津田左右吉全集第21巻、岩波書店、618頁、4200円、19656.17(88.5.24.2p)
(1) まへがき
子どもの時から作文が好きで、半紙を綴ぢ合はせた帳面をこしらへては、何かかを書きつける癖がついてゐたが、何を書いてゐたかは、全くおぼえてゐない。たつた一つ小學校の高等科の生徒であつたころのことだらうと思ふが、「遲々たる澗畔の松、鬱々として晩翠を含む、」といふ朱子の「小學」の外篇にある句をおもしろく思ひ、あれを使つて、その對になる句を新しく考へ出さうと、庭においてある大きな石に上つたり下りたりしていろ/\工夫をしたが、とてもむつかしくてそれができず、とう/\やめてしまつたことのあるのが、思ひだされる。生意氣なことを考へたものだと今からは思ふが、實はさうではないので、昔の書生は文章を書く時に古人の句などでおもしろいと思つたものは、よく記憶してゐて、自分の文章を書くばあひにそれを利用するのが例になつてゐた。このことは曾て「子どもの時のおもひで」のうちにも一言いつておいたやうなきがする。文章の美しさとその力の強弱とは、かういふ修辭を用ゐることの巧拙及び功過の如何によるところが多いので、おのづからかゝることに注意がむけられたのであらう。僕らも子どもながらそのまねをしたのである。たゞ明治時代以後においては西洋の名家の句をかりるのと、昔のシナのをまねるのとの違ひがあるのみであつた。論文に論理の精粗と資材の正否とが重んぜられ、さうしてそれによつて文章の價値の定められる今日においては、かゝる修辭的技巧はおのづから等閑視せられて來たので、今日ではそれが殆ど廢れてゐるが、明治時代までは、名文といはれたものでエマスンとかマカウレイとかの句を利用しないもの(2)は、殆ど無いといつてもよいほどであつたのは、これがためであらう。
かうはいふものの、僕はそのころまでに論文らしい論文を書いたことも無く、藝術とか文藝とかいはるべき作品を世に出したこともない。僕の筆にしたのは、せい/”\輕い評論めいたものの幾篇かに過ぎない。こゝにいつたのは、一つは何かを書かうとした時に何か據るところが欲しかつたのと、それでゐながら僕自身の製作であることを示したかつたのとの、ためであつた。純粹な學問上の論文は別として、さうでないものはこれだけの用意をしたほうがよいと思つたのみのことである。子どもの時の話をしたのは、たゞそのためである。このやうなことを書き添へてこの書のまへがきにかへる。
昭和三十六年四月
つだ さうきち
(1) 目次
まへがき
第一 日本語雜感………………………………………………………………………一
一 日本語の現状を憂ふ……………………………………………………………一
二 「新かなづかひ」について……………………………………………………九
三 固有名詞のかながき…………………………………………………………三六
四 敬語について…………………………………………………………………四四
五 外國語の亂用と日本語のロオマ字書き……………………………………五三
六 日本語に多いいひかたの一つ………………………………………………五七
七 譯語から起る誤解……………………………………………………………六五
八 自由といふ語の用例…………………………………………………………七四
九 萬葉集の第一歌………………………………………………………………八五
(2)第二 思想史斷片…………………………………………………………………八九
一 學問の本質……………………………………………………………………八九
二 諸民族における人間概念……………………………………………………一四二
三 日本思想形成の過程…………………………………………………………一五一
四 日本精神について……………………………………………………………一七三
五 今日の生活と昔からのならはし……………………………………………一九三
六 日本人の風習の一二について………………………………………………二〇六
七 日本の家族生活………………………………………………………………二二〇
八 教育に關する勅語について…………………………………………………二三二
九 『菊と刀』のくに――外國人の日本觀について――……………………二四二
十 愛國心…………………………………………………………………………二七二
十一 わたくしの信條……………………………………………………………二八七
十二 書齋漫筆……………………………………………………………………二九三
イ 讀むことと書くこと……………………………………………………二九三
ロ 書もつについて…………………………………………………………三〇四
(3) 十三 シナ藝術に關する斷想…………………………………………………三一四
イ 日本の樂器………………………………………………………………三一四
ロ シナ畫の氣韻論…………………………………………………………三二一
ハ シナ藝術の一側面………………………………………………………三三一
十四 シナ學に關する思ひつき…………………………………………………三四六
イ シナ思想研究の態度……………………………………………………三四六
ロ 日本におけるシナ學の使命……………………………………………三五六
ハ シナ文化研究の態度……………………………………………………三七六
ニ 諸生規矩階級・讀書路徑………………………………………………三八七
ホ 「儒者が政治をすれば世が亂れる」…………………………………三九三
第三 平泉の歴史と自然……………………………………………………………三九九
一 平泉の文化と中尊寺 ………………………………………………………三九九
二 中尊寺のミイラについての諸問題…………………………………………四二四
三 ヒライヅミの眺め……………………………………………………………四三五
四 中尊寺の能……………………………………………………………………四三七
(4) 五 ヒライヅミの自然……………………………………………………四三九
第四 おもひだすまゝ………………………………………………………………四四二
一 大歌所………………………………………………………………………四四二
二 新古今集の歌の技巧の一面…………………………………………………四四四
三 ハツクニシラスといふ語……………………………………………………四五一
四 國巣と書かれた語……………………………………………………………四五四
五 「中今」といふ語……………………………………………………………四五六
六 わが國に宗教樂の發達しなかったこと……………………………………四五八
七 古典の二つのとりあつかひかた……………………………………………四六二
八 片仮名のことなど……………………………………………………………四六四
九 漢文とラテン語………………………………………………………………四六九
十 シナの詩の日本語よみ………………………………………………………四七三
十一 漢文の日本語よみ…………………………………………………………四七九
十二 シナの詩の日本語譯………………………………………………………四八四
十三 シナの古典の文章と口にいふことば……………………………………四八七
(5) 十四 春恨……………………………………………………………………四九一
十五 秋の悲しさ…………………………………………………………………四九六
十六 四季の歌……………………………………………………………………五〇二
十七 山水の愛翫…………………………………………………………………五〇六
十八 詩の句の對?………………………………………………………………五〇八
十九 シナ人の懐古の詩…………………………………………………………五一二
二十 シナ人の戀愛詩……………………………………………………………五一八
二十一 香屑集……………………………………………………………………五二一
二十二 ナリシマ リユウホク(成島柳北)の詩……………………………五二三
二十三 平安朝の詩の作者と中晩唐の詩………………………………………五三〇
二十四 平安朝の物語とシナの説話……………………………………………五三七
二十五 生れた日と死んだ日……………………………………………………五四一
二十六 生れた家、住んでゐた家、おくつきどころ ………………………五四四
二十七 おのが死、おのが墓……………………………………………………五四九
二十八 葬儀 ……………………………………………………………………五五四
(6)第五 續おもひだすまゝ…………………………………………………………五六〇
一 玉蟲……………………………………………………………………………五六〇
二 庭は雑草の茂るにまかせて…………………………………………………五六二
三 自然の風土と習慣……………………………………………………………五六五
四 僕のしごと部屋………………………………………………………………五七一
五 山小屋の床の間………………………………………………………………五七三
六 食もつの味はひ………………………………………………………………五七九
七 刀剣……………………………………………………………………………五八一
八 ハンガリ事件につれて愛國詩人ペトフィを想ふ…………………………五八五
九 梵鐘のひゞき…………………………………………………………………五八九
十 「朝ぎよめすな」 …………………………………………………………五九一
十一 春の夜の夢…………………………………………………………………五九四
あとがき
索引
(1) 第一 日本語雜感
一 日本語の現状を憂ふ
日本語はむつかしい、といふやうな意見を近ごろとき/”\何かで見かける。これは日本語を話すことがむつかしいといふのか、文字に書かれた日本語を解することがむつかしいといふのか、またはその兩方を含めていふのか、人によつてその意味が違ふやうでもあるが、何れにしても日本人が日本語をむつかしいといふのは、ふしぎなことのやうな氣がする。子どもの時から日常使ひなれて來た日本語が、むつかしいと思はれるはずは無ささうだからである。そこで、なぜ、或はどういふ點が、むつかしいと思はれるのか、ちよつと考へてみたくなる。
一々細かに氣をつけてさういふものを讀んだのではないが、話すことがむつかしいといふののうちには、同じことでも人によりばあひによつてことばをかへねばならぬ、いひかへると敬語またはそれに類するものがいろ/\あつて而もその使ひかたがさま/”\である、それがむつかしい、といふのがあつたと思ふ。日本語に敬語やそれに類するものが多くまた複雜であることは事實であるが、それはことばの問題であるよりは、社會生活の風習とそれに伴ふ生活感情とに關することである。日本人には他に對してみづから謙抑することを禮儀として尊重する風習があつて、それ(2)が敬語となつて現はれるのであるが、さういふことばかりではなく、例へば人として好ましからぬこと忌むべきこと、その最も大なるものは死であるが、さういふことは明らさまにいはないのが、禮儀とせられるやうなことがある。ただかういふ敬語などの用ゐかたは、自己に對する間がらの親疎とかその人の社會的地位とかによつてさま/”\になつてゐるが、それらのことは社會生活における一種の習慣として、子どもの時からいつとなしにきゝなれいひなれて、身につけて來たことであり、普通の教養のある家庭で育つたものは、意識せずしてそれを適當に用ゐてゐる。從つてそれはむつかしいことではない。日本人のやうな風習の無いヨウロツパ人などには、日本語のかういふいひかたを理解することがむつかしく、それを適當につかふことは一層むつかしいであらうから、彼等がこの點で日本語がむつかしいと思ふのはむりも無いが、それは風習が違ひ生活感情が違ふからである。もし日本人がそれにつられて日本語はむつかしいなどといふならば、それは笑ふべきことの至りである。
但し最近では、人といふものの平等觀とか、すべてのことがらはありのまゝに明かに表現すべきだとかいふ特殊の考から、かういふ禮儀を否認し、ことさらに一般の風習に背いたことばづかひをする人たちもあるやうであるが、日本人のかういふ風習には、長い間の歴史が養つて來た繊細な生活感情が籠つてゐるので、輕々しく棄て去るべきものではない。(それには過度に用ゐることの弊害も伴つてゐるであらうが、世の中のことに用ゐかたによつて弊害の伴はないものは無い。その弊害の起らないやうにするのが教養によつて形づくられる良識のはたらきである。)平等觀もよいし、明白に表現することもよいが、それにはそれを適用すべき方面が別にある。或はまた何ごとをも階級觀念で説明しようとする人たちは、敬語などの如き禮儀の現はれをも、さういふ考へかたで解釋し、被壓服者の壓服者に(3)對する服從の表示であるから、排斥しなければならぬ、といふかも知れぬが、それは禮儀、おしひろめていふと他人に對する道徳的行爲を、他から強制せられるものである如く思ひ、人の心情から出るものであることを解しないものである。
勿論、かういふやうな禮儀は日本人に限つて行ふのではなく、ヨウロツパ人の教養ある社會には、日本人のとは違つた方面または形においてのそれがあつて、それはやはり繊細な生活感情の表現であるから、日本語にあるやうな敬語などを用ゐなくても、彼等の社會生活は成りたつのであるが、それもまた彼等の歴史が養つて來たものであり、さうしてそれが何等かの形で言語の上にも現れてゐると考へられる。從つて日本語がヨウロツパ人にとつてむつかしいことばであると同じく、フランス語もイギリス語もドイツ語も、この意味で日本人にはむつかしいことばである。しかしそれは、彼等がそれ/”\におのれらの國語をむつかしいものだと思つてゐる、といふことではない。かう考へて來ると、日本人が日本語をむつかしいものと思ふのは、ヨウロツパ人などの日本語に對する評判をそのまゝ口まねしてゐるものであるかも知れぬ。或は日本人が歴史的に作りあげて來た一般的教養を、いひかへると日本の獨自の文化を、排斥する意味でいつてゐるのかも知れぬ。が、この二つの間には相互の關聯がある。日本人としての教養を排斥することは、今日の一般の風潮では、ヨウロツパ人などの考へかたや習慣に追從することなのだからである。しかしヨウロツパ人には別の教養があることも、その教養を日本人が身につけることのむつかしいことも、一般には考へられてゐないのではあるまいか。
話がわき途に入つて來たやうであるが、もとへ歸つていふと、日本語をむつかしいものとする理由として、一つの(4)ことばにもいろ/\の變つた意義があり、それと共に同じ意義の多くのことばがあるから、それを適當に使ふことは容易でない、といふこともいはれてゐたやうに思ふ。一つのことばの意義が人の思索の細かくなるに從つていろ/\に分化したり、知識の新しく生ずるにつれてこれまでに無かつた意義が附加せられたり、またはその他のいろ/\の道すぢいろ/\の事情によつて、かういふことが起るのであるが、それは日本語のみのことではなく、どの國語でも同樣である。なほ意義は同じであるとしても、使ひかたいひかたや語調語勢などの違ひによつて、その語感や色あひの違ふことも多いが、これもまた同樣である。かういふことは初めて日本語を學ばうとする外國人にはむつかしく思はれることであるが、日本人がそれをむつかしいと思ふのはをかしい。
しかしこれについては、日本語に特殊のことがらもあるので、それは漢語の語彙が多く日本語のうちに入つてゐて、それが日本語の語彙として用ゐられてゐることである。そのうちには、漢語でありながらその意義が原義とはいろ/\の程度で、或は全く、違つてゐるもの、または漢語風に日本で新に造つたもの、などがあつて、それがもとからの漢語と混雜して用ゐられてゐるし、なほ漢語の語彙と、その色合ひなり語感なりは違ひながら、ほゞ同じ意義の日本語の語彙が別にあつて、それがやはり漢語のと混雜して使はれてゐたり、さういふやうなことも少なくない。漢語の語彙といつてもその聲音はすつかり日本化してゐるから、口でいふばあひにはそれがきはだつては耳に感ぜられないが、しかしもと/\漢字の字音として知られもし學ばれもしたものであるから、口にそれをいふ時にも漢字がそれに伴つて目に浮ぶ。特に熟語となつてゐるものにおいでは、その構成が日本語とは全く違つてゐるから、なほさらである。だから日本語の間にそれがまじつてゐると、よし日本語の語法によつてそれが用ゐられてゐても、どうしても不(5)調和なところがあるから、そこでそれを含む全體としての日本語がぎごちないものとなり、そこから何となくむつかしいもののやうな感じがする、といふこともある。のみならず、上にいつたやうな事情があるために、漢語の語彙の意義を知るには漢字の知識が必要であるから、そこで日本語の語彙としての漢語を用ゐるにも、漢字とその用ゐかたとを知らなくてはならず、そこからもまた日本語を話すことはむつかしいといふことになる。同じ文字を用ゐ同じ系統に屬する外國語の語彙を自國語のうちに取入れて話すのと、言語の性質が日本語とは全く違ひ、またその違ふ一語一語の表現である漢字と離しては取扱ひがたいところのある漢語の語彙を、日本語のうちに取入れて話すのとは、趣が違ふから、ヨウロツパ人などにとつては、日本語はふしぎな國語であるやうに感ぜられ、この點でむつかしいものと思はれるでもあらう。日本人自身においては、かなりの程度の教育をうけて世間なみの知識をもつてゐる限り、さういふ感じはしないが、考へてみれば、さういふ感じのせられる理由のあることはわかる。
もう一つきがつくのは、日本語の語法がむつかしいやうに感ぜられてゐるのではないか、といふことである。エド時代の學者の研究によつて一般に正統的な日本語の語法と考へられて來た文語の語法と、明治時代から次第に研究せられては來たがまだ十分に整つてはゐないやうに思はれる今日の口語の語法とが、文字に書き表はすばあひに、いろ/\絡みあつたり混雜しあつたりして、口語によることが主になつてゐる今日の文章が、實はかなり亂調子なものであるのみならず、日本語としてはむりなところのある漢文の讀みかたや、ヨウロツパ語のいひかたの日本語に移されたものなども、それに加はり、その上さらに、日本語を正しく書かうとする心用ゐの薄い人たちの書いたと思はれるものが、いはゆるマスコミュニケイションの主要な機關である新聞などの上に少なくないやうに感ぜられること、ま(6)た不用意に定められたとぼくには考へられる新かなづかひといふものが、今の口語としての日本語を、法則の無い亂雜なもののやうに見せる虞れのあること、などもそれを助け、ことばやことばづかびが文字に書かれたものにひきずられることの多い今日では、日本語をむつかしいものに思はせる一つの力となつてゐるのではなからうか。法則の無い亂雜なものほど、むつかしいものはあるまい、と考へられる。これは今の日本語の語法に特殊な點のあることについていつたのであるが、ヨウロッパの諸國語とは言語の系統の違ふ日本語そのものの語法が、ヨウロッパ人などにはむつかしいといふことも、あるのであらう。けれどもそれは、日本人には彼等の語法がむつかしいのと同じである。日本人から見ると、彼等の語法には、思想や情感を表現するには必要の無い、よけいのものがあるし、それでありながら表現を曖昧にするやうなものもある。ヨウロッパ語の知識を殆どもたないに等しいぼくがかういふことをいふのは、僭越でもあらうが、ぼくはかう思ふ。これは今日のヨウロッパ語の語法が彼等の精神史と言語そのものの歴史とによつて形成せられたものだからであらうから、それと全く違ふ歴史によつて形成せられた日本語を用ゐてゐる日本人がかう思ふのはむりではあるまい。外國語のむつかしいのはお互のことである。だからこれは日本語がむつかしいといふ理由にはならぬ。
話すことがむつかしいといふ方はこれだけにしておいて、次には文字に書かれた日本語を解することがむつかしいといふ方のことを考へてみる順序になるが、これは實はこれまでいつて來たことでほゞ盡されてゐる。たゞ書かれた日本語には、よしそれが口語であつても、漢語の語彙を用ゐることが口でいふばあひよりはおのづから多くなる傾向があり、而もそれが概ね漢字で寫されてゐることと、いはゆる文語に特有な語彙とその用ゐかたと、從つてまたその(7)語法とが、口語を寫した文章のうちにも多く遺存することと、この二つの點に幾らかの特色があるから、それを解するには、漢字漢語の知識をかなりにもち、文語の文章を讀みなれてゐてその語調語勢に或る程度の親しみのあることが必要である、といふことをいつておくべきであらう。これもまた普通の教養のある日本人は、常識としてもつてゐることであるが、ヨウロッパ人などには、日本語をむつかしいと思ふ一つの理由となるであらう。
一おうこんなことを考へてみたが、言語學の素養の無いぼくのいふことが、どれだけ當つてゐるか、それは知らぬ。たゞ日本語はむつかしいものだと日本人が平氣でいふやうな今の日本のありさまを、ふしぎにもなさけなくも思ふために、これをこゝに話題にしてみたのである。かういふことのいはれるのは、日本人自身の生活を外國人、特にヨウロッパ人やアメリカ人、の目で見るのか、それと關聯したことでもあるが、昔から積み重ねられて來た日本人としての教養を否認するのか、どちらかの考へかたが、日本人の生活、日本の文化、のどの方面についてでも、今の日本に流行してゐることを示すものであらう。勿論、日本人が世界的に活動するには、諸方面にわたつていはゆる現代文明を領略せねばならず、それがためには外國人の意見をきいてみることも、參考としてはよからう。たゞ彼等のいふことには、彼等自身の生活、彼等自身の文明、を規準にして何ごとをも考へるために、そこから生ずる偏見が甚だ多いから、それに對して十分に批判を加へることを、忘れてはなるまい。なほ現代文明を領略してゆく以上、日本がこれまで歴史的に養成して來た文化の成果のすべてを、そのまゝに保持することはできなくなることをも、考へねばならぬ。けれども日本の文化において、守るべきところは堅く守つてます/\それを精練します/\それを發達させてゆくところに、この現代文明に内在する多くの缺陷を補正してゆく強い力が潜在することにも、注意する必要があらう。(8)日本語についてもまた同じことがいはれよう。日本人は日本語の特色を守りつゝそれをます/\精練します/\發達させてゆく重大な任務をもつてゐる。徒らに日本語はむつかしいなどといつてゐる時ではない。
ついでにいふ。上に、文章として書いてある日本語を理解するには、漢字漢語についての一おうの知識をもつを要する、と書いておいたが、それは、日本語と漢語、即ち漢字の字音、とは全くその本質を異にするものであるから、このことをよく知つておかねばならぬ、といふ意味でいつたのである。さうして本質のあれだけ違つたものを、日本人はあれだけ廣くまた多く利用し、後世になるに從つて、人がみなその違ひを忘れてしまつたほどであるところに、日本人には、異民族の生活とそれに要する事物とを包容する大なるはたらきのあることが明かにせられた、といふべきである。
昔から日本人がシナの思想を知りシナの事物を知るには、何よりも文字により書物によるのであつたが、その文字は、聲に出して讀むことによつて、その意義なり情趣なりが解せられる。詩賦でも論議でも贈答の書でも、奏啓の如きものでも、その他あらゆる詞章がみなさうであつて、それが即ち日本でいふ漢字の字音であるが、漢字のこの字音は、或る時代、或る地域、或る社會、などに行はれてゐるシナ語の語彙であつて、廣い範圍でいふと、シナ民族に共通なものである。どの文字どの音にも習慣上或る聲調ともいふべきものが定まつてゐるが、それはシナ語シナの字音に特有なものであつて、シナ人には口に慣れ耳に慣れてゐるけれども、日本人と日本語との如き他の民族他の國語とは、本質的に不調和な性質をもつてゐる。だから、日本語のうちに一語でもシナ語を、一字でも漢字の字音を、もとのまゝの聲調でまじへていふことは、できない。(これはヨウロッパ語を、もとのアクセントのまゝで、日本語にまじ(9)へていふことができないのと同じである。)だから、むかし漢字の字音、即ちシナ語の一語、を日本人がその字音のまゝに日本語として用ゐようとしても、それはできなかつたに違ひない。それには字音とそれに伴つてゐる聲調とを變改し、シナ語の語彙としてのはたらきをさせないやうにしなくてはならぬ。だから漢字の知識が日本の民衆の間に弘まり、多數人がそれを利用するやうになるのは、とりもなほさず漢字をシナ語のしるしでなく、シナ語の字音でないやうに、することなのである。日本人は多く漢字を知り多く漢文を讀むやうになつたけれども、シナ語の知識はもたうとせず、さうしてそれで十分日本人には役にたつたのである。
二 「新かなづかひ」について
「新かなづかひ」といはれるものはもと/\教育上の一つのしごととして、特に小學校の兒童を對象として、考案せられたもののやうに記憶するが、それが、どういふ事情からか、一般の文筆界を規制するものの如く取扱はれ、新聞及び綜合雜誌の編輯においても、それによることになつたらしい。しかし、さうきめたのは、實際そのやうに自分たちが發音してゐることをたしかめた上でのことかどうか、甚だ疑はしい。正しい、また普通な、ことばづかひをしてゐるものならば、實際あのやうな發音をしてゐないことばが少からずあるはずだからである。このことについては、昭和二十二年六月の『象徴』に載せた論稿のうちで考へておいたから、同じことをいふ煩はしさを避けるため、それを次に引用しよう。これは小學校教育の問題として取扱つたものであつて、それがためにいふことがやゝ煩雜にわた(10)つてゐる嫌ひはあるが、いくらかの、補訂を加へて、その全文を寫しとることにする。
いはゆる「新かなづかひ」の根本精神は「かな文字」の用ゐかたを今のことばの發音どほりにするといふところにあるらしい。この解釋が當つてゐるかどうかは問題であるかも知れぬが、一おうかう考へておいて、それをわたくしの意見を述べる出發點とする。さてかなづかひを今のことばの發音どほりにするといふことは、久しい前から或る方面の人たちによつて主張せられて來たことであり、またそれを實行してゐた人もある。しかし實行せられたその書きかたを見ると、人によつていくらかづつのちがひがあつたやうであるが、それが、同じことばでも發音がちがつてゐるためであるか、または音は同じであつてもそれを寫すしかたがちがつてゐるためであるか、ちよつと見たところでは、よくわからないやうに思はれた。ところが近ごろになつて、小學校の教育にこの方針での新しい「かなづかひ」をつかふことになり、その書きかたも定められたので、新聞などにもそれを用ゐるものが現はれた。それがために、この「かなづかひ」に權威がつくと共に、それが正しいもののやうに思はれ、或はそれによることが進歩的な、または(それが簡便であつて一般に用ゐ得られるものとせられてゐるために)民主的な、しかたであるやうに、考へられてもゐるらしく見えるが、ほんとうにさうであらうか。わたくしはそれに對していろ/\の疑ひをもつてゐる。言語學の知識をもたないわたくしの疑ひであるから、それは實は疑はなくてもよいことかも知れないが、世のなかにはかういふふうに考へてゐるものもある、といふことを示すために、その疑ひを一おうこゝに書いておかうと思ふ。
この疑ひは、第一に、いはゆる「發音どほりのかなづかひ」がほんとうに發音どほりであるかどうか、といふこと、(11)第二に、この「かなづかひ」が一貫した原則をもつてゐるかどうか、また音とことばとの關係を考へたうへで定められたものかどうか、といふこと、第三に、「發音どほりのかなづかひ」にすることにどれだけの意味と價値とがあり、それが、これからの日本のことばをよくし日本の文化を高めてゆくために、どれだけのやくにたつものであるか、といふことである。
まづ第一についていはうと思ふが、それには實例を擧げるのが便利であらう。その例の一つは、「を」は「お」と書くといふことであつて、これは「を」といふ音は今は無く、むかし「を」であつたものは今はすべて「お」と發音する、といふ考によつてきめられたものらしい。事實、「を」を「お」と發音するばあひはかなりあるので、ことばのはじめの「を」は、たいていさうのやうであるが、しかしことばのをはりのは、さうとはかぎらない。例へば「あを」(青)、「うを」(魚)、は、「あお」、「うお」、とは發音しない。「あを」、「うを」、の「を」は「お」とは口の動かしかたがちがふ。「お」のごとく口を開かず、やゝ唇を近づけて音を出すのである。oでなくしてwoもしくはそれに近い音である。それがむかし五十音表の作られた時の「を」のまゝであるかどうかは、問題であるかも知れぬが、少くとも「お」ではない。さうしてテニヲハの「を」の發音が「お」ではなくして、「あを」、「うを」、の「を」と同じであることから考へると、「を」のこの發音は、ほゞむかしから傳へられて來たものとして、考へられよう。(「新しいかなづかひ」でも、テニヲハの「を」は「お」と書かず「を」とかく、といふきめになつてゐるが、これは發音は「お」であるが、便宜上さうしておく、といふことのやうである。このことについては後にいはう。)ことばのなかにあるばあひでも同じであるので、「かをる」(薫)は「かおる」とは發音せず「かをる」である。「をる」(折る)は「おる」(12)と發音するが、「たをる」(手折る)といつて上に「た」(手)をつけるときには、やはり「お」でない「を」である。「を」と發音するのは、その前の音を出した口の動かしかたとの關係からであらう。次には、これまで「ふ」「ほ」と書かれてゐながら「お」と發吾するものは、「お」と書く、といふことであつて、「あふひ」(葵)は「あおい」と、「かほ」(顔)は「かお」と、發音するから、そのとほりに書くのだといふ。しかし事實は、「あふひ」は「あをい」と、「かほ」は「かを」と、發音するではないか。同じやうに「あふぐ」(仰ぐ)は「あをぐ」と發音し「あおぐ」とはいはない。「なほ」(猶、尚、など)、「とほい」(遠い)、「なほす」(直す)、「にほふ」(匂ふ)、「とほす」(通す)、などの發音も「なを」、「とをい」、「なをす」、「にをう」、「とをす」、であつて、「なお」、「とおい」、「なおす」、「におう」、「とおす」、ではない。(「ふ」を「う」と發音することについては後にいはう。)「いはう」(言はう)、「かはう」(買はう)、「おこなはう」(行なはう)、などを「いおう」、「かおう」、「おこなおう」、とは發音せずして「いをう」、「かをう」、「おこなをう」、といふのも、これと同じである。(これは實は、後にいふやうに、「いわう」、「かわう」、「おこなわう」、である。)ところが、これらの「を」と發音するものが、みな「お」と發音するもののやうにせられてゐるのは、やはり「を」の音は今は無いといふ考にもとづいてゐるのであらう。しかし事實「を」の音はあるのである。もつともあるといふのは、わたくしじしんにさう發音するからであるが、これは或はわたくしだけのことであつて、一般には「お」とちがふ「を」の音は出さないのではないかとも思ひ、知つてゐる人たちにたづねでみたが、やはりわたくしと同じやうに發音するらしい。それで、どうして「を」の音は今は無いもの、「を」はすべて「お」と發音するもの、ときめられたのか、わたくしにはわかりかねるのである。
(13) なほ發音の歴史的變化からいつても、「を」の音のあることが證明せられるのではなからうか。といふのは、は行の音はもとはpもしくはそれから變つたfの吾であつたらしいから、それが同じく唇のはたらくwまたそれに近い音に變るのは、自然のことであり、從つて「かほ」が「かを」になつたごとく、「ほ」が「を」になつたと見られるからである。さうして「ほ」の轉化した「を」の音があるとすれば、もとからの「を」がそのまゝ「を」の音として殘つてゐるのも、あたりまへであり、テニヲハの「を」もまたその例である。「は」が「わ」になつたのもこれと同じことであつて、「いは」(岩)、「すなはち」、「くはしく」、「かゝはらず」、などが、「いわ」、「すなわち」、「くわしく」、「かゝわらず」、などになつたのが、その例であり、テニヲハの「は」が「わ」と發音せられるのも、そのためではあるまいか。もつとも「へ」は「ゑ」にはならず、「え」に變つてゐるが、これは「へ」のfの音がおちて「え」になつたのか、または一たび「ゑ」になり、それがさらにwをおとして「え」になつたのか、いづれかではあるまいか。さうしてそれはエ列の音の口の動かしかたの特質から來てゐるのではなからうか。上にいつた「あふひ」の例のやうに「ふ」が「を」になつてゐるばあひもあるが、これは上の「あ」と下の「ひ」(い)との關係から來たことのやうである。また同じことばの同じ「ほ」でも、「とほす」(通す)、「とほる」(通る)、のばあひは「を」と發吾するにかゝはらず、名詞の形をとつて「とほり」といふばあひには「とをり」とはいはずして 「とおり」と發音するやうに思はれるが、これは、前のばあひでは「と」と「ほ」とが別々に發音せられるが、後のばあひでは、一つの音に、即ち「と」の長音のやうに、なつてゐるからであり、さうしてそれはまたアクセントが「ほ」(を)にあるのと「と」にあるのとのちがひによるのではあるまいか。「こほる」(氷る)のばあひはおもに「こをる」で、「こほり」のばあひは「こおり」(14)であるのも、同じ例であらう。「おほきい」(大きい)、「おほい」(多い)、などでも、アクセントのおきどころによつて「おをきい」、「おをい」、とも、「おおきい」、「おおい」、とも、發著せられるやうである。「おほきい」、「おほい」、を強くいはうとするばあひには「ほ」にアクセントがおかれるらしい。だから、ハ行の音がすべて同じ列のワ行のになるのではなく、またいつもワ行のにのみ變るのでもないし、また根本的には、變化の理由について上にいつた臆説があたつてゐるかゐないかも、問題であるかもしれぬ。しかし「ほ」が「を」となつたばあひのあること、「お」とちがふ「を」の音のあることは、明かな現在の事實として見なければなるまい。「は」が「わ」になつたばあひのある明かな事實からも、それは知られよう。もしさうとすれば、「を」をすべて「お」と書くといふことは、「發音どほりのかなづかひ」ではないのではなからうか。
發音どはりであるかないかの疑ひのあるいま一つの例は、「かう」(斯う)、「さう」(然う)、「あらう」、「きかう」(聞かう)、「いそがう」(急がう)、「はなさう」(話さう)、「かたう」(勝たう)、「やすまう」(休まう)、などの「かう」、「さう」、「らう」、「がう」、「たう」、「まう」、などを、「こう」、「そう」、「ろう」、「ごう」、「とう」、「もう」、などと書く、といふことである。しかしこれらは、もし發音どほりとするならば、むしろ「こお」、「そお」、「ろお」、「ごお」、「とお」、「もお」、などと書く方がよくはなからうか。ほゞ「こ」、「そ」、「ろ」、「ご」、「と」、「も」、などの長音のやうに發音せられるからである。(ほゞといつたのは、精密には必しもさうではないからである。ばあひによつては「う」の音の痕跡のかすかにきこえることもあるやうに思はれる。)また「と」にアクセントのある「とほり」を「とおり」と書くならば、これらを「こう」、「そう」、「ろう」、「ごう」、などとするのは、それと一致しないかきかたではある(15)まいか。現にこれまで書かれた「發音どほりのかなづかひ」のうちには、かう書いてあるものがあつたやうであり、ロオマ字かきの方でも ko〔oの上横棒あり、以下略〕か so ro go などとせられてゐる。(わたくしはこのロオマ字の書きかたはよくないと思ふが。)しかるに、どうして上に記したやうな書きかたにきめられたかといふと、それは或は、「か」、「さ」、「ら」、「が」、などとその下の「う」とを離して考へ、「か」、「さ」、「ら」、「が」、などの文字が實際の發音においての「こ」、「そ」、「ろ」、「ご」、などにあたる、といふやうに見たところから、かうせられたのではあるまいか、とおしはかられる。もしさうならば、これは耳にきく音、すなはち發音そのもの、によつたのでなく、書かれた文字によつた考へかたである。實際には、「こ」と「う」とを、また「そ」と「う」とを、離して「こう」、「そう」、とは發音しないからである。かういふ考へかたが發音どほりに書くといふ主旨にかなつてゐるかどうか、疑はしくはなからうか。或はまた、はたらくことばにおいては、文語のはたらきにおける第一段(ア列)のが口語では第五段(オ列)になつてゐる、といふやうな考へかたから、かうせられたのではないか、とも思はれる。しかしそれにしても、發音どほりでないことは、同じである。のみならず、「かう」、「さう」、「らう」、などがほゞ「こお」、「そお」、「ろお」、のやうに發音せられるのは、はたらきのかはつたのではなくして 「かう」、「さう」、「らう」、の發音のしかたのかはつたのであらうと思はれるので、それは上に擧げた「斯う」、「然う」、のばあひのが同じ音になつてゐることからでも、わかるのではあるまいか。さうして發音のしかたがかはつたのならば、かはつた發音のまゝに書くのが、「發音どほりのかなづかひ」ではあるまいか。
ついでにいひそへる。「ぢ」と「づ」とは、「じ」と「ず」とにする、たゞ「ぢ」か「づ」かの上にことばがついて(16)ゐて、それによつて一つのことばができてゐるばあひ(二語の連合)、または「ち」か「つ」かの下に「ぢ」か「づ」かの音のつゞくばあひ(連呼)、のみは、とりのけとして、「ぢ」または「づ」と書く、といふことになつてゐる。これは、「ぢ」と「づ」との音が今は無い、といふ考の下にきめられたことらしく、さうしてこゝにいつたとりのけのばあひとても、實際は「じ」または「ず」に發音せられるけれども、ことばのつゞけがらの上から、その音とはちがつた、即ち發音どほりでない、書きかたをする、といふ主旨のやうである。しかし「ぢ」と「づ」との音が無いかどうかは、疑問であつて、例へは「はなぢ」(鼻血)のごときは、事實「はなじ」とはいはずに 「はなぢ」といつてゐるのではあるまいか。また「みづ」のごときは人によつて「みづ」ともいはれ、または「みづ」と「みず」との中間の音にもなつてゐるのではなからうか。「ぢ」と「づ」とには、おほくのことばにおいてかういふことがあるやうに思はれる。もしさうならば、「ぢ」と「づ」をすべて「じ」と「ず」とにすることになると、やはり發音どほりの書きかたでないばあひが生ずるのではあるまいか。
ところが、かう考へて來ると、おのづから上にいつた第二の疑ひが起ることになる。まづ、いはゆる「發音どほりのかなづかひ」には一貫した原則があるかどうか、を見るに、發音どほりにしようとしながら、さうでないものがある、といふことにおいて、既に、そのきめかたが一貫した原則によつてゐないことが示されてゐる。テニヲハの「は」と「を」と「へ」との實際の發音は「わ」と「お」と「え」とであるが、しばらくこれまでの書きかたのまゝにしておく、といふのも、また同じである。なぜこれだけを發音どほりにしないのか、その理由がわからないではないか。こ(17)のばあひの「を」の音が「お」でなくしてもとからの「を」であるといふことは、上にいつたが、いはゆる「發音どほりのかなづかひ」のきめかたにおいては、「を」の音は今は無いとせられてゐるのであるから、テニヲハの「を」の書きかたをもとのまゝにしておくといふのは、さういふ理由からではないにちがひない。「は」と「へ」とについては、明かに發音とはちがつた書きかたをすることにしてあるのである。つかふ度數が多いからだといふのかもしれないが、それならばなはさら發音どほりにすべきではなからうか。多くつかはれる文字を書きかへてこそ、發音どほりにすることの意味があるのではないか。然るにそれをさうしないのは、この「かなづかひ」が、少くともこのばあひにおいては、たゞの便宜主義でできてゐることを示すものといはねばならぬ。或はまた、「とお」と發音するものは「とう」と書くことになつてゐるやうであるが、もしさうならば、「かあさん」、「にいさん」、「ねえさん」、と書かれるにかゝはらず、「とおさん」だけは「とうさん」とすることになるやうに、その間に一致しないばあひが生ずる、といふことをも、こゝに書きそへておかう。このばあひの「とお」は、「かあさん」の「かあ」が「か」の長音であると同じく「と」の長音である。「とお」は、どういふ意義のことばでもみな「とう」とするといふ點において一貫してゐるが、その代り、ことばの意義から見て他の同じばあひのとはちぐはぐになるのである。が、これはおのづから次の疑ひをさそひ出すものである。
その疑ひはこの「かなづかひ」は音を音としてのみとりあつかひ、音とことばとの關係を考へたうへできめられたものとは見えない、といふ點においでである。日本のことばを寫すばあひと、いはゆる漢字音を書きあらはすばあひとが、また日本のことばでもはたらくものとはたらかないものとが、同じにとりあつかはれてゐるのでも、そのこと(18)はわかるやうである。漢字を音でよむのは、いまの世にヨウロッパ語の語彙をもとのことばでつかふのと同じであつて、どう書かれどう寫されても日本のことばにはかゝはりが無いが、日本のことばの音は、ことばとの關係において、さう發音することの意味がある。だからこの二つは同じやうにとりあつかはるべきものではなからう。また、はたらくことばの音とはたらかないもののとでは、音としては同じやうに聞こえても、その性質はちがつてゐて、前のほうのについては、そのことばの他のはたらきをするばあひ、また他のことばの同じはたらきをするばあひ、との關係においてその發音の性質を考へねばならぬが、後のほうのには、さういふことが無い。「行かう」の「かう」と、「かうする」(斯うする)、または「かうじ」(?)の「かう」とは、よし音は同じだとするにしても(もつともアクセントがちがふから耳にきく感じは同じでない)、「行かう」のほうは「行かない」とか「行く」とか「行け」とかいふばあひ、また「聞かう」といふことばなどにおけるごとく同じく「かう」がそれと同じはたらきをするばあひ、もう一歩すゝんでいふならば、「話さう」とか「勝たう」とかいふやうに、同じく「あう」の母音をもつてゐて同じ性質のはたらきをするばあひ、との關係が考へられるべきであるのに、「かうする」、または「かうじ」のほうには、さういふことがない。だから、この二つもまた同じにとりあつかはるべきではあるまい。然るにそれらがみな同じやうにとりあつかはれてゐるのは、音をたゞ音としてのみ見たためのやうである。發音どほりに書くといふのは、音についてのことであるから、それでよいではないかと、いはれるかもしれぬが、さうてがるに考へてよいかどうかといふことについては、あとでいはう。上に「を」と「お」との音についていつたやうに、同じことばのうちの音ですらも、ばあひによつて發音のちがつてゐる例のあることをも、考へあはすべきである。
(19) いま一つきがつくのは、「すゞしう」(涼しう)、「しませう」、「ひうが」(日向)、「けふ」(今日)、などの 「しう」、「せう」、「ひう」、「けふ」、を「しゅう」、「しょう」、「ひゅう」、「きょう」、とし、「いう」、「えう」、の音をすべて「ゆう」、「よう」、のごとく發音するものと見て、その音、またそれを母音として含むすべての音を發音のまゝに書く、といふことである。このうちで「よう」の發音は實は「よお」に近いのであるから、それを「よう」と書くのは發音のまゝではない。これは上にいつた「かう」の發音が實は「こお」に近いのに、それを「こう」と書くのと同じである。が、それと共に、「しく」の轉化である「しう」を「しゅう」と書き、「ひむか」から來てゐる「ひうが」の「ひう」を「ひゅう」と書くのは、「いう」の音とその音を母音として含むことばとの關係をも、そのことばの性質をも、全く考へず、音だけをきりはなして一律にそれを「ゆう」としたのである。たゞ「いふ」(言ふ)は「ゆう」とせずして「いう」とすることになつてゐるやうであるが、これは「いう」といふ音と「言ふ」といふことばとの關係から見ると、正しい書きかたである。その代り、「いう」の音はすべて「ゆう」とするといふきめかたは一貫しないことになる。(もし「言ふ」を「ゆう」と書くことにするならば、それは、「いはう」(いわう)、「いひ」(いい)、「いへ」(いえ)、とはたらく「いふ」(いう)といふことばの基本の形が、文字に寫されたところでは、ヤ行のはたらきに見えることになつて、ことばのはたらきの統一を破り、それを不規則にするものである。)
なほ上にいつた「ぢ」と「づ」とを「じ」と「ず」にすることについてのとりのけの條件が、二語の連合とか連呼とかいふ點、すなはちことばの形または音の上においてであつて、ことばの意義においてではないやうになつてゐることを、こゝにいひそへておかう。「名をつける」といふのと同じ意義の「名づける」は「名ずける」と書くことに(20)なつてゐるやうであるが、もしさうならば、同じことばが「つける」とも「ずける」ともせられることになる。「あとずける」と「あとをつける」と、また「いろずける」と「いろをつける」と、のごとく、かういふことはしば/\起り得るであらう。或はまた「かう」(斯う)を「こう」と書くことにすると、同じことばであつて今も現に用ゐられてゐる「かく」(斯く)との連絡が無くなり、「さう」(然う)を「そう」と書くことにすると、「さよう」(然よう)とのつながりが無くなるやうな、例のあることも考へねばなるまい。これらもまた音を音としてのみ考へ、ことば(の意義)との關係においてそれを見ないからのことではあるまいか。要するに、「新かなづかひ」のきめかたは、甚しく機械的である。かういふ考へかたによつて 「かなづかひ」をきめることが、正しいかどうか、問題ではなからうか。
さて、第三の疑ひであるが、それをいふ前に、「かなづかひ」を發音どほりにするといふことについてのわたくしの考を一おういつておかう。その一つは、子音のものが母音だけ發音せられるばあひには、發音どほりの母音を書いてよい、といふことである。例へば、ことばのはじめの「ゐ」と「ゑ」と「を」とは、大てい「い」と「え」と「お」と發音せられるから、「ゐる」、「をる」(居る)、を「いる」、「おる」、と書き「ゑふ」(醉ふ)を「えう」、(「ふ」を「う」とすることについては次にいはう)、「をか」(岡)を「おか」と、書くやうなのがそれである。ことばのなかやをはりにあるばあひも同じであつて、特にをはりにあるばあひには、「ハ」行の音と「ワ」行のとにそれがある。例へば、はたらかないことばでは「かひ」(貝)、「はひ」(灰)、の「かい」、「はい」、「きのふ」(昨日)の「きのう」、「あゐ」(藍)の「あい」、などがそれであり、はたらくことばでは、ハ行の四段活用のに多く、「は」(これは「わ」になる)の外は、大ていさうであつて、「あひ」、「あふ」、「あへ」(逢)、は「あい」、「あう」、「あえ」、と發音し、「いひ」、「いふ」、「いへ」(21)(言)、は「いい」、「いう」、「いえ」、と發音するし、「おもひ」、「おもふ」、「おもへ」(思)、は、「おもい」、「おもう」、「おもえ」、と發音するから、そのとほりに書いてよい。これらの發音は、もとの音の子音が母音のみとなつたものと考へられるので、例へば「なし」(無)、「あかし」(赤)、「くろし」(黒)、などが、「ない」、「あかい」、「くろい」、などと變つて來たのと同じであり、このいひかた書きかたは一般に認められて來たものだからである。(このうちの「あう」、「おもう」、のごとく、をはりが「う」になつてゐるものは、ほゞ「おお」、「おもお」、のやうに發音せられる。)なほ「あつく」(熱)が「あつう」といはれるばあひのあるのも、これと同じである。もつとも「あゆ」(年魚)が「あい」となつてゐるごとく、これらとはちがつた變化のみちすぢを經たものもあるが、かういふものも發音のまゝに書いてよいのである。たゞ上にいつた「とほる」と「とほり」との例のごとく、同じ意義のことばでもとは同じ音であつたと思はれるものが、一つは「とをる」と發音し、一つは「とおり」と發音するやうになつてゐるばあひに、一々發音どほりに書くと、同じことばが二いろに書かれることになるので、さういふ書きかたがよいかどうかが問題になる。これはさらに考へてみるべきことである。
次には、テニヲハの「は」と「へ」とのことであるが、これは「わ」と「え」とに發音するのが事實であり、さうしてかう發音するやうになつた歴史的由來も知り得られ、また發音どほりに書いてもことばの性質にかゝはりの無いものであるから、「わ」とし「え」としてよいと考へる。たゞし「を」はもとより「を」であつて、實際さう發音せられるのであるから、それを「お」と書くべきではない。なほ例へば「いは」が「いわ」と、「すなはち」が「すなわち」と、發音せられるごとく、はたらかないことばでことばのをはりまたはなかにある「は」が「わ」になつてゐ(22)るものも、發音どほりに書いてよい。また例へば「いはう」が「いわう」といはれるごとく、四段にはたらく第一段の「は」が「わ」と發音せられるものも、やはり「いわう」と書いてよいと思はれるが、これについては、次のことが考へあはさるべきである。
この「いはう」とか、それと同じいひかたのことばで上にいつたことのある「あらう」、「きかう」、「いそがう」、「はなさう」、などといふのは、今の發音のしかたでは、ほゞ「いをお」、「あろお」、「きこお」、「いそごお」、「はなそお」、などのやうになつてゐて、その「をお」、「ろお」、「こお」、「ごお」、「そお」、などは、「を」、「ろ」、「こ」、「ご」、「そ」、などの長音であるかのごとくきこえるが、ことばの性質としては、さうではない。これらは「いはむ」、「あらむ」、「きかむ」、「いそがむ」、などの「む」の子音が母音だけの「う」となつたものか、または「む」の轉じた「ん」がさらに「う」となつたのか、いづれかであらうと考へられるが、變化の性質としては、「あふ」が「あう」になり、また「いへ」(言へ)、「あへ」(逢へ)、などが「いえ」、「あえ」、と發音せられるやうになつたのと、同じであらうから、「わう」、「らう」、「かう」、などは、決して「を」、「ろ」、「こ」、などの長音ではないのである。それが長音のやうにきこえるのは、「わう」、「らう」、「かう」、などの二音をつめて一音のごとく發音するからのことであり、發音のしかたから來たことである。だから、これらは、ことばの性質に從つて「わう」、「らう」、「かう」、などと書くべきものと考へる。さうしてさうすることによつて、はたらくことばのそのはたらきの規則たゞしいことが、明かになるのである。またそれは實際の發音と殆ど同じであるので、このことは、「あう」などをつめていふと「おお」などのごとく發音せられるやうになつた變化の上からも、知られるのである。さてかう考へると、「いう」(言ふ)が「ゆ」(23)の長音である「ゆう」のごとく發音せられるにしても、それは「いう」を一音のごとくつめていふからのことであるから、ことばの性質に從つて、それを「いう」と書くのがよいといふことにならう。四段でないはたらきをすることばのばあひでも、例へば「えう」(醉ふ、ゑふ、ゑう)が「よう」または「よお」のごとく發音せられても、やはり「えう」と書くべきことがわからう。「しませう」のばあひの「せう」も「しょう」または「しょお」と書くのはよくない。はたらかないことばでも、例へば「けふ」(今日)は「けう」と書き、「てふ」(蝶)は「てう」と書くべきであつて、「きょう」、または「きょお」、とし「ちょう」、または「ちょお」、とすべきでないと考へられる(「てふ」は日本のことばとみる)。地名の「あふみ」(近江)、「かうち」(河内)、「かうつけ」(上野)、も、「おうみ」、「こうち」、「こうつけ」、と書かずして、「あうみ」、「かうち」、「かうつけ」、としたものである(河内を「かはち」といふばあひには、「かわち」でよい)。なほ「あかうなる」(赤うなる)、「くらうなる」(暗うなる)、などが、「あこうなる」、「くろうなる」、などとすべきでないことも、これまでいつた例と同じである。これらは「あかくなる」、「くらくなる」、の「く」が「う」になつたものだからである。「かう」(斯う)が「かく」の「く」の「う」になつたものであることも、これと同じであるから、それを「こう」と書くべきでないことは、おのづから明かである。「さう」(然う)はそれとは違ふが、その「さ」は「さよう」の「さ」と同じであるから、「そう」と書くべきではない。
もう一ついつておくべきは、「ぢ」と「づ」とについてである。「ぢ」も「づ」も今無くなつてゐる音ではなく、現にこれらの音でいつてゐることばがあるから、それをすべて「じ」と「ず」とにするといふのは、發音のまゝに書くことにはならない。多くのばあひ「じ」また「ず」と發音することばがあるにしても、それがすべてではないのであ(24)る。だから少くとも意義の上において「ぢ」または「づ」とすべきものは、そのやうに書くべきである。上にいつた「名づける」のごときはその例であるが「もとづく」のごときも「もとずく」と書くべきではあるまい。「いづれ」といふことばもまたそれであつて、それから轉じた「どれ」といふのがあることから見ても、同じダ行の「づ」であるべきはずである。「いづみ」(泉)といふことばのごときも、「でる」(いでる、出る)と同じことばを含んでゐる意義の上から、もとのまゝに「いづみ」と書かねばならぬ。さうしてかういふ發音は決してむつかしいものではない。
わたくしの考はほゞこのやうなものである。つゞめていふと、(一)これまで久しい間、一般のならはしになつて來た發音で文字のもとの音とちがつてゐるものは、その發音のまゝに書いてよい、といふこと、たゞし(二)發音のまゝに書いては、そのことばの意義と性質とに背き、または日本のことばの語法の上の規則的なはたらきを亂すやうなものは、そのやうな發音になつて來た變化のみちすぢを考へることによつて、ことばの意義と性質とに一致し、または規則正しい語法が成りたつやうな書きかたにする、しかしこれは、かならずしもいはゆる歴史的かなづかひをどこまでも守るといふ意味ではない、といふこと、(三)同じことばのうちの音でも、そのことばの形またはアクセントのおきどころによつて、發音のちがふもののあることにきをつけ、その書きかたを考へねばならぬといふこと、などである。なほ(二)については、例へばハ行の音の轉訛したものにおいて、「は」はワ行の「わ」になり、「ひ」と「へ」とはア行の「い」と「え」とになるとか、同じことばでも、例へば「いう」(言ふ)のはたらきにおいて「いわう」と「いえ」とが生じ、「こえ」が「いろ」や「ね」と結びついて一つのことばを形づくるときには「こわいろ」や「こわね」となるとか、さういふやうなことが起るごとく、發音どほりにしたために別の行の音がまじるばあひがあることに、(25)きがつくが、これは、或は「は」の音の特殊の性質から來たことであり、或はワ行の音がもとのまゝに殘つたのであつて、その數も極めて少いから、それによつて語法の規則的であることが妨げられるほどのことではない。特殊の例外として認めらるべきものであらう。さうして、かう考へて來ると、「とほる」を「とおる」と書くと共に「とほり」を「とおり」と書いてもよいことにならうと思はれる。また「おお」、「こお」、「そお」、または「をお」などと發音する「あう」、「かう」、「さう」、または「わう」などには、それがさういふ發音をすることを示すために何かの符號をつけてもよからう。(試にいはうなら「あう〔山括弧あり〕」、「らう〔山括弧あり〕」、「かう〔山括弧あり〕」、などのごとく。)
さて、わたくしの考をかう述べて來ておいて、はじめにいつた第三の疑ひに歸らう。それは一くちにいふと、「發音どほりのかなづかひ」にすることにどれだけの意味と價値とがあるか、といふことである。もと/\「かなづかひ」といふのは、表音文字である「かな」によつてことばを寫すことであるから、そのはじめには、ことばをくみたててゐる音のまゝ、音のとほり、に寫されたものと一おうは考へられる。しかし、かう考へるにしても、文字に寫すことにしたうへは、文字そのものの性質として、その書きかたが固定性をもつて來るのに、音そのものは、或はそれだけで、或はことばと共に、時代の移るにつれて變るのが常であるから、書きかたと實際のことばの發音との間には、くひちがひが生じて來る。のみならず、もとにもどつて考へると、文字の數はきまつてゐて、それには限りがあるのに、音は、わずかの口の動かしかたのちがひで、かなり多くの變異が生ずるものであるから、はじめて音が文字に寫された時に、すでに音と文字との間にいくらかのくひちがひがあつたかもしれぬ。といふよりも、それがかなり多か(26)つたといふほうがあたつてゐよう。音のあるだけそれに應ずる文字を作るといふことは、事實、できないことであらう。文字に寫すといふことは、或る程度に音を定形化することであつたと考へられる。だから、實際の發音を標準にして見ると、文字の書きかた、またはよみかたは、發音どほりでないばあひが、この點からもあり得るのである。そこで、同じ文字にいろ/\の符號をつけることによつて實際の發音を示すことにしたり、同じことばを寫すにも文字のあてかたを變へたりすることが行はれて來る。全體から見るとわりあひに單純な日本の音についてでもそれがあるので、いはゆる濁り點をつけることには、前のほうの一つの例といつてもよいばあひがあらうし、平安朝時代にすでにいはゆる音便による寫しかたの生じたのは、後のほうのである。それから後も音そのものが變り、もとは無かつた、或は文獻にあらはれてゐるやうな上流の社會または京人の間では用ゐられなかつた、音が用ゐられるやうになり、また或はことばとそのいひかたとが變るにつれて音が變つたりして、今では古くから文語として用ゐられて來たことばの音、即ちさういふ音の寫された文字のよみかたと、實際のことば及びその音との間に、大なるちがひができてゐるのである。もつとも音が變ると共に、それにつれて文字のよみかたが變つて來ることもあるので、そのばあひには、變つた音どほりに文字が書かれてゐることになるから、實際の發音と文字のよみかたとのくひちがひは感ぜられない。「ハ」行の音がfからの今の吾に(或はその前にpからfに)變つて來たとするならば、それはこの例である。「は」が「わ」と、「ほ」が「を」と、發音せられるばあひのあるのも、實はそれと同じであるが、これは別に「ワ」行の音と文字とがあるのと、「は」と「ほ」とがいつもかう發音せられるのではないのと、これらの理由のために、ハ行の音がfから今の音に變つて來たにつれてその文字のよみかたが變つて來たのと同じやうには、思はれないのみであ(27)る。
實際の發音と文字のよみかた書きかたはかういふやうにしてちがつて來たので、そこで今の發音のまゝに文字に書かうといふことが考へられて來たのである。文字は音を寫すために用ゐはじめられたもの用ゐらるべきものだとすれば、これはさうあるべきこととして、一おうは認められる。しかし音がどうして變つて來たかの道すぢをいろ/\の方面から考へると、さう單純にはいはれない。一くちにいふと、ことばとそのいひかたとが、從つてその背景としての國民の文化が、進歩して來たために變つたのか、またはその反對に、文化とそれに伴ふことばとが退歩しくづれて來たために變つたのか、それが問題なのであつて、もし後のほうのならば、さういふふうにして變つて來たその發音のまゝに書きかたを變へるといふことは、日本のことばをよくし日本の文化を進めてゆくことには、ならないのである。日本のことばの發音の變つて來たのは、いろ/\の事情からであつたらうから、てがるにはいはれないし、根本的にはことばや音についてどういふことを進歩といふのかが問題であらうが、音そのものだけについていふと、むかし區別せられてゐた音がせられなくなつたり、はたらくことばにおいてそのはたらきがいくらか不規則になつたり、してゐる點においては、進歩とはいはれないであらう。文化が進み人の心生活がゆたかにもなり微妙にもなれば、ことばも多くなり、そのことばのいろあひも細かになり、從つて音そのものも複雜になり音の強弱抑揚なども多くなる、といふ一面があると共に、その音とことばとの關係に統一せられた法則がおのづから形づくられて來るといふ一面もあらう、と思はれるからである。現に日本のことばの音の變化して來たことには、この意味においての進歩もあつたと考へられる。しかしそのかたはらに、音が少くなつたりことばの不規則なつかひかたが生じて來た事實があるとす(28)れば、その點においての今の發音のしかたをもととし、そのとほりに文字を書くといふことは、日本のことばを進歩させるためにはならないのではあるまいか。
「かなづかひ」を發音どほりにするといふことは、もと/\何のためであるのか。一般的には、それは「かなづかひ」の簡便化といはれてゐ、また學枚教育にそれを用ゐるのは、兒童の負擔を輕くするためだとせられてゐるやうである。生活が複雜になつてゐる今の世の中においては、一つ/\のことがらをなるべく簡單にするといふことはおのづから要求せられて來るのであり、從つてその要求に應ずるやうにすることがよいのであつて、「かなづかひ」の簡便化はその點で意味のあることではある。しかしまた複雜な生活を表現するのは、複雜なしかたによらねばならぬので、ことばの數も多くなり、從つてそのことばの發音のしかたも複雜になるのが自然であらうから、「かなづかひ」の簡便化にも、いろ/\の條件もしくは制約があるべきである。それはすなはち日本のことばをよくし文化を高めるに必要なしかたによるといふことである。簡便だからといつて、すべてを發音どほりに書くといふことは、この點ではむしろ意味の無いことではあるまいか。簡便化するがために、現にある音を無いもののやうにとりあつかふに至つては、なほさらである。(上にいつたごとく、「を」や「ぢ」、「づ」、などは、現にさういふ發音をしてゐるし、また發音のできるものである。)また小學校の教育における兒童の負擔を輕くするといふことも、無用の負擔をさせないやうにするといふ考はよいけれども、問題は「かなづかひ」の發音どほりでないことが、事實どれだけの重い負擔であるか、といふ點にある。兒童の教育には何の經驗も無いので、このことについてしつかりした見解をたてることは、わたくしにはむつかしいが、口でいふことばは文字にかゝはらず口でいつてゐるし、文字は文字としてよみかたをな(29)らつてをれば、よし一つの文字のよみかたに二いろある(例へば「は」のよみかたに「は」と「わ」とがある)、といふことがあり、また一つの音を寫す文字に二いろある(例へば「わ」の音を寫すに「わ」と「は」との二つの文字がある)といふやうなことがあるにしても、ことばと文字のよみかたまたは用ゐかたとの一致(例へば「木の葉」をいひあらはす「は」といふことばと「は」の文字との、また「わたくしは(わ)」における「わたくし」の「わ」の音と「わ」の文字との、またテニヲハの「わ」といふことばとそのばあひに書いてある、または書くべき、「は」といふ文字との、一致)を知るぐらゐは、なんでもないことであつて、特につとめずとも、いつのまにかおぼえてしまふのではあるまいか。音を音だけのものとして、また文字を主として、考へるから、「は」の文字に「は」の音と「わ」の音とがあつてまぎらはしい、といふことになるが、音をことばもしくはことばの構成分子として、またことばを主として、考へれば、「わ」の音が「わ」と書いてあるばあひと「は」と書いてあるばあひとがあつても、口にいふ「わ」のことばは現にさういつてゐるから、そのことばが文字には「は」と書いてあつても、そのばあひには「わ」とよむのだといふことは、すぐにわかるし、それに慣れて來れば、書く時にも「は」の字を用ゐることは、たやすいことであらう。もしこのくらゐのことが兒童のために重い負擔であるといふならば、ロオマ字を學ばせることなどは、一層重い負擔であるのみならず、文字から離れて考へても、新しいことば(語彙)を習はせることすら、重い負擔であらう。ロオマ字の發音は日本語の音とは違つてゐる。昔のシナ語やシナ文字の發音が日本語のと違つてゐることは、いふまでもない。ましていはゆる歴史的「かなづかひ」において二いろのよみかたのある文字また二いろに寫さるべき音は、その數が少いから、それを學ばせるほどのことを、さまでむつかしいこととして考へるにはおよぶまい。それをむつ(30)かしいことと考へるのは、大人が「りくつ」のうへで考へたことであつて、兒童みづからの體驗から來たことではないのではあるまいか。或はそこに何等かの固定概念がはたらいてゐるのでもあらう。だから、わたくしは歴史的「かなづかひ」をそのまゝにしておいても、兒童教育の妨げになることはなからうと思ふ。
けれども、上にいつたやうな條件または制約の下においてならば、今の發音どほりに書くことは、許されてよいと考へるが、それはどこまでも許されることであつて、強制せらるべきことではない。兒童みづからも、知識が進んでむかしからのいろ/\の書もつを讀むやうになると、いつのまにか歴史的「かなづかひ」をおぼえてしまふにちがひない。またイギリス語でも學ぶやうになれば、一つの文字にいろ/\の音があり、一つの音にいくとほりもの書きかたのあることが、わかつて來るので、日本のことばのみが一つの音は一つの文字で書くことにきめられてゐるとは、思はなくなるであらう。どの民族どの國民においても、長い文化の歴史をもつてゐるところでは、ことばの音と文字とがかういふふうにきまつてはゐないが、それは、ことばのもつ音と發音のしかたとは常に變つてゆくのに、文字の書きかたはそれにつれて變らないからのことであらう。さうしてこの文字の書きかたの固定性には、いろ/\の意味があるので、その一つは、口でいふことばの音とその發音のしかたとを整理し、またその變化を制約することである。ことばにも進歩があり發展があるとするならば、時代につれて進歩し發展してゆく生活の表現としてのその變化を認めねはならぬことは、いふまでもないが、進歩にも發展にも變化はその一面であつて、他の一面には持續といふことがなければならぬ。持續が進歩または發展の一つの條件である。文字に書くことは、ことばの進歩もしくは發展におけるこの持續のはたらきを助けるものである。斷えず變つてゆく發音どほりに、斷えず文字の書きかたを變へてゆく(31)ならば、ほんとうのことばの進歩も發展もできないことにならう。却つて文字によつて發音を正してゆくといふ一面もあるべきである。發音の變異は時代によつて生ずるのみならず、場所によるそれもあるので、地方的の「なまり」がそれであるが、標準語を定めるといふことは、そのなまつた發音を正すことであり、さうしてそれには文字に書いたものによることが一つの助けになる。時代による發音の變化がことばの性質や意義にそむいてゆくやうなばあひには、地方的の「なまり」をなほして標準語のやうに發音させると同じしかた同じ意味において、もとからの發音になほしてゆく、といふことが考へらるべきではなからうか。例へば「ぢ」と「づ」の音が今おほく「じ」と「ず」との如く發音せられる、といふことがよし事實であるとするにしても、「ぢ」と「づ」との音が無くなつてゐるのではないから、「ちぢに」(千々に)がもし「ちじに」といはれ「名づける」がもし「名ずける」といはれてゐるならば、それを「ちぢに」、「なづける」、といふやうに發音を正すことがよいのではあるまいか。イギリス語を學ぶばあひに、日本のことばには無いその正しい發音を學ぶことが要求せられるならば、日本のことばにおいて正しい發音の要求せられることは、明かであらう。外國語には正しい發音を學ばせねばならぬが、日本語にはさうしなくてもよい、といふならば、それは本末を誤ることの甚しきものであらう。正しからぬ發音をもとにして文字の書きかたをかへるといふのは、逆なしかたではあるまいか。「みかづき」(三日月)は實は「みかずき」と發音するが、「つき」(月)が 「みか」(三日)につゞいてゐることばであるために、發音とはちがつても「みかづき」と書く、といふのは、音と文字とを離した考へかたであるので、「發音どほりのかなづかひ」にする主旨にも背いてゐる。このばあひになぜ「みかづき」と發音すべきだと考へないのであらうか。もしさう發音させることができないといふならば、地方的のなまりを標準語に(32)なほすことも、またできないのではなからうか。なまりをなほすことはむつかしいことではあるが、そのつもりで努力すれば、できないことではない。少くともなまりが正しい音でないことは知らせねばならぬ。それと同じく、「ぢ」は「ぢ」であつて「じ」ではなく、「づ」は「づ」であつて「ず」ではない、といふことを知らせるだけは、少くともしなければならぬ。
かうはいふものの、わたくしは「歴史的かなづかひ」のすべてをどこまでも維持してゆかうといふのではない。それは上に述べたところで明かにわかるはずである。たゞ「發音どほりのかなづかひ」にするにしても、それには、日本のことばをよくし日本の文化を高めてゆく方向に一致する、といふ條件または制約がなければならぬ、といふのである。音は音だけのものではなくしてことばの音であり、ことばはことばだけのものではなくして、思想の表現、心生活の表現であり、それはまた一般の文化の表現であるからである。ところで、日本のことばをよくしなければならぬといふことの考へられるのは、今の日本のことばに缺點があると思ふからである。その缺點はいろ/\あらうが、こゝにはその一つだけをいつてみることにする。それは日本のことばが平板であり單調であり、それと共になめらかさとうるほひと力との足りないこと、從つて耳にきく感じの美しさが少いことである。これはヨウロッパの諸民族のことばとくらぺてみると、すぐにわかる。わたくしは、ヨウロッパ人の講演をきくたびに、いつもそのことを感じるので、きいてゐるとことばの流れとその緩急起伏とが、いはばメロディアスであつて、耳にこゝろよい。フランス語のはいふまでもなく、イギリス語(もちろん正しいイギリス語)でも、なほドイツ語でさへも、さうである。ところが日本語の講演をきくばあひには、さうはゆかない。これはわたくしだけの感じなのかもしれないが、わたくしはさう(33)感ずる。さうしてそれは全く理由の無いことではなささうである。なめらかさとうるほひとの足りないことは、一つは音色の故でもあり、力の無いことは、音量の足りないからでもあつて、それは肉體にかゝはることであるが、一つは發音のしかたが精練せられてゐないことからも、來てゐるやうである。發音がはつきりしないといふことすらも、多いのではないかと思はれる。また平板であり單調であるのは、音の種類が少く、またそれに強弱抑揚長短が少いところに、おもな理由があるのではなからうか。もちろんこれにも、根本的には、日本のことばの性質とその語法のくみたてとから來てゐるところがあり、また日本のことばとは性質の全くちがつてゐるいはゆる漢語を多く用ゐ、しかもその漢語の發音がひどく平板化せられてゐるといふこと、またおほぜいの人に對して話をするのが新しいことであるために、ことばもそのいひかたも、それに適するやうに育てられてゐない、といふこと、なども、これについて考へられねばなるまい。なほ講演によつて表現しようとする思想が論理的に整理せられてゐなかつたり、ことばにあらはれてゆく心情の動きが調子を失つてゐたり、するばあひがあつて、そこから上にいつたやうな感じをきくものに與へることが少なくないといふことにも、きがつくが、そこに一般の文化と人々の教養とのあづかるところがある。
そこで、もし今の日本のことばにかういふ缺點があるとするならば、それをなほし、それをよくしてゆくやうにしなければならぬが、それには兒童のことばの教育からはじめてゆくことが、たいせつな方法の一つであらう。さうしてそれには、日本人の發音し得る音を正しく明かに發音すること、發音の強弱抑揚長短によつて音そのものがちがふやうなばあひには、それに適應する修練をさせること、音のこまかいニュアンスに對する感じを養つてゆくこと、ことばのはたらきかたを規則正しくすること、ことばの意義とその發音との關係をはつきりさせること、などが初歩的(34)なしごととして要求せられるのではなからうか。ところが「かなづかひ」といふことは、この意味において重要なやくわりをもつものと考へられる。文字に書くことが、一面においては口にいひ耳にきくことばを制するはたらきをもつものだからである。「新かなづかひ」においても、例へば、現にある音で、それを寫すためにむかしから用ゐなれて來た文字を、用ゐないやうにする規定は、少くともその一面のはたらきとして、その音を無くしてゆく傾向を生ずるものといへよう。これは、もと/\ことばを寫すための「かなづかひ」であるのに、ことばを變へる力をそれに與へようとするものである。實際には、ことばはことばとして行はれるものであるから、たやすくこのやうにはならないけれども、その音の無いことが、事實に背いてゐるにかゝはらず、公式に認められるとすれば、長い間には、さういふはたらきが現はれて來ないにも限らないので、そこに「かなづかひ」の一つの力がある。さすれば、現にある音を無いもののやうにとりあつかつて、さらぬだに種類の少い音を一層少くしたり、ちがひのある音のそのちがひをぼやかすことになるやうなとりあつかひかたをしたりするのは、日本のことばをよくしてゆくのとは反對の方向をとるものではなからうか。ことばは一般文化のあらはれでもあるが、それと共に文化を高めも低めもする力をもつものであることも、またこれに關聯して考へられねばならないであらう。
わたくしはこのやうな考から、いはゆる「發音どほりのかなづかひ」に對していろ/\の疑ひをもつものである。つゞめていふと、かういふ「かなづかひ」の主張には、「發音どほり」といふ「概念」にひどく拘泥したところがあるのではないか、もつと強くいふと、それに魅せられてゐるきらひがあるのではないか、と思ふ。しかし、はじめにいつておいたやうに、これは言語學の知識の無いものの考、いはば「しろと」の考である。たゞ「しろと」たるわた(35)くしは、かう考へてゐるのである。
ついでにいひそへる。わたくしはロオマ字の書きかたも「かなづかひ」と同じにすべきものと思ふ。いづれも日本語を寫すのであり、また性質はちがふけれども、「かな」もロオマ字も、共に表音文字だからである。音の寫しかたは、いはゆる日本式をとるべきであつて、それは理論的に正しい方式であるのみならず、「かなづかひ」と同じ書きかたにする意味においても、それを採るべきである。またことばの寫しかたについては、ヘボン式といふか、これまでのしかたでは、日本語の語法をくづしてゐるから、これも改めねばならぬと思ふ。これまでの寫しかたをはじめたものが、どれだけ日本語の語法上の知識をもつてゐたか、またそれを考に入れたかどうか、知らぬが、ヨウロッパ語を用ゐなれたものには、それと全く性質のちがふ日本語の語法の重要さが、よくわからなかつたために、それを考に入れなかつたのではないかとも、思はれる。例へば日本語の語法におけることばの「はたらき」といふものは、ヨウロッパ語には全く無いものであるから、それが大せつであることに、氣がつかなかつたのではなからうか。「發音どほり」といふ寫しかたが、こゝから生じてゐるやうである。たゞそれが長い間行はれて來たため、音の寫しかたを改めた日本式においても、ことばの寫しかたでは、それがひどく怪しまれずに、多くのばあひ、そのまゝうけつがれてゐるらしい。(ことによると「新かなづかひ」の主張にも、そこから導かれたところがあるのではあるまいか。)これまではロオマ字で日本語を書くことは、一部分にしか行はれてゐなかつたから、あゝいふ寫しかたでも、さしたる妨げにはならなかつたが、これから後、普通教育にそれを用ゐることになるとすると、それがために日本語が亂れて來ることにならう。なほ小學校で教へるロオマ字のつゞりかたとして、文部省で新しくきめられたものには、woとdiま(36)たduとの音が無いことになつてゐるやうであるが、もしさうならば、それは極めてかるはずみな、またまちがつた、きめかたであらう。
これが『象徴』に載せた論稿であるが、こゝで特にいつておきたいことは、「新かなづかひ」を定めるに當つて、どうして實際の發音をもつと顧慮しなかつたかといふことである。どれだけ事實を調査し、どれだけの資料をどう用ゐてのことか、知らぬが、あまりにも實際に背いてゐるかういふ規定が作られたことは、わたくしにはふしぎである。
新かなづかひは必しもかなづかひを發音どほりにしようといふのではないかも知れぬが、實際の發音を尊重しそれを準據にするのでなければ、これまでの歴史的かなづかひをそのまゝに用ゐて何の不都合もないのではあるまいか。どこに「新」かなづかひを定める必要があるのか。だから「新」かなづかひの要求せられたのは、實際の發音どほりに書くといふことが豫想せられてゐなくてはなるまい。なほ「新かなづかび」制定の主張者のしごとについていふならば、あまりにもかる/”\しく傳統を破壞しようとするその態度にも、大きな問題があるが、それはこゝにはいはぬことにする。
三 固有名詞のかながき
ぼくは近ごろ、といつても、もう十年あまりも前からのことになるが、日本の固有名詞を、從つてまたぼく自身の(37)名を、「かな」で書くことにしてゐる。ところが、なぜそんなことをするかと、とき/”\ひとからきかれる。別にむつかしい理由があるのではなく、シナ文字で書いてある固有名詞、特に人の名、のどう讀むのかわからない、といふのはどういふ名であるかわからないといふことであるが、さういふばあひが少くないので、もしこれが「かな」で書いてあつたならばどんなにかよからうと、いつも思ふからである。名のつけかた書きかたがさま/”\であり、そのうちにはシナ文字のあてかたのむりなもの、かつてきまゝなものがあるのみならず、シナ文字を先づきめておいてそれに日本語をあてるために、そのあてかたがきまゝになり、或はそれにむりができ、日本人の名でありながら日本語としては意味のないものになることさへありがちであつて、そこからかういふことが起るのである。これは、名のつけかたばかりでなく一般に、日本におけるシナ文字の用ゐかたが多樣であること、シナ語の言語としての性質が日本語とは根本的に違つてゐるのに、そのシナ語の表現であるシナ文字またはそれでできてゐる辭句に、強ひて日本語をあてて訓むこと、などに由來があるが、日本人の名のつけかたの特殊の風習と、つける人々の知識または態度とにもよることである。日本語をもとにしてそれをシナ文字で寫すばあひはともかくもとして、シナ文字を先づきめておいてそれに日本語をあてるのは、つまりは日本の國語を輕んずることになり、むかしの儒者などのシナ文物尊崇の遺風がそれに見られもする。早く慶應二年に、日本人はシナ文字をやめて「かな」のみを用ゐるやうにすべきだといふことを主張し、それを時の將軍に建言したマヘジマ ミツ(前島密)も、後にその名を定めるに當つては「退藏於蜜」といふシナの古典の辭句から「密」といふ文字をとつたといふ。(この語の出典の最も古いものは易の繋辭傳である。)この名は日本語では「ひそか」と訓むさうだと、鴻爪痕といふ彼の傳記のうちに書いてあるが、「ひそか」では出典の(38)「密」の字の意義にはかなはない。「密」といふシナ文字を用ゐたが、それにしつくりあてはまる日本語が無ささうなために、むりにかうしたのでもあらうか。こゝでは假にミツと書いておく。地名人名にシナ文字を用ゐることの弊害を上記の建言で力強く説いてゐるマヘジマ自身が、かういふことをしてゐるのも、やはりシナ文物尊崇の遺風であらう。幕末から明治の初めにかけてよく世間に知られてゐたエノモトブヨウ(榎本武揚)の武揚を何と訓むのか知らなかつたが、或る人がタケアゲだと聞いてゐると教へてくれた。タケアゲでは日本語にならぬが、この名は書經の「我武惟揚」からとつたのであらうから、むりに日本語をあてて、かういふことにしたのであらう。出典のあるなしにかゝはらず、シナ文字を二字重ねた名は、例へば頼朝でも清盛でも信長でも秀吉でもわかる如く、日本語になつてゐないものが甚だ多い。だから人名を「かな」で書くことは、日本人が個人個人の名において日本の國語、從つてまた日本の文物、日本人の情思、を尊重することになる。日本の文物、日本人の情思は、日本語によつて始めて切實に表現せられるものであり、さうして日本語は「かな」によつて始めて正しく寫されるからである。今日人々の用ゐてゐる名には、もと/\シナ文字をもとにしてつけられたものがあるから、よしそれを「かな」がきにしても、日本語としては意味の無いものが少くないが、「かな」がきにする風習ができるならば、それから後はおのづから日本語で名をつけることになつてゆくであらう。もしさうならば人名を「かな」で書くことの一つの理由がそこにもあることになる。
ぼくが自分の名を「かな」で書くことにしたのは、はつきりおぼえてゐないが、多分終戰の前後からであつたらう。たゞ思ひ出してみると、明治二十五六年のころであつたか、持つてゐる書物のどこかに「かな」で署名をしておいた(39)ことがあるらしい。どうして「かな」で書いたかは忘れてしまつたが、「かな」(勿論毛筆で書いたひらがな)の字體を美しいと思つたのと、それが日本の文字であることに日本人としての一種の誇りをもつてゐたのと、のためではなかつたらうか。ぼくはお手習ひといふことは小學校でしたのみであり、おまけに不器用なたちであるから、年とつた今となつても、書くことは、日本文字でもシナ文字でも、或はロオマ字でも、極めて拙く、自分ながらあきれるほどであるが、その日本文字の「かな」を書くことは好きであり、若い時から手紙などでも「かな」たくさんに書いたことをおぼえてゐる。そんなやうなことから名まへも「かな」がきにしてみたのであらうか。しかしこれはほんの一時の戯れであつて、さういふ戯れをしたことすら、何かのをりにふと思ひ出したくらゐであるから、それと上にいつたやうな意味で近ごろはじめた「かな」がきとは、つながりが無い。たゞ「かな」の字體が美しくまたそれが日本人の作つた日本文字であることが、明かに意識してのことではないけれども、「かな」がきをはじめた一つの力とはなつたかも知れない、と思はれるのみである。
しかしかうはいつてみるものの、「かな」がきをする人々が世間にだん/\でて來て、それが一般の風習になつてゆくやうにならなくては、ぼくのしてゐることは、ひとりよがりのどうらくに過ぎず、何の效果た價値も無い戯れとして終ることになる。ぼくは固有名詞だけでなく、一般にシナ文字をつかふことをできるだけ少くする方がよいといふ考から、終戰の前後に書いた「論語と孔子の思想」でそれを實行してみた。シナのことを書くにシナ文字を少くすることがどれだけできるか、といふ試驗をする意味を含めたのでもあつた。ところが、あとで聞いたところによると、讀みにくいといふ感じをもつた讀者が少なくなかつたさうである。これにはいろ/\の理由があらうが、シナ文字を(40)用ゐる習慣を改めることがなか/\むつかしいといふことも、その一つであらう。昔からの日本人の思想なり情念なり事蹟なりには、いはゆる漢文で書かれてゐるばあひも多いから、日本の文化、われ/\の祖先の生活、を知るには、ぜひとも或る程度に「漢文」を解する智能をもたねばならず、特に明治時代から後は、日本語の文章でも、シナ文字によつて、語彙としてのいはゆる「漢語」を用ゐることが多くなつたから、少くともそれについての一般的な知識はもたねばならぬ。しかし一方ではできるだけシナ文字を用ゐないやうにすることも、これからの文化の發展のために必要であつて、こゝに日本の文字の問題の困難がある。「漢文」の知識はやゝ特殊のものと考へるにしても、シナ文字による「漢語」の語彙についてはそれと同じやうに取扱ひかねる。もとは「漢語」の語彙であつても、それが日本語の語彙として認められねばならぬやうになつてゐるものも多いから、さういふものは必ずしもシナ文字で寫さなくてもよいが、シナ文字の知識はもつてゐて、而もそれを用ゐないやうにする、といふことは、心理的にむつかしくもある。たゞ日本語があるのにわざ/\いはゆる「漢語」の語彙を用ゐたり、または「漢語」めいた新語を造つたりして、それをシナ文字で書くやうなことは、少しの心づかひでやめることができるであらう。けれどもそれすらも行はれないのが今日の實際のありさまではあるまいか。日々の新聞を見てもそれはわかるが、農村へいつてみると、ぼくらの知らない農業の用語がいろ/\できてゐて、聞いてまごつくことがある。一つの例を擧げると、ニッショウといふことをいはれて、初めは何のことかわからなかつたが、幾たびもくりかへされると、その意義がほゞ知られ、晴天で日が照つてゐることらしいから、「日照」といふシナ文字の音讀であることが推察せられた。しかしかういふいひかたは「漢語」には無ささうであるから、新しい造語であらうが、日本語で何とでもいはれることをわざ/\かうい(41)ふ造語をしたのは、シナ文字尊崇の遺風であらう。だから、人の名をつけるにも、よしそれが日本語として意味の無いものになるにせよ、シナ文字をもとにすることををかしいとは思はないのであらう。「かな」がきの行はれないのは、むりも無い。
ことがらは違ふが、近ごろ日本でむやみにヨウロッパやアメリカのことばをまねて使ふ風習の生じたことを、こゝでいひ添へておかう。ぼくは學問上の術語でそれに當る日本語が無く、ギリシャ語やラテン語に由來があつてどの國でも同じ語を用ゐてゐるものは、強ひてシナ文字で書く「漢語」に飜譯したり「漢語」風の新語を造つたりせず、原語をそのまゝ「カナ」がきにして使ふがよい、たゞ發音はおのづから日本流になるが、これはあたりまへのことだ、とかねてから思つてゐた。學語でなくとも同じやうに取扱つてよいものがあると思ふが、こゝで一々それをいふには及ぶまい。しかし日常使ふことばで而もりつぱな日本語があるのに、それをさしおいてわざ/\外國語をまねるのは、甚だをかしい。その一例をいふと、子どもことばのパヽマヽの如きがそれである。なぜ「とおさんかあさん」と教へないのか。教育に關する一つの機關として制度上の存在となつてゐるものをPTAといふのも、またをかしい。なぜこんな外國語を用ゐるのか。かゝる機關の構成を示すやうな名を日本語で造ることはむつかしいからだといふのかも知れぬが、それならば名のつけかたを變へればよいではないか。書物の名、雜誌の名、映畫の名、その他いろ/\のことがらに同じやうな例の多いことは、たれでも知つてゐよう。要するに、今の日本人は甚だしく自分の國の國語を輕んじてゐるが、これは外國文物の尊崇の餘弊であり、シナ文字や「漢語」を尊崇する遺風があるのと同じ心理の現はれであらう。輕浮な一部のジャアナリズムの影響として、一般に外國に對する劣等觀が世に弘まり、それに誘はれ(42)て、シナ尊崇の氣分さへ、單にエド時代の遺風として存在するにとゞまらず、新に勢を得て復活したらしくも見え ことが、思ひあはされる。シナを「中國」と稱することがさして怪しまれもせずに行はれてゐるのも、その一つの徴證である。
もと/\「中國」といふのは、シナ人が、彼等の國を世界の中央にある唯一の文化國としてみづから誇り、それに對して四方の諸民族を夷と稱して輕侮し、四夷は中國に從屬すべきものとするところから、用ゐた稱呼であつて、このことは儒教の經典の禮記、詩經の毛傳、または春秋の左傳、などによつても明かに知られる。日本でもエド時代の儒者には、儒教を尊崇するあまり、この稱呼を用ゐるものがあつたが、それは自國の日本を夷とし少くとも文化的にシナの從屬國とすることになるから、後には儒者の間にもこの卑屈の風習を非とするものが生じ、さうしてシナといふ稱呼がそれに代つて用ゐられることになつた。シナには昔からその國土をもその民族をも示す名が無かつたが、南北朝のころに、中央アジアもしくはインドの方面から、シン、またはその語尾にアの母音をつけたシナ、または土地の義であるタンを加へたシンタン、といふ稱呼が傳へられて、シナ人はそれに支那、至那、脂那、震坦、振坦、などの文字をあて(これは音を寫したので文字には意味が無い)、主として佛家がそれを用ゐた。日本の佛家もまたそれをうけつぎ、日本、シナ、インド、を日域、震坦、月氏、といふ名で呼ぶばあひがあつた。しかしシナ人の間には一般にはそれが用ゐられず、外國に對してはやはり「中國」といひ、またそれと同じ意義において「中華」と稱してゐた。全く用ゐられないではなく、近いころには「震坦大學」といふ學校もできてゐたが、稀な例のやうである。ところが、シナといふ名はまた遠西にもひろがつて、シナを指す一般的の稱呼とせられ、日本にも西洋からそれが傳はつて來た(43)ので、エド時代の中ごろから後には、次第にそれが用ゐられるやうになつたのである。「シナ」がシナを指す世界的の稱呼となつたことには、かういふ歴史がある。これらのことを知つてか知らないでか、最近に至つて日本人がまたシナを「中國」と呼ぶやうになつた。これは戰後に當時のシナの政府からの要請があつたためのやうに聞いてゐるが、もしさうならば、かゝる要請をするそのことが、シナ人が日本に對して今日でもなほ持ち續けてゐるらしく見える「中國意識」ともいふべき心理の現はれであつて、現代の國際禮儀においてなし得られることではない。だから、日本はかゝる要請を直ちに拒絶すべきであつたのに、それをしなかつたのである。或は要請といふほどの強い意味ではなく、希望したに過ぎなかつたのかも知れぬが、もしさうであつたならば、日本は、シナがかゝる希望をもつべきでないことを懇切に説明して、それを撤囘させるべきであつたのに、それをしなかつた。これはそのころの日本人が、敗戰のために心が亂れ、自信と思慮とを失つてゐたためでもあらうが、シナの古來の文物に親しみをもつ人々のうちには、むしろ得意げに「中國」の稱呼を用ゐるのではないかと疑はれるほどのがあつたやうにも見えることを思ふと、これにもやはりシナ尊崇の遺風の潜んでゐることが考へられる。上代の日本人は、シナの文物を學びとることをつとめながら、國家としてはシナに對して對等の地位を保つことに意を注ぎ、彼を「中國」と呼ぶやうな卑屈な態度は決してとらなかつた。却つて我が國を「中國」といひシナをも含めての外國を「蕃」と稱したばあひすらあるが、これはシナのまねをしたのであつて、その點では笑ふべきことであるけれども、シナに屈しない意氣をもつてゐたことは認めねばならぬ。日本人が、隣りの半島人とは違つて、地名や人名をシナ語風にせず、どこまでも日本語のを用ゐたこと、固有名詞にのみならず一般にシナ文字をつかつたけれども、それはもと/\日本語を寫すためであつて、そこ(44)からいはゆる萬葉假名の如き書きかたを工夫し、更に進んで純粹の日本文字としての「かな」を作り出すやうになつたことが、それにつれて考へられる。ぼくの固有名詞を「かな」がきにする主張は、おのづからこの精神をうけついだことにもなるのではなからうか。
四 敬語について
日本語に多い敬語については、かつて何かで一言したことがあるが、その補足として一つ二つの思ひつきをこゝでいつてみよう。
敬語は、身分の違ひによつて、即ち社會的、家族的、またはその他の人的關係における地位の違ひによつて、用ゐられるのと、地位は同じでも、或る人に對して特に敬意をもつばあひに、または互にあひてを尊重する意味で、用ゐられるのと、この二つがあり、さうしてその何れにも、直接または間接に人をさしていふのと、その人の状態言動またはその人に屬する何ものかを示し、或はその人に對して何ごとかをいふばあひとの、二つがあるし、またそのいひかたにも、何等かの敬語を普通のことばの上または下につけるのと、全く別のことばを用ゐるのと二つがある。一おうかういつてよからうと思ふが、必しもさう限られてはゐない。おぼしめし、およろこび、おことば、おすまひ、おめしもの(衣服)、おはきもの、または、ご先祖、ご親類、ご病氣、ご心配、などの類は、敬語を用ゐていふべき人についての事物を示すために、オ(オン)、またはゴ(御)をことばの上に加へたものであり、おなつかしい、おいたはし(45)い、といふやうなのも、その人に對する何等かの感情を現はすために、やはり同じ敬語を用ゐたものであるが、同じやうないひかたながら、それとは違つた用ゐかたもある。お米、ごはん(飯)、ごしゆ(酒)、お茶、お菓子、おべんとう、または、お祝ひ、お正月、お盆、お祭り、お節句、などの類がそれであつて、これらは、人には關係が無く、そのもの、そのこと、を尊重する意味でいはれてゐるやうに思はれる。
例へばお米とはいふが同じく穀類であつても、お麥、お粟、などとはいはないところに、お米が米を尊重してのいひかたであることが知られるのではあるまいか。今は全くすたれたであらうが、わたくしの子どものころに書物を「ご本」といつてゐたのも、この例であるらしい。今のやうに版行がたやすくできなかつた時代には、書物そのものが貴重品であつたのと、書物のおもなものにはいはゆる聖賢の道が説いてあるので、その意味でも尊敬しなければならなかつたのである。書物はかりそめにも足でふむ疊の上などにおいてはならぬものとせられ、また開く時と閉ぢる時とにはかならず捧げ持つて禮をするやうにしつけられてゐたのも、この故である。お茶とかお菓子とかいふのは、これらのものがそれほどに尊重せられたとも思はれないから、かういふものにオをつけるのは、敬語を用ゐていふべき人に供するばあひのいひかたが、その他のばあひにも適用せられるやうになつたのかとも推測せられるが、しかし一般に飲食物は粗末に取扱ふべきものでないとせられてゐたから、さういふ推測が當つてゐるかどうかは、問題である。農家の人をお百姓といふのも、食料の生産者として尊重する意味からであるべきことが、參考せられよう。商人や職人にはオをつけることは無ささうである。もつともこゝにいつたやうな事物についてかゝるいひかたをするのは、今では女性だけ、といつては當らぬかも知らぬが多くは女性、であるから、それは敬語といふよりは女性的に優しい(46)こゝろもちの現はれとして感ぜられ、またそれにはその事物に對する一種の親しみの情も含まれてゐるらしい。お針(裁縫)、ご膳ごしらへ、などの女性のしごとをこのやうにいふならはしからも、さう解せられさうである。たゞそれが敬語のばあひのと同じいひかたである點に一つの意味はあるので、そこにやはりそれらの事物を尊重する氣分が潜んではゐようか。女性でなくとも、お手ならひ、おさらへ、などといふことばを用ゐるのは、そのためであらう。またお正月とかお盆とかお祭りとかが、一般人の生活にとつて大せつなことがらであることは、いふまでもない。子どもに對して、お行儀、おじぎ、といふやうなことばの用ゐられるのも、そのことが尊重せられるところに重なる意味があらう。勿論、オをつけることにさしたる意味は無く、つける方がいひ易いために、またはつけて呼ぶ例が多いところから何となくそれに誘はれて、さうする習はしになつたまでのものもあらうから、一々についてあまりこと/”\しく考へると、却つてまちがひが生ずるかも知れぬ。
ところで、オやゴを人についての敬語として加へるには、敬語を用ゐていふべき人の方にそれをつけるのが普通であるが、その人に對して自己のすることをいふばあひにつけることもある。お話し、ご返事、おことわり、といふやうなことばを用ゐるのがその例であるが、これはあひてを尊重することから派生したいひかたであらう。平安朝の昔に自己のことについて「たまふ」といふ語を加へたのと、同じであらうか。なほ敬語が二重になつてゐるやうに見えることもあるが、これは、もとは敬語を加へたことばであるのを、用ゐなれたためにそのことが忘れられ、一つのことばとして感ぜられて來たので、その上に新に敬語を加へたからのやうである。キ(酒)、ヤ(家)、にミの敬語を加へた、みき(神酒)、みや(宮)、にオを加へて、おみき、おみや、といふやうなのが、その例であり、おみこし(神輿)な(47)どもまた、その類であらう。おみおつけ(汁)といふ女性の用語も、オミを一つの敬語として、オの敬語の既に加はつてゐるおつけの上に新に加へたものであらう。しかし、おみおび(帶)といふのはこれらとは違つて、一つの敬語としてのオミをおぴの上に加へたものである。かゝるばあひのオミの語義は、わたくしにはよくわからぬが、單にオといつたのではオが二つ重なるために、發音の便宜上、かうなつたものと考へられる。(オンの轉じたものとすべきであらうか。オホミの約言と解したのではこと/”\しすぎる。)
次に人をさしていふ敬稱には、トノ、キミ、サマ、サン、などの敬語を下に加へる例が多い。これらのうちで、キミを用ゐることは今は少く、トノはかなり用ゐられるが少しよそ/\しい感じがある。最も多いのはサマとその音便ともいふべきサンとであるが、これには、敬語ではありながら、親近感の伴ふばあひが多い。某の宮殿下といふ公式の稱呼でなく、何の宮さまといふと、身近かなこゝろもちがする。近ごろ、天皇さま、皇太子さま、といふいひかたが廣く行はれてゐるやうであるが、これはよいことばだと思ふ。わたくしの子どもの時分には、天皇さまとはいはず、天子さまといつてゐたが、天子といふシナの帝王の稱呼を用ゐたのは、何ごとをもシナ風にいひたがる儒者の習癖から出たことであらうから、今それを用ゐなくなつたのは、當然である。たゞサマの語を天子に加へていつてゐたことには、大きな意味がある。天子さまは、思想的には、たれでもの身近かにゐられる親しいお方として、その時代の人も考へてゐたのである。神やホトケなどについても同じことがいへるので、伊勢神宮、熱田神宮、といふよりも、おいせさま、熱田さま、といふ方が、八幡神社、天滿宮、よりも、八幡さま、天神さま、の方が、またシャカ如來、觀世音ボサツ、よりも、おシャカさま、觀音さま、の方が、親近感がある。イエス・クリストといふと、強い權威を以(48)て人に臨んでゐるやうに思はれるが、エスさまといふと、いかにも親しげにきこえ、天上の存在ではなくして、向ふ三軒兩どなりのなかまででもあるやうに感ぜられる。神ではないが孔子さまといふのも同樣で、かういふいひかたをすると、大聖孔子などといふのとは違つて、われ/\凡人と同列にゐる人のやうに見える。サマは親しい間がらのものの間に用ゐられることばであるからでもあるが、その神その人に親近感をもつてゐるから、かういふことばを使ふのでもある。敬語でありながら親近感を抱かせるかういふことばを、日本人は用ゐてゐるのである。おシャカさま、エスさま、孔子さま、などといふいひかたは、佛教徒のインド人なども、キリスト教徒であるアメリカ人ヨウロッパ人も、またシナ人も、しなからう。或はまた上にいつたおいせさまの例のやうに、サマを下に加へながらオ(またはゴ)を上に加へるばあひもあるが、これとても親近感をもつことは同じである。例へば、おとうさま、おかあさま、お子さま、お孃さま、ご隱居さま、など。ついでにいふ。人の名につけて呼ぶのではないが、昔は、きみさま、とのさま、といふことばもあつた。これらもまた、きみ、との、とだけいふよりは親しげに聞える。
なほこゝに一つ、同じいひかたで特殊の意義のあるものを擧げておかう。それは、おかげさま、といふことばである。おかげさまで無事にすみました、おかげさまで達者でをります、おかげさまで安産をしました、例を擧げれば限りが無い日常語である。このばあひにおかげといふのはどういふ意義なのか、明かにはわかりかねるが、多分、神さまのおかげ、世間のおかげ、いろ/\の人たちのおかげ、また或はいま話をしてゐるあひての人のおかげをも含む、複雜な、しかしぼんやりした、内容をもつてゐるのではあるまいか。もしさうとすれば、さういふおかげにサマを添へていふのは、それに對する感謝の氣分、從つてそのおかげを與へでくれたいろ/\の力を尊重する心もちを表はした(49)のであつて、そこに敬語としてのサマの意味があるやうに解せられる。オを加へたのも同じ考へかたからであらう。しかしそのいろ/\の力は、自己の身近かにあるもの、斷えず自己を見守つてくれてゐるもの、であり、神とてもその一つであるから、そこにこの敬語に含まれてゐる親近感がある。さうしてかういふいひかたによつて表現せられてゐる思想は、人の生活は多くの人々のおかげでできてゐる、人の生活は孤立してゐるものではない、といふことである。ところが、すべての人が互にかう考へるとすると、人々は相互依存の關係にあるといふことになり、社會連帶社會協同の精神とはたらきとが、そこから生ずることにもなる。世間さまといふことばのあるのも、同じ考へかたからであつて、世間といふことばにサマの敬語をつける理由が、かくして解せられよう。このばあひオを加へないのは、發音の便宜のためらしい。更にいはうなら、お互ひさまといふことばにも、これと通ずるものがあらう。自己をも含めた人と人との關係にオといひサマといふ敬語を加へたところに、意味がある。お互ひさまについてのこの解釋は、少しもの/\しすぎる嫌ひが無いでもないので、オをつけサマをつけたのは、いひかたの上の一種の習はしが何となくここに適用せられたまでのことかも知れぬが、それにしても、おしつめていふとかういふことになるのではあるまいか。少し用ゐかたは違ふが、ごちそうさま、おそまつさま、といふやうなことばもある。これは、あひての人に對する敬語がそのしわざ、またそれに對する自己のしたこと、に及んだものであらうが、それには感謝と謙遜との意が現はれてゐる。ところで、こゝに擧げたやうな敬語の用ゐかたは、日本語にして始めていひ得られるものではあるまいか。
サマの音便ともいふべきサンについても、サマとほゞ同じことが考へられるが、たゞサマよりはいくらか輕い感じがあると共に、用ゐかたによつては一種の愛稱めいたものにもなる。サンの轉訛した子どもことばのチャンに至つて(50)はなほさらである。しかし何れにしても、多くのばあひには敬語の意味が含まれてはゐる。おやごさん、お子さん、娘さん、ご隱居さん、お隣りさん、の類。今は多くは行はれなくなつたが、女性、特に若い女性を、お何さんと呼ぶのも、輕い敬意と親愛感との結合したいひかたのやうである。エド時代または幕末期の、南京さん、異人さん、などには、尊敬の義は全く無いが、珍らしいもの興あるものとして見てゐた點において、愛稱らしい氣味を帶びてゐるやうでもある。たゞし近ごろのアメリカさんに至つては、その人によつて一種の愛稱ともなり、やゝ皮肉の感じのまじつた微笑の現はれともなり、時にはいくらかの反感の加はつた稱呼としても用ゐられてゐるやうであつて、その意味はいろ/\でもあり複雜でもあるが、しかし何れにしても、このいひかたには、どこやらに親近感がほのめいてゐる。或は一種のあいきようがある。(サンの語は無いが、日露戰爭の時に行はれたロスケといふ稱呼にも、やはりあいきようがある。ことばの成りたちにもよるが、敵國人に對してかういふ氣分をもつてゐたのが、そのころの日本人であつた。)
かういふやうな例を擧げて來ると、なほいつてみたいことがある。同じくサンをつけて呼ぶのに、お百姓さん、大工さん、八百屋さん、肴やさん、ばあやさん、女中さん、おまはりさん、學生さん、などの類があるが、これらは敬稱といふよりは親しみを示すいひかたのやうである。今は無くなつた兵隊さんも同樣である。お役人さんなどは、ばあひによつては親しみとは反對の感じが現はれてゐるやうでもあるが、サンと呼ぶそのいひかたには、やはり親しみが示されてゐるやうに思ふ。のみならず、やつこさん、といふことばもあり、おばかさん、といふことも常にいはれ、何れも親しみの意を含んでゐる。おきちさん(狂人)には、能のものぐるひに對するやうな、興がつていふ氣分と憐み(51)の情との入りまじつた感じがあると共に、といふよりもさういふ感じそのものに、或る親近感が伴つてゐよう。今は用ゐられないであらうが、おこもさん、または、おこも、といふことばもあつた。乞食には異樣のものとして輕い恐怖感がはたらいてゐるところに、かう呼ばれた意味があるのか、とも思はれるが、どうであらうか。それはとにかく、敬語がその本質を失つて、なれ/\しいいひかたのやうになつたのが、親近感をもつことと或るつながりがあらう。サンの語はつけないが、おばけ、といふと、化けものの氣味のわるさが無くして却つてあいきようがあり、從つて親しさがある。
以上は普通のことばに或る敬語を加へて用ゐる例であるが、ことばそのものにいろ/\のこゝろもちでの敬意を含んだ特殊のものがあり、または特殊のつかひかたによつて敬語が成りたつばあひのあることは、いふまでもない。もしその適用またはつかひかたを誤まれば、滑稽に聞える。これには身分關係によるものもあるが、必しもそればかりではない。人の死を死といはずして、「おかくれになつた」とか「おなくなりになつた」とか、いふ類は、身分關係による敬語としても用ゐられるが、好ましからぬことを明らさまにいはないのは、表現のデリカシイでもあつて、同じ身分のものについても、また敬語の意味でなくとも、使はれる。敬語にはかういふ性質のものがあることを、見のがしてはならぬ。食ふことを「めしあがる」といひ、外出することを「おでまし」といひ、さういふやうなことばはいろいろあるが、一々いふには及ぶまい。助辭などのつかひかたにおいても、同樣である。同じ意義のことでもいひかたが違へば、それ/\ことばのニュアンスが違ふから、適當にそれを使ふところに繊細な感性のはたらきがあり、そこに教養の深さが見える。特に女性の用語としてかういふものの多いことは、女性的な優婉な情緒の現はれとして、(52)尊重すべきである。身分關係によつて敬語を用ゐるのも、煩瑣な社會的規制に拘束せられてすることのやうに考へるべきではなくして、かゝる心情のおのづからなる發露と見なすべきであらう。またかういふいひかたをするのが身分關係において敬意を示すばあひのみでないことは、母親が子どもに對して、または家庭の主婦が女中などに對して、たべものを「おあがり」といひ、夜になると「おやすみ」といふやうに、敬語として用ゐられるものをそのまゝ使ふ習はしであることからも、知られる。日本人が敬語を多く用ゐるのは、日本人の感性の繊細であることと、日本語のはたらきに微妙なところのあることと、またかういふ方面においての教養のあることとを、示すものである。勿論、何ごとについても度といふものがあるから、敬語とてもその度を越えると、徒らに煩雜になつたり、自然の心情の表出が却つて妨げられたりするが、その度を守るところに教養のかゝはるところがある。近ごろは、ことさらに敬語を用ゐないやうにしてそれを誇りとするものが、學徒の間にもあるが、それは、日本語に對する知識と理解との無いことと、教養が無くして心情言動の粗野であることとを、示すものに外ならぬ。
敬語のことは、敬語だけを一般の日本語からきり離し、また日本人の心生活からきり離して、考ふべきではない。敬稱を晶ものや事がらにつけていつたり、敬稱に親近感をもたせ、または愛稱のやうに取扱つたり、親が子どもに對して用ゐたり、或はまたそれに複雜な意義を含ませ、時には異樣な感じのあるものにさへ適用したり、さういふやうなことをするところに、日本人に特殊な生活感情、または、神觀、人間觀、社會觀、家族觀、などの現はれてゐることを考へねばなるまい。こゝにいつたことの多くは單なる思ひつきに過ぎないし、例として擧げた敬語もこれを書きつつ思ひ浮かべられたほんのわづかのものに限られてゐるし、特にその歴史的變遷と、身分的、職業的、地方的、ま(53)たはその他のいろ/\の事情による變異とについては、全く觸れなかつたし、なほこれまでの學者の研究もあらうと思ひながら、それを參考することもしなかつたので、公にするほどのものではないが、今の世の中では一つの問題として取りあげねばならぬことと思ふから、敢てこのやうなものを書くこととした。
五 外國語の亂用と日本語のロオマ字書き
近ごろ日本人の間に、りつばな日本語のあるのにそれを使はず、アメリカ語またはヨウロッパ語、といつても主としてイギリス語、のまねをして得意がることがはやつてゐるらしいのは、どうしたことであらうか。書物の名、雜誌の名、新聞の名、劇や映畫の名、きものやその作りかたや服地の名、食べものの名、すまひやその他の建てものやその建てかたの名、その他、藥の名、酒の名、要するに日常生活に入用ないろ/\の品物の名など、毎日の新聞の記事や廣告またはいろ/\の引き札の類を見ただけでも、いかにそれが多く目につくことか。これまでの日本には無くして新しくアメリカなどのをまねて作られたり行はれるやうになつたりしたものごとは、その名やいひかたなども、もとのことばのをまねるやうになるのが自然でもあらうが、さうでないものごとまで外國語のまねをするのは、日本人であることを忘れたものといふべきであらう。最も滑稽なのは「おとうさん」「おかあさん」といふ日本語が一般に用ゐられてゐるのに、「パヽ」「マヽ」などと子どもにいはせてゐる親のあることである。つや/\とした黒髪をわざわざ變な醜い色に染めさせる女は、さすがに少いやうであるが、かなり多く耳にする「パヽ」や「マヽ」も、實はそ(54)れと同じではなからうか。
外國語を正しく使ふのは、ほんとうにそれを學んだものでもなか/\むつかしいしごとであつて、子どもの時から日常の生活にそれを取入れ、いふにも聞くにもよくそれに熟練しなければ、その國語とは感ぜられないものであるから、日本語の假名で書いたどの國民かの國語の單語を、おぼつかない口つきでまねをしてみたり、日本語の對話のうちにそれをとりまぜてみたりするのでは、實はその外國語とは聞こえない。一國民の國語といふものは、それほど特異なもの、從つてまたそれほど尊重すべきもの愛護すべきものであるのを、今の日本人のやうにかる/”\しくそれを取扱ふのは、獨立國民たる日本人として恥づべきことの至りである。話は違ふが、日本語をロオマ字で書くのも、また同じやうに愚劣なことと思はれる。外國人向きのしごととしては、これにも一應の意味はあるが、日本人のためにはさしたる用をなさないことであり、却つて日本語を傷けるのみであらう。
明治の十六年ごろに、國語學者ともいふべき人たちが集つて「かなのくわい」(假名の會)といふものを設け、オホツキ フミヒコ(大槻文彦)がその首領のやうになつて、大に活動したことがある。それより前にニシ アマネ(西周)が、ロオマ字で日本語を書くべきことを主張したことがあるが、オホツキは、日本の假名とロオマ字とは、漢字とは違つて、共に音標文字であるが、日本の假名は熟音字(シラビック)でありロオマ字は字母字(アルファベチック)であつて、その間に大きな違ひがあることを説き、字母字よりも熟音字の方が遙かに便利であるといつてゐる。アルファベチックの文字は、一つの音を分解して母音を寫したものと子音を寫したものとの二類とし、この二類の文字を組み合はせて一つの音を寫すのであるが、シラビックの文字は、この組み合せが假名として書かれる一つの音の作られる(55)過程において既に行はれてあるので、一つの音が一つの假名で表現せられる。ロオマ字は文字の總數が二十八字ですむが假名は五十字を要する。けれども、その組み合せが一定の法則によつて行はれるから、實は十字に過ぎない、それだけ簡便である、といふ。しかしぼくは、この問題は便とか不便とかいふところにあるのではなくして、獨立の子音といふものが無い日本語の本質にかゝはることだと思ふ。獨立の子音が無いからそれを示す文字と母音を示す文字とを組み合はせる必要が無いのみならず、もと/\組み合はせる子音の文字が無いのである。(こゝで子音といふのはコンソナントのことであるが、コンソナントを子音といふのは、實は當つてゐないと思ふ。)だから語尾などに子音のあるばあひの多いアメリカ語などは、本來その語には無いはずの母音を附け加へなければ、日本人には發音がしにくいし、また假名に寫すこともできない。これはアメリカ語などと日本語との根本的な性質の違ひから來ることである。ニシ アマネが日本の假名は母音と子音とが混合してゐるから、不便であり學問的でもないといつて、ロオマ字を用ゐて日本語を寫すことを主張したのは、この根本的な性質の違ひを解しないからのことであつたらう。言語學者、文法學者が日本語の成立や構造やを説明したり研究したりするばあひには、ロオマ字を用ゐることが一おう便利であるけれども、今日の學問としてはそれでは不充分でもあり適切でないところも多い(だから國際聲音文字が必要になる。)
日本の假名はもとはシナ語を寫したシナ文字(漢字)によつて作つたものであるけれども、一般の日本人がシナ語シナ文字を學んだ時には、その聲音をすつかり變へてしまつたから、漢字の聲音は日本人には用ゐられてゐない。從つて日本人の用ゐる漢字の字音には、それに具はつてゐた獨立の子音は無くなつてゐるのである。(子音ばかりでなく、(56)シナ語で最も大せつな聲調は、日本人は棄ててしまつてゐる。日本人の耳にも口にもそれは適しないからである。アメリカ語やヨウロッパ語においてもほゞ同樣であるから、假名に寫したそれらの國語の單語は、その聲調においては、實はヨウロッパ語でもアメリカ語でもない。アメリカ人などがロオマ字で書いた日本語を用ゐるばあひに、日本語には無い聲調を恣につけるのも、讀む時には、そのうちの日本語の單語に多かれ少かれアメリカ語の性質を移用することになるからであらう。)なほ上に五十音のことをいつたが、これは日本語を構成する音を、假に五十音表によつて整理していつたまでである。
ついでに一言いひ添へる。近ごろ「ひらがな」で書かれた文章(漢字まじりのものをも含む)を横書きにすることが行はれ、活字で印刷したものにもそれがあるが、これは、西洋風の數字を多く用ゐ、または數學の式によつて科學的の説明をするやうな、限られた特殊のばあひには、便宜でもあり必要でもあらうが、それは一般的の書きかたとして横書きの流行を誘致すべき理由とはなるまい。かな文字の字體としての特色は、その優麗さにあるが、それは縦書きにおいて始めて見られることであつて、活字にしてもそのおもかげがいくらかはある。視覺の生理的なはたらきを根據として、ひらがなを用ゐまたはひらがなをまぜた文章の横書きを主張し、そのためにその字體を變へようとする企てさへもあるが、視覺のはたらきと横書きの書きかたとが、それほどの關係をもつとは考へがたいやうに思ふ。またひらがなの美しさは毛筆で書くばあひに特に著しく感知せられるので、ベンを用ゐるのは、實用的には便利であるが、せつかくの美しいひらがなを興趣の無いものにしてしまふものであることを、考へねばならぬ。
(57) 六 日本語に多いいひかたの一つ
日本語には、例へば、いろ/\、とき/”\、ところ/”\、ひと/”\、ちり/”\、はなれ/”\、といふやうに、同じことばを重ねて、或はくりかへして、一つのことばとすることが多い。一音だけのことばでも、ちゝ、はゝ、ぢゝ、ばゝ、やゝ、をゝ(しい)、めゝ(しい)、の類がいろ/\ある。それらを昔から、こゝに書いたやうに、重ねまたはくりかへすしるしをつけて書くのがならはしとなつてゐた。ところが近ごろは、いろいろ、ときどき、ところどころ、ちち、はは、のやうに書くことが行はれ、特に印刷したものは殆どみなさうなつてゐる。これでは、見た目に一つのことばであるといふ感じがしないので、わたくしには、すら/\と讀んでゆかれないやうな氣がする。どうしてかういふ書きかたがはやるのか、それについてはいろ/\のことが考へられるが、そのことは別の話として、日本語にかういふいひかたのせられることが多いのは、日本語の一つの性質、從つてまたことばの上に現はれる日本人の心理の一つの特色、を示すものではないかと思ふ。もしさうならば、今はやつてゐる書きかたは、その特質その特色を輕んずることになるのではなからうか。少しもの/\しいいひかたをしたやうであるが、こんな風に前から考へてゐた。しかしそれにつけても、現在かういふいひかたをすることばがどれほどあるかを、一おう知つておきたく思つたので、二三年まへのことであるが、思ひ出せるだけ思ひ出してみて、それを書きつけておいた。勿論、遺漏が多いに違ひないが、これだけ見てもその數のかなりにあることがわかるから、こゝにそれを寫しとつてみよう。
(58) 分類して書きつけるとよいが、その分類がなか/\むつかしいので、ほゞ似よつたものを一ところに集めて、さしたる順序も無く、書いてゆくことにする。初めに名詞または名詞風な用ゐかたをするものを、このやうなしかたで擧げてみよう。
ひゞ(日々)。ひとひ/\(一日々々)。つき/”\。とし/”\。あさ/\。よひ/\。よる/\。ところ/”\。くに/”\。むら/\(村々)。やま/\。かは/”\。たに/”\。しま/”\。うら/\。みなと/\。かみ/”\(神々)。ひと/”\。ひとり/”\。おもひ/\。こゝろ/”\。おの/\。めい/\。かた/”\。われ/\。みな/\。した/”\。しも/”\。ひとつ/\。こと/”\(事々)。とり/”\。しな/”\。ほど/\。はし/”\。かた/\。きゞ(木々)。いへ/\(家々)。てら/”\(寺々)。みち/\(道々)。とまり/\。こゑ/”\。くち/”\。まへ/\。さき/”\。あと/\。すゑ/”\。ゆく/\。つれ/”\(徒然)。よひ/\(病氣の名として)。まひ/\(舞々)。てふ/\(蝶々)。
次に形容詞副詞またはそれとほゞ同じやうな用ゐかたをするものを擧げることにするが、そのうちで先づ何等かの状態を示すものとしては、
ぽか/\(暖かくなつた)。うら/\(日はうら/\)。かう/”\(神々)しい。いき/\した。きび/\した。みづ/\しい。わか/\しい。うひ/\しい。こども/\した。おも/\しい。かる/”\しい。はな/”\しい。にぎ/\しう。こと/”\しい。げう/\しい。もの/\しい。あら/\しい。なみ/\でない。をゝしい。めゝしい。とき/”\。をり/\。ひま/\。たま/\。まれ/\。また/\。つね/”\。かね/”\。たび/\。しば/\。おひ/\。ひさ/”\に。はや/”\。ちか/”\に。とほ/”\しい。もと/\。ひろ/”\と。なが/\と。ほの/\と。(59)あか/\と。あを/\と。くろ/”\と。しら/”\と。ふか/”\と。あさ/\しい。あは/\しい。あつ/\しい。むし/\する。むん/\する。ひえ/”\する。ひや/\する。さむ/”\と。うね/\した。くね/\した。ねちや/\した。さら/\した。ぱさ/\した。どろ/\した。もや/\した。たか/”\と。ちり/”\に。ばら/\に。わかれ/\に。はなれ/”\に。ちぎれ/\に。とび/\に。みる/\。あり/\と。ちら/\。ちよい/\。てら/\。きら/\。ぴか/\。てか/\。ちか/\。だら/\。でか/\と。こち/\に。かさ/\に。から/\に。しと/\。じめ/\。つる/\。すべ/\。ぺと/\。べた/\。ざら/\。ざわ/\。わや/\。ぐら/\する。くる/\まふ。きり/\まふ。ころ/\する。ひら/\する。ぱら/\する。ほろ/\と。ぽた/\と。ぼろ/\に。ゆら/\する。ふわ/\する。ぐん/\。ずん/\。どん/\。どし/\。めき/\。とん/\。まる/\。くり/\。すく/\。すら/\。しやん/\した。ぴん/\した。よわ/\しい。ひく/\する。
などがあり、人の動作、氣分、またはそれらに關係のあるものには、
いそ/\。ゆる/\。そろ/\。のろ/\。ふら/\。ぶら/\。やす/\と。むり/\。いや/\。ぐづ/\。せか/\。たぢ/\と。こつ/\と。なみ/\と。ちび/\と。ほそ/\と。まめ/\しく。かひ/”\しく。はか/”\しく。よく/\。わざ/\。ぼつ/\。より/\。しげ/\。ぞろ/\ゆく。どこ/\までも。てに/\もつて。よろ/\する。ひよろ/\する。よち/\と。ごろ/\する。うつら/\。とろ/\。もぢ/\する。うぢ/\する。そわ/\する。ねち/\する。つん/\する。ぷり/\する。ぷん/\する。びく/\する。おろ/\する。きよろ/\する。きよと/\する。がつ/\する。てをふり/\。あたまかき/\。しやあ/\してゐる。(60)しく/\。さめ/”\。めそ/\。なき/\。から/\わらふ。げら/\。くす/\。にこ/\。にや/\。にた/\。べら/\。こそ/\。ひそ/\。しみ/”\。ぶつ/\。やい/\いふ。くた/\に。くら/\する。がく/\する。ぞく/\する。しよぼ/\した。とぼ/\と。あせだく/\に。くよ/\する。はれ/”\した。せい/\した。こり/\した。はら/\した。ひや/\した。うき/\。うか/\。うろ/\。にが/\しい。そら/”\しい。しら/\しい。たけ/\しい。ふて/”\しい。なれ/\しい。いま/\しい。せい/”\。ぎり/\。みす/\。さん/”\。
などがある。
なほその他のものには、
そも/\。つら/\。つく/”\。さて/\。さても/\。さら/\。ゆめ/\。くれ/”\も。うち/\に。ほか/\の。まち/\に。いよ/\。ます/\。なほ/\。なか/\。ろく/\。つい/\。とう/\。もう/\。さも/\。いろ/\。さま/”\。くさ/”\。それ/\。これ/\。かく/\。
などが擧げられよう。これらのうちには副詞といふべきものがあるが、用ゐかたにやゝ特殊なところがあるから、別に記すことにした。
なほ副詞的のものには擬音とすべきものが少からずあるので、
ちよろ/\。どう/\。ざあ/\。ざぶ/\。そよ/\。かり/\。ぐう/\。すう/\。かち/\(時計の音)。ぴい/\(風の吾)。からころ(下駄の音)。どたばた(する)。
(61)その他にも多くあり、上に擧げたもののうちにもそれがある。
最後に子どもことばといふやうなものにも、
おてゝ。おべゝ。ねゝさま。ねん/\。はひ/\。たち/\。うま/\。おとゝ。
などがあるが、一々いふにも及ぶまい。子どもの遊びの、ちん/\もが/\。おまじなひにする、てる/\ぼうず。のやうなものもある。
このほかにもいろ/\あらうと思ふし、新しいことばが幾らでもできてゆくでもあらう。「ぼや/\」、「わんさ/\」、「じやん/\」、といふやうなのは、近ごろいひ出されたのではあるまいか。
ところが、かういふいひかたは昔からあつた。古事記にも「すが/\し」、「とは/”\し」、「みづ/\し」、「さわ/\に」、「たし/”\に」、といふやうなことばが見え、萬葉にも「うら/\」、「たま/\」、「ゆく/\」、「あり/\て」、「つら/\に」などがあり、「けふ/\と」といふのはしば/\使はれてゐる。古今集の歌に「はる/”\と」、「ほがら/\と」、「戀ひ/\て」、「かへす/”\」、「あさな/\」、「なか/\に」、「なく/\」、などのあることは、いふまでもない。源氏物語を手あたり次第にあけて見ると、「いひ/\して」、「をさ/\しく」、「はれ/”\しう」、「そば/\しう」、「憎む/\」、「すき/”\し」、「すぐ/\しく」、「さう/”\しく」、「すが/\と」、「きざみ/\」、「なさけ/\しく」、「なほ/\しく」、「しのび/\に」、「なよ/\として」、「むく/\しさ」、「ねざめ/\」、「あり/\て」、「つぶ/\と」、など、同じやうないひかたをしたことばがいくらでも目につく。時代を下つて愚管抄のやうな史論、つれ/”\草の如き隨筆、平家物語などの戰記文學、どれにもそれの無いものはなく、エド時代の民衆文學においても同(62)樣である。「きぬ/”\」、「かれ/”\」、などの如く後世には使はれなくなつたもの、その反對に後世になつていひはじめられたもの、一般には用ゐられず或る作者の個人的の癖または好みでいはれたかと思はれるもの、または地方的のいひかたと考へられるもの、などがあるけれども、概していふと、かういふいひかたをしたものが日本語に多いのを見ると、日本語がさういふいひかたをしやすいものであり、また日本人がそれを好んだ、と解してよいのではないかと思はれる。シナでは、古典語でも近代語でも、これに似たいひかたのせられてゐるばあひがかなりあるが、日本語ほどではなく、その用ゐかたにも日本語とはいろ/\違ひがあるやうに思ふ。ほかの國語ではどうか、言語の知識の極めて乏しいわたくしには、わかりかねる。ウラルアルタイ語系のにどうなつてゐるかも、全く知らぬ。たゞイギリス語などの二三の現代ヨウロッパのには、かういふことは無いやうに思ふが、どうであらうか。だから、これが日本語の一つの特質ではないかといつたのは、當らぬことかも知れぬが、たゞ日本語がかういふことのしやすいものであることは、事實のやうである。
ところで、かういふいひかたをすることについては、いろ/\考へねばならぬことがあるやうである。第一に、例へば「さて」と「さて/\」とを比べてみると、その意義も語感も違ひ、アクセントも違ふやうである。「さても」と「さても/\」とは、アクセントは同じであるやうに思はれるが、意義や語感は同じでない。すべてがさうだとはいはれないが、かういふ例が甚だ多い。そこで第二に、何のために重ねていふか、或は重ねたばあひにどういふ效果があるか、といふ問題が生ずる。一々例は擧げないが、名詞などでは、複數にするために、いひかたは複數になつてゐるが指すところはそのうちの一つ/\であるばあひ、同じ事物を廣く總括することになるばあひ、その他のでは、(63)意義なり語感なりを強めるばあひ、くりかへしていふところに意味のあるばあひ、などがあるやうである。第三には、反對の意義をもつてゐる二つのことばが、一つは重ねていはれ他の一つはさうせられないものがあることである。例へば「はや/”\」とはいふが「おそ/\」とはいはず、「しも/”\」「した/”\」といふいひかたはせられるが、「かみ/”\」「うへ/\」とはいはれない。これには音のためのも意義のためのもあるかと思はれる。「よる/\」(夜々)といふが「ひる/\」(晝々)といはないのは、後の方の理由からではあるまいか。第四には、重ねて作られた、同じことばが違つた意義をもつばあひのあることである。「よく/\」といふ語が「……考へてみよ」といふばあひ「……のことだ」といふばあひと、では全く意義が違ひアクセントも違ふ。これは「よく」にかうなる傾向が既にあつたのではなくして、重ねていつたためにかう分化したのであるらしく、さうなつた徑路もほゞ考へられるが、結果としては違つた意義と語感とをもつやうになつたことは事實であり、重ねていふいひかたにさうさせる力があつたと解せられよう。かういふ例は幾つもある。第五には、「つら/\」とか「めき/\」とかいふことばのやうに、今日ではかういつてこそ意義をなすが「つら」「めき」だけでは何のことか普通にはわかりかねるものもあることである。前の方のは、もしそれが萬葉にある如き「つら/\」から轉じて來たものであるとするならば、その轉じかたがかなり甚しい。重ねて作られたことばの意義が變つて來たのである。第六には、書物の上に見えるものよりは現在口語として用ゐられてゐるものが遙かに多いやうに思はれることである。書物によつて傳はつてゐるものは、その時に世に行はれてゐるもののすべてではない、といふことも考へられるが、後世の方が多くなつた、といふこともあるのではなからうか。もしさうならば、一般に後世の方がことばが多くなつて來たためか、またはかういふいひかたが多く好まれ(64)て來たからなのか、どちらであらうか。第七には、舊いものがすたれ新しいものができて來ることであつて、それは、生活状態とか考へかたとか人の氣分とかの變化にもよるであらうが、新奇を好むといふ心理的な意味もあるのではなからうか。何れにしても時代による變化の理由が考へられねばなるまい。第八には、性、年齡、地位、職業、などによる違ひとその理由とをも考へてみる必要があらうか。なほ第九として、同じことばをくりかへしてはいふが一つのことばにはなつてゐないばあひがあるので、それとこれまでいつて來たものとを區別して考へねばならぬ、といふことをいつておかう。例へば「これ/\」とか「それ/\」とかいふことばと、何ごとかまたは何ものかを指示して「これ・これ」「それ・それ」と中間にまをおいていふのと、の違ひである。「さう・さう」、「まあ・まあ」、「さあ・さあ」、または「ぽたり・ぽたり」、「ふわり・ふわり」、「ゆらり・ゆらり」の如きも一つのことばにはなつてゐない。これはいふ時の語勢またはそのことがら及び音の關係からであらう。むかしのことばの「いと・いと」といふのも「いと/\」といふ一つのことばにはなつてゐないのではないかと思ふ。一つのことばとすれば「いとゞ」になつてしまふ。しかしまたかうはつきり區別のできないものもあらう。さて第十として、例へば「ゆらぐ」といつても「ゆら/\する」といつても、または「ゆるり」といつても「ゆる/\」といつても、または「ちらつく」といつても「ちら/\する」といつても、意義は同じであるが、彼の方が多く用ゐられる傾向があり、特に「ゆらぐ」は口語には殆ど使はれなくなつたやうであるが、それは音感または語感のためであらうか、もしさうならば、ことばを重ねることにはこの點に大きな理由があるのではなからうか、といつてもよからうか。
以上は、ほんの思ひつきに過ぎないから、なほその他にも問題はいろ/\あらう。これらについても既にその道の(65)學者の考が世に出てゐるであらうし、辞書などで説明してあることも多からうが、實はさういふものをあまり見てゐないので、こんなことをいつてみたのである。
七 譯語から起る誤解
今日の日本語にはヨウロッパ語の譯語が多く含まれてゐる。その譯語には新しく造られたものと在來の成語をあてはめたものとがあるが、後の方のは、原語にあてはまる成語を得ることがむつかしいために、適切でない語の用ゐられたばあひが少なくない。從つてさういふ譯語が廣く行はれると、在來の成語もその意義のであるが如く錯覺せられ、そこから思想の上にも實生活においても、いろ/\の誤解や混亂が生じて來る。
近ごろ盛に流行してゐる封建といふ語の如きがその一例であつて、これは、フュウダリズムの譯語が封建とせられたことによつて、導き出されたもののやうである。いふまでもなく、封建といふシナ語は、土地民衆を世襲の地方的君主に分領させてゐる政治上の制度を指す稱呼であつて、日本でもその意義で用ゐられ、明治時代の初めに封建制度とそれに對立するものとしての郡縣制度との得失といふやうなことが論議せられたのも、また郡縣制度が布かれた後になつても、分立してゐた舊藩時代の氣分が容易に消え去らず、またその舊藩とは關係が無くとも地方的感情が多くのことがらに力強くはたらいてゐることを、封建の餘風といつてゐたのも、そのためである。從つて封建社會といふやうな概念はこの語から生じないはずである。然るにさういふことがいはれるやうになつたのは、フュウダリズムの(66)語に社會史的意義が重きをなしてゐるところから來てゐることと、推測せられる。これは封建といふ語の用ゐかたが適切でないといふことであるが、それのみならず、かういふ用ゐかたは、ともすれば日本の封建時代の社會をヨウロッパの中世の社會に關する知識にあてはめて考へようとすることにもなりかねない。(最近には封建的といふ語が明治の初年の「舊弊」とほゞ同じほどの意義でいはれてゐるらしく、フュウダリズムの語義からも離れてゐるが、これは流行の勢が語の内容をふりおとして語のみをかつてに奔馳させたからであらう。)
或はまた、ギリシャやロオマの時代のいはゆる奴隷の如きものが日本の上代にもあつた、といふやうな大きな誤解が世間に弘まつてゐることをも、考ふべきであらう。これは主として、上代に「やつこ」といはれてゐたものがあり、それに「奴」の字があてられてゐたために、ヨウロッパ語の譯語として新に用ゐられるやうになつた奴隷とそれとを同じものと見たところから、生じたことのやうである。「やつこ」は一般に考へられてゐる如く「家つ子」の義であるらしいから、家々で使役せられてゐるものがさう呼ばれたのであらうが、「やつこ」といふ一定の身分のものが世間にあつてそれを家々で使役したのではなく、家々で使役せられてゐるものであるからそれがかう稱せられたまでである。使役するものは、そのために彼等に居所を與へ衣食を給したので、そこから彼等に對して或る種の支配權をもつことにはなつてゐたが、人としての自由を全く奪ひ去つたのでもなく、甚だしく酷使したのでもない。これは令の規定からも、また親が子に對し親昵の意味でこの稱呼を用ゐたばあひのあつたことからも、知られる。「やつこ」はヨウロッパの古代にあつたいはゆる奴隷とは違つたものである。近ごろは、昔の日本人が韓人や蝦夷を奴隷にするために内地に拉して來たやうに説くものさへあるが、歴史的事實としてさういふことは曾て無かつた。かういふ考は、異(67)民族との戰争によつて得た捕虜を奴隷としたギリシャ人口オマ人の風習を上代日本人にあてはめようとするものであつて、譯語の人を誤らせる一例である。(日本の上代にいはゆる奴隷があつたといふ説の生じたことには他にも理由があるが、それはこゝでは、問題外におく。)「やつこ」についてのこの誤解はむかしそれに「奴」の字をあてたことに遠い由來があるが、このあてかた、即ちシナ文字に譯したその譯しかたも、適切とはいひがたい。これは「やつこ」の名にも現はれてゐるその本義をすてて、たゞ使役せられるものとしての意義だけによつたものだからである。
かういふやうな例は他にも少なくないので、上代の身分ある家々の社會的地位を示す稱呼であつた「かばね」に、姓の字をあてることがあつたために、それがシナ文字の姓の語の意義に解せられ、さうしてその解釋が、上代の社會を氏族を單位として構成せられたものとする臆説の資料の一つとせられてゐるらしいことも、その類である。しかしそれらのことは、いろ/\のものに既に書いておいたから、こゝで煩はしくいふことは避ける。たゞ一つこれまでまだ書かなかつたことをいつてみよう。それは、今の日本の思想界もしくは學界において普通に用ゐられてゐる「神」の語は、キリスト教の、もしくはキリスト教によつてヨウロッパに傳へられた、唯一神の意義のであつて、日本人の昔から用ゐなれて來たこの語とは遙かに違つたものであり、そこからさま/”\の混雜が生じてゐる、といふことである。
ヨウロッパの近代の哲學形而上學もしくは道徳の學などに、中世のキリスト教の神學から繼承せられたところの少なくないこと、さうしてそれが、日常生活に深く浸潤し道徳の基調ともなつてゐるキリスト教の信仰と相伴つて、一般の思想の上に強い力をもつてゐることは、いふまでもないので、この點で、ヨウロッパ人のかういふ學問上の學説(68)や一般の思想のうちには、キリスト教そのものと共に、わたくしなどには、親しみがたいものがあり、奇異の思ひのせられるものさへ無くはない。たゞ知識の上で、ヨウロッパ人としてキリスト教徒としては、かういふ考へかたがせられ、かういふことが問題とせられたであらう、といふ意味での幾らかの理解ができるのみである。(このことは儒教などのシナ思想についても、また佛教などのインド思想についても、同樣である。)しかしヨウロッパ人やアメリカ人の學問や思想を多く受け入れ、またはそれに追從して來た日本の學界や思想界では、キリスト教の信仰とは別に、思想として學問としては、おのづから上記の意義での「神」の觀念を繼承し、神といへばその意義でのものとせられるやうになりがちである。日本で神の語を上記の如き唯一神の義に用ゐることは、キリスト教のいはゆる聖書の譯語に導かれたのであらうが、聖書の日本語譯の重要なる準據となつたシナ語譯には、はじめのうちには神の語を別の意義に用ゐたものもあつた。イギリス人またはアメリカ人によつて聖書のシナ語譯のできた事情とその徑路とについては、故ムラヲカ テンシ氏の研究があつて、それには譯語の異同についての考説もあるが、わたくしの少しばかり讀んだ舊約の創世記などでも、イギリス語のゴッドを上帝とし「神」はスピリットにあててあるものがある。シナ語の神を名詞として用ゐたばあひには、宗教的崇拜の對象をさすこともあつて、それは日本語のカミの語をあててもよいものであるが、またそれとは違つて人の身または心に内在する靈的のものをいふこともあるので、後の方のはほゞ今日の用語例での靈魂に當るもの、または精神の語の由來をなすものである。從つて上記の舊約書に於ける譯語としての「神」は後の方によつたものと解せられる。ところが別の譯本ではスピリットを靈と詳し「神」はゴッドにあててあるので、これは神の語の用法の前の方のによつたものであらう。日本譯はこの方の譯例に從ひゴッドを神としたの(69)で、それからキリスト教の唯一神の意義での「神」の語が世に行はれるやうになり、學界などで用ゐられてゐる「神」はこの意義のが普通のやうになつた、と考へられる。もつとも、これは「神」といふ用語についての話であつて、思想なり學説なりは用語の如何にはかゝはりの無いことであり、「神」といはずして上帝といつてもデウスといつても同じであるが、今は「神」といふ用語を問題としてゐるのである。
ところが、今日でも日本の民衆が用ゐてゐるカミの語の示すところはそれとは違ふ。シナ語の神とも同じでない。神といふシナ文字は古くからカミの語にあてられて來たが、それには當つてゐるばあひもゐないばあひもある。カミには無い用ゐかたが神にはあり、神には無い意義がカミにはあるからである。從つてカミをすべて神と書くのも、神の字をいつでもカミと訓むのも、誤りである。この誤りを犯したために、カミの語または神の文字の意義に無用の混亂が少からず生じた。(これらのことについては「日本古典の研究」や「日本の神道」などで一おうの考察をしておいた。)しかし長い年月の歴史によつて幾らかの、ことがらによつてはかなり重要な、變遷があつたにかゝはらず、遠い昔からのカミの觀念、實生活におけるその現はれとしてのいろ/\の行事には、今日まで續いてもち傳へられてゐることが多く、民衆の間において、特に村落生活において、さうである。村々の鎭守の神社が村落生活の中心となつてゐることも、その一つである。さうしてそれには人の心情の自然の發露として、また日本の風土と日本人の生活とから養はれた習俗として、意味の深いものがある。たゞ多くの知識人においては、上にいつたやうな事情から、カミといへば、神といふ文字を用ゐる譯語によつて、思ひ出される唯一神としての「神」をすぐに聯想し、または何となくそれと同じやうなものであるかの如く思ひなされる傾向さへもある。日本の上代に神權政治(セオクラシイ)が行はれ(70)てゐたといふ俗説が知識人の間に生じたのも、一つはそのためであるまいか。終戰後にカミに關する行事を國家のしごとから除き去つたことには、いろ/\の理由があつたらうが、或はこのこととも幾らかのかゝはりがあるらしくも思はれる。なほ明治時代の末ころに神前結婚といふ儀禮の新しく案出せられたのも(これは知識人のしわざとはいひかねるが)、キリスト教の儀禮を學んだものと推せられる點において、日本人のカミがキリスト教の「神」に比擬せられたことを示すものであらう。(日本人は昔から婚姻に宗教的儀禮は行はなかつた。たゞ呪術的意義のがあつたのみである。)もしまた知識人が、民衆の心情においてのカミをそのまゝにうけとるばあひには、それに對してさしたる關心をもたず、または却つてそれを輕んずる。この態度は、近代文明の一面に存する合理主義的傾向や自然科學によつて與へられた考へかたからも來てゐたが、これらはキリスト教の「神」に對しても或るはたらきをするものであるのに、そのことは多く問題とせられないのを見ると、日本人に傳統的なカミを尊重しないのは、その故ばかりではなくして、上にいつたやうな唯一神の觀念を知識としてもつてゐて、それを標準としてカミを視るところから來てゐるのではなからうか。もしさうならば、これはキリスト教のゴッドに「神」といふ譯語の用ゐられたことにかゝはりのあることである。同じく神といはれるためにその間に高下眞僞の別がある如く感ぜられ、またキリスト教徒が異教の神に對して取つて來た態度が適用せられ易いからである。
生活を異にし生活氣分を異にしてゐる異民族または異なれる文明の世界に發生して、特異の意義と情趣とをもつてゐる言語を飜譯するのは、極めてむつかしいことであるが、語彙の一つ/\についても、在來用ゐられてゐたものをそれにあてようとすると、適當なのが殆ど無いといつてもよいほどであらう。佛典を取扱つたむかしのシナの譯經者(71)に五種不飜といふことをいつたもののあるのも、故あることである。今の日本人が流行的にアメリカ語やヨウロッパ語のを用ゐるのは、多くは別の理由、または理由にならぬ理由、からであり、從つてさうするには及ばない、またはさうしない方がよい、ばあひが少なくないが、しかしさうした方がよいこともある。ことがらによつては、國語に譯しがたい外國語の語彙を正しく美しく國語に取入れるといふことも、考へなくてはならないばあひがあるのであらう。もし適當でない語を譯語としてそれにあてはめ、さうしてそれが廣く世に行はれると、それによつてもとの語の意義が忘れられたり誤まられたり、更に延いては日本人の昔からの生活や思想が曲解せられたり、さういふことが多いからである。昔の日本人がシナ文字を日本語に、または日本語にシナ文字を、あてたそのあてかたが適當でなかつたために、後世から日本語の原義を知ることがむつかしくなつた例も多いが、今日では、その適當でないシナ文字によつて作られたヨウロッパ語の譯語によつて、もとの日本語を解しようとすることさへある。上に擧げた二三の例は、これらのことを知るについて幾らかのやくにたつであらうか。言語の意義やそれに伴ふ情趣は、思想や生活と共に斷えず變遷してゆくものであり、それによつて言語の生きたものであること、またその機能の微妙なものであることが、示されもするが、徒らに言語を混亂させ生活や思想を混亂させるに過ぎないやうな變遷を、變遷するまゝに放任すべきではあるまい。
附記
二三週間前に「舊幕府」といふ舊い雜誌をあちこち讀んでゐると、その第三號にタナベ レンシュウの往事談とい(72)ふものが載つてゐて、そのうちの、嘉永年問にオランダのジャワの總督から出島のカピタンの手を經てさし出した覺え書きの日本語譯に「大千世界彌益に我儘に成行候形勢に有之」といふ句があつたので、幕吏のうちには、この「我儘」といふ語は掠奪を肆にするといふ意義であると解し、さればこそ夷狄は近づけてはならぬ、と論ずるものがあつたと聞いてゐるが、これはオランダ語のフレイヘイドに「我儘」といふ不當な譯語のあてられたところから生じた誤解のためであつた、といふ一節が、ふと目についた。この覺え書きは嘉永五年に提出せられたものであらうが、カツの開國起源などに載つてゐるその全譯文には、かういふ句もそれに當るらしいところも見えない。或は別人の譯したものでもあつたのであらうか。しかしそれはともかくも、フレイヘイドが「我儘」と譯せられたのは何故であらうかといふことが問題になる。
このことを考へるについて、舊幕時代にできたオランダ語の辭書の譯例がどうなつてゐるかを知りたいと思ひ、一二の知友に調べてもらつたところ、寛政年間に刊行せられたイナムラ サンパクのハルマ和解(いはゆるエドハルマ)及びそれに本づいて編纂せられ文化七年に刊行せられたフヂモリ フザンの譯鍵、並に文化年間に編纂せられ安政年間に或る補訂を加へて刊行せられたヅウフのハルマ辭書(いはゆるヅウフハルマまたはナガサキハルマ)、などの何れにも、vrij(vry)またはvrijheidの譯語のうちに「自由」がある。さうしてエドハルマにはそれと共に、「人に從屬せぬ」、「不羈」、「勤め役の責なき」、「閑暇」、などがあり、譯鍵もほゞ同樣であるから、「自由」もまたこれらの語と同じく羈束せられないといふ意義の語として用ゐられたやうに見えるが、しかしさう見てよいかどうか。ゾウフハルマのには勤めが無いとしてあるばあひはあるが、その他には「自由」といふ譯語の語義を知るたよりになるやうなも(73)のは記されてゐないらしい。なほカツの海軍歴史を見ると、幕府が海軍の建設を企ててそれに要する學藝技術の傳習をうけるためにオランダから教師を聘する計畫をしてゐた安政元年に、ナガサキ停泊のオランダの軍艦の艦長が教師の取扱ひかたなどを記して提出した覺え書きが載せてあるが、そのうちに、「師に相成日本へ罷出候輩滯在中フレイヘイデン子細有之間敷候」といふ一條がある。こゝにはフレイヘイデンといふ原語がそのまゝに記され譯語が用ゐてないが、その下に通詞のつけたと思はれる注があるので、それは「上は王侯より下は賤民に至る迄、人たるものたけの自由自在の義、通常上下の差引無之、今日を送候心得の義、」といふのである。ひどくむつかしい説明であるが、これは通詞が譯語に困つたため、この語の意義をオランダ人にたづねてそのいふまゝを記したものででもあらうか、と臆測せられる。この一條を今日のいひかたで約言すると、教師には行動の自由が保證せられるといふことらしい。これまでの出島のオランダ人の如き拘束をうけないやうに、といふ意味がこもつてゐるかと思はれる。文化のころの通詞の幾人かが助力してできたゾウフの辭書にも「自由」といふ譯語が既に用ゐてあるが、安政初年の通詞はそれを顧慮しなかつたのか、または「自由」の語の意義を明かに理解しかねたためか、ともかくもかういふ書きかたと説明とをしてゐるのである。このやうな注をつけるほどならば「自由」と譯してもよかつたらうに、さうしなかつたことには、これらの理由があつたかも知れぬ。
ところが、エドハルマや譯鍵には「放恣」とか「恣にする」とかいふ意義に用ゐられるばあひのあることも記してあるから、それによつて推測すると、タナベのいつた覺え書きの主旨に適合してゐるかどうか、またフレイヘイドの語義にあてはまるかどうかは、別として、ことばの上だけでは、「我儘」と譯してよいこともあり得ると、當時の通詞(74)などには、思はれたであらうし、もう一歩進んでいふと、前々から譯語とせられてゐた「自由」の語にもこの意義が含まれてゐると考へられたかも知れない。「自由」といふ語にはもと/\「我がまゝかつて」といふ意義が用ゐられた例が多いからである。現に安政五年に大老のヰイ ナホスケが朝廷に上つた書面にも「めい/\かつて」といふやうな意義のことを「獨立自由」といふ語で表現してある。辭書の編纂者または協力者が譯語として「自由」を用ゐたのは、それをどういふ意義のものと解してのことか、明かにはわかりかねるが、日本の從來の用例に從つたことは、ほゞ推測せられるので、羈束をうけないといふ意義をとつたとするにしても、それが消極的な心安さを主とし、積極的な意欲のはたらきに重きをおかなかつたことは、上に引いた二三の譯語からも知られるやうである。さすれば、それに「我儘」の意義が含まれてゐるものとして解せられたとするのも、さしてむりな臆測ではなからう。慶應二年に書かれたツダ シンイチラウの泰西國法論に「自由」の語が用ゐてないのは、何故か知らぬが、かういふこともその一理由ではなかつたらうか。
八 白由といふ語の用例
今日普通に用ゐられてゐる「自由」といふことばは、ヨウロッパ語の譯語としてのであるが、このことばはもと/\シナのであり、日本の書物にもかなり昔からいろ/\のものに見えてゐる。その用例のいくらかをこゝに記してみるのも、何かの參考にならないでもなからうか。その大部分は、この三四年來、見あたるまゝに書きぬいておいたもの(75)からの抄出であるが、中には一二の友人から教示せられたのもある。何れにしても極めて不備なものであることは、ことわるまでもない。
このことばが今傳はつてゐる前漢以前の古典に用ゐてあるかどうか、はつきりはいひかねるが、よしいくらかはあるとするにしても、多くはなからうと思はれる。まだ一度も出あつたことが無いやうな氣がする。書きぬいておいたもののうちで比較的古いのは、赤眉の賊がおのれらの擁立した天子を小兒の如く視て「百事自由」に行つた、といふ後漢書の五行志の記載であつて、この自由は專恣横暴といふやうな意義に用ゐてあるらしい。魏志の毋丘儉の傳に「專權用勢、賞罰自由、」とあり、後漢書の樂恢の傳に「縱舍自由」といつてあるのも、ほゞ同じ意義の語のやうであるが、魏志に引いてある魏略に「東西不得自由、面縛乞降、」とあるのは、これらとは違つて、「不得自由」を思ふやうな行動ができない、といふ意義に用ゐてゐるらしい。もう少し後のものでは梁武帝の淨業賦の序に「威福自由」といふ句があるが、これも威福を擅にするといふことであらう。佛教に關することでも、康僧會の作と稱せられてゐる安般守意經の序に「非師不傳、不敢自由、」とあるのは、師傳によらずして恣意な經典の解釋をすることを自由といつたものらしいが、もしさうならばそれはやはり同じ考へかたから出てゐよう。しかし同じ序のうちに「無遐不見、無聲不聞、?惚髣髴、存亡自由、大彌八極、細貫毫釐、」といつてあるばあひのは、どんなことでもできるといふ意義のやうに見えるので、前のとは少しく調子が違ふ。自由といふことばはその用ゐかたがかなり曖昧であつたやうである。のみならず、修行道地經の「數息、意定而自由、」が外からの刺戟によつて心の散亂しないことを指してゐるならば、これは他の何ものにも動かされないこと、その意義で他から制約や拘束をうけないこと、を自由といふことば(76)で表現したものであつて、そこにこのことばのこれまで擧げた例とは違つた用法が見られるやうである。これは神の境地をいつたものであるが、後の禅家、特に南禅の一派、では、その特殊の思想によつてこの意義での自由といふことばの用法を更に發展させ、「生死去住、脱著自由、」といひ「忙々地、徇一切境、轉被他萬境囘換、不得自由、」といふやうな語を臨濟が用ゐてゐるし、自由人といふことをその師の黄※[草がんむり/檗]もいつてゐる。燉煌本の六祖壇經にも「於六塵中、不離不染、來去自由、即是般若三昧、自在解脱、」の句がある。(流布本のには「去來自由、心體無滯、即是般若、」となつてゐる。)その他にも同じやうな例はあるが、一々いふにも及ぶまい。禅家では一切の緊縛を放下した自由の境地がネハンであるとしてゐるのである。
釋家のこの用法は彼等に特殊なものであるが、自由といふことばを用ゐることは、唐代の詩人にもいくらかの例がある。白樂天の「富貴亦有苦、苦在心危憂、貧賤亦有樂、樂在身自由、」は、地位や利害得失の念の繋縛をうけず思ふまゝのことができるといふ意義で、身の自由といつたもののやうであり、羅隱の「欲訪先生問經訣、世間難得自由身、」も、それよりは輕い意義のことながら、むつかしくいふとやはり同じ考でのことであらう。柳柳州にも「春風無限瀟湘憶、欲採蘋花不自由、」といふのがあるが、これはたゞ思ふに任せぬといふことを不自由といつたものと解せられる。けれどもこれとても裏をかへせば自由は思ふまゝになるといふ意義であることになる。白樂天や羅隱のこれらの用例が禅家のと何等かの關係があるかどうかは明かでないが、禅を修したといはれてゐる樂天のには、或はそれがあるかも知れぬ。しかし禅の境地について自由をいふのも、後の禅家のこのことばの特殊の用ゐかたにも、シナ人の一般の用語に何等かの由來があるかとも推測せられるから、てがるにかういつてよいかどうか、よくはわから(77)ぬ。
自由といふことばはかういふいろ/\の意義で用ゐられてゐるが、最初に擧げた例のやうに、專恣なふるまひを自由といふのも、政治的または社會的秩序や道義に拘束せられないことではあるので、拘束せられないといふ點からいへば、心理的には、そこに後に擧げた用例と一すぢのつながりがある。たゞ拘束するものの何であるか、それが如何なるしかたで拘束するか、またその拘束をどういふ態度で破りまたは逃れようとするかに、いろ/\の大きな違ひがあることを見のがしてはなるまい。なほそれとシナ人の思想との關聯を考へると、帝王が定めたものとせられ、自然の法則宇宙の理法にその根原があると説かれてゐる、政治的社會的秩序、即ちいはゆる禮、に從ふことが、何人も守らねばならぬ道義であると主張する儒教思想からいふと、初めに擧げたやうな意義での自由は、人として許すべからざる罪惡である。かゝる禮の存在を理論的には否認し、社會的政治的秩序の如きものが無かつたといふ太古の世を想定してそれを至治の姿と説くと共に、實践的には自己を棄てて世に順應することを生存の道處世の術とする道家においても、またかゝる意義での自由は承認せられない。後になると道家の典籍に親しんだもののうちに、禮法を無視し放曠自恣な言動をするものも生じ、またシナの知識人の何人もが求むべきもの居るべきところとせられてゐる官職を求めず或はそれをすてて、いはゆる隱逸の生を送るものもあつて、それらは或は社會的風習に從はないといふ意義での、或は地位や利益に拘束せられないといふ意義での、自由を欲したことになるが、何れも道家の本來の思想とは一致しないものであると共に、前の方のは一般の士人からは非難せられたし、後の方のは眞にその自由を得たものは殆ど無かつたといふべきである。なほ禅家のいふ自由が彼等の生活においてどれだけ實現せられたかは、大なる疑問で(78)ある。(なほこのことについては、拙著「シナ佛教の研究」第六篇「釋宗に關する疑問の二三」の下篇に、卑見を述べておいた。)
次に日本ではどうかといふに、徒然草に盛親僧都のことを「世を輕く思ひたるくせものにて、よろづ自由にして、おほかた人に從ふといふことなし、」といつてあるのは、わがまゝかつての行ひをすることを自由といつたもののやうである。たゞそれは我慾を逞しくし人を害しても意に介せぬといふやうな道徳的意義でのものではないが、それとは違つて、我慾を逞しくして慣例に背き不法を行ひ禁令を犯し專恣横暴なふるまひをすることなどを自由といつてある例が、吾妻鏡の元暦二年四月の條の義經の行動を難詰した記事のうちに見えるもの、また法令上の用語としては戸令の義解及び集解にあるが、これは唐令から取られたものであらう。しかし通行本の唐律疏義をざつと見ただけでは見つからなかつた。武家の法令としては、貞永式目、建武式目追加、ムロマチ幕府の政所壁書、戰國時代の信玄家法、エド時代の初期に幕府の定めた五山十刹法度及びその他の寺院の法度の二三、などに見えてゐ、ずつと後のマツダヒラ サダノブの藩中諸士への申渡しのうちにもある。貞永式目に「理不盡之沙汰、甚自由之奸謀、」とあるのがその代表的のものであらう。かういふ用法は京の明法家に由來があらうかと思はれ、從つてその淵源はシナまで溯つて尋ねねばなるまいかとも考へられるが、それはまだしてゐない。
ところが歌書の桐火桶を見ると、萬葉のことばを論ずるについて、「劫初はげに自然の道理にまかせて、つくろはずして、おのが自性にいづれもまかせけるとかや、……萬物に於いて法令といふこと無く、自由の心をのみ逞しくしけるなるべし、」といひ、次に書契ができてから是非善惡を辨別することになり教といふものが作られたが、人心は(79)次第にわるくなつたといひ、さうして「今の世はよからんとするだになほかなはず、まして萬事自由になりて、ゆめ/\あるべからざるべし、」と説いてある。最後の一句の意義はよくわからぬが、かゝる自由はゆるすべからざることだといふのであらうか。この一節の全體の主旨は、道家の思想によつて、太古自然の時代には法令などの拘束が無くして人々みな思ひのまゝの、その意義で自由な、生活をしながら、世が太平であつたことをいひ、また後には人の道といふものが教へられたにかゝはらず、今日ではその道を守つて善行をしようとするものが無く、何ごとについても利慾に任せて我がまゝかつてに、その意義で自由に、ふるまふものばかりになつたことを、いはうとしたのであらう。自由といふことばがこゝでは二義に用ゐてある。桐火桶はカマクラ時代の末期ごろに書かれたものであらうと思はれるが、ほゞ同じころかまたは室町時代の初期あたりかに作られたものではないかと推測せられる鶴岡放生會職人歌合といふものの判者の言の一つに、「自由ならずして自由を得たり」といふ歌の評がある。警句めいたこの語の意義は明かでないが、放逸ならずして守るべきことを守りながら而も思ふまゝに詠みなした、といふことではあるまいか。もしさう解せられるならば、こゝでもまた自由を二義に用ゐたことになつてゐる。なほ萬葉の奥書の文和二年の日づけのあるものに、「是且非自由、且非無所詮、」といつてあるが、これもまた據るところのあるものであるから自由(放埒)ではないが、しかし據るところに拘束せられるのではないから、そこにその意義での自由があることになり、こゝにも自由の二義がある。たゞ自由といふ語を二義に用ゐたのではないだけである。そこで自由が、法令に見えてゐるのとは違つて、他からの拘束をうけないといふ意義をもつてゐたことがわかるが、これは平安朝時代の詩にその先例があるので、田氏家集に「六尺長身莫自由」(見叩頭蟲自述)、江吏部集に「料識獵徒得自由」(暮秋賦)、の句があ(80)り、平安朝末期の諸家の詩を輯めた本朝無題詩にもフヂハラ タヾミチの「茅屋三間得自由」、アツミツの「身帶扶風不自由」、またシゲアキの「寺門乘興※[斬/足]優遊、景氣蕭條任自由、」などの句があるが、これらは何れも拘束をうけないといふ意義での自由である。何れも唐詩から學ばれたものであらう。後の五山僧の詩にも猿吟集の著者の「野鶴孤雲不自由」といふのがあるが、これもその由來が唐詩にあると共に、また禮僧の詩だからでもあらうか。
こゝまでいつて來ると、いはゆるキリシタンの文獻のいくつかに自由といふ譯語の用ゐてあることが、思ひ出される。ドチリイナ・キリシタン(キリシタン教義)にも見え、ギヤ・ド・ペカドル(罪人を善に導く)にはそれが特に多く、コンテムツス・ムンヂ(キリシトの學び、吉利支丹文學抄の抄本による)にもある。その多くは、惡魔に囚はれてその奴となつてゐた人のアニマ(靈魂)が、キリシトによつてそれから解脱し、自由を得る、といふ意義でいはれてゐるので、自由解脱といふ熟語もこれらの書の何れにも見える。ロオマ時代の法制上の用語が宗教思想の表現に適用せられたのであらうかと思はれるが、自由といふことばをそれにあてはめたのは、キリシタンの信者となつて文筆にたづさはつたものに禅僧があつたからのことではなからうか。解脱といふ佛教の術語が用ゐられたことからも、さう推測せられる。要するに緊縛を脱し拘束をうけないといふ意義での自由なのである。たゞ注意すべきは、それが宗教的な考へかたながら、道徳の基礎としていはれてゐることであつて、自由の語をかういふ風に用ゐることは、日本においてもシナにおいても例が無い。利慾に誘惑せられるなとか良心に從へとかいふやうなことが教としていはれはするが、さういふ教にかなつた行動をすることを、何ものかの束縛から解脱する意義においての自由とはいはない。もと/\人を奴隷とする惡魔のやうなものの存在を認めてはゐないのである。もつとも自由の語を解脱の意義に解したのでは(81)適切でないばあひも、ギヤ・ド・ペカドルにはあるやうに見えるが、そのうちで、デウスは世界を作るも無くするも御自由であるといひ、またデウスの諸徳を列擧してある中に「御自由自在」といふのがあるのは、デウスが全能であるといふ意義に用ゐられたのではあるまいか。またキリシトは「御自由の御上から」人類を救はんがために十字架に上られたとあるのは、その前にある 「他よりすゝめられたまひてうけたまふにもあらず」の一句を參考すると、自己の發意といふ意義かとも思はれるが、どうであらうか。この最後のと同じことはドチリイナにも見えてゐる。なほヰノウヘ チクゴノカミのキリシタン吟味の時の調べ書に「デウスハ天地ノ作者、無始無終ニシテ萬徳圓滿、自由自在ノ尊體、」とバテレンが告白したと書いてあるが(契利斯督記)、このばあひの「自由」は一種の神學的思辨であつて、主として造物主の義と全能の義とを含んでゐるものと解せられる。以上は原文をもこの宗教の教義をも知らないわたくしの臆測であるから、當つてゐないでもあらうが、試みにいつておく。
キリシタンの文獻に見える自由といふことばの用ゐかたは、當時においては特異なものであるが、エド時代となつても、上にその例を擧げておいた如く、法令の上では不法な行動をすることを自由といつてゐた。法令のみならず、ムロマチ時代にいはゆる徳政を行つたことを、自由をふるまつたと鹽尻に書いてある。不法横暴なことをしたといふ意義であらう。さういふ惡い意義ででもなく、また輕い調子でいつてゐるのでもあるが、制度または社會的風習などによる生活上の統制を嫌ふ氣分を自由といふばあひもあるので、ヲギフ ソライが政談で「我儘に自由をしなれたる風俗」といつてゐるのは、それであらう。しかし最も多いのは他から拘束せられないといふ意義にこのことばを用ゐることであつて、俳人ジョウソウが出家した時の口號として傳へられてゐる「多年負屋一蝸牛、化做蛞蝓得自由、」も(82)その一例である。カメダ ホウサイが「無官無禄自由身」といつたのも、タノムラ チクデンが「生逢清世足阯V、西去東來得自由、」といつたのも、乞食をしてゐるものが乞食ほど自由なものは無いといつたといふのも(江戸繁昌後記)、みなそれであり、地位や財産や所有物などの拘束をうけず、思ひのまゝの生を送ることができる、といふことであらう。その他、大窪詩佛の、「山盟水約自由身」、菊池五山の牧童の行動を敍した「叱々驅來不自由」など、例を擧げればいろ/\ある。これらは世に處するにおいて消極的態度をとることによつて得られた自由の境地に心安さのあることをいつたものであるが、「唐の反古に縛られて我が身が我が自由にならぬ」といふ腐儒をヒラガ キュウケイが罵つたのは(志道軒傳)、彼等が固定した知識や思想にからめられて何のはたらきもできないことを、自由を失つてゐるといつたのであつて、この自由は、拘束をうけない點ではそれらと同じであるけれども、積極的な何等かのはたらきの要求がその根柢にある點では、それらとは違ふ。前の方のは平安朝の詩にも現はれてゐる用例であるが、後の方のはエド時代に至つて生じた新しい氣分から出てゐる。
しかしまたかういふ生活氣分とは關係なしに、たゞ何ごとかについて思ふまゝになし得ることを自由といつたばあひもある。タナカ キュウダウの民間省要に「田地山林は自由に賣買ができるから百姓の寶となる」と説いてあるのが、その例であらう。同じ書に「亂世には朝夕その身危く諸事不自由なる故に、おのづから愼みあり、」といつてある不自由も、わが身についてすらわが思ふやうにならぬといふ意義のことらしく、さうしてかういつたのは、思ふやうになるといふ意義に自由の語を用ゐるいひかたがあつたからであらう。シバノ リツザンの上封に、米價は町人の自由にも大名の自由にもまたお上(政府)の自由にもならぬ、といつてあり、カイホ セイリョウの儀平書として傳へられてゐるものに、民は上(政府)の自由にならず愚者は智者の自由にならぬ、愚者を自由にしておくと國の害になる、といふやうなことのいつてあるのも、またそれである。(後の方の愚者についていふ自由には、わがまゝかつてといふ意義も含まれてゐるらしい。天明のころの或る人の上書に、物價は商人なかまで自由にあげさげする、といつてゐるばあひのもこれと同樣であらう。)ヤナガハ セイガンがイギリスのことを「北伐南侵得自由、意氣似欲併呑五大州、」と評したばあひの自由も、力が強くて思ふまゝのことができるといふことであらう。ヨコヰ ショウナンが富國論で「方今航海自由を得て萬國比隣の如く……」といつてゐる自由も思ふまゝにできるといふ意義である。ハヤシ シヘイの兵策問に、人の目は前にあり手も前へ動くが後方へは不自由だといつてゐるのは、できることを自由といひできないことを不自由といつたものと解せられる。またナベシマ家の家中の氣風を書いた葉隱に「武道に自由を得」といふことがあるが、これは武道を身につけてゐる、或は武道をわがものとしてゐる、從つて武道を意のまゝに活用し得る、といふ意義らしい。同じやうな意義でもいくらかづつの調子の違ひはある。
思ふやうになるといふ意義のから派生した用法として、「金ほど自由なるものはなし」(本朝二十不孝)といひ金の無いことを不自由といふ(二代男)やうな、いひかたも生じた。便利といふ意義で自由の語を用ゐた例もあるが、これもまた同じであらうか。民間省要に、道中は雲助があるので往來が自由となる、といつてあり、ニシカハ ジョケンの町人嚢に、何ごともあまりに自由なのはよくない、近ごろは巧みに自由なものが多くできて來た、と説いてあり、またモトヲリ ノリナガの秘本玉くしげに、自由はよいものだがしかしそれだけ物入りが多く、不自由な方がそれは少い、といつてあるなど、みなこの例であらう。猿蓑のバセヲの句にも西鶴五百韻のサイカクのにも、不便のことを不(84)自由といつてある。上に引いた天明年間の或る人の上書に賣買の不自由といふことがあるのは、圓滑にゆかないといふ意義らしいが、やはりこの例に入れてもよからう。
以上の用例でみると、キリシタン文獻に見えるものは別として、自由といふことばには、法令上の用語としてはいふまでもなく、その他のでも、何ほどか非難せられるやうな意義の含まれてゐるものの多いことが、知られるやうである。拘東をうけないといふばあひのでも、その多くは、社會的制約の外に立つといふ點で氣まゝな、もしくはわがまゝな、氣分があるから、一般人の生活態度としては承認しがたいものである。思ふまゝにするといふ意義でのでも、他人に關し世間に關することがらについていふばあひには、やはり同樣である。よい意義でいはれてゐる例もあるが、それは少い。フクザハの西洋事情に、リバチイまたはフリイダムにはまだ適當な譯語が無いといひ、さうして試に擧げたもののうちの一つに「自由」があるが、それについて、原語は我儘放盪で國法をも恐れぬといふ意義の語ではない、とわざ/\ことわつてあることも、思ひ出されよう。自由は實は適切な譯語ではないやうである。シナの上代に自由といふ熟語がどういふ意義のものとして作られたのか、知らぬが、由は率由といふばあひの由と同じく從ふといふ意義に用ゐられ、自己の思ひのまゝに行動する、といふことをいはうとしたのではなからうか、と臆測せられもする。
日本語やシナ語に、今日自由と譯せられてゐるヨウロッパ語に適切なものがあるかといふと、それは無ささうである。然らばどうしてそれが無いか、逆にいふと、ヨウロッパにどうしてさういふ特殊の語があるか。實はそのことが眞の問題であるが、この小稿ではそこまで立ち入つて考へる餘裕が無い。
(85) 九 萬葉集の第一歌
萬葉集卷一の卷頭の歌、即ち萬葉の第一歌、である大泊瀬稚武天皇の御製とせられてゐるものについては、かねてから疑問をもつてゐるので、そのことは拙著「文學に現はれたる國民思想の研究」の第一卷と「日本古典の研究」の上卷とに一とほり書いておいたが、「美夫君志」の創刊を機會に、少しくそれを補つておかうと思ふ。半ばは療病のため、半ばは休養のために、今、北輕井澤の山小屋に來てゐるので、ほんのこころおぼえとして書きつけておいたものをたよりに、おぼつかない思ひつきの一つを記すのみのことであるから、輕い氣もちで讀んでいただきたい。
問題の中心點は「家吉閑、名告沙根、」の二句にあるが、はじめの句は、今は多く「いへきかな」と訓まれてゐるやうであり、たしかマブチの意見であつたかと思ふが「吉閑」を「告閉」の誤寫と見て「のらへ」と訓む考は、一般には用ゐられてゐないらしい。誤寫とするにも訓みかたにもいろ/\の見解があるやうであるが、ぼくは前々から「告閉」説「のらへ」説が妥當であると考へてゐるから、その他の見解には、こゝでは觸れないでおく。かう考へるのは、男が女に家を告り名を告ることを求めるのが、かゝるばあひの一般の風習であつたと思ふからである。家の方では「松浦なる玉しま川にあゆつるとたゝせるこらが家路しらずも」(856)といひ、「玉しまのこの川かみに家はあれど君をやさしみあらはさずありき」(854)といつてゐるやうなばあひがあり、「問はまくも欲しき我妹の家の知らなく」と歎かれることもある。(見河内大橋獨去娘子歌 1742)。また名の方をいふと、「なにはがた潮干に出でて玉藻かるあ(86)まをとめども汝が名告らさね」(1726)と呼びかけても「あさりする人とを見ませ草枕たびゆく人にわが名は告らじ」(1727)と答へられることもある。女が名を告げることは、おのづから男の誘引を承認することになるから、或は「みさごゐる磯みに生ふる名のりその名は告らしてよ親は知るとも」(362)といひ、或は「しかのあまの磯にかりほす名のりその名は告りてしを何かあひがたき」(3177)、または「すみのえのしきつの浦の名のりその名は告りてしをあはなくもあやし」(3076)と恨む。この集に「名のりそ」といふ語の多く用ゐられてゐるのは、名を告るといふことがかういふ意味をもつためであらう。これらは家と名とをそれ/\別々にいつた歌の例であるが、途上に仆れてゐる男子の屍を見ての挽歌で、歌の情趣が上記のとは全く違つてゐながら、「家問へは家をも告らず、名を問へど名だにも告らず、」(3336)といふ表現法を用ゐてあることも、參考せられよう。これは「家告らへ、名告らさね、」といふのと同じく、家と名とを連稱したものである。さて第一首の天皇の自稱となつてゐる「われこそは告らめ、家をも名をも、」は一句のうちにおける家と名との連稱であるが、それはその前の「そらみつ、やまとの國は、おしなべて、われこそ居れ、しきなべて、われこそ坐せ、」とは、いふこともいひかたも相應してゐないので、「そらみつ」以下の六句があれば、家をも名をも告るといふことは無用であらう。のみならず、女に對して家を告れ名を告れといつたその前の二句のいひかたとも、また調和せず、すべてが混亂してゐる。御製として世に傳へられてゐるものがあつたかどうかは知らぬが、この萬葉のがさういふ御製でないことは、ほゞ明かであらう。
ところで、「吉閑」を誤寫と見るのは、次のやうな理由からである。この場合の「吉閑」を「きかな」と訓むことができるかどうかは問題であらうと思ふが、しかし「きかな」といふ語はこのころには用ゐられてゐたと解せられる。(87)たゞこのばあひにこの語が用ゐられたとするならば、それは女が家を告るのを天皇が「きかう」といはれるので、それは天皇が女の家を知りたく思はれるからであらうが、「きかう」といふ語をこの時代にかういふ意義に用ゐる習慣があつたかどうか。また家を告るのをきかうといはれるのは、天皇御自身のしわざとしてであるが、「名告らさね」といふその告るのは、女がすることであり、天皇からいへば告ることを女に求められるのである。だから「家きかな」と名を告ることとには、きくものといふものとの違ひがある。かういふことをかういふいひかたでいふことには、ふさはしからぬ感じが無いであらうか。それよりも、同じく女に對して、家を告りまた名をも告れといふ風にいふ方が、歌としてふさわしくはあるまいか。「吉閑」を「告閉」の誤寫と見るのは、これがためである。この歌の結句の「われこそは告らめ、家をも名をも、」はその好例であらう。(たゞしこの結句はこの天皇のこのばあひの歌のとしては甚だ不調和である。これももとは女のことばとして歌はれたものと推せられる。)
然らば「吉閑」を「告閉」の誤寫と見る理由はどこにあるのか。「告らへ」は「告れ」の義に違ひないが、「告れ」を「告らへ」といふのは、語の活用ではない。活用としては「告らさ……、告らし、告らす、告らせ、」などといはれるであらうが、「告らへ」は「告れ」のちがつたいひかたに過ぎず、語法上の活用でも變化でもない、と、ぼくは考へる。例へば「語り繼げ」のいひかたを變へて「語都我部」(「語り繼がへ」)といふのと同じであり(3329)、また「へ」に「閉」の字をあてるのは、「うつろへば」を「遷閉者」と書くやうな例であらう(2018)。ぼくは語法のことをよく知らぬが、これだけのことはいつてもよからうと思ふ。古典の文字の異同を考へるばあひに、ともすれば輕率に誤寫の斷を下すことは、ありがちのやうであるが、それと共にまた、古寫本に證を求めることを重んじすぎて、それが無(88)ければ傳本の文字を正しいと視るのも、また偏見ではなからうか。これについてもまた、必ずしも書誌學的の考證のみによらず、どういふばあひに誤寫と見なすべきかの、文學史的もしくは思想史的文化史的考察を加へることのできるばあひもありはせぬかと、思はれもする。萬葉學者でもないぼくがえらさうなことをいつて、相すまぬ次第であるが、これが初めにいつたおぼつかない思ひつきである。
(89) 第二 思想史斷片
一 學問の本質
只今、總長から御紹介を戴きましたが、私はこゝに集まられた諸君の大多數には、はじめてお會ひすることと思ひます。しかし私はこの學園に相當深い縁故のあるものであります。私は學園に七年前まで、二十餘年間、奉職致してをりました。またこの學園の古い時代の卒業生でもあります。さういふ關係から、こゝに諸君に對してなにかお話をするやうにといふことでありましたので、私は喜んでそれをおひきうけしました。私は昭和十五年のはじめに辭職を致しましたので、只今申しましたやうに、それから今日まで七年になりますが、それはつい近いころのことのやうに思はれます。けれどもそれと共に、この七年間は非常に長いやうでもあります。長いと申すのは、その間の時勢に大なる變化があつたためであります。七年ぶりに、この學園の構内に入つて、初めて見た恩賜館の崩れてゐる有樣、文學部の教室の半ば破壞されたやうな樣子、それをみると、感慨無量と申しますか、いろ/\なことが思ひ出されます。これは勿論、戰爭のために起つたことでありますが、その戰爭によつて、といふよりは戰爭をするといふことによつて、日本が、あらゆる方面において、すつかりあらされてしまひました。さうしてその結果が敗戰となりました。敗(90)戰の後の状態については、あらためて申すまでもありません。諸君が、今日、現に體驗せられてゐるとほりであります。これは七年の前には豫想せられなかつたことであります。このやうな大變化が、長い年月かゝつてもかうは變化しさうもないほどな大變化が、短い七年の間に起つたのであります。七年が長かつたと申しましたのは、この意味からであります。しかし敗戰は事實であります。冷嚴なる事實であります。われ/\はこの事實の中に身をおき、その冷嚴さを十分に體驗し味得することによつて、あらされはてた日本、敗れた日本を、如何にして再建してゆくべきかを、考へねばなりません。冷靜に、沈着に、深く思ひ、細かに考へねばなりません。ところが現實の状態は果してさうなつてをりませうか。私はそれに對して少からぬ疑ひをもつてをります。政治上、經濟上、社會上、思想上、の混亂動搖が、それを示してゐるのではありますまいか。少くとも思想界の風潮には、敗戰の事實を體驗してゐないかの如くに、或は戰爭中のあれはてた氣風がそのまゝ持ち續けられてゐるかの如くに、見える點があるのではありますまいか。このことについてはおひ/\にお話をしてまゐりませう。今はたゞ、戰爭がもたらし敗戰がもたらした日本の變化が、尋常の變化ではないといふことと、それに對していかなる覺悟が必要であるかといふこととを、申すのみであります。
たゞこの敗戰のもたらしたいろ/\のことがらのうちで、一つの喜ばしいこと愉快なことがあります。それは思想の自由、學問の自由、が得られたといふことであります。戰爭中の、或はそれよりも前からの、權力による思想の束縛、學問の壓迫、これは諸君が十分知つてをられることと思ふが、この束縛と抑壓とが解けて、さうして思想と學問とが自由になつたといふことは、學問に從事するもののために、また學校に入つて學問の研究にこれから進まうとせ(91)られる諸君のために、大きくいふと日本の學問のため文化のために、何よりも幸福なことであります。しかし、この幸福が敗戰によつてもたらされたといふことに、非常な矛盾と申すか、或は皮肉と申すか、さういふ感じが伴ふのであります。或はまた、それは不思議なこととさへも感ぜられるのであります。けれども考へてみれば、戰爭に負けたといふこと、或はまたもう一歩進んで、戰爭といふものを日本が起したといふこと、そのことが實は思想の自由が壓迫せられたためてある、學問の自由がなくなつたためである、といふふうに考へることができる。或はさういふふうに考へねばならぬと思ふのであります。もしさう考へることができるならば、敗戰によつて學問の自由、思想の自由、が得られたといふことが、むしろ當然なことなのであります。勿論、この自由が與へられたことには、別に大なる力がはたらいてをります。さうしてそれを考へると、この皮肉な、この矛盾したことのあるのは、今日の日本の最も深刻なる姿の一つであると考へねばなりません。
ところが、こゝに一つの問題があります。學問の自由、思想の自由、を壓迫した權力は、なるほどなくなつた。重苦しく人々の頭を壓へつけてゐた權力はなくなりました。しかし、思想と學問とが完全に自由になつてゐるかどうかといふことになると、かならずしもさうとはいへないのではないかと思ひます。といふのは、今日の言論界のありさまをみると、なにかそこに權力ではない一種の力があつて、壓迫ではない一種のはたらきがそこから出てゐる、といふやうなことがあるのではないか、と考へられるからであります。現在の言論界の樣子をみると、思想界が混亂してゐるとはいひながら、或る一つの潮流がその間にあつて、多くの言論機關にあらはれるその言論が、その潮流に押流され、或はそれに溺れてゐる、といふ状態であるのではないかと考へられます。勿論、極めて少數の例外はあります(92)が、概していふと、どれもこれも同じ考へかたで同じ方向にむいて同じやうなことを叫んでゐるので、それは戰爭中にすべての言論が一本調子であつたのと、似てゐるやうに思はれます。もしさうならば、それはやはり思想の自由が奪はれてゐることを示すものではなからうか。それが問題なのであります。どうしてかうなつたかといふと、それにはいろ/\の理由があり、それについてはまた、自由がみづから作り出したものではなくして他から與へられたものである、といふことも考へなくてはならず、そこにやはり今日の日本の特殊の姿があるのですが、それらのことは一おう別の話としておいて、只今申したやうなことが事實であるとするならば、さういふ潮流がどういふ性質のものであるか。新聞とか雜誌とか、その外、書籍とか講演とかに現はれてゐるところの、時代の潮流をなす思想が、どういふ部類のものであり、どれだけの價値をもつてゐるものであるか。それを明確に判斷することが必要になつて來ます。ところがさういふ判斷をするには、時の潮流のために押流されないところの學間の力、ほんとうの意味での自由を保つてゐる學問の力、によらねばなりません。同時に、かういふ判斷をするだけの權威を學問がもつてゐるといふことが、學問のほんとうの自由を保つて行くための、大事な途であらうと思ひます。それで、かういふ意味から、私はのちに、現在の思想界の主なる潮流に對する學問のたちばからの私の考の一部を述べ、さうしてそれを學生諸君の參考に供したいと思ふわけであります。が、その前に、一體學問をどんなものと私が考へてゐるか、といふことをまづお話することにします。それからその次に、さういふふうの私の考から、現在の言論界に對してはかういふ見解を抱いてゐる、といふことをお話する。さうしてその次に、この學園に學んでゐられる學生の諸君が、どういふ方法により、どういふ途によつて、これから學問の研究を進めてゆかれたらよからうか、といふことを、私の考としてお話してみ(93)たい。かういふ順序で三囘の講演を試みるつもりであります。
それで今日は、その初めとして、學問の本質といふことについてお話をしたいと思ひますが、ことがらの性質として、幾分抽象的な話になるのではないかと思つてゐます。第二囘目からは具體的な問題について、具體的な考を述べるつもりですが、その考の基礎として、一般的な、從つて抽象的な、ことを申しておかねばならないと思ひます。その點を豫め承知しておいて欲しい。それからもう一つ、私が申すことは私だけの考でありますので、この早稻田學園の意見とか、學校の當局の方々、若しくは教授の方々の御意見とかいふものとは、何の關係もありません。これは第二囘第三囘の話においても同樣であります。このことをも豫め承知しておいて下さるやうに希望します。
そこで學問の本質といふことであります。題目はえらさうであるが、こゝで申すことは、或は通俗的なことにならうし、或は中途半端なことにもなるのではないかと思ひます。限られた時間にお話するのであるから、これもまたしかたのないことと思ひます。さて學生の諸君は、この學園において、一口にいふと、學問をしてゐられる。通俗的なことばでいへば、さういつてよからうと思ひます。だから學問とはどんなものであるかといふことについては、諸君自身がすでに承知のことでもあらうし、またそれ/\自身の考をもつてもゐられることと思ひます。しかしどんなふうにそれを考へてゐられるかわかりませんから、私の考をお話してみることにするのです。まづ學問は物ごとを知ることであるといつてもよいでせう。けれどもその知るといふことはどういふことであるかといふことになると、これはむつかしい問題にならうと思ひます。或は心理學的にいろ/\な考へ方もあらうし、もう一歩考を進めると、哲學上の認識論の問題にも入りこむことにもなりませう。しかし今日はそこまで立ち入つてお話する餘裕はありません。(94)たゞ通俗的にかういふことが考へられませう。知るといふことについては、その知ることに、ほんとうのことを知るのと、さうでないことを知るのと、この二つがあるといはれませう。いろ/\な知識といふものがある。その知識には正しい知識もあり、正しからざる知識もあります。學問はこの正しい知識を得るためのものであります。ところが、正しい知識と正しからぬ知識とをどうして判斷するかといふと、それが即ち學問の任務であつて、學問的の研究の結果と一致する知識は正しく、一致しない知識は正しくない、といふことになります。もつと端的にいひますと、學問的研究の結果として形づくられた知識が正しいのであります。かう考へると、正しい知識といふものが既にあつて、それを得るのが學問ではなくして、學問によつて正しい知識が造られるのであります。學問は正しい知識を得るためのものだといひましたが、實は正しい知識を造るためのものだといふべきであります。學問といふことをしばらく離れて考へても、知識といふものが、もと/\他から與へられるものではなくして、自分から造るものなのであります。普通には、何ごとかについての或る定まつた知識が、人から教へられたり書もつで讀んだりすることによつて、他から與へられるもののやうに思はれてもゐるらしいが、實はさうではないのであります。勿論、自分が造るといつても、恣に、かつてに、造るのではありませんが、そのことをお話すると長くなりますからやめておくとして、ともかくも造るものではあります。もう一歩進んでいふならば、知るといふことがそも/\こちらの心のはたらきが主になつて行はれるのであります。それで、その知識を、正しい知識を、形づくるための學問が、やはり他から與へられるものを受入れることではなくして、こちらからはたらきかけてゆくもの、自分のしてゆくしごと、なのであります。よけいのことのやうであるが、まづこれだけのことをいつておいて、さてその學問とはどんなものであるかといふことを、(95)これから申すことにします。
學問とはどんなものであるかといふことを考へるについて、學問には二つの種類があるといふことが注意せられます。一つは物ごとは何であるかを知ることであります。何であるかとだけいふと、物ごとは固定したもののやうに聞こえますから、どうしてさうなつたかといふこと、或はどうなつてゆくかといふことを、それにつけ加へてもよろしい。物ごとには變化といふことがあるから、その變化をも含めて、物ごとは何であるかといふこと、それを知るのが學問の一つであります。自然科學は、いふまでもなく、この部類の學問であるが、人の生活に關するものでも、心理現象社會現象を客觀的の存在と見て、その本質なり、それが形づくられた由來なり、またそれに存在する法則なり、を知る學問は、やはり同樣であります。それからもう一つは、何をなすべきか、或はいかになすべきか、といふことを知る學問であります。道徳の學、政治の學、はそれであるが、人の生活に關する學問には、ともすればその分子がまじつて來ます。自然科學に關する方面でも、たとへば、技術に關するものには、どうすべきかといふ問題が根柢になつてゐます。どうすればかういふものができるか、どうすればそれを造るに便利であるか、といふところに技術の問題があります。ところが、この二つの學問の間には密接な關係があつて、どうすべきであるか、どうすればよいか、といふことを考へるには、まづその取扱ふ物ごとは何であるかを考へることが必要であります。只今技術といふことを申しましたが、ものを造るにしても、造るのは人間のはたらきであるが、造る材料は自然の存在であるから、その材料が何であるか、どうしてできたものであるか、どうすればどうなるものであるか、といふことについての知識が先づなければならないのであります。農業についても工業についても、すべての技術は、確實な自然科學の知識の基(96)礎の上に立たねばならないのであります。人の生活に關する學問でも同樣であつて、例へばいかなる政治をすべきかを考へるには、事實として國家とはどういふ性質をもつてゐるものであるか、國民とはどういふはたらきをしてゐるものであるか、民衆の生活はどういふ状態にあるか、民衆はどういふ心理で動いてゆくか、その他いろ/\のことがらについての確實な知識にもとづかねばならず、さうしてさういふ知識はみなそれ/\の學問的研究の結果として得られるのであります。勿論、一方からいふと、技術の方の要求によつて自然科學に新しい問題が起されたり、研究が誘ひ出されたり、することもあり、政治や道徳に關する問題を考へることが人間生活の事實についてのいろ/\の學問の研究を導き出す、といふこともあります。ですからこの二つの學問の間には互に密接の關係があり、實際にはそれを引き離して取扱ふことのできないばあひもあります。しかし、學問の性質としてはその間に區別があるから、それを混雜させてはなりません。特に人の生活に關するものにおいてさうであります。もしそれを混雜させることになると、何であるかといふことと、どうすべきかといふこととが、混雜して、兩方の學問が兩方とも歪められることになります。それのみならず、どうすべきかといふことは、かうありたい、またはかうしたい、といふ希望または欲求と離れがたい關係がありますので、そこからもまた物ごとの眞相がありのまゝに見られない、歪んだ形で人の目に映ずる、といふことが起りがちであります。かうありたい、かうしたい、といふ欲望は、一方では、さうあらせねばならぬ、さうしなければならぬといふ考をよび起す、或はさう錯覺する、或はむしろそれに轉化するのが、心理上の事實であるが、他方では、欲望が物ごとに反映して、物ごとが欲望にあてはまるやうに見えて來る、ほんとうはさうでないことがさうであるやうに思はれて來る、といふ心理のはたらきがあります。そこから、物ごとの何であるかを知(97)るための學問が、學問の裝ひをもつてゐながら、學問でなくなる、といふ危險が生じます。このことについては、第二囘において具體的なことがらについてお話したいと思ひますが、今はたゞこれだけのことを申しておきます。ところが、學問の研究において物ごとの眞相を見あやまらせる事情は、この外にもいろ/\あります。それをお話するには、學問といふものがもと/\どうして起つたものか、今の學問はどういふ性質をもつてゐるもの、どうして成立つてゐるものか、といふことから入つてゆくのが、都合がよからうと思ひます。
われ/\は今日の學問の發達した時代に生活してゐるものであるから、學問のない世の中といふやうなものは、想像することがむつかしいが、しかしこれは、今日だからさう考へるのであつて、文化の發達しなかつた時代においては、學問といふやうなものはまだできてゐなかつたのであります。ところがそれから後に、一般の文化の發達と共に學問が起つて來ました。それならばそれはどうして起つて來たものであるか。それを知るには、學問の無かつた時代のことを考へてみるのが便利だと思ひます。先刻申しました學問の二つの種類にあてはめていふと、學問のまだなかつた時代において、物ごとが何であるかといふことがどういふ風に取扱はれてゐたか、或は何ごとをなすべきかといふことがどういふ風に取扱はれてゐたか、といふことを考へてみるのであります。まづ物ごとが何であるかといふことについてであるが、それを學問的に考へなかつた古い未開の時代においても、やはり何らかの解釋はあつたわけであります。いまの學問の研究の結果とはまるで違ふけれども、上代の人、未開の時代の人は、未開時代の考へかたでその説明をしてをり、それが知識として存在したのであります。自然界の事がらについていふと、たとへば太陽が東から出て西に入る、かういふことはどうして起るか、あの太陽は何であるか、といふことは未開人でも問題にしてゐ(98)たのですが、それを、あゝいふ光を出す生きたものが空を飛んでゆくのだ、と解釋してゐました。人のことについていふと、例へば病氣をするといふことがある。それは目に見えない惡いものがあつて人のからだに入るためだとか、狐のやうなものが人につくためだとか、いふ説明をしてゐました。さうしてかういふ解釋かういふ知識は、古くからいひ傳へられて來たものであつて、それを人々は疑はずに信じてゐたのです。次には、何をなすべきか、といふことでありますが、未開時代の人はいはば衝動的に、そのばあひ/\の氣分によつて行動をしたので、かういふ行動をしたとすれば、如何に行動すべきかといふことは考へられなかつたのです。人から殴られればすぐに殴り返す、食べたければなんでもあるものをとつて食べる、といふのです。しかしまた事がらによつては、いろ/\な社會的の習慣があつて、その習慣に從ふことによつて行動をして來たのであります。このばあひでもそれが無意識に行はれる時には、どう行動すべきであるかといふことは考へられてゐないのですが、もし意識して習慣に從ふ時には、ぼんやりながらさうすべきものだといふ考が潜在してゐるものと見なされませう。たゞ人は習慣に從ふべきものだとは考へられても、その習慣がよいかわるいか、なぜそれに從ふべきであるか、などといふことは考へられてゐません。さうして實際は無意識に習慣に從つてすることが多いのです。要するに、二つの問題の何れについても、自覺して考へることが無かつたのであります。ところがだん/\生活の經驗が重なつて來ると、かういふやうなことでは滿足しなくなります。といふのは、いままでのあり來りの知識では事がらの解釋ができない、どうもこれはをかしい、現實の状態とは違ふ、といふことが考へられて來ます。いひかへると、いままでの解釋に對して疑ひを懷くといふことが起つて來るのであります。太陽は生きたものだと思つてゐたが、ほんとうにさうだらうかといふ疑が起きるのであります。或はまた、(99)今まではそのときの衝動によつて行つて來たが、さうしてゐると自分の生活といふものが妨げられる、或は幸福でなくなる、たとへばめい/\が腹がへつたときにはなんでもそこにあるものをとつて食べるといふと、その間に喧嘩が起るから喧嘩が起つたのではわれ/\の生活がよくできない、かういふことが考へられて、これは、すべきことと、してはならぬこととの、區別があるのではないか、といふやうなことを考へて來る。それからまたいままでの社會的な風習の通りにすれば、却つて自分の不利益になつたりすることがある、さういふふうなことをたび/\經驗すると、そこからこれまでのやうな行動のしかたでは、人間が生きて行かれない、といふふうに考へて、それに疑ひを起す。要するに、二つの問題の何れにおいても、これまでの知識、これまでの態度について疑を起して來るのであります。この疑ひを起すといふことが、學問といふものの起源にも根柢にもなるのであります。疑ひを起せば、どうかしてこの疑ひを解釋しようといふことになるのであつて、そこで物ごとを考へるといふことが起るのであります。疑ひを起すといふことは、人間が人間の知性のはたらきを自覺するといふことであります。智力のはたらきがそこから展開を始め、物ごとを考へるといふことがそこから起つて來るのであります。勿論かうなるまでには甚だ長い年月がかゝるのでありまして、こゝに申してゐるやうに簡單にまた急速に行はれるのではありませんが、ことがらの順序はほゞかういふものだらうと思はれます。ところで、これは學問の遠い淵源となることではありますが、まだ/\學問にはなりません。それが學問になるにはこれから後の長い經過が必要であります。その經過といふのは、一くちにいふと生活の經驗を重ねてゆくことですが、經驗を重ねてゆくことによつて、これまでもつてゐた知識、またして來た行動に對する疑ひが多くも深くもなり、從つてまたその疑ひを解き、新しい知識を得、またこれまでとは變つた行(100)動をしようとする欲求も盛になり、それについての心のはたらきが進んで來るのでありますが、それがまた新しい知識を得、新しい經驗をすることにもなります。既に申しました如く、知識といふものは外から與へられるものではなくして、自分から造つてゆくもの、わが心のはたらきによつて造られてゆくものですが、普通に經驗といはれることもまた同樣であつて、それは、かういふやうにして形づくられた知識、その知識を形づくつてゆく心のはたらき、またそれと絡みあひはたらきあつてゐる外界に對する行動、さういふものによつて成立つてゆくものと思はれます。かういふ經驗の年月を經、時代を經て、積み重ねられてゆくことによつて、物ごとに對する疑ひも、その疑ひを解くに必要な知識も、次第に加はつてゆき、おひ/\に學問の成立に近づいてゆくのであります。
ところで、知識が加はり經驗が加はつてゆくには、或は物ごとに對する疑ひの加はつてゆくには、いろ/\の事情がありますが、こゝに二つの大せつなことを申しておかうと思ひます。その一つは、自分たちの平生住んでゐるところとは違つた土地にゆき、また自分たちとは違つた生活をしてゐる他の民族と接觸することであります。陸地ばかりを見てゐたものが海のあるところにゆき、農業のみをしてゐたものが舟のりの生活をしてゐる民族に接觸することによつて、どれだけ新しい知識を得、新しい經驗を得るかは、いふまでもありません。土地が違へば新しい物ごとがあり、生活のしかたが自分たちと違へば物ごとに對して自分たちとは違つた考へかたがあり、行動のしかたがある。それを見たり聞いたりすれば、それに對していろ/\の疑ひが起る。その疑ひが解けて今まで知らなかつた物ごとがわかつて來ると、こんどは逆に、自分たちのこれまでもつてゐた知識や行動のしかたに對して疑ひが生じて來る。さういふやうにして經驗が加はり、心のはたらきも進んで來るのであります。むかしのギリシャ人の精神生活があれほど(101)に盛であつて、學問といふものが世界においてはじめてそこで形づくられたことには、いろ/\の理由があらうが、その淵源の少くとも一つが、今申したところにあることは、明かでありませう。ギリシャ人のことは別としまして、書もつといふものができてから後に、その書もつによつて、これまで知らなかつた違つた土地の物ごとや、違つた民族の生活やその心のはたらきを知るのも、これと同じであります。さういふ知識の無い、またはそれを得ようとしない人々は、いつまでも、これまでもつてゐた狹い知識で物ごとを考へ、それに對して疑ひを起すことをせず、またはそれをもとにして行動をするので、さういふ人々によつて成立つてゐる社會は、知識が進歩せず、學問の既に形づくられてゐる時代でも、その學問が發達しないから、考へることにもすることにもまちがひが多く、その社會は混亂し生活は頽廢するのであります。思はず話がわきにそれましたから、もとにもどします。
次にもう一つは、世の中の變化するに從つて、新しいものごとが現はれて來るといふことであります。或は從來知られてゐなかつた、思ひもかけなかつた、物ごとが現はれ、それによつて世の有樣が變り、生活の状態も變らねばならぬやうになることであります。これまで知られてゐる物ごとについては、これまでの知識これまでの考へかたで解釋ができたやうでもあるが、いままで知られなかつた新しい物ごとが現はれると、それでは解釋ができなくなる、或はこれまでの世の中のありさま生活の状態では、從來の習慣によつて行動すればよかつたやうであるが、世の中が變つてはそれではいけなくなる。そこで從來の知識や從來の行動のしかたに對して疑ひが生じて來る。かういふ經驗が重なるに從つて、知識を高めようとする心のはたらきも盛になり、新しい生活を開いてゆかうといふ要求も強くなるのであります。新しい物ごとが現はれ世の中の變るといふことが、既に知識が加はり生活のしかたが改まることによ(102)つて導かれるばあひが多いのでありますが、そればかりではなく、例へば外部との交渉によつてさういふことの起るばあひもあるから、一面の事實としてかういふことが考へられるのであります。
かういふやうにして、長い間に、自覺して物ごとを考へ自己のすべきことを考へるはたらきが發達して來たのですが、それをいひかへると、いひ傳へられて來た知識や社會的の習慣に對して疑ひをもち、その疑ひを解いてゆかうとする精神活動が盛になつて來た、といふことであります。これが學問の形づくられる方向をとつて人の知性のはたらきの進んで來た道すぢであります。しかしほんとうに學問の形づくられるまでには、まだ遠い距離があります。それは、知性のはたらきの初歩の状態においては、第一に、そのばあひ/\の必要に應じて一つ/\の物ごとを個々別々に離れ/”\に考へるのでありますから、さういふやうにして考へたことは、他の物ごとにはあてはまらないものであります。ところが考の幼稚な時代には、それが何にでもあてはまるやうに思ふものであります。第二に、自分の目に見えた、或は特に注意をひいた、一面だけを捉へて、それがその物ごとの全體であるやうに思ふことであります。第三に、その時に自分のもつてゐる狹い知識によつて物ごとを考へるのであつて、考へることのために更に廣い知識を求めるといふことをしません。また第四には、自己の希望や欲求によつて物ごとを見る目の歪められる傾向が特に強い、といふことがあります。從つて、かういふやうにしてきめられた考は、一面的であり、臆斷的であり、恣意的であり、要するに現實の物ごとと一致しないもの、またすべての人の行動の指針とはなりがたいものであります。しかし、學問の發達してゐる現代においても、學問的修養の無い人々または足りない人々の考へかたは、ほゞこの程度のものであります。ところが、それがまた長い年月を經て、一般の文化の發達と共に、次第に現代的意義での學問を形(103)づくるやうになつて來ました。その間の道すぢを今こゝで申すことはできませんから、一足とびに現代に移つて、今の學問とはどういふものであるかといふことを、申すことにしませう。
學問は正しい知識を造るためのものだ、といふことを前に申しました。また學問的研究の結果として得られた知識が正しい知識だ、とも申しました。しかしかういつただけでは、正しい知識がどういふものであるかを説いたことにはなりません。そこで、正しい知識とはどんなものかと申しますと、物ごとについてその本質の明かにせられ、その眞のすがたとはたらきとの示されてゐる知識がそれである、といつてよからうと思ひます。さういふ知識を造るのが學問でありまして、物ごとの何であるかを知る學問においてはいふまでもなく、如何にすべきかを考へる學問においてもまた同樣であります。するといふことは自己のすることでありますから、自己の本質の明かにせられまたすべきことの本質の示されてゐる知識が、正しい知識であり學問的知識であります。ところがかういふ知識を造るには、こちらから探求しなければなりません。物ごと自身が向ふからそれを示してくれるのではないからであります。造ると申したのもこのためでありまして、知識を形づくるのはこちらの心のはたらきでありますが、正しい知識を形づくるには心の正しいはたらかせかたをしなければなりません。そこで學問には「方法」といふことが必要になります。どんな學問においても方法論といふものがありますが、それはこのためであります。今その方法論といふものをお話しようとするのではありませんが、たゞ學問的研究をするについて、即ち物ごとの本質とそのはたらきとを探求するについて、忘れてはならぬ二三の用意を申してみたいと思ひます。
その第一は、學問的研究の出發點として、または基礎として、物ごとの具體的な状態もしくは一々の事實を、あり(104)のまゝに、精密に、正確に知る、といふことであります。學問は何等かの物ごとについての何等かの問題、即ち疑ひ、があつてそれを解釋しようとするしごとであり、普通に「研究」といはれてゐるのは即ちそのしごとのことでありますが、いかなる學問においても、その間題に關係のある物ごとについて、具體的な一々の事實を正確に知ることが、研究の出發點となり基礎となるのであります。一こと申しておきますが、學問の多くは、或る物ごとについての一般的法則の何であるかを問題として、それを知るのが研究の目的となつてゐるので、只今いつたことはさういふ學問についてのことであります。しかしかういふ具體的の事實を明かにするところに目的をおいてゐる學問もあるので、例へば歴史學の如きはそれであります。勿論、歴史學とても、一つ/\の歴史的事件または或ることがらの或る状態についての事實を、知るのが目的ではなく、事件が事件を展開してゆき、或る状態が次の状態に移つてゆく、その道すぢそのありさまを明かにするところに眞の意味があるのですが、その求めるものはどこまでも具體的な事實そのものであり、その展開その進行の道すぢとてもまた具體的の事實なのであります。從つてそれは一般的法則を求める學問とは違つてをります。たゞかういふ學問においても、一つ/\の事件、または一つ/\の事がらの或る状態、を正しく知ることが研究の出發點となり基礎となる、と一おうはいひ得られるので、そこに只今いつたことのあてはまるところがあります。ところが如何なる學問においても、かういふ一つ/\の具體的な事實を正しく知るといふことがむつかしいしごとなのであつて、簡單なことをいひますならば、われ/\が直接に目で見たもの耳で聞いたことが實はほんとうのものを見ほんとうのことを聞いたのではない、といふばあひさへも多いのであります。ですからそれを知ることについてはそれ/\の學問的方法が考へられてゐるのであります。しかし世間にはこの基礎的なしごとが誠實(105)に行はれず、それがために事實でないことが事實であるやうに取扱はれ、そこから正しからぬ結論のひきだされることが少なくないのであります。あとでその實例をお話する機會があらうと思ひます。
第二は、只今申しました正確な具體的事實の基礎の上に立つて、或はそれを資料として、問題を解釋しようとするその方法であります。具體的な一々の事實を知るについて學問的の方法があるといふことは、只今申しましたが、そのやうにして知られた事實にもとづいて問題を解釋しようとするには、なほさら方法が大せつであります。學問的研究であるかないかは、この方法が正しいか正しくないかによつてきまるのであつて、正しい方法によらない考へかたをしたものは、學問的研究ではありませんし、またさういふ考へかたによつたのでは、問題の正しい解釋は得られません。世間には、何等かの事がらについての或る意見とか、問題に對する或る見解とか、さういふもののみを見てそれに同意したり反對したりして、どういふ考へかたによつてその意見が得られたか、どういふみちすぢによつてその見解に到達したか、といふことを考へない人たちが少なくないやうでありますが、それは學問的研究といふことを理解しないものであります。學問的研究には、問題がどこにあるか、その問題を解釋するためには、どこから出發し、何を資料として、どういふ方法どういふ考へかたにより、どういふ過程を經て、どういふ解釋を得どういふ結論に達したか、といふことが大せつなのでありまして、その方法が明かでなかつたり經べき過程を經なかつたりして或る見解を得たとしても、それはいはば一種の思ひつきに過ぎず、或は恣な臆斷といふべきものであります。ところが、研究の方法と過程とを考へない人には、學問的研究の結論であるかまたはかういふ臆斷であり思ひつきであるかの、區別がつきません。そこから、誤つた意見なり根據の無い見解なりが、世間にひろがるやうになります。今の新聞や雜(106)誌を賑はせてゐる言論には、到るところにかういふ種類のものがあるやうに見えます。
さてその方法でありますが、それをこゝでお話するわけにはまゐりませんから、たゞ考へかたが論理的でなければならぬといふことだけを申しておきます。わかりきつたことでありますが、世間の言論には、あまりにも非論理的な考へかたが多いので、かう申すのであります。なほ實際の研究に當つて注意すべきことの一つを申すならば、或る物ごとについてその本質的なことと附隨的なこととを判別することが必要だ、といふことであります。現實に存在しまたは起つて來る具體的の物ごとは、どんな小さなことでもいろ/\の分子の含まれてゐる複雜なものであつて、そのことに本質的なところと、そのばあひ/\でそれに加はりそれにつきまとつてゐる附隨的なところとがありますから、正しくそれを判別しなければ、附隨的なところを本質的なところと誤認し、却つて本質的なところを見失ふやうなことになります。さうなると正しい研究はできず、問題の正しい解釋を得ることはできません。それを判別するにはいろ/\の學問的方法がありますが、そこまでお話する餘裕はありませんから、これだけにとゞめておきます。
第三は、學問知識は組織せられたもの體系をもつたものでなくてはならぬから、どんなことがらの研究をするにもそれを考慮においてせられねばならぬ、といふことであります。學問的に研究をする問題には小さいものもあり大きいものもあつて、いろ/\ですが、どんな問題でも、それだけが獨立してゐて他と全く關係が無い、といふものはありません。ごく大きく考へると、あらゆる學問的知識はみなその間に何等かの關係があつて、それらのすべてが一つの大きな學問の體系として組織せらるべきものだともいはれませう。しかし實際の研究の方からいふと、そこまで考へるのはむつかしいことであるので、大體いまの學問のいろ/\の分科の如き程度と範圍とにおいて、それ/\の方(107)面の知識が體系化せられてゐるのであります。勿論かういふ分科のしかたには便宜的ともいふべき意味があるので、必しも嚴格のものではなく、絶對的のものではなほさらありません。こゝではたゞ學問的知識、從つてそれを得るための學問上の問題は、どんなことでも離れ/”\のものではない、離れ/”\のものとして考へたのではほんとうの研究ができない、といふことを申すために、かういふお話をするだけのことであります。かう考へますと、どんな小さな一つの問題でも、それは、もつと大きな問題と、またはその他の多くの問題と、密接な關係があり、從つて小さなことが大きな意味をもつてゐる、といふことがわかるのでありまして、その間題の研究は、他の問題、他の方面の研究と、關聯してせられねばならぬ、といふことが知られるのであります。實際の研究の方から申しますと、或る問題について一つの解釋が得られたばあひに、その問題だけはそれで解釋ができたやうに思はれても、それと關係の深い他のいくつもの問題に考へ合はせると、それでは矛盾やくひちがひが生じて、はじめの一つの問題だけもほんとうには解釋せられてゐないことが、わかつて來る、といふこともあります。ところが、互に矛盾したりくひちがつたりしてゐる考は、體系的に組織することのできないものであります。學問的知識は體系を具へたものでなければならぬ、といふことは、こゝからも知られませう。
第四は、人の生活に關する學問についてのことでありますが、人は多方面のはたらきをするものであり、人の生活には多くの側面があるから、學問的の研究においても、その一方面一側面のみを見ず、全體の上からそれを考へねばならぬ、といふことであります。人をその全體として見る、全人的にと申しますか、さういふ見かたをしなければならぬといふのです。勿論、研究しようとする一つ/\の問題は、主としてそのどれかの一面に關することにはなりま(108)せうが、その一面のみが人の生活ではなく、それはたゞ多くの面のうちの一つに過ぎないといふことを、常に忘れずに研究すべきであります。多くの面があるといつても、それは離れ/”\に、即ち互に獨立して、はたらいてゐるのではなく、一つの生活の異なつた面に過ぎないのでありますから、その一面に他の多くの面のはたらきが現はれてゐるのであります。いひかへると、すべてが全人的のはたらきなのであります。これは個人の生活においても社會的集團としての生活においても同じであつて、社會的集團の生活に、例へば經濟の面、政治の面、宗教の面、文藝の面、學術の面、などがあるにしても、それらは何れも一つの生活のさま/”\の面であり、互にはたらきあふものであつて、離れ/”\に存在するものでもはたらくものでもなく、一つの面のみが他の多くの面に支配的なはたらきをするものでもない。だから、どの面のことを考へるについても、それが多くの面のうちの一つであり、そのはたらきは他の多くの面のはたらきをうけてゐるものであることを、よく知つて研究すべきであります。なほこのことに關聯していひそへておきたいことは、集團生活の状態なり社會現象なりの研究の方法として分析といふことが重んぜられてゐるが、それはもとより必要のことながら、それだけではそのことがらの眞のはたらきはわからない、といふことであります。分析は、そのことがらが如何なる要素から成りたつてゐるか、その一々の要素がそれ/\如何なるはたらきをなしまた相互の間に如何なる關係をもつてゐるか、どれがそのことがらに本質的のものであつてどれがさうでないか、などのことを明かにするための方法であつて、學問上しなければならぬことでありますが、それと共に一方では、そのことがらの全體を全體として觀察することが必要であり、この二つが伴はねばならないと考へられます。そのことがらの現實のはたらきは全體としてせられるのであつて、分析せられた各要素のはたらきはそれだけとしては現實には存(109)在しないものであります。また全體として觀察するといつても、それは分析せられた各要素を綜合するといふしかたによつてではなく、分析とは別に全體として見ることであります。酒の定量分析によつて得たその幾つかの成分をそれ/\の分量に應じて混和しても、ほんとうの酒の風味は出ません。人の生活に關することがらにおいてはなほさらであります。のみならず、かういふことがらの分析の過程には、全體としてのそのことがらに對する何等かの見解がはたらいてゐるばあひが多いのであります。といふよりもそれが無くては分析ができないといつた方が當つてゐるかと思ひます。分析の結果が人によつて違ふのは一つはこのためでありませう。分析といふことのみがいはゆる科學的方法だと思はれてもゐるやうですから、このことを申すのであります。人を全體として見る、全人的に見る、といつたことにはこの意味も含まれてゐます。それは即ち人をそのはたらきについて見ること、人の生活を具體的な姿として見ることであります。
學問的の研究についての一般的な用意としては、これまで申して來ましたやうなことが考へられると思ひますが、こゝに附け加へておきたいのは、研究の基礎もしくは資料としての一々の具體的な事實を知るにも、また研究の問題とせられた何等かの物ごとの眞相、その本質を明らめるにも、それを妨げるいろ/\の事情があるといふことであります。このことを人の生活に關する學問についていつて見ませう。自然科學についてもあてはまることもありますが、今はその方を問題外におくことにします。さてその第一は、自分たちの希望もしくは欲求が物ごとに反映してそれを色づけ、それがためにありのまゝのすがたが蔽はれ、さうでないことがさうであるやうに見える、といふことでありますが、これについては既に前に申しておきました。第二は、既定概念といひますか、從來の理論または學説といひ(110)ますか、さういふものが物ごとの眞相を見あやまらせることであります。さういふものにおいても、第一として申しました理由によつて、初めから物ごとの眞相を見あやまつてゐるものもありますが、このやうな意味での誤つた見解とは違ひ、誠實な學問的態度で研究せられたものでも、その基礎となり資料となつた具體的の事實が或る民族または或る文化系統に屬してゐる社會に特殊なものであるばあひに、それによつて形づくられた何等かの學説は、違つた民族なり違つた文化系統に屬する社會なりの物ごとを研究するばあひには、あてはまらないところがあるにかゝはらず、それが一般的理論としての學説の形をもつてゐるために、何となくそれにあてはめてその物ごとを見るといふ態度が生じ、そこから、その物ごとがありのまゝに研究者の目に映じない、といふことが生じます。時代が變り生活の状態が變つて來た後に、その現在の状態によつて形づくられた或る概念にあてはめて、變らない前の物ごとを考へたり、またはその反對に、變らない前の状態に本づいて構成せられた或る理論にあてはめて、現在の物ごとを見たり、さういふやうな考へかたをするのも、またこれと同じであります。この民族性と時代性とについては、なほ後にも申しませう。それから、一般の學問が進歩したり、當面の問題を取扱ふ學問の研究法が改められたり、さういふ變化が起つた後において、前の時代に形づくられた學説なりその考へかたなりによつて物ごとを見るばあひにも、同じやうなことが起ります。なほ或る思想なり思想的態度なりが繼承者追隨者を得て、いはゆるイズムを形づくつて來たばあひに、そのイズムによつて物ごとを見ると、偏した見かたになり、ありのまゝの姿が目に映じない、といふことにも注意しなければなりません。
第三には、學問そのものの性質がよく理解せられないところから來ることがあります。前に既定概念といふことば(111)を使ひましたが、一般的法則を求めようとする學問の研究の結果として得た知識においては、すべての物ごとは抽象化せられ概念化せられてをります。ところが、概念化せられたものは現實にあるものではなく、抽象化せられたものは具體的の存在ではありません。然るに現實の具體的な存在がこの抽象せられた概念と同じである如く思はれ、それがために現實の存在としての物ごとのありのまゝの姿が見失はれることになりがちなのであります。前にも申したことがありますやうに、現實に存在する具體的の物ごとは、どんな小さなものでも、いろ/\の分子が複雜に結びつけられてゐるもの、無數の因子がはたらきあつて形づくられたものであり、さうしてその複雜さの程度や結びつけられかたは、具體的な物ごとの一つ/\によつて違つてをります。さういふものをそのまゝにしておいたのでは、學問的の取扱ひができません。また物ごとに共通な、即ち一般的な、法則を求めやうとする學問の目的にもかなひません。そこで、それらの物ごとを分析して、その何れにも共通なこととさうでないこととをよりわけ、或は本質的なことと附隨的なこととを、または研究する問題にあてはまることとさうでないこととを、ふるひわけるのでありまして、そこに抽象化概念化が行はれるのであります。中には、物ごとそれみづからにおいては分離することのできないものを、取扱ひの上において強ひて分離することさへもありますので、それもまた抽象化概念化の一つのしかたであります。かういふことが研究の過程において行はれ、研究の結果としての知識においてもまたさうなつてゐるのでありますが、かういふ概念としての物ごとは、現實には、即ち具體的には、決して存在しないものであります。もし現實の存在がかういふ概念と同じであると思ふならば、或は概念をとほして現實の物ごとを見るならば、それは眞の現實とは違つたもの、即ち現實には存在しないものを、存在するが如く錯覺することになるのであります。
(112) お話までがあまりに抽象的になりましたから、こゝに一つ最も簡單な例を擧げてみることにしませう。世の中に精神的といひ物質的といふことばがあります。さうして純粹に精神的なもの、また純粹に物質的なものが、現實に存在するかのやうに考へられてゐるかと思はれます。しかし私の考では、人の生活に關する物ごとである限り、純粹に精神的なものも純粹に物質的なものもありません。これは、本來分離することのできない生活の二つの面を、もしくは二つのはたらきを、強ひて分離させた抽象的な概念であつて、現實に存在するものではありません。どんなに發達した精神的のはたらきにおいても、何等かの物質的の條件の伴はないものはなく、どんなに未開な時代の人の物質の取扱ひにおいても、何ほどかの精神的のはたらきの伴はないものはありません。物を食ふといふことは純粹に肉體的なはたらきであり物質的なことのやうですが、どんな未開人においてもうまいとかまづいとかいふ感じがそれに伴ひ、そこから食物を撰擇することが生じます。もつと根本的にいふと、食ふといふことに伴ふ生理的のはたらきに既に心理的なはたらきが加はつてゐます。また自然生の草の根や木の實を採集して食ふにしても、どこにそれがあるか、どうしてそれをとるか、を知らねばなりません。或はまた食物を採集するために道具を使ふやうになるには、それだけの智力が發達してゐなければならないのです。なほ社會的にいへば、食物を採集することのできるものと、それはできないが食ふ必要のあるものとの間に、或る一定の關係が、むつかしくといふと採集と分配との關係が、成立つてゐなくては、できるものがそれをすることができませんが、さういふ關係の成立つには、精神的のはたらきがなくてはなりますまい。甚しき未開人の生活においての食ふといふ單純なことについても、かう考へられます。そこには精神的のはたらきと物質的のとの二方面がありますが、さう分けて考へるのはわれ/\の概念としてであつて、食ふこと(113)はたゞ一つの食ふことなのであり、それが現實なのであります。然るにこのことを考へずして、食ふといふことは物質的のことであるなどと思ふならば、それは抽象化せられた概念によつて現實を見あやまつたものであります。
かういつて來ますと、前に申したことに關聯して、もう少しいひ添へておきたいことがあります。人の生活には多方面があるが、それらは何れもそれ/\に獨立して離れ/”\に存在するものではなく、一つの生活の諸方面である、といふことを申しました。ところで、學問にいろ/\の分科があるのは、この生活の諸方面に對應するものであるといつてもよいので、經濟學とか政治學とか宗教學とか、その他いろ/\の學問の分科が生じてをります。しかしそれは、經濟とか政治とか宗教とかがそれ/\別々の存在であるからではなくして、人の能力に限りがあり、人の知性があらゆる方面にわたつてはたらくことのむつかしいものであるために、研究の便宜上、かういふ分科ができたのみのことであります。從つてかういふ學問の對象としての社會現象は、それが他の學問の對象である他の社會現象から區別して取扱はれる限り、畢竟抽象的のものであつて、現實の存在ではないのであります。然るに、學者はともすれば、自分の學問の對象となつてゐることがらがそれだけで獨立に存在するものであるかの如き、錯覺を生じ易いので、そこからさま/”\の誤謬や弊害が起つてをります。甚だしきは、自分の研究してゐることがらがすべての人間生活の、或は社會現象の、基礎であり、それがその他のあらゆることがらの上に支配的勢力をもつてゐるもののやうに、思つたり説いたりするものさへもあります。これもまた抽象的概念をそのまゝ現實の存在と見るために、現實の存在を見あやまることの一つの例であります。學者は自分の專門とするところの學問がそれだけで獨立に成立つものでないこと、その研究の對象が多くの方面をもつてゐる人の生活において如何なる地位を占め、從つてその學問が多くの學問(114)の分科においてどういふ分限とはたらきとをもつものであるかを、よく考へて研究をしなければなりません。例へば人の生活のいろ/\の現象がすべて經濟のはたらきによつて支配せられるもののやうに思ふ經濟學者がもしあるならば、それはこのことを考へないものであらうと思はれます。
次に、物ごとの眞相を見あやまらせることの第四として、一つの重要なことを申しませう。それは、人の生活には民族による特殊性と時代による特殊性とがあるにかゝはらず、學問は世界的一般性をもつてゐるもの、もしくはもたなくてはならぬもの、であるとせられてゐるところから、さういふ學問上の或る學説なり理論なりによつて、或る民族なり時代なりの生活を見ようとするために、まちがつた觀察がせられる、といふことであります。さういふ理論や學説が眞に一般性世界性をもつてゐるものならば、それに取扱はれてゐる人の生活はやはり抽象的のものであつて、現實の存在ではないのでありますから、その意味では、かういふまちがひは前に申した抽象的概念を現實の存在と錯覺することと同じであります。どの民族にもどの時代にも屬しない人といふものは、現實にはありません。民族と時代とによつて人の生活に特殊性があるといふことは、わかりきつたことであり、いふまでもないことでありますが、近ごろはそれを重要視せず、或はことさらに無視しようとする傾向さへもあるやうに見えますから、それを申すのであります。
なほこのことについて、もう少し詳しくお話した方がよいかと思ひます。人の生活には、人として人類に共通なところがあることは勿論であり、そこに普遍な人間性のあらはれがあります。特に現代においては、一般の文化が世界的共通性をもつて來たに伴つて、生活の状態にもまたその側面が強められて來ましたが、しかし民族によつてその特(115)殊性のあることも、明かな事實であります。同じ文化系統に屬するヨーロッパの諸民族の間においてもさうでありまして、どの民族を見てもそれはわかりますが、ロシヤの如き民族にはそれが著しく現はれてをります。ヨウロッパにおいてロシヤにのみあの如き革命が行はれあの如き社會が形づくられたのは、ロシヤの風土と長い歴史とによつて養はれて來た民族生活の特殊の状態、特殊の生活氣分、のためだと考へなくてはなりますまい。社會組織が變つても、政治の動きかたや國民の生活態度には前の時代からひきつゞいてゐるところがあるらしく見えることによつても、それがわかります。過去の長い年月の間、ヨウロッパとは違つた、またそれ/\の間にも違ひのある、文化の裡に生活してゐたいろ/\の民族の生活に、それ/\の民族的特殊性があることは、まことに當然であります。民族によつてその住地の地理的状態が違ひ氣候風土が違ひ言語が違ひ衣食住のしかたが違ひ生業の状態が違ひ生活氣分が違つてゐるのは、明かにそのことを示してをります。例へば我が國民が、ヨウロッパに源を發した現代の世界文化のうちにはいりこみ、國民の日常生活が現代科學の成果を利用し、現代科學の教へるところによつて營まれてゐるにしても、その生活氣分に至つては、ヨウロッパの諸民族とは、はるかに違つてゐるところがあるし、その生業の状態とても決して同じではありません。國民の多數が職業としてゐる農業の如きは、ヨウロッパの農業とは性質を異にしてゐる點が多く、それは決して發達の程度が低いとか發展段階が違ふとかいふやうな考へかたで簡單にかたつけられるものではないのです。從つて農民の社會的地位もそのはたらきも、また生活氣分も、ヨウロッパの農民とは違つてゐるのが、事實であります。勿論、それとてもいろ/\の點において次第に變つてはゆくが、農業そのものの性質が違ふ以上、特殊性が全く無くなりはしません。國民生活のすべての方面においてこのことがいはれますので、一方では生活が世(116)界化すると共に、むしろ世界化することによつて、民族の特異性が一層深く一層細かい點において形づくられてゆくのであります。或は特異性が發達することによつて世界性が濃厚になつてゆくのであります。個人についていつても、個性が著しくその内容が豐かになるに從つて、人間性、人としての共通性、が高められるのですが、民族性についてもまた同じことがいはれます。世界性が強められれば民族性が弱められ民族性が濃厚になれば世界性が稀薄になるやうに思ふのは、誤だと考へます。この二つの關係はさういふやうに平面的に外面的に見るべきものではありますまい。要するに、民族による特異性のあることは事實であります。そこで文化上の諸現象、政治についても經濟についてもまたは文藝や宗教などについても、學問上の一つのしごととして、民族の區別による比較研究といふことが行はれるのであります。共通の點と共に特異の點があるからこそ、比較といふことができるし、またしなければならぬのであります。これが現代の學問の正しい考へかたでありまして、學問の世界的一般性を示す一つの意味がこゝにあります。
ところが、現代の學間はヨウロッパに起つたもの、ヨウロッパの文化のうちに發達したものであるから、人の生活に關する學問、特に政治や經濟に關するものにおいては、ヨウロッパ人の生活、ヨウロッパの諸民族の政治や社會の状態が基礎になり、またそれが資料となつて、構成せられたものであります。ですからそれには必ずしも眞の世界的一般性を具へてゐないところがあります。しかし、それがさういふ性質をもつべきものとしての學問の形をとつてゐるのと、現代の世界文化がヨウロッパに源を發したものであるのと、これらの事情のために、ほんとうには世界的一般性に缺けてゐるところのあるそれらの學問上の或る學説または理論を、どの民族にもあてはまるものの如く錯覺し、それによつて、例へばわが國のことをも見ようとする傾向が、いろ/\の言論の上に現はれてをります。それがため(117)に我が國の現實の状態、われ/\の民族生活の眞のすがたが、歪められて、または色づけられて、見られても説かれてもゐます。特に今日においては、學問が世界性をもたねばならぬといふ正しい見解と、學問的研究の對象である物ごとがすべて世界共通であつて民族的特殊性などといふものは無いといふ誤つた主張とが、混同せられ、それがためにこの錯覺この曲解が一層甚しくなつてゐるのであります。むかし明治年間には、政治や經濟のことがらについて、理論と實際とは違ふといふことがよくいはれてゐましたが、これは、抽象的な概念がそのまゝ現實には存在しないのと、ヨウロッパの學者の學説にはそのまゝでは我が國の状態にあてはまらないところがあるのと、この二つからいはれたことのやうであつて、そこに正しい考へかたがあつたのですが、今日では、そのころのことばでの理論を強ひて我が國の實際にあてはめようとして、或はさういふ理論がそのまゝ實際の状態に現はれてゐるものとして、現實を曲げて見る傾向が強いのであります。さうしてさういふ曲解の上に立つて、政治上經濟上の方策が論議せられてゐるばあひが少なくないやうに見えます。これは學問的研究をするものの特に注意しなければならぬことと思はれます。民族的特色があるといふことを申しますのは、現實を正しくありのまゝに見るには、このことを考へるのが必要だからであります。
人の生活において民族による特殊性があると同じく、同じ民族についても時代による特殊性があります。これもまたいふまでもないことであつて、何ごとについても歴史的研究の必要な理由はこゝにあります。歴史といふものの成りたつのが、そも/\これがためであります。ですから、或る時代の状態またはそれに對する何等かの見解をもとにして、それにあてはめて歳月の遠く隔つてゐる他の時代の状態を臆測するやうな考へかたがあるとしますれば、それ(118)はその時代の眞相を見あやまらせることになります。ところが今日本では、さういふ考へかたが流行してゐるやうであります。現代の政治生活社會生活に對する或る見解または主張をそのまゝ上代なり中世なりにあてはめて、それによつて上代や中世の政治や社會の状態を考へようとするのであります。現代に對するその見解その主張が正しいばあひでも、かういふしかたでは昔の状態がわからないのですが、もしそれが正しくないばあひにはなほさらのことであります。然るに、歴史家と自稱する人たちが、かういふ態度で昔のことを論議することの多いのは、不思議なほどであります。
なほ、他の民族、具體的にいふとヨウロッパの諸民族、が歴史的にとほつて來た道すぢと同じ道すぢを、われ/\の民族もとほつて來たもののやうに、或はとほつて來たものと考へねばならぬやうに、考へる考へかたも流行してゐるかと思ひますが、これは民族生活の特殊性を無視するものであります。民族生活の特殊性は主として歴史がちがつてゐるために生じたものでありますから、さういふ特殊性のあることが、即ち歴史のちがつてゐることを示すものであります。然るにかういふ考へかたのあるのは、その根柢に、人類の歴史的展開の道すぢを一般的抽象的に規定する法則があるやうに考へる見解があるからではないかと思はれるばあひもありますが、これもまた歴史といふものを理解しないものであるのみならず、歴史的事實にも背いてをります。いま一つの理由は、日本が現代文化の世界に入つてゐるといふことから、その現代文化を導き出したヨウロッパの歴史を日本もまたとほつて來たやうに、錯覺するところにあるかと考へられます。日本はルネサンスも宗教改革もフランス車命もとほつて來なかつたけれども、さういふ歴史をとほつて來たことによつて形づくられた現代文化をうけ入れ、その文化の世界に入つていつたのであつて、(119)こゝに日本の現代文化の特異性があり、その現代文化がいろ/\の矛盾をもつてゐるのもそのためであるのに、そのことを考へず、日本の過去にもヨウロッパの歴史と共通のところのある歴史的發展の道すぢがあつたやうに、或は無ければならなかつたやうに、思ふのが、かういふ考へかたであります。明治維新はブルジョアジイの革命だといふやうな奇説は、多分かういふ考へかたから出たものでありませう。これらのことについてはなほ後になつてお話する機會があらうかと思ひます。
物ごとの眞相を知るについてその妨げになる種々な事情の、第四としてお話をすることに、ことばを費しすぎたやうでありますが、次にその第五として考ふべきことを申しませう。それは、人の生活に關する學問は自然科學とは性質の違つたものであるのに、自然科學と同じであるやうにそれを取扱はうとすることであります。近ごろ科學的といふことばがいろ/\のことがらについていはれてゐますが、それが學問的といふ意義で用ゐられるならば、よろしいけれども、その科學が自然科學の意義であるならば、人の生活に關することがらについてさういふのは、當らぬことであります。人の生活は人の意志と欲求とによつて行はれるものであり、また直接にそれを動かすものは漠然たるこころもちとか氣分とかであるばあひが多いのであつて、その點で自然界の現象とは全く違つてゐるのでありますから、この二つを同じやうに取扱ふことはできません。然るに自然界の現象と同じやうにして人の生活を取扱はうといふ傾向が、今の思想界に流行してゐるやうであつて、只今申しました歴史の發展の道すぢを規定する一般的法則があるやうに見る考なども、このことに關係があります。これについてもまた後に申すことにします。
最後にもう一つ、第六として申したいことは、何等かの問題についての學問的研究において、その結論として得ら(120)れたことは、多くのばあひ、一つの假説と見なさるべきものであつて、動かすべからざる究極の眞理だとはいひがたいのに、それを絶對の準則と見なし、それを尺度として一つ/\の物ごとを測らうとするところから、まちがつた觀察のせられることがある、といふことであります。學問的研究の基礎となるものでもあり資料とせられるものでもある具體的の物ごとが、すべてにわたつて遺漏なく集められ觀察せられるといふことは、事實できないことであるし、また研究を進めてゆく道すぢにおいて論理的に考を運んでゆくには、多くのばあひ、何等かの假定を設ける必要があり、その他、方法上のいろ/\の點で研究者の個性のはたらきが加はりもするので、そこから、研究の結果として、現はれて來る見解、即ち學説、は要するに一つの假説に過ぎないことになるのであります。ですからそれは、既に世に行はれてゐる學説にせよ、新しく自分が研究して得たところにせよ、斷えず批判が加へられ、學問上の問題として常に研究が重ねられねばならぬものであります。もしそれによつて實際上の何ごとかを考へまたは何等かの方策を立てたり施設をしたりするやうなことがあるならば、さうすることがかういふ批判かういふ研究の一つの方法となるべきであります。實際にあてはまらないやうな點が發見せられるならば、それによつて學説の缺陷が知られ、その缺陷を補ふことが考へられて來るからであります。學説の實際への應用といふことがあるならば、應用することそのことが、かういふ意味において、學問的研究の一つの道すぢとなるのであります。學問上の定説といふ動かぬものがあつてそれが實際に應用せられるといふよりも、學問上で考へ得られた學説が實際に應用せられることによつて、即ち實生活にはたらくことによつて、逆に實生活が學問にはたらき、それによつて學説が更に吟味せられ精練せられ、さうして學問が無限に進歩してゆく、といふべきであります。學問の實踐性といふことがいはれるならば、それはこの意(121)味においてであらうと思ひます。もし或る學説を完全なものとして固執し、それによつて現實の物ごとを判斷したり實生活を動かす何等かの施設をしたりしようとするならば、物ごとをありのまゝに正しく見る妨げとなつたり實生活を混亂させたりするばあひがありがちである、と思はねばなりません。それのみならず、或る學説を固執することからは、それに反對な學説を頭から排斥してかゝる態度が生ずるのでありまして、それは即ちその學説に宗派的偏見の性質を與へるものであります。斷えず謙虚な態度で自己と自己の學説とを批判してゆくところに學問的研究の意義があるのでありますから、かういふ偏執があつては學問の目的である物ごとの眞實を明かにすることはできないといはねばなりません。抽象的ないひかたをしましたが、これもまた後にその實例をお話する機會があらうと思ひます。
學問的研究の妨げになる事情が、このやうにいろ/\あります。同じやうなことをくりかへして申したばあひもあつたかと思ひますが、それ/\違つた觀點からさう考へられるのであります。學問的研究にはこれらの過誤に陷らないやうに注意しなければなりませんが、これは現代的の學問においてのことでありまして、過去の日本の學問は大ていこれらの過誤を犯してをり、さうしてそれを過誤とは思つてゐませんでした。從つてそれは現代的の學問とは違つた意味のものであります。例へば儒學の如きがそれであります。そのことを一こと申し添へておきませう。
儒學は道徳の學であり政治の學でありますから、最初に申しました學問の二つの部類にあてはめてみると、何をすべきか如何にすべきかを考へる學問であります。しかし、われ/\みづからそれを考へるのではなくして、シナの上代に形づくられたそれについての一定の教を學び知るのが儒學でありますから、即ち既にきまつてゐる知識を他から與へられる學問でありますから、その意味において、根本的に現代の學問とは性質の違つたものといはねばなりませ(122)ん。また儒學そのものも、一定の教によつて現實の生活を規定しようとするためのものであつて、われ/\みづからの現實の生活を基礎にして如何にしてその生活を規定すべきかを考へるものではありません。勿論、儒學とても、その教が如何なる人間性また如何なる人間生活の基礎の上に立つて構成せられてゐるかを説く一面をもつてはゐますが、儒學の構成せられた後にそれを學ぶものにとつては、その説をそのまゝに學び知るのであり、それと共にまた構成せられてゐる教そのもの、即ち生活を規定するものとしての具體的の教、を知ることが大せつであるので、この二つが即ち定まつた知識として與へられるものなのであります。さうしてその教の基礎となつてゐる生活は上代のシナ民族に特殊なものであるから、それによつて形づくられた教は、時代が違ひ民族が違ふばあひにはあてはまらぬものであるにかゝはらず、古今を通じて人類一般に對する教であることが主張せられてゐるのであります。これは生活に時代性と民族性とのあることを否定するもの無視するものであります。しかしどの時代にもどの民族にもあてはまることを主張するところから、あてはまらない生活を強ひてあてはまるもののやうに見なさうとして、その生活を歪めて見ることが行はれます。ですから日本の儒者は、シナ民族の生活とは全く違つてゐるわれ/\の民族の生活を、儒家の經典に記されてゐる上代シナのそれと同じもののやうに、考へたり説いたりしてゐたので、彼等によると、日本の政治形態も家族生活も上代シナのと同じことになるのであります。日本民族の生活が儒者によつてかういふ風に歪めて見られたのであります。從つてその上に立てられた道徳の教も政治の道も、現實の生活から遊離したものであり、實際の效果の無いものでありました。ところで、儒者のかういふ態度には、儒家の教を絶對のものとし、それに對して疑を抱いたり批判をしたりすることのできないものとする考が、伴つてゐるのでありまして、それは即ち儒教を學問(123)的研究の對象とすることを許さぬものであります。儒學が現代の意義での學問でないと申しましたのは、このためであります。儒學はかういふものでありますから、その教とは違つた思想、それに反對する主張をば、異端邪説として排斥しましたが、この態度は同じ儒學の内部に生じた異説についてもまたとられ、朱子學だとか王學だとかいつて互に排斥しました。儒學は宗派的氣分の強いものであります。學者がそれ/\自分の學んだ説を信奉しそれに固執するところから、かういふ氣分が生ずるのであつて、斷えず自己の思想を反省し自己の學説を批判するといふ學問的態度をとることができないために、かうなるのであります。なほ日本の儒者のうちに、シナには一般に儒教道徳が行はれてゐるやうに思ひ、シナは聖賢の國であり有道の國であると考へるものがあつたのは、一つはシナの實状を知らなかつたためではあるが、その根本は、儒教を信奉してそれが絶對の權威と力とをもつてゐるやうに思つたところにあります。
儒學はほゞかういふ性質のものでありますが、これでは何をなすべきか如何になすべきかがほんとうにはわかりません。生活を規定すべきものが現實の生活から遊離し現實の生活を歪めて見たところに成立つてゐるからであります。現實の生活を基礎とし、自分のもつてゐる疑問を解釋しようとして、自分から出發した研究をするのではなくして、既にきまつてゐる思想なり知識なりを他から學ぶといふ學問だからであります。學問の方法として漢字を知り漢文を學ぶことから入つてゆくといふことが、既にそれを示してゐるのでありまして、漢字漢文を學ぶことはそのことが他からその知識を與へられることであるのみならず、表意文字である漢字は一字一字にシナ思想が宿つてゐるし、漢文の構造にはシナ民族に特有な考へかたが現はれてゐるのであるから、かういふ學問のしかたは、何よりも先きに既定(124)の概念、既定の思想、シナ風の特殊の考へかたを教へこまれ、それにあてはめそれによつて物ごとを見ることにならされることになるのであります。ところが、かういふ昔の學問のしかたのなごりが今日にもなほ遺つてをります。それは即ちヨウロッパに發達した學問を學びまたは受け入れる態度においてであります。
勿論、學問の研究者すなはち專門の學者においては、現代の學問の性質がわかつてゐて、實際にそれによつて研究が行はれてゐますが、世間一般には、或は多くの學校の教育においては、なほ學問は他から學ぶものであるやうに、多かれ少かれ、思はれてゐる形迹があります。學者の間においてすら、或る方面では、自分の研究をするためには先づヨウロッパの學者の研究の業績を知らねばならぬところから、知らず/\それにひきずられて、さういふ學者の學説にあてはめて物ごとを見る、といふ傾向が無いでもありません。學説と實際の社會問題などに對する何等かの主張とがいろ/\に絡みあつてゐるばあひには、學説と共にその主張をそのまゝ受け入れる、といふこともあります。從つてさういふばあひには、その學説その主張が、ヨウロッパもしくはそのうちの或る民族の如何なる生活状態社會状態または物ごとの如何なる見かた考へかた、また如何なる生活氣分、によつて生じたものであるか、その民族の特殊なる民族性と如何なる關係をもつてゐるか、といふことを研究して、その學説や主張に對する批判を行ふことをしないのであります。さうしてそれに反對する見解をば、頭から排斥してかゝるのであります。これは昔の儒者の態度と同じであります。學問的研究の意義と方法とがわかつてゐるはずの今日において、學界、といふよりもむしろ思想界といつた方が適切でせうが、その一方面になはかういふ時代おくれの考へかたがあるのは、ふしぎのことであります。一體に日本人には、今日でもなは、ヨウロッパのどこかで唱へ出されたいろ/\の思想を、人々の好むところによつ(125)て、または流行に支配せられて、そのまゝに受け入れ、それを信奉し、それを宣傳するならはしがあるので、それは、全體として現代文化のうちに生活しながら、その程度がヨウロッバよりも低く、多くの點においてそこから學ばねばならぬものをもつてゐるのと、現代文化としてのしつかりした傳統をもつまでになつてゐないのと、學問的研究の精神が知識人の間にしみこんでゐないのと、なほ一つは長い間に養はれて來た日本人の性癖として、自己の思想を自己みづからうちたてるといふ自主性を個人がもつてゐないのと、これらの事情のためであらうと考へられます。學問のしかたに儒者風のなごりの遺つてゐるのも、このことを示すものでありませう。
もつとも、しば/\申しました如く、今の日本民族はヨウロッパに源を發した現代の世界文化のうちに生活してゐるのでありますから、その意味でヨウロッパの諸民族の生活と共通のところがあり、從つてヨウロッパの學者の學説を受け入れ得る側面のあることは、事實であります。この點では、日本民族の生活と全く違つてゐるシナ民族の特殊の生活の基礎の上に立つてゐる儒學の思想を、そのまゝ日本にあてはめようとした昔の儒者の考へかたと、同じではありません。けれども既に申したやうに、民族的特殊性がなくなつてゐるのではない。またなくなつてゆくのでもない。その現はれかたは微妙になるけれども、民族性そのものはむしろ深さを加へてゆく。生活のしかたが世界化するに伴つて、或は世界化することによつて、生活態度生活氣分には民族的特色が濃厚になる。そこに民族生活の意味があるのであります。例へば、資本主義經濟といふやうなことについて見ても、その資本主義の機構はヨウロッパでも日本でも共通であるといふことが、一おうは考へられるでありませう。しかし經済機構においてさういふことがいはれるとしても、その機構のうちにはたらいてゐる人間の生活が果して同じであるかどうか。現實の状態をみるときに(126)は、そこに大なる疑問があります。勞働者とか資本家とかいふやうな概念から申せば、同じやうにも考へられるが、具體的な彼等の生活氣分生活態度が事實さうであるかどうか。工場勞働者にしてもその他の貨銀勞働者にしても、彼等の勞働に對する觀念、勞働のしかた、などすらヨウロッパのと同じであるかどうか、問題ではありますまいか。機構といふものがそのうちに生活するものの生活状態を規制し生活態度生活氣分を作つてゆく、といふ一面のあることも事實でありますが、人の生活は單に經濟機構によつてのみ形づくられるものではなく、もつと複雜な要素から成りたつてゐるものであるから、機構のはたらかせかたが人の生活状態生活態度生活氣分によつてちがふといふ他の一面もあることを考へねばなりますまい。經濟機構そのものがそれだけ獨立して成りたつてゐるものでなく、社會組織のあらゆる方面とからみあつてゐるものであります。もつと根本的にいふと、日本の現在の社會は單に資本主義社會といふやうな概念で規定せらるべきものかどうか。そこにも問題はありませう。
例へば前にも一こと申しましたが、國民の多數を占めてゐる農民は、いはゆる資本主義の機構における農業勞働者といふ一般的概念にはあてはまらないところが、少なくないのではありますまいか。かう申しますと、それは半封建的だとか封建的だとかいはれ、さうしてそれは資本主義の前の段階だと手輕にかたつけられるかも知れませんが、果してさうでありませうか。農民のこの状態は日本の農業そのものの性質から來てゐるところが多いのではありますまいか。水田で米を作る。狹い土地で多くの收穫を擧げねばならぬ。谷あひや山の中腹まで耕地にする。その他いろ/\の困難な自然状態を克服して農業を營んでゐる日本の農民とヨウロッパの農民、特に廣漠たる平原においていはゆる大農的な耕作法を行つてゐる農民とは、たゞ農業の性質が違ふばかりでなく、その違ひによつて生ずる農地の制(127)度習慣、生活のしかた、生活の氣分といふものが、すつかり違つて來ると考へられます。農民のことを考へるにはこの點に深く注意する必要があります。人の生活に關することについては人を全人的に具體的にみなければならぬといふことの、一つの例がこゝにもあります。農業を單に農業として抽象的に、また農業といふ一面においてのみ、見るならば、他の民族の農業と同じやうに考へられる點もありませうが、それでは日本の農民の現實のすがたがわかりません。勿論、農業の方法も農民の生活のしかたも、これから後は變つてゆきませう。また變へてゆかねばならぬのでありませう。根本的には主食を米にのみ依頼することを改める必要もありませう。農地の制度や習慣については現に大なる變革が行はれましたが、これから後にも更に進んだ、もつと高い見地からの、變革が必要になるかもしれません。しかし未來に變つてゆくことを豫想してそれによつて現在を考へるのはまちがひです。現在のことはどこまでも現在の状態に本づいて考へねばなりません。さうしてその現在の状態には日本の農業日本の農民の生活に明かな特殊性があります。現代の科學的知識は、この特殊性の條件の下に、如何に農耕の方法を合理化し、その産物の品質を改良しその收穫を多くし、さうして農民の生活を豐かにしその文化を高めてゆくべきかを教へるので、そこに現代の世界的文化が特殊性をもつ日本人の生活にはたらくはたらきかたがあり、同時に、このやうなはたらきを盛にするために科學の研究を進めてゆくことによつて、日本人の特殊の生活が、世界の科學の發達、世界の文化の進歩に寄與するはたらきがあるのであります。農業をとりあげたのはたゞ一例としてであつて、これと同じやうなことは他にもいろ/\あります。もつとも近代的産業の如きは産業そのことが世界共通のものであり、從つてそれに從事する勞働者の勞働觀念や勞働のしぶりも世界共通であるべきであつて、もし日本人にだけそれと違つたところがあるとするならば、(128)それは近代的産業そのことに適しないものであり、從つてそれは變改せらるべきものである、といふ考もありませう。たしかにさういふ點もあり、また事實、それは變改せられてゆくに違ひありません。しかしさういふ勞働者とても、その生活は勞働のみではありませんから、そこになほ民族生活の特殊性のあづかるところがあります。これについてはいろ/\考へられることがありますが、今はこれだけにしておきます。なほ資本主義といはれるものは國民の經濟生活の全般にわたつての機構とそのはたらきとであつて、いはゆる勞資關係といふ問題のみのことではなく、また單に農民とか勞働者とかまたは資本家とかいふ人についてのことのみでもありませんが、今はその一面のみを申したのであります。しかしさういふはたらきとても、具體的には、ひとり/\の人の生活にそれがあらはれまたは生活によつてそれがはたらきもし規制せられもするのでありますから、人の生活を離れての資本主義のはたらきといふものはありますまい。要するに、現代の世界文化の中に入りこんだ日本人の現在の生活にも、日本の民族的特殊性はありますから、それとは違つた特殊性をもつてゐるヨウロッパもしくはそのうちの或る民族の生活を基礎にして形づくられた或る學説なり主張なりを、そのまゝ日本にあてはめようとすれば、それは現實の状態とくひちがつたり矛盾したりすることになるので、その點で儒教の主張を信奉してゐた昔の儒者の考へかたや態度と同じところがあるのであります。
いろ/\のことを申して來ましたが、要するに私のいはうとしたことは、學問の研究は現實をありのまゝに正しく見ることから出發しなければならず、知識は他から教へられ與へられるものではなくして、自分みづから作るべきものである、といふことであります。さうしてそれがためには、少くとも一おう物ごとに關する既定概念を放棄し、そ(129)の概念の表現である述語を放棄し、ぢかに具體的の物ごとそのものに接し、また自己みづからをみづから見る、といふ態度をとることが必要だと思ひます。いろ/\のイズムから解放せられねばならぬことは、いふまでもありません。藝術について自然に歸れとか自然を見よとかいふことがよくいはれますが、學問については現實に歸れ現實を見よといひたいのです。勿論、かういつたとて過去の學者の業績やヨウロッパの學者の學説を知らなくてもよいといふのではありません。何ごども一人の力でできるものではなく、歴史的に次第に發達するものであつて、學問とてもまた同樣でありますから、過去の學者のしごととその成果とは十分に知らねばならず、また現代の學問はヨウロッパに起りヨウロッパで發逢したものでありますから、ヨウロッパの學者の學説をよく知りよく理解しよく味得しなければならぬことは、こと新しくいふまでもないことです。たゞそれを知るといふことは、學説すなはち研究の結論としての或る思想を知るのみでなく、さういふ思想が何を基礎とし如何なる考へかたによつて導き出されたか、その基礎となつてゐる物ごとが人類の生活に共通なものであるか、またはヨウロッパもしくはそのうちの或る民族に特殊なことであるか、もし特殊なことであるならばそれは日本の民族の生活とどういふちがひがあるのか、從つてまたそれを基礎として考へられた學説が日本にもあてはまるところのあるものかどうか、あるならばそれほどの點であるか、といふやうなことをよく研究しよく理解することをいふのであります。前に批判といふ語を用ゐたのもこの意味であります。かういふやうにして眞にその學説を知るならば、日本の民族生活の現實の状態にあてはまらぬ學説をそのまゝに信奉して、強ひてそれにあてはめようとするやうなことは、なくなります。かういふことをするのは、ヨウロッパの學者の學説をよく知らないからのことであつて、昔の儒者が前にいつたやうな考へかたをしたのも、實は儒教といふもの(130)を眞に理解せず、儒教が上代シナにおいてどうして形づくられたか、それを形づくらせたシナ民族の現實の生活がどういふものであつたかを眞に知らなかつたからのことであります。ヨウロッパの學者の學説を知るにはヨウロッパの諸民族の現實の生活、その生活態度生活氣分、それを成りたゝせて來た過去の歴史を、具體的な事實としてよく知らねばなりません。それを知りそれを基礎とすることによつて、始めて或る學者の或る學説を眞に知り眞に理解することができるのであります。かういふやうにしていろ/\の學説を知りまた理解し味得することが、現代の學問の研究にとつて絶對に必要なことなのであります。
もう一つ申しておくべきことは、日本の學者が日本民族の特殊性をもつてゐる現實の生活を基礎として研究した歸結としての學説は、世界性をもたねばならぬ學問として成りたゝないのではないか、といふ考があるかもしれぬ、といふことについてであります。しかし、もしかういふ考があるとすれば、それは大なる誤であります。前にも申しました如く、學問として成りたつかどうかは、その研究の道すぢ、その方法、が正しいかどうか、詳しくいふと、その考へかたが論理的であるかどうか、それが確かな事實に基礎をおいてゐるかどうか、その事實の確かであることを見きはめるためにできるだけの用意をしてゐるかどうか、といふ點にあるのであつて、その方法その道すぢが正しいところに學問の世界性があるのであります。日本民族に特殊な現實の生活を基礎にした研究の結論は、そのまゝでは世界のどの民族にもあてはまるものではありますまい。これはヨウロッパの民族の現實の生活を基礎にした研究の結論が、そのまゝでは日本民族の生活にあてはまらないところがあるのと同じであります。けれどもさういふヨウロッパの學者の研究が世界性をもたねばならぬ學問として價値が無いのではありません。その方法の道すぢが正しければ、(131)それが立派な學問的研究であり、世界的一般性をもつものでります。研究する事がらに、從つてまたその結論に、特殊性のあることと、研究そのこと學問そのものが世界性をもつてゐることとは、決して矛盾するものではなく、世界性をもつてゐる學問的研究の方法によつて民族的特殊性のある物ごとを研究するところに、民族的特色のある學問が世界的一般性を具へてゐる意味があるのであります。かういふ學問的研究が多くの民族によつて種々の問題について行はれるならば、それによつて世界全體としての學問的視野が廣められてゆきませうが、それのみならず、一つの民族の生活を見ただけではきのつかなかつた新しい問題または新しい考へかたなどが、他の民族の生活を見ることによつてきがつき、それによつて全體として學問が進歩してもゆきませう。ですから日本の學者は、日本民族に特殊な物ごとについての學問的研究を、その特殊性に即して行ひ、さうすることによつてその研究に世界性を與へると共に、世界の學問の進歩に貢獻するやうにしなければなりません。具體的にその方法をいひますと、それは前に申したことのある比較研究でありまして、ヨウロッパまたはそのうちの或る民族の生活及びそれに本づいてくみたてられた學説と、日本の民族生活及びそれによつて考へ得られることとの、比較の上に新しい學説が築かれることになりうると思はれます。勿論、民族生活は斷えず變つてゆきますから、その變化のしかたがまた比較せらるべきものであると共に、それに伴つて學説もまた變化してゆくので、そこに學問の進歩の一つの姿があります。これが今日日本の學問にかゝはつてゐるものの世界に對する責任であります。昔の日本の儒者の態度をまねて、ヨウロッパで形づくられた或る學説や主張をそのまゝ日本にあてはめようとするごとき、時代おくれの考へかたをすべきではありません。日本のことがらについても、日本人だけに對して主張せられるやうな見解であつてはならぬ、世界に承認せられるものでなくて(132)はならぬ、といふことがいはれてゐますが、それはそのとほりであります。世界に承認せられるといふのは、世界の知識人に共通な知性のはたらきによつて成りたち、またそれによつて理解せられる、といふことであつて、具體的にいふと、その見解の基礎になつてゐる事實が正確でありその考へかたが論理的であり、つまり學問的である、といふことになります。その反對に、日本人だけに對して主張せられるといふのは、正確ならざる根據の上に立つて論理的でない考へかたをする、即ち學問的でない主張をする、といふことであります。日本人がともすれば陷り易い偏執などを利用したりそれに迎合したりして、事實にも背き論理的に考へられたことでもないいろ/\の主張が、これまで宣傳せられてゐたことがあるのと、多くの日本人の知性のはたらきがまだ幼稚であつてかういふ主張にひきずられがちであるのとのために、このやうなことがいはれるのであります。その實、日本人とても學問的な正しい考へかたをすることのできるものは、決してかういふ主張を承認してゐなかつたのであります。しかしこれは、日本民族の生活に民族的特殊性のあることと、その特殊性のある生活の現實を基礎にした學問的研究のあることとを、否認することではありません。それとこれとを混同してはなりません。一般的にいつても、學問に民族的特殊性があるといふことは、民族的偏見を許すといふことではありません。何ごとによらず民族的偏見は避けねばならないのであつて、學問においてはなほさらであります。けれどもそれは學問に民族的特色があることを否定することではないのであります。
學問といふことからは少し離れますが、ついでですから一こと申しておきます。それは、日本民族に民族的特殊性があるといふことは、その特殊性が他のいろ/\の民族のそれ/\の特殊性より優れたものであるといふことではない、といふことであります。この二つを混同してはならないのであります。また日本民族の特殊性がこれまで一部の(133)人たち、いはゆる超國家主義者軍國主義者、によつて宣傳せられたところと同じであるといふのでもありません。この二つもまた混同してはなりません。また民族の特殊性が永久不變であるといふのではないことも、前に申したところからわかりませう。特殊性には自然地理上の特殊状態に根柢のあることもありますが、それとても生活のしかた文化の力との間に相互のはたらきあひがあり、さうしてそれが歴史的に變化して來たものであります。さうして歴史的に變化して來たとすれば、これから後の歴史の進行によつて斷えず變化してゆくものであることは、明かであります。特に文化の力が強くなりそれが自然の状態を動かすことのます/\多くなつてゆくこれから後の時代においては、なほさらであります。特殊性のあることとそれを固定したもののやうに思ふこととも、また混同してはなりません。世間の言論ではかういふやうないろ/\の混同があるやうに見えますから、特にこのことを申しておきます。これらの混同は論理的學問的な考へかたをしないところから生じてゐるのであります。なほ日本の民族に民族的特殊性のあることを認めるといふことは、他のいろ/\の民族にはそれ/\その特殊性があることを認めるものでありますから、他の民族をも日本民族と同じやうに見て同じやうに取扱はうとした近年の一部の人たちの態度は、實は日本人の生活に民族性のあることをほんとうに理解しなかつたのであります。これはシナの特殊な民族性の上に立てられた儒教の思想で日本人の生活を規制しようとした儒者の考へかたをそのまゝうけついで、それを逆の方向に適用したものといへませう。儒者の考へかたに慣らされてゐたためにかうなつたのでもありませう。これもまた學問的でない考へかたであります。
話がひどく長くなりましたから、もう一つ、學問の使命と學問をするものの態度とについての私の考を申して、そ(134)れで今日のお話を終りたいと思ひます。學問とは物ごとの本質、その眞のすがたとはたらきとについての正しい知識を作ることだ、と前に申しておきました。いひかへると、學問は眞實を探求することであります。或は眞理を探求するといつてもよいでせう。眞理、眞實、を探求するところに學問の使命があります。この意味からいふと、どんな小さなことでも、またそれが眞實であらうとなからうと實際生活の上には大した關係の無いやうに見えることでも、それが眞實であるかないかを明かにするところに、學問の精神があります。ことがらの大小や實際のやくにたつかたゝぬかなどに關係が無く、眞實をどこまでも眞實とし虚僞をどこまでも虚僞とするその態度が、學問的なのであります。或る山の頂上が海面上一萬メエトルの高さであるのと一萬一メエトルの高さであるのとは、實際には殆どちがひの無いほどの小さなことでありますが、學問としてはそのどちらが眞實であるかを明かにし、その山の眞實の高さをきめねばなりません。これが眞實を探求するといふことであります。さうしてその眞實を探求することは、人の精神生活の最も高い意義でのはたらきの一つであります。かういふはたらきがあることによつて、學問が起り學問が盛になり、文化が發達するのであります。それのみでなく、人の生活のあらゆることがらの間、またそれと自然界のいろ/\の現象との間には、極めて微妙な複雜な關係がありますから、ちよつと見たところではどちらでもよいやうな或ることについての小さなちがひが、實はそのどちらであるかによつて他のことがらに大きなちがひの生ずるばあひがあります。どんなことがらでもそれだけが獨立して他と關係なく存在するものではないからであります。かう考へますと、眞實を探求するといふことは、そのことに大きな意味があり價値があり、學問の使命がそこにあるのみならず、實際生活の上にもかりそめにすべからざることであることがわかります。さうしてそれは學問の第二の使命ともいふべき(135)ことにつながりがあります。
學問は學問として、即ちものごとの眞實を探求することとして、それ自身に意味もあり價値もあるのですが、しかし人の生活のあらゆる方面のことがらと同樣、學問とても學問だけで、他と關係が無く、獨立して存在するものではありません。學問の成りたつのもそれが進歩するのも、人の生活のいろ/\の方面、ひろい文化のいろ/\のはたらき、の一つであり、それに伴ふものでありますが、それと共に、學問によつて全體としての人の生活、一般の文化、が導かれもします。ですからこの意味において、個人の生活民族の生活の全體を進歩させ、ひいては世界の文化の發達に貢献するところに、學問の使命の一つがあるのです。これはいはば學問の實際的側面なのであります。しかし實際的側面といつても、それは必ずしも、學問が一々實用的意味をもつ、どの學問でもそれがそのまゝ何等かの實際のことがらに通用せられる、といふことではないので、さういふことよりもむしろ、人の内生活を豐富にし知識を廣くし考へかたを正しくし、それによつて全體としての人のはたらきを盛にし生活を高めてゆく、といふところに主な意義があるのであります。勿論、實際問題を學問的に解決し、それによつて民族生活を正しい方向に進ませてゆく、といふことも學問の一つの任務であります。しかしこれについては特に注意しなければならぬことがあります。近ごろ學問は實踐的でなければならぬといふことが或る方面でいはれてゐるやうですが、それがこのことばについて前にいひましたやうな意義のことならばよいけれども、もしさうでなくして、實社會を動かしてゆかうとする何等かの思想的方向が先づ定められ、何等かの主張がまづきめられてゐて、それに理論的根據を與へるために學問的研究が要求せられる、といふ意味であるならば、それは實は眞の學問的研究を要求するのではないのであります。何をなすべきか(136)を明かにする學問、並にその基礎として必要な、物ごとの何であるかを究める學問が、希望や欲求によつて歪められ、眞の學問的研究の妨げになる、といふことは、既にしば/\申したことであります。學問の一つのはたらきとして實踐的といはばいはるべき側面はありますが、それはかういふ意味のことではありません。のみならず、かういふ意味で何ごとかの研究をするといふことには、自己の主張し實行しようとするところに合ふことが眞實であり眞理であるといふ考が潜在するのであつて、眞實であり眞理であるからそれを主張しそれを實行しようとするのではありません。といふよりも眞理が存在し眞實とさうでないことの區別のあることを認めないものといふべきであります。人々がみなそれ/\にかういふ考で物ごとを見るばあひには、人に共通な知性の上に成りたつと考へられる、即ち普遍性一般性をもつてゐる、眞理も眞實も無いことになるからであります。從つて學問は成りたゝず研究の意味もなくなります。ですから外觀上、學問的研究の如きことが行はれても、それはたゞさういふ僞裝をしたのみのことであります。
近ごろ學問の階級性といふことが主張せられてゐるやうに見えますが、かういふ主張と只今いつたやうな意義での學問の實踐性の主張とは、實際においては同じことらしいのであります。階級といふ語を廣義に用ゐて、人の社會的もしくは政治的の地位身分といふやうなことを指すものとすれば、その地位身分がおのづから知識なり物ごとの見かたなりの制約となつて、學問的研究にも偏するところが生ずる、といふことが事實としてあるではありませう。しかしこれは學問をするものが勉めて避けねはならぬことであります。またかういふことから生ずる偏見などは、自己の階級の利益を計るためのものではなく、階級的たちばにあることが意識せられてゐるのでもありません。しかし今日一般に階級といはれてゐるものは、いはゆる搾取者と被搾取者とのことであつて、社會は利害の相反するこの二つの(137)階級の對立によつて成りたち、社會上のあらゆる現象がみなこの意義での階級性を帶びてゐるとせられるので、そこから學問の階級性といふこともいはれてゐるやうであります。もしさうならば、現代においては階級闘爭の感度が明かになつてゐると考へる人たちの思想としては、或る階級において形づくられた現代の學問は、本來この階級的たちばを意識することによつて成りたつたものであり、從つてその階級の利益を計るためのものであるといふことになり、さうして學問のさういふ性質が肯定せられ是認せられることになります。いはゆる學問の實踐性が即ちこゝにあるのでありませう。かういふ學問が眞の學問でないことは只今申したとほりであります。またかういふ主張は、いはゆる被搾取者階級の地位に立つてせられてゐるのでありますが、それは對立してゐるものとせられる搾取階級に同じ性質の學問のあることを肯定し是認するものでありますから、その點で眞理はすべて階級的のものといふことになり、主張者みづからの眞理とするところがその階級のたちばにゐるものだけの眞理であつて、普遍的一般的のものでないことを承認するものであります。もしそれを承認しないならば、それは被搾取者階級のみが知性をもつてゐる人間であるといふことを主張するものでありませう。かういふ階級觀が正しいかどうかは、現實の状態によつてすぐに判斷せられることであります。社會が對立する二つの階級によつて成りたつてゐるといふことが、既に現實の状態とは一致しない主觀的な思想的構成であり、事實ではなくして主張であると思ひますが、これについては後にお話する機會がありませう。學問なり或る學説なりをすべて階級的のものと見るのも、また事實に背いた偏見でありますが、このことについてもまた深入りを致しません。今は學問の實際的側面といふことをいふにつけてこれだけのことを申しておきます。
(138) それから、やはり實際的といつてもよからう思ふことがもう一つあります。それは物ごとの正しい考へかたを廣く一般に示してそれを導く、といふことであります。學問の發達した時代となつても、學問的修養の足りない人々は、文化のまだ幼稚であつた時代のものと同じ程度の考へかたをしてゐるので、そのことそのことについてそのばあひ/\での思ひつきで物ごとを判斷したり、一面的な物の見かたをしたり、希望を現實と思つたり、複雜なことがらを單純化して考へたり、さういふやうな状態である、といふことを前に申しましたが、わが國においては特にさういふようすが見えます。その思想が過去からの因襲や時々の流行やに支配せられて、それに對して疑を起すことのできないのも、いろ/\の宣傳に動かされるのも、つまりこれがためでありまして、ヨウロッパにおける文化の程度の高い民族に比べてみて教養の一般に低いことが、かういふところにも現はれてをります。このやうな人たちに對して正しい知識を與へるのみならず、物ごとの正しい見かた考へかたにならさせるのは、學問のはたらきであります。眞理の重んずべきこと眞實の貴むべきことを悟らせるのも、學問の力であります。わが國の現在の状態においては、このことに大きな意味のあることを考へねばなりません。
かう考へて來ますと、おのづから學問に從事するものまたはこれから學問に志すものの態度と心がまへとについて、申さねばならなくなりました。それについて何よりも大事なことは、學問の本質である眞實の探究についてどこまでも努力し限りなく精進することであり、眞理に對して熱烈なる愛をもつことであります。ところが眞實の探求には、一方においては、何ごとに對しても疑問を發し、世に行はれてゐる學説や主張に對しても斷えず批判の目をもつてそれを見ると共に、他方においては、謙虚な態度を以て自己を反省し、自己を批判し、何ごとかについて自己の見解を(139)もつてゐても、それに誤は無いかと常に吟味してゆくことが必要であります。學問が進んで來て、知られなかつたことが知られわからなかつたことがわかり、知識の範圍は日に/\廣くなつて來ましたが、それがために疑問が少くなつたのではありません。知られたことが多くなればそれに反比例して知られないことが少くなると思ふのは、大なる誤でありまして、知られたことが多くなればなるほど、それに比例して知られないことが多くなるのであります。いひかへると今まで起らなかつた疑問が新に起り今までわかつたと思はれてゐたことに更にわからないことが生ずるので、一くちにいふと、疑問がます/\深いところに、或はます/\細かいところまたは大きいところに、生じて來るのであります。さうして次から次に起つて來る疑問を解釋することによつて更に新な疑問を起させてゆくところに、學問の無限の進歩があります。この疑問が自己に對し自己の見解に對しても起されねばならぬことは、只今申したとほりであります。かういふ疑問を起してゆくところに自由な、眞に自由な、學問的精神のはたらきがあるのであります。
しかし、既に明かにせられた眞理に對してはどこまでもそれを守り、毅然たる態度を以てそれを擁護せねばなりません。世を擧げてそれに反對しても、あくまでそれを守りとほさねばなりません。これは固陋な態度とは違ひます。宗派的な偏執でもありません。固陋と偏執とは、一般の學界の進歩を知らず自己の見解に自己みづから批判を加へ斷えず研究を進めてゆくことを知らず、たゞ一たび考へまたは信じたことをそのまゝに主張しつゞけようとする態度をいふのであつて、批判と研究とによつて常に精練せられながら、また精練せられることによつて、眞實であることのます/\明かになつて來たことを、毅然として守るのと、それとは、正反對の態度であります。固陋と偏執とは、自(140)由なる研究と批判とによって自己の見解の動揺するのを恐れて、それを避けんとするところから生じたものであつて、實は自己の見解に對する學問上の確信が無いためのことなのであります。その點においては、自己に定見が無くして時の潮流に漂はされるのと、同じ心理がはたらいてゐるといはねばなりません。
私は今日のお話のはじめに、現在の日本は果して眞の學問の自由、思想の自由、をもつてゐるかどうかに疑がある、といふことを申しました。さうしてそれを、言論機關に現はれてゐる言論の殆どすべてが一種の時の潮流におし流されてゐるやうに見える、といふことによつて推測したのでありました。これには二つの意味があるのでありまして、その一つは、言論を以て世に立つものが、世間の流行に束縛せられて自由に率直に自己の獨自の見解を公表しないといふこと、いま一つは、流行と一致しない思想をもつてゐることは時勢おくれとして評せられるので、さういふ時勢おくれであることを世に示したくない、といふ考をもつてゐるといふこと、この二つであります。さうしてこの二つのために、まだ自己の見解をもつに至らない若い人たちをその流行にまきこまれさせると共に、或る程度に考のあるものも、流行の思想であるがために、それについてのさしたる確信なしに、うか/\つりこまれてそれに追隨するやうなことをいひ、またそれをいつたために、それが自分の意見であるかの如き錯覺を生ずる、といふ心理もはたらいて、ます/\それにひきずられてゆくことになり、このやうにして流行の勢が一層加はつてゆくのであります。なほ實際問題としては、いはゆるジャアナリズムの機構とそれを動かしてゆく新聞雑誌の編輯者の態度とが、かういふ輕浮な流行を煽るといふことも、考へられるのであります。しかしそれはそれとして、只今申しました二つのことに立ちもどつて考へると、そのうちの前の方のは、個人に自主性が無くして、何ごとも世間の毀譽褒貶によつて行動する(141)やうにならされてゐた、エド時代の知識人や武士の氣風から傳へられて來たところがあり、また後の方のは、斷えず思想界の諸方面におけるヨウロッパの新しい潮流を迎へてそれに追隨することが行はれて來た、日本の文化の後進性とその程度の低さとに由來がありませう。現代文化においてしつかりした傳統が日本にはまだできてゐないのであります。さうして言論の根柢をなす學問についていふと、二つの何れにおいても、個人個人がしっかりした學問的見解をもってゐないためでありますが、それはまた學問的研究になくてはならぬ自由の精神の乏しいところから来てゐるといはねばなりません。ですから、學問に關係のあるものが時の流行におし流されるといふことは、内において研究を進めてゆくに必要な自由の精神の乏しいことと、外に向つて流行の力に對抗して自己を主張するだけの自由の精神に缺けてゐることと、二重の意味で學問の自由、思想の自由、をもたないことを示すものであります。敗戰といふ冷嚴な事實によつて幸にも與へられた思想の自由、學問の自由が、もし果してこのやうな状態にあるとしますれば、われ/\はどうしてその與へられた自由を眞に享受することができるでありませうか。それには流行の思潮に對して、自由なる學問のたちばから自由な批判を加へることが、一つの方法でありませう。次の第二囘のお話において私はそれを試みる考であります。
今日のお話はこれで終りと致します。
(142) 二 諸民族における人間概念
人間概念にはいろ/\の側面がある。或は、一つの人間概念を分析してみるとそれにはいろ/\の要素があるといつてもよからう。
その第一は、生物、特に動物、としての人間である。人間をどういふものと見るにしても、それはともかくも生物である。或は根原的には生物である。そこで、この側面での人間概念はその根柢に生物概念がなくてはならぬ。と同時に、一般生物に對する人間の特殊性、また生物界における人間の地位、が考へられてゐなくではならぬ。たゞ昔から多く行はれて來たのは、人間を現に存在する如き人間として、それを人間ならぬ生物と對立させることによつて、人間のこの特殊性と地位とを見ようとしたのであるが、近代科學として發逢した生物進化の説がかういふ考へかたを一變したことは、今さらいふまでもあるまい。しかし何れにしても人間を生物としての一面において見るのではある。
第二には、自然界の一存在としての人間であつて、第一のをおしひろめると、かういふ考へかたにならう。これには素朴な考へかたのもあり宗教的のもあり、いろ/\であるが、自然科學の發達した今日においては、その科學の法則に支配せられてゐるものとして人間を見るのも、人間概念のこの側面である。人間の生活を自然界の動きと同じやうな因果律にあてはめたり、環境に支配せられてゐるとしたりするのも、それであつて、生物進化の説にもつながつてゐる。
(143) 第三はもとより一般生物とも違つた、特殊な存在としての人間、或は少しく奇異ないひかたのやうであるが人間みづからとしての人間である。これには個人としてのと社會人としてのとの二面があらう。いろ/\の人間概念において社會人としての人間に對して個人としての人間が考へられてゐるが、現實の人間生活においては社會から離れた個人といふものは無いから、これは抽象的な概念に過ぎない。しかし人間概念といふものはもと/\抽象的なものであるから、個人を個人として見る考へかたも、この意味において一おうは成りたち得よう。たゞそれよりも重要なのは社會人としての人間であつて、人間概念の主要なものはこの側面のである。政治的、經濟的、叡智的、道徳的、宗教的、などの、一くちにいふと現實の人間生活に本づくいろ/\の、人間概念は、主としてこの意義での人間について形づくられている。血族、郷土、階級、民族、また文明人とか野蠻人とかいふ類別などによつて、人間概念の規定せられるばあひのあるのも、また概してこのためであるといつてよからう。
第四は、神に對するものとしての人間である。神の概念にいろ/\あるために、それに應じてこの側面での人間概念もまたさま/”\である。のみならず、二つの概念の間には相互的關係があつて、人間概念に應じて神の概念が形づくられもする。これが第二とも第三とも密接なつながりのあることは、いふまでもあるまい。
第五は、形而上學的意義をもつ宇宙との關係においての人間である。人間を小宇宙と見るやうな考へかたもその一つであるが、必しもそれには限らない。或は汎神説をとるばあひの人間概念もこのうちに含めてよからう。これは第四とも交渉があるが、汎神説は、宗教的であるよりは、むしろ形而上學的な思想であるからである。
第六は、現實の人間生活と連續しながら、それを超越した何樣かの人間生活があるものとして、それとの關係にお(144)いての人間である。死後の生活、生前の生活、などとの關係においての人間である。
人間概念を形づくるいろ/\の要素として、または人間概念のいろ/\の側面として、ほゞこれらのものが考へられるが、それらのうちには、人間とはかゝるものであるといふのと、かくあらねばならぬものだといふのと、二つの違つた考へかたのあるものがある。人間を道徳的に見るばあひには、後の方の考へかたによつて人間概念が形づくられる。しかしまたこの二つがはつきり區別せられず、或は混合して、考へられてゐることもある。
以上は、一つの人間概念として形づくられてゐるものを分析していつたのであつて、それらが別々に考へられてゐるといふのではない。たゞ分析した上でいふと、それらがいろ/\の度あひで互に交錯し、さま/”\の状態で互にはたらきあつて、一つの人間概念を構成してゐるやうに見える。また現實に形づくられてゐるいろ/\の人間概念が、みなこれらのすべてを具へてゐるには限らず、具へてゐるにしてもその間に輕重濃淡のちがひのあるもの、またはそのうちの何れかが主になり中心になつてゐるものもある。或はまた幾つかの要素、幾つかの側面が、調和を缺いてゐるもののあることも考へられる。
次には、何等かの人間概念が一般民衆の間にいつのまにか、明かに意識せられることなくして、形づくられて來たものがあると共に、特殊な學者の思索によつて、または詩人の直觀によつて、形づくられたものもあることが考へられ、或はまた宗教的信仰から來た特殊のもののあることも知られてゐる。一般民衆の人間概念は多くは民族的のものであつて、適切にいふと、概念としてよりもむしろおぼろげな形における人間觀として、風俗習慣や日常の言動の上に現はれ、さうしてそこに或る民族の特殊性が強くはたらく。しかし民族的な特殊性があるといつても、他の民族の(145)に對してどこにも共通性が無いといふのではない。どの民族も人間によつて成りたつてゐて、その人間には人間としての共通性がある限り、その人間概念または人間觀にも、またおのづから共通のところが含まれてゐるはずである。その意味においては、民族的な人間概念人間觀にも世界的なところがある、といはねばならぬ。ところが、學者の思索や詩人の直觀から形づくられたものは、一面において、その民族的特殊性を含みまたその上に立つてゐながら、他面においては、その思索と直觀との如何によつて、それに個人性があると共に、多かれ少かれ世界性をもつ。宗教的人間觀には、その宗教が民族的のものであるか超民族的のものであるかによつて、民族的のものもあり、何等かの程度で世界性をもつてゐるものもあるし、教祖の人物による特異性をも具へてゐるが、同じ宗教を奉ずるものには同じ人間概念がもたれるので、そこに宗教的のと民族的もしくは個人的のとの間にいろ/\の交渉や葛藤の生ずる契機がある。なほ文化の發達したところにおいては、いくつもの民族を包含している文化圏もしくは文化系統が、歴史的に成りたつてゐるので、人間概念も、その圏内その系統内においては共通性をもつと共に、他の文化圏文化系統のに對しては特異性のあることが考へられる。人間概念は、歴史的に發逢して來た一般文化の性質とその状態とによつて、それ/\に特色のあることが認められよう。
こゝまで考へて來ておのづから生ずる問題は、人間概念、またはもう少しそれをひろめていふと人間觀、といふものの形づくられる基本が何にあるか、といふことである。さうしてそれは、人間概念が或は民族によつて、或は個人によつて、また或は文化系統文化圏によつて、違つてゐると共に、民族、個人、文化圏文化系統、などの違ひを超えて、人としての共通性、その意義での世界性、をもつところのあることによつて、解釋せられよう。民族はその人種、(146)その自然的環境、その歴史、それらによつて形成せられた政治體制や社會組織、またその他のいろ/\の事情によつて、それ/\生活のしかたとその状態とが違ふ。文化系統によつて生活の違ふことも、また明かである。しかし、人としての生活の根柢には、どの民族どの文化圏のにも共通のものがある。特殊な人間概念をもつてゐるやうな個人とても、さういふ民族なり文化系統なりの何れかに屬するものであるが、その業務、その社會的地位、その教養、およびその他のいろ/\の事情によつて、その生活、特に心生活、にそれ/\特異なところがある。文化の發達した民族に屬するものにおいては、特にさうである。ところが、心生活のはたらきが活?になると、他の多くの民族、他の文化系統、または過ぎ去つた時代、についての知識がもたれ、自己の生活を含めての民族生活に對する批判の眼が養はれ、また自己のもつてゐる人間性に對する反省と洞察とが行はれるので、その心生活は、一面においては、おのづから民族をも文化圏をも超越したものになる。ところで、人間概念にいろ/\あるのは、かういふやうに生活にいろいろの違ひのあることと應ずるものである。さすれば、人間概念の基本は、それをつくり出した民族なり文化系統なり個人なりの生活にあり、その生活體驗にある、といはねばならぬ。その人間概念において上にいつた六つの要素のうちの何れに重きがおかれるかも、それらがいかに交錯し、いかにはたらきあふかも、またそれによつて定まるのである。
しかし、人間概念は生活から形づくられるものではあるが、それと共にいかに生活すべきかを規制するものでもある。もと/\生活といふことが、常にその生活を新にしそれを進展させてゆくことであるから、それにはいかに生活すべきかの志向がはたらいてゐるので、それが即ち生活なのである。人間概念はさういふ生活から形づくられるので(147)あるが、その志向にはこの人間概念のあづかるところがある。この志向には明かに意識せられないばあひもあるが、さういふばあひには、人間概念もまた明かに意識せられずしてそれにあづかるのである。個人においてのみならず、民族生活においてもまた同樣である。民族生活によつて民族的な人間概念もしくは人間觀が形づくられては來るが、それがまた民族生活を規制し、またその動いてゆく方向を知らず/\の間に指示する。人間概念が現實の生活において意味をもつのは、主としてこのはたらきにおいてである。もし既に形づくられてゐる人間概念が現實の生活を新にし進展させてゆくに適合しないものであるならば、その生活は停滯したり、腐敗したり、または混亂したり、崩壞したりする。そこで人間概念の變革といふことが問題になる。
人間概念が生活によつて形づくられるものならば、生活の變化に伴つてそれもまた變化するはずである。しかし、人間概念が概念として一たび形づくられると、その一面には、生活から離れた獨自の存在として固定する傾向があり、從つてそれが生活の變化を牽制するばあひがある。そのばあひには人間概念そのものを變革することが、生活そのものから要求せられて來る。この要求を最も早く感知するものは、多くのばあひ、すぐれた詩人であり學者である。そこで、新しい人間概念の形づくられるには、上にいつたやうな學者や詩人のはたらきがあり、彼等の心生活においてそれが?酵する。ところが、それを助けるものの一つとして、他の民族、他の文化系統、などにおいて形づくられて來たいろ/\の人間概念に關する知識がある。これまでもつてゐた人間概念がそれとは違つたところのある人間概念に接觸することによつて、その影響をうけるのである。けれども、人間概念が生活から形づくられるものであり、生活から離れたものでない以上、他の民族、他の文化系統、において形づくられた人間概念が、どれほどまで、またど(148)ういふ方面で、自己の、または自己の屬する民族の、生活にうけ入れられ、またそれを動かすことができるか。よし生活そのものが變化するにせよ、それは他の個人、他の民族、他の文化圏、のと同じになることではないから、かういふ人間概念はその變化に適應するには限らぬ。のみならず、生活には多くの因子があるので、變化するといつても、そのばあひの生活の状態や、變化の促された事情や、變化の程度や方向や、それらのことは一樣ではなく、また變化するにしても、すべてが變つてしまふのではない。生活そのものが、その一面においては、保守性をもつてゐる。だから、單に知識のうちに入つて來た、またはそれによつて思想として構成せられた、何等かの人間概念によつて、生活を動かさうとすれば、こゝからもまた生活が混亂しその動いてゆく方向が歪められるやうになる。要するに、生活を規制しそれを動かすものとしての人間概念と生活そのものとの間の交渉は、甚だ複雜であり多樣であつて、人間概念の變革せられ新しい人間概念の形づくられる道すぢも、それが生活を規制し動かすはたらきも、單純ではない。ただ人間概念は固定して動かない性質のものではないといふこと、いろ/\の人間概念が接觸交錯することによつて、上にいつたとは別の意味において、世界的共通性がその間から生れ出ること、が考へられるのである。或る民族の人間概念が他の民族のによつて影響を受けるといふことは、逆にいふと一つの民族の人間概念が他の民族のに影響を與へるといふことであるが、或る文化圏に屬する民族生活を規制し動かす人間概念が、他の民族のにも影響を與へることは、何ほどかの程度においてその民族の生活を動かすことであり、從つてそれはおのづからその文化圏の特異な人間概念と人間生活とを變化させることになる。さうしてかういふはたらきは他の文化圏に屬するものに對しても、從つてまた文化圏相互の間にも行はれ、そこから世界的の動きが生ずることも考へられる。學者や詩人によつて形づく(149)られた人間概念が、世界の現實の生活を動かすはたらきをもつことにもなるのである。
そこで考へられねはならぬのは、個人なり民族なり文化系統なりによつてそれ/\に特異なところのある、いろ/\の人間概念の價値といふことである。それらの人間概念の形づくられたことには、それ/\にそれの形づくられた理由があり、その人、その民族、その文化系統の、それみづからの時々の生活にとつては、それ/\に意味があつたのであるが、それらが他の個人、他の民族、他の文化圏、もしくは世界の全體、にかゝはることになると、それらを比較對照することによつて、それらの間に價値の違ひのあることが考へられねばならぬ。或はそれが人の生活を規制しそれを動かすことになると、その功過の如何が問はれねばならぬ。しかしそれを考へるのはむつかしいことである。或る思想家の思索から生れた人間概念は、その人の思想體系の全體にかゝはるものであり、或る民族の人間觀はその民族の人生觀世界觀と緊密につながつてゐると共に、政治上、社會上、宗教上、及びその他のあらゆる思想と、複雜な交渉をもつてゐるし、或る文化圏に特異なものとても、また同樣であるから、その人間概念人間觀のみを切り離して批判を加へることはできぬ。のみならず、それらは何れも過去の長い思想の歴史をうけついで、またはそれ/\にさういふ歴史のある他の民族などの思想に接觸して、その間から生れたものであるから、それらの一つ/\をそれだけのものとして見ることは、この點からもむつかしい。だから或る人間觀人間概念を正しく理解するといふことだけでも容易ではなく、それには世界の諸民族の、またすべての方面にわたつての、思想とその歴史とに通じなくてはならぬが、思想といふものが生活によつて形づくられるものである以上、世界の、また古今の、諸民族の生活のあらゆることがらについての知識をもたねばならぬ。勿論、これは一人の力でできることではなく、多くの方面の學者の協(150)力によつて始めてなされるのであるが、少くとも人間概念人間觀を知るにはかういふ用意が必要であるということだけは、考へておかねばなるまい。
しかし、さしあたつては、重要な人間概念人間觀について一應の知識が得られゝばよいとして、さてそれらを比較對照してその價値を判別しようとすることになると、それがまたむつかしい。何等かの自己のたちばからそれを試みることはできるであらうが、それは結局、自己の人間觀人間概念によつて他のを見ることであつて、客觀的には妥當性が無い。普遍的な人間性といふやうなものの存在を認め、それに適合するかどうかを規準として判別する、といふことが考へられるかも知れぬが、何を人間性とするかにそれ/\違つた見解があり、或はむしろそれは人間概念人間觀の如何によつて定められるともいはれよう。或は人間觀人間概念の論理的構造を檢討するとか、その基本となつた生活状態から如何にしてそれが導き出されたかの道すぢを見るとか、さういふやうな方法もあらうが、それらは或る人間觀人間概念そのものの全體としての生きた姿とその力のはたらきとを示すことにはなりかねるので、こゝに問題としてゐることには大した役にはたゝない。そこで、價値の判別はむしろ生活に及ぼしたその功過如何によることが考へられもする。しかし生活を動かすものはいろ/\あり、その動かしかたもさま/”\であつて、それが互にはたらきあつて生活が成りたつのであるから、その間において人間觀人間概念がどれだけの力をもつてゐるかを知ることは、これもまたむつかしい。已むを得ざれば、一方では、或る人間觀人間概念がどれだけかは生活を動かすはたらきをしたといふことを認めて、その限界内で、他方では、それが現代文化を發達させるについていかなる功過があつたかを見る、といふ制約つきで、それを考へることが、さしあたつてのしごととして、できるかも知れぬ。けれどもそれに(151)ついては、現代文化といふものが果して人類の生活の正しいありかたであるか、またそれの成りたつたことが果して人類として正しい進路をとつて來たものであるか、といふことが考へられて來よう。さすればそれには、現代文化に對する批判といふことが先づ要求せられねばならないのではなからうか。
かういふ考へかたは、問題を徒らに混雜させるやうなものであるかも知れぬ。少くとも、人間觀人間概念を考へるには、あまりに大ぎようすぎるといはれるであらう。わたくしはたゞ、この間題はてがるには考へられぬといふことと、それが現實のわれ/\の生活に深い關係があるといふこととを、いはうとしたのである。
三 日本思想形成の過程
日本思想とか日本精神とかいふことばが、ひどく流行してゐる。或は流行させられてゐる。しかし、これらのことばによつて何ものが指示せられてゐるかは明かでなく、それを用ゐる人によつて違つてもゐるやうである。流行させられたことばであるとすれば、これも當然であるが、既にかういふことばができたとすれば、それが如何なる意義において成りたつかを、學問的に究明しなければならぬ。さうしてそれには、種々の方面、種々の見地からの考察が必要である。余はこゝでそれを試みようといふのではないが、たゞ日本思想といふものがもし果して形成せられ得るものならば、それは如何なる過程によつてであるかを、歴史的見地から少しばかり考へてみょうと思ふのみである。
最初にことわつておくが、余はこゝに日本思想といふ語を用ゐた。思想といへば思惟せられたものをさすのが普通(152)である。直接なる情意のあらはれは思想といふには適切でないやうである。この二つは離れたものではなく、思惟そのことの内面には却つて意欲なり漠然たる氣分なりが力強くはたらいてゐるのであるが、一おうはかういふ區別がなし得られよう。余は今のばあひの問題としては、しばらく上記の意義での思想を主として考へることにする。それは、具體的にいへば、政治、社會、道徳、などに關する思想、その根柢に存する人生觀、世界觀、それが體系化せられた哲學、といふやうなものを指すのである。次に一言しておくべきは、思想は生活から生まれるものであると共に、その思想が更に生活にはたらきかけてその展開を導いてゆくといふのが、これから述べようとする余の考の根本的假定であるといふことである。こゝに生活といふのは、廣い意義にそれを用ゐ、生活の地盤たる社會組織や經濟機構をも、また生活の精神的側面をも含ませるのであり、從つて、思想そのものが實は生活の重要なる一面なのであるが、用語の上の便宜から、その思想の一面をとり出して生活と對立的に取扱ふのも、また許され得ることであらう。勿論、具體的には、即ち實際の状態としては、この二つが別々にはたらくのではないが、しばらく生活の過程を分析して見ると、上記の如く考へ得られるといふのである。
日本思想とは非日本思想に對する語であり、その日本は歴史的に一つの民族として生活して來た日本人の義であらうから、それは、日本民族には日本民族に特殊の思想がある、更に一般的にいふと或る民族にはその民族に特殊の思想がある、といふ考の下にできたことばであらう。もしこの考が事實にかなつてゐるならば、それは事實を事實としたまでのことであるが、かういふことばを特に強調していひ傳へ、もしくはことさらに聲高く叫ぶのは、事實さうであるといふよりは、むしろさうでなければならぬといふ主張から出たことらしい。從つてそれは、日本人が非日本思(153)想を有つてゐること、或は日本人の思想のうちに非日本的なものがあることを認め、それによつて激成せられたのであらう。もしさうならば、それは正しい認識であるか。
なるほど、これは或る程度に正しいといひ得られよう。少くとも過去においてさうであつた。日本の歴史の一大特色は、昔から日本民族がみづから創造したものでない、即ち異民族の、文物を學びそれを取入れることをつとめた點にある。日本の歴史は日本の民族生活の内からの發展としてのみ見ることのできない理由がこゝにあるので、日本の歴史に特殊な複雜性もまたこゝから生じ、日本の歴史を解釋するには特殊の用意がなければならぬのも、これがためである。が、それはともかくも、この外から取入れられた文物には、當然それに内在する異民族の思想があつた。だから、異民族の文物を學んだ日本民族の思想のうちには、日本人自身の民族生活から生まれたものでない思想、いひかへると非日本的な思想、が存在した。シナ思想、インド思想が即ちそれである。日本思想と非日本的な思想との對立が日本民族の心生活の内部にあつたのである。但し非日本的な思想といつても、それは必しも日本人の生活を妨げるものといふのではなく、また國家的意義において日本の國家を害するものといふのでは、なほさらない。たゞ日本人がみづから産み出した思想でなく、從つて日本人の生活に適合しないところのある思想であるといふのみである。さてこゝに對立といつたが、しかし、儒教思想や佛教思想を學んだのは、日本人の思惟の力がまだ發達してゐなかつた時代からのことであるから、實をいふと、その初においては、非日本的な思想に對する日本思想といふものが明かに形成せられてゐなかつた。勿論、日本民族はシナ民族やインド民族の生活そのものを學んだのではなく、即ち日本人の生活がシナ化インド化したのではなく、たゞシナ人インド人の生活から生まれたシナ思想インド思想を、思想と(154)して知識として、學び知つたに過ぎなかつた。家族形態や社會組織などがその影響を蒙つて變化したのでないことは、いふまでもない。だから、さういふ思想が日本人の生活及び生活感情生活意欲と一致しない點のあるものであることは、上代人においても漠然感知せられてゐたには違ひない。たゞその生活及び生活感情や生活意欲やを、思惟によつて反省し檢討し整理し、思想として體系化するに至らなかつたのである。從つて、思想としてはこの非日本的な思想に強い權威があつて、何人もそれに對抗することができなかつた。對抗するのは思想ではなくして生活そのもの、生活感情生活意欲そのものであり、またその表現としての文藝であつた。こゝに非日本的な思想と生活との乖離、外來の知識と文藝上の表現との不調和があつたが、その乖離と不調和とすらも強くは意識せられなかつたやうである。それは一つは、生活に適合せずそれから遊離してゐる非日本的な思想は生活を動かす力を有たず、畢竟知識上の遊戯に過ぎなかつたので、知識あるものはこの遊戯の世界でその思想を弄ぶことに滿足してゐたのと、一つは、思想としては、自己の生活を強ひて外來の知識の型にあてはめて取扱ひ、それを怪しまなかつたほどに思惟が幼稚であつたのとの、故である。
しかし、歴史の發展と共に、一方では生活そのものが徐々にかういふ非日本的な思想を變化させたと共に、他方では外來の知識に誘發せられて、日本人みづからの思想がおぼろげながらも、或は畸形をとりながらも、幾らかづゝ形づくられて來るやうになつた。徳川時代になつてシナの學問が新しい形をとつて復活し、再び非日本的な、當時の日本人の生活から遊離してゐる、思想が勢力を得て來ると、かゝる日本思想がそれに刺戟せられてやゝ明かに形を成し、そこで日本人みづからの内における日本思想と非日本的な思想との對立が意識せられるやうになつた。武士道とか神(155)道者または國學者の思想とかが、この日本思想を代表するもののやうにも見える。しかし、この意味での神道者や國學者の思想は、實は、日本人の現實の生活を反省しそれによつて思索することから生まれたものではなく、佛教思想や儒教思想やその考へかたやによりながら、それらに對抗せんとする、やはり文字の上の知識から來た、また畢竟文字の上で構成せられた、ものに過ぎない。彼等の主張したところによし何ほどかの意味があるとするにしても、それを基礎づける思想は、かういふ性質のものであつた。國學とても、思想としては何ばかりの内容も無く、而もその多くはシナ思想の變形に過ぎないものであつた。武士道はそれとは違つて、長い戰國的状勢の間に漸次形成せられた武士の社會組織と戰闘をしごととするその生活の體驗とから、自然に養成せられたものであるが、徳川氏治下の平和時代には、それは次第に力が弱められると共に、またおのづから畸形を呈せざるを得なくなつた。本來、戰闘の間に發生し戰闘によつて形づくられた武士の道徳であるから、平和の生活には適用すべからざるものがそれに含まれてゐる。かう見ると、過去に形成せられたいはゆる日本思想は、その實、日本民族の思想としてとり擧げるには甚だ心細いものである。道義上處世上の常識はいろ/\に發逢したので、それによつて生活が調整せられ社會も成立つて來たことはいふまでもないが、それについて思索が深められまたは思想としてそれが體系化せられるには至らなかつたのである。勿論、一方では儒家などの主張も幾らかづつ日本人の生活と妥協するやうになつては來たが、シナに特殊な社會及び政治形態、その家族制度、並にシナ人に特殊な思惟のしかたから成りたつてゐる、その根本精神を變化させることはできなかつた。さうしてそれが當時の知識人の思想を支配してゐたやうに見える。要するに過去においては、日本民族の間に非日本的な思想が思想として存在し、それに或る種の權威があつたことは事實である。
(156) 勿論、日本人の生活は、かゝる非日本的な思想によつて支配せられたのではない。日本民族はインドは勿論のこと、シナからも離れて生活し、大陸の歴史の動きとは殆ど交渉なく獨自の歴史を展開して來た。政治的に獨立してゐたのみでなく、文化的にも、日本は大陸と與に一つの世界をなしてゐたのではなかつた。たゞその間に交通はあり、早くから日本は大陸の文物を學んだのであるが、學んだ文物は少數の知識社會や貴族の間においてのみ受入れられる文字の上の知識や思想と工藝や美術とが主なるものであつて、多數の民衆の日常生活を、その實質においてもその樣式においても、直接に變化させるものではなかつた。佛教とてもその信仰的側面において或る新しいものを與へた外は、ほゞ同樣であつた。はじめからかういふ状態であつたから、大陸から學んだものは、上に述べた如き獨自の歴史の展開と共に、漸次日本化しまたは民衆化し、さうしてそこから大陸の文化とは全く違つた文化が次第に形成せられて來た。生活の樣式、産業の形態、社會及び政治の組織、その間に養成せられた道徳、生活の氣分、すべてにおいて日本人に特異なものが創造せられ、それらが歴史の動きと共に變化しながら、ます/\その特異性が強められて來た。日本人のかゝる生活と生活氣分とは、文藝の上に表現せられてゐるので、道徳も宗教的信仰も、また人生觀や世界觀もそこに生き/\とした姿を見せてゐる。日本精神といふべきものがあるとするならば、それはこゝにおいて求めらるべきである。日本精神とは日本人の生活の精神的側面をいふものだからである。たゞ後までも思想の形においてそれが發達もせず深められもしなかつたのである。
然らば現在はどうか。現在の日本人がヨウロッパに發達した思想を受入れてゐることは事實である。が、それが非日本的の思想といひ得るかどうか、いひ得るならば、それは如何なる意義においてであるか、それが問題である。と(157)いふのは、現代の日本人がヨウロッパに發達した思想を受け入れてゐるのは、むかしシナ思想などを學んだのとは違ひ、單に思想を思想として、生活から遊離した知識としてではなく、さういふ思想を産み出したヨウロッパ人の生活そのものを、或る程度に學びとつてゐるからである。現代日本の文化は、ヨウロッパから起つて世界的にひろげられた現代文化をその主潮としてゐる。現代の科學文化、機械文化、資本主義的經濟機構はいふまでもなく、それに伴ふ衣食住、日常生活の樣式までも、漸次世界的になつて來た。またます/\さうなつてゆく。現代日本人の生活は世界から離れたものでなく、日本人としての生活が即ち世界人としての生活であり、日本民族の生活の展開が世界の歴史の動きとなつてゐるからである。だから、それに伴つてヨウロッパから傳へられ、いろ/\の意味においてそれと離すことのできない種々の思想も、概していふと非日本的のものではなく、日本人の生活の内面に動いてゐるものなのである。この點においては、現代生活を肯定する思想も、それに對して變革を要求する思想も、同じことである。もしそれを非日本的と考へるものがあるならば、それは生活がどう變つても思想のみは過去も現在も同じであるべきものと思ふからか、または自己の現在の生活が過去のとはまるで變つてゐることを自覺しないからか、何れかである。實をいふと、現在の日本人の生活からいへば、過去の日本に存在した思想こそは、一面の意味においては、却つて異國的なのである。例へば徳川時代の武士道や家族道徳は現代のわれ/\には甚だ縁遠いものであり、それに對して滑稽の感さへも起るばあひが多い。武士の社會は跡かたも無く崩壞し去り、家族生活の状態もまた變化し、われ/\は五六十年前の日本人とは遙かに異なつた考へかたで生活し、われ/\の社會はわれ/\の父祖の時代のとは餘りにも違つた精神によつて動いてゐるからである。衣食住を始として一般の生活樣式が徳川時代のそれとは似もつかぬ生活氣分(158)をわれ/\によび起させてゐることは、いふまでもない。さうしてそれには、少くとも或る程度においてヨウロッパ的な、もしくはその意味で世界的な、ところがある。現代日本人の學術的知識が世界的共通性を有つてゐることはなほさらであるので、それは日本人の全體の生活の世界性がその基礎をなしてゐると共に、現代の學術が世界の文化人に共通な知性の上に立つてゐるからである。だから、この點から見ても、むかしのシナ人の特殊の生活と彼等に特殊な考へかたとによつて生まれた儒教の教説などは、現代のわれ/\にとつては殆ど別世界の思想であることが知られる。儒教の教は徳川時代においても實生活から遊離した知識に過ぎなかつたのであるから、それは今日においては傳統的な思想ですらない。佛教の教理上の考説とても同樣である。事實、現代の生活を動かしてゐる思想のうちには、儒教や佛教の教説やその思惟のしかたから來てゐるものは、何ものも無い。然るに現代日本人の學術はヨウロッパに發達したものではあるが、それは世界の、或は人類一般の、學術となつてゐると共に、われ/\自身の學術にもなつてゐるのである。われ/\の現實の生活と離るべからざるもの、われ/\自身の生活の基礎ともなりその精神ともなつてゐるものである。さうしてかういふ學術的知識及びその方法によつてわれ/\の生活を指導する思想も形成せられてゆくのである。かう考へて來ると、現代の生活から生まれ現代の生活を指導する思想が現代の日本思想であり、さういふ現代生活の精神的側面が現代の日本精神であることは明かであらう。さすれば、その思想その精神がヨウロッパに由來のあるものであつても、世界共通のものであつても、それは決して非日本的なものといふことはできぬ。
しかし、ヨウロッパから受入れた現代日本人の思想にも、非日本的なものが全く無いとはいはれぬ。それは何故かといふに、一方ではヨウロッパの思想にも傳統があり、それ/\の民族の特異性があると共に、他方では現代の日本(159)人の生活にもまた長い間の歴史によつて養はれた傳統及び習性がかなり力強くはたらいてゐるのと、日本の風土の自然から生ずる特異性があるのとで、上に述べたやうな日本人の生活の世界化的傾向には或る制限があり、またはさういふ傾向に從ひつゝ種々の點で特異な生活が展開せられてゐるために、ヨウロッパから受入れた思想には現實の生活といろ/\の間隙のあるものがあるからである。ヨウロッパの思想はヨウロッパの風土民族と、その上に、或はその活動によつて、展開せられた歴史との所産であり、更に古典時代からの傳統とキリスト教の感化とがあるのであるから、さういふ歴史とは全く違つた歴史を有ち、さういふ傳統や感化のない日本人にとつては、その思想において、よし或る程度まで知識として理解せられるにしても、どこかに自己の生活とは融和しないものがある。例へばヨウロッパの哲學にはキリスト教から來た「神」の觀念もしくはそれに伴ふ種々の思想が重要のはたらきをなしてゐるので、もしそれを除き去つたならば、彼等の哲學、少くともその形而上學的側面、倫理學的側面、はひどく變つたものになるであらうが、それは即ちさういふ哲學思想にはキリスト教に縁のない多數の日本人にとつては、寧ろ奇異に感ぜられるものが少なくないことを示すものである。キリスト教そのものが日本人に適合しないといふやうなことを説くのでないことは勿論である。たゞキリスト教の「神」の觀念を基礎とした思想が現在の多數の日本人にとつては異國的だといふのである。或はまた、彼等の歴史學はヨウロッパの文化世界を世界の全體と見なし、その歴史をそのまゝ世界史と見なすところに、その根據があるが、これもまた過去において殆ど全くさういふ歴史の外に生活し、それとは離れて獨自の歴史を展開して來た日本人には、うけとり難い思想である。ヨウロッパに發生した社會理論がヨウロッパの社會に特殊なものを含んでゐることは、いふまでもない。これらはヨウロッパに共通なものであるが、同じヨウ(160)ロッパ人の思想にしても、民族によつてそれ/\特異性があることは明かな事實であつて、哲學の如きものにおいてすらさうであるし、文藝に現はれた思想に至つてはなほさらである。この點からいふと、彼等諸民族の間においてすら相互にその思想を領解することの困難があるので、異民族の思想はやはり異民族の思想である。況や日本人においてをやである。だから、ヨウロッパの或る民族の間に發達した思想には、二重の意味において、われ/\には異國的なところ非日本的なところがあるといはねばならぬ。ところが、學者とか思想家とかいふ方面では、却つてこの點にきがつかないことがあるのではないかと思はれる。すべての學術や知識がヨウロッパ人から學ばれてゐるため、初から彼等の思想に權威を認めてかゝるので、それがために、日本人も彼等の思想をそのまゝ受入れねばならぬものと思ふ、といふよりもむしろ彼等の思想が即ちわれ/\の思想であるかの如き幻想を生ずるのである。
ヨウロッパに發生した種々の思想の日本人に受入れられる状態が流行的であるのも、一つは同じ事情から來てゐる。ヨウロッパのどこかで耳新しいことをいふものがあると、日本人はすぐにそれに飛びつきそれを讃美する。日本人ほど世界のあらゆる思想を知らうとし學ばうとするものは、世界のどの國民にも類が無からう。新しいものはよいものであると思ひ、何でもそれを取入れようとするから、その取入れかたが流行的となるのであるが、それは實はおのれみづからしつかりした思想をもたないからのことであり、さうしてそれには他から與へられる思想がおのれみづからのものであるかの如く錯覺する意味が伴ふ。概觀していふと、ヨウロッパの現代思想が、大體においては、やはり日本人の現代思想であるにしても、ヨウロッパにおいてその現代思想の歴史的由來をなしてゐる過去の思想は、直接にはわれ/\に縁の無いものであるのに、それが恰もわれ/\が過去に有つてゐた思想であるが如く思はれ、われ/\(161)の有つてゐる思想の由來を考へることがわれ/\にさういふ思想的閲歴があるとすることででもあるやうに説かれてゐるばあひがある。ヨウロッパの現代思想は、かれらの中世時代の生活を經、ルネサンスを經、宗教改革を經、フランス革命を經、さうしてさういふ閲歴によつて次第に形づくられて來た近代科學によつて生じた産業革命を經て、成りたつて來たものであるが、日本人はさういふ閲歴をもたず、たゞその閲歴の成果としての政治上の制度や經濟機構や、生活の樣式やそれに伴つて生じた學問や思想をうけ入れたのみであるのに、日本人みづからそれらの閲歴をもつてゐるかの如く、考へられたりいはれたりするばあひさへもある。これらもまた、ヨウロッパの思想の歴史が即ち世界の思想の歴史であるが如く思ふからである。いろ/\のばあひがあるが、何れにしてもヨウロッパ人の思想がそのまゝわれ/\の思想である如く思ふことは同じである。儒教といふものがシナ人特有の生活から生まれたものであり、それから離しては無意味になることがそれに多いことを知らず、それは普遍の眞理である如く信じてゐた昔の儒者の考へかたと全く同じではないが、今日の多くの學者や思想家も、ともすればヨウロッパの種々の思想を、各その好むところに從つて、それに似よつた見かたで見てゐるのではないかと思はれる。が、要するにそれは書物から得た知識のために自己を蔽はれたところから生ずる幻想である。自己の生活を反省し、思想を生活に即して考へる時、ヨウロッパ人の、從つてまたそれから受入れた、思想には、われ/\の生活とは少からざる間隙のあるもののあることが、おのづから知られるであらう。勿論、一面においてはヨウロッパから受入れた思想がわれ/\の生活を新しい方向に導いてゆくのでもあるから、上に述べたやうな不調和が永久であるとはいひ難い。しかし、ヨウロッパにおいても民族によつて思想に特異性のあることが現實の事實であるならば、日本人にとつては、少くともそれと同じ意義での特(162)異性が彼等の思想そのものに存在することは、許さなくてはなるまい。從つて日本人からいふと、そこに何等かの非日本的のものがあるのである。
のみならず、現代文化をうけ入れた日本人の生活が如何に昔とは變つてゐるにしても、なほそこに日本人みづからの傳統がはたらいてゐる。この傳統は、思想としてよりも、主として氣分とか感情とかいふ方面においてであり、もしくは習性とでも稱すべきものである。從つて、さういふ傳統は現實の生活に適合しないのみならず、現代日本人の生活に即した思想とも矛盾してゐるばあひが多い。現代化せられた生活に過去からの習性が水における油の如く漂ひ、思想と感情や氣分との一致しないことがあるのである。これは個人の生活においても社會全體としても存在する矛盾であつて、そこに現代日本の混亂の重大なる原因がある。例へば、何れの團體組織においても實際にはそこに親分子分の人的關係があつてその組織を紛糾させ、公共の事業に私の人情がはたらいてそれを腐敗させる類も、その例であるが、これらは社會組織が個人と個人との關係によつて成りたつてゐて團體生活、公共事業の經驗の無かつた時代の習性が遺存してゐるからである。過去の家族制度が事實上次第に壞れて來、家族生活に關する思想が變つて來ても、もとの制度によつて養はれた氣分がなほ殘つてゐて、それがために種々の葛藤が生ずるのも、これと同じである。さういふ方面ばかりではなく、いはゆる二重生活が、私的生活においても、公的生活においても、また個人の心生活においても、種々の形で存在し、それがさま/”\に絡みあつてゐるのも、畢竟これがためである。ヨウロッパにおいては、現代の社會とその生活とが彼等みづからの造り出したものであり、またそれが長い歴史によつて徐々に展開せられたものであるから、さういふ生活そのものの内部に傳統的なものがあり、または傳統的なものがその生活に順應し(163)融和し得るといふ一面がある。然るに日本においては、概していふと既に形成せられた現代生活の樣式を外から學んだのであり、さうしてその學びかた受け入れかたが極めて急激に行はれたのであるから、それとは甚しく事情が違ふ。從つて現代生活のうちに過去の傳統が融和せずして混在してゐるのである。かゝる混在物たる傳統が社會的のものであり過去の社會組織や家族制度などから生じたものである限りは、それは次第に力が弱められ早晩消滅し去るであらう。しかしこの傳統のうちには日本の風土の自然にねざし、長い歴史によつて漸次成長して來たものであるために、日本の民族生活から離れ難いものがあるので、産業の性質やその形態などにおいてもそれが存在する。具體的にいふとその最も著しいものは農業である。だから經濟機構や社會組織の現代化についても、そこから或る制限が生ずる。或はそれによつて幾らかの變つた形態が成立つ。それは發展の段階が違ふといふやうな考へかたで簡單にかたつけらるべきものではない。もしまたそれが日常の衣食住やその上に現はれてゐる趣味性やに關するものであるばあひには、かゝる意義での傳統は、一面においては、特殊な風土の自然に即しないところがあるために、世界的な現代生活が、日本人にとつては、どことなく落ちつかぬ感じのあるのに對して、一種の落ちつきどころと慰安とを供するものともなり、現代生活を緩和する用をもなす。勿論、かういふものとても、今のまゝの形で永久に繼續するとは思はれず、全體の生活の動向につれて變化はしてゆくであらうが、そこに日本人の生活から離し難く失ひ難きものが存在するとすれば、それがまた全體の生活の動向を決めてゆく一つの指針ともなるのである。だから日本人の生活が如何に現代化しても、世界化しても、そこにはなほ何等かの日本に特殊なところがある。從つてさういふ生活から見れば、ヨウロッパ人の間に發達しヨウロッパから受入れた思想には、何の點かに非日本的なところがあるはずである。が、(164)ヨウロッパに發達した學問とその知識とに習熟し、もしくはそれを學ぶことに努力してゐる學者や思想家には、上に述べた如く、このことが明かに意識せられてゐない憾みがある。自己の生活を反省するよりは知識を尊重する方に傾き、從つておのづから知識に蔽はれて自己の生活を直視し得ないやうになるからである。
然らば、かゝる非日本的なところのある思想を日本人がそのまゝ受入れてゐるやうな状態を、これからどうすべきかといふ問題が生ずるが、それは思想といふものが自己の現實の生活を反省し思惟することによつて形成せられるものであることが切實に知られて來れば、おのづから消滅するものである。さうしてそれは第一にヨウロッパ人の思想を徹底的に理解することによつて誘はれるであらう。彼等の思想を眞に理解すれば、彼等に特殊な歴史によつて形づくられた特殊の生活において始めて意味のあるもののそこに存在することがわかつて來るからである。彼等の思想の民族的特異性とその歴史的由來とを明かにすることだけでも、かゝる理解は助けられるはずである。次に思想そのものとしてみるばあひには、日本の學問が進み、日本人の思索が深められ、全體として思想の權威、學問の權威、がヨウロッパにある如く考へなくてもよいやうになることが必要である。たゞ直接に生活を動かす方面においては、その思想と生活との衝突や爭闘によつて生ずる慘憺たる苦惱を體驗しなければならぬであらう。さういふ體驗が重積せられることによつて、現實の生活そのものがそれに不調和な思想を漸次驅逐し去るであらう。思想も生活も互に闘爭しつゝ、或は種々の交渉を保ちつゝ、それ/\變化し發展してゆくのであるから、かういふ過程は決して單純ではないが、眞に生活を指導すべき思想は外から學ばるべきものでないことが、かういふ過程を經てゆく間に始めて覺知せられても來るのである。從つてさうなるまでには幾多の混亂と紛糾とを經過しなければなるまい。曾ては外來思想の日(165)本化といふやうなことが唱へられもしたが、かういふ考は、内と外との關係を機械的に見、外來思想と日本人の生活とをそれ/\固定したものと見るものであり、現代の生活と思想とには適用し難いことである。今日においては、日本人の生活も思想も日本人だけで成りたつものではなく、その動きは全體としての世界の歴史の展開の一つのはたらきであり、すべての文化民族の生活と思想との不斷の變化と互に關聯しつゝ發展するものだからである。
或はまた過去の思想を復活することによつてかゝる状態を改めようとする考もあり、いはゆる日本思想の鼓吹はさういふ考から生じたものらしいが、過去の思想を生み出した過去の生活が崩壞し去つた以上、思想のみを復活することができないのは明瞭である。かゝる過去の思想を日本思想と呼ぶのがそも/\の誤であつて、それはやはり日本思想といふものを固定して變化しないもののやうに思ひ、過去の思想でないものを非日本的なものと考へるからのことである。勿論、世間で日本思想と呼ばれてゐるものは、その内容が同一でなく、或るものはいはゆる神道、或るものは儒教や佛教の教説をさし、また或るものは武士道といふやうなものをいひ、明治維新の前後や幾百年の前の特殊の時期における或る政治状態によつて激成せられた思想を、この名によつて呼ぶものさへもある。かういふやうに思ひ思ひにいろ/\のものが、或はそれらが雜然混合せられて、日本思想といはれてゐるが、これらのうちには、上に述べた如く實は非日本的な思想であつたものもあり、また例へば神道と儒佛の教との、或は武士道と儒教との、關係の如く、主張の相反するがために、長い間、互に排撃して來たものもあり、或る時代の特殊の状態における特殊の思想に過ぎないものもある。だから、それらの一つ/\を日本思想といふのは、いふものの好むところに從つたものであり、それらを混合していふのは、その一つ/\の思想そのものをもその間の相互の關係をも解せざるものである。或(166)はまた特殊の思想といふほどのものでなく、たゞ過去の生活から生じた道義上處世上の因襲的情念が日本思想といはれてゐるばあひもあるらしい。徳川時代の家族生活に伴つてゐた家族道徳のかういふ因襲的情念の如きがそれである。かういふ考の世に現はれるのは、過去の生活を生活して來たものが、その習性を持續しつゝ現代に生活してゐるため、その習性に蔽はれて現實の自己の生活を直視し反省することができないからであり、その點では學び得た知識に蔽はれてヨウロッパの非日本的な思想をそのまゝ自己の思想として受入れてゐるのと同じである。彼等は過去の生活を現實に存在するものと思つてゐるが、その實その多くは既に半ば崩壞したものであつて、たゞ彼等の習性の上にその遺風が存在するのみである。彼等が現に存在するやうに考へてゐる過去の家族生活の如きは、一般の状態としては、今日では事實見ることの稀なものであり、さういふ家族生活が壞れて來てゐるからこそ今日の社會は動いてゐるのであるが、それが彼等にはわからないらしい。
ところで、日本思想といふことばがかうさま/”\な意義で用ゐられるのは、即ちこの語の内容が空虚であることを示すものである。それは、日本思想の名と東洋思想といふやうな稱呼とが曖昧に混同せられてゐるやうなばあひさへもあるらしいことによつて、一層明かに知り得られよう。東洋思想といふ語が無意味であり、さういふものが存在もせず成りたちもしないといふことは、余が折にふれて屡々説いてゐるところであるが、假にそれをシナ思想といふやうな意義に解するならば、それは日本人の思想とはまるで違つたものであり、シナ思想の主要なるものとして日本人の知識に入つてゐる儒教思想が全く非日本的なものであるといふことは、上に述べたところでも知られるはずである。ところが、日本思想といふ稱呼には、さういふものさへ含ませてあるのである。さうまでして日本思想といふことば(167)を用ゐるのは、要するに、現代日本人の生活に即した現代日本人の思想を好まないために、過去の日本人の有つてゐたあらゆるものを、それに對抗する意味で、日本思想と呼び、それによつて現代日本人の思想を排撃しようとするところから出てゐるらしい。勿論、今日においてかゝることばのことさらに聲高く叫ばれるのは、特殊の方面の特殊の目的のための宣傳にもよるのであるが、さういふことを除外して見ても、これだけのことは知り得られる。
いふまでもなく、この種の主張をするものは、過去の種々の思想の歴史的意義と歴史的發展の過程におけるその相互の關係とを考へず、歴史的道程においては遙かなる距離にある現代の生活とそれとを卒然として、また強ひて、接觸させて考へ、さうしてさういふ過去の思想が現代の生活を支配し得べきもののやうに思ふ點において、民族生活に歴史的發展のあることをも、また實は現代の生活そのものをも、理解しないものである。彼等が實際においては、彼等みづからの主張と何の交渉も無い現代の科學文化、彼等の主張と相反する現代の社會機構の裡に生活し、平然としてその賜を享受してゐるのでもそれは知られるのではあるまいか。だから、さういふ主張は現代の生活が日本人の生活としておちついてゆくに從つて、自然に消滅すべきものである。また思想として見れば、過去の思想に執着する彼等は歴史を尊重するやうに見えるけれども、實はその反對である。彼等は過去の思想を歴史的に見ることができないのであるから、それは則ち歴史を尊重することを知らないものである。歴史は生活の發展であるから、その意味で過去は現在に内在するものであるが、それは過去のものが或る固定した形において持續せられ現在の生活に存在するといふのではない。過去は現在を展開させたものとして、その意味で現在に内在するのである。だから眞に歴史を解し歴史を尊重するものは、過去を現在によびもどさうとせず、現在を未來に展開させてゆくことに眼を注ぐ。日本思想(168)といふものの如きも、またそれを過去に求めずして、未來の展開に期待すべきである。
しかし、人によつては日本思想といふものが未來において果して成りたつかどうかに根本的な疑問を有つかも知れぬ。日本人の生活がます/\世界化し、日本民族の歴史が世界の歴史の一部面となり一つの動きとなるやうになると、日本人の生活の特異性は少くとも漸次薄らぐのではないか、思想としてもその動向は世界の思想の潮流によつて決定せられるのではないか、さういふ見かたがあらうかと思はれるからである。特異なる民族史の成立を認めず、すべてを抽象化せられた世界史の一樣なる發展の徑路として理解しようとするやうな考へかたは別として、さうでないものにもかういふ見かたがあるかも知れぬ。が、上にも述べた如く、一民族の生活にはその民族の特異性がいろ/\の意味で存在することは、ヨウロッパの諸民族の實際に徴しても明かであるから、さういふ風に見ることはできまい。人々に個性があると同じく、民族にも個性のあるのが事實である。特にその個性の核心をなす生活氣分とか生活感情とかまたはその根本に潜在する生活意欲とかいふ方面においては、この特異性が最も強いので、民族によつて言語が異なりその言語に微妙なる氣分が具はつてゐることと伴つて、異民族の文學を眞に會得することが極めて困難であり、或は殆ど不可能に近いといふことも、またそれを證する。學術的知識なり思想なりは、それとは違ふ點があるが、人の思索にも實はこの氣分や意欲が強いはたらきをなしてゐることは、既に言及したとほりである。思索は論理のみによるものではなくして、思索するものの全生活全人格がそこにはたらくのであり、さうしてその生活と人格とは個性の上に成りたつ。思索が深くなればなるほど、それが重要になる。民族としても同樣であつて、深い思想ほど民族性が濃厚に現はれてゐる。思想の生み出される民族生活そのものに特異性があるからである。生活が世界的に共通にな(169)るといふことと民族的特異性があることとは相反するものでなく、むしろ共通になるほど特異性が強められるのであつて、たゞその特異性の現はれかたはたらきかたが微妙になるのみである。科學文化機械文化は自然を改造し風土の特異性を破壞するやうではあるが、自然の風土の差異から科學の應用のしかたに特異性が生ずるのみならず、科學そのものが自然に從ふことによつて成りたつものであるから、その自然界のはたらきなり状態なりに、風土による特異性があるとすれば、科學そのものの發達の方向に特異性があるべきである。さうしてまたそれと共に、科學も機械もそれを取扱ひそれを動かす人によつてはたらきかたが變り得る。社會組織や經濟機構の或る形態とても同樣で、一方では、さういふ形態そのものに内在しそのものに固有なはたらきが如何なる民族においても一樣にあらはれるといふことが認められねばならぬと共に、他方では、組織や機構そのもの、もしくはそのはたらきが、民族によつて特異性を有し或は生ずることもまた許されねばならぬ。例へば資本主義といふもののやうに、抽象的には同じ組織、同じ機構、として概念化せられても、具體的には、即ち實際に成りたつてゐる状態としては、民族によつて必しも同じでないところがあることを注意しなければならぬ。日本人の生活が世界化すると共に特異性がそこに生じ、日本思想が將來に展開せられ得ることは、疑が無い。
かう考へて來ると、日本思想が如何なる徑路で展開せられてゆくかも、またおのづから明かになる。今日は思想が混亂してゐるといはれてゐるが、混亂させる主なる思想が二つあるので、一つはヨウロッパから受入れられた思想の種々の方面に絡まつてゐる非日本的なものであつて、そのうちには大戰によつて常態を失した心理の所産があり、一つは日本の過去に存在した思想のことさらに取出されたものであつて、そのうちには過去においても非日本的な思想(170)であつたもの、もしくはそれといろ/\の點で結びついてゐるものがある。さうしてこの二つの何れも、現實の生活から生まれないもの、それから離れたもの、である點において、共通な性質を有する。思想が思想として形成せられると、それは生活から離れた知識として存在し得るものであるために、かういふことが起るのである。が、日本人が現實の自己の生活そのものから自己の思想を形づくる能力を有つてゐるものである限り、それらは二つながら上に述べたやうな徑路で漸次その力を失ふであらう。現實の生活が次第にそれらを排除してゆくからである。かくして日本の民族生活の内部に存する日本思想と非日本的な思想との對立がおのづから解消し、現實の生活から生れ現實の生活に即した思想、即ち眞の日本思想が確乎たる地歩を占めるやうになるであらう。これは思想を思想として見たのであるが、思想を生み出す生活の側から見ても同樣である。今までは日本人がかゝる生活をするやうになつてからの時間が短いために、その生活が眞に日本人のものとしておちつかず、從つてそこから日本的な思想がまだ明かに形成せられるに至らなかつた。だから、或る年月が經つて、この生活が外から學ばれたものでなくして内から造り出されたものと感ぜられるやうになり、事實また外から學ぶをまたずしてみづから新しい生活を展開してゆくやうになれば、それはおのづから形成せられてゆくのである。さうして、かゝる氣運は既に徐々に動いてゐる。上文には、漠然、現代の生活といふ語を用ゐて來たが、それは日本の過去の生活と對照させるためであつたので、實をいふと現代の生活そのものが現代として固定してゐるものではない。現代の生活は、瞬時も固定してゐず斷えず新しい姿を展開してゆくところに、その特質がある。ところで、それをさう展開させてゆくだけに、現代生活の精神を日本人は體得して來た。科學の方面における日本人の業績は最もよくそれを證するものであり、それによつて現代日本の生活が導かれてゐる。(171)たゞいはゆる精神科學、もしくは、哲學、もしくは直接に生活を動かしてゆく思想の方面では、それがまだ頗る幼稚であつて、そこから上述の如き思想の混亂が生じてゐるが、これも既に説いたやうな徑路によつて次第に今日の状態が改められるであらう。思惟の方法は既に知られ思索の道は開かれてゐる。たゞ必要なのは、自己の生活を正しく見つめ、現實の民族生活を直視することであるが、それとても、さういふ傾向が既に生じつゝある。さうして、それによつてこの方面の新しい生活が展開せられてゆくであらう。ところで、かう考へると、それは日本思想が現實の生活から形成せられるといふよりは、むしろ現實の生活を新しく展開させてゆくためにその指導原理としての日本思想が形成せられるといふ方が、適切になつて來る。さうして今日の状勢においては特にそれが強く期待せられる。いはゆる現代の生活は、機械文化とそれに伴ふ經濟機構などから生ずる幾多の缺陷のために、何等かの變革を要するやうになつてゐることは、周知の事實である。ところが、日本においては過去から傳へられた種々の習性がそれに絡みあつてゐるために、その缺陷が特に強められ、或はそれに特殊の形態が生じてゐる。だからそれを變革して新しい生活を展開させてゆくには、日本に特殊な指導原理、即ち日本的な思想、が要求せられるのである。しかし、その思想は現代生活そのものの内部から生れるものでなくではならぬ。現實を克服するものは現實である。現代の生活に交渉の無い遠い過去の思想をことさらに取り出して來たり、近い過去からの習性を保持しようとしたりするところから形成せられるものではない。今日において過去の思想や習性の復活や維持をことさらに主張するものは、多くは缺陷多き現代の民族生活において、寧ろその缺陷のために、優越の地位を得てゐるものであつて、その地位を保持しようといふ欲求がかゝる形において現はれたものである。上に述べた如く、彼等が現代生活の賜を平然として享受してゐるのが、(172)その明證である。だから、この點からも、かゝる主張に現代生活の缺陷を正し新しい生活を展開させるに足る眞の日本的な思想を生み出す力の無いことは知られる。ところで、上に述べたやうにして日本的な思想、日本的な指導原理が形成せられると共に、一方では生活過程そのものが日本人に特殊な生活氣分生活意欲によつて動かされてもゆき、さうしてそれによつて新しい生活が展開せられるならば、その生活にもまたます/\日本的な特異性が具はつて來るはずである。さうしてその生活から更に種々の方面における日本的な思想が形成せられてゆくであらう。日本人の人生觀、日本人の世界觀、もその間に深められ高められまたは體系化せられ、日本人の哲學もかくして始めて成りたつであらう。實際の歴史の展開の徑路はかう簡單ではなく、また生活と思想とがかう別々にはたらくものでもないから、そこに幾多の紆餘曲折と内外からそれを妨げるものに對する不斷の闘爭とがあり、思想と生活との種々のもつれあひもあるには違ひないが、大觀してかういふ期待はかけられ得るであらう。勿論、それとても日本だけで行はれるものではないので、日本人の生活も思想も斷えず世界の思潮と交流しつゝ展開してゆくものであることを知らねばならぬ。さうしてそれと共に、日本思想それみづからが世界の文化の進運に關與するものでなくてはならず、從つてまた世界共通の思想、人類の一般の思想の上に立つものでなくてはならぬことは明かである。世界の思潮と無關係な日本思想、日本人だけの獨りよがりの日本思想といふものは、これから後には存立し得るはずがない。さうしてさういふ日本の生活と思想とを展開させてゆくところに、日本精神のはたらきがあるべきである。
重ねていふ。日本思想は過去に求むべきではなくして、未來に展開さすべきものである。
(173) 四 日本精神について
〔青空文庫(底本岩波文庫)を御覧下さい。入力者注。〕
(193) 五 今日の生活と昔からのならはし
日本人の生活のしかたは、今、日々に變つてゆく。むかしからの風習になつかしみはあるが、それをこれから後ももちつゞけてゆくことができるかどうか。できるならば、どういふ状態においてであるか。未來にどうなつてゆくかは、だれにもわからぬことであり、たゞどうしてゆきたいとかゆかねばならぬとかいふことが考へ得られるのみであるが、それとても實は、どうなつてゆくかの見とほしが或る程度にできなければ、はつきりは考へられないであらう。一方からいふと、その見とほしがそも/\人々の希望なり志向なりによつて左右せられるのであるが、しかし現代生活そのものの必然的な制約を知ることによつて、いくらかの客觀性をそれに與へることができないでもあるまい。
(194) 一例として年中行事をとりあげてみる。年中行事の最初のものでありその重要さにおいても第一に考へられねばならぬものは「正月」であるが、今日の「正月」のわれ/\の生活におけるはたらきは、徳川時代のそれとは可なりに違つてゐる。正月の行事の多くは、その本來の性質としては、呪術的のものであつて、新しく始まる一年の生活を祝福するために行はれるのであるが、正月にさういふことを行ふのは、年のはじめに更生の意義を有たせるからであらう。時はよどみなく流れてゆくが、人は何等かのくぎりをそれにつけようとする。そのくぎりにおいていろ/\の意味での生活の出なほしをしようとするからである。ところが、このくぎりの最も自然的なものは年であり、さうしてそれが、終つてまた始まる循環性を有つものであるために、更生の意義を託するには最も都合がよい。特に春を正月とするばあひには、春そのものが一般の生物にとつて更生の時期であるために、なほさらそれが都合よくあてはまる。「正月」の重んぜられたのはこれがためであり、日本のやうな風土において農業を主なるしごととしてゐる民族においては、農業そのものの性質からも、春にかういふ意義をもたせることは、自然である。無論、暦(立春を年の始めとするいはゆる太陰暦)はシナのをそのまゝに用ゐたものであり、從つてまた正月を重んずることにもそれに伴つてシナ思想からとり入れられた點もあるが、暦の入らなかつた、或は廣く行はれるまでにならなかつた前から、春において年中行事としての何等かの儀禮を行ふことは、一般のならはしであつたに違ひなく、その意義なりしかたなりがいくらかづつかはりながら、それが後に傳はり、民族生活の變化につれて新しく作られてゆく春の行事のうちに混在することにもなつた。たゞ日本の氣候のうつりかはりはシナの中原(黄河流域)のとは一致せず、四季の區分とその順序とはほゞ同じでありながら、その時期がシナよりも後れてゐて、大まかにいふと一と月ほどの違ひがあるから、暦の(195)上では春の始めであるべき正月はまだ事實上の春にはなつてゐないので、そこに正月と春とのくひちがひがある。春の始めに行はれてもよからうと思はれる官府的儀禮としでの祈年祭が、仲春の二月に行はれることにしてあつたのも、或はこのためではないかとも思はれる。が、ともかくも觀念上、正月と春とはむすびつけて考へられて來た。さうしてその正月に、上に述べたやうな意義でのいろ/\の行事が行はれることになつた。
次第にくづれては來たが、今日にもなほそのおもかげの傳へられてゐる徳川時代の「正月」の行事のうちには、いかなる由來がありいかなる意義をもつてゐるかがその時代にも知られなくなつてゐたものがあるらしいが、しかし、身分や職業や地方やによつていろ/\の違ひがありながら、それ/\の社會においてともかくも一定の儀禮が長い間の一般の風習として行はれて來たことは事實である。由來や意義はどうあらうとも、さういふ儀禮を行ふことに意味があつたのである。儀禮は、そのもとの意義が何であつたにせよ、儀禮として行はれることになつた上は、日常生活とは違つた一定の行動によつて一定の氣分をつくり出すものであり、さうしてそれには、その儀禮に或る權威があり、何人もそれを守らねばならぬものとして考へられることが必要であるが、それにはまたその儀禮が長いしきたりであることと、世間普通に守られてゐるものであることと、約言すると歴史性と社會性とを具へてゐることが必要である。新しく定められたもの人々の自由に變改し得るものには、儀禮としての權威が乏しく、從つてその效果が薄い。その意味において儀禮は嚴肅でなければならぬが、しかしそれと共に儀禮には何等かの形においての遊樂の伴ふのが普通の状態であることをも知らねばならぬ。遊樂の一つのしかたである饗宴の如きは、そのことみづからがもと/\儀禮の一つとして見られるものであるのと、古い時代においては儀禮であつたのが後世には遊樂として取り扱はれるやう(196)になつたものがあるのと、儀禮も遊樂も日常生活とは違つたものである點において共通の性質があり互に結びつき得るものであるのと、また儀禮の嚴肅さがそれから解放せられることになつて遊樂に赴かうとする欲望を促すのと、これらのいろ/\の事情が儀禮に遊樂を伴はせるのであらう。徳川時代の「正月」の行事がこの二面を具へてゐたことは、いふまでもあるまい。正月はまだほんとうの春には入つてゐないが、農業生活においては、とり入れのいそがしさがすんで氣分がゆつたりすると共に、そのとり入れによつて或る滿足を得たこと、並びにしごとのひまな季節になつたといふことが、おのづから正月を遊樂の時期とする習慣を作つて來たでもあらうし、また廣く見ると、いくらか春に近づいてゐるために、その氣候にさそはれて冬の氣分がゆるんで來るといふことも、「正月」の儀禮に遊樂を伴はせる一事情となつたであらう。
ところが現代においては、この「正月」の行事が次第にくづれて來た。或はその重要さが失はれて來た。農村などでは舊いしきたりがわりあひに多く保たれてゐるやうであつて、それは農業生活において「正月」がなほ相當の意義を有つてゐるからであらうが、商工業の生活においてはそれとは樣子が違ふし、都會人、特に都會に生活する知識人、に至つてはなほさらであつて、彼等は概して「正月」にさしたる關心をもたなくなつたといつてよからう。それには明治維新このかたにおけるいろ/\の歴史的由來もあるが、さういふことを除けて考へても、かうなるべき理由がいくらもある。その第一は、人の生活が複雜になり繁劇になつたため、暦年によつて一樣に時のくぎりをつけることができなくなつたといふことである。學年が四月に始まる今の制度では、子どもの時からその子どもの生活において一ばん大事なことが、正月とは違つた時期にくぎられてゐる。(これは農村でも同じであるが、そこでは他の事情が違ふ(197)から、このことがさして強い力をもたぬ。)おとなの生活においてはなほさらであつて、暦年の上でくぎりをつけることは、何ごとについても殆どできないやうな状態である。だから現代の都會人・知識人の生活においては、暦年の循環といふことは何ほどの意義も有たないやうになつた。太陽暦の正月が、冬のさなかといふよりもむしろ初期に近い方であつて、太陰暦のよりも一層遠く春の季節からは離れてゐ、從つて正月には春の氣分が全く伴はなくなつてゐるので、正月に更生の意味をもたせることは、この點からも現代の生活ではできないことになつた。それから、正月の儀禮に呪術的意義のあることは、現代の知識人にも一般には明かに知られてゐないかも知れぬが、いくらかは知られてゐようし、もしまた知られてゐないとすれば、どういふ意義がそれにあるかが疑問とせられ、その疑問が解かれないばあひには大した意義の無いものと考へられるので、いづれにしても、さういふ儀禮は理性の發達した現代人には尊重せられず、從つてそれが嚴肅な心もちで行はれないことになる。呪術的儀禮によつて更生ができるといふやうなことが、まじめに考へられなくなつたことは、明かであらう。なほ生活が忙しくなつてゐる今日では、儀禮はおのづから簡易にならねばならず、また日常生活と違つてゐるところに意味のある儀禮とても、あまりにひどく現代生活からかけはなれてゐるのでは、儀禮を儀禮として行ふことすらもできないのであるから、いくらかの程度で舊いしきたりを改め、それを現代化しなければならぬが、さういふ簡易化・現代化は、要するに儀禮を新しくすることであり、またそれは人々のほしいまゝな思ひつきによることになるから、儀禮の歴史性・社會性はおのづから薄められ、そこからも儀禮の權威が弱められる。また娯樂といふ點からいふと、娯樂機關が發達し、いつでも好きな娯樂のできる今日では、「正月」 の娯樂に特殊の關心を有たなくなるのも、當然であらう。最後に考ふべきは、ふるくからの「正月」(198)の儀禮は主として家庭的のものであつたが、家庭生活と共に、或はそれよりもむしろ、社會生活・集團生活が重要になつてゐる現代においては、この點からもむかしからの「正月」のしきたりには意味が少なくなつて來た、といふことである。儀禮そのものについて考へても、むかしは少なかつた、或は殆ど無かつた、集團的・社會的もしくは國家的の儀禮がいろ/\行はれるから、よし「正月」の儀禮が集團化し社會化し、或はそれに國家的意義がつけ加へられたところで、それは多くの同じ意義を有つてゐる儀禮の一つとしてしか考へられないことになる。
年中行事としての「正月」は、かういふやうにして次第にくづれて來たが、或は輕く見られるやうになつて來たが、しかし、くづれながらに、或は輕く見られながらに、なほそれが行はれてゐるのは、現代生活においてそれが必要であるといふよりは、古くからのならはしをすてかねるところに、更にいはばそのならはしに何かしら心のひかれるものがあるところに、主なる理由があるのではなからうか。もしさうならば、それにはできるだけ古いしきたりを保存する方がよいのであるが、他方では上に述べた如く事實上それができないのであるから、そこに矛盾がある。多くの知識人はこの矛盾を明かに意識することなく、よいかげんに「正月」の行事をしてゐるやうであるが、それは實は「正月」がむかしのやうに尊重せられなくなつたことを示すものでもある。都會人においては「正月」は多く社交のために利用せられてゐるが、これもまた「正月」のほんとうの意味が薄れて來たからのこととも考へられる。(都會人はとかく人生の嚴肅な儀禮を社交の具としがちである。婚禮にも葬禮にもそれが見られる。)農村においても、都會人と同じやうな事情が或る程度にはたらいてゐながら、なほむかしからのしきたりが多く守られてゐるのは、保守的氣分が強いといふやうな理由からばかりではなく、農業生活そのものと「正月」との結びつきがかなりに固いから(199)のことであらう。「正月」ばかりでなく、村々の神社の祭禮がほゞむかしのまゝに行はれてゐるのも、それが村民の集團生活において重要なはたらきなしてゐるところに理由があらうと思はれる。
年中行事としての「正月」は、今はかういふありさまであるが、これから後、それがどうなつてゆくであらうか。農村はともかくもとして、都會人・知識人の間においては、家庭の行事としては、その儀禮的側面は次第に無くなり、社會生活にかゝはりの無い子どもを主にした遊戯と娯樂との「正月」となつてゆくのではあるまいか。今日においてもさうなる傾向は著しく見えてゐるので、「正月」をたのしみにしてゐるのは、子どもだけだといつてもよいくらゐである。もしさうならば、儀禮そのものさへも一つの遊戯として見られることにならう。明治のはじめに一たびすたれた五節句の行事がその後になつて復活したけれども、その儀禮的側面は社會的にも家庭的にも全く失はれ、その儀禮の根柢にひそむ呪術的意義も忘れられると共に、おとなのあづかるものではなくなつてしまひ、たゞ子どものための、或は子どもを主にした、家庭的遊戯としてのみ行はれてゐること、さうすることのできない重陽は復活しなかつたことが、參考せられよう。(日本の家庭において子どもがいかに重要な地位を占めてゐるかは、これでもわかる。儀禮としても子どものためのがいろ/\あるので、例へばいはゆる「七五三」の如きもその一つである。)「正月」は五節句とは違ふ點があるけれども、年中行事としては同じ性質をも有つてゐるのである。集團的・社會的、もしくは國家的の儀禮としては、年のはじめにおいていろ/\のことが今よりも盛んに行はれるやうにならうが、それは、しきたりがふるいといふところに意味もあり情趣もある「正月」とは、氣分の全く違つたものである。
年中行事のみでなく、日常の禮儀なども、ふるいしきたりは次第にすたれてゆく。衣食住の方式が變り生活のしか(200)たが變れば、禮儀もまた變らねばならぬ。北ヨウロッパで形づくられた今のいはゆる洋服が、日本の風土にあてはまるものであるかどうかは問題であり、むしあつい夏季においてはあてはまらないことが明かに知られてゐるので、それに對しては既に何等かの變改が要求せられてゐるが、これまでの日本のきものが現代の活動的な生活にあてはまらないことは、洋服よりも幾層か甚だしいから、どちらをとるかといへばやはり洋服であり、變改を加へるにしてもそれをもとにしてのことであらう。婦人のきものがどれだけ美しくどれだけの魅力をもつてゐるにしても、それが現代の生活に不むきであることは、今度の事變によつて最もよく證明せられた。美しさは勿論なく、大して便利でもなささうなモンペがもてはやされるのでも、それは知られると共に、一方、洋服もます/\流行してゆく。食住についても同樣であつて、米の飯と味噌汁と澤庵とがむかしのまゝに要求せられるにしても、食ひかたは家庭でもむかしとは違つてゐて、ひとり/\に膳を用ゐるやうな家は今では殆ど無くなつてゐるし、家庭外においては、いふまでもなく多數人の共同の食卓が用ゐられる。或はまた疊の上の生活に未練があるにしても、日常生活の大部分は疊の上から離れてゐる。家屋がそれに應じて造られねばならぬことは、いふまでもない。いはゆる洋風建築にはいろ/\の點において日本の氣候にあてはまらないところがあるから、それについては新しく工夫をこらさねばならぬが、現代の生活のしかたにあてはまる、從つてむかしのとは違ふ、建築の要求せられることは明かである。ところが、衣食住がかう變つて來れば、それにつれて日常の禮儀のしかたが變つて來るのは、あたりまへである。或はまた、むかしは殆ど無かつた集團的・公衆的の行動が盛んになつて來れば、さういふばあひの禮儀は新たに作られねばならず、さうしてそれはおのづから個人間の、また私生活における、それにも影響して來る。なほ現代の日本人の生活は世界人としての(201)生活であるから、生活のしかたにもまた世界化せられねばならぬ一面があり、それが禮儀の上にも現はれて來る。
禮儀のしかたのかはることは、おのづから人の氣分なり精神なりを變へることにもなる。これまでの個人間の禮儀のしかたは、頭を低く下げることと、あひてから或るへだたりのある位置にゐることとが、大事な條件となつてゐるやうであつて、それは多分、あひてに對して服從の意を示し自己をあひてよりも地位の低いものとするところから發生したものであらうと思はれ、今日においてはそのことが明かに意識せられはしないけれども、いくらかはさういふ氣分が伴ふのであるが、この禮儀のしかたが變れば、さういふ氣分は無くなるのである。或はまた日本の家庭の舊いならはしにおいて、共同の食卓でなく、ひとり/\の膳が用ゐられてゐたのは、一方からいふと、食ふといふことがもと/\ひとり/\のことであり、食物をめい/\の手にもつて、それが一歩すゝむとめい/\のいれものにいれて、食ふのが自然のしかたであるので、膳はその食器をのせるものであることを思ふと、これは原始的な風習が特殊の發達をしたものと考へられ、それにはまた坐つて食事をすることによつて助けられてゐるところがあらうと思はれるが、それと共に社會的には、家族のうちにおいても身分のちがひを明かにすることが重んぜられたからではあるまいか。ところが、共同の食卓を用ゐることになれば、家族間のかういふ關係もまたいくらか違つて來る。古くからのきものをきてゐるのといはゆる洋服をきてゐるのと、或は疊の上に坐つてゐるのと椅子を用ゐるのとでは、からだのこなし手足の動かしかたが違ひ、從つてそこから身體感とでもいふべきもの、延いては生活感、の違ひが生じて來る。個人または家庭人としてのみはたらくのと、公衆的・集團的の行動をするのとで、氣分が違ふことは、いふまでもない。器具や装飾品などからも、同じやうなことが生ずるので、多數人の共同の食卓に用ゐられる器具は、同じものが數多(202)く一樣に並べられたところに美しさがあり、一つ一つの美しさもこの全體の美しさを成り立たせる性質のものでなくてはならぬ。街路樹は同じ大きさ同じ形のものが一直線に整然として植ゑられてゐるのが美しいので、一本として見たばあひに枝ぶりのおもしろい庭木のやうなものを、いろ/\とりまぜて植ゑたのでは、却つて美しくないのと同じである。さうしてそれから與へられる感じは、一つの茶碗をいろ/\にながめたり手にとつて見たりしてその形や色や手ざはりやを賞翫するやうなばあひのとは、全く違はねばならぬ。そこに、むかしは無かつた集團生活の精神がくみとられるのである。さうしてかういふことはどの方面にでもある。
そこで問題になるのは、むかしからの衣食住の方式、生活のしかたがどうなるかといふことである。それは都會と農村とでは違ひ、職業により知識や趣味やまたは富の程度やによつても違ひ、一樣には考へられぬが、大體の趨向は想像せられなくもなからう。むかしからの生活は主として私的・家庭的のものであり、衣食住の方式とてもそれに適するやうにできてゐたのであるから、これまでのきものも食事や住居の調度や設備も、私生活・家庭生活の方面において保存せられるであらう。さうして公的・社會的のはたらきをするものにとつては、それは休息と安慰とのために用ゐられるであらう。そこでいはゆる二重生活がこの意味で行はれることになる。勿論、一方では休息も安慰も家庭の外において多く求められるやうになり、また例へば一家そろつてのピクニックといふやうに、家庭そのものを家庭外にもち出すしかたも行はれる。或はまた休息にも靜止的なのと活動的なのとの二つがあり、家庭にもおとな本位と子ども本位との二つが考へられるとすれば、今日では何れも後の方のに傾いてゐる。それから、家庭においても、例へばヨウロッパ風の音樂がひろまつたりラヂオが發達したりして、その方面からも休息や安慰のしかたが新しくなつ(203)て來る。かうなると、休息や安慰のためにも必ずしもこれまでの衣食住の方式などを守いてゐる必要が無いことにもならう。また家庭の日常生活においても、科學的知識が發達し科學に本づいた現代的の設備ができて來れば、そこからもむかし風の生活のしかたが變らねばならぬし、經濟的の能力において二重の生活ができないものにおいては、現實の生活の必要がすべてを規定することにならう。いかに日本の庭が美しく閑雅であるにしても、またいかに茶の湯におちついた氣分があるにしても、それを有ち得るもの樂しみ得るものは、富の力がゆたかでなくてはならぬ。さうしてさういふものは極めて少數の階級に限られる。例へば日本式の庭園の美しさを知ることができ茶のゆの趣味を解し得るものは知識人でなければならぬが、さういふ知識人において、その庭園をもち茶席をもち得るものがどれだけあらうぞ。要するに二重生活は多數人においては滿足にはできないことになる。のみならず、氣分の上においても公私の生活をはつきり分けることは、心理的事實として、できる一面もあり、できない一面もある。それから今の中年以上のものにおいてこそ、これまでのきものに未練があるが、子どもの時から洋服をきつけてゐるものが大きくなれば、さういふ未練は初めから無く、從つて疊の上に坐ることを休息とは思はなくなるので、そこから習慣の變化が起るであらう。さうしてさうなれば、これまでの衣食住の方式はいろ/\に變つて來るに違ひない。勿論それは必ずしもいはゆる西洋風になることをのみ意味するのではないが、現代的の、或はこれから後のすべての生活にあてはまる、方式が造り出されてゆかねばならぬ。さうしてその新しい方式は、おのづからそれによつて生活するものに新しい氣分なり精神なりを與へることになるであらう。古い方式の保存せられるのは、富の力に餘裕のある階級の趣味の生活においてか、然らざれば生活のしかたの變化がわりあひに少ない農村においてか、さういふ方面でのことではあるま(204)いか。日常生活から離れた儀禮の上に古い方式ののこされることも考へられるが、儀禮が社會的意義をもつものである限り、それにも制限がある。例へば儀禮のばあひの服装が女性においては今日なほこれまでのきものを用ゐるものが多いが、男性においてはそれは極めて少ないのを見るがよい。
さて、以上述べて來たことの根柢には、現實の生活が人の氣分なり精神なりをつくり出してゆくといふ點に重きをおいた考へかたがある。いはば外に現はれてゐる生活のしかたが内なる生活を動かしてゆくといふのである。内なる生活の外に現はれるものが、いはゆる生活であるとも考へられるので、さういふ側面のあることもたしかであるが、その内なる生活といふものが、もと/\全體の生活のしかたと離れてあるものではない。外なる生活とか内なる生活とかいふ語を用ゐるのが、そも/\妥當ではないので、現實の生活は一つの生活であり、假りにそれに内外兩面のあることを認めるにしても、現實の生活はその兩面が互にはたらきあふことによつてそれ/\を互に變化させてゆくところにある。ところが、世間ではとかく、精神といふ動かぬものが内にあつて、それがこの精神とは別に外に存在する生活を支配してゆく、といふ風に考へたがるくせがあつて、日本精神といふやうなことの宣傳せられる根柢にもそれがあるらしいが、それは生活といふことを正しく理解しないものである。現代生活の基礎である科學を研究したりその科學によつて造り出された事物を運用したりするには、それだけの精神とそのはたらきとが必要であつて、列へば同じ機械を取り扱ふにも人によつて取り扱ひかたの違ひのあるのは、そのためであるが、それと共に、その機械とその基礎となつてゐる科學とが、それを取り扱ふ人にそれに適應する精神を賦與することも、また事實である。第一線に立つて科學的武器を取り扱ふ兵士には、死を恐れざる勇氣と、その根本となつてゐる愛國の精神とが無ければな(205)らぬことはいふまでもないが、いかなるばあひにも周到精密な状況の觀察と細心の注意と沈着と冷静と忍耐とを失はず、またその武器をして全能力を發揮させることのできるやうに平素からそれを整備し愛護する心がけが無くてはならぬが、それは即ち科學的武器、從つてまた科學そのもの、から與へられ、それによつて養はれた精神のはたらきなのである。これは一例に過ぎないが、現代の科學はかういふやうにして現代人に現代的な精神をつくり出させ、それによつて新しい生活を展開させてゆくのである。石油ラムプと電燈とではたゞ照明のしかたが違ふばかりではなく、それを使ふ人間の氣分が違ふのであり、徒歩で旅行するのと汽車や電卓や飛行機を用ゐるのとを、單に旅行の方法が違ふとのみ考へるべきではなく、旅行者の精神とそのはたらきとがそれによつて違ふのである。直接に科學と關係のあることばかりではない。例へば、現代においては、親子なり兄弟姉妹なりがそれ/\獨立してはたらかねばならず、從つてはなれ/”\の土地に別々の生活をしなければならぬのであるが、かういふ生活においては、その家庭はおのづから夫婦とその愛護の下にある子どもとを本位としたものとならねばならず、從つて人の親と親から離れて生活するその子とは、經濟的にも互に獨立してゆく傾向をもつ。經濟的意義において「子にかゝる」といふ昔風の考が現代人に少なくなつてゐるのも、隱居といふ風習の殆ど無くなつたのも、このためであり、さうして恩給もしくはそれに類似の制度はかういふ生活のために必要なものであると共に、またその發達を助けもする。家族生活の形態のかういふ變化に伴つて、家族感情といふやうなもの、或はまた家族道徳も、おのづから昔とは變つて來る。生活の必要がさうさせるのであつて、昔風の家族感情・家族道徳をそのまゝ維持しようとしても、できるはずが無い。(恩給制度の如きは、昔風の家族道徳の精神とは矛盾するものである。)風俗習慣は一般にかうして變つてゆくのであるが、變つてゆく(206)といふことは、新しい生活のしかた、新しい精神、新しい道徳のつくり出されてゆくことである。さういふ新しい精神の作られてゆくについても、古くからの生活のしかたとそれに含まれてゐる、或はそれによつて養はれて來た、氣分なり精神なりが、何等かのはたらきをするには違ひないが、新しいものが古いものに代つてゆくことは疑ひがあるまい。さうして今日の事變とこれから後の日本の地位、財政上・經濟上の状態などは、さういふ變革を促進するについて大なる力とも機會ともなるであらう。表面上、懷古的精神の伴つてゐるやうに見える今日の事變下における國民の活動は、實はこれまでの生活のしかたに、事實上、大なる變動を與へるものであり、現に與へつゝある。さうしてその變動は單なる外面的の生活のしかたにはとゞまらないはずである。
六 日本人の風習の一二について
あらゆる方面にわたつて日本の社會・日本人の生活を變へてしまはうとするのが、今の世間の一つの風潮のやうであつて、日常の生活におけるいろ/\の風習も、その變へるべきものの一つとして考へられてゐるらしい。風習といふぼんやりしたことばを使つたので、こゝにいはうとすることがこのことばにあてはまるかどうか、少しおぼつかなく思ふ點もあるが、一おうかういつておく。さて變へようといふのは、今までの風習はよくない、或はそれによくないところがある、と考へられたからであらうが、よいとかよくないとかいふことが何によつてきめられるかといふと、それにはいろ/\の考へかたがあらう。しかし、今の風潮としては、日本人でない、他の民族の人たちの評判をもと(207)にして考へることが、少なくともそのうちの最も力のあるもののやうである。が、それは正しい考へかたであらうか。
一つの例を擧げてみる。日本人は親しみの情を形の上にあらはすことをしない。握手もしない。抱擁もしない。キスはなほさらしない。喜ぶときにも聲を揚げ手を動かしてその喜びをあらはすことをしない。或はまた悲しいばあひにも涙を流して泣かない。外に示さない何ごとかを心にもつてゐるやうに、或は何か隱すところがあるやうに、見える。これはよくない。單純に率直にありのまゝの感情をうち出すべきである。かういふことがいはれてゐるやうである。しかし、いかなる感情でもそれをそのまゝ形の上にあらはすのがよいかどうか。怒ればすぐに聲をあらゝげ、いやだと思ふとすぐに背をむける。それがよいことかどうか。もしさうでないとすれば、ありのまゝに感情をあらはすといふことには、大きな意味が無いのではあるまいか。もつとも、怒りをあらはすといふことと親しみや喜びを示すといふこととは、社會的にはその效果が違ふ。そこで、怒りは示さないが親しみや喜びはあらはすがよい、といふことになるかもしれぬ。が、さうなると、それには、感情をありのまゝにあらはすといふこととは別な考へかたが、加はつて來る。人の生活は社會的のものであるから、社會的の效果を考へることは、もとよりしなくてはならぬ。感情をあらはすといふことにもと/\社會的のはたらきがある。たゞそこに重點をおいて考へることになると、喜びの情にしても親しみの情にしても、それがあひてに通ずればそれで社會的の效果はある。大きな聲で歡呼するのと、黙つてほゝゑむのと、また握手したり抱擁したりするのと、或るへだたりをおいてものしづかに相對するのとでは、感情のあらはしかたはちがふが、あらはすといふことは同じである。さうして、しかたのちがひは風習のちがひであつて、それ/\の風習のなかで生活してゐるものには、それ/\のあらはしかたによつて、感情が互に通じあふ。事實、日(208)本人は、かういふ點についてのこれまでの風習に對して何の不足も感ぜず、それによつて人と人との交りに缺けるところが無いのではなからうか。日本人の社會生活に缺けてゐるところは、さういふ方面においてではなくして、むしろ社交の技術にきをつけることの少ない點にあるのではなからうか。よくは知らぬが、ヨウロッパやアメリカの人は「人をそらさぬ」技術をよくこゝろえてゐるやうに思はれる。握手も、抱擁も、かういふ技術であるばあひが無いであらうか。シナの人になると、そら/”\しい「せじ」を、「せじ」とは感ぜずに、あたりまへのこととして、極めて無關心につかつてゐるばあひがあるらしい。(日本人はそのためにとんだ誤解をする。)日本人には、かういふ點において、むしろ率直であり單純であるといふ一面もある。
もう一つの考へかたがある。そのばあひ/\の感情をそのまゝにあらはすのは、自然人のことである。それに或る自制を加へると共に、そのあらはしかたを精練するところに、人の教養があり、さうしてそれと社會的の風習とは互に相あづかる。その教養の性質とか程度とかまたは方向とかは、歴史により一般の生活のありさまによつて、同じではなからうが、自然人でない限り、何等かの形でのそれはある。日本人の感情のあらはしかたが上にいつたやうであるのは、日本人が歴史的に養つて來た特殊の教養のためである。たゞ自然人に近い子どもにはその教養が無い。大人でも、あひてが子どもであるばあひには、親しみや喜びをあらはすに大人の間でのとはそのしかたがちがふ。自然人としてそれをとりあつかふからである。もつとも、教養は、自然のまゝにしておかないといふ意味では、人工的ともいはばいはるべきものであるから、それが、度をはづれたり、わざとらしさを含むやうであつたりすると、することいふことが矯飾になり不自然になる。が、矯飾にも不自然にもならないやうに「ほど」を失はず精練せられたしかた(209)が自然に行はれるやうになるところに、ほんとうの教養がある。たゞその「ほど」がどれだけであるか、どういふのが精練せられたしかたであるかが、民族によつてちがふのである。歴史的に形づくられて來た風習の意味がそこにあり、その本づくところは民族に特殊な生活のしかたと生活氣分とでもいふべきものとにある。だから一つの民族のこの風習には他の民族の人たちには解しがたいところがある。日本人の感情のあらはしかたを他の民族の人たちが非難するのは、それを矯飾とし不自然とするのであらうが、それは、抱擁したりキスしたりするのを教養のない自然人のしわざとして非難するのと、同じではあるまいか。キスにも抱擁にもやはり「ほど」があり、しかたがあるのではなからうか。要するに、民族によつて教養の性質のちがび風習のちがひがあるから、他の民族のそれをふしぎに思ひ、ふしぎに思ふがためにそれを非難するのは、民族的偏見であらう。
日本人のこの教義はどうしてできたであらうか。遠くその源をたづねてゆくと、後世のすべての風尚と同じく、平安朝の貴族の生活にまで溯ることにならう。かれらは、その一面においては、優雅な言動につゝまれた粗野な心情をもつてもゐたが、他の一面では、どこまでもその優雅が尊ばれてゐた。優雅とは、もののいひかたやたちゐふるまひが精練せられてゐることであつて、それには或るひかへめな態度、「ほど」を失はないやうにする心づかひ、つりあひのとれた言動、といふやうなことが含まれてゐる。それは他に對するものとして社會的な意味をもつと共に、かれらみづからとしてはみづからの生活きぶんのあらはれであり、この二つが交錯して一つの風尚をなすところに、教養としてのはたらきがあつた。それは自然人の自然なふるまひではない。平安朝人の戀が、ことばの上であけすけにそれを示さうとはせず、つゝむとすれどおのづからあらはれるのがそのならひであるが、よしことばに出すにしても、う(210)ちかすめたもののいひやうをするつゝましやかな態度に、却つて深き思ひがこめられてゐた。恨むにも歎くにも同じ態度がある。幾多の戀の歌はかうして作られた。それには、むかしからの因襲として、かなりに肉感的なところがあるので、普通の對話では口にせられないことを、あれほどろこつにいひあらはした戀の歌は世界の文學に例が少なからうと思はれるが、それがさう感ぜられないほどに精練せられた情趣がその上に漂つてゐる。さうしてこの態度は後世まで續いてゐる。いはば古典的な教養が力をもつてゐたのである。戀についてばかりではない。すべての風尚においてそれと同じことがある。もとよりかういふ教養は平安朝人にはじまつたのではなくして、もつと遠いところにその淵源はあらうし、また平安朝人においては、その時代とその社會との特殊の生活による特殊の姿となつてあらはれたのではあるが、武士の時代になつても、武士の生活によつて新しい形をとりながら、それがうけつがれた。教養のある武士は、殺伐なかれらのしごとのうちにも、優雅さをもつてゐたのである。日本人は禮儀が正しいといふことを、戰國末に來てゐたバテレンのたれかがいつてゐたやうに思ふが、これは、この優雅を禮儀において認めたものであらう。さうしてそれが、教養のある社會においては、近いころまで保たれて來たのである。あまりに遠く溯つて考へたやうであるが、ヨウロッパ人やアメリカ人の教養や風習とても、その源は中世時代にあるのではなからうか。教養ある日本人の感情のあらはしかたにかういふ歴史的由來があるとすれば、それには、かういふ教養とはちがつた教養をもち、ちがつた歴史をもつてゐる、他の民族には理解しがたいところがあらう。それは、ヨウロッパの小説を讀んだりオペラの歌曲をきいたりするときに、その感情のあらはしかたが日本人には理解しがたいところのあるのと、同じである。
(211) 「日本人の微笑」といはれるものも、このこととかゝはるところがある。他の民族の人たちの間にかういふことばがいひ傳へられ、その「微笑」がふしぎがられたのは、久しい前からのことであつて、それについてのいくらかの解釋も試みられてゐるかと思ふが、近ごろまたそれが問題になり、日本人の態度はその心情と一致しない、日本人は假面をつけてゐる、日本人にはゆだんがならぬ、とさへ評せられてゐるばあひもあるやうである。これは、最近の戰爭またはその間における日本人の言動とこのこととを結びつけて考へるところから、起つた評判であらうが、それはともかくもとして、「日本人の微笑」が今でも謎のやうに思はれてゐることは、事實らしい。この「微笑」は、怒りをもつてゐるばあひにもあるが、最も多いのは悲しみを抱いてゐるときのことである。ところが、これは遠いむかしからの風習ではない。平安朝人は、「ほどよきさま」ではあつたが、悲しい時には人まへでもすゝり泣きに泣いた。それが泣かないやうになつたのは、武士の風習に始まつたことであらう。武士は、意志の力で、悲しみの情のあらはれることを自制したのであり、さうしてそれは、武士としての生活の必要から、心のうちを人に見られまいとするのと、弱きを人に示さないやうにするのと、意志による心情の鍛錬そのことが、武士の教養として、重んぜられたのと、これらの事情から生じたことらしく、長い間にそれが一種の習慣となつて來たため、いつしかかういふくせがついたものと考へられる。從つてそれは意識してする態度ではない。假面をつけるのでないことは、いふまでもない。人を欺かうとするのでないことは、なほさらである。またこれは喜怒哀樂を色にあらはさないといふ、隣りの國の「大人」の態度ともちがふ。喜怒哀樂を色にあらはさないといふのは、さういふ感情を無視してゐることを示さうとする傾向を伴ふもののやうに、解せられるので、どうかすると、それが「呵々大笑」となつてもあらはれるが、日本人のは深(212)い悲しみを内に潜めるのである。「微笑」の形をとるのは、そのためではあるまいか。「微笑」は實はおのれみづからこの深い悲しみをまぎらす一つの方法ともなつてゐる。或はまたかういふ一面もある。武士とても女は涙もろいといはれ、人まへで泣かぬは女の「たしなみ」とせられてゐながら、獨りになると、ため涙が一時にせきをきつてあふれ出る、といふこともあつた。男はかならずしもさうではないが、人に涙を見せないのは、一つはやはり「たしなみ」でもあつた。「たしなみ」は、おのれみづからにとつては、人としての品位をくづさないことであるが、他に對しては、その人に心づかひをさせないやうにすることでもあるので、それは禮儀の一つの意味でもある。日本人においては「微笑」はまた禮儀でもある、と考へられる。
かういつて來ると、その禮儀といふものがまた問題になる。禮儀にもいろ/\あるが、こゝにはその一つ二つをとりあげてみよう。日本人の禮儀は、例へば親子・兄弟・師弟・老若、または社會的地位のちがひ、といふやうな、一くちにいふと「みぶん」によつてそれ/\の規制がある。ところが、これに對しては、「みぶん」のちがひを認めるのは封建的な氣風である、といふやうな非難があらう。人は人としては平等であるが、その知識や能力や道徳的の人格には、いろ/\の段階があつて、その人がらのちがひが、社會的には「みぶん」のちがひとしてあらはれることが多く、また、親子兄弟とか年齡の老若とかいふやうな、自然に具はつてゐる「みぶん」のあることは、いふまでもない。從つて禮儀がそれによつて規制せられるのは、あたりまへである。(「みぶん」といふ語には、今日では好ましからぬ語感が伴ふので、こゝに用ゐるにはふさはしからぬやうであるが、他によいいひかたを思ひつかないから、しばらくかういつておく。)禮儀は杜會的にはその社會を秩序づけるはたらきをするものであるが、いかなる社會にも、何かの(213)形での秩序がなくてはなるまい。その秩序の保たれるのに、この「みぶん」がはたらくばあひがあるのである。家の内で一つの食卓につくばあひに、親子・兄弟などの「みぷん」による一定の坐席があり、食事をするに順序があつて、それを亂さない、といふのもその一つの例であり、「ゐろり」のある農家などで、そのまはりに坐席のきめられてゐるのも、それである。家庭の外の集會などにおいても、また同じ精神がはたらく。その「みぶん」がどうきめられ、その秩序がどういふ形をとるかは、民族的風習によつて同じではなからうが、教養のある社會なり家庭なりでは、どの民族にも何等かの形でのそれの無いのはない。これもまたよくは知らぬことであるが、ヨウロッパ人やアメリカ人においては、今の日本人よりは、この意味での禮儀はむしろ嚴格であるやうに思はれる。キスにも抱擁にも、この意味での禮儀があらう。或はそのことが一つの禮儀でもある。だから、この日本人の禮儀は決して、日本に特有な舊いならはしとして、封建的と呼ばるべきものではない。封建的といふことばは、今は極めてほしいまゝに用ゐられてゐるが、どういふ意義でいはれるにしても、かう考へねばならぬ。もし封建的と呼ばれるものがあるとするならば、それは「みぶん」のきめかた秩序の立てかたに、權力のおもかげがあり人間性を抑壓するはたらきのあるばあひであらうが、日本人の風習としての禮儀がさうであるかどうかは、實際のありさまについて細かに考へてみるべきことであつて、他の民族のそれとちがふといふ點から、てがるにかたづけられるべきではない。さういふことよりも、禮儀についての日本人の缺點は、個人と個人との間のそれはあつても、廣く公衆に對する、また集團的の生活における、それの發逢してゐないことである。人の生活が、主として個人と個人との關係において成りたつてゐた長い過去の習慣が、さうさせたのであらう。さうしてこれは、「みぶん」のちがひの無い平等の關係においての禮儀が十分に形づくられ(214)てゐないこととも、つながりがあらう。禮儀の一つの意味としては、みづから謙抑して他を尊敬し、特に弱いものをいたはる、といふことがあるので、それが美しい心情のあらはれであると共に、社會的の效果としては、その社會の生活を快くすることにもなる。この意味での禮儀は、「みぶん」にはかゝはらぬものであるが、その精神は「みぶん」によつて規制せられる禮儀にも含まれてゐる。しかし、「みぶん」から離れた方面でのかういふ禮儀が、これまでの日本人には十分に發逢してゐないやうに見える。それは特定の個人的關係の無い公衆に對して、または集團的の生活において、最もよくあらはれるものだからである。
しかしこゝに一つ考ふべきことがあるので、それは個人の間における日常の禮のしかたである。日本人は、あひてに對し或るへだたりのある位置にゐて、頭を低く下げることが風習となつてゐるが、これは卑屈の態度であり封建的である、と非難せられるのである。この風習の遠い由來は、社會的地位の低いものが高いものに對して、その地位のへだたりを示すところにあつたらうが、それが一般の風習となつたのは、やはり武士時代からのことであつて、その意味は服從の意を示すことであつたやうに、考へられる。(これは臆測にとゞまるが、たぶんかう考へてよからうと思ふ。)しかし、後にはさういふ意味が無くなり、また同じ地位のものの相互の禮としても行はれるやうになつた。さうなるとそれは、もはや卑屈の態度ではなくなり、たゞ禮のしかたとしての意味のみをもつことになる。たゞそれが度をすごすと、一種の諂諛ともなり、そこに卑屈の情があらはれる。あひてが社會的地位の高いことを誇るものであつて、同じ禮をかへさないばあひには、特にさうである。けれども、これは一般の例ではない。だからそれを封建的といふのも、また當らぬことである。これもまた日本人のかういふ禮がヨウロッパ人やアメリカ人の禮のしかたとち(215)がふところから、強ひて考へだされたことではあるまいか。もつとも、この禮のしかたは、疊の上に坐るのが常であるこれまでの生活において、習慣となつて來たものであるから、椅子を用ゐたり立つてはたらいたりすることの多くなつた今日の生活では、それはおのづから變つて來なければならず、また現にいくらかづつ變つて來た。かならずしも封建的だといふ非難があるためではない。このことについては、なほ後にいはう。
禮儀のことをいつたついでに、敬語のことを考へてみよう。日本語には敬語が多すぎるといはれ、これもまた封建的だといはれてゐるやうだからである。日本語の敬語といふものには、動作などをいひあらはすいひかた、またはことばつかひと、あひて(またはおのれみづから)を指し示す名詞や代名詞に特殊の用ゐかたがあるのと、この二つがあらうと思はれるが、第一のほうのはヨウロッパの諸民族のことばには無いといつてよからうし、第二のほうのはそれに比べてはるかに多い。これは事實である。敬語の最も多いのは、隣りの民族であつて、それにはこの二つのうちの第一のものがあるが、第二のほうのがむしろ主であり、そのほかに、例へば文章に書くときに用ゐられる「伏惟」とか「頓首」とか、甚だしきは「死罪死罪」とかいふやうな、特殊の文字をつけ加へるのと、字をあけるとか行を上げるとかいふ特殊の書きかたとがある。この特殊の文字や書きかたは權力崇拜、または權力畏怖、のならはしから來てゐる煩文縟禮の一つであつて、そら/”\しい形式たるにとゞまり、かならずしもその心情のあらはれではなく、またその民族のことばに具はつてゐる語法上の特色でもない。しかし日本語のはことばそのものの特質としてそれがある。(隣りの民族の文章から學ばれたものは別として。)從つて、それは遠い昔からのことであつて、後世に始まつたことではなく、歴史的に斷えず變つて來た社會組織などに由來のあるものではなからう。從つてまた、それは封建的と呼(216)ばるべきものではない。が、そのことはともかくもとして、それが用ゐられる實際のありさまからいふと、同じ地位にあるものの相互の間に用ゐられるのと、社會的地位の高い低いに應じていふのと、二つのばあひがあるらしく、さうしてその何れにも、いふものがみづから謙遜してあひてを尊敬する意味がある。もしさうならば、これは決して非難すべきものではない。ヨウロッパにおいても、地位の高いものに對して或る尊稱を附け加へることは、一般の慣例として行はれてゐるし、特殊の尊嚴な存在に呼びかけるときには、普通に用ゐない代名詞を用ゐることもある。たゞ、日本語のやうにかういふことが多くはない。しかし、このことと、ことばづかひの上で敬意をもつ特殊ないひかたをしないこととを、封建社會の生活を經なかつたからだといふやうに解釋するものは、どこにもあるまい。ヨウロッパの諸民族が、何れも長い間封建社會のうちに生活してゐたことは、明かだからである。
ことばについては、もう一つ問題がある。それは日本語では、人の行動についていふばあひに、語法上の主格(またはその他の格)となるべき名詞または代名詞を用ゐないことが多いので、それは、日本人に人格の觀念の缺けてゐることを示すものだ、といふ考のあることである。何十年も前に讀んだことがあるのみなので、うろおぼえであるから、或はまちがつてゐるかもしれぬが、アストンの日本文學史にも、かういふやうな説があつたかと思ふ。それが、今またどこからか聞えて來るやうである。しかし一々「わたくしが」とか、「あなたが」といふことばを用ゐなくとも、いひかたの上、語調の上で、それは明かにわかるのであるから、かういふ觀察が當つてゐるとは考へられない。それをいふといはないとは、人格の觀念のあるなしによるのではなくして、語法の上の或る約束、またはことばづかひの上の習慣、にすぎないのではなからうか。日本語でもいふべきときにはいふので、いつもいはないのではない。また(217)よくは知らぬが、ヨウロッパ語でも對話のばあひなどには、それをいはないことがあるやうに思ふ。もしそれをいはないのが人格の觀念の無いためだとするならば、日本語に、語法の上で單複の數や男女の性の區別が無いのは、日本人が數や性の觀念をもたないからだ、といはれるかもしれぬ。要するに、むりな考へかたであるが、ことばについてのこれらの考もまた、ヨウロッパの諸民族のことばを標準にして日本語を考へるところから、起つたことのやうである。ことばのことには知識が無いので、こゝにいつたことについても、言語學者の教を乞はねばならぬ問題があるが、これだけのことはいつてよささうに思ふ。(新しい意義での「詩」に「わたしは」とか「あなたが」「おまへが」とかいふことばを一々用ゐてあると、ひどく散文化せられてゐる感じがして、興をそぐばあひが多いが、これは、これらのことばが、音の數の多いものであつて、讀むと調子がだれるからでもあらうが、いはなくてもよいことがいつてあるからでもあらう。さうして、それがいつてあるために「わたし」や「あなた」が特に鮮かに目に浮かぶのでもない。よけいのことであるが、思ひ出したからいひそへておく。)
かういふやうな例はなほいろ/\あるが、あまり長くなるから、今はこれだけにしておく。いはうとしたおもなことは、日本人の風習を、他の民族の人たちが、その民族の風習とちがつてゐるといふ點から、ふしぎに思ひ、或はそれにうはつらの觀察を下し、さうしてそれを非難する、その觀察や非難をまるのみにし、それをもとにして、日本人みづからの風習を變へようとする、さういふ態度は正しくなからう、といふことであり、そのために、日本人の風習に、どういふ意味があるか、それがどうしてできたか、といふことについての、思ひつきを述べてみることであつた。風習といふものは、そのなかに生活してゐるものには、その意味がわからず、またはそれを考へてみようとしない傾(218)があり、却つて外からそれの觀察せられ批評せられることが多く、それによつていろ/\思ひあたることのあるばあひも少なくないが、しかし、みづから體驗しない人たちのさういふ觀察や批評には、ともすれば誤りがありがちである。だから、それをまるのみにすべきではない、といはねばならぬ。こゝに述べた思ひつきが當つてゐるかどうかについては、それ/\の學者に教へていたゞきたい。なほいひそへたいのは、こゝに述べたことは日本人の風習の辯護のやうな形になり、從つてその風習を後までも保存しようといふ考のやうに見えるかもしれぬが、實はさうではない。風習といふと何か固定したもののやうに聞えるが、かならずしもさうではなく、知らぬまに變つてゆくものである。が、それと共にまた、變りにくいものでもある。變らないやうに見えても實は變つてゐるばあひがあると共に、うはべは變つたやうに見えても、實は同じことがつゞいてゐるばあひもある。どういふばあひに變り、どういふばあひに變らないか、どういふところが變り、どういふところが變らずにゐるかは、その時の複雜な事情にもより、風習そのものの性質にもよることであつて、簡單には考へられない。風習は生活の一つの姿であり、生活氣分とでもいふべきもののあらはれでもあるが、一面では、生活を規制し生活氣分を作るはたらきをももつので、そこに風習の保守的なはたらきがある。ところが、生活は動いてやまぬものであり、その動きかたの特に大きくまた激しいばあひがあるし、新しい生活のしかたが新しい生活氣分を作りもするから、さういふばあひには、過去の風習は變へられてゆく。變へなければ生活することができないからである。禮儀といふことを例にしていふと、頭を低く下げる禮のしかたが、現にいくらかづつ變つて來てゐるのも、それであつて、これは、疊の上に坐るといふ、いはば靜的な生活に伴ふ禮のしかたが、動的な今の人のはたらきかたにそぐはないからである。しかし家のうちで疊に坐ることが全く無くならない(219)限り、かういふ禮もまた幾らかづつ變りながら、全く無くなりはしなからう。しなれた禮によつて養はれて來た氣分が急には無くならないことも、またそれを助ける事情とならう。生活のしかたは變つても、生活する人の氣分といふものは、それとは不調和なありさまで、持ちつゞけられる一面もある、といふことも、考へねばなるまい。もう一歩進んでいふと、生活が變るといつても、それは複雜なもの多方面のものであり、また保守的な力がはたらくものでもあるから、一から十まで急に變つてしまふものではない。そこに生活といふものの本質の一面がある。よしまたそのおもな形が變るにしても、その新しい生活を調整する秩序も禮儀もなければならぬが、その秩序なり禮儀なりは、形は變つても精神には同じところがあるから、そこにも、何ほどかの程度で、或は何等かの方面で、過去の秩序や禮儀の殘されてゆく理由がある。もつとも一方では、現に成りたつてゐる秩序や風習としての禮儀に對し、何となく反抗したいやうな氣分をも、人はもつてゐるのであり、世間の全體の空氣がざわついてゐるときには、さういふ氣分が日常の生活にもろこつにあらはれ、人の行ひに規制が無くなるので、現に日本の今日のありさまには、さういふ一面がある。その根本は、いかなる意味の秩序、またいかなる風習であるにせよ、秩序であり風習であることが、人を抑壓するものとして感ぜられるからであらうが、戰爭の直接間接にひき起した世の混亂によつて、事案、秩序がくづれ風習の權威が弱められてゐることが、それを助けてもゐよう。しかしこれは日本人の全體ではない。たゞ大きく見て、現代の生活が過去のと變つてゐること、また變へてゆかねばならぬことは明かであるから、それに伴つて過去の風習が變つてゆくこと、また變へてゆかねばならぬことも、疑ひがない。日本人の生活が世界的のはたらきをするやうになつた現代では、その點からでも、日本人だけの間に意味のあつた風習には、變へてゆかねばならぬところがあらう。(220)たゞ變つてゆくといふ方面から見ると、それは生活そのものの變るのに伴ふものである、といふことを忘れてはならぬ。また變へるといふ面から見ると、これまでの風習のどこが新しい生活にそぐはないかをよく考へ、どう變へたならば新しい生活をよくしてゆき美しくしてゆくことができるかを、その風習の意味を考へ新しい生活の實相を究めることによつて、明かにしてかゝらねばなるまい。ちがつた民族に屬する人たちの外からの批評を標準にして、風習を變へようとすることに、どれだけの意味があるかは、このことからもわからう。
七 日本の家族生活
田植ゑの季節がそろ/\近づいて來た。ところによつてはもう始まつてゐるかとも思ふ。田植ゑのころは、農民にとつては最も忙しく最もほねのをれる時である。一般に農事は勞苦の多いものと昔から考へられて來たし、また近ごろは或る方面で、日本の農民はあまりにも過重な勞働を課せられてゐる、といふやうなことがいはれもするが、勞苦といへばいはれるほどの勞働は、田植ゑのころのが第一であらう。しかしその勞働は徒らなる勞働ではない。水田耕作についていふと、ほねをつて植ゑた苗の日々に成長し、朝夕に田の面の色の濃くなつてゆくのを、注意して見守つてゐる農民は、それに大きな喜びを感じ、やはりほねのをれる田の草とりも、勞苦とばかりは思はず、すべきこととしてそのしごとをする。たゞ、それには或る程度の努力が伴ふのみである。すべての農事の勞働には、物を作る樂しみ育ててゆく樂しみがあり、また秋の收穫を期待することによつて、作るものができ上がり育てるものが成熟するの(221)を心にゑがく樂しみがある。水田耕作のみでなく、すべての農事がさうであって、これは心ある農民の昔から體驗して來たことである。努力には多かれ少なかれ勞苦が伴ふが、努力しないところに成功は無く勞苦を經ない樂しみの無いことは、何人もが知つてゐたのである。はたらくことを勞苦とするかしないかは、單なる肉體の問題ではなく、半ばは精神的のことであり、つまりは心もちの問題である。のみならず、もう一歩進んで、作物を育てるのは勞苦を忘れ我を忘れてのしごとであつて、親が子を育てるに苦勞するのと似てゐる、ともいへる。それはむしろ一種の愛情のはたらきである。エド時代に日本に來てゐたオランダのナガサキ商館長ツンベルグは、日本の農民を讃美して、彼等は農業を愛し、忍耐と細心の注意とを以て耕作し勞働そのことを樂しんでゐる、といつてゐる。農事については何の經驗も無いが、農村に育つたわたくしは、狹い見聞の及んだ限りにおいては、この觀察がよく當つてゐることを感ずる。
勿論、何等かの方法によつて勞働が緩和せられ、而もそれによつて效果の減少することが無いならば、それに越したことは無く、またさうするためにできるだけの工夫をすべきではある。現に今日では、農業の技術の發達、作物の品種や農具や肥料などの改善、農業の知識の進歩またはその生活程度の高まつたこと、なほその他のいろ/\の事情によつて、何十年かの前に比べると勞働がずつと輕減せられてゐるのみならず、作物の種類も多くなり、水田についていふと米の品質もよくなり收穫も多くなつてゐる。けれども日本の風土の自然に適應し、さうして遠い昔からの傳統をもつてゐる農事、特にその主なるものである水田耕作は、變らずに行はれてゐるから、それから生じそれに伴つてゐる勞働には、今も昔と同じ性質があり、從つて農民は、季節によつては、かなりに激しくはたらかねばならぬば(222)あひがある。八時間勞働といふやうな抽象的な規範が農事にあてはまらないことは、いふまでもない。ヨウロッパやアメリカの農業を引き合ひに出して日本の農民のはたらきかたを是非するに至つては、なほさらである。日本の農業はしごとがこまかく、時間と勞力とを多く費さねばならぬが、しかしそこに農民の心用ゐの細密さがあり、熟練と獨自の工夫をする餘地とがある。日本人の園藝や果物の栽培が世界的に有名になつてゐるのも、かゝる農民生活の經驗によつて次第に養はれて來た特異の能力の現はれであるべきことを、考ふべきである。勞働の多寡といふやうな點からのみ農民のしごとを見るべきではあるまい。そこには一種の風尚と生活氣分とがある。
こゝで少しく昔ばなしをしてみる。明治の十年代、わたくしの少年のころには、ふだん着はみな手織りもので作られてゐたので、母がみなそれを織つてくれた。この風習は農村だけのことではなく、たしかには知らぬが、もとの武士階級でも身分の低い家では同樣なところがあつたかと思ふ。それを織るには、地にする色の絲と、それとは違ふ一、二種か二、三種かの色絲とをいろ/\に組み合はせて「しま」を作るのであるが、その「しま」を、老人なり子どもなりその性別や年齡なりまたはそれ/\の個人的な人がらやその好みなりに適合するやうに、またそれが家の品位とか家風とかにかなふやうに、するために、色の撰びかたと組み合はせかたとに工夫と創意とがあつた。さうしてそれには物の美しさに對する幾らかの感受性とほんのわづかの計數の能力または知識とが必要なので、そこにも織るものの人としてのはたらきがある。織ることにこまかい注意と熟練とが要求せられ、そこにも個人的の能力が現はれることは、いふまでもない。劃一拍な大量生産によつて製造せられたものを、同じく大量に取り扱ふ商業機關を經て、求めねばならぬ今日の状態では、よしそこに幾らかの撰擇の餘地が無いではないにせよ、個人的の嗜好にかなひさうなも(223)の、もしくはそれに近いものは、殆ど得られない。人がみな一樣な流行にひきずられてゆくやうになるのも、一つはそのためである。現代生活のあらゆる方面において個人は全く多數人(マス)の力に壓倒せられてゐるが、これもその一例であらう。
こゝにおいてかわたくしは少年時代のことを想ひ出さざるを得ないのである。それのみならず、家々ではた織りをするのは、織るものみづからは物を作ることの樂しみを味ひ得ると共に、似つかはしき衣を着たことにほゝゑむ人々の喜びを見るにもまた大なる喜びがある。高級な衣服の料は織ることができないけれども、それは稀にしか用ゐないもののことである。大切なのは日常生活における衣服である。手織りものの堅實で持久性のあるのもまた、日常生活にとつては必要なことであるが、商業主義と大量生産の方法とによる今の織物には、如何にそれが乏しいことか。さうしてそれは人々が斷えず變へられてゆく流行のあとを追うて走ることと相伴ふものであり、また思想と生活とにおける個人の獨自性を保たうとしない今日の日本人の輕浮な心理とおのづから相應ずるものでもある。
かういつたとて、もう長い間廢れてゐるこの風習を今の時代に復活させようといふのではない。今日の經濟組織のうちにゐてそれを復活させようとするのは、汽車の通じてゐるところを歩いてゆけといふのと同じであつて、實現のできないことである。たゞ今日の一般の家庭の婦人、特に若い女性には、奇異なことのやうに思はれるであらうこの風習には、勞力を惜しまぬ心がけと、こゝにいつたやうな豐かな人間的情味とのあることを、示さうとしたのみである。今は家庭生活においても、勞力を省くために何ごとによらず機械の利用を喜ぶ氣風があるやうであつて、それにはよい效果のある一面もあるが、あまりに機械に依頼するばあひには、人の個人的の能力と習慣によつておのづから(224)養はれる熟練と生活の潤ひと人間的情味とを無くする一面がそれにあることをも、考へねばならぬ。いさゝかの時間と手數と勞力とを惜しんで、少しでも「勞働」を避けようとするならば、かならずこの弊害が生ずる。はた織りをしないまでも、萬事につけてこれだけの心用ゐは必要であらう。ところが、農事には、今もなほ家々ではた織りをしたのと同じ精神がはたらいてゐる。
日本の農事は劃一的な大量生産の方式によることができない。その代りそれは、耕地の位置やその地質や水利の便否などがいろ/\であり、風雨陰晴寒暑などの變化の多い自然界の状態の動きに應じ、また村落の形態や家族生活の状況や個人の心がけ、いきごみ、經驗、能力、などの如何によつて、しごとのしかたもその成果も一樣でないところに、人としてのはたらきと人間的情味とがある。機械の利用も、ところによりしごとによりばあひによつてはできようし、また望ましくもあるが、一般にはそれによることはできず、また強ひてそれに依頼することになれば、その逆なはたらきとして、人の生活が機械化せられる虞れがある。
農事における家庭生活の重要性もまた注意せられねばならぬ。日本の農事は一般に家族の協同のはたらきによるしごととせられ、特に田植ゑとか取入れとかの忙しい季節には、老人や子どももそれ/\の能力に應じた手助けをするので、それには傳統的の家族制度ともつながるところがある。そこで話を家族制度のことに移さう。最近には法制の上で家族制度に大なる變革が加へられ、さうしてその變革には、首肯せられることもあるがさうでないこともあり、また首肯せられることでも、長い間行はれて來た現實の習俗は、法制上の處置のみで急激にそれを變革することはできず、強ひてさうしようとすればそこに生活上の幾多の紛亂が生ずる。のみならず、いかなる法制にも利弊は相伴ふ(225)ものであるから、かゝる紛亂のばあひには、舊法制の弊害がまだ去らないうちに新法制の弊害がそれと共に起り、二重の弊害がからみあつて人を惱まし世を惱ますことになりかねない。もと/\法制を定めるには、一般の習俗に從つてそれに法制としての形と權威とを與へるのが、その順序であらう。習俗とても、人々の道徳觀念や生活氣分や生活意欲の變化により、生活そのものの變化により、また社會的・經濟的状態の變化によつて、おのづから變化するものではあるが、それは急激には行はれないので、そこに習俗の本質がある。從つて法制の改定は、かゝる習俗の變化がほゞ一般に行はれた後において、すべきである。法制によつて習俗を變革しようとするのは逆なしかたであらう。特に新法制が習俗の全く違つてゐるヨウロッパやアメリカにおいて、またそれらの特異の習俗によつて、構成せられた思想に本づいたものであるとすれば、なほさらである。
法制のことは別問題としても、われ/\の日常生活に最も切實な、また人生の最も基本的なことがらがその根柢にある、家族生活の習俗を、その生活とはもと/\關係の無い、こゝにいつたやうな思想、といふよりもむしろ外部から與へられた何等かの知識によつて、輕率に變革しようとする考へかたがあるとすれば、それは、極めて危險なものである。これまでの習俗には、現代の生活には適合しないものが含まれてゐるから、それを改めようとすることはよいが、それにしてもそれを改めるには順序があり方法があらう。何よりも、その習俗にはいろ/\のことがらがあり、一つのことがらにもいろ/\の側面があるのみならず、家庭生活を動かす外部のさま/”\の事情もあつて、それらが互にからみあつてゐるから、そのうち一つを改めようとしても、その一つだけではすまされぬことを、考へねばならぬ。例へば同じ家屋に住んで日常の起居を共にし、また經濟的にも一つの生活體をなすのが普通である家族の構成を(226)どうするか、といふやうなことについても、それを簡単にまた一樣に考へることはできない。職業や富の程度や家族員の多寡、年齡・性別、または親子とか夫妻とか兄弟とかいふその親縁の性質などの差異がある上に、これらのものの一々がみなそれ/\、家族外における社會的ないろ/\の關聯をもつてゐるために、それが一層複雜になるからである。だから、家族は夫妻とその子どもとで構成すべきであつて、成人の親子などは別居すべきである、といふやうな考ですべてを處理しようとするならば、そこからいろ/\な故障が起つて來る。老成人には保守的氣分が強く、若いものには自我を固執する傾向があつて、その間に衝突が起り易く、また近づきすぎると互に反撥心が起り、離れてゐると却つて親しみが生ずるといふ心理もあるから、成人の親子が別居することはその點ではよいことであらうが、それには經濟的にできるのとできないのとがあるから、できないばあひには別に上記の如き衝突や反撥を起さぬやうに工夫をしなければならず、さうしてそれは心がけ次第でむつかしいことではあるまい。
人は獨りだけで孤立して生きてゆかれるものではなく、家族または社會の一員として、何等かの形においての協同生活をしなければならぬ。從つておのれ一人の思ふまゝにふるまふことは、いかなる家族生活いかなる社會生活にあつても、本來できないはずである。そこにはかならず自制と他人に對する寛容とが無くてはならず、さうしてそれには互にあひてのたちばに立つて自己を見る心がまへが必要である。それだにあれば衝突や反撥は起らないのが普通である。これは自己の獨立性を損ふことではなく却つてそれを堅持することなのである。他と協同することによつて始めて自己が存立し、自己の存立することによつて始めて他との協同ができるからである。協同生活の情味の最も濃やかであるべき家族生活においては、このことが特に重要である。かゝる家族的協同生活の統一體が「家」であつて(こ(227)れは法制上の「家」をいふのではない)、その家の構成にはこゝで考へてゐるやうに種々の問題があるけれども、何等かの構成による「家」の存立は人の生活の本質的な要求である。いま世間で社會保障の問題がやかましく論ぜられてゐるが、社會といふ觀點から見ると、家はその最も小規模のものであり、個人と最も親近なものであるから、社會保障といふことについても、家族の成員は家で保護しその生活は家で處理する、といふ昔からの風習を先づ考ふべきではあるまいか。經濟上またはその他の種々の事情があるにしても、考へる順序はかうすべきではあるまいか。さうしてそこに家といふ協同生活の意義がある。協同生活の根柢をなす相互の親愛感は、概していふと、その規模が小さく親近の情が濃厚なほど強いのが自然でもあり普通の状態でもある。
家族生活についてはなほいふべきことがある。今日は變革の時期であつて老成人とは思想の違ふ若い世代のものがその變革の精神の具現者である、といふやうなことが世間の一部でいひはやされ、家族生活についてもさういふ風潮に誘はれて、舊習の破壞をおのれらの使命と思つてゐる若い人たちがあるやうに見えるが、人の思想の違ふのは必ずしもいはゆる世代の違ひによるのではなくして、むしろ教養の性質または程度や性情の差異や年齡の多少などによることが多く、どの世代のものにもまた何時の世にもあることである。さうしてそれと共に、今のいはゆる若い世代のものであることを誇つてゐる人たちの思想には、自己自身から出たものではなくしてこゝにいつたやうな風潮によつて他から注入せられたに過ぎないものが多いやうである。自己のしつかりした思想をもつまでの學識と經驗とが無く、一般に教養の足りないのが、年齡から見ても彼等の經歴した世情から見ても、當然だからである。若い世代といふことをいひはやすのは、實は若い年齡を尊重するからではなく、かゝる風潮を世に漲らせようとするためであるらしい。(228)若い年齡のものには、感受性に富み、一本氣になり、その言行に清新の風があり活氣があつて思つたことをすぐにいひすぐに實行し、從つて因襲にとらはれず舊習に拘束せられない、といふやうな長所があるが、しかし長所を長所としてはたらかせ得るのは、よし經驗が少なく學識が狹くとも、人としての教養があり事物に對する獨自な感覺及び情思と意見とをもつてゐるもののことである。世代といふ語で表現せられるやうな一般的な氣風に動かされたり追從したりしてゐるに過ぎないものにはそれはできない。だからさういふ人たちが家族生活の風習を變革しようとしても、それは實は徒らに生活の紛亂を起させるのみのことであらう。
家族生活に關するもう一つの例を擧げるならば、婚姻がそれである。婚姻に關する風習において、當事者の情思を無視または輕視し、家族の何人かの功利的な動機や父母の意向のみによつて事を處理するやうなことが、今なほ行はれるばあひがあるとするならば、それは改めねばならぬ。しかし婚姻は婚姻だけのこと當事者の結合だけのことではなく、一方ではこれまで考えて來た家族の構成に關することであるのみならず、他方ではそれによつて生ずる子孫との交渉が重要である。人が祖先から次第に承けて來た血統を次第に子孫に傳へ、その子孫の素質とはたらきとを次第によくしてゆくこと、その意義での「家」を尊重することが、考へられねばならぬ。「家」は上にいつた如く現在の家族の協同生活の統一體であるが、家系としてはるかなる過去から永遠の未來につながる「家」も、また人の生活としては本質的のものである。從つて人は、現在の「家」に對してそれをよくしてゆく道徳的責任があると共に、これまで家系をついで來た祖先と、これからついでゆく子孫と、に對しても同じ責任がある。どこの國でも家系を尊重する風習があり、古い由緒のある家は舊家としての特殊の品位と風格とを具へ、そのために一種の奥ゆかしさが感ぜられ(229)るのみならず、その家を繼承するものも、意識してその風格を傷つけないやうに注意し、その保たれることに誇りをもつのが常である。ところがそれには、個人に個性があると同じく、家によつて何ほどかの特色がおのづから生じ、從つてよい意義での家風ともいふべきものがそこに成りたつ。わが日本にも現にそれがある。今の日本のいはゆる知識人は多分かういふ家系の觀念とそれに伴ふ家風との存在を認めず、或は「封建的」と稱してそれを非難し、或はそれを破壞すべきものとするであらうが、それは、かゝる人々が家系をつぐものの努力によつておのづから作られてゆく家々の美風を感受することができないからであらう。勿論、それには弊害が伴ふばあひもあるが、いかによいことでも缺點はあるから、缺點のあることのみを見て全體としての美風を認めないのは、偏見でもあり淺見でもある。それは恰も、ヨウロッパでもアメリカでも、良家においては、家庭における家族の秩序を正しくし子どものしつけを重んじてゐるのに、それを知つてか知らずてか、日本の上記の知識人がさういふ風習を「封建的」として非難するのと、似たことであり、またそれと關係のあることでもある。のみならずこゝでいつたのは、世間的地位とか財力とかに關することではなくして、子孫が次第に人としての品位を高め精神的に優良なはたらきをするやうな家風を作つてゆくことに努力すべきだ、といふことであつて、この意味で家系とそれによつて成りたつ「家」とを重んぜよといふのである。
しかし既に述べた如く家族生活における習俗に改むべきもののあることは、事實である。が、それは實生活の上において前々から既に幾らかづつ行はれて來たことである。都會の生活者、特に俸給によつて衣食するものには、職務上の必要と住地の一定し難いこととから、成人の親子は概ね別居する習慣が生じてゐて、起居を共にするのは夫妻と(230)その子どもとのみであるばあひが多く、また保險及びそれに類する方法があるため、老後の生活を子に依頼するといふ舊習は次第に廢れて來た。たゞ農家ではそれと違つて、古くからの習俗がほゞ守られてゐるし、農業生活の必要からそれが要求せられもするが、それでも俸給または賃銀によつて衣食するやうになつた子どものあるばあひには、それと父母とはやはり生活を別にすることになる。そればかりでなく、子が成長して妻子をもち家事を擔任するやうになると、父母はおのづから別居するやうにもなるのでいろ/\の方法いろ/\の程度でのさういふ別居の風習が民衆の間に昔から生じてもゐた。いはゆる隱居の一つの形態がそれである。近ごろになつてそれが多くなつたとすれば、それは風習の變化として考へられようが、しかしこれは、何等かの特殊な思想の力によつてことさらに變革を行はないでも、生活そのものが、生活の必要上、いつのまにか徐々に變化して來たのであるから、變へようとして變へたのではなく、おのづから變つて來たのである。また強ひて變へようとしてもそれはむつかしいことである。婚姻についても、教養ある社會においては、昔あつたやうな習慣は今は殆ど無くなり、さうしてその變化は次第に農村にも及んで來てゐるが、これもまた實生活がそれを要求するからである。ところが實生活上の要求から出たことは、實生活を破壞するやうな思想をば容認しないから、そこにはいろ/\の形でおのづからこれまでの家族生活との調和が行はれてゐる。家族生活の紛擾は、それに屬するものの世代の如何を問はず、教養が無くして偏固な思想をもち放恣な行動をするものがあるばあひに生ずるのである。
さて法制のことに立ちかへつて一言する。法制によつて風習を變革しようとするのは逆のしかたである、と上にいつたことの意味は、こゝまで考へて來たことによつてほゞ知られるであらう。たゞ實生活の必要から風習がおのづか(231)ら變つてゆくには時間がかゝるから、ゆつくりそれを待つべきであるが、幾らかでもそれを促進する道が無いではない。それは、習慣から生じた偏僻の見や、他から與へられた思想を輕信七でそれを固執するやうな態度を、みづから改めてゆくことのできるほどに、國民一般の教養を高めてゆくことである。さうしてその教養の一つとして、事物に對する正しい理解力・判斷力をもたせるやうにすることが考へられるが、今の問題については、法制上の規定と道徳との區別及び關係を明かにすることが、その一つであらう。エド時代には成文法といふものは甚だ少なく、多くは現實の風習と當時の道徳上の常識とによつて處理せられたので、普通の民衆には今日でもなほ、それから繼承せられた考へかたが殘つてをり、さうしてそれを逆に適用して、法制の上で許されてゐることは道徳的に肯定せられてゐることのやうに、またはさういふ行動をするのが當然のことであるやうに、思ひなされる風がある。それと共に、ヨウロッパの特殊の事情から發生した人權の概念が日本の法制にも取り入れられたにつけ、その概念の根柢には道徳的要求の存在することを深く考へず、從つてその人權を無制限に主張して、權利には義務の伴ふことをすら思はない氣風が、近ごろに至つて特に盛んになつた。なほこれらのことと關聯して、道徳的意義において人の爲すべきこと、道徳的情操のおのづからなる現はれであるべきこと、を何等かの權力の如きものによつて他から強制せられることの如く錯覺し、さうしてそれには、人と人との關係が暖かい人間的情味によつて始めて成りたつものであることを忘れるばあひのあることが、考へられる。家族生活に關する思想の混亂にはこれらのことから生ずるものが多いやうであるが、それは少しく教養のあるものがおのづからもつてゐる理解力と正しい列斷力とをもたないからのことである。習俗を改める道は教養を高めるにある、といふことの一つの意義はこゝにある。(232)いふことはそれからそれへと移つて來て、書き出しからはひどく離れてしまつたやうであるが、いはうとしたのは、日本の農業、特に水田の耕作、の特色を思ひ、それに從事する農民の心理と勤勉な氣風との美點を擧げ、またそれが傳統的な家の構成と密接な關係のあることを考へ、勞力を厭ひまた家族生活の習俗を否認するが如き思想の流行に對して、或る抗議を提起することであつた。少年時を農村で送つたわたくしは、初夏の季節のきのふけふ、にぎやかに行はれる田植ゑの光景を想起し、ほねはをれても活き/\とはたらく農夫の行動、泥にまみれても女性らしいたしなみを失はぬさをとめの姿、今は廢れたところが多いかと思はれるが田植ゑ歌の朗らかな聲調、をり/\は何に興じてかあちこちに聞える高笑ひのひゞき、老者も少年もそれ/\に與かるところのある樂しげなそのしごとぶり、ばあひによつては隣保の助けあふありさま、植ゑ終つた田の面の美しさ、などをおもかげに見て、田の神の惠みのあつからんことをよそながら念じ、それから思ひついて筆をとつたのがこの小稿である。
八 教育に關する勅語について
むかしからの日本國民がどういふ氣分で皇室を戴いてゐたか、といふことを一くちにいふと、教養ある國民は皇室をおのれ等に對立する存在としてでなく、おのれらの内部の存在であるが如く感じてゐたのである。一般國民にとつては、皇室はおのれらとは遙かに隔つてゐる至高の地位にゐられるけれども、精神的にはかういふ感じがあつた。或は皇室の存在はおのれらみづからの存在と同じに思はれてゐたといつてもよい。皇室がその起源の知られないほどに(233)遠い過去からの存在であることが、その存在を自然のことのやうに、或は皇室は自然的の存在であるやうに、國民に思はせた、といふことを曾ていつたことがあるが、それと共に、この意味においてもまた國民にとつては自然の存在なのである。このことは皇室とおのれらとはおのづからなる情味によつてつながれてゐると思はれてゐたことを示すものであるので、皇室に對する道徳的責務といふやうなことが殆ど教へられなかつたといつてよいのも、そのためである。エド時代の學者が種々の人的關係における道義を説いても、皇室に對するそれをいふことは極めて稀であり、モトヲリ ノリナガなどの國學者がそれを説いたのみであつた。一般國民は皇室に對して直接の交渉が無かつたからであらうが、特にさういふことを教へる必要が無かつたからでもあらう。たゞ時に幕府の皇室に對する態度について幾らかの批判を加へるものがあつたのみである。
しかし明治時代になると情勢が變つて來た。王政維新は世界に對して如何に日本を立ててゆくべきかが焦眉の問題となつたために行はれたことであるので、當時の情勢において國民が國家の統一を欲する念と皇室を敬愛する情とが結びつけられたところにその精神がある。それと共に皇室が直接に國民の面前に立たれることになつたために、皇室が如何に國民に對せられるか、國民は如何に皇室に對すべきか、を明かにする必要が生じた。天皇には國民を安泰にする職責があるといふ皇室の傳統的精神、或は理念が、天皇の御名によつてしば/\宣言せられたが、さうなると國民の皇室に對する道徳的責務もまたおのづから思慮に上つて來なくてはならぬ。忠君といふ語が皇室に對する國民の責務として頻繁に用ゐられるやうになつたことには、かういふ思想的由來があつたと推測せられる。これは忠君の觀念の本來の意義とは全く違つたことであるが、明治の初年は、武士の君臣關係によつて成立してゐた政治上の封建制(234)度が存在した時代であつたのと、道徳を講ずるものは當時においても主として儒者もしくはその思想的系統に屬するものであつて、儒教の道徳の教條に忠君といふことがあるために、それがもと/\國民の皇室に對する道徳的責務には適用すべからざることであるにかゝはらず、それを適用したのとで、かういふことが行はれたと考へられる。(忠君の語のこの適用はエド時代末期の儒者に既にその先蹤がある。)臣と民とはその意義が違つてゐるにもかゝはらず臣民といふ熟語が作られたり、國家の官吏は宮廷から俸緑を受けるのではないから臣と稱すべきものではないのにさう稱したり、さういふやうなことのあつたことから類推しても、上記の如き觀念の混亂が當時にあつたのはむりではなかつたかも知れぬ。またこれは、これまで武士がそれ/\の封建君主に對して有つてゐた感情がそのまゝ皇室に對する念におのづから移入せられたのでもある。なほ道徳的責務は特定の關係のある個人と個人との間のこととせられ、時に漠然たる「世間」がその對象とせられるばあひはあつても、部分としてまたは構成要素としての個人が、全體としてまたは組織せられた集團としての國家もしくは社會に對する、道徳的責務のあることが十分に體驗せられなかつた時代のこととしては、國家に對する責務が皇室に對することとして意識せられまたは表現せられたのも、また甚しきむりではなかつたと考へられる。教育に關する勅語の形をとつて發布せられた當時の政府者の思想にも、またそれが現はれてゐる。
この勅語は儒教思想が多く含まれてゐる。何よりもまづ、國民の道徳の規準を勅語によつて教へ示すといふのが、帝王は民を教ふべきものであるとする儒教思想から來てゐることが、考へられる。次にいふやうに勅語の内容となつてゐる道徳の規準が主として儒教の道徳説によつてゐるのを見ても、このことは明かであらう。國民の道徳思想は、(235)國民の現實の生活とその生活をさらに進展させてゆかうとする國民みづからの欲求とから形づくられるものであり、さうしてその生活もその欲求も歴史的に變化するものであるが、かういふ形でそれが定められたのは、當時において知識人の間に儒教思想がなほ勢力をもつてゐたためであらう。次には、勅語の内容としての道徳の規準を「皇祖皇宗の遺訓」としてあるのが、やはり人の道を先王の教へたものとする儒教思想によつて書かれてゐることに、きがつく。かういふやうな遺訓があつたといふのは、歴史的事實ではないからである。教をたてたといふ儒教の先王は王朝の祖先のことではないが、我が國では皇室が萬世一系であるために、それが「皇祖皇宗」とせられたのであらう。のみならず、エド時代の儒者には、皇祖が、儒教でいふ先王すなはち古の聖天子とせられてゐる堯舜など、と同じ徳を具へてゐられたごとく、考へも説きもしたもののあつたことが、これについて考へあはされよう。この遺訓の思想が直接にはミトのアヒザハ ヤスシ(會澤安)の新論に由來のあることも、またそれを示すものである。なほ勅語の文體がいはゆる漢文書き下し風であるのみならず、そのほとんどすべてが對?の句によつて成りたつてゐる點においても、古典的シナ文、すなはちいはゆる漢文、の通例である修辭法が用ゐてあることを知らねばならぬ。勅語の内容がこの修辭法によつて制約せられてゐる形迹さへ見える。勅語の發せられてまもないころには、それをそのまゝ漢文の形にして書き寫すことが行はれたほどである。「一旦緩急アレバ」の語が國語の語法に背いてゐるといふこともいはれてゐたが、憲法發布の時の勅語にも國語としては語脈のとほらぬところがあるので、これは起草者が、國語學の知識に乏しい、いはゆる漢學者の系統に屬するものであつたからのことであらう。
しかしこれは文體や用語のみのことではない。たゞかういふことから見ても、その思想の内容に儒教から來てゐる(236)ものの多いことが考へられるので、はじめのほうに忠と孝とを並べていつてあるところに、すでにそれが認められる。もつともこのばあひの「忠」は、それが皇室に關し國體に關して説いてあるのを見ると、皇室に對する臣民の特殊の道徳觀念を示すものであることが知られるから、上にいつたやうに原義とは違つた概念を表現するものとしてこの語の用ゐられてゐることが、それによつてわかる。詳しくいふと、臣民は皇室に對して特に忠といふ道徳的責務を帶びてゐる、といふ考がそこに潜んでゐるので、この意味で、皇室と國民とは對立の地位にある個人と個人との關係として、見られてゐる。次に道徳の規準として父母兄弟夫婦朋友に關するそれを列べていつてあるところは、孟子の五倫の目にもとづいたものにちがひないが、たゞそこには君臣が擧げてない。句を對 講にするためのことかとも思はれるが、それを擧げようとするならばかういふ修辭の技巧はどのやうにもできるものであり、孝をいふに對して忠をいつてもよいから、さうとは解しかねる。或は兄弟夫婦朋友については、それ/\の間の相互の道を説きながら、親子の間がらについては、子の孝のみをいつて、それに對する親の慈がいつてないのを見ると、もしそれと同じやうに臣の忠のみをいつて君の道徳的義務をいはないことになると、そこに勅語としてふさはしくない感じがあると思はれたからのことでもあらうか。しかし、道徳の規準を示す教としてではなくして、過去の事實としていつてはあるが、上に述べたやうな意義で忠の語が用ゐてもあるから、さう解してよいかどうか、わからぬ。なほこのことが、皇室と國民との關係を君臣とするのが當つてゐない、といふやうな考からでないことは、忠の語の用ゐてあるばあひがあることからみても、おしはかられよう。だから、君臣のことのいつてないのが何ゆゑであるかは、その起草者の意見が知られない限り、わからぬといふよりしかたがないが、それの無いことは、その他の四つが孟子から來てゐることの妨げ(237)にはならぬ。そのほかにも、辭句なり思想なりに儒教の經典もしくはシナの書もつから來てゐるものはあるが、それは一般に知れわたつてゐることであるから、こと新しくいふにはおよぷまい。
ところが、事變の生じたばあひに義勇公に奉じて皇運を扶翼すべきことのいつてある點においで、勅語の思想が儒教から離れ、シナの道徳觀念には無いことが、そこに教へられてゐる。たゞしこれを軍國主義の思想であるやうにいふのは、當らぬことであつて、國家が存立する以上、事あるばあひに國民が身を國事に奉ずるのは、あたりまへのことであり、シナの道徳觀念にそれの無かつたのは、これまでのシナが現代的意義においての國家を、またその民衆が國民を、なしてゐなかつたところから來た、特殊のことである。さうして國家の事が皇運と連結せられて説いてあるところに、國家意識と皇室觀との結合によつて行はれた王政維新の精神の繼承せられた迹が見える。たゞこゝで見すごしがたいのは、公に奉ずるといふことが事變のばあひについてのみいはれてゐて、平常の時のこととしては説かれてゐない、といふことである。平常の時のことについては、博愛をいひ公益世務を説いてはあるが、それだけではあまりに調子がひくすぎると共に、個人としての國民の日常の生活が全體としての國民のはたらきとなるといふ意味は、勅語のどこにも現はれてゐない。「己」と「衆」とが相對するもののごとくいはれ、この二つは別のものとせられてゐるし、公といふ語も個人と對立する觀念を示すものとして用ゐてあるので、「己」を部分とする全體としての國民といふ觀念は、見えてゐない。一くちにいふと、この勅語には、國民の全體が一つの結合體であり集團としての生活がそこにある、といふ思想が無いので、それがために、かういふことがいはれ、かういふいひかたがせられてゐるのである。こゝに臣民とよびかけてあるものは、個人としてのであり、國民のすべてをいふには億兆の語を用ゐてある(238)が、億兆とは多數といふことであつて、一つの結合體として集團としての國民といふことではない。(この意義での億兆の語は、明治初年の詔勅などに常に用ゐてある)。
だから、勅語においては、國民はたゞ離れ/”\の個人の多數のよりあつまりのように見えるので、國民といふ語の用ゐてないことにもそれが現はれてゐる。全國民としての結合はたゞ「億兆心を一にして」の語によつて暗示せられてゐるのみである。これがこの勅語の發せられた時代の道徳觀念であつた。そこで、上にいつた如く、個人としての國民の道徳的責務は、集團としての國民的結合に對する、すなはち部分の全體に對する、ものではなくして、いはゆる億兆の統治者としての皇室に對するものとせられる。このばあひ、個人は臣民の名によつてよばれるので、そこに、忠君の語が皇室に對する意義において用ゐられることと對應するところがある。臣民といふ語は臣と民とを結びつけることによつて作られたものであろうが、道徳思想としては、忠君の觀念の伴ふ臣の語が主になつてゐるのではなからうか。憲法が實施せられ議會が開かれた年においてすら、道徳思想はこのやうなものであつた。これは新しい制度としての議會政治の精神と、ふるくからの因襲がもとになつてゐる道徳思想との、一致してゐなかつたことを語るものである。
教育に關する勅語の内容についていふべきことのおもな點は、これだけである。が、なほいひそへるならば、勅語には、第一に、道徳をどこまでも國家および皇室との關係においてとりあつかつてあること、第二に、日本人の道徳思想は、祖先から子孫に傳へられたものであり、むかしも今も、いつもかはらぬものである、とせられてゐること、第三に、道徳の規準としていろ/\の徳目が列べ擧げてはあるが、その根本としての、或は全體としての、人格の尊(239)重すべきこと、ならびに個人の「人」としての道徳的修養のたいせつであることが説かれてゐない、といふこと、第四に、その道徳思想には、例へば汝の隣人を愛せよといふやうな、世界的な、人類に共通な、ことが強く現はれてゐない、といふこと、などが考へられる。道徳を國家と皇室とに關係させてあることと、祖先から子孫に傳へられたものとしてあることとは、憲法發布のときの勅語にも憲法の前文にも見えてゐる思想であつて、それらでは、この二つが一つのこととしてつなぎあはせてあるが、これは、新しい國家の制度を歴史的由來のあるものとしようとした、そのころの政府者の一つの考へかたであつて、それにはほんとうの歴史的事實に背いたところがある。この勅語にもまたそれがあることは、本文を讀めばすぐにわかるし、上にも一こといつておいた。これもまた新論に淵源のある思想である。また道徳がむかしも今もかはらぬものであるといふことと、人格の觀念の無いこととは、儒教思想から來てゐる。長い歴史をもつてゐる國民は、その道徳觀念においても歴史的の傳統があるべきであるが、生活の變化に應じ歴史の展開につれて、おのづからそれが深められ精練せられまたは擴張せられてゆくべきでもあるのに、そのことが示されてゐないところに儒教思想がある。孝とか忠とかいふ語が用ゐてありながら、何が孝であり何が忠であるかを少しも示してないのは、この勅語を實踐的にはなはだ空疎のものにしてゐるのであるが、これも、かういふことばが儒家において用ゐなれてゐたものであつたために、ことばだけで何等かの意義が示されてゐるやうに思はれたからのことであらう。また國家と皇室とに特殊の關係のあるものとして示してある道徳の規準が、少くともその側面において、世界的意義をもつことの薄いものであることは、明かである。道徳思想そのものについても、また同じことが考へられるので、それはこれまで述べて來たところからも知られよう。「中外」云々ともいつてあるが、これには「古(240)今」云々の句と對?にしようとする修節的要求から來てゐるところもあろう。
しかしかういふのは、今日からの批評である。國民の道徳を考へるについて何よりも先づ國家意識が強くはたらいたのは、我が國がなほ世界における弱小國の地位を脱せず、多年の國民的欲求であつた條約改正すらも、いはゆる列強の傲慢な態度のために、まだできなかつた時代のこととしては、當然であり、さうしてその國家意識が皇運の扶翼と結びついて思慮に上つたのも、上にいつた如く明治維新からの傳統的な考へかたである。たゞその日常生活に關する道徳的教訓の内容が多く儒教思想によつて形成せられてゐるところに、新しく展開してゆくべき國民生活に適應しないものが含まれてゐるので、憲法政治の精神がそれに現はれてゐないのもその一つである。議會が開設せられた後長い歳月を經ても、國民の間に憲法によつて與へられた任務を盡さうとする熱意の生じなかつたことには、種々の理由があり、根本的には、昔から長い間民衆と君主との闘爭が行はれたところから生じた企圖として、民衆が君主の權力を制限するために考案せられた憲法政治の精神とその種々の規定とが、さういふ歴史を持たぬ日本人にはもと/\親しみがたく同感しにくいものであつたからであるが、道徳教育としてそれが重要視せられなかつたことも、その一つであつたと考へられる。またその教訓が同じく儒教思想によつて勅語といふ形をとつて政府から發布せられたところに、一種の思想的權威を以て國民に臨む態度が現はれてゐるので、そこからその取扱ひかたに儀禮的分子が加はり、精神よりも形式を重んずる弊が生じ、さうしてそこにも教訓が教訓としての效果を弱めるやうになる一つの契機があつた。のみならず、あまりに國家意識が強く出てゐて、國民道徳の指針としては世界性の薄いところにも、そのころ世界主義といはれでゐたやうな思想的傾向をもつてゐる人たちの不滿はあつたので、勅語撤囘論ともいふべき考をそ(241)の方面の人々がもつてゐたこともあつたやうにぼんやり記憶する。けれども、國家が存立する以上、國家意識が無くてはならぬことはいふまでもなく、また天皇が日本國家の象徴であられ國民統合の象徴であられるといふ考へかたからすれば、國家と皇室との結びつきは今日においても十分に意味のあることであり、さうしてそれはとりもなほさず昔からの日本人の國家觀皇室觀なのである。
なほ特に注意すべきは、この勅語において、それに説かれてゐることがたゞ臣民に對する教としてのみではなく、天皇おんみづからもそれを守らうとせられることが、「臣民と倶に拳々服膺してみなその徳を一にせんことを庶幾ふ」といふ強い語調で、明かにしてある、といふことである。これは、皇室が國民の生活を安泰にする責務をもつてゐられるといふ思想と共に、またそれに照應するものとして、天皇の國民に對する御心情を表明せられたことになつてゐる點において、その教の内容とは別に、重大の意味がある。これは儒教思想に全く無いことである。さうしてまたこれは、憲法の發布の時の勅語に、臣民と「相與に和衷協同し」といふ語があり、またその前文に、臣民の「翼賛に依り與に倶に……」といつてあるのと、同じ精神の現はれである。勅語を奏請したものはその衷情において皇室のかゝる皇室であられることを信じてゐたと考へられる。國民が皇室をおのれらに對立する外部的存在と見ず、その存在がおのれらと共なるものであり、またおのれらと同じである、とする感じが、それによつて一層固められたのである。
この勅語の發せられるやうになつた事情、その議に與つたものまたは起草者が何人であつたか、といふやうなことについては、これまで世に現はれた諸家の考説によつて既に知られてゐると思ふから、この小稿においてはそれには觸れなかつたことを 附記しておく。
(242) 九 『菊と刀』のくに――外國人の日本觀について――
『菊と刀』といふ譯本が出たことを新聞の廣告で知り、書名に心がひかれて讀んでみようかと思つてゐるところへ、或る人からそれを贈られた。とりあへず初めの一章を讀むと、豫想とは少し違つた感じがしたが、かなりおもしろい本のやうに思はれた。と同時に、著者の考へようとすることがこゝに書いてある方法でまちがひなく考へ得られるかどうか、氣づかはれもした。著者の取らうとした方法は、一應は肯はれるとして、また考へるについての用意といふか心がまへといふか、さういふことにも概して妥當なところがあり、その態度もまづ公平といつてよいとして、心配になるのは資料とその取扱ひかたとである。もしそれが十分でなかつたり正しくなかつたりするならば、せつかくの方法が方法としてのはたらきをしないことになるのではないか、と思つたのである。しかしその時にはひきつゞいて第二章以下を讀むひまが無かつたので、一年あまりもそのまゝにしておいたのを、近ごろやつとそれを通讀することができた。さうして不幸にもこの心配がむだではなかつたことを知つた。それでそのことをこゝに書き、またこの本を讀むにつれて平素考へてゐるいろ/\のことが思ひ浮かべられたので、その一つ二つをいひそへてみようと思ふ。だからこれはこの本の批評ではない。批評にわたる一面もあらうが、それをするのが主旨ではない。
著者の考へようとしたことは、日本人がどういふばあひにどういふ行動をするか、それがどういふ性情の現はれであり、どういふ心理のはたらきであるか、その根柢となつてゐる道徳觀人生觀はどういふものであるか、といふこと(243)であつて、それを日本人の日常生活、その生活の營みかた、によつて知らうとする。かういふ生活とその營みかたとをながめるレンズとその焦點のあはせかたとは、民族によつてそれ/\違ひがあるべきであつて、日本人のそれに對してはアメリカ人のに對するばあひとは違ふといふ。そこに日本人に特殊なものを考へねばならぬ理由があるとするのであらう。さうしてその考へかたには、或る民族に屬する人々の個々の行動には互に何等かの體系的關係があつて、そこに幾つかの型(といふこの本の譯語をそのまゝ用ゐる)ができてゐる、といふ根本的假定がある。この方法論と假定とは、著者の文化人類學者としてのたちばから來てゐるのであつて、それらには肯ひ得られることもあり、その點では、この著者が學問的方法による研究を志したものであつて、單なる思ひつきや感想を述べようとしたのでない、といふことが知られる。
たゞ問題は、日本人の生活の營みかたを考へる資料を何からどう取つたかといふ點にある。一くちに日本人の生活といひその營みかたといつても、それにはいろ/\の異質のものが含まれてゐる。全體としては、長い歴史の過程を經ることによつて幾たびかの變化が行はれ、特に明治の時代からは、いはゆる西洋の文明の世界に入りこんで來たために、これまでには無かつた大きな變動が起り、その前とはひどく違つた姿をもつやうになつたけれども、そのうちには、なほ前の時代のものが多く殘つてゐるのみならず、それより前に過ぎ去つた時代時代の遺風さへも、それ/\にそのおもかげをとゞめてゐて、それらが互に混在し互に絡みあつてゐるのが、今の日本人の生活でありその營みかたである。或はまた地位、職業、受けた教育、もつてゐる知識、などのちがひから生ずる變異も多い。その根柢には同じ日本人の生活としておのづから一貫したものもあり、ちがつたものの間に互ひの交錯や融合が行はれてもゐるが、(244)さま/”\の異質のもののあることを見のがしてはならぬ。よそ目には同じやうに見えても、實は性質のちがつたものであるばあひが少なくないこと、特に思想の形をとつたものにおいては、或は儒學、或は佛教、また或は近代の西洋のいろ/\の思想の如き、他から與へられた知識によつて構成せられたものが多く、從つてそれらは互に一致しないところのあるものであるのみならず、日本人の實生活と離れてゐたり、時には矛盾してゐたり、するものさへもあることに、注意しなければならぬ。そこで日本人の生活を考へるには、これらのものの一つ/\についてその本質と由來とを明かにし、それらの交錯または融合のしかたを觀察し、さうしてそれらが日本人としておのづから形づくられて來た性情とどう關係するかを見きはめて、かゝらねばならぬ。さうしてそれは、日本の歴史の過程をすべての方面にわたつて、また今の日本人の生活のいろ/\の姿を細かに、しらべた上でなくてはできないことである。むつかしいことであり、だれでも完全にできることではないが、ともかくもそれだけの用意はしなくてはなるまい。もしそれをせずして、或はそれが不十分なまゝで、一つ/\の行動を互に體系的關係のあるものと見ようとするならば、關係の無いものをあるやうに體系だてることが無いともいへぬ。さうしてそこから誤つた見解が生じないにも限らぬ。
さてこの本の著者は、どれだけその用意をしたか。それについてまづどういふ資料がこの本に用ゐてあるかを見よう。第一に著者が、アメリカにはゐるが日本に育つた日本人について直接にいろ/\の知識を得たらしいこと、またいくらかの日本の映畫をも見てゐたことにきがつく。次には、日本人の著書においてその生活の告白とでもいふべきものを讀み、またニトベ氏やスヾキ氏の如き、明治時代以後の日本の學者の著書をも利用してゐることがわかるが、これらはみなアメリカ語で書かれたものだけのやうである。エド時代以前の學者の思想としてモトヲリ ノリナガの(245)説、傳説として四十七士の物語など、また明治時代以後のもの、例へば軍人に賜つた勅語、小説としてナツメ氏の『坊ちやん』の類、が引用してあるが、それらも多分アメリカまたはヨウロッパ人の著書や翻譯によつて知つたのであらう。日本の歴史、今日の一般民衆の生活状態、政治上の形勢、などについても、やはり同樣であることが、引用書の記してあるばあひから類推せられる。最近の戰後の日本人の行動がアメリカ人の報道と觀察とによつたものであることは、いふまでもあるまい。そこで次のことが考へられよう。
第一に、その資料は、著者の研究にとつては、あまりにも貧しくはないかといふことである。著者の接觸した日本人の言行とアメリカ語またはヨウロッパ語で書かれたものとに、限られてゐるからである。
第二は、その用ゐた資料をみな同じやうに日本人の生活を描寫しまたは表現したもの、また同じ價値のあるものの如く取扱ひ、接觸した日本人、また書かれた資料についていふとその筆者、の社會的政治的地位や、その生ひたちや、そのもつてゐる知識の性質や、その思想的傾向や、その記載がどの程度に眞實でありどの方面のことについて利用せらるべきものであるか、といふやうなことが考へられてゐず、書物の筆者の時代の違ひすら注意せられてゐない、といふことである。一くちにいふと資料の批判が殆どせられてゐないのである。しかしこれも一つは資料の貧しいことと關聯があらう。實をいふとかういふ批判は、日本の歴史、日本の社會、日本の思想界、日本人の生活、などについて少くとも一とほりの知識をもつた上でなくてはできないことであつて、さういふ知識を得るためにどれだけかの資料を用ゐるといふばあひには、できないのが自然であるが、そのことは別の話として、こゝでは、資料が多く用ゐ得られゝば、それらを比較したり對照したりすることによつて、或る程度にそれができるはずであるのに、それが少け(246)ればそれだけのこともできかねる、といふことをいはうとしたのである。
第三には、かういふ資料の取扱ひかたによつて得た日本人の生活についてのいろ/\の知識には、一つ/\のことがらについても誤解などのありがちであることが考へられよう。或る筆者の書いたものにもし誤があつたならば、その誤をうけつぐ、といふことさへも無いとはいはれなからう。
さて第四には、一つ/\のことがらについての知識は正しいばあひでも、それらのいろ/\のことがらは上に述べた意義でそれ/\異質のものであり、從つてそれらは日本人の生活において別々のはたらきをするものであるにかゝはらず、何等かの類似點が目につくと、それらが同じはたらきをするものとして、その間に體系的關係をつけ、それから一貫した日本人の性情、心理、または道徳觀人生觀、をひき出さうとすることになりはしないか、書かれた資料についていふと、違つた時代の思想の現はれてゐるものについてその時代の區別を見のがし、または特殊の地位、主張、思想、をもつてゐる筆者のその特殊性をなほざりにし、またかういふ特殊の思想と一般民衆の生活氣分とを混淆して取扱ふ、といふことが生じはしないか、といふことが考へられよう。上に引いたやうなこの著者の研究の根本的假定が、資料の批判を行はないために、正當にはたらかないばあひがあらう、といふのである。勿論、著者も、昔と今とでは同じやうに見えることがらでも意義の變化を考へねばならぬこと、學者の用語が必ずしも民衆の氣分を表はしてゐないこと、などに注意してはゐるが、實際に考を進めてゆくばあひに、それがどこまで實現せられてゐるか、それが問題なのである。
しかし、これまでいつて來たことについては、次のやうな事情のあることが考へられねばならぬ。第一に、著者が(247)この研究をはじめた一九四四年からこの本の出版までには僅か二年ほどしか經つてゐない。卷末の譯者の記述によると、その前にも日本人に對して親しく觀察もしてゐたし、或る知識ももつてゐたらしいが、組織的な研究はこの時期において始めて試みたやうである。さうしてそれは實際上の或る必要があつてのことであり、このやうな短日月間に一とほりの成果を收めねばならなかつたのも、そのためであつたらう。もしさうならば、上に擧げたいろ/\の不滿足には、そこから來たこととして恕さなくてはならぬものがあらう。
第二には、いはゆる文化人類學といふもののたちばから、さま/”\の生活上の現象に統一的解釋を下すといふことが強く要求せられ、そこからむりが生じた、といふことが考へられよう。著者の日本歴史に關する知識はかなり乏しいやうに見えるので、それは上にいつた如く資料を用ゐるについてそれのもつ歴史上の位置、時代によつて違ひのあるその特殊性、を深く注意しなかつたことによつても推測せられるが、これもまた文化人類學といふものの研究の對象もしくは資料が、多くは歴史をもたない未開民族の生活であることと、關係があるのではなからうか。太平洋諸島の未開民族に對する觀察のしかたが日本人の研究にも役にたつ、といふ考へかたにも、それは現はれてゐるのではあるまいか。
第三には、著者にとつては、日本人はじぶんたちとは違つた生活をしてゐる國民であり、また遠く隔つてゐる海のあなたの國民であるために、その國民は一種異樣な姿をもつてゐる一つの日本國民としてのみ思ひ浮かべられ、その生活その文化に多趣多樣のものが含まれてゐるといふことが、明かに感ぜられず、じぶんたちと違つてゐるといふことにおいて同じであれば、そのことがらが同じではなくとも同じであるかの如く何となく思ひなされる傾向があり、(248)また近よつて見ると離れ/”\のもの別々のものであるのが遠方から見ると一つのかたまりとして目に映ずるのと同じやうな心理もはたらいて、さういふことが研究の最初から一つの氣分をなしてゐた、といふことが考へられよう。
第四には、研究の動機が戰時または戰後におけるアメリカの日本に對する態度をきめるために必要な知識を得ようとするところにあつたために、最近の戰爭に從事してゐた日本人の行動が強く印象せられ、何ごとを考へるにもそれが基調となつてゐるのではないか、といふことが推測せられよう。例へば第一章の最初に、日本人は西洋諸國で人の本性にもとづくものとして承認してゐる戰時慣例を眼中におかない、といつてゐるが、日清戰爭や日露戰爭の時のことを知つてゐたならば、或はそれについての資料をもつてゐたならば、かういふことはいはれなかつたであらう。日本人を好戰的な國民のやうにいつてゐるが、明治大正時代の外交史をよくしらべてみたならば、さうは思はなかつたらう。かう考へると、資料の不足なのも、一つは資料をあまねく求めようとしなかつたからのことでもあらうか。日本人は耽美的な一面をもつてゐるといひ、菊つくりに秘術をつくすといひ、また源氏物語に言及してゐるばあひさへあるが、全體から見ると、日本人の文藝上の嗜好及び能力や自然に對する趣味など、日本人の生活を知るためには見のがし難いことを、殆ど考へに入れてゐないのも、このことと何ほどかの關係があるかも知れぬ。
なほ第五として、著者がアメリカ人であることから來る自然の制約がある、といふことが考へられよう。日本人の生活をアメリカ人の目で見てはならぬ、といふことを所々にいつてゐて、著者みづからはその點にきをつけてゐるには違ひないが、アメリカ人のたちばに立つてアメリカ人と比較または對照してゐるばあひがあるのでも推測せられる如く、意識せずしてさういふ見かたをすることが無いとはいはれまい。アメリカ人の報告が權威ある資料とせられて(249)ゐることにもそれは現はれてゐるし、著者自身の直接の觀察にもそれがあらう。かういふやうないろ/\のことがらは、この本に缺點があるとしてむ、それについて恕すべき事情となるものである。けれどもそのために缺點が無くなりはしない。
さて、これまでいつて來たことは、この本を通讀しての大ざつばな感じを、多くは抽象的に述べただけであるから、次にその具體的な例の一つを擧げてみよう。
著者は第二章において、戰時中における日本人の行動を支配してゐたものとして幾つかのことがらを擧げ、その第一に階層制度といふものをおき、第三章でいろ/\の方面からその説明をしてゐる。階層制度とは日本の社會は上から下まで階層的な一つの組織をもつてゐて、人はそれ/\その階層に應じた任務をもち生活をすべきものとせられ、道徳も風習もそれによつて規制せられてゐるとし、國際關係もまた同じであるべきものと考へられたので、今度の戰爭もその信條の一つの現はれだといつてゐる。一九四〇年の詔書などに「萬邦をして各々その所を得しめる」とあるのはこのことであつて、日本を頂點とする階層組織を世界に立てようとするのがその精神だ、といふのである。國内の階層制度とは、昔は、天皇、將軍、大名、武士、一般民衆、賤民、といふやうに階層的に構成せられ、今日では封建制や武士制は無くなつてゐるけれども、政治上の制度も官僚の組織も同じ精神によつて形づくられてゐるとし、家族間の關係にもそれが嚴格に存在するといふ。
なるほど日本の社會において、どの部面でもそれ/\に人と人との間に一定の身分的秩序のあること、またはあるべきものとせられてゐることは、事實であつて、著者の指摘したやうな敬語などの上にもそれは現はれてゐる。著者(250)の説いてゐない方面にもそれはあるので、或はあつたので、學問上の師弟、職人とその徒弟と、家における主人と僕婢と、または特殊の社會における親分と子分と、などがみなさうである。けれどもその秩序の性質、人と人との間の身分關係は、同じではない。エド時代のことをいふと、大名とその家來としての武士とは、知行を與へるものと與へられるものとの關係によつてその秩序が形づくられてゐたので、それには、家來が大名たる主人に忠節を盡すことと、主人が家來に依頼し、從つてそれを愛護することとが、相互的の責務とせられ、その間に情的のつながりが成りたつてゐた。主人と僕婢と、親分と子分と、の關係もほゞそれと同じであつた。しかし將軍と大名とはそれとは違つて、政治上の治者と被治者とであり、大名と一般民衆ともまた同樣であつた。ところが、天皇と將軍、大名、民衆、との關係は全くこれと違つたものであつた。天皇は政權の本源であり將軍の官職もその任命によることになつてゐるが、皇室の地位が始めて確定したころの遠い昔から、政治の實務には當られない風習が生じ、政治上のすべての責任はおのづから時代時代の權家に歸することになつて來たので、エド時代においてはその權家は將軍であつた。將軍の政府が大名の皇室に近づくことを禁じたのは、過去にその例のあつた如く野心ある大名などが皇室を利用することのできないやうにするためであつて、それはおのづから政治上の責任のない地位にあられる天皇のその地位をます/\固めることになつた。かくして天皇は權力の把持者ではなく、國家または國民の精神的統一の象徴としての地位とはたらきとをもたれると共に、將軍からも大名からも名譽の源泉として尊崇せられたのである。多數の武士や一般民衆は、その日常生活においては、天皇と關係のあることを一々意識しなかつたが、彼等の間の知識あるものにおいては、やはり天皇を上記の地位とはたらきとをもたれるものとして尊敬してゐたので、その關係は將軍や大名などに對するの(251)とは、全く違つたものであつた。天皇が國家の最上位にゐられるといふのは、かういふ意味でのことであつた。(象徴といふ語はそのころには無かつたが、遠い昔から歴史的に次第に固められて來た天皇の地位の本質を示すに最も適當のものであるから、こゝに用ゐた。)或はまた村落生活において、庄屋とか、地主によつて土地の占有せられてゐるところではその地主とかと、一般村落民との關係は、かなりに複雜ないろ/\の要素を含んでゐる特殊のものであつた。なほ家族間の秩序を形づくる親子の間がらが、正常のばあひには、親の子に對する愛情と子の親に對する依頼及び尊敬とから成りたつてゐる上に、一般的な原則としては長子相續男系相續である家を保持する責務から生ずる道徳觀念が、それに伴つてゐた。夫妻や兄弟の間の秩序もまたこの家族制度から派生したところの多いものであつた。かういふ性質の秩序が、主從の間がらまたは政治的權力關係から來るものと、全く違つたものであることは、いふまでもない。家は社會的には、即ち外部に對しては、何等かの階層に屬するものであつたにしても、家の内の秩序はそれとは全く違つた性質のものであつた。
かういふやうに、社會のどの部面にもそれ/\一定の秩序はありながら、その性質とはたらきとはみな違つてゐる、といふことは、それらの秩序のできた由來が同じでないからであつて、それはそれらが本質的に違つたものだからでもあり、また日本の歴史の過程の違つた段階において發生したものだからでもある。從つてまたばあひによつてそれ/\の秩序のくづれることがあつても、そのくづれかたは皆ちがつてゐた。大名の家が無くなればそれとその家來たる武士との關係は絶える。將軍と大名との關係は、或はその間に關爭が生じ或はその他の事情で將軍が政權を維持することができなくなる時に覆へるが、それは大名とその家來との關係が絶えるのとは違ふ。或はまた親子の關係が、(252)人は次第に變つても世代的にうけつがれてゆくものであることは、いふまでもない。天皇の地位が國家の存續する限り動かないものとせられたことも、また上記の性質から知り得られよう。かう見て來ると、エド時代における日本の國家または社會の全體が天皇を頂點として階層的に一つの組織をもつてゐた、といふやうな考へかたが事實に背いてゐることは、明かであらう。日本の社會の全體に幾層かの上下貴賤の身分が定まつてゐたとはいはれようが、同じ性質の身分關係が階層的にかさなつてゐたのではない。將軍の天皇に對する關係と大名の將軍に對するのとは、全く違つてゐたのであり、大名の家來たる武士の間には身分の高下があるが、主人たる大名に對しては同じく主從の關係をもつてゐた。家の内においても、例へば妻の夫に對するのと子の親に對するのとは、それ/\別の原則の上に立つてゐたので、子の夫妻は親に對しては同等の地位にあり、父と母とは子から見れば同等の地位にあつた。武士が社會組織の中心となつてゐた時代のことであるから、彼等の間における主從關係がおのづから他の部面にも移植せられるやうになり、主人と僕婢と、職人とその徒弟と、また親分と子分と、などの間がらもそれに似たところのあるものとなつた、といふこともあるが、それとても全く同じになつたのではなく、またそれがすべての部面にゆきわたつたのでもない。この本の著者の考は、或は日本の社會の全體が階層的に一つの組織をなしてゐるといふのではなく、どの部面にもそれ/\身分的秩序の定められてゐることが同じであるといふだけのことかとも、推測せられるが、その秩序の性質とはたらきとが違つてゐるとすれば、それらがみな同じであるとはいはれなからう。のみならず、階層的秩序と譯せられた語はさういふ意義とは解せられないやうである。いひかたにはつきりしない點があるかと思はれるが、この階層的秩序をカスト別といつてゐることからも、さうは解せられないのではあるまいか。日本の社會組織をカス(253)ト制とするのが當らないことは、これまで述べて來たことだけからでも明かであらう。
然らば明治時代以後はどうか。幕府政治が無くなり封建制度も武士の地位もくづされ、政治の上では種々の沿革を經ながらヨウロッパの制度から取入れたところの多い憲法が定められ、また漸次にではあるが西洋に發逢した經濟活動、それに伴ふ經濟機構が學ばれたので、エド時代の政治體制は全く變り、社會組織も次第に違つて來た。勿論、新しい制度にも前代からの遺風がまじつてゐることもあり、生活のしかたは違つて來ても人の氣分は變り難いといふこともあつて、そこにエド時代とのつながりはある。また一般民衆、特に農村や漁村のものにおいては、前代からの因襲が強くはたらいてゐ、都會においてすら家の内の生活には舊風が多く傳へられてもゐる。けれども政治上の制度が變り社會生活が變つてゐる以上、人々の生活氣分も道徳觀念もそれにつれて幾らかづつ次第に變つて來たので、新しい産業に從事するものや知識社合においては特にさうである。政治上社會上の秩序が前代とは違つた性質のものになつてゐることは、いふまでもない。だから今の日本に前代のと同じ社會的秩序があるやうに考へるのは、事實に背いてゐる。例へば官僚には細かい階級があつたが、それは官僚の間だけのことであつて、一般國民の生活とはかゝはりが無い。またそれは官吏の職務上の地位についてのことであつて、人についてのことではなく、さうして官吏の地位は一定の資格があれば何人でも得られるものである。官僚のこの階級には、遠い昔の令の制度から來てゐるところ、エド時代の武士の身分に階級のあるところからうけつがれたところもあらうし、また官尊民卑といはれてゐることの一つの意味として、官吏が一般民衆の上位にあるやうに思はれてゐることの如く、エド時代の武士と民衆との關係のひきつゞきと見らるべきこともあらうが、官僚の制度は明治時代以後に漸次定められて來た新しいものであり、官尊(254)民卑といふことも、一つは民衆が國家の權力に依頼し服從するために、その權力を執行する官府に對する、從つてまた官府の民衆に對する、態度をいふのである。政治上、政府や軍部が議會よりも權力が強いといふやうなことは、主として政治の運用の問題である。階層的關係がその間に存するのではない。
階層の頂點に天皇がゐられるといふことも、また妥當の見かたではない。宮廷の儀禮において官僚が階級の高いものほど天皇に近い位置をとるといふやうなことはあり、また華族といふ特殊な地位もあつてそれにも同じことがあり、一般民衆はそれに與かるところが無いが、しかし國民のすべては精神的に天皇と親しいつながりがあることを信じてゐるので、その點においては華族や上級官僚と何のちがひも無い。天皇と國民とのこのつながりが華族や官僚を介して存在するものでないことは、いふまでもない。またそのつながりが天皇の權力といふやうなものと關係の無いことも、明かである。エド時代までは一般民衆の多數は、その日常生活においては、天皇の存在を殆ど意識してゐなかつたが、いくらかでも知識のあるものは、すべて天皇を天皇として無上の尊敬を捧げてゐたので、このことは遠い昔から少しも變りは無かつた。尊敬の意味は時代によつて變つたところがあつても、尊敬することは同じであつた。明治時代以後になると、教育の普及につれて、こゝに知識のあるものといつたそのものの範圍が、次第に全國民にひろがつて來たので、そこで天皇に對するこの尊敬心は一般民衆が同じやうにもつことになつた。政治的にも社會的にも特殊の地位をも權力をももたないエド時代の知識人は、おのれらの地位や權力の本源が天皇にあるものとしてその意味で天皇を尊敬したのではなく、天皇が何等かの權力を以ておのれらに臨まれるやうに思つたのでもなく、むしろ天皇をおのれらの心のうちの存在であるかの如く思つたのであつて、無位無官無權力の彼等が、何等の權力をも行使せら(255)れない天皇に對して無上の尊敬を捧げたのは、その故であるが、明治時代以後の一般民衆もまたそれと同じであつて、そこにエド時代の知識人からうけつがれたところがある。政府に立つてゐるものが天皇の地位について種々の附會説、例へば天皇が神であられるといふやうなことを宣傳し、また彼等みづからの特殊の地位にもとづく感想、具體的にいふと、皇室に近接する地位にあることを皇室の恩惠として感ずること、を國民全體がさう感じてゐる如く思つたりいつたりするやうなことがあつても、それは一般民衆の心情とは殆どかゝはりが無い。だから一般民衆は天皇を國家における至高の存在として仰ぐにしても、それは天皇が權力關係による階層組織の最上位にあられ、民衆は幾多中間の階層を經由してその權力のはたらきをうける、といふ意味でのことではない。のみならず、一般國民は天皇が權力をもつてゐられるやうに思ふことすらも無い。官尊民卑の風習とても、官府を天皇の權力のはたらくところとして考へたのでないことは、それにエド時代の習俗からうけつがれたところが多いことからも知られる。天皇も、法制上の規定はともかくも事實においては、權力を以て民衆に臨まれたことが無い。このことについては、例へば天皇の大權といふやうな憲法の用語やそれに對する法律學者の解釋は、實際政治の運用とも民衆の心情とも一致しないところがあることを知らねばならぬ。(この本の著者の天皇觀にはこのほかにもまちがひが多いが、それについては後にいふばあひがあらう。)
たゞ軍隊においては嚴密な階層制度が設けられ、天皇は大元帥としてその最高の地位にあり、最高の命令權をもたれることになつてゐるが、これは軍隊の内部だけのことであつて、一般國民の生活とは交渉の無いものである。さうしてその命令權をもたれるのも、形の上のこと名義の上のことであつて、事實は軍隊内の機關によつて、もつと適切(256)にはその機關を動かす地位にある軍人によつて、何ごとも決定せられ執行せられる。たゞヨウロッパの軍制から學ばれた特殊の階層的組織によつて成りたつてゐる軍隊の内部においては、その組織を維持するために、この形の上の規定が現實のことであるかの如く取扱はれると共に、後になつて次第に形づくられて來たいはゆる軍部が、例へば政府とか議會とかいふやうな外部の力に對して、軍といふものの勢威を張るためにそれを利用するやうになつた。けれども一般の國民の生活がそれとかゝはりの無いものであることは、明かである。もと〈天皇がかういふ地位をもたれることになつたのは、いはゆる西力東漸の國際情勢の間に立つて日本の國家を維持してゆくには、封建制度の廢止と共に、諸大名がそれ/\にもつてゐた兵權を國家に統一する必要があつた、明治初年の状態に、主なる起因があつたと解せられ、さうしてそれは、エド時代末期の學者が、武士本位の時代の思想として、また幕府の存在が中世以後のことであることをいはうとして、上代には天皇みづから軍を統帥せられたやうに説いたことに、思想としての一つの由來があり、またどこの國でも君主國においては君主がおのづから國軍の統帥者たる地位にあるのが普通の例であることも、それを助けたであらうと思はれる。だからそれは、その本質として、天皇と一般國民との關係を規定するものではない。
世界の各國を階層的に秩序づけ日本がその頂點に立つてそれらを統御する、といふやうな考を日本人がもつてゐたといふに至つては、むしろ滑稽に感ぜられるほどな誤解である。なるほど日本がその勢威を世界に及ぼすといふやうな意義のことが八紘一宇といふことばを用ゐて宣傳せられたことは、最近の戰爭時代にあつた。しかしそれはいはゆる右翼者流がヒラタ アツタネなどの思想に由來する空漠たる妄想をかういふ語で表現したまでであつて、何等現實(257)性の無いものであるか、たゞしは海外に兵を用ゐるための辭柄として軍部に利用せられたものかであり、さうしてそのいひかたには漢文流の極端な誇張がある。戰爭時代においででも、それは日本の現實の政策を示したものでもなく、もとより國民の希望や欲求を表現したものでもない。詔書の形をもつた公文書にかういふやうな文字が用ゐられるばあひさへ生じたが、それもたゞ文字の上だけのことであり、それの用ゐられたのも、その起草者が、その時に勢力のあつた右翼者流や軍部やに動かされてゐた政府の意向を承けて、書いたまでのことであり、またそれは國民に對する宣傳の意味をのみもつものであつた。戰況がまがりなりにも日本軍の優勢を示してゐた時期には、軍部や右翼者流のうちには、この辭柄が單なる辭柄でなくなり妄想が實現せられてゆくかのやうに思ひ、またはさういふ方向に勢を進めてゆかうとするものがあつたかも知れぬが、それとても兵を用ゐてゐる國々に限つてのことである。しかしそれはさういふ國々を階層的に秩序づけるといふことではなく、さういふ意義はこの宣傳のどこにも無い。また「萬邦をして各々そのところを得しめる」といふのが、階層的秩序に應ずる地位をもたせるといふ意義でないことは、いふまでもない。のみならず、これもまた現實性をもたない漢文流のいひかたであつて、さういふ文字が現實の國策を示すものでないことも、また容易に知り得られる。この本の著者は、多分文字の知識の不足と詔書などがいかにして起草せられる習慣であつたかを明かにしないのとのために、かういふ誤解をしたのであらう。(八紘一宇といふ語は日本紀の神武天皇紀の 「八紘を掩ひ而して宇をつくらん」といふ語を誤解または曲解したところからいひ出されたものであつて、もとは日本の統一を全くした後になつて皇居としての宮殿を建てようといふ意義の語である。)
要するに、著者が日本の全社會を階層的に組織せられてゐるもののやうに考へてゐるならば、それはまちがつた見(258)解である。たゞ日本の社會にはいろ/\の部面においてそれ/\別々の意味で身分的秩序が重んぜられてゐたこと、今日でもなほ或る程度にそれが見られるといふこと、だけは事實であるが、著者がそれから上記のやうな考をひきだしたのは、別々のことがらを強ひて一つのこととして體系づけようとする根本的態度から來てゐようか。また長い歴史をもつてゐる國民は、どこでも何等かの性質のかういふ秩序はあり階層はある。見かたによつては、日本人にはそれが少い、或はその階層の區別が嚴格でない、といつてもよい一面がある。話が長びくから、こゝではそこまで立ち入つて考へないことにするが、何かのばあひにそれを書いたこともある。たゞアメリカ人から見ると、日本人のこの秩序の觀念は奇異に感ぜられるであらう。さうしてそこからこの著者のやうな考が生れたのであらう。
階層説についてことばを費しすぎたやうであるが、この本の著者の考へかたはこれによつてもほゞ知ることができよう。だからその他の多くのことがらに關する見解については、それらによつてそれ/\に思ひうかべられることが少なくないけれども、一々それをいふことをやめにする。たゞこの本の成りたちについて最初にいつたやうないろ/\な制約があつたために、そこから誤つた見解が導き出されてゐる幾つかの例を、補足としてこゝに擧げてみよう。
著者が日本人の道徳を考へるに當つて、その日常生活の状態を知ることに重きをおいたのは、よい方法であつて、子どもの育てかたの觀察などには適切なものがある。また日常の用語や俚諺の類を資料としたのも、方法としては一おうはうなづかれることであるが、しかしこの方面では誤見が甚だ多い。俚諺についていふと、「子を持つて知る親の恩」を、我が子を愛護することは親に對する恩がへしだ、といふ意義に解してゐるらしく見えるやうな例さへもある。俚諺を用ゐるならば、もつと多くそれを採集してかゝらねばならず、またその俚諺がいかなる意義でいかなるばあひ(259)にあてはめられてゐるかを、實生活についてよくしらべた上でしなければならぬ。俚諺の意義は、實生活においてそれがどう用ゐられてゐるかを知つて、はじめてほんとうにわかるので、ことばの上だけでその意義を臆測し、それによつて實生活を知らうとするのは、むしろ逆な方法であらう。「きのどく」、「ありがたう」、「すみません」、「かたじけない」、といふやうな日常語の解釋をも試みてゐるが、それもまた正しくないばあひが多い。かういふやうな日常語も、日常生活を背景として、またその實際の用ゐかたを知ることによつて、はじめてその意義がわかるので、著者の試みたやうにことばを分析してその成りたちを考へることは、その分析がまちがつてゐないばあひでも、そのことばの由來を明らかにするためにすら、その一つの助けになるのみであつて、實生活におけるそのはたらきを知るには、さしたる用をなさぬ。かういふしかたでその意義をたづね、その意義によつてそのことばを用ゐる人の心理や道徳觀を推測しようとするのは、やはり逆な方法である。或はまた道徳上の用語としての「恩」を負債と見るが如き、奇異な解釋もある。これは報恩が重んぜられるところから來たものであらうが、恩の觀念はもと/\自己に加へられた何人かの愛護助力もしくは好意などに對する感謝の情から生じたものであり、報恩は何等かの行爲によるその情の具體的表現に外ならぬのであるが、社會生活上の要求から、それが一種の道徳的責務としても考へられるやうになつた。けれども商取引における債務とは似もつかぬものであることは、明らかである。孝をこの誤解せられた恩の觀念によつて説明しようとするのも、また誤である。孝といふ觀念は複雜な要素から成りたつてゐるので、かうてがるにいひ得られるものではなからう。異民族の用語の意義を正しく理解するのはむつかしいことであつて、自己の民族にそれにあたる語の無いばあひには特にさうであるから、日本語に通じてゐるらしく見えないこの著者に、強ひてそれを求(260)めるのは酷でもあらうが、かういふ解釋によつて日本人の道徳生活を推測すれば、そこに一層大きな誤が生ずるのは、當然であらう。或は道徳生活を正しく理解しないためにかういふ用語の解釋に誤が生じたのでもあらう。この間には相互關係があるやうに見える。なほ日本人の生活状態などについても、一方ではどうしてこれまでに知り得たかと思はれるほどに當つてゐることもありながら、甚しき誤もあるが、これもまた異民族の風習などを考へるばあひにはありがちのことであるから、この著者に對して備はるを求めるのはむりであらう。
或はまた日本の天皇が神聖首長であり、その身體も神聖なものとせられてゐるのは、太平洋諸島の首長と同じである、といふやうな觀察は、實情を知らないからでもあるが、上にもいつたやうな意味で文化人類學といふものの取扱ひかたによつて煩はされたところもあるらしい。日本の天皇が宗教的意義において神聖な存在と考へられたやうなことは、昔から曾て無い。(このことについてはいろ/\のばあひに幾たびもいつたことがある。)著者がどうしてかういふ誤解をしたかはよくわからぬが、或は長い間政治に關與せられなかつたにかゝはらずその地位を保たれたために、宗教的權威でももつてゐられたやうに思つたのか、またはエド時代において宮中深く坐して煩瑣な禮儀による尊敬をうけてゐられたことから臆測したのか、但しは神聖にして侵すべからず(これは天皇に政治上の責任を負はせないといふ意義)と書かれてゐる憲法の條文などに示唆せられたのか、さういふやうなことではないかと思はれる。しかし何れにしても當らぬことである。(將軍を世俗的君主とするに對して、天皇を心靈的君主とする考は、エド時代に書かれたヨウロッパ人の著書にもあるが、この本の著者がそれによつたかどうかは知らぬ。)
なほ天皇については、長い間、宮中に幽閉せられてゐられたとか、實權を奪はれまたは剥奪せられてゐられたとか、(261)といふこともいつてゐるが、これも妥當ないひかたではない。かういふいひかたの根柢には、多分、君主といふものはその權力を用ゐることによつて存在する、といふ考があらうと思はれるが、日本の天皇には遠い昔からみづから權力を用ゐられない習慣があつて、政治上の實權をもたれないことは天皇の存在には何の妨げも無かつたのである。從つて極めて僅少な二三の例外を除けば、天皇は實權をもたうとせられなかつた。これが歴史上の事實である。エド時代において宮廷の外に出られないやうな習慣がその中ごろから生じたことには、幕府の政策もはたらいたに違ひないが、それのみではなく、そのことみづからにいろ/\の歴史的由來があつた。また天皇には、みづから身を持することを謹嚴にすべきであるといふ傳統的な精神があつて、必しも今人の考へるやうな行動の自由などを欲せられなかつた一面のあることも、それを助けたであらう。一體に日本では、地位の高いもの、人の上に立つものには、かういふ心がけがあつた。さてこれらのことは世界の多くの君主國の君主にはあてはまらない。從つて日本人ならぬものには、日本人でもヨウロッパやアメリカやシナの學問に囚はれてゐるものには、それがよく理解せられない。アメリカ人たる著者に上記のやうな考があるのも、そのためであらうか。
以上は一つ/\のことがらについての觀察に對していつたのであるが、さういふ觀察によつて構成せられた總括的の見解に至つては、なほさら妥當ならぬものがある。さうしてそれには、異質的ないろ/\なことがらを、その根柢に一貫した精神があるものとして、體系づけようとする態度から來てゐるばあひが少なくない。歴史的に時代を異にしてゐることがらを混一して考へてゐるのもそれであるので、日本人は惡の問題を人生觀として承認しないといふことをいふのに、古代人の荒魂和魂の考や神代の物語の或るものによつてそれを證しようとしたのも、その一例であり、(262)四十七士の説話に現はれてゐる思想を現代人も有つてゐるやうに思つたり、「義務」といふ明治時代になつて新に作られた語と「義理」といふエド時代から用ゐられてゐる語とを、本來並存したものであるかの如き考へかたで、そのはたらきを對照させたりしてゐるのも、同じである。或はまた神の教とか、モトヲリ ノリナガの説とか、またはナツメの『坊ちやん』に書かれてゐることとか、さういふ特殊の思想を日本人に普遍なもの、一般にゆきわたつてゐる生活氣分、である如く取扱つてゐるやうなこともある。皇室に關することにもそれがあるので、忠君といひ皇恩といふことを考へてゐるばあひも、その一例である。
忠君といふのは、本來、俸禄を與へるものと與へられるものとによつて成りたつてゐる君臣の關係において、臣の君に對する道徳的責務をいふのであつて、一般民衆には交渉の無いことであり、君恩といふのも、さういふ臣が君から俸禄をうけて衣食し、またはその他の方法によつて特殊の愛護をうけてゐること、をいふのである。これらの語とその意義とはシナにおいて形づくられたものであり、日本においても昔からその意義で用ゐられてゐたが、エド時代の大名即ち封建君主に對してその家來即ち臣下のもつ道義觀念もしくは情誼にもそれがあてはめられた。ところが國家の統一せられた明治時代になつて、一部の政治家または學者が、これらの語を君臣の間がらとは性質の全く違つてゐる國民の天皇に對する關係に適用し、それによつて新時代の道徳の教條を立てようとした。長い間封建制度の下に生活してゐた彼等の心理としては、これもむりの無いことであつたと、一おうは考へられる。さうしてそれが公式に採用せられるやうになつた。しかしかうなると、その語の意義は變らねばならぬのに、そのことが明かにせられず、なほ因襲的に舊來の考へかたが持續せられてゐるために、それが混亂もし曖昧にもなり、これらの語が何をさすかが(263)わからなくなつた。事實、一般國民は、昔の武士とは違ひ、その日常の行動において一々忠君といふことを考へてゐるのではない。また皇恩といふことについていふと、これもまた事實、一般國民の日常の生活においては、特に恩といふべきものを皇室からうけてゐると思ひはしない。たゞ皇室によつて統一せられてゐる日本の國民であることによつてその生活が營まれてゐる、といふ意義において恩惠を感じはしようが、それは太陽の光の下に或は土地の上に生活することによつて、その太陽や土地の恩惠を感ずるのと大差の無いものである。(恩といふ觀念はかゝるばあひにも成りたち得るし、事實さういふいひかたがせられてゐる。しかしこれには報恩の觀念は伴はない。)また君恩の萬一を報ずるとか報じ得ないとかいふやうなことは、シナ傳來の思想と誇張したいひかたとであつて、ことばの上だけの話である。だから、これらの語は、よしそれが道徳的教條として示されてゐたとしても、國民の日常の生活氣分を表現したものではない。それによつて日本人の現實の道徳生活を考へるのは見當ちがひであつて、區別して見るべきことを混同したものといふべきである。さうしてそれは、日本が明治時代に入つてから政治の上にも文化の上にも大なる變革が起り、それがために思想的にも異質のものが混在してゐることを、よく考へなかつたからであらう。日本人の皇室に對する感情は、さういふ教條とは違つて、上にいつたやうな性質のものである。
ところで、いろ/\の異質のものをつなぎ合はせてそれらを體系だてるについて、大きなはたらきをしてゐるものは、最近の戰爭から得た知識であつたらしい。上にもいつた如く戰爭そのことについて、今度のばあひのみを見て、日清戰爭日露戰爭のばあひを考へることをしなかつたのも、そのためのやうであるが、さま/”\の形で現はれた軍部の行動や宣傳を日本人の欲求の現はれや日本人の思想そのものと見たり、日本人を好戰的であるやうに考へたりした(264)のも、同じ例であり、兵卒の行動態度や軍隊で行はれた訓練のしかたで日本人の日常生活を推測したやうなのも、やはりそれである。また既に述べた如く日本の階層組織といふものを考へるにも、上にはいはなかつたが日本人の天皇觀を見るにも、或はまた日本人の名譽觀を説くにも、この戰爭に關することが重要なる資料となつてゐる。しかし今度の戰爭だけによつて、日本人の戰爭に對する態度を見るのは、日本で軍部といふものが勢力を得て來た近年における特殊の情勢を無視するものである。また日本人は軍部に支配せられてゐた政府の命令によつて今度の戰爭に從事したけれども、一般の日本人が戰爭を欲したのでないことは、世界によく知られてゐる事實である。また日本人が好戰的といはるべきものでないことは既に上にも考へておいたが、近代的軍隊の初めて設けられた時において民衆が兵役に就くことを喜ばなかつたことを見ても、それは明かであり、政府や軍の當局者があらゆる方法を以て、特に一種の名譽欲をそゝることによつて、それを奬勵したのでも、このことは知られよう。勿論、年がたつに從つて兵役につくことが習慣となり國民としての當然の義務とも考へられて來たことはいふまでもないが、それは戰爭を好んだからではない。たゞ知識人の間には、陸軍軍隊の内部の状態に對する反感にも助けられて、後までも兵役を喜ばない氣風はあつた。しかし事あるばあひにおける愛國の情と法律上の義務と、或はまた人によりばあひによつては一種の矯飾と、がそれを牽制してゐた。日本が隣國の強壓に堪へかねて自衛のために命がけの抵抗をした日清日露の兩戰役において勝利を得たことが、國民の愛國心の結果であると共に、後になつて日本人に戰勝を喜ぶ氣風を養ふはたらきをしたことは、事實であるが、それは戰爭そのものを欲望したことでも、またするやうになつたことでもない。今度の戰役においても、それを企てたのは一般國民から遊離した存在であつた軍部だけのことであり、國民的要望ではなかつた。(265)たゞ日本人は、憲法をもちながら實際においてそれを正しく運用する訓練を缺いてゐたために、みづから國論を作つてそれを政治の上に實現させ、かゝる軍部の欲望を抑止することができずして、却つてその軍部に追從した政府の命を奉じなければならなかつた。さうして戰爭となれば、それがためにできるだけの努力をしようとしたと共に、戰争そのことから生ずるさま/”\の特殊の心理がはたらいて、或は勢に驅られ或は苦難を忍びつゝ、あのやうな戰爭に從事したのである。若い學生などでも、戰後になつていひふらされたやうに、狩りたてられて死地に投ぜられる、と考へたのではなく、その多くは悲壯な決意と純眞の情とを以て任務に就いたのである。けれどもこれは決して國民が戰爭を好んだことを示すものではない。或はまた日本では、平時においても軍隊は國民の日常生活とは全く違つた別世界のものであつたから、戰爭のばあひにはなはさらであつた。だから、上記の如きこの著者の考へかたは、今度の戰爭に強く刺戟せられたために、軍部といふ特殊の存在と一般國民とを、また軍隊及び戰爭における特殊の行動と日常の生活とを、區別せず、同一視すべからざることを同一視することによつて、さま/”\の生活現象を體系だてたものである。日本人は機會主義者であつて、名譽もしくは利益のためには何時でもその態度を變へる、といふやうな觀察も、敗戰と共に忽ち占領軍を歡迎したといふ事實を有力な根據としてゐるが、この事實もまた日本人の一般の生活態度を示すものではないから、やはり同じやうな考へかたと見なされるのである。占領軍を歡迎したといふのも妥當のいひかたではないが、反抗的態度を示さなかつたことは事實である。しかしその心理にはいろ/\の要素があるので、單に戰時中と反對の態度をとつたものとして見るべきではない。
しかしかう考へて來ると、この著者の缺點は、たゞ資料が乏しくして日本の事情に通ずることができなかつたとい(266)ふのみではなくして、その考へかた、研究の方法、にもあることが知られたであらう。最初にいつたことをくりかへすやうであるが、日本人には多くの異質な生活の營みかたなり生活態度生活氣分なり、または思想なり、が混在してゐるから、このやうな民族の性情や道徳觀や人生觀やを知らうとするには、かういふ違ひのあるものを違ひのあるまゝに觀察して、その違つてゐる點を明かにし、それらの一つ/\が歴史的にどういふ由來をもち、どうして形づくられ、またどうはたらきあひ、どう變化して來たのか、またすべての生活の基礎になつてゐる自然の風土や、現代の日本のおかれた國際的環境や、日本を動かした世界の情勢や、その間において日本の取つて來た態度や、日本人のして來た事業や、それによつて絶えず影響をうけてゐる日常の生活のさま/”\の姿や、その生活をどう進めてゆかうとするかの欲求の方向や、これらのいろ/\のことがそれらの上にどうはたらいてゐるかを見、さうしてそれがどういふみちすぢ、どういふありかたで、日本人としての一つの性情と見なすべきものを成りたゝせてゐるか、を考へねばなるまい。いろ/\の生活現象を平面的に並べてみてその間に何等かの連絡をつけることによつて、それらを體系づけようとする方法では、日本人の性情などを知ることはむつかしい。さういふ方法は、歴史をもたない、社會構成も生活状態も單純な、未開民族を取扱ふばあひにはあてはまるかも知れぬが、長い歴史によつて次第に形づくられて來た複雜な社會構成と高い文化とをもつてゐる、日本人のことを考へるには適しなからう。いろ/\の現象を一貫したものに體系づけようとすることはよいが、どうして體系づけるかが問題なのである。さすれば、この本の著者がいはゆる文化人類學の方法を以て日本人を研究しようとしたところに、そのしごとの根本的の缺陷があつた、といふべきではあるまいか。この小稿のはじめに、著者の研究の方法に一おうはうなづかれる點があるといふやうにいひ、それが(267)當つてゐるといはなかつたのは、これがためである。
勿論、この著にはまちがひばかりあるのではない。中には適切な觀察もいろ/\ある。一つ/\のことがらについていふと、日本人は革命を企てなかつたがそれは權力者が權力を振はうとしなかつたからであるとか、百姓一揆は階級闘爭でも制度の變革を求めたものでもないとか、天皇は神とせられたにしても實際はそれに大きな意味は無いとか、いふやうなことも、その二三の例であつて、今の日本の言論人がともすればいひたがることの反對であるのも、興味をひく。どうしてかう考へたかは明かには記されてゐないやうであるが、これらの觀察は當つてゐる。また總括的な批評としては、日本人の道徳について、恥とか外聞とかがその根本になつてゐるとか、個々の人に對する個々の行爲にのみ目をつけてゐて道徳の根本が立つてゐないとか、いつてゐることも、たしかに日本人の道徳の缺點をついたものである。その人生觀を考へるに當つて、日本人は惡の存在を認めず惡と闘ふといふ考が無い、といつてゐるのも、それが當つてゐるかどうかに疑問があるのみならず、さう見た理由にも肯ひかねるところがあり、またそれはキリスト教徒としての觀察でもあるらしいが、ともかくも一つの問題を提供したものではあらう。かういふ面もあることを見のがしてはならぬ。
こゝでいひそへておく。『菊と刀』といふ書名は、日本人の性情や行動に矛盾する二面があるとして、それを象徴させたのであらうが、日本人みづからが菊の名により刀の名によつて思ひ浮かべる情趣は、この本のどこにも現はれてゐない。著者が菊の名によつていかなる日本人の性情を示さうとしたかは、よくわからぬやうであるが、菊についていつてゐるのが、この花を人工的に栽培することであるのを見ると、かゝる特殊の技術を要する花の栽培に力を費(268)す氣分と態度とに重きをおいて、それを好戰民であることを示す意味での刀に對照させたのであらうか。しかし日本人は菊の名によつて、何よりもまづ秋の自然の風物としてのその優しい姿や色とそのほのかな香とを思ひ出す。けれどもそれは、アメリカの風土のうちに生活するアメリカ人には感ぜられないことであらう。また刀は、その本來の用は武器としてであつたが、それは現代の戰爭においてのではないから、今の日本人はそれを一種の藝術品として尊重し愛翫する。昔の人のやうに武士の魂といふやうな考すらも、もつてゐない。もつともこれは譯語としての刀の名についていふのであるが、原語においても、菊と對照させてあるのを見ると、やはり日本刀を指していつたものと推測せられる。だから日本人にとつては、この書名は、そこに考へてあることとは違つた感じをうける。これもまた著者が日本人の性情に通じないことを示すものといつてもよからう。刀を武器としてのみ見、さうしてその武器を好戰の象徴としたのは、やはり最近の戰爭によつて日本人を考へたからのことではあるまいか。
さて、こゝまでいつて來たことは、『菊と刀』を讀むにつれて思ひ浮かべられたことの片はしである。これだけでもわかるやうに、この本は特にとりたてて問題にするほどのものではない。日本人の性情がそれによつて明かにせられないことは、いふまでもなく、アメリカ人の日本人觀を知るためにも、さして重きをおくべきものではあるまい。著者の心事の誠實は疑ふ餘地が無く、敵國民に對して公平な觀察をしようとしたことも十分に認められるが、特殊の目的があつたからのこととはいへ、日本人に關する知識があまりにも乏しいにかゝはらず、結果からいふと、あまりにも性急な判斷を加へたやうに見えるところに、さうしてまた研究の方法が適切でなかつたところに、その缺點がある。然るにかういふ本をこゝにとりあげたのは、一つは、今の日本の一部の知識人、特に言論人が、これとあまり違(269)はないほどに日本人自身のことを知らず、または誤解してゐるやうに、思はれるからである。いはゆる唯物史觀を奉ずるものの如く、宗教的教條と同じやうな、他から與へられた一定の、教説にあてはめて日本のことを見ようとし、そのために歴史上の事實をすら甚だしく曲解しながら、その曲解たることを覺らないやうなのは、論外であつて、これは初めから日本の事物、日本人の性情、を誠實に知らうとしないものであるが、さういふ特殊のものでなくとも、概してかういふ傾向がある。近ごろしきりに使はれるいろ/\の用語、例へば封建とか市民社會とか國民大衆とかいふやうな語の上にすら、それが見える。多くの學問がヨウロッパやアメリカで形づくられたものであるために、學問といふものはそれを學び知ることとして考へられ、それによつて得た知識、いひかへるとアメリカやヨウロツパの社會やそれらの民族の生活によつて構成せられた知識、をもとにして、その目で日本のことを見、またはさういふ意味での學問上の何等かの抽象的概念がそのまゝ日本のことにあてはまるものと考へ、そのやうなしかたで日本の事物が知られるものと思ふところから、おのづからかうなるのであらう。虚心に日本のことを知らうとしないのである。さうしてかういふことから生じた日本人自身の日本に關する誤つた知識なり見解なりが、アメリカ人ヨウロッパ人を誤らせもする。
ところがこのことは、日本の事物に對するヨウロッパ人アメリカ人の觀察なり批評なりを過度に尊重し、または無批判にそれを承認することと、つながりがある。何事かを日本人がいふと、たれも注意せず、或は嘲笑さへもしながら、同じことをヨウロッパ人がいふと、感心し、日本人が既にいつてゐることでも、アメリカ人がいふと、新見解のやうにもてはやすのも、同じところから出てゐる。ヨウロッパ人などのいふことに限らず、東洋の隣國人が日本につ(270)いていふことに對しても、同じ態度がある。またその隣國の事物についても、日本人が學問的に價値のあることをいつても、それには注意せず、その國人がいふと、價値の無いことでも珍重する風のあるのも、またこの類である。これはエド時代の儒者などからうけつがれた弊習であつて、それはおのづから、上にいつた如くヨウロッパ人などの言説を過度に尊重することの、歴史的由來ともなつてゐる。廣くいつても、日本の知識人ほど他國人の思想や言説に追從することを誇りとし、何ごとをいふにつけてもそれを權威としてそれに依頼しようとするものは、世界の文明國民には類があるまい。他の文明民族の優れた文物を知り、それを學びとらうとするのは、日本人の長所であつて、明治時代から日本の文明の急速に進歩したのはそのためであるが、それはひたすらに他に追從し他に依頼するのがよいといふことではない。世界のことを知るについても、ヨウロッパ人などの思想や、現在の情勢に對するその意見やよりも、その思想の根柢となつてゐる生活の實態また情勢そのものを明かにすることが必要であつて、それによつてその思想を批判し、また情勢に對する判斷を日本人みづからがなすべきであらう。日本人には獨創力が無いといふやうなことをいふものがあるが、さういひながら、上記のやうな態度でゐるのは、獨創力のあるものがあつても、それを認めないことであり、從つてまた獨創力を養ふことを妨げるものである。みづから足れりとして日本について他國人のいふことに耳をふさぐのはもとより愚の至りであり、そのいふことによつてみづからは氣のつかない自己の長所や缺點をさとるばあひも多く、またそのいふことに誤解や偏見があるにしても、聞きやうによつては、それすら自己の反省の料となることも少なくない。しかしそれはその誤解や偏見を承認することではなく、他國人のいふことだからそれをよいとすることでもない。必要なのは、他國人の意見が、何を資料とし、どのやうな考へかたで成りたつてゐる(271)かに、批判を加へた上で、その意見をきくことである。それをしないでむやみにさういふ意見に追從するのは、日本人自身が日本のことを知らず、深くそれを研究もしないからであるが、それのみならず、日本人に批判力が無いからでもある。さうしてそのことこそ日本人の最も大きな缺點である。他國人にいろ/\の缺點を教へられるのではなくして、他國人の意見をきく態度において日本人みづから自己のこの缺點を暴露し、それでありながらそのことをみづから覺らないのである。この本に對する日本の言論人の評判にも、それがあるのではなからうか。この本をとりあげた理由のいま一つはこゝにある。
わたくしはかねてから、ヨウロッパ人やアメリカ人の日本觀や日本の事物に對する研究など、またアメリカ語ヨウロッパ語で書かれた日本人みづからの日本の事物についての説明など、の主なるものを讀んでみて、わたくしの考へることのできる側面において、また力の及ぶ範圍内で、それに對する批評を試みたいと、ひそかに思つてゐたが、それだけの餘力が無くて、まだそれを果さずにゐる。これから後もそれを試みることはできさうにない。この小稿は、このこととは關係なく、偶然の思ひつきで筆をとつたまでのものであるが、なほいふべきことの多くをもちながら、いろ/\の事情で今そのひまが無いために、ほんの片はしだけしかいはれなかつた。たゞこれを書いたにつけても、日本人自身がもつと深く、日本と日本人とを研究して、それを世界に示すことの必要を、つく/”\感ずるのである。さうしてそれには、日本人が日本人自身のことを知つてゐるかどうかを考へてみて、それを知らうとする欲求を起さなくてはならぬと思ふ。
最後に、他の民族、他の國民、の思想や心情をまちがひなく考へ知ることのいかにむつかしいかを、この本を讀む(272)につけても深く感じ、わたくし自身のこれまでして來たしごとにも多くの缺點があるであらうと、今さらながらかへりみられることを、こゝに附記しておく。
十 愛國心
まづ愛國心といふのはどういふものかを考へてみませう。愛國心の生ずるには、國民のひとり/\が國家を自分自身の國家であると思ひ、自分自身を愛すると同じ氣分で國家を愛するやうにならねはなりません。さうしてそれには、國家がどういふものであるか、どうして國家が成りたつか、何故に國家が無くてはならぬか、といふことをよく理解してかゝらねばなるまいと思ひます。ですから愛國心の成りたつには理性のはたらきがなくてはなりません。それのみならず、國家を動かしてゆく國民のしごとには多くの方面がありまして、農業のこと、工業のこと、外交のこと、國民全體を健康にすること、その道徳を高めてゆくこと、學問を發達させること、今日の國家を昨日のよりも、明日のを今日のよりも、よくするやうに、すべての國民が勉強し努力してゆくこと、數へれば限りがありませんが、國家のはたらきは極めて複雜なものであります。そこで、すべての國民はその複雜なはたらきの何ごとかに關係をもち、ひとりひとりがそのはたらきにあづかるのであります。從つて國民が國民としてこの任務を表すには、できるだけ廣い知識をもつてゐなくてはなりません。勿論、すべての國民が國家の複雜なはたらきの何ごとにも通じてゐるといふことはできませんが、廣い知識をもつてゐることが必要だといふことだけは知つておかねばなりません。國民がめい(273)めいのもつてゐるだけの狹い知識で國家のことを考へようとすると、大きなまちがひが起ります。ですから知識を互に交換して廣くしなければなりませんが、それには國民が協同してはたらくことが必要であります。國民の數は極めて多く、國家といふ集團は極めて大きいものでありますから、すべての國民が協同してはたらき、また互に協力して國家のことに當らねばなりません。それが即ち愛國心の現はれであります。國家は自分たちめいめいの國家である、といふ強い感じをもつことが愛國心なのであります。けれどもそれはたゞ感情だけのはたらきではありません。愛國心は、前に申しました如く、理性と知識とが無くては成りたちません。
こゝに一つの問題があります。近ごろは平和といふことが大きな聲で叫ばれ、世の中に戰爭を無くしようといふことが要求せられてゐます。それが實現せらるればまことに結構なことです。しかしどうしたらば戰爭を無くすることができるか、と申しますと、それがむつかしいことであります。たゞ平和平和と叫んでみたところで、平和は來ません。それには戰爭の起る原因を無くさなければならないと考へられます。戰爭の起る原因はいろ/\でありまして、一樣ではありませんが、直接に戰爭を誘ひ出す大きな原因の一つは、國力のつりあひが失はれ、力の強い國と弱い國とが對立することでありませう。さういふ時には強いものは、自國の力を示すために弱いものをいじめます。そのばあひ、弱いものが自分の弱いことを信じて強いもののいふことをきくとします。さうすれば強いものは圖に乘つてます/\かつてな難題を弱いものにふきかける。弱いものはます/\いじけて強いもののいひなりしだいになる。強い國は武力を用ゐてもわがまゝをとほさうとする。そこで戰爭が起るのです。かういふこともありますが、しかし一寸の蟲も五分のたましひで、弱い國も命がけで強い國にぶつつかつてゆくことがあります。武力に對する精神力の戰で(274)ありますが、それが運よく成功すれば、今までの弱い國が急に勢を得て強くなり、強かつた國の力が衰へてゆきます。世の中にはかういふ戰爭の起ることもあります。今はアジアではロシヤとシナとが強いといはれてゐますが、強弱の勢はいつも同じであるには限りません。明治の時代に弱かつた日本がシナに打ち勝つて強くなり、ロシヤに打ち勝つて更に強くなつた例があります。そのロシヤと戰つた時の話でありますが、その時の日本人の間には日本の國民がみな一致してロシヤと戰ひそれを破らねばならぬと、固い覺悟をしてゐるにかゝはらず、戰爭はよくないことであるからそれには協力しない、と宣言した少數の人たちがありました。戰爭がよいことではないとか好ましいことでないとかいふのは、一般的な、抽象的な、思想としてはもつともなところのある見解でありますが、戰爭にもいろ/\な性質のがありまして、明治年間の日露戰爭の如きは、あの時あのやうな戰爭をしなければ、日本の國家の權威も日本の文化のはたらきもひどく弱められ、シナ及び一般のアジアに對する日本のたちばが危くなる心配の大きかつたものであります。その時の日本としてはロシヤとの戰爭は避けようとしても避けることができなかつたほどに、日本の運命を定めるはたらきをもつてゐたのであります。さういふ特殊の性質の戰爭は、一般的抽象的の平和論をそのまゝあてはめることができないものであります。日本の國民の全體が一致協力して、この戰爭に勝ちぬかうとしたのは、當然のことであります。
それで思ひ出すことは、そのころにそろ/\歌人としての名が現はれ出したヨサノ アキコがリョジュンの攻圍軍のうちにあつたといふ弟に寄せた詩に「君死にたまふことなかれ」といふ句のあつたことであります。近ごろはこの歌人のこの詩を反戰思想を歌つたものとして見ようとする人たちがあるやうですが、さう見ようとすれば見られなく(275)ないところも無いではありません。しかし詩の全體の主旨は、君は堺の舊家である商人の家のあるじであるから、戰死などをしないで歸つて來てほしい、といふ一語につきる。いはでものことをと思はれる辭句もあり、一篇の詩としては、まとまつた思想の無い粗雜なものであつて、歌人アキコの作と銘をうつて世に公にするにしては、甚だしき駄作といふべきである。戰に出て勇戰してもできるならば生きて歸つて欲しいと思ふのは家族のものの至情であるから、さういふ希望を率直にいふのは、よいとしても、戰場ではたらく以上、戰死を覺悟するのもまた兵としての當りまへの心がまへであるから、その兵に對して生きて歸れと要求するのは、むしろ心なきふるまひであらうと思はれます。生きて歸つてもらひたいけれどもそれを明言しないところに、却つて家族の眞情が見えるのではありますまいか。それのみならず、思想としては、兵たるものは、その出身の如何にかゝはらず、みな一樣に死を覺悟して戰つてゐるのに、君は商家のあるじであるから死なないでいよ、といふのは、國民の全體が協力して事に當つてゐる時に、一身または一家の事情のためにその協力を拒むことになるので、かゝる時にはよし思想としては非戰主義を懷いてゐるものでも、むしろ進んで衆と共に死地に就かうとするのが、國民としての責務であらうに、それをさせないやうにしようとするのは、道徳的なしかたではなからうと考へられます。また戰爭といふことがらからいふと、その勝敗の分れるところは一瞬の機にもあり一人の兵士の意氣の有無にもあつて、もしその機を失ひその意氣を無くするならば、勝つべき戰爭にも敗れる虞れがあるから、兵士に對し生きて歸ることを欲求するのは、この虞れを大にするものといはねばなりますまい。要するに「君死にたまふことなかれ」は、詩の作者の懷いてゐるひそかな願望を述べたものとしては、同情すべきところがあつても、それを陣中にある兵士の一人としての、弟に對する欲求である如くいつてゐるの(276)は極めて不當である。モリ オウガイは敵味方の戰死者の假に埋められたしるしの杭の並んでゐるのを見て、「そを眺めやる束のまは、なさけもあだも消えはてて、同じ列なる新墓に、同じ涙をそゝぎけり、」といひながら、それだけのことでも、「わがかりそめのことくさは、ちまたに説かん道ならず、」とことわつてゐるが、戰陣の間にはかやうな細かい心づかひがせられねばなるまい、と思ひます。
戰爭はできるだけ避けなければなりません。しかし避けることのできないばあひがあります。自分の國から戰爭を他の國に對してしかけるといふことではなくして、他の國から戰爭をしかけられたばあひにどうするかといふ問題です。一昨年の秋か冬かでありました。ハンガリイで戰爭がありました。戰爭と云つてよいかどうか知りませんけれども、ハンガリイ人が戰爭をするために戰爭を起したのではなく、やむを得ずロシヤに對して武器を取つて立つたのだといふことが、そのときのいろ/\な新聞の報道などによつてほゞ分つてをります。日本はシナに對して明治二十七・八年に戰爭をしました。また前に申しましたロシヤに對しての戰爭は三十七・八年に行はれました。この二つの戰爭について今日の若い人たちのいふことを聞いてゐますと、これは日本が戰爭をしかけたのである、つまり日本からシナに對しロシヤに對して侵略をしたのだ、といふ風な考へかたが多いやうであります。けれどもそれは事實ではありません。事實をいふと、日本はシナに對してロシヤに對して戰爭するだけの力をその時まだ十分に持つてゐないで戰爭をした、といふのは、しかけられた戰爭を避けるわけにゆかなかつた、といふことです。そのころのシナもロシヤも、日本人の正當な活動をじやまし、朝鮮や滿洲で日本人がはたらけないやうになる政策をとつたのですから、そのまゝにしておくならば、日本は經濟上でも動きがとれなくなつてしまふ。獨立國としての日本はそれでは因る。(277)獨立國として立つてゆけないことになる。それでいろ/\力を盡してシナやロシヤの政策を改めさせようとしたが、それができなかつた。日本は武力によつてでも日本の利益を守らなくてはならないはめになつた。そこで戰爭になつたわけです。はじめに兵を動かしたのは日本であつたが、さうしなければならぬところに日本を追ひつめたのはシナでありロシヤであつた。侵略は實は向うからしかけて來たのです。日本の地位を侵略し、日本の富を侵略し、獨立國としての日本の權威に對する侵略をして來たのは、シナでありロシヤであつたのです。ですから、この二つの戰爭をしかけて來たのはシナでありロシヤであつて日本はそれを防がねばならぬ地位に立つたのです。かういふばあひがあることを考へれば、戰爭は罪惡であるからどんなばあひにも戰爭をしてはならぬ。といふことになると、それは結局國家の存立を否定することになつてしまふ。國が滅びても戰爭はしてはならぬ。といふことになる。極端にいふとさういふことになります。かういふことが國民として許されるかどうか、いふまでもないことであります。しかし戰爭は命がけのしごとです。死なないやうにと祈つても死なねばならぬばあひのあるのが戰爭です。だれでも命は惜しい。ですから戰爭に出ても死なずに歸ることができれば、それは結構なことである。しかし戰爭の勝敗は兵の意氣にかゝはることが多い。さうしてその意氣は死を覺悟することによつて生ずる。だからその覺悟の無い兵を有する國の戰は多く敗北する。ところが敗北のばあひには戰死者が多く出る。生を求める兵は却つて生を失ふことが多い。これが戰爭の心理である。非戰主義といふものに思想としてどんな意義があるとしても、國民の間に非戰主義者が多く、さうしてその主義が實現せられるやうになるならば、要するに敗戰を招き亡國を招くに過ぎない。最近のいはゆる「大東亞戰爭」のばあひには、日本の軍人、特に海軍や航空隊の軍人は、初から悲壯な決意を以て死地に飛び込んでゆきまし(278)た。生還を期せずといふことばがありますが、それどころではない。初から死ぬつもりででかけました。死は眼前に迫つてゐる。それであるのに、あとからあとから死ににゆくものが續いて現はれました。軍人は一人一人、すべてが死んでゆくためにでかけたやうなものでありました。これがその時の愛國の至情の迸り出た、日本人の氣概であります。ですから國を愛するものは、戰爭の起つたばあひには戰死を覺悟することが道徳上の義務として考へられねばなりません。平和は勿論結構であります。誰も戰爭はしたくない。けれどもしかけられた戰爭は避けることができないばあひがあります。それを避けようとすれば、向ふはます/\こちらを侮つて、いよ/\攻勢に出て來る。平和を求めることが却つて戰爭を誘ひ出す。これが國際競爭の心理なのです。ですから戰爭はもうごめんだといふやうな氣分は、實は戰爭を誘ひ出すことになる危險なものです。勿論むやみに強がりをいふのがよいのではありません。たゞ世界には無法もの亂暴ものがありますから、國家としては萬一のばあひに備へて防備を嚴にすることが必要であり、不幸にして戰爭しなければならぬやうな時が來たならば、國民のひとりひとりは、いつでも戰死するだけの意氣が無くてはなりません。それが即ち愛國心の一つの現はれであります。國を愛するものは國のために何時でも生命をかけて戰爭をするだけの覺悟が無くてはなりません。前に申しましたハンガリイ人のロシヤに對して戰つたのはその例であります。勿論、愛國心の現はれるのは、戰爭だけのことではありませんが、戰爭のばあひにもそれはあります。なほこゝにいひました國民の至情と氣概とは、「大東亞戰爭」に國民と國家とを追ひこんでいつたいはゆる軍部の意圖と、それに追從した時の政府の態度や行動とを、是認する意味ではありません。それとこれとは全く別のことであります。戰爭があゝいふ形勢に發展したことに對する政府や軍部の責任は十分に批判されねばならず、さうしてそれは單に敗(279)戰といふ事態が生じたといふことにと々まるものではありません。それは何よりも國民精神の弛廢と壞頽とに關することであり、軍部の勢力を得たことにそれが著しく現はれてゐます。しかし今はそのことを考へてゐるのではありません。
日本人には愛國心が強いといふことがよくいはれてゐましたが、それについては考へねばならぬことがいろ/\あります。その第一は、自分の國が外國に對し獨立國家として同等の地位にあるのでなければ愛國心は強くならない、といふことであります。同じ地位にある獨立國の國民であるから他國に對して自國を愛するといふ氣分が起ります。愛國といふことはつまり、自分の國がどの外國に對しても負けない立派な國であるといふ固い自信と、立派な國にしようとする強い意氣ごみとをもち、そのためにどこまでも努力しようとすることであります。昔から日本はシナの隣國であつて、そのシナといろ/\の關係があり、王朝を唐といつた時には朝鮮半島でそれと戰爭をしたこともあります。しかしシナの人はシナを日本と同等の國だとは思つてゐませんでした。シナは世界のまん中の國、即ち中國であつて、文明の程度も他に肩を列べる國が無いほどに高いが、そのまはりの國よはみな邊土、即ちはしっこの國であり、政治の上で中國の帝王に屬し、文明の點では未開の國であつて、日本もそのうちの一つである、と考へてゐました。シナではそれを中國に對する夷狄の國といひます。日本はシナと同等の地位に立つ國ではないといふのです。實をいふと、シナそのものが一つの國ではなく、多くの國を含んでゐるので、その全體を天下といひ、その帝王を天子といつてゐます。その意味では世界中の國土がすべてみなシナの帝王に屬してゐることになります。しかし一方ではシナ自身を中國ともいつて國と呼んでゐるのですから、シナは國だか天下だかわからない中途半ぱなものです。たゞ中國(280)でない國々はみな夷狄であつてほんとうの國ではないといふのですから、それでよいことになりませう。もつともこれはシナ人が思想の上、ことばの上、だけで、かつてにさう主張しさう宣言してゐることであつて、事實はそのとほりではありませんが、シナとそのまはりの多くの國々との關係には、かういつてもよいところがありました。シナはまはりの國々との境がはつきりせず、またそれが斷えず變つてもゐて、その點ではシナの内地と同じやうなありさまであつたこと、上流の社會では文明の程度が近いところにあるまはりの國よよりは遙かに高かつたことが、それであります、しかし政治についていふと、シナのこのありさまは、シナが立派な一國でない證據でもあります。シナは内部がよく統一せられてゐない、即ち一つに固まつてゐないのですから、正しい意味での一つの國とはいはれませんし、從つてまた他の國々から完全に獨立してゐるともいはれません。いはば他の國々に對して十分の獨立が保たれていないのです。國といふものが他の國々に對してほんとうに獨立してゐるには、國の内部が一つに固まつてゐなくてはなりませんが、シナではこれらの二つが二つとも甚だ不十分なのです。ところがかういふ國では、他の國々との間に外交の關係も成りたちません。外交は互に同等の地位にある獨立國の間において始めてできることであります。シナの天子はまはりの國々の君主に對して命令はしますが、同等の地位に立つて交はることはありません。戰爭はその間にしば/\起りますが、それは征服するかせられるかの問題から起るのであります。シナが蒙古人や滿洲人に征服せられたのがその最も著しい例であります。日本に對しては征服はできもせずせられもしなかつたが、日本を夷狄と見てゐたシナは、思想の上で日本を征服しようとしてゐた、といつてもよいのであります。ところが日本でもシナのこの態度をまねて、ヨウロッパの國々やアメリカを夷狄だといふやうになつたことがあります。日本にかういふ考をうゑ(281)つけたのは、シナが日本を思想の上で征服したことになるのであります。しかしシナ思想に征服せられたかういふ日本人は日本人のほんの一小部分であつて、シナの書物を好んで讀む人たちだけのことなのでした。それで日本人がアメリカやヨウロッパのことを知るやうになると、それが變つて來ました。はつきり變つたのは、今から百年ほど前、トクガハ將軍の幕府がまだ日本の政府であつたころのことであります。
日本が外國に對する態度について大革新を行つたのは、安政五年(一八五八年)に日本とアメリカとの間に同等のたちばに立つて通商條約を結んだ時からであります。これが手本になつて、イギリス、オランダ、ロシヤ、に對してもほゞ同じ條約が結ばれ、日本とそれらの國々との間に外交關係が成りたちました。日本に外交といふことがあるやうになつたのは、これが始めてであります。シナのほかのすべての外國を夷狄と見るシナ風の考が、日本の政府であつた幕府には、かういふ事情で無くなつたのですが、それは一面では國家の政治の一大變革でもありました。これまでの政治は日本を日本だけのものとして、政府としての幕府がその權威をどうして固めてゆくか、多くの大名をどう取扱つてゆくか、といふことが政治のすべてでありましたが、これからは、獨立國としての日本が世界の國々の間に立つてどうして立派なはたらきをしてゆくか、といふことがおもな問題になりました。日本は日本だけの日本ではなくして世界の國々の一つとしての日本であることになつたのです。そこで始めて日本人にほんとうの愛國心が起るやうになりました。實をいふと、幕府でかういふ大革新を行つたことが、即ち愛國心の現はれであつて、これからの日本を列國の間にどうして立ててゆくか、どうして日本を立派な國にしてゆくかを、幕府で眞劍に考へた結果、かういふ大方針を立てたのであります。そのころ京都を中心として、攘夷といふこと、アメリカ人やヨウロッパ人のやうな夷(282)狄を打ちはらつてしまへといふ亂暴なことを、しきりに宣傳してゐました人たちは、實は正しい愛國心が無かつたといふべきであります。前に愛國心はたゞ感情ばかりではない、理性のはたらきと知識とが無くてはならぬと申したのは、このことでありまして、同じ人類であるものを人間でないもののやうに思つたのは、理性のはたらきも知識も無かつたからであります。
ところが世界の一國として立つてゆくには、その世界のことをよく知らねばなりません。世界のありさまはどん/\變つてゆきます。日本はその變つてゆくのに後れないようにしなければなりません。アメリカやヨウロッパの政治のありさまを知り、學問のありさまを知り、交通のありさまを知り、どうして外交が行はれてゐるかを知り、國を守るにはどういふ方法で武力を養つてゐるかを知らねばなりません。つまりあらゆることについて世界の知識を集め、その學ぶべきものを學ばねばなりません。政府たる幕府は、まだ條約を結ばない前から、既にその準備をし、その絲ぐちをつかんでゐたので、ヨウロッパの國々のことばを學ぶ外國語學校を設けたり、オランダから軍艦を買入れ、またその海軍の軍人を教師に招聘して軍艦の取扱ひかたや航海の技術などを傳習し、小規模ながらともかくも海軍の形を具へたものを造つたりしました。また陸軍の方でも書物によつて大砲の製造などを試みてゐました。ところで兩國の間の條約は兩方の國でそれ/\全權を委任せられた外交官が調印したものを、更に兩方の國家の首長がそれ/\承認する手續きをするのが國際間の慣例であつて、それを批准といひますから、日本とアメリカとの條約は、日本の政府の首長である將軍とアメリカの大統領とが批准をした條的書を交換することになります。そこで一つはアメリカの公使の勸めもあり、一つは日本でもそれを機會としてアメリカの政治なり文明なりを視察したいといふ希望が外交官(283)の間にありましたから、批准交換のために幕府の高官を特使としてアメリカに派遣することにしました。その使節の乘つていつたのはアメリカの軍艦でしたが、海軍の方では、使節の護衛といふ名義で日本の軍艦をアメリカに行かせました。それは噸數でいふと何噸であるか知りませんが、動力は百馬力だとわたくしの見たどの記録にも書いてあるから、小さな船には違ひない。初めて軍艦の取扱ひかたを教へられてからわずか二三年にしかならない安政六年に、司令官及び艦長以下、乘組の士官も兵員も水夫も、すべて日本人だけで、さういふ小さな船を運轉して太平洋を横斷し、サンフランシスコまで往復しようとした、意氣ごみは盛んなものでした。(出帆は翌七年の正月)。さうして往く時にはひどい「しけ」に毎日苦しみながら、無事にその使命を達して歸つて來ました。これもまた日本人の意氣と能力とをみづからも知り世にも示したことにおいて、愛國心の發現の貴重な體驗であつた。アメリカの政府及び海軍の軍人から種々の好意に充ちた援助をうけたことも、またアメリカ人が國際人としてもつてゐる情味を日本人に感知せしめ、愛國心が人間的感情と矛盾しないことを覺らしめたのであります。なほ使節の一行はアメリカで非常な歡待をうけたが、それに對して日本の使節やその從者の觀察には、二つの點からの見かた考へかたがあつたやうです。その一つは、日本では禮儀が正しい、といふ意味は、身分により男女の別によつて、ことばつきにもすることにもそれ/\違ひがあるといふことなのですが、アメリカにはその禮儀が正しくない、だから日本人の目には禮儀の無い國のやうに見える、といふことなのです。これは禮儀といふものは日本人の考へるやうなものに限ると思ふからのことですが、日本のことだけしか知らなかつた人たちには、さういふ考の起るのもむりでない、といはばいはれませう。しかし軍艦において部署につき一定の任務を與へられるばあひには、上官の命令は極めて嚴格で、兵員はみなそれをよく守り(284)上官の手足の如くはたらく、といつて、ほめてゐる。これは禮儀に關することではないが、地位と階級との區別が公けの任務について明かになつてゐる點は認めてゐるから、禮儀においても同樣な點があると考へてもよかつたであらう。だから使節の觀察は、日本人が身分を重んじすぎる嫌ひがあるのと、アメリカ人は、軍規は別として、一般に言語應對があまりにもてがるに感ぜられ、女でも日本人の如く引きこんでゐないで、男と雜りあつて活動してゐるのが不思議に思はれたのとから、來てゐるのであらう。しかし從者のうちにはアメリカ人の親切で快活であることには感心してゐたものもあります。アメリカ人の氣風をいくらか知つていた海軍の司令官は、簡易率直なその應對に好意を抱いたやうに見える。今一つは趣味の違ひからアメリカを野卑だと思つたことであつて、音樂の演奏に對する感想には、使節のにも從者のにも同じやうな見かたがある。しかしこれについてもまたこの司令官の意見は違つてゐて、軍樂隊の演奏でも婦人などの歌ふのをきいても、それをほめてゐる。この二つの考へかたのあつたことは、彼等の日記を讀んでの私の感じであるが、要するに、人によつて同じではないけれども、アメリカ人のよいところもよくないと思ふことも、兩方ともに見てゐるやうである。司令官のにはわるいと思ふやうなことは書いてなく、すべてが滿足と感謝とで滿ちてゐるやうであるが、これは彼の人がらのせいであらうか。アメリカに對して日本のよいことを誇る氣分のあるのは、愛國心の一つの現はれであらうが、アメリカのよいところを見るのは、それに鑑みて日本をよくしてゆかうとする意味があるから、その方がむしろ愛國の至情から出てゐるものと解せられる。
ことがらは全く違ふが、使節がアメリカに持つていつたものには、將軍から大統領にあてた書簡があります。日本の國家の首長からアメリカの大統領にあてたものですから國書といひますが、その國書が、ごく簡單なものであるけ(285)れども、立派な古典風の日本文で書いてありました。はじめアメリカから幕府にあてて送つて來た公式の文書は漢文で書いてありました。日本のことはシナの書物かシナの人に聞いてかして知つたために、漢文なら日本人にわかるだらうと思つてさうしたものと見えます。しかし日本には日本語の文章があるから、漢文の書簡を送つて來たのは、見當ちがひです。日本の學者のうちには日本のことを記すにも漢文を用ゐたがるものがありまして、ミトでできた名高い大日本史すらさうです。日本の國家の精神を明かにするために書いたといふ日本の歴史が、漢文で記されてゐるのであります。源平以後の武家のことを書いたもので世間に廣く愛讀せられた山陽の日本外史も、漢文です。ところが徳川の幕府で編纂した家康から後の歴代の將軍の事蹟を記したもの、普通に徳川實記と呼ばれてゐるものは、日本文で書いてあります。アメリカに使節が派遣せられた後のものではありますが、政府の官吏がヲガサハラの嶋々を見分して日本の領地であることを公式に認めた時に、そのことの由來を書いた碑を嶋に立てましたが、その文章もやはり日本文であります。アメリカの大統領に送つた國書やヲガサハラの碑文やに日本文を用ゐたのを見ると、徳川の幕府にはかういふ傳統思想のあつたことがわかるやうです。日本の政府、日本の國家、の意志を表明するには日本語で書いた日本文による、といふ見識があつたと思はれます。これは日本を獨立の一國として世界の國々の間に立派に立ててゆかうとする決心をして、政治の方針を根本的に改め、新に外國に對して外交を開いたのと、同じ精神の現はれであります。日本はアメリカやヨウロッパやの國々のことがらをよく知り、學ばねばならぬことは學ぶやうにしなくてはならず、現にオランダ人の教をうけて海軍を設けることにしたほどでありますが、日本は日本でどこまでも獨立國であるから、それを傷けないやうにすることが大せつである、そのうちでも一ばんはつきりしてゐるものは、日本の(286)ことばであり、日本人の思想、日本人の氣分、日本人の精神、は日本語でなくては表現ができないその日本語をだいじにすることである。外國に對してそれを明かに示したのは、上にいつた國書であつて、ヲガサハラの碑も外國人に見せる意味をもつものであるところに、外交文書と同じ效用があるのです。トクガハの幕府が強い愛國心をもつてゐたこと、日本人の愛國心の養成に大なるはたらきをしたことを、お話するのは、そのためであります。
お話はわき途へ入つてごた/\しましたが、私は愛國心をかういふものだと考へます。さうしてそれは國と國とが同等の地位に立つて交はるにつれて、自然に生ずるものだと思ひます。自然に生ずるものであるとしますれば、國民のすべてが同じやうにもつてゐることになりませう。勿論、それには理性のはたらき知識の力がなくてはなりませんが、今日においてはそれは、國民のすべてに具はつてゐる普通の教養でできることであります。さて私はそのことを明かにするために、幕府のあつた時代や明治時代のことを申しましたが、その根本は今日でも同じことであります。平和、平和といつてゐますが、それはことばだけのことであつて、さういふことをやかましくいつてゐる人たちのすることは、明けても暮れても闘爭、闘爭、であります。ですから平和といふやうな流行のことばは聞きながしにしておいてよいから、日本の國民としてはこの日本の國をどこまでも獨立の國として、武力は勿論のこと、思想による侵略に對しても、しつかりした防衛をするために、できるだけの努力をしなくてはなりません。兵員が必要ならば進んで兵員に加はらねばなりません。武器がいるならばそれを整へねばなりません。それらのために經費がかゝるならば、國民は分に應じてそれを負擔しなくてはなりません。さうしてそれには國民のひとり/\がみな日本の國家を自分の國家として協同のはたらき、協同の力、協同の精神、によつて立派な國家に守り立ててゆく覺悟をもたねばなりませ(287)ん。
附記。この一篇は數年前に自由學園において試みた「自由と不自由」と題する講演の一部分を訂正し、題名を改めたものである。
十一 わたくしの信條
「わたくしの信條」といふことがもしいひ得られるとすれば、それは、わたくしの生活、自身だけのまた世間に對してのしごとの根本となつてゐる精神、といふやうな意義のことであらうと思はれるが、わたくしは實は、さういふものをもつてゐるやうに思つたことも無く、またそれについて考へてみたことも無い。よしまたさういふものをもつてゐるとするにせよ、それは生活の上に實現せられなくては意味の無いものであらうが、信條といつても實際には、かうありたい、かうしたい、といふ希望もしくは心がけなのであつて、そのとほりに實現せられることはむつかしいものである。だから、これがわたくしの信條だといふやうなことを公言するのは、わたくしにおいては、できないことであり、強ひてさうしようとしても、おもはゆいやうな、きはづかしいやうな、こゝろもちがして、きおくれがする。それで、信條といふやうなことばとは關係が無く、いつも心がけてはゐながらいつもそのとほりにはできなくて困つてゐることの一つ二つを、こゝに書いてみることにする。
學者といはれる資格があるかどうかは知らぬが、學問にたづさはつてはゐる。學者として世に立たうといふやうな(288)考で學問をしはじめたのではなく、物を讀んだり考へたりすることが好きであつたのと、世間的なはたらきをする才能を有たないために、ひとりだけでできるしごとが好ましかつたのとで、いつのまにかかういふ生活をするやうになつて來たのである。從つて書いたり考へたりしたことも、大部分は、そのとき/”\の學界の趨向とか思想界の潮流とかには、殆どかゝはりの無いものであつて、おほまかにいふと、わたくしのしごとはわたくしだけのもの、世間からは孤立したものであつた、といつてもよいほどである。もとより、だれのどんな學問上のしごとでも、過去の多くの學者のしごとによつて導かれ、また意識してにせよしないでにせよ、同じ時代の世界の學問や思想の雰圍氣のうちで、何等かの考が立てられるのであり、またどんな小さなしごとでも、現代のすべての文化上の施設に依存するものであるから、その意味では、わたくしのしごとも決してわたくしだけのものではないが、こゝでいつたのは、實際にしごとをする上では、世間の一般の風潮とも學界の特殊の情勢とも深いつながりの無いことが多かつた、といふだけのことである。事實わたくしのしごとは、世間からも學界からも殆どとりあはれないやうなばあひさへ少なくなかつたらしい。しかしそれに對して不滿を感じたこともなく、ひとりで問題を作り、ひとりでそれを考へ、ひとりでそれを樂んでゐた。
幸に尊敬する先輩があり、極めて狹い範圍においてではあるが學界に交友も生じ、好意をよせられた出版者もあり、書いたものが次ぎ/\に論文や書もつの形で世に出されはしたので、それが斷えずしごとを進めてゆく刺戟とはなつた。その點で學界なり世間なりから受けた恩惠は大きい。のみならず、學問上の見解とても、わたくし自身には明かに意識しないことながら、何等かの意味で、また何等かの程度で、一般の學問界思想界の影響をうけてゐたでもあら(289)う。それと共に、わたくしの見解が學界にいくらかの刺戟を與へたことも、無いではなかつたらう。けれども、同じ問題についてわたくしとは違つた意見が世間にあつても、またたまにわたくしの考へに對する反對説の出ることがあつても、それに對して論爭するやうなことは一度もしなかつた。たゞ、ひとりでするしごとであるから、まちがひも缺點もあり、また知つてゐなくてはならないことを知らなかつたり、讀んでゐなくてはならない書もつを讀んでゐなかつたり、さういふやうなことが何につけても少なくないので、それを指摘せられた批評などがあると、それを喜んで讀み、それによつて利益を得たが、わたくし自身が他の學者の著書などを批評することは、これもまた一度もしなかつた。論爭したり批評したりすることがよくないからといふのではなく、ばあひによりしかたによつては、さうすることが學問の進歩に必要であるとは知つてゐるけれども、一つはさういふことには氣がむかないから、一つは時間と勞力とをさういふことに割くだけの餘裕が無いからのことであつた。學問上の意見は、自身でまちがつてゐないと信ずるかぎり、それを堅持するが、特定の人をあひてにそれを主張することはしなかつたのである。しかしこれは、信條といふやうなかたくるしい考へをもつてのことではなく、ただ何となき氣分がおのづからさうさせたのである。
もつとも、學問にたづさはるものの一つのしごととして、する方がよいと思ひながら、それのできなかつたことはある。それは、一つは學問的の考へかたと學問上の知識とを世間にひろめることであり、一つは學問のたちばから時の問題についての意見を述べることであつて、さういふことをしてみるやうにしば/\人からすゝめられもした。けれども、あまりきのりがしないし、わたくしにはむかないしごとのやうにも思はれたので、できるだけそれを避けてゐた。たゞ近ごろになつて、いろ/\の事情から、それらのことにいくらかのかゝりあひの生じたばあひが無いでも(290)ないが、それもわたくし自身から進んでしたことではない。やはり時間と勞力とに餘裕の無いのがそのおもな理由であるが、根本は世間的にはたらく才能が無いと思ふからのことである。
學問上のしごとにおいても、心がけてゐるやうには何ごともできない。どんな問題を考へるにも偏つた見かたをしないやうにと思つてゐるが、それには多くの方面の知識をもつてゐなくてはならず、さうするには斷えず多くの書もつを讀み、またできるならば多くの人に接し多くのことを直接に見たり聞いたりするやうにもしなくてはならぬ。しかし人に接し世間に交はることの拙いわたくしであるから、せめて書物だけでもできるだけ讀みたいと思ひながら、それすらできかねるのが、實際のありさまである。數年前に亡くなられたシラトリ先生が、書いてゐると讀むことができず讀んでゐると書くことができないで困る、といふやうなことをしば/\いつてゐられたが、この書くといふのは學問上の論文を書く、いひかへると或る問題を研究する、といふ意義であり、讀むといふのは研究の資料としての書もつを讀むことではなくして、それよりも廣い意義での讀書のことであつたらしい。これは學問上のしごとをしてゐるものは、たれでも體驗する惱みであらうが、わたくしなどは特にそれが多い。それで、小さな問題を考へるばあひでも、知識の狹さ乏しさが何時も感ぜられ、そのために考へかたがまちがつてゐるのではないか、少くとも偏つてゐるのではないか、といふことが何時もきづかはれる。
もう一つは、長い間同じしごとにたづさはつてゐると、物ごとの見かた考へかたがいつのまにか固定して來て、彈力性を失ひ、どんな問題に對しても同じやうなしかたでそれを取扱ふ傾向が生じ、これまでじぶんのして來たそのしかたが、じぶん自身を拘束することになりがちなので、斷えずその拘束を破つてゆかなくてはならぬのに、それがな(291)かなかむつかしいといふことである。見かた考へかたが斷えずぐらつくのは、特に世間の風潮などに動かされてさうなるやうなのは、しつかりした識見の無いことを示すものであつて、これはもとより賞めた話ではない。たゞしごとを進めてゆくことによつておのづから識見が高められ、さうしてそれによつてこれまでのしかたが次第に精練せられ、物の考へかたが深められてゆく、といふことがあるべきはずである。ところが、實際はなか/\さうはゆきかねるので、何かを考へてゐるばあひにどうかすると、また例のやうな見かたをしてゐるがこれでよいのか、と思ふことがしば/\ある。何かのをりに前に書いたものを讀んでみると、その取扱ひかたに不滿足のところがいろ/\目につくから、いつも同じことばかりしてゐるのではないやうでもあるが、それにどれだけの意味があるのか、じぶんながらおぼつかなくも思はれる。
これに似たことは、なほ他にもあるが、一々いふにも及ぶまい。要するに、かうありたいと心がけてゐることが、何ごとについてもそのとほりには實現せられないので、力の足らぬことを斷えずみづから恥ぢてゐる。たゞ學問にたづさはつてゐる以上、學問の獨自の權威を傷けないことだけは、どうにかかうにか、してゐたつもりである。わたくしのしごとが學問として價値があるかないかは別として、權力なり世間の風潮なり、さういふやうな學問のほかの何等かの力にょつて動かされなかつたことだけは、公言ができる。しかしこれとても、權力や風潮の壓迫を感じてそれに對して闘つたといふのではなく、さういふ心もちでしごとをしたことは一度も無い。初からさういふことを感じもせず、わたくし自身に關しては、さういふもののあることを考へもしなかつた。要するにわたくしだけのこととしてわたくしだけのしごとをして來たのである。出版法違反事件といふやうなものが、思ひもよらぬところから飛び出し(292)て來るやうになつたのも、わたくしからいへば、そのためである。 もちろんわたくしとても、世間のことには何の感ずもしないといふのではない。政治のこと、社會上思想上のこと、學問界言論界教育界のこと、世界の動き、一々きになる。さうして喜んだり心配したりする。見聞が甚だ狹いので、たしかなこと詳しいことはわからぬが、わからないなりにかういふきもちになる。近ごろは特にそれが多い。戰爭とその失敗とに心が亂れて正しい思慮を失つてゐるとわたくしには感ぜられる言論と、それにつれて日本の國家と社會と日本人の生活とその根柢にある人間性とを破壞しようとする特殊の運動との、世間にあることがきにかゝるのである。わたくし自身としてはきのりがせず似つかはしからぬことでもありながら、さういふものに對していくらかの考を述べたことがとき/”\あるのも、そのためである。それらの考を今こゝでくりかへすにも及ぶまいが、わたくしは、日本人が歴史的に養はれた優れた資質をもち、過去の長い間に世界に對して恥かしからぬしごとをし、道徳的にも美しいところのあるものであることを、歴史的事實として認め、それを新しい時代の生活にふさはしい新しい形において生かしてゆき、精練し發達させてゆくことができると信ずる。また日本の國家がそも/\のはじめから一つの民族から成りたつてゐて、異民族を含まなかつたことは、われ/\の國民生活にとつては極めて重要なことであつて、國内においてはいろ/\の紛亂があつても、國外に對しては、いつも國民としての統一を失はず、國内の爭に外國の力を借りるやうなことが一度も無かつたことは、こゝにそのおもな理由があり、さうして皇室の存在にその國民的民族的統一の象徴としての大きな意味のあつたことを、やはり歴史的事實として認め、この状態をどこまでも持ちつゞけてゆかねばならぬことを信ずる。(國家と民族との領域が互にいりまじつてゐるばあひに國家の安定が求められない(293)こと、また一國の滅亡が、國内の或る黨派が外國の手さきとなつてはたらいたことから導かれ易いことは、歴史上の事實である。)詳しいことをこゝでいつてゐるひまは無いがわたくしはかう考へてゐるので、これだけは信條といつてもよいかも知れぬ。わたくしが日本人としての誇りを抱くと共に、今日の世界においてソ聯を祖國のやうに考へ、その意向をうけその力によつて何ごとかを行はうとしてゐるもののあることに對して強い憤りをもつのも、そのためである。ソ聯が國内に對し我が國に對し世界に對してどんなことをしてゐるかを思ふと、なほさらである。さういふものの運動には加はらないにしても、或はそれをよしとしないながらも、結果においてそれを助けることになるやうな言論をする人たちのあることも、わたくしにはふしぎである。實際運動は少しく思慮のある人のすべてから排斥せられてゐるが、言論として發表せられてゐるものは、思ひの外、いろ/\の方面にうけ入れられ、少くとも無關心な態度でながめられる傾きがあるやうに見えることが、きにかゝるのである。
信條といふことばにひきずられて、こんなことを書いてしまつた。
十二 書齋二漫筆
イ 讀むことと書くこと
文藝春秋のイケジマさんに、そのうちもし何か適當なものが書けさうであつたら書きませう、といふお約束をして(294)から、もうあしかけ三年になる。その間、きをつけて毎月の文藝春秋を讀んで來たが、いろ/\のかた/”\の書かれたものに感心するばかりで、そのなかまに入れてもらへるやうなものは、ぼくには書けさうにないと思はれた。そのうちにコイヅミさんの「讀書雜記」が毎號つゞいて載るやうになつた。これはぼくには最もおもしろく、教へられるところも多いものであつたので、どれも/\ゆつくりおちついて讀んだ。さうしてコイヅミさんの態度に敬服した。その「讀書雜記」には、もちろん、及びもつかないが、讀書といふことは、ぼくにも平生のしごとの一つであるので、それについての雜記なら、或はまがりなりにも何か書けるかもしれないと思ひ、鵜のまねをする烏のそのまねをしてみようかと考へた。ところが、さて、書いてみようとすると、それもやはりぼくにはできないことがわかつた。そんなことで、こゝろならずも、今まで何も書かずにすごして來たのである。
ぼくもこれまで、ずいぶん、活字のやつかいになつた。しかしぼくにとつては、書くといふことは、苦勞の多いしごとである。書かうと思ふことがあつても、それがやす/\ときがるに書けないのである。ちよつとしたてがみを一つ書くにも、書きかけてから、ことばづかひがまづいと思つたり、こちらのきもちがしつくり書きあらはされてゐないやうなきがしたりするために、書いては破り、書いては破り、紙のたふとい今の世の中では、もつたいないことをするばあひが多い。書もつなり雜誌に載せるものなりの原稿を書くときには、なほさらであつて、一句書いては二三字消し、二句書いては五六字かきかへ、一行書いては二三句ぬりつぶす、といふやうなことが常であるが、さうかうしてやつと一節まとめて、それを讀んでみると、全體がきにいらなくて、初から書きなほすといふことさへ少なくない。適當なことばや、いひかたが思ひ浮べられないために、それはあとで書き入れることにして、一語なり一句なり(295)のばしよを空白にしたまゝ、さきのほうを書いてゆくこともあるが、後になつてもその空白をうづめることができず、しかたなく別のことばを用ゐ別のいひかたをすることにして、そのために、前後の二三行を書きかへることもある。かうやつて、たど/\しく筆をはこんではゆくが、書いてゐるうちに、考のまだ足らなかつた點のあることにきがついたり、これまできのつかなかつた疑問が起つたり、新しい考がわいて出たり、これだけのことをいふにはもつと材料を補はなくてはならぬと考へたり、或は説いてゆく順序やみちすぢを變へたほうがよいと思つたり、さういふことがあとから/\出て來るので、書いたところをいろ/\に書きなほし、その書きなほしたところをさらに書きかへる。同じところをいくたびも書いたり消したりするので、もうその上に書きやうがなくなると、赤インキや色鉛筆で筆を加へる。それでもなほ書くばしよが無くなるので、別の紙きれをつぎ足して書き入れをする。原稿紙は反古よりももつとひどいありさまになり、一二句一二行づつ書いた紙きれが幾つもぶらさがつて、たこの足のやうになることも少なくない。さま/”\の符號を用ゐたり、たてよこ十文字に線をひつぱつたりして、つゞきのしるしをつけてはおくが、じぶんで讀みかへしてみても、どこからどうつゞくのかわからぬくらゐになる。どうかすると、いくら書いてみても、書きなほしてみても、きにいらないことがあるので、さういふときには、しかたなしに一たんやめてしまふ。しかし五六日たつて、今まで書いたところをよみなほしてみると、何とか道が開けて來さうになるので、また書きつゞける。かういふことも少なくない。
さて、どうにかかうにか一篇を書きおへて、それを清書させるが、清書したものを見ると、またなほしたいところ、書きたしたり削つたりしたいところが、あちこちに目につくので、さらにさういふしごとをしなければならぬ。とこ(296)ろが、一字なり一句なりを書きなほすと、それに照應するところのあるほかのばしよにも、筆を加へねばならぬばあひがあるので、またあちこちを書きかへる。それがために、こんどは清書のしなほしをさせなくてはならぬことが起る。こんなふうにして作りあげるのだから、活字になつて讀んでみると、つゞくつたあとがどこかに見えて、こゝろもちがわるい。書くといふことは、ぼくにはこれほど苦勞の多いしごとである。三四十年の間、たえず、何か書いてゐながら、いつまでたつてもかういふありさまである。現にいま同じやうにしてこれを書いてゐる。
書くことばかりではない。口でいふのもやはり同じである。ときどき講演といふことをしなくてはならぬばあひがあるが、いつも滿足に話ができたと思つたことがない。話すのは書くのとはちがつて、一たび口からことばが出ると、それをけしたりいひなほしたりすることができない。とりけすといふことばをつかつてとりけし、いひなほしたことの明かにわかるしかたでいひなほすことは、できなくはないが、すでにいつたことば人の耳に入つたことばは、それがためになくなるのではないから、消されたりなほされたりしたことばと、けしたりなほしたりしたこととが、きいてゐる人には明かに知られ、從つてその話がきゝ苦しいものになる。さうしてまたかういふいひなほしやとりけしをあまりしば/\すると、話が亂雜になるから、いひかたやことばづかひがまづかつたり、話の順序がとゝのはなかつたりすることに、きがついても、大ていのばあひ、しかたなしに、そのまゝ話を進めてゆく。話を終つた時には、何といふまづい話をしたことかと思つて、やはり、こゝろもちがわるくなる。實際、講演の速記を讀んで見ると、どこもかしこもしどろもどろになつてゐる。だから、速記を活字にしなければならぬやうなばあひには、少しぐらゐ手を入れたのでは、まにあはないので、大ていは全部書きなほすことになる。が、そのばあひには前にいつたやうな苦勞(297)をしなければならぬ。講演はぼくには二重の苦勞である。ラジオで話をすることをしないのも、座談會とか對談とかにかほを出さないのも、一つはこのためでもある。
さて、こんな苦勞をしながら、斷えず何か書いて來たのは、それがぼくのやうなしごとをしてゐるものの義務であり、或は責任である、といふことのほかに、ぼく自身としては、書くことによつてはじめて考がまとめられ、思想が整理せられるからである。學校の講義をひきうけてゐたころには、その講義の主題として選んだことがらについて、まづ一おうの考をまとめ、それに用ゐる材料と、思想を展開させてゆく方向と道すぢと到着點とを、箇條がきふうなおぼえがきにしておき、それによつて講義をすゝめてゆくが、すゝめてゆく間に、材料の足らないことや、考へかたに疎漏なところのあつたことにきがついたり、今まで思ひつかなかつたことを思ひついたり、新な問題が起つて來てそれを解釋しなければならなくなつたり、或はまたきめておいた道すぢとはちがつた道すぢをとるほうがよいと思はれたり、さういふいろ/\のことが生じて來るので、講義をかたづける時には、はじめに作つたおぼえがきの構想がかなりに改められ、時にはひどく變つたものになるばあひさへある。學校で講義をしなくなつてからも、學會などで講義をするばあひがしば/\あるので、これと同じ效果がそれによつて得られる。かういふ過程を經ることによつて、講義をしたことがら、問題とその解釋とが、一つの研究としてまとめられ、整理せられ、或る形をとることになるが、さらにそれを文章に書きあらはさうとすると、書くことについてはじめにいつたやうな手數がかゝるので、それがために前の構想がまた少からず改められる。ぼくの論文なり著書なりは、大ていこの三つの段階を經てできたものであるが、最後の形のできあがつたのは、書いた時のことであるから、書くことが考をまとめ思想を整理するために大き(298)なはたらきをしたことになるのである。一くちにいふと、頭のなかで考へただけでは、まだその考にぼんやりしたところがあるので、口に出していふことによつてそれがやゝはつきりして來るが、書くことによつて一層それがたしかになるのである。これは考のよしあしをいふのではない。よいにせよさうでないにせよ、じぶんの考が考としてまとまつて來る、といふのである。
しかし書もつなり雑誌とか報告書とかに載せられたものなりを、あとになつて讀んでみると、讀むたびごとに「あら」が目につき、時にはまちがひさへも見出されるので、そのをり/\に、手びかへのものに筆を加へておくのが、ぼくのくせになつてゐる。後になつて缺點のあることにきがつくのは、多かれ少かれ、だれにでもあることだらうと推測せられるが、ぼくにはそれが特に多いのではないかと思はれる。一つのことについて何かの考をまとめるためには、これほどにぼくは苦勞をしなければならぬので、力の足らず才の少いことが、しみじみ感ぜられる。もつとも、ありのまゝにいふと、何をどう考へておいたか、忘れてゐるころになつて、讀んでみると、よくこれだけに考へたものだなと、思ふことも、たまには、無いこともないが、これは淺はかなうぬぼれに過ぎなからう。たゞかうして苦勞をすることが、一つの樂しみでもあるので、苦勞しながら何か作つてゐると思ふところに、それがある。さうして、まづいながらに何かをまとめあげると、一つのしごとをしたといふ、ほつとしたこゝろもちと、ともかくも何か作り上げたといふ一種の滿足とが、それに伴ふのでもある。書いたものには不滿足であるが、書いたことにはかういふ滿足のこゝろもちもある。これは學問上のもののことであるが、さうでないものでも、書くことの苦勞はこれと同じである。ぼくは、こんなふうにしてしか、ものが書けないから、きのきいた、輕妙な、讀んでおもしろいものが書ける(299)はずがない。何日までに何ペイジ書くといふやうな「げいとう」のできないことは、いふまでもあるまい。
ところが、或はまねができるかもしれないと思つた讀書雜記ふうのものが書けさうにない、といふことには、そのほかになほいくつもの理由がある。その一つは、記憶力が弱くて、ものごとを忘れがちのぼくには、どんな書もつを讀んでも、こくめいにノオトでもとつておかないかぎり、大まかな印象がぼんやり頭に殘つてゐるだけで、讀んだことがらは、讀んでゆくあとから次第に忘れてゆくのが、常であるから、それについて何ごとか書かうとすると、もう一度、讀みなほさなくてはならないといふことである。近いころ讀んだものでもさうであるから、年月のへだたつた前に讀んだものはなほさらである。のみならず、その大まかな印象すらひどくぼやけてしまつてゐるので、そのまゝでは何とも書きやうが無い。そんな讀みやうをしたのでは何にもならないではないか、といはれるかもしれぬが、讀んでゆくそのペイジごとに、そのとき/”\のこととしては、それによつて何か知り得たこと、思ひつくこと、考へあはせること、または心の動かされること、などがあつて、それが何となしに、またいつとなしに、ぼくの思想を養つてくれたと考へられるから、まんざらむだに本を讀んだことにはならないやうなきがする。だれがどの本のどこでどんなことをいつてゐたか、といふことは、まるつきり忘れてしまつてゐるが、かうして讀んだ書もつの、一ペイジ一ペイジのその時々に與へてくれた何ごとかが、しらず/\のうちに、ぼくの思想の上に、いろ/\なはたらきをしてゐると思ふ。けれどもこんな讀みかたでは、讀書雜記は書きがたい。
次の一つは、ぼくの書もつを見るのは、何かの考をたてるについての材料を求めるためにするばあひが多いので、さういふ讀みかたは、ほんとうの讀書とはいひかねる、といふことである。こんな讀みかたをしてゐても、ほかのこ(300)とに目うつりがしたり、何かの興味にひかれてさしあたつての用にはたゝぬことに讀み耽つたりして、いつのまにか書もつそのものを讀むことになるばあひも少なくないので、問題としてゐることからは遠くはづれたいろ/\の感想が、それから湧いても來る。しかしこちらの目あてがもと/\別のところにあつて、それが斷えずつきまとつてゐるから、かういふばあひですら、じぶんの考へてゐること考へようとすることに關する側面のみが目につきやすく、書もつの全體の姿が見のがされがちである。從つてかういふ感想もおのづからかたよつたものになる。或はまた思ひもよらぬ問題がそれに誘はれて起つたり、さういふ問題を考へる材料が見つけ出されたり、することもあるが、それについて何か書かうとすると、考證ふうのものになつたり、學問上の論文めいたものになるおそれがある。いづれにしても、讀んで興味のある讀書雜記は書かれない。
ついでに書いておかう。ぼくの讀書のしかたは、前に書いたやうなふうのものであるから、じぶんのしごとに關係のあることについても、だれがどういつてゐるとか、かう書いてゐるとか、いふことは、ほとんどおぼえてゐない。從つて、ぼくの何かについての考なり、したしごとなりが、どの學者かの學説によつてくみたてられ、またはどの書もつかを見ておもひついた、といふやうなことはない。だいぶ前の話になるが、「文學に現はれたる我が國民思想の研究」の幾册かを出してまもないころのことであつたと思ふ、新進の學者ともいふべき或る人から、あれはだれの説によつて書いたのか、ときかれたことがある。その意味がぼくにはちよつとわからなかつたので、それをききかへしたら、ぼくの考へかたなり、書きかたなり、またはその根柢となつてゐる思想なり、或は書かうとした動機なりが、西洋の學者のだれかの説に本づいてゐるとか、またはどの書もつかを學んだとか、さういふやうなことがあるのでは(301)ないか、といふ意味であることがわかつたので、思ひもよらぬことを聞かれたと感じたことを、おぼえてゐる。その後、ほかの人からも似たやうなことをきかれたし、また古事記や日本書紀についての考を書いたものを出したあとで、あれは聖書の高等批判で名だかい或る學者の方法を學んだのではないか、ときかれたこともある。ぼくも西洋の學者の書いたものを少しは讀んでゐないでもないので、そのことが、知らぬまに、ぼくの考へたことやしたことにいろ/\のはたらきをしてゐるにはちがひないが、しかし、きかれたやうな意味で、或る學者の説にたよつて考へたとか、或る書もつをてほんにしたとか、いふことはない。第一、讀んだ本に書いてあることは、書いてある形のまゝでは、ほとんど何もあたまに殘つてゐないから、さういふものにたよりやうも本づきやうも無いのである。ぼくの考はぼくの「我流」のであり、ぼくのしごともぼくの「我流」でやつて來た。少くともぼくじしんはさう思つてゐる。「我流」だから缺點も多からうし、「めくら蛇」のところもあらうし、じぶんじしんにすら、前に書いたものの「あら」があとからあとから目について來るが、「我流」でとほすのも一つの態度であらうと思ふから、これからもそれをつゞけてゆくつもりである。さうしてかういふくせのついたのは、讀んだ本に説いてあることをよくおぼえてゐないといふところに、さうなつた理由の一つがあるらしい。
もう一つ書きたしておかう。ぼくは新刊書の批評といふものを書かないことにしてゐる。新聞や雜誌の編輯者から、時には著者からも、それをたのまれることがあるが、固くことわつて來た。これについてもまた、なぜ書かないのかとしば/\人にきかれたことがあるので、そのことをこゝでいつておかうといふのである。ぼくは、批評はむつかしいしごとであると思ふ。その書もつが何のために書かれてゐるか、何を問題にして、どういふ方法により、どうみち(302)すぢをとほつて、どういふ解決に達してゐるか、全體のくみたてがどうなつてゐて、それにどういふ精神があらはれてゐるか、同じ問題をとりあつかつてゐるほかの學者の著書とくらべてどういふ特色があり、現代の學界にどういふ地位を占めるものであるか、といふやうなことを明かにするのが、批評といふしごとであると思ふが、それには、細かなこゝろづかひを以て、その書をくりかへし熟讀すると共に、それと關係のある今の學界のおもな書もつを讀んでそれと對照し、なほできるならば、著者のほかの著作をも併せ讀んで、それによつて、著者の精神のあるところと、考をたてるについての態度や方法と、また著者に特殊な筆致と、書きあらはすについての苦心とを、知ることが、大せつである。特に戒めねばならぬのは、書いてあることを誤解しないやうにし、またかたよつた觀察をしないやうにすることであるが、人はみな何ほどかの先入見や偏見やをもつてゐるから、これは容易なことではない。要するに一つの書もつの批評をするには、多くの心勞と時間とを費さねばならぬので、上にいつたやうな書もつの讀みかたになれてゐるぼくには、それができないのである。これは、ぼくじしんの著作に對して加へられたいろ/\の批評を讀むにつけても、しみ/”\感ぜられることである。大ていの批評には、多かれ少かれ誤解の無いものはほとんど無いといつてもよく、誤解とまではいはれないにしても、ぼくの重くいつてゐることを輕く視、輕くいつてゐることを重く視たり、根本の問題としてゐることをよそにして、枝葉のことがらとしてとりあつかつてゐることにのみ目をつけたり、考をたててゆく道すぢを見ずして、結論だけをかれこれいつたり、さういふやうな批評がしば/\見うけられる。中には、何のためにその書もつを書いたかといふその主旨をすら、まちがへて見てゐるものさへある。人の考へかたも考へてゐることも、それ/\違つてゐるから、ともすると、評者じしんの考へかたがはたらいたり、じしんの考へて(303)ゐることのみが目についたりするところから、かういふことも起りがちであらうが、それにしても、著者たるぼくとしては、かういふのは、けんとうちがひの批評と思はねばならぬ。誤解の上に立つてほめられ、苦笑したこともある。これは、書もつに書いたぼくの見解なり考なりが、正しいとかよいとかいふ意味ではない。考のよしあしとは別に、その考その見解がありのまゝに評者にうけとられてゐない、といふことである。誤解せられるやうな書きかたがしてあつたかとも思ふが、かならずしもさうばかりではなささうである。評者じしんの見解をものさしにし、それに合ふか合はぬかによつて、またはおのが好き嫌ひによつて、或る書もつの價値を判斷するやうな、いはゆる主觀的批評が、ほんとうの批評でないことは、だれでも知つてはゐようが、さういふものさへあるのは、じしんの考とちがつてゐるところが強く印象せられるので、それに對して何かいつてみたくなつたり、じしんのしなれない考へかたやとりあつかひなれぬことがらに同感がしかねるので、そこから生ずる何等かの氣分があらはれたり、するために、おのづからさうなるのでもあらう。かう思ふと、ぼくがもし批評の筆をとることがあるとしたら、やはり同じやうな過を犯すことにならぬとも限らぬ。きをつけてさうしないやうにするには、一とほりの努力ではできかねる。それでぼくは批評を一切しないことにきめてゐるのである。のみならず、ぼくのうけた批評がかういふ性質のものであるばあひにも、それに對して抗議をしたり反駁をしたりも、しないことにしてゐる。書もつの批評に對してのみではなく、學問上の著述においても、これまで世に出てゐる學説を批評したり、ぼくの考とはちがつた見解を非難したりすることは、しないやうにしてゐる。さういふしかたがよいとか正しいとかいふのではない。これはたゞぼくのこゝろもちだけのことである。ぼくはたゞじぶんの考を、じぶんの考として、書くだけである。これもいはば一種の「我流」であらう。
(304) 書くこと讀むことからの聯想が、こんなことに及んで來た。じぶんのことをいふのは、きがひけるとでもいふか、ぼくとしてはあまり好ましいことではなく、いはうとすれば、それはむつかしいことでもあつて、淡々として自己を語るといふやうなことは、人がらによつてはじめてできるのである。これはたゞ文藝春秋に何も書かなかつた――書けなかつた――ことの「いひわけ」をしたにすぎぬ。終りのほうは、その「いひわけ」の機會を利用して、よく人にきかれることに答へさせてもらつたのである。これは「いひわけ」ではない。
ロ 書もつについて
書もつについては、いろ/\のことが考へられる。書くほうからいふと、どういふ人が書くかといふこと、何を書くかといふこと、何のために書くかといふこと、どういふ書きかたをするかといふことなど、讀むほうからいふと、どういふ人がよむか、何のために讀むか、どういふ讀みかたをするか、といふことなど。ほかにもなほ多くのことがあるが、これらのことが先づ思ひうかべられる。
どういふ人が、何を、何のために、書くか、といふことについては、わたくしのやうな學究生活をしてゐるものが書くとすれば、それはいふまでもなく明かなことであつて、おのれ/\の專門としてゐる何等かのことがらについての、學問上の研究の道すぢとその結果とを、或るまとまつた形で學界に提出する、といふまでのことである。提出する意味は、それに對する學界の批判を求め、それによつてさらに研究をすゝめてゆくよすがとすると共に、もしその書もつに、學問上、何等かの價値があるならば、それによつていくらかでも學問の進歩を助けたい、といふところにある。
(305) しかし學問上の、或は學問に關係のある、書もつにも、これとはちがつた意味で書かれるものが多いので、その一つは、近ごろのことばで啓蒙的といはれてゐるものである。專門的な學究でない人々のために、學問の大要をわかりやすく説明するためのものであり、專門的に學問をしようとする人々のてびきをする入門書といふやうなものも、これに屬する。わが國のこれまでのならはしでは、かういふ書もつは、ともすれば book-maker といはれるたちの人によつて書かれたことが多いが、ほんとうには、やはりそれ/\の學問の專門家が書かなくてはならぬものである。さうでないと、けんとうちがひのことや誤りやが多く、そのために讀むものが迷はされるからである。專門の學者と book-maker との區分がつかないほどに、一般にはまだ學問といふことがわかつてゐないありさまのわが國では、特にさうである。たゞおのれみづからの研究に忙しい、それに生命をうちこんでゐる、學者は、時間の上からだけでも、かういふ書もつを書くゆとりが無いので、事實として、これはむつかしいことである。ヨウロッパのかういふ性質の書もつを見ると、りつばな學者の書いたものが少なくないので、どうしてさういふことができるかと、ふしぎに思はれるほどであるが、これは一つは、學者がよい助手をもつてゐて、それにしごとを手つだはせることができるのと、一つは、同じ學問にたづさはる學者の數が多いので、さういふ方面に力を分つことのできるものがそのうちにあるのと、この二つの事情のためではなからうか。もしさうだとすると、わが國の今のありさまでは、さうはゆかないのである。
それから、學者の書くものの一つには、國家なり社會なりまたは世界の形勢なりの重大なる問題に對して、學問の上からの批判をするためのが、あるべきであらう。これは、ことがらの性質上、定期刊行物によつて公にするのが便宜であらうが、書もつの形によるほうがよいこともある。しかし、これもまた學者により、またはその學問の性質に(306)よつて、できるばあひとできないばあひとがある。が、かういふことになると、學者のしごとと、いはゆる journalist のそれとの間に、或る混同が生ずるおそれがある。學者の批判は、どこまでも學問のたちばからせられねばならぬが、journalist のそれは、もつと常識的な、また廣い、見地からせられるもの、或は何等かの意義での直感的なところのあるものであらう。學者はゆつくり考へ深く研究した上で見解をたてるが、journalist は敏速に時の問題をとらへ、または世間に先だつて問題を提示する、といふちがひもあるであらう。かういふ journalist の書いたものは、その本質として、定期刊行物の上にあらはれるのであるが、書もつとしてまとめられることがある。
なほ何等かの主張を宣傳するために書かれる書もつのあることは、いふまでもない。これは學者の書く學問上の書もつとは全く性質のちがつたものであり、journalist のそれとも同じでないが、かういふ宣傳の書にもいくらかは學問的の色づけがせられ、學問的であるかの如き裝ひのせられるばあひが多い。それがために、世間では、學者の書いたものと、journalist のと、また宣傳者のとの、見わけをつけずに讀む、といふことが起りがちである。書もつにはこの外にもいろ/\の性質のがあるが、今はたゞこれだけのことを見ておく。文學上の作品なども、こゝでは問題としないことにする。
次に、どういふ書きかたをするかといふことであるが、學問上の書もつについては、研究の方法とその道すぢとが、明かにわかるやうに書かねばならぬ。學問的研究であるかないかは、結論にあるのではなくして、その結論を得るまでの研究の過程にあるのであるから、何を出發點とし、どういふ方法により、どういふ資料を用ゐ、どんな遺すぢで、どういふ結論に達したか、といふことが、學問上の書もつには大せつなのであり、それが明かにわからぬやうな書き(307)かたをしたのでは、學問上の研究を記した書もつとしては、意味の少いものとしなくてはならぬ。上にいつたやうに、學界に提出してその批判を求めるにも、その點のこまかいこゝろもちゐがなくてはならぬのである。
ところが、かういふことはむかしのわが國の學者には、おしなべていふと、深く考へられてゐなかつた。それは、研究の方法が明かに立つてゐなかつたからであるが、また學者の態度と學問といふものの性質とからも、來てゐる。むかしの學者は、おのれの考へたことを動かすべからざるものと見なし、それによつて人を教へようとするのであつた。儒者でも佛者でもまた國學者などでも、さういふ態度で學問上の書もつを書いた。いろ/\の點で例外とすべき學者もあつたけれども、多くはさうであつた。これは、儒教も佛教もまた國學も、もと/\一定の教説なり主張なりをもつてゐて、それによつて人を教へ人をそれに從はせようとするものだからのことでもあるが、さういふ教説などを知ることが學問であるやうに、考へられてゐた時代であるために、一般に學問といふものは、或るきまつたことを師により書もつによつて教へられ、それを學ぶことだとおもひ、おのれみづから研究するものだ、といふ考がなかつたからでもある。むかしの學者でも、師説をうけつぎ、または書もつによつて與へられた知識をそのまゝにもち傳へてゐるものばかりではなく、すぐれた學者は、おのれ/\にそれ/\の研究をつみ、新しい説をたてたのであるが、一旦その説がたつと、それを人に教へるといふ態度をとり、そのために書もつを書いたのである。從つてその書もつには、おのれの考とちがつてゐる思想なり學説なりを排撃する態度が、多かれ少かれ、見えてゐるので、よしあらはにさういつてなくとも、或は書くものがさういふつもりで書かなくとも、書きかたいひかたの上に、おのづからそのこゝろもちがにじみ出してゐる。學者の間に學派的偏執の多いのも、このことと關係がある。さて書もつがかういふ(308)態度で書かれるとすると、研究の過程といふやうなことは重く見られず、よしその學説が何等かの方法によつて研究せられた結果であるにしても、その結果としての學説が主になる。教へようとすることは、その學説だからである。
ところで、學問に對するかういふ考へかたは、今でもなほ全く無くなつてはゐないやうであつて、大學などですら、方面によつては、いくらかはそれが見られはしまいかと思ふ。教授の講義は、學生に對して、研究の方法や、これまでの學者の研究のあとや、研究の資料や、を示し、學生みづからの研究欲を導き出し、かれらの研究のてびきをするところに、その使命があるので、教授みづからの思想を學生にふきこむことではないはずであるのに、實際は必しもそのとほりになつてゐないばあひがあるかと思はれる。シナの學問をうけつぐ方面においては、なほさらそれが少なくないやうに感ぜられる。もつとも一般の學界についていふと、これはむかしからのならはしが殘つてゐるためばかりではなく、別のところにさうなつた理由もある。明治時代からすべての學問がヨウロッパで發達しヨウロッパで形づくられたものを學ぶことになつたが、そのはじめには、何よりもその學問において何ごとが説き示されてゐるか、といふこと、いはば學問的研究の結論としての學説、を知ることにおもな注意がむけられ、どうしてさういふ結論がひき出されたかの研究の道すぢと、さういふ學問そのものがどうしてヨウロッパに發達したかの歴史的社會的事情とに、きをつけるまでになつてゐなかつた。そのために、或る學説、或る理論、を初めからきまつてゐるものの如く考へて、それをそのまゝ受け入れる、といふありさまであつた。かういふ學問のしかたは、上にいつたむかしの學問のしかたと同じやうなものであり、從つて、學問上の書もつの書きかたも、またきまつたことを人に教へる、といふ態度で書かれたのである。
(309) 後になつて、ヨウロッパの學問を知ることがおひ/\深くなり、その研究のしかたもわかり、學者みづからの研究もだん/\行はれて來ると、學者の態度も學問上の書もつの書きかたも、また變つて來たが、しかし、かなり後までも、その餘風は殘つてゐた。學者がおの/\その好むところに從つて、或は留學した大學なり講義をきいた學者なりによつて、それ/\ヨウロッパまたはアメリカの學者の或る學説をうけつぐ、といふならはしもあり、大まかにいふと、イギリスふう、フランスふう、ドイツふう、またはアメリカふう、のそれ/\の學問の傾向を傳へる、といふこともあつて、そこからわが佛尊しとする學派的の偏執さへも、生じなくはなかつたやうである。さうしてかういふことが、一般にわが國の學問のしかた、從つてまた學校における講義の態度や、學問上の書もつの書きかたの上にも、その形迹が見えてゐたのではないかと考へられる。これは、學問や文藝の新しい傾向がヨウロッパに現はれると、すぐこれがわが國に流行し、それに追從しないものは時代おくれのやうに思はれるのと、同じであつて、わが國の學問がヨウロッパやアメリカに及ばず、わが國みづからにおいてしつかりした學問が成りたつてゐない、といふ、世界の文化におけるわが國の文化の地位から來てゐることであつた。しかし、學界の進歩した方面では、今はもうかういふことが無くなつてゐるか、少くともさういふ傾向が少なくなつてゐるかである。
たゞ近ごろ急に世間に勢を得て來たやうに見える或る一派の人たちの書いた書もつには、その一派の崇拜するヨウロッパの或る學説が、そのまゝに絶對の眞理であるかの如くいはれ、何ごともそれを準據として考へられてゐる點において、明治時代の學問のありさまが再現せられてゐるし、その學説を唱へ出したものに對する態度が、儒者がシナの聖賢といふものに對するのと、同じである點において、むかしの學者の考へかたが復活せられてもゐるので、かう(310)いふ書もつには、わが國の文化の程度の低さがまざ/\とあらはれてゐる。從つてさういふ書もつは、科學的研究といふことを見せかけにしてゐるにかゝはらず、その内容は甚しく非科學的であつて、宣傳の書の性質をもつてゐるものが多い。
また世間に行はれてゐるいはゆる啓蒙の書においては、學問上の一般的のことがら、または通説ともみなすべきことを、概括的に説明して、それによつて人を教へる、といふ態度で書かれたものが、多いやうである。かういふ書もつの性質上、これは一おう當然のこととも考へられるが、しかし、これだけでは、實は、ほんとうの啓蒙にはならないのではあるまいか。啓蒙の書もつになくてはならぬことは、第一に、讀むものが何ごとに疑問をもち何ごとを知らうとするかを考へ、さうしてその疑問の解き得られるやうなしかたでその知識を與へることであらう。或は讀者に、今までもたなかつた疑問を起させ、またはぼんやりもつてはゐたがそれがはつきりしてゐなかつた疑問をはつきりさせ、さうして讀者みづからそれを解いてゆくことのできるやうに、それに必要なてびきをするといふ態度で書いてゆく、といふことであらう。さうしてそれには、讀むものが、かれらみづから、その日常の生活を反省し、それによつて、その生活についての何等かの疑問を起して來るやうな、またはそれをはつきりさせて來るやうな、さそひ出しの手を出す、といふことが必要であらう。農民や漁民は、農民や漁民の日常の生活から、その日常の生活についての疑問を、工場ではたらくものは、かれらのその生活、役人は役人の生活において、同じ疑問を起して來るやうにするのである。日常生活から出立しない知識、これはかういふものだと初めからきめて教へられた知識、近ごろのはやりことばである「天くだり式」に與へられた知識は、よしそれが正しいものであるにせよ、一般の知性のはたらきを高め(311)生活を高めてゆくには、效果の少いものであるので、これまでのわが國の學問が或る程度に進んでゐたにかゝはらず、國民全體の知能の水準が低かつたのは、知識が生活から離れたもの、他から與へられたものであつたためである。
全體に、わが國民の知識を得るしかたは、一般的な抽象的な概念、それのいひあらはされたことば、の意義を知ることからはじめ、さて後にそれを具體的のことがらにあてはめる、といふのが普通であるが、これは實は、ほんとうの知識のくみたてられる順序とは、逆なしかたである。知識はみづから造り出すものではなくして、他から教へられるものとせられたならはしから、かうなつたので、そこに上にいつたと同じ意義においての日本の文化の地位があらはれてゐる。まづ文字を知つて、それから後にその意義を教へられる、といふ漢字の學びかたも、これと同じであつて、さういふところから來てゐるならはしもあらう。
普通教育における學校の授業のしかたもまたそれであつて、知識をたゞ知識として與へる、といふ態度でせられてゐたのみならず、その知識の與へかたが、こゝにいつたやうなものであつた。かういふしかたは、速かに改められなくてはならぬ。自然科學に關する知識を生徒にもたせるには、自然科學の發生しまた進歩して來た歴史的順序を學校教育で再演するやうなしかたによるべきではないか、といふことを久しい前から考へてもゐ、人にも話して來たが、それは即ち、生徒みづからその日常生活を反省することによつて、自然界に對する疑問をかれらみづからに起させることから、出發する意味なのである。歴史の知識をもたせるためには、生徒の現に生活してゐる現代から出發して、次第に現在の生活とは縁どほい上代にさかのぼつてゆく、といふのも一つのしかたである、と考へられる。しかしこれらのことは、多く行はれてゐなかつた。啓蒙の書もつの書きかたも、かういふ點に注意すべきではあるまいか。と(312)ころで、かういふ態度で書かれることになると、おのづから、學問上の通説を述べるにしても、それは疑問の解答として、從つてその疑問を解決するための何等かの道をとほつて來た最後に、記されることにならう。これが、啓蒙の書もつの書きかたにおいて、第二に必要な點である。かういふ書もつは學問上の論文とは性質が違つて、研究の過程を敍するといふやうなことはないけれども、讀むものが知識をきまつた知識として與へられるのでなく、さういふ知識がどういふ考へかたで、またどうして、できたかの道すぢを、一ととほりでもさとり得るやうにすべきであらう。かういふ書きかたで書かれた書もつを讀みなれると、一般の讀者も、學者の書いたものと宣傳者の書いたものとの見わけができるやうになつて來るにちがひない。
宣傳の書は、宣傳しようとする何等かの主張を、讀むものに力づよく印象させるためのものであるから、強い調子と高い聲とで、なるべく單純に、粗く太く、それをいひあらはすところに、その生命がある。さういふ主張がどうして成りたつやうになつたかといふやうなことをば重んじない。さういふ道すぢを細かに、靜かに、説明することは、却つて讀むものの受ける印象を弱めるからである。今の世であるから、全くそれを顧みないわけにはゆかないので、一おうはそれに理論的基礎を與へようとはするが、その根據とする事實がほんとうの事實であつてもなくても、その考へかたが論理的であつてもなくても、それを深く反省しないのが常である。もと/\眞實を明かにするために書かれるのではないからである。或はまた、さういふ反省をするだけの誠實さと能力とをもたないものが、かういふ宣傳の書を書くのである。從つてまた、その主張と一致しない思想に對しては、その思想を深く研究することなしに、やはり聲を大にしてそれを排撃する。知識があり批判力があるものから見れば、シナのことばの鬼面小兒をおどすとい(313)ふやうな感じをそれからうけるが、それの無いものは、かういふ態度に威壓されがちなのである。
以上は、書くほうの側のことであるが、讀む方の側のことも、それによつておのづから考へられて來ようから、今は一々いはないことにする。讀むべき書もつの撰びかたも、またそれから知られるであらう。たゞ一こといつておきたいのは、書もつの批評のしかたである。批評といふのは、おのれみづから一つの標準をもつてゐてそれに合ふもの、又は合ふ部分、をよしとし、合はないもの合はない部分をよからずとすることではない、世間の批評といふものには、かういふしかたで、てがるに書もつの價値づけをしたものがあるが、それでは書もつのほんとうの價値はわからない。書もつが何のために、何を考へ何を説かうとして、書かれてゐるか、またその考へまたは説かうとしたことが、どういふ資料によりどういふ考へかたによつて、成りたつてゐるか、もしそれに結論とでもいふべきものがあるならば、それがどういふ道すぢによつて到達せられたものか、といふことを、細かに考へるのが、批評の第一のしごとであるので、それには、その書もつのみでなく、同じ人の書いたほかの書もつをも廣く讀んで、全體としてその人の考へと考へかたとを知ると共に、その書もつにとりあつかはれてゐることがらについての、ほかの學者の業績や、學界の状勢や、をもよくわきまへてゐることが必要である。だから、批評といふことは、少くとも書いたものと同じだけの、むしろそれよりも高い、學識、をもつてゐるものでなければ、できないことである。もし有機的にくみたてられてゐる書もつの或る部分を、機械的にきりはなして、その部分のよしあしをきめたり、結論だけを見て、それをおのれの意見に合ふか合はぬかにより、或はすききらひによつて、判斷をしたり、または何をいふために書かれてゐるかを考へずして、おのれの要求することがらがそれに書いてないといふので、不滿足を表したりするのは、批評で(314)はない。また批評は、書いたものより高い學識をもつてゐるものでなくてはできないことであるけれども、それは、おのれが高い地位にゐてその書もつを低く見おろすやうな態度で、すべきものではなく、書いたものと同じ地位にたち、むしろ書いたもののたちばに立つて、その書もつを見るべきである。世には、書いたものだけの學識も無いのに、おのれが、さも何等かの權威をもつてでもゐるかのやうな態度で、從つてまた斷定的な口調で、書もつに考へられてゐる何ごとかを正しいとか誤つてゐるとか、いふものがあるが、これは至つて輕薄なしわざである。以上は批評といふことについていつたのであるが、一般に書もつを讀むにも、このこゝろもちゐが必要であらう。
十三 シナ藝術に關する斷想
イ 日本の樂器
日本の過去の音樂については、わからぬことがいろ/\ある。音樂史家の間では、それらに對して、すでに何等かの解釋が施されてゐるかとも思ふが、わたくしはまたよくそれを知らぬから、かねてからもつてゐる疑問のうちの一つをこゝに記してみることにする。
それは、樂器のことであるが、一くちにいふと、樂器に用ゐられたり用ゐられなかつたりするもののあつたのが、どういふ理由なり事情なりからであつたか、といふことと、樂器の改良といふことが行はれたかどうかといふことと(315)である。わが國の樂器らしい樂器は、シナから、もしくはシナを經ていはゆる西域地方から、傳へられたものであるが、例へばむかし竪箜篌(ハアブと同じ性質のもの)が傳へられたにかゝはらず、さまで用ゐられたらしい形迹がないとか、いはゆる「きんのこと」(琴)をひくことが平安朝には行はれてゐたが、後にはすたれて來たとか、または近代に民間樂の樂器として胡弓が入つて來て、それが一時はいくらか行はれたけれども、いつのまにかはやらなくなつたとか、いふやうな事實がある。また唐樂の樂器などでも、ひきもの(絃樂器)としては、琵琶(胡琴)と「さうのこと」(箏)とが、室内樂ともいふべきものの樂器として、民間にも傳へられるやうになつたが、舞踊とか、いろ/\の民間演藝とかには、ふきもの(管樂器)の横笛と、うちもの(打樂器)の鼓のたぐひとのみが用ゐられた。それから唐樂や高麗樂の樂器が日本で改良せられたらしいようすが見えず、近代にシナから入つた三舷は、いろ/\の點でつくりかへられたところがあるけれども、それは材料や大きさにおいてであつて、全體の形はほゞもとのまゝである、といふやうなこともある。そこで、どうしてかういふありさまであつたかが問題なのである。(素朴な樂器はわが國にもむかしからあつた。笛の字のあてられた「ふえ」の語は、ふきものの擬音からできたものであらうから、簡單な笛はあつたと考へられる。うたひものの拍子をとるのは、おもに手拍子であつたらしいが、木や石をうつこともあつたらうから、それをうちものといつてもよからう。ひきものがあつたかどうかは問題であるが、絃をはつてそれをうてば音がでるといふことは、知られてゐたであらうから、簡單なさういふものが無かつたとはいはれないかもしれぬ。たゞし琴の字のあてられた「こと」の語がさういふひきものの名であつたかどうかは、よくわからぬ。かういふ素朴な樂器は、シナから樂器が傳へられるやうになると、おのづからすたれてしまつたに違ひないが、平安朝の貴族がうたひも(316)のの拍子をとるために笏を用ゐたのは、むかしのうちもののなごりとして見られようか。)
さて、上記のことがらを一々の樂器について細かく考へるとなると、例へば同じ横笛にも同じ笙にも、いろ/\あつて、それにまた一々の變化があり、さうしてそれには旋律の種類や、演奏のしかたまたは樂部の組織や、さういふこととの關係もあるので、すべてがむつかしい問題になるが、こゝではさういふことには立ち入らず、日本人の音樂の傾向とでもいふやうな大きな點から見て、何か考へられることがないか、それについてのしろとの思ひつきを一つ二ついつてみようといふのである。
まづ考へられるのは、シナから樂曲が學ばれなかつた前の日本において樂と呼び得られるものは、うたひものだけであり、それには舞踊の伴ふばあひがあつたといふこと、從つてそれに用ゐられた樂器がもしあつたとすれば、それは拍子をとるためのうちものだけであつたらうといふことである。次には、シナから傳へられた樂曲は主として舞樂に伴ふものであつたが、ことばのちがひからであらう、原曲にあつた歌詞は學ばれなかつたので、それを樂曲としてみると、器樂ともいふべきものであつたといふこと、この器樂は舞樂に伴ふものであつたから、その樂器にはうちものが特殊の地位をもつてゐたといふこと、メロディを奏するものとしては、ふきものが主としてはたらいたといふこと、などである。ひきものは、琵琶でも箏でもメロディが奏せられはするが、樂器の構造とひきかたとの點から、それは不完全であり、また音量の點からいつても庭上の演奏にはふさはしくないので、舞樂には用ゐられず、いはば室内樂の樂器とせられたのである。(西域樂の入つて來た後は別として、シナの固有の樂としては、絃は堂上で、管は堂下で奏するものとなつてゐたが、それはやはり形と音量とに一つの理由があつたらう。)平安朝になると、ひきもの(317)は殿上の管絃の御遊のばあひに、唐樂の如き器樂にも、催馬樂の如き歌曲を主とするものにも、つかはれることになつたが、しかしこのばあひでも、概ね從位にゐたやうであつて、それはやはりひきかたと音量とのためであるらしい。ふきものもひきものも獨奏樂器として用ゐられるばあひもあつたが、それは概ね個人的のすさびとしてであつたやうである。そのころの貴族生活のありさまからかうなつたのである。かう考へると、竪箜篌の用ゐられなかつたのは、その形と大きさとが室内樂にふさはしくなかつたからのことではなかつたらうか。琴がすたれたのは何故かわからぬ。何等かの事情で殿上の御遊に用ゐられなかつたからかもしれぬが、その事情がわからないのである。
ところで平安朝の末期から行はれた民間演藝の主體は、うたひものとそれと結びついてゐる舞踊とであつたと考へられるが、それには、樂器としては、うちものが第一に必要であつたらう。メロディを奏するふきものには、横笛が用ゐられたやうであるが、それは舞踊のばあひにおいて歌曲の歌はれない時に奏する一種の前奏曲または間奏曲とでもいはばいはるべきもののために、用ゐられたであらう。從つてそれは從屬的のことであるから、笛の用ゐかたは次第に退化し、能の「はやし」における如く、殆どメロディを奏するものではなくなつて來たのではあるまいか。笙や篳篥が用ゐられずして横笛のみが使はれたのは、宮廷や寺院の樂家が特殊の權威をもつてゐて、これらの樂器を獨占するやうな態度をもつてゐたところに、一つの理由があるのではないかと思はれ、横笛とても民間演藝のは、唐樂などのそれをそのまゝ用ゐたのではなかつたと考へられるが、演奏の方からいふと、こゝにいつたことに一つの理由があつたと思はれる。と同時に、鼓の類も拍子のためのみではなく、そのうちかたの緩急強弱によつて、うたひものと舞踊との情景を助けるために用ゐられるやうになつたらしいことが、やはり能の「はやし」のそれによつても想像せら
(318)れはしまいか。手のひらでつゞみをうつといふ新しいうちかたも、それに伴つて行はれたことであり、それによつて唐樂のとは全く違ふ音色と感じとが出て、このはたらきにやくだつたのである。寺院に用ゐられた伎樂の鼓はもとは手のひらでうつものであつたといふから、そのうちかたが白拍子などに傳へられてそれから世にひろまり、さうしてそれが田樂や猿樂の能にとり入れられたのかと思はれるが、そのうちかたがこの間に次第に發達して、こゝにいつたやうなはたらきをすることになつたのではなからうか。笛もまたかういふ鼓と同じやうな效果を求めることになつたと考へられる。ところが、ひきものは、かういふ性質の民間演藝には殆ど用ゐられなかつたやうである。たゞ琵琶が琵琶法師といはれるものによつて「平家」の如きかたりものに用ゐられたが、かたりものはうたひものではなく、從つて琵琶もまたひきものとしてよりは、むしろこゝにいつたやうな鼓などに似たはたらきをしたのである。(樂家がかかる琵琶の用ゐかたを度外視したであらう。)後に三絃が傳へられると、それがやはり民間演藝としてのうたひものやそれと結びついてゐる舞踊などに用ゐられたが、それはこの琵琶法師の琵琶をうけついで、それと同じはたらきをするものとしてであつた。三絃のひきかたはそれから後、次第に發達し、それが用ゐられるばあひも多くなつて來たが、樂器としてのそのはたらきはほゞ同じであつた。劇場ではいはゆる「鳴りもの」の用をなしたので、獨立の樂器として、またメロディを奏するものとして、發達はしなかつたのである。全くさういふはたらきをしなかつたではないにしても、おもな用ゐかたはそこにはなかつた。一くちにいふと、シナから傳へられた舞樂の外は、日本の音樂はうたひもの(もしくはそれと結びつけられ又はその性質をいくらか含んでゐるかたりもの)が主であつて、樂器はそれを助けるために用ゐられるまでのものであつたから、うちものはもとよりのこと、ひきものもふきものも、その方向(319)にできるだけ發達をしたのであるが(できるだけといつても、日本の歌の歌ひかたと樂器の性質との制限のうちでのことであるが)、獨奏樂器としての發達はしなかつた。うたひものとは關係のない樂器として 「一よぎり」または尺八のやうなふきものは行はれたが、それを弄ぶものは狹い範圍にとゞまつてゐたやうである。さすれば、それみづからメロディを奏することのできる、從つて獨奏樂器としての性質を具へてゐる、胡弓が廣く行はれなかつたのは、やはりこゝにその理由を求むべきではなからうか。
樂器について今一つ考へられることは、その形であつて、そのうちでも一ばんきになるのはひきものである。シナで作り出されたひきもの、すなはち琴のたぐひは、概していふと、その形が單純な、しかしぶかつこうな、長方形であるが、これは、一枚の板の上に同じ長さ同じ太さの絃を幾すぢか並べて張り、位置の違つた支柱を順次に設けることによつて音の高低を定める、といふ原始的な方法で作られたものに、その由來があるからであらう。(いはゆる和琴もこの系統のものであつて、わが國にもとからあつた樂器ではない。)かういふものに形の美しさのないのは當然である。西域からシナに入つて來た竪箜篌は、絃そのものの長さのちがひで音の高低を定めるのであるから、その形に或る變化が潜んでゐるところに、一種の美しさがある。それよりももつと美しいのは、やはり西域から傳へられた琵琶(胡琴)である。これは主として絃の太さのちがひによつて音程がきめられるものであるから、琴のやうに長い絃を張る必要がない。膝の上に抱くことのできる大きさでよく、また抱くにつごうのよいやうな形にするために單純な曲線が用ゐられるので、そこから形の美しさが生じてゐる。近代の樂器で最も廣く世に行はれてゐる三絃は、わりあひに小さい方形の胴に一本の長い棹をさしこんだものであつて、その棹と胴の形および大きさとのつりあひが全くとれ(320)てゐない。また胴の面の白さとその「かは」また棹の木の色との間にも、何の調和もない。これらの點で極めて醜い、或は野卑な、形のものである。この三絃の形も大きさもまた材料も、わが國でつくりかへられたものであり、さうしてそれは、シナの「三線」とは全く違つた用ゐかたがせられ、違つたはたらきをするやうになつたことに、關係があらうが、形としては、かういふ醜いものであるのは、もとの「三線」の形に制約せられたからのことであらうか。三絃と同じくシナの民間の樂器から變化して來た胡弓も、その形は三絃とほゞ同じであるが、體が小さいのと、ひくときには弓が用ゐられるのとで、形の醜さがいくらか緩和せられる。要するに、シナで作られた絃樂器には形のよいものは殆どないが、樂器でありながら、その形がこのやうに藝術的でないのは、何ゆゑであらうか。古銅器のやうな工藝品を見てもわかるやうに、シナ人は全體に形の美についての感じが鈍かつたのではないかと思はれるから、そこに一つの理由があるかもしれぬ。日本人には形に對する感じのかなり鋭いところがあつたが、シナのかういふ樂器を美しく作りかへようとしなかつたのは、音を出すものとしてのみ取扱つて、目に見る美しさをそれに求めようとしなかつたからであるかも知れぬ。といふよりも、音と樂器の形との關係についての細かい注意がせられなかつたから、といふ方が當つてゐようか。次にふきものについては、笙に一種の構造の美しさが見られる。長さのちがふ多くの管をくみたてるためにかういふ形がとられたのであつて、いろ/\の音程の調子笛を一つにまとめたといつてもよいものであるから、その點ではやはり素朴なしかたであるが、琴の類とは違つて、形の美しさの生じたのは、ふきものとその音程をきめるしかたとが、ひきものとはちがはねばならぬからであらう。(笙は素朴なしかたによる小規模のパイプオルガンともいはばいはれよう。)なほうちものにおいては、形そのもののことではないが、後に發達した民間樂の(321)樂器としての鼓のしめをに音程を調節するはたらきがあるのとは別に、裝飾的な意味をもたせてあることが注意せられようか。かういふやうな外部的な裝ひをつけることは、實用的な器具にもいろ/\の例があることであつて、そこに日本人の一つの趣味があるらしい。
日本の樂器の用ゐかたなり、そのはたらきなり、またはその形なりが、かういふものであり、さうしてまた三絃などの如く、いくらかは日本で作りかへられ、そのひきかた用ゐかたにおいてはシナでのそれとは全く違つて來たものがあつたにしても、日本で新しい樂器が作り出されなかつた、といふことは、日本人が音樂によつて何を表現し何を求めようとしたか、音樂が日本人の生活においてどういふはたらきをするものとせられてゐたか、またさういふところから生じた日本の音樂の性質がどういふものであるか、といふ日本の音樂についての根本の問題と關係がある。しかしそれを考へることは、わたくしの力の及ばないところである。
ロ シナ畫の氣韻論
シナの畫論でやかましくいはれてゐる氣韻といふ語は例の謝赫がいひ出したのだといふ。謝赫が初めていひ出したのだかどうだか知らぬが、僕は、もつと前から繪畫の品評に用ゐられてゐた語であつて、謝赫が六法の第一としてそれを採つたのではなからうかと思ふ。これは素より想像に過ぎないが、六法などといふまとまつたもののできる前に、はなれ/”\に種々の品評の標準とか法則とかいふものがあつたらうと考へられるからである。ところが、シナ人の癖で、一度かういふものができると、後の畫論をするものは、どこまでもそれを襲用する。しかし、語は襲用せられ(322)るが、その意義は時代により人によつて變化する、むしろ銘々勝手な概念を表はすに一定の成語を適用するのであるから、意義が多樣になつて用ゐ方が混雜する。だから、後人の書いたものによつて前人の用ゐた同じ語の意義を推測することはできない。が、從來の畫論をするものには、ともすると、この點を看過する弊があつた。ところが、最近になつて、僕は歴史的觀察の上から謝赫の原意義を説明しようとした二つの氣韻論に接した。その一つは、國華の二八二號からその次の號にかけて載せられた田中豐藏氏の説で、今一つは今月の東洋協會調査部講演會で、瀧精一氏が顧ト之の畫について述べられたをりの話である。僕は二つともにおもしろく讀みもし聽きもしたので、それに誘はれて一寸口を出してみたくなつたのである。
二氏の説を約言すると、先づ田中氏は謝赫のいふ意味は、「畫かれたる物象の形體に附隨し來る生命の流露である、」といつて、現代的の語を用ゐてゐるが、この「物象の形體に附隨し來る生命」といふ語や、別に「作家たるものは單に形似の正確を得たのみではいけない、必ずその裡に存在する生命を捕獲して眼前に生けるが如き風姿を現はさなければならぬ、」といつてゐることや、また全體において形體と生命とを全く別のものとしてゐて、シナ風の畫論の舊套を脱してゐないことやを見ると、生命といふ語があまり現代的の意義で使はれてゐるのではないらしい。瀧氏は表情のことだとも、仙人は仙人らしく女は女らしいといふやうに「らしく」見えることだとも説いたやうに記憶するが、この二つが同じ意義だとすると、表情といふ語の用ゐかたが我々普通の用語例とは少しく違つてゐるやうに感じつゝ僕は聽いてゐた。僕は今こゝで二氏の説についてかれこれいふつもりは無いが、話の順序として、便宜上、これだけのことをいつておくのである。
(323) 氣韻生動の四字は六法の一ケ條としてあるから、もとより一つの觀念であつて氣韻と生動との異なつた二つの觀念と見なすべきものではなからう。二つの觀念ならばそれを一ケ條とするはずが無く、他の五法がみなそれ/\一つづつの觀念を表はしてゐることからも、さう考へられる。さてこれを一つの觀念だとすると、文字の上では「氣韻が生動する」といふ意味にも解釋せられるが、それよりも他の骨法用筆とか經營位置とか、傳移摸寫とかいふ熟語の組み立てかたと同じやうに、氣韻と生動とは同じ觀念を表現したものであつて、たゞそれを重ねていつたものと見たほうがよささうに思ふ。骨法用筆といふのも骨法と用筆とは別のことでなく、骨法は繪畫のほうについていひ、用筆は畫家のほうについていつただけで、實は同じことである。經營位置も作者からいへば經營であるが、それが畫面の上では位置になる。氣韻生動も同樣で、生動してゐることを氣韻といつたものと解釋して差支がないのではなからうか。同じやうに四字づゝの熟語にしようとしたためかういふことが起つたのである。「氣韻が生動する」といふ意義だとすると「氣韻が現はれる」といふのと大差のない言ひあらはしかたで、主要な觀念は氣韻の二字で示されることになるが、後にいふやうにこれが主として、人物畫に適用せられるものである以上、生動の語が重く用ゐられてゐるやうに考へられる。また「氣韻の故に生動する」と見られないでもないやうであるが、それにしては、あまり拙な熟語であるのみならず、かういふ説明的のいひかたは六法の一としては不相應であらう。以上はたゞ熟語の組み立ての上から見た考に過ぎないが、この臆説は後になつて氣韻生動の意義を考へるばあひにおのづからわかるはずである。今のところでは、氣韻と生動とが全く別の觀念を表現したものではない、といふことだけをいふにとゞめておく。後人が別の意味に用ゐてゐようとも、それは文字を弄ぶことの好きなシナ人のしわざであるから必ずしも謝赫の用ゐかたが(324)さうであつたとは限らぬ。現に荊浩の如きは「畫有六要、一曰氣、二曰韻、……」といつて、氣と韻とをすら、二つに分けてゐるが、謝赫の氣韻が一つの概念であることは明かであらう。
次に考へておくべきことは、張彦遠が歴代名畫記の論畫六法の章において「至於臺閣樹石、車輿器物、無生動之可擬、無氣韻之可r、……至於鬼神人物、有生動之可状、須神韻而後全、若氣韻不周、空陳形似、筆力未遒、空善賦彩、謂非妙也、」といつて、氣韻生動を人物畫に限るやうに説いてゐることである。(こゝに生動と氣韻とを分けて用ゐてゐるのはシナ人慣用の修辭的技巧であつて、畢竟同じ觀念をくりかへしていつてゐるに過ぎない。特に「有生動之可状、須神韻而後全、」といふのは「生動の有樣を寫すべきものである、だから神韻がなくてはならぬ、」といふのであるから、生動してゐる有さまを神韻といつてゐることは明かである。)いはゆる六法にこんな制限を設けてゐない以上、さうして他の五法がすべての題材に適用せられるものである以上、單に文字の上からでは謝赫が張彦遠と同一意義に用ゐたとはいはれないが、名畫記などにも見える如く、六朝以前の畫の題材は主として人物であるから、また彦遠の時代には六朝ころの因襲的思想が甚しく變改せられずに存在してゐたと見なしてもよいやうであるから、事實上、張彦遠の語を以て謝赫の意を忖度しても大した差支は無からう。もしさうとすれば、氣韻生動の意義もそのつもりで解釋しなければならぬ。
傳移摸寫は別として、經營位置で構圖ができ、應物象形で形がきまり、隨類賦彩で色がつけば、畫面は一とほりでき上る。さて形をつくるは筆でかくのであるから、骨法用筆が大切である。その上に何が入用かといふと、書き上げた人物が死んでゐないで生きてゐなければならぬ、といふことである。これだけの要求が充たされなくては畫になら(325)ぬ。だから殘る一つの氣韻生動に、少くとも、この意義が含まれてゐるだらうとは容易に想像せられる。それを人物のみに限つてゐる張彦遠の考が謝赫時代の思想と同一であるならば、氣韻は臺閣樹石等には無くして人物のみにある特質に關係したことでなくてはならぬ。それは即ち生きて動いてゐるといふこと、即ち取もなほさず文字通りの生動の意味でなくてはなるまい。だから上に述べた如く張彦遠は氣韻と生動とを同一意義に用ゐてゐる。もつとも、今日の思想からいふと人物の生きてゐるといふことは構圖、象形、賦彩、從つてまた用筆、の上に存することであつて、これらのものの外に別に生きてゐるといふはたらきがあるのではないが、シナ人はさう考へてゐなかつたらしいから、これを別の項目としたのに不思議は無からう(このことはなほ後にいはう)。さて、この生きてゐるといふことにも幾多の階段がある。生きてゐる表徴は動いてゐるといふことであるが、最低級の動きかたは衣服姿勢等に現はれる。次には筋肉などに見える。もつと進むと、寂然として動かざる人の身にも全體としての精神が動いてゐるといふやうなことになる。衣服などの動いてゐるのは、心理的活動のそれに現はれたものもあるが、さうでないものもある。筋肉などの動くのになると大體において心理的活動の表現としてよからう。即ち表情である。しかし表情にも階級がある。單純な喜怒哀樂の激動が筋肉にあらはれるのも表情といつて差支なからうが、さういふ粗大なのでなく、或る人間の全體の氣分が極めて微妙に表現せられることもある。即ち心の動きかた、從つてそれが現はれる身體の動きかたにもいろ/\ある。この動きかたが高級になるだけ、生きてゐる程度が高級になる。ところで謝赫の生動はどの程度のものであらうか。これが問題である。
六朝時代の人物を寫した文章を讀むと、抽象的の形容は飽きるほどあるが、具體的に容貌などを描いたのは極めて(326)少い。あつても甚だ粗笨である。それから、人間を寫すよりも、衣服とか輿車とか佩用品とかをくだ/\しく並べたてる。瀧氏の講演のをりに洛神圖を示された因縁で例に引くが、曹植の洛神賦などもその好例である。これは人物の觀察法及び描寫法としては最も幼稚な程度にあるものであるが、當時のシナ人のはこの位のものであつた。詩と造形藝術とは性質は違ふが、作者の觀察眼と描寫の能力との程度は、さうひどく違ふものではない。だから、この流儀を繪畫に適用すると人間を描くに、やはり、頭髪とか衣服とか持ちものとかで男女の性やその老幼、または職業階級などを表はす。一歩進んで、身體の姿勢を區別する。その上になると、容貌や喜怒哀樂をあらはす姿勢態度やに極めて粗大な型があるのが、關の山である。これ以上に人間を表はし得たとは思はれぬ。要するに、最も進んだところで最低級の動きかたである。英國博物館にある女史箴の圖も、故端方氏所藏の洛神圖も、瀧氏の示された木版刷や寫眞版で見ると、やはりこの部分に屬する(この二圖は宋代の摸本であるが、原本は六朝のものであらうといふ瀧氏の説に從ふ。但し原本が顧ト之の作かどうかは決めることはできまい。また決める必要もなからう。強ひて作者を決めたがるのは鑑識者流因襲の無用の業だと思ふ。また女史箴の圖はよほどマンネリズムに陷つてゐるようすが見える。全體に幼稚な時代のことであるから、大家といはれる顧ト之の作もこんなものかも知れぬが、とにかく、當時でも、もう少し自然らしいものがあつたのではあるまいか。もつとも、これを摸本とすると、それで直ぐに原本を論ずることはできないが)。全體に個人に重きをおかず、喜怒色に表はさぬを尚び、詩や樂にすら(少くとも理論上)情の表現を主としないシナ人、特に、ともすれば形骸を輕んずるを以て高しとした時代のことだから、思想の上から考へても、造形藝術がこの程度であるのにむりは無からう。もつとも、形骸を無視しては造形藝術が成りたゝぬから、繪畫の表現は詩(327)などとは違ふが、少くとも、形骸に重きをおかないだけ、觀察が粗笨で、隨つて描寫が幼稚で、あるのは當然である。もう一歩進んでいふと形骸は畢竟形骸だから、心理的表現をも、全體としでの精神的活動をも、そこに求めないで、單に形骸として動いてゐるらしいのに滿足してゐたのである。女史箴圖や洛神圖のやうな多少物語がゝつた光景を寫すばあひには、粗大な型ながら單純な喜怒哀樂を幾分か容姿の上に表はさねばならぬが、さうでないものはそれだけにも進んでゐなかつたらう。
謝赫の氣韻生動が人物の生きてゐるといふことを含んでゐるならば、その意味はこの位の低級のものであらう。さうして、このくらゐ低級の「生きてゐる」で滿足してゐる時代ならば、氣韻生動にもつと深い思想が含まれてゐさうには思はれぬ。氣韻といふ語は形而上の觀念を表はしてゐるらしいけれど、「生きてゐる」のがもと/\象形以外のことと考へられてゐたのであるから、これは當然の用語であらう。さて、この「生きてゐる」といふ最低級の要求を、えらく事々しくいふのは、一つはシナ畫特有の技巧から來たことではあるまいか。筆で描くシナ畫は、最初は物の輪廓を丁寧に書いたものであつたらう。象形といふのが即ちそれであつて、物の形は輸廓の線でつくるのであつた。漢代の彫刻が武梁祠の遺物のやうに、平面に人物などの輸廓を殘して地を彫り下げただけのもので、肉があり高低がある浮彫になつてゐないとすれば、繪畫に至つてはなほさらのことであらう。一歩を進めていふと、あの彫刻は彫刻といふよりも、むしろ鐵筆を用ゐて石の上に描いた畫といふほうが適切であらうから、當時の繪をこれによつて推測してもよいはずである。(浮彫の發達しなかつたことは繪畫に明暗の觀念が發達しなかつたことと關係があるのではあるまいか。浮彫を見なれると、明暗の感じが起らなくてはならず、また自然にそれと性質の最も似よつてゐる繪畫にそ(328)の影響が及ばなくてはならぬ。佛教藝術の浮彫が傳來したと共に、繪畫に陰影めいたものを表はす技巧の行はれて來たのも、よし西域技術の摸倣であるとはいへ、多少この間の關係があることを示すものではなからうか)。またシナ畫においては、よほど後世まで形をつくる線と着色とが別のものになつてゐて、六法にも象形と賦彩とを全く區別してゐる、即ち着色は形のできあがつた上に加へる裝飾的のものとして見られてゐたのであるが、これも輪廓の線を描いて形をつくるといふ技巧の根本的要約から生じた、自然の傾向である。さて器械的の線で輸廓を描いた形は生氣が無くなる。だから、それを生きてゐるやうにするには用筆に特殊の技巧が要る。用筆が重んぜられるのはこれがためであつて、六法の第一が氣韻生動で、すぐその次に骨法用筆が説かれてゐるのは、この二つが最も大切なものとして、また二つの間に密接な關係があるとして、即ち生動は、主として用筆の結果として生ずるものと、考へられたからではあるまいか。動いてゐるといふことも、生きてゐるといふことも、實は象形賦彩などのうちにあることで、用筆もまた象形の手段に過ぎないのに、シナ人が象形の外に用筆と生動とをおいてゐるのは、形をつくる線が器械的であると、輪廓が正しくできても(即ち象形は完全でも)、生きてゐるやうに見えないからのことであらう。それならば、どうして生動の趣が用筆によつて表はされるかといふに、それは線の上に生ずる象徴的の感じを利用するので、これが主なる用筆の技巧である。直線は剛健で靜止的であるが、曲線は柔軟と流動との感じを與へる。さうしてその曲線の太さと進行の工合とに變化があると、一層活動の感を深くする。人物にそれを適用すると動いてゐるやうに見える。これは畫かれたものそのものの與へる感じとは別のものであるけれども、遠近法も不完全で、明暗の調子も無く、また色彩を外部から加へる裝飾的效果と見てゐて、線のみを以て形を造らうとするシナ人が、この線の象徴的意味を利(329)用し濫用して、生きてゐるらしく見せようとするのは、自然の傾向といはねばならぬ。シナ畫及びその系統を承けてゐる日本畫の衣服の翻轉してゐるありさまなどを見るに、形は混亂してゐながら、どこかに動いてゐるやうな感じを與へるものがあるが、それは全く線の與へる象徴的幻覺である。よしまたその衣服などの動きかたが正しく畫かれてあるにせよ、それが人物とは關係の無いもの、即ち心理的活動の表現として見られないやうなものがある。例へば靜に落ちついてゐなければならぬ人物の衣のみが風に翻つてゐるやうな曲線になつてゐるのは、人物の姿態ともその示さねばならぬ全體の情調とも矛盾してゐる。けれども、さうしなければ、人物が堅くなつて生氣が無くなるから、かういふ手段を用ゐるやうになつたのであらう。しかしかういふ用筆の技巧は直ぐマンネリズムに墮落する。そんな技巧で表はし得るものだとすれば氣韻生動を最低級の意味で「生きてゐる」ことに用ゐたのもむりは無からう。また顔面や姿態に、よし表情めいたところがあるにせよ、それが單純な粗大な型に過ぎないのもこの故である。輪廓を形造る線の技巧で表はし得る情は單純な低級のものであつて從つて型ができる。而もそれを表はすには自然のありさまをよほど誇張しなくてはならぬ。恰も操人形の表情のやうなものである。シナ畫やその系統の日本畫では到る所にこんなものを見せつけられる。
しかし後世になると技巧が發達して、線が輸廓といふよりも一種暗示的のものとなつて來た。人物の容姿、または一歩進んでいくらかはその容姿に表はされる情動の或る傾向を線によつて暗示しようとするやうになつた。從つて線の象徴的意味を獨立したものとして利用しないやうになる。即ち人物の容姿を表はす手段としてそれに適當な暗示的の線を用ゐるやうになる。かうなると「生きてゐる」といふ意味が一段深くなるのである。宋代以後において氣韻の(330)語が謝赫のとは異なつた概念を表はすものとなつた一原因はこゝにもあるのであらう。(宋代のやうに題材が擴張せられて山水畫などが盛に行はれる時代になると、それにもやはり氣韻の語が適用せられて來るのは、自然の勢であるが、山水畫の氣韻生動は人物畫と同じ意味で「生きてゐる」のみではつごうがわるいから、その概念がいくらか變らねばならぬ。山水畫は無論唐代から行はれてゐるので而もその唐代の張彦遠が氣韻を人物に限つたところを見ると、この推測は當らぬやうであるが、理論は實物の現はれてから時代を經た後にできるものであるから、かう考へるに差支は無からう。それから、宋代の思想上の状態も氣韻の意味を變化させる一事情であることはいふまでもなからう)。しかし、かういふ暗示的の線では形が精密でなくなるから、形似はやゝ失はれたやうにシナ人は考へるらしい。だから、氣韻が形似の外にあるといふ思想は、少しく意義が變りながら、依然として存在する。氣韻と形似とを反對した觀念のやうに見なしたがるのがシナ人の癖であるが、線ばかりで形をつくると思つてゐるのだから、かう考へるのもむりは無い。また、氣韻がかういふやうに幾分か深い意味となつても、やはりそれが用筆即ち線を描く技巧の上に立つてゐることだけは變らないから、氣韻が用筆にあるといふ論の起るのは當然である。それから、かういふ線は獨創的のものであつて、眞の天才のみが描き得るのであるから、氣韻は畫家の天分であつて學んで得られるものでない、といふ思想の生ずるのも、また當然であり、且つその考は疑の無い眞理である。しかし、こゝに天才といつたのは藝術的意義においてのことであつて、道徳的宗教的に特殊の傾向を有つてゐる人間といふのでないことは、いふまでもないが、シナ人は、ともするとかういふ非藝術的觀念を藝術上に色づけようとするから、畫家の天分といふものが非藝術的意味に用ゐられ、從つて氣韻といふことも「生きてゐる」といふ意味の深くなつたのではなく、一種特別の非藝術(331)的な傾向をさすもののやうに解せられて來るのである。氣韻を形似の外にあるとする考にも、後になると、やはり同じ思想が加はつて來る。(藝術家の人格が作品に現はれるといふ話は、これとは、おのづから別問題である)。
要するに謝赫時代に氣韻生動といつたのは低級の意味で「生きてゐる、動いてゐるやうに見える、」といふほどのことに過ぎないので、それを事々しくいつたのはシナ畫特有の技巧的性質がこんな低級な要求をすら滿足させ難いものであつたのが一大原因であつたらう、といふのが僕の考である。
ハ シナ藝術の一側面
われ/\の藝術または美術といふ概念がヨウロッパ人から傳へられたものであり、これらの語もヨウロッパ語の飜譯であることは、いふまでもあるまい。藝術といふ稱呼は古くからシナにもあつたが、それは醫術や占筮星暦の術やさういふ類のものをさすのが普通の例であつて、今いふ藝術とは全く意義がちがふ。さて現代の意義での藝術の語は一般に建築、彫刻、繪畫、音樂、舞踊、詩歌、劇、などの總稱として用ゐられてゐるが、シナにもこれらのものはすべてあつたにかゝはらず、それを總括していふ名稱は無かつた。ヨウロッパでこれらのいろ/\のものを藝術といふ一つの稱呼に包括させることには、歴史的の由來または因襲もあるので、そのことを考に入れないで見ると、そこにいくらかのむりな點もあるやうであり、この語をはつきり定義し、またそれによつて示されるものの範圍や限界を明かにきめることのむつかしいのも、一つはそのためでもあらうが、それにしても、概していふと、これらのものに共通の性質のあることが認められてゐるには違ひない。さすれば、シナにおいてそれに對應する名稱の無いのは、たゞ(332)名稱が無いといふのみのことではなく、それらのものに對するシナ人の見かた考へかた取扱ひかたがヨウロッパ人のと同じでないことを示すものであらう。いひかへると、一々の藝術をいかなる意味のものとしそれにいかなる性質を與へるかが、シナ人とヨウロッパ人とにおいて違つてゐるのであらう。
その違ひには、やはり稱呼の上から考へ得られることがあるので、現代の意義での藝術とさうでないものとを連稱するばあひのあることがその一つである。例へば詩文といふ稱呼があり、また文の語を廣義に用ゐるときには詩をも含むものとせられ、或は詩が文の一體と見なされ、文集と詩集とを併せて文集と稱することさへもあるが、いはゆる文には政治上の意見書や論策の類が含まれてゐるのみならず、さういふものがむしろ重要の地位を占めてゐるのを見ると、それと詩とを同じやうに取扱ふことは、現代人にはふしぎに思はれる。が、實はそこにシナ人の詩の見かた、從つてまたシナの詩の特質、が現はれてゐるのではあるまいか。詩と文とに共通なことは、文字をつらね辭句をつゞる技巧であるから、詩文を同じものと見るのは、詩についても文についてもかゝる技巧が主として考へられてゐたことを示すものといはねばならぬ。詩文をよくすることを詞藻に富むといふやうな語でいひ表はす例のあるのも、そのためである。昔からの詩の作者は數へきれぬほどであり、巧拙を問はぬならば、大ていの知識人は詩の作者であるといつてもよいほどであるが、われ/\が今日普通に「詩人」といふ語で呼んでゐるやうな特殊の天才、その天才の生活の體驗、またはそれから生れ出た何等かの特殊の人生觀・世界觀、を「詩」の形で表現し得るものが、さう無數にあるべきはずは無いから、シナの詩の作者の大多數がたゞの詩の技巧を知つてゐるものに過ぎないことは、おのづから知られる。名ある作者、特にすぐれた作者について見ても、作者のちがひは要するに技巧の違ひであつて、その思(333)想においては殆ど同じである。個人的に見れば、趣味なり表現のしかたや態度なりにいくらかの違ひがあるにしても、また全體として見るばあひに、事物に對する感受性において普通人よりは鋭敏なところ繊細なところがあるにしても、その多くはむしろ技巧につれて養はれたもの、技巧の末においてのみ表現せられるものである。天才があるにしても、それは技巧についての天才であるといつて大なるまちがひは無い。シナの詩に深い思想や個人的に特異な生活感情の表現を求めても、それを得ることは極めて稀である。最大の詩人といはれてゐる李杜の作にどれだけの思想的内容があるかを考へてみれば、技巧に特異なところのあることを思想の特異なことと錯覺しない限り、このことは明かであらう。
どうしてかういふ状態になつたかといふと、それには理由がある。シナでは學者も詩の作者も殆どそのすべてが官吏、または官吏とならうとするもの、またはならうとして失敗したものであり、さうしてさういふ地位や經歴をもつてゐる學者がまた詩の作者でもあつたが、これはすべての知識人の畢生の目的が官吏となることにあつたからである。ところが、知識を得る方法は文辭を記誦することであつたから、辭句をつらねる技巧はその間におのづから習得せられたので、それに長じたものがおのづから詩の作者にもなつたのである。彼等の詩が技巧だけのものであることは、このことからも知り得られよう。技巧といつたけれども、彼等にとつては技巧であることを意識しないまでにそれが習熟せられてゐるので、技巧のみの詩が無技巧的に作り出されるのである。これは學者が自己の生活を反省し現實の事實を正しく視ることを心がけず、書物から得た知識をつなぎあはせることをのみ勉め、從つて彼等に獨自の思索が無く、また思想の深さの無いこと、學問上の著作にも實用的の文章にも、上に述べたやうにして習得せられた修辭的(334)技巧が用ゐられ、そのために思想そのものを曖昧にし混亂させることと、互に表裏をなすものである。思想よりも文辭を重んじ内容の無い言説を言説として弄ぶことを好むのがシナ人である。この點において詩も文も同じであるので、詩文を同じやうに取扱ふのはシナ人にとつては當然であることがそれによつて知られると共に、シナの詩といふものの性質もまたそれにつれてわかるはずである。
或はまた琴棋書畫といふやうな語のあることを考へてみるのもよからう。これは琴棋書畫を同じやうに取扱つたものであるから、こゝではわれ/\が藝術として見る樂(の一つとしての琴)と畫とに同じ性質があるものとせられてゐるやうである。しかしその同じ性質といふのは、遊玩の具であるところに、いひかへると日常生活から離れた生活において何等かのはたらきを有つところに、あるので、棋を加へてあるのは最もよくそれを示すものといはねばならず、畫と書とを同じに見た點にもシナ人の繪畫の取扱ひかたの特異性がある。琴詩といふやうな語のあることも注意せられるので、琴棋書畫の語に對照して見ると、詩もまた琴と共に棋と同じやうな遊玩の具とせられてもゐることが知られるやうである。現代人のいふ藝術も實用的なものでないところに遊玩の意義が含まれてはゐるけれども、棋の如きものと同じやうに見られてゐないことは、いふまでもあるまい。然るにシナでは樂も畫も詩もそれと同じに見られてゐる。少くともさう見られるばあひがあるのである。
ところで、何故にかういふ遊玩の具が尊重せられるかといふと、それは、日常生活を卑俗なものとし、それから離れることを高雅であるとするためであつて、山水を愛し風月を友とすることを尚び又はいはゆる隱逸を重んずるのと同じ思想の現はれであり、世俗的生活とかういふ生活とを全く別のものとする考がその根低にある。いはゆる禄仕し(335)て官途につき權勢を得ることを終生の目的としてゐる士人が、權勢の失ひ易く生命の危險をさへも避けがたいのが禄土者の常態であるために、身を保つ方法として、官を去り地位をすてて山林に隱居し江湖に放浪するといふ風習があつたのと、士人の生活が一般に勢利の奴隷であるのをあまりに淺ましく思ひ、さういふ境地から離れようとするきもちが少數の識者の間に稀にはあつたのと、それらのいろ/\の事情から、事實としては、勢利の欲求から離れてゐない身でありながら、かういふ遊戯によつて心を勢利の外におくことができるとする考が、思想としては、形づくられてゐたのである。勢利を求める日常生活とそれから離れた遊戯の生活とが一身の上に兩立しながら別のものとせられたのは、この故である。世俗生活日常生活そのものに深い意味を認めてそれを藝術的に表現するとか、日常生活のうちに在り日常生活そのものによつて自己を鍛錬し自己を高めてゆくについてのはたらきをもつものとして藝術を見るとかいふのとは、考へかたが全く違つてゐる。專門の藝術家としての樂人の演奏をきゝ畫家のかいた畫を觀、既にでき上つた藝術品としての樂や畫を鑑賞するのではなく、みづから琴をひき畫をかくところに遊玩の特殊の意味があるやうに思はれたのも、やはりこゝに一理由があるのであつて、日常生活とは違つた別の生活がさういふところにあるとせられたのである。さうしてこのことについては、詩酒とか琴酒とかいふ語があるやうに、詩も琴も酒と同じ性質なりはたらきなりを有つものとして考へられたばあひのあることが注意せられよう。このことの主要なる意味は後にいはうと思ふが、こゝでは酒がみづから味ふものである如く琴詩もまた樂人の琴を彈ずるをきゝ詩人の作つた詩を誦するのではなくして、みづから琴をひき詩を作るところに興趣があるとせられたことを、見ようとするのである。琴棋書畫といはれてゐるその棋もまたみづから局に對するところに興味があることは明かであるから、琴も書も畫もま(336)た詩も、かういふ點で酒と同じに考へられたのである。書が一般の知識人に學ばれ、特殊の技術としてもみづから筆をとるところに主なる意味があることはいふまでもあるまい。詩もまた特殊の「詩人」をまたず、すべての知識人によつて作られたといふことは、既に上に述べた。畫はそれとはやゝ趣の違ふところがあるが、專門の畫家でないものがそれを作るを好んだ例も多く、それが畫史などにも少からず記されてゐる。琴もまた君子の伴侶として用ゐられたが、みづからひくことのできぬものは、陶淵明の話の如く、素琴を座右においてもその中の趣を得ることができるとせられてゐた。
ところがこのことは畫なり琴なりに特殊の性格を與へることにもなるので、畫について形似を重んぜずして氣韻を尚ぶといふことのいはれるのも、その一つである。一般の士人は專門の畫家の如き熟達した技巧を有たないのが普通のありさまであらうから、單にその點からも彼等に物象の眞實を寫すことができず、從つて彼等の目ざすところが寫實の外にあるやうになるのは當然である。畫である以上、シナ人とても寫實をもとめてゐたことはいふまでもないので、畫論などにおいても、作畫の方法を説くばあひには、概念化せられ形式化せられた考へかたからではあるが、常にそのことがいつてある。しかしシナ畫の材料と用具と技巧とによつて寫實の目的を達することにはいろ/\の困難があるから、專門の畫家とても、もし寫實に意を注ぐとすれば、多くは生氣の無い外形の摸寫に過ぎないことになるので、そこから形似と共に氣韻を要するといふことが説かれた。さうしてそれが一歩すゝむと、形似と氣韻とを反對のもののやうに見なし、形似をすてて氣韻を求めよといふやうになるが、士人の作において特にその傾向が強められたと推測せられる。これは、一つはシナ人一流の誇張したいひかたでもあり、また思想的には、形似といふことが日(337)常生活世俗生活といふことと聯想せられ、その反對に氣韻といふ語が世外の風趣といふやうな意義を帶びたものとしてきゝとられるところに一つの意味があると共に、上に述べたやうな事情もはたらいてゐるのであらう。即ち製作の方面において、ほんとうに物象を寫すことができないために、形似を輕んじて氣韻を重んずるといふことが考へられて來たのである。その實、形似を離れた氣韻があるべきはずの無いことは、明かである。無絃の琴に絃聲をきかうとするのも、これと同じであつて、形似の外に氣韻を求めようとするものはおのづからかうなるでもあらうが、琴をひくことのできるものは強ひて絃を斷つには及ばないではないか。(シナの畫論では形似といふ語が用ゐられてゐて、それは、形と色とを離れたものと見、さうして色よりも形を主にして畫く。シナ畫についていふばあひには、自然なことであるから、こゝでもそれに從つておく。)
もつとも、畫において形似を輕んじ氣韻を重んずるといふことは、一般に認められてゐる如く、書畫一致といふ考へかたとも關係がある。書も畫も材料と用具とが同じであるところから、書の技巧が畫にも影響し、シナ畫に獨自な描線の技巧が發達したことはいふまでもないが、書と畫との關係は單にそれだけではない。一定の字形はあるけれども外界に存在する物象を寫すものでない書には、もと/\形似といふことはなく、さうして運筆の上に、從つてまたその迹に、書くものの氣分がおのづから現はれてゆくので、そこに氣韻が生ずると考へられるが、かういふ書の上の考へかたが畫の上にもあてはめられるやうになり、筆勢を重んじその筆勢の上に氣韻の生動を求めようとすることにもなつた、といふ事情があるのである。(書畫の一致については、文字の起源が象形にあるといふ考へかたもあるが、文字のすべてが象形から出たものではなく、また象形のものとても、後世の字體では象形であることが殆どわからな(338)くなつてゐるのみならず、文字を書くばあひには何等かの形象を寫すのだといふことは全く意識せられないのであるから、この考へかたは書をいふばあひには何の意味も無いものである。)さてかういふやうに書が畫の上に影響を及ぼしたとすれば、水墨畫に特殊の價値が與へられたことにも、一つはそれと同じ理由があつたのであらう。水墨畫は色彩の無いところに現實から離れた感じがあり、從つてそれを喜ぶことには形似を輕んずるのと共通な心理もはたらいてゐるし、また日常生活を卑俗として斥け世外の生活を高雅として尚ぶといふ考もそれに伴ふのであるが、かういふ點にも一つの意味はある。(「筆」と「墨」とのちがひといふやうな問題には、こゝではたちいらない。)
ところで、書は、作品として既にできあがつてゐるものを鑑賞することができると共に、上にも述べた如く、みづから筆を執つて書くところに、即ち運筆の間に、特殊の興味があり、作品として鑑賞するにも運筆の迹をたどつてゆく、いひかへると鑑賞者が筆者の筆を運んでいつた時の心理状態を自己の心に再現してみようとする特殊の態度がとり得られる。畫は鑑賞の對象としてそれを見るばあひには、書と同じほどには、かういふ態度がとり得られないので、それは畫がともかくも物象をなしてゐるからであるが、製作の過程に特殊の興味があるやうに考へられることはほゞ書と同じであり、さうしてそこにも書から移つて來たところがある。士人の遊玩として畫の作られるのは、かういふ興味があるからであるが、かゝる風習がまたそれに適する性格を畫に與へることにもなつたことが注意せられねばならぬ。絹や紙の上にあのやうな墨と筆とでかいてゆく畫においては、さういふ材料と用具とそれによる技巧の性質とが、おのづから製作の過程に興味をもたせることになるのであるが、製作の過程に興味をもつとすれば、その過程がそのまゝ畫面の上に示されるやうな技巧がます/\養はれ、またそれにつごうのよい題材が撰ばれることにもなるの(339)である。さうしてそれがまた専門の畫家の作品にも及ぼされるやうになる。材料と用具とそれによる技巧との制約から生ずる特質である以上、專門畫家の作品とてもおのづからさうなつて來るには違ひないが、それを促した一事情として上に述べたやうなことがあるのではなからうか。
勿論、畫は、士人の遊玩としても、單なる鑑賞の對象として取扱ひ得られるのであつて、みづから製作することのできないものは、さうするより外にしかたがない。製作の技巧を知つてゐるものとてもまたそれが遊玩の一つのしかたである。ところが、かくして鑑賞し得られる畫は、机の上にひろげたり壁にかけたりして近づいて見られる小規模のものでなくてはならぬ。事實、好事家に蒐集せられ秘藏せられて世に傳はつた畫は、皆かういふものであり、傳來が重んぜられ所有欲がそゝられ、骨董的に畫の愛玩せられるのも、この故である。畫の鑑賞が日常生活とは別な生活においてせられるとすれば、そこからもまたかういふ風習が養はれるので、すべてが社會的意義の無い個人的愛玩となるのである。さうしてそれと共に、かういふ小規模の繪畫であることが、上に述べたやうな技巧上の傾向を強めたこと、或はさういふ傾向と本質的に相伴つたものであることが考へられる。書と同じ性質のものとして見られるやうな、また專門の畫家でない士人が興味本位でかくことのできるやうな畫の本色がこゝにある。
なほこれについては、シナの畫がすべてかういふ性質のもののみではなかつたといふことを考へてみる必要もあらう。遠い上代のことはしばらくおいて、佛教が入つてからは寺院に壁畫などをかくことが行はれたのであるが、かゝる宗教畫は、その目的からも題材の性質からも色彩の濃厚であることが要求せられると共に、多數人の集まるところに畫かれ或る距離を隔てたところから見られるかういふ畫には、何等かのしかたで畫面に立體感を與へる必要がある。(340)西域風の畫法の傳へられたのは、それに伴ったことであり、またこの要求に應じたものでもあるので、かういふ畫は材料にも用具にもまた技巧の上にも、士人が机上において鑑賞するものとは、大なる違ひがなければならぬ。書と同じく運筆の上に作者の氣分が現はれ製作の過程に特殊の興味があるといふ風の畫とは違って、士人の遊玩として作り得られるやうなものでないことは、勿論である。從つて形似から離れたところに氣韻があるといふやうな意義での氣韻は、それには認められない。(このことは氣韻といふ語の意義の變化とも関係があらうが、今はそこまで立ち入って考へないことにする。)その上、かういふ畫は私人が蒐集したり珍藏したりすることのできないものであるから、生活のしかたが一般に私人的であって公共的でなかったシナの士人の生活と生活感情とには、そぐはないものであったらう。よし畫としてはそれに特殊の價値のあることが知られてゐたにしても、士人には親しみの薄いものと考へられたに違ひない。シナの畫がかういふものを基礎としてそれの有つ特色を發揮するやうな方向をとって進むことをせず、また時のたつに從つてそれが衰へていつたのは、こゝに一つの理由があるのであらう。さうしてそれはシナ畫においてわれ/\のいふやうな遠近法が成りたゝず、また色彩の取扱ひかたの發達しなかったこととも関係があらうと思ふ。寫實といふことが、一面の傾向としては、常に要求せられてゐたし、また色彩を用ゐることも行はれてゐて、花鳥畫の類には特にそれが著しく見られ、なほ宋代のいはゆる院體の畫の如きものも現はれたのであるが、それらも多くは私生活における室内の鑑賞に適するやうな形において作られたので、そのことが技巧の上にもいろ/\の影響を與へてゐるらしく、かういふものに筆觸の徒らに細緻なもののあるのも、その一つであらうか。
考がやゝよこみちに入って來たやうであるが、シナ畫とその技巧との特殊性には、士人の遊玩として畫のとりあつ(341)かはれたことと關係があらう、といふことをいはうとしたのである。思想的には、山水畫が特に喜ばれたといふことも、それと深い縁があるので、上に述べたやうな意味で世外の風趣を味はうといふ士人の好尚がそこにはたらいてゐるのである。山水畫の表現しようとすることは山水そのものよりもむしろ人が山水を愛する態度にあるといふことを曾て述べたことがあるが、(本書第四の十五所收「山水の愛翫」)、これもまたかういふ點からその理由が考へ得られるであらう。有名な詩の語をかりていふと、南山そのものの情趣よりも悠然として南山を見る氣分が畫の上に現はれるのを喜ぶので、畫題や構圖の上からそのことは知られるが、それは山水畫を作りまたは鑑賞する士人が、いはゆる俗塵のうちにありながらその俗塵を離れるのを高雅なこととし、畫によつてその氣分を表現し又は味はうとするからである。事實は、かゝる遊玩をなし得る地位なり境遇なりが、もと/\勢利の賜でもあり、勢利を有することの表徴でもあるし、上に述べたやうな書畫の骨董的蒐集もそれと離れないことであるが、思想としては因襲的にかういふことが考へられてゐた。山水畫の山水に楼閣を配することの行はれたのは、現實の生活における勢利の欲求とかういふ思想上の因襲とが畫題の上で結合せられたものと解することもできよう。山水の愛翫も山水畫の鑑賞または製作も、かういふ意味においてのみではなかったらうが、それの多かつたことは推測せられる。
それから技巧についていふと、一般に製作の過程が藝術において重要であることはいふまでもなく、作るといふことの一半の意義は、製作の一つの段階が次の段階を生み出し又は展開させてゆく、即ち斷えず創造せられてゆく、過程にあるのであるが、シナ畫の技巧において過程に興味があるといふのは、必しもさういふ意味のことではない、といふことを注意しなければならぬ。畫が創作である限り、シナ畫とてもそれが無いではないが、それよりもむしろ畫(342)くばあひにおける作者の主觀的の興味と、運筆に作者の氣分が現はれると共にその運筆のあとがそのまゝ畫面に示されるといふこととに重要さがある。シナ畫としてはそれにも意味はあり、技巧の熟達といふやうなことがそれと深い關係を有つてゐるが、他方ではまたそれが畫に畫としてより外の意味をもたせ、それがために却つて畫の本質を損ふことにもなる。なほ、このことについては、後世になると、畫面の構造などに關していろいろの規範が與へられ、畫を學ぶ方法としても摸寫が重んぜられてゐること、さうしてこれらは製作が斷えざる創造の過程であるといふのとは一致しないものであることが考へあはされよう。すぐれた畫家においてはともかくも、一般には、また士人の遊玩としての製作には、前人の摸倣が多いのも、こゝに理由がある。
以上多く畫について語つたのであるが、琴についてもまたほゞ同じやうなことが考へ得られる。シナの樂には古くから官府の儀禮としてのも、民間の娯樂としてのもあり、また隋唐時代には西域から傳へられていろ/\の方面で流行したものもあり、樂としての性質や價値もさま/”\であるが、士人の遊玩として琴が尊重せられたのは、それによつて獨りみづから樂しむことができるところに重なる理由があつたものと見なされる。音聲の藝術である樂は、その本質として多數人にきかせるはずのものであり、演奏そのことにも多くの樂器、多くの樂人の合奏が行はれるのであるが、昔から君子の伴侶として琴が取扱はれたのは、それとは違つた意味においてであり、獨り靜かに心をやり獨り靜かに心を養ふといふ點に重きがおかれた。從つてその琴聲が樂としての曲調をなすか否かは第二の問題であり、一歩すゝむと無絃の琴でもよいことになるのである。樂に道徳的意義を有たせようとする儒教思想もいくらかはこのことと關係があらうが、かゝる態度はそれよりもむしろ多數人と共にする生活、即ち社會生活、を卑俗とし隱逸を高し(343)とするやうな氣分と相通ずるものであり、樂そのものについていふと、既に述べた如く、畫において形似をすて氣韻を求めるのと一致するところがある。
しかし士人が琴をいかなる態度で玩んだにしても、或は玩ぶべきものと考へたにしても、それにはかゝはらず、樂は樂としていろ/\のものが世に行はれた。絃が無くてもよいやうな琴を玩ぶのは實は樂を奏するのではなく、さうして樂は人生の必然の要求としてなくてはならぬものだからである。たゞ琴をこゝにとり出したのは、社會生活から離れた生活を高雅なものとする考へかたが、そこにもあることをいはうとしたためである。さうしてかういふ考へかたは、畫は喜ばれても彫刻が尊重せられなかつたこととも關係があらうと思はれる。それらは何れも社會生活、公衆的生活、多數人と共にする生活において始めて成りたつものだからである。シナの彫刻は工藝的なものの外は、政治的權力の表示であつて陵墓に附屬する石人石馬の類か、然らざれば佛教及び道教における宗教的崇拜の對象もしくは寺觀の裝飾としての佛像神像の類か、が主なるものであるが、それらは何れも士人によつて藝術として鑑賞せられはしなかつたやうである。彫像としての佛像などは、それが宗教的のものであるといふことの外に、寺院の壁畫の類が一般には士人に親まれなかつたと同樣、私的室内的の鑑賞には適しないといふ理由もあつたらしく推測せられる。近ごろになつて新しく世にさわがれて來た大同や龍門の佛像彫刻の如きも、それがシナの藝術史文化史の上に如何なるはたらきをしたものであり如何なる地位を占めるものであるかは、その藝術的價値とは別に考へねばならぬことであり、またよし佛像彫刻の歴史においては意義の大きいものであるにしても、一般文化史の上にはさしたる關係が無かつたのではあるまいか。士人の注意が多くそれに向けられたやうには見えないからである。
(344) かう考へて來ると、はじめに一言した詩もまた同じ角度からながめることができるやうである。詩は實用的目的をもたずまた詞藻が主になつてゐる點において、遊玩の具としての性質を具へてゐるが、その詠ずるところは、世外の風趣か、然らざれば何等かの形、何等かの方面においての單なる感傷か、主なるものはこの二つを出でないやうであり、人事を放却して醉郷に入りそれによつて感傷を麻痺させる效果を有つものとしての酒が詩と並び稱せられるのも、そのためである。醉郷が日常生活を離れた世界であることは、いふまでもない。さうしてさういふ世界に入ることによつて麻痺させることのできる感傷が單なる感傷に過ぎないことも、また明かであるが、詩人は詩を作ることにより感傷を感傷として詠嘆することによつてその感傷を忘れるのでもある。なほ世外の風趣を愛することはいふまでもなく、人事についての感傷とても、それが感傷である限り、個人的のものであることを忘れてはならぬ。詩に政治的意義を有たせようとするが如きは、單なる思惟の上のことであり稀にさういふ意義を含んだ詩が作られても、その内容はやはり一種の感傷に過ぎない。
さてシナの藝術の少くとも一面においてこゝに述べたやうな性質があるとするならば、それはシナの士人の生活態度とでもいふべきものを示すものとして、特に注意せらるべきことであらう。彼等の生活は現實においては極めて醜惡である。彼等はみな名利權勢の奴隷である。その名利を求め權勢を得んがためにはいかなることをもするに憚からぬ。さうしてそれを得たものは、得たことを誇り得たところの力を用ゐて、あらゆる欲望を達しようとするが、得られなかつたり失つたりしたものは、ひたすらなる感傷に沈むか、然らざれば去つて世外の生活に遁避する。權勢名利の世界にあつてそれを醜惡と感ずるものもたまにはあり、さうしてさういふものもまた同じ態度をとる。その世外の(345)生活が即ち隱逸であり風月の愛※[王+習]であり酒であり藝術である。近代においてはそれらと共に鴉片を吸ふことである。隱逸は永久的の遁避ではあるが、それとても人生を離脱するのではないから、何の點かで世間的生活と接觸するところがあり、その他のものは世間にあり權勢名利の地にありながら一時的に世間を忘れ權勢名利を忘れようとするのである。さうしてその何れにしても、自己のみの安易を求めるものであり社會的關心をもたないものである點において、一種の利己主義である。人生と社會とのために進んで事をしようとするのではなくして退いておのれひとりの快樂を 享受しようとする點においては、消極的ではあるものの、やはり利己主義に外ならぬ。權勢名利の世界に生活することが利己主義であり、權勢名利による快樂を受用しようとするものであると共にさういふ世界を遁避した生活もまたこの點においては同じであるので、そこに全體としてのシナ人の生活態度があるのである。從つてさういふ遁避生活からとり殘された現實世界は依然として醜惡の世界である。日常生活を卑俗とする考へかたは永久に日常生活を、社會生活を、社會そのものを、卑俗の境におくものであり、高雅とせられた世外の生活はそれを救濟するやくにはたゝぬものである。藝術が個人的のもの、私生活のものであつて、それに社會的意義の無いのもまたそれと關聯して考へらるべきことであらう。これはシナ藝術の一側面ではあるが、重要なる一側面である。
日常生活のうちに美を求め、或は日常生活を美化するところに意味のある日本の藝術、自然と人生との對立を示すのではなくして、この二つの融合渾一した境地を表現する日本の藝術が、シナの藝術とは全く違つたものであることは、かう見て來るとおのづから明かになるであらう。
(346) 十四 シナ學に關する思ひつき
イ シナ思想研究の態度
シナの書物を讀んだり解釋したりすることは、日本では古くから行はれてゐた。殊にエド時代には、それが學問の中心のやうになつてゐた。本國のシナにおいてはいふまでもない。さうして書物を讀むことは、結局、思想を知ることであつた。そこで、今さらシナ思想の研究といふことに何の意味があるか、といふやうな疑が起るかも知れぬ。しかし、實をいふと、シナ思想はまだ學問的に研究せられてゐない。シナの學者やエド時代の日本のいはゆる漢學者とか儒者とかいふ方面の人々の學問は、現代の意義での學問的研究ではない。從つてシナ思想そのものがまだ明かにせられてゐない。最近になつて、西洋思想といふものに對し東洋思想といふものの宣傳が、盛に行はれてゐて、そのいはゆる東洋思想をシナ思想のこととして説いてゐるものもあるが、それらは大ていこれまでの日本の儒者やシナの學者が言つてゐることに本づいてゐる。從つてそれは殆ど學問的基礎の無いものである。元來、東洋とか東洋思想とかいふことばの意義が極めて曖味なものであり、またそれを西洋とか西洋思想とかいふものと對立させるのも、たしかな根據の無いことであるが、それは別の問題として、假にシナ思想を東洋思想と呼ぶにしても、そのシナ思想が實は學問的に究明せられてゐないのである。要するに、シナ思想は新に研究せられねばならぬ。
(347) そこで、今日の日本におけるシナ思想の研究の状態を見ると、大體三つの傾向があるやうに思はれる。一つは儒教を中心としてシナ思想を觀、その儒教を我々の遵奉すべき教として、何ごとが教へられてゐるかを説くことである。これは、結局、エド時代の儒者の態度の引續きであるが、この態度は儒教として宣傳せられてゐるものを一つの教として初から信仰してかゝるのであるから、それは、勿論、學問的の態度ではない。學問の精神は批判にあるが、かういふ態度にはそれが無い。教とせられてはゐるがそれが實行し得られるものであるか、シナにおいて果して實行せられたか、その教説には種々の矛盾が含まれてゐるがそれが何を意味するか、といふやうなことすらも、かういふ態度では考へ得られないのである。第二はシナの清朝時代の考證學者の研究法を受繼いだしかたである。この方法は局限せられた範圍内においては、學問的であるが、今日の學問の眼から見ると、方法そのものにも不完全なところがあるのみならず、その方法で研究し得られる事がらにも制限があるので、それによつて思想そのものの研究をすることはできない。考證學者といふものは思索には素養の無い人々であるから、思想を研究するといふことは彼等の考へ得なかつたところである。それから第三は、日本の學界に、西洋の哲學なり思想なりが研究されるやうになつてから行はれたことであつて、シナ思想を西洋の思想、西洋の考へかた、にあてはめて解釋して見ようとする方法である。これも正しい考へかたではない。といふのは、シナ思想といふものは、シナの風土、シナ人の生活、その社會組織、その政治形態から發生して來てゐるものであるから、それをシナと異なつた西洋の風土、西洋人の生活、その社會組織、政治機構から生じた西洋の思想にあてはめて考へるのはまちがひである。
然らば、どんな風にシナ思想を研究すべきかといふと、種々な方法が必要であるが、先づ第一は、その思想を形造つ(348)たシナ人の實生活、シナの社會及び政治の實際状態と、その基礎であるシナの自然の風土との關聯において研究することである。例へば儒教ならば、儒教が如何なる家族生活、如何なる政治形態、如何なる社會情勢、の下において發生したかを研究しなければ、その思想の眞髄を捉へることができない。さうして、かゝる研究には、さういふ生活からさういふ思想を生み出すに至つた心理の解釋が伴はねばならぬ。だから、一口にいふと、それは社會心理的な研究である。この研究は實は非常に困難なことで、家族生活の状態にしても、廣い社會組織または政治形態にしても、今日ではまだそれがよくわかつてゐないから、そのこと自身がこれから研究すべき問題なのである。從つてまたその研究には、逆に思想のほうから推測するといふ方法もある。が、いづれにしてもその間の關係を明かにするといふことが、第一に必要である。なほ儒教についていふと、それは一般民衆の精神生活とは關係の極めて少いものであつて、いろ/\の意味で政治的權力者と交渉のある少數の知識社會の思想に過ぎないものであるが、さういふものが長い間、シナの思想界に或る權威を有つてゐたのが何故であるかといふことも、またこの方面からの研究によつて始めて知ることができるのである。
第二にシナ思想を歴史的發展といふ方面から見ることである。例へば儒教にしても、儒教といふ決つたものが始めからあるのではなく、永い間の歴史的發達によつてできて來たものであるから、その歴史的發達を跡づけることによつて、始めて儒教の眞の意義が解つて來る。儒教といふものを初から一つの固定したものと考へると、眞の儒教は解らない。ところがそれを研究するといふことにも、多くの困難が伴ふ。例へば、儒教の經典ができた時代といふものを考へることは、儒教の歴史的研究の基礎になることであるが、それを知ることは容易で無い。五經といふやうなも(349)のは、普通にはみな孔子が作つたとか編纂したとかといふことになつてゐるが、本當にさうかどうかといふと、種々な疑問が起つて來る。それを學問的に研究して、果して孔子が手にかけたものか、或はさうでないか、さうでないとすると何時できたものであるか、といふことを、根本的に研究するのは甚だむつかしい。むつかしいが、それには學問的の方法があるから、それによつてこの問題を解決してゆかねばならぬ。なほ思想の歴史的發展には、思想そのものの内的發展と、社會情勢、政治上の状態、などの變化に伴つて生じたこととがあるが、あとのほうのことについては、上に述べた社會心理的の研究法によることが必要であると共に、社會史、政治史、その他、一般文化史、との關聯においてせられねばならぬ。歴史の知識が無くては思想の研究はできない。
第三にはシナ人のものの見かた考へかたを明かにしてそれをしつかり?むことが必要である。シナには論理學といふやうなものは發達せず、全體に論理的な考へかたが無いけれども、シナ人特有な、ものの見かたや考へかたがあるので、それをしつかり?むことによつて、シナ思想の眞の了解ができる。そのことに注意しないでシナ思想を取扱ふと、甚だまちがつた結論に到達する。
第四はシナ語の性質を明かにすることである。われ/\がシナの思想を知るには、書物によるのが第一の方法であり、さうしてその書物はシナ語で書かれてゐるが、シナ語はいはゆる孤立語であつて、その組立てが日本語ともヨウロッパの語とも違つた特殊のものである。凡て思想はことばによつて表現せられるものであるから、一方において思想によつてことばが作られたり精練せられたりするけれども、他方において思想がことばによつて制約せられる。從つてシナの思想そのものもその考へかたも、シナ語の性質から特殊な制約をうけてゐる。これまでシナにおいても日(350)本においても、文字の研究には相當の注意が拂はれて來た。書物を讀む以上、文字を研究することも當然だが、それと共に、或はそれよりも一層、シナ語の特質を明かにし、その特質によつて如何に思想が制約せられ、それがために如何に特殊な思想が形成せられたかを考へることが必要である。
以上は研究の方法についてのことであるが、次に考ふべきは、今日のシナ思想の研究者があまり注意しないことで、實は大切な研究の分野があるといふことである。差當りそれを三つばかり擧げてみたい。その第一は佛教との關係である。佛教がシナに入つて來ると、シナ思想との間に二つの關係が生じた。一つはシナ思想が佛教思想の影響をうけたこと、一つは佛教思想がシナ思想の影響をうけてインドの佛教には無かつた教理上の新展開が行はれたことである。從來、第一の方面については或る程度に考へられてゐたので、例へば宋儒の學には、佛教の影響があるといふことが一般に知られてゐる類がそれであるが、第二の方は、あまり考へられてゐない。けれども、それはシナ思想を知るには大事なことである。佛典はシナ語に翻譯せられてゐるから、佛典そのものが既にシナ語の制約をうけシナ思想の色彩を帶びてゐる。ところが、シナの佛教學者は、極く少數の特殊の人を除けば、原典を少しも知らないで、飜譯せられた經典のみによつて學びもし考へもしてゐる。從つてそこから、經典の解釋についても、シナ語によつてでなければ考へ得られないやうなことが考へられて來る。全體としてシナ的のものの見かたシナ的の考へかたが存在することはいふまでもない。實際の信仰の方面から言つても、シナ人の精神生活シナ人固有の信仰と何の點かで結び付くことが必要であつたから、そこにもまたシナの佛教にはシナ的のところがある。さういふ意味から、シナの佛教は教理の方面でも信仰の方面でも、シナ思想の影響を著しく受けてゐる。だから、佛教がどういふ風にシナ化せられてゐるか(351)を見ることは、シナ思想を知る上に必要なことである。しかし、從來の傾向として、シナ思想の研究者は、佛教に重きをおかないか、或は佛教の知識を持たないかであり、また佛教の研究家には、シナ思想の知識が不充分であつた。從つてこの方面の研究が深く學者の注意に上らなかつたが、これからは、それを補ふことが必要である。
第二は文藝方面との關係である。昔は漢學者がシナについての學問を何でもする。經書の學問もするし詩も作るといふ風であつた。その學習法は今日からいふと、正しい方法ではないが、いろ/\の方面に亙つて知識を持つてゐたといふことだけは、今日の状態と比べて見て面白い點である。今日では學問が專門的に分れて來たから、シナ思想とかシナ哲學とかを研究する人は、文藝の方に縁が遠くなつた。それがためにシナ思想の眞相を識ることができないばあひが多い。それは文藝の形において表現せられて居るシナ思想を研究することが必要であるからばかりでなく、シナ人の物の考へかたが論理的でなく、いはば文學的であるからでもある。シナ思想、シナ人の考へかたは、シナ語に特有な修辭法と密接な關係を有つてゐるからである。エド時代の學者のやうなしかたではいけないが、思想を研究するについても、文學のほうの趣味と素養とを持ち、またそのほうに注意を向けて行くことは必要である。
第三はヨウロッパの思想との對照といふことである。前にヨウロッパの思想にあてはめてシナ思想を解釋するのはまちがひであるといつたが、シナ思想を研究するに當つて、ヨウロッパの思想と比較對照し、同じ人間の思想としての共通點が何處にあるか、同時にそれ/\の特色が何處にあるか、如何なる生活の差異からさういふ特色が生じたか、を判然させることが必要である。ヨウロッパばかりでなく、インドの思想に對しても同樣のことが考へられる。ヨウロッパの思想は、後世になつて複雜な發展を經てゐるが、シナの思想はそれに比べると歴史的變化が少い。シナ思想(352)は上代に一旦形をなすと、その後は大いなる變化をしなかつた。そこでシナ思想に比較對照すべき文化民族の思想は、西洋においては主としてギリシャ思想、東の方においてはインド思想、この二つである。世界全體からいふと、インド思想、ギリシャ思想、シナ思想、この三つ、或は後の歴史から見るとそれにヘブライ思想を加へて四つといつてもよいが、それらが上代の文化民族の最も重要なる思想であつて、同じく上代人の思想ではあるが、一々についていふと、それ/\に異なつた精神を有つた特異のものである。それらを互に對照してその特異點を明かにすることによつて、シナ思想の本質を知ることができるのである。
なほこれに關聯したことで注意しなければならぬことは、今日の西洋の學者のシナ思想の研究である。西洋の學者のシナ研究は段々盛になつて來て、その業績も種々な方面において學界に提出されてゐる。けれども思想の方面においてはそれがまだ幼稚である。それはシナの書物を讀むのが彼等には困難であるのと、シナの思想を了解するのが難しいのと、この二つの事情からである。けれども西洋人の研究を見るばあひに、何故にシナ思想がヨウロッパ人には了解が出來ないかをよく考へて見ることによつてそこからシナ人の思想、ものの見かた、考へかたと、西洋人のものの見かた考へかたとの間に大なる差異のあることが解り、それによつてシナ思想の本質を?むうへに助けになることがある。そればかりでなく、もつと廣い意味からいへば、今日の學問は世界的であつて、世界の學者の共同の研究によつて學問は進められるのであるから、日本人のこれからのシナ思想の研究は、世界の學者のシナ研究との關聯において行はるべきである。
最後にこれからシナ思想の研究をしようとする人々に對する希望を述べておく。これまでシナに關する學問に向つ(353)て來た人々の多くは、西洋の學問を好まない人々であつたが、それは大なる誤りである。今日では學問の方法といふものがヨウロッパの學問のしかたによつてうち樹てられてゐる。だから現代の學問としてシナ思想を研究するには、この意味での學問の方法を十分理解してゐなくてはならず、それには研究者自身が相當に西洋の學問に習熟してゐなくてはならぬ。シナ思想と西洋思想とを比較對照すること、また西洋の學者の研究に注意することなども、西洋の學問に親みと理解とを持たない者にはできないことである。一くちにいふと、學問は世界的のものであるから、世界の學問に注意を向けない人には、本當のシナ思想の研究はできないといふことである。
それからシナ研究をするには、シナ人もしくはシナの思想に同情を持つてゐることが必要であつて、それがないとシナの思想なりシナ人の生活なりに、眞の洞察を加へることはできない。しかしそれはシナ癖シナ崇拜とは根本的に意味が違ふ。シナ思想の研究はどこ迄も學問としての研究であり批判でなければならない。昔風の儒者がシナの教といふものを完全なものとして、初からそれを崇拜してかゝるやうな態度を根本的に改めなければならぬ。それに關聯して、東洋思想といふやうな流行語にどれだけの意味があるかといふことも、よく考へて見る必要がある。近ごろ東洋思想といふ語が恣に用ゐられてゐて、佛教家は佛教を東洋思想といひ、シナ學者はシナ思想をさう呼ぶので、それは實はこの語が内容の無い空虚なものであることを示すものであるが、今假にシナ思想のこととして考へると、シナ特有の風土自然と、その上に生活するシナ人に特殊な家族形態、社會組織、政治機構、とから生じ、またそれと離すことのできないシナ思想が、全く風土を異にし生活樣式を異にし、家族、社會、政治、の形態を異にする日本人、特に現代の世界化した日本人の生活に何の關係があるか、といふことをよく考へれば、東洋思想といふものの宣傳が如(354)何に無意味なものであるかは、すぐにわかるはずである。シナ思想の學問的研究は、さういふやうなことに累はされずに行はれねばならぬ。
かう考へて來ると、シナ思想の研究は何の爲に必要かといふことが問題になるかも知れぬから、そのことを附言しておかう。それは第一に、純粹の學問的見地からである。シナ思想は過去の長い間、シナの知識社會を支配して來た思想であり、嚴然たる歴史的存在であるから、それが如何なるものであるか、人類に如何にしてかゝる思想が生じたか、それがシナ人の生活に如何にはたらいたかを明かにすることは、學問として是非とも研究しなければならぬことである。第二には、日本にとつてのことである。日本人は過去において長い間、シナの書物を讀み、その思想を知識として有つて來たのであるから、日本人の知識の一淵源としてのシナ思想を研究する必要がある。それと共に、過去の日本の儒者がシナ思想の宣傳につとめたにかゝはらず、實際にはそれが日本人の生活を指導する力を有たなかつたといふ歴史的事實によつても知られる如く、シナ思想が如何に日本人の生活には適合しないものであるかを明かにするにも、シナ思想の研究は徹底的に行はれねばならぬ。第三にはシナのために日本人がシナ思想を研究する必要がある。シナの學問は全體として、今日においては我國より遙かに幼稚であり、從つてシナ思想の學問的研究が容易に行はれない。それは現代の學問の眞の意義とその研究法とがシナ人にはまだはつきり解つてゐないからと、も一つは、自己の民族の思想を自己自ら嚴正に批判することが困難であるのとの故である。特にシナ人の如く中華を以て自ら任じてゐる民族には、自己を批判することは一層困難である。だから、日本人のシナ思想研究がシナの學界を指導して行くといふことが必要である。實際的の問題としても、シナがこれから世界に立つてゆくには、過去のシナ思想を打(355)破することが必要であるが、それをシナ人に自覺させるには、學問的の嚴正なる批判によることがその一つの方法であるから、このことは單なる學問の上のしごとであるばかりでは無い。第四にはヨウロッパの學問の爲である。ヨウロッパのシナ研究は段々進んでゐるが、思想の研究においてはまだ幼稚であつて、それは前にも述べたやうに、シナの書物を讀むこと思想を理解することが難しいことから來てゐるが、その點では日本人は遙かに便宜を持てゐる。漢文を讀むことは彼等より遙かに容易であるし、長い間シナの書物に接してゐた關係上、シナの思想の理解にも便宜があり、それに加へて日本人は現代の學問の研究の方法を理解してゐる。從つて日本人のシナ研究が、ヨウロッパのシナ研究を指導するのは、さ程に困難なことではない。これからの學問は世界的であると言つたが、今までは日本人はヨウロッパから種々な學問を教へられたのである。今後はヨウロッパに教へヨウロッパを指導するところがなければならぬ。それについて先づ務めなければならぬことは、凡ての點においての東方の研究である。これこそ日本の學者が世界の學界に寄與すべき大なるしごとである。さういふ意味から言つても、日本人のシナ思想の研究は大切なことである。またわれ/\がシナ思想を研究するには、それだけの意氣ごみをもつてしなければならない。しかしそれは何處までも嚴正なる學問的研究でなければならぬ。學問的方法によらない因襲的の考へかたや、いはゆる西洋思想に對抗するものとして、學問的根據も無く、東洋思想といふものを宣傳するやうなしかたでは、決して、できないことである。さうして、嚴正なる學問的研究が行はるれば、無意味な因襲はおのづから破れ、根據の無い宣傳はおのづからできなくなる。
(356) ロ 日本におけるシナ學の使命
こんどのシナ事變が起つてからたれしも深く感ずることは、シナについての日本人の知識があまりにも足りなさすぎるといふことであらう。日本人がシナについての研究をあまりにも怠つてゐたといふことであらう。シナ文字をつかふことがあまりにも好きであり、シナを含む意味で東洋といふことを何につけてもいひたがる日本人が、そのシナについての知識をあまりにも有たなさすぎることが、こんどの事變によつてよく知られたのではあるまいか。或はこれから後もます/\よく知られてゆくのではあるまいか。しかし時局について語ることは、わたくしの職分を超えてゐる。わたくしはたゞ、かういふ状態には學問としてのシナの研究、即ちシナ學、が日本においてまだ十分に發達してゐないところにも理由があるといふことを述べ、さうしてそれと共に、シナ學は單に目前の賓際問題を解決するについて必要な知識を提供する責任があるにとゞまらず、學術そのものとして大なる使命を有つてゐることを説きたいと思ふのみである。
こゝにシナ學といふのはシナを研究する學術といふことであるが、自然科學に屬するものはそれに含ませないほうがよからうから、シナの文化を研究する學術と限定していふべきであらう。これまで日本にもシナに關する學問はあつたので、それが漢學ともいはれてゐた。或は今もなほそれがあるといつてもよからう。漢といふのはシナのことであるから、漢學といふ名はことばの上ではシナ學といふのと同じであるが、われ/\が今、漢學の名をすてて、ことさらにシナ學といふ稱呼を用ゐるには、理由がある。漢學は現代の學術の意義でシナを研究するのではなくして、シ(357)ナのことをシナから學ぶのである。さうしてその學ぶことは、主としてシナの文字とそれによつて書かれたシナの古典とであつて、思想的意義においてはその中心が儒學にある。一くちにいふと、漢學は儒學の一名であり漢草者は儒者であつたといつてもよいほどである。儒教の外のシナの思想を知ること、シナの古典的詩文をまねて作ることがそれに伴つてもゐたが、よしそれにしても、シナの書物に記されてゐることを學び知り、すべてにおいてそれを手本としようとしたのが、いはゆる漢學である。さて、かういふ儒學としての漢學を思想的側面から見ると、それが現代的の學術でないのは、教としての儒教を説くためのものだからである。儒教は教であるから完全なものとせられ、從つてそれに對しては批判が許されぬ。研究といふことも教そのものを批判しない程度において許されるに過ぎないから、それは書物や文字の解釋などの末節においてのみ行はれる。また教といふものには必然的に傳統の權威と宗派的偏執とが伴ひ、その點からも自由な研究が妨げられる。或はまた儒教の歴史的發展を考へることが好まれず、儒教ならぬ思想のそれに入りこんでゐることを認めたがらないのも、儒教は初から完全なものとして成りたつてゐると見たいからである。なほ教は完全なものでなければならぬから、何時の世にも適切なものとせられるが、その實、儒教はシナの昔の社會や政治の状態から生じたものであるから、日本の、また現代の、事情にはあてはまらぬ。けれども、あてはまらぬとしては教の權威が無くなるから、強ひてそれをあてはめようとしてむりな附會をする。儒教は國家主義であるといつたり、又は儒教に國際道徳の思想があるやうな考へかたをしたりするのも、かういふ昔の儒者の遺風であらう。儒教道徳は特定の關係のある個人と個人との間のものであつて、集團生活に關するものはそれには全く存在せず、政治思想としては君主が如何にして民衆を服從させそれを駕御するかを説くのがその精神であつて、現代的意義(358)での國家といふ觀念は全く無い。またシナの帝王は全世界に君臨すべきものとせられてゐる儒教に、現代の國際關係の如きことが豫想せられてゐないことは、いふまでもない。だからかういふことをいふのは實は儒教そのものを歪曲することになる。儒教の術語を現代にあてはめようとするのも同じことであつて、王道といふやうな語を用ゐるのもそれである。儒教思想での王道と現代の國家とは根本的に矛盾した精神をもつものである。君主と民衆とを對立の地位におき、さうして民衆の生活の全責任を君主に負はせるのが王道だからである。儒者はまた儒教の教としての權威を傷けるやうな事實には全く目をふさぐ。儒教がシナの帝王やそれに隷屬する知識人によつて長い間支持せられて來たにかゝはらずシナの政治が曾てよくなつたことが無いといふ明白な事實について、儒者は知らぬかほをしてゐる。かういふ儒者の學問が眞の學術でないことは明かである。漢學の稱呼をとらずシナ學といふ名を用ゐるのは、これがためである。シナ學は儒教をも研究の對象とするが、儒學とは違つて自由な學術的見地からそれを解剖し分析し批判するのである。シナのあらゆる文化現象を研究するに同じ態度をとることは、勿論である。
もつともシナ學といふ名は、ヨウロッパの學界におけるシノロジイの譯語として、これまでも行はれてゐたものである。シノロジイはエヂプトロジイとかアッシリオロジイとかいふのがこれらの古代東方民族の文化を研究する學術の名として用ゐられてゐるのと同じく、極東のシナを研究の對象とするものであるが、それには東方のいろ/\の民族の文化がヨウロッパの現代文化、ヨウロッパ人にいはせるとそれが即ち世界の文化、の圏外にあるもの、彼等にとつては何等かの特異のものであるといふ考が潜んでゐる。現代の學術が多くの部門に分れてゐて、それ/\專門的に研究せられてゐるにかゝはらず、これらの東方民族の文化の研究においては、一括してそれをエヂブト學とかシナ學(359)とかいつてゐるのも、そのためのやうである。無論、かういふ名には歴史的の由來もあり、これらの民族の文化について專門的に科を分けて研究するほどのことが知られてゐなかつた、或はゐない、といふ事情もあるし、また例へば同じくシナ學者といはれてゐても、實際は學者によつてそれ/\研究の方面が違つてゐて、その意味では部門が分れてゐるのと大差が無いことになる、といふ事實のあることも考へねばならぬが、それにしても、かういふ名が依然として用ゐられてゐるところに意味がある。さうして上に述べたやうにしてやゝ專門的に東方民族の文化を研究するにしても、それ/\の專門的な學術の本領からは離れたもの、何等かの特異のもの、のやうに考へられる傾向がある。學術がヨウロッパ人の學術であり彼等の文化現象の一つである以上、今日までのヨウロッパ人の考としては、これもまたむりのないことであらう。さすれば、さういふ風の學術としてヨウロッパに行はれてゐるシナ學のその名をわれ/\が用ゐるのは、甚だふさはしくないやうでもあるが、われ/\は別の意味でそれを利用するのが便利だと考へる。それは多くの方面から、また多くの部門に分けて、それ/\の專門的研究をするにしても、その間に緊密な關係をもたせて互に助けあひ、さうしてそれを綜合することによつてのみ、シナの文化は明かにせられるからである。シナの研究のみでなく、すべての學術がさうであるので、學術の分科は止むを得ざる便宜法であり、或はむしろ制約であり、研究の目的は全體としての文化であり人間生活である。ところが、學術が分科的になるに伴つて、その一つ/\の部門がそれ/\に別々の目的を有つてゐる獨立の學術であるやうに考へられるのみならず、その一部門の專門家には、その部門のみが學術のすべてであるやうにさへ思ひなされる傾向が生じ、從つて一方面からのみ見たことで全體をおしはかりがちであつて、これが現代の學術の弊である。シナ文化の研究においてもこのことが考へられねばならぬが、(360)日本人のシナ研究においては特にそれについて注意しなければならぬことがある。日本人のシナに關する知識は、長い間の因襲として、いはゆる漢學、或はその中心となつてゐる儒學、によつて與へられたものが主になつてゐるやうであるが、上に述べたやうな儒學の學問のしかたが現代の學術のと全く違ふといふことを除けて考へても、儒教は多方面であるシナの過去の文化、過去のシナ人の生活のわづか一部面であるに過ぎないのに、それがシナ人の生活を支配してゐたシナ思想の全體であるやうに何となく考へならされ、儒學によつてシナの全體が知られるやうに錯覺してゐたのが、儒學の教養をうけた日本の過去の知識人であつた。なほ儒教そのものについても、經典のみによつてそれを知ることはできないので、儒教を發生させ變化させ、また後世までそれをうけつがせたシナの社會的政治的状態とその歴史的推移、シナ人の心理、思惟のしかた、シナ語の性質、竝に儒教と竝んで存在した種々の思想、宗教、文學、藝術、及びそれらと儒教との關係など、要するにシナ人の生活、シナの文化の各方面にわたつてのそれ/\の學術的研究を遂げることによつて、始めて儒教を知ることができるのであるが、これまでの儒學はかういふことを殆ど問題にしてゐなかつた。從つて儒學を講じた昔の儒者は實は儒教を知らなかつたのだといつても、さしつかへが無いほどである。さういふ儒者がシナを知らなかつたことは、いふまでもない。そこでわれ/\は現代の學問のそれ/\の分科に從つて各方面のシナ文化を學術的に研究すると共に、その研究が一つの全體としてのシナ文化を明かにするためであることを忘れず、相互の間に聯路を有たせつゝ、綜合的な見かたを矢はないやうにして、その研究を進めてゆかねばならぬ。儒教そのものもまたかゝる研究によつて始めてその眞の性質と竝に過去のシナの文化におけるその地位と功過とが明かにせられることにならう。かういふやうに、いろ/\の學術的研究の間の相互の關聯と綜合とを尊重(361)する意味において、それ/\の分科がありながらそれを包括してシナ學と稱することが適切であらうと思はれる。
ところで、かういふシナ學の使命には、純粹に學術としてのと、直接に實世間にかゝはりのあるものとしてのと、二つの方面があらう。そこで、純粹なる學術上の見地に立つて第一に考へられるのは、いふまでもなく我が日本の學界に對するその使命である。近ごろの日本の學界におけるシナ文化の研究は、かなり諸方面にわたつて行はれてゐて、りつぱな業績がおひ/\に現はれて來たが、研究すべきことがらの無數にあり無限であることから見ると、まだほんの手がつけ初められたといふまでの話であり、さうしてまた殆ど手がつけられずにゐる方面も少なくない。日本の知識人が常に目なれてゐる古典シナ文を正しく解釋するといふことだけから考へても、ぜひともしなければならぬシナ語の言語學的研究といふやうなことが、その一例として擧げられよう。日本人はシナ文を日本語化して讀むので、一般には日本語とシナ語との言語としての性質のちがびが明かに考へられてゐず、それがために古典の解釋を誤まることが多いやうであるが、これは一つはシナ語の言語學的研究が行はれてゐないからである。それの行はれない一つの理由が或はかういふ讀みかたになれてゐるところにあるかも知れぬが、少しく考へてみれば、かゝる讀みかたそのものに大なるむりのあることはわかるので、そこからシナ語の言語學的研究が要求せられて來るはずでありながら、それが多く試みられてゐないのではあるまいか。シナ語の歴史的變遷の如きも、古典シナ文を見なれてゐると共に現代シナ語にも接してゐる日本人、日本におけるシナ文字の聲音とシナにおけるそれとの違ひを知つてゐる日本人には、おのづから學術的研究の興味をよび起させる好題目であるにかゝはらず、その研究が進んでゐない。さうしてかうい(362)ふことはどの方面にでもある。日本はかつてシナ文化の世界に包みこまれたことがなく、日本の文化は日本において獨自に發展して來たものであるが、その文化財ともいふべきものにはシナに淵源のあるものが多いから、それらの一つ一つについてのその淵源を明かにすることが必要でありながら、その研究の十分にできてゐないものがあるからである。
研究が行はれてゐるやうに見えてゐても、その實、眞の學術的方法によらず、非學術的な過去のシナ人の考へかたがうけつがれてゐることも、少なくないやうである。例へば古典の研究においては、近代シナに成りたつた考證學の方法が殆どそのまゝに用ゐられてゐるといふやうなことがあるのではなからうか。考證學の方法にも現代の學術から見て妥當なものはあり、それによつて尊重すべき業績が多く遺されてゐることも事實であるが、もと/\古典の記載をその記載、特に文字、によつて考へることから出發した方法であり、それだけですべてを推斷しようとするものであるために、現代のいはゆる文獻學において大切なはたらきをしてゐる思想的の取扱ひかたは殆ど缺けてゐる。思想の社會的心理的もしくは歴史的研究などに至つては、考證學者の夢にも考へ及ばなかつたところであり、初めからその方法の範圍外に屬することであつた。考證學の方法による古典の批判にすら一定の限界があつたのは、一つは考證學者がなは儒學者であつたからでもあるが、一つはまたこの故でもある。だから、かういふ方法で眞の學術的研究をすることはむつかしい。上に述べたやうな儒者の態度のうけつがれてゐる方面でのしごとは學術的研究としては初めから論外におくべきものであるが、さういふ方面において或る程度に研究的態度のとられたばあひにも、または儒者風の色あひの薄かつたり無かつたりする方面の學者のしごとにも、そこに幾多の勞作があり優れた見解の認められる(363)ものがあるにかゝはらず、研究の方法としては多かれ少かれ考證學のそれに拘束せられてゐるきみがあるのみならず、意識してかせずしてか儒者風の因襲的思想にきがねをしてゐるようすさへも見られるのではあるまいか。さうしてこの點においては、現代シナの若い學者の方に却つて日本の學者よりも自由な學術的な研究的態度をとつてゐるものがある。彼等のうちに儒者的態度から離れてゐるもののあることは、いふまでもない。かゝる學者の眞に學者と稱すべきほどのものは數においてなほ少く、その業績において必しも賞讃すべきもののみには限らないが、かういふ態度がとられ、さうしてそれが學界の主潮となつてゐることにはきをつけねばならぬ。日本の學者にはとかく過去のシナの學風に追從するくせがあるので、それがためにさまででもないシナの老學者からすらも輕んぜられてゐたのであるが(追從するものはせられるものから輕んぜられるのが當然である)、それと共にまた過去の學風に追從してゐることによつて現代シナの新しい學者からも侮られるやうなことがなければ幸である。舊と新とにかゝはるのではない。過去のシナの學問のしかたが學術的でなく、新しいのがともかくも學術的方法をとらうとしてゐる點に意味があるのである。
日本のシナ學の使命はこれまでの學界のかういふ缺點を補ひ、現代の學術的方法によつてあらゆるシナの文化を研究してゆくところにその使命があるのであるが、上に述べたやうな儒者的な學問のしかたに對する、從つてまた儒教そのものと儒者の崇拜する過去のシナ文化とに對する、徹底的な根本的な批判がそれによつて始めて行はれるであらう。現代においてはさういふ批判を儒教に對しシナ文化に對して加へることが、さしあたつてのシナ學の第一の使命であるといつてもよいほどである。
(364) 第二はシナの學界に對する日本のシナ學の使命である。現代シナの若い學界に正しい意義での學術的研究の氣運が開かれてゐることは既に述べたとほりであるが、研究そのことはさして進んでゐるとはいひ難い。そこにはなほ記誦をつとめる昔からの因襲が殘つてゐたり、學術的研究の方法についての理解が十分でなく、論理的實證的に事物を考へてゆく用意が足りなかつたり、或はまた傳統の權威が或る程度にはたらいてゐたり、ヨウロッパ人やアメリカ人の見解なり學説なりにひきずられてゐる點があつたりするので、それらの事情のためにかういふ状態にあるのであらう。一例を擧げると、いはゆる殷墟出土の甲骨文字の取扱ひかたの如きにも、それがあるのではなからうか。あのやうなものがいかなる時代に何のために作られたか、またそれにいかなる價値があるかは、いろ/\の方面からの精細なる學術的研究を經た上でなくては決められないものであるにかゝはらず、さういふ研究を經ずしててがるに殷代のものと定められたのみならず、それによつて殷代文化といふものを臆測しようとするやうな性急なことさへも考へられてゐる。近年に至つて考古學的發掘事業が或る程度に行はれはしたが、それによつてすぐに殷代のものであることが歸結せられるかどうか、またこの間題は考古學的調査によつてのみきめられるものであらうか。もしその文字が果して卜に關するものであるとするならば、何のためにさういふものを甲骨に刻したのであるか。卜が燒かれた甲骨のひゞわれの迹を見ることによつて行はれたものならば、燒く前にそれに文字を刻するといふのは解しがたいことであり、またそのひゞわれの迹のある甲骨は神聖なものであるから、卜した後にそれに文字を刻するのはその神聖を傷けるものではないか。燒かない前においても甲骨は神聖なものとせられてゐたはずである。或はさういふことを問題としないでも、もし文字を刻することが實際の風習として行はれたとするならば、それは少くとも卜に必要のないことが卜(365)に附加せられたもの、卜の方式の複雜化せられたものであり、從つて後世のことでなければならぬのに、卜に關する記録の後に傳へられてゐる時代になつては、毫もさういふことの行はれたらしい形跡が見えず、さうしてそれよりも遙に古い上代においてさういふことがあつたといふのは、卜の方式の歴史的變化の順序に相應しないものではないか。この點についてはシナのいろ/\の占ひの術とその歴史との上から、また世界の諸民族の占ひの方式との比較對照の上から、總じては一般の原始的宗教や呪術やに關する學術的研究の上から、こまかに考へられねばならぬことであるが、さういふ研究が十分に試みられたかどうか。これは一つの問題を擧げたに過ぎないので、他にも研究すべき困難な問題がいろ/\ある。今一々それを述べないが、さういふ研究を經ず、それらの問題に一々明かな解釋を施さずして、甲骨文字を遠い上代のものとするのは、學術的の取扱ひかたとして周到な用意があつたとはいひかねるのではなからうか。こゝでいふのは、甲骨文字がいかなるものであり何時のものであるかの問題にふれようとするのではなく、また性急にそれを疑つたり否定したりしようとするのでもなく、シナの學者のその取扱ひかたが學術的であるかどうか研究すべきことがらが研究せられてゐるかどうかといふことであるが、實をいふと、はじめてこの甲骨のもてはやされたのが、學術上の見解からではなくして、文字を愛するシナ人の習癖、いはば一種の骨董癖、から出たことであるので、それから生じた愛翫的態度が後までも除かれないでゐるのではないかと疑はれる。さすればその取扱ひかたに眞の學術的研究の方法と見なしがたいところのあるのも、當然であらうが、それはやがて現代のシナ學界の進歩の程度を示す重要な一例を示すものではあるまいか。しかしさういふ點があるにしても、現代シナに學術的研究の氣運が開け、方面によつては相當の業績の現はれてゐることも、また事實である。もしさうならば、かういふ氣運をでき(366)るだけ助成し若いシナの學者と手を携へてシナ文化の研究を進めてゆくのが、日本のシナ學の使命でなければならぬ。さうしてさうするには、日本みづからにおいて一日も早く學術的でない從來のシナに關する學問のしかたをうちすて、新しい正しいシナ學を盛にして、それによつてシナの學界がおのづから指導せられるやうに努力しなければならぬ。日本のシナ學がシナの學問よりも進んだ状態になり、日本の學者のシナ文化に對する批判が正しければ、シナの學者はおのづから日本の學術を尊敬し、意識してもしなくても、それに指導せられるやうになる。さうして學術的研究の方法を理解する點においてシナ人よりは遙かに長じてゐる日本人には、これは決してむつかしいことではない。日本人の自然科學における業績を見れば、このことは明かである。たゞ長い間の因襲のために、シナに關する學問においては日本人のこの學術的能力が有效なはたらきをしなかつたのみである。
第三にはヨウロッパやアメリカのシナ學に對する日本のシナ學の使命である。西洋のシナ學者の熱心と精勵と努力とに對しては十分に敬意を表するし、その業績にりつぱなもののあることも明かであるが、しかしすべての業績がよいものであるとは限らぬ。概していふと、歴史上の研究とか考古學的なしごととかにおいては、すぐれたものがあるが、思想の問題になると、かなりようすが違ふ。儒家や道家の思想を考へるに當つても、その基礎的資料としては、過去のシナの學者の説なり古くからの傳統的思想なりをそのまゝうけ入れ、それに對して學術的檢討の加へられてゐないものがあり、文藝を語つても見當ちがひの臆斷が少なくないやうである。或はまたヨウロッパ人やアメリカ人の思想にあてはめて、またはそれから類推することによつて、シナの思想を考へるといふ弊もある。西洋の學者の論著を多く讀んではゐないので、斷定的のことばを用ゐることを避けるが、わづかばかり見たところから、かういふ感じ(367)をうけてゐる、日本人の思想についての西洋人の觀察に正しいものが極めて少いといふ事實からも、このことは類推してよいと思ふ。さうしてこれは西洋の學者としてはむりのないことであらう。西洋の學者にすぐれた業績のあることを見のがしてはならず、尊重すべきものを尊重するに吝であつてはならぬが、それと共にまた彼等のしごとと彼等の能力とを買ひかぶつてはならぬ。横文字で書いてあるから優れたものだと思ふやうな迷妄をとりのけることは、シナ學においてもまた必要である。過去のシナに行はれてゐたありふれた考が、西洋の學者の頭をとほして横文字になつて現はれると、その考が日本人の間に權威を生ずる、といふやうな笑ふべき状態をうち破らねばならぬことは、いふまでもない。要するに西洋の學者のシナ思想に關する研究には幼稚な點がある。さう思ふと、かういふ程度の西洋のシナ學の研究を指導してゆくのは、日本の學者の任務であることが考へられる。日本人は今、西洋に發達した學術上の知識とその研究の方法とをよく理解してゐて、この點においては西洋の學者と同じ能力を有つてゐる。さうしてシナの書物を讀みその思想を理解する力は彼等よりも優れてゐる。シナ學においては日本がヨウロッパやアメリカよりも高い地位を占めなければならず、また占め得られるものである。
第四は、必ずしもシナ學といふものに限らず、また日本とかシナとか西洋とかの區別に特殊のかゝはりの無い、一般の學問の進歩に對する日本のシナ學の使命である。現代の文化科學はどの方面のも西洋において一おうかたちづくられたものであるから、それには西洋に特殊な社會なり文化なりに本づいた見解が多く含まれ、また西洋の外の文化民族の生活や思想がその資料として用ゐられてゐないばあひが多い。從つてその學説にはかなり偏頗なところがある。
然るにそれが一般的世界的意義をもつ學術の形を具へてゐるために、さういふ學説に普遍的價値があるやうに見なさ(368)れ、シナの社會や文化をもそれにあてはめて解釋しようとするやうなことさへ行はれがちである。西洋で形づくられたいろ/\の學説がすべて西洋の外の文化民族にはあてはまらぬといふのではなく、さういふ學説を生み出した學術的研究そのものがいけないといふのではなほさらない。たゞ上に述べたやうな缺陷があるといふのである。そこでこの缺陷を補ひ、いろ/\の文化科學に眞の普遍性をもたせるやうにするのが、われ/\日本の學徒の任務である。これは勿論、シナに關することのみの話ではないが、シナのこともその一つであり、日本のシナ學が發達し、それによつて日本のシナ文化の研究がりつぱにできてゆくならば、その一部面からだけでも、世界的意義をもつ文化科學に新しい資料を提供し、日本人の思索によつてヨウロッパ人の見解を修正してゆくことができるはずである。學術は世界性をもたねばならぬ。それについては日本人やシナ人がそれ/\の偏見をはたらかせてはならぬと同じく、ヨウロッパ人やアメリカ人の偏見もまた正されねはならぬのである。
以上は純粹な學術的見地に立つてのことであるが、學術はどこまでも學術としての權威をもち學術としての使命をもたねばならず、さうすることによつて始めて世界の文化を進めてゆくことができるのである。しかし一面にはまた學徒の屬する民族の活動なりその時代の世界の動きなりに對して、學術自身のたちばから直接に貢獻するところがなければならぬ。そこで第一に事變下の今日の日本においては、シナの文化、シナ人の生活についての正しい知識をすべての日本人に與へることが、この意味でのシナ學のさしあたつての使命であらう。昔の儒者によつてシナの文化に關するまちがつた知識が與へられ、その知識がまだ十分にぬけきらないでゐるやうな状態だからである。日本の一部(369)の知識人においては、日本もシナも同じく儒教國であるといふやうなことが漠然と考へられ、シナ人の道徳觀念が日本人のと同じであるやうにさへ何となく思はれてゐるらしく、從つて日本人に對すると同じ態度でシナ人に對するやうなことがありがちであり、それがために思はぬ失敗を招くことが多い。だからさういふ考の誤を正すだけでも、今日においては意味のあることである。日本が儒教國でないことはいふまでもなく、シナにおいても儒教は帝王の權力を固めるために利用せられたのと官吏となることを畢生の目的としてゐた知識人がその官吏となるに必要な知識として學習せられて來たのと、この二つの外には殆どはたらきをもたなかつた。勿論これだけの事實は、少しくシナの實情を知つてゐるものならば、たれにでもわかつてゐることであつて、特殊なる學術的研究をまつて始めて知り得られることではないが、日本人がシナに對してはたらくために必要な知識であつて而も綿密な學術的研究によつてでなくては知り得られないことが、極めて多い。シナの政治、社會、道徳、宗教、家族形態、村落組織、土地制度、一々數へ擧げるまでもなく、要するにシナ人の生活のすべての方面の實際状態がそれである。或はまた地方による習俗や氣風のちがひ、知識人と一般民衆との思想及び感情の差異を考へることも必要であり、なほ日本がシナにはたらきかけるについて最も大切な、さうしてまた周到な研究を要することがらとして、シナ人の民族意識民族感情についてのさまざまな問題があるであらう。今日の世界の動きにおいて、その原動力となつてゐるものの一つは「民族」の觀念であり、さうしてシナの知識人にもいろ/\の事情から新しく強められて來た民族意識が存在し、刺戟の如何によつては民族感情の昂進するばあひがあるべきことを豫想しなければならぬからである。これらのうちには實際にシナ人と接觸することによつて知られることの多いものもあるが、しかしそれが確實性を有つには、それ/\のことがらにつ(370)いての歴史的由來を明かにすることと、諸方面から與へられた資料を學術的に處理し研究することとが必要である。さうしてさういふ確實なる知識の上に立つて始めてシナに對する正しいはたらきができるはずである。今日において最も必要な用意は、よく現實を凝視し、あらゆるシナの事物に對して冷靜な觀察を加へ、それについてのたしかな知識を得ることである。人々の單なる主張を徒らに強いことばで宣傳し、動もすればそのことばその主張にみづから陶醉するやうなことがあつてはならぬ。國民の志向するところを見定めてそれを簡明に表現することも必要ではあらうが、ことばは机の上でいくらでも作られるが事實はさうはゆかぬ、といふことも注意せられねばならぬ。かうはいふものの、かゝる知識をすべてにわたつて提供し得るほどに今の日本のシナ學は進んでゐない。目前の要求に應ずることがシナ學のほうでできないのである。率直にいふと、シナのことは學術的には研究のできてゐないことばかりである。勿論、部分的にはいろ/\の價値ある研究が現はれてゐるが、全體から見ると、かういはねばならぬやうな状態である。ここにはたゞシナ學にかゝる使命のあることを述べるのみである。さうして目前の要求を切實に感ずることによつてこの使命が學徒の間に自覺せられ、その自覺によつてシナ學の研究の大に興らんことを期待するのである。
第二にはシナに對する同じ意味での使命である。シナは今あらゆる方面についてシナみづからを反省しなければならぬ時である。シナ人は民族としてまた個人としてのその根づよい生活力を有つてゐるにかゝはらず、その政治において文化において現在の如き状態にあるのは何故であるか、それは過去の長い間の政治の精神なり文化の本質なり又は民族性の根本なりにおいて、重大なる缺陷があり、現代の世界に立つてゆくには適合しないものがあるからではないか、あるならばそれは何であるか、いかにしてさういふ缺陷のある政治が行はれ文化が形成せられ又は民族性が養(371)成せられたのであるか、これらのことを十分に反省しなければならぬ。シナの若い知識人には既にかゝる反省があり、過去のシナの文化や政治に對する批判的態度がとられ、それに伴つて新しい政治、新しい文化、を建設し民族生活を改善しようとする運動が行はれた。しかしその反省と批判とが十分でなく、さういふ運動そのものに過去の因襲や民族性の缺陷がからまつてゐて、それがために現在の破局が導かれた。しかしこれは決して過去の政治、過去の文化、が肯定せられその復活が要求せられることではない。過去の政治、過去の文化、に大なる缺陷のあることはあまりにも明かな事實である。必要なのは上記の反省と批判とを徹底させ、それを基礎として改新の運動が正しい方向をとつてゆくことである。しかしさういふ反省と批判とは過去の生活の誠實な學術的研究によらねばならぬが、シナ人自身においては、上に述べたところからもおのづから知られるやうに、それにはいろ/\の困難がある。そこで日本のシナ學がおのづからそれを助けてゆくことにならねばならぬ。シナ人がかういふ意味において日本人の研究をうけ入れるかどうかといふと、シナ人の性質としてはそれにもまた多くの困難があらう。しかし日本人の研究がたしかであり、さうしてそれがシナをよくするやくにたつことがわかつて來れば、シナ人とてもそれを承認しなければならなくなる。
第三に考へねばならぬのは、ヨウロッパ人やアメリカ人にシナの眞相を知らせる使命を有つてゐるといふことである。西洋のシナ學は、それが純粹なる學術的研究である限り、概していふと特殊な學問的興味からのしごとであつて、一般人に對してシナを知らせるやくにはあまりたつてゐない。一般人のシナに關する知識は、さういふシナ學からではなくして、現にシナにおいてはたらいてゐる宣教師や通信員や外交官や實業家やによつて與へられてゐるやうであ
(372)るが、かゝる方面の人々の意見には、業務の性質上、いづれも偏執がありがちであるのみならず、自分らの接觸してゐるところから得た感想で全體を臆測したり、現在の事態のみを見てその歴史的由來などを考へる遑が無いために、その事態の眞相を解しなかつたり、さういふやうな缺陷のあることを免れない。從つてシナの眞相が一般の西洋人には知られないことになる。だからシナについての正しい知識を彼等に與へるのは、公平な學術的研究を生命とするシナ學の力によらねばならず、日本のシナ學は進んでさういふ任務をひきうけなければならぬのである。以上が實世間に對する日本のシナ學の使命についての私見である。
こんなことをいつて來ると、學術的研究そのことについても實世間に對するはたらきについても、徒らに大言壯語をするやうに思はれるかも知れぬが、日本人は日本人のシナ學をそこまでもつてゆかねばならず、またもつてゆくだけの能力を十分に有つてゐると、わたくしは確信する。學術的研究についていふと、事實、史學とか考古學とかいふ方面では、今日の状態においてでも、シナに對し世界に對して日本人のこの能力を示すだけの業績を少からず有つてゐる。たゞシナ學の全體から見ると、殘念ながら、上記の使命に適應するだけのしごとをしてゐるとはいひ得られず、そこまでゆくにはまだ/\大なるへだたりがある。日本人がシナに對して實際的のはたらきをするための基礎的知識として要求せられてゐることをすら、今日のシナ學は提供することができないでゐるやうな状態ではないか。これにはいろ/\の理由があるので、その第一は、これまでの日本において眞の學術的研究とその精神とが尊重せられず、學術の權威も認められず、從つて研究のために必要な費用も供給せられず、學者も多く養成せられなかつたといふこ(373)とである。學術の研究には小さいことがらについてでも長い時間がかゝるといふことすら、一般には知られてゐない。純粹なる學術的研究、研究室内の研究は實務のやくにたゝぬ無用のもののやうに考へ、それでありながら何等かの必要が起ると急に學者を利用しようとしたり、學術上の素養も無く知識もないものが學術的研究に喙をいれようとしたり、さういふやうなことさへも無かつたとはいひがたいが、これではまじめな學術の研究が盛にならなかつたのは、むりも無からう。次に全體の學界の傾向からいふと、ヨウロッパやアメリカからは學ぶべきものが多いがシナからは何も學ぶべきものが無いために、學者の注意がそれに向けられなかつたといふことが考へられよう。たゞシナ思想を取扱ふ方面のみには、はじめにも述べた如く、シナに關する學問はシナのことをシナから學びシナを手本としてそのまねをするものだといふ昔風の考へかたが、今なほ或る程度に殘つてゐて、それがために過去のシナの思想に權威を認め、過去のシナの學者の言説やその考へかたに追從することが學問であり學問のしかたであるやうにさへ思ひなされ、日本においてシナの思想や學問の傳統から離れシナ思想そのものを批判する意味でのシナ學をうちたてるといふことすらも多くは思慮せられなかつた。これがこの方面でのシナ學の發達しなかつた重大の理由であらう。かういふ状態であつたから、日本のシナ學をシナに進出させ世界に進出させようとするやうなことは、この方面では、なほさら考へられなかつたのである。(シナの學問に追從する學問ではシナに進出する資格は無く、さういふ學問についてはシナは日本人の力をかりる必要が無い。)もし率直にいふことを許されるならば、この方面のシナ學は日本の學界においても進歩の最も後れてゐるものであるといはねばなるまい。それにはまたさうなるべきいろ/\の事情もあつたのであるが、ともかくこれが事實である。しかし理由がどこにあるにせよ、シナ學の現在は、全體から見ると、滿(374)足すべき状態でもなく、世界に對して誇るべき有樣でもないことは明かである。
しかし日本のシナ學に上に述べたやうな使命があり、さうしてその使命を遂げ得るだけの能力を日本人が有つてゐるとすれば、日本人はあらゆる力を傾けてその使命が遂げられるやうな状態にシナ學を進めてゆかねばならぬ。或る民族の活動において民族的優秀性を示すことの最も大なるものの一つは學術の研究であり、本質的に世界性を有つてゐるものもまたそれである。學術上の業績こそは、何等の摩擦もなく利害の衝突もなく、どの民族にもうけ入れられ世界に公認せられる。さうして世界の文化を發展させる原動力となる。自然科學とは違つて文化科學については、いろ/\の意味での民族的感情などが、一時的にはたらく處も無いではないが、終局においては學術の世界性は確實に保たれる。日本はこの意味であらゆる學術の研究を振興させねばならず、それが世界における日本の地位を高める最も近い道すぢであり、シナの知識人に對して日本の民族の優秀性を示すにも、これが第一の方法である。もし日本の學術が、シナ自身はいふまでもなく、ヨウロッパよりもアメリカよりも優れてゐる状態であるならば、シナの知識人は、少くともその點において、日本を尊敬しないではゐられず、日本を師としてそれから學ぶことを考へねばならなくなる。現に日本が現代の自然科學の研究においてシナよりも發達してゐることは、シナ人とても知つてゐるので、その點では日本を或る程度に尊重してもゐようが、たゞヨウロッパやアメリカのほうが日本よりも優れてゐると考へてゐるために、その尊重心が十分でないのである。日本がシナの文化を進めることに力を入れようとするならば、今日の學界の状態においてでも、この科學の力を以てし、その力をシナ人の實生活に利益を與へる事業の上に實現させてゆくのが最も適切な方法であり、それより外に方法は無いといつてもよいほどであるが、日本の科學が世界におい(375)て最も發達したものとなるならば、日本の文化を尊重しそれに信頼する念はおのづからシナ人の間に湧いて來るに違ひない。文化工作といふ語があるが、ことさらに工作を加へるのではなくして自然に日本の文化に信頼するこゝろもちが起るやうにするのが大切であらう。このことは文化科學においてもまた同樣であり、シナ學もまたその一つでなければならぬ。たゞ文化科學の眞價は自然科學のに比べて遙かにわかりにくいものであり、特にシナ學については、その研究の對象がシナのことがらであるために、シナ人には受入れられがたい一面もあるが、それと共にまた理解せられやすい一面もある。いづれにしても、卓越したシナ研究が日本人によつて提供せられるといふことは、シナ人に日本の學術、從つて日本の文化、を尊重させるについて大なるはたらきをなすものである。(反對に日本のシナ學がシナの學問に追從するものであるとすれば、それはシナ人の輕侮を招く外に效果は無い。)もつともそれには、文化科學のすべての方面の研究において日本がシナよりも優れてゐることの實證を示す必要があり、この點においては日本の學者みづからにおいてもそのしごとがシナ人のより優れてゐることの自信を有たねばならぬ。日本人がシナ人に對し漫然たる人種的優越感を以て臨むやうなことは固より避けねばならぬが、事實優越してゐることについては、それだけの自信をもつことは必要である。シナ人をして日本人に對する優越感を有たせるやうなことがあつてならぬことは、いふまでもない。日本の文化がシナの文化の助をかりなければならないやうな状態は、現在において絶對に無いからである。
たゞ日本のシナ學が上に述べたやうなはたらきをするには、世間のいろ/\の風潮に動かされず、あらゆる偏執に囚はれず、大言壯語と性急なまにあはせの判斷とをさけ、實用に縁遠いと思はれるやうな問題にも學術的價値のある(376)ことには十分に力を入れると共に、一つのことがらについても各方面各分科からの周到なる專門的な觀察を綜合して考へることを怠らず、要するに現代の學術の精神と方法とを誠實に守ると共に、學術の權威をどこまでも失はず、學術的良心によつて、おちついて愼重に、研究をつゞけなければならぬ。さうしてかういふ態度で研究せられたものによつてこそ、シナに關する正しい知識を世間に提供し目前の實務に對して眞の貢獻をすることもできるのである。
ハ シナ文化研究の態度
學問的研究は、時の風潮や政治上・社會上の事態や國際情勢や、さういふことによつて支配せらるべきものではなく、それらの變化によつて動かさるべきものでもない。逆にそれらを指導すべき任務をもつてゐるものである。時勢の變化につれて、研究の主題に新しいことがらが加はり、その資料にもこれまで得られなかつたものが與へられ、從つてまた研究の方法にも新生面の開かれることは、いふまでもなく、そこに研究の進歩の一つの道すぢがあるが、これは研究そのことや研究者の態度やが動かされることを意味するものではない。シナ文化の學問的研究とても、またさうでなくてはならぬ。いかなる勢力にも動かされず、何ものの權威にも屈せずして、シナ文化の眞實のすがたとその精神とを明かにするところにその使命がある。このやうな研究にしてはじめて世を指導することができるのである。エド時代までの日本の知識人は、概していふと、シナの文化を過度に尊重してゐた。儒者といはれたものにおいては、なほさらであつた。遠い昔からシナの文物を學んで來たところから生じた長い間の因襲が、日本に獨自の文化が次第に形づくられた後になつても、なほ拔けなかつたためであるが、一つはシナ人の性質、その現實のすがた、要す(377)るにシナ人の生活、をありのまゝに知らなかつたためでもある。それを知る方法も機會も極めて少なかつたとともに、それを知らうともしなかつたのである。シナ人はみな聖人君子でありみな學者であるやうに思ふものは、後には少なくなつたらしいが、それでもシナの知識人の中華意識、他の民族に對するおのが民族の極端な優越感を、そのまゝに承認し、中國とか中華とかいふかれらの自己尊重的な稱呼をさへ用ゐてゐた。國學者といはれたものには、その反對にシナを卑しまうとするものがあつたが、それは空疎な國家意識、その意義での無意味な日本優越感から出たものであつて、現實のシナを知らずまた知らうともしなかつたことは、儒者と同じであつた。ヨウロッパやアメリカの文物を學ぶやうになつた明治時代からは、シナ文化に對するこの尊重心は次第に薄れて來たが、それは必ずしもシナ文化を輕侮するのではなく、むしろそれに無關心になつたといふほうが當つてゐよう。現實の日本人の生活においてシナ文化から新たに與へられるところの無いことが體驗せられたからである。知識人が文字により書物によつてのみシナの文物を學んでゐたのみで、シナの文化そのものは日本人の生活と直接のかゝはりが無かつたむかしとは違ひ、明治時代からは、ヨウロッパやアメリカの文化が次第に日本人全體の生活をあらゆる方面において變へて來たからである。
しかし、文字により書物によつてシナの文物に特殊の親しみをもつてゐる方面では、やはりエド時代までの知識人の因襲から拔けきらず、それからひきつがれた氣分があり、むかしとは違つてシナ人の現實の生活に接しても、さういふ氣分を以てそれを見る、ために、それに對して正當な批判をすることができず、好むところにみづから阿ねるといふ傾きがかなりに強い。或はまた、シナの若い知識人のいろ/\な新しい運動に同情し共感するところから、そのこころもちを過去の文化にも及ぼし、かれらみづからが改革しようとする舊文化を却つて尊重するといふやうな態度も(378)見え、このばあひ、シナみづからがいかに變りつゝあるかの正しい認識を缺き、シナの文化は今も昔のまゝであるとするやうな錯覺に陷つてゐるのではないかと思はれることさへも、無くはない。もつともこの點については、シナの知識人みづからにおいてもはつきりしないところがあるやうであつて、かれらの運動がヨウロッパやアメリカから學んだところによりながら、または學ばうとするところを目ざしながら、やはり昔ながらの中華意識を、かなり執拗にまた強烈に、もつてゐるといふやうなことも、その一つのあらはれであるから、日本人にかういふ態度のあるのも、それにひきずられた氣味があるかもしれぬ。ともかくも、かういふさま/”\の事情から、日本の知識人の一部にはシナ好きともいふべき一種の氣風があるらしい。
ところが、全體からいふとシナの文化に無關心であつた一般知識人のうちにも、かういふ氣風に何ほどか觸れると、かれらの思想の奥のほうになほいくらか殘つてゐないでもない、エド時代の知識人から傳へられたシナ文化尊重の氣分が、それに誘はれて頭を擡げ、平生シナ文字を用ゐてゐる風習もまたそれを助けることになるし、長い間ヨウロッパの文化の空氣に浸つてゐたものが何かの機會でシナの書物を讀むと、珍しさにこゝろがひかれてそれに興味を覺え、さうしてヨウロッパの學問によつて養はれたかれらみづからの知識や思想でそれにほしいまゝな解釋を施すことによつて、それに對して過大の評價をするといふこともあり、特にヨウロッパのシナ學者のしごとや述作に接してゐるものは、それによつてさういふ學者のかなりまちがひの多いシナ觀察・シナ尊重に追從するといふこともある。かういふやうにして、シナ好きの氣風が思ひの外に世間に勢力をもつやうになつても來たらしいが、そのシナといふのは主として過去のシナの文物を意味するのであつて、今のシナのではなく、從つて若いシナには親しみが少ないやうであ(379)る。エド時代からの因襲であつたり、ヨウロッパの文化と違つた點に興味をもつたりすればかうなるのが自然である。東洋主義といふやうな思想の宣傳には、かういふこともいくらかのはたらきをしてゐるのではあるまいかと思はれる。いはゆるシナ通の一部のものや軍國主義者のシナに對する態度は、一面においては現實の勢力といふ點でシナを輕んじてゐたが、他面においては過去のシナ文化を尊重してもゐて、この二面の奇異なる結合がかれらの言動の上にあらはれてゐた。シナに對する空疎な優越感と一種の媚態とのからみあつてゐたのも、そのためであらう。さうしてかれらもまた現代の若いシナの文化運動を理解しようとはせず、それには少なくとも無關心なものが多かつたやうである。
しかし、シナ好きといふことになると、それは主として趣味の上のことであつて、學問的な研究の態度ではないが、日本のシナ文化の研究者にはこの二つの混雜してゐるばあひが多く、研究するよりもむしろ愛好するほうが強いくらゐである。それがために研究の精神である批判がおろそかにせられ、或は正しくせられない。エド時代の知識人からの因襲がはたらいてゐるとすれば、これは當然であるが、そのために日本のシナ學が進歩せず、方面によつては相當の成績を擧げてゐるものも少なくないけれども、一般的にいふと、過去のシナの學者のしごとに制約せられたりそれに追從したりする程度のものの多いのは、なさけないことである。若いシナ文化の研究者のうちには若いシナの新しい文化運動に同情と興味とをもち、研究の主題をそこに置く人たちがあるが、その研究がどこまで進んでゐるかについては、こゝには觸れずにおく。たゞかういふ方面においても、シナに對する愛好の情がはたらいてゐることは見のがせないやうに感ぜられる、といふことを一言したいと思ふ。
シナの文化に對する日本の知識人もしくは學者の態度はほゞかういふもののやうに考へられるが、それならば、こ(380)れからのシナ文化の研究にはどうすることが望まれるか。いふまでもなく、それは嚴正なる學問的方法によつてそれを批判しその眞相を明らめることである。批判といふことは、たゞ外部からその得失長短などを判別するだけのことではなく、内部に立ち入つて、或は内部から、その精神と本質とを開明するのがその主とするところであるが、それにはシナ文化、といふよりもその文化を形づくつて來たシナ民族とその生活と、に對する同情もしくは共感ともいふべきものがおのづから伴つて來る。或はむしろさういふものが無くてはならぬ。しかしそれはシナの文物を愛好するのとは違ふ。愛好は批判的態度を制肘し、嚴正明快なるべきその判斷を曖昧にし晦澁にする虞れのあるものであるが、このやうな同情なり共感なりはその觀察を親切にし透徹させるものである。外部から見れば過去のシナ文化に多くの缺陷があり弱點があり、シナ民族がそれをそのまゝ維持してゆかうとすれば、かれらは現代の世界に立つてその生存を全くすることができない。これは明かな事實であつて、それゆゑにこそ若いシナの知識人は新しい文化運動をさまざまに起したのである。しかし、シナ文化を學問的に研究するものは、何故にシナの文化にさういふ缺陷があり弱點があるかをこまかにたづねて、その由來を明かにしなければならぬ。さうしてさうするには、研究者がさういふ文化を形づくつたシナ民族自身のたちばに立ち、かれらの心情をとほして、その生活の實相を究めねばならぬのであり、そこに同情と共感とのはたらきがあるのである。さてこゝに缺陷と弱點とのあることをいつたのは、ヨウロッパに源を發した現代文化の世界にみづからを投入してそれに化せられることによつてのみ、シナ民族の生存が遂げられるといふ、現代の世界文化に對する過去のシナ文化の地位が、明かな事實としてそれを示してゐるからであつて、シナ民族みづからも自己の文化を反省するに當つては、何よりも先づこのことに目をつけなくてはならないのであるが、日(381)本のシナ文化の研究者がともすれば過去のシナ文化を愛好する癖のあることを考へると、かれらの研究としてもまたこゝから出立することが必要である。シナ好きの趣味を棄てなければシナ文化の眞の批判も研究もできないが、それを棄てるにはシナ文化の缺陷と弱點とを知るのがちかみちである。
しかしこゝで過去のシナ文化の缺陷と弱點とについて考へようとするのではない。たゞ、それを考へるための資料として、シナ文化の研究者に一つの問題を提供しようと思ふのみである。シナ文化の一つの特徴がその停滯性ともいふべきものにあり、上代において一たび或る程度に進んだ後にはそれがそのまゝかたまつてしまつたといふことは、何人にも異論の無いところであらうが、この停滯性の由來としては、シナの文化が治者階級のものであつて民衆のものではなかつたこと、その根柢にはシナ民族の農業生活とその形態とそれにつながる社會――政治機構とがあること、シナ民族の周圍が概して未開民族であること、從つて、他の文化民族に接觸しその文物を學びとるばあひの(インドから佛教を受け入れた外には)少なかつたこと、音のしるしではなくして語を示すものである煩雜なシナの表意文字、孤立語としてのシナ語の性質、論理的な思惟のしかたの發達しなかつたこと、シナ民族の生活とその思想とに自由の精神の無かつたこと、新しい生活を展開させてゆかうといふ意欲の乏しかつたこと、などが數へられるであらうが、それはともかくもとして、シナ文化のこの停滯性はその保守性と關係し、シナの知識人の中華意識、他の民族に對するおのが民族の優越感とつながつてゐる。提供しようとする問題はこゝから生ずるので、それは、シナの今の若い知識人がどれだけヨウロッパに源を發した現代文化を理解し、どれだけそれをわがものとしてゐるか、といふことである。具體的にいふと、例へば、現代科學とその精神とその研究法とが、哲學とその思惟の方法とが、文藝とその本質とが、(382)或はヨウロッパの社會・政治思想が、どれだけかれらに受け入れられ、さうしてそれがどれだけかれらの生活にはたらいてゐるか、といふことである。シナ民族が現代文化をかれらの生活において體得しなければその生存が遂げられないとすれば、これはかれらにとつて極めて重大な意味をもつことである。
ところが、シナ民族がもし現代文化を體得することができるとすれば、それはシナの過去の文化を一變するものである。現代文化の精神は、過去のシナ文化のそれとは殆どすべての點において反對のものであつて、上に過去の文化の特徴であつたその停滯性の由來として擧げたことは、言語の一つを除けば、すべてがそれによつて取り去られるはずだからである。從つてこれから後の文化にはその停滯性がなくなるとともに、新しい文化を體得するそのことがその保守性を棄て去ることであり、從つてまた中華意識、世界の文化に對する自己の文化の優越感を棄て去らねばならぬことになり、シナの文化はこゝに全く新面目を呈するのである。勿論、長いあひだ保たれて來た過去の文化が急に消え去つてしまふはずはなく、どれだけかのものがなんらかの形でその新しい文化に混じりあつたり、或はそれを抑制したりするのであらうが、その抑制する力が強ければ強いほど、現代文化を體得する力が弱められることになる。過去の文化にかういふ力があるのは、一つは、その根柢となつてゐるシナ民族の生活がシナの自然界、その風土の状態、に基礎があるために、たやすくそれを改めることができないのと、一つは、それが長い過去をもつてゐるために深く人の心にしみこんでゐるのとの故である。一例を擧げると、注音符號の制定において既にその端を發してゐる方向を更に進めて表音文字を用ゐることが、シナの文化を現代化するについて必要であるが、地方による發音の違ひの甚だしいあの廣いシナにおいて、音による言語の統一よりは、これまでの表意文字によるそれがさし當つて要求せら(383)れるとすれば、表音文字の採用は、この意味において抑制せられるであらう。また知識人の中華意識は、それの棄てらるべきことが知性によつて考へられるにしても、それに伴ふシナ文化の優越感は感情においてなほ持續せられ、さうしてそれが現代文化の理解と會得とを妨げるかも知れぬ。また或は、これまでかれらの思惟のしかたの非論理的であつたことが、孤立語たる言語の性質にも助けられて、論理的な方法に慣れることを拘束するであらう。シナ語のこの缺陷は、近代のいはゆる白話體を用ゐることによつて補はれるところもあらうが、しかしこのばあひでも、古典の知識とそれに對する尊重心とが、かなりにそれを牽制するのではあるまいか。文化のあらゆる部面においてこれに似たことがあるので、シナ文化の現代化には困難な事情が甚だ多い。
そこで、今のシナの知識人が、どこにまたどれだけかういふ困難のあることを知り、さうしてそれを克服するためにどういふ努力をし、どれだけの成果を得てゐるか、それを、かれらみづから現代文化をどれだけ理解し會得し、さうしてそれをかれらの生活の上にはたらかせてゐるか、といふ觀點から見ることが問題となるのである。この間題を考へるにはいろ/\の方面からしなければならぬが、そのうちの極めて手ぢかなこととしては、現代の學問的方法によつてかれらがどの部門に、またどれだけの、研究をしてゐるか、その研究が方法論的に正しいものであるかどうか、といふことを見るのも、一つのしかたである。或はまたヨウロッパやアメリカの哲學や科學に關する著作、または文藝上の作品をどのやうに、またいかなるものを撰擇して、飜譯してゐるか、といふことを調べてみるだけでも、このことを考へる一つの有力な資料にならう。ヨウロッパの文化民族の諸國語で表現せられてゐるかういふ方面のものをシナ語にうつしてその思想をありのまゝに傳へるのは、シナ語の性質上、むつかしいしごとであるが、そのむつかし(384)さをどういふ用意を以て、またどれだけの努力と熱情とで克服しようとしたか、さうしてまた實際どれだけそれを克服し得たか、またさうするために、いかなる著作を撰擇してゐるか、それを知ることによつてかれらが現代の學問や文藝をどれだけ理解し會得してゐるかを察することができるのである。こゝで思ひ出されるのは、むかし明未清初にそのころのヨウロッパの學問や技術がシナに入つて來たとき、シナの權力者や一部の知識人はヨウロッパ人をつかつてその技術を利用しようとはしたが、かれらみづからそれを學ばうとするものは少なかつたことである。その時代のシナの知識人には、はるか後の日本の蘭學者のやうな態度をとるものは殆ど無かつた。そこには多分かれらの強い中華意識がはたらいてゐたのであらう。ヨウロッパの學問に接觸することが日本よりは早かつたにかゝはらず、シナの知識人がそれを理解し會得しようとしたことは、日本人よりもずつと後れてゐた。今日でもシナ文化の現代化の程度が日本のよりもはるかに低いのも、こゝに一つの理由がある。この點においては確かに日本はシナよりも先進國であり、優越してもゐる。この意味においての優越感を日本人がもつのは、當然である。勿論、今のシナの知識人は明未清初のころのとは違ふ。しかしなほそこに何ほどかのつながりがあるのではなからうか。從つてまた、こゝにいつたかれらのしごとについて、日本の知識人のそれとくらべてみることも、意味が無いではなからう。
なほこのことについては、今のシナの知識人が日本の文化をどう見てゐるかを考へてみることも、一つの參考になるであらう。過去の日本の文化には日本に獨自のものが無く、すべてがシナの摸倣でありシナからの借りものである、といふやうなことをしば/\かれらのうちの或るものから聞くのであるが、これほど日本の文化の眞相を知らぬことばはあるまい。さうしてそれは、かれらが日本の文化をよく觀察もせず研究もしないからのことであり、或は中華意(385)識なり日本に對する自己の民族の優越感なりに目をくらまされて、正しい觀察と研究とができないからのことではあるまい。かれらがヨウロッパの文化を見るのは、日本のそれに對するのと同じではなからうが、異民族に對する態度としては、そこに何ほどかの共通點がありはしまいか。
さて、こゝに提供した問題は、シナの文化の現代化のありさまとその可能性の程度とを考へるについては、ほんの一方面に關することである。しかしそれがシナ文化の研究には重要な意味をもつてゐる。シナ文化の研究にはいろいろの方法によらねばならぬが、ヨウロッパの文化と對照して見ることもその一つであつて、停滯性がシナ文化の特徴の一つであるといふことも、それによつて一層明かにせられるのである。或はまた過去のシナ文化が現代文化に何ごとを貢獻し得るか、世界の文化の進歩なり人類の幸福なりに何ものを寄與し得るか、といふことを考へることも大せつであつて、それによつて過去のシナ文化の價値が定められるであらう。ヨウロッパの文化との對照も、この點に一つの目じるしが置かれねばならぬ。趣味の上からのシナ好きは別として、シナ文化を研究するには、それを世界文化の背景の前に置いて見ることが必要である。しかしこゝではさういふことまでいはうとしたのではない。たゞシナが現代文化をどう受け入れてゐるかを見ることによつて、シナ文化の性質の一面を知るたよりにしたらばどうかといふことを述べ、それについての小さい問題を提供するのみである。けれどもこのやうな問題の研究においてでも、學問的である限り、その批判はどこまでも嚴正でなければならず、その態度はどこまでも毅然たるものでなくてはならぬ。それは現在の日本の世界における政治的地位や國際情勢やによつて動かさるべきものではない。日本の學問の權威は、軍部や一部の政治家や官僚や、さういふもののシナに對する倨傲にして不法なる態度や行動や誤つた優越感や、それ(386)によつて招いた日本の品位の失墜やによつて、影響せらるべきものではない。恥づべきは學問的研究そのことの進まない點であり、シナの文化の研究において、もしその眞相を明らめ得ないことがあるならば、その點であるべきである。シナ文化の批判と評價とを誤り、エド時代の儒者の舊にかへつてシナの知識人の優越感なり中華意識なりを承認し、もしくはかれらに對して媚態を示し、みづから卑しくするが如きは、恥づべきことの大なるものである。もしこのやうな態度を日本のシナ研究者がとるやうであるならば、それは日本の學問、びいては日本の文化、の眞價を蔽ふものである。日本のシナ文化の研究者はこのやうな態度を棄て、學問的方法の示すところによつてその研究を進め、それに對して嚴正なる批判を加へねばならぬ。さうしてそれは學問の使命を全くする道であると共に、またシナの知識人に對する情誼でもあり、同時に眞にシナを愛する道でもある。シナの知識人がシナの文化を發達させようとするならば、過去の文化の眞相と、現にかれらが何ごとをなしつゝあるかとについての、切實なる自己反省がなければならぬが、日本の研究者の嚴正なる批判はおのづからそれを助けるものだからである。
附言。わたくしはシナをシナといひ、それをシナと書くことにしてゐる。シナには、むかしから、全體としてのシナの土地の名、または民族の名、またはわれ/\のいふ意義での國の名、といふものが無く、秦・漢・唐・宋といふやうな、たえず變つて來た王朝の名のみがあつたのであるから、むかしからのシナを一つのシナとして考へるばあひには、シナといふより外にいひやうがなく、それがまた世界のすべてで用ゐられてゐる名なのである。中華民國といふ國家の名はその國家の成立した後の名であつて、むかしからのシナの一般的な名稱ではない。秦・漢・唐・宋などが王朝の名であるのとは違ふが、この點ではそれらと同じところがある。だから、公式に、或は政治的意義において、今のシナの國家を指すばあひには、中華民國といふ(387)べきであるが、むかしからのシナを、特にその文化的方面についていふばあひに、この名で呼ぶことはできない。なほ、シナといふ名は多く支那と書かれてゐるが、もと/\この文字には意味が無く、至那とか脂那とか書かれたばあひもあり、震旦とか振旦とかの震または振も同じことばであるから、わたくしはそれをシナと書くのである。この名は、もとは秦の名から出たもののやうに考へられてゐるが、わざ/\もとへもどして秦の字をあてはめたのでは、却つて意義がちがつて來る。
ニ 諸生規矩階級・讀書路徑
諸生規矩階級一册。讀書路徑一册。これはわたくしが子どもの時に寫しておいた本である。明治十九年に寫したと書きそへてあるから、考へてみると、小學校を卒業した十四の時のことらしい。かういふものを寫したことすら、殆ど忘れてゐたが、六七年まへに、むかし讀んだ四書や五經の素讀本のつみかさねてある中から、ふと見つけだしたので、何となしに手ぢかなところへもつて來ておいた。版にはなつてゐないはずであり、あまり世間に知られてゐるものでもなからうと思ふから、この二册の本のことを少しばかり書いてみることにする。
二册とも、著者は三宅尚齋の門人の蟹(布施)養齋である。崎門のならはしとして、教をうけた師の著述や講義の筆記を、弟子から弟子へ、次第に寫し傳へることになつてゐたので、この二册もそのやうにして傳はつて來たものであらう。わたくしは郷里の美濃で、小學校にあがつた時から卒業するまで、ずつと引きつゞいて教をうけた森先生といふ先生から、その先生の若い時に寫された本を拜借して、といふよりも寫すやうに命ぜられて、寫したのである。先生は名古屋の人で、幕末時代から明治の初年にかけて尾張の藩學の明倫堂の督學であつた細野要齋の門人であつたか(388)ら、先生のこの本は要齋の本から寫されたものに違ひない。明倫堂は、延享寛延のころであつたかと思ふが、その時分に名古屋にゐた養齋の建議によつて建てられた學枚であつて、養齋はいはばこの學校の最初の督學であつた。後には學風の違つた細井平洲や冢田大峰が督學となつたこともあるが、養齋によつて名古屋に崎門の學が植ゑつけられ、その學統が幕末までも續いてゐたのではなからうか、と思ふ。この邊の事情はわかつてゐるであらうが、わたくしはよく知らぬ。たゞ要齋が藩士出身の儒官として崎門の學をうけついでゐたこと、さうして養齋の著書が要齋に寫し傳へられてゐたことを考へると、かう推測しても、大てい、まちがひはあるまい。しかし幕末ごろの名古屋においては、崎門の學といつても、この學派の偏固な氣風がそれに伴つてゐたやうには見えぬ。これは主として森先生からうけた印象によつていふのであるが、名古屋人の氣質、または名古屋の知識人を包んでゐた一種の文化的雰圍氣からも、さう感ぜられる。名古屋人は崎門の偏固な氣風を緩和させたのではあるまいか。或はまた名古屋に限らず、時代のたつに從つて一般にさういふ傾向がこの學派の一面には生じて來たのかも知れぬ。なほ或は尚齋の學統に屬するものの特殊の傾向がそこに現はれてゐるのでもあらうか。たゞし學問としては闇齋の説がそのまゝ奉ぜられてゐたことは、いふまでもない。
諸生規矩階級といふのは、養齋が入門の學生の心得と學級の規程とを書いたものであつて、諸生規短と諸生階級との二部に分れてゐる。あとがきによると、享保のころに書いたものを寛延元年に訂正したことになつてゐるが、本文の終には元文元年と記してある。規矩の方は、最初に「學問傳授ノ方、流義學風、世に品々在之候、手前ハ道學ヲ相傳申候、道學トハ、近クハ我身我家ノトリマハシ、遠クハ國天下ノサバキ方ヲ教候間、先々此所ヨク御心得ナサルベ(389)ク候、道學ハ朱學ニテ候、其内、手前ハ三宅尚齋先生ノ弟子ニテ候、尚齋先生ハ山崎闇齋先生ノ御門ニテ候、」といつて、まつかうから學派の名のりをあげてゐるのは、崎門の學者の態度をよく表はしてゐるものといへよう。本文で興味のあるところの一二をひろつてみると「講釋の聞方」といふ條に、講釋をきく前にまづ下見《したみ》をして、それ/\の章節につき、大旨、本意、訓詁、義理、疑難、功用、の六つを考へておき、いよ/\講釋をきく時には、「今説カルヽハ大旨ゾ、本意ゾ、訓詁ゾ、義理ゾ、疑難ゾ、功用ゾ、ト分ケテ呑込ミ、下見ノ時スマヌ所、殊更氣ヲ付テ御聽可有候、」さて講釋が終つて宿所へ歸つたら、またこの六つについて篤と「かへりみ」をせよ、と説いてある。六つの項目には書物の理會のしかた又は講釋のしかたが示されてゐるやうであるが、それは養齋の創意か、または尚齋もしくは闇齋から傳へられて來たことか、今わたくしにはわかりかねる。また聞き書き(筆記)のしかたについて、講釋の席では書かず宿所へ歸つての「かへりみ」の上で書くのが極上だと説いてある。たゞ「おぼえ」のわるいものは下見の時に疑問とした點を目録にして講釋の席に持參し、それに書き入れるだけのことはしてよい、となか/\細かな注意を與へてゐる。「講釋聞取樣ハ師ノ云辯ヲメタト覺エルコトニハ無之候」といつてあるが、これはそのころの學生の弊習を指摘したものであらう。それから會讀のしかたをも教へてゐるが、こゝには省いておく。
次に階級の方は、學生を新學、新學上座、久學、久學上座、の四級に分け、講釋をきく書物と會讀をしたり獨りで讀んだりすべき書物とを、それ/\にわりあてたものである。講釋をきくのは學問の根幹となる主要な書物であるが、新學では小學及び家禮、新學上座では近思録(及び順々に傍聽するものとして四書五經)、久學及び久學上座では四書の注、といふことになつてゐて、朱學の面目がそこに見える。會讀の書のうちには、久學で、國史、十八史略を、獨(390)りで讀む書として久學上座に、程子朱子の全書、本朝の政書、律令格式、六國史、並に史記、漢書、通鑑綱目、などを擧げてある。本朝の書をかういふやうに撰擇したのも、また養齋だけの考か、尚齋もしくは闇齋からうけつがれたところのあるものか、わたくしには今はつきりわからぬ。中世以後のものの取られてゐないことも目につくので、それには理由として考へられることもあるが、今はそこまでたちいらぬことにする。
讀書路徑には元文元年に書かれた序文がある。多分、その年にでき上がつた著作であらう。小學、家禮、近思録、四書、六經、及びそれらの一々についての注釋書や參考書の解題と讀みかたとを記したものであり、本朝の書としては律令格式、舊事紀、古事記、及び六國史、シナの史書として二十一史、通鑑、皇明通紀、並に漢以後の政典についても、簡單な説明がしてある。しかし單なる解題ではなくして、門下の學生に學問のしかた讀書のしかたを教へるのが目的であるから、それについての養齋の特殊の見解がところ/”\に見えてゐる。そのうちに、學問は小學から入るべきもので、學問の究極を説いた大學からとりかゝるのは大まちがひだ、といつてあるところがあるが、その大學を「ヲトナデカラガ、町、在《ザイ》ノモノ、志ナキモノナドハ、一生知ラデモヨキ書」と評してあるのは、おもしろい。家禮について「コレラノ作法、今日デハ段々時代モチガヒ國モチガフテヲリ、亦我身上カツテニ段々アルコトナレバ、ソツクリト、コノ通リニハナラヌコトモアレドモ、コノ書ヲ吟味シテヲケバ、コノ中カラ一分相應ノトリマワシガデテクルゾ、」といつてあるのも、興味がある。これらの點についても、また上に述べた諸生階級に記してある書物の撰擇などについても、崎門の學者の、或はもう少し廣く見て我が國の朱子學者の、或はまたもつと廣く見て徳川時代の儒者の、それらのことに現はれてゐる時代による思想の變化、または學派もしくは學統による考へかたの違ひを、し(391)らべることができれば、しらべてみたいと思つてゐる。
この二書は他に類例が無いといふやうなものではなく、特に讀書路徑に似たやうな性質のものはいろ/\あるが、この二書も、享保元文ごろの崎門の一派の學問のしかたを知る一つの材料にはならう。たゞそれに書いてあるこれだけ多くの書物を、そのころの學生が果して讀んだであらうか、讀んだとするならばそれはどんな讀みかたをしてのことであるか、わたくしにはそれが疑問である。
養齋の著述では、なほ「孝經句解」といふものを、上記の二書と同じやうにして、わたくしは寫してゐるが、これは漢文で書いてある。表題の肩がきに 「道學資講卷之百九拾五」としてあるが、「道學資講」として編纂したのがだれであるか、またそれがどういふ書物をあつめたものであるか、わたくしは知らぬ。たゞ編者は養齋よりも後の學者に違ひないし、讀書路徑にも「吾師尚齋先生モ凡ソ經書ニハ皆筆記アリ、イマダ開板ハナケレドモ、門人皆コレヲ寫シテオルコトゾ、」と書いてあるから、さういふものの含まれてゐることも推測せられる。しかし、わたくしに孝經句解を寫すやうに命ぜられた森先生が、かゝる大部の「道學資講」を寫してもつてゐられたかどうかは、知らぬ。子どもの時のこととて、さういふ點までおたづねすることはできなかつたであらう。
ついでに書きそへる。わたくしは小學校時代に、森先生から小學と家禮との講釋をきいた。近思録のをきくまでにはならなかつたと思ふから「諸生階級」の新學の段階で止まつてしまつたのである。さうして聽いた講釋も、みんな忘れてしまひ、おぼえてゐるのは小學の「灑掃應對」の應對をヨウタイと讀むことくらゐである。わたくしの先生からうけた感化は、さういふ講釋からではなくして、別の方面にある。小學校の教科書として日本外史が用ゐられてゐ(392)たが、先生はその授業の時に、讀んでゐるところに關係のあるいろ/\の歌や詩を教へて下された。あとから考へると平家物語や太平記などから取つて來られたのであらうが、それがひどく嬉しかつた。それから時々、南畫風の畫をかいて見せて下されたが、ある時、わたくしの本ばさみの板に山徑を人が上つてゆき月が天心にかゝつてゐる圖をかき「わけのぼる麓の道はかはれども同じ高ねの月を見るかな」の歌を賛のやうに書いて下された。またわたくしの父と親しかつたので、をり/\來訪せられたが、微醺を帶びられるころになると、席を立つて、「舟辨慶」かなにかの一節を謠ひながら一さし舞はれることがしば/\あつた。思ひ出は限りが無いが、かういふことがわたくしの一生におのづから或る方向を與へたもののやうに、後からは、考へられる。詩も作られたので、もう少したつたら詩を作ることを教へようといはれてゐたが、その教をうけるに至らないうちに、わたくしは故郷を離れたので、とう/\その機會を得なかつた。先生の詩は見せられたかも知れないが、今はおぼえてゐない。その代り、これは大切にしてゐる要齋先生の書だがおまへにやる、といつて下された七絶の一幅がある。その詩は「夏日山居」の作で「水從屋後山中下、風自窓前竹裏來、果腹便々午眠穩、渾身涼已夢初灰、」といふのである。「來」が「生」と書いてあつて、「來誤作生」とあとの方に正誤がしてある。弟子に乞はるるまゝ心やすくその場で筆を揮はれたが、つい書そこなはれたので、かうして渡されたのであらう。淡々たる胸襟が思ひやられる。夏になると時々この幅をかけて先生をしのぶのであるが、毎年とぢこもる山小屋へ今としも持つて來てゐる。先生、名は達、號は好齋。後に名古屋に歸つて城北の地に閑居せられたが、書齋の入口になつてゐた小さな門に「來者不拒去者不追」と胡粉で書いた小さい自然木の額がかけてあつた。生涯獨身でゐられ、大正六年ころに世を去られた。小著「國民思想の研究」の「貴族文學の時代」を呈上し(393)た時に下されたお手紙が先生から頂いたものの最後のであつたと記憶する。
ホ 「儒者が政治をすれば世が亂れる」
キムラ カイシュウ(木村芥舟、舊幕士、安政六年咸臨丸アメリカ派遣の時の司令官)は笑?樓筆談といふ隨筆のうちで「舊幕府にては國初より以來、絶えて儒人を用ゐてこれを政府に入れ機密に預からしめたることなし、」といひ、ハヤシ ドウシュン(林道春)も漢土の古事を調べさせるための一顧問にすぎず、アラヰ ハクセキ(新井白石)も要職を授けられたのではなく、その後に儒官として重用せられたものも政務に參與したのではなかつた、と説き、さうして、これは深意のある祖宗の遺訓であつたらう、と考へてゐる(雜誌「舊幕府」の明治三十一年一月號所載)。遺訓であつたかどうかは知らぬが、幕府が儒者を機務に與からせなかつたことは、事實である。幕府のみならず諸藩においても同樣であり、「文學」と稱せられてゐた儒官があつても、その任務は讀書の師となり學校の教授となることであつた。これらは武人政治ともいふべき戰國時代の状態のそのまゝ繼承せられたことであつて、トクガハの代になつて特に定められた制度ではなく、幕府においても遺訓といふやうなものがあつて後までもそれが守られたと考へるよりも、前々からの習慣がそのまゝ變らずに保たれたとする方が當つてゐるのではなからうか。儒者といふものを政治に參與させる必要が無かつたのである。
儒學は政治の學道徳の學とせられてゐるが、その政治の思想はシナに特殊な政治形態政治情勢に本づいて構成せられたものであり、道徳の思想はシナ人に特殊な社會生活家族生活を維持し規制せんがために講説せられたものである(394)から、シナのとは違ふ政治組織をもち、シナ人とは違ふ生活感情生活意欲をもつてゐる日本人に、それがあてはまるはずが無い。たゞシナの儒者は、シナ人に特殊な思想であるものを、思惟の上で一般化し普遍化し抽象化概念化することによつて、人類共通の思想である如く考へもし説きもした。道とし教とすることになると、おのづからかうなるのでもある。儒學の經典の記載、また後までもそれをそのまゝに繼承して文筆に上せて來た儒者や一般知識人の講説は、さういふ性質のものであるのを、日本の儒者は、そのことを考へず、文字のまゝ説かれてゐるまゝに、世界共通のもの日本人にもあてはまるものと思つた。學問といふもの知識といふものが、おのれみづからの生活と思索とによつておのれみづから造り出すのではなく、他から與へられたものを學び知ることとせられてゐるばあひに、抽象的の概念がそのまゝ具體的の事象である如く、またすぐに生活の上行動の上に實現し得られるものの如く、思ひなされることも、それを助けた。もと/\儒學の思想はシナに特殊なシナ人の生活によつて構成せられたものながら、一たび思想として成立すると、それはシナ人の生活にすらあてはまらないことの多いもの、從つて實行しがたいものとなり、極言すれば、思想はたゞ思想として存在するのみのもの、從つて言説文字によつて生活を矯飾するはたらきしかもたないものとなつた。特に政治の思想においてさうである。日本人の生活においてそれが實現せられるはずは無い。然るに日本の儒者はさうは考へず、上にいつたやうに思つてゐた。だからそれが經典を講じ文字を文字として取扱つてゐる間はよいとしても、その限界を越え、文字上の知識によつて現實の生活を動かさうとすると、他を誤まらせるかみづから敗れるかの何れかになる。早くクマザハ バンザン(熊澤蕃山)が儒者が政治をすれば世が亂れるといつたのも、中ごろ以後、そのころの用語での「經濟」を論ずるもののうちに、儒者の言説の迷妄を笑ふもの、またはそれが(395)世を害することを憂へるものの生じたのも、或る藩の要地にあつて民政に意を用ゐてゐた人が、藩侯に用ゐられてゐた當時の有名な儒者を評して、國政をあづくべき人にあらずといつたのも、或はまた幕末の能吏カハジ セイモ(川路聖謨)が儒者のいふことは何のやくにもたゝぬといつたのも、いひかたにやゝ矯激なところがあるにせよ、儒者の考へかたの如何なるものであつたかを知るたよりにはならう。だから幕府が儒者に政治の機務に參與する地位を與へなかつたのは、當然である。三代將軍の時の老中マツダヒラ ノブツナ(松平信綱)が、四書五經よりは御代御代の御法度を學べといつたといふのも、意味のあることである。幕府の政治は戰國傳來の風習と爲政者の體驗から生れた睿智と常識とによつて行はれたので、法令もまたそれによつて定められたものだからである。その根本は戰國時代から繼承せられた武人政治主義であるので、すべての政治の機構もそれによつて形成せられてゐる。國政の主宰者は武士たる將軍であり、封建制度も武士を本位としたもの武士の精神のこもつたものである。儒學の文治主義教化政治思想では、かういふ機構を運營することすらできない。勿論、一國の政治としてはかゝる武人政治は偏僻なもの、缺點の多いものではあるが、それによつて保たれてゐる平和の世は、一方では武人的封建制度の精神をその内部から徐々に弱めて來たと共に、他方ではおのづから武人政治の偏僻を矯正しその缺陷を補足して來た。さうして儒學の政治思想はこのことのために何ほどの助けともならなかつた。それは日本人の日常生活そのもののはたらきによつてなされたのである。
世には或は、儒學が政治の上には大きな力をもたなかつたとするにしても、遺徳の點では指導的なはたらきをした、といふ考があるかも知れぬ。例へば忠孝の觀念の如きは儒學によつて初めて明かにせられたではないか、といふ(396)やうな説のあることである。なるほど忠孝といふ語とその文字とはシナ傳來のものであり、儒學の實踐道徳の教において重要な意味をもつてゐるものである。特に君主に對する臣下の道義としての忠が、禄を與へた君主と與へられた臣下との關係によつてのみ成りたつものとせられてゐたことは、日本の武士においても儒學の教へるところと同じであつた。けれども君臣間の情誼がいはゆる譜代であることによつて濃厚になり、その意味で親子の親しみと緊密に結びついてゐること、また臣下の君主に對する務めが、究竟において身命を捧げるところにあることは、日本の武士に特有なものであつて、それはこの道念が戰陣の間から生み出されたものだからであり、武士の道念だからである。親子の間がらとても、子の親に對する道義の重んぜられるのみならず、それと共に、むしろそれにもまして、親の子に對する愛情の強くまたそれの尊ばれることが、儒教の道徳思想とは違つた日本人の風尚の特色であり、親の生きてはたらくのは子のためであるとさへいはれてゐるのは、儒教の思想と甚だしく違ふところである。だから儒者の方からは、日本の武士の道念を道に背いたものとして非難するのが常であつた。要するに、忠とか孝とかいふ語と文字とは儒學のを借りてゐるけれども、その意義は同じでなく、從つて君臣または親子の間の道徳は儒學によつて教へられたものではない。たゞかういふ語を用ゐることによつてこの道念が幾らか強められたでもあらうが、それと共にまた文字に伴ふ儒教思想によつて日本人に特有な道念が歪めて考へられもしたことを、知らねばならぬ。忠と孝とばかりではなく、すべての道念がさうである。日本人である武士の生活がシナ人のとは全く違つてゐるからである。農民や商人の間に成りたつてゐた彼等の道念が、儒學とは何のかゝはりも無いものであることは、いふまでもない。すべて人の道念は、家庭、村落、いろ/\の形での社會、における日常の生活によつて、小兒の時からいつとなしに養はれも(397)し體得せられもするものであつて、そこに歴史的に養はれた民族的特色がある。この特色には、一段高いところから見ると、偏するところもあり足らざるところもあるが、それと共に優れたところもある。その優れたところをますます伸ばすと共に、足らざるところを補ひ偏するところを正すためには、道徳の學とそれを成りたゝせる一般人の良識とが必要であるが、その學は異民族の間に發生してその民族の道念の偏僻と缺陷とを具へてゐるものであつてはならぬ。儒學の道徳思想によつて日本人の道念を批判した儒者の言の如きは、即ちそれである。
かういふことを今さらくだ/\しくいふのは、幕府の政治が儒教主義であつたとか、エド時代の道徳が儒學思想によつて成りたつてゐたとかいふことが、今なほ世間でいはれてゐるからである。くだ/\しいと書いたが、こゝではたゞ主要な點を簡單にいつたのみである。詳しいことは久しい前からをりにふれていろ/\のもので考へておいた。エド時代の儒者は、儒學は人の道を教へ政治の大本を説くものであつて、人の師表となり政治に參與するのが儒者の任務であるのに、今の儒者は文字を玩び書物を講ずるのみである、といつて慨歎してゐたが、實は儒者がさういふ任務をもつたのでは「世を亂す」ことになつたので、もたなかつたのが幸であつた。さうして文字をのみ玩んでゐたことによつて、却つて大きな功徳を世に遺したのである。彼等が書物を讀むことを世にひろめたために、日本人は書物によつていろ/\の知識を得、その知識が全體としての日本の文明のために、從つてまたその點で、間接にでもあり力の甚だ弱いものでもあるが、幾らかは日本人の道徳のためにも、やくだつたのである。たゞその書物がシナのものシナ文字で書いたもののみであるために、それによつて與へられる知識が狹く、またいろ/\の缺陷のあるものであつたけれども、それにもかゝはらず、日本人の盛んな知識欲は、それを利用することによつて得るところを多くした(398)のである。
さてこれはエド時代のことであるが、今日、文筆の力、言論の力によつて、或は集團の力によつて、世を動かさうとしてゐる人たちの態度と、その思想の性質及び世間に對するその地位とは、昔の儒者と儒學とに似てゐるところ、またはそれから繼承せられたところが、無いであらうか。たゞ違ふのは、儒者は、彼等が世を動かす任務をもつてゐることを主張しつゝも、それができずして書物を玩ぶのみであつたのに、今のは、靜かに研究や思索に從事することができるのにそれをせずして、事物を正しく考へる智能の無い多數人を動かし、それによつて政治をも道徳をも、人間生活そのものをも、擾亂しようとするところにある。しかしさういふ人たちのしごとは、バンザンが儒者についていつたことを意識して行はうとするのではなからうか。幕末の新進官吏で、世界の形勢に通じ、それに處する日本の方策を講ずることについて達識のあつたキムラ カイシュウが、もしまだ生きてゐてかゝる状態を見るとするならば、今の日本の指導者に「深意」の無いことを慨歎するかも知れぬ。
(399) 第三 平泉の歴史と自然
一 平泉の文化と中尊寺
私のお話することは「平泉の文化と中尊寺」といふのであります。今から八百年ほど前を中心にしてその前後の百年ぢかい間、即ちほゞ十二世紀に當る時代に、藤原清衡、その子の基衡、またその子の秀衡、この三代が平泉を本據にして大きな政治的勢力を、今日普通に東北といはれてゐる地方のうちのこの方面にうち立ててゐました。ところが、この三代はそれ/\に中尊寺・毛越寺・無量光院、といふ大きな三つの寺を平泉に建立しましたので、これらの寺々を中心として、平泉は、東北の邊鄙なところに似合はない花やかな都會の地となりました。いま世間で平泉の文化といはれてゐるのは、このことをいふのでありますが、どうしてかういふ文化の花が、八百年もの昔にこゝに開いたのであるか、その文化はどういふ性質のものであり、それにどういふ意味があるか、といふことを、中尊寺を一つの目じるしとして、考へてみようとするのが私のお話の主旨であります。三つの寺が建てられたのに、中尊寺だけをとり出して題目にしたのは、この寺のみに昔の建物の一部分が殘つてゐるからであります。
それでまづ、清衡から秀衡までの、いはゆる藤原三代の政治的勢力はどうしてできたか、それが一代ごとに一つの(400)大きな寺を建てるやうになつたことには、文化的にどういふ由來があつたのか、といふことをお話することにします。
東北地方が遠いむかしに異民族たる蝦夷の住地であつたことは、改めて申すまでもありません。しかしわれ/\の民族、即ち日本人は何時のころからか漸次、この地方の南部に進出して來ました。大化改新の時、即ち七世紀の中ごろに、行政區割としての陸奥の國が置かれましたが、その區域はほゞ今の磐城・岩代方面であつたらうと思はれますから、このあたりには、なほその所々に蝦夷が住んではゐたけれども、日本人が主要な勢力をもつてゐたやうであります。ところが、八世紀のはじめの和銅・養老のころ、即ち奈良朝のはじめには、日本人はもつと北の方まで進んで來てゐたので、そのころの陸奥の國は、今の陸前の中央部附近が北境となつてゐたでありませう。勿論、この地域のうちにも蝦夷の部落は少なくなかつたと思はれます。さてこゝに日本人の進出といふことばを使ひましたが、それには主として關東地方の民衆が、新しい生活の場所を求めて、蝦夷の住地の中に入りこんで來たといふこと、即ち日本民族の住地が、民衆自身によつて擴げられて來たといふ一面があると共に、日本の國家の政治的・軍事的經略と關聯して行はれたといふ一面もあります。日本書紀に記してある日本武尊の蝦夷征伐といふ話は歴史的事實ではなく、大化改新よりも後に作られた物語でありますが、その大化の後になると、中央集權の制度が設けられ、異民族に對する日本民族の保護が政府の事業となつた結果として、國家的經略が行はれるやうになつたのです。日本民族と蝦夷民族との勢力の衝突、日本民族の側からいふと蝦夷の反抗が、國家の武力的行動を必要としたのです。さうなると、經略の行はれた地域に日本人を充實させるために、計畫的移民が行はれもしますし、また蝦夷を威壓するためにも防備のためにも、軍隊を各地に配置するので、その兵士のうちにはその地にとゞまるものも生じ、また内地の窮民や種々の(401)事情で郷土を離れた浮浪人が、比較的生活の安易な場所として移住するものも出て來るやうになりました。政府の經略と關聯して日本人が進出したといふのは、これらのことをいふのであります。
しかし日本人の進出して來た地域とても、蝦夷を全く驅逐してしまつたのではありません。蝦夷は多くの部落に分れてゐて、その部落の間には勢力の爭ひもあり、利害の一致しないばあひもあるのですから、その時の情勢によつて、或る部落は自己の勢力を維持するために、日本の官憲に依頼し、ばあひによつては日本軍に參加して、他の部落を攻撃することもありました。日本の政府もまた、一種の懷柔政策として、さういふ部落を保護し、その酋長を村里の長として公認したり、大部落の所在地には新たに郡を置いてその酋長を郡領に任じたりしました。つまり郡なり村里なりの名によつて、彼等の部落の自治を許したのであります。またその首領株のものには位階勲等を授け、時には上京參朝させて賞禄を與へもしました。要するに日本人と同じ待遇をしたのであります。ところが、さうなると、さういふ蝦夷は次第に日本人の風習に從ひ、日本人の生活を學び、名を日本人風にし、一くちにいふと日本人化するやうにもなつたでせう。或は雜婚なども行はれるばあひがあつたと考へられます。さうしてそれはまた、全體において日本人の一層の進出を助けたことにもなります。俘囚といふ語がありますが、それは多分かういふ蝦夷人をさしたものと思はれます。夷俘といふ名もあつて、これもまた同じ意義に用ゐられてゐましたが、たゞし夷俘は或は、もとはすべての蝦夷人のことであつたかも知れません。もつともかういふ部落とは反對に、日本の官憲に反抗の態度をとつてゐた部落もあり、一時依附してゐてもまた離坂したものもありました。日本の政府の經略の及ばない地域の蝦夷の部落は、なほさら反抗の態度が強かつたでせう。またさういふ地域に入りこんで來た日本人、または一旦服屬しながら離(402)叛した部落に住んでゐた日本人のうちには、日本の官憲から蝦夷人と同樣に見られも取り扱はれもし、從つて俘囚と呼ばれたものがあつたやうであります。それらのうちには、蝦夷人と親しみ蝦夷人と通婚したものもあつたらうと想像せられます。要するに、日本人と蝦夷人とは、一方ではそのばあひ/\の種々の情勢から、互に入り雜つてゆく傾向もあつたでせう。しかし他方では、民族的反感が根本にあるのと、蝦夷人の側からいふと、次第に日本人の勢力のひろがつて來るのに對する不安の情が生じて來るのと、また狩猟を生業とするところから養はれた習性として、戰闘的精神をもつてゐたのと、或はまた彼等に對する日本の官憲の態度に不滿の情を抱くこともあつたのと、これらの事情のために、しば/\紛亂が起つたと考へられます。さうしてかういふ情勢は、日本の政治的經略の手を一層北方に伸ばさせる機會を、常に作つて來たのであります。
かういふ有樣で、奈良朝の盛期といはれてゐる天平の時代には、今の陸前の北部地方までほゞ日本の勢力範圍に入り、多賀城がその重鎭となつてゐました。出羽の方面のことはこれまで申しませんでしたが、このころには陸奥の方面と連絡してその經略が行はれました。勿論、勢力範圍に入つたとはいふものの、蝦夷の部落はその地方に多く存在したので、その状態は前に申しましたのと同じであります。神護景雲年間に今の栗原郡の地に伊治城が設けられ、北邊經略の中心となりましたが、その郡の長官には日本化した蝦夷人を任用しました。けれどもその蝦夷人は後に離坂して騷動を起しました。かういふこともあります。しかしそれと共に、やはり前に申しましたやうなありさまで、日本人の移住も行はれたことは、申すまでもありません。
ところが、奈良朝の末、賓龜のころには、蝦夷の反抗運動が盛んになり、膽澤地方がその中心でありました。それ(403)でそれに對する征討軍が起され、將軍が衣川まで進んで來ました。衣川といふ名が、いま殘つてゐる記録では、この時に始めて現はれてゐます。多分こゝが日本側の北端でそれから更に前進する基地になつたのでありませう。衣川の北の方のことはよくわかりませんが、とにかくこの征討は成功しませんでした。それで更に大規模な征討が行はれることになり、その將軍の坂上の田村麿が膽澤を平定して、この膽澤と志波とに城を築き、この方面の蝦夷を抑へる本據としました。九世紀のはじめ、平安朝のはじめ、延暦年間のことであります。その後まもなく、和賀・稗縫・志波、に郡がおかれました。その附近に對し征討の行はれたこともありますが、大體これで寶龜ころからの經略は一段落がつき、日本人の勢力範圍は、この平泉よりも北の方まで擴げられたのであります。從つて地方官も來任し、兵士も配置せられ、移民も行はれ、日本人が次第にこの地方に住むやうになつたでせうが、しかしこの世紀の中ごろになつても、膽澤城と多賀城との間には蝦夷人がはびこつてゐるといはれ、栗原郡・桃生郡より北は蝦夷人の叛服常ならずとも書かれてゐます。けれども、大勢の上からいふと、蝦夷に對する威壓と懷柔とは、次第に功を奏したやうに思はれますので、それは、このころから十一世紀の中ごろまでの二百年ほどの間は、この陸奥の方面に大きな事件が起らなかつたことによつてもわかるやうであります。出羽の方では九世紀の終り近くなつて秋田の邊に騷ぎが起りましたが、陸奥の方は靜かでありました。
こゝで少しわき道に入つて、日本の政府が蝦夷人をどう取り扱つたかといふことを、簡單に申してみませう。蝦夷人の本來の住地にゐるものに對する懷柔の法は前に申したとほりであつて、それは平安朝になつてからも繼續せられたことと思はれます。ところが、征討の行はれた時に捕虜とせられ、またはその他の何等かのばあひに彼等の住地か(404)ら引きはなされた蝦夷人は、内地に移して各方面に配置せられました。多分集團的に住所を與へられたのでありませう。その中のおもだつたものを「夷長」として、或る程度に自治が許されてゐたやうであります。かういふ蝦夷人もまた、俘囚とも夷俘ともいはれました。この俘囚または夷俘の置かれた國々は、東海道・東山道の諸國から、西は大宰府管内の九州地方にまでゆき渡つてをり、九州地方は特に多かつたやうであります。延喜式を見ますと、俘囚の置かれた國には、彼等のために或る分量の稻が用意してあつたことがわかりますが、これはずつと前からのことであつたと思はれます。農業に慣れないもののある蝦夷人に、支給せられたのでありませう。しかし、長く内地に住んでゐると、次第に農業を學び、それに慣れるやうにもなつたらしく、この點で日本人の風習に同化して來ました。一般農民と同じく租税として稻を納めるものもでき、種々の公役をもつとめ、そのために表彰せられたものもありました。また新羅の海賊が九州に攻めて來た時、俘囚がはたらいたこともあります。これらは九世紀の中ごろのことであります。もつとも一方では、ほしいまゝに住地を離れたり、農民を掠めその牛馬を奪ふといふやうな亂暴をしたりするものも、諸國にあつたので、奈良朝から平安朝にかけてさういふ記事がしば/\記録に現はれてゐます。しかし政府の方針は、彼等を内地の一定の場所において、彼等の本來の往地から隔離することでありました。さうしてそのために彼等を、環境の違つたところにゐても、生活のできるやうにしてやつたのであります。異民族を捕虜としても、それを奴隷として使役するといふやうなことは、日本人には無かつたのであります。むかし百濟・高麗の滅びたころに、半島の民衆がかなり多く日本に逃れて來ましたが、日本では彼等を諸國に配置してそれ/\集團的に住地を與へ、安全に生活のできるやうに保護を加へました。上流階級のもの、知識・技能のあるものは、官吏に登庸して日本の知識(405)人と同じ地位を與へました。日本人は上代に異民族を奴隷にしたといふやうなことをいふものがありますが、大まちがひであります。蝦夷人は文化の程度がずつと低かつたので、中央政府に用ゐられるやうなものはありませんでしたが、前にも申しました如く、その中のおもだつたものにはかなりに高い位階勲等を與へたのであります。たゞ奈良朝の或る時に、俘囚を諸司及び參議以上に賜はり、それを賤としたといふことが、たゞ一度、史上に見えてゐますが、賤とは奴婢のことで、奴隷とは全く違ひます。けれどもかういふことはしば/\行はれたのではなかつたやうであります。俘囚は奴婢として使ふには適しなかつたといふ事情があつたかも知れませんが、主なる理由は、政府の根本の方針が前にいつたやうなところにあつたからでありませう。諸國に配置された俘囚が後にどうなつたかは、明かでありませんが、多分、長い年月の間には漸次日本人化し、また日本人の中にとけこんで來たらうと思はれます。
そこで、話を東北地方のことにもどします。九世紀の中ごろから十一世紀の中ごろまでは、膽澤・志波・和賀・稗縫、などの北邊の地方を含む陸奥の國の方面は平和であつた、と前に申しましたが、平和であつただけこの間の二百年ほどの間のことは殆ど何事もわかりません。しかし實は、この間がこの方面において甚だ大事な時期でありました。一々の事蹟が具體的にはまだよくわかつてゐないやうですが、大體のありさまとしては、陸奥の國がほゞ他の國々と同じほどになり、國府における國守以下の官吏、鎭守府における將軍以下の武人、さういふ人々またその從者などの、京都との往來が盛んになりました。從者などのうちには、土着してこの土地にとゞまるものもありましたらうし、また古くから土着してゐたもののうちには、豪族となつて郡領などの地位を得たものがありませう。また場所によつては、京の貴族の莊園もでき、それによつて京との結びつきの生じたところもありませう。さういふやうにして京の文(406)化が次第にこの地方に及んで來ました。歌枕といはれるところの所々にできたのも、そのためであります。土地のいろ/\の産物は京に運ばれたので、砂金がその主要なものであつたことは、延喜式を見てもわかります。佛教もまた弘まつてまゐりまして、僧侶は遠く京からも來たにちがひなく、寺院もあちこちに建てられました。ところが、それにつれて一方では蝦夷人もまた日本人化したことが考へられます。何よりも日本人の衣食住とそのすべての文物との優秀なことが、彼等の心をひいて、それを學ばうとしたでありませうし、日本の官府に從屬して何等かの地位を得、位階勲等を授けられたものは、それによつて與へられた權威とそれに伴ふ種々の利益とに誇りをもち、さうしてそれが彼等の日本人化を助けたでありませう。郡領などになつたものは、奈良朝時代でも既に日本語の名をつけてゐるものがありましたが、この時代になると日本人と同じやうな姓名をもつた蝦夷人が多くなつたことと推測せられます。或は日本人と通婚するものも生じたでありませう。これは陸奥の國の全體についてのことですが、その北部においてもやはり同樣であつたでせう。かういひますのはいづれも臆測でありますが、安倍頼時の時の状態によつて、それがほゞ確かめられるやうであります。
安倍頼時の亂、即ちいはゆる前九年の役は、十一世紀の中ごろのことであります。この戰爭のことは、こゝで申すに及ばないと思ひますが、頼時については少しお話すべきことがあります。頼時は六郡を領有して國府の命に從はなかつたから、國守がそれを討つたといふのですから、普通の地方的豪族とは違つた大きな勢力をもつてゐたのであります。六郡は膽澤・和賀・江刺・稗縫・志波・岩手、でありませう。居を構へてゐたのは衣川で、六郡の南端でありましたが、漸く衣川の外に出づ、と陸奥話記に書いてありますから、磐井郡方面にも手を伸ばしてゐたと思はれます。(407)前にも申しましたやうに、奈良朝末には衣川あたりが日本の勢力の北の境であつたので、こゝは日本と蝦夷との二つの勢力の境界點となるに適した場所であつたと考へられます。頼時の時には衣川の關といふのがあつて、その關といふのは、この時の戰爭の有樣から考へますと、普通にいふ關所ではなく、城柵のことであらうと思ひますから、そこが頼時の南方に對する最後の防備地點であつたでせう。その衣川の關がどこにあつたかといふことは、まだはつきりしてゐないかと思ひますが、地形や地勢から考へると、私は、それは或はこの中尊寺のあるところではなかつたらうかと想像してゐます。中尊寺が關山と呼ばれてゐるのも、そのためではありますまいか。中尊寺のあるところが衣川と呼ばれた地域に含まれてゐたと考へることに、むりはありますまい。後に義經の自殺したところが、いま判官館といはれてゐるところであるとするならば、そこが吾妻鏡に衣河館と記してあることも、參考せられませう。もしかう想像せられるならば、頼時の衣川の居館はその防備線のすぐうしろにあつたことになります。或は、衣川の關といふのは、もとは文字どほりの關であつて、日本の政府がずつと前に作つたものではないかとも考へられます。膽澤方面が日本の勢力に入つた後も、そこは、近いころまで日本に服屬しない蝦夷人の本據と思はれてゐたところであり、現に蝦夷人の部落の多いところでありますから、奈良朝のころに、日本の北境であつたこの要害の地に、關を設けて監視の場所としたのではないか、頼時がその南方まで手を伸ばすやうになつてから、そこに城柵を設けて、逆に日本の勢力に對する防備地點としたのではないか、さうして、新しく城柵が設けられても、もとからの關の名がそのまゝに用ゐられたのではないか、といふのです。武士の守備するところは、いづれも柵と稱せられてゐたのに、こゝだけが關といはれたことから、かうも考へられるのです。勿論、もとの衣川の關が今の中尊寺の地にあつたとするにしても、(408)その時の通路がこの山を越すやうについてゐたといふのではありません。關守ともいふべき兵員の屯所がこの山にあつたらうといふだけのことであります。もつともこれらのことは、たゞ私の思ひつきにすぎませんから、そのつもりで聞き流して下さることを希望します。なほ頼時の時の衣川の關については吾妻鏡に記載がありますが、曖昧な書きかたがしてあるので、それによつてこの關の所在などを知ることはできかねます。しかし衣川の關がいはゆる六郡の南境であつたことは事實でありませう。ところで衣川よりも北の方が日本の勢力範圍に入つたのは、田村麿の征討の後のことでありますが、前にも申しました如く、さうなつてからも、そこには蝦夷人の部落が多かつたでせう。六郡といふのはこの區域でありますが、頼時も諸部の俘囚を率ゐて國守の征討車と戰つたと記してありますから、文化においてはよし日本人化してゐたにしても、この時までなほ昔のまゝに、蝦夷人の部落が多かつたと考へられます。
然らば頼時はどういふ人間なのか。姓名を見れば日本人のやうですが、陸奥話記には父祖が東夷の酋長であり、頼時も諸部の俘囚を率ゐて戰つたと書いてありますし、別の書物には頼時を俘囚としてありますから、それによると蝦夷人のやうにも思はれます。頼時の子の貞任が陸奥の權の守の藤原なにがしの娘を妻にもらはうとしたが、その家がらが賤しまれたため許されなかつた、といふことがやはり陸奥話記に見えてゐますが、廣い領地をもち、大きな勢力のあつた頼時の家が賤しまれたといふのは、やはり頼時が蝦夷人であつたからではないでせうか。もつとも一方では、頼時・貞任を討ち滅ぼした鎭守府將軍の源頼義の累代の家人であつたといふ藤原經清や、前の陸奥守の郎從として京から下つた平永衡が、頼時のむこになつてゐたともありますから、だれでも頼時の家がらを賤しんだとは限りません。たゞ經清が頼義の累代の家人であつたといふことには、いくらか疑ひもありますから、このことをあまり重く見るわ(409)けにはゆかないかも知れません。さうして地方の豪族としても、六郡ほどの大きな領地をもつてゐたのは、他には例の無いことと思はれますし、その地域にゐた諸部の俘囚を率ゐてゐたといふのも、頼時自身が俘囚であつたとすれば、解し易いことのやうであります。日本人の姓名をもつてゐたといふことは、この地方の蝦夷人の少なくともおもだつたものが、すべての生活において日本人化してゐたからだとすれば、その理由がわかりませう。奥地の俘囚の一人で夷人とも記してあるものに、安倍富忠といふ名が見えてをります。頼時の部下にも、平とか藤原とかいふものがあつて、それらも日本人だか蝦夷人だかわかりませんから、姓名では何ともいふことはできません。たゞし別の見かたをすれば、六郡の地に入りこんでゐた日本人が、何かの事情で俘囚の諸部落を歸服させ、それによつて大きな勢力を養つたのであるが、俘囚の首領となつたから彼自身も俘囚と呼ばれたのだと考へられないことはないかとも思はれますが、いくらかのむりがあるやうでもあります。要するにはつきりしたことはいひかねます。頼義を助けて貞任を討つた出羽の清原武則も俘囚の主と記してありまして、これについても同じ問題がありますが、やはり今の私には判斷がつきかねます。しかしこれはいづれにしても、頼時のころまで、前に申しました二百年ほどの間に、六郡の地に日本人が多く住むやうになり、日本の文化がひろまり、日本人と蝦夷人との關係も密接になり、その間に通婚も行はれ、蝦夷人のおもだつたものが日本人化し、その知識も能力も高まつて來た、といふことは想像せられませう。佛教の信仰のあつたことは、頼時の弟に良照といふ僧があつたことでもわかります。寺などもあちこちに建てられてゐたでありませう。頼時一家は豪奢な生活をしてゐたと考へられますが、よしこの家が蝦夷人もしくは蝦夷人の血をうけてゐるものであつたとしても、その生活はすつかり日本人化してゐたので、日本人から得た種々の工藝品・奢侈品が用ゐ(410)られ、城柵や居館を作るには日本人を使役したでありませう。さうしてその費用にあてるには、土地の産物である砂金や馬が大きなはたらきをしたでありませう。頼時の勢力はさういふ文化的・輕濟的地盤の上に築かれたものと考へられます。
頼時の滅びた後には六郡の領主の地位は清原武則の子孫がうけつぐことになりましたが、十一世紀の終りに近いころに、この家に關聯して後三年の役が起つたことは、改めて申すまでもありません。ところが、前にいひました藤原經清の子の清衡といふのが、武則の子の武貞の子として養はれてゐたので、それが六郡の領主の地位をつぐことになりました。經清は安倍頼時のむこになつてゐましたから、清衡の母が頼時の娘であつたならば、清衡は頼時の血をうけてゐるのでありますが、經清が子を生ませた女が他にあつたかもしれませんから、果してさうかどうか、よくわかりません。金色堂の棟木に大檀として清衡、女檀として安倍氏・清原氏・平氏の名が記してあつて、この安倍氏は清衡の一族で頼時の血統のものかとも思はれますが、確かにはいひかねます。しかし清衡の勢力が間接に頼時からうけつがれたものであることは、明かであります。清衡も、後で申します中尊寺の落慶供養の願文に「東夷之遠酋」また「俘囚之上頭」と書いてあります。かう書いてはありますが、父の經清がもし純粋の日本人であつたならば、よし安倍頼時が蝦夷人であつて、さうして清衡がその血をうけてゐるとするにしましても、純粹の蝦夷人ではないことになります。俘囚といつてゐるのは頼時や武貞の地位をうけついだからのことかも知れません。この點はよくわからないのであります。また藤原の姓は父の經清の姓を用ゐたのでありませうが、頼時の部下やむこにも、藤原とか平とかを名のつてゐるものが幾人もありますから、經清が眞の藤原氏から出てゐるものかどうか、やはりわかりかねます。孫(411)の清衡のころには、藤原秀郷の子孫といふことになつてゐますが、清衡の時代にはまださういふ話はできてゐなかつたのではないかと思はれます。しかしこれらのことはどうであらうとも、清衡が日本の文化の空氣の中に育ち、その勢力が日本の文化の地盤の上に築かれたものであることは、明かでありませう。
この清衡が、多分十一世紀のおしつまつた終りのころでありませう、はじめて平泉に居を構へました。六郡の主とはいふものの、もつと南の方までその力が伸びてゐたらしく、平泉に任むやうになつた時には、少なくとも磐井郡あたりはその配下にあつたことと思はれます。その前には江刺郡にゐたといふことですが、何故に平泉に移つたのか、それもやはりわかりません。しかし衣川といふところが、前にも申しました如く、昔から大切の場所となつてゐて、近いころには頼時もそこにゐたし、衣川の關といはれた城柵も、その時にあつたのですから、清衡はその衣川の關の前面におし出して來たものだとは思はれます。さうしてそれは清衡の領土が衣川よりも南方を含んでゐて、もはや衣川の關の地に防備線をおく必要が無くなつてゐたからではありますまいか。しかしやはり衣川の關の地から遠く離れなかつたところに、頼時の時からの歴史的由來が考へられてゐたのでありませう。さうしてこの中尊寺のあるところが衣川の關といはれた城柵のあつたところではないか、といふ私の臆測によつて申しますならば、頼時の時代の軍事上の要害の地が、清衡の時には、佛教の寺院によつて象徴せられる文化の中心地になつたことになります。
平泉は、最初に申しました如く、清衡に始まる基衡・秀衡の三代の政治的勢力の中心でありました。秀衡が死んでその子の泰衡の代になると、まもなく頼朝に滅ぼされてしまひましたから、藤原三代といふことばができました。三代はいづれもほゞ三十年ほどづつでありますから、三代を通じていふと、ほゞ十二世紀の全體に當ります。もう少し(412)こまかにいふと、その終りの十年を除いた九十年間ほどであります。清衡の時は京都では白河法皇の院政時代であり、基衡の時は鳥羽上皇の院政時代で、保元の亂のころまで、秀衡の時は平治の亂のころに始まり、平家の全盛時代からその滅亡の時を含んでをります。この三代の間にその勢力範圍も次第に擴げられて來たやうであつて、基衡の代の終りのころになると、少なくとも今の陸前地方を含み、さらにそれより南の方までも進出してゐたのではないかと推測せられます。秀衡の時には更にそれが擴げられ、または固められたでありませう。出羽の方面にもその勢力が及んでゐましたが、陸奥の方面だけでもかういふ有樣になりました。もしさうならば、驚くべき大勢力であります。平家の時代には陸奥の國にはもはや京の政治的權力は及ばなくなつてゐたので、それが秀衡のこの勢力を固めたのでありませう。秀衡は鎭守府將軍に任ぜられ、また陸奥守をも兼ねましたが、それは或は、陸奥の國の國府を秀衡の占有してゐたことが、一つの理由となつたかも知れません。この任官は勿論名義上のことでありますが、それは、事實、秀衡が陸奥國を領有してゐたからでありませう。ついでに申しておきますが、清衡が陸奥守または鎭守府將軍になつたといふ話がありますが、それは疑はしいことであります。中尊寺の供養の願文にも、たゞ正六位上とのみあつて、官名は書いてありませんし、金色堂の棟木には散位と明かに記してあります。また秀衡の任官の時、藤原兼實はそれを評して、亂世の基なりとも、天下の恥何事か之に如かんや、ともいつてをりますが、これで見ても、かういふ任官は秀衡がはじめであつたことが知られるやうであります。この兼實の評は、京の貴族が時の實際の形勢を理解せずして、地方人を卑賤のもののやうに思つたからでありまして、兼實は他のところでも「奥州戎狄秀平」ともいつてゐますが、しかし、これは京人の一般の考へかたではありませんでした。秀衡は相當の地位をもつてゐた藤原基成の娘を妻にし(413)てゐましたが、この基成は、鎭守府將軍であり陸奥守であつた人のことであらうと思はれます。平泉に立派な寺々の建てられてゐることは、京人もよく知つてゐたはずであります。後に西行法師は秀衡が同族であるといふので、はるばる修行して平泉に來ました。特に秀衡の政治的勢力は京にも知られてゐましたので、頼朝が關東で兵を擧げた時に、清盛の命によつて、背後から頼朝を討つことを承諾したとか、その後も義仲と通謀して、頼朝をうつ計畫をしたとか、さうせよといふ院宣を下されたとか、秀衡の軍がもう白河關を出て來たとか、いふやうな風説がしきりに京に行はれ、あの大混亂の間に秀衡の姿が京人の目に大きく映つて來ました。義經が秀衡をたよつて來たのも、頼朝が泰衡を討たなくてはならなくなつたのも、かういふ情勢のためでありました。話がさきばしりをして秀衡の時のことになりましたが、三代の初めの清衡の時には、まだそれだけの勢力は無かつたと思はれます。京都の方の記録にも、陸奥國の住人清衡といふやうに輕く書いてあります。吾妻鏡には清衡の時に白河關までその領土が及んでゐたやうに見える記事がありますが、これは信じがたいことであります。笠※[うがんむり/卒]堵婆といふものを建てたといふ話なども、同樣に考へられます。清衡の時のことが誇張して鎌倉方のものに語られたのでせう。いはゆる藤原三代の勢力は、百年の間に次第に強められ、次第に大きくなつて來たと考へられます。ところがこれは、文化の方面においても同樣であります。
十一世紀のころの六郡の地は、よしこゝに蝦夷人の部落が多くあつたとしても、文化的には日本の内地とほゞ同じになつてゐた、といふことは前に申しておきました。國府のあつたところとの關係が密接であつたばかりでなく、京都との直接の交通もあつたに違ひありません。清衡がしば/\馬を時の關白などに贈つたことは、記録にも見えてをります。砂金またはその他のこの地の産物と、京の絹やいろ/\の工藝品とを交換する商人もあつたでせう。馬を贈(414)つた清衡もその報酬を得たに違ひありません。京からはまた僧侶も來たでせう。どこかに寺も建てられ、京の佛師の作つた佛像も安置せられたでありませう。清衡の部下のものも何かの機會に京に出て、新しく建てられた白川の法勝寺や、その他の寺々の壯麗なありさまを見て歸り、それを清衡に話したでありませう。さうして、さういふ機會はかなり多かつたでありませう。清衡が中尊寺を建てようとする志望は、かういふいろ/\のことに促されたものと考へられます。中尊寺が立派にできると、基衡はそれに倣つて毛越寺を建て、またその後で秀衡が無量光院を建てました。清衡・基衡のころは京都に最も多く寺のあつた時でありまして、前々からあつたものの外に、法勝寺を初めとするいはゆる六勝寺や得長壽院や、その他の新しい寺々が、東山一帶から鳥羽あたりへかけて立ちならんでゐたといつてもよいほどでありました。それを見ならつた、といつては大ぎようすぎますが、とにかくそれを手本として、この陸奥のはてでできる限りの立派な寺を建てたのであります。佛像などは京都の佛師に作らせ、いろ/\の器具や裝飾品は京都でとゝのへ、畫工や大工やその他の職人も京都からよびよせ、僧侶たちも京都もしくは叡山から招いたでありませう。またこのころには、宋から商船が時々九州へ來るので、書物や織物やその他の工藝品やいろ/\の珍しいものが、それによつて多く京都に運ばれて來ましたから、さういふものも砂金などと交換せられて平泉にとりよせられたでせう。中尊寺の宋版一切經なども、その一つであらうと推測せられます。かういふ有樣でしたから、寺の規模やその建築その裝飾なども、みな京都の寺々を學んだわけであります。中尊寺は初めて建てられたものでもあり、場所が山の上でもありますので、京都のをそのまゝまねるわけにはゆかない點があつたやうでありますが、平地に建てられた毛越寺や無量光院になると、それができました。例へば、金堂の前に池があり、そこに中島があつて、池にはいは(415)ゆる龍頭鷁首の舟が浮かべられるやうにする、といふやうなことは、毛通寺や無量光院ではできましたが、中尊寺にそれがあつたかどうか、考へてみなければならぬと思ひます。中尊寺にも舟を浮かべるところはあつたはずですが、それは堂のすぐ前であつたかどうかは問題であらうと思はれます。壁畫なども、毛越寺や無量光院にはありましたが、中尊寺には無かつたやうであります。その代り金色堂のやうに建物の全部を金色にするといふやうなことは、京都の寺には無かつたかと思はれます。二階堂といふのは珍しい建てかたと思はれたらしく、後に頼朝がそれを手本にして鎌倉の二階堂を建てたのですが、しかしこれは京都にもありましたから、中尊寺のはそれを學んだのでありませう。いろ/\の法會などもまた、できるだけ京都の寺で行はれたしかたを學んだものらしく、中尊寺の落成式ともいふべき供養の時の願文を京都の有名な文人に書いてもらつたのも、その一例であります。その願文の書きかたは京都の大きい寺々の時のと同じであります。また法會には音樂が奏せられる習慣でありますが、これもまたこちらでまねられ、樂人や舞人が置かれることになつたやうであります。その樂人・舞人が京から招かれたものであることは申すまでもありますまい。このやうにして平泉が、寺に關することにおいては、京都風になつたわけであります。
もつとも、平泉の寺がすみからすみまで京都の寺々のまゝであるには限りません。そのことは前にも申しましたが、金色堂に三代の遺骸がおかれてゐるのも、京都の風習としては聞かないことのやうであります。火葬した遺骨を堂内におくことはありましたが、遺骸のまゝでおくといふ例は無かつたやうに思はれます。これには何か特殊の由來があり特殊の技術が用ゐられたでせうか。それはよく研究すべきことであります。
近ごろ清衡などのミイラの問題がやかましくなつて來ましたが、彼等の遺骸が偶然ミイラになつてゐたのか、(それ(416)には風土・氣候及び死者の生理的状態など、の多くの條件が備はらぬばならぬ)、または遺骸に何等かの處置を施してそれをミイラ化する技術が世に知られてゐて、清衡などもそれを承認しまたは希望してゐたのか、また金色堂はミイラ化した清衡の遺骸を安置するところ(いはゆる葬堂)として設けられたものか、または別の目的で建てられたものが、それに利用せられたのか、といふやうなことが、いろ/\に考へられてゐるやうであります。屍體に工作を施してミイラとすることは、元代ころのカラフトアイヌの間に行はれた風習であるが、それが清衡のころの蝦夷人に用ゐられたかどうかも問題でありませう。また佛教、特に淨土教、の信者であつた清衡などがさういふことを希望または承認したといふことにも、疑問はある。しかし遺骸がミイラになるといふことは何等かの意味においての人のからだの永存が信ぜられるのであるから、後にいふやうな淨土の信仰・アミダブツの信仰と一脈の通ずるところが無いではありません(後にいふところ參照)。なほ清衡が家系上蝦夷人であるかどうかも問題でありますが、血縁の如何はいま問題としてゐることに關しては、深く拘泥するには及びますまい。また無量光院の壁畫に狩獵の圖が描いてあつたと、吾妻鏡に見えてゐますが、もしそれが事實ならば、これもまた平泉の秀衡が建てた寺だからではありますまいか。寺院の壁畫としてはふさはしからぬものと思はれます。細かに考へればなほ多くの問題がありますが、大ざつぱにいつてこのやうに見ることもできませう。さうしてそこに中尊寺の文化の性質が現はれてゐるともいはれませう。
次に中尊寺をはじめとする三つの寺は、佛教としてどういふ系統のものであつたかと申しますと、それは叡山系統のものでありました。叡山は天台の正統を承けてゐるものといはれてゐますが、天台の教は法華經を根本としたもの、釋迦如來を教主としたものであります。しかし叡山の佛教には密教も加はつてをりまして、その密教は大日如來を本(417)にしたものであります。またアミダブツの淨土に往生することを主旨とする淨土思想も含まれてをりますが、これは天台の教を開いた智者大師の思想に既に存在したものであります。それで叡山系統ともいふべき寺々には、この三つの思想に關係のあるいろ/\の堂塔が建てられ、佛像が安置禮拜せられ、僧侶の修行においても、その行ふ儀禮などにおいても、また同樣であります。平泉の寺々ではどうかと申しますと、中尊寺については、その堂塔のことが、前に申しました願文に書いてあることと吾妻鏡に見えることとの間にくひちがひがあるので、はつきりしたことはいひかねますが、願文によりますと、寺の中心になつてゐる一ばん主要な堂には、釋迦如來が本尊となつてゐます。(この堂は普通に金堂といはれてゐるやうですが、願文には金堂の名はありません。)また吾妻鏡には、多寶寺といふのがあつて釋迦・多寶の二佛を左右に安置すとありますが、これは法華經の説によつたものであります。(多寶寺とありますが、多寶塔のことではないかと思はれます。多寶如來の塔の内に釋迦如來が入つて並んで坐られた、といふのが、法華經の説なのです。このところの吾妻鏡の書きかたも甚だ曖昧でありますが、多寶寺についてはかう考へられます。)また二階大堂の本尊は阿彌陀如來であつたやうに、やはり吾妻鏡に記してあります。金色堂の本尊が同じく阿彌陀如來であることは申すまでもありません。それから兩界堂といふのがあつて、金剛界と胎藏界との兩部の諸尊を安置してあつたさうですが、これは密教の説によつたものであります。今日も中尊寺の秘佛になつてをります一字金輪大日如來が密教の佛であることは、これもまた申すに及びますまい。これで見ますと、中尊寺が叡山の佛教の系統であることは、明かであります。
次に毛越寺でありますが、この寺の主なる建てものである圓隆寺の本尊は、藥師如來でありますけれども、別の建(418)てものの嘉勝寺の方に、法華經の二十八品の大意が壁畫や扉の畫にしてありました。また阿彌陀堂があり、その外に常行堂といふのがありますが、この常行堂は常行三昧を修行するところであり、その常行三昧といふのは、アミダブツの信仰が本になつてゐるものであります。第三の無量光院の本尊がアミダブツであつたことは、その名からもわかります。アミダブツには無量壽佛と無量光佛との二つの名と意義とがあるからであります。壁や扉の畫には觀無量壽經の圖がありましたが、この經はアミダブツを觀じてその淨土に往生することを、説いたものであります。二つの寺に密教關係の堂があつたかどうか、吾妻鏡には見えないやうですが、必ずあつたことと思はれます。ですから、平泉の三つの寺はすべて叡山系統の佛教信仰によつて建てられたものであることがわかります。
さて清衡がどういふ考で中尊寺建立の發願をしたかと申しますと、願文に書いてあることなどから推測しますと、安倍頼時の亂に官軍にも夷人にも多くの死者が出ましたので、その菩提を弔ひ、敵味方ともに等しく淨土に往生して同じく佛果を得させようといふのが、その主旨であつたらうと思はれます。中尊寺の場所がもし戰爭の行はれた衣川の關のあつたところだとするならば、このことに一層の意味があるやうに解せられます。たゞ豐かな財力を有つてゐたために、前に申しましたやうないろ/\のことに助けられて、立派な寺を建てることになつたのであります。しかし立派な寺が建てられ、花やかな法會が行はれると、極樂淨土のおもかげがこゝに現はれたやうに感じ、かういふ寺の建つたことに大きな喜びを覺えたに違ひありません。基衡や秀衡がつぎ/\に寺を建てたことは、この中尊寺のできたのを見て、自分の力で同じやうな、或はそれよりも一層立派な、寺を建てようとした意味もあらうと思はれます。これもまた京都の貴族の家でつぎ/\に寺を建てたのと、同じであります。なほ寺を建てたよろこびといふ點につい(419)て、もう一歩進んでいひますと、それによつて、自分みづから淨土のうちに身をおくやうなこゝろもちを、抱いたのでもありませう。一體にこの時代の佛教、特にアミダブツの信仰には、著しく感覺的なところがありまして、例へば山越のアミダといつて、西の山の上に大きな金色のアミダブツが姿を現はすといふことがいはれ、臨終の時にはアミダブツが多くの菩薩や歌舞する天女を從へ、紫の雲に乘つて迎へに來るとも信ぜられ、さういふありさまが繪にも書かれました。また臨終の時に、安置してあるアミダブツの像の手に五色の絲をかけ、その絲の他の一端を持つてゐる、といふ風習もありました。前に常行三昧といふことを申しましたが、三昧、即ち定、には多くの種類があつて、それに入ると、佛が目の前に現はれることになつてゐるものもあります。この三昧のことはいはゆる大乘のいろ/\の經に説いてあることでありますが、一體に經文には、佛が説法すると、眉間から無量の光明を放つて大千世界をくまなく照らすとか、天から花が降つて來るとか、いふやうな空想的な場面が多く描かれてゐますので、法華經の如きはその最も著しいものであります。金銀珠玉のまばゆく光る淨土の美しいありさまも、またいろ/\の經文に詳しく寫されてゐます。佛像を金色に塗るといふのも、佛の身が金色であつたといふ經文の説から來てゐますし、堂のうちの裝飾にも佛土の面影を見せる意味がありませう。金色堂が金色にしてあるといふのも、たゞ金を贅澤に使つたとか、きら/\するものにしたとか、いふだけではなく、かういふところに大きな意味があらうと思はれます。いひかへると、そこには淨土の美しさがあるのです。金色堂が清衡みづからの遺骸を置くところとして、そのために造つたものかどうかは、今なほはつきりしてゐない問題でありませうが、假りにさうであつたとすれば、淨土の如く美しい金色堂のうちの金色のアミダブツの前に遺骸の置かれることは、事實、淨土に生まれることであるやうに思つてゐたのではあ(420)りますまいか。またよしさうでないにしても、こゝでアミダブツの像を禮拜することは、そのまゝ西方淨土のアミダブツの前にをるが如き感じをしたのでありませう。これは中尊寺について申したのでありますが、毛越寺や無量光院にもやはり同じ意味がこもつてゐたらうと思はれます。特に無量光院は、その名を聞いてもわかるやうに、その全體がアミダブツの信仰の表現せられたものであり、またその壁畫には觀無量壽經の描かれてゐることが、それを示してもをります。
寺の建てられた意味は、かういふところにあつたらうと考へられますが、寺を建てるために、また建てられた寺を成り立たせるために、その時代のいろ/\の文化的のしごとが平泉に起りました。寺に必要な種々の技藝については前に申しました。またその時代の學問も或る程度に寺のうちで行はれたでありませう。さうしてそれは、幾らかは寺の外へも傳へられたでありませう。京都との交通はます/\盛んになり、京人の來るものも多くなり、さうしてそれによつて、京都からいろ/\の品物なり知識・技能なりが、この土地にもたらされたでありませう。京都の文化が地方に及び、神社や寺院を中心にそれが移植せられたことは、この時代の一般の状態であり、さうしてそれは政治上において武士または地方人の力の現はれたことに伴ふ現象でもありましたが、平泉のは、日本の東北の隅の、しかも前には蝦夷の地であつた土地に、京都の佛教文化が移植せられた、といふところに特色があるのであります。平泉ばかりでなく、その支配に屬してゐた地方へは、平泉のこの文化が更に擴がつていつたに違ひないので、志波郡の方に高水寺といふかなり立派な寺のあつたことが、吾妻鏡に見えてゐますが、さういふことは他のところにもあつたかと思はれます。さうしてそれは、九世紀のころから陸奥國の一部としてのこの方面に日本の文化の擴がつて來てゐたこと(421)が、歴史的由來ともなり地盤ともなつてゐたと共に、清衡から後、百年近くもつゞいた大きな政治的勢力が、こゝに成り立つてゐたからであります。この政治的勢力の内部組織がどうなつてゐたかは、よく知りませんが、陸奥國時代の制度がうけつがれたと共に、全體としては、それに武人の活動に都合のよいやうな形が與へられたのでもありませうか。それには蝦夷人の部落組織からうけつがれたところもあらうと思はれますが、またこの時代の一般の武士、特に關東武士の間に成り立つてゐた主從關係や土地の制度が、こゝにも形づくられてゐたらうと考へられます。秀衡の時には田地に關する文書なども整頓してゐたことが、吾妻鏡によつてわかりますが、それも陸奥國時代からのしきたりに從つたものでありませう。たゞそれがうけつがれてゐたのは、それだけに知識あり能力あるものが彼の配下にあつたことを、示すものであり、そこに平泉の文化の一つの姿が見られるのでありませう。
勿論、この政治的勢力には經濟的の力が伴つてゐます。寺を建てたことが、それだけの豐かな財力をもつてゐたからであることは、申すまでもありません。この財力には、廣い領土から出るいろ/\の産物、そのうちでも織物とか馬とか砂金とかもありませう。特に砂金は最も重要な財源であつたと思はれます。或は奥地または今の北海道方面の蝦夷人から得た海産物などもあつたでありませう。また領地内の農民から納めた租税もあつたでせう。何れにしても、大きな經濟力をもつてゐたことは明かであります。ですから、寺を中心とした平泉の文化そのものは、京都から移植せられたものでありますが、それはかういふ經濟的基礎の上に成り立つてゐたものであります。さうしていはゆる藤原三代の政治的勢力とこの經濟的の力とは、互にはたらきあつてゐたものであります。
ところがこの政治的勢力はあまりにも大きすぎました。秀衡の時には、頼朝の勢力を背後から牽制する、或はそれ(422)を脅かす、ものと思はれたほどに強大でありました。新たに權力を握つた頼朝にとつては、それをそのまゝにしておくことができなかつたのです。そのまゝにしておいては、頼朝の權力がかたまらなかつたのです。泰衡はそのために滅ぼされました。中尊寺はじめ三つの寺々は、もとの所領をそのまゝ與へられ、むしろ幕府の保護をうけることにはなつたのですが、それだけでは今までの状態を維持してゆくことすら、段々むつかしくなりました。藤原三代の政治的・經濟的な力によつて京から移植せられ、その上に成り立つてゐた平泉の寺院文化は、その文化自身の力もはたらきも次第に弱められて來たのです。宗教的には、京都との連絡はこの後も或る程度つゞけられたでせうが、もはや新しい力をそこから得ることはできなくなりました。それならば寺院の外においてはどうでせうか。三代の勢力の盛んであつた時でも、その一族や配下の武士は、武力的・政治的能力はもつてゐたでせう。秀衡は法師といはれてゐたほどでしたから、戒を受けて法體になつてゐたものと思はれます。從つて佛教に關する或る知識はもつてゐたでせう。相當の文事の力もあつたらうと思はれます。しかしそれがどれだけの程度であつたでせうか。少しむりかと思ひますが、私はこゝでちよつと源氏三代の最後の將軍であつた實朝との對比が頭に浮かびました。平泉には實朝は出なかつたのではありますまいか。その配下の武士たちにも鎌倉武士ほどの教養があつたかどうか。長い年月の間、いろ/\の道すぢで京都の文化に接觸してゐた關東武士とは違ひ、文化の中心地から遠く離れてゐる東北の邊隅のものは、よし九世紀このかた陸奥國の管下にあつたことによつて、一般的には日本の文化の雰圍氣の中に生ひたつて來たとはいへ、鎌倉武士と同じほどな特殊の文化的教養をもつまでにはなつてゐなかつたかとも思はれます。要するに、文化の空氣が後の鎌倉に比べて見ると、かなり稀薄であつたやうであります。泰衡が滅びた後には、もうかういふ地位のも(423)のも無くなりました。三代つゞいた勢力がもつと長くつゞいたならば、もつと高い教養をもつことになつたでせうが、それができずに終りました。もつとも、かう考へるのは、一つは、後に殘つてゐるものが無いからのことであります。三代の時の記録でも殘つてゐるならば、そのころのことがわかりませうに、それが何も殘つてをりません。百年ぢかくも平和がつゞいたのと、立派な寺々と京都との交通とのために、武士の教養もかなり高くなつてゐたかも知れません。たゞそれがよくわからないのです。しかし一般民衆にはそれが及ばなかつたでありませう。これが、この土地に根から生ひ立つたものでない、民衆みづからが造り出したものではない文化、外から移植せられた文化の状態であります。ですから三代が滅び寺院の力が衰へてから、この土地に一時咲きほこつてゐた文化の花は、全體にしほれて來ました。移植せられた花だからであります。
私ははじめにこの土地の文化の遠い昔からの由來を考へ、平安朝になつてからのこの地方の文化の状態を見、さういふ歴史的由來と文化の地盤との上に藤原三代の文化が築かれたといふことを申しました。しかしその文化は、それに先だつて存在したもの、その地盤となつたものとは、あまりにもかけ離れたもの、急に京都から移植せられたものでありました。從つてそれは、民衆の生活とは殆ど關係の無いものでありました。たゞその關係の無い文化を移植するだけの財力を供給したものは、民衆でありましたから、その意味で土地の民衆が三代の文化を作つたといはれませう。けれども、三代が滅びてその財力をはたらかせるものが無くなれば、その文化も衰へて來るのであります。寺々がもとのまゝに存在してゐた間は寺領の民衆はやはりそれを維持する財力を供給したのですが、それだけでは維持することがむつかしかつたのです。あまりにも寺々が大規模のものであつたからであります。しかしいろ/\の歴史的(424)變化をうけながら、無量光院の外は、今日まで寺としては存在し、特に中尊寺には、建築物だけでも當時の金色堂がそのまゝに、また經藏が損じながらに、殘つてゐるので、われ/\はそれによつて十二世紀の平泉の文化の面影を目に浮かべることができます。それのみでなく、日本の文化の全體から見ましても、その大部分が無くなつてしまつた平安朝末期の寺院建築の一つが、それにつれて殘つてゐる佛像や經卷や種々の工藝品と共に、こゝにあるわけであります。このやうにして平泉には歴史的な空氣が漂つてゐるのであります。この歴史的な空氣が新しい精神に化して現代の生活を動かす時に、民衆みづからの新しい文化がこゝに生まれ出るのではありますまいか。私は今日は昔のことを申しました。しかし昔を懷ふことは未來を想ふことであります。つぎ/\に時代を追うて過去を作つて來た歴史は、またつぎ/\に未來を作つてゆくものだからであります。私はかういふ意味で、平泉にこれから新しい文化の造り出されてゆくことを祝福したいと思ひます。
二 中尊寺のミイラについての諸問題
中尊寺のミイラの調査團に參加はしたが、實は調査をしたのではなくして、調査を見學したのであり、さうしてそれは、調査の結果によつてかねてからもつてゐた幾つかの問題の解釋が與へられることを、期待してのことであつた。從つて調査の報告をすることは何もなく、たゞ報告を聞くことを樂しみにしてゐたのである。しかし、名義上調査團の一員であつた責務として、何か報告をしなくてはならないとすれば、調査によつて、わたくしのもつてゐた問題が(425)どう解決せられることになつたか、或は問題が問題として殘されることが何かあつたか、または豫期せられなかつたことが知られてそれが新しい問題を誘ひ出すことは無かつたか、といふやうな、わたくし自身に關することをいふより外は無ささうである。それでそのことを簡單に書いてみることにする。
ミイラについてわたくしの第一に問題としてゐたのは、(一)初めからミイラにするつもりで遺骸を處置したのか、または、(二)ミイラになることなどは豫期してゐなかつたのに、偶然さうなつたのか、といふことである。こゝに處置といふ語を使つたが、これは遺骸に人工を施すことばかりをいふのではない。そのことは次にいふ。それで、もし(一)の方であるならば、遺骸をミイラにすることができる、或は少なくとも遺骸はミイヲになり得るものだ、といふ知識を先づもつてゐなくてはならぬが、それには、(イ)遺骸そのものに人工を施してミイラにする風習と、それについての技術とが、知られてゐたのか、(ロ)さういふ人工を施さずとも、遺骸に對する何等かの取扱ひかたによつてさうすることができるといふ、その取扱ひかたの知識があつたのか、何れかであつたことが考へられる。さうしてこの場合には、その知識・技術を、どうして、どこから、得たかが問題になる。
もしまた(二)であるならば、(A)ミイラになつてゐたことを何時どうして知つたのか、といふことが考へられねばならぬ。これには次の二つの場合が推測せられよう。(1)三代(または首だけのを加へて四代)ともにさうなつてゐたことが、はるか後世になつて何等かの機會に偶然發見せられた、とすることである。この場合には、今日から考へて偶然さうなり得た條件が三代(または四代)とも同じやうに偶然具はつてゐたことにならう。次には、(2)清衡の遺骸のさうなつてゐたことだけが早くわかつてゐた、とすることである。この場合には、(甲)あとの二人(または三人)の(426)も、そのやうにしたいと思つて、そのとき/”\に、遺骸に何等かの處置をしたのか、または、(乙)さういふことも考へないで、たゞ清衡の時と同じやうにしておいたのが、偶然同じやうな結果になり、それが後世になつてわかつたのか、どちらかであらう。もし(甲)であるならば、基衡以後については、初めにいつた(一)と同じことになる。清衡のがミイラになつてゐたことを知つた時に、基衡などがそれをどう思つたのか、驚いたのか、不思議に思つたのか、氣味わるがつたのか、またはあたりまへのことと思つたのか、或は喜んだのか、もし驚きもせず、不思議にも氣味わるくも思はず、さうして自分もさうなりたいと思つたのならば、その點から、ミイラについての或る知識が當時の人にあつたこと、また(一)の如き處置のせられたことが、考へられる。ところが、基衡のがミイラになつてゐるのみならず次の秀衡のもさうなつてゐるのを見ると、二人とも何等かの處置によつてミイラとせられることを希望または承認してゐたと推測せられる。從つてまた清衡も、みづからそれを希望し承認してゐたであらうことが、やはり推測せられよう。首だけのものについては、本人でなく他のもの(例へば家臣など)がそれを希望したと考へられよう。
次に、(B)少なくとも清衡のを偶然ミイラになつたものと考へるならば、清衡の死んだ時の氣候や中尊寺の土地などの外部的條件、また清衡の死んだ時の肉體の状態などが、今日の學問の知識において、ミイラとなるに適する條件を具へてゐたかどうか、が問題にならう。後にいふやうに、遺骸が初めのうちどこにどうして置かれたかも、問題であるが、それにはかゝはらず、このことについてはかう考へられる。それで、もしかういふ條件を具へてゐないとするならば、ミイラのできたのは、(二)ではなくして(一)であつたと推測せられよう。もしまた(1)及び(2)の(乙)の如く三代(または四代)とも同じやうに偶然さうなつたと考へるならば、かういふ考へかたに既にむりがあるやうであ(427)る。同じ條件が、人も違ひ時も違ひながら、偶然同じやうに具はつてゐたとは、考へがたいからである。
こゝで金色堂との關係を考へてみなければならぬ。金色堂が、(a)初めから遺骸を置くために、即ちいはゆる葬堂として、建てられたか、または、(b)別の意味で、例へば持佛堂の如きものとして建てられたのが後に葬堂として利用せられたのか、といふことが問題になつてゐて、それは金色堂そのものの規模や構造などからも考へなければならぬが、火葬した遺骨ではなく、屍體そのものをかゝる状態で堂内に置く例は他には無いから、そこでミイラのことが考へられてくる。屍體をそのまゝ堂内に置くことは、石田さん・田澤さんのいはれるとほり、事實できなからうから、一旦ミイラにした上でそこに移した、といふことが想像せられるのである。從つて、もし金色堂の性質が(a)であつたならば、遺骸をミイラにするために、何等かの處置をしたこと、即ち上記の問題についていふと、(一)であつたことが、この點から推測せられる。また(b)であつたとするならば、(一)でも(二)でも、それはどちらでもよく、たゞミイラになつてゐればよいことになる。たゞ、(二)であるとしても、(A)としていつたうちの(1)でないことだけは、基衡と秀衡との棺を納めてある佛壇やその上の佛像などが後世のものでないことから、推測せられるのみである。だからミイラを當面の問題とする場合に、金色堂との關係においては、堂の性質を他の方面の研究によつて、まづ決めておいて、それによつて(一)であるか(二)であるかを判斷する順序とならう。もつとも清衡がミイラにせられることを希望または承認してゐたといふ臆測が成り立つならば、この順序とは逆に、その臆測に基づいて金色堂の性質が推定せられるかも知れぬ。ミイラはどこかに置かねばならぬから、そこで葬堂として金色堂を建てたのだ、と推定することができさうなのである。しかしこれは、金色堂にミイラが置いてあるといふ現在の事實を基礎としての考へかた(428)であるので、金色堂は金色堂として別の意味で建てられ、葬堂は別に設けるつもりであつたのが、何等かの事情でその葬堂が建てられず、清衡の死後、金色堂がそれにあてられたのだ、といふ臆測もできなくはない。だから上記の如き推定のしかたは、必ずしも確實なものとはいひかねる。さうしてまた、もし葬堂として清衡みづからのミイラを安置するために建てられたものならば、あの小さな金色堂は、おのれ一人の用をなすに過ぎないことを知つてゐたであらうが、さういふ意味での葬堂をあれほどきらびやかに建てたであらうか。こゝにも問題がある。(事實、基衡・秀衡のミイラは、むりにあの狹い堂内にわりこんで來たのである。この二人はそれ/\大きな寺を建てながらめい/\に葬堂を設けはしなかつた。)だから、かういふ推定をするよりも、むしろ上記のやうな順序で考へる方が、合理的ではなからうかと思はれる。
しかし、金色堂の性質が(a)であるか(b)であるかは、今のところまだ確定した見解ができてゐないやうであるから、その性質をもとにしてミイラの問題を考へることも、實際にはむつかしい。それでこゝには、たゞミイラが金色堂に置いてあるといふ事實だけを考へに入れて、しばらく次のやうにいふにとゞめる。ミイラになつた事情がもし最初に問題とした(一)であるならば、遺骸はミイラになるまでは別のところに置かれ、そこでミイラにする何等かの方法がとられ、何等かの處置がせられたことにならう。また(二)であるならば、少なくとも清衡のは、初めには別の葬りかたがせられてゐたことにならうが、それがどういふ方法であつたか、またさういふ方法で葬つたもののミイラになつたことが、いつ、またどうして、知られたのか、疑問がそこにあるので、(二)であると考へることはこの點からもむつかしい。
(429) 要するに、ミイラにしようとして何等かの處置をしたと考へる方が合理的なやうに考へられるが、それが、今度行はれたミイラの調査によつて證明せられるかどうか、またそれと共に、その處置が上にいつた(一)の(イ)であつたか(ロ)であつたかが知られるかどうか、といふことが問題になる。その他には、さういふ知識・技術をどこからどうして得たかを、廣くアジア諸民族の風習などをしらべることによつて考へ、それによつて何等かの推測をする道が殘されてゐよう。或は、勢力ある酋長などの遺骸をミイラにすることが、この地方の習慣であつたといふことが想像せられるかも知れないが、さう想像するにしても、その習慣の由來は別に考へねばならぬ。それで何よりも、調査の結果によつて、こゝに述べた問題がどう解決されるかを知りたかつたのである。ところが、調査の結果については、それに當られた委員のかた/”\の見解が一致してゐないやうであるから、そこから問題の解決を導き出すことはむつかしく、從つて、別の方法によつてそれを考へる外に道は無くなつた。さうしてそれについては、田澤さんがいはれたやうに、遺骸に人工を施して、即ち上記の(イ)の方法によつて、それをミイラにする風習が、カラフトのアイヌにあつたことが、重要な資料となる。たゞこのことの日本人に知られたのはエド時代の後半期に於いてであるから、それが八百年も昔からの風習であつたかどうかが明かでないといふ點、またそれはカラフトのアイヌのことであるから、すべてのアイヌがさういふことをしたかどうかに問題があるといふ點が、氣にかゝるのである。しかし前の方のことについては、明一統志に引いてある開原新志に、苦兀(カラフトのアイヌ)の風俗として、それが記してあり、さうしてこの開原新志は元代の著作と推定せられるから、平泉繁榮時代とは年月のへだたりの少ないことが、注意せられる。(近藤守重もこの書を引いてゐるが、多分明志からの孫引きであらう。)けれども後の方のことについては、この風習(430)が、接近してゐる大陸の他の民族からでも學ばれたものではあるまいか、從つてそれはアイヌの本來のものではなく、アイヌの全體に行はれたものでもないのではあるまいか、といふ疑問も、起せば起し得られなくもなからう。だから、平泉の勢力の下にあつた地方に、蝦夷人が住んでゐて、それが(後に考へるやうに)アイヌであるとするにしても、カラフトのアイヌの風習と中尊寺のミイラとをすぐに結びつけて見ることには、精密に考へると、やはり幾らかの不安があるので、たしかな推定を下すにはなほ研究すべきことが殘されてゐる、といつた方がよいかも知れぬ。もつとも上記の疑問には積極的な根據は無いし、またよし中尊寺のミイラに人工の施されてゐた證迹が見えないとするにせよ、ぜひともそれを否定しなければならぬほどの明かな證迹も無いといひ得られるならば、一おうの假説として二つの間に何等かの連絡のあることを考へることは、できよう。
ついでにいひそへる。清衡のミイラの現在の状態では、ミイラといふにはあまりに形がくづれてゐて、その點では基衡・秀衡のとかなりの違ひがあるから、その違つた状態が、初めて金色堂に置かれた時からのことか、または後になつてさうなつたのか、といふことは、ミイラを考へるには大切であらうと思ふが、こゝでは一おう、清衡のも、もとは基衡・秀衡のとほゞ同じやうな状態であつたものとして、考へたのである。もしさうでないとすると、それはミイラにする技術またはミイラになつてからの取扱ひかたなどに拙ないところがあつたのかも知れず、また時季などの故であつたかとも思はれるが、しかし基衡も秀衡もみづから、ミイラになることを承認してゐたとするならば、遺骸がミイラになり得べきものであることは、彼等の間には一般に信ぜられてゐたのであらう。
第二に知りたく思つたのは清衡の家系の人種上の地位のことである。純粹の日本人であるか蝦夷人であるか、また(431)は兩方の混血であるか、といふところに問題がある。蝦夷人の人種上の地位については世間にいろ/\の意見があるやうであるが、こゝにはまづ一おうそれをアイヌとする立ちばに立つて、かういふ問題を起したのである。ところで、長谷部さんや古畑さんの調査の結果、ミイラにはアイヌらしい點は見えず、日本人のとして考へられる、といふことであるから、その點は明かとなつたとして、もしどれだけかの程度どういふ状態かで混血することがあつたとするならば、その場合に日本人とアイヌとのそれ/\の特徴がどうなるか、といふことについて教を受けたいと思つてゐる。
なほ清衡の家系について、人種の問題をとり出したのは、清衡および彼がその勢力を受けついでゐた安倍頼時などが俘囚の首長のやうにいはれてゐて、俘囚は蝦夷人を指すのであるから、彼等みづからが蝦夷人であつたのか、または日本人たる彼等が蝦夷人を服從させて、その首長となつたのか、わからないので、それを明かにしたいためである。清衡の家系が日本人であつても、それに服屬してゐた部下のものまたは民衆が、すべて日本人であつたとはいはれず、蝦夷人が多く雜つてゐたことが推測せられるし、兩方の雜婚のために混血したものもあつたであらう。それがどういふ状態であつたかが、東北地方の政治史・社會史、または文化史、の上の大きな問題である。しかし今度の調査の結果からは、このことについてはしつかりしたことをいふわけにはゆかない。もし清衡などの體質にアイヌの特徴があるといふ結果が出たとするならば、そこから清衡が、日本人でないといふ理由によつて、蝦夷人であつたことが考へられると共に、蝦夷人がアイヌであるといふ推定の一つの材料になるのであるが、さういふ結果が出なかつたといふのだからである。しかし、清衡の家系がアイヌでなく日本人であるにしても、それは、蝦夷人がアイヌでないといふことにはならない。清衡は日本人でありながら蝦夷人、即ち俘囚、の首長となり得たので、清衡と蝦夷人とは人種が(432)違つてゐてもよいからである。ミイラを作るアイヌの風習との關係について上に考へたこととても、必ずしも清衡の家系をアイヌとしての蝦夷人とする意味からではなく、彼およびその子孫に服屬してゐた地方の蝦夷人がアイヌであつて、さういふ風習をもつてゐたのを、彼等が學んだのだ、と見ることもできなくはないであらう。
一般に人種の區別は、第一に體質、第二に言語、によつてせられるのが普通であり、人種によつて著しい特色のある生活樣式なども、それについて考へ合はせねばならぬ。蝦夷人の身體の特徴は文獻には多く現はれてゐないが、ただ「毛人」であるとせられ、さうしてそれがシナの書物にさへも記されてゐることが、注意せられるので、その點に日本人との違ひのあることが考へられる。次に言語については、史上に見える蝦夷人の名が日本語としては解し難いものであり(日本化して日本語の名をつけたものは別である)、蝦夷人の住んでゐた東北地方の地名にアイヌ語として解せられるものの多いことも、明かである。なほ、蝦夷が日本人から夷狄として取り扱はれてゐるのは、シナ風の稱呼をあてはめたものではあるが、あてはめ得るだけに、日本人とは、體質にも言語にもまた生活樣式にも、違つたところがあつたからであらう。俘囚についての文獻上の記載を見ても、その生活が日本人と著しく違つてゐたことは知られる。要するに、昔の日本人は蝦夷人を自分たちとは違つた種類のものとして見てゐた。それが今日の學問上の用語としての人種が違ふことになるかならぬかは、問題でもあらうが、少なくともさうなるべき要素は含まれてゐる。人種を考へるのはむつかしいことであつて、日本の人種そのものの成立についても、人類學の方面から種々の意見が世に出てゐるし、考古學の分野でも問題が起されてゐるので、日本人の人種と蝦夷人のそれとの關係についても、簡單にはいはれないが、上に記した事實は見のがすわけにはゆくまい。蝦夷人の人種上の地位をきめるには、人類學・(433)言語學、または考古學、の諸方面からの觀察が一致しなければならぬからである。たゞ言語と毛人であるといふ體質上の特色とからは、蝦夷人はアイヌであるとすることができ、さうしてそれは歴史上・地理上の事實によつても支持せられるであらう。上に蝦夷人をアイヌとする立ちばに立つて考へるといつたのは、これがためである。しかし、このことは、當面の清衡の家系の問題には一おう關係の無いこととして、差支があるまい。清衡などにアイヌ人の特徴が見えず、またもし混血の形迹も見えないとするにしても、清衡などの人種上の地位は、上にいつた理由によつて、蝦夷人の人種上の地位をきめる役にはたゝぬからである。
さて第三は文化上の問題であるが、中尊寺の全體が、京都の寺院を學んだものでありながら、いろ/\の點に於いて精練の足らない感じがせられ、また京風らしからぬ分子が雜つてゐることは、石田さん・田澤さんがいはれてゐるとほりであらう。さうしてそこには何等か蝦夷人的なものがあらうと推測せられる。このことは、無量光院の壁畫に狩獵の圖があつたといふ吾妻鏡の記事によつても、考へられるのであるが、この點では、この調査によつていろ/\の新しい知識が得られ、副葬品にアイヌ風のもののあることも知られた。さうしてそこからまたさま/”\の新しい問題が生じて來た。これについては田澤さんなどの研究があることと思ふが、たゞ最初のミイラの問題に關聯して一言いひそへたいことがある。遺骸をミイラにするといふことは、未開人の風習またはそれのうけつがれたものであつて、それには、死んだ後にも何等かの状態でその身體を永く存續させようとし、それによつて何等かの意味での人の永生を求める考へが、潜んでゐるのであらう。ミイラにすることばかりでなく、方法はいろ/\であるが、遺骸の腐朽する部分が無くなるやうにして、そのあとに殘つた永存性のある骨を保存する風習が、所々の民族にあるのも、同じ欲(434)求から出たことであるらしい。清衡などが意識して明かにかういふことを欲求してゐたかどうかはわからぬが、ミイラになつて長く保存せられることを希望しまたは承認した以上、おぼろげながらも、これに似たことが考へられてゐたのではあるまいか。
しかし、それは佛教の信仰とは遙かに違つたものである。淨土往生の教と一致しないことは、いふまでもない。然るに、一方では中尊寺を建て金色堂を造りながら、他方ではかういふことを考へてゐたところに、清衡などの思想なり信仰なりの文化上の地位が示されてゐるやうに見える。しかしこれについては別の考へかたもある。ミイラは、考へやうによつては、火葬したあとの遺骨と同じ意味をもつものとも見られようし、それがもし人工を施してつくられ、ミイラになつた後に堂内に置かれたとするならば、なほさらのことであつて、火葬も屍體に人工を施すことであり、それによつて得られた遺骨を堂内に置くのは常のことである。また遺骨もしくはいはゆる舍利を尊重することにも、さらにまた淨土往生の教そのものにさへも、通俗的信仰に於いては、何等かの意味に於いての死後の身體の存續といふ考が潜在してゐる。或はそのおもかげがある。臨終の時に、安置してあるアミダの佛像の手に五色の絲をもたせ、それにすがつて淨土に導かれようとするとか、アミダ佛が紫雲に乘つて迎へに來るとか、さういふやうなことの信ぜられたのも、また天王寺の西の門から舟に乘つて淨土にゆく圖が畫かれたといふのも、當時の貴族社會の淨土往生の信仰に於いて、やはり同じ考へかたのあつたことを示すものである。もしかう見ることができるならば、ミイラになることを承認するのと淨土往生の通俗的信仰とは、必ずしも矛盾するものではないかも知れぬ。當時の清衡などがかうはつきり考へてゐたとは思はれず、それよりももつと素朴な、いはば未開人風の、考へかたでミイラにせられたと(435)する方が當つてゐようが、たゞそれが淨土往生の通俗的信仰と素朴な考へかたで結びつけられ、淨土に生まれても生きてゐた時のからだがそのまゝ存續してゐるやうに、何となく思つてゐたらう、と臆測せられはしまいか。金色堂がもし葬堂でなくして持佛堂の如きものであつたとするならば、清衡は、淨土のおもかげの見えるその堂内に於いてアミダ佛の前にゐることが、さながら淨土にゐる如き感じをしたであらうが、もしさうならば、死後にもまたその身のまゝで眞の淨土にゆかれるやうに思つてゐたと考へても、むりな推測ではあるまい。
ところでかう考へることになると、清衡などの家系がもう一度氣にかゝつて來る。この身のまゝで淨土にゆかれる如く思ふのは京の貴族にもあつたとするにせよ、それがミイラの形に於いてせられるといふ考は、京人には無いことであり、清衡などに特殊なものである。さうしてもし遺骸をミイラにすることがアイヌの風習と何等かの關係があるとせられるならば、さういふ特殊の風習に從つたことは、やはり清衡などが血統上蝦夷人と何ほどかのつながりをもつてゐたとする方が解し易いのではあるまいか。日本人であり京の文化の世界に入りこまうとしながら、よしその部下や民衆に蝦夷人が少なくなかつたとするにせよ、文化の程度の低いかういふ異民族の風習をことさらに學ばうとした、と考へることにむりがあるやうだからである。或は混血の問題をこゝで考へてみる必要があるかも知れぬ。
三 ヒライヅミの眺め
中尊寺の南の方の山つゞきのうちに、ヒライヅミ(平泉)が東の麓に見おろされるキンケイ(金鷄)山といふのがある。(436)その上に登つて東南の方を見わたすと、東山といはれてゐる一帶の山脈までの間に、キタカミ(北上)川の流れてゐる平野があつて、そのながめがかなり大きい。東山のうちの最も高いのは北部のタバシネ(束稻)山であつて、昔はこの山が長く裾をひいてゐるそのすぐ下をキタカミ川が流れて、そこまでヒライヅミの地つゞきであつたといふ。後に川すぢが西の方に移つて、いま判官館と呼ばれてゐる、丘陵がうちよせる波に半ば崩れたその斷崖に沿つて流れてゐる。キンケイ山から見おろすとやゝ左てに當るこの丘陵の西北に、これよりも高くまた大きい丘陵があつて、その上に中尊寺がある。いづれも今はヒライヅミ村の中に入つてゐるが、もとはコロモガハ(衣川)の里に屬してゐたらしい。このあたりはナラ(奈良)朝末には日本の勢力の北端であり、それより北の方は全くエミシ(蝦夷)の住地であつた。ヘイアン(平安)朝にコロモガハの關として京人にも知られ、後にアベノヨリトキ(安倍頼時)の城砦の一つとなつてミナモトノヨリヨシ(源頼義)に攻めおとされたところは、中尊寺のある場所かと思はれる。いはゆるフヂハラ三代の勢力の基礎を築いたキヨヒラ(清衡)は、その南のヒライヅミに居館を設け、關の址である城砦のその址に中尊寺を建てたのである。さうしてそのフヂハラ氏が四代めのヤスヒラ(泰衡)の時にヨリトモ(頼朝)に滅ぼされた。目の前にひろがつてゐる山河の形勢が、かういふ歴史を語つてゐるやうである。
ヒライヅミにはなほモトヒラ(基衡)の建てた毛越寺と、ヒデヒラ(秀衡)の無量光院との遺跡があつて、そこには昔のおもかげがわづかに見られるが、居館の址などは概ね田や畑となつてゐて、五月の末には苗代の苗がもう生ひたち、麥の穗が出はじめてゐるであらう。若葉の色のやゝ濃くなつてゐるあちこちの山の裾や道ばたの叢の間に咲いてゐる山吹の花、いつころ植ゑたものか無量光院の趾の、大きな花をつけたつゝじの美しい色、の見られるのも、このころ(437)である。山よりのところでは鶯が鳴くし、カツコウの聲は里の方でもきこえる。暮れゆく春には半ば初夏のけはひがある。氣候は東京に比べてほゞ一と月おくれてゐるのである。
四 中尊寺の能
中尊寺の能といふことは話には聞いてゐたが、見たのは去年の春がはじめてである。臨時にしつらはれた野天の棧敷に坐つてゐると、常設のうすぐらい棧敷で能を見るのとは氣分が違ふ。幾株かの老杉が高く聳えて午後の日光をさへぎつてはゐるが、全體の空氣は明るい。舞臺はふるびてゐるせいもあつてか、まはりよりもやゝ暗い感じがするが、ことしの演奏の時には、木の間をもれて來る日光が「竹生島」の辨天の衣裳や龍神の赤がしらををり/\照らして、その美しさを一段と添へた。見物の老若男女が、木の根に腰かけたり草むらの中に立つたりして、がや/\してゐるのもおもしろかつた。とき/”\風が吹くと、棧敷の上にも杉の花のハラ/\とこぼれて來るのが、興をひいた。舞臺の上は別として一般の光景はすべてが野趣に滿ちてゐる。室町時代に京の鴨の河原や眞葛ケ原などで行はれた勸進能の興行は、ちようどこんなものであつたらうと思つて、幾百年のむかしのありさまをいま見るこゝちがした。そのころのかういふ興行には舞臺も臨時に造つたのであつた。寛正五年の四月に三日間行はれた糺河原の勸進猿樂には、將軍義政の夫妻が臨席したが、その時の記録に、「橋がかりにも屋根あり、廣板ぶき、かうらん竹」とある。普通の場合には舞臺には屋根がふいてあつたが、樂屋と舞臺とをつなぐ橋がかりには屋根も無かつたのであらうか。義政の棧敷(438)だけは板壁がはつてあつたが、その他の大名などのは、蘆簾がこひであつたといふ。一般の見物はいふまでもなく、地上に立つてゐたのであらう。文安田樂能記に「今日見物の類……庭にあまる者は木の枝にのぼる」と書いてあつて、民衆あひての演藝から發達して來た田樂能のおもかげが、かういふところにも見えてゐるが、猿樂の能でもこの點はほゞ同じであつたにちがひない。たゞこのやうな由來のものでありながら、高い藝術的精神をそれに注ぎ入れて形づくられた猿樂の能に、能そのものとしては、特殊の風格のあつたことが考へられる。
能は江戸時代にます/\精練せられて、一面においては貴族的ともいはばいはるべき、性質を具へることになつた。舞臺の構造にも一定の形式ができた。中尊寺のはさういふ時代に作られたものである。しかしさういふ舞臺で演ぜられる能を、このやうな場所でこのやうにして見ることのできたところに、やはり能の民衆的性質が保たれてゐた。さうしてそれが今日まで續いて來たところに、興味がある。それは貴族的藝術の民衆的觀賞である。しかし現代においては、社會的地位においても教養においても、貴族に對する民衆といふものはない。さうしてすべての藝術の扉は、すべての人に向つて同じやうに開かるべきである。從つて、それは古典的藝術の現代的觀賞といひかへるべきであらう。
今年の十月には、この古典的藝術の精練の極致に達した喜多宗家の演奏が、この中尊寺の舞臺において、澄みわたつた秋の明るい空氣のうちに集まる現代的觀衆に對して行はれるといふ。わたくしはまたあの野天の棧敷でたゞし新たなる感興を以て、その盛觀に接することを期待してゐる。
(439) 五 ヒライヅミの自然
トウキョウ(東京)に大空爆があつた後、若い友人の誘ふにまかせ、さしたる考も用意もなく、ふら/\とこのヒライヅミに來たのであるが、數へてみるとそれからもう四年半ぢかくにもなる。一度腰をおちつけると立ちあがるのがめんどうにもなり、ゐごこちのよいところでもあるので、たつとも知らずにいつのまにか月日がたつたのである。
はじめてふんだ昔のみちのくの土地で、はじめて知つたのは春の樂しさである。寒い時が長いからでもあるが、トウキョウの春のやうにから風が吹きすさんだり重苦しい空氣が頭をおさへつけたりすることが少ないからでもあらう。春の風物には特によそとちがつたものも無いが、山吹の花の多いのが目につく。小みちのほとりにも田のくろにも、少し草むらのあるところには大ていこの花が咲き亂れてゐる。「蛙なくカミナビ川」の風情が、そのころにはまだエミシの國であつたこのあたりにも見られたであらうと思ふと、日本の風土はやはり日本の風土だといふ氣がする。
その代り、げんげの花が田の面に見えないのは寂しい。春の來るのは遲いが、來た春はたけること早く、花の下で「婆んちやん」たちがどぶろくの醉ひごこちで歌つたり踊つたりするころには、もう山々は美しい若葉におほほれてゐて、その若葉も三日見ぬまに青くなつてゆく。秋の來るのも早く、秋草の花もいくらか見られるが、萩はあつても色の美しいのが無いのは、何故であらうか。秋がふけると、どの山の裾にもぬるでの紅葉の色が濃い。
キタカミ川の水の色も流れのさまも、美しいとはいはれない。しかし川を隔ててタバシネ山を中心とする東山の姿(440)を見るのはよい。朝ぎり、夕もや、雨の前後の雲の動き、それはどこの山にも見られることながら、この山の中腹の人里までがすつかり雲におほはれて、麓の方だけがぼんやりそれと知られるのを、その奥に仙郷でもあるかの如く、思ひやつたことがある。春のまだ淺いころには、その里の、葉の落ちたまゝのむら木だちが、薄い褐色に見えるのも、趣がある。その木だちの間のあちこちに見えかくれしてゐる家々の草屋根が夕日に映えて、うす青い烟が幾すぢか立ちのぼつてゐる時もある。初夏の午後には、光線のぐあひで、タバシネの前の山の頂きに近く木の繁つてゐるところが、美しい緑青色になり、かや原ででもあらうか、木の無いところの白線と、そのうしろの方に見える遠い山の淡い白群とが、おちついた諧調を示すこともある。秋の空の晴れた時には、幾重にもかさなつてゐる遠い山々のそのかさなりがはつきり見えて、遠くなるほど山の色の次第に薄れてゆくのがながめられる。季節により時刻により晴雨のちがひにより、さま/\に變化する山のながめが、盡きせぬ興趣を與へてくれる。
村のうちの小高いところに立つて、キタカミ川の兩側に廣く開けてゐる平野を見おろすのも、おもしろい。夏から秋にかけての夕ぐれには、何を燒くのか、そのところ/”\に白い烟が低くたなびく。「國原は烟たちたつ」を思ひだす。冬は見わたす限り一面の銀世界、このあたりにはたまにしか見かけない烏が二、三羽、近いところにおりたつてゐることもある。
もちまへの出ぶしょうで、こゝに來てからも、よそへはあまり出かけたことが無く、毎日同じところをぶらつき、同じ東山と同じ平野とをながめて、朝夕を送つてゐる。中尊寺の山にだけはたび/\上つてみるが、コロモガハをすら、渡つてみたことは、たつた一度しかない。從つてこの土地のことは何も知らずにゐるといつてよい。たゞ同じと(441)ころでも、ぶら/\あるいてゐると、何か目につくことはある。農家のかやぷきの屋ねの形が、關東地方のとは違つてゐることも、その一つである。勾配が急で、棟から軒まで直線になつてゐ、さうして庇といふものがついてゐないから、上の方から垂れさがつてゐるやうな感じがして、家のなかの陰氣さがそれに示されてゐるかとさへ見える。どうしてかういふ形にしてあるのか。雪の時のためかと考へてもみたが、それほど雪が多く積もることは無いやうだから、さうでもあるまい。建てもののことをいふと、中尊寺の境内にも、そのほかにも、觀音堂とか地藏堂とかいふやうな、小さなかやぶきの堂がところ/”\にあるが、その屋根の大きさと厚さと勾配との、またそれらの堂の高さ大きさとの、つりあひがよくとれてゐてなか/\美しいので、とき/”\立ちどまつてそれをながめることがある。このあたりのかういふものに一定の型がいつからかできてゐたのであらうが、どうして、またいつから、さういふ型ができたかは、多分わからなからう。中には、手入れがとゞかないで、壞れかけてゐるもののあるのは、惜しい。
壞れかけてゐるのは、建てものばかりではない。風致のかなり壞されたところもある。名ある遺跡の或るところでは立ち並んでゐた老杉が幾本もきり倒された。また他のところでは、常磐木の間に大きな楓がまじつてゐて、秋には紅葉の色の美しかつた一むらの木だちが、まるでなくなつた。さうしてそれが最近二、三年の間のことである。一小部分のことではあるが、やはり惜しい氣がする。もつともこれには、さういふことを誘ひ出した政治的・經濟的事情があるのかもしれぬ。
はじめてこゝに來た時と今とでは、變つたやうでも變つてゐないことが多いが、變らぬやうで變つてゐることも少なくない。さういふことを書いてみるのも一つのしごとであらうが、それだけのひまが無い。
(442) 第四 おもひだすまゝ
一 大歌所
古今集の卷の二十に大歌所の歌といふものがある。この大歌所は、往々、神樂や「風俗」などの謠ひものを掌るところとして説かれてゐるやうである。この説がいつからはじまつたものであるかは、まだよく調べてゐないが、イチジョウ カネラ(一條兼良)の古今集童蒙抄にさう見えてゐ、近世ではマブチ(眞淵)の「打聽」にもさういふやうに説いてあるから、それが後までもうけつがれてゐるのではなからうか。今日の學者の考も一々詮索して見ないから、この説が今なほ有力であるかどうかも、やはり知らないが、一つ二つの目に觸れたところでは、さう説いてあるものもあるやうである。しかし、大歌所の奏樂のあるばあひは、儀式、内裏式、西宮記、北山抄、江次第、または歴代の記録、などによつて見ると、正月の豐樂院の饗宴、七日の會式、十六日の踏歌、十一月の新甞會、及び大甞會の午の日の節會、などであり、さうしてそれは神樂の演奏せらるべき時でも場所でもない。また謠ひものとしてのいはゆる「風俗」が、さういふ公事に關係のあるものでないことは、いふまでもあるまい。このことについては、二十餘年前の舊稿である神樂考(日本文藝の研究、第六所載)に述べておいたが、それを書いたときには、何故に上記のやうな説が生(443)じたかといふことには、考へ及ばなかつた。ところが、近ごろになつて、ふとかういふことを思ひついた。それは、古今集のこの卷には「大歌所御歌」と「神あそびの歌」と「東歌」との三部類の歌が集めてあつて、「大歌所御歌」といふのは「おほなほびの歌」から「しはつやまぶり」までの五首であるのに、「神あそぴの歌」も「東歌」も「大歌所御歌」のうちに含まれてゐるものと誤解し、「大歌所御歌」の標題を二十の卷の全體にかゝるものと見たからのことではなかろうか、といふことである。萬葉集の卷五にさうしてあるのは、正しい見解であらうと思はれる。神遊びといふものは、平安朝時代の中ごろから一般に神樂といひならはされてゐたものとは、同じでないので、それは上記の「神樂考」に考證しておいたことであるが、マブチはこの二つを混同し、神遊びといふのが神樂の正しい稱呼であるやうに考へてゐたので、これもまた後の學者によつてうけつがれてゐたらしい。また東歌は、東國の歌とせられてゐるのと、「風俗」と稱せられるやうになつた謠ひものに採られてゐるものがそのうちにあるのとのために、それが何となしに「風俗」と思はれたのではあるまいか。さすれば、上記の推測も成りたち得るやうである。もと/\、神遊びは神祇官の神部御巫などが神前で奏するもの、神樂は近衛の召人などが神事の餘興として演ずるものであつて、二つとも大歌所とは關係がなく、また公事に用ゐられるものでない「風俗」を大歌所といふやうな官衙で管理すべきはずもないのである。なほ催馬樂もまた大歌所の掌るものとして擧げてある説もあるが、これは、神樂催馬樂とつゞけていふことが後世に行はれてゐるため、神樂につれて催馬樂が思ひ出されたまでのことであらう。或は、古今集に「神あそびの歌」としてあるもののうちに、後になつて催馬樂に取入れられたものがあるところから、さう考へられたのでもあらうか。いづれにしても、殿上人の遊興の具である催馬樂が大歌所といふ官司と關係のないものであるこ(444)とは明かである。ついでにいふ。今日に傳はつてゐる神樂曲のうちには、神遊びの歌のいくつかが取入れられてはゐるが、それは神樂と神遊びとが同じものであることを示すものではない。古今集の「神あそびの歌」のうちには大甞會の時の悠紀主基の國々の歌がはいつてゐて、それは嚴密には神あそぴの歌とすべきものではないけれども、神事のばあひのであるために、そこに編入してあるのであらうが、これもまた神樂歌といふべきものではない。古今集の東歌といふ稱呼も實は當つてゐないので、そこには東遊びに用ゐられた歌であるために編入せられてゐるものさへもある。
ついでにいつておく。古今集に「おほなほびの歌」として擧げてある「新しき年の始めに」は續紀の天平十四年正月十六日の踏歌の記事に見えてゐるものである。この時には大歌所といふたのはまだできてゐなかつたが、正月十六日の踏歌のばあひにこの歌を歌ふのが慣例になり、大歌所のできた後には、そこでこの歌を練習したのであらう。古今集にそれを大歌所の歌としてあるのはそのためであるらしい。ことばに少異のあるのは、長い間うたひ傳へられて來たために、いつしかかう變つたものと解せられる。なほ「あふみぶり」以下の三首は、やはり倭舞の歌の傳へられたものではあるまいか。
二 新古今集の歌の技巧の一面
古今集の歌のことをいつたちなみに、新古今集の歌についてかねてから思つてゐることの一つをこゝに述べて見よ(445)う。新古今集の歌の特色の一つが、技巧にあることはいふまでもなからうが、その技巧の一つに次のやうなのがある。
あまのはらふじのけむりのはるのいろのかすみになびくあけぼののそら(春上、慈圓)
この歌をよんで第一にきのつくことは、「の」の音、特にテニヲハとしての「の」の語が非常に多いことであるが、そのほかにも「は」と「ら」との音の二つづつあることも感ぜられるし、同じ音でなくても、ai及びそれを母音(韻)にもつ音、o uの母音のある音、rとkとの子音をもつ音のくりかへされてゐることが、かなり強く耳にひゞく。特に初句が「の」の一音の外はaの母音の音の連續であり、その「ら」と次の句の「り」「る」「ろ」とが同じ子音の音であつて、このばあひには母音のちがひがあまり耳だたず、殆ど同じ音のくりかへしであるやうに感ぜられること、結句の「ぼののそ」が同じくoの母音の音の連續であること、また第二句を除く各句のはじめがみなaもしくはそれを母音に有つてゐるものであることも、注意せられる。
またやみむかたののみののさくらがりはなのゆきちるはるのあけぼの(春下、俊成)
にもほゞ同じことが見られ、「の」の音の多いことにもすぐにきがつくし、aとoとの母音をもつ音のくりかへされてゐることもたやすく感ぜられる。特にこの歌では「た」と「み」と、また「は」と「る」とが順次に交錯しつつ反覆せられてゐるし、「は」は四五の兩句の頭韻になつてゐる。かういふのは、よみあげて見ると、同じ音もしくは同じ母音や子音の重なるところから生ずる或る統一感と、それらが錯綜し變化してゆくところから起る流動感とがあつて、そこに一種の快いひゞきがきかれる。(たゞし「や」の音は、音の性質上、その母音のaであることが明かに感ぜられないやうである。)
(446) ふしわぴぬしののをざさのかりまくらはかなのつゆやひとよばかりに(羇旅、在家)
においては、a o及びiの母音の音が多く、特に第二句のo及びaの母音の音の連續は強く耳にひゞく。しかし「や」については前項に連べたと同じことがいはれるし、「よ」もまたoの母音であることがよく感ぜられない。またiの母音をもつ音の多いことは、連續してゐるばあひの外は、さして耳に感ぜられないやうに思はれる。全體に或る音においてその母音が同じであることは、子音と結合せられた音そのものが同じであるばあひほど強く感じないが、その母音と結合して一つの音となる子音の如何や、その音の一首のうちにおける位置や、くりかへしぐあひや、その音とそれから成りたつ語との關係やによつて、耳にひゞく感じはちがふから、一概にはいへない。
いまはとてたのむのかりもうちわびぬおぼろづきよのあけぼののそら(春上、寂蓮)
の四五の句のoの音及びそれを母音にもつ音のくりかへしの如きは、よく耳に感ぜられるので、「あ」の音さへもそれに親しいものにひゞく。また第二句を除く外は句のはじめが何れも母音であり、而も、い、う、お、あ、の順序になつてゐて、そのうつりかはりが甚だなめらかであるために、すべてが殆ど同じ音のやうに感ぜられる。(「よ」はここでもまたoの母音であることが明かに感ぜられないやうである。)しかし同じ子音を有する同じ音の重なつてゐるのが強く耳にひびくことは、いふまでも無い。
いそのかみふるのわさだをうちかへしうらみかねたるはるのくれかな(春下、俊成女)
の「か」、「る」、及び「う」の音、
しもをまつまがきのきくのよひのまにおきまがふいろはやまのはのつき(秋下、宮内卿)
(447)の「ま」及び「き」の音、(「が」のくりかへしと第四句の「き」とはあまり耳にひゞかないやうである。)
やまがつのあさのさごろもをさをあらみあはでつきひやすぎふけるいほ(戀二、攝政太政大臣)
の「さ」の音、(この歌では「あ」の音及びaとoとの母音をもつ音の連續及び反覆も感ぜられる。特に二三の兩句において。)
あふことはかたののさとのさゝのいほしのにつゆちるよはのとこかな(戀二、俊成)
の「の」及び「さ」の音、(この歌では「こと」と「かた」とがつゞいてゐることも、かなり耳にひゞく。)
わすれめやあふひをくさにひきむすぴかりねののべのつゆのあけぼの(夏、式子内親王)
の「ひ」及び「の」の音、
かぜかよふねぎめのそでのはなのかにかをるまくらのはるのよのゆめ(春下、俊成女)
の「か」及び「の」の音の如きがそれである。が、かう考へると、子音に重要さのあることも知られるので、母音が違つても同じ子音の音が重ねられるばあひには、そこに特殊の感じが生ずるやうである。
うつりゆくくもにあらしのこゑすなりちるかまさきのかつらきのやま(冬、雅經)
の如きは、tとkとrとsとの音が錯綜して重なり合つてゐることが明かに感ぜられる。
ところで、かういふやうな音のつかひかたは、偶然にさうなつたのみではあるまい。これまで擧げたのはかなり特殊のものであるけれども、同じ音の重ねられたのはその例が極めて多いので、
いろふかくそめたるたびのかりころもかへらぬまでのかたみとも見よ(離別、顯綱)
(448) かりそめにふしみののべのくさまくらつゆかかりきと人にかたるな(戀三、讀人しらず)
の「か」の音の如きがそれであり、特に前のではそれが頭韻になつてゐる。
おほえやまかたぶく月のかげさえてとばたのおもにおつるかりがね(秋下、慈圓)
の「か」と「お」との音の如きもまたその例であり、「か」はやはり頭韻になつてゐる。
さみしさはみやまのあきのあさぐもりきりにしをるゝまきのしたつゆ(秋下、太上天皇)
において「さ」と「み」と「あ」と「り」と「き」と「し」とを、それ/\順次に、また或る交錯した形で、重ねて用ゐてあるのは、その重なりぐあひが複雜ではあるが、やはり偶然にできたのみではあるまい。(この歌で「ま」のくりかへしはあまり耳にひゞかず、「き」の音も第二句のは感じが薄い。位置とアクセントとのためである。)なほこゝにはaとiとの母音をもつ音が甚だ多いが、そのくりかへしの聽覺的効果は一樣でない。或はまた
しらくものたえまになびくあをやぎのかつらきやまにはるかぜぞふく(春上、雅經)
の如きは「あをやぎ」の柔かいなめらかな音と「かつらき」の堅いごつ/\した音との對照が強く感ぜられるが、それにしても三四の兩句における「や」のくりかへしが明かに耳にきこえる。これも偶然さうなつたのではなからう。
さみだれはまやのあまりのあまそゝぎあまりなるまでぬるゝそでかな(雜上、俊成)
に至つては、「あま」の語の意識的にくりかへされてゐることは、明かである。
新古今集のかういふ技巧は、一つは、頭韻ともいふべきもの或はその他の形において、同じ音、同じ語、を重ねた歌の多い萬葉の技巧を學んで、一層それを發展させたものであり、こゝに擧げたいろ/\のしかたは、殆どみな萬葉(449)に用ゐてあるが、微吟低唱することによつて推敲を重ねたらしく思はれる作歌のしかたからも、養はれたものであらう。作者がすべてのばあひに一々意識してかふいふ技巧を用ゐたかどうかは問題であり、よし意識してゐたにしても、こゝに述べたやうなことを明かに感じてゐたかどうかは、なほさら問題であるが、しかし少くとも吟唱するばあひに耳にきこえる音の効果が顧慮せられたことは、たしかであらう。頭韻を用ゐたものは、古今集の歌にもいくらかあり、その後のものにも時をり見えてゐて、それらの作者にも音の效果が、意識して或はせずして、感知せられたであらうが、一般にはさして重んぜられなかつたであらう。なほこゝに頭韻といつたのは、一首五句として、その二つもしくは三つの句のはじめの音が同じになつてゐるもののことであるが、同じ音の耳に與へる效果は、必ずしも句のはじめにあるばあひには限らぬから、頭韻に特殊の重要さは無い。もつとも、テニヲハとしての「の」の語のくりかへしの如きは、必しもかういふ方面から來たことばかりではなく、名詞を多く用ゐるためにおのづから馴致せられたことでもあつて、それにはまた、シナの詩を直譯して讀むばあひの風習から導かれたところがあるかも知れぬ。
なくしかのこゑにめざめてしのぶかな見はてぬゆめのあきのおもひを(秋下、慈圓)
の「秋の思ひ」の如きは明かに「秋思」を直譯したものである。「秋の思ひ」ではシナ語の「秋思」とは語感がひどく違ふが、テニヲハのやうな性質の詞の無いシナ語においては「秋」と「思」との二つの名詞をつゞけて一つの熟語を作り、それによつて一つのまとまつた意義をもたせ、まとまつた氣分を表はすのを、ニホン語ではそれができないから、「の」を中間にはさむことによつてそれを二つに分解することになるからである。が、ともかくも、かういふしかたでシナ語を直譯してよむ風習があつたので、それが新古今集特有のいろ/\の技巧とさま/”\に結びついて、(450)「の」の語が好んでつかはれ、從つてまたそれが同じ音をかさねるためにも利用されたのであらう。例へば
いはねふみかさなるやまをわけすててはなもいくへのあとのしらくも(春上、雅經)
の四五兩句のそれ、または上に引いた歌の「かりねののべのつゆのあけぼの」の如く、日本語としてはかなりにむりなつかひかたのしてあるばあひの少なくないのは、一つはこの故でもあるらしい。「の」はもと/\いろ/\の意義に用ゐられる、或は含蓄の多い、語であるが、新古今集の歌にはかういふところから生じた特殊の用ゐかたがある。が、このことはともかくもとして、上に説いたことが新古今集の歌の技巧として重要なるものの一つであることは疑があるまい。ただし、かういふ技巧が歌そのものの情趣と如何なる關係にあるのか、いひかへると、表現の方法としてそれが如何なる意味を有つてゐるのか、或はまたそれは技巧といふよりも歌の情趣そのものとして見らるべきものであるのか、また技巧としては萬葉のそれと同じであるにしても、これらの點においてどこか違つたところがあるか、といふやうなことは、別に考へねばならぬ。さうしてそれについては、根本的には、日本語における語の意義とその語を組みたてる音の聽覺上の效果との關係が、問題となるばあひもあらう。それからまた新古今集の技巧の特色はここにのみあるのではなく、これとは全く性質のちがつた技巧も多く用ゐられてゐるから、かういふものが當時においてどれだけ尊重せられどういふ意味で喜ばれてゐたかも問題である。が、今はそれらの點までは深入りをしないことにする。なほ羇旅の部に萬葉の二の卷の人麻呂の歌の「さゝのははみやまもさやにさやげども」を「さゝのははみやまもそよにみだるなり」としてとつてあるのは、こゝに述べた新古今集の趣味とは一致しないもののやうであるが、これは當時の萬葉のよみかたが正しくなかつたためか、または、よみひがめてあつたものから採つたためか、いづれ(451)かの故であらう。第三句は「亂」の字が書いてあるから、それを「さやぐ」と訓むのはむつかしかつたでもあらうが、第二句に「清」とあるのを「そよ」とよむのはむりだからである。
三 ハツクニシラスといふ語
むかしからひろくよみならはされて來た書紀のよみかたに正しくないものがあるといふことについては、これまでもいろ/\のをりに述べたことがあるが、スジン(崇神)天皇の紀の「御肇國天皇」をハツクニシラススメラミコトとよむのも、またその例ではあるまいか。(今は多く宣長の古事記の訓に從ひ、過去のこととしてハツクニシラシシとよまれてゐるやうであるが、まへにはシラスと現在のこととしていはれてゐたらしい。)ハツクニといへば、ハツはクニの形容詞となり、はじめての國、第一に作られた國といふ義に解せられるが、「御肇國」ははじめて園をしろしめされたといふことであらうと思はれるからである。この書きかたでは「肇國」の二字が一つのまとまつた意義を有つもののやうに見え、そこからハツクニといふよみかたが生じたらしいが、ジンム(神武)天皇の紀に「始馭天下之天皇」と書いてあつて、「御肇國」はこの「始馭天下」と同じ意義であり、多分、同じ語を寫したものであらうと考へられるから、「肇國」の二字もハツクニといふ一つの語として書かれたのではあるまい。コウトク(孝徳)天皇の紀の大化三年の條にも「始治國皇祖」と書いてあるところがあつて、「始治國」は「御肇國」と同じ語を寫したもののやうである。ハツをクニの形容詞として用ゐハツクニといへば、はじめての國、第一にできた國の義になるといふのは、(452)萬葉の歌に用ゐられてゐるハツコヱ、ハツネ、ハツハナ、ハツカリ、ハツユキ、ハツアキカゼ、ハツヲバナ、ハツモミヂ、などの例からも明かであつて、これらはみなそれ/\に、續いて現はれて來る多くの同じものの最初のをさしてゐる。たゞハツハルといふ語があつて、それのみは春がいくつも出て來るそのはじめの春といふのではなく、春のはじめの義に違ひないから、ハツを形容詞として用ゐるばあひとしては特異ないひかたである。これは多分、春が一つの春でありながら時間的に長くつゞくものであるからのことであらう。このハツハルと同じいひかたとしてハツクニといふことがいはれるかも知れず、國が長く續くものである點においてさう考へれば考へられなくもないやうであるが、さういふ語の用ゐられた例が他には無く、またそれではジンム天皇の紀の書きかたとも一致しないから、「肇國」はやはりハツクニではなからうと思はれる。そこでわたくしは「御肇國」をクニシラシハジメシの語を寫したものであつて「御肇」がシラシハジメシに當るのではないかと推測する。「始馭天下」も「始治國」も同じ語をシナ語風に書いたものであらう。古事記にはスジン天皇の卷に「所知初國之眞木天皇」と書いてあるが、「所知初」の三字はシラシハジメシの語によくあてはまるやうである。宣長が「初國」の二字を一つの語と見てやはりハツクニとよんでゐるのは、書紀のよみならはしにひきずられたのであらう。文字からいふと、「肇國」の二字は尚書の酒誥篇に用ゐてあるので、そこに「文王肇國在西土」と見えてゐるが、これは國を肇めてたてるといふことである。書紀の編者は或はそれを思ひ出したのかも知れぬが、しかし假に「肇國」をハツクニの語を寫したものと見るにしても、その意義は尚書のとは違つてゐる。だから「肇國」の文字に拘泥して考へるには及ばぬ。
「肇國」をハツクニとよむやうになつたといふことに關聯して思ひ出されるのは、日本のことばにシナの成語をあ(453)てはめる、或はシナの成語を寫した文字の順序に從つてそれを日本語でよむ、といふことには、多くのばあひむりがある、といふことである。靖國とヤスクニとの關係もその一例である。ヤスクニといふ日本のことばは安らかな國といふことであるが、靖國は左傳の僖公二十三年の條に出典がある文字で國を靖めるといふ義である。安らかな國にすることが即ち國を靖めることではあるので、そこに思想上のむすぴつきはあるが、ヤスクニといふ日本のことばと靖國といふ文字で寫されたシナの成語とは、ことばの意義としては、違つてゐる。トヨクニ(豊國)大明神の豐國の文字は「管子」の覇言篇にある「豐國之謂覇」のうちの二字によつたものかも知れぬ、といふ説もあるさうであるが(ミヤヂ ナホイチ氏「神祇と國史」)、もしさうならば、その豐國はトヨをクニの形容詞として用ゐた日本語の意義とは同じでない。トヨクニは古くから用ゐられてゐた語ではなく、新しく造られたものではあるが、日本語としていひ得られないことばのくみたてでもないやうであるから、それは日本語と見なさねばならぬ。トヨクニの語がどうして造られたかは、實は明かでないやうであり、またヒデヨシ(秀吉)の神號としてこの語がどういふ意義をもち得るかも、はつきりしてゐないが、これだけのことは考へられる。トウショウ(東照)大權現の東照には、初からそれにあてられた日本語が無かつたやうであるから、これについてはこゝにいふ問題は起らぬ。(後に國學者がアヅマテルと訓んで歌などにも用ゐたのは、強ひて日本語にしたまでのことであらう。しかし東照はシナ語としてもむりないひかたである。東に照るといふ意義をもたせたのか東を照らすといふ意義でつけたのか、わかりかねるが、どちらにしてもむりなことは同じである。)人の名において、シナの成語をとりながらそれを日本語でよむばあひに意義の無いことばになる例は極めて多いので、博文をヒロブミとよみ克己をカツミと訓むやうなのがそれである。成語でなくとも、シナ(454)文字をくみ合はせて名とするばあひに、それを一つの日本語と見れば何の意義も無いものになる例も、また限りなく見出される。秀吉、秀頼、秀忠、家光、のヒデヨシ、ヒデヨリ、ヒデタダ、イヘミツ、の如き、みなさうである、日本人の名が日本語として意義の無いものになってゐるのであるが、これは、日本のことばによらずして、シナ文字によつて名をつけるためである。
話はわきみちに入つたが、天照大神の天照が中世時代には多くアマテルとよまれ、國常立がクニトコタチ、素戔嗚がソサノヲ、葺不合がフキアハセズと訓まれたやうに、古典のよみかたにまちがひが生じたのは、日本語をシナ文字で書いたためである。「御肇國」をハツクニシラスと訓んだのも、また同じ例ではあるまいかと思ふ。この文字のよみかたは、いはゆる原注にも私記の類にも見えてゐないから、かう訓んだのがいつからであるかは、わかりかねるが、多分、ヘイアン朝ごろからのことであらう。常陸風土記のカシマ郡の條に「初國所知美麻貴天皇之世」とある「初國所知」は、やはり書紀の「始馭天下」や「始治國」と同じほどな書きかたであり、たゞ馭または治とせずして所知としたまでのものと解してよからうと思はれる。
四 國巣と書かれた語
古典に見えるヨシノ(吉野)の「國巣」は普通にクズと訓まれてゐるが、これはナラ朝時代にはクニスといはれてゐたらしい。古事記のジンム天皇の卷に「国巣」、オウジン(應神)天皇の卷に「國主」、また萬葉卷一〇に「國栖」と書(455)いてあって、「國」といふ文字の用ゐられてゐるのは、そのためであり、現に萬葉のは一般にクニスと訓まれてゐる。これは別に新しい考ではないと思ふが、このクニスは所々にある地名のクリス(多く栗栖と書かれてゐる)と同じ語ではなからうか。萬葉卷六にもヤマト(大和)の地名としてのクリスノヲノ(栗栖の小野)といふのが見えてゐる。ツルガとツヌガとの例の如く、クリスとクニスとが同じ語であるといふことは、承認せられるであらう。語義は余にはわかりかねるが、これだけのことはいはれよう。これもまた新しい考ではないかも知れぬが、まださういふ説のあることをたしかに知らないから、こゝにそれを書いておくのである。たゞかう考へると、クニス、即ち後のクズ、は地名であることになる。古事記のジンム天皇の卷には「國巣之祖」、オウジン天皇の卷には「国主等」と書いてあって、國巣を人の稱呼のやうに記してあるが、これはクニスといはれる土地の住民を汎稱したのであって、いはば國巣の部落民といふやうな意義でいはれたのであらう。書紀にはジンム天皇の紀に「國樔部始祖」とあり、オウジン天皇の紀に「國樔人」とあるが、國樔人が國樔を地名として書いたものであることは明かである。國樔部は「吉野首部」また「阿太養?部」とならべて書いてあって、その國樔は吉野、阿太、などと同じ例であらうから、やはり地名として書いてあるものと見られる。たゞかう見ると、常陸風土記にクニス(國巣または國栖)をツチグモの稱呼として記してあるのが解しがたいやうであるが、これは意義をかへてこの稱呼があてはめられたものであらう。ツチグモという稱呼が説話作者の造つたものであることを考へあはすべきである。クニス人は山奥の部落民で風俗などにもいくらか特異なところがあつたので、ツチグモといふ空想的な稱呼に現實性を與へるために、それを利用したのではあるまいか。
(456) 五 「中今」といふ語
續日本紀のところ/”\に載せてある宣命に、「中」と「今」とをつゞけていつてあるばあひがある。モンム(文武)天皇の紀の元年八月のに「高天原爾事始兩、遠天皇祖御世御世、中、今、至麻?爾……」とあり、和銅元年正月のに「高天原與利天降坐志、天皇御世乎始而、中、今、爾至麻?爾……」とみえ、神龜元年二月のに「遠皇祖御世始而、中、今、爾至麻弖……」とあり、また天平勝寶元年四月のに和銅元年のとほゞ同じことばが用ゐてあるのが、それである。モトヲリ ノリナガは、この「中今」を一つのことばと見て、「中」を「今」の形容詞と考へ、「中今とは今をいふなり、……中といへるは當時を盛りなる眞中の世とほめたる心ばへありて、おもしろき詞なり、」と解いてゐるが、盛りであることを中といつたといふのが、すでに信じかねることであるので、もしさういふいひかたがあるとするならば、それは或ることがらの時間的過程に初と中と後との三期があつて、そのそれ/\が生ひたつ時と盛りの時と衰へてゆく時とにあたる、といふやうな考がもとになつてでもゐなくてはなるまい。少くとも、高天原に事始められた時、遠天皇祖の世は盛りの世でなかつたことになるが、宣命そのものの性質からいつても、また一つ/\の宣命の全體の思想からいつても、さういふ考のあるべきはずがない。よしまたかりに「中」といふことばに盛りの意義をもたせることができるとしたところで、「遠い昔の御時から……今まで」とある「今」に盛りの意義はこもつてゐないので、こゝにはたゞ時について遠い過去と現在とが考へられてゐるのみである(しばらく「中」といふことばをのけて見るので(457)ある)。だから、ノリナガの説はうけとりがたい、といはねばならぬ。
それならば、この「中」といふことばの意義は何であるかといふに、それには、日本紀の大化元年七月の條のクダラの使に賜はつた勅語が考へあはされる。この勅語は「明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世〔五字右○〕、以百濟國、爲内官家、……中間〔二字右○〕、以任那國屬賜百濟、後〔右○〕……觀察任那國堺、……而調有闕、……夫自今以後〔四字右○〕、可具題國與所出調、汝佐平等、不易面來、早須明報、」といふのであつて、その大部分はシナ文に譯されてゐるけれども、始と終とのことばから見ると、もとはすべて日本語で書いてあつたものらしく、特にはじめのいひだしは續紀の多くの宣命の例と同じであり、またことのはじめをいはうとして「遠皇祖之世」といふことばを用ゐてあるのは、上に引いた神龜元年の宣命と同じであるから、この勅語のもとの文章は、いはゆる宣命のとほゞ同じ形のものであり、從つてそこに用ゐてあることばの意義も、また宣命のと同じであつた、と考へられる。ところで、こゝには時間をいふについて「遠皇祖之世」と「中間」と「後」と「自今以後」との四つを擧げてあるが、「後」の一つは特にさういふことばを用ゐていはねばならぬ事件があつたからであるので、「遠皇祖之世」と「自今以後」との間の或る時を示すには、時間としては、「中間」だけでよいのである。それが即ち宣命の「中」にあたることばと考へられる。「中間」のもとのことばが、普通によまれてゐるやうに「なかごろ」であつたとは、はつきりはいひかねるかもしれぬが、少くともそこに「なか」といふことばがあつたことは、おしはかられよう。だから、宣命の「中」は時を示すことばであつて、「中今に至るまで」は「中と今とに至るまで」、もつと適切には「中を經て今に至るまで」の義であり、さういふ意味で「中」と「今」とをつゞけていつたのである。
(458) もつとも、今日のならはしから考へると、宣命のこのいひかたには、ことばの足らぬところがあるやうにも思はれよう。が、上に引いたモンム天皇の紀の宣命に「遠天皇祖御世御世中今」とあつて「遠天皇祖御世御世」と「中」と「今」とが、その間に何のことばをもはさまずして、つゞけていつてあることから見ると、かういふいひかたが、そのころにはあつたらしい。「御世御世」と同じことばを重ねるのも、「中今」とつゞけるのも、いひかたとしては同じであるとも見られよう。(これは、「遠天皇祖御世御世」と「中」と「今」とに至るまで、今日のいひかたでもつと適切にいふと「遠天皇祖御世御世」と「中」とを經て「今」に至るまで、といふことである。「御世御世」と重ねていつてあるのも、そのためであらう。こゝでは始まりは高天原での時としてある。神龜元年の宣命には「遠皇祖御世」から「中今」に至るまで、としてあるが、こゝのはそれとは意義がちがふ。また和銅元年のに高天原から天降りましし天皇の御世とあるのは、神龜元年のの「遠皇祖御世」にあたるのであらう。少しづついひかたがちがひ、從つて同じことばも指すところが違つてゐる。)さて、かう書いてあるモンム天皇の紀の宣命をよく讀めば、それだけからでも、「中」が時を示してゐることは、明かにわかるはずである。「中」といふことばは、いづれも時を示すことばである「遠天皇御世御世」と「今」との中間におかれてゐるからである。かう考へて來ると、中と今との二つのことばが結びあはされて「中今」といふ一つのことばとなつてゐるのでないことは、もはや疑ひがあるまい。
六 わが國に宗教樂の發達しなかつたこと
(459) わが國にはむかしから宗教樂が無かつた。或は發達しなかつた。これは何ゆゑであらうか。佛教が行はれるやうになつてから、寺院の法會にはシナから傳へられたいろ/\の音樂が用ゐられはしたが、それは宗教的心情の表現せられたものではなかつた。はじめて用ゐられたのは、普通に舞樂の一種として考へられてゐるいはゆる伎樂であるが、これはかるわざのやうなものまでも含んでゐる散樂めいたものであつて、その樂も實は樂とはいひがたいほどのものである。さうしてそれには宗教的意義は全く無い。(かつて東洋學報第五卷第三號にのせた「伎樂について」でそのことを考へておいた。)唐樂などが傳へられた後には、舞樂としても、また舞の伴はない樂曲としても、それが法會に用ゐられるやうになつたが、これもまた宗教的意義の無いものであり、朝廷の儀禮のばあひにそれが奏せられたのでも、このことはわかる。後世まで寺院の樂部でも朝廷の樂部でも、同じものを演奏したのである。樂そのものからいつても、シナのいはゆる燕樂に屬するものであることは、いふまでもない。平安朝になつて、大佛開眼の供養の時の法會で演奏するためにわが國で作られた舞曲に「菩薩」といふのがあつて、普賢菩薩のすがたをかたどつたものであるが、それは目に見る舞容においてのことであつて、その樂曲に宗教的心情が表現せられてゐるのではない。(「菩薩」については、東洋學報第六卷第二號にのせた「林邑樂について」參照。)後に寺院で、ブツやボサツの假面をつけた假装行進ともいふべきことが、半ば儀禮的に行はれることがあつたらしいが、それがための樂曲は作られなかつたやうである。よし樂が奏せられたにしても、それは昔から傳へられて來た唐樂などの曲であつたのではあるまいか。法會に樂を奏するのは、それによつてブツの世界を假現しようとするのであるが、ブツの世界で樂が奏せられるやうに説かれてゐるのは、官能的悦樂のあることを示すためであるから、法會の樂もまたそれをまねればよいのである。伎樂や唐(460)樂などの舞曲とそれに伴ふ樂曲とは、この意味において奏せられるのであるから、それが宗教的心情の表現せられたものでないとしても、さしつかへがなかつた。宗教的意義の無い伎樂や唐樂などが用ゐられたのは、わが國に樂らしい樂が無かつたところへさういふものがシナから傳へられ、目に見る舞のめづらしさ美しさと、樂聲のおもしろさとに心がひかれて、法會にそれを用ゐたまでのことではあるが、法會に樂を奏することの意味からいつても、それでよかつたのである。
もつとも梵唄といはれてゐたやうなものもあるが、それもたゞ聲の美しさが感ぜられたのみである。梵唄の意義が聞くものにはわからなかつたのと、經を誦むにも聲のよいのをめでたのとから、かう考へられる。(和讃といふものが作られ、それが民間に行はれるやうにもなつたが、それはたゞ一定の曲節がつけられてゐるのみであつて、樂といはれるほどのものではない。なほ、寺院の内部には僧徒の娯樂としてのいろ/\の演藝が起つたので、延年舞の如きはその著しいものであるが、そのほかにも倶舍舞とか聖道舞とかいふやうな名が文獻に見えてゐることから考へると、さま/”\の歌舞がところ/”\の寺院の僧徒によつて行はれたやうである。しかしこれは宗教樂ではなく、宗教的心情の表現せられたものではない。僧徒の作つたものであるから、その歌の詞章に佛教の術語が用ゐられてはゐたらうが、それはたゞそれだけのことである。)
ところで、宗教樂が起らなかつたのは宗教的心情が樂的表現を要しなかつたためか、樂的表現の能力が無かつたためか、または宗教樂を成り立たせるやうな外部的條件が具はらなかつたためか、或はまたそれらのすべてに原因があるのか。いはゆる現當二世の利益を、求めるのが佛教の信仰であるとすれば、それは特に樂的表現を要するやうなも(461)のではない。上に述べた如く、樂はブツの世界の快樂を法會の間に享受させるために奏せられるのであるから、内からの表現ではなくして外から與へられるものである。樂は樂であればよく、宗教的意義の無いものでよいのは、これがためではあるまいか。次には樂的表現の能力のことであるが、平安朝において唐樂などをいくらか改作したことはあるらしく、新曲を作つたことも全く無くはなかつたが、その新作とても實は摸作といふべきものであつたらう。催馬樂が唐樂の何の曲かのメロディにあてはめて歌はれたのは、伴奏としてその曲を用ゐたからのこと、むしろ唐樂の曲の演奏に催馬樂の歌曲を加へたからのこと、であらうが、それにしても、新しい歌曲を作ることをしなかつたところに、そのころの樂家の能力が示されてゐるのではあるまいか。もつとも神樂歌とか東遊びの歌とかいふものは、唐樂のメロディにあてはめて歌はれたのではないが、さりとて民謠ふうの歌ひかたでもなかつたやうであるから(これには、伴奏樂器との關係から考へねばならぬ旋律法の問題も潜んでゐる)、それは樂家のふしづけによつたものかとおしはかられるが、それとても作曲といふほどのことではなく、唐樂などの樂曲に對してそれと並び立つやうなものを作る能力があつたことを、示すものではない。これにもまた、樂曲らしい樂曲は、或る完成した形でシナから學び傳へられ、さうしてそれが(平安朝になつて或る整理なり變改なりが施されたとするにせよ、概していふと)、ほゞそのまゝ後に學び傳へられたのと、そのことの自然の成りゆきとして、また貴族文化の一般の傾向として、それが朝廷または寺院の樂部によつて、或る權威をもつたものとして、うけつがれ、從つて樂曲そのものも、かうしてうけつがれたものであるところに價値があるやうに思はれたのとのために、新曲を作らうといふ欲求が生じなかつた、といふ事情もあらう。が、さういふならはしが長くつゞいて來ると、作曲の能力は養はれもせず生じもしないやうになつた、(462)と考へられる。
貴族文化の力が衰へるとともに、唐樂などの舞樂に代る新しい濱藝が民間に起り、武士社會に觀賞せられるやうになつても、樂としての側面では甚だ低級のものであつたのも、こゝに歴史的の由來があるのではなからうか。佛教の勢力のあつた時代でありながら佛教樂らしいものの生じなかつたのは、この點から見てもうなづかれることであらう。さて、寺院が多くたてられ、法會が盛んに行はれ、そこで舞樂が演ぜられ、舞の伴はない樂曲も奏せられたとすれば、宗教樂の生ずべき外部的條件は具はつてゐたといはねばならぬ。然るにそれが生じなかつたといふのは、こゝにいつたやうな理由からではなかつたらうか。
宗教樂の生じなかつたことについて、もしかう考へることにいくらかの意味があるとするならば、それはたゞ宗教樂だけのことではなくなる。たれであつたかよく記憶してゐないが、ヨウロッパの或る音樂史家は、音樂はキリスト教民のものである、といふやうなことをいつてゐる。近代音樂の發達した歴史からいふと、キリスト教の寺院がそれに多くの寄與をしたことは事實であらうが、かういふ説はもとより肯ひがたい。しかしわが國の佛教とその寺院とが、わが國に音樂を發逢させるはたらきをしなかつたことは、考へられねばなるまい。
七 古典の二つのとりあつかひかた
古典、といつてもこゝではおもに文藝上の作品をいふのであるが、その古典の讀みかたには、おほまかにいふと、(463)ほゞ二とほりあるやうに思はれる。一つは、古典の世界に身を置き古典の情調にひたるところに興味をもつもの、一つは、古典に現代人としてのわがこゝろの反映を認め、または現代的情趣をそれに求めようとするものである。二つのいづれがとられるかは、古典の性質にもよるが、それよりも讀むものの態度によることが多からう。第一の讀みかたをするには、古典を讀みなれ古典に親しみをもつてゐることが必要であつて、さうでない讀者はおのづから第二の讀みかたに傾く。始めて古典を讀んで、おもしろいとかおもしろくないとか感ずるのは、現代人のこゝろもちに通ずるものがそれにあるかないかによるやうである。
もつとも第一のとても、讀むものは現代人であるから、しらず/\のうちに、多かれ少なかれ、現代人のこゝろもちをそれに反映させてゐるので、古典の情調として感ずるものが、實はさうでないばあひがあらうし、また第二のとても、むかしも今もかはらぬ人間性のあらはれをそれに認めながら、それを現代的のものであるごとく思ひなす、といふこともあらう。從つて二つの讀みかたをはつきり區別することはできないが、一おうはかう考へてもよいやうである。
これは、いはゞ趣味として古典を讀むばあひのことであるが、學問的の研究として古典をとりあつかふにも、これに似た二つの態度がある。古典を古典として古典そのもののもつてゐる意味と價値とを明らかにするのと、古典に現代思想を反映させることによつて古典にあらはれている何ごとかを解釋しようとするのと、この二つがそれである。前のほうのが正しい學問的態度であり、上にいつた第一の讀みかたもそれに本づいてせられるのである。後のほうのは、そのとりあつかひかたによつては、學問的の研究とはいひがたいものとなることが多い。近ごろ、古典の説話の(464)一部分または歌集の歌などを、斷片的にとり出して、現代の社會思想によつてそれを解釋しようとすることが、或る方面で行はれてゐるやうに見えるが、その多くはほしいまゝな臆測であり附會である。
八 片假名のことなど
さうです。私も滿鐵の滿鮮史研究室に勤めてゐたことがあります。白鳥庫吉先生が主宰者で、池内宏・箭内亙・稻葉君山や、私などがその下で勉強をさせて貰つてゐたのです。白鳥博士は、シナの歴史を西域その他、周邊のいろ/\の地方の歴史から究めていつたり、または西洋の文獻によつて調べたりした最初の學者でせうね。それに箭内君といふ人がまた立派な學者で、日本で初めて東洋史をみつしり勉強した人といへるかも知れません。眞面目な人でした。一高で東洋史を教へてゐましたね。白鳥さんの方は早くから擧習院で西洋史の先生をしながら、朝鮮のことを研究し、それから蒙古とかトルコとかいふ方面のことで大きなしごとをしてゐられたのです。何れにしてもあのころの滿鐵はのんびりした所があつてよかつたですね。初代總裁の後藤新平にしても、次の中村是公にしても、あゝいつた研究者を庇護してくれました。
經濟問題の方面でも、岡松參太郎博士を中心にいろ/\と目先の利害に捉はれない調査を發表していつてゐましたね。私が滿鐵に入つた時はよかつたのですが、そのうちに滿鐵が政黨の喰ひものにされるやうになり、政友會から伊藤大八なんていふ人物が入つて副社長になつたりしてからは、歴史地理調査なんか不急不要と言ひ出して、形式的に(465)だけは、東京大學の文科に引き繼いで貰ふことになりました。それで、われ/\研究者の方も大正二、三年ごろ全部追ひ出されてしまひました。
箭内や池内は東大に迎へられました。稻葉は朝鮮に行き、私は早稻田に入りました。早稻田では何分にも吉田東伍博士が急に亡くなつて、あとがまがゐないから是非といふことになりました。躊躇した後、行くことにしました。吉田博士は日本史でせう。その後へ私が行くのはをかしいといふと、そんな事は言はないで、シナのことでもいゝからやつてほしい、今までの專門と少し方面が違ふが、シナ思想がどういふ風にして日本に入つて來たかといふやうな思想史でもいゝ、それも必要だから、といふのです。
推薦者は久米邦武博士ではなく、シナ學の市村鑽次郎さんだつたと思ひます。入つて史學科の講義をしてゐましたが、哲學科にシナ哲學といふものがない。それで史學科から離れてシナ哲學の方を擔當するやうになりました。それからずつと早稻田にゐましたが、戰爭中に例の起訴問題が起つたので止めました。
さう、いかにも久米さんの意見には隨分獨創的なものがありましたねエ。中にはドグマに近いものもあつたにしても、お話のやうに全集が出てもいゝ學者でせうね。
この間、ちょつと疑問を持つたことがあります。明治四年の岩倉大使一行の歐米視察報告書が出てゐるでせう。久米さんが書かれたことははつきりしてゐますが、岩倉以下一行の人々の意見がどこまで混じつてゐるか、私にはどうも久米さんの意見と見た方がいゝやうに思はれるのですが……。さうですね、あの時の一行のうち、木戸や田中不二麿は米國密航中の新島襄の世話になり、たしか歐洲へもついて行つて貰つたわけでせう。どちらにしてもあの一行は(466)わりに正しい歐米事情を理解していたのでせうね。
長州藩なども幕末、尊王攘夷などと言つてゐましたが、高杉晋作は上海へ行つてゐますし、伊藤俊輔や井上聞多がイギリス船で歐洲へ密航したことは周知のとほりです。またあのころはシナから來た書物でヨウロッパのいろ/\のことを知つたものです。全體に江戸時代にはシナから書物が多く渡つて來たので、幕府でも大名でもそれを買つたやうですね。元禄・享保の時代の近衛家でも、シナから長崎へ來た書物を多く買ひこんだといふ話です。
江戸時代に外國から日本へ入つて來た書目を知りたく思つてゐます。大名の家にも、また、長崎の通詞の家にも殘つてゐやしないかと思つてゐますが、いまではみな散逸してゐるやうですね。戰爭のために金持の家でも書物を賣つてしまつたものがありませう。仙臺の伊達家では藏書を縣の圖書館に收めてゐましたが、それでも幾らかはよそへ流れ出てゐるとか聞きました。
維新直後の開成所から東京大學にまで發展する間のいろ/\の仕事はどうでせう。はつきり記録せられたものがありませうか。東京帝國大學五十年史二卷がありますけれどもね……。あの中に例へば繪畫の係りがあつたと書いてありますが、あれは何を教へたのでせうかねエ。ともかく開成所で繪畫の係りがあつたことはなか/\面白い。
私の父は尾州藩の附家老で美濃の今尾に居城のある竹腰といふ家の家中でした。尾州藩ではこの竹腰と犬山の成瀬とが將軍直命の附家老で、成瀬は三萬五千石、竹腰は三萬石の大名なみの家でした。父のころには殿樣は三河の田原藩の三宅家から養子に來た人です。この殿樣が幕府の學校の開成所へ入られるといふので、私の父もお供をして英語(467)の勉強のお相手のやうなことを致しました。そのころの教科書のやうなものが私の子供の時分に殘つてゐましたが、香港版の物理と化學との初等書、大ナボレオン傳などいづれも英語のものがありました。ナボレオン傳は、二、三十頁の本で、中學生くらゐならばどうやらかうやら讀める程度の本でした。どのくらゐの程度に當時の開成所の一般の生徒たちがこんな書物を理解してゐたのか、それも調べてみたいことの一つです。
中村敬宇の同人社といふ英學校が小石川の大曲にありましたね。慶應に對立してゐた立派な學校でした。敬宇の子息はどこかで齒醫者をしてゐたと思ひますが、今はその裔はどういふことになつてゐますかねエ。私の父は御一新の年に名古屋に歸り、それから歸農を命じられて、美濃の竹腰の領地の農村に移住し、私はそこで生まれたわけですが、坪内逍遥先生の生まれた木曾川よりの太田の驛に近いところでした。
私も近年は維新當時の研究に手を染めていますが、殆どもう七、八年になります。何分にもすでに數へ年八十五になりますので、どうも早く草臥れるやうになりました。
大體私は旅行は嫌ひです。戰爭中だけは麹町の舊宅によく來てくれた學生に勸められて、その人の郷里の平泉に疎開してゐました。そのお蔭で食物には事を缺きませんでしたが……。滿洲・朝鮮の調査をしてゐたころでも、世間では私が滿鮮の山野を股にかけて歩いたものと思つてゐたやうですが、私は專ら地圖を見て研究をすゝめたに過ぎません。そのころはいゝ地圖はありませんでねエ、專ら朝鮮の地圖や地理書に據つたものです。
朝鮮の書物でも李朝實録などといふものは、なか/\見ることができませんでした。世界に四部しかないといふわけで、その一部を白鳥博士がむりに寺内總督にねだつて東大に寄贈して貰ひました。惜しいことにそれが大正十二年(468)の大震災で全部燒けてしまひました。しかし今では複製本ができてゐますから、研究の途は開けてをります。
固有名詞を假名で書く理由ですか。さうですね、人の名前をどう讀んでいゝか、判らないのがあるでせう。だから實用的の見地から假名にした方がいゝやうに思ふのです。人の名を漢字でつけて、それをむりに日本語讀みにするから、むつかしくなるのだと思ひます。例へば一といふ字を書いてハジメともカズとも讀ませる。ところが元の字を書いてもハジメと讀ませる。同じ字が違つた日本語にあてられ、違つた字が同じ日本語にあてられる。さうしてその日本語のあてかたは人々の思ひつきできまる。漢字で書いた名前を何といふのかは、一々本人に聞いてみなくてはわからない、といふことになるのです。これらはともかくも日本語になつてゐるからよいが、頼朝・清盛・正成・秀吉、むかしから多い二字の名にはまるで日本語になつてゐないものが多い。日本人の名が日本語でないといふことになる。漢字を用ゐずに日本語で名をつければかういふことにならない。それには假名で書くのが一番よい、かう思ふのです。この點からいふと、名の假名がきには日本語を尊重する意味があります。共産黨の人たちにも名を書くのに假名を用ゐるのがありますが、あれは何か別の理由があるのでせうねエ。なほ私は文章のなかでは名を片假名にするのですが、平假名では同じ文章の文字と混淆するので、片僧名にしてゐるわけです。慶喜をヨシノブ、水戸の斧昭をナリアキ、島津の齊彬をナリアキラ、といふ風にね。
それでは漢字の將來はどうかとのお尋ねですか。だん/\少なくしていつていゝと思ひますが、役所が先に立つて急に當用漢字にするといふやうな必要はないでせう。そのくせ、役所の使用語ほど、變梃子で難しいものはありません。(469)農事試驗所で、ニッショーが惡いとか、ツイヒの必要があるとかいふ、耳なれない新語を用ゐたがる。何のことかと思ふと、ニッショーは日照、ツイヒは追肥のことださうです。驚きましたねエ。
哲學上の言葉でも、カテゴリーといへば、學徒にはすぐに通じますが、わざ/\範疇といふ字を用ゐると事が面倒になる。ギリシャ語やラテン語から來てゐる哲學上の用語は、むしろ原語のまゝの方が判りいゝ場合が多いのではないか。今はどうか知りませんが、前には軍隊用語がすべて耳馴れない漢語風の新造語で固められてゐました。一つには、日本語では語調が緩やかになるから、堅苦しい漢語で引きしめるといふ氣持もあつたかと思ひますが、常人の生活についてゐません。かういふものはやがて實用面から離れて行くのが當然の話でせう。漢語・漢字を制限する方でも同樣で、役所や學校だけで勝手に制限してみても、常人には讀めないものになつては何にもなりません。この意味において、にはか仕込みの漢字制限や略字は私は嫌ひです。
九 漢文とラテン語
モリ オウガイのファウストの譯本では、もとの本でラテン語になつてゐるところが漢文にしてある。これは、一おう、もつとものことのやうである。中世このかたのヨウロツパにおけるラテン語と、わが國における漢文とは、知識人の知識としてのその地位とはたらきとにおいて、似たところがあるからである。しかしよく考へると、この二つを同じやうに見ることのできないことがわかる。フランスとかイタリヤとかいふやうな、そのことばがラテン語からす(470)ぢをひいてゐるのみならず、その民族その文化がラテンのそれのひきつゞきであるといつてもよいほどな國は、いふまでもなく、ドイツのやうなゲルマン民族の國でも、そのことばは、同じインドゲルマン語の系統に屬するものとして、ラテン語と親しい關係がある。それから、いまの國々のことばは、ことばはラテン語とちがつてゐても、それを寫す文字は同じであると共に、ラテン語は、國語としては、それを用ゐる國民が今はどこにも無い。ところが、漢文は、わが國の民族わが國のことばとは、その性質がまるでちがつてゐるシナ民族の用ゐてゐたシナ語によつて形づくられたものであるのみならず、その文字は、シナ語の一つ/\のことばのしるしとして作られたもの、一つ/\の文字がそれ/\シナ語としての何等かの特殊の意義をあらはしてゐるものであるし、今のシナ民族も文語としては現にそれを用ゐてゐる。さうしてわが國には、シナ語とは性質が全くちがひ、從つて國語としての系統が全くちがつてゐる、わが國のことばを寫すために作られ、しかもことばとしての意義をもたない、音のしるしとしてのはたらきのみをもつてゐる、文字としてのカナもじがある。だからことばと文字との上から見ると、いまのヨウロッパの國々のことばとラテン語との關係は、わが國のことばと漢文との關係とは、全くちがつてゐるといはねばならぬ。今のヨウロッパにおけるラテン語と、わが國における漢文との間に似てゐるところのあるのは、ことばと文字との上においてではなくして、いはばその文化上の地位とはたらきとにおいてである。が、さらに考へると、その點にもまた大なるちがひがある。それは、ラテン語はそのことばのまゝに用ゐられるのに、日本における漢文は、目に見るものとして書かれた文章は漢文であるけれども、それを口に出して讀むばあひには、ほゞ日本語脈になほすのであるから、日本人のことばとせられた漢文は漢語もしくはシナ語ではない、といふ點においてである。こゝでラテン語に對して漢文と(471)いふ稱呼を用ゐ、シナ語または漢語といはないのは、これがためであるので、いはゆる漢文は、たゞ目に見る文章の書きかたとしての意味においての、または目に見る形態においての、漢文なのである。從つて書かれた文章としての漢文の形と、それを日本語脈になほして讀むばあひに意識せられるその思想内容との、または日本語脈になほして讀むことを豫期しつゝその形をかりて寫しまたは表現しようとする思想内容との、間には、おのづから調和しないところがあるが、今のヨウロッパでラテン語を用ゐるばあひには、このやうなことは無い。このことは、今のヨウロッパにおけるラテン語とわが國における漢文との、はたらきと價値とに大なるちがひのあることを、示すものである。
が、それは別の問題として、さしあたつて考へられるのは、日本のことばを用ゐて書かれた日本の文章の間に漢文の辭句をはさみこむことは、たゞ目に見える形の上でちがつた感じを與へるまでのことであつて、讀んでゆくばあひには、いひかへると口に出し耳に聞くことばとしては、さういふ感じは得られないから、實は漢文の形にするにはおよばないこと、漢文としたかひのないことである、といふことである。さすれば、ラテン語を漢文に譯するのも、また意味の無いことにならう。もつともこれは、漢文の讀みかた、すなはちそれを日本語脈になほすなほしかたにいろ/\ある、といふことを考へに入れないでのはなしであるので、もし日本語の語法にはづれたところのある、いはゆる漢文直譯風の讀みかたをするとすれば、日本語の文章とはいくらかちがつたものになるのであるが、よしさういふ讀みかたをすることによつて日本語の文章でないことを示さうとするにしても、それを漢文に書くにはおよばず、いはゆるカナまじりの文體によつて、語法にはづれたところはありながら、ほゞ日本語としての形を具へてゐるその讀みかたによるほうが、かへつてその目的にかなふしかたである。けれども、日本語の語法にはづれた、さうしてどこ(472)の國のことばでもない、そのやうな讀みかたによる文章とするよりも、ラテン語を翻譯するならば、わが國の古典時代のことばといひかたとを用ゐるのが、ふさはしくはあるまいか。オウガイのファウストの翻譯には、一般にはいまの口語が用ゐてあるが、特殊のばあひには古典語によつたところがあるから、ラテン語をかうすることは、その點で混雜が生ずるやうにも考へられよう。しかし、古典語に譯せられたところと、もとの本でラテン語になつてゐるところとは、その思想内容においておのづから區別があるから、二つともそれを古典語に譯しても、その間に混雜は起るまい。ラテン語からのばあひには、語彙として、漢語を多く用ゐるといふしかたもあらう。上にいつたやうに、ラテン語と漢文とは、その文化上の地位とはたらきとにおいて、類似があるのであるから、漢文を構成する語彙としての漢語を用ゐることは、むしろ自然のしかたとすべきである。もちろん、ドイツ語に對するものとしてのラテン語の感じをかういふ譯しかたによつてほのめかすことはできないが、わが國語に對するものとしてラテン語にあたるものがもと/\無いのであるから、これはしかたがない。
オウガイは、國語の語法やかなづかひについては、いはゆる歴史的のそれを守つてゆかうとしたと共に、漢文とシナもじとを重んじてゐたやうである。國語のことは別の問題として、漢文とシナもじとについていふと、これは、かれの生ひたつた時代の學界の空氣が後までもかれにはたらいてゐたことと、かれみづから漢文とシナもじとについてゆたかな知識をもつてゐたことと、この二つから來た一つの趣味ともいふべきものであつたらう。ラテン語を漢文に譯したのも、この趣味のためらしい。
(473) 十 シナの詩の日本語よみ
シナの詩を半ば日本語化してよむといふ日本人のしかたが、ほんとうの詩のよみかたではなく、詩といふものの音調上の效果を全くこはしてしまふものであることは、いふまでもない。日本語化してよんでもその意義だけは一とほりはわかるし、音調の點をのけていふと、詩としての形の上の制約から生ずる特殊の情趣もいくらかは感受せられる。要するに散文とは違つた感じが或る程度に得られるのである。しかしテニヲハといふものが無く助辭の類も極めて少い古典シナ語で書かれたものに、強ひてテニヲハを加へ助辭を加へて日本語化するばあひには、散文でももとの意義をそのまゝにいひ現はすことのできないことが多い。論語にある「敬鬼神而遠之」の「遠之」を「之に遠ざかる」と訓むのと「之を遠ざく」と訓むのと、意見が二つに分れてゐるやうであるが、これはむりに日本語にしようとするからのことであつて、實はどちらでもあり、またどちらでもない。もとの意義はたゞ鬼神と人との間にへだたりをおくことであつて、人がみづから退いて鬼神から遠ざかるのか、その反對に鬼神を遠くにおしやるのかは、初から考へられてゐないのである。日本語だからこそ遠ざかるとか遠ざくとかいはねばならぬが、シナ語ではたゞ「遠之」であり、しかもその「之」は必しも日本語で「これ」と譯するやうな代名詞ではなく、むしろ意義の無い一種の助辭と見るべきである。これはシナ語で精密な思想が表現せられないといふことの一例にもなるものであらうと思ふが、しかし詩においてはかういふシナ語の性質から特殊の情趣が生じて來る。それは一句をくみたてる語と語との間に關係がある(474)如く無い如く、句と句との間においてもまた同樣であつて、不即不離の間にいくつかの觀念なり事物なりの結びつけられてゐるところ、或はそれらの次第に移つてゆくところに、詩の興味があるからである。
例へば唐詩選に見える許渾の秋思七絶、「h樹西風枕簟秋、楚雲湘水憶同遊、高歌一曲掩明鏡、昨日少年今白頭、」において、起句のh樹と西風と枕簟と秋とは四つの名詞が、その間の關係を示す語を一つもつけずして、たゞならべられてゐるのみであるが、それによつて秋の情趣が漠然思ひうかべられる(枕簟は熟語として一つの名詞を形づくつてゐるものと見る)。ところが、日本語ではかういふいひかたはできない。名詞を並べただけでは文章にならぬ。そこでこの句を日本語化して讀むばあひには通常、「h樹西風枕簟の秋」とするが、「の」を加へたのは枕簟だけについてなのか、その上のh樹西風をも含めた三つの名詞の全體についてなのか、はつきりしないことになる。實はこのばあひの「の」は語法の上からそれを加へねばならぬのではなく、むしろ口調のためであるらしく、それによつて、一句の意義とは殆ど關係なしに、いくらかの日本語らしい感じが得られるからであらう。(かの杜牧の詩の句を「水村山郭酒旗の風」とよむばあひの「の」もこれと同じであるが、たゞこの句の風は酒旗にのみかゝるのであらう。)勿論、かういつたとて、一句が完全に日本語化せられたのではなく、三つの名詞をならべただけでは日本語としてはこの句の示さうとした情趣はいひ現はされないが、それを完全に日本語化すれば詩としての形をくづしてしまふことになるから、形をくづさない程度で日本語化するには、かうするより外にしかたがないのであらう。次に承句の楚雲と湘水とも、また二つの名詞をならべたのみであつて、かういふいひかたもシナ語だからできるのであるが、それと憶同遊との關係も明かにはいつてない。轉句の高歌一曲と掩明鏡とに至つては、なほさらである。(もつともこの二つは、(475)語の上のみでなく、ことがらにおいても殆どむすびつきが無い。)たゞ結句の昨日少年と今白頭との關係は、それを示す語は無いけれども、意義の上から推測し得られる。これは少年のおもかげと白頭の姿との對照に違ひないからである。さうしてこのばあひでは、昨日は少年であつたのに今は白頭であるといふやうな時間の經過を示す語を加へず、少年と白頭とを卒然とならべたところに、昨日と今とが殆どへだたりをもたないほどに接近したものとして感ぜられたこゝろもちを、偶然のことながら、傳へてゐるともいはれよう。さてこの承句から後の三句を日本語としてよむならば、「楚雲湘水・同遊を憶ふ、高歌一曲・明鏡を掩ふ、昨日の少年・今白頭、」とでもする外は無からう。ところで、この詩をかういふ風に訓んだのでは日本語としては意義の通じないところがあるが、さりとてシナ語のまゝでもないので、甚だをかしな訓みかたであるが、日本語化しなければどうしても意義のわからぬところはしかたがないとして、その他においては、かういふやうにできるだけシナ語の特質を保たせておけば、詩の形から來る感じをいくらかでもうけ入れることができるのである。例へば結句を「昨日の少年は(または昨日は少年なりしに)今は白頭となりぬ」などと讀めば、全く散文になつてしまふのみならず、上に邊べたやうなこゝろもちはひどく損はれる。以上は一句一句についてのことであるが、句と句との間の關係についても同じことがいはれる。例へば起句の秋の情趣と次の句の楚雲湘水とがどう連絡するのか語られてはゐないが、讀者は前の句によつて楚雲湘水に秋の空氣を漂はせることができる。轉句の掩明鏡は結句を讀んで始めてそれと意義の上のつながりのあることがわかるが、高歌一曲は起承の二句とはあまりにかけはなれてゐる。これは、その間の關係を何ともいひ現はしてないために、突如として高歌のきこえて來ることが却つて興味をよび起させるのであるが、もしそれをいひ表はしたならば、かういふかけはなれたことを次(476)の句でいふことはできなかつたであらう。或は逆に、かういふ句と前の二句との關係を何等かの語でいひ表はさねばならぬとすれば、適切なことばが無いのではあるまいか。(試に日本語で起承の二句と轉句との間をつなぐことばを考へてみるがよい。)要するに詩においては、一句がそれ/\獨立した意義を有つてゐて、句と句との間の關係ははつきりいひ表はされてゐず、そのはつきりしてゐないところに一種の不即不離の妙味があるのである。
だからシナの詩の句を日本語化してよむにしても、詩のおもかげをいくらかでも保たせるためには、なるべくテニヲハや接續詞や助辭の類を用ゐないほうがよい。「高堂置酒夜撃鼓」を「高堂に〔傍点〕置酒して〔二字傍点〕夜鼓をうつ」とし、「明朝相憶路漫々」を「明朝相憶ふも〔傍点〕路漫々たらん〔三字傍点〕」とする類の、傍點を施した語はよけいものである。シナ語にテニヲハは無く、時を示す助辭も無い、或は無くてすむ、からである。「只今惟有西江月、曾照呉王宮裏人、」を「只今たゞ西江の月のみ〔二字傍点〕あり、曾て照せり〔二字傍点〕呉王宮裏の人を〔傍点〕、」と讀むやうなのも同樣であるのみならず、この二句では、西江月と宮裏人とが最も強く耳にひゞかねばならぬから、「たゞ今たゞあり西江の月、曾て照らす呉王宮裏の人、」とよんだほうがいくらかは原作の調子を保たせることになる。句と句との間においても同樣であるので、「白草原頭望京師、黄河水流無盡時、」の初句は「白草原頭京師を望めば〔二字傍点〕」とするよりも「望む」ときつたほうが原詩のきぶんにもシナ語のいひかたにもかなつてゐる。「望めば」といふほどならば「白草原頭にて〔二字傍点〕」とでもいはなくてはなるまいが、それでは一層詩としての興味をなくする。もつとも「借間故園隱君子、時々來往住人閨A」のやうなのは、二句がつながつて一つの意義をなすのではあるが、後のほうの句を「時々來往して〔二字傍点〕人閧ノ住するかと〔四字傍点〕」とよむ必要はない。さうよまなくては日本語としては意義がわからぬといはれるかも知れぬが、もと/\ほんとうの日本語にするつもりはないのである。(477)もしほんとうの日本語にしてよまうとするならば、むかし話の「とざまにゆきかうざまにゆき路はる/\、きさらぎやよひ日うら/\、」のやうにしてもまだ足りないところがあるが、それではシナの詩ではなくなつてしまふ。エド時代の漢學者の詩のよみやう、即ち今普通によまれてゐるよみかた、のほうが却つていくらかでも詩らしいおもかげを殘すことになる。但し漢學者がかういふよみかたをしたのは、シナ語の性質とそれから來る詩の情趣とを知つてゐたからではなく、むしろ日本語をよく知らなかつたからのことではあらう。(こゝに傍點を施して用ゐたよみかたの例は近ごろ世に出た唐詩選の或る譯注から取つたものである。)
かうはいふけれども、よみかたはその詩の意義や語調によつてのみきめられるものではない。いくらかでも日本語化してよむ以上は、それが語調を重んずる詩をよむのだと意識せられてゐる限り、やはり日本語としての語調が考へられねばならず、さうして日本語としての語調を考へるとなると、詩の意義と語調とから離れるばあひがあり得るからである。今一々それを述べないが、原詩では同じやうな語のくみたてであるにかゝはらず、テニヲハや助辭をつけたりつけなかつたり、音讀したり日本語になほしたり、いろ/\にするのは、主としてこのためである。音讀するばあひにも、シナ語では一音である入聲音を日本人は二音にして讀むために、そこから生じたよみかたもある。が、さういふ工夫をしてみても、どうしても口調のよくない、日本語化すると詩らしくきこえぬ句が少からずあるが、これは當然のことである。たゞし日本人の作つた詩は、初めから日本語化したよみかたによつて作られてゐるから、さういふものは少い。日本人に七絶を愛する傾のあるのも、日本語化するにつごうのよいところのあるのがその一理由であらうかと思はれる。七言はよむばあひに四言と三言とに分けられるものが多いので、そこにいはゆる七五調と似た(478)ところがある。
シナの詩を日本語化してよむのは、もと/\むりなことであるから、それをどんな風にしてみたところで、つまりは五十歩百歩の話であるが、かういふよみかたをすることによつて、日本語とシナ語との本質的のちがひとシナの詩にシナ語の特質が最もよく現はれてゐることとが、知られるのである。たゞさういふむりなしかたをしてシナの詩を日本語でよまうとしたところに、シナの文物を日本化しようとした日本人の態度が見られはする。なほかういふシナ語は、思想を精密にも明確にもいひあらはすことのできないものであり、從つてまた思想そのものをも思惟のしかたをも粗雜にし曖昧にするものであると共に、他方では詭辯を弄するにつごうのよいものでもあるが、詩的表現の具としては、日本語とは違つた一種特殊の興味がそこから生ずるのである。勿論、それは詩としての思想の内容に深さのあることを示すものではなく、主なる興味が言語にありいひあらはしかたにある點において、むしろその反對であることの一つのしるしともなるのであるが、ともかくもそこに特殊の興味はある。そこで日本の歌においても、表現の方法として、さういふ興味のある點をいくらか取入れたらしく見えるものもある。一句一句を獨立したものとし、さうして句と句との間に不即不離の關係をもたせてゆく連歌や、それをうけついだ連俳のしかたがそれであつて、これは、連歌といふものの發展がおのづからさういふほうに向いて來たからではあるが、シナの詩の影響もあらうと思はれる。(必しもシナの聯句の作りかたが學ばれたものとしなくともよい。或はそれが學ばれたのかも知らぬが、聯句といふことの行はれたのがそも/\詩がかういふ性質のものであつたからである。)テニヲハや助辭の類をできるだけ少くする俳句の語法も、短い詩形の俳句としてはさうならなければならぬことではあるが、やはりシナの詩の語法(479)から暗示せられたところがあるらしい。溯つていふと、新古今集の歌などにもいくらかはそれがあるやうである。しかしこれは歌や俳句においてだからこそよいのである。理を説き事を敍するばあひにおいてシナ文をむりに日本語化したよみかたから導かれた表現のしかたが、いかに日本人の思索を不精密にし、また日本語を混亂させその發達を妨げたかは、今さらいふまでもないことである。
十一 漢文の日本語よみ
いはゆる漢文に訓點をつけ、日本語脈になほしてそれをよむといふことは、異民族のことばで書かれた文章のとりあつかひかたとしては、どこにも例の無い、我が國だけの、しきたりであり、またかういふしかたでは、ほんとうの漢文の意義がわかりかねるのであるが、これは、はじめから、漢文をよむよみかたとして考へだされたのではなく、日本語をシナ文字で寫し日本語の文章をシナ文字で書くことから導かれたものであらう、といふことを、かつて考へたことがある。むかしはじめてシナ人から書もつを學んだばあひには、もとのことばのまゝ聲音のまゝによまうとしたのでもあらうが、さういふよみかたは廣くは行はれず、また長くもつゞかなかつたであらう。「もとのことばのまま聲音のまゝ」と書いたが、實は日本人とシナ人とでは發聲なり發音なりのしかたがひどく違つてゐるから、もとの聲音のまゝに讀むことは、特別にシナ語をシナ語として學ぶのでなければ、できないことである。しかしさういふことは一般の日本人には用が無いから、シナ人から書物の讀みかたを學ぶに當つても、シナ人の讀むとほりには讀むこ(480)とができず、その聲音を日本人の讀み易いやうに變化させて讀んだに違ひない。これははじめて書物を讀むことを學んだばあひの話であるが、はじめて文字といふもののあることを知つてその文字を用ゐることを學んだ時には、日本語を寫すためにそれを用ゐようとしたからに違ひないから、日本語をシナ文字で書くことがすべてのもとになつてゐ、從つて文字の聲音をも日本語に適當なやうに變化させて用ゐねばならなかつたのである。むかしの文章のいま殘つてゐる最も古いものは、古事記によつてほゞそのおもかげの傳へられてゐる「舊辭」や、ホウリユウ寺の藥師像の光背の銘や、さういふやうなものであつて、それがそのころの文章の普通の書きかたであつたらしいが、それはシナ文字で日本語を寫した日本語の文章である。むかしの日本人はかういふ文章を書き、一般にそれを用ゐてゐたので、世間で誤解せられてゐるやうに漢文を用ゐたのではない。ところが、その文章のうちには漢文ふうの文字のならべかたがまじつてゐるので、例へば「如此」とか「雖然」とか「於是」とか「欲奪我國」とか、又は「造寺」とかいふやうなのがそれである。(こゝに「漢文ふうの文字のならべかた」といつて、シナ語ふうのいひかたといはないのは、目に見る文章の書きかたであつて、口にいふことばの用ゐかたとして取扱はれたのではないからである。)しかしかういふ辭句は、よしそれが漢文ふうのものであるにしても、もと/\日本語を寫したものであるから、書かれた後にそれをよむにも、また日本語で「かく」、「しかれども」、「こゝに」、などといつたに違ひない。ところが、既にかういふよみかたをするくせがついて來ると、おのづから漢文の形をまねて書かれた文章をも、同じよみかたでよまうとするやうになる。さうしてそれを助けるいろ/\の事情がある。
第一に、日本のことがら日本人のしたことを書き寫したのであるから、少くとも名詞、特に固有名詞、には日本語(481)がそのまゝ用ゐられてゐるが、それが用ゐてあれば、その部分は、日本語としてよまれねばならぬ。第二に、日本人の思想をいひあらはし日本人の生活を寫し出すためには、漢文ではむつかしいことがあるので、さういふことは日本語で書いて、少くとも語彙としての日本語を用ゐて、それを漢文風の章句の間にはさみこんであつたらうと思はれるが、かういふ部分は、いふまでもなく、日本語としてよまれたであらう。しかし漢文風に書かれた章句の間に日本語をはさみこむことは、聲調の點から全體が不調和になるが、日本語で書かれたものの間にシナ語の語彙をはさみこみ、而もそれをシナ語のもとの聲調によつて聲に出して讀まうとするよりも、日本人としては、遙かに自然な方法であるから、かういふことは多く行はれたであらう。もと/\全體を日本語で書かうとするのが當時の文筆の士の欲するところであつたから、さうするのが當然であつたのである。第三には、漢文をつゞる技能が十分でないため、ほんとうの漢文になつてゐないところがあると、かゝる部分にはおのづから日本語のおもかげがあるので、それをよむばあひには、やはりおのづから日本語が思ひ出されたであらう。第四には、日本語で書いてあつた文章が漢文ふうに譯せられたばあひがあるが、そのばあひに、よしそれがほゞ漢文らしくなつてゐるところでも、それによつて寫されてゐることは、もと/\日本語の文章として人に知られてゐるものであるから、それをよむときにはおのづからもとの日本語が口に出て來る。第一のはどんな文章にもあるが、第二から後のは日本紀にその例がいくらでもあるので、少しきをつけてこの書をよめば、どこにでもそれがみつかる。神代の卷やコウトク(孝徳)天皇紀などには特にそれが多い。ところが、かういふやうに、或る部分に日本語としてよまれるところがありながら、他の部分をシナ語として讀むとすれば、全體が甚だちぐはぐになつて、よみにくゝも聞きにくゝもあるから、それよりもすべてを日本語脈になほし(482)て讀むことになつてゆく。だから、漢文が多く書かれるやうになるにつれて、それを日本語脈になほして讀むくせがおひ/\ついて來たらうと思はれる。萬葉のことばがきや、いはゆる左注などに、例へば「遷都近江國時、御覧三輪御歌焉」(卷一)とか「天皇聖躬不豫之時、大后奉御歌」(卷二)とかいふ書きかたがあつて、かういふのは、少くともその大部分が日本語を寫したものであり、從つて日本語でよまれたにちがひないが、さうすると「容姿佳艶、風流秀絶、見人聞者、靡不歎息也、……自成雙栖之感、恒悲獨守之難、意欲寄書、未逢良信、」(卷二)のやうに、大部分が漢文と見なされるものとても、シナ語として、即ちシナ音で、よまれたとは考へがたいやうである。特に「見人聞者」といふのは「みるひと、きくもの、」といふ日本語にちがひないし、「風流」は歌にも「風流士」の文字があつて、それは多分「みやびを」の語にあてられたものであらうから、なほさらさう思はれる。一つ/\のことばがすべて日本語になほして讀まれたのではあるまいが、全體として日本語脈になほされたのであらう。歌そのものにおいても、「みずや」を「不見哉」、「きけども」、「いへども」を「雖聞」、「雖言」、「せむ」を「將爲」といふふうに書いてあるのは、これらの漢文ふうに書かれてゐる辭句が日本語でよまれるならはしであつたからに違ひないが、このことは、かういふ二三字で成りたつ辭句には限らなかつたであらう。實は、かゝる特殊のばあひを考へるまでもなく、シナ文字の意義、即ち訓、によつて日本語の單語を書きあらはすことが廣く行はれてゐれば、漢文のうちの單語をもおのづから訓によつて、即ち日本語として、よむやうになり、從つて全體としての文章をも同じやうによむことが工夫せられるのは、自然のなりゆきではあるまいか。
ところが、かういふことは、日本人の書いた漢文に對してのみのことではなく、シナ人の書いた書物に對しても同(483)じであつたらう。一般の日本人にとつては、漢文をよむことは、書かれた文章の意義を知るためであつて、耳にきくシナ人のことばを學ぶためではなかつたことをも、考へねばならぬ。シナ人の書いたものにおいては、書かれた文章とても、もと/\シナ人のことばを寫したものであるから、かういふよみかたでほんとうにその文章の意義を知ることのできないことは、いふまでもないが、むかしの人にはこれでよかつたらしい。日本人の思想、日本人の生活、日本人のしごとを、日本語とは全く性質のちがふシナ語を寫した文章である漢文、日本人のとは全くちがふシナ人の思想シナ人の生活によつて養はれて來てその思想その生活がどこまでもつきまとつてゐる漢文、をまねて、書きあらはさうとしたほどのむかしの人にとつては、漢文とそのもとであるシナ語との特質が明かにわからず、從つてシナ人の書いた文章のこまかな意義や色あひがよくわからなくても、さしつかへが無かつたのであらう。たゞどういふしかたで、またどれだけまで、純粹の漢文を日本語脈になほしてよんだか、といふことになると、よくはわかりかねるが、いくらかはそれを知るたよりが無いでもないから、このことについては、なほよく考へてみたいと思ふ。今はたゞ、上代における漢文のよみかたを考へるには、日本人はシナ語を學ぶために漢文をよみ習つたのではないといふことと、日本人が日本人の生活や思想を漢文をまねて書きあらはし、それを日本語脈になほして讀んだので、さういふ文章のよみかたが、シナ人がシナ人の生活や思想を書きあらはした漢文のよみかたにも移つていつたであらうといふことと、さうしてその根本は、日本語をシナ文字で寫し、そのシナ文字を日本語でよみ、さうしてさういふ寫しかたよみかたによつて、シナ文字を用ゐた日本語の文章を書いたところにあるといふことと、これらの事情にきをつけねばならぬといふことを、いはうとしたまでである。しかし、これらのことも、もとをたゞせば、日本人の始めて知り始めて用(484)ゐた文字が、音のしるしのではなくして、シナ語を寫したもの、一字一字にシナ語としての意義と聲調とのあるものであつたことと、日本語とシナ語とは全く性質の違つたものであることとから、起つたのである。
要するに日本の知識人はシナ文字を學びまたそれを用ゐたが、これはシナ文字によつて日本語を書き表はすためであつた。
十二 シナの詩の日本語譯
前にシナの詩の日本語よみのことを述べておいたが、あのやうによむのは、いふまでもなく日本語に譯することではない。詩を日本語に譯することはこれまで殆ど行はれなかつた。むかしオホエノ チサト(大江千里)の句題和歌といふものが作られたが、それは詩の一句一句についてのことであり、またその句はたゞ歌の題とせられたのみである。詩の或る句にたよつて歌を作るのであつて、詩の意義と情趣とを日本語にうつさうとしたのではなかつた。後世にはチクサ アリコト(千種有功)の和漢草のやうなものもあるが、これもまた唐詩の日本語譯とはいひかねる。「詩歌」といふことばがあつたやうに、シナの詩、特に絶句、と日本の短歌とが、同じやうな性質のものとして、對立的にとりあつかはれてゐたため、詩でいはれたことを歌によまうとして試みたまでのものであり、歌を作るのが主であつたことは、句題和歌のばあひとさしたる違ひがない。要するに、詩を日本語に譯することは殆どせられなかつたが、詩には前に述べたやうな讀みかたが行はれてゐたから、それで十分だと思はれてゐたのであらう。それは、シナの散文を(485)日本語に譯することが試みられず、いはゆる訓點をつけてよむことで滿足してゐたのと、同じである。詩の讀みかたにも時代によつて少しづつの違ひはあるが、訓點をつけてよむといふ原則は變らない。絶句にしても、三十一音の短歌にくらぺると、くらべものにならぬほど、その内容が複雜であるから、それを短歌に移すことはできないはずであり、そこにも詩の日本語譯の行はれなかつた理由があるかとも思はれるが、譯することになれば、そのために新しい歌の形が作り出されたでもあらうから、これはおもな理由ではあるまい。少し事情は違ふが、漢讃に對する和讃が佛家の間に生まれ、それによつて新しい歌ひものの形のできたことが、考へあはされよう。
たゞエド時代になると、郭振の子夜春歌「陌頭楊柳枝、已被春風吹、妾心正斷絶、君懷那得知、」がヤナギサハ キエン(柳澤淇園)によつて「まちのほとりの柳が枝、あれ春風がふくわいな、わしがこゝろのやるせなさ、思ふとのごに知らせたい、」とせられたやうなめづらしい例がある。(この譯は少しづつ變つて傳へられてゐるやうであるが、ここではその一つだけを記しておく。またこれにひどいまちがひが無いならば、第四句はもとの句の意義とは違つてゐるし、第二句にももとのこゝろもちはあらはれてゐないやうに見える。)しかし、これは一時のなぐさみとせられたのみで、文學上のまじめなしごととは考へられず、それを學ぶものも生じなかつた。このやうな譯しかたのせられたのは、子夜春歌が俚謠らしいものに由來があるからであるのか、それともたゞ普通の詩として見てその内容がかういふ形にふさはしいと思はれたからなのか、わからぬが、どちらにしても、このたぐひのものは、唐人の作にも、いくらでもあるのに、それが譯されなかつたのである。かういふ俚謠めいた形に譯するならば、「詩」(詩經)の國風のすべてがそれにふさはしいものであり、特に同じことばや同じ句をいろ/\の方式でくりかへすことになつてゐるその形に(486)よつて考へると、踊り歌としての合唱に用ゐられたものか、またはそれをまねて作つたものか、と思はれるその詩は、我が國の古典に見える民謠を參考して、それにつかつてあるやうな古語で譯してみてもおもしろかつたらうし、またエド時代のことばを用ゐてそのころの民謠ふうのものにしてみてもよかつたらうに、だれもさういふことを試みなかつた。概していふと、「詩」は尊い經典であると思ひ、シナの註釋家の説に從つてその詞章に道徳的意義を附會することをのみ考へ、うたふものとしての形などを問題にせず、我が國の古い民謠の形とそれとをくらべてみるやうなことをもしなかつた時代としては、これもまたむりのないことであつたらう。ヲザハ ロアン(小澤蘆庵)の詩經題の和歌といふものがあつて、これは、毛傳のやうな附會説から離れて、詞章の意義を詞章どほりに解したものであり、從つて戀歌ふうのものとなつてゐるばあひが多いが、しかしおほよそその意義をとつて三十二音にまとめたのであるから、もとより譯したのではなく、詩の形をうつさうとしたのでもなかつた。しかし、もと/\歌を作るために「詩」を題にしたのであるから、こんなことをいふのは、彼にとつてはまとはづれなのである。
要するに、シナの詩は、それに訓點をつけてよめばそれでよいとせられてゐたのであるが、これは、シナ語の語彙がある程度に日本語となつてゐたといふこと、また訓點をつけてよむくせがついてゐるために、日本語とシナ語とのことばの性質やくみたてのちがひ、またいひあらはしかたのちがひが、はつきり意識せられてゐなかつたこと、などによつても助けられてゐたであらう。ロアンはその著書の「或問」において、我が國もシナも人情は一つであるといひ、「詩」の或る句と萬葉の歌の或るものとに、いひあらはされた感情の似たところのある四つ五つの例を擧げてゐるが、同じやうな感情でも、ことばや、いひあらはしかたや、歌ふものとしての形や、のちがつてゐること、並にそ(487)れらのちがひがあるために感情そのものの色あひや調子やがちがつて感ぜられることを、そこでは説いてゐない。これも或は、さういふちがひに大きな意味のあることを深く考へなかつたためかも知れぬ。さうして、それがしつかり考へられてゐなければ、シナの詩を日本語に譯するといふことは、思ひたゝれないのが自然である。シナ文字で書かれたシナ語と日本語とが同じでないことは、だれにもわかつてゐたはずであるが、單語としても、シナ文字で書いてあるシナ語を日本語としてよむことが一般のならはしとなつてゐたほどであるから、そのわかりかたがはつきりしてゐなかつたらしい。前にいつたキエンの譯の如きは、或は、同じ日本語のうちでいはゆる雅語を俗語にいひかへるといふほどの意味でせられただけのことかも知れぬ。
十三 シナの古典の文章と口にいふことば
人の話なり講演なりをきいて、そのいふところがよくわかつたやうに思はれもし同感せられもしたといふやうなばあひでも、それをそのまゝ速記したものをよむと、わからないところや疑はしいことも出てくるし、全體としてさしたるおもしろみもないやうに思はれる、といふためしが少なくない。口にいふことばには、聲があり聲の調子や律動があり、何となききぶんといふやうなものもそれに伴なひ、要するに生きた力があるために、きくものは、おのづからそれに引き入れられるし、そのことばが次から次へと移つていつて、消え去つた聲は再び歸つて來ないものであるために、きくものは、それについて考へてゐるひまがなく、單純にそのことばをうけ入れるので、一おうはよくわか(488)つたやうにも思ふのである。ところが、速記せられたものは、生氣を失つた、いはば、ことばのかすであるから、それに大きな魅力はなく、またそれをよむについても、くりかへしたり、あとさきを照しあはせてみたり、ゆつくり考へたり、批判したり、するひまがあるため、きくばあひにはきのつかないやうなあらやきずも目につき、意義のわかりかねるやうなところも現はれて來るのである。同じく文字に寫されてゐても、はじめから文章として書かれたものは、それだけのこゝろ用ゐがしてあるから、口にしたことばを速記したものとは、すべてが違ふ。しかしまたかういふ文章とても、聲を出してよむやうに書かれ、さうしてそれをそのやうにしてよむばあひには、目にのみ見るために書かれ、またそれをそのやうにして見るばあひとは、かなり違つた效果が生ずる。聲を出してよむほうに力が入つて、考へるほうがいくらかおろそかになり、それと共に、耳にきく聲とその調子とに心を奪はれがちだからである。七五調の文章を聲を出してよむと、口ぐるまにのせられて、ずん/\讀んでゆくので、思想の内容は二のつぎになり、甚しいばあひには、それがわからずに讀み終つてしまふことさへある。これは七五調といふ特殊の形をもつてゐるものについてのことであるが、さういふものでなくとも、口調のよいものには、かゝる傾向があるので、おちついて考へると、何をいつてゐるのかよくわからない、といふやうなことが珍らしくない。
シナの古典をよむについても、このことが考へらるべきではないかと思ふ。シナ人は、むかしから書をよむばあひに聲を出してよんだのみならず、書くばあひにも聲を出してよみつゝ書いたやうである。古典において、意義も形もちがひながら音が同じであれば自由に他の文字を借りて用ゐた例の多いこと、いはゆる散文においても句のをはりが同じ韻のことばになつてゐるばあひの少なくないことは、それを示すものであり、もつと溯つていふと、文字そのも(489)ののくみたてにおいて、諧聲または形聲といはれてゐるものが多く、文字の大部分はそれであるといつてよいほどであるのも、文字は聲を出してよむものとせられてゐたからのことであろう。(今の日本人にはシナの文字を目に見るものとしてのみ考へる傾きが強いやうであるが、それは少くともシナの文字が口でいふことばのしるしであることを輕んずるものであろう。)なほシナ語は、一々の語彙においても、その語彙をつゞり合はせて或る章句をなすばあひにおいても、一定の聲調があるから、いかなることばも、聲に出していふことによつて始めてその意義も知られ、その情趣も解せられる。それで、かういふしかたで書かれも讀まれもする文章には、おのづから上に述べたやうな傾向が伴なふはずである。さういふ文章をさういふしかたで讀んでゆくと、講演をきいてゐるのと似た效果が生ずるので、すぢのたゝぬことがまじつてゐたり、意味のはつきりしないところがあつたりしても、さういふことにはきがつかず、ことばにひきずられて、ずん/\よんでゆき、それによつて全體としての或る感じが與へられるのである。いろ/\のばあひにいつたことがあるやうに、シナ語そのものが、ことばの性質として、もと/\論理的なくみたてをもたないもの、從つてまた、はつきりしたことのいはれないもの、こまかな考の述ぺられないものでもあるし、またこのことと互に因果の關係のある事實として、シナ人のあたまがもと/\論理的にはたらかなかつたのであるから、そこからもかういふことが起るのであるが、それにしても、聲に出してよむやうに書かれたものをさうよむといふことが、大きなはたらきをしてゐるには、ちがひない。
一つの例を擧げてみる。われ/\が戰國策をよむと、どうしてこんな大言壯語や、すぢみちもたゝず事實にもあはないことや、見えすいたおせじや、要するにたわいもないことが、多くの君主の心を動かしたかと、怪しまれるので(490)あるが、昔の君主は事實かういふものに心を動かされたらしい。それはもとより、かれらが知識と批判力とをもたなかつたからのことであるが、一つは生きたことばの魅力にかゝつたためである。君主でなくとも、戰國策をよんだシナ人は、やはり同じやうな理由で同じやうな感じを起したであらう。われ/\が、それとは全く違つて、上に記したやうに思ふのは、われ/\がシナ人のもたなかつた批判力とか論理的な考へかたとか知識とかをもつてゐるといふことは別にして、よみかたがシナ人のと違ふといふことにも、一つの理由がある。われ/\は、第一にそれを半ば日本語になほして、第二に聲を出さずに、第三にゆつくり考へつゝ、よむのであつて、それではシナ語から離れ、生きたことばから離れ、耳にきく聲から離れてしまつてゐる。講演の速記をよむのと似たところがある。戰國策の文章は、必しもいはゆる戰國遊説の士のその遊説したことばをそのまゝ筆記したものではないに違ひなく、文章として書かれたものではあらうが、書いた人は、やはり聲を出してよみつゝ書いたので、遊説の口ぶりや調子やがほゞそれにあらはれてゐるのであらうから、それをそのことばのまゝ、その調子のまゝに、聲を出してよめば、遊説をきいてゐる感じが、いくらかは、生ずるのである。これは極端な例であるが、古典の文章には、程度のちがひこそあれ、同じ性質がどれにも具はつてゐる。だから、それをその文章の書かれた時代の音調で聲を出してよんでゆくとすれば、それは今われ/\がよむのとは全く違つた效果を得たにちがひない。實は、古典ばかりでなく、後世の文章とても同じである。一たいにシナ人には、おちついてものごとを考へる思索の力が發達せず、その反對に、言説を以て他を壓せんとする態度が強いので、一くちにいふと辯を好むものであるが、思想そのものが論理的にくみたてられてゐない代りに、その筋には、ことばの調子と聲音とから生ずる一種の力があり、いろ/\の修辭と身ぶりとがそれを助けるので、批(491)判力の無いきゝてはそれに魅せられ易い。いはばすべてが遊説的なのである。讀むべきものとして書かれた文章にもやはりその傾きがあるので、われ/\から見れば、内容の貧しい、文辭だけのものが多いのである。しかしシナ人にはさう思はれなかつたにちがひない。
文章はもと/\口にすることばを文字に寫すことから發生したものである。しかし、すでに書く文章といふものができた上は、おのづからそれに、口にすることばとは違つた、特殊の性格とはたらきとが生じ、それをよむにも、その性格とはたらきとにあてはまるやうな、またそれらを生かすやうな、特殊のよみかたがあるやうになつた。單純にそれを口にすることばにもどして考ふべきではない。たゞシナ人の文章とそのよみかたとには、われ/\のと違つてゐるところがあつた、といふことにきをつけねばなるまい。
十四 春恨
上文に、新古今集の歌の「の」の語の用ゐかたにはシナの熟語の直譯的な讀みかたから導かれたところがあるのではないか、といひ、その最も直接なものとして「秋の思ひ」の例を擧げておいたが、ことばの上では直譯にはなつてゐないけれども、やはりその章でひいた暮春の歌の「恨みかねたる春のくれかな」についても、作者は或は「春恨」の成語を思ひ浮かべてゐたのかも知れぬ。新古今集の作者にはシナの詩に關心を有つてゐたものが少なくなかつたらしいからである。しかし春恨とか秋思とかいふ語によつて表はされてゐるシナの詩の情趣は、一般には歌には詠まれ(492)てゐないやうである。
然らば、そのシナの詩の情趣はどんなところにあるであらうか。まづことばの上から考へるに、かういふ語が盛に用ゐられるやうになつたのは唐詩からであるらしいが、「春恨」のほかに「春愁」といふ語もあり、また「春思」「春心」「春情」などといふこともいはれてゐて、それらにもまたほゞ同じやうな氣分が含まれてゐるばあひが多いやうである。恨と愁とについて考へても、この二つの語の表はす氣分はかなり違つてゐるので、恨はどこかに生氣があり、色でいへば黄の勝つた緑のやうな感じがするのに、愁は力の無い青白い心もちがあるやうに思はれるが、しかし詩においてはさほど明かに區別しては用ゐられてゐないやうである。平仄や韻の制約があつて、それがために適切でない語をあてはめねばならぬことがあり、或はまた、春の花について恨紫愁紅とか恨翠愁紅とかいふやうないひかたのしてあるばあひがあるのでも知られるやうに、對?などを重んずる修辭のために、用語の意義が混淆して來るからでもあらう。さてその春恨とか春愁とかは、何を恨み何に愁へるといふのであるか。唐詩についてそれをしらべて見ると、客愁離恨といふやうなものがかなりに多く、老を嘆じ、病を愁ひ、或は榮達の求め難きを怨むもの、または懷舊悼亡の情、などが數へあげられる。しかし、それが最も濃やかに現はれてゐるのはいはゆる艶體の詩においてであらう。が、いづれにしても、樂しかるべき春にあひながらその春の歡樂にひたることのできない境遇なり氣分なりに、恨もあり愁もあるので、ひとくちにいふと、春と春ならぬわが心との對照からそれが生じてゐることが多い。上に擧げたやうないろ/\の愁や恨は、必しも春に限つたものではないので、秋ならばそれが秋思と呼ばれるのであるが、春に特殊な氣分はこの點にあるといつてよからう。秋に愁のあるのは秋そのものの情趣におのづから調和するところがあ(493)るので、そこに春恨とのちがひがあらうか。しかしまた一面には、柳とか花とか微雨とか芳草とか燕飛鶯語とかいふ春に特殊な風物が、懷や愁を誘ひまたは強めるといふこともある。「寓思本多傷、逢春恨更長、」(韋莊)といふのは、それがためであらう。「如線如絲正牽恨」(李商隱)といふやうなのは、柳の枝を絲と見たてたところから牽の一語をひきだすことによつて恨をそれに結びつけた、修辭的技巧がはたらいてゐるのであり、「一庭疎雨濕春愁」(孫光憲)といふやうなのも、詩としての興味の大半が「濕」の一語によつて雨に愁を伴はせたところにあるでもあらうが、事實として、柳絲や疎雨が恨をひき愁をまさせたにはちがひない。
ところが、かういふやうに春の風物によつて促される愁や恨には、上に擧げたやうなものばかりではなく、さすところの無い漠然たる恨や愁の氣分もあるであらう。或はそれを誘ふものも、柳とか花とかいふ特殊のものではなく、春の風物のすべてであり、或はむしろ漠然たる春そのものであることもあらう。例へば「春心蕩兮如波、春愁亂兮如雪、」(李白)において、春心といひ春愁といはれてゐるのは、離別とか懷舊とかといふやうな特殊のばあひの特殊の氣分ではなくして、何となき心の蕩きであり亂れであるらしい。さうしてそれを誘つたものも、また必しも一つ/\の特殊の風物ではなかつたであらう。春愁とか春恨とか、または春心春思などといふ語は、その語のなりたちから考へても、また語感からいつても、春そのものに誘はれて生じた、或はまた春そのものに對する、漠然たるかういふ氣分をいつたもののやうに解せられる。少くともさう解するほうがわれ/\には興味がある。たゞ詩の上においては明かにさう見られるばあひは、むしろ少いやうである。われ/\の經驗において春の感傷をそゝるものは、必しも柳條の風にゆらぐのでもなく、春雨の霏微たるのでもなく、或はまた滿地の落花でもなく、それよりもむしろ、さういふい(494)ろ/\の風物を現出させる、或はそれらによつて釀し出される、全體としての春の雰圍氣であり、或はその動きである。さうしてその刺戟によるわれ/\の感覺、いはば生理心理的な直接の反應によつて春の感傷が促される。さうしてその最も強い力を有するものは、多分、觸覺であらう。空氣の温度、濕度、その二つの相互の交錯、それらの一つ/\のいろ/\の段階、その間のさま/”\の變化、それに對する皮膚の反應。昔から春の象徴とせられてゐる「春風」の感じは即ちその一つであり、和かさと暖かさとがその特質とせられてゐるが、曖かさにゆるんだ膚の忽然としてそゞろ寒き夕風にふれるやうなばあひには、おのづから或るさびしさが感ぜられる。そこに春愁の一つの姿があるのではあるまいか。柳條のゆらぐのも落花の亂れ散るのも、目に映ずる形や色よりは膚に觸れる空氣の動搖や冷暖の變化の方が、感じが強くはなからうか。或はまた春晝の長さと蒸すが如き空氣の曖かさとは、おのづから人に倦怠を感ぜしめて、そこから何を恨むともなき恨みも生ずる。勿論、春心を動かすものには色もあり音もある。しかしその色や音とても、かういふ特殊な春の空氣によつて特殊の色調が與へられ、特殊の音色が作り出される。さうして、その音色や色調が愁を誘ひ恨を喚ぶのである。或はまた春には特殊な生理的衝動があり、そこから惱が生じ恨が生ずる。が、さういふ衝動を起させるのもまた春の空氣であり雰圍氣である。ところが、上にいつた如く、春恨を歌ひ春愁を詠じた唐詩などには、かういふことは多くは見えないやうである。これには、それだけの繊細な感じを當時の詩人が有たなかつたとか、彼等みづからの體驗に對する内省と分析とが足りなかつたとか、或はそれを表現することが困難であつたとか、また例へば對?を重んずるやうな因襲的な修辭の技巧が却つてその表現を妨げる傾があつたとか、いふやうな、いろ/\の理由があらう。或はまたこのことについても、日本とシナとの風土のちがひをも考へねばなら(495)ぬかも知れぬ。しかし春恨とか春愁とかいふやうな語が作られてゐて、それが本來の意義においては、春そのものに誘はれた、或はそれに對する、漠然たる氣分を表はしたものであるやうに思はれることから考へても、ある程度にかういふ體驗を有つてゐたことは推測せられよう。さすれば、花なり柳なり雨なりの特殊の風物が詩の材料として用ゐられてゐるばあひでも、そのもののみをいふには限らないであらう。例へば上にひいた「一庭疎雨濕春愁」の疎雨も、單なる疎雨ではなくして、それに伴ふ全體としての一庭の空氣であり情趣であるかも知れぬ。「勸君年少莫遊春、暖風遲日濃於酒、」(韓j)といふやうなものにおいてはなほさらであつて、こゝには殆ど特殊の事物は擧げられてゐず、春愁を誘ふものとしてはたゞ暖風遲日、いひかへると春そのもの、があるのみである。「小院無人雨長苔、滿庭脩竹間疎槐、春愁兀々成幽夢、又被流鶯喚醒來、」(杜牧)の春愁は、特にさすところのあるものではなく、從つてまた小院の微雨も滿庭の脩竹も、たゞその春愁を長ぜしむる寂寞たる氣分に對應するものとして見られたに過ぎないのであらう。
しかし、かういふ春愁や春恨は新古今集の歌には多く現はれてゐない。恨をいへば、花散らす風やはかなくさめるうたゝねのゆめに對してである。愁をいへば、わが身のうさと人のつれなさとについてである。「いそのかみふるのわさ田をうちかへし恨みかねたる春の暮れかな」(俊成女)といひ、「杯に春の涙ぞ注ぎける昔に似たる旅のまどゐに」(式子内親王)といふやうなものも無いではないが、それはめづらしい例であらう。歌といふものの因襲からでもあり、作者のねらひどころが主として技巧の上にあつたからでもあらうが、一つにはまた、シナの詩に關心を有ちながらその情趣を解し得なかつたといふことが、それについて考へられるかも知れぬ。
(496) 十五 秋の悲しさ
今これを書いてゐるのは、澄みわたつた秋の空の下においてであるが、日本の四季のうちでは秋が最もさはやかな時、こゝろよい時、また最も明るい時である。いろ/\の果ものの實のる時であり、農民にとつては長い間のほねをりのむくいとしてのとり入れの喜びのある時であることは、いふまでもない。それであるのに、古歌においては秋は悲しいものとせられてゐるばあひが多い。もつとも萬葉の秋の歌にはさういふ氣分が現はれてゐないやうであるから、これは古今集以後のことらしい。然らば古今集以後においてどうしてかういふ歌が作られるやうになつたのであらうか。
古今集の歌においては、秋の悲しい氣分を具體的に詠み表はしたものは殆どなく、その多くは、秋は悲しいものである、或は悲しさを誘ふものである、といふ既定概念がもとになつて作られてゐるやうである。「おほかたの秋來るからにわが身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ」といふが、秋のどこからわが身の悲しさが誘はれたのかは少しもわからぬ。はじめから秋は人を悲しませるものときめてゐるからである。(この歌の重點は「わが身」の悲しさにあるのであるが、その悲しさが秋に誘はれて思ひしられたやうになつてゐることは明かである)。「わがために來る秋にしもあらなくに蟲のねきけばまづぞ悲しき」、また「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の聲きく時ぞ秋はかなしき」のやうに、蟲のねや鹿の聲に誘はれて秋を悲しく感じたことになつてゐるものもあるが、それとても實は秋は悲しいものといふ(497)概念が先づあつたからのことではあるまいか。蟲のねも鹿の聲も、萬葉人には必しも秋の悲しさを感じさせなかつたことを、考へあはすべきである。古今集の歌においても、紅葉とか菊とかいふ秋の風物が悲しみをさそつたやうな形迹が見られないのみならず、松蟲のねは喜ばれ鹿の聲とてもそのさやけさが愛せられてゐるばあひもある。またよし鹿の聲や蟲のねが人を悲しませるとしたところで、同じ秋の風物である紅葉や菊が悲しみを誘はないならば、それは悲しみを誘ふものは蟲のねや鹿の聲であつて秋ではないことを示すものであるが、その蟲のねや鹿の聲に誘はれた悲しさがすぐに秋の悲しさであるやうにいひなされたのは、秋は悲しいものといふ概念が先づあつたからのことと考へられる。「秋の夜の明くるも知らずなく蟲はわがごと物や悲しかるらん」、また「秋萩も色づきぬればきり/”\すわがぬるごとや夜は悲しき」といふに至つては、わが悲しさをなく蟲に思ひよせたまでのものであり、特にこのうちの前の方のは「なく」といふことばを媒介として蟲と悲しさとを結びつけてゐる。もつとも蟲のねや鹿の聲は、ほがらかな、人のよろこびを誘ふやうなものではないから、きく人によつてはそれによつて悲しみが誘はれもしようが、悲しみの誘ひ出されるのがきく人によるとなれば、それを誘ふものは必しも鹿の聲や蟲のねには限らず、また秋のものにも限らぬ。或はまたそれらの聲が秋にきこえ秋の空氣を動かして來るばあひに特殊の感じが起るとも考へられようが、その感じとても必しも悲しさであるには限るまい。「月見れば千々にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」ともいはれてゐるが、秋の月は悲しさをさそふものときまつてゐないことを思ひ合はすべきである。要するに、秋を悲しいとするのは、秋の與へる直接の感じから來たことではないやうである。
もつとも古今集には「ものごとに秋ぞ悲しきもみぢつつうつろひゆくを限りと思へば」といふのがあつて、秋の悲(498)しさの理由がそこに説明せられてゐるやうに見える。これは草木のかれてゆくことによつて秋の悲しさを知るといふのである。しかし、草木の色が變つたり葉が落ちたりするながめそのものは、決して人に悲しみを感じさせるものではないので、現に紅葉の色はめでられてゐるし、その散るさまさへも美しくながめられてゐる。だから、草木のうつろひゆくことによつて秋の悲しさが知られるといふのは、それが榮枯盛衰のありさまを示すものであり、いかなるものも枯衰を免れぬことを知らせるものであるとし、さうしてその枯衰を目のまへに見せるのが秋であるといふ、目のまへの事實の一般化概念化と一種の推理とを經た上の話である。それは知ることであつて感ずることではない。さうして、同じく知るならば、四季は循環するものであり草木は秋にうつろうても春にはまた生ひ出づるものであることを知つて、その生ひ出でんことをまち喜ぶこゝろもちを導き出しても、よささうなものであるのに、それをひたすらに物の終りででもあるかの如く考へるのは、その草木のうつろひをわが身の上の何等かの状態に思ひよせるからであらう。人の身の上には盛衰の循環を期しがたいからである。秋の悲しさは秋の悲しさではなくしてわが身の悲しさであり、思惟の上でそれを秋に反映させたものであることが、この點からも知られるやうである。
さてかういふ思想が萬葉には見えずして古今集になつて初めて現はれて來たとすれば、それは、平安朝人の生活においてかういふ考を起させる何等かの事情があつたからであらう、と一おうは推測せられるが、しかしそれには知識の上から來たシナ思想の影響のあるらしいことが、特に注意せられねばならぬ。シナの秋の詩にはこれと同じ思想の現はれてゐるものが甚だ多く、秋の感傷は概ねこの意味においてであるからである。宋玉の九辨の第一に「悲哉秋之爲氣也、蕭瑟兮草木搖落而變衰、」といふ句があつて、播安仁の秋興賊にもそれをとつてあり、後世の詩人にもしば(499)しばそれが思ひ出されてゐるが、上に引いた「物ごとに」の歌は殆どその翻譯といつてもよいほどのものではないか。經國集に見える「賦秋可哀」といふサガ(嵯峨)天皇の御製に「秋可哀兮、哀草木之搖落、對晩林於變衰兮、聽秋聲乎蕭索、」の句があり、東宮の御作にも「秋可哀兮、哀榮枯之有時、……嗟搖落之多感、」とあることを考ふべきである。また「おほかたの」の歌が「秋來只識此身哀」の句を題にしたもの、むしろそれを歌の形でいひかへたまでのものであることは、オホエノ チサト(大江千里)の句題和歌のうちにそれがあるのでも知られる。さうしてかういふやうな感傷はシナのだれの詩集を開いてみても到るところに見つけられる。
然らばシナの詩人がどうして秋にかういふ感傷を託したかといふと、それは、仕官して權勢に近づくことを終生の目的とする知識人が、その權勢の地位の轉變のはげしいことを體驗し、得意の境にあるものが忽然として失意の地に墮ちることを危惧しなければならなかつたところに、主なる理由があるのではなからうか。後世から騷人の祖といはれるやうになつた屈原は、實際かういふ體驗をしたものとして説話の上に現はれてゐるのであり、さうして宋玉は騷人としてその流を酌んだものといはれてゐる。(屈原や宋玉に關する説話が事實を語つたものかどうかは、こゝでは問題としない。)後世の詩人にも失意の境界に墮ちたものが少からずあるし、みづからさういふ體驗をもたないものでも、思想としてそれをうけ入れることはできた。シナでは學者も詩人もみな禄仕者であり官吏であり、少くともさういふ地位を得ようとしたものであつたからである。さうして彼等が一たび失意の地に墮ちると、單なる悲傷か、あきらめか、醉郷にねむつて一時的にそれを忘れようとするか、然らざれば、せい/”\のところ、道家風の考へかたで榮枯得失は心を勞するに足りないものとするか、の外はなかつた。さういふ體驗によつて自己みづからを精練し、そ(500)れによつて自己と自己の生活とを一段高い境地に進めてゆかうとする心がけも態度も無かつた。シナの知識人にとつては世間的のいはゆる榮達がすべての生活の唯一のめあてであり、それを求めることの外に生活は無かつたといつてもよいほどだからである。(シナ人の生活はすべてが自己のための生活であつた。)さうしてこの點においては、詩人とても何等かはつたところは無い。シナの詩人は詩の形に語をくみたてる技術に長じてゐるのみで、思想においては一般人と違つた何の深さもなく、人としてすぐれたところはなほさら無いものだからである。人によつては事物に對する感受性が繊細であり鋭敏である點の認められるものはあるが、それは語を弄ぶ技巧に誘はれたものらしい。詩人の個性が多くそれに現はれてゐず、作者よりは用語においてそれが見られるからである。勿論かういふ態度は、たゞ地位を失ふことに對してのみではなく、例へば人として免かれがたき老死に對してもそれがあり、多くの詩にそれが詠ぜられてゐるが、知識人の生活の根本となつてゐる榮達を求める情が、彼等にかういふ態度をとらせる有力の事情となつたことは、推測せられねばなるまい。なほもう一つ重要なことがある。シナでは四季のうつりかはりが日本と違ひ、特に秋の來るのが突然であり、從つて草木の搖落も日本よりは急激に起るやうであるから、秋の感傷の強いのもそこに一つの由來があるのではないか、と想像せられる。いはば大陸的の氣候の變化が詩の作者を驅つてかういふ態度をとらせるのである。
さて、かういふやうにして形づくられたシナ思想を、知識としてそのまゝうけ入れたのが、古今集の歌人なのである。詩はもとよりシナの詩をまねて作つたものであるから、それにシナ思想が現はれてゐるのにふしぎはないが、日本語の歌にもそれがよまれてゐるのは、その時代の歌人の氣風を知るについて注意すべきことであらう。(懷風藻の(501)詩にはこの思想がまだ見えてゐないやうであるが、これは偶然のことか、但しはそのころの詩の作者がそこまではシナ思想を知つてゐなかつたからなのか、わかりかねる。)平安朝人とても榮達を求めることにおいてシナの知識人と似たところはあつたが、シナの如き禄仕者の地位の轉變は、當時のわが國においては稀有なことであつたらうから、さういふばあひの實感が歌人をしてシナ人のかういふ感傷に共鳴させたとは、見がたいやうである。ところでかういふ思想が知識としてうけ入れられたけれども、それは菊や紅葉や鴈や女郎花やの秋の風物を愛することの妨げとはならなかつた。さうしてさういふ秋の風物を愛することは、つまり秋そのものを喜ぶことになるのであるが、そのこともまたはつきり意識せられてゐなかつたらしい。シナの書物から得た知識と日本人の實感とは一致してゐないのに、それがよくわかつてゐなかつたのである。たゞ注意すべきは、秋を悲しいものとしながら、ひたすらな感傷には陷らずして、その秋の悲しさをこゝろしづかに味ふといふやうな態度が、そのうちから生じて來たことである。さうなつて來たみちすぢを歴史的にたどつて見るだけの暇を今はもたないが、例へば「おぼつかな秋はいかなるゆゑのあればすゞろにものの悲しかるらん」、「何ごとをいかに思ふとなけれども袂かわかぬ秋のゆふぐれ」、または「何となくものがなしくぞ見えわたる鳥羽田のおもの秋のゆふぐれ」、といふやうなサイギヨウ(西行)の歌には、かういひつゝもその悲しい秋をしみ/”\と昧つてゐるこゝろもちがこもつてゐるので、それは一轉すると、さういふものがなしい秋をなつかしみ、或はものがなしさを味はせてくれる秋を喜ぶこゝろもちにさへなり得るものである。もつともこれらの歌に「かなしい」といつてあるのは、必しも悲哀の義ではなく、もつと廣い意義をもつた、從つてまた漠然としたところのある、感じであり、分析していふとさびしいとかわびしいとかいふ氣分が主になつた可なり複雜な心の動き(502)であるらしいから、それがたゞの感傷でないことは當然であるが、さう見るばあひには、かなしいといふ語によつてかういふこゝろもちがいひあらはされるやうになつて來たことに、意義がある。さうしてそれには平安朝時代の長い年月の間に次第に義はれて來た特殊の氣分とその末期における社會状態とがはたらいてゐるのである。(なほこのことを十分に考へるには「かなしい」といふことばの意義のうつりかはりについての言語學的な、また「かなしい」といふ氣分の成りたちについての心理學的な、研究がせられねばならぬ。)さうしてかういふこゝろもちが、後の長い戰國時代を經て漸く形づくられて來たエド時代の社會状態によつて精練せられると、バショウ(芭蕉)の俳諧に現はれてゐるやうな心境となつて更に一轉化するのである。が、民族生活の状態が固定してゐてそれに歴史的發展が行はれなかつたシナの詩人においては、秋の感傷はいつも同じ感傷としてくりかへされるのみであつた。
十六 四季の歌
秋の歌のことを考へたにつれて思ひ出されるのは、日本で歌を四季に分けるならはしの生じた理由である。シナにおいても四季の風物は常に詩材に採られてゐるし、詩語としても、前に述べた如く、春恨とか秋思とかいふやうな特殊な語が作られてゐるほどであり、また思想的には五行思想陰陽思想などと關聯して四時のうつりかはりが何ごとにつけても考へられてゐたにかゝはらず、詩を四季に分類することは行はれなかつたやうである。然るに、歌集といふものがシナに詩集のあることに促されて編纂し初められたと思はれる日本において、かういふ分類のしかたをしたの(503)は何故であるか。歌に自然の風物を詠むことが多いから、といふだけではこの問題をとくに十分でないきがする。
そこで第一に考へられるのは、シナでは四季の風物が詩材として採られてゐても風物そのものを主題とした、即ちいはゆる詠物の、詩はわりあひに少く、多くはそれを抒情の道具にかりたまでのものだといふことである。ところが、日本の歌には風物そのものが主になつてゐるばあひが甚だ多い。風物を客觀的に寫したり敍したりするのでなくとも、風物に對する、または風物から誘ひ出された、感情が多く歌はれてゐる。從つてシナの詩をその材料として用ゐられた風物によつて四季にわけることはできないが、日本の歌ではそれができる、といふことが考へられる。もつともシナの詩でも、製作の過程からいふと、眼のまへの風物によつて何等かの感情が誘ひ出されたやうになつてゐるもの、即ち六義でいふ興に當るやうなものがあるし、日本の歌でも、歌集では四季の部に入れてあるほどのものでありながら、歌としては戀歌などであるものが少なくないので、かういふものにおいては、詩と歌とをこの點ではつきり區別することができないばあひもあるが、さうなるとおのづから第二のことが考へられて來る。それは一音一語である上に語と語との關係を示すテニヲハの類の無いシナ語の詩においては、よし絶句の如きものであつても、それに用ゐられる語の數が多く、從つてかなり複雜な思想をいひ表はすことができるので、その詩の製作を誘つた風物の役わりは、わりあひに輕いものであるのに、いくつかの音のくみあはせによつて初めて一つのことばができ、またテニヲハなどによつて語と語とをむすびつける日本語の歌は、わづか三十一の音では極めて單純な感情しか歌はれず、從つて目のまへの風物はその歌において甚だ強いはたらきをする、といふことである。古今集以後においては戀歌は四季の外におかれることになつたが、萬葉では相聞の歌を四季に分けてあるばあひがあるのも、それが四季の何れかに(504)あてはめ得られるからである。このばあひに相聞の部に入れてあるものと單に四季の歌としてあるものとの間に、また正述心緒といふのと寄物陳思もしくは譬喩歌としてあるものとの間に、はつきりした區別がつけられないものが少なくないのも、同じところに重要な理由があらう。相聞の歌にも正述心緒歌にも四季の風物が大きい役めを有つてゐるからである。序詞または冠詞に四季の風物を用ゐてあるだけのものを四季の相聞の部に入れてあるのも、讀者にとつてはその風物が強く印象せられるからであらう。
ところがかういつて來ると、更に第三として考へられることがある。それは、日本人はシナ人よりも自然の風物を愛することが遙かに強いのではないかといふことである。萬葉に詠まれてゐる動植物はかなりに多く、雲や雨や露やかすみや、さういふやうな空界の現象もまた甚だ多樣であり、さうしてそれらが極めて親切に觀察せられてゐる。古今集以後には歌人の鑑賞に入つた動植物の種類はむしろ減つてゐるが、その代り觀察はこまかにも多角的にもなつてきた。趣味が貴族的になつたと共にそれが精練せられ、また同じ風物のみが鑑賞せられるためにそれを多方面から見なければならぬやうになつたからであらう。エド時代の俳諧においてその範圍がまた廣められ、あらゆる自然の光景あらゆる動植物がみなその吟嚢に取入れられた。總じていふと、日本人は自然界の何ものにも興味をもち何ものをもおもしろくながめるので、しぐれに袖をぬらして喜び磯べに貝を拾つて興ずる歌人の趣味はいふまでもなく、蓑蟲でもひき蛙でも大根でも芋の葉でも、要するにいかに平凡なものでも或はみにくいものでも、それを詩化し風雅の料とする俳人の態度に至つては、シナの詩人には思ひもよらぬところであらう。水蒸氣が多いために空界の現象に限りなき變化が生じ、季節によつて雨にも風にもそれ/\特色があり、土地のすがた山海の配置または寒温のちがひとうつ(505)りかはりとが複雜であるために、動植物の種類が多く、而もかういふ自然の風物の大部分は、恐ろしいもの力強いものとしてよりは、親しむべく愛すべきものとして見ることのできるものであるから、おのづからかうなつたのであらう。が、それと共にまた、さういふ環境から養はれた日本人に特殊な氣分が、個人的また社會的の生活状態及びその歴史的變化によつて次第に作り出されて來た特殊の性情と相まつて、自然の風物に對する上記のやうな態度をます/\強め、さうしてそれが文學の上にも現はれるやうになつたのである。秋をさびしくながめながらそのさびしさをなつかしむといふのも、こゝに一つの理由があり、冬ごもりといふやうな氣分の生じたことにもやはりそれがある。歌を四季によつて分類するといふことは、かういふ日本人にとつては甚だふさはしいしかたなのである。自然の風物を題材とすることの最も多い俳諧において、いはゆる「季」が重んぜられたのは、當然であらう。
もつとも一般的にいへば、自然の風物の時季による變化は徐々に行はれるのが普通の状態であつて、四季といふやうな分けかたによつてはつきり區別がつくものではなく、またその四季の一つづつのうちにもいろ/\の變化があるから、歌を四季にわけるといふことには、その點において既に少からぬむりがある。歌を四季にわけることから一轉して、古今集にも既にその例のある如く、四季といふ概念にもとづいて歌を作るに至つては、一層のむりが生じ、特にその四季のわけかたはもと/\シナの黄河流域の状態によつて作られたシナの暦によつたものであつて、日本の自然界の状態とは一致しないものであるから、そのむりはます/\甚しくなる。暦の上の立秋は日本の氣候ではまだ夏の最中であるのに、秋と名づけられてゐるために秋風たつと歌ひ、そこからすぐに草木の搖落を思ひ秋は悲しと詠ずるに至つては、シナの書物から得た知識によつて現實の感じをいつはるものである。現代の歌人の歌集に四季による(506)區別が用ゐられなくなり、歌そのものにも四季の「概念」が重んぜられなくなつたのは、當然のことといはねばならぬ。俳諧の「季」が、ことばの數の極めて少い俳句にとつてはつごうのよい約束であるには違ひないが、その代り固定觀念がはゞをきかせて現實の感じをありのまゝに傳へる妨げとなることも、また明かである。便宜法といふものは、何ごとについてのでもこれと同じはたらきをするものであるが、俳諧の「季」においでもまたそれがある。のみならず、この「季」の約束があてはまるのは、日本でも一部分だけである。さうして、もし地方によつて「季」の約束をかへねばならぬとすれば、それは約束の效果の大半をなくすることになる。
十七 山水の愛翫
春には恨があり慾がある。この恨この慾をどうしようといふのか。詩人は「不如且飲長命盃、萬恨千愁一時歇、」(白居易)といふ。或はまた「春來求事百無成、因向愁中識道情、」(元?)ともいふ。酒によつてみづから欺くにあらざれば愁を愁とせざれといふのであらう。これは要するに、愁のあることを知りながら、心のもちかたでそれを回避せんとするものである。しかし、醉がさめれば愁はまた來り、愁を愁とせずとも愁を誘ふ事物は常に生ずる。愁は到底囘避することができない。それにもかゝはらず、愁を愁としてその愁によつて人生を知り人生を味ひ、或はそれによつてみづからを鍛錬し、愁をとほして愁を超越しようとするやうなことは、かれらの考へなかつたところである。ただ春愁や春恨の詩が好んで作られたのを見ると、かういふ態度の傍において、恨や愁に或る興趣を感じ、それに對し(507)て一種のなつかしみを有つてゐたことは想像せられる。しかし、さういふ氣分と上に述べた態度とが彼等の生活においてどうはたらいてゐるかは、詩の上などには明かに現はれてゐない。
それに似たことが他の方面にもある。山水に身をまかせ風月に心をよせるといふのがそれであつて、これはいはゆる隱逸の生活に伴ふもの、少くともそれと相通ずるところのあるものである。隱逸はもと/\、身を全うせんがために權勢の地を去りまたはそれを求めないことであるので、仕官榮達を終生の目的とする知識人といふものがあり、さうして榮達の地は常に危害の伴ふものであるシナの状態、すべての生活が自己本位であり集團生活の意識の極めて弱い彼等知識人の間において發生した、シナに特殊な、生活態度であるが、山水風月の愛翫は世間的生活に對立する意味において、この隱逸の風尚と結びついたのである。知識人においては、官場生活が即ち世間的生活の全體だからである。山水風月の愛翫が世間的生活を囘避することになるのはこの故であるが、思想の上では、それはおのづから人生の囘避であるが如く考へられるやうにもなる。山居の道士や僧侶の生活がそれと結びつけて見られたのでも、このことがわからう。しかし、人生が囘避せられないものであるのみならず、世間的生活とてもまた同樣である。仕官こそせざれ、何等かの意味で世界との交渉を有たねばならぬことは、明かである。さうしてそれは繪畫などの上にも明かに現はれてゐる。いはゆる樓閣山水は、一面の意味においては、現實の世界で囘避した世間的生活を畫中の趣として求めようとしたものともいひ得られよう。山水畫の殆ど全部は、畫面の主要なる位置に何等かの人物を描いてあるので、畫を見るものがおのづからその人物に同化するやうな構圖となつてゐる。人はみな畫中の人物と共に、山徑に杖をひき、石上に棋を弄び、或は寒江に釣を垂れるのである。これは畫の主題が、山水そのものではなくして、山水(508)を愛する人であるからである。自然の風光そのものを愛するよりも、それを愛するといふ態度なり氣分なりをよろこぶところから、かういふ畫が作られたのであらう。これは世間的生活を囘避することを高しとしながら、實は、囘避するといふ形において却つて世間的生活に關心を有つことを示すものである。ことさらに囘避することを意識しようとするものであつて、そこに世間的生活への關心があるからである。が、かういふ氣分が、現實の社會にどれだけの意味を有つてゐるといふのか。山林に隱遁するのも江湖に放浪するのも、一面においては、世間的生活から離れないものであると共に、そこはどこまでも彼等みづからのみのことであるではないか。
十八 詩の句の對?
シナの詩の句に對?の形になつたものが多く、特にいはゆる律詩においては、それが前聯後聯として一定の位置にかならず無くてはならぬものとせられてゐることは、いふまでもない。對?の句を喜ぶのは古くからのシナ人の趣味であつて、いかなる文章にもそれは用ゐられ、それがために思想が混亂してゐるばあひも多く、またかの勉励體のやうなものさへ文章の一體として生じたほどであるが、詩においては特にそれが重んぜられ、律詩では規則的にそれを用ゐなければならぬことになつたのである。
對?の句は、形の上からいふと、シムメトリックにできてゐるために、靜的な均斉の感を與へるはずのものであるが、詩はもと/\句から句へ順次に讀んでゆくもの、進行の過程に律動のあるものであり、要するに動的のものであ(509)るから、その點で對?といふ形と詩の本質との間には一致しないところがある。だから、詩の句を對?の形にすることの價値は、靜止したものとしての均齊の感とは違つて、同じ形をくりかへすところから生ずる律動の感じを與へることであらうと思はれる。聲樂としての歌謠においては句節のくりかへしが必要であるが、對?の句が用ゐられるやうになつた歴史的由來の少くとも一つは、やはりそこにあつたのではあるまいか。しかし律詩において對?の形になつてゐる二つの句は、声の平仄のくみあはせがそれ/\違つてゐるし、句尾の語の韻も同じになつてゐないのが普通であるから、聲音の上では、それはくりかへしになつてゐない。これは多分、詩が知識人の遊戯として作られることになり、聲樂としての歌謠から離れて來たために、對?の法は單なる修辭的技巧となつたからのことではあるまいか。詩においても特に歌謠として、或は歌謠に擬して、作られたものにおいては、對?とは違つた形で句をくりかへす方式が用ゐられてゐることを考へるがよい。しかし對?の句とても、一句のいひ表はしかた語のくみたてかたは同じになつてゐるから、それは、いはばいひかたがくりかへされるのである。これだけでもくりかへしから生ずる或る興味はあるが、たゞさうなると、それといひあらはさうとすることの内容との關係に問題が生じて來る。もつともこゝにいつたのは詩を單に讀むものまたは吟ずるものとしてのことであるが、文字に書いて目に見るばあひには、二つの句がほゞ同時に意識に上り、よし讀むにしても、文字を見つゝするばあひには、それに似た效果が生ずるので、その興味は單に讀みまたは吟ずるのとは同じでない。從つて句をくりかへすことと内容との關係の問題は、一層大せつになる。
意義の上からいふと、對?の句にもいろ/\あるので、或る氣分なり感情なりをいひ表はすばあひには、相對する(510)事物をかり相對する語を用ゐてありながら、二つの句を通じて一つの氣分、一つの感情の流れてゐることが少なくない。故事などを用ゐる時にも同じ例がある。しかし、さういふばあひにしても、讀者は一つの事物、一つの觀念から、相對する事物、相對する觀念に、注意の焦點を變へてゆかねばならぬので、一すぢに力強くその感情をうけ入れることのできなくなる虞がある。文字に書いて目に見るばあひにはなほさらであつて、二つの句が同時に意識に上るために讀者の注意は二つに分けられ、相對する事物や觀念の間を往來しなければならぬ。また文字を離れて讀みまたは吟ずるばあひにも、前の句から受けた印象がまだ消えないうちに次の句が來るためにその印象が混雜することが考へられる。のみならず、感情そのものの統一の失はれてゐる句すらある。机邊にある一二の唐人の詩集を開いて見ると、例へば李義山の錦瑟と題する七律の前聯「莊生曉夢迷蝴蝶、望帝春心託杜鵑、」は、二句が全く違つた感情を表はしてゐるやうであるが、しかしこれは、瑟がいろ/\の違つた氣分を出すことをいつたのならば、それでよいかも知れぬ。後聯の「滄海月明珠有涙、藍田日暖玉生煙、」もまた同樣であらうか。しかし張泌の惆悵吟の前聯「晝夢却因惆悵得、晩愁多爲別離生、」は、同じ氣分をいひ表はさうとしたものでありながら、二つの別々のことになつてゐるし、後聯の「江淹彩筆空留恨、莊叟玄談未及情、」は、未及情といつたところに空留恨と相應ずる點はあるが、莊叟の玄談は前の句の氣分とは一致しないものである。また敍景のばあひにおいては、句を對?にすることはおのづから相對する景物を敍することになるため、その景物の與へる情趣の統一が失はれることが多い。戴叔倫の贈韓道士の前聯「桃源寂々煙雲閉、天路悠々星漢斜、」は地上の仙郷と天上のそれとを並べていつたものであらうが、兩句の畫き出す風光はひどく違ふ。曹唐の大遊仙の「洞裏有天春寂々、人間無路月茫々、」も同樣で、前の句は月夜の景趣ではないや(511)うである。白居易のよく日本人に知られてゐる「遺愛寺鐘欹枕聽、香爐峰雪撥簾看、」も、「日高睡足猶慵起」といひ出した一首の氣分からいふと、この二句の前の方のはそれに調和してゐるが、後の方のはむしろそれをこはすものであつて、その間に矛盾があるではないか。なほ上に引いた李義山の句から思ひ出されるのは、明の高青邱の名だかい梅花九首のうちの一つに「雲暖空山栽玉 偏、月寒深浦泣珠頻、」の句のあることである。これは梅の花を玉と珠とに見たてたのであるが、それをいふについて雲暖といひ月寒といひ空山といひ深浦といふ、梅の花の形容としては何の用もない語を點出して來たのは、玉と珠との縁によつてそれにふさはしい景物を畫き出さうとしたのであらう。ところがその景物が全く相反したものであるためにこの二句は互に相克する情趣をよび起す。從つてこの句が目のまへにある梅の花を詠じたものとせられる限り、その梅の風致から得た感じをかきみだすものといはねばならぬ。對?の句は、作者からいふと、心理的には、聯想のはたらきでできるが、その聯想が對立の關係によるばあひに、こゝにいつたやうなものになるのである。
勿論すべてがかういふものであるのではないが、かういふものもあるのであり、さうしてそれは、詩人のつとめるところが、いかなる感情いかなる思想を表現するかにあるのではなくして、いかに巧にことばをならべるかの技巧にあることを示すものである。對?の句とても、その興味はいかにきのきいた對?が作られるかにある。律詩といふ詩の一體が世に行はれたのは、それによつてかういふ技巧をはたらかせることができ、詩人の手腕もしくは知識が示し得られたからである。(古詩に擬したものが作られたのも同じ理由からである。)詩としての、特に抒情詩としての、效果は、絶句に比べて何のまさつてゐるところもない。かゝる技巧を弄し知識を誇示する餘地が少いだけ、絶句の方(512)が詩としてははるかに純粹であり、讀者に與へる感じが強い。絶句、特に七絶、はもと/\民謠の形として發生したものらしいが、それだけに抒情詩としてふさはしい形なのである。一體に抒情詩は感情の高調した刹那の氣分を傳へるところに妙味があり、從つて理智のはたらかない技巧のひどく加へられないのがよいのであつて、詩形もまたそれに適するやうな短いものが選ばれる。四句を一首とする絶句は、一面、起承轉結といはれてゐるやうな意味においての句から句へのうつりゆきによつて感情の動いてゆく過程を示すことができると共に、他面、全體として一つに集中せられた感情を力強くいひ表はし得るほどな單純な短い詩形である點において、シナ語の抒情詩としては理想的なものであらう。特に七絶の形は、その語數とそれが四語と三語とに分け得られるところに一種の律動が生ずることによつて、詠歎的な、いひかへると抒情的な、性質を有つものである。然るにシナの詩人が、それよりもむしろ他の詩形を重んじたやうに見えるのは、主として上にのべたやうな理由からであつたらうと思はれる。律詩の起結の中間に挾まれてゐる二つの聯は、圭想の動きに波瀾を起させ、それによつて後の二句で主想を力強く收結させる用をなすものともいはれようが、それよりもむしろ單なる裝飾たるに過ぎないばあひが多いのではあるまいか。
十九 シナ人の懷古の詩
シナ人に懷古の詩は多いが、どれもみな、ありし世の榮華の夢と消え去つたことをいつたまでのものであり、さうして王朝がかはり都城が遷されることの常であるシナにおいては、前の王朝の都城のあとが、特にかゝる懷古の情を(513)後の人によび起させ易い。李白の「地擁金陵勢、城廻江水流、當時百萬戸、夾道起朱樓、亡國生春草、王宮没古丘、空餘後湖月、波上對瀛州、」とか、葦莊の「江雨霏々江草齊、六朝如夢鳥空啼、無情最是臺城柳、依舊烟籠十里堤、」とかいふやうなのがそれであり、かういふものは、だれの詩集をあけてみても無いことはない。しかし、偶然こゝに引いた二首をよんでみてもわかるやうに、シナにおいては、興亡するものは、民族でも民衆でもなくして、王朝であるから、詩人が昔をしのぶのも、たゞ王朝の權勢の盛衰榮枯を感ずるにすぎない。杜牧は「商女不知亡國恨、隔江猶唱後庭花、」といつたが、シナの政治形態の本質として、民衆にとつては、いかなる王朝、即ちいはゆる「國」がいかに興亡しようと、それは彼等に何のかゝはりも無いことであるから、商女が亡國の恨みを知るはずはない。(かういふばあひに「國」といふのが王朝の義であることは、いふまでもない。)だから葦莊は「南朝三十六英雄、角逐興亡盡此中、有國有家皆是夢、爲龍爲虎亦成空、……止竟覇圖何物在、石麟無主臥秋風、」といつてゐる。民衆にかゝはりの無い王朝の興亡であるから、もと/\それに大きい意味は無いのである。そればかりではない。王朝はいくたび變つても、たゞ王朝が變つたのみであつて、王室の地位なりその政治なりは殆ど變らず、概していふと、同じやうな興亡が同じやうにくりかへされるだけである。或る王朝のしたことが新しい力を次の王朝に與へるのでもなければ、その王朝の亡びたことによつて新しいはたらきがどこからか出て來るのでもない。王朝は興つて來ては亡びてゆくが、民衆の生活はいつも同じである。この點からいつても、王朝のかはることにさしたる意味の無いことが知られる。詩人は亡びた「國」に對して一掬の涙をそゝぎもしようが、それと共に、その存在を夢とみなし空とみなして、深いこころがかりなしに、その興亡を送りまた迎へることができる。「遊人不管興亡事」と詩人がいつたのも、この故であ(514)る。懷古の詩に深い感慨のこもつてゐないのは、むりもない。それはたゞ盛衰榮枯のあとに對する一片の感傷にすぎないのである。
もつとも、かういふのはわれ/\の考からであつて、シナの知識人にとつては、それが感慨の最も深いものでもあつたらう。彼等はそのとき/”\の王朝の權勢に從屬することによつて、さうして彼等みづからもまたそれ/\の地位に應じた權勢を求め富貴を求めること、即ちいはゆる名利を求めること、によつて、生きてゐたものだからである。シナの詩人の多くは、口くせのやうに、名利は浮雲のごとしとか、冠冕の情を離れたいとか、いつてゐるが、ことにつけをりにふれて、わざ/\かういふことをいふのは、彼等がどこまでも名利を思ひ冠冕をつけたがつてゐるからのことである。かゝるシナの知識人にとつては、權勢を失ひ地位を失ふことは、即ち人としての生を失ふことであるので、さういふこゝろもちが最大の權勢と地位とをもつてゐた王朝の滅亡を思ふについても、またはたらいたのである。さうしてそこに彼等の感慨があつたのである。かう考へると、前朝の都のあとをたづねて彼等の目におもかげの浮ぶものが、たゞその前朝の榮華のありさまのみであつた理由も、またおのづからわかつて來るので、それはつまるところ、彼等みづからの榮華を求める心情の反映である。頽廢した古蹟についてその頽廢に意味がある、いひかへるとそれを頽廢させた力に意味がある、といふことは、上に述べたところでも知られるやうに、シナ人には考へられなかつたことであり、さういふ力がもと/\無かつたのである。ところが、シナの詩人には頽廢した今のすがたの美しさ、いはゞ頽廢の美、といふものもまた感ぜられなかつたらしい。權勢と榮華とのみに目がひかれるものにとつては、これは自然なことである。たゞかゝる權榮は夢でもあり空でもある。さうしてさう見るばあひには、人の權榮のはかな(515)さに對して悠久なるものは自然であることが知られる。それは即ち春草であり、月光であり、鳥聲であり、柳影である。さうして悠久なるものには頽廢の姿が無い。さすればこゝにもまた頽廢の意味とその美しさとの感ぜられない理由がある。
亡國をおもふ詩の意義がかういふものであるとすれば、古人をしのぶのが、なほさら、そのこころもちからであることは、おのづから知られよう。杜牧の金谷懷古の「凄涼遺跡洛川東、浮世榮枯萬古同、……往年人事傷心外、今日風光屬夢中、……」や、劉禹錫の烏衣巷の「舊來王謝堂前燕、飛入尋常百姓家、」に、上に引いたものと同じ氣分同じ思想のあらはれてゐるのが、その一つ二つの例である。たゞこのやうな詩は、數からいふとさほど多くはないやうであるが、それは、ことがらが亡國ほどに大きくないからであらう。實をいふと、このばあひには、わがこゝろの影をむかしの人の上にうつして見るまでもなく、權榮を求める點においては、むかしの人も今の人と同じであつたから、このやうな詩はたれについてでも、またいくらでも、作り得られるものであつた。すでに述べたやうに、シナの知識人は官職につくことによつて權榮の地に上ることを一生のめあてとしたのであるが、勢利を欲することは一般の人情ながら、身をも心をもこのことに捧げつくすのがすべての知識人のならひであつたといふのは、ひろく世界のすべての文化民族を見わたしても、そのためしの無いことであらう。知識人は官職につくべきものと定められ、さうして高官の地位が勢利のあつまるところであつたシナの特殊の事情から生れたことであり、先秦のむかしから近いころまで變らずにつゞいて來たならはしである。人は何等かのしごとをしないではゐられないものであつて、しごとをするのが人の生活の本質ともいふべきものであるが、シナの知識人はそれとはちがつて、しごとをするといふことよりも地(516)位を得ること名利を得ることを、めあてにしたのである。詩人が、何かといへば、すぐに窮通をいひ榮辱をいつてゐるのでも、そのことはわかる。もつと慾をいへば、功を金石に銘すとか名を竹帛に垂れるとかいふのが、むかしからの士人の求めるところであつた。「夫人、……恥當年而功不立、疾没世而名不聞、上起帝王、下窮匹庶、近則朝廷之士、還則山林之客、諒於其功也名也、莫不汲々焉孜々焉、」(史通外篇第一)であつた。白樂天が新樂府の一つで、「青石」に代つて「不願作人家墓前神道碣、墳土未乾名已滅、不願作官家道旁徳政碑、不鐫實録鐫虚辭、」といつたのも、一般に傳記のあてにならないのも、またこのためである。功はしごとの效果であるが、それはわが名を人に知られ後にのこすところに意味があるので、しごとそのことを尊ぶのではなく、そのしごとが人の生活に新しい力を加へてゆくことを思ふのでもない。人の生活の社會性と歴史性とがわからず、それがわからないほどに人のしごとによつて世の動いてゆくこと進んでゆくことが體驗せられず、一たいに生活が自己本位であり文化が停滯してゐたシナにおいては、かうなるのが自然であつたらう。だから古人を思ふにも、その人と共にその權榮の消え去つたことに對して、感傷の情をよせる外は無いのである。このばあひ、名の滅びなかつたのは、その古人のために、せめてものことである。
このやうなシナ人の欲望と生活の態度とは、帝王においてもまた同じであつた。詩人の心の反映にまつまでもなく、「國」そのもの王朝そのものが、もと/\權勢と榮華とを求めることによつて起つたものなのである。事實がさうであるばかりでなく、堯舜禹湯の如き傳説上の古帝王さへ、功名を求めて得たものと見られもした(呂氏春秋など)。史通の著者も功名に汲々孜々たるものの一つとして帝王を擧げてゐる。むかしからのどの王朝でも、その王朝の存在は、(517)つまるところ、それを存在させるために存在してゐたといつてもよいほどであるので、儒教の王道が、王として民に臨む道であると共に、王の地位を得または保つための道でもあり、禮といふものが天下の秩序をたてるためのものであると共に、王の權勢をかためるためのものでもあるのは、このことをよく示してゐる。或る王朝は王朝變遷史の上に一つの地位を占めてはゐるが、その王朝の存在はわれ/\の考へてゐるやうなシナ史の上には特殊の意味が無く、世界史的意味のあるものに至つては甚だ稀であるのも、かう考へると、むりの無いことである。結果から見れば歴史的意味のあるしごとになつたことが稀にあつても、帝王みづからにとつては、それは意識せられてゐないばあひが多かつた。帝王は、シナ民族のため世界人類のために何等かのしごとをしようとしてその地位を得たのでもなく、地位にあるのでもないからである。どの王朝のしたことも、動機においては、多くは權勢を保たんがために權勢を用ゐたまでのことであつた。或は帝王の地位にあるものの功名心のあらはれであつた。王朝の存在の意味はこのやうにしごとにあるのではないから、亡びた王朝に對しては、その存在したことが後の歴史を動かし、そのしたしごとが次の時代に何等かのはたらきをしてゐるといふやうなことが考へられず、たゞ權勢をもつてゐたものが無くなつたといふ點において感傷的な氣分を生ずるに過ぎないのである。王朝の存在にほんとうの歴史的意味が無いから、さういふ王朝は、亡びてしまへばそれきりだからである。ところが、その權勢には豪奢な生活が伴なつてゐた、といふよりもさういふ生活によつて帝王の權勢が象徴せられてゐた、といつたほうがよいほどであるから、後の人の感傷もまたそれに向つて注がれる。シナの帝王の豪奢な生活は、日本人には想像もできないほどのものであつたので、それは後宮のありさまにおいて最も著しい。むかしの王朝の盛時をいふに當つて後宮の佳麗をそのしるしとするのは、詩人の口くせ(518)であつた。しかし、さういふ生活は、その王朝と共に消えて跡なきものである。「宮女如花滿春殿」と李白に歌はせた越王の宮趾は「只今惟有 能鵠飛」である。さうしてそこから生ずる感傷に懷古の詩の意味があるのである。
二十 シナ人の戀愛詩
帝王にとつては、後宮の佳麗はその權勢のしるしであるにしても、宮人みづからにとつては、その運命は多く悲慘なものであつたので、白樂天の「上陽白髪人」にもそれは歌はれてゐる。梧の葉に詩を書いて禁苑の水に流したといふ孟 柴の本事詩にのせてある話も、またそれから作られたものである。「一入深宮裏、年々不見春、聊題一片葉、寄與有情人、」。しかし、詩人のしば/\作つた宮詞には、それとは別の意味においての怨恨が多く歌はれてゐる。この怨恨とても、やはり宮人といふ特殊の地位と生活とから來るものであり、またそれには、いくらかの權勢欲がからまつてゐるばあひもある。だから、これはもとより一般の婦人の例にはならぬが、普通の女性のこととしても、詩人はしば/\閨怨を歌つてゐる。それにはまた、夫婿が征戍の役に徴發せられたばあひをおもひやつた點において、むかしからのシナの知識人に通有であつた窮兵 顆武を非とする特殊の思想の假託せられたものもあるが、さういふものを除けて見ると、男が女を輕くとりあつかふならはしと、制度としては女が男にたよらなければならぬ地位にあるのと、家族生活におけるこの二つのありさまの結びつけられたところに、この種の詩題の生じた契機がある。閨怨ともいふべきものを少からず含んでゐる玉臺新詠集の如きは、それを證するものであらう。一般的にいふと、この集の詩は、(519)その殆ど全部が女の男に對する、むしろ妻の夫に對する、何等かの感情を歌つたものであつて、男の女に對するものは極めて少く、秦嘉の贈婦詩、張華の情詩のうちの或るもの、または潘岳の内顧詩及び悼亡詩、などが、その少いものの例であらう。ところが、全體の上から見ると、かういふ性質の詩でありながら、直截に強くその情を歌ふことが少く、物に託し事をかりて、もしくは身のまはりの風光とその間におけるわが生活とを敍することによつて、それをほのめかすのみであり、從つて抒情的效果が甚だ弱い。着想はどれも同じであり、題材もほゞ定まつてゐ、從つてまた摸倣が多く行はれてゐるのも、このことと關係がある。かの「爲焦仲卿妻作」といふ、シナ人の作としては珍らしい主題をとりあつかつた詩も、詩そのものは散文的であつて情熱が乏しい。經典としての「詩」の比興の體から來てゐるところもあり、賦といふものが多く作られたことによつても知られるやうな、いはゆる漢魏六朝の時代における文學上の一種の好尚の故もあらうが、思想的に見ると、かゝる感情を詩とすることが憚られたシナの知識人の(表面的な)道徳觀念にその理由があり、さうしてそのもとは、シナに特有な家族制度にあるのであらう。男の女に對するものが少いのも、またこのためと解せられる。シナに戀愛詩が無いやうにいはれてゐるのも、この故であつて、日本の戀の歌のやうなものを戀愛詩といふならば、この集に入れてある詩の多くは戀愛詩とはいひがたいものである。日本の上代の家族制度と、婚姻の風習と、それによつて養はれた道徳觀念とは、シナには無いものだからである。
もつとも、日本の戀の歌とはいろ/\の點において違ひはあるが、シナにも戀愛詩といつてよいものが無いではなく、小説や説話のうちにはさういふものが多く見えてゐるし、詩人の作としても、説話もしくはそのうちの人物などを題材として、さういふものがいくらかは作られてゐるので、唐代から後にそれが多くなつたやうであるが、六朝こ(520)ろにも、勿論、それはある。歌謠の類にそれが少なくないことは、いふまでもない。唐代から後にそれが多く見えるやうになつたのは、詩に新體の起つたことと關係があらうと思はれるので、六朝ころのものに比べると、繊細な感情がよくいひあらはされ、抒情的效果が強くなつてゐる。物に託し事をかりていふ態度には、さして變らないところがあり、そこにシナの詩の特殊の興趣もあるが、それにしても、技巧がいくらかちがつて來て、そこから新しい情味が生じてもゐる。のみならず、かなり直截に感情を感情のまゝにいひあらはしてゐるもののあることも認められる。わたくしは詩の技巧について語る資格をもたないが、こんなふうに考へてゐる。或はまちがつてゐるかも知れぬ。たゞこゝでいつておきたいのは、かういふ詩に現はれてゐる情味には、遊戯的な氣分がからまつてゐて、戀愛といふには「しんけん」さが少いといふことである。艶詩とか香奩詩とかいはれてゐるものは必しも戀愛詩のみではないが、婦人に對する、或は婦人みづからの、或る情緒が詠ぜられてゐるものではあり、そのうちには戀愛詩といつてよいものもあるが、それがかういふ名で呼ばれてゐるところに、遊戯的な態度が認められる。またこれらの詩には、日本の戀の歌にあるやうに、戀するものみづからおのが情懷を反省し分析し批判するといふやうな態度は、全くあらはれてゐない。特に男の女に對するこゝろもちは、多くはそれを可憐なもの掌上に玩ぶべきものとしての愛着であり、艶詩に例の多い、題材を狹斜の巷にとつたものにおいては、なほさらである。しかし、ともかくもかういふ詩が作られたのは、表面上の道徳觀念によつて抑へつけられた人の情の、抑へられながらに、それに反抗したこと、むしろ抑へられたがためにゆがんだ姿でそれがあらはれたことを、示すものであつて、遊戯的氣分とても、一つはそこから生じたのである。宮詞の好んで作られたのも、また實は同じところに一つの由來があるので、宮人も妓も、この點では、違ひ(521)はない。さうしてさういふ詩が喜ばれたところに、シナ人の情生活のlつのすがたがあらはれてゐるのである。
二十一 香屑集
香屑集といふものがある。唐人の詩の句を集めて約一千首の艶詩としたものであつて、諸體みな備はつてゐる。作者黄子といふのはどういふ人か知らぬが、序文によると、この集のできたのは康煕ころのことであつたらしい。とりたてていふほどのものではなく、つまらぬといへばつまらぬ遊戯の産物にちがひないが、遊戯としてもシナ人の遊戯らしいところに或る興味はある。作者みづからは一つのしごととしてゐたであらうけれども、遊戯の氣分もまじつてゐたと思はれるので、いろ/\のいひわけをしながらも艶詩としたことに、既にそれが(シナ人としては)あらはれてゐる。詩として見れば、どうせ集句であるから、むりなつなぎあはせも多いやうに見えるが、それでもとにかく、一首ごとにまとまつた或る感じは出てゐる。中には、よくも巧にかういふつぎあはせができたと思はれるものも少なくない。もとの詩は艶詩ではないのに、そのうちの句を艶詩にあてはまるやうに用ゐた手ぎはのよさのあることも、認めなくてはならぬ。が、それよりも、かういふものを見て特にきがつくのは、シナの詩の一句一句がそれ/\まとまつた意義をもち、それだけきりはなしてみても何等かの思想なり感情なりが現はれてゐるといふこと、さうしてそれはシナ語の性質と、それから來てゐるシナの詩のくみたてかたとの、特色であるといふこと、詩人の着想が大てい似たりよつたりのものであつて、だれのどの詩の句をとつて來ても、それが他の人の他の詩の句に、ひどい不調和がな(522)くつぎあはされるといふこと、上には巧につぎあはせができたといつたが、それができたのは、つぎあはせかたの巧さにもよるけれども、もとの詩がもと/\さういふつぎあはせのできるやうにできてゐるからだといふこと、などである。さうしてまた、作者がこのしごとにどれだけの心力を盡したか知らぬが、なみ/\しならぬほねをりをしたには違ひないことを思ふと、それだけの心力を、こんな遊戯につかはずに、もつとほかの方に、即ち彼みづからの創作に、用ゐることができなかつたものか、と怪しまれると共に、シナの詩といふものは、創作でもかういふ集句でも、つまるところ大なるちがひの無いものであつて、創作といつても、實は、昔からの詩人が用ゐなれて來た語句を、いひふるされた思想によつて、つぎあはせるにすぎないものであることを思ふと、集句がそのまゝ創作の一つのしかたであるとも考へ得られる。また詩を作るやうになるには、古人の詩の句を多く暗誦することから入つてゆくのであるが、さういふことに慣れたものには、おのづから集句をすることもできるであらうから、修養の點からいつても創作との間にさしたるへだたりは無い。從つてまた集句をするには、われ/\の考へるほどのはねをりは無かつたかもしれぬ。ともかくも、才人がかういふことを試みたのも、その才を示すには、ふさはしいしごとであつた、と解せられる。シナの文化の停滯性といふことがこんなところにも現はれてゐる。或はまた康煕のころにかういふものの作られたことには、考證學の流行しはじめたことと、思想の上で何等かのつながりがあるかも知れぬ。集句といふことは、この作者にはじまつたのではないが、これほど大規模に試みられたのは、この香屑集のみではあるまいかと思はれるので、それについては、かういふことも考へられる。卷未の自題十二首のうちの首尾の二首をこゝにしるして、まだこれを讀まない人たちに才人の才を示すことにする。
(523) 小碎詩篇取次書、吟看句句是瓊?、王楊盧駱當時體、管領春風總不如。(元?、白居易、杜甫、王建、の詩から一句づつをとつてゐる。)
總向紅牋寫自隨、嘲花詠水贈蛾眉、春風猶自疑聯句、未有儂家一首詩。(元?、白居易、李商隱、薛能、の詩から一句づつをとつてゐる。)
二十二 ナリシマ リュウホク(成島柳北)の詩
近ごろ明治文學の研究が行はれるにつれて、ナリシマ リユウホクもまた思ひ出されて來たやうである。リユウホクが文學の上にどんなはたらきをしたか、明治文學史においてどういふ地位を占めるものであるか、といふやうなことは、別のはなしとして、彼の詩について前から疑問に思つてゐたことの一つを、こゝでいつてみようと思ふ。それは、いはゆる多感多恨な彼の詩が、その意味でおもしろみのあるものであるにかゝはらず、航西日乘などに見えてゐる外國での作には、おもしろく感ぜられるものが少いやうであるが、もしさうとすれば、それはなぜか、といふことである。リユウホクといへばだれにでもすぐに思ひだされる品香評色の詩は、しばらくおいて、彼の詩には舊主をおもひ、また父をおもひ子をおもうての作がいろ/\あり、さうしてそれらは、いづれも彼の詩の特色をなすものであり、人を動かすことの深いものである。はじめてオホサカに遊んだをりには、なにごとよりもまづ前將軍の東走を思ひ出して、「片帆東去大牙傾、一夜麕奔十萬兵、客子訴誰何限恨、凄風吹涙浪華城、」といひ、シモフサからはるかに(524)ニッコウ山を望んでは「朝來盥漱拜而泣、晃岳當擔雲影尊、」とうたひ、シノバズの池の蓮の花をみるにすら「丹心到底比愁紅、曾沐恩波萬頃中、咫尺湖東?宮?、下階拜向藕花風、」とよまなければならなかつた。明治のみ代に新しく生きる喜びを喜んでゐたかたはらにおいて、舊主の恩情を忘れなかつたのである。或はまたキビ路のたびに先考の忌辰にあつて「兄弟七人隨九泉、獨存遺體誦遺編、他郷今日蘋?奠、遙隔滄溟拜墓阡、」といふと共に、家にのこしておいた子を思うては「阿爺萍跡又天涯、想汝朝々慕阿爺、上國江山無限好、不如與汝在吾家、」とうたつてもゐる。かの教坊の「小紅拂」にこゝろひかれて「感秋未歇又傷春、果是良因是惡因、無復銛刀截情緒、枉移痴想恨氷人、」といひ、「怪個閑愁漫相惹、赤繩欲斷細於絲、」を恨み、さては「夢裏相逢情却投、多愁應是愛多愁、」と吟じたやうに、たびねのゆめにそのおもかげを見たことさへあるのも、やはり同じ情懷からである。到るところの風物を吟嚢にとり入れたのも、かくのごとき情懷の故であつて、彼の風物詩は單なる風物の詠ではなく、何等かの感慨がそのいづれにもこもつてゐる。
しかるに、航西日乘に見える詩は、かなり趣がちがつてゐるので、その多くは興味のはなはだうすいものである。パリやロンドンなどでのは一々いふまでもなく、ヴェネチアやナポリに旅したをりのでも、それらの土地の情趣がこまやかに寫しだされてゐるとはいひかねる。懷古の詩のやうなものでも同じであつて、たとへばエルバ島とコルシカ島とを望みつゝナポレオン一世をおもひだして「兵威打破泰西天、屈指茫々七十年、島嶼空存當日景、英雄成敗付雲烟、」といひ、ヴェルサイユ宮を見て「想曾鳳輦幾囘過、好與淑姫長晤歌、錦帳依然人不在、玻璃窓外夕陽多、」といつてゐる、そのどれもが、ありふれた一とほりの榮枯盛衰に對する感傷を歌つたに過ぎないもののやうであつて、ナ(525)ポレオンの人物事業の特色も、ルイ王朝の政治的文化的地位も、全くかへりみられてゐない。ナポレオンは破れルイ王朝は倒れても、かれらのしたしごとはヨウロッパの文化の上に大なるはたらきをしたので、その意味で、いつまでも生きた力をもつてゐる、といふことが考へられなかつたことはいふまでもない。そのやうな世界史的意義のあるしごとをしたルイ王朝やナポレオンの運命を、宇宙と人生との根本の問題に關係させて見るやうなことは、なほさらできなかつた。盛衰榮枯を説くにしても、ヴェルサイユ宮を見た時の記事に「此宮ノ内園ハ甚ダ我ガ舊幕府ノ吹上苑ニ似タリ、覺エズ感愴ノ情ヲ發セリ、」とある方が感じが強い。ナポレオン三世の死をきいたあとで「途上那破崙三世死後ノ寫影ヲ得タリ、爲メニ愴然、」と日記に書いてゐるのを見ると、何ごとを思つてのことかは知らぬが、その「愴然」たるこゝろもちは讀者にも感ぜられる。(ナポレオン三世、またその時代のフランス、と幕府との關係がこの時に思ひ出されたのかどうかは、これだけではわかりかねるが。)しかし「勝敗何論鼠?猫、英雄末路奈蕭條、判他獨逸新天子、高枕而眠從此宵、」といふ詩には、そのこゝろもちが却つて現はれてゐないのではあるまいか。かういふわたくしの感じが當つてゐるかどうかは知らぬが、かりにひどくまちがつてゐないとすれば、これはなぜであらうか。
それが問題なのである。
リユウホクの詩は、奧儒者であつた父祖から傳承せられたものであらうが、一般詩界の情勢から見ると、文化のころにイチカハ カンサイ(市河寛齋)、ヤマモト ホクザン(山本北山)、オホクボ シブツ(大窪詩佛)などによつてはじめられた詩風の、その後、次第に世にひろまつて來たのと、おのづから通ずるところがあらう。この詩風は、目のまへの風物をさながらに寫し自己の情懷をありのまゝにいひあらはすことを主としたものであつて、風物を詠じたもので(526)も、その風物が作者の情懷にひたされて、こまやかな抒情詩的氣分がそれにしみ出してゐる。しかしそれには、實は大なる制限がある。もと/\シナ語を用ゐる詩であり、そのてほんがシナ人の詩であるから、實景をこまかに寫さうとしても、ほんとうには寫されず、またシナの詩によみならされてゐるやうな情懷でなくては、いひあらはされない。そこで、さういふ詩によつて日本の風物を寫し日本人の情懷を詠じようとするところに、日本の詩人の特殊の技巧があり、それと共に、日本の風物、日本人の情懷が、何ほどかシナ化せられシナ的な色あひを帶びてゐるところに、かかる詩をよむものの特殊のおもしろみもあるので、シナの詩によつて薫習せられた思想なり氣分なりをもつてゐる詩の作者や讀者には、このことに大なる意味がある。詩についていふかぎり、彼等にとつては、長いあひだの因襲として、日本の風物なり日本人の情懷なりが、すでにシナ的の色あひを帶びてゐるのである。だから、もしかういふ因襲的な氣分からあまりにかけはなれてゐる風物に接したり境遇におかれたりすると、全く詩人としての態度を失つてしまふ。明治のはじめに盛に作られた、トウキョウやヨコハマの新しい風物を詠じたものをよむと、そのことがよくわかるので、汽車や汽船や電線やガス燈や、またいはゆる「夷人」の生活の何等かの外觀が寫されてはゐても、詩としてのおもしろみは殆どそこからくみとられない。詩の作者は、さういふ風物において、ほんとうに詩となるべきところをとらへることができず、さうするだけの新しい感觸と情懷とをもたなかつた。シナの詩によつて養はれた氣分では新しいものごとに新しい詩趣を發見することができなかつたからである。(清人の外國竹枝詞などをよんでも、やはりそのやうな感じがする。)航西日乘に見えるリユウホクの詩についても、また同じことがいへるのではなからうか。古蹟を訪うても、シナの懷古の詩の型から出て來た感想では、ナポレオンやルイ王朝のそれにはあてはまらない(527)ところに、上に引いた詩のおもしろみのうすい理由があるのではあるまいか。ロオマで詠んだ「風意吹春舊帝都、獨憐臺閣委烟蕪、干曳畢竟爲何用、石柱空留百戰圖、」が、その着想において唐人の金陵懷古の詩などと同じであつて(前に引いた葦莊の七律の結末とひきあはせてみるがよい)、六朝のシナ王朝變遷史上の地位とは全くちがつてゐるロオマの世界史上の地位が、少しも考へられてゐないではないか。もとよりこれは、ヨウロッパの歴史がリユウホクによくわかつてゐなかつたからであるが、わかつてゐないためにシナふうの史眼でそれを見たのであるから、つまるところ、こゝにいつたのと同じことになる。訪ふところはヨウロッパであるけれども、訪ふものの情懷はシナ詩人のままであるから、詩はいたづらに陳詞套語をつらねるのみである。
もつとも、陳詞套語をつらねることは、どんなばあひの詩でも同じであるのみならず、いはゆる風流罪過をいへば、いつでも香山や樊川がおもひだされてゐるやうに、情懷そのものもまた陳套である。たゞそれに生氣を與へ陳を變じて新となすものは、作者みづからの現實の情生活であり、自家心中の閲歴である。リユウホクの詩に清新のおもむきのあるのは、全くこれがためである。かのキビ路の旅に「一片征帆島嶼間、風霜憶咋度函關、傷心幾酌他郷酒、?骨未知何處山、……」といふのも、今日から見ると、シナ式の感傷であり、ぎようさんらしいいひかたのやうにも思はれようが、この詩を作つたのが、世を急にひつくりかへした大變動の、まだ靜まりきらず、彼みづからも父祖から傳へられたみぶんと、わが築きあげた地位とを、失つてまだまもない明治二年の冬であることを考へると、これには僞らざる彼の心情が力づよく現はれてゐるのであらう。「……噫我結髪三十年、頭有冠冕腰佩環、榮枯一夢乾坤變、青簑白笠身始閑、江山明媚天付我、唯鷹漫遊探仙寰、……」になると、やゝこみいつたこゝろもちが詠まれてゐるが、(528)翌年あたりの作らしいもののうちに「窮詩動欲説升沈」といふ句があり、また獨り旅舍の欄によつては「浴罷驛亭心更閑、晩窓欹枕見雲山、浮雲雖浮皆歸岫、笑我飄遊天地間、」とうち吟じ、ゆくりなく舊知にめぐりあうては「柳色花香傷我神、故山非復往時春、與君相見先揮涙、同是天涯冷落人、」といつてゐるのを、互にてらしあはせてみると、或る感傷と、自嘲と、その底に潜んでゐる或る憤怨、またいはば一種の幽愁暗恨の情と、それを慰める風月の愛翫と、或るあきらめと、さうしてまたそれらの傍に全く無いではない一味の心やすさとの、いりまじつたこゝろもちが、そのころのリユウホクにあつて、をりにふれて、それらの一面なり二面なりが詩の上にあらはれて來たことが、おもひやられる。さうして、かういふこゝろもちは、その一つ/\についていふと、シナの詩にいひならされたものであり、その成句がそのまゝかりられたところさへあるし、思想においても、ともすれば身の升沈榮枯をいふところにシナ人ふうの考へかたがあると共に、全體としては、時勢と、それに伴なふ世情との、またそのあひだにおける彼みづからの生活の、急激な變轉によつて、かもしだされた彼に特殊のものであり、さういふものが現はれてゐればこそ、これらの詩に詩としてのおもしろみがあるのであらう。
ところが、ヨウロッパへいつてみると、それはあまりにもかゝる氣分とはかけはなれた世界であつた。かゝる自家の閲歴や心情は、その前には殆どはたらきをしなくなつた。さうして、新しい世界の文物を學びとらうとする欲求のみが動いた。だから、いくらかの詩らしいものをそのあひだに求めることになると、やはり「客身同値海西春、來燕去鴻情更親、何事夢間添一夢、他郷翻送故郷人、」といふやうなものを擧げるほかはない。風物の詠においても「客程南入弗稜蘭、恍覺風光肖故山、曖々烟霞春十里、桃紅點綴菜黄間、」などに却つて一味の興趣がある。(これにフィ(529)レンツェの實景がよく寫されてゐるかどうかは知らぬ。)リユウホクはパリでもロンドンでも、薩長政府の顯官に逢つて談話を交へてゐるが、彼のこの時の心情はどんなであつたか。薩長政府の行動も戊辰の變も忘れはててゐるやうに見える。もつとも舊知の幕人にも幾人か會つてゐるが、タナベ レンシュウがイハクラの隨員になつてゐる時勢であるから、リユウホク自身が舊幕人であることにも、さまで深くは拘泥しなかつたのかも知れぬ。舊幕人たることにむしろ一種の誇りをすら感じてゐたらしくも思はれるほどなレンシュウが、その舊幕における外交上の經驗と知識とを以て薩長政府のために何等かのはたらきをしようとしたのは、時勢の變化のためであり、薩長政府もまた世界に對して日本を代表してゐる状態となつたためであらうから、リユウホクとても、新しい日本の使節に對しては相當の敬意を表する必要があつたであらう。しかし歸朝してから後、カマクラに遊んで「江城覇圖亦一空、感舊爰與鎌倉異、」と叫び、フクヰにたびしたをりに「興廢雖天亦係人、堪看城壘委荊榛、」といつて維新の時のエチゼン侯の態度に不滿の情を寄せたことから見ると、彼の衷情には憐むべきものがあつたと解せられる。これらの懷舊の感のこもつたものを讀み、またシヅヲカに亡兒の墓を掃うて「泣收汝骨亂離間、惨雨懷風十二年、今日乃翁猶不死、又將舊涙灑墳前、」と詠んでゐるのを見ると、舊幕人であることの意識が彼の心理に強く動いてゐると共に、詩人リユウホクがこゝに至つて再び生きかへつた觀がある。「老來猶愛小裙釵、又買芳樽向鴨涯、柳眼花唇春如錦、嬌歌呼起舊風懷、」作者みづからにもまた或は同じ感があつたかも知れぬ。「他郷不恨老風塵、到處追隨多故人、春酒易醒君莫怪、離愁如海渺無津、」と詠じたこともあるが、ヨウロッパではかういふ詩は作られなかつたであらう。イギリスに渡らうとする時のことを記して「巴里ニ在ル前後四月、顧眄去ルニ忍ビザル情アリ、」と書いてゐるが、その時に詩は多くできなかつ(530)たのではあるまいか。たゞ「渡英佛海峽」と題したカレイでの作のあることが注意せられるのみである。
二十三 平安朝の詩の作者と中晩唐の詩
リユウホクの詩は、詩そのものからいつても、エド時代の詩の歴史におけるかれの地位からいつても、いはゆる中晩唐の詩風にゆかりがあるが、中晩唐の詩は平安朝時代のわが國にもいくらか傳へられてゐたので、特に白居易のがそのころの文人にひどくもてはやされてゐたことを、知らぬものはあるまい。ところで、キンタウ(公任)の撰んだといふ和漢朗詠集にとられてゐる唐人の詩の句は、自居易のがほかのとはくらべものにならぬほど多いが、元?、劉禹錫、賈島、章孝標、など、かれと同じころの詩人のもあり、かれよりもやゝ後の許渾、温庭?、また下つては杜荀鶴、公乘億、などの唐末の作者のも含まれてゐるから、これらの詩人の名とその詩とが、キンタウのころには知られてゐたのである。元白二家の集が我が國に傳へられた時代はほゞわかるので、サセ(佐世)の目録にもそれが見えてゐるが、そのほかのこれらの作者の詩がどうして、またいつのころから、知られてゐたかは、はつきりしない。晩唐の詩人のについては、その家集がもし傳へられてゐたとするならば、それは、五代または宋代になつてから、シナの商船がもつて來たものであるかもしれぬ。キンタウの時代に知られてゐた晩唐の詩人が、朗詠集にその詩の句のとられたものだけであつたかどうかもわからぬが、もしそれだけであつたとするならば、温庭?はあつても李商隱はなく、杜牧の名も見えず、唐末の詩人のでも、そのころに世に知られてゐたほかの作者のが無いのを見ると、朗詠集にとられた詩(531)の作者の家集がわが國に傳へられたとしても、それは、偶然のことであつたにちがひない。といふのは、晩唐にあたるころの日本の詩の作者が、そのころの唐の詩風を知つてゐてそれに興味をおぼえたところから、名ある詩人の家集を求めたために傳へられたのではない、といふ意義である。さうしてこのことは、そのころの日本とシナとが詩について何のむすびつきもなかつたことを、示すものである。わが國とシナとの詩の作者が、海を渡つて互にゆききをしたこともなく、從つて作者の間に交りの結ばれたことも無い。劉禹錫の集に「贈日本僧智藏」の詩があるのを見ると、いはゆる入唐の僧にかの地の詩人と何かの事情で知りあひになるものも、たまにはあつたらしいけれども、さういふ僧がその詩人の詩をわが國に傳へるやくめをつとめたのではあるまい。あれほど日本人にさわがれた自居易の集とても、それがわが國に傳へられたのは、一つはシナにおいて居易の詩がひろくもてはやされてゐたために、さういふ機會がおのづからできたからであらうが、我が國の詩界にとつては、それはやはり偶然のことであつた。凌雲集や文華秀麗集や經國集やに集めてある詩には、むかしの懷風藻のとは少しくちがつて、唐詩の影響をうけてゐるところも見えるやうであるが、白居易を迎へるだけのしたぢができてゐたこと、またはそれを迎へようとするやうな要求のあつたことを、それによつて認めることはむつかしい。そのころの詩は、どこまでも知識と技巧とのものであり、どれほどまでシナ人の詩をまねて作ることができるかを示すためのものであるので、おのれみづからの感情なり思想なりを歌ふためのものではなかつた。そのためには國語の歌があるので、詩によらなくてもよいのであり、また詩ではそれができないのである。(平安朝のはじめのころにも、歌は決して衰へてゐなかつたと考へられる。)
ところが、中晩唐の詩には抒情的要素が勝つてゐて、感傷的傾向をもつてゐるものが多く、艶詩といはれるものの(532)少なくないのも、それとかゝはりのあることであるが、それはおのづから、知識的分子の少い、技巧を多く弄ばない、傾向を伴ひ、それがために詩の形としても絶句がかなり好まれた。(中晩唐の詩人の詩がみなかういふものだといふのでないことは、もとよりである。廣くシナの詩を見わたして考へると、詩といふものはもと/\知識的のもの技巧的のものだといふこともできるので、詩の作者が作者であるのは、その技巧を示し知識を示すところにあるといつてもよく、詩の形とてもそれにつごうのよいものが多く用ゐられた。たゞそのかたはらに、かういふ傾向があつて、それがこのころの詩の一つの特色になつてゐる、といふのみのことである。)けれども、平安朝のはじめの詩の作者の多くは、白居易の詩についても、やはりその技巧を喜んだものらしい。詩人としてのかれがどういふ人物であつたかといふやうなことは、知られもせず知らうともしなかつたであらうし、全體としてのかれの詩風がどういふものであつたかといふことにも、深くきがつかず、詩の一首一首についても、その一首としての情趣よりは、そのうちの或る句、特に對?になつてゐる一聯の句の、いかに巧にできてゐるかにこゝろがひかれたやうである。江談抄に見えてゐる弘仁のみよの句の話などは、年代からいつても、ことがらからいつても、事實であるとは思はれないが、そのやうな話のいつからかいひ傳へられてゐたのでも、このことはわかるので、居易の集がはじめて讀まれたころからすでにさうであつたらう。そのころの詩に對する興味の中心は、さういふところにあつたらしいからである。キンタウの朗詠集に詩の句があのやうな形でとられてゐるのは、朗詠のためといふ特殊の目的があつたからではあるが、それはかれの前からそのやうにして詩の句が朗詠せられてゐたからであり、さうしてそれはまた詩の興味の中心がそこにあつたからであらう。
(533) もつとも一方では、「文集」のもてはやされるにつれて、居易の詩風が、弘仁天長のころまでのニホンの詩の作者のてはんにしてゐたところとは、かなり違つてゐることがわかつても來たらしく、從つてそれにならはうとするやうにもなつたやうであつて、シマダ タヾオミ(島田忠臣)やミチザネ(道眞)の作には、「坦易」(居易を評した甌北詩話の語)と評せられた側面においての、居易を學んだあとが見えるやうである。タヾオミが居易に私淑してゐたことは、家集にある「吟白舍人詩」を見てもわかるので、それによつて考へると、かれは、われこそは「海東」の白舍人だと思つてゐたのかもしれぬ。江談抄には、ミチザネの詩は元?の體であると古人がいつたといふことが見えてゐるが、たれであるかわからぬその古人の評が當つてゐるかどうかはしばらくおき、ミチザネの時代の文人の風尚から考へると、やはり居易の影響をうけたことが多いのではあるまいか。キノ ハセヲ(紀長谷雄)の「延喜以後詩序」によつてもわかるやうに、ミチザネも元?の詩を讀んでゐたにちがひなく、また元白二家の詩風には共通のところもあるが、學ばうとしたのは、おもに居易のであつたらう。本朝麗藻にのつてゐる中書王の「和高禮部再夢唐故自太保之作」にも「中華變雅人相慣、季葉頽風體未訛、」の句があり、それに「我朝詞人才子、以白氏文集、爲規模、故承和以來、言詩者、皆不失體裁矣、」と注記してあることも、考へあはされよう。しかし、このころの作者の學び得たところは、上にいつた坦易の一面だけであつて、抒情的である他の一面はおほむね失はれてゐる。作者みづからはおのが情思を詠ずるつもりであつたかもしれないが、その情思は、かれらのてほんとしたシナ人の詩にあらはれてゐるところによつておのづから制約せられてゐるから、よしそれが知識としてシナ人の詩から學ばれたもののみではないとしても、たか/”\日本の作者にもシナの作者にも共通のものがそれにあるだけであつて、日本人の特殊の生活に深くねざして(534)ゐる生活感情生活氣分ではない。それと共に、詩を作るのは、日本のことばとは性質の全くちがつた外國語、特に生きたことばとしてではなく、文字の上に寫されてゐる詩の語を、文字の上で學び用ゐるまでであるために、詩としての表現が表現しようとする感情なり思想なりに伴なはない。居易を學んで作られた詩に、居易に見られるやうな抒情的側面の缺けてゐるのは、といふのがもしいひすぎならば、抒情味のうすいのは、といひかへてもよいが、それはさうあるべきことなのである。田氏家集にはシナには無い日本の景物を主題としたものがあり、それより後の作者のにはさういふものが次第に多くなつて來たらしく、本朝麗藻を見てもこのことはわかるが、それは景物を記述したものであつて、抒情的のものではない。景物の翫賞にもそのころの日本人の風尚があらはれてはゐるが、詩としての興味はその記述にある。何よりも、戀の歌の多く作られた世のなかにおいて戀愛詩の殆ど作られなかつたことが、それを證する。
このことについては、菅家萬葉といはれてゐるものに、二十首の戀の歌のそれ/\に、その意義を七絶にうつした一首づつの詩のそへてあることが、思ひ出されるが、しかしそれのどの詩をよんでみても、もとの歌の情趣は感ぜられず、意義さへもちがへてあるものが多く、また歌から離れてみても、戀愛詩としては味ひの甚だうすいものである。戀愛はそのころの日本人に特殊な生活から生れた特殊の情思を歌つたものであり、その表現のしかたにも日本のことばでなくてはできないところがあるから、詩にそれがうつされないのは、むりのないことである。だから、それを詩にしようとすれば、詩としていひ得られるやうに作りかへねばならないので、「思ひつつひるはかくてもなぐさめつ夜ぞわびしきひとりぬる身は」を「寡婦獨居欲數年、容顔枯稿敗心田、……」とし、「つれなきを今はこひじとおも(535)へどもこゝろよわくもおつる涙か」を「不枉馬蹄歳月抛、從休鴈札望雲郊、……」とするやうになる。氣分も意義もまるで違つてゐる。よひ/\ごとに來る男をまつてゐる女のこゝろといふものは、シナの女には無く、從つてシナの詩には詠まれてゐないことであるから、詩としてはこのやうに作りかへねばならなかつたらうが、作りかへられてゐることは、明かである。しかし、いくらかはもとの歌にすがつて作るのであるから、詩としても興味のないもの詩とはいひかねるものになる。詩の形を七絶にしたのは、三十一音の歌の意をうつさうとするところから、短い詩形を撰んだものらしいが、それにしても、七言四句では語があまるので、歌にはいつてないことをいひそへねばならなくなり、そこからも歌の意義とは違つたものができてくるのである。(日本の歌とシナの詩とでは、同じ抒情的のものでも表現のしかたが違つてゐるので、それにはさま/”\の理由があるが、そのことは別にいふをりがあらう。また菅家萬葉についてもいろ/\問題があるが、こゝではその上卷の詩についてこれだけのことをいふのである。たゞ一方に、句題和歌のやうなものが作られたと共に、他方には、このやうにして歌を詩に譯することが試みられたところに、詩を重んずる意味からのことではあつたらうが、一つの興味はある。)さて、これは菅家萬葉の詩についてのことであるが、それから離れて考へても、要するに、戀歌の情趣は詩にはうつされない。だから、戀歌といふものをおのれらの情生活の表現としてもつてゐるそのころの日本人が、戀愛詩を作らなかつたのは、意味のあることである。本朝麗藻には歌集のまねをして詩を四季にわけてあるが、それにあてはまらぬものについては、歌集で大せつなものとなつてゐる戀の部がたててなく、歌集には無い別の部門が設けてあるのも、そのためであらう。詩の形においても、抒情にふさはしい絶句が甚だ少い。同じく四季のわけかたを用ゐてある朗詠集には、雜の部とでもいふべき部分のいろ/\(536)の題目のうちの一つとして、戀が擧げてはあるが、そこにとられた詩の句は、戀を主題とした詩からであるかどうか、おぼつかない。
それで、もとへもどつて一くちにいふと、このころの詩は、詩の形をもつてはゐるが、ひどく散文的のものである。抒情の分子があつても、その調子が甚だ低い。さうしてそこに居易の詩とは似もつかぬところがある。さすれば、よし居易の坦易が學ばれたにしても、それはやはり技巧としてのことであつたといひ得られよう。居易の詩風がいくらかでもわかりそれを學ばうとした方面においてでも、かういふありさまであつたとすれば、晩唐詩人の詩が傳へられても、それにたゞよつてゐる特殊の抒情味は、やはり、日本の詩の作者には學ぶことができなかつたであらう。江談抄にはミチザネが温庭?の詩體を優長だといつたといふ話が見えてゐるが、それが事實であるかどうかはわかりかねるし、よし事實であるとしたところで、ミチザネもしくはそれよりも後の作家の作に、温庭?などの影響を認めることはむつかしくはあるまいか。そのころの詩によつて考へると、晩唐の詩の情趣がどこまで味ひ得られたかすら、問題である。シナ文を書けば、いつまでも骨ををつて四六の體を學んでゐたことからも、それはおしはかられよう。歌が盛に作られ、いろ/\の物語があらはれて來て、日本人に特殊な情生活がそれによつてこまやかに表現せられるやうになつた時代において、詩を作ることが、一種の才能と知識とを示すよりほかに、意味のないものであり、從つて何よりも詩の技巧が重んぜられたのは、自然のことであるが、さういふ意味で詩を作つてゐたものは、シナ人の詩に對しても、やはり同じ目でそれを見たのであらう。中晩唐の詩の平安朝の詩に與へた影響は、このやうなものではなかつたらうか。
(537) ところが、エド時代の末に中晩唐の詩のもてはやされるやうになつた時には、それとはかなり違つたようすがあらはれた。そのころの作者は、シナ人の詩の情趣を味ふことが平安朝のむかしよりも深くなつてゐたと共に、やはり文字にかゝれた語のみによつて詩を作つたのではあるが、その語をつかひこなす力がむかしよりもまさつてゐた。さうしてかれらの情思を表現するにふさはしい文學の形が、ほかには無かつた。歌はあつたが、それは要するに型にはまつたものであつた。そこで詩の抒情的側面が學ばれるやうになつたのである。それにしても、つまりはシナ人の詩にあらはれてゐる情思におのが情思を同化させるに過ぎないものであつた。たゞそのことを、かれらは明かに意識しなかつたのである。リユウホクの詩について上に考へたところによつても、それは知られるであらう。
二十四 平安朝の物語とシナの説話
白氏文集がいかに平安朝の文人にもてはやされても、日本人の情思は日本のことばによる日本の歌でなくては表現せられない、といふことをいつたにつけて、今さらのやうに思ひ出されるのは、「源氏」に至つて大成せられた「物語」といふ文學の形態が、同じ時代までのシナにはまだできてゐなかつたものであり、それとほゞ同じ性質をもつもののシナに生れたよりもはるか前において日本で作られたもの、全く日本人の創意から出たものである、といふことである。唐代にもさま/”\の説話は作られてゐて、そのうちには戀愛を主題としたものもあり、かの遊仙窟のやうなものさへもできてゐたのであるが、それに寫されてゐる戀愛は、一人の男と一人の女との單純な情思にすぎず、さう(538)してそれは艶詩にあらはれてゐる情思の單純なのと同じである。從つて、話のすぢみちやくみたても甚だ簡單であつて、平安朝の物語とはくらべものにならぬほど幼いものである。いろ/\のものごとについてシナのをてほんにしたことの多い平安朝において、そのてほんにするものの無かつた「物語」といふものの作られたのは、日本人の誇りの一つである。
どうしてかういふものが作られるやうになつたかといふことを考へると、それにはいろ/\の事情があらう。シナ文學との關係をいふと、長恨歌の喜ばれたことも、遊仙窟の讀まれたことも、或はいくらかの助けになつたでもあらう。元 横が書いたといはれてゐる會眞記がそのころの我が國に傳はつてゐたかどうかは、わからぬやうであるが、もし詩集と共に傳はつてゐたならば、さういふものも、このことについて或は何ほどかのはたらきをしたかもしれぬ。「源氏」の螢の卷に「ひとのみかど」の物語のことを源氏にいはせたところがあるのを見ると、シナの説話文學のいくらかは、そのころの我が國に知られてゐたらしい。しかし、戀物語ともいふべきものは、むかしから我が國にあつて、萬葉などにもそれは見えてゐ、さうして平安朝の物語には、歌のことばがきから發達したと思はれる一面があること、物語に寫されてゐることがらは、そのころの貴族の生活の實際のありさまであること、また上にもいつたやうに、物語そのものが、同じ時代までのシナの説話にくらぺると、すべての點において、はるかに進んだものであること、これらのことを考へると、シナの説話の影響がよし全く無いではなかつたと考へるにしても、それはとりたてていふほどのことではなかつたやうである。それよりも大せつなのは、物語に寫されてゐるやうな人のこゝろの微妙な動きに對するこまかな自省もしくは觀察と、その分析および批判とが、シナの説話には見えない、といふことである。(539)ところが、これは歌においてまづ現はれてゐるので、それが物語における心理敍述を導き出したものらしい。物語に歌のことばがきから發達した一面があるとすれば、かういふことがあつてもふしぎではない。
歌のこのやうな例は古今集の戀の歌にもすでにいくらか見えてゐるので、數は多くはないが、「わりなくもねてもさめでも戀ひらるゝ心をいづちやらば忘れん」とか、「かく戀ひんものとは我も思ひにき心のうらぞまさしかりける」とか、「心をぞわりなきものと思ひぬる見るものからや戀ひしかるべき」とか、または前章に引いた「つれなきを今は戀ひじと思へども心よわくも落つる涙か」とかいふやうなのが、それである。これはたゞあふをよろこび、あはぬをかこち、または人來ぬよはにまちわび、あかつきの別れを惜しむ、といふやうな單純の情思ではなく、人戀ふるわがこゝろをわれみづからみつめて、そこから生じた何等かのこゝろもちを詠じたものである。古今集の歌は、おしなべていふと、甚だしく智巧的であつて、そのために歌としては興味のうすいものが多いが、戀の歌においては、そのかたはらに、かういふものがある。さうしてそれが、古今集の時代から後にます/\多くなり、その自己觀察とそれに伴ふ自己批判とがます/\こまかになつてゆくのである。イヅミシキブ(和泉式部)の日記などのやうに、おのれみづからのことを三人稱で書き、自己を客觀化してゐるのも、一つは生活を遊戯と見る態度のあらはれとも考へられるが、一つはまた自己を自己みづから觀察するにつごうのよい地位においてゐるのでもあつて、その點から考へると、上に述べたやうな歌の作られたのと同じ心理から出たことである。戀愛生活におけるこのやうな心理は、兩性の交りについてのそのころの風習からおのづから生じたものであるが、それと共に、知識社會の教養が加はつて來て、思慮が深くなり、情緒がこまやかになつたために、發逢したのでもある。だから、物語に寫されてゐる戀にかういふ心理(540)がこま/”\と寫されてゐるのは、自然のことである。さうして戀の心理のこのやうな觀察と描寫とが行はれて來たとすれば、それはおのづから他の方面にも及ぼされるやうになつてゆくので、そこで、いろ/\の方面をもつてゐるそのころの貴族の生活を寫した物語の人物の心理の敍述または描寫が、あのやうにできてゐるのである。のみならず、物語といふものの作られるやうになつたそのことが、じぷんらの生活に對する反省または批判の精神を含んでゐるのであつて、現實の生活の觀察と描寫とは、かういふ精神の含まれてゐるところに意味があるのである。戀愛生活だけについて見ても、竹取物語のやうにそれを全面的に滑稽化し、伊勢物語のやうにやゝちがつた意義での滑稽味をつけ加へたものの、早く作られたことも、その一面には、かういふ精神の既にほのめいてゐることが認められよう。もつとも、その反省その批判から何が生れてきたか、それによつて現實の生活に新しい生面を開いてゆく新しい精神が形づくられて來たか、といふことになると、問題はまた別になる。
平安朝の物語がどうしてあのころに世にあらはれたかといふことについては、廣い一般文化史の上からの觀察をしなければならず、また物語そのものについては、あれだけの想像と構成との力がどうして養はれたか、といふことも考へねばならぬが、今はたゞ、シナにはそのてほんになるものが無かつたといふことと、それにつれて、心理描寫心理敍述の點についての戀の歌とのつながりとを、考へたのみである。唐の艶詩にも、平安朝の戀の歌のやうな心理の動きは詠ぜられてゐない。
(541) 二十五 生れた日と死んだ日
シナ人の傳記を讀むと、死んだ年月は記されてゐるばあひが少なくないが、生れた年月はほとんど書いてない。世間のならはしとしても、死んだ日は、それが父母であるばあひには、忌日として祭を行ふ日として、大せつな意味をもつてゐるが、生れた日は記念せられないのが普通である。その人の生きてゐる間は誕生日が忘られはしなかつたであらうが、その日をよき日として何等かの儀禮が行はれたかどうか。天長節の儀禮が皇帝について行はれたばあひもあるから、私人においてもそれがあつたかとも思はれるが、祭ほどに重んぜられなかつたことは明かであり、さうして、その人が死んだ後には誕生日を記念するといふことは全く無い。佛教が行はれてから、忌日に法會を行ふことになつたのは、一つは死んだものの冥福を祈るといふ思想があるからでもあらうが、一つはシナ人のむかしからのならはしに從つたものと考へられる。わが國でも、漢文に書かれた傳記には、シナ人ふうに生れた年月や日の書いてないものが多い。のみならず、系圖などでもやはり同じであつて、死んだ年月と日とのみが記されてゐた。しかし、世間のならはしとしては、生きてゐる間は、誕生日がその人のためによろこびの日とせられてゐた。たゞそれは家のうちだけのことであつて、社會的の意義はもつてゐなかつた。また死んだあとでその人を記念するためのしごとを誕生日においてする、といふならはしも無かつた。近年になつても、故人をしのぶために何ごとかがせられるには、多くは佛教による宗教上の法會の形において、もしくはそのばあひにおいて、忌日にそれが行はれるらしい。エド時代から(542)行はれてきた故人を祭つた神社の祭禮も、また忌日にするのが普通であつて、それは佛教の法會をまねたものだからであらう。明治時代に皇室で禮典を行はれる日として定められた祭日に、ジンム天皇や先代の天皇の忌辰があるのも、また同じ事情からである。もつとも、一般には、この意義での祭日とても、祭日とあれば何となく慶賀の日のやうな感じがせられるやうであるが、これは、人を神として祀つたのではない多くの神社の祭に遊樂の伴なふのが、世のならはしであるからのことでもあり、皇室で禮典を行はれる日としての祭日には、國家の慶賀の日である紀元節や天長節などと同じやうに、公の機關が休みになるからのことでもある。從つて、祭日の意義とこの感じとの間には一致しないところがあるが、さういふことは、實際においては、ほとんど注意せられてゐない。ふるくからのならはしに由來のある祭の日と、いまの世界の多くの國々のしきたりを學んだ國家の慶賀の日とが、混雜して、いはゆる祝祭日とせられたために、かういふことになつたのであらう。
ところが、ヨウロッパでは、忌日よりも誕生日のほうが重んぜられる。私のことではあるが、誕生日には知人などから贈りものなどをするのでもわかるやうに、それが家のうちだけのことではないことになつてゐるし、故人を記念するにも誕生日においてする。傳記に生れた年月と日とを明かに記すならはしであることは、いふまでもない。われ/\から見れば、このほうが意味のあることのやうである。「人」のことであるから、その人がこの世に生れた日を重く見るのが、あたりまへである。わが國で誕生日の記念せられるのも、そのためにちがひなく、それが自然の人情である。忌日を目じるしにするのは、シナ人の祖先崇拜のならはしと、それをとり入れた佛教の法會のしきたりとによつて、この自然の人情がまげられたものである。故人を記念するに死んだ日を用ゐることは、その人の事業をしの(543)ぷに當つて、事業の終つた日を撰ぶのだといふ理由がつけられるかもしれないが、その事業のせられたのもその人が生れて來たからのことであるから、いはば事業の始められた日として誕生日にするほうが、理由としてはまさつてゐる。單にその人を思ふといふだけのことからいつても、生れた日においてするほうが、沈んだこゝろもちの伴なふ死んだ日にするよりは、快い、ほがらかな、いき/\とした、きぶんが伴ふ。祖先なり故人なりを祭るについても、生れた日にしたほうが、よいのではないか。儒教の禮としての祖先の祭は、春秋の二季に、または四季に、行ふことになつてゐるのを見ると、その人に關係のある日を撰ぶにしても、死んだ日を取るには限るまい。もつとも、生きてゐたときのことを直接に知らない人の忌辰には、事實として死が聯想せられはしないが、そのかはり、その人を祭るのに忌辰をえらぶ必要も無いことにならう。宗教的意義における祖先または故人の祭は、現代人の生活と心理とには、ほとんどかゝはりの無いものであつて、家系によつて禄と地位との傳へられた武士の生活と、儒教思想に由來があつてそれが佛家によつてうけつがれ近代の神道によつてさらに學びとられた儀禮によつて表現せられた祖先崇拜のならはしと、宗教化せられた一種の英雄崇拜との、結びついたものに過ぎないのであるが、大なるしごとをした故人をしのぶといふことには、現代人にとつても深い意味がある。人の生活はすべて歴史的のものだからである。さうして歴史が生きた人のはたらきであるとすれば、それをしのぶにも誕生日においてするのが自然であらう。
(544) 二十六 生れた家、住んでゐた家、おくつきどころ
むかしの人をしのぶばしよとして、生れたところと、住んでゐたところと、おくつきどころとの、三つが、そのおもなものとして考へられよう。ヨウロッパではこの三つが三つながら記念のばしよとせられてゐるやうであり、第一と第二とでは、その家がいろ/\のしかたで保存せられてもゐる。しかし日本では、これまでのならはしとして、さういふことが無かつた。生れたところも考へられないではなく、うぶゆの水のあとなどの示されてゐるばあひもあるが、これはむしろ傳説的な興味が主になつてゐる。また第一第二のいづれにおいても、家屋はさして注意せられなかつたやうである。これには、木造であるために長く後に殘らないからといふ理由もあらうが、それよりもむしろ、記念としてそれを保存しようとする考が無かつたからであらう。このことからすぐに、日本人はむかしの人の生きてゐた時の生活のありさまにはこゝろがかりをもたなかつた、といふやうに見るわけにはゆかぬかもしれぬが、傳記などでも、一つ/\のきはだつたしごとが記されてゐるのみで、日常生活の敍述がほとんど無いといつてもよいほどであることを、考へあはせると、そこに何等かの思想上の理由があらうとは思はれる。それは、人といふものを、その人の世に殘した功績、むしろあとから得た名聲、の點からのみ見て、いかなる人であつたかを、特にその日常の生活について、知らうとも示さうともしない、といふことである。或る人の出た土地であることを郷里の誇とすることはあるが、それもやはり人を誇るよりも名聲を誇るのである。生れた家なり住んでゐた家なりを保存する考の無いのも、(545)このことと關係があるのではなからうか。家のうちにおける日常生活の如きは、問ふところではないのである。もしそれがみすぼらしい家であつたならば、それは誇にならぬとさへ考へられたかもしれぬ。しかしそれはともかくもとして、むかしの人をしのぶにも、その人にかゝはりのある具體的の何ものかが、そのむかしのさまをおもひ出させるだけの形で、目の前に殘つてゐるばあひに、その感じが強いので、これは、古戰場とかむかしの都城のあととかいふやうな土地においても、同じである。學問上の考證によつてはじめて古蹟であることがわかるとか、自然の山河がむかしのまゝであるとかいふのでは、古蹟としてむかしをしのぶには力が弱い。古蹟が古蹟と感ぜられるには、蔦かつらのはひまつはつてゐる殘壘があるとか、半ば土に埋もれながらこはれた市街の片すみが地に横たはつてゐるとか、さういふやうなことがなくてはならぬ。夏草の茂つてゐるだけでは、そこが「つはものどもが夢のあと」だと思ふよしも無い。むかしの人の生れた土地とても同じである。この村で生れたとかこの街にゐたとかいふだけでは、その人のおもかげは明かに目にうかばぬ。そこで、生れたり住んでゐたりした家の殘つてゐること、殘しておくことに、意味が生ずる。それがこれまでの日本人にはせられなかつたのである。近い世の人の住んでゐたところで偶然殘つてゐるばあひはあるが、保存しようとして保存せられたものは、ほとんど無いのではあるまいか。たゞ日本人は墓には心がかりをもつてゐた。
墓は屍體を埋めたところで、遠いむかしには、その屍體には邪靈がついてゐると考へられ、從つて墓は恐ろしいところと思はれてゐた。この考へかたは、多かれ少かれ、今日までもなほ傳へられてゐるので、墓地、特に多くの人の墓のある共同墓地には、一種の陰慘の氣が漂つてゐるやうに感ぜられてもゐる。さういふ墓地が、日常の生活のばし(546)よから離れてゐるところにあり、木立ちにおほはれたり寺院のうしろにあつたりしてゐるばあひが多く、全體にさびしい感じのあることがそれを助けもする。しかし、上代においても、シナの風習に由來があるらしい高塚式の大きな墳墓が、貴族や豪族によつて築かれるやうになると、さういふ墳墓に對しては、この恐怖感は起らなかつたであらう。それは、一つは、屍體がそのうちにあるといふことよりも、權力と富との象徴としてのその外觀が強く人の心を壓するからでもあるが、一つは、その墳墓が或る一人の墳墓であることによつて、その墳墓の主たるその人が思ひうかべられ、從つてそのうちにあるものは屍體であるよりも或る人の遺骸であり、何等かの意義での生きてゐた時のその人のおもかげがそれに宿つてゐるものとせられ、或は、一般の靈魂觀の發達のありさまによつては、そこにその人の靈魂が住まつてゐるやうにも思はれた、と考へられるが、それは必しも恐るべきものではなくして、却つて親しむべくなつかしむべく、または尊むべきものだからである。現に見る屍體は恐れられたであらうけれども、かういふ墳墓は、その屍體を蔽ひ去つて、却つて生きてゐた時のおもかげのみを、見る人に思ひ起させるのである。佛教が入つて來てからは、墓地は一般に人の無常觀を促すものとせられたが、或る一人の墓であるばあひには、その人の成佛が念ぜられ、それと共に、香花を供することによつて、禮拜の對象ともせられることになつた。墓に香花をたむけるのは、死んだものに供養して死後の冥福を助けるためのことであるらしいが、そのしかたが佛に對するのと同じであるために、そこからかうもなつたのであらう。墓の上に塔をたてることがあるが、その塔はもと佛の舍利を安置するためのものであることが、思ひあはせらるべきである。ところが、武士の世となつて、かれらが世禄によつて生活することになると共に、シナ人の風習に遠い由來のある佛家の儀禮にも助けられて、祖先崇拜の風が生じて來ると、個人的には、(547)または家々にとつては、祖先の遺骸の葬つてある墓地は、おのづから子孫の禮拜の對象とせられ、そこで上に記した佛教思想から來たならはしと結合することになつた。名を刻した墓石を立てるのは、家々の佛壇に位牌を設けるのと同じ意味のことであらう。今日の墓地に對する世間のならはしは、かういふ道すぢで成りたつて來たのではあるまいか。
さてこれだけの點では、墓地に記念の意味はほとんど無く、またそれに公共的性質も無いが、シナ人の神道碑にならつて、墓地に碑をたて傳記を刻する風習ができると、そこに記念の意味と公共的性質とが生じて來たやうでもある。しかし多くの人にはわからない漢文で書かれ、讀みにくいほどなこまかい文字で彫られた碑文は、實は記念のやくにもたゝず、公共的なはたらきもしないし、その内容をなす傳記は、シナの神道碑のと同じやうに、多くの誇張と虚僞とを含んでゐるのが常である。だからそれは、つまるところ、遺族の虚榮心のあらはれに過ぎないものである。日本人の考へかたには、何ごとにつけても家と名聲とがさきにたつので、世間に對して個人のありのまゝの生活を示すことが無い。シナ人においては、それが日本人よりもつとひどいが、これはかれらの社會における家族の地位と知識人の生活とに、そのもとがある。日本人においては、それはおもに武士の生活から來てゐよう。ヨウロッパの風習としても epitaph があり、さうしてそれにもまた、ほめすぎたことばなどが少なくないので、モウパッサンの作であつたかに、よな/\墓から亡き人が出て來て、おれはこんなえらいものではないといつて、せつせと epitaph を消してゐた、といふ話があつたやうにおもふ。しかしその表現のしかたに藝術的な詩的なもののあることが、日本の碑文とはかなりに違つてゐる(碑銘は形の上では詩的なものであるが)。のみならず、それが公共的意味をもつてゐるとこ(548)ろにも、また日本のとは大なる違ひがある。このことは、墓地に對するヨウロッパ人の考へかたが日本人のと違ひ、從つて墓地の結構が日本のと違ふことにも、關係があらうが、かの地の墓地を實際に見たことがないので、これについては、はつきりしたことをいふことができぬ。たゞ墓そのものに記念的の意味があるといふことだけは、いつておいて誤りが無からうかと思ふ。epitaph はいふまでもなく、彫像をおいたり藝術的装飾をしたりするのも、この意味のことであらう。ついでにいふ。シナの帝王の陵は現に存在する帝室の權力の表示であり、權力階級に屬するものの墓にもその家の地位を示す意味が含まれてゐるが、後世に至つて一般のならはしとなつた風水説による墓地の撰定も、死んだもののためのことではなくして生きてゐるものの福利のためである。祖先の墓に對する儀禮には祖先崇拜の意味がこもつてはゐようが、それと共に、その崇拜そのことにおのれらの幸福を求めるためであるといふ思想のあることが、考へられねばならぬ。シナ人には、墓を死んだものの記念とする考は、殆ど無いのではあるまいか。
むかしの人をしのぶといふのは、その人を人として見ることであり、記念するといふのも人として記念することである。佛として、または神として、禮拜するのは人をしのぶのでも記念するのでもない。神社をたて、むかしの人を神と七て視るといふ日本人の近代のならはしは、人をどこまでも人として見ることがほんとうに人を尊重する態度であるといふことを知らぬしかたである。死んでから神とせられ(神の名を與へられまたは神に對する儀禮をうけ)ても、生きてゐた時の人としての價値を高めることにはならず、はたらきを加へることにもならぬ。從つて道徳的にも宗教的にも意味の無いことである。このならはしは、もと/\死んでから佛になる(佛土に往生する)といふ佛家(淨土教)の思想から出た通俗的信仰を神道者がとつて、それをいひかへまたは作りかへたところから出たものであるが、それ(549)にしても、かういふことがさして怪まれずに世のならはしとなつたのは、日本人の人間觀と神觀との淺薄さを示すものといはねばならぬ。或る人の人としてのありのまゝの人物とその生活のありさまとを知らうとし後に傳へようとする考の少いといふことも、このことと關係があらう。
二十七 おのが死、おのが墓
サイギョウの「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもちづきのころ」といつたのが、ほとけの道を修行する出家の身としての切實なこゝろのねがひからであるのか、たゞしは詩人としての風懷が主になつてゐるのかは、問題であらう。それは、この歌の重點が「きさらぎのもちづきのころ」にあるのか、たゞしは「花の下」にあるのか、といふことともかゝはりがあるので、「きさらぎのもちづきのころ」をいはうとして花を思ひうかべたのか、春の「花の下」をいはうとして月日を示すことになつたのか、二とほりに解せられるからである。兩方に同じほどな重さをおいて、二つを結びつけたのだとも見られようが、どちらかに重點がかたよつてゐるのではないか、と思はれぬでもない。さうして、歌のしらべそのものと、みもすそ川の歌合せにこの歌を出してゐることと、またその歌合せでこの歌につがはせてあるのが、來む世をいひながら月の光が主になつてゐることと、これらの點から見ると、花の下で春の日に死にたいといふのが、この歌の中心思想であつて、そこに詩人としての風懷があらはれてゐるのではなからうか。
このやうなせんさくをするのは、おのれみづからの死を想像するに當つて、美しい風光をそれに伴なはせたこと、(550)もつと強くいふならば、わが身の死そのことを美しくながめようとしたことが、われ/\の興味をひくからである。花の下で死にたいといふのは、花を愛し花にあこがれ、身をも心をも花にさゝげ花にかたむけつくした、といつてもよいこの作者としては、極めて自然のことながら、「そのをりのよもぎがもとの枕にもかくこそ蟲のねにはむつれめ」といひ「死にてふさむこけのむしろを思ふよりかねてしらるゝいはかげのつゆ」といふやうなことをいつてゐるばあひもあるのを思ひあはせると、それとこれとは、はるかに違つた態度であることが知られる。修行者ではあるがそれと共に詩人であつたこの歌の作者としてのサイギョウにとつては、わが身の死が花によつて美化せられ、美化せられることによつて死を思ふ心ぼそさが消え去つたのであらう。もつともこの歌は、死を美しくながめようとして花を思ひ出したのではなく、花を愛するあまりに、その下で死にたいと思つたといふのであらうが、死といふ方から見ると、それが花によつて美化せられたことになるのである。花と共に、それと同じやうに月を愛し月にあこがれてゐたサイギョウは、秋の月のくまなき光のうちに死んでもよいのであらうし、それでもやはり死を美化することになるが、月でなくして花を撰んだのは、花のさいてゐる時に、むしろ美しく咲いてゐる花の下で、ふとわが身の死が思ひうかべられたからであらうか。「そのきさらぎの」といふいひかたには、かう解するにはふさはしからぬところがあるやうでもあるが、「その」は、遠いむかしのシャカのネハンの日をさしていふために用ゐたことばであらうから、さう見るにはおよぶまい。しかし、よし一首の中心點が、このネハンの日にあるのでないにしても、それを思ひ出し得るところに、月でなくして花を撰んだ一つの意味があるのでもあらう。そこに詩人であると共に修行者であつたサイギョウがあらはれてゐる。
(551) もちろん、花の下で死にたいとねがつても、そのとほりに死なれるものでないことは、サイギョウも知つてゐたであらうから、これは實現させようとする希望とはちがつて、そのときのありさまを思ひうかべてみるところに興趣のある、主觀的の情懷である。詩人の風懷といつたのは、そのためである。紫の雲が西の方から迎ひに來る、といふやうなことを思ひうかべるのも、死を美化することにはならうが、それはその實現を期待する信仰のあらはれであり、實現しなければ意味の無いことであるから、これとは性質が全くちがふ。詩人たるサイギョウはさういふことは多くいはなかつた。さて、このサイギョウの歌によつて思ひ出されるのは、ナラビガヲカに「無常所」を設け、そこに櫻を植ゑさせるとて、詠んだといふヨシダのケンコウの「契りおく花とならびの岡のへにあはれいくよの春をすぐさん」である。サイギョウの歌に誘はれて思ひついたのではないかとおしはかられるが、それはともかくもとして、これもまた墓を美化し、その墓に葬られた後のわが身を美化し、さうしてそのありさまを想像することに興趣をおぼえたからの作であらう。
しかしサイギョウのとはちがつて、これは實現させることのできる希望である。けれども、その墓その櫻がいつまでそのまゝにあるであらうか。よしまた花はいくよの後にも咲き、墓はとこしへに殘るとするにしても、わが身は土と化し塵と化する日が來るにちがひない。現につれ/”\草にも、シナの詩を思ひ浮かべて、さういふことをいつてゐる一章がある。のみならず、この歌のうへにも同じやうな氣分がほの見えてゐる。もしさうならば、このやうな想像に興趣をもつことが、どれだけの意味をもつてゐるであらうか。かう考へると、サイギョウのばあひとても同じである。美しい花のもとで死ぬことができるとするにしても、死んでゆくわが身は、もと/\無常のものであり、死んだ(552)わが身はもうわが身ではない、とすれば、死ぬに時をえらぶのも意味の無いことではあるまいか。或はまた、春のゆふべの花のふゞきが野邊のおくりのひつぎの上にふりそゝぐのは、おくりゆくものには、をりからの情景として、美しくもあはれにも見られるであらう。苔のむした古塚のかたはらに老木の櫻の咲きにほふのは、とむらふ人に何等かの感懷をおぼえさせもしよう。しかし、その人もまた世を去り、そのあともまた長く世に殘りはしない。さすれば、かやうなことをこゝろにゑがくことに何ほどの價値があるか。かうも思はれる。
墓をどこにきめておかうとか、どのやうな形の墓を造らせようとか、いふことを考へた人はむかしから少くはなからう。モトヲリ ノリナガがことこまかにそれをさしづしておいたことは、だれでも知つてゐようが、近いころでは「萩でらは萩おもしろし露の身のおくつきどころこゝに定めむ」といつた萩の舍主人オチアヒ ナホブミがある。道徳的意味から、また一種の人生觀なり世間觀なりから、墓を質素にせよとか、ぎようさんらしい碑をたてるなとか、いふことをいひのこした人もあるが、こゝにいふのはそれとはちがつて、おもに趣味の問題である。大きい墓を造らせたくないといふのも、見ようによつてはやはり一つの趣味であるが、それには、名聞を求めぬといふ點において、道徳的意味があり、またいつまでそれが殘るものでもない、といふやうな考もそれにはたらいてゐよう。かういふ考をおしつめていふと、墓などを造るにはおよばぬ、といふことにもならうが、一つは、なきからを處理する實際上の必要から、一つは、あとに生きてゐるもののこゝろやりのために、「おくつきどころ」を設け何等かのしるしをそこに建てるだけのことは、しなければならぬのである。
ところが、墓を設けるとすれば、どのやうなものが好ましいかといふことを、趣味の上から思ひまうけるのも、意(553)味の無いことではない。わが身の葬られる墓を造ることも、やはりじぶんのしごとの一つであり、生活の一つの姿である。のみならず、それにはまた、かすかながらに、またおぼろげながらに、墓のうちにおかれたじぶんが、なほ何等かのありかたでのじぶんとして、そこにゐるやうな感じが伴なつてゐるのでもあらう。じぶんのきに入つた安らかなおくつきどころをそこに求める、といふ考が、かくして生ずる。さうして、さういふ墓のありさまを思ひうかべてみることに、一つの興味がある。死期の近づいて來ることを知つてゐる老人に、かういふ興味があると見るのも、さまでむりなことではあるまい。墓ときめたところに櫻をうゑさせるといふのも、一つはかういふ心理からではあるまいか。このばあひ、いつかは墓が耕されて田となり畑となる時が來ようとか、幾千年の後に枯骨が發掘せられて考古學や人種學の材料にならうとか、いふやうなことは、問題ではない。むしろ、萬物の無常をよく知つてゐながら、わが身が常住のものででもあるかの如く思ふところに、人生の一つの意味があるともいはれようか。(シナ人には、わがなきがらの納められる棺を前ゝにから造つておいて、それを愛撫するならはしがあるときいてゐる。それがどういふ心理からであるかは知らぬが、こゝにいつてゐるのと同じではないやうなきがする。疾が篤くなるとその人を正寢に移すといふ、儒教の禮としても認められてゐるシナ人のならはしは、死のせまつてゐることを病人に知らせるやうなもので、われ/\には忍びがたいことであるが、さういふことの一般に行はれてゐるところに、死に對するシナ人の心理の解しがたい一つの例があることも、思ひあはされる。)(この儒教の禮は、或は既に死んでゐるのを、まだ生命のある如く裝つた儀禮であるかも知れぬ。その邊のことはわたくしにはわからぬ。)
かう考へると、花のもとで春の日に死にたいと思つて、その時のさまを想像してみる心理も、またおのづからわか(554)らう。さうして、それに何ほどかの意味があるとすれば、葬儀をどういふしかたにしてほしいと思ふことにも、また同じ意味のあることが認められよう。棺のなかから、その葬儀のさまを、ほゝゑんで見てでもゐるかのごとく、感ずるのである。生きてゐるうちに葬儀を行つたものずきが昔あつたといふが、それは今いふのとは全くちがつた考からではあるものの、そこに一すぢのつながりが無いでもない。葬儀にも墓を造ることにも、社會的意義があり、道徳的な考へかたもそこから生ずるのであるが、こゝではそれはいはないことにする。
二十八 葬儀
死について語り墓について語つたちなみに、今のならはしとしての葬儀についての考を書いておかう。近代における日本人の葬儀は、死んだもの、もしくはその靈、もしくは遺骸、を禮拜する、といふ形において行はれるのが普通である。佛教の儀禮では、死んだものを成佛させるため、または淨土に往生させるための、呪術的意義がその中心觀念となつてゐるらしく、僧徒の行ふことはそれであるが、遺族や知人においては、死んだものを成佛すべきものまたはしたものとして、佛に對すると同じ態度で、それを禮拜するのである。香をたき花をそなへ燈を點ずるのもそれであり、知人からのおくりものも香奠の名においてせられる。事實においては、死を穢れとしまたは死者を恐れるところに由來のある、遠いむかしから傳へられた呪術的意義のあるしわざも、それにまじつてゐるし、また遺族などの心情においては、死んだものに別れを告げるきぶんも含まれてゐようが、儀禮のおもな意義は上にいつたやうなところ(555)にあるらしく見える。いはゆる神道の儀禮は、佛教のをまねたところの多いものであつて、たゞ死んだものを神らしくとりあつかひ、神を祭る儀禮をそれにあてはめたところがちがふのみである。(神道の葬儀のうちに祓をすることがあるやうであるが、これは、葬儀そのことが穢れとせられてゐるむかしからの考へかたに矛盾した、奇怪なしわざである。死んだものが神になるといふ考へかたから、葬儀を神を祭る儀禮と同じに見たためであるらしいが、死んだものが神になるといふのは、佛家においてそれが佛になるとせられてゐるのを、まねたのであつて、エド時代の神道者からひろまつた思想である。)今日においては、一般には、かういふ儀禮の根本にあるべき既成宗教の教義による宗教的信仰が失はれてゐるから、たゞ儀禮の形が行はれるのみであるが、しかしその形だけを行ふことにいくらかの意味はある。死といふ人生の大事にあたつては、生死の界をきめる何等かの儀禮が要求せられるからである。從つてその儀禮は、儀禮であればよいのである。葬儀の通知などに「佛式による」とか「神式による」とかいふことばの用ゐられるのも、明かに意識せられたことではなからうが、一つはそこから來てゐよう。「式」を行ふことに意味があるために、かういふいひかたがせられた、と見るのである。
近ごろは、一般の知人に對しては「告別式」といふ名が用ゐられてゐるが、この名は宗教的意義を全くとり去つたものである。しかし、告別式といひながら、その實、禮拜をするのであるから、宗教的性質は無いことになつてゐながら、その形式は保たれてゐるのである。この告別式の禮拜は、それをひとり/\に行ふところに、特色があるが、いはゆる葬儀においても、禮拜はやはり會葬者のひとり/\がするのであつて、全體として共同的にするのではない。これは、一つは禮拜そのことの性質から、一つは何ごとについても多數のものが一致し共同して一つの動作をするこ(556)とが無かつた過去のならはしから、來てゐるしかたであらう。ところが告別式においてはそれをさらに徹底させ、會葬といふことをなくしてしまつたところに、その意義がある。告別式の行はれるやうになつたのは、忙がしい世の中であるために、簡便な方法をとらうとしたからであらうが、式としての性質はかういふことになる。なほ近ごろのならはしとして、式場に寫眞、おほくはいはゆる引きのばしをしたもの、を掲げることが行はれてゐるが、これは禮拜の對象としてなのか、告別の意味で故人のおもかげをしのぶためなのか、或はその二つをかねたのであるのか、はつきりしないが、寫眞といふものを儀禮のばあびにまで用ゐるところに、日本人の考へかたがあるらしい。禮拜の對象として形のある何ものかを求めるのは、佛像の禮拜になれて來た特殊の心理のあらはれであらうか。このことについては、むかしから肖像畫または木石などの像が禮拜の對象となつてゐたことが、思ひ出される。しかし寫眞といふものについていふと、この機械的な技術によつて作られた影像に人のすがたがほんとうに現はれてゐると思ふからのことではあるまいか。(一たいに日本人は寫眞といふものを重んじすぎるので、葬儀に寫眞を用ゐるのも、その一つの例として見られようが、その理由はこゝにあるのではあるまいか。縁談のばあひに寫眞を用ゐるといふやうなことは、結婚制度から來た一つの便法として行はれはじめたのでもあらうが、それと共にかういふところにも理由があらう。)花環を用ゐることもまた行はれてゐるが、これは花環のもとの意義においてのことではなく、花を供することの形をかへたものと解せられる。さうしてそれを數多く用ゐることには、葬儀を華やかにすることを望むのと、それに社交的意義をもたせることとの、二つの意味が含まれてゐる。
さて、かういふ葬儀もしくは告別式についてのわたくしの考であるが、何よりもまづ、宗教的心情が無くして宗教(557)的儀禮を行ふのは意味のないことである、といふことが考へられる。もつとも、僧徒や神職のともがらの葬儀にあづかるのは職業としてするのみのことであるにせよ、遺族などにおいては、その行ふ葬儀によつて一時的に或る程度の宗教的感情が促されるでもあらう。しかしその儀禮があまりにも形式的であるために、それすらも實は甚だおぼつかない。佛教の儀禮においては、その誦經なり、稱名なり唱題なり、または禅僧のいはゆる「引導」なりが、みなさうである。神道のそれにおいては、神饌を供へたり撤したりする手つゞきに長い時間がかゝるために、儀禮全體がだれて、參會者の氣分が散漫になることは、いふまでもない。(葬儀はもともと神を祭る意味のものではないから、かういふ儀禮を行ふことが、そも/\まちがひである。)多數のものがひとり/\思ひ/\に出たり入つたりする告別式といふしかたに至つては、宗教的な感情が伴なはないのみならず、人の死に對する嚴肅な氣分すらもない。既成宗教に對する信仰の篤いものは、それ/\の宗派的儀禮による葬儀を、ありきたりの方式で行ふもよからうが、それには遺族と親友とのみでしめやかにつゝましくすべきであり、世間的體面を示したり社交的意義をまじへたりするために、信仰の無いものを多く參會させることは、ひかへるがよい。またさういふ信仰の無いものは、宗教的な儀禮そのものを率直にやめるべきである。たゞ何等かの儀禮は必要であるから、宗教的色彩の無い新しい儀禮を、そのために、作るがよからう。さういふ儀禮では、死んだものを禮拜するといふ形式、特に儀禮にあづかるものがひとり/\に禮拜するしかたをすてることにならうが、そのかはり、おのれらと同じ人であり同じ生活をして來た故人を、生き殘つたものが共同して葬る意味においての葬儀とし、さうしてそれには、死んだものを悼むこゝろもち、死んだものに永久の別れをつげる氣分の、あらはれるやうにすべきである。たゞ問題は、どういふ形の儀禮を行ふかにあるので、それ(558)については、人によつていろ/\の考が生じようが、だれでもめい/\に、じぶんのよいと思つたことを行つたらよからう。そのうちで一般の現代人のこゝろもちにかなふものがあつたら、それが廣く世に行はれるやうになるかもしれぬ。しかしこのことについては、ヨウロッパ人の葬儀のしかたと精神とが、參考せられるであらう。ヨウロッパのキリスト教徒の間では、宗教的儀禮は行はれるが、死んだものを禮拜することは、そのキリスト教の教理上、しないはずである。たゞその靈に對しまたは遺骸に對して敬意を表するしかたのあることは、いふまでもない。さうして葬儀には、それにつらなるものが共同してその遺骸を葬る意味が含まれてゐる。たゞ日本の普通の教會で行はれてゐる新教の葬儀は、宗教的儀禮でありながら、あまりに事務的であり散文的であつて、讃美歌の合唱すらも、宗教的感情の藝術的表現らしくは感ぜられない。世間で今行はれてゐる佛教の葬儀にも、多かれ少かれ何ほどかの藝術的要素があつて、それは一般の法會の儀禮がそれにあてはめられたためでもあり、從つてその奏樂などには葬儀にはふさはしからぬ樂曲などの奏せられることすらあるが、葬儀そのものが死んだものに對しての呪術的意義をもつてゐることと相ひ應じて、この藝術的要素はその儀禮にあづかるものにいくらかの呪術的效果を生ずる。新しく定められる葬儀には、かういふやうな宗教的もしくは呪術的性質から離れて、上にいつたやうな追悼と告別との氣分を藝術的に表現する方法のとられることが望ましい。さうしてそれはおのづから、既成宗教の教儀にはかゝはりが無く、人のこゝろの底ふかくひそんでゐる宗教的感情を呼び起すことにもならう。既成宗教の宗教的儀禮から離れた儀禮に、却つて死といふ人生の大事に面しておのづからよび起される宗教的感情があらはれることに、なるのである。
あらゆる苦難と戰ひ年若くしてその生を碎かれたモツァルトの遺骸が、しめやかにふる雨の日をいくたりかの親し(559)き友にまもられながら、かたばかりの葬儀の行はれた寺から出て、貧民墓地のかたすみに送られてゆくありさま。同じく若くして世を去つたシェリの遺骸が、明るい七月の日の光の下に、かれの好んだ、さうしてそれに溺れた、イタリヤの海の波うちぎはで、葡萄酒や乳香をそゝがれながら、友の手で火葬せられてゐる光景。葬儀について語つてゐると、この二つがいつしかおもかげに見えて來る。さうしてまた時には、ショパンの葬送行進曲の旋律が、どこかからきこえて來るやうなきがする。
(560) 第五 續おもひだすまゝ
一 玉蟲
ムサシノ市といふ名のみこと/”\しき「市」の、このサカヒにこして來てから、もう四つきもたつた。來た時には、庭さきの木立のうちから櫻の花びらがひら/\散つてくるのを、その櫻が山櫻なので、特に興がつてゐたが、今はもう葉が色づきそめた。近所の畑には、麥がまだ穗ばらみもせず、ひばりがその上の大空に囀つてゐたが、今はをかぼの稻がそろつて穗を出しはじめた。こんな土地にこんなにもをかぼが作られるのかと、今までまるで知らなかつたことを始めて知つた。夏になつたらもしかと思つてゐたほとゝぎすもカッコウも聞かれなかつたが、春のまだ暮れはてなかつたころでも、鶯が一こゑもしなかつたのは、少しふしぎであつた。いつも啼くのは山ばと。それから、尾なが鳥といふのださうだが、樫や楓の木の枝から枝に飛び移りながら、あまり美しくない叫びごゑをきかせる鳥がある。しかし銀ねづみとでもいふべき色の尾を斷えず動かしてゐるその姿はわるくはない。うすい灰色の胸や翼も、よく見ると一種のつやがあつて、美しくさへ感ぜられる。
二十日ばかり前のある朝、庭の片すみの雜草の間に美しく光るもののあるのが目についた。ひろひ上げて見ると玉(561)蟲のやうである。子どものとき、母の鏡臺のひき出しの中に、きれいな色の羽のついた、こがね蟲(かなぶんぶん)を大きくしたやうな形の、蟲の乾いたのがあるのを見て、何かときいたら玉蟲だと教へられた。それから後にはそのことをまるで忘れてゐたし、同じやうなものを見たことも無かつた。ところがこゝに移つた時、ひきこしの荷物のなかに一昨年亡くなつた母の遺物の手ばこがあつたので、それをあけて見たら、思ひがけもなく、七十年あまりの前の見おぼえのある玉蟲が出て來た。裏の模樣は何であつたか忘れたが、フヂハラなにがしとしてあつたやうにも思ふ鏡師の名の鑄だしてある、丸い鏡をのせた漆ぬりの鏡臺が、目に浮かんだ。その鏡臺はどうしたか知らぬが、玉蟲だけは年とつた後までも持つてゐたと見える。今ひろつたのをそれと比べてみると、全く同じである。青みの勝つた濃い緑に赤く縁どつた紫色の筋がとほつてゐて、全體が黄金の光のやうなかゞやきをもつてゐるその美しさは、七十餘年の前か或はもつと前かのも今のも變りは無い。このあたりにはかういふものが多くゐるのであらうか。かなり前に玉蟲の厨子が日本で作られたものか半島から來たものかが問題となり、それにつれて朝鮮に玉蟲がゐるかゐないかが話のたねになつたことがあるかと思ふが、日本ではどこにでもゐるのであらうか。昆蟲の知識は何も無く、ちよつとしらべてみるやうな書物も持ちあはせてゐないので、それも知らぬ。たゞ自分だけは、子どもの時のことを思ひよせて興味があつたから、こゝに書いておく。
久しく地方の農村にゐて電車に乘ることを忘れてしまひ、たまに乘るとひどく疲れるので、恐ろしくなり、こゝに來てから「東京」へは、やつとの思ひで三四度出かけたばかり、近ごろはもう二た月も驛へいつたことが無い。凉しくなつたら、ほんとうのムサシノの名ごりをとゞめてゐるあたりをぶらついて、秋草の花でもながめたいと思ふ。名(562)にめでて「むらさきの一もと」でもさがしだしてみたいやうなきもするが、これは花がさいても秋ではないやうであるし、植物の知識ももたないので、おぼつかない話である。
二 庭は雜草の茂るにまかせて
ムサシ(ノ)市のサカヒの片すみの小さなこの家に住みついてから、もう七年になる。その間に、近いところの畠がつぶされ森がきりひらかれて、住宅や商店のそのあとにできたところが少なくないが、この家の内からは、まだもとのまゝの木だちの殘されてゐるのが見られ、狹い庭の内にはエド時代からあつたかと思はれる樫と杉とのかなりの大木が四五本立つてゐる。
庭といつても庭らしいところは何處にも無く、雜草の生ひ茂るにまかせたたゞの荒れ地であるが、夏になると、くさむらの間に鴨頭草のそら色の花が朝つゆにぬれてをり、蛇いちごの蔓が赤い實を點々とつけて地にはつてゐるのが見え、日かげのところには雪の下の白い花がむらがり咲いてゐるし、あちこちにあるどくだみの花の純白の色も美しい。それと對照的に、日あたりのよいところでは、うすくれなゐのかたばみの花が咲く。また秋には、薄むらさきのよめなの花や「赤のまんま」が目にたつ。自然生でないものとしては、前に住んでゐた人の植ゑておいてくれた山百合と幾いろかの小菊とがあるのみである。これだけでもそれ/\に風情はあるが、或る年ふと思ひたち、「げんげ」の種子を田舍から送つてもらつて、それをこの荒れ地の片すみに蒔き、たんぽゝと色の濃いすみれとをその間に植ゑ(563)てみたら、翌年からは春の野のおもかげがそこに見られることになつた。子どもの時に郷里の野や山で見つけた記憶のある筆草なども欲しく思つたが、人に頼んでわざ/\採りに行つてもらふのも氣の毒なきがして、それはやめた。どこにでもありさうな土筆も植ゑてみたいと思ひながら、これもそのまゝになつてゐる。そこでこんどは、甘草やひるがほなどの夏に花の咲く野の草、また女郎花の幾もと、すゝきの一むら、われもかう、りんだう、などの秋草を植ゑた。秋のものではないが、キタカルヰザハの山小屋のうらから鈴蘭も採つて來た。さういふものが欲しいなら山から掘つてきてあげようといつて、友人がもつて來てくれたものもある。春蘭、かたくり、いかり草、破れがさ、ひとり靜、虎の尾、むらさき虎の尾、ほとゝぎす、など、特にそのうちには、をだまき、がんぴ、ふしぐろせんのう、などのこのあたりに無いものがあつた。書きおとしたが、萩の花の色の美しい、しだれた枝のさきが地につくやうになる、のがあるが、これは同じ友人が自分の家の庭のを移し植ゑてくれたものである。ぬすぴと萩といふ、名は忌はしげであるが花は至つて可憐なものも、幾もとかあちこちに咲く。これはどこからか種子が飛んで來て生ひ立つたのであらう。かういふことを書いてみたのは、こゝに來てから四五年たつたうちに、多くはどこの山野にもあるものながら、雜草の間にまじつて季節季節の花の咲くのが、庭のうちのどこかで見られるやうになつたからである。秋草のうちに桔梗が無かつたので、これだけは町で買つて來て植ゑたが、いつも夏のうちに咲いてしまふ季節はづれのものであつた。どうしてかういふものを賣るのか知らぬが、舶來だねのものまたは温室栽培の花が、一般に翫賞せられるのと同じ要求があるからであらうか。
草花は一般の植物と同じく風土と季節とに深い關係があり、一輪の小さい花にもその花の色や香にも、それから生(564)ずる特殊の情趣があるから、風土にあはず季節をはづれたものには、その情趣が無い。さういふ花は花そのものとしては美しくても、日本の野山のおもかげ春秋の空氣を、それから感知することができないために、われ/\にとつては花の興趣の少くとも半ばが殺がれる。今日では廣く日本で愛翫せられてゐるカアネイションとかダリヤとかの如きも、その一二の例である。用ゐどころにより用ゐかたによつては、それにも勿論一種の美しさがあるが、たゞその用ゐどころ用ゐかたが、日本の春秋の花に對するのとは、同じでない。一くちにいふと、それは庭に生ひたゝせてその花の咲くを見るのではなく、きり花として、即ち風土からも季節からも離れた單なる花そのものとして、翫賞するのである。野山の花はいふまでもなく庭の面の花とても、その花の盛りに咲いてゐるのを看るのみではなく、時すぎてそれのうつろひゆく姿にも、捨てがたい思ひがせられるので、そこに風土と季節とのうちにおいて花を看る態度がある。日本人は花についてむかしからかういふ繊細な感じを養つて來た。特に秋草の花に至つては、この季節の澄み渡つた空とやゝ膚寒くさへ感ぜられる爽かな空氣のかすかな動きとから離れては、その興趣は覺りがたい。何の美しげも無い尾花の如きものの美しく見られるのも、この故である。花ではないが、山田のひたの鳴る聲、板屋うつしぐれの雨の音、のめでられたのも、同じやうにして養はれた日本人に獨得な感じである。秋の蟲のねを日本人の如く愛するものは、多分他のどの國民にもあるまいが、これもまた同じである。惜まれるのは、かういふ情趣が次第に感ぜられなくなつてゆくことである。花を單に花として翫賞するのも、これと相伴ふことではあるまいか。
庭ともいへぬ庭のことを書くのは自慢にもならぬが、その上に理窟にもならぬ理窟をつけ加へるに至つては、自分ながら興がさめる。たゞ結局は獨りよがりに墮することになるが、今の世の中にもかういふことを思ひついてかうい(565)ふ理窟をつけてゐるものがあることを、こゝに書いておくのである。ついでにいふが、この庭ならぬ庭のうちには庭木らしいものは何も無い。小さい錦木を友人が、くちなしを別の知人が、もつて來てくれた外には、これも小さな茶の木と花の少しもつかぬつゝじとが、一もとづゝあるのみである。今年の春から花の咲いたしどめは、草ぼけともいふさうであるが、これも木のなかまであらう。木でないことの明かな黒竹を、これも友人が三年ほど前にもつて來て、窓の下に植ゑてくれたが、毎年出る竹の子が成長して、今は一かどの竹むらになつてゐる。タチバナナンケイ(橘南谿)であつたかと思ふが、何かの隨筆のうちに、竹が好きなので一もと欲しいと年來思つてゐながら、まだそれを植ゑることができぬ、と書いてゐるのを見たことがあるやうなきがする。(うろおぼえであるからまちがつてゐるかも知れぬ。)何か特殊の竹を求めてゐたのかとも思ふが、さうではなくして、今の人のやうに、欲しいと思つたらすぐに買ひ求めるといふやうなことをせず、おのづから手に入る機會の來るのをゆつくり待つてゐた昔の人のゆかしい氣分が、それに現はれてゐるのではないか、と考へられる。朝ごとに窓に映る竹むらのかげをながめつゝ、こんなことを思ひ出すをりのしば/\あるのを、そのまゝこゝに書き添へる。
三 自然の風土と習慣
わたくしは今、昭和三十二年の正月元日の午前、この雜誌の二月號のために、何か書かうとして、机に向つたところである。正月元日といつても、文字どほりの意義で「筆硯を新たにする」わけでもなく、常と變つたことをするの(566)でもないが、しかし子どもの時から心ならひで、としとつた今になつても、なほ「今年は」と思ひ立つことが全く無くはない。年の改まると共に生活を新にし、いきごみを新にし、新しい出發點から今年の一歩をふみ出す、といふことは、生活が複雜になり、また何ごとについても同じやうに暦年でくぎりをつけることのできかねる今の世では、昔のとほりにはゆくまいが、それでも、かういふ氣分には大きな意味がある。
それにつけても、戰後のいつからであつたか、人の年齡を「數へ年」で數へる舊くからのしきたりを變へようとしたのは、愚かなことであつたと思ふ。正月に生れても年の碁に生れても同じ年齡だといふのは不合理だ、といふのかも知れぬが、それならば誕生日から次の誕生日までの一年間をいつでも一歳として數へるのも、同じく不合理である。年齡を問はれて「わたしは今日で何ケ年何ケ月何ケ日になる」といふやうなことを一々答へるものはあるまいからである。年齡の數へかたは「數へ年」でするにしても、正確に生れてからの年月の經過を示すことの必要なばあひには、生年月日を記す風習が明治時代から行はれてゐたから、今日でもさうすればよい。
また生れてから滿一年の誕生日までは年齡が無いことになるのも、をかしい。ヨウロッパ人がキリストの誕生の年からの百年間を一つのくぎりとして、その最初のを第一の百年間(第一世紀)と數へるならば、同じしかたで人の誕生日から滿一年の誕生日までの間を一歳として數へるべきであらう。それをしないのは單なる習慣に過ぎないので、この二つの數へかたの二つとも行はれてゐることには、何の合理的な根據も無い。しかしそんなことよりも大せつなのは、年と共に生活を新にするといふ氣分であつて、正月にとしを一つとるといふ數へかたの意味はそこにある。のみならず、正月で年をとるといふことが世間一般の風習であるとすれば、だれもが同じ日にさうなるところに、民俗と(567)してのこの數へかたの精神がある。生活の合理化もことがらによつては必要であるが、すべてを合理化するのでは人間的情味が無くなる。「數へ年」をやめることがよし假に合理的であるとするにしても、それにはかゝる危險が伴ふ。「數へ年」の數へかたが現に廢れてゐないのは、日本人がこの情味を失ひたくないからであらう。今日にもわたくしに「年齡は幾つか」と聞く人があるならば、明治六年十月三日に生れたわたくしは「今朝から八十五になつた」と、大いばりにいばつてそれに答へるであらう。
年齡のかぞへかたを變へたのは、アメリカ人ヨウロッパ人の風習のまねをしようとしたためであらうが、むかしいろ/\のことについてシナ人のまねをしようとしたのも、これと同じである。例へば春夏秋冬のくぎりのつけかたがそれである。日本で立春といひ立秋といつてゐるのは、まだ寒いさ中を立春とし暑いさ中を立秋とすることになる。これはシナの黄河流域の季節のわけかたをまねたのであつて、それが今もなほ暦の上で用ゐられてゐる。日本の四季のくぎりは北部シナよりはほゞ一と月くらゐおくれてゐるのに、そのことを考へずしてシナの暦にそのまゝ從つてゐる。勿論、日本は東北から西南に長くつらなつてゐる列島であるために、實際の氣候はまち/\であるが、今日時刻を一定するために標準時といふものを定めてある如く、四季のくぎりもほゞ一定しておくことが便利である。だからむかし、日本の首府であつたナラとかキョウトとかいふところの四季のくぎりを標準にするならば、それは北部シナのよりはずつとおくれてゐるはずである。ところが今日でもそのことにきをつけてゐる人は甚だ少い。さうして立春や立秋が實際の季節とは一と月ほど違つてゐる暦を、平氣で用ゐてゐる。これはその一例であるが、同じやうなことはいろ/\の方面にある。
(568) それからまた、季節の移り變りは、日本では北部シナのやうに急激に行はれるのとは違つて、木でも草でも、徐々にまたこまかに、そのとき/”\の風物の上にあらはれる。日本の歌や物語にそれについての繊細な觀察や敍述が見えてゐることは、いふまでもない。この點ではシナの文學に比べて大いなる違ひがあつて、そこに日本文學の特色がある。ところが今日の日本の都會に生活するものは、殆ど四季の移り變りを感じないくらゐになつてゐる。例へば草花などでも、温室栽培が盛に行はれるために、春のものが冬のはじめにもう市に出てゐる。都會人の草花の觀賞は自然の氣候と風物とから全く離れてゐる。しかしそれでは花のほんとうの情味を感ずることはできない。温室育ちの花は造花と同じ性質のものといつてもよいほどのものである。それがために日本人の昔からの花に對する氣分はすつかり打ちやぶられてゐる。これはヨウロッパ人やアメリカ人の人工的文明が日本にはいりこんで來たためであらう。今日の殺風景の機械文明に一味のうるほひを添へるには、かういふ花の翫賞も必要ではあらうが、自然の氣侯と風物とから離れてゐる花をたゞ花として翫賞するのは、われ/\には異樣な感じがせられる。
花の翫賞ばかりではない。今の日本人の生活が全體に自然の季節から浮き上つてゐる。例へば寒い時節における暖房設備の如きがそれであつて、今東京で行はれてゐるものはあまりにも温度が高すぎる。これは氣候の寒い北ヨウロッパに行はれてゐるのをそのまゝ日本でまねてゐるからであらう。日本の標準地方の寒さは北ヨウロッパとはひどく違つてゐる。東北地方や北海道のやうなところは別として、一般には今行はれてゐるやうな暖房設備をする必要があるかどうかすら、問題ではなからうか。病院とかその他の特殊のところにはかういふ設備が必要であらうが、どこもかしこもこのやうな設備をしなければならないであらうか。するにしてももつと温度を下げるほうがよいのではない(569)か。防寒の衣服とても同樣で、若い學生などが東京で冬を過ごすに今のやうに襟卷などを用ゐなければならないのか。食物についても今は魚類の「シュン」といふものが殆ど無くなつてゐるやうであるが、いつでも同じものが食べられるならば、食生活の情味は殆ど無くならう。鑵詰を盛に用ゐるのもその例である。これは主として營養の要求から起つたことかと思はれるけれども、鑵詰の魚では日本人の魚味に對する繊細な感じを無くしてしまふ。このことは農産物のほうにもあるので季節かまはずいろ/\の蔬菜が作られる。着物にしても日本服では單物とか袷とか綿入とか季節に應じた服装をすることになつてゐたが洋服ではそれができない。それがために服装と四季との關係が無くなり、着物が季節から浮き上つてしまつた。それから別の方面のことであるが、近ごろ一般に行はれてゐるカレンダアは、大ざつばにいふと七曜しか書いてないのが多い。これは勤め人か學生かだけの役に立つものと思はれる。われ/\の生活にもつと必要なのは、彼岸とか八十八夜とか、桃や櫻の咲くころとか、菊の咲くときとか、または毎月の新月滿月とか、汐のさし引きとか、牽牛織女の星の見える時とかいふ、季節に關する記事である。さういふ記事があれば、桃の咲かない時に雛まつりをしたり、天の川の見えない時に七夕の行事をしたりするやうなことは、起らないだらう。今のやうなカレンダアをあてにしてゐるのでは、昔からして來たことが何のためにするのかわからなくなる。興味のある風習は守つてゆきたいのであらうが、今のカレンダアではかういふことになる。これも機械文明合理主義文明のおかげであらう。正月の雜誌の原稿を十一月ころに書いて正月に書いたやうに見せかけねばならぬことにも、これと同じ意味が含まれてゐる。
しかしかうはいつても、何事でも昔からのしきたりを變へないほうがよいといふのではない。新しい生活をするに(570)は、例へば衣食住にしても新しい方式が必要になつて來るのは、いふまでもない。けれども習慣といふものの多くは自然の風土からいつの間にか養はれて來るものであつて、それに背けば日常の生活が不愉快になる。例へば日本の夏は甚だ蒸し暑い。この蒸し暑い風土に生活するには住居を風通しのよいやうにすることが必要である。それで日本の家は南北に風が吹き拔けるやうに建てなければならぬ。だから昔でも日本の住宅の建築法をシナ風に變へようとはしなかつた。ところが最近の建築家の設計した住宅を見ると、こんなに風通しのわるい住宅でどうして夏が過せるかと思はれるやうなのが少なくない。いはゆるアパアト式の部屋の構造はことにさうである。終戰後間もなく、公にせられたアメリカの何とかいふ人が、日本人は風呂にはいることを趣味として享樂してゐると、批難するやうな口氣で書いてゐるのを見たやうなきがするが、これは風呂の必要な蒸し暑い日本の夏の生活をしたことが無いからのことであらうと思ふ。夏になるとワイシャツ一枚で天下を横行するものの多いのも、風土に適しない着物をきるからである。新しい生活をするにしても日本の風土を無視したのでは、心持ちのよい生活はできない。正月の儀式の如きも、近頃はだん/\粗略になつて來て、若い人ばかりの家では殆どそれを行はないのがあるやうに見えるが、これもまた正月といふものの儀式に現はれてゐる日本の風土の特色を尊重しないことを、示すものであらう。門松を立てることの批難せられるのもその一つである。もつとも昔からの正月氣分は立春を年の始めの標準とする暦にも大きな關係があるので、今の太陽暦の一月にはふさはしからぬ點も多く、陽暦の月日で昔の五節句の儀式を行ふのと似たところがある。それについてはいろ/\考ふべきことがあらうが、それはまたの機會にゆづることにする。
(571) 四 僕のしごと部屋
ぼくのやうな生活をしてゐるものには、ほかのことに煩はされず、ひとりだけ靜かにしてゐられるしごと部屋のあることが望ましい。明治の末年にカウヂマチに小さな家を建てた時、そのために四疊半の廣さの洋間まがひの部屋を造つた。ぼくのこれまでのしごとの大部分はそこでしたのである。さきほどの終戰の少し前に東北の田舍に立ちのいて、或る家の八疊の離れ座敷を借りうけ、そこで寢おきもし、食事もし、來客にも接し、片すみに机をおいてしごともし、五年近くもそんな風にして暮らした。さうして、しごと部屋が無くてもしごとができないにも限らぬと思つた。その後このムサシノ市の町はづれに家を求めて引越して來たが、田舍にゐた時のやうな部屋の使ひかたでは、しごとのできないことがわかつた。しかし、しごと部屋に用ゐてもよいやうな室が無いので、しかたがなく、それを新しく作り添へた。
部屋は中二階の高さになつてゐて、六疊の廣さである。腰かけてしごとをするために敷きものだけは絨毯まがひのを用ゐ、壁面の下部に「はゞき」をつけ、建具にもガラス戸を使つたが、その他はすべて日本風にした。ところが、狹い部屋に柱が多くて、やゝぎごちない感じがするので、窓に絹地の輕いカアテンをかけてそれを和げることにした。窓の外には、かなりの老木のまじつてゐる木立ちがつゞいてゐて、世間からぼくの生活を隔離してくれるのはよいが、時期によつてはそのために部屋の薄ぐらくなることがあり、またどうかすると荒涼たる思ひのせられるばあひもある(572)ので、カアテンを淡いトキ色のにして、いくらかの明るさとほんの僅かの艶やかさとを求めることにした。からだにいさゝかの故障があつて外へ出ることを殆どしないぼくは、この部屋をぼくの「おうち」にして、しごとはしてもしなくても、そのなかにひつこんでゐる。
部屋のなかにはやゝ大型の書架が二つ並べてある。少しばかり持つてゐる書物は、ありふれた、平凡な、ものばかりであるが、カウヂマチの家が戰災にあはなかつたので、無事に殘つてゐるのは、しあはせである。それが階下においてあるので、その時々のしごとに用のあるものを取りかへては持つて來て、この書架に移すのである。しごとのためには、勿論、不足であるが、いろ/\心配をして必要なものが見られるやうに助力してくれる友人のおかげで、或る程度まにあつてゐるのも、嬉しい。何十年も前にぬき書きをしておいた手控へをあけてみて、その中から思ひの外に役に立つ材料が見つかることも、稀にはある。かういふやうなことで曲りなりにも少しづつしごとを進めてゆくのが、今のぼくの日常の生活である。
疲れて來たり、考がうまくまとまらなかつたり、筆が思ふやうに運ばなかつたりすると、窓ごしにぼんやり外をながめる。それに厭くと、壁にかけてある畫の上に目を移す。三枚は水彩畫、一枚は油畫で、何れも小品であるが、ぼくの好きなものであるから、毎日見てゐても厭きが來ない。壁ぎはの小卓の上においてある一輪ざしの花の色の目に入る時もある。さうかうしてゐるうちに、ふと思ひつくことがあつて、筆をとり上げてみると、どうにかかうにかそれが動いてゆく、といふやうなこともある。こんなことをくりかへしてぼくのしごと部屋の一日一日が過ぎ去るのである。過ぎ去つたあとにどんなものが殘されるかは知らず、かうして日々のしごとをしてゆくところに、日々さきの(573)短くなつてゆくぼくの生命がある。
五 山小屋の床の間
今ぼくは、キタカルヰザハ(北輕井澤)の大學村といはれてゐる夏期の住宅地の片すみの小さな山小屋にゐる。この村の開かれてまもないころから三十年近くも、戰後の數年を除いては、毎年こゝに來て夏をすごすことにしてゐる。キタカルヰザハといふのは、避暑地として知られてゐるカルヰザハの名をとつて、かつてにつけた名であるが、村の人たちがもとからのカルヰザハを「下のカルヰザハ」と呼んで、こゝがカルヰザハの本場ででもあるかの如くいひなしてゐるのは、興がある。名といふものはかういふものであらう。その後ミナミ(南)カルヰザハといふ名のところもでき、最近には信越線のクツカケ(沓掛)驛もナカ(中)カルヰザハと改稱せられたので、もとからのカルヰザハが、キタカルヰザハに對しては、本場の權威をとりもどした觀がある。たゞクツカケがニシカルヰザハとせられなかつたのは、何故か知らぬ。もしその「中」が北のと南のとの中間にあるといふ意義であるならば、もとからのカルヰザハには、やはり所々のカルヰザハの中心としての權威が無いことにならう。愚にもつかぬことを考へたやうであるが、これに似たことは世の中にいろ/\あつて、そこからさま/”\の混雜が生ずる。大げさにいふと、これは名と實との關係の問題でもあり、古いことばでいふと大義名分に關することでもある。その他、自由といふこと、人權といふこと、男女同權、民主主義、社會主義、平和、闘爭、進歩、保守、すべて名のあるところには、みなこの混亂がある。
(574) 筆に任せて書いて來たが、こんなことをいふつもりではなかつた。それよりも、このキタカルヰザハが戰前までは、いくらか不便な點はあつたが、またそれだけに、物靜かな、おちついた、ところであつて、平素の生活の煩雜さから逃避するには、恰好の場所であつたのに、今は觀光地とかになつて、都會地の氣ちがひじみた風習をこゝにもちこみ、俗惡な空氣をこゝに吐き出し吐きちらす闖入者が多くなつた、といふことをいつたほうがよかつたかも知れぬ。しかし幸に、ぼくの小屋は村のはづれの林の中にあつて、前面の狹い谷間から遠く望まれる幾重の山の峯の姿と、それを隱したり現はしたりする白雲の動きとを見、小川の水の流れの音と木の間飛びかふ鳥の聲とを聞くのみであるから、外へ出ない限りは、それに惱まされないですむ。かういふことをいふと、昔のシナの詩人や文士の口まねみたやうな感じがして、それはぼくの大嫌ひなことであるが、今の日本は、不幸にも、その大嫌ひなことをいはなければならないやうな世の中になつてゐる。が、これもまたぼくのいはうとしたことではない。ぼくはもつとほかのことを考へて、この筆をとりはじめたのである。
この山小屋は、一年のうちでせい/”\五六十日の間の假りずまゐのためのであつて、わづかに膝を容れるばかりの用をなす、名まへどほりの小屋である。實は東京のすまゐとても、やはり同樣であつて、住宅といひ得られるやうな住宅ではないが、この小屋はそれよりも粗末なものである。ところが、この小屋の四疊半のぼくの部屋にも、幅三尺の床の間らしいものがついてゐる。いはうとしたのは、この床の間のことである。これは何の用をもなさぬ贅物であつて、近ごろの「合理的」な生活のために設計せられた家には、それの無いのが多いさうである。こんな小屋にかういふもののあるのは、いふまでもなく、むだでもあり「不合理」でもある。ところがぼくは、舊慣によつてかたばか(575)りのそれを設け、俗習に從つてそこに何かの幅をかけておく、今かけてあるのは「水從屋後山中下、風自窓前竹裏生、果腹便々午眠穩、渾身涼已夢初灰、」といふ七絶のであつて、「夏日山居、來誤作生、」と書き添へてあり、「要齋」といふ落款がある。要齋(ヨウサイ)といふのは、幕末から明治の初年にかけて、ナゴヤの薄學の明倫堂の督學であつたホソノ チュウチン(細野忠陳)のことであり、ミヤケ ショウサイ(三宅尚齋)の學統に屬するヤマザキ派の學者である。詩にはこの派の人の作らしいかたくるしさが少しも無く、書風も極めてすなほである。ぼくはこれを、子どもの時の小學校の校長であり八年の間その教をうけたモリ コウサイ(森好齋)先生から頂いて持つてゐるのである。モリ先生は師範學校を出てぼくの郷里の小學校に來任せられたが、もとはヨウサイの門人であられたと聞いてゐる。ぼくがこの一幅を尊重しそれに深い愛着をもつてゐるのは、筆者の學者としての學派にもその詩にも、さしたる關係が無く、モリ先生から頂いたものだといふことが、その重なる理由なのである。(この幅については十餘年前にイハナミ書店の「圖書」に書いたことがある。)
そこで床の間のことにかへるが、同じ幅でも床の間にかけてあるのと、さうでない壁面にかけてあるのとでは、見るものの感じが違ふ。或は態度が違ふといつたほうがよいかも知れぬ。床にかけてある幅を立つたまゝで見るものは無からうが、普通の壁面にあるのは、その前をとほる時に、ふと歩みを止めてながめることもあり得る。幅そのものよりも床の間といふ特殊の場所に一種の權威があるからであらうか。が、それはまた、さういふ權威のある場所にかけるのとさうでないのとの間に、幅の所持者なり家の主人なりのその幅に對する心情に違ひがあるからでもある。床の間に幅をかけるのは、書なり畫なりを單に一個の藝術品として鑑賞するのみではない、と考へられる。
(576) かういつて來ると、おのづから子どもの時のことが思ひ出される。ぼくの家の床の間には定紋つきの具足櫃のおいてあるのが、何よりも先づ目についた。その中に具足は入つてゐなかつたが、そのことを書くのはこゝに用が無いから、やめにして、たゞ、地位は低く禄は少かつたけれども、ともかくも武士であつたぼくの家の床の間には、具足があるべきものとせられてゐたであらう、といふことだけをいつておく。武士の身分とその職務とが無くなつてから幾年かの後、すむ家も農村に移つてゐたぼくの少年時でも、かういふ風習と氣分とは殘つてゐたらしい。もつともこれは、後になつてからぼくがかつてにさう思つただけのことであつて、事實はさうではなく、中身の無い具足櫃のおきばが無くて、床の間に借ずまひをさせてあつたのかも知れぬ。もしさうならば、それはそれでよいとして、床の間は家の生活を象徴する一種神聖のところであり、或る意味においては家の中心でもあつたことが、ほかのことからも知られるやうである。床の間の由來なり、その構造や用ゐかたの變遷なりは、別の話として、後世の普通の家の床の間の性質とその家における地位とは、かういふものであつたやうに思はれる。
それについて一つの例を擧げるならば、正月のお供へのことである。お供への餅の一ばん大きなものは、床の間の中央におかれ、それが「家内」に供へるものとせられてゐたやうに、ぼんやり記憶するが、もしそれがまちがひでないならば、これは、家族の全體、または家族生活、を神格化したものではなからうか。床の間には松に鶴の幅がかけてあるのみで、餅を供へる有形の對象は何も無かつた。この點では床の間は、神棚よりももつと神聖な、供へられるものと供へるものとが一體になつてゐる神のゐる場所、であつたやうである。かういふ風習が廣く世間に行はれてゐたものであるかどうかは知らぬが、ぼくの家でさうしてゐたのは、少くともどの地方かどの身分のものかの風習であ(577)つたからであらう。
次にもう一つは、誕生日の儀禮である。誕生日には赤飯を「さんばう」にのせて、うぶの神(生むことまたは生まれることの神)さまに供へることになつてゐたが、それを床の間におくのであつた。その「さんばう」には赤飯の傍に、平素は大事に保存してある小さな石ころ一つを取出して、載せておく例になつてゐた。この石ころは、生れた時に屋しきのうちのどこかから取つて來たものださうであるが、それはその人の一生を通じてその生命を象徴するものの如く、それと共にまた何等かの呪術的意義をもつてゐるものとして、取扱はれてゐたと考へられる。この風習もまた廣く行はれてゐたものであるかどうか知らぬが、少くとも、數代の前からぼくの家の屋しきのあつたナゴヤ地方の武士の間には、それがあつたのであらう。誕生日には定紋のついた「祝ひ膳」を用ゐて、いはゆる「本膳」の「ごちそう」をするのが例であつたが、これもまた同樣であらう。
ついでにいふ。世間には、誕生日を祝ふことは日本の風習には無かつた、といふ説があるさうであるが、この説は眞僞が疑はしい。普通に徳川實記と總稱せられてゐるトクガハ家の將軍の歴代の實記にも、毎年の將軍の誕辰には、諸官に酒餅を賜はるといふ記事がある。幕末に外國奉行の地位にもゐたことのあるヤマグチ センショ(山口泉處)が幕府の年中行事を詠じた詩にも、御誕辰の一首があつて、諸大名諸官司が參賀して酒饗を賜はり、それが終つた後に能の御覽があつて、老中若年寄が陪觀する、とその序に書いてある。ミカハ時代からの風習に本づいたのか、それともムロマチ幕府の慣例にでもよつたのか、それはまだよく調べてみないが、これだけは事實行はれたことである。さうしてそれはたゞトクガハ家または將軍家のみのことではあるまい。石ころを誕生日の儀禮に用ゐるといふやうなこ(578)とも、古くからの民間の風習の傳へられたものと考へられる。民俗學の方面で、さういふことのしらべができてゐるのではあるまいか。
いふことは横みちにそれてばかりゐたが、本すぢにたちもどると、むだでもあり合理的でもない床の間のやうなものが、日本人の生活する日本人の家にとつては、かならずしも不合理でもむだでもない、といふのがぼくの考である。さうしてこの考は、無用にも用があり不合理なことにも合理的な精神がつゝまれてゐるので、そこに人の生活の人らしさ生活らしさがある、或は無用をそのまゝ有用ならしめ不合理をそのまゝ合理的ならしめるところに、人の生活がある、といふ一般論をそれから展開させ得るものだと思ふ。あらゆるむだを無くしようとする生活は、かならず新たなるむだをつくり、すべてを合理的にしようとする生活は、かならずそれみづからのうちから不合理なことを生み出す、とまでいつてもよからう。
山小屋の床の間の話からこんなことが思ひ出されて來たのであるが、勿論、家についても、床の間をぜひ設けよといふのではなく、床の間があつても、そこにかならず幅をかけよといふのでもない。たゞ日常の生活には用の無いところ實用的でない場所が、何かの形でどこかにあつてもよい、或はあるほうがよい、といふのである。そこが何かの意味で家の生活の中心ともなり、その生活の精神の宿るところともなるならば、一層よからうと思ふ。家の生活は、子どもの時からの人の生活の修練の場所であり、成長して世に立つやうになつてからの社會人としての生活、國民としての生活、の精神は、そこで養はれるのみならず、家の生活そのものが、横には血族關係によつて維がれてゐる小社會であると共に、縱には遙遠の過去から無限の未來までを血統によつて貫く悠久の存在であつて、そこから家の生(579)活の一員である個人の、同胞に對し夫妻に對し祖先に對し子孫に對する道徳的責務と、その責務を負うてゐる個人としての尊さとが、生ずる。家の生活を輕視しまたは無視せんとするが如きは、個人のこの尊さと責務とを知らざるものであらう。さうしてそれを知ることは、主として家の生活における幼時からの修練によつて養はれるのである。家の生活の精神の宿るところとしての何等かの設備の家のうちにあるのが望ましい、といふのも、このためである。幼時に人の心情を動かすものは、自己自身の直接の體驗であり、具體的の何等かの事物だからである。
かういふことの考へられるのは、ぼく自身の幼時の追懷に伴つてのことである。ぼくは士族の家に生まれたけれども、武士風の教育は少しも受けなかつた。ぼくの記憶に遺つてゐるころには、家の生活にも武士の家らしい空氣は無くなつてゐたやうである。たゞ何かの特殊のばあひとか特殊のことがらとかに、むかしのおもかげが幾らか殘つてゐたのみである。こゝに書いたこともその一つである。しかしぼくは、それを追懷して一種の郷愁をおぼえるのみならず、ぼくの思惟と知識とは、それに少からぬ意味があり價値があることを認めさせる。ぼくの心情にもし何等かのむかしの生活の遺韻が傳へられてゐるならば、それは儒者の教でもなく、神道者や國學者の説でもなく、佛教ではなほさらなく、むかしの人の生活氣分そのものなのである。
六 食もつの味はひ
幾日か前のこと、食膳にわさびが使つてあるので、舌の上にのせてみると、辛さはひどく強いが、わさびらしい風(580)味が無い。聞けば粉にしてあるもので作つたのだといふ。これに似たものはいろ/\あるので、ほうじ茶といふものもその一つである。ばん茶が好きなので毎日飲んでゐるが、ほうじ茶ではばん茶の風味が出ないから、それは用ゐない。こし味噌といふものも久しい前から味噌屋で賣つてゐるが、味噂汁は味噂をそのときどきに摺鉢ですつて作つたのでなくては、うまみが無い。また近ごろは地方の農家でも、手うちの麺類を使ふことが少くなつて機械ごしらへのものが多く用ゐられるやうになつたさうであるが、これについても同じことがいはれよう。臺どころの手數が省かれるのは結構なことであり望ましいことでもあるが、ものの味ひをそぐのでは、食事ごしらへをするかひが無いのではあるまいか。これはたゞ味覺だけのことではなく、食事といふことの興趣にかゝはることなのである。或は何ごとかをするばあひに幾らかの心づかひと勞力とを惜むか惜まないかのきがまへの問題でもある。むだな心づかひや骨をりはしないほうがよいが、少しの工夫と手かずとをかけることによつて人の生活をこゝろよくすることができるならば、それは決してむだなことではなく、食事ごしらへをするものの樂みもそこにある。或は榮養價があるならば味のよしあしはどうでもよいではないか、といふやうなことがいはれるかも知れぬが、さういふ味もそつけも無い考へかたで人は生活することができるかどうか。近ごろ生活の合理化といふことばがはやるが、合理化は結構であり必要でもあるけれども、合理化だけでは、或は合理化のしかたによつては、人間味が薄れはしないだらうか。こゝにいつたことは合理化といふよりも簡便化といふべきであらうが、それも合理化の一つの方法のやうにいはれてゐるから、かういふことが思ひ出されたのである。食べものばかりのことではない。
(581) 七 刀劍
わたしの生れたのは下級武士の家であつたが、生れた時はもう武士の世ではなくなつてゐた明治の六年であり、農村に移住し農家の問に立ちまじつてもゐたので、武士の生活らしい空氣は家の内にも殆ど無かつたであらう。子どもの時でも、武士風のしつけなどはうけなかつたやうに思ふ。中の間の長押には鑓と薙刀とがかけてあつたし、刀箪笥には幾ふりかの刀があつて、父が年に一度その手入れをしてゐた。一口の短刀がわたしのものとしてやはり刀箪笥にしまつてあつたが、それは袴着の時か生れた時かに母の實家から贈られたものださうである。武士の世ではなくなつても、かういふばあひにかういふ贈りものをする習慣はまだ守られてゐたと見え、儀禮の用にしかならないかゝる短刀も、どこかで作りどこかで賣つてゐたのであらう。勿論粗末なものではあるが、大せつに保存してあつた。
わたしが刀のことなどをいふのは、をかしいやうであるが、刀が大じなものであるといふことだけは、子どもの時から何となしに知つてゐた。しかしそれをさしてみたいとは、一度も思つたことが無かつた。たゞ自分には、縁どほいものであるけれども、親しみのあるものではあつた。家を離れて東京に遊學するやうになつてからは、書物によつて昔の武士のはたらきを想像するか、博物館か遊就館かに陳列してあるものを見るか、する外には、刀を思ひ出すをりが全く無かつた。ところが父が亡くなつてからは、手入れをしないで十餘年の間、刀箪笥に入れたまゝになつてゐたので、もとの家に住んでゐた母を歸省した或る時、オサフネのとセキのと、大小にこしらへてあつた父の遺愛の二(582)ふりを試みにぬいてみたら、どちらであつたか、かすかに錆らしいものの出かけてゐるところのあるのが、目についた。それでそれを二ふりとも東京にもつて來てとぎ師にとがせ、それからは毎年秋風のたつころになると、おぼつかない手つきで、砥の粉をうつて、奉書紙でふいて、油をひくことだけはしておいた。子どもの時にいつも父のするのを見てはゐたが、自分が手にしたことは無かつたので、はじめには刀の好きであつた岳父にそのしかたを教へてもらつたのである。ところがそのうちに、その岳父も亡くなり、わたしも何時からとなくそのしごとを怠けるやうになつて、後には二三年に一度ぐらゐぬいてみて、錆の出てゐないのに安心したことをおぼえてゐる。それから後、いはゆる大東亞戰爭の時代に入つてからは、筐底深く藏して、ぬいてみることもしなかつた。
以上は武士時代の刀についての話である。明治以後になつてから軍隊で用ゐられる新しい武器としての刀劍は、わたしには何のかゝはりも無かつた。わたしは軍人になりたいと思つたことは、子どもの時にも全く無く、徴兵檢査のをりにも兵役免除の部に入つたのを、あたりまへのことであるかのやうに、無關心でゐたらしい。しかしよそから見た軍人の姿には、好きといふほどでもないが、きにいつたところがいくらかはあつた。さうしてそれには、刀だか劍だか知らぬが、將校らがさういふものを腰に吊り下げてゐることが、わたしの心をひいた、といふ事情もあつたらしい。彼等の個人としての姿勢の正しいこと、彼等の指揮の下に行進する軍隊の規律が整つてゐるやうに見えることも、見る目に好感を與へた。日清戰爭や日露戰爭の行はれたころになると、心ある上級軍人の間にはなほ失はれずに持ち傳へられてゐたやうに考へられる武士的精神を、讃美せずにはゐられなかつた。さうしてそれに伴つて、日本刀のおもかげがおのづから目に浮かぶのでもあつた。
(583) けれどもわたしの趣味からいふと、鈍い「そり」のある日本刀よりは、直線に近い劍のほうが好ましかつた。實用としても人を斬るのは現代の軍人のすることではあるまいから、せつぱつまつたばあひにも突くことのできる劍をもつてゐればよからうと思はれた。軍人でないわたしには、劍には輕快な、或は俊爽な、感じがするが、「そり」のある日本刀は見たところ鈍重であり、特に鞘に入つてゐるばあひにさうである。最近の戰爭時代に陸軍の將校などの間に、武士の差料のをまねたやうなこしらへの刀を、腰につるすことが流行したらしいが、重さうで、無かつこうで、見にくいと思つた。エド時代の武士が戰國以來の風習として大小を腰にさしてゐた姿も、わたしは好まない。たゞ戰場で人を斬らねばならぬ武士としては、しかたのないことであつたらうと思はれるのみである。刀のめぬきに黄金を用ゐたものがあつたが、さういふ裝飾も美しいとは思へなかつた。古い戰記ものがたりに「こがねづくりの太刀を佩き」といふことがあるが、それも同樣であらう。ナラ朝のころには「白かねのめぬきの太刀をとり佩きて」といふことばもあつた。シナにも銀裝刀といはれたものがあつたやうであるが、それがどんなものであつたかは、知らぬ。要するにけば/\しい裝飾は刀には不似合であり、目だたないやうなのは装飾のかひが無い。ところがわたしは、劍といふものを一度腰に吊してみたい誘惑を感じたことがとき/”\ある。そこにかすかながらわたしが武士の家に生れたことの名殘を認めようとしたのであらうか。わたしは曾て正月のよそほひとして、上つ枝には鏡を、中つ枝には劍を、さうして下づ枝には青にぎて白にぎてを、かけた榊の木を、木立のしげみを背景にした庭のどこかの清らかなところに立ててみようと思つたことがある。「元日や神代のことも思はるゝ」。これはわたしの空想にうかぶ昔ばなしの神代のおもかげをそこに見ようとしたのでもある。しかしかういふことは、たゞ心に思ひ浮かべただけにしておくほうが却(584)つて興趣があるかも知れぬ。神代はもとよりのこと、武士の名さへも遠い昔のことと今は消え去つてしまつたからである。(わたしはクリスマスの樹といふものは嫌ひである。)これはわたし自身のことであるが、今の自衛隊のものが平素丸腰でゐるのはきにかゝる。今の世では戰爭のばあひでも劍の用は殆ど無からうが、しかし軍人としてはやはり劍を身につけてゐてもらひたい。それは軍人精神の象徴だからである。自衛隊もやはり軍隊であるから、それを立派な軍隊にしあげねばならぬ。
こゝまで書いて來ると、いはゆる大東亞戰爭の時の軍人、特に海軍や航空隊の青年將校、などに對する文字どほりの「必死」の訓練が思ひ出される。彼等の出征は「生還を期せぬ」といふやうな手ぬるい話ではなかつた。初めから死ぬために出かけて行つたので、あとからあとからそれがつゞいたのである。さうしてそれは、一人でも多く死ぬことが國民の責任と信ぜられたからである。人をして古武士の精神を思はしめるその崇高な心情は、言語を絶し、思慮を絶し、神を絶し世を絶して、何ものをも殘さぬ。戰が終つた後の流行語の如く、もう戰爭は御免だといふやうな、輕浮な「平和」希求の聲は、日本人の口から出すべきものではない。これは何よりも肉體を愛護し生命を尊重するヨウロッパ風アメリカ風の人生觀に魅惑せられたものであらう。勿論、平和はいつの世にも欲求せらるべきであるが、兵備といへばすぐに戰爭を想起するのは、平和を維持するために兵備の必要であることを解せざるものである。兵備が戰爭を誘發するばあひも無いではなからうが、平和を阻止するものは無防備の状態であることも、また明かな事實である。
(585) 八 ハンガリ事件につれて愛國詩人ペトフィを想ふ
ハンガリに起つた最近の事件は、十年も續いて來たソ聯の強壓に堪へかねたハンガリ人が民族の獨立と自由とを求めてたち上つたものであること、並にそれに對して取つたソ聯の行動が殘虐の限りをつくしたものであることは、事件の經過として一般に知れわたつてゐることを見ただけでも、明かである。ソ聯のかゝる行動は、ソ聯がこれまでハンガリを如何に取扱つてゐたかを、さうしてハンガリ人のたち上がつたのが當然であることを、あまねく世界に知らせたものである。のみならず、ハンガリ人にとつては、これは一時的の憤怒などから出たものではなく、長い過去の歴史によつて養はれて來た民族精神の強烈な發現であることが、少しくこの民族の歴史を知つてゐるものには容易に感知せられる。さもなければ、ハンガリ人が、市民も學生も農民も勞働者も、一再に起ち、正規兵さへもそれに加はつて、侵入して來たソ聯軍に抗敵し、少年少女までがほとんど空拳をふるつて、ソ聯の機銃にも戰車にもたち向ひ、兄の死を見てその妹があとにつゞいたといひ、戰死を期して別れを告げに來た愛子に對してその母が、日本の古武士の出陣のさまを想ひ起させるやうな態度で、ソ聯車に向つて卑怯なふるまひをするなと激勵したといひ、その他これに類する目撃譚の多く傳へられてゐるはずが無い。ハンガリ人のすべては、死を以て民族の自由と獨立とをソ聯から奪回しようとしたのである。
(586) ドナウ河とチサ河との流域であるハンガリの土地に、東方からマジャル民族が移つて來てその國家を形成したのは、一千余年の昔である。その後、一方では漸次西ヨウロッパの文化を受け入れてその民族生活を高めて來たが、他方では斷えず四隣の異民族や諸國家と種々の葛藤を生じ、特に從來の王系が絶えてからは、王室の地位が不安定であると共に、他國の王室とのつながりが密接であつて、そこから國内にも國外に對しても多くの紛亂が生じた。しかしハンガリ人は、かゝる紛亂の間にたつことによつて、却つておのづからその國民的精神を養ひ、またおのれらが周圍の諸國民とは違つた特異の民族であることの自覺を強め、十五世紀のころにはこの方面における有力な國家となつて、その文化も他に對して恥ぢざるものとなつた。ところが十六世紀の前半に、侵入して來たトルコ軍と戰つて大敗したためにこの敵國の重壓の下にハンガリはその獨立と統一と自由とを失つた。けれどもこの敗戰は却つて上記の如き特異な民族的感情をもつてゐたハンガリ人をして、更に強烈な愛國心を懷かせることになつたので、文學史家の説によればこれから後のハンガリの文學はそのすべてが愛國の熱情によつて貫かれてゐるといふ。この世紀の後半の詩人バラッサが、みづから身を戰陣に投じトルコ軍と戰つてその生命を失つたのでも、そのことは知られる。十七世紀の末になつて、アウストリヤの力によつてトルコが驅逐せられると、それから後はまた全土がアウストリヤの抑壓下におかれたので、ハンガリ人はそのアウストリヤに反抗しなければならなくなり、武力的行動によつてそれを試みたが、失敗に終つた。アウストリヤとの關係は周圍の情勢につれて時に幾らかの變化はあつたが、概していふとこの状態は同じであり、十九世紀に入り、ナポレオン戰爭の後の反動期には、ハンガリの受ける抑壓は特に甚しくなつた。しかしハンガリ人の心情は、現状に對してはほとんど絶望的な暗い氣分に蔽はれてゐながら、未來に對する明るい希望をば(587)決して失はず、この二つが當時の文學にからみあつて表現せられてゐる、と文學史家はいふ。
一八四八年にフランスの二月革命を機として起りコスウトによつて指導せられた反抗運動は、ハンガリの獨立及び自由の獲得と新しい民主政治の實現との要求となつて現はれたのであるが、アウストリヤの取つた抑壓政策に對しては武力的行動に出ることが必要であつた。齡まだ若かつた詩人ペトフィが「たて。マジャル。たつて汝等に加へられた鐵鎖を斷ちきれ。祖國は、今、汝等にまつ。今こそは奴隷に甘んずるか自由を得るか、二つに一つを撰ぶべき時なれ。時は再び來らじ、天に坐すマジャルの神。請ふ。明鑒を垂れよ。」と、書きおろしたばかりの詩を公衆の前に朗吟し、みづからも筆を投じて劍をとり、アウストリヤの要請によつて來侵したロシヤ軍の鋒さきに倒れたのも、この時のことである。バラッサの先蹤に從つたといふべきであらう。或は彼のこの壯烈な戰死は、われ/\をしてドイツの愛國詩人ケルネルが、一八一三年のナポレオンの侵入に際して祖國の防衛軍に身を投じ、新作の詩篇娶劍行を陣營の裡に吟唱して、數時間もたゝぬまに戰死したことを、想ひ出させる。また或は、死ぬべきところは戰陣であるとも歌つてゐるペトフィのこの時の心境は、疊の上では死なぬといつてゐた日本の古武士のと同じであつたともいへよう。ペトフィの愛國詩人と稱せられたのは、かゝる意義においてのみのことではなく、光榮あるマジャル民族の祖先の偉業を歌ひ、ハンガリの民衆生活を歌ひ、ハンガリの風土の自然の美しさを歌つた、その幾多の詩篇にもよるのであるが、しば/\他國の武力的侵略をうけまた優勢な武力をもつてゐる他國から國民の生活に重壓を加へられ、國家の獨立と自由とを奪はれて來たハンガリ人にとつては、死を以てその他國軍に抗敢することが、愛國的行爲の最も重要な(588)ものとして讃美せられたのは、當然である。ペトフィはこの意味においてハンガリ人の愛國の情熱の象徴であるといつてよい。その銅像が首府に建てられ、その名が種々の方法によつて後世に傳へられてゐるのも、そのためである。その像を仰ぎ見その名を聞くハンガリ人をして齊しく感奮せしめたことは、いふまでもない。今度のハンガリ人の決起したのが歴史的に養はれた民族精神國民精神の發現であることは、これによつても理解せられよう。
勿論、今日の國際關係にもハンガリの國民生活にも、昔とは違つたところがある。從つて今日のハンガリ人の心情にも、單純に過去のとの類比によつて推斷することのできない點があらう。また昔からのハンガリ人の行動とても、それを全體の上から見れば、必しも讃美すべきことのみではなかつた。けれども、ハンガリがしば/\他國に侵略せられまたは抑壓せられてその國はほとんど亡びその民も絶滅に瀕しながら、年を經た後にはいつも復活して來たこの民族の強靭さには、むしろ驚嘆すべきものがあり、さうしてそれは絶望と希望とのふしぎにはたらきあつてゐるこの民族の心情の詩的表現、また死を決して強大な敵軍にたち向つた民衆の愛國的行動、によつて明らかに知られてゐる。今日のハンガリの形勢がどうなつてゆくかは、輕々しく豫想しがたいが、ハンガリ人のソ聯に對する強烈な抗敵は、一時はよしソ聯によつて壓服せられることがあらうとも、決してむだにはならないことが考へられる。希望が未來に輝いてゐることは、ソ聯とその從屬の國とを除く世界のすべての人類がハンガリ人に深い同情をよせてゐることによつても信ぜられねばならぬ。
ハンガリの知識人は日本人を同一人種に屬するものとして、特殊の親近感を抱いてゐる。この人種説は學問的には(589)容易に承認しがたいが、それにもかゝはらず、この親近感は現實には一種の力をもつてゐる。こゝに述べたことはそれとは何の關係も無いが、日本人はこの親近感には酬いるところがあつてよいのではないかと思ふ。ペトフィの詩の幾篇かが日本に來ていた一ハンガリ人によつて日本語に譯せられ昭和十一年に出版せられてゐるのも、この親近感の現はれである(譯詩は拙いが)。なほ明治の十年代に公にせられた小説「佳人の奇遇」に作者がコスウトとその女子とを登場させてゐることも、思ひ出される。
九 梵鐘のひゞき
わたしは佛教もキリスト教も好まない。インド教もイスラム教も同樣である。それらは何れも日本の風土、日本人の生活氣分、のうちから發生すべきものではない、と思ふ。遠い昔に日本の風土、日本人の生活氣分、によつて發生した宗教的信仰とその表現としての神社及びそこで行はれる祭儀などとには、今日でもわれ/\に親しいもの、われ/\の心情を動かすことの深いものがあるが、佛教の教理やその儀禮や儒學の思想などを附會したいはゆる「神道」は、それとは全く違ふ。かういふ「神道」は、わたしには何の感興も無く、むしろ厭はしくさへ思はれる。佛教においては、その寺院が清らかなまたは幽遠な森林の裡におかれ、さうしてその建築の樣式が日本の殿舍を摸したものであるばあひに、佛教の日本化または神社化がそこに認められ、その點でわれ/\の興趣をひくところがあるが、安置せられてゐる佛像や、法會の儀禮や僧徒の服裝や行動やには、よしそのうちに藝術的價値のあるものが含まれてゐる(590)にせよ、それらの釀し出す全體の空氣は、わたしには親しみ難いものが多い。キリスト教の藝術とても同樣であつて、カトリックの教派における十字架上のキリシトの像の如きは、わたしには、きみのわるい、不快の、感を與へるのみである。それに表現せられてゐる贖罪の思想とても、わたしにとつては非理の甚しきものである。佛者の試みた種々の形而上學的思索には、興味のあるものが少なくないが、それは宗教としての佛教そのものではない。キリスト教の神學思想とても同樣である。キリスト教がその教徒たるヨウロッパ人やアメリカ人の、彼等に特殊なところのある、道徳を支える力となつてゐることは、承認せられるが、道徳の本質はどこまでも「人」にあるので、それはもと/\特殊の宗教または宗派的信仰と結びつけらるべきものではないと、わたしは信じてゐる。
しかし、わたしが佛教に關係のあるもので一つ好きなのは梵鐘、特に入りあひのかね、の音である。無論それは、音の高低により、空氣の温度や濕度や、その他のいろ/\の條件にょつて、受ける感じの違ふものではあるが、概していふと、そののどかな音、おほやうなひゞき、春の日の暮れなんとして暮れやらぬゆうべの空の色と相應じて、消えなんとしていつまでも消えやらず、次第にかすかに次第に薄れてゆくその「うなり」、世の中にこれほど大きな音を出しながらこれほど靜かにひゞくものが、他にあらうか。わたしは子どもの時に、川を隔てた隣り村の寺でつく鐘の音を春のゆふぐれにきいたことを、今でも思ひ出す。遠い昔のよその國の祇園精舍のは知らず、日本の田舍の寺の入あひの鐘には決して諸行無常の悲しげなひゞきはなかつた。寺から離れ佛教から離れて、無限の大空に、靜かに、ゆるやかに、さうして遠く、遠く、廣がつてゆくこの鐘の音のなつかしさよ。東京に出て來てスルガダイのニコライの鐘樓のうち出す甲高い、人の耳にぶつつかるやうに強い、さうしてまたどこかに花やかな趣をも帶びた、鐘の聲を(591)きいて、快い感じがしなかつたことを今でも思ひ出す。
十 「朝ぎよめすな」
三四日まへのことである。朝起きて見ると、夜はのあらしのしわざであらう、櫻の花の花びらの庭一面に散りしいてゐるのが、美しかつた。傍に立つてゐた妻が雪のふつたやうだといつた。かういふありさまをかう形容するのは、古歌にも例の多いことであつて、わたしにもそれが思ひ出されはしたが、この時にふと口ずさまれたのは、拾遺集にも倭漢朗詠集にも取つてある「殿もりの伴のみやつこ心あらばこの春ばかり朝ぎよめすな」といふのであつた。主殿寮の殿部もこの落英を掃きすてないやうにして欲しい、といふのである。平安朝人の趣味と心情とがよくそれに現はれてゐるが、わたしがこの一首を思ひうかべたことには、もう一つ別の意味があつた。それは平安朝の日本の皇居の情趣がそれによつて聯想せられることである。
日本の京は、ナラのでも平安京のでも、概していふと唐のをまねたところの多いものであるが、すべてがさうではなく、いろ/\の點でそれとは違つてゐる。何よりも先づ、日本のには唐のの如く堅固な、強い力で人を壓し人を威嚇するやうな、城郭の無いことに、きがつく。易姓革命の國で、武力を以て帝城に迫るものがしば/\現はれ、異民族の國内に侵入することもたび/\であり、または時々草賊の起るシナにおいては、あのやうな防禦設備をしなくてはならず、この點では地方的政權の所在地または人口の多い衆落が、それく周圍に城郭を築いて嚴重な防衛をして(592)ゐるのと、同じであつたし、それにはまた、民衆に對し、異國人に對して、帝王なり官府なりまたは聚落の首長なりの威嚴を示す必要があつたからでもあらうが、我が國にはさういふことがすべて無かつたのである。平安の京には垣牆がめぐらされてゐるし、大内裏にも、またそのうちの内裏と呼ばれてゐる皇居にも、同じやうな設備のあるところがあるが、それは唐の王城の城郭とは全く性質の違ふものであつて、武力的防禦の用をなすものではなく、むしろ外部に對する一種の境界を示すに過ぎなかつたやうである。或は所々の出入口であり、建築物としてはそれによつてこの境界線の單調を破ることになる幾多の門と相俟つて、建築上の美觀を構成するものでもあつたらう。その門とても事あるばあひに防禦のやくにたつほどではなかつたに違ひない。孝明天皇の御製として知られてゐる「矛とりて守れ宮人九重のみ階の櫻風さわぐなり」が、僞作の綸旨や御製がいろ/\世間に流布してゐた幕末の時代のこととしては、眞の御製かどうか疑はしくはないか、御製としては歌風の點にも問題があるやうに思はれるが、こゝに御垣とも御門ともいはずして、すぐに御階といはれ、衛士といはずして宮人といつてあるのが、注意をひく。武器の名としてわざ/\矛をとり擧げてあるのも、ふさはしからぬ感じがする。歌のことばとしての用意がそこにあらうかと思はれもするが、どうであらうか。御階の櫻が武夫のよろひの袖にちりかゝるのを面かげに浮かべるのは、美しい光景の想像でもあらうが、銃丸が殿舍の間に飛びこむことをおもふのは、あまりにも殺風景である。昔の保元平治の時代にのみあつたことの今さら囘顧せられるには、縁が甚だ遠く、さりとてそのころの長州人や浪士の徒が、いかに兇暴の行をしなれてゐたとはいへ、あのやうにして宮闕を犯さうとはさすがに豫想せられもしなかつたであらう。當時において、かういふ御製があつたといふのは不思議ではあるまいか。
(593) 日本の京の、間接には皇居の、防衛として、地方に通ずる大道の所々に關防が設けであつたが、それもまた實用に供せられたことは一度も無い。京に最も近いところのものとても、「逢坂の關しまさしきものならばあかず別るゝ君をとゞめよ」と都びとの京から出てゆくのをさへぎりとめる役をつとめ、「淡路島かよふ千鳥のなく聲に幾夜ねぎめぬ須磨の關守」といはれて、關守の夜半の眠を破るものは千鳥の聲のみとせられたではないか。「ふるまゝに跡たえぬれば鈴鹿山雪こそ關の戸ざしなりけれ」。ふる雪に關守の任を託すればそれで事は足りる。「人すまぬ不破の關屋の板びさし荒れにし後はたゞ秋の風」、不破の關はもはや廢墟となつてゐるではないか。「都をばかすみと共にたちしかど秋風ぞふく白川の關」、「ふく風をなこその關とおもへども道もせに散る山櫻かな」、秋風のふくにつけて都の遠ざかつて來たことを思はせ、花散らす風を防ぎもあへぬ關のかひなさを感ぜさせるのみであつて、蝦夷に對する防衛などは全く忘れはててゐるのを見るがよい。關防のみではなく「春日野の飛火の野守いでて見よ今いくかありて若菜つみてむ」、烽燧の設けも都人の若菜つむしをりとなるばかりであつた。京畿のいかに太平であつたかは、これでも知られよう。シナではさうでなかつた。邊境ではしば/\外寇が迫つて來る。内地でもをり/\叛亂が起る。塞上の戍卒は?笛の聲胡笳の響に斷えず夢を破られ、詩人は興亡盛衰の迹に對して常に感慨の涙を注ぐ。シナ人の詩はすべてが悲哀の情に充ちてゐるではないか。「一將功成萬骨枯」、かういふことをいつた詩人があるが、戰争は將帥のことであつて、民はたゞ徴發せられて見知らぬ境で驅使せられるのみであり、帝王は滅びても民衆はそれには見向きもせず、「興亡の事」は民の關するところでない、といはれてゐるではないか。「殿もりのつかさ」に「伴のみやつこ」はゐても、そのつとめは日々の「朝ぎよめ」であり、春の夜のあらしに吹き散つた櫻の花びらを掃ききよめることである、(594)とせられたのとは、如何にその光景が違ふかを想ひ見るがよい(後醍醐天皇の「日中行事」參照)。
十一 春の夜の夢
「春の夜の夢」といふことばは、新古今などにはしば/\見えてゐるが、よく人に知られてゐる和泉式部の「枕だに知らねばいはじ見しまゝに君語るなよ春の夜の夢」は、比較的早い時期のものであらうか。新古今にはまた「明くといへばしづ心なき春の夜の夢とや君を夜のみは見む」といふのもあり、「春の夜の夢にあひつと見えつれば思ひ絶えにし人ぞ待たるゝ」、「春の夜の夢のしるしはつらくとも見しばかりだにあらば頼まむ」、などといふのもあつて、これらは何れも何人かまたは何ごとかを夢に見るといふのである。しかし「春の夜の夢」を人に語るなといふのは、夢そのもののことであつて、「春の夜」の語によつてその夢のゆかしくなつかしくまた美しい情趣を髣髴させるところに、この語の特殊の用ゐかたがある。それは勿論一夜のあふせをいつたものには違ひないが、それを「夢」といひなしたところにその現實性を重んじないことが暗示せられてゐる。だから「春の夜の夢」は、實は、現實に見た夢または見る夢のことではなくして、作者の空想に思ひうかべられた或る特殊の情趣なのであり、「春の夜」の一語によつてそれが象徴せられてゐる。「かぜかよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」の「春の夜の夢」は、これとは違ふ別の情趣であるが、現實性の無いことは、それと同じである。「ねざめの袖」には花の色がおもかげに見えるのでなくして、花の香がそこにかをるのである。「春の夜の夢」に最もふさはしいものは、ねざめの袖にほのかに通ふ花(595)の香ではあるまいか。或はまた思ふ。「春の夜の夢の浮橋とだえして峯に別るゝ横雲の空」には、浮橋の一語を加へることによつて、「春の夜の夢」が一種の譬諭めいたものになつてゐるが、なほ春の夜の情趣を失はぬやうに見える。(「夢の浮橋」の歌は、詞章の上では第三句までが序詞となつてゐて一首の主想は「峯に別るゝ横雲の空」にあるやうであるが、この序詞は、春の夜の夢の覺めながら見しおもかげのなほ殘つてゐる風情を思はせる點からいふと、「風吹かば峯に別れむ雲をだにありしなごりのかたみとも見よ」を想ひ出させるので、夢の浮橋のとだえが却つて一首の主想となり、「峯に別るゝ横雲の空」は却つてその象徴となつてゐる。しかし「春の夜の夢」と「夢の浮橋」とが詞章の上ではそれ/\別の一語をなしてゐるのか、さうではなくして春の夜の夢がそのまゝ浮橋をわたす夢なのか、「夢の」の語を二重に用ゐてゐるために曖昧である。こゝに譬喩めいたものといつて、象徴といはなかつたのは、そのためである。「思ひねの夢の浮橋とだえして覺むる枕に消ゆる面影」、「絶えはつる心のうちを恨みてもなほたどらるゝ夢の浮橋」、夢の淨橋に「春の夜」を想起してゐないこれらの例を參考すべきである。)
春の夜の夢に何ごとかを見、たれかを見るといふ歌の例は上にも擧げたが、「今朝はしも歎きもすらむいたづらに春の夜一夜夢をだに見で」、または「かくばかりねで明かしつる春の夜にいかに見えつる夢にかあるらむ」と、その反對をいつたものもある。夢も結ばぬ春の一夜を何ごとに語り明かし、見ぬ夜の夢を如何に見たのであらうか。「つらかりし多くの年は忘られて一夜の夢をあはれとぞ見し」に至つては、その一夜の夢の如何ばかりあはれの深いものであつたことか(この夢は「春の夜の」であるかどうかわからぬが)。これらの夢は、和泉式部の歌の「見しまゝに君語るなよ」の夢とほゞ同じ意義のものであるやうに解せられる。「これもまたかりそめぶしのさゝまくら一夜の夢の契(596)りばかりに」といふやうなのもあるが、あはれと思つた一夜の夢はそれとは違ふであらう。春の夜の特色は明け易いこと、從つて夢見る人にはしづ心なき思ひがせられるであらうこと、であつて、浮橋のとだえがちであるのも主としてそのためであらうし、「夢のうちも移らふ花に風ふけばしづ心なき春のうたゝね」ともいはれてゐるが、しかし「春の夜の夢ばかりなるたまくら」には、名を惜しむ現實感の伴ふばあひも、またあり得る。「春の夜」の感じ「夢」の感じは人さま/”\であるが、「見し夜に似たる有明の月」、「その夜の月のあけがたの空」、またはそれらと似た幾多の光景が、特に人の感興をひくのも、またそれがためである。平安朝人の「春の夜の夢」はかういふものであつた、と考へられる。
(597) あとがき
わたくしは、かねてから日本の固有名詞はカナもじで書くがよいといふ考をもつてゐたので、かなり前からそれを實行してゐるが、なぜさう考へるかといふことを、これまで書いたことが無いから、それをこゝでいひそへておかうと思ふ。これにはほゞ三つの理由がある。
第一は、實際上の便宜のためである。シナ文字で書いてある人の名が、どうそれをよむのか、わかりにくいために、ふりがなをつけてよみかたを示すことが、近ごろのならはしとなつてゐるが、わざ/\わかりにくいシナ文字で書いておいて、さてそれにふりがなをつける、といふ、まはりくどい、わづらはしい、ことをするのは、意味のないことでもあり、おろかなことでもある。これは、日本のことばによらずしてシナ文字によつて名をつけ、そのシナ文字に、むりに、またほしいまゝに、日本のことばをあてはめることが多いからであつて、そのばあひには、文字は知られても名(としてのことば)はわからないことになりがちなのである。日本のことばでつけた名でも、シナ文字をそれにあてるそのあてかたは、やはりひと/”\のきまゝであるから、つまり同じことになる。或はまた、シナ文字をその音のまゝに用ゐるばあひもあるが、その音がいろ/\あるから、どの音であるかがわからない。いづれにしても、わからないのはシナ文字で書くからである。もしシナ文字をつかはずに、はじめからカナもじで書けば、何のこともなく、よくわかるのである。
(598) 土地の名についてもほゞ同じことが考へられる。たゞこのほうは、新に名をつけるばあひは少いけれども、シナ文字で書いてあるために、何といふ名であるかわからぬばあひは多いから、カナ書きにすると、それが無くなるのである。なほ、これまでシナ文字をかりて寫すばあひのあつたシナのほかの世界の國の名なども、やはり日本の發音によつてカナもじで書くやうにすべきである。イギリスを英國としインドを印度とするやうなことをやめるのである。シナもまた支那と書かず、シナとするがよい。この名は、支那といふ文字にはかゝはりの無いものであつて、至那とか脂那とか書かれたばあひもあるし、震旦または振旦の震または振も同じことばであり、西のほうから傳はつて來た名をさま/”\の文字で寫したものだからである。(ヨウロッパ人などの人の名をシナ文字で書くことは、今はほとんどせられなくなつたやうであるが、それでも、基督とか釋迦とかいふ書きかたは、なほ一般に行はれてゐるらしいから、さういふものもカナもじにすべきである。)
第二は、これからの日本人の名のつけかたのためである。日本人の名に日本のことばとしては意味の無いものが多いが、かういふことも、カナもじで書くやうにするならば、すべて無くならうし、シナ文字を音のまゝでつかふことも、また行はれないやうになつてゆくであらう。カナもじで書くには日本のことば、少くとも日本化したことば、でなくては意味がわからないから、このやうな名をつけることが無くなるのである。
第三は、シナ文字をやめてゆくためである。すべての固有名詞の書きかたをかういふやうにして、戸籍をはじめ、どんな書きものでもみなそれによることにするならば、シナ文字をつかふことから來るわづらはしさとおもくるしさとが、よほど少くなつて、世のなかがずつと明るくなると共に、すべてのばあひにシナ文字をつかはないやうにする(599)ための、ちかみちにもなるのである。固有名詞をかう書くならば、普通名詞もそれにひかれておのづから同じ書きかたをするやうになつてゆき、それがまたそのほかのことばにも及んでゆくであらう。一くちにいふと、シナ文字をつかはないならはしが、次第についてゆくであろう。當用漢字といふやうなものをきめたり、かなりあやしげなところのある略字などを作つたりするよりも、このほうがきゝめがあるのではなからうか。
これらの三つの理由で、わたくしは固有名詞をカナもじで書くことにしてゐるのである。やさしく書くといふだけの意味からではない。
なほいひそへたいことは、「わたくし」といふ一人稱の代名詞についてである。このことについては、曾て次のやうに書いたことがある。
いまのことばで文章を書くときに、どういふことばを用ゐてよいのか困ることがいろ/\あるが、その一つに一人稱の代名詞がある。ヨウロッパのことばとはちがつて、日本のことばでは、それを使はないですむばあひ、または使はないほうがよいばあひがあるが、どうしても使はねばならぬこともある。そこで、そのばあひにどう書くかが問題である。
一般には「わたくし」が多く使はれてゐるやうであるが、あひてがあつていふときにはともかくもとして、さうでないばあひには、これはふさはしからぬ感じがする。このことばの語源や、それがどうして、またいつから、一人稱の代名詞となつたかといふことは、別の問題として、口でいふばあひには、いまでも、あひてに對することばとなつてゐるし、何となくみづからを卑下するきぶんがそれに伴つてゐるやうでもあり、またことばのひゞきも耳にこゝろ(600)よくない。(代名詞、特に一人稱のに、四綴音もある長いことばを用ゐるためしは、ほかの民族には無いのではなからうか。國語でも、むかしは「あ」「わ」「あれ」「われ」などの一綴音か二綴音かのであつた。)「わたくし」の「く」が省かれた「わたし」といふことばもあるが、これはやゝなれ/\しげにきこえ、あひてに對して口でいふときにはともかくも、たれにも讀ませることになる文字に書くには、輕すぎる感じがする。また「おれ」といふのは「おのれ」の「の」が省かれたものであらうから、意義からいふと、よいことばではあるが、いまの一般のつかひかたからいふと、傲慢にきこえる。「じぶん」といふことばもあるが、少しこと/”\しい。「ぼく」といふのは、いまはかならずしも「僕」の字義をもつてゐるにはかぎらぬやうであるが、やはりあひてがあつてのことばではあるらしく、そのうへ、やはりなれ/\しい氣分が伴なふ。さりとて、江戸の戯作者がつかつた「やつがれ」などは、問題になるまいし、いまさら武士ことばの「みども」でもあるまい。
かう考へて來ると、文章に書くばあひの一人稱の代名詞には、一つもよいものが無い、といふことになる。
いまの日本のことばに、いまの日本人の生活にあてはまらぬものの多いことの一つの例がこゝにある、ともいはれようが、それのみでなく、おのれみづからをいひあらはすことばがかういふものであるとすれば、それは、社會に對するおのれみづからの地位、從つてまたおのれみづからの獨立の人格、についての、たしかな、またはつきりした、考をもたないことのしるしでもあるのではなからうか。
かう考へながら、しかたがないから、わたくしも「わたくし」を用ゐてゐるが、この本の附録では「わたし」をつかつてみた。そのほうが書かうとすることの内容にふさはしいやうに、思はれたからである。書きかたが二とほりに(601)なつてゐるから、これだけのことをいつておく。 もう一つ、これはおもに印刷のしかたについてのことであるが、ついでだから書いておく。「ちゝ」「はゝ」「やゝ」、または「おの/\」「われ/\」「いろ/\」「さま/\」「とも/”\」「おもひ/\」「ちぎれ/\」などのやうに、同じことばが二つ重なつて一つのことばとなつてゐるばあひに、「ちち」「おのおの」「おもひおもひ」のやうにすることが、近ごろのならはしになつてゐるらしい。どうしてかうなつたのか知らぬが、或は、ひらがなでも一字一字はなして書くくせがついて來たのと、ヨウロッパのことばにはかういふ例が無いのとの、故ではあるまいかとも思はれる。しかしわたくしは、やはり、むかしからの書きかたのやうに、「ゝ」とか「/\」とかの、くりかへしのしるしを用ゐることにしたい。さうすることによつて、一つのことばであることがわかるのみならず、かういふいひかたは、シナ語にはいくらかの似た例が無くはないが、おほよそにいふと、日本のことばの特色の一つであるやうに思はれるので、その特色が示されることにもなるからである。なほ「まゝ」「ほゞ」「たゞ」「こゝろ」「さゝやく」などのやうに、一つのことばのうちで同じ音がつゞくものも、同じ書きかたにするのが望ましい。ひらがなのばあひには、もじともじとをつゞけて書いた書きかたのおもかげが、かすかながらにそれに殘つてゐるやうにも見えて、わたくしにとつては、一種のなつかしみもそこにある。この本でも、行のかはるばあひの如く、それができないときの外は、みなこのやうにしてある。
(603) 所収論文一覽表
論文名 掲載書誌 掲載年月
日本語の現状を憂ふ 新潮 昭和32年10月
「新かなづかひ」について(【いはゆる新かなづかひに對する疑ひ」を改題せしもの) 象徴 〃22〃6〃
固有名詞のかながき 新潮 〃32〃7〃
敬語について 心 〃28〃9〃
外國語の亂用と日本語のロオマ字書き 銅鑼 〃35〃1〃
日本語に多いいひかたの一つ 心 〃27〃11〃
譯語から起る誤解 〃 〃31〃2〃
自由といふ語の用例 〃 〃30〃7〃
萬葉集の第一歌 美夫君志 〃34〃12〃
學問の本質(【學問の本質と現代の思想】の後半を削りしもの) 學問の本質と現代の思想 〃23〃1〃
諸民族における人間概念 諸民族における人間概念 〃26〃9〃
日本思想形成の過程 史苑 〃9〃 8〃
日本精神について 思想 〃9〃 5〃
(604)今日の生活と昔からのならはし 思想 昭和14年1月
日本人の風習の一二について 心 〃24〃1〃
日本の家族生活(【田植の季節に思ふ日本の家族生活】を改題せしもの) 新論 〃30〃8〃
教育に関する勅語について(【「日本人の生活の反省」の前半を削りしもの】) ロゴス 〃21〃7〃
『菊と刀』のくに――外国人の日本観について―― 展望 〃26〃5〃
愛國心(【自由學園における「自由と不自由」なる講演の一部を改訂し標題を改めしもの】)〃33〃10〃
わたくしの信條 世界 〃25〃11〃
讀むことと書くこと 文藝春秋 〃23〃7〃
書もつについて 書評 〃21〃12〃
日本の楽器 象徴 〃23〃3〃
シナ畫の氣韻論 東洋學報 大正4〃1〃
シナ藝術の一側面 *池内博士還暦記念東洋史論叢 昭和15〃3〃
シナ思想研究の態度 早稻田學報 〃9〃10〃
日本におけるシナ學の使命 中央公論 〃14〃3〃
シナ文化研究の態度 新中國 〃21〃3〃
諸生規矩階級・讀書路徑 圖書 〃16〃10〃
「儒者が政治をすれば世が亂れる」 新潮 〃32〃8〃
(605)平泉の文化と中尊寺 東北文化史講演集 〃23〃8〃
中尊寺のミイラについての諸問題 中尊寺學術調査報告 〃30〃6〃
ヒライヅミの眺め 婦人之友 〃28〃6〃
中尊寺の能 中尊寺奉讃式能 〃22〃10〃
ヒライヅミの自然 心 〃25〃1〃
大歌所 東洋史會紀要 〃12〃9〃
新古今集の歌の技巧の一面 〃 〃 〃 〃
ハツクニシラスといふ語 〃 〃14〃6〃
國巣と書かれた語 〃 〃 〃 〃
「中今」といふ語 〃 〃22〃4〃
わが國に宗教樂の發達しなかつたこと 象徴 〃22〃1〃
古典の二つのとりあつかひかた 古典の窓 〃22〃12〃
片假名のことなど 心 〃33〃2〃
漢文とラテン語 東洋史會紀要 〃22〃4〃
シナの詩の日本語よみ 〃 〃14〃6〃
漢文の日本語よみ 〃 〃19〃9〃
シナの詩の日本語譯 〃 〃 〃 〃
(606)シナの古典の文章と口にいふことば 東洋史會紀要 昭和19年9月
春恨 〃 〃12〃9〃
秋の悲しさ 〃 〃14〃6〃
四季の歌 〃 〃 〃 〃
山水の愛翫 〃 〃12〃9〃
詩の句の對? 〃 〃14〃6〃
シナ人の懷古の詩 〃 〃19〃9〃
シナ人の戀愛詩 〃 〃 〃 〃
香屑集 〃 〃 〃 〃
ナリシマ リユウホク(成島柳北)の詩 〃 〃 〃 〃
平安朝の詩の作者と中晩唐の詩 〃 〃 〃 〃
平安朝の物語とシナの説話 〃 〃 〃 〃
生れた日と死んだ日 象徴 〃21〃10〃
生れた家、住んでゐた家、おくつきどころ 東洋史會紀要 〃22〃4〃
おのが死、おのが墓 *おもひだすまゝ 〃24〃9〃
葬儀 東洋史會紀要 〃22〃4〃
玉蟲 心 〃25〃9〃
(607)庭は雜草の茂るにまかせて 政治公論 〃32〃5〃
自然の風土と習慣 婦人之友 〃32〃2〃
僕のしごと部屋 新潮 〃29〃3〃
山小屋の床の間 〃 〃32〃9〃
食もつの味はひ 武蔵野新聞 〃25〃10〃
刀劍
ハンガリ事件につれて愛國詩人ペトフィを想ふ 早稻田大學新聞 〃32〃1〃
梵鐘のびゞき
「朝ぎよめすな」
春の夜の夢
「刀劍」「梵鐘のひゞき」「朝ぎよめすな」「春の夜の夢」の四篇は、昭和三十五年の未までに執筆せられたまゝ發表に至らざりしもの、なほ*印のは單行本である。
〔2018年4月14日(土)午後9時45分、入力終了〕