津田左右吉全集第3巻、岩波書店、529頁、3800円、196312.17(86.11.25.2p)
 
日本上代史の研究
 
(1)     まへがき
 
 この書は、一九三〇年(昭和五年)に出版せられた『日本上代史研究』のうちの「上代の部の研究」と、一九三三年(昭和八年)出版の『上代日本の社會及び思想』のうちの「大化改新の研究」ならびに「上代日本人の道徳生活」との、三篇を補訂して、一冊にまとめたものである。この二冊のうちでこの書に收めなかつた諸篇は、一九二四年(大正十三年)出版の『古事記及日本書紀の研究』ならびに『神代史の研究』と共に、別に『日本古典の研究』に收めて、ひきつゞき刊行するてはずになつてゐる。これで、一九四〇年(昭和十五年)このかた絶版になつてゐる上記の四冊が、そのすべてにわたつて少からぬ補訂がせられ、新しい形で再び公にせられることになる。
 「上代の部の研究」のうちの第一、第三、第四、の三章は、一九二九年(昭和四年)刊行の『史學雜誌』に、その第二章と「大化改新の研究」とは、一九二九−三一年(昭和四−六年)刊行の『史苑』に、のせた論文を補訂したものであり、「上代日本人の道徳生活」は、上記の書に於いてはじめて公にしたものである。
 附録の第一「上代史の研究法について」は、一九三四年(昭和九年)刊行の『岩波講座日本歴史』に、第二「日本上代史の研究に關する二三の傾向について」は、一九三一年(昭和六年)刊行の『思想』に、のせたものである。第三「日本の國家形成の過程と皇室の恆久性に關する思想の由來」は、ことし世に出た『世界』のために書いたものであるが、上代史上のたいせつなことがらについての見解をかういふ形で述べたことは、これがはじめてであるのと、(2)この書の三つの研究はおのづからかういふ見解のよりどころ(の一部分)となつてゐるものであるのとのために、ここにこれをうつしとることにした。また第四「天皇考」は、天皇といふ稱號の由來と意義とについての研究であつて、一九二〇年(大正九年)刊行の『東洋學報』にのせたものである。この書の研究に特殊の關係があるのではないが、上代史上の一つの問題について考へたものであるために、こゝにこれを收めた。第五「蕃別の家の系譜について」は、「上代の部の研究」の補遺となるべきものであつて、一九三八年(昭和十三年)出版の『稻葉博士還暦記念滿鮮史論文集』に寄せたものである。
 わたくしは近ごろ、できるだけシナもじを使はないようにしたいと思つてゐるし、またニホンの固有名詞はすべてカナで書くがよいと考へてもゐるが、さういふ考のまだきまらなかつた時に書いたこの書の論文をそのように書きかへることは、さしあたつてのしごととしては、できかねるから、これらの點においては、すべてもとのまゝにしておき、新に補訂したところもそれに調和するように書くことにした。たゞ神代の神の名は、別の理由から、もとの書においてもそれをカナ書きにしてあつたことを、いひそへておく。
 この書の刊行についていろ/\のおせわになつた、イハナミ書店のヌノカハ カクザエモン氏、ならびに校正をおたのみした同店のニシジマ クスヲ氏に、厚くお禮を申し述べる。また、もとの書の索引をこの書にあてはまるように編みなほすことについては、友人マツシマ エイイチ君とヲカモト サムロウ君とを煩はしたことを、こゝに記しておく。
(3)            りくちゆう ひらいづみ において
 一九四六年十二月             つだ さうきち
 
(1)     目次
 
第一篇 上代の部の研究
 
   第一章 部の一般的性質及び部の語の由來………………………………一
   第二章 子代名代の部……………………………………………………四三
   第三章 從來の諸説に對して……………………………………………八〇
   第四章 伴造の勢力の變遷……………………………………………一三三
 
第二篇 大化改新の研究
 
   第一章 改新の目的………………………………………………………一五三
   第二章 改新の動機と其の經過…………………………………………一六二
   第三章 官制………………………………………………………………一七五
   第四章 官制に關する疑問、孝徳紀の本文批列………………………一八五
   第五章 改新後の國造……………………………………………………二一八
(2)   第六章 班田……………………………………………………………二三八
   第七章 社會組織の問題…………………………………………………二六〇
   第八章 補遺と結語………………………………………………………二八四
 
第三篇 上代日本人の道徳生活
 
   第一章 道徳意識の發達…………………………………………………二九七
   第二章 道徳生活の状態…………………………………………………三三五
 
附録
 
   一、上代史の研究法について……………………………………………三九一
   二、日本上代史の研究に關する二三の傾向について…………………四二三
   三、日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由來……四三九
   四、天皇考…………………………………………………………………四七四
   五、蕃別の家の系譜について……………………………………………四九二
 
索引…………………………………………………………………………………五二六
 
(1)     第一篇 上代の部の研究
 
 日本の上代史の研究に於ける重要なることがらの一つに、「部」に關する問題がある。部といふものの性質とその語の意義と、またその由來、構成、政治上社會上經濟上のはたらき、などを明かにしなければ、上代の政治上の制度も社會組織もわからず、上代人の生活状態も文化も知りがたい。大化改新といふことも、それを明かにすることによって、はじめて理解せられるのである。部はかういふ重要なものであるにかゝはらず、またそれについてこれまでの學界にいろ/\の見解が提出せられたにかゝはらず、問題はまだ正しい解決を得てゐないやうに見える。この研究を試る所以である。
 
       第一章 部の一般的性質及び部の語の由來
 
 余は「日本古典の研究」の第七篇「古語拾遺の研究」に於いて、忌部は朝廷の神事に與かるものの特殊の稱呼であつて、民間の巫祝は勿論、全國各地の神社の祭祀を掌るものも、決して此の名を負うてはゐなかつたこと、いひかへると巫祝や神職の一般的稱呼ではなかつたこと、此の忌部の間からそれを氏の名とする家が生じたこと、地方に於いて(2)忌部と稱せられたものは、何れも此の忌部氏の部下であつたこと、さうして、阿波や讃岐や紀伊の忌部は、忌部氏の部下であるが故に忌部と稱してゐたけれども、それは忌部氏のために織物や木材や建築のことに關與してゐたものであつて、彼等みづからは神職ではなかつたこと、また彼等は忌部の名を冒してゐても、朝廷の忌部氏と血統關係は無く其の同族ではなかつたこと、などを述べた。この考に誤が無いとすれば、これは大化改新前の制度に於ける三つの重要な條件を示すものであらう。其の第一は、朝廷に特殊の地位と職掌とを有する伴造の家が、地方に於いてそれに隷屬してゐる部下を有つてゐて、その部下のものは主家と同じ氏の名を稱してゐたこと、第二は、それらが主家と同じ職業のものではなかつたこと、第三は、それらが主家と血族を同じくするものではなかつたことである。さて、忌部氏の場合に於いては、地方の忌部と朝廷の忌部氏との間がらは、忌部氏の朝廷に於ける職掌についてのことのみわれわれに知られてゐるので、こゝに部下といつたのもその職掌に關係のあるものとしてのことであるが、其の實、地方に於いて忌部の名を冒してゐたものは忌部氏の部民であつて、本來、主家に租税を收め其の勞役に服してゐた農民であつたらうと思はれる。たゞその農民の間に首領だつたもの有力なものがあつて、さういふ少數のものが直接に忌部氏と交渉をもち、その部下として、主家の職掌に必要な事務を處理したのであらう。後にいふやうに、祖先を神代の説話における命たちとしたのも、かういふ地位にあつたもののことであつたと考へられる。忌部氏は、一般伴造の常として、其の生活と地位とを維持するために、經濟上の根據としての土地人民を有つてゐたはずであるが、それが上記の部下の所在地とは違つた別の土地にあつたならば、忌部氏の家の傳として其のことが知られてゐないはずは無く、さうして、安房や總に關して「古語拾遺の研究」に述べたやうな虚構の物語を作つたほどに、自家の勢力をできるだ(3)け誇大に説かうとした古語拾遺は、何等かの形に於いて、其の土地を示してゐさうなものであるのに、さういふ形迹が毫も見えないではないか。さうして、忌部氏と最も關係の深い阿波についていふと、麻や木綿の種作は農民によつて行はれたであらうから、其の地の農民は單に神事に要する麻や木綿を忌部氏に供給したのみではなかつたらう。紀伊の忌部とても、よし其の起源が建築についてのことであつたにせよ、やはりそこの農民が忌部氏の部民となつてゐたものと想像せられる。たゞ伊勢と筑紫との忌部は、これらとは其の性質を異にするから、これは論外に置かねばならぬ。忌部氏については、かう考へる文獻上の徴證は無いが、それはすべての伴造の状態から推測せられるのである。
 一般的にいふと、伴造は常に國造と並稱せられてゐたが、これは地方行政系統に於いて國造と同じ地位を有つてゐたからであり、從つてそれは、國造と同樣、土地人民を有つてゐたことを示すものとしなければならぬ。正倉院文書の諸國の戸籍や計帳や、大税賑給歴名帳、大税負死亡人帳、などによれば、農民であるべき一般の民が何れも某部といふ名を氏の名の如くに用ゐてゐるが、其の名の多くは朝廷にそれ/”\の地位を有つてゐた所謂伴造の名であり、さうしてそれは地方の豪族、即ち所謂國造縣主など、の名が氏の名として用ゐられてゐるのと同じであるのを見ると、それらはみなそれ/”\の伴造國造の部民であり、主家に附屬して租税をそれに納めてゐた農民であることがわかる。かういふ名稱は、大化改新後の戸籍編成の際に氏族制度時代の漠然たる稱呼が保持せられたもの、もしくは其の時代の部屬關係によつてそれ/”\の氏の名として定められたものに違ひなく、さうして、すべての民がみなかうして定められた氏の名を有つてゐたことは、正倉院文書、萬葉、又は續紀、に見える氏名の書きかたによつても明かである。孝徳紀に見える大化二年正月の詔勅に「罷昔在天皇等所立子代之民、處々屯倉、及別臣連伴造國造村首所有部曲之民、處々(4)田莊、」とある「部曲之民」が即ち此の部民である。此の「部曲之民」が農民であることは、それが「子代之民」と同樣に取扱はれてゐることからも知られるが、安閑紀元年の條に「三島竹村屯倉者、以河内縣部曲爲田部、」とあるのは明かに之を證するものであつて、これは、大河内直、即ち上記の詔勅に於いて「國造村首」の名によつて總稱せられてゐる地方の豪族、の領地にある農民をさしてゐる。こゝに記された物語は事實の記録とは認め難いけれども、部曲といふ語が斯ういふ意義に用ゐられた例にはなる。また、皇極紀元年の條に、蘇我蝦夷が豫め墓を造るために民衆を徴發したことを記して「盡發擧國之民並百八十部曲」と記してあるが、此の「百八十部曲」は、多分、「百八十伴緒」といふ語があつてそれを漢譯したものらしく、さうして此の話のやうに墳墓築造の役夫として使用せられたとすれば、それは百八十伴緒にそれ/”\隷屬してゐた多數の農民を指すものと解しなくてはならぬ。「擧國之民」と列記してはあるが、これは世間にいひならはされてゐる百八十伴緒といふ稱呼があるため、たゞそれを擧げたまでである。「民」と區別せらるべき「部曲」があつてそれをいつたのではない。推古紀二十八年の條に「臣連伴造國造百八十部并公民本紀」とあり、孝徳紀の卷首に「百官臣連國造伴造百八十部羅列匝拜」とある如く、往々此の稱呼が用ゐられてゐることを參考すべきであつて、此の二つの場合では、所謂百八十部は伴造と重複して記されたものである。(百八十部の「部」はやはり「伴緒」の義であるが、こゝでは件造の部民たる農民をさしてはゐない。伴及び部の語の用法については後にいふ。)かういふ場合の書紀の筆法は決して嚴密ではないので、臣連と伴造とを併記することにも既に重複がある。もつとも、部曲の語が上記の例と異なつた意義に用ゐられてゐるところもあるので、天武紀四年の條に「甲子年諸氏被給部曲」とあるのは、即ちそれであり、これは天智紀三年の條に見え、其の時、新に定められた諸氏(5)の民部家部を指すものであるが、しかし、これも大化改新前の部民、即ち上記の意義の部曲、に由來のあるものであり、やはり農民である(此の民部家部については、後にいはう)。其の間にいくらかの意義の違ひはあるが、それを同じく部曲と記してあるのは、當時の文筆にたづさはつたものが、シナの成語を適用するに當つて、愼密の用意を缺いてゐたためである。なほ、大化二年八月の詔勅に「始王之名名、臣連伴造國造、分其品部、別彼名名、……始今之御寓天皇、及臣連等、所有品部、宜悉罷爲國家民、」とある「品部」も、やはり之と同じく、諸氏の部民としての農民をさしてゐるのであつて、品は品別する義であらうから、「品部」は畢竟「部」といふことである。さうして、此の品部に分屬する民がそれ/”\其の部の名を負うてゐたことが、この詔勅によつて知られるが、これもまた上に述べたことを證するものである。(此の詔勅には頗る解し難い點があるが、品部についてはそれを臣連伴造國造の全體にかけていつてある以上、上記の如く解しなければなるまい。但し、かう解する時は、此の詔勅には上に記した正月のと重複するところがあるやうであるが、制度の改新は容易の業でなかつたから、其の實現には種々の困難なる事情があり、從つて同じことがさま/”\の詔勅となつて幾度も發せられたのであらう。さうして、此の詔勅が國語で書かれたものであることから見ると、そこに用ゐてある品部といふ語は、部曲といふ漢語とは違ひ、當時廣く世間に用ゐられてゐたものと思はれる。なほ品部といふ稱呼は、垂仁紀三十九年の條に註記してある一説のうちにも見えるので、これは朝廷の「伴」としての部のことであるらしいが、此の一説の記されたのは古いことではなく、多分、書紀の稿本に於いてであらうと思はれるから、これは或は令の規定にある、新しい意義での、品部を思ひ浮かべて書かれたのかも知れぬ。令の規定の品部のことは後にいはう。)さて、かう考へて來ると、伴造の部民が主家と同じ職業を有するもの(6)でもなく、主家と血族關係のあるものでもないことは、明かであるといはねばならぬ。もし同じ氏の名を冒してゐる多數の民が主家と同じ職業であるとか同族であるとか考へるならば、孝徳紀の詔勅の如きは全く解すべからざるものであるのみならず、それは種々の職掌を有する僻遠の部民であつたものが何れも農民であるといふ、前記の戸籍や計帳などの明白な記載にも背くものである。
 忌部氏に對する考説から論を進めて來たのであるから、此のことを、其の競爭の敵手であつた中臣氏の例によつて、具體的に證明してみよう。書紀の天智紀二年の條に常陸に中臣部のあつたことが見え、正倉院文書の大寶二年の筑前嶋郡の戸籍にも中臣部の名が出てゐるが、此の前の方のは續紀天平十八年三月の條に「常陸國鹿嶋郡中臣部二十烟占部五烟、賜中臣鹿嶋連姓、」とあるのに、後の方のは和銅二年六月の條に「筑前國……嶋郡少領……中臣部加比、(賜)中臣志斐連姓、」とあるのに、それ/”\相應ずるものであり、また續紀天平二十年七月の條にも「中臣部干稻麻呂、賜中臣葛野連姓」といふことが見える。此の中で葛野連は、姓氏録に記されてゐる系譜に於いて、ニギハヤビの命の裔としてあるから、中臣氏の同族でないことをみづから主張してゐたのである。鹿嶋連や志斐連は中臣氏と同祖のやうに系譜に見えてはゐるが、それは中臣の名を冒したがために造作せられたものとする外は無い。(これらのことについては「古語拾遺の研究」に考へておいた習宜、熊凝、殖栗、三氏の系譜のこと、參照。)假に鹿嶋に二十戸の同族があるとし、それと同じように各地の中臣部がみな同族であるとしたならば、中臣氏の一族は非常な多數に上るはずであるが、それは事實として有り得べからざることであるのみならず、同族であるならばそれを部と稱するはずが無く、またさう考へることは、上に述べた戸籍などに見える他の諸氏の例にも適合しないのである。また志斐連となつ(7)たものは郡の少領であつたが、これは國造を郡の大領少領に任ぜよといふ命令のあつたことから推測すると、本來其の地方の豪族であつたらしく、中臣氏の部民のうちの首領だつたもの有力なものであつたらうと思はれ、從つてそれが朝廷の中臣氏のやうな神職でなかつたことがほゞ知り得られよう。(志斐連については續紀神龜二年正月の條に「漢人法麻呂、賜姓中臣志斐連、」といふことも見えてゐるが、「漢人」は後にいふやうに漢直の部民であつたことを示すものである。何故にそれが此の姓を賜はつたかは明かでないが、多分、志斐連と何等かの關係があつたためであらう。)また鹿嶋の中臣部は鹿嶋神社と關係があるやうに想像せられるかも知れず、現に續紀寶龜十一年十月の條に中臣鹿嶋連大宗を鹿嶋神社祝としてある例もあるが、これは鹿嶋連の一人が其の土地にある鹿嶋神社の祝となつてゐたことを示すものであつて、中臣部と稱せられるもののすべてが神職であつたことを語るものではない。少くとも二十五戸あつた中臣鹿嶋連の家々が、すべてカバネを有するほどな地位のある鹿嶋神社の神職であつたはずも無い。多くの例から見ると、中臣鹿嶋連のカバネを賜はつたものは、其の地方の中臣部中の特殊な地位を有つてゐたものであるから、かういふものが二十五戸あるのは、カバネの無い中臣部がずつと多數であつたことを示すものである。さうして神職は少數であるところに神職たる意味がある。其の土地の多數のものが巫祝であつたら、巫祝たる意味が無いはずである。(常陸風土記によると、鹿嶋神社の附近には卜部氏を稱するものが多數あつたやうであるが、それらがすべて卜占を業としてゐたものとは考へられず、やはり中臣氏の部民であつたものながら、特に卜部の所屬として、かういふ名を負うてゐたものと解せられる。)また地方の多くの神社の神職に一々中臣部の名を負うてゐるものがあつた樣子のないことを考へるがよい(「古語拾遺の研究」にも述べた殖栗連や伊香連が、それ/”\別の意味で神事に縁(8)があつたらしいにかゝはらず、中臣部といはれてゐたやうには見えず、さうして、これらの家が中臣氏と結びついたのは奈良朝に於ける新しい事情のためであり、大化よりも前からの關係では無かつたらう)。要するに、地方に於ける中臣部は中臣氏の部民たる農民をさすものである、といふ推定を動かすべき何ものも無い。たゞ同じ部民たる農民の間にも地位の高下はあつたので、其のうちには首領だつたもの有力なものもあり、さうしてそれらのうちにはおのづから一般部民と中臣氏との中間に立つて納租などの事務を處理したものもあつたであらう。後になつてカバネを賜はつたものには、さういふ地位にゐたものが少なくなかつたらうと推測せられる。だから、上記の例について考へると、鹿嶋にゐた中臣氏の部民は多數であつたに違ひないが、中臣連となつたものは其のうちの二十戸であつたのである。姓氏録を見ると、河内和泉攝津には中臣を氏の名とし又はコヤネの命を祖とするものが多いが、これらは何れも上記の例によつて解釋すべきものであり、これらの地方には中臣氏のもとの部民が多かつたのであらう。さて、かう考へて來ると、それは上に忌部氏の例にもとづいて推測したところとよく照應する。さすれば、阿波などの忌部といふものは、やはり上記の意義に於ける朝廷の忌部氏の部民であつたとして、何の支障も無いことが知られるであらう。もし假に麻殖郡の戸籍などが遺存してゐるとするならば、そこには忌部を氏の名とする農民の多いことが見られるであらうと思はれる。さうして、後に忌部連のカバネを賜つたものは、やはり其の部民中の豪族、有力者、首領だつたものであつたに違ひなく、それが朝廷の忌部氏の直接の部下としてはたらいたものであり、主家の意向に從つて其の祖先をヒワシの命としたものも、また彼等であつたらう。上文に部下といふ語も部民といふ語も用ゐたので、その間の關係がやゝ曖昧に聞えたかも知れぬが、かう考へて來るとそれが明かになつたはずである。但し、こゝに注意すべ(9)きは、忌部の部と中臣部の部とは意義が違ふといふことであつて、中臣部といふ稱呼と同じ意義に於いて忌部氏の部民を指す場合には、忌部部といふべきであるが、部の語が重なるために、單に忌部といふことになつたらしい。これについては、なほ後文に言及するであらう。
 さて以上、忌部中臣兩氏について述べたことは、すべての伴造の地位と其の部民との關係にあてはまるべきものである。しかし、これについては世間に種々の臆測が行はれてゐるやうであるから、更に二三の例を擧げて説明を加へようと思ふ。それについて先づ伴造といふものの性質を考へるに、大伴氏や物部氏の如き有力な家が、中臣氏や忌部氏と同樣、朝廷に於いて特殊の職掌と地位とを有つてゐたものであることは、何人にも異論があるまい。大伴氏の如きは神代史の祖先の物語に於いて其の家の由來を如何に説いてゐるかを見ても、それは明かである。ところが、これは何れの伴造に於いても同樣であるので、玉祖(玉作)氏、鏡作氏などの神代の物語に現はれる家がらはいふまでもなく、例へば土師氏でも膳氏でも湯坐氏でも鳥取氏でも、みな其の家の由來を皇室に關係させて語つてゐる。記紀に見える斯ういふ物語は、勿論事實譚ではないが、それは忌部氏や中臣氏の例と同樣、さういふ物語の作られた時の家々の實際の地位と職掌とを基礎として、それに適合するやうに語られたものであるから、此の意味に於いて眞實が傳へられてゐるのである。例へば土師連については、垂仁朝に始めて埴輪を作つたといふ野見宿禰が其の始祖であつて、此の時の縁によつて土師連が大葬を司ることになつた、といふ話が垂仁紀にあるが、陵墓の築造や皇室の葬儀に土師連が關與したことは、仁徳紀六十年、推古紀十一年、皇極紀二年、孝徳紀白雉五年などの諸條にも見えてゐる。此のうちで孝徳紀の記載は歴史的事實に違ひなく、さうして、それは大化改新前からの因襲によつたものであらうから、土師(10)氏が大葬や陵墓に關する事務を掌りまた陵墓に用ゐられる埴輪の製作を管理する家であつたことは、疑が無い。なほ、續紀の文武天皇三年十月の條に山陵修造のために越智と山科とに遣はされた官吏の名が記されてゐるが、その何れにも土師氏のものが加はつてゐるし、天平六年四月の條の、地震があつたため諸王を遣して陵墓を檢看せしめられたといふ記事にも、土師宿禰の隨行したことが見えてゐるが、これらは奈良朝ころまでも此の家が陵墓のことを掌つてゐたことを示すものである。垂仁紀のは勿論、仁徳紀や推古紀の記事は、此の事實によつて作られたものである。雄略紀九年の條に征新羅將軍紀小弓の喪に當り、勅命によつて特に土師連に命じ冢墓を作らせたとあるのも、土師氏が朝廷の陵墓に關する事務を掌つてゐたといふ事實によつて、構想せられたものに違ひない。此の家がもし民間の職業として一般に喪事の營みをするものであつたならば、かういふ話は作られなかつたはずである。大葬を掌り、從つて陵墓の築造にも關與してゐたから、其の設備として必要な埴輪の製作をも主宰するやうになつたのか、又は本來埴輪の製作に從事するものであつたがために、陵墓の築造に與り、延いて大葬を主るやうにもなつたのか、其の經路は不明であるが、土師氏といふ名を有つてゐるところから考へると、多分後の方であらう。それは何れにもせよ、歴史的事實の知られる時代に於いて、朝廷のこれらのことを掌る家であつたことは明かである。古事記の垂仁天皇の卷に「定土師部」とあるのは後から作つた話ではあるが、かういふ話の作られたのは、土師部といふものが朝廷の制度として存在したものであつたからである。(續紀天應元年六月の條に見える土師宿禰古人等の上言に「式觀祖業、吉凶相半、若其諱辰掌凶、祭日預吉、」といひ「今則不然、專預凶儀、」ともいつてあるが、これは凶儀のみに預ることを忌むところから出た造作であつて、「專預凶儀」が此の家の本職なのである。此の上言に、野見宿禰の傳説を語りながら、吉事に闘(11)與した先例を一つも擧げてゐないのも、擧ぐべき先例が無かつたからであらう。雄略紀十七年の條に「詔土師連等、使進應盛朝夕御膳清器者、於是土師遠祖吾笥、仍進攝津國來狹狹村、山背國内村、俯見村、伊勢國藤形村、及丹波但馬因幡私民部、名曰贄土師部、」とあるが、かういふ話の作られたのも、土師氏自身は所謂清器を取扱ふ地位でなかつたからのことと推考せられる。贄土師連といふのが續紀天平寶字七年の條や姓氏録に見えるから、かういふ家が土師連とは別にあつたので、それから此の話は作られたのであらう。また、天武紀元年及び十二年の條に見える※[泥/土]部造は、後にいふやうに令の土工司の規定から推測すると、瓦の製作に關係のある家であつたらしい。土器についてもいろ/\の家があつたのである。さすれば、大葬を司ることを職とする土師連が製作調進すべき土器は、たゞ陵墓に用ゐる埴輪だけであつたに違ひない。土師氏はすべての土器製作者を統轄するものでないことは勿論、すべての埴輪製作者を管理するものでもなく、たゞ朝廷の陵墓に用ゐられる埴輪の製作者を、土師部として其の部下に有つてゐたものである。
 次に膳臣のことを考へてみると、それは景行紀に、膳臣の遠祖磐鹿六鴈が東國行幸の時に御膳を奉つたため、其の功によつて膳の大伴部を賜はつたとあり、古事記にも同じ天皇の卷に「定膳之大伴部」とある。膳臣が朝廷の大膳に奉仕するものの首長であつたことは、明白であらう。このことは「古語拾遺の研究」に引いた高橋氏文によつても證せられる。(膳臣が民間の食膳に關することを管理するものでなく、膳の大伴部がさういふ食膳のことに從事するものでないことは、食膳そのことの性質からわかる。食事はすべての人がしなくてはならず、それをあつかふものはすべての家になくてはならぬから、それについての特別の部といふもののあるべきはずが無く、またすべての家の食事をあつかふことのできるやうな全國的の組織が上代にできたはずも無い。)さて高橋氏文には、阿曇連の職掌を暗示し(12)てゐるところもある。阿曇連は三柱のワダツミの神を祖神とするといふことが古事記の神代の卷に見え、海に關係のある家であることは明かであるが、其の關係の如何なるものであるかは記紀などには説かれてゐない。然るに、高橋氏文に阿曇氏が膳臣の子孫たる高橋氏と地位を爭つたことが見え、さうして、それは「儀式」の大甞會の條に御膳に奉仕するものを高橋阿曇二氏としてあることによつても確かめられるから、此の家は大膳の御料としての海産物を供給する任務を有つてゐたことが推測せられる。膳氏と阿曇氏とは、本來、大膳の調理者と其の材料の供給者とであつたが、相互に密接の關係を有する職務であつたため、いつのころからか其の地位が混同せられ、從つて其の間に競爭が生じたのであらう。高橋氏文にはなほ磐鹿六鴈の物語に、若湯坐連の始祖に火を鑽らせ、それを忌火として供御を調へたことがあつて、これも湯坐氏の性質を知るに必要な話である。湯坐氏の起源として古事記に見える物語は、垂仁天皇の卷に本牟智和氣皇子のために大湯坐岩湯坐を定めたとあるのがそれであるが、神代紀の注の「一書」にウガヤフキアヘズの命のために婦人を乳母、湯母、及び飯嚼湯坐としたといふことがあつて、何れも母親の無い場合に嬰兒を育てるためとして記してあるのであるから、これらの物語に於いては、湯坐は乳の代用とすべき食物を供するもののことであらう。さうして、それを上記の高橋氏文の記事に參照すると、湯坐氏の職務は單にそればかりでなく、やはり一般の供御に何等かの關係のある家であつたらうと思はれる。「ゆゑ」といふ語は民間に行はれてゐた稱呼であつて、朝廷でもそれを其のまゝ用ゐたものらしいが、朝廷ではやはり幾人かのそれに從事するものがあつて、湯坐氏は其の首長であつたらう。これに大湯坐若湯坐の二氏があつたことは、天武紀十三年の條によつてみても明かであるが、若湯坐は、多分、大湯坐よりも新しい家であらう。古事記に同時に置かれたやうに書いてあるのは、それが兩氏の由來(13)を語るための説話であつて、事實の記載ではないからである。若湯坐の「若」は新田部連(齊明紀四年の條)、少子部連(天武紀元年の條)の「新」や「少」と同じであり、何れも後になつて新しく置かれたためにかう名づけられたものらしい。「稚」の語が「新」の義に用ゐられたことは、顯宗紀に見える室壽の詞に「稚室」とあるのが新室の意義であることによつても知られる。少子部氏の起源については、雄略紀に有名な物語があるが、それは少子部といふ名から作られたものであつて、事實でないことは、いふまでもなからう。新田部、少子部は、新田の部、少子の部ではなくして、新き田部、少き子部である。田部は皇室御料の田とその耕作とを掌るものであつたと考へられるが、御料の田は所々にあつたはずであるから、田部もまたいくつもあつたに違ひなく、またそれらが一時に定められたものではなかつたらう。從つて田部にはいろ/\の名がついてゐたので、新田部は新しく置かれた部であるために、かういふ名が與へられたものと解せられる。(國民の大多數は農民であり田を耕すものであつたから、それについて田部といふ特殊の部のあつたはずはない。いひかへると田部は田を耕す農民のすべてについての部ではないのである。)兒部または子部といふのも、天武紀十三年の條、續紀天平十四年十月の條に見えてゐるので、少子部は其の子部に對する稱呼なのである。少の字も、チヒサとよむべきものではなくして、もとは若湯坐の若と同じく、ワカ(ワク)の語にあてられたものであらう。物語に嬰兒(ワクコ)を主題としてあるのでも、それは知られる。所々の犬養部に對して稚犬養部といふ名のもののあつたことが、皇極紀四年、また天武紀十三年の條によつて知られるが、これもまた參考すべきである。神代紀にワカミヤの語に少宮の文字があててあることも、注意しなくてはならぬ。但し子部といふものが如何なる職掌を有つてゐたかは、それを推測すべき材料に乏しい。もし名によつて臆測を試るならば、子部は朝廷に使用せ(14)られてゐる童子の一團ででもあつたらうか。杖部または丈部は走せ使ひ部であらうといふ説が栗田寛の新撰姓氏録考證に見えてゐるが、もしそれに理由があるならば、此の臆測も全く無稽ではあるまい。「儀式」の大甞會の卯の日の條に子部宿禰が笠取直と共に蓋綱を執るといふことが見えるが、これも子部が側近に奉仕するものであつたからではあるまいか。(兒部または子部が全國民の兒童を管理するやうなものでないことは、いふまでもあるまい。)それから、仁徳紀十三年の條に「始立茨田屯倉、因定舂米部、」とあるのを見ると、舂米部が屯倉の米、即ち朝廷御料の米、を舂く職務を有つてゐたものであることが知られる。また宍人臣が管理したと思はれる宍人部の起源説話が雄略紀二年の條に見えてゐるが、それは天皇の遊獵の場合のために皇后皇太后及び諸臣が各々厨人を獻じたので、はじめて此の部が置かれたといふのである、宍人部が朝廷の獣肉調理者であつたため、かういふ話が作られたのであらう。或はまた垂仁紀にも古事記の此の天皇の卷にも、鳥取部、鳥養部の起源を、本牟智和氣皇子(譽津別王)の話に結びつけて説いてあつて、鳥取部は鳥取造の管理に屬してゐたものであらうが、これも朝廷所屬の鳥取または鳥養であつたらう。雄略紀十一年の條に「鳥官之禽、爲菟田人狗所囓死、天皇瞋、黥面而爲鳥養部、」とあるのも、それを證する。また鷹甘部についても、仁徳紀四十三年の條に見える物語は、それが朝廷所屬のものであつたことを示してゐる。さて、これらは記紀に家の起源を説いた物語の出てゐるものの二三を取つて例證としたのであるが、上記の考へ方に誤が無いとすれば、倭文部とか楯部とか服部とか麻績部とかいふやうな、種々の職業に關する部についても、また同樣に考へねばならず、それらは何れも朝廷御用のそれ/”\の職業に從事するものであつて、それにはまたそれ/”\の管理者、即ち伴造、があつたはずである(身分の低い、勢力の無い、ものは史上に名の現はれないものもあらうが)。犬養とか馬(15)飼とかいふものは、鳥養の例から見ても、それと朝延との關係は推知せられるが、馬飼については河内の飼部が行幸の際に「從駕執轡」したといふ話が、履仲紀五年の條に見えてゐる(馬飼部は所々に置かれたらしく、允恭紀四十二年の條には倭飼部の名があるが、天武紀十二年の條には倭馬飼造、川内馬飼造の他に、婆羅々馬飼造、菟野馬飼造の名が見える)。また犬養部については、安閑紀二年の條に「詔置國々犬養部」とあるのを注意すべきである。なほ天武紀十二年の條に見える舍人造、采女造、門部直、などが朝廷の職掌を有するものであることは、明白である。
 以上の考察に誤が無いとすれば、かの語部の如きも、また此の例によつて推測せられねばならぬので、それは「日本古典の研究」の第一篇及び第四篇に於いて述べた如く、朝廷の饗宴に於いて「かたりごと」を奏する職掌を有つてゐたものらしく、さうして、天武紀十二年の條に見える語造は其の首長であり、所謂伴造であつたのである。(語造は天武朝に連の姓を賜はつて語連となつてゐるから、姓氏録の天語連の家は即ちそれであらうし、續紀養老三年の條に海語連とある「海」も「天」の借字らしい。但し、此の後の方の記事は、此の姓氏を手人であつたものが賜はつたといふのであるから、其の間の事情に判然しない點がある。)朝廷の儀禮とても其の由來は民間の風習にあつたであらうが、制度として置かれてゐた語部は朝廷に於ける一定の職掌を有するものとしなければならぬ。然らざれば語造といふやうな伴造のあるはずが無い。「語ること」を職業とする語部といふものが廣く民間に存在し、さうして其の語りごとが、神代史及び上代の物語であつた、といふやうな臆説は、本來、何の證迹も根據もないものであつて、其の前半は「部」といふものの一般的性質を推究すればおのづから消滅するのみならず、後にいふやうな語部に關する文獻上の證徴にも齟齬するし、後半は記紀の神代史及び上代の物語の内容批判の上から成立たない。神代史や上代の物語(16)は、早くとも六世紀に入つてから後、朝廷に於いて製作せられ、朝廷を本位として、または朝廷の地位に立つて皇室の由來を説いたものであるから、それは決して民間に存在した古傳説ではなく、從つて、よし民間に「語ること」を職業とするものがあつたにせよ、さういふものによつて語られたはずの無い物語である。其の材料としては民間説話が採つてもあるが、全體としての神代史や上代の物語は官府の述作である。また、それは製作の初から文字に記されたものであり、後人の種々の潤色も、それ/”\異本となつて現はれたものである。なほ語部を宗教的意義をもつたものとして見るにしても、それが民間に存在したものとは考へ難い。民間の神事に於いては、或は巫祝などによつて簡單な語りものの語られたこともあらうし、またそれは、屡々反覆せられることによつて、おのづから其の詞章が定まるやうになることもあつたらうと思はれなくもないが、よしそれにしても、それを語部と關係させて考ふべき理由は、どこにも無いからである。それから、天武紀十三年の條に見える巫部連もまた朝廷の巫を管理する家であつたらう。巫は民間に普く存在したのであるが、朝廷にもそれが置いてあつたことは、改新後の神祇官に多くの巫があつたことからも推測せられるので、これもやはり大化以前からの因襲が持續せられたものに違ひない。姓氏録及び仁明紀承和十二年の條に巫部連の起源として、雄略天皇の時に筑紫の奇巫を迎へて天皇の病を治し奉つたといふ話があるが、姓氏録に記されてゐる家々の祖先の物語の全體の性質から考へても、この話が事實でないことは明かであらう。たゞ、朝廷所屬のものとして語られてゐることに注意すべきである。(神祇官の巫は單に儀禮に奉仕するのみであつて、巫の本質は失はれてゐたのであるが、朝廷の巫とても、上代に於いては、必しもさうではなかつたらう。しかし、これは朝廷の巫の性質が變化したことを示すまでである。)また遊部といふものが喪葬令に見えてゐるが、これもまた上(17)代からあつたものであり、さうしてそれは朝廷の葬儀に於いて、呪術としてのはたらきをもつてゐる歌舞を奏する職掌のものであつたらう。集解に引いてある「古記」に其の由來が説いてあるが、其のうちに「天皇崩時」に奉仕したとあるのは、事實に根據のあるもので、それは上に述べた諸家の由來に關する説話と同じ意味に於いて眞實である。しかし、此の「古記」の遊部といふ名の起源を説いたところは事實ではないので、これは「遊」といふ語に因んだ説明説話に過ぎない。死者のあつた時に其の家で歌舞し、それを「遊ぶ」と稱したことは、古事記の神代の物語にも見えてゐて、上代の風習であつたことは明白である。生目天皇の裔と稱するものは其の首長であつたらうが、其の部下の遊部は「野中古市人歌垣之類」とあるのを見ると、微賤のものであつたらしいから、其の首長とても伴造としてカバネなどを有つてゐるものではなかつたらう。後になつて世に知られなくなつたのも、一つは此の故であらうか。しかし、大日本古文書にある天平勝寶三年の茨田久比麻呂解には、遊部を氏の名としてゐるものが見えるから、遊部が一つの部として上代に存在してゐたことは、確かである。死者のあつた時に遊びをすることは一般の風習であつたに違ひないが、遊部といふものは特殊の關係を朝廷にもつてゐたものであることが、此の「古記」の記載によつても分明である。或はまた敏達紀六年の條に「詔置日祀部」とあり、其の首長の家であらうと推測せられる日奉造といふものも天武紀十二年の條に出てゐる。其の職掌は知り難いが、名によつて考へると日の崇拜に關係のあるものであるらしい。もしさうとすれば、それが民間の風習に起源があることは疑が無からうが、日祀部といふものは朝廷に隷屬する特殊のものとして書記の編者の考へてゐたことが「詔置」と書かれてゐることによつても、明かである。其の他のものも、之によつて類推すべきである。
(18) さて、これらの部は、朝廷に於いて一定の職掌を有し、或は朝廷に隷屬して或る職業に從事するものであり、伴造は其の首長の地位にあるものであつたことの明かなものであるが、名稱の上から見ると、それとは同一視しかねるやうに思はれるものもあるので、例へば山部(又は山守部)とか海部(又は海人部)とかいふやうなものがそれである。しかし、よく考へると、これらもまた同じ性質のものであることが知られるので、山部は朝廷所屬の御料山林を管理するものか又は山林の産物を朝廷に供給するものかであらうし、海部もまた朝廷に海産物を供給するものであることが推測せられる。山部についての第一の臆説は、朝廷御料の田の耕作を管理するものが田部であること、また山部が山守部ともいはれたことからの推測であるが、海部の例からいふと、第二の如くも考へられ、其の何れであるかが判然しない。何れにしても、山や海の全體のことがらに關係のあるものでないことは、廣大な山や海のことがらについて統一的制度を立てるやうなことは、到底上代にあり得なかつたはずであることからも、考へられねばならぬ。また海部が朝廷と直接の關係があるとすれば、それは海産物の供給の外には無いことが、自然に想像せられるので、仁徳紀の卷首に見える鮮魚の苞苴の話もまたそれを示すものであるが、さうすると、それは上に記した阿曇連の管理するところであるから、別に海部の名のあるのが解し難くも思はれる。應神紀三年の條に、處々の海人が騷いだので阿曇連の祖大濱宿禰にそれを鎭めさせ「海人之宰」とした、といふ話の作つてあるのも、履仲紀に淡路野島海人が阿曇氏の配下として記されてゐるのも、また之を證するもののやうである。ところが、天武紀十三年の條に凡海連といふのがあつて、名稱の上から考へると、それは海部の首長の家らしいが、姓氏録にそれを阿曇連と同祖の家としてあるのを見ると、此の家は阿曇連と同じやうな地位と職掌とを有つてゐたものであることが、推測せられる。多分それは阿曇(19)氏よりも後になつて起つた家であらう。さう見れば、上記の疑問はおのづから解釋せられる。豐後國の戸籍に阿曇部があり海部があるのを見ても、海人について此の二氏があつたことは疑があるまい。なほ一言すべきは、古事記の應神の卷に「定賜海部山部山守部」と見え、また應神紀五年の條に「定海人及山守部」とあることであるが、これは大山守命といふ皇子の名のあるところから、此の朝に山部の起瀕を置いたので、海部のは、海が山に對するものであるため、それにひかれて同じ時のこととしたものらしく、それは古事記の別のところに「大山守命爲山海之政」とあることからも、推測せられる。(この山海云々は宇遲能和紀郎子の「所知天津日繼」、大雀命の「執食國之政」に對するものであつて、其の根柢には、神代史の日の神と月の神及びスサノヲの命との分治の物語に似た思想があるのであるが、山海之政としたのは大山守の名に因んだものに違ひない。應神紀四十年の條の「任大山守命、令掌山川林野、」とあるのは、大山守の名に重きを置いたために、古事記の説を改めて海を削つたものである。なほ古事記の山部と山守部とは、宣長の説の如く、重複と見なければなるまい。)顯宗紀元年の條に山部連の由來を説いた話があつて、應神紀の記載とは全く別の考から出た物語であるが、これは山部氏の系譜からでも出たものらしく、應神紀のよりも早く作られてゐたのではあるまいか。
 歸化人の子孫が伴造となつてゐる部もまた同樣である。歸化人によつて、文筆記録のことは勿論、種々の新しい工藝技術が傳へられ、それがみな朝廷に用ゐられたことは、周知の事實であるが、其の重要なるものについては部が編成せられ、歸化人の子孫が世襲的にそれ/”\の部を管理する伴造となつた。例へば東西の文部は朝廷の記録を掌るものであつて、文直と文首とは其の首長たる伴造であり、錦織部鞍部は朝廷の調度としての錦を織り鞍を作るものであ(20)つて、錦織造と鞍作村主とは其の伴造である。藏部が朝廷の藏、從つてまた財政、を管理するものであつて、内藏造及び大藏造が其の伴造であることは、いふまでもなからう。これらが民間の職業でないことは、藏部の一例を見ても明かである。かういふ職業が民間にあるべきはずが無いではないか。
 かう考へて來ると、伴造は何れも朝廷に於いて何等かの地位と職掌とを有するものであり、朝廷の制度として存在するそれ/”\の部の首長であることは、疑を容れないであらう。しかし其の統率する部の状態は必しも一樣ではないので、忌部とか語部とかいふやうに、朝廷に於ける一定の勤務に服するものと、物部とか大伴とか佐伯部とかいふ武人と、田部といふ御料の田とそれを耕作する農民とを管理するものと、玉作部とか土師部とか海部とかいふやうに、用度品の調製、食料の供給を掌る、約言すれば何等かの産業に關するものと、馬飼部とか鳥養部とかいふ地位の低いものとは、其の部の組織や部と其の首長たる伴造との關係などに於いて、種々の差異があつたはずである。が、それは後にいふこととして、これらのいろ/\の部の首長たる伴造は、一般に其の生活の基礎として彼等に隷屬し彼等に租税を納入する農民を部民として有つてゐたはずであつて、それは既に述べた如く、孝徳紀に見える詔勅によつても明かであり、また上に説いた中臣氏の例からも類推せられる。こゝで部といふ語が二樣に用ゐられるやうになるので、伴造に隷屬して直接に朝廷に於ける何等かの職掌を有し、其の勤務に服するものの一くみも、件造の部民、即ちそれに租税を輸する農民の一團も、同じやうに部といふ語でいひあらはされるのである。さて後の意義に於いての部を組成するもの、即ち部民、が農民であつたといふ實例は、上にも述べた戸籍や計帳などによつても知られるので、それらを見ると、膳大伴とか語部とかいふやうな部の名は勿論、特殊の産業に關係のある部の名さへも、地方の農民によつ(21)て氏の名として用ゐられてゐたことは、明かである。語部の例をいふと、それは出雲にも美濃にも遠江にも備中にも見えるが、出雲風土記に見える語臣、また正倉院文書の備中國大税負死亡人帳の語直、出雲大税賑給歴名帳の語君といふのも、續紀に累見するカバネを賜つた多くの例から類推すると、語部の部民中の有力者であつて、特に臣などのカバネを有つてゐたものと考へられる。(「儀式」によると、大甞會の場合に地方から「語部」を召集することになつてゐるが、これは語部の遺風を儀禮の上で存續するために、昔の語部の部民のあつた國から、臨時に此の名によつて召し出されたものらしく、それは何れも農民であつたらう。民間に語部と稱し「語ること」を職業とするものがあつて、それを召集したといふのではない。物部門部をも語部と同じやうにして地方から召集したのでも、それは明かである。物部や門部といふ職業が民間にあるはずは無い。なほ附言するが、上記の大甞會の場合には、語部は物部門部と共に衛門府の上申によつて召集せられ、卯の日の式には大伴佐伯二氏がそれを引率することになつてゐるが、これは此の儀禮の定められたころに語連の家が斷えてゐたからではなからうか。物部が石上榎井二氏に、門部が大伴佐伯二氏に引率せられてゐるのに、語部のみがかう取扱はれるのは異樣だからである。姓氏録は天語連の名が見えるから、もしそれが語部の首長であつた家であるならば、弘仁時代に存在した此の家が「儀式」の編纂せられた時代には亡くなつてゐたのではならうか。それから、此の時に語部が、吉野國栖や楢笛工が古風を奏し、悠記主基の國の歌人が國風を奏したあとで、古詞を奏することになつてゐるのは、大伴佐伯二氏が門を開閉し、高橋阿曇二氏が御膳を供し、車持、子部、笠取などの家々がそれ/”\氏族制度時代の職掌にょる任務につくと同じであるから、それは語部の昔の職掌が、國栖の歌舞などと同じほどに視られる、娯樂的の、語りごとを奏することであつたことを證するものである。)或は(22)また車持君といふのは朝廷の車の製造を司る家であつたらうが(「儀式」の大甞會の卯の日の條に「車持朝臣一人執菅蓋」とあるのは、多分、車を用ゐる時の職務から轉じたのであらう)、履仲紀五年の條に車持君が筑紫の車持部を檢校し神に寄進してあるものをも取つたといふ話があつて、それについて、車持君とても天子の百姓を檢校することはできず神に寄進したものを取ることもできないはずだといふので、罰せられたとある。これは、天子の百姓云々といふ語のあることから見ても、大化改新以後の思想で作られた話らしく、從つて考へ方に混雜があるが、車持部といふのが車持君の部民たる農民を指してゐることは、話そのものに於いて示されてゐるのみならず、「校車持部」と「檢校天子之百姓」とが同じ意義に用ゐられてゐる文字の上からも、明かである。實際、筑紫の農民に其の部民があつたことは、豐前仲津郡の戸籍によつても知られる。
 さて、これらの例に於いては、中臣氏や忌部氏の場合と同樣、部民は租税を主家たる伴造の家に納入するだけのものであつたらうが、伴造の職掌によつては、其の職掌と密接の關係を有つてゐた場合もあるらしい。例へば、物部氏や大伴氏や佐伯氏などは、其の部を組鐵し其の職務を施行するもの、即ち皇居の守衛もしくは一般の軍務に服するもの、を多く要したのであるから、それは、多分、部民たる農民から徴發したのであらう。このことについては文獻上の明徴は乏しいが、反證の無い限り、かう推測する外はあるまい。雄略紀十八年の條に、物部目連の部下として筑紫聞物部大斧手といふものが戰場ではたらいた、といふ話があるが、聞は豐國の企救であらうから、これは物部氏の部民が企救にあつたことから作られたものであらう。物部氏の部民が豐國にあつたことは、戸籍によつても明かである。さすれば、これは上記の推測の一證となるものであらう。物部氏は一時強大なる權勢を有つてゐたのであるから、其の部民(23)も甚だ多かつたに違ひないので、書紀や續紀に散見するところを見ると、物部を冒す家が頗る多く、「ものゝふの八十氏」と稱せられたのも此の故であらうと思はれるが、彼等は、多分、かういふ部民中の豪族であり、主家に隷屬して朝廷の勤務に服してゐたものであらう。續紀延暦九年十一月の條に見える韓國連の上言に「夫物部連等、各因居地行事、別爲百八十氏、」といひ、物部の名を冒すこれらの多くの家々を、物部氏の宗家から分出したものであるが如く説いてゐるが、それは名稱から來た附會であつて、其の實、彼等を盡く同族と見ることはできなからう。現に姓氏録を見ると、物部を稱しながら皇別たることを主張する家もあり、神別の中でも其の祖をニギハヤビの命としないものがあるが、上に中臣氏や忌部氏について述べたところを參考すれば、其の意味はおのづから領解せられるであらう。大化改新以後新にカバネを賜はつたもの、例へば續紀寶龜八年十一月の條に見える物部多藝宿禰及び物部多藝連の如きは、氏族制度時代の物部氏の職掌とは關係なく、たゞ其のころの物部氏の部民であつたために、物部を氏の名としてゐるに過ぎないものであるから、それがカバネを與へられたのは全く別の事情によるものであるが、これもまた物部氏の部民が地方にあつたといふことの一證にはなる。また佐伯氏の如きも、諸國に其の部民たる農民のあつたことが、仁徳紀三十八年及び四十年の條などに見える説話によつて推測せられるので、これらの説話は書紀編纂のころに安藝や播磨に佐伯を氏とするもの、即ち氏族制度時代に佐伯氏の部民であつたもの、があつたことから構想せられたものである。姓氏録にも、佐伯直、佐伯連、佐伯造などが、佐伯宿禰の家と系譜を異にしてゐるやうに記されてゐるので、これらも、また物部氏の例によつて考へらるべきものであらう。
 それから、田部といふ伴造の家は、その職務として御料の田を耕作する農民を管理すると共に、自己の家に隷屬し(24)租税を約める農民を、部民としてもつてゐたと考へられる。さうして農業のほかの産業に關係のある伴造も、また同じやうに農民を部民として有つてゐたことが想像せられる。一般的にいふと、分業が發達せず多くの生業は概して農民の兼業であつたと思はれる上代に於いては、事實上、農民と特殊の産業に從事するものとが、明かに區別せられない場合が多かつたであらうから、かういふ産業に關係のある伴造とても、或は後の令の規定に見える品部の如く、農民中の特殊の技藝のあるものを、一定期間徴發して製作に從事させるか、或は大化改新後の調の如く、農民からそれぞれの製作品を納入させるかして、それを朝廷に供給したものもあつたであらう。從つてさういふ農民を部民として有つてゐたであらう。勿論或る程度の商業は物々交換によつて行はれ、從つて農民ならざるものも幾らかは民間にあり、彼等は何等かの職業によつて生活してゐたでもあらうし、特に歸化人の將來した新工藝に於いてさうであつたらうから、朝廷の伴造もまたさういふ職業に關係のあるものは、それ/”\の生産に從事するものを部民として有し、それから納入する製作品を處理することによつて、生活することができたでもあらうが、それにしても、地位があり勢力がある家は、やはり自家の部民としての農民を領有するやうになつたであらう(歸化人については後文參照。)或はまた家によつては少數な直屬工人を置いたものがあつたかも知れぬが、もしさうならば、さういふ工人を生活させ、併せて伴造自身の生活を維持するために、やはり農民たる部民を有つてゐなければならなかつたはずである。阿曇氏や凡海氏の如く漁民と特殊の關係を有する家は、一定地方の漁民をその部民としてゐたであらうが、彼等とてもまた農民を領有するやうにならなかつたとはいはれない。これらのことは、職業により伴造の家により其の家の勢力の強弱により、又は時代により場合によつて、一様ではなかつたでもあらうが、農業が生活の基礎であつた上代に於いては、(25)大體、かう觀察しなければなるまい。かう考へて來ると、例へば海に縁のある阿曇氏の部民が海に縁の無い土地にあつたやうなことが、あつたかも知れぬ。信濃の安曇郡のアヅミはもとからの地名であつて、阿曇氏とは何の縁も無いものであり、たゞことばが同じなだけであるらしい(ことばの意義は何れの場合に於いても明かでないが)。が、もし假に、世間で多く考へられてゐる如く、それが阿曇氏に縁のある土地であつたために此の名を負ふやうになつたのだ、としたところが、上記の考説から見れば少しも怪しむには足らぬ。或はまた土師部を氏とするものが農民にあつても、不思議ではない。概していふと、伴造の職掌如何にかゝはらず、彼等は農民を其の部民として有つてゐたのである。
 さて、伴造の部民は、かういふ風にして、それ/”\各地方に散在してゐたのであるが、それは子代部名代部などの部民、もしくは特殊の職掌を有たない權家の私有民が、それ/”\各地方に散在してゐたのと同じであり、孝徳紀に見える大化二年の詔勅に「以其民品部、交雜使居國縣、」とあるのも、かゝる状態を指すのであらう。雄略紀二十三年の條に見える遺詔といふものに、大伴氏について「民部廣大、充盈於國、」とあるのも、かういふ部民が諸國に※[行人偏+扁]在することをいつたものであり、書紀の編者が伴造の部民のかういふ状態をもとにして書いたものである。(こゝに民部としてあるが、これは大化二年八月の詔勅に「民品部」とあるのと同じいひかたであつて、何れも部民といふ意義である。天智紀三年の條にある法制上の用語たる「民部」とは違ふものと見なければならぬ。上に引いた雄略紀十七年の條の土師連に關する記事に「私民部」といふことがあつて、これは文面の上に於いては土師氏に隷屬して土器製造に從事するものを指してゐるやうにも見えるが、筆者は所屬の民といふ漠然たる意義に用ゐたものらしい。この記事は大化改新以後に作られた話であり、土器製造者のゐる所々の土地を列記したものであつて、歴史的事實の記載ではないから(26)である。安閑紀元年の條にこれと一致しない、少くとも關係の不明な、記事のあることも、此の點に於いて考へられなくてはならぬ。「民部」の上に特に「私」の字を加へてあるのも、大化改新以後の思想から出てゐる。書紀の用語法はかなり杜撰であるから、それをそのまゝにとつて嚴格に解することはできぬ。)或はまた仁賢紀五年の條に、普く國郡に散亡せる佐伯部を求めて佐伯部仲子の後を佐伯造としたとあるのも、諸國に佐伯氏の部民があつたといふ事實に其の基礎がある。(此の話が大化以後に作られたものであることは、國郡云々の文字によつて明かである。また此の話に於いては、仲子は佐伯部の部民であつたのが、市邊押磐皇子の帳内になつてゐた關係から、其の子孫が造のカバネを賜はつたといふのであつて、それはもとの伴造の部民であつた農民にカバネを賜はつたといふ續紀に屡々見える多くの例と同樣であるが、これもまた或は、大化改新以後に於いて新にできた佐伯造の家の起源を、古のこととして説いたものかも知れぬ。上に述べた如く、此の家は天武朝に宿禰を賜はつた佐伯連とは祖先を異にしてゐる如く、みづから主張してゐることをも、考ふべきである。なほ、此の話がもし佐伯部の全部を此の家が統率した如く説かうとしたものであるならば、それは事實に背いて構造したものである。佐伯部を統率したものは佐伯連の家であつたはずだからである。)また高橋氏文に、其の祖に諸國の人を賜うて膳大伴部とせられたとあるのも、同じやうな事實に基づいて作られた話である。
 上記の考説は、朝廷の伴造となつた歸化人の家についても、また同樣に適用せられる。漢直、文首、舶史、秦造、などは其の有力なものであるが、彼等もまた其の生活の經濟的基礎としての部民たる農民を有つてゐたに違ひないので、漢部、秦部、秦人部、などの名を負うてゐるものが正倉院文書の戸籍などに見えるのは、即ちそれを證するものであり、(27)それらは何れも主家に租税を約める農民であり、日本人である。古事記の履仲天皇の卷に阿知直について「始任藏官、亦給粮地、」とあるのは、漢直の家に粮地があつたところから構想せられた物語に違ひなく、それによつて朝廷に用ゐられた歸化人の一般の状態を知ることができる。歸化人を尊重せられ其の技藝を採用せられた朝廷は、彼等にかういふ粮地、いひかへると領土と其の地の農民と、を與へられたのである。續紀延暦二年七月の條に越前國人秦人部武志麻呂に本姓車持を賜ふとあるが、これは、もとの車持部の部民であつてそれを氏の名としてゐたものが、如何なる事情かで秦人部の名を冒すやうになつてゐたことを、示すものであり、秦氏の部民が、日本人たる一般伴造の部民と同じく、日本人であつたことを語るものである。姓氏録の山城國神別の部に秦忌寸のあるのも、秦氏の部民であり從つて秦を氏の名としてゐた此の家が、日本人であつたため、系譜を作るに當つて神代史上の神を其の祖先としたものである。なほ續紀神龜二年正月に「漢人法麿、賜姓中臣志斐連、」天平二十年十月に「廣幡牛養、賜素姓、」天平勝寶四年十月に「伊勢國飯野郡人飯麻呂等十七人、賜秦部姓、」また同八年七月に「河内…漢人廣橋、漢人刀自賣等十三人、賜山背忌寸姓、」とあり、神護景雲元年十二月に「伊勢國飯高郡人漢人部乙理等三人、賜姓民忌寸、」と記してあることを、考ふべきであつて、かういふことの行はれたのは、秦とか漢とかいふ氏の名をもつてゐるものが日本人であつたからであることを、示すものである。もつとも、秦とか漢とかいふ名を冒したがために、其の祖先をシ《*》ナ人としたものも少なくなかつたに違ひなく、姓氏録の蕃別のにはさういふものが多く含まれてゐるらしく推測せられるが、これは神々や昔の皇族を祖先としたのと、同じ心理から出たものであり、何れも造作したことであるから、實際の血統を考へる材料にはならない。當時の思想に於いては、シナや百濟の帝王を祖先とするのも、神々や昔の皇族の子孫たること(28)を主張するのも、其の間に大なる差異はなかつたのである。
 さて、歸化人のかういふ領土部民は、初めは朝廷から賜はつたであらうが、家によつては、一般の伴造と同樣、種々の事情、種々の方法でそれを擴張し、地民を多く獲得するやうになつたものもあらう。漢直の祖の阿知使主が十七縣の黨類を率ゐて歸化したとか、秦造の祖の弓月君が百二十縣の人夫を領して來たとか、いふ話が事實でないこと、それは部民の多いところから、本國に於いて多數の民衆を領有してゐたやうに語つたものであり、何れも漢氏や秦氏の家語から出たことであらう、といふことは、曾て「百濟に關する日本書紀の記載」に於いて述べたところであるが、それは、上に説いて來たやうな伴造と其の部民との關係についての一般的考察の上からも、また證明せられるであらう。さうして、これは、作つた話ではあるが、部民が同一血族でも同じ職業のものでもないことを示すものである。部民が主家の管治する農民であることは、この話の作られたのでもわかる。雄略紀十五年及び十六年の條に、秦氏の民が分散してゐたのを聚めて秦の酒公に賜はつたが、それをさらに散遷させたとあり、漢部についてもまたそれを聚めて伴造を定めたとあるが、これらは、上に記した佐伯造の例と同じく、秦公や漢直の部民が諸國に散在してゐるところから、構想せられたものであり、特に一旦聚めたものを再び散遷したといふのは、諸國に部民を有つてゐた實際状態に適合させるために、強ひて作つたことであつて、聚めたといふ話の虚構であることを明示するものである。(古語拾遺に、此の十五年の條の記事を殆ど其のまゝ取つてあるが、そこには原文の「秦民」を「秦氏」としてある。「民」でなくては意義が通じないが、かう改めたのは、秦氏の部民が秦を氏の名の如く用ゐてゐたからのことかも知れぬ。)多數の民衆を率ゐて來朝歸化したやうに説いたり、朝廷でそれを聚散させたやうに記してあるのは、或は百濟滅亡後、韓人(29)がやゝ多數來歸したことがあり、それを政府で所々に置いたり移したりしたことから、思ひついて造作せられたものではなからうか。古事記には秦造漢直の祖が來歸したとあるのみで、多數の民を率ゐて來たやうなことは毫も見えないところを見ると、かういふ話は、よし二氏の家譜から出てゐるにしても、それが作られたのは決して古いことではないに違ひない。秦氏のカバネは造であるが、このカバネは普通の伴造のもつてゐたものであつて、特に地位の高いもののそれではないやうであるから、秦氏は本來、さまで有力の家ではなかつたのが、如何なる事情かで多くの地民を占有するやうになつたものらしい。雄略紀の物語もまたそれを暗示するもののやうであり、さうしてそれは比較的新しいことであつたらう。欽明紀元年の條に「召集秦人漢人等諸蕃投化者、安直國郡、編貫戸籍、秦人戸數惣七千五十三戸、」とあるのも、同じやうな思想から作られたものであるが、國郡と書かれ「編貫戸籍」とせられてゐるのを見ると、それは如何に早くとも大化改新以後の考案であることが知られよう。七千五十三戸といふやうな精密な統計が其のころにあつたはずも無く、またそれを人口として見れば、少く見つもつても三四萬に當るであらうが、さういふ多數の歸化人があつたといふことは、如何なる點からも考へ得られざることである。續紀寶龜三年四月の條に見える坂上苅田麻呂の上言に、阿智使主が十七縣の人夫を率ゐて歸化したことを述べ「詔賜高市郡檜前村而居焉、凡高市郡内者、檜前忌寸及十七縣人夫、滿地而居、他姓者十而一二焉、」とあるに至つては、妄言も甚しいので、高市郡の如き大和朝廷の政治上の中心に近い土地の大部分が、歸化人によつて占居せられるやうな状態にあつたはずの無いことは、いふまでもない。これは檜前附近にもとの漢直の部民、即ち戸籍の上で漢部を氏の名として名のつてゐるものが多かつたために、かういひなしたものであらう。「他姓」云々の語は即ちそれを證するものである。坂上系圖に誣妄の記載(30)があることと共に(「百濟に關する日本書紀の記載」參照)、此の家の虚勢を張らうとした態度が之によつても知られる。續紀天平寶字二年六月の條に桑原史の男女一千餘人が上言したとあるが、これもまた部民たる農民てあつたと見なければならぬ。書紀に見える弓月君や阿知使主が多數の民を率ゐて來たといふ話は、所謂慕化來歸の思想に適合するものであるため、シナ思想に基づいて種々の説話を作つた書紀の編者には、喜んで用ゐられたであらうが、奈良朝末に於けるかういふ上言などは、たゞ家々の家系を誇るに過ぎないものであつたらう。(部民の問題には關係の無いことであるが、歸化人の家で系譜や祖先の物語を作り加へてゆく他の一例をこゝに擧げよう。文首の祖となつてゐる王仁が百濟人として語られてゐたことは、記紀の記載をすなほに讀めばおのづから明かであるが、延暦十年の文忌寸の上言には、それを漢高帝の後といつてある。此の上言は、もとの文直の家が宿禰となつたのに對し、それと同地位を得んがための奏請であるから、彼の家が後漢靈帝の裔と稱したに對し、新に遠祖の名を漢高組に託したのである。昔は百濟の名が尊敬せられたが、當時はそれが亡國のひゞきを有つ。漢人の名に對抗するには、やはり漢人の名を以てする必要があつたであらう。)
 歸化人のことを説いた因みに一言すべきは佐伯部のことである。佐伯部は蝦夷であるといふやうな説がかなり廣く世に行はれてゐるらしいからである。先づ伴造たる佐伯氏のことを考へるに、佐伯連の名は天武紀十三年の條に見えてゐるが、此の家が大伴氏と共に皇居守護の職務を有つてゐたものであることは、續紀天平勝寶元年の條に出ておる宣命に、此の二氏のことを「天皇がみかど守りに仕へ奉る」といつてあるのでも知られ、また寶龜二年の大甞會の記事に大伴佐伯二氏が門を開くことが見え、「儀式」にも延喜式にも大甞會の條と同じことが記されてゐて、それは即ち宮(31)門警衛の任に當つてゐた古い習慣が、儀禮の上に遺存してゐるものに違ひないから、姓氏録に大伴佐伯二氏が共に衛門開闔を掌つたと記してあるのは、大化改新前の事實が傳へられてゐるものと認めねばならぬ。此の二氏を同祖としたのも、之がためであらう。仁徳紀三十八年の條に見える兎餓野の鹿の物語に於いて、天皇が「佐伯部不欲近於皇居」と仰せられたとあるのも、また此の事實から構想せられたものである。サヘキのサヘは塞または障とでもいふべき意義の語であり、キは、城の字がそれにあてられてゐる場合があるのでも知られる如く、區劃せられた一定の場所の意義をもつ語であるらしく、從つてサヘキは宮門を守護するものとしては最も適切な名稱である。さすれば、佐伯氏が、すべての伴造と同樣、朝廷に於いて特殊の職掌を有つてゐるものであることには、何の疑もなく、從つて佐伯部の部民が各地方にあり、それが日本人たる農民であるといふ、上に述べた、考にも異論は無いはずである。ところが、景行紀五十一年の條に、日本武尊が捕虜とせられた蝦夷を諸國に置いたのが播磨、讃岐、伊勢、安藝、阿波、五國の佐伯部の祖であるといふことがあるので、佐伯部は蝦夷であるといふ説がこゝから出るのである。此の話は、「日本古典の研究」の第二篇に述べた如く、書紀の日本武尊の物語全體が天武朝ごろに改作せられたものとしなければならぬものであることから考へても、またこゝに擧げてある國名が大化以後の行政區劃のであることから見ても、新しく造作せられたものに違ひなく、決して古い事實を傳へたものでは無い。蝦夷の俘囚を京畿に送つたことは、正倉院文書にある天平十年の駿河國正税帳にも其の例が見え、また記録が無くとも蝦夷征討の場合には有り勝ちのことであつたと想像せられるから、如何なる場合かのさういふ俘囚を何等かの事情から佐伯氏が管理し、其の部民の存在する地方に配置したことがあつたので、それが斯ういふ物語の材料とたつたのであらう。さうして、もし推測を加へるならば、さう(32)いふ俘囚が、隼人の例の如く、宮門の守衛として使役せられたことがあるのではないかと思はれる。續紀和銅三年正月の朝賀の記事に「隼人蝦夷等亦在列」とし「佐伯宿禰……等……引隼人蝦夷等而進」としてあるのが、この推測のあたつてゐることを證するものであらう。此の物語によつて佐伯部の部民が蝦夷であるといふやうな推測をすべきものでないことは、勿論である。姓氏録右京皇別の部に見える佐伯直の祖先の物語は、此の景行紀の記載に基づいて作られたものであるが、その蝦夷が播磨の山間にある一小部落として語られ、其の管理を命ぜられたといふ佐伯直の家が、佐伯宿禰の家とは系譜を異にしてゐるやうに作られてゐることをも、考へるがよい。此の佐伯直の家は、多分、播磨地方の佐伯部の部民の間に於ける有力者であつたらうと思はれ、從つてそれは蝦夷のみを管理する家ではなかつたにかゝはらず、系譜を作るに當つて景行紀の記載を採つたため、かういふ話ができたのであるが、それにしても其の話に於いて、蝦夷が佐伯部中の一部分のものに隷屬する極めてさゝやかな部落とせられてゐるのは、話の作者が佐伯部そのものを蝦夷とは考へてゐなかつたからであり、さうしてそこに佐伯部の部民の状態が熟知せられてゐた時代の知識があるのである。或はまた、佐伯の名が常陸風土記に見え、「山之佐伯、野之佐伯、」とあるので、それを蝦夷と解する考があるやうであるが、これは土蜘蛛とかこの記の國栖とかいふのと同樣、物語の上で土賊を指す稱呼であつて、それを異民族の名として見るべき徴證は少しも無い。此の場合のサヘキも、やはり塞城とでも書くべき意義の語であり、所謂「普置掘土窟、常居穴、」がよくそれを示してゐる。山や野に普通人のよりつかれないやうな窟宅、即ちサヘキ、を作つてゐたものといふので、かう呼ばれたのである。さういふものがゐて時々人里をあらしに出て來るといふのは、民間傳説などに存在してゐたことらしく、「山之佐伯、野之佐伯、」といふやうないひ現はしかたによつ(33)ても、それは知られるが、それが風土記に於いては朝命を奉ぜぬものとなつてゐるのである。
 以上、余は伴造が朝廷に於いてそれ/”\の職務に服する一くみのものを統率すると共に、他方に於いては農民を領有したことを述べ、それが何れも部と稱せられたことをいつたのであるが、こゝまで説いて來たところで、立ち歸つて部の字によつて記されてゐる「べ」の語の意義を考へるのが便宜であらうと思ふ。これについては世に種々の見解があるやうであるが、余はそれを部の字の音とし漢語とする故内田銀藏氏の説(日本經濟史の研究下卷日本上代の氏族制度について)に賛成するものである。部の性質がもし果して上記の如きものであるならば、「ベ」を本來の國語として解釋することは困難だからである。部の字の音をベとすることには幾らかの疑を容れ得るやうでもあるが、記紀に於いては倍陪などの字を何れもベの音に用ゐてあるのを見ると、部の音もまた同樣であつたとして支障は無ささうである。もつとも、モノノフのフは物部の部の字の音であるにちがひないから、部をフともいつたことがそれによつて知られるので、此の方が當時のシナの音に近いやうであるが、部にかういふ二つの音があるのは、多分、傳來の徑路と時代とが同じでなかつたからであらう。詳しくいふと、ベは古い時代に百濟人から傳へられた音であり、フは後になつてシナ人から學んだものではなからうか。後にいふやうに、部を上記の意義に用ゐることが百濟の例に倣つたものらしいことと、物部氏が新しく興つた家であり、さうしてモノノフの稱呼は此の家の勢力が強かつたところから生じたものと思はれることとを、參考すべきである。(繼體紀元年の條に色部と書いてある人の名はシコフであらうから、これも部をフの音にあてたものであるが、この書きかたも新しいものであらう。)が、それはともかくも、物部をモノノフといつたことは、部の字によつて示される語が國語でなくして漢語であることの一證であらう。さて、部と(34)いふ漢語は、其のはじめは、國語のトモ(伴)に相當するものとして用ゐられたのであつて、それは伴造といはれてゐるものが部の長であることからも推測せられる。古事記の神代の卷に「五伴緒」とあるのを、書紀の注の「一書」には「五部神」と書いてあるが、これもまた部がトモの義であることが書紀編述のころにも知られてゐたことを證するものである。上に百八十部といふ稱呼が百八十伴緒の譯語であらうといつたのは、之がためである。神代紀や推古紀十年の條などの神部を昔からカムトモと訓んで來たのも、古くからの傳承であらうし、垂仁紀三十九年の條に一千口の劍を作つてそれを川上部とも裸伴とも名づけたとあるのも、此の話の作者が部と伴とを同義としてゐたことを示すものらしい(古事記を參照すると、此の物語のはじめから川上部が劍の名とせられてゐたかは疑問であり、裸伴といふ名の意義も明かでないが、それはこゝでの問題ではない)。萬葉の六の卷の高橋蟲麻呂の歌に「伴の部」といふ語があるが、これはトモと部とが同じ意義であるために、それを重ねていふ場合も生じたことを示すものであらう(もつともこの歌のは、部下といふほどの義に用ゐてあるので、制度上の稱呼としてのトモと部との意義が嚴密にあらはれてゐるのではない)。ところで、朝廷の制度としてのトモは、一定の職掌を有する一團のものであつて、數多きそれらの集團を總稱して八十伴緒などといふのであるが、大伴といふ名は、トモといふ語が其のまゝかういふ一團の名となつたものであつて、それは、多分、此の一つのトモの人員が多かつたからであらう。しかし、すべてのトモが一々トモの語をつけて呼ばれたには限らず、例へば鏡作のトモとも玉作のトモともいはれずして、單に鏡作玉作と稱へられてゐたでもあらう。が、部といふ文字がトモのことに用ゐられてからは、それが、大伴などの少數の例外を除いて、多くのトモの名に附けて記されるやうになつたらしい。もつともさういふ場合でも、口にする時に一々「ベ」の語を(35)つけたかどうかは問題であつて、伴造の家の名に兒部とか漆部とか稱するものがあると共に、トモの名としては明かに土師部、犬養部、鳥取部、語部、などと書かれてゐるにかゝはらず、土師、犬養、鳥取、語、などといつて部の字をつけない伴造の家の名が少なくなく、掃部や服部などのやうに部の字を書いてあつても「ベ」といふ語をいはないものさへあるのは、それ/”\のトモを、文字には部と書いても、口では一律に「ベ」をつけて呼ばなかつたからであらう。これは何となき習慣であらうが、口調の便宜から來たことが多かつたらうと思はれる。さうして、かういふ風に部の字を書くことが口にする語と必しも相伴はないのは、それが國語を寫した文字でないことを示すものであらう。
 然らば部といふ漢語が如何にして此の意義に用ゐられるやうになつたかといふと、それは朝廷の記録を掌つてゐた百濟の歸化人が、其の本國の習慣を適用したものであらうと臆測せられる。周書の百濟傳に「各有部司、分掌衆務、」として官司の名を部と稱したことが見え、其の中には穀部、肉部、馬部、刀部、藥部、木部、などの名も見えてゐるが、此の「部」はシナ人の假に名づけたものではなくして、實際、百濟に於いて用ゐられてゐた稱呼であることが、孝徳紀大化元年の條に見える鬼部達率意新の鬼部もやはり其の例であるらしいこと、部の意味は違ふけれども、同じく周書に都下の五部として記されてゐる上部前部中部下部後部の名が實際の稱呼であつたことから、推定せられる。百濟の制度に於ける此の名稱が何時から始まつたかは明かでなく、周書の記載はそれがよほど整頓した時代のものであらうが、六朝時代のシナの官制に於いて尚書の部局に部と稱するものがあつたので、そこに一つの由來のあるらしい百濟の此の名稱は、かなり早くから行はれてゐたであらう。さうして、例へば村主といふカバネが韓地の爵位の名を適用したものであることを思ふと、制度上の稱呼に百濟から來てゐるもののあることを推測するのは、無理ではあるま(36)い。(使主といふカバネも韓地に用ゐられた稱呼ではあるまいか。州主、郡主、寺主、軍主、などの名稱が三國史記の新羅紀に記されてゐ、欽明紀には百濟の官名として城主といふのが見えること參照。地方區劃に評の字を用ゐることも、大化以前からの習慣であらうし、郡を大化の制度の如き狹小なる區割の名とすることも、韓地の例に從つたものらしい。欽明紀十二年の條並に三國史記新羅紀眞興三十二年の條、參照。)我が國のトモが百濟の部と同じであつたといふのでないことは、百濟の部がシナの官制のそれと同じであつたとはいひ難いのと同樣であるが、こゝでいふのは、たゞ職務を分掌する部司をかういふ名で呼んだことについての話である。さうして、更に推測を進めるならば、部の稱呼を用ゐたのは、新に歸化人によつて組織せられたトモに始まり、それから古來存在したトモに及ぼされたのではなからうか。さうして、それが一般の習慣となり「ベ」が國語化して來ると、それから後、新に設けられたトモは、初から某部と呼ばれることになつたのであらう。イミ部やモノヽ部の如きは、或は其の例ではあるまいか。これらは「ベ」といふ語が名稱の不可分の要素となつてゐるからである。ところが、部の語は百濟に於いて上に述べた五部、即ち都城の人民に對する行政區劃、を示すものとしても用ゐられてゐ、シナでも、部曲などといふ熟語でも知られる如く、何人かの配下に屬する民衆の一團を指す場合もあるのであるから、伴造の部民をもまた同じく部といふやうになつたのも、怪しむに足らぬ。欽明紀十三年及び十四年の條の百濟の記録から出たらしい記事に、河内部阿斯比多といふ日本人の名が見え、それが中部といふ五部の一つの名を冠する百濟人と並記してあるが、これは阿斯比多が河内の人であるため百濟の慣例に從つて、それに部の字をつけて呼んだのであらう。さすれば朝廷のトモとはちがふ或る一國の民衆を部と呼ぶことも、また百濟から學ばれたものらしい。伴造の部民は百濟の五部の民とは其の性質が同じで(37)ないけれども、これは制度そのものが違ふからであつて、民衆の一團を部と稱することには變りが無いのである。我が國に於いては、かういふ部民が本來の意義でのトモと共に、同じく伴造に隷屬するものであることが、一層此の語のかういふ適用を促がしたのであらう。部といふ名稱に二重の意義があるやうになつたのは、此の故であり、中臣氏や大伴氏や佐伯氏の部民を中臣部、大伴部、佐伯部、などと稱するやうになつたのであるが、忌部物部などの例の如く、トモの名として部の語が附けられる場合には、上に述べた如く、部民を示す部の語は省かれるのである。さうして、かうなつて來ると、トモといふ語もまた、之と同じ意義に用ゐられるやうにもなるので、百八十部曲と譯せられた百八十伴緒は即ちそれである。子代名代の民を部と稱することも、やはり此の意義の部の語が適用せられたものらしく、かういふ稱呼は比較的新しく始まつたものであらう。さうして、「子代之民」といふ名稱が上にも引いた孝徳紀の詔勅に見えることから推測すると、伴造の部民も、もとは其の伴造の名によつて其々の民といはれたのであらう。ミブ(壬生)部が皇極紀に「ミブの民」と記してあることも、參考せられる。のみならず、此の意義での部もまた、文字には書いても口にはいはれなかつた場合があるので、皇極紀に壬生部を乳部と記し、それに「乳部此云美父」と注記してあるのが、其の明かな例である。これは、乳の字をミブの語に充ててあるからであるが、此の注記によると、部の字を附けて書いてあつても、口にする時にはミブベといはずして單にミブと稱へたのである。
 なほ天武紀元年の條の和珥部臣に其の例のある如く、地方的豪族の家の名(たる地名)に部の字を附けることもあるやうであるが、これもまた伴造の領民の集團を部といつたことから轉じて、地方的豪族のそれをもさう稱することになり、更にそれから轉じたのではあるまいか。和珥部臣は古事記開化の卷の和珥臣らしく、從つてそれは朝廷の伴造(38)ではなく、和珥の地の豪族らしいからである。或はもつと簡單に、地方的豪族の地民を領有することが伴造のそれと同じであるために、伴造の家の名についてゐる部といふ稱呼を、かういふ豪族の場合にも適用したものと考へた方がよいかも知れぬ。それは何れにしても、これは、文獻の上に見える例が多くないことから考へると、一般の風習となつたのではないに違ひない。また、地名に部の語のつけてある家の名を有するものが、すべて地方的豪族をさすのでは無い。例へば日下部といふものがあつても、それは朝廷のトモ、從つてその伴造の家、の名であるらしい。其の家は、多分、日下の豪族であつたらうが、日下部と稱せられたのは朝廷のトモを管理する伴造となつたからである。此の名を負うてゐる家、從つて後にはそれが地名となつてゐるところ、が所々にあるのでも、それは知られる(家の名が日下部といはれた後には、其の本居である地名の日下が日下部ともいはれるやうになつたらしい。)なほ、子代名代の部に關する考説に於いてこのことを詳説するであらう。(地方的豪族であるか、朝廷の伴造であるか、今日からは知りかねるものもある。)それから、天武紀元年の條に山背部小田といふものの名が見えてゐるが、これは其の名稱と山城直小林と連記してあることとから考へると、山城直の部下のものであつたらしく、さうして、それから推測すると、地方的豪族の部民の一々もまた、伴造の部民のそれと同じく、主家の名によつて某部と稱する場合があつたやうである。續紀和銅四年の條にも宗形部鴨部といふ名が見えてゐる。戸籍には地方的豪族の部民であつたものを國造族などとしてある例もあるから、これもまた一般的の慣例ではなかつたらうが、地方的豪族が部と稱したことに伴つて生じた風習であり、伴造のそれの學ばれたものと認められる。ところが、地方的豪族の家をも其の領民をも部と稱する習慣が更に轉ずると、土地そのものの名としても部の字がつけられるやうになることがあつたらしい。孝徳紀大化(39)二年正月の條に注記してある難波狹屋部邑、または天武紀元牛の條の玉倉部邑などの部が、もし文字のまゝの意義ならば、それは或は其の例ではなからうか。時が經つに從つて、部の語が種々に用ゐられるやうになつたのであらう。
 のみならず、後になると、初から語とは離れて文字にのみ書かれる場合も生じたので、神武紀の倭直部、吉野首部、吉野國※[木+巣]部、阿太養※[盧+鳥]部、菟田主水部、などが其の例である。古事記には何れも部の字が無く、倭國造(直)、吉野首、宇陀水取には等の字がつけてあるが、書紀のも、昔からアタヒベ、オフトベ、クニスベ、ウカヒベ、モヒトリベ、とは讀まず、アタヒラ、オフトラ、クニスラ、ウカヒヲ、モヒトリラ、といつてあるので、それが推知せられる。(倭直部、吉野首部は、其の始祖が椎根津彦や井光だといふのであるから、倭直、吉野首、の家の名として記されてゐるやうにも見えるが、次の國※[木+巣]部などの例から考へると、さうではなく、倭直や吉野首とそれらに隷屬する部民とを含めた意義で、漠然かう書かれたのであらう。部民などを含めた集團に祖先のあるのはをかしいやうであるが、一部落をなしてゐる國※[木+巣]や同じ職業を有するものの一群である養※[盧+鳥]などにも、同じことが記されてゐるのであるから、これは神代紀にフトダマの命を忌部の、タマノオヤの命を玉作の、ウズメの命を猿女の、祖としてあるところがあり、雄略紀十四年の條に衣縫を衣縫部の祖と書いてあるのと、同じであつて、職業や土地によつて祖先を定め、もしくは一定の土地に住み一定の職業に從事するものを、それと關係のある説話上の人物の子孫としたからのことである。事實上の血統ではなく、強ひて造作したことであるから、かういふものができたのである。また倭直、吉野首、に部の字をつけたのは、上に和珥部や山背部について述べたやうな事情からであるやうに思はれもしようが、これも亦た國※[木+巣]部などの例から類推すると、さうではなく、多分、次にいふやうな、ラの語に部の字をあてる書紀編纂時代の習慣に從ひ、古事記に(40)等としてあるのを斯う書きかへたまでであらう。古事記には國※[木+巣]と鵜養とに等の字がつけてないが、これは偶然のことに過ぎなからう。他の場合でも斯ういふ血統關係を記してあるところに、等の字のあるのと無いのとがあるが、それに意味は無いやうである。また此のうちで、阿太養※[盧+鳥]と菟田主水とに部の字がつけてあるのは、或は、それが後にいふやうな令の制度に見える品部となつてゐたためではないかと、臆測せられもするが、よしさうであるにしても、それをウカヒベ、モヒトリベ、とはいはなかつたらう。品部といふ法制上の用語はあつても、其のウカヒが單にウカヒといはれてゐて、ウカヒベといはれなかつたことは、集解に引いてある別記の文字によつても知られる。なほ、氏族制度時代に主水造といふ伴造があつたことは、天武紀十二年の條の記載によつて知られるから、主水部が朝廷に置いてあつたことは事實であり、さうして其の部には菟田の民が隷屬してゐたので、それが菟田主水部と稱せられたかとも推測せられるが、もしかう解する場合には、古事記に「宇陀主水等」と書いてあるのに對照し、部の語が口にいはれなかつた一證として見ることができる。)それから、雄略紀九年の條の家人部をヤケヒトラと訓んであるのも、此の點に於いて參考せられよう。書紀のよみくせは必しも絶對に信用せらるべきものではないが、神代紀の祝部がハフリと訓まれてゐるのを、萬葉の十、十二などの卷々にハフリを祝部と書いてあるのと對照すれば、少くとも部の字については誤の無いことが、ほゞ知られるやうである。これらもまた、部の字が文字の上でのみ用ゐられた場合のあることを示すものである(萬葉十三の卷に、神主部とあるのを普通にカミヌシベまたはハフリベとよんでゐるが、これもまたカミヌシラまたはハフリラであることは、十の卷、十二の卷、などに祝部等と書いてあるのがそれと同じ職業のものをさしていつたものであり、さうしてそれがハフリラであることから、推知せられる)。皇極紀元年の條に見え(41)る「村々祝部」の祝部も之と同樣、ハフリもしくはハフリラの語を寫したものと考へられる(此の記事は、別に説いておいた如く、當時の史料から出たものではなく、書紀の編者の造作したものである)。萬葉の十一、十二、十三、十九、などの卷々には、またアマを海部と書いてあるが、持統紀六年の條に「阿古志海部河瀬麻呂等兄弟三戸」云々と見える海部も、また單なる海人の義でありアマであつて、部の字に意義は無い。それは此の「海部」が次に記してある「※[木+夾]抄」に對する語であることによつても推知せられよう。郡名に海部といふのが少なくないが、これもアマの語を寫したものである。海部とは書いてあるが、それは必しも昔の部としての海部と關係のあることを示すものではない。但しこれらは、氏族制度時代に於いて、上に述べた如く、伴造の家の名や其の部民の稱呼に「べ」の語をつけていはないものがあるのとは違ふ。これらの場合のハフリ、アマ、などは、朝廷に特殊の地位を有するものではなくして、民間のそれをいふのであり、また或る伴造の部民を指すのでもない。民間に於いて特殊の職業を有するものの一群であるため、文字を弄するものが部の字を書き添へたまでである(但し、アマを海部と書いたのは、伴造の部として海部がアマベといはれずしてアマと呼ばれてゐた習慣に助けられてもゐよう)。が、それは此の語の我が國に用ゐられた本來の意義に於いてではなく、さうして、それが文字に書かれたのみであつて、口にいはれてゐなかつたのは、民衆の間に於いては、さういふ場合に「べ」の語が用ゐられてゐなかつたからであり、從つてそれは「べ」の語の由來と意義とが上述の如きものであることを證するものでもある。部は朝廷の記録を掌るものによつて漢語の適用せられた制度上の用語であり、其の意味に於いてのみ國語化してゐたのである。
 ところで、皇室の系譜を通覽すると、欽明天皇から後には、歴代の皇子の名に往々某部といふのが見えてゐるが、(42)それより前には、さういふのが無い。(古事記の仁徳の卷にある若日下部命の部の字が衍文であるといふことは、別に説いて置いた。また顯宗紀の注に引いてある「譜第」には飯豐女王を忍海部女王としてあるが、古事記には部の字が無い。前後の例から推考すると、古事記に從ふべきであらう。)これは、某部といふ稱呼が欽明朝ごろには既に世に行はれてゐたことを示すものであると共に、また此の語の用ゐはじめられた時期を知る一助ともなるものであらう。なほ附記する。昔の國學者は「ベ」を國語で説明しようとして、それをムレの義とし、ベは此のムレの約メの轉訛であるとしたが、かういふやうに所謂延約で言語を説明しようとする、徳川時代に流行した、見解は、今日ではもはや問題とするまでもなからう。また部は戸の意味ではなからうかといふ考があるかも知れぬ。熟語となつて或る語の次につゞけられる場合には戸がベといはれたので、それは餘戸などの例によつても知られるのみならず、雄略紀二年の條に「史戸」とあるのは同じ條の「史部」を指すものらしく、九年の條に見える郡名の飛鳥戸も飛鳥部の義のやうであり、從つて部とあるべきところに戸の字の用ゐられたことさへも、史上に認められるからである。しかし、部の第一の意義である朝廷のトモは戸から成立つてゐるものではなく、伴造などの部民をさす第二の意義に於いても、部は本來、集團の稱呼であつて、一々の戸をいふのではないから、此の考もまた妥當でない。戸の字を部の字の代りに用ゐたのは、部の語が一般に行はれるやうになつてから後のことであらう。
 
(43)     第二章 子代名代の部
 
 余は前章に於いて、部といふ稱呼に二つの意義があつて、其の一つは伴造の領有する部民を指すものであることを述べ、子代名代の民を部といふのも、それから轉じたことであると説いて置いた。ところが、此の子代名代の部、普通には子代部名代部ともいはれてゐるもの、については種々の問題が存在するから、こゝに少しくそれを考へて見ようと思ふ。
 子代部また名代部といふ名稱は、記紀には出てゐない。所謂子代部は、古事記の垂仁天皇の卷及び武列天皇の卷に、皇子もしくは天皇の御子代として部を置かれたと見えるもの、所謂名代部は、同じく古事記の仁徳−允恭、雄略、清寧、などの天皇の卷々に、皇子や后妃の御名代として部を置かれたと記してあるものをいふのである。書紀には、子代または名代として部を置かれたといふ明文は無いが、孝徳紀の大化二年正月の詔勅に「昔在天皇等所立子代之民」とあるのは、即ち子代の部であるに違ひない。何人かの私有民の一團を部といふのが、當時の慣例であつたからである。さすれば、同年三月の皇太子の奏請に「昔在天皇日所置子代入部、皇子等私有御名入部、皇祖大兄御名入部、」とある「子代入部」もまた「子代之民」即ち子代の部であるらしく、さうしてそれから推測すると、「御名入部」は名代の部を指すもののやうである。この比定はこれらの名稱の意義を明かにした上でなければ確實であるとはいひ難いが、それは後に至つて考へることとして、今はしばらく、かう假定した上で論歩をすゝめることにする。
(44) そこで、先づ千代の部が如何なるものであるかを、古事記の記載について、しらべてみるに、垂仁の卷に「伊登志和氣王者、因無子而爲子代、定伊登志部、」(伊登志部としたのは宣長の説による、後文參照)とあり、武烈の卷に「小長谷若雀命……此天皇无太子、故爲御子代、定小長谷部也、」とあるのによると、子代の部は皇子または天皇の御子の無い時に、其の皇子や天皇の御名をつけて置かれた部と考へられてゐたことが知られる。ところが、清寧(白髪大倭根子命)の卷に「此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代、定白髪部、」とあり、同じことを雄略の卷には「爲白髪太子之御名代、定白髪部、」と書いてあるのによると、名代の部もまた、其の實、子代の部であるやうに見える。特に清寧天皇の場合と武烈天皇の場合とは同じやうな事情であるにかゝはらず、一を名代とし一を子代としてあるので、此の感が一層深い。古事記の清寧天皇の場合の「無皇后」は「無御子」をいふために書かれたものと解せられる。仁徳の卷に「爲八田若郎女之御名代、定八田部、」とあつて、こゝには御子が無いためとは記してないが、此の妃に御子の無かつたことは同じ卷の首に出てゐるから、この名代の部もまた御子の無いために定められたものと解釋し得られよう。しかし仁徳の卷に「此天皇之御世、爲大后石之日賣之御名代、定葛城部、亦爲太子伊邪本和氣命之御名代、定壬生部、亦爲水齒別命之御名代、定蝮部、亦爲大日下王之御名代、定大日下部、爲若日下部王之御名代、定若日下部、」とあつて、石之日賣、伊邪本和氣命(履仲天皇)、水齒別命(反正天皇、)大日下王、みな御子があり、御子の無いのは雄略天皇の皇后となつた若日下部王(書紀の幡梭皇女)のみであることを思ふと、これらの名代の部は御子の無いために置かれたものとして考へられてゐなかつた、としなければならぬ(若日下部王の「部」の字は衍文である、このことは後にいはう)。それから、允恭の卷の「爲木梨之輕太子御名代、定輕部、爲大后御名代、定刑部、爲大后之弟(45)田井中比賣御名代、定河部也、」について見ても、輕太子には御子が無かつたが、所謂大后(忍坂之大中津比賣命)には安康雄略二帝及び其の他の多くの御子があるから、名代としての刑部もまた御子の無いために置かれたものとせられてゐないことは、明かである(田井中比賣については不明)。さすれば、古事記の記載について考へる限り、名代の部は、御子の無いために置かれたもの即ち子代の部と、然らざるものとの、二つを含んでゐると解しなければなるまい。さて、御子が無いために部を置くといふのは何の意味であるか、それが問題であるが、名代の部にもさういふものが含まれてゐるとするならば、子代の部ならぬ名代の部が何のために置かれたとすべきであるかを考へ、名代の部の全體の上からそれを觀察すべきである。そこで、上に引いた古事記の記載を見ると、御子のある場合の名代の部たる葛城部、蝮部、刑(忍坂)部は、石之日賣、水齒別命、大中津比賣の郷里もしくは住地、また天皇としては皇居の所在地、の名を負うてゐるが、それ等の地名は、それ/”\の天皇や皇族の御稱號に含まれてゐるものであり、また大日下部は大日下王の名を有つてゐるものであることから推測して、普通に説かれてゐる如く、天皇や皇族などの御名を後に傳へるために置かれたものであつたと、一應は考へられる。御稱號や御名を部の名としてつけるといふことに特殊の意味があつたと見られるからである。(壬生部にはさういふ名がついてゐないが、このことは後にいはう。)さうして、子代の部として記されてゐるもの、又は御子の無い場合の名代の部が、やはり伊登志とか小長谷とか、又は白髪、八田、若日下、輕、とかいふ、天皇や皇族の御稱號(に含まれてゐる地名)や御名を負うてゐるのを見ると、これにもまた同じ意味があつたと、やはり一應は、考ふべきやうであつて、畢竟、名代の意味がこゝにあるやうに見える。が、もしさうとすれば、子の無いがために部を置くといふことに特殊の意味が無くなり、名代の外に子代とい(46)ふ稱呼の存在する理由も無くなるので、そこに疑問が存在する。
 以上は古事記によつての考であるが、書紀ではどうかといふに、これには名代といふ稱呼がどこにも出てゐず、子代といふ名も上記の詔勅に見えるのみで、子代として部を置いたといふ記事は、どこにも無い。これは何故であるか、そこに問題があるが、それは後に考へることとして、子代名代の部の設置に關する古事記の記載に對應する事例を見ると、武烈紀には六年の條に「詔曰……朕無稽嗣、何以傳名、且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號、萬歳難忘者也、」と見え、清寧紀には二年の條に「天皇恨無子、……置白髪部舍人、白髪部膳夫、白髪部靱負、冀垂遺跡、令歡於後、」とあり、何れも御子の無い場合に、名を後世に傳へるため、これらの部の置かれたことが明記せられてゐる。また允恭紀十一年の條に「冀其名欲傳于後葉、……爲衣通姫定藤原部、」とあつて、此の衣通姫には子があつたといふ記載が無いから、これもまた同樣に見るべきものであらうが、このことは古事記には出てゐない。これらは所謂子代に當るものであるが、御子のある場合のについては、仁徳紀七年の條に「爲大兄去來穗別皇子定壬生部、亦爲皇后定葛城部、」とあり、允恭紀二年の條に「爲皇后定刑部」と見えてゐて、これらは何れも古事記に名代として記されてゐるものである。これらの部の置かれた理由は書紀には記されてゐないが、皇子や皇后のためにと書いてあるところを見ると、それはやはり名を後に傳へるといふ意味で書かれてゐるものと解してよからう。ところが、安閑紀元年の條には「朕納四妻、至今無嗣、萬歳之後、朕名絶英、」といふ詔勅に對し「夫我國家之王天下者、不論有次無嗣、要須因物爲名、請爲皇后次妃、建立屯倉之地、使留後代、令顯前迹、」といふ大伴金村の上奏を載せ、さうして妃の紗手媛に小墾田屯倉を、香々有媛に櫻井屯倉を、また宅媛に難波屯倉を、それ/”\、に屬する田部もしくは钁丁と共に、給はつた(47)ことを記してある。さうして皇后については、それより前に「皇后雖體同天子、而内外之名殊隔、、亦可以充屯倉之地、式樹椒庭、後代遺迹、」として、屯倉を置くべき良田を河内に於いて簡擇せしめたとあるが、繼體紀八年の條には、當時の太子の妃としての此の皇后(春日皇女)に子が無いため「賜匝布屯倉、表妃名於萬代、」といふことが見えてゐる。これは何れも御子の無い后妃についての話であるが、それに關する上奏といふものに、子の有無に關せず、後代に名を貽さんがため土地が與へられる、とあることは注意を要する。これは、古事記に於いて、子の有る場合の名代の部と子の無い場合のそれ、いひかへると子代の部、とがあるやうに記されてゐることと相應ずるものであり、書紀に於いて、子代名代といふ稱呼が用ゐられてゐなくとも、さういふものの存在が承認せられてゐたことを示すものでもあり、また子代の部をも含んでゐる名代の部が、すべて名を傳へるために置かれたものである、といふ上記の解釋が書紀によつて肯定せられたことを語るもののやうでもある。が、書紀に見えるかういふ考へかたからいへば、子の有無は初から問題ではなく、從つて古事記の記載について上に述べた如く、子の無いがために部を置くといふことのあるのが無意味になる。のみならず、書紀のこれらの記載が果して古事記のと一致するものかどうかも疑はれるので、書紀の小泊瀬舍人や白髪部舍人などが、古事記の小長谷部や白髪部と同じであるかは、問題である。そこで、考察はおのづから別の方面から出立しなければならぬことになる。
 上に、名代の部も子代の部も共に名を傳へるためであると一應は考へ得られる、といつて置いたが、實はそれが再應の吟味を要するのである。古事記に見える所謂名代についていふと、仁徳朝、允恭朝に定められたといふ葛城部、蝮部、八田部、刑(忍坂)部の如く、天皇や后妃の御名そのものではなくして、皇居や住地もしくは郷里の地名を部(48)の名としてつけるといふことは、其の人の名を後に傳へることにはならぬのではあるまいか。御稱號に含まれ其の一部をなしてはゐるが、本來地名であつて御名そのものではないことが、考察を要する點なのである。子代の小長谷部も、小長谷が小長谷若雀命といぶ御稱號の一部となつてはゐるが、本來、長谷は皇居の所在地の名であり、特に小長谷といつて小の語を加へたのは、大長谷若建命の大長谷に對する、後からの稱呼であるらしいことを考へると、若雀命の御名を傳へるためとしては、ふさはしくない感じがする。書紀の記載に於いては、衣通姫(弟姫)の藤原部もまた姫の居所の名であるが、春日皇女の匝布屯倉、紗手媛の小墾田屯倉、香々有媛の櫻井屯倉、宅媛の難波屯倉に至つては、其の土地の名と后妃の名との間に何の關係も無く、これらの土地を有することが如何にしてこれらの后妃の名を傳へることになるか、わからぬではないか。これが先づ起る疑問である。もつとも、繼體紀、安閑紀の記載については、記載そのものが既に問題である。同じ春日皇女(皇后)について、よし一は太子の妃としてのであり、他は皇后としてのであると解し得られるにせよ、繼體紀と安閑紀とに互に一致しない記載のあること、皇族の領地にも屯倉の稱呼を附けることは孝徳紀の皇太子の奏請に「子代入部……御名入部及其屯倉」とあるので知られるが、其の農民を田部といつたかどうかが問題であること、或る一ケ所の屯倉に「毎國田部」もしくは「毎郡钁丁」を添へ賜はるといふのが領解し難いこと、國郡といふ行政區割の稱呼を用ゐてあり、詔勅のうちに「率土之上莫非王封、普天之下莫非王域、」といふ、全國の土地が國家の有とせられた後でなければ理解し得られない、文字があり、大河内直味張の罪をせめるところに「自今以後、勿預郡司、」とあつて、郡司といふ名稱と其の郡司には地方の豪族が任命せられる慣例にもとづいた語とがあり、また土地の面積を肄拾町と記してあるなど、すべてが大化改新以後の思想と状態とによつて(49)書かれてゐること、を考へると、此の記載は事實を語つてゐるものではないと見なければなるまい。たゞ上記の諸所、並に御野、桑原、竹村、などが屯倉の地であつたことは事實らしく、書紀の編者はそれによつてこれらの説話を構造したのであらう。さすれば、此の説話から生ずる上記の疑問はおのづから其の重要性を失ふはずであるが、それにしても、后妃に領地があつて、それが名を後世に傳へるために設けられたものであるといふ解釋が、書紀の編纂せられた時代に存在したといふことだけは、之によつて知ることができる。のみならず、それは子代名代として部が置かれたことを説いてゐる古事記に於いても、上に述べた如く、既に存在する解釋らしいのであるから、それについての上記の疑問は依然として存在するのである。
 さて、后妃や皇子に私有民、從つて領地、のあつたことは、孝徳紀大化二年三月の詔勅に「吉備島皇祖母處々貸稻」云々の語のあることによつても推測せられる。また古事記の所謂子代として置かれた部が、前にも引いた同年正月の詔勅にある「子代之民」、三月の皇太子の奏請に見える「子代入部」であるならば、その部が私有民を指すものであることが明かであり、從つてまた、名代としての部も同じ意義のものであつたと推測しなければなるまい。「御名入部」がもし果して名代の部であるならば、これは勿論のことである。これらの場合の「部」が部曲之民の意であることは、「子代入部」が「子代之民」ともいはれてゐることから明かであるが、それは一定の土地に居住する農民としなければなるまいから、民を有することは即ち土地を有することである。ところが、上に述べた如く、古事記に子代として定められたとある小長谷部に對應するものとして、武烈紀に見える小泊瀬舍人、又は名代としての白髪部に對應するものとして、清寧紀に見える白髪部靭負、白髪部膳夫、白髪部舍人、は、其の名稱から考へると、上記の意義に於いて(50)の部、即ち一定の領地に於ける私有民を指すものとは解し難い。
 書紀に見えるこの小泊瀬舍人などは、古事記の雄略の卷に「定長谷部舍人、又定河瀬舍人、」とあり、雄略紀二年の條に「置河上舍人部」、十一年の條に「置川瀬舍人」と見え、また仁賢紀三年の條に「置石上部舍人」、安閑紀二年の條に「置勾舍人部」とある、それ/”\の舍人部など、また天武紀十二年の條に川瀬舍人造と共に、來目舍人造、檜隈舍人造、の名のあることから其の存在の知られる、來目舍人部、檜隈舍人部、と同じ性質のものに違ひなく、さうして此の來目舍人造、檜隈舍人造は、天武紀の同じ條の勾筥作造、川内馬飼造、などと同じ方式で作られた稱呼であり、何れも地名を冠してゐること、また上記の「勾舍人部」の次に「勾靱負部」が連記してあることを思ふと、これらの某舍人部または某部舍人といふのは、朝廷の舍人が其の出身地によつてそれ/”\特殊のトモ、即ち部、をなしてゐたために生じた稱呼であらう。清寧紀の膳夫、靭負も、之に準じて考ふべきである。(某部舍人とあるのは、舍人を出す習慣のある地方の村落を、此の關係に於いての、一團體として、それを部といひ、そこから出た舍人の一くみをかう稱したものとする方が妥當のやうでもあるが、それにしても實質は某舍人部といふのと同じであらう。のみならず、天武紀に見える伴造の名に部の字の無いところから見ると、かういふ稱呼はさう嚴格に解釋すべきものではなく、某舍人部といふのも某部舍人といふのも某舍人といつて部の語の無いのも、其の間に差異があるらしくはない。なほ、このことについては、安閑紀元年の條に春日部采女といふ稱呼のあることも、參考せられるやうであり、履仲紀の卷首にも倭直の采女を貢する話の見えてゐることを思ひ合はせると、采女は各地から貢進せられ、其の出身地によつて某部采女といはれたのかと推測せられもするが、しかし、これは、安閑紀、履仲紀、などの記載の全體の性質から見ると、後宮(51)職員令に「凡諸氏、氏別貢女」とあり「貢采女者、郡少領以上姉妹及女、」云々と見える如き、大化改新後の状態によつて構想せられた説話らしいから、昔のことを知るたよりにはなりかねる。職員令の規定も改新前の風習を繼承したものではあらうが、安閑紀などの記載は其のころの事實を記したものとは認められず、春日部采女といふやうな稱呼も書紀編述のころに存在したものであらう。采女造また采女臣といふ伴造の名が天武紀十二年と十三年との條に見えるから、采女の全體を統轄した伴造は改新前にあつたに違ひないが、采女の出身地によつて一々それを主宰する伴造があつたやうには思はれぬ。だから、これは上記の舍人の部のことを考へるやくにはたゝないのである。神武紀に見える葛野縣主主殿部といふものも、また采女に春日部の如き稱呼があつたと同じく、主殿寮の殿部のうちに葛野縣主から貢進せられたもののあるそれをいふのであり、葛野縣主部のとのもりといふ意義であらう。これも由來は古からうけれども、神武紀にかう書いてあるのは、やはり書紀編述時代の實際状態をいつたものでなくてはならぬ。部といふ語は改新以後の官制に於いても襲用せられてゐて、既に述べた如く、それと昔の部との間に歴史的の聯絡はあるけれども、同じものではないから、それらを混同しないやうに注意するを要する。)たゞこゝで一應考へてみなければならぬのは、清寧紀の白髪部といふ名であつて、白髪は一見地名でないやうにも感ぜられるが、白髪命、または白髪大倭根子命、白髪武廣國押稚日本根子天皇、といふ御名または御稱號を、穴穗命、勾大兄皇子、檜隈高田皇子などの御名、または蝮之水齒別命、男淺津間若子宿禰命、大長谷稚武命、小長谷若雀命、などの御稱號に對照して考へると、白髪もまた、穴穗、勾、檜隈、蝮、淺津間、長谷、と同じやうに地名らしく考へられ、白髪部舍人が勾舍人部、檜隈舍人、長谷部舍人、小泊瀬舍人、と同樣に取扱はれてゐるのも、また此の推測を助けるやうである。清寧紀に「生而白髪」(52)とあるのが、シラカといふ御名の説明説話に過ぎないことは、反正紀に「生而齒如一骨、容姿美麗、於是有井、曰瑞井、則汲而洗太子、時多遲花落在于井中、因爲太子名也、」とあるのが、多遲比瑞齒別天皇の御名の説明説話であることからも類推せられる。御誕生の時のこととして記されてゐる「生而齒如一骨」は明白に虚僞であり、多遲比は明白に地名だからである(ミヅハの原義は瑞葉ではあるまいか)。シラカが何處であるかは知り難いが、此の天皇の皇居が磐余甕栗宮であるところから考へると、多分、磐余の一部分であつたらう。(大倭根子、もしくは武廣國押稚日本根子は、勿論、天皇としての尊號であり、後から加へられたものであるから、皇子としての御名はシラカであつたらうが、地名が皇子の名とせられる例は甚だ多い。雄略紀の皇子を列記してあるところには、白髪武廣國押稚日本根子天皇とあつて、シラカといふ此の御名と天皇としての尊號とが結合せられてゐるが、古事記の雄略天皇の卷には白髪命といふ御名が記されてゐる。繼體紀に廣國排武金日尊の勾大兄皇子、武小廣國排盾尊の檜隈高田皇子の御名が記されながら、天國排開廣庭尊の皇子としての御名が出てゐないのは、後の尊號のためにそれが失はれたのであつて、白髪命の御名の書紀に記されてゐないのも、之と同じである。渟中倉太珠敷尊、橘豐日尊、豐御食炊屋姫尊の皇子、または皇女としての御名も欽明紀には見えず、炊屋姫尊の額田部のみ、偶然、推古紀の卷首に載つてゐるが、古事記にはこれらがすべて記されてゐない。記紀の系譜の名の書きかたについては、別に考へてみなければならぬ。)
 さて、武烈紀、清寧紀の小泊瀬舍人、白髪部舍人、などが、上記の如き意義のものであるとするならば、それは朝廷の勤務に服する部であり、トモであつて、其の首長たる伴造に統率せられてゐたものとしなければならぬ。天武紀に見える川瀬舍人造、來目舍人造、檜隈舍人造は、之と同じ地位の伴造の家であらうが、小泊瀬舍人造、白髪部舍人造と(53)いふものがそこに出てゐないのは、天武朝にこれらの家が斷えてゐたからか、又は地位が低くて其の時に連のカバネを賜はらなかつたからかとも思はれるが、或は後にいふやうな別の理由からであるかも知れぬ。が、それは何れにしても、これらの舍人部が負うてゐる小泊瀬や白髪の名は、決して武烈天皇や清寧天皇の御名を傳へるためにつけられたものではないとしなければならぬ。長谷部舍人、石上部舍人、勾舍人部が、小泊瀬舍人、白髪部舍人、と同じ性質のものであり、長谷、石上、勾がそれ/”\雄略、仁賢、安閑各天皇の、皇居所在地の名であるにかゝはらず、古事記の雄略の卷にも、書紀の仁賢紀安閑紀にも、それらの天皇の御名を傳へるためにこれらの舍人部が置かれたやうに記してないことをも、參考すべきである。さすれば、書紀の解釋は眞實を語つてゐるものではないとする外は無い。が、かう考へると、古事記に記されてゐてそれとは性質の違はねばならぬ、而も同じく小長谷、白髪、の名を負うてゐる、子代名代としての部は如何に見るべきものであらうか、といふ問題が生ずる。
 そこで、更に古事記(及び書紀)の記載に立かへつて、全體の上から考へてみるに、所謂子代の部も名代の部も、其の部の名として記されてゐるものはみな地名であることを、第一に注意しなければならぬ。(仁徳の卷に見える壬生部は地名ではないが、これは後にいふやうに、本來、名代の部とすべきものではない。允恭の卷の河部は他に所見が無い上に、田井中比賣の名代としては其の名に疑問があるから、これも問題外に置く。また伊登志部については後にいふ。)上に述べた如く、葛城、蝮、八田、忍坂、小長谷、白髪、藤原、など、皇居、住地、もしくは郷里、の名がつけられたやうに記紀に見えるものは、いふまでもない。それが御稱號の一部をなすものである場合でも、本來は地名であることが重要の意味を有する。大日下部、若日下部、輕部、などは、大日下王、若日下王、輕太子、の名をつけたものとして(54)一應は説明ができるが、しばらくさういふ説明をわきに置いてみると、日下も、輕も、本來地名であり、これらの皇子の名がそれ/”\地名によつてつけられたものである。ところで、古事記の履仲天皇の卷に「定伊波禮部」と見え、書紀には雄略紀十九年の條に「詔置穴穗部」とあり、何れも地名が部の名になつてゐて、其の名の形は全く上記の子代や名代の部のそれと同樣であるが、それには子代もしくは名代の部、即ち名を後に傳へるために設けられたもの、であることが記されてゐない。もつとも、伊波禮部は伊波禮が履仲天皇(伊邪本和氣命)の皇居の所在地であるから、それは恰も蝮部が反正天皇(水齒別命)の名代の部とせられてゐるのと同じであり、たゞ名代たることが書きもらされてゐるのみである、と解せられるかも知れぬが、伊那本和氣命の名代は壬生部として、水齒別命の蝮部と共に、仁徳の卷に記されてゐるから、古事記の記載の上からは、さうは解し難い。また、書紀の穴穗部は、穴穗天皇(安康天皇)と其の皇居の地との名を負うてはゐるが、允恭紀にも安康紀にも記されずして雄略紀に出てゐるのは、書紀の編者がそれを穴穗天皇の御名と關聯させて考へなかつたからだと推測せられる。これは恰も長谷部舍人、石上部舍人、勾舍人部、について上に記したところと、參照して考ふべきことであるが、同じやうにして名づけられてゐる部が、一は名を傳へるためとせられ、他はさうせられてゐないといふことは、名を傳へるためであるといふ記紀の解釋が、實は眞の解釋でないことを、暗示するものではなからうか。さうして、天武紀十二年及十三年の條に列記せられてゐる白髪部造、矢田部造、刑部造、藤原部造、穴穗部造、輕部臣、草壁(日下部)連、などの家が、それ/”\上記の白髪部、八田部、刑部、藤原部、穴穗部、輕部、日下部、を管理するものであらうと推測せられ、而もそれらの家のカバネの多くが朝廷の伴造に最も例の多い造であることを考へ、また朝廷に勤務する舍人の部がそれ/”\出身地の地名を負うてゐるこ(55)とから類推すると、これらの事もまた、それ/”\の土地の村落を基礎とする團體であつて、朝廷の何等かの勤務に服するものではなかつたらうか。さうして部の造はそれを管理する伴造ではなかつたらうか。天武紀十二年の條に石上部造の名が出てゐるが、これもまた石上部といふものの伴造であつたに違ひなく、其の石上部はやはり上記の種々の部と同樣に見なすべきものであらう。天武紀の同じ條には、また小泊瀬造といふのがあり、仁徳紀十二年の條にもその名が見えてゐて、これには部の字が無いが、泊瀬の上に小の語がつけてあるのは、それが單なる地名でないことを示してゐること、また其のカバネが造であることから考へると、これは泊瀬の豪族ではなくして朝廷の件造であるらしく見えるから、これもまた上記の例に加ふべきものであり、古事記に見える小長谷部の伴造であつたに違ひない。小泊瀬(長谷)部としたのは泊瀬部に對しての稱呼であつて、多分、泊瀬部より後に置かれたものであらう。泊瀬部の伴造は、天武朝にもカバネを賜はらなかつたのか、天武紀に其の名が見えないが、姓氏録大和神別の部に泊瀬部造が見えてゐて、それは氏族制度時代から存續してゐた家であらう。崇唆天皇の御名の泊瀬部も、此の部の名によつてつけられたものに違ひない。なほ十三年の條に見える丹比連も、また蝮部の首長であつた伴造であることが、これらの例から類推せられるやうである。(たゞ葛城部は伴造に屬する部ではないやうに見えるが、このことは後にいはう。)さうして、上記の部に其の名を負はせてゐる土地が(日下を除く外は)何れも皇居の多く置かれた大和地方のであり、其のうちには皇居の所在地もあるといふことは、それらの部の性質をかう考へるに甚だ都合がよい。地方的村落を基礎とする圍體で朝廷に何等かの勤仕をするものとしては、皇居の附近にあるのが自然だからである。特に皇居の所在地の名を負うてゐるものは、そこに皇居のあつた時からさういふ慣例が開かれたもの、又は其の時に存在したものが(56)名のみ後に傳へられたのかも知れぬ。(しかし、これは必しも、かういふ部の設置を其の名の地に皇居を置かれた天皇の時にかけてある、記紀の記載がたしかな記録から出てゐることを證するものではない。それは記紀の記載の性質が次に述べるやうなものだからである。)
 ところで、かう説いて來ると、上記の種々の部が名を傳へるために置かれたといふ解釋の疑はしいことが一層明かにせられたのみならず、古事記に子代名代として幾つかの部の名を擧げてあることが信じ得べきかどうかも、問題となつて來るのである。子代名代の部は皇族の私有民であるはずであるが、上記の部はそれとは性質が違ひ、朝廷に屬し朝廷に勤仕するトモだからである。書紀が古事記の小長谷部、白髪部に對應するものとして、小泊瀬舍人や、白髪部舍人、膳夫、靭負、を擧げてゐるのも、小長谷部、白髪部を伴造の管理する部と解したからのことであるかも知れず、更に一歩を進めて臆測するならば、小泊瀬造の管理する小泊瀬(小長谷)部や白髪部造の率ゐる白髪部は、長谷や白髪から出た舍人、また膳夫、勒負、のそれ/”\のトモであつて、それが書紀編纂の時にも知られてゐたと見ることもできよう。記紀の記載が互に對應するものであるとすれば、かう考へることも無理ではあるまい。(かう考へ得られるならば、小泊瀬舍人造や白髪部舍人造の名が天武紀に見えないのは、それが小泊瀬造や白髪部造として記されてゐるからだと解せられる。白髪部には舍人の他に膳夫、勒負、もあつたやうに、書紀には見えてゐて、それらが如何に統制せられてゐたか、またそれらが膳夫や靭負の全體と如何なる關係にあつたか、不明であるが、白繋部に於いて舍人が最も重要なものであつたことは、土地を基礎としてゐる舍人の部の多いことからも、また次にいふ如く舍人の數が多かつたやうに思はれることからも、推測せられる。)さうして、もし此の見解が許されるならば、石上部造の支配する(57)石上部は即ち仁賢紀に石上部舍人と書かれてゐるものであつたとしても、大過はあるまい。令によると、中務省に内舍人が九十人、左右大舍人寮に大舍人が八百人づつ、また中宮職に舍人が四百人あることになつてゐるが、舍人と稱せられるものが斯う多數であり從つて其の地位が低いのは、其の職制が唐制の舍人から來たものではなくして、氏族制度時代のトネリからうけつがれたものであらうと考へられ、さうしてさう考へることによつて、はじめて上に列擧したやうな種々の舍人部のあつたことが了解せられると共に、其の舍人の職務がむしろ雜役ともいふべきものであつたことが推測せられ、從つて、皇居に近い村落のものがそれに勤仕したといふことも許容せられるのである。(トネリに舍人の文字をあてたのが何時からであるかは明かでないが、それはこゝでの問題ではない。)しかし、小長谷部や白髪部などについての此の見解は、臆測といふ程度以上には出でないものであつて、強く主張するだけの根據は無いのであるが、地名を負うてゐる上記の部が朝廷の伴造によつて率ゐられてゐたトモであるといふことだけは、其のトモが如何なる職務を有つてゐたかは明かでないとしても、容認せられるであらう。
 然らば、古事記は何故にかゝるものを子代及び名代の部として擧げ、書紀にもさう解せられるやうな記載が見えるであらうかといふに、それは子代名代の部の一々の起源を説かうとしたからであらう。子代名代として部の設けられてゐたことは知られてゐても、大化の廢罷の後は其の名稱や所在なども明かに傳へられてゐなかつたらうし、其の一々の起源や設置の時代などは一層わからなくなつてゐたのを、何ごとについてもその由來を説かうとする考が編者にあつたため、件造の管理する朝廷のトモとしての部の名のうちから、皇居の所在地や皇族の住地郷里などに當る地名を負うてゐる部の名を拾ひ出し、さうしてそれを、それ/”\の地名にゆかりのある天皇や皇族の子代名代の部の名で(58)あるごとく、附會したのであらう。伴造の部下に屬し朝廷に何等かの勤務をもつてゐるトモとしての部と、地方の農民である名代子代の部の部とは、その意義はちがふが同じく部といはれてゐたために、かういふことが考へられたのであらう。さうしてそれには、朝廷のトモの首長である伴造が、地方の農民をその部民としてもつてゐたことによつて、助けられたでもあらう。清寧紀二年の條に、白髪部舍人、膳夫、靭負、を置くために大伴室屋大連を諸國に遣はした、といふことが見えてゐるが、これはこれらの部の長たる伴造(上記の考説によれば天武紀の白髪部造)の部民が各地方にあつた事實によつて作られたものらしいことが、參考せられよう。たゞ仁徳朝に定められたとある葛城部は、伴造の管理する部、即ち朝廷のトモ、ではないやうであり、もしさう稱せられた部があつたとすれば、それは、上に述べた和珥部と同じ意義で、地方的豪族である葛城直の家をいつたのであらうが、これにのみ斯ういふものを取つたのは、皇后の郷里である葛城の名を負うてゐるトモ、從つて其の伴造の家、が無かつたための窮策であらう。古事記に於いては、かういふ記載が、皇室の系譜と種々の物語とによつて成立してゐる、さうして帝紀と舊辭とを結びつけたために生じた、全體の組織からは遊離してゐる、斷片的のものであつて、それは多分、天武朝の史局で作られたものから出てゐるであらうといふことは、「日本古典の研究」の第一篇に述べて置いた。さうして其のころ、子代名代の部は知られなくなつてゐたにしても、伴造の家は概ね現存してゐたから、それによつて彼等の管理してゐた大化以前の部と其の名とを知ることができたのである。書紀に於いても、子代名代の部の設置として解し得られる記事のあるのは、安閑紀に上に述べた如き虚構の説話があるのを除いて見ると、武烈紀までであるが、事實上存在した子代名代の部は、大化改新の前までは斷えず新置せられてゐたに違ひなく、現に孝徳紀の皇太子の上奏にも「皇祖大兄御名(59)入部」とあつて、皇祖大兄は舒明天皇の父・彦人大兄皇子を指すものであるらしいから、此の御名入部は其のころに新置せられたものと考へられるにかゝはらず、さういふ新しい時代の設置に關する記事の無いのは、武烈紀までの記載が確實なる記録から出たものでないことを證するものである。確實なる記録によつたものならば、近い世の設置こそ明かな記載となつて現はれてゐるべきはずだからである。孝徳紀に見える皇太子の奏請に「獻入部五百二十四口、屯倉一百八十一所」とあつて、入部は子代入部御名入部を包括する稱呼であらうから、これによると子代名代の部の數は頗る多かつたことが知られるが、それにもかゝはらず、記紀に見えるそれが極めて少數であることも、また其の記載の事實でないことを示すものであらう。(此の五百二十四口とある「口」は人口のことであらうが、それが甚しく僅少に過ぎてゐることは、屯倉の一百八十一所と對照して見ても、またかゝる入部を廢罷する必要があり、それが重大問題とせられたことから考へても、明かであるから、これは數字に誤があらう。)
 記紀の記載はかういふやうにして造作せられたものではあるが、しかし、子代や名代の部が皇族の私有民であり、それが一定の領地に居住する農民であつたことは、知られてゐたのであるから、それに擬した部を撰ぶについても、地名を負うたものに限つたのであつて、例へば雀部とか若櫻部とかいふやうな、天皇の御名や皇居の稱號に附會するには適切な部があつても、それを子代とも名代ともしなかつたのは、雀も若櫻も地名に縁が無く、土地についてゐる部民であることを示すものとしては、不適當だからであつたらう。古事記の履仲の卷には、若櫻部の名の起源を此の朝にかけて説いてあり、書紀には其の名の説明説話をさへ作つてあるが、それに名代の意義があるやうには説いてないのである。子代名代の部の設置を、名を後に傳へるためであるとしながら、さういふ目的には不適當な、皇居所在(60)地や住地郷里の名がつけられてゐるやうに見えるのは、之がためであつて、それは實は、子代名代の部が土地の上に立つてゐるものであることから、其の部の名が地名であるべきもののやうに考へた、いはゞ思想の混亂の故である。かの葛城部を取つたのもまた之がためと考へられる。さうして、それは天皇の御稱號や皇族の御名に地名が冠せられ、又は地名が其のまゝ御稱號として御名として用ゐられるのが、一般の慣例であつたことによつて、助けられたでもあらう。もつとも、上に説いた伊波禮部や穴穗部の如き例もあつて、地名を負うてゐる部にも、子代や名代の部として説かれてゐないのもあるが、これもまた實は上記の推測をたしかめるものである。子代や名代の部として記してあるものが實はさうでないのであるから、地名を負うてゐる部の設置を記すにしても、さうしないのが自然であり、それが偶然かういふ記事となつて現はれたのである。また履仲天皇(大江之伊邪本和氣命)の御名代が若櫻部とせられずして壬生部としてあるのも、名代の部が土地についてゐる部民であると考へられたからのことであらう。壬生部は、どの皇子のにもいひ得る普通名詞であつて、或る皇子のに特殊な名稱ではないから、それを名代の部とするのは甚だ奇怪であるが、強ひてさうしたのは、一つは、假にいはゞ大江部などといふ部が實際無かつたからであると共に、一つは、壬生部が一定の土地についてゐる部民であつたからのこととしなくてはなるまい。かういふ筋の立たぬことの生じたのも、すべてが附會だからである。或は寧ろ、壬生部を名代としたことが、名代に關する記載の附會であることを證するものだといつてもよからう。(伊波禮部といふものがあつたならば、それを名代にあてるのが他の例にも適ふのであるが、此の部は古事記の履仲の卷にのみ見える名であつて、書紀には出てゐず、其の首長たる伴造の家らしいものも文獻の上に見當らないことを考へると、これは或は全く虚構せられたものかも知れぬ。もしさうとすれば、(61)仁徳の卷に名代のことの書き添へられた時には、此の名がまだ作られてゐなかつたかと考へられる。)なほ附會の跡の明かなものは、古事記の仁徳の卷に見える大日下部、若日下部である。若日下部といふ部は古事記の此の條の外には所見が無く、若日下王も書紀には草香(幡梭)皇女としてあり、さうして雄略紀十四年の條には、大草香部が時の皇后であつた此の皇女の部民として設けられ、難波吉士が大草香部吉士となつたと記してある。ところが、天武紀十一年の條には、雄略紀に見える大草香部吉士の家を指すものと思はれる革香部吉士が難波連となつたとあり、十二年の條にも草壁吉士とあつて、何れも大草香部吉士とはしてなく、また書紀にも、姓氏録にも、草壁、日下部を名のるものは見えてゐるが、大草壁、大日下部を氏とする家は無い。さすれば、古事記の説は日下を名とする皇族の名代として日下部(草壁)を説明しようとはしたが、同じく日下の名を負ひながら、兄妹二人があり、兄の皇子が大日下と呼ばれたに對し、妹の皇女を、大に對して若といふ語が用ゐられる慣例に從ひ、若日下としたため、日下部にも大と若との二つがあつたやうにしたのであらう(日下部王とある部の字が衍文であることは、かう考へると明かである)。書紀に大草香部としてあるのは、事實日下部が一つしか無いことが知られてゐたため、古事記の如き説が修正を加へられながら、なほ大の一語の遺存したものと解せられる。(雄略紀の記載は、多分、難波忌寸の家から出た其の家の起源説話であらう。日下部の首長たる伴造の家は、古事記の開化の卷に見える如く、其の祖を沙本毘古王とし連のカバネを有つてゐたものであり、天武天皇十三年に宿禰になつた。天武天皇十年に難波連となり、十四年に忌寸のカバネを與へられたといふ家は、草壁吉士であつたとあるから、日下部連の部下で吉士のカバネを有つてゐたものであらう。此の家は、姓氏録によると、其の祖を大彦命としてゐるが、伴造の部下のものが其の首長と家系の異なることを主張(62)してゐる例は極めて多い。日下部についても、姓氏録の攝津神別にホノスソワの命を祖とするもの、河内神別にニギハヤビの命の裔と稱するものがあるが、何れも日下部連の部下であつた家であらう。但し和泉皇別にある日下部首の家系は宿禰の家と同じになつてゐる。)記紀に子代名代の部として、もしくはさう解せられる如く、記されてゐるものが何れも附會であるといふことは、以上の考説でほゞ證明せられたであらう。書紀にのみ記されてゐる衣通姫の藤原部の如きは、衣通姫の物語そのものが單なる物語に過ぎないことから見ても、それが附會であることは推知せられよう。
 さて、記紀のかういふ附會が如何なる方法によつてなされたものであるかは、上にも言及した如く、部の名によつて、その部が、その名にゆかりのある或る天皇や或る皇族の子代または名代の部であるごとく、説いたものであるが、これは、安閑紀元年の條に春日部采女のことを春日皇女に結びつけて説いてあるのでも知られる如く、子代や名代の部に限らない着想であり、山部(山守部)の起源を大山守命を皇子として有する應神朝にかけ、橘の由來をタヂマの國に結びつけて説いたのも、之と同じ考へ方であるのみならず、地名や人名の説話が多く作られてゐるのも、畢竟それと同じことである。(だから、伊波禮部の設置を履仲天皇の時のこととしてあつても、それは必しもこの部が天皇の御名代として置かれたには限らない。伊波禮部を伊波禮の宮に結びつけて記したことに意味があるのである。また上にも述べた如く、白髪部舍人、石上部舍人や小泊瀬舍人などの設置が、清寧朝、仁賢朝や武烈朝にかけて記してあるのも、名稱からの附會と見なすべきである。事實、或はこれらの部がこれらの朝に始まつたのかも知れぬが、もしさうであるにしても、さういふことの記録が傳はつてゐて、それによつて作られた記載ではなく、これらの部にかういふ名が(63)つけられたのと、名によつて附會したのとが、偶然一致したまでである。古事記に於いて、反正天皇の御名代であるといふ蝮部が、仁徳朝に置かれたやうに記してあり、特に御子の無いために定められたといふ清寧天皇の御名代の白髪部の設置が、雄略の卷に記してあるのも、部の設置をこれらの皇子の名に結びつけるのが主旨であつて、時代を示すのが本意でないからであることをも、參考すべきである。)書紀が、かの建部(武部)の起源を説かうとして、それを日本武尊に附會したのも、之と同じ結びつけ方であるが、古事記にも、建部君の祖を此の命の子とせられた稻依別王としてあるのを見ると、此の考は書紀の編纂よりも前から既にあつたらしい。たゞ、書紀には「欲録功名、即定武部、」といつてあり、所謂名代の部として取扱はれてゐるやうに解せられるが、古事記にはさういふことがまだ見えないだけである。書紀の編者は、伴造たる建部君の領地に建部の名がついてゐたため、それによつて武部を名代の部の例に加へたものらしい。品遲部(譽津部)の設置を本牟知和氣(譽津別)の皇子に結びつけたのも、また同樣であるが(これについては書紀にも名を傳へるといふ意味の記載が無い)、これは古事記に伊登志部(安閑紀二年の條に見える膽年部はこれと同じであらう)を伊登志和氣王の子代としてあるのと共に、品遲部、伊登志部の名によつて本牟智和氣命、伊登志和氣王の名を案出したものではないかとさへ、臆測せられる。「日本古典の研究」の第四篇に述べた如く、記紀に見えるこのころのかういふ記載は、古くからの傳へではないからである。特に伊登志和氣王が書紀には膽武別王となつてゐて、それには膽年部との關係の記してないことが、一層此の感を強くする。(古事記に見える本牟智和氣王の名の説明説話は、品遲部設置の由來をなせる諸國巡行の物語とは全く別のものであつて、其の作られた時期も違ふのであらう。また宣長が、伊登志和氣王の子代の部の名は諸本に誤脱があるとして、それを伊登志部と校(64)定したのは正しい。子代として置かれたといふ部の名のつけかたに關する他の例から見て、伊登志和氣王の子代とせられた部の名は伊登志部でなければならぬのである。此の伊登志が、本來、地名であるかどうかは明かでなく、また伊登志部が如何なる性質の部であるかも知り難いが、婀娜國にあると安閑紀に記してある膽年部は、此の部の伴造の部民らしく臆測せられる。もしそれが地名でないとするならば、それは子代として記された部の名に地名でないもののある唯一の例であるが、それは部の名から皇子の名が作られ、その皇子の名によつて此の部を其の子代としたといふ、特殊の事情から來てゐるものと、解釋することができる。ワケといふ皇子の稱呼は、多く地名を名とする場合に用ゐられてゐるやうではあるが、さう限られてもゐないから、此の點から伊登志を地名と見ることはむつかしい。)
 以上は、記紀の記載の上から、子代名代の部に關する其の記載が事實として信じ難きことを述べたのであるが、其の記載を離れて考へても、記紀の所説に對する疑問は存在する。第一、名を傳へるといふやうな、いはば思想的な意味のある理由によつて上代の制度が生じたといふことが、果して考へ得られようか。制度の根本は物質的經濟的意義にあつたのではなからうか。特に天皇については、かゝる特殊の制度によつて御名を傳へねばならなかつた理由が、どこにあるであらうか。天皇は、天皇であらせられることによつて、十分に御名が傳はるのではなからうか。名を傳へるためといふ解釋は、これらの疑問に答へることができたからうではないか。また部の實際状態との關係から見ても、それが皇族の私有民であるといふことと、名を傳へるといふこととの間に、如何なる關係があつたと考ふべきであるか。名を傳へるのが主旨であるならば、それを私有民とすべき必要は無からうではないか。さすれば、こゝにもまた解釋し難き疑問が横はつてゐるといはねばならぬ。そこで、もし名を傳へるといふ解釋を全く抛棄するとしたな(65)らば、どうであらうか。さう考へると、再び立ち歸つて、子が無いために部を置くといふことに何の意味があるかを問はねばならぬ。さうしてまた、子のある場合にもやはり部を置くことが何のためであるか、それと子が無いために部を置くこととの間に如何なる關係があるかを、問はねばならぬ。更に進んで考へるならば、子が無いために部を置いたといふことが果して事實であるかどうかが問題になる。それは、子の有る場合にも部が置かれたやうに書いてある、記紀の考へ方の上から生ずる疑問であるのみならず、根本的には、部を置くことが何故に子の無いことの償ひになるとせられたかが、わからないところから起るのである。また實際上の問題としては、子の無い場合に置かれた部は何人の領有すべきものとせられたかが、解し難いではないか。部民は何人かの部民として、即ち何人かの領有として、定めらるべきはずであるが、本來存在しない子の部を置くといふことは、其のことみづからが矛盾を有つてゐるのではないか。またよし其の部民は子の無い親の領有として置かれたと考へるにしても、子が無いといふことは其の部民の領有を相承するものが無いといふことであるから、初からさういふ條件の下に特に部を置くといふことは、部民を世襲的に領有すべきものと考へてゐた當時の一般的觀念と矛盾するではないか。だから、眞の問題はむしろこゝに伏在するといふべきであらう。しかし、この問題に對しては、部の設置に關する記紀の記載からは何等の解釋をも與へられない。
 そこで、しばらく方向を轉じて、孝徳紀の記載を考へて見よう。皇太子の奏請には「群臣連及伴造國造所有、昔在天皇日所置子代入部、皇子等私有、御名入部、皇祖大兄御名入部、及其屯倉、」としてあつて、御名入部には「皇子等私有」と書いてあるから、それが當時皇族の私有民であつたことは明白であるが、子代入部にはさういふことが無い(66)かはりに、「昔在天皇日所思」と記してある。其の前の正月の詔勅にも「昔在天皇等所立子代之民」とあつて、子代入部と子代之民とは、何れも「昔在天皇」の置かれたものとして特記せられてゐることによつて、其の同一なることが證明せられると共に、子代入部(子代之民)には特にさう記すべき必要があり、そこに御名入部とは違つた子代入部の特色のあることが推測せられる。さうして、それが御名入部について「皇子等私有」とあるのに區別せられる點であるとすれば、子代入部は、當時に於いては、皇族の領有してゐたものではなかつたと見るべきではなからうか。ここに於いてか「群臣連及伴造國造所有」とある一句が注意せられる。此の句の下に「部曲之民」(これは正月の詔勅に見える語)とでもいふ脱文があるので、それは臣連伴造國造の所有民を汎稱したものであり、「昔在天皇」以下とは意義の聯絡の無いものかとも考へられるが、此の奏請の全體の主旨が子代及び御名の入部とそれに屬する屯倉とに關することであつて、其の他には及んでゐないことを思ふと、かう考へることは無理であつて、此の一句は御名入部の「皇子等私有」に對するものと見るべきであらう。もしさうとすれば、子代入部は昔から歴代天皇の置かれたものではあるが、それはこのころ臣連以下の諸家の有に歸してゐたのであつて、さうなるべき性質が此の部に具はつてゐたとすべきである。
 次には、御名入部と子代入部との名稱の上から推測せらるべき其の性質であるが、入部の「入」の語の意義が明かでない。三年四月の詔勅に「以神名王名、爲人賂物之故、入他奴婢、穢※[さんずい+于]清名、」とあるのによつて、御名を民に入れる(御名を部の名につける)義ではないかといつた飯田武郷の説は、御名入部にはあてはまるが子代入部には適合しないし、さりとて人を愛しむ意とした宣長の考は、部にさういふ語を加へるといふことが解し難く思はれるから、こ(67)れも妥當でない。もし試に臆説を述べることを許されるならば、それは租税を徴收する意ではあるまいか。孝徳紀大化二年の條に見える「イラシのいね」(貸稻)のイラシがやはり「入」の義であつて、利息を納れさせることから呼びならはされた名稱らしいことも、參考せられよう。さすれば「入」の字は部の上についた語であり、御名の入部、子代の入部といふやうに訓まれたものであらう。が、何れにしても「子代之民」と「子代入部」とが同じものを指してゐるならば、「入」の語の有無はさして重きをなすものではないとしなければならぬから、それは且らく問題外に置いてよからう。上にも述べた如く、本來、子代の民を部と稱するのが、新しいことのやうであるから(前章參照)、それに「入」の語をつけて入部と呼ぶのは、古くからの習慣ではないらしいことも、考へねばならぬ。伴造などの部民を品部ともいふ如く、場合によつて斯ういふ稱呼が用ゐられたに過ぎなからう。さすれば、子代入部の御名入部と異なるところは、前者に御名のことをいはず、後者に子のことをいはない點にあるとしなければならぬ。從つて、「入」の語の意義如何にかゝはらず、御名入部に於いては御名が重要の意味を有するものと認められるから、それは御名によつて其の部が呼ばれたことをいふのであらうと思はれる。なほ、子代入部に「御」の字が無いのも注意せられるが、これは子代入部に御名がついてゐないからではなからうか。「御」は名についての敬語であらう。「子代之民」といふ場合にも「御」の字のつけられてゐないことが參考せられる。或は、文字が無くとも口にいふ時には「み」の語をつけたとも解し得られ、古事記に御子代と書いてある場合のあることからも、さう考へてよいやうであるが、書紀に見える公文に於いて、御名入部が常にさう書かれてゐるに對し、子代は何時でも御の字が無いから、さう簡單にはかたづけられない。さうして、孝徳紀大化二年正月の條に「是月、天皇御子代離宮」(子代の離宮に御す)と見え、其の(68)注に「或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉、而起行宮、」とあつて、此の「子代」は場所を示すものらしいから、それは此の村落の住民が何の時にか子代の民と定められてゐたことがあるため、それが其の土地の通稱となつてゐたことを示すものであらうが、さういふ場合にも單に「子代」といつて「御」といふ敬語が加へられてゐなかつたことを、考ふべきである。また此の孝徳紀の記載は子代の民、從つて其の住地が、領主の名によつて呼ばれてゐなかつたことをも語るもののやうである。本文によれば子代は土地を示す稱呼であり、注記せられた説によれば其の地名は狹屋であつて、狹屋は本來の地名らしいからである。(播磨風土記の揖保郡越部里の條に「舊名皇子代里」と見え、さうして「所以號皇子代者勾宮天皇之世、寵人但馬君小津豪寵賜姓、爲皇子代君、而造三宅於此村、令仕奉之、故曰皇子代村、」と説いてある。豐の字がつけてあるのを見るとミコシロといつたかとも思はれるが、此の地名の由來譚にどこまで眞實があるか不明であり、越部里と改稱せられた理由が説いてもないから、輕信しがたい。此の説話は安閑紀二年の條の播磨國越部屯倉の記事と關係があるらしいから、それによつて考へると、この里に屯倉が置かれてゐたといふ傳説があつたために、舊名がコシロであつたやうに構造したのではなからうかと思はれるが、屯倉は子代のそれには限らぬから、屯倉からすぐに子代の語を案出するのはやゝ縁が遠い。さすればこれは、コシの音が其の媒介をしたものと思はれる。コシロは恐らくはコシベのコシからの附會であつて、コシベが昔からの地名であらう。さうして子代の上に皇の字がつけてあるのは、文字に書くに當つてさうしたのみのことであつて、ミコシロといふことばがあつたからのことではあるまい。この里についていふと、もと/\コシロとかミコシロとかいふ名が無かつたのであるから、なほさらさう考へられる。)古事記の御子代は御名代の誤寫かとも思はれるが、「御」の字がふと書き加へられたものと(69)も解せられるから、上には子代のこととして考へて來た。今一つ考慮せられるのは、正月の詔勅に「子代之民」とのみあつて御名入部もしくはそれに當るものの擧げてないことてあるが、これについては後に考へよう。
 かう考へて來て、それによつてほゞ知り得られた點を綜合して見ると、御名入部は當時に於ける皇族私有の民で、それが領主たる皇族の御名によつて呼ばれてゐたもの、子代入部は、當時は臣下の諸家が有つてゐたものであるが、特に昔の天皇が置かれたと記してある點から考へると、本來はやはり皇室に關係のあつた部であり、さうしてそれは領主の名によつて呼ばれてはゐないと共に、子について何等かの意味のあつたもの、といふことができよう。
 しかし、子代については、子についての其の意味の如何なるものであるかが問題であつて、それには「代」といふ語の意義を知らねばならぬ。「しろ」といふ語の言語學的解釋は、此の方面の知識を有たぬ余の企て難きところであるが、古典に於ける其の用例を見ると、古事記の石長姫の話、海神宮の物語、及び雄略天皇の卷に見える「机代物」といふ語、書紀の出雲の國ゆづりの段の注の「一書」の説に「使太王命、以弱肩被太手繦而代御手、以祭此神、」とある「代御手」(みてしろ)といふ語は、机にのせて供するもの、手にもつて捧げるもの、といふほどの意義であるらしい。(「代御手」が「みてしろ」の語を寫したものであることは、それよりほかに考へようが無いことによつて知られるが、此の語は、此の場合では、神にさゝげろものとしての、こゝに引いた一節の前に記してある、木綿や玉や笠や盾や、多分刀劍をさしてゐるらしい金屬製品やをいふのであつて、それを「みてしろ」といふのは、手に持つてさゝげるからであり、「みてぐら」といふのと同じことである。「み」の敬語をつけたのは神に供するものだからである。天孫に代りて取持つといふやうな意義に解釋した宣長などの説は、當を得てゐないと思ふから、附記する。)また、孝徳紀大化二(70)年三月の條の詔勅に「兵代之物」、「草代之物」といふことがあつて、前者は兵器として用ゐるものといふ意義かと思はれるが、後者はそれと同樣には解し難いやうであり、意義は不明である(兵代の字で寫されてゐる語も明かにわからない)。それから、遣唐使時奉幣の祝詞に「禮代之幣帛」とあるのも、禮として用ゐる幣帛の義と解してよからう。萬葉十四の卷にも見えてゐて、古くからあつた語らしい苗代(田)といふのも、苗を作るため(の田)といふ意義であるらしい。播磨風土記に「鹽代鹽田」とある第二の鹽の字は衍文であつて、正しくは「鹽代田」であらうと思はれるが、これは苗代田といふのと同じ語法である。神功紀及び持統紀四年の條に神田及び神戸田地を「みとしろ」とよませてあるが、これは廣瀬大忌祭の祝詞の「御刀代」、續紀天平勝寶元年四月の宣命に見える「御戸代」であつて、宣長の説の如く、御年代の義であらうから、正しくは「みとしろ田」といふべきであり、神に供する稻を作るための田をさすのである。(持統紀の神戸の戸の字は「みとしろ」の意義には關係が無い。神戸田地は神戸と神田地とを重ねていつたものであり、その神田地が「みとしろ」なのである。また網代木といふ語があるが、「あしろ木」は網をはるために用ゐる木であらう。網の代りにする木とは解しがたい。なほ記紀や萬葉などには見えない語であるが、かべとして用ゐるものを壁代といふことがあることにも、注意すべきである。また社の字があてられてゐる「やしろ」は屋とするところ、即ち神の居るところといふ意義であるらしい(所謂社殿などの建築物をさしたものでないことは、勿論である)。これらの例で「しろ」の語が如何に用ゐられてゐたかがほゞ知り得られよう。ところが、崇神紀十年の條に、吾田媛が密に倭の香山の土を採つてそれを「倭國之物實」といつたとあるところに、「物實、此云望能志呂、」と注記してあるのは、採つた香山の土をすべての倭の國土を代表するもの、其の象徴、として見る、といふのであらう(71)か。また神の名として事代主、大物代主(雄略紀七年の條)があるが、物代主といふ名はモノの形を現はしたもの、といふところから名づけられたのではあるまいか。大物代主神が蛇神であるならば物代とは蛇をいつたものであり、それはモノ(精靈鬼神)が蛇として規はれてゐると考へられたからであらう。主の語を添へたのはそれを人格化したからと解せられる。(大物主神といふ名は、蛇をモノ、即ち精靈鬼神そのものとしたのである。)事代主もまた「こと」の顯現としての神、即ち「こと」を神格化したものであり、この「こと」は宗教的呪術的意義に於いてのそれであらう。或は「こと」を言の義に解し、言の神格化とすることができるかも知れぬ。言に呪力があり神靈があるといふ考へかたは上代に存在したはずであり、祝詞神社といふものもさういふところから生じたものらしいからである。これらの場合のには、やゝ局限せられた特殊の意義があるやうであるが、それは上記の廣い意義から派生したものと考へられる。「しろ」に「代」の字をあてたのは此の狹い意義からであらうかと思はれるが、それにしても適切ではない。「しろ」が、有るべくして無いものの代りといふやうな意義の語で無いことは、勿論である。萬葉八の卷に「たなぎらひ雪もふらぬか梅の花さかぬがしろにそへてだに見む」とある「しろ」も梅の花の代りといふ意義でないことは「さかぬが」とあるので明かである。これは「さかぬ」ことの「しろ」なのである。拾遺集の物名に「鶯のなかむしろには我ぞなく」とあるのは、意義が轉化したのであらう。なほ孝徳紀に見える「庸布」を「ちからしろのぬの」と訓むならはしになつてゐて、それは普通に「力の代りに供する布」といふ義に解せられてゐるが、この解釋は「ちから」を勞力の義としてのことであらう。しかしこの語は廣い意義での租税をいふのであるから、「税として官に納める布」といふ義で、この訓がつけられたのではあるまいか。さすればこの場合でも「しろ」は上に考へたと同じ(72)意義になる。もしまた普通の解釋に從ふならば、この訓はその意義の轉化した後につけられたものであらう。
 「しろ」といふ語の意義が、上代に於ける多くの用例から、こゝに考へたやうに解せられるならば、子代之民、子代入部は、子が無いために、子の代りとして置かれた部といふ意義のものであるとは、思はれぬ。それは現に存在する子の「しろ」でなければならず、子のために特に定められた民もしくは部として見るべきである。さうしてそれは昔の天皇が置かれたといふのであるから、歴代の天皇がそれ/”\皇子たちのために定められたものとしなくてはなるまい。特に子のためにといふのであるから、それは親が設けたものに違ひない。さて、皇子のために部民を置かれたのは、それから徴收する租税を其の皇子の用途にせられたのであらうが、こゝにさういふ意味に於いて、皇子の生まれた時から定められた部民がある。それは即ち所謂壬生部である。壬生部のことは記紀には所見が極めて少く、古事記では、上に引いた仁徳の卷の伊邪本和氣命のそれのみであり、書紀にはその外に、推古紀十五年の條に「定壬生部」とあり、皇極紀元年の條に「上宮乳部之民」のこと、二年の條にそれが東國にあることが、見えるのみであるが、かういふ名稱が存在してゐるところを見ると、それを置くことは皇子の生まれた場合の一般の慣例であつたに違ひなく、壬生を名とする郷名の所々にあることによつても、それは推知せられる。壬生の名を負うてゐる土地は、何の皇子かの壬生部の地であつたのであらう。記紀に其の設置の記事の見えないのは、一々の壬生部について其の起源と由來とが知られなくなつてゐたからのことらしい。推古紀十五年の記事も、此の年に壬生部を置かるべき皇子の出生が無かつたことを考へると、決して確實な記録に本づいたものではないので、後に上宮乳部のことが現はれるため、漫然かかる記事が作られて此の年に插入せられたのみのことであらう。推古紀には、かゝる類の記事が少なくない。また、(73)古事記の壬生部に關する記載が造作せられたものであることは、上に述べたところによつておのづから知られたであらう。壬生部といふ名稱は、一般に部曲の農民が部といはれるやうになつてから始まつたので、それより前は、子代入部が子代之民といはれてゐた如く、壬生之民と呼ばれてゐたらしく、現に皇極紀には「乳部之民」と書いてあることをも考ふべきである。(こゝに「乳部、此云美父」と注記してあるが、乳部は、實は壬生部の壬生の語に乳の字をあてたのであつて、「部」は壬生部の「部」である。壬生部と文字には書いても、口にする場合には概して壬生、即ちミブ、とのみいつたらしく、從つて乳部の字を用ゐても、同じくミブと読んだのである。「部」がミブのブに當るのではない。壬生が御産の義であることは宣長の説のとほりであつて、それは乳の字のあてられたことからも證せられるが、「壬」はミの假名に用ゐられたので、それは任那がミマナと読まれてゐることからも知られる。なほ雄略紀に見えてゐて百濟記の文字を寫したものと思はれる百濟王の名の文斤が、三國史記に注記せられてゐる一説に壬乞とあつて、壬と文とが同じ音の假名として用ゐられてゐたことを、參考すべきである。壬生をニフと読み乳の字音をそれに關係があるやうに説くが如きは、乳が明白に「美父」の語を寫したものである以上、從ひ難い考である。)さて、かういふ意義の壬生部といふものがあつたとすれば、それを子代の部ともいつたのではなからうか。親が子のために置く部は、それを壬生部とするのが、性質の上から極めて自然であることを考へ、また壬生部が一定の土地に居住する農民であることは、皇極紀三年の條にそれを封民と記してあることからも、二年の條に見える上宮の壬生部が東國にあるといふ記事からも、疑が無からうから、それは大化の改新によつて廢罷せられたはずであるのに、此の名が改新の詔勅などに全く見えないのは、他の名によつてそれが記されてゐるからだと推測せられることを考へると、子代の部が壬生(74)部であるとするのは、無理な比定ではあるまいと思ふ。(宣長は、古事記傳に於いて、壬生部は皇子を養育するために奉仕するもの、即ち大湯坐若場坐などのことであるとし、他方では壬生の名を負はせた部民のあることをも認めながら、この方が壬生部の本義である如く説いてゐるが、大湯坐若場坐などは、それ/”\獨立の伴造の下に朝廷に奉仕するトモであるから、それは壬生部ではないはずであり、さうして、壬生部として記紀に記されてゐるものは、どの場合でも明かに皇族の私有部民をさしてゐて、朝廷に勤務するトモを稱してはゐない。宣長の考は、朝廷に勤務するトモの名である「部」と、皇族諸家の私有民の稱呼である「部」との、區別と關係とが明かになつてゐなかつたところから、生じたものであらう。)また皇極紀二年の條に見える山背大兄王の物語によつて推測すると、壬生部は其の皇子の子に傳へられるのが習慣であつたらしく、すべてを世襲として見る當時の一般的觀念から考へても、それは當然であるから、皇子の生存中は、いふまでもなく、其の所領とせられたであらうが、子が無かつたり天折せられたりした場合には、どうなつたであらうか。事實に於いて、皇子の血統の長く繼續しない場合が少なくないことを、考へねばならぬ。これは文獻に徴證を求めることはできないが、或は壬生部の事務を管理してゐたもの、もしくは何等かの縁故のある權家豪族が、それを占領したのではあるまいか。權家や地方の豪族が恣に官家(屯倉)などを占有してゐたことが、孝徳紀大化元年の詔勅に「若有求名之人、元非國近侍造縣稻置、而輙訴言、自我祖時、領此官家、治是郡縣、汝等國司、不得隨詐便牒於朝、審得實状而後可申、」と見えることによつて、明かであるから、壬生部にもさういふ状態に置かれたものが少なくなかつたであらう。さすれば、それが「臣連及伴造國造所有」といはれてゐる「子代入部」として考へるに、支障が無いといはねばならぬ。なほ、壬生部が其の皇子の御名によつて呼ばれなかつたこと、いひかへ(75)ると、其の部に皇子の御名がつけられてゐなかつたことは、皇極紀に「上宮乳部之民」とあつて、其の部が、假にいはゞ厩戸部などと稱せられたらしくはなく(上宮の二字を冠してあるのは其の所屬を示したまでである)、また姓氏録にある高志壬生、稻置壬生、蝮壬生などの家の名が皇子の御名には關係が無いことによつて、推知せられよう。古事記の伊邪本和氣命について記してある壬生部が、壬生部といふ名の部となつてゐて、此の命の御名で呼ばれてゐないことも、また參考せらるべきである。これは實際の習慣として、どの皇子の壬生部も常に壬生部とのみ呼ばれてゐたからのことであらう。さすれば、これもまた、上記の考察に於いて、子代入部は御名に關係が無いといつたこととよく符合する。余はかう考へて、所謂子代入部は壬生部のことであらうと推測するのである。同じく皇族の私有部民でありながら、子代入部が御名入部とは違つて御名で呼ばれなかつたのは、壬生といふ特殊の稱呼があつたからではないかとさへ考へられる。
 此の子代入部とは違つて、御名入部は、上に述べた如く、當時皇族の私有民であつた。皇族の私有民は種々の事情で獲得せられ種々の場合に定められたであらうし、從つてそれは、原則的には世襲とすべきものであつても、實際には、其の人、其の家と共に、斷えず變動があつたはずであるから、大化の時に存在したそれは、必しも昔から相承せられてゐたものではないに違ひない。それが「昔在天皇日所思」といはれ、一定の意味によつて設置せられた子代入部と區別せられてゐるのは、當然である。(皇太子の奏請に「皇祖大兄御名入部」の特記せられてゐるのは、當時、前代から繼承せられてゐたものがこれだけであつたからではなからうかとも思はれるが、難波皇子の家なども現存してゐて、それにも私有部民が傳へられてゐたであらうと想像せられるから、かう推斷もしかねる。或は皇祖であるがた(76)め特に尊重して書いたのかも知れぬ。)さうして、それが一般に其の領主たる皇族の御名によつて稱へられてゐたのは、伴造の部民がそれ/”\領主たる伴造の家の名によつて呼ばれてゐたのと、同じである。從つて、領主に變動がある場合には、それと共に稱呼もまた變動したはずであるが、父祖から傳へられてゐるものは、多分、其の父祖の名が部の名として襲用せられたであらう。かういふ稱呼の實例を文獻の上に求めることは困難なやうであるが、孝徳紀大化二年八月の詔勅に「以王名輕掛川野、呼名百姓、」とある呼名百姓のうちには、皇族の御名が部の名とせられ、やがてまた部民たる百姓の稱呼とせられたものがあり、また王名が地名となつたもののうちには、かういふ部の名から轉化したものもあつたであらうか。同じ詔勅にはまた「假借王名爲伴造」と見え、翌三年四月のにも「拙易臣連伴造國造、以彼爲姓神名王名、逐自心之所歸、妄付前々處々、」とあるが、これにもまた皇族の御名によつて呼ばれてゐる部民を管理するものが、其の部の名を氏の名としたところから生じたものがあるかも知れぬ。(「以王名輕掛川野」とある「王」は天皇の意義であるらしく、それはすぐ其の前に「王者之子相續御寓」とあることから推測せられる。さすれば、これは「皇子等私有御名入部」とは關係の無いことのやうであるが、詔勅に王者のことがいつてあるのは、一般に皇族の御名がさう取扱はれたことを示すものとして解釋せられよう。)但し、地名と皇族の御名とが同一であるにしても、皇族の御名が、本來、地名によつてつけられてゐる場合が少なくないのであり、また諸家の氏の名とせられた部の名に皇族の御名と同じものがあるにしても、皇族の御名が部の名によつてつけられてゐたり、御名と部の名とが同じ地名から出てゐたり、種々の場合があらうとは思はれるから、上記の如き事情から出たものが其のすべてでないことは明かであるが、さういふ事情のものも其の間に幾らかはあつたとしても、大過は無からう。上記の詔勅の如きは、た(77)だ地名や氏の名に皇族の御名と同じものがあるところから、それらを漫然、王名を地名や氏の名としたもののやうにいひなしたに過ぎず、文字のまゝにすべてを事實とすべきではないが、さういふことも無かつたのではあるまい。(もと地名から出た部の名が更に郷名となつて各地方に殘つてゐるのは、それらの土地に其の部の部民があつたからのことで、その名は大化の改新によつて新に定められた里につけられたものであらうから、それはこゝの問題とは關係が無い。また上記の詔勅には伴造などが其の氏の名、即ち部の名、を恣に人々に負はせたやうにいつてあるが、部民が部の名を負うてゐるのは、實際上の必要から生じた慣例であつて、皇族の部民が其の御名で呼ばれたのも、また同樣とすべきである。)但しかう考へると、皇太子の奏請に「皇祖大兄御名入部」とあつて、其の部が彦人大兄の名によつて呼ばれてはゐないやうに見えることと、矛盾するらしくも思はれるが、かう書いたのは御名入部といふものの全體に關する奏講であるからであつて、實際は此の部に大兄の名がついてゐたのであらう。特に「大兄」の二字を記したのも此の故であらうか。
 子代入部と御名入部との性質に關する余の見解は、ほゞ上記の如きものであるが、此の二つの稱呼は、それが公文に現はれてゐるところから見ると、大化のころに於いて既に世に行はれてゐたもののやうにも見える。しかし、子代入部が子代之民とも記されてゐることを考へると、これらを部と稱するのは、むしろ文字の上のことにとゞまつて、口にする時には必しもさう呼んだには限らないやうであり、壬生部が單にミブといはれたことからも、それは類推せられるであらう。入部といふやうな名は、部の一般的稱呼がこゝに用ゐられたに過ぎないものであるかも知れぬ。然らば、所謂御名入部が一般的に如何に呼ばれてゐたかといふと、そこで思ひ出されるのは古事記に見える御名代の語(78)であつて、それは「子代之民」に對して「御名代之民」といはれたのではなからうか。(もし此の臆測が中つてゐるならば、二年の詔勅に「子代之民」とのみあるのは、其の下に「皇子等私有御名代之民」などといふ文字のあつたのが、「代之民」がその上の句の文字と同じであるため、遺脱したのではあるまいか。)御名代の「しろ」は子代のそれとは少しく違ひ、たゞ御名によつて呼ばれることを示すまでであり、約言すれば御名がついてゐるものといふほどのことであらう。名と名によつて示されるものとの間に離るべからざる關係があるといふやうな、上代人に例の多い、考へかたからすれば、御名によつて呼ばれる民は御名そのものの形に現はれたものであるので、上に述べた如き狹義の「しろ」はこゝに却つて其の適切な表現を見る、ともいひ得られようが、かう解釋するのは詮索に過ぎてゐよう。さて、かう考へて來ると、子代の部と子代入部との一致はいふまでもなく、御名入部が名代の部であることもまた、其の名稱の意義の上から證明せられたことになり、最初に假定として置いたことが、確かな前提として取扱つてよいことになつたのである。ところが、子代の民も名代の民も、其の名のみが傳はつて實が亡くなつた後になると、それが如何なるものであるかが知られなくなつたので、そこで名を傳へるためであるといふ解釋が生じたらしい。孝徳紀大化元年九月の條に見える詔勅に「自古以降、毎天皇時、置標代民垂於後、」とあるのは、かういふ解釋が生じた後に造作せられたもののやうであり、其の「標代民」は即ち子代名代の民を總稱したものであらう。此の詔勅が後年の擬作、少くとも後になつて甚しく潤色せられたもの、であることは、既に述べたところである。名を傳へるといふことはシナ思想から來たものであるらしく、さうしてシナ思想は大化改新の基調をなすものであり、現に名については「王者之兒相續御寓、信知略帝與祖皇名、不可見忘於世、」といふことが、上に引いた大化二年八月の詔勅中に見え、また王名を地名(79)や民の名として呼ぶことを非とするやうな考が、此の時に存在したのであるから、當時の詔勅に上記の句があつても怪しむに足らぬやうであるが、此の時には子代名代の民の性質と其の名の意義とは明かに知られてゐたはずであるから、さうは考へ難いのである。上記の詔勅でも知られる如く、シナ思想に於いては直接に君主などの名を呼ぶことを諱むのであるから、名を傳へるために名をつけるといふ考には、思想としては、矛盾が含まれてゐる。しかし名のついてゐるのは事實であるから、それを説明するためにかういふことが考へられたのである。或はこゝにもシナ思想と固有の風習との奇異なる結合があるとも解せられる。さて、子代名代の部について名を傳へるために置かれたといふ解釋が生じたと共に、子代の部については、「しろ」の語にあてて書かれた「代」といふ文字の上から、それが子に代るための部といふ意義にとり得られるので、そこから子の無い場合に置かれたものとせられるやうになつたのであり、名を傳へるといふことには最もふさはしい説明が生じたのであるが、他方には名代があつて、それにも同じ解釋を適用しようとすれば、子の無いために置くといふことが無意味になる。名を傳へるために部を置くといふことが、或は子の無い場合のこととせられ、或は子のある場合にもあつたとせられて、其の意味が極めて曖昧になり、また子代の部と名代の部との區別も、其の間の關係も、判然しなくたつたのは、此の故である。部を置かれた場合の記紀の記載に從へば、名代の部の外に子代の部の存在すべき特殊の意味が無いのであるが、孝徳紀の皇太子の奏請によると、子代入部と御名入部とは明白に區別せられ、而も同時に存在してゐたのであるから、此の一事によつても記紀の記載の信じ難いことが知られるのである。天皇の御名を傳へるために部を置く、といふやうなことのいはれてゐるのも、畢竟、強ひて附會したからのことであつて、それが皇子の無かつた清寧天皇武烈天皇の二朝に限られてゐ、また天皇となられ(80)た皇子の場合としては、それに御子はあつても皇位がその御子たちに傳へられなかつた伊邪本和氣命、水齒別命だけとなつてゐるところに、かういふ附會をしたものの意圖が見えはするが、畢竟、附會たることを蔽ひ得なかつたのである。また、子の無い場合に置かれたといふ部を、或は父の天皇もしくは皇子のためとし或は后妃のためとしてあつて、其の間に何等の準則の無いことも、また此の附會の附會たることを示すものである。かういふ附會は天武朝の史局の最初の稿本に於いて既に行はれてゐたのであらうが、安閑紀の記載に至つては、全く今の書紀の編者の造作であらう。(安閑紀の屯倉の地が后妃の名と無關係であるのは、民の名に王名を用ゐることを避ける思想によつて構想せられたものではなからうか。)また書紀が部の設置を記す場合に、子代もしくは名代の稱呼を用ゐなかつたのは、名を傳へるためといふ思想に重きを置いたからのことと推測せられる。
 以上の考説にもし理由があるとすれば、子代名代の部の設置に關する記紀の記載は、其の全部が事實でないことになるが、これは「日本古典の研究」の第二篇及び第四篇に述べた如き記紀の性質から見れば當然であらう。
 
       第三章 從來の諸説に對して
 
 上代の「部」といふものに關する余の見解は、ほゞ上述の如きものであるが、しかし世には、部を民間に於いて種々の職業に從事するものの間に自然に發生した同業者の集團であるとする説が行はれてゐるらしく、また同一血族の結合とする考もあるやうであつて、それは上記の見解とは大に趣を異にするものであるから、それについてなほ一應(81)の考察を試ることも、無益ではなからう。
 「部」が朝廷に於ける一定の職掌を有するものの稱呼、いはば制度上の名稱であることは、官僚政府の組織が成立した後に、即ち令の規定に於いて、それが相承せられてゐることからも、推考せられよう。神祇官の神部、卜部、中務省や大藏省の藏部、刑部省や衛門府の物部、治部省の土部、大藏省の掃部、漆部、縫部、などを始めとして、諸官司に某部と稱せられる屬僚のあることが、即ちそれである。治部とか民部刑部とかいふ省の名の「部」は、唐制に於ける尚書省の六部のそれを學んだものであらうが、上記のものは唐に模範があつたらしくはなく、またそれが大化改新の前から存在してゐた稱呼であることから考へると、これは必ず舊制のそれを繼承したものとしなければなるまい。さうして、さういふことが行はれたのは、改新以前に於いて、やはり、それが制度上の稱呼であつたからに違ひない。勿論、令の規定に於けるかういふ名稱のものが、其の職掌に於いてもまた舊制と同じであつたには限らないので、それは新しい時代の實際上の要求や、又は新しい制度に於ける職務分掌の必要に從つて、極々變改せられたでもあらう。次にいふやうに、品部とか伴造とかいふ名稱が繼續せられながら、其の意義が一變してゐることも、參考せられねばならぬ。しかし、例へば諸陵司の所管である土部が昔の土部の職掌と同一であるべきことを思へば、名と共に其の職掌のほゞ昔のまゝに繼承せられたもののあることも、また推測し得られる。さうして、それは品部及び雜戸の制度の存在からも類推せられるであらう。
 品部と雜戸との性質や其の區別などについては、明白でない點もあるが、令集解に引いてある古記や別記などによつて見ると、品部も雜戸も朝廷の用度とすべき種々の物品を製作させ、または朝廷の特殊の業務に服させるために、(82)物品または業務の種別に應じて、それ/”\一定の民戸を置き、或は其の民を一定期間徴發して其の業に從事させ、或は其の住地で製作した物品を納附させたものらしく、それがために、或は徭役を免じ、或は調徭の何れをも免ずることになつてゐた。此の中で、品部と定められたものは、續紀養老五年七月の條に、放鷹司の官人等を罷め其の役するところの品部は公戸に同じくせよといふ詔勅があり、天平寶字三年九月の條に「停廢品部、混入公戸、」といふ乾政官の上奏が裁可せられた記事のあるのを見ると、本來普通の良民、即ち公民、であることが推測せられるので、賦役令の集解に見える「品部、謂取良人配隷諸司雜色也、」といふ説は、當つてゐよう。さうして、それは、よし幾らかの例外はあるにしても、一般的には、農民であつたと見なすべきであらう。大藏省に屬して革具の製作に從事する狛戸や、漆部司の漆部、などの如く、特殊の技能を要するものは、專門の工人であつたかと思はれ、品部停廢の際の上奏に「世業相傳者」とあるのはそれであらうと考へられるが、織部司所屬のもので「在國織進」するものや、又は園地司の園戸、主水司の水戸、の如きは、農民であつたらしく、其の他の工藝にも農民の兼業として行はれたらしく想像せられるものが少なくない。また雜戸は、續紀天平十六年二月の條に「免天下馬飼雜戸人等」とあつて、それについての勅に「汝等今負姓人之所恥也、所以原免同於平民、」と見え、また其の前に屡々特殊のものに對して雜戸の名を免じた記事のあるのによると、普通の公民とは幾らか違つたものとして取扱はれてゐたらしいが、それは其の歴史的由來が普通の農民でなかつたからではあるまいか。これは固より臆測に過ぎないが、品部と雜戸と區別せられ、さうして、續紀に散見する雜戸に關する記載や、令集解に引いてある古記や別記によると、雜戸は特殊の技能を要する工人、即ち所謂手人、らしく思はれ、品部との區別は主としてこゝにあつたらしいことから、かう考へられる。雜戸のうちに歸化人の子孫(83)もしくはそれに縁のあるものがあつたことは、大藏省に屬する百済戸、狛戸、典鑄司に屬する雜工戸、などについての別記の記載によつても知られ、また雜戸の名を免ぜられたものについての續紀の種々の記事からも推測せられるが、それは歸化人中、工藝に關する特殊の技能を有するものの子孫、またはそれと何等かの關係のあるもの、であつたと思はれ、さうしてそれは本來農民として生活したものではなかつたらう。さすればこれもまた上記の臆測を助けるものである。調徭は免ぜられても租は徴せられたことと思はれるが、これは口分田を給せられてゐたからのことと解せられる。勿論、品部にも歸化人らしく見えるものが含まれてゐるやうでもあり、また上にも述べた如く、專門の工人かと思はれるものも無いではなく、こゝにも兩者の區別の明かでない點があるが、大體かう考へられる。
 さて、これらの品部や雜戸が、朝廷の用度物品を供給するために、特殊の制度の下に置かれた少數の一定の民戸に限られた稱呼であつて、それ/”\の技能を有し又はその職業に從事するもののすべてをさすものでないことは、いふまでもないので、例へば、船のりが津の國にのみゐ、酒を造るものが倭や河内に限つて存在し、日本の鵜飼が三十七戸、江人が八十七戸、網引が百五十戸、に限られてゐたのでないことは、明白である(主船司、造酒司、大膳職の品部に關する集解所引別記の記載、參照)。別記によると、品部雜戸とせられたものは概ね近畿地方の住民であるが、それは朝廷のために上記の任務を負はせるに便宜だからであり、どこにも存在する、さうして公民として取扱はれてゐる、それ/”\の技能あるものから、特に此の地方のものを選んで、さうしたのである。歸化人の裔、もしくは外國傳來の技術を學んだものは、本來近畿地方に住んでゐたものが多かつたであらうが、然らざるものは全國にあつたはずである。だから、天平寶字三年に品部が廢せられたといふのは、さういふ民戸が朝廷のための特殊の任務、從つて調(84)徭に關する特殊の取扱、をやめられたといふことであり、それがやめられゝば、即ち本來の公民なのである。それより前の天平十六年に雜戸を免じたといふのは、たゞ其の稱呼を廢したまでのことであるらしく、それは免じた後にも技術は子孫に傳習させるやうに注意せられたことと、後に品部を廢した時に世業相傳ふるものは此の限にあらずとせられたこととから、推測せられるので、朝廷のためにそれ/”\の任務に服することは依然として繼續せられたらしく思はれるが、稱呼を廢するといふことは、即ち本來の公民に復歸することなのである。雜戸は一般公民よりは地位が低かつたやうではあるが、それが續紀大寶三年五月、和銅六年十一月、養老三年十一月、四年六月、十二月、などの諸條に見える如く、或は官職にあり、或は位階を有し、また雜戸の名を免ぜられると共にカバネを賜はつたものがあるのを見ると、さして賤められてゐたとは思はれず、上に述べた如く雜戸の號を除かれゝば本來の公民になるのでも、それは明かである。雜戸の地位が低いといふのは、たゞ法制の上でかういふ特殊の名稱が與へられてゐたからのことであり、さうしてそれは、唐制に於いて罪により家を没せられて官奴婢となり、それが再免せられたものの稱呼である雜戸の名を、強ひてあてはめたからのことではあるまいか(六典及び唐書百官志、刑部尚書に屬する都官郎中の條、參照)。上に引いた天平十六年二月の續紀の記事には馬飼を雜戸と並記してあり、集解所引の別記にはそれを雜戸としてあるが、飼部の黥してゐたことが履仲紀五年の條に見え、また雄略紀十一年の條には、罪あるものが黥せられて鳥養部とせられたといふ話が載つてゐるのを見ると、飼部などには罪あるものの編入せられたことがあり、それによつてかういふ話が作られたかと思はれる。もしさうとすれば、雜戸の名をあてたのは、はじめは主としてかういふものに對してであつたのが、何かの事情で、朝廷の官司に隷屬して一定の業務に服する手人をも、さう稱するやうにな(85)つたのではあるまいか。さうして、唐制によると、上記の官奴婢の伎藝あるものは其の能に從つて諸司に配屬せられたのであり、分番することになつてゐる雜戸も、多分、同樣であつたらうと思はれるが、手人が此の點に於て雜戸と類似してゐるのを見ると、其の事情もほゞ推測せられるやうである。從つて、さういふ工人は、實社會に於いては、良民と嚴格に區別せられた特殊階級を形づくつてゐたものではなかつたらう。雜戸が特殊の技能を有する手人であつたにしても、それが特殊の規定の下に朝廷に隷屬するもののみを指すのであり、同じ技能を有し同じ職業に從事するものでも、雜戸ならぬものは公民であつたはずであることを思ふと、其の職業が賤められたのではないことを考へねばならぬ。また、一般にこのころの良賤の區別が、人に固有なものではなくして、境遇の上のことであり、良賤といふやうな文字を以てそれを峻別したのは、唐制を模倣した法制上の取扱に過ぎず、民衆の心理に於いては、文字に示されてゐるほどな畛域を其の間に設けてゐたのではなく、所謂賤民も、後世の特殊部落民や、世界に屡々其の例を見るやうな異民族から成立する奴隷の類とは、全く趣を異にするものであつたことをも、參考すべきである。法制上賤民と名づけられたことが、奴婢などの身分を一層賤しく感じさせるやうにはなつたらうが、彼等も解放せられゝば良民であり、さうして解放せられる機會は甚だ多かつた。賤民とても、同じ日本人が何等かの事情によつて、其の境遇に墮ちたものに過ぎないのであるから、これは當然である。雜戸は賤民ではないが、地位の低いといふことの意味は、このことからも類推せられよう。雜戸の間にはいくらかの歸化人もあつたらうが、そればかりでないことは勿論であり、さうして歸化人は、當時に於いては、決して賤められてはゐなかつたことを注意しなければならぬ。
 ところで、かういふ品部と雜戸とは、職員令の規定に於いて、大化改新前の「部」と對照し得べきものが多い。例へ(86)ば、織部司所屬の品部と錦織部及び服部、大膳職の雜供戸と海部、土工司の泥戸と※[泥/土]部、筥陶司の雜戸と筥作部、の如き、必ず其の間に關係がなくてはならず、造兵司に屬する雜工戸の如きも、また靱部、弓削部、矢作部などと連絡があり、左右馬寮の飼戸も飼部と縁があるものと認められる。これもまた唐制に模範があるのではないから、昔の「部」の或る種類のものが、いくらかの變改をうけながら、新制の下に於いて繼續せられたものと考へる外はないのである。品部といふ名稱も、意義は變りながら、伴造の部民を指す昔の稱呼が相承せられたものと、推測せられる。伴造といふ語も、やはり意義を異にして、集解に引いてある別記に現はれてゐることを、參照すべきである。官制を如何に改めるにせよ、國民の經濟生活の状態は一朝にして忽然として變化するものではないから、おのづからかういふ規定が、制度の上にも、設けられたのであらう。だから、かういふ品部や雜戸の状態によつて、逆に昔の「部」の性質を推知することができるのである。氏族制度時代に於いても朝廷の用度物品を供給するものが無くてはならなかつたはずであるが、其のころの經済状態が品部や雜戸の設けられた時代とほゞ同じであつたとするならば、品部や雜戸の制度は氏族制度時代の「部」を繼承したものと推測せられるからである。品部や雜戸が概ね近畿の住民について定められてゐたことも、昔の部の状態を推測すべき一材料であつて、特殊の技能による工藝品を取扱ふ部に於いては、伴造の配下に隷屬してゐた工人は、主として後の近畿地方に住するものであつたらう。農民を徴發して製作させるやうな場合に於いても、やはり同じ地理的關係の顧慮せられたものがあつたことと想像せられる。もとの伴造の家は、新制と共に、概して其の業務上の地位を失ひ、たゞ其の名稱のみを氏の名として保有するやうになつたのであるが(特殊の家について、または儀禮の場合などに於いて、舊習の守られることは別問題として)、其の部下の工人には、雜戸としてそれぞ(87)れ新置の官司に隷屬することになつたものがあり、またさういふ工人の或るものや部民たる農民には、やはり舊慣により、新しい意義での品部として、特殊の規定の下に、召役せられるやうになつたものがあつたのであらう。實をいふと、官府組織の全體から見れば、唐制を模範として設置せられた新制の官司そのものに、一面の意味に於いては、前代の「部」を管理してゐた伴造の職務を繼承したものが少なくないのであつて、例へば、中務省の内藏寮、縫殿寮と、内藏造、内藏衣縫造との、大藏省の掃部司、漆部司、縫部司、織部司と、掃部連、漆部連、衣縫造、服部造、錦織造、倭文連との、治部省の諸陵司と土師連との、兵部省の造兵司、主鷹司、主船司と、弓削連、鳥取造、犬養連、船史との、宮内省の大膳職、大炊寮、造酒司、土工司、采女司、主水司、筥陶司と、膳臣、阿曇連、舂米連、酒人直、※[泥/土]部造、采女造、水取造、筥作造との、又は左右馬寮と、馬飼造との、衛門府と、佐伯連、物部連、門部直との、職務をそれ/”\對照して見れば、其の關係はおのづから領解せられるはずであり、其の他、神祇官と中臣連、忌部首との如きも、其の間に連絡のあることは、明かである。さうして、これらの官司に某部といふ屬僚のあるのは、もとの伴造の部下として直接に朝廷の職務に關與したものの變形であり、原則としては、もとの伴造の部下もしくは部民、又はそれらの子孫で其の部名を氏の名として負うてゐるものが、其の部の繼續者たる官司のこれらの屬僚に任ぜられるはずであつたらしい。が、産業に關係のある官司に於いては、かういふ屬僚だけでなく、品部や雜戸をも置いたのであり、さうして、これもまた多分、その官司の前身たる昔の「部」の組織の繼承せられたものであらう。昔の「部」の組織やそれと伴造との關係が、職務や産業の性質によつて、一樣でなかつたことは、上に述べたところであるが、某部といふ屬僚のみあつて、品部も雜戸も無い官司もあり、またそれがあるにしても、或るものが品部とせられ、或(88)るものが雜戸とせられたのには、かういふ歴史的由來があるのであらう。(此の某部といふ屬僚は伴部といはれたらしく、伴造と呼ばれたものは其のうちの或るものであつたやうに見えるが、これにも不明な點はある。伴造はまた友造とも書いてある。)品部及び雜戸と昔の「部」との關係について上に述べたところは、かう考へると、一層明かになるのである。續紀養老六年三月の條に、金作部、韓鍛冶、弓削部、鎧作、漢人、などの氏の名を有する諸國の民七十一戸に對し、雜戸の號を除いて公戸としたことを記して、「雖姓渉雜工、而尋要本源、元來不預雜戸色、」といつてあることの意義も、またそれによつて領解せられよう。雜工に關する姓を冒してはゐるが實は雜工でないといふのは、朝廷の用度としてこれらの工藝品の供給を掌つてゐた昔の伴造の部民(たる農民)であつたために、其の伴造の名を氏として冒してはゐるが、彼等自らそれらの工人ではない、といふのであらう。新制に於いて雜戸と定められたのは工人であるはずであつたけれども、氏の名が同じであつたため、部民であつた農民が誤つて雜戸に編入せられたものがあつたのであらう。然らざれは、此の記事は解すべからざるものである。
 かう考へて來ると、上代の「部」といふものが民間に發生した同業者の集團などでないことは、明かであるといはねばならぬ。もしさういふものであるとするならば、それと朝廷の伴造との關係の如きは、到底理解すべからざるものであらう。部の長たる伴造が朝廷にある以上、それ/”\の職業について其の部の全體を統率するものでなければならず、從つて、部がもし同業者の集團であるとするならば、廣汎な範圍に於ける、いはゞ全國を通じての、同業者の集團が成立つてゐたとしなければなるまい。伴造に隷屬するものは各地方に散在してゐたはずだからである。が、さういふ全國的の大集團が、當時の社會状態に於いて果して形成し得られたであらうか。また種々の職業が職業によつ(89)て集團を組織するほどに分業的になつてゐたであらうか。甚だ疑はしい。さうして、また假にさういふものがあつたとしたならば、中央集權の方針によつて立てられた新しい制度では、何等かの形に於いてそれを利用しさうなものであつたのに、さういふ形迹が少しも無く、朝廷に要する物品の供給についても、少數の品部や雜戸を置いたのは何故であるか。これまた甚だ解し難いといはねばならぬ。また、もし「部」がさういふ意義のものであつたならば、民間の職業とは全く無關係な朝廷の官職吏員に部の名がつけられ、或は子代名代の民が部と稱せられたのが何故であるかも、説明し難からうし、記紀の記載に於いて、部を定むとか置くとかといふことがいはれてゐるのも、解釋のできないことであらう。なほ、民間に於ける同業者の集團がもし存在し、またそれが部と呼ばれてゐたならば、それは大化改新の如き制度の變更によつて、急に消滅も變化もするはずが無いから、新制の施行の後もそれはそのまゝ存續したであらうが、もしさうとすれば、記紀に「部」を朝廷に於ける一定の職掌を有するもの、又は朝廷に隷屬し朝廷のために調度物品の製造供給をするもの、として記してあるはずがなく、令の規定に於いて、それと同じ名を朝廷の職員の名として用ゐたといふことも解し難い。だから、かういふ考へ方は成立しないものと思はれる。本來「部」を民間に於ける同業者の集團とする説は、何を根據として考へられたものか、明かでないが、文獻に見えるところでは「部」は決してさうは解し難いのである。
 「部」が同一血族の結合であるといふ考も、之と同樣、成立ち難い。「部」を同一血族のものと考へるのは、多分、各地方に散在して同じ部の名を冒してゐる家々、即ち姓氏録などに記載せられてゐる如く、何等かのカバネを有する諸家、を同じ宗家から出たものとし、其の間に血族關係による統制があつたものとするからのことであらう。之に對(90)する余の見解は、既に述べたところである。なほ地方に於いてカバネを賜はつたものは、もとの伴造の部民の中に於いて選ばれたものであるから、それが伴造と同族であつたとするならば、部民全體が同族であるとしなければならぬが、かゝることのあるべからざることは明かである。これだけで問題は解決せられると思ふが、こゝには更に、血族關係が上代の社會に於いて如何なる地位を有つてゐたか、といふ一般的考察の上から、それを補はうと思ふ。さて、大化改新前の政治組織が氏族を基礎としたものであつたこと、詳言すれば朝廷の官職地位が世襲であり、土地民衆が世襲の領主、即ち所謂臣連伴造國造、によつて分有せられてゐたことは、疑が無からうが、それは社會組織が氏族を單位とし皿族關係を骨幹として形成せられてゐた、といふことではない。氏族制度といふ語も、それが改新以後の官僚制度に對する稱呼であるならば、それはかういふ政治上の制度をいふのであつて、社會組織に關するものではないはずである。ところで、當時の社會組織に於いて、氏族、いひかへると血族團體が、如何なる地位を占めてゐたかといふことは、まだ明かにせられてゐない、さうして愼重な研究を要する、大きな問題であるが、余の見るところによれば、極めて遠い昔のことは別として、文獻によつて推知せられる時代に於いては、世間で漠然臆測せられてゐる如く重要なものではなかつたやうである。先づ一般民衆の状態について考へるに、孝徳紀に見える大化二年の詔勅に、臣連伴造國造がそれ/”\品部を分ち有することを述べ、それがために「遂使父子易姓、兄弟異宗、夫婦更互殊名、一家五分六割、」といつてあるのが注意せられる。此の詔勅の文字には、漢文風になつてゐるため、かなりの誇張があるらしく見えるが、其の意義は、一つの家族が異れる品部に分屬するといふことであらう。ところが、これは、一方に於いては、所謂品部が民衆の血族關係を基礎として成立してゐるものではなく、それとは全く別の組織であることを、(91)示すものであると共に、他方に於いては、血族關係が社會組織の根幹となつてゐるものでないことを、語るものであらう。品部が如何なる性質のものであるにせよ、それが民衆の實生活と密接の關係を有するものであるとすれば、それは當時の社會組織に於いて重要なものであつたはずだからである。いひかへると、血族關係を基として社會が組織せられてゐたならば、品部の所屬關係も、それを基礎とするものであつたらうと思はれるのに、事實さうでなかつたからである。遺存する戸籍などでは、各戸間にいかなる血族關係があるかを知ることができないから、上記の詔勅に見えるやうな事實がどの程度に於いて存在したかを、推測することは困難であるが、同一血族たることを示すべき氏の名といふものが無く、所屬の部の名(または領主たる地方豪族の名もしくは國造縣主といふやうな稱呼)が、外見上、氏の名の如く、何人にも冠せられてゐるのを見ると、部が、それに屬する民衆の血族關係とは全く別のものであることは、明かである。此の場合に用ゐられてゐる部の名は、一見、氏の名のやうになつてゐて、上記の詔勅に、所屬の部を異にすることを「易姓異宗」といつてあるのも、此の故であるが、實は眞の意義での氏の名ではなく、姓でも宗を示すものでもないことは、それが朝廷の貴族たる伴造の家の名であり、全國到るところに同じ名のものが散在することを考へれぱ、直に領解せられる。戸箱のうちには、國造族、縣主族、又は某君族などと記されてゐるものがあつて、これは、それらのものと、國造縣主など、即ち伴造に對する意義に於いて國造といふ代表的名稱を以て詔勅などに現はれてゐる地方の豪族、との、血族關係を示すものの如く思はれるかも知れぬが、それが上記の部の名と全く同じ形で記されてゐること、戸と他の戸との血族關係は戸籍の上に記されないのが一般の例であること、などから考へると、これは、部の名と同樣、氏族制度時代に於ける領主との所屬關係を示したものとしなくてはならぬ。此の場合に(92)は「族」を血族の義のそれに用ゐたのではなく、村落的集團の義に取つて、地方的豪族に屬する民戸をさう記したのであらう。族と書いてあるものには、家の名の明記してあるのもあるが、それが何れも地方の豪族に關する場合であることを、注意すべきである。或は、上記の詔勅に見える如く、所屬の部の名を姓と記すやうに、地方の豪族に對する所屬關係を族といつたので、カバネに姓の字をあてる例と共に、文字の用法の適切でないことを示すものかも知れぬ。それは何れにしても、其の意義は明かに推知せられる。同一血族たることを示す氏の名といふものが無くして、所屬の部の名が氏の名のやうになり、從つて、かの詔勅に示された如く、同族が異なつた部に分屬する場合には、同族のうちで異つた氏の名を冒すことになるが、さういふことが一般の風習になつたのは、民衆の實生活に於いて、血族關係よりも、伴造國造に對する從屬關係の方が重きをなしてゐたからであらう。
 また、戸籍によると、同じ里には同じ部に屬した戸が多いやうであるが、もしさうとすれば、これは部に對する民戸の所屬關係が、主として住地によつて定められたことを示すものであり、さうしてそれは、當時の社會に於いて血族の關係よりは住地のそれが必要であつたことを、示すものではあるまいか。大化の新制によつて定められた里の制が、戸數と地理的區割とを準據としたものであり、各戸間の血族關係の如きは全く顧慮せられてゐないことも、また注意せられねばならぬので、それは從來の村落組織に於いても、血族關係が重きをなしてゐなかつたからであらう。村の字のあてられたムラの語には血族的集團の意義はなく、郷と里とはサトの語にあてられたのであらうが、これもまた同樣であることをも、考へねばならぬ。大化の新制は、此のことについても、唐制を模範としたものではあるが、それが法文のまゝに實行せられたのは、實行し得られる状態であつたからと見なければなるまい。官制などの上に於い(93)て、氏族制度時代の舊習が種々の形で保存せられたほどであるから、民衆の實生活に最も關係の深い村落組織が、その根幹において、大化以前の状態を繼承したものであることは、おのづから知られる。新しい村里の制は、民衆が品部や地方の豪族、即ち伴造國造、に分屬してわた時代にも、何等かの形に於いて存在してゐた村落、或る程度に於ける民衆の共同生活の小團體、が劃一的制度の下に整理せられ、さうしてそれが國と郡との管治に移されたまでのものであらう。社會組織の如きは法令で改められるべきものではないから、かう見なければならぬ。(法制上、里といふものが劃一的に定められても、實際上、一村落としての民衆の共同生活は、自然に發逢して來た舊來の村落に於いて行はれたであらうと想像せられるが、それはおのづから別問題である。)里の名に某部といふものの多いのは、伴造の部民が地方的村落的に一團となつてゐたこと、いひかへると、或る土地、或る村落の住民が、それ/”\一團として或る伴造に從屬してゐたためであるべきことも、また此の點に於いて注意せられよう。(此の地名は大化改新以後につけられたものであらうが、それは在來の部屬關係によつたものであらう。明治時代に町村合併を行ひ新町村の名がつけられたと同樣、大化の新里制によつて區劃せられた里に、新しい名をつける必要があつたはずである。)もつとも、同じ村落には同一氏族の幾つかの戸、いひかへると一つの宗家から分出した多くの戸、があつたでもあらうから、それがために同一氏族が同じ伴造や國造に屬することも少なくなかつたであらうが、それは寧ろ彼等が同一村落の住民であつたからのことである。だから、同一氏族でも、何等かの事情で遠隔の土地に住んでゐたものは、其の土地の所屬の部の異なるにつれて、それ/”\別の部に屬してゐたのであらう。なほ、一戸主の下に數戸の包括せられてゐる場合に於いて、稀には其の間に部を異にしてゐたもののある例もあるが、これにも或は住地の故があるかも知れぬ。詳し(94)くいふと、新制の下に於いては同じ里のうちに包括せられてゐても、もとは村落を異にし從つて所屬の部を異にしてゐたものであるかも知れぬ。一戸主の下にある數戸は同一氏族であつて、其の多數は隣接した土地に居を構へてゐたであらうと思はれるが、土地の状況や其の他の事情によつては、さうでないこともあつたと想像しなければなるまいからである。上に引いた詔勅に於いて、一家が數部に分屬してゐるやうにいつてあるのは、かういふやうな場合のことかと思はれる。(この詔勅に夫婦名を殊にすとあるのは、妻が生家の所屬部名を冒してゐて、それが夫の家のと違ふためであらうから、これは婚姻が異つた部に屬する家々の間に結ばれたことを示すものであり、父子兄弟が部屬を異にするといふのとは、意味が違ふはずである。)
 以上は、部に對する所屬關係から見たことであるが、さういふことを離れて考へても、同一氏族たることを示す氏の名といふものが無いといふことは、氏族間に鞏固な團結が無く、氏族が社會組接の單位でなかつたからではあるまいか。上に述べた如く、一戸主の下に同族たる數戸が統轄せられてゐることの、戸籍の上に明記せられてゐる場合があり、またさう明記せられてゐなくとも、事實上、一戸としての生活ができないほど口數の多いものは、やはり同樣であらうと思はれるが、新しい法制の上でさうせられてゐるといふことは、必しもさういふ一戸主の下にあるものが全體として經濟生活の單位をなしてゐたことを、示すものとは限らず、從つてそれは必しも、實生活の上に於いて、同族間に鞏固な結合があつたことを語るものとはいひ難い。それは法制上の里が、實生活の上に於いては、必しも自然的聚落と一致してゐなかつたことが想像せられるのと、同じである。さうして、一戸の中に於いて奴婢の所有者が各別に記載せられてゐる例さへあることを考へると、それが如何なる必要から起つたことであるかに關せず、さういふ(95)事實もしくはさういふ取扱方の存在することは、數戸を包有する一戸が經濟生活に於ける一單位をなすこととは、調和しないもののやうに思はれる。(奴婢についてのこの取扱ひかたは、戸令によると、財産分讓のためのやうであるが、かういふ點に於ける令の規定は、個人を單位とするものであるから、それによつて考へても、このことは知られよう。數戸を包括する一戸が經濟生活の單位でなかつたといふことは、瀧川政次郎氏の「法制上より見たる日本農民の生活、律令時代上」の緒論第二章に詳しい考説がある。)これは、一般民衆の状態についての臆測であるが、貴族豪族の階級に於いてもまた同樣である。彼等の間でも、同一氏族たることを示す共通の氏の名が無い。氏の名は住地によつてつけるといふことが續紀に屡々見えてゐるが(和銅七年六月、養老元年九月の條など)、これは昔からの風習らしく、一宗家から分出した同族の家でも、居所を異にすればそれ/”\別の氏を稱するので、同族に共通な氏の名といふものが無いのである。歴史的事實とは信じ難いが、例へば波多氏、蘇我氏、紀氏、平群氏などが、共に建内宿禰の裔とせられながら、それに共通な氏の名が無いやうにしてあるのは、斯ういふ實際の風習が基礎になつて作られた系譜だからである。場合によつては宗家の名を上に冠せていふことがあるにしても、それが一般の例ではなかつたやうである。かゝる状態に於いて、同族間の團結が鞏固であり、彼等が一族として共同の生活をしてゐたとは考へ難い。さうして氏の名が住地によつてつけられるといふことは、生活の基礎が血族關係にあるのではなくして土地にあることを示すものであらう。(特に地方的豪族においては、その氏の名はみな地名であることを注意すべきである。)實際の行動に於いても、同族が常に一致してゐたものでないことは「日本古典の研究」の第七篇にも述べておいた。家が分れて其の經濟的生活が獨立するやうになれば、これは當然である。さうして、他方に於いては、既に述べた如く、(96)また後にもいふやうに、全く血族を異にするものが同じ氏の名を稱する例があり、さうしてそれは、さうする必要があつたからであらうから、これは、實社會に於いて血族關係よりも他に有力なものがあつたことを、語るものである(これらは大化改新以後に於いて益々多くなつたことと考へられるが、氏族に關する觀念は制度の改新と共に忽然として變化するものではないから、其の前からも、かういふことはあつたに違ひない)。勿論、系譜が重んぜられ、家筋が重んぜられたことはいふまでもないが、それが實生活に關係のあるのは、主として朝廷に於ける地位、從つて土地人民の領有、が世襲的である點にあるのであるから、家々はそれ/”\其の地位を維持するに必要な祖先を定めればよいのであり、かういふ意味に於いて家々の系譜が作られたのである。伴造の祖先がそれ/”\其の家の地位と職掌とを反映するものであり、猿女氏に於けるウズメの命の如く、女姓をさへ祖先としてあるのも此の故である。だから、系譜の重んぜられたことによつて、一氏族の間に鞏固な結合があつたことを、推測することはできぬ。
 なほこのことに關しては、天智紀や天武紀に見える氏上といふものの性質について考へておくことが必要である。この氏上を遠い昔からあつたものと見、上代に於いては一氏族が氏上に統率せられて一つの團結をなしてゐたやうに考へる説が、世間にはあるからである。しかし書紀をよく讀むと、かういふ説のあたつてゐないことがわかるはずである。天武紀の十年の詔勅に「凡諸氏、有氏上未定者、各定氏上、而申送于理官、」とあり、十一年のに「諸氏人等、各定可氏上者、而申送、亦其眷族多在者、則分各定氏上、並申送於官司、然後斟酌其状、而處分之、因承官列、唯因少故、而非己族者、輙莫附、」とあるから、氏上は朝廷が各氏族に命じてそれ/”\新に定めさせたものであること、またこの命があつたにかゝはらず、それを定めない氏族のあつたことが、それによつてわかるが、氏上が昔からどの氏族(97)にもあつてそれがそのまゝ續いてゐたならば、かういふことは無かつたはずである。さすれば天智紀三年の條に「宣…氏上…事」とあるのは、始めて氏上を定めることを諸氏に命ぜられたものと解せられる。同じ記事のうちにある民部家部が、天武紀の四年の記載によると、この時新に定められたものであることから類推しても、かう解しなければならぬ。上にもしば/\述べたごとく、この時代に同じ氏の名をもち一つの氏に屬してゐるものは、もとの伴造の家とその部下の家々とのやうに、血族關係の無い多くの家を含むものであるから、それに對して何等かの統制を加へることが、いろ/\の點から見て、便宜であつたにちがひなく、そのために新に氏上の制が設けられたものと、推測せられる。ところで、この氏上は、もとの伴造や、それと並んで同じやうな地位にゐた地方的豪族、即ち國造の名で代表せられたもの、の家がおのづからその任に當ることになつたらうと思はれるが、詔勅にあるやうに、あまりに多くの家を包有する氏に於いては、それを幾くみにも分けてそれ/”\に氏上を定める必要があつたであらう。また大化改新以前の主家と部下との關係が絶えたり混亂したりしたものもあつたので、家によつてはそれに乘じて、何かのかゝりあひがあれば、どの氏に屬すべきかの明かでないもの、または他の氏に屬すべきものをも、自己の氏に加へ、それによつて勢力を張らうとするやうなことも生じ、或はまた獨自の力の無い氏のものは、いさゝかの縁故をたよつて勢力の強い氏の名を冒し、その氏に屬することによつて何等かの利を得ようとするやうなことも起り、これらの事情のために紛議ができたでもあらう。氏上の定まらない氏のあつたのは、さういふことのためであつたかもしれぬ。氏上が新に定められた地位であることは、この點からもわかるやうである。要するに、これは改新後の新制度の下に、遺存せる舊習を或る程度に利用しつゝ、氏といふものを新しい形によつて統制しようとして、案出せられたもの、と考へら(98)れる。文武紀の二年に見えるごとく、氏上を朝廷から任命したやうなことは、かう考へなければ解しがたいことである。氏上が昔からあつたものでないことは明かであらう。しかし氏上の名は無くまた氏の意義がちがふにしても、血族關係があつて同じ氏に屬してゐる家々がその宗家によつて統率せられてゐた、といふ事實が、改新前の状態として、あつたのではないか、といふに、上に考へたごとく、血族關係のある家々に共通の氏の名が無かつたほどであるとすれば、さういふ風習があつたやうには思はれぬ。よし近親の血縁のある少數の家々の間には、宗家と分家との關係として何等かの聯絡があつたとするにしても、さういふ少數の結びつきでは、社會的に何ほどの力も無いものであつたにちがひない。
 日本の上代に於いて血縁關係といふものが社會組織の上にさしたるはたらきをしてゐなかつたといふことは、宗教的信仰の上からも證明せられよう。やゝわきみちに入る嫌はあるが、次にそのことを述べて見よう。一氏族の共同の祖先が氏神として崇敬せられ、それによつて氏族が氏族として結合せられてゐた、といふやうな説が世間に行はれてゐるやうであるが、余はそれとは所見を異にしてゐるからである。さて、此のことを説くには、我が上代に於いて祖先が神として祀られたかどうかといふことと、氏神が如何なる性質のものであるかといふこととを、考へてみなければならぬが、第一の問題については、「日本古典の研究」の第二篇第五章第一節に於いて卑見の概要を述べて置いた。それは、上代の宗教思想の一般的考察の上から、祖先が神として祀られたらしくは見えないといふことである。また、貴族階級に於いては、其の祖先が神代史の物語に於いて神と呼ばれてゐる場合もあるけれども、それは宗教的に崇拜せられた神ではない、といふことも、同じところにいつて置いた。なほその第三篇では、神代史の物語で活動し(99)てゐるものは宗教的意義の無い人物であつて、宗教的性質をもつてゐる神には殆ど物語が無く、たゞ名のみが見えてゐる、といふことを考へておいた。が、之については、少しく補説したいことがある。神代史を通覽すると、古事記にも書紀の本文およびその注に引いてある二つの「一書」にも、諸家の祖先とせられてゐるアメノホヒの命、アマツヒコネの命などを神と稱してあり(書紀の注の二つの「一書」には神の語が用ゐてない)、また書紀にはコヤネの命、フトダマの命を中臣神、忌部神と書いてあるところ、その注の「一書」には上にも述べた如く皇孫降臨の物語に五家の祖先を五部神といつてあるところがあることを考へると、記紀に於いて、諸家の祖先が神と稱せられてゐる場合のあることは、疑ひが無い。けれども、家々の祖先とせられてゐるさういふ神々の名は、即ち固有名詞としては、何れも某のミコトとしてあつて、某の神とは書いてない。皇室の御祖先としてのオシホミヽの命以下の歴代も同樣であるのみならず、日の神でも、オホヒルメと稱する場合には、神の語が附けられず、この神の生誕の條の書紀の注の第一の「一書」と神武紀の卷首とには、それをミコトとしてある。オホヒルメに對するツクヨミの名にミコトの語がついてゐることから類推しても、オホヒルメの神とはいはれなかつたことが知られよう。ところが、一方では神の名を某の神としてあるものも多く、さうしてそれらは何れも宗教的基礎のある神である。それらの神が、さういふ名によつて、實際の信仰に存在したとはいび難く、神代史の物語に編みこむために人に擬せられた名が與へられ、種々の名がつけられ、民間信仰に於いては到るところに遍滿してはゐるが其の性質は同じ一つの精靈であつたものが、特定の神となると共に、其の名稀や性質が分化してもゐるのであるが、其の基礎は民間信仰にある。今の記紀に記されてゐるところに於いては、いくらかの混亂、例へば古事記にも書紀の本文及びその注のいくつかの「一書」のうちにも、宗教的祭(100)祀を受ける墨江の神や胸方の神の名を何れもミコトと書き(胸方の神は書紀の本文と注の一つの「一書」とにはミコトとも神とも書いてない)、また古事記にスサノヲの命の系統の神で宗教的意義の無いものの名を某の神としてある類はあるが、全體から見て、神の名にミコトといはれてゐるのと神といはれてゐるのとの二種類があるのは、此の二つがそれ/”\性質を異にするものだからであつて、前者は物語の上に於いて神代に生活してゐたとせられてゐるために神と呼ばれた場合のあるもの、後者は宗教的意義のあるものであることが、知られよう。ミコトといふ語は、本來、宗教的意義を有たない、即ち人としての、尊稱であるから、皇室及び諸家の祖先とせられ神代に生存して神代に活動したものとして、その神代の物語に語られてゐる人の名にも、この語がつけてあるので、それが宗教的意義のある神と區別せられたのは、當然である。日の神も、皇祖神としてはオホヒルメノミコトであり、太陽神としてはアマテラス大神であるのが、本義であらうと思はれる。神武紀の卷首のオホヒルメノミコトは、よくこの本義を傳へてゐる。また書紀の注の「一書」にアマテラスオホヒルメのミコトといふ名の見えてゐるのは、二つの名を結びつけたのであるが、それはオホヒルメノミコトの名の上にアマテラスを加へることによつてせられたのである。またオホヒルメノムチといふ稱呼も書紀に記してあるが、ムチはオホナムチノミコトのムチと同じ語であり、ミコトについていはれる例のあるのを見ると、これはオホヒルメノミコトといふのと同じほどないひかたをしたものと考へられ、從つて皇祖神としての稱呼であらう。それから、古事記に三柱のワダツミの神を阿曇連等の祖先とし、さうしてそれを、其々の「祖」と書く一般の例に背いて、特に「祖神」と記してあるのも、此の神が宗教的に信仰せられてゐる海の神に基礎があるからである。かう考へて來ると、かういふ神々の名の作られた時もしくは帝紀舊辭の述作せられた時に於いて、家々(101)の祖先が神と稱せられてゐる場合があつても、それは宗教的基礎のある神とは違つたものとして、取扱はれてゐたことが知られるので、それはまた、かういふ祖先が宗教的祭祀をうける神でなかつたことを、語るものであらう。或は、記紀に家々の祖先を神と稱してある場合のあるのは、帝紀奮辭の原の形を傳へたものではなく、其のはじめは神と稱してはゐなかつたかも知れぬ。上に述べた如く、記紀に於いて二つの稱呼にいくらかの混亂が生じてゐるのも、祖先が神とせられるやうになつたと同じところから來てゐるのであつて、それは二つの間の限界が後になつてやゝ崩れかけて來たことを示すものと解せられる。さうして、かういふ變化の生じたのは、神代史が作られ神代といふ觀念が生じてゐること、其の神代史に於いて、宗教的信仰に基礎のある神が人に擬せられた名を與へられ人としての名がつけられてゐること、宗教的に崇拜せられてゐる太陽神が皇祖神とせられてゐることが、重要の事情となつてゐるので、之がために、神代に活動したやうに物語られてゐる家々の祖先と、宗教的意義のある神とが、同樣に取扱はれる傾向を生じたのであらう。
 少しわきみちに入るやうであるが、神の名としてのミコトと神との混亂については、なほ少しく考説しておく必要がある。先づ、イサナキ、イサナミ、より前に成りましたとある神々の名が、古事記には、原則として、某の神としてありながら、神によつては某のミコトと書いてあるところのあるものも、稀にはあるが、神としてあるのは後の變形であつて、ミコトとするのが原の形であらう。これらは何れも宗教的意義の無い神だからである。書紀及びその注に引いてあるすべての「一書」にみなミコトとしてあることをも、參考すべきである。書紀とその注の多くの「一書」とでも、筆者がそれを汎稱する場合には、「化爲神」とか「化生之神」とか「倶生之神」とか、または三神とか八神とか(102)いふやうに、神の語が用ゐてあるが、神の名としては、即ち固有名詞としては、みな某のミコトとしてあるので、この固有名詞の方に古くからいひ傳へられたいひかたが保たれてゐるにちがひない。固有名詞は變化の少いものと考へられるからである。これらの神々のうちで、タカミムスビは、古事記では、すべての場合にその名が神となつてゐて、物語の人物として記されてゐる場合でも同樣であるのみならず、タカギの神の名によつても呼ばれてゐるが、タカギの神は宗教的意義での神であるから、タカミムスビにこの名のあるのは、物語の人物としての神と宗教的意義での神との混淆である。カミミムスビは、古事記でも、オホナムチの兄弟爭ひの物語には、ミコトとして出てゐるが、スクナヒコナの出現の段の始に、それをカミミムスビの神と記しながら、すぐ其のあとで、カミミムスビミオヤのミコトと書いてあるのと、對照して考へると、物語に現はれて何等かの行動をする人物として此の神の名を用ゐる場合には、此の書の記者も、それをミコトと書いたのかと思はれる。もしさうならば、ミコトの稱の用例が上記の如きものであることを證するものであり、特にミオヤのミコトとあるのは、ミオヤである點に重きが置かれたからであるとも考へられる。またもし、それが原の形の偶然遺存したものならば、古事記に於いても、物語の人物としては、この神の名がもとはミコトといはれたことを示すものである。從つてまた、このことはタカミムスビに於いても同樣であつたと考へられる。この二柱は同じ性質の神、同じ地位にある神だからである。次にイサナキ、イサナミ、は、古事記では、いはゆる神世七代の最後の神としてその生成を記すところには、それより前の神々と同じく、その名を神としてあるが、國生みの段をはじめとしてそれから後のいろ/\の物語では、すべてミコトとしてある。これもまた物語であるために原の名がそのまゝ傳へられてゐるのであらう。書紀とその注の多くの「一書」とでは、すべての場合にみなミコト(103)と書いてあるが、この書紀やその注の「一書」に於いても、筆者がそれを汎稱する場合には、やはり神とか二神とかいつてあることを、古事記に於いても同じ場合に神といふ語が用ゐてあり、特に物語の上で、名としてはミコトとしてありながら、二桂神とか二神とかいふやうな汎稱でそれを指示してあることに、照しあはせてみると、神といふのは後のいひかたであつて、ミコトとしてある方の固有名詞が原の形であることは、おのづから知られよう。古事記に名を神と書いてある場合のあるのは、二人のミコトが神と汎稱せられるやうになつてから、それによつていひかへられ、または書きかへられたものと解しなくてはならぬ。(古事記の物語でも、イサナミの死を語る時には、二ところにその名を神としてあるが、その一つの場合のは、釋紀に引いてあるものにはミコトとしてあるのを見ると、誤寫であらうと思はれ、從つて他の一つの場合のも、それから推してやはり同樣に考へられる。またヨミの國の物語には、イサナキの名に大神の語の用ゐてあるところがあるが、これも、古事記とほゞ同じことの語られてゐる書紀の注の第六の「一書」には、ミコトとしてあることに考へあはせると、もとの物語にはミコトとしてあつたのを、古事記またはそのもとになつた舊辭に於いて、大神と書きかへられたものであることが、知られよう。さうしてそれは、すぐその前にイサナミをヨモツ大神またはチシキノ大神としてあること、またその次にチカヘシノ大神ヨミドの大神の名のあることに誘はれたのであらう。或はこれも後に寫し傳へたもののさかしらであるかもしれぬ。いづれにしても、この物語に於いてイサナキ、イサナミ、の名がミコトとなつてゐたことは、こゝにいつた三つの場合のほかには、すべてさうしてあることによつて、明かである。ついでにいふ。スサノヲは、名としては、記紀ともに、どの場合でもミコトとしてあつて神としてあるところは一つも無いが、古事記ではスカの宮の話と根の國にオホナムチの命がいつた時の話とに大神の、(104)また書紀では天に上る話に於いて神の、稱呼を用ゐてそれを示してあり、書紀の注の「一書」ではアマテラス大神とツクヨミのミコトとを含めて三神といつてある。これはイサナキ、イサナミ、を神と稱してあるのと同じ例であらう。ツクヨミのミコトも、書紀のこのミコトの生誕の段の注の第十一の「一書」には、アマテラス大神のことばに於いて神といはれたことになつてゐるが、その名はどこまでもミコトとしてある。)イサナキ、イサナミ、より前の神々は、其の本來の意義に於いては、皇室の御祖先でも諸家の祖先でもない、いひかへると人の性質も形ももたない、神であると共に、宗教的意義の無い、即ち實際の信仰には存在しない、神でもあるから、それは實はミコトとも神ともいひ難いのであるが、それに人に擬せられた名が與へられてゐると共に、系譜上の地位がおのづから御祖先に當るやうになつてをり、後には實際御祖先として取扱はれるやうになつた神も其の間に生じたのであるから、それはやはり、上に考へた如く、初からミコトとしてあつたのであらう。これらの神々の出現が、帝紀舊辭の最初の述作の時ではなくして、後から漸次作り添へられたものであることは、「日本古典の研究」の第三篇に於いて説いて置いた。それから古事記には、皇孫降臨の物語のサルダヒコの神に對する話に限つて、ウズメのミコトをウズメの神と書いてあるが、これは「いむかふ神と面かつ神」といつてあるため、それと調和するやうに書いたのであり、さうしてそれはおのづから邪視を折伏する呪力に重きを置いていつたことになるのである。また古事記に、神とすべきはずの墨江の三神をミコトとしてあるのは、ツヽノヲといふ名にひかれてのことであるらしく、胸形の三女神のミコトは同じ場合に生れたことになつてゐる五男神に誘はれたのではあるまいか。もつとも、前者は書紀に於いても同樣であるが、後者については、書紀の本文と注の第一の「一書」とには、ミコトとも神とも書いてないことを一考するを要する。イサナキ、イサナミ、二(105)神が神々を生まれる段の注の第二、第三、第四、などの「一書」にも、ハニヤマヒメ、カナヤマヒコなどと書いてあつて、神とかミコトとかいふ語がつけてない場合があるが、これは、カグツチ、クヽノチ、ヤマツミ、オカミ、などの名が、それみづから神、即ち人の性質を有たない精靈、の意を含んでゐる民間の稱呼であるのとは違ひ、知識人の思惟によつて土や山の神に特に與へられた人に擬しての名であるから、神の語の省かれた形と見るのが妥當であらうか。もしさうとすれば、胸方の三女神に關する書紀のかきかたについても、また同樣に觀察することができるから、何時でも古事記の記載の如くミコトと呼ばれたには限らぬ。なほ、書紀の上記の段の注の第六の「一書」には風の神、水門の神、海の神、などの名にミコトをつけてあるが、これは同じところに土の神が神としてあるのを見ると、特殊の理由があるのではなく、たゞ二つの稱呼の混亂しはじめた時代になつて書かれたからのことであらう。同じ書に神とすべきイハツヽノヲもしくはそれとイハツヽノメとの名をミコトとしてあるのも、これと同じであらう(別の「一書」には神としてある)。たゞしこれらのうちには、或は傳寫の誤があるかもしれず、特に彼の方のはイハサクの神ネサクの神につゞけて書いてあることから、さう考へられる。皇孫降臨の物語の書紀の注の第二の「一書」に、ミコトであるべきテオキホオヒ、ヒコサシリ、の名を神と書いてあるが、これは、其の部分が「日本古典の研究」の第七篇で述べた如く、後人の手になつたものであることを思ふと、やはり稱呼の混亂と見なすべきである。
 最後に考ふべきは所謂出雲系統の神の名である。古事記にはスサノヲの命の子孫として多くの神々の名が記してあつて、其の中には宗教的意義を有する神々が少なくないけれども、また物語の上の人物も含まれてをり、ヤシマジヌミ、オホナムチ、アヂシキタカヒコネ、などは後者の例であるが、それらが皆な一樣に某の神といふ名になつてゐる。(106)一般的にいふと、これもまた神代の物語に現はれたものをすべて神と稱するやうになつたからのことであり、此の系譜が神代史に於いて最後に加へられたものであることからも、それは證せられるが、其のほかになは特殊の理由のあることが注意せられねばならぬ。系譜の上に於いて、宗教的の神が多く加はつてゐるのみならず、スサノヲの命、ヤシマジヌミ、オホナムチ、などが、宗教的に祭祀をうけてゐるオホヤマツミ、オカミ、タギリヒメ、などの神々の女を妻としたとあり、またオホナムチが、オホクニヌシの神またウツシクニダマの神の名に於いて、杵築に祭られてゐる神とせられ、なほいろ/\の形で大和の三輪の神に結びつけられてゐるし、アヂシキタカヒコネも鴨の神とせられてゐるのを見ると、此の系譜に於いて、神代の物語に現はれてゐる出雲系統の人物を宗教化し神化しようとした意圖のあることが、明かに推測せられる。オホクニヌシもウツシクニダマも民間信仰に於いて本來存在した名ではなく、知識人の思想に於いて構成せられたものではあるが、古事記にスサノヲの命の語として宇迦の山の山もとに宮をたててをれとあるのと、クニダマの神社が所々にあることと、から推考すると、杵築の宮の祭神としてこれらの名が用ゐられたことがわかるので、其の意味に於いて、これらの神が宗教的性質を帶びてゐるのである。古事記の物語にはオホナムチの名は殆ど用ゐられてゐず、たゞ兄弟爭ひの話とスクナヒコナと並稱する時とに、それが出てゐるのみであるが、これは書紀やその注に引いてある二つの「一書」の國ゆづりの物語の如く、もとはオホナムチとあつたのを、オホクニヌシと書きかへたからのことであつて、上記の二つの場合は、もとの名が遺存してゐるものと推測せられ、さうして、さう書きかへたのは、オホナムチといふ物語の人物としての名よりも、杵築の神として宗教的意義のある名を表に立てようとしたからのことではあるまいか。オホナムチの子となつてゐるコトシロヌシに至つては、上に述べた如(107)く、名そのものに宗教的意義が含まれてゐるらしく、此の名は其の物語と共に、後になつて附加せられたものであらう。要するに古事記に見える出雲の神々の系譜や其の物語は、政治的に敗者の地位に置かれ服從者とせられた出雲の勢力を、宗教的意義に於いて張揚せんがために、出雲に關係のある方面に於いて、造作せられたものである。オホナムチの神が退隱して幽事を治めんとすといつたといふ話の作られたのも、此の意味に於いて參考せらるべきである。かう考へると、古事記の出雲の話に於いて、物語の上の人物の名をミコトと書かずして神といつてある理由も、おのづから知られるのであつて、アシナツチ、テナツチ、スカノヤツミヽ、の名にまで神の語がつけてあるのも、此の故である。しかし、書紀にはヤシマデ、オホナムチ、スクナヒコナ、などをミコトとしてあるところもあつて、それがもとの稱呼であることは、上に述べた他の例からも推測せられよう。
 さて、宗教上の神と神代史上の人物とが同じく神として混淆せられるやうになると、一方に於いては「日本古典の研究」の第二篇に於いて述べた如く、宗教上の神が或る家の祖先とせられるやうにもなるので、阿曇氏がワダツミの神を其の祖先とするが如きは、其の一例である。勿論かういふことの行はれたのは、家の地位が世襲的であるため、祖先の名と地位とを尊くしなければならぬといふ事情があつたからであつて、阿曇氏についていふと、此の家は神代史の物語に於いて活動すべき場合が無く、從つて神代にゐたものとしての祖先の名が作られてゐなかつたから、後になつて、かういふ方法によつて其の祖先に神代史上の地位を與へたのであるが、思想上の背景としては上記の如き一般の傾向があつたと思はれる。古事記とほゞ同じことの書いてある書紀の注の「一書」には、ワダツミの三神を「阿曇連等所祭神矣」としてあつて、祖神とはしてないが、これは祖神とせられる前の段階を示すものであつて、阿曇氏はもと(108)其の職業の神として海神を祭つてゐたのを、上記の理由から一歩を進め、それを祖神としたのであり、さうしてそれは一般の思想が、宗教上の神を家々の祖先となし得られるやうになつて來たからである。ところで、かうなつて來ると、他方ではそれと共に、家々の祖先が宗教的に神としての祭祀を受けるやうにもなりさうなものであるが、宗教的信仰は急に變化するものではないから、さうなるには、實際の信仰として宗教的に崇拜せられてゐる神と、何等かの方法で、結びつくことを要する。「日本古典の研究」の第七篇に考へておいた如く、フトダマの命が安房の大神に結びつけられたのは、其の一例であるが、その時期がずつと後であるのは、かういふことが急激には行はれないものだからである。祖先を祭るといふことには、知識人の知識としては、シナ思想から學ばれたところもあるらしいが、皇室に於いても、シナの宗廟のやうなものが設けられなかつたと同樣、諸家に於いても、さうであつたらうと思はれるから、實際上、祖先を宗教的意義に於いての神とすることは、それとは別な徑路によつて發達したものとしなくてはならぬ。皇室に於いて皇祖神として祭られたのは、日の神のみであつて、歴代の天皇ではなく、後に或る家々で神として祭るやうになつた其の祖先も、また始祖とせられたもののみであつて、血縁の近い父祖ではなく、此の點に於いてシナの宗廟の制に現はれてゐる思想とは、全く其の精神が違ふのである。皇極紀二年の條に蘇我蝦夷が祖廟を立てて八〓の※[人偏+舞]を奏したといふ記事があつて、八〓の※[人偏+舞]といふやうなことをいつてゐるところから推測すると、所謂祖廟の文字はシナの宗廟を想起して書かれたものらしく見えるが、同じ理由はまた、此の記載が書紀の編者の造作に出でたものであることを示すものである。或は、書紀の編者が其のころに始祖を神として祭る家のあるのを見て、それによつて此の記事を構造したのかも知れず、もしさうとすれば、祖廟は始祖を神として祭る神社の意に解しなければならぬが、(109)神社にシナの成語をあてはめることについては、神武紀の靈畤の如き例が無いではないにせよ、其れは全く事實に根據の無いことであり、さうして、實際祭祀の行はれてゐる神社を廟と書いたことが、書紀には無いやうであるから、かう解することはむつかしからう。また始祖のみを神として祭るのは、普通にいふ祖先崇拜とは同じでないことをも、注意しなければならぬ。それは自己と父祖の靈との關係から來たことではなくして、自己の家と其の家の創始者との關係を示すものである。もと/\始祖のみの名の定められたのは、地位職業領土が世襲であるために、其の家の由來を祖先のこととして説かうとしたからであつて、それには宗教的意義は無い。またよし實際の風習として、何等かの意味に於いて、或は何等かの形に於いて、死者の靈を祭り父祖の靈を祭ることはあつたとしても、それは特定の神として始祖を祭ることとはちがふ。だから、これらの點から考へても、始祖を神として祭ることには特殊の由來があつたはずである。なほ、始祖が宗教上の神と混同せられて神といはれ、またミコトとあるべき其の名が神と書かれる場合が生ずるやうになつても、それは所謂神別の家のに限つたことであつて、皇別の家の始祖、即ち皇子、は必ずミコトであつて、決して某の神とはいはれないのであるが、始祖が神として宗教的祭祀をうけるはずのものであつたならば、これもをかしいことなので、それは即ち、始祖は始祖なるが故に神といはれたのでないことを示すものである。
 ところで、上に述べたやうにして家々の祖先と結合せられる神は、實際に於いて、民衆から宗教的崇拜をうけてゐるものでなくてはならぬ。さうして、さういふ神は、當然、村落的、地方的のものである。神に對する祭祀は、到るところに齋串をたてぬさを手向けるが如き形に於いて、個人としても行はれ、井の神や竈の神を祭る如く、家としても行はれ、また農民が田の神や歳の神を祭り、漁民や舟夫が海の神を祀る如く、職業的意義に於いても行はれたので(110)あるが、多數人の信仰の中心たる神社は、其の成立の事情から見ても、本來、村落的地方的のものであつたのである。神社はもと或る村落、或る地方の住民が、共同の呪術祭祀を行ふ聖地であつたので、後に神が人に擬せられた名を與へられるやうになつてから、其の地の地名に彦もしくは姫の語を附けて、其の神の名としたものの少なくないのも、此の故であり、地名がすぐに神社の名として呼ばれる《*》ものの多いのも、こゝに由來がある。家々の祖先と結びつけられる神はかういふ神であるので、安房の大神が、やはり其の著しい一例を示してゐる。しかし、かゝる結合は容易には行はれなかつた。國造縣主の如き地方的豪族に於いては、祖先を其の住地の神社と結合し易い事情があり、姓氏録や山城風土記に見える賀茂縣主と賀茂のワキイカツチの神との關係の如きは、それを示すものであるが、此のことも記紀にはまだ見えず、また倭國造が其の祖先をオホクニダマの神に結びつけてゐないことも注意せられよう。出雲國造の家が其の祖先を、オホナムチの命と結合せられたオホクニヌシの神とせずして、ホヒの命としてあるのは、神代史の全體の精神から來てゐるものであるにせよ、此の點からも觀察すべきであらう。(倭のオホクニダマの神は諸國にある國魂の神の一つであるが、此の國魂の神は、其の名稱と配置とから考へると、地方行政區劃としての國が置かれた後、即ち大化改新の後、に作られた名であるらしく、さうして、それは概ね其の國の名を負うてゐる昔からの國造に由縁のある神社の神に附與せられたやうである。杵築の神をウツシクニダマといふのも、やはりそれであつて、ウツシの形容詞はスサノヲの命の物語に於いて加へられたものであらう。神名帳に山城の水主神社十座の中に山背のオホクニダマの命の神のあることが注記してあるが、これももとは山背國造の奉仕した神であつて、それが、何等かの事情で、水主の神杜に併合せられたものらしい。さうして、山背の國造は、古事記にはアマツヒコネの命の、また後(111)の姓氏録にはアメノマヒトツの神の、後としてある。神名帳には國魂神のある國と無いのとがあるが、此の山背の例でも知られるやうに、神社の名として國魂神と記してないものにも、もとさう定められたものがあつたらしく、はじめは諸國一般に其の國の國魂の神が定められたことと思はれ、さうしてそれと國造との關係も、また倭、山背、または出雲、の例によつて推知せられよう。神名帳には攝津に河内國魂神社があつて、其の名は、續紀慶雲三年十月の條に見える如く、其の神主が凡河内忌寸であるところから得た稱呼と思はれるやうな例もあり、後から見ると、種々の變遷はあるが、大體かう考へられる。)
 なほ附言するが、崇神天皇の時の物語として記紀の何れにも見えてゐる、大田田根子(三輪氏の祖)が其の祖先のオホモノヌシの神を祭つたといふ話は、一般的に、子孫が祖先を神として祭る風習の反映として、解せらるべきものではない。三輪の神社は、本來、其の地方の民間信仰に於ける聖地であつて、そこに巫祝がゐたのであるが、其の祭神が人の性質を與へられてオホモノヌシの神となると共に、巫祝が世襲的地位を有つてゐたために、其の神を其の家の祖先としたので、そこから此の物語が生まれたのである。即ち實際の信仰に於いて祭祀の對象となつてゐた神を祖先としたのであつて、祖先を神として祭つたのではない。しかし、神に奉仕する家は必しも其の奉仕する神を其の祖先とするには限らないので、それは倭直(國造)の例によつても知られるが、津守連の家は墨江の大神を祀る家であつたらしいにかゝはらず、其の神の子孫とはなつてゐず(姓氏録には尾張宿禰同祖としてある)、胸形君も其のもていつく胸形の神の裔とはせられてゐない。出雲大神が其の巫祝としての國造の祖先とせられてゐないのも、之と同じである。また續紀天平寶字八年十一月の條に見える高鴨神に關する記事と、釋紀所引土佐風土記の記載とを、對照してみ(112)ると、賀茂朝臣の家は一言主神を祭つてゐたやうであるが、此の家はオホクニヌシの神の裔として姓氏録に記されてゐるそれらしい。さすれば、三輪氏のやうなこともなし得られたと共に、すべてがさうしたのでないことが知られる。三輪氏がオホモノヌシの神を祖先とするについて、特に神秘的な物語を作り若しくは附會する必要があつたほどに、それは寧ろ異例であつたと見なすべきであらう。賀茂縣主が賀茂神社との關係を説くやうになつても、單純に其の神を家の祖とはせず、タケツヌミの命をワキイカツチの神の外祖父とし、それについて山城風土記に見えるやうな物語を構造したのも、またさういふ迂曲な方法を取る必要があつたからではあるまいか。(此の物語は甚だ複雜であつて、賀茂氏の遠祖の名としてあるタケツヌミの命を八咫烏説話に結びつけ、それに伴つて、名の同じであるところから葛城と岡田との賀茂をも援引し、またそれとは全く別のものである雷上天と丹塗矢と不明の父をさしあてる話との三つの説話を結合して、それにつなぎつけ、乙訓の神社がやはり雷の神とせられてゐるところから、それをも取りこんである。賀茂の神社は雷神とせられてゐたので、それに關する起源説話が前からあつたのを、縣主の家の遠祖と關係をつけるために、かういふ物語を組立てたのであらう。天界及び空界の現象から生じた神が殆ど無いといつてもよいほどの我が國でも、雷のみは恐れられ、或は雨を誘ふものとして農業民に尊ばれたので、雷神の名を有つてゐる神社は所々にある。本來、雷神を祭つたといふのではなく、或る土地の神社が或る時からさう定められたのでもあらうが、ともかくも、さういふ名の神社はあるので、賀茂も其の一つに過ぎない。なほ御祖神社、少くとも其の名、は家々の遠祖のうちに神として宗教的祭祀をうけるものがあるやうになつた後のものであらう。)
 さて、祭神を祖先としない倭氏や津守氏のやうな家に於いて、別に其の祖先を神として祭つたとは考へられぬ。そ(113)れは、其の家々が初から(後にオホクニダマとなつた)倭の神や住吉の神と特殊の關係を有するものであつたからである。或る神に特殊の關係のある家に於いてすら、さうであつたとすれば、一般の家に於いてはなほさらであらう。肥前風土記三根郡物部郷の條に物部經津主神といふ神社のあつたことが見えるが、これは後にいふやうな物部氏と石上神宮との關係から、石上の神とせられてゐたフツヌシの神を祭つたのか、又は物部の職業から武神として此の神を祀つたのか、明かでないが、何れにしても、物部氏の部下であつた物部が、物部氏の祖先をでなくして、かういふ神を祭つたのは、物部氏みづからに於いてもやはりさうであつたことを、示すものであらう。書紀の出雲平定の段の注の「一書」に「倭文神建葉槌命」とあるタケハツチもまた、本來は倭文の職業の神であつたらしく、神名帳の大和葛下郡の倭文在天羽雷神社の由來もそこにあるのであらう(古語拾遺に見える如く此の神が倭文氏の祖先となつたのは、上に阿曇氏について述べたと同じ事情から生じた、後の變化と見なすべきである)。一二の例ではあるが、之によつて其の他をも類推することができよう。だから、此の點から見ても、古くから家々の祖先を神として宗教的に祭祀する風習があつたとは思はれぬ。家々の祖先は、上に述べた如く、奈良朝のころになつてもなほ盛に造作せられ附會せられてゐるが、それは祖先を神として宗教的に崇拜する心理とは調和しないものであらう。藤原氏の祖先神として春日に合祀せられたのが、コヾトムスビの神やツハヤムスビの神ではなくして、コヤネの命であり、忌部氏が安房の神に附會したのが、タカミムスビの神ではなくして、フトダマの命であるのは、コヤネの命やフトダマの命が、古くからの系譜に記されてゐるだけに、實際の祖先のやうに思はれてゐたに反し、其の父祖とした神々は、造作せられ附會せられたものであることが、なほ明かに知られてゐたためであるべきことを、考へるがよい。さうして、コヤネの命を(114)春日に合祀し、フトダマの命を安房の大神に擬したのは、一面の意味に於いては、これらの祖先神に眞の神性を與へんとするためであつたともいひ得られるであらう。次にいふやうに、藤原氏が鹿嶋の神を氏神としても、それをコヤネの命とせずしてタケミカツチの神としたのは、忌部氏が安房の大神をフトダマの命としたよりも時代が早く、一般の宗教思想が、家の祖先をすぐさういふ神に擬し得るやうな状態に、なつてゐなかつたからではないかとも、臆測せられる。が、かう考へて來ると、問題はおのづから氏神に移つて來る。
 氏神といふ稱呼が何時から世に現はれたかは明かでないが、遺存する文獻に徴證を求め得る限りでは、奈良朝の末のころからのことである。萬葉三の卷の大伴坂上郎女の歌の左注に「天平五年冬十一月供祭大伴氏神之時」云々とあるのは、大伴氏の神を祭るといふことであつて、これだけでは「氏神」といふ稱呼がこの時すでにあつたかどうかはわからぬやうであるが、氏の神があつてそれを祭る風習のあつたことは、これでも知られる。しかし、績紀寶龜八年七月の條に「藤原朝臣良繼病、敍其氏神鹿嶋社正三位、香取神正四位上、」と見えるのは、氏神といふ稱呼のあつたことを示すものらしい(ウヂノカミといつたのかウヂガミといつたのかは明かでないが)。また正倉院文書の中にも寶龜年間のに氏神の祭に關するものがある。此のうちで、「大伴氏神」といふのは如何なる神をいふのかわからず、正倉院文書のも同樣であるが、續紀のは鹿嶋の神と香取の神とを指してゐる。文面の上では「氏神」が「香取神」にもかゝるものかどうかやゝ曖昧であるが、藤原氏の爲に特に此の神が敍位せられたのは、やはり其の氏神とせられてゐたからと見なければなるまい。鹿嶋の土地が、何等かの意味に於いて、古くから中臣氏と關係のあつたことは、前に引いた書紀の記載によつても知られ、常陸風土記の香嶋郡の條に記してある大中臣神聞勝命、中臣巨狹山命、などの物語(115)も、さういふ事實が基礎になつて構想せられたものであらうから、そこの神社もまた、早くから中臣氏と何等かの縁が結ばれてゐたことは、推測せられる。ところで、此の神社が神代史上の武神タケミカツチの神を祭つたものとせられてゐることは、いふまでもないが、それは、記紀に於いて草薙劍が熱田に、或はウハツヽノヲ、ナカツヽノヲ、ソコツヽノヲの神が住吉に、結合せられてゐるやうな例があるにかゝはらず、記紀には全く記されてゐないことであり、常陸風土記にもたゞ「天之大神」とのみあつて、タケミカツチの神の名は見えないから、これは和銅養老のころよりも後になつてから、いひ出されたものに違ひない。風土記に「天地草昧已前、諸祖天神會集八百萬神於高天之原時、諸祖告日、今我御孫命、光宅豐葦原水穗之圖、自高天原降來大神、名稱香嶋天之大神、」とあり、其の注に「大神從上天降供奉之」とあるのを見ると、此の「天之大神」は所謂皇孫降臨の時に供奉して來た神とせられてゐるやうであるが、タケミカツチの神としてはこれは記紀の所傳に合はない。風土記が記紀の記載の材料となつた帝紀舊辭の所傳を變改したことはあり得るのであり、現に倭武命の話にもそれが見えるが、當時すでに鹿嶋の神がタケミカツチの神とせられてゐたならば、故らに其の名を現はさずして「天之大神」とする理由が無いから、これは鹿嶋の神を神代史の物語に結合しようとして、漠然高天原から降つた神とはしたが、まだ神代史上の或る神にそれを擬するまでに至らなかつたことを、示すものであらう。次に、香取と中臣氏との關係は不明であるが、鹿嶋の神社と香取の神社との間に何等かの縁故があるものとして語られてゐたために、香取の神が中臣氏と結びついたのではあるまいか。香取の神はイハヒヌシの神となつてゐて、それは書紀の神代卷の注の「一書」にも見えてゐるし、祝詞式の春日祭のにも、文徳實録の嘉祥三年九月の策命などにも、さうなつてゐるが、此の神は、書紀の同じ「一書」に於いて、タケミカツチの神や(116)フツヌシの神の出雲平定の物語に現はれてゐる。さすれば、これはタケミカツチの神が鹿嶋の神とせられたのと、思想上の聯絡があるらしいから、かういふ推測も可能であらう。但し、イハヒヌシといふやうな名の神が獨立に香取の神に擬せられるのは、神の性質上、解し難いことであるから、其の前に鹿嶋の神がタケミカツチとせられてゐたのであり、香取の方は其の由縁によつてイハヒヌシとせられたとしなければなるまいが、書紀の注の「一書」に既にそれが出てゐるとすれば、かう見る場合には、鹿嶋の神をタケミカツチとしたのは、遲くとも書紀の編纂よりいくらか前のことでなくてはならず、從つて、それが記紀や風土記に見えないのは、偶々記録せられなかつたまでであるとしなければならぬ。が、上に述べたところから推考すると、それは甚だ困難である。だから、余は書紀の注のこの「一書」のうちの「此神今在乎東國※[揖+戈]取之地也」の一句を、後の※[手偏+讒の旁]入と見ようと思ふ。(神代紀の注の「一書」に※[手偏+讒の旁]入のある例として、黄泉の國の條の「泉津平坂者不復別有處所」云々を擧げることができる。これは舊事紀陰陽本紀の文である。説話の合理的解釋であつて、説話の語られてゐた時代の思想ではないからである。)さうして鹿嶋の神がタケミカツチの神とせられ、それに伴つて香取の神がイハヒヌシとせられたのは、鹿嶋の神と香取の神との間に親密な關係があるやうに考へられながら、其の間にいくらかの輕重本末があるものと思はれてゐたからであるらしく、上記の敍位に於いて香取の神が鹿島の神より一階低くせられてゐるのも、そこに由來があらう。(鹿嶋の神がタケミカツチの神とせられた時代は判然しないが、陸奧の國に所謂鹿嶋の苗裔神が多いのを見ると、奈良朝に於いて此の地方の經略が盛に行はれてゐた時代に、其の兵士や移住民に常陸のもののあつたことが考へられるから、そのころのことではあるまいか。特に武神がそれに擬せられたことに於いて、かう推測せられる。鹿嶋ほどに多數ではないが、香取の苗裔神も陸(117)奥にある。香取がイハヒヌシとせられたのも、同じ事情から同じころに行はれたのであらう。因にいふ。古語拾遺には香取の神をフツヌシとしてあつて、それは鹿嶋のタケミカツチに伴ひまたそれに對立するものとして、香取を見たところから出た擬定であらうが、此の擬定は、當時公式に採用せられてゐたものでないことが、上に述べた嘉祥三年の策命によつても知られる。此の擬定がどこから出たものであるかも明かでないが、或は拾遺の著者の考案であるかも知れぬ。フツヌシをイハツヽノメの神の子としてあるのが、書紀の二神の神生みの段の注の第七の「一書」及び出雲平定の段にイハツヽノヲ、イハツヽノメの子と記してあるのを、誤解したのか又は變改したのかであるらしく見え、さうしてそれは、タケミカツチをミカハヤビの神の子としてあるのが、やはり書紀の出雲平定の段にミカハヤビの神の子のヒハヤビの神の子としてあるのを、改作したものであることと共に、拾遺の著者には多く見る態度だからである。なほ、古事記の神武天皇の卷に見える高倉下の夢物語の條に、石上神宮に坐す刀をサシフツの神、ミカフツの神、またはフツノミタマといふとあるが、それがタケミカツチの神の出雲平定の時に用ゐたものであるとせられてゐることから考へ、また神代の卷にタケフツの神トヨフツの神をタケミカツチの神の別名としてあつて、この説が獨立したフツヌシの神の生ずる前の段階にあるものであるのを見ると、刀の人格化であるフツヌシの神の名は、初は石上神宮に適用せられたものらしく想像せられる。さすればそれが石上から遠く離れてゐる香取の神とせられたのが、ずつと後世のことであるのは當然である。神の性質からいつても、香取の神としてはもはや刀そのものから離れた武神である。)
 さて、鹿嶋香取の神が藤原氏の氏神と呼ばれたのが何時からのことであるかは、明かでないが、それがタケミカツチとイハヒヌシとに擬せられた後からであるにせよ、前からであるにせよ、藤原氏の祖先神でないことは、いふまで(118)もないから、これは、奈良朝時代に於て、氏神と呼ばれたものが祖先神でないこと、少くともそれに限らないこと、を示すものである。なほ、春日神社が後には一般に藤原氏の氏神と稱せられてゐるが、鹿嶋香取の二神、特に鹿嶋の神、が此の神社の祭神の主位を占めてゐるところを見ると、四座の神が祭られてゐる此の神社全體が藤原氏の氏神とせられたのも、やはりこゝに由來があるに違ひない。春日神社の祭神が初から四座であつたか、又は初は鹿嶋香取の二神であつたのが、後になつて他の二神、即ちコヤネの命と姫神と、が加へられたのであるかは、問題であるが、それは何れにもせよ、主神が鹿嶋(及び香取)の神であることは、疑が無い。さうして、上に記した如く、寶龜八年に藤原氏の氏神として此の二神のみを擧げてあることから考へると、其のころの春日神社が四座であつたか否かに關せず、コヤネの命は、當時、氏神とは稱せられてゐなかつたと見るのが、妥當であらう。氏神としての二神は、勿論、鹿嶋の神、香取の神であるが、春日に祭つてあるのも鹿嶋香取のから離れてゐるのではなく、どこまでも鹿嶋の神、香取の神であり、さうして寶龜八年に於いては、二神の氏神としての地位は、春日の祭神であることに特殊の意義があつたはずであるから、もし當時の春日神社が四座であつてそれがすべて氏神とせられてゐたならば、それからコヤネの命(と姫神と)を除いて、特に上記の二神のみに氏神としての敍位があつたとは解し難く、またもしコヤネの命が、春日とは別に、氏神として配られてゐたとしても、氏神としては上記の二神と同じである以上、やはりそれに敍位の無かつたことは、解し難いからである。春日に合祀せられたコヤネの命は、祝詞によると、枚岡に本社があるのであるが、其の枚岡の神社の祭神のコヤネの命とせられたのが、或は枚岡にコヤネの命の祀られたのが、何時からのことであるかも、わからないので、それは家々の祖先が神として宗教的に崇拜せられるやうになつた時代についての、一般(119)的考察の上から推測する外は無いのであるが、神の性質の全く異なつてゐる鹿嶋香取の神と結合して、春日の祭神とせられたことには、祭祀そのことについての特殊の意味が無くてはなるまいから、それを前節に述べたことと對照して考へると、コヤネの命が宗教的祭祀をうけたのは、かういふ結合の行はれた時からではないかと思ふ。祝詞には「枚岡に坐すアメノコヤネの命」とあるが、これは必しも、春日に合祀せられる前から、コヤネの命が枚岡の神社の祭神とせられてゐたことを、示すには限らぬ。此の祝詞に「廣前」といふ語があるが、これは祝詞式に於いては、平安朝の作としなければならぬ平野祭と久度古開とのに其の例があるのみであり、さうして記録に於いては、文徳實録に見える神々に對する宣命に至つて始めて現はれてゐるやうである。またコヤネに子八根の文字をあててあるが、これも古い習慣ではない。さすれば、此の祝詞は平安朝に入つてから程經て後に作られたものとしなければなるまいから、上記の一句も後世の状態によつて書かれたものであらう。
 上記の考察にもし理由があるならば、これは、祖先とせられてゐるものが宗教的祭祀を受けるやうになるには、何等かの形に於いて、民間信仰から出た神と結合するを要する、と前に説いたことの一實例であり、さうして、氏神は、其の原意義に於いては、祖先神ではなかつたことをも、示唆するものである。特に藤原氏に於いては、後までもコヤネの命のみを氏神とは稱しなかつたことを、注意しなければならぬ。忌部氏は安房の神を其の祖神フトダマの命に轉化させたので、それはフトダマの命が宗教上の祭祀をうけるやうになつた過程に於いて、重大な意味のあることであるけれども、それを氏神といつたやうには見えず、古語拾遺には毫もさういふ形迹が無い。また、舊事本紀の天孫本紀に物部氏が石上神宮を氏神として祠つたとあるのは、多分、物部氏の系譜から出たことらしく、さうしてそれは、其(120)の系譜の記載の内容から見て、平安朝に入つてから、いかに早くとも奈良朝末に、作られたものであらうと思はれるが、これは、そのころに氏神といふ語が祖先神の意義をもつものでなかつた一例である。以上は奈良朝の文獻に於いて氏神といふ稱呼の見えるものについて考へたのであるが、此の稱呼が記紀に全く見えず、さうして、祖神といふ名が、例へば上に述べた古事記の阿曇氏に關する記載に於けるが如く、或る家の祖先とせられてゐる民間信仰の神をさすものとして、用ゐられてゐるにかゝはらず、それが氏神といはれてゐないところから見ると、奈良朝のはじめに於いても、祖先神を氏神と稱したことは無く、そのころに氏神といふことばができてゐたかどうかも、よくわからぬ。氏神の「氏」は氏上の「氏」と同じ意義の語であつて、血族的關係のあるもののみをいふのではなく、同じ氏の名をもつてゐるもののすべてをさすのであらうから、社會的統制のために氏に氏上が置かれたごとく、宗教的にも同じ氏のものがその氏の神として同じ神を祭ることになつたのであらう。さすれば、氏神の祭祀は、氏上の制の設けられたのとほゞ同じころから行はれはじめたものであらうかと推測せられるが、これは氏上とはちがつて、法制の上で定められたものではないから、氏神といふ名稱がはじめから作られてゐたには限らないのである。ついでにいふ。績紀和銅七年二月の條に「以從五位下大倭忌寸五百足、爲氏上、令主神祭、」とあるのは、氏上たるものが氏神を祭る風習であつたことを語るものである、といふ説があるかも知れぬが、この記事はさうは解せられぬ。大倭忌寸はもと倭連(直、國造)といつた家であり、代々倭のオホクニダマの神の祭主であつたのであるから(崇神紀七年、垂仁紀二十五年の條、參照)、これは、五百足が其の家を首長とする氏の氏上となつて、祖先傳來の家の職務を行ふことを命ぜられた、といふのである。氏神を祭らせたといふのではない。さうして、上にも述べた如く、大倭忌寸の家は、オホクニダマの(121)神の子孫とはなつてゐないから、この神がこの家の祖先神でないことは明かである。しかしこの記事には關係なく、また氏神といふ名があつたかなかつたかにかゝはらず、奈良朝のはじめには氏の神を祭る風習はあつたであらう。ただその氏の神は祖先神ではなかつたのである。氏神の「氏」の意義が上に述べたやうであるならば、さういふ氏の名をもつものに共同の祖先は無いはずであるから、その點からも、氏の神が祖先神でないことは知られる。氏神の性質はほゞこれで知られたであらうと思ふが、氏神といふ名の意義は文字のまゝの氏の神、詳言すれば其の氏が特に信仰する神、もしくは其の氏を特に保護する神、といふことであつて、氏の祖先といふやうな意義は毫も含まれてゐないことを、注意しなければならぬ。祖先を神としてそれに特殊の稱呼を附する必要があるならば、古事記に見える「祖神」といふ適切な名があるのに、それを用ゐずして氏神といつたことが、既に氏神が祖先でないことを暗示するものであらう。だから、氏神は、其の本質として宗教的に崇拜せられてゐる神でなくてはならず、從つて其の初に於いては、民間信仰の對象となつてゐる神がそれにあてられるのが自然である。
 氏神の由來と其の性質とは、上記の考説のやうであるが、平安朝になつてからも、この性質は保たれてゐる。續後紀承和元年二月の條に見える小野氏の神社は近江の滋賀郡にあるといふが、姓氏録(左京皇別)によると、小野氏は此の郡の小野村が郷里であつたから、此の氏神は小野村の村落神であつたに違ひない。承和四年二月の條に同じ神社が大春日、布瑠、粟田三氏の氏神としてあるが、これは三氏が小野氏の同族とせられてゐるために、小野氏の氏神を氏神としたまでである。なほ清和實録貞觀十五年九月の條に春澄高子の氏神が伊勢にあるとしてあることを參照すべきである。三代實録にも類聚三代格にも見える元慶五年十月の官符によると、大和の登美山の宗像神社は歴世高階眞人の家(122)によつて祀られてゐたのであるから、やはり一種の氏神として考へられてゐたであらうが、高階氏はいふまでもなく、胸形氏とても、上に述べた如く、決して宗像の神の子孫とはせられてゐない。さうして、此のことは當時に於いても知られてゐたはずである。姓氏録の左京神別の部にある竹田川邊連の氏神竹田神社も、竹田が地名であるとすれば、それはやはり古くから其の附近の村落の聖地であり、其の神は其の村落の祭祀をうけた精靈であつたとするのが、妥當であらう。竹田は、多分、竹田川邊連の家の郷里であつて、それがために、そこの神社が此の家の氏神とせられたのであらう。(姓氏録の竹田の名の説明説話は固より説話にすぎない。)神名帳に見える山城葛野郡の伴氏の神社、大和平群郡の紀氏の神社、河内志紀郡の伴の林氏の神社、などの祭神の何であるかは明かでないが、これらの例から見ると、必しもそれを伴氏や紀氏の祖先と見なければならぬ理由は無い。山城の伴氏の神社は、續後紀承和元年正月の條に其の社地を賜はつたことが見えるから、其の時に創建せられたものではあるが、さうして其の時には或は祖先神を祭つたもののやうに考へられてゐたかも知れぬが、春日や次にいふ平野などの例を考へると、大伴氏に縁のある神社をそこに移したものと推測せられ、さうして其のもとの神社が初から大伴氏の祖先を祭つたものであつたかどうかは、疑問なのである。或はまた攝津住吉郡の大海神社の注に「元名津守氏人神」とあるから、それは津守氏の祖先神であり其の意義での氏神であるやうに見えもするが、神社について「氏人」といふのは、上に引いた宗像神社に關する元慶五年の官符に高階氏を氏人と稱してあるのを見ると、祭神の子孫たるものをいふのではないことが知られよう。類聚三代格の「神宮司神主禰宜事」の部に收めてある延暦十七年正月、貞觀十年六月などの官符によつて推測すると、神社に奉仕する神職が世襲であるために、それを其の神社の氏人と呼んだことがあるらしい。住吉坐神社の外にかういふ神(123)社のあるのは、多分、津守氏の私に祭つたものが、何の時からか官祭をうけるやうになつたのであらうが、其の祭神は、神社の名から考へると、やはり海の神であつて、津守氏の祖先ではあるまい。これらの事例から考へても、氏神が祖先神でなかつたことは明かであらう。類聚三代格(卷十九)に見える寛平七年十二月の官符にある「諸人氏神多在畿内、毎年二月四月十一月、何廢祖先之常祀、」は、ふと見ると、氏神が祖先神であるやうに解せられるかも知れぬが、よく讀めばさうでないことがわかる。「祖先之常祀」は「祖先以來常に行つて來た氏神の祭祀」といふ意義であつて、「氏神」と「祖先」とは全く別である。
 なほこのことについては、平野神社のことを一考する必要がある。此の神社の主なる祭神たる今木神は、伴信友が蕃神考に於いて考證した如く、百濟人の子孫たる和氏の氏神ではあつたらうが、それが其の祖先たる百濟王(信友の説によれば聖明王)を祭つたものであるとは、信じ難い。百濟人、或は廣くいつて韓人、の宗教思想から推測すると、彼等の間に其の祖先を神として祭る習慣があつたかどうかは問題であるから、もし信友のいふやうなことがあつたとすれば、それは日本人の風習に從つたものとするのが妥當であらうが、此のことに關する日本人の風習が上記のやうなものであつたとすれば、それも不可能な見解であらう。(周書の記載によれば、百濟には始祖仇台の廟があつたといふが、それは王室だけのことであつたらう。またそれが何時から始まつたことであるかも明かでないが、多分、支那思想の影響をうけた後のことであらうと思はれる。「百濟に關する日本書紀の記載」に於いて述べた如く、仇台といふ名が古いものでもないことも、考へられねばならぬ。さうして、武烈紀七年の條に見えてゐる和氏の祖先が百濟王の骨族であるといふ記載は、同じ篇に於いて説いた如く、和氏の起源を説くために作つた話であつて事實ではなく、(124)續紀延暦八年の條や姓氏録の記載は後になつて更に作り加へられたことであるから、和氏は、百濟人の子孫ではあつたらうが、百濟の王族と見なすべきものではない。續紀や姓氏録の説は、和氣清麻呂傳に「奉中宮教、撰和氏譜、奏之、帝甚善之、」とあるのによると、清麻呂の考案に成つたものらしい。)さて今木は地名であつて、和氏の故郷らしいから、今木の神は上記の竹田神社などと同樣、やはり其の土地で祭られた神とするのが自然である。蕃神考に説いてある河内の安宿郡の飛鳥戸神社も、また同じ理由によつて同じことがいはれる。また同じ國の志紀郡の當宗神社が、漢人の子孫であるといふ當宗氏の氏神とせられてゐたことは、疑が無いが、これとても、其の祖先を祭つたとすべき理由は無い。支那人の祖先崇葬の習慣からいへば、當宗氏がよし漢獻帝の子孫たることを標傍したにせよ、家としてはこのやうな支流に屬するものが、其の宗家の遠祖である漢高祖を祭るべきものでなく、また獻帝の子孫であるといふことは、姓氏録に見える多くの系譜と同樣、新しい造作であるから、古くから其の家に於いて斯ういふ祖先を祭つて來たはずは無い。支那人がもし其の固有の習慣を維持してゐたならば、血縁の近い父祖を祭らねばならなかつたのであり、また宗教的信仰としては、それよりも寧ろ竈の神とか井の神とかいふ家庭生活の神をこそ祭つたはずであつて、それは、儀禮に於いて違つたところはあつても、日本人の良問信仰と大差の無い性質のものであつたらう。信友は、氏神は祖先神であるといふことを前提として、これらの神社はそれ/”\の家の氏神であるから、それらの祖先を祭つたものである、と推斷したらしいが、此の前接は決して證明せられてゐないものであるのみならず、それを證明しようともせず、自明のことの如く考へてゐたやうであるから、そこに誤解の根本がある。(蕃神考が杜本神社を當宗神社と同じやうに考へたのは、根據の極めて薄弱な臆測に過ぎないから、こゝには論外に置く。)或はまた、神名帳(125)の大和高市郡の條に呉津孫神社があるから、それは呉人の祖先を祭つたものでないかといふ臆説があるかも知れぬが、これは龍田の龍田彦龍田姫神社、徃馬(生駒)の伊古麻都比古神社、當麻の當麻都比古神社、宗我の宗我都比古神社、巨勢の許世都比古命神社などと同樣、神が漸次人の性質を與へられて來た宗教思想の發達に伴ひ、それ/”\の土地の神に、地名に彦とか姫とかいふ語を加へて人の名のやうにした稱呼を、つけたのみのことであつて、呉津孫も呉といふ土地の神に外ならぬのである。(吉備の吉備津彦神社の神名も之と同じ事情で作られたのであらうが、後にはそれが崇神紀の吉備津彦と混一して考へられるやうになつた。崇神紀のが、神としてではなく、人として作られた名であることは、其の物語からでも明かであり、また、それが古事記の孝靈の卷では、大吉備津彦、稚彦建吉備津彦、に分化してゐるのでも知られる。)後に呉の字があてられたがクレはもとからの地名である。そのクレに呉人の置かれたことは事實であらうが、それがために此の神社の祭神を呉人に結びつけて考ふべき理由は無い。呉人といはれたシナ人がクレの地に置かれてゐたとしても、其の數は極めて少く、一般の住民は、勿論、日本人であつた。また古語拾遺に「秦漢百濟内附之民、各以萬計、足可褒賞、皆有其祠、末預幣例也、」とあるが、「以萬計」は、弓月君や阿知使主が百二十縣もしくは十七縣の民を率ゐて歸化した、といふ書紀の記載を其のまゝ取つた文を承けていつたものであるから、それは論ずるに足らぬことであり、從つて「皆有其祠」も事實として認め難い。よし拾遺の書かれたころに於いて所謂蕃別の家にその家と特殊の關係のある祠があつたとしても、遲くとも奈良朝には既に全く日本化してしまつてゐたかういふ家に、日本人の風習とはちがつた特殊の意義のある神の崇拜が行はれてゐたとは考へがたいから、それはやはり氏神であつたとしなければなるまい。さうして此の「祠」が祖先神を配つたものと解すべき理由は、どこにも無い。
(126) なほ附言する。歸化人がもし何等かの宗教的信仰を故國から齎し來つたならば、それは主として儀禮の上に現はれたはずであるが、さういふ形迹が明かでなく、我が國でシナ風の祭祀もしくは其の儀禮の幾らか行はれたことがあつても、それは書物の上の知識から出たことが多いやうであり、またそれは朝廷に於いてのことである。皇極紀元年の條に「隨村々祝部所教、或殺牛馬祭諸社神、」とあるのが事實の記載でないことは、「日本古典の研究」の第四篇に於いて既に述べた。また續紀延暦十年九月の條に、諸國の百姓が牛を殺して漢神を祭つたことが見えてゐ、靈異記にもさういふ話があるが、これは、朝廷に於いてシナ風の郊祀を行はれたほどの時代であることを考へると、新しい流行であつたらしい。靈異記にそれを聖武朝の話としてあることは、問題とすべきものではなく、たゞ此の書の編述の時にさういふことが知られてゐたものとして、見るべきである。延暦十年に新に禁令が布かれ、また此のことの行はれた地方が畿内附近に限られてゐるのを見ると、多分、シナの祭祀の儀禮を知識として有つてゐた巫祝などが行ひはじめて、所々にそれが學ばれたに過ぎないのであり、舊くからの習慣でも、廣く各地方に傳播してゐたのでも、ないに違ひない。朝廷に於いてシナの宗教的もしくは呪術的儀禮を模倣したのは、郊祀のみのことではなく、早く文武紀にも慶雲三年の條に「始作土牛大儺」とあるが、これらは永久の朝儀として定められたのではなく、一時的のことであつたらう。たゞ古語拾遺の卷末に見えてゐる御歳の神に白猪白馬白※[奚+隹]を供へることは、やはりシナの儀禮を變改して採用したものと思はれるが、それは朝廷の儀禮として規定せられたのである。拾遺の物語は此の儀禮の起源を語る説話となつてゐて、それがために時代を神代に置いたのであるが、此の話は、片巫などを用ゐる占の法、生殖器の形や麻柄などを用ゐる呪術などの、當時民間に行はれてゐたことを、シナ人の食牛の風習が日本人に嫌はれたことに結合し、さ(127)うしてそれを御歳神の祭に行はれた朝廷の儀禮に附會して、作つたものである。シナで祭祀に用ゐる家畜の牛羊を改めて馬や※[奚+隹]とし、またそれを犧牲とせずして生きたまゝに供することとしたのであり、從つてそれを供へることも幣帛と同じやうな意味となつたので、かういふ變改の行はれたことは、大學寮式に見える釋奠の供物が、少牢を用ゐる唐制を改めて所謂毛の荒物である鹿と菟とにし、家畜としてはたゞ豕のみを用ゐた例からも、推測せられよう。馬を神に獻ずることは他の場合にも例があるので、此の儀禮のも、それに一由來があらうし、家畜の色を白としたのも、邦人の趣味の現はれかも知れぬが、かういふ家畜を用ゐることは、シナに淵源があるに違ひない。しかし、それは朝廷の儀禮であつて民間の風習ではなく、また一般の祭祀に通用せられたのでもない。御歳神にのみ用ゐられたのは、其の理由が明かでないが、或は此の神を唐の太稷に擬したからではあるまいか。
 なは宗教的祭祀に關する制度の上に於いて唐制の學ばれたのは、大化改新もしくは令の制定せられた時からのことであつて、神祇官は、中臣氏などの職務を繼承したものであると共に、禮部尚書に屬する祠部の官及び太常寺に其の一模範があるし、神祇官で全國の重要なる神社に幣帛を供するのも、一つは中央集權制の精神から出たことではあるが、やはり唐制にも由來があり、また大宰府や國司が其の管内の神社の祭祀を掌るのも、地方の豪族と其の土地の神社との間に密接な關係のあつたことに一淵源はあらうが、地方官が社稷山川の祭を行ふことになつてゐる唐制も參酌せられたであらう。神代紀の上卷の終に載せてある「一書」にも見える如く、神を數へるに「座」の語を以てすること、令に見える如く、祭祀に大中小を分ち、またそれによつて散齋致齋の長短を定めること、などが、唐制によつたものであることは、いふまでもない。もう一歩進んで推測するならば、生國足國といふやうな神は「神州」から脱化(128)して來たものであつて、諸國に國魂の神社があるのも、州縣に社稷が祭られてゐることと關係があるのではなからうか。何れも民間信仰から出た神ではないが、或は朝廷に於いて、或は地方に於いて、宗教的儀禮を以て崇拜せられ、さうして、それが一種の政治的意味を帶びてゐるところに、官府的儀禮を以て祭られる唐の神州や社稷との類似があるのである。宗教的祭祀を政治的權力に從屬させながら、禮典としての重要性をそれに認めてゐる、儒教思想に起因を有する唐の制度は、政治的の權力と宗教的のそれとを兼有せられた皇室の傳統的地位と、或る意味に於いて調和するところがあるのであるから、かういふことが行はれたとしても、不思議ではないのである。シナの祭祀や儀禮の影響は、かういふやうなところにはあるが、彼の地の民間信仰のそれが、直接に民衆の間に傳へられたらしくはない。大祓の場合に東西文部の唱へる呪詞とそれに伴つて行はれたらしい人の像を用ゐる呪術とは、道教から來てゐるらしいが、それも朝廷の儀禮として行はれたのみであり、また文部の祖先の歸化した時に傳へられたのではなくして、漢語の呪であり支那傳來の儀禮であるがために、文部にそれを掌らせたのみのことであらう。道教が宗教として傳へられず、其の思想なり幾らかの儀禮なりが知識として知られたに過ぎないことから、さう考へられる。要するに、歸化人によつて故國の宗教的儀禮が傳へられ、もしくは維持せられたやうな形迹は無い。平野神社などに於いて、其の祭祀の儀禮に異國風の分子のあつたらしい樣子の無いことは、勿論である。
 以上述べたところを綜合して考へると、家々の氏神とせられたものは、本來、或る地方、或る村落の神社の神であるので、家々の郷里の、もしくは何等かの特殊の縁故のある土地の、神社のがさうなつたのであるが、宗教的祭祀を行ふ神社が地方的、村落的のものであるとすれば、これは當然である。しかし、或る家の現在の住地の神社の神が、(129)住地の神社の神であるがために、氏神といはれたらしくはない。氏神といふ名稱が廣く行はれるやうになつた後には、それがさう呼ばれるやうになつた場合があるにしても、氏神の起源もしくは由來はそこにあるのではなからう。住地の神社は其の家のみのものではなく、またそれを特に氏神として他の家の神と區別することができず、さうする必要も無いからである。これは中央の貴族の家々についてのことであるが、地方の豪族においては、このことが明かである。姓氏録と神名帳とを對照して見ると、同じ地名が家の名ともなり神社の名ともなつてゐるものが少なくないので、これは土地の豪族が其の地名を氏の名として冒すと共に、神社もまた其の地名によつて呼ばれたからであり、さうして其の豪族と其の神社との間にはおのづから密接の關係があり、豪族が神社の祭主であつた場合も多かつたらしい。このことは古くからの風習であつたらうと思はれ、大化改新以後に於いて國造や縣主がそれ/”\の土地の神社の神職であつた例の少なくないのも、こゝに由來してゐるであらうが、其の神は其の地方の民衆の神であつて、豪族の家の特殊の保護神、即ち後の所謂氏神、ではなかつたのである。それと共に、それ/”\の豪族にさういふ神がある以上、別に氏神のあるはずも無く、それを設ける必要も無かつたに違ひない。たゞかういふ豪族とても、朝廷に何等かの地位を得、其の郷里から離れて京に住居するやうになつた場合に於いて、はじめて氏神を定める必要が感ぜられ、そこでその郷里の神が氏神とせられたのであらう。なほ根本的に考へると、神社が地方的村落的のものであるといふことは、民衆の間に於いて、氏族によつて特殊の神が崇敬せられてゐなかつたこと、即ち同一氏族でも住地を異にすれば、異なつた神社の祭祀に與り、同一村落に住むものは氏族を異にしても、同じ神社を崇拜したことを、示すものであらう。或はまた特殊の職業を有するものが、其の職業に關係のある神を特に崇敬し祭祀したことはあつたらうが、(130)同じ職業に從事するものは同じ神の保護を祈つたであらうから、是もまた氏族の神ではなく、さうして、さういふ神の祭祀も、事實に於いては、やはり地方的村落的の神として行はれたことが多からう。要するに、一般的の風習としては氏族の神といふものは無かつたので、氏神の定められたことには何等かの特殊の理由があつたに違ひない。さうしてそれは上に述べたやうなことであつたらうと推測せられる。從つて氏神のあるのは、朝廷に何等かの地位をもつてゐる、一くちにいふと身分のある、いひかへると貴族の、家々に限ることであつたらう。ところで、かういふ貴族の家々においては、氏神はその家のみの神ではなく、その家と同じ氏の名ををもつ多くの家々を含めての、一つの氏の氏神であつたと考へられるが、氏神を定めたのはその首長たる家であつて、そのほかの多くの家々がその氏神の祭祀にあづかることになつてゐたのであらう。さうしてさういふ家々のうちで、もし地方に住んでゐたものがあつたならば、それは、一方では氏神を祭ると共に、他方では、それとは別の意味で、即ち氏神としてではなく、その住地の村落神の祭祀にもあづかつたのであらう。
 最後にいひ添へたいことは氏神と氏寺との關係である。この二つは思想上、密接の連絡があらうと思はれるのみならず、藤原氏の氏神である春日神社は氏寺である興福寺とゆかりが深いやうな、例もあるからである。氏寺といふ稱呼がいつから生じたかは明かでなく、現存の文獻に於けるこの語の初見は、日本後紀延暦二十四年正月の條であるかと思はれるが、事實としてはそれより前からあつたのであらう。さうしてその稱呼のあるなしにかゝはらず、興福寺といふ藤原氏の氏寺があつたことはこれもまた事實である。ところで、氏寺は或る家の資力によつて建設せられ維持せられるところに、特に其の家のために佛の加護の求められる意味があるので、佛の加護を求めるにはかうすべきも(131)のと考へられてゐたのである。しかし氏族の祭祀には、そのために特に神社を建てる必要は無いので、もとからある郷里の神社に於いてそれを行つてもよく、臨時に神籬をたててほかの場所でしてもよかつたであらう。たゞ藤原氏のやうな權家になると、特に春日の地に新しく神社を建てることをしたので、それは氏寺として興福寺のあつたことに誘はれたものかと思はれる。或る土地の神社の神を他の土地に於いて祭るといふことも、神に人の性質が與へられ、從つてまた個性を帶びて來た上は、自然に生じ得べき風習であらうし、よしまたさうならない前とても、神の象徴たる何等かの物體が祭祀の對象として取扱はれるやうな場合に、さういふことが行はれるのは、必ずしも解し難いことではなからうが、同じ佛が所々の寺に於いて祭られてゐる佛教の風習を學んだ點があるとすれば、一層、肯はれ易い。春日神社の如く、性質の違つた神々を合祀することも、また種々の佛菩薩を合せ祭つてゐる佛寺から學ばれたのではないかと、臆測せられもする。興福寺は、扶桑略記によると、奈良奠都の年に奈良に移されてゐて、春日神社の建立はそれよりも後のことであるから、かう考へるに支障はない。しかし神社の創建は必しも氏神の祭紀のはじめではないので、最初には神社といふ特定の建築物も無く、たゞ鹿嶋の神を氏神として或る時季に祭祀を行つたのみのことであるが、其の後、春日神社を建造したと見るのが、妥當であらう、けれども、かういふ神社を特に建てるといふことは、どの家にでも行はれたことではなく、また昔からの風習でもない。さういふことのできたのは、勢力のある藤原氏であつたからのことであり、また其の必要を感じやのも、強大な家だからのことであつたらう。もしさうとすれば、藤原氏の此の企てには、氏神の信仰によつて其の氏族の勢力を維持し擴張せんとする特殊の意圖が潜んでゐたのであり、さうしてそれにはまた、官僚政治主義の制度の下に於いて、其の制度の精神に反し、自己の氏族が、政治上、特殊の(132)地位を占めようとしたところに、意味があつたのである。だから、氏寺と氏神との關係といふことは、氏神についての一般的考察には用の無いことと考へられる。さうして氏神を定めたことが氏寺の設けられたよりも古いとするにしても、それは大化改新より後のことであり、その氏神の「氏」は祖先を同じくする一族のことではなく、氏神は祖先神ではないのである。もし古くから祖先が神として祭られてゐたならば、それは祖先を同じくする一族全體の保護神であつたと考へられようし、またそれが氏神とせられるやうになつたと考へられもしようが、上に詳しく説いたごとく祖先を神として宗教的に崇拜する風習が上代に存在しなかつたとすれば、さう考へることはできぬ。かう考へて余は、氏神の祭祀による同族の團結が上代に存在した、といふ通説に從ひかねるのである。
 さて、經濟生活に於いても、宗教上の風習に於いても、氏族の團結が上代の社會組織に重きをなしてゐなかつたとすれば、部を氏族的結合として解釋しないことは、かういふ一般的考察の上からも、肯定せられるであらうと思ふ。勿論、上述の氏族に關する見解は、文獻によつて推測し得られる時代の状態についてであつて、それよりも遙かに遠い昔のことはおのづから別問題であるが、余の「部」に關する考察もまた文獻に見える限りに於いてのことであるから、少くとも此の小研究の範圍内では、かういふ考へ方を取り得るのである。なほ附言する。文獻によつて推知せられる時代には、家族組織が成立つてゐたと見なければなるまいから、よし極めて遠い過古に於いて部族(往々 Clan の語が適用せられてゐる意義での)とでもいふべき集團があり、さうしてそれが生活の本位であつた時代があつたとするにしても、記紀に見える氏族の状態をそれにあてて考へようとするやうなことがもしあるならば、それは大なる時代錯誤といふべきであらう。われ/\の知り得るかぎりに於いては、日本の上代には、家はあつたが部族と稱せら(133)れるごときものは無かつた。家の名はあつても部族の名らしいものは無く、家の祖先はあつても部族の祖先といふやうなものは無かつた。また村落の首長はあつたが部族の首長は無かつた。要するに、家の生活、村落の生活、はあつたが、部族の生活は無かつたのである。
 
       第四章 伴造の勢力の變遷
 
 部がもしこれまで考へて來たやうな余の見解の如きものであるとすれば、其の淵源は頗る古く、朝廷に放ける一定の職掌に從事するものとしてのそれは、朝廷が朝廷として或る程度の規模を有するに至つた時代から、トモの名によつて、それが存在したのであらう。我々の民族の全體にわたつての政治的統一がまだ完成せられなかつた前に於いても、相當の範圍に朝廷の勢力が及んだ頃には、其の存立に必要なる何等かの制度が、おのづから發生しなければならなかつたはずだからである。が、それから後、大化の改新に至るまでの長年月、假に上記の政治的統一がほゞ成就したと推考せられる四世紀の中ごろからとしても約三百年の間には、伴造の家にも盛衰があつたに違ひなく、また朝廷の規模が大きくなり一般の文化が發達するにつれて、或は新しい職掌を有する新しいトモと其の首長たる伴造の家とが置かれ、或は一つの職掌についても、其の内に種々の分化が行はれ、それがために新しい伴造の生ずるやうなことがあつたであらう。歸化人によつて齎らされた新來の技藝に關するものの外は、さういふ分化なり新置なりの徑路が明かには知られないが、幾らかの推測はなし得られないでもない。伴造の家の名に稚(若、少)、新、などの語のついてゐ(134)るのが、既に存在してゐる家と同じ職掌を有しながら、後に置かれたものであるといふことは、既に説いた。大伴佐伯二氏は共に衛門の任に當つたといはれてゐるので、萬葉十八の卷の賀陸奥國出金詔書歌といふ大伴家持の歌にもそれが見え、さうしてそれは大伴氏の家のいひ傳へであつたらうと思はれるから、大甞會に儀禮として保存せられてゐる風習は、氏族制度時代には實際の職務であつたらうが、氏の名から考へると、衛門のことは、もとは佐伯氏のみの任であつたのが、大伴氏が武臣でありまた勢力があつたところから、後にそれに加はり、寧ろ佐伯氏の上に立つやうになつたのか、又は本來は大伴氏の所管に屬してゐた衛門の職務を、何の時にか新に一部を置いてそれに擔任させ、其の首長を佐伯氏としたのであるが、舊習によつて大伴氏もなほそれに參與してゐたのか、何れかであらう。佐伯氏は、其の地位がもとは大伴氏よりも低かつたのか、或は新しい家であつたのか、何れかであらうといふことは、神代史の物語に其の名の見えないことからも推測せられるので、何の時にか系譜を作るに當つて、大伴氏の祖を其の祖としたのも此の故であらう。また門部直といふ家があつて、天武紀十二年の條に見えてゐるが、これも其の名から推測すると、やはり衛門の職にあつたものであらう。令の規定に於いて衛門府に門部のあるのは、其の名を襲用したものである。ところが、「儀式」によると、大甞會の場合に門部の名を以て召集せられたものが、大伴佐伯二氏に引率せられることになつてゐて、門部氏はそれに與つてゐない。「儀式」編纂の時に門部氏が存在してゐたかどうかは明かでないが、それはともかくも、此の規定は、氏族制度時代に於いて門部直が、其の職務については、大伴佐伯二氏に隷屬してゐた、地位の低い、ものであつたからの因襲ではあるまいか。多分、其の家は大伴氏か佐伯氏かの部下から出て、直のカバネを稱したものであらう。皇居の規模が大きくなれば衛門の職務も複雜になるから、おのづから、斯う(135)いふことが行はれるやうになつたことと思はれる。
 また物部氏が大伴氏などよりも新しく起つた家らしいことは、上に述べた如く、其の名稱の點からも考へられるが、其の祖先を神代に置かなかつたのは、大伴氏の祖先が既に武臣として神代史に有力な地位を占めてゐたからのことではないか、と臆測せられることも、またこの考を助ける。いふまでもなく、神代史に現はれてゐる家々の祖先の地位と職掌とは、其の物語が作られた時の諸家のそれの反映だからである。朝廷の武力的經略がいくらかは行はれるやうになつたにつれて、舊來の大伴氏の外に新に物部の家が起つたのではあるまいか。古語拾遺の神武天皇の時の物語には「饒速日命、帥内物部、造備矛盾、」とあつて、それを物部氏の任務の起源である如く記し、さうしてまたそれを「日臣命、帥來目部、衛護宮門、掌其開闔、」に對せしめてゐるので、之によると物部氏の職掌は初から大伴氏とは違つてゐたやうであるが、拾遺の此の記載は、續紀寶龜二年の條や延喜式に見える如く、大甞會などの時に石上榎井二氏、即ち物部氏の二家、が内物部を率ゐて神楯桙(戟)を樹てる當時の儀禮によつて構想し、それを昔の話としたのであつて、古い傳説を記したものではない。それは此の場合の大伴氏の任務を宮門護衛とし、特に「掌其開闔」と記してあることからも知られるので、これも上に記した如く大甞會の時の儀禮であり、さうして記紀の神代史や神武天皇の物語に見える大伴氏の職務は、決して之に限らないからである。(拾遺に宮門護衛のことをいひながら、大伴氏のみを擧げて佐伯氏を省いてあるのは、神武紀に佐伯氏の名が出てゐないからであり、また大伴氏について「帥來目部」といつてあるのは、物部氏についていつた「帥内物部」に對せしめるためであつて、それがため神武紀の「日臣命帥大來目督將元戎」の一句を別のところに取りながら、そこでは特に「大來目」の三字を除いてある。道臣命といはずして(136)日臣命としたのも、書紀によつたのである。また持統紀四年の條の即位式の、文武紀二年及び聖武紀神龜元年の條の大甞會の、記事によれば、物部氏または榎井氏のたてたのは楯のみであるが、寶龜二年の大甞會の時には楯と桙とになつてゐて、それから後は、これが慣例となつたやうである。さうして、天平十四年の正月朝賀の記事に「石上榎井兩氏始樹大楯槍」とある「始」の字が、もし「槍」をも併せたてたことについていはれたのならば、此の變改はこの時からのことではないかと臆測せられる。此の記事は正月朝賀の式のであつて大甞會のではないが、大甞會の場合にもそれが適用せられたのであらう。なほ文武紀二年の條に見える大甞會の記事には、榎井氏が大楯をたてたほかに、大伴氏が楯桙をたてたとしてあつて、此の大伴氏のことは前後に例の無い孤立した記載であるが、孝徳紀の即位式の記事に「輕皇子……升壇即祚、于時大伴長徳連帶金靱、立於壇右、犬上健部君帶金靱、立於壇左、」とあるのを、物部氏が大眉を樹てたといふ持統紀四年の即位式の記事に參照して考へると、新に唐制に倣つて種々の儀禮を莊嚴に行はうとするやうになつた大化の時から、武臣に武器を執つて式場に列せしめることが起つたので、はじめのうちは其の武臣の家にも武器にも明かな規定の無かつたのが、後になつて漸次一定の習慣が馴致せられたのであらう。それはともかくも、物部氏についていふと、神龜と寶龜との間に於いて、これらの儀禮の場合に用ゐる武器に變動のあつたことは、ほぼ推測せられる。かう考へると、上記の神武天皇の物語に見える拾遺の記載は、奈良朝の中ごろ以後の風習に基づいたものであることが知られる。)また内物部といふ稱呼も、氏族制度時代からあつたかどうかは疑はしく、恐らくは新しい官制の整頓せられた後になつて生じたものであらう。令によると、物部といふものは衛門府と刑部省の囚獄司と東西市司とにあつて、集解に引いてある古記には衛門府のを内物部と謂ふと見え、義解にもそれが採つてある。内と(137)といふのは、多分、諸司のに對しての稱呼であり、皇居守衛の任に當るからのことであらう。物部氏が刑罰のことに關與した話は雄略紀七年、十二年及び十三年の諸條にあるので、それは或はかういふ新制によつて構想したものでもあらうが、久米部のものが刑罰を取扱つた話も同じ紀の二年の條に見えることを參考すると、武人としておのづからさういふ職務をも帶びてゐたのが、氏族制度時代の風習らしく、令の規定は物部の名と共に其の職務をも相承したのであらう。市司に置かれたのも、非違を檢察するためであつたらしい。しかし、氏族制度時代に於いては職務の分掌が明かにはなつてゐなかつたにちがひないから、令の規定の如く幾つもの官司に分屬するやうなことは、勿論なく、從つて内物部の稱も無かつたのであらう。特に内といつたとすれば、それは物部の職掌が分れてゐたからのことと、思はなくてはならぬからである。或はまた續紀天平寶字元年七月の詔勅に「大伴佐伯宿禰等波自遠天皇御世内乃兵止爲而仕奉來」とあるのによつて、内の語が皇居をさすことを證すると共に、皇居の守備は物部氏に限らず、大伴佐伯二氏も其の任に當つてゐたものとして、言ひ傳へられてゐたことを示してもよからう。(内物部の稱呼の用ゐてある拾遺の記載が古くからのいひ傳へでないことは、この點からも推知せられる。)さすれば物部氏は大伴氏と同樣な武臣であつたと見て、何の支障もあるまい。大伴氏は古來部下の多い、優勢な、家であつたが、後から起つた物部氏もまた同樣であり、或は寧ろそれを凌ぐほどになつたらしいので、「ものゝふ」(物部)が武人の通稱となり、また物部氏を冒す家が多かつたことは、明かにそれを證する。物部氏の勢力は、何等かの事情で急速に發展したのではあるまいか。(物部氏が何時起り、何時から強盛になつたかは、固よりわからぬが、繼體紀欽明紀に採つてある百濟本紀に物部の名が見えるから、そのころに此の家の存在したことは明かである。)
(138) なほ武人の部としては、建部といふものの存在したことも明かであつて、それは上に引いた孝徳紀の即位式の記事によつても知られるが、其の首長たる伴造の家は、カバネが君であり、天武朝の八姓制置の際に朝臣にも宿禰にもならなかつたのを見ると、地位の低いものであつたらしい。多分、大伴氏などよりも後に生じた部であらう。景行紀にはそれが日本武尊の功名を傳へんがために置かれたものとしてあり、古事記にも建部君は此の命の後衛である如く記されてゐるが、これらは建部の名から出た附會であつて、固より事實ではなく、さうして此の名は武人であるがためにつけられたものに違ひない。續紀延暦三年十一月の條の、息速別皇子の後であるといふ、建部朝臣人上等の上言に、其の祖先が「武藝超倫」の故を以て雄略朝に健部君の姓を賜はつたといつてあるのは、歴史的事實としては信じかねるが、建部が武人の部であつたことを暗示するものとして見ることはできよう。物部の名は武人の持つ武器から出たのであるが、建部は武人の性質からつけられたのである。建の字は武の字で寫されてゐるのと同じタケの語にあてられたものであらう。此の建部朝臣の家は建部君とは別の家であり、建部に屬するものの間から起つて姓を賜はり、其の遠祖を垂仁天皇の皇子に附會したものであらう。さて、僅少の例ではあるが、かういふことが考へられるとすれば、其の他の伴造についてもまた、同じやうなことが無かつたとはいはれぬ。たゞ其の形迹が明かでないのみである。久米氏がもとは大伴氏の配下から現はれたものであらうといふことは「日本古典の研究」の第三篇に述べて置いたが、これも其の一例であり、また忌部氏の出た忌部の一團も、もとは、或は中臣氏の部下に屬してゐたものではなかつたかと疑はれる。神事に關する職務を掌る伴造が、其のはじめは、一家であつたと推測するのは、決して無理ではあるまい。
(139) 伴造の家に著しく興隆したものがあるとすれば、舊い家の消失したものもまた無かつたといはれぬが、それは明かでない。たゞ勢力ある家が舊家を壓倒し併呑したらしい一例が見える。それはやはり物部氏に關することであつて、垂仁紀八十七年の條に物部連が石上神寶を管理する由來を説いてありながら、三十九年の條に註記してある一説には、石上神寶を管理するものは、物部連の家とは全く血族關係の無い物部首としてあり、一致しない記載が並存してゐることから、それが推測せられる。物部首の家は姓氏録大和皇別の部に布留宿禰とあるもので、石上の地に土着してゐた豪族と見なければならぬから、石上神宮との關係も古くからのことであつたに違ひなく、從つて上記の二説のうちの後者は物部首の家の家傳から出たものであらう。然るに別に前者のやうな説があるのは何故であるかといふに、それは石上神宮の神寶が武器とせられ、從つて其の神が武神とせられてゐたため、武臣として勢力を有つてゐた物部氏(連の家)がそれを自家の管理に收めたからのことであらう。かうなるまでには兩家の間に必ず爭があつたことと思はれるが、此の爭は、物部首の家が物部連の家に服從して其の部下となることによつて、終つたらしく、首の家が氏の名を物部としたのは之を證するものであらう。石上の地の土着の豪族は其の地名を氏の名として冒してゐたことが、一般の慣例によつて推測せられるから、物部を名のつたのは、それを改めたものに違ひないからである。物部は朝廷の部の名であるから、地方的豪族が初めからそれを氏の名とするはずの無いことを考へねばならぬ。かういぶ風にして、物部氏(連の家)は石上神宮と其の神寶との管理權を其の手に收めたが、しかし首の家では、なほ古くからの家の地位を忘れず、それがために上記の如き物語が作られ、連の家でもまた神宮に對する自家の關係を昔からのこととして世に示さうがために、別の説話が構想せられ、それが二つながら書紀に採られてゐるのである。が、權力のあつたの(140)は連の家であるから、それが天武朝のころには石上を氏の名とし、また年經て後、石上神宮を氏神とするやうにもなり、更に一歩を進めては、舊事紀の天孫本紀や天皇本紀に見えるやうな、石上神宮の由來に關する説話をさへ作り出し、それを祖先とせられてゐるウマシマデの命に結びつけるやうになつたのである。物部首の家は朝廷の伴造ではないが、既にかういふ事例があるとすれば、優勢な家が劣弱な家を壓服することは、伴造相互の間でもまた行はれたであらうと想像せられる。(石上の劍については古事記の神武の卷に、タケミカツチの神が天から降した刀を高倉下といふものが獻上したそれであると記してある。舊事紀の話は、それから暗示を得て作つたものらしい。また書紀の神代紀の注の「一書」には、スサノヲの命が八頭蛇を斬つた劍であるといふ話が見えてゐるが、記紀のこれらの記載は、何れも物語に現はれてゐる劍と石上に祀つてある實在のものとを結びつけようとするところから生じた話にすぎない。神代紀の注の別の「一書」にスサノヲの命の劍は吉備にあるとしてあるのでも、かういふ話が恣に造作せられたものであることはわかる。石上の劍はおのづから石上の劍であり、それが古くから神とせられてゐたのであるが、人の性質を與へられてはフツヌシの神といはれてゐたらしいから、タケミカツチの神と結びつけてある古事記の説は、最も早く世に現はれたものであらう。なほ舊事紀の此の話に於いて、後に石上に祭られるやうになつた劍を皇居の殿内に奉齋したことにしてあるのは、「内物部」の稱呼によつてその「内」を殿内の義とし、さうして物部を殿内のことに與らしめたのであらう。因にいふ。舊事紀の同じところに見える鎭魂祭の起源を物部氏の祖先に關係させて説いた物語は、鎭魂祭の呪詞に一から十までの數をいふことがあるところから、其の由來として十種の天璽瑞寶の話を作つたのであるが、十の數を唱へてゆら/\とふるへといふのが「ふる」の語の本であると説いてあるのを見ると、これもまた(141)物部氏が石上に關係のあるところから案出せられたものであつて、神事をも自家の關與するところとして示さうがための物語であらう。天孫本紀及び天皇本紀には、古語拾遺の神武天皇の條の記事を採つたところがあるので、其の書かれたのは古語拾遺よりも後であり、多分、舊事紀の作者の筆になつたものであらうと思はれるが、其の材料としては幾らかの前からあつた物部氏の家譜が用ゐられたらしいから、此の話もそれに記されてゐたのかも知れぬ。崇神紀七年の條に、オホモノヌシの神を祭るために物部伊香色雄に祭神の物を取扱はせたといふことがあるが、神武紀に大伴氏の祖の道臣命を齋主として天皇が顯齋をせられたといふ物語のあるのに參照し、此の二つが何れも古事記には記されてゐない話であることを考へると、書紀編纂の頃には巫祝ならぬものをして臨時に神事に關與させることがあつたらしく、特に戰陣に當つて神を祭る場合には、武人みづからそれを行つたことが多からうから、これらの記載はさういふところから作られた話であらうと思はれるが、朝廷の鎭魂祭に物部氏の關係したことは、文獻の上にも見えず、鎭魂祭の性質から考へてもありさうにないことであるから、これは事實には全く根據の無い造作であらう。「モノ」といふ語は精靈鬼神をもいふのであるが、それに限らないことは勿論であり、特に武器をさう稱することは周知の事實であるから、物部の「モノ」は此の意義に於いてのであることが推知せられる。武器、特に劍、が神とせられ、もしくは精靈の宿るものとせられてゐたことは明かであるが、劍をモノといふのは必しもその意義に於てではあるまい。なほ、石上の神寶を管理したことの類想から考案せられた物部氏の祖先の話は、既に書紀にも見えてゐるので、垂仁紀二十六年の條にある出雲の神寶を物部大連が掌つたといふのがそれであり、これも架空の説話らしい。また天孫本紀には、上に述べた崇神紀七年の條の記事をとり、それにつゞけて、其の時、伊香色雄が石上に神宮を建てたと記し(142)てあるが、これはいふまでもなく、美和神社の物語から聯想して、石上神宮をそれと同時に建てられたものとしたのである。)
 石上の豪族である物部首の家が物部の氏を冒すやうになつた事情が、もし上記の如きものであつたとすれば、それはおのづから物部を氏の名とする家の多い一つの由來を示唆するものであらう。所謂物部の八十氏が生じたことには種々の事情があらうが、其の間には物部首のやうな徑路によつたものが少なくなかつたらうと思はれる。物部を稱しつゝなほ地名を冠してゐたものの間にも、それがあるであらう。さうして、物部氏についての此の考察は、地方に多くの領土部民を有つてゐた他の諸家に於いても、また適用せらるべきものである。ところで、斯ういふことの行はれたのは地方の豪族が權家の壓迫に抵抗し難かつたからでもあらうが、またそれとは反對に、權家に依附することによつて何等かの利益を得ようとしたところから來たものも、あつたのではあるまいか。家々の領土が互に錯綜してゐたため、其の間に種々の紛爭が生じ易かつたであらうが、かゝる場合には、權家を背景に有することが、大なる力であつたに違ひなく、また一の權家の壓迫に對抗するにも、他の權家に依頼することが便利であつたらう。權家は之によつて其の豪族の配下の民を自家の部民とするのであるが、しかし其の部民に對するもとからの豪族の權威は必しも失はれたのではなく、むしろ舊状を保持してゐたので、其の地位は後の莊園の莊司に類似したものであつたらうと臆測せられる。地方の豪族がかゝる意味で朝廷の權家に地民を提供したといふのは、單なる臆測であつて、固より文獻の上に徴證のあることではないが、安閑紀に見える后妃の領土についての物語は、屯倉や皇族の部民を設定する場合に、地方の豪族が地民を提供することが必要であり、それについて紛爭の生じたことを示すものであるから、權家に關し(143)て上述の如きことがあつたと想像するのも、決して無理ではあるまい。(安閑紀の記事が當時の事實であつたとは思はれぬが、かゝることがあり得べきものであることを暗示するには足りよう。)なほ、正當の領主でないものが種々の手段によつて土地民衆を占有しようとしたらしいことは、孝徳紀に見える大化元年の詔勅に「元非國造伴造縣稻置、而諏詐訴曰、自我祖時、領此官家、治此郡縣、汝等國司、不得隨詐便牒於朝、審得實状、而後可申、」とあることによつても類推せられよう。これは改新の準備として戸口田畝の調査を命ぜられた時の詔勅であるが、詔勅にかういふことが述べてあるのは、それが從來世に行はれてゐた事實だからであらう。さうして、それは伴造や國造やの地位にあるもの、又は其の他の權家に於いても有りがちのことであつたらうから、土地と民衆とについての種々の紛爭が其の間から生じ、從つてまた上に説いたやうなことが少なくなかつたことも、推測せられるのである。
 なほこゝに一言すべきは、雄略紀十八年の條に物部氏が猪名部を、安閑紀元年の條にやはり物部氏が贄土師部を、有つてゐたことが見え、崇峻紀の卷首に物部守屋の資人に捕鳥部萬といふものがあつたと記されてゐることである。猪名部、贄土師部、鳥取部の部民のうちに物部氏に屬してゐたものがあつたといふのであるから、それは優勢なる物部氏が如何なる場合にかこれらの伴造から其の部民(と其の住地と)の或るものを得たことを示すものであるやうに見えるが、物部氏に屬した後になつてもなほ其のもとの部名を稱することが奇怪に感ぜられること、全體から觀察して、雄略紀安閑紀などの記載が確かな記録から出たものとは見なし難いこと、崇峻紀のころになつても造作せられた説話が多いこと、特にこゝに資人とあるのが後世の稱呼であること、などを考へると、文字どほりにさう解釋することは許されない。これはむかし伴造の家に盛衰があつて、優勢な家が劣弱な家の部民を奪つたことが、漠然たる知識(144)として存在したため、それによつて構想せられたものか、又は書紀編纂の頃に於いて農民がみな昔の伴造の部名を冒してゐて、それが諸家に使役せられる場合のあつた、當時の事實を基礎として作つた話か、何れかであらう。但しこれは、物部氏に關することではあるが、家の誇になる話ではないから、家譜などから出たものとは思はれぬ。書紀編纂者の造作であらう。(上記の猪名部は、或は伴造の部名としてのそれでは無く、ヰナベといふ地名であつて、部の字に意味が無いのかも知れぬ。もしさうとすれば、土地に關した話であるから、或はさういふ名の土地に物部の名を冒してゐる民があつたことから、作られたものであらう。もしかう解するならば、其の地はむかし物部氏の領土であつたものと考へられる。)或はまた雄略紀十五年の條に、秦酒公が百八十種の勝部を領率して庸調を獻つたとあることも、一考を要する。この記載によると、多くの勝部といふものが秦氏の配下にあつたやうであり、現に豐前や美濃の戸籍には氏の名を某勝と稱するものがあつて、それらの住地は秦氏の部民のと隣接してゐたらしく、從つてそれと何等かの關係があつた如く推測せられるから、この話は、秦氏が多くの勝部といふものを其の配下に有つてゐた事實に基づいて作られたものとして、肯定せられさうである。雄略紀の記載は秦氏の家譜から出てゐるらしく、さうしてそれは庸調といふやうな文字のあることから見ても、大化以後に書かれたものに違ひないが、戸籍の上から上記の推測がなし得られるやうである。もつとも姓氏録には、和泉の秦勝といふのが秦氏と同祖となつてゐるのみで、河内の茨田勝は呉人、右京の上勝、不破勝、山城攝津の勝は、共に百濟人としてあるが、これらの系譜は、勿論、事實を記したものではないので、これらの家々が勝部の部民であつた日本人に違ひないことは、既に説いた如き部民の状態と系譜が作爲せられた一般の例とから疑が無いから、これは問題にならぬ。が、秦氏の部民は秦部もしくは秦人部の名によ(145)つて存在しながら、別にその配下として多くの勝部といふものがあつたといふに、やゝ解し難い點があるから、これは秦氏が何等かの事情で本來自家の部民でなかつたものを其の配下に收め、それを勝部と稱したことを示すものではなからうか、といふ疑問も生ずる。が、それにしても何故に特にそれを勝部として秦部もしくは秦人部と區別したかはわからぬ。何れにしても疑問は釋けないが、秦氏のやうな家が多くの土地民衆を占有してゐたのは、はじめからのことではなく、何等かの事情で漸次に其の勢力が加はつて來たことを示すものであらう。さすれば、これもまた伴造の家に勢力の消長があつたことの一例である。(勝の字で寫されてゐる語も明かでない。村主の字を用ゐてあるスクリといふカバネのあるところから、これをも同じ語と見る考もあるが、カバネに部をつけて呼ぶことは普通の例ではなく、さうして勝は姓氏録にも氏の名としてあつてカバネとはなつてゐないから、此の考には從ひ難い。)
 伴造の家々が、國造及び其の他の權勢ある家々と共に、互に其の領土部民を増大しようとつとめた形迹がある、といふ上記の考説が、もし誤らないものであるならば、それは、いふまでもなく、部民から徴收する租税によつて富を得ることが、其の第一の目的であつたはずである。從つて、其の部民に對する態度は一般に苛酷であつたことが想像せられる。地方の豪族が朝廷の權家に隷屬するやうな場合には、農民は二重の抑壓をうけたのであらう。孝徳紀大化二年の條に、國司の民衆に對する非違の行爲を戒飭せられた詔勅があるが、さういふ行爲は畢竟、昔から長い間行はれてゐた因襲に從つたものに違ひなく、新制度によつて急に任命せられた國司は、其の新制度の精神たる儒教的牧民の意義を領解することすらできなかつたのであらう。同じ詔勅にある皇族の貸稻のことなども、また氏族制度時代の貴族等の農民に對する態度を知るべき資料である。それから、部民を徴發して使役することも多かつたので、同じく(146)二年の詔勅に見える、官司が公用のために上京した民を抑留して雜役に駈使するといふことも、やはり昔から權家の行つてゐた習慣によつたものと解せられる。同じ年の皇太子の奏請に「別以入部及封民、簡充任丁、從前處分、自餘以外、恐私駈使、……」とあるのも、從來部民を駈使してゐた習慣を急に停廢することができないので、もとの部民について特に使役し得べきものを定めたことをいふのであらう。天智天皇の三年に置かれ天武天皇の四年に罷められた民部家部も、またそれと同じ主旨によつて定められたもので、公民中、特に氏々に隷屬して使役せられるやうに規定せられたものではあるまいか。これらは恣に部民を使役する舊慣のあつたことと、さういふ舊慣の急に改め難かつたこととを、示すものである。以上は、朝廷に地位を有つてゐた貴族が其の領民に對してとつた態度についての一般的考察であるが、伴造とても其の例にもれなかつたことは、自然に推測せられる。
 ところで、かういふ部民は、皇室の直轄領、皇族や權家の領土、並に國造縣主などの所有地の住民と共に、大化の改新によつて一樣に公民とせられた。かういふ意義での公民といふ稱呼は、當時には存在しなかつたらうと思はれるが、後には一般に此の意義に使用せられたのであるから、假に此の語を用ゐても大過はあるまい。さて、私有民が悉く公民とせられたのは、私有地がすべて公地とせられたことでもあるが、しかし、上に述べた如く、改新の後となつても舊主家と其の部民との關係が或る程度に維持せられたとすれば、また一般に氏族制度時代の風習が種々の方面に於いて保存せられたとすれば、土地についても、新政によつて一切の舊慣が忽然として斷滅し去つたかどうか、それに對していくらかの疑問を挾むのは、必しも不當ではあるまい。大化二年の詔勅に「諸國造違詔、送財於己國司、遂倶求利、恒懷穢惡、」とあるのは、國造が新任の國司に賄賂を贈つて私利を圖るものの少なくなかつたことを示すものであるが、(147)その私利を何に向つて求めたかは明かでないものの、國造の地位の根柢が領土を有する點にあつたとすれば、私利のかゝるところがやはり主として土地にあつたことを想像しても、大過は無からう。天武紀四年の條に見える詔勅に、民部家部を廢すると共に、皇族諸臣諸寺に賜はつた山澤島浦林野陂池を罷めよとあるが、改新以後、なほ諸家がかゝる土地を占有してゐたことが、新政の精神に背くものであることは勿論であり、この詔勅が、事實上空文となつたことも、また改めていふまでもない周知の事實である。ところで、既にかういふことがあつたとすれば、其の土地には氏族制度時代の領土と何等かの關係のある場合が少なくなかつたことを推測しても、大過はあるまい。中臣氏と鹿嶋との關係が、改新以後に於いてもなほ何等かの意味で存續せられたことは、鹿嶋の神が新に氏神とせられたのでも知られるし、忌部氏と阿波や紀伊の舊部民との間にも、或る程度の接觸が保たれてゐたとすれば、其の他の諸家にも同じ事情のあつたことが想像せられるが、もしさうとすれば、それらの諸家が何等かの形に於いて土地を占有しようとした場合に、おのづからかういふ關係が利用せられたことのあるのは、自然の勢であらう。これは、勿論、單なる臆測であつて、徴證とすべき史料のあるわけではないが、臆測としては許容せらるべきものと考へられる。しかし、舊時の關係を維持しまたは利用することができると否とは、當時の家々の勢力の強弱によることであつて、決して一樣ではなかつたはずである。さうして、時勢の推移は、諸家の勢力をして幾多の變化あらしめると共に、かゝる舊時の關係をも漸次稀薄ならしめ、さうして勢家は新に生ずる種々の事情、種々の機會を利用して、土地を占有してゆくのであるから、上記の臆測は改新直後の状態についてであることはいふまでもないが、少くともそれが權家の土地私有を誘致した一事情となり、從つて莊園成立の遠い淵源の一つをなしたものであるとはいへよう。莊園の存在は、朝廷に地位(148)を有する權家が地方に領土部民を有するといふことに於いて、昔の氏族制度時代の風習とほゞ其の状態を同じうするのみでなく、其の間に、一脈の歴史的連絡があるのであらう。皇族權家や所謂伴造國造やの私有地民を廢罷したといふ意味からいへば、大化改新が行はれたのは氏族制度の内部的崩壞の結果としてよりは、寧ろ唐制の模倣といふ外部的事情のためであり、また蘇我氏の滅亡を機會として、皇室の地位を安泰にするために、かゝる勢家の再現を防止しようといふ動機もはたらいてゐたらしく、此の點に於いては、徳川時代の封建制度が、其の長い歴史の過程に於いて、漸次、内部から崩壞し、到底それを維持することができなくなつて來たのとは、頗る其の趣を異にする。既に述べた如く、氏族制度そのものに於いて其の制度に背反する精神を生み出す機縁はあり、微弱ながらにそれがはたらいてもゐたのであるが、それは主として氏族の地位と職掌との世襲である點に於いてであつて、直接には彼等が土地民衆を私有する點に於いてではない。蘇我氏の如き優勢な家が出て多くの地民を占有するやうになつたことは、氏族制度の下に於いて諸家の勢力の競爭が行はれる以上、必然の趨向であつて、それは實は氏族制度の精神に背くものであり、事實に於いても其の滅亡が氏族制度を打破するに機會を與へたものであるとすれば、此の點に於いても、氏族制度はやはり制度そのものに於いて其の崩壞の起因を具へてゐたものと解せられもするが、蘇我氏の勢力は必しもかゝる意味に於いての氏族制度の全體を動搖させたのではなく、また當時に於いて、其の經済組織の上から氏族制度の維持せられなくなつたほどな、急迫の状態が現はれてゐたとは思はれぬ。氏族の間に斷えず競爭があり勢力の消長があつて、それが事實上かゝる制度の下に於ける諸家の地位を固定させなかつたことが、其の極まるところ蘇我氏の出現となつて、間接に其の廢滅を誘つたでもあらうが、一面の意味に於いては、固定しなかつたことが、其の制度をしてなほ生(149)命あらしめた所以でもあるので、時の當局者が唐制を模倣した中央集權制度を行はうとしなかつたならば、それはなほ持續せられたのであらう。唐制を模倣したことは、政治的には意味があつたにしても、それは必しも當時に於ける國民の實生活の内的要求から起つたことではない。だから、それは外から加へられたものであり、國民は其の實生活を此の外皮に適合せしむべく強ひられたのである。が、それは事實不可能である。新制の下に於いて舊時代の風習が或る程度に保持せられたのも、此の故であり、時の移ると共に形を變へ粧を新にしてそれが復活してゆくやうになつたのも、此の故である。所謂律令の廢頽は、制度からいへば、或は制度を不變なるべきもの固定すべきものとする考へ方から見れば、廢頽であらうが、國民生活からいへば、其の生活の進展のために、強ひて上から加へられた制度の外皮を漸次破壞してゆくことである。制度と實生活の進展との衝突の過程を示すものである。さうして、長い年月の間に其の外皮を破壞してゆく内面に於いて、民衆が彼等みづからの生活そのものの動きのうちから、徐々に創造しつつ進んでいつた新制度の、形を成したのが、武家のそれであるが、歴史的には、それは遠い昔の氏族制時代からの斷えざるつながりを有つてゐるのである。
 上代の「部」についての余の見解はほゞ上記の如きものであるが、終に臨んで、贅言ながら、附記して置きたいことは、記紀の記載の取扱ひかたについてである。記紀が上代史であるといふ漠然たる考を、不用意に、我々の民族の上代史といふ概念に結びつけ、從つて其の記載を古代に於ける我々の民族生活の記録として解釋しようとする態度が、明治以後の史家の間に發生したので、神代の物語を民族の起源を説いたものと見たり、皇族の地方經略の説話や國造などの系譜によつて、地方に於ける我々の祖先の移住や植民の状態、民族進展の形勢を、揣摩せんとしたりするのも、(150)之がためである。貴族の間に家々の系譜が尊重せられ、後には姓氏録のやうなものが作られたことから、上代の社會組織が血族關係を樞軸としたものであるやうに速斷するのも、やはりこゝに一つの由來がある。さうしてそれには、恐らくは、歴史といふものは君主の行動や政府の政令の記録たるに止まるべきものでなくして、民衆の生活を敍すべきものである、とする新しい見解が、知らず識らず記紀に投影せられたことによつて、助けられてゐるらしく、徳川時代の學者には無かつた考へかたである。しかし、それは近代人の歴史に對する見解を其のまゝ記紀の記載に適用しようとするものであつて、もしかゝる見かたをしようとするならば、記紀が果してさういふ意義の歴史であるかどうかを先づ吟味しなければならぬのに、それは措いて問はれないのである。なほ、記紀を民族生活の上代史として見ることには、よし原始的とまでは考へないにしても、遼遠なる過去の、從つて文化の程度の極めて低かつた時代の、状態が其の記載に現はれてゐる如く想ふ傾向さへも、伴はないではないらしく見える。が、これもまた記紀が如何にして形成せられたか、其の記載が如何なる性質のものであるかを、明かにしてかゝらないからのことである。ところが、近ごろになつて漸次興隆して來た文化史的研究に於いても、又は最近に至つて急に發達したやうに見える民俗學の方面に於いても、なほ同じやうな考へ方、少くとも其の痕迹が存在するらしく、記紀が官府で編述せられた君主の行動と政府の施設との説話もしくは記録であり、またそれが後世になつて述作せられたものであることが、ともすれば、深く注意せられずにゐるのではないかと疑はれる。本論の主題とした部についても、本來、法制史の問題であるべきそれを、社會史、經濟史、もしくは民俗史の間題とし、特にそれを社會組織の幼稚であつた時代の状態として考へるやうな見解には、やはりそれが潜んでゐるのではなからうか。文字のまゝに記紀を解釋しようとした徳川時代の學者、(151)もしくは其の系統に屬するものには、さういふやうな考が無かつたので、そこに却つて正しい見かたがある。彼等が、部や伴造の家やの系譜に關する、記紀や姓氏録やの記載を一々事實と信じたのは誤であるが、それを朝廷に關係させて説いたのは正しい。勿論、記紀に於いても民衆生活の状態が全く現はれてゐないのではなく、特に風俗や思想や信仰や、概していふと文化上の現象に於いてさうであるが、それは、君主や治者階數に屬するものも、此の點に於いては民衆のそれと離れてゐないものであるのと、君主の行動や政府の施設と民衆の生活との間に種々の關係があるのとの故である。さういふ意味に於いて記紀の記載から民衆生活の何ものかを看取しようとすることは、勿論、可能でもあり必要でもあるが、しかしそれは、君主の行動や政府の施設として語られてゐるものを、其のまゝ民衆の生活や民族の發展の記録として解釋することでは、ないのである。なほ記紀の記載には可なり上代の状態と見なすべきものも現はれてゐないではなく、宗教思想などにはそれがあるのであるが、それは古代の事實が記録せられてゐるのではなくして、古代の状態が後世にも繼承せられてゐ、もしくは遺存してゐるからであり、從つてそれは後世の状態と種々の形に於いて混淆してゐるのである。世には、古事記の歴朝の物語、また一々の事件に關する書紀の年代記的記載を信用して、其の時代の順序が實際の歴史的過程を示してゐるものとする考へ方があるやうであるが、余の見解は「日本古典の研究」第四篇に述べた如く、それとは違ふのであるから、部に關する考察についても、書紀の年代記に於いて事實の記載たることの明かに知られる時代までは、記紀に記されてゐる時代を取らず、其の記載の内容批判の上から實際の歴史的過程を推測することにつとめたのである。部についての上記の考説が、もし近時世に行はれてゐる諸説と趣を異にするところがあるならば、それには記紀の記載の取扱ひかたに關するこれらの相違に由來するところも(152)あるのであらう。
 
(153)       第二篇 大化改新の研究
 
 大化の改新といへば國史の上の常識であつて、それについては今さら事新しくいふべきことも無いやうであるが、しかし、よく考へて見ると、わからぬことはいくらもある。之に關する唯一の史料である書紀の記載が甚だ不完全であり、或は曖昧であつたり混亂してゐたりするので、事實の眞相がつかみにくい。從つていろ/\な臆測が加へ得られる。近ごろ往々見うける社會史的もしくは經濟史的の觀察にも、かなりにあぶなかしい臆説があるやうに思はれるが、それは一つは、或る種の成心を以てそれに臨むからでもあると共に、また一つは、改新そのことにわからぬことが多いからでもある。大化の改新はもつと研究してみる必要があらう。
 
       第一章 改新の目的
 
 根本問題は何を改新し如何に改新したかにあるが、何故にさういふ改新が要求せられたか、或は企てられたか、如何なる過程をふんで改新が行はれたか、改新を企て又は行つたものの意圖と其の實際の成果とは一致してゐるか、如何に唐制を學び如何にそれを變改したか、などの諸問題が、それに關聯して考へられねはならぬ。
(154) さて、孝徳紀を讀むと、所謂「改新之詔」が大化二年正月の條に載せてあるが、それには第一に皇族以下諸家の私有地民を廢罷することが述べてあり、それから、地方行政區劃を定め地方官などを置くこと、戸籍計帳を作り班田收授の法を定めること、租税及び賦役のことが次々にいつてある。さうして、同じ年の三月には子代入部御名入部と稱せられてゐる皇族及び諸家の私有民の獻上に關する皇太子の上奏があり、また八月には品部、即ち天皇皇族の領民及び上記の一般私有民、の廢罷について更に詔勅が發せられてゐる。既に正月の詔勅があるにかゝはらず、同じことが種々の形で反覆せられたのは、諸家が其の領有してゐる地民を没收せられることを欲せず、或は改新によつて從來の地位と生活とを失はんことを危惧したがためであらう。が、それにもかゝはらず、新政府はどこまでも私有地民の廢罷を實行しようとして努力したことが、これらの上奏や詔勅によつて知られる。これで見ると、改新の主要目的は天皇、皇族及び貴族豪族の私有地民を廢して全國の土地人民を國家に統一することであつたことが知られるので、地方區劃や租税などの制度を定めることは、其の當然の歸結として、またそれに附隨して、行はねばならぬことであつたと推測せられる。たゞ班田の制は必然的に此の改新に伴はねばならぬことであつたかどうか、問題であるが、それは後に考へることとする。正月の詔勅に地方區劃や地方官のことが述べてありながら中央政府については一言もしてないこと、八月の詔勅の終に所謂卿大夫臣連伴造等に對し「今以汝等使仕状者、改去舊職、新設百官、及著位階、以官位敍、」と附言してあるのを見ると、當時まだ其の「百官」の官制ができてはゐなかつたとしなければならぬこと、また五年正月の記事に「詔博士高向玄理與釋僧旻、置八省百官、」とあつて、此の時はじめて中央政府の官制の立案が命ぜられたこと、などを者へると、上記の推測は一層たしかめられるので、改新の政は何よりも先づ土地人民の處置に向けら(155)たことが知られよう。更に溯つていふと、元年八月に早く東國の國司が任命せられ、戸籍を作り田畝を校することが命ぜられてゐるが、これは新政の準備であるべきことをも、考へねばならぬ。二年三月の詔勅に前に任命せられた東國國司の非違を指摘してあるのも、直接に民政に關することだからであつて、やはり、此の意味での新政に隨伴した用意である。要するに、改新の第一目的は、諸家が世襲的に土地人民を領有してゐる點に於いての氏族制度の廢止であつたので、朝廷に於ける地位職掌の世襲的である點に於いての氏族制度の變革は、少くとも第二次のこととせられたらしい。
 なほ上に引いた五年正月の記事は文辭が曖昧であるから、本文に述べた如く解することについては、少しく説明を要する。それは、孝徳天皇の即位と同時に左右大臣及び内臣は任命せられたが、官府の組織はできてゐなかつたと見なければならぬ、といふことである。孝徳紀齊明紀及び天智紀を通覽するに、地方官の官名は往々記されてゐるが、中央政府のは上記のものの外にはそれが見えぬ。人名を擧げろ場合に冠位及びカバネが必ず記されてゐるにかゝはらず、官名が書いてない。たゞ天智紀十年の條に至つて、始めて太政大臣、御史大夫の任命の記事が現はれ、大藏省大炊省といふ官府の名も見えるので、それは所謂近江令によつて官制が定められたからであらう。天武紀に見える官職の名もまた此の官制によつたものであることは、おのづから推測せられるが、このことについては後に述べる機會があらう。玄理と僧旻とに命ぜられた立案が果してできたのか、できたとすればそれがどうなつたのか、明かでないが、多分、此の二人によつて最初の案が立てられ、それから後、多年の潤色を經て、天智朝に至り一度び成案となつて決定せられたものが近江令のであらう。さすれば、大化改新から天智朝に於ける此の令の制定までは、中央政府の事務は、(156)時に臨んで便宜處理せられたので、日常の吏務に至つては、概ね改新前の状態が持續せられてゐたのではあるまいか。この書の第一篇に説いた如く、改新前の制度であつた「部」の名稱と其の事務とが、現存の令の規定に於いて繼承せられてゐるものの少なくないことは、此の推測を助けるものである。國家の大政は皇太子や内臣や左右大臣によつて決定せられ、改新に關する、或はそれに伴つて新しく生じた、事務については、地方官と同樣、文筆に長ずるもの、伴造のうちの才幹あるもの、大和附近の豪族、などが任用せられて、それに當つたのであらう。たゞ續紀和銅元年八月の條に高向麻呂のことを「難波朝廷刑部尚書大華上國忍之子也」と記してあるから、それによると孝徳朝に刑部尚書の官があつたやうに見えるが、これは多分、高向の家の系譜によつて書かれたものであらうと思はれ、さうしてかういふ系譜には後から追記したために生じた誤謬がありがちであるから、それに多くの信用は置きかねよう。後にいふ「淡海朝中納言大雲比登」の例を參考すべきである。
 地方官については、大化元年八月に「東國等國司」が任命せられてゐるが、二年三月には「東國國司等」に詔勅が下されて、其のうちに「前以良家大夫、使治東方八道、」といつてあり、同じ月にまた「東國朝集使」に對して詔勅を賜はつてゐる。こゝにいふ東國もしくは東方八道がどれだけの範圍であるかは問題であり、また何故に東國のみに斯ういふ取扱ひがせられたかもわからぬ。第一の問題については、天武紀五年四月の條に見える詔勅に「東國」を「西國」に對して用ゐてあること、並に同紀元年の條に天武天皇が伊賀から伊勢の方に向はれたことを「入東國」と書いてあることを、孝徳紀二年の詔勅に見える畿内の區劃と對照して見ると、畿内を除いて其の東方を東國、西方を西國といふのかと考へられ、少くとも後の東海東山兩道の地方が東國といはれたのではないかとも思はれるが、天武紀五(157)年四月の別の詔勅で、礪杵(後の土岐)郡にある紀阿佐麻呂の子を東國に遷して其の國の百姓とせよといふことを美濃の國司に命ぜられてゐるのを見ると、美濃は東國の範圍外にあるやうであつて、此の推測には合はぬ。しかし、東國を後の東海道方面のみのことと見れば、天武紀元年の記事と此の美濃國司に對する詔勅とは齟齬しないことになる。さうして、東方八道が東國と同意義であることは、詔勅の内容によつて明かであるから、もし此の八道が八國の意義ならば、此の見解はそれによつて助けられるやうでもある。八國が何々であるかは不明ながら、東海道が八國であつたと考へることには、さしたる無理が無いが、東山道方面をも含んだ廣い地域としては、八の數が少な過ぎるからである。さうして斯う考へると、古事記の崇神朝及び景行朝の物語に東方十二道とあるのは、東海道方面の八國に東山道方面の四國を加へたものとして解し得られるやうである。「日本古典の研究」第二篇に説いた如く、此の二つの物語に用ゐてある此の文字は、大化以後に書きかへられたものだからである。しかしこれは孝徳紀の東國と天武紀のそれとを同じ意義のものとして考へたのであるから、そこに無理が無いとはいへぬ。防人の徴發せられたのは、遠江信濃を含んでそれより東方にある東海東山兩道方面の諸國にわたつてゐるし、萬葉の東歌の「東」の範圍もほゞ同樣であるのを見ると、東海道方面のみを東國といふのは、此の語の普通の概念には一致しない。だから孝徳紀の東國もしくは東方八道は、やはり後の東海東山兩道の或る區域と見るのが妥當であるかも知れぬ。が、要するに不明である。さうして不明であるとすれば、所謂東國のみが何故にかういふ特別の取扱ひをうけたかがわからず、上に記した第二の問題もまた解釋し難いものとなる。もつとも、上に引いた如く、大化元年の記事には「東國等國司」とあつて、「東國」の下に「等」の一字が加へてあるので、それによると、此の場合のは、「東國」以外の地方も含まれてゐるやうであるが、(158)それに對應すべきはずの二年の記事には何れも東國、とのみあること、また元年の詔勅のうちに「國司等」といつてあるところがあり、二年三月の條にも「詔東國國司等」とあることから考へると、「等」の字は「國司」の下にあるべきものが錯置せられたのであらう。だから、これは論ずるに足らぬことである。二年の改新の詔勅の「其二」に「初修京師、置畿内國司郡司關塞斥候防人驛馬傳馬、」とあるから、一般に國司郡司を置かれたのは二年であるので、元年に國司の任命せられたのは、東國に限られてゐたと考ふべきであらう。(單に文面から見ると、此の詔勅の國司郡司以下は畿内に限つたものとも解せられるやうであるが、此の時の詔勅の全體の精神から推測すると、さうではなく、文の意は京師を修め畿内の制を定めまた全國に國司郡司以下を置くといふのであらう。)たゞ、元年の詔勅の終に「其於倭國六縣、被遣使者、宜造戸籍并校田畝、」とあるのは注意を要するので、此の使者の使命は「作戸籍及校田畝」とある東國國司のそれと同じであるから、東國の外に倭國がそれと同樣に取扱はれたらしく見えるが、こゝに特に「使者」とあつて國司とは書いてないことを考へると、當時倭國にはまだ國司が置いてなかつたらしい。(東國國司に對する詔勅のうちにかういふことの含まれてゐるのは奇異であるが、これは東國國司に下されたものとは別に、倭國についての詔勅があつたのを、書紀の編者が此の二つをつなぎ合はせたからであらう。元年八月の此の詔勅が東國の國司に對するものであり、當時任命せられた國司が東國のみのものであつたことは、二年三月の東國國司に下された詔勅に「前以良家大夫使治東方八道」云々とあり、同月の朝集使に對する詔勅に東國の國司のことのみいつてあるのでも知られる。のみならず、他の地方でも國司が任ぜられてゐて、詔勅がそれらに對しても下されたものならば、これらの三つの詔勅に特に東國のみを擧げてあるのが解し難い。またもしこれが一般國司に對する詔勅で東國のにも倭のにも一樣(159)に下されたものならば「作戸籍及校田畝」が二度いはれるはずがない。天武紀十年四月の條の「立禁式九十二條」についての詔を記したところに「辭具有詔書」といつてあるのを見ると、當時の詔勅を記録したものが書紀編纂の時にも存在したらしいが、孝徳朝の詔勅についてもさういふものがあつたのを、書紀の編者が或はそれを漢文にかきかへ、場合によつてはそれに潤色をも加へたのであるから、其の間にかういふ混亂が生じたとしても怪しむに足らぬ。)それから、倭國の六縣について特にかういふことを行つた理由も、また明かでない。此の六縣は祈年祭の祝詞に見える高市、葛木、十市、志貴、山邊、曾布などのそれであらうとは考へられるが、それが世間で往々いはれてゐる如く皇室の直轄地であつたかどうかは、疑問であるから、さういふところに此のことの理由を歸するのも、早計である。またよし直轄地であつたにしても、倭國に於ける直轄地が此の六縣のみであつたかどうかも明かでないから、なほさら、さう簡單には決められない。(祈年祭祝詞には、六の縣に生ひ出づる甘菜辛菜を皇御孫の命の御膳に供するとあるが、吉野、宇陀などの水分の神について、それらの土地に産する米を御膳に供することが述べてあり、飛鳥、石村などの山口の神についても、それらの地方の山の木で皇居を造營するといつてあるから、六の縣のみが特殊の關係を皇室に有つてゐたとは見なし難いやうである。寧ろ、皇居に近いところであるために、それらの地方の産物が御料に供せられたので、そこからかういふことがいはれたと見る方が妥當であらう。)しかし、それはともかくも、最初の國司の任命が東國に限られたことは明かであるが、其の理由は知り難いといふ外は無い。元年の國司の任命は改新の準備のためであつて、改新がそれと共に行はれたのではないし、全國に新施設をするに先だち一地方にまづそれを試るといふことも理解し得られるが、何故に東國を撰んだかがわからないのである。なほ附記すべきは、元年九月甲申にかけ(160)て「遣使者於諸國、録民元數、」とあることである。これは東國及び倭六縣の戸籍を作らせたことと連絡があり、それを全國に擴充したことのやうに見えるが、其の筆致が異なつてゐることと、此の記事に結びつけて記されてゐる詔勅が、「日本古典の研究」第四篇に説いて置いた如く、書紀の編者の造作したものらしいこととから考へると、此の記事は疑はしいものではあるまいか。詔勅を記すについて「仍詔曰」といつてあるにかゝはらず、其の内容は此の記事とは聯格の無いものであるが、これもまた此の記事の全體が信じ難いものであることを示してゐるのであらう。
 更に一言する。改新の詔勅の「其一」の終に「處々田莊」とあるが、これは「子代之民」につゞけて書いてある「處々屯倉」に對應するものであつて、「昔在天皇等所立子代之民」(この下に「皇子等所有御名代之民」が脱ちてゐるらしく思はれる)については「屯倉」といひ、「臣連伴造國造村首部曲之民」については「田莊」といつたので、此の二つは同じ性質のものであらう。さうして、屯倉が千代及び名代の民を管理し租税を徴收處理するところであるならば、此の場合の田莊もまた諸家の領土に於けるさういふところをいふのであらう。皇族にも諸家にも同じやうに其の所領の地民を管理する機關があつたはずだからである。崇峻紀卷首に「分大連奴半與宅、爲大寺奴田莊、」とあつて、此の「田莊」は「宅」に當るものと解せられるが、もしさうならば、此の記事は上記の考説を助けるものである。宅は即ちヤケであり、屯倉の文字で書かれてゐるミヤケ(御宅)と同義だからである。田莊は土地の義にも用ゐられてゐたので、白雉元年の條に「一寺田莊」とあるのも寺の所有地をいふのであらうから、その意義では宅とは違ひ、從つてまたミヤケとも屯倉とも同じでないが、よしさうであるにしても、屯倉と書かれたミヤケが土地をも示すやうになつたと同じく、其の反勤の徑路によつて田莊がヤケを指すことにもなつたとして、支障は無い。が、これは文字の(161)意義についてのことであつて、こゝに屯倉と田莊とを廢罷するとあるのは、事實に於いては、それらの管理する皇族及び貴族豪族の私有地を收公する意義であることは、いふまでもない。即ち詔勅の子代名代の民及び部曲の民は人についていひ、屯倉及び田莊は土地についていつたものである。しかし、民と土地とは伴つてゐるのであるから、子代名代の民及び諸家の部曲の民を廢罷することが、即ち屯倉田莊を收公することなのである。屯倉は普通に皇室直轄地を管理する官衙、從つてまた尚轄地そのもの、の稱呼として考へられてゐるやうであり、それに誤は無いのであるが、子代名代の民に關しても此の稱呼が用ゐられたことは、三月の皇太子の上奏によつて知られるのであるから、此の場合には、上記の如く解するのが妥當であらう。皇室直轄地の廢罷のことはこゝに記してないが、八月の詔勅にはそれが見えてゐる。こゝには皇族及び臣下の私有地民についてのみ記されたのであらう。
 それから、二年三月の詔勅に「宜罷官司處々屯田及吉備島皇祖母處々貸稻、以其屯田、班賜群臣及伴造等、」とあるが、此の意義がわからぬ。皇祖母云々は皇祖母特殊の領地をいふものとして解せられるやうであるが、「官司處々屯田」は何をいふのであらうか。或は官司に屬する土地人民であつて、其の祖税によつて官司の費用を辨ずるやうに規定せられてゐるものかとも想像せられるが、すべての官職が世襲であり、伴造の家々はそれ/”\地民を有つてゐた氏族制度の時代に於いて、さういふものがあつたことが解し難いと共に、諸家の私有地民が廢罷せられる場合にそれを群臣などに班賜するといふのは、一層奇怪である。班賜云々は或は新制度に於ける、即ち後にいふ二年の詔勅に見える意味での、食封として賜はる料となつたといふことかとも臆測せられるが、食封はさういふ土地を充てたに限らなかつたであらうし、またさう見るにしても「官司處々屯田」がわからないのである。たゞ、二年の改新の詔勅に於い(162)て諸家の私有地民の廢罷が説かれてゐるにかゝはらず、かういふものがそこに記してないのを見ると、これはさして重要なものではなかつたらしい。或は此の記事には、書紀の編者が詔勅を潤色した場合に生じた何等かの混亂があるのかも知れぬ。
 
     第二章 改新の動機と其の經過
 
 さて、改新の第一の目的が私有地民の廢罷であつたことは疑が無いとして、それは何を意味するのであるか。これが重要の問題である。然るに、このことを明かにするについては、皇族や貴族豪族の土地人民領有の状態、いひかへると領主と其の所領地民との關係、の如何なるものであつたかを知らねばならぬが、それが實はわかりかねるのである。領主は土地の所有者、即ち地主であるのか、政治的君主もしくは首長であつて土地は部下の農民の所有であるのか、前者ならば地主たる領主と耕作に從事する農民との關係は如何、後者ならば土地の所有者と耕作者との關係、また彼等のそれ/”\と領主との關係は如何。かう尋ねて來ると、何れの問題にも明答は與へられないのである。が、このことはなほ後に考へるとして、しばらく別の方面から觀察するに、改新の詔勅に於いて此の私有地民の廢罷と共に地方區劃の設定が示されてゐること、二年八月の品部廢罷の詔勅に品部、即ち天皇皇族及び諸家の私有地民、が地理的に交錯してゐるのを不可とする意味が強く述べてあることを見ると、私有地民を廢して國家の民とするといふことは、民衆の所屬關係を改め、其の編成を新にしたまでのことであつて、民衆の身分、其の政治的社會的地位などに關(163)する變革を意味するものではなかつたことが推知せられる。即ち天皇豪族及び諸家の分領してゐた民衆を、一樣に國家の領民としたまでのことである。民衆からいへば、彼等の領主が天皇皇族及び諸家から國家に變り、從つて、行政的には、從來の領主による部の組織が解體せられて、地理的區劃による新編成に組み變へられたまでである。八月の詔勅に「始於今之御宇天皇及臣連等所有品部、宜悉皆罷爲國家民、」とあるのは、即ち之をいふのである。また三月の皇太子の上奏に「兼併天下可使萬民、唯天皇耳、」であり諸家が私有民を使役するのは此の理に背くといふ理由で、私有地民を獻上するといつてあるのも、從來の天皇皇族及び諸家の私有民と國家の民、いひかへると新しい意義での天皇の民、とが、彼等の身分と領主との關係に於いては、何等の變化が無いことを示すものであるといはねばならぬ。但し、八月の詔勅によつて明かに知られるが如く、從來の意義での天皇の領民、即ち皇室直轄の民、は、皇族や貴族豪族の私有民と同じく、品部と稱せられたもの、即ち天皇の私有民であつて、それは改新の政によつて一般の品部と共に一律に廢罷せられたのであり、そこに、すべてが新しい意義での天皇の民、即ち國家の民、として統一せられた意味があるのである。それと共に、改新前に於いては、皇室直轄の民、即ちミヤケに屬する人民も、皇族貴族や豪族の領有する部民も、其の性質に於いて何等の差異の無かつたことが、之によつて知られる。改新以前に於いては、民衆のすべてが何人かの、即ち或は天皇の、或は皇族の、或はまた臣連伴造國造、即ち貴族豪族、の私有民、即ち所謂品部の民、更にいひかへると部民、であつて、私有民ならざるものが無かつたのである。(「日本古典の研究」第四篇に於いて、元年八月の詔勅に「國家所有公民、大小所領人衆、」として記してある其の前半は、詔勅の原文にあつたもの、もしくは原文の意義を忠實に傳へたものではなく、すべての民衆が國家の民となつた後の思想で書き加へもしくは書き改められた(164)もの、書紀の編者の筆になつたものであり、「國家民」の意義に用ゐてある「公民」の文字も、書紀編纂時代の稱呼によつて書かれたものである、と説いたことは、かう考へて來ると、一層たしかめられるであらう。後半は改新前の状態が寫されてゐるから、これは詔勅の原文の意義が失はれずに、字句のみが漢文風に書き改められてゐるのであらうが、前半はそれに對するために新に書き加へられたのか、但しは皇室直轄の民とでもいふやうな意義の語のあつたのが斯う改められたのか、何れかであらう。何れにしてもこれでは改新前の状態には適合せず、そこに錯誤がある。なほ附言するが、此の二句を普通に「アメノシタニアリトアル公民、大ニ小ニアヅカレル人ドモ」と訓んでゐるのは、誤である。これは「國家の有する公民、大小諸家の領する人衆、」といふ意義としなければなるまい。また公民の文字は一般にオホミタカラと訓まれてゐるが、此のオホミタカラといふ語はシナ思想によつて作られたものであつて、「孟子」盡心篇の「諸侯之寶三、土地、人民、政事、寶珠玉者、殃必及身、」または韓詩外傳卷十に見える「金玉之賤、人民是寶、」といふやうな思想に由來があらうと思はれるから、語の意義からいふと、必しも公民といふ文字にのみ適用せらるべきものではない。けれども、タミといふ本來の國語があり、それが普通に用ゐられてゐたはずであるから、オホミタカラは特殊の場合に使はれた語であつて、祝詞や宣命などの朗讀せられるものに於いてのみさう訓まれたのではあるまいか。さすれば、それはやはり公民の文字に限つたことであつて、其の用ゐはじめられたのも、祝詞や宣命に此の文字が書かれた時からではあるまいか。だから、民、百姓、元元、黎元、などの文字を何れもオホミタカラとよむのは古くからのことではなからう。特に此の詔勅の次に記してある男女之法のうちに見える「良男艮女」をさうよむのは、明かに誤である。オホミタカラの語には賤民に對する良民の義は無いからである。)
(165) 以上の考察がもし誤つてゐないならば、私有地民の廢罷は單なる政治的制度の變更であつて、社會組織の改革ではないことが、明かであるといはねばならぬ。民衆に於いては、上に述べた如く、領主が變つたのみであり、彼等の社會的地位が改められたのではない。貴族豪族に於いても、改新の詔勅の「其二にある如く、舊來の私有地民の代りに食封が與へられることになり、また上にも引いた二年八月の詔勅に見える如く、新官制による新官職に任ぜられることになつてゐるので、彼等の社會的地位に變りがないのみならず、概していふと治者階級に屬するものとしての政治的地位にも、大なる動搖が生じなかつたのである。諸家の私有地民を廢罷するについては、其の代償として食封を與へることをいひ、所謂臣連伴造が舊來の地位を失ふ代りには、新制度による新官職に任用せらるべきことをいひ、詔勅の出づる毎にかゝる言のあるのは、彼等の生活と地位との安定を説いて、彼等に危惧の念を抱かせまいとする用意からであつたらしいが、それは即ち制度の變革が、事實、全體としての彼等の地位と生活とを動かさないやうに仕ぐまれてゐたからである。(こゝに食封の文字が用ゐてあるが、これは必しも令の規定の食封、即ち封戸、の意義には限らぬであらう。改新の詔にあるのであるから、法制上の特殊の意義に於いてではなくして、普通の用語として解すべきであり、漠然ながら後の位田職田等に當るものをも含むのであらう。なほ此の食封は普通にヘヒトと訓まれてゐるが、食封が封戸でないとすれば、これは當らぬ訓である。)また、民衆は、改新前とても、領主の如何によつて身分に差異は無く、從つてまた彼等の間に階級の區別も無かつたのであるから、改新によつて身分に變化が生じ又は階級が撤廢せられた、といふやうなことのあるべきはずがないことは、明かである。さうしてかう見て來ると、改新前の民衆の地位、彼等と領主との關係は、改新後の百姓、即ち後に公民と稱せられたもの、の状態によつて推知せら(166)れるので、彼等は領主に租税を納め、また種々の形に於いて領主に使役せられてゐたが、それは恰も改新後に於いて租調を徴せられ、又は使役せられ、或は其の代りとしての庸を納めたのと、大體に於いて差異が無かつたのである。いひかへると、天皇を始として皇族及び諸家の私有民であつた改新前の民衆の地位は、後の所謂公民と同じであつたのである。(班田の制によつて生じた差異のあることは勿論であるが、それについては後にいはう。なほ、改新の前後を通じて奴婢の身分にあるものはあつたが、このことについてもまた後章に説くであらう。)
 然らば、何故に此の如き制度の變革が行はれたであらうか。それは、舊來の制度そのものの内部から起つた歴史的發展の必然的歸結として生じなければならなかつたことであらうか、但しは特殊なる外部的事情がそれを要求したのであらうか。世襲的に何等かの政治的地位を有する貴族豪族が同じく世襲的に土地人民を領有してゐる、といふ所謂氏族制度が、其の内部組織經濟機構の上から維持せられないやうになつた、といふやうな事實がもしあつたとするならば、それには、領主が其の地位と生活とを維持するに必要なる收入を、其の領民から得ることができないやうになつたとか、又は何等かの理由から農民が領主の徴求に應じなくなつたとか、いふやうなことが考へられねばなるまいが、當時の經濟生活の状態が明かにし難い以上、前者については確かな推測ができぬ。貴族社會が益々シナの文物を取入れ、佛教さへも彼等の間に漸く流行しはじめ、從つて彼等の生活の程度も高まり、寺院の建立などにも費用を要したので、それがために領民からの租税では彼等の生活を維持することが困難になつたといふやうなことが、想像せられるかも知れぬ。寺院の建立につれては、それに寄進すべき土地人民もなくてはなるまい。皇室に於いても、之と同樣の理由で、其の直轄地からの收入だけでは漸次不足を生ずるやうになり、時と共に其の不足の程度が大きくなつて(167)來たでもあらう。或はまた、文化の發達と政務の複雜化とに伴つて、朝廷に新しい任務が生じ、其の任務に當るべき新しい家々が起つたかとも思はれるが、もしさうならば、それに伴つてそれらの家々に給與すべき土地人民を要するやうになつたことも、考へ得られよう。土地の開墾などが種々の方面に於いて漸次行はれて來て、それによつて領地の増加した家もあらうし、また一方では領民に賦役を課することが漸次苛酷となつて來たでもあらうが、それだけで斯ういふ新しい要求を充してゆくことはできなかつたであらう。さすれば、かういふところに氏族制度の維持し難くなつたことが示されてゐるかも知れぬ。しかしこの書の第一篇で考へた如く、家々の間に勢力の爭があつて、それによつて土地人民の領主が幾らかづつ常に變化し、特に皇室及び權力ある家々では、地方の豪族を兼併することによつて其の領土が擴大せられたらしい形跡のあるのを見ると、かういふ自然の變動によつて上記の困難が或る程度に調節せられたことも、推測せられねばなるまい。要するに、領主と領民との所屬關係が固定してゐなかつたところに、氏族制度のなほ生命のあつた所以があるのである。だから、上記の如き状勢のあつたことは否み難いにしても、それが制度を破壞しなければならぬほどに差迫つてゐたかどうかは、疑問である。實をいふと、かゝる状勢は、隋との直接交通、佛教の流行などによつて、其のころから特に強められ、或は其の進行が急になつたではあらうと思はれるが、其の時に始めて生じたことではなく、よし其の動きは緩漫であつたにしても、古くから存在した傾向であつたはずであり、さうしてそれがまた同じやうな方法によつて、おのづから調節せられて來たのであらう。家々の地位や勢力、從つてまた其の領土、は決して固定してはゐなかつた、と考へなければならぬからである。それから、改新以後に於いても、或は食封などの法制上の規定により、或は特殊の私的關係によつて、貴族の輩が土地と人民とを領有することは行は(168)れてゐたのであり、年と共に權家の私有地民が増加し漸次改新の精神がくづれて來たことも、周知の事實であるから、かういふ關係そのものが當時の生活に於いて不適合であったとは思はれず、従つてまた農民の領主に對する反抗といふやうなことがあつたとは想像せられない。だから、私有地民廢罷の理由を考へるに當つて、制度そのものの存立が困難になつたといふ點に重きを置くことは、正鵠に中つた觀察とは認め難からう。或はまた、蘇我氏や物部氏の如く多くの弱小な家々を併呑して廣大な領土民衆を有するやうになつたものが現はれて、土地民衆の集約的傾向がそこに生じ、それがまたおのづから土地民衆の統一に向つて道を開いたのであり、そこに權勢の爭の當然誘致せられる氏族制度の自然の崩壞が見られる、といふことも考へ得られなくもなからうが、よしさういふ優勢な家が出たにしても、其の領土民衆の全國の土地人民に對する割合は僅少であつたとしなければならず、多くの貴族豪族は依然として存在し、彼等は皆それ/”\の地位と領土とを有つてゐたので、上にも述べた如く、改新の詔勅に於いて彼等の危惧を除き其の地位と生活とを保證することに苦心したほどであるから、かゝる點をさまで重要視することはできないであらう。 一二の權家が大なる領土を有するといふことは、むしろ其の領土が皇室直轄地を凌ぎ、從つてまた其の家の勢力が皇室を壓するやうになつたところに、意味があるのであらう。
 かう考へて來ると、改新の必要は、諸家が世襲的に土地人民を私有するといふ意義に於いての氏族制度そのものからいふと、寧ろ外部的な事情と目すべきところにあつたと見るのが、妥當であらう。即ち、特殊事情としては、皇室を壓するほどな強大な勢力を有する蘇我氏の如きものの現はれないやうにするために、諸家の勢力の經濟的基礎としての地民私有の制を廢しようとし、一般的には、國家の權力を統一し且つそれを鞏固にするための經濟的基礎として、(169)全國の地民を國家に收めようとしたのであらう。當時に於いて最も切實に感ぜられたのは、對内的には諸家が地民を領有してゐるために皇室の權威が確立しないこと、對外的には半島に於ける大陸の勢力と抗争するために國家の統一が要求せられたことであつたらう。さうして他方には、遣唐使の見聞から得た、また玄理僧旻等の供給した、知識によつて、唐の制度が模範とせらるべく赫かしい光を放つて識者の眼に映じてゐたのである。これは殆ど從來の通説となつてゐることであるが、それは概して承認せらるべきものと考へられる。なほ、限りある皇室の直轄地を財政の基礎としたのでは、新しい時代の皇室としての地位を保ち政務を行ふには、其の費用が足りなくなつたであらう、と上に想像したことは、多分、事實であつたらうし、それはまた改新の企畫者によつて感知せられてゐたであらうから、さういふことも改新の動機の一つとなつてゐたであらうか。しかし、これについて考ふべきは、蘇我氏覆滅の前からかういふ改新が企畫せられ、少くとも漠然たる形に於いて意圖せられてゐたので、從つてまた蘇我氏の討滅はさういふ意圖の下に行はれてゐたのであるか、たゞしは蘇我氏覆滅の後に、それを機會として、此の企畫が生じたのであるか、といふことである。もし前者ならば、かういふことは蘇我氏全盛の時代には、實際問題としては、生じなかつたものであらう。其の時代に於いては、皇室は直接に政務の衝に當られなかつたからである。さて、書紀を見ると、皇極天皇四年六月戊申(十二日)に入鹿が殺され、翌日己酉(十三日)に蝦夷が誄せられ、さうして其の翌日庚戌(十四日)に孝徳天皇が即位せられたが、同じ日に皇太子の册立、左右大臣及び内臣の任命があり、同時に僧旻と高向玄理とが國博士とせられた。これが事實であるとすれば、蘇我氏の討滅からすぐに新朝廷の成立となつたので、事件は極めて急速に進行したのである。が、こゝに注意すべきことがある。天皇の讓位と中大兄皇子中臣鎌子を中心とした新朝廷(170)の樹立とは、かゝる際に生じがちな秩序の紊亂と人心の動搖とを防ぎ、蘇我氏の滅亡によつて崩壞した舊勢力に代る新しい權力の所在を明かにするために、急速に行はねばならなかつたことであらうが、左右大臣や内臣といふやうな新官職が置かれたのは、氏族制度變革の意圖が此の時既に明かに現はれてゐたことを示すものといはねばならぬ。新制度の立案者であつたと推測せられる僧旻と高向玄理とが、新朝廷の成立と同時に、いち早く博士とせられたといふのも、此の意味に於いてでなければ解し難いことである。もしさうならば、制度の改新は必しも蘇我氏覆滅の後になつて始めて企畫せられたとは見なし難いやうである。さう見るにはあまりにこれらのことが急速に運んでゐるからである。書紀の零碎な記事によつて當時の事態を具體的に想像することは困難であるが、一應はこのやうに考へられよう。
 しかし書紀のこれらの記載が文字のまゝに信用せらるべきものであるかどうかは、問題であるので、それは中臣鎌子を内臣としたといふ記事に大錦冠を鎌子に授けたとあり、また「増封若干戸」とあることからも、考へられねばならぬ。大錦冠は書紀によれば大化三年に定められた冠の名であり、また増封は封戸の制のまだ定まつてゐなかつたはずの此の時には、決してあるべからざることであるから、これらは書紀の編者の造作したものに違ひない。(白雉五年の條に紫冠を鎌足に授けられたことが見える。これは大化四年の改定の冠制によつたものとしなければならず、さうして其の制には錦冠の名は無くなつてゐるが、新制の紫冠以上は三年の制と同じであり、さうして三年の制に於ける錦冠は紫冠のすぐ下位にあるのであるから、鎌足が大錦冠の位を有つてゐたことはあつたかも知れぬ。さすれば此の記事の冠のことは、何等かの記録に見えてゐたさういふことを材料として構想したものであるが、封戸のことは全(171)くの捏造であらう。)辛亥(十五日)にかけて金策を左右大臣に賜ふとあるのも、事實かどうか、疑問である。この記事は、其の注に記されてゐて書紀の稿本と認められる「或本」に「賜錬金」とあつたのを變改したものに違ひなく、從つて金策が机上の考案に成つたものであるばかりでなく、かういふ變改が加へ得られたことから見ると、稿本の記載もどこまで信じてよいか、考慮を要するからである。これらの點については、「日本古典の研究」の第四篇に述べた如く、孝徳紀には、其の他にも造作せられた記事があることを、參考すべきである。そこに説いて置かなかつたことでも、此の紀の卷首に皇極天皇の禅位の際の策命として「恣爾輕皇子云々」と見え、また中臣鎌子に對する孝徳天皇の詔として「計從事立云々」とあるなどは、やはり編者の造作である。前のは尚書の文を模したものである點から、後のは此の詔勅に關聯してゐる増封のことが事實でない點から、それが知られる。さすれば、こゝに「云々」とあるのは、殘餘の文字が、それによつて省略せられてゐることを示すものではなくして、初から其のあとが作られてゐなかつたのではあるまいか。(「増封若干戸」の次の「云々」は集解の説の如く「詔曰」などの誤寫に違ひない。)これは、皇極紀までの部分に詔勅として記されてゐるものが、盡く編者の擬作であることからも、類推せられる。またよし記事に誤が無い場合でも、其の年月は信憑し難いことがある。孝徳紀の記載が一々正確な年代記になつてゐないことは、大化元年の條の初に皇后及び二妃に關することが一まとめに記してあるのを見ても知られるので、これは上代の諸帝紀の體裁と同じである。また、大化三年の四月と十月との記事の間に「是歳」云々といふ一節のあるのも、年代記的記録の體をなしてゐない例の一つである。十二月の次に再び「是歳」云々の記事があるから、これは後に生じた錯簡とは認められぬ。さすれば、蘇我氏の滅亡、孝徳天皇の即位、並に新朝廷の成立に關する記事に對しても、ま(172)た疑を容れ得るのである。
 けれども、蘇我氏滅亡の後には何人かが急いで新朝廷を組織しなければならなかつたはずであるし、さうして前後の状態から見ても、それは孝徳紀に記載せられた人々であつたに違ひないから、上記の書紀の記載を全く否定することはできない。從つて、よし任命の時日が精密に書紀の記載のやうではなく、また官名などは幾らかの後になつて定められたにしても、蘇我氏討減の後、まもなく中大兄皇子と中臣鎌子とを中心とした新朝廷が成立ち、阿部臣と蘇我山田臣とが相並んで政務に當つたこと、僧旻高向玄理が顧問としてシナの知識を供給したことは、事實であらう。從つて、制度改新の企畫に關する上記の推考は、必しも甚しき見當違ひではあるまい。中大兄皇子や鎌子の如き有識者は、上に説いたやうな意味で、制度の改新を要することを早くから感知してゐたであらうし、また僧旻や玄理などによつて唐の制度に關する種々の知識が供給せられたのも、一朝一夕のことではなかつたらうから、具體的の企畫こそは蘇我氏滅亡の後に立てられたであらうが、改新の意圖は其の前からあつたものと推測せられる。勿論、蘇我氏討減の擧には、或は皇室の地位に關する危惧の念、或は蘇我氏の專權に對する反感、また或は氏族間の闘爭的心理、または其の他の種々の事情がはたらいてゐたに違ひなく、制度を改革するに必要な手段としてのみ行はれたのではないと見なければなるまいが、これとそれらとが複合して、あの如き蘇我氏誅滅の企圖となつて現はれたのであらう。さうして、それが一擧にして成功したのに勢を得て、急に新朝廷の威容を整へると共に、改新の實行に邁進する決意が生じ、具體的の計畫を立てるやうになつたのであらう。蘇我氏の滅亡から約一月半の後である八月庚子(五日)に東國の國司が任命せられて、改新の端緒が開かれ、翌年の正月、賀正の禮の畢ると共に改新の詔勅が發せられたのを見ても、(173)新朝廷の成立後、直に改新の具體的方法が考究せられ、またそれを實現すべき準備の進められたことがわかるので、之によつて見ても、新朝廷は其の成立の初から制度の改新を使命としてゐたことが知られ、從つてそれはまた上記の推測を助けるものであらう。かう考へて來ると、改新の理由として前に説いたところがおのづから證明せられると共に、直轄地の收入によつて皇室の地位を保つことが困難になつたといふやうなことは、よし新朝廷の成立後になつて人の思慮に上つたにしても、根本の問題ではなかつたことが知られるであらう。
 ところで、かくして企畫せられた改新は如何に進行したであらうか。改新の實行は容易の業ではなかつたのである。上にも述べた如く、朝廷に隷屬してゐる所謂臣連伴造の諸家は、新政によつて其の地位を失ひ生活を失はんことを恐れてゐた。地方の國造なども同樣で、二年三月の詔勅によると、賄賂を新任の國司に贈つて舊來の地位に伴ふ利益を何ほどか維持しようとするものがあつたらしく想像せられる。伴造等には食封を與へ新官職に任じ新定の位階に敍することを約して彼等を安心させようとしたことは、既に説いたが、此の精神は後までも持續せられた。かの皇太子の上奏に、御名入部子代入部を獻上しながら、それに屬してゐた民の一定人員を舊主家の使役し得ることが述べてあるのも、また此の政策の繼續せられたものと見なすべき民部家部の制が天智朝に定められたのも、同じ精神から出てゐよう。三年四月の詔勅の終の「始於皇子群臣、及諸百姓、將賜庸調、」にもまた此の意味があるらしい。後にいふやうに此の詔勅には書紀の編者の書きかへかたの疎漏があらうと思はれ、「百姓」の二字も原文にあつたものではなからうと考へられるが、こゝに引いたやうな意義の詔勅のあつたことは事實らしい。地方の國造などを郡司に任命し、それに伴ふ俸禄を與へることにしたのも、またこゝに一つの理由があつたであらう。中央政府の組織すらも定まらない前(174)に冠位の制を設けたのも、二年八月の詔勅を參考すると、やはり貴族等の地位を保證し彼等の名譽心を滿足せしめようとするところに、一つの意味があつたかも知れぬ。が、改新に當つて斯ういふ用意が必要であり、詔勅に於いても反覆意を致してそれを言明しなければならなかつたほどならば、よし反對の態度となつて現はれないまでも、貴族や豪族の間、少くとも其の一部分、に於いては、漠然たる不平もしくは不安の情が無かつたとはいはれず、從つて改新そのことが何等かの支障にもあひ、またそれがために當初の企畫が幾らかは變更せられたやうなことがあつたかも知れぬ。上に述べた皇太子の上奏に見える農民使役の規定の如きは、或は其の一例ではなからうか。これは私有民廢罷の精神を損ふものだからである。況やまた、二年三月の詔勅の示す如く國司に非違の多かつたこと、さうしてそれは必しも國司に限つての話ではないと想像せられねばならぬことを考へると、此の點からも幾らかの新政の障害は生じたであらう。が、貴族等も力を以て新政に反抗することはしなかつた。彼等の領有する土地人民は各地方に散在してゐて、まとまつた力をなしてゐず、さうして彼等は遠方からそれを支配するのみであるから、それは領主たる彼等の經濟生活の基礎とはなつてゐたけれども、封建諸侯に於けるが如くに、政治的もしくは軍事的勢力の根據とはならず、從つてかういふ勢力を背景として反抗の態度をとることはできなかつたであらう。地方の豪族はそれとは趣を異にするものであるが、これは土地も狹小で勢が微弱であつたから、反抗するほどの資力が無かつたことはいふまでもない。だから種々の困難があつても、それを排して改新を遂行することができたのである。さうして、それについては、新朝廷の成立の後、具體的の企畫を進める間に、おのづから新なる考案が漸次に加はつてゆき、或はまた勢の趨くところ必要の範圍を超えた施設を企てるやうにもなつたのではあるまいか。中央政府の組職や班田の制にはさういふとこ(275)ろから出たものがあるやうに推測せられる。
 
       第三章 官制
 
 改新の第一目的は皇室皇族及び諸家の私有地民の廢罷にあつたので、それを實行するに必要な地方官は初から任命せられたが、中央政府の組織を定めることは後まはしにせられた、といふことは、上に述べた。政府の組織は、政權の歸するところを明かにし、其の運用の機關を設定することであるが、政權の歸するところは、事實に於いて、既に明かになつてゐるのであるから、それを運用すべき機關を設けることはさし迫つた急務といふほどではなかつたこと、また其の立案が容易でなかつたことも、之について考慮せらるべきであらうか。しかし、これまで朝廷のそれ/”\の吏務を主宰してきた伴造は、みな齊しくその領民を失ふと共に、そのうちのあるものは新しく生じた事務のために地方官などの地位についたのであるから、上に述べたやうな、舊慣によつて目前の事務を處理する、便宜法をいつまでも維持するわけにはゆかず、また政治が直接に朝廷から出ることになり土地人民が國有となつたに伴つて、それに應ずる新しい機關を設ける必要は日々に加はつて來たであらう。のみならず、新しい官職が定まらなければ、全體から見て舊來の貴族輩に地位とそれに伴ふ俸禄とを與へることができず、從つて彼等の生活を保證しようとする朝廷の方針を貫くことができない。また根本的には、貴族等から土地人民の世襲的領有權を没收したとすれば、さういふ經濟的基礎の上に立つてゐた官職の世襲制は當然破壞せらるべきものであるが、それに代るものは官僚政治制であるべき(176)はずであり、土地人民が國家の手に統一せられたことは、自然に中央集權制を誘致するものであるから、さういふ精神の下に新しい官制が作られねばならなかつたことは、明かである。其の上に、模範となすべき唐の官制が知られてゐたので、それを我が國に移植しようといふ意圖は、新朝廷の成立と共に、或はまた漠然ながら其の前から土地人民の統一の企畫せられたと共に、新朝廷の首腦となつた人々の胸裡に存在したはずであり、さうしてその希望は改新の進行と共に漸次強められて來たに違ひない。その上に、爲政者の地位に居るものの自然の欲望として、政府の規模を大にしまたそれに整然たる形態を與へ、さうしてそれによつて朝廷の尊嚴と政權の強大とを象徴させようとしたといふ事情もあつたらう。僧旻と玄理とに新官制の立案が命ぜられたのはこの故であるが、しかし、それが一應の成案となるまでには、少からざる年月を要したので、その間、僧旻も玄理も歿したのであり、また其の他の起草者にも變化があつたであらうが、ともかくも近江朝に至つて纔かにそれができ上つた。
 近江令の官制の如何なるものであつたかは、勿論、明かでないが、天智紀十年の條に見える太政大臣、御史大夫、法官大輔、學職頭、天武紀卷首の大納言、四年の條にある兵政官長、同大輔、六年の條の民部卿、九年の條の納言、宮内卿などの官名、また天智紀十年の條の大藏省、大炊省、天武紀四年の大學寮、陰陽寮、外藥寮、などの官府の名は、此の官制の規定によつたものであらう。なほ天武紀十年には理官、十二年には法官、朱鳥元年には太政官、法官、理官、大藏、兵政官、刑官、民官などの名も見えてゐるが、これらもまた同樣である。(天智紀の大炊省の「省」には誤があるのではなからうか。また天武紀朱鳥元年に「難波大藏省失火」とある「省」は衍文であらう。)これらの名稱には、一方では御史大夫といふやうな唐の官名を其のまゝとつたものがあると共に、他方では太政大臣とか大藏省(177)とかいふそれとは違つたものもあり、また民部といふやうな唐の尚書省の部の名をとつたものと、同じく漢語ながら兵政官とか法官とかいふ新しく作られた名稱とがある。が、學職頭は大學寮の長官であらうと思はれるにかゝはらず、名稱が一致してゐないやうな例のあるのを見ると、これらのうちには、公式の官名ではなく文筆に從事するものが支那めかして書いたものがあるかとも思はれ、特に民官とあるのは民部をさしてゐるらしく考へられることが、それを證するもののやうである。續紀大寶元年の條に民部尚書の名が見えてゐるが、當時行はれてゐた持統朝の令に於いても、近江令と同じく民部の長官は卿であつたらうと思はれるにかゝはらず、かう書いてあるのも、また此の推測を助ける。さうして既に大藏省の名があり、民部も、其の長官を現存の令と同じく卿としてあることから推測すると、其の官府の名はやはり省であつたらしいが、其の民部省が民官とも書かれてゐることから類推すると、兵政官判官もまた官制上の稱呼は、或は兵部省刑部省であつたかも知れぬ。また埋官は天武紀十年の條に氏上のことを管理するやうに記してあるから、それを現存の令の官制に對照すると、姓氏のことを掌る治部省のことかと想像せられ、法官は式部省をいふのではないかとも臆測せられる。しかし、これは要するに臆測に過ぎないので、一方からいふと、公式の官名と然らざるものとが史上にあれほど混雜して現はれてゐると見ることには、かなりに無理があるやうであり、特に天武紀十年の理官、十二年の法官は、詔勅中の文字として記されてゐるから、それを公式の名稀でないとするには、此の點からも困難が生ずる。それと共にまた太政官といふ官府の名がある以上、兵政官、法官、刑官、理官といふやうな稱呼が公式のものであつても支障は無いやうである。大藏のやうに從來の稱呼を踏襲したものは別として、唐制を學んで新に設置したものは、よし唐の官名を其のまゝ用ゐないにしても、漢語で名稱をつけるのが一つの方法であつ(178)たとも考へ得られる。だから、このことについては他の方面からの研究を要する。
 しかし、これには一つの特例があることを知らぬばならぬ。それは御史大夫といふ官名であつて、天智天皇十年に御史大夫に任ぜられたとある蘇我(賀)果安臣が天武紀の卷首に、また巨勢人(比等)臣が其の元年の條に、何れも大納言として記してあることが、重要なる問題を提供する。天智紀の御史大夫の下に注記してある「御史蓋今之大納言乎」は、其の書きかたから見ると、集解の説の如く後人の書き入れたもののやうであるが、天智紀の御史大夫が天武紀の大納言に當るものであることは、疑があるまい。上記の二人が御史大夫任官の後まもなく大納言に轉じたといふやうな解釋は、當時の事情から見て不可能だからである。そこで何故にかういふ二つの官名が用ゐてあるかが問題になるのである。のみならず、御史大夫は唐の御史臺の長官の名であり、其の御史臺は我が國の彈正臺の模範となつたものであるが、大納言は其の名稱と現存の令の職制とから考へると、唐の門下省の納言、即ち後の侍中、に由來があるに違ひないから、此の二つは全く性質の違つた官職であるのに、それがかうなつてゐるのは、一層解しがたい。そこで考へるに、天智天皇十年に御史大夫に任ぜられたものは上記の蘇我果安臣と巨勢人臣との外に紀大人臣があるが、御史大夫が三人もあるといふことには疑がある。次に其の任命は太政大臣及び左右大臣の任命と同時に行はれたのであり、さうして上記の三人はこれらの三大臣に次ぐ地位のものとして記されてゐるし、また天智紀の此の記事には其の他の官職の任命について何の記載も無いのであるから、太政大臣以下の此の任命は新に發布せられた令、即ち所謂近江令、の規定によつて朝廷の首腦部が構成せられたことを意味するものであらう。同じ年の大友皇子の盟誓の記事にも、やはり同じ人々の名のみが記されてゐるのは、此の故らしい。此の推測が許されるならば、そこに御史大(179)夫の如き任務を有するものが加はつてゐるといふことは奇怪であるが、もしそれが大納言であつたならば、此の記載は現存の令の官制と相應ずるものである。此の官制では、太政官の首位に太政大臣があり次に左右大臣があり、それについで大納言が四人あることになつてゐるからである。兩者の間にはたゞ大納言の人數に一人の差異があるのみである。さすれば、現存の令の此の官制は近江令から繼承せられたものであつて、太政官といふ官衙も近江令の規定に於いて存在したものであり、從つてまた天智朝に太政大臣などと共に任命せられたのは、御史大夫ではなくして大納言であつたのではなからうか。天武紀の卷首に「蘇我果安臣等」の官を大納言とし、左右大臣と共に、其の次に、記してあるのも、實を得たものであらう。以上は御史大夫を唐の此の官名と同じ任務を有するものとしての考であるが、官名を其のまゝ用ゐたとすれば、かう解するのが自然である。現存の令に於ける大納言の職掌及び地位は必しも唐制の納言とは同じでないが、それは唐制に存在しない太政官が設けられ、納言がそこに地位を得たからであり、さうしてそれにしてもなほ門下省の納言の性質を或る程度に保有してゐる。近江令に於いてそれがどう規定せられてゐたかはわからぬが、後にいふ太政大臣の職務の如き特殊の意義のあるものとは違つて、大納言の如きは、官名の同じであることは職務の規定のほゞ同じであつたことを示すものではあるまいか。たゞ一つの問題は天武紀九年及び持統紀元年の條に單に納言といふ官名が見えてゐることであつて、もしそれが誤でないならば、近江令に大納言(これは少納言の官名の存在を豫想する)といふ官名があつたかどうかが疑はれるやうである。本來、同じ官職の名に大少の區別を設け、それによつて地位もしくは職掌の等級または差異を示すことは、唐制に於いては、太子大師少師などの如き例が全く無いではないけれども、極めて稀有であるのに、我が國では普通のことになつてゐるが、これは推古朝孝徳(180)朝及び天智朝の制定の冠位にみな大小の階級があるのと同じであつて、日本人の趣味の現はれであるかも知れぬ。もしさうならば、納言の大少もまた其の例であつて、近江令に於いて既にさうなつてゐたとしても大過は無からう。續紀天平勝寶五年の條に淡海朝中納言大雲比登、また天平寶字六年の條に淡海朝大納言紀大人とあるのは、後年の記載であるから必しも有力な徴證とはならぬかも知れず、特に比登(上記の巨勢人または比等)を中納言としてあるのは一層疑はしいから、それは思慮の外に置くとしても、これだけの推測は許されよう。(比登の大雲は誤寫であらうが、天智紀十年の條には此の人の冠位を大錦下としてある。また中納言の書紀での初見は持統紀六年の條であるから、それは或は持統朝の令に於いて新置せられたものかとも思はれる。官職に於いて大少の中間に「中」の階級を設けてあるのは、現存の令では、太政官の中辨、中務省の中内記中監物、刑部省の中判事中解部などの、少數の例があるのみであることから類推し、また中納言が大寶元年に一たび廢罷せられたほどのものであることを思ふと、官制を初めて定めた近江令に於いて既に中納言が置かれてゐたらしくはない。)さすれば、上記の天武紀及び持統紀の納言は大少の何れかであつたのを、かう記したものと解し得られようか。ところで、かう述べて來ると、何故に天智紀にのみ大納言が御史大夫としてあるかといふことが問題になるが、それは書紀の材料にとられた當時の記録の筆者もしくは書紀の編者が唐めかしてかう書いたのか、但しは淳仁朝に大納言が御史大夫と改稱せられたことのあるのを見て、後人がかう書きかへたのか、何れかであらう。が、御史大夫はあまりに大納言とは性質が違つてゐるのと、現に納言といふ唐名があるのとの二點から考へると、それは或は前の方ではなくして後の方ではあるまいか。淳仁朝の改稱とても名實相適はざるものであるが、此の朝のはすべてが無理な附會であるから、大納言にかういふ名のあてられたのも深(181)く怪しむには足らぬ。しかし、此の考があまりに臆測に過ぎるとならば、かなり無理な點もあるが、或は前の方であるかも知れぬ。それは何れにしても、御史大夫に關する限りに於いては、余は上記の如く考へようと思ふ。
 御史大夫の問題はかう解決せられたにしても、其の他の官名については、依然として疑問が殘つてゐる。そこで更に考へるに、冠位の制は孝徳朝の大化三年に定められたが、間もなく翌四年にそれが改められ、天智朝の三年にまた改定せられた。それには等級の増加もあるが、それと共に名稱の變改が伴つてゐる。名稱を變改する必要がどこにあつたかはわからぬが、變改せられたことは事實である。官府官職の名稱もまたそれと同樣で、令の起草に當つては、同じ官府や官職についても種々の名稱が考案せられ、又は時によつてそれが變改せられたのではなからうか。唐制を模範として新制度を立てようとするのが根本の方針ではあつたが、如何なる程度でそれを學ぶかについて、種々の異なつた態度が取り得られたからである。たゞ冠位の制は早くから施行せられてゐたから、其の變改のたびごとに新冠位が一々實際に用ゐられたけれども、官制は近江令のでき上るまでは草案たるに止まつてゐたから、其の種々の、又は變改せられた新舊二樣の、名稱がそれに併記せられてゐたのではあるまいか。少くとも、令に於いて最後に決定せられたものでない別の稱呼が、やはり公式の名稱として、草案によつて世に知られてゐたのではなからうか。さうして當局者も文筆に從事するものも、其の何れをも用ゐたのではあるまいか。後にいふやうに地方官の官名が種々の文字によつて寫されてゐたことも、幾らか意味は違ふが、此の點に於いて參考せられよう。然らば上に擧げた名稱に於いて何れが最後に決定せられたものであるかといふに、それを明かにすることは困難であるが、持統朝の令及び現存の令と同じものがそれであると見て大過はあるまい。例へば民部省がそれであつて民官といふのは草案に於いて用ゐ(182)られたものであり、從つてまた兵政官とか法官理官とかいふのも民官と同樣に見なすべきものではあるまいか。官制そのものに於いても唐制を模範としながらそれに重大な變改を加へたと同じく、官府官職の名稱もまた必しも唐のを踏襲せず、漢語を用ゐながらかういふ名稱が新に作られたのであらうと推測せられる。天智紀十年の條及び天武紀に見える官府及び官職の名稱に關する疑問については、かう推測せられるが、しかし上記の草案に於いて用ゐられたものにしても、それが最初の立案者たる玄理及び僧旻から出たものであるかどうかはわからぬ。臆測ではあるが、彼等の考案は唐名を其のまゝ用ゐたものであつたかも知れない。近江令の成立までには、かういふことについても幾度かの變改が行はれたと推測し得られるからである。
 以上は官名についてのことであるが、官制そのものについても同じことが考へ得られる。天武朝に至つて近江令を修正する必要が感ぜられ、それが持統朝に一旦成就しても、また再び變改が加へられて大寶令となり、更に養老の改訂となつたのは、いろ/\の理由からであつたらうが、少くとも其の一つとしては、官名について述べたと同じやうな事情があり、官制に關しても、それがあつたらうと推測せられる。かう考へると、僧旻玄理などの立案した官制は、近江朝に決定せられたものよりも、もつと直譯的のものであつたと想像しても大過はあるまい。彼等が歸化人であり、我が國の實状に通曉してゐなかつたと思はれることからも、さう見られるのである。新朝廷の成立の最初に左右大臣を置いたのみで大政を總理する長官を置かなかつたのも、唐制から來てゐるのではあるまいか。さうして、それにはやはり彼等の意見が參考せられたのではあるまいか。内臣といふのがあつて、それが後に内大臣となつたが、これは政務を總理する長官ではなくして、むしろ最高顧問官のやうな地位であつたらしい。近江令に於いて新に太政大臣を(183)設け大政を總理するものとしたのは、此の點に於いて唐制から離れたのであり、かゝる官職も其の名稱も支那には例の無いものである。帝王を輔佐する、もしくは政務を分掌する、官を置いても、一人にして大政を統率するものを設けなかつたのは、思想の上に於いて帝王の獨裁政治であるべきシナの政體から來てゐることであらうと思はれ、最高の官としては三公九卿といひ又は六卿といひ三師といふやうなもののことが昔から説かれてゐるのも、其の故であらうが、かなり久しい前からの慣例として、天皇が親ら政治の衝に當られなかつたらしい我が國では、太政大臣の必要があつたであらう。中大兄皇子が、事實上、新朝廷の主宰者であつたにかゝはらず、長い間、天皇の位に即かれなかつたことも、此の意味に於いて注意を要するので、大化から即位までの二十餘年間は、此の皇子は、いはば事實上の太政大臣であつたのである。大寶令には太政大臣を唐の三師三公に擬し、其の職掌を天子の師範となり陰陽を燮理するものとし、闕の官としてあるが、これは近江令に於ける此の官の意義ではなかつたので、大友皇子が任命せられたことからも、それは明かである。持統朝に新令ができた時にも、高市皇子が太政大臣に任ぜられた。太政大臣の職掌に關する大寶令の文字は、新しく唐令から書き寫されたものであらう。令の官制では太政大臣が明かに置かれてゐながら、其の發布の後には令には見えぬ知太政官事の名を以て皇子が任ぜられることになつたのも、實際の地位が大臣の職掌に關する令の文字に適合しないからのことではなかつたらうか。太政大臣を置く實際上の必要のあつたことは、これらの點からも推測せられるので、それは決して「無其人則闕」といふ、實務に關係の無い、ものではなかつたのである。これは一例であるが、近江令の官制に於いて、我が國の實際の状態が斟酌せられたことは、これでも知られ、さうして此の點に於いて大化の初とは朝廷の態度に幾らかの變化のあつたことが想像せられるやうである。制度の根(184)本的改革が始めて決意せられた時と、幾年かの實際上の經驗がつまれ、また具體的に細目を規定しようとするやうになつた場合とでは、其の間にかういふことの起るのは當然である。もつとも、後になるほど日本化の傾向が強くなつたとのみはいひ難いので、他の一面に於いてはシナ文化に關する知識の深くなるにつれて、却つて唐制を學ばうといふ意向の加はつて來ることもあり得べきであり、上に述べた太政大臣の職掌に關する思想の變遷の如きは其の一例である。
 なほ附言する。この書の第一篇「上代の部の研究」に説いて置いた如く、大寶令の官司には氏族制度時代の朝廷の官司、即ちトモの意味に於いての部、の繼續と見なすべきものが、少からず含まれてゐるので、其の官僚にも部の名を有する一階級があり、さうしてそれにはもとの部に屬してゐたものが多く任命せられてゐたらしいが、これは大寶令になつて始めて規定せられたものではないに違ひない。名稱からいつても、近江令の官制にあつたと見なすべき大藏省の如きは伴造の家の名となつてゐる大藏のそれを襲用したものであり、從つて之と同じ性質の名稱を有する大寶令の官司は、近江令に於いても存在したであらう。上に述べた如く、改新の初、中央政府の組織の定まらなかつた前には、便宜上、概して從來の慣例によつて事務が處理せられたとするならば、これは、それが制度として規定せられ令の官制の重要なる組織分子となつたものであることを考へるがよい。制度は改められても、國民の生活状態は變化しないのであるから、それに應じなければならぬ日常の實務に關する官司については、かうするより外は無かつたのである。これは、租庸調に關する唐制が學ばれても、田租を稻で納めさせることが舊慣に從つたものであること、又は制度の上に於いても種々の方面に氏族制時代の風習が持續せられてゐることと同じである。しかし之と共に、一方(185)では政府全體の組織について唐制が學ばれたことはいふまでもないので、其の點に於いては、上に述べた如く最初の立案はよほど直譯的のものではなかつたかと想像すべき理由がある。また、新しい中央政府がまだ形づくられず、官制の立案すらもできなかつた大化三年に早く冠位の制を定め、翌年またそれを改定したのは、既に述べたやうに、貴族の階級的地位を保證し彼等の名譽心を滿足させる必要のあつたことが一つの理由ではあつたらうが、それと共に朝廷の儀禮を整へ其の尊嚴を粉飾しようとする欲求からも來てゐるのであらうと思はれ、さうしてそれは治者階級には自然な要望であり、また其の模範が唐にあつたことを考へると、中央政府の新官制が、實際政治の必要からのみ立案せられたものでなかつたことが、この點からも類推せられるやうである。(附記。比の稿で大寶令と稱するのは、現存の令に於いて養老の改訂であることの明證が無く、また大寶令の繼承と見なして支障の無い部分をいふのである。現存の令は正しくは養老令といふべきであるが、令の規定の變遷を考へる場合には持統令の次のものとして大寶令を擧げねばならぬからである。なほ持統朝に發布せられた令を、それが天武朝に制定せられたといふ理由から、天武令と稱する學者もあるが、近江朝に發布せられたものを近江令といふならば、これは當然、持統令といふべきである。近江令とても其の起草は近江朝より前の長年月の間に行はれたものだからである。)
 
       第四章 官制に關する疑問、孝徳紀の本文批判
 
 官制についてはなほ考ふべきことがある。まづ中央政府に關しては、持統紀四年の條に「八省百寮皆選任焉」とあ(186)るが、これは前年に公布せられた新令の規定によつたものであらうから、此の令の官制では主要の官府は八省であつたらしく、さうして其の時に太政大臣と右大臣とが任命せられてゐるのを見ると、八省を統轄するものとしての太政官もあつたに違ひなく、また八年の紀によれば、神祇官もあつたはずである。さすれば、細目はともかくも、大綱に於いては、此の官制はほゞ大寶令の規定と同じであつたらしい。四年の紀に刑部省、十二年に東宮大夫及び亮の名が見えることも、此の意味に於いて注意せられよう。大寶令の官制は、それを大觀すると、唐の政府の一部分である尚書省の規模を取つて、それを政府の全體としたものであつて、中務宮内の二省を除いた令の六省は、其の事務の性質がほゞ尚書省の六部に當り(六省のそれ/”\の事務、また其の所屬の官司が、六部のそれを其のまゝ學んだものでないことは、勿論である)、それを統轄する太政官は即ち尚書省そのものに當るのであるが、太政官は政府の全體を統轄するものであるから、太政大臣は、尚書令とは違つて、三師三公の地位におし上げられた。諸省のうちの中務省は中書省の變形であり、宮内省は殿中省を模したものであるが、それらは尚書省の六部に當る他の六省と同地位に置かれ、從つて太政官の下に屬するものとせられた。所謂八省はかくして成立したのである。門下省に擬すべきものは設けられず、其の事務の一部は太政官に、一部は中務省に移されてゐる。尚書省の外にある官衙を學んだもの、例へば御史臺から來た彈正臺などが、太政官の下に屬するやうになつてゐることは、いふまでもないが、これもまた尚書省の地位が太政官に進められたからである。たゞ太常寺に擬すべき神祇官だけは太政官の外にあるが、これは政務に關するものではない。唐の中央の官府は甚だ複雜であるが、民衆に對する行政事務は殆どみな尚書省の掌るところであるから、令の立案者が唐刺を學ぶに當つてかういふ變改を加へたのは、それを單純化すると共に統一を與へたものであつ(187)て、頗る要領を得てゐる。が、これは大寶令の官制であるから、かういふものの始めて規定せられた近江令に於いてそれがどうなつてゐたかは明かでない。太政官のあつたことは太政大臣及び左右大臣の任命の記事によつても推測せられるし、當時もし上に述べた如く大納言が置かれてゐたとすれば、門下省の職掌の一部が太政官に移されてゐたこともまた想像せられるけれども、官制の全體はわからぬ。事務を分掌する諸省のあつたことは疑があるまいが、其の數が八つであつたかどうかも知りがたい。(孝徳紀には、上にも引いた如く、大化四年に於いて僧旻、玄理に「置八省百官」を命ぜられたとあるが、始めて官制の立案を命ずる時に既に八省の稱呼があつたはずは無いから、これは書紀の編者が後の慣用語をあてはめたまでのことであらう。)なほ、大化の新朝廷成立のはじめに左右大臣を置いたのは、尚書省の左右僕射を模したものかとも思はれようが、此の時、既に尚書省の規模を移して政府の全體としようといふ考があつたかどうか、頗る疑はしいから、此の臆測もかなりにおぼつかない。
 地方官の官制に關してもまた疑問がある。大化元年八月の東國國司に對する詔勅に、國司について長官次官主典及び判官の名が見え、また介といふ稱呼もあつてそれが次官をさしてゐるやうに解せられるし、二年の改新の詔勅の「其二」には國司郡司の稱呼があり、また郡司について大領少領主政主帳、國司については長官次官の名が見え、三月の詔勅には國司に介の名がある。これで見ると、改新の初から地方行政區割が國と郡との名によつて呼ばれたこと、國司郡司には長官以下の四等の官のあつたこと、また郡司の名稱は大寶令のと同じであつたことが知られるやうである。國司の名稱は、次官らしく解せられる介のみ見えてゐて、其の他は記されてゐないが、近江令のまだでき上がらない齊明紀四年の條に國守の名が見えるから、長官は大化の時から守といはれたらしくもある。しかし、元年の詔勅(188)の國司の違法者に對する罰則を記したところに「介以上……判官以下……」とあつて、判官に對しては次官とすべきに、それが介と書いてあること(イ)、從者の數を現定したところには「長官……次官……主典……」とあつて、そこには判官が無いこと(ロ)、また此の詔勅に對應する二年三月のには「次官以上……主典以下……」とあつて、こゝに判官の無いことはロと同じであるが、其の規定は罰則についてであるからイと一致すべきであるのに、それが齟齬してゐること、などを思ふと、國司の官制及び其の名稱が、當時、果して上記の如く定められてゐたか、疑を容れる餘地があるやうである。或は書紀の編者が後の知識にもとづいて加筆したところがあり、それがために混亂が生じたのではなからうか。少くとも、國司に四等の官が備はつてゐたやうに書いてあるところには、編者の變改もしくは補筆があるのではあるまいか。二年三月の詔勅に長官から下僚までの人名が列擧してあるにかゝはらず、官名としては介が記されてゐるのみで、長官及び判官主典の稱呼はどこにも見えてゐないことも、此の點に於いて注意せらるべきである。或る國には長官及び二人の介の外に「以下官人」が八人あつたやうに記してあるが、それらを合計すると、大寶令の官制の大國より國司の員數が多いことになる。これは始めて國郡を置く場合であるために事務が多かつたからであらうが、さういふ場合に四等の官の如きが定められてゐたといふのも解し難くはあるまいか。長官は勿論、それを輔佐するものもあつたはずであり、其の部下として事務に從ひ文書を取扱ふものもなくてはならなかつたに違ひないが、四等の階級が果して整然としてゐたかどうかが問題なのである。さて、もし國司についてかう考へ得られるならば、郡司についてもまた同じ疑を挾むのは無理であらうか。國にも郡にも一樣に四等の官が秩序正しく置かれたといふのは、はじめて地方官を置いた時、而も中央政府の官制が全く定まらなかつた時のこととして、やゝ早すぎる感(189)がある。四等の官を置くことは、すべての官府に劃一的制度を立てるために案出せられたものであり、從つてそれは中央政府の官制の定められた場合に始まつたことと推測するのが、妥當ではなからうか。それが唐制を學んだものらしくないことを考へると、此の感は一層深いのである。斉明紀四年の條に、阿部比羅夫の遠征によつて服屬した蝦夷の首領に郡の大領少領の稱呼の與へられてゐることが見え、五年の條には、道奧と越との郡領と主政とに位を授けられたことがあるが、これだけでは大化の初から四等の官がすべて備はつてゐたことを證するには足らぬ。四年の條の同じところに柵の長官らしい造と判官とのみが記してあり、次官の無いことも注意せられよう。
 しかしこのことについては、なほ改新の詔勅の全體にわたつて考へて見る必要がある。此の詔勅には郡司に關して「取國造性識清廉堪時務者、爲大領少領、強幹聰敏工書算、爲主教主帳、」といつてあるが、これは大寶の選敍令の文字と全く同一であつて、たゞ令にはこゝに「國造」の二字が無く「算」が「計」になつてゐるのみであるが、國造については別に「其大領少領、才用同者、先取國造、」とある。これは、令の起草者が大化の詔勅の文字を襲用したとするよりは、書紀の編者が令の文字によつて詔勅を修補したと考へる方が、書紀の一般的性質から見て、適切ではあるまいか。余は、かういふ理由から、此の文字は近江令か持統令かにあつたものであつて、それが大寶令に襲用せられ、また書紀の編者にも利用せられたのであらう、と推測する。同じ詔勅の京坊の坊長及び坊令、里坊の長、並に里長に關する部分は大寶の戸令の、また田租の規定は田令の、文字と同じであり、また驛馬傳馬については公式令と、調庸については賦役令と、采女に關しては後宮職員令と、同じ文字があるが、余はこれらに對しても郡司に關するものと同じ推測を加へたいと思ふ。(戸令には里長の持統にある「若山谷阻險」云々の三句が、こゝでは田租の持統の次に入つ(190)てゐるが、これは集解の説の如く傳寫の間に生じた錯亂であらう。)これらの諸條の始には必ず「凡」といふ文字が置いてあるが、これは令の書きかたの通例であることを知らねばならぬ。(二年三月の詔勅の葬事に關するところにも「凡」の字を冠して列記せられてゐる數條があるが、これも法令の用語を用ゐて書紀の編者が書きかへたものであらう。此の部分が詔勅の原文のまゝでないといぶことは、注記の「或本」の意義を説くことに關聯して「日本古典の研究」の第四篇に述べて置いた。)さうしてまた、仕丁について「充諸司」といつてあるのは、中央政府の諸官司が、官制上、成立してゐることを豫想しなければならぬ文字である。なほ調について「絹※[糸+施の旁]絲綿、並隨郷土所出、」とあるのは賦役令と同じ文字であるが、これは、舊唐書食貸志を參照すると、唐令の文字を襲用したものらしいことをも考ふべきである。さすれば、大寶令には見えない畿内の區域、其の戸令の規定とは小異のある郡の等級、賦役令とは全く違つてゐる調庸の規定など、「凡」の字を以て起してある諸條も、また近江令か持統令かの文字であらう。が、もう一歩進んで考へると、それは持統令の文字ではなくして近江令のそれらしく思はれる。こゝに見える田の段積の規定及び租法は持統令のとは違つてゐるからである。このことは田令の集解や政治要略に引いてある慶雲三年の格によつてわかるので、そこに書いてある「令前租法」は此の租法と違つてゐるが、格の全體の精神から考へると、所謂「令前」の「令」は大寶令を指したものらしく、從つて「令前租法」は持統令の規定と推測すべきものである。さうして、ここに記してある租法が大寶令の規定と同じであるのを見ると、租法は近江令の規定が持統令によつて改められ、それがまた大寶令に於いて復舊せられたのであらう。同じく田令の集解に見える古記に「田長三十歩廣十二歩爲段、段積三百六十歩、吏改段積爲二百五十歩、重復改爲三百六十歩、」とあるのは、之と共に行はれた段積の規定の變遷をいつ(191)たもので、近江令、持統令、及び大寶令のそれ/”\の規定とその變改とを指してゐるらしいことが參考せられよう。段積の規定と租法とは必しも相伴はねばならぬものではなく、現に上記の慶雲三年の格によつて租法が改められ持統令の如くせられたけれども、段積については、和銅六年までは大寶令の規定によつてゐたらしく見える。しかし、近江令から大寶令までの間は、此の二つが同時に改められて來たのではあるまいか。(現存の令が養老に修正せられたものとすれば、何故に租法が慶雲の格の如く改められてゐないのか、また和銅六年の格に於いて度地の法が改められたにかゝはらず、雜令に見えるそれがもとのまゝになつてゐるのが何故であるか、わからぬが、上記の解釋は之がために妨げられないであらう。)班田の法を定めたほどであるとすれば、段積及び租稻についても、大化改新の際に規定が設けられたに違ひないが、其の時の公文が傳はつてゐなかつたため、書紀の編者は偶々遺存してゐた近江令によつてそれを補つたものと考へられる。近江令の規定は多分大化のそれを襲用したのであらうと思はれるが、書紀の此の記載は令の文字を適用したものと見るべきである。次に調については、其の賦課の方法が田の町別及び戸別となつてゐるが、二年八月の詔勅を見ると、そこには「凡調賦者可收男身調」とあつて、これが大化の新制であり、賦課の方法は男子の人別であつたのである。これは唐制を模範としたものらしい。さすれば、近江令にはそれが改められて田の町別及び戸別となつたものであり、此の改定の制度が却つて正月の詔勅として書紀に記載せられてゐるのである。(大寶令では再び男子の人別となつてゐるが、慶雲三年に京及び畿内だけは戸別に改められたことが續紀に見えてゐる。此の慶雲の新制もまた現存の令には見えてゐない。)また庸についても、大化に何等かの規定があつたらうと思はれるが、本文に仕丁に關して「改舊毎三十戸一人、而毎五十戸一人、」とあるのは、大化の制が近江令によつて改(192)められたことを示すものであらう。「毎三十戸一人」といふ如き一般的規定は諸家が民衆を私有し各々其の便宜に從つて彼等を使役してゐた改新前には、無かつたはずであるから、所謂「舊」は大化の制をさしたものと解しなければならぬ。大化の際には官司の制はできてゐなかつたが、朝廷では仕丁を要したのであるから、從來、諸家が恣に其の部民を駈使してゐた習慣を或る程度に持續して、かういふ規定が設けられたのであらう。さすれば、二年八月の詔勅の調賦の規定の次に「仕丁者毎五十戸一人」とある「五」は「三」の誤とすべきである。(此の八月の詔勅は文章に國語脈が多く混在してゐるので、それは當時の實際の詔勅によりそれを或る程度に漢文化して記載したものであることを示すものであるが、冒頭の天地陰陽云々といひ出してある一節は全くそれと調子の違つたものであり、書紀編纂者の追補したものと認められる。ところが、調賦及び仕丁に關するところは、ほゞ漢文となつてゐて、特に使丁のは賦役令の書きかたと全く同じであるのみならず、次の條との連絡も緊密でないから、或は書紀の編者の補入ではなからうかと疑はれないでもないが、これは、ことがらが漢文に譯し得るものであるために、かう書かれてゐるので、其の内容はもとの詔勅にあつたものであらう。仕丁に關する一句が令の書きかたと同じでありまた一條毎に「凡」の字を冠してあるのは、編者が令の筆法に模して書いたまでのことと推測せられる。男身調といふ語はやゝ異樣であるが、續紀慶雲三年の記事にも「人身輸調」または「人身之布」の文字がある。當時の法令上の用語であつたらしい。)
 孝徳紀に記されてゐる大化二年の改新の詔勅が近江令によつて修飾せられたものであるといふことは、上に一言した、畿内の四至が難波の都を中心としたものとしては解し難い記載であり、特に南の紀伊兄山(萬葉卷七の歌に明證のある如く紀の川の沿岸)に於いてさうであることからも、證せられる。此の四至は都から四方へ出る大道に於いて(193)畿内の境界となる地點を示したものであるから、兄山が南方の境界であるには、都は大和になければならず、從つてこれは大和に都があつた時代の規定に違ひない。さすれば、これはいはゆる近江令の規定であつて、それが孝徳紀のこの詔勅の文字として寫しとられたものと解せられる。但し「紀伊」といふやうな文字が書紀の編者によつて書きなほされたものであることは、いふまでもあるまい。近江令を通説の如く天智天皇七年、即ち即位元年、に完成したものとすれば、それは近江遷都の翌年に當るから、北境を合坂山とする此の畿内の區域は其の年の状態に基づいて定められたものとは考へられないが、近江令の條文は孝徳朝齊明朝から天智朝のはじめにかけて長年月の間に起草せられたものであるから、それはほゞ近江遷都の前に脱稿してゐたはずであり、從つて近江令に畿内の四至の規定として此の詔勅に見える文字があつたとしても、毫も支障は無い。もつとも、近江令が天智天皇元年に成つたといふことは、弘仁格の序に見えるのみであり、而も其の元年が書紀の紀年の七年を意味するものかどうかも不明である。書紀には天智紀七年の條に「即天皇位」とありながら、紀年の法は此の年を元年とせずして所謂稱制の元年から通算してあるが、此の年(七年)にかけて皇后宮嬪及び諸皇子の名が列記してあり、さうしてそれは元年の條に記されるのが一般の例であることを思ふと、稿本では此の年が元年としてあつたらしい。天武紀の卷首の「天命開別天皇元年……四年」にも此の稿本の書きかたが遺存してゐる。それを後に、今の記載の如く改めたものであらう。持統天皇の即位は稱制四年であるが、其の年を元年とはせず、やはり稱制元年からの通算によつてゐることを、參考すべきである。(稿本の紀年が今本に於いて改められた例のあることについては、「日本古典の研究」の第四篇に述べて置いた。)しかし書紀の完成より後に書かれた鎌足傳には、書紀の八年を即位二年と書いてあるから、書紀とは違つて七年を元年とする紀(194)年の法も後まで行はれてゐたらしい。だから、弘仁格序の元年が二つの紀年法の何れによつたものであるかは明かでない。たゞ常識からいふと、官撰の國史に於いて定められたものとして、書紀によつたとするのが妥當のやうである。弘仁格序の元年説は鎌足傳の七年、即ち即位元年とすべき年、の條に律令刊定のことが記してあるのによつたものかも知れぬが、鎌足傳の此の記載は必しも此の年にそれが完成したことを明示するものとのみは解し難いやうである。此のことが記してあるのは、或は此の年に完成したといふ記録でもあつてそれによつたものかとも臆測し得られなくはないが、文面の上ではさう決めかねる。しかしそれは何れにしても、畿内の四至の規定についての上記の考説は動かない。さうして難波に都のあつた大化二年にかゝる畿内の四至の規定せられるはずの無いことは、明かである。
 さて、大化二年正月の改新の詔勅として記されてゐることについての上記の考察は、白雉三年の「班田既訖」の次にある段積の、また「造戸籍」の次にある里と戸とに關する、記載についても適用せられるので、それが何れも「凡」の字を冠してあること、大寶の田令及び戸令の文字と同じであることから、さう見られる。班田と戸籍との記事に因み、これらの文字を近江令から取つて書き入れたのであらう。が、これは或は書紀の編者のしわざではなくして、後人の加筆したものであるかも知れぬ。二年の詔勅に取入れられた文字と重複するところがあり、またこれは、其の内容から考へると、大寶令に襲用せられた前朝の令の文字と見ないでも、大寶令其のものから取つたものとして考へるに支障が無いからである。たゞ段積を記したところの分注に「段租稻一束半、町租稻十五束、」とあるのは、所謂「令前租法」に當るものであり、大寶令の規定とは違つてゐるが、上に述べたやうに、もし積地の法が租法と共に改められたのならば、此の租法はこゝに記してある如き三百六十歩を一段とする制度に伴つてゐたものかどうか疑はしいか(195)ら、此の分注は編者の過誤か、さらずば別人の記入したものか、何れかと見るべきであらう。(段積いついて「長爲三十歩爲段」とあるが、これは「爲段」の上に「廣十二歩」が脱ちてゐるに違ひない。然らざれば意義がわからぬ。)なほ、本文の「自正月至是月班田既訖」と「是月造戸籍」とについても問題があるので、前者に關しては既に諸家の見解もあるが、上に述べた如く田令及び戸令の規定を附記したのが、それ/”\此の二つの記事に本づいたものであることは、疑を要しないであらう。
 かう考へて來ると、書紀の記載に遺存する大化二年正月の詔勅の原文は、四ケ條ともに改新の綱目とすべきところだけであつて、「其一」では「賜食封大夫以上、各有差、」まで、「其二」以下は近江令から寫し取つた文字を除いた部分のみであるらしい。「其一」に「百姓」の語のあるのが怪しいといふことは「日本古典の研究」の第四篇に述べて置いたが、「又曰」以下の説明めいたところも原文にあつたものではないやうであり、それは、上にも言及した如く、八月の詔勅の冒頭が書紀の編者の附加したものとしなければならぬことからも、類推せられよう。さて以上の考説は甚しくよこ路に入つたやうであるが、郡司の四等の官に關する詔勅の文字が原文にあつたものでないといふことは、これで證明せられたはずである。但し官名の如きは、近江令に於いて始めて定められたには限らないのであつて、其の前から既に便宜用ゐられてゐ、それが令に於いて四階級に編成せられたものであるかも知れず、上にも引いた齊明紀の記載も此の意味で解釋し得られなくはなからうか。なほ附記するが、國司郡司については固よりのこと、郡や里に關しても、大化に於いて何等かの規定は設けられてゐたであらうが、書紀編纂の際には其の文書が傳はつてゐなかつたであらう。二年八月の詔勅に「宜觀國々疆堺、或書或圖、持來奉示、國縣之名、來時將定、」とあるのを見ると、(196)國郡の區劃名稱は二年八月以後に定められたであらうが、さういふ區劃の標準的規定が何の時にか作られてゐたことと思はれる。
 地方官の官名についてはなほ別に考ふべきことがある。上に國の長官は守と稱せられたらしくもあるといつたが、大化元年及び二年の國司に關する幾たびかの詔勅にも、長官の官名は記されてゐず、特に二年三月のには、長官と認めねばならぬ國司の名が多く擧げてあるにもかゝはらず、其の官名が書いてなく、文勢から見ると、國司といつて直に長官をさしてゐるやうでもある。白雉元年二月の條に「穴戸國司草壁連醜經」とあつて、草壁連は長官であつたと解しなければならぬことが、此の點に於いて參考せられよう。そこで余は下の如く想像する。大化のはじめには國毎に國司、即ち長官と其の部下の幾らかの吏僚と、を派遣したのであるが、それは長官を主としたものであるから、國司といへば長官をさす場合もあつた。長官はカミと呼ばれたであらうが、其の文字は一定してゐなかつた。長官を單に國司と書いてあるのは、一つは之がためであるかも知れぬ。天武紀に國守または國司守の名が屡々現はれ、さうしてそれは近江令の官制に於いて國司の長官が守と書かれてゐた故と、推測せられるにかゝはらず、持統紀八年の條に國司の長官を頭と書いてあるところのあるのは、前からの習慣によつたものであつて、カミを頭とも書いてゐたことがそれによつて推測せられる。(持統紀四年に神祇伯の名が記されてゐながら、八年に神祇官の長官を頭と記してあるのも、之と同じであり、共に書紀の編者の筆ではなくして、當時の記録にさうなつてゐたのであらう。これは中央の官府についても、一般に長官をカミと呼び、それを頭とも書きならはしてゐたからであらうと思はれる。上に述べた學職頭も此の例らしい。)
(197) また持統紀三年に伊豫總領田中朝臣法麿の名が見えてゐるが、同じ人が五年には伊豫國司と書いてあつて、此の場合の國司は長官をさしてゐるのであらうから、カミを總領と書いたこともあり、それもまた舊慣によつたものらしい。播磨風土記揖保郡廣山里の條に「石川王爲※[手偏+總の旁]領之時」とあるのも、播磨の國の長官を指したものに違ひない。常陸風土記にも總領高向大夫の名が見えてゐて、其の書きかたは頗る曖昧であり、特に卷首に於いてさうであるが、孝徳紀の記載によると、大化のはじめに東國に派遣せられたものは國ごとの國司であつて、數國を統轄するやうなものがあつたらしくは見えないから、此の總領もまた國の長官と解すべきもののやうである。卷首に坂東地方全體を總領するもののやうにいつてあるのは、書きかたの杜撰とすべきである。風土記は後のものであるが、この文字は、其の編纂時代の用例とは違ふから、古い記録から出てゐるのか、又は因襲的のかきかたによつたものか、何れかに違ひない。もつとも總領といふ稱呼にはなほ別に問題がある。上記の伊豫總領については、それが讃吉國のことに關する詔命をうけたやうに記してある。また文武紀四年には周防總領吉備總領を筑紫總領及び常陸守と列記してあるが、筑紫總領は其の下に大貳のあることが記されてゐることから考へると、大宰帥を指してゐるらしい。同じ年に、竺志總領に命じて薩末人の暴動を決罰させたことがあるが、竺志は筑紫であるから、其の總領は薩末地方をも管治しゐたに違ひなく、從つてそれは大宰帥として解せらるべきものである。これで見ると、總領はこのころ守と書かれてゐた一國の長官ではなくして、數國を統轄するもののやうに臆測せられ、從來の學者にもさう解したものがある。特に文武紀の吉備總領については、其の前の元年に備前備中、二年に備前の名が現はれてゐるのを見ると、四年には吉備が既に三國に分れてゐたはずであるから、此の點から考へても、此の總領は國の守ではないやうである。しかし、吉備總領は備(198)前借中備後を總管するものの名として解するに支障は無いが、伊豫總領や天武紀十四年にも見える周芳總領の如く、或る一國の名を冠するものが他の國をも統轄するといふのは、解し難いことである。のみならず、上に記した如く伊豫總領が伊豫國司をさしてゐることの明證がある場合もある。また天智紀七年八年十年などの筑紫率または筑紫帥、天武紀元年十一年十二年十四年、持統紀元年三年などの筑紫大宰、持統紀三年八年などの筑紫大宰帥は、何れも同じ官職であるらしく、上に述べた如く、文武紀にはそれがまた竺志總領とも筑紫總領とも書かれてゐることを思ふと、文武朝ごろには總領が公式の官名でなかつたことが知られる。年代から考へると、上記の筑紫率または筑紫帥は近江令決定前の稱呼、大宰は近江令の規定、大宰帥は持統朝の令によつたものとして解し得られるやうであり、さうして文武四年には持統朝の令が行はれてゐたはずだからである。それにもかゝはらず總領の文字が用ゐてあるのは、地方長官を總領とも書く習慣があつたからであり、從つてそれは國の長官が總領と書かれてゐたことを類推せしめるものである。さすれば、伊豫總領について讃吉國のことの述べてあるのは、書紀の記載に現はれてゐない何かの事情があつたからであらう。また文武紀四年の吉備總領に關する記事が誤でないならば、それには何等かの特殊の解釋が必要であらう。かゝる例が他には絶無であることを考へると、一般的の制度として數國を統轄する總領が、筑紫の大宰の外に、あつたとは解し難い。或はこれらの記事には何かの誤があるかも知れぬ。だから、全體から見て、總領が國の長官の稱呼であり、其の場合にはカミの語にあてられたものであることに疑は無からう。それをスブルヲサ又はスベヲサと訓むのは後人の附會であり、文字の直譯にすぎない。
 なほ國の長官は宰とも書かれたらしい。常陸風土記行方郡の條に「國宰當麻大夫」とあり、また播磨風土記賀古郡(199)の條に「庚寅年上大夫爲宰之時」、讃容郡の條に「近江天皇之世道守臣爲此國之宰」、とある「宰」は國の長官であらうと思はれるからである。宰の字は從來一般にミコトモチと訓まれてゐ、さうして國司がクニノミコトモチといはれてゐたといふ通説にも一應の理由はあること、また長官をいふ場合にも國司と書いてある例が書紀にも見えることを思ふと、こゝの宰は、長官を指してはゐるけれども、カミの語を寫したものではなく、國司と書くのと同じ意味でミコトモチの語にあてられたのであらうかとも、考へられぬことはない。古事記の清寧の卷に「針間國之宰」とあるのが、書紀の清寧紀には「播磨國司」と書いてあるのも、宰と國司とが同じ語を寫したものと思はれてゐたことを、示すやうでもある(これは何れも大化以後の官制の知識によつて書かれたものである)。しかし、天武紀元年に吉備國守の名があるのに八年に吉備大宰といふのがあり、さうして此の時には吉備はまだ一國であつたはずであることを考へると、此の大宰はやはり國守を指してゐるやうである。(天武紀二年三月に備後國司に關する記事があつて、それによると、此の時既に吉備が三分せられてゐたらしく見えるが、十一年に吉備國とあるのはそれと矛盾し、元年に吉備國守の名が記され、兵亂纔に平いだばかりの翌年の春に既に三分せられてゐるといふのも、首肯し難いやうであるから、二年の記事には何かの誤があらう。八年には吉備は一國であつたと見るべきである。)大の一字が加はつてはゐるが、それは多分吉備が大國だからであらうと思はれる。さすれば大宰はやはりカミの語にあてられた國の長官と見なすべきである。天武紀に見える筑紫の大宰が、天智紀に率または帥と書かれてゐるのと同じ語で呼ばれたものならば、それもやはりカミではなかつたらうか。もつともこれでは筑紫の國の長官の稱呼と同じになるやうであるが、このころに後の所謂大宰府と筑紫國司とが併存してゐたかどうかも、問題ではなからうか。持統紀から見える大宰帥といふの(200)は、實は上記の大宰と帥とを連稱したものであつて、重複したいひやうであるが、これはもと長官の名であつた大宰を官衙の名として用ゐ、さうして其の長官に帥の字をあてたものであるらしいから、大宰府の名は持統朝の令に始まつたものであり、さうしてそれは、從來、筑紫大宰が筑紫國の事務をも管掌してゐたのに、この時から筑紫國司と大宰府とが分立したからではあるまいか。臆測ではあるが試に附記して置く。孝徳紀大化五年の條に筑紫大宰帥の名の見えるのは、書紀の編者が編纂當時の稱呼を用ゐたのであつて、大化の時にかういふ官名があつたことを示すものではない。かう考へると、國の長官のカミを宰とも書いたことがおのづから證明せられるやうである。大の字を加へた場合があつてもそれは特例であつて、一般には宰とのみ記されたと見なし得るのである。宰が何時もミコトモチの語を寫したものとのみ思ふのは、拘泥にすぎてゐる。また大宰帥をオホミコトモチノカミと訓むが如きは、此の拘泥した見解の上に立つた文字の直譯である。ミコトモチは朝廷の命を傳へるもの、從つてまた、それを執行するものの意らしく、地方に派遣せられた官司も其の意義でミコトモチといはれたであらうが、それに長官の義は無い。然るに宰の字は寧ろ長官をいふに適してゐるから、國司の長官たるカミを宰と書いたこともあるといふのは、此の點から見ても無理は無からう。
 さて、かう説いて來ると、大化のころには國の長官は頭とも總領とも宰とも書かれてゐたことが知られる。さすれば上に引いた齊明紀の國守は書紀の編者の書きかへたものであり、大化元年及び二年の詔勅に見える介の字もまた同樣であることが知られるのではあるまいか。スケといふ稱呼は大化の時からあつたであらうが介の文字は後に定められたものと解せられる。(二年の詔勅では介が一國に二人ある場合があるが、これも後の制度での國の次官とはちが(201)ふ。)長官に、守の字を、次官に介の字を書くのは、特殊の用法であるから、それはすべての官府を通じて劃一的に四等の官を置いた時に考案せられたことであり、從つて早くとも近江令の官制に於いて始められたことと、推測せられる。
 以上は國司についてのことであるが、郡司も同樣である。郡といふ文字が大化の時に一定してゐたかどうかすら疑はしい。皇太神宮儀式帳の大化のころの記録から出てゐるらしいところに、郡のことを評と書き、郡司を督領、助督、と書いてあること、續紀天平寶字八年の條に評、神護景雲元年の條に評督の文字が用ゐてあるが、それは何れも古い時代のことをいつたもの、從つてまた古記録の文字によつたものと認められること(天平寶字八年のは木國氷高評といふ書きかたからもそれが確かめられる)、文武朝に建てられた那須國造の碑に評督、の文字のあること、文武紀四年の條に薩末の郡司について評督、助督、とあること、などは周知の事實であるが、これもまた、大化のころには、郡とも書かれたコホリを評とも書き、領とも書かれた其の長官たるカミを督領または督とも書いてゐたこと、またそれが後までも襲用せられた場合のあることを證するものである。また常陸風土記多珂郡の條の癸丑(白雉四年)にかけて記してある石城評造も石城郡の長官をいふのであらうから、これは郡を評と書いたと共に、カミを造とも書いたことを示すものである。常陸風土記の此の文字は石城郡設置に關する記事に見えてはゐるが、設置後の稱呼を前に溯らせて書いたのである。此の石城評造と共に多珂國造石城直の名が記してあるが、石城直の家は、次章に述べるやうに國造の家のカバネが直となつてゐることの多いところから考へると、大化以前には石城國造であつたはずであるのに、それが多珂國造と書いてあるのは、大化以前の多珂國造のことではなく、石城國造であつたものが何等かの事情から多珂郡の長官になつたので、此の新官職を國造といふ舊稱を用ゐて記したものであらう。郡は概して國造の地域を相承し(202)たものであるのと、郡領には多く國造が任ぜられたのとで、新制の制定以後も郡の長官を、依然、國造とも呼びならはしたことがあり、それがこゝにも現はれてゐるものと推測せられる。改新から八年も經つてゐる白雉四年に、もとの意義での國造が行政義務に關與したはずの無いことも、また考へられねばならぬ。さすれば、此の多珂郡の長官と連記してありそれと同じ地位にあつたやうに書いてある石城評造が石城郡の長官であることは、おのづから明かである。また行方郡の條の同じ癸丑の年の記事には、茨城國造に小乙下、那珂國造に大建の位階が記してある。小乙下は大化五年に設けられた位階であるが、大建は天智天皇三年に制定せられたものであるから、此の書きかたは時代錯誤を含んでゐる。此の茨城國造の名は壬生連麻呂、那珂國造のは壬生直夫子となつてゐるが、大化以前の國造が壬生部のものであつたはずが無いから、こゝの國造もまた郡の長官をさすのであらうが、それにしても那珂國造に關する位階の記載は時代が合はぬ。かういふ例のあることから見ても、石城郡設置に關する記事に石城郡の長官の官名を石城評造としてあるのは怪しむに足らぬ。
 大化のころに郡が評とも書かれ、領が督、督領、造、などと書かれてゐたことは、上記の考説で知られたが、其の後、何時からか(多分、近江令の官制に於いて)コホリは郡、カミは大領、またスケは少領、と一定せられた。しかしなほ舊慣に從つた書きかたをするものも少なくなかつたので、文武紀の資料となつたもの、那須國造の碑文の如きがそれであらう。初はすべて評、督、などの文字を用ゐ、後に郡、領、と改められたと解せられなくもないやうであるが、さう見るほどに評、督、などの書きかたが普遍的であつたと考へるだけの材料が無く、長官には造の字も用ゐてあるから、余は寧ろ書きかたが一定してゐなかつたものと推測したい。大化の時に郡の長官をカミといひそれを領とも書いたと(203)いふことには、直接の證據は無いが、カミの稱呼については、後の制度で督がカミの語にあてられたことからの、また領の文字については、郡司の外に郡領といふ文字が見えることからの、推測である。大化元年の詔勅に「國造郡領」とあるが、國造と連記せられてゐるのを見ると、郡領は郡の長官をさしたものと解せられ、さうして此の文字については書紀の編者が書きかへたと推すべき理由が無いから、これは詔勅の原文の文字であつたと認められる。(領は管治する意から轉じて首長の稱呼とせられたのか、または長官の意義での令と同義に用ゐられたものかであるらしく、推古紀十九年の藥獵の部隊組織の記事に前部領後部領といふ名が見えてゐる。續紀大寶元年の條に山代國相樂郡令とあるが、此の「令」は領と同音であるがために書かれたのか、又は領を令の義と解して用ゐられたのか、何れかであらう。)當時に於いては、文字を用ゐることがまだ習熟せられてゐなかつたので、吏務に關しても文書よりは口舌によつた方が多かつたでからうから、制度についても、語は一定してゐたが、それを寫す文字は區々になつてゐた場合があつたであらう。これは現在の人名が、例へば稱目と伊奈米、馬子と馬古、御田鍬と三田耜、といふやうに、異なつた文字で書かれてゐた例からも肯定せられねばならぬ推測である。古人とか神とかの名または地名部名などを寫す文字が一定してゐなかつたことは、いふまでもない。
 なほ、コホリといふ語の由來については、學者間に種々の見解があるやうであるが、それは何れにしても、大化の前からそれが地方區劃の稱呼となつてゐたかどうかは問題であり、地方的豪族について國造、縣主などのカバネがあるにかゝはらず、コホリの長といふやうな名のそれが見えないことも、考へねばならぬ。しかし、臣または君といふカバネを有するものは概ね地方的豪族であつたらしいのに、それがクニとかアガタとか又はムラとかいふやうな稱呼(204)をつけて呼ばれてゐず、特にムラといふ稱呼をつけたカバネが記紀に現はれてゐないやうであることを考へると、單に此の點からのみ、コホリの語の存在を否定するわけにはゆかぬ。(スクリを村主と書いてあるが、これは文字の上のことで、ムラといふ語を用ゐたのではなく、またそれは歸化人の稱呼であつて地方的豪族のカバネではない。また大化二年正月の詔勅に村首とあるのは、地方的首長といふ義であつて、特殊のカバネではない。)さうして大化の新地方區劃に於いて國の下位にあるものを郡とも評とも書いたのを見ると、此の區劃の名稱は文字によらずしてコホリといふ語によつたものに違ひなく、またクニの語と共に行政區劃の一般的稱呼とせられた此の語は、これまで全く世に用ゐられなかつたものであつたとは考へ難いやうであるから、よし一部分であつたにせよ、さういふ稱呼は大化の前から行はれてゐたと見るのが、妥當のやうである。孝徳紀大化三年、白雉二年及び三年、の條に見える小郡、大郡、といふ地名の郡の字がコホリの語にあてられたものならば、大化のころそれが既にかういふ風に呼びならはされてゐたことをも、參考すべきである。また評の字を地方區劃の名として用ゐることは韓地から學ばれたものであつて、これは本來コホリといふ語とは無關係な文字である。郡は支那の行政區劃の名であるが、韓地でもそれを用ゐてゐたので、大化の制度に於ける其の區域が狹少であり行政系統としては下位にあるものであるのを見ると、直接にシナのを學んだのではなく、やはり韓地の例に從つたものらしい。さすれば、評も郡も文字として適用せられたものであるが、評は我が國では大化以前からコホリの語にあてられてゐたのかも知れぬ。大化の時クニの下位に置かれた行政區劃の名をコホリと定めたについて、一方では此の舊慣によつて評と書かれたけれども、他方ではシナに由來のある郡の字を新に適用しようとする考も起り、後には郡の方に一定せられたとすれば、此の間の推移が自然らしく解釋せられるので(205)ある。(書紀には地方區劃を汎稱する場合にシナの成語を其のまゝに、又は少しく其の文字を改めて、用ゐてあるところがあるので、大化元年八月の詔勅にある「郡縣」、また二年八月の詔勅の「國縣」が其の例である。これらは當時の實際の行政區劃の稱呼をいつたものでないから、舊訓の如くそれらをコホリとよむべきではない。此の舊訓は元年九月の詔勅の「頃」をシロと訓むのと同樣の誤であつて、此の頃の字は我が國の地積の稱呼にあてはめて書いたのではなく、漢語を其のまゝ用ゐたに過ぎないものである。)
 また郡のカミを造と書いたことについては、上にも言及したことがあるやうに、齊明紀四年の條に「授都岐沙羅柵造位二階、判官位一階、授渟足柵造大伴君稻積小乙下、」と見えてゐて、此の造は柵の長官、即ちカミ、であるべきことが參考せられよう。一般にカミを造と書いた場合もあつたので、郡のカミにもそれが適用せられたのである。大化以前の稱呼としての造は國造伴造のそれによつて最もよく知られてゐるが、それは國の首長と伴、即ち部、の首長との稱呼であり、伴造の諸家のカバネとしての造も同じことであるから、大化の後の新制度に於けるカミに比の字が適用せられたのは當然である。なほ此のことについては、成務紀五年の條に「國郡立造長、縣邑置稻置、」とあるのをも參考すべきであつて、こゝに「造長」といふ新熟字が作つてあるのは「造」の字で寫された國語が「長」の義を有するものとして書紀の編者が考へてゐたことを示すものである*。(文章の上では造長といぶ文字が稻置の對稱として用ゐてはあるが、これは稻置の如き地方的首長の特殊の稱呼ではない。主として國造を念頭に置いて考へたために造の文字を用ゐはしたが、對句とする必要上、長の字を其の下に加へて一つの熟字としたまでである。大化二年の改新の詔勅に「伴造國造村首」とある村首が特殊の稱呼でないのと同じであらう。)さすれば、造の字が首長の意味に用ゐられ(206)てゐたことは、いよ/\明かであるといはねばならぬ。
 更に附言する。造の字が何故に首長の意義に用ゐられるやうになつたかは、余にも意見が無い。吉士、村主、などの例があることから考へると、新羅の爵位の「造位」に由來があるのではなからうかとも思はれようが、造位は新羅語の音譯であつて先沮知とも書かれてゐるのに、我が國の造は日本語にあてられた漢字であらうから、かう見ることはむつかしい。もし吉士などと同じく韓語を取つたものならば、造の一字とするはずもないのである。また造位が十七等の最下級のものであることも、造のカバネを有するものの地位には不似合である。或は漢書の百官公卿表に見える三十階の爵に上造、少上造、及び大上造があることに由來があるのではないかとも思はれるが、あまりに縁遠い感じもする。もし強ひていはうならば、「はじめ」といふ意義から首長の義にとられたのではないか、或はまた物を造ることが物を支配することに轉じて、そこから首長の義に用ゐられるやうになつたのではあるまいかと思はれもするが、頗るおぼつかない臆測である。が、それはともかくも首長の義であることには何の疑も無い。また、此の字を普通にミヤツコとよみならはしてゐ、釋紀の訓にも概ねさうなつてゐるが、本來此の語にあてられた文字であるとは考へられぬ。國造伴造の意義が上記のやうであり、またカバネとしてもオミ、ムラジ、オヒト、キミ、アガタヌシ、皆な上長の義を有する尊稱である(アタヘ、イナキも多分同樣であらう)ことから類推すると、造の字のあてられた語にもまた同じ意義があつたらうと思はれ、實際、造のカバネを有する家々が朝廷の部の首長であることからも、さう見るのが自然である。後篇にいふやうにカバネの語がもと/\尊稱であり頭首の義を含むものらしいことをも考ふべきである。ところが、ミヤツコの語に首長の意義があるとは考へ難い。なほ、國造件造を國または伴の「御家つ子」と解するが(207)如きは、國造伴造そのものの地位から見ても、妥當ではあるまい。特に國造の如き地方的君主を皇室の「御家つ子」といふべき理由はどこにも無いではないか。また伴造のカバネとしての造について考へても、いろ/\のカバネがあるにかゝはらず、其のうちの一部分の造の字のあてられたもののみが「御家つ子」と稱せられるはずは無いであらう。どの件造も皇室との關係に違ひは無いからである。地方的豪族に於いても、アガタヌシとかオミ、キミ、とかが「御家つ子」と呼ばれずして、國造のみがさういはれたといふのも、同じ意味に於いて解し難い話である。書紀の舊訓には、皇室を君としてそれに對していふ場合の臣の字をヤツコとしてあるところが多く、宣長などの近世の國學者もまたそれを是認し、皇室に對しては、地位の高いものも低いものも、即ちあらゆる臣が、みなヤツコであると考へてゐたらしいが、これは頗る疑はしい。この考はカバネの造をミヤツコと訓む宣長自長の考とも矛盾するものであつて、すべての皇室の臣がヤツコならば、特に或る家々に限つてミヤツコといふカバネを用ゐるのは不可解であり、またミヤツコのカバネを有することが皇室の臣であることを示すものならば、オミやムラジやオヒトは皇室のヤツコ、即ち臣、ではないことになるではないか。ヤツコの原義が「家つ子」であるならば、それは、或る家に占有せられてゐる、また特に親近な關係を以て使役せられる、ものをいふ語であつたとすべきであり、それが奴婢の稱呼となり、從つて奴の字がそれにあてられるやうにたつたのも、また古事記の神代の卷のスサノヲの命がオホナムチの命にいつたといふ語の示すが如く、親昵の意をあらはすために用ゐられるやうになつたのも、此の故であらう。さすれば、一般的に皇室に對する意味に於いて臣下をかう稱へたといふことは、此の語の意義の轉じて來た方向から見ても、信じ難くはあるまいか。奈良朝の用例を見ても、續紀に見える天平寶字八年の宣命に「王を奴となすとも奴を王といふとも」とあるのは、(208)奴を卑賤のものの意義に用ゐたのであり、同じ年の別の宣命に「逆まに穢き奴」、また天平神護元年のに「愚癡にある奴」などとある奴は、卑しむ意から轉じた用法であらうが、これらの奴の字もみなヤツコの語を寫したものに違ひない。但し最後に擧げた宣命に「朝廷の御奴と仕へ奉らしめむ」とあるのは、神護景雲三年のに宮人姉女を「内つ奴」といひ、同じ年の別のに清麻呂を「仕へまつる奴」といひ、それについて何れも賞賜のことが述べてあるのと同じであつて、卑しむ意ではなく、全體の文意から考へると、多分、親昵の意味でかう呼ばれたのであらう。要するに、一般的に臣下をさう稱したのではない。もし朝廷でミヤツコと呼ばれたものがあるならば、普通の奴婢の稱呼から類推しても、下級の使役者に限られてゐたのであらう。宣命などに臣とあるのはオミの語にあてられたものであつて、それはオミ(オホミ、大身)の原義からは離れてゐるが、オミが上長の義を有する身分の高いものであつて、朝廷に地位を占めてゐるものもあるため、臣の字がそれにあてられ、從つてまた後にはオミの語が臣の字の義に轉用せられるやうになつたのであらう。が、それはともかくも、本にかへつていふと、造は皇室に對する身分の稱呼ではなく、國または伴(部)の首長の地位の名であることを忘れてはならぬ。
 然らば、造の字のあてられた原の語は何であらうかといふに、それは明かでない。もし臆測を試るならば、それは或はカミではなかつたかとも思はれ、上に引いた齊明紀の柵造、並に常陸風土記の石城評造の文字が此の臆測を助けるもののやうに見える。造といふ文字の普通の用例としては、それにカミの義は無いから、シナの文字の知識がかなりに發達してゐた大化以後の新制に於いて始めてカミに此の文字があてられたと考へるよりは、前からの習慣によつたものと見る方が理解し易いからである。また、もしかう考へられるならば、大化の新制に於いて長官をカミと稱し(209)たのが、伴または國の首長、即ち伴造國造、をカミと稱した從來の制度上の用語を繼承したことになり、此の點でも都合がよい。なほ首長をカミといつたことについては、天智朝に始まつた稱呼ではあるが、氏上(ウヂノカミ》いふものがあることをも、參考すべきであらう。たゞかう見る場合に、伴造については問題が無いが、國造については新しい制度の國のカミと舊來の國造とが同じ名稱であることになり、そこに一つの支障が生ずる。國造は新制度の下に於いてなほ存續してゐたからである。もつとも新設の官司に於ける屬僚の某部と稱せられるものに、舊時の部の職掌と名稱とを機承してゐるものが少なくなく、從つて其の名と、今は全く其の業務と無關係になつてゐるものの多いもとの伴造の家の名との、同じである場合があつたが、それがさしたる混雜を生じなかつたらしいことを思ふと、國造についてもそれと同樣に考へてよいかも知れぬ。しかし、此の考が不十分であるとすれば、別に一案がある。それはヌシの語を寫したものと見ることである。正倉院文書の大寶二年の御野國加毛郡半布里の戸籍、續紀天平十四年三月、寶龜三年四月などの條、又は延暦の皇太神宮儀式帳に、縣造といふ稱呼が見えるが、其の例の甚だ少いことから考へると、これは、國造、縣主、または臣、君、などの如く、またそれらと並んで、地方的豪族の特殊の稱呼として用ゐられたものではないやうであり、さうして儀式帳によると、それは縣の首長をさしてゐるものであるから、縣造は即ちアガタヌシの語を寫したものらしく考へられる。いひかへると、普通に主の字が用ゐられてゐるヌシの語を造とも書くことがあつたと解せられるのである。上記の戸籍には別に縣主と書いてある場合もあるが、此の文書には、一つの里の戸籍でありながら、例へば、秦人部、秦人、秦部、などと種々に記され、牟義君族、卑下都君族、牟下都造、牟下津部、牟義部、牟下部などとさま/”\に書かれてゐるのが、それ/”\同じ氏の名であるが如く、書きかたが一定してゐ(210)ないから、アガタヌシを縣主とも縣造とも書いたと見るに支障は無い。もし斯う考へられるならば、國造はクニヌシ、伴造はトモヌシではあるまいか。國造については、かのオホクニヌシの神の名も、こゝから出てゐるとすれば、甚だ解し易い。出雲のクニヌシの祭神としては、これはふさはしい稱呼だからである。崇神紀に丹波道主といふ名が見えるが、これは地方的君主をヌシと稱することがあつたために、それによつて作られたものらしいから、國の君主をクニヌシといつたといふ推測を助ける一資料となるであらう。なほ上記の戸井の牟下都君と牟下都造とが同じ語を寫したものであるとすれば、第三案として、造はキミの語にあてられたものと考へることもできよう。キミは君とも公とも書かれたが、また造の字も用ゐられたと見るのである。(牟下都君、牟下都造は、古事記景行の卷に牟宜都君、景行紀四十年の條に身毛津君、また釋紀卷十二所引上宮記に牟義都國造とあるものらしいが、上宮記の「國造」は「造」の誤ではあるまいか。)雄略紀十五年の條に秦造酒とありながら、同じ人を秦酒公とも書いてあるが、これは造が公と同じくキミの語にあてられてゐたことを示すもののやうである。此の人の名は酒に違ひないから、後の方の公はカバネであつて、それは例へば十八年の條に物部菟代宿禰また物部目連と記されてゐるのと、同じ書きかたとしなければならぬからである(カバネを名の下に書くことは、一々列擧するまでもなく、書紀に其の例が多く見える)。或はまた造に首長の義があると考へられてゐたために、一般にはカミにもキミにもヌシにも此の字があてられたとしても、さしつかへが無いやうである。但し國造伴造及びカバネとしての造は、一定の稱呼に違ひなく、從つて此の三つの中の何れかでなければならぬから、其の何れであるかが問題であるが、雄略紀によると、少くとも伴造の家々のカバネとしての造はキミの語を寫したものであつたらしい。さすれば、其の總稱としての伴造のも、また國造のも、やはり同樣に(211)考へてよいかも知れぬ。柵造、評造、縣造は、造の字が首長の義に用ゐられてゐたために、カミやヌシをさう書いたとするか、又は首長であるがためにカミやヌシをキミともいつたことがあるためとするか、何れかに解釋し得られよう。(「辛亥年七月十日記、笠評君」云々の銘のある御物觀音像があるが、もし此の辛亥が白雉二年のであるとすれば、この笠評君の稱呼は郡のカミをキミともいつた一例と見られる。)
 なほ附記するが、上記の美濃の戸籍に見える縣主や縣造はカバネではなく、氏の名として用ゐられてゐる昔の部屬の名である。いひかへると、縣主の地位にあつたものをいふのではなく、もと縣主の配下に屬してゐたもの、縣主の領民、をさすのである。同じ戸籍に縣主族と書いてあるのも之と同じであらうが、それに更に部の字を加へて縣主族部としてある例もあつて、それもまた同じ意義であり、さうして此の最後の書きかたは、上記の解釋の正當なることを證するものである。(釋紀卷十三所引上宮記に「親族部」の語がある。「親しき族部」の義であらう。)牟下都造とあるのも、それと同樣、もとの牟下都造(君)の部民であつたことを示す氏の名であつて、造の地位にゐたものをいふのではなく、牟義都君族または牟義部などと記してあるのと同じである。(此の牟義部といふ稱呼は、地方的豪族の配下の屬が部といはれたことのある一例證である。)民衆の氏の名はもとの部名であるから、其の舊主家の家の名に部、族、または族部などの文字を添へて書くのが、正式ではあつたらうが、それが省略せられてゐる場合もあつたので、これは大伴部、穗積部、漢人部、秦人部などと書かるべきものが、大伴、穗積、漢人、秦人、などとしてあつて、部の字の無い場合が戸籍に少なくないのを見ても明かである。また正倉院文書の天平二十年の下總海上國造神護の解にある他田日奉部直が、萬葉卷二十には單に日奉直としてあり、續紀天平勝寶元年四月の條に他田舍人部とあるのが、養老七(212)年正月の條に他田舍人とあるのと同じ氏であるべきことを思ふと、部の字を書くべき場合に書かないことは、戸籍に限らなかつたのである。此の他田舍人部を氏の名としてゐるものは、昔の伴造に他田舍人造といふのがあつて其の家の部民であつたものと考へられる。萬葉二十の卷に見える常陸の防人に大舍人部若舍人部を氏の名としてゐるものがあるが、これもまた大舍人造、若舍人造、といふ伴造の家があつて、其の部民であつたものか、又は天武紀十年及び十一年の條に見える舍人造の家の部民にかういふ新舊二つの區別が設けられてゐて、そこから生じた稱呼が氏の名となつたのか、何れかであらう。舍人造といふやうな家の部民が地方にあつたことは、清寧紀二年の條に、白髪部舍人、膳夫、靱負、を置くために大伴室屋を諸國に遣はされた、といふ記事があるのでも知られる。この記事は白髪部舍人などの長たる伴造、それは多分天武紀に見える白髪部造、の部民が各地方にあつた事實から作られたものと、考へられるからである。なほこのことについては、續紀寶龜七年閏八月の條に采女部を氏の名とするものがあつて、それが昔の采女造の部民であつたものと推測せられることを、參考すべきである。これらの場合には明かに部の字が書いてあるが、上に述べた如くそれの省かれてゐる例も甚だ多い。
 ところで、こゝに生ずる問題は、何故にまた何時から造の字にミヤツコといふ訓がつけられたかといふことである。書紀の普通の訓みかたでは造を多くミヤツコとしてあるが、必しもそれのみには限らぬ。推古紀に見える憲法第十二條の國造はクニノヤツコと訓んであるし、岩崎家の古寫本にはそれをクニツコとしてある。釋紀にもカバネの造をばすべてミヤツコとよませてありながら、推古紀二十八年の伴造國造にはトモツコ、クニツコとしてある。だから、少くとも所謂二造については、かういふ訓みかたもあつたはずである。ヤツコはミヤツコと同じでミの敬語がついてゐな(213)いのみであるが、ツコといふのはそれとは違つたものとしなければならぬ。しかし、ツコを一語として見ると、かゝる語は他に用ゐられた例が無いやうであるから、これは寧ろミヤツコから轉訛したものであつて、それがツクルといふ造の字の意義と混淆したのではなからうか。(クニツコが例へぼ「國つ子」といふやうな意義の語であるとは考へられまい。)だから、ツコとミヤツコとの二つのうちでは、余はミヤツコと訓したのが比較的古いことであらうと思ふ。といふのは、釋紀に郡領をコホリノミヤツコとしてあるが、これは西宮記卷五及び北山抄卷三の讀奏事の條の記載によつても知られることであるから、平安朝に於いて既にさう訓んでゐたにちがひなく、さうしてそれはクニノミヤツコに對してコホリノミヤツコといふ語が作られたものと推測せられるからである。しかし、郡領は大化以後の新制であり、さうして大化のころには領はカミの語にあてられたものと考へられるのであるから、それをミヤツコと訓んだのは、大化のころの語が其のまゝ傳へられたものではないと見なければならぬ。西宮記には大領をコホ(コホリ)ノミヤツコ、少領をスケノミヤツコまたスナイミヤツコ、と訓むやうに記してあり、北山抄には大領をも領をもコホノミヤツコとしてあると共に、大領をオホイコホノミヤツコとする説、また大領をオホイミヤツコとし領をミヤツコとする説をも載せ、少領をばスケノミヤツコとしてあるが、これは當時よみかたが一定してゐなかつたことを示すものであり、さうしてそれは、郡の大領少領が、實際にはかういふ風に呼ばれてゐたのではなかつたことを語るものであらう。現實に存在する官職の稱呼がかう區々になつてゐたとは、考へられないからである。さうして催馬樂の歌に大領が音讀してあるのを見ると、當時實際には西宮記や北山抄に記してあるやうに稱へられてゐたのでないことが、それによつても知られる。これはたゞ儀禮の場合に於いて故らに國語で官名を稱へるやうに定められ、それがために案出(214)せられたことであつて、さういふ儀禮の細かく規定せられた平安朝から始まつたものと推測せられる。四等の官が定められた後には、大領はカミ少領はスケであつたことに疑は無からうし、大寶令の官制に於いて領一人の置かれた小郡の場合にもそれはカミと呼ばれたものであることが、介の無い中國以下の守がやはりカミであつたことからも類推せられる。郡領の領をミヤツコと訓むのが古い傳へでないこと、從つてそれは國造の訓をクニノミヤツコといつたことから學ばれたものであるといふことは、かう考へると、誤で無ささうである。
 然らば、國造をクニノミヤツコと訓んだのが何時からであるかといふに、余は次のやうな理由から、それは奈良朝末か平安朝初期かのことではあるまいかと思ふ。職員令の集解の典鑄司の雜工部十人とある注に「雜工部謂友造也、鍛冶司唯習之、自餘諸司伴部等、皆直稱友造耳、」と見え、漆部司の漆部廿人とある注に別記を引いて「漆部廿人之中、伴造七人、倭國經年役伴造爲件部、」とあり、また土工司の泥部廿人とある注に「泥部者古言波都加此之友造」とあるが、賦役令の集解には伴部について「伴部謂諸司友御造也」とある。友造、伴造、友御造、は同じ語であらうが、これは所謂伴部であつて、其の首長ではなく、伴造の文字が用ゐてあつても、大化以前の伴造とは全く性質の違つたものである。左右馬寮の條に引いてある別記に「左馬寮馬飼造戸二百三十六戸、馬甘三百二戸、右馬寮馬甘造戸二百三十戸、馬甘二百六十戸、右馬甘造等仕寮者爲伴部、」とある馬甘造も、やはり伴造といひ得べきものであつたらうが、それが昔の馬養部の首長であつた伴造とは地位の遙かに隔つてゐたものであることは明かである。此の新しい意義での伴造を國語で如何に呼んだかは明かでないが*、それ/”\に部(伴、友)をなしてゐたものであることを思ふと、トモノミヤツコといつたのではないかと思はれる。友御造とも書かれ特に「御」の一字を加へてある場合のあるのは、そこに(215)「ミ」の語があつたことを示すものである。上に述べた如くミヤツコは臣、即ち一般の官人、を稱する語ではなかつたが、下級の使役者、即ち朝廷に奉仕する工人や馬飼など、がさう呼ばれたとするには支障があるまい。ところで彼等は、昔の伴造の部に屬してそれ/”\の職業に從事してゐたものの地位と職業とを、繼承したものであり、伴造と書かれたのも其の故であらうが、或は大化以前に於いても、伴造の部下として使役せられた下級の工人や馬飼などがトモノミヤツコといはれてゐて、其の稱呼が彼等にうけつがれたのかも、知れぬ。何れにしても昔の伴造と關係のあるものであるから、其の昔の意義での伴造が無くなつた後には、地位の低いものの稱呼ではあるけれども此のトモノミヤツコの語に伴造の字をあてるやうになつたのであらう*。伴造はかくしてトモノミヤツコと訓まれるやうになつたが、これは昔の意義での伴造のことではない。しかし、かういふ習慣が長くつゞいて來ると、古典の上に見える昔の件造も、また同じやうにトモノミヤツコと訓まれるやうになるので、おそくとも平安朝になつて書紀の文字の訓みかたが考へられた時分には、さうなつたのであらう。昔の伴造は當時、全く存在しなかつたものであるから、もとの稱呼は傳はらず、またそれが如何によまれても實社會には何の交渉も無かつたのである。ところが、古典の上の伴造をトモノミヤツコと訓めば、それと相伴つて同じく古典の上に現はれてゐる國造も、またそれに誘はれてクニノミヤツコとよまれるやうになつたのは、自然の勢である。國造は伴造とは違ひ、よし其の中の一部であつたにせよ、大化以後なほ其の稱號と或る種の地位とを保持してゐたのであり、平安朝の初期にも其の状態が或る程度に繼續してゐたらしいが、クニノミヤツコといふ特殊の名稱が作られた上は、それについてヤツコの原義を檢討しようともせず、現實の國造の家でも何時しかそれを用ゐるやうになつたのであらう。むしろかういふ名稱の作られたことによつて「ミヤツコ」の(216)語に新意義が生じたのである。また古語拾遺の記載によつて推測せられる如く、平安朝の初期には古典に見える神の名などの意義がわからなくなつてゐたらしいことも、此の點に於いて參考すべきであらう。或はまた、郡の「大領」を音で讀んでゐた如く、現實に存在した國造は、一般には音讀せられてゐたのであり、クニノミヤツコといふのは古典の上の訓みかたに過ぎなかつたかも知れぬ。
 トモノミヤツコ、クニノミヤツコ、といふ訓みかたの由來がかういふものであるとすれば、カバネとしての造がミヤツコとよまれるやうになつたのも、やはり之に件つてのことであらう。カバネとしての造は、天武朝に定められた八色のカバネには繼承せられず、公式には廢止せられたはずであるのに、奈良朝に於いてもなほ遺存してゐたらしく、それを稱してゐたものの名が續紀の處々に現はれてゐるのみならず、新にそれを賜はつた記事すら天平寶字二年、三年、寶龜十一年、などの諸條に見え、平安朝の初にできた姓氏録にも、僅かながら此のカバネの家が記されてゐる。(これは天武朝に定められた「八色之姓」が事實上、「混天下萬姓」ずるやうにならなかつたことを示すものであるのみならず、公式の規定が往々實行せられず、朝廷みづからも何時のまにかそれに背反する處置をするやうになつたことの一例でもある。)家も其のカバネの名も昔から繼續してゐたものならば、カバネの稱呼が變化するのは奇怪なやうであるが、日々人の口に上つてゐたはずの地名のスミノエが何時のまにかスミヨシと呼ばれるやうになつた如く、文字の上で行はれた轉訛がことばの上に適用せられてゆくのも常のことである。さうして、此の場合にもまたヤツコの原義が顧慮せられなかつたのであらう。
 話はひどくわき道へ入つたが、もとへもどつて再び官名のことを考へると、大化二年三月の條に見えてゐる朝集使(217)といふのも、また書紀の編者が後の名稱を適用したものではあるまいか。朝礼の官制もまだ立てられず、國司の名稱にも文字のきまりがなかつた此の時に、かういふ文字で書かれたかういふ一定の官職が存在したとは考へ難いこと、朝集といふ文字が此の年の二月の詔勅に「入京朝集者、且莫退散、聚侍於朝、」とある如く、民衆の上京をいふ場合にすら用ゐられてゐることなどから、さう推測せられるのである。此の名稱の用ゐてある此の條の詔勅によつて考へると、當時、新任の國司の治務を監察するために、特殊の使命を帶びたものが東國に派遣せられたらしいので、そのことが史料となつた記録に見えてゐたため、それをかう書いたまでであらう。朝集使といふ官名が此の場合に一度見えるのみで、他には全く現はれてゐないことも、また此の推測を助けるものである。詔勅のうちに此の官名が用ゐてはあるが、孝徳紀の詔勅が必しも原文のまゝでないことは、上に説いたところで十分に知られたはずである。現に此の詔勅の末尾には他の詔勅が混入してゐるらしいが、これもまたこのことの傍證となるであらう。「大赦天下」及び諸國の流人及び獄囚を放捨することも「宜罷官司處々屯田」云々以下も、東國朝集使に對するものとしては不似合であるから、これは別の場合の詔勅に違ひないが、大赦のは國司の罪を赦すといふことからの混入であらう。のみならず、「大赦天下」の次の「自今以下國司郡司」云々の一節も、文意が前後につゞかぬ。また流人獄囚を放つことの次に六人の名を擧げてそれを賞めてあるのも、如何なる意味に於いてのことかわからぬ。これらは此の詔勅に種々の混亂があることを示すものである。(最後に述べてある六人のことは、三月甲子の詔勅の「六人奉法」のそれのやうにも見えるが、そこに「二人違令」とあるのと此の詔勅に多數の違犯者が擧げてあるのとの間に、どういふ關係があるかわからないので、さうばかりも考へかねる。)なほ孝徳紀に於ける詔勅の混亂もしくは誤脱は、大化三年四月のにも見えるや(218)うであつて、これは終の方にゆくと意義が急に變つて來てゐる。文中の「習舊俗之民」とある「民」の字、また「及諸百姓將賜庸調」の「百姓」の字も、此の字のまゝでは意義が通じないから、書紀の編者の書きかへかたの誤らしい。だから、孝徳紀の詔勅の文字が原文に用ゐられてゐたものであるかどうかは、綿密なる批判を經てはじめて知り得られるのであつて、朝集使の稱呼の如きも其の例である。なほ二年八月の詔勅に「去年付於朝集之政」とある朝集は、朝集使といふ官名とは解せられず、參朝せし官吏といふほどの義であらう。此の去年の命令といふのは元年八月の東國の國司等に對する詔勅のことかとも思はれるが、明かでない。
 
       第五章 改新後の國造
 
 大化改新そのことには關係が薄いやうであるが、新制度を立てたものが如何なる形で舊慣を持續させようとしたかを知る一材料ともならうし、前章に國司郡司及び國造についての考察を試みた縁もあるから、こゝで改新以後、國造が如何に取扱はれまた如何に變化して行つたか、といふことを説いて置かうと思ふ。
 國造が大化の改新と共に無くなつてしまはなかつたことはいぶまでもない。氏族制度時代に國造と併び稱せられてゐた伴造の名は、孝徳紀の詔勅に見えるのを最後として、改新以後には公文の上にも史上の記載にも全く其の跡を絶つた(天智紀三年の條に「伴造等之氏上、賜干楯弓矢、」といふ記事があり、天武紀五年の條に「外國人欲進仕者、臣連伴造之子及國造之子、聽之、」といふ詔勅が載せてあるが、これらは家がらを示すために昔からの地位の稱呼を用ゐ(219)たまでであつて、當時の政務に關することでは無い。)しかし國造は後までも其の名は殘つてゐて、天武紀十二年や持統紀元年の條には國司と連記せられてゐる。聖徳太子に附會せられてはゐるが實は大化以後の作であらうと思はれる所謂憲法十七條に、伴造の文字が全く見えず、さうして國造が國司と併稱せられてゐるのは、之がためである。なほ持統紀六年の條には伊勢に行幸せられた時、伊賀伊勢志摩の國造に冠位を賜はつた記事もあり、それから後も國造の名は屡々史上に現はれる。しかし國造が如何なる状態で殘つてゐたかについては、明かでない點がある。近江令の郡司に關する規定に、大領少領は國造から選任せよとあつたらしく推考せられる、といふことは上に述べたが、こゝに國造とあるのは地方的豪族の代表としてであつて、必しも國造のカバネを有するもののみをいつたのではあるまい。此の規定は地方的豪族の舊來の地位を保持させる必要と、直接に民政を取扱ふ官司には、因襲的に民衆の敬重をうけまた民衆の實情に通じてゐる彼等を任用するのが便であつたのと、此の二つが重なる理由となつて設けられたのであらうし、また國造のカバネを有するものがすべての郡の長官に任用せられるほどに存在したとも思はれないから、かう解するに無理は無からう。現に天武紀元年の條に「高市郡大領高市縣主許梅」とあり、正倉院文書の正税帳にも、其の地方の豪族らしく考へられるものが郡の大領少領の地位にゐたことを示す例が少なくない。また伴造に屬してゐた地方的豪族が郡司に命ぜられてゐる實例も多く、第一篇に述べた筑前嶋郡の中臣部加比、正倉院文書の天平二十年の他田日奉部神護の解に見える下總海上郡の神護及び其の祖先などがそれであり、正税帳にも同じ例が少からず見えてゐる。なほ國造のカバネを有たないものが郡の長官になつてゐたことは、天武紀五年八月の條の「四方爲大解除、用物則國別國造輸祓柱馬一匹布一常、以外郡司、各刀一口、……」によつても知られるので、「以外」の二字のあるとこ(220)ろから考へると、これは郡司たる國造と國造ならぬ郡司とを列記したもののやうである。同じく天武紀十年七月の條に「令天下悉大解除、當此時、國造等各出祓柱奴婢一口而解除、」とあり、現存の神祇令に大祓について「國造出馬一匹」とあるのも、かういふところに由來があらうと思はれる。なほ延暦十七年の出雲國意宇郡大領に關する太政官符に「昔者國造郡領職員有別、……慶雲三年以來令國造帶郡領、」とあつて、これによると國造が郡領に任ぜられたのは慶雲以後のことのやうにも思はれるが、この官符の意義は一般の國造と郡領とに關してではなく、類聚三代格に見える同年十月の詔勅に參照して考へると、出雲意宇郡についての特殊の規定をいつたものらしい。
 ところで、こゝに問題の生ずるのは、續紀慶雲l二年十月の條に攝津國造凡河内忌寸石麻呂の名の記されてゐることからである。攝津國は大化の國郡制置の後でなければ無いはずのものであり、從つて此の國の國造は大化以來の新置と見なさねばならず、其の國造が凡河内を氏とするものであることも、またそれを證する。やゝ時代は後れるが、神護景雲元年十二月には、道島嶋足及び三山が陸奧國の大國造及び國造に任命せられてゐることも、此の意味に於いて參考せらるべきである。もしさうとすれば、大化以後の國造は、單に舊時の遺習としてその名稱と地位とを保持するにとゞまらず、何等かの職務を有するものであつたことが知られるのである。然らざれば故らに新置せられたはずが無い。またかゝる新置の國造があるとすれば、大化以後の史上に現はれる國造は、必しも舊時の國造の家の繼承せられたものとのみは解することができないことになり、從つてまた、舊時の國造の家がすべて此の如き名稱及び地位と職務とを有する國造として取扱はれたかどうかも、疑問となるのである。
 さて、續紀神龜元年十月の條に「名草郡大領外從八位紀直摩祖爲國造」と見え、天平元年三月に「以正八位上紀直(221)豐嶋爲紀伊國造」とあつて、紀直の家は大化以前から紀國造であつたはずであるにかゝはらず、特に國造に任命せられてゐる。出雲國造もまた昔から引續いてゐる家であるにかゝはらず、一々任命せられたらしく、延暦九年の條には現に其の記事があり、さうして出雲と紀伊との國造任命の儀禮は「儀式」にも載つてゐる。なほ延暦二年三月に「丹後國丹波郡人……丹波直眞養、任國造、」とあり、同年十二月に「阿波國人……粟凡直豐穗、飛騨國人……飛騨國造祖門、並任國造、」と見えるのも、或は之と同じであつて、丹波直、粟(阿波)凡直、飛騨國造は、昔からの國造の家のものであつたかも知れぬ。これらはかなり後の時代のことではあるが、かういふ例は前にもあつたことと思はれる。續紀には一々國造任命のことが載録せられてゐないのであらう。また天平十九年三月には「命婦……尾張宿禰小倉、……爲尾張國々造、」とあり、神護景雲元年十二月に「丈部直不破麻呂、……賜姓武藏宿禰、……爲武藏國造、」また二年二月には「漆部直伊波、賜姓相模宿禰、爲相模國造、」とあり、同年六月には「伊勢朝臣老人、掌膳常陸國筑波采女……壬生宿禰小家主、尚掃……美濃直玉虫、掌膳上野國佐位采女……上野佐位朝臣老刀自、並爲本國國造、」と見えてゐるが、武藏國造と相模國造とは、此の記事によると、新に任命せられたものであつて、古い國造の家ではないやうである。伊勢國造は氏が伊勢であるところから見ると、或は昔からの國造の家であるかも知れず、其の家のカバネも、もとは國造に例の多い直であつたらしい(老人は天平寶字八年九月の條によると、もと連のカバネであつたが、それは天平十九年十月の條に見えてゐて直から連になつた大津といふものと同じ家のものらしく思はれる)。また尾張宿禰及び壬生宿禰以下は何れも女官であるが、令の規定に於いて采女は郡の少領以下の女を貢することになつてゐるから、これらもまた或は國造の家の、もしくはそれに縁のある、ものとして推測し得られようか。美濃直の如きは、(222)其の氏とカバネとから見ても、もとからの美濃國造の家のものらしく考へられる。
 これらの記事によつて見ると、奈良朝に於いては國造は特に任命せらるべき地位であり、さうしてそれには昔からの國造の家のものと、然らざるものとがあつたやうである。さうして、それらがすべて國郡制置以後の國名を以て呼ばれてゐることを思ふと、當時の國造は一國ごとに一人であつたやうに推測せられる。上記の事例は何れも大化改新からはかなりに歳月を經た後のことであるが、かの攝津國造も、其の稱呼から推測すると、新に置かれた此の國の國造が一人だけであつたことを示すものであり、從つてまた、上に一言した持統紀の記事に伊賀伊勢志摩の國造とあるのも、同じ意義に解し得られるやうであるから、此の點に於いては、持統朝文武朝ころも奈良朝と同樣であつたと推測して、大過は無からう。(伊賀や志摩が當時獨立の一國であつたかどうかは、他の方面からそれを證すべき材料に乏しいが、此の記事によつてさう考へることができなくもなからう。伊賀は、書紀の壬申の亂の記事に伊賀郡とあり、また天武紀三年二月の條の倭の四近の國々を列擧してあるところに伊賀が見えないことを思ふと、其のころまでは一國でなかつたことが知られるが、持統朝には一國となつてゐたと見て支障が無い。)續紀天平五年六月の條に「多※[示偏+陸の旁+丸]島熊毛郡大領外從七位下安志託等十一人、賜多※[示偏+陸の旁+丸]後國造姓、」とあるが、多※[示偏+陸の旁+丸]島は大隅國に隷屬することになつた天長元年までは、國に准ずべき獨立の行政區であつたやうであるから、これもまた攝津國造の例と見なして差支が無い(ここに十一人云々とあることについては後にいはう)。上に述べた陸奧國に大國造と國造とが併置せられてゐるのは特例であり、大國造といふ稱呼も他の國については所見が無いやうであるが、これは多分、主なる國造と其の次官とでもいふべものとであつたらしく、從つてこれは却つて國造が國ごとに置かれたことの證となるものであらう。
(223) 但し 天平寶字元年閏八月の條には「上道朝臣斐太都、爲吉備國造、」とあつて、國としては当時に存在しない吉備の名を冠する國造のことが見えてゐる(雄略紀七年の條の「吉備下道臣前津屋」の注に「或本云、國造吉備臣山、」とあるが、これもまた書紀編纂のころに吉備國造の稱號を有つてゐるものがあつたことから假構せられたのであらうか)。また延暦四年正月の條には「海上國造他田日奉直徳刀自」の名が記されてゐる。萬葉二十の卷にも天平勝寶七年の日づけのある歌の作者に「海上國造他田日奉直得大里」があつて、得大里も徳刀自も上に述べた神護の子孫であらうと思はれるから、天平二十年には海上國造の稱があつたはずである。これらの記事によると、上記の推測は當らないやうである。此のうちで吉備のについては、延暦七年六月の條に「美作備前二國國造……和氣朝臣清麻呂」とあり、また日本後紀延暦十八年二月の條には、清麻呂が寶龜年間に配所から歸つた後に高祖父以來清麻呂までの五人が二國の國造とせられたとあることを、參考しなければならぬが、和銅六年に備前から分置せられた美作は勿論、早くとも持統朝になつてから一國とせられたはずの備前について、國造の地位が設けられてゐたとすれば、それは國造が大化以後の地方行政區としての國ごとに置かれたものであることを豫想しなければ、解し難い事實である。さうして吉備國造の名が記紀の吉備臣または上道臣下道臣などの系譜を記してあるところには、一度も規はれてゐないのを見ると、これもまた古くからの稱呼ではなく、大化以後、吉備が一國であつた時代に新置せられた國造であり、其の名が天平寶字のころまでも相承せられてゐたのであらう。また海上國造の名は古事記の神代の卷にも見えてゐて、其の稱呼は大化以前から存在したのであるが、上記の場合では其の地位にゐたものが他田日奉直といふ氏とカバネとを有つてゐるものであるのを見ると、其の家は昔からの國造ではなく、何時のころか何等かの特殊の事情で、かういふ歴史的の(224)稱號を復活し賜與せられたものと、解しなければなるまい。恐らくは、後にいふやうに、國造の地位が輕くなり、從つて其の制度が頽れて來たころのことであらう。上記の神護の解は彼の祖先が孝徳朝から郡領に任ぜられてゐたことを示すものではあるが、其の時から海上國造といつてゐたことを證するものではない。
 かう考へて來て、余は大化改新の後、舊來の國造(及び縣主などの地方的豪族)はなるべく郡司に任用して從前の生活と社會的地位とを保持し得られるやうにしたのであるが、何時のころからか國造の地位を一國一人に限ると共に、それに或る職務を帶ばせ、また其の地位を朝廷の任命によるものとし、昔からの國造の家が無い國には新にそれを置いて、何人かに其の世襲的地位を與へたのであらうと思ふ。其の時期は固より明かでないが、持統朝の状態が上記の如きものであつたとすれば、それは遲くとも天武朝であつたはずであるが、後に述べるやうな理由から、余はむしろ天智朝ではなかつたかと臆測する。さうして續紀大寶二年四月の條に「詔定諸國國造之氏」とあるのは、上記の如くにして國造の地位を保持し又は得た家を除いた、昔からの國造の家々に、それ/”\新しく氏の名を定めさせ、某の國造といつてゐた舊稱を廢罷させようとしたことを、いふのではあるまいか。上にも引いた如く多※[示偏+陸の旁+丸]後國造については、それを賜姓と書いてあること、また天平十四年四月の條に「賜……日下部直益人、伊豆國造伊豆直姓、」とあり、寶龜五年二月にも「因幡國八上郡員外少領……國造寶頭、賜姓因幡國造、」と見えてゐることを思ふと、國造が或る職掌を有する或る人の地位の名として考へることは、妥當でないやうでもあるが、或る人が國造に任命せられる慣例のあつたことは動かすべからざる事實であるから、これらの記事は、國造の地位が、氏族制度時代からの家は勿論、大化以後新に任命せられたものでも、世襲的であるがため、其の稱呼がおのづから家の地位、即ちカバネ、のやうにも取扱(225)はれて來たところから生じたものであり、習慣上、國造の稱號に二つの意義があるやうになつたことを示すものであらう。多※[示偏+陸の旁+丸]後國造の姓を賜はつたものが十一人あるといふのも之がためであつて、これは、其の家の一族をさしてゐるらしい。さて、法制上の地位を有し或る職掌を有する國造は、かういふやうにして世襲的に國造と呼ばれた家のものから任命せられるのが普通の例であつたと推測せられる。上に引いた飛騨國造に關する記事は、かう考へると、おのづから其の理由が解釋せられよう。武藏國造、相模國造などの例、又は伊豆國造の如きは、何等かの事情で前からの國造の家に其の地位を繼ぐものが無かつたからの特例らしい。因みに附記する。寶龜五年二月の記事の因幡國造になつた寶頭の上に冠してある「國造」は、カバネではなくして、例へば漆部とか日下部とかいふやうな、氏の名であり、正倉院文書の御野國肩縣郡の戸籍に國造とあるのと同じく、氏族制度時代に國造の部下に屬してゐた家であつたことを示すものであらう。和銅元年三月の條の「美濃國安八郡人國造千代」または寶龜二年正月及び二月の條の「國造淨成女」などの「國造」も之と同樣に解すべきものであつて、後者については、それが造の姓を賜はつたことからも、さう考へられねばならぬ。これらの場合に國造とあるのが、カバネとして見るべきものでなく、氏の名であることは、其の上に別に氏の名の記してないことからも明かであつて、戸籍に於いても氏の名、即ち多くはもとの部の名、の記さるべきところにそれが書いてある。だから、これは國造族とか國造人とかしてあるのと同じであらう(このことについては前章に述べた縣造についての考説、參照)。なほ附記する。淨成女は此の年十二月に因幡國造とせられたが、寶龜五年にも其の地位は持續せられたであらうと思はれるから、其の時、別に因幡國造となつた寶頭があるとすれば、此の場合では國造が一國に二人あつたことになる。これは後にいふやうに國造に關する制度がくづれてゐた(226)ためである。淨成女は采女である。
 かう説いて來ると、おのづから國造のカバネのことを考へねばならぬ。上記の事例から見ると、國造に任ぜられたものは忌寸、直、宿禰、朝臣など、それ/”\のカバネを有つてゐるのであるが、國造が特殊の職務を有する地位であつて、人ごとに朝廷から任命せられたものであるとすれば、それは、事實は世襲的であつても、法規の上では其の家に伴ふものではないのであるから、これは當然である。但し、大化以前に於いては、國造は縣主と同じく地方的豪族のカバネであつたはずであり、それは記紀に見える國造の家々の系譜にょつて知られる。ところが、山背國造、倭國造などの家は別に直のカバネを有つてゐたので、此の二家は天武天皇の十二年に連となり、十四年にまた忌寸となつた。葛城國造と葛城直と、また凡河内國造と凡河内直とも、同じ家であるらしく、さうしてこれらの家もまた山背、倭のと同じ時に、同じやうに、新しいカバネを賜はつたのであるが、葛城國造、凡河内國造の地位は氏族制度時代のものとしなければなるまい。葛城國造の名は古事記には見えず、書紀でも神武紀に一ところ見えるのみであるが、其の記事は國造の家の系譜から出たものらしく、さういふ家のあつたことは疑が無からう。さて天武天皇十二年にカバネを賜はつた多くの家のもとのカバネは、概して氏族制度時代からのものとすべきであらうから、山背、倭、葛城、凡河内などの直も其の例外ではあるまいが、もしさうとすれば、これらの家は直と國造との二つのカバネを有つてゐたことになり、そこに問題が生ずる。紀國造と紀直とについても、また同樣である。武内宿禰の母を古事記(孝元の卷)には木國造の女としてあるが、書紀(景行紀)には紀直の女とあり、さうして父の名も女の名も同じであることを注意すべきである。山背、倭、凡河内の國造の家が山背直、倭直、凡河内直の家であるといふことは 神代の卷及(227)び神武の卷に見える系譜について記紀を對照することによつて、知られるのであり、また倭のだけについては、神武紀の卷首と論功行賞の記事とを對照してもわかるのであるが、系譜を記してある場合には、書紀の方ではすべて直と書かれてゐ、國造と記してあるのは古事記のみであるから、直の家が國造となつたのは大化以後のことであつて、神武紀の論功行賞の記事は勿論のこと古事記の系譜に國造としてあるのも、大化以後の稱呼によつて書かれたものと考へれば考へ得られなくはないやうであるが、古事記についていふ限り、同じ場合の他の國造が大化以前の地位を示すものである例から見て、それは困難であらう。
 そこで、見かたをかへて昔からの山背、倭、凡河内の國造の家に直のカバネの與へられたのが大化以後であると考へられぬかといふに、天武天皇九年に忌部首が、また十年に舍人造、書直が、連のカバネを賜はつた事例などもあるから、強ちにそれを否定することもできないやうである。書紀の系譜に直としてあるのは、天武天皇十二年以前に書かれたものによつたのであるが、大化から此の年までの間に此のことがあつたとすれば支障は無い。もしさうとすれば紀國造、葛城國造の直も、また同樣に考へ得られよう。なほこれについて參考となるのは、續紀延暦十年九月の條に見える讃岐凡直千繼の上言であつて、それには「千繼等先星直、譯語田朝廷御世、繼國造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗拔大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、」とある。これによると、昔から讃岐國造であつた此の家は直のカバネを賜はつてゐたのであるが、その賜姓を敏達朝にかけて説いてゐることは、例へば姓氏録などにも見えるやうな斯ういふ家系の常として、信じ難いけれども、庚午年籍に直と書いてあつたことは事實と見なければなるまい。さうして、上に引いた記紀及び續紀の種々の記載によつても知られる如く、國造の家のカバネには直が(228)多いこと、新に任ぜられた伊豆國造が同時に直のカバネを賜はつてゐるのも此の習慣に從つたものらしいこと、また阿波國造の家が阿波凡直であるのがこゝに述べた讃岐のと全く同じであること、などから考へると、國造の家の多くは天智朝の庚午には既に直のカバネを有つてゐたとすべきもののやうである。ところが、これほど多くの國造の家が同じやうに直のカバネであるといふことは、それが一定の方針によつて朝廷から與へられたことを示すもののやうであり、さうして、さういふことは大化以後に於いて始めて行はれ得たであらうと思はれる。また、舊來の國造に新に直といふやうなカバネが與へられたとすれば、それには何かの理由があつたはずであるが、それは國造が政治的權力を失つたに伴つたことであらうと推測せられる。もしさうとすれば、國造に直のカバネの與へられたのは、大化から天智朝の庚午の年までの間であつたらう。さうして、このことは國造を一國一人としてそれに新しい職掌を與へたことと關係があるので、此の二つは相伴つて行はれたことではあるまいか。(安閑紀元年の條に伊甚國造稚子直といふものの話があるが、これは書紀編纂のころに國造が直のカバネを有つてゐることが一般の例であつたため、かう書かれたのであらう。)
 しかし、これについては、出雲國造のことをも考へねばならぬ。出雲國造にも臣のカバネがあつて、これが何時からのことか、やはり、明かでないが、神代紀の系譜を記してあるところに出雲臣が土師連と連記してあり、同じ條に凡河内直、山代直の名も見えることから考へると、それは土師氏が連であり、凡河内氏、山代氏、が直であつた時、即ち天武天皇十二年以前に書かれたものが材料になつてゐるらしいから、出雲氏の臣も上記の直と同樣に、大化から天智朝の庚午の年までの間に賜はつたものと、考へてよいやうである。崇神紀にも出雲臣と書いてあるが、これは書紀の(229)編者の筆であり、さうしてそれは出雲國造が後までも臣のカバネを稱してゐたからである。が、實はこゝに疑問がある。直は天武朝に制定せられた八色のカバネのうちに含まれてゐず、公式には廢せられたはずのものであり、それが後までも用ゐられたのは、新しいカバネの制が徹底的に實行せられなかつたためであるのに、臣は八色の一つとなつてゐてその地位は低いものであり、さうして舊來の臣の家は朝臣などの新しいカバネを賜はつてゐるから、出雲臣が後までも昔の意義での臣のカバネを其のまゝ用ゐてゐたと考へるには困難があるのである。もつとも天武朝の十三年、十四年などにカバネを賜はつた記事のある家々は主として中央の貴族及び畿内地方の豪族であつて、其の外の地方的豪族は僅かに二三を數ふるにに過ぎないのであるから、多くの國造や縣主などが皆それ/”\新しく定められたカバネを賜はつたには限らず、奈良朝に於いても現に國造の家で直と稱してゐるものが少なくなかつたのであり、出雲と共に特殊の地位を有つてゐた紀國造さへも依然として直であつたから、此の疑問は疑問とするに足りないかも知れず、從つて上記の推測を動かすほどのことではなからうか。倭、山背、凡河内、葛城などの家が忌寸になつたのは、倭及び畿内の豪族だからであつて、寧ろ特例と見なすべきであらう。(出雲國造神賀詞に、はじめには「出雲國造姓名」とあり、穗比命のことをいふ時にのみ「出雲臣等我遠祖」と書いてあるが、これも或は國造とのみある方は神賀詞の起草せられた最初の形であつて、臣とあるのは後の插入もしくは書きかへであるかも知れぬ。もしさうならば、これもまた此の家の臣のカバネが古いものでない一證となるであらうが、神賀詞のはじめて書かれた時代が不明であるから、これによつて臣と稱した時代を考へることもできかねる。)
 しかし、かう見るにも難點はある。上に述べたやうな理由で昔からの國造の家に新に直のカバネが與へられたとす(230)るならば、それはすべての國造を通じてのことと思はれるのに、出雲國造には臣の與へられたことが解し難いのである。が、これは出雲國造を特に尊重する意味に於いて、直よりは地位の高い臣のカバネが與へられたとすれば、解釋はできる。次には、かう見る場合に大寶二年に國造の氏を定めたといふ記事について上に述べた解釋が妥當でないことになる。氏を定めたことはカバネには關係が無いやうであるが、天智朝に舊來の國造が新しいカバネを得てゐたならば、大寶に至つて彼等がなほ國造といはれてゐるのが、怪しいのである(一國一人に限られ新しい職務を與へられた國造は別として)。が、多くの舊國造のうちには公式には用ゐられないはずの國造の稱號を依然として用ゐてゐたものがあつたかも知れぬから、これもまた難點とするに足りないことと思はれる。史上の記載のみから嚴密に推考することは、却つて實際の事情に背くものでもあらうか。或はまたカバネといふものが、もとは自然に呼び習はされた稱呼に過ぎないものであつたことから考へると、大化以前に於いても、地方的豪族の如きは直とも國造ともいつてゐたやうなことが無かつたとはいへず、さう見た方が寧ろ無難であるかも知れぬ。臣といひ君といひ直といひ國造といひ縣主といひ、同じく地方的豪族たる家々に何故にかゝる種々の稱號が生じ、家によつて或る稱號が一定のカバネとして認められるやうにたつたのか、それすらもわからないので、或は如何なる時にか朝廷で家々のカバネを一定したことがあつたと推測しなければならぬかも知れず、特に國造縣主に於いてさう思はれるが、もしさうとすれば、公式のカバネの外に通俗の稱呼があつたとしても、さしたる不合理ではないかも知れぬ。が、此の問題はともかくもとして、大化以後の何の時にか、國造が新しい意味での公の職掌と地位とを有するものとなり、國ごとに一人づつ置かれたことは、承認せらるべきであらう。
(231) 然らば其の職掌は何であるかといふに、續紀大寶二年二月の條に「爲班大幣、馳驛遣諸國々造入京、」とあるのを見ると、神社の祭祀に關するものであつたことが推測せられる。しかし、令の國守の職掌に祠社の一項があり、神龜二年七月の太政官符を始として類聚三代格に見える神社に關する幾多の事件が、常に國司についていつてあるのを見ると、國造の關預するところは、其の國内のすべての神社のではなく、何等かの特殊のものであつたことが知られる。さすれば、それは大化の後になつて一國に一社づゝ定められたらしく思はれる國魂の神社についてであつたらう。このことについては第一篇にも言及して置いたが、倭の國造が倭の大國魂神社の祭主であり、摂津の國造が凡河内氏であつて、神名帳によるとそこに河内國魂神社があり、また出雲國造の奉仕する杵築神宮の祭神オホクニヌシの神が顯國魂神と稱せられてゐるのは、それを證するものである。(神代紀にシタテルヒメの一名を稚國玉としてあるのは、それを顯國魂神の子としたからであり、また古事記の神代の卷にアメノワカヒコの父を天津國玉神としてあるのは、國魂の神の名にアメの美稱を冠したものであつて、共に國魂の神の作られた後の舊辭の潤色に於いて名づけられたものらしい。)山背の大國魂神も山背國造と關係があつたらうと推測せられるが、上に述べた上野國造も、佐位郡の人であるとすれば、同じ郡にある大國玉神社と由縁があるものと見て、まちがひは無からう。紀國造の祭つてゐた日前神社もまた紀伊の國魂の神とせられたのではあるまいか。地方的豪族と其の土地の神社との間には昔から密接の關係があり、豪族は其の神の祭主でもあつたらしいから、此の新制度は畢竟それを繼承したものであるが、政治的意味から一國に一つの國魂神社を定めたにつれて、其の神社の祭主に國造の稱號を保持せしめ、又は新しく與へたのであらう。國魂神社と定められたものは、多くは新しい行政區としての國の名に採用せられた名を有する土地の神社であり、從(232)つて同じ名を稱してゐる其の地の豪族が此の神の祭主となつたのであるが、其の家のカバネが國造である場合には、國造の名も其の祭神との關係も、共に氏族制度時代からの舊慣を繼承したことになるのである。倭國造の地位及びそれと倭の大國魂神社との關係の如きは、即ちそれである。國魂神社が何時定められたかはわからぬが、それは所謂官社の規定の設けられたのと同時であらうと想像せられ、さうしてそれは上記の國造の地位の變遷から推測すると、やはり天智朝であつたかも知れぬ。天武紀十年の條に「詔畿内及諸國、修理天社地社神宮、」とあるのは、必しも之に關係のあることとは解し難いが、各地の神社について朝廷から命令を發せられたところに、官社の設定と同じ精神のはたらいてゐることを注意すべきであり、此の朝には既に官社の規定があつたと見るべきであらう。(古事記の崇神の卷に「定奉天神地祇之社」とあり、書紀の同じ卷に「定天社國社及神地神戸」とあるのも、此の事實の反映である。)
 もつとも、延喜の神名式では、國魂神社の名の見えない國もあり、攝津尾張の如くそれが二ケ所にある國もあるし、また其の記載を上に引いた續紀の記事に對照すると、大國玉神社は多氣郡にあるのに、伊勢國造の本據は、皇太神宮儀式帳によると、桑名郡地方ではなかつたかと思はれ、常陸の大國玉神社は眞壁郡にあるのに、常陸國造は筑波郡のものらしいから、上記の臆測は當らないやうであり、少くともそこに疑點がある。が、延喜の神名式は、國魂神社が定められ新しい職務を帶びた國造が朝廷から任命せられるやうになつてから、長い年月を經た後のものであり、其の間には神社にも興廢盛衰があり、其の名稱にも種々の變化があつたに違ひない。祭神の名も種々に作られたので、それは延暦年間に記された皇太神宮儀式帳の度會郡の神社の祭神の名を見ても知られるが、神名式の伊豆などの部にも此の點に於いて特異な例が見える。さすれば、國魂神社についてもやはり種々の變化があつたとしなければならず、現(233)に山背のが水主神社十座の中に包括せられてゐるが如きは、山背大國魂命神といふ名にもふさはしからぬことであり、また他の國々の例にも合はぬのであるから、これはもとは獨立の神社であつたことと思はれる。淡路と阿波とに大和(倭)大國魂(玉)神社のあるのも、其の名稱から見て、古くからの國魂の神社であるかどうかが疑はれる。淡路のは仁壽元年に始めて官社に列せられてゐることをも注意すべきである。攝津の河内國魂神社も、之と同じ意味で、名稱が問題となるが、これは上に述べた如く國造の氏の名から來てゐることが明かであるから、淡路や阿波のにも、或はそれと同じやうな事情があつたかも知れぬ。さうして、攝津には河内國魂神社の外に別に生國咲國魂神社があるが、國魂の神を呼ぶに特に國造の氏の名を冠するといふのは、本來、異樣なことであるから、攝津の國魂の神は、もとは生國咲國魂といはれた方であつて、國造もそれに奉仕してゐたのを、何時からか河内氏が私に一つの神社を立て、舊來の縁故によつて其の祭神を國魂の神としたのが、河内國魂神社ではなからうかと臆測せられる。もとからの國魂の神も、本來は一座であつたのを、生と咲(幸)と二つの形容詞が國の語に加へられてゐたため二神に分化したので、それも國魂の神の定められた初からのことではないに違ひない。また、尾張の二社あるうちの中島郡の方は、仁壽三年に始めて官杜に列せられたものであり、かの常陸眞壁郡のも、承和四年に官社となつたのであるが、國魂の意義から考へても、また他の例から見ても、此の名の神社は始から官幣をうけてゐたらうと思はれるから、承和や仁壽のころまでさうでなかつたといふこれらの神社の祭神が國魂の神とせられたのは、新しいことであつたらしい。神社の祭神の名が新しく作られ或は變改せられるのは、常のことであり、神社間の勢力爭ひから神の名の本家爭ひが生ずるやうなためしもあることを、考へるがよい。かう説いて來ると、上に述べた疑點はさしたる疑點ではなくなるので、國魂(234)神社が一國一社であり、其の祭祀を掌るものは、やはり一國一人の國造であつたといふ臆測は、成立つやうである。特に國造が凡河内氏であつた攝津に河内圖魂神社といふ名のあるのは、國造と國魂神とは不可分の關係のあつたことを明示するものである。
 ところで、上に述べた如く、國魂神社の名が神名式に多く見えず、又は官社ならぬ神社に其の名を負ふものが生じたことは、一般的にいふと、法制上の現定、特に地方に關するそれが、規定どほりに實行せられなかつた場合があるのと、國魂神社の祭主たる國造の地位が重要でなく、或はそれに對する朝廷の取扱ひかたが變化し、舊家が漸次消滅したために、祭神の稱呼に混亂が生じたのとの、故であらうと思はれる。紀伊や出雲の國造に最も顯著な例のある如く、新しい意味の國造で郡領に任ぜられたものは、郡領としての權威と利益とを有することができるのであるが、然らずしてたゞ國魂神社の祭主としての地位のみを有するものは、さしたる權威も利益も無いので、彼等みづからも其の地位を重んじない場合が生じたのではあるまいか。上にも一言したことがあるやうに、出雲意宇郡について、慶雲三年以來、國造が郡領を兼ねることになつたといふのも、此の間の消息を語るものであつて、それは出雲國造の希望から出たことではあるまいか。(出雲國造は意宇郡の大領であつて、國造の本據であり杵築神宮のある出雲郡のそれではなかつたが、それが何故であるか、またそれは此の國造が郡領になつた初からのことであつたかどうか、問題である。上文に推考した如く、近江令に於いては郡の大領少領には國造を任ずることが規定せられてゐたらしく、さうしてそれが、もし郡司の置かれた最初からのことであつたとすれば、出雲國造も、近江朝もしくは其の前に於いて、既に郡司に任ぜられたことがあり、慶雲三年からといふのは意宇部についての話ではあるまいか。出雲國造神賀詞に「熊野(235)大神櫛御氣野命、國作坐志大穴持命二柱神、」云々といつてあるのは、郡領の地位を有する意宇郡の熊野の祭神と、昔から國造が祭主となつてゐた杵築の神とを列擧したのであるが、神賀詞の精神はホヒの命のことをいふところにあるので、オホナムチの命はそれと關係があるけれども、熊野大神には全く縁が無いから、此の神の名は慶雲三年以後になつて、前からあつた神賀詞に書き加へられたものらしい。熊野神社の神を、スサノヲの命のことと思はれる「伊射那岐乃日眞名子」とし、オホナムチの命の上に置いたのも、また國造が意宇郡の郡領となつた後のことではあるまいか。何故に意宇郡の郡領となつたかはわからぬが、これは或は、意宇郡に國府があつたらしいことと關係があるかもしれぬ。が、それはともかくもとして、この一例は國造の郡領に任ぜられるのが其の郷土の郡には限らなかつたといふことを示すものである。)さて、意宇郡の郡領については延暦十七年に國造と分離すべき命令が發せられたが、これは國造が神事に託して公務を怠るためであつたといふ。郡領に任ぜられた國造が他にもあり、さうしてそれらの國造が一面に於いて神社の祭主であつたとすれば、出雲國造についてのみ斯ういふことの史上に現はれてゐるのは何故であるか、問題であるが、臆測をするならば、これもまた、神社の祭主としての國造の地位が漸次輕んぜられて來たと共に、他方では社會状態の變化に伴つて、國造の郡領に任ぜられるものも少なくなり、出雲國造の如き弊害のあるものが他には無かつたからではあるまいか。(筑前宗像郡の大領も、從來、宗像神社の神主である宗像朝臣が任ぜられてゐたのを、延暦十九年に兼帶が禁ぜられた。宗像朝臣は國造と稱してゐたやうには見えぬが、其の家は地方的豪族であつた昔の胸方君の後である。さうして、宗像郡が郡司の任命について意宇郡と同樣に取扱はれてゐたことは、續紀文武天皇二年三月の詔勅にも見えてゐる。また、養老七年十二月の詔勅によると、香取鹿嶋名草の三郡にも郡司の任命に關(236)する特例が設けられてゐたので、類聚三代格に見える弘仁五年三月の官符に神郡國造とあるのは、これらを指すものらしい。これらは郡司の方のことであつて、國造を主としての取扱ひかたではないが、由緒のある大社に關係のある郡に或る特例があつたことは、これでもわかる。しかし、神主と郡領との兼任の禁ぜられたのは一般的のことではないやうである。)
 なほ、特殊のものを除いては、國造にさしたる權威の無かつたことが、種々の方面から推測せられる。第一に、國造の地位にあるものが中央及び地方の官吏となつてゐることであつて、昔からの國造の家のものでは大和國造五百足及び其の子の長岡が種々の官に歴任してゐるし、伊勢國造老人がもし古い國造の家であつたならば、これも同樣である。また新しく任ぜられたものでは、上に記した武藏國造不破麻呂、相模國造伊波が言うである。陸奧大國造の嶋足、美作備前の國造になつた和氣清麻呂に至つては、國造の名を與へられたことは特殊の事情はあるが、何れも高官に上つてゐる。これらは國造が國造としての地位に甘んじてゐられなかつたこと、もしくは國造が、幾らかの功名心のあるものには、甘んじてゐられない地位であつたことを、示すものであらう。(以上の事實は續紀神護景雲元年十月、二年七月、三年六月、寶龜元年八月、五年三月、四月、延暦二年正月、七年六月、後紀延暦十八年二月、などの諸條に見えてゐる。)次には、上に記した如く采女などが國造に任命せられたことである。これは、啻に婦人がかゝる地位を得たといふのみならず、官女として勤仕しながら國造とせられたのであるから、國造といふものが單なる地位の名であつて、それが職務に服しなくてもよかつたことを、示すものである。國造となつたこれらの官女は、本來、國造の家のもの、もしくはそれと何等かの由縁があつたものかとも思はれるが、今の問題としては、官女たる婦人が國造に(237)任ぜられたことに意味があるのである。國造の地位に何等かの榮譽もしくは利益があればこそ、寵遇せられた宮女がかういふ取扱をうけたのであらうが、其の榮譽と利益とはさしたるものではなかつたのであらう。臆測するに、それは、多分國造に賜はるべき神社の幣帛を與へられるほどのことではなかつたらうか。(采女の縁によつて其の一族がカバネを高められた例が天平十四年四月の條にも見える。采女もしくはそれを出した家は、種々の恩典に浴したらしい。)なほ、和氣清麻呂の場合の如く、既に世を去つた高祖父までが新に國造とせられたのも、國造が現實の地位として重きをなすものではなくなつたためであらう。これは或は、贈官と同じ意義に解すべきことかも知らぬが、國造は世襲的地位のものであるから、そこに違ひがなくてはならぬ。さうして以上列擧したやうなことの行はれたのは、國造を置きまた郡司に國造を登用するやうにした當初の精神が廢れたことを、示すものといはねばならぬ。さすれば、上にも言及した讃岐凡直が、國造の家であるにかゝはらず、國造と稱せず、新に賜姓を請ふについて讃岐公を求めたのも、當時國造の名が尊重せられなかつたためではあるまいか。
 ところで、神護景雲三年三月の條には陸奧大國造道島嶋足が國内の民について賜姓のことを奏請した記事があるが、かゝることが一般國造の權内にあつたとは思はれぬから、これは、此のころになると、國造といぶものが人と場合とによつては越權の處置をもするやうになつたことを、語るものである。もつとも、大國造といふものが特殊の地位であり、それの置かれたのは特殊の事情があつたからであらうから、これは例外としても、美作備前の國造たる和氣清麻呂が、延暦七年六月に、郡の分割新造のことを奏請してゐるのは、明かに行政事務に容喙したものであつて、それは國司の權限を犯したものといはねばならぬ(天平神護二年五月の條に見える備前美作兩國守の解、參照)。さうし(238)て、其の奏請が許されたのは、當時の地方行政の紀綱が失はれてゐたことを證すると共に、國造の制度の頽廢をも示すものである。かういふ例は稀有のことではあらうが、一方で國造の地位が輕んぜられたと共に、或はむしろそれがために、かゝることをするものも生じたのである。海上國造といふやうな稱號が用ゐられたのも、一國に二人の國造があるやうな場合のできたのも、又は國魂神社に種々の混亂が起つたのも、また同じところに由來があらう。
 國造に關する上記の考察は、机上で立案せられた制度が如何なる状態に於いて實行せられたか、また時勢の推移と共にそれが如何に壞頽していつたかを示す一例ともなるであらう。さて、横みちに入りこんで久しく滯留してゐたから、次に本すぢに立ち還つて大化改新の一要項であつた班田のことを考へて見よう。改新の當局者は如何なる意味でそれを立案したのであるか、それは果して民衆の實生活から要求せられたことであるか、それはまた立案者の意圖の如く實行せられ、其の期待の如き效果を收め得たのであるか。
 
     第六章 班田
 
 大化二年正月の改新の詔勅の「其三」に「初造戸籍計帳班田收授之法」とある。此の文字には書紀の編者によつて書き改められたところがあるかも知れぬが、其のことがらは當時の記録から出てゐるのであらう。ところが、此の班田の制が如何なるものでありまた如何にして施行せられたかといふことについては、史上に殆ど其の記載が無く、たゞ此の年八月の詔勅に「凡給田者、其百姓家、近接於田、必先於近、」とあり、また白雉三年正月の條に「自正月至是(239)月、班田既訖、」といふ記事が見えるのみである。後者については正月の條にかう書いてあることと、班田の施行にはかなりの時日を要したはずであることとから考へて、此の記事には何等かの誤脱があらうといふことは、既に從來の學者によつて説かれてゐるのであるが、之と似た筆法で、四月の條に「是月造戸籍」と記してあるのも、頗る解し難いものであり、兩者を互に參照して見ると、これらの記事そのものが果して確かな史料から出てゐるかどうかを、根本的に問題としなければならぬかも知れぬ。戸籍の方のは、もしそれが戸籍を造ることを命令したといふ意義ならば、大化二年の詔勅と重複するし、またもし實際に造り訖つたといふ意義ならば、班田の訖つたことよりも後に記されてゐるのが怪しい。班田の施行には先づ戸籍が無ければなるまいからである。が、それは何れにしても、大化改新の重要事項として班田の制が立てられ、其の施行が企畫せられたことには、疑が無からう。しかし、其の班田の制が如何なるものであつたかは、明かでない。世間では、何となしに、大寶令の規定が即ち大化のそれである如く考へられてあるやうでもあるが、さう見てよいかどうかは、問題である。一般の制度はいふまでもなく、上にも述べた如く租庸調の法すら、大化から大寶令の制定までの間に種々の變遷があつたからである。班田については、上に引いた二年八月の詔勅の規定が、文字は違ひながら、大寶令にも見えてゐるが、それだけで班田制の全體が同じであることを推測するわけにはゆかぬ。かの班田の記事のある白雉三年は大化二年から六年の後に當るから、それは大寶令の「六年一班」の規定に合ふものとして解し得られるやうでもあるが、大化二年に於いて最初の班田が實施を終へたとは想像し難いから、この考は、勿論成立つまい。寧ろ「六年一班」の思想によつて此の記事が作られたのではないかとさへ、疑へば疑ひ得られよう。班田の制は民衆の生活の根本となるものであるだけに、實行に當つて種々の支障が生じ、(240)豫期せざる困難にもあはなければならなかつたに違ひなく、從つてさういふ經驗が制度の變改を促し、幾度かのかゝる變改を經て大寶令の規定となつたと想像するのが、寧ろ合理的ではあるまいか。後のことではあるが、續紀神龜六年三月の條に「班口分田、依命收授、於事不便、請悉收更班、」といふ太政官の奏請と、それが裁可せられたこととが、見えることをも、參考すべきである。此の變改は班田制にとつては極めて重大事であるにかゝはらず、さうすべき必要があつたとすれば、それは實際に於いて班田の收授に幾多の困難が伴つてゐたことを示すものである。さて、班田の制そのものが明かでないとすれば、改新の當事者が何故にかゝる制度を行はうとしたかも、また明かに推測し難いので、大化改新の精神がどこにあつたかを考へるについては、これは大なる支障である。しかし、班田といふからには、田を國有として其の私有を禁じ、何等かの規定によつて一定の田を或る期間を限り民衆に班授する制度であつたといふことだけは、疑があるまい。そこで、これだけの意義に於いてのかゝる制度を行ふことが、如何なる實際上の必要から來たのであるか、或はむしろ、さういふ必要があつたかどうか、それを問題とすることはできるはずである。大化改新の主なる目的が、諸家の私有地民を没收して、それを國家に統一することであつたとするならば、それと班田の制を行ふこととの間に如何なる關係があつたのであるか、班田の制はいふまでもなく唐の均田法に模範があつたに違ひないが、かゝる特殊の制度を行はうとした當局者の意圖は何の點にあつたのであるか、それもまた考へ得られるはずである。
 ところで、これらの問題を考へるについては、大化以前の土地所有の状態を知ることが必要であるが、上にも一言して置いた如く、それが明かでない。孝徳紀に見える大化元年九月の詔勅に土地兼併のことが説いてはあるが、此の(241)詔勅は書紀の編者の造作したものであつて、當時のものではなからう。といふことは『日本古典の研究』第四篇に説いたとほりであり、文體がほゞ純粹の漢文となつてゐて當時の詔勅とは趣を異にしてゐること、易の益の卦の彖傳の語を引いて、それに「節以制度、不傷財害民、」といふやうな抽象的な言を附加してあることなども、またそれを證するものである。たゞ、編者がかういふことを書いたについては、書紀編纂時代の實際の状態が材料となつた點もあるらしく、「割國縣山海林野池田、以爲己財、爭戰不已、」といひ「有勢者、分割水陸、以爲私地、賣與百姓、年索其價、」といふが如きは、例へば文武紀慶雲三年、元明紀和銅四年などの條に載せてある詔勅に、王公諸臣豪強の家が多く山野を占めて百姓を苦しめてゐることのいつてあるのと、對照して考ふべきものであり、畢竟、さういふ事實の反映である。慶雲の詔勅には「不事耕種」とあるが、和銅のには開墾のことも見えてゐるから、山野を占領すると共に恣に墾田を行つてゐたものもあつたことが、推測せられる。山野を占領する一半の目的は開墾の權利を保有することにあつたのであらうし、開墾の後は農民に貸與して小作料を徴したのであらう。これは主として中央の貴族のことであるが、彼等がさうであるとすれば、地方の豪族にも同樣のもののあつたことが想像せられ、また貴族が斯ういふことをするには、地方の豪族と結托しなければならなかつたのであらう。昔の伴造の家は、大化の後になつても、其の舊領土の豪族に對する歴史的因縁によつて、地方に勢力を有つてゐたらしいといふことは、「日本古典の研究」第七篇及びこの書の第一篇にも説いて置いたが、地方的豪族もまた、此の如き權家を背景とすることによつて、種々の私利を貪り得たのであらう。地方的豪族に富裕なもののあつたことは、持統紀三年の條に下毛野朝臣子麿が奴婢六百口を有つてゐたことが記されてゐるのでも知られる。これは或は特殊の例でもあらうが、大化以後に於いても、地方に一種の富民(242)があつたことは明かであつて、續紀に累見疊出するカバネを賜はつた地方人は、かういふ富裕者であり、從つて郷黨に勢威を有つてゐたものであらう。墾田が法令によつて奨勵せられるやうになつてからも、事實上さういふことのできる力のあるものは、所謂百姓に在つては、かゝる富裕者であつたに違ひなく、さうしてそれが益々彼等を富裕ならしめたであらう。
 ところが、かういふ事實は間接に大化以前の状態を推測する材料となるものである。といふのは、かゝる富裕者は班田制の布かれた大化以後の新しい制度の下に始めて生じたものとは考へられず、概していふと改新以前の豪族富裕者の繼續せられたものと見なければならぬからである。法制の上に於いても、國造縣主及び伴造の部下の地方的豪族などは、郡の大領小領に任ぜられることになつたが、それは、上に述べた如く、一つは彼等をして其の地位と富とを維持させようとするところに、立法の精神があつたらしい。現存の田令によると、郡の大領小領の職分田が大國の守介よりも遙かに多いが、これも多分、同じ理由からであつて、近江令から繼承せられた規定ではあるまいか。天平十五年五月の墾田に關する規定に、郡司のみが一般の例とは違つて、多くの墾田を有し得るやうにしてあるのも、此の精神の繼續せられたものであらう。郡司は一般官吏とは種々の點に於いて異なつた取扱を受けてゐたので、當時の官僚制度に於いて特殊の地位を有するものであつたが、それは土着の豪族が任用せられる規定であつたからであり、さうして、さういふ規定の作られたのは、改新の際に於いて、さうしなければならぬ事情があつたからである。中央の貴族についても地方の豪族についても、できるだけ彼等の地位と利益とを損せずして制度の改革を行はうとするのが、改新の當局者の用意であつたからである。けれども事實に於いては、新しい法制上の地位は舊來の富を維持するには足らな(243)かつた。そこで、種々の不正と違法とが斯ういふ豪族によつて行はれるやうになつたのであるが、大化二年三月の詔勅に見えるやうに、改新の令の發せられた後まもなく、國造が賄賂を新任の國司に贈つて何等かの利益を得ようとしたのも、之がためである。安閑紀に大河内直味張が六町の田を賄賂として大伴大連に贈つたといふ話の作つてあるのも、書紀編纂時代に於ける地方的豪族の行爲の反映であらう。續紀に見える和銅五年五月の詔勅及び太政官の奏上、神龜四年四月の詔勅などを讀めば、郡司が非違を犯して私利を貪り、又は彼等の間に請託が公行して、それによつて百姓が凌虐せられ、また彼等が中央の貴族に阿附して、それによつて何等かの利益を得てゐたことが、覗ひ知られるし、和銅五年四月、天平十四年五月などの詔勅を見れば、郡司の任命が愼重公正でなかつたことが、推測せられるが、これはみな郡司の地位に在る豪族が私利を貪り得たこと、またそれがために豪族が郡司の地位を競望したことを、示すものである。かういふ状態であつたから、班田についても彼等の私曲が多く行はれたに違ひない。さうしてこれには、地位あるものがそれにょつて私曲を行ひがちである一般的傾向、人の慾の飽くこと無き増進、文化の發達と共に生活程度の高められて行くことから來る刺戟など、さういふ種々の事情がはたらいてゐたことは、いふまでもないが、其の歴史的由來は、彼等が大化以前からの豪族たる地位を相承したところにある。これは主として郡の大領小領などになり得る豪族についてのことであるが、これから類推すると、それほどの地位でない富裕農民のあつたこともまた、概していふと、昔からの状態が維持せられたものであらう。
 こゝまで考へて來て、大化以前の貴族豪族が地民を領有してゐた状態を回顧して見る。中央の貴族、即ち伴造、にしても、地方の豪族、即ち國造縣主または臣とか君とかいふカバネを有するもの、にしても、彼等が、租税を徴收しま(244)た使役するものとして、其の配下に一定の民衆を有つてゐたことは明かであつて、それは此の民衆が彼等の「部」といはれてゐたことによつても知られる。「部」は人についていふ稱呼だからである。此の意味に於いて、伴造國造等は民衆の政治的君主であつた。勿論、民衆は一定の土地の上に村落的生活をなすものであるから、民衆の君主は即ち其の村落の君主であり、從つてまた土地を領有するものであるのが、普通の状態であることは、いふまでもなからう。これは皇室及び皇族の所領に於いても同樣であるので、大化二年八月の詔勅に天皇諸王臣連伴造國造の「品部」を全く一樣に取扱つてあるのでも、それは知られるし、子代名代の民が部と稱せられ、それに屯倉が伴つてゐたことからも、明かである。屯倉(ミヤケ)といふ稱呼は、普通の意義では、皇室及び皇族が政治的意義に於いて領有せられる民衆と土地とを管治するところをいふのであつて、それは任那の官府がミヤケと稱せられてゐたことからも推知せられる。屯倉の文字の用ゐられたのは、かゝる領民に對する行政事務が主として租税の徴收にあつたからである。ところで、かういふ皇室以下諸家の部民の耕作する田は、民衆自身の所有であつたかどうかが、問題であるが、上に述べた如く大化以後の豪族が改新以前からの地位を相承したものであるとすれば、さういふ昔の豪族は即ち地主ともいふべきものであつたのではあるまいか。農業生活をなすものの間に貧富の懸隔があつたとすれば、それは田を有することの多寡、またはそれを有すると有せざるとの區別、に本づくものであつた、と考へねばならぬからである。さすれば、所謂國造縣主などと稱せられたものは、即ち地主の最も大なるものであつた、と推測してもよくはなからうか。彼等が此の如き地位を得たのは、大地主であつて經濟的勢力を有つてゐたからであらうと思はれる。といふよりも、大地主にかういふ地位と稱呼とが與へられたのである、といつた方がよいかも知れぬ。戰爭の無い平和の社會に於いては、(245)權力は經濟的優越者に屬するのが自然である。さうしてまた、此の如き地位を有することによつて、小農に對する兼併や新田の開墾などもなし易く、彼等の所有田は益々大きくなつて來たことと想像せられる。(彼等がかゝる大地主となつた由來は遠く、それには種々の事情があらうと思はれるが、それはおのづから別の問題である。) 大化以後に於いて地方的豪族が種々の方法によつて山野を占領しまた墾田を有するやうになつたのは、班田制が布かれて、法制上、すべての田が國有とせられたために、形を變へて此の状態を繼續しようとしたからのことであり、國有田以外のところに於いて地主となつたのである。逆にいへば、大化以後のかういふ状態によつて、改新以前の豪族が地主であつたことを推測し得るのでもある。
 もしかう考へ得られるとすれば、國造縣主などの部下の一般農民は、一面では、政治的意義に於ける彼等の領民であると共に、他面では彼等が地主として有する田を耕作するものでもあつたので、彼等に納める租税はむしろ小作料の性質を多分に帶びたものではなかつたらうか。(小作料といつても現代の意義に於いてのでないことは勿論であるが、他に適當の語が見出せないから、しばらく此の語を用ゐて置く。)田を貸して小作料を徴することは令にも見えてゐるが、これは決して新しい方法ではなく、古くからあつた習慣と見なければなるまい。また法令に於いて、小作料と見なすべきものにも租といふ文字が用ゐてあるのは、所謂租税と小作料との間に區別が無く、國語に於いてもやはりさうであつたことを示すものらしい。大化以前に於いて地方的豪族の配下の農民が其の領主たる豪族に租を納めて田を耕したことを、それらと同一視することはできないにしても、さういふ性質が含まれてゐたものとするのは、これらの事實から見ても許容せられるのではあるまいか。さてこゝに地主といつたのは耕作地、即ち田、についてのことであ(246)るが、實は、其の配下に屬する民衆の生活する土地全體が彼等の所有であつた、といつてもよいのであらう。租税の主體であり經濟的價値を有するものは、田のみであつたので、大化以後に於いても、此の點では、山林原野が殆ど問題外に置かれたらしいことを思ふと、田を有することがおのづから土地の全體を有することでもあつたらう。なほ此のことについては、次のやうな事情をも考ふべきである。山林原野は農民の私有財産ではなかつたらうが、もとより共有財産ではなかつた。それは概ね民衆が個々に利用し得るものであり、河川などが何人の所有でもないと共に何人にも利用せられたのと、ほゞ同じであつたらう。しかし、山林原野は開墾して耕地となし得べき可能性を有するものであつて、其の意味で經濟的價値を有する。だからそれは何人かの管理に屬してゐたであらう。さうしてそれを管理するものは國造などの地位にゐる領主であつたらう。勿論、これとても今日の考へかたで嚴密に解すべきことではないが、大體かう推測せられる。さすれば、政治的意義に於ける土地の領有と、大地主として田を有することとの間には、今日考へるが如き明確な區別があつたのではなからう。もつとも、地方により土地の状況によつて、かういふ關係も一樣ではなかつたに違ひなく、また場合によつては、國造縣主の配下に屬しながら地主として田を有つてゐたものもあり、自家の耕地を有する小農もあつたらうと想像せられる。一方では兼併が行はれると共に、他方では田の開墾占有の自然的状態が或る程度に維持せられてゐた場合があつたらう、と思はれるからである。だから、土地を有することに政治的意義に於いて其の地の民衆を領有することが伴ふ場合と、單に地主として田を有するのみである場合との間には、其の土地の大小廣狹におのづからなる差異があつたのみならず、其の權威の性質にも區別があつたに違ひない。中央の貴族は、概していふと、地方の豪族とは趣を異にしてゐるが、其の部下には、地方に住して地方人を管治してゐた豪(247)族があつたはずである。伴造の部の名を氏としながらカバネを有する地方人は、伴造の部民中の有力者、首領だつたものであらう、といふことを第一篇に述べて置いたが、それは即ちこのことをいつたので、かういふ豪族が國造縣主などと共に改新以後郡司に任ぜられたのである。かゝる豪族の由來は種々であらうが、それはともかくも、伴造に屬してゐながら、部民に對しては、やはり地主としての地位を有つてゐたのではあるまいか。伴造に屬しない國造縣主などの豪族の状態から、かう類推せられる。同じく第一篇に説いて置いた如く、伴造等が地方に領民を有するやうになつた事情の一つとして、地方的豪族を服屬させたことがあつたとすれば、此の場合に於いては、なほさらこの推測があてはまるので、一般部民は、田の耕作については、さういふ豪族に對する從來の關係を繼續したのであらう。もしさうとすれば、中央の貴族は政治的君主として其の部民に臨んでゐたのであるが、部民の耕作地は、彼等とかゝる君主との中間に介在する、豪族の有であつた場合が少なくなかつたらしく、推測せられる。皇室の直轄地や皇族の領地についても、之と同樣なことが考へられよう。要するに、一般農民には自己の耕作すべき田を有せざるものが多く、田の多くは地方的豪族の所有ではなかつたらうか。もしさうとすれば、彼等は其の生活に於いて地主たる豪族に依屬しなければならぬことが多かつたに違ひなく、耕作すべき田の與奪についても豪族の權威が強く、それによつて其の田が自己の所有でないことを覺知してゐたのであらう。例へば農民が租税を納め得なかつた場合などには、土地が領主に没收せられ民はヤツコなどにせられたのではあるまいか。勿論、彼等一般農民は決して豪族の奴隷でもなく、また農奴と稱せらるべきものでもなく、自由の民ではあつたので、此の點について誤解をしてはならぬが、このことは別に後に述べよう。
(248) なほこゝに一言すべきは、皇室皇族及び中央の貴族にも、また單なる地主としての所有田があつたらうといふことである。安閑紀に、三島竹村屯倉の田部は河内縣の部曲、即ち此の縣の領主たる大河内直の部下の農民、であつたといふので、其の起源を説いた物語があるが、此の物語が事實ではなくして、書紀の編者の造作したものであるといふことは、この書の第一篇に説いて置いた。しかし、三島に屯倉があり、大河内直の部下の農民が其の田部となつて此の屯倉の田を耕作してゐた、といふことだけは、其の地方にいひ傳へられてゐた昔の事實であり、書紀の編者はそれによつて安閑紀に記されてゐるやうな起源説話を作つたものと、推測せられる。書紀に例の多い種々の起源説話の一般の性質から見て、かう考へるのが妥當である。多分、昔の河内縣の地域には「田部」を氏の名としてゐる農民が、書記編纂のころに、存在してゐたのであらう。此の田部が如何なる條件で屯倉所屬の田を耕作してゐたかは知り難く、钁丁として徴發せられたもののやうに語つてある説話は、それが説話である限り、必しも事實を傳へたものとしては信ぜられず、よしそれを信ずるにしても、彼等が何等の報酬なしに使役せられたものであるかどうかは明かでないが、此の田が皇室の所有であつて、それを何等かの方法によつて、これらの農民に耕作させてあつたことだけは事實であらう。いひかへると田部たるこれらの農民は、彼等自身の有する田を耕作して其の租税を皇室に納めたのではなく、皇室の有せられる田を耕作したのであり、田についていふと、其の地主が皇室なのであり、皇室には地主として有せられる田があつたのである。此の場合の屯倉は、皇室が地主として有せられる田の耕作を管理するところであつて、上に述べた普通の例とは少しく趣がちがふが、屯倉の文字は此の場合の方が一層適切である。なほ附記する。普通の意義での屯倉に屬する農民、即ち皇室直轉地の住民、更にいひかへると天皇所有の品部の民、が如何に呼ばれてゐた(249)かは明かでないが、それは或は、ミヤケの民またはそれと同じ意義に於いてオホヤケの民といはれ、一般に某の民と呼ばれた家々の部民が某部ともいはれるやうになつたに伴つて、それがまたミヤケ部もしくはオホヤケ部とも呼ばれたのではないかと思はれる。(オホもミもヤケの敬稱である。「オホヤケの民」は國家民の義である後の「公民」の稱呼とは關係が無い。)正倉院文書の筑前國の戸籍に大家部といふ部名を氏の名にしてゐるものがあるが、それが即ち此の意義でのオホヤケ部であつて、反正紀推古紀天智紀天武紀などに見える大宅臣は、或はそれを管理する家ではなかつたらうか。もつともオホヤケ部は各地方に散在してゐたであらうから、それを管理する家も一つのみではなかつたかも知れぬ。姓氏録には大家臣または大宅首と稱する家が幾つもあるが、それらがみな大化以前からかういはれてゐたものであるかどうかは疑はしいから、さういふ記載を根據として考へるわけにはゆかぬけれども、部の存在の状態から斯う推測せられる。ミヤケ部といふ稱呼のあつた明證は余はまだ發見しないが、オホヤケ部の名があつたならば、それもまたあつたらしく思はれる。もしさうならば、ミヤケの事務を處埋する職務を有つてゐたはずの屯倉首といふやうな家は、ミヤケ部の管治者としても解し得られよう。しかし、古事記の景行の卷に田部の定められたことが記してあり、景行紀にも、五十七年の條に「令諸國興田部屯倉」と記してあつて、其の書きかたから考へると、これは皇室直轄民が一般に田部と稱せられてゐたので、そこからかういふ記事が作られたことを示すもののやうでもある。欽明紀三十年敏達紀三年などの説話に見える屯倉及び田部は、如何やうにも解釋せられるが、欽明紀十七年の記事のは皇室直轄地と其の住民との義として見る方が適切のやうである。もしさうならば、屯倉に兩義があつたと同じく、またそれに伴つて、田部にも二つの場合があつたのかも知れぬ。さうして全體から見ると、皇室直轄民はミヤケ部オホ(250)ヤケ部とも田部ともいはれたのではあるまいか。(姓氏録に大生部といふ氏の名が見え、神名式にも部名から出た地名らしく思はれる大生部の名が但馬の國にあるが、オホフ部は即ちミブ部ではなからうか。ミヤケがオホヤケともいはれたといふ臆説の傍證として附記して置く。)
 さて、皇室に地主として有せられるかういふ性質の田があつたとすれば、皇族及び貴族に於いてもまたそれがあつたことを類推しても差支があるまい。皇族や貴族から寺院に田が寄進せられたのも、かゝる意義の所有地があつたことを示すもののやうである。後に位田職田などの制が定められたのは、やはり唐に模範があつたからには違ひないが、諸家が從來田を有つてゐたことも、また考慮せられたであらうか。さうして、これらの田は、或は自家の奴婢などの手によつて、或は小作料を徴收して農民に貸與することによつて、耕作せられたのであらうと想像せられるが、後の位田職田などもやはり同じであつたらう。皇族及び貴族が政治的意義に於いてそれ/”\私有地民を領有する傍には、かういふ習慣もあつたと考へられる。皇族及び貴族が、後になつて、山野を占領し墾田を有するやうになつたのは、上に地方的豪族について説いたと同じ理由から、舊來領有した土地民衆の代りとして與へられる法制上の位田職田や食封だけでは、其の地位に應ずる、或は日々に程度が高まつてゆく、生活を維持することができないためでもあり、權勢あるものは其の權勢を利用して限りなき慾望を充さんとするのが普通の人情だからでもあるが、土地を有することについては、かういふ歴史的由來もあつたのである。さうして、それが國有田以外の土地について行はれたのは、班田制が布かれて、法制上、田がすべて國有となつたからのことである。
 以上の者説は多く推測によつて成立つてゐるのであるが、しかし間接ながら文獻上の記載は根據を有つてゐるので、(251)漠然たる臆測ではない。直接の史料の無い時代のことであるから、これもまた已むを得ない方法である。さて、此の考がもし大過なきものであるならば、大化の改新に於いて班田の制を行はうとした理由は、ほゞ理解し得られるやうである。改新の第一目的は、皇室皇族及び伴造國造諸家の政治的意義に於ける土地民衆の領有を齊しく廢し、それを盡く國家に統一することにあつたのであるが、國造縣主などは大地主の性質を有するものでもあつたため、彼等の領土を國家に收めることは、おのづから地主としての彼等の所有田を没收することにもなるので、此の二つの意味のことが、事實に於いては分離して考へ得られず、また皇族伴造などにも地主としての所有田があるので、それは上記の領土とは性質は違ふけれども、領土の收公を徹底的に行はうとすれば、これをも放置しがたく思はれ、そこで諸家の政治的領土の收公が一轉して、或は一歩を進めて、すべての田を國有とすることになつたものと推測せられる。皇族や伴造の政治的領土の收公は、必しも田の國有を誘致するものではなかつたはずであるが、すべての領土を同樣に處置し、全國にわたつて同一の制度を布くためには、おのづから斯うしなければならなかつたのである。改新の詔勅には皇族貴族の、地主としての、所有田の收公のことはいつてないが、それは政治的領土の廢罷に包含せられてゐるのであらう。改新の詔勅の「其一」の屯倉及び田莊を、此の意義での皇族及び貴族の所有田として解することも、できなくはないやうであり、「處々」の文字もさう見るにふさはしくも思はれ、なほ上にも引いた崇峻紀の卷首に「分大連奴半與宅、爲大寺奴田莊、」とある田莊を寺の私有地とも見られることが、それを助けるやうであるが、同じ年の皇太子の上奏に對照すると、屯倉は子代之民(及び御名代の民)に、從つてまた田莊は諸家の部曲之民に、關聯するもののやうに考へられるから、此の詔勅は、やはり上文第一章に説いたやうに解するのが妥當であらう。上記の如き私有田は、(252)土地の全體から見れば僅少の部分であつたらうから、詔勅に特に記されてゐないのも怪しむに足らぬ。政治的意義に於ける皇室直轄領のことの書いてないのを見ても、書紀の此の詔勅にはすべてが列擧せられてゐないことが知られる。
 さて、あらゆる田を國有とすれば、それを如何にして農民に耕作させるかが問題であるが、それには唐の均田制が模範として存在したのであり、またかゝる均田制の知識があつたからこそ、田の國有といふことが考へ得られたのでもある。均由制の知識が無かつたならば、恐らくは田の國有は企畫せられなかつたであらう。土地民衆を政治的意義に於いて國家に統一することは、田を國有とせずともなし得られることであり、國造等の領土を收公しても、其の田の處置については、他に方法が講じ得られたに違ひない。皇族や貴族の私有田は、其のまゝにして置くこともできたであらう。が、ともかくも、かういふやうにして田の國有が決行せられ、それと共に均田制を學んだ班田の制が布かれたのである。もつとも、此の班田制の定められたことも、實際の實情によつて助けられてはゐるらしい。それは、多くの場合に於いて農民の耕作してゐた田は自己の所有でなかつたことであるので、さういふ農民からいへば、其の田が貴族もしくは豪族の有であつても、國家の有であつても、其の間に大差が無いのであるから、班田の制は、たゞ一定の條件によつて一定の田を一定の期間を限り附與せられるといふ點が、從來の状態と異なつてゐるのみのことである。また班田制によるかういふ農民の法制上の地位の變化は、彼等が從來豪族の配下に屬してゐたのが、豪族と對等の地位を得て齊しく國有田を給與せられるやうになつた點にあるのみである。班田制の立案者には、此の事實もまた考慮せられ、從つて其の實施が容易である如くに思はれたのではあるまいか。天平二年の大宰府の上言に、大隅薩摩には民衆の喧訴を恐れて昔から班田を行はず、私有田として耕作させてあることが述べてあるが、大化のころに於いては、(253)此の地方はまだ十分に服屬してゐないといつてもよいほどの特殊の地域ではあつたにしても、かういふことが事實であり、さうして後までも其の状態が續けられてゐたとすれば、班田の行はれた地方の民衆は、一般的には、それについて甚しき反抗の情を抱かなかつたものと觀察してもよいやうであり、從つて此の推測に大なる無理が無からうと思はれる。班田制に對して不滿を抱いたものは、古くから田を有つてゐた豪族、少數の富裕者、であつたに違ひなく、改新の當局者が如何にして彼等の地位と富とを保持せしむべきかに苦心したのも、此の故であつた。(だから、もし自作農ともいふべきものが多い土地があつたとするならば、そこには班田制が實行せられたかどうか、幾らかの疑問を挾んでもよくはあるまいか。史上にはさういふ記載が無いけれども、薩摩大隅に昔から班田の行はれなかつたことが、天平年間の大宰府の報告として始めて續紀に現はれてゐるのを見ると、班田の施行の有無は史上の記載だけでは知ることができぬ。)
 しかし、班田制の設定が改新の一要項となつた事情を斯う見るにしても、班田の施行そのことに於いて當局者が如何なる意圖を有つてゐたかは、別に考へねばならぬ問題である。班田制の内容が明かでないにしても班田を行はうとしたには違ひないから、それだけの意味からでも、此の問題は檢討せらるべきである。班田は何等かの條件の下にすべての民に田を給することであり、從つてそれは、すべての民に生活の資を與へることになり、また農作に關する限りに於いては、或る程度に貧富の差異を少くするものとして、考へらるべきはずであるが、改新の企畫者は、此のことを理解してゐたではあらう。大化二年の民政に關する種々の詔勅が儒教的牧民思想を基調としたものであるのを見ても、民をして其の生を遂げしむることが政治の要道として、彼等の知識に存在したことは推測せられねばならぬ。し(254)かし、改新の全體の主旨としては、既に説いた如く、貴族や豪族の舊來の地位と富とを或る程度に持續させようとしたのであり、また唐の官僚制度を模範としたことからも、爲政者としての自然の欲求からも、權力階級の權力と其の經濟的優越の地位とを確保しようとしたことは明かであるから、知識として存在する上記の思想が、どこまで改新の精神として、實際にはたらいたかは疑問でもある。權力階級に權力と富とを與へようとすることは、民衆の幸福を圖ることとは、おのづから調和しないやうになるはずだからである。が、それにもかゝはらず知識としては、民をして其の生を遂げしむることが必要であることを忘れてはゐなかつたので、そこに爲政者の態度の矛盾がある。これは必Lも大化改新の當局者に限らず、支那式官僚政治の形態の存續する限り、何時の爲政者にも常に伴ふところの矛盾であるので、續紀を見れば、一方では權力階級に屬するものが不法の手段によつて斷えず百姓を苦しめてゐるのみならず、合法的にも彼等が民衆の利益を壓迫することが認められてゐるので、天平十五年五月の命令に、地位の高いものほど多くの墾田を有することが許されてゐるのも、其の一例であるが、それと共に、他方では同じ權力階級によつて成立してゐる政府の當局者が、また屡々百姓の生活を保護する意味に於いて權力階級を戒飭してゐる。勿論、權力階級の不法の行爲は、制度そのものからも、其の缺漏からも、また制度と古來の因襲もしくは一般の習俗または普通の人情との齟齬からも、生じてゐるのであるが、かういぶ矛盾を有する爲政者の地位とそこから生ずる彼等の態度とにも、其の由來がある。たゞ、此の矛盾は當時の爲政者自身には明かに意識せられてゐなかつたのであらうし、また治者自身の權威と利益とを維持することと、被治者たる民の生活を保護することとは、全く意味を異にするものであり、從つてまた互に關係なく兩立するものとして、思慮せられたでもあらうから、事實に於いて民を壓迫する權力者の地(255)位にありながら、立法者としては民のために圖ることを考へてゐたのである。(當時に於いては、權力階級に屬するものは、民衆を自己の階級とは異なつた地位にあるもの、即ち治者から見た被治者、として考へてゐたので、臣は君を助けて民を治めるものとするシナ思想の受入れられたのも此の故であり、そこから斯ういふ思想が生じ得たのである。地方的豪族、即ちもとの國造縣主、または伴造の部民の首領だつたものは、治者と被治者との中間に存在するものであり、一面に於いては治者階級に隷屬するものでありながら、他面に於いては被治者の首領と認められてゐた。上にも記した如く郡司が特殊の地位を與へられたのは、畢竟、こゝに由來がある。)班田の制の設定もまた、かういふ意味に於いての民のためにする制度を立てようとしたのであつて、大寶令の規定に於いて唐の均田法を種々の點で改めてあるのも、やはり此の用意から來てゐるのであらう。(唐の均田の法と大寶令の班田の制との比較については、故内田銀藏氏の「日本經濟史の研究」及び瀧川政次郎氏の「律令時代に於ける農民生活」に有益な考證がある。)大化の制は今日から知り難く、或は大寶令のに比して幾らか直譯的のものであつたかも知れぬが、立案者の意圖は同じであつたと推測せられる。
 しかし班田の制は果して、其の立案者の考へた如く、容易に行はれたであらうか、又は行はれたにしても、其の精神が貫徹せられたであらうか。既に述べた如く、書紀には其の施行の状態を知るべき材料が全く見えてゐないのであるが、幾らかの推測を試ることはできよう。さて、奈良朝時代に於いては、班田が行はれてゐながら農民に貧富の差が多く、貧民は殆ど其の生活に堪へなかつたことは、周知の事實であるが、これは班田制が理論どほりの成果を擧げ得なかつたことを示すものである。さうしてそれは奈良朝に始まつたことではあるまい。勿論、貧富の差の既に存在し(256)た社會に對して班田制を布いたのであるから、それは初から當時の社會状態によつて大なる制限を受けてゐたのでもあり(例へば大化に於いて、もし大寶令の規定の如く奴婢にも口分田を給したのならば、奴婢を多く有する富豪はおのづから多くの田を與へられたであらう)、また舊來の富者は其の自然の欲求として、爲し得る限りの方法によつて其の富を維持しようとしたはずでもあるから、此の點を顧慮する必要はあらうが、それにしても事實は事實である。本來、班田制そのものが其の目的たる田の分配に於いて十分に公平を期し難きものである。其の位置、地質、肥瘠、廣狹、水利の便否など、田そのものに存する幾多の條件、また、田の多寡や其の存在状態と人口の疎密や聚落の形態との關係、などの複雜な事情は、法令に規定し得られる如き簡單な方法で公平な取扱のできるものではなく、また當時の知識と技術とによつては、田の廣狹すらも正確に測量し得なかつたであらうから、實際には、そこに免れがたき不公平が生じたはずであるが、それが直ちに收穫の多寡に影響し、從つてまた農民の貧富に關するところがあつた。さうして、かういふことはおのづから班田の際に於ける私曲を誘ひがちであるが、其の事務に關與した國司郡司などが、此の點に於いて決して公平でなかつたことは、上に述べたところからも推測し得られよう。なほ人の能力や欲求も種々であつて、これもまた年齡や性別や其の他法令に規定せられるやうな簡單な標準で、品別し得られるものではなく、人生の遭遇する事件も雜多であり、農業そのことの外にいろ/\な社會關係があるのみならず、租税や徭役や其の他の法制上の義務から生ずる幾多の事情があり、農民の生活はそれらによつて左右せられるのであるから、同じく一定の田を給せられても、其の間に生活の難易が生じ、さういふさゝやかなところからも貧富の差異が展開せられる。さうして一たび貧富の差が生ずれば、それは漸次拡大せらるべき性質を有するものである。また外部的事情としては口(257)分田以外の國有田、及び貴族豪族に給與せられたもの、又は彼等の有する墾田などに、農民の耕作し得べきものがあるため、それによつて班田制の精神が損はれることをも考へねばならず、貴族や豪族の權威が直接間接に農民の上に加はり、或は農民を誘惑して、彼等の行動と生活とを亂し、それによつてまた班田法の精神が傷けられることをも知らねばならぬ。其の他、全體に法令が文字どほりには行はれない場合が多く、特に地方に於いてさうであつたことを、注意しなければならないので、和銅五年五月の詔勅に「制法以來、年月淹久、未熟律令、多有過失、」とあるやうな事情さへもあつたのであるが、班田の施行についてもまた同じことが推測せられはしまいか。
 だから、班田制は表面的には施行せられても、事實に於いては、少くとも、其の精神が貫徹せられなかつた、と見なければならぬ。さうしてそれは班田制そのものに本來、無理なところがあるからである。其の無理な點は種々あるので、事務的な點では人口に比して田の少い場合なども其の一つであり、其の最も顯著な例は續紀神龜四年七月の條に「以伊勢尾張二國田、始班給志摩國百姓口分、」とあるものであるが、かういふ處置をしなければならぬやうな状態の下に、班田が滿足に遂行せられるはずはない。さうして程度の差こそあれ、之に類した場合は所々にあつたのであらう。が、其の最も根本的なものは、私有財産の觀念の發達してゐた時代に、財産として最も重要なる田の私有制を廢し、それを國有としたところにあるのであつて、貴族や豪族が山野を占領したり墾田を行つたりしたのは、此の私有慾から出たことであり、後になつて一般的に墾田の私有を許したことのあるのも、またさうしなければならなかつたほど、私有財産の觀念が鞏固であつたからである。此の墾田私有の法が田の國有制の精神を根本的に破壞し、從つて班田制の效果をして甚だしく薄弱ならしめたものであることは、いふまでもない。が、私有慾の最も盛であつたの(258)は、昔から私有田を有つてゐた權力階級のものや豪族富裕者であつたので、これは事實上、種々の點から直接間接に班田制の壤頽を誘致したものがやはり彼等であつたことと、相應ずることである。多數の農民に至つては、彼等がもし上述の如く改新以前に於いて概ね田の所有者でなかつたとするならば、長い間の因襲として、田をみづから有するが如きことは、よし其の欲望はあつても實際には、寧ろ不可能事として考へられてゐたかも知れぬ。だから、彼等は班田制そのものに對して反抗はしなかつたけれども、法制上の嚴格なる取扱には滿足ができず、裏面で行ふ種々の私曲によつてそれを綬和し、又は別の方面に向つて生活の欲求を充たさうとし、或は其の通路を得ようとしたのであらう。さて、上記の缺陷は班田制の根本に源を發するものであるから、大化の後、まもなくそれは規はれて來たのであらう。近江令持統令を經て大寶令に至るまでの間に、細目については何等かの變改が行はれたでもあらうし、さうしてそれには、其の時々に目についた弊害を改めようとして立案せられたこともあらうかと、想像せられるが、根本の缺陷は如何ともすることができなかつたのである。
 かう考へて來ると、大化の改新の一要項として班田の制を立てたことは、本來、無理な企てであつたことが知られるであらう。新しい制度の全體からいふと、改革の當事者は意識してゐなかつたことながら、特殊なる權力階級の存在を基調としてゐる全體の制度が、民衆の生活を安全ならしめようとする班田制の精神の貫徹を妨げるものであり、班田制そのものについていふと、多數の農民に於いてはそれを行ふに便なる事情も無いではなかつたらしいが、田の私有を認めないのは、財産に關する當時の普通の觀念に反するものであつて、そこに此の制度の完全に行ひ得なかつた根本の理由がある。なほ、班田の制を定めるに先だち、それが果して一般的に實行し得られるかどうか、またそれ(259)を實行することによつて農民の生活が果して保障し得られるかどうかを、事務的見地から、調査してはゐなかつたに違ひなく、それだけの準備をする時間が無かつたことからも、このことは知られるのであるが、これは明かに當局者に用意の足らなかつたことを示すものである。未來に如何なる障害が起るかの豫見ができなかつたのは、人のしごととして已むを得ないことであり、或る制度の下に人の欲望が如何に動いてゆくかの機微なる人情を透察し得なかつたのも、また當時の爲政者にそれを責めるのは無理であらうが、班田といふやうな、民衆の生活に直接の關係のある、重大事を決行するにしては、すべてが輕率であつた。が、それは、唐に均田の制度があるといふ知識が、容易にそれを實行し得るもののやうに思はせたからであつて、何ごとにも唐制を學ばうとする態度が然らしめたのである。均田の制が如何なる状態に於いて行はれてゐるかの實際も、またシナと我が國との地勢や耕地の性質や又は穀物の種類や農耕の方法やの差異なども、深くは考慮せられてゐなかつたであらう。なほ、大化の改新が、我が國に於いては、法制を立てそれによつて政治をしようとするやうになつた最初であつたので、法制が如何に實行せられるものであるかについての經驗が全く無かつたこと、立法者としては、法制によつてすべてが規定し得られるやうに考へ易い傾向のあること、また權力者の心理としては、彼等の命令によつて何事でも行はれ得るものと思ふのが普通の状態であることなども、かゝる制度の立てられたことについて思慮せらるべきであらう。田の國有も班田も、要するに、爲政者の机上の知識から出た制度であつた。
 
(260)     第七章 社會組織の問題
 
 大化改新に關する余の見解は、ほゞ上記の如きものである。要するに、それは政治上の制度の改新であつて、社會組織の變革ではない。班田の制を布いた一事は社會的意義のあるものではあるが、それも政治制度の改革に隨伴して企畫せられたことであると共に、そのことみづからも決して社會組織の變革を意味するものではない。これは、書紀の記載によつて、明白に知られることである。が、不思議にも、世間にはそれを社會改革として解釋しようとする考があるらしい。それには二つの主要なる觀察點があるので、一つは氏族關係を骨子として成立つてゐた社會組織が此の時に破壞せられたとすること、一つは奴隷もしくはそれに類似する特殊階級が此の時に解放せられたとすることである。前者は比較的早くからあつた見かたであるが、後者は近ごろになつて流行しはじめたものである。これらの考は如何にして生じたのであり、どこに誤解の本源があるのであらうか。余は少しくそれを檢討してみたい。
 極めて遠い古は知らず、文獻によつて知り得られる時代、余の見解によればそれはほゞ六世紀以後、に於いては、日本民族の社會組織が氏族關係を骨子として成立つてゐるものでなかつたといふことは、第一篇に既に説いて置いた。大化以前に於いて、朝廷の官職が世襲的であり、土地民衆が世襲的貴族豪族によつて領有せられてゐたことは、事實である。さういふ貴族豪族が家系を尊重し、從つて家々の系譜を作り祖先を定めたのも、之がためである。けれども、それは決して社會組織が氏族關係を骨子として成立つてゐることを意味するものではない。官職と土地民衆の領有と(261)が世襲的であつたことは、例へば、徳川時代などでもほゞ同樣であつたことを考へるがよい。たゞ、大化の新制によつて戸籍が作られた時に、もと朝廷のトモ(伴)として或る部に屬してゐたもの、いひかへると伴造の配下であつたもの、又は伴造國造及び其の他の中央の貴族や地方の豪族の部民であつた農民は、それ/”\氏の名として、もとの部の首長または舊領主の氏の名、伴造に於いてはそれが即ち部の名、を用ゐることになり、さうしてそれから後、奈良朝にかけて、彼等の中の何等かの地位のあるもの、又は農民中の首領だつもの富裕のものが、漸次カバネを賜はるやうになつたので、それがために、カバネを有する家々に於いて、大化以前の伴造國造などの家々と氏の名を同じくするものが、多く世に現はれて來た。例へば中臣鹿嶋連などの如く、氏の名の下に住地の名を重ねていつてゐたもののうちには、かういふやうにしてカバネを賜はつた地方人の家が少なくなかつたであらう。大化以前に於いても、カバネを有する地方的豪族が中央の貴族の配下に歸するやうになつた場合には、彼等は其の領主の家の名を冒しつゝ舊來のカバネを稱してゐたであらうから、カバネを有する諸所の地方的豪族で氏の名を同じくするものが、かういふ事情から生じてゐたであらう。此の場合にも、かういふ豪族は自己の從來の家の名、それは即ち其の住地の名、を領主の家の名の下に重ねていつてゐたでもあらうと思はれる。さうしてそれは大化以後にも繼續せられたに違ひない。かういふやうにして、同じ氏を稱するものが多く存在し、またそれが各地方に散居し、史上の記載にも見えてゐるため、後世からは、それらが血統關係を有するものであるが如く誤認せられるやうになつたのである。特に彼等が系譜を作るに當つては、氏の名にひかれて昔の主家と祖先を同じくするやうにしたものが多く、それが姓氏録などにも現はれてゐるため、益々此の誤認が強められると共に、かういふ血統關係のあることが遠い昔からの事實であるが如く、考へられた(262)のである。が、氏の名の同じであるのは、決して其の間に血統關係があるからではない。特に民衆については大化二年八月の詔勅が最もよくこのことを證明してゐる。此の詔勅には、品部を廢罷し諸家の領民を一樣に國家の民とすることになると、諸家は家の名が消滅するやうに思ふかも知れぬが、家の名は永久に存するものであるから其の虞は無い、といふことが述べてあり、さうしてそれと共に、諸家にはそれ/”\新制によつて官職位階を授ける、といふことがいつてある。これは臣連伴造國造の有する品部がそれ/”\主家の名によつて呼ばれてゐたことと、其の品部が諸家の領民であつたこととを、示すものであるが、此の品部につけられたそれ/”\の主家素の名が、戸籍に記されてゐる民衆の氏の名なのである。だから、氏の名の同じであるのは、大化以前に於いて伴造と其の部下との關係であつたもの、もしくは同じ部に屬してゐたものであるからのことか、又は領主と領民との關係を有つてゐたもの、もしくは同一領主の領民であつたものであるからのことか、何れかを示すものに過ぎない。例へば中臣を氏としてゐる多くの家は、朝廷の官司たる伴(即ち部)として其の首長、即ち伴造、たる中臣連の下に朝廷の祭祀の事務を掌つてゐたもの、又は中臣連の各地方に於ける領民であつたものの、子孫なのである。「部」はトモ(伴)の語にあてられた漢語であり、さうしてトモの語には豪族とか血族とかいふ意義の無いことをも、考へるがよい。上に引いた大化二年八月の詔勅には「父子易姓、兄弟異宗、夫婦更互殊名、一家五分六割、」とも書いてあるが、これは、人がみな所屬品部の名を以て呼ばれてゐるために、いひかへると所屬品部の名を氏の名としてゐるために、同一血族でも氏の名が區々になつてゐる場合があるといふことを、誇張した筆法で記したものである。夫の家と婦の生家とが、部の名、即ち氏の名、を異にする場合のあることは當然であり、兄弟とても、別居して、特に住地を異にして、獨立の生活を營んでゐるものには、(263)同じ場合があるべきであつて、それは毫も異とするに足らぬことである。父子が氏の名を異にするといふのは異樣のやうであるが、兄弟が部を異にする場合にはそれが生ずるはずである。たゞ此の書きかたには誇張があるらしいので、それは、書紀の編者が詔勅を漢文化したためと考へられるが、一歩進んでいふと、此の數句とそれにつゞく「由是、爭競之訟、盈國充朝、終不見治、相亂彌盛、」とは多分、詔勅の原文には無かつたものであらう。純粹の漢文になつてゐて、國語を譯した痕跡の著しく目に立つ前後の文とは文體の違つてゐることからも、さう考へられる。が、それはともかくも、初に引いた數句は、氏の名が血族の稱呼ではないことを明瞭に示してゐるものであつて、よし書紀の編者の筆になつたにしても、それは當時の實際の状態をいつたものに違ひない。(こゝの「姓」をカバネと訓むのは誤である。もし強ひて訓をつけようとならばウヂといふべきであらうが、其のウヂは部名のこととして考へねばならぬ。「宗」は全くこゝにあてはまらない文字であるから、國語では訓み得られぬ。なほ姓の字を此の意義に用ゐることは珍らしくないので、天武紀十一年の條に見える詔勅に「凡諸應考選者、能※[手偏+僉]其族姓及景迹、方後考之、」とある「族姓」の「姓」も、同樣であり、族姓は上記の意義に於ける氏の名についていつたものと解せられる。從つて此の族姓をウカラカバネと訓むのも誤である。戸令の集解の「舊説」または「古記」の説として引いてあるところに、氏の名を「姓部」と書いてあるが、これもまた「姓」を氏の名としての部名の義に用ゐたものであり、さうして「姓部」といふ熟字の構成については、上文に述べた美濃の戸籍に見える「族部」の稱呼と互に參照すべきものである。「族姓」といふ語が用ゐられたこともまた同じところに由來がある。族の字が、昔の部屬關係から同じ氏の名を有するやうになつたものの稱呼として、用ゐられたことも、上文に述べて置いた。萬葉の家持の「喩族歌」の「族」もまた同(264)樣であらう。)
 またもし假に氏の名が同一血族を示すものであるとしたならば、例へば物部の八十氏といはれてゐる如く、同じ氏を稱する多數の家の各地方に散在してゐることを、一つの宗家から分れた同じ血族のひろがつたものとして、如何に其の事情が説明し得られるか。それだけの家ができるまでにどれだけの世代と年月とがかゝるかを考へてみただけでも、其の説明の困難なことは知られるであらう。まして遺存する戸籍の斷片からでも明かに推測し得られる如く、農民が何れもさういふ氏の名を有つてゐるのであるから、全國に於ける同じ氏の家の數は夥しいものであらう。それをどうして一宗家から分れたものとして考へ得られるか。いふまでもあるまい。或はまた名代子代の部民で同じ部に屬し同じ氏の名を有するものをどうして同一血族として解することができるか。皇族の名を有する部民をみな皇族の血統であるとすることが、如何にして可能であるか。子代の部である壬生部に至つてはなほさらである。また姓氏録に見えるやうな系譜は恣に作つたものであり、しかもそれが多く作られたのは奈良朝ごろのことである。さうしてかういふ系譜に於いても、同じ氏でありながら血統が異なつてゐるやうになつてゐるものが少なくないことは、これもまた「日本古典の研究」の第七篇や此の書の第一篇に説いて置いた。當時の人々には、氏の名が血統と無關係であることが知られてゐたからこそ、かういふ系譜が作られたのである。なほ記紀に見える伴造國造の家々の系譜に於いて、同じ祖先から出たものが多いやうになつてもゐるので、これもまた血統關係を有する同一氏族が多く存在し、或は各地にひろがつてゐたことを、示すものとして解せられたやうであるが、かういふ系譜は、「日本古典の研究」第二篇第三篇に説いて置いた如く、事實を記したものではなく、諸家が皇族または神代の物語に現はれてゐる神もしくは人物(265)を祖先とするために作つたものであるから、かゝる解釈もまた誤である。以上は同じ氏の名を有するものが同一血族に限らないといふことをいつたのであるが、このことは、第一篇に述べた如く氏の名は住地によつてつけるものであり、同一血族でも住地が違へば氏の名が違つてゐたことによつて、裏面から證明せられよう。これは地方的豪族についていひ得ることであるが、氏の名といふものの性質はこれでもわかる。貴族に於いては氏の名は朝廷の官司たる部の名である。また一般民衆の氏の名が部名、即ち所屬領主の名であつたことは、上に縷説したとほりである。
 ところで、徳川時代までの學者は、記紀の系譜や姓氏録などの記載を事實と信じたため、貴族豪族などの同じ氏の名を有し系譜に於いて同じ祖先であるが如く記されてゐるものを、血統上の同族と考へたのみのことであるが、明治時代以後になると、かういふ考の成り立つか否かを學問的に吟味することなしに、其のまゝそれを受入れ、さうしてその考を基礎として、そこから更に一大飛躍を試み、上代の社會組織が血統上の氏族關係によつて成立つてゐたやうに、想像するものが生じて來たのである。これは、記紀や姓氏録などを史料として取扱ふに當つて、先づ試みなければならぬ其の本文研究を等閑に附したためであるが、また貴族や豪族に關する記紀の記載を直ちに一般民衆のこととして見ようとする態度からも來てゐるので、此の點に於いては、我が國民は一家族のひろがつたものであり皇室が其の宗家であられるといふ思想が、明治時代になつて生じたのと、或る共通點を有つものである。此の思想は徳川時代までは世に現はれなかつたものであるので、それは全國民を一つの集團として見る考が其のころまでは存在しなかつたからである。ところが明治時代になると、封建制度がくづれて昔からの階級的區別が無くなり、それと共に、世界に對して日本の國家を立ててゆくには其の内部の精神的結合を固くする必要が感ぜられたので、そこで斯ういふ思想が宣(266)傳せられたらしい。國民としての集團生活を家族的共同生活として理解させようとしたのである。この思想の由來するところは、貴族豪族の祖先が皇族または神代史上の神もしくは人物であるといふ、記紀の記載にあるのであらうが、記紀の系譜は權力階級治者階級に屬する貴族や豪族のことであつて、被治者階級たる一般民衆には毫も關係の無いことであるのに、それを全國民のこととして考へたのである。それには、民衆の氏の名が貴族豪族のそれと同じになつてゐるために、その間に血統上の關係があるやうに思つた、といふ事情もはたらいてゐようが、かう思つたのは、民衆の氏の名がどうしてつけられたかを、深く考へてみなかつたところから生じた誤解であることは、上に述べたところから明かである。また記紀に見えてゐる貴族豪族の系譜が、かれらの家々をそれ/”\皇室に結びつけようとして作られたものであつて、歴史的事實を記したものではないのは、それを事實と信じたといふところにも、かういふ思想の生じた一つの理由があらうが、それが事實でないことは、くりかへして述べたごとく、明かである。だから、このやうにして明治時代から宣傳せられて來た思想は、實は根據の無いことである。なほ文獻上の記載を離れて考へても、一つの家族が次第にひろがつて一つの國民となつたといふやうなことが、事實としてどうして考へ得られようか。これについてもまた、それに要する世代と年月とのいかに多くいかに長かるべきかを思つてみるがよい。また歴史的事實として、國家の統一せられるやうになつた前には多くの小國家が成り立つてゐたのであるが、それらの小國家の首長すらも、皇室から分れたものであつたと考へらるべき理由は、どこにもない。それらの首長に分屬してゐた民衆に於いてはなほさらである。從つてかう考へることは、明かに事實に背いてゐる。もつともこの思想は、事實さうであるといふよりも、昔からさう考へられて來たとし、從つてまた現在でもさう考へねばならぬとする、一つの要請とし(267)て主張せられたものであらう。しかし昔からさう考へられて來たといふのは、決して眞實ではない。また現在に於ける思想上の要請としてさういふむりなことを考へるよりも、わが國民は一つの民族から成り立つてゐるといふ明かな事實にもとづいて、國民としての集團生活を民族的共同生活として理解するのが、自然である。國民生活を家族生活として見るといふことは、わが國をいはゆる家族國家として考へるといふことであらうが、國民の政治的結合もしくは國家の統治の精神と其の方法とは、家族の結合もしくはその統制とは全く性質のちがつたものであるので、それは國家の統一せられない前に存在した小國家に於いてもまた同じである。だから、わが國を家族國家と考へることは、實際政治にとつて意味の無いことである。それに反して、わが國が一つの日本民族によつて成りたつてゐるものであり民族國家であることは、明かな事實であると共に、國家の結合の鞏固であることの根本的理由なのである。然るに家族國家といふやうなことの唱へられたのは、民族の觀念の明かになつてゐなかつたころのことだからであらう。天孫民族が出雲民族を征服したのがわが國の起原であるといふやうな説が、それと並んで世にあらはれてゐたのでも、このことはわからうと思ふが、この説は、實は、家族國家説とは矛盾してゐる。ちがつた民族から成り立つてゐる一家族といふものは無いはずだからである。
 さて、横みちに入つて言を費しすぎたが、もとへもどつていふと、社會組織に關する上記の考へ方の生じたことには、別の理由もあるらしいので、それは、記紀の記載を遠い昔の、從つてまた未開時代の、事實を傳へたものとし、さうして一般に古い時代の社會は血族的集團を基礎として形成せられてゐたものとする、或る種の社會學者によつて與へられた知識を、それにあてはめたといふことである。しかし、記紀によつて知られる時代に於いては、日本民族は既(268)に民族生活の發展の長い歴史を有つてゐるので、社會組織も政治的統制もずつと進んでをり、決して未開時代の状態ではなかつた。さうしてそれは、大化改新といふやうなことが行ひ得られたのでも明かである。だから、未開時代の社會組織についての種々の學説や今日の未開民族の實際の社會組織がどうであらうとも、それらは、此の時代の日本民族の状態を推測するには、大なる助とはならぬものである。記紀に記載せられてゐるところでは、我々の民族は、一方に於いては家族が明かな形態をなしてゐると共に、他方では其の生活が村落的集團と其の領主たる貴族豪族の政治的統制とに依存してゐたのである。其の間に血族的集團といふやうなものの存在すべき餘地が無い。事實、記紀の記載に於いても、村落的集團と領主の所領關係との二つに關することは見えてゐるが、家の外には、血族的集團といふやうなもののあつたらしいことが、どこにも記してない。それをあるやうに考へるのは、記紀の記載を誠實に檢討しないのと、先入見によつて臆斷するのとのためである。もし記紀に見える上代の氏族を、種々の形に於いて今日の未開民族に存在する部族(と普通に譯せられてゐるもの)と同一視するやうなことがあるならば、それは日本の上代の氏族の性質を領解しないのみならず、さういふ部族の状態をも知らないからのことであらう。かういふ考の生じたことには、部族といふやうな語が新に現代の學者の間に用ゐられるやうになつたため、部といふ文字の上から上代の「部」を漠然それと聯想したところからも來てゐるのではないかと思はれる。もしさうならば、それは現代の日本の學者が往々陷る錯誤の一例である。要するに、かういふ考は確實な根據の無い、學問的に討究せられた結論でもない、臆測である。從つて、かういふ臆測を基礎として、大化の改新を血族關係が骨子となつてゐた社會組織の變革と見なすのも、また無意味である。本來、社會組織は法令などの力によつて簡單に破壞せらるべきものでなく、また當時の政府に社(269)會組織を變革しようとするやうな意圖があり得たとも思はれぬ。中大兄皇子にも中臣鎌足にも、支那的政治思想は一應埋解せられてゐたであらうが、近代人に於いて始めて考へ得られるやうな社會改革の如きことが、思慮せられてゐたはずはあるまい。上に述べた如く、改新の當局者は貴族や豪族の社會的地位を動かさないやうにしようとし、政治的にも彼等をして依然として權力階級の地位を保たせようとしたのであり、さうしてそれは改新後の實際状態にも現はれてゐるのであるが、もし大化の改新に社會改革といふやうな意圖が伴つてゐたならば、當局者のかういふ態度は甚だ解すべからざるものである。唐制を學んで新しく官僚政府の形體を整へても、官職の實質に於いては、改新以前の状態の繼續せられてゐる部分が多い、といふことは上にも説いたが、官府組織ですらも、かうであつたことを考ふべきである。
 なほ、改新後の政府は、貴族豪族の家々と其の舊部下のものとの關係をさへ、或る程度に持續させようとしたらしく思はれるふしもある。天智紀三年の條に見え、此の年に始めて制度として置かれた氏上といふものは、同じ氏の名を有する多くの家の首長に違ひないが、氏の名は上に述べたやうにして定められたものであり、從つて、同じ氏の名を有する家々は、決して血族關係のあるものには限られず、貴族に於いては、もとの部下であつた家々をも含んでゐた、むしろそれが大部分を占めてゐた、からである。朝廷のトモとして伴造の配下に屬してゐたものは、新制度の下に於いてもかなりの地位を占めるやうになつてゐたであらうし、またすべての貴族の部民のうちの首領だつたもの、主家と部民との中間にあつて部民を統率してゐたものは、地方的豪族として相當の勢威を有してゐたのであるが、さういふ家々は改新の後もなほ舊主家との間に或る關係を有つてゐたので、法制の上でもそれを認めようとして、氏上(270)といふものが置かれたのであらう。はじめて氏上の定められ、た時に、大氏小氏及び伴造等によつてその取扱に區別があつたやうに記されてゐるが、氏上を血族關係のある家々の首長と見ては、かゝる區別のせられたのが解し難いこと(大氏小氏の區別は血族關係のある家の多寡によつたものではなく、地位の高下、勢力の強弱に關するものと思はれるので、それは家の地位を示す伴造の名がそれと並んで特に擧げられてゐることからも知られる)、氏上が冠位と共に定められた公の制度であること、氏上と同時にそれに伴つて民部家部(私見によれば、舊慣に從つて其の家で使役するを得るものとせられた農民)が定められたこと、また續紀文武天皇二年九月の條によると、氏上には其の次官としての「助」が置かれた場合のあること、などは此の推測を強めるもののやうである。「日本古典の研究」の第七篇に説いた如く、中臣氏や忌部氏が後までも其の舊部下と或る連絡を有つてゐたことは、かう見ると一層解し易い。普通には氏上を同一血族に屬する家々の首長と解し、血族的集團の統率者として見てゐるやうであるが、これは同じ氏の名を有する家々の間には血族關係があるといふ臆測の上に立つた解釋であるらしい。しかし此の臆測は上に述べた如く全く事實に背いてゐる。だから、其の解釋もまた誤つてゐるといはねばならぬ。天武紀の十一年十二月の條の詔勅の「眷族多重者、則分各定氏上、」によると、同じ氏の名を有するものも幾人かの氏上の支配に分屬することが許されてゐるやうであるが、これは氏上を同一血族の統率者と見たのでは解し難いことである。同一血族のものにそれほど多くの家があつたとは考へられないからである。同じ詔勅に「因少故而非己族者、輙莫附、」とあるのも、氏上の統率するものが眞の血族關係の家々のみでないからこそ考へ得られることであつて、眞の血族關係の家々のみが一つの氏上に支配せられる規定であつたならば、始めからかういふことは無いはずである。こゝに族といひ眷族といふ語が用ゐて(271)あるが、これは戸籍に國造族などとある場合の族と同じく、同じ氏の名を有するがためにかう書じゃれたに過ぎないものである。(繼嗣令及び喪葬令に「氏宗」といふ稱呼があつて、繼嗣令の集解に引いてある古記によると、それはもとは氏上としてあつたもののやうでもあるが、よしさうであるにしても、此のことは、氏上が氏宗であることを示すものではない。此の令の規定は、氏宗の家では繼嗣を定める時に勅許を要するといふことであるが、氏宗がよし氏上と書いてあつたにしても、それはたゞ氏上の家について此の規定が設けられてゐたのみのことである。たゞ何故に氏上が氏宗に改められたかは問題になるが、それは多分、同じ氏を冒す家々の氏上と定められた家は、多くはそれらの家々の中心となり首長となつてゐるものであり、さうしてその家が血統關係において幾つもの支族をもつてゐる場合には、この氏上の家がその同一血族の氏宗でもあつたためか、又は氏上に事實上の權威の無い場合が多かつたためか、の故であらう。氏宗は同一血族中の宗家のことであつて、氏上とは本來ちがつたものであるが、かういふことは考へ得られる。氏宗と氏上とのちがひは、上に述べたところによつておのづから知られたはずであるが、なほ一言するならば、氏宗の家は血統關係によつて自然に定まつてゐるべきものであるのに、氏上は法令によつて制度として置かれ、氏人、即ち同じ氏を冒す多くの家々、によつて新に其の家を定め、官府に上申する必要のあつたものである點だけでも、此の二つが同じものでないことは明らかである。氏宗の家では其の家の相續の場合に勅許を要することになつてはゐるが、それは同一血族のうちで氏宗の家を定め、其の場合に勅許を要する、といふのではない。全體から見れば、氏上の制度は永續せず、實社會に大なるはたらきをもしなかつたやうであるが、それは新しい官府組識行政系統の下に於いては、特殊の事情のある家の外は、それを有效にはたらかせる餘地が無く、さうして事實上、權勢を有する家は、(272)かゝる制度をまたずして、如何やうにも其の權勢をふるひ得たからであらう。けれども天平寶字元年六月の詔勅に「諸氏長等或不預公事、恣集己族、自今以後不得更然、」とあるのを見ると、家の勢力と人物とによつては、此のころでも氏上に或る權威があつたらしい。氏長は即ち氏上であつて、此の文字は、續紀慶雲四年九月靈龜二年九月などの條にも見えてゐる。(公事に關して氏上が其の族を集める場合があるやうにいつてあること、また「恣集己族」を治安に害あるものとして警察的意味からかういふ禁制をしたことは、其の所謂族が血族を指すものでないことの一證であらう。同一血族としてはかういふことは考へ得られないからである。)ともかくも天智朝の此の新制は、諸家の舊部下や部民に對する因襲的の權威を或る程度に保存しようとしたことを示すものであるが、それはまたやがて大化改新の當局者の態度であつたらう。なほ附言する。氏上を普通にはウヂノコノカミと訓んでゐるやうであるが、これはウヂノカミとすべきであつて、カミは國のカミなどと同じく長官の義である。氏上が長官を意味するものであることは、スケのある場合があつたことから明かだからである。さうして、カミとスケとが具はつてゐるといふことは、氏上と關聯して民部家部の新に定められたことと共に、氏上が天智朝の新制であつて、大化以前からあつたものでないことを示すものである。また氏上の上記の性質に關聯して考ふべきは、氏神及び氏寺のことであつて、これもまた同じ氏の名を稱してゐる家々のための保護神であり寺であり、從つて其の「氏」はやはり同一血族の意義に於いてのではなかつたらう。上に述べた氏宗の場合のやうに氏の語を同一血族の義に用ゐる例もあつたけれども、一般には、氏上の場合のやうな意義に此の稱呼を用ゐることが多かつたらう、と推測せられるからである。
 かう者へて來ると、大化の改新に於いて社會組織の變革を企てたといふやうなことは、全く想像せられないではな(273)いか。或は、血族關係を骨子とする社會組織は既に末期に迫つてゐ、内部的には崩壞に近づいてゐたので、大化の改新はたゞ其の外形を破壞したに過ぎぬ、といふやうに説かうとするものがあるかも知れぬが、さういふ社會組織であつたといふことが本來根據の無い語であり、またそれが末期に迫つてゐたといひ得るほどに、歴史的變化の跡を辿ることのできるやうな史料は、どこにも無いのである。大化以前の状態を示すものとしての氏族制度といふ稱呼が、何時から、また如何なる意義で、用ゐはじめられたのであるか、余はそれを詳にしないが、かういふ語を用ゐるとすれば、それは、政治上の制度を指すものとし、朝廷の地位官職と土地民衆の領有とが家々の世襲であることをいふものとしなくてはならぬ。大化の改新は此の舊慣を改めたのであつて、それはどこまでも政治上の制度の變革なのである。さうして、かういふ氏族制度は大化の改新によつて一度び終を告げたのであるから、大化の直前の或る時代は、此の意義で氏族制度の末期といふことはできようが、それは制度そのものが、自然に崩壞し破滅に近づいてゐた、といふ意義での末期ではない。このことは既に上に説いた。世にもし、氏族制度といふ語によつて、漠然それを血族關係を骨子とする社會組織をいふものと解し、そこから大化の改新が社會組織の變革であつたやうに思ふものがあるならば、それは文獻上の記載を誠實に檢討しないからのことである。
 次には、改新によつて大化以前の奴隷もしくは之に類似した特殊階級が解放せられた、といふ考であるが、これもまた何を根據としてさう説かれるのか、甚だ解し難い。孝徳紀二年の條には改新の要項が列擧してあるが、どこにもさういふことが無い。また、大化元年の詔勅には、「男女之法」として良民と奴婢との子の分限のことが規定してあり、さうしてそれは、多分、戸籍の製作に必要であつたからであらうと思はれるが、かういふ詔勅さへあるにかゝはらず、(274)上記の如き特殊階級のものを解放するといふやうなことのあつたらしい形迹は、文獻の上に全く見あたらぬ。察するに、此の考は、改新の詔勅の「其一」に「部曲之民」を罷めるとあるので、其の部曲が諸家の「所有」としてあるところから、奴隷の如きものと臆測せられ、そこから特殊階級の解放といふことが、想像せられたものであらうか。さうして、安閑紀に同じく部曲といふ文字が用ゐてあり、それにウヂヤツコといふ訓のついてゐることが、此の臆測を助けてゐるのでもあらう。或はまた唐代の法制上の用語として部曲が奴婢に類したものを指すことになつてゐるから、それもまたかういふ考を誘つたものかも知れず、ウヂヤツコといふ訓も或はそこに由來があるかとも思はれる。が、これらは何れも誤であつて、部曲は、第一篇に説いて置いた如く、伴造國造等の領民たる自由民を指してゐるのであり、領民の意義での「部」と同じである。二年八月の詔勅によると、それは「品部」とも稱せられたので、品部が領主たる皇族や貴族豪族の名によつて呼ばれてゐたのである。此の詔勅にも、品部を天皇以下諸家の「所有」としてあるが、この語も、また改新の詔勅の同じ語も、政治的意義に於いて民として領有するといふのであつて、奴隷の如きものを有するといふやうな意義で用ゐてあるのではない。然らざれば、八月の詔勅の如きは解すべからざるものである。二年三月の皇太子の上奏にある子代入部御名入部の「入部」もまた部曲と同じ意義であり、「部曲之民」の語がある如く、改新の詔勅には子代入部が「子代之民」とも記されてゐる。入部も品部と同樣、單に部といふのと違ひは無いので、それは御名入部の名によつてつけられたものと考へられる御名部皇女(天智紀七年の條及び萬葉卷一所見)といふ名のあることからも知られる。これは御名入部が御名部ともいはれてゐたことを示すものである。古事記の開化の卷に御名部造といふ家の名が見えておるが、これもまた御名入部に關係のあるものとして解すべきであらう。
(275) なほ、部曲をウヂヤツコと訓んであることについては、同じ文字が、皇極紀元年及び天武紀四年の條にはカキノタミ、孝徳紀大化二年の條にはカキベと訓ませてあり、釋紀には皇極紀の場合にカキノクマといふ訓をも記してあつて、一樣でないことを知らねばならぬが、これは、部曲の文字が、本來一定の國語を飜譯したものではなく、シナの成語としての此の文字を不用意に使つたまでのものであるため、後になつて、漢文で書かれた書紀の文字を國語で訓まうとするに當つて、定訓が得られなかつたからである。今、部曲の文字の用例を見るに、皇極紀には百八十部曲とあつて、それは伴造の領民を指すのであるが、部曲と書かれたのは、朝廷のトモが部ともいはれ、從つてモヽヤソトモノヲを、推古紀二十八年の條及び孝徳紀卷首に見える如く、百八十部と書く例のあつたことに誘はれたものであり、トモの首長たる伴造の領民がやはり部といはれてゐたためであるらしい。部の字音たる「ベ」はもはや國語化せられてゐたが、文字には部と書くので、純粋の漢語である部曲の文字が聯想せられたのである。或は、部民をいふについてもモヽヤツトモノヲの語が適用せられてゐたので、それを百八十部曲と書いたものと見てもよからう。また、安閑紀の部曲は地方的豪族の領民をいふのであり、孝徳紀のは伴造の領民をも、國造などの地方的豪族の領民をも、總括していふのであるが、これらのすべての場合に適合する國語の訓としては、カキノタミが最も適切であらうか。即ち、それ/”\の首長の所領として區劃せられ限定せられた民の意である。もつとも、孝徳紀には「部曲之民」とあるから、こゝでは部曲の二字をカキノタミとは訓めないが、單に部曲とあるのも部曲之民とあるのも、意*義は同じである。なほ、天武紀のは氏族制度時代のものではなく、天智朝の新制として設けられた民部家部をいふのであり、朝廷の貴族のそれ/”\の家に使役せられるものとして定められた民を指すのであるから、昔の伴造國造などの領民とは性質が違ふ。それ(276)を同じやうに部曲としてあるのは、書紀の書きかたの杜撰である。ところで、部曲の語が上記の如く自由民をさすものである以上、それがヤツコといはるべきでないことは明白であるから、ウヂヤツコと訓むのは全く見當違ひであるのみならず、ウヂとヤツコとの二語をかう結びつけていふのも、國語の構造としては甚だ不自然であるから、かゝる稱呼が實際あつたとは思はれぬ。カキノクマに至つては、曲の字が別の意義に於いてクマの語にあてられてゐたことからの附會である。また、カキノタミが即ち領民の意義でのベ(部)であるから、カキとベとを重ねてカキベといふのも奇である。これは、天智紀三年の條に見える新制の民部、また天武紀六年の條の官名としての民部卿の民部が、何れもカキベと訓まれてゐるのを見ると、カキノタミといふ語のあるところから、カキがやがてタミの義と解せられたからのことであらう。が、此の訓みかたも古いものとは思はれぬ。それは同じく民部の字が用ゐてあつても、其の意義はそれ/”\違つてゐるのに、一樣に此の訓がつけてあることからも考へられる。雄略紀卷末の民部も、同じ紀の十七年の土師氏の私民部とある民部も、同じくカキベと訓んであるが、前者は領民の義であるから書紀の用例によれば部曲と書き得べきものであり、後者は文面の上では土師氏の特殊の業務に從事するもののことであるけれども、筆者は所屬の民といふ意義で書いたものらしいから、やはり同じ例と見なし得られよう。しかし天智紀の民部は上に述べた如くそれとは同じでない。官廳の名としての民部の部に至つては、大寶令の兵部刑部などの部と同じく、新に唐の尚書省の六部のそれを取つたものであり、氏族制時代の部民の稱呼としての部と混同すべきものではなく、同じく民部と書かれてゐながら、雄略紀のは勿論のこと、天智紀にあるのとも全く性質が違ふ。もしそれに國語のあてられた場合があるとするならば、タミノツカサででもあつたらうか。だから、古くからこれらの民部の文字が一樣にカキ(277)ベと訓まれてゐたとは考へられぬ。單に領民の意味での民部についていつても、第一篇に説いた如く、氏族制度時代に於いては、諸家の領民、即ち部曲、は其の領主の名を冠して某々の民といはれてゐたらしく、部の字が適用せられた後には某部とも稱せられるやうになつたやうであり、また其の一般的稱呼としては品部もしくは入部とはいはれてゐたが、カキベといふ名があつたらしい形迹は無く、其のころ既にカキが民の意に解せられてゐたとも推考しがたい。カキベといふ語は、民部と書いてある書紀の文字を國語で訓まうとして、後世になつて、多分、平安朝ころに、考へ出されたものであらう。さすれば、部曲をカキベと訓んだのも、やはり後世のこととしなければならぬ。カキノタミは或は古語であるかも知れず、さう見るに支障は無いやうであるが、部曲の文字はそれを漢譯したものではなく、後人が部曲の文字を訓むに當つて此の語を適用したものであることは、書紀にシナの成語が用ゐてある場合の一般の例からも推測せられる。特に、孝徳紀には「部曲之民」と書いてあるから、部曲がカキノタミの譯語でないことは明かである。部曲の字はかういふ事情で後世いろ/\に訓まれるやうになつたのであるから、其のうちの一つにウヂヤツコといふ、誤謬であることの明白な、訓があるのも怪しむに足らぬが、それによつて部曲をヤツコと解するが如きは全く無意味である。ヤツコは一般的稱呼であり、またそれは別々の「部」を形成してゐるものではない。だから「百八十部曲」などの稱呼がヤツコにあてはまらぬことは、この點からも明かである。なほ書紀では部曲を唐代の法制上の用語とは全く異なつた意義に用ゐてあるから、もし唐の部曲の稱呼によつて書紀の此の文字を解しようとするものがあるならば、それは大なる誤である。書紀と同じころに作られた令に於いて、唐の部曲に當るものとしては、次にいふ家人の稱呼が用ゐられてゐることを、考ふべきである。我が國では「部曲」が法制上の用語としては取られなかつたのである。
(278) なほ他の方面から考へても、上記のことは證明せられる。上にも述べた如く、大化元年の詔勅には良民と奴婢との區別が説いてあるが、良民の外に奴婢があつたことは、大化以前から繼承せられたものと見なければなるまい。奴婢の文字をあてられた國語はヤツコであらうが、奴婢は良民の家々に隷屬してそれに使役せられたものであり、ヤツコ(家つ子)の意義がやはりさうであらうから、ヤツコが古い語である以上、此の意義での奴婢もまた古くからあつたはずである。さうして、ヤツコの外には、奴隷もしくはそれに類したものを指すやうな國語が全く無いのを見ると、かゝる奴婢の外にさういふものがあつたとは考へられぬ。令に家人といふものがあつて、それは奴婢とほゞ同じ取扱をうけてゐるものであるが、たゞ「不得盡頭駈使及賣買」といふ點が奴婢と異なつてゐる。「不得盡頭駈使」とあるところから見れば、多分、別戸を構へて半獨立の生活をしながら世襲的に主家に隷屬し使役せられるものをいふのであらう。が、家人の稱呼は國語ではなく、さうして法隆寺資財帳に家人一百二十三口を性別にして、奴六十八口、婢五十五口としてあるのを見ると、家人が奴婢とも書かれた場合のあることが知られ、またそれから考へると、國語ではやはりヤツコといはれてゐたのであらう。ヤツコの外に奴婢らしいものを呼ぶ國語の無いことからも、さう推測しなければならぬ。家人といふのはシナ人が一般に僮隷の羸を呼ぶ名稱であることを思ふと、それを書籍の上から取つて新に定めた法制上の用語に過ぎないであらう。(雄略紀九年の條に吉備上道采女大海が韓*奴六口を大伴大連に贈つたといふことを記し、「吉備上道蚊嶋田邑家人部」がそれであるといつてある。意義がよくわからず、僅々六口が部であるといふのも解し難いが、それは此の話が事實を記したものでないからであつて、所謂家人は令の家人を想起して書かれたのではあるまいか。もしさうならば、家人の國語がヤツコであつたといふことは、この話からち推測せら(279)れようか。此の語の家人にはヤケヒトといふ訓がついてゐるが、他にかういふ語が用ゐられた例の無いのを見ると、これもまた後人の附會であつて、家人といふ漢字の直譯に過ぎなからう。)さて、此の考に大過が無いとすれば、家人はもと普通の奴婢として使役せられたものが、年功を積んだとか何等かの特殊の事情があるとかで、主家の思惠によつて半獨立の生活をするやうになつたものではあるまいか。令に奴婢が放されて家人になることの規定せられてゐるのも、かういふ風習を法制の上で認めたものであらう。奴婢と家人とを、名稱上、明かに分けたのも、法制の上の新規定であつて、本來それほど劃然たる區別があつたものではないらしく、それは同じくヤツコと呼ばれてゐたのでも知られる。勿論、一旦法制上の分限が定まると、それから後は實際に於いても、取扱の上に明かな區別をつけるやうになつても來たであらうし、また初から家人として使役せられるものが生じたかも知れぬが、續紀に奴婢のことが屡々現はれてゐるにかゝはらず、家人の文字が見えず、正倉院文書の戸籍に於いても同樣であるのを見ると、一般には、家人として特殊の取扱を受けるものが多かつたかどうか、疑はしい氣がする。が、それはともかくも、令に家人と呼ばれてゐるものも、其の由來が上記のやうであるとすれば、それはヤツコ即ち奴婢の一形態として、やはり大化以前からあつたに違ひない。家人の稱呼も、或は近江令に於いて既に作られてゐたかも知れぬ。(但し家人は、天智紀に見える民部家部とは何の關係も無く、それとは全く性質の違つたものである。民郡家部は、治者階級の貴族に隷屬する民として、法令によつて、設置廢罷せられたものであるが、家人は昔からの慣習によつてすべての良民の使役する奴婢の一種である。民部家部は良民たる農民としなければならぬ。)
 ところで、普通の奴婢も、後に家人といはれた奴婢も、即ちすべてのヤツコが、大化以前から存在し、さうしてヤ(280)ツコの外に奴隷もしくはそれに類するものが無かつたとすれば、天皇皇族及び諸家の私有民、即ち品部入部または部曲之民といはれたものは、明かに良民であつたはずである。彼等は決して諸家のヤツコ、即ち奴婢、ではなかつたからである。或は、諸家の私有民もヤツコと稱せられたのであるが、其の性質が奴婢のヤツコとは違ひ、農奴ともいふべき特殊階級であつたらう、といふやうな想像をするものがあるかも知れぬが、既に説いた如く、ヤツコが「家つ子」の義であるとすれば、それは家々で親しく使役せられるものの稱呼であるから、皇室皇族及び諸家が政治的意義に於いて土地と共に領有する多數の農民が、それらの領主のヤツコと稱せられたとは思はれぬ。(言語の意義は時代によつて變化するから、ヤツコとても其のさすところが幾らか違つて來たことはあらうと想像せられるが、領民をヤツコとはいはなかつたはずである。現に大化二年の改新の詔勅に「部曲之民」とか「子代之民」とかいふ稱呼が用ゐてあつて、此の「民」はタミの語にあてられたものと思はれるから、領民はタミといはれてゐたことが明かに知り得られるではないか。)皇室皇族及び諸家にもヤツコ、即ち奴婢はあつたに違ひないが、それは品部入部または部曲とは全く別のものであり、一般良民が使役した奴婢と同じものである。(令に見える官奴婢は、新に奴婢とせられたものも其の中にあらうが、大化以前に皇室や伴造の家などで使役せられた奴婢または其の子孫もあるであらう。大化以後の官司に伴造の職務を繼承したものがあるとすれば、奴婢にもまた伴造から引つがれたものがあらうと推測せられる。)また上文にも説いたことがある如く、全國の民に私有民ならざるものが無かつたのであるから、私有民がもし良民で無かつたとすれば、良民といふものは全く存在しなかつたことになるが、それは考ふべからざることではないか。或は、皇族及び諸家の私有民を皇室直轄の民と區別し、後者を良民と見ようとする考があるかも知れぬが、二年八月の詔勅には、(281)明白に天皇の民と皇族緒家の民とを一樣に同じ品部としてとして取扱つてあるから、さう解することはできない。かう考て來ると、諸家の私有民は決してヤツコと稱せられたのではなく、また農奴の如きものでもなく、全くの良民、即ち自由民、であつたことが知られよう。さすれば、大化の改新に於いて特殊階級のものが解放せられたといふのは、根據の無いことであつて、本來、解放せられるやうな特殊階級そのものが無かつたのである。ヤツコはあつたが、それは改新後も依然として存在してゐた。さうして、それが個人的に隨時解放することのできるものであつたことを思ふと、大化以前に於いてもやはり同樣であつたらう。奴婢は世襲的に其の地位を繼承したのでもあらうし、また賣買もせられたであらうが、本來、家々に使役せられるものであり、また隨時解放せられるものであり、戸令喪葬令の規定の如く法令上當然解放せらるべき場合さへもあるものであるとすれば、それを社會的階級として見るのも、既に妥當でない。ヤツコといふ階級のものがあつてそれを家々で使役するのではなく、家々で使役せられるものをヤツコと呼んだまでである。喪葬令に戸の絶えた時に家人奴婢は當然良民にせられることが規定してあるが、これは令の規定の作られた時にも、奴婢の性質がこゝに説いたやうに考へられてゐたことを、證するものである。さらに推測するならば、奴婢が、法制上、世襲的であるやうに定められたことにも、シナの法制の影響があるのではなからうか。根本的にいふと、良賤の區別そのことがシナの法制を學んだものであるので、それに當る國語が我が國に無かつたことを思ふと、身分として良といひ賤といふやうな區別が、嚴格な意味で本來わが國に存在したとは考へられぬ。實際に於いても良民と奴婢との分限は可なり曖昧であつたので、上に述べた大化元年の詔勅によつて子の所屬を明かにしたのも、實際の風習の上では、さういふ嚴格な規定が無かつたからであらう。さうして奴婢と其の主家の子女との婚媾が屡々行は(282)れたとすれば、奴婢が後世の賤民の如く、特殊民として賤まれてゐたものでないことは、おのづから想像せられよう。後に家人といはれたものの如く半獨立の生活をするもの、いひかへると、半ば良民として生活するもの、のあつたことをも考へるがよい。また、それを現代人の用語例に於いての奴隷と見るのも、大なる誤である。我が國の上代にギリシヤやロオマにあつたやうな奴隷があつたと臆測し、又は農奴の如き階級が存在した如く考へるに至つては、ヨオロッパの社會史上の事例によつて我が國の状態を推測しようとする現代の學者の通弊であり、それにはまたヤツコの奴と譯語としての奴隷などの奴との混淆もあるのではあるまいか。ヤツコの由來が征服しもしくは捕虜とした異民族を奴隷としたことにあるやうに考へようとするのも、また同じ過誤に陥つたものであらう。歴史的事實として知り得られるかゝる異民族は蝦夷か韓人かであるが、狩獵民族たる蝦夷は農耕に適しないものであり、韓人はむしろ尊重せられてゐたではないか。或は、悠遠な昔に於ける原住民といふやうなもののことを想像しての臆測であるかも知れぬが、ヤツコの性質と地位とが上記の如きものであり、さうして歴史時代に於いては、明かなる事實として、同じ日本民族がヤツコとせられてゐたのであるから、少くともさういふ臆測は、歴史時代に於けるヤツコの性質を知るには用の無いことである。なほ近ごろは、上代の社會に階級の對立が存在したやうに考へられてもゐるやうであるが、これにもまた現代の階級意識の反映があるのではなからうか。要するに、大化改新は奴隷の如き特殊階級を解放したのではなく、事實は却つて其の反對であり、唐制に倣つて良賤の區別を明かにしたことによつて、從來さまでの懸隔の無かつた普通の民とそれに使役せられるヤツコとの限界を明確にし嚴格にしようとしたのである。良賤といふ稱呼を附することに於いて、所謂「男女之法」を定めることに於いて、また奴婢には氏の名をつけないことに於いて。
(283) 要するに、大化の改新によつて社會組織が變革せられたのではなく、民衆の社會的地位が動かされたのでもない。改新は政治上の制度に於いてのことであつた。勿論政治上の制度の改革せられた影響として、社會的にもおのづから種々の變化が生じたことはあらうが、改新そのことは社會改革ではなかつたのである。新しい制度そのものに於いて舊慣が多く保存せられてゐたのも、また種々の方面に於いて制度の精神が貫徹せず、或は制度の完成と共に實際に於いては早くもそれが崩壞に向ひ、其の間から却つて舊時の状態が幾らかづつ形を變へて復活して行くやうになつて來たのも、社會組織が變らなかつたところに一つの理由があるのではなからうか。所謂氏族制度時代の氏族に關する思想が、官僚制度の下に於いてなほ有力にはたらいてゐたのも、破壞せられた舊制度の遺風が慙存したといふよりは、さういふ思想の根抵をなしてゐた實際生活が、制度の改新によつて、直接には變革を蒙らず、概していふと、依然として繼續せられてゐたことを示すものとすべきであらう。大化の新制は氏族の官職地位と其の土地民衆の領有との世襲的である點を改めたのみであつて、氏族の存在、其の構成、其の社會組織に於ける地位などを變革したのではなかつた。諸家の私有民が國家の民となつたのも、民衆からいへば、たゞ彼等に對する行政系統が改められたのみである、といふことは既に述べたところである。大化の改新によつて舊社會が破壞せられたやうに考へるものが、もし、あるならば、それは改新そのことの意義を理解せざるものであらう。
 
(284)   第八章 補遺と結語
 
 最後に補遺として、大化改新の由來に關する一私見を記して、思ひの外に長篇となつた此の稿を終らうと思ふ。あの如き改革が忽然として企圖せられ、また急激に行はれたとは解し難いやうであるから、局部的には其の前から徐々に新制度が立てられてゐたのではあるまいか、溯つていふと聖徳太子に其の端緒が開かれてゐたのではなからうか、といふやうな臆測が世間に行はれてゐはしまいかと思はれるからである。例へば、皇極紀二年の條に國司に關する詔勅があり、三年の條に中臣鎌子が神祇伯に任ぜられて固辭したことが見えるから、かういふ官職は大化の前から既にあつたのであり、またそれから類推すると、書紀に現はれてゐない新しい官職も其のころ幾らかはあつたかも知れぬ、といふやうなことが考へ得られないでもないやうである。けれども、國司については、應神紀五年履仲紀四年などの條に「國」といふ稱呼が全國を通じて劃一的に定められてゐる行政區劃の名である如く記されてゐ、雄略紀九年の條に河内國の官廳の報告といふものが見え、特に同じ紀の二十三年の條には、隋書から取つた詔勅の中に國司郡司の文字が織りこんであるなど、大化改新後の制度によつて構造せられたと見なさねばならぬ記事が、書紀の古い時代の部分にも現はれてゐることから、また神祇伯については、伯といふ文字の用ゐてあることから考へ、さうして「日本古典の研究」の第四篇に説いた如く、皇極紀に於いても書紀の編者の造作した記事の少なくないことを參考すると、これらの記載は、到底、事實の記録として認められないものである。從つて、かういふ記載からは當時の制度に關する何等(285)の推測をも試み難い。本來、蘇我氏の專權時代に朝廷の制度として新しいことが定められたと考へるのは、さういふ考へかたそのものが、正しいかどうか問題なのであつて、制度を立てるといふことと權勢を恣にするといふこととは、むしろ矛盾してゐるのではあるまいか。のみならず、大化の前には所謂臣連伴造國造が、それ/”\の地位と領民とを有つてゐて、それによつて全體の制度が成立つてゐたとしなければ、大化の改新そのことが無意味になるではないか。蘇我氏が廣大なる土地民衆を領有するやうになつてからは、それを管治するために何等かの新しい方法が案出せられ、從つてまたそれに要する吏員が置かれたかも知れぬが、それは朝廷の官司に關することではない。
 勿論、朝廷の制度についても、此の時代にすべてがもとのまゝであつたとはいひ難い。新しい文物が輸入せられ、佛教の信仰につれて、これまで無かつた事業が起り、朝廷の儀禮などにも隋唐の風が加味せられて來たとすれば、それについて、何等かの新しい事務の管理法が生じたでもあらう。推古朝に來朝した所謂新漢人は朝廷に用ゐられたものに違ひないが、それによつて新しい部(トモ)が形成せられたらしくは見えず、觀勒によつて傳へられた暦法天文などの學、佛寺の建築や佛像の製作に關する新技術についても同樣であり、伎樂※[人偏+舞]のためにも、樂戸は定められたらしいが、部はたてられなかつた。(天武紀十二年の條に見える黄文造が、もし推古紀十二年の條の黄文畫師と關係のあるものであり、さうして黄文畫師が佛畫を製作するものであつたと推測せられるならば、これは此の新技術について部が定められたことを示すものであるが、此の推測はたしかでない。)かう考へることに誤が無いとするならば、それは朝廷の制度に變革の氣運が向いて來たことを語るものであらう。さて、昔は外來の文物が朝廷に採用せられた場合に部が設けられたが、このころになつてそれが斯う變つたといふことは、新しい學問技術に舊來の部の制度が適合し(286)なかつたからと見るよりは、部の制度そのものが全體として、新文物の盛に採用せられるやうになつた當時の朝廷には、ふさはしくなくなつたからとする方が妥當ではあるまいか。限りなく傳來する新文物について一々部をたてることが、不可能になつたと見るのである。けれどもそれがために舊來の制度が全般的に改められたのでないことは、勿論であるのみならず、かういふ新しい取扱ひかたも、朝廷の全體から見れば極めて一小部分に對してのことであり、それによつて舊習が動かされるほどではなかつた。朝廷の事務が複雜となるにつれて、伴造の家のものも其の部の職掌ならぬ他の方面の任務につく場合が生じたらしく、例へぼ中臣連麻呂が隋使の接伴員となり、阿曇連が僧尼を管理する法頭になつた、といふやうな例もあつて、かういふことが常に起つて來れば、それはおのづから部の制度の精神を破るもののやうではあるが、このころの書紀の記載を通覽すると、例へば小野妹子や犬上御田鍬が遣隋遣唐の使節となつた如く、新しい職務には、多くは伴造ならぬ貴族、即ち地方的豪族、特に大和もしくは其の附近のものが起用せられたらしい。もしさうとすれば、これらのことは、必しも新しい職制を設けずして朝廷の事務が便宜處理せられてゐたことを示すもののやうである。(これはかなり古くからのことであつたらしく、蘇我氏が勢力を有するやうになつたのも、大和附近の地方的豪族が朝廷に何等かの地位を得る場合があつたからであらう。同じく地方的豪族であつても、大和附近のものは、一體に朝廷に對して特殊の關係を有つてゐたらしいので、それは地理的事情から自然に馴致せられたことと考へられる。天武天皇十三年に新定のカバネを賜はつた地方的豪族の大部分が大和附近のものであることも、かういふ古くからの因襲によつたものではあるまいか。)また僧尼を檢校するために、僧正僧都法頭が置かれたといふやうなことは、僧尼といふ特殊の生活をするものに對する特殊の制度であるから、一般の例とはなるまい。(287)部といふ名によつて知られてゐる職掌の世襲制は、實際の事情からいつても、朝廷の事務の次第に複雜ににもなり新いことが加はつてゆく時勢には適合しない、といふ一面を有つてゐるのであり、思想からいつても、既に冠位の制が作られてゐるやうな時代としては、それを其のまゝに維持し難い氣運が向いて來てゐたでもあらうが、まだ新しい制度を立て新しい官職を設けるまでにはなつてゐなかつたのが、推古朝乃至皇極朝ころの状態であつたらう。大化以後の新制度に於いて諸方面に舊習が多く保存せられてゐ、中央の官府に改新前の部の相承と見なすべきものが少からず含まれてゐることからも、このことは首肯せられるはずである。大化の前から、既に幾らかの新官職が設けられてゐたやうに臆測するのは、大化の改新によつて制度のすべてが變革せられたと考へるからであるが、此の考は事實に背いてゐる。大化の改新は變革の終結ではなくして端緒であり、制度は、それから後、漸次に定められて來たのであるが、それが容易に定められなかつたのは、舊慣が容易に改められず、或はむしろ舊慣を保存する必要のあつたことが、其の一大理由であつたらしく、其の舊慣を如何にして、また如何なる程度に、シナ式官僚政府の形態にはめこまうかが、解決し難い問題であつたと推測せられる。このことは前章までの考察によつて、おのづから知られるであらう。
 地方官などについても、全國を劃一的行政區劃としての國郡に分ち國司を派遣することは、勿論、新制であるが、皇室の直轄地民、皇族及び諸家の領土民衆は、それ/”\地方に散在してゐたので、それらを管治し租税を收納し役夫を徴發する制度が、おのづから成立つてゐたはずであり、從つてさういふ事務を處理するものも家々にあつたに違ひないから、大化以後の新制度に於いても、其の歴史的由來がかういふところにあつたものもあらうと思はれる。直接に皇室及び諸家の領土民衆を管治し徴税などの任に當るものは、領主の配下となつてゐたそれ/”\の土地の地方的豪(288)族であつたらしく、從つて領主と彼等との間に系統だつた聯絡がついてゐたことはいふまでもあるまいが、時には皇室及び諸家から何人かが地方の領地に派遣せられるやうなこともあつたらう。中央と地方との間に作られてゐた此の聯絡網は、皇族貴族が地方に領土部民を有することの多くなるに從つて、擴げられもし複雜にもなつて來たので、大化の改新は政權の統一によつてそれを整理したのであり、この中央集權制によつて始めてそれが形づくられたのではない。從つて新制度には種々の點に於いて舊慣の繼承せられたものがあつたはずである。郡司に伴造の部下であつた地方的豪族が任命せられた場合のあるのは、一面の意味からいふと、從來、伴造と其の部民との中間にあり主家たる伴造のために部民を管治して來たものが、新政府のための地方官となつたので、私的關係に於ける地位が公的關係のものに引きなほされたものであるといつてもよからう。(皇大神宮儀式帳の孝徳朝に始めて評の置かれた時のことを記してあるところに、屯倉を立てたとある「屯倉」は、普通に郡家と書かれてゐる郡の官衙をいふのであらうが、それをかう書いたのは、新設の郡家がミヤケといはれたからのことであり、さうしてそれは從來皇室直轄領の民を管治してゐた官衙の稱呼を適用したものである。これは單に稱呼のことに過ぎないが、新制度が舊制度の繼續として考へられる點のあつたことを示すものではあらう。上に述べた郡領が國造と呼ばれた場合のあること參照。)國司は郡司とは違ふが、上に述べた如く皇室及び諸家から何等かの任務を負びたものが地方に派遣せられることがあつたとすれば、それから一すぢの絲をひいてもゐよう。これらの點でも、地方と中央との關係が大化改新にょつて忽然として變化したのではないはずである。しかし、逆に、大化以後の國司のやうな朝廷の常任官司が前からあつたと、臆測すべきではない。大化の前に於いては、國といふ名を有するものは國造の領土の外には無かつたとしなければならず、さうし(289)て國造の領土は朝廷から派遣せられる官吏の管治をうくべきものではなかつた。もし國造の領土に朝廷から派遣せられる官司があつたとするならば、それは如何なる人物を任用し如何なる事務をとらせたのであるか。朝廷の官司にはトモがあつて其の首長たる伴造及び其の部下があるが、それにはそれ/”\の職掌があつて、地方に派遣せらるべきものではなく、國造などの地方的豪族は、他の地方の國造の領土を管治すべき任務につくべきはずがなからう。また國造が其の領内の部民を統轄する以上、國司が如何なる職務をとり得べきか、もし朝廷の監督官とでもいふべきものならば、國造と同じ地位にある縣主や伴造の領土にもそれが無くてはならなかつたであらうに、さういふ官司の名稱が全く史上に見えないではないか。世間には、地方に派遣せられたミコトモチと稱せられた官職は大化以前からあつたので、クニノミコトモチといはれた國司も其の類であるから、國司は大化以前からあつた、といふやうな説もあるが、國司が「國」の官司の義であり、其の「國」が地方區劃の稱呼であるべきことは明かであるから、クニノミコトモチといふものがもし大化以前からあつたといふならば、國と稱せられた地方區劃が、國造の領土としての國の外に於いて、其の時代に存在したことを立證しなければならぬ。しかしそれはできなからう。皇室直轄地はあつたけれども、それが國と呼ばれた形迹はどこにも無いといふことは、「日本古典の研究」の第四篇にも述べて置いた。のみならず、皇室直轄地は諸家の領地と性質を同じくするものであるから、さういふ直轄地の事務を處理し其の民を管治するものは、諸家の領土民衆を管治するものと同樣、やはり世襲の家であり、多分、地方的豪族であつたらうと考へられる。中央の官司たる部の首長がみな世襲の伴造であつたとすれば、此の點からもまた地方の官司が同樣であつたことを推測しなければなるまい。此の點については上に述べた大家臣や屯倉首に關する考説が囘想せられよう。時に何人かが皇室か(290)ら派遣せられて何等かの事務を處理することがあつたにせよ、さうしてそれがミコトモチといはれたとするにせよ、それは決して皇室直轄地に於ける常任の地方官司として見るべきものではなく、國司に比擬すべきものではない。其の直轄領が國といふ名を有たなかつた以上、それがクニノミコトモチでなかつたことは、一層明かである。國司は國といふ地方行政區劃の官司であり、さうして國といふ行政區割が設けられ、そこに一定の官司が朝廷から任命せられたのは、大化に始まるとしなければならぬ。それがよし國語でクニノミコトモチといはれたとするにしても、さうしてミコトモチの稱呼は前からあつたとするにしても、クニノミコトモチたる國司は斷じて大化以前にはあり得べからざるものである。のみならず、國司が果してクニノミコトモチといはれてゐたかどうかも、なほ考へねばならぬことであつて、強ちにそれを否定しなければならぬほどのたしかな根據も無いが、ミコトモチの語が朝廷から派遣せられてその命令を國に傳へまたは國で執行するものといぶ意義であるならば、その上に「クニノ」を加へてクニノミコトモチといふ稱呼としたことには、ことばのくみたての上からの疑問があるし、また國司の「司」がミコトモチの語にあてられたものであるとするならば、政府から派遣せられない郡の官吏が郡司と稱せられ、さうしてそれはコホリノミコトモチとは呼ばれなかつたことに、疑問があるのである。國司郡司は國と郡とを管治する官吏の名として新に造られた漢語風の名稱であつて、司はツカサと訓まれたのではあるまいか。世には所謂憲法十七條の第十二に國司國造と連記してあるのを、大化以前から國司の存在した徴證として見ようとする考もあるが、これは憲法が聖徳太子の作であることを前提としての考である。しかし、それを前提とするには、憲法の本文批判によつてそのことに確實性があるかどうかをまづ吟味しなければならず、さうしてその批列には國司が聖徳太子の時代にあつたかどうかを研究す(291)ることが重要な方法なのであり、從つてそれが先決問題なのである。
 次に大化改新の端緒が聖徳太子によつて開かれたといふのは、端緒といふ語の意義によつては、首肯し得られることである。推古朝に於ける遣隋使の派遣が如何なる目的で企てられたのであるか、それに政治的意味があつたかどうかは、問題であるが、少くとも其の半面に文物採訪の意圖があつたことは推測せられねばならず、其のころは、もはや、韓地を經由して間接にシナの文物を受入れたのでは滿足ができなくなつてゐた時勢であつたことが、所謂「新漢人」が此の時に隋から招聘せられたものらしく考へられること、また留學生留學僧を隋に派遣するやうになつたことからも、知り得られる。さうして、それが唐との交通となつて繼續せられ、それによつてシナの文物及び政治に關する知識が輸入せられ、終に大化の改新を誘發するやうになつたことは、いふまでもない。現に大化改新の顧問であつたと思はれる高向玄理と僧旻とは遣隋留學生であり、特に僧旻は新漢人であつた。ところで、推古朝の此の企圖は、少くとも聖徳太子の關與したことであらうと推測せられる。聖徳太子のみの事業であつたとは必しも考へられず、蘇我氏も有力なる參與者であつたと思はれるが、これだけのことはいはれよう。此の意味で聖徳太子は大化改新を導いたものではある。一般的にいふと、シナの文物の學習は當時に於ける必然の要求であつたので、必しも太子を俟つて始めて行はれたことではないが、太子が有力なる指導者であつたことは許されるであらう。また特殊の事業からいふと、太子の冠位の制定が、當時の氏族制度とは全く精神を異にするシナの制度を我が國に移植した點に於いて、大化改新の先驅であるともいひ得られるのである。けれども、太子が大化改新の如き改革を企圖してゐたとか、又は大化の改新が太子の理想の實現であつたとか考へるならば、それは大なる誤であり、太子薨後の二十餘年間に於ける歴史(292)の發展を無視するものである。冠位の制定が、直接には、政治上の制度の改革ではないことをも考へねばならぬ。太子にも何等かの改革の希望があつたかも知れず、それが實現せられないで終つたのかも知れないが、よしさういふ臆測を許容するにしても、其の希望が二十餘年の後に行はれたやうなものであつたとは、どうして考へ得られよう。政治的方面に於いては、大化改新は蘇我氏の滅亡を經なければできないことであつたが、それが太子の時代に豫想し得られたであらうか。文化的方面では、シナの制度に關する知識と、それに本づいた改革を企圖し又は承認するだけの知識上の準備とが、太子の時代に於いて大化時代と同樣に存在したであらうか。太子の薨じたのは、シナに於いて唐朝が起つたばかりの時であることをも知らねばならぬ。大化の改新は太子薨後の二十餘年の歴史の發展によつて始めてなし得られたものであることは、いふまでもなからう。のみならず、改新そのことが一つの歴史的經過である。改新の進行につれて新しい計畫がたてられ、或は舊來の計畫がおのづから修正せられ、それがまた新しい改新を誘發してゆく。根本の意圖と大綱とは動かされず、改新そのこともおのづから一定の方向を有つて進行して來たにしても、すべてが豫定の順序によつて最初の計畫が實行せられたものとは、いふことができないはずである。一切が遠い昔になつてしまつた後世から回顧すると、斷えず未來に向つて動いていつたことが、悉く過去の業績として固定したものの如く眺められ、長い年月の間に進行したことが、短い時間に壓縮せられて人の意識に上り、從つてまた何ごとも一定の意圖の實現せられたもののやうに錯認せられがちである。大化改新と聖徳太子とを結びつけて考へるのは、一つは太子を偉人視するところにも由來があらうが、一つはかういふ心理もはたらいてゐるのではあるまいか。
 聖徳太子と政治上の制度の改革とを聯想することは、なほ所謂憲法十七條の制定説話が一因をなしてゐるかも知れ(293)ぬ。此の憲法が、それに對する本文批判の上から、大化改新以後の作としなければ解し難いものであるといふことは、上丈にも言及したことがあり、詳しくは「日本古典の研究」の第四篇に説いて置いたが、法王帝説の記事は、それを確めるものと考へ得られるから、こゝにそれを附記しようと思ふ。法王帝説は時代が違ひ筆者が違ふ種々の記録を寫し集めたものであつて、其の間に重複してゐることもあり、太子の傳記と見なすべきことに關する記録とても、年代順に編纂せられてゐるのではなく、甚だ不整頓なものであるが、其の不整頓なところ、材料となつた記録が概してもとのまゝに寫し取つてあるところに、此の書の價値がある。しかし其の記録がすべて太子時代のものではなく、其のうちには太子が既に傳説化せられた後のもののあることが、慧慈に關する記載などからも知られる。特に終の方にある「近江天皇」の名の記されてゐる一條は、如何に早くとも、天武朝でなくては書かれないはずのものである。なほ此の「近江天皇」といふ書きかたは、次にいふ「志癸島天皇御世」などと共に、新しいものであることを、參考すべきである。これは正しくは「近江宮御宇天皇」または「志癸島宮御宇天皇」などといふべきものである。さて、此の一條は「――天皇御世」と書き出してあつて(此の「天皇」の上の文字不明)、其の書き出しかたは、此の一條のすぐ前の「志癸島天皇御世」、「少治田天皇御世」、「飛鳥天皇御世」と書き出してある三條と全く同じであるから、これらの四條は同じ時に同じ人の書いたものであることが知られる。(もつとも「天皇」の上の文字の不明な一條は、其の前の條の記載と同じく、皇極天皇時代の事件を記したものであるから、特にかう書き出して一條を立てるのは妥當でない。多分これは筆寫の際の誤から生じたことであつて、もとは「飛鳥天皇御世」の條につゞけて書いてあつたものであり、從つて「――天皇御世」は衍文であらう。)ところで、「立十七條法」といふことが、こゝの少治田天皇御世(294)の條に始めて現はれてゐるのである。(古典保存會で複製せられた古寫本によると、傳本にはもと「十七餘法」とあつたらしいが「餘」が「條」の誤寫であることは、いふまでもあるまい。)いひかへると、法王帝説に於いては、所謂憲法十七條のことが、天武朝またはそれよりも後の時代に書かれたところにのみ見えてゐるのである。十七條法の製作はこゝで帝位の制定と連記せられてゐるが、帝位については、別に前の方にもやゝ詳しい記載があるのに、そのあたりには十七條のことが全く見えてゐない。法王帝説は秩序だつた編纂ではないけれども、太子の薨去に關することが多く載せてあつて、主要な事蹟は其の前に列擧せられてをり、爵位の制定のことも其のうちにあるにかゝはらず、憲法のことがそこには記されてゐないのである。十七條の憲法といふものが、早くから太子の作として人に知られ世に尊重せられてゐたならば、これは甚だ怪しいことではあるまいか。太子の憲法制定説が古い記録には見えずして後になつて現はれたものであるといふことを、之によつて推測しても大過は無からうと思ふ。少くとも、法王帝説に記載せられてゐるといふことは、決して古くからの傳説であることを證するものではない。けれども、それが書紀の完成前からあつたものであることは、こゝに其の制定の時期を乙丑年(書紀の紀年によれば推古十三年)の七月としてあり、十二年四月にかけて記してある書紀とは違ふことによつて知られる。これは、この志癸島少治田二朝に關する記事の年月がみな書紀と違つてゐて、それが書紀の紀年のまだ定まらない前の説として考ふべきものであることからも、推測せられねばならぬ。なほ、こゝに「十七條法」とあつて憲法の名が見えないのも、「憲法十七條」といふ、書紀に見える如き、稱呼が此の文の書かれた時には、まだできてゐなかつたことを、示すものであらう。憲法の名は、或は書紀の編者のつけたものであるかも知れぬ。上に地方官の官名について説いて置いたやうに、後の名稱を用ゐて(295)さういふ名稱の無かつた時代のことを記した例すら、書紀にはあるから、それから類推すればあういふことがあつたとしても、怪しむには足らないであらう。太子の如く後になつて偉人視せられた史上の人物に種々の事業が假託せられるのは、普通のことであるから、憲法制定もまた同じ事情から太子に附會せられ、時が經つに從つて其の説話が形を具へて來たのである。三經講説の説話が生じ、それが更に發展して三經義疏述作譚となつたのも、同じ例と見るべきものではあるまいか。かう考へて來ると、太子と大化改新とを結びつけて考へることの根據は、おのづから失はれたはずである。
 終に臨んで贅言を附記する。余は大化の改新を考へるに當つて、書紀の記載を其のまゝに受取らずして、先づ其の本文研究を試み、記事の整理を行ひ、それによつて論を立てようとした。また、大化の改新が歴史上の事件であるのみならず、改新の事業そのことが時間的經過を有する歴史的進行である點に、特殊の注意をしようとした。それから、近ごろの社會史的經濟史的考察には、ともすれば現代の社會意識、階級意識、もしくはヨウロッパの社會史から與へられた知識に累せられる傾向のあるのに鑑み、つとめて當時の状勢と生活と思想とによつて改新の意義を討尋しようとした。私見の是非はともかくも、余の用意はこゝにあつたのである。
 
(297)     第三篇 上代日本人の道徳生活
 
 上代日本人の道徳生活を其の全般にわたつて考察することは、困難な問題である。こゝには、第一に文獻上の記載によつて道徳意識の發達の徑路をあとづけることを試み、第二に上代の家族形態、社會機構、及び政治組織との關聯に於いて遺徳生活そのものの状態を觀察し、さうして終に至つて此の二つの考へかたを綜合してみようと思ふ。要するに一つの試みに過ぎないが、此の方面の研究に何等かの貢獻するところがあるならば幸である。
 
       第一章 道徳意識の發達
 
 記紀や祝詞などの古文獻を通覽すると、道徳について種々の違つた思想のそれに現はれてゐることが注意せられる。スサノヲの命の高天原での物語に、此の命の上つて來たのは「善心」ではなからうとか命に「邪心」は無いとか、いふことがいはれてゐるが、これは人の行が心から出るもので其の心によいのとよくないのとがある、とせられたことを示すものである。かういふ考へかたからは、人の行爲の道徳的責任が其の人にあることになるので、スサノヲの命が千くら置きどを負はされて高天原から放逐せられたのは、之がためと解せられる。大祓の祝詞にある「天の益人ら(298)が過ち犯しけむ種々の罪」といふ語にも、ほゞ同じ考が存在するので、罪は人の犯したものとせられてゐるのである。しかし他方では、祓をすることによつて「罪といふ罪」が無くなるといつてあつて、こ*れとそれとは一致しないものである。のみならず、此の祝詞には、昆蟲の災、高津鳥の災など、人の犯した罪でないものをも罪と並べ記し、罪といはずして特に災といふ語を用ゐてはありながら、所謂國つ罪のうちにそれを包合させてある。祓によつて罪が無くなるといふならば、罪は、究竟、人*の責任ではないことになるから、災と同視せられるのも怪しむに足らぬが、さうすると、大祓の祝詞には矛盾した*、二つの思想が含まれてゐるといはねばならぬ。或はまた、祓によつて罪を無くするといふのと、御門祭の祝詞に見える如く、人の咎過を神が大直び神直びに見直し聞直すといふのとも、互に一致しない考*へかたであらう。これらは一二の例に過ぎず、また一層細かに考へねばならぬことであるが、ともかくもかういふやうな相互に一致しない、或は矛盾した、考へかたと思はれることが存在するのは何故であるか、それが問題である。
 これについて何人にも思ひ浮かべられるのは、道徳意識の發達の歴史に於いて異なれる段階にあるものが文獻の上に混合して硯はれてゐる、と解することである。祝詞はもとより記紀の上代の物語とても、それが始めて形成せられたのは決して古いことではなく、余の考では、記紀の物語は六世紀に入つてからの作、また祝詞は其の最も早く書かれたもの、もしくはさういふ部分でも、七世紀より前には溯り得ないものである。だから、それに記されてゐることは、其のまゝの形では、六七世紀よりも遙かに遠い古代からいひ傳へられたものであるとは考へられぬ。けれども、人の思想は、一方に新しく發達したものがありながら、それと共に舊くから傳へられたものも消え失せずに存在し、それが種々の形で絡みあつておるのが普通の状態である。特に道徳觀念やそれと關係の深い宗教的信仰などは保守性の(299)強いものであるから、一般に人の思想の発達した後となつても、なほ幼稚な時代のが存續してゐる。だから、新しく作られた物語などに、其の作られた時代の道徳觀念が現はれてゐることは勿論ながら、それと共に、古くからの因襲として存在したものもまたそれに含まれてゐると見るのは、決して不當ではない。また記紀の上代の物語には民間説話として古くから傳へられたものが取入れてあるから、さういふ部分には、かなり遠い昔の道徳觀念が潜在してゐるかも知れぬ。のみならず、記紀の物語はそれが始めて作られてから今傳はつてゐるやうなものとなるまでには、六世紀及び七世紀の長い間に種々の變改潤色が加へられてゐる。祝詞とてもまたもとのまゝのものではなく、これにはまた八世紀以後に改められたところもあるらしい。さうしてこれらの時期には政治上の重要なる變革が行はれたと共に、シナ文化シナ思想が盛に輸入せられもしたのであるから、記紀の物語にも祝詞にも其の影響が現はれてゐることを想像しなければならぬ。シナの文字を用ゐて書き現はすといふことが、書き現はさうとする思想を、文字そのものに含まれてゐる思想によつて色づけ或は歪曲する結果となり、さうしてそれによつて却つて思想そのものが變化してゆくといふことさへもあつた、と推測せられる。要するに、上代文獻の記載には、種々の事情によつて生じた道徳觀念の歴史的變化もしくは發達の過程に於いて、異なれる時期に生じた異なれる思想が混在してゐるに違ひない。道徳意識そのものについてもまた同樣である。
 上記の觀點から、記紀や祝詞などの文獻上の記載によつて、上代人の遺徳意識の發達の徑路をたづねて見ようとするのが、此の一章の主旨である。
 余は先づ、道徳的意義に於いての善と惡とをいひあらはすことばがあるかどうか、を檢討することから始めようと(300)思ふ。道徳意識が明かになつてゐれば、さういふことばが生じてゐるべきはずだからである。それについて第一に考へられるのは、善惡といふ漢字が上代の文獻に用ゐられてゐることであるが、古事記の神代の卷に善心、惡神、また書紀の神代紀に善意、惡心、惡神、などといふ文字があるので、これらの文字によつて寫されたことばの何でありそれが如何なる意義を有つてゐるかが問題である。常識からいふと、善惡はヨシアシの語にあてられたもののやうであるが、履仲紀にある惡解除、善解除を、普通にアシハラヘ、ヨシハラヘ、と訓んでゐるのは、當つてゐるらしい。履仲紀の此の記載は、神代紀に手端吉棄物、足端凶棄物、とあるのに相應ずることであり、從つて吉凶は善惡と同じ語を寫したものと推測せられるが、手端吉棄を原注にタナスヱノヨシキラヒと訓むやうに記してあるから、吉凶はヨシアシの語にあてられたものであることが知られるからである。しかし、ヨシアシの語が善惡とも吉凶とも書かれてゐることから考へると、それは道徳的意義に於いての善惡をいふには限らぬものであることが、それと共に、明かになつて來る。アメノワカヒコの物語の雉のなく聲について古事記には「其鳴音甚惡」といひ書紀の「一書」には「鳴聲惡鳥」といつてあるが、此の惡がアシの語を寫したものとして支障の無いことをも、參考すべきである。(善解除惡解除などの意義については後に説くこととして、こゝではたゞ善惡の文字によつて寫されてゐることばと其の意義とのことをいふのみである。)
 但し善意の字が何時でもヨシアシの語にあてられてゐるには限らない。宣長は古事記の善心をウルハシキコヽロ、惡神をアラブルカミと訓んでゐるし、書紀では惡心をキタナキコヽロと訓み習はしてゐるところもあるが、此の訓みかたの適否は後で考へることとして、古事記の雄略の卷に一言主の神のことばとして記してある惡事善事は、宣長の(301)考説した如く、マガコト、ヨゴトであらう。御門祭の祝詞に惡事を「古語麻我許登」と注してあるのが其の例である。この祝詞の「事」は「言」の借字であり、古事記のも或はそれと同じに解せられるかもしれぬが、それは別の問題として、マガの語が惡の字で寫されてゐることは疑が無い。ところが、マガは、古事記にマガツヒの神を禍津日神と書いてある如く、「禍」の字でも書かれてゐるので、それから考へても、遺徳的意義での惡を指すに限らぬことが知り得られる。マガツヒの神はヨミの國のけがれによつて成り出でた神であるといはれてゐるし、マガレ(マガ有れ)といふ呪詞を唱へて天から射下された矢がアメノワカヒコに中つたといふ話もある。さてマガの語の原義はまがつてゐること、即ち枉もしくは曲の字で寫さるべきことであるらしく、書紀の「一書」にマガツヒを枉津日と記してあるのも注意を要する。さすれば、それに對するものがナホであることは、ことばの上から自然に推測せられるので、マガを直すために成り出でた神がナホビの神であるといふ話にも、それが見えてゐるが、マガの意義が上に述べたやうであるとすれば、ナホもまた道徳的意義に於いての善ではないに違ひない。要するに、ヨシとそれに對するアシと、ナホとそれに對するマガと、此の二對の語があるが、それは現代人の用語例でいふと廣い意義での、また通俗的の意義での、よいこととわるいこととに當るのであつて、人の生活に適合することがヨシでありナホであり、人の生活を害し妨げることがアシでありマガであると見て、大過はあるまい。從つてまたそれは人の行爲には限らぬことであり、人の身に加はることのすべてについていはれるのである。人のすることにしても、行爲する側からいふのではなくして、享受し遭遇する方面からいふのである。此の點から考へても、それが道徳的意義のものでないことが知られる。
 ところで、かう考へると、アシもマガもほゞ同じ意義に用ゐられてゐたのであるから、マガに對してヨシといふ語(302)を用ゐる場合も生じて來たらしく、上に引いた例に於いてマガコトに對してヨゴトといつてあるのは即ちそれである。ヨゴトは、出雲風土記に見える國造の神吉詞、また祝詞式の出雲國造神賀詞にある神賀吉詞の「吉詞」に當る語であつて、本來はよきことをあらせようとする呪詞をいふのであらう。(大殿祭の祝詞に護言の字で寫されてゐるイハヒゴトも同じ意義であり、また言壽と書いてあるコトホギといふ語のあるところから考へると、それはホギゴトともいはれ壽詞の文字が充てられてゐたらしく思はれる。現に持統紀四年の條に壽詞の文字がある。普通には此の持統紀の文字をヨゴトと訓んでゐるが、これらの文の書かれたころにはホギゴトもヨゴトも同じ意義に用ゐられてゐたらしいから、それでもよい。コトホグといふのも、ことばの呪術をいふのが其の原義であらう。但しイハヒゴトは語の意義が違つてゐて、其のイハヒは普通に齋の字で書かれてゐるのと同じであらうが、それを唱へる意味はやはり呪詞としてであつたと推測せられる。)さて、ヨゴトの意義が上記のやうであるとすれば、それに對するマガコトは禍をあらせるための呪詞をいふのが本義であつたらう。萬葉三の卷の挽歌などに枉言といつてあるのはそれから轉じたものらしい。(この「枉」を「狂」の誤寫と見なしてタハコトと訓む説もあるが、此の語は所々にあつて、何れも枉の字が用ゐてあるやうに思はれるから、余は此の文字のまゝに解し、それをマガコトの語にあてられたものと考へる。)一言主神の語のマガコト、ヨゴトのコトが、もし言の義であるならば、それは神の託宣についていはれたものであつて、その意義はやはり上記の呪詞のと同じく、よきことと禍とをあらせることばといふのであらう。呪詞が宗教化して神の託宣となつたのである。が、ヨシといふ語にもマガといふ語にもかういふ用ゐかたがあつたとすれば、それが道徳的意義での善惡といふやうな概念を現はしてゐるものでないことは、いよ/\明かであらう。以上は國語のヨシとアシと(303)またマガとナホとについての一般的考察であるが、かの善心とか惡心とかいふ文字によつて寫されてゐる語に關しては、別に考へねばならぬことがある。此の場合の善と惡とは心の形容詞として用ゐてあるから、それは道徳的意義に於いていつたものであり、少くとも人の行爲する側からいつたものと解せられるからである。が、それを考へるについては、上代の文獻に於いて、心の形容詞として如何なる語が用ゐられてゐるかをしらべて見なければならぬ。
 心を形容する詞は古事記には多く見えてゐず、神代の卷に「心之清明」また「心清明」とあり、同じ卷及び崇神の卷に邪心、また履仲の卷に穢邪心、とあるなどが目につくのみであるが、書紀には神代紀に於いても「心明淨」といふことがある外に、赤心とそれに對する黒心と、清心とそれに對する濁心との、對稱的な稱呼がある(黒心の語は應神紀九年の條にも見えてゐる)。また平心、好意、などの文字も見えるが、平心はアメノワカヒコの物語に於いては惡心に對して用ゐられてゐる。なほ仲哀紀には明心といふ文字も見える。それから大殿祭祝詞には邪意穢心といふことがある。そこで問題は、これらの文字で寫された國語が何であるかといふことである。宣長は清明をアカキと訓み、キヨキアカキと訓んでもよいといつてゐるが、それに應ずる書紀の明淨は一般にキヨシ(ク)とよまれてゐる。また書紀のは、普通の訓みかたでは、赤心清心が共にキヨキコヽロ、黒心濁心が共にキタナキコヽロとせられ、平心はキヨキコヽロともタヒラカナルコヽロともしてあり、好意はヨキコヽロとなつてゐる。仲哀紀の明心もキヨキコヽロと訓まれてゐるらしい。古事記の邪心と穢邪心とは宣長によつて共にキタナキコヽロと訓まれてゐるが、祝詞の邪意穢心はアシキコヽロ、キタナキコヽロ、とするのが普通のやうである。
 そこで、次にはこれらの訓みかたの適否如何を考へねばならぬが、第一に注意せられるのは、明淨心または淨明心、(304)清明心といふ文字が、慶雲四年天平元年天平勝寶元年天平寶字元年などの宣命に見えてゐると共に、文武天皇元年のに「明支淨支直支誠之心」と書いてあるところがあるから、此の二つを對照して見ると、明淨心または淨明心と清明心とは、アカキキヨキコヽロまたはキヨキアカキコヽロと訓まれたに違ひないといふことである。天平寶字元年の宣命に明直心とあるのも、此の文武元年のによつて推測すると、アカキナホキコヽロであるべきことが參考せられる。さすれば、書紀の明淨も、從つてまた古事記の清明も、アカキキヨキもしくはキヨキアカキの語にあてられたものとするのが妥當である。敏達紀十年の條の清明心、また孝徳紀白雉元年齊明紀二年持統紀三年の諸條の清白意も、共に同じ語であらう。さすれば明心がアカキコヽロであるべきことは、おのづから明かである。さうして、かういふやうに心の形容詞としてアカシ(キ)といふ語が常に用ゐられてゐるところから推測すると、赤心の赤もまたアカの語を寫したもので、其の意義は明の字で寫してあるのと同じであることが知られる。赤も明も國語では共にアカであるから、明心とすべきを赤心とも書いたのである。色の赤をアカといふのも明るいからのことであらうから、それと明とは本來一つことばであつたが、こゝではそれをいふのではなく、かういふ文字の書かれた時に赤も明も共にアカといはれてゐたといふのである。白の字もまた明るい意味でアカの語にあてられたものと考へられる。さすれば、赤心や明心をキヨキコヽロと訓むのは誤であり、眞淵が日本紀訓考に於いて、守部が稜威道別に於いて、共に赤心をアカキコヽロと訓んでゐるのが正しいとしなければならぬ。しかし清心の文字で寫された語は普通にいはれてゐる如くキヨキコヽロであることが、やはり心の形容詞として常にキヨシ(キ)といふ語が用ゐられてゐたことから知り得られる。
 また濁心は清心に對する語であるから、これも通説の如くキタナキコヽロであらう。書紀の原注に汚穢を枳多儺枳(305)とよむやうに記してあるが、濁もまた汚穢であり、さうして祝詞の穢心が、此の書紀の注によつて考へると、キタナキコヽロであるべきことも、參考せられる。たゞ問題となるのは黒心であるが、それがアカキコヽロに對して用ゐられてゐることを思ふと、キタナキコヽロとするのは少しく疑はしい。余は或はクラキコヽロではないかと臆測する。色の黒をクロといふのも暗いからのことで、此の二つは本來一つことばであつたらうが、こゝではやはりそれをいふのではなく、アカキコヽロを赤心と書いたに對してクラキコヽロを黒心としたらしく考へられるからである。明るいことの反對が暗いことであるのはいふまでもないが、明るい明つ島または現つ島(秋津島)に對して暗いヨミの國があり、明るい光の日の神が隱れられると世界が暗くなるといふやうに、物語の上でも明暗の對照が特に著しく現はれてゐるのを見ると、上代人の思想に於いて此のことが力強くはたらいてゐたやうであるから、かう考へても大過はあるまい。もしさうならば、アカキコヽロとそれに對するクラキコヽロと、またキヨキコヽロとそれに對するキタナキココロとの、二つの對稱的になつてゐる語の上代にあつたことが知られる。
 次に平心が惡心に對して用ゐられてゐる場合には、善心の字で寫されてゐるのと同じ語と見てよいかと思はれるが、然らざる場合のは、日の神がスサノヲの命の暴行をも慍らずして平心を以て寛容せられたといふのであるから、タヒラカナルコヽロと訓み、特殊の場合の特殊の心理を示した語とすべきであらう。また好意はヨキコヽロとする外に解しやうがあるまい。心と意とは同じくコヽロの語にあてられたものであつて、文字の違つてゐることに意味は無い。それから、邪心は祝詞に邪意と書かれてゐるのと同じであらうが、邪意は穢心と連記してあるから、少くとも其の場合にはキタナキコヽロと訓まれたのではないはずであり、穢邪心も、清明心や淨明心の例からいふと、穢と邪とにあ(306)てられた二つの語を重ねたものと解せられるから、それをキタナキコヽロと訓むのは首肯し難い。天平寶字八年の宣命に「逆仁穢岐奴」、神護景雲三年のに「惡久穢心」などの語のあることをも參考すべきであらう。(天平寶字八年の別の宣命に「貞久淨岐心」また「明仁貞岐心」、天平神護元年のに「明仁淨岐心」などとあつて、これから後のにも同じやうな讀みかたがしてあり、語を重ねる場合のいひかたが上に記したのとは違つてゐるが、これは時代にょつて變化が生じたことを示すものであらう。「惡久穢心」もまた同樣であつて、記紀の書かれた時代ならば、それは「惡支穢支心」といはれたであらうと考へられる。)さすれば、邪心はやはり祝詞によまれてゐる如くアシキコヽロであつて、穢邪心はキタナキ・アシキコヽロではあるまいか。かう考へて來ると、ヨキコヽロとそれに對するアシキコヽロとの語も、また上代にあつたことが推測せられる。もしさうならば、善心(善意)と惡心ともまたヨキコヽロとアシキコヽロとの語を寫したものとして支障は無い。宣長の如く善心をウルハシキコヽロ、邪心をキタナキコヽロと訓むのは、必しも當つてゐなからう。さうしてかう考へるならば、惡心に對する語として書いてある場合の平心もまたヨキコヽロであらう。同じ語がしば/\異なつた文字で寫されてゐること、同じ文字が必しも常に同じ語をあらはしてゐるに限らぬことは、上記の幾つかの例からも知り得られたはずであるから、かう解するに誤はあるまい。
 以上はことばの一々についての考察であるが、記紀に於いては、ヨキとアカキとキヨキと、またアシキとクラキとキタナキとは、コヽロの形容としていはれる限りでは、それ/”\同じ意義に用ゐられてゐるやうである。さて赤心といふ熟字はシナにあるが、それは丹心といふのと共に、まごころをいふのであつて、書紀に用ゐられてゐるのとは全く意義が違ふ。(もつとも後になると、同じ語がそれを寫すために借り用ゐた漢字の意義に轉化することもあるので、(307)例へば萬葉二十の卷の大伴家持の喩族歌に「かくさはぬあかきこゝろ」とあるのは、漢字の赤心の意であらうと思はれるが、それは書紀などの用ゐかたではない。)清心もシナに無いことはないが稀に用ゐられたのみであり、さうして黒心と濁心とはシナの典籍には見當らないやうに思はれる。(是非善惡を定めることを黒白を明かにするといふやうにいつてゐる例があるが、これは黒と白との對照の最も鮮やかな色を假りたまでのことであつて、黒に惡の、また白に善の、義があるのではない。)清明、明淨なども、さういふ文字はシナにもあるが、心の形容詞としてではなく、清白は人の性行をいふ場合に用ゐられてゐるけれども、清白意といふやうな熟字は作られてゐない。平心、穢心も、またシナ傳來の文字ではあるまい。だから、これらの文字によつて寫されてゐる上記の國語は、漢字の譯語、即ち訓、としてではなく、獨立に存在したものと見なされる。しかし、善心、惡心はシナで用ゐられてゐた熟字であり、邪意もまたさうであらうから、ヨキコヽロ、アシキコヽロ、が其の譯語として作られたのであるか、但しは國語として存在したこれらの語に外來の熟字をあてはめたのであるかは、問題である。のみならず、よし國語として存在してゐたにせよ、本來さういふ語の作られたことに、全體としてのシナ文化の影響があつたかどうかも、一應は考へて見る必要があらう。上に述べた如く、心にヨキコヽロとアシキコヽロとがあるといふのは、ヨシといひアシといふ一般の用語例とは趣を異にするものだからである。さうしてこのことは、それと同じやうな形での形容詞をコヽロの上に加へた語であるアカキコヽロ、クラキコヽロ、またキヨキコヽロ、キタナキコヽロについても適用せられよう。
 それについて先づ上代人が何をコヽロといつたかを考へてみるに、それは心または意の字をそれにあててあることによつて知られるのみであり、コヽロの語の意義も余にはわかりかねる。神代紀の本文及び注の二つの「一書」に田(308)心姫と書いてあるのが、別の「一書」に田霧姫、また古事記に多紀理毘賣とあるのと同じ神であり、さうしてキとコとの音が轉化し易いものであることを思ふと、それをタコリヒメと訓み習はしてゐるのは正しいやうであるから、これはコリといふ語を心の字で寫したものらしく、從つてコリ、またキリ、といふ語とコヽロとは同じ意義、少くとも同じ意義の語から分化したもの、であり、コリまたキリの語でコヽロの語の原義が説き得られるやうでもあるが、タコリヒメの名に含まれてゐるコリの意義は心とは關係の無いものであつて、此の場合の心の字は單なる假名として用ゐられたものであり、さうして同音の語は必しも同義の語とは限らないのであるから、余は今のところ、これ以上に推測を進めることを控へて置きたい。たゞ人のタマが或る形を有するものとせられ、時には身體から遊離し得るものとして信ぜられてゐたとは違ひ、コヽロがそれに類するものと考へられてゐたらしい形迹は、古典の上には見えないやうであり、また身體の一部位もしくは内臓の何ものかが、コヽロと呼ばれてゐたやうな明徴も無い。コヽロに「肝むかふ」とか「むら肝の」とかいふ冠詞がつけられてゐること、また推古紀舒明紀に「肝わかし」といふ語があつて、それは思慮が幼稚であるといふ意義らしいことを思ふと、キモがコヽロである如く考へられてゐたやうにも見えるが、これは多分、漠然コヽロがキモにあるとせられたのみのことであつて、其のコヽロが、キモと總稱せられてゐた内臓の或る部分として、又は内臓のどこかにある有形のものとして、明かに考へられてゐたのではなからう。少くとも、心とか意とかいふ文字が、コヽロの語にあたるものとして、書かれた時代に於いてはさうである。萬葉には、情、神、精神、心神、といふやうな文字でコヽロの語を寫してあることをも、參考すべきであらう。さすれば、文獻に見える限りに於いては、コヽロはほゞ今日用ゐられてゐるのと同じ意義を有する語であつた、と考へて置く外はあるまい。
(309) 次には、コヽロにいろ/\の形容詞のついてゐるのは、心そのものにいろ/\あるといふのか、一つの心のはたらきがさま/”\であるといふのか、といふ問題がある。これもタマと對照して考へるのが便宜であるが、アラミタマ、ニギミタマといふのは、タマそのものにいろ/\あつて、それにかういふ名をつけたものらしく、人が二つのタマを具へてゐる、或は具へ得る、ものとせられたことを示すものであらう。が、それはタマが形を有するものとして考へられたからではあるまいか。人に二つのタマがあるといふことは、神功紀の神のミタマに關する説話から考へたことであるが、神についてかう説かれたのは、人に於いてさうであることの反映として解せられる。(サキミタマ・クシミタマ、またはイクタマ・サキタマといふやうな語もあるが、これは一つのタマについて二つの形容詞的美稱を重ねたまでのものであつて、タマにそれ/”\特殊のものがあるといふのではなく、アラミタマとニギミタマとの場合とは違ふ。一つのものについて同じやうな美稱を重ねる例は古語に甚だ多いが、アラとニギとは反對の性質のあることを示すものであつて、さういふ形容詞とは違ふから、これは一つのタマについて重ねて用ゐらるべきものではなく、アラミタマ・ニギミタマとして連稱せられた例が古典にも見えない。もつともアラタヘ、ニギタヘ、または毛のアラモノ、毛のニゴモノ、などとはいはれてゐるが、これは皆それ/”\別のものを指すのである。なほ、タマに二つあるとすれば、アラともニギともいはれてゐないタマ、即ちサキミタマやクシミタマの如きものは、何であるかの疑問も生ずるが、これはタマに關する思想の變化として解すべきものであらう。タマはもとは一つのタマと考へられてゐたのが、後になつて其のタマに二つのはたらきがあるとせられたところから、それ/”\異つた性質を有する二つのタマが存在するやうに思はれて來たと共に、他方ではやはり古い考へかたも繼承せられてゐたと見るのである。)しかし、コヽロ(310)の語が今日用ゐられてゐるのと同じ意義であり形の無いものをいふのならば、それにいろ/\の形容詞がついてゐるのは、多分、一つの心のさま/”\のはたらきとして見るべきであらう。
 ところで、心に種々のはたらきがあるといふのは、心といふものを主として考へたからであり、さうしてそれは、行爲の主體として人が考へられ人の心が考へられてゐたことを示すものである。從つてそれは道徳意識が發達しなければ生じないものである。ヨキコヽロ、アシキコヽロについていふと、ヨシとアシとは、上に説いた如く必しも道徳的意義を有するものではないけれども、それが心のはたらきを示す語となれば、それはおのづから道徳的意義に轉化して來るはずである。ヨシとアシとは外部から人の身に加はつて來ることのすべてについていはれてゐるのではあるが、それを人の行爲の側から見、其の行爲の主體としての心についていふとすれば、それはさういふ意義でのよいこと、わるいことを(他人に對して)行ふ心のはたらきであるから、よし行爲の效果についていつたことであるにせよ、其のヨシとアシとは道徳的意義を有つたものになる。或は、ヨキコヽロ、アシキコヽロ、といふ語の生じたのも、すべてのことによきこととあしきこととがあるといふ考から、心のはたらきにもそれがあると、漠然、思惟せられたに過ぎないのではないかともおもはれるが、よしさう考へるにしても、心が上記の意義のものである限り、それは人の行爲の主體であらうから、其のはたらきのヨシとアシとは、行爲となつて現はれ、從つてまたそれが他人に何等かの效果を及ぼすものとせられたに違ひなく、物語の上でもさうなつてゐるから、畢竟、同じところに歸着する。のみならずヨシとアシとが心の形容詞として用ゐられる以上、ことばの上から其のヨシとアシとは、他人に及ぼす行爲の效果のみでなく、心のはたらきそのものに此の二つがあることになるのであるから、それは當然、道徳的意義に於いての善惡(311)として解せられるやうになつて來なければならぬ。ヨシとアシとは、心の形容詞として用ゐられることによつて、其の意義が變化して來るのである。要するにヨキコヽロ、アシキコヽロ、といふ語の生じたのは、それが生じた時代に道徳意識の發達してゐたこと、從つて道徳的意義に於いての善惡がヨシアシといふ語によつて表現せられるやうになつたことを、示すものであらう。アカキ・クラキコヽロ、キヨキ・キタナキコヽロも、それ/”\のことばが心の形容として加へられてゐる點に於いては、之と同じであるが、しかしそれは直接には人の行爲の效果を示すことばでなく、またそれが譬喩の言たる點に於いて、之とは少しく趣を異にしてゐる。明るい暗いといふこと、清い濁(穢)いといふことは感覺であつて、それをコヽロの形容とするのは、コヽロそのものが上記の如く感覺せられるものでない以上、譬喩の言とする外は無いからである。さうして心についてかういふ感覺的ないひかたをするのは、道徳意識の明かになつてゐないためであるやうにも見え、從つてヨキ・アシキコヽロの語よりも、思想の發達の段階に於いて低い地位にあるもののやうにも思はれるが、しかし一方からいふと、斯ういふ譬喩的な表現法は、ヨキコヽロ、アシキコヽロ、といぶ觀念の既に形づくられた後になつて、始めて生じ得べきものとも考へられ、さう考へる方が妥當のやうである。奈良朝の宣命に於いてそれが常に用ゐられてゐるのを見ても、思想の進んだ時代に此の語の好まれたことが知られる。記紀には兩方とも用ゐてあり、而もそれらが上に述べた如く全く同じ意義の語となつてゐるが、かう考へればそれに不思議は無い。ところで、心にヨキとアシキとの二つのはたらきがあるやうに考へられたのは、上代人の思想として如何なる歴史的地位に於いてのことであつたらうか。
 このことを考へるには、すべてのよきこととあしきことと、即ち人の生活に適合することとそれを妨害することと、(312)が如何にして生ずると考へられてゐたか、また如何にして其のよきことを誘致し、あしきことを防止もしくは克服し得るとせられたかを、知らねばならぬ。其のうちでも重要なのは、あしきことに關するものであるが、これは、人の生活に適合することはさして注意をひかず、それを妨害することに對して始めて人の思慮の向けられるのが、心理上の事實だからである。人は何等かの抵抗に逢つて始めてそこに何ものかの存在することを認知するのである。あしきことに對して人生を保護する種々の呪術が廣く行はれたのも、罪惡觀といふやうなものが一般に上代宗教の重要なる問題となつてゐるのも、此の故である。そこで第一の問題は、上代思想に於いてあしきことが如何にして生ずるとせられたかであるが、これについては、大祓の祝詞に災と罪とが、區別せられながら、同樣に取扱はれてゐることを、知る必要がある。罪と區別せられた災には昆虫の災と高津神の災と高津鳥の災とが擧げてあるが、白人胡久美といふのも人の犯した罪でない點に於いて災に屬するものであらう。鳥獣昆虫の災異を攘ふために禁厭の法を定めたといふことが神代紀の注の「一書」にあり、またはふ虫の禍と飛ぶ鳥の禍とが大殿祭の祝詞に、高津鳥の殃が遷却祟神祭のに、見えてゐることを思ふと、上代人がこれらの禍害をひどく怖れてゐたことが想像せられるが、禍害は必しもこれらには限らぬ。人の生活を害するものは到るところに充滿してゐるので、晝はさばへなすさやぐ神、夜は火※[分/瓦]なす光る神がそれであり、岩ね木立ち草のかきはの言とふのも、天のみか星のかゞやくのも、またかゝる神のはたらきと考へられた。これらを神といふのは、それが生きたもの恐ろしいものだからであるので、古事記のスサノヲの命の上天の物語には、かゝる神を惡神と書いてあり、書紀の出雲征討説話には邪神とも邪鬼とも記され、其の注の「一書」には惡神ともしてある。宣長は惡神をアラブルカミと訓んでゐるので、それは同じ意義の神を神武の卷や景行の卷には荒神と(313)も荒夫琉神とも書いてあることから考へても、また御門祭の祝詞に「疎び荒び來らむ」といふ語のあることから見ても、首肯せられるやうであるが、同じ意義の邪神は上に述べた邪心から類推してアシキカミとすべきであらうから、惡神もまたそれと同じくアシキカミの語を寫したものとするのが妥當ではあるまいか。邪鬼は普通にアシキモノと訓まれてゐるので、祈年祭の祝詞の御門の神に關する條に「うとぶるもの」とあり、道饗祭の祝詞に「あらび疎び來らむもの」といふことがあるのを見ると、それでよいやうであるが、こゝでは邪鬼が邪神と同じ意義に用ゐてあるのと、日本語のカミは神と書き得る如く鬼の字をあててもよいものであるのと、此の二つの理由から、余はこれもまたアシキカミの語を寫したものと推測したい。勿論、これらの場合のアシは人の生活を害するといふ意義でのであつて、道徳的の惡をいふのではない。人の生活に加へられる種々の災禍は、かういふあしき神のしわざとして考へられたのである。これらの神は、勿論、人の形體を具へた神ではなく、人らしく考へられるまでにもなつてゐないものであつて、或は何等かの形を有する靈物であり、或は形の無い精靈の類である。上に引いた道饗祭の祝詞の「あらび疎び來らむもの」は「根の國底の國より」としてあるから、ヨミの國からかゝる神が來るといふのであるが、これは死のけがれに存在する精靈をいふのである。ヨミの國から來るとしたのは物語化せられたいひかたであつて、古事記の橘の小門のみそぎの話にヨミの國のけがれによつて神が生り出でたとしてあるのと、關係のあることであるが、死のけがれにあしき神がついてゐてそれが人に災害を與へるといふことは、一般に信ぜられてゐた。勿論、すべてのあしき神が死のけがれによつて生ずるといふのではなく、それは到るところに遍滿してゐるものである。特に暗きところ、見知らぬところ、人げ無きところ、ちまた、門戸などは、かゝる神の居り又ははたらくに適する場所として、また暗き夜は(314)さういふ時として、考へられてゐたらしい。夜光るものがあしき神として恐れられたのも、アマテラス大神が岩戸に隱れられたためにあしき神がさわぎ出したといふ話の作られたのも、あしき目を有つてゐるサルダヒコの神がちまたに現はれたといふのも、また後にいふ道饗祭や御門祭の祝詞に於いてあしき神のはたらきを拒ぐことのいつてあるのも、みな之がためである。ところで、災禍をかう見ることは、それを防止しもしくは消滅させる方法として呪術の行はれることと相應ずるものであつて、祓も禊も其の呪術なのである。
 たゞこゝで考ふべきは、かゝる思想の段階に於いても、人の蒙る災禍のうちには人から出るもの人のしわざがある、いひかへると或る人が自己に害を加へる場合がある、といふことは知られてゐたに違ひないが、其の人の行爲が如何にして生じたとせられたかといふ問題である。それは其の人の心から出るものとせられたのか、但しは何ものかに、例へばあしき神の如きものに、其の人が支配せられてゐたためとせられたのか、もし前者ならば其の行爲がよし漠然ながらにせよ、道徳的意義を有つものとして考へられたことを示すものであらうが、後者ならばさう見られたのではあるまい。これについては明かな判斷をしかぬるが、大祓の祝詞に於いて人の犯した罪も、災と同じく、祓によつて消滅するものとなつてゐるのは、人の蒙る災禍は、人の行爲から出たものでも然らざるものでも、同じやうに考へられてゐた思想の繼承せられたものであらう。祓の呪術に相應する思想としては、或る人の行爲が他の人に災禍を與へた場合にも、其の行爲を道徳的に見るのではないはずである。あしき神が道徳的意義に於ける惡の神でないと同じく、他人に災害を與へる或る人の行爲も道徳的意義での惡ではないのであり、神の行爲も或る人の行爲も、それを神もしくは其の人の行爲として考へるよりも、人がそれによつて蒙る禍害を見るのが主であつたのである。もしさうならば、(315)かゝる行爲が如何にして生じたかといふことには、明かな考へも無かつたので、それは或は何ものかに支配せられたためとせられる場合もあつたらうし、禍害が神から來ると同じく人からも來るとして、深くそれを怪まなかつたでもあらう。人も神も自己ならぬもの、自己に何等かの力を及ぼすもの、としては同じであつた。特に見知らぬ人、異郷の人、特殊の力、形態、もしくは心理を有つた人は、あしき神のついてゐるもの、或はむしろあしき神であつたのである。異郷人を郷または家に入れるには先づ祓をするといふ習慣のあつたのも、スサノヲの命が青草を束ねた笠蓑を着て高天の原から下りて來た時に衆神が宿をかさなかつたといふ話の作られたのも、之がためである。さういふ思想の一般に存在した時代に、祓の如き呪術は生じたのであらう。祓の呪術的儀禮によつて祓はうとするものは、自己に加へられた、もしくは加へられる虞のある、禍害そのものであつて、よしそれが人の行爲から來るものであつても、その行爲の效果について考へるのである。大祓の祝詞に、災と罪とを同じやうに取扱ひながら、一を災といひ他を罪といつてそれを區別してあるのは、勿論、かういふ時代の思想そのまゝではなく、後にいふやうに、ずつと進んだ考ではあるが、其の取扱ひかたの同じであるところに、遠い昔のかういふ思想のなごりがあるのである。
 大祓の祝詞に現はれてゐる祓は純粹の呪術としてではなく、それに宗教的意義が加味せられてゐるところに特殊の趣があるので、此の點に於いても此の祝詞は思想の進んだ後の作であることが知られるが、それは間接に道徳意識の發達と相關するところがある。祓に祝詞を讀むことは、其の本來の意義に於いては、ことばの呪術であり、祓の詞を唱へる其のことばの有つ呪力によつて災禍が祓ひ去られるといふのであらうが、それが行爲の呪術、即ちあしき神を或る品物、即ち所謂「祓具」(祓へつもの)、につけて放却する呪術、と結合して行はれた。祝詞に馬ひきたてるとある其(316)の馬は、本來、此の祓へつものとして用ゐられたものと考へられるが、馬のほかにも同じ用をなすものがあり、それが一般に贖物ともよばれ、大祓の儀禮に無くてはならぬものであつた。(馬が我が國に入つて來なかつた前には、他のものが祓へつものとせられたことは、勿論である。)のみならず、大祓は別の意義の行爲の呪術、即ち水の力によつてあしき神を克服する「みそぎ」とも思想の上で結合せられてゐたやうに見える。大祓は國中の罪と災とを祓ひ清めるための呪術であり、從つてそれを國境の外に放却するのが本旨であつて、たゞ島國であるために國境の外は即ち海であるところから、海水にそれを放却することになつてゐるのであるが、それはおのづからみそぎの觀念を導入することにもなるのである。しかし、それよりも重要なことは、此の祝詞に於いて人に擬せられた名の與へられた神の力がはたらくことになつてゐる點であつて、罪と災とを祓ひ清めるものは、祝詞そのものの呪力ではなくして、かゝる神の力であり、祝詞はたゞ其の神のはたらきを誘ひ出すまでのものとなつてゐる。此の祝詞の内容もそれを誦む儀禮も、神に對し神を祭る祝詞とは違つてゐる點に、純粹の呪詞の性質が保有せられてはゐるが、神の力によつて災禍の祓ひ清められるやうになつてゐるのは、呪術の宗教化として考へられねばならぬ。勿論、此の呪術の宗教化が大祓の祝詞に於いて初めて現はれたといふのではない。此の祝詞は神代の物語の既に存在する時代に書かれたものであるのみならず、神を天つ神と國つ神とに分け罪を天つ罪と國つ罪とに分けていつてあるのが、前に説いた如く、神代史の初めて作られた時よりはよほど後の思想であることから考へても、セオリツヒメ、ハヤアキツヒメ、イブキドヌシ、ハヤサスラヒメといふやうな神の名が作られてゐることから見ても、決して古いものとは思はれぬ。ずつと後世に修補せられたことの明かた部分を除いても、其の作られた時期は、いかに古く見るにしても、大化の前後よりは前に溯らせ難(317)いものである。(東西の文部が大祓の儀禮に關與することは、文部が文部としての任務をもつてゐた時代、即ち大化よりも前、にはじまつたのであらうが、それは後に傳へられたやうな大祓の儀禮が、其のころ既に朝廷に於いて行はれてゐたことを示すまでであつて、祝詞の作られた時代をきめる準據とはならぬ。たゞ八十伴緒に關する語句があるのは、少くとも大化以前に書かれた部分が此の祝詞に存在する一證として見るのが、妥當であらう。)しかし呪術の宗教化せられる傾向は、文獻に徴證を求められない遠い昔から既にあつたことらしい。神代史の天の岩戸の説話に於いてウズメの命の呪術的儀禮が神がかりと考へられ、またそれがコヤネの命の祭祀的儀禮と結合して語られてゐるのも、考へかたこそ違へ、やはり同じ傾向の一つの現はれであつて、さういふ傾向の生じたのは、神代史の初めて作られたよりも前からのことと見なければなるまい。祓に神の力がはたらくやうに考へられたのも同樣であり、さうして其の初には神の名なども定められてゐなかつたのが、後になつて漸次それが作られて來たので、それはまた多分、精靈としての山や海などの神が、神代史に於いてヤマツミの神ワタツミの神などの人に擬せられた名を與へられたことに、導かれたものであらうと推測せられる(「日本古典の研究」第三篇第三章、參照)。現にハヤアキツヒメの神の名は水戸の神として神代史に見えてゐる。
 ところが、神代史ではみそぎの呪術から神が生まれたことになつてゐるので、それは呪術が、上に述べたところとは別の形に於いて、宗教化せられたものである。イサナキの命の日向の橘の小門のみそぎの物語に、ヨミの國の穢によつてヤソマガツヒの神オホマガツヒの神が生り出で、次に其のマガを直さうとしてカミナホビの神オホナホビの神が生り出でたとあるのが、それである。マガをなほすのはナホビの神といふ神の力であるとせられ、それでありなが(318)ら、みそぎの呪術に於いて其の神が生り出でたとせられたところに、呪術の宗教化した形迹が現はれてゐる。みそぎは水のもつ呪力によつてマガをなほす呪術であることを知れば、このことはおのづから明かになるであらう。マガツヒの神はマガをあらせる神といふことであらうから、到るところに遍滿して人を害する多くのあしき神(精靈、靈物)の觀念が基礎になり、それが人に擬せられたかういふ名を與へられて、その意義での神とせられたのであらうが、御門祭の祝詞に、マガツヒの神が「マガ言」をいふやうにいつてあるのを見ると、それにはマガをあらせようとする呪力の神化といふ意味もあるらしい。マガコトについては上に述べたことがあるが、道饗祭の祝詞にも、根の國から荒びて來るもののことばの呪力にかゝらないやうにすることがいつてある。ナホビの神に至つては、マガを克服する呪術の有つ力が、人に擬せられた名をもつた神に變じたものであることは、明かである。大殿祭の祝詞のオホミヤノメの神に關する部分に、此の神が神のあらびを「言ひなほす」といふことがいつてあるが、これはマガを克服するためのことばの呪術をオホミヤノメの神に行はせる意味である。ナホビの神は、思想としては、それよりも更に進んだ考へかたから生まれたものであり、マガをなほす呪力そのものを、人に擬せられた名をもつた神に變化させたのである。ナホビの神のナホの名は、呪術としてのなほすことから來てゐる。またマガを去り災を除くものが、祓やみそぎや其の他の呪術ではなくして、神の力であるとせられたところに、上に述べた大祓の祝詞に現はれてゐる思想と共通な點があるが、しかし、なほす力を有する特殊の神の生じたのは、大祓の祝詞に於いて水の神や海の神のはたらくのとはちがつてゐるので、そこにそれよりも一層宗教化の程度の進んだ跡が見られる。(大殿祭の祝詞には、言ほぐことの遺漏のあるのを「神直日命大直日命聞きなほし見なほ」すといふことがあつて、それによると、なほすことについて神(319)の力とことばの呪術の力とが混淆して語られてゐるらしく、そこに呪術の宗教化の一變形があるやうにも見えるが、こゝの「命」の字には誤があるかも知れぬ。このことは後にいはう。)
 さて、マガツヒの神やナホビの神の生まれた話は、古事記と書紀の注の「一書」とにのみ見えてゐることを思ふと、神代史の初めて書かれた時からの物語ではなく、後の潤色者によつて附加せられたものであらうから、此の思想もまた、多分、神代史の此の潤色によつて始めて世に現はれたものであらう。從つてまた、一方にかういふ思想が生じても、他方には古くからの考へかたが依然として存續してもゐるので、祝詞に於いても、御門祭のには「四方四角より疎び荒び來らむアメノマガツヒといふ神」とあるのに、祈年祭の御門の神のには、トヨイハマド、クシイハマドといふ神の名も御門祭のと同じであり、また祝詞の語句にもそれと同じところが多いにかゝはらず、單に「うとぶるもの」とのみいつてあつてマガツヒの神の名は無く、なほ御門の神の祭とほゞ同じ意義のあるものであり、祝詞に於いても上記の二つと共通の語句を有する道饗祭のには、「根の國底の國よりあらびうとび來らむもの」といつてあつて、こゝにもマガツヒの神の名は記されてゐない。(人に災をもたらすあしき神は、上に述べた如く、到るところにゐるので、死によつて生ずるもののみでないことは明かであるが、神代史でヨミのけがれからマガツヒの神の生まれたやうにしてあるのは、イサナキの命のヨミの物語に結びつけて説いた、物語としての構想である。道饗祭の祝詞にはマガツヒの神の名は出てゐないが、ヨミの國のことのいつてあるのは、これと同じ思想にもとづいたものである。)なほ御門祭のには、御門の神が人の咎過を「神なほび大なほびに見なほし聞きなほす」ことがいつてあり、大殿祭のの宮廷の神たるオホミヤノメの神に關する部分にも、上に述べたこととは別に、ほゞ同じことが見えてゐるが、これは咎過をなほす(320)ことがナホビの神のはたらきとしてのみは、考へられてゐなかつたことを示すものである。祈年祭の祝詞の御門の神の條や道饗祭のには、なほすといふ語すら全く用ゐてない。これらの祝詞の作られた時代は明かでなく、古いものでも後の變改潤色が加はつてゐるらしいから、上に引いた語句が何時書かれたかは知り難いが、比較的古くから傳へられた思想と新しく發達したものとが、それ/”\種々の祝詞に現はれてゐることは、推測せられる。(人の咎過をなほすといふことについては、大祓の祝詞に見える罪の觀念と共に、後にいはう。)なほ遷却祟神祭の祝詞の思想は、あしき神を祭ることによつてそれを他のところへ遷却しようとするのであり、呪術の意義が全く失はれてゐるが、あしき神が其のあらびたけびをやめて遷り出てゆくのは、其の神自身が自己の行動を「神なほび大なほびになほす」ことによつて行はれるといふのであつて、そこにずつと進んだ宗教思想が現はれてゐる。
 次には、かういふ呪術の宗教化が道徳的に如何なる意味があるかといふことが問題であるが、それを考へる前に、かういふ變化と相並んで、呪術そのものに道徳的意義が附加せられて來たことを一言して置きたい。既に述べた如く、スサノヲの命が千座置戸を科せられて高天原から放逐せられたといふ説話は、命が其の行爲に對する道徳的責任を負はされたといふことであつて、所謂千座置戸は贖罪として語られたものであるが、それと共に鬚をきり手足の爪をぬかせたとあるのは、一種の祓の呪術であり、書紀の注の一つの「一書」に、それによつて「解除ふ」といふことがいつてあり、また手の爪を吉爪棄物《ヨシキラヒモノ》とし足の爪を凶爪棄物《アシキラヒモノ》とすと記されてゐるのも、他の「一書」に手端吉棄物《タナスヱノヨシキラヒモノ、足端凶棄物《アナスヱノアシキラヒモノ》といふ語が用ゐてあるのも、此の故である。身體の或る部分を除去し、それにつけて其の人に存するあしきものを祓ひすてるのである。(上記の「一書」の後の方のに唾を白にぎてとし洟を青にぎてとするといふことが附加へ(321)てあるが、これは手足の爪のことをいつたに誘はれて説かれたまでのことであつて、かういふものが上代の祓の儀禮に於いて用ゐられたとは考へられぬ。唾はあしきものを祓ふ呪力を有するものとして考へられてゐたので、別の「一書」のヨミの國の物語に、それが神として記され、ハヤタマノヲといふ名が與へられてゐるのも、此の故であるが、洟に至つてはさういふ意味があるらしくはないから、これは唾からの聯想によつて附加へられ、白にぎてと青にぎてとを連稱する習慣に結びつけられたのであらう。さうして唾とても、それが祓の用をなすのは、こゝの祓のやうなのとは全く場合が違ふ。特にそれを洟と共ににぎてに擬したのは、祭祀の具をかりた説話としての構想に過ぎないので、祓の呪術には何の關係も無いことである。)さて髪爪をぬくことの意味が上記の如きものであるとするならば、それから類推して、かの贖罪もまた同じやうな祓の呪術、即ち人の所有物にあしきものをつけてそれを棄却すること、から來たものであることが、知られるので、書紀の注の「一書」に、科せられた千座置戸を「祓具」の名で示し、或はそれに「解除」の語の添へてあることが、此の推測をたしかめる。要するに、何れも廣い意義での「祓へつもの」の範疇に屬する呪術である。履仲紀に、惡解除《アシハラヒ》善解除《ヨシハラヒ》を負はせて祓ひ禊がせたとあるのも、同じことであつて、それがスサノヲの命の話の手足の爪をぬく場合と似た稱呼になつてゐることによつても、それは知られる。(祓へつものはすべてキラヒモノであり、從つてアシキラヒモノといふべきであるから、キラヒモノにヨシとアシとの區別は無く、ハラヒについてもまた同樣であるべきはずであるのに、それが區別してあるのは、事物を重ねていふことを好む上代人のことばづかひの上の趣味の現はれであつて、ヨシといひアシといふ語に意味は無い。反對の概念をあらはす語を無意味に重ねる例は、アメとクニとにもあつて、ミクマリの神をアメノミクマリ・クニノミクマリといふのも其の一例(322)である。アメとかクニとかいふ語を冠らせるのは單なる美稱としてに過ぎないのであるが、それにしてもそれがアメとクニとの反對の意義を有する語であることに注意すべきである。大祓の祝詞の天つ罪と國つ罪ともまた同樣である。手の方をヨシとし足の方をアシとしたのは、ヨシとアシとは區別したために、手と足との一方づつをそれにわりあてたに過ぎないものであつて、一層無意味であるが、上代人の考へかたがこれによつて知られる。)ところが、かういふ祓へつものには、千座置戸を科すといはれ贖罪ともせられてゐるものがあるのであるから、それはスサノヲの命の此の物語が作られた時代には、もとの呪術の意義が變化してそれに道徳的意義が與へられてもゐたことを、示すものと解しなければならぬ。書紀の本文に千座置戸について「促徴」といつてあるのは、贖罪の義を一層明確にしたものであるが、髪を拔くことを「贖其罪」としてあるのは、さういふことまでも贖罪の意義にとりなしたものであつて、これは書紀の編者の解釋であらう。漢文に書くためにかうなつたのでもあらうが、後になるほど呪術の意義が忘れられてゆくことを示すものでもある。
 ところで、かういふ變化については、アメノワカヒコの物語に於いて、マガレといふ呪詞をいふ場合に、邪心があつたならばといふ制約をつけてあることが、參考せられる。マガレといふ詞に呪力があるのであるが、目ざすものが正しかつたならば其の呪力ははたらかないことになる點に、遺徳的意義がある。ところが、呪詞の本質としては、かかる呪力は無制限にはたらくはずのものであるから、それにかういふ道徳的制約が加へられたのは、後の變化と見なければならぬ。此の物語ではアシキコヽロといふ語が用ゐてあるが、かういふ思想は必しも心にヨキコヽロとアシキコヽロとがあるといふことが考へられてゐなくても成立つのであつて、たゞ人にあしき行爲、即ち結果に於いて他人(323)に禍害を與へる行爲、のあることが知られてゐればそれでよいのである。あしき行爲がつたならば呪力がはたらけといふのである。さうしてそれは、おのづから、呪力の效果の有無によつてかういふあしき行爲の有無が驗せられることになるのであるが、此の意味に於いては、これは所謂探湯と同じ性質を有するものであつて、探湯の場合に於いても、多分、之に似た呪詞が唱へられたのであらう。神武紀の丹生川上のうけひの話に於いても、やはり呪詞のあることを參考すべきである。さすれば、これにもまた呪術の性質が存在するのであるが、一方では、人は其の行爲の責任を負はなければならぬとせられる點に於いて、道徳的意義を有するものであるから、これもまた呪術に道徳的意義が與へられたことの一例として考へ得られよう。
 さて呪術そのものに道徳的意義が附與せられ、從つて呪術の性質が變つて來たほどならば、呪術の宗教化に於いてもまた道徳的意義がそれに伴つてゐたことが、おのづから推測せられよう。大祓に於いて神が罪と災とを祓ふのはもとよりのこと、ナホビの神がマガをなほすのも、御門の神や宮廷の神が人の咎過を見なほし聞きなほすのも、人に加へられる又は加へられた禍害を拒ぎ又は除くことである點に於いては、呪術の場合と同じであり、從つてまた此の點に於いては、それに道徳的意義があるのではない。しかし、人に擬せられた名の與へられた神がはたらくのは、人が人の意志によつて行動することの反映として考へられねばならぬから、それは人の行爲の主體が意志ある人であることの意識せられてゐることを示すものであつて、此の點に於いて人の行爲に道徳的意義を與へることに近づいたものである。のみならず、ナホビの神がなほすといふ其のマガは、人の蒙る禍害をいふのではあるけれども、神がそれをなほすことは、すべての人から禍害を除去すること、或はすべての人に禍害を與へまいとすることであり、さうして
 
                 (324)それもまた人の欲求または意志の反映である點に意味がある。また大祓に於いて水や海の神のはたらくのが祝詞によつて導かれるのとは違ひ、ナホビの神はマガをなほさうとする神みづからの意志によつて生り出でた神であるところに、宗教思想の發達の徑路に於いて特に重要なる意味がある。さうしてそれはまた道徳的にも看過すべからざる點である。(これは古事記と書紀の注の「一書」との記載によつて考へたことであるが、書紀の注の他の「一書」には、イサナキの命が水を出たり入つたりして種々の神を吹きなしたとある、其のうちにオホナホビの神の名が記されてゐる。水を出入するといふのが禊としては意味の無いことであり、また神々の吹きなされた順序が神々の性質と無關係であることから考へると、此の説は古事記や書紀の注の上記の「一書」に記されてゐるやうな話を、後になつて變改したものに違ひない。だから、それはナホビの神の性質を知るたよりにはならないものである。)それから、御門祭の祝詞や大殿祭ののオホミヤノメの神に對する部分やに見える如く、門の神や宮廷の神が人の咎過を見なほし聞きなほすといふのは、ナホビの神といふやうな特殊の神の無い點に、イサナキの命の物語に現はれてゐる思想よりは宗教思想の發達の程度が低いやうであるが、なほすものが人の犯した咎過である點に於いて、道徳的には一歩進んだ考へかたがある。神の見なほし聞きなほすことによつて解消する咎過ではあるが、それがどこまでも人の犯したものであるとせられたところに、道徳的意義があるのである。災の外に罪が擧げられてゐる大祓の祝詞の思想はほゞ之と同じであつて、祓によつて祓ひ去られるものではあるが、罪は人の犯した罪として考へられたのであり、現に「人たちの過ち犯しけむ雜々の罪」と書いてある。ところが遷却祟神祭の祝詞の思想は、あしき神がみづから見なほし聞きなほすことによつてあらびたけびをやめるといふのであつて、人がみづから自己の行をなほすといふ考の反映と見なすべきであらう(325)から、そこに道徳的意義の一層強められた形迹が見える。
 なほ一つ考ふべきことがある。大祓の祝詞に於いても遷却祟神祭のに於いても、禍害を祓ひあしき神のあらびをやめさせるについて、所謂皇孫降臨の準備として高天原の神たちが此の國のあらぶる神どもを平定したといふ説話が、想起せられてゐるが、これは、大殿祭の祝詞にもほゞ同じことがあり、また鎭火祭のにイサナキ、イサナミの命のヨミの國の物語を説き、道饗祭のにあしきものを根の國底の國から來るやうに書いてあるのを見ると、朝廷の儀禮としての祭祀などに讀まれる祝詞であるため、皇室の權威の起源を語つてゐる神代史の説話を、それに結びつけて説いたのであらう。しかし、大祓のと遷却祟神祭のとについては、それらの祝詞の讀まれる祭祀や呪術が、直接には政治的意義のあるものでないにかゝはらず、政治的意義を帶びてゐる荒ぶる神、即ち叛逆者の性質を有するもの、の平定が聯想せられてゐるところに、別の意味があることを考へねばならぬ。これは、神代史に於いて宗教的意義での荒ぶる神、即ちあしき神、が政治的叛逆者としてのオホナムチの命及びそれに從屬する國つ神と混一せられてゐることに、由來するものである。さうして、かゝる混一は、政治的叛逆者を政治的君主たる天つ神が平定したと同じく、あしき神を克服するのもまた宗教的意義での神のしわざである、といふ考が根柢となつて生じたものであらう。記紀に記されてゐる此の荒ぶる神の平定の説話は、後に修飾變改せられたものであつて、其の原形に於いては、荒ぶる神は純然たる宗教的意義でのあしき神であり、叛逆者としてのオホナムチの命の平定のことは、そこには語られてゐなかつたであらうといふことは、「日本古典の研究」の第三篇に説いて置いたが、さういふ意義での荒ぶる神あしき神を克服するのは、やはり神の力、神としての宗教的性質を有する皇祖神、從つてまた皇室、の力、とせられてゐたであらう。され(326)ばこそ皇孫降臨に關係させて其の話が作られてゐたのである。このことについては、また神武天皇やヤマトタケルの命が荒ぶる神、即ち宗教的意義でのあしき神、を平定せられたことになつてゐることも、參考せられよう。たゞ神武天皇ヤヤマトタケルの命の場合では、荒ぶる神を平定せられたと共に、それとは別に存在した「まつろはぬ人」、即ち政治的叛逆者をも討伐せられたことになつてゐるが、修飾せられた神代史の説話では、「まつろはぬ人」と稱すべきオホナムチの命が荒ぶる神そのものに混一せられてしまつたのである。ところで、あしき神を克服するのが神の力であるといふことは、上に述べた大祓の祝詞やナホビの神の生まれた物語の思想と關聯するところのあるもの、從つてまたそれらと同じ意味に於いて道徳的意義を有するものであるのみならず、政治的叛逆者が荒ぶる神と混一せられる場合には、荒ぶる神が人の性質を與へられると共に、其の行爲が道徳的罪過として考へられるものであることを、注意しなければならぬ。
 かういふやうに、宗教思想と共に、またそれと關聯して、道徳意識の發達して來たことが文獻の上から推測せられるのであるが、しかし其の發達は十分ではなかつた。ナホビの神は生り出でても、それはマガをなほすだけの神であつて、道徳的意義に於ける善の神にはならなかつた。なほす神であつて直きことの神ではないのみならず、其のなほすのはマガであつて道徳的意義での惡ではなく、從つて其のなほすのも道徳的意義での善に人を導くことではない。それはマガを克服する呪力の神化したものに過ぎないからである。また此の神は知識人の思想の上に現はれたのみであつて、實際の宗教的信仰には入らず、平安朝の初までは神として祭られたやうな形迹も無い。朝廷の儀禮に於いて讀まれる祝詞にすらも其の名が見えぬ。(大殿祭の祝詞に「神直日命大直日命聞きなほし見なほし」とはあるが、此(327)の祝詞が宮殿の神に對するものであることと、上にも言及した同じ祝詞のうちのオホミヤノメの神に關する條及び御門祭の祝詞の例とによつて考へると、これは「神直日大直日に聞きなほし見なほし」の誤か、又はもとさう書いてあつたものが斯う改められたのか、何れかであらうと思はれる。なほ延喜の四時祭式の鎭魂祭の條に、祭神について神八座の外に大直神一座とあつて、大直神はオホナホビの神であらうと思はれるが、神名式の宮中神のうちには此の神の名が見えぬ。鎭魂祭の祭神が八神であることは、神祇令の集解に神祇官式を引いて説いてあるのでも知られるから、これは延喜式に於いて始めて加へられたものであり、神名式の記載は前代の式を其のまゝ書き寫してあるのであらう。)また「日本古典の研究」第三篇に説いた如く、正善の神に發達し得べき性質を有する日の神もさうは發達せず、宗教的には單なる太陽神たるにとゞまり、たゞ政治的に皇祖神の地位を與へられ、その意味に於いて人の形と性質とを具へることになつたのみである。太陽神としては自己が物理的な光明を有つてはゐるが、あらゆるものに光明を與へる光明の神ですらなかつた。(道徳的意義のあるなしには關係の無いことであるが、死のけがれにあしき神があるとせられ、またヨミの國の存在が考へられても、死を支配し闇黒を支配する神は生ぜず、知識人の間に生じた物語の上にヨモツ神の名は現はれても、實際の信仰にはそれが入つて來なかつたこと、ヨミの國の物語が作られてゐるにかかはらず、イサナキの命が宗教化せられ神化せられても、それが生の神の性質を與へられたのではなく、單に近江または淡路の地方的部落の祭神に結合せられたのみであることも、神の性質が如何なる方向に發達したかを知るについて參考となるであらう。ヨミの國の物語では、イサナキの命とイサナミの命との爭が生の國と死の國との爭のやうになつてゐるが、これはイサナミの命の死が語られたところから派生した説話に過ぎず、此の命が古事記の説話でヨモ(328)ツ大神の名を與へられてゐるのも、物語の上でさう取扱はれたまでである。イサナミの命が死の神としてヨミの國の主宰者として考へられたのでないことは、古事記の説話そのものに於いて、イサナキの命から生還を誘はれた時にヨモツ神と相談しようといふことが答へられてゐるのでも知られる。此のヨモツ神とても古事記にのみ見えるものであるから、物語の發展した形として現はれたに過ぎない。)
 なほ考へるに、神代の物語でも祝詞でも惡神邪神などの名は見えてゐるが、それに對する善神正神といふ語はつかはれてゐない。あしき神といふのが人に禍害を與へる靈物や精靈の類であり、さうして上にも述べたことがあるやうに、人は自己の蒙る禍害のみに注意がひかれ、禍害の無いことは通常の状態である如く思ひなすものであるのと、かかる意義でのあしき神を克服するのは呪術の力であつたのと、これらの理由から、特殊なよき神といふものの存在が考へられなかつたのであらう。呪力に神としての名の與へられたナホビの神が、マガをなほすだけの神であつて、すべての直きことの神でないのも、此の故である。あしき神が道徳的意義に於いての邪惡の神に發達したならば、それに對する正善の神も生まれたであらうに、さうはならなかつた。政治的叛逆者に混一せられた荒ぶる神の行爲が、道徳的に罪惡として考へられたにしても、其の荒ぶる神は惡の神、惡を支配する神ではなくして、たゞ惡行をする神であり、此の點に於いて禍害をなす精靈または靈物としてのあしき神の性質が保有せられてゐる。書紀の注の「一書」にアマテラス大神のツクヨミの命に對する語として「汝は惡神なり」といふことが記してあるが、これもツクヨミの命がウケモチの神を殺したからであつて、其の「惡」は道徳的意義を有つてはゐるが、やはり惡行をしたといふだけのことである。のみならず、ツクヨミの命をさして「神」といつてあるのも、宗教的意義に於いてであるよりは、寧ろ(329)神代史上の人物であるからであつて、神とミコトが混淆せられた後に書かれたことである。播磨風土記の神前郡生野里または筑後風土記に多く人を殺したといふ話のある荒神または麁猛神の如きは、共に「あらぶる神」の語を寫したものらしく、さうしてそれは單に人に禍害を加へるあしき神であり、其のあしきことに道徳的意義は存在しない。要するに、道徳的意義に於ける惡の神は生ぜず、從つてまた善の神も現はれなかつたのである。さうしてそれは、一面の意味に於いては、道徳意識が十分に發達してゐなかつたからだともいはれよう。神は人の反映だからである。
 けれども、既に述べた如く、呪術にも神の祭祀にも道徳的意義が與へられるやうになつたとすれば、道徳意識の或る程度に發達して來たことは認められる。それは社會組織が固まり文化が進むと共に、當然生じたはずである。道徳意識の發達は人の力が自覺せられることに伴ふものと考へられるからである。さうしてそれは、一方に於いて呪術や祭祀に結合し其の中に入りこんで來ることによつて知られると共に、他方ではそれに反抗することに於いて現はれる。結合した方面については上に述べたが、反抗する方面についても文獻の上からそれを推測することができる。スサノヲの命の八またをろちの物語は其の一例であつて、これは宗教的信仰に反抗し神に反抗して人の力をあらはしたところに物語の精神があり、さうしてそこにスサノヲの命の英雄的行爲がある。スサノヲの命は、いふまでもなく、純然たる人として語られてゐることを注意しなければならぬ。常陸風土記の筑波郡の條に見える、筑波の神がものいみすべき新嘗の夜であるにかゝはらず其の禁忌を犯し、旅する神に宿をかして厚遇したといふ話も、宗教上の禁制よりは旅人に對する同情に重きを置くやうになつて來た思想の反映である。此の話に於いて旅人を神といひ宿かした主人をも神といつてあるのは、筑波の山や福慈の山に結びつけて語られたからであつて、物語の意味するところは、旅人をも(330)主人をも人と見てのことであり、宗教的意義での神としていつたのではない。此の話に存在する宗教的意義は、新嘗の夜にものいみして外來者を家に入れないといふ禁制にあるのである。(新嘗の夜の此の宗教的禁制は萬葉十四の卷の歌にも見えてゐて、其の一つにはやはり此の禁忌を扱つて戀人を呼び入れることを歌つたものがある。これもまた神に對する人の反抗、戀の反抗である。)新嘗の夜であることを除外して考へても、旅人の厚遇そのことが、あしき神のついてゐるものとして異郷人を畏怖する民間信仰から離脱したものである。なほ、常陸風土記の行方郡の條にある、夜刀の神を一定の地域内に逐ひこめて、神の居る場所と人の耕作するところとの境界をきめたといふ話も、また久慈郡の條にある、祟る神に居所をかへて人里に遠い山の上に移つてもらつたといふ話も、やはり神に對して人の力をうち立てたところに意味がある。垂仁朝のこととして語られてゐる殉死に關する話も、また人間の道徳的感情が宗教的信仰に對する制壓となつて現はれたことを示すものである。これらの場合に人は神から何等の罰をもうけない。神は完全に人に制壓せられてゐる。のみならず、筑波山の話に於いては、宗教的禁制を破つたものが繋榮し守つたものが枯衰したことになつてゐる。神の權威を犯したものが永遠に罰せられるといふやうな思想は、我が國には無かつた。また仁徳紀十一年の條には、茨田の堤の築造について犧牲にあてられた二人のうち、武藏の人の強頸は水に沈んで死んだが、同じ運命に置かれた茨田の人の衫子は神を試驗して水に入らなかつたといふ話もある。此の話は或は支那の説話の翻案ではないかとも思はれるし、また話そのものについていふと、これは強頸衫子といふ地名の起源説話として作られたもののやうであり、またかゝる場合の犧牲には一般に異郷人が用ゐられることの反映もそこにあるらしいが、それにしても、斯ういふ話が受入れられ又は作られたことに意味があるので、スサノヲの命の八またをろちの物(331)語と互に參照して考ふべきものである。これらの話のうちでスサノヲの命のを除けば、仁徳紀のはもとよりのこと、其の他のも、比較的晩出の書に見えるものであるが、かういふ思想は必しも風土記や書紀の編纂のころになつて始めて生じたものではなく、それよりも前からあつたものと考へられるので、八またをろちの話の作られてゐたことによつてもそれは證せられよう。なほこゝに擧げたいろ/\の話と互に表裏をなすものとして注意すべきことがある。それは、スサノヲの命の高天原での暴行が、宗教的意義での神に對する叛逆としてではなく、人に對する道徳的意義での罪惡として語られてゐること、其の罰せられたのも、神の罰をうけたのではなくして、多數人の協議によつて罪を負はされたやうになつてゐることである。(八百萬神といふ語が用ゐてあるが、それは宗教的權威を有つてゐる神ではなくして、神代の話であるために神と稱せられてゐる人である。)これは、全體からいふと、神代の物語そのものが宗教的意義のものでないからでもあるが、アマテラス大神に對する反抗といふやうなことを語りながら、其の説話に宗教的精神が與へられてゐないことは、此の話の作られた時代に於いて、人の行爲が宗教的意義から離れた道徳的意義のものとして考へられるやうになつてゐたことを、示すものであらう。さうして此の推測は、文獻によつて知られる時代に於いては巫祝、特に巫、の勢力の強盛であつたやうな樣子の無いことからも、助けられるであらう。
 巫祝が民間に存在しそれが民衆の間に信仰を得てゐたことは、疑があるまい。しかし、それは祈祷祭祀や呪術を行ふものとしてのことであつて、社會上政治上に勢力を有つてゐたらしくは見えず、朝廷に於いてもまた同樣である。政治についても征戰についても宗教的呪術的儀禮が重要視せられ、從つて巫祝が朝廷に或る地位を占めてはゐた。けれども、彼等が政治や征戰に於いて指導的地位に立つてゐたやうな形速は、どこにも見えぬ。却つて神式天皇やヤマ(332)トタケルの命の話にも現はれてゐる如く、宗教的意義での荒ぶる神を鎭壓することが、政治的權力者の任務として考へられた。それは固より、政治的君主としての天皇に現つ神の稱があり、政治的權力に宗教的由來があるとせられてゐたからではあるが、政治的權力が主であつたことは明かである。これは巫祝などをはたらかせないだけに、政治組織社會組織が鞏固となつてゐたからであり、さうしてそれは人の力が自覺せられてゐたからである。さて、神に對して人の力が樹立せられるといふことは、おのづから、人の行爲は人のすることであり從つて人に其の責任があるといふ考と、相應ずるものであるので、そこに道徳意識の發達してゐた形迹が認められる。スサノヲの命のをろちの殺戮も、筑波の神の旅人の厚遇も、其の行爲は明かに道徳的である。が、既にかういふ思想があるとすれば、其の思想が神にも反映して、神は道徳的によいことをするものとせられ、從つてまた其の點に於いて神が人よりも優れてゐるやうに、考へられる傾向が生じたとしても、怪しむに足らぬ。古事記の應神の卷の秋山のしたび男と春山のかすみ男との妻爭ひの話に、弟が勝つたにかゝはらず約束した賭のものを兄が出さないのを、二人の母が恨んで、「わがみよのこと、よくこそ神習へ、また現しき青人草習へや其のもの償はぬ、」といつたとあるのは、神は約束を守るのに人はさうでない、といふ意味からであるらしい。(アマテラス大神がスサノヲの命の暴行に對して寛容であり、わるいことをもよくのりなほされたとある類は、これとは全く意味が違ふので、此の場合の大神は、どこまでも物語中の人物である。いひかへると、此の話は人としての大神の寛容の態度を語つたものであつて、宗教的意義での神としてのことをいつたものではない。なほこゝにのりなほすと書いてあるのも、呪術的もしくは宗教的意義を有するものではなく、惡いことをもよい意味に辯護せられたといふだけのことである。さうして此の話が舊辭のすべての本にあつたのではなく、(333)書紀の本文にも其の注の第一の「一書」にも見えないことを思ふと、これは後になつて附加へられたものであるかも知れぬ。)上に述べた如く、あしき神がみづから見なほし聞きなほすことによつてあらびたけびをやめる、といふ思想の生じたのも、神に道徳的性質を附與した點に於いて、此の思想と相關するところがある。
 さて道徳意識が此の程度に發達して來たとすれば、ヨキ・アシキコヽロ、アカキ・クラキコヽロ、又はキヨキ・キタナキコヽロといふ觀念が生じたとしても、それは不思議ではない。アマテラス大神とスサノヲの命とのウケヒの物語に於いて、心がキヨキアカキ故に男子が生まれたといふ語のあるのも、上に述べたアメノワカヒコの話の呪詞に於いて、アシキコヽロのある場合にはといふ制約がつけてあるのも、或は祝詞に於いて罪が災と區別せられまた咎過が人の犯したものとなつてゐるのも、かゝる時代の思想である。呪術や祭祀と結びつけて考へられたにしても、人の行爲は人の行爲であるといふことが意識せられてゐなくては、かういふことはいはれないはずである。ヨキ心をアカキ又はキヨキ心といひ、アシキ心をクラキ又はキタナキ心といつてゐたのは、闇いところに惡神がはたらくとしてそれを恐れたり、邪鬼を克服するみそぎの儀禮が行はれたり、したやうなことと關係があるので、さういふ呪術宗教的な思想に由來することではあらうが、それらがヨキまたアシキ心の譬喩的表現法として用ゐられたとすれば、やはり道徳的意義に於いていはれたことと考ふべきである。勿論これは文献に現はれてゐることについての考察であるから、其の限りに於いては、シナの文字が用ゐられシナの文化に接した後の思想として解すべきものであると共に、特殊の知識人の問に發達したものとして考ふべきものでもある。大神とスサノヲの命とのウケヒの話の如きは、そこに男尊女卑の觀念が存在するのを見ても、シナ思想の影響をうけたところがあることは明かであらう。かの垂仁朝の殉死に(334)ついての説話は、或は殉死を禁じた大化二年の詔勅が誘因となつて作られたものではあるまいかと推測せられるが、もしさうならば、此の詔勅がシナの道徳思想に本づいて發せられたものであることを、知らねばならぬ。が、此の程度の道徳意識の發達がシナ思想に導かれてはじめて生じたものであるとは、必しもいひ難い。上にも述べた如く、道徳意識は一般文化の進むにつれ、人の力が自覺せられることによつて、おのづから發達すべきものだからである。が、其の文化の進んで來たことにシナ文化の影響のあつたことは考へ得られ、特に大和朝廷が百濟の媒介によつてシナの文化を受け入れた後に於いてさうであるから、此の意味に於いてシナ文化が間接に寄與をなしたことは推測し得られる。從つてそれは、民衆に於いてよりも知識社會に於いて著しかつたと考ふべきである。
 しかし知識人に於いても、一方にかういふ道徳意識が發達してゐながら、他方ではやはり呪術的もしくは宗教的儀禮が行はれてゐたことは、いふまでもない。力を盡してシナの文物を學ばうとしながら、神祇式によると、蕃客入京の際には祓を行ひまた送神を祭却する儀禮が後までも行はれたのであるが、これは異郷人には邪鬼がついてゐるといふ思想から來てゐる。續紀天平寶字七年の條に、渤海からの歸途海上で暴風にあつたので、同船したシナ生れの婦人などを海中に投じた、といふ話があるが、これもまた同じ思想からである。其の行爲を罪として獄に下したところに當時の道徳觀念が現はれてゐると共に、下級の官人ながら、さういふ思想からさういふ行爲をしたもののあつたことが、之によつて知られる。一般民衆に於いてはなほさらであつたらう。孝徳紀大化二年の條に見える詔勅に禁斷すべき種々の民俗が擧げてあつて、上に述べた殉死の風習も其の一つであるが、その他には祓除に關することが多く、かゝる風習のために、家庭の平和が傷けられ兄弟朋友も其の情を全くするを得ず、或はまた旅人が異郷に於いて苦しめられ(335)る種々の例が見えてゐる。これは呪術としての祓除に由來するものでありながら、祓へつものを出すことが贖罪もしくは賠償の意義となり、再轉して、言を祓除に託して他人から強ひて財物を促徴する風習となつてゐたことを、示すものであらう。それを「愚俗」とし禁斷すべきものとしたのは、大化時代に於ける治者階級知識社會の道徳觀念であり、さうしてそれにはシナ思想の影響もあるであらうが、かういふことの實際行はれてゐたのは、意義が轉化してゐながら、呪術であることの因襲的觀念がなほ其の根柢に潜在するためであるらしく、そこに當時の民衆の思想がある。民衆にあつては、大化のころに於いても、なほ其の道徳觀念が幼稚の程度にあつたので、旅人の困苦に對して同情するよりは、異郷人によつて不詳の齎らされることを憂ふることが先に立ち、他人の家庭の平和を思ふよりは自己の利益を求むることが急であつたのである。民衆のすべてが斯ういふ状態であつたには限らないであらうが、かゝる例も少くはなかつたであらう。さうしてそれは、巫祝が民衆を蠱惑するので官憲がそれを取締らねばならぬ場合の數々生じたこととも關係がある。此の場合に於ける官憲の態度は進歩した道徳觀念を表徴するものであつた。
 こゝまで述べて來ると、考察はおのづから上代人の生活に於ける道徳そのものの状態に移らねばならぬ。
 
     第二章 道徳生活の状態
 
 上代人の遺徳の状態を知るには先づ上代人の生活を知らねばならぬ。それを知るについて先づ問題になるのは家族としての生活である。さうしてそれには、家族形態が如何なるものであつたか、詳言すると、家系が如何にして繼承(336)せられたか、一家を統率するものは何人であつたか、家族生活の基礎をなす婚姻の制度はどうであつたか、また生活の單位として、即ち共同の生活をなすものとして、の一家族の範圍がどれほどであつたか、といふやうなことが考へられねばならぬ。
 第一の問題については、皇位の繼承ならびに記紀に見える諸家の系譜から見ても、それが所謂父系によつて傳へられたことに疑はあるまい。諸家の祖とせられたものは何れも男性であるから、原則としては父子の相承によつて順次に家がつがれたのであらう。たゞ皇祖アマテラス大神が女性となつてゐること、並に猿女氏がウズメの命といふ女性を祖としてゐることについて、問題はあるが、それは容易に解釋し得られることである。大神の性については「日本古典の研究」の第三篇に説いて置いたことであるが、約言すると、それはもと女性ではなかつた。よし男性ではなかつたにしても女性ではなく、物語の上では男性の地位に置かれた場合もある。さうして、それが明白に男性とせられなかつたのは、太陽神に性がなかつたためである。だから、これは皇祖が非男性として考へられたためではない。後に女性となつたのは言語上の錯誤からであつたらしく、これもまた皇祖を女性と考へるやうになつたためではない。また猿女氏については、此の家がサルメと稱せられる朝廷の巫女を管治する職掌を有つてゐたため、それと同じ巫女の任務を行つたものとして神代史に語られてゐるウズメの命を、祖先としたのみのことである。或は祖先としてかういふウズメの命が作られたのである。伴造の家の祖先とせられたものの神代史上の行動は、其の家の職務を其のまゝ反映してゐるのであるから、猿女氏の祖先は巫女でなくてはならなかつたのである。だから、これは諸家の祖先の名が如何にして定められたかを示すまでのことであつて、事實に於いて女性を祖先とする家のあつた例となるものではない。(337)さうして此のことは、貴族豪族の諸家、即ち所謂臣連伴造國造の家々、の祖先が一般に男性とせられてゐることによつて十分に證明せられるであらう。
 なほ古事記の種々の説話に「御祖」即ちミオヤといつてあるのが、いつも母のことであり、垂仁の卷には子の名は母がつけるものであるといぶ話も見え、また母の氏を用ゐてゐた家のあつたことが續紀の天平神護二年の條などに記されてゐるので、それらによつて考へると、家系に於いても母が何等かの地位を占めてゐる場合のあつたことが推測せられるやうでもあるが、これらはたゞ子が母と同居し母の手もとで育てられる風習のあつたことを示すまでであり、家系の問題には關係が無い。さうして子が母の手もとで育てられることは、後にいふ婚姻の風習に由來がある。古事記の書きかたについていふと、祖の字で寫されてゐるオヤが、父母をもそれより前の祖先をもいふ廣い意味の語であつて、母をさすに限らないことは、明かであるが、母もオヤであり、さうして直接に子を保育するものは母であるから、母の話が出る物語に於いては、それが母のこととして用ゐられてゐるのである。「御祖」といつてミの尊稀の加へてある場合は、神もしくは皇族に關する語にそれが現はれてゐるからのことであらう。垂仁の卷の話も同じ事情から生じた風習であるし、また續紀の記載は、其の家の祖先が始めて戸籍に登録せられた時に母の家の氏の名で記されたため、子孫までもそれを用ゐてゐた、といふだけのことである。其の祖先がまだ年少で母のところにゐた時に戸籍が作られたからであらう。また古事記の綏靖、懿徳、崇神、景行などの卷々に、女性を或る家の「祖」として記してある場合があるが、これは其の家の祖先のことではなく、むかし其の家の家族であつたものといふほどの意義で記されたことらしく、さうしてそれを祖と書いてあるのは、オヤの語を或る家の過去の人物の全體におしひろめたものか、(338)または子が母の家に成長し母がオヤとして最も親しいものであつたため、母の意義でのオヤを廣く其の家の女性におしひろめていつたものか、何れかであらう。だから、これも家系の問題には關係が無い。
 要するに、すべての家が父系によつて相續せられたことは明白である。貴族豪族に於いては其の地位と職務とが世襲的であり、さうして其の地位が男性によつて占められ、其の職務も男性によつて行はれたのであるから、それには父系相續の制が確立してゐなければならなかつたのである。さうして此の點に於いては、一般民衆とてもまた同樣であつたらう。同一の歴史を有する同一民族であるから、治者階級と被治者階級との間にかういふ點についての差異は無かつたらう、と推測せられるからである。世には我々の民族の上代に於いて母系相續の遺風もしくは痕跡を認めようとする考へかたがあるやうであるが、文獻に見える限りに於いては、それは困難であらう。母系時代の遺風といふやうなもののあつたことが、文獻によつてもし知られるとするならば、その母系の風習が父系に變化した徑路が、同じく文獻によつて知られるはずであらうと思はれるが、それが知り難いのではあるまいか。たゞ皇位繼承の順序と其の事情とによつて推測すると、長子相續の風習は存在せず、さりとて末子相續といふやうな一般的規定も無く、相續の順位は時々の事情によつて父の決定したもののやうである。兄弟爭ひの物語が記紀に多く記されてゐるのは、一つはこゝに其の理由があるのではなからうか。
 家の相續が父系であつたことに伴つて、一家を統率するものが子女の父であり男性であつたことも、またおのづから知られよう。子に對して母の有つ力の強かつたことは、種々の説話によつて推測せられるが、それは家を支配する權威が母にあつたことを示すものではなく、子が母のもとで養育せられ成長する風習から生じたことであらう。神代(339)の物語などの神の名、または書紀や風土記の説話に見える土蜘蛛または地方的首長の名に、ヒコとヒメと對稱的になつてゐるものがあるので、それは家族生活に於いて女性が男性と對等の地位にあつたことを示すもののやうに思はれるかも知れぬが、これは人として男女兩性が相對的に存在するからのことであり、アメ・クニとかアラ・ニギとかヒロモノ・サモノとかいふやうに、事物の名を對稱的に呼びなす風習が一般にあつたので、それが兩性についても適用せられたまでのものと解し得られる。對稱せられる男性の無い女性の神があり、土蜘蛛などにも女性のみが記されてゐる場合もあるが、これは或は神の性質から、或は物語としての興味の上から、來たことと考へるに支障はあるまい。土蜘蛛は皇命に服せざる地方的首長を指す物語の上の稱呼であるが、現實の状態としては、國造縣主などの地方的豪族に女性のものがあつたらしい形迹のどこにも無いことを、考ふべきである。だから、これらの例は家族生活に於いて女性が優越の地位を占めてゐたことの證にはならぬ。たゞ女性が特に輕んぜられてゐなかつたとはいひ得るであらうし、それにはまた、妻どひの風習があり婚姻に於いて許否の權を女性が有つてゐたことにも、幾らかの關係があらうかと思はれるが、しかし、かゝる場合に於いても、一方では女性が弱いものであつたことを知らねばならぬ。要するに、女性が家を主宰する地位にあつたといふやうなことは、決して無い。父をチといひ(チヽはチの重言)、さうしてチがイカツチなどのチと同じであり、威力あるものの稱呼であるならば、これもまた父に權威のあつたことを暗示するものであるかも知れぬ。
 なほこのことについても天皇がいつも男性であられたことを參考すべきであらう。推古天皇までは女性の御位に即かれた例が無いのである。推古天皇の御即位が何故に行はれたかは明かでないが、皇極齊明持統元明元正など、女性(340)の天皇の御即位は當時の政治上の形勢に於いて、または皇位の繼承に關して、それ/”\特殊の事情があつたためであるらしいことを思ふと、其の先例となつた推古朝についても同じことがいひ得られるであらう。即ち、何等かの理由によつて皇子の御即位を不便とする事情があつたためであらう。さすれば、女性の御即位は、いはゞ一時的に御位をあづかられる意味からであつたので、皇極持統元明元正諸帝がみな禅位せられたのも、其の故と考へられる。禅位といふことはシナにも例が無いではなく、北齊の世祖が位を太子に讓つて太上皇帝と呼ばれたといふやうなこともあるが、それが一種の慣例として行はれるやうになつたのは、日本の皇位の特色であつて、重祚といふことも其の思想的根據は同じところにある。しかし、これらは上記の如き特殊の事情から生じた女性の天皇の場合の特殊な先例に起原があるので、古くからの習慣ではない。一般には崩御によつて皇位の相承が行はれたのであり、其の繼承は男性によつたものである。「吾がみ子のしらさむ國」として天つ神から此の國の統治を任ぜられたといふのも、此の事實を基礎としてのことである。だから、女性の御即位は已むを得ざる事情から開かれた特殊の例外とすべきである。たゞかういふ事例が屡々現はれてゐるのは、上代に於いても天皇みづから政治の衝にあたりたまはず、實際に政務を統轄するには別に其の人があつたことを示すものとして、それに重要なる意味がある。シナの制度を學びながら、シナには存在しない太政大臣といふ官職が設けられるやうになつた理由の如きも、これと關聯して考ふべきことである。
 少しわき途へ入るが附記して置く。扶桑略記によると、和銅上奏の日本紀には飯豐天皇が御歴代のうちに數へてあつたといふことである。和銅上奏の日本紀といふものの存在は疑はしいが、それは別問題として、かういふ風に記してある御系譜が、かなり上代のものとして後までも遺存してはゐたらしい。また書紀には顯宗紀に飯豐青皇女の「臨(341)朝秉政」のことが見え、古事記にも忍海郎女即ち飯豐王について特に宮の名を擧げ、播磨から二王子の上京を命ぜられたことも記してあるから、此の皇女が一時的に攝政の如き地位にゐられたといふことは、古い傳へであつたらう。しかし古事記の記載から推測すると、其のもとになつた帝紀には、此の皇女を御歴代の數には入れてなかつたと見なければならず、また書紀の編纂時代は既に幾度か女性の御即位があつた後であるから、書紀の編者が從來御歴代の中に數へてあつた飯豐天皇を、女性であるがためにそれから除いたとは考へ難く、從つて當時存在した帝紀の諸本にも、やはりそれは天皇として記してはなかつたであらう。さうしてそれは、此の皇女の攝政せられたころに於いて天皇は男性であるべきものとして考へられてゐたからではなからうか。或は魏志倭人傳に見える女王卑彌呼の例があるため、我々の民族の上代には君主の地位にゐた女性が多かつたやうに思はれるかも知れぬが、所謂邪馬臺國に於いても卑彌呼が王となつたのは特異の場合であつたので、それは此の女王の前には男王があり、また其の死後にも一度び男王が立つたことによつて知り得られる。後に壹與といふ女が王になつたが、これは女性であつたがためではなくて、卑彌呼の宗族であつたからであるらしい。さうして卑彌呼といふ女性の王となつてゐたのが何故であつたかは、知り難いといふより外は無い。「事鬼道」とあるのは、必しも王となつた理由を説いたものとはいひ難く、それは壹與が十三歳の少女であつて、此の點に於いて卑彌呼と同じやうであつたとは考へられぬことからも、類推せられよう。卑彌呼の行爲を巫のそれとして解することはできようが、其の本來の地位を巫として見、さうして王となつたのは其のためであると考へ、さういふ考へかたから、其のころには巫の職能が政治的君主たる重要なる資格であつたと推論するのは、無理であらう。さういふことがもしあつたならば、それは一般の風習であつたと考ふべきであるのに、卑彌呼及び壹(342)與の外に女性の君主があつたらしい形迹は、倭人傳のどこにも見えず、邪馬臺國に於いても王は男性であるのが普通の慣例であつたと思はなければならぬからである。神功皇后の物語に同じやうな意味があると解するに致つては、一層無理であらう。皇后は書紀の編者によつて卑彌呼に擬せられたのみならず、皇后の物語の初めて作られた時に、既にさういふ意圖が其の作者にあつたらうと考へられるが、其のころの皇室に於いては、上に述べた如く、女性が即位せられる風習は無かつた。天皇として語つてないのは此の故であらうが、皇后としても、其の攝政が巫としてのはたらきによつたものとして話されてゐるとは、解しがたい。巫の行爲として見るべきことが物語には存在するが、それは戰爭とか政治上の大事とかの際に祭祀を行ひ神意をきくことが、物語の作られた時代の風習であつたのと、女性であるのとのために、巫の行爲を物語の材料としたまでである。神武天皇や崇神天皇の物語にも類似したことがあり、たゞ男性であるがために巫らしい行爲としてではなく、別の形に於いてそれが語られてゐることを考へるがよい。或はこのことにもまた倭人傳の記載から來たところがあるかも知れぬ。
 次は婚姻の問題であるが、これについて普通に知られてゐるのは、所謂つまどひの風習があり、それに伴つて一夫多妻が公認せられてゐたこと、兩性の何れについても婚姻に關する制限の極めて少かつたことである。第一については事新しくいふまでもなからう。婚姻は男が女のもとに通ふことによつて成立するので、妻が一人である場合には、或る時期の後にそれが夫の家に伴はれるが、多くの妻がある場合には、其のうちの一人が嫡妻として夫の家に入る外は、依然わが家にゐて男の通つて來るのにあひ、生まれた子をも養育する。上に述べた如く子が母の家で成長することの多いのは之がためである。嫡妻と然らざるものとはかくしてほゞ區別せられるが、しかし嫡妻ならざるものでも、(343)等しく妻であつて妾といふやうなものではない。次に第二ついても、輕の皇子と皇女との兄妹の物語によつて知られる如く、同母妹を妻とすることが禁ぜられ、大祓の祝詞に見える如く母と其の子とに同時にあふことが罪とせられてゐる外には、何等の制限が無かつた。記紀の皇室の御系譜によつて推測すると、異母妹との婚姻は普通の習慣であつたが、伯叔母及び姪を妻とする例もあり、(ウガヤフキアヘズの命の物語、開化應神用明などの卷々また孝安の卷)、また庶母や妻の姉妹やを妻とすることもあつた(神武及び開化の卷、また孝靈垂仁景行應神の卷々)。伯叔母については母方のそれのみの例が見えるやうであるが、父方のとても禁ぜられてゐたのではあるまい。姪もまた如何なる關係のであるかが明かで無いが、何れのでも許されてゐたのであらう。これらの記載は歴史的事實と見るべきもののみではないが、御系譜の作られた時代に、一般の風俗として許容せられてゐたことであるには違ひない。なほ同母妹との婚姻が罪とせられたことについては、同父同母の場合のみ記紀には現はれてゐるが、異父同母とても多分同樣であつたらう。異母妹が許されてゐたことに對照して考へると、禁制の主旨は同母妹たるところにあつたらしいからである。
 そこで問題となるのは、多くの妻のある場合に嫡妻の外のものが何故に自己の家にとゞまつてゐるかといふことであるが、これはつまどひの風習から自然に派生したこととして考へ得られるであらう。妻が一人である場合にも、或る時期までは妻は其の生家にとゞまるのであるから、これはたゞ其の時期が長いだけのことである。さうして多くの妻を有することは、多分、貴族豪族富裕者の間に多かつたであらうと想像せられるから、かういふこともまた彼等の間に多かつた風習であらう。然らば、つまどひの風習は如何にして生じたかといふと、それは家族が明かな形をなしてゐる社會に於いて、家族外に妻を求める自然の方法として、昔から行はれてゐた習慣に外ならないのであらう。少(344)くとも我々の知り得られる限りに於いての日本民族の風習としては、かう推測するのが妥當である。またそれは男が妻を得る條件として、女の家に於いてある勞役に服する習慣のあつたこととも、幾らかの關係があるであらうが、前者の起源が後者にあるとは必しもいひ難い。古事記のオホナムチの命がスサノヲの命から困難なる勞役を課せられたといふ話は、かういふ習慣から生じた民間説話が此の命に結びつけられたものとして、解し得られるやうであるから、それは我々の民族の間にも行はれたこととは考へられるが、つまどひの風習はそれとは別に發生し得たのであらう。
 ところが、このつまどひの風習を所謂母系時代の遺風と見なし、それと共に、父の知られないのをさしあてるといふ播磨風土記に見えるアメノマヒトツの命や、山城風土記の賀茂のワキイカツチの神に關する説話を、一般の状態として父が知られず母のみが知られてゐた時代が昔にあつて、其の時からいひ傳へられたものと解し、さうしてそれを上記の母系説に結びつけ、それによつて、我々の民族の上代にも所謂雜婚もしくは集團婚の行はれてゐた時代があつたことを、推測しようとする考へかたがあるかも知れぬ。けれども、妻どひの風習は必しも母系の制度と伴ふものには限らず、現に父系による家族生活に於いてそれが行はれてゐたのであるから、家族制度の發達には必ず一定の順序があつて、父系になる前の段階として必ず母系の時代があり、我々の民族に於いては、さういふ時代が文獻に現はれてゐる時代に近接して存在した、と假定しない限り、それを母系時代の遺風と解することはできぬ。さうしてさういふ假定が成立つかどうかは問題である。また上記の風土記の説話は、父の知られない特殊な場合があつたので、そこから作られたものと見るに何の支障も無く、さういふことが普通の状態であつたと考ふべき理由は、存在しない。或る一二の事例があるといふことは、必しもそれが一般の風習であつたことを示すものではないからである。家をも名(345)をも知らぬ男にあうたといふ女の歌が皇極紀に載せてあるが、さういふことから子が生まれたならば、其の子の父は知られないのである。それに限らず、所謂つまどひが行はれてゐた時代には、種々の事情から、ともすれば父の知られない子の生まれる場合があつたに違ひない。だから、かういふやうな點から雜婚とか集團婚とかいふことの行はれた時代のあつたことを臆測するのは、あまりに放縱なる考へかたといはねばならぬ。
 或はまた異母兄妹間の結婚が行はれ妻の姉妹を妾とすることもあつたことから、それを兄弟姉妹が共同の夫妻であつた時代の遺風と見なすやうな考へかたがあるかも知れぬ。さうして、セといひイモといふ語が兄妹にも夫妻にも共通の稱呼であつたことが、其の見解を助けるやうに思はれるかも知れぬ。が、これもまた放逸に過ぎた臆測である。異母兄妹の結婚の行はれたのは、普通に説明せられてゐる如く、子が母のもとで養育せられる風習であつたため、彼等が別居してゐたからであるとして、容易に其の理由が解釋し得られる。彼等の間には兄妹といふ感情が無く、其の點に於いては血縁の無いものと同じであつたのである。妻の姉妹を妻とするのも、多くの妻を有することが許されてゐる場合には自然に生じ得ることである。それらのことの禁ぜられなかつたところに何等かの理由があるのではないかといふ疑問も起らうが、かゝる疑問は、それらが禁ぜらるべきものであるといふ前提の下に起り得るのであり、さうしてかゝる前提は、日本の上代の婚姻の風習を考へる場合には、どこからも生じて來ない。なほ多くの妻を有つことが貴族豪族や富裕なものに多かつたとすれば、かゝることは、よし禁ぜられてゐなかつたにしても、一般の民衆に於いては比較的稀なことであつたらう。だから其の由來を上記の如く臆測することは、此の點からも甚だ不合理である。またセとイモとの稱呼については、何故にそれが兄妹にも夫妻にも通じて用ゐられたかを、考へて見なければならぬ。
(346) そこで先づ兄弟姉妹がいかに稱せられたかといふに、男性に於いても女性に於いても、同じ性のものは長者がエ、幼者がオト(ト)といはれてゐたことは、物語の上に於いてエシキ・オトシキ、エウカシ・オトウカシとか、エヒメ、オトヒメとか、いふ名がつけられてゐたのでも知られる。古事記には姉に對する妹のことを弟と書いてあるところが所々にあり、正倉院文書の戸籍でも同樣であるが、これは此の場合の妹をオトといつてゐたためである。エ・オトは長幼といふ意義の語であらう。また同じく何れの性に於いても幼者のオトに對して長者をネともいつたことは、古事記の神武の卷に弟が兄に對する語としてナネといつたやうに記され、また安寧の卷に見える姉妹の名にイロネ・イロドの語が添へてあることから、推測せられる。これもまた多分同性間の稱呼であつたらう。のみならず、ことばの成立ちから考へると、ネは、發音の便宜のために、エに子音のnを加へたものであるらしく、ウシをヌシといふのも同じ例であらうと思はれるから、エもネももと/\同じ意義を有する同じ語であつたらう。或はネは弟の兄に對し妹の姉に對する二人稱の語として用ゐはじめられたものかとも思はれる。此のネが後のアニ(兄)及びアネ(姉)のニもしくはネであることはいふまでもないが、神の名などに添へてあるネも、もとはそれと同じであつて、一種の尊稱として用ゐられるやうになつたものらしい。次に夫妻については、夫をヲ、妻をツマといつたことは明かであるが、ヲが男の義であるのと、古事記のスセリ姫の歌にも見える如く夫をもツマといつたのとから考へると、夫のヲに對する妻の名稱はメであつたらう。男女の性を示す一般的稱呼が夫妻の義にも用ゐられたのである。然らばセとイモとは何かといふと、これは一般に對稱的に用ゐられてゐた語のやうであるから、普通に考へられてゐる如く、男を女に對しまた女を男に對していふ場合の稱呼であらう。古事記にスサノヲの命をアマテラス大神のイロセとしてあり、またタカヒメの(347)命をアヂシキタカヒコネの命のイロモであると記してあるのは、姉に對する弟、兄に對する妹を、セとひイモ(モ)といつた好例證である。兄に對する妹を古事記には常に妹と書いてあるが、これはイモの語を寫したものであらう。妹に對して兄をセといつたことの明記してあるところは古事記には見えないやうであるが、イモ山に對していはれてゐるセ山が孝徳紀に兄山と書いてあり、萬葉にもイモに對するセを兄の字で寫したところがあるのは、上記の場合で兄が一般にセと稱せられたからであらう。さすれば古事記に妹に對して兄と書いてあるのは、セの語にあてられたものであることが知られる。たゞ弟に對して姉をイモといつた明證は古事記などには見えないやうであるが、姉に對して弟をセといつたことから類推して、さういはれたであらうと考へられる。正倉院文書の戸籍には弟に對する姉を妹と書いてある場合が少なくないが、これは此の場合の姉をイモといつてゐたので、それが妹の字で書かれる習慣のあつたことを示すものらしい。妻に對する夫、夫に對する妻を、セと稱しイモと稱するのも、また同じ意味からであつて、古事記のヨミの國の物語に、イサナミの命からイサナキの命に對してナセといひ、イサナキの命からイサナミの命に對してナニモといつたとあるのが、其の著しい例である。(イモをニモといふのは、やはりイに子音のnをつけたものであつて、呼びかける場合に口に出し易いやうにいひならはされたのである。)なほ萬葉を見ると、上記の如き豪族的關係の無い場合にも、例へば卷二の石川女郎の歌にある如く女が男をセといひ、又は卷五の松浦河に遊んだ時の歌などに見える如く男が女をイモといつてゐる例があるが、それには特殊の親昵の情が含まれてゐるやうであるから、多分、家族間に於ける稱呼が廣い範圍におしひろめられたものであらう。卷六の橘右大臣の歌または卷十七の家持池主贈答の歌にある如く男が男に對してセまたはセコといひ、卷四卷八の田村大孃の歌に見える如く姉が妹をイモといつ(348)てゐるやうなのは、其のころにはもはやセとイモとの用法が轉化しかけてゐたことを、示すものらしい。(古事記の神武允恭顯宗の卷々に伊呂兄と書いてあるのは、宣長の訓んだやうにイロセの語にあてられたのではなくして、イロネ又はイロエの語を寫したものではあるまいか。これらは何れも弟に對する兄のことであり、さうして一方に兄に對する弟を伊呂弟、即ちイロト、としてあることから、かう推せられる。宣長が弟に對する兄を一般にセと訓んでゐるのは、恐らくは妥當であるまい。清寧の卷にある汝兄もまた汝弟に對する語であるから、ナネであつてナセではなからう。)
 かう考へて來ると、セ・イモが兄妹と弟姉と夫妻とに通じて用ゐられたことは事實であるが、それは此の二つの語が男女相互間の稱呼だからである。全體に上代に於いては家族間の稱呼が單純であつたので、父母から遠い祖先までの直系尊屬がみなオヤといはれ、直系卑屬たる子孫はすべてコと呼ばれてゐたのでも、それは知られるから、夫妻と兄妹弟姉との相互間の稱呼が同じであるとしても、怪しむには足らぬ。さうして、生活を共にする家族の範圍にはおのづから限りがあり、而もそれは後にいふやうに概して狹少なものであつたと考へられるから、家族間の相互の關係について一々異なつた稱呼が無くとも、其の間にさしたる混雜は生ぜず、實際上の不便が無かつたであらう。だから、上記の稱呼を古い婚姻制度の遺風と見るべき理由は無い。(多くの家が一つの宗家によつて統制せられ生活上の一つの集團をなしてゐるといふ意味に於いて、大家族制とも稱すべき風習のあつたシナに於いては、自然の必要上、家族問の稱呼が細かく定められねばならなかつたが、我が國に於いても、シナの文字が廣く用ゐられるやうになると、それにあてる國語がおのづから定められるやうになり、また戸籍が作られてからは、實務の上からもそれが必要になつて來る。そこで、一方では昔からの習慣が或る程度に持續せられながら、他方では家族の稱呼が分化し、從つて古い(349)稱呼の意義が變つても來る。戸籍に上に述べたやうな書きかたのしてあるところがあると共に、弟に對する姉を姉と書いた場合もあり、孫とか外孫とかいふ文字も用ゐられ、妻と區別せられた妾の稱呼が現はれてゐるのも、此の意味に於いて解すべきことであらう。古事記に見える庶母とか庶兄とかいふやうな稱呼も、或は同じ事情から用ゐられるやうになつたものであつて、マヽハヽとかマヽエとかいふ語がもとからあつたかどうかは、問題ではなからうか。景行の卷には妾といふ稱呼さへ用ゐられてゐることを考ふべきである。稱呼の分化は文化が發達し生活が複雜になるに從つて自然に生ずべきことではあらうが、我が國に於いてはかういふ特殊の事情もあつたのである。)
 なほ萬葉卷九の筑波のかゞひを詠んだ歌に「他妻にわれも交らむ、わが妻に他もこととへ、」といふことがあるために、かゞひを一時的の性の開放であるとし雜婚または集團婿の遺風とする見解もあるらしいが、これもまたさう單純に説き得ることではない。これについて先づ考ふべき問題は、かゞひが既婚者の集會するところであつたかどうかといふことである。此の歌に於いても上記の語の前に「未通女壯士のゆきつどひかゞふかゞひに」といつてあつて、それによると、かゞひは未婚の男女のために行はれたもののやうに見えるが、常陸風土記に「俗諺云、筑波峰之會、不得娉財者、児女不爲矣、」とあるのも、また同じことを示すものであらう。風土記の香島郡の條に見える童子女松原の説話に於いても、かゞひはやはり未婚男女について語つてあるし、かゞひの異稱であるうたがきについて記紀に記してある物語もまた同樣である。一般にはかゞひは未婚男女のために求婚の機會を與へるものとして語られてゐるのである。遺存する文獻に於いて既婚者の會合が行はれるやうに明記してあるものは、萬葉の歌のみであり、而も其の歌に於いても、かゞひの一般的性質としては明白にそれを未婚男女の集會としてある。だから、そこに疑問があるので(350)ある。もしまた既婚者も未婚者も集會したのならば、それはかゞひの本質がさうであり、從つてかゞひといふことの行はれた初からさうであつたのか、又はもとは兩方の何れかの集會であつたのが後にかう變化したのか、そこにも問題が生ずる。次には、かゞひに於いて如何なることが行はれたかといふと、此の語に※[女+燿の旁]歌の文字があてはめられ、またそれがうたがきともいはれたことを思ふと、歌を歌ふのが主であつたことは明かであるが、記紀の物語や風土記の童子女松原の説話によつて推測すると、其の歌は唱和の方式に於いて歌はれたものらしい。たゞこれらの説話では個人的の歌の唱和が行はれたやうになつてゐるが、それは説話として構想せられたからであつて、實際の風俗としてのかがひに於いては、主として多人數の合唱が行はれたのであらう。續紀に見える天平六年及び寶龜元年のうたがきは、大宮人の遊樂であつて民間の風俗としてのかゞひではないが、其の唱歌が合唱であつたのは、やはり民間の風俗を模倣したものであるべきことを考へねばならぬ。さうしてさういふことが行はれたとすれば、それには舞踊が伴つてゐたであらうと推測せられるので、續紀の寶龜元年の記事に「毎歌曲折、擧袂爲節、」とあり、また別に「歌數※[門/葵]訖、……奏和舞、」とあるのは、即ち其の大宮人的模倣であつたらう。しかし問題は、かゝる歌と踊とがかゞひの本質であつて、例へば未婚男女の求婚の機會がそれによつて作られるといふやうなことは、それから派生したことであるのか、又は歌や踊は多數の男女の集會することからおのづから馴致せられた風習に過ぎないので、集會の本來の目的は別にあつたのか、といふ點にある。が、これらの問題は上記の材料のみからでは解釋ができない。
 そこで別の方面から觀察するに、かゞひの行はれた筑波には神社があるのであるから、かゞひには呪術的もしくは宗教的意義があつたのではないかといふことが考へ得られる。童子女松原や又は歌垣の行はれたところとして記され(351)てゐる書紀の海石榴市、攝津風土記の歌垣山、肥前風土記の杵島岳、などに神社があつたかどうかは、明かでないが、山には神社のある例が多いことを注意しなければならぬ。神社の由來は一樣でなく、神靈の居るところとして考へられた場所にそれが定められた場合もあらうが、また集團的に呪術や祭祀の儀禮の行はれるところに定められた場合もあり、從つてかゞひの起源がもしさういふ儀禮であつたと考へ得られるならば、それの行はれた場所が神社とせられたこともあらうと思はれる。なほかゞひの行はれた時期は、常陸風土記には、筑波について「春花開時、秋葉黄節、」と書いてあり、童子女松原について金風、桂月、黄葉などの文字が見えるから、此の二つを綜合して考へると、春秋二季であつたやうに推測せられる。常陸風土記の記載には漢文風の文飾が多く、これらの文字もまた其の例であるが、時期が春と秋とであつたといふことは、實際の風習にもとづいたものであらう。續紀に見える上記のうたがきが二月もしくは三月に行はれたのも、民間の風俗としての歌垣の時期に從つたものではあるまいか。もしかう考へて、かゞひが春と秋とに行はれたとするならば、それは日本の如き風土や氣候の下に於ける農業民族にとつては、祈年と收穫とに關する呪術もしくは宗教的儀禮を行ふには適當な時期である。此の點から見ても、かゞひに上記の如き意義があつたと解するに支障は無いやうである。ところが、上代に於いて舞踊そのものが呪術として用ゐられたことは、ウズメの命の話の作られたことによつても知られ、歌舞が祭祀の儀禮として行はれたこともまた周知の事實であるから、それによつて類推すると、かゞひは歌ひまた踊ることが其の本質であつたと見なし得られよう。もしさうならば、未婚男女の求婚の媒介をなしたといふやうなことは、かゞひの本來の意義には關係の無いことと考へられる。たゞ呪術または宗教的儀禮に關與するものとしては、女性に於いては處女の尊重せられるのが一般の例のやうであるから、かゞ(352)ひとても未婚者によつて行はれるのが、本來の意味ではなかつたらうか。從つてそれが未婚者に求婚の機會を與へることになつたのも、自然の徑路であつたと考へられる。が、さうなつたのは本來の呪術的宗教的意義が薄れ、又は消失したこと、いひかへるとかゞひが世俗化したことを示すものである。市のたつところなどでかゞひの行はれたのは、かういふ變化の生じた後にはじまつたこととも考へ得られる。(かゞひが呪術宗教的儀禮として行はれ、從つてそれは多數人の集合し得る場所で行はれたため、後にはそこで市が立つやうにもなつた、といふやうな徑路もあらう。)或はまた、かゞひには男女兩性が集合するのであるから、よしそれが呪術から來てゐるとするにしても、其の呪術が性的行爲であつたと解することはできないか、もしさう解することができるならば、他妻に言問ふといふ萬葉に歌はれてゐることの遠い淵源がそれで説明せられるやうにも見える。しかし、呪術として性的行爲が行はれたことは種々の民族に其の事例があるけれども、我々の民族にそれがあつたかどうかは知り難く、またさういふ呪術から歌や踊を主とするかゞひの風習が發生したと考へることには、種々の困難があらう。我々の祖先も性的機關もしくはそれに模擬したものを呪術に用ゐることはあつたらしく、ウズメの命や古語拾遺のオホトシの神やに關する説話によつてそれが推せられるが、それは必しも性的行爲を呪術として行つたことを證するものではない。
 余はかう考へて、かゞひは歌ひまた踊るのが其の本質であり、さうして、それは、本來、未婚男女によつて行はれたものである、文獻によつて知り得られる時代には既婚者もまたそれに參會するやうになつてゐたであらうけれども、それにしても一班的性質としてはなほ「をとめをとこの行きつどひかゞふ」ものとせられてゐた、と推測する。萬葉の歌に見える問題の語句がもし實際の風習にもとづいていはれたものならば、それは兩性の集會する場合であるがた(353)めに、後になつて生じたことではなからうか、けふのみは神もいさめぬといふところに、宗教的意義があるやうでもあるが、それは既に風習となつてゐたことであるために、それをかういふ形で、社會的約束として、許容してゐたことを示すまでであらう。が、これは歌のうちの語句であるから、少くともそこには何ほどかの誇張があるべきことをも注意しなければならぬ。それによつて、かゞひの本質が一時的の性の開放にあるとするが如きは、恐らくは輕率の譏を免れないであらう。かゞひがうたがきともいはれてゐて、そこで歌ひかはしたことが明白な事實である以上、かがひの遠い由來を推測するにしても、それを根據として考へるのが自然の方法である。(かゞひといふ語には從來種々の解釋があるが、余は「たがふ」、「たゝかふ」、または「ゆきかふ」などといふ場合の、カフの名詞形カヒにカの語が冠せられたものではあるまいかと思ふ。現に「かゞふ」といふ動詞が用ゐられてゐる。それは歌の唱和の方式、即ちうたひかはすこと、からつけられたのか、又は單に多數人のゆきかひ言問ひかはすことから出たのか、何れとも解せられるが、語の意義はかう推測し得られるのではなからうか。うたがきといふのはそれとは全く別の語であらうが、其の意義は余にはわかりかねる。或は歌垣の文字がそれに當つてゐるのではないかとも考へられ、多數人が列をなして唱和するところからさう名づけられた、と解し得られるやうであるが、熟語としての構造に於いて幾らかの無理があるやうにも思はれるから、強くは主張しがたい。)
 以上は婚姻の制度を考へるには、あまりに横みちに入りすぎた感があるが、世間には、一方に於いて文獻に見える我々の民族の上代を原始時代ででもあるやうに思ひなし、それと共に、他方では所謂原始社會に關する何等かの學説を、好むところに從つて、單純にうけ入れ、さうしてそれにあてはめて文獻上の記載をてがるに解釋しようとする考(354)へかたがあるらしいので、さういふ考へかたの非なることを説かうとしたのである。今日から知り得られる上代に於いては、家族制度が確立してゐたので、婚姻の風習もそれを基礎として成立つてゐたのである。勿論、さうなるまでには、長い時間に經過して來た歴史的發達の幾段階かがあつたには違ひなく、さういふ過去の遺風の何ごとかが後にも傳へられてゐたであらう、とは推測せられるが、具體的にはそれが何であるかを知ることが困難であり、それについては今後の愼重なる研究にまたねばならぬ。たゞ過去の遺風があつたといふことを、原始的状態が殘存したことの如く解するならば、それは大なる誤であらう。記紀などによつて知り得られる時代には、第一篇に述べたやうな、また第二篇に説いたやうな、政治組織が整つてゐたのであり、それより遠く溯つて考へてみても、三世紀の筑紫地方には魏志倭人傳に記してある如き政治的統制が行はれてゐたほどであるから、家族生活の基礎をなす婚姻の規定とても、後世とは違つてゐるが、原始社會もしくは未開民族の風習に比擬すべきものでなかつたことは、いふまでもあるまい。
 最後に、生活を共にする一家族が如何なる範圍のものであつたかといふに、これもまた明かにはわかりかねるが、記紀に載せてある皇族諸家の系譜から考へると、兄弟の多い場合には父の家を繼ぐものの外はそれ/”\別の家を立てたらしく推測せられること、遺存する戸籍に於いて、一戸主の下に數戸が從屬してゐる如く記載せられてゐる場合のあるのは、其の數戸の一々、即ち所謂房戸、がそれ/”\獨立の生活をしてゐたからであると考へられ、從つてさういふ房戸の存在が記載の上に現はれてゐなくとも、一戸主の下に記されてゐるものが事實上獨立した房戸の幾つかを含んでゐる場合のあるらしいことなどは、一家族が概して直系の父母子孫によつて成立つてゐたことを、示すもののやうである。戸籍には上に記した妻問ひの風習から生じたものと考へられる記載があるので、或る家た生まれた女性と其(355)の子であつて他の家の氏を冒してゐるものとが、生家の戸籍に記されてゐるのは、夫の家の戸籍に入つてゐない妻と其の子とであらうと思はれる。さういふものの生活が如何にして維持せられたかは明にわからぬが、それは多分、夫から生活費を支給せられてゐたであらう。一戸主の下に記されてゐながら生活を別にしてゐることは、房戸などの例と同じではなかつたらうか。戸籍に於いて獨立せる房戸を一戸主の下に隷屬させてある理由も明かでなく、それだけの範圍の數家族を宗家ともいふべきものが統轄する古くからの風習でもあつたからなのか、又は何等かの行政上の理由から大化もしくはそれより後に新しく定められたことであるかが、問題である。また遺存する如き戸籍の記載には班田制の施行に伴ふ特殊の事情から生じたことが含まれてゐるでもあらう。だから、戸籍によつて直に大化以前の家族生活の状態を推測することはできない。しかし、房戸が獨立の生活をしてゐたことがもし事實であるとすれば、それは法令などによつて急に變改せらるべき性質のことではないはずであるから、大化以前に於ける家族生活の實際を知るについては、それだけのことに十分な意味がある。さうしてそれと共に、法制上の戸主の任務は新に定められ得るものであることをも知らねばならぬ。このことは稱呼の上からも考へ得られるやうであつて、「ヘ」(戸)またはそれにイを冠した「イヘ」(家)の語は、一家族として寢食を共にするものの生活するところをさしていふのであり、ヘツヒ(戸つ火、竈)といふやうな語のあるのもそれがためであらうが、への幾つかを含むものの稱呼が無いことを思ふと、さういふものは實際に於いて存在しなかつたのであらう。戸主といふやうな名稱も新に定められたものであることが、それに當る國語の無かつたことから推測せられる。清寧紀の室壽の詞には、普通にイヘギミと訓まれてゐる家長の文字が見えてゐるし、またイヘヌシといふやうな語もあつたかと臆測せられるが、それらは數戸を統轄する戸(356)籍上の戸主のやうなもののことではなかつたらう。近親の關係を有する同族の家々の間に何等かの結びつきはあつたであらうし、新しい制度に於いて戸主といふものの定められたのも、そこに何ほどかの由來があつたらうとは臆測せられるが、既にこの書の第二篇にも説いて置いた如く、同族たることを示す名稱、即ち氏の名、といふやうなものすらも無かつたほどであるから、其の結びつきはさまで強いものではなく、また隣接して住居する近親の間に限られてゐたのでもあらう。貴族及び豪族に於いても、同族の家々の間にさしたる結合があつたらしくは見えず、同族が一つの集團として行動したやうな形迹も認められない。氏上といふものがあつて同族を統率したといふやうなことが世間で説かれてもゐるが、余はそれを何等の根據も無いものと考へる。これらのこともまた上記の篇に述べて置いた。一般民衆に於いては村落的集團が、貴族豪族に於いては部の組織また配下の家々との關係が、同族の間がらよりも遙かに重要であつた。生活の基礎が後者に無くして前者にあつたからである。
 家族生活の状態がもし上記の如きものであつたならば、さういふ社會に於ける家族道徳の如何なるものであつたかは、おのづから推測せられる。第一、父系によつて家が相續せられ、特に貴族豪族に於いては、人々の地位なり職業なりが世襲的であつて、家によつて定まつてゐたとすれば、子孫は父組の地位を維持してゆくべきものと考へられてゐたであらう。天平勝寶元年及び天平寶宇元年の宣命、並に萬葉卷十八及び卷二十に見える大伴家持の賀陸奧國出金詔書歌及び喩族歌には、家々のものが各々その祖の教に從ひ祖の業を守つて祖の名を墮さないやうにすることがいつてあつて、それには、祖の教を守るといひ祖の名を墮さぬといふやうなところに、シナ思想から來てゐる分子があり、勝寶の宣命に子は祖の心を成すべきものといふやうな語のあるのも、それと同じであらうし、また全體にこれらの宣(357)命や歌は、文化が進み思想の發達した時代の作でもあるが、しかし、子孫が祖先傳來の地位を失はないやうにすることは、世襲制度から自然に發生した、從つてまたかなり古い時代からの、道徳觀念であつたらうと推考せられる。祖の名絶たずといふやうな語も、此の意味で家を維持することをいつたものとすれば、必しも後人の思想から出たものとは限らぬ。勿論上代では、それは、上記の宣命や歌に見えるやうな明かな形で意識せられてゐたのではなかつたらうし、また實際に於いては、其の家の地位と職掌とによつて自家の權威を維持し又は自己の勢利慾を充たさうとする欲求と、相伴ふものではあつたらうが、ともかくもかういふ思想が漸次發生して來たことは、想像し得られる。奈良朝時代の言説には概してシナ的色彩が濃厚であり、天平十五年の宣命に、皇太子が五節の舞を舞はれたのは君臣祖子の理を天下の人に教へるためであると説いてあるやうな、極端の場合もあるので、天平寶字四年の詔勅の「子以祖爲尊、祖以子亦貴、」もまた其の例であるが、しかし權勢ある家々が其の家を尊貴にするために系譜を作つてゐたことは、おのづから此の詔勅の語の一半の意義に適合するものであり、さうして系譜の製作は、少數の貴族に於いては、神代史の述作と共に行はれたことである。これもまた世襲制度から自然に生じたことであるが、さういふことが行はれたとすれば、上記の道徳觀念もまたそれに伴つて漸次形成せられて來たであらう。
 なほ之に關聯して考ふべきは、祖先崇拜ともいふべきものが何等かの形に於いて存在したかどうか、といふことである。祖先崇拜といふ語は一般に用ゐられてゐながら、其の意義は甚だ漠然としてゐるが、もしそれが、宗教的儀禮によつて祖先を神として祭ることをいふのならば、さういふことが我々の民族の上代に於いて發達してゐたとは考へがたい。中臣氏とか忌部氏とかいふ一二の貴族に於いては、其の家の始祖を神として祭祀するやうになつたが、それは(358)奈良朝からのことであつて、一般の風習でも昔からの因襲でもなく、さうしてそれは、民間信仰として崇拜せられてゐる或る神社の祭神に其の始祖の名を結合することによつて、行はれたのである。阿曇氏や三輪氏の如く、神代史に於いて宗教的意義での神とせられてゐるもの又は或る神社の祭神を始祖とした家もあつて、それは古事記にも既に記されてゐることであるが、これらは始祖を神として祭つたのではなく神を始祖に擬したまでのことである。要するに、家の始祖を神とし宗教的儀禮によつてそれを祭ることは、上代には無かつたといつてよからう。これらのことについては第一篇に説いて置いた。また家々に於いて歴代の祀先を神として祭つたやうな樣子はどこにも見えず、それは皇室に於いても、種々の點でシナの帝王の儀禮が學ばれたにかゝはらず、宗廟の如き制度が設けられなかつたことからも推測し得られよう。始祖としてのアマテラス大神は伊勢の神宮として祭られたが、それは本來宗教的崇拜の對象としての太陽神と結合せられてゐたからであり、さうして其の他に御歴代の天皇の靈を祭る儀禮があつたらしい形迹は、記紀の説話にも歴史上の記載にもまた神祇令の規定などにも、全く見えてゐない。だから、歴代の祖先を神とする宗教的祭祀は、一般の風習としても、行はれてゐなかつたとしなければなるまい。
 たゞ朝廷の儀禮としては、治部省に屬する諸陵正の職掌として「祭陵靈」といふことが、令に規定せられてゐるし、實際、所謂荷前の奉幣が毎年十二月に行はれたのであるから、それによつて考へると、墓地に於いて何等かの祭祀を行ふ風習は一般にもあつたのであらう。諸陵司は唐の太常寺に屬する諸陵署に倣つて置かれたものではあるが、神祇官で行はれる祭祀が唐の帝室の祭祀とは全く違つたものであることから類推しても、かゝる儀禮は民俗に其の根據があり、從つて其の由來も古いものと考へられる。諸陵司の事務が歴史的には土師部の職掌で繼承したものであること(359)をも、顧慮すべきである。しかし、朝廷の此の祭祀が神祇官の所管でないこと、「先皇陵」に關する規定が喪祭令に記されてゐること、また上に引いた如く「祭陵靈」といふやうな文字が用ゐてあること、それが喪葬凶禮を司る諸陵司の職務となつてゐること、から推測すると、民俗に於いても、それは墓に葬つてあるものの靈の祭祀、いひかへると死者として其の靈を祭ること、であつて、祖先としての靈の祭祀ではないと共に、またそれが一般の神の祭祀とは性質の異なるものであつたことが知られる。イサナミの命の物語や種々の祝詞でもわかるやうに、上代人には屍體及びそれの葬つてある墓地に對する恐怖の感が強かつたので、それがために種々の呪術が行はれたのであるが、一方では、漠然たる形に於いてではあらうが、死者の靈の存在が考へられ、また死者の生前に於ける自己との關係の記憶によつて生ずる、死者に對しての親しい感じがあると共に、死者の靈には生者とは違つた特殊の力が附與せられもするので、それがために、上記の呪術が祭祀の性質をも帶びるやうになり、或は別の意味から生じた祭祀の儀禮がそれと混和し、さうしてそれが墓地に於いて行はれたものと推測せられる。しかし、それが墓地で行はれたとすれば、死者はやはり死者であつて、それは墓地を離れては考へられなかつたらしい。なほこれについては、死後の生活や他界の觀念が明かに形づくられてゐず、物語のヨミの國も屍體と墓地とを離れてはゐないことを、參考すべきであらう。さうしてまた上に述べた如く、始祖をも歴代の祖先の一々をも、神として祭つた形迹の無いことから推測すると、墓地での祭祀は死者の全體に對して行はれたので、個人に對するものではなく、祖先のみの祭祀でもなかつたらう。個人に對するものでないことについては、死者の靈の存在が漠然考へられてゐても、個人の一々の靈が不滅であるといふやうな思想は、少くとも明かにはなつてゐなかつたらしいことをも、知らぬばならぬ。要するに、死者に對する祭祀は、始祖(360)もしくは歴代の祖先を神として祭る意味ではなかつたのである。
 もつとも、死者に關して神の語を用ゐることは文獻の上にも見えてゐるので、其の一例をいふと、萬葉卷二の天智天皇崩御の時の婦人の作といふものに「現身し神に堪へねば」とある「神」は、死者をさしたものらしい。これは天皇についての語ではあるが、「現身」に對して用ゐてあるのを見ると、天皇が神であられるといふ思想からいはれたのではあるまい。人麻呂の高市皇子の薨去の時の挽歌に、殯宮を「神宮」といつてあることにも、同じ理由があり、皇子であるがためにかういはれたのみではないやうに感ぜられる。皇子を神と稱することはあるので、其の例は卷一にある同じ人の輕皇子宿于安騎野時の歌にも、卷二の置始東人の弓削皇子の薨去の時の挽歌にも見えてゐ、さうしてそれは天皇が神であられるといふ思想が皇子にまで適用せられたものであらうが*、上記の「神宮」の「神」は其の意味からばかりではあるまい。「み子の御門を神宮に装ひまつりて」とあることから、さう考へられる。が、死者を神と稱したにしても、それは屍體に對する恐怖感から發生した思想であり、屍體に何等かの力があるとせられ、その意味で神の語が用ゐられたのであつて、死者を宗教的祭祀の對象としての神としたのではない。またこれらの歌に見える上記の神の語が祖先の觀念と何のかゝはりも無いことは、明かである。なほ人の死に關して神の語の用ゐてある例を見るに、人麻呂の日並皇子の薨去の時の挽歌に「神のぼり」といふ語が用ゐてある。(原文には「上」とも「登」ともある。何れもノボリの語にあてられたのであらう。)これは天皇が神であられるところから其の崩御をかういつたのであつて、それは此の語が所謂天孫降臨を意味する「神下し」の語と對稱的に用ゐてあることからも明かである。神のぼりといふ此のいひかたは、神つどひ、神やらひ、神はかり、神さり、などといふのと同じであつて、語法の上では神の語(361)を形容詞風に加へたのであるが、それは神(と稱せられた高天原の人物)のしわざ、もしくはそれに關することだからである。此のいひかたは、神(宗教的意義での)が人にかゝるといふ意義で「神がかり」といふのとは、全く違つてゐることを注意しなければならぬ。が、それと共に、此の語には死者の靈魂の上天といふ思想が其の根柢に存在するので、從つて其の「神」には死者の靈の意義も含まれてゐるやうである。しかし、靈魂上天の觀念は、死せる帝王の靈魂が天に上るとせられた、シナ思想から來てゐるのであるから、此の時代のかういふ知識社會の手になつたものによつて直に一般上代人の思想を推測してはならぬ。また上記の高市皇子の薨去の時の人麻呂の歌には「神ながら鎭まりましぬ」といふ語もあるが、此の「神ながら」は「天つ神のみ子ながら」の意義であり、皇子を神としていつたのであらう。やはり上記の東人の歌にも「久方の天の宮に神ながら神といませば」とあつて、其の「神ながら」が、同じく「天つ神のみ子ながら」の意義であることは、其の反歌に「おほきみは神にしませば」とあるのでも知られるからである。(「神ながら」の語の意義については「日本古典の研究」第五篇參照。)しかし東人の歌の「神といませば」は薨ぜられた皇子の靈魂の上天をいつたので、其の「神」は死者についていふ場合の例であると共に、シナ思想に由來するものでもあるが、特にかういふいひかたをしたのは、「神ながら」の語を承けた修辭上の要求からでもあり、從つて其の意味に於いては皇子であるからさういはれたのである。人麻呂の歌にはまた「神葬り」といふ語も「神さぶと磐がくります」といふ語もあるが、前者の「神」は「神ながら」のそれと同じく、皇子であるがためにいはれたのであらう。上に擧げた神つどひ、神さり、などの例である。此の語は卷十三の挽歌にも見えてゐるが、それも皇子についてのことである。また後者は、東人の歌の「神といませば」と同じく、死についていつたのではあるが、本來「神さぶ」の語(362)に死に關する意義があるのではないから、これは神であられる天皇のことであるがために、其の聯想によつてかういはれたのであらう。卷三の丹生王の石田王卒之時の歌に「神さびにいつきいます」とあるのも、同じことであつて、其の根柢には皇族の觀念がある。さうして、これらから類推すると、上記の「神宮」も、やはり皇子であるがためにさういはれたといふ一面の意味もあるらしい。カムミヤのミヤといふ稱呼が特殊の敬語を含んでゐるものであることはいふまでもない。のみならず、カムミヤといふ語も普通にいひならはされてゐたものであるかどうかは疑はしく、或は人麻呂の造語であるかも知れぬ。「神宮」の文字がシナの書物から採られたものであるらしいことも、また參考せられねばなるまい。(隋書樂志に見える梁の雅歌に「神官肅々」といふ句がある。)要するに、死者または屍體に對する恐怖感からそれを神といつた場合がある、といふことは考へ得られるが、現存の文献に於いては其の例證が多く求められないことを思ふと、一般にさういはれてゐたらしくはない。萬葉の歌でも、此の意義で神の語の用ゐてある例は少く、其の少數の例に於いても、最初に擧げた一つの外は、すべての場合に他の意義での神の觀念がそれに伴つてゐる。挽歌に用ゐられた神の語でありながら、其の多くは天皇もしくは皇子を神といふ意義での神である。萬葉の數多き挽歌に於いて神の語の用ゐてあるのは、天皇もしくは皇族の場合に限られてゐることをも、考ふべきであらう。
 また上にも述べた家持の「賀陸奧國出金詔書歌」の反歌に「大伴の遠つ神祖の奧つきは著く標立て人の知るべく」といふのがあり、長歌にも「遠つ神祖」の語が用ゐてあるので、それによると祖先を神とし墳墓に其の神がゐるやうに考へてゐたらしくも見えるが、神祖の「神」は單なる尊稱または敬語として解すべきものであらう。此の歌には既に説いたやうに、祖の業を守り祖の名を絶たぬことが力をこめて歌つてあるにかゝはらず、祖を祭るといふことは少(363)しもいつてなく、また神を神としたのならば、それは神祖といふよりも祖神といふべきものと考へられるからである。さうして奧つき云々の語は、たゞ祖の名を彰はすことを具體的な事がらとしていつたまでであらう。なほ此の歌は天平勝寶元年の宣命と關係があるので、それには天に坐す神、地に坐す神、及び「天皇の御靈たち」の思惠によつて黄金が出たといふことが述べてあり、歌に「皇御祖の御靈助けて」とあるのも、それによつたのであるが、これでみると「天皇の御靈たち」が神と同樣に考へられてゐたやうである。しかし、これもまたシナ思想に由來があることであり、單に思想としてのことでもあつて、其のころになつても神としての其の「御靈たち」に對する祭祀が行はれたらしくはない。皇室に於いてもさうであつたから、其の他の家々ではなほさらであつたらう。祖先崇拜の宗教的儀禮が一般の風習として行はれてゐたシナ人の思想、それに道徳的意義を附與した儒家の教が、知られ又は學ばれてゐた奈良朝の知識階級に於いてすら、かういふ状態であつた。萬葉に神を祭ることを歌つてあるものは多いが、祖先を神として祭ることのいつてあるものの見えないのも、また之を證するものであらう。上にも説いた如く、中臣氏や忌部氏が其の始祖を神として祭るに當り、何等かの形に於いて民間信仰の神にそれを結びつける必要があつたのは、かう考へると當然である。さうして始祖を神として祭らうとしたのは、祖先崇拜とは別な動機から起つたことである。祖先の靈が自己を愛護すると考へ子孫が其の力に依頼せんとするところに、祖先崇拜の意義も起源もあるとするならば、それは自己に親しいもの、生前に自己を愛護したこと自己がそれに依頼してゐたことの實感として遺つてゐるもの、即ち主として父母祖父母、の靈に對する祭祀が基礎になつてゐるべきであらうに、其の父母が神として祭られず、遠い始祖のみが神とせられたことによつても、それが祖先崇拜の宗教的儀禮から出たものでないことは、知られるであらう。(364)それは家系の尊重せられた時代に於いて、其の家の規實の社會的政治的地位を保ち又は高めようとするところから出たことであり、始祖の名を神代史上の人物や皇族としたことと、同じ精神の發現である。
 けれども、家の地位や職業が世襲的であることの強く意識せられてゐた貴族豪族に於いては、自己の生活と父母及び祖先との關係が明かに認知せられてゐたであらうから、宗教的儀禮による祖先崇拜の風習が形成せられなかつたにしても、死せる父母及び祖先の靈に對する尊敬及び依頼の念は存在したであらう、と推測せられる。神代史の上で諸家の始祖に擬せられた命たちが神の語によつて汎稱せられたのは、神の代に生活したものとして語られたからではあるが、神と稱し得られるほどに、祖先を尊崇する思想が一般に存在したためでもあらう。神代史の作られたことの根柢に既に此の思想があるので、それは皇位が世襲的に傳へられて來た事實に本づいた其の起源としての皇祖の物語であり、祖先尊崇の精神がそこにある。但し皇祖は太陽神と結合せられたために宗教的祭祀をうける神とせられたが、諸家の始祖は宗教的に神として祭られたのではない。けれども少數の例ながら後になつて神を始祖とする家が生じ、更に後になつて始祖を神と結合する家が現はれて來るのも、こゝに其の由來があり、それと共に死者の靈の祭祀にも、思想としては、同じやうな尊祖の念が含まれるやうになつて來たであらう。書紀の注の「一書」に見える如く、紀伊の有馬村で行はれた死者の靈の祭が、そこに葬つてあるといふイサナミの命の靈に對するものとして、考へられてゐたといふのも、死者の靈の祭にはそれに對する尊敬の念が含まれてゐたことを示すものであらうから、祖先たる死者についても同じことがいひ得られよう。此の「一書」の説は新しいものであるが、其の根柢に存在する此の思想は、必しも新しく生じたものではなからう。民俗として語られてゐるところに意味があらうと思はれるからである。だから、(365)宗教的儀禮としての祖先崇拜と稱すべきものは無かつたけれども、祖先尊崇の情は有つたのであり、そこに上に述べた道徳觀念と相應ずるところがある。神代史は貴族豪族に對して皇室の地位と其の權威との由來を語つたものであるから、祖先に對する子孫の道徳的義務といふやうなことは、表面には毫も説かれてゐないが、一般には祖業を失墜せざることが子孫に要求せられてゐたのであらう。貴族社會に於いては、此の思想がシナの典籍の知識によつて助けられたでもあらうが、其の根本は上代の社會祖織政治祖織にある。かういふやうに家の地位を墮さぬことは考へられたが、しかし同族間の親和とか結合とかが思慮せられたらしい形迹は見えぬ。さういふことを推測せしめるやうな材料が存在しないのである。上に記した如く、事實に於いて同族が一つの集團として結合せられてゐなかつたのであるから、これは當然である。
 以上は主として貴族豪族に關する考察であるが、一般民衆に於いては、よし其の生業が世襲的であつたにしても、それは或る家に特殊なものではないから、其の意味で家の誇といふやうなものも無く、從つて祖先尊崇の思想も、貴族や豪族ほどに強くはなく、明かに意識せられてもゐなかつたであらう。また同族に對しても、どれほどに生活上の交渉があつたのか、知り難い。其の代り村落的集團精神は發達してゐたらうと推測せられるが、このことはなほ後に述べよう。
 次に家族道徳の重要なるものは父母と子との關係についてであるが、父によつて家が統率せられ、皇位繼承の物語に往々現はれてゐる如く、家の繼嗣者を定めるものは父であり、スセリ姫の物語に見える如く、女子の婚姻に關する許否の權もまた父にあつたとすれば、子は父の命に服從すべきものとして考へられたことは、おのづから推測せられ(366)る。しかし、親を尊しとし子を卑しとして、親に對する絶對的服從が子に要求せられ、子は親のためにのみ生存するものであり親の所有物であるとせられた、シナの孝の教のやうな思想は生じなかつた。天平寶字三年の宣命に人の子の禍を去り福を蒙らんと欲するのは親のためであるといつてある類は、いふまでもなくシナ思想である。萬葉五の卷の山上憶良の歌に「父母を見れば尊し、妻子見ればめぐしうつくし、」とある前半は、作者がシナの文字に通じてゐたことから考へると、シナ思想に由來する分子が含まれてゐるらしいが、後半は「子等を思ふ歌」などの作者の言であることから見ても、純粋なる感情の發露であり、さうしてそれを前半の思想と對等に取扱つたところに、日本人の思想がある。此の語がほゞ其のまゝ十八の卷の家持の歌に取られ、さうしてそれが「大なむち少彦名の神代より言ひつぎ」しものとせられたのも、此の故である。それと共に、親に對する思慕の情の歌はれてゐるものが萬葉に少なくないのを見ると、親子の間が素朴な自然な愛情によつて結びつけられてゐたことが想像せられる。母子の關係に於いて母性愛が其の基礎になつてゐたことはいふまでもなく、父と同居しない母の許で子の育てられる場合には、そこに特殊の親みも生じたであらう。ところで、奈良朝時代のかういふ状態は、當時の家族生活のおのづから然らしめたところであり、從つてそれはさういふ家族形態の成立した昔から、それに伴つて發達しまた繼承せられたものであらう。さうしてこれが一般の状態であつたとすれば、當時の道徳もそれによつておのづから規定せられてゐたに違ひない。女子の婚姻について父母、特に母が、監督を怠らなかつたことは、數多き萬葉の歌から推測せられるにかゝはらず、親に秘して男にあふ女のためしも少なくなかつたことが、やはりそれらの歌から知り得られるので、それもまた古くからの風習であらたらうが、さういふことは甚しく罪惡視せられなかつたらしい。それは人の自然の欲求としての兩性の關(367)係といふ特殊のことだからでもあつたらうが、そこにやはり親子關係の素朴さと自然さとが見られるやうである。
 談がおのづから婚姻の問題に及んで來たから、このついでに夫妻間の道徳について一瞥して置くのが便宜であらう。第一に婚姻の風習が上に説いたやうなものであつたとすれば、兩性の結合に嚴肅性の缺けてゐたことが、おのづから推測せられるやうである。婚姻について宗教的儀禮の行はれたらしい形迹の無いことにも、此の點に關聯して考ふべきことがあるかも知れぬ。何等かの呪術的儀禮はあつたであらうが、もしさうとすれば、それは、呪術といふものの性質から見て、むしろ性的行爲より生ずる禍害を避けるのが主ではなかつたらうかと臆測せられる。一般には呪術が宗教化して來たが、婚姻については其の傾向が明かに認め難い。婚姻に關する社會的風習が一般的に成立つてゐた以上、普通の状態としては、夫妻の結合は永久的のものとせられてゐたであらうが、それは夫妻としての生活の自然の成りゆきであつたと考ふべきではなからうか。勿論、離婚なども數々行はれたのであり、また一人の夫に多くの妻がある場合には、嫡妻ならぬ妻との關係が動搖し易いものであつたことは、おのづから想像せられる。嫡妻の嫉妬の物語が記紀に見えてゐて、それは夫を占有せんとする妻の欲求の自然の發露であるが、嫡妻ならぬ妻にもそれがあつたかどうか、從つてまたさういふ妻が一般に如何なる程度に於いて夫に依頼してゐたかは、明かでない。古事記に記されてゐるスセリヒヒメの歌といふものには、上代の風俗を説くものの屡々引用する有名な句、即ち男は多くの妻を有ち得るが自分は女だから汝の外に夫は無いといふ意味を歌つたところがあるが、嫡妻としての此の姫の地位をよそにして考へるにしても、これが上代の女の一般の心情であつたかどうか。これらの點についても問題はある。從つてまた、夫妻間の道徳觀念が如何なるものであつたかも、よくはわかりかねる。たゞ夫妻としての生活があり、それによつて家(368)と社會とが成立つてゐた以上、夫妻間の道徳が何等かの形に於いて存立してゐたには違ひない。萬葉に往々人妻を戀ふ歌があるが、それはさういふこと、從つてまた妻が夫ならぬ男にあふこと、が異常な場合であり一般の風俗に背くものとして考へられてゐたことを、暗示するものであつて、そこに妻の夫に對する道義があつたやうであるが、これは必しも萬葉時代にはじまつたことではあるまい。しかし、男が多くの妻を有つことは當然視せられてゐたから、そこに兩性の地位の差異があつた。一般的には既に述べた如く、女性の地位は必しも低くはなかつたが、此の點については、これだけのちがひがあつたのである。
 しかし、普通に考へられてゐる如く、上記のスセリヒメの歌に夫に對する妻の道徳觀念が現はれてゐるものとして、解し得られるかどうかは、疑問である。夫を占有しようといふ欲求が妻、少くとも嫡妻、にあつたことは事實であらうと思はれるからである。が、假にさう解し得られるとするならば、それは或はシナ思想の影響をうけたものであるかも知れぬ。此の物語は新しいものであり、從つて歌もまたさうであるからである。なほ垂仁朝のこととして語られてゐる沙本姫の説話を讀むと、女の心情の頗る複雜であつたこと、夫と兄とに對する情の葛藤に於いて如何に身を處すべきかを思慮し、兄と共に死地につきながら夫に對してこゝろの限りを盡したところに、妻としての情を全くしようとする用意のあつたことが知られるので、そこに此の説話の道徳的意義がある。しかし、説話そのものに於いては、それが遺徳的責務の自覺としてよりは、寧ろ情の向ふところとして語られてゐることに、注意しなければならず、妻でありながら夫にのみすべてを傾倒することができなかつたといふのも、このことに關係がある。もつとも、一方のかういふ話があると共に、他方では安康朝のこととなつてゐる長田大郎女の物語の如く、大なる苦悩がなければならぬ境(369)遇に置かれながら、さういふ苦惱が無く、頗る單純に其の境遇に順應したらしく見えるやうな例もあつて、一二の説話からすぐに上代人の思想なり心情なりを概論することは、かなりに危險であるが、しかし、ともかくも沙本姫の物語は、それだけで意味のあるものではある。此の説話は、勿論、知識人によつて作られたものではあらうが、しかし古事記の物語で見ると、それにシナ的道徳思想の痕迹は無ささうである。三の數をしば/\用ゐてあるやうな點にシナの知識が入つてはゐるが、それはたゞそれだけのことらしい。たゞし書紀になると、かなりシナの道徳思想によつて潤色せられてゐる。
 家族間の關係に於いて今一ついふべきは兄弟間のそれである。兄弟の爭の物語は記紀の説話に甚だ多いが、その語るところによつて推測すると、かゝる爭は主として家の繼承に一定の順序が無いところから生じたものらしく思はれる。勿論、そればかりではなく、年齡や能力に大なる懸隔の無い兄弟は、おのづから相抗爭し易いものであること、母を異にする兄弟間にはおのづから感情の融和が缺けてゐたらしく思はれること、また子どものうちで幼弟を愛する傾向が親にはおのづから存在すること、なども其の誘因をなしたであらう。同母兄弟の相爭つた物語もあるし、親とても長子を愛しなかつたのではなからうが、實際、記紀には異母兄弟の爭と幼弟が親に愛せられた話とが少なくない。原因は何れにあるにせよ、兄弟の爭は多かつたらしい。しかし兄弟は、成長した後は、各々獨立の家をなす習慣であつたやうに見えるから、家の繼承が原因となる事の如きは、さうならない前に多かつたであらうし、親の態度から生ずる爭の如きもまた同樣である。だから、かういふ事があつたといふ事實は、家のうちの秩序を立てる道徳的規制が確立してゐなかつたことを示すものではあらうが、それはまた家族生活の範圍が狹少であつて、其の生活が比較的自(370)然の状態を保つてゐたからでもある。さうしてまた説話に現はれてゐるところは、それが特に人の注意をひくことである點に於いて、むしろ異常の状態であつたと考ふべき一面の理由もあることを忘れてはならぬ。兄弟は互に相爭ふものと定まつてはゐなかつたに違ひない。
 家族から目を其の外に轉ずると、第一篇及び第二篇に説いて置いた如く、朝廷の貴族に於いては、部と稱せられる官司の世襲的首長たる伴造の家と、やはり世襲的である其の部下もしくはそれに從屬して地方の領土民衆を管治する地方的豪族との間に、一定の關係が成立つてゐたので、それが、伴造の家にとつても、其の部下もしくは從屬者たる地方的豪族の家々にとつても、彼等の生活、彼等の地位と勢力との、基礎となつてゐたことを知らぬばならぬ。此の關係を有する家々は、すべて伴造の職務を表示する其の家の名を以て呼ばれたので、それが即ち氏の名として用ゐられたものである。かういふ制度から如何なる道徳觀念が養成せられてゐたかは明かでないが、少くともそれによつて彼等が生活してゐる以上、首長と其の部下及び從屬者たる地方的豪族との間に、或る親和の情が生じてゐたであらうとは推測せられる。此の關係の廢罷せられた大化改新以後に於いてもなほ其の遺風が存在し、家によつてはそれが實際に幾らかのはたらきをしたらしいこと、それを或る程度に制度化しようとして、氏上といふものが新置せられるやうになつたこと、などはそれを證するものであらう。けれども、そこに嚴肅なる主從間の道徳といふやうなものが成立つてゐたとは解せられぬ。それは、此の關係が制度として定められたもの、もしくは主家の權威によつて結ばれたものであり、後者に於いては主家の權威の消長によつてそれが動搖するものだからである。朝廷の貴族が地方に領土民衆を有つてゐても、それは封建制度といふやうなものの状態とは違つてゐることが、此のことについて注意せられねば(371)ならぬ。此の關係を有するもの、即ち同じ氏の名を稱するもの、が一つの集團をなしてゐるのではなく、從つてまた他の同じ關係を有するものに對して集團的抗爭心といふやうなものの生じなかつたことは、勿論である。だから、此の關係の基調は、むしろ、主家も從屬者たる地方的豪族の家々も、それによつてそれ/”\彼等の地位と利益とを維持し又は増進しようとするところにあつたので、たゞ主家と從屬者との間に不斷の交渉があり相互に近接する機會が多かつたため、そこから自然に發生した一種の親和の情が其の傍に存在したのみであらう。
 以上は貴族豪族のことであるが、一般民衆に於いては、豪族生活の外に村落的集團としての生活があり、從つて其の間に集團生活の精神の發達してゐたことが、推測せられねばならぬ。農民にとつては耕作する土地が生活の基礎であるから、血族を同じうすることよりも、同一地域に生活することの方が幾層か重要であり、特に水田の耕作には同一地域に於いて共同の灌漑用水を使用する必要があるため、同一村落の民はみな其の生活を共同にするものであることが強く意識せられる。共同の勞役によつて池溝の築造開鑿などを行ふ風習は、必ず存在したに違ひなく、さういふところからもすべての方面に於ける村落的共同生活の精神が養はれたであらう。彼等が共同の呪術祭祀を行ひ共同の神社を有することは、いふまでも無い。從つてまた、村落民を統制する何等かの方法もあつたはずである。それには村落的首長としての豪族の權威もはたらいたであらうが、必しもそればかりではなく、衆議による方法も行はれたのではあるまいか。八百萬神が神集ひに集ひ神議りに議つたといふ神代史の物語にも、一つは、かういふ村落生活の状態の反映があるかも知れぬ。かゝる神集ひ神議りが行はれたといふスサノヲの命の高天原での暴行の説話に於いて、其の暴行が畔はなち重まきなど、農耕の妨害として語られてゐることも、此の意味に於いて注意せられよう。
(372) しかし、村落的集團生活の精神は發達してゐても、それよりも廣い範圍に於ける社會生活は、明かに意識せられてゐなかつたらしい。他の村落を敵視してゐたといふのではない。後世にも往々見聞せられる如く隣接村落の間に灌漑用水に關する事が生じたり、其の他にも何等かの事情から相互の衝突が起つたり、それが延いて平素の反目となるといふやうなことが、昔にもあつたではあらうが、それらは要するに特殊の事態であつて、一般に村落間の關係がさういふ有樣であつたのではない。また村落の境界に神を祠つて邪鬼の入るのを防いだり、邪鬼を村落外に放逐する儀禮を行つたりすることもあつたであらうが、これも村落本位の生活から來たことであつて、必しも他の村落を敵視したことを意味するものではない。此のことについては、村落にそれ/”\神社があつても、其の神は他の村落に對する其の村落の保護神といふやうな性質を有つてゐなかつたことが、參考せられよう。(神社は到るところにあつたが、全體に他の地方に對抗する意味に於いて或る地方を保護する地方神は無かつたやうである。これは地方的闘爭などが激しく行はれなかつたことを示すものとして、解し得られるであらう。)しかし、既に述べた如く異郷人に祓へつものを課する習慣があり、旅人の困苦に對する同情心が發達してゐなかつたといふやうな事例は、一般民衆の心理に於ける社會意識が幼稚であつたことを示すものとして、注意せられねばならぬ。彼等には村落人としてより外には社會人としての生活が無かつたのであるから、これは當然である。農業生活は土地に固着してゐるものであるから、住地を離れた生活が無かつたのである。勿論、彼等とても兵卒もしくは役夫として徴發せられ、又は租税を輸するがために、朝廷の所在地に往復することがあり、またそこで異郷人、遠隔の地に住するもの、と接觸する機會が少なくなかつたであらうし、或はまた何等かの事情から郷土を去つて流離するものもあつたであらう。さうしてそれによつて、到る(373)ところに彼等の生活する村落と同じ村落が存在し、彼等と同じ農民の生活することを知つたではあらう。しかし、それらは要するに異郷であり異郷人であつて、彼等の日常の生活とは交渉の無いものと考へられたのである。自己の生活する村落以外に於いてもし何等かの關係のあるものがあるとするならば、それは社會的であるよりは寧ろ政治的意義のものであつた。即ち領民として其の領主に對する關係であつた。
 しかし、政治的關係に本づく道徳について先づ考へねばならぬことは、貴族及び豪族に於いてである。貴族については、朝廷に於ける彼等の地位と其の歴史とが、おのづから彼等に皇室を輔弼し天つ日嗣の尊嚴と安固とのために力を盡すべき任務を與へたのみならず、彼等もそれを自覺してゐたので、そのことは、朝廷に於いて述作せられ、從つて彼等、少くとも其の有力者、の思想がそこに表示せられてゐるはずの、神代史の語るところによつても、ほゞ推知せられる。それは神代史の述作せられるまでの長い歳月の間に輕々の事情から漸次養成せられて來たもの、歴史的に發達して來たものであるのみならず、それから後には、かくして述作せられた神代史そのものが、更に彼等の生活の指導精神となり、それによつて此の自覺も益々強められるやうになつた。地方的豪族とても、單なる政治的服屬者として彼等みづからを考へることにあき足らず、これもまた、歳月の經つにつれて、彼等の家と皇室との間に親近の關係のあることを欲望する情を懷くやうになつたので、それは神代史述作の後になつて特に著しく現はれたことである。彼等の多くが漸次、神代史上の人物や遠い上代の皇族として帝紀に記されてゐる命たちを、其の家々の祖先に擬するやうになつて來たのは、即ちこれがためである。特に前篇に述べた如く、皇居の所在地に近い地方の豪族は、實際にも、種々の意味に於いて皇室と特殊の關係を生じたので、一方では蘇我氏の如きものの其の間から現はれる機縁がそこに(374)あつたと共に、他方ではそれによつて彼等が伴造の如き貴族とほゞ同じやうな地位を朝廷に有することにもなつた。地方的豪族の稱號、即ち所謂カバネ、として多く用ゐられたオミの語に臣の字があてられたのは、一つは此の故でもあらう。オミの語に臣の字の義は無いから、これはオミと稱せられたものが朝廷に或る地位を有つてゐたからのこと、もしくは朝廷に地位を有するものもまたオミと稱せられたからのことらしい。(大化改新以後には、皇室と朝廷の官僚との關係を、シナ的道徳思想に於ける君臣として視ようとする考へかたが生じてゐたので、所謂十七條の憲法にもそれが見えるが、それより前の時代に於いてオミに臣の字をあてたのは、さういふ意味があつてのことではあるまい。朝廷の官司たる貴族には、オミのカバネでないものが寧ろ多かつたことを考ふべきである。なほ大化二年三月の詔勅にも、憲法と同じやうな意味で君臣の文字が用ゐてあるが、此の文字の含まれてゐる一節は、其の文體が純粹の漢文であることから推測すると、詔勅の原文にあつたものではなく、書紀の編者の書き加へたもののやうである。遺詔として雄略紀に記されてゐるものに、「義乃君臣、情兼父子、」の語を含んでゐる隋の高祖の遺詔の一節を、其のまゝ借り用ゐてあるのでも、書紀の編者が皇室と朝廷の官僚とをシナ思想に於ける君臣として見ようとしたことは知られる。こゝには「臣連伴造」の稱呼が用ゐてあるが、それは雄略朝の遺詔に擬して作られたからであつて、編者の思想としては、臣の語によつて表示せられるものが當時の制度に於ける官僚であつたことは、疑が無い。臣連伴造の稱呼と共に「國司郡司」の文字をも用ゐてあつて、そこに時代錯誤のあることが、それを證する。或はまた隋の高祖の遺詔に「四海百姓、衣食不豐、」とあるのを書きかへて「朝野衣冠、未得鮮麗、」としてあるところに、書紀編述時代の官僚の思想が現はれてゐることをも參考すべきである。なほ此の「臣」が「民」を含まないことはいふまでもない。)勿論、上記の(375)如き貴族や豪族の態度は、それによつて自己の地位を高め自己の勢威を張らうとする欲求と相伴ふものではあつたが、よしそれにしても、それと共に、皇室に對して親和尊敬の情を懷いてゐたことは明かであらう。或は自己の地位と勢威とを保持してゆくには、皇室に依頼し皇室を擁護することがおのづから欲求せられたであらうが、其の欲求は時のたつに從つて道徳的義務として感ぜられるやうになつて來たといふ事情もあらう。
 ところが一般民衆には何等の政治的地位が無かつた。「日本古典の研究」の第三篇に説いて置いた如く、神代の物語に現はれてゐる政治思想からいふと、皇室の政治的地位は貴族及び豪族に對する關係に於いて存立するものであつて、一般民衆の與るところではなかつたが、それは、民衆に何等の政治的地位が無く、彼等はたゞ貴族及び豪族の領民としてのみ取扱はれてゐた、當時の政治形態の然らしむるところであつた。皇室にも直轄民はあつたが、それは貴族及び豪族の領民と同じ性質のものであり、其の直轄民の皇室に對する關係は、貴族及び豪族の領民が其の領主に對するのとほゞ同じであつた。徴發せられて朝廷の所在地に赴き何等かの役務に服したものなどは、皇室と貴族豪族との地位と其の間の關係とについて或る知識を得、從つてまた皇室の皇室たる所以を解し得たではあらうが、よしそれにしても、現實の彼等の役務が直接の領主に對するものであり、其の點では皇室も貴族豪族もほゞ同じであつたとすれば、今日の國民がもつてゐるやうな意義に於いての皇室觀が、當時の民衆の心裡に存在してゐたとは、考へがたい。たゞ領民は其の領主に對し、一面では輪租と勞役とのために種々の程度に於ける痛苦を感ずる場合もあつたと共に、他面では或る親しみの情をも懷いてゐたであらう、と想像せられるから、皇室直轄民は領主としての皇室に對して特殊なる崇敬の念を有し、或は直轄民であることに或る誇を感じてゐたであらう、と推測せられる。(十七條の憲法にも上(376)記の大化二年の詔勅の文にも「君」と「臣」との外に「民」を置いてあるが、これは臣は君を翼けて民を治めるものとせられてゐるシナの政治思想を、其のまゝ我が國に適用しようとしたものである。シナ思想に於いては、君臣間の道徳は説かれてゐ、君主の民衆に對する政治的責任は重大硯せられてゐるが、民衆は君主に對して何等の道徳的責任が無いものとなつてゐる。民衆は單なる被治者であり純然たる受動的地位にあるものとせられたのである。シナに現代的意義に於ける國家とか國民とかいふ觀念の存在しなかつたことは、いふまでもない。大化以後の知識階級權力階級のものが、君臣民といぶ文字を用ゐるに當つて、かういふシナ思想をどこまで理解してゐたかは、問題であらうし、なほ今日から考へると、この三つの文字を我が國の状態にあてはめようとしたことの適否如何も、また問題であるが、ともかくもこれらの文字の一とほりの意義は知られてゐたであらうから、それを用ゐたといふことは、當時の、從つてまた大化以前の、民衆の地位と思想とを考へるについて、一應注意すべきことではある。)
 こゝまで考へて來ると、問題はおのづから民族的もしくは國民的精神といふやうなことに移らぬばならぬ。かういふ精神は、民族の同一なること政治的に統一せられてゐる一國民であることが、明かに意識せられるところに生じ、さうしてそれは、異民族に對し他の國民に對して、自己の民族、自己の國民の特異なる存在が感知せられることによつて、強められるものであるのみならず、民族意識もしくは一國民たることの意識そのものが、實は異民族に接觸し他の國民に對立することによつて、始めて明かになるものである。ところが、我が上代に於いては、東方の邊境にあるものが所謂蝦夷と衝突し、又は西方の壹岐對馬などの住民が韓人と交通してゐたらしいことの外には、一般民衆は異民族に接觸することが殆ど無く、從つて其の多くは異民族の存在すらも知らなかつたのである。國家的統一がまだ(377)成就しなかつた時代に、筑紫地方の諸君主は、韓地を經由して漢もしくは魏晋の領域としての樂浪郡または帶方郡に使を遣はし、其の文物を輸入したのであるから、彼等には異民族の文物もしくはシナの政治的權力に對する或る知識があつたのであるが、當時の文化の程度と小國分立の政治的状態とに於いては、シナの文物に對する尊尚の念と、其の政治的權力に對する畏敬の情とが、彼等の思想を支配してゐたのであらう。國家としての政治的統一が行はれた後にも、シナの文物の採取と學習とは、大和の朝廷の大に力を用ゐたところであるから、シナの文物に對する尊尚の念は失はれず、却つて益々強められたが、政治的には國家の統一によつて内地の形勢に重大なる變化が生じたと共に、韓地に進出して其の地の經略を行ふことになつたのであるから、朝廷の當局者はもとより、韓地の經略に關與した貴族などの間には、國家の權威を立てようとする努力に伴つて、韓地の諸國家に對する國家的敵愾心または自尊心といふやうなものも、また生じたに違ひない。推古朝に至つて隋の王室に對し對等の態度で書かれた文書を送つたといふのも、長い間に斯うして養はれた國家的自尊心の發露として解し得られよう(一つは文書の起草に當つたであらうと推測せられる歸化シナ人の進言もあつたであらうが)。しかし、それは國家の權威に關することであつて、必しも國民的感情といふやうなものではない。韓地の經略は、本來、國民としての活動ではなかつたのみならず、當時の政治及び文化の状態に於いては、國民としての活動そのことが本來できなかつたはずであり、從つてまた朝廷の當局者とても、國民と國民的感情とを背景として韓地に臨んだのではないからである。たゞ韓人は我々の民族とは言語を異にし風俗習慣を異にする異民族であるから、在外官憲が國家の權威を立てようとして行動するに當つても、彼等に對しては、おのづから一種の漠然たる民族的感情ともいふべきものが馴致せられたではあらう。
(378) さて、これは爲政者の地位にあつたもの、權力階級に屬するもののことであるが、一般民衆に於いては、それとは事情を異にする。古代に於ける筑紫の君主の海外交通が、君主の事業であつたことはいふまでもないが、それとは全く性質の違ふ大和朝廷の韓地經略とても、朝廷の事業であつたことは同じである。それは民族としての發展でも膨張でもなく、民衆みづからの海外進出ではなかつたのである。民衆はたゞ徴發せられて兵卒となり韓地に派遣せられることがあつたのみである。彼等とても戰に臨んでは、戰場の心理として、敵愾心が昂奮したでもあらう。さうして、異民族を敵とすることによつて、それが一層刺戟せられたでもあらう。或はまた戰場ならずとも、異民族たる韓人に接觸することによつて、何ほどかの民族的感情が誘發せられたでもあらう。けれども、それは一時的のことであり、彼等みづからの日常生活とは何のかゝはりも無いことであつた。彼等は、何のために遠い異境に派遣せられねばならないかをも、よくは理解し得なかつたであらう。神代の物語にスサノヲの命の渡韓説話が添加せられるやうになつても、此の命に民族的英雄の資質が與へられなかつたことは、其の説話が權力階級の手によつて作られたものだからでもあるが、此の點から見ても無意味ではない。神功皇后の説話についてもまた同じことがいひ得られるのみならず、全體に日本の政治的君主に民族的英雄の面影のあるやうな物語は作られてゐないが、これは異民族に對する民族的な爭が無く、君主が民族的闘爭の指導者として視られなかつたからのことである。宗教的に見ても、他國もしくは異民族に對して我が國家または我が民族を保護するといふ意味での、國家神もしくは民族神の生じなかつたことが、此のことについても參考せられねばならぬ。神功皇后が新羅遠征の時に神を祭られたといふ説話はあるが、それは國家の大事または戟爭に際して神を祭り神の加護を祈るといふ風習の、此の場合に適用せられたまでのことであり、其の神が上(379)記の意味での神であるといふのではない。また墨江の神を新羅の國守神として其の國に祭り鎭めたといふのも、我が國の屬國とした新羅の守護のために神を祭つたといふ話であつて、其の神は新羅に對抗して我が國を保護する神ではなく、それを海の神たる墨の江の神としたのも、新羅が海を渡つてゆかねばならぬ海外の國であるところから、考案せられたことである。さうして斯ういふ話すらも、單なる物語である。
 のみならず、爲政者の地位からこそ、統一せられた國家として我が國を視たのであるが、民衆の上に加はる政治的權力は、それ/”\の領主の把持するものであり、さうしてそれが彼等の日常生活に直接の關係のあるものであつたから、彼等をして「我が國」といふやうなことを考へさせる機縁が乏しかつた。上にも述べた如く、彼等(民衆)の或るものに皇室の皇室たる所以を知らしめる機會があつたには違ひなく、從つて彼等の間にも我が國が統一せられた國家であることを漠然感知したものはあつたであらうが、それが一般民衆の思想に及ぼす力は寧ろ弱いものであつたらう。要するに、一般民衆に於いては、民族的精神とか國民的精神とかいふやうなものは、その時代に於いては、まだ明かな形を具へるに至らなかつたのである。民族的もしくは國民的活動の無かつた時代に、かういふ精神の發達しなかつたことは當然である。(長い間の國民文化國民思想の歴史的發展と、現代の世界文化國際情勢の間に於ける現實の國民生活とによつて、形成せられた現代の我が國民の皇室及び國家に對する思想、もしくは民族的國民的精神が、其のまゝ上代から嚴存し、此のことに關する限りは、古今の間に變化も發展も無いやうに思ふものがもしあるならば、それは國民の生活と其の歴史とを全く理解せざるものである。我々の民族が一つの國民として政治的に統一せられたことは、過去の長い民族生活の歴史の結果であり、そのことみづからも歴史的に進行した事件であつたのみならず、か(380)くして形づくられた國家形體とても、またそれから後、今日に至るまでの國民生活、國民思想の歴史的發展によつて、漸次に成長し次第に鞏固になつて來たものである。其の意義なり精神なりとせられるものは、時代々々の權力者や知識階級の思想と、やはり其の時々の文化の状態や政治の情勢とによつて、種々に解釋せられさま/”\に考説せられたのであるが、たゞ過去のさういふ解釋や考説は、上代の政治、上代人の思想に關して、歴史上の眞實とは一致しないことが多い。それは主として歴史の學問が發達せず、其の研究法が知られなかつた時代のことだからであるが、一つは思想家の態度にもよることである。今日に於いても、現代の國民に對して何等かの要請するところがあつて、それを建國の精神といふやうな名稱によつて宣傳することは、歴史上の眞實を闡明しようとする學問的研究とは、全く態度を異にするものである。さうして、眞に國民の思想を深め、精神を高め、國民みづからが、意識して或はせずして、歴史的に養つて來た國家形體を、生きたものとして、現在及び未來の國民の活動に適應させようとするには、學問的に闡明せられた歴史上の眞實を基礎として、其の上におのづからうち立てられる指導精神によらなくてはならぬ。學問の發達してゐる現代の國民は、眞實を闡明し眞實に依頼せんことを欲するものである。)
 韓人に對する民族的感情に言及した因みに一言して置くべきは、權力階級の間にさういふ感情が漠然養はれてゐたにしても、それは必しも異民族に對する侮蔑の念ではなかつた、といふことである。本國の爲政者や在外官憲の接觸したのは、やはり主として韓地の諸國家の權力階級知識階級のものであり、從つてまたシナの文化を學び得たものであるから、此の點に於いては、むしろ彼等を尊重したであらう。シナ民族に對しては猶さらであつて、其の一般民衆については殆ど關知するところが無く、たゞ少數の文物の將來者をのみ知つてゐたのであるから、シナ民族は概して優(381)秀なる文化人として考へられてゐたに違ひない。これが異民族の間に發達した文化を學ぶことに努力した上代日本の權力階級に於ける異民族觀であつた。オホナムチ、スクナヒコナの命によつて作られた國を「成れるところもあり成らざるところもあり」といつたスクナヒコナの命の言が、神代の物語に見えてゐることによつて察すると、國家は未完成であり不十分であるとして、其の完成と充足とを未來に期待してゐたのが、この物語の作られた時代の權力階級の思想であつたらしいが、其の不十分とせられ未完成とせられたことの少くとも一半は、文化の點に於いてであつたことが、彼等が力を盡してシナの文物を學んだ事實からも推測せられるから、文化人たる異民族をかう觀てゐたのは當然であらう。さうしてそれと共に、異民族を劣等視したり徒らに敵視したりすることが無く、同じ人類としてそれを取扱ふ風習が、それによつて開かれたことにも、大なる意味がある。たゞ權力階級のものは學ぶべき文化を有たない蝦夷をば劣等視したであらうが、大化以前に於いては、國家としては、直接には彼等に對する經略に關與することが尠かつたらしく(「日本古典の研究」第二篇參照)、從つて權力階級のものは彼等について大なる關心を有たなかつたであらう。民衆に於いても東邊の住民は、常に彼等と爭ひ彼等を壓迫しつゝ、漸次其の生活の地域を擴張して行つたらしいので、其の方面ではおのづから蝦夷を敵視する習慣が存在したであらうが、それは東邊の住民の間に限られたことであらう。前篇に述べた如く、蝦夷は農耕には適しないものであるから、彼等を奴隷として使用するやうな風習も無く、從つてまた降服したり捕虜となつたりしたものを内地人に賣與するやうなことも行はれず、それがために一般民衆は彼等と接觸することが無かつたのである。さうしてまた此のことは、民衆の間に異民族を劣等視しそれを奴隷として酷使するやうな習慣が無く、さういふ習慣に件ふ種々の道徳的缺陷が生じなかつたことを、語るものであ(382)る。ヤツコと稱せられたものはあつたが、それが異民族でなかつたことも、また前篇に説いて置いた。
 我々の民族相互の間に於いてもまた概して平和な感情を以て相接してゐたらしい。記紀の物語を見ても、戰勝者征服者としての皇室の話は殆ど無い。これは、事實、さういふことが少かつたからであらう。一般に治者と被治者との關係、領主と領民との間がらなどを見ても、そこに甚しき權力の抑壓とそれに對する反抗とがあつたり、相互の反目憎惡があつたりしたやうには思はれぬ。權力階級のものは一般民衆に對して其の權力を行使することを當然視してゐたであらう。領主は領民を使役しそれから租税を徴發するに憚らなかつた。しかし一方では、權力階級のものとても民衆を自己と同一なる人として視ることを忘れなかつたので、神代史の天つ神や上代の皇族の物語に、民間説話や民話を結びつけたり、「あし原のしけこき小屋に菅だたみいやさやしきてわが二人ねし」といふやうな歌を天皇の御製としたり、春の野に若菜つむ子や河邊に衣洗ふ童女に天皇が言問はせられた話、又は歌垣に皇子が立たれたやうな話を作つたりしてあるのは、之がためであらう。それと共に、民衆もまた權力者の權力に對して尊敬の念を有つてゐたであらう。從つてまた或る程度の勞役に服し租税を輸することを、彼等の分と考へてゐたのであらう。それは遠い昔からの因襲であり慣行であつたからである。領民が領主に對して一面には或る親みを有つてゐたであらうといふことは、上にも述べた。國家の統一に當つていくらかは武力を用ゐるやうなことがあつたにしても、統一的君主としての皇室と服從者との敵對感情は、年と共に消散して、親和の情が其の間に生じたらしいので、それは「日本古典の研究」の第三篇で説いた如く、所謂國つ神を服從させたといふ神代史の物語が、妥協的親和的精神によつて結構せられてゐることからも、推測せられよう。事實に於いて皇居に城郭の如き設備の無かつたことも、注意せらるべきである。
(383) なほ此のことに關聯して上代の社會的階級が如何なるものであつたかを考へて置く必要はある。權力階級は社會的には貴族階級であり、また特殊の文化階級であつた。地方的豪族も經濟的富裕者であると共に、朝廷及び貴族と密接の關係を有するところから、種々の程度に於いて其の文化に參加し得たに違ひない。これらの點に於いて貴族豪族は一般民衆に對して社會的に優越の地位を占めてゐたのみならず、さういふ社會的地位の經濟的基礎は、民衆をそれぞれの領民として有つてゐるところにあつた。しかし、上に述べた如き權力者と民衆との關係は、社會的にも意味のあることである。彼等は互に地位の懸隔してゐることを承認しつゝ、やはり互に同じ人として視てゐたらしい。地方的豪族の如きは、一面に於いては民衆の首長であつたのみならず、民衆の間にも貧富に幾多の程度があつて、所謂カバネを有するやうな豪族のみが特に懸隔した高い地位にあつたには、限らなかつたでもあらう。(大化以後、郡司などになつた豪族が私曲を行つて民衆を苦しめたのは、前篇に説いた如く、一つは班田制の施行せられたためでもあるから、それによつて一概に大化以前の豪族の態度を推測すべきではなからう。)家々に使役せられたヤツコが特殊の賤民階級をなすものでなかつたこと、それを法制の上で賤民としたのは唐制の摸倣であるといふことも、また前篇に述べて置いた。また貴族豪族の間に制度として爵位の如きものの定められてゐなかつたことも、此のことに關聯して考へられるべきである。推古朝に爵位の制を設けたことは、勿論、シナの制度の摸倣であり、天武朝に所謂八色のカバネを定めてそれを尊卑の別とし、一種の世襲的爵位の稱呼としたのも、また爵位の制に刺戟せられて新に考案せられたことであつて、やはりシナ思想に由來がある。これは良賤の稱呼をシナに學んで、法制上、賤民の階級を作つたのと、同じ精神から出たことである。カバネといはれた稱號は本來何れも尊稱であつて、其の間に尊卑の別は無かつたものであ(384)る。たゞ大化以前に於いても、後になると、其のうちの或るものは、例へば伴造のカバネとしてのムラジと、オヒトまたはキミ(造)との、間に於けるが如く、習慣上、幾らかの尊卑があるやうに思はれてはゐたやうであるが、それも制度として定められたことではなく、またすべてがさうなつたのでもない。例へば臣と連との間には、毫も階級の高下は無かつた。(カバネの語義は余には明かにわかりかねる。此の語に姓の字があてられてゐること、また姓氏録の序に氏骨とある「骨」がカバネを指してゐるらしく、さうして武烈紀に骨族とあるのが血族の義のやうであり、續紀天平勝寶三年の條に見える雀部眞人の上表に骨名とあるのも氏の名の義であることを參考すると、カバネはもとは所謂骨族の名、即ち氏の名、ともいふべきもののことであつたが、後に意義が轉じて家々の地位を示す稱號となつたのではないかと、臆測せられもする。萬葉に「草むすかばね」とある如く、骨がカバネといはれてゐたとするならば、さうして問題のカバネがもし此のカバネと同語であるとするならば、それから轉化して、骨族、從つて其の名、をカバネと稱することになつたとしても、大なる支障が無いやうにも見える。しかし、上にも述べた如く、上代に血族を示す名、即ち氏の名、といふやうなものがあつたらしい證迹は無く、問題のカバネと骨の意義でのカバネとが同語であるかどうかも更に研究を要する。また國語にあてられた漢字が語の意義にかなつてゐるには限らず、姓氏録の如き後世の書に於ける文字の用法は、必しも證憑にはなりかねよう。またよしカバネが骨族の名稱であるにしても、其の名を單にカバネとのみいつたとは考へ難い。上記の上表に骨名といふ文字が見えるから、カバネナといふ語があつたのではないかとも思はれるが、此の骨名は、全體の文意から推測すると、漢語として造られたものであつて、國語を譯したものではあるまい。だから、上記の臆測の根據は薄弱である。余は寧ろ問題のカバネは、本來、尊稱を意味するものであつて、(385)其の語義については、上記のやうな考へかたとは全く異なつた觀察をすべきものではないか、具體的にいふと、カバネのネは尊稱であり、カバはカブ、カブル、などのカブと同語で、頭首の義ではあるまいか、と思ふ。朝廷のトモなり地方的村落なり、或る一部もしくは一集團に於いて、其のかしらだつたものを、キミとかヌシとかオミとかオヒトとか、いつてゐたので、さういふ稱呼が此の意義でカバネといはれたのであらう。或は遠く溯つて語原を考へれば、骨の意義のカバネと同じところに歸着するのかも知れぬが、よしさう見るにしても、我々に知られてゐる時代に於いては、別の語となつてゐたに違ひない。此の語に姓の字をあてるのは古いことのやうであるが、姓の字は、文字のままの姓もしくは氏の意義にも、カバネをいふ時にも、また此の二つを連稱する場合にも、用ゐられてゐるから、其の間に混亂が起り易い。後には氏の名、即ち文字のまゝの姓、又は上記の骨名、とカバネとを連稱する時にも、それをカバネといふやうになつたらしく、續紀神護景雲三年五月の宣命に根可婆禰とあるのは、其の例のやうである。上のネは接頭語であつて、ネカバネは即ちカバネの意と解せられるからである。姓の字を用ゐてそれをカバネと訓むことになつたため、カバネの語の用ゐかたに混亂が生じたのであらう。姓氏録の氏骨の文字も、此の混亂した意義に於いて書かれたので、骨は骨名、即ち姓を意味し、それがまたカバネのことと解せられたからではあるまいか。姓の字のあてられたのは、家々の世襲的稱號だからであらうかと思はれるが、あてかたが適切でないことは勿論である。また新羅の骨品とカバネとの間には關係があるまい。骨品は尊卑の階級を示すものらしいから、カバネとは性質が違ふ。)
 要するに、上代人は概して穩和な心情を有つてゐたので、上代の社會には何れの關係に於いても爭闘が少かつた。狩獵や遊牧に從事するものとは違つて、農業によつて生活するものは、本來、平和の民たる性質を有するのと、遠い(386)昔から一つの民族となつてゐたので、民族的反目とか抗爭心とかいふやうなものが内部に存在しなかつたのと、それらの事情によつて、おのづから斯ういふ氣風が馴致せられたのであらう。家の内には兄弟の爭があり、權家の間には權勢の爭があり、さうしてそれが場合によつては武力に訴へる爭闘となつたでもあらう。記紀に記されてゐる種々の爭闘の説話は、さういふ事實の反映として考へられる。國家統一の前に存在した小君主間には時に戰闘の行はれたこともあらうし、統一の後とても、政治的叛逆者が生じてそれを征討しなければならぬやうな場合も、稀には起つたでもあらう。さうしてまた、爭闘が行はるれば、それに伴つて人の氣風がすとんでも來、それがまた更に爭闘を誘發したでもあらう。上代人の生活とても、常に平和でのみはなかつたらう。けれども、さういふ爭闘が斷えずあつたといふのではなく、また其の爭闘が殘虐性を帶び全體に人の性情が酷薄であつたやうな樣子は、爭闘を語つてゐる説話の上にも見えないことが、注意せられねばならぬ。さうして一方では、父のための復讐の企圖が道徳的反省によつて緩和せられたといふ顯宗天皇仁賢天皇の物語、スサノヲの命の暴行に對して寛容の態度を示されたといふ神代史の大神についての説話、などのあることをも考へる必要がある。これらは物語を作つた知識人の思想を示すものではあらうが、そこにやはり一般の民族性と相關するところがある。
 以上は種々の方面に於ける上代人の道徳生活の状態を、彼等の家族形態社會機構及び政治組織との關聯に於いて、觀察したものである。家族形態其のものについて試みた考説の如きは、此の論稿としては無用の言のやうではあるが、それも一つは此の主旨から出たことである。ところで、一々の問題について上に述べた如く、事實として上代人の生活を規制する道徳は存在したのであるが、概していふと、それは自然に養はれた社會的習慣として行はれたもの、又(387)は何人にも共通な、從つてまた社會的に承認せられた、人情の發露であつて、個人についていふと、嚴肅なる道徳的義務として意識せられたのではない場合が多い。從つてそれは、種々の生活上の欲求から離れてゐず、或はそれと混和してゐる。此の點から見ると、道徳意識の發達がまだ不十分であつたといふべきであらう。さうしてそれは、道徳が一面に於いて呪術や宗教と抱合してゐたことによつても知られる。前章に述べた如く、探湯とか「うけひ」とかいふことの行はれたのは、呪術の側からいへば、それに道徳的意義が附加せられたのであるが、道徳の側からいへば、それが呪術の力を借りることによつて行はれたことを示すものである。神功紀にアツナヒの罪によつて晝が夜の如く暗くなつたといふ話が載せてあるが、これには呪術の根柢をなす精神と同じものが存在する。また道徳的罪過が神の怒を招くといふやうな思想も、必ずあつたに違ひない。かの筑波のかゞひを詠んだ萬葉の歌に、今日のみは神もいさめぬといふことのあるのは、普通の場合ならば神にいさめられる行爲であるといふのであつて、かういはれてゐる行爲が實際にあつたか否かに關せず、此の思想は實際にあつたのであり、さうしてそれは此の歌の作られたよりも前の時代から傳へられたものであらう。さすれば、これは、道徳が維持せられるには神の力を要したことを、語るものである。神が罪を祓ふといふのも、神によつて人の咎過が見なほし聞なほされるといふのも、神からいへば、其のはたらきに道徳的意義が生じて來たのであるが、人からいふと、人が其の罪を人みづからの罪とはしながら、なほそれをなくするために神をかりた點に於いて、人の力の自覺の至らなかつたことが示されてゐる。さうしてこれらのことは、上に説いた如く、呪術に由來する民間信仰が、人間的な同情心の養成を妨げ道徳的感情の發達を抑制する傾があつたこと、神のはたらきに道徳的意義は與へられたけれども、神そのものの性質は道徳的に發達せず、さうしてそれは人の道徳(388)意識の發達の十分でなかつた状態の反映であることと、相應ずるものである。道徳と宗教とは其の性質を異にし起源をも由來をも異にするものであるが、道徳意識道徳的感情の發達は、一面に於いて宗教に道徳性を附與すると共に、他面に於いては道徳を道徳としてそれに獨立の權威を有たせようとするので、そこから斯ういふことが考へ得られる。
 しかし上代の物語に於いても、道徳が必しも常に呪術や神の力に結びついてゐるのではない。人間の種々の葛藤がどこまでも人間のこととして解決せられてゐる場合も多く、權力、武力、もしくは社會的制裁の力によつて、世の習慣と秩序とが保たれてゐることを、想見せしめるものが少なくない。輕皇子皇女の兄妹が婚姻に關する社會的習慣に背いたがために、共に自殺したといふ物語があるが、此の自殺は神の罰でもなく、神の罰を恐れたからでもなくして、生存することができなかつたほどに社會的制裁の力が強かつたためとせられてゐるやうに、解せられる。上に述べた沙本姫の物語に於いても、宗教的意義が含まれてゐるやうな形迹は無く、すべてが人の思慮と人間的感情と權力及び武力とのはたらきとして語られてゐる。前章に述べた如く、呪術や神の信仰に對する人の力の反抗、人間の道徳的感情の反抗、が現はれてゐるとすれば、これとそれとは互に相應ずるものである。上記の如き状態の他の一面に於いては、人が漸く自己の力と責務とを自覺して來たことが、これらの物語の作られたことによつて示されてゐる。さうしてそれは、上代人の道徳の發達に於いて重要なる意味を有するものである。
 
(389) 附録
 
(391)   一 上代史の研究法について
 
       一 緒言
 
 「上代史の研究法」といつても、嚴密なる學問的意義での方法論を系統立てて説かうとするのではない。實をいふと、一般に行はれてゐる日本の歴史の研究には、今少し方法論からの省察があるべきではないかと思はれるが、上代史の研究には特に其の感が深い。從つて、其の意味からは、上代史研究の方法論そのものを問題として考へる必要があるやうに見える。しかし、こゝではそれを企てるのではなく、いくらかはさういふ問題に立ち入るにしても、全體としては、もつと通俗な意義での研究上の注意といふやうなことを話すにとゞめようと思ふ。たゞ、何故に上代史の研究について特に方法論からの省察が必要であるかといふことだけを一言して置くのは、必しも無用のことではあるまい。
 現代の學問的要求として上代史上の種々の問題が提起せられるにかゝはらず、史料の上からの研究だけでは、どの問題をも解くことが困難であり、それがために、史料以外文獻以外の知識によつて考察を試みることが自然に行はれて來る。考古學、民俗學、人種學、または社會學、宗教學、神話學などのそれ/”\の方面からの考察がそれであり、さういふ考察が恰も上代史研究の本質をなすものであるかの如く思はれてゐるやうにさへ見える。ところで、かういふ(392)考察は、おのづから、それ/”\の學問の立場からの一面觀に止まるのであるが、さういふ立場から觀るものにとつては、それで全體が解釋し得られるやうに思ひなす傾向がある。從つてまた、それ/”\の學問の限界を越えた問題までも、それによつて解釋しようとすることになり易い。それがために、一つの問題について互に齟齬し矛盾するさまざまの解釋が與へられる。それのみならず、かういふ考察には、歴史の學の立場から見ると、種々の缺陷がある。第一に、學問の性質上、やゝもすれば歴史的な見かた、歴史的發展といふことに對する注意、が足りない虞があるが、それでありながら、かゝる考察によつて歴史が解釋し得られるやうに思はれてもゐるらしい。なほ、上記の種々の學問のうちで一般的法則を見出さうとする學問についていふと、さういふ學問と、具體的な事象及び其の歴史的發展の徑路を明かにすべき歴史の學との、根本的な差異が、かういふ方面の考察者には閑却せられがちであり、從つて、綿密に一々の事象を研究するよりも、否むしろさういふ研究をせずして一足とびに、何等かの概括的な結論をひき出すことに興味を有つといふ傾向もある。それから、ヨウロッパに於いて發達した學問についていふと、さういふ學問の基礎的資料が概ねヨウロッパの文化民族と彼等の植民地となつた地方の未開民族とから得たものに限られてゐるので、それによつて研究せられ組立てられた種々の學説は、何れも可なりに偏頗なものであり、初から其の研究に資料を供給してゐない日本には、あてはまらないことが多いものであるにかゝはらず、それが一般的な學説の形を有つてゐるために、人々は自己の好むところに從つて其の學説の何れかをとり、それにあてはめて日本の事象を解釋しようとすることが行はれてゐる。また日本の事象を研究の對象とする學問についていふと、それらのうちには、例へば民俗學といはれてゐるものの如く、新しく起つた學問であるがために、或はまた學問の性質として學問的の研究に素養の無(393)い、物好きとでもいふべき、人たちの助力を要することが多いために、學問としての形もまだ具はらず、祈究の方法も立たず、從つてそれに關して世に現はれるいろ/\の見解は、學説であるよりは、單なる思ひつき氣まゝな臆測に過ぎない、といふやうなものがある。而もそれがさういふ方面のことに興味を有つ人たちによつて無造作に信用せられ、それによつて上代史上の問題が手輕に取扱はれることが少なくない。これらの種々の學問は、みなそれ/”\に學問としての意義があり價値があり、よし其の間に擧問としては幼稚の域にあるものがあるにしても、それは其の發達を將來に期待すべきものであつて、何れも重要な使命を學界に有つてゐるのみならず、上代史の研究についても、それぞれの意義と限界とに於いて、關與するところの多いものではあるが、しかしそれが何れも歴史の學そのものではないといふことを忘れてはならぬ。そこで、歴史の學としての上代史の研究の方法が何處にあるかを、特に考へる必要があるのである。
 更に注意すべきは、上代史そのものが多方面であり、從つてそれには、それ/”\の一方面づつの歴史、例へば文學史、宗教史、法制史、社會史、經濟史といふやうな分科が成立つのであるが、かういふ分科がもし文學、宗教學、法學、社會學、經濟學などの學者によつて取扱はれる場合には、往々、上に述べたと同じ缺點が生じがちである、といふことである。さういふ學者のそれ/”\の學問に於ける研究の方法なり態度なりによつて養はれた習性が、歴史の研究にもおのづから伴つて來るので、それがために歴史の學としては極めて重要な、或は本質的な、方法が輕硯せられるのである。或は初から歴史の研究に方法のあることが顧慮せられてゐないやうに見える場合すらも、ないではない。後にいふやうに、歴史の研究としては第一に史料たる文獻の記載に對する批判が行はれねばならぬのに、それが注意(394)せられてゐないといふやうなこともある。勿論、それらの學のそれ/”\の一部門として、或は一方法として、歴史的研究が含まれてはゐるであらうが、其の意義での歴史的研究そのものが、ともすれば上記の弊に陷り易い傾向を有つてゐる。或はまた宗教家が宗教史を取扱ふやうな場合には、宗派的偏執から離れ難いのが事實である。だから、上代史のかういふ諸分科が、歴史の學者によつて取扱はれるよりは、上記の如きそれ/”\の學者の手に委ねられてゐることの多い現在の状態に於いては、此の點からもまた、上代史の研究法に關して特殊の注意を喚起することが必要なのである。
 更に考へねばならぬことがある。それは、現代の上代史研究にも、徳川時代に發生した國學思想の繋縛がまだ十分に解けてゐないといふことである。國學者といつても上代史の研究に重要なるはたらきをしてゐるのは主として本居宣長であるが、彼の古典研究の半面は、現代人の眼から見ても、確かに學問的なものであるが、他の半面には甚しく非學問的なところがある。學問的な半面とても、現代人から見れば、補正せられねばならぬところ、又は根本的に考へなほさねばならぬところが少なくないが、そのことが一般にはまだ明かに理會せられてゐないために、上代史を考へるものは、知らず/\彼の所説にひきずられてゐる傾がある。それのみならず、非學問的な他の半面の思想にさへ拘束せられてゐる形迹が無いでもない。さうしてまた、それに關聯したこととして、上代史の考説には、今日でもなほ、學問以外の力が思ひの外に強くはたらいてゐるといふ事實がある。此の意味に於いても、また上代史の研究法を考へることに特殊の重要性があるのである。
 かういふ意味から、上代史の研究に關する方法論を考へることが必要であると思ふが、上に一言した如く、こゝで(395)はそれを嚴密なる學問的意義に於いて系統だてて説くのではない。なほ上代史といふ名稱を用ゐるについては、其の範圍を明かに定めて置かねばならぬが、これもまたしばらく常識的な用法に從つて置く。たゞ上代史が何時から始まるかといふことになると、それは上代史を日本民族の歴史とするか日本國民の歴史とするかによつて違つて來ることを、注意して置きたい。通俗には、國民としての歴史の始まりと民族としてのそれとが、はつきり區別せられず、其の間の關係が曖昧に取扱はれてゐるやうであるが、それは固より學問的の見かたではない。國民としての歴史は我々の民族が一つの國民として政治的に統一せられた時から始まるのであるが、或る民族が一つの政治的權力の下に統一せられるといふことは、其の民族の歴史の成果に違ひないから、國民としての歴史の始まる前に、民族としての長い歴史が無ければならぬ。だから、此の二つは明かに區別せられねばならぬことである。一國民として統一せられた後に於いては、國民史は即ち民族史として見ることができようが、其の前に於いては、此の二つを混淆してはならぬ。しかし、民族としての歴史も國民としてのも、それが何時から始まるかは、學問的の研究によつて始めて明かにせられることであつて、そのこと自身が上代史上の問題なのである。
 
       二 史料
 
 歴史の研究の基礎的資料が何等かの形に於ける文獻であることは、いふまでもあるまい。文獻以外にも、例へば遺物とか口誦による傳承とか又は社會的遺習としての民俗とかいふものが重要なる資料であるには違ひないが、それらのものが史料としての確實性を有つには、直接間接に文獻の力によらねばならぬ。前節に述べた如き種々の學問から(396)の考察には、それ/”\の學問上の知識によつて文獻上の記載を解釋することを主なる方法とするものがあるが、さういふ方法の用ゐられるのも、文獻によつて證明せられることが必要だからである。たゞ其の解釋が、文獻そのものの研究から出たものでなくして、文獻以外の知識から來たものである點に、其の解釋の恣意に流れ易く附會に陷り易い契機があり、上記の缺陷も多くそこから生ずるのである。そこで、上代史の研究には如何なる史料があるかといふことが第一に考へられねばならぬが、これについては、記紀とか古語拾遺とか姓氏録とか又は祝詞とか萬葉とか、何人にも知られてゐるものを擧げる外は無い。たゞ問題は、これらの書のそれ/”\が如何なる意味に於いての、或は何ごとについての、史料となるものであるか、といふことである。今、これらの書について一々其の性質を考へてゐる暇は無いが、其の中の最も主要なるものとせられてゐる古事記について、一二の注意すべきことを述べてみよう。
 古事記には、最初に所謂神代の物語があり、其の繼續として神武朝以後の皇室の御系譜と天皇及び皇族に關する種々の物語とが記されてゐるので、そこには上代の文化、上代人の生活の諸相が可なりに寫し出されてゐるし、政治形態や社會組織を考へるについての資料も、或る程度に存在する。しかし、それが歴史的事件の年代記的記録として、どれだけの意味のあるものであるかは、問題である。神代の部分は且らく別として、神武朝以後について考へてみるに、第一に年代が明かに記してないから、其の點で年代記としての性質が著しく稀薄である、ところ/”\に干支が記してあるが、それがよし古事記編述の時からのものであるにせよ、かういふことはシナの干支の知識が入りそれによつて暦年が記録せられるやうになつてから後でなくては書き得られないものであり、從つて、種々の點からまださういふ知誠が入つてゐなかつたと推測しなければならぬ時代にあてはめられたことについても、それが記してあるのは、(397)少くとも其の部分に於ける此の記載の眞實性を疑はせるものである。或は天皇の御年齡が記してあるから、それによつて幾らかは年代を推算し得るやうでもあるが、それとても、百三十七歳とか、百六十八歳、百五十三歳、百三十七歳とかいふやうな數字が少からず見えてゐることに、注意しなければならぬ。次に、應神朝以後の部分に於いては、御系譜の外は、其の大部分が皇族の私生活に關する物語であつて、政治上の重要なる事件の記載は殆ど見えてゐないが、比較的近い世であるべき此の時代に關する部分がかういふ状態であるのに、それよりも古い時代のこととせられてゐる部分に却つて政治的經營の説話があるのが何故であるかをも、考へねばならぬ。それから、文化の状態や家族形態社會組織などに關することが、何時の時代の物語に現はれてゐるところでも同じであつて、其の間に歴史的變化のあつたらしい形迹が認め難いといふことも、注意を要する。これらのことを考へ合はせると、例へば、前節に一言した如き、國民としての歴史の始まつた時期といふやうなことを古事記によつて知らうとしても、それは不可能であることが、おのづから推測せられるであらう。暦年上の時期ばかりでなく、我々の民族が一國民として統一せられるまでの政治上の状態が如何なるものであつたか、其の統一が如何なる事情、如何なる經過によつて行はれたか、又それによつて如何なる事態が新に展開せられたかといふやうなことについても、また同樣である。種々の物語はあつてもそれらはかういふ問題に對して何事をも説明し得るものでない。さうして、もし通俗に信ぜられてゐる如く、それらの物語が歴史的事件に根據のある傳説であるとすれば、何故に上記の問題を解釋すべき資料の含まれてゐるやうな傳説が物語として存在しないのか、甚だ解し難い。或は神代の物語をこゝで顧慮しなければならぬといはれるかも知れぬが、さう見る場合には、其の神代の物語に於いて、各地方の政治的勢力、少くとも大和地方のそれ、に關するこ(398)とが語られてゐなければならぬのに、それが毫も見えてゐないではないか。神代の物語は、地理的意味に於いて大和地方を根據とした説話から始まつてゐるにかゝはらず、政治的勢力としての大和地方の活動もしくはそれとの交渉がそこに語られてゐないので、これは神代の物語の性質を知るには重要なことである。要するに、歴史的事件としての國民の政治的統一に關する史料は、古事記には存在しない。さうして、それから類推すると、其の他の事件についても亦た同じやうなことが考へ得られる。古事記は、勿論、上代史の重要なる史料となるものではあるが、それは古事記の物語が、其のまゝに、或は幾らかの程度に於いて傳説化せられたものとして、歴史的事件を語つてゐる、といふ意味からではない。さすれば、書紀とても、古事記に記されてゐる時代のことについては、それと同樣である。たゞ書紀には年代が明細に記してあるが、此の紀年が歴史的事實でないことは、今さらいふまでもない學界の定説である。なほ古語拾遺や姓氏録については、後にいふ場合があらう。
 古事記とか書紀とかいふ日本人の手になつた文獻の史料としての性質が上記の如きものであるとすれば、其の他には何も史料とすべき文獻が無いのであらうか。そこで思ひ出されるのは、シナもしくは朝鮮の記録である。先づシナの書物としては、早く漢書に倭人のことが記されてゐるし、後漢書にもまたそれが見えるが、此の倭人が日本民族を指してゐることは疑がないから、それが日本人に關する確實なる史料の最も古いものであり、それによつて前一世紀、から後二世紀ころまでの日本人とシナ人との交渉の跡を知ることができる。其の次には魏志の記載があるが、これには三世紀に於ける倭人とシナの官憲との間に行はれた交渉の年代記的記録が可なり詳細に載せてあるのみならず、魏の使節の見聞に基づいたものと思はれる倭人の住地の地理風土並に其の民俗や政治上の状態が記されてゐるので、日(399)本民族の歴史を知るについては、これは貴重なる史料である。さて、漢書、後漢書に見える倭人が筑紫地方の日本人であることは疑があるまいが、魏志の倭人がそれと同じであるか、或はそれよりも廣い範圍のものであるかは、學界の問題となつてゐる。當時の倭には多くの國があつたことになつてゐるが、其の最も大なるもの、列國中の一部の上に支配權を有するもの、として記されてゐる邪馬臺國が筑紫のどこかであるか、又は今も大和といはれてゐる地方であるかが、論爭の種となつてゐるのである。それは魏志の地理的記載に地理の實際と一致しないところがあり、從つて其の記載の解釋について相反する見解が生ずるからであるが、邪馬臺が上記の二地方の何れであるかは、日本民族が一國民として統一せられた時期を考へるに重大なる關係がある。余自身の私見をいふならば、邪馬臺が筑紫の一地方であることには何等の疑も無く、從つて三世紀に於いては、日本人の全部はまだ一つの國民として政治的に統一せられてゐなかつたことになるのであるが、今はかゝることについて私見を述べる場合ではないから、たゞ日本の歴史にとつて極めて重要なる問題の一つを解く鍵がシナの史籍に存在するといふことを、一言するに止めて置く。ところで、これらのシナの史籍に記されてゐることは、古事記にも書紀にも全く見えてゐないのみならず、其の史籍は文獻としては記紀よりも遙かに古いものであり、日本の歴史の史料としては最古のものである。なほ晋書、宋書、齊書などにも倭に關する記載があるので、それによつて四世紀から五世紀にかけての日本とシナとの交渉が知られるのであるが、晋末から後の倭は明かに大和朝廷によつて統一せられてゐる日本を指してゐる。これらの史籍の年代記的記事に現はれてゐることも、また古事記にも書紀にも全く記されてゐないものであるが、たゞ宋喜、齊書に倭王として記されてゐる其の名は、概して記紀の或る時代の御系譜と對照し得るものであるから、それによつて其の時代の御歴代(400)の暦年上の地位がほゞ知り得られるのである。
 また朝鮮の史籍は、現存のものでは三國史記があつて、其のうちの新羅の上代の部分にも倭に關する記事が少なくないが、全體に此の書の記載は三國の何れに於いても其の上代の部分は歴史的事實の記録とは見なし難いものであるから、倭に關するものもまた同樣である。但し日本と最も交渉の深かつた百濟については、四世紀の後半、新羅についてはそれよりも後、の部分からは、歴史的事實の記録と認むべきものが漸次現はれて來るから、其の部分の倭に關する記事は、有名な高句麗の廣開土王の碑文と共に、日本の上代史の研究にとつては貴重な文獻である。なほ注意すべきは、書紀に引用してある百濟の史籍の逸文であつて、百濟記、百濟本紀、百濟新撰などの書名がそこに見えてゐる。さて、朝鮮の史籍に於いて日本に關する史料として信憑すべき記載のある部分は、シナの晋末から後の時代、我が應神朝以後に當るものであるから、その意味で記紀の記載と互に參照すべきものではあるが、但し朝鮮の史籍の一々の記載に對應することは、古事記にも、上記の百濟の史籍から引用せられた部分を除いた書紀にも、殆ど見えてゐない。書紀に於いて日本の史料から出たと思はれる對韓關係の記事で歴史的事實の年代記的記録と見なし得られるものは、ほゞ六世紀の中ころから少しづつ現はれて來るのである。
 日本の上代史の史料は、上記の如きシナや朝鮮の史籍に多く存在するので、それがなければ、日本の上代史については、今日わかつてゐるだけのことすらわからないのである。それのみならず、古事記などの物語は、上代の日本民族の歴史的傳説として認め難いものであることが、漢書、後漢書及び魏志などの與へる知識によつて知り得られる。上代日本人のシナに對する交通と、それに伴ふシナ文物の輸入とは、上代の民族生活に於いて極めて重要なことであ(401)るから、上代の民族活動の歴史的傳説が古事記などに存在するならば、それが何等かの形で現はれてゐなければならぬのに、さういふものが全く見えてゐないからである。
 近ごろ往々「東洋史から見た日本」といふやうな語が用ゐられてゐるやうであるが、それは、これらの史籍によつて知り得られる東方アジアの政治的形勢や、民族競爭の趨向や、又は文化の状態などによつて、日本を觀察することであるらしい。これは日本の歴史の研究にとつて缺くべからざることであるが、しかし此のいひかたには語弊があり、從つてそれは日本の歴史の研究法について誤つた考を誘ふものである。此のいひかたの根柢には、日本の歴史の研究は日本の史料によるべきものであり、外國の史料はたゞ其の參考とするに過ぎないもの、少くとも何等かの特殊のもの、であるといふ考と、日本の歴史と東洋史とを對立して存在するものとする考とが、潜在するやうに見えるからである。史料は如何なる國人の手になつたものでも、同じく日本の歴史の史料であつて、其の間に區別は無い。また日本の民族なり國民なりが他の民族や國民に接觸し、相互に種々の交渉を生じてゐる以上、日本の歴史を研究するには、廣い世界の形勢から、上代に關しては少くとも東方アジヤの全局面から、考察することが必要であつて、それが日本の歴史の研究に於ける本質的な方法の一つなのである。日本史から見た日本の外に東洋史から見た日本があるやうに思ひ、其の意味で曰本史と東洋史とが對立してゐるやうに考ふべきではない。余は、本來、世間でいひならはされてゐるやうな東洋史といふものは、學問的には成立たないと考へてゐるから、此の語を用ゐることをも好まないが、それとは別の理由から、上記の如きいひかたをすべきものではないと思ふ。
 なほ附言する。上に某世紀と書いたのは、いふまでも無く、所謂西暦紀元によつてのことであるが、此の年の數へ(402)かたの由來としては宗教的意義があるけれども、今日の日常の用法に於いてはそれがなく、政治的意義はなほさら存在せず、たゞ年代を示す目標として世界的に使用せられてゐるものであるから、世界的意義を有する學問としての、また上にも述べた如く世界の形勢との關聯に於いてせられねばならぬ、日本の歴史の研究には、此の年の數へかたによることが必要でもあり便宜でもあり、畢竟、學問的なしかたである。それを政治的意義のあるシナ風の紀元法と同視し、日本國民の使用すべきものでないやうに思ふのは、徳川時代の學者が曾て陷つたことのある謬見から來てゐるのではあるまいか。
 要するに、シナや朝鮮の史籍は日本の上代史の史料として重要なるはたらきをなすものであり、特に漢書から魏志までのシナの史籍は、日本民族に關して文獻の上で知り得られる限りの最古の状態を傳へてゐるものである。學問としての歴史が文獻上の史料によつて知り得られる時代に始まるものとするならば、民族としての日本の歴史は、其のころに出發點を置くより外にしかたが無い。さうして、さうすることによつて日本民族の世界に現はれた初が世界の如何なる時代であり、東方アジヤの民族關係に於ける當時の日本民族の地位が如何なるものであつたかを、ほゞ見定めることができるのである。日本民族がはじめて史上に現はれた時代の文化の状態と、當時の東方アジヤの文化に於ける其の地位とについても、また同樣である。さうして、其の見定めがついて後、はじめて日本の民族のそれから後の發展が考へ得られ、民族史が形成せられて來るのである。しかし、シナの史籍によつて知り得られることは、日本人の生活の全體または全面にわたつてではない。年代からいつても、前一世紀、せい/”\前二世紀、より前には溯り得られない。だから、日本の民族の由來といふやうなことについては、それは何等の知識をも提供しない。たゞ、シ(403)ナの史籍に倭人に關する記載の現はれたころには、日本民族が一つの民族として生活し、また其の生活が安定してゐて、其の前後に民族の移動などの無かつたこと、並に朝鮮の民族とは民族的に違つたものであつたことが、或る程度の推論を經て知り得られるのみである。ところで、かういふやうに、日本の史籍は勿論、シナ朝鮮のものとても、史料としては其の與へる知識に制限のあるものであるとするならば、其の史料によつて知り得られない時代、即ち所謂先史時代、のこと、または歴史時代に入つてからでも史料によつて知り得られない方面のことは、歴史の學でない他の學問の研究に委ねる外は無い。すべての學問にそれ/”\の限界があるとするならば、歴史の學にもまたそれがあるべきであつて、其の限界を越えたところは他の學問の領域であることを、承認しなければならぬ。例へば、文化の状態を考へるに考古學があり、民族の由來を研究するに人種や言語の學がある類である。さうして、歴史の學はそれらの學の研究の成果を享受すべきである。もしさういふ學問によらず、例へば記紀の説話などに恣意な解釋を施してそれによつて日本の民族の由來を説かうとするやうなことがあるならば、それは決して學問的な方法ではない。のみならず、さういふ學問によつて文獻の史料としての性質のわかつて來る場合もある。例へば、考古學の研究によつて、文化が比較的進んでゐたと考へねばならぬ中部以西の地域に於いても、一世紀もしくは其の以後の時代に金石併用の形迹のあることが知られたとすれば、石器の使用が全く語られてゐない古事記などの物語が決して遠い昔から傳承せられたものでないことが、知り得られるはずである。
 
(404)       三 史料の取扱ひかた
 
 學問としての歴史の基礎的資料は文獻であるが、其の文獻上の記載を史料として取扱ふ前に、それが如何なる意味に於いて何ごとの史料となるかを明かにして置かぬばならぬ。歴史的事件の記録とても、それが人によつて書かれたものである以上、そこには種々の程度に於ける主觀的色彩が無意識の間に加へられてゐるはずであるのみならず、場合によつては故意の潤色が施されてゐるから、それを辨別することが必要であるが、其の主觀的色彩や故意の潤色そのものが、一面に於いては、思想史の史料として取扱ひ得られるものである。例へば、上に述べた倭に關する魏志の記載の如きも、其の全體を一々事實の記録として見ようとするからこそ、地理の實際に適合しないことが解し難い問題となるので、恣意の解釋がいろ/\に加へられるのも其の故であるが、もしそこに記者の故意の潤色があると見て、其の部分と事實の記録とすべき部分とが適當に辨別せられるならば、問題は容易に解決せられるのみならず、かゝる潤色が、他の多くの異域に關する記載とそれとを互に參照することによつて、シナ人の所謂夷狄に對する思想や遠方の地理の取扱ひかたなどを知る一材料としても、考へ得られるのである。だから、史料として魏志を取扱ふには、此の點の用意がなくてはならぬ。史料として文獻を取扱ふ前に其の文獻の分析と批列とが必要であることは、いふまでもないが、それは魏志に於いてもまた行はれねばならぬことである。
 日本人の手になつた史料、例へば古事記やそれと對應する部分の書紀の如きもの、に於いては、それが更に必要である。第一、其の大部分が記録の形ではなくして説話の形を有つてゐること。第二に、書紀はいふまでもなく、古事(405)記とても、其の編述の時代と其の内容をなす説話中の事件の置かれてゐる時代との間には、長い年月の隔たりがあり、それがために古事記といふ名さへつけられてゐるほどであるが、其の説話が假に歴史的事件と何等かの關係があるとするにしても、其の事件の生起した時とそれに關する説話の初めて形成せられた時との間、また初めて説話の形をなした時から記紀に現はれるまでの間には、種々の變化があり、全體から見て、説話の發展があつたと考へなければならぬこと。第三に、古事記と書紀とを對照することによつて、また書紀に「一書曰」といふ注記のあることによつて、知られる如く、其の古事には異傳の甚だ多かつたこと。第四に、書紀の大部分が漢文であり、純粹の漢文でない部分とてもいくらかの程度で漢文化せられてゐることは、いふまでもなく、古事記とても漢字で記されてゐるから、その記載には種々の程度に於いてシナ思想が混在し、或は其の全體がシナ思想化せられてゐることを認めねばならぬこと。第五に、漢字で記され漢文で書かれてゐることだけから見ても、それは特殊な知識社會の手になつたものに違ひなく、さうしてかゝる知識社會は當時に於いては朝廷もしくは首府を中心として形成せられたものであるから、記紀の記載は官府的のもの、少くとも官府的色彩のあるもの、であることが考へられねばならず、さうしてそれは、すべてが朝廷のこと、もしくは朝廷を本位として説かれてゐること、のみである記紀の記載の内容と一致してゐること。第六に、書紀に於いては、シナの暦の知識がまだ入つてゐなかつたと推測せられねばならぬ時代のことに關しても、其の暦法によつて年月が記され、すべてが年代記の形を有つてゐること。これらのことが考慮せられるならば、記紀の記載を其のまゝに歴史的事件の記録と見なし難いことは明かである。だから、それによつて歴史的事件を知らうとするには、何等かの學問的方法によつてそれを處理することが必要であるのみならず、果してそれが知り得られるか、知り得ら(406)れるにしてもどの程度までそれが可能であるかが、問題である。從來、一般にこれらのことが深く考慮せられず、從つて記紀の記載が其のまゝに歴史的事件の記録である如く思はれ、よし其の間にさうは見なし難い分子のあることを認めるにしても、さういふ分子と歴史的事件と見なされるものとの區別や限界を明かにし、それと共に、歴史的事件の記録でないものに如何なる意味があり何ごとの史料として用ゐらるべきものであるか、またそれが如何にして生じたかを、考へようとする企てが甚だ少なかつたやうであるが、それでは記紀の史料としての性質も價値もわからず、從つて、記紀を根據としての正しい學問的研究は生まれないはずである。緒言に述べたやうな種々の學問からの上代史の考察に通有な缺陷もまたこゝにあるので、其の多くは、記紀の説話なり記載なりを無批列に受入れ、それを其のまゝ歴史的事件であるが如く取扱つてゐるのである。
 かう考へて來ると、上代史研究の方法として最も基礎的なことは、史料としての文獻の綿密なる檢討と批判とでなければならぬことが、おのづから知り得られるはずであり、さうしてそれは記紀を取扱ふ場合に於いて最も必要である。此の檢討と批判とが學問的方法によつて行はれねばならぬことはいふまでも無いが、それをこゝで説いてゐる暇はないから、たゞ記紀を取扱ふ場合に注意すべきことの二三を、上に述べた諸點について、簡單に話してみよう。
 第一に考へねばならぬことは、記紀の説話によつて歴史的事件が知り得られるかといふことである。通俗には、さういふ説話を歴史的事件が傳承の間に説話化せられたもの、要するに所謂傳説、であるとし、從つて、それから説話的色彩を除去すればおのづから歴史的事件が其の本來の面目を呈露して來る、と考へられてゐるやうに見える。けれども、説話の生ずる徑路はさま/”\であつて、すべての説話が必しも傳説であるには限らず、純然たる空想の所産も、(407)また何等かの歴史的事件を材料として用ゐながら、説話そのものは、何人かが構想し造作したものも、あり得る。だから、記紀の説話を上記の如き傳説であるとするならば、何故にさうであるかを證明しなければならぬ。學問的には、傳説であることを知る前に、その基礎となつてゐる歴史的事件のあることを、傳説の外の史料によつて確かに證明せられねばならぬのである。記紀の説話を初から傳説であると決めてかゝるのは、記紀を、漠然ながら、歴史的事件の記録と見るところから導かれたものであらうが、記紀をさう見ることは單なる因襲にすぎず、何等學問的の論證を經たものではない。記紀にさう書いてあるとか、昔からさう信ぜられてゐるとかいふことは、學問的には意味がないのである。學問は疑からはじまる。疑つて後、疑ふべきものと疑ふべからざるものとを、學問的方法によつて、甄別しなければならぬ。かう考へると、記紀の或る説話から説話的色彩を除去することによつて歴史的事件が知られるといふことを、一般の準則とすることはできない。場合によつては、説話的色彩を除去すれば具體的な、また特殊な、歴史的事件らしいものが何も殘らぬことがあり得る。例へば神功皇后の新羅征討物語の如きがそれである。さうして、さういふ場合には、其の説話は傳説として取扱はるべきものでないといふことにならう。要するに、一つの説話が如何なる性質のものであるかは、説話そのものの分析と、多くの説話の相互の對照と、さういふ説話の積み重ねられてゐることによつて形成せられてゐる記紀の全體の組み立てと、其の根柢に存する述作者の意圖との上から、研究してみることが必要である。特にそれが傳説であるかないかは、其の内容が果して傳説として解し得られるものであるかどうか、確實なる史料によつて知り得られる歴史的状勢に適合するかどうか、特定の地理的形態の上に特定の人物の行動したものとして解し得られることが其の根柢に存在するかどうか、また歴史的事件が現に傳へられてゐる如き説(408)話の形をとるに至つた徑路が、當時の文化の状態と一般に傳説といふものの形成せられる社會的心理的事情とに適合するやうに説明し得られるかどうか、などの諸點を考へねばならぬ。なほ歴史的事件は、それが如何なる大事件であるにせよ、單獨に生起するものではないから、それから生じた傳説とても、或る一事件に關するもののみが孤立して存在するはずはない。いひかへると傳説の内容をなす事件に歴史的經過がなければならぬ。連續して生起した幾つもの事件が一つの傳説にまとめられることはあるにしても、さういふ場合には、其の痕迹が傳説そのものの上に認められるはずである。上記の新羅征討譚の如き孤立した一事件としての外征説話は、此の意味からでも、傳説としては解し難いものである。
 さて、記紀の説話が必しも歴史的事件に由來のある傳説でないとするならば、さういふ性質の説話については、それが形成せられた時代と説話中の事件の置かれてゐる時代との關係は、さしたる問題にはならぬが、説話の初めて形成せられてから記紀に見える形をとるまでの間に或る歳月があり、其の間に種々の變化が生じ或は發展があつたことは、やはり考へられねばならず、さうしてそれは、同じ説話に種々の異傳のあることと密接の交渉がある。從來、これらの異傳が單に異傳としてのみ考へられ、いかにしてそれらの異傳が生じたかは、深く研究せられなかつたやうであるが、異傳のあるのは、説話に變化があり發展があつたためであるとして、始めて其の理由が解し得られる。さうして、かう考へることによつて、説話が如何にして如何なる方面に生じまた傳へられたかが推測せられ、從つてまたそこから説話の性質も解し得られるのである。ところで、異傳がかうして生じたものであるとすれば、其の種々の異傳に同價値を置き、一方に無いことを他方によつて補つたり、甲の説話を乙によつて解釋したりすることは、妥當な(409)る方法ではない。異傳は時代を異にして現はれたものであり、從つて新しい思想なり、新しい時代の要求なり、又はそれを傳へるものの何等かの特殊の意圖なりが、つぎ/\に其の説話を變改して來た、其の種々の段階にあるものであるから、異傳を取扱ふには、それらを此の歴史的發展の適當なる段階に置いて見ることが、第一の條件である。同じ主題についての古事記の説話と書紀の種々の説話との關係は、かういふ見かたをすることによつて、始めて理會することができる。古語拾遺とか姓氏録とかいふものの取扱ひかたについても、また同樣であるので、從來一般に記紀の説話と古語拾遺のそれとを、また系譜については記紀のそれと姓氏録のとを、同價値のものとし、彼此相補ふものとする見かたが行はれてゐるやうであるが、それは正しい見かたではない。古語拾遺も姓氏録も、平安朝の初期の述作であるから、單に其の點からでも、此の二書には記紀編述以後の約百年間に新しく考へ出されたことが含まれてゐると推測せられねばならず、特に古語拾遺には忌部氏の特殊の主張があり、姓氏録の材料とても諸家がそれ/”\自家の地位を高めようとする意圖の下に書かれたものであることを、知らねばならぬ。實際、記紀と此の二書とを對照して見れば、前者の説が後者によつて變改せられ、又は後者に於いて何ごとかが新しく附加せられてゐることは、明かである。だから此の二書は、奈良朝から平安朝のはじめまでの間に記紀の所説がどう變化したか、また此の時代の思想の如何なるものであるかを知る材料として、始めて意味のあるものである。記紀の所傳を補ふものとして此の二書の記載を見るべきではない。本來、記紀の説話とても、既に説話の形を有する以上、それは其の説話の形成せられた時代、またはそれが變化して種々の形をとつたそれ/”\の時代、の思想を知るための史料として見られねばならぬのである。
(410) 次に考へねばならぬのは、漢字によつて寫され、又は漢文によつて書かれてゐることについてである。古事記は國語で書かれてはゐるが、文字は漢字であつて、漢字そのものにシナ思想が宿つてゐるのでもあり、また漢字があれほどに用ゐられるやうになつた時代には、シナ思想が可なり知識社會に浸潤してゐたとしなければならぬのでもあるから、古事記の記載を、シナ思想が入つてゐないといふ意義に於いての、純粋の日本人の思想の現はれとして見るべきではない。なほ、日本語を漢語に譯出する、即ち漢字の訓を用ゐて寫す、方法によつて日本人の思想や日本の事物を漢字で表現することには種々の困難があるから、例へばカバネを姓と書いてある如く、適切ならぬ文字の用ゐてある場合がある。だから、漢字の意義によつてそれにあてられた國語を解釋すると、往々誤謬に陷る。姓と連稱せられる氏の字の如きも其の一例であつて、これは必しも血統上の關係のあることを示すものには限らないのであるが、氏の字が用ゐてあるため、一般にはさう誤解せられてゐる。また書紀には、漢文めいてはゐるが眞の漢文にはなつてゐない部分と眞の漢文になつてゐる部分と、があつて、前者は古事記に似た書きかたで國語を寫してあつた原文を、漢文に翻譯しようとしながら、十分に翻譯のできなかつたところと見なければなるまいから、書紀を上代史の史料として取扱ふものは、此の二つを明かに區別して考へる必要がある。さうして、それによつて、國語で書かれてゐる材料のあつた部分と、さういふ材料の無かつた部分とが、辨別せられるのである。例へば、孝徳朝以後の詔勅は概ね漢文になつてゐないが、それより前のは何れも純粹の漢文である類である。さうして純粹の漢文となつてゐる部分は、それがシナ思想によつて書かれてゐるのみならず、シナの古典に見える成語成句もしくは成文を取つて、それをつゞり合はせてあるところが多いので、河村秀根の書紀集解には其の出典がよくしらべてある。(集解の此のしらべには補足(411)を要することが所々にあるけれども、それによつて語句の出典が知られるばかりでなく、書紀の書物としての性質と編述者の態度及び意圖とが暗示せられてゐることを思ふと、此の書は、書紀の學問的研究としては、他に比類なき貴重なる業績である。)さうして、書紀の編者が此の成語成句成文を如何に取扱つたかを考へることによつて、編者もしくは當時の一般の思想を知ることのできる場合もある。例へば、雄略天皇の遺詔といふものは隋書高祖本紀に見える高祖の遺詔から寫しとられたのであるが、たゞ其のうちに、原文の「四海百姓、衣食不豐、」を書きかへて「朝野衣冠、未得鮮麗、」としたところがあつて、そこに書紀編述時代の官僚の欲求が現はれてゐる類である。しかし、かゝる場合でも、全體としては、シナ特有の思想の表現せられてゐるシナの成語成句成文によつてつゞられてゐることは、いふまでもない。從來の普通の考へかたでは、純粹の漢文で書かれてゐるこれらのものを、漢文に翻譯しシナ思想で修飾してはあるけれども、其の根柢には、古くから傳へられてゐる何等かの資料があつて、それに本づいたものとするのであるが、さう見たのでは、神代の物語や大化以後の詔勅などの如く、眞の漢文とはならずして翻譯せられた形迹のあるものが、それと並び存することの説明ができない。よし假にさういふ資料があつたとするにしても、それがかう書き改められてしまつた上は、もはやそこにもとの資料に存在した意味は全く失はれてゐるはずである。從つて、それによつて、其のもとの意味を知ることはできない。それは、シナ思想によつて修飾せられてゐるのではなくして、根本からシナ思想化せられてゐるのである。從來の考へかたは、さういふ記載に言語文字を離れて何等かの意味のあることを想像しようとするのであるが、言語文字によつて表現せられたものを、それから離れて知りやうがないではないか。のみならず、上記の如き資料のあつたことを推測し得べき痕迹は、本來、それらの記載のどこにも無いので(412)ある。
 また從來は、上代の日本の民族もしくは國民の全體の状勢が記紀の説話によつて知られる如く思はれてゐるやうであるが、上に述べた如く、記紀の記載が朝廷を中心とする特殊の知識社會の手になつたものであり、すべてが朝廷のこと、もしくは朝廷を本位として説かれたこと、のみであるとすれば、かう見ることは決して妥當でない。朝廷及び朝廷に地位を占めてゐる貴族の外には、朝廷から見た地方的豪族があるのみで、民衆は勿論、民衆から見た在上者は語られてゐない。地方的豪族を征討するために派遣せられたといふ將軍の説話はあるが、民衆的または民族的英雄の物語はどこにも無い。そこに、かういふ説話の形成せられた時代の政治や文化の状態が現はれてゐるのであつて、このこと自身が上代の政治史文化史の好史料となるものであるが、それと共に、記紀の説話の性質をそれによつて知らぬばならぬ。このことは特殊の事件に關してのみではなく、文化の状態などについても同樣であるので、例へば、通俗には民衆の信仰が其のまゝに語られてゐるやうに思はれてゐる神に關する思想の如きも、實は知識社會のものである。それとても民間信仰に基礎のあることは、いふまでもないが、知識社合の知識によつて潤色せられてゐるから、それによつて民間信仰を知らうとするには、特殊の學問的方法によつて處理せられねばならぬ。
 最後に、書紀が年代の知られない時代の部分に於いても年代記の形を具へてゐることについては、一方では、さうすることの必要上、もとの説話が變へられてゐると共に、他方では、説話の形をなさない記事が同じ年代記の形によつて現はれてゐることを考へ、さういふ記事の性質如何を檢討しなければならぬ。
 以上は歴史的事件といふことに主たる關心を有つていつたのであるが、さうでない方面のこと、例へば文化の状態(413)など、に關しても其の史料を記紀の記載に求める場合には、同じことが注意せられねばならぬ。しかし、それについてはまた別に考ふべきことがある。
 
       四 文化史の側面に於いて
 
 上代史上の問題としては、一々の歴史的事件よりも、寧ろ一般の文化状態、政治形態、もしくは社會組織などを考へることに、其の重要性がある。これらに關する史料も或る程度には存在するので、それは魏志の如きシナの典籍にもあるが、それよりも記紀の説話に多く現はれてゐることは、いふまでもない。記紀の説話が歴史的事件に由來のある傳説であつてもなくても、この點では、さしたる違ひはないので、たとひ純然たる説話であるにしても、其の説話の形成せられた時代のこれらの状態がそこに現はれてゐるはずである。またよし傳説であるとしても、歴史的事件の生起した時の状態が其のまゝ傳へられてゐるのではなく、傳説そのものの形成と其の變化とにつれて、後の時代の状態がそこに混入し、又はそれによつてもとの話に見えてゐたことが變改せられもするのであるから、やはり説話であるのと大した差異はない。さうして、それが何時の状態であり、如何にそれが變化したかは、學問的方法による研究にまたねばならぬ。要するに、それらは史料たるにとゞまるのであるから、それですべてが知られるのでもなく、また其の歴史的發展の徑路がわかるのでもない。それのみならず、其の史料とても、問題を解釋するには餘りに貧弱である。だから、或る事象があるにしても、それが如何なる意味のものであり、如何にしてそれが發生したか、またそれが全體の民族生活と其の歴史的發展とに於いて如何なる使命を有つてゐたかは、これらの史料だけでは知りがたい(414)ことが多い。そこで、緒言にも述べたやうな種々の解釋が諸方面から試みられるのであるが、歴史の研究者としては、何よりも先づ史料そのものの研究から出發しなければならぬ。史料たる文獻の研究が徹底的に行はるれば、それによつて史料に現はれてゐることの解釋は、或る程度まで、できなくはないのである。或る程度までといつたのは、完全にはできないといふことであつて、完全にできないのは、史料が不足なからばかりではなく、さういふ解釋を試るには史料以外の知識が必要だからである。たゞ史料以外の知識を要するにしても、其の知識によつて恣に史料を解釋することは許されない。史料に現はれてゐることの的確なる意義を史料そのものによつて明かにした上で、それに適合する解釋を施すことが必要なのである。
 さて、史料から出發するといふことは、歴史の研究の本領でもあり正當なる方法でもあるが、それにはまた特殊の意味もある。史料以外の知識によるといふのは、例へば考古學によつて取扱はれる如き現に存在する遺物や遺跡による場合の外は、或は後世の状態からの推測、或は他の民族の生活からの類推、などが其の主なるものであるが、かういふ方法を用ゐて日本の上代の状態を考へるには、其の根柢に、例へば文化の發達には一定の順序があり段階があるとか、又は社會の構成にはすべての民族を通じて幾樣かの或る類型があるとか、いふやうな假定がなくてはならぬ。さうして、それは即ち宗教學や神話學や社會學などの學問の關與するところであるが、たゞそれらの學問は、學問の性質として、或る事象を特殊なる、個性を有する、民族生活と其の歴史とから抽出して取扱ひ、それがために、具體的には存在する民族の特殊性、個性も、或は一々の事象のそれさへも、閑却せられがちであり、またそれに伴つて、同じやうな形態を有するものはみな同一なる社會状態もしくは心理状態から生じた同じ意義のものであると考へる傾(415)向がある。一般的法則を立てようとする學問としては、かういふ取扱ひかたにも相當の理由はあるが、それにしても、方法としては、なほ別に考へねばならぬことがあり、現に學者によつてはいくらかの異なつた方法も用ゐられてゐる。ところが、歴史の學はそれとは全く違つた性質のものであり、民族の、或は時代の、或はまた一々の事象の、特殊性、個性、を明かにするところに、其の本領がなければならぬ。具體的なる生活と其の發展とを具體的なるまゝに把握するのが歴史の學であるが、具體的なる事象には、其の事象そのものにも、其の發展の徑路にも、個性があり特殊性があるからである。さうして其の個性、其の特殊性は、文獻上の史料によつて知る外はないのである。歴史の學が史料そのものの研究を基礎としなければならぬ理由は、こゝにある。それのみならず、上記の學問上の種々の學説には、緒言に述べたやうな缺陷があるから、それらの學説の何れかにあてはめて手輕に曰本の事物を解釋しようとする性急な態度を改めるにも、亦た史料たる文獻の綿密なる研究が必要なのであり、それを研究するところに歴史の學の任務があるのである。
 だから、もし史料たる文獻の研究が誠實に行はれたならば、世に多く現はれてゐる上代日本に關する種々の見解には、それによつて考へなほさねばならぬことのいくらでもあることが發見せられるであらう。例へば、唯物史觀の或る公式にあてはめて記紀に語られてゐる時代の社會組織を説かうとするやうな考へかたに對しては、記紀の記載を綿密に檢討すれば、其の無稽なことが容易に知られる。現存する未開民族の部族組織や婚姻制度に類似するものを、記紀時代の日本に求めようとするやうな企圖についても、また同樣である。ヨウロッパの學者が往々試みてゐるやうな、現存の未開民族の種々の状態を歴史的發達の諸段階と見なし、從つてまたそれを文化民族が過去に經由して來たもの(416)の如く考へ、さうしてそれと文獻によつて知られるギリシャやロオマの上代とを、歴史的發達の段階として、つなぎ合はせるやうな考へかたは、可なり放恣なものであるが、それはともかくも、さういふ考へかたによつて、文獻に現はれてゐる時代の上代日本を現存の未開民族に對比しようとするのは、文獻の記載を歪曲しなくては、できないことである。かゝる考へかたのあるのは、一つは、記紀の説話に極めて遠い上代、即ち未開時代、の状態が語られてゐる如く思ふからのことでもあるが、さう見たのでは、説話そのものが解し難いのみならず、説話に現はれてゐる時代からすぐに高度の文化が支那から移植せられ大化改新の如き政治上の變革さへも行はれるやうになつた歴史の過程が、全く理會せられない。琉球や朝鮮の風俗などと對照することによつて記紀の説話に見えることを解釋しようといふやうな考へかたも、また此の例である。琉球人は、民族としては、概して日本民族の一部分であつても、其の特殊な地理的環境と其の間に於ける生活とから、特殊の歴史が展開せられて來たのであるから、それによつて養成せられた風俗習慣などにも、彼等に特殊なものがある。さうして、其の風俗習慣の今日に於いて知り得られるものは、何れも長い歴史を經た後世のものである。だから、それによつて記紀の説話に現はれてゐることを解釋しようとするのは、甚だ危險である。また半島人は異民族である上に、シナの影響を蒙つてゐることが日本よりも強く、日本とは全く違つた歴史によつて違つた民族性が養はれて來たのであるから、今日から知り得られる半島民族の風俗などを記紀の説話に結びつけて考へることは、容易にはできないはずである。地理的に接近してゐるために文化の上にも種々の交渉はあつたので、其の點に顧慮すべきことは少なくないけれども、其の點を除けば、それが日本の上代を知る助けになるのは、一般の異民族と同じ程度、同じ意味に於いてである。實際、記紀そのものの文獻としての研究を行ふことによ(417)つてゝかういふ考へかたの輕率であることが、おのづから知られるであらう。或はまた、神代の物語が神の代の物語といはれてゐるために、もしくは外見上、所謂神話に類するところがあり、或はそれを含んでゐるために、其の全體を神話の集成として取扱はうとするやうな考へかたがあるが、これもまた神代の物語そのものを、語られてゐるまゝに、すなほに、解する場合には、成立ち難いものであることがわかつて來るに違ひない。神代の物語は、それを全體として見れば、政治的統治者の權威の由來を説いた物語であり、たゞ其のうちにはいくらかの民間説話、即ち所謂神話の一形態と見なすべきもの、が挿話として利用せられてゐるのであるから、神話として取扱ひ得べきものは此の挿話の一つ/\のみであり、全體としての神代の物語はそれとは性質の違ふものである。もしそれに比較すべきものを他に求めるならば、それは王室の起源を説いた物語に於いてすべきである。(神話と譯せられてゐる語は必ずしも宗教的意義での神の物語のみをいふには限らないから、此の譯語は實は適切でないが、神代の物語の如き特殊の政治的意義を有するものは、本來の意義での神話でもない。それはむしろ擬歴史ともいふべきものである。また神代の物語には、其の挿話としても、宗教的意義での神の物語とすべきものは、極めて簡單なものが僅に一二あるのみである。)以上は、余自身の見解によつて述べた二三の例であるが、余の見解の當否はともかくも、研究の方法としては上記の如く考へられねばならぬ。
 勿論、こゝにいつたことは、文化の發達に或る共通の傾向があり、社會の構成にも或る共通の法則があり、又は人の心理に人類共通のものがある、といふことを否認する意味ではない。從つてまた、それに關する一般的學問の成立を疑ふものでもない。たゞ歴史の學とそれらの學とは全く目的が違ひ方法が違ふことを主張するのである。のみなら(418)ず、如何にしてそれらの學を成立たせるかについては、なほ考へねばならぬことが多く、さうしてそれには、日本人の研究としては、上代日本の状態を新しい材料として供給するといふことも一つの主要なる點であり、さうして其の材料は文獻の誠實なる研究から生まれて來るといふことが注意せらるべきである。日本の上代の状態を研究するについて、他の民族のそれと比較對照することに少からぬ意義があるといふことも、またもとより承認せらるべきであつて、上に一言した如く神代の物語の挿話として民間説話が用ゐられてゐるといふことも、かゝる比較研究によつて知り得られるのである。たゞ比較は類似する、もしくは同一なる、側面をのみ視るのではなくして、それと共に特殊なる、差異ある、側面にも注意しなくてはならぬのに、比較研究に於いては、やゝもすれば前者にのみ偏し、後者を閑却する嫌があるので、それがために誤つた結論がひき出されることが少なくない。同じやうに見える事象が異なつた事情から異なつた心理によつて生じ、從つてまた異なつた性質を有する例の多いこと、或はまた一つの事象も種々の側面を有し種々の事情の綜合から形成せられるものであることも、またこれに關聯して顧慮せらるべきである。多くの民族に同じやうに見える事例があるといふことだけで、それらを同一視するのは、危險である。これは文化や社會に關する擧問でも同樣であるので、さういふ學問の方面に於いて或る事象に關する諸民族の状態を比較對照するに當つても、それ/”\の民族の一々について、彼等の生活の全面と其の歴史的發展との上からそれを觀察すべきである。事實としては、さういふことの困難であり又は不可能である場合が多からうが、少くとも其の點に注意しなければならぬ。さうして、さうすることは即ち歴史としての研究であつて、歴史としての研究によつて一般の學問に材料を供給することのできる一面の事實がこゝにもある。比較研究に限らず、また特殊の學問から見る場合に限らず、日本の上(419)代史に關して世に現はれてゐる種々の見解には、自己の注目する一面からのみそれ/”\の事象を見て、それで其の事象が解釋せられるやうに思ふのと、其の事象だけを全體の民族生活と其の事象の歴史的發展とから引離して取扱ふのと、此の二つの缺陷のあるものが甚だ多い。記紀の説話の見かたにもそれがあり、用語や制度上の名稱などを解釋するにもそれが少なくない。自己の目前の問題としてゐる場合だけはそれで解釋ができるやうに見えても、同じ語や同じ名稱の用ゐられてゐる他の場合は、それでは決して解釋せられないこと、またさういふ解釋では其の語、其の名稱の歴史的變化も、全體の民族生活との關係も、説明し得られないこと、を顧慮しないのである。かういふ缺陷を補正するには、文獻そのものの綿密にして誠實なる檢討による外はないが、それが即ち歴史の學としての第一の方法なのである。
 
       五 結語
 
 系統だつた話では無いから、結論といふほどのことも無いが、定められた紙數に達したやうであるから、少しく餘談に渉るやうではあるけれども、上代史研究者に一應告げて置きたいことをこゝに略記して、結語に代へる。
 其の一つは、上代史の解釋には明治時代以後いろ/\の因襲が生じてゐて、通俗にはそれが恰も一般の定説であるかの如く思はれてゐるといふことについてである。例へば神代の物語を、日本民族もしくは其の或る一集團の此の島に渡來したこと、又は新來の民族と先住のそれとの闘爭、の傳説化せられたものとしたり、記紀に見える國造縣主などの系譜によつて氏族の地方的分布を見ようとしたり、記紀に語られてゐる時代の社會が血族團體によつて構成せら(420)れてゐた如く説いたり、其の他、種々の説があつて、それらが可なりに世に信ぜられてゐるが、これらは本來、學問的方法によつて研究せられた結論ではなく、さういふやうな考へかたでは、種々の矛盾や支障を生じて、記紀そのものの記載すら解釋することができないものである。先史時代を先住民族の時代としたり、石器時代を其の意味での先史時代と同一視したりするやうな考は、漸次影を收めて來たやうではあるが、通俗にはなほさう思はれてもゐるらしく、さうしてそれも記紀に關する上記の臆説と思想上の聯絡がある。かういふ考へかたは、上にも説いた如き種々の學問のそれ/”\の使命と限界とを顧慮してゐない點だけからいつても、學問的ではないのである。しかし、さういふ見解が先入主となつた人たちに於いては、それに反する考は新奇な説として受け入れ難い。從つて其の考が如何に學問的な方法によつて研究せられたものであるにしても、それを獨斷だとする。獨斷とは學問的方法によらない思ひつきや臆測のことであつて、上記の如き見解こそさう呼ばるべきであり、如何に耳新しいことでも、學問的な方法によつて論理的に歸結せられたものならば、それは決して獨斷ではない。それは動かすべからざる定説とはいへないにしても、少くとも學問的意義に於いての假説とすべきである。然るに、それが獨斷とよばれるのは、結論の耳新しいことにのみ心を奪はれて、其の結論に到達した徑路、其の研究の方法を吟味しようとしないからである。學問的であるかないかは、結論にあるのではなくして研究の方法にあることを知るならば、かういふ考へかたが如何に非學問的であるかは、いふまでもない。上記のやうな見解に限らず、何等の根據も示されず何等の方法にもよらない臆斷は、種々の問題について行はれてゐるが、さういふ事例をこゝに擧げてみる必要もあるまい。何れにしても、上代史の研究には學問的方法に重きを置くことに注意しなければならぬ。なほ之に關聯して一言すべきは、研究の方法が論理的で(421)なければならぬといふことと、歴史そのものの見かたが合理主義的であるといふこととが往々混同せられてゐることについてである。學問である以上、其の研究の方法は論理的でなくてはならず、それを合理的といふ語でいひ現はしても支障はない。しかしそれは歴史觀、從つて其の根柢の人生觀、が合理主義的であるには限らぬ。人生を、從つて歴史の發展を、非合理的に觀るにしても、さういふ非合理的の人生、非合理的の歴史を、學問として取扱ふ方法としては、論理的、合理的であり得るし、またあらねばならぬのである。余自身としては、歴史を合理主義的、論理的に見る見かたには根本的に反對であるが、研究の方法はあくまで論理的でなければならぬことを主張するものである。
 今一つは、全く別方面のことであるが、古典の文字や記載を現代人の思想で解釋し、何人かの現代に對して要求するところが古典に、從つてまた上代に、具はつてゐるといふやうな見かたをすることについてである。これは、日本精神とか日本思想とかいふものを、昔から今まで固定してゐて動かずに存在するものとする考へかたと相伴つてゐるやうであるが、何れの考へかたも歴史といふものを全く理解せざるものである。上代人の思想は上代人の生活から生まれたものであつて、上代人の生活が現代人のそれと同じでないと同樣、上代人の思想もまた現代人のそれとは違ふ。上代と現代とは遙かに隔たつてゐて、其の間に長い歴史の發展があるのに、それを無視して、卒然として兩者を結びつけるのが、歴史を理解せざるものであることは、いふまでもあるまい。上代からの斷えざる歴史的發展の過程を經て現代が現はれたのであるから、現代人の思想の一つの淵源が上代人の思想にあることは勿論であるが、それは兩者を同視したり、現代人の思想が上代人にも存在したと考へたりすることではない。歴史は發展を意味し、發展には變化がなければならぬからである。だから、古典を現代思想で解釋しようとするのは、思想を單に思想として、生活か(422)ら離して、考へると共に、歴史を無視するものである。歴史の學徒は斷じてかゝる古典の解釋法、上代思想の解釋法を排除しなければならぬ。
 
(423)   二 日本上代史の研究に關する二三の傾向について
 
 近ごろ、いろ/\な意味で世間の注意が國史の上に向けられ、上代史についても種々の方面に於いて種々の考察が行はれてゐる。種々の立場からの種々の見解が提出せられることは、全體として學問の進歩を助けるものであるのみならず、ともすれば凝滯の弊に陷り易い學界を刺戟し、或はそれに新問題を與へ、新しい觀點からの研究を誘發する意味に於いても、喜ぶべきである。さうしてまた實際、それらの考察には傾聽すべきものが少なくない。しかし一方からいふと、さういふ見解のうちには、往々、確かな方法と論理とを缺いてゐる思ひつきや個人的の一時の感じから成立つもの、或る一面のみを見てそれによつて全體を解釋せんとするもの、又は特殊の主張なり學説なりを強ひて我が國の上代にあてはめようとするものなど、學問的の研究としては可なりに不用意なものがあるのではなからうか。思ひつきや個人的の感じも學問の研究を誘發するには大切なことであり、自己の目に映ずる一面のみに過大の價値を置くのも、免れ難き人情の常ではあるが、學者の用意としては、方法論的省察と、論理的の整理と、竝に視野の廣い、また多方面からの、觀察とが、要求せられるであらう。特殊の主張を以て臨むものに至つては、さういふ主張が如何にして作り上げられたかを先づ檢討してかゝらねばならぬのではあるまいか。こゝに述べようとすることは二三の斯ういふ見解に對する余の感想である。といふよりも、學界の風潮に對する余の觀察とでもいつた方が妥當である。余は本來、他人の學説を批評するを好まず、學問上の論爭すらも寧ろ避けてゐるので、これもまた或る學者の或る學説(424)に對する批評といふのではなく、學者に對する論難では猶さらない。
 第一に氣がつくのは、歴史的變化を輕視することであつて、民俗學の方面からの上代研究には、動もすれば此の傾向があるのではないかと思ふ。民俗學の目的や方法について我が國の民俗學者に如何なる主張があるのか、余はそれを詳かにしないが、少くとも其の主として取扱ふ材料が現存する民間傳承や民俗であることは、推測し得られよう。古來の文獻に現はれてゐる、即ち過去に於いて知られてゐた、さういふものも、また同じく斯の學の材料であるには違ひないが、文獻の常として此の種の記載が乏しく、從つてそれに多くを望み得ないのである。ところで、現存の民俗や民間傳承から何が知り得られるかといふに、既に民俗であり民間傳承である以上、それは過去から繼承せられたものであることに疑ひは無いから、それによつて過去の民族生活を考察することができるはずである。けれども、其の知り得られる過去がどの程度のであるか、それが問題である。過去から繼承せられたといふことは、過去と全く同一であるといふことではなく、人間生活の本質として、それには變化が伴つてゐることを許さねばならないのであるから、時間が隔たるに從つて其の變化も多いはずであり、從つて現存の民俗などから直に遠い上代の生活を推測することは、むつかしいとしなければならぬ。もつともこれには、民俗や民間傳承は上流社會知識社會の文化とは違つて保守性に富んでゐるといふこと、また特に孤島や山間僻地のそれは都會のとは違つて變化が少いといふことが、考へられるではあらう。これは、勿論、一面の、而も重要な事實であるから、民俗、特に僻陬の地のそれが、上代人の生活を知る上について參考となるものであることには、異議が無い。しかし、民間にも僻陬の地にも、上流の文化、都會の文化の影響が及ばないではなく、それと共に、土地に根ざすことの深かるべき民俗には、特殊な地方的風土と其の(425)間に於ける特殊な生活とから特殊の變異の生ずる可能性が他の一面に存在すること、從つて地理的に特殊性の多い孤島や僻地には、却つてかういふ變異が甚しかるべき理由があるといふことも、また考慮せられねばなるまい。だから、民俗や民間傳承は遠い過去のと大なる變化が無いといふことを一般的の假定として立てることは、可なりの危險を含むものである。それで、幾らかなりとも變化を經たはずの民俗や民間傳承によつて遠い過去の民族生活を考へようとするには、そこに何等かの學問的方法がなくてはならぬ。民俗學とても民族生活が問題とせられる限り、少くとも其の一半の使命としては、民俗や民間傳承の變化を推究することによつて、民族生活の發展の過程を考へねばなるまいから、如何にして此の變化を推究するかの方法を明かにすることが、斯の學にとつては極めて重要であらうと思ふ。これは事新しくいふまでもないことであり、既に民俗學上の研究が行はれてゐる以上、何等かの方法が取られてゐるはずでもあるが、之については、當然生起しなければならぬ問題として文獻の取扱がある。民俗學の材料が文獻から得られる場合は多くはないにしても、全く無いではなく、從つてそれを取扱ふ必要があり、特に歴史的變化を考へるに當つては、それが重要視せられねばならぬからである。が、文獻上の記載は多くは斷片的であり、或は民俗を民俗として敍述することが少いため、それに對しては何等かの解釋を要する。此の場合、民俗學に携はる人々は、其の免れがたき自然の傾向として、文獻そのものを檢討することによつてそれを解釋することを力めず、民俗に關する自己の知識によつてそれを解釋しようとする。ところが、現存の民俗とても、其の意義なり精神なりはやはり解釋を要するのであるから、かういふ知識は概ね自己の特殊の解釋によつて成立つてゐるのである。その結果、文獻上の記載は民俗學を研究する材料とはならずして、却つて民俗學者の或る解釋によつて説明せられることになるのである。けれ(426)ども、一面に於いては、それがやはり材料でもあるから、かういふ文獻の取扱ひ方は、畢竟、自己の解釋によつて其の解釋そのものを證明しようとするやうな形になりがちである。のみならず、現在の民俗が過去から繼承せられたものとせられてゐるために、かういふ文獻の解釋から組立てられた知識によつて、逆に現存の民俗を解釋するやうにもなり、歴史的變化の徑路は明かにせられずして、古今本末が却つて混雜するのである。或はむしろ初から古今の區別が没却せられてゐるやうに見えることすらも無いではない。こゝに解釋といふ語を用ゐたが、それには自己の個人的の感じから出てゐる場合が少なくなく、さうして其の場合には、ともすれば現代人の感じが上代人のそれであるが如く、或は現代人の上代生活に對する感じが上代人みづからの感じであるが如く、思ひなされてゐるらしいのである。もとより文獻の解釋が文獻そのものの檢討のみによつてなし得られるといふのではないが、少くともそれを先にすべきものであり、さうしてそれによつて明かに考へ得られることと齟齬しない解釋をすることが必要なのである。古典にのみ現はれてゐる稱呼を解釋するやうな場合に、何よりもまづ古典について誠實に其の意義を討尋するのが、當然の順序でもあり方法でもあることは、いふまでもあるまい。民族生活の發展の迹を明かにすることは、史學の任務であるが、主として其の材料を文獻に求める史學は、其の研究におのづから限界がある。そこに民俗學の存在の意義があるのであるが、民俗學もまた文獻を取扱ふに當つては、文獻を尊重するところがなければならぬ。或る文獻の全體性を考へずして、其の局部の記載に思ひ思ひの解釋を加へたり、又は其の構造や如何なる素材を如何に組立ててあるかを吟味せずして、異なつた素材に強ひて統一的な解釋を下したり、要するに文獻そのものの檢討、其の本文研究を行はずして文獻を取扱ひ、從つてまた表面的記載のまゝに文獻を受取る傾向のあるのも、實は文獻を尊重しないから(427)のことである。
 次には琉球の民俗や民間傳承によつて我が上代を推測しようとすることである。僻陬の地の民俗が必しも常に上代の民俗として見らるべきものでないとすれば、かういふ考へかたにもまた大なる危險があるといはねばならぬ。琉球人は、よし幾らかの異人種の混合があると考へられるにせよ、概していふと日本人の一分派であることに疑ひは無からうから、其の民俗などが日本の上代を研究する參考になるといふことは是認せられる。たゞどの程度で參考になるかが問題なのである。いふまでもなく、琉球人は特異な地理的事情の下に、長い間、本土の日本人とは離れてをり、歴史を異にし生活を異にしてゐたのであるから、人種は同じであつても、別の民族を形成してゐたといつた方がむしろ妥當なほどである。兩者の間に斷えず交通があり、從つて又た琉球人が日本人の文化の影響をうけてゐたことはいふまでもないが、それは日本人と琉球人とが一つの民族として生活してゐたといふことではない。從つて、其の民俗にも民族的感情にも、特異な發達があつたとすべきである。特に其の遠い昔の状態は知り難く、かの「おもろさうし」も伊波氏によれば十二世紀から十七世紀にかけて作られた神歌を集めたものであるといふ。それに現はれてゐる信仰や傳説には歌の作られた前から傳承せられたものがあるであらうが、それが何時からのことであるかは知り難い。ともかくも、さういふ時代のものによつて記紀時代の日本の民俗や信仰を推測することには、可なりの無理があるといはねばならぬ。それより後の民俗に於いては猶さらである。「おもろさうし」の言語は、全體から見て、記紀のそれと甚しく違つてゐるのであるが、言語があれほど違つてゐるといふことは、其の民俗生活に特殊の歴史があつたことを示すものであり、從つてそれに現はれてゐる思想や信仰や習俗にも、亦た特殊の生活、特殊の歴史から生まれた特(428)殊のものがあるべきである。其の遠い起源が一つであるとすれば、特殊の變化を經た後にもおのづから共通のものが其の中に潜在することは當然であるが、さういふ意味に於いて共通のものであるといひ得られるのは、兩方を別々に考へた上で、それが何れも極めて遠い昔から傳承せられたものであることが知られた場合のことである。從つて或る民俗なり思想なりを比較對照するには、何よりも前にそれが兩方それ/”\の特殊な民族生活によつて養はれたものであるかどうかを考へることが必要である。一によつて他を推測し、さうして其の推測の上に立って兩者が起源を同じうすることを證すべきではない。外觀上、記紀などに見えるものと類似した思想が琉球にあるとしても、それが琉球特殊の民族生活から生れたものとして説明し得られるならば、さう説明する方が合理的である。例へばニライ・カナイといふやうな空想国土の觀念についても、それは琉球の地理的事情とそれに制約せられてゐる民族生活、伊波氏の所謂「孤島苦」の生活、の特殊の所産として説明ができようではないか。もしさうならば、それは日本の上代に於ける空想國土の觀念とは由來を異にするものとすべきであらう。(或はそこに人類共通の思想があると考ふべきでもあらうが、それは琉球と日本との關係についての問題とは違ふ。)また民俗としては、巫女が強大な勢力を有つてゐることについても、同じやうにして解釋ができることと思はれるが、もしさうならば此の琉球の民俗から、日本の上代の巫女の状態を類推すべきではあるまい。實際、今日から推測し得られる程度の日本の上代に於いては、巫女の勢力がさまで強大でなかつたことが、文獻の上から明かに知られる。巫女などをはたらかせないだけに、政治的權力や社會的統制の力が發達してゐたのである。要するに、琉球によつて日本の上代を推測することには無理があるが、それは恰も日本の上代によつて琉球を推測し難いのと同じである。強ひて日本人と琉球人との一致を考へるよりも、同じ(429)人種に屬しながら、如何にして、如何なる民族生活の差異から、それ/”\特殊な歴史が展開せられ特殊な民俗が養成せられるやうになつたかを明かにする方が、むしろ大切なことであらう。
 琉球とは人種上の關係が違ふが、アイヌに英雄の行爲を敍した敍事詩のあることから、古事記の記載をそれと同じ方法で傳承せられたものとする考もある。これはアイヌに敍事詩のあることから日本民族の上代にもそれと同じ性質のものがあつたはずであると推測し、此の推測の上に立つて、現に存在する古事記がそれであると考へるのか、但しは古事記の記載が古くから口誦によつて傳承せられたものであるといふことを根據として、それから其の傳承の状態はアイヌの敍事詩の如きものであつたと推測するのか、明かで無いが、もし前者ならば、それは敍事詩の作られ傳承せられた時代のアイヌの生活と上代日本民族のそれとを同一視すべき特殊の理由があるとするか、又はアイヌに敍事詩のあることがすべての民族に敍事詩のあつたことの證明になるとするか、何れかを假定した上でなくては、いひ得られないことであらう。ところが、アイヌと上代の日本民族とは、全く生活を異にし歴史を異にし、根本的には人種を異にしてゐるのであるから、第一の假定は到底成立つまい。また第二の假定は、すべての民族を通じて文化の發展に一定の段階があり、其の或る段階に於いては、必ず敍事詩が作られるはずであるとでも考へなければ成立たないであらうが、さういふことが果して考へ得られるかどうか。かゝる考へかたをするならば、それは單に敍事詩のみについてのことではなくなり、問題はずつと大きくなつて來るし、歴史的事實として、すべての民族が果して敍事詩を有つてゐたか、またそれを有つてゐたことの明かな民族だけを見ても、其の作られたのが、果して同じ程度の文化の段階に於いてであつたか、大なる疑問であるが、それはともかくも、かう考へる以上、日本民族の上代を推測するには、(430)アイヌには、もはや特殊の意味が無くなる。次にもし後者であるならば、古事記の記載が古くから口誦によつて傳承せられたものであるといふことが、先づ論證せられねばなるまい。古事記の記載の内容を檢討すれば勿論のこと、さうするまでもなく、序文を誠實に読んだだけでも、稗田阿禮は直接に書物を取扱つたものであることが明白に知られるはずである。或はまた古事記と大同小異の内容を有し其の文體までもほゞ同樣であつたと推測せられる幾つもの書物が書紀に採録せられてゐることからも、それがわからうではないか。しかし、余は今こゝに余自身の見解を根據としていはうとは思はぬ。たゞ此の口誦傳承説は世間で漠然信ぜられてゐるらしいにかゝはらず、それが如何なる理由によつて主張せられたものか、明かでないから、其の論證が必要だといふのである。なほ、古事記の記載の傳情の状態をアイヌの敍事詩のそれによつて類推しようとするならば、兩者の内容と外形とのどの點に一致もしくは類似するところがあるかを明かにしてかゝらなければならぬことは、いふまでもあるまい。が、疑問は疑問として置いて、アイヌには英雄を歌つた敍事詩があるのに、日本民族の昔にはそれが無かつたとして、それが不合理であらうか。余はむしろ、それが當然であらう、少くともそれは解釋し得られることであらうと思ふ。金田一氏が最近公にせられた尊敬すべき業績によつて私かに考へると、アイヌの英雄を歌つた敍事詩はアイヌ人の狩獵本位の生活、部族割據の生活から生まれた戰闘を主題としたものの如く解せられ、そこに現はれてゐるやうに、アイヌが神の力、呪術の力を頼むことの強いのも、さういふ生活によつて特に刺戟せられたところもあらうと思はれるが、農業本位であり、早くから政治的統制の存在した日本人の生活は、上代に於いてもそれとは全く違つたものであり、敍事詩の主題となり民衆の血を湧立たせるやうな良衆自身の戰闘が少かつた。小國家間の戰爭がよし無いではなかつたにしても、それは君主の(431)戰爭であつて民衆のではなく、さうしてさういふ戰爭すらも稀であつて、上代の日本人は概して平和の生活を送つてゐたらしい。神の力や呪術の力を頼むことは日本人でも同樣であつたが、平和の生活、日常の生活に於けるそれは、敍事詩の主題とはならないのである。アイヌのに限らず、一般の例として敍事詩の主題は何等かの異常の事件であり、上代のに於いてはそれは概ね戰闘であるが、これは敍事詩といふものの本質から來ることであらう。敍事詩は行爲を敍するものであるが、それが民衆の間に傳誦せられるものである以上、其の行爲は民衆の感情を昂奮させるものでなくてはならず、從つて民衆の精神の具體的に表現せられた英雄の行爲であるのが、當然であり、異常の人物によつて行はれた異常の事件たることを要するのである。さて此の解釋の當否はともかくも、アイヌによつて日本の上代が聯想せられるならば、アイヌが何故にあゝいふ敍事詩を有つやうになつたかをアイヌの生活から考へ、さうしてそれと同じ事情が日本の上代にもあつたかどうかを討究しなければならぬことは、明かであらう。また古事記を民衆の間に傳承せられて來た敍事詩と解し得られるかどうかに至つては、其の詞章が吟誦せらるべく何等かの律格を具へたもの、一定の方式によつて傳承せらるべきやうにつゞられたものであるか、全體の組み立てや敍述の體裁が敍事詩としてふさはしいものであるか、またそこに民族的英雄がはたらいてゐるか、民衆の精神や感情が現はれてゐるか、敍述の態度が詩人的であるか、などの諸點を十分に考へてかゝらねばなるまい。或は古事記の全體が敍事詩でないにしても古事記の材料として敍事詩が採られてゐるのではなからうかといふ疑問も起らうが、それにしても上記の問題の討究が必要である。なほ古事記の物語には宗教的感情の稀薄であることをも、注意しなければならぬ。神代の物語とても宗教的に信仰せられてゐる神のはたらきが、殆ど語られてゐないし、所謂人代の部分に於いても人間の葛藤に神の關與(432)する説話が無い。神功皇后の物語に於いて神の威力は示されてゐるが、神みづから戰闘に際してはたらくのではない。これらもまた行爲を敍する敍事詩としてふさはしいことであるかどうか、考ふべき問題であらう。物語の上で神がはたらかないことについては、當時の宗教的信仰に於いて神が人格を有せざる精靈であつたことをも知らねばならぬが、もし敍事詩が作られるやうになつたならば、神に人格を附與する一契機がそこにも生じたであらうに、さうならなかつたのである。これは古事記についてのことであるが、もし古事記もしくは其の主なる材料となつたものの外に、廣く民衆の間に行はれてゐた敍事詩があつたならば、文字が一般に用ゐられるやうになつてから、それが書き寫されたであらうと思はれるのに、さういふ形迹が少しも無いことをも考へねばなるまい。もつとも、世間で敍事詩といふ語が古事記にあてはめられたのは、その本來の意義に於いてではなく、初から文字に書かれた物語でも比擬的にかういはれる場合があるために、その例によつただけのことでありながら、この語を用ゐたために、それが本來の意義でのでもあるやうな錯覺が伴ひ、そこから古事記も吟誦せられたもののやうに考へられて來た、といふ事情もあるかと思はれる。しかしこれは用語の意義を明かにしないからのことである。なほ、古事記の内容の傳承が口誦によつたものであるといふことだけについていふと、口誦はことばそのものが大切であるのに、書紀が惜しげもなくそれを漢文風に書きかへようとしたのは、それが口誦による傳承でなかつたことの一つの證據とも見られよう。
 神代の物語に宗教上の神が殆どはたらいてゐないといふ上記の言は、一見奇怪のやうであり、實際、一般にはさう考へられてゐないやうに思はれる。神代の物語の主要なる人物であるスサノヲの命を暴風雨の神とする説は、可なり久しい前から世に行はれてゐるし、またイサナキ・イサナミの神を天と地との神とするやうな解釋もあるのであるが、(433)それは、これらの人物を宗教上の神として考へるからであらう。神代の物語に現はれてゐる人物であるためにそれらを神と考へるのは、一應は當然のことといはれようし、特にイサナキ・イサナミは古事記には明かに神と呼んであるから、猶さらさう見るに理由がありさうである。が、果してさう考ふべきものであらうか。余は、纔に一二を除く外は、神代の物語に於いて活動してゐる人物は宗教的の神ではなく、稀に宗教的の神があつても其の宗教的資質に於いてではないと思ふのであるが、これについても、今こゝにそれを論據としていはうとは思はぬ。たゞ上記のやうな見解で神代史の記載が自然に説明し得られるかどうかが疑はしいとだけは、いつてもよからう。が、かういふ考へかたは、神代史の記載を所謂「神話」として見ようとする態度からも來てゐるのではあるまいか。神話と譯せられてゐる語の意義、または此の譯語の適否には、議すべき點があるが、それはともかくも、もし宗教的意義での神の物語が所謂神話の重要なものであるとするならば、多くの民族のさういふ物語、またそれを取扱ふ神話學の知識を有する今日の學者が、其の知識によつて神代史を解釋しようとするところから上記のごとき考へかたの生ずるのは、自然の傾向であらう。一般の世間では、或は神話といふ譯語に累せられてゐる氣味さへも無いではないかも知れぬ。が、日本の神代史を、無條件に、さういふ意義の神話として取扱ふことが果して正しいか否か、それが問題ではなからうか。さうしてそれを解決するには、まづ白紙となつて記紀の神代史そのものを文字のまゝに誠實に讀み取り、同時に神代史を作り出した日本の民族生活もしくは政治形態との關聯に於いてそれを考察することが、必要であらう。神代の物語の人物が宗教上の神と見なさるべきものであるかどうかも、其の上で知り得られることであらう。神代史の組織分子となつてゐる種々の説話のうちには、他の民族に存在する説話と共通のもの、もしくは對照すべきものも含まれてゐ(434)るに違ひなく、さういふものの比較研究によつて其の意義の知られることのあるのも、一面の事實であるが、すべての説話がさうではなく、よしまたさういふものにしても、それが如何なる意味で神代史に採入れてあるかは、一つの組織體をなす神代史の全體の意義を明かにしなければ、正當に理解することができないのであり、さうして其の全體の意義は、日本の神代史に特異なものではなからうか。神代史特有の説話については猶さらである。よく其の意義のあるところを明かにしたならば、日本の神代の物語の多くは普通にいふ神話として解釋すべきものでないことが知られはすまいか。現代の學問が西洋の學者の研究によつて指導せられてゐるため、彼等の考察の未だ及ばざる我が國の事物を解釋するにも、おのづから彼等の考へ方の型にあてはめる傾向のあるのが一般の状態であるが、もはやそれを改めてもよい時期であらう。
 方面は全く違ふが、近時行はれはじめた社會史的考察に於いても、また日本の上代の社會を西人の研究なり學説なりの型にあてはめて説かうとする傾向があるらしい。其の最も甚しいのは、記紀、特に書紀の記載を其のまゝ歴史的事實と見なし、或はそれを民族の由來や建國の事情を語るものと解し、さうしてそれを原始的な社會組織や國家の起源に關する或る學説によつて解釋することである。其のよるところの學説や考へかたの如何は且らく問題外として、單にこれだけのことを見ても、そこに二つの大なる誤のあることが知られよう。第一は記紀の記載の上記の見かたであるが、しかしこれは從來の國史を説くものに普通な解釋に從つてゐるのであるから、深く咎めるには及ぶまい。ただかういふ解釋は可なり曖昧でもあり無理でもあり、少しく注意して見れば、常識からでも多くの疑問を容れ得るものであるにかゝはらず、それに對して批判を加へようとせず、無造作にそれを受け入れてゐるのは、不思議なほどで(435)あつて、そこから種々の誤謬が生ずる。例へば、國家の起源を説かうとするには、日本民族が一つの國家に統一せられない前に存在してゐた多くの小國家が如何にして形成せられたかを第一に考察しなければならぬのに、それを思慮せず、初から今日の統一的國家が作られたやうに見る類がそれである。さて、記紀の記載を日本民族の原始的な状態もしくは最初の國家建設を語るものとするにしても、それを上記の如く或る學説にあてはめて解釋しようとするのが第二の誤である。本來、余は現在の未開民族によつて文化民族の上代を推測する方法については、種々の疑義を抱いてゐるのであり、それに一面の理由のあることは承認せられるけれども、無條件に許さるべきものではなからうと思はれるので、從つてさういふ方法によつて導き出された假説にも十分の信用を置きかねるのである。が、それはともかくもとして、從來西人によつてなされた此の種の研究には、日本の民族が材料として取扱はれてゐないのであるから、此の點から見ても、かういふ假説が其のまゝ日本民族の上代を解釋するために適用せられ得るものかどうかは、大なる疑問であらう。たとへば、牧畜生活といふことを社會組織の發達の徑路に於いて重要視するやうな考へかたは、さういふ生活を經過した形迹の無い日本民族には、初からあてはまらないものではあるまいか。社會組織も其の發達の状態も、風土や、其の上に於ける生活の樣相や、土地に對する人口の多寡や、または移住の徑路や四隣の民族との關係などによつて、民族的特異性の多いものであることが、推測せられねばなるまい。こゝでもまた、杜會及び文化の發達に一定の順序があり段階があると考へ得られるかどうかの問題に逢著しなければならず、從つてまたおのづから、さういふことを取扱ふ科學が如何なる意味に於いて成立するか、如何なる方法によつてそれを成立させるかの問題にも考へ及ばねばならぬが、それもこゝでは論外に置く。たゞ從來の西人の研究に成る假説を、漫然、日本の上代(436)に適用するのが危險であるといふことだけは、斷言して置かねばならぬ。或る程度の參考にはなるに違ひないが、參考にするにしても、それに對して十分の檢討を行ひ、如何にしてそれが成立つたか、また如何なる點が如何なる意味に於いて參考となるかを明かにした上のことである。或る學説にあてはめて上代の文獻を解釋し、其の解釋によつて却つて其の學説を證明しようとするやうな態度を取るべきではない。これは記紀の記載を上記の如き見かたで見た場合についてもいはるべきことであるが、もし記紀の研究によつて其の記載が日本民族の由來をも歴史的事實としての國家の起源をも語るものでなく、まして原始的な社會状態を知る材料などにはならないものであることが知られたならば、かういふ學説をそれにあてはめることは、全く見當違ひであることがわかるであらう。なほ、個々の問題を考へる場合にも、西人の學説もしくは其の重なる材料となつた西方の民族に關する知識によつて臆測せられがちであつて、かの奴隷の問題の如きも、上代には一般に奴隷制度があつたといふ假説と、日本の上代を考へるにも、すぐにギリシャやロオマが想起せられるのと、此の二つから誘發せられた點があるらしい。もつともこれには用語による誤解もあるやうに見えるので、奴隷の譯語が今日一般に行はれてゐるのと、奴の字のあてられたヤツコが上代にあつたのとのため、ヤツコの語義をも其の状態をも深く究めずして、奴隷の譯語によつて知られてゐる如きものが我が上代にもあつたやうに漠然思ひなされた氣味があるのではあるまいか。近ごろの國史家によつて用ゐられてゐる氏族制度といふ語と、家族、氏族、部族などと譯せられてゐる西方民族の上代もしくは未開民族の間に於ける種々の社會形態とを不用意に結びつけ、或はむしろこれらの譯語によつて示されるやうなものが我が上代の氏族制度であつた如く考へようとするのも、同じことである。譯語を介して考へるといふのではない。國語の意義を明かにしないため、それと(437)同じ語が譯語として用ゐられる場合、其の譯語のあてられた原語の意義によつて却つて國語を解繹しようとすることをいふのである。かういふ例は他にもあるので、封建といふ語によつてシナの上代の政治形態、むしろ社會形態を、ヨウロッパの中世時代のやうなものと思ふ類がそれである。
 要するに、近ごろ目にふれる上代史に關する考察のうちには、ともすれば、歴史的變化を輕視し、民族生活の特異性を重んぜず、或は思想や信仰や其の他の文化上の現象を全體の民族生活から遊離させて考へること、文獻の誠實なる研究を力めないこと、また西人の學説を無批判に適用すること、などから來る缺陷の認められるものがあるやうに、余は考へる。すべてがさうであるといふのでないことは勿論であるが、世に喧傳せられる考説のうちに却つてかういふものが少なくないやうに見うけるのである。さうしてそれは、約言すると、史學的方法を顧慮しないために生じたものである。歴史は特異なる民族生活の發展を、其のまゝに、具體的に、取扱ふものであり、從つて其の特異性を明かにするのが任務であること、歴史的研究の第一歩は史料たる文獻の誠實なる檢討であるべきことを思へば、このことはおのづから知られるであらう。民俗、社會、文化に關する一般的科學の成立を疑ふものではないが、さういふ科學の的確な材料は、特異なる民族生活の特異なる事實であり、科學者に向つてそれを供給するものは、主として史學者であるべきはずだと思ふ。特に從來西欧の學者には殆ど顧慮せられてゐない日本の民族生活の眞相を明かにして彼等に新材料を提供し、彼等をして舊來の學説を修正せしめるのは、日本の史學者の責任である。が、史學者の仕事がそこまで進んでゐない。日本だけについていつても、上に述べたやうな缺陷の認められる考説が概ね史學者ならぬ方面から出てゐるのは、故なきことではないが、諸方面の志ある研究者をしてなほ且つかゝる缺陷を免れ難からしめる(438)のは、寧ろ史學者が其の任務を怠つてゐるからであるといつてもよからう。
 
(439)   三 日本の國家形成の過程と皇室の恆久性に關する思想の由來
 
 今、世間で要求せられてゐることは、これまでの歴史がまちがつてゐるから、それを改めて眞の歴史を書かねばならぬ、といふのであるが、かういふ場合、歴史がまちがつてゐるといふことには二つの意義があるらしい。一つは、これまで歴史的事實を記述したものと考へられてゐた古書が實はさうでない、といふことであつて、例へば古事記や日本書紀は上代の歴史的事實を記述したものではない、といふのがそれである。これは史料と歴史との區別をしないからのことであつて、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事實でないことが記されてゐても、歴史がまちがつてゐるといふことはできぬ。史料は眞僞混雜してゐるのが常であるから、その僞なる部分をすて眞なる部分をとつて歴史の資料とすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ國民生活のその全方面に關する記述を具へてゐるものではなく、或る一二の方面に關することが記されてゐるのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。史料には批判を要するといふのはこのことである。例へば記紀に於いて、外觀上、歴史的事實の記録であるが如き記事に於いても、こまかに考へると事實とは考へられぬものが少なくないから、そこでその眞僞の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事實の記録と考へられぬものは、それが何ごとについての史料であるかを見定めねばならぬ。物語に語られてゐること、即ちそこにはたらいてゐる人物の言動などは、事實ではないが、物語の作られたことは事實であると共に、物語によつて表(440)現せられてゐる思想もまた事實として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事件に關する史料ではないが、文藝史思想史の貴重なる史料である。かういふ史料を史料の性質に從つて正しく用ゐることによつて、歴史は構成せられる。史料と歴史とのこの區別は、史學の研究者に於いては何人も知つてゐることであるが、世間では深くそのことを考へず、記紀の如き史料をそのまゝ歴史だと思つてゐるために、上にいつたようなことがいはれるのであらう。
 いま一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいつた史料の批判を行はず、又はそれを誤り、そのために眞僞の辨別がまちがつたり、史料の性質を理解しなかつたり、或はまた何等かの偏見によつてことさらに事實を曲げたり、恣な解釋を加へたりして、その結果、虚僞の歴史が書かれてゐることをいふのである。
 さてこの二つの意義の何れにおいても、これまで一般に日本の上代史といはれてゐるものは、まちがつてゐる、といひ得られる。然らば眞の上代史はどんなものかといふと、それはまだでき上がつてゐない。といふ意味は、何人にも承認せられてゐるような歴史が構成せられてゐない、といふことである。上にいつた史料批判が歴史家によつて一樣でなく、從つて歴史の資料が一定してゐない、といふことがその一つの理由である。從つて次に述べるところは、わたくしの私案に過ぎないといふことを、讀者はあらかじめ知つておかれたい。たゞわたくしとしては、これを學界ならびに一般世間に提供するだけの自信はもつてゐる。
 
     一 上代における國家統一の情勢
 
 日本の國家は日本民族と稱せられる一つの民族によつて形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のあ(441)る民族をもたぬ。大陸に於けるシナ民族とは、固より人種が違ふ。朝鮮、滿洲、蒙古、方面の諸民族とも違ふので、このことは體質からも、言語からも、また生活のしかたからも、知り得られよう。たゞ半島の南端の韓民族のうちには、或は日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、琉球(の大部分)に同じ民族の分派が占居してゐたであらうが、臺灣及びそれより南の方の島々の民族とは同じでない。本土の東北部に全く人種の違ふアイヌ(蝦夷)のゐたことは、いふまでもない。近いところを見てもかうであるが、遠いところではなほさらである。
 かういふ日本民族の原住地も、移住して來た道すぢも、またその時期も、今まで研究せられたところでは、全くわからぬ。生活の状態や樣式やから見ると、原住地は南方であつたらしく、大陸の北部でなかつたことは推測せられるが、その土地は知りがたく、來住の道すぢも、世間でよく臆測せられてゐるように海路であつたには限らぬ。時期はたゞ遠い昔であつたといひ得るのみである。原住地なり來住の途上なり、またはこの島に來た時からなりに於いて、種々の異民族をいくらかづつ包容し、またはそれらと混血したことはあつたらうが、民族としての統一を失ふほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活して來たので、多くの民族の混和によつて日本民族が形づくられたのではない。この島に來た時に、民族の違ふどれだけかの原住民がゐたではあらうが、それが、一つもしくは幾つかの民族的勢力として、後までも長く殘つてはゐなかつたらしく、時と共に日本民族に同化せられ包容せられてしまつたであらう。
 かゝる日本民族の存在の明かに世界に知られ、世界的意義をもつようになつたことの今日にわかるのは、前一世紀(442)もしくは二世紀、即ちシナの前漢の時代からである。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島に於いてどれだけつゞいてゐたかはわからぬが、長い、長い、年月であつたことは、推測せられる。
 先史時代の日本民族の生活状態は先史考古學の示すところの外は、歴史時代の初期の状態から逆推することによつて、その末期のありさまがほゞ想像せられる。主たる生業は農業であつたが、この島に住んでゐることが既に久しいので、親子夫妻の少數の結合による家族形態が整ひ、安定した村落が形づくられ、多くのさういふ村落を包含する小國家が多く成り立つてゐた。政治的には日本民族は多くの小國家に分れてゐたのである。この小國家の君主は、政治的權力と共に宗教的權威をももつてゐたらしく、種々の呪術や原始的な宗教心のあらはれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、かれらによつて行はれ、それが政治の一つのはたらきとなつてゐた。地方によつては、これらの小國家の一つでありながら、その君主が附近の他の幾つかの小國家の上に立つてそれらを統御したものがあつたようでもある。君主の權威は民衆から租税を徴しまたはかれらを使役することであつたらうが、小國家に於いては、君主は地主としての性質を幾分か具へてゐたのではないか、從つてまた君主は、政治的權力者ではあるが、それと共に配下の民衆の首長もしくは指導者といふような地位にゐたのではないか、と推測せられもする。農業そのことの本質に伴ふ風習として、耕地が何人かの私有であつたことは、明かであらう。この日本民族は牧畜をした形迹は無いが、漁獵は到るところで營まれ、海上の交通も沿海の住民によつて盛に行はれた。しかしかういふことを生業としたものも、日本民族であることに變りはなく、住地の状態によつてそれに適應する生活をしてゐたところに、やはりこの島(443)に移住して來てから長い歳月を經てゐたことが示されてゐる。用ゐてゐた器具が石器であつたことは、勿論である。
 日本民族の存在が世界的意義をもつようになつたのは、今のキユウシユウ(九州)の西北部に當る地方のいくつかの小國家に屬するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、當時その地方にひろがつて來てゐたシナ人と接觸したことによつて、はじまつたのである。彼等はこゝでシナ人から絹や青銅器などの工藝品や種々の知識やを得て來たので、それによつてシナの文物を學ぶ機會が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開け初めた。青銅器の製作と使用との始まつたのは前一世紀の末のころであつたらしく、その後もかなり長い間はいはゆる金石併用時代であつたが、ともかくもシナの文物をうけ入れることになつた地方の小國家の君主は、それによつて彼等の權威をもその富をも加へることができた。キユウシユウ地方の諸小國とシナ人とのこの接觸は、一世紀二世紀を通じて變ることなく行はれたが、その間の關係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工藝品や知識やがます/\多くなると共に、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の數も多くなつた。鐵器の使用もその製作の技術もまたこの間に學び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の關係が更に深くなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴ふことになり、君主の間には、半島に於けるシナの政治的權力を背景として、或は附近の諸小國の君主に臨み、或は敵對の地位にある君主を威壓しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬臺、今の筑後の山門か)の女王として傳へられてゐるヒミコ(卑彌呼)がそれである。當時、このヤマトの君主はほゞキユウシユウの北半の諸小國の上にその權威を及ぼしてゐたようである。
 キユウシユウ地方の諸君主が得たシナの工藝品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、セト(瀬戸)内海の(444)航路によつて、早くから後のいはゆる近畿地方に傳へられたらしく、一二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、さうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴つてゐたことが考へられる。この政治的勢力は、種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであつたことが、ほゞ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となつてゐたであらう。それがいつからの存在であり、どうしてうち立てられたかも、その勢力の範圍がどれだけの地域であつたかも、またどういふ徑路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいつたような勢力として存在したらしい。その地域の西南部は少くとも今のオホサカ灣の灣岸地方を含んでゐて、セト内海の航路によつて遠くキユウシユウ方面と交通し得る便宜をもつてゐたに違ひないが、東北方に於いてどこまでひろがつてゐたかは、知りがたい。この地域のすべてが直接の領土として初めから存在したには限らず、或は、そこに幾つかの小國家が成立つてゐたのを、いつの時からかそれらのうちの一つであつたヤマト地方の君主、即ち皇室の御祖先、がそれらを服屬させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、更に後になつてその諸小國を直接の領土として收容した、といふような徑路がとられたでもあらう。
 三世紀にはその領土が次第にひろがつて、西の方ではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、東北の方でもかなりの遠方までその勢力の範圍に入つてゐたらしく、想像せられるが、それもまた同じような道すぢを經てのことであつたかもしれぬ。しかし具體的には其の情勢が全く傳へられてゐない。たゞイヅモ(出雲)地方にはかたり優勢な政治的勢力があつて、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に對して反抗的態度をとつてゐたようである。さて(445)このような、ヤマトを中心として後の近畿地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西の方から傳へられた新しい文物を利用することによつて、その實力が養ひ得られたためであらうと考へられるが、一つは、その時の君主の個人的の力によるところも少なくなかつたであらう。如何なる國家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいふべき君主のあるのが、一般の状態だからである。さうして險要の地であるヤマトと、豐沃で物資の多い淀河の平野と、海路の交通の要地であるオホサカ灣の沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めてゐたことが、それから後の勢力の發展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるに從つて君主の欲望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなつてゆくと、多くの小國の君主はそれに壓せられて漸次服屬してゆく、といふ情勢が展開せられて來たものと推測せられる。
 しかし三世紀に於いては、イヅモの勢力を歸服させることはできたようであるけれども、キユウシユウ地方にはまだ進出することはできなかつた。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、キユウシユウの北半における諸小國を統御してゐる強力なヤマト(邪馬臺)の國家がそこにあつたからである。けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部に於ける遊牧民族の活動によつてその地方のシナ人の政治的勢力が覆へされ、半島に於けるそれもまた失はれたので、ヤマト(邪馬臺)の君主はその頼るところが無くなつた。東方なるヤマト(大和)の勢力は此の機會に乘じてキユウシユウの地に進出し、その北半の諸小國とそれらの上に權威をもつてゐたヤマト(邪馬臺)の國とを服屬させたらしい。四世紀の前半のことである。さうしてこの勢の一歩を進めたのが、四世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であり、それによつて我が國と半島とに新しい事態が生じた。さうして半(446)島を通じてヤマトの朝廷にとり入れられたシナの文物が皇室の權威を一層強め、從つてまた、一つの國家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。たゞキユウシユウの南半、即ちいはゆるクマソ(熊襲)の地域、にあつた諸小國は、五世紀に入つてからほゞ完全に服屬させることができたようである。東北方の諸小國がヤマトの國家に服屬した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキユウシユウの南半が歸服した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの國家の範圍に入つてゐたことが、推測せられる。それは即ちほゞ今の關東からシナノ(信濃)を經てエチゴ(越後)の中部地方に至るまでである。
 皇室の御祖先を君主として戴いてゐたヤマトの國家が日本民族を統一した情勢が、ほゞかういふものであつたとすれば、普通に考へられてゐるような日本の建國といふきはだつた事件が、或る時期、或る年月、に起つたのでないことは、おのづから知られよう。日本の建國の時期を皇室によつて定め、皇室の御祖先がヤマトにあつた小國の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建國をかういふ意義に解することも妥當とは思はれぬ。もし日本民族の全體が一つの國家に統一せられた時を建國とすれば、そのおほよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、さうしてまたそれを建國とすることもふさはしくない。日本の國家は長い歴史的過程を經て漸次に形づくられて來たものであるから、特に建國といふべき時は無いとするのが、當つてゐよう。要するに、皇室のはじめと建國とは別のことである。日本民族の由來がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なほさらいふまでもない。むかしは、いはゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考へ、皇室のはじめと日本全土の領有といふ意義での建國(447)とが同じであるように思はれてゐたし、近ごろはこの二つと此の島に於ける日本民族のはじめとの三つさへも、何となく混雜して考へられてゐるようであるが、それは上代の歴史的事實を明かにしないからのことである。
 さて、こゝに述べたことには、それ/”\根據があるが、今はさういふ根據の上に立つて建國史の過程を略述するのみであつて、一々その根據を示すいとまはない。ところで、もしこの歴史的過程が事實に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東遷の物語は決して歴史的事實を語つたものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの國家として統一せられてから、かなりの歳月を經た後、皇室の權威が次第に固まつて來た時代、わたくしの考ではそれは六世紀のはじめのころ、に於いて、一層それを固めるために、朝廷に於いて皇室の由來を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの國に降ることが語られねばならず、さうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東遷物語が作られたのである。ヤマトに皇都はあつたが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになつたかも全く知られなくなつてゐたので、この物語はおのづからその皇都の起源説話となつたのである。東遷は日の神の加護によつて遂げられたことになつてゐるが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によつて地上のヒムカに遷され、それがまたジンム天皇によつてヤマトに遷されたことを、語つたものであり、皇祖を日の神とする思想によつて作られたものである。だからそれを建國の歴史的事實として見ることはできない。
(448) それから後の政治的經營として古事記や書紀に記されてゐることでも、チユウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事實の記録とは考へられぬ。たゞ歴代の天皇の系譜については、ほゞ三世紀のころであらうと思はれるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろ/\の考へかたができようが、系譜上の存在がどうであらうとも、ヤマトの國家の發展の形勢を考へるについては、それは問題の外におかるべきである。創業の主ともいふべき君主のあつたことが何等かの形で後にいひ傳へられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考へられる四世紀の終において、既に知られなくなつてゐたので、記紀には全くあらはれてゐない。
 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小國の君主を服屬させていつたそのしかたはどうであつたかといふに、それはあひてにより場合によつて一樣ではなかつたらう。武力の用ゐられたこともあつたらう。君主の地位に伴つてゐる宗教的權威のはたらきもあつたらう。しかし血なまぐさい戰爭の行はれたことは少かつた、と推測せられる。もと/\日本民族が多くの小國家に分れてゐても、その間に斷えざる戰爭があつたといふのではなく、武力的競爭によつてそれらの國家が存在したのではなかつた。農業民は本來平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味に於いて大地主らしくもある小君主も、その生存のためには平和が必要である。またともすれば戰爭の起り易い異民族との接觸が無く、すべての國家がみな同一民族であつたために、好戰的な殺伐な氣風も養はれなかつた。小國家が概して小國家たるにとゞまつて、甚だしく強大な國家の現はれなかつたのも、勢力の強弱と領土の大小とを來すべき戰爭の少かつたことを、示すものと解せられよう。キユウシユウ地方においてかのヤマト(449)(邪馬臺)が、附近の多くの小國を存續させながら、それらの上に勢力を及ぼしてゐたのも、戰勝國の態度ではなかつたように見える。かなり後になつても、日本に城郭建築の行はれなかつたことも、またこのことについて參考せらるべきである。皇室が多くの小國の君主を服屬させられたのは、このような一般的状態の下において行はれたことであり、皇室がもと/\それらの多くの小國家の君主の家の一つであつたのであるから、その勢力の發展が戰爭によることの少かつたことは、おのづから推測せられよう。國家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いはゆる國造縣主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の繼續せられたものであるらしいこと、皇居に城郭などの軍事的設備が後までも設けられなかつたこと、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の權力者の領土が、地方的豪族の領土の間に點綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小國家の滅亡したあとに設けられたものもあらうが、よしさうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。
 統一の後の國造などの態度によつて推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小國の君主はその地位と領土とを保全するためには、みづから進んでそれに歸服するものが多かつたと考へられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかつたし、隣國と戰爭をした經驗もあまりもたなかつたし、また多くの小國家に分れてゐたとはいへ、もと/\同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語、宗教、風俗、習慣、の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで來る大きな政治的勢力があつても、それに對しては初から親和の情があつたのであらう。また從來とても、もしかういふ小國家の同じ地域にあるいくつかが、キユウシユウにおける上記の例の如く、そのうちの優勢なものに從屬してゐたことがあつたとすれば、皇室に歸服することは、その優勢な(450)ものを一層大きい勢力としての皇室にかへたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行はれたらしい、といふことも考へられる。朝廷の側としては、場合によつては武力も用ゐられたにちがひなく、また一般に何等かの方法による威壓が加へられたことは、想像せられるが、大勢はかういふ状態であつたのではあるまいか。
 國家の統一の情勢はほゞこのように考へられるが、ヤマト朝廷のあひてとしたところは、民衆ではなくして諸小國の君主であつた。統一の事業はこれらの君主を服屬させることによつて行はれたので、直接に民衆をあひてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なほさらである。民衆からいふと、國家が統一せられたといふのは、これまでの君主の上にたつことになつたヤマトの朝廷に間接に隷屬することになつた、といふだけのことである。皇室の直轄領となつた土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかつたのである。さて、かうして皇室に服屬した民衆はいふまでもなく、國造などの地方的豪族とても、皇室と血族的關係をもつてゐたはずはなく、從つて日本の國家が皇室を宗家とする一家族のひろがつたものでないことは、いふまでもあるまい。
 
       二 萬世一系の皇室といふ觀念の生じまた發逢した歴史的事情
 
 ヤマトに根據のあつた皇室が日本民族の全體を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかゝつたかはわからぬが、上に考へた如く、二世紀のころにはヤマトの國家の存在したことがほゞ推測せられるとすれば、それからキユウシユウの北半の服屬した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考へられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における斷えざる勢力の伸長とは、皇室の地(451)位をかためるには十分であつたので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなつてゐたようである。何人もそれに對して反抗するものは無く、その地位を奪ひとらうとするものも無かつた。さうしてそれにはそれを助ける種々の事情があつたと考へられる。
 その第一は、皇室が日本民族の外から來てこの民族を征服しそれによつて君主の地位と權力とを得られたのではなく、民族の内から起つて次第に周圍の諸小國を歸服させられたこと、また諸小國の歸服した情勢が上にいつたようなものであつたことの自然のなりゆきとして、皇室に對して反抗的態度をとるものが生じなかつた、といふことである。もし何等かの特殊の事情によつて反抗するものが出るとすれば、それはその獨立の君主としての地位と權力とを失つた諸小國の君主の子孫であつたらうが、さういふものは反抗の態度をとるだけの實力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかつた。かういふ君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもつてゐたらしいイヅモの國造が、完全に皇室の下におけるその國造の地位に安んじてゐたのを見ても、そのことは知られよう。一般の國造や縣主は、皇室に近接することによつて、皇室の勢威を背景としてもつことによつて、かれらみづからの地位を安固にしようとしたのである。皇室が武力を用ゐて地方的豪族に臨まれるようなことは無く、國内に於いて戰闘の行はれたような形迹は無かつた。この意味に於いては、上代の日本は甚だ平和であつたが、これはその根柢に日本民族が一つの民族であるといふ事實があつたからだと考へられる。
 また皇室の政治の對象は地方的豪族であつて、直接には一般民衆ではなかつたから、民衆が皇室に對して反抗を企てるような事情は少しも無かつた。わづかの皇室直轄領の外は、民衆の直接の君主は地方的豪族たる國造(及び朝廷(452)に地位をもつてゐる伴造)であつて、租税を約めるのも勞役に服するのも、さういふ君主のためであつたから、民衆はおのれらの生活に苦痛があつても、その責を皇室に歸することはしなかつた。さうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種のほこりをもつてゐたのではないかと、推測せられる。
 第二は、異民族との戰爭の無かつたことである。近隣の異國もしくは異民族との戰爭には、君主みづから軍を率ゐることになるのが普通であるが、その場合、戰に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、從つてその勢威も強められるが、負ければその反對に人望が薄らぎ勢威が窮められ、時の情勢によつては君主の地位をも失ふようになる。よし戰に勝つても、それが君主みづからの力でなくして將帥の力であつたような場合には、衆望がその將帥に歸して、終にはそれが君主の地位に上ることもありがちである。要するに、異民族との戰爭といふことが、君主の地位を不安定にし、その家系に更迭の生ずる機會を作るものである。ところが、日本民族は島國に住んでゐるために、同じ島の東北部にゐたアイヌの外には、異民族に接觸してゐないし、また四世紀から六世紀までの時代に於ける半島及びそれにつゞいてゐる大陸の民族割據の形勢では、それらの何れにも、海を渡つてこの國に進撃して來るようなものは無かつた。それがために民族的勢力の衝突としての戰爭が起らず、從つてこゝにいつたような君主の地位を不安定にする事情が生じなかつたのである。
 たゞ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に對する政治的經略が行はれたので(多分、半島の南端における日本人と關係のある小國の保護のために)、それには戰爭が伴ひ、その戰爭には勝敗があつたけれども、もと/\民族的勢力の衝突ではなく、また戰においてもたゞ將帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいづれの場合でも、皇室(453)の地位には何の影響も及ぼさなかつた。(チユウアイ天皇の皇后の遠征といふのは、事實ではなくして物語である。)さうしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周圍に於けるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになつた。また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての爭があつたが、これは概ねそれに接近する地域の住民の行動にまかせてあつたらしく、朝廷の關與することが少く、さうして大勢に於いては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していつたから、これもまた皇室の勢威には影響が無かつた。これが皇室の地位の次第に固まつて來た一つの事情である。
 第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業が無かつた、といふことであつて、このことからいろ/\の事態が生ずる。天皇みづから政治の局に當られなかつたといふこともその一つであり、皇室の失政とかその事業の失敗とかいふことが無かつたといふこともその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戰爭であつて、それに伴つていろ/\のしごとが生ずるのであるが、國内に於いてその戰爭の無かつた我が國では、政治らしい政治は殆ど無かつたといつてよい。從つてまた天皇のなされることは、殆ど無かつたであらう。いろ/\の事務はあつたが、それは朝廷の伴造のするしごとであつた。四世紀の終にはじまり五世紀を通じて續いてゐる最も大きな事件は、半島の經營であるが、それには武力が必要であるから、式事を掌るオホトモ(大伴)氏やモノノベ(物部)氏やは、それについて重要のはたらきをしたのであらう。特にそのはたらく場所は海外であるから、本國から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、單なる朝廷の事務とは違ふこの國家の大事についても、實際に於いてそれを處理するものは、かういふ伴造のともがらであり、從つ(454)てさういふ家がらにおのづから權威がついて來て、かれらは朝廷の重臣ともいふべきものとなつた。
 さうしてかういふ状態が長くつゞくと、内政に於いて何等かの重大な事件が起つてそれを處埋しなければならぬようなばあひにも、天皇みづからはその局に當られず、國家の大事は朝廷の重臣が相謀つてそれを處理するようになつて來る。從つて天皇には失政もその事業の失敗も無い。これは、一方に於いては、時代が進んで國家のなすべき事業が多くなり政治といふことがなくてはならぬようになつてからも、朝廷の重臣がその局に當る風習を開くものであつたと共に、他方においては、政治上の責任はすべて彼等の負ふところとなつてゆくことを意味するものである。いふまでもなく、政治は天皇の名に於いて行はれはするが、その實、その政治は重臣のするものであることが、何人にも知られてゐるからである。さうしてこのことは、おのづから皇室の地位を安固にするものであつた。
 第四には、天皇に宗教的の任務と權威とのあつたことが考へられる。天皇は武力を以て其の權威と勢力とを示さず、また政治の實務には與られなかつたようであるが、それにはまた別の力があつて、それによつてその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であつた。政治的君主が宗教上の地位をももつてゐるといふことは、極めて古い原始時代の風習の引きつゞきであらうと考へられるが、その宗教上の地位といふのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行ふことであり、そのようなことを行ふところから、或る場合には、呪術や祭祀を行ひ神人の媒介をする巫祝が神と思はれることがあるのと同じ意味で、君主みづからが神としても考へられることがある。天皇が「現つ神」といはれたことの速い淵源と歴史的の由來とはこゝにあるのであらうが、しかし今日に知られてゐる時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いひかへると天皇が國家を(455)統治せられることは、思想上または名義上、神の資格に於いてのしごとである、といふだけの意義でこの稱呼が用ゐられてゐたのであつて、「現つ神」は國家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の稱呼なのである。天皇の資質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由來のあるこの稱呼が用ゐられたのである。
 これは、天皇が天皇を超越した神に代つてさういふ神の政治を行はれるとか、天皇の政治はさういふ神の權威によつて行はれるとか、いふのではないと共に、また天皇は普通の人とは違つて神であり何等かの意義での神秘性を帶びてゐられる、といふような意味でいはれたのでもない。天皇が宗教的崇拜の對象としての神とせられたのでないことは、いふまでもない。日本の昔には、天皇崇拜といふようなことは全く無かつた。天皇がその日常の生活に於いて普通の人として、普通の人にたちまじつて、行動せられることは、すべてのものが明かに見も聞きも知りもしてゐた。記紀の物語に天皇の戀愛譚や道ゆきずりの少女にこととひかはされた話などのあることによつても、それはわかる。「現つ神」といふようなことばすらも、知識人の思想に於いては存在し、また重々しい公式の儀禮には用ゐられたが、一般人によつて常にいはれてゐたらしくはない。シナで天帝の稱呼とせられてゐた「天皇」を御稱號として用ゐたのは六世紀のをはりころにはじまつたことのようであつて、それは「現つ神」の觀念とつながりのあることであつたらうが、そのことが一般に知られてゐたかどうか、かなりおぼつかない。さういふことよりも、すべての人に知られてゐた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、國民のために大祓のような呪術を行はれたりいろいろの神の祭祀を行はれたりすることであつたので、天皇が神を祭られるといふことは天皇が神に對する意味で(456)の人であることの明かなしるしである。日常の生活がかういふ呪術や祭祀によつて支配せられてゐた當時の人々にとつては、天皇のこの地位と任務とは尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の權威があるように思はれた。何人もその權威を冒涜しようとは思はなかつたのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはかういふ呪術祭祀であつたので、それについての事務を掌つてゐたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる權力のついて來たのも、そのためであつた。
 第五には、皇室の文化上の地位が考へられる。半島を經て入つて來たシナの文物は、主として朝廷及びその周圍の權力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いふまでもなく皇室であつた。さうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれらは皇室のために新來の文物についての何ごとかを掌ることによつて生活し、それによつて地位を得た。のみならず、一般的にいつても、皇室はおのづから新しい文化の指導的地位に立たれることになつた。このことが皇室に重きを加へたことは、おのづから知られよう。さうしてそれは、武力が示されるのとは違つて、一種の尊さと親しさとがそれによつて感ぜられ、人々をして皇室に近接することによつてその文化の惠みに欲しようとする態度をとらせることになつたのである。
 以上、五つに分けて考へたことを一くちにつゞめていふと、現實の状態として、皇室は朝廷の權力者や地方の豪族にとつては、親しむべく尊むべき存在であり、かれらは皇室に依屬することによつてかれらの生活や地位を保ちそれについての欲求を滿足させることができた、といふことになる。なほ半島に對する行動がかれらの間にも或る程度に一種の民族的感情をよび起させ、その感情の象徴として皇室を視る、といふ態度の生じて來たらしいことをも、考へ(457)るべきであらう。皇室に對する敬愛の情がこゝから養はれて來たことは、おのづから知られよう。
 さて、かういふようないろ/\の事情にも助けられて、皇室は皇室として長く續いて來たのであるが、これだけ續いて來ると、その續いて來た事實が皇室の本質として見られ、皇室は本來長く續くべきものであると考へられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であつて、その起源などの知られなくなつてゐたことが、その存在を自然のことのように、或は皇室は自然的の存在であるように、思はせたのでもある。(王室がしば/\更迭した事實があると、王室は更迭すべきものであるといふ考が生ずる。)從つてまたそこから、皇室を未來にも長く續けさせたいといふ欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く續けさせねばならぬ、長く續くようにしなければならぬ、といふことが道徳的義務として感ぜられることになる。もし何等かの重大なる事態が生ずると(例へば直系の皇統が斷えたといふようなことでもあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもつてゐる權力者の間に、かういふ欲求の強められて來た時期であつたらしく、今日記紀によつて傳へられてゐる神代の物語は、そのために作られたものがもとになつてゐる。
 神代の物語は皇室の由來を物語の形で説かうとしたものであつて、その中心觀念は、皇室の御祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから傳へられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるといふ考と、皇位の永久といふ觀念とが、含まれてゐる。なほこの物語には、皇室が初からこの國の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御祖先は異民族に對する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られてゐず、どこまでも日本の國家の統治者としての君主となつてゐ(458)るが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらはれてゐない。さうして國家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議にょつて行はれたことにしてある。物語にあらはれてゐる人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであつて、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えてゐない。民衆をあひてにしたしごとも語られてゐない。宗教的意義での邪靈惡神を掃蕩せられたことはいはれてゐるが、武力の用ゐられた話は、初めて作られた時の物語には無かつたようであり、後になつてつけ加へられたと思はれるイヅモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強くはたらいてゐるので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戰爭の話は無い。やはり後からつけたされたものであるが、スサノヲの命が半島へ渡つた話があつても、武力で征討したといふのではなく、さうして國つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が來たといふのも、武力的經略のようには語られてゐないから、文化的意義のこととしていはれたものと解せられる。なほ朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによつてその家の存在を示さうとした形迹も、明かにあらはれてゐる。
 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考へられるいろ/\の事情は、そのすべてが神代の物語に反映してゐるといつてもよい。かういふ神代の物語に於いて、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを續けてゆかう、またゆかねばならぬ、とする當時の、またそれにつゞく時代の、朝廷に權力をもつてゐるものの欲求と責任感とが、表現せられてゐるのである。さうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつゞいて來たといふ事實にある。さういふ事實があつたればこそ、それを永久に續けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そ(459)のものよりもさういふ物語を作り出した權力階級の思想に意味があり、さういふ思想を生み出した歴史的事實としての政治的社會的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。
 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、といふ思想は、このようにして歴史的に養はれまた固められて來たと考へられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであつた。時勢は變り事態は變つても、上に擧げたいろ/\の事情のうちの主たるものは、概していふと、いつもほゞ同じであつた。六世紀より後に於いても、天皇はみづから政治の局には當られなかつたので、いはゆる親政の行はれたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、實は親政の状態ではなかつた。さうして事實上、政權をもつてゐたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり、後のフヂハラ(藤原)氏なり、タヒラ(平)氏なり、ミナモト(源)氏なり、アシカヾ(足利)氏なり、トヨトミ(豐臣)氏なり、トクガハ(徳川)氏なりであり、いはゆる院政とても天皇の親政ではなかつた。政治の形態は時によつて違ひ、或は朝廷の内における攝政關白などの地位にゐて朝廷の機關を用ゐ、或は朝廷の外に幕府を建てて獨自の機關を設け、そこから政令を出したのであり、政權を握つてゐたものの身分もまた同じでなく、或は文官であり或は武人であつたが、天皇の親政でない點はみな同じであつた。さうしてかういふ權家の勢威は永續せず、次から次へと變つていつたが、それは、一つの權家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような状態となり、又は何等かの失政をしたからであつて、いはゞ國政の責任がおのづからさういふ權家に歸したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任の無い地位にゐられたのであるが、實際の政治が天皇によつて行はれなかつたから、こ(460)れは當然のことである。天皇はおのづから「惡をなさざる」地位にゐられたことになる。皇室が皇室として永續した一つの理由はこゝにある。
 しかし皇室の永續したのはかゝる消極的理由からのみではない。權家はいかに勢威を得ても、皇室の下に於ける權家としての地位に滿足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかつた。そこに皇室の精神的權威があつたので、その權威はいかなるばあひにも失はれず、何人もそれを疑はず、またそれを動かさうとはしなかつた。これが明かなる事實であるが、さういふ事實のあつたことが、即ち皇室に精神的權威のあつたことを證するものであり、さうしてその權威は上に述べたような事情によつて皇位の永久性が確立して來たために生じたものである。
 それと共に、皇室は攝關の家に權威のある時代には攝關の政治の形態に順應し、幕府の存立した時代にはその政治の形態に順應してゐられたので、結果から見れば、それがおのづからこの精神的權威の保たれた一つの重要なる理由となつたのである。攝關政治の起つたのは起るべき事情があつたからであり、幕府政治の行はれたのも行はるべき理由があつたからであつて、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士といふ非合法的のものが民間に起つてそれが勢力を得、幕府政治の建設によつてそれが合法化せられ、その幕府が國政の實權を握るようになつたのは、さうしてまたその幕府の主宰者が多數の武士の向背によつて興りまた亡びるようになると共に、その武士によつて封建制度が次第に形づくられて來たのは、一面の意味に於いては、政治を動かす力と實權とが漸次民間に移り地方に移つて來たことを示すものであつて、文化の中心が朝廷を離れて來たことと共に、日本民族史に於いて極めて重要なことがらであり、時勢の大なる變化であつたが、皇室はこの時勢の推移を強ひて抑止したりそれに反抗する態度をとつた(461)りするようなことはせられなかつた。時勢を時勢の推移に任せることによつて皇室の地位がおのづから安固になつたのであるが、安んじてその推移に任ぜられたことには、皇室に動かすべからざる精神的權威があり、その地位の安固であることが、皇室みづからにおいて確信せられてゐたからでもある。もつとも稀には、皇室がフヂハラ氏の權勢を牽制したり、またはショウキユウ(承久)やケンム(建武)の際のごとく幕府を覆へさうとしたりせられたことがありはあつたが、それとても皇室全體の一致した態度ではなく、またくりかへして行はれたのでもなく、特に幕府に對しての行動は武士の力に依頼してのことであつて、この點においてはやはり時勢の變化に乘じたものであつた。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危くなる。ケンム以後ケンムのような企ては行はれなかつた。)
 このような古來の情勢の下に、政治的君主の實權を握るものが、その家系とその政治の形態とは變りながらも、皇室の下に存在し、さうしてそれが遠い昔から長く續いて來たにもかゝはらず、皇室の存在に少しの動搖もなく、一種の二重政體組織が存立してゐたといふ、世界に類の無い國家形態がわが國には形づくられてゐたのである。もし普通の國家に於いて、フヂハラ氏もしくはトクガハ氏のような事實上の政治的君主ともいふべきものが、あれだけ長くその地位と權力とをもつてゐたならば、さういふものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによつて王朝の更迭が行はれたであらうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いてゐたのである。かういふ事實上の君主ともいふべき權力者に對しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順應し時の政治形態に順應せられたのも、そのためであつたとは考へられるが、それほどの弱者を皇室として尊重して來たことに、重大の意味があるといはねば(462)ならず、そこに皇室の精神的權威が示されてゐたのである。
 けれども注意すべきは、精神的權威といつてもそれは政治的權力から分離した宗教的權威といふようなものではない、といふことである。それはどこまでも日本の國家の政治的統治者としての權威である。たゞその統治のしごとを皇室みづから行はれなかつたのみであるので、精神的といつたのは、この意義に於いてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだといふ見解が世に行はれ、幕府もそれを承認することになつたが、これは幕府が實權をもつてゐるといふ現在の事實を説明するために、あとから施された思想的解釋に過ぎないことではあるものの、トクガハ氏のもつてゐる法制上の官職が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられてゐるといはばいはれよう。これもまた一種の儀禮に過ぎないものといはばいはれるかもしれぬが、さういふ儀禮の行はれたところに皇室の志向もトクガハ氏の態度もあらはれてゐたので、官職は單なる名譽の表象ではなかつた。さて、このような精神的權威のみをもつてゐられた皇室が昔から長い間つゞいて來たといふことが、またその權威を次第に強めることにもたつたので、それによつて、皇室は永久であるべきものであるといふ考が、ます/\固められて來たのである。といふよりも、さういふことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきつた事實であるとせられた、といふほうが適切である。神代の物語の作られた時代に於いては、皇室の地位の永久性といふことは朝廷に於ける權力者の思想であつたが、こゝに述べたようなその後の歴史的情勢によつて、それが朝廷の外に新しく生じた權力者及びその根柢ともなりそれを支持してもゐる一般武士の思想ともなつて來たので、それはかれらが政治的權力者となりまたは政治的地位を有するようになつたからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考へら(463)れねばならなかつたのである。
 ところで、皇室の權威が考へられるのは、政治上の實權をもつてゐる權家との關係においてのことであつて、民衆との關係においてではない。皇室は、タイカの改新によつて定められた耕地國有の制度がくづれ、それと共に權家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになつた皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接觸はなかつた。いはゆる攝關時代までは、政治は天皇の名において行はれたけれども、天皇の親政ではなかつたので、從つてまた皇室が權力を以て直接に民衆に臨まれることはなかつた。後になつて、皇室の一部の態度として、シヨウキユウやケンムのばあひの如く、武力を以て武家の政府を覆へさうといふ企ての行はれたことはあつても、民衆に對して武力的壓迫を加へ、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、たゞの一度も無かつた。もつとも一方に於いては、一般民衆は皇室について深い關心をもたなかつたやうにも見えるが、これは一つは、民衆が政治的に何等の地位をももたず、それについての知識をももたなかつた時代だからのことでもある。
 しかし政治的地位をばもたなかつたが知識をもつてゐた知識人に於いては、それ/”\の知識に應じた皇室觀を抱いてゐた。儒家の知識をもつてゐたものはそれにより、佛教の知識をもつてゐたものはまたそれによつてである。さうしてその何れに於いても、皇室の永久であるべきことについて何の疑ひをも容れなかつた。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかゝはらず、極めて少數の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかつた。さうしてそれは皇室の一系であることが嚴然たる古來の事實であるからであると共に、文化が一般にひろがつて、權力階級の外に知識層が形づくられ、さうしてその知識人が政治に關心をもつようになつたか(464)らでもある。佛家は、權力階級に縁故が深かつたためにそこからひきつがれた思想的傾向があつたのと、その教理にはいかなる思想にも順應すべき側面をもつてゐるのとのために、やはりこの事實を承認し、またそれを支持することにつとめた。
 しかし、神代の物語の作られたころと後世との間に、いくらかの違ひの生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」といふような稱呼があまり用ゐられなくなり、よし儀禮的因襲的に用ゐられるばあひがあるにしても、それに現實感が伴はないようになつた、といふことである。「天皇」といふ御稱號は用ゐられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が神の祭祀を行はれることは變らなかつたけれども、それと共にまたそれと同じように、佛事をも營まれた。さうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機關である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失つた。天皇の地位の宗教的性質は目にたゝなくなつたのである。文化の進歩と政治上の情勢とがさうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の觀念が天皇にあてはめられることになつた。これは記紀にすでにあらはれてゐることであるが、後になると、天皇みづからの君徳の修養としてこのことが注意せられるようになつた。その最も大せつなことは、君主は仁政を行ひ民を慈愛すべきである、といふことである。天皇の親政が行はれないかぎり、それは政治の上に實現せられないことではあつた(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行はれたにしても實現のむつかしいことでもあつた)が、國民みづからがみづからの力によつてその生活を安固にもし高めてもゆくことを本旨とする現代の國家とは、その精神の全く違つてゐたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考へられたのは、意味のあることであつたので、歴代の天皇が、單なる思想の上でのことながら、民衆に對し(465)て仁慈なれといふことを考へられ、さうしてそれが皇室の傳統的精神として次第に傳へられて來たといふことは、重要な意味をもつてゐる。さうしてかういふ道徳思想が儒教の經典の文字のまゝに、君徳の修養の指針とせられたのは、實は、天皇が親ら政治をせられなかつたところに、一つの理由があつたのである。みづから政治をせられたならば、もつと現實的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかつたに違ひないからである。
 次には、皇室が文化の源泉であつたといふ上代の状態が、中世ころまではつゞいてゐたが、その後次第に變つて來て、文化の中心が武士と寺院とに移り、そのはてには全く民間に歸してしまつた、といふことが考へられよう。國民の生活は變り文化は進んで來たが、皇室は生命を失つた古い文化の遺風のうちにその存在をつゞけてゐられたのである。皇室はこのようにして、實際政治から遠ざかつた地位にゐられると共に、文化の面においてもまた國民の生活から離れられることになつた。たゞかうなつても、皇室とその周圍とにそのなごりをとゞめてゐる古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の對象となり、皇室が雲の上の高いところにあつて一般人の生活とかけはなれてゐられることと相應じて、人々にそれに對する一種のゆかしさを感ぜしめ、なほ政治的權力關係に於いては實權をもつてゐるものに對して弱者の地位にあられることに誘はれた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰へてゐるといふ感じから來る一種の感傷とも、それを助けて、皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。さうしてそれが國民の皇室觀の一面をなすことになつた。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になつてなくなつたものもあるが、それに代る新しい事情が生じて、それがまたおのづから長い歴史によつて養はれて來た皇室の永久性に對する信念を強めるはたらきをしたのである。
(466) ところが、十九世紀の中期における世界の情勢は、日本に二重政體の存續することを許さなくなつた。日本が列國の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれかの一つでなくてはならぬことが,明かにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行はれたのである。この稚新は思想革命でもなく社會改革でもなく、實際に君主のことを行つて來た幕府の主宰者たる將軍からその權を奪つて、それを天皇に屬させようとしたこと、いはゞ天皇親政の制を定めようとしたことを意味するのであつて、どこまでも政治上の制度の改革なのである。この意味においては、タイカ改新及びそれを完成させた令の制度への復歸といふべきである。たゞその勢のおもむくところ、封建制度を廢しまたそれにつれて武士制度を廢するようになつたことに於いて、社會改革の意義が新にそれに伴ふようになつては來たが、それとても實は政治上の必要からのことであつた。また新政府がヨウロッパの文物や思想をとり入れたのは、幕府の施設とその方針とをうけついだものであるから、これはメイジ維新の新しいしごとでは無かつた。維新にまで局面をおし進めた力のうちには、むしろ頑冥な守舊思想があつたのである。
 さて幕府が消滅し、封建諸侯と武士とがその特殊の身分を失つて、すべての士民は同じ一つの國民として融合したのであるから、この時から後は、皇室は直接にこの一般國民に對せられることになり、國民は始めて現實の政治において皇室の存在を知ることになつた。また宮廷においても新にヨウロッパの文物を採用せられたから、同じ状態にあつた國民の生活とは、文化の面においてもさしたる隔りが無くなつた。これはおのづから皇室と國民とが親しく接觸するようになるよい機會であつたので、メイジの初めには、さういふ方向に進んで來た形迹も見られるし、天皇親政の制が肯定せられながら輿論政治・公議政治の要求の強く現はれたのも、またこの意味を含んでゐたものと解するこ(467)とができる。ヨウロッパに發達した制度にならはうとしたものながら、民選議院の設立の議には、立憲政體は政治を國民みづからの政治とすることによつて國民がその責に任ずると共に、天皇を政治上の責任のない安泰の地位に置き、それによつて皇位の永久性を確實にし、いはゆる萬世一系の皇統を完からしめるものである、といふ考があつたのである。
 しかし實際において政治を左右する力をもつてゐたいはゆる藩閥は、かういふ思想の傾向には反對の態度をとり、宮廷その他の諸方面に存在する固陋なる守舊思想もまたそれと結びついて、皇室を國民とは隔離した高い地位に置くことによつてその尊嚴を示さうとし、それと共に、シナ思想にも一つの由來はありながら、當時に於いてはやはりヨウロッパからとり入れられたものとすべき、帝王と民衆とを對立するものとする思想を根據として、國民に對する天皇の權力を強くし政治上に於ける國民のはたらきをできるだけ抑制することが、皇室の地位を鞏固にする道であると考へた。憲法はこのような情勢の下に制定せられたのである。さうしてそれと共に、同じくヨウロッパの一國から學ばれた官僚制度が設けられ、行政の實權が漸次その官僚に移つてゆくようになつた。なほメイジ維新によつて幕府と封建諸侯とからとりあげられた軍事の權が一般政務の間に優越な地位を占めてゐた。これらのいろ/\の事情によつて、皇室は煩雜にして冷嚴なる儀禮的雰圍氣の裡にとざされることによつて、國民とは或る距離を隔てて相對する地位におかれ、國民は皇室に對して親愛の情を抱くよりはその權力と威嚴とに服從するようにしむけられた。皇室の仁慈といふことは、斷えず説き示されたのであるが、儒教思想に由來のあるこの考は、上に述べた如く現代の國家と國民生活との精神とは一致しないものである。さうしてこのことと並行して、學校教育における重要なる教科として萬(468)世一系の皇室を戴く國體の尊嚴といふことが教へられた。一般民衆はともかくもそれによつて皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになつたが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事實の如く説くことによつてなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであつた。皇室と國民との關係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語を以て表現せられた君臣間の道徳思想をあてはめようとしたのも、またかういふ爲政者のしわざであり、また別の方面に於いては、宗教的色彩を帶びた一種の天皇崇拜に似た儀禮をさへ學校に於いて行はせることにもなつたが、これらの何れも、現代の國家の精神また現代人の思想と相容れぬものであつた。從つてかういふ教育は、却つて國民の皇室觀を曖昧にし不安定不確實にし、或はまた過まらせもした。
 さて、このような爲政者の態度は、實際政治の上においても、憲法によつて定められた輔弼の道をあやまり、皇室に責任を歸することによつてしばしば累をそれに及ぼした*。それにもかゝはらず、天皇は國民に對していつも親和のこころを抱いてゐられたので、何等かの場合にそれが具體的の形であらはれ、また國民、特にその教養あり知識あるものは、率直に皇室に對して親愛の情を披瀝する横合の得られることを望み、それを得た場合にそれを實現することを忘れなかつた。「われらの攝政殿下」といふような語の用ゐられた場合のあるのは、その一例である。さうして遠い昔からの長い歳月を經て歴史的に養はれまた固められた傳統的思想を保持すると共に、世界の情勢に適應する用意と現代の國家の精神に調和する考へかたとによつて、皇室の永久性を一層明かにし一層固くすることに努力して來たのである。
 ところが、最近に至つて、いはゆる天皇制に關する論議が起つたので、それは皇室のこの永久性に對する疑惑が國(469)民の一部に生じたことを示すもののようにも見える。これは、軍部及びそれに附隨した官僚が、國民の皇室に對する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また國史の曲解によつてそれをうらづけ、さうすることによつて政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にさうであることを宣傳するのみならず、天皇は專制君主としての權威をもたれねばならぬとし、或は現にもつてゐられる如くいひなし、それによつて軍部の恣なしわざを天皇の命によつたもののように見せかけようとしたところに、重なる由來がある。アメリカ及びイギリスに對する戰爭を起さうとしてから後は、軍部のこの態度はます/\甚しくなり、戰爭及びそれに關するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、國民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、といふことを、ことばをかへ方法をかへて斷えまなく宣傳した。さうしてこの宣傳には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに國體の本質があるように考へる頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴つてゐた。しかるに戰爭の結果は、現に國民が遭遇したようなありさまとなつたので、軍部の宣傳が宣傳であつて事實ではなく、その宣傳はかれらの私意を蔽ふためであつたことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戰もそれに件ふ恥辱も國家が窮境に陷つたことも社會の混亂も、また國民が多くその生命を失つたことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、といふ考をそこから引き出すものが生じて來たのである。むかしからの歴史的事實として天皇の親政が殆ど無かつたこと、皇室が責任の無い地位にあられたのがこの事實と深い關係のあつたことを考へると、軍部の宣傳が敗戰の責任を天皇に嫁することになるのは、批判力の無い人々には自然のなりゆきでもあらう。かういふ情勢の下に於いて、特殊の思想的傾向をもつてゐる方面では、その思想の一つの展開として、天皇制といふ新奇な語を用ゐつゝ、その廢止を(470)主張するものが、その間に生ずるようにたつたのである。これには神秘的な國體論に對する知性の反抗もてつだつてゐるようであり、またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、國民がその實現のために努力してゐる民主主義の主張が、それと混同せられてもゐるらしい。天皇の存在は民主政治と相容れぬものであるといふことが、かういふ方面でいはれてゐるようである。このような天皇制廢止論の主張には、その根據にも、その立論のみちすぢにも、幾多の肯ひがたきところがあり、特に歴史上の事實に對する誤解または曲解が目だつて見える。が、それに反對して天皇の存在を欲求するものの言議にもまた、何故に皇室の永久性の觀念が生じまた發達したかの眞の理由を理解せず、なほその根據として説かれてゐることが歴史的事實に背いてゐる點もある。或はまた主張者の如何によつてはそれに對して、かゝる欲求には民主政治の實現のために努力を惜むような思想的傾向が潜在するのではないかを疑ふものさへもあるらしいが、もしさうならば、その根柢にはやはり民主政治と天皇の存在とは一致しないといふ考へかたがある。が、これは實は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。
 日本の皇室は日本民族の内部から起つて日本民族を統一し、日本の國家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想に於いては、統治者の地位はおのづから民衆と相對するものであつた。しかし事實としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また權力を以て、それを壓服しようとせられたことは、長い歴史の上に於いて一度も無かつた。いひかへると、實際政治の上では皇室と民衆とは對立するものではなかつた。ところが、現代に於いては、國家の政治は國民みづからの責任を以てみづからすべきものとせられてゐるので、いはゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と國家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が國民と對立する地位にあつて外部から國民に臨(471)まれるのではなく、國民の内部にあつて國民の意志を體現せられることにより、統治をかくの如き意義に於いて行はれることによつて、調和せられる。國民の側からいふと、民主主義を徹底させることによつてそれができる。國民が國家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのづから國民の内にあつて國民と一體であられることになる。具體的にいふと、國民的結合の中心であり國民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。さうして、國民の内部にあられるが故に、皇室は國民と共に永久であり、國民が父祖子孫相承けて無窮に繼續すると同じく、その國民と共に、萬世一系なのである。民族の内部から起つて民族を統一せられた國家形成の情勢と、現實に於いて民衆と對立的關係に立たれなかつた皇室の地位とは、おのづからかくの如き新しい状態、新しい思想に適應するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の變化に順應してその時々の政治形態に適合した地位にゐられた皇室の態度は、やがて現代に於いては現代の國家の精神としての民主政治を體現せられることになるのである。上代の氏族組織、令の制度の下における國民の生活形態、中世にはじまつた封建的な經済機構、それらがいかに變遷して來ても、その變遷に順應せられた皇室は、これから後にいかなる社會組織や經濟機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることにならう。たゞ今日までは、多數の國民がまだ現代國家の上記の精神を體得するに至らず、從つてそれを現實の政治の上に貰徹させることができなかつたために、最近十餘年の特殊の情勢の下に於いても、放恣にして頑冥な思想を矯正し横暴または無氣力なる爲政者を排除しまた職責を忘れたる議會を改造して、現代政治の正しい道をとる正しき政府をうち立てることができず、邪路に走つた爲政者に國家を委ねて、遂にかれらをして、國家を窮地に陷れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至つたのは、國民みづから省みて其の(472)責を負ふところがあるべきである。現在の憲法によつて定められてゐる政治上の權利と義務とを忠實に用ゐまた行ふことをすら、國民は怠つてゐたのである。
 過去に於いて、皇室は美しい存在として時代々々のすべての教養あるものの心に宿つて來た。こゝに美しいといつたのは、いろ/\の意義に於いてであり、時代により人によつてそれが違つてもゐるが、君主國であるかぎり、その君主の家が、國家の成立のはじめから今日に至るまで、變らずに續いて來たといふことが、その美しさの一つの姿として、またその原因としても結果としても、考へられる。皇室は國民の生活とその進展との妨げとなるやうな行動をとられたことが、むかしから今まで一たびも、無かつたので、國民が皇室の永久性を信じたのも、つまるところ、こゝにその淵源があるが、その永久性のある皇室をもつことが、日本の國家の特質として、從つてまた國民の誇りとして、考へられて來た。さうしてそこから、皇室の國民に對してもたれる力の積極性が生じた。皇室に精神的權威があつたといふのはこのことである。ところがこのことは、過去の歴史の眞相を學問的に究明することによつて、始めて知り得られる。儒教的シナ的政治思想、道徳思想、神道者國學者の妄想、もしくはそれらを利用した近ごろの軍國主義者の宣傳や、現代のヨウロツパに發生した特殊の社會思想にあてはめて日本の歴史を見ようとする一種の恣意な言説や、これらの幾重の雲霧をはらひ去つて歴史の眞相を學問的に究明することによつて、始めてこのことが理解せられる。(學問的に歴史を研究することが皇室の存在の意義を否定することででもあるように思ふのは、謬妄の甚しきものである。)このような皇室を遠い過去からもち傳へて來たわが國民は、それを一層美しくして後代に送るべきである。過去から傳へられたものを、現在の生活によつて、新しく未來に展開させ、美しい精神と形とをそれに與へてゆ(473)くのが、國民の生活であり、それが即ち歴史の進展である。だから皇室についても、國民は、いはば一種の藝術的創造の力を以て、それを美しいものにもりたててゆくべきであつて、これが歴史をもつてゐる國民の自然の欲求である。さうしてそこに國民の皇室に對する愛の發現がある。
 國民みづから國家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は國民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」を美しくするのも、しないのも、國民であり、そこに皇室が國民の皇室であられる所以がある。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。國民の皇室は國民がその懷にそれを抱くべきである。二千年の歴史を國民と共にせられた皇室を、現代の國家、現代の國民生活に適應する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、さうしてその永久性を確實にするのは、國民みづからの愛の力である。國民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。國民がすべてのことをなし得る能力を具へ、またそれをなし遂げるところに、民主政治の本質があるからである。皇室を愛することができないような國民は、少くともその點に於いて、民主政治を實現する能力に缺けたところのあることを示すものである。さうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのづから世界に通ずる人道的精神の大なる發露でもある。(一九四六年一月)
 
(474)   四 天皇考
 
 我が國の「天皇」といふ御稱號は、いふまでもなく、漢語であつて、それに當る國語すらもない。「スメラミコト」といふのが國語での御稱號であり、また隋書倭傳の記載によるとタリシヒコといふ語も御稱號として用ゐられたかと思はれるが、それらは「天皇」といふ漢語とは意義の上に何等の關係の無いものである。だからこれは前からあつた國語を漢譯したのではなく、シナの成語を其のまゝに用ゐたのか又は我が國で新しい熟語を新作したのか、何れかでなくてはならぬ。前の方ならばシナにかういふ成語があつたかどうか、あつたとすればそれは如何なる意義をもつてゐたか、さうして我が國でそれを取つたのは如何なる理由からであつたかを考へてみる必要があり、後の方ならば、何故にかういふ文字を以てかういふ新熟語を造つたか、といふ點についての説明を要する。ところが、其の説明がまだ世間に現はれてゐないように見うけるから、私見の概要をこゝに述べてみたいと思ふ。我が國の上代に於いてシナ思想がどれほどまで政府者の頭に入つてゐたか、また其のシナ思想が如何なる方面のものであつたか、といふことを考へる一材料ともならうと考へる。
 先づ順序として「天皇」といふ御稱號の用ゐられたのは何時からであるかを考へてみよう。それは勿論漢字輸入の後に違ひないが、其の起源が明白でないからである。さて書紀を見ると、最初の神日本磐余彦天皇(神武天皇)から既に此の文字が用ゐてある。古事記には、御稱號としては、大帶日子淤斯呂和氣天皇(景行天皇)、若帶日子天皇(成(475)務天皇)、帶中日子天皇(仲哀天皇)と、後の天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)、長谷部若雀天皇(崇峻天皇)との他は、みな「命」としてあるが、本文に天皇を指す場合にはやはり一般に此の語が用ゐてあり、神代の卷(番能邇々藝能命の條)にも「天皇命」の文字が見える(景行天皇等の五代にのみ「天皇」とあるのは、傳寫の際に生じた誤ではなからうかと思ふ)。しかしこれらは、記紀の編者もしくは其の材料となつた所謂帝紀と舊辭との記者の書いたものであり、またよし帝紀と舊辭とにさう書いてあつたとしても、それがそれらの書の最初の編述の時からさうであつたかどうかは明かでなく、後になつて幾度も行はれた改修の際に書きかへられたものとも考へ得られる。それから書紀に引用してある百濟記 神功紀六十二年の條所引)、百濟新撰(雄略紀二年の條所引)、百濟本紀(繼體紀二十五年の條所引)にも「天皇」の語が見えるが、これとても書紀の編者によつて書かれたものと推測し得られる。だから、記紀の古いところに此の文字が出てゐても、それは古くから此の御稱號が用ゐられてゐたといふ證據にはなりかねる。たゞ推古天皇時代にかういふ御稱號の用ゐられたことは確實であらう。それは此の天皇の丁卯の年に書かれた法隆寺金堂の藥師像の光背の銘に「池邊大宮治天下天皇」とあるからである。この例から考へると、かの推古紀十六年の條に見える「東天皇敬白西皇帝」の語も、文字どほりに承認して差支がないかも知れぬ。もつともこれには隋書の記事と對照して研究すべき點が多いから、當時の文書に果して此の記載の如く書いてあつたかどうか、疑を容るべき餘地もあるが、それは何れにしても、藥師像の銘は推古朝に此の御稱號の用ゐられたことのある明證を供給するものである。けれどもそれより前については確實な證跡が何も無い。のみならず、古事記に御歴代の御稱號が(前に述べた五代を除けると)すべて「某命」としてあつて「某天皇」としてないのは、其の原本となつた帝紀の書き方を其のまゝ(476)に踏襲したものらしく、さうしてそれは推古天皇までをも含んでゐるのであるから、此の天皇の時代に於いても「天皇」は公式の、また一般に承認せられた、御稱號としては用ゐられてゐなかつたことが、それから推定せられはすまいか。帝紀の原本に「天皇」としてあつたならばし安萬侶が(彼の時代には一般に「天皇」の御稱號が用ゐられてゐたに違ひないから)それを故らに「命」と書き改めるはずはなく、また其の帝紀が書かれた時に「天皇」が公式の御稱號であつたならば、それを故らに「命」と書く理由も無からう。だから、推古天皇の時代には此の御稱號がまだ公式のものとして定まつてはゐなかつたので、それはかの藥師佛光背の銘に聖徳太子を聖王と書いてあるのとほゞ同樣な、或はまた同じ時代に「法興」といふ元號らしいものが用ゐられたのと大差のない、いはゞ一部人士の私案に止まつてゐたのではあるまいか。ところが、此の御稱號はシナ文物の輸入に熱心であつた、同時にまた獨立國としてシナに對抗しようといふ考の生じて來た、此の時代の思潮の所産として最もふさはしいものであつたので、それが次第に廣く行はれるやうになり、何時しか公式の御稱號ともなつたのではあるまいか。かう考へると、此の御稱號は大體推古天皇のころに始まつたと見なして差支が無いやうである。欽明紀二年の條の註に見えるやうに、皇室の御系譜を帝王本紀といひ、また古事記の安萬侶の上表や天武紀十年の條にあるやうに、後までもそれを帝紀と稱し或は帝皇日繼ともいつてゐるところから見ると、此の帝紀などといふ名稱の作られた時には「天皇」の御稱號がまだできてゐなかつた、少くとも公式のものとして定まつてゐなかつた、ことと考へられ、さうして其の慣例は此の御稱號の定まつた後にも繼承せられてゐたらしい。漢字の盛に行はれるやうになつてからも、かなり長い間は、特殊の御稱號が作られず、帝、皇帝、又は帝皇、帝王、といふやうな一般的稱呼が適用せられてゐたのではあるまいか。(宋書などに倭王(477)としてあるのは、其のころに於いて、特にシナに對する文書に於いて、當時の筆者が實際さういふ稱呼を用ゐたからであらうが、文字の知識が加はつて來ると、君主を王と稱してゐる百濟に對して其の上に立つことを主張する我が國の地位としても、やはり帝といふやうな文字を用ゐなければならなくなつたかと思はれる。)
 さて此の御稱號が推古天皇ごろから始まつたとすれば、それはかなりにシナの文獻についての知識も發達してゐた時代のことであるから、もしこれがシナに於いて既に存在してゐた成語であるとすれば、其の意義も一とほりは知られてゐたであらうと考へられる。が、シナの古典に於いて政治上の君主、即ち帝王、の地位を示すためにかういふ名稱を用ゐた形跡は無いやうである。天皇氏といふのはあるが、これは地皇氏人皇氏と並んで、上代の帝王に擬せられた説話上の個人の名であつて、帝王の地位の稱呼ではない。史記の始皇本紀に見える天皇地皇泰皇の天皇も同樣である。たゞ唐の高宗が天皇と稱したことはあるが、これは推古天皇の時代よりもずつと後の話である。然らばかういふ稱呼が全く無いかといふと、それはある。
 先づ春秋緯の合誠圖に「天皇大帝北辰星也」とあるのを擧げねばならぬ。北辰星は即ち北極星のことであるが、なぜ北極星を天皇大帝といふかといふに、これには少しく説明を要する。史記の天官書には「中宮天極星、其一明者太一常居也」とあつて、中宮の「其一明者」即ち北極星は、太一といふ神の居所となつてゐる。太一は同じ史記の封禅書に「天神貴君太一、太一佐曰五帝、」とあり、天に於ける五帝(青帝、赤帝、白帝、黒帝、黄帝、)の上に立つてゐる最高の天神、即ち天帝、であつて、漢代では武帝以後常にそれを祀つてゐた。(文字は泰一とも書かれ、漢書には多く此の方が用ゐてある。)ところが封禅書には、それとは別に、やはり武帝の條に、天一、地一、太一、といふ三(478)神のあることが見えてゐるが、これによると、太一は天一地一の上に立つて天地を統一するものである。始皇本紀の天皇、地皇、泰皇、はこれと同じ思想の系統に屬するものであつて、泰皇は太皇とも書かるべきものであらう。たゞ此の三皇は神とせられずして古帝王となつてはゐるが、其の基づくところの觀念は名稱の上から明かであり、さうしてこの場合でも「泰皇最貴」とあつて、泰皇は天皇地皇の上に立つてゐる。たゞ天と地とを對立するものと見る場合には其の兩方を統一するものが必要になり、天一地一の上に太一が生ずるのであるが、すべての宇宙を支配するものは天であるといふ考もあるので、さう見る場合には天一がやがて太一であつてもよいのであり、少くとも此の二つは結合せらるべき性質を有つてゐる。さて北極星は衆星運行の中心となりつゝ永遠に動かずにゐるといふので、天の中心とせられてゐるのであるから、從つてまた天の統治者となり、天神の最貴なる太一に結合せられるのは自然であつて、天官書の索隱に引いてある春秋緯の文耀鉤には「中宮大帝其精北極星」と見えてゐる。こゝでは北極星が太一の居所から其の精に進んでゐると共に、太一が大帝と呼ばれてゐる。五帝の上に立つ神であるから大帝といはれるのも當然であらう。然るにこゝに太一と結合せらるべき天一がある。さうして天一、地一、太一、が天皇、地皇、太皇、の名において古帝王としても考へられてゐたとすれば、神としてもまた天一が天皇といはれるようになつたと考へるに差支は無からう。そこで大帝(太一)の精たる北極星は、天皇(天一)と結合せられ、天皇大帝と稱せられることになるのである。(更に一歩を進めていふと北極星を天一と呼んだことがあるかとも思はれるが、これは明かではない。)「天皇大帝北辰星也」としてある合誠圖の説には、多分かういふ由來があるのであらう。さうして、こゝでは天帝の稱呼であつた天皇大帝が星の名になつてゐるのである。星の方からいふと太一の精であつたものが太一そのも(479)のになつたので、太一の常居とせられてゐた時から見ると三段目の變化であるが、鄭玄が易緯の乾鑿度の注において「太乙(太一)者北辰之神名也」といつてゐるのを見ると、此の思想は後漢時代には一般に行はれてゐたのであらう。かう考へると天皇は即ち天帝であつて、本來宗教的意義のものであり神である。春秋緯の保乾圖に「天皇斟元陳樞以五易威」とあるのも、張衡の思玄賦に「覿天皇于瓊宮」と見えるのも、共に天帝の意と解しなければなるまい。晋書桓玄傳に「皆天皇后帝」とあるのも同樣である。たゞそれが象徴的もしくは比喩的意義に於いて政治的君主の觀念と思想上の聯絡を有つてゐるに過ぎない。
 以上は緯書の説を史記の天官書によつて考へたのであるが、後世の文獻ではそれがまた變つてゐる。晋書の天文志を見ると、紫宮中に北極五里と鉤陳六星とがあるが、「第一星主月、太子也、第二星主日、帝王也、亦太乙之坐、謂最赤明也、第三星主五星、庶子也、」と説いてある三星は北極五星中のものらしい。此の第二星の説明が史記天官書の「其一明者太一常居也」から來てゐることは明かであつて、太乙は太一の文字が變つたものと思はれる。太乙の文字はすでに呂氏春秋に見えてゐるし、淮南子天文訓にも「紫宮者太乙之居也」とあつて、此の太乙は天官書の太一であらうから、戰國末から前漢時代にかけて早く此の文字が用ゐられ、それが後に傳はつたのであらう。だからこの星は北極星を指してゐるらしく、北極五星として數へられてゐる中にあることからもさう察せられるが、しかし三つの星を數へて其の第二位に置いてあるのは、北極星を指すものとしては甚だ不似合である。ところが茲にまた「鉤陳口中一星天皇大帝」といふことが別にある。此の天皇大帝が所謂北極五星の外にあることは明かであるが、それがどの星であるかは問題である。「口中」とは圍まれてゐるといふ意義らしいが、鉤陳は「鉤陳後宮也、大帝之正妃也、」と(480)あつて、それを天官書の「後句四星、末大星正妃、餘三星後宮之屬也、」に對照すると、後句のことであるらしく、句も鉤も屈曲してゐる形から名づけたのであらう(星の數の多くなつてゐるのは觀測の精密になつたためと考へられる)。だから其の鉤陳に圍まれてゐて「其神曰耀魄寶、主御群靈、執萬神、」といはれてゐる天皇大帝は、どうも北極星らしい。かう考へて、天皇大帝は緯書の説に於いて北極星とせられてゐたこと、また天官書に於いて三公にあててあつた三星に當るものが、こゝでは所謂北極五星の中にあるとするより外に配當のしやうのないことを思ひ合せると、此の臆測に誤は無いやうである。同じ天文志に紫微を「大帝之坐也」といつてあるのも其の一證となるであらう。なほ春秋緯の佐助期に「紫宮、天皇耀魄寶之所理也、」とある天皇も、それが紫宮を理めるとせられたことと緯書の思想とから推測すると、北極星らしいが、耀魄寶といふ語が此の天文志にもあることを參考するがよい。さすれば天官書に於いて北極星であつた太一の常居たる明い星は、所謂、旁三星中の第二に位するものに移され、三公であつたものが、帝王と太子と庶子とに改められたのではなからうか。さうして、それを帝王とする點に於いて北極星の屬性のこゝに移されたことが知られるのではなからうか。(北極五星といひながら三星しか説明の無いのは、それが最も目につく星だからと思はれるが、もしさうとすれば天官書に三星としてあるのはよくそれに合ふ。たゞそれを五星にしたのはやはり觀測の進歩であらう。合誠圖にも既に「北辰其星五」とある。)同じ晋書では太一といふ星が別にある(天一も別にあつて太一と並んでゐる)ことになつてゐるが、さういふ例のあることから考へても、此の推測が肯はれるやうである。北極星を除けた外のものに北極五星の名をつけるのも異樣のことであるが、北極星だけは特に尊敬して他のものから區別したのであらう。
(481) 要するに晋書天文志に於いては、天官書の太一が分れて太乙と太一との二つになり、太乙はもとの太一(天帝)であり、新しい太一は北極星とは違ふ小さい星の名となり、さうして天皇大帝は依然北極星の名として保存せられてゐるのである。たゞ天皇が天帝のことであつた本來の意義を失つて單に星の名とせられてゐるのは、上に述べた緯書の説を繼承したものであり、太一が星になつたのも同樣である。天一が太一と並んで小さい星の名とせられたのも或は之と同じ時代のことではなからうか(上文參照)。占星術的天文學に於いては、其の思想の發達と共に、神または抽象的觀念を一々具體的に星の名としようとする傾向がおのづから生ずるのであらう。
 しかし天皇はまた北極星ではない別の天體とも結合せられたらしい。楚辭の遠遊に「召豐隆使先導兮、問太微之所居、集重陽入帝宮兮、造旬始而觀清都、」といふ句があるが、王逸は其の各句に註して「呼召雲師使清路也、博訪天庭在何處也、得升五帝之寺舍也、遂至天皇之所居、旬始天皇名也、」といつてゐる。此の太微は多分天官書の南宮に屬する太微宮であつて、「三光之廷」といはれ「其内五星五帝座」と記されてゐるものであらう。さうしてそこが即ち帝宮であり、清都であつて、「天皇之所居」だとすれば、此の天皇は太微宮に居るものである。本來比喩的の敍述であるから本文が頗る曖昧であるが、王逸がかう註釋してゐるのを見ると、後漢時代にはかういふ見解もあつたとしなければなるまい。さて天皇の居所を太微宮とするのは、それが黄道に當つてゐるからであらう。北極星は恒星の系統の上から見て天體の中心と見なされるが、日月の運行からいふと太微の邊が大切である。そこに五屋五帝の座があるといふのも、やはり五帝の思想に關係があるらしい五遊星の軌道と結合して考へたものではあるまいか。(天官書にいふ五星五帝の座といふのは五帝の表徴として五つの恒星がそこにあるといふのではないやうに思はれる。さう考へることは(482)五帝の觀念に矛盾するからである。しかし晋書の天文志には「四帝星夾黄帝座」とあるから、そこに黄帝の座とせられた星を中心として五帝を表する五つの星から成立つ星團があるやうに見える。太微宮中の一星に黄帝の座があるといふ正義の解釋も多分これと同じ考であらう。が、これは五帝の本來の意義が不たしかになつた後世の思想によつて作られた説で、恰も太一といふ星ができたのと同じではあるまいか。晋書には北極の方面にも五帝の名を有する五星のあることが説いてあるが、これも天官書などには見えないことで、後世の考であらうと思ふ。よし五つの星がてうど都合よくかたまつてゐたにせよ、それを故らに五帝としたのは、別に思想上の由來がなければなるまい。太微宮はかういふ顯著なものであるから、天皇がこゝにゐるといふのも一つの見かたである。さうして此の天皇が天の主宰者、即ち天帝であることは、おのづから推知せられよう。淮南子天文訓に「太微者太乙之庭也、紫宮者太乙之居也」とあり、史記索隱に引いてある宋均の説に「太微天帝南宮也」とあるやうに、紫宮、即ち北極を天帝の常居とする説でも太微宮を疎外することができず、二つをつなぎ合せてゐることを參考するがよい。
 以上は占星術的思想に於いて取扱はれた天皇であるが、神仙説及びそれをとり入れて形成せられた道教の方では、また別の意味で天皇の名が現はれてゐる。葛洪の著といはれてゐる枕中書を見ると、玄都太眞人が葛洪に與へたといふ眞書眞記といふものが載せてあるが、其の眞書には、太初に元始天王、即ち盤古眞人が現はれ、次に太元聖母が現はれ、其の太元聖母が天皇(即ち扶桑大帝東王公)と九光玄女(即ち太眞西王母)とを生み、それから地皇人皇が順次に生れたとある。これは三五暦記などに見えるやうな盤古の開闢説話と天皇氏地皇氏人皇氏といふ古帝王としての三皇の觀念とを神仙思想に結合したものであつて、天皇は天皇氏として知られた古帝王の性質を保持しながら東王公(483)といふ神仙となり、仙界に於いて現に存在するものになつてゐる。地皇人皇と列んで記されてはゐるけれども、それは從來の三皇説話を其のまゝに取つて結びつけたからであつて、道教に於いてはそれよりも扶桑大帝東王公として太眞西王母と對立させたところに意味がある(天皇のみに東王公の名が結合せられ、地皇人皇には仙界に於いて地位を有する何等の名稱をも附與せられてゐないことを見ても、それは知られる)。此の東王公(或は東王父)が西方の崑崙にゐるといふ西王母に對するやうに作られたものであつて、太帝と稱せられ、東方の扶桑にゐるとせられてゐることは、海内十洲記または漢武帝内傳のやうなものにも記されてゐる。崑崙や所々の仙宮に關する説明は時代により書物によつて小異があるが、東王公西王母についての大體は變らない。だから、それと結びつけられた天皇は説話の上では古帝王としての性質がうけつがれてゐるが、實は純然たる天上の神なのである。仙界の中心は玄都玉京とせられ、天上の性質を有つてゐるので、現に枕中書には「元始天王在天中心之上、名曰玉京山」とある。東王公の太帝宮も扶桑の上にあり仙人が空を飛んでそこに伺候するのである。扶桑公の太帝とせられたのもそれに關係があるので、太帝は天帝の意義に用ゐられた漢代の稱呼から轉じて來たのであらうが、天帝の天にゐるのは當然である。天皇の名が扶桑公に結合せられる理由もこゝにあるので、此の意味からいふと、道教思想の天皇にもやはり天帝の觀念が含まれてゐるといはねばならぬ。いひかへると、天地人の三才が古帝王の名として用ゐられた三皇の中の天皇が、意義を變じて、天の皇といふ觀念を示すものになつたのである。(海内十洲記に、北海の外にある鐘山及びそれに連る山の上に天帝の居があつて仙人の出入する道があると説いてある。神仙と天帝とはいろ/\な方法によつて結合せられてゐる。)
 此のことは天皇の父とせられてゐる元始天王との關係を見ても推測せられるが、それについては天王といふ稱呼に(484)ついて一應考へて置く必要がある。元始天王は枕中書に「昔二儀未分、溟※[さんずい+幸]鴻濛、未有成形、天地日月、未具状、如鷄子、混沌玄黄、已有盤古眞人、天地之精、自號元始天王、游乎其中、」とあつて、陰陽未分天地剖判以前に現はれたものであるが、隋書經籍志に「道經者云、有元始天尊、生於太元之先、禀自然之氣、冲虚凝遠、莫知其極、」とあつて、兩方の記事が同じことを示してゐ、玉京の上にゐることも兩方に見えてゐるから、元始天王が元始天尊とも呼ばれてゐたことは疑が無く、普通に天尊といふのが其の略稱であることも推測せられる。さすれば、天王は天尊と同意義で、王は尊稱として用ゐられたものとして解釋ができる。しかし時代を溯つて考へると、天王といふ語は既に漢代にも用ゐられてゐたので、漢鏡に「天王日月」の文字のあるものがあり、史記の天官書にも東宮の條に「東宮蒼龍房心、心爲明堂、大星天王、」また「大角天王帝廷」と見え、史記索隱に引いてある春秋緯の説題辭には「房心爲明堂、天王布政之宮、」とある。漢鏡の天王は意義が不明であつて、日月と併稱したのか日月を指す尊稱なのかすら確かには知り難いが、日月を指して天王といふのも他に例が無いやうであるから、多分前の方であらう。ところが天王日月とあつて日月天王としてないところを見ると、例へば星辰などの如く日月の下についてそれと並び稱せられるものをいふのではないやうである。もつとも星辰でも北極星は特別に尊重せられてゐるから、天王は即ち緯書などの天皇で北極星のことかとも臆測せられるが、北極星を天王と書いた例は見えないやうであるから、これは無理であらう。(天官書には心宿の大星を天王といつてあるが、漢鏡の天王が此の星でないことは、前にいつた如く天王日月とある順序から推測せられよう。)然らば日月の上に立つ天王は何かといふと、史記封禅書に「天子始郊拜太一、朝朝日、夕夕月、」といふこと、また「爲伐南越、告祷太一、以牡荊畫幡日月北斗登龍、以象太一三星、爲太一鋒、命曰靈旗、」といふこ(485)とがあるから、それによつて太一と日月とが關聯して考へられてゐたことが推測せられ、天王は即ち太一の稱を有つてゐる天帝のことではないかといふ臆測ができはしまいか。此の太一は天官書の太一と同じものであらうから、北極星を居所にしてゐる天帝ではあるが、まだ緯書の説の如く北極星そのものとはなつてゐないのである。天帝日月と並稱したものと見れば、此の順序にも別に無理は無い。次に天官書の天王であるが、先づ大角を天王の帝廷といつてあることに注意せられる。其の理由は明かに解しかねるが、光輝の最も強いものであるのと斗杓の指すところに當るのとで、特にそれを尊重したのであるまいか。しかしこれは大角其のものを天王といつたのではないから、天王は別になければならぬが、それは恐らくは天帝のことであらう。(兩攝提を左右に從へてゐるといふ形を人君の象とするやうな説明は、大角其のものを天王と見たのであるから、後になつて生じた考と思はれる。)以上の二例は天王が天帝の意に用ゐられた場合であるが、前にも述べた心宿の大星を天王といふのはそれとは違ふ。これは星そのものを天王と名づけたのである。何故に此の星が天王といはれたかは、やはり明かにはわからないが、東方の星宿とせられてゐる心宿にあつて最も強い光を出すためと見る外は無からう。さうしてそれは人君の象徴として比喩的に稱へられたので、心宿を明堂といふのもそれがためである。(漢書天文志に「房心間天子宮也」とあるのが參考せられる。また春秋緯の説題辭にある天王布政之宮は、晋書天文志には天子布政之宮としてある。)なほ何人も知つてゐる如く春秋には時の君主たる周の天子を天王といつてあるが、これは天命を受けた王といふ意義かと思ふ。後にも政治的君主を天王と稱することが稀にはあるので、それは春秋の此の稱呼に本づいたものであらうが、一般の慣例ではない。天王といふ語はかういふ風に種々の意義に用ゐられてゐるが、それを天帝といふ意義に用ゐてあるものがあるとすれば、元(486)始天王にもやはり其の意義の含まれてゐることが、其の名稱と説話とから、推測し得られよう。特にそれは天地未分の前、宇宙の太初から、存在してゐるといふのであるから、天王の名の示す如く天にゐて天の性質を有つてはゐるが、單に天のみでは無く、一切の宇宙を統治する意義に於いての天帝なのであらう。さてかう見て來ると、枕中書に於いて三皇の天皇がそれと結合せられたのもやはり天皇を天帝として考へたからであらう、と推測せられる。
 神仙の話のある書物に見えてゐることではあるが、天皇が、また枕中書の如くに神仙とはせられずして、五帝の觀念と結合せられてゐる説話がある。それは神異輕の中荒輕に、崑崙銅柱の東西南北と中央と東南と西北とに宮があつて、其の中央のを天皇の宮といふと記してあることである。此の天皇は何を指すかといふに、東西南北の四宮の宮牆の色を青白赤黒としてあるところから見ると、この配當は五行思想に由來があるに違ひなく、さうして崑崙がまだ神仙に結合せられない前には、此の山が、或は「莊子」などの説の如く黄帝(天の五帝の一としての)の居としてあり、或は楚辭や山海經の記事の如く天帝の都となつてゐたことを考へ合はせると、此の天皇は黄帝から轉じて一歩を進めた天帝をいふのではないかと臆測せられる。淮南子地形訓に崑崙にあるといふ縣圃の上に太帝の居があるといふ話があるが、此の大帝が天帝の意義であるらしいことをも參考するがよい。ところがまた別に西北のを地皇の宮としてあるから、それとの關係も考へねばならぬ。さて此の神異經の大體の意圖は、崑崙の所在を中心として、それと、東西南北と、東南、西南、西北、東北、と、合せて九方を立てるのであるが、同じく崑崙の周圍にあるとせられた宮の數は、上に述べた如く七つであつて、西南、東北、の二方に當るものが缺けてゐるのは怪しい。のみならず其の宮が、上記の二方の外は、天地長男(東)、天地中男(北)、天地少男(東南)、天地中女(南)、天地少女(西)としてあつ(487)て、天地長女にあてるべきものが無い。此の事實から推測すると、缺けてゐる西南か東北かに此の長女が配當せらるべきであり、更に進んで考へると、天皇、地皇、がある以上、やはり無くてはならぬ人皇もあつて、それが殘る一方に結合せらるべきであらう。さうすると九方の宮が完備する。だから今の本には誤脱があると思はれる。ところが、此の九宮の思想は、易の説卦傳にもとづいた易緯の乾蚤度の鄭玄の注に由來があるので、それによると、長女が東南に、少男が東北に、あるべきものである。また西北(乾)は父に、西南(坤)は母に、あてられ、さうして中央は太一としてあるのが、乾蚤度の注の説であるが、神異經では、中央を天皇としたため地皇を(及びたぶん人皇をも)加へねばならぬことになつたので、そこから西北、西南、二方のあてかたにむりができた。もし上記の方位と宮との配當に於いて、東南を長女に改めると共に少男にあてるべき東北を加へ、また地皇を西南に改めると共に西北を人皇にあてれば、地皇人皇のあてかたにむりはありながら、ともかく九宮はそろふのである。(地皇を西南としたのは坤の方位だからである。大皇は方位にあてやうがないが、乾が殘つてゐるから、試にそこにはめこんだのみのことである。)此の推測が正しいとすれば、この神異經の説は五行説及び易緯の鄭注の思想と三皇の説話とを結合したものであつて、中央に黄帝もしくは天帝または太一の稱呼を用ゐずしてそれを天皇としたのは此の故であらう。さうして其の三皇はこゝでも古帝王の性質を失つてゐるから、天皇はやはり天帝であらう。なほ漢鏡に「五帝天皇」といふ文字のあるものがあるが(富岡氏古鏡の研究)、これは五帝を一つの概念としてそれを天皇と稱したのか、五帝の一々を天皇としてそれを總稱したのか、何れにもせよ、五帝は天帝が五行思想によつて分化したものであるから、此の天皇もまた天帝の意であらう。
(488) かういつて來ると、神仙説もしくは道教に於いて用ゐられた天皇の名もまた天帝の意義のであること、少くともその意義の含まれてゐることが推測せられるが、これが前に述べた占星術的思想に於いて發達して來た北極星の天皇と結合して考へられたかどうかは、問題である。が、道教に於いては古傳説も從來の民間信仰も知識階級の間に行はれた祭祀も悉く取り入れてあるので、古帝王や聖賢は何れも仙官となつてゐるし、隋書輕籍志道經の條には天皇太一五星列宿がみな祭祀の對象となつてゐるやうに書いてある。宣和畫譜を見ると紫微北極大帝像を閻立本が畫いてゐるが、これはやはり道教で用ゐられたものらしい。同じ書に五星二十八宿九曜壽星の像といふやうなものが六朝時代に多く作られたことが見えるが、中には道士の作さへもある。從つて實際の信仰としては星によつて象徴せられ又は星と結合して考へられてゐる天皇と、此の神仙としての天皇とは、おのづから混合せられてゐたことと思はれる。
 以上述べて來たところは隋代以前の典籍に於いての考察であるが、それを概括していふと、天皇は一つの意義に於いては本來天帝のことであるが、それが後には北極星の名となり、他の意義に於いては太古の帝王とせられた空想的人物の名から一轉して神仙となり、それと共に宗教的信仰の對象となつて、やはり天帝の觀念に結合せられてゐる、といふことである。何れにしても宗教的性質のものであるが、しかしそれに比喩的又は附隨的意味に於いて君主といふ觀念が伴つてゐることは勿論である。さうしてこれは我が推古朝時代の政府者にも一ととほり知られてゐたことであらう。シナの南北朝時代に於ける我が國と南朝との交通状態を知つてゐるものは、此の間に多くのシナの典籍が將來せられ讀誦せられたのみならず、其の他の種々の方法によつても、かなり多くシナの思想を受け入れてゐることを拒まぬであらう。隋代に當る推古朝前後に於いてはなほさらである。特に神仙の思想は南北朝時代に於いて大に發達(489)し、所謂道教の形成も此の時代であるから、よし道教としては入つて來なかつたにしても、それに關する知識は傳へられたに違ひない。神仙思想としては、タヂマモリやウラシマの子が仙郷にいつたといふ物語が、多分此の間に作られたのであらうと思はれるし、道教思想としては、大祓の場合の東西文部の呪詞に東王父西王母の名の出てゐることはいふまでもない。古事記に於いて神代史の最初に現はれてゐるアメノミナカヌシの神の如きも、前に述べた元始天王とゆかりがありげである。太古に現はれた元始天王は天の中心の上にあるといふではないか。神代の長さを百七十九萬幾千年といふやうな數字で現はすことも、枕中書に天皇、地皇、人皇、の治世が各三萬六千載であるといひ、隋書經籍志に道家が四十一億萬載の數を擧げてゐることの記してある類を、參考する必要があらう。古事記の神代の卷の末に出てゐる五百八十歳といふやうなことも、長壽の思想と關係がありはしまいか。また魏書の釋老志にあるやうに、無極至尊、大至眞尊、天覆地載陰陽眞尊、洪正眞尊、といふやうな、太古の神の名の列擧せられてゐることも、神代史について參考すべきことであり、それに聯關して(何時の人の考から出たことか知らぬが)神代紀の卷頭に註記してある「至貴曰尊」といふ文字の用法にも注意しなくてはなるまい。それから天上に仙界のあることも、神仙が虚空から下つて來ることも、また高い山が神仙に關係のあることも、シナに於いて常の話である。これらのうちには必しもシナの神仙説もしくは道教特有の思想とはいはれないものもあるが、神代の物語の作られつゝあつた頃の日本人の思想に神仙説の知識のあつたことが確かである以上、看過してはならぬことである。神仙思想ではないが、桃で妖邪を攘ふといふシナ人の習慣も、神代史に取られてゐるし、玄中記にある如き左右の目が日月になるといふ説話も、少しく形をかへて、やはり神代の物語に入つてゐる。これらのシナ思想を受け入れたのは、必しも推古朝の時もしくは(490)其の前のことには限らぬが、かういふ傾向は其の前後を通じて長い間、大した變化なしに存在したのであらう。
 上述の事實を背景にして考へる時、「天皇」といふ御稱號がやはりシナの成語を採つたものであることは、おのづから推知せられる。さうしてそれは、多分、神仙説もしくは道教に關係ある書物(假に例を擧げていへば枕中書のやうなもの)から來たのであらうと思はれる。枕中書に見える天皇が「扶桑大帝東王公」といふ名を有つてゐて東方の帝とせられてゐることも、考の中に入れて置くべきである。史記などの所謂正史や漢以後南北朝時代に盛に作られたかず/\の緯書や天文の書も讀まれてゐたに違ひないと思はれるが、我が國では星のことが全く閑却せられてゐて、神代史にも星の重要視せられたことが見えないから、北極星によつて象徴せられてゐる、もしくは北極星の名となつてゐる、天皇の觀念は深く顧慮せられなかつたらう。さうしてシナに於ける天皇の稱呼は、帝王としての意義を裏面には含みながら、宗教的觀念が主になつてゐるのであるが、これは恰もよく、上代人の思想に於いて政治的君主の地位に宗教的由來があり、その意味で神とも呼ばれ、そこからまた天つ神の御子孫として天から降られたといふことになつてゐた、我が皇室の地位に適合するものであつて、此の語の採られた主旨もそこにあつたに違ひない。シナの典籍から種々の知識を得ても、天皇氏が十三頭だといふやうな玄中記や枕中書の奇怪な説話は少しも採つてなく、また前に述べたやうに星のことなども全く學ばれなかつたところに、日本人としての特色があるのであるが、シナから學んだところの多いこともまた決して忘れてはならぬ。
 「天皇」の御稱號が我が國に採用せられたのは、それに宗教的意義が含まれてゐるからであつて、其の直接の由來が道教にあるといふことは、上述の考察によつて疑が無からう。ところが唐の高宗の時に此の稱呼が用ゐられたのも、(491)やはり道教から來てゐる。舊唐書高宗本紀咸享五年(上元元年)八月の條に「皇帝稱天皇、皇后稱天后、」とあるのがそれであつて、皇后は即ち則天武后であるが、當時の宮廷の状態から考へると、これは多分則天の意から出たことであらう。ところが同紀同年十二月の條には「天后上意見十二條、請王公百寮皆習老子、」といふ記事がある。唐の帝室が李氏であるために老子を特に尊敬したことは周知の事實であるが、老子が道教の祖として一般に考へられてゐたことは、いふまでもない。上元といふ元號もまた道教思想から來てゐるので、漢武帝内傳には上元之官といふこともあり、上元夫人の名さへ見える。唐室が麟徳三年に追號した老子の稱號も太上玄元皇帝といふのである。なほ則天が制を稱した嗣聖元年には東都(洛陽)の名を神都と改め、垂拱四年には僞造の瑞石文によつてみづから聖母神皇と稱した。神都神皇には勿論道教的意義があり、聖母はかの太元聖母に例がある。唐代の支那に於いても天皇の稱呼に宗教的意義があるとせられてゐたことは、これでも知られよう。(ついでにいふ。高宗の謚は天皇大帝といふのであるが、これはたゞ天皇の下に大帝の二字を附加したのみで、北極星の天皇大帝とは關係が無からう。しかし大帝の二字についていふと、東王公の稱號と聯絡があるかも知れぬ。)
 
(492)   五 蕃別の家の系譜について
 
 日本の上代に支那人や半島人が多く歸化し移住して來たといふことが、今でもなほ一般に信ぜられてゐるやうであつて、それは應神天皇の時に秦氏の祖といはれてゐる弓月君が百二十縣の人夫を領して來たとか、漢氏の祖とせられてゐる阿知使主が十七縣の黨類を率ゐて來たとかいふ書紀の説話、または姓氏録の蕃別の部の記載などによつて、考へられたのであらう。しかし、これらの古典の記事は歴史的事實としては信じがたいものであるので、そのことについては、これまで公にしたいろ/\の論著に於いてくりかへし述べておいた。特に姓氏録の記載の如きは、書紀の編纂せられた後、奈良朝から平安朝のはじめにかけて、諸家がそれ/”\思ひ/\に、また恣に、作つた系譜によつたものがおほい。だからそれは、此の時代の官僚や社會的政治的に地位のあるものが、どういふ風に系譜を作つたか、また彼等にさういふ系譜を作らせるやうになつた社會的政治的事情が何であつたかを知るための、即ち思想史もしくは社會史政治史の材料としての意義を有つてはゐるが、家々のほんたうの系譜を示すものではない。續紀に載せてある諸家の上表などでそれ/”\其の家の由來を説いてゐるところも、また同樣である。もちろん、上代に歸化人のあつたことは事實であるが、それは、概していふと、シナもしくはシナ傳來の文字學問技藝などを知つてゐることによつて朝廷に用ゐられ、世襲的にその地位と職務とを子孫に傳へたものである。さういふ知識技藝を有つてゐるものとても、廣く民衆の間に入りこんで來たのではなく、その數もさうひどく多くはない。特殊の技藝や知識を有たないシナや半(493)島の民衆が集團的に歸化し移住して來たといふやうなことは、なほさら考へられぬ。(こゝにいふのは大化改新以前、もう少し局限していふならば、ほゞ推古朝ころまでのことについてであつて、最初に「上代」といつたのも其の意義に於いてである。此の稿で取扱ふのは此の時代に歸化したものの家についてであることを讀者は諒知せられたい)。さて上に述べたやうにして朝廷に用ゐられた歸化人は、一般の伴ぞう(トモノキミ)と同じ地位に置かれたのであつて、彼等はそれ/”\の職務についてのトモ即ち部下の一團を有つことになり、またその生活の經濟的基礎としてそれ/”\に土地人民を給與せられたが、彼等のうちの有力者は、いろ/\の事情や方法によつて、その領土領民をふやしてもいつたらしい。さて件造の部下の一團はそれ/”\その首長、即ち伴造、の家の名によつて某部といはれ、領民もまた同じやうによばれてゐたが、戸籍が作られることになつてからは、いづれも氏の名としてその部の名が用ゐられるやうになつた。同一血族であることを示す氏の名といふものが無かつた上代の日本に於いて、かういふ意義での氏の名が生じたのである。これは歸化人の子孫たる伴造の家々に於いてもまた同樣であつたので、それがために彼等と同じ氏の名を有つてゐるものが官僚階級にも地方の民衆にも數多くあることになつた。ところが、かういふやうにして同じ氏の名を有つてゐるものは、もと/\何等血族的關係の無いものであるにかゝはらず、同じ氏の名を有つてゐるといふことから、同じ祖先から出たもののやうに系譜を作ることが行はれて來た。一般にさうなつたのではないが、さういふ傾向も生じたのである。かういふ事情であつたから、歸化人の子孫の家と同じ氏の名を有つてゐるものが系譜を作る場合にも、彼等が純粹の日本人であるにかゝはらず、その祖先をシナ人または半島人とすることが行はれた。すべてがさうではなかつたが、さういふこともあつたのである。姓氏録の記載となつて今日に傳はつてゐるものにはそ(494)れが多い。しかし、もと/\作りごとであるから、同じ氏の名を有つてゐるものでも祖先の名が一致してゐない場合もあり、シナ人としたり半島人としたり、其の間に混亂が生じてゐることさへもある。また歸化人の子孫である家々に於いても、家によつては、同じ血統でないものをもさうであるやうにいひなして、我が家の勢威を誇らうとするものも生じた。これらは「上代の部の研究」に於いて説いて置いたことであるが、そこにいひもらした一二を補遺の意味でこゝに述べてみょうと思ふ。
 そこで、第一に考へてみたいのは文忌寸の家についてである。續紀養老三年五月の條に文部此人等二人、また四年六月の條に文部黒麻呂等十一人に、文忌寸の姓を賜はつたといふ記事がある。文部とあるからには、もとの文氏の部下もしくは部民であつたものにちがひないが、それがもとからの文氏の家と同じ氏の名とカバネとを與へられたのである。文氏には阿知使主を祖先の名としてゐるもとの直の家、即ち東の文氏と、王仁の後と稱するもとの首の家、即ち西の文氏との二つがあつて、このころには其の何れもが忌寸のカバネになつてゐたのであるが、上記の文部がどちらの文氏のであるかはわかりかねる。が、いづれにしても、それらが歸化人の後ではなく、もとからの日本人であつたことは、上記の部の研究に述べて置いたところによつて知り得られる。ところで、續紀によると、東の文氏は延暦四年に、また西の文氏は延暦十年に、いづれも宿禰のカバネになつてゐるが、姓氏録には左京諸蕃の部に、西の文氏の宿禰の家のほかに、それと同祖とせられてゐる文忌寸の家がある。東の文氏の宿禰の家は姓氏録に見えないやうであるが、それと祖先を同じくするものとして記されてゐる文忌寸の家は、右京諸蕃の部にある。これらの忌寸の家が、事實として、宿禰の家とどういふ關係にあつたかは明かでないが、西の文氏が、宿禰となつた家を宗家として、血統(495)上、多くの家に分れてゐたらしい形迹は史上に見えず、東の文氏も、姓氏録に宿禰の家が記されてゐないほどであるから、上記の文忌寸の家々は、多分、前に述べたやうにして文部のもののなつた忌寸の家であらうと推測せられる。そのほかに文忌寸といふ家が姓氏録に見えないことからも、さう考へてよささううである。(なほ次にいふ秦忌寸の例を參考すべきである。)もしさうならば、それは歸化人の家ではないはずであるが、それにもかゝはらず、系譜の上では歸化人の家のやうになつてゐるのである。これは、氏の名が文となつてゐるために、もとの文忌寸の家、即ち後に文宿禰となつた家、と同じ血族であるやうに系譜が作られたからのことであるらしい。なほ西の文氏の家の祖先とせられてゐる王仁は、これまで一般に百濟人として傳へられてゐたのに、延暦十年の其の家の最弟といふものの上表には漢の高帝の後としてあり、姓氏録にもさうなつてゐるのは、漢の王室の後裔と稱してゐた東の文氏に對抗するために新に作られたものであるといふことは、これもまた部の研究で考へておいた。「日本古典の研究」第四篇の附録第二に述べた如く、續後紀承和元年の條に左京及び河内の文忌寸の祖先を百濟國人としてあるのは、其のころになつても此の舊い傳説を守つてゐる文忌寸の家のあつたことを示すものである。此の二つの文忌寸が西の文氏に屬するものであることは疑がないが、それらもまた、多分、血統的には歸化人の後の文氏、即ち文宿禰の家、とは關係が無く、文部のものが忌寸のカバネを賜はつた家であらうと思はれ、特に左京のは姓氏録に見えるそれであらうかと臆測せられる。もしさうならば、此の家では、系譜の上で其の祖に擬せられた王仁を、或る時はシナ人とし、或る時は百濟人としてゐたのである。
 第二には秦氏についてのことである。續紀によると、養老三年四月に秦朝元に忌寸のカバネを、天平二十年五月に(496)秦老等一千二百餘煙に伊美吉のカバネを賜はり、また天平神護二年十二月に大和の國の秦勝古麻呂等四人に、神護景雲二年五月に攝津國西成郡の秦神島、素人廣立等九人に、また十一月には秦長田三山、秦倉人皆主、秦姓綱麻呂に忌寸のカバネを賜はつた。これらの秦を氏の名とする家々は、それらがもと/\カバネを有たないものであつたことから考へると、もと秦|造《キミ》(公)といはれ弓月君の子孫と稱してゐた家の部下もしくは部民の家であつたにちがひないが、それが新に忌寸のカバネを與へられたのである。秦造の家はこのころには忌寸のカバネであつたから、それと同じ地位に昇つたのである。神護景雲三年には、なほ攝津國豐島郡の秦井手小足等に秦井手忌寸を賜はつたとあるが、これもまたもとの秦造の部民で井手に住んでゐたものの家であらう。さて、秦忌寸と稱する家は姓氏録の蕃別の部に數多く記され、京畿のいたるところにそれがあつたやうに見えるが、そのうちには上記の諸家が含まれてゐることと推測せられる。續紀にはその記事が無いけれども、其の他のものもまた同じやうな事情で忌寸のカバネを賜はつたものであらう。ところで、これらの家々は文部のものが歸化人の家でなかつたと同じく、もとの秦部の首長であり領主であつた秦造の家とは違つて、歸化人の後ではなかつたはずであるが、姓氏録に於いてそれが殆んどみな秦の始皇帝の後、弓月君の子孫となつてゐるのは、文忌寸が漢高帝の裔もしくは百濟國人となつてゐるのと同じく、氏を秦と稱してゐるために、その家を系譜の上で秦造の家と同一血族である如く記したからのことにちがひない。たゞ一つニギハヤビの命の後とせられてゐる秦忌寸があつて山城國の神別の部に記されてゐるが、これは、同じやうにして忌寸となつたものながら、偶然にか、何等かの意味があつてか、かういふ系譜をつくつたので、それは秦を氏とするものが、秦造の家のほかは、歸化人の裔でなかつたことの一證となるものであらう。(姓氏録には、もと秦造であつた家は太秦公(497)宿禰といふ名稱になつてゐる。太秦公は續紀によると天平十四年八月に島麻呂といふものが賜はつたことになつてゐるが、天平十七年五月の條にはそれがたゞ秦公としてある。公はカバネとしての名らしいが、天平十九年には同じ人が忌寸と書いてあるのを見ると、果してさうかどうか疑はしくもあり、またカバネの名とすれば、それと宿禰とを連稱するのも奇異なことである。宿禰のカバネを賜はつた時期もわからぬが、延暦十一年以後のことであつて、今失はれてゐる日本後紀に其の記載があつたのではあるまいか。)なほ續紀には天平二十年十月に廣幡牛養が秦の氏を賜はり、天平勝寶四年十月には伊勢國飯野郡の飯麻呂等十七人に秦部の氏を賜はつたことが見えてゐるが、これもまた秦とか秦部とかの氏を有つてゐるものが歸化人の子孫といふやうな特殊のものでなかつたことを示すものである。
 第三には漢氏に關することである。續紀の神龜二年正月の條に漢人法麻呂に中臣志斐連を賜はつたとあり、天平勝寶八年に河内國石川郡の漢人廣橋漢人刀自賣等十三人に山背忌寸を、また神護景雲元年十二月に伊勢國飯高郡の漢人部の乙理等三人に民忌寸を賜はつたとある。最後のは明かに漢人部と書いてあるから、もとの漢氏の部民であつたことがわかる。前の二つは漢人とのみあつて部の字が無いけれども、それは部の字を省いたものと考へられる。(このことについては、「大化改新の研究」で説いて置いた。)さて漢氏は阿知使主を祖先の名として傳へてゐるもとの漢直の家であり、其の倭にゐたものが即ち東の文氏である。ところが、中臣志斐連は、中臣の名から考へても、それが歸化人の家の氏の名としてつけられたものでないことはいふまでもなからう。現に和銅二年六月の條には、筑前の中臣部のものに此の氏の名を賜はつたことが見えてゐる。(姓氏録には、左京神別の部に此の家をアメノコヤネの命の後としてあるが、これは中臣の名によつて作られたものである。)何故に漢人部の法麻呂に此の氏の名を賜はつたかは(498)わからず、たゞ其の家と何等かの關係があつたからであらうといふことが臆測せられるのみであるが、これだけのことは疑が無い。さうしてそれは、歸化人とせられてゐる漢直の部民が歸化人でなかつたことを證するものである。次に山背忌寸はもとの山背直の家であつて、記紀の神代の物語にアマツヒコネの命の後として語られてゐるものであるから、これも歸化人の家の名とは考へられてゐない。たゞ姓氏録には別に左京蕃別の部に山代忌寸といふものが記してあつて、魯國白龍王から出たことになつてゐるが、これは或は上記の廣橋などの家であるかも知れぬ。この出自は、もと漢氏の部民であつたために、その祖を支那人らしくしようとして考へ出されたことであり、それによつて蕃別の山代忌寸といふものが新に系譜の上にあらはれたと見るのである。しかしそれはともかくも、廣橋などが山背忌寸の氏を賜はつたのは、もとからの山背忌寸の家と何等かの關係があつたためであらうと思はれる。それから、民の忌寸といふものはどういふ家かはつきりしないが、續紀の大寶三年七月の條に見える民忌寸大火は書紀の天武天皇元年には民直大火としてあるから、それはもとは直のカバネの家であつたのが、いつのころにか忌寸を賜はつたものであらう。ところが姓氏録には、民直の名は和泉の國の神別の部にあつて、アメノコヤネの命の後といふのとアメノホヒの命の後といふのとの二つの家がそこに載せてある。姓氏録の此の系譜が古くから傳へられたものであるかどうかはわからず、忌寸のカバネの民氏が載せてないことも問題であるが、ともかくも民忌寸といはれた家が歸化人の後とせられてゐたらしい證迹は見えない。もつとも姓氏録には右京及び山城の蕃別の部に百濟人の後としての民首といふ家がある。なほ續後紀の承和二年十月の條に魯公伯禽から出たといふ民首の家のことが見えてゐるが、此の出自の家は姓氏録に載つてゐないのを見ると、新しく世に知られるやうになつた家か、または百濟人の後とせられてゐたものが其(499)の祖先を伯禽にかへたのか、何れかではあるまいか(上に述べた西の文氏の例參照)。此の家は白鳥村主と同祖としてあるが、伯禽は白鳥の名から思ひついて作られたものに違ひないことも考へあはされねばならぬ。民首といふ名の家はかういろ/\に書かれてゐるが、それらが歸化人の家としてあるにしても、漢氏のごとく、或は少くとも漢氏と同じ系統の、シナ人の子孫とはせられてゐないし、民忌寸の家と關係があるやうにも見えぬ。それらの家々がいつからあつたかも明かでない。だから、乙理等が民忌寸を賜はつたといふのは、その名が歸化人の家と關係があつたからではなく、從つてまたそれは漢人部が歸化人の後ではなかつたことの一證でもある。
 但しこゝにふしぎなことがある。それは、延暦四年六月の坂上大忌寸苅田麻呂の上表によつて宿禰のカバネを賜はつたもののうちに、民忌寸の名が記されてゐるから、それによると民忌寸は坂上氏と同じく阿智王(阿知使主)の後のやうに見える、といふことである。もしこれが事實を記したものならば、上に述べた民忌寸は即ち漢氏と同一血族であることになる。ところが、この記事には全體にあやしいことが多いので、文と文部とが竝べて書いてあつて、それがいづれも忌寸のカバネの家であるやうになつてゐることも、その一つである。文部といふ名は文氏の部下もしくは部民をいふのであるから、それを氏の名としてゐるものはあつたはずであるが、さういふものが忌寸のカバネを有つてゐたといふことは考へられず、また實際、記録の上にもそれは見えてゐない。またこの時それが宿禰のカバネを賜はつたとあるが、文部宿禰といふ家の名も記録の上には出てこないやうである。それから、調忌寸といふ家もそれと同樣に取扱はれてゐるが、忌寸のカバネの調氏は律令の撰定にあづかつた老人といふものと、其の子にあたるかと臆測せられる古麻呂との二人の名が書紀と續紀とに見えるのみであり、其の他には同じ調氏でも連の家のもののこと(500)がしば/\續紀に記されてゐる。連の家は天武朝の初には首のカバネであつたのがいつの時からか連にせられたのであるが、それと忌寸の家と、同じく調の名を有つてゐるものに二つの家があつたかどうかは問題である。姓氏録には百濟人の後であるといふ連の家が左京の蕃別として記されてゐるのみで、忌寸の家はどこにも、見あたらぬ。此の連の家がもとの首の家であるかどうかは明かでなく、またかういふ系譜がいつ作られたかも知りがたいが、前者については、反證の無い限り、首であつた家と見るべきであらう。また、調宿禰といふ家も續紀以後の國史の上にあらはれて來ないやうである。要するに、坂上氏と同一血族としての調といふ家があつたかどうかは疑はしく、調を氏の名とする家は古くからあつたのにそれが漢の名を負うてゐなかつたことも、また此の疑を助ける。苅田麻呂の上表に關聯して書かれてゐる續紀の上記の記事には、かういふいろ/\の疑はしいことが含まれてゐるから、民忌寸のこととても輕々しく信ずることはできないやうである。本來、漢直の家は天武朝ころには倭のと河内のと二家があつて、それがいづれも連になり、ついで忌寸になつたのであるが、欽明紀に見える漢坂上直、孝徳紀の漢山口直といふものも、倭漢直の分れか部下かの家であつたらう。さうして天武紀に見える坂上直は即ち漢坂上直の家であるらしい。この坂上直の家が後に忌寸となり、それがまた大に勢力を得て苅田麻呂の時に大忌寸といふ特殊の稱呼を與へられ、漢氏の宗家ででもあるやうに見えることになつたが、それが漢氏と同一血族でありそれから分れた家であつたかどうか、疑はしい點がある。坂上は住地の名にちがひないが、かういふやうにして伴造たる氏の名に住地の地名をつけていふのは其の伴造の部下のものに多い例だからである。坂上氏がもし此の臆測の如く漢氏のもとの部下であつたとするならば、それは歸化人の後ではなかつたらうに、漢を氏としてゐたために阿知使主の子孫と稱することになつたのである。(201)が、此の臆測の當否はともかくもとして、苅田麻呂のころからは坂上の家が上記の如く勢力を得たので、一方では漢氏の眞の宗家であるはずの東の文氏の影が薄くなつたと共に、他方では、坂上氏が漢氏の眞の同一血族でないものまでもさうであるがごとく宣傳しようとするやうになつたらしい。そこで上記のやうなことが行はれたのである。さうしてこれもまた家々の系譜といふものが、あてにならぬことの一例である。
 かういふ例を擧げればなほいろ/\あるが、こゝにはしばらく歸化人の後として最も重要なる三家に關係のあることについての考説にとゞめて置く。他の家については、それによつて類推することができるであらう。要するに、諸家の系譜は、其の古い時代のこととして記されてゐるものは、殆んどすべてがこしらへごとであるので、それは歸化人とせられてゐるものに限らない。その造作は書紀の編述せられた後に於いてます/\甚しくなり、どの家についても恣に祖先の名などが案出せられ、また皇族や神代史上の神に附會せられた。さうしてそれは、めい/\の家がらを尊くしようとするためであつたので、歸化人の家が其の祖先をシナや半島の王族から出たもののやうにしたのも、同じ理由からであつた。卑いカバネのものが高いカバネを得ようとしたり、カバネの無いものがカバネを得ようとしたりしたのも、また同じ意味からであるので、後の場合には系譜などを有たなかつたものが新にそれを作らねばならず、それがために系譜の造作についての上記の趨勢がます/\強められたのである。これは、一方に於いては家がらを尊ぶ風習と地位の卑いものがいくらかの程度に於いて高い地位に上つて行く實際状態との混和を示すものであると共に、他方では恣に系譜を作り得たといふことが眞の血統や血族關係が實際の社會生活に於いてさしたるはたらきをしなかつたことを語るものでもある。さうしてまた歸化人の子孫でないものに、特殊の事情からではあるが、系譜の上で其(502)の祖先を支那人もしくは半島人であった如くよそほつてゐたもののあることも、その時代の思想の一面をあらはす事實として、見のがしてはならないであらう。
〔2018年2月26日(月)午前9時35分、入力終了〕