簡單であつて、かういふことまで書いてはないが、ずつと後の「儀式」の踐祚大甞會の辰の日の儀に「中臣……奏天神之壽詞、忌部奉神璽之鏡劍、」と記してあるのは、平安朝になつてからも、それが實行せられてゐたこと、從つてそれが奈良朝時代の習慣であつたこと、を示すものである。祈年祭月次祭の場合のは、神祇官の内部の年中行事に過ぎないから、史上にはさういふ記事が見えないが、それが實行せられたものであることは、疑が無い。祝詞式に見える神宮の神嘗祭の祝詞にも、幣帛は忌部の弱肩にかけるとあるが、これも神祇官に於ける忌部の職掌が神宮に及ぼされたものであらう。續紀の所々に中臣忌部二氏のものが幣帛使として伊勢に差遣せられた記事があるが、これにも、本來は、祝詞をよむものと幣帛を捧げるものとの職務分掌の意味が含まれてゐたのであらう。(上記の祝詞には幣帛使は中臣であつて忌部は其の隨伴者として幣帛を捧げもつものとなつてゐる。これは、多分、いつのころからか中臣氏のみが幣帛使に任ぜられることになり、其の後になつて改作せられたものであらう。然らざれば續紀の記事と矛盾する。)ところで、かう考へて來ると、記紀の神代史に見える大神の岩戸がくれの物語に於いて、アメノコヤネの命が太祝詞を奏し、フトダマの命が太御幣を取持つ、といふことのあるのは、歴史的事實たる此の二氏の職掌によつて其の祚先の話を作つたものであることが知られる。書紀の本文には此の分掌が明かに書いてないが、古事記にも書紀の注に見える二つの「一書」にも、ほゞ同じやうに此のことが見えてゐるから、それが物語の原形であつたに違ひない。踐祚の場合の二氏の職掌や大殿祭の時の忌部氏の任務は、記紀に於いては神代史上の二氏の祖先の物語に其の反(467)映が存在しないのであるが、これは神代史に於いてさういふしごとをさせる場面が無いからである。さて、以上述べたところによると、忌部氏の職掌は幣帛を取扱ふことと、神璽の鏡劍を捧持することと、宮殿の祭祀に關與することとの、三つであつたことが知られる。
 上記の事實を頭に置いて、古語拾遺の記載を考へてみると、第一に氣がつくのは、忌部氏の祖先神が、幣帛に要するすべての材料の製作と製作者とを管理したやうに語られてゐることであつて、大神の岩戸がくれの段に「思兼神深思遠慮、議曰、宜令太玉神率諸部神造和幣、仍令石凝姥神取天香山銅以鑄日像之鏡、令長白羽神種麻以爲青和幣、令天日鷲神津咋見神穀木種殖之以作白和幣、令天羽槌雄神織文布、令天棚機姫神織神衣、所謂和衣、令櫛明玉神作八坂瓊五百箇御統玉、令手置帆負彦狹知二神……作御笠及矛盾、令天目一箇神作雜刀斧及鐵鐸、其物既備、掘天香山之五百箇眞賢木、而上枝懸玉、中枝懸鏡、下枝懸青和幣白和幣、令太王命捧持稱讃、」とあり、神武天皇の大和奠都の段に「令天富命率齋部諸氏、作種々神寶鏡玉矛盾木綿麻等、櫛明玉命之孫造御祈玉、其裔今在出雲國、毎年與調物貢進其玉、天日鷲命之孫造木綿及麻并織布、仍令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波國、殖穀種、其裔今を彼國、當大甞之年、貢木綿布及種々物、所以郡名爲麻殖之縁也、」とあるのがそれである。
 さて、記紀の岩戸がくれの物語では、フトダマの命は眞さか木に玉や鏡やにぎてを取つけたものを「みてぐら」として捧持したといふのであり、鏡や玉を作つたイシコリドメ(或はアメノヌカド)、タマノオヤ(或はトヨタマ、又はアメノアカルダマ)などは、フトダマの命の配下でも其の命を受けたものでもなく、それと同列の神となつてゐる。たゞ書紀の注の第三の「一書」には「粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿」とあり、第二の「一書」の「太玉者作幣」とあ(468)る「幣」も所謂青和幣白和幣のことであらうと思はれるから、にぎてのみはフトダマの命もしくは其の配下と見なされるヒワシの命が作つたことにしてある話もあるが、玉や鏡やの製作は、どの話に於いても、全くフトダマの命には關係が無いことになつてゐる。ところが、古語拾遺に斯う語られてゐるのは、忌部氏が幣帛を奉る職掌を有つてゐるところから、それに關するすべてのことをフトダマの命が管理したものとして説いたのであつて、忌部氏が其の家の地位を高めようとして古くからの話を改作したものと見なさねばならぬ。此の改作がかなりの後世に行はれたものであることは、青和幣の麻と白和幣の木綿との種作をナガシラハの神とアメノヒワシの神とに分掌させたことによつても知られる。青和幣と白和幣とは、よし麻と木綿とをさすものであるにしても、斯う連稱してあるのは、主として事物を重ねていふところに興味を置いたことばのあやであつて、物語としては、たゞ「にぎて」といふ一つのものとして取扱はれたのであり、別々のものとして考へられたのではないからである。また、それを麻と木綿とにあてて考へても、その製作にヒワシの命が關與したといふ話の原の形では、二つながらヒワシの命一人のしごとになつてゐたはずであり、それは上に引いたアメノトミの命の條の記載によつて知られる。書紀の注の第三の「一書」にも、阿波の忌部の祖のヒワシの命は「作木綿」とのみあるが、阿波に麻殖郡があつて、そこに忌部を氏とするものがゐたことは、續紀神護景雲二年七月の條にも見えてゐ、神名帳にも此の郡に忌部神社があつて、「或號天日鷲神、或號麻殖神、」と注記してあることからも明かであるから、こゝではたゞ木綿を擧げて麻をも代表させたのであり、此の「一書」の記載が、記紀編纂以前の舊辭では比較的晩出の異本ながら、にぎての種作者を語つたものとしては原の形を傳へたものであらう。拾遺では、阿波に穀や麻を殖ゑさせたのは神武天皇の時のこととしてあるが、これは、次にいふやうに、(469)此の天皇の時の物語を新に作り添へたために案出せられた話であつて、書紀の此の「一書」の着想では、ヒワシの命について、阿波の國の穀と麻とが考へられてゐたに違ひない。また拾遺に於いて麻の種作者を特に「伊勢國麻績祖」としてあるのは、多分、神祇式の神宮神衣祭の條に見えるやうに、神宮の神衣製作者に麻續氏があるところから、それに附會したのであらう。即時に使用せらるべき麻や木綿を其の場でうゑたことにし、從つて一夜にして蕃茂したやうに語つてあるのも、物語としては例の多いことであり、鏡や玉を其の時造つたやうに説いてあるのも、それと同じではあるものの、この話が記紀の物語に見えないことを思ふと、それが後人の潤色であることは、いふまでもない。これは阿波の土地に重きを置いたところから來た考へ方であり、從つて忌部氏を本位にした改作のしかたである。高天原での話でもあり、また神武天皇の時の物語に始めて阿波のことが語られたため、こゝには阿波の名を出してはないが、作者の頭にはそれがあつたものと推測せられる。なほ、こゝに文布神衣を織ることを記してあるのは、青和幣白和幣だけで滿足せず、幣帛を華麓にし豐富にするために附加したのであるか、又は宥和幣白和幣を織りものの原料としての麻と木綿との義にとつたのであるか、曖昧であるが、何れにしても蛇足であり、特に神衣を和衣とし爾伎多倍と注記してあるのは、用語の上からも、後人の筆に成つたものであることが知られる。爾伎多倍は和幣の爾伎弖と同じ語であるから、特に和衣といふ文字をそれにあてて和幣と並記するのはをかしいからである。ニギタヘは本來アラタヘに對する語であつて、二つとも衣服の料であり、多くの祝詞には神に捧げる御服としても和妙荒妙と連稱してあるが、青和幣白和幣といつて青と白とを連稱する場合には、荒妙の方を省くので、それは主として修辭の上のことであり、和妙荒妙の何れも神衣の料として考へらるべきである。なほ、此の條の本文の始にフトダマの命に和幣を造らせたと(470)ある「和幣」は、古事記に「布登御幣」とある「みてぐら」であつて、此の時に此の命の捧持したといふ、賢木に玉や鏡やにぎてやをつけたものをいふのであるが、それに「和幣」の字をあてたのも妥當でない。
 このことの參考として、拾遺の作者の古語の知識について一言しておかう。拾遺にオシホミミの命からウガヤフキアヘズの命までの歴代の命たちを吾勝尊、天津彦尊、彦火尊、彦瀲尊、と書いてあるのは、書紀の文字によりながらそれを略稱したのであるが、何れも名の主要部分を棄て去つて、その上に加へてある美稱めいたところを取つたのである。これは、拾遺の著述せられたところに、これらの命たちの名の意義が解し得られなくなつてゐたからではあるまいか。所々に注記してある古語の解釋に眞意を失つてゐるもののあることも、また此の意味に於いて參考せられよう。「うけ」に誓槽の字をあて、「古語宇氣布禰、約誓之意、」と注記してあるのも、其の一例であるが、天つ罪・國つ罪について「圖罪者國中之人民所犯之罪」といつてあるのも、また誤である。天つ罪・國つ罪はアメとクニを對稱する一般の習慣に本づいて、國人の犯すすべての罪を二つに分けたのであつて、大祓の祝詞に其のことが見えてゐるが、罪そのものの性質に於いて一が天に他が國に屬すべきものではなく、古事記の仲哀の卷の大祓の條に、さういふ區別なく、すべての罪を列擧してあるのでも、それは知られる。祝詞の分けかたは實は無意味であり、ことばにひかれた附會である。拾遺は此の祝詞に本づいて天つ罪と國つ罪とを分け、記紀のスサノヲの命の物語に見える命の罪がほゞ其の天つ罪にあたるところから、それが天上での罪行とせられてゐるに對して、國つ罪をかう解釋したのであらう。もしさうとすれば、にぎたへなどについて上記のやうな書き方のしてあるのも怪しむに足らず、これらの文字が古書にあつたものでないことを示すものである。因にいふ。こゝに神衣を織らせたとしてある天棚機姫神は、シナ(471)傳來の牽牛織女物語に見える織女を採つたものに違ひない。織女は既に古事記に見えるシタテル姫の歌にも採られてゐるが、これは別の場合にそれを用ゐたのである。後になるほど斯ういふことが行はれ易かつたであらう。
 次に、此の時の話に笠矛盾雜刀斧を作つたとあるのは、記紀の物語には全く見えないことであるが、神祇式四時祭式の祈年祭及び月次祭の場合のみてぐらの目録に楯と槍鋒とがあり、また倭文纏刀形、?纏刀形、布纏刀形、といふのがあつて、それは、本來は刀そのものをみてぐらとした風習から來てゐるのであらうと思はれるから、これらもまた忌部氏の取扱ふみてぐらにかういふ材料が必要であつたため、それによつて作り添へられた説話であらう。たゞ笠は此の目録に見えないが、太神宮式の神宮の調度中に菅笠のあるのを見ると、やはり、それを神事に用ゐる習慣があつたのであらう。また、鐡鐸はみてぐらの材料ではないが、次に説いてあるウズメの命の持つ「着鐸之矛」に縁があるから、そのためにこれが語られたのであらう。さうして、拾遺はかういふものまで忌部氏の指揮のもとに造られたこととしたのである。さて、拾遺はウズメの命に鐸のついた矛を持たせたのであるが、此の命が矛を持つたといふことは、書紀の本文に「茅纏之?」の話があるのみで、其の他には記紀の物語のどこにも見えてゐない。しかし、鎭魂祭の場合に御巫が桙を以て槽を衝くといふことが「儀式」に見えてゐて、それも古い風習であつたらうから、矛のことはそれから作られたものであらう。さうして、拾遺の説は、書紀によつて少しくそれを改めたのであらう。
 ところで鎭魂といふことは記紀の神代の物語には出てゐないが、天武紀十四年十一月の條に招魂といふことがあつて、それをミタマフリと訓んであるのは古語の傳へられたものであらうと思はれ、また舊事本紀の鎭魂祭の縁由を説いたところや職員令の集解の鎭魂の注によると、鎭魂をもミタマフリといひ傳へてゐたやうに見えるから、本來はミ(472)タマフリといふのであつて、それを招魂とも鎭魂とも書いてゐたのが、後に文字が鎭魂の方に一定し、それによつてミタマシヅメといふ語も新に作られ、さうしてそれがためにミタマフリといふ名は却つて次第に世から忘れられるやうになつたのであらう。此のミタマフリは、其の名と巫が桙で槽をつくといふ儀禮とによつて考へると、人の生氣を盛にする呪術であつて、巫の動作は朝廷の祭祀に於いてこそ儀式化せられてしまつたが、本來は活?に跳躍舞踏したものであらう。後には鎭魂祭の重要な儀禮となつてゐる御衣の箱を振ることは「儀式」には明かには見えてゐないが、舊事本紀に寶をふるといふこともあるから、何ものかを激しく振ひ動かすことは、鎭魂の呪術として早くから行はれてゐたことであらう。物を振動させるのも巫が跳躍舞踏するのも、人の生氣を盛にする呪術としては同じ意味のことである。ところが、シナ思想が入つて來て招魂とか鎭魂とかいふ文字が充てられるやうになると、遊離する魂を招き入れ體内に鎭め安んぜさせるといふ意義にそれが轉じたので、そこで木綿を結ぶといふ、やはり呪術的儀禮ながら、新しいことが案出せられたらしい。これは魂を結び留めるといふ意味の呪術である。舊事本紀に見える「死人反生」といふのも、シナの招魂の觀念から出たものであつて、それは決してミタマフリの本義ではない。かう考へると、ミタマフリは決して祭祀ではないのであるが、呪術が祭祀化し或は祭祀と混和するのは、一般の傾向であるから、ミタマフリも其の例にもれなかつたので、神祇令に鎭魂祭と明記せられてゐるのは、即ちそれを示すものである。天武紀には單に招魂とあつて祭の字が無いが、其のころにも事實は祭祀とせられてゐたのであらう。日蝕の場合に日に生氣を與へる呪術が材料となつて作られたらしい岩戸がくれの物語に於いて、ウズメの命の呪術的儀禮がアメノコヤネの命やフトダマの命によつて行はれた祭祀的儀禮と結合せられてゐることをも、參考すべきであつて、此の物語は天武(473)朝には既に存在してゐたに違ひない。岩戸がくれの場合のウズメの命の話は鎭魂祭の儀禮を物語化したのではないが、人の生氣を盛にするのも、日の力の衰へた時、それに生氣を與へるのも、同じ意味のことであるから、同じやうな呪術が行はれたのであらう。しかし、後には、拾遺に「鎭魂之儀者天鈿女命之遺跡也」とある如く、岩戸がくれの話を鎭魂祭の起源とする説が生じたが、これは、朝廷の儀禮としては鎭魂祭のみが行はれ、日蝕の場合のは廢れたためではあるまいか。ところで、書紀の「茅纏之?」を拾遺が「着鐸之矛」に改めたのは、四時祭式の鎭魂祭の用具を記したところに、佐奈伎、即ち鐸、の名が見えることから考へると、拾遺の書かれたころの鎭魂祭に於いて、巫の持つ矛に佐奈伎をつける習慣があつたからであらう(この習慣は可なり古くからのことであらうが)。さすれば、これもまた平安朝の初に岩戸がくれの物語と鎭魂祭とが結びつけて考へられてゐたことを示すものである。(茅纏の矛は茅が生氣の盛なものであるところから來てゐる呪術的思想によつたものであらうが、着鐸の矛は鐸を振動させて音を立てるところに呪術的意義があらう。)また、これらの矛盾鐵鐸などを作つたといふテオキホオヒ、ヒコサシリ、アメノマヒトツ、の三神の名と、並にテオキホオヒと忌部氏との關係とは、書紀の注の「一書」にも出てゐるから、これは、後にもいふやうに、書紀編述の前から存在したものであるが、此の場合のこととして斯ういふ話の作られたのは、それよりも後のことであらう。
 忌部氏に直接の關係の無いことではあるが、ウズメの命に關する拾遺の記載について、こゝに一言を附記して置かう。古事記には、此の命について「伏?氣而踏登杼呂許志、爲神懸而掛出?乳、裳緒忍垂於番登也、」と記し、それに對して「八百萬神共咲」と敍し、また大神の言として「天宇受賣者爲樂」と書いてある。こゝの「神がかり」は巫女(474)たる此の命が失神状態に入つたことをいふのであらうが、かういふ?態に入つた巫女の動作を「爲樂」といひ、それを觀て神々が「共咲」といふのは、甚だ解し難く、そこに矛盾した二つの意味があるやうである。そこで、書紀を見ると、先づ「手持茅纏之?、……巧作俳優、」といひ次に「亦……覆槽置、顯神明之憑談《カムガカリ》」と記し、「神がかり」となつたことの外に「巧作俳優」したやうにしてある。「巧作俳優」ならば、やはり大神の言としてある語の如く「※[口+據の旁]樂」でもよからうが、文章の上からいふと、此の「※[口+據の旁]樂」は「神がかり」になつた時の動作をも含んでゐるものと見なければならず、また?は、その神がかりのありさまとせられてゐる覆槽の上で跳躍舞踏する時に用ゐたものとしなければなるまいから、書紀の此の敍述は、強ひて此の命の動作を二分したものであり、さうして其の一方に「巧作俳優」と書いたのは、實は「神がかり」の?態として語られてゐる命の動作を※[口+據の旁]樂の意味に取りなしたからであつて、他方に「神がかり」としてあるのは、此の説話の古い用語が殘されてゐるのであらう(「顯神明之憑談」といふ文字が、この場合に妥當でないことは、いふまでもない)。さすれば、これは、上記の矛盾した二つの意味を一方にかたつけようとはしたが、まだかたつけきれなかつたことを示すものである。ところが、拾遺になると、*書紀の文を殆ど其のままに取りながら「手持着鐸之矛……」を「覆誓槽」の上に移してそれと結びつけ、「神がかり」の一句を全く削つて「巧作俳優」を其のあとに置きかへ、さうしてそれに「相與歌舞」を附け加へてある。そこで、巫女が失神?態に入つたといふ宗教的意味が全く無くなつて、命のしわざは、これも大神の言としてある「歌樂」の語に適合するやうになつた。
 さて、古事記から書紀を經て拾遺に至る此の變化は、ウズメの命の話に巫女としての本色が漸次薄れて來たことを(475)占めすものであるが、古事記の物語に矛盾した二つの意味が含まれてゐることについては、更に立ちもどつて考へて見る必要がある。此の物語の「神がかり」は、うけの上で跳躍舞踏することをもいつてゐると共に、「掛出 乳」云々もまたやはり其の現はれとして解しなければなるまいが、跳躍舞踏こそはあれ、此の半裸體の容姿は、實は必しも巫女の失神?態に伴ふべきものではない。だから、それには別の由來が無ければならぬが、此のことは書紀の皇孫降臨の段の注の第一の「一書」に、サルダヒコの神に對して此の命が立ち向つた時の話にも記されてゐて、それは決して失神?態に入つたことをいつたものではなく、衢にゐる神の異樣の眼光、所謂 evil eye を折伏するためにしたこととなつてゐるのであるから、一般に考へられてゐる如く、番登に呪力があるものとしてそれを露はし示す呪術から來た話らしく、文に「臍下」とあるのは番登を指したものであり、また裳ひもをおし垂れたといふのは物語としての潤色であらう。もひもを垂れたといふにかゝはらず、記述の上で特に番登の名を擧げてあるところに、意味が無ければならぬからである。古事記に此の場合のウズメの命を「いむかふ神と面勝つ神」といつてあるのも、呪力を有することをいつたものとする外はあるまい。さすれば、岩戸がくれの物語に於いても、やはり同樣であるので、上に述べた如く、それも跳躍舞踏も、共に日に力を與へる呪術である。ところが、跳躍舞踏はおのづから失神?態に人を導くものであるのみならず、巫女に於いてはかゝる?態を導くために跳躍舞踏することが常であつたらうから、そこで此の場合の呪術的儀禮たるそれもまた「神がかり」として語られ、番登を示すことさへもそれに包攝せられるやうになつたものと解せられる。呪術と神がかりとは本來意味を異にするものであり、神がかりは呪術ではなくて宗教的なものであるが、物語の上で此の二つが結合せられたのは、呪術に祝詞をよみ幣帛を捧げる宗教的儀禮が結合して語られてゐ(476)るのと同じである。さて、呪術としての特殊の場合を除いては、かゝる姿態は人の笑を催すものであるのと、物語の筋が大神をたばかつて誘ひ出したやうに仕組まれてゐるのとのため、一方で「神がかり」とせられてゐることが、他方では咲樂とせられたのである。また咲樂とした點からいへば、「神がかり」の?態のみでなく、コヤネの命が祝詞をのべ、フトダマの命が幣帛をさゝげたことも、またそれとは矛盾する。これらは、物語の運びかたと其の材料として用ゐられた祭祀呪術との調和が十分でないところから、起つたものといはねばならぬ。書紀では、ウズメの命の動作を主として咲樂の意味にとりなしたと共に、番登に關することを削つてあるが、「巧作俳優」は或はそれを暗示してゐるのかも知れぬ。しかし、拾遺では、此の一句が襲用せられながら、番登のことは全く思慮の外に置かれてゐるやうであつて、それは「相與歌舞」の一句が新にそれに添へられ、大神の言が「歌樂」に改められてゐるのでも、ほゞ推知せられよう。(ウズメの命のしわざを神樂の起源として考へる後世の俗説は、拾遺の此の記載に胚胎するが、しかしそれは拾遺の説ではない。拾遺にも「?女君氏供神樂之事」とあるから、此の書の著者もウズメの命の話を神樂の起源として考へてゐたのであらうが、その神樂は、鏡魂祭の時の歌舞をいふのか、又は宮廷の神事に奏せられる歌舞の汎稱かであるらしく、平安朝に入つてからほど經た後に始まつて、一定の曲目を有し、後世まで傳承せられてゐる神樂のことではない。俗説でいふ神樂は此の後の方の意義のである。なほ一般的に考へて、神事に奏せられる音樂歌舞は勿論、さういふ宗教的意義を有たない歌垣やかゞひについても、其の遠い由來を何等かの呪術に求める見解は、大體に於いて承認せらるべきものであらうが、それは、神代の物語を事實と見て宮廷の儀禮や民間の行事などの起源をそれに歸する、從來の俗説とは、全く違つた考へ方であることを、附記して置く。)
(477) ところで、上記の拾遺の書きかたは、多分、巫女のしたあのやうな呪術そのものが世に行はれず、少くとも知識社會に於いて容認せられなくなつたことに、伴ふものであらう。平安朝の初に於いては、桙で槽をつくことすら鎭魂祭に於ける單なる儀禮となつてゐて神がかりの?態ではなく、その呪術的意味も忘れられてゐたらしいことが、少し時代の後れたものながら、「儀式」などの記載によつて推考せられる。思ふに、上代の朝廷にはかういふ特殊の呪術を行ふ特殊の巫があつて、それがサルメといはれてゐたので、ウズメの命の話はそれによつて作られ、サルメもしくはそれを管理する家、即ち猿女氏、の祖先の物語とせられたのであらう(サルメ、ウズメ、といふ名も此の意味でつけられたものかと臆測せられるが、余は今のところ言語學的にそれを説明し得ないことを憾とする)。だから、槽をつくことが鎭魂祭の儀禮として行はれるだけになつた後でも、それに奉仕するものは、やはり、サルメと稱せられたであらう。岩戸がくれの物語に語られてゐることが鎭魂祭の起源と考へられ、サルメ氏がウズメの命の裔といはれてゐたとすれば、かう考へる外は無い。ところが「儀式」を見ると、鎭魂祭に猿女と稱せられるものは參列するが、槽をつく儀禮を行ふものは、それではなくして、猿女ならぬ御巫であり、猿女は其のあとで御巫と共に舞を奏することになつてゐる。これが何時からのことであるかはわからぬが、サルメの特殊の任務であつた呪術の意味が忘れられたことに伴つて起つた變化ではあるまいか。一體に令の規定などに見える朝廷の巫は、單に神事の儀禮に奉仕し、もしくは儀禮としての歌舞を奏するのみのものであつて、巫の本質を失つてゐたらしく、そこにシナ思想の影響をうけた制度の精神が見えるのであるが、サルメといふやうな特殊の巫についても、同じ意味の變化があり、後になるに從つて益其の傾向が強められたであらう。類聚三代格に見える弘仁四年の太政官符によつて見ると、當時の猿女は宮女などに(478)關することを處理する縫殿寮の所管になつてゐたやうであるが、これもまたサルメがサルメとしての本來の任務を失つたからではなからうか。(此の官符と拾遺の愁訴の第九條とによると、平安朝の初に於いては、猿女の名で選進せられるものは猿女氏とは關係が無かつたらしく、さうしてそれは猿女氏の勢力の衰微を語るものであらうが、其の衰微した事情の何であるかはわからず、必しもこゝに述べた理由からとのみはいひ難いから、これはおのづから別問題である。)かう考へて來ると、拾遺の岩戸がくれの説話に「神がかり」の語が無く、其の代り「歌舞」の語が新に加へてあるのは、うけつくことが意味の知られぬ單なる儀禮となり、また巫やサルメによつて歌舞が奏せられた、平安朝初期の鎭魂祭の有さまの反映であることが推知せられる。「あはれ、あなおもしろ、」云々のハヤシ詞も、また其のころの鎭魂祭の歌舞の場合に唱へられたものを適用したのであらう。(これは所謂「宮人」の曲を、笠縫に大神を遷し祭られた時の宴樂の歌として、拾遺の崇神朝の物語にはめ込んであるのと同じである。「宮人」の歌は大同のころに宮廷の神宴の餘興として歌はれてゐたものであらう。)但し、拾遺にも岩戸の前でうけをついたものをウズメの命としてある。これは、大同のころにはなほサルメがそれを行つてゐたためかも知れぬが、それよりも寧ろ、此の點では古い説話が其のまゝ踏襲せられてゐると見なすべきであらう。岩戸の物語ではかういふ改作をしながら、皇孫降臨の場合の話では、ウズメの命にかの呪術を行はせてゐるのも、また書紀の注の「一書」の記載を其のまゝ寫し取つたまでである。
 拾遺のこゝの物語には、なほ鏡について「初度所鑄、少不合意【是紀伊國日前神也、】次度所鑄、其  状美麗【是伊勢大神也、】」とあるが、これは、書紀の岩戸がくれの段の注に見える第一の「一書」の説を取り、さうしてそれを、第二の「一書」にも見えま(479)た普通に知られてもゐる説とつなぎあはせるために、改作したものである。此の第一の「一書」の説はたゞ此の時の鏡が日前神であるといふのみであつて、第二の「一書」の説の如くそれを伊勢の大神とするのとは、全く別の構想であり、其の物語とは無關係に作られた話であるが、拾遺は此の二つを強ひて結合しようとしたため、かういふことにしたのである。初めの企てが成功せず次回に至つて完成するといふのは、物語に?見る着想であつて、大八島生成の説話にも其の例があるから、拾遺の此の説にも其の意味が潜んではゐようが、それにしても、こゝでは此の思想が既に世に存在する二つの物語を結合する方法として採られてゐる。なほ拾遺では鏡を日の神の像としてあるが、それもまた此の第一の「一書」から出てゐる。拾遺にはまたこの時のオモヒカネの神の議といふものを詳細に敍してあるが、これは書紀の記載によりながらそれを書きかへたのであり、さうしてそこには、後にいふやうに、忌部氏の地位を高めようとするための造作がある。フトダマの命及びその率ゐる命たちの名をこの場合にのみ神としてあるのも、それに關係があるらしい。拾遺の述作者の古物語改作の態度はこれでもわかる。(上記の書紀の注の第一の「一書」にはイシコリドメに日矛を作らせたとあつて、文章の上からいふと、日前神は此の日矛であるやうにも見れば見られるやうであるが、日矛では「宜圖造彼神之象而奉招?也」とあるのに適應しないから、「用此奉造之神」は日矛とは別のものであり、普通に考へられてゐるやうに、鏡とするのが妥當である。イシコリドメは冶工としてあつて、それは鑄冶工の義らしく、鞴を作つたとしたのも其のためであるが、矛はかういふ物語の作られた時代に於いては鐵製であり、從つてそれは鍛冶したものであらうから、こゝにそれをいふのは物語そのものに背反する。或は、古事記の允恭天皇の卷の物語に「今時之矢」とは違つた銅製の鏃のあつたことが説かれてゐるやうに、矛についてもむかし銅製の(480)それがあつたことが知られてゐて、それによつて此の話が作られたのかも知れぬが、それにしても、日矛は日の神の象にかたどつたものとはいはれない。さうして、行文の上から見ると、「以作日矛」は贅疣であつて、これがあるため前後の文の意義が連絡せず、それを除去すると文意がよく通ずるから、此の四字はもとは無かつたものであらう。文章の上では「以作日矛」は「以作天羽鞴」に對する句のやうにも見えるが、意義の上からはそれは無理であるから、これは後にこの句を插入したものが、對句になるやうに書いたのであらう。ヒボコは、多分、檜矛であらうが、それを「日矛」と書くことがあつたため、むしろヒボコのヒが日のヒと同じ音であるため、日前神に附會せられたものと思はれる。此の話の鏡を日前神としたのも、またヒノクマを日前と書いたため、むしろヒノクマのヒが日のヒと同じ音であるため、それが日の神に聯想せられたからであるらしいことを、參考するがよい。(ヒノクマといふのは、所々にある地名であつて、檜隈の字のあててある場合もある。)しかし、舊事本紀の神祇本紀に此の文を取つてあるところにも日矛と見えるから、此の四字の插入せられたのは舊事本紀の編纂せられたより前のことであらう。さうして、拾遺には日矛のことが無く、單に「日像之鏡」としてあるのを見ると、廣成の見た本には此の四字が無かつたかも知れぬ。なほ、此の第一の「一書」の説は、八十萬神の集つたところを天の高市としてあることが、それを天の安の河原とする普通の説と違ひ、書紀に採られた舊辭では皇孫降臨の段の注に引いてある「一書」にのみその例があり、さうして此の「一書」は種々の點から見て晩出のものであること、また鏡を日の神の像としたのが、それを單に神を祭る具としない點に於いて、後に發達した思想とすべきものであるのみならず、鏡を日の神とする説が既にあつて、それにもとづいて考案せられたとしなければならぬこと、或は鏡に日の神の像が映ずるやうにそれを石屋の前にさし出(481)したとある古事記の物語の發展したものとも、解せられること、などから推考すると、かなり後に作られたものに違ひなく、さうして鏡を日の神の像としながら伊勢の大神とはせずして日前神に擬したところに、大なる無理があるのを見ると、第二の「一書」よりも後のものであらう。第二の「一書」の説とても、鏡を石窟に入れたため戸にふれて小瑕ができたとあるのは、やはり古事記に見える上記の話の一歩を進めたものであり、從つて、それよりも後の改作ではあるが、なほ其の鏡を伊勢の大神としてあるところに、第一のの説よりも古い面影が殘つてゐる。第一ののは、多分、日前神に因縁のある方面で、其の神を伊勢に對抗させようとするところから、作り出された説であらう。かういふことは神社の神職にはありがちであるので、第二篇の第五章の一に考へて置いたオホクニダマの神の託宣にも、その例がある。)
 次に、神武天皇の場合の物語は記紀の記載には全く見えないことであるが、其の意味が岩戸がくれの場合のと同じであり、製作者を前の場合のクシアカルダマの命やヒワシの命やの孫としてあるのを見ると、これもまたそれと同樣の意圖から作り添へられたものであることが明かである。フトダマの命の孫であるといふアメノトミの命の名も新しく作り足されたものらしく、それはトミの山の祭祀の話に特に此の命の名を記してあることを考へると、此の山の名から案出せられたのかとも思はれるが、或は文字どほりの「富」の義かも知れぬ。(忌部氏は幣帛を取扱ふので、其の意味から「富」の觀念が導き出されたと見られる。幣帛などを豐富に供するといふことが祝詞にある。)それは何れにしても、此の神の作られたのは、既に書紀にも見えてゐる中臣氏のアメノタネコの命に對立させようとするためであつたらう。なほ、こゝにアメノトミの命をしてヒワシの命の孫を率ゐて始めてアハ(阿波)の國に穀や麻を殖ゑ(482)させたとしてあるのは、後にいふやうに、朝廷の祭祀に用ゐる木綿や麻を阿波から上る習慣であり、それを忌部氏が管理してゐたため、其の起源を語るために作られた話であつて、話の原の形に於いては、それはヒワシの命に始まつたことになつてゐたのであらう。が、「天富命更求沃壤、分阿波齋部、率往東土、播殖麻殻、好麻所生、故謂之總國、穀木所生、故謂之結城郡、阿波忌部所居、便之名安房郡【今安房國是也、】」といふに至つては、地名のアハ(阿波、安房)が同音であるのと、フサ(絶)とアサ(麻)と、またユフキ(結城)とユフ(木綿)と、音が類似してゐるのとから附會した説話であつて、それは記紀や風土記などに極めて例の多い地名説話の性質を有するものであると共に、此の二地方を忌部氏の勢力範圍であつたかの如く説きなさんがために作られたものである。さうして「天富命即於其地、立太玉命社、今謂之安房社、故其神戸有齋部氏、」とあるのを見ると、忌部氏はさらに一歩を進めて安房の神と忌部氏とを結合しようとしたらしい。この企圖は、中臣氏の鹿島の神に對抗しようとしたものではないかと推測せられるが、其の時期は奈良朝のあまり早いころではなかつたらう。
 この時期のことについては、次のやうに考へられる。本朝月令所引の高橋氏文に見える膳臣の祖、磐鹿六鴈の命の物語に「是時上總國安房大神御食都神坐奉」云々とあるが、安房大神が忌部氏の祖先神と定まつてゐたならば、かういふことはいはれなかつたらうと思はれるから、此の文の書かれた時には安房大神はフトダマの命として知られてはゐなかつた。(この高橋氏文の説は、安房の大神がミケツ神といふ名の神であるといふのではなく、物語を安房でのこととしたため、其の場合の魚などを安房の大神の賜はつたものとし、其の大神を御食都神と稱したのであつて、古事記の仲哀の卷に敦賀の氣比の大神が御食の魚を賜はつたからそれを御食津大神と號したとあるのと、同じ意味の(483)話である。仲哀の卷のはケヒの名の説明説話となつてゐるが、其の意味はかういふのである。從つて、これは何處の神についてもいひ得ることであるが、フトグマの命の如き或る特殊の一氏族の祖先神では、かうは考へられなかつたであらう。家々が各其の祖先神を立てて相對抗し、またそれによつて己が氏族を貴くしようとしてゐた時代だからである。)さて、此の氏文は安房が上總國に屬してゐた時に書かれたものであるから、それは、總國が上下に二分した年(それは不明であるが、多分最初の國郡設置から或る時期を隔てた後であらう)から安房國が更に上總から分れた養老二年までの間か、又はそれが一旦復舊した天平十三年から再び分れた天平寶字元年までの間かであるが、景行紀の紀年によつて天皇巡幸のことを書いてゐるのを見ると、書紀完成の後に記されたものであることが推測せられるから、多分それは後の方とすべきであらう。景行紀の記事は膳臣の家の家譜が材料になつてゐるであらうが、現存の高橋氏文は書紀よりも後の作であると見なければならぬ。古事記にも景行の卷に「定東淡水門、又定膳之大伴部、」とあるところから推考すると、膳臣の家と安房とを結びつけた話は書紀の完成前からあつたらしいが、此の氏文の書かれたのは古いことではない。さうして、其の時まで安房の神は忌部氏の祖先神ではなかつたのである。なほ忌部氏と安房との關係が記紀のどこにも語られてゐないことは、いふまでもない。高橋氏文の政事要略に引いてある部分には、また「六鴈命……子孫等【乎波】長世膳職長【止毛】上總國長【止毛】淡國長【止毛】定餘氏萬介太麻波天乎佐女太麻波牟」とあり、上總と安房とを自家の所管と定められてゐたやうに説いてあるが、これは忌部氏の意圖と同じであつて、一は御膳に供する魚貝の縁から此の沿海の地方を、一は地名の關係から同じ土地を、朝廷に於けるそれ/\の職掌によつて、自家の勢力範圍であつた如く語つたものである。但し、高橋氏文の此の話と忌部氏のと、どちらが早く作られ(484)たかは不明である。(高橋氏文の此の部分は上總國と淡國とを列記してあるところを見ると、上に引いた部分とは別の時期に書かれたものらしいが、高橋氏の地位を膳職の長としたのみならず、上總國淡國の長として一層それを高めてあることから推測すると、此の方が後の思想であり、從つてそれは安房が上總から最後に分立した天平寶字元年以後の作であらう。)
 古語拾遺の記載に於いて第二に氣がつくのは、神寶のことである。所謂皇孫降臨の物語に「以八咫鏡及草薙劍二種神寶、授賜皇孫、永爲天璽【所謂神璽、劍鏡是也】矛玉自從、」とあり、神武天皇の時のこととして「捧持天璽鏡劍、奉安正殿、」と見え、また崇神朝のこととして「令齋部氏率石凝姥神裔、天日一箇神裔二氏、吏鑄鏡造劍、以爲護身御璽、是今踐祚之日所獻神璽鏡劍也、」といふ記載がある。此の三條は互に照應するものであつて、神璽を鏡劍の二つとしてあることが前後一貫してゐるが、このことは上に記した持統紀及び神祇令の記載と符合するものであるから、忌部氏が爲にするところあつて新しく作つたものではない。後にいふやうに玉が忌部氏にとつては重要なものであるにかゝはらず、それが數へられてゐないことも、注意を要する。だから神寶を鏡劍の二つとすることについては、(上に述べたやうに、それが當時の事實であつたからでもあらうが、それと共に)多分、古い傳へが神璽に關する特殊の任務を有する忌部氏の家に遺存してゐたのであらう。忌部氏の誦むものと定められてゐる大殿祭の祝詞にも「天津璽劍鏡捧持」とあることが、參考せられる。但し皇孫降臨の物語の「矛玉自從」だけは、古い傳へであるかどうか疑はしい。此の説からいふと矛玉は神寶でなく、さうして神寶でないものが特に神寶の物語に現はれてゐるのは、解し難いからである。拾遺に於いても、この意味での矛玉については、これから後に全く所見が無く、神武朝崇神朝の神寶の説話にも何等(485)の消息が傳へられてゐない。神祇令などにそれが記されてゐないことは勿論である。なほ詳しく考へるに、皇孫降臨の物語の場合では、拾遺の記載は、書紀の注の第一の「一書」に「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也、宜爾皇孫就而治焉、行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣、」とあるのと、第二の「一書」に「高皇産靈尊因勅曰、吾則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣、汝天兒屋命太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉、……天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊、而祝之曰、吾兒、祝此寶鏡、當猶視吾、可與同床共殿以爲齋鏡、復勅天兒屋命太玉命、惟爾二神*、亦同侍殿内、善爲防護、又勅曰、以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒、」とあるのと、此の二つをとつて、(前者はホノニニギの命、後者はオシホミミの命を降される話になつてゐて、其の間に一致しない點があるにかゝはらず、)それをつなぎ合はせ、(また後者は順序を前後させ、)其の中間に、二種の神寶に關する上記の一節を插入したものであるが、これは二つの「一書」の説の何れとも一致しないものであるから、それが書紀から來たものでなく、從つてまた神寶については、それを三種としてある第一の「一書」と同じことの記されてゐる古事記の説とも由來を異にするものであることは、明かである。寶鏡云々の勅語が「二種神寶」といつてあるのと不調和なのも、強ひて由來の異なる説をつなぎ合はせたからである。次には神寶の記事に關聯した拾遺の書きかたについて注意すべきことがある。書紀の第一の「一書」では、所謂「與天壤無窮」の意を述べた一節は、大神の皇孫に對する勅語となつてゐるが、拾遺がそれを改作して大神とタカミムスビの命との對話とし、從つて原文に「爾皇孫」とある「爾」の一字を省いたのは、次に第二の「一書」から取つた勅語があるため、それと重複しないやうにしたのであらう。が、第二の「一書」では、寶鏡云々は大神の勅、神籬云々はタカミムスビの命の勅としてあるのに、拾遺は此の區別を除(486)いたので、二つとも二神共同の勅語のやうになつてゐる。さうして、勅語の一方に「吾兒」云々とあるのは、拾遺の所謂「皇孫命」に對するものとしては不穩當であるが、これは書紀の原文を其のまゝ寫し取つたからである。「皇孫命」の本義はミコノミコトであつてミコの語を皇孫の字で寫したのであるが、拾遺の著者は「天照大神高皇産靈神二神之孫、故曰皇孫、」と注記してゐて、それを漢字の「孫」の義に解してゐるから、拾遺の著者の思想からいふとそれと「吾兒」とあるのとは一致しないことになる。「吾兒」の原義は子孫の全體をいふのであるが「皇孫」の文字の上記の解釋から類推すると、拾遺の著者はそれをもまた文字のまゝに、即ち「子」の意義に、解してゐたのであらう。他の一方には「吾孫」とあつて、これは拾遺の記者の思想からいつても其の話の筋に合ふが、其の代り「吾兒」とは一致しない。しかしこれもまた書紀の原文のまゝである。書紀では「兒」も「孫」も共にコの語にあてて書かれてゐるのであるが、拾遺では「孫」に上記の如き意義を有たせたため、矛盾が生じてゐる。さうして拾遺の作者の考に從つてこの文を讀む場合に、かういふ矛盾の感ぜられるのは、ホノニニギの命の降られる話のと、オシホミミの命のことになつてゐるのとの、二つの材料から取つたものを強ひてつなぎあはせたからのことであらう。また「以天兒屋命、太玉命、天鈿女命、使配侍焉、」は、第一の「一書」の「又以中臣上祖天兒屋命、忌部上祖太玉命、猿女上祖天鈿女命、鏡作上祖石凝姥命、玉作上祖玉屋命、凡五部神、使配侍焉、」から來てゐるので、それを第二の「一書」から寫し取つた寶鏡云々の勅語の次にはさみこんだものであり、それがために、書紀の原文には神籬云々の勅の次に記してある「乃俊二神陪從……以降之」の一句がこゝでは削られてゐるが、これは、これらの三神と寶鏡とを特に結びつけようとしたためであるらしく、さうして、原文の五伴緒から特に此の三家のみを取つたのは、愁訴の第三條及び第九條に(487)應ずるやうにしたものらしい。なほ、附記すべきは、書紀の注の第一の「一書」の皇孫降臨の物語は、大體に於いて、古事記のと近似してゐるが、たゞ上にも引いた大神の勅は古事記には無く、古事記の鏡についての勅がこゝには見えないことであつて、後者に代ふるに前者を以てしたのは、此の「一書」に後になつて發達した思想の含まれてゐることを示すものである。この「一書」に大神の勅として記されてゐることは、遠き過去の神の代に寶祚の起源を置くにとゞまらずして、無窮の未來にそれを及ぼさうとする欲求と願望とを強調して説いたものであるので、そこに、古事記や第二の「一書」の同じ物語の神勅に比して、神代史の精神の一層明かにせられ一層固められてゐる跡が見られ、從つてそれは、神代の意義の一層深められた點に於いて、思想の進歩を示してゐるのである。また無窮をいはうとして「與天壤」の三字を加へたのは、天地を無窮とするシナ思想から來てゐるのであるが、これもまたこの神勅がシナ思想に關する知識の廣くなつた後に書かれたことを語るものである。拾遺が第二の「一書」のと共にそれを併せ取り、且つそれを第一に擧げたのは、必しも深き意味があつてのことではないかも知らぬが、當時一般に其の思想が重んぜられてゐたことが、それによつて推測せられる。
 それから、拾遺が二種の神寶の劍を草薙劍としてあることについても、一言を要する。これは古事記及び書紀の注の第一の「一書」に記されてゐることであるから、拾遺の説はそれから出てゐるのであらうが、古事記も書紀の注の「一書」も神寶を三種としてあるのであるから、拾遺はそれを、それとは由來を異にする、二種神寶の傳説に結合したものである。また、拾遺は一方で、草薙劍のことが見える日本武尊の東征説話を記紀、特に書紀、から取つてゐるが、それとこれとは其の精神に於いて一致しない。これは古事記でも、また上記の「一書」を取る場合の書紀でも、(488)同樣であるが、拾遺の作者はそれには氣がつかなかつたのであらう。さて、神寶が二種であるといふのは、忌部氏の私から出たことではないが、崇神朝の物語に於いて忌部氏が鏡劍の製作を司つたやうにしてある點は、鏡劍捧持の任を有するところから構想せられたものであり、從つてこれは、岩戸がくれの話に於いて幣帛に要するすべての材料を忌部氏が管理したやうに語つてゐるのと同じ態度、同じ意圖で、作られたものとしなければならぬ。鏡の製作者をイシコリドメの神の、劍のをアメノマヒトツの神の、裔としたのも、岩戸がくれの時の物語と照應させたのである。(崇神朝のこととしての鏡劍製作の物語は、神璽が鏡劍の二種とせられてゐた事實に本づいたものであつて、俗間に行はれてゐる説の如く、古事記や書紀の注の「一書」に説いてあるやうな、それを三種とする、思想と調和するやうに解釋または説明せらるべきものではない。また書紀には崇神朝に殿中から笠縫邑に移し祀られたのを大神とのみ記してあつて、それが鏡のことであるかどうかは明かに示してないが、笠縫から更に遷された伊勢の神宮に鏡が奉祀してあるといふことを背景として考へると、それは鏡についていつたものと解するのが妥當であらう。ところが、拾遺には、笠縫に遷し祀つたのを「天照大神及草薙劍」としてあるので、これは所謂「二種神寶」に照應させるために書かれたものに違ひなく、從つて此の書では「大神」の語によつて鏡を示してあることが明かである。)また神武天皇の時のこととしての物語も、記紀に記載が無いのと、次にいふ宮殿建築に關する物語からの類推とから、やはり後の造作であることが知られる。たゞ一言すべきは、こゝに「捧持天璽鏡劍、安奉正殿、」とあることである。これは「同床共殿」云々の神勅に應ずるものとして語られてゐるやうに見えるが、もしさうとすれば、神勅が鏡のみのこととしてあるのに矛盾するものである。が、劍を加へてあるのは「二種神寶」の思想から書かれたものであつて、それが書(489)紀から寫し取られた神勅と合はないのは、上に述べた如く「二種神寶」の思想が、本來、それとは別のものだからである(このことについては後文參照)。
 なほこゝに述べて置きたいことは、神寶に關する記紀及び古語拾遺の思想である。まづ鏡についていふと、「此之鏡者專我御魂而如拜吾前伊都岐奉」といふ神勅を載せてある古事記の物語は、鏡を皇祖神として奉祀してあつた事實から生まれたものに違ひない。同じ物語の記してある書紀の第二の「一書」に見える神勅の「視此寶鏡、當猶視吾、」もまた同樣に解し得られる。さうして、書紀の神勅の上記の語の次に「可與同床共殿以爲齋鏡」とあるのを見ると、此の書の記者の思想に於いては、それが宮殿内に奉祀してあつたと考へられてゐたことが知られる。「爲齋鏡」が神として鏡を祀る意であるかどうかは、やゝ不明の點もあるが、すぐあとのコヤネ、フトダマ、の二神に對する神勅に「爾二神亦同侍殿内」云々とあるのを見ると、さう解すべきものであらう。しかし「同床共殿」は「爲齋鏡」、即ち神として祀ることとは、十分に一致しない思想である。神は人の近づくべからざるものだからである。崇神紀に「畏其神勢、共住不安、」とあるのは、此の不調和を看取したところに意味があるので、それは歴史的に思想が變化した如く説いたものであるが、實は、これらの物語が形成せられつゝあつた時代に、二つの考へ方が並存してゐたと見るべきであらう。神代史はもとよりのこと、崇神紀の記載とても、物語として構想せられたものであるから、その物語に二つの考へかたが、或は結びついて、或はそれとは別の形で、あらはれてゐるやうに解せられる。神として見るにしても、それが「現つ神」と「同床共殿」に安置せられるのは、當然のやうでもあるが、「現つ神」は同時に人であられるから、此の不調和が生ずるのである。のみならす、書紀の注の第一の「一書」に三種の「寶物」を賜ふとしてあるのも、そ(490)れを寶物といつてあるところから見ると、祭祀の對象たる神として見たのではないやうに思はれるし、更に一歩進んでいふと、古事記に?鏡劍を五伴緒の神に副へ賜ふと書いてあるのも、やはり同樣に解せられる(だから古事記の此の記事と其の次にある、上に引いた、神勅との間には、不調和がある)。もつとも、一般的に考へて、鏡其のものに呪力があり、靈感があり、若しくは其のものが神であるといふ上代人の思想から見れば、神寶の鏡についてのこれらの考へ方も、また截然として區別せられるものではないが、それにしても、一方に於いて宗教思想の發達に伴ひ祭祀の方式や儀禮が整頓し、從つて神人の區別が明かになつて來ると、これらの考は漸次分岐するやうになるので、さういふ?態が、上に引いた記紀の記載から推測せられるのである。記紀の記載は、種々の考へかたが、分離しながら、混在してゐるのである。
 ところが、記紀に於いては、鏡を含む神寶に、皇位の象徴として歴代に傳へさせられるといふ、別の意味が加はつてゐるので、それは神寶が皇祖神から賜はつたものとなつてゐることによつて明白である。かういふ物語は、神寶が歴代に傳へられてゐるものであることを豫想しての話だからである。これもまた遠い昔から繼承せられてゐる當時の實際の習慣から出たことであらうが、やはり神として祭祀せられることとは十分に一致しないものである。さうして、かういふ意味に於いては、神寶はシナの史籍に見える傳國璽の觀念におのづから適合するものであるから、シナ思想の流行と共に、それが混和せられても來た。持統紀の記載に見え、後までも同じことが行はれてゐる、踐祚の時に神璽を獻る儀禮や、之に關する令の規定は、それから出たことであり、書紀の編者が、允恭紀、繼體紀、推古紀、舒明紀、孝コ紀、などの踐祚の記事に於いて、漢書の文帝紀、宣帝紀、などの璽符に關する文字を殆ど其のまゝ借り用ゐ(491)たのも、また之がためである。ところで、踐祚の時の儀禮として鏡が(劍と共に)獻ぜられるのを見ると、それは神寶として宮殿内に奉安してはあつたけれども、神として奉祀してあつたのではないに違ひなく、よし崇神朝の時に摸造せられたといふ物語をそれと結びつけて考へるにしても、摸造せられたものは本のものに代り本のものと同じ地位に置かれたと見るのが當然であるから、このことは神寶が歴代に傳へられるものとなつた初からの因襲であつた、と見るべきであらう。平安朝の初期までは、鏡は劍と共に常の御殿に、即ち「同床共殿」に、但し神として奉祀してではなく、安置してあつたはずであることをも、參考すべきである。さすれば、上に引いた書紀の第二の「一書」の神勅の物語は、神寶を傳國璽として見る思想とは別に、崇神朝の説話と相應じて、皇祖神から傳へられた神鏡が伊勢の神宮に奉祀してあるといふことの由來を説いたものと見なされる。それは、神として神宮に奉祀してある?態を、神宮の建てられない前に溯らせて語つたものとする外はないからである。伊勢の神宮に日の神の奉祀してあるのは、皇祖神としてであるから、神宮のたてられたよりも前には、此の神が皇居の宮殿内に祀つてあつたとするのは、極めて自然な考へ方である。さうして神鏡が皇祖神から傳へられたものであるといふことと、宮殿内にあつたといふこととに於いては、この物語は傳國璽の觀念と結合し得られるものであつた。けれども、上に述べた如く、「同床共殿」に神を祀るといふのは、それ自身に不調和を含む考へかたであるので、そこから「畏其神勢、共住不安、」といふ思想を派生せしめ、さうして、それを神宮奉祀の動機として物語ることになつたのである。かう考へると、最初に擧げた古事記の神勅の物語も、また伊勢の神宮の起源説話であつて、それは、書紀の第二の「一書」の説と共に、伊勢に神宮のたてられた後になつて神代史に加へられたものであることが、推知せられる。これらの説話は鏡が神として宮中に奉(492)祀してあつたことの反映として解せられるべきものではない。事實、さういふことは上代にはなかつたのである。さうして、鏡を含む神寶が歴代に傳へられてゐる現在の事實を認めつゝ、鏡が皇祖神から皇孫に賜はつたものであるといふことと此の起源説話とを結合するには、おのづから崇神朝の摸造説話がなければならなかつたのである。たゞ、摸造の意義が上に述べたやうであつて、摸造せられたものも本のものの性質を保有してゐるべきであるとすれば、そこに思想上の齟齬が生ずるが、神勅の物語が作られてゐる以上、これは已むを得ないことである。
 以上は鏡についての記紀の考へかたであるが、歴代に傳へさせられる神寶としては、記紀の編述せられた時代に於いては、鏡の外に劍があるとせられてゐた。但し、劍が鏡と共に、又は鏡の如く、むかし宮殿内に神として祀つてあつたといふ考は、古事記は勿論、書紀に於いても存在しない。のみならず、かういふ考は鏡についてのみ祭祀のことがいつてある古事記及び書紀の注の第二の「一書」の神勅の思想とは一致しない。さうして劍がどこにどう安置してあつたかは、記紀の記載のどこにも見えてゐない。たゞ皇居内に奉安してあつたと推測せられるのみである。また、古事記及び書紀の注の第一の「一書」には、三種の寶物の劍を草薙劍としてあるから、此の話と、倭建命の蝦夷征討の物語とを結びつけて見ると、宮殿内に安置してあつた神寶としての劍が、何の時にか伊勢の神宮に遷して安置してあつたと考へられたことはあつたはずである。たゞ、それについての物語も、記紀には出てゐない。しかし、神寶の劍が草薙劍と考へられ、さうしてそれが熱田にあるとせられた以上は、劍についての摸造説話もまた無ければならなかつた。
 そこで拾遺を見ると、鏡と劍とが崇神朝に於いて同時に摸造せられたことになつてゐ、さうして其の理由としては、書紀の上に引いた語を少しく改め「漸畏神威、同殿不安、」として、それを擧げてある。書紀では鏡についてのみいつ(493)てある此の語が、拾遺に於いて劍にも適用せられたのは、上に述べた如く、神武朝から劍が鏡と共に正殿に奉安してあるやうになつてゐることに應ずるものであり、新しい思想である。さて、拾遺の「奉安正殿」は「同床共殿」云々の神勅に應ずるものとして語られてはゐるらしいが、それは必しも神として祀つたといふ意義ではないやうである。鏡のみでなく劍を加へてあることからも、また摸造(の意義を上記の如く考へるならば其)の鏡劍を「護身御璽」といつてあることからも、さう考へられる。「護身御璽」といふのは、御璽に呪力があり神威があるとするところから來てはゐるが、此の考に於いては、御璽は祭祀の對象ではないことになり、「同床共殿」ではあるが、神として祀つてあるといふのではないのである。たゞ、かう考へると、拾遺も襲用した「同殿共床」の神勅にある「爲齋鏡」の語とは調和せず、また摸造の理由を「漸畏神威、同殿不安、」としたことにも適應しないことになるが、これは前者については、其の意義を深く注意せずたゞ「同殿共床」の語にのみ心がひかれたからであり、後者についても、不用意に書紀の文字を借り用ゐたまでであると解せられる。書紀によつて傳へられた物語に於いては、伊勢の神宮の起源を説くことに重きが置かれたのであるが、拾遺の作られた時代には、神宮についてさういふことをいふ必要がないほど、それは嚴然たる存在であり、さうして、拾遺の精神は鏡劍を獻る自家の任務を力強く説かうとするところにあつたのと、事實、當時の宮廷に於いて鏡劍が神として奉祀してなかつたのとのため、かう説かれたのであらう。劍と鏡とを同じ地位に置いて語つてゐるのも、やはり同じ事情から來てゐるに違ひない。(摸造説話がなければならなかつたことは上に述べたとほりであるが、その説話は初から拾遺に見えるやうな思想によつて形成せられてゐたとは限らぬ。摸造の理由を「漸畏神威、同殿不安、」としたのは、書紀に神宮奉祀の動機として説いてあることを借り用ゐたのであるが、(494)書紀の考へ方からすれば、神宮に奉祀せられたからそれに代るものを新造したといふだけでも、説明はつく。摸造説話の原形は或はさういふやうなものであつたかも知れぬ。)
 なほ附記するが、拾遺に見える二つの神璽のうち、後には神鏡のみを特に別殿に奉安せられることになつたので、それが即ち賢所もしくは内侍所であり、さうして、令などには記してない所謂「璽」、即ち玉、が劍と共に常の御殿に奉安せられることになつたのであるが、更に後世になると、賢所に神としての祭祀が行はれるやうになり、崇神朝の新造の物語の精神が漸次變化し、上に述べた、神として祀ることと「同床共殿」に置かれることとの、二つの考へ方によつて神寶の性質が二類に區別せられ、前者が神鏡に、後者が劍と玉とに、適用せられることになつた。さうして傳國の璽たる性質は劍と玉とが有することになつた。神鏡をさういふ風に考へたのは、伊勢の神宮に對する崇敬を宮中のにも及ぼしたためであらうが、思想としては、古事記及び書紀の注の「一書」に見える寶鏡についての神勅の物語に由來がある。また玉を劍と同じやうに考へたのは、玉が鏡及び劍と共にホノニニギの命の天降りの物語に現はれてゐる書紀の注の「一書」及び古事記の説に淵源があらうが、此の説は、此の物語の神寶を岩戸がくれの説話に見えるみてぐらに對應させようとしたからでもあるらしく、それは古事記に「遠岐斯八尺勾?、鏡、」とあることから推測せられる(劍はかの説話のみてぐらに無いから、これは別である)。また拾遺に「矛玉自從」とあるのは、どういふ考から出たのか明かでないが、矛は或はウズメの命の持ちものを聯想したのではなからうか。もしさうならば、これもまた岩戸がくれの物語に由來がある。さて、以上の考説は、神寶に關する思想についてであつて、神寶とせられたもののことをいつたのではない。神寶そのものと、それについての思想とは、區別して考へねばならぬのであつて、(495)持統紀に見える歴史的事實の記載及び令の規定と書紀の注の「一書」や古事記の説話との一致してゐないのも、其のためである。仲哀紀八年の條に見える崗縣主と伊覩縣主との物語によつても知られるやうに、鏡と劍と玉とを結びつけて考へることは、書紀の編述時代にも行はれてゐた思想であるから、それが神代史の説話の上にも反映してゐるのであらう。しかし事實として如何なるものが神寶とせられてゐたかは、それとは別のことである。
 附記。神璽といふ名稱は唐に存在したので、天子の八璽の中の第一に位するものをいふのであるが、則天の時に璽の字が一般に寶の字に改められ、神璽もまた神寶といはれることになつて、玄宗の時にも此の稱呼が用ゐられたから、六典には神寶と書いてある。舊新兩唐音の職官志または百官志にもさうなつてゐるが、たゞ新唐書車服志には唐初の記録が取られてゐるらしく、そこに神璽などの名が見える。八璽の第二は受命璽であつて、神璽と共に八璽の中で最も重要なるものであるが、此の二つが所謂傳國璽であるらしい。六典の注に引いてある玉璽記には「傳國璽及神璽六璽」といふことがあるが、また傳國璽として隋朝に傳へられたものが二つあつて、其の一つが神璽と名づけられたこと、傳國璽といふ名が受命璽と改稱せられたこと、が見えてゐるから、唐代でも、傳國璽と神璽と並稱せられる場合の傳國璽は即ち受命璽と名づけられたものであり、また其の傳來からいふと、神璽も受命璽も二つながら傳國璽といはれてゐたものと解せられる。なほ、車服志に「大朝會、則符璽郎進神璽受命璽于御座、」と記されてゐ、また六典の符寶郎の條に「凡大朝會、則奉寶以進于御座、」とあつて、其の注に「今元正朝會、則進神寶及受命寶、」と見えてゐることから考へると、この儀禮の意味は神璽と受命璽とが傳國璽であるところにあるのであらうから、上記の解釋は此の點からも肯定せられる。(車服志には「天子有傳國璽及八璽」と見え、傳國璽が八璽の外にあるやうに書いてある(496)が、六典にも舊新兩唐書にも「天子之八寶」とのみあるから、二つの傳國璽と其の外の六璽とが所謂八璽であるとしなければならぬ。さうして皇帝に六璽のあつたことは衛宏の漢舊儀にも記してあるので、古くからの因襲であることが知られる。車服志の此の記載は誤であらう。)さて、我が朝で鏡劍を神璽と稱したのは、此の唐の傳國璽の一つの名を適用したのであらうが、それが踐祚の時に天皇に獻ることに定められたのも、また傳國璽の意味に於いてであり、一歩を進めて臆測すれば、その儀禮もまた唐のを摸したものかも知れぬ。(但し唐開元禮にも新舊唐書の禮志にも踐祚もしくは即位の禮が記してないから、これは臆測にとゞまる。)璽はすべて文字の刻してある印を指すのであり、さうして上記の璽の材は玉であるから、實質に於いては我が鏡劍と何等の類似の無いものであるが、それが歴代に傳へられるといふ意味に於いて、唐の名稱と其の儀禮とを適用したのである。鏡劍は決して璽と呼ばるべきものではないから、それを神璽といふのは、別に準據するところがなければならぬのであり、それを天皇に上る儀禮も、允恭紀、繼體紀、などの記載には合ふが、神代の物語に見える皇祖神の神勅の精神とは一致しないやうに感ぜられる。なほ、後宮職員令に「尚藏一人、掌神璽、關契、供御衣服、巾櫛、服翫、及珍寶、綵帛、賞賜之事、」とあるのも、やはり唐制から來てゐることを參考するがよい。此の尚藏の職務は、唐の内官の尚服局の尚服に屬する司寶の職務を六典に「掌j寶符契國籍」と記してあり、其の注に「凡神寶、受命寶、銅魚符、及契、四方傳符、」云々と見えてゐ、また唐書百官志に「掌神寶、受命寶、六寶、及符契、」とあることによつて知られる如き唐制を、其のまゝ學んだものであつて、上記の令の神璽は、集解に引いてある古記に「踐祚之日忌部上神璽之鏡劍」といつてある如く、やはり鏡劍をさしてゐるに違ひない。「神璽之鏡劍」が令の作られた頃に何處に安置してあつたかは、史上に明白な記載が無いけれ(497)ども、崇神朝新造の説話の語るところと、後に神鏡の奉安せられた賢所が内侍所とも稱せられ、また劍(と玉と)が夜の御殿に安置せられたこととから推測すると、それは常の御殿に、即ち「同床共殿」に、安置してあつたものと考へられ、從つてそれに奉仕するものは後宮の女官であつたらうと思はれるからである。(これによつて見ても、内侍所は神鏡を奉安するところであつて、神として奉祀するところでなかつたことが、知られる。)尊貴な神璽が關契以下のものと列記してあるのは、ヤゝ妥當でないやうでもあるが、事實としては關契衣服珍寶などとは別に奉安してあつたけれども、同じく尚藏の職掌に屬してゐたため、上に引いた如く書かれたのであらう。もしかう解することができるならば、後の内侍所に契が置いてあつたことも、またこゝに何等かの由縁があるのではなからうか。(續日本後紀及び文コ實録の嘉祥三年三月の條、又は清和實録の天安二年八月の條などの天皇崩御の記事に「天子神璽寶劍符節鈴印等」を皇太子に上つたことが見えてゐて、符節鈴印が劍璽と共に取扱はれたことも、また注意せられる。これらの記事に見える神璽は、寶劍と並記してあるところから見ると、玉をさしたものであるらしく、從つて此の時代には鏡が既に内侍所として別殿に奉安してあつたらうと思はれるが、それでありながら斯ういふことの行はれたのは、内侍所の契と共に、上記の令の規定に何ほどかの由來があるのではあるまいか。)公式令に「天子神璽、寶而不用、」とある「寶而不用」も、また伴信友が三璽辨に述べてゐる如く、新唐書車服志の「神璽、以鎭中國、藏而不用、」に似てゐるから、車服志の材料ともなり我が國にも傳へられてゐたはずの、唐初の制度を記したものから採つた文字であることが知られるが、たゞ此の場合の「神璽」は、義解に「踐祚之日壽璽」と説いてある如く鏡劍を指してゐるとは思はれぬ。鏡劍のことは公式令に規定せらるべきものではなく、また此の次に印のことが記してあることから推測する(498)と、此の神璽は何等かの文字を刻した印をいつたものとするのが、當然であらう。事實、我が國でも「天皇御璽」の印があつた如く、璽は印の意義にも用ゐられてゐたのである。しかし、傳國璽たる唐の神璽ならば「寶而不用」に意味があるが、初から用ゐない印を作つて置くといふのも、またそれを神璽と稱するのも、頗る解し難いことであるから、これは或は文字の上で唐制を摸したに過ぎないものであらう。なほ、神寶といふ稱呼は拾遺に見えてゐて、これも上に引いた如く唐に於いて用ゐられたものではあるが、恐らくは拾遺の記者が六典のやうなものから其の名を取つて來たのではなく、書紀の注の「一書」に寶物とある如き意義での寶の字に神の字を冠らせたのみのことであらう。書紀にも、崇神紀や垂仁紀に、出雲や石上や出石の神宮について、神寶の語が用ゐてあることを參考すべきである。また、後世には神器といふ名が普通に用ゐられるやうになつてゐるが、神器の語は「老子」の「天下神器也」に由來し、天下もしくは天下に君臨する天子の位をいふのであり、昔は我が國でも其の例に從つてゐたことが、續紀靈龜元年九月、神龜四年十一月などの詔勅によつても知られ、拾遺にも同じ意義に用ゐてある。神璽の鏡劍を神器と稱したことは昔には無い。さうして、三種の神器といふ稱呼は、南北朝ごろの書物から見えはじめるやうである。以上の考説はひどくわき途へ外れた嫌はあるが、神寶についての拾遺の記載と記紀のそれとの關係、並に拾遺の説の由來するところが、之によつてほゞ明かにせられたであらう。忌部氏が特に神寶のことを力説した理由は、はじめに述べたとほりである。
 古語拾遺の記載に於いて第三に氣がつくのは、宮殿建築に關する物語である。岩戸がくれの場合にはフトダマの命の任務として「令手置帆負、彦狹知神、以天御量【大小斤雜器等之名也】伐大峽小峽之材、而造瑞殿【古語美豆能美阿良可、】」と記され、神武天皇の(499)時のこととしては「仍令天富命、率手置帆負彦狹知二神之孫、以齋斧齋?、姶採山材、構立正殿、所謂底都磐根宮柱【布都志利】立、高天風搏高【之利天】御戸排皇孫命美豆御殿造奉仕也、故其裔今在紀伊國名草郡御木麁香二郷、」とある。岩戸がくれの記紀の物語に於いては宮殿のことは記してないが、それが拾遺に於いて斯ういふ風に語られたのは、忌部氏が宮殿の祭祀を掌りまた其の建築の際にも神事を行ふ職掌を有つてゐたところから、宮殿建築そのことをも忌部氏の所管であつた如く説きなさうとしたからであつて、古物語を斯う改作することによつて忌部氏の地位を重くしようといふ意圖から出たものとしなければなるまい。さうして、其の改作は記紀の述作よりは後に行はれたのであらう。(但し、建築工匠としてのテオキホオヒやヒコサシリといふ神の名が作られ、またそれが忌部氏と關係のあるものとせられたことは、書紀編述前からのことである。後文參照。)さすれば、神武天皇の時の説話もまた同樣であり、それが、岩戸がくれのと相應ずるやうになつてゐるのも、之がためである。此の時の話が記紀には見えず、新しく作り添へられたものであることは、幣帛や神寶の物語と同じである。また、天璽の鏡劍を正殿に奉安した後の話として「懸瓊玉、陳其幣物、殿祭祝詞、」とあるが、大殿祭の祝詞を忌部氏が誦むことは前に述べたとほりであり、玉を宮殿の四角にかけることも「儀式」及び延喜の神祇式四時祭の大殿祭の條に見えてゐて、忌部氏の職掌の一つであるから、それによつて、此の物語が作られたのであらう。(玉をかけるのは、玉に呪力があるものとして、それによつて邪靈を祓ふ呪術であるらしく、古くからの風習であらう。)さて岩戸がくれの場合には、石窟から引き出し奉つた大神をかの新殿に奉遷したことにし、またその後のこととして「天兒屋命、太玉命、以日御綱【今斯利久迷繩、是日影之像也、】廻懸其殿、令大宮賣神侍於御前【是太玉命久志備所生神、如今世内侍善言美詞和君臣間令宸襟悦※[立心偏+澤の旁]也、】豐磐間戸命、櫛磐間戸命二神、守衛殿門【是並太玉命之子也、】といふことが記してあるが、こ(500)れもまた記紀の物語には見えない話である。こゝにオホミヤノメの神を特に擧げ、それをフトダマの命がくしびに生ませた子としたのは、大殿祭祝詞の終に「詞別白」として此の神を讃美した一節があることを、それについて參考すべきであり、此の神が忌部氏の關與する宮殿の守護神だからであらう。トヨイハマド・クシイハマドの二神、即ち門の神を、やはりフトダマの命の子としたのも、また、上に記した如く、御門祭を行ふことが忌部氏の特殊の任務だからであつて、神武天皇の時にも大殿祭の祝詞を奏した後のこととして、「次祭宮門」と書いてある。説話の作られた理由と作者の態度とは、かう考へて來ると愈明かになるのであり、それと共に、オホミヤノメの神やイハマドの神の如く、宗教的信仰の對象たる精靈の人格化せられた神が、或る氏族の系統のうちに加へられてゆく?勢も、また之によつて知られるのである。かの安房の神をフトダマの命としたのも、やはり同じことであつて、此の神は本來は其の土地の民衆から宗教的祭祀を受けた神であり、從つて人格を有しない精靈であつて、神代史の物語に現はれる家々の祖先とは何等の關係の無い、それとは全く性質の異なつたものである。かういふ神々が神代史の神の系統の中に加へられ、或は家々の祖先に結合せられることは、記紀の神代史に於いても既に其の形迹が現はれてゐるが、記紀によつて神の系統がほゞ定められると、それから後には益多くなつてゆくのである(第三篇十九章參照)。拾遺のこれらの物語もまた記紀の編述せられたより後の造作であることは、上に述べたところからおのづから推測せられよう。(古事記の皇孫降臨の條に、クシイハマドの神とトヨイハマドの神とを、何れもアメノイハトワケの神の別名としてあるのに比べると、こゝにそれを二神としてあるのが後の形であることは、クシもトヨも美稱として冠せられてゐるに過ぎないものであることから知られる。但し、イハマドの神は宗教的信仰に於いて門にゐるとせられた精靈が(501)人格化せられたものであり、てれをイハトワケの神としたのは、神代史の岩戸びらきの物語に結合したからであるが、かういふ神の名は其の物語には見えてゐないから、これは古事記の原本となつた舊辭に於いても、よほど後に加へられた潤色であらう。拾遺の岩戸の物語にイハマドの神をはたらかせたのは、かの宮殿の門の守衛としたのであるから、古事記のとは全く別の考へ方であるが、宮殿を附け加へたことが、前に説いた如く、強ひて造作した無理な着想であり、後の添加である。*)
 宮殿に關する説話を考へた因みに一言すべきは、神武天皇の時のこととして「爰仰皇天二祖之詔、建樹神籬、所謂高皇産靈、神皇産靈、魂留産靈、生産靈、足産靈、大宮賣神、事代主神、御膳神、【已上今御巫所奉齋也、】櫛磐間戸神、豐磐間戸神【已上、今御門巫所奉齋也】生島【是大八洲之靈、今生嶋巫所奉齋也、】坐摩【是大宮地之靈、今坐摩巫所奉齋也、】」とあることであつて、これは皇孫降臨の際に於ける大神及びタカミムスビの命の勅として「吾則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣、汝天兒屋命太玉命二神、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉、」と記してあることに應ずるものであり、神名帳に見える御巫祭神、御門巫祭神、生島巫祭神、及び座摩巫祭神、の神座を此の時に高天原より持ち降つた神籬と見たのである。こゝにはこれらの祭祀と忌部氏との關係が明かには書いてないが、皇孫降臨の時のこととしては、上に引いた文の後に「宜太玉命、率諸部神、供奉其職、如天上儀、」と記してあるから、これもまたこれらの神々の祭祀を忌部氏の職掌として説かうとしたものらしい。少くとも、それを暗示しようとしたのであらう。ところが、天津神籬をいつきまつることをアメノコヤネとフトダマとの二神に命ぜられたといふこゝの記載は、書紀の注の「一書」の文をそのまゝ取つて來たものであるのに、フトダマの命のみに命ぜられたといふことはそこに見えず、話そのものが書紀の記載と矛盾してもゐるから、これは書紀のでき(502)た後に忌部氏の構造したことと見なければならぬ。またこゝに引いた拾遺の文に「皇天二祖」とあるのは、タカミムスビの命と大神とを指したものであらうから、その詔によつてタカミムスビの神を含む八神の神籬をたてるといふことは、矛盾である。(書紀の注の原文の如く、神籬に關する勅をタカミムスビの命のみのものとすれば、なほさらであるが、それを變改した拾遺の文によつてみても、かう考へねばならぬ。)書紀の注の「一書」の記載によつたところと、拾遺の作者の新に構造したこととをつなぎ合はせたために、かういふことが起つたのである。
 なほ、所謂御巫祭神の八座が果して古くから揃つてゐたかどうかも問題である。續紀天平九年八月の條に「給大宮主御巫、坐摩御巫、生島御巫、及諸神祝部等爵、」とあつて、坐摩生島の御巫と共に大宮主御巫を擧げてあるのを見ると、これは神名帳の御巫祭神の御巫に當るものらしく、從つてオホミヤヌシはオホミヤノメの神を指してゐるものと思はれるが、もしさうとすれば此の御巫の祭る神が八座ではなく單に大宮主となつてゐることを考へるがよい。「大宮主御巫」の「大宮主」を神の名とすることには幾らかの疑問も無いではなく、「坐摩御巫」の「坐摩」も神の名ではないが、しかし「生島御巫」の「生島」は神の名であり、坐摩とても後にいふやうに神についての稱呼ではあるらしく、さうして次に「諸神祝部」とあることから類推すれば、上記の種々の「御巫」もまた諸神の御巫と解すべきものであり、從つて「大宮主」も「坐摩」も「生島」も一括して「諸神」と呼ばるべきものと考へられるから、「大宮主」も其の神の一つをさすものとするのが妥當であらう(祈年祭祝詞に「御門の御巫」とあるのも御門の神の御巫の義であらう)。續紀慶雲元年二月の條に大宮主といふ神職の神祇官にあつたことが見えるから「大宮主御巫」は大宮主の管する卿巫といふことかとも思はれるが、此の名の官職が天平九年にも存在したかどうか不明であり、其の職掌も知(503)り難い。また、續紀養老三年六月の條、官位令集解に見える神龜五年七月の格、弘仁九年五月の格、及び延喜の神祇式、に宮主といふ神職の名も見えるが、神祇式によると、其の職掌は宮廷のことに關するものではないやうである。だから「大宮主御巫」の「大宮主」を官職の名として見ることはむつかしく、またもしさう見ようとすれば、「坐摩御巫」以下の例にも背反するから、それはやはり神の名とするより外は無からう。(上記の神龜五年の格によると、宮主は中臣忌部と同樣に取扱はれてゐるやうであるが、もしさうであるならば、それは官名としてはやゝ解し難い。神祇式に「凡宮主、取卜部堪事者、任之、」とあるのが、もし古くからの慣例であるならば、宮主は官名ではなくして、職務の名であつたらうか。さうしてそれが宮主といはれたのを見ると、本來は宮殿に何等かの關係のある職務を行ふものであつたのが、卜部が卜に關係の無い職務をも執るやうになつた如く、後には宮殿とは關係の無い神事に與るやうになつたのかも知れず、式に忌火庭火祭、忌火炊殿祭は「宮主行事」とあるのが、さういふ古い職務の名殘であるかとも臆測せられる。宮主の稱は記紀のスサノヲの命の物語に見える稻田宮主に其の例があり、古事記には之について「汝者任我宮之首」と記してあり、書紀にも「宮首」としてあるから、其の本義は宮殿の事務を管理するものといふことであつたらうが、神職としての此の名には、さういふ意義が無くなつてゐる。神職の大宮主は大宮の主か大なる宮主、即ち宮主の上長、かわからぬが、何れにしても、かういふ宮主の例から類推すれば、奈良朝に於いては、宮殿の神事を主宰するものではなかつたらう。)さて、大宮主が神の名であるとすれば、オホミヤヌシのヌシはオホモノヌシやコトシロヌシのそれと同じやうな意義でつけられたのであらう。大殿祭祝詞のオホミヤノメの神に對する讃辭を讀むと、それには「皇御孫命乃同殿塞坐」とあり、さうして此の神が宮廷の神とせられてゐるのであるから、(504)それがオホミヤヌシであることは、此の點からも確かめられようが、オホミヤノメと稱せられたのは、内廷を管理するものが内侍であるため神も女性とせられたからではないかと、推測せられる。上に引いた岩戸がくれの條の拾遺の注記が、當を得てゐるのであらう。
 なほ、上記の諸巫の祭る神々の性質を考へて見るに、御門巫祭神のは明白であるから問題は無いとして、次の座摩巫祭神の名に生井、福井、綱長井(祈年祭及び月次祭祝詞の生井、榮井、津長井)とあるイク、サク、はトヨ、クシ、などと同樣な美稱であり、ツナガも特に井についての美稱と考へられるから、これは三つの美稱を重ねたため三神に分化したので、其の本體は一つの井の神であり、阿須波の神は萬葉卷二十の歌によつて民間でも崇拜せられた家の中の神であることが知られ、波比祇も、古事記に阿須波と列記してあるところから考へると、これと同樣な性質の神であらうと思はれる。さすれば、此の巫の祭る神は何れも民間信仰から來た神であり、其の性質は日常の家庭の保護神であるらしいから、宮中でも同じ意味でそれを祭つてあつたのであらう。拾遺に「大宮地之靈」と注記してあるのは妥當ではないが、家庭生活、從つて宮廷生活、に關する神であるために、かう考へられたのであらう。それから、生島巫祭の神は神名帳には生島神足島神とあり、祈年祭などの祝詞には生國足國とあるが、何れにしても意義に違ひは無く、國もしくは島を人格化したものであるが、祝詞によると、それは皇室の國家統治に關する意味に於いてであるから、拾遺に「大八洲之靈」と注記してあるのが中らずと雖も遠からざる解釋であらう。さうして、祝詞ではイクとタルとの二つの美稱を有する「クニ」の語を二つ重ねてイククニ-タルクニといふ一神の名にしてあるが、神名帳ではそれがイクシマとタルシマとの二神に分化してゐる。坐摩神社といふのが攝津西成郡にあり、生國咲(幸)國魂神社(505)といふのが東生郡にあるところから、其の方が本であり、宮中のはそれをうつしたのであらう、といふやうな考が眞淵以後の國學者の間にあつたが、座摩巫祭神の性質が上に説いたやうなものであるとすれば、此の神たちについてはさう考へることはできぬ。また生國咲國魂は大國魂といふのと同じで、イクもサクもオホも神の名に加へられる美稱でありイククニ-サククニダマはイクとサクとの美稱を有する「クニ」の語を二つ重ねて一神の名としたまでのものであるから、これは大和その他の諸國にある國々のクニダマの神と同性質のものと見るべきである。イククニ・タルクニといふのも、名のつけ方はそれと同じであるが、宮中のは大八島國全體に關するものであるから、その點では、國々のクニダマの神と同一視しがたい。(國學者などの考は、これらの神々を過去に生存した人として見るところから來てゐるのであるが、それはもとより問題にはならぬ。)
 さて、これらの御巫の祭る神に比べると、御巫祭神の八座はあまりに種々の神であつて其の間に統一が無い。此の中で、カミミムスビとタカミムスビとの二神は記紀の神代史に於いて既に存在するが、イクムスビとタルムスビとの二神は、イク、タル、がタカ、カミ、と同じ美稱であることから考へると、タカミムスビとカミムスビとの名に本づき、それと同じ方法によつてムスビの神の名を幾重にも重ねようとして作られたものであり、記紀編述後に現はれた神であると見なければならぬ。さうして、これらはオホミヤノメの神とは全く性質が違ふ。オホミヤノメの神は宮廷の神であつて、家に家の神があると同じ意味に於いて信仰的性質を有つてゐ、宗教的に宮中の日常生活を支配する神であるから、皇室の御祖先とせられて政治的意義を有しまた其の本質からいへば思想の上で形づくられたムスビの神の如きものではなく、從つて記紀の神統史にも加へられてゐないものである。ヒメといはれずして單にメと稱せられ(506)てゐることも、またこれに關聯して考慮せらるべきであらう。また、タマツメムスビの神は、其の名から推測すると、多分、ミタマフリがミタマシヅメに轉じた後に生じた神であり、もとは鎭魂祭の場合に祭られたものがこゝに加へられるやうになつたのであらう。なほコトシロヌシの神やミケツ神やも、上記の神々と同じ範疇には入らぬものである。ミケツ神は食物の神で宗教的に意味の深い神ではあるが、大殿祭祝詞のオホミヤノメの神の讃辭に朝夕の御膳のことが見えてゐるから、こゝではオホミヤノメの神が御膳のことをも支配するやうになつてゐたらしく、從つて別にミケツ神は祀つてなかつたのではなからうか。さうして、ミケツ神は大膳職にも祭られてゐて、其の方が、神の性質上、當然であるから、こゝのは後に加へられたのであらう。(鎭魂祭にはこゝの八神が祭られることになつてゐるが、それは後世に始まつたことらしい。ミタマフリが祭祀化したはじめに如何なる神が祭られたかは明かでないが、ムスビの語に魂の字をあてることが古くからの思想を繼承したものであるとすれば、何時からかムスビの神を祭るやうになつたのは、極めて自然のことであり、タマツメムスビの神の新に生じたのも當然であらう。タマツメムスビのムスビは、ムスビの神のそれに一致させたものであると共に、結びとゞめる意義をも現はしたものらしく、木綿を結ぶ呪術的儀禮の生じたのも、或はムスビの神や此の神の名に誘はれた氣味もあらうか。しかし、コトシロヌシの神やミケツ神はミタマフリには關係が無いものであるから、それはこれらの神が幾つかのムスビの神と共に八神として御巫の祭る神であつたため、それに誘はれて鎭魂の祭の時にも祭られることになつたのであらう。)
 かう考へて來ると、御巫祭神が八座であるのは古い制度でないことが、いよ/\確かめられるやうである。大殿祭祝詞の終に別白としてオホミヤノメの神のみの讃辭があるが、八座の神が一團として祭られてゐたならば、かういふ(507)ことのあるのはをかしいから、此の祝詞の書かれた時には、まださうなつてゐなかつたのであらう。大宮主御巫と呼ばれてゐたものが後には單に御巫とのみ稱へられたのも、祭神がオホミヤヌシのみでなくなつたからではあるまいか(もしさうとすれば、オホミヤヌシがオホミヤノメの神を指したものであることは、之によつて逆に證明せられる)。なほ、オホミヤノメの神が宮廷に於いて祭られたことは齋宮に其の例があるので、齋宮式の祭神を列記したところに大宮賣神四座、御門神八座、御井神二座、卜庭神二座、地主神一座とある。卜庭、地主、は別として、オホミヤノメの神と御門、御井、の神とが祭つてあることは、皇居に於いてオホミヤノメの神と門の神と座摩の巫の祭る井の神とがあるのと照應するものであり、從つてそれは皇居の制度を摸したものではあるまいか。なは、座摩御巫の祭神も其の初はたゞ井の神のみであつたかも知れぬ。眞淵のいつたやうに、座は井の假字らしいからである。四時祭式に御川水祭は座摩巫が事を行ふとあるが、これも水の神を祭るためであるらしいことが、參考せられる。イクシマの神タルシマの神も生島御巫といふ稱呼のつけられた時には、まだ二分せられざる一神であつたらう。宮中の祭神の異動については、續紀天平三年正月の條に「神祇官奏、庭火御竈四時祭祀、永爲常例、」と見える如く、祭祀に關する新規定が奈良朝に於いて作られた例のあることをも、考ふべきである。(オホミヤノメの神は、延喜の神名帳及び四時祭式によると、造酒司にも祭つてあるのであるが、造酒式にはそれが見えない。これも造酒司で祭られるやうになつたのは後のことで、神名帳などは其の新制によつて記されたものであり、さうして造酒式に古い式の文が遺存してゐるのではなからうか。)余はこれらの理由から、こゝの神が八座とせられたのは、早くとも天平九年より後のことであらうと推測する。
(508) さてかう推測することができるとすれば、神武天皇の時のこととして上記の諸巫の祭る神々のことを拾遺が述べてゐるのは、決して古傳でないことが知られる)これは、大殿祭を行ふ忌部氏がオホミヤノメの神の祭祀を司るところから、それを廣く一般宮廷の神に及ぼして説いたのである。それから、なほ溯つて考へると、オホミヤノメの神を大殿祭に於いて忌部氏が祀るのも、或は古い習慣ではないかも知れぬ。大殿祭祝詞を讀むと、宮殿の神にはヤフネの命、ヤフネククノチの命があつて、オホミヤノメの神とは重複してゐるやうにも見えるが、しかし前者が、木の靈を意味する、建築物としての宮殿の神、後者が宮廷生活の神であるとすれば、此の疑は解ける。其の代り、建築物としての宮殿の祭祀を司る忌部氏がオホミヤノメの神を祭ることに疑問が生ずるのである。忌部氏は宮殿建築に關與するものであり、從つて建築物としての宮殿の神を祭るのが本務であらうから、オホミヤノメの神を祭るのは、宮殿に關係があるため、後になつて附け加へられたものと推測せられ、祝詞に於いても此の神に關する一節は、其の書きかたの上から考へて、後の添加と見なすのが妥當であらう。(宮殿に關する部分にトヨウケヒメの命の名の出てゐるのも後の補入らしいこと、また此の祝詞に「神直日命大直日命聞直見直」とあるのを御門祭祝詞の「神直備大直備見直聞直」に比べてみると、其の方が原の形であつて、大殿祭のは後に改めたものらしいことも、參考せられる。)神の祭祀についても、時によつていろ/\の變遷があつたのである。
 考説が拾遺の記載からはやゝ離れて來たやうであるが、立ち歸つて拾遺を見ると、やはり神武天皇の時の話として「神物官物、亦未分別、宮内立藏、號曰齋藏、令齋部氏永任其職、」と記してある。これもまた忌部氏の神事に關與する職掌から考案せられたものであらうが、宮殿を管理したといふ主張も、またそれを助けてゐよう。齋藏といふものは、(509)事實、上代の皇居にあつたであらうが、それは神物を藏する特殊の倉庫であつたはずである。イミクラのイミはイミベのイミと同じく、後にいふやうに、宗教的意義に於いての禁忌をいふのであるから、一般の物品を置く倉庫とは嚴格に區別せられてゐるところに、齋藏の存在の意義がある。だから「宮内立藏、號曰齋藏、」といふのと「神物官物、亦未分別、」といふのとは矛盾の言であり、從つてそれは決して古くからのいひ傳へなどでないことが、イミクラといふ語の存在そのことから證明せられる。幣帛を取扱ふ忌部氏は、或は齋藏を管理したでもあらう。しかし、よしさうであつたにしても、其の齋藏は神物と區別せられない官物を藏するところではなく、忌部氏はすべての物品の倉庫を管理したのではない。それをかう記したのは、忌部氏が其の家の權威を誇張して説かうとしたからである。さて、拾遺は齋藏を上記の如くいひなしたため、官物の藏と神物のそれとが併立してゐる實際  状態の起原を、それに照應するやうに、説かうとして「齋藏之傍、更建内藏、分收官物、」といひ、それを履仲朝のこととしたのであるが、記紀の此の朝の藏官、または藏職、藏部、についての記載を見ると、藏のつかさともいふべき官職の家が履仲朝に始まつたといふことは、記紀編纂の前からいはれてゐたことが知られるので、拾遺はそれによつて二藏分立の起源を此の朝にかけたのである。神物官物の未分が「帝之與神、其際未遼、同殿共床、以此爲常、」に應ずるものであるとするならば、二藏の分立は「漸畏神威、同殿不安、」といはれた崇神朝のこととするのが自然であるのに、さうなつてゐないのは此の故であつて、忌部氏の新しい造作と古くからの説とを強ひて結合したために、かういふ思想の齟齬が生じたのである。なほ、雄略朝に大藏が建てられ、秦氏が其の出納を掌ることになつたやうに記されてゐるのは、姓氏録にも見えてゐることであるから、もとは秦氏の家譜からでも出たことらしく、また秦氏に大藏造のカバネを有するものがあつたこ(510)とは、阿知使主の子孫と稱するものに内藏造があつたことと共に、大化改新前の事實であらうから、これは忌部氏の造作ではないが、王仁を内藏のことに、また其の後であるといふ西の文氏を内藏及び大藏の事務に、關與させたのは、此の家が阿知使主の後とせられてゐる東の文氏に對するものであるところから生じた思想の混亂から來てゐよう。漢氏(阿知使主の家)に大藏の氏のものがあるやうに記したのも、古い傳へではないが、これは續紀延暦四年六月の條の記載にも見えてゐることであつて、漢氏が其の家の權威を主張するために其のころに宣傳したことらしく、拾遺はそれに從つたのであらう。(附記。拾遺が八色の姓の一つである忌寸に注して「蓋與齋部共預齋藏事、因以爲姓也、」といつてあるのは、忌の字からの附會であつて、忌部氏が齋藏を管理したといふ上記の主張にも背くものである。)
 以上は歴史的事實としての忌部氏の三つの職掌に對應する古語拾遺の記載についての考察であるが、こゝまで説いて來ると、「太玉命所率神名曰天日鷺命【阿波國忌部祖也、】手置帆負命【讃岐國忌部祖也、】彦狹知命【紀伊國忌部祖也、】櫛明玉命【出雲國玉作祖也、】天目一箇命【筑紫伊勢兩國忌部祖也、】」といふ、篇首の一節の意義が明かになる。これは、上に述べた種々の物語に於いて、幣帛の材料の製作者や宮殿建築に關與したものをすべてフトダマの命の配下とすると共に、それらを諸國の忌部の祖としたのである(たゞ玉作だけは忌部とはしてないが、このことについては後にいはう)。これらの諸神の名と、それを一群として取扱ふこととは、既に書紀のオホナムチの神の服屬の條の注の「一書」の記載に見えてゐるので、そこには「以紀伊國忌部遠祖手置帆負神定爲作笠者、彦狹知神爲作盾者、天目一箇神爲作金者、天日鷺神爲作木綿者、櫛明玉神爲作玉者、」とある。(此の一節はオホモノヌシの神の歸順の話にあるが、オホナムチの名で敍述せられて來た物語に於いて、それが突如としてオホモノヌシの名に變つてゐること、オホナムチが長く隱れたとある後、再びオホモノヌシの歸順が語られ(511)てゐることを見ると、此の歸順の話は、此の「一書」に於いても、主なる物語とは別の材料から取つてつなぎ合はせたものであることが知られる。さうして、それはオホナムチの服從の物語の最後の變形であらう。)さて、此の「一書」には、この文を承けて「乃使太玉命、以弱肩被太手繦、而代御手、以祭此神者、始起於此矣、且天兒屋命主神事之宗源者也、故俾以太占之卜事而奉仕焉、」と書いてあるのによると、フトダマの命を此の神の祭祀を掌るものの主位に置いて語つてゐるのであるから、此の話は、多分、忌部氏から出たものと思はれるが、しかし、拾遺の説のごとく上記の諸神を盡くフトダマの命の部下としてあるやうには見えぬ。但し、テオキホオヒの命は紀伊の忌部の祖とせられてゐ、また上にも引いた別の「一書」にはヒワシの命を阿波の忌部の祖としてあるから、書紀の完成した前から此の二神の名があり、それが忌部の名と結びつけられてゐたことは知られる。
 此の中で、ヒワシを阿波の忌部の祖としてあることについては上にも述べたが、大嘗會の場合に阿波から麁妙の服を納めてゐたことが大嘗祭式によつて知られ、それは忌部氏の取扱ふ神祇官の幣帛に用ゐられる木綿もしくは麻が主として阿波の所産であつた舊習の名殘であらうから、木綿を作つたといふヒワシが阿波の忌部の祖とせられたのは、此の意味からであつたに違ひない。次に紀伊は建築用材の産地であることを思ふと、拾遺の神武天皇の時の物語にも現はれてゐる如く、紀伊と忌部氏との關係は忌部氏が宮殿建築の場合の神事について特殊の職掌を有つてゐたところから派生したものであること、詳しくいふと、木を伐り出す時からの神事を忌部氏が司つてゐたからであること、は疑が無く、さうしてテオキホオヒは、ヒコサシリと共に、拾遺の説話に於いて建築工匠となつてゐるのを見ると、テオキホオヒを紀伊の忌部の遠祖としてある書紀の「一書」の説は、それを讃岐の忌部の祖としてある拾遺の説よりも自(512)然である。現に拾遺でも、神武天皇のところには其の裔がヒコサシリの子孫と共に紀伊にゐることになつてゐる。拾遺の、前に記した、説の生じたのは、ヒコサシリを紀伊の忌部の祖と定めてしまつたため、テオキホオヒを別の土地にあてねばならなくなつたからのことらしく、さうして、拾遺の物語に於いて此の神が、工匠として、矛を作つたことになつてゐ、矛(槍、桙)の木は、四時祭式の祈年祭の條及び臨時祭式によると、讃岐國から毎年進納することになつてゐ、またそこに忌部を稱するものがゐたため、此の物語と實際の習慣及び事實とを結合して作られたのであらう。なほ、書紀の注の「一書」にはテオキホオヒを作笠者、ヒコサシリを作盾者としてあるが、これは拾遺の説の如く二神が笠と矛盾とを作つたといふのが原の話であり、それを二神に分掌させることにしたのである。二神は、其の名稱から考へても、建築工匠として語り出されたものと思はれるから、笠や矛盾やを作るといふのは派生的の話であり、從つて此の「一書」の書かれる前に、二神が建築工匠として語られ、またそれが宮殿建築の神事を司つてゐた忌部氏と何等かの關係のあるやうに説かれてゐたのであらう。「一書」の記載ではオホモノヌシの神の祭祀の物語にそれが適用せられたためゝ建築をいふ必要が無く、從つて第二義的の笠と矛との作者となつてゐるものと解せられる。以上、説いて來たところを綜合して見ると、阿波と紀伊と讃岐とに忌部を稱するものがゐたことと其の祖先が忌部氏の祖先の部下とせられてゐたこととが、知られるが、阿波に忌部がゐたことについては上に述べた如く續紀に明證があり、紀伊にも名草郡に忌部を氏とするもののあつたことが同じく續紀の寶龜十年六月の條に見えてゐる。讃岐のは史上に現はれてゐないやうであるが、阿波紀伊のから類推して、やはり事實であらうと思はれる。さうして、何故にこれらの三國に忌部を稱するものがゐたかも、また上記の考説によつて解釋せられたはずである。それは、朝廷に於(513)える忌部氏の職掌を行ふに必要な材料を供給するところであつたため、そこに忌部氏の部下がゐたからだと考へられるのである。其のところ/”\の忌部の祖先を忌部氏の祖先の部下としてあるのは、此の事實の反映である。さて、上記の  状態は大化改新以前からのこととしなくてはならぬが、その因襲は後までも殘つてゐる。從つて、祖先の擬定も大化以前に行はれたのか又は其の後のことか明かでないが、それは何れにしても、テオキホオヒの如きは一旦定められた後になつて變改せられたものらしい。
 然らば、アメノマヒトツの命が筑紫と伊勢との忌部の祖とせられてゐるのは何故かといふに、それは太宰府と伊勢神宮とに忌部氏の部下がゐたためであらう。拾遺の忌部氏の愁訴の第七條に「凡奉幣諸神者、中臣齋部共預其事、而今太宰主神司、獨任中臣、不預齋部、所遺七也、」とあるが、太宰府の主神は朝廷に於ける神祇官の地位に當り、其の職務を小規模に行ふものであるから、祭祀の事務に服するものとして中臣忌部兩氏の部下がそこに配置せられてゐたのであらう。後にいふやうに、中臣習宜朝臣が主神に任ぜられてゐた實例のあることを參考すべきである。忌部のものは、主神などにならなかつたためであらう、史上に名は見えないが、少くとも太宰府設置の當時には、忌部氏の部下がそこにゐたと推測せらるべきである。それから、伊勢神宮にも中臣忌部二氏の部下があつたことは疑が無く、神祇式の所々にそのことが見えてゐ、特に神宮造營に關しては、朝廷の宮殿の建築と同樣、忌部が特殊の地位を有つてゐたらしいことが、それによつて知られる。續紀天平寶字二年八月の條に「中臣忌部、元預神宮常祀、不闕供奉久年、宜兩氏六位已下加位一級、」とあるのも、神宮勤務の兩氏の部下についてのことであらう。神宮の宮司は愁訴の第三條に見える如く中臣氏であつたらうが、神職には忌部氏の部下がゐたのである。筑紫伊勢の忌部を余は斯う解釋するので(514)あるが、紀伊や讃岐や阿波に忌部のあつたことが上記の如き理由からであつたとすれば、其の類推からでも此の見解は首肯せられるであらう。しかし、それらの忌部の祖をアメノマヒトツとしたのは、無意味である。此の命は刀劍製作者として語られてゐるのであるから、太宰府や神宮の神職の地位にも職掌にも何等の關係が無い。さすれば、これは此の命が忌部氏の祖先の部下として物語に現はれてゐたため、強ひて兩所の忌部の祖先に擬せられたまでであらう。伊勢と筑紫とは土地が隔絶してゐるのであるから、兩所の忌部は、何れも同じやうに朝廷の忌部氏の配下に屬してゐて共に神事に關與してゐるといふことの外には、其の間に何等の連絡のあるものではないのに、それが祖先を同じくするものの如く説かれてゐることを考へるがよい。阿波や紀伊や讃岐やのそれとは違ひ、兩所の忌部には特殊の産業上の關係が無いから、さういふ點からそれ/\の祖先を作ることができなかつたので、かういふ擬定がせられたのであらう。さうして、それは太宰府の存在する時に行はれたはずであるから、大化より後のことである。
 そこで最後に考ふべきは、出雲の玉作の祖であるといふクシアカルダマの命についてである。これは岩戸がくれの時に玉を作つたといふ話のある命であるが、クシアカルダマといふ名は玉にクシとアカルとの二つの美稱を重ねて加へ、さうして、玉を人格化したものである。同じ話の玉作の祖を書紀の注の「一書」にトヨタマとし、別の「一書」にアマノアカルダマとしてあるのも、また同じやうにして作られた名である。たゞ、古事記には此の神がタマノオヤといふ名になつてゐて、玉祖連の祖としてあるが、これは神の名も家の名も、玉を作るといふ意義に於いて、玉の祖としたのであらう。天武紀に玉祖連とあるから、其のころには氏の名を斯うも稱してゐたらしく、古事記はそれに本づいて書いたのである。書紀の注の「一書」に玉作の祖タマノヤとあつてタマノヤはタマノオヤであらうから、氏の(515)名は玉作ともいはれてゐたに違ひない。さて、玉作として最も有名なのは出雲のそれであつて、臨時祭式に出雲意宇郡の神戸玉作氏の造る玉を毎年進納するやうに書いてあるのは、古い時代からの習慣であらう。此の玉は御富岐(美保伎、御祈)玉と稱せられ、大殿祭祝詞に「齋玉作等持齋【波利】持淨【麻波利】造仕【禮留】瑞八尺瓊御吹【伎乃】五百御統玉、」とある如く、神事に用ゐられるがために「ミホギ」の名を負うてゐるのであり、忌部氏の管理するものであつたから、拾遺では其の祖先とせられたクシアカルダマの命を忌部氏の祖の部下とし、岩戸がくれの物語にも神武天皇の時の話にも、此の命の名を擧げたのである。(ホグの原義は呪術のことであらう。玉に呪力があるからホギ玉である。「ことほぐ」が呪力のあることばを唱へることであり、ことばの呪術をいふのであることが、參考せられよう。)しかし、玉作氏は古くから獨立の家として世に知られてゐたものであつて、決して忌部氏の部下たる忌部として取扱はるべきものではない。だから、拾遺も一方ではクシアカルダマをフトダマの命の命を受けたものとしながら、これに限つて明白に「玉作祖」と記してあるのである。玉は忌部氏の職掌にとつては最も重要なものであるので、それは大殿祭の祝詞によつても知られる。其の家の祖先をフトダマとしたのも此の故であつて、フトはフトノリト、フトマニ、などのフトと同じ意義であり、それが玉の美稱として加へられたのである。拾遺がスサノヲの神の日の神に獻じた玉によつて日の神が吾勝尊(オシホミミの命)を生まれたといひ、特に玉のことを強調して説き、さうして其の玉をクシアカルダマの命がスサノヲの神に獻じたものとしたのも、また同じところに思想上の由來がある。それにもかゝはらず、玉作氏は玉作氏として獨立させてゐるのは、上記の如き理由があるからである。
 しかし、玉作氏は忌部氏と無關係ではない。出雲風土記によれば意宇郡に忌部神戸があつて、玉作部の住地と接近(516)してゐたらしいが、それは、多分、忌部氏が玉作部と何等かの交渉をなし、或はそれを監督する事務上の必要から置かれたものであらう。風土記には「國造神吉詞奏參向朝廷※[日+之]、御沐之忌里、故云忌部、」とあるが、これは忌部〔右○〕といふ名を負うた神戸の説明にはならない。所謂玉造湯で國造が沐浴したことは事實でもあらうが、忌部神戸はそれとは全く別のものであるのに、土地が接近してゐたため、かういふ記事が作られたものと解せられる。風土記の地名の説明が概ね附會であることを參考するがよい。さすれば、これもまた忌部氏と玉作氏との關係を知るべき一材料であり、拾遺が上記の如き説をなしたことの意味を語るものである。岩戸がくれの物語に於いては、鏡作の祖であるといふイシコリドメをも、やはり、フトダマの命の部下のやうにいつて置きながら、それをこゝではクシアカルダマと同樣には取扱はず、「太玉命所率神名」の中に列擧してゐないのと對照すれば、このことは一層明かにならう。鏡を玉やにぎてと共に木につけて神に捧げるといふ話は、祭祀の場合の實際の風習にもとづいて作られた話に違ひなく、景行紀や仲哀紀の神夏磯姫や崗縣主や伊覩縣主の物語はそれから轉じて來たものであらう。(景行紀や仲哀紀の物語は天皇に歸服し天皇を迎へるためにしたといふのであるから、かう考へられるのである。鏡や玉や劍を木につけて立てるといふことの本來の意味は、これらのものの呪力によつて惡靈を克服することであつたらうし、舟にそれをたてるのも同じ意味であり、或は戰に臨んで敵を壓服するためでもあつたらう。しかし、記紀の物語では、もはやそれが變つてゐて、神に捧げるみてぐらとなつてゐる。)なほ古事記の允恭天皇の卷の輕皇子の歌といふものに齋杭眞杭に鏡と玉とをかけることが見えるのも參考せられようし、鏡を神に手向けることは萬葉の五の卷の戀男子名古日歌、又は十八の卷の大伴家持の作にもそれがある(たゞ齋串とか玉串とかにつけたものであるかどうかは、歌の上では明かでないし。遷却(517)祟神条の祝詞に玉と鏡とが幣帛のうちに加はつてゐるのも、此の故である。しかし、神祇式によれば、忌部氏の取扱ふ祈年祭月次祭のみてぐらの目録には玉も鏡も無く、大殿祭には玉は用ゐるが鏡は使はない。從つて、奈良朝のころに於いては、鏡は忌部氏には縁が無いものであつたらしい。イシコリドメの命が「太王命所率神」とせられなかつたのは此の故であり、たゞ鏡をみてぐらの材料としたと傳へられてゐる神代の物語に於いてのみ、イシコリドメをフトダマの命の部下の如くに説きなしたのであらう。フトダマの命の部下として忌部氏の語つてゐるアメノマヒトツの神は刀劍工としてであるから、それは上に述べた如く、事實上、忌部氏の職掌に關係があるのである。崇神朝の鏡劍製作の物語に於いて、イシコリドメとアメノマヒトツとの子孫を其の製作者としてあるのは、鏡について岩戸がくれの説話と照應させる必要があるのと、劍工としての、フトダマの命の配下の、命の名を出さうとしたのとのため、此の二人の命の名を列擧したのである。
 附記。テオキホオヒ、ヒコサシリの二人の命は、其の名が工匠たることを示すものであることから考へて、何人かの造作したものと推測せられるが、アメノマヒトツの命はそれとは違つて、直接に金工たることを示す名ではなく、また播磨風土記に此の名を用ゐた物語のあることから考へると、それが神として崇拜せられたものであるかどうかは別問題として、民間説話などに由來はあるらしく、それが採られて金工の名となつたのである。さうして、これらの命の名の現はれてゐる最古の文獻上の記載、即ち書紀の注の「一書」の物語が、上に述べた如く、忌部氏から出たものであることを思ふと、これらの命の名を作り、又は民間説話から取入れたのは、多分、忌部氏であつたらう。たゞ何故にアメノマヒトツを金工としたかは明かでないが、目の一つであるといふことが鍛冶のしごとと何等かの聯想が(518)あつたからと考へられる。因に一言する。古事記の岩戸がくれの條には、鍛人アマツマラをまぎてイシコリドメに鏡を作らせたとあるが、鏡は鑄冶するものであつて鍛冶するものではあるまいから、此の話は少しく奇怪である。「取金山之鐵」とある鐵の字はカネの語を寫したまでであつて字に意義は無からうと思はれる。或は鍛人云々の語に引かれて此の字が用ゐられたのかも知れぬが、此の話に於いて、作られたものが鏡であることは、いふまでもない。ところが、同じ物語を記してある書紀の注の第二及び第三の「一書」には鏡作の祖をアメノヌカドとしてあるから、古事記の説とこれとを對照して考へると、鏡作の祖先の名には何等かの變化があつたらしい。試に臆説を述べるならば、初にはそれがアメノヌカドとせられてゐたのであつて、イシコリドメはそれとは別に、刀劍などの鍛冶工として語られたのであるが、兩方とも金工であるために互に混淆し、或は古事記の説の如く鍛冶工イシコリドメを鏡作の祖とし、從つて鍛人アマツマラをそれに關係させるやうな説も現はれ、或は書紀の注の第三の「一書」の如くイシコリドメをアメノヌカドの子として二人を結合するやうなことも行はれたのではあるまいか。イシコリドメが初から鏡の作者として語られてゐたものであつたとも見られようが、さうすると鍛人アマツマラに關する古事記の説の出たのが解し難い。鍛人は鏡に縁が無いから、鍛人が此の物語に現はれてゐるのは、鏡のためではなくして、イシコリドメに伴つて入つてきたものと考へられる。書紀の注の第一の「一書」にはイシコリドメを冶工とし鏡を鑄造させたことにしてあるが、此の「一書」が晩出のものであることは、上に説いたところでも知られるのであるから、これは、かういふ變化の既に生じた後に書かれたものであらう。第二第三の「一書」とても古いものではなく、第二のは、既に述べた如く鏡に小瑕があるとしたことの外にも、玉ぐしを採らせたものに野つち山つちが現はれて、家々の祖先の間に宗教的(519)信仰の神、人の形をもたない神、が入りこんでゐる點に於いて、また第三のは、中臣氏の遠祖としてコゴトムスビの名、阿波の國の忌部の祖としてアメノヒワシの名が現はれてゐ、玉作の遠祖をイサナキの命の子としてあるのみならず、スサノヲの命についても、笠蓑を着て家を求めたといふ特殊の話が附け加へられ、また話の順序が普通のと顛倒してゐる點に於いて、何れも晩出のものであらうと思はれるが、其のうちに古い分子が遺存してゐるものと推考せられる。ヌカドの意義は余には解しかねるが、イシコリドメの名は鏡作りとしても刀劍工としても、いひかへると鑄冶工としても鍛冶工としても、支障が無いやうであるから、かういふ混淆が起り得たのであらう。或はまた、此の變化の裏面には鏡作部の鍛人に對する勢力間題などが潜んでゐるかも知れぬ。ところで、拾遺はイシコリドメを鏡作りとする説をとり、それと並んで新に鍛冶工としてのアメノマヒトツを擧げたのである。此の名の初めて現はれた書紀の注の「一書」では、單に作金者とあるのみであるから、鏡などの鑄冶工か刀などの鍛冶工かわからぬが、それが忌部家の説であつたとすれば、後の拾遺に現はれた如く、やはり鍛冶工として語られてゐたのであらう。
 さて、余は上文、地方の忌部のことをいふ場合に忌部氏の部下といふ語を用ゐたのであるが、このことについては更に一言を加へて置きたい。拾遺の記載によれば、地方の忌部にはそれ/\の祖先があつて、それらは何れも忌部氏の祖先フトダマの命の部下とせられてゐるが、其の子孫とも同族ともせられず、血統關係のあるものとはせられてゐない。これは、勿論、造作せられた系譜ではあるが、かういふ系譜の作られたのは、事實に於いて、朝廷の忌部氏も地方の忌部も彼等を互に同族として考へてゐなかつたからであるに違ひない。拾遺には、忌部氏自身のことをいふ時、必ず齋部の文字を用ゐ、また其の家を示す場合には概ね氏の字を書きそへてあるが、地方の忌部をば必ず忌部と書き、(520)またそれには決して氏の字を添へない。(本によつて地方の忌部のことをいふ時に齋の字が用ゐてある場合があるが、さうなつてゐるところが本によつて一致してゐないのを見ると、これは誤寫であらう。卷首の地方の忌部の祖を列記したところには、どの本にも一樣に忌の字が書いてあることによつて、それが知られる。)齋部の文字の用ゐられたのは延暦二十二年三月に忌部宿禰濱成等が忌部を改めて齋部としたからであるが、地方の忌部もやはり忌部を氏の名とし、其の中には連または宿禰のカバネを有つてゐるもの(上にも一言した續紀神護景雲二年七月の條に見える阿波麻殖郡の忌部)もあつたにかゝはらず、それが京の忌(齋)部氏と區別して取扱はれたのは、やはり同族とせられてゐなかつたからであらう。本來、イミといふ語はほゞ今日の學術上の用語としての taboo に相當する禁忌の義であり、職掌として神事祭祀に關與するものがイミ部と稱せられたのであるが、民間信仰に於ける一般の巫祝がかういはれたのではなく、朝廷の制度として置かれた神職に限つた名稱である。かういふ神職の由來は、いふまでもなく、民間信仰に於ける巫祝にあるのであるが、彼等をイミ部と呼んだ例は曾て文獻の上に見あたらず、記紀を見ても、みな祝とか巫とか巫覡とか書いてあるので、それはハフリとかカミコ又はカミナギとかいふ語にあてられたのであらう。また法令や續紀以後の國史に於いても、地方の神社の神職は祝とか禰宜とか神主とかいはれてはゐるが、イミ部とはせられてゐない。たゞ、古事記の神武天皇の卷に忌人といふ名が見えてゐて、それも神事に與るものの一般的稱呼を採つたものかと思はれるし、物忌といふ神職の名のあつたことも神祇式などによつて知られるが、イミ部といふ名は一般的には決して使はれてゐない。それは恰も中臣の名と同樣であるので、ナカツオミといふ語は、多分、神人の中介者といふ意義であらうと思はれるが(中臣氏の家傳に「相和人神之間、仍命其氏曰中臣、」とあること參照)、それは決(521)して一般の巫祝の稱呼ではなく、朝廷の神事を司るものの名であつた。中臣氏も忌部氏も此の職掌が世襲的になつたために生じた家であるが、それは後に詳しくいふこととして、忌部については、地方に其の名を稱するものが上に列擧した諸地方に限られてゐることも、また之を證する。さすれば、忌部と稱する以上、朝廷の忌部氏と何等かの關係がなくてはならぬが、上に述べた如く同族でないことは明かであるから、それは忌部氏の部下であつたとする外はないのである。ところで、忌部氏と地方の忌部との此の關係は、太宰府のを除く外は大化改新の前に存在してゐたはずであるが、其の後とても因襲的に或る程度の連絡は保たれてゐ、それによつて昔の?態も知られてゐたのであらう。それ故にこそ、拾遺に見えるやうな物がたりが作り得られたのである。特に、伊勢神宮と新に設けられた太宰府とにゐる忌部は、いはば神祇官に於ける忌部氏の職務を代行するものであるから、其の間の關係は、少くとも其の初に於いては、可なり密接であつたと推測せられる。これは、阿波や讃岐や紀伊の忌部の如く、特殊の産物の上から忌部氏と關係を有するのみであり、また一般的の地方行政體系に組込まれてしまつてゐる土地にゐるものとは、樣子が違ふのである。なほ、拾遺に説いてあるやうに、安房の神戸に忌(齋)部氏のあるのが事實であつたとすれば、それは此の神をフトダマの命としたためであつて、忌部氏の特殊の意圖によつて、そこの神戸の或るものに忌(齋)部を名のらせたものであらう。他の地方の忌部とは違ひ、こゝにのみは「齋部氏」としてあるのも、此の故である。話の上では阿波の忌部に由來するもののやうに語られてゐながら、神戸のことを記す場合に斯う書いてあるのは、物語が架空の物語であることを示すものである。
 さて、血族關係の無いものが同じ氏の名を冒すことは、忌部氏の競爭のあひてである中臣氏に於いても、また其の(522)例がある。これは大化改新以前の?態としては明かにわからぬが、伊勢神宮の神職としての中臣は、忌部と同樣、そのころから朝廷の中臣氏の部下であつたはずであり、改新以後の太宰府の中臣もまたさうであつたに違ひない。道鏡の問題で有名になつた中臣習宜阿曾麻呂は太宰府の主神であつたが、これは或は世襲的に太宰府に勤務してゐた中臣であつたのではなからうか。よしさうでないにしても、阿曾麻呂の地位は明白であるが、これは中臣を冒しながら朝廷の中臣氏とは全く血統關係を有つてゐない別の家である。姓氏録を見ると、中臣習宜朝臣の家は、中臣熊凝朝臣、中臣葛野連、などと共に、何れもニギハヤビの命の後としてあり、コヤネの命の後となつてゐないので、このことが推測せられる。系譜を作るに當つて朝廷の中臣氏と別の家であるやうにしたのは、上に地方の忌部について述べたと同樣、事實、同族でなかつたからだと見なければならぬ。さすれば、それらが中臣の名を有つてゐたのは中臣氏の配下のものであつたからに違ひない。(習宜連といふ家の名が文武紀元年に見えてゐることを思ふと、習宜は地名らしく考へられる。こゝに擧げた葛野、また次にいふ殖栗、伊香、伊勢、などが地名であること參照。)奈良朝に於いて中臣の氏を稱しながら中臣氏と血族關係の無いものは、なほ他にも例があるが、それが如何なる事情でさうなつてゐたかは、ほゞ推測のできるものもあり、不明なものもある。中には、中臣氏に勢力があつたため、それに?縁するを利とするやうな考から出たものもあらう。一二の例を擧げて見ようなら、續紀天平十一年正月の條に中臣殖栗連といふのが見えるが、姓氏録に「大中臣同祖」と記されてゐる殖栗連は即ち其の家であらうから、これは何の時にか中臣の二字を除いたものであらう。然るに、天平寶字八年七月の條に「殖栗占連咋麻呂訴請除占字、許之、」とあり、占ひが中臣氏と關係のあるものであることを思ふと、これも同じ家であつて、中臣を除いたのは此の年よりも前のことらしい。(523)ところが、ずつと前の和銅二年六月の條に「殖栗物部名代賜姓殖栗連」と見えるのも、やはり別の家ではあるまいから、此の哀はもと殖栗に住んでゐた物部の部民であつたのが、後に何等かの事情で中臣氏に結びつき、それによつて「占」の一字を加へ、また或時には中臣の名をも冒し、從つて其の系譜をも中臣と同祖であるやうに作つたのであらう。何故に中臣氏に結びついたかはわからぬが、神事の關係からであつたらしいことは、占連と稱したことがあるので知られよう。また、姓氏録に見える伊香連も大中臣同祖としてあるが、古風土記に出所のあるらしい帝王編年紀所引の「古老傳」に此の家の由來として近江の伊香小江の天女の物語を記してあるのを見ると、氏の名は地名から出てゐるのであり、また天女の生んだ子といふのであるから、中臣氏とは何の縁故も無いものとして傳へられてゐたことがわかる。それが中臣氏と結びつけられたのは、此の家が伊香具神社と關係があつたので、神職としての縁によつたものかと想像せられ、さうしてそれは、さうすることによつて中臣氏に結びつくことが便利であつたからに違ひない。事實としては、中臣氏の血統に屬してゐるものではない。(姓氏録に見えるところでは、この家は中臣を氏の名とはしてゐないが、系譜からいへば中臣氏の同族としてあるのであるから、中臣氏を冒してゐるものと同樣に取扱ふのが當然であらう。)また中臣伊勢連といふのがあつて、これも姓氏録にはアメノソコタチの命の子孫のアメノヒワキの命の後とあり、伊勢風土記には其のヒワキの命をアメノミナカヌシの神の後としてあつて、何れにしてもコヤネの命の家とは違つてゐるやうに系譜が作つてあるから、中臣氏の血統ではない。それが何故に中臣氏を冒したかは明かでないが、上記の例から類推すれば、ほゞ其の理由が想像せられるやうである。此の家は、天平神護二年十二月に朝臣となると同時に、中臣の名を除いてゐるが、上に記した中臣熊凝朝臣も天平十七年八月に中臣を除いてゐた。中臣氏と(524)の關係にも變遷があつたらしいが、これも權力に依附するものには有りがちのことである。何れにしても、中臣氏を稱するものは、中臣氏の血縁のあるものに限らぬといふことと、何等かの點で中臣氏の勢力の下に立つてゐたものであるといふこととの、例にはなる。(血統關係の無い家々が同じ氏の名を有つてゐたことについては、「上代の部の研究」に詳しく考へてある。)忌部氏と地方の忌部との關係は、少しも暖味の點が無く、すべてが明白であり、其の數も極めて少いが、それは忌部氏が中臣氏ほど勢力が無かつたため、事實上、關係のあるものの外は忌部の名を冒さなかつたからであらう。のみならず、大化改新以前の因襲によつて忌部氏と或る連絡が保たれてゐた地方の忌部も、法制の上ではもはや其の部下ではなくなつてゐるのであるから、もとの部下が忌部の名を負うてゐるにしても、それと忌部氏との關係が何時までも持續せられるか、又は益濃厚になるか、或はそれに反して稀薄になるかは、一に忌部氏の實際の勢力の強弱によることである。だから、忌部氏の勢力が微弱であつたとすれば、此の關係は漸次薄らいで來たことと思はれる。地方の忌部が獨立のカバネを賜はるやうになると、それはもはや京の忌部氏の下風に立たなくなつたのではあるまいか。是に於いてか、京の忌部氏は其の家の誇りを過去の物語に於いてする外は無かつたのである。古語拾遺に記載せられたいろ/\の物語が作られたのは、此の點から見ても當然である。
 然らば、忌部氏と中臣氏との地位や勢力は初から其の間にかういふ懸隔があつたのであらうか、或は何等かの事情のために中ごろから中臣氏の權力が強くなつたのであらうか。拾遺の作者は、本來二氏は同等の地位にあつたものであることを力説し、或はむしろ忌部氏が中臣氏の上にあつた如く説きなさうとさへしてゐるが、それはどれだけ信用せらるべきであるか。これが研究すべき問題である。そこで再び拾遺の記載に立ちもどつて考へてみるに、岩戸がく(525)れの物語に於いて、「高皇産靈神會八十萬神於天八湍河原」とあり、安の河原の神つどひをタカミムスビの神の召集したことにしてあるのが、記紀の何れの傳へにも見えない説であり、さうして此の神が忌部氏の祖先たるフトダマの命の父となつてゐることを、先づ注意しなければならぬ。次に、「太玉命天兒屋命、共致其祈?焉、」と書いてあるのは、ほゞ書紀の本文から出てゐるものであるが、原文にはコヤネの命を前にしフトダマの命を後にしてある其の順序を轉倒させてゐ、また「太玉命以廣厚稱詞」とあるのは、書紀の注の第三の「一書」の「天兒屋命……廣稱辭祈啓矣」を改作し、コヤネの命をフトダマの命にかへたものである*(此の「一書」については後文參照)。これはその前に「令太玉命捧持稱讃、亦令天兒屋命相副祈?、」といつてあるのに應ずるものであつて、フトダマの命を主にしコヤネの命を副としようとしたのは拾遺の創意である。さうして、フトダマの命に祝詞をのべさせてゐるのは明かに記紀の物語とちがつてゐる。古事記と書紀の本文とは、コヤネの命とフトダマの命とを同等に取扱つてはゐるが、其の職掌については、前者に祝詞をのべさせ、後者にみてぐらを持たせてあるし、書紀の注の第二及び第三の「一書」に於いては、こゝの話の全體がコヤネの命を主とした書き方であり、フトダマの命はたゞにぎてを作り、もしくは捧げ持つたのみのものとしてある。それから、皇孫降臨の物語に於いて「天兒屋命、太玉命、天鈿女命、使配侍焉、」と拾遺に書いてあるのは、上に述べた如く古事記や書紀の注の「一書」の説のイシコリドメとタマノオヤとを省いたものであり「使配侍焉」の語も書紀から取つたものであるし、また其の次に「汝天兒屋命太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、」云云とあるのも、書紀の注の別の「一書」の文を其のまゝ轉寫したものであるが、其のあとで上にも引いた如く二神の勅語として「宜太玉命、率諸部神、供奉其職、如天上儀、」といひ、コヤネの命を除外してあるのは、それらと矛盾し(526)てゐる。また、神武天皇の時の説話として「令天富命、率供作諸氏、造作大幣訖、天種子命【天兒屋命之孫】解除天罪國罪事、其事具在中臣禊詞、」とあるのは、、トミの命を第一に擧げたところに意味はあるが、職務についてはそれとタネコの命とを對等に取扱ひ、同じ地位のものとして分掌させてある。然るに、其の次の「爾乃立靈畤於鳥見山中、天富命陳幣祝詞、?祀皇天、?秩群望、以答神祇之恩焉、」に至つては、靈畤云々に於いて神武紀の記載と其の文章とを取りまた「郊祀天神、申大孝、」とか「祭皇祖天神焉」とかいふ書紀の支那式文飾を更に發展させて「?祀皇天」以下の文字を作り出して來てゐるにかゝはらず、トミの命をして祝詞を述べさせてゐるのであつて、これは書紀には全く見えないことであり、上記の岩戸がくれの物語に於ける拾遺の説と同じ精神がそこにはたらいてゐる。
 拾遺には、かういふ風に、中臣忌部二氏の祖先の物語に於いて記紀と同じことがあると共に、それと齟齬し矛盾してゐる話もあるが、後の方のも其の文章なり着想なりが記紀、特に書紀、またはその注に記してあるいくつもの「一書」、のを本にしてそれを變改潤色したものであるから、これは決して古い傳へではなく、記紀の編述後に作られたものに違ひない。書紀の本文とその注の「一書」とを改作してつなぎ合はせ、それに新しく造作したことを加へたために、岩戸がくれの場合の稱讃祈?が二重になつてゐるのも、此の故である。皇孫降臨の物語に於いても、書紀の注の「一書」の文と自家の創意とを結びつけたため、コヤネ、フトダマ、の二神に對するものと、フトダマの命のみに對するものと、勅語が二重になつてゐる。(忌部氏とは直接の關係のないことについてもこれと似たことがある。オホナムチの神の服從の記事は書紀の本文の一節を其のまゝ取つたのであるが、別にオホモノヌシの神の名で記されてゐる同じ時の話を「一書」から取つたところがあるため、同じ場合に於ける同じ神が二つの名になつて現はれ、其の間に(527)何の連絡も無いやうに見えるのも、其の一つである。岩戸の物語で鏡の鑄造が二度行はれてゐるのも、また之と同じ理由から來てゐる。書紀を本にして書かれたために、かういふことが起つたのである。)さすれば、拾遺のこれらの記載は既に述べた種々の説話と同樣、忌部氏の主張を物語に假託したものに過ぎない。さうして、フトダマの命やトミの命に祝詞を述べさせてゐるのが、歴史的事實として知られてゐる忌部氏の職掌と矛盾してゐるのを見ると、これは中臣氏の任務を物語の上に於いて忌部氏が奪つたものであり、そこに自家の權威を立てるために中臣氏を抑へようとする特殊の意圖が明かに現はれてゐる。上に引いたことのある、オホナムチの神の服從の條の、書紀の注の「一書」に、フトダマの命とコヤネの命とを共に祭祀に與るものとしながら、フトダマの命を其の主任に置いてあるのが、果して忌部氏から出た物語であるとするならば、拾遺の上記の態度は由來が頗る古いといはねばならぬ。たゞ、こゝに一つ、拾遺の作者の注意を逸したことがある。古事記の岩戸の物語では、尻久米繩を岩戸から出現せられた大神の後に引きわたしたものはフトダマの命となつてゐて、それは忌部氏が宮殿に關する祭祀を管掌するところから出た構想であらう。齋忌の場所の標示であるのが本義であらうと思はれる尻久米繩は、宮殿にも用ゐられたらしいからである(拾遺に「以日御綱【今志利久迷繩……】廻懸其殿」とあること參照)。ところが、書紀には「中臣神忌部神、則界以端出之繩、乃請曰勿復還幸、」とあつて、それに中臣神を加へてある。拾遺は此の書紀の文をとつて「二神倶請曰復還幸」とし、繩の話は上にも引用した如く大神のために建築した宮殿のしつらひに移しながら、そこにも「天兒屋命、太王命、」と連記してある。忌部氏の所管のことにまで中臣氏を參與させたやうなもので、上記の態度とは矛盾するが、これは古事記をとらずして書紀によつたために生じた偶然の失錯であらう。
(528) そこで更に溯つて記紀の所傳を見ると、上に述べた如く、岩戸の物語に於いて、コヤネの命とフトダマの命とを同等に視てゐる古事記及び書紀の本文の説と、コヤネの命を主としフトダマの命を從屬的地位に置いてゐる書紀の注の二つの「一書」の説とがあるから、其の何れが此の物語の原形であるかを決めねばならぬ。此の中で、書紀の注の第三の「一書」は上にも述べた如く舊辭としては晩出の異本であるらしいが、そこには重要なる點で古事記や書紀の本文の所傳とは違つたところがある。大神が岩戸を細めにあけてみそなはしたのは、ウズメの命の舞踏とそれを見てゐた諸神の笑聲とから生ずるどよめきのためであるといふのが古事記などの説であるのに、此の「一書」はそれをコヤネの命のたゝへごとの美しいためとしたのである。從つて、ウズメの命の舞踏の話は全く無く、命の名すらも記してない。これが古い傳へでないことは、ことばの美しさをめでるといふ思想そのものからも知られ、さうしてかういふ變改を古傳に加へたものが中臣氏であり、自家の職掌の尊嚴を示すために企てられたものであることも、またおのづから推測せられるので、それは、スサノヲの命にはらひを科するについてコヤネの命に太諄辭を宣らせてあることによつて、一層明かに知られるであらう。これは、中臣氏が大祓の祝詞を宣る風習であり、それが家の誇であつた事實に本づいて、構想せられたものに違ひないからである。(大祓にはもとは祝詞が無かつたのであらう。あつても簡單な呪詞であつたらう。今の祝詞のやうなものが作られたのは、それが祭祀化してからのことと考へられる。)ところが、此の書に於いて、コヤネの命を諸神の主位に置いてあるのみならず、フトダマの命が其の指揮の下にあつたやうに書いてあるのを見ると、そこに中臣氏が忌部氏を自家の下位に置かうとする意圖のあることが知られる。これは恰も拾遺に於いて忌部氏が企てたところと同じ態度から出たことであつて、中臣氏は既にそれを書紀の完成前に行つて(529)かたのである。第二の「一書」はこれほどに形迹が明かではないけれども、祭祀を行ふものは獨りコヤネの命とせられ、フトダマの命は幣帛を捧げる職掌をも奪はれて、たゞそれを作るものとなり、ヌカドやトヨタマと同地位に降されてゐるのであるから、これもまた中臣氏によつて潤色せられたものかも知れぬ。しかし、中臣氏が斯かる造作をしたといふことは、必しも古事記などの説の如く、中臣氏と忌部氏とが本來同等の地位であつたといふ證據にはならないから、上記の問題については種々の方面からの考察を要する。
 先づ兩氏の地位をカバネによつて考へるに、中臣氏は連であり忌部氏は首であるが、此の二つのカバネが其の本來の意味に於いて高下の差を有するものであるかどうかは別問題として、歴史的事實の明かに知られる時代では、連が首より高い地位として考へられてゐたことに、疑はあるまい。天武天皇の時に忌部首子人(子首)に連のカバネを賜はつたので、弟の色弗と共に悦び拜したとあるのを見るがよい(これは多分壬申の亂の時の功によつてであらう)。其の後、所謂八色のカバネを定められた時には、中臣氏には朝臣を、忌部氏には宿禰を、與へられたので、一度中臣氏と同等になつた忌部氏は逆もどりをして復た中臣氏よりは地位が低くせられたが、これも古くからの家格によつたものと推測せられる(此の時、如何なる標準によつて諸氏をそれ/\のカバネにあてたかは、不明な點もあるが)。次には、既に述べたやうな兩氏の職掌であるが、これも祝詞をよむことと幣帛を捧げることとの本來の意味に於いて、其の間に輕重高下があるかどうかは、やはり、別問題として、神代史の物語に於いては、明かに前者を祭祀の主なる務としてゐる樣子が見えるから、これらの物語の作られたころには、さう考へられてゐたらしい。(だから、此の物語に於いてコヤネの命とフトデマの命とを同等に取扱ふことは、物語そのものの精神に背いてゐる。)さすれば、こ(530)の點からも中臣氏の地位が高かつたことが知られる。踐祚の場合の二氏の職掌についても、また同樣に解すべきものであらう。神寶としての鏡劍を忌部民が上るといふのは、幣帛を取扱ふ家であるところから生じた規定であるらしく、鏡が(或は場合によつては劍も)みてぐらに用ゐられる習慣のあることと、中臣氏が此の場合にも壽詞を奏することとから、かう推測せられる。ところが、かういふ地位の高下は中臣と忌部との名稱の上からもまた考へられるやうである。イミベの「ベ」は、明かにそれが一人に對する稱呼でないことを示すものであるが、ナカツオミにはさういふ意義が見えないから、これは其の初に於いて、忌部と稱せられた神事に關與する一くみのものと中臣と稱せられた一人とが朝廷に置かれてゐたことを示すものである。さうして、かういふ組織に於いては、中臣は忌部の上に立つものであつたと解すべきではなからうか。ところが、此の一くみの忌部の中におのづから其の長上となるものが生じ、それが世襲になつたため、其の家は忌部を氏の名とするやうになつたのではあるまいか。忌部といふ名の意義と、それが或る家の氏の名となつてゐることとを對照し、さうして神事に預るものの長上には中臣氏があることを考へると、かう解する外はあるまい。
 忌部といふ家の生じたかういふ事情は、後に卜部の間から卜部氏の現はれたことと同じである。卜部は神祇官に於いて占ひを掌るものの稱呼であり令の定員では二十人あるが、多分、神祇官設置の前から中臣氏の部下として同じ職掌を有つてゐたものが、さう呼ばれてゐたのであらう。書紀の「一書」に「天兒屋命主神事之宗源也、故俾太占之卜事而奉仕焉、」とあり、垂仁紀に注記せられてゐる一書の説にも「仰中臣連祖探湯主而卜之」と見えるが、占ひは、本來、中臣氏の管理に屬することであつたために、かういふ話が作られたらしい。古事記の岩戸がくれの物語にコヤネ(531)の命フトダマの命に占はせたとあるが、フトダマの命をこゝでいふのは、次にいふやうに、物語の原の形ではない。正倉院文書の大寶二年の筑前嶋郡川邊里の戸籍に卜部を稱するものが見えるが、其の附近に中臣氏の部民のあつたらしいことが、同じ戸籍によつて推測せられ、續紀和銅二年六月の條の志斐連に關する記載もまた、それを證するものであること、天平十八年三月の條の鹿島連に關する記事によつてみても、中臣部と占部とが連結して取扱はれてゐたこと、なども、また參考せられる。これらの卜部を稱するものは、多分、中臣氏の部民のうち、特に朝廷に於ける中臣氏の部下としての卜部と特殊の關係をもつものと定められてゐたものであつたらう。(中臣氏の部民のこと、志斐連や鹿島連のことについては、「上代の部の研究」に詳説してある。)此の卜部は、いふまでもなく、地位の低いものであるが、中臣氏の特殊の任務であつた大祓の儀式には下僚として參加することが、既に神祇令にも見えてゐ、それから後には其の職務の範圍が漸次擴大せられたらしく、神祇式によると種々の神事にも關與するやうになつてゐる。しかし、それが神祇官の下僚としての官職の名であることには變りが無く、其の採用法も神祇式に見えてゐるが、齊衡三年に卜部雄貞業基等に占部宿禰の姓を賜はつたことが文コ實録に見えるから、何時しか彼等の間に其の長上ともいふべきものがおのづから生じ、それが世襲的になつて、卜部を家の名とするやうになつて來たのであらう。昔の忌部から忌部氏の生じた事情は、これからも類推せられる。
 以上の考證で、忌部氏は本來、中臣氏より地位の低いものであつたことが、ほゞ明かにせられたであらうと思ふ。中臣氏が政治的に有力な家となつたことが、もし皇室の地位に政治的のそれと宗教的のそれとがあつたことに關係のあるものであるならば、これもまた中臣氏が朝廷の神事を主宰する家であつたことを、示すものではあるまいか。忌(532)部氏が中臣氏よりやゝ劣つた家柄であるといふことは、既に宣長なども説いてゐるし、日下部勝皐の如きは頗る痛烈に忌部民を抑へてゐるが、余はそれを上記の如く考へる。さすれば、岩戸がくれの物語に於ける古事記の説の如きは、忌部氏側の潤色を經たものによつてゐることが知られるやうである。忌部氏が既に中臣氏と共に朝廷の神事を掌る家となつた上は、中臣氏に對して對等の地位を要求するやうになるのは自然の勢であるから、はじめに作られた神代の物語に於いてフトダマの命がコヤネの命の下位に置かれてゐるのに不滿を抱き、かういふ造作を加へたものらしい。書紀の本文が、コヤネの命とフトダマの命とを同等に取扱つてゐるのは、古事記のやうな説を採用したからであらうが、それにはまた、天武朝に川島皇子等が委員となつて編纂に着手せられた國史の記事が書紀に傳はつてゐる、といふ事情もあるのではなからうか。天武紀によれば、此の時の編纂委員には忌部連子首と中臣連大嶋とが加はつてゐたから、其の間に兩氏の祖先の地位に關する或る妥協が行はれたのではなからうか、と推測せられるからである。(天武紀には「大嶋子首親執筆以録焉」とあるから、所謂子首が忌部子首であるならば、此の推測は一層強められるが、當時の委員には別に平群臣子首があつたので、大嶋と共に筆を執つたものは、平群臣の方ではなかつたかと思はれる。)この場合、忌部氏のものが中臣氏のものと肩をならべて委員となつたことには、さうして兩家の祖先が物語の上で同じ地位に置かれたところのあるのは、當時、忌部子首が、壬申の乳における功によつて、朝廷に或る種の勢力をもつてゐたらしいことが、或はその一因となつてゐるかも知れぬ、とさへ臆測せられないでもないが、これはもとより臆測にとゞまる。
 ところが、奈良朝になつても、事實、忌部氏は中臣氏よりも地位が低かつた。續紀を見ると、中臣氏のものは?(533)神祇伯もしくは大副に任命せられてゐるのに、忌部氏には稀に少副に上つたものがあるのみであるが、これは古くからの因襲的地位が然らしめたのであらう。(拾遺に孝コ朝に齋部作賀斯が神官頭になつたとあるのは、事實であるかどうか、明かでない。神官頭は神祇官の長官の義であらうと思はれるので、持統紀八年の條に神祇官の長官を頭と書いてあることも、これについて參考せられるが、令がまだできあがらず官制がきまつてゐなかつたと考へられる孝コ朝に、神祇官が設けられてゐたかどうかが、問題なのである。繼體紀欽明紀皇極紀などに神祇伯の文字が見えてゐるが、これは事實を記したものではないから、神祇官が古くからあつたことを示すものではない。氏族制度時代には神祇のことは中臣氏の職掌であつたので、神祇官といふやうな官衙の設けられたのは、大化改新の後のことでなくてはならぬ。たゞそれが孝コ朝であつたかどうかに問題があるのである。もつとも令に規定せられてゐる神祇伯の官名によらずして神官頭といふ稱呼を用ゐてあるところに、拾遺のこの記載についてなほ考ふべきことはあるが、それはともかくもとして、忌部氏のものが神祇官の長官になつたことの眞否は、やはり不明である。元號を白雉とせずして白鳳とした點にも問題があり、また上に述べた如き續紀に見える神祇伯任命の慣例とも一致しないので、拾遺の説を信用するには躊躇せられるからである。)なほ地位の點のみならず、忌部氏は何事につけても中臣氏の下風に立たねばならなくなり、從つて斷えず不平であつたやうに見える。續紀天平七年七月の條に「依忌部宿禰虫名鳥麻呂等訴、申?時時記、聽羞忌部等爲幣帛使、」とあるのも、天平寶宇元年六月の條の伊勢太神宮幣帛使は中臣朝臣に限るといふ法令に參照して考へると、やはり中臣氏に對する抗議であつたらう(天平寶字元年の法令については拾遺の愁訴第十一條參照、これが實行せられなかつたことは、續紀の此の年より後の記事によつて明白である)。拾遺に記された中(534)臣氏の專横に關する幾條かの愁訴のうち、當時の?態として記されてゐることは、何れも事實と考へられる。中臣氏は歴史的に傳へられた其の地位と、藤原氏に權勢があつた關係とから、忌部氏に壓迫を加へたのであらう。日本後紀大同元年八月の條に見える中臣忌部兩氏の爭は、それが益激しくなつたことを示すものらしく、終に古語拾遺の述作上聞となつたのである。さて、奈良朝以後に於けるかういふ事情の下に於いて、忌部氏が中臣氏に對抗するには、其の主張の根據を過去の歴史に置く外は無かつたのである。現在の?態としては弱者の地位にあるが、實力によつて自己を優越の地位に進めることができないものは、過去の光輝を借りるより道が無いのである。況や、家系を誇示することが一般の風であり、また大同元年の二氏の爭議に對する勅裁に神代紀が準據とせられてゐる如き?であるに於いてをやである。是に於いてか、忌部氏は上記の如く記紀の古物語に幾多の改作を加へたのである。拾遺に「至於小治田朝、太玉之胤、不絶如帶、」とあるのは、シナの傳記家の慣用筆法たる「中微不顯」と同じであつて、祖先を顯榮の地位に置いたところから生じた欺瞞の手段に外ならぬのである。が、改作は更に系譜の上にも及んでをり、さうしてそれにも中臣氏に對する抗爭の態度が見えるやうである。
 古語拾遺の卷首には忌部氏の家系が説いてあつて、先づ天地剖判の初にアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミミムスビ、の三神が順次に現はれたといふ話を載せ、忌部氏を此のタカミムスビの神から出たもののやうに書いてある。記紀には忌部氏の祖をフトダマの命としてあるが、此の書では此の命がタカミムスビの神の子となつてゐるので、それは記紀よりも更に一段溯つて其の父を設け、さうしてそれをタカミムスビの神としたのである。これは、大伴氏の祖として記紀に記されてゐるアメノオシヒの命を此の書に、やはり、タカミムスビの神の子としてあると同じく、次(535)第に其の家の起源を遠くしていつたのであつて、それは一つは、記紀の神代史に見える神々を祖先とする家々の系圖が、何の家のでも、後になるほど漸次上の方に添加せられたのと同じであるが、また一つは、其の家を皇室の御祖先と結びつけようとするところからも來てゐるらしい。忌部氏について此の第二の理由があつたことは、拾遺にホノニニギの命の母とせられてゐるタクハタチチヒメの命がフトダマの命と共にタカミムスビの神の子であるといふ話を第一に記してあることからも、またタカミムスビの神をカムロキの命としそれに對してカミミムスビの神をカムロミの命と稱してあることからも、推測せられる。(オシヒの命は姓氏録ではタカミムスビの神の五世または六世の孫となつてゐるが、系譜の精神は大伴氏をタカミムスビの神の子孫としたところにあるので、世數の如きはさしたる問題ではない。また、タカミムスビとカミミムスビとの二神は初から皇祖神として神代史に現はれたのではなく、タクハタチチヒメをタカミムスビの神の女としたのも此の考が繼承せられたのであり、皇室の外戚としてそれを取扱つたのであるが、神々の系列の最初に置かれ、特にそれがムスビといふ名を有つてゐるため、すべての神々を血族關係でつなぎつけようとする傾向の強められるにつれて、おのづから皇祖神として視られるやうになつたものらしく、さうしてそのことは顯宗紀に現はれてゐるから、書紀完成の前に既に生じてゐた思想である。なほ、カムロキ・カムロミの原義も皇祖神といふことではなかつたらうと思はれるが、後には、さう考へられるやうになつたらしい。)ところで、拾遺には忌部氏の家系をかう説いたに對し、中臣氏の祖をばカミミムスビの神としてあるので、それが何の意味であるかが問題になる。
 が、このことについては別に考へねばならぬことがあるので、それは、此の書の異本には、タカミムスビ、ツハヤ(536)ムスビ、カミミムスビ、の三神をアメノミナカヌシの神の三子とし、さうして、タカミムスビの神をカムロキの尊とし忌部氏の祖とすることは同じでありながら、それに對するカムロミの尊、また中臣氏の祖は、カミミムスビの神ではなく、ツハヤムスビの神としてあるからである。類聚神祇本源やそれと密接の關係のある元々集やに引いてあるのも、やはり、かうなつてゐるが、此の變異は傳寫の間に生じた訛誤などではなくして、何れかが故意に變改せられたものに違ひないから、その何れが康成の原本の記載であつたかを考へる必要がある。ツハヤムスビといふ神をタカミムスビとカミミムスビとの二神と同列に置くことも、それらをアメノミナカヌシの神の子とすることも、勿論、古くからの傳へではなく、それはツハヤムスビといふ神を特に作り出したのと、やはり神々に血族關係をつけようとする傾向とから、生じた新しい構想である。またタカミムスビの神は記紀の神代史に於いて既に男性とせられ、カミミムスビの神は女性の地位に置かれてゐ、さうして此の二神は古くから對稱せられてゐるのであるから、それをカムロキ・カムロミとするのは自然であるが、タカミムスビの神のカムロキに對してツハヤムスビの神をカムロミにあてるのは、殆ど意味をなさぬものであることをも、考へるがよい。けれども、姓氏録に中臣氏の祖先をツハヤムスビの命としてあることと、續紀天應元年七月の條に見える栗原勝子の上言に中臣氏の遠祖をアメノミナカヌシの命としてあることとを考へ合せると、やゝ不確實な推測ではあるが、かういふ系譜が奈良朝末には既に作られてゐたらしくも思はれる。中臣氏の第一祖はアメノコヤネの命とせられてゐたが、後に其の父としてコゴトムスビといふのが作られ、書紀の注の「一書」には早く既にそれが現はれてゐる。ツハヤムスビは更に其の上の祖として後から附加せられ、ムスビといふ名の類似からタカミムスビの神カミミムスビの神と同列に置かれ、さうしてそれらが共にアメノミナカヌシの神の(537)子とせられたのであらうが、それは奈良朝時代の造作であつたかも知れぬ。もし果してさうとすれば、拾遺の書かれたころには、既にかういふ中臣氏の家系が世に存在したのであるから、此の書の原本では、異本の記載、即ち類聚神祇本源や元々集やに引用せられたとほりになつてゐたと見るべきもののやうである。中臣氏をカミミムスビの神の裔とした系譜は他に所見が無いことも、また此の意味に於いて參考せられよう。
 しかし翻つて考へると、さうばかりは速斷せられない。春日神社の祭神に於いて明かな例の見られる如く、宗教的儀禮として中臣氏が祖先を祭る場合には、其の祖先はコヤネの命であつて、コゴトムスビの命などではなく、また延喜六年に中臣氏が本系帳を上つた時の解?に「爰自居居登魂命以往、本記雖存、朴略不詳、從太祖天之兒屋根尊以來、父子相承、……」とあつて、中臣氏自身が延喜のころでもコゴトムスビの命から前は、不明瞭なものとしてゐるのを見ると、上記のやうな系譜が大同のころに於いても世上に知れわたつてゐ、一般に承認せられてゐたとは、必しもいひ難い。また、中臣氏をカミミムスビの神の裔とした系譜が世間に存在せず、さうして後世になつて拾遺の本文がかう變改せられたとすれば、それは何等の據るところも無くして全く虚構せられたことになるが、それも信じ難くはあるまいか。何故に後人がかゝる虚説を作り、それによつて古書の上にかゝる變改を行つたかの理由が、説明せられないからである。けれども、ツハヤムスビの命を祖先とすることは、ともかくも、姓氏録に見えてゐ、また舊事紀にも記されてゐるのであるから、もし拾遺の異本のかういふ記載が却つて後に變改せられたものであると見るならば、それは、後人がカミミムスビの神が中臣氏の祖先であるといふ、聞きなれない、記事に疑を懷き、それをありふれた系譜の如く變更したことになるので、其の方が自然ではあるまいか。(タカミムスビ、カミミムスビ、ツハヤムスビの三神をア(538)メノミナカヌシの神の子としてある系譜は、現存のものでは他に見あたらないやうであり、舊事紀にもさうなつてゐないが、中臣氏の家系にはさうしてあつたのではあるまいか。さうして、それが後にも傳はつてゐたのではあるまいか。上記の續紀の記事は、それが果して中臣氏の宗家の主張したところであるかどうかすら疑へば疑ひ得られようし、アメノミナカヌシの神から後が其の系譜に於いてどうなつてゐたかも明かでないから、確かな根據にはならぬが、ツハヤムスビを所謂造化三神のなかまに入れたとすれば、それは單に三神を四神にしたのみで、あまり唐突であるから、新しい神を加へながら一方で三の數を維持し他方で其の三神をアメノミナカヌシの神の子とすることによつて、舊來の三神の觀念と調和させたのではあるまいか。勿論これは臆測に過ぎないのではある。)ツハヤムスビの命をカムロミとするのは甚だ奇怪であるが、それはかういふ變改の際に中臣氏の祖がカミミムスビの神から此の神に移されたに伴ひ、カムロミの稱呼もまたそれに附隨して來たためであるとすれば、容易に領解せられよう。かう考へて、余は上記の異本の記載が後の變改であらうと推測する。古語拾遺の全體を通じて、神の稱呼である「ミコト」の語に「尊」の字があててあるのは、吾勝尊、天津彦尊、彦火尊、彦瀲尊、即ちオシホミミの尊からウガヤフキアヘズの尊までの四代の皇祖に限られてゐて、其の他はすべて「命」の字を用ゐてあり、カムロキ・カムロミに於いてもやはり同樣であるのに、異本では「尊」の字が使つてあることも、またそれが後人の筆になつたことの一證となるかも知れぬ。カムロキ・カムロミについては、祝詞でも皆な「命」の字が用ゐてあることを參考すべきである。(ついでにいふ。鎌倉時代に伊勢の外宮の神職によつて作られた御鎭座傳記にはタカミムスビの神カミミムスビの神をアメノミナカヌシの神の子としてあり、御鎭座次第記御鎭座本紀にもタカミムスビの神について同じことが記してあるが、これはこの(539)異本の古語拾遺によつたのではあるまいか。もしさうならば、この異本は伊勢と何等かの關係のあるものではなからうか。類聚神祇本源に引いてあるのが異本の説であることも、またこの推測を助ける。もつとも御鎭座傳記にはカムロキ・カムロミをタカミムスビの神カミミムスビの神にあててあるが、これは  偶々原本に記してあつて世に知られてゐる説がそこにあらはれてゐるものとして、解せられよう。) 然らば、上に推定したやうな原本の記載は中臣氏から出て既に世に知られてゐたことであるか、又は忌部氏の造作したものであるかといふに、それは明かでないが、余はむしろ後の方であらうと想像する。タカミムスビの神とカミミムスビの神とは、其の始めて現はれた時、また其の本質に於いては、同等の神でありながら、男女の性のつけられたことから見ても、また皇孫降臨の物語に於いてタカミムスビの命がアマテラス大神と並んで活動し、且つ其の外戚となつてゐることから見ても、記紀の神代史ではタカミムスビの神がいくらか高い地位に置かれるやうになつてゐるのであるが、既に説いた如く、忌部氏を中臣氏と對等の地位に置きながら、いくらか中臣氏よりも高くしようとする態度が、此の書の種々の物語に於いて認められるからである。中臣氏も關り知らず世間も承認してゐないことを忌部氏のものが案出したといふのは、甚だ放縱な臆測のやうであるが、上文に述べて來たやうな記紀の物語を改作した態度を考へると、これは決して怪しむに足りない。それらの改作とても、中臣氏は固より、其の他の諸家にも承認せられ得るものではなかつたはずである。或はまた、オシヒの命をタカミムスビの神の子孫とすることは姓氏録にも見えてゐて、大伴氏の家系に記されてゐることであつたらうから、カミミムスビの神と中臣氏との關係についての記載を上記の如く解釋するのは、此の類例からも肯ひ難いやうであるが、忌部氏の主張が中臣氏を目あてにしたものであるこ(540)とを思ふと、これについて筆者に特殊の用意のあつたことを考へるのは、無理ではあるまい。なほ、此の系譜が上記の中臣氏の家系のまだ作られなかつた前に案出せられたものであるとすれば、なほさら問題は無いが、さう考へるべき徴證は何も無い。が、何時作られたにしても、忌部氏が此の系譜を作つた意圖だけは明かであらう。(姓氏録を見ると、タカミムスビやカミミムスビの神を始祖としてある家は頗る多い。これは何れも上に述べたやうな理由で附會せられたものであるが、それが多くの家に於いて行はれたのは、多分、奈良朝末から平安朝の初にかけてのことであつたらう。忌部氏や中臣氏は或は其の先驅であつたかも知れぬ。臆測ではあるが、二家の地位からさうも思はれる。)かう考へて來ると、上に一言した如く、安房の神をフトダマの命としたことに中臣氏の鹿嶋の神に對坑する意味があつたらうといふ推測も、肯定せられさうである。記紀にはどこでもフトダマの命とのみあるのを、拾遺が其の上に「アメノ」を加へたのも、アメノタネコの命に對してアメノトミの命を作つたと同樣、アメノコヤネの命に對立させるためであつたらう。
 以上の考説は頗る煩雜の嫌があるが、古語拾遺に見える種々の物語の性質とそれに現はれてゐる忌部氏の態度とは、之によつて知ることができたであらう。要するに、それは忌部氏が神祇官に於ける其の地位と勢力とを維持し、もしくは進めんがために、其の家系と祖先の事蹟として語られてゐる古來の説話とを誇張し修飾し改作して記載したものである。其の間、神璽に關する物語の如き、記紀に見ることのできない古傳説もあり、また例へば香取の神をフツヌシとしてある如き、必しも忌部氏のために構造したとは思はれぬ説話もあるが、さういふものは僅に一二にとゞまるのであつて、其の多數は上記の如き性質のものであり、さうして、それらは何れも記紀編述以後の造作であり、其の(541)多くは廣成の手になつたものであらうと思はれる。たゞ、物語そのものは忌部氏によつて造作せられてゐるにしても、それによつて忌部氏と地方の忌部との實際の關係が推知せられるやうなものはあるので、拾遺の價値は、神璽に關する物語と共に、かういふ説話の存在する點にある。もつとも、記紀の物語を改作し若しくは新しく説話を構造した態度と、其の改作構造せられた物語とは、それを記紀と對照することによつて、思想の變化が覗ひ知られるのであるから、奈良朝から平安朝の初期にかけての思想史の貴重なる材料となるものであり、また同じ時代に於ける氏族の盛衰の?態やそれと制度との關係を反映するものとしても、少からざる價値を有することは、いふまでもない。また愁訴の各條は、ほゞ事實を記したものとして、其の時代の有力なる史料であるに違ひない。が、記紀編述の前から存在してゐた説話を記録し記紀の闕漏を補ふものとしては、さしたる價値が無く、「古語拾遺」の名は其の實に適はざるものである。神璽を二種とすることの外は、此の書の物語は、「古語」の拾遺ではなくして、新しく作られ若しくは變改せられたものだからである。なほ最後に記してある御歳神の祭祀に關する一節の如きは、全篇の精神とは何の關係も無く、他の物語とも全く連絡の無いものであり、且つそれが愁訴十一條を列記した後に至つて突如として現はれてゐることから考へると、後人の添加したものではないかとも疑はれるが、祈年祭の御歳神に上る幣帛には白猪白馬白鷄が加へられるので、それはやはり忌部氏の所管であつたはずであるから、此の特殊の供物の由來を説くものとしての物語をこゝに附記したのも、忌部氏としては當然のことであらうし、またこの一節のところ/”\にある注記の方式も他の部分のと同じであるから、これもやはり初から書き加へてあつたとするのが妥當であらう。(此の特殊の風習が何時から始まつたことであるかは、此の物語の意味と共に、別の考察を要する。後にそれに言及する場合があらう。)(542)さて、既に述べた如く忌部氏が神祇官に地位を有することは、法制上の規定ではなく、單なる習慣に過ぎないのであるから、其の氏人は如何なる方面にも活動することができるのであり、早くは子首や色夫知が壬申の亂にはたらいた例もあつて、必しも神祇官の一隅に跼蹐してそこで中臣氏と小さな勢力を爭ふ必要は無いはずであるが、長い間の因襲によつて保有する地位とそれに伴ふ幾らかの物質的利益とがある以上、それによつて生を營み利を求め又はいさゝかな名譽心と權勢欲とを滿足させようとするのは、何時の世でも有りがちな貴族官人の常態であるから、忌部氏の此の態度も深く怪しむには足らぬ。特に、官府に於いても歴史的由來を有する家々の地位を或る程度に尊重してゐるのであるから、貴族等がかうなるのは當然である。が、かういつて來ると、今少し大化以後の官僚政府に於ける氏族制度時代の餘習が如何なる?態に於いて存續せられてゐたかを、考へて見る必要がある。
 上代に於ける氏族制度の實?は、今日からそれを詳にすることが困難であるが、それには、大化改新以前とても決して世のなかが固定してゐたものではなく、斷えず種々の變遷があつたはずであるのに、今日に殘つてゐる史料、いひかへると一々の事件に關する書紀の記載に於いて事實の記録と認められるもの、は如何に古く見ても欽明朝敏達朝ごろから後の部分に於いて纔に散見するのみであるから、それはもはや斯ういふ變遷の幾段階をか經過した後のこと、今からいふと、氏族制度時代の末期に屬するものに過ぎない、といふ事情もある。しかし、所謂伴造國造が世襲的に、即ち血統によつてつながれてゐる家として、土地人民を領有し、其の伴造は、やはり世襲的に家として、朝廷に何等かの關係のある地位と職掌とを有つてゐたものである、といふことだけは承認して支障があるまい。さすれば、氏族制度の根本は家にあり家の血統にありまた家がらにあつたのである。けれども、件造が、その家として、一定の職掌な(543)り地位なりを有することが氏族制度の精神であつたとすれば、其の家の勢力に盛衰があつたり、また例へば、宮殿護衛の任を有する、もしくは武人の統率者である、物部氏が政治に參興した如く、家の本來の職掌とは違つた地位を有するやうになつたりすることは、氏族制度の精神に背くものであり、また、蘇我氏の一族の中に中臣鎌足の黨與となつたものがある如く、同じ氏族に屬するものが政治上の行動に於いて一致しない場合のあるのも、氏族制度の壞頽を示すものであるといはねばならぬ。が、人が生きた人であり社會が生きた社會である以上、かゝることは必然的に生じなければならぬ。一定した法制の下にあつてもさうであるから、法として定められた制度が無く、自然に馴致せられた風習によつてすべてが規制せられた上代に於いては、なほさらである。如何なる時代にも人は其の力を伸ばし得べき機會にそれを伸ばさうとするものであり、さうして時々に起つて來るいろ/\の事件は、さういふ力を要求し、またさういふ機會を與へる。從つて、地位なきものが新に地位を得、或は歴史的に傳承せられた職掌のあるものも別の方面に其の活動の途を開く。また、一つの家から幾つかの家が分れるやうになれば、時の事情によつて、新しい家はおのづから新しい職掌や地位を有つやうにもならうし、また其の家々が別々の土地に居住し別々の領地や部民を有つやうになれば、それらは經濟的に共同の生活をなすものではないから、其の間に於ける同一族としての關係が漸次うすれてゆくのも當然である。なほ家々の血統關係を離れて考へても、朝廷の規模が大きくなりその事務が複雜になるにつれて、或る伴造の部下であつた家が獨立の伴造となつたり、伴造の間に勢力の消長がありそれにつれてその職掌にもいろ/\の變化が起つたりしたでもあらう(「上代の部の研究」第四章參照)。かういふところに氏族制度の風習の内部から崩壞してゆく機縁があり、さうして文化が發達し政治が複雜となるに從つて、此の崩壞作用は促進せらる(544)べきはずである。ところが、此の作用の根本は人が一定した家がらによらず個人の力によつて世に活動するところにあるから、それは即ち官僚制度の本質に含まれてゐる精神の一つでもある。氏族制度から官僚政治主義への轉進は、こゝに其の内的意義があるといふことができょう。勿論、大化の改新が斯かる意味に於ける氏族制度の自然的崩壞の結果として行はれたといふのではなく、それはむしろ唐制を學ばうとしたといふ外的事情が重きをなしてゐたのであるが、今日から回想すれば、微弱ながらに、かゝる精神の内部に動いてゐたことが考へ得られる。けれども、それは微弱であつた。既に述べた如く、家を重んずる風習は一朝にして決して消滅するものではない。だから、官僚制度の外形を整へた大化以後の新制の下に於いても、此の傳統的氏族主義がいろ/\の姿に於いて保有せられてゐる。制度の上に於いても家がらが顧慮せられ、そのために始めて施設せられたことさへもある。天武朝に於ける八色のカバネの制定がそれであることはいふまでもないが、天智朝に定められたものと考へられる氏上といふのも、またそれにいくらかの關係はある。氏上の「氏」は血縁のある氏族のみのことではなくして、上に考へた忌部氏や中臣氏に於いてその例の見られるやうな事情で、同じ氏の名を冒してゐる多くの家々を含むもののことではあるが、さういふ「氏」の成立つたことの根柢には、家がらの重んぜられた氏族制度時代の風習があるからである。(氏上については「上代の部の研究」第三章參照。)
 さて、氏族制度の根本であつた家を重んじ家がらを重んずる思想が大化改新の後にもなほ殘つてゐて、それが社會上にも政治上にも、いろ/\のはたらきをしたとすれば、家の系譜を定める必要がそこから生ずる。系譜は此のころ既に定められてゐた家が多かつたらうが、まだ定まつてゐないものも少なくなかつたのではあるまいか。少くとも、(545)此のころ、系譜についてはなはいろ/\の潤色が行はれ造作が行はれつゝあつたことは、種々の點から推測せられねばならぬ。諸家の祖先とせられてゐるものが記紀の記載に於いて互に一致しない場合のあること、中臣氏のコゴトムスビの命の如く、書紀の注の「一書」にのみ見える祖先の名は、後から附加せられたもの、公にはまだ承認せられてゐなかつたものであり、從つて其の「一書」の説は書紀の編述より遠からぬ前に潤色せられたものであるらしいこと、孝コ紀三年の條に見える詔勅に「始於神名天皇名名、或別爲臣連之氏、或別爲造等之色、由是、率土民心、固執彼此、深生我汝、各守名名、」とあるが、所謂名に執するのは、やがて名を尊くしようとし、それがために種々の造作を系譜に加へたことを暗示するものであり、また「拙弱臣連伴造國造、以彼爲姓神名王名、逐自心之所歸、妄付前々處々、」とあるのは名の無かつたものが妄にそれをつけて系譜を作つたことを語るものであること、允恭紀に見える氏姓を正された物語は古事記にも記されてゐるから、書紀に於いてはじめて現はれたものではないが、其の文章は書紀の編者の筆になつたものに違ひなく、從つて、そこに「群卿百寮及諸國造等皆各言、或帝皇之裔、或異之天降、……難知其實、」とあるのは、書紀編述時代の事實の反映でもあるべきこと、忌部や中臣の名を負うたものについて上に考證した如き事例は他の諸氏にもあつたに違ひなく、姓氏録に於いて記紀に見えない神の名が多く作られてゐ、同じく記紀に見えない祖先の名と其の物語とが現はれてゐるのも、奈良朝を通じて行はれた系譜の造作補修の結果であるべきこと、などを考へるがよい。(この書の第四篇に述べた如く、允恭朝のこととせられてゐる氏姓を正されたといふ話も、或は此のころの作であるかも知れぬ。)續紀大寶二年四月の條に「詔定諸國國造之氏」とあるのは、その意義が明かでないが、よしそれが氏の名についての話であつて、必しも系譜に關することではないにもせよ、氏の名を定めるにつ(546)れて系譜をも作る必要が生じたことは、推測せられる。
 さて、これらは官僚制度の下に於いて家のなほ重んぜられたことを示すものではあるが、しかし、かういふ風にして自由に作り得られる系譜を基礎として家々の地位を定めたとすれば、それは實は家を重んずることの眞の精神が破壞せられたものである。また、系譜が種々に造作せられてゐるとすれば、その系譜に於いて同じ血統に屬するやうになつてゐても、それは事實に於いて同族ではなく、血統關係の無いものが其の間にあつたはずであるから、此の意味からでも、家を重んじ血統を重んずる精神は崩れて來るのである。のみならず、系譜を作るといふことは、系譜を動かす力が系譜の外にあるためであるから、此の點に於いては、系譜そのものの本來の意義が失はれてゐるのである。かのカバネの制についても、また同じやうなことが考へられる。續紀に頻々現はれて來る賜姓の記事は、カバネを有たなかつた平民がそれを賜はつて一種の社會的地位を占めるやうになつて來たことを語るものであるが、それは恐らくは天武朝にカバネの制定せられた精神とは背馳するものであらう。少くとも、其の時には豫想せられなかつたことであらう。さうして、新にカバネを得れば、それにつれて、これまで無かつた系譜を新に作り、それによつて古くから地位のあつた家がらであることを装はねばなるまいから、家と家がらとを重んずる精神はこゝからもまたくづれて來なければならぬ。姓氏録の序に「萬方庶民、陳高貴之枝葉、」といつてあるのは、かういふところから生じた事實であらう。姓氏録に現はれてゐる諸家の系譜は、こんなやうにして漸次作られて來たものである。さうして、新にカバネを賜はるものは、有力な家がらと?縁があるか、または官職を有つてゐるか、或は其の他の事情で何等かの勢力を有つてゐるか、さういふ家であつたらうから、これもまた世を動かす力が家の血統ではなかつたことを證するもの(547)といはればならぬ。畢竟、氏族制度時代の遺風はいくらかづつ形を變へながら制度の上にも保持せられてゐたけれども、其の精神は漸次くづれて來たので、それは氏族制度の時代から既に其の内部に生じてゐた傾向が、制度改新の後に於ける當然の?勢として、急激に表面に現はれ、それが益甚しくなつたのである。勿論、政治上優越の地位を有つてゐたものには藤原氏が多かつたので、それはやはり家といふものがなほ權威を有つてゐたことを示す一つの大なる事實であるとも見られようが、しかし權勢の地にゐたものは藤原氏ばかりではなく、また攝關時代の如く權要の地を其の一門で占有してゐたのでもない。さうして、物部氏や大伴氏がさして重要の地位にゐなかつたことを思ふと、藤原氏が有力であつたのは、此の家に特殊な事情のためであつて、それが舊家であつたからばかりではない。まして、昔の氏族制度の餘勢としてそれを見るべきものではなからう。
 たゞ、かうなつて來ると、實世間に勢力を失つた舊家は、せめてもの家の誇として過去を顧る。さうして、家系をいやが上にも尊貴ならしめようとする。是に於いてか、彼等は、新しく興つた家が其の系譜を作るのとは異なつた意味に於いて、やはり系譜を修飾し改作する。舊事本紀に採られてゐる物部氏の系譜の如きは、或はかういふやうな事情から潤色せられたものではなからうか。かゝる一面からいふと、氏族制度が壞れた後に却つて家の系譜を修飾する必要が生じたとも、考へ得られる。忌部氏の如きもまた其の一例であるが、たゞそれは、實世間に關係の無い儀禮を掌る神祇官に於いて、特殊の職掌を有してゐるものであるために、因襲的に或る程度の地位の保障があり、またそれに伴ふ幾らかの物質的利益もあつて、過去の語が現實の生活と全く無關係ではなかつた。中臣氏に對する抗爭の執拗にくりかへされたのも、また古語拾遺に記されたやうな形に於いて古物語の改造せられたのも、こゝに意味があるとい(548)はねばならぬ。けれども、世はやはり動いてゆく。世間離れのした神祇官の内部に於いても、變化は起る。拾遺の書かれたより後のことではあるが、卜部氏が家として成立し、それが漸次頭を擡げてゆくのも、其の一現象であり、さうして忌部氏は其の主張するが如き地位と勢力とを得ることができず、いろ/\に造作した祖先の誇らしげな物語も、畢竟空しき誇として終つたのである。
 しかし、家系を誇ることも系譜を修飾改作することも、當時の人心を現はすものとしては、全く無意味ではない。それは家を重んずる因襲的感情が、官僚政治の時代に於いて、なほ底の方に流れてゐることを示すものだからである。帝紀舊辭に於いて伴造國造の諸家の祖先を皇祖及び皇室歴代の系譜に編みこんであつたのは、氏族制度の時代のこととて、血統關係によつて國家組織の精神を解釋し説明しようとしたためであり、そこに國家統一の政治的意義が力強くはたらいてゐたのであるが、上に逃べたやうな後世の諸家の系譜製作は、單に諸家がそれ/\の家の尊貴を示すためであつた。なほ、氏族制度時代に於いては、伴造の家の祖先は其の家の地位と職掌とに應ずるやうに定めてあつたから、そこに系譜の作られた意味があり、さうしてそれはおのづから、祖先の名を濫に作ることができない一つの制約ともなつたのであらうが、大化以後に於いては、其の意味と制約とが無くなつたのであるから、祖先を如何やうにも附會し造作することができたので、系譜がたゞ家の誇を示すに過ぎなくなつたことには、かういふ事情もある。(例へば中臣氏の祖先は神代史の物語に見えるコヤネの命であるところに、其の家の任務に對する特殊の意味があるが、コゴトムスビの命やツハヤムスビの命には、さういふ意味が無いから、氏族制度時代には、祖先はどこまでもコヤネの命であつて、コゴトムスビの命などの附加せられたのは、大化以後のことであらうと思はれる)。けれども、(549)かういふやうな系譜の作られたのは、皇室があらゆる家々の宗家であられるといふ考を基礎とした上のことであると共に、思想としては、やはり、家に重きが置かれてゐたためである。だから、官僚政治組織がゆるんで來ると、此の因襲的精神がやゝ異なつた姿をとつて再び表面に現はれる。藤原氏の擅權時代が即ちそれである。ところで、この官僚組織を破壞させた力の最も大なるものは經濟生活であつたが、それは實は昔の氏族制度時代の風習の形を變へて存續し、もしくは復活したものと見ることはできないであらうか。上代の「部」の?態を考へることによつてそれが知られるやうである。「日本上代史の研究」の第一篇「上代の部の研究」は、それを試みたものである。
 
(551) 附録
 
(553)     第一 三國史記の新羅本紀について
 
 朝鮮半島の古史として高麗朝に編纂せられた三國史記、特にその新羅紀の上代の部分には、所謂倭もしくは倭人に關する記事が頗る豐富に含まれてゐる。從つてそれらの記事は、記紀と相俟つて我が上代史を闡明すべき貴重なる史料である如く、思はれてゐたことがある。しかし一體に三國史記の上代の部分が歴史的事實の記載として認め難いといふことは、東方アジヤの歴史を研究した現代の學者の間には、もはや異論の無いことであるから、倭に關するこれらの記事もまた史料としては價値の無いものと見なければならぬ。たゞ何故にそれが信用し難いかといふことをまとめて説いたものが、まだ見あたらぬやうであるから、こゝに新羅紀についてその大要を述べておかうと思ふ。
 韓地に關する確實な文獻は、現存のものでは、魏志の韓傳とそれに引用せられてゐる魏略とが初めのものであつて、それによつて、三世紀の?態が知られ、並にやゝ溯つて、一・二世紀ごろの大體の樣子が想像せられる。その詳細をこゝで述べる遑は無いが、三世紀に於いて新羅は辰韓十二國中の一國に過ぎない小部落であつて、而も半島に於ける當時の文化の中心であつた樂浪帶方からは最も遠い東南隅の、今の慶州の地にあり、その文化の程度の低かつたことも想像せられる。一・二世紀に於いては、なほさらであつたらう。馬韓も郡に近い北部にのみはやゝシナの文化が及んでゐたやうに、魏志に書いてあるが、これは地理上の事情から來てゐるのであらう。さすれば、辰韓の文化は概し(554)て馬韓より劣り、新羅は辰韓中でもまた劣つてゐたことと思はれる。辰韓と樂浪郡との間に交渉のあつたことは、魏略にも見えてゐるが、それは辰韓の西北部、即ち樂浪郡(後の帶方郡の部分)と接觸してゐた地方、いひかへれば今の尚州咸昌方面のことであらう。さうしてそれにしても、辰韓の全體を通じてシナの文化の影響があまり現はれなかつたことが、魏志によつて推測せられる。然るに、新羅紀は其の最初の國王(居西干)を赫居世といふものとし、建國の年を前漢の宣帝の五鳳元年(57 B.C.)としてゐる。さうして、それから後の年代記がずつとできてゐる。これが既に甚だ怪しいことであつて、こんな年代記が後に傳はるくらゐならば、一・二世紀に於いてシナの文化は、よほど深く新羅に植ゑつけられてゐなければならず、從つて辰韓の他の諸國も同樣でなければならぬ。更に廣くいふと、三韓全體がほゞ同じ程度の文化を有つてゐなければならぬ。韓地全體の文化がそれほどに開けてゐたならば、シナもしくは樂浪のシナ人との交渉が、よほど密接でなければならず、從つて、シナの史籍に韓地の記事が多く現はれてゐなければならぬが、そんな形跡は少しも無い。のみならず、それほどの文化を有するものとしては、政治上の?態があまりに幼稚である。
 さて所謂赫居世が如何にして新羅を建てたか、それより前の  状態はどうであつたかといふと、新羅紀はそれを明かに説いてゐない。たゞ、朝鮮の遺民が六村を形成してゐたといふ記事があつて、その六村は地名から考へると、王城(即ち今の慶州)の地であるらしく、儒埋尼師今の紀の示すところによると、それは後の所謂六部の起源とせられてゐるらしいから、新羅の基礎は此の六村であつたといふのであらう。(梁書の新羅傳に「國有六啄評」とあるから、新羅の本地に六部があつたといふことは、事實であらう。しかし、それが新羅紀の所謂六村であるかどうかは、他に(555)徴證が無いやうである。)さてこゝにいふ朝鮮は、衛滿に仆された箕氏のか、武帝に滅ぼされた衛氏のか、判らぬが、何れにしても、その遺民はシナ人だと見なければならぬ。さすれば、新羅はシナ人を基礎としたものとしなければならぬ。けれども、赫居世の姓の朴も居西干といふ其の稱號も、辰韓人の語としてあるのみならず、新羅人もしくはその中心になつてゐるものがシナ人であるらしい樣子は、すべての點に於いて見えない。これが甚だ不思議である。なほ、儒理尼師今の時に六村を六部として一々姓を作つたといふが、それがシナ人ならば既に姓があるはずであり、さうして其の姓はシナ人の思想からいふと、決して變更すべからざるものである。だから、此の話には自家矛盾がある。もつとも、全體として辰韓人が秦人、即ちシナ人、であるといふ説が魏志に見えてゐるが、これは辰韓人がシナ人に逢つて「其語非韓人」といつたといふ魏略の記事に矛盾するのみならず、廣い辰韓の全體がシナ人であつたならば、魏志などのいふやうに、それが樂浪郡から夷狄として取扱はれるはずが無いから、こゝにも自家矛盾がある。一體にシナ人は、かれらの中國思想から、所謂四方の夷狄の祖先をおのれ等の君主から出たものとしたがる癖があるので、匈奴は夏后氏の裔だといひ、倭人についても呉の太伯の裔といふことがいはれてゐる。辰韓秦人説も、辰と秦との音の類以から、同じやうな附會をしたに過ぎない。特に外國に移住したものを秦人とすることは、秦の暴政といふことが傳へられてゐるシナ人には、甚だ起り易い考である。桃源の民も秦人といはれてゐる。衛氏の朝鮮の遺民二千餘戸が曾て辰韓の一地方に移住したことがある、といふ話が魏略に見えるが、よしそれが歴史的事實であるとしたところで、辰韓もしくは辰國は、此の僅少なシナ人には關係なく、嚴として存在してゐたのである。新羅紀にも秦人來住の記事は見えるが、これには辰韓も雜居したとある。(また新羅紀には、かの六村を辰韓の六部といふともあつて、(556)六部は辰韓全體を六分したもののやうにも書いてあるが、それは所在地の地名にも、後の六部、即ち六姓、の話にも矛盾してゐる。)だから、新羅人もしくは辰韓人がシナ人であるといふ説は、事實ではない。なほ、此の建國の始祖赫居世は卵から出たものだといふが、これが説話であることは、勿論である。さすれば、建國の記事が既にあらゆる點から信じ難い。
 次に、建國の後に於ける領土の範圍、及び其の擴張の?態に關する新羅紀の記載を考へるに、赫居世(57B.C.−4A.D.)及び南解次々雄(4−24A.D.)の時から、樂浪郡の兵が來攻したことを初として、その後も?樂浪郡との交渉のあつたことが記されてゐるので、儒理尼師今(24−57)の時には、華麗不耐(共に今の咸鏡南道の南部)の二縣人が北境を侵したとあり、脱解尼師今(57−80)の時から、?百濟と今の忠清北道方面で衝突したと見え(この地理的關係については、朝鮮歴史地理第一卷第九羅濟境界考、參照)、また同じころ加耶(加羅)とも黄山河(洛東江の下流)で衝突したとあり、また祗摩尼師今(112−134)の時には、靺鞨(三國史記では今の江原道地方の住民を指してゐる、朝鮮歴史地理第一卷第四好太王征服地域考、參照)が來攻し、その衝突地點が漢江の上流地域であつたらしく書いてある。もしこれが事實であるならば、その領土は國初から、少くとも今の慶尚北道全部及び洛東江下流の東北方を包含してゐたもの、としなければならぬ。が、これは明かに三世紀に於いて新羅が辰韓十二國中の一國であつた、とある魏志の記載に矛盾してゐる。その上、百濟といふ國はその存在すら此のころにはまだ明かでなく、よしあつたにしても馬韓の一小部落に過ぎなかつたに違ひない。さうして、樂浪郡の存在した間は、忠清北道の主要部分はその郡の域内にあつたから(朝鮮歴史地理第一卷第二、三韓疆域考、參照)、そこで百濟と衝突するはずも無い。また、江(557)原道方面が新羅の領土に含まれてゐない間は、咸鏡道方面のものが北邊を侵すことはできないから、華麗不耐二縣人の侵入は靺鞨の來攻と矛盾する。なほ此の時、貊國が新羅のみかたをしたやうに書いてあるが、貊は鴨緑江方面の民族を呼ぶ名であるから、これも全く虚僞である。助賁尼師今(230−247)の時に高句麗兵が北邊を侵し、沾解尼師今(247−261)の時にそれと和を結んだといふのも、之と同じであつて、此のころに高句麗が新羅と交渉を生ずべきはずの無いことは、明かである。もつとも、儒理尼師今の時に樂浪が高句麗に滅ぼされたとあるが、これは基臨尼師今の時に樂浪帶方が歸服したとあるに矛盾した記事であるのみならず、兩方とも明かに事實に背いてゐる(この書の第一篇第二章參照)。それから、婆娑尼師今(80−112)の時には音汁伐(今の興海方面)を討ち、悉直(今の三陟)、押督(今の慶山)、が降り、また比只(國史の比自※[火+木]、即ち今の昌寧か)、草八(今の草谿)、を併せ、伐休尼師今(184−196)の時には召文國(今の義城)を伐ち、助賁尼師今の時には甘文國(今の開寧)を平げた、とあるが、これもまた魏志の記載に背反するのみならず、早くから樂浪や百濟や所謂靺鞨やと衝突したといふ新羅紀自身の記事とも矛盾する。これらの地方が領土内に無くては、樂浪や百濟や所謂靺鞨やと衝突するはずが無いからである。なほ、婆娑尼師今の時には古?郡(今の晉州、或は安東)、儒禮尼師今(284−298)の時には多沙郡(今の河東)が貢獻し、また婆娑尼師今が古所夫里郡(今の全羅北道古阜)に巡幸し、阿達羅尼師今(154−184)が漢水に出動し、基臨尼師今(298−310)が牛頭州(今の江原道春川)に至り、實聖尼師今(402−417)の時に平壤州(南平壤、即ち今の京城)に大橋を架したとあるなど、六・七世紀になつて初めて新羅の領土に入つた地方を早くから有つてゐたやうに、書いてあることさへある(京城附近の漢江流域を新羅が取つたのは六世紀で、晉州河東などのある慶尚南道の西部、即ち昔の任那(558)日本府の領土の西部や、または春川が、新羅に入つたのは、七世紀である)。さうして、眞に新羅が辰韓地方を統一した時代であるべき四世紀の前半に當る訖解尼師今(310−356)時代の記事には、毫もそんな樣子が見えてゐない。以上の所説を總合して見ると、新羅紀の上代の部に見える外國關係や領土に關する記事は、すべて事實でないことがわかる。
 然らば、其の他の方面ではどうかといふに、王室に關する記事に於いては、前に述べた赫居世の卵の話(これは朴氏といふ名の説明になつてゐる)の外に、脱解についても似た物語(これは脱解の名の説明に結合せられてゐる)があり、金氏又び?林の名の説明として、鷄鳴を聞いて金?を得たといふ話、瓠を腰に繋いで倭から海を渡つて來た瓠公といふものの話、などがあるが、これらが事實でないことは、勿論である。それから政治については、王にコがあり民が道を知つてゐたから、倭人や樂浪人が兵を率ゐて來たけれども、敢て侵さずに歸つたとか、南韓に聖人が出たといふので東沃沮の使者が來貢したとか、人の災を幸とするは不仁だといつて敵國王の死を弔したとか(赫居世の時)、鰥寡孤獨老病のものを給養したから隣國の百姓が多く來歸したとか(儒理の時)、儒理と脱解とが王位を相讓つたとか、又は民に農桑を勸めたとか、蝗害があつたので王が山川を祭つたら豐稔になつたとか(婆娑の時)、人を勞するを不可として宮堂を作らなかつたとか(味鄒の時)、かういふシナ思想での理想的君主があり理想的政治が行はれたやうな記事がある。最も甚しきは、南解次々雄が漁鉤を業としてゐた脱解の賢なるを聞いて女を以てそれに妻はせ、登庸して政事を委任し、儒理尼師今が我が子を措いてそれに位を傳へた、といふ、堯舜禅讓の物語を殆ど其のまゝ摸寫した話さへある。さうして、それらがみな事實らしくないことは、いふまでもない。こんな風であるから、嘉禾が(559)生じたといふやうな祥瑞の記事のあるのも、怪しむに足らぬ(婆娑、伐休、助賁の時)。龍が見えたといふことも  屡々あるが、これもシナ思想の所産であることは、いふまでもない。なほ前に述べたやうに、山川を祭るとか、基臨尼師今の時に太白山を望祭したとか、いふのも、シナ人の思想であつて、韓人の風習ではない。
 然らば、かういふ新羅紀の記事は如何にして作られたかといふと、第一にはシナの史籍から借りて來たもの、もしくはそれに本づいて按出したものがある。かの六村を朝鮮の遺民としたのは、多分、前に述べた魏略の記事、即ち衛氏の朝鮮の遺民二千餘戸が辰韓に來た、といふ話から出たことであつて、それを辰韓の六部ともいふとしたのは、魏略に辰韓のこととしてあるからであらう。シナ人が所謂夷狄を中國人の裔としたのとは違ひ、新羅人が自分等の祖先をシナ人としたのは、不思議なやうでもあるが、拓跋魏が其の祖先を黄帝としたと同じく、思想上、シナを本位としてゐるものにとつては當然であらう。また辰韓に秦人が來たといふのは、勿論、魏志を採つたのである。また前には引かなかつたが、甫解の時、北溟人が田を耕して得た?王の印を獻じたとあるのも、?王の印のことを書いてゐる魏志扶餘傳に出所があるらしい。華麗、不耐、とか東沃沮とかいふ名も、勿論、シナの史籍から出てゐる。が、なほ一歩進んで考へると、魏志の東沃沮傳に「不耐、華麗、沃沮、諸縣皆爲侯國、」と列記してあるところから來てゐるのかも知れぬ。卵の傳説も、またかの魏志の扶餘傳に附記せられてゐる魏略の記事から脱化したものであらう。それから、樂浪郡の來攻などが事實でないことは明かであるが、樂浪郡といふ名がやはり書物によつて得た知識に違ひない。また、婆娑尼師今及び伐休尼師今の時に、麥連岐または嘉禾ができ、奈解尼師今の時に死者が復活した、といふ記事のある南新縣は、晉書に初めて見える帶方郡の屬縣の名を借りて來たものらしい。自國に史料が無い場合に、シナの史(560)籍の記事を借りて來て、それに何事をか附會するのは、シナの文化系統に屬する附近諸民族に於いて、自然に取られた方法である。第二には、後世の?態を昔からのこととし、又は後の事蹟に基づいて構想したものがあつて、前に述べた領土のこと、高句麗や百濟や加耶に關する關係、などがそれである。特に外國に關係のあることについては、以上の二つの方法によつて、あらゆる附近の民族又は國土の名を列擧してある。第三に、政治道コに關する思想の所産がシナの經典から出てゐることは、いふまでも無からう。
 かう考へて來ると、紀年や歴代の國王の世系もまた虚構であることが推測せられる。特に赫居世の建國を甲子の年(57 B.C.)としたのは、干支の始を揃へたのであつて、此の甲子の四月に即位して次の甲子の年(4A.D.)の三月に歿したやうにし、其の在位を精密に滿六十年としたのも、同じ思想から派生したものらしい。さうして其の甲子を57 B.C.にしたのは、37 B.C.に始祖東明の即位を置いた高句麗、18 B.C.に始祖温祚の即位を置いた百濟、の建國の年よりも古くしよう、といふ意圖から出たものではあるまいか。(高句麗紀と百濟紀とに見える二國の物語が、何時作られたかは問題であるが、此の點から見ても、それに新羅人の手が加はつてゐはしまいかと思はれる。三國の建國が、ほゞ二十年づつを隔てて、殆ど同じ時代とせられたのは、そこに偶然ならぬ作意が見えるやうである。)歴代の國王の在位年數などにも、ほゞ定數があつて、一と二と三と四との組み合はせの外に出てゐず、それによつて作者の心理が覗はれるやうであるが、あまりに詮索に過ぎるかと思ふから、こゝには省略して置く。
 ところが斯ういふ記事を除けば、新羅紀の上代の部は殆ど空虚になつてしまつて、殘るところは倭に關するもののみとなる。が、新羅紀全體の性質が上述の如きものであるとすれば、其の倭に關する記事の價値も、またおのづから(561)類推せられる。第一に、倭人が多く王城の東方の海岸から來攻した如く記してあるが、これは第二篇第一章で説いたと同じ理由によつて、事實としては肯はれないことである。さうして、四世紀の後半から五世紀にかけて、我が國が加羅を根據として新羅に當つた、といふ明白な事件が殆ど現はれてゐないのは、益倭人に關する記事の取るに足らぬことを示すものであり、多くの戰爭譚は、事實の忘られた後になつて、構造せられたものであらう。なほ、訖解尼師今の時に、倭國王が婚を請うたから臣下の女を送つたとか、辭するに女既に嫁せるを以てしたとか、いふ記事があるが、これは歴代のシナの帝室と所謂夷狄との間に行はれたかういふ關係の記事を、其のまゝ史籍の上から借りて來たものであることは、いふまでもない。それから、阿達羅尼師今(154−184)の時に、倭の女王卑彌呼が來聘したとあるのも、魏志から來たものに違ひないが、年代が合はないのは作者の杜撰の故であらう。また脱解尼師今は、倭國の東北一千里にある多婆那國の王が女國王の女を娶つて生ませた卵から出た、といふのであるが、女國は勿論、魏志の邪馬臺の女王國から出たものであつて、魏志には當時女王卑彌呼がゐたため、便宜上、女王國としてあつたのを、ここでは女國といふ國名にしてしまつたのである。多婆那國の名の由來はわからぬが、東北一千里としたのは、魏志に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、」とあるところから來てゐるらしい。倭といふやうな文字を用ゐることが、既に新羅人がシナの史籍を読んだ後のしわざである。
 新羅紀の上代の部に於ける倭に關する記事が、史料として價値の無いものであることは、これでも知られよう。其の戰爭の記事は、畢竟四世紀の後半以後に於いて、斷えず我が國に抗敵してゐた、といふ事實に基づいて構想せられたものらしく、それは恰も舊くから?百濟と戰を交へたやうに書いてあるのと同じであり、また實際に無い戰爭を(562)虚構した點に於いては、樂浪郡に關する記事と同樣である。のみならず、眞に戰爭の行はれた時代のことにも、確實らしい具體的の記事は多く見當らぬ。事實の片影の殘つてゐるものが一つ二つは無いでもないにせよ、それすらも年代のあてはめかたは恣意なものである。たゞ、慈悲麻立干(458−479)の時に歃良城方面で倭と戰つたとあるのは、大體、事實であらう。また脱解なり瓠公なりの賢王賢臣を、敵國たる倭人もしくはそれに關係のあるものとしてあるのは、少しく奇怪のやうであるが、これも倭といふものが新羅人に最も強大な印象を與へておるからのことであつて、本來は敵であるものが、或る場合に其の敵であるといふ觀念の内容が意識せられずして、印象の強さのみが殘り、それが別の方面に結びついたのである。シナ思想、また新羅紀全體の態度から考へると、都城が敵軍に陷つたとか、國王が外國人だとかいふことは、もしそれが事實であつたならば、寧ろ史上から削り去られるのが普通であるのに、それをわざ/\載せてあるのは、そこにかういふ心理がはたらいてゐることを證するものである。我が國の神話や上代の説話に於いて、みかたたり屬國たる百濟よりも加羅よりも、却つて敵國たる新羅の方が多く現はれてゐるのも、一面に於いては是に似た心理に由來があらう。のみならず、かうひどく倭に悩まされながら、或はコを以て、或は武力を以て、常にそれに討ち克つたとしたところに、作者の特殊の意圖が見えるのである。
 新羅紀の上代の部に對する批判は、必しもこれで悉されたのではないが、倭に關する記載の取るに足らぬことを證明するには、これで十分だと思ふ。さうして大體からいふと、前に述べた如く、實聖尼師今(402−417)のころにも、明白に虚構と見なすべき記事があるから、其の前の奈勿尼師今(356−402)のころ、即ち我が軍が初めて新羅を壓したと推測せらるべき時代の記事も、他の確實なる史料の記載に照應するところのあるものでない限りは、うつかり信用(563)ができない。
 さて一般に、或る國、或る王朝の上代史が、歴史的事實から生じた傳説などを書きとめたものに限らず、特殊の意圖によつて後の時代に結構せられたものがあるといふことは、此の新羅紀の一例でもわからう。シナの各朝の祖先の話、邊外から起つた魏や遼や金や元の國初の記事、また朝鮮に於いては高麗朝や李朝の祖先の物語も同樣であつて、史上に現はれてゐるところは、何れも造作に出でたものである。三國史記の高句麗紀百濟紀は勿論のことである(高句麗紀については、滿鮮地理歴史研究報告第九に載せた「三國史記高句麗紀の批判」に卑見を述べて置いた)。
 しかし、かうして作られた新羅紀のでき榮えは、甚だ粗末なものであり、何等の生氣も光彩も無いものである。あまりに甚しくシナ化せられ形式化せられて、新羅人に特殊な思想も感情も全く痕跡をとゞめてゐない。勿論、これはずつと後の高麗朝に編纂せられたものではあるが、其の根據となつた新羅人の述作とても、やはり似たものではなかつたらうか。よしシナ思想の着色が濃厚であつても、また漢文で書いてあつても、我が日本書紀をそれに比べると、霄壤の差がある。境遇の馴致したところか、民族性の現はれたところか、ともかくも半島の知識人の考はシナ思想の外には一歩も出なかつた。何れの國民の上代史に於いても其の一要素となつてゐるものは、種々の説話であつて、そこに其の國民の特殊なる思想や感情や生活?態などが現はれてゐるのであるが、これも新羅紀に於いては極めて貧弱であつて、稀にあるさういふものでも新羅人の生活から出た特色が見えないではないか。
 
(564)     第二 魏志倭人傳の邪馬臺國の位置について
 
 魏志の倭人傳に記されてゐる邪馬臺國が、ツクシ地方のどこかであるか、または皇都の多く置かれたところで後に大和の文字のあてられた土地であるか、といふ問題については、そのどの方の説をとる學者の考も、よく世間に知られてゐるから、それをツクシ地方と見るについても、今さらその理由をくりかへしていふにはおよばず、反對説との論爭のあとをたどつてみる必要もないが、重要のことがらであるから、どういふ考へかたによつてツクシ説をとるかといふことを、一おう簡單に述べておかうと思ふ。
 邪馬臺國の存在は魏志によつて知られるのであるから、何よりも先にその位置が魏志にどう記されてゐるかをしらべてみねばならぬが、それには魏使のツクシに於ける上陸地點である末盧國から東南陸行五百里に伊都國があり、その東南百里に奴國、それから東行百里に不彌國があり、その南の水行二十日のところに投馬國、その南の水行十日陸行一月のところに邪馬臺國がある、としてある。こゝで大切なのは方位と距離とであるが、末盧(松浦)から奴(儺)までは、或は不彌を宇瀰とすればその不彌までは、ほゞそれが地理上の事實と一致する。方位も今日の磁針にあてはめて見れば精確ではなく、里數もまた同樣であるが、磁針の無かつた當時に日の昇降の方位をほゞ東西と見なし、また多くは或る地點から出發する時の方向によつて次の地點の方位を示したらしい昔のシナ人の風習からいへば、さう(565)してまた百里とか五百里とかいふ大數によつて距離を記してあるこの記載からいへば、それにこのくらゐの不精確なところがあつても、怪しむには足らぬ。帶方郡から末盧までの方位と距離と、並にその經由した水路と停泊地點とが、やはり地理上の事貫とほゞ一致してゐること、特に方位に於いては精密にといつてもよいほどであることを、參考すべきである。
 たゞこゝに疑問となるのは、不彌と投馬と邪馬臺との關係が、方位については明かに南としてありながら、距離については、これまでの例とは全く違つて、里數でそれを示さず、水陸の行程によつて記してあることであり、さうしてこの行程は南といふ方位と矛盾してゐることである。奴または不彌の地方から南行すれば水行によるところは無く、また二ケ月を要するやうなところはその方向には無いからである。そこで、三十日を要する水行を瀬戸内海によるものと考へ、そこから南といふ方位は東の誤であるとし、それによつて邪馬臺國を大和の地にあてる見解が生ずるのである。しかし、方位の東が南と誤られたといふのは、第一に、帶方郡から奴國または不彌國までの方位の記載が誤つてゐない例から見ても、肯ひがたいことであり、第二に、一日か二日かの場合ならばともかくもとして、二ケ月の長い旅行に於いていつも/\東が南と誤認せられたといふのは、なほさら信じがたいことである。もつとも第二については、旅行者が誤認したのではなく、魏志の記載に誤寫などがあるとして、かういふことが考へられなくはないかも知れぬが、それにしてもこの二ケ所の記載のみに誤寫があるとするのは、よほど確實な根據が無い限り承認しがたいことである。ところがその根據は、行程が長くして瀬戸内海にあてるより外にあてやうが無いといふだけのことである。しかしこの行程がそれほど確實なものと考へられるかといふに、魏志の記載から見るとそこに大きな疑問があ(566)る。といふのは、帶方郡から邪馬臺國までの距離を萬二千餘里としてあるが、里數の示してある不彌國までのを合計すると一萬七百里になるので、それによると、不彌國から邪馬臺固までは僅かに千三百里になるはずである。末盧國から奴國までの二倍餘に過ぎない。水陸兩行二ケ月を要するといふには、距離があまりに短かすぎるではないか。また末盧、伊都、奴、不彌、と重要なる地點の名を順次に擧げて來たにかゝはらず、二月にわたる長途の行程に於いて、中間の地點として投馬國の一つのみが記されてゐるのも、奇怪である。水行するにしても停泊の地はいくらもあつたはずであり、一ケ月の陸行に記すべき地點の無かつたはずはあるまい。さすれば、これもまたこの行程の疑はしいことの一つである。かう考へて來ると、この行程の記載を根據としてそれによつて考をたてるのは、甚だ危險といはねばならぬ。もと/\不彌國まではいつも里數が記されてゐながら、それから後は全く書きかたが變つてかういふ行程によつて距離が示してあるところに、何等かの意味があるのではあるまいか。
 そこで全體の上から見て、魏志が倭をどういふ方面にあるとしてゐるかといふと、道里を計ると會稽の東に當るといつてゐること、氣候が暖かいといつてゐること、その風俗を記すについて漢書地理志の粤の條の記載をとつてゐるところのあること、などから考へると、魏志の記者は倭を南方にあるやうに考へてゐたことがほゞ想像せられる。これはいはゆる倭の女王の居所だといふ邪馬臺國を、倭の地へ上陸してからずつと東へいつたところ、二ケ月もかゝつて東へ東へと進んでいつたところ、とは思つてゐなかつたことを、示すものではなからうか。さうしてそれは奴國不彌國のあたりから遠く南行して邪馬臺國に至るとせられてゐるところから來てゐるのではあるまいか。しかし既に述べた如くこれは地理上の事實としてあるべからざることである。然らばどうしてかういふ記載があるかといふと、そ(567)れは直接もしくは間接にその資料となつた魏使の報告のこの部分が、造作せられたものであつたからではなからうか。里數によらずしてかういふ行程によつて距離が示してあり、この部分だけ特殊の書きかたがしてあるところに、それが暗示せられてゐるのではあるまいか。帶方郡からの使節がその行旅の遠さを甚しく誇張して報告しようとして、かういふ造作が加へられたと見るのは、シナの使節のしわざとしてはむりな推測ではあるまい。いはゆる女王の起居のありさまを敍する場合に「宮室樓觀城柵嚴設」としてあるなども、上代の日本の一般の風習や生活?態から見ると、甚しき誇張の筆と解せられるので、これは邪馬臺國をシナ風の考によつて堂々たる大國の如くいつたものである。魏志に侏儒國が倭國の南四千餘里のところにあり、また裸國黒齒國などがさらにその東南の舟行一年にしてゆかるべきところにある、と記してあるのは、魏使の報告にあつたことか、または魏志もしくは魏略などの編者のしわざから出たことか、わからぬが、いづれにせよ、空想的傳説的の地名を實在の土地につなぎあはせたものであつて、それは西域のことをいふ場合にその極遠の地として西王母の國名を擧げるのと同じやうなことであり、われ/\から見るとそれによつて實在の土地が却つて空想化せられる傾向をもつものである。邪馬臺國が甚しく遠い土地であるやうにいつてあるのも、一つはこれと似たところのあることであるが、それと共に使節の勞苦を示しその功業を大にしようとする意圖も、それに含まれてゐよう。
 かう考へて來ると、この行程に於いて造作せられたのは、その距離にあるので、方位ではなかつたらう。方位を南としたのは、使節が自己の旅行によつて知つたことか、または傳聞したことか、何れであるにせよ、事實を記したのであらう。これは造作する必要の無いことだからである。なほ邪馬臺國より北は道里がわかるが、その他の方面につ(568)いてはそれがよくわからぬといひ、邪馬臺國に服屬してゐる諸國はそれより北の方であるやうにいひ、さうしてまたこの國の勢力の及ばない南方にその敵國である狗奴國があるといひ、すべて南北によつてその方向を示してあることをも、考へあはすべきである。さうしてこれはことがらの性質から見て、やはり魏使の報告したことであらうと思はれる。侏儒國を南にあるとし、裸國黒齒國をその東南にあるとしたのも、この方向の更におし進められたものと解せられる。かう考へて來ると、邪馬臺國がツクシの一地方であり、いはゆる倭がツクシ地方をさしてゐることは、明かであらう。この國の東方の海を渡ること千餘里のところに同じ倭種の國があるといふのも、かう解することによつて始めてわかるので、それはいはゆる本土もしくは四國方面のことをいつたのであり、千餘里とあるのは傳聞を記したために誇張せられたいひかたとなつたのであらう。倭の地が海中にある洲嶋でまはりが五千餘里であるといふのは、實見と傳聞と想像との結合せられた知識であらうが、やはりツクシにはあてはまる。邪馬臺國の位置はこれらの記載によつて一層明かになるであらう。
 たゞこゝに一つ問題になるのは、魏使が邪馬臺國へいつたかどうかといふことである。これは魏志に伊都國(伊斗、伊覩)について「郡使往來常所駐」とも「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、……常治伊都國、……王遣使詣京師帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露傳送文書賜遺之物、詣女王、不得差錯、」とも記してあるのによると、魏使は伊都國までしかゆかなかつたやうに見られはしないかといふ疑が起るからである。もしさう見るならば、伊都國よりさきのことは、方位についても距離についても傳聞によつたものに過ぎないことになり、その價値がいくらか低められるのみならず、不彌國までとそれからさきとで距離の示しかたに違ひのあることにも、さしたる意味が無いとす(569)るか、または上に考へたのとは別の意味があるとするか、いづれかの見かたをしなければなるまい。しかし「往來常所駐」は、往路にも來路にもその途中でいつも駐在するところといふ意義に解するのが、文字の上から見て妥當であらうし、伊都國で傳送賜遺の文書物品をしらべるのは、魏からのも女王からのも同じであるから、そこで魏使がとめられるといふやうには解せられぬ*。つまり伊都國が女王から任命せられた監察官の駐在するところであつたため、そこが一種の關門とも中繼地點ともなり、從つて魏使も往復の途上そこには特に滯留する慣例になつてゐたのであらう。常識的に考へても、郡からわざ/\派遣せられた使が途中でとめられる慣例であつたとは思はれず、特に張政が使となつていつた時の魏志の記載は、邪馬臺國までいつたとしなければ解し難いもののやうである。さすれば上に考へたことに誤の無いことがおのづから知られよう。
 邪馬臺國がツクシの地域にあり、さうして奴國や不彌國より南方にあつた、といふことは、魏志の記載による限り、もはや疑は無いと思ふが、然らばそれは今のどこであつたらうかといふに、地名から考へると、それを筑後の山門郡とする説に從ふのが穩當であらう。こゝは神功紀にも土蜘蛛の居所として記されてゐて、上代には重要の地であつたやうに見える。考古學的にそれをうらづける遺跡や遺物は發見せられてゐないかもしれぬが、史蹟には必ず考古學的のうらづけができるとは限るまい。邪馬臺國を東方の大和の地とする考には、考古學方面からの觀察が根據になつてゐるものもあるが、それは魏志の記載を否定するほどの確かなことではない。もと/\邪馬臺國の存在は魏志によつてはじめて知られるのであるから、それを否定したのでは、邪馬臺國は初から問題にはならぬ。否定するのではなくして解釋するのだといふかもしれぬが、邪馬臺國を大和にあるといふのは、實は解釋ではなくして否定である。本文(570)の記載を改作しない限り、いひかへると否定しない限り、さういふ解釋はできないからである。しかしそれは別のこととして、邪爲臺國を大和とすることの理由として提出せられた考古學的觀察が、その觀察として確かなものであるかどうかといふに、必しもさうとはいひかねるのではあるまいか。このことについても既に論議が盡されてゐるやうであるから、こゝにはそれを述べない。さうしてこの大和説の最も重大な弱點は、大和に於ける女王の存在を證明することのできないところにある。邪馬臺國を大和とするのはその君主の家を皇室と見なすのであるが、三世紀のころのわが皇室に於いて女性の天皇がゐられたといふ證跡はどこにもなく、さういふ推測はどこからも出て來ない。邪馬臺國に女王があつたといふのも、その時の何等かの特殊の事情のためらしく、その國の君主が常に女王であつたのでないことは、魏志の記載そのものによつて知られるが、そのころの大和の皇室については、歴史的事實が殆ど傳はつてゐないから、歴代の皇位がいかなる事情で相承せられて來たかも、またわからぬ。たゞその時代に當るらしい崇神垂仁朝ころから後の歴代の皇位の相承については、記紀の記載がほゞ信用すべきものと考へられるのに、そこに女性の天皇が見えないのと、記録が作られるやうになつたと考へられる應神朝から後の時代に於いても、推古天皇に至つてはじめて女皇が現はれたのと、まだ一般に家系が男性によつて相續せられてゐたことと、これらを互に照らしあはせて考へると、三世紀ころの皇室に女性の天皇の無かつたことが、知り得られるのである。この點から、女王の君臨してゐたといふ邪馬臺國は大和の地ではなかつた、といふことがわかるのである。
 
(571)     第三 百濟の王室の系譜及び王位の繼承に關する日本書紀の記載
 
 百濟に關する日本書紀の記載については、第四篇の附録第一に於いてそれに對する考察を試みておいた。たゞ一つ遺されてゐる問題は、百濟の王室の系譜及び王位繼承に關する記事が三國史記の百濟紀によつて傳へられてゐるところと符合しない點があるので、それを如何に見るべきかといふことである。次に述べようと思ふのは、それについての見解である。
 百濟の王室の系譜について第一に氣のつくのは、三國史記の百濟紀には近肖古王および近仇首(貴須)王として記されてゐる國王が、應神紀に肖古王および貴須王としてあつて、近の字の無いことである。此の應神紀のは百濟記から出てゐるらしいが、百濟本記を寫し取つたものと見なすべき欽明紀二年の條にも、聖明王の語として「我先祖速古王貴首王」とあつて、それはやはり三國史記の近肖古王と近仇首王とに當るべきものである。さて三國史記に見える契王以前の百濟に關する記事がすべて事實として信じ難いものであり、それが後世の史家によつて構造せられたものであること、そのうちに含まれてゐる肖古王と仇首王との名も(蓋鹵王と共に)實在の肖古王と仇首王(及び蓋鹵王)との名を此の構造せられた上代の國王の名とし、現實に存在した王には、それ/\近の字を冠せてそれと區別したものであることは、もはやいふにも及ぶまい。さすれば書紀に引かれた百濟記や百濟本記に於いて肖古王にも貴須(572)王にも近の字が見えないのは、これらの書がさういふ造作のまだ加へられない前の史籍であることを示すものである。さうして、欽明朝時代のことを書いてある百濟本記に近の字が無いとすれば、少くともそのころまではまだかういふ構造ができてゐなかつたに違ひない。のみならず、百濟滅亡の際に其の王族も在朝の官僚輩も少からず我が國に歸化して來たのであるから、彼等がもし此の造作せられた上代史や上代の國王の系譜を知つてゐたならば、其の知識が我が國にも傳へられ、從つてそれが肖古王貴須王の名の記されてゐる書紀にも現はれさうなものであるのに、それが全く見えてゐないのは、彼等がさういふ系譜を知らなかつたからのことではなからうか、換言すれば、百濟の滅亡する時までまだそんなものが作られてゐなかつたのではなからうか、とさへ考へられはしまいか。書紀に引いてある百濟の史籍は、多分、彼等の將來したものであらうが、それがあの如く斷片的であること、もしまたこれらの史籍が彼等の歸化より前に傳來してゐたとすれば、彼等から其の缺陷を補ふべき史料を得なかつたらしいこと、を思ふと、彼等によつて百濟の文獻が十分に傳へられなかつたことが知られ、さうして書紀の記載はたゞ編者の手に入つた百濟の記録を寫したのみのものであるから、かういふ推測は頗る早計のやうであるが、重要なる王室の系譜については彼等とても漠然たる知識ぐらゐは有つてゐたと想像するに差支が無く、さうして書紀の材料には歸化人をも含む家々の系譜が重きをなしてゐたらしく、また書紀の編者は百濟の記録に種々の變改を加へてゐる場合もあるのであるから、此の推測を斥くべきではなからう。さすれば此の造作は何時また何人の手によつて行はれたであらうか。
 これについてなほ一つ考ふべきことがある。續紀(卷四〇)延暦九年四月の條に見える百濟王仁貞等の上表に「貴須王者百濟始興第十六世王也」とあるが、これは都慕王を太祖としての話であることが、其のすぐ次に「百濟太祖都(573)慕大王者、日神降靈、奄扶餘而開國、天帝授?、惣諸韓而稱王、」とあるので、推測せられる。また此の表文には、神功皇后攝政數の年に、近背(肖)古王が始めて日本に通聘し、應神天皇の世に此の貴須王が孫の辰孫王を入朝させ、仁コ天皇の時に其の子の太阿郎王が近侍となつた、といふことが載せてあり、此の太阿郎王の曾孫の辰爾が敏達天皇の朝に高麗から上つた烏羽の表を讀んだ、といふ話も書いてある。此の表は太阿郎王の後であるといふ(菅野朝臣となつた)津連眞道のために上つたものらしいが、署名してある百濟王仁貞は百濟滅亡の際に歸化した王族の家である。そこで問題は、こゝに貴須王を第十六世の王としてあることであるが、此の貴須王は應神天皇の代に當るといふのであるから、書紀の貴須王、即ち三國史記の近仇首王、でなければならず、從つてこれは近仇首王が三國史記に於いて鄒牟(都慕)から數へて十五代めの王に當つてゐるのと甚だ近い(もし世數にすれば三國史記の近仇首は都慕の十世の孫に當るが、第十六世王としてあつて十六世孫〔右○〕としてないから、これは十六代の意義と解せられる)。一代の差異はあるが、もし此の十五世といふ數字が何か前からの所傳に從つたものだとすれば、それはやはり何人かが造作した上代百濟王の系譜でなければならぬから、それが三國史記の所傳とほゞ同じことであるのは、偶然でないやうに見える。現にこの文中に近背(肖)古王の名さへ出てゐる。のみならず、姓氏録を見ると、菅野朝臣(左京下)の條には貴首王を都慕王の十世孫としてあつて、三國史記の近仇首王の世數と符合するし、石野連(左京上)は近速王(古の字が脱ちたのであらう)、廣津連(右京下)は近貴首王の後とある。また春野連(右京下)の祖とせられてゐる速古王の孫の比流王といふのも。三國史記の系譜の造作せられたらしい部分に出てゐる。比流王はまた?斯(右京下)、岡屋公(山城)、廣井連(攝津)、の祖先ともせられてゐる。それから半?といふ家(右京下)の祖だといふ沙半(574)王も、實在の王らしくない部分の三國史記に見えてゐる。和朝臣(左京下)の條に都慕王十八世孫武寧王とあるのは、三國史記の系譜より一世少くなつてゐるが、なほ全く縁が無くはない。だから、姓氏録の作られた時分には、三國史記に見えるのと、よし精密に同一でないまでも、ほゞ類似した百濟王の系譜の我が國に知られてゐたことが、推測せられる。
 もつとも世數や代數は、秦造(左京上)の祖を始皇帝五世の孫の融通王とし、木津忌寸(同上)の條に後漢靈帝三世の孫の阿智使主とあるやうに、無意味に作つたものかも知れず、現に百濟朝臣(左京下)を都慕王三十世の孫の惠王としてある類もあるから、精密に一致してゐない限り、確證とするには躊躇しなければならず、よし一致してゐても偶然の暗合とも見られ、また速古貴須の上に加へられた近の字も其の例が極めて少く、さうして別に近の字の添へてない速古王貴首王もあるのであるから、これは後人の添加、もしくは傍注などの?入、と見なせなくもない。百濟王等の上表にある近背(肖)古王の近も同じ表中の貴須王に此の字の無いことから考へると、本來あつたものかどうか、怪しまれる。上にも引いたことのある延暦十年四月の文忌寸の上言にも、王仁が百濟久素王の時に來朝したとあつて、貴須の異譯である久素に近の字の見えぬことも、參考せられる。しかし比流王(又は避流王)、沙半王、は打消しがたからうと思はれ、從つて上に記したことの全部を斥け去るにも及ぶまいから、延暦弘仁のころに於いては、少くとも一部の人士の間に、かういふ系譜が知られてゐたと見なすべきであらう。しかしそれが如何にして知られたかは、なほ疑問であつて、百濟滅亡の際もしくはその前から我が國に傳へられてゐた、とのみ考ふべき必然的理由は見あたらぬやうである。かの百濟王等の上表には辰孫王以下の名が頗る疑はしいものであり、烏羽の表を讀んだといふ(575)王辰爾の話なども、書紀の説話をそのまゝに取つてゐるのであるから、貴須王に關することでも、後世になつて何かの書物の中から得た知識をこゝに列擧したものでないとはいはれぬ。姓氏録の記載も同樣であつて、それが書紀に現はれてゐないところを見ると、その編纂の前に歸化した百濟人の知識にそれが存在してゐたかどうかは、容易に判斷ができない。
 そこで、別の方面から此の百濟の上代に擬せられた王室の系譜を考へて見る必要がある。が、今日に遺つてゐるものではたゞ三國史記の記載があるのみであつて、而も其の書の内容は、高句麗や百濟の史籍から出たことでも、幾度かの添削や變改を經てゐるらしいから、此の系譜についても其の最初の形をそれによつて知ることは殆ど不可能といつてよからう。しかし大體からいふと、新羅人の手によつて今の三國史記に見えるやうな年代記の骨子が編述せられてゐたことは、ほゞ想像せられる。さて百濟紀について見ると、契王以前の分は記事が極めて簡單であるが、其の間には天變地異等の災害や不祥の記事が極めて多く、さうして始祖温祚王の時の外には、美事善事または祥瑞と見なすべきことは殆ど無いくらゐであつて、この點に於いて新羅紀とは頗る趣が違つてゐる。國王についても、汾西王責稽王の如く殺害せられたやうな話さへある。また新羅と衝突したことがかなり多く記されてゐるが、その多數は不利の地位に置かれ失敗に終つてゐる。かういふことは、どうしても百濟の史籍に存在したものとは見えない。本來事實でないことを構造するのであるから、おのれ等の王室の祖先の歴史、或はむしろ王墓みづからがその祖先の歴史に擬して作つた話に於いて、こんなことの多く書きつらねてあるはずがなからう。さうして、この書の附録第一に於いて述べておいたやうに、新羅と高句麗と百濟との建國年代をほゞ二十年づつの差をつけて順次に排列したのを見ても、三(576)國史記の上代の年代記に、新羅を首位に置き百濟を最下位に置かうといふ意圖の含まれてゐることが知られる。だから少くとも此の二つの點に於いて、新羅人の手がそこに加はつてゐることを看取しなければならぬ。それから、温祚王紀などには樂浪を東方、靺鞨を北方としたり、南沃沮と交渉があつたやうに書いたりして、あまりに地理的觀念が無さすぎるが、遲くとも肖古(近肖古)王時代から帶方の一半を領土とし、晉とも交通して書記の術を知つてゐた百濟に於いては、後になつてもかなり古い記録が遺されてゐたらしく、現に日本にも傳へられた百濟記などの編纂ができたほどであるから、擬上代史を机上で作る場合にも、こんな甚しい地理上の誤謬は生じなかつたらうと思はれる。自國の強大を誇るために、又は爲にするところがあつて、虚構の記事を作ることはあつたらうが、百濟紀の此の時代の記事には、さういふ用には少しも立たぬものが多い。古爾、責稽、汾西、などの諸王の時代に於いて帶方郡の名が見えてゐるにかゝはらず樂浪と戰つたり、其の時代に貊人が來侵したりしてゐるのも、これと同樣の誤謬である。温祚王の時に南北東西の四部を置いたやうに書いてあるのも、中上下前後五部の存在してゐた百濟の實際?態と矛盾する。尉禮城から漢山に都を移したといふのも(慰禮城が漢山そのものであることは雄略紀に引いてある百濟記によつても明白であるから)百濟人がいふべきことではなからう。これらもまた新羅人の構想から出たものとすれば、無難に解決せられよう。古爾王十三年の條に、毋丘險が樂浪太守劉茂および朔方太守王遵と共に高句麗を伐つた虚に乘じて樂浪を襲つたとあるのは、魏志の高句麗傳?傳及び韓傳の記載を結合して、少しくそれを改作したものであるが、魏志を取ることは新羅紀の編者の常套手段である(朔方太守王遵は帶方太守弓遵の誤寫であらうと思ふ)。南沃沮の名もまた魏志から出たのであらう。また温祚王紀の一身二首の牛の話は、高句麗紀大武神王のところに出てゐるのと(577)ほゞ同じことであつて、これは一つの話を高句麗紀と百濟紀との兩方に編み込んだのであり、從つてそれが百濟人のしわざでないことを示すものであらう。
 三國史記に見える百濟の始祖の物語にもまた百濟人の思想でないものが加はつてゐるらしい。このことについては少しく時代を溯つて考へて見る必要があるから、やゝわき道へ入るが、それを述べて置かう。百濟の王室が扶餘から出てゐるといふことは、古くからいはれてゐたらしく、晉書簡文帝紀に見える如く肖古王(近肖古王)が餘句の名を以て晉に朝貢して以來、歴代の國王がみな餘氏を稱してゐるのでもそれは明かである。魏書の百濟傳にも「其先出自扶餘」とあるが、これは同じ書に見える百濟王餘慶(蓋鹵王)の上表に「臣與高句麗、源出扶餘、」とあるのから出てゐるらしく、從つてそれが百濟人の所説であることがわかる。斷えず密接の關係を有つてゐた南朝の方の史籍には、却つてさういふ記事が見えないが、宋書の百濟傳に「本與高驪倶在遼東之東千餘里」といつてゐるのは、やはり同じ説の漠然と語られたものによつたのであらう(これには全くの訛傳も結合せられてゐるが)。しかし、これらの所傳には祖先の名などは全く見えてゐないが、周書の百濟傳になると「夫餘之別種、有仇台者、始國於帶方故地、」といひ「毎歳四祠其始祖仇台之廟」といつて、仇台といふ始祖の名を擧げてある。此の百濟傳には、風俗制度や言語などのこともかなり詳しくまた正確に記してあるから、仇台の話も當時の見聞によつたものとして信用すべきであらう。ところが、隋書の百濟傳にはもつと詳しく「百濟之先出自高麗國、其國王有一侍婢、忽懷孕、王欲殺之、婢云有物?状如?子、來感於我、故有娠也、王捨之、後遂生一男、棄之厠溷、久而不死、以爲神、命養之、名曰東明、及長高麗王忌之、東明懼、逃至淹水、夫餘人共奉之、東明之後、有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地、漢遼東太守公孫度(578)以女妻之、漸次昌盛、爲東夷強固、」といつてある。此の東明の説話が魏志夫餘傳に引かれた魏略の文から來てゐることは明かであるが、其の先を高句麗から出たとしたのは、高句麗と與に扶餘から出たといふ説の一轉化したものである。此の二要素を文字の上で結合したため※[蠹の虫虫が木]離國の王が高句麗の王となり、また※[蠹の虫虫が木]離國から逃げて扶餘に來た東明のことを其のまゝに取り「逃至掩水、夫餘人共奉之、」とさへ書きながら、それが高句麗から逃げ出した後の話になつてゐて、地理の上に大なる矛盾が生じ、夫餘がどこにあるのか全く不明になつてゐる(掩水は施掩水の施の字もしくは掩D水のDの字が脱ちたのであらう)。しかし此の説話の記者が魏志夫餘傳にたよつてゐたことは、公孫度が女を仇台に妻したといふのが、やはりそこに見える夫餘王尉仇台のことをそつくり取つてゐるのでも知られる。ところで問題は、隋書の比の記載が百濟人の所説か、シナ人の補綴したものか、といふことである。百濟の王室は其の祖先が高句麗と同じく扶餘から出てゐるとはいつてゐるが、敵國もしくは對等國たる高句麗から出たとはいひさうに思はれぬ。新羅が漢江の流域を占領した後には、高句麗と百濟との間には寧ろ親和の傾向を生じては來たが、百濟の王室が高句麗の王室の支流もしくは庶流を以て甘んじてゐたとは、考へ難いやうである。だからこゝにシナ人の誤聞、もしくは訛傳、もしくは思ひ違ひか書き違ひかがあるらしい。魏略の文をとつたのも筆者のしわざであつて、百濟人からは話を聞いただけかも知れない。しかし其の話が如何なるものであつたかは、なほ研究を要する。
 書紀に見える天日槍の物語に高句麗の祖先の傳説が含まれてゐるといふことは疑が無からう。さうしてそれは、高句麗と同祖と稱してゐる百濟人から我が國に傳はつたものと見るのが、自然の推測である。さすれば、百濟には此の高句麗の傳説が知られてゐたはずである。ところが高句麗の傳説は、魏略に現はれてゐる扶餘の話と同じものから出(579)てゐながら、別の形を具へてゐるので、日光に感じて卵を生むといふのも河伯の女であるといふのも、魏略に見えるものより却つて原始的である。其の詳しく記されてゐるのは魏書の高句麗傳であるが、好太王の碑文にも(日を天帝としたり黄龍の話を附け加へたりして、或はシナ化し或はシナ的分子を混合しながら)概略が書かれてゐるから、それよりも前から高句麗に行はれてゐたのであらう。さて魏書には、魏略に於いて※[蠹の虫虫が木]離國から來た扶餘王の祖先の話としてあるものが、扶餘から來た高句麗の祖先のことになり、掩D水(好太王碑の奄利大水、魏書には一大水とある)と似たやうな話がもう一度、普述水(沸流水の同語異譯であらう)で行はれてゐる(此の同じ話が二重にせられることは傳説を複雜にする場合に於いて?用ゐられる方法である)。これには主人公の名が東明でなくて朱蒙(好太王碑の鄒牟)としてあるが、東明の特長が射を善くするといふのであつて、朱蒙の語義が善射だとあるから、これももとは同じ語であつたらう。が、既に異字で寫されてゐる以上、また一つは扶餘王とせられ、一つは高句麗王とせられてゐる以上、書物の上で説話を知るものには、それが別人として考へられるやうになることを、注意しなければならぬ。それから魏書には、朱蒙以後の王として閭達、如栗、莫來、の名が擧げてある。(魏志高句麗傳に見える東盟といふ祭は東明王の名と關係があるかも知れぬ。もし果してさうとすれば、高句麗でも古くは東明の字を用ゐたことがあつたらしい。しかし魏書以後この事が全く漢史に現はれてゐないのを見ると、後には專ら朱蒙もしくは鄒牟と書かれたのであらう。さうして扶餘王の東明と高句麗王の朱蒙とは、全く別人と見なされるやうになつたのであらう。)
 ところで、上にも述べた如く此の話は百濟にも傳はつてゐたのであらう。が、周書に見える仇台の名が此の話には存在しないこと、さうして百濟の祖を高句麗から出たとせずして扶餘から出たとしてゐたことから推測すると、百濟(580)の王室の起源としては、此の話を其のまゝに適用しなかつたのではあるまいか。さうしてそれよりも寧ろ、扶餘の話として魏略によつて傳へられたものを取つたのではなからうか。仇台の名が魏志夫餘傳の慰仇台から出てゐるらしいことも、それを證するものではなからうか。同じく扶餘から出たといひながら、高句麗と對等の地位にあることを主張する百濟としては、これは當然の態度である。さすれば、隋書が魏志及びそれに引いてある魏略の文を取つたのは、よく百濟人の思想に適合してゐるのであり、また始祖を東明としたのも、百濟人の所説に從つたのではあるまいか。周書にも隋書にも、高麗傳には魏書高句麗傳の説をそのまゝに寫しとりながら、百濟については全く別のことを傳へ、特に隋書が「百濟之先出自高麗國」といひながら祖先の説話は高句麗の傳説に關係の無いものとして取扱つてゐるのは、修史者の無頓着からも來てゐようが、彼等が兩方の所説に連絡のあることを感じなかつたほど、百濟から供給せられた話と魏書高句麗傳の記載とが、別個の物語として見られてゐたからではなからうか。百濟を高句麗から出たとしたのはシナ人の誤聞であり、そこから東明を高句麗王の子とするやうな誤謬も生じたのであるが、其の他は百濟人から聞いたまゝのことでなくてはなるまい。百濟が扶餘の後であるといふことを知つてゐた隋書の記者が、其の源流を明かにするために、魏略の扶餘の話を寫し取り、さうしてそれを周書の仇台の話に結合したのだ、と見れば見られなくもなからうが、さう見ると、祖先を高句麗から出たとし、東明を高句麗から逃げ出したものだとしたことが、全く出所不明になる。これは決して魏略からは出て來ないことである。だから、此の見解は無理であらう。(扶餘の話に於いて※[蠹の虫虫が木]離國から扶餘へ來たのが、高句麗の話に於いては扶餘から高句麗へ來たことになり、百濟に於いては、隋書の説の如く、また一轉して高句麗から百濟に來たことになつたとすれば、この變化は自然の推移のやうにも見える(581)が、百濟のは、高句麗から來たといふのが魂書にも周書にも見える百濟人の所説と調和しないのであり、説話そのものに於いても地理上の錯誤が生じてゐるのであるから、これは上にも述べた如くシナ人が無關係な二分子を結合した結果であつて、扶餘の話が高句麗になつて變化したのとは意味が違ふものと見なければなるまい。)
 しかし隔書に關する此の臆説に就いては、我が國の記録から疑問が生ずる。前にも引用した如く延暦九年の百濟王の上表にも姓氏録の記載にも、百濟の太祖を都慕とし、特に續紀に於いてはそれについて日神降靈の話を傳へてゐるが、都慕は即ち鄒牟であるから、もし此の話が歸化した百濟人の本國から傳へたものであるとすれば、百濟でもやはり高句麗と同じ説話を其の祖先について用ゐてゐたのである。もつともそれが古い時代に於いて百濟人みづから日本へ傳へたものであるかどうかが疑問ではあるので、祖先の名を恣に附會し捏造してゐる家々の所傳は、一々まじめに取扱ひ難いものではあるが、都慕といふ文字から見て、それがシナの史籍などから取つたのでないことは明かであり、さうして朱蒙(鄒牟)傳説が百濟人によつて我が國に傳へられてゐたとすれば、それを百濟の祖としたことも、やはり百濟人の所説として見るのが妥當であるらしい。天智紀七年の條の高句麗滅亡の記事の中に「高麗仲牟王初建國」云々の文があるから、我が國でも高句麗の始祖が仲牟(鄒牟)であることは知つてゐたはずであるが、百濟と鄒牟との關係については古いところには何の所見も無い。けれども、書紀に見えないといふことは固より其の話が傳はつてゐないといふ確證にはならぬ(この天智紀の文も出所は不明であるが、多分、高句麗人の傳へたものであらう)。さうして東明といふ文字が我が國に傳はつてゐた證跡は(少くとも現在の史籍には)全く見えないことも考へねばならぬ。朱蒙は高句麗の祖ではあるが本來扶餘人であるから、その名を取ることは百濟でも差支が無いので、高句麗と共(582)同の祖としてやはりそれを用ゐたことがあるのかも知れぬ。さすれば、隋書が魏略の説話を結びつけたのは、全くシナ人の所爲であつたとも思へば思はれる。けれども、事實上祖先とせられてゐる仇台が朱蒙傳説と關係の無い以上、さうは決められぬ。だから、これは百濟に本來兩方の説があつたので、隋書の説もやはり百濟人の所傳である、と考へる方が穩當であらう。朱蒙、鄒牟、仲牟、都慕、といふやうに同じ名が種々の文字で寫されてゐるのは、それが文字によつてのみ知られてゐたのではなく、耳から聞く物語として廣く世に行はれ、高句麗から百濟にも傳はつてゐたのであり、それに反して魏略の記事によつて後に傳はつた東明の物語は、目で見る文字によつてのみ知られたのであらうから、百濟に於いていくらか違つた意味に於いて別々に此の兩方の話を王室に結合したので、そのために二つの物語が存在するやうになつた、としても解し難くはない。もしさうとすれば、朱蒙傳説の方が古い、また普通の、ものであつて、魏略から來た東明説話の方は後になつて、知識人または政府者の間に於いて、百濟を高句麗に對立させようといふ特殊の目的を以て適用せられたものであらう。たゞ仇台は魏志夫餘傳から出て初から東明説話と結合してゐたらしいが、それが始祖として實際に祠られることになつた以上、朱蒙説話に於いても何等かの方法で仇台と朱蒙とを結びつけなければならぬやうになつたであらう。材料が餘りに零碎であるため、しつかりした推斷ができかねるが、かういふことも考へ得られる。
 ところで三國史記の百碎紀を見ると、始祖は温祚としてあつて、仇台の名が無く、其の父は鄒牟(朱蒙)としてあつて東明とはしてない。東明の方は且らく別としても、仇台が百濟の始祖とせられたことは疑ふ餘地が無からうから、少くとも此の一事に於いて、三國史記の所説が百濟人の記したまゝのものでないことが知られるのではかならうか。(583)また朱蒙の後を繼いだものが北扶餘にゐた時に生まれた子だといふのは、魏書高句麗傳の閭達の話から來てゐるらしいが、温祚を其の異母弟としたのも百濟人のしわざであるかどうか、かなり疑はしい。高句麗と同じく朱蒙を祖としながら、高句麗とは別の家だとしたのはよいが、温祖を卒本扶餘(高句麗を暗示してゐるらしい)に來てからの子とし、其の王の弟とするのは、百濟人の考としてふさはしくないからである。
 また百濟紀の此の説話の條に注記してある一説は、それに解扶婁といひ禮氏の子の儒留といふやうな名があること、並に高句麗の建國を漢の建昭二年としてゐること、などを思ふと、三國史記の高句麗紀に見えるやうな説話の世に知られた後に、それに本づいて作られたものらしい。ところが此の高句麗紀の説話は決して高句麗人の作つたものではない。第一、東夫餘と夫餘と鴨緑との地理的關係が曖昧であり或は混亂してゐるが、これは、もと鴨緑江畔に都が置かれ、平壤遷都の後も其處にある舊都國内城が三京の一として重要視せられた高句麗人の所説としては、あるべからざることであらう。河伯の女について天帝の子と日光とが重複してゐるのも、魏書に見えるやうな固有の話と好太王碑に記されたやうなシナ化した思想とを結合したものであるが、これは全體に物語が複雜になつてゐることと共に、後人の潤色であらう。其の潤色が何時施されたかは不明であるが、建國の時代を建昭二年にしたのは、上に述べた如く新羅人の意圖らしく、また大武神主四年の條の林中で金璽を得たといふのが新羅の鷄林物語と同じ構想であること、從つて金蛙の話もそれにゆかりがありげであることを思ふと、新羅人の手が加はつてゐることは確かであらう。(始祖の名を東明としたことは新羅人のしわざか後の高麗人のか判斷しかねる。李奎報の東明王篇を見ると、三國史記に現はれてゐるやうな東明物語は金富軾の編述よりも前から存在してゐたことは明かである。また三國史記の祭祀志に(584)よると、所謂「古記」に於いて既にそれが記されてゐたらしい。「古記」は新羅人の手になつたものではあるまいか。なほ附記する。三國史記地理志高句麓の條に「通典云、朱蒙以漢建昭二年、自北扶餘東南行、渡普述水、至?升骨城居焉、」とあるが「以漢建昭二年」の一句は通典には無い。通典の此の條は魏書高句麗傳の節略であつて、こんな文字が挾まれるはずも無いのである。)さてかう考へることができるとすれば、温祚に關する百濟紀の注記の一説も、新羅人の作ではなからうか。此の一説に於いて温祚を朱蒙の妻の前夫たる優台の子としたのは、本文に取られてゐる温祚説話を一轉して男女の地位を反對にしたのであるが、百濟の太祖を都慕(朱蒙)とすることがもし百濟人の所説であるとするならば、これはそれと矛盾してゐることをも考へねばならぬ(優台の名は魏志高句麗傳に見える官名の優台から來てゐるのであらうか)。
 さて此の臆説が許されるならば、一歩進んで本文に取られた説もまた新羅人の作と認められはすまいか。百濟に於いても祖先に關する物語が作られてはゐたので、周書や隋書に記されてゐるものよりは幾らか詳しい話があつたであらうし、その幾らかが遺存してゐて後の修史家の材料になつたかも知れないが、温書の話の骨子はそれではないやうに見える。慰禮城奠都のことなどは百濟人の記録にあつたものとしても差支が無いが、彌鄒忽の話になると忽といふ文字を用ゐてゐることが既に怪しからうではないか。忽の字を百濟人が用ゐた徴證はなく、高句麗人の用ゐたことのみ知られてゐるからである。なほ三國史記の記載には高麗人の手も加はつてゐるに違ひなく、册府元龜や資治通鑑から取つた記事などは勿論のこと、さうでないものにもそれがあるのであらう。日蝕の記事は後漢書から取つて新羅紀と百濟紀とに交互に配置してあるが、これなども高麗人のしわざかも知れぬ。しかし大體からいふと、新羅人の編述(585)がもとになつてゐるのであらうから、此の温祚説話も其の一つと見なされ得る。温祚説話に東明の名が全く見えずして、その元年の記事に東明王の廟を立てるとあり、多婁王の時に始祖東明の廟に謁すとあるやうなことは、温祚説話の作者と年代記の編者とが全く別人であることを示すものではあるが、修史は幾度も行はれたであらうから、兩方とも新羅人だとしても差支は無い。始祚を東明とすることが、もし既に百済に於いて行はれてゐたとすれば、それが何かの道すぢによつて新羅人にも知られてゐ、新羅人が修史の際にそれを利用したかも知れないと共に、別の修史家が温祚の話を作つて朱蒙にそれを結びつけたことも、あり得るのである。
 かう考へて來ると、百濟の王室の系譜にも新羅人の造作したものがあると見られようではないか。百濟の建國(慰禮城奠都、帶方及び馬韓の領有)を前漠の鴻嘉三年に置く以上、それと實際の建國との間には少くとも三百四五十年の溝渠が生ずるから、其の間に幾代かの國王を作らねばならぬ。温祚王以後契王までの十二代は、かくの如き要求に應じて現はれたものではあるまいか。本來新羅の建國を前漢時代に置いたのは、前漢末に存在してゐたことの漢史に明記せられてゐる高句麗のよりも前にするためであつたらしく、東方の歴史に一大時期を劃した武帝の朝鮮征服の後の第一の甲子の年に當る五鳳元年をそれに擬てたのであり、高句麗の建國は其の二十年後の建昭二年として漢史と矛盾しないやうにしたのであらう。然るに三國として新羅高句麗と並べ稱せられてゐる百濟のみを事實どほりにして置くのは不權衡であるため、その建國を此の建昭二年から二十年めの鴻嘉三年にしたものらしい。さすれば百濟の古くなつたのは、新羅を古くしたためであるといはねばならぬ。從つて其の間の國王の系譜も、また新羅人の構成したものと見るのが自然であらう。なほ新羅人は、同じ必要から自國の王室の上代の系譜を作つたのみならず、高句麗のさ(586)へも作つてゐるらしい。高句麗の王の名の確實な史籍に見えるのは、魏志高句麗傳に於いて後漢の殤安二帝の時代に當るとしてある宮が初めである(王莽の時に句麗侯?といふのがあるが、當時まだ王と稱してゐなかつた)。だから、魏書高句麗傳の説では、それを本とし、それより前は朱蒙以後莫來までの説話的國王の名を作り、さて「莫來子孫相傳至裔孫宮」と空虚な中間を置いてそれを實在の王たる宮に結合してゐる。三國史記に宮を太祖大王また國祖王としてあるのは、此の思想を繼承したものであるが、それより前は魏書と違ひ、明かに朱蒙以後の系譜を立て、王の名も魏書とは變へてある(たゞ瑠璃と朱留とは共に如栗から出て、それが二人に分身したのではないかと思はれる)。これは一旦魏書の如き系譜を定めた高句麗人のしわざではないに違ひない。周書の高麗傳でも隋書のでも、王室の祖先の話は魏書の高句麗傳のを略述したものであつて、何等の變改の加へてないことを、參考すべきである。さうして上に述べたやうな潤色を朱蒙物語に施したものが新羅人であるとすれば、此の系譜の作者もまた同樣であらうと推測せられる。さすれば、百濟王の系譜の(少くとも或る部分の)作者が新羅人であることは、これによつて一層確められはすまいか。
 たゞ問題は三國史記に見える百濟の契王以前の系譜の全部が新羅人の造作であるかどうかといふ點にある。百濟人は既に始祖を仇台としてゐる。また高句麗に於いても上に述べた如く莫來以前の國王を作つてゐるほどであるから、同じことを百濟で試みなかつたとはいはれぬ。これについては、文事に關する多くのことを百濟から學んでゐた日本の皇室の上代の世系や説話の性質をも、參考しなければならぬ。特に肖古、貴須、蓋鹵、の三王の名のみが實在の君主と同じであつて、其の他のものとは命名法が異なつてゐるのは、それだけは別の時代の別人によつて構成せられた(587)ことであるとも考へられ、新羅人の造作はこんなところにのみ存するのではなからうか、とも思へば思はれぬでもない。しかし百濟には建國當時から記録があつたらしいこと、またその祖先を高句麗と同じく扶餘から出たとし帶方の故地に國を建てたとして、その點に於いては事實を語つてゐることを見ると、建國の年代を甚しき上代としたり、多くの君主の名や世系を虚構したりしたかどうか、輕々しく然りといふことはできぬ。南朝に對して虚僞の報告をしたり、百濟記や百濟本紀に於いて捏造の記事を載せたりしてゐるから、さういふことをしかねなかつたかも知れぬが、一方では、少くとも三國史記の百濟紀に於いて、百濟人から出たらしい説話が(慰禮城奠都の話ぐらゐの外は)其の記事の内容に於いて認められないことをも、考へる必要がある。百濟の記録に堂々たる上代の説話があつて、三國史記の國王の系譜がそれから出てゐるとすれば、それに伴ふ説話の幾らかが三國史記に現はれてゐてよささうなものではなからうか。だから(此の問題は到底正確に解決することはできなからうけれども)余は寧ろ三國史記の系譜が概ね新羅人の造作であるやうに考へたい。
 以上の考察にもし理由があるとするならば、肖古王貴須王に近の字をつけるのは百濟人の知らなかつたことであつて、書紀が單に肖古王貴須王と書いてゐるのは、それをたしかめる有力な證據となるものではなからうか。さうして延暦弘仁時代になつて歸化人の家譜などに近肖古王近貴須王の名の用ゐられたことがもし誤でないとすれば、それは新羅の史籍が傳へられて、それから得た知識によつたのではあるまいか。新羅で何時かういふ造作が行はれたかは明かでないが、國史の編修は新羅一統の後まも無い、國勢の興隆しつゝあつた、時代であらうと思はれるから、其の史籍が我が國に傳へられたとするのはあり得べき推測である。姓氏録に見える比流王沙?王などの名もまた同樣に見ら(588)れよう。のみならず更に一歩を進めて臆測を加へるならば、(あまり強くいふことはできまいが)百濟の太祖を都慕王としたことも、或は此の新羅の史籍から得た知識として解せられなくもなからうか。
 書紀に見える百濟王の系譜及び王位の繼承に於いて三國史記と一致しないものは、なほ他にもある。其の一は、書紀の阿花王が三國史記に阿※[草がんむり/幸]王となつてゐることであるが、これは世間に既に其の説のある如く、※[草がんむり/幸]は華の誤で阿花が阿華とも書かれてゐたと見るべきであらう。「或云阿芳」とある芳もまた花の誤らしい。次には、書紀に直支王(三國史記の腆支王)の薨去、久爾辛王の即位を、甲寅の年(414 A.D.)にあててあるのに、三國史記ではそれが庚申の年(420 A.D.)になつてゐることである。これは宋書の百濟傳に東晉の義煕十二年(416 A.D.)宋の景平二年(424 A.D.)に朝貢してゐる百濟王の名を同じく映とし、元嘉七年(430 A.D.)に?が朝貢した時、映の爵號をそれに授けたとあり、映が?(三國史記によれば 427 A.D.に即位してゐる?有王)のすぐ前の久爾辛王に當ることによつて、書紀の記載の正しいことが知られる(この點に於いて余は日韓古史斷に見える故吉田東伍氏の説に賛成するものである)。通典には義煕十二年の朝貢者を腆としてあるが、梁書にも南史にも映としてあり、册府元龜も同樣であるから、通典の腆の字は疑はしく、それによつて此の年に腆支王が位にあつたと見ることはむつかしからう。從つて三國史記が腆支王の名を映としたのは、久爾辛王の即位を後らせたところから生じた誤であらう。久爾辛と映との名稱の關係は不明であるが、辰斯王が晉書に暉と書かれ、斯摩王(武寧王)が梁書に隆としてある理由の不明であると同樣、後に傳はらない何かの因由があるに違ひない。次に雄略紀二年の條に引いてある百濟新撰に、蓋鹵王の即位を三國史記の記載とは違つた已巳の年(429 A.D.又は 489 A.D.)としてあることの誤であることは、元嘉二(589)十七年(450 A.D.)に?有王がなほ位にあり、大明元年(457 A.D.)に慶(蓋鹵王)が朝貢してゐる宋書の記事と矛盾する點からだけでも明かである。
 それから雄略紀二十一年乃至二十三年の條及び武烈紀四年の條に見える?洲王(三國史記の文周王、梁書の牟都)、文斤王(三國史記の三斤王、三斤は誤で一説の壬乞が文斤と一致する)、末多王(三國史記及び梁書の牟大、即ち東城王)、及び斯摩王(梁書の隆、即ち武寧王)の王位繼承の年紀と其の血統關係とが、三國史記と齟齬してゐる。年紀については三國史記の百濟紀と年表との間にも一致しない點があつて、年表には、?洲王(乙卯 475−丁巳 477 A.D.)、文斤王(丁巳 477−己未 479 A.D.)、末多王(己末 479−辛巳 501 A.D.)としてあるが、百濟紀では?洲王が四年まであることになつてゐるので、文斤王以下一年づつ後れて行かねばならぬ。それから書紀では、?洲王即位の記事は無いが、熊津遷都を丁巳(477 A.D.)の年にしてあるから、此の年に位をついだと見たのかも知れぬ。また其の薨去と文斤王の即位との記事は缺けてゐるが、文斤王の薨去、末多王の即位は、三國史記の年表と同樣である。此のうちで百濟紀の年紀は年表のより一年延びるやうになつてゐながら、末多王の時代になると年表と全く同じになつてゐることが記事の内容を新羅紀と對照すればわかるから、これは年表の方が正しからう。(ついでにいふ。尉禮城陷落と蓋鹵王の薨去とを新羅紀には一年前の甲寅の年に記してあるが、これも誤である。)書紀のは、上文に述べた如く尉禮城陷落を誤つて一年後らせたため、?洲王の即位も一年後れてゐるが、もう一年三國史記と違ふのは、三國史記の方で?洲王の即位を蓋鹵王薨去の年としたため、事實よりは一年早くなつてゐる故であらう。だから實際の?洲王の即位熊津奠都は丙辰(476 A.D.)であつたらう。それから東城王の廢除武寧王の即位を書紀には壬午(590)(502 A.D.)としてあるのに、三國史記では其の前年になつてゐるが、これは是非の到斷をしかねる。また系譜については、書紀では?洲王は蓋鹵王の弟、末多王は同じく盖鹵王の弟の昆支の子、斯摩王は末多王の兄になつてゐて、文斤王の血統關係は書いてない。(此の?洲王のことと末多王が昆支の五子中の第二子であることとは出所不明であるが、百濟新撰かとも思はれる。其の他のことは明かに百濟新撰に見える。)ところが三國史記では、蓋鹵王、?洲王、文斤王、の三代は父子相承であり、昆支、末多王、斯摩王、もまた順次に父子となつてゐて、書紀と合ふところは昆支が蓋鹵の弟であり末多王が昆支の子であるといふ點のみである。また梁書を見ると、蓋鹵王、?洲王末多王、の三代が父子相承になつてゐて、文斤王の名は全く見えず、斯摩王の血統關係も記されてゐない。なほ南齊書及び册府元龜に見える策命には、末多(牟大)の祖父?洲(牟都)とある。梁書のは、或は文斤王が在位短かくして朝貢しなかつたためにその名が知られず、それを除いた三代の相承を漫然父子と見たのかとも思はれる。さすれば南齊書のもまた、?洲王、文斤王、末多王、を數へて三代になるため、?洲王を末多王の祖父としたのかと考へられるが、もし此の三代の數が南齊に於いて知られてゐたならば、梁書に文斤王の名の見えないのも不思議であり、且つかういふ血統關係は當時者の上言などによるのが通例であるから、かう考へるのも少しく無理である。が、何れにしてもあまり粗大な書き方であるから、これらの漢史の記載が一方に於いて書紀や三國史記と矛盾する以上、これのみを正確と見るわけにはゆくまい。(ついでにいふ。册府元龜に建元二年 480 A.D.に百齊王牟都が貢獻したやうに書いてあるが、此の牟都は牟大の誤であらう。)また書紀と三國史記との相違については、取捨の判斷を下すべき何等の準據が無い。が、書紀及びそれに引用せられてゐる百濟新撰の記載が頗る詳密であるのと、百濟新撰が三國史記よりも古い(591)ものであるのとの理由から、余は寧ろ此の方を取りたいと思ふ。
 かう考へて來ると、書紀及びそれに用ゐられた百齊の記録に見える百濟王の名や其の系譜や即位薨去の年紀等は、百濟新撰の蓋鹵王即位の干支が誤であり、雄略紀の?洲王熊津奠都に一年の誤がある外は、すべて三國史記より正しいと見るべきであらう。書紀が百濟史の研究に於いて重要なる資料を供給することは、これだけでも明かである。
 
       附 任那の名稱、加羅の位置、及び駕洛國記について
 
 任那といふ名は書紀に於いて種々の意義に用ゐられてゐる。此の名の最も多く出てゐる欽明紀についてみると、「復建任那」(二年四月の條)の場合には(當時加羅が新羅に屬したため日本府が安羅に移つてゐたのであるから)加羅に於ける任那日本府のことをいふのであるが、それと共に加羅そのものを指す意味をも含んでゐるらしい。「日本府復能依詔救助任那」(同年七月の條)の任那は明かに加羅を指してゐる。しかし、このころに「任那日本府」(同上)といふのは安羅にある日本府のことであつて、二十三年の條の「新羅打滅任那官家」の任那官家もそれである。安羅の日本府を任那日本府といつた例は極めて多い。また「百濟遣……使于任那、謂日本府與任那旱岐、」(五年二月の條)とある前の方の任那は、狹くとれば日本府の所在地たる安羅を指したものとも見られるが、廣くとれば日本府の管治に屬してゐる土地全體のこととも解せられる。「任那境接新羅」(二年七月の條)の任那は此の廣い方の意義のであつて、此の用法も珍らしくない。特に繼體紀三年の「任那日本縣邑」、同六年の「任那四縣」、は任那日本府の直轄地をさしてゐるが、「下韓任那之政」(欽明紀二年の條の終)、「在任那之下韓百濟郡令城主」(同四年十一月の條)、の任那(592)は、それが一轉して曾て任那の領土であつた地方をいふことになつた例である。なほ任那府に隷屬してゐる諸小國全體を含めて總稱することは、欽明紀二十三年の任那官家滅亡の記事の注で明かである。(欽明紀五年二月の條の「任那旱岐」といふのは何をさすのか、書きかたが曖昧である。これは二年四月の條に初めて見える稱呼であるが、そのすぐ前に日本府及び加羅安羅等の官吏が百濟に集まつたことがあつて、それを承けていつてゐる。けれどもその列擧せられたうちには此の名が無い。五年十一月の條にも之と全く同じことが見える。だから、此の文だけで見ると、これは加羅安羅及び其の他日本府に隷屬する諸國の官吏を總稱したものらしい。やはり五年十一月の條の終のところに「宜與日本臣任那旱岐等、倶奉遣使、同奏天皇、乞聽恩詔、」とあり、それを承けて「(日本府)吉備臣(任那)旱岐等曰、……今願歸以敬諮日本(任那府)大臣、安羅王、加羅王、倶遣使同奏天皇、」といつてゐるのも、それを證するやうである。たゞ上に引いた五年二月の記事によると、日本府と任那旱岐とは同じところにゐるものらしく見え、同年正月の條に「百濟國遣使召任那執事與日本府執事、倶答曰祭神時到、祭了而往、」とあるのによつても、さう解せられさうである(任那執事が任那旱岐と同じものを指してゐることは、此の正月と二月との記事を對照すれば明かである)。けれどもこれは書き方の疎漏であらう。五年十一月の條の日本吉備臣や安羅以下の諸國の官吏が百濟に集まつた記事の前に「日本府臣及任那國執事、宜來聽勅同議任那、」とあるのでも、それは知られる。)
 次に日本府の置かれた加羅が所謂金官國(即ち今の金海府を首府としてゐたもの)であることは、今さらいふまでもなく明なことと思ふ。煩瑣な引證をしないでも、任那府の復興といふ問題が、新羅の法興王の時に於ける金官國の新羅服屬によつて生じたとするより外に、解釋のしやうのないことだけで、それは明白である。加羅に任那府のあつ(593)たことは疑が無いから(欽明紀二年四月の條にも「赴加羅會于任那日本府」とある)、その加羅がもし金官國でなく、ずつと後まで新羅に屬せずして日本府の管下として存在してゐた別の地方ならば、安羅に日本府の移されるはずもなく、任那復興といふ問題の起る理由も無い。(繼體紀二十三年の條に「新羅恐破蕃國官家」とあるのは、加羅にあつた日本府が新羅のために仆されたこととするより外に、説きやうが無い。また安羅に日本府の置かれたことは欽明紀の所々に明記してある。)が、もつと書紀の記載の上から證明を試るならば、繼體紀二十四年の條に毛野臣が加羅を擾亂したといふ話があるが、これは廣くいへば加羅が任那日本府から離れてしまつたこと、狹くいへば前年の條に多々羅等の四村が新羅に劫掠せられたのは毛野臣の過であると書いてあるのと同じこと、もしくはそれに關係のあること、をいふのであらう。さうして此の多々羅等が金官の附近であることは、四村の名に金官を含ませてある説のあるのでも、また神功紀五年の條に多々羅(韜鞴)が草羅城(梁山)に向ふ方面に在ることが記載してあるのでも、知られる。のみならず、毛野臣の活動したのが安羅から熊川、久斯牟羅(屈自郡、今昌原)、にかけてのことであり、多々羅に次してゐる伊叱夫禮知干岐の軍と接觸してゐたのも、加羅が金官だからである。また此の年の初に見える新羅王の女と結婚したといふ加羅國王が金官國の王であることは、それが三國史記新羅紀の法興王九年の條に見える加耶國王に王族の女を嫁したことと一致し、さうして此の加耶は新羅の南境にあることが同十一年の記事によつて知られることによつても、明白である。同十九年の條に見える金官國主の來降は此の二年の記事に現はれた關係の一歩を進めたものであつて、加耶とあり金官とあるのは、たゞ書き方を異にしたに過ぎない(別の史料から出たのでもあらう)。なほ任那府の全く滅びた後にも多々羅地方を任那といつてゐたこと、さうしてそこが日本からすぐにゆかれるところであ(594)つたことが、敏達紀四年、推古紀八年、の記事によつて知られる。推古紀三十一年の條にも、日本から任那へいつてそれから新羅を討たうといふ考のあつたことが見えるが、これも任那を金官地方と見なければ解釋ができない。さうしてこれは金官國が昔から任那の本據であつたから、即ちそこが日本府の置かれた加羅であつたから、と見なければならぬ。要するに、書紀に見える加羅國は今の金海の外のどこでもないのである。さうして書紀の南加羅が金官國でないことは、それが欽明紀二年の條に加羅即ち金官國と並んで記され、推古紀八年の條に多々羅等の諸村と列擧せられてゐるのでも、知られよう。
 なほ新羅紀の眞興王二十三年に滅ぼしたといふ加耶を加羅國と見、その加羅國を高靈(所謂大伽耶)と考へるが如きは、欽明紀五年の條の「新羅安羅兩國之境有大江水」といふ地理的記載、及び眞興王十二年から新羅が漢江流域に大發展をなし、その前から秋風嶺外の永同沃川方面をも有つてゐたとしなければならぬ領土擴張の大勢(朝鮮歴史地理第一卷二二二−三頁參照)から知られる當時の新羅の版圖と相容れざるものである。新羅紀の此の加耶は、欽明紀二十三年(眞興王二十三年)の條の所謂任那官家、即ち安羅日本府、のことで、新羅人が安羅日本府を加良(加耶)と稱したことは、欽明紀と眞興王紀との十五年の條を對照すれば判るし、安羅を安那加耶といふのも、そこに日本府があつた故であらう。駕洛國記に保定二年(眞興王二十三年)に金官國が新羅に滅ぼされた如く書いてあるのは、こゝから生じた錯誤らしい。三國史記地理志の高靈郡の條に高靈が眞興王に滅されたとあるのも、後世こゝに大伽耶の名がつけられたため、同じ誤解をしたのであらう。(大伽耶は駕洛國記の六伽耶の一つであらうが、此の六伽耶といふことが、そも/\歴史的事實とすべきものでない。)また地理志に法興王の時に安羅が滅ぼされたとしてあるのは、(595)その反對に、加羅(金官)が此の時新羅の屬國になつたことから起つた訛傳らしい。何れも安羅に移された日本府が依然として加羅(加良、加耶)と呼ばれてゐたために生じた錯誤である。また高靈郡に此のころ日本府(官家)があつたと考へるならば、それは日本府が安羅にあつたといふ明白の事實を無視するものである。たゞ金官國が法興王の時に新羅に服屬したにかゝはらず、欽明紀に加羅王のことが?見えるので、そこから加羅を金官でないと考へようとする傾向が生ずるのであらうが、法興王の時は屬國となつたのみで全く新羅の一部となつたのではない。だから、日本や百濟に對してはなほ加羅王の名を稱してゐたのであらうし、新羅もまた、實際に於いて妨の無い以上、甚しく日本の反感を挑發する必要も無いので、それを黙認してゐたであらう。此の新羅の態度は、日本府滅亡の後、また百濟滅亡の前後に於いて、新羅が或は調貢をし或は質を送るなど、種々の方法によつて日本の歡心を買はうと勉めてゐたことからも類推せられるので、それは敏達紀以後の書紀の記載を通覽すれば何人にも氣のつくことである。しかし加羅が事實上新羅に從屬してゐたことは、所謂任那復興の企圖が終に成功せずに終つたことから明白である。なほ試にいはうなら、欽明紀に於ける任那復興問題の記事となつて現はれてゐる百濟本紀の所説に誇張や虚構の多いことは、「百濟に關する日本書紀の記載」に述べたとほりであるから、そこに見える加羅王の話も文字どほりに信用すべきものでないかも知れぬ。
 なほ前に駕洛國記の記事に言及したから、此の記の性質について余の所見を述べて置く必要がある。此の記の主なる説話に於いて先づ注意すべきは、六伽耶の祖先を六金卵とし、大駕洛、即ち加耶國(金官國、加羅國)をその首位に置いた點にある。さてその六つといふ數については、伽耶が六つあつたために祖先の金卵をその數に合はせたのか、(596)その反對に金卵を六つにしたために伽耶の數をそれに合ふやうにしたのかが問題である。駕洛國記では六伽耶の名は知られないが、もしそれが普通にいふ六伽耶ならば、其の六國の間には地理的にも歴史的にも殆ど何等の開聯が無い。(加羅、安羅、は勿論のこと、小加耶とせられてゐる固城も任那日本府の隷屬であつたが、大加耶、星山加耶、古寧加耶、は全く日本とは關係が無い。從つて其の間に劃然たる區別がある。任那府の設置はほゞ四世紀の後半であらうから、それより前の古いことは後まで知られてゐるはずがなく、また任那府滅亡以後は何れも新羅の領土に入つてゐるから、六國の間に特別の關係の生ずべき形勢でない。だから所謂六伽耶間に特殊の關聯があつたとすべき時期が無い。)從つて六伽耶といふことは故意に作られたものに違ひなく、從つてそれよりも金卵の數を六つとした方が前に浮かんだ考らしい。さすれば、それは何を意味するものであるかといふ疑問が起る。そこでよく此の記を通讀すると、第一に、黄山江と海と地理山と伽耶山とを四至とする加羅國の疆域は、事實でないことが明白であるから、これは加羅の滅亡してからほど經た後、即ち實際の加羅の領土が忘れられた後、の造作であることが知られる。(こゝの文意はやゝ曖昧であるが、六伽耶は別々の國であるから一國の領域として書いてある此の四至は六伽耶全體のではなくして加羅だけのものと見なければならぬ。また此の駕洛國記は六伽耶全體のことを書いたのではなくして、加羅一國のことを説いたものであるから、此の點からも斯く解釋しなければなるまい。文勢からいつても「餘五人各歸爲五伽耶主」の一句は五人のゆくへを述べて六卵の話の結末をつけたのみで「東以黄山江」以下は直に「六伽耶之一也」を承けてゐる。曾て任那疆域考に於いて此の四至を六伽耶全體にかゝるものと見たのは、疎漏であつた。)なほ此の記の脱解の話は新羅紀に同じことがあるが、兩方を比較してみると、新羅紀の方がよほど素朴で單純であり、國名も(597)多娑那の方が韓人の想像としては自然である。それから卵のことについて新羅紀の朴昔金三氏の祖先の話と比べて見るに、朴氏昔氏には卵はあるが金卵ではなく、金氏には卵のない代りに鷄が出るが、別に金?がある。さうして金?は金氏といふ名稱の説明として大切なものである。さて金卵といふものは實際あるものではないから、これはたゞの卵よりも複雜した思想を現はしてゐるので、それには何か由來がなければならぬ。さすればこれは、卵のいれものを金の合子としたことと共に、同じく金氏を冒してゐる加羅國王の家の名の説明として用ゐられたのではあるまいか。さうして説話の發展の上から見ると、新羅のよりも後の製作であつて、朴氏昔氏などに適用せられた卵に金氏の由來である金?の金を結合したのではあるまいか。もつとも此の卵の話は高句麗の説話に起原があるので、紫繩が天から下りたといひ、「圓如日者」といふ點に、女が日光に照されて姙み卵を生んだといふ原の説話の名殘が見える。此のことは三國史記に載つてゐる新羅の卵の物語には見えないが、新羅のとてもやはり高句麗のから來てゐるに違ひないから、三國史記の材料となつた原本には、天もしくは日との關係が何か説いてあつたかも知れぬ。よしそれが無かつたにしても、駕洛國記の記者もしくは加羅に於ける此の物語の作者が、高句麗などの話から取つてそれを補ひ得るのである。(歴史的事實たる金官の名もまた金氏から來たのであらう。金官といふ名のつけられた時代も明白でなく、三國史記地理志には此の國が新羅に屬した法興王の時らしく書いてあり、此の記には開耀元年としてあるが、法興王時代には全體にまだかういふ漢風の地名が無かつたやうであるから、これは怪しく、開耀元年は地理志に「永隆元年爲小京」とあるのに一年の差があるのみであるから、其のどちらかが正しいので、金官小京となつた時に此の名が始まつたのではあるまいか。繼體紀二十三年の條の注に金官の名が出てゐるが、それは列記せられてゐる背戊、安多、委陀、な(598)どと共に四村といはるべきものかどうか、少しく怪しい。此の中の委陀または和陀は、同じ注に見える一本の説にも敏達紀四年及び推古紀八年の條にも見えてゐるから、背戊、安多、も、それらの各條に列記せられてゐる多々羅、素那羅、發鬼、等と共に、敏達天皇推古天皇時代の我が國に知られてゐたであらうが、金官は其の名から見ても少しく違ふやうである。或はもとの記録に加羅とでもあつたのを後に改めたのかも知れぬ。だからこれは證據とはしかねる。次に此の國王が金氏と稱した時代を考へるに、三國史記金?信傳に見える?信の碑文によると、彼の父は既に金氏を冒してゐたやうであるが、これは後の追記かも知れぬから不確實である。しかし任那府がまだ半島に置かれた時代にかういふ漢樣の氏名があつたならば、何か其の反映が書紀にも見えさうなものであるのに、それが無い。さすればそれは、早くとも此の國が新羅に從屬した後のことであらう。さて新羅の王室が金氏を稱したのは遲くとも眞興王の時でなければならぬ。それは册府元龜に眞興王が金眞興の名で北齊に朝貢してゐることが見えるからである。さすれば加羅王の子孫が同じ金氏を冒したのは、新に君主と仰いだ新羅の王室の氏の名を取つたものに違ひない。このことは金卵の説話とは關係が無いが、其の説話を生み出した金氏の名が新羅の王室から出てゐるといふことは、其の金氏の起源を説いた説話の由來が新羅の物語にあることと、思想上の連絡があるかも知れぬ。)それから加羅の建國を建武十八年に置いたのも、三國史記に於いて三國のうちで建國の最も後れたことにしてある百濟のよりも六十年めの後としたところに、意味があるのではなからうか。これらの點を綜合して考へると、駕洛國記に記されてゐる加羅の起源譚のうちには、三國史記に見えるやうな新羅の王室の由來を説いた物語の一部を取つてそれに潤色を施した點のあることに、氣がつかう。三國史記のこれらの物語は新羅の盛時に作られたものであらうと思はれるが、駕洛國記の所説(599)はそれよりもなほ幾らか後の製作であらう。かういつて來ると、六金卵の六つの數もやはり新羅の説話から出たもので、それはかの六部の六を取つたものであることが推測せられはしまいか。さすれば、其の數に應ずるやうに作られた六伽耶の名稱などが、歴史的事實を示すものとして價値の無いものであることは、おのづから明かであらう。國王の系譜なども最後の仇衝の他は、殆ど信じ難いものである。但し鉗知は南齊書に見える荷知、三國史記に出てゐる嘉實(嘉悉)、と見られるかも知れぬ。
 なほ駕洛國記は大康年間の撰だといふから、ずつと後世のものではあるが、其の建國の説話は新羅時代の作であるらしく、此の文の撰者の私意はあまり加はつてゐなからうと思ふ。金官が特殊の歴史を有つてゐることの全く忘られた後にこんな説話が作られはしなからうから、それは世人が加羅の境域を知らないでゐるほどに其の滅亡から時は經つてゐるが、加羅がむかし存在したことだけは多くの人が知つてゐたころの作であらう。さうして此の記の首尾を通じて佛教的色彩が濃厚に現はれてゐるところを見ると、此の説話は佛家の手になつたものであつて、それは伽耶山あたりの僧徒のしわざではなからうか。高靈を大伽耶とすることが、其の説話に存在したものだとすれば、これもそこが伽耶山に最も近いところであるからではなからうか。なほ此の所謂大伽耶についても種々の説話が作られてゐたらしく、三國史記の地理志、また輿地勝覽に引いてある崔致遠の著書などに、その斷片が遺つてゐるが、彼のは月光太子の名などに於いて明かに佛家の手から出てゐることが示されてゐる。崔致遠が伽耶山に關係の深いものであることを思ふと、其の出所もほゞ推測することができよう。ついでにいふ。比の崔致遠の著書に大伽耶王が新羅の王族の夷※[粲の又が般の旁]比枝輩(伊?比助夫)の女を娶つたといふ話があるが、これは、此の女が加耶(加羅、金官)國王に嫁したといふ歴(600)史的事實から來た誤解か、又はそれを借用して附會したものかに違ひない。三國史記の地理志に見える大伽耶が眞興王に滅ぼされたといふ話が、眞興王の時に加耶(安羅日本府)が滅亡したことから生じた誤である、といふことは上に述べて置いたが、或はこれも加耶(安羅日本府)を加羅國(金官國)と錯認した上で、其の加羅國のことを大伽耶の話と誤解したのか、又は故意にさう取りなしたのか、いづれかであるかも知れぬ。本來、大伽耶といふ名は高靈を伽耶の重要なる土地としようといふ意圖から出たことらしいが、駕洛國記によつて遺されてゐる物語のできたころには、實際の加耶(加羅)の記憶がなほ殘つてゐたから、まだ甚しく大伽耶の地位を高めなかつたけれども、後になるほど歴史的事實から離れた考が勝つて來て、大伽耶を加耶の中心にしようとするやうになり、それがために書物に見える眞の加耶(加羅、金官)の話を大伽耶のことに取りなしたのではなからうか。さうして崔致遠の筆に現はれたことも、三國史記の地理志の説も、さういふ時代の思想ではなからうか。伽耶山の僧徒の考としては、これはあり得べきことである。伽耶の文字を用ゐたことも僧徒のしわざらしい。
 さてこれまで述べたことは、駕洛國記に六伽耶とあるのを、後世一般にいはれてゐる六伽耶をさしたものとしての考である。國記には六伽耶の名が見えてゐないが、これは偶その名を逸したのであらうと思はれる。が、更に考へるに、國記には所謂六伽耶の首位にある加羅(金官)を大駕洛としてある。加羅が既に大駕洛とせられてゐる以上、別の土地に大伽耶の名をつけるのは甚だ奇怪である。「國稱大駕洛、又稱加耶國、」とあるのを見ると、駕洛と伽耶とは全く別の語と思はれてゐたのかも知れないが、新羅時代に於いて加耶と加羅(駕洛)とが同じ國の名として用ゐられてゐたことは、今日遺存してゐる三國史記の所々の記載から推測しても明かであつて(朝鮮歴史地理第一卷一三七頁(601)參照)、此の説話の作者もそれを知らなかつたはずはなからうから、大駕洛といふ以上、それがまた大伽耶ともいはるべきものであることぐらゐには、考へ及んだとしなければなるまい。のみならず、六伽耶がそれ/\の土地に適用せられ、それに一々名がつけられてゐたならば、既に六伽耶といふ總稱を擧げてある以上、その一々の名を逸したと考へることにも、むりがある。また六伽耶のうちに安羅や固城が含まれてゐるならば、加羅の四至を黄山江、伽耶山、地理山、海、とするのも、あまりに甚しき矛盾である。これらの點から考へて、何人かが六伽耶の物語を始めて作つた時には、その中心としまた首位に置いた加羅(即ち所謂大駕洛)の外の五つは、其の土地をも明かに定めず、名稱をもつけなかつたのではないか、と思ふ。加羅は現實に存在してゐた國であるのみならず、駕洛國記の根本の着想が此の事實を基礎としてゐるのであるから、この國については論は無い。ところが六伽耶といふことは事實にはないものであるから、他の五つについてはたゞ漠然五伽耶があるとしたのみで、具體的にその土地を指定することができなかつたのではあるまいか。さうして今の駕洛國記はその時の思想、むしろ其の時に書かれた辭句、をそのまゝに繼承してゐるのではあるまいか。たゞ此の物語に於いても加羅の疆域が實際よりはずつと擴げられ、北方に於いては伽耶山に及ぼされてゐるので、それは佛教徒によつてつけられた伽耶山の名と昔の國名の加羅(加耶)とを連結しようとしたためでもあつたらうが、それよりも寧ろ加羅の大國であつたことを示さうとするのが主であつたので、此の點から見ると、説話の作者は加羅人であつたと考へる方が妥當らしい。全體の主意が加羅を説くところにあり、加羅本位の考であつて、決して他の伽耶をいふためではないのを見るがよい。或は國記の終に於いて特別に記してある長遊寺などの僧徒であつたかも知れない。ところが後になつて、伽耶山の僧徒の間に、伽耶山の伽耶が加羅國の加羅(加耶)(602)と同じ音であるところから、此の山を加羅の本源としようとし、それがために伽耶山に近い高靈の歴史的地位を高めようといふ意圖が生じ、それを此の六伽耶の物語に結びつけて、そこに大伽耶の名を附け、高靈が六伽耶の中心ででもあつたらしく見せかけようとしたのではあるまいか。いひかへると、最初の六伽耶の説話に於いて中心とせられ首位に置かれてゐた大駕洛の地位と名とを、歴史的存在である加羅(加耶、金官)から奪つて、それを本來加耶とは何の關係も無い高靈に與へようとしたのではあるまいか。三國史記の地理志に見える大伽耶の國王の名や崔致遠の筆に現はれてゐる同じ王室の物語並に加羅の祖先が伽耶山の神であるといふ説は、此のために作られたのではなからうか。他の四伽耶の土地を指定し名稱をつけたのも、それに關聯してのことであつて、高靈の北方の星山や古寧をとり入れたのも、高靈を六伽耶の中心とする思想から出たものとすれば、容易に解釋ができよう。さすがに眞實の加羅(金官)を除外するわけにはゆかないから、それは保存しなければならぬが、其の土地が南方にあるから、それを加羅として保存することは高靈を中心とする妨にはならなかつた。なほ安羅をとつたのは、そこが安羅(那)加耶として知られてゐるためで、固城を取つたのは、古寧が北端にあるに對して南端の海邊の地を撰んだのであらう。
 しかしこゝにまた別樣の觀察がある。駕洛國記の首露王の物語を熟讀するに、金卵の數を六つにしてあるのは、いかにもとつてつけたやうな異分子の感じがする。「黄金卵六」及び「六卵」の「六」の字と「即六伽耶之一也、餘五人各歸爲五伽耶主、」とを除けてしまつても、全體の敍述に何の缺陷をも生ぜず、却つてその方が首尾整つてゐる(「始現、故諱首露、」の「始現」の二字は六人の中で始に現はれたといふ意味にも聞えるやうであるが、六卵が順次に化して人となつたらしくは書いてないから、これはさうではあるまい)。金卵を發見した九干も加羅(金官)の九酋(603)長のことであつて、他の五伽耶には關係がなく、五伽耶のことは後にも何等の記事がない。童子の?貌を敍した文勢なども一人のことと解した方が適切に聞える。酋長の數を九人とし童子の身長を九尺とするやうな數字的觀念は、易の思想に基づいて陽の數の九を取つたものかも知れぬが、もしさうとすれば、陰の數である六を用ゐたのはそれとは不調和であることをも考へる必要もあらうか。六つの數には別の由來があるにしても、初から六卵から六伽耶の祖が出たやうに作られてゐたのならば、加羅の九干がそこに引き出されたのは頗る異樣に感ぜられ、少くとも無用のことのやうに思はれる。さすれば、初の説話に於いては金卵はたゞ一つであつて、それが加羅の祖先としてあつたのではあるまいか。さうしてそれを六つにしたのは金卵説話の一旦作られた後に附加せられたのではなからうか。もしさうとすれば、六伽耶の説話は加羅建國の物語よりも後に、またそれとは別の、寧ろ反對の、思想から作られたものであつて、六つの數は新羅の物語から、金卵は此の加羅の説話から取り、それを六伽耶の祖先としたのではあるまいか。かう考へると、前に述べた駕洛國記の加羅本位の思想と六伽耶説となつて現はれた高靈本位の思想との關係は、一層明瞭になるのである。駕洛國記は此の六伽耶の説が一般に廣まつた後に書かれたものであるから、金海に存在してゐる古い説話の記録を本としたことは勿論であるものの、簡單ながらそれに六伽耶説を編み込んであるのであらう。六伽耶といふ觀念が全體の思想から遊離してゐるのも此の故と解せられる。かう見た方がよささうではあるまいか。
 が、更に一歩進んで考へると、此の加羅の建國説話も最初の形のものではないらしく、そこに不調和な二分子の含まれてゐることが知られはすまいか。「龜何龜何、首其現也、若不現也、燔灼而喫也、」といふ歌は童謠らしいが、これを説話に編み込んだのは、首露といふ名の説明としてではなかつたらうか。即ち首露といふ文字を使つて、それを(604)龜が首を出すことに聯想させたのではあるまいか。山の名を龜といふ字で書いたことからも、さう考へられる。だから最初の建國説話では龜が重大なるはたらきをしてゐたので、卵には關係が無かつたのではあるまいか。「?等須掘峯頂撮土」といふのは、土の中に隱れてゐるからそれを掘り出せといふのであつて、これも隱れてゐるものが龜だとすれば最もふさはしい。然るに卵は本來地中にあるものでなく「首其現也」といふ「首」に當るべきものでもないから、こゝに不調和がある。特に卵の説話が高句麗系統のものであるとすれば、それは天に由來があるのであるから、不調和は一層甚しくならう。もつとも此の物語では、卵を地に置かれたものとし、天から紫の繩が下りて來て其の所在を示したといふことにして、兩方を結合してはあるが、「尋繩之下」云々とあるのを見ても、其の卵の函が地中から掘り出されたらしくはなく(また所在の示されないうちには掘るべき場所もわからないはずである)、もし掘り出されたものとするならば卵そのものの性質に合はない(此の卵を龜の卵として考へたのではなからう)。だから、こゝに二分子の混合があるので、最初の説話は山の名の龜といふ文字から思ひついた龜の物語であつたのが、後に新羅の説話から卵の話を假りて來てそれに結びつけたため、かういふ混亂が生じたのだ、と見られはすまいか。紅幅裏金合子も例の?林の金?を一層美しくしたものであらうし、後の脱解の物語も前後に何の縁のない附加物であつて、これも新羅の話を潤色して插入したものに違ひないことを參考するがよい。首露の名の説明が首を露はすことから一轉して「始現」の故とせられたのも、龜の物語が背後に引込んで卵の話が表面に浮き出したからであつて、これは頗る苦しい附會である。余は今此の物語を斯う解釋すべきものではなからうかと思つてゐる。龜の話と卵の物語とを最初から結合せられてゐたものと見ても羞支は無ささうであるが、首露の名が金卵説話からはどうしても出て來ないやうであるか(605)ら、余は寧ろ卵の話を後に附加したものと推測するのである(卵の數は勿論一つとしてみるのである)。
 なほ三國史記の金?信傳に引いてある碑文には金氏の由來を少こう金天氏に歸してある。此の碑文はゆ信の彼後間もなく書かれたものかと思はれるが、もしさうとすれば、その時には?信の遠組として金卵の話がまだ作られてゐなかつたのではあるまいか、とも思はれる。しかし金天氏としたのはシナ化した思想の所産であり金の字による附會であつて、前からあつた傳説を變改したのだとも見られるから、此の點からさう考へることはむつかしからう。けれどもまた駕洛國記の記載によつて見ると、加羅建國説話の作者は加羅の土地を主として考へてゐたので、新羅人となつてしまつた?信やその子孫の家には(少くとも)重きを置いてゐなかつたらうから、?信の家で如何なる説を有つてゐたかに關せず、加羅の起源譚としては別の物語を作り得たに違ひない。だから、?信の家の所説が既にシナ思想によつて作られてゐたにしても、駕洛國記に見えるやうな金卵の物語がそれより後に作られないとはいはれぬ。從つて此の物語製作の時代は、物語そのものの内容から推考する外はなからう。さうしてそれについての余の考は本文に述べたとほりである。なほ金?信傳は遠祖の名を首露とはしてゐるが、それが通常の人となつてをり、「不知何許人也」といひ「登龜峯、望駕洛九村、遂至其地、開國、」といつて加羅國説話の原形にあつたらしく推考せられる神異な龜の話を載せてゐないが、これはその史料になつた記録が龜の話のまだ作られない前に書かれたものである故なのか 又はシナ的合理主義の思想から神異の話をすてて人のことらしく改作した故なのか、よくわからない。たゞ建國の年代を建武十八年としてあるところから考へると、後の方であらうか。また首露といふ文字が既に存在する以上、其の名を説明する物語もそれに伴つてゐたとするのが妥當でもあらう。
 
(675)  日本古典の研究 下 補記
 
 三二頁 一四行 この問題について、〔記の應神の卷の太子の歌「こはだをとめを神のごときこえしかどもあひまくらまく」參照。〕の頭記補証がある。
 五〇頁  七行 〔「欲王日本、」は蘇我氏を聯想した構想か〕の頭記補人がある。
一二四頁  四行 段落につゞいて次の一節を加へる。〔ついでにいふ。皇極二年十月の「國司」については、この記事によつて國司が當時に存在したことを證すべきではなく、その反對に、國司の名のあることによつてこの記事が事實を記したものかどうかを批判すべきである。前後に何の連絡も無い孤立したこの記事の性質と、皇極紀に造作せられた記事の多いことから、かう考へられる。〕
一二七頁  八行 この問題について、〔天武朝のこととして國造と郡司とを連記することにも問題がある。〕の補記がある。
一三二頁 一四行 この問題について、〔萬葉卷四と卷八とに近江天皇岡本天皇といふ書きかたのしてあるところがあるが、これはこの二卷の編者の筆であらうから、もつと後のことと見なされる。〕の補記がある。
一五四頁  八行 この問題について、〔皇極紀三年に神祇伯といふ官名のあるのも、造作した記事である。〕の頭記補人がある。
一六九頁 一〇行 <遺存してゐるのであらう。>の前に、〔もとのまゝに〕の語を加へる。
二五九頁  一行 次の一節を挿入する。〔なほ珍寶とも土地とも關係のある記載で後世の日本人の手になつたことの明かなものは、五十二年の條のである。百濟の使臣が日本に來て、臣の國の西の方の行程七日のところに谷那鐵山といふのがあつて、そこに一つの川の水源がある、この水を飲みこの鐵を取つて永く聖朝に奉貢する、と上言したといふ話である。谷那は今の蟾津江の上流にある土地の名らしいから(朝鮮歴史地理第一卷第七章參照)、それによつてこの話が作られたのであらう。蟾津江は百濟の東南部を流れてゐるから、方位は違つてゐるが、四十九年、五十年、及び五十一年、の諸條にも、百濟人が或は日本を東方にあるものとしまたそれを海東といひ或(676)は韓地を海西または西蕃と稱したやうに記され、皇后の新羅征討の話に於いてその國が日本の西方にある如く語られてゐるのと同じ思想で書いてあるのを見ると、かういふ方位の觀念をこゝにも適用したのであらう。或はその河口の、百濟航路の終點または百濟への上陸地點として、日本人に熟知せられてゐた蟾津江の水源が河口の西北方にあることが、この方位の記載を誘つたでもあらうか。何れにしてもこの記載が物語として構想せられたものであることは、いふまでもあるまい。上記の使臣の言も四十九年の條の百濟王の誓といふものも、新羅征討の物語に於ける新羅王の阿利那禮河云々の語のある盟誓と同じ着想であることを、併せ考ふべきである。〕
二七〇頁  六行 〔林子平・三國通覽圖説で後方羊蹄を津輕山ならんといつた。學問的根據のない説であるが、書紀の記事をかう解釋したのは、さういふ解釋の可能であることの一證であらう。〕の補註がある。
二八六頁  九行 この問題について、〔日本紀略寛平五年「出羽國渡島狄與奧地俘囚等、欲致戰闘、」〕の補記がある。
三〇七頁 一四行 〔「ひめすがはら」の上の「天なる」は「ひ(日)」の音のみにかゝる冠詞と解し得られる。〕の頭記補入がある。
三二三貞 一三行 この間題について、〔高天原には日の神の宮殿は無い。〕の頭記がある。
三二三頁 一六行 この間題について、〔高天原から神籬を持つてこの國に降つた。(天孫降下の時の書紀の第二の「一書」。)〕の頭記がある。
三四六頁  二行 <かういふ語の一般の例から見て、>の次に、〔またそのあとの方にたゞ「荒振神」とのみあることから考へても、〕を加へる。
三八一頁 一三行 この問題について、〔大殿祭祝詞の、ヤフネトヨウケヒメの命は、その前に「とりふける草のそゝきなく」とあるのに「稻靈」と注記してあることによつて稻束の義と解すべきではあるまいか。屋根をふく料としてそれを用ゐたのは、一種の建築用材として見たものとしてもよさゝうである。〕の補記がある。
三九四頁 一一行 以下、〔に「以天下爲一家」、また同じ篇の別の條〕を補入する。
三九四頁 一三行 段落につゞいて次の一節を加へる。〔神武紀の「令」のうちの語の意義とその出典とは本文に述べた如くであ(677)るが、この令の一節は、ナラの京の經營を思ひよせて書かれたものと解せられる(おひがき參照)。これもまた後世の事實によつて昔物語を作つた舊辭の作者の慣用手段の一つの適用であらうか。〕
 おひがき 本文に、「令」の文辭の「然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可也、」といふ一節のうちの「然後」は、カシハラの宮を建てて位に即いた後、といふ意義に解するほかはない、といつておいたが、なほ考へるに、この一節は、ナラの都を思ひよせて書かれたものではあるまいか。「然後」に日本全國を統一して、そのうへであらためて都を造り宮殿を建てることにしよう、といふのは、ナラの都の經營を目の前に見てゐたものにおいて、はじめて切實に思ひ浮かべられたことであらう。これは、令の主旨から見れば、いはなくてもすむことであり、またこの語調から察すれば、都も宮殿も大きな規模のものとして想像せられてゐるにちがひないからである。フジハラの宮としてもよいかも知れぬが、それよりもナラの方がふさはしく考へられる。この都の經營が始まつた和銅元年は、日本紀の奏上せられた養老四年より十三年の前であつて、その編述の行はれてゐる時であつたと考へられる。この令に「苟有利民、何妨聖造、」と書かれたことにも、或は和銅元年の都つくりに關する詔勅のうちの「苟利於物、其可違乎、」が思ひ出されてゐるのではないかとさへ、推測せられなくもない。たゞ令のことばはカシハラの宮についてのこととしてあるが、こゝにいふのは都つくりについてそれが用ゐてあるといふ點においてである。「苟有利民」は左傳の文公十三年の史の言の「苟利於民」から來てゐるが、「苟利於物」もまた同じ語に本づいて書かれたものらしい。これは※[朱+おおざと]の君がその都邑を遷さうとした時のこととして語られてゐるので、事實上のナラの遷都についても、物語の上のカシハラの遷都についても、この語が利用せられたのである。
四〇五頁 一六行 〔「上代史の研究」一〇三−四頁を見よ。名としてはどこにもミコトとしてある。〕の頭記がある。
四〇六頁  八行 <ホノニニギの命>の前に、〔オシホミミの命、〕の補入がある。
四〇七頁  九行 <宗教的意義での神>の前に、〔神代史についていふと、〕の補入がある。
四二九頁 一二行 <政治的權力の淵源>の次に、〔が皇祖にあること〕の補入がある。
(678)四二九頁 一四行 以下、〔前篇にもまた上文にも説いた如くオシホミミの命以下の御歴代が如何なる場合にもみな命といはれてゐて、決して神とせられてゐないのも、このためである。〕を補入する。
四七四頁 一一行 《書紀の文を殆ど其のま》を削除して、その部分を〔ウズメの命の動作を敍した書紀の上記の文を、オモヒカネの命の議のうちのことばといふことにして殆どそのま〕と訂正してある。
四八五頁  六行 〔コヤネ及びフトダマを「神」と呼ぶこと、(舊辭の比較的後の修補を経たものによったのであらう。)〕の補註がある。
五〇一頁 五行 括弧の中に、〔上にいつた如く、もとの話では高天原には宮殿は無いことになつてゐた。〕を補入する。
五二五頁  六行 《(此の「一書」については後文參照)》を削除し、<その前>の次に、〔のオモヒカネの命の議〕を補入する。
五六九頁  四行 以下、〔(こゝの記事には文字の遺脱があるか、または節略せられてゐるところがあるか、意義が通じがたいやうであるが、かう解することに誤はなからう。)〕を補入する。
        (2013年7月13日(土)午後7時25分、入力終了)