津田左右吉全集第4巻・【文學に現はれたる】國民思想の研究 一、岩波書店、656頁、4500円、1964.1.17(86.12.24.2p)
 
【文學に現はれたる】國民思想の研究 一
――貴族文學の時代――
 
(1)     まへがき
 
 この一卷は大正五(一九一六)年に出版した『文學に現はれたる我が國民思想の研究』の第一卷『貴族文學の時代』の改訂版である。この版で書名の「我が」を削つたのは、さしたる意味があつてのことではなく、それが無くても、この書が我が日本の國民思想を取扱つたものであることは、おのづから知られるのと、實際、一般にはこの語を除いて呼びならはされてゐるのと、また改訂版であることが、かうすることによつてすぐわかるのと、これらの理由からである。
 この書は、大正六(一九一七)年に『武士文學の時代』を第二卷として、八(一九一九)年と十(一九二一)年とに『平民文學の時代』の上と中とを第三第四の二卷として、公にしたが、ひきつゞき第五卷として出すつもりであつた『平民文學の時代』の下は、出版者がその事業をやめ、また震災のために上記四卷の紙型が燒けたのと、わたくし自身が他の方面のしごと、具體的にいふとシナ思想を考へること、に力を入れるようになつたのと、これらの事情のために今までまだ書かないまゝになつてゐる。ところで、昭和のはじめのころにイハナミ書店からこの書の再刊の相談をうけたが、ところ/”\補訂したいところがあり、特に第一卷は書きなほしたい部分さへ少なくなかつたのに、その餘裕が無かつたため、しばらく猶豫してもらふことにした。しかしその餘裕がなか/\作られず、しば/\督促をうけながら、長い間、筆をとりかねてゐた。けれども、そろ/\老境に入つてもゆくので、ぐず/\してゐると補訂(2)の期を失はないにも限らぬと考へ、思ひきつて一昨々年の秋からその補訂にとりかゝつた。そのためにしかけてゐたしごとも一應中止したが、それでもいろ/\のことに時間を奪はれたため、昨年の夏の末になつてやつと第二卷だけしあげることができた。
 『貴族文學の時代』を初めて書いたのは、大正三−四年のころであつたから、今からは四十年近くも前になる。その後、日本の文藝や歴史の研究は多くの方面で長足の進歩をなし、それに關する文獻は無數といつてもよいほどに多く世に現はれた。だから、補訂の筆を執るに當つては、それらの少くともおもなものに目をとほし、諸家の研究からそれ/\益を待たいと思つたが、それは、長い歳月をかけかねる今のしごととしては、とてもできないことであるから、殘念ながら思ひとゞまつた。もつとも、知らず/\のうちに、或は偶然目にふれ耳にふれたことによつて、それらから教へられるところがあつたには違ひないが、概していふと、この補訂は、前々からいつとなしにわたくしひとりでおひ/\に考へて來たことを、筆にしたまでである。或は、少しむりないひかたながら、四十年前のわたくしが今のわたくしであつたならばほゞこんな風に書いたであらう、といふほどの意味に於いての補訂である、といつてもよいかも知れぬ。
 けれどもまた一方ではかういふこともある。この『國民思想の研究』の著作は、もと/\當時のわたくしには力量不相應に大がかりな、また大膽な、試みであつて、それには、どの部面に於いても、深く考へ細かに思ひまた廣く尋ぬべきむつかしい問題を限りなく含んでゐる。原版の「例言」のはじめの一節に「著者はこの書を基礎として更に研究を向後に期してゐる、この書は著者の研究の到着點ではなくしてむしろその出發點である、」といつておいたのは、(3)そのためである。ところが、上にいつたような事情で、向後に期してゐたしごとが思ふようにできず、歳月はたつても、研究はいつまでも出發點にとゞまつてゐた。上にもいつたように補訂したいところのあることに氣がついては來たし、思想史上文藝史上のいろ/\の問題について、また記紀などの古典について、幾篇かの論著を公にしたこともあり、シナ思想を考へることにしたのも、國民思想の一つの淵源と、シナ思想に對する國民思想の特色とを、明かにしようといふ意味を含んでゐたのではあるが、それらによつて、『國民思想の研究』で企てたことが全般的におし進められるまでにはならなかつたのである。それで、このたびの補訂に當つても、新しい疑問が到るところで起り、新しく考へねばならぬことがあとから/\生じて來た。長い間、補訂の筆をとりかねてゐたのも、實はかういふことが、ぼんやりながら、豫想せられたからでもあつた。それで、「最小限度での補訂」のつもりで手をつけはじめたにもかゝはらず、それすらも容易でないことが、次第に強く感ぜられて來た。一度は筆を抛たうかと思つたことさへもある。どうせ中途はんばのことしかできなささうであるから、かういふことにさきの短い時間と限りある力とを費すよりも、かねてからしかけてゐた新しいしごとを幾らかでも進めてゆく方がましではないか、と考へたのである。しかし、不滿足なところの多いものを原版のまゝで再び世に出すことは、心ぐるしく思はれたので、思ひなほしてまた筆をとり上げ、曲りなりにも一應のまとまりをつけたのである。補訂であるから、原版の枠のうちで、またその骨ぐみをくづさないように、したために、おのづから筆の拘束せられたところもあり、また何となく原文にひきずられて、起すべき疑問も起さず書き足すべきところがそのまゝになつてゐるばあひさへあることが、後から思ひ出されもする。從つて、全卷を通じて筆を加へないところは一頁も無く、約半分あまりを書きかへ、また章節の立てかたを改めたばあひ(4)もあるにかゝはらず、全體から見れば、その考へかたにも考そのものにも、原版のが殆どそのまゝうけつがれてゐるところが多いほどである。補訂のための必要から、例へば萬葉集とか源氏物語とかいふようなものを讀んでゐると、いつのまにかそれを讀むことに興味が生じて來て、それに讀み耽つたり、何か新しい問題が起つて來ると、それを考へることがおもしろくなつて、當面のしごとがるすになつたり、さういふようなこともしば/\くりかへされ、そのために少からぬ時間が費されもしたが、しかしそれによつて考へ得たこと思ひ得たことは、やはり原版の埒からあまり出てゐないばあひが少なくなかつた。要するに、考へねばならぬ多くの問題が考へられずに殘されてゐることが、われながら感ぜられるのである。
 ふりかへつて考へてみると、『國民思想の研究』といふ名で公にしたこの書のようなものを書いてみようと思ひたつたことには、二つの動機があつたようである。一つは國民思想の變遷または發達の跡を歴史的にたどつてみようといふこと、一つは思想の面から見た國文學の歴史的推移を考へてみようといふことである。さうして前の方のしごとの主なる資料を文學上の作品に求めることによつて、この二つがおのづから結びつけられたのである。このことについては原版の「序」と「例言」とでその時の考を一應いつておいたから、原版にのみ關係のある部分を省いたのと、補訂した本文と調和させるためにシナ文字の用ゐかたなどを一二改めたのとの外は、そのまゝこの版にも再録することにした。ことばづかひや表現のしかたに於いて、今のわたくしの氣分とはしつくり一致しないふしが無いでもないが、いつておいたことは今のわたくしの考と變りは無い。特にそのうちの愛國心と皇室に對する敬愛の情とについていつたことは、當時の状態に於いて、ひそかに意を致したところのあるものであるから、その點からもこの「序」をこゝ(5)に殘しておきたく思ふ。(あからさまにいふと、そのころ世間一般に、愛國心の發現が戰爭のばあひのこととしてのみ説かれる傾向があり、また皇室に對する國民の責務として忠君といふことばが用ゐられてゐたが、それらは何れも正しい考ではないと思つたので、その意味をも暗に含ませてあのようなことばを用ゐあのようにいつたのである。)また少しく考へるところがあつて、第三卷『平民文學の時代』の上の「例言」の一節をも附載することにした。
 なほ書名について一こといつておく。「思想」といふ語は何等かの形で思惟せられたものをさすのが普通の用ゐかたであらうが、この事で考へようとしたことは、それのみではなく、生活氣分とか生活意欲とかいふべきことをも含み、むしろその方に重點を置いたばあひが少なくないから、『國民思想の研究』といふ名は、この事にはふさはしからぬ感じがする。しかしかういふ意義で國民の心生活の全體を示す適當の語が無いやうに思はれたから、しばらくこの名を用ゐることにしたのである。
 さらにいひ添へる。上記の意義での國民の思想は、一面に於いては、過去の歴史により、それによつて次第に成りたつて來た實生活の状態により、またその時に置かれた環境によつて、おのづから形づくられて來るものではあるが、それと共に他の一面に於いては、實生活の上に新しい状態を作り出し未來の歴史を作り環境を作つてゆくはたらきをするものであり、さうするところに刻々にみづからを作りみづからを新しくしてゆく國民の生活がある。思想そのものが作られるのみのものではなくして、みづから作つてゆくものであつて、そこに思惟の力と生活氣分生活意欲とがはたらく。個人としても國民としても、人の生活が、過去の歴史や時の環境や、さういふものによつてのみ支配せられる如く考へるのは、生活そのものの實相にも本質にも背いてゐる。そこで、過去の歴史を見るにも、一方では、そ(6)の過去を現在の立ち場に立つて同想することにより、いかに歴史が展開して來たかの道すぢを明かにし、また刻々に起つて來た歴史上の事件なり生じて來た事態なりが、その展開の過程に於いて、いかなるはたらきをなし如何なる意味をもち國民の生活をどう動かして來たかを、考へると共に、他方では、過去のそれ/\の時に身を置き、その時その時に於ける國民なり個人なりの立ち場に立つて、何ごとをいかに思惟し感受し意欲し、いかに行動しいかに生活し、いかなる方向に歴史を進めてゆかうとするかを、おのれみづからの心生活に於いて再現すること、もつと強くいふと體驗すること、をもしなくてはならず、そこに歴史敍述のおもなしごとがある。歴史の取扱ひかたには、この二面があるべきであるといふことは、曾て「歴史の矛盾性」と題した小論に於いて述べたところであり、近ごろ公にした「必然・偶然・自由」といふ小冊子にもそのことを別の方面からいつておいた。『國民思想の研究』を初めて書いた時にも、おぼろげながらかういふ考はあつたので、文學に現はれてゐる思想と實生活との交渉にも、思想が歴史により實生活によつて作られて來た一面と、歴史を作り實生活を作つてゆくものとしての他の一面とのあることを、念頭に置いて筆を執りはした。「序」にもそのことを一言してある。しかし、一つは、書きかたの未熟であつたために、一つは、この事が歴史的研究ではあつても、歴史敍述をしようとしたものではなく、またその主なる資料が既に形を成してゐる文學上の作品であるがために、後の方の一面は、行文の上に強く現はれてゐない憾みがあつた。それで、このたびの補訂に當つてその點にできるだけの注意はしたが、上にも述べたような事情のために、その效果は十分でなかつたかと思ふ。これもまたこの補訂が意に滿たぬことの一つである。
 もう一ついつておきたいのは、この事をはじめて書いた時と今とでは、わたくしの文章の、筆致といふかことばづ(7)かひといふか、さういふことに或る變化が起つてゐるので、補訂の際には、なるべく原版のと調和するようにきをつけたけれども、そのとほりにゆかなかつたところがあるかも知れぬ、といふことである。なほ近ごろわたくしは日本の固有名詞は假名がきにするがよいと思つてゐるので、それを實行してゐるが、この書では原版のまゝに漢字を用ゐた。たゞ神代の説話に現はれてゐるものだけは、前々からの考に從つて假名がきにした。上代のはすべてさうする方がよいと思つたが、それをどこまでとするかの限界をつけることがむつかしいので、機械的のしかたではあるが、神武天皇以後の物語に見えるものは、記紀のそれ/\の用法によつて漢字にすることにした。
 またこの第一卷だけのことをいふと、その第一篇で考へたことについては『日本古典の研究』と『日本上代史の研究』とを、もし讀者が參考せられるならば、幸である。『日本古典の研究』の上卷に「神代の物語」と改題して收載したもとの單行本『神代史の研究』は、この書の原版よりもやゝ後れて公にしたものであるが、その骨子となつてゐる神代史の性質や構造やその製作の時代や製作者などについての考は、それよりも前、大正二(一九一三)年、に世に問うた『神代史の新しい研究』にほゞ具はつてをり、この書の原版に於いてもそれに本づいて書いたところがあつた。さうしてその考については、補訂の際にも變改を加へてはゐない。
 第二卷『武士文學の時代』以下も、それ/\補訂を加へておひ/\に再刊するてはずになつてゐるが、その補訂はこの卷ほどに多くはしなくてもよからうかと思ふ。さうしてもし幸に餘命を保つことができ、また健康が許すならば、『平民文學の時代』の下を第五卷として新に起草し、それによつてこの『國民思想の研究』をともかくも完結させたい、とこゝろひそかに念じてゐる。
(8) 最後に、原版の卷首にはツボウチ先生の序文が添へてあつたが、これについては、いつか機を見て、それを書いて下された當時の事情を、知友諸氏の力ぞへによつてこの書が出版の運びになつたことと共に、別に記して、今は故人となられた先生の好意を永く記念したいと思つてゐるので、そのばあひに寫しとつて再び世に示すつもりであるから、この改定版には、一應、省いておくことにした。
 この卷の校正についてはクリタナホミ君を、また索引の製作にはコバヤシノボル君を煩はした。兩君に感謝する。
  昭和二十六年一月          つださうきち
 
(9)     舊版序
 
 僕のこの小著は、僕自身に於いては一學究たる僕の講學の結果をまとめたまでのものである。しかし既にこれを公にする以上は、僕の思想を世間に向つて提出することになる。僕の研究は固より不完全であり、僕の思想は甚だ幼稚なものであるにしても、ともかくも僕はかくの如き思想の持主として世に面しなければならぬ。そこで、僕の思想が讀者の思想と如何に接觸すべきかを顧慮するがために、僕はこゝに僕の研究の態度を一言しておかうと思ふ。
 國民の思想が國民の全生活と共に歴史的に發達するものであることは、いふまでもなからう。國民もまた個人と同じく、常にその生活を保持し、充實し、展開させてゆかうとする。さうして斷えず新しい刺戟を受け新しい境遇に順應しつゝそれを領略してゆくところに、國民の生活過程がある。國民思想とはこの國民生活の心的側面を假に名づけたに過ぎないのであつて、國民の實生活から生まれ、それと共に推移しつゝ、更にそれを新しい方向に導いてゆくものである。もとよりそれは遠い昔の民族生活に深い根ざしがあり、またこの連續し一貫してゐる生活過程によつて、漸次一つの國民性に形成せられてゆくものではあるが、發達の跡について考へると、その時代々々の實生活に應ずる特殊の内容があり色調がある。と同時に、また實生活に關係なしに、また前代からの思想と連絡なしに、みだりに動搖するものでも變化するものでもない。勿論、わが國民は昔からシナやインドの異國に於いて作り上げられた思想を學びまたそれを採つてゐた。しかしそれとても、國民の生活に適應する方面、またはさういふやうに變化させてから(10)でなくては、生きた思想として實生活を支配するやうにはならなかつたと思ふ。それは恰も個人が新しい、または變つた、思想に接したばあひに、何等かの點に於いてその人の生活に適應するところがあるものでなくては、それを理解することすらむつかしく、ましてその人の思想とはなることができないのと、同樣であらう。
 僕から見ればこれはあたりまへのことである。が、それを今こゝでこと/”\しくいふのは、世間に於いて、ともすれば思想といふものが實生活と離れて存在するもののやうに見なされてゐはしまいか、と疑はれるからである。例へば、國民生活の状態に大なる變遷があつたにかゝはらず、尊皇愛國の思想は昔も今も全く同じものと考へられてゐはしなからうか。我が國に發生した武士道といふものの淵源を、儒教とか佛教とかいふ異國の思想にのみ、求めるやうなことは無からうか。また或はシナ人の作り上げた儒教が、そのシナ人とは生活状態の?かに違つてゐるわが國に、そのまゝ行はれてゐたやうに思はれてゐはしまいか。もしくは東洋思想とか東洋趣味とかいふ曖昧の名の下に、わが國民の思想や趣味をインド人やシナ人のそれと混同して考へるやうなことがありはしまいか。これは一二の例に過ぎないのであるが、多くの點に於いてかういふやうな傾向があるのではなからうか。もしあるとすれば、それはみな思想と實生活とを離れ/”\にして考へるためではなからうか。愛國心の萌芽は、勿論、建國の初にある。けれどもそれが今日のやうになつたのは、朝鮮半島やシナに對して種々の交渉があつた昔からの長い歴史によつて、次第に養はれ漸々に成長して來たからであつて、特に國際競争の激しい世界の舞臺に乘り出したがために、新しい形をとつて活動しはじめた現代の國民生活に於いて、急速に發達したのではあるまいか。さうしてそれは、將來に於いて今よりも一層意味の深い一層充實したものにしてゆかねばならぬのではなからうか。尊皇心はいふまでもなくわが國民が皇室を(11)皇室として仰いだ時から嚴として存在してゐる。けれどもその尊皇心を愛國心と一致させ、またそれを國民の實生活と緊密に結びつけ、國民的活動の中心として、また國民的精神の生ける象徴として、限りなき敬愛の情を皇室に捧げてゐる、といふ現代のわれ/\の尊皇思想は、やはり愛國心の發達と同樣、現代の國民生活によつて大に養はれたのではあるまいか。もとよりそれを誘導する思想は前々から存在してゐた。けれどもそれもやはり歴史的に發達したものであるのみならず、その思想にも互に一致しない種々のものがあるのではなからうか。例へば國學者の説とシナ風の名分論を基礎とした儒者の考との間には、大なる逕庭があり、また例へば楠木正成の尊皇思想は大日本史の見解とも宣長のそれとも?かに違つてゐるのではあるまいか。尊皇の情、尊皇の心は、古今一貫してゐるが、その思想の内容は時代によつて變遷してゐるのではあるまいか。またかの武士道といふものは、それに幾分か儒教なり佛教なりの影響がよし無いではなかつたとするにせよ、その根幹は武士自身の實生活から發生したものではなからうか。或はまた儒者ならぬ人々が普通に孝行といふ語を用ゐてゐても、その意義はシナでいふ孝行とは違つてゐたのではなからうか。われ/\が今日孝行といふ語を、かの儒教的意義よりはもつと内容のある、もつと人生の實際に切實な、さうして現代の國民生活を發展させ進歩させてゆくに適當な、意義で用ゐてゐると同樣、昔でも實際は當時の生活に適つてゐる特殊な意義が自然にこのシナの文字に加へられてゐはしなかつたらうか。或はわれ/\の祖先が佛教を信仰してゐたからとて、彼等の生活とその生活氣分とは、この教に現はれている昔のインド人の生活とその生活氣分とに、どれだけ共通の點がありどれだけ共鳴するところがあつたであらうか。もしあつたとすれば、それは必しもいはゆる東洋にのみ特殊なことではなく、何れの民族にも共通な、人生に普遍な、點ではなかつたらうか。これら二三の例から(12)考へても、事實を十分に詮索してからでなくては容易に俗説に同意することができなからうではないか。
 僕の研究の主旨はこゝにある。その結果は不十分であらうが、その企圖はわが國民の思想と實生活との交渉を探求しようとする點にあつたのである。この事に於いてもし幾分なりともその企てが實現せられたならば、さうしてそれが思想問題の研究に露ばかりなりとも貢獻することができるならば、僕にとつてはまことに望外の幸である。   (大正五年八月)
 
(13)     第一卷例言
 
 著者がこの書に於いて企てたことは、わが國文學の上に現はれてゐる國民思想の種々相とその變遷及び發達の徑路との研究である。著者の微志はこゝに在るのであるが、縱には國文學の古今を貫き横には思想界の各方面に亙つて、精緻なる觀察を遂げ的確なる判斷を下すといふことは、固より容易の業でない。だからこの書は粗雜でもあらう。遺漏も多からう。偏見、僻見、淺見、謬見、も少なくなからう。自分ながら不完全であることを知つてゐる。しかしかういふ企てを以て書かれたまとまつたものが世間にはまだ出てゐないやうであるのと、著者が種々の點に於いて從來の通説と見解を異にしてゐるところがあるのとのため、敢てこの未熟の書を公にしようとしたのである。たゞ著者はこの書を基礎として更に研究を向後に期してゐる。この書は著者の研究の到著點ではなくして、むしろその出發點である。
 著者の目的は思想の研究であるが、その材料を主として文學に採つたのは、國民の心生活、國民の思想、の最も適切な表現を文學に於いて認めることができると思ふのと、今一つは著者の平素の嗜好がこゝにあるのとの、故である。實をいふと、著者は世に行はれてゐる國文學史に對して(それから種々の有益な知識を得、またそれらによつて啓蒙せられたことが多いにかゝはらず、なほどこやらに)一種のあきたらぬ情を私に懷いてゐたので、國文學の研究には別に一歩を轉ずべき境地がありはしまいかと思つてゐた。從つて著者自身からいふと、この書はおのづから國文學史の(幼稚ではあるが)新しい試みともなつてゐる。書中、文學そのものに關する考説がわりあひに多くの部分を占めてゐるのは、これがためである。しかし、文學の性質なり形式なり、または時々の傾向なりに、その時代々々の國民生活が現はれてゐることはいふまでもなからうから、これもまた著者の目的に適はないことではないと信ずる。事實、著者は文學界の状態を敍するにも、(14)文學上の作物に對する卑見を述べるにも、一般の文化及び時代の思潮との關係を觀察することを主としたのであつて、普通の國文學史に於いて多く取扱はれてゐることがら、例へば作者の傳記、著作の時代、または書物の傳來、といふやうな問題については、著者に特殊の見解の無い限り、一切言及しなかつたのである。また各篇の首に置いた「文化の大勢」の章に於いても、文化史上の事實をそのまゝに記すのではなくして、著者の眼に映じた印象を概括的に敍述しようと努め、行文の際なるべく考證風の態度を取らないやうにした。
 著者の大體の計畫は、わが國文學を推古朝前後から始まるものとして、それからいはゆる鎌倉時代のはじめ新古今集の撰ばれたころまでのほゞ六百年間を貴族文學の時代とし、その次にいはゆる江戸時代の初期までの約四百五十年間を武士文學の時代とし、最後に寛文元禄時代に始まつて明治の十年代、まだ新文學の現はれないころまでの約二百五十年間を平民文學の時代とし、國文學の歴史を此の三大時期に區劃しようといふのである。
 
     第三卷例言
 
 「文學に現はれたる」といふ文字を冠しておいたにかゝはらず、前の二卷に述べた著者の考察は、やゝもすればその範圍を逸出してゐる嫌ひがあつたが、この卷に於いてもまた同樣である。が、一國民の思想を研究するには、その國民の生活の諸方面にわたつて、なるべく廣く觀察をすることが必要であると思ふから、著者の知識の甚だ狹隘であるをも顧ず、敢てかゝることを試みたのである。單に文學上の或る作品に現はれた精神を批判し、もしくは或る作者の思想を解釋するにしても、廣く思想界の各方面、文學の各分野を見わたして、その時代の精神の一般的傾向を看取し、それによつて特殊の作者なり作品なりを判釋するのが妥當であらう。自分の氣に入つた一二の作品に自分だけの主觀的解釋を加へて、それ(15)を直にその作者の思想と見なし、或はそれから一足飛びに飛んで、日本人の本色がこゝにあるとか、日本の藝術の精粹はこれであるとか、いふ風に、てがるに論じ去るのは、著者の賛同し難きところである。日本の藝術の特色ならば、それは或る一二の作家や作品に限つて認められるはずは無からうし、日本人の精神ならば、それは藝術ばかりでなく、國民生活の他の方面にも現はれねばならぬのであらうから、さういふ主張には藝術の全體を通じた、或は國民生活の諸方面にわたつての、論證を要する。古人の言に自己の感懷を託するのならば、或は自己の主張を助けるために古人の言を引用するだけならば、初から論はないが、日本人の思想であるといひ日本の藝術の精神であるといふ以上は、思想史上、藝術史上、乃至、文化史上の事實でなければならぬから、それを究明するには、おのづからその方法があるべきはずである。著者が歴史的に思想の推移を觀察しようとしたのも、歴代の文學を文化史的背景の前に置いて眺めてゐるのも、また思想を實生活から發生し實生活を導き出すものとして、そこに一種の心理的解釋を加へようと試みたのも、實はこれがためである。著者の見解は淺薄でも偏狹でもあらうが、著者の意圖はこゝにある。(この考へかたが、作者の個人的特色を撥無するものでもなく、時代の精神が特殊の詩人の作品に現はれてゐるといふ事實を否認するものでもないことは、勿論である。また人の知識はその人の心生活全體の調子によつて形成せられるものであるから、如何なる觀察も思索も、畢竟、自家の眼がねで事物を見、自家の思想でそれを解釋するのであつて、知識の個人的特色がそこにあるのではあるが、何等かの方法によつて、對象の全體に通じた觀察を試み、一貫した解釋をそれに施さうとするのと、氣まかせな斷片的感想とは、その間に差異があるので、學術的研究になるとならぬとの區別もそこにあるのであらう。)
                                        (1)     目次
まへがき
序説……………………………………………………………………………一
  第一章 上代國民生活の瞥見…………………………………‥……一
  第二章 文學の萌芽…………………………………………………三〇
第一篇 貴族文學の發達時代……………………………………………三七
      推古朝の前後から天長承和ころまでの約二百五十年間
  第一章 文化の大勢…………………………………………………三七
  第二章 文學の概観 上……………………………………………八一
         神代の物語と記紀の歌謠
  第三章 文學の概観 中…………………………………………一一一
         萬葉の歌
  第四章 丈學の概観 下…………………………………………一五八
         平安朝初期の文學
  第五章 シナ思想及び佛教思想…………………………………一六五
(2)  第六章 戀愛觀…………………………………………………一九一
  第七章 自然觀……………………………………………………二〇一
  第八章 政治、道徳、宗教、に關する思想及び人生觀…………二一八
第二篇 貴族文學の成熟時代…………………………………………二三九
      貞觀前後から萬壽ころまでの約百七八十年間
  第一章 文化の大勢………………………………………………二三九
  第二章 文學の概觀 上…………………………………………二八五
        三代集時代の和歌
  第二章 文學の概觀 下…………………………………………三一八
         物語
  第四章 戀愛觀……………………………………………………三五三
  第五章 權勢觀……………………………………………………三七五
  第六章 自然觀……………………………………………………三九一
  第七章 佛教、儒學思想、及び神の信仰………………………四一〇
  第八章 生活氣分…………………………………………………四三八
第三篇 貴族文學の沈滯時代…………………………………………四五三
     長元頃から承久ころまでの約二百年間
(3)  第一章 文化の大勢……………………………………………四五三
  第二章 文學の概觀 上…………………………………………四七六
       物語
  第三章 文學の概觀 中…………………………………………四九六
       金葉詞花時代の和歌
  第四章 文學の概觀 下…………………………………………五一五
       千載新古今時代の和歌
  第五章 舊題材と新傾向…………………………………………五五六
  第六章 厭世思想…………………………………………………五七一
  第七章 神秘的及び道徳的傾向…………………………………五九六
  第八章 武士の思想………………………………………………六一〇
索引………………………………………………………………………六四八
 
(1)     序説
 
       第一章 上代國民生活の瞥見
 
 東海の波の上にわれ/\の民族が住んでゐることのやゝ廣く世界に知られたのは、割合に新しい時代のことであつて、文獻に見える限りでは普通に前一世紀といはれる時代、即ちシナの前漢時代の後半期が初である。さうしてそれがわれ/\の祖先の行動について、われ/\みづからの知り得る最古の時代でもある。そのころに筑紫人が朝鮮半島へ出かけて往つてその西北部である樂浪のシナ人と顔を合はせたのである。しかしわれ/\の民族がこの群島に生活してゐたのは、そのやうな新しい時代に始まつたことではなく、何時からといふことがまるで到らなくなつてゐるほど、はるかに古い時代からであつたらう。事實、われ/\の知識の及ぶ時代に於いては、われ/\の民族はこの群島にすつかり安住してゐて、民族的動搖の跡などは全く見られなくなつてゐたし、われ/\の祖先みづからも自分たちの民族の由來などはすべて忘れはててゐたらしい。さてこの民族の大部分が政治的に一國民として統一せられたのは、ずつと後のことで、確かには判らないがほゞいはゆる四世紀の前半期であり、全部にわたるその統一がなし遂げられたのは五世紀の初であつて、何れもシナの晉代に當る時であつたらうから、われ/\の祖先は一國民としての生活を始めない前に、極めて長い年月の間、一民族としての生活を營んで來たのである。さうしてその事蹟が今日から知り(2)得られるころになつては、われ/\の民族の住地の内には有力な異民族もなく、從つてさういふものとの衝突も競爭もなかつたらしい。即ち初からその住地を完全に領有してゐる唯一の民族としてわれ/\の知識に入つて來るのである。たゞ東北方に於いては異民族たる蝦夷と接觸してゐたので、それとの間には斷えず衝突があつたらうが、これは全體の民族生活を動搖させるほどのことではなかつた。
 われ/\の民族は、世界の何れの地域かにその故郷があり、そこから如何なる徑路かによつてこの群島に移來したではあらうが、その地域その徑路は今日からは知り難い。いくらかの臆測はできるにしても確實には考へ得られぬ。たゞ民族の體質が附近の大陸及び半島の大部分の住民とは同じでなく、言語がこれらの住民のと、その語法に類似するところはあつても、語彙に共通なものの殆ど無いこと、また發音のしかたに種々の差異のあること、並に生活樣式に根本的の違ひのあることが、注意せられるのみである。その故郷に於いて、又は移來の途上に於いて、接觸した異民族の幾らかを包攝し、その血を受け入れたでもあらうが、それもまた具體的にその跡を明かにし難い。なほ世間には、われ/\の民族が種々の人種の混合によつてこの群島に於いて形づくられたものとする見解もあり、その他にもわれ/\の民族の形成に關して或る假説か臆説かが提出せられてもゐるが、それらに對しては幾多の疑問がある。しかしこゝではこれらのことに觸れる必要がなからう。またわれ/\の民族がこゝに初めて移住して來た悠遠の昔には、一種なり二種なりの幾らかの先住民があつたでもあらうが、よしさうであるにしても、それらはわれ/\の民族の定住を妨げまたはその發展を遮るほどに多くもなく、またその力もなかつたと解せられる。從つて彼等は優勢なわれ/\の民族に親和し、次第にそれに同化し、そのなかに融けこんでしまつたらしい。先住民の(3)あつたことを想像するにしても、われ/\の祖先はそれを包容して、長い年月の間に、自己の民族のうちに吸收してしまつたのである。なほ、さうなつた後に、あとから新たに入つて來た異民族のあつたらしい形跡は、毫も認められぬ。これはわれ/\が明かな知識をもつてゐる時代の状態からの逆推によつて考へ得られることである。しかしこのこともまたこゝで問題とするには及ぶまい。たゞ始めてわれ/\の知識に入つて來る時代に於いてこの群島に占據してゐたわれ/\の祖先は、遠い昔からの歴史の結果として、言語風俗習慣を同じくする一つの民族として成り立つてゐて、民族としてのその生活が全く安定してゐた、といふことを知つておけばよいのである。
 かういふわれ/\の民族が遠い昔に於いて政治的に如何なる状態にあつたかは確かには知るよしも無いが、前一世紀のころに於いては、それ/”\に君主を戴く多くの小國家が形づくられてゐたことは判るので、それはその時代よりもかなり前からの状態が繼承せられてゐたものであらう。この多くの小國家のうちの、今の大和の地域を中心とする一國が、次第にその他の多くの小國家を服屬させ、漸次その勢力を大きくしていつて、終に全民族をその權威の下に收めたのが、統一國家の形成であつて、その大和の國家の君主の家が統一國家の首長としての皇室となられたのである。國家の統一は民族の内部に發生した事件であり、皇室は民族の内部に於ける存在であるので、こゝに國民と民族とが同義語として用ゐ得られる民族國家としてのわれ/\の國家の特性がある。これは我が國が島國であるといふ地理的事情のためであるが、かゝる特性をもつてゐる國家の國民であることは、われ/\日本人の大なる幸福であるので、それは幾つもの民族を包含する國家や幾つもの國家に分屬してゐる民族が、いかに不幸な歴史をもつてゐるかを見れば、すぐにわかる。ところで、われ/\の民族の全體が一つの國民として政治的に統一せられたことは、その點(4)に於いて民族生活に新しい色調を帶びさせたのであり、さうしてそれは時代の經過するに從つて次第に濃厚になつて來るのであるが、概觀すれば、統一後の民族生活も統一前のそれの繼續であり、それから歴史的に發展して來たものである。統一そのことがこの發展の一つの姿なのである。そこで上代に於ける國民、いひかへると民族、の思想が如何なるものであつたかをたづね、國民生活民族生活が如何なる状態であつたかを考へるには、統一以前に溯つてそこから研究を始めねばならぬが、その溯り得る時代には限界がある。先史考古學などが、生活の状態、文化の状態、について或る程度の知識を與へることのできる時代に於いても、その知識は民族生活民族文化の限られた部面に關してであつて、例へば社會組織とか政治體制とかいふやうなことは、それによつて知ることはむつかしい。またそれは民族の行動そのことを直接に示すものではない。民族生活民族文化の或る樣相を知るための資料をば供給するが、何人が如何なる行動をしたか如何なる事件を如何にして起したかといふやうなことについては、何ごとをも語らない。從つてかういふことの研究は、歴史時代の初とすべき前一世紀のころにその最初の出發點を置くよりしかたが無い。
 
 この民族の行動のわれ/\に明かに知られる時代に於いては、その生活の基礎は水田による米の耕作を主とし又は中心とする農業であつたと推測せられる。山野には狩獵すべき鳥獣に富み、河海には漁撈すべき魚介が滿ちてゐて、それらが食糧に供せられたことはいふまでもない。衣と住とは、植物の繊維で織つた衣服と木や竹を結びつけて構造し草を並べて屋蓋とした掘つたて小屋とであり、器具は石器と土器と竹木で作つた簡單なものとであつた。(これらの多くは、この民族がこゝに移來しない前からもつてゐた知識や習慣の持續せられたものと解し得られるので、その(5)うちには、例へば石器の使用の如く、文化の幼稚な時代の民族に共通なこともあると共に、またこの民族が長い間にみづから養つて來た特殊の習俗が、この群島の風土に適應してゐるために、おのづから繼承せられたものもあるであらう。例へば家畜をもたず從つてその肉を食ふことを知らなかつたのも、大陸、特にその北部の住民とは違つて、本來牧畜の習慣が無かつたからであらうと推測せられ、衣服に毛皮を用ゐなかつたり、住居に防寒の用意の無かつたりするのも、温暖の地に住んでゐた習慣の持續せられたのではあるまいか。さすれば米の耕作の由來の如きも、或はこの點から考ふべきものがあるのではなからうか。長年月の習慣は、新しく置かれた環境に適應しないところがあつても變改し難いのが常であるが、然らざる場合には、なほさらそれの持續せられるのが自然であり、生活の單純な上代人に於いては特にさうであつたらう。しかしこれらのことは、學問上困難な多くの問題を含んでゐるから、こゝで輕率な臆測をするには及ばぬ。なほこの群島は海岸線が長くして風波の穩かな内海をもつてゐるところが多く、特に大小幾多の嶋嶼の碁布する瀬戸内海の存在することは、漁撈と共に水路による交通を發達させたのであるが、これはわれわれの民族の地理上の發展を便にしたと共に、新しい習性や氣風を作り出す事情ともなつたであらう。さうして長い年月の間には、水邊にその生活の根據を置き又は海上の活動を主なる生業とするものも、漸次に生じて來たのであらう。しかし、これらのこともまたこゝで考へる必要はない。今はたゞ前一世紀ごろの状態を、状態として、知つておけばよいのである。)
 農業本位の生活はおのづから村落的集團の形成を誘ふ。特に水田の耕作には灌漑用水の必要があつて、そのためには一定の地域の住民による共同の施設が求められ、また土地によつては、野獣の侵害に對する防衛などについても共(6)同の行動がとられたであらうから、それらの點からもかゝる集團の結合が固められて來る。集團民相互の間に於ける依頼と援助とは、その他の種々の場合にも行はれたに違ひない。村落の共同の事業なり行動なりが村落民の合議によつて定められる風習も、かくして養はれたであらう。これは、かゝることが無くては集團生活ができないことからも、また後世の状態からも、推測せられることである。この集團には各々その首長があつたであらうが、生活の基礎が農業であつたとすれば、その主なる由來は土地の占據と開拓とに關することであつたと推測せられる。それについての何等かの知識と能力とをもつてゐるもの、多數人を指導し統率する才幹もしくは勢威のあるものが、遠い過去に於いておのづからその地位を占め、その子孫が世襲的に村落民の指導者また保護者としてのかゝる首長となつてゐたのであらう。集團の成立するにも、それを維持してゆくにも、何等かの權威を有するかゝる首長がなくてはならなかつたから、その首長はおのづから集團民の生活を成立させ維持させる任務をもつことになるので、そこに一種の權威ある指導者また保護者としてのはたらきが生ずるのである。集團民はそれに依頼してその生活を營んだと考へられる。これが村落的首長の歴史的由來である。溯つていふと、或る土地を求めてそこに移つて來た徑路に於いて既にかゝる首長がなくてはならなかつたのである。またこの集團は家を單位として成立してゐたが、その家は、家といふものの本質として、またその自然の状態として、特にわれ/\の民族に於いては住家の構造から來る制約もあつて、親子夫妻の少數の家族によつて形成せられ、父たり夫たる男子がおのづから家長の地位にゐたに違ひなく、一定の耕地の占用と、耕作そのことと、またその結果としての食糧の保有とについても、かゝる家族の形態が適應したのであらう。これが後世までも變らない日本人の家族形態である。狩獵や漁撈は自然のまゝの山野河海に於いてするので、それにつ(7)いては土地占用の欲求は生じないが、みづから勞力を加へた耕地はそれとは違つて、みづからそれを占用しまたそれを子孫に傳へようとするので、そのためにはかゝる家族の形態が適應するし、勞力と收獲とを共にするにもまた同樣だからである。(農耕生活は、定住の風習と、耕作といふ自己の力を一定の土地に加へることによつて食糧を得ることとの、二つの事情のために、財産私有の觀念を鞏固にする。人類が農耕時代に入つて來れば、この觀念はおのづから生じ又は明かにせられるといつてよからう。)村落はかくして、輕濟的に獨立性を有する家々の結合によつて、形成せられてゐた。時代の經過するにつれて人口が繁衍し家も分化して來るので、村落は同一血族に屬するかゝる家々を包合してゐたではあらうが、本來、一つの村落の形成せられた事情は、村落によつて一樣ではなく、またどれだけかの家々が同一地域に居住するやうになるにも、その事情は家によつて同じではなかつたらうし、新に土地を開拓する場合にも同樣であつたらうから、地域集團としての村落の形成には、血族關係は重要でなかつたと考へられる。われわれの民族の上代の社會が氏族集團血族集團によつて成りたつてゐたやうに考へようとしても、それを學問的に證明することはむつかしからう。また家の相續が母系によつてゐたことを推測させるやうな形迹も無い。
 かゝる村落はその幾つかが一つの小國家に包含せられて、その君主に隷屬してゐた。小國家の形成せられて來た情勢は知り難いが、村落の首長の強大なるものが、何等かの事情から、他の村落の上にその力を及ぼすやうになつたために、おのづからさうなつた場合が多からう。さうしてかゝる場合には、その首長がこの國家の世襲的君主の地位を占めるに至つたと考へられる。世襲的となつたのは、土地に定住する農業本位の民族であつて、すべての生活が、本質として世襲である家によつて營まれてゐた一般的風習の故であつたらう。君主の性質やはたらきは、領土の廣狹や(8)地理的状態や、住民の多寡やその生活の状況や、またその地位を占めるに至つた事情やによつて、幾分の差異はあつたらうが、一面では政治的君主として民衆に臨む權威を有し、民衆から貢租を徴しまた彼等を使役したと共に、他面では村落の首長と同じく、民衆の指導者もしくは保護者でもあつたと考へられる。その領土が狹小であり從つて民衆とも接近してゐたであらうから、政治的權威とてもそのはたらきが強烈ではなかつたらう。民衆がかゝる君主のために奴隷の如き地位に置かれたのでないことは、後の状態から逆推して考へても、明かである。たゞ君主はもとより、その直接の從屬者も、配下の村落の首長などと共に、一般民衆の上位に立つ特殊の身分をばもつてゐたらしいが、それは現代的意義での階級的地位といふべきものではなかつた。
 なほ村落的首長も小國家の君主も、公共的呪術師もしくは祭司としての任務をもつてゐたことが考へられる。あらゆるものに生命があり呪力があり、到るところに種々の精靈がゐて、人の生活は斷えずその力をうけそれに動かされるやうに思ひ、それがために何ごとについても如何なる場合にも或る不安と恐怖とを感じ、さうしてそれに對する呪術や祭祀の效果を信じてゐた上代のわれ/\の民族に於いては(これは何れの民族の上代にも共通な心理である)、一般の風習に從つて個人的にまた家族的に、或は集團的に、各々それを行つたに違ひなく、また巫覡ともいふべきものがあつたでもあらうが、かゝる首長や君主は、その配下の民衆の集團のために呪術や祭祀の儀禮を行ひもしたので、そこに民衆の保護者としての職掌の一つがあつた。民衆はその保護に依頼してその生を營むことができたのである。さうして村落もしくは小國家には、かゝる呪術や祭祀を行ふ神聖な場所がおのづから定められてゐたと考へられる。後の神社の起源の主要なる一つがそこにあつたであらう。
(9) 農耕の業はおのづから平和の氣風を形づくらせる。特に土地と氣候とが概してその業に適し、適度の勞作をすれば食糧に供するだけの收獲があつたらうから、生活も概して容易であり、また未開墾地が多く、人口が少かつた上代では、生活のために土地を爭ひ山野を爭ふ必要も無かつたので、そこからもこの氣風は強められたであらう。民族が一つであるために、異民族の間に起りがちな性質を有する感情の衝突が無く、從つてそれに誘發せられ易い性質の闘爭も無かつたと考へられる。一般に殺伐な闘爭的精神の養はれなかつたことは、勿論である。(民衆の闘爭的精神は多く異民族との衝突によつて養はれる。)遠い昔からの長年月の間に、漸次新な土地を求めまた開拓しつゝその勢力を展開して來た民族の經歴、特に沿海地方の住民においては海上の種々の行動が、おのづから進取有爲の氣風を養はせたであらうが、それは殺伐なる闘爭的態度となつて現はれはしなかつた。東方への進展も概して平和の間に徐々に行はれたのであらう。たゞ蝦夷と接觸する地域では、一種勇敢の氣象が馴致せられたであらうか。小國家の君主の間には時にいくらかの勢力の爭が無かつたではないにしても、激しい戰闘によつて紛爭が續けられたとは思はれぬ。小國家が長く小國家のまゝに繼續せられて、戰闘に堪へ得るだけの力が無く、また戰闘の結果としての兼併の行はれた形迹も見えないこと、後に大きな墳墓が築造せられるほどに土木工事が行はれるやうになつても、城廓の設備をするやうにならなかつたところに、古くからさういふ習慣の無かつた徴證があること、また宗教的にも地方的の保護神が生じなかつたこと、などからかう考へられる。政治的に小國家が分立してゐても、民族としては一つであつて、風俗習慣、特に言語、の同一であることが、君主相互の間に甚しき抗敵の情を起させなかつたのでもあらう。民族としての生活が安定してゐて、外部の異民族に對する衝突などによつてひき起される如き動搖の氣の少しも無かつた長年月の(10)經歴が、おのづからかゝる氣風を養つて來たことも、また考へられる。小國家分立の状態の久しきにわたつて繼續せられたのも、一つは、民族内に於ける政治的統一の要求せられるやうな外部の異民族との衝突が無かつたからであらう。
 前一世紀のころに於けるわれ/\の祖先の民族生活は、ほゞかゝる状態であつたらしい。これは主として當時のシナの文獻によつて、又は後の時代の状態からの逆推によつて、知り得られたことであるが、シナの文獻にかゝる記載のあるのは、筑紫人が海路樂浪にかよつてそこのシナ人に知られたからである。筑紫人はかくしてシナの工藝品を樂浪から齎し來つたが、青銅器、ついでまもなく鐵器、の使用とその製法とを知るやうになつたのはこれがためであるから、それによつてわれ/\の民族の文化が一大轉進をした。樂浪にゆくまでには、それより前の或る年月の間、半島の南西部に舟を寄せてそこの韓人と接し、何等かの物資の交換を行つてゐたに違ひなく、さうしてその韓人との間にはかなり密接な關係が生じてゐたかも知れぬ。或はその何れかの地域にわれ/\の民族の在留者があつたでもあらうか。從つてシナの工藝品*のいくらかは、既に韓人の手を經てわれ/\の民族に傳へられたでもあらう。樂浪に關する知識を筑紫人がもち、そこに向つて航路を開くに至つたのは、かゝる事情のあつたことを豫想しなくては解し難い。たゞ如何にしてかゝることが行はれるに至つたかは知られないが、耕地が少くして食糧を他に求めねばならなかつたために、半島と筑紫との間に往來して貿易を營んでゐた、萱岐對馬の島民によつて導かれたところがあらうか。概言すると、半島人はわれ/\の民族とは體質も言語も違ふ異民族であつて、それは昔も今と變らない事實であつたらうが、しかしかゝる状態で行はれた兩民族の交渉は、平和的のものであつたと解せられる。その間に衝突や闘爭のあつ(11)たやうな形迹は全く認められぬ。樂浪のシナ人との交通に至つては、啻にそれが平和的であつたのみならず、筑紫人は文化の程度がおのれらよりも遙かに高いその上流階級のものに對して、尊尚の念を懷いたであらう。だから一たびそこから精巧な工藝品*の得られることが知られた後は、ます/\多くそれを得んことを望み、かくして筑紫舟は、幾夜あこがれの夢をのせて島づたひ浦づたひに、遠き樂浪の濱邊をさしてしば/\出かけていつたのである。
 石器時代であつても、そのころの民族生活は必しも甚しく低級であつたのではない。家族制度も社會組織も、その時代の生活に適應する状態に於いて整頓し、日常の生活に必要な技術をもち、智能も發達してゐた*。さればこそ農漁のことも行はれ、或る程度の政治的能力も具はり、幾多の困難を冒して遠く樂浪に往復することもでき、シナの文物を學びとらうとする欲求も生じ、またそれを學びとり得たのである。長い過去の經驗が、當時のわれ/\の民族の生活をかゝる程度に發逢させてゐたのである。ところが金屬器の製造と使用とが行はれると、それによつて一般文化の發達の途が開かれ、生活の多くの部面に新しい動きが生じて來た。勿論この動きは急速ではなく、はじめの間はたゞ稀にいくらかの工藝品が傳來したのみであつたらう。しかし次第にそれに對する欲求も加はり、欲求するものも多くなつて來た。たゞこの新文物を欲求したものも先づそれを利用したものも、筑紫地方の小國家の君主とその直接の從屬者とであつた。けれども、極めて徐々にではあつたらうが、民衆もまたその日常生活のために新文物、特に金屬器の使用を知つて來たので、それによつて民衆の生活が次第に高められたと解せられる。外來の新文物新知識新技術が先づ上流社會に利用せられ、後になつて漸次民衆化せられるやうになるのは、かなり後の時代までのわが國の文化の通相であつたので、それは、外國との交通、異民族との接觸が、一般民衆の行動としてではなくして、君主なり政府(12)なりの事業としてであつたことの、自然の趨向であるが、上代に於いては特にさうであり、この群島の地理的位置と、農耕を主なる生業とする民衆の生活の状態と、また附近の諸民族の形勢とに、その根本の理由がある。一般民衆に於いては、その生活が容易であつてこの國土に安住し得られたのと、新しく土地を開拓するにしても、その土地はこの國土のうちで得られたのとのために、生活の場所を他の國土に求める必要が無かつたし、島國といふ地理的位置と、生活物資の自給自足のできる農業生活とは、特殊の島嶼は別として一般的には、島國の外に出て活動する欲求を起させもしなかつた。他の民族に壓迫せられまたは侵入せられることによつて起る民族的動搖が海外進出を誘致する、といふやうな事情の無かつたことは、いふまでもない。接近してゐる半島には大きい政治的勢力が形成せられてゐず、東方アジアに於ける唯一の強大國であつたシナはこの國土と距離が遠いから、それらの民族が海を渡り半島を越えてこの國土に迫つて來るやうなことは無かつたのである。これはわれ/\の民族が、能動的にも所動的にも、海外の異民族と説觸する機會が少く、從つてその民族的勢力との衝突から起る激しい民族競爭を經驗したことが無く、その結果としての殺伐な戰闘的氣象の養はれなかつた事情ともなるのであるが、それはまた海外との交渉が特殊の優越なる地位にあるものの特殊の欲求によつて行はれ、さうしてそれが平和的文化的のものであつたことの、理由ともなるのである。シナの文物を學びとることによつて發達した上代文化の貴族的性質は、こゝに胚胎する。(後の大和朝廷の半島經略には政治的意味もあつたが、一般の民衆生活の上に及ぼしたそのはたらきは、文化的のものであつた。)
 この平和的文化的な交渉が民衆の事業として行はれるに至らなかつたのは、上にいつたやうな事情からではあるが、一つは優秀な文物をもつてゐるシナとの距離が遠く、その間の交通が困難であつたからでもある。この困難を冒して(13)新文物を求めるのは、特殊の權威と力を有するものでなくてはできないことであつた。たゞその求め得たものを權力者が獨占しようとしなかつたことが、注意せらるべきである。要するに、樂浪との交通はその結果として我々の民族全體の文化の發達を誘導したところにその意味があつた。もつとも君主に利用せられたこの新文物は、おのづから彼等の勢威を加へることにもなつたであらう。彼等の生活はそれによつて豐富になり、武器も精鋭になつたと考へられるからである。しかしそれが民衆を抑壓するためにはたらいたとは考へられぬ。たゞ後にシナ人から學んだと思はれる墳墓の築造などが行はれるやうになると、それがために民衆の使役せられることは少なくなかつたであらうが、いかなる態度で使役せられたかは、上に考へた如き君主の民衆に對する地位と任務とによつて考へらるべきである。また君主が武力を以て民衆を壓服したやうな形迹は、どこにも無い。
 さて直接に樂浪と交通したのは筑紫*の君主であつたが、この状態の繼續せられた四世紀のはじめまでの間に、新文物新技術そのものが次第に加はりも發達もし、金屬器においても青銅器より鐵器に進み、養蠶の術さへ學ばれ、またそれに伴つて韓人との間に行はれてゐた貿易も進んで來たらしいが、それと共に、新文物新技術の利用が次第に他の地域にも及ぼされ、特に瀬戸内海の航路によつて後のいはゆる近畿地方に傳へられたことが推測せられる。内海の兩端にある筑紫と近畿地方とは、昔から水路による交通が行はれてゐたが、この新文物新知識を傳へまた傳へられることによつて、その間に一層密接の關係が結ばれて來たのである。久しい前から近畿地方をその領土に收めてゐたと考へられる大和の國家が、次第にその勢力を四方に擴張し、西方に於いては四世紀の前半に筑紫の北半を領有するに至つたのは、こゝにその一由來があつたと解せられる。その勢力の根柢にかくして採取せられた新文物新知識があつた(14)と共に、内海の航路が政治的にも大なる寄與をしたであらう。
 
 皇室の御祖先を君主として戴いてゐた大和の國家が如何にして幾多の小國家を併合し、全民族の政治的統一に向つてその歩を進めていつたか、その情勢は知り難い。たゞ初からかゝる統一の企圖を懷いて經略を行つたのではなく、何等かの事情から附近の諸小國の上にその勢力を加へ、次第にそれを遠くに及ぼしてゆくと共に、欲望がそれにつれて増大し、終に全民族の統一を目ざして行動することになつたではあらう。さうしてそれには、何の時にか創業の主ともいふべき人物のはたらきがあつて、それによつて急速にその勢の進展したことがあつたでもあらう。半島の形勢などから民族の政治的統一が要求せられたやうな形迹は見えないが、たゞ後の段階としての筑紫の北半の服屬には、四世紀に入つてからの半島の大動搖がそれを刺戟し、或はそれを誘致したところがあるのでもあらうか。またその間の進展の過程に於いては、時に何程かの武力を用ゐたことはあつたにしても、概言すると、小國家の君主の多くは平和の間に、或は何樣かの妥協的態度によつて、服屬の意を表したであらう。さうすることによつて彼等の地位と勢力とが保たれることになつた、と推測せられるからである。大和の國家は、服屬した諸小國の君主に從來の地位とその領土とを保有させる方針をとつたと考へられる。統一の後にもいはゆる國造などの名によつて地民を領有してゐる豪族が多く、それらのうちには、種々の變化を經ながら、これらの諸小國の君主の地位を繼承したその後裔と見なさるべきものが、少なくなかつたであらうから、これはこの推測の一資料となるべきことである。大和の朝廷と舊來の諸小國とがかういふ態度をとつたことには、その根柢に於いて、民族が同一であつてその間に甚しき感情の反撥が無い(15)といふ現在の事實、また國家間に執拗なる闘爭の行はれなかつたことによつて養はれた歴史的習性の力が、あつたと解せられる。筑紫の北半がその地方の一國である邪馬臺國の政治的權力に服從してゐた時代にも、その下に舊來の諸小國の存在したことが、參考せられるので、これもまたその服從が平和の方法によつて行はれたことを示すものであらうか。統一の後に於いても皇室は威嚴を以て地方の豪族に臨まれるよりも、親和の情を以て彼等を包容せられる傾向の強かつたことを、考へるがよい。戰闘的態度を示されなかつたことは、いふまでもないので、歴代の皇居に城廓の備への無かつたことも、注意せらるべきであらう。後にシナの都城を模倣した皇都宮闕の建造せられるやうになつてからも、シナに於ける如き城廓は設けられなかつた。宮門の護衛に當つてゐた大伴氏佐伯氏があつたが、その任務はむしろ儀禮的のものであつたことが、後の事實からも知られる。明かな歴史的事實としては、皇室が武力を以て民衆に臨まれたことが無く、また何人も皇室に對して武力的反抗を企てたことは無い。この點においては、わが國ほど平和の空氣に包まれてゐた王室は世界のどこにも無いといつてよい。墳墓に立てられた埴輪土偶が、シナの帝王の陵に置かれた石人石馬の類とは違つて、單なる葬具に過ぎなかつたことも、參考せられよう。皇室のみではない。地方的勢力の間にもまた、戰闘は行はれなかつた。上代に於いてはわが國民は常に平和の間にその生活を營んだので、これもまた世界に稀なことである。埴輪の土偶の顔面の表情の平和的であることも、またそれを示すものであらう。
 大和の國家が筑紫の北半を領有したことは、我が國の文化が一大轉進をするやうになる機會となつたものである。この領有には半島の大動搖に刺戟せられたところがあるのではないかと、上にいつておいたが、それは、四世紀の初に今の南滿洲方面から起つた民族的勢力の變動が半島にも及んで、これらの地域に於けるシナの勢力の全面的撤退を(16)來したことに、その端を開いたものである。さうしてその結果、この世紀の中ごろに至つて、高句麗(北半及び遼東地方)、百濟(南西部)、及び新羅(南東部)、の三國鼎立の形勢が半島に於いてほゞ成立した。たゞ最南部にあつて我が國に接近してゐる任那地方の諸小國のみは、不安定の状態に殘されてゐたのである。筑紫の北部を併有し民族の統一をほゞ完了した大和朝廷が半島にその手を伸ばし、新羅の壓迫に對して任那諸國を防衛するために、それをわが國の保護の下に置いたのは、かゝる情勢に處するがためであつて、それには半島のこの情勢が、我が國自身のために警戒を要するものであることを感じた、といふ理由があつたであらう。或は任那地方に在留し貿易に從事してゐる我が國民があつたので、その生活と事業とを援護する必要があつたのかも知れぬ。しかしこの活動の大きな效果は、それが百濟をして我が國に近づかしめ、その百濟をとほして南シナの文物を我が國に導き入れる途の開かれたことである。政治的活動は一時成功したかに見えたのみで、まもなく挫折しはじめ、その後は常に艱苦の途をたどつて來たが、それでも高句麗の南下を或る程度に抑止して百濟を存立させ、新羅の任那諸國に對する侵略を或る期間防ぎ得たのではあつた。が、我が國にとつては、それよりも、大和朝延に於いてシナの文物を採取せんとする欲求が年と共に加はり、シナ傳來の知識や技術をもつてゐる百濟人や本土のシナ人を招致すると共に、半島の經營に關する種々の事情のためにシナの南朝に派遣した使節にも、文物の採取に關與させたことが、重要なのである。かくして採取せられた知識技術は、直接には朝廷及びそれに從屬する貴族に利用せられたので、それによつて發達した上代文化が貴族的であるのは、自然のことであり、さうしてこれは、上にも述べた如く、我が國の地理的位置と國民の生活状態とが、民衆みづから海外に對して活動する便宜もまた必要もなく、從つてシナ文物の採取は朝延の力によつて始めてなし得られ(17)ることであつたからである。シナの文物を採取するといつてもシナ人の生活、即ちシナの文化、を學ぶのではなく、文物を單に文物として、それをシナ人の生活から切離して取扱つたのも、またこのことと關聯がある。(明治時代からの日本人がいはゆる西洋の文化を學びとらうとしたのとは、この點で大きな違ひがあり、その文化を學びとることによつて形成せられた現代の日本の文化が國民約のものである理由も、こゝにある。)特にこの時代の半島に於ける政治的經營は國家としての政策であつて、民族的活動の現はれではなく、その行動の對象もまた半島に分立してゐた國家であつて、その國の民衆ではなかつたのと、半島の文化階級、即ちシナの文物を利用してゐたものは、少數の治者階級であつて、民衆は概ね未開の状態にあつたのと、これらの事情のため、我が國の民衆の間に兵卒となつて半島に渡つたものがあつても、それらは海外に對する民族的活動を誘發しなかつたと共に、シナの文物の採取の上にも直接にはさしたるはたらきをしなかつたであらう。しかし貴族の間に利用せられたこの新文物も、後にいふやうな事情によつて、徐々にではあるが次第に民衆の上にそのはたらきを及ぼしてゆくのである。
 四−五世紀から六世紀にかけてのこの情勢に伴つて、國家の統一は次第に鞏固になり、皇室の權威は漸次かためられて來た。最後まで殘されてゐた筑紫の南部、即ち熊襲の地域も、五世紀の初には服屬した。さうして日本民族の政治的統一が完成した。勿論、四世紀の前半に於いてその統一はほゞ成就し、日本の國家はその時代に既に形成せられてゐたので、熊襲の服屬はたゞそれを完了したに過ぎないものではあるが、しかしその完了せられたことに大きな意味があるので、皇室の下に統一せられてゐる日本の國家が、これから後、永久に存績するものであり、また存續させねばならぬ、といふ信念が、それによつて無意識の間に次第に形づくられまた強められてゆくのである。
(18) こゝでこの時代の國家組織の形態を一應概觀しておかう。皇室の周圍には、各々その部下の屬僚(伴または部)を率ゐて朝廷の事務を分掌する世襲的官司(伴造)の諸家があつて、それらがおのづから貴族の社會を形づくり、それぞれ地方の所々に土地を領有し、その地の住民を部民(品部)としてゐたが、土地の大部分は古くからの歴史的由來のある世襲的豪族(國造縣主など)に分屬し、住民はその部民となつてゐた。これらの部民が自由民であつたことは、いふまでもない。(兵卒となつて半島に渡つたものは、將軍として彼の地に派遣せられた貴族もしくは豪族のかういふ部民であつたと推考せられる。大伴氏物部氏の如き武人貴族の部下に屬する兵卒が彼等の領土の部民であつたことについては「日本上代史の研究」第一篇參照。)さてこの貴族豪族の領土の間に、皇室の直轄領と皇族の領地とが散在することになつてゐた。皇室の直轄地及び皇族貴族の領地に於いても、その地の豪族が領主と住民との中間に於ける或る地位を有つてゐたらしく、一方では領主のために租税徴收の如き事務を掌ると共に、他方では國造縣主などと同じく、それ/\の地方の住民の集團の首領であり指導者また保護者でもあつたやうである。從つて皇室の直接の統治の對象は、一般民衆ではなくして、地方的豪族であり、或はそれと朝廷の貴族とであつた。これらの豪族と配下の民衆との經濟面から見た關係には、明かでないところが多く、それにはまた地方により豪族の領土の大小により、または豪族の地位を得るに至つた事情にもよつて、一樣でない點もあつたであらう。しかしそれはともかくも、豪族が朝廷もしくは貴族に對する關係に於いては民衆の側に立つものであると共に、民衆に對しては大なる力をもつてゐたので、朝廷及び貴族の地方に對する處置は、すべて豪族との交渉によつて行はれたらしい。かゝる状態であつたから皇居の所在地と地方との連絡はかなりに緊密であり、地方の豪族と朝廷との間にも親近の關係が生じた。大和地方も(19)しくはその近隣の豪族に至つては、なほさらである。從つてまた朝廷に採取せられたシナ傳來の文物知識技術も、次第に地方に傳へられ、各地の豪族がそれを學ぶやうにもなつた。墳墓の築造が彼等によつて到るところに行はれ、舶載し又は新技術によつて製作せられた工藝品が副葬せられたことによつても、それは知られる。一般民衆にそれが及んでゆくのは後のことであつて、特に東國に於いては、日常の器具として石器を用ゐることすら、かなり長く續いたでもあらう。しかし一つはその首領たる豪族の生活と何ほどかの結びつきのあることによつて、一つは徴發せられて大和方面に往復するものがあることによつて、いくらかづつ新文物に接し次第にそれを學びとつてゆくものが生じて來たことも、想像せられる。
 皇室は政治的君主であると共に、その君主の任務の一つとして、國民の生活を安全にするために、祭祀または呪術の儀禮を行はれる習慣であつたが、地方の豪族もまたその領民のためにする同じ職務をもつてゐたらしく、彼等の住居の附近にはそれ/\かゝる儀禮を行ふ神聖なる場所、即ち神社、の設があり、彼等は祭司または呪術師として配下の民衆の集團的に行ふかゝる儀禮を主宰した。(上に述べた昔の村落の首長や地方的小君主の同じ任務は、この事實から逆推したものである。)當時の思想についていふと、一般にカミ(神)といはれてゐるもの、即ち呪力をもつものまたは精靈、はおのづから人格を與へられる傾向を生じては來たが、それはまだ發達せず、人格神が形成せられてゐなかつた。祖先を神として祭祀すること、その意義での祖先崇拜、の習慣も無かつた。また地方の保護神も民族のそれも生じなかつた。地方的民族的の保護神の無かつたことは、根本的には、民衆の地方的集團が互に抗敵するやうなことが無く、異民族に對する民族的闘争が行はれなかつたからでもあるが、宗教的側面から見ると、こゝにも一つ(20)の事情があらう。また智能の進歩と共に、道徳意識が次第に明かになつては來たが、なほ呪術的宗教的思想に制約せられるところが多かつた。かゝる状態において、狹い範圍では地方的豪族が、廣くは皇室が、その社會的政治的地位に伴ふ自然の任務として、民衆のために祭祀や呪術の儀禮を行つたのであり、この意味では天皇も地方的首長と同じく祭司もしくは呪術師の職掌を帶びてゐられたのである。しかし天皇が神として宗教的に崇拜せられたのではない。政治的君主としての天皇の地位の稱呼の一つとして「現つ神」といふ名が今日に遺存する文獻に見えてゐて、それはその文獻の作られない前から繼承せられたものであつたらうが、これは極めて遠い昔からの因襲的觀念が儀禮的に保存せられたものに過ぎない。天皇の普通の稱呼は人としての尊稀であるスメラミコトまたはタリシヒコであつた。天皇も皇族もその日常生活に於いて常に民衆に接し民衆と共にせられたことは、いふまでもない。なほ天皇の政治が神權政治であつたといふやうな形迹はどこにも無い。このことについては後にいはう。
 
 國家は統一せられ皇室の權威は固められて來たが、しかし半島の國家に對する政治的活動が朝廷の事業であつて、國民の活動でなかつたために、一般的にいふと、地方的豪族の如き地位にあるものの間に於いてすらも、異國民との對抗に刺戟せられて生ずるのが常である國民的感情といふやうなものは成長せず、たゞ皇室に對して共通の思想なり感情なりをもつてゐるのみであつた。民衆に於いてはなほさらであつたらうが、たゞ皇室直轄領の住民は領主たる皇室に對して、一種親近の情を懷いてゐたであらう。政治的制度の上から地方民がそれ/\皇居の所在地に往復することはあつても、民衆が國民共同の何ごとかを、例へば宗教的祭祀の如きことを、行ふために一定の場所に集會すると(21)いふやうなこともなく、從つてさういふところから全國民を通じての共同生活の精神の養はれることも無かつた。すべての生活が家族的であり村落的であるために、家族生活村落生活を維持するものとしての道徳觀念が、長い年月の間におのづから形づくられて來たが、一般人に於いてはその思想が、それよりも廣い範圍に及ぶことは少かつた。農業民であつて多くの地方に於いてはほゞ自給自足の生活ができ、物資の交換は時々開かれる「市」に於いてせられる風習であつたのと、筑紫及び瀬戸内海の沿海地方を除いては、海上交通の便宜が少かつたのとのため、人口の集中するところが生じなかつたと共に、見しらぬ人々の會合する機會も多くはなかつた。從つて家と村落とを超えた、またはそれと趣の異なつた、ところに於ける人々の生活は、深く理解せられなかつたでもあらう*。
 しかし人をばどこまでも同じ人として見てゐたので、何人をも自分らとは違つた劣等なものとして輕侮することはしなかつた。民衆はもとより貴族豪族に於いても、奴隷の如きものを使役する風習の生じなかつたことは、いふまでもない。さういふ證迹は史上に全く認められぬ。奴隷は戰敗によつて捕虜となつた、または民族的闘爭に於いて劣敗者となつた、異民族であるのが世界の一般の例であるが、われ/\の民族は、概していふと、異民族に對してさういふ闘爭をしなかつたからである。たゞ蝦夷を捕虜としたことはあるが、彼等はその狩獵生活の習性が農業に使役するには適しなかつた。事實、彼等は集團的に地方に配置せられ、概ねその生活の自治を許されてゐたことが、後の状態からも推測せられる。また半島からはその知識人技術者を招聘してその知識技能を用ゐそれを尊敬したことこそあれ、一般民衆を竝し來つてそれを使役したことを思はせるやうな資料は毫も發見せられない。上代に於いては、韓人は少數の知識人技術者の外にはこの國に來なかつたことを考へねばならぬ。さうしてこのことは、上代に於けるわれ/\(22)の民族の平和の氣風ともおのづから相應ずるところのあるものである。同じわれ/\の民族のうちの或るものが、後に奴婢の漢字をあてられた「やつこ」の名によつて使役せられたことはあるが、それは奴隷とは性質の全く違つたものである。その名も本來、親近の意義を帶びてゐる「家つ子」である。人が家つ子となつて他人の家に使役せられるやうになる事情は種々あつて、一樣ではなかつたらうが、何れにしても獨立して生活することのできない場合のことであつたらうから、一面の意味に於いては、彼等はそれによつて生存することができたのである。また貴族や豪族の配下の部民のすべてが、この家つ子の外は、どこまでも自由民であつたことは、上に既に述べたところである。われわれの民族に於いては、昔にも後世にもヨウロッパ風の農奴といふ如きものすら發生しなかつたので、さういふもののあつたやうな形迹はどこにも無い。
 個人としては生活が容易であり、民族全體としては外部から異民族に壓迫せられることもなく、内部に於いても激しい闘爭が起らず、その上、山も川も概して小さく優しく、氣候風物も温和であつて、民族生活の上に抑壓*を加へるやうな強烈な自然の現象も無い。水蒸氣が多いので、草木が繁茂し農耕を利する*。地域によつては時に地震があり、また幾年かに一度は颱風に襲はれるところが多いが、稀に起る事變は生活を脅すことが少く、しば/\遭遇することは常態視せられるので、共に民族の性情に大なる影響を與へない。われ/\の民族はこの國土に滿足してゐた如く、この人生にも滿足してゐたに違ひない。人生に滿足してゐるから、この現し世を起越した境地があるとは想像しない。要するに素朴な樂觀主義の民であつたのである。輕快な淡泊な性質は養はれたが、執拗な酷薄な氣風などが生じなか(23)つたのも、同じ事情から來てゐる。上代人の常として、上に述べた如く、自然界の事物の脅威を感じ到るところに存する精靈のはたらきを恐れてはゐたが、それは呪術的祭祀的儀禮の力によつて防ぎも除きもせられるので、かゝる樂觀的氣風の發生を阻止したりそれを動搖させたりはしなかつた。のみならず、公共的集團的に行はれる場合のかゝる儀禮には、おのづから歌舞や饗宴の行動が伴ひ歡樂の空氣が釀し出されるので、そこにこの氣風と契合するところもある。
 しかし、生活が容易であつたことは、一般民衆が、我が國の地理的位置の上から、他の文化民族と接觸してその刺戟を受ける機會の無かつたことにも助けられて、その生活を高めるために新しい事物を造り出さうとする強い欲求が民衆みづからの間に生ずることを妨げた氣味がある。さうしてその新しい事物は、貴族豪族によつて採取せられ、それから間接に受け入れられたシナの文物によつて、導かれる外は無かつた。ところが、かゝるシナの文物の取り入れかたと、シナの文物そのものの特殊の性質とは、我が國の文化に種々の暗影を付與することにもなつた。その一つは、シナの文物を採取したのは政府の事業としてであり、百濟もしくはシナの官府からそれを得たものであると共に、先づそれを利用したのが朝廷及び貴族であつたために、その文物を主たる要素として形づくられた我が國の上代の文化がおのづから貴族的性質を有するやうになつたことである。彼等の採取したのは文字であり工藝品とその製作の技術とであるが、それらがみな貴族の生活に先づ利用せられた。大和附近の豪族はこの點に於いて貴族と同じ地位にあり、地方の豪族も次第にその文化の圏内に入つて來たが、一般民衆は概ねその圏外にあつたのである。さうしてそれがために貴族豪族の生活と民衆のそれとの間の懸隔が生じ又は大きくなつて來た。民衆に於いては、例へば農耕の術など(24)がシナ傳來の知識によつて進歩するやうなことは、直接には無く、從つて民衆文化の發達がそこから誘はれることも無かつた。かういふ状態の生じたのは上に述べた如き事情のためであつたが、それと共にまた一つは、シナの文物そのものの性質によることでもあつた。シナの文物は、その本質として治者階級上流階級のものであつて、民衆のものではなかつた。文字も、それによつて傳へられる知識も、それを用ゐる文學も、すべての工藝も、みなさうである。文字の如きは表意文字であつて一語が一字であり、その字體があの如きものである點だけから見ても、民衆に解せられることの極めて困難なものであり、事實また民衆は殆ど文字を解しなかつた。文字のこの性質がシナの文物の性質を象徴するものであつて、すべての文物は、畢竟、治者階級の生活を粉飾するもの、その權力をはたらかせるためのものであつた。知識階級といふものがあつても、それは治者階級に從屬したものであつた。民衆の生活は後までも概ね上代のまゝであつて、例へば農耕の如きものにも新しい工夫を加へ、新しい技術を生み出すことが少く、從つてそれについての知識が知識として殆ど構成せられなかつた。全く構成せられなかつたのではなく、農業に關する著作もいろ/\にせられたが、農民みづからのしごとではなかつた。シナから學んだ文物を要素として形づくられた我が國の上代の文化が貴族的のものであつたのは、これがためでもある。
 次には、シナから學ばれた知識が國民の實生活から遊離してゐたことである。わが國わが國民とは、風土、人種、歴史、が違ひ、家族形態、社會組織、政治體制、が甚しく異なり、生活と生活氣分との遙かに隔つてゐる、シナに發生したものを採取したのであるから、これは當然である。例へば、言語の性質も構造も語彙もわれ/\の民族のとは全く違ひ、發音のしかたにも大なる差異のある、シナ語の表徴としての漢字によつて億へられた知識、特に政治や道(25)徳の教としての儒學のそれの如きは、その最も著しいものである。シナ人の實生活には交渉が無く、たゞそれから發生しその上に構成せられた思想のみを、單に知識として受け入れるのであるから、國民の實生活とこの知識とは甚だ調和し難いものである。從つてそれを學ぶことは、實生活から遊離した一つの知識的遊戯になつてしまふ。さうしてこれにもまたシナの知識そのものに由來するところがある。シナに於いては、治者階級の知識が民衆の生活から形成せられたものでないのみならず、治者階級知識階級に於いても、彼等の實生活から遊離したものであり、實生活から構成せられ實生活を動かしてゆくものではなく、知識の世界が生活の世界とは別に存在したといつてもよいほどであつて、儒教の學はその標本的のものであつた。かゝる知識がわが國民の實生活に接觸することの少いものであることは、いふまでもない。たゞわが國にも適用し得られるものは工藝技術に關する知識であつて、それを利用することによつてわが國の文物は豐富にもなり著しい進歩もした。
 いま一つは、その文物を學ぶべき先進文化國が、世界に於けるわが國の地理的位置のために、シナのみであつたといふことである。もしシナ以外の文化民族と接觸することができたならば、その民族の文物をも採取することによつて、わが國の文化の内容を豐富にすることができたのみならず、それとシナのとを比較し商量することによつて、その間におのづから撰擇が行はれ、シナの文物のみに依頼することから生じた上記の弊害が輕減せられたに違ひなく、また比較商量するといふそのことによつて、事物なり思想なりを批判する能力をわれ/\の民族の精神活動に加へたであらう。然るにそれができなかつたのである。
 しかしシナの文物は尊重せられねばならず學習せられねばならなかつた。それは、おのれ等の有つてゐるものより(26)も遙かに程度の高いもの、又はおのれ等の有つてゐないものを、おのれ等のものとしようとする、當然の欲求から出たことだからである。初めに實用上の便利または目に見える美しさに心がひかれて、その工藝品を將來しまたその技術を學ばうとしたのは、そのためであり、次にはそれに導かれて文字を知り文字によつて記されてゐる書物とその思想とを知らうとするやうになつたのも、自然のことである。さうして文字と書物とを學ぶことになると、それの解し難く學び難いものであることが、一層それを價値の高いものと思はせ、その學習の欲求を更に強めたのでもある。この欲求の強かつたことと、それを學び得る能力をもつてゐたこととが、わが國の文化を發達させた重要の事情である。しかし本來自己の造り出したものでないものを學んだこと、またそれに長い年月を要したことの、自然の趨向として、何ごとにつけてもシナのを摸倣する風習が知識人の間に養はれ、自己の生活から自己の知識を造り出すよりも、既に形づくられてゐるシナの知識に自己を順應させ、またはその型にあてはめて自己を視る、といふ態度が馴致せられ、さうしてこれらのことがおのづからシナ崇拜の念と相伴ふことになつた。自己の現實の生活によつて、またその生活から、自己の知識を送り出さうとはせずして、他から與へられた知識に追從し、新に傳來するものを喜んで常にそれを迎へるに忙しい、といふ後世までの知識人の氣風も、その遠い歴史的由來をこゝに有する。文化の幼稚な時代には他の優秀な文物に接してそれを模倣しようとするのは、自然の心理でもあり、模倣し得たところにそれだけの能力のあつたことが示されてもゐるし、またその學んだ文物が異民族のものであるがために、民族的の偏執や異民族を輕侮する氣風が一般に起らなかつたので、そこにシナの文物の採取の一つの意味があるが、しかしその反面にはこゝにいつたやうな缺點も生じたのである。與へられた知識が自己の實生活に一致しないものであるにかゝはらず、一致して(27)ゐるかの如き錯覺を生じ、そこから知識が眞の知識とならず、生活もまたその純眞さを失ひその方向を誤まることにもなつたのである。
 けれどもまた他の一面からいふと、生活はどこまでも現實の生活であり自己の生活である。知識人は與へられた知識に眩惑せられがちであるが、彼等とてもその知識にかゝはりの無い生活の一面があり、さういふ生活を生活してゐる。だからその生活は全くかゝる知識のために抑制せられてしまふのではない。從つてその生活が次第に他から與へられた知識を生活に適合するやうにもする。漢字を利用しその性質を變改して國語を寫す方法を考案し、政府の記録にも知識人の述作にも、漢字で書く國語の文章を用ゐることにしたのは、その最も著しいものであつて、後にいふやうに六世紀の中ごろに始めて作られたと考へられる神代の物語なども、かゝる文體によつて書かれたのである。(上代の文章は漢文であつたやうにいはれても來たが、それは大なる誤であつて、例へば古事記によつて傳へられてゐるやうな書き方が普通に行はれてゐたものであつた。)知識を求める點に於いてはどこまでもシナの文物を尊重したが、自己を表現する點に於いてはそれに拘束せられず、却つてそれを利用し使役した。後までも學問の主なるものはシナの書を讀むことであるが、それと共に日本語による日本獨自の文學の發達してゆくのも、そのためである。文章に於いてのみならず、一般文化の上にも多かれ少かれかゝる傾向が見られるやうになつた。特殊の知識人の直接にはたらかない方面に於いては、特にさうであつた。貴族社合の家屋の建築、墳墓の造營、器具の製作、などに於いて、外來の技術を適用し又は學びながら、それによつて獨自の形態を創造して來たのも、その例である。島國である地理的位置のために政治上の獨立が完全に保たれてゐたのと、また民衆はもとより貴族豪族とても、特殊の使命を帶びた少數(28)の官吏の外は、海外に出て活動することが無く、またシナ人も韓人も、同じ意味での官吏か招聘せられた知識人または技術者かの外には、來朝せず、從つてシナ人もしくはシナ式の實生活を直接に見聞することが無かつたのと、これらの事情のためにかういふことができたのである。(この最後の事情は、シナを空想化する傾向をもつ點に於いて、一面に於いてはシナ崇拜の念を強めるはたらきをもしたけれども、それと共にかういふ效果をも生じたのである。)さうしてその根本は、外來の文物を自己の生活に適合させるやうにした國民の生活力にある。貴族豪族によつて採取せられたシナの文物が、極めて徐々にではありまたシナ的特色が漸次薄らぎながら、民衆の間に及んで來たのも、またその一現象である。民衆の生活は民族的特性を最も強く保持するものであるから、シナから傳へられた文物も、それに取入れられるやうになれば、シナ的特色は次第に薄らぐのである。歴史の發展と共に、半島及びシナのとは全く性質の違つた、我が國に獨自の生活、獨自の文化が、次第に形成せられて來た所以はこゝにあり、その淵源は深くまた遠い。初めはすべての、また單なる、模倣であり、後になつてそれが生活化せられ、その間から漸次に獨自のものの造り出されて來るのが、外來の文物に接した場合のわが國民の常態であつた。(上代に於いて外來の事物に撰擇を加へ、採るべきを採り採るべからざるを採らなかつた、といふやうな考へかたは、當時の文化状態に於いては、心理的にできなかつたことをできたやうに思ふものであるのみならず、事實にも背いてゐる。)
 かゝる状態の間に年月は過ぎ歴史は進展して來た。五世紀から六世紀にかけて國家の形態は次第に整頓し、上に述べたやうな貴族豪族、即ち伴造國造、の地位も定まつて來た。半島の經營は次第に困難になつたが、高句麗の攻撃にあつて領土の北部を略取せられた百濟、斷えず新羅の壓迫をうけて終にそれに服屬するに至つた任那に對して、なほ(29)或る程度の勢威をもつてゐると共に、シナの文物の學習に關する百濟との交渉は益々密接を加へた。半島のかゝる形勢に於いて種々の事變に逢着し多くの經驗を積み、特に異民族との交渉がその經驗を深くも複雜にもしたので、貴族豪族や知識人の智能も大に進んで來たことが推測せられる。學び得たシナの文物もまたそれは與つて力があつたであらう。
 さて、かういふ状態にまで我が國を導いて來た治者階級貴族階級のものは、これからの我が國をどういふ方向に進めてゆかうとしたであらうかといふに、何よりも重要なこととして、シナの文物を一層多く採取しようといふ欲求がはたらいたに違ひない。さうして恰もそれに應ずる如く、その文物は、六世紀の中ごろに於ける佛教の傳來によつて、更に豐富になり、それによつて半島及びシナとの文化上の交渉もまた深められることになつた。
 
(30)     第二章 文學の萌芽
 
 六世紀のころよりも前の文學的作品として今日に遺つてゐるものは、殆ど無いといつてよい。たゞ記紀の神代及びその他の種々の物語によつて、六世紀の中ごろにできたと推定せられるその物語の原の姿が或る程度に想像せられ、またその歌謠のうちの或るものによつて、そのころの民謠もしくは抒情詩のおもかげが思ひうかべられるのみである。神代の物語は一種の文學的作品と見なすべきものであるが、記紀によつて今傳はつてゐるのは、七世紀を經て八世紀のはじめまでの間に幾度も修補せられ又は改作せられたものであり、歌謠の殆ど全部もまた同じ時代のものと解せられるからである。神代の物語には、遠い昔から語り傳へられた幾つかの民間説話が含まれてゐるが、それは文學的作品とは見なしがたい性質がある。
 われ/\の民族は上代に於いて、朗吟するものとして口誦によつて傳へられる敍事詩を作らなかつた。敍事詩は民族的の感情、欲求、行動、の象徴としての英雄の事業を語るのが普通の例であつて、民族の心情を昂奮させその活動を刺戟するところに、主なる使命がある。從つてその主題は多くは戰争であるが、戰争は生命を賭しての異常の行動であり、また勝敗の豫知せられないものであるために、それには宗教的感情がはたらき、神の關與するところが多いと共に、人生の根柢に存在する欲求のあらはれとして、何等かのしかたに於いて女性のそれにあづかるのが常である。ところが、生活が一般に平和であつて、民族の内部にも他の民族に對しても、戰爭を經驗することが極めて少く、政治的統一のほゞ行はれた後に、半島に對する國家の政策として稀に武力を用ゐた場合があつても、それは民族として(31)の、また民族みづからの、活動ではなかつたわれ/\の民族には、かゝる敍事詩の主題となるものが無かつた。民族的の感情や欲求を象徴するといふ意義に於いてのでも、また民族の全體を率ゐるといふ意義に於いてのでも、民族的英雄が現はれなかつたことによつても、それは知られる。敍事詩の生じなかつたのは當然であらう。人格をもつた神の觀念が發達しなかつたことも、このことについてまた考へられねばならぬので、これは敍事詩の生じなかつたことと相互に因果の關係があるらしい。呪術の力を信じてゐた時代には、事實としては戰闘の場合にもそのはたらきに依頼することが多かつたであらうが、詩人が戰を敍するに當つては、おのづからそれを人格化し、その意味で神格化することが行はれると共に、かゝる人格神の觀念が詩人の敍述に生彩を與へるものだからである。人格神の生じなかつたことは、宗教的意義での神の物語の發達しなかつたことからも推測せられようが、それはまた敍事詩の生れなかつたことと、共通の意味をもつものである。民族的英雄が生じなかつたと共に、民族の保護神が現はれなかつたことが、このことについて注意せられる。たゞ事に當つて女性が何等かのはたらきをしたことはいふまでもなからうが、それだけでは敍事詩の主題とはなりかねる。なほ敍事詩は朗吟すべき何等かの律格をもつたもの、詩としての形を具へたものでなくてはならぬが、國語はその構造や音聲に於いてさういふ律格の形づくられる條件に乏しいのではなからうか。もしさうならば、これもまた敍事詩の生じなかつたことと、互に因果をなしてゐるかとも考へられるが、少くとも半面の事實として、このことが敍事詩の發生に不便な事情となつたのではあるまいか。さて敍事詩が作られなかつたといふことは、遺存する文獻にそれのあつたらしい證迹の毫も見えないことによつても知られる。
(32) 文字をもたなかつたわれ/\の民族は、漢字に接して始めて世に文字のあることを知り、それを學ばうとした。一字ごとにシナ語としての意義を有する漢字は、言語の性質も構造も言語そのものもシナ語とは全く異なつてゐる、われわれの言語を寫すには適しないものであるが、それにもかゝはらず、強ひてさうすることを企て、その方法を考案して、長い年月の間に次第にその功を收めて來た。それには百濟人に導かれたところがあつたでもあらうが、それに努力したものが、われ/\の言語を文字に書きあらはす必要を痛感した、われ/\の祖先であつたことは明かである。もとよりそれは、當時に於いてその必要を感じたものの社會的地位と漢字の特殊の性質とから考へても、貴族、豪族とそれに伴つてゐる知識人とのことであつて、一般民衆でなかつたことは、いふまでもない。言語はわれ/\の言語であつても文字は漢字であるから、それを用ゐ得るもの讀み得るものはかゝる特殊の社會に限られてゐたのである。さうして上代文化の貴族的性質がこゝにも現はれてゐる。さてその初期に於いては、固有名詞や個々の單語の類を寫したに過ぎなかつたらうが、後には何等かの情懷なり思想なりを表現し、また見聞するところを記述することのできるやうになつたので、こゝに始めて文學的作品が文字に寫し得られることになつた。その時期は固より知り難いが、種々の情勢から考へると、早くとも五世紀の中ごろ以後ではなかつたらうか。しかしこの時代のものは後には傳へられてゐない。六世紀の中ごろに最初の述作がせられたであらうと考へられる神代などの物語にも、さういふものが資料として用ゐられてゐるやうな形迹は見られない。またもし口誦によつて傳へられた敍事詩の如きものが昔からあつたならば、それはこの時代になつて書き記され、それがこれらの物語に取り入れられたであらうが、かゝる形迹もまたどこにも認められぬ。たゞこれらの物語に用ゐてある歌謠のうちには、或は五世紀のころに既に世に知られてゐて、(33)それが文字によつて傳へられ、さうして物語の作者に採られたといふやうなものがあるかも知れぬが、しかし歌謠であるだけに、前代からあつたものでも、口誦によつて傳へられてゐたとも考へられる。のみならず、記紀の歌謠に於いてかう見ようとすれば見なし得られるものは、民謠もしくは民謠の性質をもつものである。なほ官府的もしくは公衆的意義を有する呪術的祭祀的儀禮に於いて唱へられる祝詞の如きものが、いくらかの文學的價値を有する一定の詞章として形づくられてゐて、それが文字にも書かれてゐたのではないか、といふことも考へられるかもしれぬが、よしさうであつたとするにしても、後世に傳へられた祝詞にはそれから取られたやうに見えるものを合んではゐない。だから要するに、六世紀より前の文學的作品は、今は傳はつてゐないといつて、大過は無からう。
 
 民謠が何時の代にも何處にもあつて、それによつて民衆の生活感情が表現せられてゐることは、いふまでもない。それの謠はれる場合はさま/”\であるが、後の文獻によつて知られるところから逆推すると、そのうちでも、多數人の集合する何等かの機會に、手拍子足拍子での舞踊に伴ふ合唱として行はれることが多かつたらしい。歌垣とか「かがひ」とかいはれたものが、その主なる場合である。從つてそれにはおのづから、音頭とりの獨唱する部分もあり「かけあひ」もしくは唱和の形をとることもあつたらう。ハヤシ詞を插んだり同じ語句を反覆したりすることもあつたはずである。さうしてこれらは何れも後に定められるやうになつた製作詩としての歌の形式の由來をなすものである(第一篇第二章參照)。屋内の饗宴などの場合に於ける唱和も、またこれに準じて見らるべきものである。敍事詩をもたなかつた上代のわれ/\の民族は、多數人の集合するときにも、特殊の演奏者の歌ひまたは語るを聽くよりも、(34)彼等みづから共に歌ひ共に唱和することを好んだやうである。後の文獻の記載から推測すると、民謠の主題の多くは民衆の日常生活に於ける戀愛であつたらしいことも、かう見るにふさはしい。民衆は一般に平和な生活を營んでゐたために、戰闘は歌はれず、また人格神の觀念の發達しなかつたことに關聯して、神のこともまた殆ど民謠の主題とはならなかつたと、考へられる。かゝる習慣とそれに伴ふ嗜好とが敍事詩の生まれなかつた一つの事情となつたかも知れぬが、ともかくも文藝に於ける一種の抒情趣味がかくして養はれたやうに解せられる。或はまた宮廷の饗宴で「語りごと」の演奏を職務とする語部といふものが朝廷に設けられてゐたことから推測すると、民間でも同じやうな場合に同じやうな演奏が行はれたのではないか、さうしてその起源の一つが祭祀的儀禮にあつたのではないか、といふことも考へられなくはないのであるが、よしさういふことがあつたにしても、それが藝術としての形を具へるやうには發達しなかつた。宮廷の語部の演奏とても同樣であつたことが參考せられよう。要するに、一般に行はれてゐたのは民謠とそれに伴ふ舞踊とであつた。
 ところでかゝる種類の民謠の詞章の多くは、世間に傳誦せられてゐたものであらうが、時には參加者のうちの何人かが即興的にその語句を變更し新しい語句を添加し、又は新に製作することもあつたであらう。傳誦せられてゐた詞章とても、何の時にか何人かの作つたものに違ひない。かゝる臨時の詩人の歌つたものは、民衆の一般的感情の表出であるが、もし特殊の個人的情懷を詠じ、またそれについて何ほどかの技巧の用ゐられたものが作られるやうになると、そこにはじめて民謠とは性質の違つた製作詩としての歌が現はれて來る。個性の發達しなかつた上代であるから、それに表現せられてゐる思想や感情に於いては、民謠と大なる懸隔は無かつたであらうが、たゞその作者は、一般の(35)民衆よりは優れた心的練磨を經、また特殊の智能と知識とを具へたものであつたと考へられる。さうして當時の状態としては、それは貴族豪族もしくはそれに伴つてゐる知識人であつたと推測せられる。貴族豪族は彼等の任務の上から種々の事件に遭遇して種々の經驗をつみ、知識人は何ほどかの程度で漢字に親しみ、それによつて或る知識を得またはそれを利用することを知つてゐたからである。こゝに上に述べた上代文學の抒情的傾向と共に、貴族的性質が現はれてゐるので、その貴族文學の一つとしての歌の作られるやうになつたのは、かゝるものの文字に寫されるやうになつたことと伴つてゐたであらう。文字に書くといふことが、製作詩としての歌の形成を助ける一つの事情ともなつたやうである(第一篇第二章參照)。從つてそれはやはり五世紀の末か六世紀の初かのころにはじまつたことであらう。時期についてかくいふのは、もとより強ひてするおしあてに過ぎないが、一應かう考へられる。
 上代の文學が抒情的な歌謠から發達し、貴族的性質をもつてゐるといふことは、その主題と内容とをもおのづから制約する。歌に詠ぜられた最も重要なものは戀愛生活であつて、上代の婚姻の方式であつた妻どひの風習が特にそれを誘發した。さうして一面の意味に於いてはそれに導かれて發達したところのある、自然の風物の翫賞が、歌人の吟に入つた。貴族等の娯樂の一つであつた遊獵もいくらかの題材を提供した。しかし農耕や漁撈の如き生業は、民謠には多く探られたであらうが、貴族文學としての製作歌には題材として殆*ど用ゐられなかつた。民謠と同じく神のことや戰闘が歌はれなかつたことは、おのづから知られよう。次に言語の側面から見ると、特殊の文化社會を構成し精神生活の程度の高まつてゐた、貴族や知識人によつて修練せられたために、一般民衆の言語とはいくらかの違つた色あひを帶びたものとして、それが次第に形づくられて來たらしい。われ/\の民族の言語は、本來かゝる文學を生み出し得(36)るやうな構造を具へ、また生み出し得るほどに整頓も發達もしてゐたのであるが、貴族や知識人の言語に於いては、それがかういふ事情のために特殊の方向をとつて進むことになつたのである。たゞその方向が貴族的であるだけに、言語とその表出のしかたとに細かな色あひをもつことにはなつて來たけれども、多數人の集會に於いて語りまた歌ふことによつて練磨せられる如き、音聲の變化と抑揚とに乏しい憾みがあり、咏嘆には適しても敍事には相應しないところがあつた。また抽象的概念を表現する語彙が少く、その點では全く言語の構造を異にする漢語を採用し、またはそれにたよつて新しい意義を固有の語に附加するために、種々の點に不調和が生じた。漢語の發音法は日本人が口にすることによつておのづから大なる變化をして來たけれども、その點でもなほ國語とは調和しないところがあつた。(現代の國語にヨウロツパの諸國語の語彙や語法が混入したことから生じた生硬さと粗雜さとを參考するがよい。)
 このやうにして我が國の上代の文學は、貴族文學として形づくられまた發達することになつて來たが、これは全體の文化が貴族的であつたからである。さうしてそれは、前章で考へた如く、文化の一大要素が朝廷によつて採取せられたシナの文物であつたからであり、それが朝廷によつて採取せられたのは、地理的状態からも生活そのものからも、一般民衆がみづから海外に出でてシナと交通することをしなかつたからである。しかし貴族文學ではあるが、貴族とても日本人である以上、それによつて表現せられるものは日本人の生活感情であり、日本人の生活意欲であるので、そこに民衆の生活と接觸するところもあり、日本の國民文學である所以もある。さうしてそれが次篇に於いて考へるやうな方向に發展してゆくのである。
 
(37)   第一第 貴族文學の發達時代
 
     推古朝の前後から天長承和のころまでの約二百五十年間
 
       第一章 文化の大勢
 
 前後の事情から考へると、われ/\の日本の國家は、四世紀の中ごろから五世紀を經て六世紀の初期までの間に、次第に整頓して來たことが知られる。應神仁徳朝から繼體朝のころまでのことである。この間の政治上の事蹟は、半島に關することの外には、殆どわからぬが、これは後に傳へられるほどな目だつた事件が無かつたからであらう。それだけ國内は平和であり、それによつて國家の安定は日々に加はり、國家統一の象徴としての皇室の地位と權威とはいよ/\固められて來た。五世紀の初めのころであつたらうと考へられる熊襲の平定には、いくらかの武力が用ゐられたでもあらうが、それとても國家の全體には何の動搖をも起させなかつたのみならず、それによつて民族の政治的統一が完成せられ、その點で平和の一層固められたところに、この事件の一つの意味がある。たゞ半島の經營は後になるほど次第に困難を加へて來たが、百濟を經由してシナの文物を採取することがそれに絡まつてゐたので、六世紀に於ける朝廷及び貴族の欲求は、かくして安定した國家を一層安定させると共に、シナの文物を更に多く採取しようとすることであつた。地方の豪族は皇室に接近することによつてその地位を安固にすると共に、朝廷とその周圍とを(38)包んでゐる新しい文化の空氣を少しでも多く吸ひこまうとした。一般の民衆は彼等みづからの衣食のためにその全力を用ゐたのであるが、そのうちには朝廷の所在地に往來することと豪族の生活に接觸することとによつて、幾らかはこの新文物をうけ入れることのできたものがあつたであらう。
 統一せられた國家はこのやうに平和であつたが、しかしすべてが固定してゐたのではなからう。朝廷に地位をもつてゐる貴族の諸家とその權威や職掌やにも、また地方的豪族とその勢力とにも、いくらかの變遷はあつたにちがひない。たゞそれが明かにわからないのみである。今日に知られてゐるやうに、祭祀を掌る中臣氏や武事の任務をもつ大伴氏物部氏などが相並んで朝廷の重臣となつてゐたのも、何時からのことか知りがたいが、五世紀の終のころにはさういふ状態が見られるやうである。地方的豪族であつた蘇我氏が同じく朝廷に地位を占めるやうになつたのも、同じころからのことであるらしい。さうしてこれらの諸家がかゝる地位を占めまたはそれを維持したことには、その經濟的基礎として地方に多くの地民を領有してゐた、といふ事實があつたであらう。蘇我氏の如きも、豪族としての本來の領土の外に、多くのかゝる地民を有つやうになつてゐたと考へられる。なほわれ/\の國家に於いて重大な意味のあることは、天皇がみづから政治の衝に當られず、國家の大事はすべて重臣*の協議によつて處理せられる習慣がこの間に生じて來たことであつて、他に比類の無いわれ/\の國家の特性が、それによつて次第に形成せられるやうになつた。さうしてそれもまた國内が平和であつたところに、大きな原因がある(「日本上代史の研究」附録第三參照)。皇室の内部に於いては、皇位の繼承について皇族間に紛爭の起つた場合もしば/\あるが、これは政治上の事變ではなく、また國家に於ける皇室の地位がそれによつて動搖したのでもなく、それとは關係の無いことであつた。皇室の(39)地位がかういふことによつて少しも動かされないほどに、その地位は鞏固になつてゐたのである。
 
 天皇はみづから政治の局に當られず、從つて一般的の習慣としては、皇室は直接に政治上のはたらきをせられなかつたが、その代りに、或はむしろそれがために、文化の上には皇室の與かられるところが多かつた。貴族的性質を帶びてゐた文化は、その中心がおのづから皇室にあることになつたと考へられるが、後には皇室みづからそれについての主動的なはたらきをせられるやうにもなつたので、推古朝から特にそれが明かになる。六世紀に入つたころには、百濟から取り入れられるシナの文物が、實用的な工藝品やその技術などにとゞまらず、書物によつて學ばれる儒教及びその他の種々の思想と知識とに及んでゐたが、その後佛教がそれに加はつて來ると、今まで見たこともなかつた奇異な形相の佛像と、それを安置する寺院堂塔の莊嚴と、燒香供花燃燈讀誦する崇拜の儀禮とが、貴族輩の好奇心を刺戟して、それに對する欲求が次第に強められ、僧尼が迎へられ、造像造寺などの工人が招かれもした。しかしこの佛教はシナ化してゐるものであり、その意味でシナの文物の一形態ともいふべきものであつたから、一般のシナの文物の學習もまたそれに伴つて盛になつた。この趨向を一層強めたのが、聖徳太子の事業として現はれたことであつて、そこに佛教及び一般のシナの文物の學習弘通に於ける皇室の態度が見えるのである。聖徳太子はみづから皇位には即かず、わが國の皇室に於ける初めての女性の天皇の下に、權家たる蘇我氏と手を携へて、朝廷の實務を執つたので、それは天皇が政治の局に當られないといふ、長い間に養はれて來た、習慣を明かな形で世に示したものであり、女性の天皇の即位の意味もこゝにあつたが、太子の主なる事業は佛教の興隆シナの文物の採取といふ文化的な部面のこと(40)であつて、遣隋使の派遣とてもそのためのものであり、政治の部面に於ける蘇我氏とはおのづからその活動の方向を異にしてゐた。勿論、實際の行動はかう明かに區別せられてゐたのではなく、相互に結びつけられまたはたらきあつたのではあるが、太子の家が後に蘇我氏に倒されたにかゝはらず、その文化的事業が長く後世に繼承せられます/\發展していつたことと、蘇我氏が政治的事情によつて覆滅したこととは、推古朝の朝廷のはたらきが、少くともその效果に於いて、二つの異なれる側面をもつてゐたことを語るものであらう。さうしてその文化の側面が皇室の中心人物たる太子によつて行はれたところに意味がある。この文化的事業は當時の貴族社會の一般的要求の現はれでもあるので、太子の個人としての意向と力とがどれだけのはたらきをしたかは、問題でもあらうが、皇位に即かずして事に當つたところに、太子が何ごとかをしようとする意志をもつてゐたことが示されてゐるので、そこに太子の業績の認めらるべき理由がある。
 聖徳太子の佛教に關する事業は、四天王寺法隆寺及びその他の寺院の建立が主なるものであるが、それは招かれて來たり歸化したりした百濟の工人の手に成つたものであつて、日本人の創意に出たところは殆ど無かつたらうと考へられる。佛像の製作もまた同じであるので、その手法の稚拙であるやうに見えるのは、シナから百濟に百濟から我が國に傳へられるに從つて、もとの型が漸次くづれ技術が退化したからのことであつて、原始的であり未來の進歩を孕んでゐるといふ意義での稚拙ではなからう。佛像といふものは、日本人にとつては、もと/\自己の創造したものではなく、與へられた一定の型がありそれを學んで作るのであるから、造像の初期の状態がかういふものであつたのは當然である。さうしてそのもとの型の主要なるものが六朝時代の南部シナに於いて形づくられたものであることは、(41)おのづから推測せられる。堂塔の莊嚴に用ゐられる器具も、シナまたは百濟から傳へられたもの、もしくはそれを摸倣して作られたものであつたらうが、かゝる工藝品は佛像とはその性質が違つてゐるから、舶來品のうちには精巧なものもあつたらう。儀禮とてもまた百濟の寺院のを學んだまでであつたと考へられる。要するにすべてが日本人の宗教的感情の表現せられたものではない。毫末も宗教的感情を含まないものであるのみならず單なる遊戯に過ぎない伎樂を、法會に用ゐたのでも、そのことはわかるので、これは一つは佛教の信仰としての宗教的感情を音樂によつて表現することができなかつたためではあるが、また一つはそれだけの宗教的感情そのものが佛教によつてまだ養はれてゐなかつたからでもある。當時の佛像の崇拜は、これまで木石や動物や種々の精靈を祭つてゐたと同じ意味に於いて、禍を避け福を求めるため、即ち現世の利益を祈るためであると共に、後世の安樂といふ新しく教へられた希望のためでもあつたが、何れにしても佛教としては後になつて附加せられたもの又は發達したものであり、またさういふ崇拜によつてわが國民の宗教的感情が深められたのでもなかつた。たゞ宏壯な寺塔を建て美しい壯嚴を施し花やかな法會を行ふことが、建立者にとつては、かゝるものを造りかゝることをなし得た滿足と誇りとを感ずると共に、日常の生活の場所とは違つたかゝる別世界に身を置くことによつて、一種の官能的な快樂が得られるところに、宗教的な氣分と通ずる點があつたではあらう。しかしそれは佛教に於いて本質的のものではない。佛教の教理については、恐らくは何ほどの理解も無かつたのではあるまいか。いくらかの理解を得るまでにはまだ歳月が足らず、それだけの知識上の準備ができてゐなかつたのである。(聖徳太子が三經を講じたとかその義疏を作つたとかいふことは、事實ではあるまい。「日本古典の研究」下卷弟四篇參照。)四天王寺を建立したことは、その名によつて考へると、金光明經の所(42)説に思想上の根據があつたらうが、その知識をこの經典から直接に得たものであるかどうかは知り難い。たゞこの思想は、治國の道を説く儒教の知識をいくらかでももつてゐたものには、解し易いことではあつたらう。けれども四天王寺は太子の建てた多くの寺のうちの一つに過ぎないから、この時代に於いては、この思想が佛教の弘通に於いて特に重要視せられたやうには見えぬ。太子が治者の地位に立つ皇族であつたために、このことが考慮のうちに加へられたといふのみであらう。たゞ一種の權威を以て國民に臨まうとせられなかつた皇室の傳統的精神と、一脈のつながりがあつた、と解することはできようか。
 冠位の制定によつて知られる政治の上に於けるシナ式禮文主義の採用も、またそれと相通ずるところがある。これは世襲的な家の身分の外に個人のそれを認めるものであるのと、朝廷に地位を有するものの間に尊卑の階級を設け、また民衆に對して特殊の地位にあることを服裝によつて示すことになつたのと、二つの點に於いて、新しい思想を朝廷の制度の上に導入したものであるが、事實としては、それは政治的なはたらきをしたよりは、文化人としての貴族の存在を明かにした點に意味がある。冠位服裝のみでなく、住居の如きもいくらかはシナ風が學ばれたでもあらう。が、それにもまた同じ意味があつた。君主本位官府本位のシナ式政治形態を學ぶに當つては、第一に宮廷と政府との體面を飾らうとするのが自然の勢であり、また實際シナ人に接してみると、何よりも先にそれが目について模倣したくもなり、歸化人などが顧問となつて獻策するにも、それを主としたのであらう。だから衣冠を飾り朝儀を整へるといふやうなことが先づ行はれたのである。けれどもかういふ新制によつて、朝廷の職掌や土地民衆の領有が諸家の世襲であることには、何等の變化も生じなかつた。たゞ朝廷に新しい事業が生じたために、例へば大和附近の豪族が任(43)用せられて外交の事務に當つた如く、伴造の世襲的職掌のみによつて事務を處理することができなくなつたこと、中臣氏や物部氏が、伴造としての職掌の外に出て、政治的行動をするやうになつたこと、この二點に於いて制度變改の氣運が漸く動きはじめたことが、注意せられる。しかし政治上の制度の變改は太子の意圖したことではなく、後になつて行はれるやうになつた大化の改新も、太子の事業と直接の關係のあることではなかつた。(太子が十七條の憲法を定めたといふことは、事實とは考へられぬ。「日本古典の研究」第四變參照。)
 
 聖徳太子の事業には蘇我氏の與かるところも少なくなかつたであらうが、この蘇我氏の權勢は、太子の家を倒し從つてその領土民衆を併有することによつて一たび強められた後、中大兄皇子(と中臣鎌足と)によつて急激に滅された。こゝに皇室と權家との微妙なる交渉があるが、天皇はかゝる紛爭の上に超然たる地位を有せられた。女性たる皇極天皇の即位はこゝに意味があつた。さうして間接には聖徳太子の文化的事業の別の方面に於ける一つの展開として、また大陸に於ける唐朝の興起からうけた新しい刺戟もそれを助けて、中大兄皇子を主動者とする大化の改新が行はれた。さうしてそれが近江令の制定によつて一應完成した。持統朝及び大寶養老の制はその局部的修正である。さうして藤原の都の經營、次いで奈良の奠都は、それを具體化したものである。この改新は、伴造國造の名によつて總稱せられてゐる貴族豪族及び皇族の世襲的領土民衆、ならびに皇室の直轄地民、を盡く收公し、全國の地民を國家の有として一般民衆を統治の直接の對象とし、劃一的な行政系統を立ててそれを管理すると共に、朝廷に於いて世襲的職務を有する伴造を廢し、唐制に本づきながらそれを變改したところの多い、幾多の官衙によつて事務を分掌する組織的(44)な行政機關を設けた、政治上の制度の改革であつた。たゞそれに伴つて耕地を國有とし班田の法を行つたことだけは、農民の經濟生活に大なる變革を加へたものであつた。班田制の一事を除けばこの改新は、民衆に於いては社會的意義を有たないものであるのみならず、彼等の政治的地位にも殆ど變動を生ぜず、また貴族及び豪族に於いても、その社會的地位にはさしたる變化が無く、たゞ家による世襲的任務が個人としての職責となつたのみである。新制そのものに於いて貴族豪族の從來の社會的地位を動かさないやうに規定せられてゐるし、官職についても種々の點で舊來の習慣が保存せられてゐるのである。改新の主旨は朝廷に於ける權勢とその經濟的基礎としての廣大なる地民とが、世襲的地位を有する一二の權家に歸することを防ぐと共に、當時の東方アジアの形勢に對應するために、國家の統一を鞏固にしようとする意味もそれに加はつて、中央集權の制度を立てるところにあつたらうと解せられ、國號としてのヤマトの語に「日本」の文字をあてたのも、この國家統一の明かな自覺によつて、またこの統一圀家の象徴として、このころに始められたことであらうと推測せられる。しかし大規模な官衙組織の如きは、實際上の必要からよりは、唐風の禮文を整へて朝廷を修飾しようとする、治者の地位からの欲求に本づいたものと解せられる。班田の制に至つては、民衆生活の實情を顧みない改革者の机上の考案を、實現しようとしたものに過ぎなかつた。
 このことは改革が行はれた後の状態からも知られる。近江令の制定から四十餘年、大寶令の頒布から約十年も經た和銅四年の詔に「張設律令、年月已久矣、然纔緩行一二、不能悉行、」とあるが、纔に一二を行ふのみであつたのは、行へること又は行はねばならぬことが一二しか無かつたからではあるまいか。この詔の文字には漢文風の誇張もあるに違ひないが、そこに或る程度の眞實のあることも認められよう。もとの伴造であつた貴族や國造などの地方的豪族(45)どもの私有地が、大化の改新によつて事實上悉く國有となつたかどうかさへ疑問である。少くとも權勢ある貴族の家家に於いては、舊領地との間に何等かの連絡があつたことは明かである。彼等が法令によつて定められた食封俸禄のみによつて、舊來の生活を維持し新しい地位を保つてゆかうとしたとは思はれないので、後になつて合法的または非合法的に地民を領有するやうになつてゆくのも、自然の趨勢であつたらう。朝廷に於けるその地位についても、諸家が事實上なほ舊來のそれを持續し、皇室との關係に於いてもまた同樣であつたので、持統紀二年の條に先帝の殯宮に於いて「諸臣各擧己先祖等所仕状、遞進誄焉、」したとあるのも、それを示すものである。奈良朝となつても貴族官人が皇室の特殊の庇護の下にあり、その意味でも特殊の地位をもつてゐたことは、一つは治者本位官僚本位の唐の官府組織を學んだ新しい制度のためでもあるが、それと共に改新前の氏族制度の少しく趣を變へて繼承せられたものでもある。地方に於ける豪族とても、少からぬ土地を領有してゐたらしく、さうしてそれが彼等みづからの勢威の根據となつたのみならず、種々の關係に於いて連絡のある中央の貴族の權力の基礎ともなつてゐたと解せられる。續紀に累見するやうな新にカバネを賜はつた地方人は、かういふ豪族であつたらうし、彼等のうちには政府に用ゐられてかなりの高官に昇つたものもある。これらもまた改新前の豪族の地位とつながりのあることである。班田の制も、特殊の地域の外は、一應實施せられたであらうが、その精神を貫徹することは困難であつたに違ひない。制度そのものが本來むりなものであつて、農業の性質にも農民の心理にも背戻し、從つて農民生活に適合しないところが多い上に、事に當るものも公平な處置をしたには限らないからである。事實それは後になるに從つて次第に崩れてゆき、又はその精神を弱めるやうな法令を出さねばならなくなつた。
(46) それならば新しい制度に於いて何が實行せられたかといふと、それは王として統一國家の形體を整へるための官衙の編制、その儀式禮典などと、その經費を支辨するために租税などを徴收することとであつた。だから新制が直接に一般國民の生活を益するところは少く、また國民としての活動がそれによつて盛になるでもなかつた。政府が或る種の産業を奨勵したことはあるが、それは主として調貢のためであり、學校を設けたのも、國民の智能を開發するためではなくして、中央や地方の官吏を養成するためであつた。これは模範としたシナの制度がさうであつたからではあるが、それをそのまゝに繼承したところに、當時の爲政者の態度が見える。要するにすべてが官府を存立させることの外には大きな意味は無かつたのである。勿論、令の制度によつて大化改新の目的が一度は達せられ、その意味で國家の統一が鞏國になつたには違ひなく、蝦夷に對する經略の進展の如きも、それによつて行はれるやうになつたことは、明かであるが、その裏面には上記の如き事實があつた。
 新政府の組織が國務不相應のものであつたことは、今まで官制らしい官制も無かつたのに、一足飛びに八省百官のこと/”\しい形を整へても、實際それだけの國務は無かつたらうと考へられることからも知られる。「四禽叶圖、三山爲鎭、」として誇られた奈良の京の規模なども同樣である。宮闕と寺院とは輪奐の美を極め、條坊の制は整然としてゐた。けれどもあんな廣い京に實際の住民はどれだけあつたか。奠都の後三十年、恭仁の宮を經營し、或は難波にも都を遷さうとした。よし遷都の習慣が古來あつたにもせよ、奈良の京に住民が充實してゐたならば、遷都などの考は容易に起るべきものではなかつたに違ひない。それであるのに朝に舊都を壞ち夕にまた新京を棄てたのである。自然に發達した市府とは違ひ、何も無かつたところに突然人工的街區を開いたのであるから、初から内容の乏しいもの(47)であつたのは當然である。またその土地が本來政治的に特殊の價値があるのではなく、たゞ飛鳥や藤原に比べてやゝ廣濶であつて、シナ風の都府を經營するに都合がよいといふ理由で選ばれたのであらうから、官府の存立に必要なだけより以上に發達しなかつたのも當然である。奈良を選んだ理由は史上には明記せられてゐないが、かう見るより外にしかたがあるまい。大和の地であれだけ廣い場所を求めたら、奈良より外には無かつたのであらう。實際上からいふと、幾らの距離も無い藤原と奈良との間に、一を去つて他に移らねばならぬ理由のあるはずがなく、また交通などの點からいつても、奈良が藤原よりもひどく便利であつたと思はれぬ。また恭仁の地の如きは山水の秀麗こそはあつたであらうが、狹隘の地で規模整然たる皇都の造られるところではない。さういふ土地へすら移さうとした、また移すことのできた、都であつてみれば、その貧弱な樣子は想像ができる。恭仁遷都の理由も明かでないが、それはともかくも、こと/”\しい奈良の京の規模が實際上必要でなかつたことは、これで證せられてゐる。要するに、京といふものは宮殿官廳の置かれてゐるところ、從つて貴族官僚の居住してゐるところであつて、その他にはそのために必要な設備と民衆とが從屬的に存在するのみであつた。寺院堂塔はそれみづからとして重要な意義をもち、京の存立のためにも大なるはたらきをするものであつたが、京の性質からいふとやはり附隨的の存在であつた。京が置かれたためにその附近に建築せられたものだからである。かくの如く京が輪廓ばかり整つてゐて内容の貧しいものであつたのも、また令の官制と同じく、當時の爲政者が何よりも先づシナに倣つて形式の整備を企てたからである。
 大化の改新、令の制度は、その根本にかくの如き浮華なところがあつて、その點では國民生活に切實なものではなかつた。それは恰も朝廷の事業として行はれた國史の編纂が、上代の状態を如實に傳へようとはしないで、シナの歴(48)史の外形を學び漢文で書くことによつて種々の造作を加へたり、實際の政務の擧がる擧がらぬには關係なく、白雉だとか朱鳥だとかいつてシナ思想による祥瑞を誇つたのと、同じ態度である。シナの風習に倣つて元號といふものを設けたのも、やはりその例である。漢字で國語を寫すことが一般に行はれてゐて、詔勅の文體としても、特殊の場合には、いはゆる宣命體のものが用ゐられてそれが口宣せられたにかゝはらず、普通には文書の形で頒布せられるものとして漢文で書かれ、その他の公文も政府の記録も同樣であつたために、政治の實務からかけ離れ、徒に文字を弄んでゐるものが少なくない。これもまた事實は文字どほりにならないが、文字だけはシナ式にしなければならぬと思はれたためである。新制度新文物に適應する語彙が從來の國語には無かつたから、漢語をそのまゝ用ゐることは一應必要であつたかも知れぬが、文體まで漢文にする必要は無かつたはずである。漢字を用ゐながら國語で文章を書くことが一般の風習となつてゐた當時であるから、國文のうちに名詞として漢語の語彙を用ゐればよかつたではないか。自國で發逢したものでなく、他の國で形づくられた文物制度を學ぶ場合に、形式が先に立つのは自然の勢であるが、その模範が本來空文虚禮を得意とするシナであつたから、特にその傾向が著しかつたことは、いふまでもなからう。その本國ですら常に空虚に流れてゐた制度を、すべての國情がそれと違つてゐる我が國に適用したのであるから、初から國民生活の實際と縁遠かつたのは當然である。
 概括していふと、大化の改新と稱せられた政治上の改革は、上に述べた如きその動機には、少からぬ意味のあるものがあつたけれども、それによつて立てられた新制度には、實際政治の上の必要から出たものではないことが多く、近江令の制定となつて現はれ、またそれから展開せられた種々の施設は、一層國民生活の實情から離れたものであつ(49)たが、これは爲政者が外から學んだ知識によつて事を行はうとしたからのことであり、この時代の日本の文化の性質から來たことである。國民生活の内からの要求を爲政者が感知して、それに應ずるやうに企てられたことではない。社會的經濟的意義のある施設とても、國民生活の社會上經濟上の要求がさうさせたのではない。社會的經濟的状態がさうしなければならないやうな情勢にあつたのでないことは、なはさらである。令の制度の、事實上、次第に崩れていつたのも、かう考へると、無理のないことであり、この點に於いては新制度は豫期せられた如き效果を生ぜず、或はその企圖が失敗したものといはねばならぬ。これが與へられた知識によつて構成せられた新制度の運命であつた。が、それは一方からいふと、日本人が自己の生活の欲求のために外から加へられた制度の緊縛を崩してゆくはたらきでもあつた。このことはなほ後にいはう。
 
 勿論、新制とてもすべてがシナの模倣であつたのではない。官府組織とても唐のそれと比べると、かなり簡單になつてゐる(「日本上代史の研究」第二篇參照)。シナの官制には無い太政大臣といふものの設けられたことをも考へねばならぬ。或はまた皇居にも京都にもシナの如き城廓は設けられなかつた。種々の朝儀が學ばれたにかゝはらず、シナの宗教的道徳的思想として重要である宗廟の如きは設けられず、郊祀の制も移植せられなかつた。さうしてシナには無い大嘗會などが行はれた*。シナの後宮の制度の如きは全く學ばれず、從つて宦官といふものも置かれなかつた。宮廷の生活がシナのそれの如く豪奢なものではなく、それよりも遙かに簡素であつたことは、いふまでもない。貴族に於いてもまた同樣であつたことは、おのづから推測せられる。これらは、或は唐の制度のあまりにも煩雜であるこ(50)とが考へられたため、或は我が國では天皇がみづから政治の局に當られない習慣があつたのでそれに適應させるため、或は一般に國内が平和である上に、皇室に對して抗敵するものの如きは夢想だにせられない我が國に於いては、戰亂が多く易姓革命の風習があつて帝室が安泰でないシナの都城の防禦設備を學ぶ必要が無かつたため、或はシナに特殊な宗教的儀禮が長い歴史によつて養はれて來た日本人の宗教思想に適應しなかつたため、また或はシナの宮廷の生活の不自然なことが感ぜられたため、或はまた我が國では、皇室に於いても貴族にあつても、その生活が昔から簡素であつたと共に、國土が狹小で租税の收入がシナとは比較にならぬほど少かつたためであらうが、ともかくも事實としてかういふことはあつた。
 政治*の運用の上に於いても、わが國の古來の風習が持續せられ、その意味で唐制の精神と同じでないところがあつた。その最も重要なのは、大化改新の後になつても、天皇がみづから政治の局に當られなかつたことである。改新そのことが既にさういふ状態の下に行はれたのであり、それを完成させたこともまた同樣であつて、これらは中大兄皇子等のしごとであり、齊明天皇の重祚もそのためであつた。この皇子は即位の後にもそのしごとを續けられたので、その意味では天皇の親政であつたし、天武天皇の代にも多分その状態が繼承せられたであらうが、かゝることはこの二代だけにとゞまり、その後はまたさうでなくなつた。文武天皇の代のことは明かにわからぬが、その前後に女帝が多く、さうしてそれが推古皇極二朝の先例に從つたものらしいことが、考へられねばならぬ。聖武天皇の佛教振興には天皇の信仰もはたらいてはゐようが、一般の政務はこの時とてもやはり時の權家の執るところであつたらう。女性たる孝謙天皇の即位は、上記の先例とは違つたところがあつたやうであるが、それは必しもこの天皇の親政が行はれ(51)たことを示すものではない。法制の上では天皇親政の形が整へられてゐたが、實際の政治の運用はさうではなかつた。皇位の繼承そのことも重臣の議によつて決せられたので、これもまた久しい前からの習慣であつた。しかしこのことについては、それにつれて權家の權力の爭が生じ、皇族間の對抗がその爭に絡まつて起つたことを、注意しなくてはならぬ。壬申の亂の原因が何にあつたかは明かでないが、その後にも同じやうなことが反覆せられ、皇子の罪せられることもしば/\で、天皇や皇太子の廢せられることさへあつた。たゞ戰亂にはならなかつたのみのことである。しかし皇室の内部にかういふことがあつたにかゝはらず、國家に於ける皇室の地位にも皇室に對する人々の心情にも、いさゝかのゆるぎも生じなかつたところに、長い歴史によつて養はれて來た皇室の精神的權威があり、さうしてそれには、かゝる紛爭が權家の行動によつて起り、從つてその責任の權家にあることが、遍く人に知られてゐたといふ事情もあつたであらう。また事ある場合に皇室の安泰を計るのが重臣の責務であるといふ考を、その重臣がもつてゐたことにも、皇室の精神的權威が現はれてゐる。精神的權威といふ語を用ゐたが、これは皇室にさういふ特殊の權威があるためにそれによつてかういふ状態が生じたといふのではない。かういふ状態であるそのことに於いて、精神的權威のあることが示されてゐる、といふ意義である。この状態が歴史的に馴致せられて來たものであると共に、精神的權威もまたそれに伴つて歴史的に生じて來たものなのである。(どうしてそれが形づくられて來たかの理由は、「日本上代史の研究」の附録第三に考へておいた。)道鏡の事件もその眞相には知りがたい點があるが、曾て蘇我の蝦夷父子を倒したと同じ精神が、當時の重臣にはたらいてゐたと推測せられる。平安遷都も、いろ/\の事情でおちつきの無かつた奈良の地を離れて、人心を新しくもし安定もさせようとするところに意味があつたと解せられ、さうしてそ(52)れにはおのづから重臣のこの態度と關係するものがあつたであらう。かくの如く天皇は令の制度の下に於いても、實際の政務には殆ど關與せられないやうになつたので、詔勅の名によつて發せられた公文書も、實は當時の爲政者の意志の現はれに過ぎない。或はむしろ詔勅起草者の知識がそれによつて示されたまでのものさへ少なくないやうである。制度上の規定と實際状態との同じでないのは、即ちこの點に於いて唐制の精神がわが國に實現せられなかつたことを示すものである。
 文化上の現象に於いても、また同じことが考へられる。漢文學が、故國の滅びたために百濟の知識人の歸化して來たことに刺戟せられたといふ事情もあつて、近江朝のころから特に興隆の運に向ひ、漢詩を摸作するものさへ生じて來たにかゝはらず、同じ時代から和歌が著しく發達したことも、注意せらるべきである。上にも述べた如く、知識としてはシナの文物を尊重したけれども、自己を表現することに於いては日本に獨自なものを發達させたのである。散文とても、しば/\述べた如く國語で書かれた文章が世に行はれたので、官府に關するものでは、宗教的呪術的儀禮の場合に朗讀せられる祝詞、口宣せられる詔勅としてのいはゆる宣命が、何れもそれである。たゞ古事記の物語の如き敍事の文は、その古事記の後には多く作られず、漢文にその地を讓つたやうであつて、歌の詞書きの如きも次第に漢文となつたらしいことが、萬葉を見ても知られる。國語の散文の復活は平安朝に於ける片假名及び平假名の製作をまたねばならなかつた。けれども漢文はそれを國語脈になほして讀むのが一般の風習であり、また日本の固有名詞の如きは、漢字で書かれたけれどもどこまでも國語を保持してゐたので、これらの點に於いては、半島人の態度とは全く(53)違つてゐた。日本人は目に見る漢文を讀むことを學んだけれども、耳に聞くシナ語を語ることを學んだのではないことが、考へられねばならぬ。或はまた確證は無いかも知らぬが、シナ風の宮殿の建築と共に、その影響をうけその技術を利用しながら、日本人の生活に適應する宮殿邸宅の新しい樣式が生み出されるやうになつたのも、このころから始まつたことではなからうか。飛鳥板蓋宮が名稱の示す如き板蓋であつたなら、シナ風の寺院が多く建築せられた後になつても、日常起居せられる皇居はかういふものであつたことが注意せられる。藤原や奈良の都に於ける皇居の建築は必しもこれと同じではなかつたらうが、「青によし奈良の山なる黒木もて作れるやどは坐せどあかぬかも」(萬葉卷八)といふ聖武天皇の御製がもし左注の如く長屋王の家に於いてのであるならば、天平時代に於ける貴族の邸宅をそれによつて想像することができようか。歌の情趣から考へると、これはシナ風の建築ではないやうに見えるが、貴族の邸宅であるから素朴な古風のものでもなく、何等かの新しい樣式によつて作られたものらしいのである。貴族官人の服裝などに於いては唐風が學ばれたけれども、食物にはそれが無く、牧畜は奨勵せられても、その肉を食料に供する習慣は生じなかつた。上流社會の生活には、外觀上または表面上、唐風化せられたところがありながら、その生活感情生活意欲、または家族的社會的生活そのものが、われ/\の民族に獨自なものを保持しまたは展開していつたことは、第二章以下に於いて詳説するであらう。だから政治上の制度に於いてシナのを模範としたところが多く、また知識の點に於いてシナから傳へられたものを尊尚し、多くの方面に於いてシナの文物を採取したといふことは、日本が唐化せられシナ化せられたといふことではない。當時のわが國が新羅や渤海と同じく、またそれと共に、唐の文化圏内に包攝せられた如く考へるのは、事實に背くものである。これから後の歴史の經過と共にわが國民が次第に獨(54)自の文化を形成していつたことは、それを證するものであらう。これは一つは、島國であつて地理的にシナと隔つてゐるのと、一般に日本人が海の外に出てはたらくことが無かつたとのために、殆んどシナ人と接觸せず、その文物を、單に文物として、シナ人の生活から切離して學びとつたからでもあるが、さういふ事情もはたらいて、過去の長い間に自己の生活を自己の志向によつてみづから展開してゆくだけの力を養つて來たからでもある。シナの文物を尊尚することと自己の文化を形成してゆくこととが並び行はれ、或は互に絡みあひ、さうして前者によつて後者の力が加はつていつたといふべきである。
 しかしこれは爲政者や知識人がシナの文物を學びとらうとする欲求を制約するものでもなく、減損するものでもなかつた。實際政治の面では、シナのに倣はうともせず、事實、倣ふことのできるものでもないから、それについては、詔令や法制の文字の上だけでシナ思想を借り用ゐるに過ぎなかつたが、文化の面では、できるだけシナから學びとらうとしたので、學問的知識や工藝技術に於いて特にさうであり、大學の教科の規定、いくらかの知識人の述作、東大寺献物帳の記載、遺存するものとしては正倉院の御物、などはよくそれを示してゐる。當時においては工藝品の製作は何れも模倣が主であり、學問とてもシナの書物を讀んでその文字上の意義を理解しまた文字の用法を學ぶだけのことであり、繪畫や音樂などの藝術でも、また同じ程度であつたと推測せられる。繪畫は、素朴なものは古くから作られてゐたであらうが、當時の藝術品として取扱ひ得られるものは、東大寺獻物帳に見える屏風の畫などを初として、殆どみなシナ製もしくはその模作であつたらしい。葛野王が畫を能くしたといはれてゐるが(懷風藻)、それもやはり唐畫を學んだのであらう。たゞ唐畫を摸作するにつれてその技巧が學びとられ、それによつて幾らかは日本の風物(55)を畫くことも試みられ、さうしてそれがおのづから唐畫とは趣の違つた日本畫を造りだしてゆく素地とはなつたであらう。音樂歌舞でも、わが國固有のものは民謠及びそれに伴ふ舞踊として後までも殘つたのみで、藝術としては新にシナ傳來のものを學ばねばならなかつた。樂器についていふと、固有の吹きもの彈きものが何かあつたではあらうが、それは外国樂器の入ると共に次第に用ゐられなくなつたほどに幼稚なものであつたらしく、國風の歌舞の伴奏としても、貴族の間で行はれる場合には外來のものを用ゐねばならなかつた。和琴はシナ系統の琴の一種(多分韓地で用ゐられた玄琴)から來たもので、大和笛などもシナ傳來のものに違ひない。舞踊とても手拍子足拍子で快活に踊つたのとは違ひ、翩々たる舞袖を翻してしなやかに舞ふ一種の姿態が作られたらしく、貴族的に精練せられた趣味が現はれてゐる點に於いて、全體としてのシナ文物の影響があつたらう。天平六年や寶龜元年に演ぜられた大宮人の歌垣は即ちそれであつて、このころに倭舞と稱せられたのもまた同樣のものであつたらう。けれどもこれらは藝術的な唐樂などとは比較のできないものであつた。ところがこの方面で大きなはたらきをしたのは佛教であつた。
 
 わが國に傳へられた佛教がシナ化したものであることは、既に上にも述べた。大化の前後から次第に行はれて來たらしく思はれる教理の修得には、それが漢譯せられた經論によるものであるために、シナ文學の知識がなくてはならず、寺院殿堂の建築、佛像の彫塑繪畫、又は法會の音樂などには、韓人もしくはシナ人によつて傳へられた特殊の技術が要る。記録には遺つてゐない技術家が來朝してそれを傳へまた指導したことが、推測せられもする。百濟を經由したものがシナから直接に傳へられるやうになり、新しい教派と新しい技術とが加はつて來ると共に、佛教とシナの(56)文物との關係はます/\密接になるのであつた。さうして中央集權の政治的制度の下に動いた當時の爲政者は、この佛教を一種の國教として、官府の權威を以て民間にも地方にもそれを弘めようとしたので、國分寺國分尼寺の設立によつてその形式が整備した。これには、同じく宗教的信仰であるといふ點に於いて、佛教がいはゆる神道と同視せられ、地方の神社を政府の神祇官によつて統轄してゐたことによつて導かれたといふ理由もあつたらうし、宗教としての佛教そのものが本來宣傳的性質をもつてゐるからでもあらうし、また或は隋高祖の事業が參考せられたのでもあらうが、ともかくも宗教であるだけに、國司によつて代表せられる政治的權力の下に存立した國學などよりも、多くの效果を地方に及ぼしたらしい。地方から名ある僧侶の出たことなども、この點から見ると無意味のことではない。しかし、かくして盛になつた佛教の國民に及ぼした效果は、宗教思想そのものに於いてよりはそれに伴ふシナの文物の移植に於いてであつた。このことはなほ後にいはう。
 こゝで佛教藝術がやはり主としてシナのの模倣であつたことを一言しておかう。建築でも彫刻でも繪畫でも、これらの藝術そのものが從來わが國で行はれてゐた素朴なのとは遙かに違つたものであつた。神社の建築には單純ながら簡素ながらに形の整つた美しいものがあり、宮殿も多分同樣であつたらう。塑像としては埴輪土偶の頗る巧妙なものが、佛教の行はれる前に既に作られてゐた。さうしてそれは佛教の殿堂や佛像の製作を學び得た技巧上の素地となつたであらう。しかし、佛教の建築彫塑そのものは全く新しいものであつた。だから、その初はたゞ異國人の作つた異樣のものに驚嘆の眼をみはるのみであつた。さうして我が工人が漸次その技術を學び得るやうになると、新しい樣式新しい技巧がその上/\と入つて來るので、我が工人はその後を追つかけ/\學んでゆかねばならなかつた。それど(57)ころでない。これらの藝術は本來佛教といふ外來の教に附隨してゐるものであるから、佛の相好、淨土の有樣、また寺院堂塔の建てかたは、與へられた典型に從はねばならぬのであつた。即ち國民自身が自己の信仰の象徴または表現として作り出したものではなかつた。秋天に立つてゐる藥師寺の三重塔は、その輪廓といひ各部分の權衡といひ、その簡素にして而も變化を矢はざる細部の技巧といひ、今日見ても殆ど申分の無い美しい建築である。しかし、あの層層相重つてその頂に聳ゆる九輪の尖端が高く碧空を摩する?堵婆はそも/\何を語つてゐるのか。當時の人の何樣の精神がそれによつて表現せられてゐるのか。或は大きな屋根が半空にひろがつてゐる、さうして内へ入ると光線の通りのわるい薄暗い金堂の建築に、日本人の情調の何の象徴があるのか。或はその?堵婆の外觀の美しさとこの金堂の内部の陰鬱さとがどんな關係をもつものとして、當時の人に感ぜられたのか。唐招提寺の金堂の前面の柱列を今人は美しく視るが、當時の人はそれをおのれらの氣分とどういふ連繋があると思つて見てゐたのか*。おのれらのとは似もつかぬ容貌姿勢の佛たち、特に頭の上に頭が幾つも列んでゐ、手のわきに手が何本も出てゐるやうな奇異な形體、どん栗の笠を並べたやうな螺髪、幾條も絲でくゝつたやうな頸、東大寺の大佛に於いて極度に達したその偉大な體?、さうしてまた全身の金色、何から何まで異樣のものである。異樣のものといふよりも人間界を離れた怪物として感ぜられはしなかつたか。十一面や千手の觀音は、或る教義或る思想の寓せられたものとしては、知識の上からそれを理解することはできても、日本人の氣分とは縁遠いものとして見られはしなかつたか。或は奇異なものであることが却つて崇拜の念を起させたといふ一面もあらう。また或は今人の眼から見て藝術的に價値のあることが、當時の人にもいくらかは感知せられ、それが崇敬の情を誘つたといふ事實があるのかも知れぬ*。或はまたあの堂塔を建て佛像を造(58)るそのことに、偉大なもの美しいものを作り出さうとする強い精神が現はれてゐ、それを仰ぎ見それを崇拜するそのことに感情の昂奮があつた、と考へることもできよう。建築に於いても彫塑繪畫に於いても、斷えず製作に從事したことが、部分的には、おのづから何等かの點に幾らかの創意をはたらかせることにもなつたではあらう。或はまたそれを造りそれを觀ることによつて日本人の美意識が養はれたでもあらう。しかしそれにしても、日本人の思想、日本人の想像、からあのやうな佛像や堂塔が造り出されたのでないことは、明かである。これらのものの製作が主としてシナのの摸倣である理由がこゝにある。從つて彫塑でも繪畫でも、製作の心理からいふと、今日の意義での藝術品であるよりはむしろ工藝品である。正倉院文書などを見ても、これらの製作者が一般工人と同じに取扱はれてゐるやうであるが、それはこのためであらう。建築についていふと、神社のが、よし幾らかシナ風のそれから取入れられたところがあるにしても、佛教のとは全く違つたものとして發達してゆくやうになつたことを、考ふべきである。勿論、時代と共に技巧の熟達とその精練とに大なる進歩のあつたことは認められねばならぬ。いはゆる飛鳥時代から天平時代までのを通覽すれば、そのことは明かに知られる。或はむしろ驚嘆に値する。けれども、例へば佛像の樣式の變化が我が國に於ける獨自の發達の過程を示すものとして解せられるかどうか。それよりもシナに於ける歴史的發達の諸段階を示す作品がそのまゝに我が國に傳へられ學ばれたところから生じたものとすべきではあるまいか。鑑眞のもつて來た佛像なども、また日本人にとつては幾らかの新技術によつたものがあつたのではあるまいか。平安朝になつてからの密教の佛像に現はれてゐる新樣式が我が國に於いての自然の變化としては見がたいことからも、このことは推測せられようではないか。さうして技巧の發達といふことも、この樣式の變化と密接に結びついてゐるのではなからう(59)か。新來の作品が我が國の工人に新しい刺戟を與へ新しい目と手とを養はせたことは、考へられるが、全體として見れば、少くともこの時代の佛像は、日本の藝術品としてよりも、當時のシナのの標本として見らるべきものであらう。佛像に刺戟せられて我が國の神像の作られるやうにならなかつたことには、我が國の神の信仰に於いて神の人格化が行はれず、多神教的形相の成立しなかつたためでもあるが、このこともまたそれについて考へらるべきである。僧侶については頗る寫實的な肖像が作られたにかゝはらず、その他のものにはそれが無かつたことも、同じ意味に於いて注意せられる。
 もう一つ考ふべきことがある。佛教の寺院は佛像を安置してそれを禮拜するところ、もしくは僧侶の修道するところであつて、一般信者のための會堂ではない。これは佛教そのものの性質から來てゐることであるが、それが佛教藝術の性質をも規定してゐる。壁畫でもその他の裝飾でも、佛や菩薩の行動または佛土の莊嚴などを示すためのものであつて、信者の信仰の表現を主としたものではない。法會に音樂が奏せられるけれども、それは音聲の官能的享受によつて佛土の怡樂を髣髴させるために、外部から借りて來たものであつて、信者の情調が旋律となつて流れ出たのではない。だから、同じものが朝儀にも用ゐられる。即ち正しい意味での宗教樂ではないのである。(これらの樂は多くシナの讌樂や俗樂であるが、當時の人にはさういふ感じは少しも無く、たゞ樂の官能美を喜んだのみであらう。)堂塔なり佛像なりが上記の如きものであるのも、このことから考へられる一面があらう。堂塔はその偉容を以て信者に臨み、佛像は高いところから信者を低く見おろしてゐるのである。さうしてまたこのことは、當時の大寺院が、國家または權力者によつて建立せられたものである點に於いて、貴族文化の一つの姿であつたこととも關係がある。そ(60)の建立者は、上にも一言した如く、かゝる寺院を作りかゝる法會を行ひ、その間に釀し出される特異の空氣にひたることに於いて、大なる誇りと滿足と悦樂とを感じたのである。貴族的佛教の信仰の少くとも一半の、或はむしろ眞の、意味はこゝにあつたであらう。鎭護國家といふが如きは、一つの觀念としてそれをもち、また一種の呪術的な意義に於いてそれを信じてゐたには違ひないが、崇拜者の心情としてはそれに大きな意味はなかつたのではなからうか。
 大化改新のころから奈良朝にかけてのシナの文物の學習移植はほゞかういふ状態であつた。しかしそれと共に、またそれに刺戟せられ或はそれを要素として、上に述べた如き我が國に獨自な文化の成長してゆく萌芽は次第に發生し、特に次章以下で考へるやうに文學の方面に於いてそれが著しく現はれた。この時代には摸倣が主になつてゐたものも、次の時代に至つて新しい日本の文化を形成するやうになる準備としての意味をもつのであり、そこにこの時代の文物の歴史的價値がある。要するにこの時代の爲政者がシナの文物を移植しようと努めたことは、我が國の文化の發達にとつては、ぜひともしなければならぬことをしたのであつて、また當時に於いても、この文化上の事業が、政府の事業の最も大なるものであつた。この點に於いては聖徳太子以來の爲政者の功績は十分に認めなくてならぬ。彼等がこのことについて旺盛な意氣をもつてゐたことも、また賞讃せられねばならぬ。特に交通の不便であつた當時、時たまの遣唐使すら殆ど何時も船が損じたり人を失つたりしたやうな状態の下に於いてのこととしては、なほさらである。佛教について見ても、かの大佛の鑄造などはかゝる意氣の一つの現はれである。またよし官吏養成のためとはいへ、地方にまで學校を設けて郡司の子弟などにシナの學問を傳へようとしたのは、後に國分寺を建てたことと共に、シナ(61)の文物を廣く世に及ぼさうとしたところに、同じ意氣が現はれてゐる。それは新に燦然たる唐の文物に接して爲政者の神經が昂奮したために生じたことなのである。たゞ東亞の地理的状態やその他の事情から、學ぶべき文物がシナのもののみであり、そのシナの文物がシナ人特有の民族性から成り立つてゐて、世界性が無く普遍性の乏しいものであつたことが、我が國に大なる累をなしたのである。いはゆる孤立語であるシナの言語、その表徴であるシナの文字、それによつて書かれてゐるシナの文章、即ちいはゆる漢文、それに現はれてもゐ導かれてもゐるシナ人に特殊な、論理性を缺いてゐる、思惟の方式、それによつて形づくられてゐるシナの學問、これらがみなさうであつて、それがために、日本人の學問がいはゆる記誦の學問、また漢文を書く技術を知るだけのものとなり、さういふことに畢生の力を盡し、從つてシナ人の思惟の方法に慣らされたために、ありのまゝに事物を觀察し論理的に思索する智能を養ふことができなかつた。
 なほこのことに關聯して、當時の日本人の海外に對する態度に注意すべき點のあることを附記しておかう。その一つは、遣唐使の一行がシナから多くの圖書や工藝品などを齎し歸つたではあらうが、シナの社會シナ人の實生活をよく觀察しそれについての知識を得ようとしたかどうかの明かでないことである。彼等が紀行や見聞録の類を遺さなかつたことから推測すると、さういふ考が無かつたのではあるまいか。民衆の生活は彼等の注目するところでなかつたにしても、彼等の應接した官吏や知識人の行動、または往復の途上の見聞など、をすら書きとめなかつた。事務官のうちには漢文の素養のあるものもあり、さうでなくとも古事記や宣命のやうな文體で記録を作ることはできたであらうに、それをしなかつた。これは書物によつて得られる知識をのみ重んじ、それを得ることをのみ努めたからではな(62)からうか。新羅や渤海に遣はされた使節も同樣である。蝦夷の經略に力を盡し斷えず彼等と接觸してゐた官吏が多かつたにかゝはらず、この異民族の生活状態について何の記録をも後に遺さなかつたのは、學ぶべき文物をもたず文化的に劣等な民族には、興味を感じなかつたからでもあらうが、知らうとすることが書物のうち、いひかへると漢文で書かれたもの、にのみあると思はれてゐたからでもあらう。佛教の僧徒にはシナに留學するものがあつたのに、儒者にそれが無かつたのも、僧徒は宗教上の儀禮などを見學しなければならぬのに、儒者はたゞ書物があればよいからではなかつたらうか。
 次には日本人の知識に於ける外國がシナに限られてゐたことである。今日から考へると、我が國に傳へられた繪畫や音樂の如き藝術はもとより、工藝に於いても、その由來を遠く西域に有するものが少なくないが、それらがみなシナ化せられまたはシナを經由して傳へられたために、當時の日本人はそれらをすべてシナのものとして考へてゐた。それには無理はないが、たゞ佛教の本國がインドであることを知つてゐたことはいふまでもない。(波羅門僧正として傳へられてゐた菩提が眞にインド人であつたかどうかには疑問があるし、林邑僧佛哲といふのが實在の人物であつたかどうかも問題である。しかしかういふ人々が來朝したやうにいはれたのは、佛教がインド傳來のものであることが一般に知られてゐたからのことである。)けれども僧徒はシナに留學しまたはシナの寺院を巡禮しようとしたのみで、インドにゆかうとするものは無かつた。たゞ平安朝に入つて始めて高岳親王がそれを企てたが*、その後もその蹤をふむものは出なかつた。經典もシナ語譯のもので滿足し、原典を知らうとはせず、後に悉曇が學ばれるやうになつても同樣である。いはゆる梵夾が稀に傳へられても、それはたゞ貴重品視せられたのみである。この點で日本人の知(63)識欲に限界があつたことを注意しなければならぬ。要するに、日本人はシナの書物によつて與へられる知識のみを重んじたので、そこに上記の如き缺陷の生じた理由がある。
 
 かゝるシナの文物を利用したものが朝廷官府及び貴族官人のみのこと、少くともそれが中心であり或はその主位にあつたことは、しば/\述べた如き事情によつて成り立つて來た、さうして中央集權の政治形態によつて特に強められた、當時の文化の貴族的性質の現はれでもあり、またそれがその性質を更に固めたのでもある。シナの文字を解しまたそれを用ゐることが一般の民衆にとつて極めて困難であること、舶來したり摸造せられたりした高級の工藝品が民衆の生活に縁遠いものであること、によつてもそれは知られよう。さうして、貴族の生活や佛教の寺院の存立が、權力とそれに伴ふ富力との集中せられた京でなくてはできなかつたことも、明かであるから、當時の文化はまた都會的でもあつた。地方では國府と國分寺とによつて纔かにそのおもかげが示され、郡家、即ち地方的豪族の住所、が更にその貧しいうつしであつたらう。「あをによし奈良の都は咲く花のにほふが如く今さかりなり」(萬葉卷三小野老)といはれ、地方に派遣せられたものは「やすみしゝわが大君のしきませる國の中には都しおもほゆ」、また「藤なみの花は盛になりにけり奈良の都をおもほすや君」(同大伴四綱)といひ、「天さかる鄙に五年住ひつゝ都のてぶり忘らえにけり」、「あが主のみ靈たまひて春さらば奈良の都にめさげたまはね」(卷五山上憶良)、といはねばならなかつた。國司などは、利益があるから地方に赴任はするものの(寶龜六年の格參照)、國府にゐてすらいぶせくてたまらぬ。こころなぐさめになでしこを植ゑさゆりを植ゑ「なでしこがその花妻に、さゆり花ゆりもあはむと、慰むる心しなくば、(64)天さかる鄙に一日も、あるべくもあれや、」(卷一八大伴家持)。詞藻のあるものは僚友と共に詩酒の間に盤旋して纔かに旅情を慰めてゐた(卷五憶艮旅人ら、卷一七、一八)。奈良の都に生ひたつた彼等が日を過ごすに堪へられないほど、地方の空氣は荒涼たるものであつた。中央の文化と一般民衆の状態とはそれほどに大なる懸隔があつたのである。
 然らばその奈良では何が彼等官人知識人の心をひきつけたであらうか。立ち並ぶ宮殿とそこで行はれる花やかな朝儀饗宴、あちこちの寺院のきらびやかな法會、「白かねの目ぬきの太刀をさげはきて奈良の大路をねる」彼等みづからの姿、四季の遊樂、時には行はれた大宮人の歌垣、その歌垣が昔物語に袁祁命の立たれたとある民衆的のとは違つて、貴族化せられてゐるのを見るがよい(續紀天平六年寶龜元年の記事)。さうしてそれらはみな中央政府の權力の表示であり、その權力によつて與へられた地位に居りまたその權力の行使に與つてゐる彼等みづからがみづからを眺めての誇りである。萬葉の歌に現はれてゐる彼等の生活は、かくして釀し出された貴族的都人的空氣の裡に形づくられたものである。歌の作者としての心情の修養も、その表現の具としての言語の精練も、それによつてなし得られたのである。
 さて、都會的貴族的文化はおのづから人の趣味を壯大よりは優美に、剛健よりは柔和に、質よりは文に、傾かせるが常であるが、シナ流の禮文主義が一層この傾向を助長して、女性的氣風を當時の都人士の間に馴致したのは怪しむに足らぬ。勿論、遊獵も行はれ、都の外の歴覽もせられた。山美しく水清き吉野、浪靜かな難波や紀の海は、彼等の好んだ眺めであつた。後の平安朝の貴族の生活のひたすらに室内的であるのとは違ふ。しかし吉野は彼等のためには仙女の住む桃源であり天台であつた。難波も紀の海も玉ひろふ海であり赤裳ひく少女の??するところであつた。或(65)はまた大規模な寺院が建てられ、思ひきつて大きな大佛も作られた。地方の國分寺すら後世にはとてもできさうにないほどの宏壯なものであつたらしい。蓬草の間に横はつてゐる斷礎を見ても坐ろに當時の偉觀がしのばれる。けれどもこれらはシナ風の官廳を設けたり奈良の京を造つたりしたのと同樣な事業である。趣味の發現ではなくして權力の行使である。だから私生活に於ける當時の人々の趣味はそれとはちがふ。その私生活に於いては「容姿閑雅、甚美風儀、」(懷風藻)を尚び、「儀容大淨」(續紀卷三慶雲元年七月の條)といはれて喜んでゐたではないか。和銅四年に衛士の?弱を戒めた詔が出たが、衛士の如き下級の武人すらかゝる状態であつた。靈龜元年に六位以下の官人の華美を競ふのを禁じてゐるが、神護景雲元年には容儀服飾の美を以て近衛將曹等を賞したのでも、當時の風尚が知られる。もつとも武人の家にはいくらか武人らしい氣風があつたやうであり、天平二十一年(天平勝寶元年)四月の宣命や、萬葉の「慕振勇士之名歌」(卷一九家持)などを見てもそれが知られるやうであるが、それも思想として彼等の尊尚するところを示したところに主なる意味があつたので、必しも實際の状態を語るものではなかつたとも考へられる。奈良朝の末の蝦夷征伐に士氣の甚だ振はなかつたのは、武人にも一般に文弱の弊があつたことを示すものではあるまいか(寶龜十一年十月己未の詔勅參照)。
 それのみでない。表面花やかに見える奈良の文化は、その實質に於いて決して健全なものではなかつた。權臣勢家の間に起つたその權勢の爭が當時の貴族に道義的精神の緊張してゐなかつたことを示すものであることは、別の問題としても、をりがあればいつも佛事を修し濫に大赦を行ひ、シナ風の祥瑞をさへももてはやしたのは、政治の局に當るものが、堅實な思想と實行力と明かな責任感とをもたなかつたからである。「妖惑百姓」の罪で一たびは罰せられ(66)た行基が後になつて尊敬せられ、玄ム道鏡の徒が勢威をふるひ、祥瑞と稱せられたものを僞作したり奇跡の出現を裝つたりして官を欺き世を欺く僧徒があり、また八幡の神の名を利用して一時を騷がせた禰宜があつたり、巫覡が厭魅を行つて人を惑はしたり、さういふことの連りに行はれたのも、かゝる一般の風潮に應じてのことである。神の祭祀や呪術的儀禮を行ふことは、昔からの民俗であり朝廷でもそれが繼承せられたが、それは素朴な心情から出たことであつたのに、これらはそれとは違つて、世人の迷信に乘じて勢利を貪らうとするための故意の欺瞞であつた。僧徒の非行を戒めた訓告がしば/\發せられても效果が無かつたらしいことも、參考せられよう。幾多圓頂緇衣の輩が盡く破戒無慚ではなかつたに違ひなく、また經論の研修を勉めたり、民衆のために何等かの事業をしたりするものもあつたが、その間にかういふものも少なくなかつたのである。さうしてこれらは何れも、當時の儒家や佛家の學問が、人の知性と徳性とを發達させるためには用をなさぬものであつたことを、事實の上に示してゐる。
 政治上の種々の弊害も、このことと關聯がある。奈良朝に於いて一般農民が困厄し、郷里を離れて浮浪するものさへ少なくなかつたことは、續紀の記載によつても明かであるが、さうなるには種々の事情があつた。その第一は貴族豪族や寺院が山野を占領し墾田を行ひ、それがために恣に農民を驅使しまたは彼等の生業を奪つたことであり、東大寺などの宏壯な寺院の建造の如きも、それに使役せられる民衆の怨恨を招いたことが推測せられる(續紀天平寶字元年の記事參照)。第二は直接に民政の局に當る國司郡司などが私利を營んだことであつて、彼等のうちで法令を守るものは僅かに一兩人あるのみともいはれ(天平七年の詔勅など)、或は國守で公平なものは一人もないといふ巡察使の報告もあつた(天平寶字五年)。かういふ文書に記されてゐることを一々文字どほりに解することは妥當でないか(67)も知れず、貧窮問答歌を作つた山上憶良の如き國守は、民政に意を用ゐたであらうと推測せられ、さういふ地方官も少なくなかつたであらうが、一般の傾向として私利を貪るものが多かつたであらう。また郡司についていふと、彼等は一面では民衆の首領であるから、その意味で部下の民衆の利益を計る場合があつたと考へられる。しかし彼等及び彼等と同じ地位にある地方の豪族が民衆を使役して宏大な墳墓を造つたことなどをも、知らねばなるまい。第三は制度そのものの缺陷であつて、墾田なども、それがために民衆の困苦することがあつてもそのことは合法的であつた場合もある。班田の圓滑に行はれなかつたために農民の生活を妨げたことは、いふまでもない。京都造營のために徴用せられた諸國の役民に逃亡するものがあり、庸調の脚夫などには途中で糧食つきて死するものさへあつたのも、一つは爲政者の用意の足らなかつたためであるが、一つは制度のためでもある。根本的にいふと、貴族や豪族の上に述べた如き行動も、令の制度が彼等の貴族的豪族的もしくは官人的の特殊の地位を擁護するものであつたところに、その一つの起因がある。當時の都會文化貴族文化の間に生活し、もしくはそれを何等かの程度で享受しようとするには、その經濟的基礎をかゝるところに据ゑなくてはならなかつたのであり、さうしてさういふ文化が貴族的性質を有するシナの文物を學びとることによつて形づくられるものだからであるが、制度の上から見ると、かう考へられる。貴族官人もしくは豪族の地位にあるものは、その地位を維持せんがために、その地位によつてなし得られることをしたのであり、さうしてそれが民衆の困厄となつたのである。租税徭役が過重であるのも、またシナ式都府、シナ式宮殿を經營したり、シナ風の寺院を國費で建設したりしたところから來てゐるが、それが制度として定められた點から見れば、やはり制度の故である。さうしてその制度の大綱がシナのを摸したものであり、班田の如きものさへそれに伴つ(68)てゐたことを考へると、かゝる政治上の弊害の根本が國情に適しない異國の制度を學んだところにあることが知られよう。ところで、かゝる民衆の困厄は、爲政者としては看過し難いことであるので、それがために政府としては斷えず官人や貴族豪族や寺院僧侶に對して戒飭を加へたのであるが、その爲政者が他方では戒飭を加へられる貴族官人の地位にあるものであり、または豪族と結託したり寺院を建立し保護したりしてゐたものであるから、その效果は少しも擧らなかつた。さうしてそれもまたかゝる貴族等が政治の要路に當り得るやうになつてゐた制度のためである。或はかゝる戒飭はむしろ知識人たる特殊の官僚の思慮から出たところが多かつたでもあらうが、さういふ官僚がやはり貴族の勢力の下にあり、またはその地位につながつてゐるものであつた。
 新制度がかゝる性質のものであり、それがかゝる成りゆきになつたことについて、注意すべきは、當時のわが國が對外的になすべき事業をもたず、その點に於いて爲政者に國家經營の意氣が乏しかつたことである。國家經營の精神は外國に對して自國の存立を全くしようとする場合に、少くとも對外關係が重大な刺戟となつて、緊張するのが常だからである。既に述べた如く、大化改新の一つの動機としては、大陸の形勢の變化に對應しようとする考があつた。それは固より防守の意義でのことであつたけれども、ともかくもそれが當時の爲政者の心情を緊張させた。唐軍と新羅軍との侵略に對して百濟のために一たび救援軍を派遣したのも、同じ事情のためであつた。しかし敗戰と共に半島からは全く手をひいてしまつた。これは往年新羅の任那略有に對して武力によるその復活を努めなかつたと同じ態度であつて、それは、當時の對外關係の主なる意味がシナの文物の採取にあつたのと、新羅も唐も我が國に對して平和的關係を維持しようとしたのと、また海を隔ててゐる地理的位置と、強い武力を持たなかつたのと、これらの事情の(69)ためでもあるが、我が國が昔から内に於いても外に對しても武力的行動をとることを欲しなかつたところに、その重要なる理由があつたと解せられ、武力をもたなかつたのもそのためと考へられる。(四世紀に於いて新羅に兵を出したのは、われ/\の民族と關係の深かつた任那の保護のためであり、その後の半島での幾らかの武力的活動も、それと結びついたこととしての百濟の援助のためであつた。)やむを得ず武力的行動をとつた場合があるにしても、もしそれが成功したならば、そのことによつて更にその態度が續けられるやうになつたでもあらうが、それは成功しなかつたのである。かういふ状態は、根本的には異民族に對する民族的競爭が無かつたからであつて、皇室が對外的意義に於いての民族的活動を象徴する民族的英雄として視られるやうにならなかつたのも、こゝに由來があり、對外戰爭に勝利を得た將軍が英雄視せられて權力を握るやうな事態の生じなかつたのも、これがためである。辭令の上または儀禮の上に於いては、新羅や唐の王朝に對してわが國の體面を保ちまたは高めようとする努力はせられ、隋に對する國書または新羅や渤海に對する公文の書きかたや、それらの國からの公文に對する取扱ひかた、また唐に於ける列國使節の席次についての抗議やにも、それは現はれてゐるし、國號の文字を日本と定めたことの動機の一つには、かゝる對外的な意味もあつたらうが、實際的には、何よりもシナの文物を學びとることに主なる力が注がれ、この側面でシナは尊尚せられたのである。百濟の滅亡に伴つて歸化して來たその國の知識人を厚遇して、彼等に日本人としての姓を授け、官職と位階とを與へ、また文事に於いてはそれに師事したのも、これがためである。これは、同じころに歸化した半島の農民を集團的に諸國に配置して彼等の生活を保護し、その統制についても半ば彼等の自治に任せたことと共に、一般に異民族を邦人と同一視する爲政者の態度を示すものではあるが、シナの文物に對する尊尚の念から(70)も出たことである。
 對外關係がかういふものであつたことは、一面に於いては我が國を平和の地位に置き、爲政者の力を文化の促進に注ぐことを得しめたのである。さうしてその根本は、我が國が島國であるために、大陸の勢力の脅威をうけず、その侵略の鋒が及ばない、といふ點にある。半島が昔から今まで斷えず北方の勢力に壓迫せられまたそれに侵略せられてゐることと對照して、地理的位置の我が國に幸したことが知られる。かういふ事情で對外的に戰争は起らなかつたが、國内に於いてもまた同樣であつた。(壬申の亂の如きことがあつても、それは皇室の内部の紛爭が千戈によつて勝敗を決することになつただけであつて、國民の間に戰亂があつたのではなく*、さうしてその後にはそれほどのことも起らなかつた。)しかし平和であることは、他面に於いては、彼等の精神を緊張させず、國家の經營に眞摯な努力をさせない理由ともなつた。政治上の權力が政府を構成する貴族にのみ集まると共に、その文化も貴族的な性質をどこまでも保持したのは、こゝに一つの理由がある。國家の經營に力を揮ふことをしなかつたために、爲政者はその權力をおのれ等の生活の豐富を求めるためにのみ用ゐる傾向を生じたからである。文化の發達はむしろその結果として見るべきであらう。たゞ東北方に於ける蝦夷の經略は、その地域に對する國民の進出を保護するために、大化以後、漸次に進められていつたが、しかしそれとても、一方では武力によりながら、他方では懷柔政策及び一種の移民政策とそれに伴ふ同化政策とによつて行はれたので、かういふ政府の施設がそれに伴ふ國民の進出と相待つて、漸次われ/\の民族の住地をその方面に擴張してゆくと共に、次第に蝦夷を日本人化してもいつたのである。蝦夷經略と共にその地域に日本の文化がひろがつていつたのはこれがためであり、蝦夷みづから文化的には日本化することを欲したのである。(71)捕虜とせられまたは降附したものを集團的に内地の各地方に配置し、彼等に生活の資を給すると共に、半ばその自治を許したのも、歸化した半島人に對する處置と同じであつて、わが國民の異民族に對する一般的態度から來たことであるが、その結果は文化的意味に於いて、彼等が漸次日本人化して來ることとなつたのである。かういふ蝦夷經略が、異民族に對するものとしては、當時の政府の殆ど唯一の事業らしい事業であつたが、これは一方面のみのことであり、全國の力を擧げてそれに當るほどのことではなかつたから、上記の如き爲政者によつてもなほ爲し得られたのである。
 しかし民衆は抑壓のみをうけてゐたのではない。貴族豪族や寺院の墾田は、一方では農民をそこに吸收することにもなり、その意味で農民に生活の場所を供給することにもなつた。政府の蝦夷經略は、主として東國地方に於いてではあるが、農民が兵士として派遣せられまた軍糧を徴せられたりその運搬を命ぜられたりした點に於いて、彼等には少からぬ負擔となつたけれども、一方では蝦夷の地域に移されることによつてその生活の場所を新に開拓することもでき、また浮浪者がその住地を得ることにもなつた。この意味では、われ/\の民族の東北地方に對する進出が、政府の蝦夷經略によつて促進せられまた援護せられたといつてもよい。一般的にいふと民衆には、合法的にも非合法的にも權勢あるものによつて抑壓せられ、秕政によつて困厄の境に陷るものはあつたけれども、奴隷視せられたのではない。それは歸化した半島人や捕虜とせられた蝦夷が上記の如き取扱をうけてゐたことからも、類推せられねばならぬ。法制上の賤民とても奴隷でなかつたことは明かである(「日本上代史の研究」第二篇參照)。時々行はれた租税減免や賑恤などが、どれほど實行せられどれほどの效果を奏したかは、明かでないが、かういふことの行はれたところに爲政者の一つの態度の見られることをも、考ふべきである。また文化の點に於いて、一般民衆の生活が貴族等に比(72)して遙かにその程度の低かつたことは、いふまでもないが、衛土などになりまたは役夫として京に上つたものは、京の風物と貴族の生活とをよそながら見ることができ、郷土に於いても豪族に使役せられることによつてその生活を覗ひ知り、または調庸としての工藝品などの製作に與るといふやうな、いろ/\の關係で、何ほどかの高い文化の空氣に接し、從つてかすかながらも自己の生活にそれをとりこむことのできるものも、彼等の間に生じたであらう。能力からいふと、地方人や民衆が都會文化貴族文化をうけ入れ得たことは、日本人がシナの文物を學びとることができたのとほゞ同じであつたらう。たゞそれには經濟的な條件がなくてはなるまい。しかし農民などの間にも種々の程度で貧富の差はあつたであらうから、その富者については、かういふことが考へられる。一般的にいつても、石器の使用の如きはこのころにはほゞ行はれなくなつたのではあるまいか。
 勿論、貴族文化都會文化は、民衆の力を用ゐることによつて成り立つてゐたのであるが、このことについては、かかる文化の形成が後世に至つて全體としての國民文化を發達させる基礎とも淵源ともなり、またさういふ國民文化の要素としてのはたらきをしてゆくところに、不朽の價値をもつてゐることを考へなくてはならず、壯麗なる寺院の建てられたことなども、その意味に於いて豐富なる文化財を後に貽したものである。さうしてそれが、民衆を使役し民衆の財貨を徴し、その點で民衆を困苦させることによつて成りたつたことは、この時代のこととしては、已むを得ざるものであつた。もし民衆の力を用ゐなかつたならば、法隆寺も興福寺も東大寺も、その他の多くの寺院も作られず、從つてわが國の文化は現に發達した如き發達はできなかつたであらう。わが國のみでなく、近代以前に於いては、何れの國に於いても同樣であるので、そこに文化の民衆化せられなかつた時代の國家または社會がもつてゐた矛盾があ(73)る。しかし、當時の民衆は、このことに對して、今人ならばもつであらうと考へられる如き不滿や不平を抱いてゐたには限らぬ。「課役はたる」「里長」の前に「泣く」ものは少なくなかつたでもあらうが(萬葉卷一六)、それは必しも中央政府の政治の全般に對する怨嗟とはならなかつたと考へられる。さうするほどの政治意識が當時の民衆には無かつたと推測せられるからである。彼等は自己の勞苦を勞苦としつゝ、壯麗なる京の景觀に驚歎し、または自己の勞苦の與つたものとしてそれを見ることに或る誇りをさへ感じたかも知れぬ。自己よりも遙に高い生活をしてゐるものとして貴族や官人を尊崇したことは、いふまでもなからう。
 しかしまた他の一面に於いては、民衆は民衆として、自己の生活を何等かの方法で擁護しまたは伸張しようとしたので、彼等もまた合法的に或は非合法的にそのために努力した。郷士を離れて浮浪するのも貴族豪族の墾田に逃避するのも、その現はれである。課役や租税を免れんがために圓頂緇衣の姿を裝ふこともある。農民に不法の行爲をするものの少なくなかつたのは、かういふ點からのみ考へらるべきでないことは固よりであるが、そのうちにはかういふ意味のものもあつたらう。令の制度がそのまゝには實行せられず、種々の變改潤色がそれに施され、或はそれが漸次崩壞していつたのは、民衆にこの生活力があつたからでもある。民衆は自己の上に外から蔽ひかぶさつて來た制度を、彼等の日常の生活によつてその内部から徐々に崩壞させていつたのである。意識して破壞しようとしたのではないが、制度そのものの内部に於けるおのづからなる崩壞作用として、民衆の生活がはたらくことになつてゆくのであつた。さうしてそこに、後年に至り、國民みづからの活動によつて長い年月を經て次第に形づくられてゆく新制度の胚胎するところがあつたのである。これが、外から學ばれた制度の缺陷とそれにもとづく爲政者の秕政とによつても、なほ(74)その生活力を萎靡させてしまはなかつた、我が國民の意氣であつた。さうしてそれには、民衆の日常の生活に困苦はあつても、戰亂などがどこにも起らず、その意味では平和が長く續いたことにも、一つの由來があらう。さうして戰亂が起らなかつたのは、島國たる地理的位置のために外國から武力的壓迫の來るやうなことが無く、一つはさういふ情勢の下に歴史的に養はれて來たところのある遠い昔からの我々の民族の平和を好む習性が、國内に於いても武力によつて何事かをしようといふやうな考を起させなかつたからであり、武人の地位にあるものが文弱に流れたといはれたのも、一つはそのためであつたらう。特殊の地方の外は諸國の兵士を罷めることになつたのも、このことと關係があるので、それは兵士が雜役に使はれて兵士の用をなさなかつたからであるが、用をなさないですんで來たところに意味がある。たゞ「額には箭は立つとも背に矢は立たじ」(神護景雲三年一〇月の宣命)と誇り、「いで向ひ返りみせずて、勇みたる武き軍、」(萬葉卷二〇追痛防人悲別之心作歌家持)と稱せられた東國人は、特に一種剽悍の氣を帶びてゐたらしく、これは昔から異民族たる蝦夷に接觸してそれと不斷の競爭をして來た故もあらうし、人口の稀薄な曠野に於いてその生活を保持しなければならぬ必要から來た點もあらうし、また幾分か荒涼たる風土の感化もあらうが、ともかくもそれが東國人の特色であつたことはこの宣命や歌を見ても知られる。しかし、これとても彼等が戰亂を好んだことを示すものではない。土地によつては農村が疲弊し田野の荒廢に傾くところがあつたであらうが、すべてがさうではなく、一方では山野も開拓せられ生産も増加したところがあつたに違ひなく、特に貴族豪族や寺院の所領は次第にその内容が充實してもいつたであらう。さう考へなくては後に莊園といはれるやうになつたものの發達の形勢が理解せられない。さうして民衆は昔から續いて來た種々の年中行事に彼等の娯樂と安慰とを得たであらう。歌垣の(75)如きは到るところで行はれたに違ひない。
 かういふ状態のうちに奈良朝の世はいはゆる平安朝に移つていつた。しかし都遷りは必しも時勢の變化を示すものではなく、平安朝の初期の四五十年間はすべての状態が奈良朝の引き續きだといつてよい。遷都そのことが既に、天平以來奈良の都を何處へか遷さうとして、その場所が定まらないために生じた多年の動搖を、やつとかたつけたものである。それは人心を新にするについて或る效果はあつたであらうが、政治上に新經綸を行はうとしたためではなく、たゞあまり奈良と遠くない場所で都府を經營するだけの廣さがあり、また北に山を負ひ南が開いてゐる土地を選んだまでで、かういふ場所は今の京都附近の外には無かつたのである。一度長岡に移したことがあるのを考へ合せると、淀河の水運を何かに利用する考であつたかとも思はれるが、當時の形勢に於いて西國方面に新しい經營をすべきことは無かつたから、もしかういふ考があつたにせよ、それは租税でも集中する便宜ぐらゐのことに過ぎなかつたであらう。さうしてそれにしても、難波を撰ばなかつたところに、實際上の必要よりは他に理由のあつたことが知られる。また當時は前代の遺策を繼承して蝦夷の征討に力を用ゐたけれども、山城の位置はそれに何等の便をも與へるものではなく、この點に於いては奈良と同じである。征討軍は主として東國の兵である。兵粮武器は東海東山北陸諸道から送らせる。都を奈良から今の京に移すことがそれに何の影響があらう。事實、蝦夷の征討は東國のはてのことであつて、矢叫びの聲が平城城裡の穩な夢を驚かすには餘りに遠かつた。さうしてまたそれは、一地方の事件としては可なりに重大なものではあつたが、國家全體の形勢を動かすほどのことではなかつた。從つて蝦夷征討は國家經綸の根本(76)を定めるものではなかつた。さすれば、山城の奠都もそれに關係があつたのではあるまい。さうしてこの蝦夷征討の外には、當時の政府は何等の新しい事業をしなかつた。平安奠都が政治上の必要からでなかつたことはいよ/\明かである。たゞこれから後には、皇室の内部に事變の起ることが、全く無くなりはしないが、これまでよりは少なくなり、女性の皇位に即かれることも無くなつた。皇族が多く姓を賜はつて臣下に列することになつたのが、もしこのことと關係があるならば、こゝに幾らかの爲政者の用意の迹が見られよう。しかしこれとても國家の經綸といふべきものではない。さうして皇室はこれまでと同じく、政治的によりも文化的にその地位とはたらきとをもたれるのであつた。弘仁の時代はその最もよき表徴である。
 かう考へて來れば、平安京の經營はやはり宮闕を壯麗にして禮文を修飾しようとする外には意味が無かつたので、遷都のことばかりでなく、一體に當時の政府の主なる事業はこれが目的であつたのである。だから山美しく水清き箱庭のやうな風光に滿足して、新京樂、平安樂土、萬年春、を謳つて得意がつてゐたのである。しかもその平安京が、奈良京と同じく、輪廓のみ整頓して内容が充實せず、西の京はいふまでもなく東の京さへ空虚の土地が多かつたらしく、天長四年の格に「左右京兩職解稱、巡檢京中、閑地不少、或貧家疎漏、徒餘空地、或豪門占賣、曾不作勞、彼此閑廢、多失地利、須並加勸課、令盡地利者、……依請者、……謹依符旨、課條喩戸、勤俾營作、而人稀居少、不事耕營、徒過日月、稍成藪澤、」といつてある。奈良の京が空疎であつたとすれば、新しい活動の根據として作られたのでない平安京がかゝる状態であつたのは當然である。さうして初からかういふ風であつたものが、後になつて充實せられるはずはなほさら無く、承和五年には「如聞、諸家京中、好營水田、自今以後、一切禁斷、」といふ命令が下つ(77)たほどである。慶滋保胤の池亭記や宇津保物語(藏開の上の卷頭)などを見ると、後年になるほどます/\荒廢していつたらしい。かういふ内容の無い新京を建てたほどであるから、その精神が依然として禮文主義の浮華な思想であつたことは明かである。要するに平安遷都は新しい政治的活動の表象ではなく、また實際それによつて新局面の展開せられることもなかつた。
 さて長い年月の間に馴致せられて來た政弊は、根本的にかういふ禮文主義、それによつて成りたつてゐる令の制度そのものを改めなければ除き去ることができないが、上に述べたやうな事情のために、當時の爲政者にはそれは思ひもよらぬことであつた。それには彼等の生活の根據である社會と文化とを覆さねばならぬからである。が、實はかゝる變革の必要を思ふほどに政弊が何によつて生じたかの明かな反省が無かつたのである。久しくさういふ状態に慣らされたものは、それを不思議とも感じなかつたに違ひない。從つて秕政から來る民衆の困苦を知りながら、その秕政を根絶する方法を切實に考へることはしなかつた。承和九年に鴨の河原などから髑髏五千五百頭を拾ひ取つて燒いたといふが、どうしてかういふものがこれほど多く委棄せられてゐたかは知り難いけれども、かゝる事實のあつたことだけでも官司の態度はわかる。京の附近ですらもかういふ状態であつた。これは特殊の事例であるが、一般に民政の頽廢してゐたことは、これからも推測せられるので、國司や郡司の不法の如きは常のことであつた。さうして中央の爲政者はそれを如何ともすることができなかつた。勿論その時々に生起する種々の事件がそれ/\に處理せられてはゐたし、官吏の不法を戒飭したこともあり、奧羽方面の經營に努力してその效果が著しく現はれもしたのであるが、しつかりした國策をたてて經綸が行はれたのではない。奈良朝時代と同じく、當時の東洋の形勢に於いては、國家と(78)してはたらくことの無かつたところに、かうなつた主因があらう。そこで當時の政治は、極言すると、爲政者の屬する貴族社會とその文化とを維持し、それを鞏固にしそれを發達させることの外に何ごともなく、新しい平安京はこの貴族文化を具體的に象徴するのみのものとなつた。さうしてそれによつて特殊なる貴族的習俗と風尚と趣味とが修練せられ養成せられることになつた。その結果として、彼等の社會の文化は奈良朝時代よりも一層貴族的に、一層都會的に、從つてまた一層女性的になり、京の大宮人はその京のみをおのれ等の生活する世界と考へるやうになつてゆく。彼等にとつては京が世界の全體であり、京の外は人の住むべき國ではない、と思はれるやうになるのである。
 ところが、この文化の由來は唐にある。遣唐使や留學生留學僧は次第にその文物宗教を學び傳へたけれども、まだ足りない。當時の唐の文化はもはや大體に於いて停滯に傾いてゐたけれども、我が國から見ればやはり文物の本源地であつた。だから我が國にまだ來てゐないものがあれば、更にそれを採り入れようとする。新しいものが入れば、それが流行し尊重せられる。唐風の模倣はこの氣運に於いて最も盛になつたのである。佛教には天台の教と密教とが入つて來、それに伴つて佛教藝術の新樣式も傳へられた。唐風をまねた踏歌が行はれ漢樣の宴會が催され(類聚國史延暦二十二年三月の條)、シナ風の郊祀の行はれたことさへあり、大嘗會にも唐樣の作り物を裝飾とし、はては弘仁九年に「朝會之禮及常所服者、又卑逢貴而跪等、不論男女、改依唐法、」(類聚國史)とさへ定められた。「新年正月北辰來、滿宇韶光幾處開、麗質佳人伴春色、分行連袂※[人偏+舞]皇垓、【新年樂、平安樂土、萬年春】」(延暦十四年正月踏歌の詞)を「少女らに男立ちそひ踏みならす西の都は萬代の宮」(寶龜元年三月歌垣の歌詞)に比べてみると、嗜好の變化がよくわかる。藝術の上でもさうである。音樂では從來から行はれてゐた唐樂が一層盛になつて、弘仁のころには仁壽殿内宴は勿論の(79)こと、四季をり/\の遊宴または神泉苑行幸などの場合には、漢詩の製作と共に奏樂が行はれた。特に承和前後には新しく唐から學ばれた樂も尠なくなかつたらしい。唐樂の新古、高麗及び林邑、の四部の樂部がそのころにあり、左右近衛府でも樂は練習せられた。音樂はこんなに流行したけれども、それは單に音樂と舞容との官能美を愛し、演奏の技巧をめでたのみであつて、日本人の心生活とは交渉の少いものであつた。繪畫に於いても同樣で、嵯峨天皇の清涼殿壁畫山水歌(經國集卷一四)によると、宮中の裝飾に用ゐられた繪畫は、みなシナ風の山水畫であつたらしい。かういふものが喜ばれたのは、たゞ技巧的興味に於いてか、または一種の異國趣味のためかに過きなかつたであらう。これらについては、遣唐音聲長や遣唐畫師の名が史上に見えてゐることも參考せられる。文學に於いてはこの傾向が最も強く、漢樣の詩賦が前代にもまして宮廷を中心とした文士の間に流行した。國語で書かれた宣命に漢語の語彙を用ゐることが多くなつたり、古語拾遺の神代の物語の所々が漢文化せられてゐたり*、舊事記に陰陽本紀の篇名が作られたり、さういふやうなことも、この時代の趨勢を示すものとして注意せられよう。
 しかしかういふ唐風の流行は、畢竟、推古朝前後から奈良朝を經て、この時まで繼續せられたシナ文物尊重の思想が頂點に達したのであつて、平安朝に入つてから新に生じた特殊の状態ではない。佛教に於いて新宗派の入つて來たのも、偶然のことであつて、それが平安朝の初であつたといふことには意味がなく、我が國民の宗教思想が變化または發達して新しい宗派を要求したからでないことは勿論である。たゞ我が國民が長い間外來の文物をうけ入れて來たことから生じた習性として、新しく傳へられたものを喜んで迎へる氣風がある上に、密教は佛教がインドの民間信仰と婆羅門教との混合であるインド教と結びついて生じたもの、むしろ佛教の外皮をつけたインド教ともいふべきもの(80)であつて、佛教としては甚だしく變相したものだけに、その點が現世の幸福を祈禮することの外に意味のない當時の宗教心によく投合したので、入つて來てからは急速にその勢力が發達したにすぎないのである。またこれらの新宗派、特に密教に伴ふ佛教藝術も、新樣式新技巧を世に示したのではあるが、これもまた國民の趣味の變化から起つたのではない。特に密教の佛像神像にはインド教的要素が勝つてゐるだけに、奈良朝のそれよりも更に幾層か奇異なものが作られるやうになつたので、さういふものは祈?の對象としてこそ崇拜せられたけれども、その形相姿態は國民の趣味とは全く背反してゐる。多分それによつて國民の宗教思想に潜在してゐる陰暗な一面が刺戟せられたのであらう。要するにシナの文物との關係に於いては、この時代は依然として輸入時代摸倣時代であつて、その點では奈良朝以前からの繼續である。平安朝に入つてから和歌があまり行はれないといふやうなことから、世間にはこの時代のシナの文物の尊重を特殊の思潮のやうに解する説もあるらしいが、さうではあるまい。和歌がこの時代に行はれなかつたといふ普通の説も、そのまゝには承認ができないが、このことは後章に於いて別に述べよう。
 ところが、かういふ状態は何時まで續いてゆくであらうか。大化改新前後から奈良朝にかけてのシナ文物の移植時代に於いても、日本人の生活は決してシナ化せられず、固有の樣式と情趣とを保ちつゝ、歴史の發達とシナの文物を學びとることとによつて、特殊の精練を加へて來たのであつた。これは次章以下に述べるやうに文學に於いて最もよく表現せられてゐた。日本人は決してシナの文物に壓倒せられてはしまはない。だから、この移植の勢の極度に逢した平安朝の初期は、却つてその間から獨自の日本文化を造り出さうとする、新しい氣運の動いて來る時となることが豫想せられる。事實さうであつたかどうかは、次篇に考へるところによつて知られるであらう。
 
(81)       第二章 文學の概觀 上
            神代の物語と記紀の歌謡
 
 前章に述べたやうな社會的政治的状態の下に現はれた純粹の文學的作品は、時代の順序からいふと、先づ第一に記紀に記されてゐる歌謠と萬葉の歌とを擧げねばならぬ。純粹の文學としては見かねるものであるが、記紀によつて今に傳はつてゐる神代の物語及び古事記によつてほゞその面影の覗はれる神武朝以後の種々の物語も、この時期の初に於いて漸次形成せられて來たものである。また文學としての價値はそれよりも低いが、祝詞の大部分も同じころの作であり、特に大殿祭、月次祭、大祓、などのには大化改新前に書かれたものらしい形跡がある。それは大殿祭の祝詞に、宮殿が掘つ立て小屋作りで、柱も梁も繩で結びつけた時代の有樣が見えてゐて、シナ風の建築法が宮殿建築に大なる影響を及ぼさなかつた前、少くとも古い建築法が法式としては嚴存してゐた時代のものらしく、月次祭のには倭の六の縣といふ語があり、大祓のには東西文部が朝廷に特殊の位置を占めてゐる樣子が見えるからである。
 まづ記紀の物語について考へてみようと思ふが、何よりも先づ、それが敍事詩でないといふことを明かにする必要がある。物語の人物に國民的もしくは民族的英雄の面影が少しも無く、すべてが政治的君主としての天皇及びその御祖先、皇族重臣、もしくは朝廷から派遣せられた將軍、などとして語られてゐるし、その行動にも國民的または民族的感情の表現または象徴として見られるやうなものは無い。その他、序説第二章でいつたやうな敍事詩の性質に適合するものは、一つも具はつてゐない。敍述の方法や態度に於いても敍事詩人を思ひ浮かべさせるやうなものの無いこ(82)とは、後に述べるところによつて知られるであらう。
 記紀の物語は古事記の卷首にある太安萬侶の上表に「本辭」または「舊辭」と稱せられてゐる古書に記してあつたものであつて、その書は、六世紀の中ごろに編述せられたであらうと思はれるが、その後の長い年月の間に幾人かの手によつて幾度もまた幾樣にも變改修飾せられ、種々の異本となつて、書紀編纂のころまで傳はつてゐた。述作者は朝廷に地位をもつてゐた知識人であり、その時代に一般に行はれてゐた如く、漢字で國語を寫す方法によつて、多くの散文の物語を作り、また多くの歌謠をそれに編みこみ、さうしてそれをこの一つの書にまとめたのである。古事記によつて傳はつてゐるものは、國語で書かれた散文の物語である點において、この舊辭の形が保持せられてゐるが、その内容は、多くの修飾が加はつてゐる點に於いて、原作とは著しく面目を異にしてゐる。書紀のは、漢文化のために又はシナ思想の附加せられたために、變形せられたところがあり、その側面では國文學上の述作とは認めがたい點もあるが、その内容は舊辭の物語の修飾せられたものであるのみならず、文章とても國語で書かれた原文のおもかげが多く殘つてゐて、普通に神代史といはれてゐる神代の物語に於いては特にさうである。たゞ神武天皇以後の部分は、年代記の形をとらせるために變改せられたところがあり、その意味でもとの物語とは違つた色彩が付與せられてもゐるが、歌謠の載せてあることは古事記と同じである。これらの物語のうちの最も重要なものは神代の物語であつて、それは皇室及び國家の起源を説くために構成せられたものであり、神武朝から仲哀朝までの種々の物語もまた、それらが作られた時代の政治上の主要なる状態のそれ/”\の起源説話として、當時の思想によつて、作られたものであるが、その政治思想の如何なるものであるかは、後章に至つて別に述べるであらう。たゞ應神朝以後のはそれとは違つ(83)て、天皇および皇族の私生活としての物語であるが、それに何ごとが表現せられてゐるかも、また後に考へることにする。
 そこで問題は、かういふ物語の文學としての性格と價値とであるが、何よりもそれが朝廷の知識人が爲政者の地位に立つての作であり、その主なるものが政治的意義をもつてゐるといふこと、いひかへるとそれが民衆の間から出たものでなく、また詩人の作でないといふことが、その性格を規定してゐる。最初の作がさうであるのみでなく、後の變改修飾に於いてもこのことは同じである。民衆の行動は少しも語られてゐず、政治に對する民衆の思想や情懷も現はれてゐないし、また上に述べた如くその人物も民族的または國民的英雄ではない。そこに、これらの物語が貴族文學の一形態と見なされる意味があると共に、その敍述が概ね行爲の外形にとゞまつてゐる理由もある。神代史について考へてみるに、種々の物語を含んでゐる、或は種々の物語によつて成立してゐる、この物語は、一貫した着想とほぼ整つた結構とをもつてゐるので、そこに知識人の智能のはたらきが見えてゐるが、詩人的な空想の動きは認められない。イサナキ・イサナミの二神が青海原をかきなすところとか、ホノニヽギの命が高天原からタカチホの峯に下るところとかは、雄大な光景であるのに、その敍述は概念的であり抽象的である。彼の方のには「天の八重たな雲をおしわけていつのちわきにちわきて」といふいひかたに或る力がこもつてはゐるが、そのおしわけかたちわきかたが語られてゐない。スサノヲの命の高天原に昇る時のことを、「山川悉動、國土皆震、」といつてゐるのも、やはり抽象的な形容である。(これは漢文から來たいひかた、むしろ漢文めかして書かれたもの、と解せられる。書紀の書きかたはそれを一層誇張したものである。)ヨミにおける二神の間の、また高天原における日の神とスサノヲの命との、爭(84)ひなどは、かなり具體的に想像せられてゐて、後の方の同じいひかた同じ語句を幾つも重ねた敍述のしかたには、その動作その光景にふさはしい力強さが現はれてもゐるが、しかしヨミが死者の住む國としての明かな形を具へてゐるやうには寫されてゐないし、大和の土地を反映してゐる高天原も、天上の國としての特殊の相貌は描かれてゐない。高天原とこの土地との往復にも、虚空の間を昇降するやうな有樣が語られてゐず、纔かにホノニヽギの命の天降りの時に天の浮橋に立つといひ、ニギハヤビの命が天の磐船に乘つて降りたといふ話が、見えるくらゐである。神武朝以後のものに於いても、神功皇后の新羅の物語に戰闘の敍述が無く、神の力が加はつてゐるやうになつてはゐながら、それが神の行動としては語られず、神が戰闘に參加してはたらいた樣子は見えぬ。倭建命の東國經略の物語に橘姫の話が後から附け加へられたにかゝはらず、燒津での命の活動にはこの姫が何のはたらきもせず、「ちはやぶる」神も走水の渡りの神には何のつながりも無いことになつてゐて、その附け加へかたが甚だ機械的である。(「相模の小野にもゆる火の」といふ橘姫の歌があるが、これは物語とは關係の無い歌をこゝに結びつけたものであつて、姫が燒津ではたらいたことを示すものではない。)これらは何れも、作者もしくは修補者に詩人的な空想のはたらきの乏しかつたことを示すものである。神代史も上代の物語も、その形態に於いては勿論のこと、その内容に於いても敍事詩の性質を有せず、その作者が詩人でなかつたことは、これらの點からも明かである。詩人であつたならば、かういふ語りかたはしなかつたに違ひない。
 もつとも、敍述が具體的になつてゐるところは所々にあるので、例へぼスサノヲの命が高天原に上つた時の日の神の行動、また日の神の岩戸に隱れた時の神々のしわざ、オホナムチの命のヨミでのはたらき、オホナムチの命とコト(85)シロヌシの神との天つ神に對する降伏、などの話、またホノニヽギの命やホヽデミの命の物語、がそれである。かういふのは、多分、人に對して何ごとかを語つてきかせる場合のその語りかたが適用せられたものであらうと考へられ、ヤマタヲロチの話とかホノニヽギの命やホヽデミの命の物語とかの如く、民間説話を採つたものに於いて、特にこのことが推測せられる。オホナムチの命と菟との、またウズメの命と魚どもとの、問答、スクナヒコナの命が鳥の皮をきてカヾミの舟に乘つて來たとか、クシヤタマの命が鵜になつて海に入つたとかいふ話、またはアメノワカヒコの葬儀でいろ/\の鳥がはたらいたといふ話、神代の物語ではないが、大小の魚どもが神功皇后のみ舟を負うて海を渡つたといひ、橘姫が八重の疊をしいて海に入つたといふいひかたなどが、童話的であることも、參考せられよう。スサノヲの命について、春山を枯山になし海河を泣きほすといふやうな形容のしかた、オホナムチの命の降伏の話に於けるキヅキの神宮の祭祀のさまの記述のしかたも、やはり語つてきかせるために生じた修辭の方法が用ゐられたのであらうし、イサナキの命が死せるイサナミの命の「枕べにはらばひあとべにはらばひ」て泣くといふやうないひかたも、また同樣に見なされる。なほ一つ注意せられるのは、イサナキ・イサナミ二神の國生みの物語に於ける性交についての對話の寫しかたの、極めて素朴で無邪氣なことである。コノハナサクヤ姫について「一夜」云々といつてあること、神代のではないが倭建命の美夜受姫の話に「御合」といふ語の用ゐてあること、などを考へると、上代ではかゝることが無頓着に口にせられてゐたらしいが、それにしてもこの對話は特殊のものであらう。かゝる例が他の民族の文學にあるかどうかは知らぬが、よしあるとしても甚だ稀なことではなからうか。これは童話的ではないが、そのいひかたに於いてそれと共通なところがある。これらの物語は初から文章として文字に書かれたものではあるが、(86)かゝる書きかたのせられた由來はかういふ語りかたにあつたのであらう。かうして書かれた散文の物語が、いはゆる舊辭の最も重要なる神代の物語であり、遺存してゐる物語の最古のものである。勿論、今日に傳へられたこの物語は、既に述べた如く長年月の間に次第に變改潤色せられたものであるから、時代により筆者によつて書きかたにもそれぞれ違ひがあり、さうしてそれらが混雜して古事記の物語には現はれてゐるし、概觀すれば敍述の精細なところは後に書き加へられた部分に多いやうでもあるが、古事記によつて傳へられてゐる神代の物語はほゞかういふものであり、さうしてそれが舊辭に於いて代表的のものであつたことは、否まれまい。書紀及びそれに注記せられてゐる舊辭の種種の異本に記されてゐるところも、局部的には互に差異があるけれども、概觀すれば古事記によつて傳へられてゐるものと同じであり、文章に於いても、既に述べた如くその大部分には國語のおもかげがさながらに見えてゐる。イサナキ・イサナミ二神の國生みの物語に於ける對話が、文字の上で漢語に譯せられたところがありながら、その示すところは古事記に語られてゐるのと同じであるのも、その一例である。
 ところで、神代史は、それが作られた時代の朝廷に權威をもつてゐたものの思想によつて構成せられた、皇室の起源及び國家の由來に關する物語であるが、述作者のそれによつて表現しようとしたかういふ思想が、事實、よく表現せられてゐるであらうか。後から變改修補せられたところがあり、そのうちには除去しても支障の無い單なる插話の幾つかが含まれてもゐるので、そのために敍述が混雜したり結構の統一が傷けられたりしてもゐるから、今の形のでは、藝術的には粗雜の感がある。語部の語りものを記したと思はれるヌナカハ姫スセリ姫とヤチホコの命との歌謠とか、民間説話から採られたホノニヽギの命やホヽデミの命の物語とかは、かゝる插話の最も著しいものである(「日(87)本古典の研究」第一篇第三章、第三篇第十一章第十六章、參照)。これらは神代史を通讀する場合に興趣を助ける用をなすものとして添加せられたものらしく、そこに記されてゐる歌謠や物語の主題が戀愛であることからも、それは知られる。が、神代史をまとまつた一つの物語として見ると、全體の結構から遊離してゐる單なる外部的の裝飾に過ぎず、意味の少いものである。しかしさういふものが附加せられてゐても、熟讀すれば、皇室の權威の由來を語り、それを無窮に持續させようとする作者の思想と欲求とは、明かに看取することができる。さうしてそこに上にいつた知識人の智能のはたらきが現はれてゐるのである。神代史が詩人の作ではないながらに、文學的作品としても取扱ひ得られるのは、これがためである。皇祖が日であつたり、天上の高天原とこの國土との間を人々が往復したり、さういふやうなことがこの物語の中心となつてゐるのは、當時の知識人の作としては解し難いことのやうでもあるが、これとても、人が鵜になつたりワニが人になつたり、魚や鳥や獣が人のことばを使つて人と對談したりするやうな話と同じであつて、物語の全體がかういふ性質のものであることを思ふと、それがこの時代の知識人の物語の一つのしかたであることが認められよう。それは今日からいふと童話的であり民間説話によつて導かれたものでもあらうが、當時に於いては大人の物語であつた。それを現實にあり得べきこととは考へてゐなかつたであらうが、物語としては常のことと思はれたであらう。さうしてそこにも文學的作品としての一つの意味がある。
 神武朝以後の物語は、神代史の如き複雜な構造をもたず、天皇もしくは皇族の行動としての一つ/\の事件を離れ離れに語つたものであり、書紀がそれを年代記風に編成し得たのも、そのためである。仲哀朝以前の物語の主なるものは政治的意味のある國家經營の物語であるが、歴史的事件に本づいた傳説を記したものではなく、その資材として(88)は後世の歴史的事實が用ゐられてゐるが、物語そのものはすべて架空の説話である。さうしてそれが或る人物の行動として語られてゐるところに、文學的作品としての意味がある。それには美和山の物語の如く民間説話を利用したもの、倭建命の東方巡歴のそれの如く戀物語をからませたもの、神功皇后の如く海外經略を主題としたものもあるが、これらの何れにも宗教思想がはたらいてゐる。さうしてかういふ物語の作られたところに、朝廷の知識人の態度と上代人としての彼等の思想とが現はれてゐる。しかし應神朝以後の物語はそれとは違つて、その何れにも政治的意味は無く、天皇もしくは皇族の私生活としての物語であり、その主題は多くは戀愛に關することであり、その他には饗宴とか遊獵とか又は皇族間の地位の爭とかがあるのみである。これらもまた概ね架空の説話と見なされる。かゝるものを作つたのは、歴代ごとに何ごとかを語らねば先代の事蹟を記すに擬した舊辭を構成することができなかつたからであらう。仲哀朝以前の主なる物語には、國家の形成と皇室の權威の次第に發展して來た情勢とを、時代的に順序だてて示さうとする意圖があつたやうであるから、物語が年代的に前後のある或る天皇または皇族に結びつけられたことに意味があるが、應神朝以後のには、物語の主題がかういふものであるから、時代の前後にもそれらを或る人物の行動とすることにも意味は無い。興味はたゞ一つ/\の物語そのものにある。
 ところで、これらの物語もまた長い年月の間に種々にまた次第に變改潤色せられ、また新しい物語が作り足されたので、記紀の記載に於いては、或は一つの物語にも補綴の跡が見え、或は互に調和しない物語が並んで現はれてゐる。上にもいつた倭建命の物語に於ける橘姫の話の如きは前の方の例であり、後にいふやうに神武天皇の物語に於ける伊須氣余理姫についての話の如きは後の方のであらう。特に書紀では、漢文化と年代記的編成とのために、この補綴の(89)迹が一層著しく、一々の物語と全體の結構やそれに潜在する思想との間の矛盾も感ぜられる。少女の姿になつたといふ日本武尊が「身長一丈、容貌魁偉、」の偉丈夫であつたといふのは、前の方の極端の例であり、シナの正史風の年代記の形及びそれに含まれてゐる儒教的史學思想と種々の戀愛譚との不調和は後の方のである。神代史とは違つて、神武朝以後の物語は、書紀に於いては全體としての年代記的編成の中に織り込まれてゐて、その一つの資材としての意味しかもたぬことになつてゐるのと、物語そのもののシナ思想による修飾が多くなつてゐるのとのため、國文學としての價値はその點で低められてゐるのである。それで物語を物語として見るには、古事記のによることが必要になるが、その古事記の物語の文學的價値は、仲哀朝以前のものに於いては、一々の物語がその語らうとすることを如何なる程度で具體化し得たかといふ點と、それらの物語を時代的に順序だてて組みたてたことが、國家の經營の歴史的發展の形勢を語つたものとして、解し得られるやうになつてゐるかどうかといふ點とにあらう。第一の點では、神代史について上に考へたことがほゞ適用せられるであらう。神武朝の伊須氣余里姫についての話とか景行朝の倭建命の美夜受姫の話とかいふ類の插話が、興趣を助けるために附加せられたまでのものであることも、また神代史に遊離した説話のあることと同じである。美夜受姫の話が、かの橘姫のと共に、倭建命の東國經略そのこととは何の關係も無いやうになつてゐることを、考ふべきである。(こゝにも上代の物語の作者の敍事詩人でなかつたことが示されてゐる。)次に第二の點については、神武朝の天皇崩後に於ける皇子間の紛争とか、垂仁朝の沙本彦の物語とかいふものの如く、國家的意義の無いものも加はつてをり、多遲麻毛理の物語なども同樣であるが、かゝるものの存在することは、歴代の何れにも種々の事件の生起した如く語られてゐることによつて、その全體が歴史的事件を傳へたものとし(90)て讀者に感ぜさせる用をなすのである。さうしてこゝに一種の擬歴史としての舊辭の述作の意味があつたのであらう。
 
 さて、これらの物語には往々歌謠が用ゐられてゐるが、應神朝以後のにはそれが特に多い。歌謠は二つの場合に用ゐられてゐるので、その一つは物語の裝飾としてその興趣を助けるためのであり、他の一つはそれによつて物語そのものが形づくられてゐるのである。從つてその主題の大部分は物語と同じく、男女間の戀愛に關するもの、饗宴または遊獵についてのであつて、戀愛のものが最も多く、それが饗宴と結びついてゐることもある。さて二つの場合のうちで、神代史のはその多くが前の方のであつて、それは既に作られてゐる物語に後から附加せられたものと考へられ、應神朝以後のには後の方のが少からずある。神代史に於いては、書紀の本文には歌謠が一つも無いが、古事記にはあり、書紀に注記してある「一書」にもそれとほゞ同じやうに見えてゐる。古事記のはスサノヲの命の「八雲たつ」の歌、ホヽデミの命とトヨタマ姫との贈答の歌(並に「書紀」の注の「一書」にのみ見えるホノニヽギの命の歌)が短歌の形のものであり、その他には「夷ぶり」の名で世に行はれてゐた謠ひものをタカ姫(シタテル姫)の作として載せてあるものがあるが、後にいふやうに短歌の形の定まつたのは、大化改新前後のころであつたらうと思はれるし、「夷ぶり」といふのはそれが用ゐてある物語によつて作られたものであることが、その内容によつて知られる。書紀の注の「一書」に記してある「夷ぶり」には古事記に見えないものが一首あるが、これは物語とは何の關係の無いものを同じ「夷ぶり」の謠ひものであつたために並記したのであらう。ところで、かういふ歌謠を物語の興趣を助けるための裝飾として附加するといふことは、上代人が歌謠を好んだからに違ひないが、その歌謠の主題が、「夷ぶり」(91)のうちの一つを除けば、すべて兩性間の戀愛に關するものであるのを見ると、上代の歌謠の抒情詩的性質がそれに示されてゐるので、歌謠の好まれた意味もまたそこにあつたと解せられる。除けて見るといつたその一つにも「天なるやおとたなばたの」の句にシナの織女説話から來たところがある點において、このことといくらかの關係がある。神代史に歌謠の少いのも、かゝる性質のものを結びつけ得る物語が少いからのことであらうか。なほ神武朝以後の部分においては、神武の卷の久米部の間に行はれてゐた歌謠を物語にはめこんだものなどが、物語の裝飾の用をなすものの例である。この意味で歌謠を結びつけようとすればせられる物語がせられずにある場合もあるので、例へば、崇神の卷の美和山の物語でも垂仁の卷の沙本姫のでもさうであるが、これは歌謠の加へられたのが物語の修補者の偶然の思ひつきから出たことだからであらう。ところで、かうして加へられた歌謠は、今人の眼から見れば必しも物語の興趣を助けてゐるには限らず、却つて無用の疣贅に過ぎない場合もあるので、例へば神代史の「夷ぶり」の如きがそれであるが、これは神代史全體の統一を妨げるやうな物語が插話として添加せられたと同じであらう。
 歌謠によつて物語そのものが成りたつてゐるものは、神代史に於いては、上にいつた語部の語つた歌物語の歌と解せられるヌナカハ姫スセリ姫とヤチホコの命とのである。神武朝以後の記紀の記載に於いては、雄略の卷にそれと同じ性質のものがあるが、神武の卷の伊須氣余里姫に關する物語に見えるもの、景行の卷の美夜受姫との唱和、仲哀の卷の酒樂の歌、などもそれであり、應神朝以後の卷々に於いてはかういふものが多い。これについてもまた神代史に於ける語部の語つた歌物語が、物語そのものとしては興趣があるにしても、神代史の插話としては却つて全體との調和を破つてゐるし、伊須氣余里姫や美夜受姫に關するものが神武天皇の奠都の物語とも倭建命の東國經略の説話とも、(92)何等の内面的結合が無いやうな、例の少なくないことが考へられる。たゞこの期の歌謠の大部分がやはり戀愛を主題としたものであるのを見ると、かゝる歌謠によつて形づくられた物語が、天皇や皇族の言動として語られてゐることは、天皇の私生活も皇族のも一般人と同じであることを示すものとして、一般人が天皇や皇族をおのれらのなかまと見、それに對して親しい感じを抱く效果を生ずることにはなる。物語の作者もまた同じこゝろもちをもつてゐたのであらう。戀物語には限らず、酒宴のでも遊獵のでも同樣である。さて歌によつて戀物語を作ることは萬葉時代になつても行はれ、ずつと後の伊勢物語などにうけつがれてゆく。こゝに日本の文學の一つの型があるが、これもまた、歌謠の好まれたこととその歌謠の抒情的であることとを、語るものであらう。また語部の歌物語の歌や、神代史の「夷ぶり」のアヂシキタカヒコネの命の名を用ゐたもの、仲哀の卷の「スクナミカミ」の名のよみこまれたものなどは、前からあつた物語によつて、またはそのうちの人物に假託して、歌謠を作ることの行はれたことを示すものであるが、これもまた萬葉の浦島の子を詠ずる歌などとなつて、後にも行はれてゆくのである。たゞかういふものが、どこまでも抒情詩風のものであつて、何等かの事件を語るための敍事詩でなく、幾らかの敍事的分子のあるものでも、全體の情趣は抒情的であるところに、わが國の歌謠の發達の方向が見られる。
 記紀の歌謠はその資料となつた舊辭の種々の異本に記されてゐたものと考へられるが、書紀に於いては舊辭に記載のなくなつた武烈朝繼體朝ごろから天智朝までの部分にもそれがあり、シナ風の正史の本紀めいた漢文の年代記のうちに、不調和な姿で所々にそれが見えてゐる。これらは、天武朝及びそれから後に斷續的に行はれた歴朝の修史を經て書紀の完成に至るまでの間に、前代から何等かの方法によつて當時に傳へられてゐたものを採つて用ゐたり、また(93)は修史者の作り加へたりしたものであらうが、舊辭に見えてゐた歌謠にもまた、少くとも天武朝ころまでの間に添加せられたものがあるに違ひない。從つて、古事記の歌謠は舊辭の初めて述作せられた六世紀の中ごろから七世紀の中ごろまで、書紀のはそれよりも後までの、作が含まれてゐるものと見なされ、從つて萬葉に編纂せられてゐる歌の比較的早い時代のものとほゞ同じころの作のその中にあることが推測せられる。また記紀によつて同じ歌謠に幾らかづつの變りがあつたり、それをあてはめた物語が違つてゐたりするのは、舊辭に採られる前に於いて傳誦の間に變異が生じてゐたのか、舊辭の修補者または書紀の編者の改作によつてさうなつたのか、いづれかであらう。ところで、これらの歌謠には民謠を採つたものと知識人の製作として見るべきものとの二種があつて、それらが何れも物語のうちの人物の作とせられてゐるが、後者には謠ひものとしてのと吟誦するものとしてのと、の二種類を含み、形の上では二類の何れにも、長歌風のものと短歌風のもの又はその變形とが存在する。もつとも物語の修飾として又は物語を構成するために作られた歌のうちには、實際には謠はれも吟誦もせられなかつたものがあらうが、歌謠の性質としてはこの二つの可能性のあるものであり、場合によつてはそれが實現せられもしたであらう。さて記紀にはこれらの種々のものが、歴代の時代的順序とは關係なく、混雜して現はれてゐるが、それらをこの時代的順序とそれの用ゐられてゐる物語とから引き離し、それ/”\單獨のものとして互に對照することによつて、歌の形の漸次に作り出されて來た過程を摸索し、それによつて上代人の情思の文學的表現の方向を知ることができるやうである。
 
 記紀の歌謠に於いて民謠を取つて物語にあてはめたと見なされるものは、古事記の景行の卷の「をはりにたゞに向(94)へる」、仁徳の卷の「八田の一もと菅は子もたず」、などがその例であり、神武の卷の久米部の謠ひものもそれに準じて考へられよう。第一のは「一つ松」をくりかへしたり「アセヲ」(または「アハレ」)といふハヤシ詞を加へたりしてある點に於いて、第二のは「あたら菅原」の次にその「菅原」の語をくりかへすやうにして「ことをこそ菅原といはめ」といふハヤシ詞を加へた後、更に「あたらすが原」のことばを少し變へた「あたらすがしめ」を同じ口調でくりかへしてある點において(允恭の卷の「大君を島にはふらば」も同じ形であるが、これは「夷ぶりの片おろし」としてあるから謠ひものとして用ゐられたことは明かである)、また第三のは「うはなりが魚乞はさば」に「エヽ、シヤコシヤ、コハイゴノブゾ、アヽ、シヤコシヤ、」のハヤシ詞のある點において、かう考へられる。その他、仲哀の卷の「このみきをかみけむ人は」といふ酒ほがひの歌が、「みきの」のくりかへしや「サヽ」といふハヤシ詞のある點に於いて、また應神の卷の「かしのふによくすを作り」も、「マロガチ」といふハヤシ詞があるのとクニスの歌つたものであるやうに記してあるのとから見ると、やはり民謠をとつたものと考へられる。これらはその内容からいつても、民謠として見るにふさはしいものである。形の上に民謠の特色は現はれてゐないが、内容が民謠的のものもあるので、應神の卷の「いざこども野びるつみに」、また仁徳の卷の口子臣が傳へ申したといふ「つぎねふ山代女の」、などもその例である。景行の卷の國しぬびの歌といふものも多分さうであらう。(「やまとは國のまはろば」は現に「青垣山こもれるやまと」を目の前に見てゐる時の詠でなければならず、「命の全けん人は」も旅路にゐて家郷をおもうた歌ではないから、古事記に倭建命の作としてあるのは、事實ではない。書紀にはこの二首と「はしきよし」のとを一首にまとめて、別の場合の別の作者の歌としてあるが、一首としてはなほさら無意味になる。)ところで、こ(95)れらは、一句の音の數にも、その音の數と句のつなぎかたとの關係にも、一定の律格が無く、また一首の長さが手拍子足拍子で歌つたり踊つたりするに適するほどのものである。一句の音の數には五と七とが多いがさう決つてはゐない。民謠は後世までかういふ風のものであつた。なほ民謠には詩形の極めて短いものもあつたであらうし、特に歌垣などの場合に行はれた唱和には、即興的にさういふものの作られまた歌はれることが多かつたであらう。記紀の歌謠に民謠から取られたさういふものがあるかどうかは明かでないが、景行の卷の「なづきの田のいながらに」、「はまつちどり」、などは民謠であつたかと推測せられる。神武の卷の天皇と大久米命との、また清寧の卷の袁祁命と志毘臣との初めの、唱和などは、物語作者の作つたもののやうではあるものの、實際にもかういふ形での唱和が行はれてゐたではあらう。さうしてそれには語をくりかへしたりハヤシ詞を插んだりすることがあつたに違ひない。さすればこれもまた民謠の一形態と見なすべきであらう。これらにもまた形の上に一定の律格は無い。たゞこゝに擧げた唱和は、その形がいはゆる片歌式のものになつてゐるが、これは物語作者の手になつたものだからであらうか。
 知識人の作として見るべきものの第一は、謠ひものとしてのであつて、仲哀の卷の酒ほがひの歌の「このみきはわがみきならず」がその一例である。「サヽ」といふハヤシ詞のあるのは謠つたものであることを示してゐるが、スクナミカミの名のあることによつて民謠ではないことがわかる。應神の卷の「ほむだのひのみこ」は、その結末が仁徳の卷の「しづ歌の返し歌」としてある「からぬをしほにやき」のと同じいひかたであり、特に「さやさや」の語が半ばハヤシ詞の用をなしてゐるのを見ると、謠ひものであることが知られるが、仁徳天皇の御名が詠みこんであるのを見ると、物語のために作られたものかまたは民謠を改作したものか、何れかであらう。
(96) 次に吟誦すべきものとして作られた最も著しい例は、饗宴の場合に用ゐられた語部の歌物語の歌であり、應神の卷の「このかにや」といふのも、同樣であらう。語部のは、その主なるものの内容がヤチホコの神または「まきむくのひしろの宮」といふ物語のうちの人物またはそれに語られてゐる何ごとかを題材にしてある點から見て、知識人の作であることが知られるが、敍事的分子を含んでゐるその敍述のしかたも、またその長さも、謠ひものとしてはふさはしくないものである。また謠ひものには、ところ/”\ハヤシ詞を插んだりくりかへして歌ふところがあつたりするのが例であるのに、これにはさういふ形迹の無いことも、注意せられよう。なほ「語りごと」といはれてゐることから考へても、それが歌はれたものでないこと、少くとも普通の謠ひかたとは違つた何等かの特殊の曲節によつて語られたものであることが推測せられよう。こゝに吟誦といつたのはその意味でのことである。(神代の物語に見える「語りごと」の詞章は原作のまゝでなく、後になつて生じた種々の混亂があらうと考へられ、またこれが天の語り歌と稱せられ、語りものながら歌といはれてゐるのは、かういふものは、もとは語る部分と謠ふ部分との結合せられた形をもつてゐたのに、今傳はつてゐるものは、それがくづれて二つの部分が混和せられた形になつた後の作だからではないか、とも臆測せられる。或はこの歌に於いても、一部分は謠はれ一部分は語られたのかも知れぬ。これについては、「日本古典の研究」第三篇第十一章、第四篇第一章、參照。)また應神の卷のも、その敍述のしかたや動作が敍してあることやまたその長さや饗宴に用ゐられたことやにおいて、語部のと似てゐる。なほ允恭の卷に讀み歌としてあるものも、この名から考へると、この類のものであらうか。
 次に、これらの歌をその形の上から見ると、二つの句をつないで一くさりとし、それを反覆してあることと、その(97)二句の上の方のが下の方のより音數の少いのが通例であることと、この二つの點が萬葉の長歌と同じであることが注意せられる。それと違ふところは、一くさりとなつてゐる二句が五音の句と七音のとに一定せず、例へば五六、四七、四六、といふやうなものの少なくない點だけである。かういふ短長二句の一くさりを幾つもくりかへしてゆくところに、單調なリブムが成りたつのである。上に擧げた謠ひものとしての作にもほゞ同じ形になつてゐるものがあるが、たゞそれは謠ひものとしての一首の長さにおのづから制限があるのに、吟誦するものでは、かういふ二句をつないだ一くさりのくりかへしを、かなり長くつゞけてゆくことができるので、その點に違ひがあるやうに見える。しかし民謠と見なすべきものには、詞章の上、句のつゞけかたの上に、かういふリヅムのあることが認められない。それは手拍子足拍子に合ふやうに同じ音を長くも短くも歌ふことができること、また語をくりかへしハヤシ詞を插むことなどによつて、自然にリヅムが成りたつから、句の音の數やそのつゞけかたを規定する必要が無いからであらう。歌はずして吟誦するものに於いては、かういふことができないから、詞章の上、句のつゞけかたの上に、一定のリヅムを求めることになるのである。さうしてそれには製作の場合に文字に書いたことが、或はそれを助けたのでもあらうか。文字に書きつゝ、或はそれと共に口吟しつゝ、製作したために、詞章に重きを置き、從つてそれによつてリヅムの成りたつことを要求するやうになつたのではないか、といふのである。このことは後にいふやうな特殊の修辭法がとられたこと、また音數の少い句として冠詞が用ゐられたこと、からも推測せられる。知識人のとてもそれが謠ひものとして作られた場合には、民謠と同じやうにして歌はれたのであらうが、それが吟誦するものと同じ形をもつてゐるのは、兩方ともに知識人の製作だからのことであらうか。ところで、この要求が一歩進むと一句の音數を定めることに(98)なり、萬葉の長歌のいはゆる五七調がそれによつて形づくられてゆくのである。歌ふものとしては規定する必要の無いことの規定せられてゆくのは、こゝにその理由があつたらしい。
 さて、これらは、製作歌としての古事記の歌謠に於いて詩形の長いものの二三の例を擧げたのであるが、短いものについて考へても同じことがいはれる。一句の音數の少いのと多いのとの二句をつゞけて一くさりとしたものを二つ重ねてそれに多いのを一句附け加へる短歌式のものがあるが、その一句の音の數の定まつてゐない場合が少なくない。履仲の卷の「たぢひ野にねむと知りせば」、允恭の卷の「おほまへをまへすくね」、「あまだむかるをとめ」、雄略の卷の「みむろのいつかしがもと」、などがその例であつて、これらは、それが一歩進んで五つの句の音の數が一定すると短歌になるその前の段階にあるものである。長い歌では記紀に記されてゐるものが何れも五七の音數の定まらないものであるのに、音數の定まつた三十一音の短歌は記紀にも數多く現はれてゐて、この點では萬葉風の長歌の形の定まる前に短歌の形がきめられたやうに見えるが、これは短歌式のものは二句一くさりのくりかへしの度數が少いために、音數を定めることによつてリヅムを成りたゝせる必要があつたからのことと解せられる。旋頭歌式のものでも應神の卷の「すゝこりがかみしみきに」、仁徳の卷の「八田の一もとすげはひとりをりとも」、などが同じ例であり、旋頭歌の形の定まる前のものと見なされる。これらもまた謠ひものとしてではなくして吟誦するものとして作られたのであり、文字に書いて人に示す場合も生じたやうであるが、短かくして歌ふに便であるために、既に作られたものを謠ひものとして利用することもあつたであらう。允恭の卷の「夷ぶりの上げ歌」(これは二首の歌を結びつけたものであらう)、「宮人ぶり」、また「あまだぶり」のうちの二首が、短歌、もしくは一句の音數の足らぬものがある點に(99)於いて不完全な短歌、ともいふべきものであることが、それを示してゐる。同じ卷の「夷ぶりの片おろし」といふものもまた本來の民謠ではなく、製作歌としての短歌をもとにして民謠風にそれを歌つたものと考へられるので、それは「大君を」といふ語句のあることからも知られる。
 さてかゝる製作歌が民謠の外に生ずるやうになつた事情は既に述べたところであるが、吟誦するものとしての長い歌の作られたことには、或は知識人がシナの詩賦の類をいくらか知つてゐて、それによつて刺戟せられたところがあるのではないか、といふことが臆測せられはしまいか。しかしまたかういふ製作歌にも、民謠から繼承せられてゐることが甚だ多い。その主題の最も重要なものが戀愛であり、その間に饗宴とか遊獵とかが加はつてゐること、また民謠と同じく短い形のものが多く、民謠の短い形のが本になつて形づくられたと思はれる短歌がその代表的なものとなつてゆくこと、などがそれである。一句の音數に五と七とが多く、後にはそれが一般的な規制として定められるやうになるのも、民謠に於いて既にかういふ傾向があつたからである。たゞ民謠ではそれのみに限られなかつたので、そこに民謠の特色があり、それがまた自然でも素朴ないひかたでもあつたのに、漸次それを五と七とに定めていつたのが知識人のしごとであつた。
 次には修辭法の重要なものとして同じ音や同じ語を重ねまたはくりかへすことが、やはり民謠のを繼承したものである。これは修辭の法としては上代人の一般に好んだものであつて、祝詞などにも多く用ゐてあるし、神代の物語などの散文の述作にもしば/\見えてゐるものである。例へば祝詞に「天つ祝詞の太祝詞」、「神なほび大なほびに」、「荒しほのしほの八百ぢの八しはぢのしほの八百あひ」、などとあり、出雲國造神賀詞に「白玉の大御白髪まし、赤(100)玉のみあからひまし、青玉の水江の玉のゆきかひに、……白き御馬の前の足爪後の足爪ふみたつる……」とあり、古事記の神代の物語に「たくなはの千ひろなは」、「いつのちわきにちわき」、「玉緒もゆらにとりゆらかし」、「いつのをたけびふみたけび」、「さき竹のとをゝとをゝに」、または「み枕べにはらばひ、みあとべにはらばひ、」といつてある類がそれである。しかし歌としては民謠にその由來がある。歌に於いては神武の卷の「いやさやしきて」、應神の卷の「すゑふゆ、ふゆきのす、」、神代の物語の「そたゝきたゝきまながり、またまでたまでさしまき、」、仲哀の卷の「かむほぎはぎくるほし、かむほぎほぎもとほし、」、應神の卷の「ことなぐしえぐしにわれ醉ひにけり」、仁徳の卷の「川のぼりわがのぼれば」、雄略の卷の「入江のはちす花はちす、」また「つくや玉垣つきあまし」、仁徳の卷の「獨りをりとも……獨りをりとも」、履仲の卷の「ねむと知りせば……ねむと知りせば」、など、かういふものを擧げれば限りが無いほどであるが、これらと上にいつた民謠の「ひとつ松ひとにありせば」、「ぬびるつみにひるつみに」、「このみきのみきの」とか、または「一つ松」の語のくりかへしとかいふものと對照して見ると、そのことがわかる。ただ民謠に於いては、語を重ねるのもくりかへすのも、詞章そのものとしてではなく、歌ふ時のリヅムを調へるためにさうする場合が多く、上記の「一つ松」の如きはその最も明かなものであるが、製作歌に於いては、それが詞章そのものとして作られ修辭の法として用ゐられたのである。特に形の長いものに於いては神代の物語の語り歌の「さかしめをありときかして、くはしめをありときこして、さよばひにありたゝし、よばひにありかよはせ、太刀が緒も未だ解かずて、おすひをも未だ解かねば、をとめの鳴すや板戸を、おそふらひわが立たせれば、ひこづらひわが立たせれば、」とか、雄略の卷の「あさ日の日てる宮、ゆふ日のひがける宮、竹のねのねだる宮、木のねのねばふ宮、」とかい(101)ふやうに、同じ語、同じ語調の句を、限りなくといつてもよいほどに、重ねたりくりかへしたりしてある。かういふのは、一つは、同じ音なり同じ語なりを重ねまたはくりかへすことによつて生ずる輕快な感じを喜んだ上代人の趣味から來てゐるであらうが、一つは、同じいひかたを同じやうにくりかへすことによつてリヅムを調へようとしたために生じたものであつて、吟誦するための製作歌としての特殊の要求が加はつてゐるやうに解せられる。さうしてその由來は民謠の歌ひかたにあつたであらう。
 次には一首の終結に七音(もしくはその變形と見なすべき八音など)の一句を加へることが、やはり民謠から來てゐる。これは三十一音の短歌に於いて早く定形となつてゐることであるが、その由來については、長い歌である應神の卷の「このかにや」の終結の「向ひをるかも」の次の「いそひをるかも」、允恭の卷の讀み歌の「家にもゆかめ」の次の 「國をもしぬばめ」、などの例のあることを考へてみるべきであらう。この二つの場合で後に加へられた句がその前のと同じ語調であるのを見ると、しば/\引いた景行の卷の民謠とすべき「をはりにたゞに向へる」の終結で「太刀はけましを」に「衣きせましを」をつゞけてあるのが、それと同じであることが注意せられる。民謠に於いてはこれは多分、同じ句をくりかへして歌つたことから來てゐるので、それが一轉して、少しく異つた語を用ゐて同じことを同じ語調でくりかへすやうになつたもの、即ち結句をくりかへすといふ形に於いて少しくことばを變へた句が作り添へられることになつたものであらう。上に引いた「八田の一もと菅は子もたず」の結句の「あたらすがはら」は、その前の句との間にかういふ關係は無いが、これはそれの更に一轉したものではあるまいか。神武の卷の久米部の歌の三首の「うちてしやまむ」もこれと同じであらう。民謠としては詞章の結句をくりかへすことが歌ふことの結(102)末として要求せられたので、古事記のには記してないが書紀のには書いてある久米部の謠ひものの一つ(書紀では天皇の謠としてある)の結末の「うちてしやまむ」の句の、また雄略紀六年の條の「こもりくのはつせの山は」の結末の「あやにうらぐはし」の句の、くりかへしにそのおもかげが見える。その場合、即興的に少しくことばを作り變へて歌ふことも行はれ、幾人かの合唱の時には特にさういふことが多かつたであらう。ついでにいひそへる。古事記の久米部の歌の「みづ/\し」以下の五句をくりかへすのは、くりかへしの特例であるが、その最後の一句が少しことばをかへてあるのは、こゝにいった例と見なされる。(民謠に於いて結句をくりかへして歌ふことは、中世時代の神樂催馬樂の歌や江戸時代の小唄の類などにも例が多く、民謠の歌ひかたの一つである。)
 ところで吟誦すべき製作歌に於いては、歌ふものとしてのかういふ要求は無いけれども、二句の一くさりのくりかへしによって一首が成りたってゐるために、終結であることを示す何等かの方法が必要となり、特にそのくりかへしの度数の少い短い歌に於いてそれが強く感ぜられたので、そこから短歌に於いてこの形が先づ適用されたものらしい。句數の多い長い歌に於いては、最後に至って七音の一句を加へることに大きな意味はないが、短歌ではそれがある。それが同じ語調のくりかへしではなく、音数の同じ一句を加へるだけのことになってゐるのは、歌ふものでないからのことであらう。たゞ允恭の卷の上に引いた「夷ぶりの上歌」の後半の短歌の「亂れば亂れさねしさねてば」や「宮人の」の「宮人どよむ里人もゆめ」に於いて、同じ語調の句が重ねられてゐるのは、民謠の名殘がそこに認められるのであらうか。なほ語調を同じにするといふのではなく、たゞ結句に七音の一句を加へるだけのこととして見ても、長い歌に於いては古事記には二三の例があるのみであり、萬葉の長歌に至って始めてそれが定形となるのに、短歌ま(103)たはその前段階にある短歌式のものに於いては、記紀ので既にそれが定型化せられてゐるのは、句の音數の五と七とに定まつたのが先づ短歌に於いてであつたのと、同じ理由からであるらしい。記紀の長い歌に於ける僅少の例は、たださういふ形の上の規定が生じない前に於いて稀に試みられたものが遺存してゐるのであらう。それが同じ語調の句になってゐる上記の二つの例は、その最も古いものとして考へられる。ところで、民謠に於いては、かくして加へられた句が前の句と意義も語調も違つてゐる場合には、その句の次にそれと同じ語調の句を更にいひ添へることもあつたので、「八田の一もと菅は」の結句の「あたらすがはら」の次に「あたらすがしめ」を加へたのがその例である。さうしてこの二つの句の間にハヤシ詞の插まれてゐるのは、かゝる句の添へられる事情として上にいつたことを證するもののやうである。また製作歌に於いてこの形が襲用せられると、短歌の後にその第五句と同じ語調の第六句を加へることになるので、清寧の卷の「大君のみ子の柴垣」の結末が「きれむ柴垣やけむ柴垣」となつてゐるのがその例である。短歌が謠ひものに用ゐられる場合には、その結句がくりかへされたり、またはこゝに擧げたものの如く、それが少し語をかへて歌ひ加へられたのであらう。謠ひものとなつたのではないが、藥師寺の佛足石の歌といふものの大部分はこの形である。
 次には民謠に於ける唱和の方式から来たものがあるので、旋頭歌もしくは旋頭歌式のものがそれである。これは第三句と第六句との同じであるのがその固有の形であるらしく、上に引いた應神の卷の「すゝこりがかみしみきに」の歌の「われ醉ひにけり」、仁徳の巻の「八田の一もと菅は」の歌の「ひとりをりとも」、などがその例であるが、これは昔からいはれてゐる如く、二つの片歌の結びつけられたものとすべきであり、さうしてそれは、民謠に於ける唱和(104)の形の一つに由來があらう。神武の卷の天皇とオホクメの命との、清寧の卷の袁祁命と志毘臣との、唱和がその方式を示してゐるので、前の方の結句の「などさけるとめ」と「わがさけるとめ」と、また後の方のの「すみ傾けり」と「すみ傾けれ」とが、その語に少しの違ひがあるのは、民謠の結句について上にいつたのと同じ事情から生じた變形を物語の作者が摸したものであつて、民謠に於ける原始的な唱和に於いては同じ句になつてゐたのであらう。これが旋頭歌に於いて保持せられたのである。(これは一首として見ると、同じ句のくりかへしになる。)ところが、履仲の卷の「たぢひぬにねむと知りせば、たつごもも持ちて來ましもの、ねむと知りせば、」または允恭の卷の「うるはしとさねしさねてば、かりこもの亂れば亂れ、さねしさねてば、」などに於いて、第二句を結句でくりかへしてあるもの、また允恭の卷の「あまだむかるをとめ、したゞにもよりねてとほれ、かるをとめども、」の結句が第二句に「ども」を加へ、清寧の卷の「おふをよし鮪つく海士よ、しがあればうらこほしけむ、鮪つく鮪、」の結句が第二句の「海士よ」を「鮪」と變へたものである如く、その變形と見なすべきものは、民謠に於いて一人の歌ひての歌つた歌をうけて、そのうちの主要な一句を合唱者が合唱し、または他の歌ひてが應答する如くして歌ふ方式があつて、それから來てゐるのではあるまいか。これは旋頭歌の如く歌の一つの形とはならず、短歌もしくは短歌式のものの修辭の一つの型となつたまでであり、またそれは廣く行はれるにも至らなかつたのであるが、民謠の歌ひかたが製作歌に繼承せられたものとは考へられよう。なほ長い歌に於いても、允恭の卷の讀み歌の前の方のが、もし初から一首として作られたものであるならば、その中間にある「おもひづまあはれ」の句が結末でくりかへされてゐるのも、やはり民謠に於ける唱和の方式から來てゐるのであらうか。中間に段落の無いのが普通の例である長い歌に於いて、この中間の句が(105)一つの段落をなしてゐることからも、かう解せられる。一般的に考へても、民謠に於ける唱和の場合には、後の方で前の方のを承けてそれと同じ語句を用ゐるのが自然であるから、製作歌に於いて語句を重ねる修辭の法が、その根本は上代人の嗜好にあるとしても、民謠のこの唱和の方式によつて助けられてゐることも考へられよう。
 最後に二句を一くさりとしてそれをくりかへす形式の定められたことに於いて、その二句を音數の少いのを前にし多いのを後にすること、音數が定められるやうになると、それが五言と七音とにせられたことにも、また民謠の歌ひかたと關係のある一面があるのではないか、と考へられる。主なる詞や形容の詞が先に立ち、さうしてそれらが一つの語としては比較的音數の少いものである國語の性質として、おのづからかうなる傾向があり、民謠に於いてもそれが認められるので、それを定形化したのが製作歌のこの形式なのであらう。さうしてさういふ定形化の要求せられたのが長い歌である以上、それは長い歌に於いて先づ定められたであらうが、短歌及び短歌式のものに於いてもまたこの形式が適用せられたことは、第二句で句ぎりをつけたものの少なくないことからも知られるので、上に引いた第二句を結句でくりかへしてあるものは、その例であり、仁徳の卷の「やまとへにゆくはたがつま、こもりづの下よはへつゝ、ゆくはたがつま、」もそれである。しかしいはうとすることがらによつてはこの形式から外れる場合もあるので、神代の物語の語部の語りものに於いても「さよばひにありたゝし」とか「あをやまにぬえはなき」、「はたゝぎもこしよろし」、とかいふやうに五音の句を二つつないだところがある。從つてこの形式を一般的の律格とすることには、不自然な點、人工的な點があるといはねばならぬ。音數の少い句と多い句とをつなぐにしても、そのつなぎかたは、いひかたによつてどちらを先きにすることもできる。ことばの上からいふと、先きにたつ名詞や形容詞が一語と(106)しては音數が少いにしても、それを結びつければ音數の多い一句となる。だから短歌もしくは短歌式のものに於いては、例へば仁徳の卷の「はしだての倉梯山はさがしけど、妹と登ればさがしくもあらず、」とか、雄略の卷の「みもろのいつかしがもとかしがもと、ゆゝしきかもかしはらをとめ、」また「みもろにつくや玉垣つきあまし、誰にかもよらむ神の宮人、」とかいふやうに、形式上の規定は守られてゐながら、第二第三の二句を七五のつゞきとして讀まねばならぬものがあり、形式と實際の讀みかたとが齟齬して來る。一首の語數の少いものではかういふ點に於いて表現の自由が無くてはならぬからであらう。長い歌にはかういふことが殆ど無く、短歌式のものにそれがあるのは、これがためと解せられる。また短歌を一首として吟誦する場合には、中間で息をつぐことがおのづから要求せられるが、それには本三句と末二句とに分れるのが自然であるので、そこからもまた第二第三の二句がつゞけて讀まれることになり、從つて詞章もさう讀むやうに作られる。長い歌では二句の一くさりごとに息がつがれるから、かういふことは起らぬ。
 かう考へると、民謠に於いて、かの景行の卷のの「をつのさきなるひとつまつ」とか、應神の卷の「ほむだのひのみこ」の歌の「もとつるぎすゑふゆ」とか、または神武の卷の久米部の謠ひものの「うはなりがなこはさば」とかのやうに、七五または五四または五五とつゞいてゐるもののあるのも、當然であらう。古事記のではよくわからぬが書紀ので明かに知られる例として、久米部の謠ひものの一つである「神風の伊勢の海のおほ石に」の歌を擧げることができる。それには「おほ石に」の下に「ヤ」のハヤシ詞がつけてあり、また「いはひもとへるしたゞみの」できつて、そこで「したゞみの」をくりかへすと共に「アゴヨ、アゴヨ、」といふハヤシ詞が入り、更に「したゞみの」をくり(107)かへすことになつてゐるが、これは、形式の上では五音七(または六)音二句のつゞきのくりかへしになつてゐても、歌ふ時には五音の句できり、從つて六五または七五とつゞく場合のあることを示すものである。この歌ひかたは景行の卷のが「をつの崎なる一つ松」の「一つ松」で句をきつて、そこで「アセヲ」といふハヤシ詞を入れ、また「一つ松」をくりかへしてゐるのと同じである。(久米部の謠ひもののこの歌は、形式と歌ひかたとが一致してゐないのを見ると、製作歌が民謠風の謠ひものとせられたのであつて、もとからの民謠ではないのかも知れぬ。)ところで、民謠であつたらうと思はれる景行の卷の「なづきの、田のいながらにいながらに、」また應神の卷の「いざこども、ぬびるつみにひるつみに、」の如く、第二句のうちの語が第三句で重ねてあるものでは、七五または六五のつゞきとなつてゐるその二つの句をつゞけて歌はねばならぬ。(この例に於いては、第三句は歌ふ場合のくりかへしであるやうにも見えるが、次の句との音數の關係から考へると、詞章として前の句の語を重ねたものとすべきであらう。)從つて四音または五言の第一句は、歌ふ場合には、おのづから第二句以下とは離れて獨立したものになつてゐる。これは民謠の歌ひ出しの一つの方式から來たことではあるまいか。特に合唱の場合には音頭とりが先づこの一句を歌ふ、といふやうなことがあつたのではなからうか。もしさうとすれば、製作歌において五言もしくは四音の句をはじめに置くことが考へられ、從つてその次の句を六音なり七音なりのものとし、以下順次に同じやうな形をくりかへしてゆく、といふ形式の定められた一つの由來はこゝにもあるのではなからうか。第一句として冠詞を用ゐる場合のあるのも、また一つはこゝから來てゐるのであらう。冠詞の用ゐられる主なる意味は音調を整へるところにあるからである。或はまた、初めの歌ひ出しには一種のハヤシ詞が用ゐられる場合があつたらうと考へられるが、それはやはり四音また(108)は五音の短いものであつたらうから、さういふ方式が詞章そのものの第一句に適用せられた、といふ事情があつたでもあらう。最初のかゝるハヤシ詞は記紀には記されてゐないが、崇神の卷の「こはや、みまきいりひこはや、」の「こはや」にその面影が見えるのかも知れぬ。
 冠詞と序詞ともまた民謠に由來があらう。記紀の製作歌には「いくみ竹いくみは、」「たしみ竹たしには」、とか「久方の天」、「青によしなら」、「あまだむ輕」、「かりこもの亂れ」、とかいふやうな冠詞が用ゐてあり、「ひけたのわかくるすばらわかくへに」とか「さゝばにうつやあられのたし/”\に」、「はさの山の鳩のしたなき」、とかいふやうな序詞もある。これらの例でも知られる如く、冠詞にも序詞にも、同じ音をもつ主なることばを誘ひ出すはたらきをするものと、主なることばの形容譬喩または説明の意義をもつてゐるものと、の二種があり、なほ「むら鳥のわがむれいなば」の如く、この二つを兼ねたものもあるが、第一のものは、同じ音を重ねるのであるから、おのづから頭韻のはたらきをすることになる。さうしてこれらは民謠に於いて用ゐられてゐた修辭の法であらう。古事記に記されてゐる民謠の冠詞には「みつぐりの中つ枝」、「ねじろの白たゞむき」、のやうな形容のためのがあるのみで、同じ音を用ゐるものは見えないやうであるが、實際にはそれもあつたに違ひない。上にいつた如く、同じ音の語を重ねることが冠詞ならぬ場合に多いからである。序詞でも、本來の民謠ではなからうが民謠風に歌はれたと思はれる允恭の卷の「しらげ歌」の「したびをわしせ」までは「したどひ……したなき」の音を導き出すためのものであり、應神の卷の「いざ子ども」の「ほづもり」までが譬喩の性質の序詞であるやうな例がある。ところで、上に引いた出雲國造神賀詞の「白玉の……白髪」、「赤玉の……あからむ」、が冠詞の二つの性質を兼有するものであること、古事記の神代の物語に同じ(109)語を重ねてある例の多いこと、「くらげなす漂へる」、「さばへなすわき」、「ちはやぶるあらぶる髪」、といふやうな譬喩的形容詞が用ゐてあることを見ると、これは上代人のいひかたの趣味のあらはれであることが知られよう。ただ散文の物語にはその散文の性質として、歌に於ける序詞の如きものは無かつたと解せられるが、謠ふものとしても、こゝにいつた應神の卷のに見えるそれの如く、一首の大部分がそれで成りたつてゐる長々しい序詞の如きは、その興味がどこにあるのか、今日のわれ/\には解し難いほどである。或は具體的に何ごとかを敍してゆくことがおもしろかつたのであらうか。もしさうならば、それは形容や譬喩の冠詞や短い序詞の用ゐられたのと同じ意味のことである。たゞ一句や二句の冠詞や序詞とは違つて、一首の主想とあまりにも無關係な、これほど長い序詞を用ゐるところに、われ/\には解しがたい點があるのである。製作歌ではあるが、同じ應神の卷の「このかにや」、また雄略の卷の「くさかべの」などにも、同じやうな序詞があつて、これらの歌が或は吟誦するものとして、或は謠ふものとして、作られてゐるらしいにかゝはらず、かうなつてゐる。なほ冠詞は後には一つの詞に用ゐるものがほゞ一定するやうになつたが、記紀の歌に於いては、必しもさうではないやうである。冠詞の性質として本來一定せらるべきものではないから、民謠に於いてはさういふことが無かつたであらうし、製作歌としても初期のものにはそれが相承せられたらうと考へられる。「高光る日の御子」とか「高ゆくや隼別」とかの如く、一つの複合語をくみたてる一部分の語にのみかゝるもの、または「春日のかすが」とか「たゝみごもへぐり」とかの如く或る語の一部分の音にのみかゝるものなども、比較的後になつて行はれたものであらうが、かういふことの好まれるやうになつて來たところに、長い序詞が用ゐられたり同じ音を重ねたりするのと同じ性質の上代人の趣味が見える。と共に、音による冠詞や序詞や同じ音を重ねる(110)ことは、日本語だからこそ多くも容易にもできるのである。
 以上が記紀の歌謡の概觀である。これによつて見ると、知識人も民謠を愛好したこと、貴族文學としての歌もその情趣に於いては民謠と同じであり、その外形に於いても民謠から繼承せられたところが多く、畢竟民謠の基礎の上に形づくられたものであることが知られるが、これは神武天皇がたかさじ野に遊ぶをとめをめして「葦原のしこけき小屋に菅だゝみいやさやしきてわが二人ねし」と詠まれ、雄略天皇が吉野のほとりであはれたをとめに舞を舞はせて「あぐらゐの神のみてもちひくことに舞ひする女とこよにもがも」と歌はれたといひ、顯宗天皇となられた袁祁命が歌垣に立たれたといふやうな物語のあるのと相應ずるものであつて、貴族や知識人の情生活とその文學的表現の方向とは、民衆のと同じであり、たゞその表現としての歌の形式に於いて、貴族や知識人は彼等みづからの特殊のものを作り出すやうになつて來たことが示されてゐる。次に知られるのは、製作歌が謠ひものから分離したことであつて、特に謠ひものとして作られまたはそれに利用せられる場合の外は、かういふ歌は謠はれなかつたのである。さうしてこれらのことにはシナの文學の刺戟があつたやうに見える。ところがこの傾向は萬葉の歌に於いて一層強められる。たゞ知識人によつてかういふ歌の作られるやうになつても、民間には民謠が歌はれ、またそれが新しく作り加へられてゆき、歌垣なども盛に行はれたことは、いふまでもない。
 そこで次には萬葉の歌の考察に移らう。
 
(111)     第三章 文學の概觀 中
       萬葉の歌
 
 萬葉の歌を考へる前に一應懷風藻の詩を見るのが順序であらう。我が國で初めて詩賦の作られたのが何時であつたかといふことは、明かでないが、今傳はつてゐるものでは、懷風藻の卷頭にある大友皇子の作が最も古く、またその序文によつてみても、近江朝のころからそれがそろ/\行はれたらしい。百濟の滅亡と共に歸化して來たその國の知識人がその興隆を助けた、といふ事情もあつたであらう(懷風藻の大友皇子の條參照)。事實、この集の作者にはその歸化人が含まれてゐる。さて集中の詩の大部分は侍宴應詔の作であり、その他のでも遊覽宴飲の時のものが多い。山水の遊覽そのことにもいくらかはシナ文學の影響があつたらしく、このころには吉野遊幸などがしば/\行はれ、また宮中でも曲水の宴などが模倣せられて、その度ごとに侍臣に詩を徴せられたのであらう。從つて詩の作者は、皇族貴族か、さなくとも朝廷に何等かの地位のある知識人かであつて、懷風藻の作者にもこれらの外には僧徒が二三人見えるのみである。
 ところが、詩を作るといつても、例へば山田三方の「金漢星楡冷、銀河月桂秋、」と陳江總の「漢曲天楡冷、河邊月桂秋、」とを、對照して知られる如く、シナ人の詩の句をとつてそれを少しく變へただけのものがあり、また仁山智水といふ語の如く、何人かが用ゐはじめると、わけもなくそれが模倣せられて一般の流行となつたと思はれるやうなものもあるので、これらは何れも、自由に漢語を驅使するまでになつてゐなかつた當時の知識人の技能の程度を示すも(112)のである。書紀にシナの典籍の詞章辭句を殆どそのまゝに取つてそれをあてはめたところが多く、然らざる場合には漢文として稚拙なところの少なくないのも、これと同じである。もつともこの點に於いては、歸化の百濟人とてもほぼ似よつたものであつたらしいことが、その作によつて知られる(例へば荊助仁の「巫山行雨下、洛浦廻雪霏、」の句を玉臺新詠集に見える「洛浦疑廻雪、巫山似旦雲、」と比べてみるがよい)。しかしともかくもシナの詩賦を讀んでその形と技巧とをあれだけまでに模倣し得たこと、故事や成語を知り、また文字に現はれてゐる種々の思想を一應理解してゐたことは、十分に賞讃せられねばならぬ。古事記の卷首の大安麿の上表や萬葉の卷五などに見える諸家の作の如き、四六文の作られたことによつても、それは知られよう。たゞそれが作者の心生活とどれだけの交渉があつたかは問題であり、從つて國民思想の表現としての價値の低いものであつたことは考へられる。和歌の最も重要な主題が戀であるのに、詩にさういふものの無いのは、模範としたシナの詩にそれが缺けてゐるからでもあるが、詩に情生活の表現を求めなかつたからでもあらう。懷風藻の詩の形が殆どみな五言であつて七言のは極めて少く、絶句も稀に見るのみであり、すべてが六朝時代の作を模範にしたものであるのは、いはゆる初唐の時代に當るこのころの我が國には、唐代の新風潮はまだ及んで來なかつたからでもあるが、その主要な意味はこゝにある。絶句、特に七言のそれ、は詩に於いては最も抒情的な内容を盛るに適するものだからである。しかし根本的には、これは詩が國語とは違つた漢語を用ゐるものだからであるので、外國語では詩、特に抒情詩、は作られない。萬葉卷五の山上憶良の二首の七絶が殆ど詩として見ることのできないものであるのも、このためであらう。
 けれども懷風藻時代の詩も、それを國民文學の一淵源として見ると、それに大なる意義がある。萬葉の歌はその最(113)も古いものも大化改新前後の作らしいは、それは極めて少く、柿本人麿などの出現した天武朝持統朝のころからの作が多い。歌はこの時代から急に盛になつたやうである。(仁徳天皇や雄略天皇の御製といふのがあるが、何れも信じがたいものである。)さすればこれは、時代的に見て詩の興隆とほゞ同じである。さすれば、この二つの間に密接の關係のあることは、おのづから推測せられる。例へば「天皇詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩時、額田王以歌到之歌、」(卷一)とか、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作、」(同上)とかいふのは、遊幸の時に詩を上ることに擬したものであり、皇室を讃頌する歌も懷古の詠もまた挽歌のやうなものも、みな詩の主題に主なる由來がある。七夕の如きシナの説話を詠んだもののあることは、いふまでもない。山上憶良、大伴家持、池主、などは詩と歌とを同樣に取扱つてゐるが(卷五、一七)、短歌を「絶」(卷一七、一八)といひ、長歌を「賦」(卷一七)と稱し、或は歌を「和詩」(同上)といひ、「操」(卷五)といふなども、歌人が歌を詩らしく見せかけて喜んでゐたことを示すものであり、漢詩尊重の態度が、歌によつて詩を摸倣しようとさせたのであらう。古事記のやうに國語で書かれる散文の文體ができてゐて、歌の詞書きなどもそれによつてゐたらしいにかゝはらず、後にはそれを漢文にし、特に卷五や卷一七に見えるが如く四六文で長文の序を書いてゐるのも、同じ態度からであるが、大伴池主の如きは歌のことについても「智水仁山、既?琳琅之光彩、藩江陸海、自坐詩書之廊廟、」などといつてゐる(卷一七)。「漢人も舟をうかべて遊ぶとふけふぞわがせこ花かつらせよ」(卷一九家持)と歌つて曲水の宴を摸したり、「初春今月……聊成短詠」(卷五)といつて梅の歌を詠んだりするのが、シナの詩人のしわざをまねたものであることはいふまでもない。萬葉の所所に記されてゐる歌集また萬葉そのものの編纂も、詩に集のあるのを學んだものに違ひない。なほよく見れば、修辭(114)の上でさへ、大津皇子の「山磯霜杼織葉錦」が、同じ人の「經もなく緯も定めず少女らが織るもみぢ葉に霜なふりそね」(卷八)となり、文武天皇の「月舟移霜渚」が、作者不明の「天の海に雲の波立ち月の船星の林にこぎかくる見ゆ」(卷七)となる類がある。その他「霞流るゝ」とか、「色を奪ふ」とかいふやうな熟語などを擧げたら、限があるまい。もつとも、作者として詩にも長じ歌にも秀れた人はさして多くはなかつたやうで、懷風藻と萬葉集との兩方に名の出てゐるのは、前に擧げた大津皇子の外には、川島皇子、長屋王、山前王、大伴旅人、石上乙麻呂、安部廣延、葛井廣成、藤原宇合、山田三方(沙彌)、歸化人である吉田宜などぐらゐである。また萬葉の歌人で詩を作つてゐるものには、山上憶良、大伴家持、池主、などがあるばかり、漢擧者として有名なものの歌で萬葉に載せられてゐるのは、石上宅嗣の作の外はあまり見當らないやうであるが、大體からいふと、詩を作り得るものに歌をよみ得ないものは少かつたであらう。また詩を作り得ずとも解し得たものが歌の作者に多かつたであらう。ともかくも一般にシナの文物の尊尚せられた世に於いて、詩が歌に影響したのは當然である。
 
 しかし、詩が歌に影響したのは主としてその形その技巧の方面であるので、そのことが萬葉の歌によつて知られる。萬葉の歌の大多數は短歌であり、かなりの數の長歌と少數の旋頭歌とがそれに伴つてゐるが、長歌は萬葉に至つて始めてその形が定められた。それは一くさりとしてつながれる短長二句の音の數が五音と七音とになつたことと、結末に七言の一句を加へることと、反歌といふものの添へられることとであつて、音數の定められたことにはシナの詩賦のさうなつてゐるのを學んだところもあらうと推測せられ、反歌については賦の亂をまねたものとする説が肯はれよう。(115)音數の既定は、結末の形と共に、短歌及び旋頭歌に於いて既にさうなつてゐたことであるが、長い形の歌では、よし吟誦する場合があるとしても、ぜひともさうしなければならぬことではなかつたらうから、それには他から受けた影響があつたと考へられる。さうしてまたそれは、反歌を加へることと共に、長歌が文字に寫して人に示すものとなつたために、目で見る形の上の整頓が欲求せられたことも、一つの理由ではなかつたらうか。特に反歌は吟誦するばあひには必要のないものであらう。長歌の形がほゞ定まつてからも、初のうちは反歌を添へることはせられなかつたらしく、比較的早い時期の作が集めてある萬葉の卷一三に反歌の無いものがあり、またもとは無かつたのを後から附加したことの明かなもののあるのでも、そのことが推測せられる。(例へば相聞の部の、古事記に見える輕の太子の作といふものの結句を少し變へた長歌に新に反歌が添へられ、また「菅のねのねもころ/”\に」といふ長歌が三つの本によつて少しづつ違ひが生じてゐるのに、そのうちの一つには反歌が無く、他の二つにはそれ/”\違つた反歌があり、なほ問答の部の長歌の「こもりくのはつせ小國によばひせず」の反歌は、卷四の大伴郎女の作をあてはめたものであることなどを、考ふべきである。)短歌とても、一般には書記して手録にとゞめ、または人に示しも贈答もし、時には紙に書いて壁にかけもした(卷六)。しかし饗宴などの場合に即興的に作つて吟誦することもあり(卷六、八、一六、一八、一九、など)、聞き知つてゐるものを朗詠することもあり(卷一五、一六)、また口誦と記憶とによつて傳へられもしたし(卷一八、一九、など)、なほ歌曲に作つて樂に上せられたり舞踊に用ゐられたりしたこともある(卷八佛前唱歌、續紀寶龜元年の歌垣の歌)。けれども長歌は謠ひものとせられなかつたことはいふまでもなく、吟誦せられたやうな形迹すら多くは見えぬ。一首のうちに章節の區分の無いことはいふまでもなく、中間に段落すらも無いのが常(116)であるのも、そのためらしい。祝詞や宣命の朗讀するものには、幾段かに分れてゐるのが通例であることを、參考すべきである。もつとも古事記に見える語部の語り歌などは、語られ(或はその一部分は歌はれ)たものでありながら、あれだけの長篇に段落などがつけてないが、これは饗宴の場合に特殊の方法によつて、また多分語るものの手ぶりなども加はつて、語られたものであるから、それが無くとも、よかつたのであらう。萬葉の長歌はそれとは性質が違ふ。(日本語は語脈のきれめすら無くして長くつゞけてゆかれるものであつて、上代にはかういふいひかたが多かつたやうであるが、歌つたり吟誦したりするには、普通の場合には、それでは聞きにくかつたと思はれる。)長歌が吟誦せられないのみでなく、令の官職に語部の職掌を繼承したものの無いことから考へると、宮廷で語り歌を演奏することすらも、行はれなくなつたであらう。長歌は一般的には文字に書いて人に示されたものらしい。憶良や家持池主などの漢文の序を加へたり人に贈るものとして作つたりしたもの(卷五、一七)が、初から文字に書かれたことは明かであるが、行幸の時に作つたとか皇子に獻じたとかいふ人麿の歌(卷一、二)、なども同樣であつたに違ひない。侍宴應詔の歌すら豫め作つて置いたのであるから(卷一八、一九)、文字に書いて獻じたことは明かである。たゞ天皇賜酒節度使卿等御歌(卷六)の如きは、歌の内容から見ると、賜宴の席で吟誦せられたもののやうであるが、それとても豫め作つておかれたものであることが、勅……福信遣於難波賜酒肴入唐使……御歌(卷一九)の例によつても知られ、また侍宴應詔の歌に同じ例のあることからも推考せられる。もつとも一つの歌が少しづつ變つて「或本」に見えてゐる例もあるから、記憶によつて傳へられた場合もあり(卷二人麿の歌など)、その記憶してゐたものを誦んで人にきかせたこともあつたではあらう(卷三羇旅歌の注記)。しかし長歌が初から文字に書かれたものであることは、疑があるま(117)い。宮廷にもシナ風の儀禮が行はれ、知識人が詩を尊尚し詩の作者の風習を學ばうとした時代に於いては、これは當然である。詩が日本人にとつては文字に書かれたもの、もしくは書いて讀むべきものであることからも、歌のかうなるのは自然のことであらう。賦の亂とても日本人に於いては目に見るものであつた。長歌がその形の成立に於いて書くといふことから誘はれた點があり、詩賦から學ばれたところのあることは、肯定せらるべきではあるまいか。長歌の形づくられたのも、その流行したのも、そのことみづからが詩賦によつて導かれたものとすべきであらう。(記紀の長い歌には吟誦するやうに作られたものがあつたと考へられるのに、萬葉の長歌にそれが殆ど無いのは、記紀のには民謠の影響が殘つてゐるのに、萬葉のはそれから離れ、文字に書くものとしての詩賦を學んだところの多いものだからであらう。)
 長歌の技巧にもまた詩賦から來てゐる點がある。それは句を對?にすることであつて、長歌は一首の大部分がさういふ句でなりたつてゐるといつてもよいほどである。記紀の長い歌では少しく語をかへただけで同じことを同じ語調でくりかへすことが一般の慣例となつてゐて、そのうちには、例へば神代の卷の「さ野つ鳥きゞしはどよむ、庭つ鳥かけはなく、」とか、允恭の卷の「こもりくの初瀬の川の」の歌の「上つ瀬に齋杙をうち、下つ瀬に眞杙をうち、齋杙には鏡をかけ、眞杙には眞玉をかけ、」とかいふ如く、對?らしく見えるものもあるが、その實、二つのことがらを對稱するのが主旨ではなく、同じ語調の句を重ねるところに意味がある。ところが萬葉では、比較的早期の作が集めてあるらしい卷一三の歌のうちには、これと同じものがあるけれども、全體の上から見るとそれに代つて、「冬ごもり春さり來れば、鳴かざりし鳥も來なきぬ、さかざりし花もさけれど、山を茂み入りても取らず、草深み取りても見ず、(118)秋山の木の葉を見ては、もみづをばとりてぞ忍ぶ、青きをば置きてぞ嘆く、」(卷一額田王)のやうに、いひかたに於いては同じ語調の句を重ねる意味もあるけれども、いはうとしたことがらから見ると、それよりも句を對  禍にしたといふべきものが生じて來る。さうして「山づみのまつる御つぎと、春べは花かざしもち、秋立てば紅葉かざせり、夕河の神も大みけに仕へまつると、上つ瀬に鵜川を立て、下つ瀬にさでさし渡し、」(卷一人麿)とか、「舟なめて朝川渡り、舟ぎほひ夕河渡る、この川の絶ゆることなく、この山のいや高からし、」(同上)、「晝はもうらさびくらし、夜るはもいきづきあかし、歎けどもせむすべ知らに、戀ふれども逢ふよしをなみ、」(卷二同上)、とか、または「渡る日の影も隱ろひ、照る月の光も見えず、」(卷三山部赤人)、「春の日は山しみがほし、秋の夜は河しさやけし、朝雲に田鶴は亂れ、夕霧にかはづさわぐ、」(同上)とかいふやうなのになると、純然たる對?の句となつてゐる。「坂鳥の朝こえまして、かぎろひの夕さり來れば、」(卷一人麿)、「春花の貴からむと、望月のたゝはしけむと、」(卷二同上)の如く、冠詞を漆へるにすら對?の形をとるやうにすることがある。春と秋と、朝と夕と、晝と夜と、日と月と、山と河と、上と下と、邊と沖と、かういふやうな對?は長歌には一般に用ゐられたものであつて、どの作にもしきりにそれが使はれてゐる。ところがこれは、目前の風光を敍するためのものでありながら、概念化せられ抽象化せられる傾向をもつことになる。「朝獵に今たゝすらし、夕獵に今たゝすらし、」(卷一間人老)の如きはその甚しきものであつて、修辭的技巧のために光景の具象化が妨げられてゐる。さうして記紀の長い歌と萬葉の長歌との作られた時代がさして隔つてゐないことを考へると、この變化はかなり急激に行はれたらしい。これはこの修辭法がシナの詩賦から學ばれたことを示すものであらう。現にこゝに引いた額田王の歌の序には「競憐春山萬花之艶、秋山千葉之彩、」とあつて、そ(119)れによつて對?の句の模範が示されてゐる。さうしてそれはシナの詩賦を國語化して讀むことによつて誘はれたところがあらう。勿論、長歌の修辭法が詩賦から學ばれたものばかりであるのではない。對?の句が作られるやうになつてからも、同じ語調の句を重ねることは決して無くなりはせず、この二つの性質を兼ねてもつてゐるやうなものも少なくない。また長歌に多い音をかさね語をかさねまたは冠詞を用ゐるやうなことは、或は日本人の好尚によるもの、或は民謠に由來のあるものであつて、それは短歌に於いても同じであり、日本の歌の特殊の情趣がそれによつて形づくられてゐる。このことについてはなほ後にいはう。なはシナの詩賦は一句ごとに獨立してそれ/\まとまつた意義をもつのが常であるが、長歌に於いてはさういふことが無く、對?の場合ですら二句を一くさりとしてのことであり、而もそれが完全に獨立してはゐない。これは國語の性質から來たことである。
 萬葉の長歌がかうして形づくられたものであるとすれば、その作者が當時の朝廷もしくは官府に何等かの地位をもつてゐた知識人であるのは、當然であつて、その點では懷風藻の詩の作者とほゞ同じである。作者の名のわからぬもぼもあるが、わかつてゐるものに於いてはかう考へられ、それによつてわからぬものの作者の身分を推測することもできよう。「藤原宮之役民作歌」(卷一)といふものもあるが、これが「民」の作でないことは、シナの祥瑞説が用ゐてあること、また全體の精神に仁徳紀に見えるのと同じやうな儒教的王者觀が含まれてゐることからも知られる。鹿と蟹とを詠んだ「乞食者詠」(卷一六)の二首も、「韓國の虎とふ神」とか歌びと笛ふき琴ひきとかいふことがいつてあるのを見ると、無智な乞食の作ではなく、乞食者の語りものに擬して歌人の作つたものであらう。貧窮問答歌(卷五)といふものが憶良によつて作られてゐることからも、これらのことは類推せられる。浦島の子の歌(卷九)、竹取(120)の翁の歌(卷一六)、珠名の娘子、眞間の娘子、菟原處女、などを詠んだ歌(卷九)、または牽牛織女の歌(卷一〇)、などの如く、物語や傳説またはその中の人物を主題とした長歌が逸名の歌人によつて作られてゐるが、他人に代つて作つたとはしてあるけれども實は空想の所産らしいもの(卷四金村)、死者の身になつて詠んだもの(卷五憶良)、などの作者の知られてゐるものから類推すると、これらもまた同じやうな知識人の作であることは、疑が無い。シナの詩賦を知つてゐたものにかゝる作のあるのは當然である。
 もつとも萬葉にはその形の上から見て民謠と見なすべきものが含まれてはゐるので、卷一の卷頭の一首、卷一三の所々にある數首、特に譬喩歌としてあるもの、挽歌のうちの「百小竹の」、「高山と」、など、また卷一六の能登の國の歌の三首などがそれであるが、これらがこの種のもののすべてである。卷一の「こもよみこもち」の歌は問答唱和の形になつてゐた民謠を、雄略天皇の御製とするために改作したものらしく(「日本古典の研究」第四篇*參照)、御製とせられてゐたために、この集に編入せられたのであらう。卷一三はその全篇が前から傳へられてゐた歌集によつて編纂せられたものらしく、そのうちには長歌としての定形にはづれてゐるもの、特に結末の句の形にそれの見えるものがあるのみならず、二首が一首に結びつけられてゐたり、原歌には無かつた反歌が新に附加せられたり、または誤脱や泥亂があつたり、さういふものさへあることによつても知られる如く、比較的早い時代の作が集めてあるのを見ると、民謠の含まれてゐるのも、そのためであらう。(結末に同じ句を二つ重ねた長歌があるが、この形は民謠から繼承せられたものと解せられる。卷一六の乞食者詠も同じ形である。)また卷一六は特殊の由縁のある歌を編纂したものであるから、その意味で、多分偶然に、能登の國の民謠が採られたと解せられる。萬葉集としては民謠を採らうとす(121)る意圖は無かつたやうである。
 短歌の作者とてもまた同じ社會的地位のものであつて、それは短歌がやはり貴族文學の一形態であるからである。短歌にもまた作者のわからぬものが多く、特に七、一〇、一一、及び一二、の四卷のは、その全部がさうであるが、これらは概して逸名の歌人の作として見るべきであり、さうしてその歌人はやはり名のわかつてゐるものと同じ社會的地位をもつてゐたものであらう。短歌は何人でも作り得られた如く思はれてゐるやうでもあるが「秦忌寸朝元者、左大臣橘卿諺曰、靡堪賦歌、以麝贖之、因此黙止也、」(卷一七)、また「諸命婦等不堪作歌」(卷二〇)、などと記されてゐるのでも知られる如く、かなりの地位にゐても歌を作ることのできぬものがあつたことを思ふと、必しもさうではない。長歌を作るほどの技巧と知識とを要しないまでも、いくらかの技巧と、言語音調についての感受性と、また根本的には歌人としての感觸の鋭さと情息の濃かさとを、もたなくてはならぬ。知識人とてもすべてが短歌を作り得たのではない。たゞその主題の最も多いものが、妻どひといふ形によつて婚姻の行はれてゐた時代に於いては、何人にも體驗のあつた、といふよりも日常生活の重要なる一面をなしてゐたといふべき、戀愛であるために、またその妻どひの風習に誘はれたところの多い自然界の風趣に對する感懷が、それにつぐ主題であつたために、比較的多數のものが自己の生活の直接の表現としての歌を作り、さうしてそこから釀し出された知識社會の生活の一種の雰圍氣が、ます/\作者を多くすると共に、技巧をも感受性をも精練させたのであらう。戀歌とても平安朝文化の隆盛期に於ける如く、一種の機智を以て口とく唱和するやうなことはまだ行はれなかつたらしいが、そのをり/\の實感を詠じたものがかういふやうにして作られたと解せられる。
(122) けれども世に傳へられ人に誦せられるほどのかゝる歌の作者には、やはり限りがあつたであらう。「有右兵衛、多能歌作之藝也、」(卷一六)といふことも記されてゐる如く、萬葉時代の歌人も歌に巧拙のあることは知つてゐたのである。ところが、短歌の作が流行すれば、その間には特にそれの巧なもの才能の優れたものが生れたに違ひなく、それと共に長歌を作るほどの技巧をもつてゐたものはおのづから短歌をも作つたであらうから、そこでいはゞ專門の歌人とも稱すべき作者が知識人の社會に現はれた。上にいつた四卷に集められた一千七百餘首の短歌は、かゝる專門歌人の作と考へられるが、たゞその作者の名が傳はらないのである。これについてもまた柘枝の歌(卷三)とか、織女の歌(卷一〇その他)とか、または櫻兒縵兒の説話の壯士の歌、もしくは竹取の翁の歌に和した娘子の歌とか、いふやうな種々の物語中の人物の作に擬したものが、逸名の歌人の作であることを、參考すべきである。旅人が琴の化した娘子や松浦の仙媛との唱和の物語を作つたことを思ふと、櫻兒縵兒の説話そのものがかゝる歌人の空想から生れたことが知られる。何れにしても當時の歌人にはかゝる歌を作つたものがある。さすれば同じやうな歌人が、妻どひの種々の情趣を空想に浮かべて、多くの戀歌を作つたと考へるのは、決して無理ではない。また歌そのものから見ても、或る人の或る場合の實感を詠じたとは解し難いものがある。例へば「奧山の眞木の板戸をおし開きしゑや出で來ね後は何せむ」、「まつらむに到らば妹がうれしみと咲まむ姿をゆきてはや見む」、「たれぞこの吾がやどに來よぶたらちねの母にころばえ物おもふわれを」(以上卷一一)、といふやうなものは、かゝる歌を作る餘裕の無い場合の心情を詠じたものではなからうか。その場合の氣分を後になつて回想し、それを歌にしたものと見られなくはないかも知らぬが、それよりもかゝるこゝろもちを想像した歌人の作とする方が自然であらう。卷一〇に七夕を主題にした百首ほどの歌、(123)特にその多數は彦星かたなばたつめか何れかの情思を詠じたものであつて、それが他の相聞の歌などと同じやうに記してあることをも、參考すべきである。もしこれら無數の戀歌が、悉く或る人の或る場合の實感をその人が詠じたものであるとするならば、編者は數百に上るであらう作者から、如何にしてそれを聞き得たであらうか。また編纂の際に何故に作者を記して置かなかつたであらうか。故らに人に示し世に公にすべきものでない戀歌が、書寫の外にそれを傳へる方法の無かつた當時、これほど集められたのも不思議である。作者のわからぬ歌で古歌集から採つたものは、それ/\その出所が記してあるのに、それを書いてないものの多いことにも、注意しなければならぬ。だから上記の如く考へられる。たゞかう考へる場合、何故に作者の名が知られなくなつたかが問題になるが、それは作者がこれらの諸卷の編者であつてその名を記さなかつたからではなからうか。
 
 しかしこゝに問題があるので、それは東歌および防人の歌が集中にあることである。東歌には、東國の地名があるためにそのうちに編入せられたと考へられるものもあり、一首のどこにも東歌としての特徴の無いものもあるが、その多くが束國人の作であることは、地方的の方言や訛音が用ゐられてゐることからも知られる。同じやうなものを作つた防人がやはり同じ東國人であることは、いふまでもなからう。しかしその形が短歌であるのみならず、その修辭法にもまた歌そのものの情趣にも、知識人や貴族などの作と區別せらるべき特色のあることは認められぬ。かういふ短歌がかゝる地方人によつて作られたことは、第一章に述べた如く地方の農民の間に京の文化の波及していつたことの一例として、注意せらるべきである。常陸の娘子(卷四)、上總の郡司の妻女(卷二〇)、または、筑紫の娘子(卷(124)三)、豐前の娘子(卷六)、播磨の娘子(卷九)、對馬の娘子(卷一五)、の作といふものもあり、遊行女婦(卷一八)のもあるので、これらは京人に馴れたものまたは親しみのあつたものだからのことであらうが、農民の間に短歌の作者が生じたことには、それとは別の意味がある。さうしてそれには、民謠が一般に行はれまた斷えず作られてゐて、民衆の情思を歌謠によつて表現する風習の昔からあつたことが、その素地をなし、また貴族文學としての短歌の主題の最も重要なものが民衆の何人にも體驗のある戀愛であつたことが、それを助けたであらう。京人が上總の珠名の娘子や葛飾の眞間の娘子の物語を喜び、筑波のかゞひに興味を感じたこと(卷三、九)を思ふと、かういふ點に於いては京人と地方人との間、貴族知識人と民衆との間に、差異の無かつたことが知られるので、東歌として編纂せられたやうな短歌の作られた事情も、それによつて解せられる。東歌の形態は貴族文學としての短歌であるが、それに歌はれてゐる情趣は貴族知識人のと共通な民衆の戀愛生活の表現なのである。このうちには「にほ鳥のかつしか早稻をにへすともそのかなしきを外に立てめやも」、「たれぞこの屋の戸おそぶる新甞にわがせをやりていはふこの戸を」、「稻つけばかゞる我が手を今よひもか殿のわく子が取りて歎かむ」、「この川に朝菜あらふ兒なれもあれもよちをぞもてるいで兒たばりに」、などの如く、農民の生活の現はれてゐるものもあり、「つむが野に鈴が音きこゆ上志太の殿のなかちし鳥狩すらしも」、「信濃路は今のはりみち苅りばねに足ふましなむ履はけわがせ」、「鈴がねのはゆまうまやの堤井の水を賜へな妹がたゞてよ」、なども、その情趣の民謠的である點に於いて、やはり農民の作であることを示すものであらう。
 もつとも東歌でもなく地方人の歌と記してもないものに「住吉の岸を田に墾り蒔きし稻のしか苅るまでに逢はぬ君(125)かも」、「秋の田の假廬つくり廬してあるらむ君を見むよしもがな」(以上卷一〇)、または「住の江の小田を苅らす子奴かも無き、奴あれど妹がみためと秋の田苅らす、」「春日すら田に立ち疲る君は哀しも、若草の妻なき君が田に立ち疲る、」(以上卷七)、「新室の壁草かりにいましたまはね、草のごとよりあふをとめは君がまに/\、」「息の緒とわが思ふ妹は早く死ねやも、生けりともわれによるべしと人のいはなくに、」「山代の久世のわく子が欲しといふわを、あふさわにわを欲しといふ山代の久世、」(以上卷一一)、などといふ、その情趣に於いては農民の作らしく見えるもの又は民謠風のものがあり、「ひだ人のま木流すとふ丹生の川ことは通へど舟ぞ通はぬ」、「夏麻ひく海上がたの沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」、「佐伯山卯の花もちしかなしきが手をしとりてば花は散るとも」(以上卷七)、なども、それに準じて考へられるが、しかし卷七も卷一一も、知識人たる逸名の歌人の作を集めたものと推測せられるから、農夫の生活が歌はれてゐるからとて、それが農民の作であるには限らぬ。「ゆだねまくあらきの小田を求めむと足結ひ出でぬれぬこの河の瀬に」(卷七)、「たづがねの聞こゆる田ゐにいほりしてわれ旅なりと妹に告げこそ」(卷一〇)、などが農夫の氣分に切實なものでなく、「さを鹿の妻よぶ山の岡邊なるわさ田は苅らじ霜はふるとも」(卷一〇)が農夫の情思でないのを見ると(これらが農夫の作に擬した歌人の詠であることは、明かであらう。坂上大娘と大伴家持との贈答にも「吾が蒔ける早稻田の穗だち造りたるかつらぞ見つゝしぬばせわがせ」、「わぎも子が業と造れる秋の田のわさ穗のかづら見れどあかぬかも」(卷八)といふのがあるではないか。坂上郎女の「然とあらぬ五百代小田を亂り苅り田ぶせに居れば京師し念ほゆ」(同上)に至つては、結句に於いて事實田ぶせに居るものでないことが示されてゐる。これもまた作者がみづから農夫に擬していつたまでのものである。農夫についてばかりではない。漁夫や海士と(126)ても同じであるので、丹比眞人に海女の答へたといふ「あさりする人とを見ませ草枕たびゆく人にわが名は告らじ」(卷九)も、その眞人の作であることはいふまでもあるまい。志賀の白水郎の歌と(卷一六)いふのも、「或云」としてある説の如く憶良の作とすべきである。「麻ごろも着ればなつかし紀の國の妹せの山に麻まくわぎも」(卷七)が藤原卿の作であり、「あらたへの藤江の浦にすゞきつる海人とか見らむ旅ゆくわれを」(卷三)が人麿のであるのは、貴族も專門歌人も、麻まく女すゞきつる海人を自分たちと同じ人間として、深い親しみを有つて、見てゐたからのことであるので、農民や漁夫の作に擬した歌をよんだのも、一つはこれがためである。少し事情は違ふが、歌を作る技巧を知つてゐる地方人が、實際は農事にたづさはらぬ地位にありながら、歌の上ではたづさはつてゐるやうにいひなすのも自然のことであつて、藤原の宇合に贈つたといふ常陸の娘子の「庭に立つ麻を苅り干し布さらすあづま女を忘れたまふな」(卷四)、のあづま女が事實麻かりほし布さらしたものであるとは思はれぬ。
 かう考へると、上に擧げたやうな東歌の作者を農民とすることには幾分の疑があらう。たゞその用語の上から東國人であることの推知せられるものがあるのと、同じ東國人である防人の歌が萬葉に採録せられてゐるのと、この二つの點から、その多くが東國人の作であることが考へられはする。さうして防人の歌について「拙劣歌者不取載之」と記されてゐるのを見ると、歌らしいものを作り得たのは少數のものであつたらしいから、東歌の作者が東國人であつたにしても、それは直接または間接に京人に接近してその感化をうけたものであつたらう。そのうちには郡司などの地位にゐたものもあつたのではあるまいか。或はまた東國にゐた京人が、半ば戯れに、方言や訛音を用ゐて作つたものがいくらかはあるかも知れぬ。もつとも民衆の間に却つて無名の詩人があつたでもあらう。さうしてその作が民謠(127)として行はれることがあつたに違ひない。もしそれが何等かの事情で教養のある京人と接觸したり、いくらかの短歌を聞き知つたりしたならば、その形を學んでその詩情を表現することもあり、さうしてそれが京の歌人に傳へられた場合もあらう。もしさうならば、東歌のうちの農夫の生活の現はれてゐるもの、民謠的情趣のあるものには、かゝる作者が民謠とすべきものを短歌の形にしたものもあらう。或は現に行はれてゐた民謠を改作したものもあるかも知れぬ。卷七や卷一一の農夫の生活の現はれたものに、もし地方人の作があるとするならば、それについてもまた同じことが考へられよう。たゞ地方人の作に於いて東歌のみが萬葉の一卷として今日に遺つてゐるのは、何等かの事情でそれに興味をもつてゐた京の歌人がそれを編纂しておいたからのことと推測せられる。
 東歌について言を費し過ぎたやうであるが、これは貴族文學としての歌を集めた萬葉の性質を明かにすると共に、地方の民衆の文學上の能力と地位とを知らうとしたからである。萬葉に採られた東歌は民謠ではなく、すべて短歌の形をもつたものであること、東國人は短歌は作つたが長歌を作つたらしい形迹は無く、さうしてそれは長歌が特殊の文學的教養のある知識人でなくては作られないものであつたからであることが、それによつてわかつたのである。東國人ならぬ地方人が歌を作つたとしても、また同樣であつたらう。ところで東歌や防人の歌を採録したことには、一つは、東國の民衆もかゝるものを作り得たとして、珍らしげにそれを見たところに、おのれらの文化的地位を誇る氣分もあつたのではあるまいか。防人の歌の記されたのは、この部分の編者たる家持の職務上の關係からではあるが、その根柢にはやはりこの感じがあつたであらう。東歌も防人の歌も、貴族文學の一形態たる短歌であるところに意味がある。萬葉には「依作者微、不顯名字、」(卷八)と注記せられた場合もあつて、それはこの卷の編者の貴族的態度(128)を示すものであらうが、作者の名を擧げないにしても歌を採つたことには、こゝにいつたのと同じ理由があつたのであらうか。しかしこれは必しも貴族や知識人が民謠を排斥しまたは蔑視したことを示すものではない。東歌の採られたのは、一つは、京の知識人が彼等みづからの生活とは違つたところのある地方人の生活の表現せられてゐることに、特殊の興味を覺えたからでもあつたと考へられるが、もしさうならば、同じ情趣のある民謠に對してもまたそれと同じ感じをもつたであらう。天平六年に大宮人が演じた歌垣の歌の難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲、などは民謠をそのまゝ用ゐたのではなからうか。民謠の萬葉に採集せられなかつたのは、歌集といふものがシナの詩集を學んだものだからのことであらう。またこれは貴族や知識人が農夫などの民衆を賤隷視したことを示すものでもない。彼等が農夫をも海人をも、おのれらと同じ人間感情をもつたものとして、その點でおのれらの友として、視てゐたといふことは、既に述べた。勿論、萬葉の歌には「秋田かるかりほのやどりにほふまで咲ける秋萩みれどあかぬかも」(卷一〇)といひ「磯に立ち沖べを見ればめかり舟あまこぎ出らし鴨かける見ゆ」(卷七)といふ如く、農夫の生活をも海人のしわざをも、美しい眺めとしてよそから見てゐるやうなのが多く、そこに萬葉歌人の民衆に對する一つの態度はあるが、それにしても彼等民衆に親しみを感じてゐたのではある。農夫や海人の作に擬した歌、または彼等の身となつて作つた歌、或はみづから彼等のしわざをしてゐるが如くいひなした歌、のあるのもこれがためである。
 萬葉の歌の貴族的性質は上記の考説によつてほゞ知られたであらう。勿論その作者は顯要の地にあるものには限らず、いはゆる「山柿」を代表者とする名を得た歌人は、むしろ官位の高からぬものに多かつたので、それはそのしごとが世俗的な事業とは違つてゐるのと、それに要する個人的な素質と能力とは世襲的地位によつては得られないのと(129)のためであり、地位は低くとも歌人として彼等が重んぜられたところに、歌そのものを尊んだ當時の貴族的知識人の態度が見られるのであるが、しかしかういふ歌人とても、貴族的文化社會に屬するものであつたことは、いふまでもない。婦人の作も少なくないが、長歌には殆どそれが見えず、短歌についても特に歌人として知られるやうなものは、婦人には無かつた。これは懷風藻の作者に婦人の無いのとも關係があるので、シナ文學の知識が長歌に於いて用をなしたこと、さうして婦人にはまだシナ文學に通じたものが無かつたことを、示すものであらうか。しかし長歌とても、技巧の上でシナ文學から來てゐるものは、句を對?にすることがその主なるものであつて、その他の修辭の法は何れも日本人の趣味の説はれであり、短歌に於いてはなほさらである。また歌の主題もしくは資材にシナの文學または説話などに由來のあるもの、それから採られたものは、長歌に少なくないし、短歌にもまたそれが幾らかはあるので、それについては後章に考へるであらうが、歌としての情趣はどこまでも日本人のものであり、集中の大部分を占めてゐる短歌に至つては、特にさうである。何よりも戀歌が短歌に於いて最も重要な地位を占めてゐるところに、シナの詩とは全く違つた日本の歌の特色がある。だから歌にシナ文學の影響をうけたところはあるけれども、歌そのものは、固有の民謠を繼承したものであつて、その民謠が主として歌垣や「かゞひ」に歌はれたらしい戀歌の類であつたことは、疑があるまい。我が國の歌は戀歌にその源を發し戀歌から成長したものといつても、大過は無からう。海山の眺めをめで、花鳥の色に音にこゝろのひかれるのも、一つの意味に於いては、戀から誘はれたところがあり、風景の詠、四季をり/\の歌にもそれが多く現はれてゐる。羇旅の歌などにも戀歌とすべきものが少なくない。要するに歌は戀が中心である。シナ文學の崇拜者もその情生活はシナ語によつて表現することができない。歌の盛に作られたのはこ(130)のためである。日本人の情生活は日本語の歌によつて始めて表現し得られるのである。要するに、萬葉の歌は貴族文學ではあるが、その淵源は民謠にあり、その情趣はどこまでも日本人のである。
 
 萬葉の歌に於いて民謠から繼承せられたものを、その外形または修辭の方面から見ると、次のやうなことが目につく。短歌では第二句を第五句で、また旋頭歌では第三句を第六句で、くりかへしたもののあることが、その一つであつて、「あさもよし紀人ともしも、まつち山ゆきくと見らむ、紀人ともしも、」(卷一調淡海)、「あすか川せくと知りせば、あまた夜もゐねて來ましを、せくと知りせぼ、」(卷一四)、などが短歌の、「あづさ弓ひきつのべなるなのりその花、つむまでにあはざらめやもなのりその花、」(卷七)といふやうなのが旋頭歌の例である。次に長歌では、結末で七音の句またはそれと同じ語調の句をくりかへしたものが幾らかある。乞食者の詠(卷一六)といふものの二首の結末の「まをしはやさね」、「もちはやすも」、また吉備津采女の死を悼んだ歌の「朝つゆのごと、夕ぎりのごと、」(卷二人麿)、などはその例であるが、これらでは何れも普通の形として添へることになつてゐる結末の七音の句が、二句もしくはそれよりも多くなつてゐる。乞食者の詠の第一の一首では、くりかへした二句を含めて、結末に加へた七音の句が六句になつてゐるが、これは特殊のものである。またくりかへしが無くとも結末に添へた七音の句に更に七音の一句を附加したものは、その他にもあつて、卷一三にはこの例が多い。乞食者の詠は聲に出して語るやうに作られた特殊のものであり(事實さうして語られたかどうかは別の問題として)、また卷一三は萬葉の歌としてはその初期のものを集めてあるやうであるから、それにかういふ形のものがあるのは、その由來が民謠にあることを暗示するもの(131)であるらしい。
 次に修辭の法であるが、それについては先づ音または語を重ねたりくりかへしたりすることが注意せられるので、短歌に於いては、特に例を擧げることができないほどにそれは普通に用ゐられてゐる。しかしその最も著しいものの二三を示すならば、「あふの海しづくしら玉しらずして戀せしよりは今ぞまされる」(卷一一)、「たえずゆくあすかのかはのゆかずあらばゆゑしもあるごと人の見まくに」(卷七)、「さゝ波のしがのからさきさきくあれど大宮人の舟まちかねつ」(卷一人麿)、「わが里におほ雪ふれりおほはらのふりにし里にふらまくは後」(卷二天武天皇)、「あかねさす紫野ゆき標野ゆき野もりは見ずや君が袖ふる」(卷一額田王)、「秋の野に咲ける秋はぎ秋かぜになびける上に秋のつゆおけり」(卷八家持)、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながきなが夜を一人かもねむ」(卷一一)、「秋の田の穗むきのよれる片よりに君によりななこちたかりとも」(卷二但馬皇女)、などがそれであつて、同じ音、意義の違ふ同じ音の語、同じ意義の同じ音の語、または音と語と、を重ねたりくりかへしたりしたものなどがそこにあり、その中にはおのづから頭韻の用をなしてゐるものもある。同じ音をくりかへすことからは輕快な感じが得られ、また同じ語を重ねたものには、重ねることによつてその語の語感を強め、または漸層的に強めてゆくはたらきをする場合のあることは、讀んでみておのづから知られよう。或はまた「はつせ川はやみはや瀬を掬び上げて飽かずや妹と問ひし君はも」(卷一一)の如く、「は」の音をたゝみかけてゆく急調が「はや瀬」の感じをよく現はしてゐるやうなものもある。なほ同じ音をくりかへすことについていふと、「あふみのみおきつしまやまおくまへてわがもふいもが言のしげけく」、「つるばみの一重ごろものうらもなくあるらむこゆゑこひわたるかも」、(以上卷一一)、の如く、それ/\に同じ音が(132)いくつもくりかへされてゐるのみならず、そのうちの「み」と「ま」と「も」と、また「る」と「ら」と(なほ一つだけではあるがそれと「ろ」と)、及び、くりかへされてはゐないが、「う」と「あ」とが、親しい關係をもつてゐて、殆ど同じ音のやうにきこえるもののあることも、注意せられる。或はまた「君にこひしなえうらぶれわが居れば秋風ふきて月かたぶきぬ」(卷一〇)に於いて、「れ」の音がくりかへされてゐるほかに、その「れ」の含む母音の「え」がその上にあり、讀むときにはこの三つが同じひゞきをもつために、そこから生ずる特殊の感じのあるやうなものもある(この歌の本三句、特にその第二句は、かゝる戀の氣分が音調の上によく表現せられてゐる)。短歌は吟誦しながら作りもし人にきかせもしたために、かういふいひかたが好まれたであらう。たゞ「よき人のよしとよく見てよしといひしよし野よく見よよき人よく見つ」(卷一天武天皇)の如きは、一種の遊戯的態度から出てゐるらしく解せられるから、この例には入れない方がよからう。なほ「月夜よし河音さやけし」(卷四大伴四綱)、「雨はふるかりほは作る」(卷七)、「雲立ちのぼり時雨ふり」(卷九)、などの如く、同じいひかたを重ねることによつて、句の終りが同じ音になつてゐるものがあつて、やはり輕快な感じがそれから得られるが、この例は甚だ少い。後にもいふやうに頭韻の多いのと對照すると、これは國語の性質から來てゐるのであらうか。「大伴のみつの白浪あひだなくわが戀ふらくを人の知らなく」(卷一一)のやうなもののあるのも、偶然のことであらう。
 音については、なほ上に擧げた歌のうちにもある頭韻のことをいふべきであらう。こゝに頭韻といふのは句のはじめが同じ音になつてゐるもののことであるが、「むらさきのなたかの浦のなのりそのいそになびかむ時まつわれを」(卷七)、「水鳥の鴨のはいろのはる山のおぼつかなくもおもほゆるかも」(卷八笠女郎)、「くさか江の入江にあさるあ(133)したづのあなたづ/\し友なしにして」(卷四旅人)、「あすのよひあはざらめやもあしびきの山彦どよめ呼びたてなくも」(卷九)、「ころもでのまわかの浦のまなごぢのまなく時なしわが戀ふらくは」(卷一二)、などがそれである。これらのうちには同じ音の語を誘ひ出す序詞となつてゐるものもあるが、頭韻を用ゐたのでもある。續いてゐる二句が頭韻をもつてゐるやうなものは數多くある。なほ「わが宿の君まつの木にふるゆきのゆきにはゆかじまちにしまたむ」(卷六)、「夏野ゆく牡鹿のつぬのつかのまも妹がこゝろを忘れて思へや」(卷四人麿)、などにも、同じ音をくりかへすことに於いて頭韻と同じ效果をもつものがあり、上に頭韻の例として擧げたものの中にも同じところがある。句のはじめの音が同じなのではなくして語のはじめのがさうなのであるが、耳に聞く感じは頭韻と同じである。或はむしろ同じ音をはじめにもつ語が接近してゐるために、同じ音のくりかへされる感じが強い。
 これに關聯してもう一つ考へられるのは、こゝに引いた「むらさきのなたかの浦のなのりその」、「水鳥の鴨のはいろの青山の」、または「ころもでのまわかの浦のまなごぢの」、の如く「の」の語を重ねることによつて名詞を多くつないでゆくいひかたであつて、上に引いた「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」、下に引く「川の上のいつもの花の」、などもそれである。「神なびのいはせの森のよぶ子鳥いたくななきそわが戀まさる」(卷八)も、「の」の數は少いが、それに准じて見られるので、「夏野ゆく牡鹿のつぬのつかのまも」も同じであり、かういふ例は甚だ多いが、「大君のみかさの山の帶にせる細谷川の音のさやけさ」(卷七)は、少し變つたしかたで多くの「の」を重ねてある。かういふのは、「の」の音を幾たびもくりかへすことが、頭韻と同じやうに、快い感じを耳に與へると共に、それによつて漸層的に語勢の強まつてゆくところに一首の調子が形づくられる。また「の」が含蓄の多い語であるために、種々の意義(134)種々の情趣をそれによつて表現することができると共に、その語が一つの音であるために、多くの語をそれによつてつなぐことができる。「の」を二つ重ねることによつて三つの名詞を結びつけた歌は無數にあるが、それにすらこの效果はある。
 さてかういふやうな歌を讀むと、萬葉の歌人はことばの音に對する感受性の頗る鋭敏であつたことが知られよう。同じ音を重ねまたはくりかへしてあるもの、または頭韻などには、作者が意識してさうしたのではなく、偶然さうなつたものが多からうが、口吟しつゝ作つたとすれば、その場合に快い感じを耳に與へたには違ひない。そこに音に對する感受性のはたらきが、おのづから現はれてゐるのである。但しそれが一首の歌想とどういふ關係があるかといふと、上に述べた一二の例のやうなものも無いことはないが、一般にはさしたる關係が無いやうである。
 
 こゝまで見て來ると、次にはおのづから冠詞と序詞とについて考へねばならぬことになる。短歌では、「あさぢはらつばら/\に」、「あられうつあられ松原」、「さひのくまひのくま川」、「菅のねのねもごろ」、などの如く、いはうとする語と同じ音をもつ語を冠詞とするもの、「川の上のいつもの花のいつも/\來ませわがせこ時じけめやも」(卷一〇)、「いぬがみのとこの山なるいさや川いさとを聞こせわが名のらすな」(卷一一)、「さゝ波の志賀津の浦の舟のりにのりにし心つね忘らえず」(卷七)、「うぐひすのかよふかきねのうの花のうきことあれや君が來まさぬ」(卷一〇)、などの如く同じ音の語をひき出すための序詞が少なくないので、それにもまた頭韻の用をなすものがある。序詞はその性質からいふと、多くは三句または二句、まれには四句、で形づくられてゐる特殊の形での冠詞ともいふべきもので(135)あり、またその多くは第一句にはじまるのであるが、五句の短歌に於いてそれだけの部分と地位とを占めてゐるところに、序詞の特色があるので、それによつて一首全體の構造が支配せられることになる。しかしさういふ序詞ではその最後の一句が重要であつて、それより前の句はその句を引き出すためのものに過ぎない場合が少なくないから、その一句が五音のである場合には、語調は違ふことがあるけれども、普通の冠詞とほゞ同じはたらきをするものがある。上記の「いさや川」や「卯の花の」がそれである。しかしかういふ冠詞は、同じ音またはそれをもつ語を重ねるのみであるから、それによつて引き出される主なる語とは意義の上では何の連繋も無く、一首全體の情趣とはなほさら關係が無い。もつとも「あさぢはらつばら/\にもの思へば故りにし里しおもほゆるかも」(卷三旅人)の「あさぢはら」の冠詞が「故りにし里」を思ひ起させてゐるやうなのも無いことはない。また「いでわが駒はやくゆきこそまつち山まつらむ妹をゆきてはや見む」(卷一二)の「まつち山」は冠詞として用ゐたのであらうが、これもまた一首の情趣にかなつてゐるので、全體として見ると「はや」と「ゆく」と「まつ」とをそれ/\重ねたいひかたが、急ぎに急ぐこゝろもちをよく表現してゐる。しかしこれらは稀な例である。またこの種の序詞も、それが二句もしくは三句を占めてゐるにかゝはらず、それによつていひ現はされてゐることは、意義の上では、一首の主想とは無關係である。或はむしろそれと背反してゐるものさへあるので、上に引いたものでいふと「うぐひすのかよふかきねのうの花」と「うきこと」との關係がその例である。「天雲に羽うちつけて飛ぶたづのたづ/\しかも君しまさねば」(卷一一)の如きも、その序詞は第四第五の兩句で示される一首の主想とは不調和であらう。これらはたゞ音調の上で或る情趣を生ずるところに意味があるに過ぎないものである。
(136) ところが冠詞や序詞には音によつたものでないのがあつて、數の上ではこの方が多い。さういふ冠詞が主なる語に對する形容または譬喩もしくはその語によつて示される事物の性質などを説はす意義をもつてゐることは、記紀の歌に見えるのと同じであるが、一々それを例示する必要もあるまい。たゞ「梓弓ひく」、「たぐひれのかけまく」、などの類は、譬喩といふよりもむしろ主なる語の音にかゝるものであり、「もののふの八十うぢ川」に至つてはなほさらである。またそれはおのづから、「妹が袖卷向山の朝露ににほふ黄葉の散らまくをしも」(卷一〇)のやうに、後世のいひかけめいた用法にもなる。但しいひかけは、それによつて上と下と全く異つた二つの觀念を結びつけるもので、その觀念はどちらも同じほどの價値を有つてゐなければならぬが、これは「妹が袖」の語が歌の思想をくみたてる要素とはなつてゐないから、やはり「卷向山」に對する冠詞の用をなすのみである。ところで冠詞は、その本質としては一つの語にかゝるものであるから、この種のものでも、一首の主想とは關係なく用ゐられる場合が多い。例へば「春草のしげきわが戀おほ海の方にゆく浜の千重につもりぬ」また「おほゝしく君をあひ見て菅のねの長き春日を戀ひわたるかも」(以上卷一〇)の如きがそれである。春草も菅のねも、しげきこと長きことの譬喩ではあるが、そのしげきこと長きことが、それだけの語として、いはゞ抽象的に、取扱はれ、つもる戀ごゝろからも春日の長い感じからも離れてゐる。特に春草のしげきは次に來る大海の浪の序詞によつて却つて妨げられる。「山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳のすがた夢に見えつゝ」(卷一一)の山吹がはねず色の赤と調和しないのも、その例であらう。それが一歩進むと、序詞のうちの冠詞ではあるが「女郎花さき野に生ふるしらつゝじしらぬことをもいはれしわがせ」(卷一〇)といふ如く、つゝじ咲く野に女郎花をいつて、主なる詞と不調和な冠詞をつけることにさへなつて來る。「ぬば玉の月に(137)向ひてほとゝぎす鳴くおとはるけし里遠みかも」(卷一七家持)も同じであつて、これは夜にかゝる「ぬば玉」が月に移されたのであらうが、ふさはしくないことは、いふまでもない。或はまた「あしびきの山鳥」の如く「山鳥」といふ一つの語を用ゐてあるのにその「山」にのみかゝる「あしびきの」を冠詞とするやうな場合もある。
 しかし、かういふ用法の生じたのは、短歌が五句で成りたつ形のものであるために、その各句の位置に何等かの語をあてはめねばならず、從つて歌の意義に於いては重要ならぬ語を、冠詞として、第一句もしくは第三句に用ゐることになつたからであらう。いひかへると、冠詞は、形容や譬喩などのためではなく、音調を整へるために用ゐられることになつたのである。上にいつた音の冠詞の用ゐられるのも、效果の上からはやはりこれと同じことになる。が、さうなると、冠詞はその用ゐかたによつては、一首全體のリヅムまたは構造にかゝはることになるので、これは「やますげのやまずて君を思へかもわがこゝろどのこのころは無き」(卷一二)、「ぬば玉のこの夜なあけそあからひくあさゆく君をまたば苦しも」(卷一一)、などの如く、冠詞が同じ音の語を導き出したり他の句との間に頭韻の關係ができたりする場合にも生ずるが、さういふことが無くても、例へば「かくのみし戀ひやわたらむたまきはる命も知らず年を經につゝ」、「かくのみし戀ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつ止まず通はせ」(以上卷一一)、の如きものがそれであり、かういふ例は萬葉のどこをあけても、すぐに見つかる。これらに於いては冠詞が一首の調子を成りたゝせるに大きなはたらきをしてゐる。意義の上では用の無い冠詞を用ゐたことが、一首全體としての或る情趣を釀し出し又は生かすことにおいて、有效にはたらいてゐるので、冠詞の本來の性質とはちがつた效果が生じたのである。しかしそれと共に、特殊の興味をもつて或る種の冠詞を用ゐる場合もあるので、例へば「妹が目をはつみの崎の秋萩はこの(138)月ころは散りこすなゆめ」(卷八坂上郎女)、「こらが手をまきむく山に春されば木の葉しぬぎて霞たなびく」、「妹が手をとろしの池の浪のまゆ鳥がねけになく秋すぎぬらし」(以上卷一〇)などがそれであり、いひかけめいたいひかたでかういふ女性に關することばを用ゐるところに、作者の興味があつたのであらう。かういふのは自然界の風物を敍したものに多く見えるものであつて、冠詞によつていくらかの抒情的氣分が加味せられたことになるが、それはたゞ冠詞にさういふ語が用ゐてあるからのことであつて、その冠詞によつて感ぜられるものは、一首の主想とは何の關係も無い。これが冠詞の性質なのである。「かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく戀ふらく思へば」(卷一〇)の如き例も極めて稀にはあるが、これとても目の前にある山吹を冠詞として利用し、そこから「やむ時」をひき出したところに主なる着想がある。
 序詞にもまた「かはづなく六田の川の川柳のねもごろ見れどあかぬ君かも」(卷九絹)、「石の上ふるのわさ田のほには出でず心のうちに戀ふるこのころ」(同上拔氣大首)、の如く、上にいつた一種の冠詞と同じく、主なる語の音にかかるもの、從つていひかけめいた用法になるものが少からずあるので、「妹が門入りいづみ河のとこなめにみ雪のこれりいまだ冬かも」(卷九)の如く、序詞ではあるがむしろこれと同じはたらきをする冠詞が次の句にまで入りこんでゐるといつてもよいものさへも、稀にはある。さうしてこれらは一首の主題には何の關係もないものである。序詞で重要なものはやはり譬喩または形容の用をなすものであるが、これにもまた、音を重ねる序詞について上に述べたと同じく、その終りの句に主なる意味があつて、それには冠詞と同じはたらきをするものがある。「秋づけば尾花が上におくつゆの消ぬべくもあは思ほゆるかも」(卷八長枝娘子)、「むらさきの名たかの浦のなびき藻の心は妹によりにしもの(139)を」(卷一一)、などの第三句がそれである。「祝部らがいはふみむろのまそ鏡かけてぞしぬぶふ人ごとに」(卷一二)の第三句の如きは、實際冠詞として用ゐなれた語である。けれどもかういふ冠詞的の句も、從つてまた序詞全體も、たゞ「消える」といひ「よる」といび「かけて」といふ語に對するものに過ぎず、第四第五の兩句に於いて表現せられる一首の主想には關係が薄く、或は殆ど無いといつてもよいほどである。のみならず「志賀のあまの鹽やきごろもなれぬれど戀といふものは忘れかねつゝ」、「宮木ひく泉の杣に立つ民の息ふ時なく戀ひわたるかも」、「天雲の八重雲がくり鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ」(以上卷一一)、などになると、序詞は、一首のいはうとする切なる戀の氣分とは、あまりにも不似合である。或はまた上に引いた「水鳥の鴨の羽いろの春山の」に於ける如く、この鮮やかな山の色とおぼつかない感じとが一致しないやうな例もある。
 もつとも「紅のこぞめのころも色ふかくしめにしかばか忘れかねつる」(卷一一)、「紫のわが下紐の色に出でず戀ひかもやせむあふよしをなみ」(卷一二)、の如きは、紅や紫の色が或るなつかしみをもつ點に於いて、戀の氣分を助けてゐるとも見られよう。また「をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは」(卷四人麿)、「妹が目を見まくほり江のさゞら波しきて戀ひつゝありと告げこそ」、「きりめ山ゆきかへる道のあさがすみほのかにだにや妹にあはざらむ」(以上卷一二)、なども、それ/\違つた形ではあるが何れにも同じ效果がある。このうちの「をとめらが袖」も「妹が目を見まく」も、序詞のうちの序詞で、「ふる山」や「ほり江」にいひかけただけのものではあるが、これらのことばが戀の氣分と關係があり、「ゆきかへる」道も女の許に通ふ意がこめられてゐるやうに見える。從つてかゝる序詞を用ゐることに作者の特殊の興味があつたであらう。序詞は戀の歌に多く、さうしてそれには自然界の風物を用(140)ゐるのが常であるが、その序詞には、この例の如く、女性のことをいふところに興味をもつてつゞられたものがある。しかしそれはたゞ序詞だけに於いてのことであるので、そのことは上に冠詞についていつたのと同じである。戀歌でない歌の序詞にも同じやうなものがあるので、「をとめらが織る機の上をま櫛もちかゝげ栲島波のまゆ見ゆ」、「わぎもこが赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて納めむ倉なしの濱」、の如きはその極端の例であるが、これらの長い序詞は、栲島にも倉なしの濱にも何の關係も無い。たゞかういふ序詞に興味をもつて一首が作られたのみである。「ますらをの弓末ふり起しかりたかの野邊さへ清くてる月夜かも」(卷七)の如く男性のものをかりて來たのは、例外とすべきであらうが、それが野邊の月夜に關係の無いことは同じである。かういふもののみならず、概言すると、一首の主想に關係のある序詞を用ゐることは稀な例であつて、序詞の大部分はさういふ意味をもたないものである。「出でて見る向ひの岡に本しげく咲きたる花のならずばやまじ」(卷一〇)の如く、目前の光景をそのまゝとつて序詞としたやうなものは、極めて稀な例である。「わかゆ釣る松浦の河の河なみのなみにし思はゞわれ戀ひめやも」(卷五)の如きは、もともと松浦河を背景とした説話の中の歌であるために、その河の名を序詞に利用したものであつて、一般の序詞とはちがふ。
 序詞はその性質に於いては冠詞と同じであるが、それが短歌の構造に特殊の地位をもつてゐる點に於いては冠詞とは違ふ。これは上に考へたことであるが「はねかづら今する妹をうらわかみいさいさ川の音の清けさ」(卷七)、「かほ鳥のまなくしば鳴く春の野の草根のしげき戀もするかも」(卷一〇)、「ぬば玉の黒髪山の山草に小雨ふりしきしく/\思ほゆ*」、「あづさ弓末のはら野に鳥がりする君が弓絃の絶えむと思へや」、「伊勢のあまの朝な夕なにかづくとふあは(141)びの貝のかたもひにして」(以上卷一一)、などの如く、序詞で四句を占めてゐるやうなのは、多くない例ではあるが、序詞の效果を考へるには重要のものである。これらの歌に於いては歌としていはうとすることは最後の一句だけ(はじめの二首では第四句の下半から後)であるが、かういふのは極端の例だとしても、第三句までが序詞になつてゐるものは甚だ多く、さうしてさういふ歌では、第四第五の兩句だけが歌はうとする主想をいひ現はしたものであるから、一首の過半がそれに關係の無いものである。のみならず、その序詞のうちに冠詞や序詞のあるものが少なくないのを見ると、序詞そのものさへも、意義の上からは三句を要しない場合のあることがわかる。かう考へると、序詞は短歌の形を調へるため、むしろ短歌を成りたゝせるためのものである、といつてもよからう。序詞はこの意味でも冠詞と同じはたらきをしてゐるのである。これは一般に短歌、特に戀の歌、の歌はうとする主想が末の句に凝結せられてゐること、或は末の句に至つてはじめて展開せられてゐること、序詞の用ゐてあるもの、特にそのうちに種々の修辭法の含まれてゐるもの、に歌として調子の整つたもののあることとを、示すことになるであらう。序詞を用ゐるのは戀歌に多いが、萬葉人の戀の情は單純であるから、それをいふには末の句だけで足りるけれども、歌とするにはそれでは足らぬから、そのために序詞を加へねばならず、さうしてそれは、意義の上においてはいはうとする主想に關係は無いけれども、それだけで或ることがら或る光景が敍述せられ或る情趣をもつことになり、さうしてかういふ序詞そのものの形と、それと主想を表現する句との關係と、またこの二つによつて成りたつ一首の構造とから、その歌に全體としての或る情趣が生ずる。このことは上に引いた多くの歌において既に知られてゐようし、例を擧げれば限りが無いが、例へば「白まゆみいまはる山にゆく雲のゆきや別れむ戀しきものを」(卷一〇)、「あしびきの山鳥の尾の一を(142)こえ一目みし兒に戀ふべきものか」(卷一一)、などもそれである。序詞に敍せられてゐる光景にそれ/\の情趣があるのみならず、「戀ひしきものを」、「戀ふべきものか」、の強いいひかたと、序詞に冠詞が含まれてゐる上に、同じ音や語をくりかへしたり頭韻を用ゐたりしてゐるその修辭法とによつて、一首の調子のできてゐることが、吟じてみるとよくわかる。作者もこのやうにして吟じながら作つたに違ひない。
 以上は短歌に於いてのことであるが、長歌ではどうか。音や語を重ねたりくりかへしたりするものについては、例へば「かよりかくより」「かゆきかくゆき」(卷二人麿)、「をとめらがをとめさびすと、……ま玉手の玉手さしかへ、」(卷五憶艮)、「さよは明けこの夜はあけぬ」「思ひ亂れて亂れ緒の」(以上卷一三)、「あづさ弓八つ手ばさみ、ひめかぶら八つ手ばさみ、」(乞食者詠)、の如き例はあるが、さほど多くはなく、稀にあつても特に目だつては見えない。これは長歌が口に出して吟誦するものでなかつたのと、かういふいひかたをしたところが一首の中で主位を占めてゐないのとの故であらう。たゞ「高しるや天のみかげ、天しるや日のみかげ、」(卷一)、また「いくりにぞ深みる生ふる、ありそにぞ玉もは生ふる、玉もなすまきねし兒を、深みるの深めて思へど、」(卷二人麿)、の如きいひかたは、多くの語をつゞける長歌であるためにできたのである。なほ「浦なしと人こそ見らめ、潟なしと人こそ見らめ、よしゑやし浦は無くとも、よしゑやし潟は無くとも、」(卷二人麿)とか「思ふそら安からなくに、歎くそら安からなくに、…… かくのみや息づきをらむ、かくのみや戀ひつゝあらむ、」(卷八憶艮)とかいふやうに、同じ語を多く用ゐた同じ語調の句をくりかへすしかたが甚だ多く用ゐられてゐるが、これは記紀の長い形の歌から繼承せられたものであり、やはり長歌であるからこそいひ得られたのである。また「浪の上をいゆきさぐくみ、いはのまをいゆきもとほり、いなび(143)づま浦みをすぎて、」(卷四丹比笠麻呂)のやうに頭韻を用ゐたり、「白雲の龍田の山の、瀧の上のをぐらの嶺に、」(卷九)の如く「の」の語を連用したものが無くはないが、これらは極めて稀な例であり、作者が意識してさうしたのではあるまい。また二句が頭韻になつてゐるものがあつても、それは「いはひべをいはほはりすゑ」といふやうに、同じ語を重ねたためにさうなつたのである。これもまた長歌が聲に出して吟じないものだからのことであらう。次に「いかご山いかにわがせむ」、「ありそ海ありても見む」、「松がねのまつこと遠み」(以上卷一三)、といふやうな、同じ音の語を重ねる冠詞は稀に用ゐられてゐるが、音のみにかゝる序詞は多くは見あたらないやうである。これもまた長歌が吟誦せられなかつたからのことではなからうか。しかし形容または譬喩などの意義をもつ冠詞は長歌にも常に用ゐられ、特に人麿の作にはそれが多いので、例へば從石見國別妻上來時の二首(卷二)、または明日香皇女木〓殯宮之時の歌(同上)の「みけむかふ城上の宮を」から「慰むるこゝろもあらず」までの如く、殆ど一句ごとにそれがあるといつてもよいほどなのは、讀んでゆくとうるさい感じがする。斷えずいろ/\の事物や觀念がわきから入つて來て、敍述のはこびを亂し感情の統一を妨げるのである。「つまの命の、たゝなづく柔膚すらを、劔刀身にそへ寐ねば、」(卷二人麿)の如く、女の柔膚について劔刀をいふやうなものさへある。短歌とは違つて、單調なリブムで多くの語をつらねてゆく長歌に於いては、冠詞のかういふ用ゐかたは、一首の調子を整へる效果は無くして、却つてそれを成り立たせないやうにするのだといつてもよい。赤人や憶良の長歌には冠詞を用ゐることが少いので、かういふことは無い。
 人麿はまた長い序詞を用ゐることが多く、こゝにいつた二首もその例であつて、そのはじめの方のは、一首が四十(144)句で成りたつてゐるのに、そのうちの「玉藻なす」までの二十四句は、たゞ「よりねし」といふ一語を誘ひ出す序詞にすぎぬ。しかもそれが、故郷の妻を思ひ浮べるには、何のたよりにもならぬ敍述である。波にうちよせられる海藻とわが妻とは「よる」といふ語の音の外に何の關係があらう。「浦なしと人こそ見らめ」云々の數句には、見どころも無い鄙の石見も妹あればこそといふやうな意味が、ほのめかされてゐるかも知れないが、「いさなとり海邊をさして」以下のよそ/\しい句がそれにつゞいてゐるから、明かにさうとはきこえない。この序詞と「露霜の」「夏草の」といふ二句の冠詞とを除けたならば、彼のいはうとすることは十四句で盡きてゐる。後の方のはそれほどではないが、かなり長い序詞がある。讃岐狹岑島視石中死人作歌(卷二)の約三分の二を占めてゐる狹岑の島に關する敍述は、普通の序詞とは違ふが、一首の構成から見ればそれと同じ性質のものである。これもまた赤人や憶良のには無いことであるが、作者の知られぬものでも、「春されば花咲きをゝり、秋つけば丹の穗にもみづ、味酒を神なび山の、帶にせる飛鳥の河の、早き瀬に生ふる玉藻の、うち靡き心はよりて、朝露の消なば消ぬべく、戀ふらくもしるくもあへる、こもり妻かも」(卷一三)の「生ふる玉藻の」までは、やはり戀にも妻にも關係のない序詞であるし、「紀の國の室の邊に」の歌(同上)の如きは、「ふかめし兒らを」「離ちけむ人し悔しも、戀ふる思へば、」といはうがために、長々しい序詞をつゞけてゐる。かういふ序詞の用ゐかたは、前章に述べた如く古事記の長い歌にもその例があるから、それに導かれたもの、それと同じ興味でせられたものであらうが、人麿などのに於いては、或は詞藻の豐かさのそれによつて示されるところに、作者の興味があつたかも知れぬ。それはともかくも、一首の主想と無關係な長い序詞は藝術品としての統一を妨げるものといはねばならぬ。また長歌のかゝる序詞は短歌に於けるものとは違つて、一首全體の情趣を(145)成りたゝせる效果は生じない。短歌に用ゐられる冠詞や序詞が主なる語の意義や一首の主想に關係の無いものである點に於いては、これと同じで、あるけれども、短歌に於ける如く、それらが一首の構成に重要なはたらきをすることが無いからである。たゞ序詞を用ゐた長歌の主想が終結の部分に於いてはじめて展開せられることは、短歌の場合と同じである。
 このことに關聯して注意せられるのは、歌によつては、長歌の最後の五句を獨立の短歌として見ることができ、それに一首の着想が凝結せられてゐるといつてもよいほどのものさへあることである。例へば妻に別れて來た人麿の歌の前のの「夏草の思ひしなえてしぬぶらむ妹が門見むなびけこの山」、後のの「ますらをと思へるわれもしきたへの衣の袖はとほりてぬれぬ」、がそれである。同じ人の「獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌」(卷二)の結末「夕霧に衣はぬれて草枕たびぬかもする逢はぬ君ゆゑ」もその例であらう。その他にも同じことのいひ得られるものはいくらもあるが、こゝには「手にまける玉もゆらゝに白妙の袖ふる見えつ相思ふらしも」、「わが戀ふる干重の一重も人知れずもとなや戀ひむいきのをにして」、「あしびきの山より出づる月まつと人にはいひて君まつわれを」、「現には君にはあはず夢にだに逢ふと見えこそ天の足り夜に」、「いはひべをいはひ掘りすゑ天地の神にぞわが祈むいたもすべなみ」、(以上卷一三)、などを擧げるにとゞめる。何れも長歌の最後の五句である。現にこの中の「あしびきの」は、「君」が「妹」と變つてゐるだけで、卷一二に短歌の一首として記されてゐるが、歌の情趣からいふと「妹」は「君」とあるべきであらう。かう考へ得られるならば、長歌のうちには實は長歌とすべき必要の無いものが少なくないといはねばならぬ。
(146) さて、これまで見て來た修辭の法は、その由來が民謠にあり、それを繼承した記紀の歌から更に繼承せられたものであつて、根本的には日本人の好尚の現はれであるが、萬葉の歌に於いては、製作歌として特殊の精練を經てゐるために、それによつて生ずる一首の全體の情趣は民謠には無いものである。特に短歌に於いては、僅か五句によつて成りたつその短い形がその精練を促がし、この情趣を養つたといつてよい。勿論、その根本は日本語の構造にあるので、それが歌としてかういふ形をとらせたのである。冠詞や序詞の上記の如き用ゐかたも、日本語によるかういふ形の短歌であるからこそ行はれるやうになつたのである。從つてこの形とそれにあてはまる種々の修辭法とによつて歌はうとする主想を表現するしかた、といふよりも展開してゆく過程といふ方がよからうが、その過程が主題に適切である場合によき歌ができるので、そこに歌の構造の音樂的旋律に似たところがある。上に調子といふ語を用ゐたのもこのためであるが、短歌がその本質として抒情的のものであることも、このことと關係があるといへよう。感情の動きには、よしそれが單純のものであつても、何ほどかの時間的の進行があるが、短歌の構造はおのづからそれを象徴することになるのである。具體的にいふと、語のつゞけかた、冠詞や序詞の置きかた、そのはたらかせかた、頭韻や音のくりかへしの用ゐかた、主想の展開のしかた、などがそれである。
 萬葉の短歌には、中間に語脈のきれめが無く、首尾を通じて一つゞきになつてゐるもの、少くとも、それに準じて見るべきものが多くあるので、かういふものでは、末の二句もしくは最後の一句が強く耳にひゞき、または初句から句を追うて漸層的に次第に力が加はつてゆき、全體の調子がそれでできてゐる。序詞を用ゐる場合にそれが第一句から第三句までを占め、主想が第四第五の兩句に至つて展開せられるものの多いこと、一般に抒情的性質をもつてゐる(147)うちでも最も抒情的である戀の歌に於いて特にさうであることも、そのためであり、またいはゆる五七兩句の一くさりを二つ重ねて終に七音の一句を加へるといふ形はそのまゝ守られながら、實際のことばのつゞけかたはそれには拘束せられず、第二第三の二句と第四第五の二句とが七五と七七とのつゞきになつてゐるものが甚だ多いのも、一つはこゝから來てゐる。上に引いた多くの戀の歌によつてもそれが知られるであらう。特殊の修辭法の用ゐてないものでも、「君がため山田の澤にゑぐつむと雪げの水に裳のすそぬれぬ」、「さをしかの朝伏す小野の草わかみかくろひかねて人に知らゆな」(以上卷一〇)、などはその例である。戀歌ならぬものにもそれは少なくないので、卷一を見ても「秋の野のみ草かりふき宿れりしうぢのみやこのかりいほし思ほゆ」(額田王)、「あごの浦に舟のりすらむをとめらの玉もの裾に潮みつらむか」(人麿)、などをはじめとしていくらもあり、冠詞を用ゐたものでは「もののふの八十うぢ川のあじろ木にいさよふ浪のゆくへ知らずも」(卷三人麿)の如きは、その典型的のものである。さうしてこゝに日本語の言語としての特殊の構造がはたらいてゐる。ことばのつゞけかたが嚴密にかうなつてゐなくとも、吟ずるときには首尾を通じて一氣に讀み下すべきものが少なくない。この場合に第三句で息をつぐことになるとしても、それは一首を一氣に讀み下すためであつて、その休止の時間は極めて短い。吟ずるときには、ことばのつゞけかたには關係なく、一般にかうなる傾向がおのづから生ずるので、一首が本三句末二句に分れるやうになるのもそのためであり、それがまた一方ではおのづから、ことばづかひに於いても第二第三の兩句をつゞけ、または第三句で語脈をきるやうにすることにもなるのであらう。第三句に置かれた名詞がその下にテニヲハをもたず、いひかたの上ではそれだけで獨立してゐるやうなもののあるのも、第三句に冠詞を用ゐることが割合に少いのも、一つはこのことといくらかの關係(148)があるのかも知れぬ。しかしすべてがさうではないので、第二句や第四句で意義のきりをつけたものもあり、ことばのつゞけかたの一樣でないところに、歌はうとすることによつて表現のしかたのちがふ意味がある。たゞ一首として調子の整つてゐるのは、中間に語脈のきれめの無いものに多いやうであつて、そこにおのづから一氣に首尾を読み下すことと相應ずるところがある。
 もつとも序詞を用ゐたものは、その序詞の性質が、上文に述べた如く、主想を表現するために用ゐられた或る一語もしくはその語の音にのみかゝるものであるから、意義の上に於いては主想そのものとの關係が薄く、或は殆ど無い場合が多い。また例へぼ「みさごゐる磯みに生ふる名のりその名はのらしてよ親は知るとも」(卷三赤人)、「百つみの舟こぎ入るゝやうらさし母は問ふともその名はのらじ」(卷一一)、の序詞の如く、主想の強い語調に對してあまりにもよそ/\しく、それとこれとは甚だしく不調和な感じがするものがある。かういふものに於いては、一首全體としての調子が整つてゐないやうに考へられるが、序詞を用ゐることが盛に行はれたのを見ると、萬葉の歌人はさうは感じなかつたらしく、さうしてそれは、一首としては末句に至つて主想の展開せられることに重點を置き、序詞はただそれを導き出すもの、從つて輕い意味をもつものと見、かういふ輕いものから主想を導き出してゆくところに一首の調子を求めたからであらう。萬葉の編者が「譬喩歌」または「寄物陳思」として編纂したものには、一首全體が譬喩になつてゐるものと、序詞を用ゐたものと、性質の違つた二種の歌があり、この二つが同じやうに取扱はれてゐることから考へると、この推測は當らぬやうでもあるが、この編纂法は、序詞に譬喩の性質のあるものがあるためのことであらう。譬喩歌の作られたのも、譬喩の性質のある序詞の用ゐられたのも、共に具體的の事物を借りて單純な感(149)情を表現しようとしたからである。たゞ譬喩歌では暗示的な表現法をとるのに、序詞を用ゐるものでは却つて直截に主想を表出する違ひはあるけれども、萬葉の歌人も編者も、かういふ區別のあることを深く考へなかつたのであらう。
 ところで、かういふ歌は單純な感情を單純に表現したものであつて、萬葉の歌の特色は、こゝにあるといつてもよからうが、しかしまたいひかたが巧みであつて、かなり複雜な内容を含んだものもある。「生きてあらば見まくも知らに何しかも死なむよ妹と夢に見えつる」(卷四坂上大娘)、「橘の下にわれ立ち下枝とりならむや君と問ひし兒らはも」、「誰そ彼はと問はゞ答へむすべをなみ君が使を歸しつるかも」(卷一一)、「浪高しいかに楫とり水とりのうきねやすべきなほやこぐべき」(卷七)、などの對話の用ゐかた、「卯の花の散らまく惜しみほとゝぎす野に出山に入り來なきどよもす」(卷一〇)の敍述のしかた、「淡海の海夕浪千鳥ながなけば心もしぬにいにしへおもほゆ」(卷三人麿)、「五月山卯の花月夜ほとゝぎす聞けどもあかずまた鳴かむかも」(卷一〇)、の如く、名詞を重ねるいひかた、などにそれが見える。「梅の花さきて散りなば吾妹子を來むか來じかとわがまつの木ぞ」(卷一〇)、「吾妹子にまたもあふみのやすの河やすいもねずに戀びわたるかも」(卷一二)のいひかけ、「しきたへの枕ゆくゝる涙にぞうきねをしける戀のしげきに」(卷四駿河※[女+采]女)の後世風の誇張した表現法の僅かながら生じてゐることも、これと關聯して考へらるべきであらう。
 以上は短歌についての考察であるが、單調なリヅムの機械的な反覆によつて多くの語をつらねてゆく長歌には、短歌に於ける如き旋律的な調子が無いので、冠詞や序詞を用ゐても單なる裝飾に過ぎず、または過度にそれを用ゐて思想のはこび感情の動きを混雜させたり弱めたりすることが少なくないし、句を對?にするやうな修辭的技巧も、却つ(150)て敍述を平板にし散文化する場合が多い。從つてかういふ特殊の裝飾を施すこと技巧を用ゐることの少い長歌に、却つて歌として誦すべきものがあるので、卷一三の相聞の部の「わがせこは待てど來まさず」にはじまる一首の如きは、その最も優れたものの一つであらう。人をまつ心が時間の經過とそれに伴ふ風物の變化とにつれて移りゆくその動きが切實に歌はれてゐる。卷五に幾首か見えてゐる憶良の作の如きも、技巧の少い點に於いてはその例であるが、しかし「哀世間難住歌」に於いて「をとめらがをとめさびすと」に始まる部分と次の「ますらをのをとこさびすと」から後のとは、またこの後の方のうちで「劍太刀腰にとりはき」といひ出してあるところと「をとめらがさなす板戸を」に始まるところとは、かなり情趣の違つたものであるのに、何れも同じリヅムで同じやうないひかたをしてゐるため、その變化が歌の上に現はれてゐないといふやうに、一首の構成及びその根柢にある主想とその表現法との間に調和の缺けてゐる憾みがある。これは一つは、五七兩句の一くさりを同じやうにいつまでもつないでゆく長歌の形の故である。五音と七音とを用ゐるにしても短歌の如く七五や七七のつゞけかたをすることが(結末に七音の一句を加へることの外には)できないやうに定められてゐること、短かく段落をつけ章節を分けることによつてかういふ形を變へてゆく方法の考へられなかつたことの故である。貧窮問答歌の如き、一面に於いて世相に對する感懷が歌はれてゐながら、他面に於いて多分の滑稽味を帶びてゐるものも、戀男子名古日歌の如き、子を思ふ情のひたすらに切なるものも、みな同じ形であり而も句數の多い長篇であるところに、長歌としては免れがたい上記の不調和の生じた理由がある。人麿の妻死之後泣血哀慟作歌(卷二)の第一首の後半の「わが戀ふる」以下の如く、修辭的技巧を殆ど用ゐずして率直に衷情を詠じたものは、その點に於いて憶良の作と似てゐて、惻々として人を動かすものがあるが、それ(151)が技巧を多く用ゐてあるその前半と同じ形で一つゞきになつてゐるところに、やはり上記の不調和がある。長歌に情趣の饒かなものの少いのは、主としてこゝから來てゐるのではあるまいか。この點から見ると、上に擧げた卷一三の相聞の歌の一首が優れてゐるのは、それが比較的短篇だからでもあらう。この一首に限らず、概していふと、感興の深い長歌は短篇のものに多いやうである。長歌は、既に述べた如く、最後の數句に至つて主想が力強く表現せられるところに、歌としての生命があるが、それは短歌の形によつて表現し得られるものである。一首としての長歌よりも、獨立の短歌とも見なし得る場合の多いその結末の數句、もしくはそれに添加せられた反歌に、感興の集められるのも、同じ理由からであらう。萬葉の歌の精粹は長歌ではなくして短歌である。上記の如き長歌の形がいつまでも守られ、それを變改しようといふ考の起らなかつたのも、感情の表出としては短歌といふ適切な形があるからのことではなかつたらうか。長歌はむしろ智巧的のものであつて、その點から見ると、人麿の作の如く過度に修辭的技巧を用ゐることの行はれたのも、理由の無いことではない。長歌の製作にシナの詩賦の外形から學ばれたところがあるとすれば、これは當然であらう。
 たゞ長歌のうちには、幾分の敍事的要素を含んでゐるもの、例へば高市皇子尊城上殯宮之時作歌(卷二人麿)、詠水江浦島子歌、見菟原處女墓歌(以上卷九)、または竹取翁の歌などがあり、自然界の光景を敍したもの、例へば詠不盡山歌(卷三)、悲寧樂故郷作歌(卷六)、などの類もあるので、それらは短歌では詠み得られない内容をもつものである。しかしその敍述が、一方では五七兩句の一くさりを反覆するといふ形式上の規律を除けば殆ど散文的であり、それに施されてゐる修辭的技巧も散文に於いて用ゐ得られるものであると共に、他方ではそれが抒情的空氣につゝまれ(152)てゐて、全體としてのその情趣は必しもかゝる敍述によるを要せず、短歌によつて表現し得られるもののやうである。これについては、琴の化した娘子との唱和、松浦河の蓬客仙媛贈答の歌(共に卷五旅人)、また上にいつた竹取の翁の歌に於いて、物語の主要部分が漢文になつてゐることを注意すべきである。敍事詩ならばこの漢文の部分が歌の形によつて敍せらるべきであるのを、さうしてないのは、歌を抒情的のものとして考へてゐたからのことであらう。もつとも菟原處女の物語が粉本となつて作られたらしい櫻兒縵兒の話(卷一六)が漢文で書かれてゐて、それが甚だ粗笨なものであり、菟原處女の墓を見ると題した長歌(卷九)の生彩のあるのに比べると、遙かに劣つてゐるやうな例もあるが、これには作者の故もあらう。そこに記されてゐる短歌が話そのものにふさはしくないことも、考へらるべきである(この短歌は別に作られてゐたのをこの話にあてはめたものではなからうか)。菟原處女の墓を見るといふ歌は、長歌としては優れたものの一つであつて、戀爭ひをした二人の壯士の強烈なる感情の表現と行動の描寫とは、他に類がないといつてもよからうから、それは特殊のものだとしても、全體に長歌が、國語で詠まれてゐる點に於いて、漢文の敍述よりもそのことがらに切實であることは、いふまでもないが、しかしその多くは、歌としては情趣が饒かであるとはいはれぬ。
 
 さて、萬葉の歌は何のために作られたのであるか。集中に多いのは「相聞」の歌であるが、それはそのをり/\の實感を陳べて相思の人に示さうとするところから作り習はされたものであり、贈答として記されてゐるものの少なくないのも、事實、さういふ風習があつたからであらう。これは短歌に多いが、長歌にも無いことはなく、大伴坂上郎(153)女の怨恨歌(卷四)のやうなものがその例である。しかし上にも考へておいた如く、そのうちで主要な地位を占めてゐる兩性間の戀の歌には、歌人の詩的感興、藝術的創作欲、から出た想像の所産が多い。贈答または問答の歌として記してあるものにも、またそれがあるらしく、例へば卷一一と卷一二とに見えるものは、この二卷の歌が既に述べた如く逸名の歌人の作であるべきことから推して、この例と考へられる。そのうちには歌の内容が問答としてふさはしからぬものもあるが、これは編者が強ひてかう組合はせたからのことと解せられよう。卷一三のにもまたそれがあるので、例へば「こもりくの泊瀬の國に」と「こもりくの泊瀬小國に」とにはじまる二首の長歌は、このいひ出しの句が何れも「さよばひ」に來た男それを迎へる女の詠んだものとしてはふさはしからぬいひかたであるのと、二首の内容が問答としては互に齟齬してゐるのと、また前の方のに雪と雨とが同時にふつてゐることになつてゐるのと、上に考へたことがある如く後の方のの反歌の作者が別にあるのと、これらの理由によつて、やはり逸名の歌人の想像から出たものであることが知られる。懷古の歌とか自然の風物を詠じたものとかも、また同樣であつて、必しも或る人の或る場合に於ける實感をのべたものには限らないであらう。挽歌の如きはこれとは趣を異にするところがあるが、それにしても長歌の形をもつものの如きは、その製作に當つては、やはり一つの藝術品として取扱はれたと考へられる。半ば儀禮的の意味をもつ侍宴應詔の作、または何等かの場合に於ける皇室讃美の歌なども、またこの類であらう。物語を題材としたもの、もしくは新しく物語として作られたものに至つては、なほさらである。要するに、萬葉の歌は短歌も長歌も詩人としての歌人の藝術的作品である。或る場合の實感を詠じたものにしても、その製作に當つては、作者は一種の臨時の詩人であつたと見られるが、これは萬葉の歌が抒情詩だからであり、さうしてそれにはその中心(154)となつてゐるもの、或はその製作を誘ひ出したものが、戀歌であることと關係がある。戀は何人をも詩人化するからである。シナの詩集に倣つて歌集の編纂せられたのも、歌がかういふ藝術品とせられたからのことと考へられる。
 萬葉の歌人が歌を抒情的のものと考へてゐたことは、敍事的要素を含んでゐる長歌について上に述べたところからも知られる。浦島の子の歌にも仙女のおもわは描かれてゐないし、菟原處女を詠じてもその容姿などを寫してはゐない。容姿については、上總の珠名の娘子を「胸わけの廣きわぎも、腰ぼそのすがる娘子、」といひ、勝鹿の眞間の娘子を「麻衣に青衿つけ、ひたさ麻を裳には織りたて、髪だにもかきは梳らず、履をだにはかず行けども、」といひ、またはおのが思ひ妻を「みなのわたか黒き髪に、まゆふもてあざね結ひ垂れ、大和の黄楊の小櫛を、おさへさすしきたへの子、」といふのが目につくぐらゐである。竹取の翁の歌にはもつと細かい敍述があるが、全體が滑稽的に取扱はれてゐるから、却つて興趣が薄い。憶良の貧窮問答歌に概念的ながら貧者の生活が敍してあり、上にいつた如く菟原處女と爭つた二壯士の行動が描寫せられてゐるのは、珍らしい例とすべきであらう。自然界の風光を詠じたものでも、この點はほゞ同樣であるので、その風光を敍述するための歌ですら、こまかにそれを寫すことはしない。吉野の宮でも久邇の京でも見るところがほゞ同じであり、どこの海でもどこの浦でも同じ眺めの喜ばれてゐるのも、一つはこのためである。かういふ態度であるから、現實から離れた空想のはたらきは殆ど見ることができない。浦島の子の歌にも仙郷の光景は描かれてゐないし、七夕を詠じても天上の物語が大和の土地にひきおろされてゐる(第五章參照)。或はまた神に祈ることはしば/\歌はれてゐるが、神のはたらくありさまは寫されてゐない。「天地の大御神たち、大和の大國魂、久方の天のみ空ゆ、天かけり見わたし給ひ、」(卷五好去好來歌憶良)といふのが珍らしいくらゐである(155)が、これとても大祓の祝詞の敍述とほゞ同じ程度のものである。神代の物語には詩材とすべきものが少なくないが、それを取扱つて新しい展開を試ることもせられず、二神の滄海をかきなした話や日の神の岩戸がくれの物語は、歌人の因襲的題材に縁が遠いとしても、「あきつ島やまとの國を、天雲に磐船うかべ、艫に舳にまかひしゞぬき、いこぎつつ國見しせして、天もりまし……」(卷一九家持)が皇孫の天降りを敍した唯一のものであるのは、甚だ心細い。神代の物語そのものが敍事の點に於いて光彩の乏しいものであり、さうしてそれは、敍事詩を生み出さなかつたわれわれの民族に敍事詩人が現はれず、從つて作者が詩人でなかつたからであらうといふことを、前章で考へておいたが、萬葉の歌人のこの態度もそれに由來があると共に、彼等がもと/\抒情詩人であつたといふことも考慮せらるべきであらう。たゞそれでありながらイナダ姫やコノハナサクヤ姫やトヨタマ姫の説話を顧みなかつたところに、やはり空想のはたらきの發達してゐなかつた形迹が見られようか。菟原處女の説話は喜ばれたが説話そのものに新解釋を加へることはせられず、「後の代の聞きつぐ人も、いや遠にしぬぴにせよと、つげ小櫛しかさしけらし、生ひてなびけり、」(卷一九追和處女墓歌家持)に纔かに新賦彩の見えるのみであることが參考せられよう。
 以上は長歌に於いてのことであるが、短歌ではなほさらであるので、戀人のすがたを想見する詠は少なくないが、それを敍してあるものは極めて稀である。女に赤裳すそを聯想したものは幾首もあるが、その他には「ふりわけの髪を短かみ春草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ」、「いにしへのしづはた帶を結びたれ誰とふ人も君にはまさじ」、「ともし火のかげにかゞよふうつせみの妹がゑまひしおもかげに見ゆ」(以上卷一一)などが、その稀な例のうちの二三である。かういふことを敍するよりは、わが心情を述べるところに歌の興味が置かれたのである。自然界の風光に對して(156)も同樣であつて、花鳥の色をも音をも精細に寫すことはせず、山水の姿も空ゆく雲のたゝずまひ波たつ海のながめも、そのものそのさまを敍するよりは、それに對する作者の感懷を述べるのが主であつた。四季に分類せられた卷々の雜歌のうちに相聞の歌とすべきものが含まれてゐるのも、そのためであつて、雜歌そのものが多くは抒情的のものだからである。目にみ耳にきく外界のありさまをそのまゝに寫さうとしても、その目その耳に作者の氣分が籠つてゐるから、いかなる光景もその氣分につゝまれ、或はそれによつて選擇せられ構成せられてゐるのであるが、萬葉の歌人はさういふ態度ではなく、初から自己の情思を表出しようとしたのである。少しく趣は違ふが、宮殿樓閣や寺院堂塔の美しさを詠んだ歌の無いのも、このことと幾らかの關係はあらう。シナ傳來の工藝品を珍重し愛用しながら、見る目に映ずるその華麗のさまを賞でた歌の無いのも、同樣である。かういふ歌を作るには或る程度の敍述の必要であることが考へられるからである。要するに萬葉の歌は抒情の歌である。
 しかし萬葉の歌人の情思は單純である。從つて個人的特色が少い。戀の歌に於いては、後章でいふやうに、兩性間の交渉のあらゆる場合が詠まれてゐるので、後世の題詠のそのさま/”\の主題が殆どみなそれに含まれてゐるといつてもよいほどであるが、さういふ主題を取扱ふ態度はどの作者でも同じである。妻どひといふ一般の風習から生じた戀歌であるから、これは當然である。自然界に對する感懷とてもまた同樣であるので、これは同じやうな光景を同じやうに見てゐるところから來てゐよう。その根本は、第一章に述べた如く、當時の生活、當時の文化が、人に強い個性を養はせるほどになつてゐなかつたところにあらうが、歌に關してはかう考へられる。專門歌人の作と臨時の詩人たる作者のそれとの間に、歌としての價値の高下の殆ど認められないのも、この故であり、專門歌人に於いてもその(157)作品のちがひは、それに表現せられてゐる思想なり感情なりにあるのではなくして、技巧に於いてであるのも、こゝに一つの理由があらう。數多い戀歌の如きが殆ど千篇一律ともいふべきものであるのも、またそれがためである。のみならず、種々の修辭的技巧や用語またはいひかたさへも同じである場合が少なくない。短歌に於いては一首の中の一句二句もしくは三句が他の歌と全く同じであることもあるので、例へば卷一一を通讀すればかういふものがすぐに見つけられる。これには、本來一つの歌であつたものが傳誦の間に少しづつ變つて來たのを別の歌として記してある場合、記憶してゐた或る歌の語句が知らず/\作中に現はれて來た場合、などもあらうが、歌はうとする情思が同じであるために、おのづから同じ語句が用ゐられた場合もあらう。語句は同じでなくとも、同じはたらきをする同じ性質の序詞が多く用ゐられてゐるのも、同じことである。長歌に於いても同じやうな語句はしば/\用ゐられてゐるので、それには日常の對話に常に用ゐられてゐるものをそのまゝあてはめたために生じた場合もあらうが、また句を對  縄にする修辭法のためにおのづからさうなつた場合もあらう。何れにしても、多くの歌には同じやうなことが同じやうにいはれてゐるので、萬葉の二十卷をその全體から見ると、甚だ單調な感じがする。
 
(158)   第四章 文學の概觀 下
       平安朝初期の文學
 
 前二章に述べて來たことは、記紀が書きつゞられ、風土記が作られ、懷風藻、萬葉集の編纂せられた時代の文學の概觀であるが、懷風藻は天平勝寶三年の編であり、また萬葉の歌で明かに時代の判るものは天平寶字三年の家持の作が最終のである。從つてそのころから平安朝の初までの文學の樣子は、今からは明かにわからぬ。だから歌については、この間が沈衰期であつたやうに見る説さへある。この説が必しも當つてゐないといふことは後に述べようと思ふが、漢詩については有名な石上宅嗣もあり淡海三船もある。完本が傳はつてゐないからよく判らないが、經國集に採られたこの時代の作者の作も幾らかはあつたらう。文章生の對策も斷えず行はれたらうし、續紀に見える詔勅の筆者もあつたに違ひないから、懷風藻時代と同じ程度には漢詩も作られてゐたであらう。延暦の初に儒教の禮として郊祀さへ行はれたことを考へると、平安朝初期の漢文學の隆盛は決して突然起つた現象ではない。要するに漢文學の尊重は間斷なく引きつゞいてゐる。たゞ國民の生活を表現するものでなく、異民族の文學をその異民族の言語の表徴たる文字のみによつて摸作する一種の遊戯に過ぎない漢文學が、時によつてその流行に盛衰があり弛張があるのは自然の勢であつて、何か強い刺戟をうけた時には流行するが、その代り厭きも來るし、時の事情で沈滯することもあらう。ところが平安朝に入つてから、新都の造營と共に政府にある貴族輩の意氣も昂り、すべてについて今までよりも一層シナめかさうといふ風潮が現はれて來ると、漢文學もそれにつれて更に流行の勢が強まつて來る。特に朝廷を中心と(159)してゐる貴族社會のことであるから、漢詩を好んでそれを作られた嵯峨天皇の時代に、漢文學が隆盛になつたのは當然である。賀陽豐年、小野岑守、良岑安世、菅原清公、滋野貞主、桑原腹赤、等の作者が一時に輩出し、方外の人たる空海も縱横の才氣を以てその間に馳驅してゐたのが弘仁前後の状態で、凌雲集、文華秀麗集、經國集、にその作品が纂められてゐる。しかしどれだけ流行したにせよ、それが上流社會と都人士との間の少數人に限られ、その上、彼等とても彼等みづからの情生活からは遊離してゐる知識的遊戯としてそれを取扱つてゐることは、前の時代と同樣である。これは詩集を見てもすぐわかる。
 凌雲集の作者は二十三人、文華秀麗集のは二十六人であるが、その大部分は同じ人である。經國集は慶雲四年から天長四載までといふ、長年月間の作を集めたものであるから、作者も百七十八人といふ數に上つて居るが(もつともこの中で詩の作者は一小部分に過ぎぬ。現存の殘缺本では明かにはわからぬが、文章のみの作家が割合に多からう)、平安朝になつてからの名を見ると、前の二集とあまり變りは無い。天長五年閏三月、南池行幸の時に詩を獻じた者二十三人(類聚國史)、その七年九月、清原夏野の山莊に行幸の際には詞客三十人を選ぶ(同上)とある。嘉祥二年五月、神泉苑行幸の時の作者は十四人(續後紀卷一九)であるが、仁壽二年正月の内宴には席に預る者數人に過ぎず(文徳實録卷四)と見える。これらは必ずしも作者といはれるほどの作者ばかりではあるまいが、さういふ人々を集めてすらも、詩を作り得るものはかくの如く極めて少數であつた。後世に傳はるほどの作者が一層少數であつたのは當然である。これらは漢詩がどこまでも貴族的であることを示すと共に、また異國の語による詩を摸作する能力をもつものが少數に限られることを證するものである。
(160) 詩そのものがシナの詞の模倣であることは勿論であつて、これも懷風藻時代と同じである。凌雲集以後の詩は、懷風藻時代の五言とは違つて七言が多いが、これも、平安朝人の趣味が奈良朝時代と變つて來たのではなく、たゞ唐代の新樣が學ばれたに過ぎぬ。主題について見ても、樂府をまねれば王昭君であり梅花落である。詠史といへば張子房であり漢高祖であり司馬遷である。實景の敍述であるべきものにも「河陽亭子經數宿、月夜松風惱旅人、雖聽山猿助客叫、誰能不憶帝京春、」(凌雲集嵯峨天皇)といひ、「故關折罷人煙稀、古?荒涼餘楊柳、春到尚開舊時色、看過行客幾回久、」(文華秀麗集藤原冬嗣)といふやうにシナめかす。「看宮人翫扇」(經國集卷一四錦彦公)の宮人は昭陽殿裡の人であり、「漁家」(同上嵯峨天皇)の漁夫は宇治河や難波の浦に見るべきものではない。櫻花を詠じても(凌雲集平城天皇、經國集陽豐年)、櫻のおもかげは見えぬ。すべて唐人の詞藻を學び多く成語を用ゐるのであるから、如何なる事物を詠ずるにしても、自然にシナめくのが當然であるのに、文筆の士は固有名詞をさへシナ式に書き改めて喜んでゐるほどであるから、故らにシナめかさうとして心にも無い文字を並べるのが彼等の得意とするところであつた。だから早春田園(凌雲集淡海福良)の如く、俸禄に衣食しながら五柳先生のやうなかほをし、秋雲篇(輕國集卷一四惟宗春道)のやうに、柴達を夢みながら赤松子に從つて遊んだやうなことをいふ。櫻を詠んでさへ桃の詩かと思はれるものを作つてゐる(凌雲集小野岑守)。
 漢詩が作者の内生活の表現としてではなく、單に知識的の技藝として作られたことはいふまでもない。和歌に於いては僅々三十一音の極めて短い詩形を喜んだ邦人が、漢詩に於いては唐詩を知るやうになつてからも絶句の作が甚だ少く、殆どみな律詩や古詩やまたは賦の形を學んでゐたのも、彼等みづから漢詩が自己の感情をさながらに歌ひ出す(161)ものではなく文字上の技巧を弄ぶものと見てゐたからであらう。かの經國集の名を見ても、その序文を讀んでも、その模範が漢魏六朝にあつたことが察せられる。文章に於いて四六文が盛にもてはやされ、駢儷の體でなくては文章でないと考へられたのも、同じ思潮のあらはれである。四六文は詩とほゞ同樣に見られてゐたが、文章として何時までもかういふものを作ることが學ばれたのは、漢文が自己の生活の表現ではなくして文字上の技巧を弄ぶものであつたからであり、そこに詩と同視せられた理由がある。初めて我國にシナ風の修辭論を紹介したといふべき空海の文鏡秘府論に、??補綴が作文の本意でないとやうに説いてあるのも、たゞ唐人の口まねに過ぎぬ。本來わが國語でない漢語で文を綴るのであるから、一般の作者には屬文の際に、思想よりも文字が先に立つのは自然である。特に詩に至つては、文字のみを學んで言語を解せず聲調の點に於いて全く感覺を缺いて居る日本人の作であるから、たゞ法則により模範によつて作るより外に途はない。自己の感情の表現は初から望むべからざることである。文鏡秘府論に説いてあるやうな煩瑣な法則は、少くとも律語詩についてはシナ人にも必要ではあらうが、我が國民には一層必要である。空海も本場じこみの新知識で、わが國從來の詩文が法則に外れてゐるのを見て、眞の詩文にはこんな法則があるぞと教へるつもりであつたらう。その法則に目をつけるところが、空海の詩人でも藝術家でもない所以であるが、日本人の詩を作るには法則から入らなければならないのは事實であつた。漢詩は到底知識的技巧的のものである。
 
 しかし、人には情がある。その情の最も強烈なものは兩性の戀であるが、これは知識を以て抑制することができず、技巧本位な漢詩を以て表現することはできない。そのためには和歌がなくてはならぬ。だから、萬葉の後にも歌は依(162)然として行はれてゐたと見なければならぬ。しかし、これについては幾分の説明を要する。
 古今集に名の現はれてゐる平安朝の歌人で最も古いのは小野篁で、名高い「わだの原八十島かけて」の歌は承和五年の作であらう。萬葉の歌の作られた最後の年らしい天平寶字三年からこの年までは約八十年の隔りがある。奈良朝の末から平安朝の初にかけて和歌が沈衰したといふ通説はこゝから來てゐる。しかし延暦四年まで生きてゐた家持がその晩年に歌をすてたとは思はれぬ。筑紫に陸奧に東西に歴任し、或は罪に坐して官を免ぜられたことさへあつた彼には、西海の風波と東國の山野と、さては身の浮沈とから得た幾多の篇什が、萬葉に見える越中時代の作より多かつたかも知れぬ。たゞそれが後に傳はらないのは、歿後二十餘日、その骸未だ葬られざるに名除かれ諸子配流せらるといふ變事があつて、歌稿が散逸したためではなからうか。また萬葉の或る部分が家持の手録であるとして、それから恣な臆測をするならば、第二の萬葉が晩年の彼の手によつて編まれてゐたのではないかときへ思はれる。既に歌人家持がある。同時代に幾人かの作者が無かつたはずはない。奈良朝末の歌の知られないのは、歌人とその作品とが無かつたためではなくして、たゞ後世に傳はらないからではあるまいか。平安遷都の後にも和歌は宮廷の間にすら忘られはしなかつた。宮中賜宴の時の桓武天皇の御製は史上に幾首か遺つてゐる。大同弘仁の時代にも同じ場合の作があつて、中には平城天皇と漢學好きの皇太弟(嵯峨天皇)との唱和もあり(類聚國史大同二年九月乙巳の條)、作者に平群賀是麿(同上大同三年九月戊戌の條)、藤原園人(後紀弘仁四年四月甲辰の條)の名も見える。儀式ばつた宮廷の饗宴にすら歌が詠ぜられたのであるから、一般にもその作が無かつたとはいはれぬ。丹後風土記に見える浦島の子の物語の歌も、雄略朝から後三百餘歳とあることから考へると、多分このころの作であらう(そのうちの一首は古事記の(163)仁徳天皇の卷にあるものの作りかへであるが)。特に專門歌人ならぬ作者の作の多かつた戀歌が、妻どひの風習にも何の變化の起らなかつた平安朝の初に至つて、急に消滅したとするのは、餘りにも不合理である。弘仁の世はやがて篁のゐた時代に接續するが、篁の作は古今集に見えてゐて「身のならむ淵瀬も知らず」と戀にあこがれ、「數ならばかからましやは」と身を歎いてゐるではないか。篁についでは絶代の戀愛詩人在原業平があり、これより踵をついで幾多の歌人が起つたのである。平安朝の初期に和歌が甚しく沈衰したといふ通説は信じ難い。むしろ前にも後にも盛に作られた和歌の精粹ともいふべき戀歌は、この時代にも決して衰へなかつたと見るべきであらう。たゞ宮廷を中心として上流社會に漢詩が重んぜられた時だけに、才人が多くそれに趨いたので、彼等の間に專門歌人が出なかつた。從つてまた歌集が編纂せられなかつた。これがために當時の和歌は悉く散逸して今に傳はらないけれども、歌の作が幾十年かの間、殆ど中絶したやうに考へるのは事實の眞を得たものではあるまい。
 しかし、この時に至つて殆ど摩滅したといつてもよいのは長歌である。嘉祥二年三月、興福寺の僧徒が長歌を奉つたことがあるが、續後紀の編者は特に批評を加へて「夫倭歌之體、比興爲先、感動人情、最在茲矣、季世陵遲、斯道已墜、今至僧中、頗存古語、可謂禮失則求之於野、故採而載之、」といつてゐる(續後紀卷一九)。長歌は本來、知識的の遊戯として技巧を誇るために、少數人士の間に行はれたものに過ぎないから、一はやり流行つた後にあきが來るのは怪しむに足らぬ。さうして、それよりも技巧を弄ぶ餘地が多く、もつと知識的で、しかもその模範になつた漢語の詩賦が、新しい勢で流行するやうになれば、才人が多くその方に走つて長歌が行はれなくなるのは當然である。長歌の作られたことがそも/\一時的の流行であつた。流行の變遷につれて、從來ならば長歌を作つたものが、轉じて(164)漢詩に趨いたのに不思議はない。どちらにしても實生活とはかゝはりの少い遊戯であつた。
 さてこの時代の歌風はといふと、概していふと萬葉時代のひきつゞきである。「梅の花戀ひつゝをればふる雪を花かも散ると思ひけるかも」、「このころのしぐれの雨に菊のはな散りぞしぬべきあたらその香を」(逸史桓武天皇)、「折る人の心のまゝに藤袴うべ色深く匂ひたりけり」(同上平城天皇)、「宮人のその香にめづる藤袴君のおほもの手折りたるけふ」(同上嵯峨天皇)、などはもとより、有名な「七つぎの御代にまわへる育ちまり十の翁の※[人偏+舞]たてまつる」、「翁とてわびやはをらむ草も木も榮ゆる時にいでて※[人偏+舞]ひてむ」(續後紀尾張濱主)、など、何れもさうであり、丹後風土記の上にいつた歌の「常世べに雲たちわたる水の江の浦島の子がこともちわたる」なども同樣である。讀人知らずの名で古今集に入れてある中に、これらに似た古風のものがあることは誰でも知つてゐるが、やはり同じ時代のものであらう。しかしその古今集中の小野篁などの歌の姿が、これらとはよほど變つてゐるのを見ると、天長承和ころにはもう既に新しい氣蓮が動きかゝつてゐることが知られる。この氣運に乘じて現はれるのが遍昭業平などの新歌人である。が、それは次の時代に讓つて、この篇では、和歌の形式がほゞ成り立つた時から、萬葉の花の盛を中心として、その風體のはゞ保たれてゐる天長承和ころまでの約二百五十年間を、一つの時期として見ようとするのである。
 
(165)       第五章 シナ思想及び佛教思想
 
 我が國の文化がシナの文物を學ぶことによつて發達し、大化以後の政治上の制度に唐制を摸倣することによつて形づくられた部面が多く、シナ人に特殊な心生活の表現であるシナ語の表徴としてのシナの文字を用ゐ、公式の文書さへその大部分がいはゆる漢文で書かれ、歌とてもシナの文學の刺戟をうけたところが少なくないことを思ふと、我が國の知識人の思想に於いて、シナ思想の關與するところが大きかつたことは、おのづから知られよう。しかしそのシナ思想の如何なるものが、日本人の心生活の如何なる方面に、また如何なる状態で、はたらいたかについては、細密なる研究を要する。しかし今こゝではそれを詳説する餘裕が無いから、纔かにその概觀を述べるに止めねばならぬ。たゞ文學の上に現はれてゐるものを考へるのが主なるしごとではあるが、それに關聯したこととして、またはその一般的背景として、文學と直接の關係の無いことにも言及する場合があらう。
 
 シナ思想といへば、何よりも先づ儒教思想の思ひ浮かべられるのが常であるが、文學に現はれてゐるもの、また時代から見て比較的早期に日本人の間に傳へられたものは、それよりもむしろ別の方面のである。しかしこゝでは先づ一應儒教思想について考へてみる。儒教は道徳及び政治の教であるが、その一般的規範としての仁義禮智の語は、この規範を體得した境界を示す徳の語と共に、聖徳太子の定めた冠位の名稱に用ゐられてゐるから、太子の時代にかういふ知識のあつたことはわかる。次にその道徳は、實踐的には、父子の關係によつて代表せられる家族間のそれと君(166)臣間のそれとが主になつてゐる。さうしてそれは先王の定めたもの、帝王の教化によつて行はれるものであつて、その教化の具として、或は道徳の具體的表現として、禮が重んぜられるが、禮は秩序の表示である。聖徳太子に假託せられてはゐるが、實は大化以後の作であらうと解せられる十七條の憲法に、君父に順ふことをいひ、禮の重んずべきことをいつてあること、またそれが攝政の地位にあつた聖徳太子の訓令の形で示されてゐるところに、この儒教道徳の思想が現はれてゐる。なほこの教化思想は令の制度にも用ゐてあるので、儒教道徳の思想を以て民を教化することが地方官の職掌として定められてゐるし、時々の詔勅にも道徳を説き禮を説いた文字が見え、皇太子が五節の舞を舞はれたことについて、禮樂は君臣祖子の理を教へるものであるといふことさへいはれてゐる(天平十五年の宣命)。或はまた「宜令天下家藏孝經一本精勤誦習」といふ詔命が發せられ(天平寶字元年)、孝謙天皇の譲位は皇太后に對する孝養のためとさへせられてゐる(同二年宣命)。
 次に儒教の政治思想は君主を本位としたものであり、君主が民を治める道をいふのがその根本であつて、その道は一言で要約すれば、仁政を行ふことであるが、これもまた憲法に明記せられてゐる。たゞそれを君に仕へて民に臨むものとしての臣の任務として説いてあるが、これは官僚に訓示する形を有する憲法の性質から來たことであり、皇室と朝廷の官僚との關係を儒教思想の君臣と見てのことである。ところで、かういふ儒教の政治思想は神代の物語にはどこにも現はれてゐない。たゞ古事記によつて後に傳へられた舊辭には、仁徳天皇を堯舜の如く仁政を行つた聖天子としてある點に、それが見えてゐるが、この話は初めて書かれた舊辭には無く、多分大化のころより後になつて構想せられ添加せられたものであらう。書紀では一層それが修飾せられ誇張せられてゐる。それを仁徳天皇のこととした(167)のは、そのすぐ前の應神朝に儒教の典籍が傳來したやうになつてゐるからであるらしい。(嚴密にいふと、これには、天子がその生活を儉素にしたといふ、本來の儒教思想でない分子が含まれてゐるが、漢代以後の儒教ではこの思想がとり入れてある。)さうして書紀には、かゝる仁君に對立するものとして、桀紂に似た暴君虐主があつたやうに構想せられ、血統の斷えた武烈天皇にそれがあてられた。儒教の政治思想に於いては、民衆の生活を安全にするための仁政を行ふことが天子の責任であつて、もしそれに背いた政をすれば、それは不徳の天子であり、さういふ天子があればその王朝は滅びる、とせられてゐるので、そこにいはゆる革命の思想、即ち王位は天の命によつて王たる徳のあるものに與へられたものであり、もし王にその徳が無けれぼ天の命が革まつて徳のある別の人に王位が與へられるといふ考、が成立つのであるが、皇室の永久性の信ぜられてゐる我が國では、血統の斷えたことによつてそれが示されたとしたのである。これが儒教の政治思想道徳思想の盛られてゐるシナの典籍の辭句を到るところに借り用ゐ、それによつて種々の記事を構成した書紀の編者のしわざであつて、仁徳天皇のには堯舜に關する、武列天皇のには桀紂に關する、説話の記されてゐる種々の典籍の文字をそのまゝあてはめたのである。(書紀では武烈天皇が暴君であると共に英主であることにもなつてゐるが、これは別の時期に構想せられたことがつなぎ合はされたからであらう。)懷風藻の序文に天智天皇を受命の君といつてあるのも、上記の天命説によつたものであるが、公式の宣命に、天地の心を畏み思ふとか天地の授ける位とか、いふやうな語のあるのも、またそれから來たことであり、皇太子の位は天の授けるものだといふことさへいはれてゐる。これらは、やはりたび/\の宣命に於いて力強くいはれてゐるのみならず神代の物語の根本精神である、皇位を皇祖から傳へられたものとする思想とは、矛盾するものであるが、そのことには注(168)意せられなかつたらしい。これはシナの政治思想を眞に理解せず、たゞ文字の上の知識としてそれを學んだに過ぎないものだからのことであらう。
 ところが、陰陽説が儒教に取入れられた漢代以後には、陰陽を調和させる責任が天子にあることになつて、もしその不調和のために水旱またはその他の災異が生じ、それによつて民衆の生活が傷けられることがあれば、それは天子の不徳の故であるとせられる。そこで天子の責任が二重に考へられることになるが、現實の政治には缺陷が多く災害もまた常に現はれるので、天皇はこの儒教思想に本づいてしば/\詔を下し、寡徳にして位にあるがために、或は政令の至らざるところがあり、或は陰陽錯謬して天地が咎徴を示したことをいはれ、さうして「責在予矣」とも「萬方有罪、在予一人、」ともいはれてゐる。かういふ詔勅は漢代以後のシナの帝王のそれに倣つたものであつて、文辭さへもそれを襲用してある場合が多いから、これもまた畢竟、詔勅起草の任務を負うてゐた當時の知識人の知識がそれに現はれてゐるに、過ぎないものである。漢文の詔勅でない國語の宣命にも、天皇みづから「つたなくをぢなく」といはれてゐることがしば/\あるが、これも寡徳といふのと同じであらう。さうしてこれらが文字の上の知識から來てゐることは、かういふ意義の詔勅と祥瑞を喜ぶ意義のものとが相並んで史上に記されてゐること、また同じ宣命にこの二つの思想が含まれてゐる場合のあること、からも知られる。祥瑞は有徳の天子がある場合に現はれるものとせられてゐるので、かういふことも漢代以後に儒家に採用せられたのであるが、孝徳朝の白雉を初としてどの歴代にもその話の無い時は無いといつてもよいほどであり、そのために元號の改められた例の多いことは、いふまでもない。咎徴を説きながら祥瑞をいふのが、何れも現實の政治には關係の無い空文徒辭に過ぎないことは明かである。たゞそ(169)れでありながら、さういふことのために大赦が行はれたり、臣僚に賞賜があつたりした點に、空文徒辭であることの明かに意識せられなかつた當時の爲政者や知識人の知性の貧弱さが現はれてゐる。しかしこれもまた、かういふ方面に於いて、彼等がシナの典籍から與へられた知識に壓倒せられてゐたからのことである。
 政治に關するシナ思想は、なほいろ/\のものが取入れられたので、宣命の一つに天皇は天下(民衆)を子の如く愛育するといふことのあるのも、その例である。かういふことも、上に擧げた天皇が不徳をいはれるのと同じく、書物の上の知識に過ぎないものであるが、たゞ天皇みづからシナの書を讀んでその知識はもつてゐられたであらうし、さういふことの述べてある詔勅や宣命も御覽ぜられたでからうから、知識としてはそれを承認せられたであらう。けれども不徳をいひながら祥瑞を喜ぶのが矛盾であるのみならず、天地の心を畏むといふのと現つ神と稱し神ながら念ほすといふのとは一致しないことであるにかゝはらず、それが一つの宣命に含まれてゐる場合のあることから見ても、現實の政治に於いては、かういふ知識や儀禮的の用語に意味の無いことは明かである(現つ神の觀念については第八章參照)。
 なほ儒教の政治思想に伴つて華夷の觀念も知識人の知識に入つて來たので、一方では文物の本源地として唐を尊重し、大唐といふやうな稱呼をも用ゐながら、他方ではシナ人をも含めて一般の外國人を蕃といひ、それに對して我が國を夏と稱してゐるのも、それであり、エミシを蝦夷または蝦狄と呼び、當時では極遠の地のエミシであつて後に蝦狄といはれるやうになつたものに肅愼の名をあてて、いはゆる慕夏來歸の思想をそれに託したのもそれである。「皇明光日月、帝徳載天地、三才並泰昌、萬國表臣義、」(懷風藻大友皇子)とさへいつてゐるではないか。この「萬國」(170)は、事實についていふと、いはゆる畿外の地方のことであつて、孝徳紀持統紀聖武紀などにもその例があり、景行紀文武紀元正紀または令の法文などに見える如く、京幾を「中國」といふに對して「外國」「外邦」などといはれたのと同じであらうが、中國といひ萬國といふ稱呼を用ゐたところに、華夷の思想を學んだ迹があり、文辭の上では、この稱呼によつて我が國とそれに對する四方の夷狄の國とが聯想せられるのである。(唐太宗の詩の句の「百蠻奉遐書、萬國朝未央、」と對照すべきである。)なほ我が國を中國といつた例が續紀の文武紀に見え、平安朝の記録である文徳實録にもある*。
 
 以上は儒教の道徳及び政治の思想のことであるが、これは文學の上にはさしたるはたらきをしてゐない。懷風藻には漢詩の模作であるだけに種々の形で儒教思想が取入れてあるので、仁山智水の語が流行的に用ゐられてゐるのもその一例であるが、萬葉の歌には殆どさういふ形迹が見えぬ。預作侍宴應詔歌(卷一九家持)に祥瑞のことがいつてあつても、たゞそれだけの話である。次に道家、即ち老莊、の思想もまた知られてゐたので、文學の上では、懷風藻に「無爲聖徳」とか「垂拱端座」とかいふ語が見え(望雪紀古麿)、萬葉にも「手うだきて我はいまさむ」(卷六聖武天皇)とか「手うだきて事なき御代」(上記の家持の歌)とかいふ語が用ゐてあるが、これもまた同じである。しかし老莊の思想の中心とも根本ともなつてゐることは、思想そのもの及びその表現の方法が特異であるために、眞意が捕捉し難いのと、あまりにも現實の生活から離れてゐるのとで、當時の日本人には理解せられなかつたらしい。「莊老我所好」(懷風藻越智廣江)とはいふが、それが「行年既過半、今更爲何勞、」の意味に於いてであるならば、眞に莊老を(171)解し得たものとはいひ難からう。「莊子」に見える空想的の物語も知られてゐたので、「心をし無何有の郷におきてあらば藐姑射の山を見まく近けむ」(萬葉卷一六)とも詠まれたが、その藐姑射の山に何を見ようとしたかはわからぬ。さうしてかういふものすら極めて少い。或はまた道教的な用語も詔勅などに見えてゐて、聖武孝謙兩帝の尊號にもそれが含まれてゐるし、神代の人物のミコトといふ稱呼に尊の字があてられたのも、同じ例であらうが、歌には道教の思想は現はれてゐないやうである。さういふものよりももつと重要なのは、天地剖判の説話とか天地を長久とする思想とかいふやうなものであつて、記紀の神代の物語にそれが見えることは、いふまでもなく、公文としては天地長久の思想が宣命にも出てゐる。文學の上では萬葉の歌にもしば/\用ゐてあるので、無窮の意を「天地のいや遠長く」(卷二明日香皇女殯宮之時作歌人麿)、「天地と長く久しく」(卷三幸芳野離宮時作歌旅人)、の如く表現し、悠久の昔を「天地の分れし時」(卷三望不盡山歌赤人、卷八仰見天河作憶良)といつてゐるやうなのが、その例である。これまで日本人の思想に存在しなかつたかういふ宇宙論的な考が、シナの典籍によつて與へられたのである。靈魂上天の思想もまた同じやうにしてシナから入つて來たので、萬葉にもそれが見える(卷二日並皇子及高市皇子殯宮之時作歌人麿、など)。死者が地下のヨミにゐるといふ固有の思想とは別に、かういふことも考へられるやうになつたのであるが、しかしこれは天皇及び皇族についてのことであつて、一般人についてではなかつた。たゞ後にいふ戀男子名古日歌(卷五憶良)は、この新しい思想が固有のと並んで作者の胸臆に存在したことを示すと共に、またそれが一般人にも及ぼされたことを語るもののやうであるが、しかし廣く行はれはしなかつたらしい。死後のことについては、佛教思想が強くはたらいて來るからである。
(172) また特殊の意義のあるものとしては、いはゆる隱逸の思想があるので、懷風藻の詩にはそれが見える。しかし「命駕遊山水、長忘冠冕情、」といつた葛野王は實に冠冕の人であつた。さすれば「有高臥頴川、遁跡箕山者、宜爲朕代之巣許、以禮巡問、放令養性、」(天平寶字元年詔勅)にどれだけの事實の基礎があるのか、甚だおぼつかない。懷風藻には「幽棲」とか「獨坐山中」とかの詩を作つた隱士民黒人の名が見えてゐるが、當時の我が國に於いては、かういふ詩を作るだけの知識と技能とは、貴族か官人かの地位にゐなくては、養ひ得られなかつたであらう。嵯峨天皇の「世有不羈一老翁、生來無意羨王公、入門忘却貧與賤、醉臥芳林花柳風、」(經國集卷一一)に現はれた老翁が亡是公であつたらしいことも、考へあはされる。本來隱逸の思想は、仕官するものと定められてゐるシナの知識人が、その仕官の目的が名利にあり從つてそれに醜陋たる競爭が伴ふと共に、黜陟活殺の權が君主勢家にあるために、却つて名利を失ひ身をさへ危くすることの多いのを見て、志を仕官に絶つて身の安さを山林江湖の間に求めようとしたところから生じた一種の風尚であり、思想的には道家に一すぢのつながりがある。然るに當時の我が國の官界には、知識人の間にかゝる風尚を生ぜしめるほどの事情が無かつたから、隱逸の思想が單なる文字上の知識として存在したに過ぎなかつたのは、當然である。だから「莊老我所好」(越智廣江)といふのも、また文字の上だけのことであつたと解せられる。なほこの思想が横みちにそれたといつてもよい竹林放曠の風尚も、詩にはしば/\見えてゐるので、「城市元無好、林園賞有餘、……寄言禮法士、知我有麁疎、」と詠じ「僕聖代之狂生耳、……千歳之間、?康我友、一醉之飲、伯倫我師、」といつたものもある。しかし作者藤原萬里は從三位兵部卿兼左右京大夫であつたことを、忘れてはならぬ。(173)「因茲竹林友、榮辱莫相驚。」(智藏)が僧侶の作であることも、注意せられよう。かの「古の七の賢き人どもも欲りするものは酒にしあるらし」と歌ひ、「酒の名を聖と負ほせし古の大き聖の言のよろしさ」と叫んで(萬葉卷三讃酒歌)、一杯の濁酒に無價の寶を抛ち、醉餘の興を夜光の珠にも易へじとした大伴旅人のあることは、いふまでもない。しかしこれとても、酒客がその興趣を竹林の名に託したのみであつて、必しも彼等放曠の風を景慕したのでないことは、作者の生活がそれを明證してゐる。
 これらとは趣を異にするものに神仙思想がある。長生不死の仙人といふものがあつて、或は輕擧飛行して天に昇り、或は蓬莱瀛洲にその居るところがあるとせられ、それを得るに靈藥があり、またはそれに達するに道があるといはれてゐる。人生の短きを足らずとし、何等かの意味での長生を希求するのは、人の情であるが、現實の生を無限に延長することに於いてそれを得ようとするのがこの思想であつて、すべてが現實主義であると共に、生に執着することの深かつた、シナ人の欲望の特色がそこにある。懷風藻の詩の作者が「安得王喬道、控鶴入蓬瀛、」(葛野王)といひ「姑射遁太賓、?巖索神仙、」(巨勢多益須)といつてゐるのは、それを文字の上で知つたからであるが、萬葉の歌人が「わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ藥はむともまたをちめやも」といひ、それと共にまた「雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしきわが身またをちぬべし」(以上卷五)といつてゐるのを見ると、不老不死の仙藥に都を見るだけの效果もないとせられたことが知られる。さすれば、「天橋も長くもがも、高山も高くもがも、月よみのもちこせる水、いとり來て君にまつりて、をちえしむもの、」(卷一三)といふのも、たゞ語をそれにかりたのみであらう。「心をし無何有の郷に置きてあらば藐姑射の山を見まく近けむ」(卷一六)といふのは、養氣の術を解したものの言らしくも見え(174)るが、その代り仙化を求めたものではない。かう考へると「意氣雖揚青雲之上、身體猶在塵俗之中、未驗修行得道之聖、蓋是亡命山澤之民、」(卷五令反惑情歌序憶良)といはれた「異俗先生」は、恐らくは烏有先生に過ぎなからう。要するに、實際に仙人とならうとしたものがあつたとは思はれぬ。日本靈異記に、續紀に見える役行者の説話を一轉して、仙人となつたやうにしてあるのは、神仙説を僧徒が利用したことを示すまでであり、女が仙草を食つて天に飛び去つたといふ話のあるのと同じである。日本人は長生不死の國の義であるトコヨの國を橘の産地として人の到り得る海外のどこかに置き(崇神朝に於ける多遲麻毛理の物語)、または不死の義を取り除けて單なる海外の國の名として用ゐた(スクナヒコナの命の物語など)のでも知られる如く、神仙説を知つた後でもそれに對する特殊の興味をもたなかつたが、これは根本的には日本人が、上にも述べた如く、現實の人生に滿足してゐる素朴な樂觀主義者であると共に、生そのものに深い執着を有つてゐない淡泊の性質を具へてゐたからであらう。
 しかし當時の日本人の求める神仙郷は別にあつた。「山幽仁趣遠、川淨智懷深、欲訪神仙迹、追從吉野潯、」(懷風藻大伴王)。その吉野は「此地即方丈、誰説桃源賓、」(同中臣人足)である。桃源の奧には雲を餐ひ霞を吸ふ眞人とは違つて窈窕たる仙女がゐる。「高嶺嵯峨多奇勢、長河渺漫作廻流、鐘地超潭豈凡類、美稻逢仙同洛州、」(同丹?廣成)。むかし美稻といふ男が吉野川で柘の枝を拾つた。それが化して仙女となつて美稻と契を結んだ。仙媛柘姫は天の羽衣をきて飛び去つても(續日本後紀卷一九興福寺僧徒の作つた長歌)、「この暮に柘の小枝の流れ來ば梁はうたずてとらずかもあらむ」(萬葉卷三)。人はみな美稻となることを夢に見てゐたのである。さすれば、彼等の目には魚釣る少女も洛浦の仙媛と映ることがある。萬葉卷五の遊於松浦河序を見るがよい。「君をまつ松浦の浦の少女らは常世の國の(175) あま少女かも。」その常世の國の仙女を思ひやるところから、かくの如き蓬客仙媛唱和の歌が作られたのである。彼等の喜ぶところは「巫山行雨下、洛浦廻雪霏、月泛眉間魄、雲開髻上暉、腰逐楚王細、體隨漢帝飛、誰知交甫珮、留客令忘歸、」(懷風藻荊助仁)であつて、吉野の山も、松浦の川も、またしば/\彼等の詩に繰り返された仁山智水も、畢喬は巫山と洛浦との面影である。唐代の説話に於いて仙郷化せられた桃源は、即ちこの意義での仙女の住むところであつたが、「遊仙窟」に至つて温柔郷としてのこの神仙郷がことこまかに描き出された。積石山上の神仙窟裡に崔子娘と一夜の奇夢を結んだ張文成のこの物語が、平安朝の初に流行してゐたことはいふまでもないが、註釋家の説によると「夕されば宿あけまけて我れまたむ夢にあひ見て來んといふ人を」、「よのほどろ出でつゝ來らくたびまねくなれば我が胸きりやくがごと」(以上萬葉卷四家持)などは、遊仙窟中の語をとつて詠んだものだといふことであつて、多分さうらしく思はれるから、萬葉時代から既にもてはやされてゐたのであらう。現に憶良の沈痾自哀文には遊仙窟の名とそれからの引用語とが見えてゐる。現實の生を無限に延長しようとする神仙思想は、人としての生の快樂を無期に享受しようとするのであるから、シナ人の情懷として、それがかゝる方面に發展して來たのは自然であつたが、日本人にそれが喜ばれたのは、たゞ彼等の日常の戀愛生活を空想化しまたは美化して眺めようとするに過ぎなかつた。松浦の川の魚つる少女がそのまゝ仙女とせられたのでも、このことは知られよう。吉野の川とても、人々の常に往來するところであつて、一たび去つてはまた求むべからざる桃源とは違ふ。神仙郷はこゝでもまた日常生活の世界にひきよせられたのである。たゞ柘媛の天に歸り去つたところに、人間ならぬ仙女のおもかげが殘つてゐるのみである。(近江風土記に記されてゐたらしい伊香の小江の天女、丹後風土記に見えてゐた比沼山の麻奈井の天女、などの物語(176)は、玄中記や捜神記に豫章でのこととしてあるシナの説話の翻案であらうが、本來は世界的にひろがつてゐる白鳥處女説話の一形態である。神仙思想とは關係の無いものと解せられる。たゞかういふ物語の翻案せられたところに、仙女の説話の喜ばれたのと一すぢのつながりはある。)
 こゝにやゝ趣の異なるものがあるので、それは浦島物語の神仙郷である。この物語はもとは住吉の浦のこととして語られてゐたものらしく、萬葉卷九の長歌はそれを繼承してゐるが、丹後風土記の記載によつて推測すると、持統朝文武朝ころの學者であつた伊預部馬養が丹後の國守となつてゐた時に、それを筒川村のことに改作したやうである。シナの説話(民間説話及びその神仙化せられたもの)に本づいて作られたものであることはいふまでもないが、浦島を漁夫とし仙郷を海上に置いたところに、日本化があり、作者が大和の知識人であつたために、初にはその場所を住吉としたのであらう。開いた玉匣の中から白雲がたち上つて、浦島の子は忽ち老の姿となつたといふ劇的光景は、シナの説話に由來があるかどうか知らぬが、仙宮また歸るによしもなく神女の契りの長へに絶えたところに、シナの神仙譚の本質が保たれてゐる。この點では初案せられたまゝの形が殘つてゐるからであらう。たゞ人間ならぬ仙郷の快樂を得ながら、父母戀ひしくして一たび郷里を訪はうとした點に、日本人の情懷が見えてゐるので、憶良の令反惑情歌のはじめの一句が思ひ出される。「常世べに住むべきものを劍太刀ながこゝろからおぞやこの君」と浦島の子を詠じた歌人からは嘲けられてゐるが、丹後風土記はたなびく雲のうちにおもかげの現はれた神女との唱和を載せて、ありし契りの餘韻を「常世の濱の浪の音」と共に、水の江の空に漂はせてゐる。神仙郷も人の世と全く離れてしまつてはゐない。(丹後風土記のこの物語は、三百餘載といふ語のあるところから考へると、平安朝の初のころに書かれたも(177) のらしい。)ついでにいつておく。人間と仙女との永別は神仙化せられない前のシナの民間説話から繼承せられたものであつて、わが國のホヽデミの命とワダツミの神の女との別離もまたその類であるが、このホヽデミの命の物語に於いても、古事記のでは別離の後の歌の唱和が附加してある。こゝにも日本人の情味が現はれてゐるのであらう。なほ丹後風土記の説話に於いて仙女が龜に化してゐたことになつてゐるのも、神仙思想には關係の無い話であつて、ワダツミの神の女のワニの身を現じたのと親しい關係がある。これは多分シナの民間説話から來たものではなくして、日本で作られた浦島の物語に於いても後から附け加へられたものらしい。萬葉の歌にこの話の無いのは、その加へられない前の原形を存してゐるのであらう。
 仙女の物語よりもなほ日本人に親しまれたのは、牽牛織女の説話であつて、七夕の歌が多く作られるやうになつた。これは天上の物語であるけれども、妻どひの習俗とその情趣とをそのまゝ秋の空に反映させて、彼等みづからの風姿をそこに眺めることができるので、人界遠く離れた仙郷を思ひやるよりも、遙かに彼等の心情に切實なものがあつたからである。この説話は懷風藻の作者によつても取扱はれてゐるが、それは例へば「靈姿理雲?、仙駕度横流、窈窕鳴衣玉、玲瓏映彩舟、」(山田史)といふ如く、貴族的の裝をした織女が大陸的の廣い流を渡ることになつてゐて、その點でシナの説話のまるうつしであるのに、萬葉の歌では、例へば「ひさかたの天の河瀬に舟うけて今よひか君がわがり來まさむ」(卷八)「天の川渡り瀬ふかみ舟うけてこぎ來る君が楫の音きこゆ」(卷一〇)、の如く、牽牛の來るのを織女が待つてゐることになつてゐるし、その川は「渡し守舟わたせをと呼ぶ聲の至らねばかも楫の音せぬ」、「天の川こぞの渡り瀬あれにけり君が來まさむ道の知らなく」、または「天の川打橋わたせ妹が家ぢやまず通はむ時またず(178)とも」、などの如く、大和の川々の如き年ごとに淵瀬の變る狹い小さなものになつてゐる。さうして「天の川瀬ごとに幣を奉るこゝろは君を幸く來ませと」、「かすみたつ天の河原に君まつといゆきかへるに裳のすそぬれぬ」(以上卷一〇)、または「ひさかたの天の川原に、天とぶや領巾かたしき、またま手のたま手さしかへ、あまたいもいねてしかも、」(卷八)の如く、純然たる日本の女として織女を詠んでゐるのみならず、そこに一種の民衆的氣分さへ現はれてゐる。七夕の歌はすべてが日本人の戀愛生活の表現である。「天の川やすの川原」などの如く、天の川を神代の物語の安の川の名で呼んでゐる場合のあるのも、七夕説話の日本化を示すものであらう。ついでにいひそへる。「彦星のつま迎へ舟こぎ出らし天の川原に霧のたてるは」(卷八)、また「天の川たな橋わたせたなばたのい渡らさむにたな橋わたせ」(卷一〇)などでは、女が川を渡るやうに見えもするが、前のの「つま」は夫の義で彦星をさしたもの、後のの「たなばた」も、この名が説話の人物の汎稱として用ゐられたので、やはり男をいつたものとすべきであらう。
 なほ細かい文學上の材料などになると、萬葉にも、例へば「もみぢする時になるらし月人のかつらの枝の色づく見れば」(卷一〇)といひ、「目には見て手には取られぬ月のうちのかつらの如き妹をいかにせむ」(卷四湯原王)といふやうに、月中桂樹の説話をとつたものがあり、また蘇武の故事によつて「なが月のそのはつ雁の使にもおもふ心はきこえ來ぬかも」(卷八櫻井王)と詠み、鸞鏡の物語によつて「山鳥のをろのはつ尾にかゞみ懸けとなふべみこそなによそりけめ」(卷一四)とも歌つたやうに、シナ文學から來たものがいろ/\ある。竹取の翁の歌(卷一六)といふものに孝子傳の説話が用ゐてあるのも、同じ例である。しかしこれらは箇々の物語が好奇心のために利用せられたまでのことであつて、思想としてはさしたる意味が無い。シナの閨怨の詩には燕が多く利用せられてゐるのに、萬葉の(179)戀の歌にそれの無いことも、注意せられるので、それは閨怨と戀との本來の情趣が違ふからであるが、情生活の表現としての歌に於いて徒らに詩を摸倣しようとしかつたことが、それによつて示されてもゐる。なほ文字だけのことではあるが、皇室の統治の下にある我が國土を「天雲のむかぶす極み谷ぐくのさわたる極み」(卷五令反惑情歌)、といつてあるのは、淮南子主術訓の「先王之政、四海之雲至而修封疆、蝦蟇鳴燕降而達路除道、」から來てゐるのではあるまいか。谷ぐくをいふのはあまりにも特殊なことであるからかう考へられる。「山彦の應へむ極み谷ぐくのさわたる極み」(卷六藤原宇合卿遣西海道節度使之時作歌)の前半はそれをいひかへたのであらう。歌のことばに漢籍からとられたもののある一つの例として、こゝに附記する。
 
 歌の上に現はれたシナ思想が如何なるものであり、それがいかに日本化せられたかは、以上の概觀によつてほゞ知られたであらう。道徳や政治に關するものは殆ど歌には交渉が無く、歌に詠ぜられた政治思想道徳觀念は、後章にいふ如く、シナ的のものではない。詩の本旨を政治の譏刺にあるとするやうな思想も、歌人には全く顧られなかつた。たゞ書紀の編者はそれを取入れたけれども、もと/\さういふ意義をもたない戀歌などを、強ひてさうであるが如く説きなしたまでであつて、歌人がその意味で歌を作つたことはない(「日本古典の研究」第四篇參照)。シナの道徳觀念政治思想は、シナの政治シナ人の生活から生れたものであつて、それとは全く違つてゐる日本人の生活日本の政治には、あてはまらないものであるから、それが歌に現はれないのは當然である。たゞ文字の上の知識としてそれが學ばれ、また文字の上でそれが弄ばれたに過ぎず、公式の詔勅などもやはりその類であつたことは、既に述べた。も(180)つとも上にもいつたことがあるやうに、當時の知識人はそれが現實の日本人の生活と一致しないものであることを考へず、文字上の知識が現實の生活を示すものであるかの如く、或はまた文字の上でそれを弄ぶことが自己の思想を表現するものであるかの如く、錯覺してゐたではあらう。シナの典籍から得た文字上の知識に壓倒せられたのと、記誦によつてさういふ知識を得ることにすべての力を消盡したのと、知り得たシナ思想に論理的な思索の迹が無く、學ばうとしたシナ人の思惟の方式が論理的實證的でないのと、これらの事情のために、現實の日本人の生活とシナ思想とを對照して、その間の齟齬や矛盾を發見する力が養はれず、その意味で知性が發達しなかつたからであり、さうしてその根柢には、曾て述べた如きシナの典籍に存する言語と文字との特殊性がある。日本人は漢文を日本語脈になほして讀んだけれども、漢文そのものに存在するシナ人の思惟の方式を排除することはできなかつた。讀む文章がシナ人の考へかたによつてシナ人の書いたものだからである。日本人の思惟の論理的でないことは、漢文の與へた害毒の一つである。なほ日本人の知性の發達しなかつたことは、シナの外の文化に接觸しなかつたことも、またそれを助けたに違ひない。しかし日本人の心情はさういふ知識には拘束せられず、また日本の言語はシナの文字によつて記されたシナ語とは違ひ、それよりも遙かに優れた構造と精練せられた情趣とをもち、さうしてそれによつて日本人の心情が表現せられる。そこで、それに適合するところのあるシナの説話が歌人によつて歌材として取入れられ利用せられた。こと/”\しい道徳や政治に關する空疎な文字上の知識をもつことと、自己の生活に親しいところのある説話を味ふことと、シナ思想に關する當時の知識人の態度にこの相反する二面があつたのは、これがためである。これは日本書紀が一面ではシナの史籍の形を學び、シナの典籍の文辭を借り用ゐて、その政治思想や道徳觀念を假託した記事を構成(181)すると共に、他面では戀愛生活の表現としての歌謠や説話を數多く記載し、その點ではシナの史籍とは反對の精神をもつてゐるのと同じである(「日本古典の研究」第四篇第五章參照)。書紀のこの性質は當時に於ける知識人の思想と心情とを象徴するものといふべきである。
 
 シナ思想と共に、それよりも強い勢で弘まつて來たものは、佛教であつた。シナの學問と文學とは、たゞ思想として知識として、特殊の知識人の間に行はれたに過ぎなかつたけれども、佛教は人の禍福を支配する宗教であり、さうして禮拜の對象として種々の佛像があり、特に宏大な殿堂が建てられ華麗な莊嚴が施され、異香薫じ妙音響き、この世ならぬ一種の幻想世界に人を導き入れるのであるから、それが力張く一般の人心を動かしたことは怪しむに足らぬ。たゞ如何にまた何の點で動かしたかが、問題なのである。
 佛像がはじめて傳へられた時、日本人はそれに對してどう感じたであらうか。かゝる場合にありがちのこととて、見なれない異樣なその容姿は、或るものには反撥の情を起させたであらうが、他のものには好奇心に誘はれて何ほどかのひきつけられるもののそれにあることを覺えさせたであらう。しかし佛像の安置せられる殿堂と異樣な崇拜の儀禮との與へる官能的刺戟は、徐々に後者を一種の信仰にまで導いていつたと解せられるので、固有の習俗としての神の崇拜とは趣を異にするこの「佛神」(佛といふ神、ホトケガミ)の崇拜が、かうして次第に行はれてゆくことになつたであらう。さうして祈祷教としての佛教が成りたつやうになつていつたのである。
 さてかういふ佛教はほゞ三つの側面をもつことになつた。その第一は私生活に於ける現世の福利を祈ることであり、(182)第二は皇室の地位に關聯して鎭護國家の任を託することであり、また第三は個人としての來世の安樂、淨土への往生、を求めることである。第一と第二とは、在來の神に對する信仰と同じ性質のものであり、それに呪術的儀禮の絡まつてゐることも、また同じであるが、たゞ新に海外から傳へられた「佛神」の信仰は、民族生活に根ざしてゐないために、第一のものとても、村落的集團的生活のためにするところは無く、崇拜の儀禮にもまたそれの關與することは無かつた。たゞ勢力ある貴族に氏寺を建立したもののあることによつて知られる如く、氏族のためにすることの考へられた場合はあるが、これは當時の政治及び社會生活に於いて氏族が重要なる意味をもつてゐたからである。しかし一般には個人としての現世の福利を求めるものであつたので、藥師や觀音に祈願がかけられ吉祥天などが崇拜せられたのはそのためであり、佛教の信仰の中心はそこにあつた。平安朝になつてから新に傳へられた密教は、その主要な由來をなすインド教の性質からも知られる如く、佛教のこの一面を力強く推進してゆくのである。また第二のは、上にも述べたことがある如く、聖徳太子の四天王寺にその端緒が現はれ、後の東大寺や國分寺の建立に至つて成熟したので、金光明經の講讀が政府の命によつてしきりに行はれたのも、またそれを示すものである。これはその金光明經の所説によつても知られる如く、佛教に附興せられるやうになつた使命の一つでもあるが、我が國に於いては、政治的意義を有する神の祭祀や呪術的儀禮が朝廷によつて行はれたことの佛教への適用といふ一面も、それにあつたらしい。寺院を建てたり經典を講誦することが國家の鎭護になるといふのは、呪術的意味のことであつて、その點では大祓の儀禮によつて國中の罪と穢とが無くなるといふのと同じである。新しく建てられた叡山の寺院にも東寺にも、この思想が寄託せられたが、それもまた同じところに一つの由來がからう。たゞ第三は佛教によつてはじめて日本人の思想(183)に注入せられたものである。
 佛教の根本思想が人生を苦と觀ずるところにあり、修道の教としての本來の佛教がその上に立つてゐることは、いふまでもないが、阿彌陀佛といふ神の救濟によつて淨土(樂土)に往生するといふ救濟の教、その意義に於いての祈祷の教、としての佛教もまた理論的にはそこに根據がある。けれども信仰の實際に於いては必しもさうではなかつたらしい。聖徳太子の信じた佛教に既にこの淨土往生の一面があつたことは明かであるが、他の一面に於いて現世の福利が求められてゐることを考へると、この苦觀がそれについてどれだけの意味をもつてゐたか、疑はしいといはねばならぬ。一般的に考へても、當時の日本人の思想に於ける來世は、現世の否定としてではなくしてむしろその延長としてであつた、といふべきであらう。人生に對して樂觀的であつた日本人は、この苦觀をそのまゝ受け入れることができなかつたのである。出家の身に於いても同樣である。僧の作らしい歌に「生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山をしぬびつるかも」といふのがあるが、同時に「世の中の醜きかりいほにすみ/\て至らむ國のたづき知らずも」(以上萬葉卷一六)ともいつてゐるのを見ると、この作者に、淨土の信仰の堅實でなかつたことが知られる。新に叡山に植ゑつけられた天台の教にも、またこの信仰が含まれてゐるが、それが天台の教説の根本思想とどう關係するかは別問題としても、我が國に於いては、上に述べたやうな密教思想がそれと並んで叡山に取り入れられてゐることを、考へねばならぬ。出家したものの多くが、眞の修道者であるよりは、佛教の宣傳者もしくは佛といふ神と人とを媒介する巫覡であつたことも、その根本の理由はこゝにあつたと考へられる。樂觀的な邦人、實生活に於いて痛切に生の痛苦を感じないものが、どうして眞にインド的苦觀を體得せられよう。どうして眞に出家修道の身となられよう。彼(184)等の間にも經論の學習に心を潜めたものはあつたであらうが、修道者としての眞の比丘たり比丘尼たるものは、曉天の星よりも少かつたのではあるまいか。僧徒の非行を戒めた訓令がしば/\發せられても、何ほどの效果もなかつたらしい、といふことは、上に既に述べた。鑑眞が新に戒律を傳へても、恐らくはたゞ儀禮が整頓したに過ぎなかつたであらう。僧尼が既にさうである。一般人はいふまでもない。だから佛教の苦觀はたゞ知識として人の有つ場合があつたのみで、深くその胸臆に浸潤したのではない。神が佛によつてその身の苦から解脱せんことを求めた、といふ話が佛徒によつて作られても、それは神を崇拜する日本人の心情には何ばかりの刺衝をも與へなかつたであらう。來世の信仰が上に述べたやうなものであることは、この點からも明かに推測し得られる。たゞ知識としてではあるが、人生を苦とすることを知つたのは、それだけの意味に於いて、いくらかの暗い陰翳を人に投げかけたではあらう。輪廻の説がそれに伴つて知られてゐたとすれば、なほさらである。
 勿論、考へて見れば、人生に苦が無いではない。人の免れ難き死はその最も大なるものである。この苦を免れんとし、無常の人生を何等かの意味に於いて常住ならしめようとするのは、人生の深奧に存する欲求であり、淨土往生の思想もまたおのづからそれに應ずるものとなる。しかし人は必しも常にその苦を感じてゐるのではなく、從つてかゝる欲求を常に懷いてゐるのではない。日常生活に於いては、かゝることを念としないのがむしろ人生の事實であるともいはれよう。樂觀的な日本人としてはなほさらである。たゞ知識として人生の無常を知り死の苦を知り、さうして淨土の存在を教へられてゐるものが、人の死に逢ひ、またはみづから病にかゝり死に臨むやうな時になると、その知識が自己の心情の聲と化しておのが耳に響く。老身重病經年辛苦及思兒等歌や、沈痾自哀文や、または哀世間難住歌(185)(以上萬葉卷五)を作つた多感の詩人山上憶良が「從來厭離此穢土、本願託生彼淨刹、」といつたのは、その好例であらう。淨刹はともかくもとして、世の無常には思ひあたらざるを得ぬ。病に際しては「世の中は數なきものか春花の散りのまがひに死ぬべく思へば」(卷一七家持)といひ、死を見ては「世の中は空しきものとあらむとぞ此の照る月は盈ち缺けしける」(卷三)といつたのは、そのためである。けれども「世の中を何に譬へむ朝開きこぎいにし舟の跡なきごとし」(卷三滿誓沙彌)といふやうなのは、たゞ無常といふ概念を述べたまでのものであり、「世の中も常にしあらねば宿にある櫻の花のうつるころかも」(卷八久米女郎)といひ「こもりくの泊瀬の山に照る月は盈ち缺けしてを人の常なき」(卷七)といつて、月花につけて無常をいつたのも、知識から來たことに過ぎなからう。かういふ状態であるから、「現せみは數なき身なり山河のさやけき見つゝ道をたづねな」といひながら、「みつぼなすかれる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千歳の命を」(以上卷二〇家持)といふのも、無理は無い。「命惜しけどせんすべも無し」(卷五哀世間難住歌の結末)と歎じた憶良に、佛教が何等の安心をも與へなかつたことは固よりである。それよりも「此の世には人言しげし來む世にも逢はむわがせこ今ならずとも」(卷四高田女王)の方が、よほど確い信仰を來世に繋いでゐる、といつてもよいのではあるまいか。
 萬葉には佛教もしくは佛教思想に關係があると思はれる歌は極めて少く、こゝに擧げたのがその過半である。挽歌の如き佛教思想の寄託せられ易い性質のものですら、さういふ形跡は殆ど見えない。阿彌陀佛の淨土を思うたものの一首も無いことが、特に注意せられる。上に引いた詩を作つた憶良も、歌ではさういふことをどれにもいつてゐないではないか。これは歌の題材が因襲的に定められてゐたことにもよるであらうが、その因襲を破らなかつたところに、(186)破るだけの佛教の信仰の無かつたことが推測せられはしまいか。神仙郷がしば/\歌はれたにかゝはらず、淨土の風光の閑却せられてゐたことに、意味があるのである。仙女は詠ぜられてゐるが、佛土に於ける天女もその伎樂も歌には入つてゐない。戀に明かし戀に暮らす歌人の情懷と厭離穢土の觀念とは、あまりにも懸隔が甚しい。或はまた佛教の經典には、その奔逸なるインド的空想に詩趣の甚だ饒なものが多いけれども、それが歌材にとられることも無く、それに誘はれてさういふ空想力の養はれることも無かつた。概していふと一般人にとつては、佛經は宗教的儀禮のため、または呪術的效果を求めるために、讀誦せられるものであつて、その所説の内容についてはまだ深い關心をもつまでになつてゐなかつたらしい。のみならず、所禮禮拜そのことすらも歌の上には現はれてゐないことを、見のがしてはならぬ。神に幣を手向けるとか祓をするとかいふことは常に歌はれてゐるし、戀男子名古日歌や親母贈子歌(卷九)や、または悲傷死妻歌(卷一九)のやうに神に祈る儀禮のしかたさへ敍してゐるものがあるけれども、佛に祷り佛像を拜むことは一つも見えぬ。たゞこれについては、佛像の崇拜やその儀禮やが日常の私生活に浸潤するまでになつてゐなかつた、といふことが考へられるかも知れぬ。
 更に氣のつくことは、あの宏壯な佛教の殿堂や、高く蒼空を凌いで聳え立つ幾重の〓堵婆や、もしくは壁畫や柱繪やその他の寺院の莊嚴や、または華麗な法會やが、毫も萬葉歌人の目に映じなかつたことである。誦經讃歌の聲や伎樂の鼓の音や笛のねも彼等の耳には響かなかつたらしい。佛像そのものすら何等の面影をも歌の上には留めてゐない。今から考へても、奇異な形相の佛像は萬葉の歌の情趣とはあまりにも不調和であるが、萬葉人がさう思つたかどうかは別の話である。たゞ奈良を詠じては春日の山の春霞をいひ、久邇の宮を歌つては泉の河の清きを述べるのみで、宮(187)殿樓閣の美や朝儀の花やかさについては一言もしなかつた當時の歌人であるから、その點から見ると、これは當然のことかも知れぬ。たゞ宮殿樓閣や朝儀が彼等の情生活と交渉の少いものであつた如く、佛像や寺院や法會やもまた彼等の内生活と關係の少いものではなかつたらうか。このことについては、萬葉人の寺院を見、佛像を見、または樂舞を見たのは、現代人の藝術眼で見るのとは違つてゐた、といふことも考へらるべきであらう。珍らしく佛像が詠み入れてあると思へば「寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼給ばりてその子生まさむ」(卷一六池田朝臣)、「佛つくるまそほ足らずば水たまる池田の朝臣の鼻の上をほれ」(同上大神朝臣)の贈答である。これは戯謔の言ではあるものの、如何にも佛像を醜化してゐる。伎樂をよんだ唯一の例である「池神の力士舞かも白鷺の棒くひもちて飛び渡るらむ」(同上作者不詳)が、その舞を單なる見せ物として見てゐるのも、これと似てゐる。伎樂そのものが本來かういふ性質のものではあるが、それにしても寺院または法會との關聯に於いてそれを見ることがせられなかつたのである。かういふ歌によつて推測せられる限りでは、佛像も寺院で奏せられた樂舞も萬葉の歌人をして徒に奇異な思をさせるのみであつたといへよう。
 歌が佛教を題材としなかつたと同じく、佛教もまた歌をとり入れることをしなかつた。僧侶の歌が多く傳はつてゐないのを見ると、歌を作つた僧侶すら少かつたのであらう。萬葉に僧の歌がいくらかはあるが、佛教の思想をよんだものは上に擧げた滿誓の作ぐらゐである。辨基、博通、通觀、薩妙觀、何れも僧尼の歌としての特色が無い。中には酒を飲んで噪いでゐるものもある(卷一八僧惠行)。また法會などで唱歌をしても、その歌詞は宗教的意義のないものであつた。萬葉に佛前唱歌として「時雨の雨まなくなふりそ紅ににほへる山の散らまく惜しも」(卷八)といふ一(188)首があるが「皇后宮之維摩講、終日供養大唐高麗等種々音樂、爾乃唱此謌詞、彈琴者市原王忍坂王、歌子者田口朝臣家守河邊朝臣東人置始連長谷等十數人也、」とあるから、唐樂などと相對してかなり大規模の唱歌であつたらしいにかかはらず、それがかういふものであつた。既に述べた如く、法會に奏する音樂そのものが宗教的意義のないものであつたと共に、歌の詞章もまた同じであつたのである。佛教が國民文學に親みの無かつたことは、このことによつてもほゞ想像せられよう。平安朝に入つてからも、空海などは漢詩漢文を作つたけれども歌は作らなかつた。(いろは歌が空海の作でないことは次篇にいはう。また後世の勅撰集などには、最澄の歌などといふものが見えるが、何れも假託である。)
 以上は宗教としての佛教が如何に受入れられ、それが文學に於いて如何に表現せられてゐるかを、考へたのであるが、その教理、いはゞ哲學もしくは形而上學としての佛教が、日本人の思想に何ものを加へ、その思惟に如何なる影響を與へたかは、この時代の文學とは直接の交渉が無いから、こゝでは觸れないでもよからう。例へば人生が無常であると共に宇宙にも生住壞滅があるとする思想の如きは、それが天地の長久をいふシナ思想と背反してゐることについて、當時の人にも考へられてはゐたが(經國集)、悲世間無常歌(萬葉卷一九家持)が作られてゐるにかゝはらず、この宇宙觀は歌人の詠には上らなかつた。奈良の寺院はもとより新に建てられた叡山や東寺に於いても、それ/\經論の學習は行はれたが、それは、この時代に於いては、概ね寺院の内部に於ける學業たるにとゞまつてゐた。たゞかういふ學習がすべて漢譯佛典とシナ人の論著とによつてゐるために、その一面に於いては、シナ思想とシナ人の思惟の方法とに關して上に述べたところの適用せらるべき點のあることを、一言しておく。
(189) なほ我が國に傳へられた宗教としての佛教そのものが多方面を具へてゐるのと、
乘佛教の一面には婆羅門教に由來する一種の汎神論的思想があるのとのため、それは我が國の習俗としての神の崇拜にも、またシナ思想にも、結合し得るところがあり、後になつて生じた種々の形での神佛合一觀の萌芽も、この時代に存在してゐることをも、いつておくべきであらう。佛教はこれから後ます/\弘通せられていつたが、しかし民族的宗教としての神の崇拜は、それがために妨げられも抑壓せられもせず、依然として行はれてゆき、知識人の知識としてのシナ思想も、またその權威を保つてゆくのであつた。この點に於いては、日本に佛教の行はれたことは、ヨウロツパがキリスト教化せられたのとは、その意味が違つてゐるのである。この時代の状態について一言するならば、純粹の文學ではないが、例へば天平勝寶元年の盧舍那佛に對する天皇の表白は、神に對する祝詞を摸したものであつて、その意味で佛を神に擬したものであり、そこに神佛結合の一つの姿がある。また同じ時の宣命に、黄金の産出を佛力の現はれとすると共に、天と地とに坐す神と歴代の天皇の靈との賜ともしてあるし、神護景雲元年の宣命には、祥瑞としての景雲の現出について同じことがいつてあるが、その何れにも、それと共に天地の心とか天地の恩とかいふ語も用ゐてあるから、我が國の神の崇拜と佛教とシナ思想との結合せられた姿がそこに見られるのである。シナ式祥瑞を我が國の神の賜とすることは、和銅元年などの宣命にも既に見えてゐたが、こゝではそれに佛力を加へたのである。佛教とシナ思想との結合せられた迹も、また種々の文獻に見られるが、日本靈異記の役行者が孔雀明王の呪法を修することによつて仙化したことになつてゐるのも、その一つである。しかし佛教のかういふはたらきは、やはり現世の利益を求めるためのものとしてであることに、注意しなければならぬ。
(190) かう考へて來ると、佛教の流行が當時の我が國に與へた效果は、宗教思想そのものに於いてではなくして、むしろそれをめぐつての文化上の諸現象に於いてであることが、知られたやうである。寺院堂塔の建築、彫塑及び繪畫としての佛像などの製作、種々の法會とその場合に奏せられる音樂舞踊、佛寺の莊嚴のための工藝品の調製、並に漢譯佛典の講習讀誦に要する文字の知識、などがそれである。何れも當時に於いてはシナの文物の模倣が主となつてゐたけれども、我が國民文化の將來の形成と發達とのためにその資料を供給するものとして、大なる寄與をしたのである。しかし宗教思想としては、從來の風俗としての神の崇拜及びそれに絡まつてゐる呪術的儀禮の外に加へるところはなく、佛教によつて新しく傳へられた淨土往生の思想も、また深く人の心情を動かすには至らなかつた。國民の道徳觀念が佛教によつて高められた形迹も認めがたい。佛教にも道徳觀念が含まれてはゐるが、それは主として修道者に關するものであつて、一般人に對して説かれてはゐず、よし説かれてゐるにしてもその説きかたが煩瑣であつて、直截に力強く人の心に迫ることが無い。鎭護國家の政治的觀念は、佛家が一種の呪術としてかゝる效果のあることを信じてゐたとは考へられるが、事實に於いてそれに何の意味も無かつたことは、いふまでもない。
 
(191)       第六章 戀愛觀
 
 佛教はこの時代に於いては文學にさしたる交渉をもたなかつたが、シナ思想は仙女の物語や七夕の説話を提供することによつて、文學に新題材を寄興した。が、それは實は日本の文學の固有の情趣に適應するものとして、それを一層豐富にしたのであつた。戀が神代史の插話にも記紀萬葉の歌にも、主なる題材となつてゐることはいふまでもない。
 神代史の插話には、スサノヲの命についても、オホクニヌシの命についても、またホヽデミの命についても、かならず戀物語がある。その他、記紀に取入れられた種々の插話、例へば三輪山傳説にしても、春山の霞男と秋山のしたび男との爭の話にしても、或は倭建命の物語にしても、または風土記に載せられた少女の松原のでも、比沼山の天女のでも、伊香具の漁夫のでも、趣味ある物語はみな戀物語である。これらの物語のうちには古くから行はれてゐた民間説話もあり、後になつてシナの神仙譚から改作せられたものもあるが、何れも當時の人の喜んで談じ喜んで聽いた物語の主題が戀であつたことを示すものである。いづれの世いづれの國の物語にも戀愛譚が多く、また何等の形でそれの結びつけられてゐないものはないが、我が上代では、多くの上代民族の有つてゐた冒險譚や戰爭譚が見えないために、多くは純粹な戀物語になつてゐる。(スサノヲの命にだけは大蛇を斬つた物語があるが、それにすらも武勇とか冒險とかいふことは輕い地位しかもつてゐない。)
 次に記紀の歌はその大部分が戀の歌であつて、それが萬葉にひきつがれてゐる。シナの詩人にも閨情を題材としたものはある。樂府に採られた歌行には戀愛詩といふべきものがかなりに見える。しかしシナでは一種の偏狹な道徳思(192)想のために戀愛詩は尊重せられなかつた。けれども我が國に於いてはシナ文物の崇拜せられた時代でも、幸にしてかういふ考へかたは全くうけ入れられなかつた。これは、上に述べた詩の目的を譏刺にあるとする考が用ゐられなかつたことと共に、文學に關するシナ思想の日本人に拒否せられた著しい例であり、道徳の側から見ると、日本人が、實生活に於いては、文字の上で知つたシナの道徳思想に無關心であつたことを示すものである。かくして戀歌は歌の王として尊まれたのである。人の戀はいふまでもないが「春されば妻を求むと鶯の木ぬれをつたひなきつゝもとな」、「旅にして妻戀ひすらしほとゝぎす神なび山にさ夜ふけてなく」、「秋萩の散りゆくを見ていぶかしみ妻戀ひすらしさを鹿なくも」(以上萬葉卷八)、「みなと風寒くふくらしなごの江につま呼び交したづさはになく」(卷一七家持)、萬葉の歌人の耳には、鳥の聲も鹿のねも皆つまごひと聞かれたのである。また萬葉の題材となつた傳説は、眞間の娘子のも、菟原處女のも、または櫻兒鬘兒のも、傳説といふ傳説、一つも戀のでないものはない。萬葉の歌人はすべてが戀の詩人であつた。
 戀愛が詩、特に抒情詩、の主要なる題目となるのは、何時の世どの民族とても同じであるが、男が別居してゐる女の許に通ふといふ習慣であつた當時の我が國では、そのために戀歌が特に多く作られた。だからその戀歌は今日の人の普通に考へる戀愛詩とは必しも同じでない。「目には見て手には取られぬ月の中の桂の如き妹を奈何にせん」(萬葉卷四湯原王)、「ますらをや片戀せんと思へども醜のますらをなほ戀ひにけり」(卷二舍人皇子)、「花ぐはし葦垣ごしにたゞ一目あひ見し兒ゆゑ干たびなげきつ」(卷一一)、の類も少くはないけれども、「山科の木幡の山を馬はあれど歩ゆわが來し汝を思ひかね」、「はやゆきていつしか君をあひ見むと思ひしこゝろ今ぞ和ぎぬる」、「思ふにしあまりにし(193)かばすべをなみ出でてぞゆきしその門を見に」、「をはり田の坂田の橋の壞れなば桁よりゆかむな戀そわぎも」、の如く、女のもとにゆく男のこゝろを詠み、「馬のおとのとゞともすれば松かげに出でてぞ見つるけだし君かと」、「わがせこが使をまつと笠もきず出でつゝぞ見し雨のふらくに」、「來る道は石ふむ山の無くもがなわがまつ君が馬つまづくに」、「ぬば玉のこの夜な明けそあからびく朝ゆく君をまたば苦しも」、の如く人をまち人を別れる女の情を歌つたものが多い。逢ひそめてからは「まさやかにきのふのゆふべ見しものをけふのあしたに戀ふべきものか」、「まそかゞみ手にとりもちてあさな/\見れども君はあくこともなし」、と日ごとに逢うてもなほあひたく思ふのが常であり、「親しき我が家すらを、草まくら旅ねの如く、」(卷一三)して女のもとにかよふのであるが、「石ねふむへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ戀ひわたるかも」と逢はぬ日多きを恨み、「しきたへの手枕まかず隔ておきて年ぞ經にける逢はぬ思へば」(卷四安貴王)と遠妻をしのぶことも多い。女は女で「夜ならべて君を來ませと千はやぶる神の社を祈まぬ日は無し」と神にも祈る。或はまた「里とほみうらぶれにけりまそ鏡床のべさらず夢に見えこそ」とねがふのであるが、かゝるをりにはともすれば「相思はず君はあるらしぬば玉の夢にも見えずうけひてぬれど」と人の心をおぼつかなく思ふやうにもなる。さうしてそのうちには「つき草の移ろひやすく思へかもわが思ふ人のことも告げ來ぬ」、或は「山菅の實ならぬことをわれによせ言はれし君は誰とかぬらむ」、(以上二首卷四坂上大娘)、または「神なびにひもろぎたてていはへども人の心は守りあへぬもの」と男のこゝろの頼みがたきを歎かねばならぬ場合も生ずる。男もまた時には「僞も似つきてぞする現しくもまこと我妹子吾に戀ひめやも」(卷四家持)といふ。「天雲のよりあひ遠み逢はずとも異たまくらをわれまかめやも」といふものも、固よりあるが、すべてのものがさうばかりではない。妻ど(194)ひの風習から生じたいろ/\の心情の動きがかういふ歌となつて現はれたのである。かゝる方式の結婚生活は、兩性の戀愛の終局ではなくして、その過程であり、逢うての後にもあこがれと不安とが常に新にせられ、さうしてその不安が更にそのあこがれを強める。幾多の戀の歌はかくして詠まれるのである。歌の贈答の行はれるのもまたこれがためであるが、卷四にはかういふものが特に多い。卷一五にも中臣宅守と狹野茅上娘子との六十餘首の贈答が載せてある。
 當時の人の戀がかゝるものであるとすれば、その歌に肉の匂ひの強いことは當然であるので、逢ふとか逢はぬとかいふ語が常に用ゐられることはいふまでもなく、早く古事記にも、既にいつたことがあるやうに「あし原のしげこき小屋に菅だたみいやさやしきてわがふたりねし」といふのが神武の卷に載せてあり、「うるはしとさねしさねてばかりこもの亂れば亂れさねしさねては」が允恭の卷に出てゐる。白きたゞむきわかやる胸をたゝきまながり、たま手さしまきていはなさむ、といふやうなのは、ことさらにかゝることを語るところに特殊の意味はあるものの、このことと關係が無くはない。手枕まくといふ語は萬葉の歌にもしば/\見えてゐる。「をちかたのはにふの小屋にひさめふり床さへぬれぬ身にそへ我妹」の如きは、違つた意味に於いてではあるが、官能的なところにその濃やかな情趣がある。
 かういふ兩性の關係に於いてまづはたらきかけるものは男である。けれども「天雲のたなびく山にこもりたる我が下ごゝろ木葉知るらむ」(卷七)、「石の上ふるの早稻由のほには出でずこゝろの中に戀ふるこのごろ」(卷九拔氣大首)、いひ出がたきが戀である。「われゆ後生れむ人はわが如く戀する道にあひこすなゆめ」はかゝる時の男の心の苦(195)しさであるかも知れぬ。たゞ思ひそめてはそのまゝにはやめがたい。「わだの底しづく白玉かぜふきて海は荒るともとらずばやまじ」(卷七)、いひよるすべはいろ/\に發見せられよう。さうしていひよられると女はなびき易い。或はまた「たらちねの母がよぶ名を申さめど道ゆく人を誰と知りてか」といふやうなことから、見知らぬ人とあひ初める場合もあらう。しかし初めて逢うた時には「たらちねの母が手放れかくばかりすべなきことはいまだせなくに」と歎かれもする。年わかき女には母が斷えず氣をつけてゐるのが當時の習ひであつた。だから「たらちねの母にまをさば君も我も逢ふとはなしに年ぞ經ぬべき」、母に隱して逢ふ戀も多かつたに逢ひない。「かくのみし戀ひば死ぬべみたらちねの母にも告げつやまず通はせ」と、いつかは晴れて逢ふやうになる時が來もするが、それまでには「櫻麻のをふの下草つゆしあれば明かしていゆけ母は知るとも」と、或る樂しさも伴つて、いくらかの冒險的な氣分になることもあり、「たらちねの母に知らえずわがもたる心はよしゑ君がまに/\」とひたむきになることもある。しかしともかくも親より許されればよいが、さうでない時には「天とぶや輕の社のいはひ槻いくよまであらむこもり妻ぞも」と心ぼそい思ひをしなければならぬ。それのみではない。戀を妨げ逢ふを妨げるものには人言がある。「人言をしげみこちたみ我がせこを目には見れども逢ふよしもなし」、「人言をしげみと妹に逢はずして心のうちに戀ふるこのころ」、人言にはかほどに心が苦しめられる。「色に出でて戀ひば人見て知りぬべみ心のうちのしぬび妻はも」と、色に出づることすら忍ばぬばならず、「いふことのかしこき國ぞ紅の色にな出でそおもひ死ぬとも」(卷四坂上郎女)、とさへいふ。「あしびきの山より出づる月まつと人にはいびて君まつわれを」の如きは、まだ手がるな僞裝である。戀は二人の間のことであつて、他人に知られぬところに特殊の情味があるからでもあらうが、他に知られ言にたてられては逢(196)ふことの妨げられるのに、主な理由があらう。時には「汝をと吾を人ぞさくなるいでわが君人の中言きゝたつなゆめ」(卷四坂上郎女)といはねばならぬやうに、なかごとの起る場合もある。嫉妬か惡戯か、いづれにしても警戒を要する。或はまた人に知られることが社會的生活に累を及ぼすことも、無いではなからう。名を惜しむといふこともこゝから生ずるので、わが名は惜まぬにしても、「玉匣おほふをやすみあけていなばわが名はあれど君が名をしも」(卷二鏡王女)と人の名は惜まねばならぬ。だからあまりに人言のこちたき時には「人も無き國もあらぬか吾妹兒とたづさひゆきてたぐひてをらむ」(卷四家持)といふ。「ことしあらば小はつせ山の石城にもこもらばともにな思ひわがせ」(卷一六)も、人言にえ堪へぬ時のことであらう。けれども、「戀ひ死なむそれも同じぞ何せむに人め人ごとこちたみわがせむ」(卷四家持)、「人ごとは夏野の草のしげくとも妹と我としたづさはりねば」(卷一〇)、或はまた「ちはやぶる神の齋垣も越えぬべし今はわが名の惜しけくもなし」、戀のためには名はもはや顧るに足らぬといふのである。さうして母のいさめをもきかず世の人ごとをもかまはぬほどであるならば、神の禁制も戀の妨げにはならぬのであらう。「にほ鳥のかつしかわせをにへすともそのかなしきを外に立てめやも」(卷一四)も、またそれを示すものである。
 ところがかうなると、戀はもう逢ふとか逢はぬとかいふことにとゞまらなくなる。「うち日さす宮ぢを人はみちゆけどわが思ふ人はたゞ一人のみ」、或は「敷島の大和の國に人ふたりありとし思はば何か歎かむ」(卷一三)。さうして「かにかくに物は思はじ朝露のわが身一つは君がまに/\」と、すべてをその一人に捧げてしまふ。或はまた「いつまでに生かん命ぞおほよそは戀ひつゝあらずば死ぬるまされり」。戀の苦しきにはむしろ死を撰び、「劔太刀もろ刃の(197)鋭きに足ふみて死にゝも死なむ君によりてば」、君のためならば命も惜しからじといふ。「戀ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まくほりすれ」(卷四大伴百代)とはいふものの、さばかり貴き命も棄つるを惜まぬが戀である。女も男も死を以てその情を示した菟原處女の説話がもてはやされたのも、これがためである。けれどもそれが官能的肉感的の戀に伴ふものであるのを見ると、萬葉人の戀はうぶな態度で靈肉未分の境にあるものともいはれようか。が、これは必しも萬葉人に始まつたことではない。古事記の仁徳の卷の速總別王と女鳥女王との、また允恭の卷の輕太子と輕大郎女との、物語にも既にそれは示されてゐる。天皇の命に背き或は世間的遺徳に背いて、何れも身をすて死についたといふのである。上代人の精神生活は長い歴史によつてこゝまで精練せられて來たのである。
 戀には老少の定も無い。「ことも無くありこしものを老なみにかゝる戀にもわれはあへるかも」、或はまた「神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも」(卷八石川賀係女郎)の如き珍らしい場合もある。人妻とても思ひかけぬとはいはれぬ。「神樹にも手はふるとふをうつたへに人妻といへばふれぬものかも」(卷四旅人)、「おほろかに吾し思はば人妻にありとふ妹に戀ひつゝあらめや」。けれども人妻には夫を思ふ情がある。「人妻にいふはたがこと狹衣のこのひもとけといふはたがこと」女が多くの男にあふことは、よし例のないことではないにせよ、例の多いことではなかつたらしい。古事記の神代の卷のスセリ姫のことばといふものも、參考せられよう。さればこそ、人妻を戀ふる歌が特に見えてゐるのであらう。妻の夫に對する情には「つぎねふ山代路を、人づまの馬よりゆくに、おのづまの歩よりゆけば、見る毎にねのみしなかゆ、そこ思ふに心し痛し、たらちねの母がかたみと、わがもたるまそみ鏡に、あきつひれおひなめもちて、馬かへわがせ、」(卷一三)といふのもある。「から衣君にうちきせ見まくほり戀ひ(198)ぞ暮しし雨のふる日を」といふやうなのが女の普通の心情であることは、いふまでもなからう。女はかうであるが、當時の風俗として男は一人の女にのみ通うたのではない。萬葉の詩人を例に擧げれば、家持の思ひ妻は坂上家大郎女であるが、笠女郎も、山口女王も、大神女郎も、紀女郎も、また中臣女郎、河内百枝娘子、粟田娘子、も、みな家持と戀歌の贈答をしてゐる。坂上大郎女に「はじめよりながくいひつゝ頼めずばかゝるおもひにあはましものか」(卷四)と恨ませたのも、そのためであらう。けれどもまた「難波人葦屋焚く火の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき」といふものも無いではない。
 萬葉の歌に現はれてゐる戀の種々相はほゞかういふものである。それを見ると、後になつて戀歌の題詠の題とせられるものは、殆どみなこのうちに含まれてゐることに氣がつく。たゞ萬葉のはその心情が單純であり素朴であり、また甚だ無邪氣であり、その意味で可憐であつて、表現のしかたもそれに適應してゐるので、それはこゝに引いたものだけでもよくわかる。特に初に擧げた「山科の木幡の山」以下の數首に於いてそれが明かである。或はまた「まそでもて床うちはらひ君まつとをりし間に月かたぶきぬ」、失望はしたであらうが人を恨むこゝろもちの見えないのに注意すべきであらう。「しきたへの枕ゆくゝる涙にぞうきねをしける戀のしげきに」(卷四駿河采女)、「結へる紐とかん日遠みしきたへのわが木枕に蘿むしにけり」の如く、後世の戀歌に多い誇張したいひかたをしたものが、極めて稀には見えるが、それは例外であつて、このことの妨げにはならぬ。戀の歌があれほど多く作られ、さうしてそれには、或る人の或る場合の現實の情思を歌つたものと、特殊の歌人の想像から生まれたものと、この二つがありながら、その間に區別せられる何ものも無く、そのすべてが殆どみな千篇一律であるといつてもよく、個人的の特色の見えるも(199)のも無いのは、これがためであらう。七夕の歌が萬葉人みづからの生活に於ける戀の歌と同じであり、また彦星となり織女となつて歌つたものも、地上から天上を想ひやつて作つたやうになつてゐるものも、その着想に於いて表現の態度に放いて違ひが無いといふことも、これと關聯して考へらるべきであらう。これは七夕の説話に自己の生活を反映させ、天上の世界を地上に引き下ろしたからであるが、さうしたところに萬葉人の戀愛生活の意義がある。「相見てはしましく戀は和ぎむかと思へどいよ/\戀ひまさりけり」(卷四家持)、「思はじといひてしものをはねず色の移ろひやすきわが心かも」(同上坂上郎女)、「さゝの葉にはだれふりおほひ消なばかも忘れむといへばまして思ほゆ」(卷一〇)、「あひ見ては面かくさるゝものゆゑにつぎて見まくのほしき君かも」、の如く、わが戀ひごゝろを内省するところのあるものも、少しは作られてゐるが、それがやはり多くは戀ごゝろの表出となつてゐる點に、その内省のまだ幼稚であることが示されてゐる。たゞ「戀草を力車に七車つみて戀ふらくわが心から」、は一種の譬喩的表現法を用ゐたものとも見られようが、「戀は今はあらじとわれは思へるを何處の戀ぞつかみかゝれる」(以上二首卷四廣河女王)、に至つては、戀といふものを客觀化しまたそれを滑稽化した點に、一種の自嘲の氣が現はれてゐるのではあるまいか。「家にありし櫃に?さしをさめてし戀の奴のつかみかゝりて」(卷一六穗積親王)に「宴飲之日、酒酣之時、好誦斯歌、以爲恆賞也、」といふ注記のあることからも、かう推測せられる。さうしてこれは、戀の力の強く、それに對して、壓迫を感ずるところから來てゐるのであらう。けれどもまた一方では、兩性のかゝる交渉が親子兄弟姉妹などの間の交情と共に「相聞」の名によつて呼ばれてゐることを思ふと、それが日常生活の一つの樣相として見られてゐたことが知られる。妻どひは夫妻といふ家族關係の一つの形だからである。萬葉の戀の歌については、かういふこと(200)も考へねばならぬのであらう。(この章で出所を記してない歌は何れも卷一一と卷一二とに見えるものである。)
 
(201)       第七章 自然觀
 
 我が因の歌の一大特色が四季の風物を詠じたものであることはいふまでもない。歌の題材は四季と戀とが殆どその全部であり、特に古今集以後は、歌集の編纂法がほゞ一定し、その十中七八は、四季と戀とで埋められることになつてゐる。さて四季の分類法は既に萬葉でも行はれてゐて卷八と卷一〇とにそれが見えるが、これは自然界の風物を詠じた歌の多いためである。我が國に於いては、その地理的位置のために季節の推移が規則的にまた徐々に行はれ、風物の變化がそれにつれて起り、さうして一年を四分することによつてそれ/\の季節の特色が示されるのであるから、その風物を詠じた歌を編纂するに當つて、四季による分類法の取られたのは、極めて自然である。歌そのものに四季を示す語の用ゐてあるものも多いので、萬葉を開いて見ると、券二に「かすみたつ長き春日の」といひ、「秋の野のみ草かりふき」といひ、「冬ごもり春さりくれば、……秋山の木の葉を見ては、……」といひ、または「春すぎて夏來るらし」といふのが、次ぎ/\に出て來る。卷一〇には「春はもえ夏は緑に紅にまだらに見ゆる秋の山かも」といふのもある。「石ばしる垂水の上のさわらびのもえ出る春になりにけるかも」(卷八志貴皇子)、「時はいま春になりぬとみ雪ふる遠山の邊に霞たなびく」(同上中臣武良自)、「このゆふべ秋風ふきぬ白つゆにあらそふ萩の明日さかむ見む」(卷一〇)、春の來たよろこばしさ、秋になつた樂しさをかう歌つてゐるのは、一つは春といひ秋といふ語そのものによつて春または秋の特殊の情趣を表現するならはしが生じてゐるからでもあるので、四季の推移が日本人の心情に大きな力をもつてゐることを示すものであらう。さうして季節を示すこれらの語にかういふ情趣を含ませたのは、長い(202)年月の間、自然界の風物に強い親しみをもち、それに對する濃かな感受性を養つて來たからのことである。四季の觀念はシナの中原地方に生じたものであり、そこでも四季の循環といふ點に於いては我が國とほゞ同樣な現象が見られるが、わが國に於いては國土が大洋中の島嶼であるのとその複雜な地形及び地貌とのために、氣象上の現象とその變化と、またその間に於ける動植物の種類やその生態とが、多趣多樣であるから、シナの四季の觀念が繼承せられても、その内容をなす自然界の状態には我が國に特殊なものがある。暦日の上に於ける四季の位置の違ふことも、また明かである。さうしてこの多趣多樣な自然界の現象とその變化とが一々人の生活に關與するから、生活と自然界の風物との交渉には、甚だ微妙なるものがあり、その點にもまたシナとは違つた特色がある。自然界の風物を詠じた歌の多く作られたのはこれがためであるが、それが四季によつて分類せられることになつたのである。もつとも萬葉に於いてはまだそれが一般的の規準とはなつてゐないが、これははじめてかゝることが試みられたからのことであつて、古今集以後それが常例となつてゆくところに意味があるといふべきであらう。
 しかし四季の歌の作られたことには、それを助ける一つの事情があつた。上代人の心を最も強く動かしたものは前章に述べた如く戀であつた。戀は人を驅つて臨時の詩人とする。詩人は多感であり多情である。花に泣き月に泣き、風にも露にも心を傷ましめる。戀するものにはすべてが思をます便になるばかりである。特に男がよひ/\に女の許にかよひ、女が朝ごとに男の別れゆくを送る、といふ妻どひの風習は、一層それを強めも深めもする。「こゝろぐきものにぞありける春霞たなびく時に戀の茂きは」、「何しかもこゝばく戀ふるほとゝぎす鳴く聲きけば戀こそまされ」(以上卷八坂上郎女)、「よしゑやし戀ひじとすれど秋風の寒くふく夜は君をしぞ思ふ」(卷一〇)、「蘆の葉に夕霧たち(203)て鴨がねの寒き夕し汝をばしぬばむ」(卷一四)。それのみでない。雨も風も我が戀に同感し同情する。「わぎもこに戀ひつゝをれば春さめの彼も知るごと止まずふりつゝ」(卷一〇)、「ひとりゐて物思ふ宵にほとゝすこゆなき渡る心しあるらし」(卷八小治田廣耳)、或は「妹が家の門出を見むとうち出こし心もしるく照る月夜かも」(同上家持)、また或は「君に戀ひしなえうらぶれわがをれば秋かぜ吹きて月傾きぬ」(同上)。かうしておのづから風月に親しみ花鳥を友とするやうになる。「ちどりなくさほの河門の清き瀬を馬うちわたしいつか通はむ」(卷四家持)、「やみ夜ならばうべも來まさじ梅の花さける月夜に出でまさじとや」(卷八紀女郎)、或は「草ふかみこほろぎさはになく庭の萩見に君はいつか來まさむ」(卷一〇)、通ふにも待つにも、自然界の風趣から離れない。「ひとへ山へなれるものを月夜よみ門に出でたち妹かまつらむ」(卷四家持)、「春山のさきのをゝりに春菜つむ妹が白紐見らくしよしも」(卷八尾張連)、の如く、或る風光の裡に女を置いたり、女の形容に「紫のにほへる妹」といひ「かきつばたにづらふ妹」、「櫻花さかえをとめ」といつたり、さういふ類のことも稀でない。相聞の歌を四季に分類し、自然界の風物を敍した序詞が多く用ゐられ、またかの譬喩歌の詠まれたのも、同じところに主なる理由があらう。「この花の一瓣のうちに百種の言ぞこもれるおほろかにすな」(卷八藤原廣嗣)、花を女に贈るならはしもあつた。從つて戀歌から自然界の風物を除き去つたら、戀歌はその半ばを失ふであらう。古事記のオホナムチの命のには雉や鷄が用ゐられ、ホヽデミの命のには「沖つ鳥かもどく島に」と詠まれ、八雲立つの歌には雲をさへ使つてゐる。或はまたコノハナサクヤ姫の説話に寓話ながら花と戀とが結合せられてゐることも、注意せられよう。同時に戀がなかつたら花鳥の歌はその多くが作られなかつたらう。實際、萬葉でも花鳥の歌には實質の戀歌であるものが多い。これが我が國に自然界の風物を詠じた(204)歌の生まれるのを助けた一つの事情であらう。勿論、戀と自然界の情趣とが此の如くせられるのは、根本的には、花鳥風月を愛好する氣分が遠い昔からの長い年月の間に養はれてゐるからであるので、萬葉の自然界を詠じた歌があれほどに多く、その情趣があれほどに濃かに現はれてゐるのは、それが國民性ともいはゞいはるべきほどに日本人の心情に深い根ざしをもつてゐたからである。實用から離れた自然界の情趣を味はひ得るには、それだけの修練を經なくてはならないからである。
 しかし自然界の風物を詠じた萬葉の歌には、別にシナ文學に誘導せられた點もいくらかはあるであらう。卷五の梅花歌三十二首の序に「蓋天坐地、促膝飛觴、忘言一室之裏、開衿煙霞之外、淡然自放、快然自足、」といつてあるのがそれであつて、その歌の一つに「梅の花夢に語らくみやびたる花とわれ思ふ酒に浮べこそ」とある「みやび」もまたこの意義のであらう。卷六にも「歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等……宴歌」の序に「風流意氣之士」の語が見え、そこに梅の歌と鶯のとがあつて、この「風流」もまた「みやび」の語にあてられたものらしい。「海原の遠きわたりをみやびをの遊ぶを見むとなづさひぞ來し」の歌もあつて、その注には「風流秀才之士」の語がある。これは花鳥の賞翫も山海の遊覽も日常の生活から離れたものとして見るのであつて、文字によつて我が國に傳へられたシナの知識人の特殊の態度であるが、當時の我が國に於いてはその意味で貴族文化の一つの現はれでもある。一般民衆の自然界に對する態度ではないからである。しかし、上記の序をもつてゐる梅の花の歌そのものに現はれてゐる情趣にはシナ風のところは無く、梅花の詩のうちから脱化して來たらしいものも殆ど見えない。懷風藻の詩は「春日翫鶯梅」(葛野王)と題したものもあり、「梅雪亂殘岸」(旅人)といふやうな句も見えてゐて、梅に鶯を配したり雪に擬したりしてゐる萬葉の(205)歌はそれと思想的に關係はあるが、それは、これらの詩が、シナ人の菊の詩を文字の上で學んだに過ぎないものとは違つて、この集の詩としては珍らしくも、梅に對する實感に本づいたところがあるからである。たゞこゝに引いた歌は酒をそれにとりあはせたところに、歌としては異例な點があり、宴會での作だからではあるけれども、シナ趣味がそれに現はれてゐる。しかしかういふのは他には殆ど見られぬ。たゞ歌の情趣に於いてシナ人のを學んだところは無くとも、一般的に考へて、風月の遊翫にシナ文學の知識によつて助けられた氣味がいくらかは無くもなからう。
 しかしシナ式風月觀と歌に現はれてゐる日本人のとは、決して同じでない。シナ人は、ともすれば人生と自然とを背反するものと見なし、人生に背いて自然に歸しようとするが、日本人にはそれが無い。「梅の花さける岡邊に家をればともしくもあらず鶯の聲」、「朝霞たなびく野邊に足引の山郭公いつか來なかむ」(以上卷一〇)。「草枕たびゆく人もゆきふらばにほひぬべくもさける萩かも」(卷八金村)、「雁がねの來なかん日まで見つゝあらんこの萩原に雨なふりそね」(同上)、「沫雪は今日はなふりそ白妙の袖まき干さん人もあらなくに」(以上卷一〇)、花がさき鳥が鳴き雨がふり雪がふるのと、人のそれに對するのとの間に分別が無い。花も鳥も雨も雪も人の生活と離れてゐないものとせられ、自然界と人の生活とがうぶな有樣で融合一致してゐる。後にいはうと思ふが、萬葉の詩人が花をも鳥をもおのれらの親しい友として人らしく見てゐるのも、やはり同じ思想の傾向である。またそれほどの感じが無ければ、たゞ無邪氣な態度でその色と音とをめづるのである。額田王の秋に心をよせた歌などはよくそれを示してゐる。またシナには先づ或る氣分があつて、それを敍するために自然の風物を外部からかりて來るといふ一つの態度があるが、日本人には心の動かされた囑目の光景がそのまゝに歌になる。「日夕陰雲起、登城望洪河、川氣冒山嶺、驚湍激ー阿、歸雁(206)映蘭畸、遊魚動圓波、鳴蝉至ヲ音、時菊耀秋華、引領望京室、南路在伐柯、大廈緬無覿、崇芒鬱嵯峨、ハ々都邑人、擾々俗化訛、依水類浮蘋、寄松似懸蘿、朱博糾舒慢、楚風被琅邪、曲蓬何以直、託身依叢麻、黔黎寛何常、政成在民和、位同單父邑、愧無子賤歌、豈敢陋微官、但恐忝所荷、」(潘岳河陽縣作)。山川花卉草木蟲魚いろ/\のものを羅列してゐるが、それはたゞ作者の氣分を現はすためにかりたのみである。「遠遊越山川、山川脩且廣、振策陟崇丘、安轡遵平莽、夕息抱影寐、朝徂銜思往、頓轡倚嵩巖、側聽悲風響、清露墜素輝、明月一何朗、撫枕不能寐、振衣獨長想、」(陸磯赴洛道中作)。清露も明月も崇丘も平莽も作者の氣分を託する道具である。あまりに多くさま/”\の事物を並べたてるために、その事物の具象化が妨げられ、そこからかう感ぜられるのでもあらうが、かういふ敍述のしかたが作者の態度の現はれでもある。けれども潘陸を崇拜した懷風藻の詩人は少しく態度がちがふ。「聊乘休假景、入苑望青陽、素梅開素靨、嬌鶯弄嬌聲、對此開懷抱、優是暢愁情、不知老將至、但事酌春觴、」(葛野王)。素梅と嬌鶯とは眼前囑目の光景であつてまた作者の感興を誘つた要因である。文字の上ではシナ人の口まね以上に出ない作者でも、シナ人の氣分になることはできなかつたであらう。萬葉の歌になると「冬ごもり春さりくれば、なかざりし鳥も來なきぬ、さかざりし花もさけれど、山を茂み入りてもとらず、草ふかみとりても見ず、秋山の木の葉を見ては、もみづをばとりてぞしぬぶ、青きをば置きてぞなげく、そこしたぬし秋山われは、」(卷一額田王)、春花秋葉そのものが主題である。「春すぎて夏來たるらし白妙の衣ほしたり天の香山」(卷一持統天皇)、囑目の光景そのものを詠んだのである。(四季による分類法がシナの詩集には無いのに日本の歌集にそれが生じたのも、一つはこれがためであり、四季の風物そのものが歌の主題になつてゐるからである。特に短歌に於いては、一首の語數が少いために、その風物の占める地(207)位が詩とは比較にならぬほど重要である。萬葉の八と一〇との兩卷が殆ど短歌のみであり、稀に長歌があつても短いものか、または七夕の歌の如き特殊のものかであることが、この意味に於いて注意せられよう。)だから自然の風物の賞翫にシナ人から傳へられた點があるとしても、それはシナ文學の知識を有つてゐるものの間に行はれたに過ぎなかつたらう。さうしてそれが幾らか世にひろまつて來ると、次第に變化して日本人の氣分にかなふやうになつたであらう。のみならずシナ文學から何ほどかを取入れたのも、根本に於いて日本人が自然界の風物に對する深い愛好の情をもつてゐたからのことである。
 
 萬葉の歌人の自然に對する態度について第一にいふべきことは、自然を我が友と見、無情の生物を人と同じく有情のものとすることである。鳥のこゑ蟲のねを戀と聽き戀と感じたといふことは、前章に述べたが、戀するほどならばそれはみなおのれらと同じ情をもつたものである。「本つ人郭公をや稀に見む今や鳴き來し戀ひつゝをれば」(卷一〇)、「今朝のあさけ秋かぜさむし遠つ人雁が來鳴かむ時近みかも」(卷一七家持)、郭公も雁も作者と同じ人である。「夕されば小倉の山になく鹿のこよひは鳴かずいねにけらしも」(卷八崗本天皇)、夜毎になく鹿は詩人のために人よりもまさる友である。「蟋蟀のまち歡べる秋の夜をぬるしるしなし枕と我は」(卷一〇)、草葉にすだく蟲にも喜びがあり悲みがある。「世の中はこひしげしゑやかくしあらば梅の花にもならましものを」(卷五大伴大夫)、「ことしげき里にすまずは今朝なきし雁にたぐひてゆかましものを」(卷八但馬皇子)、花さく梅や天飛ぶ雁はむしろ羨ましい。「佐保川に鳴くなる千鳥何しかも河原をしぬびいや川のぼる」、「人こそはおほにも言はめ我がこゝだしぬぶ川原をし(208)めゆふなゆめ」(卷七)、詩人は時に鳥に代つてその情を歌はねばならぬ。或はまた「ま木の葉のしなふせの山しぬばずてわが越えゆけば木の葉知りけむ」(卷三小田事)、「春なればうべもさきたる梅の花君を思ふとよいもねなくに」(卷五板安麻呂)、無情の草木にも心がある。これらは單なる修辭上の擬人法ではない。むしろ木石も生きてゐるやうに思ひ、生きてゐるものはすべて人らしく感ずるといふやうな、民間説話などに現はれてゐる上代人の思想と同じく、またあらゆるものを悉く自己と同じ友と見る幼兒の情と同じく、極めてうぶな自然觀のこの時まで持續せられたものである。そこに自然界に對する親しみと懷かしみとがあるので、「春雨のしく/\ふるに高圓の山の櫻はいかにかあるらむ」(卷八河邊東人)といひ、「しぐれの雨いたくなふりそ紅に匂へる山の散らまくをしも」(卷八)といふなど、花紅葉に對してもそれをかばふこと幼兒をいたはると一般である。「春の野にすみれ摘みにと來しわれぞ野をなつかしみ一夜ねにける」(卷八赤人)にも同じ情趣がある。
 草木も情あれば、これに對する時、人の情は更に動く。「和歌の浦に白波たちて沖つ風さむき夕は大和し思ほゆ」(卷七)、「郭公なかる國にもゆきてしがそのなく聲をきけば苦しも」(卷八弓削皇子)、「今朝の朝け雁かね聞きつ春日山もみぢにけらし我が心痛し」(同上穗積皇子)。しかし同じものに對しても心からに異るのが人の情である。「世のつねに聞くは苦しき喚子鳥聲なつかしき時にはなりぬ」(卷八坂上郎女)。悲喜はさま/”\で「年のはに梅はさけどもうつせみの世の人われし春なかりけり」(卷一〇)などといふのもあるが、それは特に不平の情を抱いてゐるもののことで、概していへばすべてが樂觀的である。「梅の花さきて散りなば櫻花次ぎてさくべくなりにてあらずや」(卷五張福子)、「よひにあひて朝おもなみなばり野の萩は散りにきもみぢはや續げ」(卷八)、花は絶ゆる時なく、行樂もまた(209)絶ゆる時がない。春はいふまでもなく、秋とても後世の如く寂しきながめに悲哀を感ずるよりは、黄葉をりかざし千草花さく野邊に遊んで、その美しさをめでるのであつた。上に擧げた額田女王の歌でもそれはわかる。上代のうぶな樂觀的傾向はこのころなほ失はれなかつたのである。
 萬葉の歌人が自然界に對してかういふ親しみを有つてゐるのは、彼等の周圍の自然界が優しい温和な調子のものだからでもある。春は霞のたなびき秋は霧にかくるゝ山の姿と、石はしる瀧つ瀬の清き水と、白雲にまがふ櫻の花、錦と見える紅葉の色とが、彼等の天地である。春雨と時雨とも水蒸氣の多い我が國では到るところに見られるものながら、大和附近では特にその趣が深く、雲のたゝずまひさへよそとは違ふ。海とても玉藻かり貝ひろふことのできる穩かな光景である。歌の例を一つ二つ見ようなら「飛鳥のふるき都は、山高み川遠白し、春の日は山し見がほし、秋の夜は河しさやけし、朝雲に田鶴は亂れ、夕霧にかはづはさわぐ、」(卷三赤人)、「山背の久邇の都は、春されば花咲きをゝり、秋されば黄葉にほひ、おばせる泉の河の、上つ瀬にうちはし渡し、淀瀬には浮橋渡し、ありがよひ仕へまつらむ、萬代までに、」(卷一七境部老麿)、南には飛鳥、北には甕の原、都の眺めもかくの如くに觀ぜられた。またかの吉野の山は、いふまでもなく「足引のみ山もさやに、落ちたぎつ吉野の河の、河の瀬の清きを見れば、上邊には千鳥しばなき、下邊にはかはづ妻よぶ、」ところで(卷六笠金村)、奈良の都には「眞葛はふ春日の山は、うち靡く春さりゆくと、山の上に霞たなびき、高圓に鶯なきぬ、」(卷六)といはれた春日高圓の山と、「うちあぐる佐保の川原の青柳は今は春べとなりにけるかも」(卷八)といはれた佐保川とがある。その他、「きよき瀬に千鳥つまよび山のまにかすみ立つらむ神なびの里」(卷七)、「皆人の戀ふるみよし野けふ見ればうべも戀ひけり山河きよみ」(卷七)。「うまし國」(210)といはれた「あきつしま大和の國は」必しも香具山から見おろすところばかりではない(卷一皇極天皇御製參照)。海は難波、住吉、玉津島、「和歌の浦に潮みちくれば滷を無み葦邊をさして田鶴なきわたる」(卷六赤人)。
 かういふ風光の裡に生ひ立った萬葉の歌人は、どんな所へいっても、やはり同じやうな情趣をのみ求めたので、雄大な宏壯な眺めは彼等の目には入らなかった。「筑波ねに上りて見れば、尾花散るしづくの田ゐに、雁がねも寒く来なきぬ、新治の鳥羽の淡海も、秋風に白浪たちぬ、筑波ねのよけくを見れば、長きけに思ひつみこし、憂はやみぬ、」(卷九)、筑波山に登つても、雲烟模糊として無限の平野を蔽ふ關八州の遠望を賞することはできず、「皇神のうしはきいます、新河のその立山に、常夏に雪ふりしきて、おばせる片貝川の、清き瀬に朝宵ごとに、立つ霧のおもひすぎめや、」(卷一七家持)、朝日に映じて絢爛たる光を放つ立山に對しても、その雄姿を讃するのではない。「天雲もいゆきはゞかり、飛ぶ鳥も飛びも上らず、もゆる火を雪もて消ち、ふる雪を火もて消ちつゝ、」(卷三詠不盡山歌)、には崇高の感があるが「ふじのねにふりおける雪はみな月の望にけぬればその夜ふりけり」と同じく、目に見た光景を敍したのではない。はじめの二句とても主観的構想である。海においてもその情趣は山に於けるのと同様である。「けひの海のにはよくからしかりこもの亂れ出づ見ゆ海人の釣船」(卷三人麿)、「伊勢の海の沖つ白なみ花にもがつゝみて妹が家苞にせむ」(卷三安貴王)、「白波のよせ來る玉藻よのあひだも繼ぎて見に來む清き濱びを」(卷一七池主)、白砂青松、波靜に水清き瀬戸内海はいふまでもなく、太平洋の烟波に對しても日本海の怒濤に對しても、彼等はたゞ美しき渚に小波のよするを愛するに過ぎなかった。特に奇異なのは、萬葉一五の卷に見える遣新羅使の舟中の作である。海上を航行しながら海の歌は甚だ少い。あつても「月よみの光を清み夕なぎに水手の聲よび浦みこぐかも」のやうに(211)狹い海である。それでなければ「草枕旅を苦しみ戀ひをればかやの山べに小男鹿なくも」(壬生宇太麿)、「百船のはつる對馬のあさぢ山時雨の雨にもみだひにけり」、のやうに、海をゆきながら陸上の景色を詠じてゐる。或は「玉しける清き渚を潮みてば飽かずわれゆく歸るさに見む」(阿倍繼麿)などといふ。渚でなければ岸邊のもみぢ、當時の人が繊細な優美な光景のみを賞でたことはこれでも知られる。「おほ海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲」などは、やゝ壯大な眺であるが、かういふ例は極めて少い。「大海の水底どよみ立つ浪のよせむと思へる磯のさやけさ」の上三句が目前の光景を敍したものでないことも思ひ出される。「大海の波は畏し然れども神を齋ひて船出せばいかに」(以上卷七)、海は畏るべきものと考へられてゐたのを見れば、崇高な洋上の光景が彼等の目に映じなかったのは無理もない。彼等のやさしい神經は、ひたすらにその前に萎縮してしまったのである。
 天界や空界の壯大な眺めもまた彼等の歌に入らなかった。一體、天界の現象は深く上代人に注意せられなかったらしく、空界の現象、例へば雲とか霧とかいふものでも、多くは地上のものとして取扱はれてゐて、優しい山水のながめを形づくるものになってゐる。「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも」、「久方の天ゆく月を綱にさし我が大君はきぬ笠にせり」(以上卷三人麿)、などは、やゝ崇高のやうであるが、前者は一種のだじゃれに過ぎず、後者も目に映じた感じではない。總じて赫々たる太陽、燦爛たる星斗、もしくは幽冥測られざる闇夜といふやうな、威力あるもの、厳肅なもの、または電光雷鳴疾風暴雨などの烈しいものは、少しも彼等の詠に上つてゐない。有名な「渡る日の影も隱ろひ、照る月の光も見えず、」(卷三望不盡山歌赤人)も實景の描寫ではない。「水無月の地さへ割けて照る日にもわが袖乾めや君にあはずして」(卷一〇)などは、強い日光を歌った唯一の例であるが、それも日光そのも(212)のの感じを詠じたのではない。月の歌もいろ/\あるが、「山のはにいさよふ月を出でむかと待ちつゝあるに夜ぞくだちける」、「かすが山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけかりけり」(以上卷七)、人が賞する月光である。「わだつみの豐旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」(卷一)、「東の野にかぎろひのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」(同上人麿)、は珍らしいものではあるが、それとても空ゆく月そのものを主題としたのではない。星の歌の無いことは、いふまでもあるまい。雲を歌へば「あしびきの山河の瀬のなるなべにゆづきが嶽に雲たちわたる」(卷七)の類である。「青によし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも」(卷一五)は、極めて珍らしい例であるが、やはり奈良の空の雲である。然らざれば「秋風の吹き漂はす白雲は棚磯つ女の天つ領巾かも」(卷一〇)といふ。或はまた霧を詠ずれば「うち手折りたむの山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(卷九)、「ぬば玉の夜霧ぞたてる衣手を高屋の上にたなびくまでに」(卷九舍人皇子)、の類である。雨は春雨、しぐれ。五月雨は無い。雪も「松影の淺茅が上の白雪を消たずて置かむことはかもなき」(卷八大伴坂上郎女)、「池のべの松の末葉にふる雪は、五百重ふりしけ明日さへもみむ」(卷八)、せまいところにふらせたやさしい雪である。天地一白の銀世界ではない。風も春風、秋風、すべてが優しい。「久方の天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも」(卷八)、「おもはぬに時雨の雨はふりたれど天雲はれて月夜さやけし」(卷一〇)、春は山のはにたなびく霞、秋は雲なき空にかゝる月影が、彼等の最も愛好する空界の現象であつた。
 花鳥のいろもねもまた優しい。「梅が枝になきて移ろふ鶯のはね白妙に沫雪ぞふる」、「見渡せば春日の野邊に霞たち咲き匂へるは櫻花かも」、「さつき山卯の花月夜ほとゝぎす聞けどもあかずまた鳴かぬかも」、「野べ見れば瞿麥の花(213)さきにけり我がまつ秋は近づくらしも」、「庭草に村雨ふりて蟋蟀のなく聲きけば秋づきにけり」、「わが宿の尾花おしなべ置く露に手ふれ我妹子ちらまくも見む」、「なが月のしぐれの雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり」、「天とぶや雁の翅のおほひ羽のいづくもりてか霜のふりけむ」(以上卷一〇)、いひ現はしかたが後世の如く繊巧ではなく、その情趣もまた素朴ではあるが、我が國に特殊な風土から生れ後世まで傳へられて來た優美なる花鳥風月の愛好は、萬葉の歌に於いて既に十分に現はれてゐる。「雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむはしき子もがも」(卷一八家持)、雪月花の配合さへ歌はれてゐる。なほこゝで一言すべきは、萬葉の歌は花も鳥も日常目にとまり耳にきかれるものはすべて取入れられてゐるので、特に美しいもの優れたものを撰んでそれを愛好するといふ態度は無かつたやうに見える、といふことである。あしびの花や葛花や、その他さまで人目をひかぬものでも、歌材となつてゐる。これもまた花鳥の色も音も日常生活から離れたものでないからである。戀の歌やその序詞に用ゐられる場合に於いて特にかういふものの多いことがそれを證する。
 四季をり/\の花鳥の色ねに心をよせた奈良朝人は、たゞ自然の山野にそれを愛したのみでなく、庭園を造つてそれを翫んだ。「八千種に草木を植ゑて時毎に咲かむ花をも見つゝしぬばな」(卷二〇家持)。家持の弟は「斯人爲性、好愛花草花樹、而多植於寢院之庭、故謂之花薫庭也、」(卷一七哀傷長逝之弟歌の自註)といはれてゐる。平安朝の造庭術はこれから發達したのである。花はまた遠く見たばかりではない。「梅の花咲きたる園の青柳は插頭にすべくなりにけらずや」(卷五粟田某)、「油火の光に見ゆる我が縵さ百合の花のゑまはしきかも」(卷一八家持)、「君が家に植ゑたる萩のはつ花を折りてかざゝな旅わかるどち」(卷一九久米廣繩)。その他、「春べには花折りかざし、秋立てば(214)黄葉かざし」(卷二人麿)て遊ぶ歌は隨所に見えてゐる。かの額田王の秋を優れりと判じたのも同じ考からである。平安朝に至つて殆ど儀禮めいたものになつた插頭花は、萬葉時代に於いては實際の趣味であつた。かういつて來ると、「秋の野の尾花かりそへ秋萩の花を葺かさね君が假廬に」(卷一〇)といふやうなもののあることを附記してもよからう。
 花折りかざして遊ぶのも、庭園を造つてその眺めを喜ぶのも、花もみぢを遊翫の料とするものであるが、萬葉の歌人には廣い自然界に對する態度に於いてもまたかういふ一面があつた。その歌の戀を含んだものを除いて見れば、自然界の風物は何れも遊蘭翫賞の資に供せられてゐる。これには一つは前に述べた如くシナ文學の影響があるかも知れぬが、それよりも作者が宮廷の人、もしくはその周圍にある貴族であつたところに、主な理由があらう。「百敷の大宮人の退り出て遊ぶこよひの月のさやけさ」(卷七)。かゝる遊蘭の對象であるから、農民を詠じ獵夫漁人を歌つても、偏にそれを風光裡の點景人物と見なすのである。農夫といへば「少女らがゆきかひの早稻を刈る時になりにけらしも萩の花さく」(卷一〇)、獵夫を詠めば「足引の山にも野にもみ獵人さつ矢手ばさみ亂れたる見ゆ」(卷六赤人)、また海人を歌へば「玉藻かる海をとめらを見にゆかむ船梶もがも浪高くとも」(卷六金村)の類である。何れも彼等の生活をよそから見たのであつて、彼等自身となつてその情を詠じたのではない。既に述べたことがある如く、歌人が農民や漁夫舟人やの地位に身を置いて作つたものはあるが、それとても農耕の氣分や漁撈航海の情趣を歌つたと見なすべきものは、殆ど無い。特に瀬戸内海の往復によつて航海の經驗をもつてゐる歌人の作に於いて、舟が多く陸上からのながめとして詠ぜられ、海路ゆく舟人の情懷の歌はれてゐるものの極めて稀であり、海國でありながら海洋文學の(215)發達しなかつたことが、注意せらるべきである。これも歌が貴族文學であつたからである。民謠としては漁夫や舟人の生活を歌つたものがあつたに違ひないが、それは萬葉には採られてゐない。
 しかし海山の眺めは喜ばれ、從つて旅の歌は多く作られた。「山高み白ゆふ花に落ちたぎつ夏身の河門みれど飽かぬかも」(卷九式部)、「音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川むつたの淀を今日見つるかも」、「かはづ啼く清き川原を今日見てはいつか越え來て見つゝしぬばむ」、「家にしてわれは戀ひむないなみ野の淺茅が上にてりし月夜を」(以上卷七)、「わぎも子に猪名野は見せつなすぎ山つぬの松原いつか示さむ」(卷三高市黒人)、「玉つ島よく見ていませ青によし奈良なる人の待ち問はばいかに」(卷七)、さては「悔しかもかく知らませば青によし國内こと/”\見せましものを」(卷五憶良)、美しい風景を見る喜び、見るにつれて人に見せたい思ひが、かく詠まれてゐる。皇室を讃頌するにも「山川もよりて奉れる神の御代かも」(卷一人麿)といひ、奈良飛鳥久邇の都や吉野難波などの離宮を敍するにも、風光の明媚を以てするのも(卷一人麿、卷六卷末の幾つかの長歌)、また同じ趣味から出てゐよう。海山の眺めを賞する歌に諸所の離宮の行幸に供奉した時のものの少なくないことが、思ひあはせられる。或はまた「いほ原の清見が崎の三保の浦のゆたけき見つゝもの思ひもなし」(卷三田口益人)といひ、「草枕たびの憂ひを、慰もることもあらむと、筑波ねに登りて見れば、……長き日に思ひつみ來し、憂ひはやみぬ、」(卷九)といふのを見ると、異郷の風光に接することは心の慰めとせられたことが知られ、「ひくま野ににほふはり原入り亂り衣にほはせ旅のしるしに」(卷一長奧麿)を讀めば、旅にはそれ/\の興があるとせられたことがわかる。たゞ「大伴のたかしの濱の松がねをまきてしぬれど家ししのばゆ」(卷一東人)、「うぢま山朝風寒し旅にして衣かすべき妹もあらなくに」(同上長屋王)、或は(216)「旅にしてもの戀ほしきに山下の赤のそは舟沖にこぐ見ゆ」(卷三黒人)、旅にはいくらかの感傷が伴ふので、それは多くは家を思ひ妹を思ふところから生ずるのであるが、それを除けば旅はむしろおもしろいものとせられたらしい。記紀の上代の部分には諸方巡行の物語が多く、それには政治的經營の意義の含まれてゐるものもあるが、さうでないものもあり、またそれには、古事記の應神の卷の「このかにや」、仁徳の卷の「つぎねふや」、の如く、歌謠の記されてゐる場合がある。皇室及び貴族の領地が所々に散在してゐたのと、地方の國造などの大和に往復することが多かつたのとのために、大和と各地方との間の交通網の緊密に結ばれてゐたことが、かゝる物語の發生した主要の事情であつたかと推測せられるが、大化改新によつて中央集權の制度が立てられた後には、この交通網は一層整頓し、貴族官人の地方旅行も頻繁に行はれるやうになつた。旅の歌はかくして作られたのであらう。
 萬葉の歌にあらはれてゐる自然觀はほゞかくの如きものであるが、それについて考へられるのは、その自然觀に人による特色の無いことであつて、どの歌人の作を見てもみな同じことを同じやうに歌つてゐる。この點に於いては、戀歌が千篇一律であるのとほゞ同じである。さうしてそれは、一つは、かういふ歌が眼前の光景をそのまゝに詠じたものであつて、その間に作者の空想がはたらいてゐないからであらう。古事記の雄略の卷の歌に「もゝだる槻が枝は、秀枝は天を覆へり、中つ枝はあづまを覆へり、下枝は鄙を覆へり、」といふ句があるが、萬葉のにはこれだけのものも見當らぬ。たゞ上に引いた不盡山の歌に主親的な構想の含まれてゐるのが、例外として目につくぐらゐである。次には個人的特色のある人生觀なり世界觀なりがその根柢に無いからであらう。さうしてそれをもつまでに文化が進んでゐなかつたからであらう。既に述べた如くシナ思想や佛教思想を託したものが少數ながら見えはするが、それは一般(217)的な知識に過ぎない。しかし萬葉のかういふ歌は主觀的な情懷を示す語を交へないものでも、客觀的の描寫を主とするものではない。眼前の光景を見るまゝ聞くまゝに端的に歌つたのではあるが、その見るまゝ聞くまゝがそのまゝ作者の情緒の現はれでもあるので、見られ聞かれる對象と見るもの聞くものの氣分との辨別せられないのが萬葉の歌である。「朝ぎりはしぬゝにぬれてよぶこ鳥みふねの山ゆ鳴きわたる見ゆ」、「まくず原なびく秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る」(以上卷一〇)、眼前の光景をかう見るところに作者の情緒があり、それをいふためにこの歌が作られたのである。のみならずかういふものは極めて稀であつて、海山の眺めなり花鳥の色音なりを歌材としたものでも、その殆どすべてが歌人の情懷の直接の表出である。萬葉の歌はどこまでも抒情的のものである。たゞその情懷に個人的の特色が無いところに、萬葉の歌の一つの性質がある。
 然らばかゝる自然觀、自然に對する愛好は、萬葉人の生活に於いて如何なるはたらきをしたのであらうか。花鳥の色ねも風雲月露もまたは海山の眺めも、それらが戀愛生活に特殊の情趣を添へたものであることはいふまでもない。またそれによつて養はれた事物に對する鋭敏な感受性が一般の心生活に或る深みと味ひとをもたせるやうになつていつたこと、美しい自然の風物に對する親しみが日常の生活に或る安慰を與へたことも、考へられる。さうしてそれがまた一層自然の風物に對する親しみを加へ、その風物をます/\美化してゆくことにもなるのである。生活に融合し生活に取入れられ、生活そのものとしてのはたらきをもつものとしての自然の觀賞は、これから後にいろ/\の發展を示しつゝ、後世までの日本人の趣味の中心となつてゆくのである。
 
(218)       第八章 政治、道徳、宗教、に關する思想及び人生觀
 
 萬葉の歌の主題に於いて最も重要なものは戀愛でありそれに次ぐものは自然界の翫賞であるが、その他にも幾らかは萬葉の歌人の吟詠に上つたものがあるので、政治や道徳やまたは宗教に關する思想についても、それによつて覗ひ知ることのできる方面がある。さうしてそれは、散文の物語としての神代史、または文學的色彩を帶びてゐる國語の詔勅、即ちいはゆる宣命、とかまたは祝詞とかに現はれてゐるところと、互に參照して考ふべきものである。
 萬葉の歌には、事物の起源を神代よりとか、オホナムチスクナヒコナの時からとか、いふやうな語で表現してゐる場合がしば/\あるので(例へば卷三登筑波岳作歌丹比國人、卷六幸芳野離宮時作歌笠金村、幸于紀伊國時作歌赤人、卷一〇七夕、卷一八七夕歌家持、または卷六超……名兒山之時作歌大伴坂上郎女、過敏馬浦時作歌、卷七※[羈の馬が奇]旅作、など)、それは天地の別れし時または天地のはじめの時といふやうなシナ思想から來たいひかたと同じ意義に用ゐられてゐる(例へば、上記の卷一〇の七夕歌と同じところにある同じ七夕の二首の長歌とを對照して見るがよい)。これはこの時代に於いて神代の物語が知識人の間にしつかりした權威をもつやうになつてゐたことを示すものであるが、「やすみしゝわが大君の、たかしらすやまとの國は、すめろぎの神の御代より、しきませる國にしあれば、生れまさむ御子のつぎ/\、天の下しろしいませと、やほよろづ千とせをかねて、定めけむ……」(卷六悲寧樂故郷作歌)に於いては、皇位が悠遠の昔から無窮の未來をかけて世襲的に繼承せられることが歌はれてゐるので、そこに神代の物語に本づいた萬葉の歌人の皇室觀が、明かな形で表現せられてゐる。皇室の本質が大八島國しろしめす、即ち日本全國(219)の君主たる、ところにあり、その地位は遠い昔の皇祖からの一すぢの血統によつて繼承せられる、といふのが、いはゆる皇孫降臨の場合の皇祖の詔勅として語られてゐる時代の物語の根本精神だからである。「天地のはじめの時し、久方の天の河原に、八百萬千萬神の、神集ひ集ひいまして、神議り議りし時に、天照すひるめの命、天をばしろしめすと、葦原の水穗の國を、天地のよりあひの極み、知ろしめす神の命と、天雲の八重かきわけて、神降し坐せまつりし、高照らす日のみ子、」(卷二日並皇子尊殯宮之時作歌人麿)の挽歌にも、また「葦原の瑞穗の國を、天下りしらしめしける、すめろぎの神の命の、御代重ね天つ日嗣と、しらし來る君の御代々々、しきませる四方の國、」(卷一八賀陸奧國出金詔書歌家持)などにも、同じことがいはれてゐるので、これらもまたこの思想がをりある毎に力強く發露せられる一例である。文武天皇即位の時のを始として、たび/\の宣命にもそのことがいはれ、幾つかの祝詞にもまたそれが見えてゐることは、いふまでもないが、これらもまたこのことが一般知識人の常識となつてゐたからである。神代の物語の作られたのは、明かな事實として、久しい前から日本全國の君主としての皇室が世襲であり、さうして現在の皇室の外には君主の地位にゐたものは曾て無かつたことが、知られてゐたのと、朝廷の周圍の貴族も地方的豪族も、即ち全國の有力な諸氏族のすべてが、皇室のかゝる皇室であることを信じ、皇室に對して親近の情を懷いてゐたのとのためであつた。さうしてそれから後、年月の經つと共に、このことはます/\確實にせられ、それのもつ精神的の力はいよ/\強められた。萬葉の歌人の皇室觀はかくして形づくられたのである。これは皇室の志向から出たことではなくして、貴族豪族、當時に於いてはそれが即ち知識人であつた諸氏族が、事實としてもつてゐた思想の表現なのである。
(220) ところで政治的君主たる天皇の地位は現つ神として表現せられることがあり、宣命などには儀禮的にこの稱呼が用ゐられてゐるが、萬葉の歌人もまた「現つ神わが大君」(卷六讃久邇新京歌)の如く、それを用ゐ、なほ今の大君を「神のみこと」といつたり(卷一過近江荒都時作歌人麿、卷三至伊豫温泉作歌赤人、卷六讃久邇新京歌、など)、その大君のしきます今の代を「神のみ代」(卷一幸吉野宮時作歌人麿)、ともいつたりしてゐる。これは政治的權力と宗教的地位とのまだ分化しなかつた極めて遠い昔の未開の時代の思想が稱呼の上に遺存してゐたものと考へられるので、皇祖を民間信仰に於ける宗教的崇拜の對象としての太陽神(日の神)としたのも、その皇祖の時代を神代と稱したのも、こゝに由來があつたらうが、この時代に於いてはそれはたゞ大君の地位の稱呼の一つとせられたのみのことであり、大君が宗教的に崇拜せられる神であるといふのではなかつた。なほ天皇が邪神惡鬼を折伏せられた説話があつて、これは天皇が神としての力をもつてゐられる如く考へられたことを示すもののやうであるが、これもまた説話としてのみ語られてゐることであつて、現實に行はれたこととしてではない。のみならず、天皇は政治的君主としての任務の一つとして神の祭祀を行はれる習慣であつたが、これは天皇が明かに神に對する人であられることを示すものであつた。現つ神といふ儀禮的稱呼も、臣民に對する場合の宣命にのみ用ゐられ、神に對する祝詞には用ゐてないのも、この意味からであらう。スメラミコトとかタリシヒコとかいふ尊稱も、上にもいつた如く、天皇を純然たる人と見てのことである。その日常生活がすべての人と共に、またそれと同じく、せられたことは、これもまた上にいつておいた如く、道ゆきずりにあつた處女とこと問ひかはされたとか、さういふ女を皇后とせられたとかいふ、物語の作られたのでもわかる。だから歌人が天皇について神の稱呼を用ゐたのは、實は一種の敬稱としてであり、シナの儒教思想(221)によつて「聖」といつたのとほゞ同じであるので、一首の歌のうちに「ひじりの御代」といふ語を用ゐると共に、「すめろぎの神のみこと」といつてゐるのでも(卷一過近江荒都時作人麿)、それは知られよう。續紀天平元年の宣命にも、現つ神としての天皇を「聖君」といつてある。儒教思想に於いては帝王はどこまでも人であり、聖はその美稱であるから、天皇を聖といひながら神といつてゐるのは、その神の語が宗教的意義をもたない一種の敬稱であることを示すものである。「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」(卷三天皇御遊雷岳之時作歌人麿)の如きは、既に述べた如く戯謔の言である。たゞ神といひ神の代といふ稱呼は神代の物語によつたものである。なほ神代の物語に於いて天皇が日の神の子孫となつてゐることも、また萬葉の歌人によつて繼承せられ、「高てらす日のみ子は、飛鳥のきよみの宮に、神ながらふとしきまして、」(卷二日並皇子殯宮之時作歌人麿)の如く「日のみ子」の稱呼が用ゐられてゐることを、附記しておかう。
 しかしかういふやうな稱呼のあることは、天皇の政治的權威の本源が神にあるといふこと、天皇の政治は神權政治であるといふこと、を示すものではない。皇位は日の神から傳へられたことにはなつてゐるが、それは皇祖が民間信仰に於いて宗教的に崇拜せられた神としての太陽とせられてゐるからのことであるので、皇位の、從つて天皇の政治的權威の、本瀬はどこまでも血統上の御祖先、即ち皇祖であり、この場合に日の神といふのも、皇祖の稱呼としてである。このことは、神代の物語に於いて皇孫降臨の時の皇祖の詔勅とせられてゐるものにも、明かに述べてあるので、葦原中國はわがみこ、わが子孫、のしらすべきところといつてあり、上にも言及した文武天皇の即位の時の宣命に「高天原に事はじめて、遠天皇の御世、中、今、に至るまでに、天皇が御子のあれまさむいやつぎ/\に、大八島國(222)しらさむ……、」とあるのもそれである。(「遠天皇の御世、中、今、に至るまで」といふのは、遠い昔の天皇の御世から中ごろを經て今の時に至るまでといふ意義である。遠天皇は、和銅元年の宣命に參照してみると、具體的には始めてこの國土に降られたといふホノニニギの命をさすのであらう。)萬葉の歌にこの思想が表現せられてゐる二三の例も上に擧げておいた。皇室の政治的權威は、神から與へられたものとせられたのではなくして、御祖先から血統によつてつぎ/\に傳承せられたものである、といふのが上代人の思想であつた。天皇の政治が神の政治である、天皇の權威の背後に神がある、といふやうな考を上代人が有たなかつたことは、いふまでもない。神權政治といふやうな觀念は我が國には曾て無かつたものである。
 神代の物語に於いては、皇室の統治の對象としての一般民衆のことは全く語られてゐず、たゞ葦原中國とか瑞穗國とかいふやうな稱呼によつてこの國に生活してゐる民衆が暗示せられてゐるのみである。さうしてそこに何等かの行動の語られてゐるのは、皇室の從屬者もしくは輔弼者としてそれ/\の職掌を有するものと地方的豪族としての出雲の首長とのみである。これはこの物語の作られまたは潤色せられてゐた時代に於いて、皇室が直接には一般民衆に對する政務にはあづからず、たゞ民衆を部民として領有しまた彼等の地方的首長である貴族豪族との間に交渉があつたのみだからであるが、從屬者輔弼者について語られてゐるのは、物語の作者が當時の朝廷に於いてそれと同じ地位にあつた諸氏族、即ちこゝに貴族と稱した諸家、の有力者であつたのと、物語が治者たる皇室の地位に立つてその權威の由來を語るものであるのとの、ためであらう。さうして皇位が世襲であると共に、これらの貴族豪族もまた世襲であつたため、貴族の有力者は、神代の物語に於ける皇室の從屬者輔弼者をそれ/\の職掌によつてその諸家の祖先と(223)し、皇室と彼等との關係を神代以來歴史的に繼承せられて來たものとしたのであるが、地方的豪族もまた、漸次、彼等の祖先を神代もしくは上代の皇族である如く裝ふことになつた。さうしてそれが神代の物語に次第に書き添へられるやうになつた。神代の物語にはまだ現はれてゐないが、後には貴族の有力者もまた、彼等の祖先を直接もしくは間接に皇室と血統上の關係があるものとして、その系譜を構成するやうになつた。これは諸家が、皇室と親近な關係を有することによつてそれ/\の家の地位と勢威とが保たれる、と考へてゐたことを示すものであるが、しかしそれと共にそこから、諸家の皇室に對する道徳的責務がかくして繼承せられて來た諸家の任務を全くするところにある、といふ思想が導き出されるので、それは後にいふ家持の歌によつても明かに知られる。このやうにして諸民族の祖先は系譜の上で皇室に結びつけられたので、全體から見ると、皇室が諸氏族の宗家とせられたことにはなるが、しかしそれは歴史的事實ではない。また實際に於いて諸氏族の間にも、皇室とそれらとの間にも、同一氏族としての感情の結びつきがあつたのではなく、同族としての行動が取られたのでもない。系譜の上に於いても、皇室と諸家とのかういふ關係は、諸家の一々が別々にその祖先を皇族としたまでのことである。だから事實としては勿論のこと、系譜の上でも、皇室が諸氏族を包含する大きな氏族の族長の如き地位にあられたといふのではない。實際政治の上に於いて族長としてのはたらきをせられたのでないことは、勿論である。また系譜の上で皇室とかういふ關係をつけたのは貴族豪族としての諸氏族のみであつて、一般民衆ではなかつたから、皇室が國民を一大家族としてその族長であられたといふことも無い。皇室はどこまでも「大八島國しろしめす」政治的君主であられたのである。
 ところで、第一章に述べた如く、大化改新以後の政治機構に於いては、貴族豪族の氏族としての地位と權力と職責(224)とは、原則的には無くなつたけれども、實際にはなほそれから繼承せられてゐるところがあり、皇室に對する感情に於いても同樣であつた。「海ゆかば水づくかばね、山ゆかば草むすかばね、大君のへにこそ死なめ、かへりみはせじと言だて、ますらをの清きその名を、古よ今の現に、ながさへる祖の子どもぞ、大伴と佐伯の氏は、人の祖の立つる言だて、人の子は祖の名絶たず、大君にまつらふものと、いひつげる言のつかさぞ、」(卷一八賀陸奧國出金詔書歌家持)に、皇室に對する祖先以來の家の責務と名とをこれから後も全くしてゆくべきことが強調して歌はれてゐるのを、見るがよい。喩族歌(卷二〇同人)にもほゞ同じことが歌はれてゐる。「ものゝふの八十伴のをも、己が負へる己が名負ひ、大君のまけのまに/\、この河の絶ゆることなく、此の山のいやつぎ/\に、かくしこそ仕へまつらめ、いや遠永に、」(卷一八爲幸行芳野離宮之時儲作歌同人)ともいつてゐるが、「己が負へる己が名」は遠い昔から繼承せられてゐるものに外ならぬ。家によつては奈良朝になつてもなほかういふ氏族精神が持續せられてゐた。勿論、他面に於いては、徒らに家の名を誇りまたはそれによつて勢利を得ようとする弊害も伴つてゐたことを忘れてはならぬが、それとても、諸家の地位が皇室との關係によつて定まるものとせられてゐたからである。皇室に對する彼等の道義の根據もこゝにある。ところがこのことは、祖先から繼承せられた地位と職掌とを有つてゐる貴族に限らず、廣く一般の官人に及ぼされたので、それは皇室に對する讃頌の意を敍した萬葉の歌によつても知られる。
 皇室を讃頌する歌は種々の場合のがあるが、遊幸とか賜宴とかの時のに特に多い。「やすみしゝわが大君の、神ながら神さびせすと、吉野川たぎつ河内に、高殿をたかしりまして、のぼり立ち國見をすれば、たゝなはる青垣山の、山つみのまつる調と、春べは花かざし持ち、秋立てば黄葉かざせり、ゆふ川の神も、おほみけに仕へまつると、上つ(225)瀬に鵜かはをたて、下つ瀬にさでさしわたし、山川もよりて仕ふる、神のみ代かも、」(卷一幸于吉野宮時作歌人麿)はその代表的のものであらう。かういふ作は半ば儀禮的のものであり、かゝる場合の同じやうな作(卷六に見える赤人金村の歌など)が、多くは長歌の形によつてゐることも、既に考へたやうな長歌の性質に參照して、その理由を知るべきである。しかし自然の風物も大君に仕へまつるといふところに、第七章で述べた如く、さういふ風物の翫賞に心を用ゐた當時の歌人の皇室觀が現はれてゐる。さうして「陳私拙懷」と題したもの(卷二〇家持)にもほゞ同じことが詠ぜられてゐるのを見ると、それは必しも儀禮の意味に於いてのみのことではなかつたことがわかる。皇室に對するこの情懷は、山澤亡命の民を教へるために「天へゆかば汝がまに/\、地ならば大君います、この照らす日月の下は、天雲のむかふす極み、谷ぐくのさわたる極み、きこしをす國のまほらぞ、」(卷五令反惑情歌憶良)といつてゐるところにも現はれてゐるし、「いざ子どもたは業なせそ天地のかためし國ぞ大和島ねは」(卷二〇於内裏肆宴歌藤原仲麿)にも、それが見える。「天地のかためし」は神が作りかためたことを、シナ思想をかりてかういつたのであらう。「み民われ生けるしるしあり天地の榮ゆる時に逢へらく思へば」(卷六應詔歌犬養岡麿)といつてみづから喜ぶのも、大君の下に榮えてゐるわが國を天地といふ語で表現したものである。しかしこれらの歌の作者とその作られた場合とから見ると、皇室に對するかういふ情懷は、皇室から特殊の地位を與へられその優遇をうけてゐる貴族官人のであつたことが知られる。それはいはば皇室と彼等との私的關係から生じたものである。さうしてそれは次に述べることによつても證せられる。
 萬葉の歌に於いては、皇室を讃頌するについても、それが國家の形成または發展の上に何等かの偉大な功業を立て(226)られた、といふやうなことをいつたものが無い。神代の物語そのものに於いて既にさうなつてゐるので、皇祖としての日の神についても、初めてこの國土に降られたといふ皇孫についても、また大和に都を奠められたといふ神武天皇についても、何等英雄的の行動は語られてゐず、政治的功業のあつたことも示されてゐない。皇祖は生れながらに、皇孫は皇祖の血統をうけたために、この國の君主となられたのであり、君主となられても君主としての特殊の事業はせられなかつた。神武天皇とても都を日向から大和に遷されたのみであつて、大和に進入せられた時に反抗者を平定せられたのも、神としての皇祖の庇護によつてである。強烈な抵抗を克服し困苦にうち勝つて大業を成就し國家を建設したといふやうな話は、どれにも無い。我が國の上代に敍事詩が生ぜず、民族的英雄の物語ができなかつた、といふことは上に述べたところであるが、皇祖にも皇孫にもまた神武天皇にも、民族的英雄の面影は全く見えない。その後の皇室に關する種々の物語も同樣であつて、そのうちで最大の事業が語られてゐるやうに見える神功皇后の新羅に對する行動とても、皇后に英雄的な性格は與へられてゐず、皇后みづから政治的もしくは軍事的活動をせられたやうにもいはれてゐない。たゞ軍を帥ゐて海を渡られたことが概念的に語られてゐるのみである。これは歴史的事實として歴代の皇室にさういふことのあつたやうな形迹が無く、從つてさういふ傳説などが無かつたためであらう。大化改新から奈良朝にかけての皇室とても、概言すればこの點は同じであつて、そのしごとはすべて文化的平和的のものであつた。萬葉の歌人の皇室讃頌が上記の如きものであるのは、これがためである。或はまた藤原の宮や久邇の都を讃美した歌はあつても、それらの都の創始者として皇室を見たものは一つも無く、黄金の陸奧から出たことを賀した作はあるが、東大寺の建立や大佛の鑄造を天皇の事業として歌つたものの無いことも考へられる。が、これとても、皇室(227)について事業を語ることが昔から無かつたからのことであらうか。さもなくば、事實として朝廷の事業は、天皇みづから企圖せられたことではなくして、輔弼者たる臣下の計畫したことであるのが常例であつたからのことかも知れぬ。
 歴代の天皇が國家の存立及び發展に關して偉大な功業を立てられたといふやうな説話も生ぜず、どの天皇をもさういふ意味に於いての國民的英雄として見るやうな思想が無かつたのは、國家の形成が概して平和裡に行はれ、その統治にも困難が無かつたと共に、異民族に對する民族的闘争の無かつたためであるが、これは國民の間に異民族に對する意味に於いての民族的感情も明かな形での愛國心も發達しなかつたこと、從つて皇室に對する情懷に愛國的精神といふやうなものが結びつかなかつたことの、理由ともなるものである。しば/\述べた如く、わが國に異民族に對し外國に對する意味での民族または國家の保護神が生じなかつたことも、これと關係があらう。萬葉の歌にも民族的または國家的感情の表現せられたものは見あたらぬ。唐なり新羅なり異國にいつたものが、その異國に對する、または異國人の間に立ち交つてゐる自己を省みての、感懷を詠じたものも無い。「いざ子ども早く大和へ大伴のみつの濱松まちこひぬらむ」(卷一憶良)はたゞ故郷の戀しさをいつただけである。この一首の他にはこの歌人の在唐時代の作すらも傳へられてゐない。「ありねよし對馬のわたり海なかに幣とりむけてはや歸り來ね」(卷一春日老)と入唐のものを送る歌にも、唐の異國であることが考へられてはゐない。卷一五には遣新羅使の一行の種々の場合の詠が集めてあるが、それらにも新羅といふ異國に對する何等の思想も感懷も現はれてゐず、新羅での歌は一首も載せてない。異國での歌の見えないのは、歌が作られなかつたのか、作られても何等かの事情で萬葉に入らなかつたのか、またもし作られなかつたとすれば、それは異郷の風物なり世情なり、その間に於ける自己の地位なり行動なりが、歌人の感觸(228)と心情とを動かさなかつたためか、さらずば他の何ごとかに心を奪はれて歌を思ふ餘裕が無かつたためか、これらのことはすべてわからぬが、何れにしても、それによつて異國に對する國家的感情の強烈でなかつたことが、何ほどかの程度で、推測せられはしまいか。過去からの傳統としてかういふ感情が養はれてゐなかつた上に、現在の状態に於いて異國に對する國家的のはたらきのせられなかつた當時のこととしては、これが自然であらう。もつとも欽明紀に見える「から國の城のへに立ちて大葉子はひれふらすも大和へむきて」といふやうな歌も無いではないが、これは戰爭の場合の話として語られた特殊のものである。
 少しわき途にそれるが、上記の問題に誘はれて附言すべきことがある。それは、憶良の好去好來の歌(萬葉卷五)にも、遣唐使清河に賜はつた御製や諸家の餞別の歌(卷一九)にも、舟舶の安全を祈り歸朝の日を待つ意をのみ述べてあり、入唐使みづからの作にも文物の本源地を親しく訪ふことの喜びなり期待なりを歌つたものの無いことである。これは入唐が一種の冒險に類するほどに困難であつたからでもあり、一般に冒險の快さを味ひ得なかつた貴族的氣風のためでもあらうが、また上に考へた如くシナの文物を文物そのものとしてのみ尊尚し、シナの土地*、シナ人の生活、全體としてのシナの雰圍氣、からそれを離して取扱つてゐたからでもあらう。これがシナから遠く隔つてゐる日本の地理的位置と、シナの文物の傳來の歴史的事情とによつて、おのづから養はれた日本人の態度であり、シナの文化の世界の外に在つてその文物を文物として模倣することと、それを日本化することとの、並び行はれた理由でもある。シナの文物をあれほど尊尚し、それを學びとることにあれほど努力しながら、さういふ心もちを詠じた歌の作られなかつたのも、一つはこのことと關聯があらう。さうしてまたそこに異國に對し異民族に對する國家的民族的感情の明(229)かに意識せられなかつたこととの連繋もある。皇室に對する感想を考へたにつれて、やゝ縁遠いことながら、かゝることが思ひ浮かべられる。
 以上は朝廷に何等かの地位をもつてゐる貴族もしくはそれに從屬する官人知識人の皇室に對する情懷であるが、一般民衆の皇室觀については文學の上にそれを徴すべきものが無い。神代の物語はいくらかづつ徐々に民間にも知られて來たであらうし、大化改新によつて中央集權の制度が布かれ、官人知識人と民衆との接觸が直接間接に生じまたは多くなつたにつれて、ます/\さうなつたであらう。さうしてそれが民衆の皇室觀を形づくる要素となつたことが考へられる。しかし貴族や官人とは違つて、民衆は公民として、法制上、皇室の直接の統治をうけることになつてはゐるが、その地位が距つてゐるから、現實には皇居の壯麗とか百官の奉仕する状態とかによつて皇室を觀るのみであつたらう。從つて神代の物語とそれとが結びついて彼等の心情に入つてゐたかどうかは、よくわからぬ。それを推測すべき資料も無い。たゞ萬葉の防人の歌があつて、そこに「大君のみこと」のことがいはれてゐるのと、防人の任務が國防にあるのとのため、これらの歌に愛國心と結びついた皇室觀が現はれてゐるやうに説かれたことがあるので、そのことをこゝで一言しておかう。例へば「大君のみこと畏み磯にふり海原渡る父母をおきて」といふやうなのがあるので、それが皇命を奉じて防人の任につくためには父母をも顧みずしてゆく、といふ風に解せられたのである。しかしこの歌は政府の命によつて懷しい父母を離れてゆくといふ點に、哀れつぽい情が見えるのであつて、「畏きやみことかゞふり明日よりや草がむた寐む妹なしにして」、「旅衣やつき重ねて寢ぬれどもなほ膚寒し妹にしあらねば」、また「家風は日に/\吹けど我妹子が家言もちて來る人もなし」、などと同じ心情である。家持が「追痛防人悲別之心(230)作歌」に「たらちねの母が目かれて、若草の妻をもまかず、」難波津を舟出してゆく彼等を憐み、「鳥が鳴く東をとこの妻別れ悲しくありけむ年のを長み」(以上萬葉卷二〇)と詠んだのは、これがためである。彼等防人には、何のために遠い筑紫のはてまでやられねばならぬかといふことすら、よくは判つてゐなかつたらう。けれども防人とせられたものがかういふ心情を抱いてゐたといふことは、彼等が「大君」のために酷使せられ奴隷視せられてそれに不滿であつたといふやうなことではない。さういふ形迹は數多き防人の歌のどれにも見えない。たゞ防人は東國の民が遠く筑紫に派遣せられるところに特殊の點があつたので、そこにあのやうな歌の作られた理由があつたのである。またそれを「大君のみことかしこみ」てのこととしたのは、令の制度から來た一定のいひかたに過ぎないので、例へば「晝見れどあかぬ田子の浦大君のみことかしこみ夜見つるかも」(卷三任上野國司時至駿河淨見埼作歌田口益人)の如く、官吏の任免や地方派遣についても、やはり同じことばが用ゐられてゐた。その意義は官命を奉じてといふことである。政府の命令が「詔」の形で發布せられたのと同じである。民衆に於いてこの語の用ゐられたのは、彼等公民が、法制上の規定として、統治の直接の對象とせられたからである。防人がその徴發について特に「大君」の命を畏み恐れたのでないことは、いふまでもない。
 或はまた藤原宮之役民作歌(卷一)を民衆が痛苦を歌つたものとするやうな解釋があるとするならば、それもまた當らぬことである。これは知識人の作であるので、そのことはこの歌の形が長歌であることからも、既に述べた如くシナ傳來の祥瑞思想を取入れてあることからも明かであり、身を忘れて勞役に服することのいつてあるのも、思想としては仁徳紀に見えてゐるのと同じ儒教的仁君觀から來てゐるところがあると共に、作者に於いては民衆がこのこと(231)ばどほりの氣分ではたらいてゐるやうに思つてゐたことを、示すものである。歌そのものが皇室讃頌のために作られたものであることを考へねばならぬ。勞役のことは「宮木ひく泉の杣に立つ民の息ふ時なく戀ひわたるかもし(卷一一)の序詞にも用ゐられてゐるので、知識人も息ふ時なき民の勞苦を知つてはゐたが、その勞苦が宮作りに對する不滿の情となつたやうには考へてゐなかつたらしいことが、この語調このいひかたによつて推測せられる。乞食者詠(卷一六)といふものも、鹿や蟹が何物を作る材料になるかといふことを、これらの動物みづからのことばとして、滑稽ないひかたで語つたものであるので、「爲鹿(蟹)述痛作之也」といふ注記は、後世の阿呆陀羅經めいた滑稽ないひかた、輕い口調でしやべりたててゐるこの歌の情趣とは、一致してゐない。「大君にわれは仕へむ」といひ「大君召す」といふが如きは、鹿と蟹とに對照するために最高級の存在を歌材として用ゐたのであつて、この對照にも滑稽な態度は見えてゐる。かういふ態度にこそやらんかたなき痛苦の情が潜んでゐるといふ觀察があるかもしれぬが、當時の人が鹿や蟹についてさういふ同情をもつてゐたとは考へられないではないか。そこでこの歌は鹿や蟹の言に託して民衆の痛苦を訴へたのだといふ解釋が生じ、「大君」といふ語のあるのがそれを助けてゐるやうでもあるが、それは誤であらう。この歌もまた曾て説いた如く知識人の作であることが明かであるので、決して民衆の作ではない。かの貧窮問答の歌(卷五憶良)も作者の貧者に對する深い同情の現はれであり、さうしてこれは、その敍述に滑稽な調子のあるのが却つてその同情の深さから來てゐるものと解せられもするが、しかしそれは「世のなかの道」のせんすべなきをいつたものであつて、政治の問題としてではなく、この貧者は文字のまゝの貧者であつて、被治者としての民衆の意義でいつてゐるのではない。「楚とる里長の聲」が治者の聲として、特に大八島しろしめす神の命から出(232)たものとして、いはれてゐないことは、いふまでもなからう。これはこの作者の多くの歌に現はれてゐる皇室に對する感懷によつても明かに知られる。のみならず、第一章に述べた如く、當時の政治がすべて朝廷に權勢をもつてゐるものの政治であり、民政がそれ/\の官司のしわざであつたことは、憶良も十分に知つてゐたはずである。「食國の遠のみかどに、汝等がかく罷りなば、平らけくわれは遊ばむ、手むだきてわれはいまさむ、」(卷六天皇賜酒節度使等御歌)には、シナの政治思想に於ける天子垂拱の觀念をとり入れたところがありはするが、事實、天皇が政治の實務に開與せられなかつたからのことでもあらう。或はまた憶良はシナ文學の知識をもつてゐたが、詩の本旨を譏刺にあるとしてそれを歌に適用しようとする如き考をば、もつてゐなかつたに違ひない。さういふ形迹はどこにも見えないからである。
 しかし萬葉の歌人が當時の政治の弊害と民衆の辛苦とについて何ごとをもいはなかつたのは何故か。それを感知しなかつたのか、感知してもそれを聲に出さなかつたのか、そも/\歌の世界はさういふこととは全く別のところにあると考へられたのか。多分その主なる理由は、第三のであつたらう。第三章で考へた如く、彼等は農夫をも漁人をもおのれらと同じ人と見、同じ人間感情を有つてゐるものとは見てゐた。しかしそれは、或はよそめに見やる自然界の風物としてであり、或は戀に生き戀に死ぬものとしてのことである。それが歌の世界に於ける人の姿である。産業に從事しそれによつて生活を營むものとしての民衆は、そこには殆ど現はれて來ない。たゞこゝに除外例があつて、「古よ今の現に、よろづつきまつるつかさと、作りたるそのなりはひ、」(卷一八雲歌義持)、といふのがそれである。旱天に雨雲の現はれたのを見て枯れゆく稻に慈雨のそゝがむことを願ふについても、「調」が先づ思ひ浮かべられた。こ(233)れが地方官としての家持の感懷であつた。すべての官人がさうであつたかどうかは知らぬが、官人の地位からはおのづからさういふ傾向が生じたではあらう。ところがこゝでは、その官人が歌人家持であつた。そこでかういふ歌が作られたが、これは他には類が無い。一般的にいふと歌人に農民の生業とその困苦とに對する同情があつたにせよ、それは歌の世界のことではなかつた。歌の主題は、因襲的におのづから定められてゐたと解すべきであらう。その因襲から少しく脱したところのある貧窮問答歌を作つた憶良も、政治の弊害から來る民衆の痛苦を歌ふには至らなかつた。しかし一面からいふと、これはその意味での痛苦の甚しくなかつたことを示すものでもあらう。このことは第一章に述べておいた。
 
 萬葉の歌に於いて皇室に對する、またその意味で政治思想と交渉のある、貴族官人の道徳觀念については、上に述べたが、それは嚴格なる道徳觀念といふよりも寧ろ自然の情懷であり、或はこの二つの分化しない状態にあるものである。その他の方面でもまた同じことが考へられるので、父母に對する心情もその一つであり、儒教道徳の信條として教へられる孝の觀念との違ひがこゝにある。「父母も花にもがもや草枕旅はゆくともさゝごてゆかむ」、「父母が頭かきなで幸くあれといひしことばぞ忘れかねつる」、「ちはやぶる神の御坂に幣まつり齋ふ命は父母がため」(以上卷二〇防人)、防人の作ではあるが、編者たる知識人もそれを承認しそれに同情したのである。「出でてゆきし日を數へつゝけふ/\と吾を待たすらむ父母らはも」、「一世には二たび見えぬ父母を置きてや長く吾が別れなむ」(以上卷五和爲熊凝述其志歌憶良)、死にゆく人の子の情懷もかう思ひやられた。「父きみに吾は愛子ぞ、妣とじに吾は愛兒ぞ、」(234)(卷六配土佐國之時歌石上乙麿)、の感は、何人も有つてゐたであらう。子が親をかく思ふと共に親の子に對する情もまた切である。「父母を見れば尊し、妻子見ればめぐし愛し、」(卷五令反惑情歌憶良)、前半には儒教思想と一致する點があるが、後半はそれとは關係の無い自己の純情である。「瓜はめば子ども思ほゆ、栗はめばまして忍ばゆ、何處より來たりしものぞ、まなかひにもとなかゝりて、やすいしなさぬ、」といひ、「白がねもこがねも玉も何せむに勝れる寶子にしかめやも」といふ(卷五思子等歌憶良)。子に對する至愛をこれほど率直に道破したものは、シナの文學には全く見あたらぬ。「旅人の宿りせむ野に霜ふらば我が子はぐくめ天のたつむら」(卷九遣唐使舳發難波入海時親母贈子歌)。旅ゆく子を思ふ母のいぢらしい情が美しくいひあらはされてゐる。もしそれ病んで辛苦しつゝ「術もなく苦しくあれば出で走り去ななと思へど子らに障りぬ」(卷五老身重病經年辛苦及思兒等歌憶艮)といひ、愛兒を失つて「若ければ道ゆき知らじまひはせむしたべの使負ひて通らせ」、「ぬさ置きて吾は乞ひ祈む欺かず直にゐゆきて天路知らしめ」(以上卷五戀男子名古日歌同人)と詠んだのを見れば、寥々たるこれらの三十一音に、世に親子あつてより以來の子に別れた親の涙が悉く集められてゐるかと、思はずにはゐられないであらう。人麿などの美詞麗句を惜しげもなく並べたてた幾多の挽歌は、これに比べると殆どみな空言虚辭である。子に對する親の愛を歌つたと明かに知られるものは、萬葉集中にも數はさほど多くはないが、その少いものが盡くみな眞情の流露したものであるのは嬉しい。子を思ふ親の情は古今を通じて日本の文學に於いて特に力強く表現せられたものであるが、このやうにして萬葉に既にそれが見えてゐる。さうしてそこにシナの詩との大きな違ひがある。
(235) 萬葉の歌に見える道徳觀念、むしろ道徳的感情、として注意せられるのは、この類のものであるが、集團的もしくは公共的道徳觀念の現はれてゐるものは殆ど無い。村落的集團をなしてゐた民衆とは違つて、集團生活公共生活を體驗しなかつた貴族官人の文學としては、これは當然であらう。宗教思想に於いてもまた同じことが考へられる。上代人の生活に於いて神の祭祀もしくは呪術が大きなはたらきをしてゐたことはいふまでもなく、萬葉の歌にもそれは現はれてゐる。佛教によつて新しく與へられた宗教思想については既に述べたから、こゝでは固有の信仰の持續せられてゐる方面について考へてみるに、萬葉には朝廷や地方的集團で行はれる公共的な祭祀や呪術のことは、殆ど見あたらぬ。筑波ねの「かゞひ」を詠んでもそれの宗教的意義は歌はれてゐないし、ふるの社のいはひ杉などが歌材として用ゐられても、さういふ神社を公衆の祭祀の對象として見たのではない。たゞ「奥山の榊の枝に、白がつけ木綿とりつけて、いはひべをいはひほりすゑ、竹玉をしゞにぬきたり、しゝじもの膝をりふせ、手弱女のおすひとりかけ、」(卷三祭神歌大伴坂上郎女)、「白妙の手すきをかけ、まそ鏡手にとりもちて、」(卷五戀男子名古日歌憶良)、または「なき澤の杜にみわすゑ祈れどもわが大君は高日しらしぬ」(卷二)、など、個人的に神に祈ることは、しば/\歌はれてゐる。旅だつ時、海わたる時、旅にある夫や子のため、旅にゐるものが故郷の父母や妻のために、ぬさ奉りて神神にその平安を祈る歌はいくらもあり、防人の歌にもそれが見えるし、第五章第六章に述べた如く、戀にも神に祈らせてゐる。第六章で考へた如く、禁忌を破つて新嘗の夜に戀人を招き入れるといふやうな歌もあつて、それは神に祈るといふのとは矛盾した氣分ではあるが、神に祈るのも禁忌を破るのも、切なる心情は同じである。さて祈祷祭祀が現在の生活に關するものであることはいふまでもないが、それが親子夫妻などの間の情愛から出たものである點に、(236)上に述べた遺徳的感情と一致する點があり、また私生活に關するもののみであつて、公共的もしくは集團的意味のあるものが無いことについても、それと關聯がある。皇室に對する感情とても皇室と彼等との特殊の關係に於いて成り立つものであつて、國家的精神がそれと結びついてゐないことも、また同じところから來てゐる。さうしてこれは、集團生活の體驗が無くまた國家的事業の無い時代に生きてゐた、貴族の歌だからである。
 最後にこの時代の貴族の人生觀について一言しよう。文學に現はれてゐる宗教思想が、神の祭祀とそれに絡まつてゐる種々の呪術とによつて生活の安全を求めるところにあつたことは、いふまでもないが、その根柢には人生に對する樂觀的の氣分がある。神に祈れば幸福が與へられる。祓の如き呪術を行へば災禍は除かれる。この世界の外に別に樂土があるとは考へなかつた。高天原は神代の昔にのみあつた天上の皇都として、傳へられたまゝに考へられてゐたので、現實に存在する神の世界、または人間界を超越した樂土、のやうなものにはならなかつた。(神は人格を具へてゐないから、その住む世界といふやうなものは想像せられなかつた。)シナ思想の神仙郷も日常生活の世界に引きよせられ、佛教の淨土も現世の延長として見られた。死は免れ難いが生の世界はそれによつて損はれぬ。死者のゐる地下のヨミが穢れたところとせられたのは、地上の人の國の淨きところであることを示し、人生の樂しむべきことを示してゐる。人口さへも死ぬものよりは生れるものが多いとせられ、さうしてそれが喜ばれた。人の關心は死にあるのではなくして生にあるのである*。ヨミは死者の國として一應は考へられてゐるが、その死者は半ば屍體であり、從つてヨミも墳墓の性質をもつてゐるので、死後の生といふことは明かにせられてゐない。人に存在する「たま」(魂)(237)も生者に於いてはたらくので、「たま合はばあひねむものを」、「たま合はば君來ますやと」、などともいはれてゐる(萬葉卷一二、一三)。神代の物語に「たま」のことのいはれてゐるのも生きてゐる人のについてである。「たま」は身體から遊離するものであり、從つて死後にも存在するものとせられてはゐたらしいが、そのゆくへについては、明かな觀念が形づくられてゐなかつた。死者のことは多く思慮に上らなかつたのである。人はみな生を喜び生を樂しむ。「命を幸くよけむと石はしる垂水の水を掬びて飲みつ」(萬葉卷七)、生命の源としての水は清くしてまた盡ることが無い。かういふ心情は、その生活氣分を温和なものとし輕快なものとする。「上つ瀬は瀬はやし、下つ瀬は瀬よわし、」イサナキの命が中つ瀬に下りてみそぎをせられた時に日の神は生れたといふ。「はつ土は膚あからけみ、しは土はにぐろきゆゑ、三つ栗のその中つ土を、」とるともいふ(古事記應神の卷の歌)。何ごとにも中和を尊んだことが、これによつて知られるが、それは即ち生活氣分が温和であつたからである。實生活に於いて天皇も皇族も一般民衆も人として同じであるとせられたこと、異民族を敵視も卑しみもせず、奴隷といふものを使ふ風習の無かつたこと、などは實生活の上に於いてこのことを示してゐる。また輕快な氣分は第三章で述べたやうな萬葉の歌の修辭の法、特に音や語を重ねたりくりかへしたり頭韻を用ゐたりすること、に於いて最もよく現はれてゐるし、滑稽ないひかたの好まれてゐることにもそれが見える。これは、序説第一章で述べた如く、日本の風土と民族の生業とその間に於ける生活状態とによつて、おのづから養はれて來たことであらう。
 勿論、實社會に於いては、利益や權勢の爭ひもあり、強者が弱者を壓迫することもあつたけれども、一般の風尚とその根柢の人生觀とが上記の如きものであつたことは爭はれぬ。政治にも社會にも幾多の缺陷はあり、個人としても(238)思ひに任せぬことは多かつたけれども、それはそれとして、明るい氣分で生きてゐたし、また生きようとしてゐた。萬葉の歌が全體としてかういふ氣分に充ちてゐることは、それを通讀するものには、すぐに感ぜられる。國家に關しても、「作り竟へず」ある國、「成らざるところもある」國を、作り竟へ作り成さうとする意氣(神代の物語)を、爲政者としては、もつてゐたので、聖徳太子の事業も大化の改新も、或はまた奈良平安の都つくりも、その現はれである。そのはたらきが政治よりも文化に向けられ、シナの文物の學習模倣に力の集められたこと、またそれには功過の兩面があることは別として、これだけのことは認められる。次の時代になつて、貴族的性質をどこまでも保ちながら、日本に獨自な文化を作り出してゆくのも、この意氣の形をかへて持續せられることを示すものと解せられる。また一般民衆に於いては、一面ではシナ式制度とそれから生じた秕政とのために困厄しつゝも、他面ではその困厄のために却つて、自己の生活を維持しまた伸長せんがための新た行動がとられ、さうしてそれがおのづから制度をくづしてゆく作用をなし、後になつて日本に獨自な政治形態を次第に形づくつてゆく素地を作ることになるのである。
 
(239)   第二篇 貴族文學の成熟時代
     貞觀前後から萬壽ころまでの約百七八十年間
 
       第一章 文化の大勢
 
 五六世紀のころから朝廷を中心とした貴族社會の間に次第に形づくられて來た日本の文化は、民族生活の地盤の上に立ちその特殊の性質を展開させながら、シナの文物を斷えず取入れ斷えず學びとることによつて發達したものであり、從つて何ごともシナ的色彩に塗りつぶされた如き外觀を呈するほどにさへなつたので、九世紀のはじめに當る平安朝の初期に至つてその趨勢がいよ/\強められた。これが前篇に述べたところである。ところで、この貴族文化に於けるシナの文物の要素と次第に形づくられて來た民族生活の特殊性との關係は、これから後にも過去の状態がそのまゝ繼續せられてゆくであらうか、それとも何等かの新しい轉進が行はれるであらうか。またこの貴族文化の經濟的基礎は、上代にあつては皇室および貴族の地方に於ける領民からの租税とその勞力とであり、大化改新の後には、全國の租税が朝廷に集中し全國民の勞力がそれに使用せられると共に、貴族等は官職につくことによつてその給與をうけ、また種々の方法により次第に土地民衆を占有するところに、それがあつた。そこで貴族文化の維持には、令の制度による朝廷の權威と貴族の富力とがなくてはならなかつたが、この二つは一面では相伴ふものであると共に、他面(240)では、貴族の私有地民の増加が朝廷の權威を損ふものである點に於いて、相克するものでもあつた。この二面の間の交渉は、これまで發達して來た貴族文化の將來に種々の影響を與へるであらうが、それがこれからどういふ方向をとつてゆくであらうか。朝廷の權力を握る貴族はそれについて如何なる態度をとり、またその權力の下にある民衆は、その權力とそれによつて形づくられる文化とに於いて、如何なるはたらきをなし、またそれから何物をうけ入れるであらうか。さうしてそれによつて日本の文化が如何なる性質をもち如何なる樣相を呈してゆくであらうか。これがこの一章に於いて取扱はうとする問題である。
 
 まづ事實について文化の發達の方向を見よう。我が國の文化がまだ幼稚であつて何ごとについてもシナの文物を學びとらうとした時代とは違つて、隋との交通の行はれた聖徳太子のころから數へてもほゞ二世紀半の歳月を經過し、その間に前篇で考へたやうな文化上の閲歴を重ねて來た九世紀の中ごろとなつては、長い間の生活によつて養はれた日本人の智能も發達し知識も加はり、その情感も精練せられ、從つて生活の欲求にもまた新しい傾向が生じて來たことが考へられる。それはシナの文物を學ぶことに力をこめてゐた前代に於いても、文學の上にその最も著しき表徴を示してゐた如く、なほ日本人としての生活を保つて來た、或はそれを進めて來た、その意氣が、シナの文物の模倣の特に強められた平安朝初期の風尚の間に、却つて昂まり、さうしてそれが次第に形をなし次弟に顯はれて來たことによつて知られる。具體的にいふと、前代に於いてシナから學ばれた文物を資材として、新しく日本の文化を創造する傾向が生じ、或はその文物が日本化して來たのである。シナの文物を尊重した貴族都人士も、さすがにおのれらの生(241)活と一致しないところの多い異國の文物を享受するだけでは物足りなくなつて來ると共に、今まで學びとつたシナの文物が重大な要素となつてゐる彼等の生活そのものが、おのれらに適切な、またおのれらの欲求を充たし得べき、新しい生活を展開し新しい文化を導き出すだけの力を、彼等にもたせたのである。もつともこれには、文物の本原地とせられたシナが遠く我が國と隔つてゐ、またそれに對する交通が不便であると共に、序説及び前篇にも考へた如き種種の事情によつて兩國民が互に接觸せず、我が國とシナとが文化的に一つの世界をなしてゐなかつたのみならず、日本人みづからが故らに求めるのでなければ、シナの文物は我が國に入つて來ないといふ理由もあり、またその文物が常に進歩してゆくものではなく、ぢきに停滯する性質をもつてゐるから、一とほりそれを學び取つてしまへば、その後はさして新しい刺戟を感じないといふ事情もあつた。さてその第一は、日本語をそのまゝに自由に寫し得る表音文字としての、假名といふ國字の製作として現はれた。
 
 片假名平假名の作られた時代は明かにはわからぬが、萬葉の編纂せられたころには、まださういふ樣子は見えなかつた。しかし萬葉でも、卷五には、字音のみを用ゐたもの、少くともそれが主になつてゐるものが多く、卷一四、一五、及び一七、以下には、殆どみなさういふ書きかたがしてあり、從つてまたいはゆるテニヲハや活らくことばの如きも一々明かに寫されてゐるから、これらは純粹の音字に對する要求のあつたことを示すもの、もしくはそれが作られる前驅と考へてよからう。記紀でも歌謠だけはすべて字音によつて寫されてゐるのを見ると、一音一語をも正しく示すことの必要な歌に於いては、これが普通に行はれてゐた書きかたであつて、萬葉のさうでないものは、古事記の(242)如き散文の寫しかたが歌に適用せられたもの、もしくはそれに本づきながら、漢文に親しみのある歌人が、文字に對する知識的興味から、またいくらかの遊戯的氣分さへも加はつて、試みはじめ、それが一時的に流行したのではあるまいか。もしさうならば、歌の書きかたとしては、奈良朝時代でも、字音のみにより、もしくはそれにいくらかの字訓を交へて用ゐることが、むしろ一般の風習であつたと考へられる。朗讀せられた祝詞や宣命に、漢文風の措辭法の用ゐてあるところは殆ど無く、さうしてテニヲハや活らくことばなどが字音によつて寫されてゐることも、參考せられよう。平安朝になつてからは、漢文は、漢文としてつゞることが次第に弘まつたと共に、歌を記す場合にはこの方法のみが行はれるやうになつたのではあるまいか。日本後紀や續日本紀に見える歌の書きかたを見ても、さう推測せられる。
 ところが、字音によつて漢字を用ゐることからその字の劃の省略せられた片假名の作られるやうになるのは、自然の順序であるから、さういふ傾向はいつのまにか生じ、それが何等かの機會に強められたであらう。片假名の起源は漢籍や佛典のよみかたを注記するために用ゐたところにあつたらうといふ説があつて、それにも一部の眞實はあらうが、片假名の要求せられたのは、主として國語を簡便にまた正確に寫さうとするため、即ち日本人の思想心情を表現するに便宜な文字を作らうとするためではなかつたらうか。同じ要求から字音によつて漢字を用ゐたことの一歩を進めたものと推測せられるのである。さてその作られた初には、すべての音がみな備はつてゐたのではなからうが、幾らかの片假名が用ゐ始められゝば、その便利なことはすぐわかり、便利なことがわかれば、他の文字をも作らうといふ希望が起るに違ひなく、さうして一旦例の開かれた方法によつて他の文字を作るのは、容易のことであり、また字(243)音によつて用ゐられた漢字にその準據もあり由來もあるのであるから、片假名は長年月の間に漸次にまた不規律に作られ、用ゐられ、それが後になつて整理せられたと考へられるよりは、表音文字を要求する氣運に乘じて、或は漢字の劃を省略して用ゐるやうなことが行はれ初めた時に於いて、比較的急速にそれが作られ、字體もおのづからほゞ一定せられたと考へる方が、合理的ではなからうか。少くとも片假名の完成に長年月は要しなかつたらうと思はれる。さうしてそれは、シナの文物の日本化が種々の方面で行はれはじめたことと對照して考へると、平安朝に入つてから或る歳月を過ぎた時代のことではあるまいか。もつともその基本である漢字は同じ音のが幾らもあるから、字によつては自然に種々の異體が作られたであらうし、時の經つうちにはその間に流行の變化もあつたであらう。今日に遺つてゐる平安朝時代の片假名によつてもそれは知られる。
 さて漢字音には四聲の區別があるのに、それによつて作られた片假名にそれが無いのは、久しい前から漢字音が日本語に適するやうに轉化してゐたからであつて、歌に於いてはもとよりのこと、その他の場合でも、字音によつて日本語を寫した漢字の音が既にさうなつてゐたのであり、片假名はたゞその漢字の劃を簡単にしたまでのものである。しかしこれには種々の問題があるので、例へば濁音をあらはすものの無いこと、音の數が五十に定められたこと、またその昔の數と密接の關係のあるいはゆる五十音圖がいかにして成立したかといふこと、などがそれであるが、何れも國語學上の困難な問題であるから、こゝではそれに觸れることをさしひかへ、たゞ五十音圖については、それが唐人について學ばれたことがあらうと推測せられる切韻の知識に本づいて作られたものらしく、また今日一般に用ゐられてゐる形のものができたことには、いはゆる悉曇の學がそれを助けた點もあつたらう、と考へられるといふことを(244)記すにとゞめる。しかし悉曇が參考せられたにしても、文字の性質はそれとは違つて一綴音が一字とせられたのは、もと/\漢字に本づいて作られたものであるのと、漢字によつて日本語を寫してゐた長い間の習慣がそのまゝ繼承せられたのとの、故であらう*。音が單純でその數の少いことにも、また悉曇と違ふところがあるが、これは、漢字の字音がそのまゝ用ゐられなかつたことと共に、日本語の性質がさうさせたのであり、そこに日本語についての或る省察の行はれたことが考へられる。五十音圖が、後世になつて學問的に發見せられるやうになつた日本語の語法に、よく適合してゐるといふことも、平安朝人の言語に對する考察の深かつたことを示すものに違ひない。
 片假名ができてからは、歌がそれによつて記されたのみならず、萬葉では漢文もしくは漢文風の措辭法によつてつづられてゐたその詞書きも、國語で書かれることになつたであらうし、ひいては一般に散文の作られる道がそれによつて開かれることになつたに違ひない。しかしこの點に於いては、片假名よりも平假名の方が重要なはたらきをしたらしい。片假名のできたにつれて平假名の作られるのは自然の趨勢であるから、それの世に現はれた時期もまたおのづから推知せられる。これは、片假名が漢字の劃の一部分をとつたのとは違つて、草書體の一字をそのまゝ簡單化したものであり、從つて片假名が音の符號たるにとゞまつてゐるのとは違つて、漢字を見なれてゐるものにはそれと同じほどな文字としての形をもつてゐる。また片假名の直線でできてゐるのとは違つて、曲線によつて成りたつその形が優美であると共に、その運筆が流暢であり自由である。且つ草體の簡易化の方法と程度とが一定せず、また同じ音の種々の漢字を用ゐることができるために、幾樣もの異體が作られ、一字ごとに離して書く片假名とは違つて、幾字をも續けて書くために、そのつゞけかたにさま/”\の變異も生ずる。從つて筆者の個人的特色が著しく現はれる。平(245)假名はその基本となつた漢字の草體とは全く違つた形と書きかたとそれから生ずる特殊の情趣とをもつてゐる。片假名がどこまでも實用的なものであるのとは違つて、平假名の藝術的であるのは、これらの理由によるのであつて、歌の如き文學的作品を寫す文字としては甚だふさはしいものである。平假名の製作には或は和歌によつて要求せられたところがあるかとも推測せられるが、その製作が和歌の流行を助ける一因ともなつたであらう。明證は無からうが、平安朝に於ける新しい歌人の先驅者であつた小野篁や遍昭などはこの假名で歌を書いたのではあるまいか。後にいふやうに、紙繪や屏風繪の賛としての歌、または繪物語の詞書きにも、散文の物語をつゞるにも、平假名は甚だ適切である。或はまた女性が文學上の活動をするやうになるのも、女性的な優婉の趣をもつ平假名の力によることが多いといはねばならぬ。平假名の作られたのは日本の文學及び一般文化の發達に於いて重大なる關係をもつものである。勿論、平假名を用ゐたのは女性のみのことではなく、文學上の活動が女性によつてのみ行はれたのでもないが、かういふ一面のあることも確かである。平假名ばかりでなく、一般に表音文字としての假名の作られたのは、國語から漢字の桎梏を除き去つてそれを自由にしたものであり、シナの文物とは違つた日本に獨自な文化の形づくられたのは、その力によることが多い。漢文が作られるやうになつてから一時衰へた國語の散文が復活し、それが急に發達したのも、これがためであることは、いふまでもない。ついでにいふ。いろは歌が平假名と同時に作られたものでなく、また空海の作でないことは、今日となつてはいふ必要の無いほど明かであらう。いろは歌はその無常の思想を述べた内容と、今樣式和讃式の外形とから見ると、平安朝中期以後のものであり、早くとも干觀内供などが和讃を作つたころの作としか思はれぬ。シナ文學の流行の最も甚しかつた平安朝の初期に、シナ崇拜であり密教の宣傳者であつた空海が涅槃(246)經の偈を日本語に譯したとは考へられず、歌のつくり方も、三十一音の短歌に物名をよみこんだり一定の語を首尾に置いたりする遊戯が、更に一歩を進めて、「同じ文字なき歌」(古今雜)の作られるやうになつた後のものであらうから、この點だけで見ても後世の作であることがわかる。凌雲集に見える仲雄の「謁海上人」といふ詩に「字母弘三乘、眞言演四句、」とあつて、この字母はいろは歌のことだらうといふ説もあつたが、これは悉曇をいつたものと見るのが適切である。
 しかし假名の作られたことは、知識を得るため學問のためには大きなはたらきをしなかつた。學問は依然としてシナの書物を読むことであつたからである。たゞそれを讀み、漢字に日本語をあてることによつてその意義を解することが、從來は口誦と記憶とまたは訓點とによつてゐたのが、假名によつてそれを文字に記すことができるやうになつた點に、便宜が得られたには違ひない。稀に文字を用ゐるにしても、漢字で國語を寫すといふ困難な方法によつてゐたのに、その困難が取除かれたのである。昔からの習慣であつた漢文を國語化して讀むことも、それによつて新なる助けが得られたであらう。しかしそれにしても、シナの書物によりシナ人の考へかたによる學問の根本の性質は變らず、日本人の思惟の方法が自由にせられ新しくせられたのでもない。假名の作られたことの眞の意味とその效果とは、學問をすること知識を得ることに於いてではなくして、自己の情思を表現することに於いてであつた。さうしてその點に於いて最も重要なのは上にもいつた如く國文學の振興を誘つたことである。この時代に於ける日本に獨自な文化上のしごととして何よりも大切なことがそれであるからである。文學の士は、漢詩の流行の盛であつた弘仁前後の世を經過したことによつて、却つてその漢詩にあき足らない感じを抱き、前代から繼承せられて來た和歌に心を向ける(247)やうになり、さうしてそれに導かれて物語といふ文
學の新形態が發生したのである。が、これについては別に次章以下に於いて考へるであらう。
 
 次にはシナの文物の日本化といふことであるが、これは藝術に於いて著しく現はれてゐるので、その第一は繪畫である。百濟河成が死人を畫いて飛騨の工をたばかつたといふ今昔物語の有名な傳説は、繪にかゝれたものを實物と見誤らせたといふのであつて、何處の國にもある話であるから、これによつて彼が寫實的手腕をもつてゐたといふやうなことはいはれないが、技術上の能力が進んで來るにつれて、實際目にふれるものを寫さうとするやうになるのは自然の傾向である。文徳の御代に屏風の繪の「瀧おちたりけるところ」を題にして歌よめと仰せられたとあるのを見ると(古今雜上)、その繪は歌によみ得られるものであり、多分日本の風景を寫したものであつたらう。業平や素性法師の時代に「龍田川に紅葉流れたるかた」(古今秋)を畫いた屏風があつたことからも、このことが類推せられよう。風景畫はこのころにもう日本化してゐたのである。古今集や、伊勢、貫之、躬恆、などの家集には屏風繪の賛が多く見え、さうしてその畫題は「男の來あひて物いひたる」、「夜ひと夜ものおもひたる女のつらつゑつきたるところ」、「若菜つむところ」、「春山にゆく人あり」、「櫻の花の散る下に人の花見たるかた」、「萩の花見たるところ」、「女郎花をりて硯のもとにおける男」、「女の寺詣に山路につれてゆく」、「あまの家烟たつところ」、「四季の繪」、「月次の繪」、など、當時の貴族生活、京都附近に見られるやうな風景、または年中行事の類である。その技巧はほゞ唐畫の手法によつたものであらうが、畫題につれておのづから變化してゐたに違ひなく、つまり倭繪がこの時代から始まつたので
 
         (248)ある。巨勢金岡といふ、名ばかり聞こえてゐてどんなものを畫いたかわからない畫家も、この氣運に際會して世に出たものであらう。さうしてこれは繪畫といふものの性質上、必然に生ずる變化である。
 次は音樂であるが、それについて重要なのは、專門の樂人でない貴族等の好事家が、室内娯樂として管絃の御遊を始めたことである。(御遊の名は天暦ころからでなくては史上に見えないやうであるが、それは名稱だけのことである。それについての儀禮などの整つたのは後のこととしても、殿上人の管絃合奏がずつと前から行はれてゐたことは、疑がなからう)。その樂曲は唐高麗の曲であるけれども、演出の法は、彼等が貴族である點からも、またそれが室内樂である點からも、漸次庭上の舞樂とは趣の異つた温雅優美のものに變つていつたらう。のみならず、舞樂そのものに於いても樂曲なり舞態なりがかなり變つて來たらしく思はれる。この前後に樂曲の改作がしば/\行はれたのでも、また伽陵頻(鳥)や蝴蝶やの如き新しい舞樂が創作せられたのでも、それが想像せられる*。しかし、管絃に於いては、彼等はたゞその絲聲竹聲の官能美と閑雅な情趣とを喜び、またその技巧を尚んだのみであるから、さすがにこれだけでは不滿足である。漢詩にあきたらずして和歌に趨いた當時の貴族は、音樂に於いても聲樂としての歌謠を欲したに違ひない。けれども和歌は固より謠ひものではない。特殊の作曲を經て儀禮の場合などには用ゐられたので、神遊びなどのがそれであり、また大歌所といふ官司の設けられてゐたのも、特殊の儀禮に於いてかゝる歌の奏せられるためであつたが、彼等の情生活の音樂的表現としては、甚だ物足りないものである。だから娯樂として行はれた歌謡は、民謠から取ることにしたので、御遊の場合でもやはり同樣であつた。それは即ち催馬樂である。たゞ貴族の玩弄に供せられただけに、原曲の奔放た野趣は自然になくなり、また樂器の伴奏があつたであらうから、後世の三絃に上つた(249)民謠が民謠らしくないと同じほどの變化は、初からあつたに違ひないが、それにしても、唐高麗の樂の管絃からは得られない別樣の興趣を感じたことは、事實であらう。けれどもたゞそれだけでは唐高麗の樂に對してあまりに貧弱であるから、後になると、その旋律を唐樂(もしくは高麗樂)の或る樂曲に合せて改作し、伴奏樂器も唐(もしくは高麗)樂のものを用ゐるやうにした。だから催馬樂の詞章はたゞ旋律に從屬するやうになつてゐて、むやみに詞をくり返したり、意義にかゝはりなく詞を切つたり、聞いてゐては語として耳にひゞかないほど音を長く引きのばしたりして、歌ふやうになつた。もつとも廣井女王が好んだといふ文徳朝時代の催馬樂が、既にさうであつたかどうかは少しく疑はしく、これはむしろそれよりも後の變化ではないかとも考へられるが、ともかくも日本語の歌謠が唐高麗の樂と並んで、或はそれと結合せられて、貴族に賞翫せられたことは、注意せらるべきである。神樂の演奏に人長の舞が行はれたのも、種々の儀禮に於いて倭舞の奏せられたのも、唐高麗のとは違つた日本人的情趣に滿ちた舞曲の喜ばれた點に、これと同じ意味がある。
 それのみでない。漢詩に於いても、幾分かは同じ傾向が見られる。それには元白二家のを初として中晩唐の詩の知られて來たことに誘はれた點もあらうが、その主因はこゝに述べたやうな文化上の一般的趨勢にあつたであらう。(元白二家の詩集は遲くとも承和年間には我が國に傳へられた。文徳實録仁壽元年の條。)島田忠臣や菅原道眞の作を見ると、或は古今集の歌などに見られるやうな日本人的思想があり、或はいくらかの感傷が敍せられてもゐる。忠臣が花に對して「宿昔猶枯木、迎晨一半紅、國香知有異、凡樹見無同、析欲妨人?、含應禁鳥籠、此花嫌早落、爭奈賂春風、」といひ、「去歳落花今幾發、我爲去歳惜花人、年々花發年々惜、花是如新人不新、」といひ、または秋に逢うて(250)「自去自來不復留、暗然空任歳時流、今朝何事殊警愕、應是傷心第一秋、」(家集)といつたのは、「吹く風にあつらへつくるものならばこの一もとはよきよといはまし」(古今春讀人不知)、「色も香も同じ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりぬる」(同上友則)、「秋來ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今秋敏行)、などの風情がある。また「宴坐芳辰遊處寛、何因物束苦盤桓、人生少壯須臾過、歳到春光頃刻闌、眼未昏時花可愛、身猶健日酒宜歡、不知夜後飄客盡、醉裏慇懃把火看、」(同上)などには、その思想に唐詩から來たところはありながら、いくらかの感情の發露も認められよう。道眞の「我爲遷客汝來賓、共是蕭々旅漂身、欷枕思量歸去日、我知何歳汝明春、」「宣風坊北新栽處、仁壽殿西内宴時、人是同人梅異樹、知花獨笑我多悲、」(後草)などは、悲傷の言をつらねて徒にありし目の榮華をしのぶの情に過ぎないけれども、藤岡作太郎(國文學全史平安朝篇)の説の如く、直截に感懷を抒べた點に幾分か樂天の面影も見られ、その樂天に傾倒してゐた忠臣の作は、特にさうである。しかし詩としてはこゝに引いたものでも知られる如く、平易ではあるけれども、中晩唐の詩に現はれてゐるやうな情趣は無い。それはやはり國語の詩でないからである。漢詩がシナのを模倣するところに技巧を求めるものでなければ散文的なものになる理由はこゝにある。忠臣の「春風歌」(家集)に春風の氣分が現はれてゐず、道眞の「敍意一百韻」(後草)に作者の感懷が強く詠ぜられてゐないのを見るがよい。菅家萬葉にある歌を譯した詩に歌の情趣が少しも移されてゐず、續浦島子傳に添へられた詩が全く散文であつて、龜姫の詠とせられてゐるものが、中晩唐の作者の手になつた桃源の仙女の劉阮を思ふ詩とは比べものにならぬことも、考へあはされる。詩と共に四六文の作られてゐることによつても、詩のかゝるものであつたことが知られよう。(詩と四六文とが同樣に見られてゐたことは朗詠によつてもわかる。)一(251)般には樂天に於いてもその對?の巧みさを賞したのみであつたらう。(これも朗詠の詩の句のとりかたによつて知られる。)元白及びその他の中晩唐の作者の集が傳來したのは、日本の作者がその詩風と日本人の情思に適應するものがそれにあることとを知つて、それを求めたからではなく、たま/\商船によつて齎らされたのであらうから、これは當然である。たゞそれを得それを讀んだことが、從來の詩にあきたらなくなつて來たらしく思はれる當時の作者に或る示唆を與へたことは考へられる。上記の數首を弘仁前後の詩に比べると、少數の作者に於いてではあるが、詩といふものを單に知識の上からのみ、また技巧としてのみ、見なくなつた一面があり、そこに幾らかは日本化の行はれてゐることが、注意せらるべきである。詩形からいつても七絶の多くなつたことは、これと關係があらう。國史に記されてゐるこのころの詩の題に「花欄聞鶯」とか「露重菊花鮮」とか「雪裡梅」とかいふ、四季をり/\の風光に關するもの、すぐに歌の題にもなりさうなものが多く、扶桑集時代のものが殆どみなシナ風であるのに比べると、この點でも詩に對する態度の少しく變つて來た樣子が見られる。但し忠臣の「題雨中櫻花」に雨にぬれた櫻の風趣がよく寫されてゐないやうに、詩題の日本的であることが詩の寫質的であることを示すものではないことも考へねばならぬが、詩題のかうなつてゐるだけでも一つの意味はある。この傾向は後になるほど強められてゆくので、本朝麗藻の詩には物語に寫されてゐるやうな光景がかなり精細に描き出されてゐる。このことは後にいはうが、これには漢詩を日本語化して讀むことによつて助けられてゐるのでもあらう。シナ風の宮詞などが摸作せられなくなつたところにも意味はある。
 その他、日常の生活に關するものに於いては、平安朝の貴族に特有な服裝などの形成せられたのも、この時代のこ(252)とであり、宮殿建築の樣式が整備し、いはゆる寢殿づくりの如き貴族の邸宅の構造の發達したのも、また同樣である。後にいふ如き半ば儀禮であり半ば遊戯である種々の「公事」が行はれるやうになつたのも、また令の官職の名を國語で呼ぶことが考へられ、儀禮の場合にもそれが行はれたのも、或はまた日記などに多く用ゐられるやうになつた一種の文體の生じたのも、みなシナの文物の日本化であると共に、日本人の生活の表現としての意味をもつことになつたのでもある。日本紀の漢文漢語で書かれてゐる部分に強ひて國語の訓を施さうとしたのも、この時代のことかと思はれる。いはゆる朗詠に於いては、漢詩の一聯が和歌と同じやうに取扱はれるが、これも漢詩の日本化の一つのしかたであつた。
 けれども、假名の製作にも、國文學の新しい形成にも、またその他の藝術上の新傾向にも、意識しての國民的自覺といふやうな意味があつてのことではない。假名が作られた後も公文は依然として漢文であり、歌が行はれても漢詩は必しも衰へぬ。承和延喜の詩を集めた日觀集も編纂せられ(朝野群載)、諸家の家集も世に行はれた。或はまた倭繪が成立し初めても、賢聖障子とか荒海手長足長の障子とかは、やはり作られてゐる。學問はどこまでも漢文の典籍を讀むことである。秘府略の如き百科全書風のものが編纂せられ、漢文漢詩の製作のためでもあつたがシナの故事などを多く知ることが必要とせられたこと、苦心して四六文を作ることを學んだこと、などによつて當時の學問といふものの性質が知られもする。醫學や天文の學の如きもシナのをそのまゝに學んだのであり、本草の學もまたシナのを本にしてゐた。和名抄がシナの名稱に日本語をあてるといふ態度で編纂せられたこともまた參考せられよう。要するにシナ傳來の知識を尊重することは少しも變らなかつたのである。日本の獨自の文化の次第に形成せられてゆく傍に(253)は、かういふ事實があつた。これは前代からの何となき因襲でもあるが、その因襲から脱しきれないのは、知識は他から與へられるものとのみ思ひ、自己みづから自己の生活によつてそれを造つてゆくべきものであることを考へないからのことであつて、そこにシナ思想の與へた害毒があつた。シナの文物の尊重の一つの意味がこゝにあつた。かの遣唐使が承和のを最終としてその後行はれなかつたのも、もはや唐から學ぶことが無くなつたとか、輸入品の必要が無くなつたとかいふ理由からではなく、一つは唐末の動亂のためであるが、それと共に、この時代の貴族や官吏やに危險を冒して長い旅行をする勇氣が無くなつたことを示すものでもあらう。當時の貴族の欲求したものは主としてシナの書籍工藝品もしくは種々の奢侈品であつて、遣唐使の任務はさういふものを持つて來ることであつたが、それらは何れもシナの商船によつて輸入せられてゐたので、使節を派遣する必要は無かつたであらう。これらの舶載品が珍重せられ愛用せられたことは、いふまでもないので、貴族の生活にはかういふ舶載品が無くてはならなかつたのである。佛教の僧侶がどこまでもシナ人の著作をその教のよりどころとしてゐたことはいふまでもないので、渡唐または渡宋して道をたづねまたは寺院を巡禮するものは、後までも斷えず、シナの寺院に教理上の疑問を提出してその解答を求めたり、著作を贈つて批評を乞うたりしたものもあつた。儒家の學はシナの學者と何の連絡も無く、詩を作つてもシナの詩人との接觸は生じなかつたのに、佛家にはかういふことがあつた。しかしそれは一小局部に限られたことであつて、全體から見ると日本の佛家の思想の動きは當時のシナのとは何の關係も無く、すべてが別々に行はれた。日本人がシナから知識を得たのは、稀な場合の外は、たゞ書物によつてのみのことであつた。けれどもシナはどこまでも尊尚せられた。宇津保物語(藏開の中)に時の東宮の容貌を稱揚して、日本のやうな小國の王には過ぎてゐると(254)いふことをいつてゐるのも、源語(若紫)に庶民の容姿をめでて「いとむつかしき日の本の末に生れ」たのが悲しいといつたものがあると書いてあるのも、そのためである。國際關係の無い時代に國民的自覺が生じないのは、當然であらう。かう考へて來ると、これまで述べて來たやうなことは、日本人の實生活上の要求、自己の情感のおのづからなる發露が、かゝる方面に向つたものであつて、約言すると、それは當時の貴族の生活の自然の展開であり、或はそのいろ/\の表現であつたことが知られる。さうしてそこに日本に獨自な文化の作られてゆく意味があるので、シナもしくはその文物の權威に反抗するといふ意識せられた態度から出たことではない。たゞ事實上、一種特有の文化が形づくられ、實生活の上に於いてそれが體驗せられて來ると、そこに日本人としての或る誇りが生ずるので、「日本は賢かりけり」(枕冊子)とシナ人にいはせて、喜ぶやうにもなつてゆくのである。長谷の觀音の驗のあることをシナ人も知つたといふやうな話も、この意味でのことであらう(源語玉鬘)。ついでに記しておく。佛徒はこの時代に於いてもインドにいつたものは無かつた。  裔然にその志はあつたといはれてゐるが、實行はしなかつた。悉曇は學ばれ少數ながら梵夾も傳へられたにかゝはらず、シナ語譯ならぬ原典によつてその教を知らうとしなかつたと同じであり、またそれと關聯したことでもある。
 過去の長い間にシナの文物を學びながら、それと共にまたそれによつて、日本人としての精神活動が次第に盛にもなり錬磨せられもして來たその結果として、この時代になると、シナとは全く違つた文化が形成せられたことは明かである。衣食住はもとより種々の風俗習慣に現はれてゐる日常生活の諸相、一般の社會形態、文藝、何れもみな日本に獨自なものである。たゞ知識の點に於いてシナ傳來のものを尊重しそれから脱却することのできないところはあつ(255)たが、その知識そのものは、一面では日本人の現實の生活から遊離してゐるものであり、他面では日本の文化の發達に寄與するところが少く、或はむしろそれを妨げるものであつた。けれどもさういふものがあるにもかゝはらず、上記の如き日本の文化の形成せられたことは事實である。九世紀の後半から十一世紀の初にかけての日本の文化は、シナはいふまでもなく、當時の世界の何れのところにも全く類の無い特殊のものであつた。
 
 さて、かういふ文化の形成せられたのは、藤原氏の外戚としての地位がほゞ定まつた文徳朝のころから始まり、宇多朝醍醐朝のいはゆる寛平延喜の時代を經て、藤原氏の勢威の頂點に達した一條朝のころに至つて成熟したものである。そ*こで、今しばらく目を轉じて藤原氏の權力を得て來た事情とその背景としての當時の政治上の形勢とを見ておくのが便宜であらう。そこでまづ目につくのは、當時の東方アジアに於ける日本の地位である。これは概していふと、前篇第一章に述べた如き状態の繼續であつた。この時代になつても、海外に對する國民的または民族的活動の行はれなかつたことはいふまでもないので、シナの商船は來航し、時には新羅人も賈物をもつて來たにかゝはらず、日本人が海外へ出て貿易をしたらしくないことによつても、それは知られる(對馬人は半島へ出かけたであらうが)。當時の日本人は、シナに留學しまたはそこの寺院を巡遊した僧徒が、その時々のシナの情勢を見聞した外には、海外の事情についての知識をすら殆どもたなかつた。貴族や一般の知識人に於いては、彼等のシナに求めたものがその文物であつて、それをシナの社會《*》シナ人の生活から切離して取扱つたため、シナそのものについての知識を得ようとはしなかつた。シナの文物を尊重しながら現實のシナの情勢を探求しようとはせず、珍奇な舶載品を使用しながらその産地(256)のことを知らうとはしなかつた。宇津保の波斯國が名のみのものであるのも當然である。外國に對する國家としての交渉も殆ど無かつた。新羅との外交關係は絶え、渤海との交通は行はれてはゐるが、それは交聘と信物贈答との名義の下にいくらかの貿易を營むのか、然らざれば習慣上の禮問に過ぎなかつた。シナや半島の形勢からいつても、太平洋の水に波瀾の起る氣づかひが無かつた。延喜ころに於ける新羅の海賊や後のいはゆる刀伊の賊などは、半島の情勢のよくわからなかつたために、朝廷を驚かせたが、實はそれほど騷ぐには及ばなかつたことであつて、後には何ごとも殘さずに濟み、新羅滅亡の際の百濟、唐末の呉越も、まもなく消えてしまつた。契丹の活動や宋朝の興起も、たゞその風説が傳へられたのみであつた*。
 かういふ状態であつたから、異民族に對する民族的活動といふことの無い我が國は、外國に對して國家としての活動をなすべきことが何もなく、從つて對外關係に刺戟せられて國家の經營に思を致すといふやうなことが無かつた。上にいつた如く、貴族や知識人が海外の現實の情勢を知らうともしなかつたのは、こゝにも一つの理由がある。これはしば/\述べたやうに、根本的には日本の地理約位置と日本人の生活状態とのためであつて、外國との葛藤が生ぜず對外的に平和であつたのもその故であり、その點では日本の大なる幸であつたが、他の一面では日本人が海外に關する知識をもたず、またこゝにいつたやうな刺戟をうけなかつた點では、一つの不幸でもあつた。海外のことではないが、唯一の政治的事業であつた蝦夷の經略も、田村麻呂綿麻呂などの征討によつて、ほゞその目的が達せられ、奈良朝以來の繼續事業も大體かたがついた。蝦夷人の部落は征討せられた地域にもなほ存在するのみならず、その北方にはまだ全く經略の手がついてゐない状態であつたが、彼等にはもはや大なる反抗を企てるほどの政治的勢力が無く(257)なつたらしい。貞觀年間の出羽の騷擾もほどなく鎭靜した。從つて彼等の侵撃的態度のよぎなくせられて兵を出した我が政府は、その上に手を伸ばさうとはしなくなつた。さすれば當時の政府がしなければならぬと考へる事業は、もはや何もなくなつたのである。さうしてこのことが國政の弛緩した一つの事情となつてゐる。異民族に對する民族的活動が行はれてこそ、少くとも國家として外國に對立してゐるといふことが意識せられてこそ、爲政者も國政に留意するのであるが、この時代には、それが無かつた。當時の爲政者には唐の政治的勢力の發展に刺戟せられて大化の改新を行つたやうな意氣が無かつたのである。
 勿論、當時の爲政者に國政刷新の意氣の無かつたことには、なほ種々の事情があらう。爲政者たる貴族は、長い年月の間に次第に形づくつて來た彼等の社會に特殊な文化の裡に生活し、それに滿足しそれを誇りとしてゐたので、その他に求めるものが無かつた。特に都會的貴族的性質を有しまた女性的傾向を帶びてゐるこの文化は、一般によわよわしい氣風を彼等の間に養はせると共に、事業らしい事業の無い生活に慣れたところから生じた安逸の氣分もそれを助けて、新に何ごとかをしようとする意欲が彼等には起らなかつたのである。彼等に意志の鍛錬が無く、強い人物の現はれなかつたのも、地位や權力を得たものが多くは境遇と幸運とのためであつて、自己の力によつたのでないのも、また一般に早熟であつたのも、みなこのことと關係がある。彼等の欲するところは、たゞこの文化を一層彼等の生活に適するやうに精練してゆくこと、その文化の經濟的基礎を確保し、またそれを増大することであつたが、このうちの後者には、彼等が歴史的に傳承して來た政治的地位を維持することが必要の條件であるのみならず、さうすることはまたそれみづからに一つの欲求である權勢欲のはたらきでもあつた。
(258) ところが、その經濟的基礎の主なるものは彼等が地方に於いて占有してゐる土地民衆、即ちいはゆる莊園にあるので、それを確保し増大することは、令の制度を混亂させ崩壞させることになるが、爲政者としての彼等はその制度を維持させる責務をもつてゐるから、そこに彼等の地位に存する矛盾があり、政弊の多くはそこから生ずる。彼等がその政弊を刷新することのできない一つの有力な事情が、こゝにもあつたのである。この莊園の増大は、從來地民を占有してゐた貴族及び寺院、即ちいはゆる領家の欲求、國司郡司の私曲、地方的豪族の領家との結託、令の制度の缺陷及びその廢頽、それらによつて生じた農民の困厄、その間に於いて何の方向かに自己の力によつて自己の生活の道を開いてゆかうとする一般民衆の行動、などが互にはたらきあつて行はれるのであるが、かうして行はれた莊園の増大は官府の收入の減縮となるので、朝廷はその缺乏を何等かの方法によつて補はねばならぬ。地方官が租税を徴收する受負人とせられるのも、一つはこれがためであつて、それがもと/\私曲をなし易い地位にある彼等にます/\その私曲をつのらせる。國司の地位が富を得るに便宜なものとせられたのは、前代からのことであるが、この時代になつてもそれは同樣であり、いはゆる受領になるのは富を得るためとせられたのであるが、それと共に朝廷のかゝる必要のためにそれが利用せられもした。しかしそれが一方では爲政者の地位にある貴族等に利用せられるやうにもなるので、彼等は朝廷の官吏であると共にかゝる貴族等の隷屬するものの如き状態になつてゆく。中央に於いても地方に於いても、すべてが公私混淆であつた。特に地方に於いては國衙と領家との間には種々の複雜な關係があつたと考へられる。これは政弊の因つて起るところでもあつたが、また政弊から生ずることでもあつた。さうしてそれは國民の生活を安定させる強力な權威が中央の朝廷にも地方の官府にも無かつたことを示すものであつて、そこに爲政者及び官(259)人の無氣力無責任と私慾のはたらきとがある。この政弊のために一方では地方によつて農村の荒廢するところもあり、浮浪者なども出たのである。たゞかういふことがあると共に、他方では農民を吸收する莊園などもあり、民衆の生活欲がその生活を保持するための種々の行動をとらせるやうにもなつたことは、注意せらるべきである。なほ地方官とても私曲をのみ營んだのではなく、部内の民衆のために何等かの施設をする場合もあつたので、武藏に悲田院、筑紫に續命院をたてたといふやうな例もある(續後紀)。けれども全體から見ると上記の如き状態であつた。しかしこのことと關聯した最も著しい現象は武士の興起である。信頼すべき權威の無いところに於いて自己の地位なり勢威なり生活なりを擁護せんとするには、みづから武力をもつ必要があると共に、自己を拘束する權威のどこにも無い場合には、欲望を逞しくするためにも武力を用ゐるのが自然の勢だからである。
 
 武士は、地方的豪族、土着したもとの國司、莊園の莊司、またところによつては村落の首長、などが、或は國司などの從者であつたもの、或は宿衛や貴族の帳内資人などをつとめ、または時々行はれた兵役に徴發せられてあばれ癖のついたもの、また或は生活に窮して本地を離れたもの、などを用ゐ、境遇によつては盗賊となりかねないやうなものをさへ加へて、それらを糾合し、或は部内の農民、特にその間の功名心あり野心あり浮浪性を帶びたものなどを率ゐ、さうしてそれらの首領となり、種々の形に於いてのそれ/\の集團をなし、弓馬を用ゐて何等かの行動をとる習癖がいつとなく生じたことによつて、形づくられたものらしい。さうしてかういふ集團が生ずるとその間におのづから勢力の爭が起り、それがまたます/\この習癖を長ぜしめたであらう。その集團が、時の經つに從つて首領とそれに隷(260)屬するものとの間に次第に結ばれてゆく主從の關係を樞軸とし、土地またはその他の生活の資を與へまた與へられることによつて、成立してゐたことが考へられ、場合によつてはかゝる關係が階層的に縱に重なつてもゐると共に、種種の事情による相互の間の横の連絡が生じたことも、また推測し得られよう。豪族が源氏なり平氏なり藤原氏なりの系統のもの、またはこれらの家の氏を冒してゐるものである場合には、特にかういふことが多かつたやうである。現任の國司もまたかゝるものを利用する場合もあり、その從者にも弓馬に長じて主人との間に同じやうな關係を結ぶものがあつたらしい。かういふ武士の集團の最も多く且つ勢力を得たのは東國であつた。それはその地方の民衆が歴史的に勇敢な氣質を養つて來てゐたのと、地民を占領したり弓馬を用ゐたりするに都合のよい地勢であるのと、また京都に遠いので秩序が最も亂れてゐ、政權の中心から離れてゐるために放恣な行動ができるのと、これらの事情からであらう。將門の亂の起つて來るのも、それが秀郷等によつて平定せられるやうになるのも、これがためである。海賊を率ゐて暴動を起した純友も同じやうな状態の下に起つたのであるが、鞏固な主從の結合を形づくることができなかつたので、永續的な勢力がその方面には生じなかつた。浮浪の徒や遊民や課役を免れんとするものなどが、圓頂緇衣の姿をかりて寺院の  廊下に隱れ、武力によつて事が行はれ利益が得られるやうな一般的情勢の下に於いて、弓馬の代りに大薙刀をふりかざして暴れまはるいはゆる僧兵となつてゆくのも、同じ状態の生み出したことであるが、彼等もまた寺院といふものの性質上、武士のやうに主從の關係によつて結合せられてはゆかなかつた。たゞいはゆる武士のみが鞏固な永續的な勢力となり、さうしてその間におのづから一つの秩序が作り出されてゆくのであるが、これは主從といふ人的關係が結ばれてゐるのと、土地にその根據があるのとのためである。
(261) 武士の興起は、要するに、シナに學んだところの多い令の制度の缺陷が、東方アジアに於ける日本の地位によつておのづから形づくられた貴族文化の裡に生活する爲政者の態度にも助けられて、政治上社會上の事實として次第に現はれて來たために生じた、一般の秩序の頽廢から起つた現象である、といふことができよう。そのうちには令の制度の定められない前の上代から繼承せられたところも含まれてゐて、貴族や豪族の地民占有にもそれがあらうが、しかし、武力を以て事を爲さうとするのは、新しく生じた新しい風習と考へられる。畢竟、政治的に秩序だつた統制が行はれず、それを行ふ權力が無かつたところから來たことである。從つて制度からいふと、武士の成立もその存在も非合法的のものである。しかしかゝる非合法的な武士の行動は、彼等の集團のうちに次第に一つの秩序を立ててゆくのみならず、長い年月を經過するうちには、國民全體の間にいつのまにか新しい政治的社會的秩序を作り出してゆくはたらきをもするやうになるのであつて、令の制度の崩れることはおのづから新しい制度の作られることになる。崩さうとして崩すのでなく作らうとして作るのではないけれども、結果から見ればかうなつてゆくのである。當時に於いても、武士社會の形づくられることによつて村落生活の形體や土地所有の状態の變つて來たことが考へられよう。さうしてそれは、一つの意味に於いては、シナのを學んで外から與へられた制度を崩し、日本人みづからの力によつてみづからの制度を創造してゆくことであり、それにはまた令の制度が定められない前の状態の形をかへた復活といふ意味の含まれてゐることも、認められよう。復活といふよりも、令の制度は表面的のものであつて、民衆の生活は前前からの状態がほゞ繼續せられ、それが一方では制度によつて幾らかづつ變形しながら、他方では制度を崩すはたらきとなり、崩すことによつて表面に現はれ出た、といふべき點もあらう。さうしてそこに上に述べたやうな貴族文化(262)の新趨向と相應ずるところがある。また他の意味に於いては、それによつて、國民が弊政や制度の缺陷から生じた政治上社會上の混亂のために、その生活欲を失つてしまはず、何等かの方法によつてそれを充たしてゆかうとする意氣のあつたことが示されてゐる。制度のために生活を妨げられたものが、非合法的な方法によつてでも生活の道を新に開いてゆかうとした欲求の現はれである。さうしてその間に民衆の文化もまた徐々に高められてゆくのであつた。
 しかし武士の興起した時代に於いて秩序が崩れたといつても、地方に常に擾亂があつたのではなく、武力を有するものがあつたことは、却つて一面に於いて平和の維持せられたことにもなるのであり、特に武士が土地の所有者であつたことは、彼等の地位と勢力との鞏固であつた徴證であると共に、その下に農業の盛に行はれたことを示すものでもある。朝廷の地方官であり權力者たる貴族の隷屬者でもあつた國司も、それによつて租税を徴集し得られ、莊園の莊司も、または自己の有する地民を權家に提供してその莊園とした豪族も、領家のために貢租を收納することができたのである。武士の土地所有が増大することは、一面に於いては國衙及び領家の勢力の弱められてゆくことであり、特に領家に於いては莊園の減少ともなつたであらうが、他面に於いてはかういふこともあつたと考へられる。のみならず、莊園についていふと、もと/\その増大にも維持にも地方の豪族の力によることが大きかつたやうである。だから豪族の性質をもつてゐる武士は、この點に於いて、上代に於ける地方的豪族の地位と似たところのあるものであり、民衆の首長としての地位と朝廷または貴族に隷屬する地位とが混合してゐるのである。さうしてその何れに於いても、權力者に對抗するものではなくして、むしろその權力の基礎となつてゐるところのあるものである。武士の首領たるものもまた一面に於いては、朝廷の命を奉じもしくは權家の意を受けて行動するのが常であつて、この點に於(263)いては彼等は爲政者の側に屬するものであつた。地方に騷擾を起すものもあつたが。それを討平するものはやはり武士であつて、武士はそれによつてその地位を固めその力を養ひもした。騷擾を起したものも、地方に勢威を張らうとしたのみである。要するに、武士は非合法的な存在ではあつても、現在の政治的權力に對する反抗者ではなかつた。その行動に革命的性質などの無かつたことは、いふまでもない。皇室に對する反抗に至つては、なほさらのことであり、さういふことは夢想だもしてゐなかつた。將門が新皇と稱し百官を置いて僞朝廷を形づくつたといふ將門記の記載も信じ難いことであつて、それは、その百官に任ぜられるやうな人物があつたやうには見えないことからも、また暦博士のみが缺けてゐたといふことからも、推測せられる。僅か三四國にしかその勢力を及ぼし得なかつた時にかういふ企をしたといふことが既に怪しい。將門記は文飾の多いものであるから、その記載を一々事實とは見なしがたい。當時謀反とか逆賊とかいふやうな語の用ゐられたのは、漢文風の套語に過ぎない。しかし武士は權力者に隷屬しそれに利用せられる地位にあつたにしても、權力者が武士に依頼しなければならなかつたところに、武士の實力があつたので、そこに權力者の權力の弱められてゆく萌芽が見えるのである。
 
 令の制度を崩すものは武士や民衆ばかりでなく、政治上の權力者たる貴族もまたさうであり、むしろ彼等がその主動者であつた。その最も著しいことは多くの地民を占領し莊園を有することであつた。政治的地位をもつてゐるからこそそれができたのであるが、それがまた政治的地位を固めもした。その地位の最も高いものその權力の最も大なるものは、いはゆる攝關の地位をもつやうになつた藤原氏であつて、從來既に爲政者の主位にあつたこの家は、さうな(264)つてから一層その力を強め、政治上の實權は漸次その掌中に歸していつた。政務といつても、日常の場合には殆ど官職の任免と莊園の處置とに限られ、その他は臨時に起つた事件の處理があるのみであるが、官職は利禄と社會的地位とのかゝるところ、莊園は生活の資の存するところであるから、貴族とそれに從屬する官人との生活を左右するもの、當時の文化に與かることができると否とを決定するものは、この二つである。だからこの二つを動かす權力を有するものは文化の世界のすべてを支配するものであり、そこに政權の最も重要なる意義がある。その權力者みづからが最高の官職にあり最大の莊園を有し、それによつて文化上のあらゆる活動の推進者となり、またその文化を最高度に享受するものであつたので、藤原氏の文化上の地位が即ちそれである。文化と政權との結びつきがそれによつて完成した。一般の貴族官人は、政府に政務らしい政務がなく、個人としても事業らしい事業がなく、またすべてが狹い京の天地にのみ跼蹐してゐる時代のこととて、何人もその實力を現はす機會が無く、さうしてまた一般に上に述べたやうな柔弱な氣風となつてゐるから、權家に阿附?縁して、少しなりとも地位と利益とを得、それによつて文化の世界に生活することのできることを望んだ。それのできないものは落伍者として貴族社會の圏外にその身を横たへねばならぬ。權家たる藤原氏はこれによつてます/\その權力を鞏固にした。藤原氏に對抗し藤原氏の權力を動かさうとするもの、また對抗し得るもの動かし得るものは、生じなかつた。要するに藤原氏の權力といふものは、彼等みづから當時の文化を滿分に享受し、また彼等の使役に甘んずる貴族官人にこの文化の世界に生活する資格を與へてやる、といふ意義のものである。だから藤原氏の權力とこの文化との間には、深い關係がある。かういふやうな文化の世界であるからこそ、藤原氏が權力を維持することができたのであるし、またかういふ政治の状態によつてこそ、當時の文化(265)が促進せられたのである。藤原氏の權力と平安朝の貴族文化との最盛期が相伴つてゐるのは、偶然でない。しかし藤原氏の政權は一面に於いて上記の官職の權威と經濟的の力とによつて維持せられたのではあるが、他の一面では皇室との特殊の關係、即ち外戚としての地位を得たためであることは、いふまでもない。
 歴代の天皇が直接に政務に與かられないのは、昔から繼承せられて來た習慣であつたから、藤原氏が攝關の地位をもつやうになつたのは、實際政治の上に於いては特に新しい事態を作り出したものではない。たゞそれが外戚の關係と結びついてゐることと、藤原氏のうちでも冬嗣の子孫の獨占となつてゆくこととに於いて、從來とは違つたところがある。皇位の繼承もこの家の意向によつて定まり、東宮の地位もそれによつて動かされ、天皇の廢立さへも行はれた。幼主擁立の例の開かれたことは、いふまでもない。桓武天皇から醍醐天皇のころまでは、一二の例外を除いて、皇子皇女の數が甚だ多く、姓を賜つて臣下に列するものもまた多かつたが、時には藤原氏の權勢と絡まつて、皇子の間に皇位の爭が生じたこともある。源姓を賜つたもののうちには、時には大臣などの地位を得て藤原氏と對立するものも生じ、一面から見ると源氏と藤原氏とは對抗の状を呈する場合もあつたが、上記の事情によつて、結局、藤原氏が勝利を得たのである。さうしてそれには藤原氏の權勢欲とそのために用ゐた種々の權謀術數とがはたらいてゐる。前中書王が菟裘賦に於いて「爲執政者枉被陷矣、君昆〓諛、無處于愬、」といひ「殊恨王風之不競、直道之已湮、」といひ、また「超高指鹿之日、梁冀跋扈之時、」といつてゐるのも、この間の消息を語るものであらう。
 ところで、宮廷の生活はどうかといふと、當時の状態に於いて宮廷にふさはしく思はれる程度のものではあつたらうが、前篇に述べた如くさして豪奢なものではなく、仁明天皇が奢侈を好まれたといつても(三善清行封事)、それは(266)文字の上で學ばれた儒教思想による批評であつて、事實は上流の貴族のと同じほどのものであつたことが、種々の儀禮の上からも後にいふやうな外戚の家との關係からも知り得られる。皇子を多く臣籍に下されたのも、宮廷の經費にかゝはるところがあつたのではなからうか。(皇子などの多いのはいはゆる女御更衣の多いためではあつたが、それはシナの後宮の宮人の數とは比較にもならず、その性質も全く逢つたものであることは、いふまでもない。源語の桐壺が楊貴妃の類でないことは明かであり、玉鬘の宮廷に入る時の心理はシナの宮人のとどこにも共通點が無い。)皇族も源氏もそれ/\の莊園をもち、それを生活の資とすることになつたが、それは藤原氏に比べて遙かに狹少なものであつた。源語の宇治の宮の如く皇子とても時に合はずして世にかくれてゐるもの、常陸の宮の亡きあとの如く皇族とても貧窮な生活しかできないものが、事實としてもあつたに違ひなく、王孫の列にあるものも、關東に於ける源平二氏の如く、武人の首領となつて攝關の家に隷屬するものも生じたのである。皇室はかういふ状態であつたし、その時々に生起した宮廷内の種々の事件や皇族の行動などについては、人の口は塞がれず、さま/”\の世評も行はれたが(栄華物語など參照)、しかし貴族に於いても民衆に於いても、その心情に存する皇室の尊重は、それがために少しも損はれず、そこに皇室の精神的權威があつた。藤原氏とてもその政治的勢力を保つには、外戚の地位によつて皇室のこの權威に依屬しなければならなかつたことによつても、それが知られる。
 かゝる形勢の下に於いて皇室はおのづから文化の中心としての舊來の地位を繼承せられ、またその發達に大なる寄與をせられた。嵯峨朝前後に皇室が漢文學を保護せられた如く、宇多朝醍醐朝のころからは、和歌を奨勵せられるやうになり、歌合が宮廷で盛に行はれ、古今集に始まる勅撰集が編纂せられた。いはゆる公事としての朝廷の儀禮が整(267)頓しまたは新に定められるにつれて、繪畫音樂の如き藝術及び種々の工藝が精練せられてゆく。いはゆる延喜天暦の治にもし實際上の意義があるとすれば、それは政治に於いてではなくして文化に於いてのことであり、平安朝文化の特色がこのころに於いて著しく現はれて來たことである。(宇多天皇や醍醐天皇が政治に無關心であられたのでないことは、遺誡や御記によつても知られるが、さりとて御自身の意見を直接に政務の上に加へようとはせられなかつた。)しかし一つの意味に於いては、またこの時期が實際上、朝廷が文化の中心であつた殆ど最後だといつてもよい。それは、いはゆる國史の編纂もこの朝が最終であり、仁明朝ころから行はれた樂曲の改作もこのころで終をつげ、朝廷の保護の下に行はれた寺院の建立もこの後には少くなつた。國分寺は次第に衰へて、地方にも私人の建立した寺院が多くなり、たゞ定額寺といふやうな地位を得ることによつて官府との關係の生ずるものがそのうちにあるのみである。大學の實が亡びて諸道の家學となり、雅樂寮が廢れて樂所が起つたのも、みなこの前後のことである。官府の日常の執務にはまだ舊來の形式が繼承せられてゐてその記録がありながら、國史の編纂がせられず、御記及び樞要の地位を有するものの日記がそのまゝ後に傳へられるやうになるのも、同じ變化の一例である。これから後になると、朝廷よりは攝關の家の方が事實上すべての文化の中心となつた。朝廷の收入が日々減少すると同時に、攝關家の經濟はます/\豐富になつて來るので、すべての文化の根柢に富の力がある以上、これは當然であらう。皇室は依然として文化上の地位を保つてゐられるが、それは攝關の家が外戚であることによつてできるのである。特に後宮は藤原氏の權力の樞軸ともいふべきものであるから、外戚の家は力をその經營に盡したらしく、費用を吝まずして調度結構に善美をつくし、遊宴嬉戯に華麗を極め、宮女の類をも多く集めた。從つてそこが風尚の本源ともなり、貴族生活の模範(268)ともなつた。平安朝文學の精華も實にその裡から現はれて來るのであり、後の榮華物語などの材料ともなつた假名文の日記もそこに生れた。この後宮は即ち宮廷の本據であるが、その經費はすべて藤原氏の支辨するところであるのみならず、皇后も中宮も半ばは外戚の家にゐられるので、皇居と攝關の私邸との區別が無くなつたほどであり、皇居がしば/\炎上して里内裏の風習が開けるやうになつて、それが極點に達する。かういふ状態に於いての宮廷のもつ文化上の地位は即ち皇室の地位なのである。宮廷が朝廷に代つたといつてもよからう。朝廷と共に文化の中心であつた寺院も、また基經の極樂寺や忠平の法性寺をはじめ、多く藤原氏の家々によつて建てられ、後にはかの華美を盡した道長の法成寺が作られるやうになる。寺院が朝廷によつて建てられ、もしくはその保護をうけて、鎭護國家の使命を負はせられた時代は既に過ぎ去つて、攝關の家々の繁榮と死後の冥福とを祈るものとなつた。さうして過去に朝廷によつて建てられた寺院は、貴族の家々と同じくその私有地民によつて維持せられてゐる。だから延喜前後の時より後の文化は、藤原氏によつて維持せられ、また發達したといはねばならぬ。さうしてそれによつて日本に獨自な性質と精神とを有する平安朝時代の貴族文化が大成したのである。かゝる藤原氏の偉力とまたそれによつて發達した貴族文化との頂點に逢したのは、一條朝から後一條朝にかけての道長の時であつて、彼は當時の文化の花をさかせることに大きな力をはたらかせたと共に、みづからその賜を滿分に享受したのである。
 
 然らばその文化の特色はどこにあるか。貴族官人の生活に於いて最も著しいものは、種々の朝廷の儀禮、いはゆる公事、即ちさま/”\の年中行事に參與することであつた。正月元日のはいふまでもなくその他の重なものの二三を擧(269)げても、子の日、白馬、賭弓、踏歌、花宴、石清水臨時祭、賀茂の葵祭、新嘗會、賀茂臨時祭、などがあり、毎月殆ど何等かのかういふ公事の行はれないことはなく、佛教に關することでも、法華八講をはじめとして種々の法會がまた同樣である。歌合の如きも一つの意味ではその例としても見られよう。さうしてこれらの儀禮には奏樂や歌舞が伴ひまた饗宴が行はれるので、貴族等のしごとと娯樂とはこゝに集まつてゐたといつてもよい。だから彼等は一面に於いては、儀禮を儀禮として過誤なくその事に當ることを努めると共に、他面に於いては、その設備に善美を競ひ、容姿を美しくし行裝を花やかにして、互にそれを賞覽する。公事とは要するに貴族等のみづから興じ他にも示す一種の演藝であつた。源語(少女)に源氏が白馬ひき等の公事をまねて行つたといふ話があり、攝關の家で朝儀のまねをしたことは、道長が家の法會を御齋會に擬したなど、歴史的事實としても史上に見えてゐるが、演藝であれば、朝廷でも私門のでも同じであるから、かういふことが行はれたのであらう。(シナ流の名分論で僭越だなどといふには及ぶまい。)
 かういふ状態であつたから、貴族の教養の主なるものはかゝる演藝に長ずることであつたといつても、過言ではないほどである。彼等にとつては日常の生活そのものが演藝であり彼等みづからが演奏者であつたのである。(これは、後にいふやうに自己を第三者の地位に置き詩中の人物として眺める傾向のあることとも、關聯がある。)貴族は官府に於いて何等かの地位をもつてゐるが、政務もしくは吏務にさへも半ば儀禮化せられた一面があつたので、政治らしい政治、事業らしい事業、の無い當時の朝廷ではこれでよかつたのである。當時の詔勅でも上奏でもその他の文書でも、みな文人の手になつたので、徒に詞藻を弄んで無意味な美しい文字を連ねたに過ぎないものが多いが、これもや(270)はり政治が實務から離れてゐたことを示すものである。特に大臣を辭する表といふやうなものになると、初から實行するつもりも無い矯飾であるから、その文章が實の無いものとなるのは當然である。さうしてかういふ上表があると、それに對する勅答が行はれる。その間の交渉が二囘も三囘も行はれる。矯飾に矯飾を重ねる。これらの文章は、歴代の實録や本朝文粹などにその例が殘つてゐるが、これもまた政治の儀禮化演藝化を示すものである。すべてがかういふ風のものであつたので、儒生出身のものが政府や權家のために、文事秘書官ともいふべき地位を得るやうになつたのも、これがためである。儒生が官職に就かれたのは、彼等が治國平天下の學を學び經綸の道に通じてゐるがためではなく(勿論そんな學問もなく儒生もなかつた)、たゞ文筆に長じてゐた故である。もしくは典故を知つてゐた故である。文人で道眞のやうな地位に進んだものもあるが、それは全く例外であつて、而も道眞が政治上にどれだけの識見と手腕とを有つて居たかは、よくわからない。もつとも實際の能力を要する政務が無いのだから、政治家としての素質才幹などは、大臣として必要でもなかつたらう。高位高官が門地あるものに限られてゐたのもこの故で、何等の能力の無いものでも、門地によつてその地位を保つことができたのである。當時の政府では、實務を處理する能力よりも、儀式を華やかにするための美しい容儀や上品らしい擧止動作が必要であつたので、それは生れながらの貴族の特長であつた。勿論、時々に起る事件を處理するには、何ほどかの才幹を要するし、それを具へてゐるものも無くはなかつたが、何よりも先づ祈?や修法に依頼するやうな彼等には、政治上の識見や實務上の能力を養ふことがむつかしかつたであらう。將門の亂の如き場合にも、それを平定したものは武士であつた。近衛の軍人とても、業平をその標本とするには及ぶまいが、儀禮に參與するか奏樂をするかが職務のやうに思はれてゐたには違ひない。だから當時(271)の帝王に求めるところさへもやはりかういふ教養にあつたので、宇津保(國讓の下)に帝王の資格を擧げて、花やかに、なまめかしく、政かしこく、學問に心いれ、遊びを常にする、といつてゐるのがそれである。その第一條件が花やかに、なまめかしく、」といふのではないか。さうして遊び(管絃)を常にするほどの帝王の政は、いはゆる公事の類であり、學問とても文才の外ではなからう。事實に於いても、一條天皇が多く人を得たことを誇つてゐられたといふが、それがみなこの種の教養を有するものであつた。
 この教養の如何なるものであるかをもう少し眺めて見る。知識の點ではシナの書物を讀みその知識を得ることが要求せられたので、この點では天皇及び皇族に於いてもまた同樣であり、天皇のかういふ學識は御記などによつても知られ、一條天皇御製の詩は本朝麗藻によつて傳はつてゐるし、皇族には文人として令名のあつた前中書王の如きも現はれた。文字の上の知識を知識としてもち、またそれを文字の上に現はすことに過ぎないので、いはゆる學問はそれであつたが、とにかくかういふことに努力せられた。貴族に於いても門地の高下を問はず、幼時からの教育によつて一とほりの漢文の知識はもつてゐたので、朗詠の一半が詩の句であること、韻ふたぎといふやうな遊戯の行はれたことなどによつても、彼等がかういふものに親しんでゐたことが知られる。源語に白樂天またはその他のシナの詩人の詩の句を古歌と同じやうに人々の對話などに用ゐさせてあるところのあることも、參考せられよう。次には佛教に關する知識をもつことであつた。法華輕などを主として少數の限られた經文についてではあつたらうが、その辭句のいくらかを暗記し、その經の大意を知つてゐたやうである。法會に列して僧徒の諷誦講論を聽いたり、または經文を書寫したりすることによつて、おのづからそれが得られたのであらう。しかしこれらよりも重要なのは、歌を作ること、(272)そのために古歌を多く暗記することであつて、これは彼等の婚姻生活に於いて必要であつたのみならず、それに長ずることが彼等の教養を示すことにもなつた。歴代の天皇がそれを嗜まれ、宮廷が歌界の中心であつたことは、いふまでもない(次章參照)。手かき、繪かき、管絃歌舞の道なども、源語の源氏によつて示されてゐるやうな理想的貴族の教養として尊重せられてゐたので、その何れかについて何ほどかの技能をもつてゐたものは少なくなかつたらしい(源語梅枝若菜參照)。しかしそれらのすべてに長じてゐたものは、事實としては、多くはなかつたであらう。なほ教養として重要なのは容儀の優美なことであるので、道隆が醉うても病んでもそれをくづさなかつたことが賞められてゐたし、道長などもその點で稱揚せられた(大鏡卷六)。服飾に對する趣味もまた教養の一つであつたことはいふまでもない。貴族の邸宅には、いはゆる寢殿づくりの如く、ほゞ一定の樣式があつたが、その装飾と調度と並に庭園とには、住むものの嗜好が現はれてゐるので、そこにも教養の與かるところがあつた。
 さてかゝる教養には、或はこの時代の知識や學問の如く外から與へられるものである點に於いて、或は容儀などの如くその主なる意味が他に對するものである點に於いて、自己の心情の生き/\したはたらきを抑止する傾向のあることが注意せられる。和歌の如く抒情的のもの、漢詩に對抗して日本人の心情の表現をめざすものに於いても、次章にいふ如く智巧的に流れる一面のあることもまた參考せられよう。從つて何ごとにつけても、素朴な感情の發露や率直な自己の表出が見られない。激情的な心の動きの無いことはいふまでもない。これは一面に於いては教養といふものに伴ひがちなことではあるが、當時の貴族の場合ではそれが特に甚しい。これには後にいふやうな社會的事情から來てゐるところもあるが、彼等が歴史的に養つて來た生活状態、うす暗い、小さい、狹くるしい、宮殿の結構や調度、(273)肢體の運動をすら自由にはさせないやうな服裝、夜を日に繼いで、むしろ夜を日に代へての儀禮や遊宴、といふやうなことと互に因果の關係をもつものでもあつた。勿論、戸外の行動がせられなかつたのではなく、遊獵さへも行はれたのであるが、その遊獵は鷹を用ゐるものであり、後になるほど行はれなくなつてもゆくことが、注意せらるべきである。
 しかしその代り、かういふ生活に恰好な趣味は十分に養成せられたので、文藝の上にも繊細な、濃艶な、弱々しい、傾向がすべてに現はれてゐる。文學のことは後にいはう。音樂では和琴などをかすかにかきならすことが尊ばれたが、合奏でも最も喜ばれたのは夜の管絃御遊であつた。庭上の舞樂にも、小さく美しいものを賞でるところから、童舞といふやうなのが喜ばれた。寢殿の前の池水に龍頭鷁首の舟を浮べて管絃を奏することの興ぜられたのも、同じ趣味の現はれである。繪畫に於いては、屏風や障子繪の外に、紙繪や扇の繪や又は繪卷物が行はれるやうになつた。かういふ小規模の音樂や繪畫が賞翫せられたのは、貴族的室内的生活には自然のことである。屏風繪や障子繪の類でも、その拔巧は頗る繊細なもので、美しい色彩こそ少し離れた位置からでも目に映ずるであらうが、人物の容貌などは、近よらねばわからぬものではなかつたらうか。特に紙繪や繪卷物の類になると、その書面が机上に玩弄し得べきものであるから、技巧はます/\繊細になつたに違ひない。いはゆる墨がきに自由な筆致は見えたであらうし(源語繪合參照)、「筆とゞこほらずかき流したる」とあるのも、墨がきのことであらう。畫画からいふと屏風繪、題材からいふと風景畫や屋外生活を寫したものにも、それがあつたらう。しかし最も喜ばれたのは、つくり繪の濃艶なものであつたらしい。これは傳彩の法が機械的であるから、畫画はたゞ紅紫の燦たるを見るのみで、生氣の乏しいこと、恰も「お(274)んぞがち」の女を見るやうなものではなかつたらうか。建築裝飾などでも、すべてが繊巧であつて、法成寺の阿彌陀堂は「北南のそばのかた東のはし/”\の扉ごとに繪をかゝせ給へり、かみに色紙形をして詞を書かせ給へり、遙かに仰がれて見え難し、」(榮華玉の臺)といはれてゐる。寺院の壁畫、天井畫、柱畫、扉畫、はいかにも艶麗ではあるが、何を書いてあるか遙に仰がれて見え難いやうな詞がきがそれに伴つてゐるとすれば、それは建築裝飾の主旨を失つたものである。寺院は會堂ではない。多數人の集合するところではなくして、一族一家のものが參籠して一家一族のために法會を行ふところである。平民の集るところで無いことはいふまでもない。だから寺院建築もその裝飾としての繪畫も、公衆的性質を有たないのである。從つて、かういふものから規模の大きい、多數人の賞翫に供せられるやうな繪畫は發達せず、全體の上から色彩の調子を整へるといふやうな、技巧上の進歩を見ることもできなかつた。すべてこれらの現象は、藝術が狹い小い室内を天地としてゐる貴族生活に恰好なものとして、發達したからである。
 しかし、畫でも彫刻でも佛像に一種優婉な趣のあるものが作られ、怪奇な密教の神像の傍に、その密教の神さへにも、かういふものが生じたことが、注意せらるべきである。官能の繊細にはたらいたことは、衣服にたきしめる香が人々の獨自の工夫によつて調合せられたこと、それに因んで香合せが行はれたこと、かさねの色が時季と人がらとに似つかはしく用ゐられたこと、假名の書きかたが人によつて特色があり、而もそれが水の流れるやうな優麗とその底に潜む一種の力とのつりあひの細かい變異によつて生じてゐること、後にいふやうに自然の風物に對する觀察の精緻なこと、などによつて知られる。(かういふ點では個人的特色が現はれてもゐるが、しかしそれとても全體として見ればその情趣は一樣である。)工藝品の意匠の優雅や技巧の精緻に於いても、また同じことが見られよう。なほかう(275)いふ點で最も重要なのは、當時の貴族に特殊な繊細な情緒を表現するに適するやうに、言語の精練せられたことであつて、それは和歌や物語によつて知り得られる。日本語の語法の整頓したのもまたそれに伴ふことではなかつたらうか。さて、平安朝の貴族生活の間から生れて來たかういふ趣味は、後代までの日本人の好尚の基礎とも淵源ともなつたものである。
 平安朝貴族の趣味は、かういふやうに優艶であり繊細であり、概言すれば女性的であつたが、婦人が當時の文化の上に少からぬはたらきをしてゐて、その教養が男性に劣らず高いもののあつたことも、またこのことと關係がある。女性的文化の發達に女性が關興したのは當然であらう。婦人の社會的地位もその能力も、男性と比べて劣つてゐないのが昔からの我が國の状態であつたが、シナの文物の模倣時代が去つて日本の獨自の文化が形づくられ、その文化が女性的性質を帶びてゐるこの時代に於いては、その點からも婦人の文化上のはたらきが強められたのである。これは歌集なり物語なり遺存する日記なりによつて知られることである。今日名の知られてゐるほどに教養の高いかういふ婦人の數は、さほど多くはなかつたでもあらうが、少數でもさういふ婦人のあつたことは、一般に婦人の教養が重んぜられてゐたことを示すものには違ひない。上に擧げたやうな種々の面に於ける教養は、婦人も概ねもつてゐたので、彼等は男性に對して決してひけをとらなかつたのである。或は男性の教養が婦人によつて刺戟せられた點もあつたと考へられもする。かゝる婦人にはいろ/\の意味に於いて直接間接に宮廷と關係のあるものが多く、そのことがその教養を助けたではあらうが、一方では彼等の教養は、さういふ關係の生じない前に於いて家庭でうけたものであり、教養のあるものが宮廷に仕へたのでもあることを、忘れてはならぬ。
(276) ところが、かういふ婦人がかうして高い教養をもつやうになつたことは、當時の文化に於いて門地の高くないもののはたらきが大きな力となつてゐたことを語るものでもある。教養の基礎でもあり中心でもある學問文藝に於いてそのことがわかるので、學問についていふと、儒生は地位が低く、道眞の如きは例外として、一般にはその昇進する官位にも限界があるが、門地の高いものもそれに師事してゐた。宇津保(祭の使)の藤英や源語(少女)に見える博士どもは、門地の低いことによつて輕んぜられながら、學問に秀でてゐることによつて尊重せられたやうに寫されてゐる。枕冊子の作者も、下臈ではあるがといつて博士のざえのあるのをめでてゐる。文人が宮廷の内宴に召されて詩文を上る例であつたことはいふまでもなく、村上天皇が文時に二人の詩の優劣を問はせられたといふ逸話さへある(この逸話は事實を傳へたものかどうか知らぬが、かゝる逸話の生じたことに意味がある)。專門歌人もまた同樣で、貫之も躬恆忠岑も官位は低く、梨壺の五人もそれとさしたる違ひはない。しかし彼等は歌人として大きな權威をもつてゐた。天皇も歌合に參加せられ判もせられたが、歌界の指導者はかゝる地位の低いものであつた。物語の作者の何人であるかは殆ど知られてゐないが、源語の紫式部は家系は藤原氏であるけれども家の地位はやはり低かつた。それが作者としてあのやうに宮廷にも貴族にも重んぜられたのである。その紫式部は中宮に白氏文集を進講した。近衛の樂人、繪所の繪師、かういふ技藝家の身分はいふにも足らぬものであつたが、やはり技藝家としては認められてゐた。彼等は一面に於いては、權家の權勢の下にその地位を保ち、或はそれに?縁して少しでも高い官位を得ようとしたけれども、權家もまた學問に於いて文藝に於いては彼等に指導せられたので、そこに貴族の風尚もあり、貴族文化の發(277)達した理由もあつた。勿論彼等もその地位こそ低けれ、貴族的教養をばもつてゐたので、指導者としてのはたらきをなし得たのは、一つはそのためでもあつたらう。この教養の無いものは貴族等には顧られなかつたと推測せられる。工藝に從事するものの生活が貴族の庇護によつてゐたことは明かであるが、技術そのものには彼等の創意と熟達とがあつたに違ひない。貴族文化の實質はかういふところにあつた。たゞそれらのもののすべてを日常の生活に於いて利用し、或はそれを生活化したのが貴族であつたのである。
 さて貴族文化が貴族文化である限り、それはおのづから都會的である。これもまた前代から繼承せられてゐることであるが、この時代には貴族文化の特色がます/\濃くなります/\強められて來るにつれて、都會と地方との懸隔もいよ/\大きくなつた。けれども、國司はその任期の間は國府に住んでゐて京人の生活を保持してゐる。かの歌枕の如きも、彼等の詠に上ることによつて京人に知られたのであらう。長く地方にゐるとその教養もいつしか薄れ、土地風の粗野さが加はつて來るものもあるが(源語寄生東屋)、それが全くなくなるのではなく、またすべてがさうでもなかつたらしい。國司の土着して武士となつたものも所々にゐる。さうしてそれらは武士となりながら貴族的教養を身につけてゐる。さういふものや莊園の莊司などは、常に京に往復する。いろ/\の事情で京人の地方に下るものもある(源語玉鬘參照)。伴大納言の如く流人の子孫から身を起したもののあることも、參考せられよう。地方の豪族は京の文化にあこがれをもつてゐて、できるだけそれを學ばうとする。宇津保(吹上)に見える紀の種松の物語の如きは甚しく誇張せられたものであり、佛典の記載などから取入れられた構想も加はつてゐるらしいが、源語の筑紫の大夫の監の如きものは、現實にも少なくなかつたであらう。地方の寺院もできるだけ南都北嶺や京のを模倣しよう(278)としたに違ひなく、その間の連絡もかなり緊密であつたと考へられる。僧侶の往來も頻繁であつたらう。だから、都會の文化が種々の徑路によつて地方に及んでいつた一面のあることも、また忘れてはならぬ。京と地方とを連絡する主要な街道または水路に沿うた地方は、特にさうであつたと考へられる。勿論、かゝる地方の文化は、種々の程度に於ける京の文化の貧しい見本たるに止まつてはゐたであらう。それは京人としては地位の低い國司などの京から齎らしていつたもの、または地方の豪族がその富の及ぶ限りに於いて京のを學んだものであり、土地に根をもたずそれから遊離したものだからである。地方の一般の空氣は京人にとつては堪へられないほどに荒涼たるものとして感ぜられたのも、むりは無い。たゞその間に於いてかゝる見本のところ/”\に展開せられてゐるのは、地方人にとつても全く意味の無いことではなかつた、と考へられる。間接ながらもまた輕微ながらも彼等がかゝる文化に接したことは、後になつて彼等がその力を種々の方面にはたらかせるやうになつてゆくことの一つの素地となつたであらう。
 しかし當時に於いて一般民衆の文化の程度の低かつたことはいふまでもない。言語すらも地方人のは貴族によつて精練せられたものとは違つてゐるので、須磨明石あたりのでも源氏にはよくわからなかつた(源語須磨)。東國などのはなほさらであつたらう。これには地方的にそれ/\の方言や訛音が生じてゐるからでもあるが、それと共に民衆の言語が精錬せられてゐないからでもあつたと解せられる。生活のすべての姿がみなさうであつたので、そのために貴族は一般民衆を粗野なもの教養の無いものとして輕侮してゐたことは爭はれぬ。それは一つは、政治的に被治者の地位にある民衆に對し治者としての權威をもつて臨むからでもある。また根本的にいふと、その粗野なのも生活の貧困なものが民衆に多いからでもある。しかし幾度も述べたやうな事情から文化が貴族の間に特殊の發達をしてゐて、(279)民衆はそれに與ることができないところにその主因があるに違ひなく、また如何なる民族に於いても勞動に從事する多數の民衆は、かゝる生活そのもののために、貴族の如き特殊の教養をもたないのが一般の状態である。さうしてかういふ状態にある民衆みづからは、この點に於いては、高い文化をもつてゐる貴族に對する尊重の情を抱いてゐたのである。貴族等の民衆に對するこの態度はこの時代に於いて前代よりも一層甚しくなつて來たやうであるが、これもまた貴族文化が前代よりも精練せられ、その貴族的性質が濃厚になつたからであらう。しかし民衆自身についていふと、彼等は一方では困厄しながらも、その生活を營むための努力を怠らず、現在の生活と昔からの風習とによる道義が彼等の間に成立つてゐると共に、他方では種々の宗教的儀禮とそれに件ふ娯樂なども行はれ、その間には、貴族文化から學ばれた何ごとかも幾らかは加はつて、それ/\の地方の民俗がおのづから形づくられてゐたであらう。かう考へなくては、日本の國民が國民として存續し歳月が經つに從つて次第にその活動を盛にして來たことも、古くからの民俗が後世まで傳へられてゐることも、全く埋會せられない。一般民衆が奴隷の如き境界にあつたものと見るが如きは、大なる誤である。
 けれども地方人の文化、民衆の生活が程度の低いものであつたことは事實である。だから京の貴族はそれには何の興味をももたなかつたらしい。地方人とても京の文化にいくらかでも接觸したものは、萬葉の東歌の程度の歌を作るものはあつたらうが、勅撰集にはさういふものは一つも採られなかつた。(古今集の東歌は眞の東歌ではない。)民衆には民衆としての演藝も行はれ、いろ/\の娯樂もあつたに違ひないが、それが貴族等には顧られなかつた。催馬樂の或ものや東遊などは、もとは民謠や地方人の舞踊が貴族により京人によつて學ばれたものであらうが、一度び彼等(280)のものとなると、忽ち京化し貴族化して、民間的地方的色調を失つてしまつた。大嘗會の風俗歌が眞の風俗歌でなくなつたのも、同じ傾向*である。遊女の謠ひものなどは今日からはよくわからず、また地方によつて一樣でなかつたらうとも思はれるが、彼等は貴族にも接近し、また地方に往復する都人士の玩弄物ともなり、その中には京人の零落したものもあつたのであるから、その謠ひものも眞の意義での民謠ではなく、都人士的色調が加はつてゐるものであつたらしく想像せられる。
 
 こゝで京と地方と、貴族と民衆と、の間に立つて或る程度の文化の媒介をした寺院と僧侶とについて一言しておかう。概していふと、京やいはゆる南都北嶺の大きな寺院は、貴族のために存在してゐるものであり、從つて貴族文化の一要素をなしてゐる。その僧侶は宮廷や貴族のために法會を行ひ加持祈?をする任務をもつてゐて、それによつて榮位を占め又は占めようとするのであつた。特に法會は貴族生活の裝飾物であつた。僧侶とても高級の地位は次第に貴族出身のものに占められてゆくやうにもなつた。けれども寺院にも僧侶にもそれに特殊の宗教的性質があるので、そこに民衆との接觸があつた。地方の寺院は豪族などによつて建てられたであらうし、また特殊の修行者が人里はなれたところにそれを設けることもあつたでからうが、それでも寺院の存立そのことが地方の民衆に何ほどかの文物を傳へまたそれに親しませることになつたであらう。或は彼等を佛門に誘ふこともあつたであらう。また或は世間以外の世間に於いて何等かの榮達を求めるものに、その道を開かせるたよりになつたでもあらう。さうしてそれがおのづから都會文化と地方民衆とを結びつける力ともなつたであらう。南都北嶺の諸大寺とても、その莊園によつて同じは(281)たらきをしたのではなからうか。かの僧兵の發生にも、そこから導かれたところがあつたらしい。次には寺院の裡に發生した特殊の文物が世間、特に民衆の間に傳へられたことが考へられる。音樂などがその一例である。
 寺院樂でも法會などの儀禮に奏せられる唐高麗の樂は、世間のとかはりが無いので、宗教樂といふものが我が國では生じなかつた。前代から寺院で奏せられてゐた伎樂でも林邑樂でも、本來宗教的性質を毫末も帶びないものであり、唐高麗の樂とても同樣である。かういふものが法會に用ゐられたのは、たゞその樂聲と舞容との官能美が一時的に現實の生活から離れた境界に會衆を置くことによつて、佛土の快樂を聯想させるところに意味があつたのみである。菩薩や伽陵頻の如き舞曲が法會のために新作せられたのも、宗教的感情の樂的表現としてではなくして、佛土のおもかげを髣髴させるためであつた。だから伽陵頻の如きものも、世間的演藝としてそのまゝ用ゐられるやうになつたのである。たゞ伽陀とか梵唄とかいふものがあり、また經文なども聲樂的性質を帶びたものとして讀誦せられ、樂器の伴奏さへできるばあひがあつたらしい。(古事談第三第六、龍鳴抄、等。)いはゆる佛家の聲明である。この聲明と唐樂として傳へられてゐる音樂との關係は明瞭でなく、また後にはその間に混淆が生じた點もあるらしいが、聲明は聲明として世間の樂とは別に、僧侶によつて唐から傳へられたものではあらう。さうしてこの時代の末になると、その間からかの和讃が生まれ、またそれが今樣となつて世間に出て來たのであらう。かの伊呂波歌などもこゝに淵源があるらしい。今樣は後になつて民間に行はれるやうになると、世間的題材を取扱つたものも幾らかはできたけれども、その大部分は宗教的のものであるから、それが寺院の裡に發生したものであることに疑はあるまい。さて和讃はその辭句からいふと經文を七五調にあてて読み下だしたやうなものであり、今樣とてもその詞章に多少詩的の修飾を加へた(282)ものがあるといふまでで、文學としての價値は大なるものではないが、謠ひものとしては古くからの民謠とも、また外國樂の影響をうけもしくは外國樂の旋律にあはせその樂器を伴奏に用ゐるものとも、違つてゐて、後世の民間演藝の一つの淵源となつたものである。(古來の民謠のやうに、或は本末に分けて唱和し、或は結句をくり返しハヤシ詞を附けて、手拍子足拍子で快活に歌つたのともちがひ、また催馬樂のやうに、旋律に歌詞を從屬させたのとも同じでなく、ほゞ詞章をそのまゝに歌つたものらしい。)さて次には寺院の内部に於いて、僧侶の間に發達した娯樂としての演藝が行はれたに違ひない。これは記録などの上に明證は無いかも知れぬが、後世の状態から想像しても、多數の僧侶、しかもそのうちには嚴肅な修業に堪へず、また破戒無慚の徒輩すらも加はつてゐた僧侶、が集まつてゐたことから考へても、さう思はれる。さうして、後世になつて世に知られた延年舞などの如き歌舞の起源は、多分この時代にあつたであらう。かの今樣などもまづ僧徒の娯樂として行はれ、それから世間に現はれたのではあるまいか。
 寺院にかういふものがあるとすれば、それが民間に傳はることは容易である。いかに貴族的宗教であるとはいへ、ともかくも宗教であつて見れば、僧侶、特にその下級のもの、が民衆に接觸する機會は多い。地方の寺院によつてそれが民衆に傳はる便宜もある。もしさうとすれば今樣なども、貴族の間に行はれてゆくより前に民間に弘まつてゐたらしい。江口神崎などの遊女の歌にも、後に傳はつてゐる種々の逸話から推察すると、やはり今樣があつたらしい。またこの時代の末に行はれてゐた田樂の鼓なども、寺院の樂から傳はつたものではあるまいか(鼓を掌で打つことはいはゆる雅樂には無いらしい。これは伎樂などから系統をひいたものではあるまいか)。なほこの類のことは次の時代にゆくと一層著しくなるので、白拍子も僧家の樂から出たものらしく、それに用ゐる銅?子も主として寺院樂の樂(283)器である。かう考へて來ると、寺院は一方に於いて貴族文化の一要素であり裝飾物でありながら、他方に於いては民衆と地方人とに接觸して、それに幾分の文化上の影響を與へたのである。
 
 いはゆる平安朝の盛時の文化は、ほゞかういふものであつた。その文化の特色は貴族的な特殊の教養にあり、その教養の精神は優雅を尊ぶところにあつた。しかし、彼等の行動には、今日の道徳眼から見た場合、いろ/\の方面に於いて粗野なところがあつた。このことについては後に述べるであらうが、その貴族中の貴族であり貴族文化の中心となつてゐた藤原氏が、攝關の地位によつて表徴せられる政治的權力を、いかにして得いかにして保つたかを見ることによつても、そのことは知られよう。藤原氏が權刀を掌握するまでには、長い間の苦心と努力とを費さねばならなかつたのである。幾度かの陰險な手段によつてその對立者を斥け、外部に對するその地位が鞏固になると、次には内部に激しい競爭が起つて、骨肉相食むといふやうな状態にもなつた。權勢と榮華との前には、家も無ければ兄弟の親みも無かつた。(もつとも當時の藤原氏はその全體が一つの氏族として活動したのではない。後の武家時代になつて形づくられるやうになつた家族制度の下に於いても、氏族としての結合は現實には大なるはたらきをしなかつたが、さういふ家族制度も平安朝の貴族には存在しなかつた。)攝關の地位がかうして得られると同じく、それより以下の官位もまた同樣、激しい競争の結果として得られるので、當時の貴族官吏は一般に利己主義的であり、その意味で心情の精練を缺いてゐた。(但し如何に陰險な謀略を行つても、シナの宮廷や政府に於いて常に行はれてゐたやうに、人を殺すことは決してしなかつた。こゝに平安朝貴族の特色がある。)かういふやうに、當時の貴族都人士はすべて(284)に於いて自己の勢利の欲求を中心として生活するのであり、さうしてさうするには、どこまでも權力者に服從し時世に順應して動いてゆかねばならぬから、彼等の多くは單純な率直な性情を失つて、萬事に對して矯飾をつとめるやうになる。戀と名づけられる兩性間の交に於いてすら、男にも女にもかけひきがあり政略がある。如何なる場合にも自己の防衛を意識してゐなければならぬ生活に於いて、かういふ習慣の養はれるのは自然の勢であつて、生存競争の激しい社會には、これが通有の状態であるが、この時代の貴族都人士は、彼等の社會が極めて狹いだけに、從つて權力者の權力が強くはたらくだけに、この風が最も甚しかつたのである。彼等の心情に於いて、道徳的には、教養があるとも優雅ともいひ難い粗野なところがあつたといふのは、一つはこの側面でのことである。後章にいふやうに彼等が「ざえ」を尊び「たましひ」を尊ぶことの一つの意味もまたこゝにあり、歌の智巧的であることもこれと關聯があらう。さうしてこれらのことは、上に述べた如き彼等の日常生活の状態と相應ずるところがある。
 藤原氏の權力はかくして固められ、貴族の地位はかくして保たれるのであつたが、その藤原氏の權力に伴つて發達し、かゝる貴族の間に成熟した文化は、これから後さらにその發達をつゞけてゆくことができるであらうか。藤原氏の權力そのものがいつまで存續してゆくであらうか。女性的な文化は、女性的であるそのことに於いて、強い力をもたないものであることが知られ、それみづから頽廢的の傾向を包藏してゐることが考へられるのではなからうか。既に成熟したものは、その内から更に新しいものを作り出してゆくことが困難なのではあるまいか。その文化の裡に生活してゐる貴族はそれを作り出してゆく力をもつてゐるであらうか。文學とそれに現はれてゐる思想とを觀察することによつて、それを考へてみようといふのが、次章以下のしごとである。
 
(285)     第二章 文學の概觀 上
       三代集時代の和歌
 
 この時代の文學に於いて第一に注意せられるものはいふまでもなく和歌である。平安朝初期の貴族や知識人は、奈良朝時代のよりも一層多くシナの文物を學ばうとして、文學に於いても漢詩を嗜んだけれども、その間にも短歌、特に戀歌、は決して廢れてゐなかつたらうといふことは、上に述べて置いた。しかし知識人が多く漢詩に趨いたので、專門歌人といはるべきものが現はれず、從つて長歌などは作られなくなつた。長歌は本來少數の才人の間に於ける一時の流行に過ぎないものであつたからである。しかし漢詩が、上に述べた如く抒情的な性質を帶びてゆく一面の傾向を生じながら、全體として見れば技巧本位でなければ散文的である以上、それでは滿足することができぬ。こゝに反動の勢が生まれて、才人輩の間に歌を再び取り上げようとする氣運が兆して來る。
 弘仁のころから宮廷の内宴や遊幸のをりなどには文人をめして詩を作らせられることが慣例となつてゐたので、宮廷に直接の關係が無い場合でも同じことが行はれてゐたであらうと推測せられるが、仁壽三年に良房の第で先皇の菩提のために行はれた法會には「或賦詩述懷、或和歌歎逝、」と傳へられた(文徳實録)。書きかたにやゝ曖昧な點はあるが、詩と共に和歌が作られたといふのであらう。仁和元年の宮廷に於ける賜宴の記事に「作和歌」とあるのは(三代實録)、それが「賦詩」に代つたのではあるまいか。さうしていはゆる文人に屬する大江千里に句題和歌の詠があり、貫之集などにも詩の句を題にしたものが見え、亭子院の長恨歌の屏風繪を題にした歌が數首作られ(伊勢集)、(286)また續浦島子傳には詩と共に歌が添へてあること、などを思ふと、和歌の流行には詩に導かれ或はそれに對抗する意味のあつたことが知られるやうである。いはゆる題詠にも詩のを學んだところがあるらしい。早くは小野篁、やゝ後には大江千里、菅原道眞、などが古今集の歌の作者として知られてゐることにも意味はある。いはゆる文人にも詩だけでは飽きたりないやうに感ぜられて來たのである。
 この感じは戀を訴へる場合に於いて特に強い。さうしてそれはかなり早い時代からのことであつた。「竊以仁山受塵、滔漢之勢寔峙、智水容露、浴日之潤良流、是以尼父繹好於縲紲之生、呂公附嬪於驛亭之士、剛柔之位、不可得失、配偶之道、其來尚矣、傳承賢第十二娘、四徳無變、六行不闕、所謂君子之好仇、良人之高媛者也、篁才非馬卿、彈琴未能、身非鳳史、吹簫猶拙、獨對寒窓、恨日月之易過、孤臥冷席、歎長夜之不曙、幸願蒙府君之恩許、共同穴偕老之義、不堪霄蛾拂燭之迷、敢切朝?向曦之務」(本朝文粹卷七小野篁)。綺語麗句かも知らぬが、戀には「數ならばかゝらましやは世の中にいと悲しきは賤のをだまき」(新古今戀篁)と歌はなくてはならぬ。日本人の心情を表現するには日本語を要する。是に於いてか詩の作者は歌人となつた。多情多感なものが袂を連ねて和歌の門に入り、詩にゆくべき者が轉じて歌に向つたのはかゝる事情によつてであつた。仁壽貞觀前後の歌人がかくの如くにして輩出したのである。篁は遣唐副使となりながら正使と爭つて恣に一行から離れ、嵯峨上皇の逆鱗にふれて隱岐に流された剛情ぱりではないか。遍昭は仁明天皇の寵遇をうけ、その崩御の後、世をはかなんで佛門に歸した多感の士ではないか。業平は戀にあこがれ戀にうき身をやつし、三代實録の編者から「體貌閑麗、放縱不拘、」と評されたほどであると共に、不遇の惟喬親王に心を傾けて交つた熱情漢である。彼等が漢詩の世界から跳出して、もしくはそれに踏みこまずして、(287)和歌にその道を求めたのは當然である。後にいふやうに彼等の歌にも早く既に種々の新しい技巧を用ゐたものもあるが、業平の歌に最もよく示されてゐる如く、單純に率直に情思を詠じ感懷を述べたものが少なくないのでも、このことは知られる。をりもをり、假名が世に行はれはじめてます/\この趨勢を強めた。
 しかし世はもはや萬葉の昔ではない。平安奠都以來五六十年を經た間に、京の文化はます/\貴族的となり、さうしてそこに一種の精練せられた貴族趣味が生じてゐる。唐風の流行によつて人はいよ/\智巧的となり、事業のない社會であるため、人生が遊戯的に見られてゐる。この間に於いて、貴族文學としての、特に才人のしごととして新に流行しはじめた和歌が、萬葉の歌と趣を異にするのは當然である。このことを明かにするには歌が如何なる場合に如何にして作られたかを知ることが必要である。
 その第一は贈答唱和である。戀の歌には特にそれが多いが、これは萬葉の相聞の歌の繼承せられたものであつて、奈良朝末から平安朝の初期にかけて歌を作ることの斷えなかつたのは、主としてかゝる場合のであつたらう。これにも二樣の方式があつて、その一つは文字に記して贈答することであり、平假名の作られたことが、前代からのかゝる風習に新しい力を加へたと考へられる。いま一つは口づからの唱和であつて、これはこの時代になつて初めて流行するやうになつたことであるらしい。萬葉にも見えてゐる短歌の本末の唱和と一すぢの連絡はあらうが、それは單なる一時的の遊戯に過ぎず、この時代にも繼承せられて後の連歌の由來をなすものであるから、こゝにいふのとは同じでない。これはこの時代の貴族生活に於ける特殊の教養によつて形づくられた新方式であり、貴族の言語が精練せられたことに伴ふものであつたらう。かゝる贈答唱和をすることは貴族の教養の主なるものであつたので、家集に贈答も(288)しくは唱和の兩方が記される例になつてゐるのでも、それの重要視せられたことが知られる。家集でありながら他人の歌が記されてゐるのである。さてかういふ場合の歌には、戀歌が多く、その性質からいふと、その時その場合の現實の情懷を詠ずるものではあるが、返しをするには、もとの歌に適應するやうにしなければならず、それには機智が敏捷にはたらかなくてはならぬが、口づからするには特にさうであるので、そこから或る技巧が生ずる。またこの習慣は、次にいふ屏風の繪などを題にした歌にも贈答唱和の形をとらせることになるが(伊勢集)、それが一歩進むと、題詠でなくとも、實際には行はない贈答唱和を獨り思ひ浮かべてみづから樂しみ、または一種の心やりとすることを、誘つたのではないかとも推測せられるので、家集には往々さう解してよいやうなものを見うける(貫之集伊勢集など)。伊勢集の卷首に自己を三人稱で記してあるのも、思想的には後にいふやうな理由はあるが、このこととも關係があり、また伊勢物語や大和物語の如き歌物語の作られたこと、延いては一般に物語の發生したこととも、交渉がある。なほ歌に巧なものが他人のために、その人に代つて、贈答の歌を詠むのも(和泉式部集赤染衛門集など)、これと通ずるところがあり、さうしてそれにもまた、かゝる歌が自己の實感でないといふ點で、題詠の意義が含まれてゐる。
 第二は題詠である。これには題を賜つて歌をめされたといふやうな場合のがあつて、それは文人に漢詩を賦させられた慣例から轉化して來たものであらうが、上にも一言した如く、題詠といふことがもと/\漢詩を作る方式から學ばれたものらしく、それはかの七夕の歌の如く、萬葉の歌人によつて既にその例が開かれてゐた。萬葉に歌人の空想から生れた戀歌の多いことも前篇に述べたが、これもまた題詠の一つの由來をなすものであらう。しかしこの時代に(289)なつて題詠の歌の多く作られるやうになつたことには、それを助けた種々の事情がある。その一つは倭繪が起つて屏風繪にそれが用ゐられるやうになるにつれ、それを題にすることが行はれたことであつて、前章に述べた如く文徳のみ代に既にそれがあり、それから後にはこの風習がます/\盛になり、寛平延喜の時代からの歌人の家集には、さういふものが少からぬ部分を占めてゐる。これは後にいふ紙繪や扇の繪の歌または繪物語と共に、繪畫と文學との結合といふ平安朝文藝の一特色をなすものである。次には歌合の行はれたことである。今日に傳はつてゐる歌合の最も古いのは、在民部卿(在原行平)家の歌合で、次いで寛平の御時の后宮の歌合があり、延喜に入つては亭子院歌合、陽成院歌合、などがあり、その後には天徳四年の内裡歌合が大規模で行はれてゐる。この歌合には題が定められるので、民部卿家の歌合のは郭公と逢はぬ戀とである。寛平の歌合には四季と戀、亭子院歌合はそれよりもやゝせまく、二月三月四月となつてゐるのみで、合せた歌は必しも同じ主題を詠んだものではないが、題詠たることに違ひはない。歌そのものを合はせるのが主旨ではないけれども、前栽合、菊合、根合、などの如き場合にもまた歌が詠まれ勝負がつけられるやうになるが、それもまた題詠に屬すべきものである。かういふことに助けられて題詠が一般に行はれてゆくのである。ところで、屏風繪はもとは居畫の摸作であつて、それによつて詩を作ることが行はれたのであり、歌合が、延喜の亭子院のや天徳の場合には、宮廷の娯樂として天皇親臨の下に行はれ、奏樂がそれに伴つてゐるのを思ふと、これにもまた遊幸のをりに文人に詩を賦させ樂人に樂を奏させられたことから繼承せられたところがある。かういふやうないろ/\のことに助けられて題詠が盛に行はれてゆくのであるが、それが習慣となると、つれ/”\なるままに獨り種々の題を設けて歌を詠むことにもなり(公任集和泉式部集など)、題詠に別樣の情趣が生ずる。
(290) 第三は詠懷の歌である。人を戀ひ人を恨む男女の情懷、四季とき/”\の花鳥風月の感興、羇旅または離別哀悼の情、また或は世態と人生とに對する所思、それらが歌の形をとつて表現せられるものがこれであり、時に臨みをりにふれてのさま/”\の心の動きがそのまゝに歌とせられ、作者の實感が詠まれるのである。必しも直ちに人に示すべきものではなく、手記して筐底に藏しまた日記などに書きとめておくこともあるが、かういふものも、何等かの機會に世に知られもするし、作者みづから編纂した家集によつて後に傳へられる場合もある。さてかういふ歌は自己の情懷をありのまゝに詠ずるところにその本質があり、一種の心やりとして作られるものであるが、花鳥風月の賞翫はそのことが遊戯的要素を含むものであるから、そこに技巧の用ゐられる契機がある。なほ物語が作られるやうになると、その作者が物語中の人物にかゝる歌を作らせることが多いので、それは、作者自身の或る場合の現實の情懷でないといふ意味では、題詠の性質を有しながら、作者がその人物に同化してその情懷を詠ずるものとしては、こゝにいふ部類に入るべきものであり、そこに詩人としての作者のはたらきがある。既に存在する物語の人物の情思を題として詠むやうなのも、これに似たところがあり(公任集など)、つれ/”\のつきせぬまゝに戀のさま/”\の情趣を思ひ浮かべて多くの歌を作るに至つては、題詠ではあるが、實は詠懷の作とすべきであらう(和泉式部集)。
 
 歌がこれらの場合に作られたことは、當時の歌人及びその作品の種々の性質を規定するものである。その第一は、歌の作者が宮廷を中心とする京の貴族及びそれに從屬するものに限られてゐることである。これは前代に於いてもほゞ同樣であつたが、萬葉にはなほ地方人の作が載せられてゐるのに、この時代の歌集にはそれが殆ど無い。古今集に(291)東歌といふものがあつて、東國人の作らしく聞えるけれども、よくその歌を見ると、甲斐歌に「けゝれ」といふ語がある外には、地方的の音の訛りといふものすら無く、そのすべてが京人の作と同じであつて、萬葉の東歌とは全く撰を異にしてゐるから、これはその地方にでも往つてゐた京人の作であらう。敏行の東遊の歌(冬の賀茂の祭の歌)をこゝに入れてあるのでも「東」といふ語の意義が察せられる。歌は特殊の貴族的教養のあるものにして始めて作り得られるものであつた。これはその用語の點からも知られるので、歌の用語は必しも日常語そのまゝではなく、或る程度の撰擇と精練との施されたものではあらうが、それと離れたものでなかつたことは疑ひがなく、さうして平安朝になつてから次第に精練せられて來た京の貴族等の日常語は、歌の新に流行しはじめた時代にはもはや特殊の發達を遂げ、一般民衆や地方人のとは遙かに違つた情趣を具へるやうになつてゐたと考へられる。口づから歌を唱和する場合に、明かに歌とは聞えないほどに、或はことばのやうに、いふこともあつたらしいが(源語の夕霧總角早蕨)、これは日常語と歌の用語とがほゞ同じであるからのことであらう。この意味に於いては、歌の唱和は對話の一つの形であるともいはれよう(連歌もまた同樣である)。この貴族的用語の發達が、優美流麗の方向に進んで來たことはいふまでもあるまいが、歌の用語が柔かくなり、助辭の類が多く用ゐられて、一首の姿が流暢になつたのは、それに應ずるものである。弘仁前後の歌が概ね萬葉の遺風を傳へたものであつたとすれば、歌の用語のこの變化はその後に生じたものであらう。業平や小町などの歌はかくして作られるやうになつた。さうして用語のこの傾向は、それを文字に書きあらはす平假名の字體と書きかたとによく適合してゐるが、これもまた民衆や地方人の間には廣く及んでゐなかつたであらう。
(292) 第二は歌の作者に婦人が多くなり、特に優れた歌人が女性の間に生じたことである。萬葉にも婦人の作はあるが、その數はさほど多くはなく、またそれが特に優れてゐるのでもないから、これはこの時代になつてからの新しい現象である。一般的には、前章に述べた如き事情によつて婦人の教養が高められたために、また歌についていふと、歌が宮廷を中心として流行し、さうして宮廷に縁のある婦人がおのづからそれに參加したといふ特殊の理由もあつて、かうなつたのであらう。宮廷で行はれた天徳歌合が婦人の企てたものであることも、この點に於いて注意せられる。早くは寛平延喜時代の伊勢、後の紫式部、和泉式部、赤染衛門、などが宮廷に奉仕するやうになつたものであることは、いふまでもない。第三は勅撰集の編纂せられたことである。弘仁時代から行はれた勅撰の詩集の例によつたものであらうが、或は萬葉集をも勅撰である如く思つて(古今集眞字序)、それを繼承したといふ理由もあるかも知れぬ。勅撰集の編纂は當時の歌が宮廷を中心として行はれたことの一つの徴證であると共に、それが歌界に於ける一種の權威をもつことになつたことを注意すべきである。第四は、概していふと、歌は貴族的教養のあるものにはおのづから作られるやうになつてゐたと共に、特にそれに長じた專門歌人ともいふべきものの生じたことである。萬葉の歌の作者とてもほゞ同じであり、人麿、赤人、憶良、家持、などの如く、歌人として特殊の尊尚をうけた點に於いて專門歌人と呼ばるべきものもあつたが、この時代になると、歌人として優れてゐることによつて、何かの場合に宮廷から歌の作を命ぜられたり歌合の判者として召されたりするものが生じ、また歌集勅撰のことが行はれるにつれてその撰者となつたもの、または歌についての何等かの知識なり意見なりをもつてゐることによつて歌界に或る權威を有するもの、などが出てきたので、さういふ作者は歌人としての特殊の地位を占め、その意味で專門歌人といつてもよいやうにな(293)つて來た。これは萬葉時代には無かつたことである。かういふ歌人の社會的の、または官府に於ける、地位は概して低いものであり、例へば古今集の撰着の如き、もみなさうである。有名な婦人の作者で宮廷に仕へたものとても、そのもとの身分は決して高くはない。しかしそれでありながら歌人としての地位が高く、宮廷に於いてもその點で重んぜられたところに、歌の尊尚せられたことが示されてゐる。こゝにもまた漢詩の作者などと同じところがあるので、やはりそれから繼承せられた風習である。さうしてこれは、勅撰集の編纂と共に、宮廷も貴族もその尊ぶところが文藝にあつたこと、特に宮廷の事業が文化の方面にあつたことの、よき徴證である。
 次には、歌そのもののことであるが、その初めに第五として歌の主題の何であるかを見よう。古今集以後の勅撰集の分類法からいふと、四季と戀とが主になつてゐて、歌の數もこの二つが大部分を占めてゐるが、四季のうちにも戀に關するものが少からず入つてゐる。花鳥風月の翫賞そのことが、戀に誘はれて生ずる場合が多いのである。また離別や羇旅の歌にも、戀歌として解せられるものがある。歌の主題が戀であるのは上代からのことであるが、平安朝貴族の生活がどこまでも私人的であるとすれば、當時の歌の題材の最も重要なものが戀であるのに不思議はない。その他のもので注意すべきは、古今集の二十の卷に見えるやうな、宮廷の儀禮、特に神事に關するそれに用ゐられるものであるが、これはその儀禮が尊重せられたためであらう。神事に關する歌でもその歌が宗教的心情を詠じたものであるには限らず、そこにかゝる儀禮が儀禮であるがために尊重せられた意味も見えてゐる。宗教的意義のあるものには、例へば法華經の二十八品の意を詠じた歌の如く、佛教の經典に關するものも次第に作られるやうになつてゆくが、しかしこれも作者の宗教的心情の表現ではなくして、經典に記されてゐることを三十一音にいひかへたまでのものであ(294)り、そこにもまた當時の作者の佛教に對する一つの態度が見えてゐる。たゞかういふものがあつても、この時代の勅撰集には後世に於ける如く神祇釋教といふやうな部類は立てられてゐない。これもまた歌として如何なるものが重んぜられたかを語るものであらう。なほ公共的感情、國民とか國家社會とかに對する思想などを、詠じた歌の無いことも、明かなる事實であつて、それによつて歌とせられた情思の何であるかが知られると共に、歌人、といふよりも一般の貴族知識人が、このことに關心をもたなかつたことも考へられるのである。
 さて長歌の復興しなかつたことを、第六として擧げるべきであらう。古今集を見ても知られる如く、長歌の作が全く無くなつたのではないが、甚だ稀である。前にいつたやうな場合に作られる歌が長歌に適しないからである。もつとも一般的にいふと、智巧的な長歌を作るほどならば、漢詩にとゞまつてゐればよく、和歌に趨く必要がないから、この點から考へてもこれは當然である。かういふ方面では、依然として漢詩が行はれてゐるから、詞藻を誇らうとするものはそれを弄ぶことができるのである。たゞ長歌は國語の歌であるといふ點に、漢詩に對する對抗的氣分がはたらいて、いくらかは作られてもよささうに思はれるが、長歌そのものが、萬葉時代から既に漸次散文的のものになつて來てゐたし、それが衰へた後に珍らしくも作られたかの興福寺僧の作でも、萬葉長歌の最盛時にしきりに用ゐられた修辭法が多く用ゐられず、その點からも歌としては取扱ひかねるやうなものであるから、假名の行はれて眞の散文が作られるやうになつた時代に於いては、故らに窮屈な長歌の形式で、散文めいたものを作る必要は無かつたのであらう。稀に作られた長歌が平板に冗漫に生彩の無いことばをずる/\と續けてゆくだけのものであるのも、そのためであらう。第七は第六と關聯して、長歌に於ける五音七音二句を一くさりとすること、即ち五七のつゞけかたが、詩(295)形の規格として價値を失ひ、また短歌を五七五の三句と七七の二句との本末に分けて取扱ふことが、ほゞ一般に行はれて來たらしいことである。前篇に述べた如く、これは既に萬葉時代からあつたことであるが、この時代になると、後にいふやうに修辭的技巧が智的になつて來たため、單純な冠詞が漸次廢れてゆくこととも關係して、かうなつたと考へられる。また神樂歌などの樂曲として短歌を歌ふ場合に一首を本末二部に分ける習慣が生じたのも、こゝに由來があるらしい。かういふ形では第二句と第三句とが結びつけられておのづから七五のつゞきになる。短歌に於いては、特に七五調といふ規格ができるはずは無いが、稀に作られた長歌に於いても、例へば古今集ので、貫之のが五七と七五との混淆であり、忠岑躬恆のは殆どすべてが七五となつてゐるのを見ると、七五のつゞきが當時の人の耳には快く聞えたであらうと推測せられる。これは七五のつゞけかたが五七よりは流麗であり柔かな感じがするからであらう。後に今樣と呼ばれるやうになつた新詩形の淵源もこゝにあるが、それは吟誦するものであることを考ふべきである。ところが短歌の第二第三の兩句が七五のつゞきになると、それにつれて第四第五の兩句が結びつけられ、それによつて一首が本末に分けられることになるのである。もつとも意義の上のことばのつゞきがらにはかゝはらず、よみ上げる時には中間で息をつぐことになつて、そこから自然に一首が本三句末二句の二部に分れる傾向を生ずる、といふことは、萬葉の短歌について上に述べたところであるが、七五のつゞけかたが喜ばれて來ると、その點からもかうなるのである。但し短歌についていふ限り、萬葉時代には五七を尚び古今時代は七五を好んだといふやうに、概論することのできないことは、前篇にも考へておいた。萬葉時代にも五七が特に好まれたのではない。
 さて第八は、歌合の時に讀み上げる場合は別として一般には、歌は書き記されるか相對して口づから唱和せられる(296)かの外には出ないので、すべてが室内的であり、わが歌をも他人の歌をも朗吟して多数人に聞かせることが少い、といふことである。人の門に立つてわが歌をいひ入れさせたり途上で車の内の人にいひかけたりするのも、たゞ室内のしわざの延長にすぎぬ。村上天皇の女御芳子が古今集を全部暗記してゐたといはれてゐる如く、古歌を多く暗記することは當時の一般の風習であつたらしいが、それは歌を作るための修養としてであつたから、他人に對して吟誦するためのことではなかつたらう。興に乘じて古歌を口ずさむことはあり、對話の際に古歌の句を利用するやうなこともあつたらしいが、それとても歌を歌として吟誦するのではなかつた。これは當時の貴族、特に婦人、の生活が、室内的であつたからであらう。歌が謠ふものとして作られなかつたことは、いふまでもない。(神樂や倭舞の歌に短歌が用ゐられることはあるが、それは樂曲としてであるから別の話であり、朗詠もまたこれに準じて考へらるべきものである。神樂や催馬樂で短歌を本末唱和の形で謠ふことがあつて、それは民謠に一つの由來があらうが、短歌の製作は民謠からは全く離れてゐる。)
 第九は、歌が殆ど短歌のみとなり、さうしてそれが或る人の或る場合の現實の情懷をこゝにいつたやうにして詠ずるものであることに伴つて、敍事的の分子は無くなり、空想のはたらく餘地も少いやうになり、花鳥風月の歌とてもすべてが即興的のものとなつたことである。贈答唱和の作に於いてはいふまでもない。題詠にはそれとは趣の異なるものが作られてもよささうに思はれるが、その題が自己の情懷なり即目の感興なりを詠ずるものとして定められるのであり、またその歌が短歌に限られてゐるのであるから、やはり同じ性質のものとなる。萬葉の如く説話を詠じたものも、七夕などのを除けば、殆ど作られず、稀に何等かの故事の利用せられる場合があるのみである。(稀に作られ(297)た長歌とても、敍事的要素のあるものや説話を主題にしたものは無いことが、參考せられよう。)れは前章に述べたやうなこの時代の貴族生活の一般的状態として、日常の生活がみづから演ずる演藝だからでもあり、後にいふやうに現實の生活そのものが詩の世界であるからでもあるが、歌そのものについては、こゝにいつたやうな事情の故であらう。さてこのことによつて第十として擧げようとする次のことが考へ出される。
 勅撰集、諸家の家集、歌合の記録、または多くの物語、などを通覽すると、歌の作者はかなりに多く、それによつて推測すると、一應の貴族的教養のあるものは概ね歌を作り得たといつても過言ではないかも知れぬ。勿論、貴族もしくは貴族社會に從屬するものの總數から見ると、今日に傳はつてゐる歌の作者の數は極めて少いに違ひないし、人々の家集に人に代つて作つた歌の所々に見えてゐることから考へると、相當の教養があつても歌のよめないものも多かつたであらうが、歌を作り得たものまたは作つたものでその名もその歌も今日には傳はらないのもあつたであらう。三十一音の短歌によつて表現し得られる思想なり情懷なりは極めて單純なものであり、さうして教養のあるものは何人もほゞ同じ情懷をもち思想をもつてゐたと考へられるからである。現に今傳はつてゐるどの歌を見ても、この點に於いて大きな違ひは無く、さしたる個人的特色もない。これは歌の作者が必しも特殊の詩人的素質をもつてゐるものではなかつたことを示すものであらう。これもまた萬葉時代の短歌の作者と同じであるが、この時代には作者の範圍が貴族的文化社會に狹められて來たと共に、その社會の内部に於いては萬葉時代よりも遙かに廣くなつてゐるので、それは貴族社會の教養が一般に高められたからであらう。中には情思の濃かさ自己に對する省察の深さがあり、事物に對する繊細な又は鋭敏な感觸をもつてゐて、その點で詩人の資質を具へてゐるものがあるけれども、それは數に於(298)いて甚だ少い。多數の歌の作者は定められた形により、同じやうな思想や情懷を詠ずるのみである。古歌を暗記することの行はれたのも、これがためである。もしそこに何等かの個人的特色があるとすれば、それは技巧の點に於いてであるが、それとても多くは時の風潮に追從するのである。歌界に特殊の地位を占めてゐる、上にいつた意義での專門歌人とても、その長ずるところは主として技巧にある。題詠といふことにもそれは現はれてゐるので、歌合に於いて特にそれが明かになる。その勝負その批判は、やはり主として技巧についてであるからである。詩人が與へられた主題によつて感興を喚起するのは、常のことであるが、我が國に於いては、題詠は詩人ならぬ作者に歌をよませる一つの方法ともなり、さうしてそれはおのづから技巧を磨かせる用をなしたのである。歌の題は、從つて歌合のそれも、後になるほど狹く細かくなつてゆくので、それは見やうによつては作者の思想を制限することにもなり、題を説明したやうな歌の作られる機縁ともなるが、詩想の無いものが歌を作るには、これが好方便となるのである。さうしてその技巧には甚しく智的なところがある。次にそれをいはう。
 
 歌の智巧的になつたのが第十一として擧ぐべきことであるが、これには、歌の構想と修辭的技巧との二つの方面がある。前の方のにもいろ/\あるので、それを古今集のについて考へると、その一つは、「谷風にとくる氷のひまごとにうち出づる波や春の初花」(春上當純)、「櫻花ちりぬる花のなごりには水なき空に浪ぞたちける」(春下貫之)、の如く、或る光景を他のものに見たてることである。露を玉と見、柳を絲と見るやうなことは、萬葉にも例があつて、それは目に見たそのまゝの感じをいつたのであるが、こゝに擧げたやうなのは、それとは違つてゐるところに、智的(299)な構想がはたらいてゐる。「春雨の」ふるは涙か櫻花ちるを惜しまぬ人しなければ」(春下)の如く雨を涙と見るに至つては、目に見る感じからは全く離れてゐる。「色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(戀五小町)の如く、無形のものを有形のものに見たてることは、それの一歩を進めたものであるが、これはむしろ譬喩とすべきであらう。見たてるといつたのが既に譬喩の意味をもつてゐる。さてその譬喩もまた多くの歌の構想に現はれてゐるので、戀の歌には特にそれが多く、「わが戀はみ山がくれの月なれやしげさまされど知る人のなき」(戀二美材)、「わびぬれば身をうき草のねを絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ」(雜下小町)、などがそれである。これらもまた無形のものを有形のものに譬へたのであるが、「あはれてふことだになくば何をかは戀の亂れのつかね緒にせむ」、「わが戀は空しきそらにみちぬらし思ひやれどもゆくかたもなし」(以上戀一)、などはそれに一歩を進めて譬喩を譬喩とせずして直敍したものといつてよからう。かういふ表現法が智的要素を多く含んでゐることは、いふまでもない。譬喩歌は萬葉にも少なくないが、かういふものはまだ作られてゐなかつた。次には擬人であるが、これにも譬喩の性質がある。「山高み人もすさめぬ櫻花いたくなわびそわれ見はやさむ」(春上)、「ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」(春下友則)、「夏山になくほとゝぎす心あらば物おもふわれに聲なきかせそ」(夏)、「女郎花秋の野風にうちなびき心一つをたれによすらむ」(秋上時平)、など、例を擧げればいくらもあり、かういふ擬人の當時に喜ばれたことが知られる。擬人の多くは人間的感情を自然物に寄託するのであるが、その感情が特殊の思慮を經たものである場合には、その寄託に智巧がはたらいて不自然になるので、こゝに擧げたものにもそれがある。いま一つ注意せられるのは、一首の構想が對比または比較によつて成りたつてゐるものであつて、「もゝちどり囀る春は物(300)ごとにあらたまれどもわれぞふりゆく」(春上)、「さほ山のはゝその色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな」(秋下是則)、「秋なれば山どよむまで鳴く鹿にわれ劣らめや獨りぬる夜は」(戀二)、などがそれであり、「ゆく水に數かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(戀一)、「ゆふされば螢よりけに燃ゆれども光みねばや人のつれなき」(戀二)、の如きは、譬喩の意をも含んでゐる。かゝる對比や比較が智的なはたらきであることは、いふまでもない。さてかういふ種々の構想の法は、漢詩の修辭法にその一由來があらうが、複雜な構造をもつてゐる漢詩とは違つて、僅々三十一音によつて形づくられる短歌に於いては、それは單なる修辭ではなくして、一首全體の構想となるのである。(このことについては、古今集の序や大井川行幸和歌の序などに、漢文の修辭法から脱化して來たところのあることが、參考せられよう。)
 ところが、かゝる構想によつて一首の歌を作りあげるその構成法には、一層智巧的である場合が多い。いはゆる「見たて」について一二の例を擧げると、「淺みどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」(春上遍昭)が、露を玉と見たところから、「ぬける」「絲よりかけて」をひき出し、更に柳の色の「淺みどり」を絲の色とし、それによつて一首が構成せられてゐるやうなのがそれである。萬葉の「さを鹿の朝立つ野べの秋萩に玉とみるまでおける白露」(卷八)には、かういふ智的な構成は無い。また「淺みどり」についていふと、萬葉の「淺みどり染めかけたりと見るまでに春の柳はもえにけるかも」(卷一〇)がそれを單純に柳の色としたのと、違ふ點に注意しなければならぬ。「なきわたる雁の涙やおちつらむ物おもふやどの萩の上の露」(秋上)が、露を涙と見たところから「鳴き」を「泣き」の義にとると共に、そこから「物思ふ」を導き出し、それによつて一首が構成せられたのも、同じやうな例(301)であるが、秋の上の露を涙と見るのは目に映じた直接の感じではないから、そこに既にかなりこみいつた類推がはたらいてゐるので、一首の構成が前のよりも一層智的である。(この歌には雁が擬人せられてゐて、そこにも智的なはたらきがある。)また「かすみたち木の芽もはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける」(春上貫之)も、雪を花と見るといふだけでなく、春の雪だからさう見るといふところに、智的な點がある。萬葉の「わが苑に梅の花ちるひさかたの天より雪の流れくるかも」(卷五)と比べてみるがよい。次に譬喩についていふと、「年ごとに紅葉ながす龍田河みなとや秋のとまりなるらむ」(秋下貫之)、「涙川なに水上をたづねけむ物おもふ時のわが身なりけり」(戀一)、などが、それ/\譬喩、特に前のは無形のものを有形のものに譬へてそれを「秋のとまり」といふ直敍の形にしたもの、後のは「涙川」といふ甚しき誇張をしたもの、によつて一首が構成せられてゐる。「もゝ草の花のひもとく秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ」(秋上)の如きも「ひもとく」の譬喩的表現から一首が展開せられてゐる。「忘れ草かれもやするとつれもなき人の心に霜や置かなむ」(戀五宗于)が忘れ草の一語から心に置く霜を導き出して一首を構成したのも、これと同じである。また擬人についていふと、「春風は花のあたりをよきて吹け心づからやうつろふと見む」(春下好風)、「人の見ることや苦しき女郎花秋ぎりにのみ立ちかくるらむ」(秋上忠岑)、「櫻花ちりかひくもれ老らくの來むといふなる道まがふまに」(賀業平)、などがその例である。なほ對比や比較については上に擧げたものが皆それである。かういふ構成が智的のものであることは、いふまでもない。以上の分類に入らぬ種々の智的な構成によつて一首の形づくられてゐるものも少なくないので「夏と秋とゆきかふ空の通ひ路はかたへ凉しき風や吹くらむ」(夏)といふやうなのも、その例である。が、一々それを擧げる必要もあるまい。
(302) しかし歌のかういふ構成は、往々それをして、或はことばの上だけのもの、或は虚僞をいつたもの、また或は意味の無いもの、たらしめる。「冬ながら空より花のちり來るは雲のあなたは春にやあるらむ」(冬深養父)、「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(夏遍昭)、「聲はして涙は見えぬほととぎすわがころもでのひづをからなむ」(夏)、「女郎花おほかる野邊に宿りせばあやなくあだの名をやたちなむ」(秋美材)、「年を經て消えぬ思ひはありながら夜の袂はなほ氷りけり」(戀二)、「白玉と見えし涙も年ふればからくれなゐに移ろひにけり」(戀二貫之)、「泣くなみだ雨とふらなむわたり川水まさりなばかへり來るがに」(哀傷篁)、などがその例である。「あかずして別るゝ袖の白玉を君がかたみとつゝみてぞゆく」(離別)の如きも、涙の露を白玉とすることによつて一首を成りたゝせたその構想はこれらと同じであり、涙を袖につゝむは事實としてはあるべからざることであるが、しかし、その優婉な情緒とそれにふさはしい一首の構成とは、この歌に無限の情趣を帶びさせてゐるので、袖につゝむ涙の白玉は、讀むものにとつては、別離の情の美しい象徴として感ぜられる。「うれしさを何につゝまむ唐衣たもとゆたかにたてといはましを」(雜上)についても、同じことがいはれよう。智巧的な構想が情緒の表現を妨げ、或はその構想のみが歌の内容をなす場合に、上に擧げたやうなものができるのである。
 次には修辭的技巧についてであるが、古今集のには、「いひかけ」や縁語や一語を二義に用ゐたものが甚だ多く、そこに萬葉のとは違つた新しい技巧があることは、今さらいふまでもあるまい。「いひかけ」は冠詞の用ゐかたの一つとして行はれたものであるから、多分それから一轉化した技巧であらう。日本語の一つの特色がかういふ技巧となつて現はれたのである。たゞ冠詞は主たる語をひき出すためのものであつて、そのことばには一首の全體にかゝはる意(303)義はないが、それに一首の構想として必要な意義をもたせると「いひかけ」になり、それによつていひかけられた語が二義をもつことになる。從つていひかける方からいふと一つの觀念から忽然として他の觀念に轉ずることになり、またいひかけるそのことについていふと、それによつて二つの觀念が分離せられるので、そこから輕快の感が生ずる。縁語はそれに反して、二つもしくはそれよりも多い觀念の間に一すぢの絲をつないでそれを結びつけるものであるから、束縛せられたやうな、或は重苦しい、窮屈の感じがする。また一語を二義に用ゐることは、いひかけとは關係なく行はれる場合があると共に、縁語にもそれが多い。さうして「いひかけ」と縁語とはしば/\結びつけられ、または一から他がひき出される。「わが戀にくらぶの山の櫻花まなく散るとも數はまさらじ」(戀二是則)の「くらぶ」に含まれてゐる比較の意義が末の句まで持續せられて「まさらじ」になるのが、その例である。また「みつ潮の流れひるまをあひがたみみるめの浦によるをこそまて」(戀三深養父)、「おとにのみきくの白露よるはおきてひるはおもひにあへず消ぬべし」(戀一素性)、などは、これらの修辭法を三つながら併せ用ゐた例である。かういふ修辭法は何れも「だじやれ」に類する性質をもつてゐ、遊戯性を帶びてゐるが、歌ではそれよりもむしろ多くの歌材を用ゐることによつて一首の内容を複雜にする效果を生ずることになるので、思想としてはそれに譬喩の意味も含まれてゐる。從つてそれを構成するにもそれを理解するにも、一種の智能がはたらかねばならぬ。一たいに古今集の歌の一部には三十一音には盛りきれないほどのものを盛らうとする傾向があるので、「こゝろ餘りてことば足らず」といふ評は業平のに限らないことであるが、これもまた一つは漢詩に對抗するものとして短歌を取扱はうとしたからであると共に、漢文學によつて與へられた智的教養がそこにはたらいたといふ事情もあらう。(智巧を重んずることの由來は、前章(304)にも述べた如く、また後にもいふやうに、別のところにもあらうが。)たゞ日本語の歌であるのと、これとは違つた情的教養が深められたのとで、そのはたらきかたが漢詩とは違つたものになつたのである。なほ「秋の野に人まつ蟲の聲すなりわれかとゆきていざとぶらはむ」(秋上)の如く、「いひかけ」によつて一首の構想が成立つてゐるものもあり、縁語を用ゐるところに主なる構想のあるものには上に擧げた「みつ潮の」如きがあり、一語を二義に用ゐることによつて一首の構成せられたものには「主しらぬ香こそ匂へれ秋の野に誰がぬぎすてし藤袴ぞも」(秋素性)のやうなのがあるが、いづれもことばの上だけでしか意味の無い歌である。
 萬葉の歌に多く用ゐられた冠詞や序詞も幾らかは相承せられ、特に戀歌には序詞を用ゐたものが少からず見えてゐるが、その多くは冠詞も序詞も單純なものではなく、それから縁語がひき出されたり、それによつて一首が構成せられたりするものがあるので、冠詞では「あづさ弓春たちしより年月の射るが如くも思ほゆるかな」(春下躬恆)、「初雁のはつかに聲をきゝしより中空にのみもの思ふかな」(鯉一躬恆)、「唐衣ひもゆふぐれになる時はかへす/”\も人は戀しき」(戀一)、などがそれであり、「紅のふりいでつゝなく涙には袂のみこそ色まさりけれ」(戀二貫之)の如きは、それが虚僞の構想となつたものである。序詞でも、「思ひいづるときはの山の岩つゝじいはねばこそあれ戀しきものを」(戀一)の如く、序詞のうちにいひかけを、「あふことは雲井はるかに鳴る神の音にきゝつゝ戀ひわたるかな」(戀一貫之)の如く縁語を、「あき風のふきうらがへす葛の葉のうらみてもなほうらめしきかな」(戀五貞文)の如く一語二義の用法(及びことばとしては同じ音の語のくりかへし)を、含むもの、「足びきの山した水の木がくれてたぎつ心をせきぞかねつる」(戀一)、「秋の野に亂れてさける花の色の千くさに物を思ふころかな」(戀二貫之)、「吹きま(305)よふ野風を寒み秋萩のうつりもゆくか人のこゝろの」(戀五雲林院のみこ)、などの如く、序詞と譬喩的にいひ現はされた主想とがもつれあつてゐるものがある。前に擧げた「おとにのみきくの白露」の如きも、この二句は序詞の形をもつてゐながら「きく」までが戀の意義をもち、「まこも刈る淀の澤水雨ふれば常よりことにまさるわが戀」(戀二貫之)も、第三句までは序詞と見なすべきでありながら、いひかたは序詞らしくないので、何れにもこゝにいつたのと同じ性質がある。これらもまたみな一首の内容を複雜にし表現を煩瑣にしたものであつて、その意味で智巧的である。萬葉の冠詞や序詞とはひどく趣がちがふ。(こゝに引いた「あふことは」の一首を萬葉の、「天雲の八重雲かくり鳴る神の音のみにやもきゝわたりなむ」(卷一一)と對照してみるがよい。)同じ音や語を重ねたりくりかへしたり、また頭韻を用ゐたものも、幾らかはあり、「白雲のたえずたなびく峯にだにすめばすみぬる世にこそありけれ」(雜下惟喬親王)、「あきの野にさゝわけしあさの袖よりもあはで來し夜ぞひぢまさりける」(戀三業平)、などがそれであるが、「君がゆくこしのしら山しらねどもゆきのまに/\あとはたづねむ」(離別兼輔)の如きは、「ゆき」の語を二義に用ゐると共にはじめの二句が序詞の形をもちながら、一首の構想をそこから導き出してゐるところに、これまで見て來たのと同じ傾向のあることが知られる。同じ語をくりかへしてもそれに一々特殊の意義をもたせるのである。
 以上は古今集の歌が概していふと甚しく智巧的であり、そこに萬葉と趣を異にするところがあることを述べたのであるが、この傾向は、特殊の技巧などを用ゐなくとも、一讀したのみではその意が解しがたいほどに、むつかしい表現法をとつたものを生ずるに至つた。「いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは」(春下素性)、「ことならば君とまるべく匂はなむかへすは花のうきにやはあらぬ」(離別幽仙)、「思ふよりいかにせよとか秋風に(306)なびく淺茅の色ことになる」(戀四)、などがその例であつて、昔からの注釋家の説が區々になつてゐるのも、そのためであらう。「ぬれてほす山路の菊のつゆのまにいつか千とせをわれは經にけむ」(秋下素性)の如き、修辭的技巧を用ゐることに於いて甚だ巧緻なものもある。また技巧が用ゐてあつても、それがさうとは感ぜられないほどに、ことばのつゞけかた思想のはこびかたの自然なものも多く、「昨日といひ今日とくらしてあすか川流れて早き月日なりけり」(雜冬列樹)の如きはその一つであるが、古今集の歌の特色の一つは、修辭的技巧が施されてゐても、一首が淀みなき水の流れのやうな調べをなすところにある。いひかけを用ゐたり同じ音や語を重ねたりくりかへしたりするのも、かういふ效果を求めるためであらう。こゝに前章に述べたやうな平安朝人の趣味が現はれてゐる。たゞ一方に同じく平安朝人の一傾向として智巧を重んずる側面があつて、この二つが調和しないところに、上に述べたやうな歌らしくない歌が生ずるのである。
 さてこゝにいつた一首の構成法と修辭的技巧との大部分は、篁や小町などの歌にも既に用ゐられてゐるから、そのころから次第に行はれて來たものであらう。歌の復興の初から、その一面にかういふことが行はれたのである。それを用ゐることの多少またその何れを用ゐるかについては、個人的にいくらか特色が認められなくはないやうであるが、今はそのことを考へず、古今集の歌を概觀することによつて、それによつて示されてゐる當時の好尚の一般的傾向を知らうとしたのである。切なる情思を詠じなくてはならぬ戀歌にすらも、上に擧げたやうなものが作られ、啻に智巧的であるのみでなく遊戯性をさへ帶びてゐるものが少なくないが、戀歌にも題詠のものがあつてそれにはかういふ技巧を用ゐる餘裕があるのと、それに慣れると實感を詠ずるに當つてもおのづからその口つきが學ばれるのと、贈答唱(307)和には一種の機知を要するのと、かゝる贈答唱和をするそのことが戀愛生活の一つの技巧であるのと、なほ後にいふ如く戀愛そのものに或る遊戯性の加はる場合があるのと、これらの事情のためにさうなるのであらう。歌の本質が技巧にあるやうに考へられて來る一つの事情はこゝにもある。ところが、かういふ歌人の好尚は、業平の八つ橋での詠といはれてゐるもの、または古今集の「物名」の歌のやうなものとなり、後には源順の集に見える「あめつち」の歌や雙六盤の歌や首尾に同じ字を用ゐた歌などの如きものとさへなつてゆく。この遊戯にもまた漢詩を作ることから轉化して來たところがあるらしく、實際には耳に感じない四聲の區別や韻を文字によつて知り、それにあてはめてことばをつらねる方法が、これと似てゐる。また俳諧歌の如く遊戯的のものとして古今集の編者の認めたやうなものの作られたのも、遊戯的といふ點ではこれと連繋がある。(但し俳諧歌のすべてが特にさう呼ばれねばならぬほどの特色をもつてゐるには限らないので、四季の歌にも戀の歌にも、その俳諧的性質に於いてこれと同じものは幾らもある。現に歌合の歌が俳諧歌に編入せられてゐるものもある。)古今集には無いけれども、連歌もまた遊戯の一種であり、そのうちには言語上の滑稽を主にしたものもある。なほこれらのことは歌の批評が專ら技巧の上に向けられることとも關係があるので、歌合の判がそれを示してゐる。「咲かざらむ物とはなしに櫻花面影にのみまだき見ゆらむ」(亭子院歌合躬恆)を「らむ」が二つあるとて非難し、「三千歳になるといふ桃は今年より花さく春にあひぞしにける」(同上是則)を「年」が重なるとて負にしたなどは、その最も甚しきものであるが、古今集の序の六家の歌に對する批評もまた主として技巧にかゝはることである。
 さて歌に技巧が重んぜられることになると、何人でも作れる代りに作り方を古歌によつて學ばねばならぬ。そこで(308)上に述べた如く古歌を暗誦するといふことが行はれる。また本歌にすがつて作る方法も生じた。詩想の無いものが歌を作るには、これらは恰好の方法である。歌の學問が起り作歌の法則や歌の批評の標準論が生まれたのも、またこの風潮に關係がある。今日には傳はらないが、このころから種々の歌論があらはれて來た。しかし奇異なことには、この歌論は事實當時の作者が好んで用ゐたやうな歌の技巧について論じたものでもなく、それを組織だてたものでもなく、それらとは全く無關係な漢詩の律格論や修辭論を、そのまゝに和歌に適用しようとしたものらしい。空海の文鏡秘府論が文學批評の標準を説いてから、漢文漢詩の方面では病を論ずることが盛になり、大江朝綱や紀長谷雄もそれを説いてゐる(作文大體)。從つて文章生の答案を審査するにもこの標準によるものがあつた(都氏文集)。當時行はれた漢詩の法則は詩として必要な形式上の規格と修辭の法とを混淆したものであるが、シナ語について聲調上の感受性の無い邦人が漢詩を作るには、かういふものが必要であつたに違ひない。けれども邦人は國語の耳にひゞく快と不快とを自然に感知することができるのに、言語の性質を異にした漢詩の法則を故らに轉用して歌に強ひるのは、不合理でもあり愚の極でもある。
 この歌の法則の一例は、時代は後れるが一條天皇の頃に歌學の權威として人も許し自らも許してゐた公任の新撰髄脳を見てもわかる。これは今日に傳つてゐる同種類のものの最古の著であらうが、その説はやはりそれより前から行はれてゐた髄腦ものと大同小異であらう。その中に、古今集の「み侍み笠と申せ」の歌を引いて、同語の重なることを去るべき病とし、また二句の末が同字(同音)であることをも病として説いてゐる。これは漢詩についていふ平頭病と上尾病とによつたものらしいが、漢詩では四聲の同じなのを難としたのであるのに、その區別のない國語の和歌(309)であるから、それを同音と改めたのである。もしこれを病とするならば、古代から盛に用ゐられた頭韻や同じ音同じ語を重ねることは全くできなくなるが、髓腦家は現實の經驗に於いてそれが耳に不快であつたからではなく、たゞ漢詩の法則をあてはめたに過ぎない。これは啻に彼等の學者としての無能力を示すばかりでなく、自己の情思をよそにし我が耳の感受性をさへ顧ずして、無意味の法則を立てようとしたといふ一層深い墮落である。かういふ法則を説いた髄腦ものが何時から作られたかは明かでないが、漢詩の法則が説かれ、また和歌の盛に行はれるやうになつてからのことであらう。(奈良朝末の藤原濱成の作とせられてゐる歌經標式といふものがあるが、それに引いてある歌から見ても、漢詩の法則を歌に適用しようとする全體の着想から見ても、その時代のものとは考へられぬ。勅を奉じて制定したやうにしてあるのも、詩集や歌集の勅撰の行はれた後の考案らしく、その序の如くなつてゐる上言にも古今集の序を思ひ出させるものがある。)一條朝のころには歌論議といふことが行はれたらしいが、それもまた髄腦に説かれてゐるやうなことが問題とせられたのではなからうか。その名稱の由來となつた佛家の「論議」から見てもさう臆測せられるやうである。
 歌の法則ではないが、貫之の古今集の序に和歌を詩の六義に比したり、近ごろは歌が「色ごのみの家に埋木の人知れぬこととなりて、まめなるところには花薄ほに出だすべきことにもあらずなりにたり、」といふやうなことをいつて、歌は「まめなるところ」に行はれたもの、天子が群臣の賢愚を知る料とするとか、「爲教誡之端」とかいふ效果のあつたものとしたり、さういふことのいつてあるのも、また新撰和歌の序に和歌を「厚人倫、成孝敬、上以風化下、下以諷刺上、」するものと書いてあるのも、歌にシナの學者の説くやうな漢詩の性質を與へようとしたものであつて、(310)これもまた事實に背いたこと、貫之等みづからの歌を詠む態度に背いたことである。これは一方では書物の上の知識によつて自己を欺くものであるが、他方ではたゞ自己にかゝはりの無い知識を文字の上で弄ぶのみのことでもある。漢詩にあきたらずして和歌に趨き、その意味で漢詩に對抗する氣分がありながら、その對抗を、觀念上、和歌に漢詩の性質と價値とを與へることによつて行はうとしたために、かうなつたのであり、そこにどこまでもシナ思想に對する崇拜心がはたらいてゐる。
 以上は主として古今集の歌とその時代の歌人の思想とについていつたのであるが、この傾向はその後にも繼續せられる。天暦の代には、いはゆる梨壺の五人によつて後撰集が撰ばれた。歌合がます/\盛になつて天徳四年の大規模な興行があつたが、依然として技巧本位である。その題が從前のに比べて狹く限定せられ、左右かならず同題のものを合せることになつてゐるのも、またそれを示すものであり、その判もまた技巧上の批評に過ぎない。源順集にある前栽合の歌の判を歌でしたなども、やはり歌といふものを形の上、技巧の上、からのみ見る習慣があつたためであらう。歌の判を歌ですることは、歌の本質に背くものだからである。後撰集の次に拾遺集が撰ばれ、いはゆる三代集はかくして成立したのであるが、後撰拾遺の二集の歌の風體ほほゞ古今集のそれの繼續といつてよく、後撰集の歌の作者には古今集のそれが多く含まれてゐる。今一々それをいはぬ。たゞかういふ撰集の行はれたのは、歌に新氣蓮が動いて來たためではなく、古今集の先例を追はうとしたまでのことであつて、それは後撰といひ拾遺といふ名稱からも知られる。拾遺集の撰には公任が與つたといふこともいはれてゐるが、公任は上にいつた新撰髓腦の作者である。その髓腦に歌の二つの要素として心と姿とを擧げながら、姿よりも心を重ずるといつてあるが、その心といふのも歌の(311)一首もしくはそのうちの或る句の構想といふほどの意義らしいことが、こゝでは注意せられよう。なほ拾遺集には萬葉から採られたものがかなりあつて、特に人麿の名を署したものが多いが、萬葉は梨壺の五人によつて訓がつけられたから、この集に記されてゐるものは、それによつたのであらう。歌の採られたのもそれに誘はれたところがあるかも知れぬ。しかし作者にも歌にも幾らかの轉訛や訓みひがめがあり、その訓みかたにこの時代の歌風の反映してゐるものもあるが、それはともかくもとして、萬葉の歌が人に知られてゐたことは事實であつて、古今集の序によつてもそのことは知られ、同じ集の歌にもそれを本歌としたものがあり、また伊勢物語にはその歌が用ゐられ、源語にもところどころにその詞が使つてあるし、また蜻蛉日記や枕册子にもそれが見えてゐる。しかし歌の模範として萬葉が見られてはゐないらしく、そこにこの時代の歌人の風尚が現はれてゐる。萬葉の歌の人の口に上るのは、白氏文集の詩の句を誦するのと同じ意味のことであつて、これもまた知識的教養の一つであつたらう。さうしてそこにやはり漢詩の法則を歌に適用しようとすることとの一つの連繋が無いでもない。
 
 しかし、これまでいつて來たやうなものがこの時代の歌のすべてではない。歌が復活した時に既に新技巧が生じはじめたが、その傍にはさういふ技巧を用ゐないものが作られてゐたといふことは、上に述べた。そのころの歌をも含んでゐる古今集には、それを繼承して單純なる情思を率直に表現したものが少なくない。そこでさういふもののあることを、反智巧的であるといふ意味で第十二の特色として擧げておかう。先づその例の幾つかを古今集から採つてみると、「たれこめて春のゆくへも知らぬまに待ちし櫻もうつろひにけり」(春下因香)、「今もかも咲きにほふらむ橘の(312)こじまの崎の山吹の花」(春)、「白雲に羽うちかはし飛ぶかりのかずさへ見ゆる秋の夜の月」(秋)、「かくばかりをしと思ふ夜をいたづらにねてあかすらむ人さへぞうき」(同躬恆)、「みよし野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ」(冬忠岑)、「さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫」(戀四)、「世の中にさらぬわかれもなくもがな干せもとなげく人の子のため」(雜上業平)、「いざこゝにわが世はへなむ菅原や伏見の里のあれまくもをし」(雜下)、などがそれであり、何れも古今集のうちで感じの深い歌である。智巧的な漢詩に反抗して和歌の起つたころの氣分が繼承せられ、そこに歌の本質が保たれてゐると共に、智巧を弄する餘裕の無い場合に作られたものだからであらう。さうしてかういふものは後撰集にも拾遺集にも見えてゐるし、個人の家集に於いてはなほさらである。ところが、そのすぢをひきながらその特色を一層明かに示したものが一條朝時代の女流歌人の作である。紫式部が源氏に「常陸の皇子の書き置き給へりけるかうや紙のさうしをこそ、見よとておこせ給へりしか、和歌の髓腦いと所せう、病去るべきところ多かりしかば、もとよりおくれたるかたの、いとゞなか/\動きすべくも見えざりしかば、むつかしくて、返してき、」(玉鬘)といはせ、かゝる歌論は女の學問に無用であると喝破させてゐるのも、それとつながりがあらう。髓腦の法則論は單なる紙上の知識であつて、實際の作歌に於いては初から守られたものではなかつたから、ことさらにかういふことをいふ必要が無いほどであるが、この態度はおのづから歌の智巧的な傾向に對する抗議となるものとも見られようか。
 さてこの女流歌人はその先驅を宇多朝ころの伊勢に認めてもよからうが、この時代の「道綱の母」として知られてゐるもの、紫式部、和泉式部、などが、かゝる歌の作者として特に注目せられ、馬内侍、赤染衛門、などもそれに準(313)じて見られよう。小大君とか相模とかいふのもある。彼等の歌とても技巧を用ゐまたは弄したものも少なくないので、贈答唱和の作には特にそれがある。けれども技巧を示すところに構想の中心があるのではなくして、そこに濃かな情思が現はれてゐる。さうしてその贈答唱和の歌も、一方では殆ど技巧を用ゐないものがあり、をりにふれての即興または獨居詠懷の作に至つてはなほさらである。「嘆きつゝ獨りぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る」(道綱の母)、「あらためて今日しも物の悲しきは身のうさやまたさまかはりぬる」(紫式部)、「岩つゝじ折りもてぞ見るせこが着し紅染の衣に似たれば」、「さなくても寂しきものを冬くれば蓬のかきのかれ/”\にして」、「夕ぐれに物おもふことはまさるかとわれならざらむ人に問はばや」、「頼めたる人も無けれど秋の夜は月見てぬべき心地こそせね」、「かゝりきと人に語るなしきたへの枕の思ふことだにぞうき」、「うしと見て思ひすてにし身にしあればわが心にもまかせやはする」、「命だに心ありせば人つらく人うらめしき世に經ましやは」、「ねし床に魂なきからをとめたらばなげのあはれと人も見よかし」(以上和泉式部)。和泉式部は「まことの歌よみざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの目にとまる、よみそへはべり、」と紫式部に評せられたが*(日記)、必しもことさらに「をかしき一ふし」を求めたのではなく、さう評せられたところのあるのは、むしろこの女に特殊な情生活の自然の發露と見なされよう。さうしてそれは紫式部の歌につゝましやかなこの女の生活が現はれてゐるのと同じである。馬内侍や赤染衛門にも、すら/\と思ふまゝをいつてゐるものが幾らもあるが、こゝには「ねざめしてたれか聞くらむこのころの木の葉にかゝる夜半のしぐれを」、「こよひ君いづくの里の月を見て都にたれを思ひいづらむ」(馬内侍)、「こぞの春ちりにし花はさきにけりあはれ別れのかゝらましかば」(赤染)、などをその一例として擧げて(314)おかう。さて女流歌人の作にかういふものが多いのは、その戀愛生活に於ける女の體驗に重なる由來があるのではあるまいか。和泉式部によつて特にこのことが感ぜられる。當時の戀愛生活は、その一面に遊戯的技巧的なところがあるが、他の一面では、特に女にとつては、一生の運命のかゝるところ、その意味で「しんけん」なものだからである
(後章參照)。
 ついでに源語の歌について一言しておくべきであらう。それには上に述べたやうな種々の修辭的技巧が用ゐてあり、一首が譬喩で成りたつてゐるものも少なくないので、「みやぎ野のつゆふきむすぶ」といふ最初の歌が既にさうであるが、數に於いて全卷の大部分を占めてゐる戀の歌もまた同樣である。しかしさういふものでも技巧に注意の焦點が置かれてゐるのではなく、縁語や一語二義の語もまたは本歌によつたものも、それと知らずに讀み得られるものが多く、譬喩とてもことばの上だけでその一應の意義は解せられる。さうして例へば末摘花に對するものの如き特殊のものを除けば、輕快な感じを與へるものは殆ど無く、概ね重厚であり、含蓄がある。これは物語に示されてゐる情景のためでもあるが、作者の作歌の態度からも來てゐよう。從つて時には措辭のやゝ晦澁なものさへもあるので、「うつせみの世はうきものと知りにしをまた言の葉にかゝる命よ」、「過ぎにしも今日わかるゝもふたみちにゆくかた知らぬ秋のくれかな」(以上夕顔)、などの如く、特殊の修辭的技巧の用ゐてないものにもそれがある(これは後にいふやうに詠まれた場合の情景を知らねば解しがたい歌の例でもある)。しかし「古もかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしのゝめの遺」(夕顔)、「見てもまた逢ふよまれなる夢の中にやがてまぎるゝわが身ともがな」(若紫)、「物おもふにたち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心しりきや」(紅葉賀)、「むつごとを語りあはせむ人もがなうき世の夢も(315)なかばさむやと」(明石)、「身をかへてひとり歸れる山里に聞きしに似たる松風ぞふく」(松風)、「風さわぎむら雲まよふ夕べにも忘るゝまなく忘られぬ君」(野分)、「霜さゆるみぎはの千鳥うちわびてなくねかなしき朝ぼらけかな」(總角)、などのやうな率直な情思の表現せられたものも、少なくない。さうしてそこに上に述べて來たところと照應するものがある。たゞ物語の歌は歌のみがそれだけで獨立のものとして鑑賞せられるのではなくして、それの詠まれた情景を思ひ浮かべ、歌をその中に置いて見るのであるから、獨立の歌としてはさして興趣の無いものにも特殊の興趣が感ぜられる。「よからねどそのをりはいとあはれなりけり」(橋姫)と作者のいつてゐる場合もある。(ついでにいふ。空蝉の卷の結末の一首は伊勢集にあるが、これは源語の歌がまぎれこんだのではあるまいか。源語のにふさはしい歌の姿である。伊勢集にはこの外にも伊勢の作でないものがある。)
 ところで、こゝまでいつて來ると、第十三としていふべきことがある。萬葉には殆ど無くしてこの時代の歌になつて多く現はれて來たのは、おのが心の動きをおのれみづから省察してそれを詠ずること、一種の心理敍述が歌に於いて行はれてゐることである。それは戀歌に於いて最も多いが、必しもそればかりではない。古今集の「わりなくもねてもさめても戀ひしきか心をいづちやらば忘れむ」(戀二)、「心をぞわりなきものと思ひぬる見ぬものからや戀ひしかるべき」(戀四深養父)、「かく戀ひんものとはわれも思ひにき心のうらぞまさしかりける」、「忘れなむと思ふ心のつくからにありしよりけにまづぞ戀ひしき」(以上戀四)、「今は來じと思ふものから忘れつゝまたるゝことのまだもやまぬか」(戀五)、「つれなきを今は戀ひじと思へども心よわくもおつる涙か」(同忠臣)、などにその例がある。心といふ語は用ゐてないが、「うきながら人をばえしも忘れねばかつ恨みつゝなほぞ戀ひしき」(勢語)などもその一つ(316)である。後撰や拾遺にも似たものはあるが、一々擧げなくてもよからう。一條朝時代の女流歌人にもそれは多いので、戀歌ではないが「數ならぬ心に身をば任せねど身に從ふは心なりけり」、「心だにいかなる身にかかなふらむ思ひ知れども思ひ知られず」(以上紫式部)、「えこそなほうき世と思へどそむかれぬおのが心のうしろめたさに」(和泉式部)、などがそれである。平安朝人の心情には、かういふ自己省察が伴ふやうになつて來てゐるので、次章にいふ如く、日記の書かれるのも、そのためである。
 さて最後に第十四として、平安朝人の生活に於ける歌のはたらきが考へられる。贈答を歌でしたり口づから歌を唱和したりすれば、普通の消息ではいはれないことがいはれもするし、それのもたない情趣をもちもする。歌の贈答は技巧を加へた消息文の往復、唱和はやはり技巧を加へた對話、といつてもよいものでありながら、この點に特殊な意味がある。歌に技巧の重んぜられることとの連繋がその一面にはあるが、それはまた生活を藝術的空氣の裡に置くことにもなつて、そこには生活が演藝であると上にいつたこととの結びつきがある。またかういふ場合の歌は、一方だけ讀んだのでは興趣が少く、特に返歌に於いては意義の解しがたいものすらあるので、家集や心おぼえの日記などに書きとめるに當つてその兩方を記す習慣のあるのも、一つはそのためであらうが、それと共に、歌の作られたその時の情景を思ひ浮かべて始めて興趣があるからでもある。さうしてかういふ歌が世間に傳へられて賞翫せられるのは、一つは歌の重んぜられる世の中に於いてそれを歌として見るからでもあるが、また一つは人が歌と共にかゝる情景そのものに興趣を感ずるからであり、それがまたおのづから作者に對する同情、時としては反感、を誘ふものであるところに、平安朝人の生活の一つの姿がある。(贈答の歌が書きかはした消息文と共に他人の間に傳へられることにつ(317)いては、紫式部集、同じ人の日記、源語の帚木、など參照。)そのをり/\の心やりとして作られる詠懷の歌もこれと同じく、それを歌の形にするところに、特殊の情趣があり、さういふ歌の賞翫せられるのもこれがためである。(かかる歌もまた種々の徑路によつて世に傳へられるので、その間に轉訛の生ずる場合もある。帚木參照。)さて歌を作るのは教養の一つであるが、それによつて生ずるかゝる情趣が平安朝人の生活を包む特殊の雰圍氣を釀成するところに、歌の作られる意味があるので、今人が平安朝人の歌を見るには、それをこの雰圍氣の裡に置いて、またそれに包まれてゐる生活の一つの姿として、眺めることが必要である。それから離れて歌を單に歌として讀めば、千篇一律でもあり、興味の索然たるものもその間にあり、今人の考へるやうな文藝上の作品としては多くの價値を認め難いものが多い。歌の少くとも一半は、もと/\さういふ性質のものとして作られたのではないのである。
 
(318)   第三章 文學の概觀 下
       物語
 
 平安朝に於ける和歌の興隆には、智巧本位の漢詩に反抗して日本語による日本人としての抒情詩を作らうとする意味が含まれてゐたが、その和歌みづからが、少くともその一半の傾向として智巧主義に墮して來たのに反し、文學上に一生面を開いて、平安朝人の情生活をさながらに描寫し敍述し、同じ時代のシナの文學にはまだ發生しなかつた新形態の創造となつたと共に、後世まで日本文學の古典として尊尚せられるものは、物語と稱せられる散文の小説である。かゝる物語の作られるやうになつた由來についてはほゞ五つのことが考へられるので、その第一は、假名の製作につれ、律語詩としての和歌と共に、日本語によつて日本人の思想行動をありのまゝに表現し敍述し日本の風光景物を自由に描寫することのできる、散文の文體の發生したことである。その初期のものは多分簡單な和歌の詞書きまたは消息文の類であつたらうと想像せられるが、既にさういふものが書かれることになつた上は、それがおのづからもつと複雜なものに發展してゆくやうになる。たゞそのはじめには、漢文の修辭法が適用せられ、古今集の序や同じ作者の大井川行幸和歌序の如きものが書かれたが、その傍に土佐日記の如きさういふ修辭法の拘束を多く受けないものも作られるやうになり、後にはその内容が深められて、今日に遺存する紫式部日記や枕册子の如きものを生むに至つたと解せられる。かゝる文體が物語を成りたゝせる外形的側面となるのである。これは和歌に於いて漢詩から來たところのある構成法や修辭的技巧を用ゐるものも流行した傍に、それから離れた抒情詩的情味の豐かなものが作られ、(319)それが和泉式部などの作となつて現はれてゆくのと同じである。歴史的には古事記などによつて傳へられてゐる上代の國語の散文の復活と見なされるが、その上代のは敍述が粗大で描寫が外面的であつたのに、今のは細緻な觀察による自然界や人間生活の措寫、または切實な自己の内省から生まれた心情の表現であり、さうしてさうなつたのは、奈良朝以來、貴族の精神生活が次第に精練せられて來たためであり、復活の實は創造であつたことが、そこに示されてゐる。
 第二は、記紀及び萬葉に現はれてゐる種々の説話、特に戀物語、がその先蹤となつてゐることである。萬葉の説話は多く長歌の形で語られてゐるが、既に述べた如く散文の文體が成りたつて來たこの時代には、もと/\朗吟するものでない長歌といふ律語の形でそれを敍する必要は無くなつたので、古今集以後の長歌にはさういふ題材は取扱はれなくなり、散文小説の形でそれが敍述せられることになつたと解せられる。萬葉の説話には、菟原處女の如き民間に生じたものと、浦島の子の如くシナに由來のある神仙譚とがあるが、前者は大和物語の一題材となり、後者は竹取物語となつて現はれた。さうして前者から多くの物語が發生してゆき、後者から宇津保物語が導き出された。
 第三は、シナの説話文學である。當時の知識人には、長恨歌が喜ばれ遊仙窟のやうなものが讀まれてゐたのみならず、その他の説話文學も幾らかは知られてゐたらしい。源語の螢の卷に「ひとのみかど」の物語のことを源氏にいはせてあるのでも、それはわかる。だからかういふものも、物語の發生について一つの刺戟とはなつたであらう。しかし唐代の説話文學は何れも、平安朝の物語とは比較にならぬほどに、單純な幼稚なものであり、特に精細な心理描寫の如きは全く缺けてゐるから、それから何ほどかの刺戟を受けたことがあるとしても、それはさしたる力のあるもの(320)ではなかったらう。
 第四は、歌の記しかたである。歌集の常として歌にはそれが如何なる場合に作られたかを示す詞書きがあるが、ことがらによつてはそれは簡單な敍事の體をなしてゐる。また家集といはれてゐる個人の集を見ると、贈答唱和の歌には兩方のが並べて記されてゐて、その鮎では他人の作が加はつてゐるが、かういふ記しかたはおのづから、何等かの交渉のある二人の間に何ごとかについて歌の贈答唱和が行はれたことを示す、單純な物語がそれによつて形づくられることになる。この贈答唱和の多くは戀歌であるが、その場合には概ね作者を「男」、「女」、または「人」、と記してあるので、それがために、家集がその男もしくは女の何れかのであり、作者の一人がみづから記したものとしての形をとりながら、第三者が書いてゐるかの如き感を讀者に與へる。いひかへると、作者が自己をもあひてをも三人稱で書いてゐるやうに見えるのである。もっとも家集のすべてが作者みづから書きとめたものであるかどうかは問題でもあるが、贈答唱和の歌は少くとも一方の作者の手記から出てゐる、と見なくてはならず、さうして上記の如き書きかたはその手記に於いて既にさうなってゐたのであらう。作者みづから書きとめた家集にあるものはなはさらである。ところがかういふ書きかたは、書きかたそのものが物語の形をなしてゐるのみならず、自己をもあひてをも第三者的存在である如く見なす點に於いても、物語の性質をもつことになる。伊勢集の卷首に「いづれの御時にかありけむ、……大和に親ある人さぶらひけり、」といひ出して自己の戀愛生活を敍し、男との贈答の歌をも記してゐるのは、自己を物語中の人物の如く敍したものであつて、これがもし伊勢のみづから書いたものであるならば、それによつてこのことが明かに示されてゐる。自己の情思を繪に寫してそれに歌を書きつけて男に贈る、といふやうなことをするのも(321)(馬内侍集)、自己を客觀化して示すところにこゝにいつたのと或る連繋がある。何れに於いても、現實の自己と物語のうち繪のうちの人物との間に、明かな區別が立てられてゐない。どうしてかうなつたかといふと、それは、第一章に述べた如き、また後にもいふやうな、當時の貴族の一般的生活態度の現はれであると共に、戀愛生活の一つのしごととして歌の贈答を行ひ、さうしてそれを書き記しておく、といふ特殊の風習から養はれたことでもあらう。さうしてこれが物語といふ文學形態を發生させた直接の誘因となつたと解せられる。どの物語にも歌の贈答唱和が敍せられてゐるのは、それが當時の風俗であつたからであると共に、物語といふ文學形態の由來の一つがこゝにあつたからでもある。さてこれは物語の形態についてのことであるが、前章に考へた如く、この時代になつて戀歌に繊細な心理の動きが表現せられてゐるとすれば、それは物語の内容としての心理描寫を導き出したものと考ふべきである。
 最後に、物語と同じく第四によつて誘ひ出されたところがありながら、それがまた物語の發達を助けるはたらきをもしてゐるものは、假名文の日記であつて、それが第五として擧ぐべきことである。土佐日記が假名文の日記のはじめのものであるとは、必しもいひ難く、またそのころに女の日記を書くことが無かつたともいはれなからうが、女の假名文の日記がそれから後に次第に多く作られるやうになつたことは、推測せられよう。第四の如き歌の記しかたは、またおのづから日記の一つの形としても見られるものであり、その詞書き即ち敍事の書きかたを詳細にすれば、それだけで日記の形は整ふのである。伊勢集のはじめの部分は即ちそれである。さうしてかういふものは、天徳歌合の記事の如きものが作られるやうになつたことから考へると、天暦のころから後にはかなり多く書かれたであらう。遺存する蜻蛉日記はその最も優れたものであつて、人々の行動と、そのをり/\の風光と、並にその間に於ける筆者みづ(322)からの心理の動きとが、精細に敍述せられ措寫せられてゐる。紫式部や和泉式部の日記がそれを繼承したものであり、「源語」の敍事がさういふものに誘はれたところのあることは、ほゞ推測せられよう。女の假名の日記が漢文まがひの書きかたで記されてゐる日記と違ふところは、かゝる敍述、特に心理敍述、に於いてである。
 
 さて、上記の如き由來のある物語の初期のものとしては、伊勢物語と竹取物語とを擧げることができよう。伊勢物語は在五中將といふ歴史的人物を假りて主人公とした昔の「好色一代男」である。歌人として傳へられてゐた業平の歌と、その事蹟としていひはやされてゐたことを詞書き風に記したものとを、つなぎ合はせて作つた幾つもの歌物語をもととし、それに、萬葉の歌、古今に讀人知らずとして又は他人の作として出てゐる歌、もしくはそれらを少しく作りかへた歌、などを利用して、それにふさはしい光景と情趣とを描き出すことによつて、種々の簡單な物語を構成し、それを業平のことらしく敍したものを加へ、全體としては「中將なりける人」の經歴のやうにしたのが、この伊勢物語である。その最初の形のは、或は業平の家集に本づいて作られたものであつたかも知れぬが、よしさうであつたにしても、それが種々に潤色せられてゐたに違ひない。きれ/”\の短い物語を集めたやうな形になつてゐて、全體が一つの物語に構成せられてはゐず、たゞその主人公が一人であることによつて、その間につながりがつけてあるのみであるが、これは物語の初期の作だからであらう。作者の技倆は歌によつて物語を構成したところにあるので、その簡單なものは、古今集(戀三)に並べて記してある業平と小町との歌を二人の間の贈答としたり、「春日野は今日はな燒きそ」(古今春)の春日野を武藏野にかへて、盗人の一段を作り、「五月まつ花橘の香をかげば」(古今夏)か(323)ら、宇佐の使の話を案出したり、または「戀ひせじとみたらし川にせし禊」によつて、その禊を實際したやうに語つたりしたのが、その例であり、「つゝゐづつゐづつにかけし」、「風ふけば沖つしら浪」(古今雜下)、「君があたりみつつを居らむ」(萬葉一二)、などによつて三つの物語を作つた上に、それらをつなぎ合はせたやうな複雜なものもある。「出でていなば心かろし」に始まる幾首かの歌を結びつけることによつて、一つの物語の作られてゐるやうな例もある。さうしてかういふ物語の多數を戀物語とすることによつて、多感な主人公の半生の生活を髣髴させようとしたのである。一々のその敍述のしかたが、歌集、特に贈答唱和の歌を記した家集、の書きかたに從つたものであることは、いふまでもない。主人公を「男」といひ、そのあひてを「女」と記してあるのも、そのためである。(現存のこの物語は最初に作られたまゝのものではなくして、後から書き加へられた部分が含まれてゐるらしい。同じやうなものを幾らでも加へることのできる性質のものである。)
 竹取物語は伊勢物語とは違つて一つの結構のある物語であり、さうしてその輪廓が一種の神仙譚によつて形づくられてゐるところに傳奇的興味を求めた跡がある。女主人公のかぐや姫は天上の仙女であり、姫に對する求婚者も蓬莱の瓊枝を折り龍の腮の五色の珠などを採らうとしたといふ。確かにはいはれないが、竹取の翁の名が萬葉に見えることから考へると、浦島の子や柘媛の説話と同じやうな神仙譚が奈良朝にあつて、それがこの物語の本になつてゐたかもしれぬ。(萬葉の竹取の翁の歌にはこの物語の筋になつてゐるやうな話は見えないが、この歌は必しも説話の全體を敍したものではなからう。あの歌に歌はれてゐることだけでは神仙譚として甚だ興味を缺いてゐるから、説話の本筋は別にあつたらうと思はれる。)しかしこの物語の中心觀念が、戀にうき身をやつす當時の大宮人を描くところに(324)あり、その意味で寫實小説であることは、一讀して直に感じ得られるところである。この點から見れば、その女主人公は多くの求婚者の心を迷はせ、最後に盡くそれを失望させる要件が具はつてゐる女であればよいので、必しもそれを天上の仙女にしなければならぬ必要は無いのであるが、小説の初期の作だけに傳奇的要素をそれに附け加へたのである。漢文ではあるが、續浦島子傳といふやうなものが書かれたころの作であることが注意せられよう。
 ところで、この二つの物語の主題は何れも戀である。戀はこれまでの國文學の主なる題材であつて、記紀や萬葉の説話もみなさうであり、萬葉の歌そのものに於いてもまたそれが重要な地位をもつてゐた。貞觀前後の和歌の新氣運もそれによつて促され、勅撰集の歌の少くとも一半は戀歌である。當時の貴族生活の最も情趣あるもの、人の關心をひくことの最も大なるもの、が戀であることは、いふまでもない。物語がそれを主題とするのは怪しむに足らぬ。しかし物語の初期に於いては讀者に幾分のをかしみと珍らしさとを與へねばならなかつた。伊勢物語に、「かたゐの翁板敷の下に這ひありきて」とか「蓑も笠も取りあへでしとゞにぬれて惑ひ來にけり」とかいふやうな、誇張したいひかたから來る滑稽、「百年に一とせ足らぬつくも髪」の嫗に戀ひられた男、その男に嫌はれて「荊棘とも知らず走り惑」ふ嫗の、不調和から生ずる滑稽、色このみの男を「いとまめに實やうにて、あだなる心無かりけり、」といひ、歌よみとして世に許されてゐたものを「もとより歌のことは知らざりければ」といひ、さては「昔の若人はさる好ける物思をなんしける、今の翁まさに爲なんやは、」といふやうな、故らに反對のことをいつてゐることの明かに見える滑稽が、隨所に累見してゐる。「男」を「翁といつてあるのから既にさうである。昔から卑下の詞などと考へてゐた「さる歌のきたなげさよ」などいふのも、實は故らに嘲るやうにいひなした滑稽にすぎぬ。伊勢物語全體の調子が(325)この滑稽であつて、戀も情もみな滑稽に取扱はれてゐる。有名な五條わたりの忍びありきでも、「かの西の對に往きて、立ちて見ゐて見れど、去年に似るべくもあらず、打ち泣きて、あばらなる板敷に月の傾くまでふせりて、」といひ、「築地の崩れより通ひけり」といつてあるので、如何に滑稽的態度を作者が有つてゐたかがわかる。鬼一口は固よりである。東下りの「道知れる人もなくて惑ひゆきけり」、「皆ひと餉の上に涙おとしてほとびにけり」、または別の條の「かんなぎおんやうしして、戀ひせじといふみそぎのぐしてなむ、いきける、」なども同樣である。かういふ風に、まじめな、または平凡なことは勿論、あはれな光景までが滑稽化せられてゐる。初から滑稽につくられた老女の戀などはいふまでもない。伊勢物語を通覽すると、その多くがこの態度で書かれてゐることがわかる。行文の上に於いても「野にありけど心はそらにて」といふ風ないひかたは、萬葉の乞食者詠(卷一六)に、「けふ/\とあすかに至り、立ちたれどおきなに至り、つかねどもつくぬに至り、」とあるやうに、昔から好んで用ゐられたものらしく、この時代のものでは、土佐日記に「男のすなる日記といふものを女もして見む」、「舟路なれど馬の餞す」、「西國なれど甲斐歌などいふ」、「一文字をだに知らぬものが足は十文字にふみて」、などとある。何れも輕い言語上の滑稽である。(香川景樹が土佐日記を評して、娘の死を悲しむ餘りに故らに滑稽の言を弄して自ら慰めたのだといつたのは、受けとれぬ説である。滑稽と見たのは卓見であるけれど、かういふ滑稽は當時の一般の嗜好であつて、貫之の特色でもなければ、この場合に限つたものでもない。のみならず、土佐日記にはその亡兒を懷ふ段になると、いつもまじめになつてゐる。)さてかういふ言語上の滑稽が、文學の翫賞力が幼稚な時代に行はれるのは、常のことであるが、また他の方面からいふと、これは輕快な滑稽、特に言語上の遊戯を喜んだ我が國民の趣味が、そのまゝに現はれてゐる(326)のでもある。
 竹取物語にも「おもなきことを鉢をすつとはいひける」といふやうな言語上の遊戯が處々に用ゐられてゐるが、それとは別に、石の上の中納言が燕の子安貝をとらうとした失敗譚や、帝が武士に命じて竹取の家を圍ませた話などは、そのことが滑稽である。のみならず、全篇の着想も結構も輕い滑稽であつて、多くの求婚者が命がけになつて行つた冒險や愚な欺瞞や權力の行使やが、悉く可笑しい失敗に終つてゐるところに、それが見える。それと共に、上にいつた傳奇的な要素は讀者の好奇心をそゝるものである。歌の贈答などは寫實的であるが、描寫の筆も粗大で心理敍述の殆どせられてゐないのが、かゝる點に興味の一半を求めたのと照應してゐる。
 けれども竹取物語の上記の滑稽は、單なるをかしみのためではない。そこには當時の人の戀愛生活に對する一種の批列が潜んでゐる。かう考へることが無意味でないとすれば、伊勢物語の滑稽にもまたそれのあることが考へられよう。つくも髪の姫の戀も板敷の下にはひありくかたゐの翁のも、その例である。のみならず、上に擧げたやうな滑稽な筆つきにもまた同じ態度があるのではなからうか。さうしてそれは前章に述べたやうな戀の歌に現はれてゐる自己反省自己批判と思想上の連繋がある。物語といふものの作られたことに既にこの批判的精神がはたらいてゐよう。その心理敍述にそれが含まれてゐることは、なほさらである。それは一つは戀愛生活そのものの體驗によつて養はれたものであるが、その體驗をかういふ方向にはたらかせたところに、平安朝人の精神生活にそれだけの思慮のできてゐたことが考へられよう。
 しかしこの文學上の新産物も、その性質はやはり貴族的である。伊勢物語の一代男はいふまでもなく右近衛中將た(327)る王孫、その思ひ人の一人は后がねたる權家の女として暗示せられてゐる。竹取物語の五人男は、浦島物語や柘媛傳説の賤の男ではなく、二人の皇子と三人の公達とである。鰹魚つり鯛つりほこりまたは川の瀬に簗うつ漁夫ではなく、僞にも蓬莱の瓊枝を折り龍の腮の五色の珠を採らうとする貴公子である。帝王さへも求婚者の一人として現はれてゐるではないか。貴族社會に賞翫せられ、貴族文化の産物である物語が、貴族を主人公とし貴族生活を措寫するのは當然である。萬葉時代に於いては、なほ菟原の處女を詠じ眞間のてこなを傳へ、文學の題材として地方人と平民とを棄てなかつた。けれども平安朝の貴族に至つては、もはや彼等みづからの社會のことでなくては何等の興味をひかなくなつた。それほど貴族生活に特殊の教養がつまれ、特殊の情趣が養はれたのである。さうして、それほど彼等が一般民衆と遠ざかつてゐたのである。
 さてこの貴族生活の頂點とも中心點ともなつてゐるのが宮廷であるから、物語の最も華やかなまた最も重要な題材は、やはり宮廷生活である。すべての點に於いて物語の最も完備したものといふべき源氏物語はいふまでもなく、その前にできた宇津保、その後に作られた狹衣、などの題材は、何れも宮廷生活が大部分を占めてをり、またそれが興味の中心ともなつてゐる。當時の文化社會に主要な地位を占めてゐるものにとつては、宮廷は彼等自身の生活の舞臺である。宮廷は後世のやうに、一般の文化社會から遙かに隔離してゐる、從つてまたその日常生活とは極めて縁の遠い、雲の上の世界ではなくして、彼等自身の世界である。だから寫實小説の題材として、何の遠慮も無く何の憚るところも無く、自由にそれを取つたのである。またそれを取らなくては、彼等の生活が寫し出されないのである。室町時代の小説を讀むと、美人ならば大抵は、「女御后にもと」望をかけてかしづき育てるといふことになつてゐるが、(328)これはその女御后の宮廷生活が人間世界のことでなくなつた世に於いて、美人の生活の理想的境地として仰ぎ視られたためである。平安朝の貴族にとつては「女御后」は現實の人でありこの世の人である。人としての美しさもあるが人としての弱さも醜さもある。それをすべての人が承認もし當然のことともしてゐた。後世になると、宮廷が天上の別世界と考へられると共に、完備した世界として視られるから、この點からも文學の題材には適しない。(平安朝の貴族もその女子を「女御后」にすることを望んではゐるが、それは一種の名譽欲と權勢欲とのためであつて、こゝにいふのとは意味が違ふ。)たゞ後世ではその代りに宮廷生活を離れたところに、文化社會の中心があり、その生活の舞臺があるから、宮廷生活の外に於いて國民の生活を描寫することができる。平安朝に於いては、貴族社會そのものが民衆から隔離してゐ、從つてまた貴族文學は民衆の文學ではなかつたけれども、それと共に貴族社會が宮廷とは互にもつれ合つてゐたのであるから、貴族文學の題材として、宮廷生活は缺くべからざるものであつた。
 民衆と隔離してゐる貴族社會は、彼等の特殊なる生活がその誇である。だから彼等は彼等の生活に滿足して敢て他に求めることが無い。萬葉時代には、現實に於いてシナの文物を尊崇し景仰した如く、思想に於いても、浦島と共に遠き波のかなたの神仙郷を尚慕し、吉野の漁夫と共に雲の上ゆく天女の故郷を懷ひやつた。平安朝に至つてはそれと趣が違ふ。シナの文物の尊崇は依然としてゐる。けれども、彼等の社會はもはや誇るに足るべき特殊の文化を有つてゐる。彼等はこの社會に漂ふ馥郁たる香氣の裡に恍惚として我を忘れ、彼等の作り出した燦爛たる色彩にみづから眩惑してゐる。神仙郷は彼等の宮廷生活に於いて實現せられてゐて、彼等みづからが朝に劉阮となつて天台に入り、クに曹植となつて洛神に逢ふのである。去つて温柔郷を過ぎし昔の世界に尋ねる必要もなく、遠き彼方の山の奥や海(329)の底に求めるにも及ばぬ。だから當時の物語は、萬葉時代のやうな傳奇物語ではなくして、寫實小説である。在五中將の物語に現はれてゐるところは、いふまでもなく、彼等の社會に行はれつゝある現實の姿である。かぐや姫は天上の人であり天上に歸つていつたけれども、一たび人間に謫落して來ては、その窈窕たる美貌は竹取の翁の家の裡に赫灼たる光を放つてゐる。さうして求婚者と歌の贈答をしてゐる。戀の舞臺は平安城裡の世界であり、その優人は平安朝人みづからである。彼等みづからが詩中の人であり、彼等の言動が即ち詩中の光景である。平安朝に於いて寫實小説の行はれたのは、これがためである。さうしてそれが、この地上の樂園この現の裡の夢の世界の花やかさが絶頂に達した一條朝時代の源氏物語に至つて極まるのである。
 伊勢物語や竹取物語の製作年代は明かでないが、物語の發展の歴史上の地位から見て、ほゞ延喜から天暦ころまでの間であらう。伊勢物語の次に大和物語があつて、内容の上から天暦ごろの作らしく思はれるが、これは主として世説異聞を纂めたに過ぎないもので、生田川や萱刈のやうな前からあつた傳説めいたものの含まれてゐるのもそのためであらう。從つてそれを純粋の文學的作品として取扱ふことはできないが、一つは、かういふものの世に行はれたのが、小説の製作の刺戟となりまた小説の流行を誘つた點に於いて注意すべきことであり、一つは、それに集められた種々の説話が、十中八九まで戀物語であるのを見て、戀愛小説の愛好せられてゆく情勢を知らねばならぬ。大和物語に集められた物語は、(一)作者の親しく見聞した(もしくは實際に見聞した人から聞き傳へた)當時の人々の逸話、(二)業平遍昭などの名高い古人の逸話、(三)傳説、の三種に分類することができるが、第一種に屬するものは、延喜天暦時代の人物である。
(330) さて天暦ごろから世に出た物語の數はかなりに多からう。圓融朝時代に書かれたらしい蜻蛉日記に、「世の中に多かる古物語」とあり、泊瀬まうでの旅に田舍家を見て、「物語の家など思ひ出」づるともいつてある。今は宇津保や落窪ぐらゐが傳はつてゐるのみであるが、源語、狹衣、更科日記、などに名の見えてゐるものばかりでも數は頗る多く、その他に名の傳はらぬものもあつたであらう。印刷の術が無く、讀者の範圍が狹い貴族や宮廷の間に限られてゐた時に、これだけの小説が作られたのは文學史上の一大偉觀に違ひない。勿論そのうちにはかりそめの筆のすさびに過ぎないもの、こと/”\しく物語と名づけるほどでないものもあらうが、ともかくもさういふものまで作られた。今傳はつてゐないものの内容はわからぬが、その名稱から考へても、現存してゐる宇津保や落窪などから類推しても、また源語などに見えるこれらの物語についての記載から見ても、戀を主題として當時の宮廷もしくは貴族の生活を寫したものであることに疑が無からう。閑暇の多い上流社會の風流公子や幾多の宮人の消遣の具として、かういふものが歡迎せられたのみならず、爛熟した貴族文化の空氣の裡に釀成せられる官能的戀愛の種々の葛藤と、狹い範圍に行はれた勢力爭ひによつて榮枯盛衰の忽然として變ずる人生の波瀾とは、感傷的な當時の人心を動かすに足る幾多の事實を作者の前に展開して物語の材料を供給し、ます/\寫實小説の隆盛を助けたのであらう。
 次に讀者の側から見ると、彼等がこれらの物語に自己の情生活の反映を見て、詩中の男女に同情と反感とを寄せるのを樂んだことが想像にあまる。「かゝる世のふることならでは、げに何をかまぎるゝことなき徒然を慰めまし。さても、この僞どもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つき/”\しうつゞけたる、はた、はかなしごとと知りながら、徒らに心動き、らうたげなる姫君の物思へる、見るにかた心つくかし、また、いとあるまじきことかなと、見(331)る/\おどろ/\しくとりなしけるが、目驚きて、靜かにまた聞くたびぞ、にくけれど、ふとをかしきふし、あらはなるもあるべし、」(源語螢)といひ、「昔物語などを見るにも、ひとのうへなどにても、あやしう聞き思ひしは、げに愚なるまじきわざなりけりと、わが身になしてぞ、何ごとも思ひ知られ給ひける、」(同寄木)といふのが、彼等の物語を見る態度である。
 さうして更に一歩を進めると、「まづ物語のいではじめの祖なる竹取の翁に、宇津保の俊蔭を合はせ爭ふ、なよ竹のよゝにふりにけること、をかしき節も無けれど、かぐや姫の、この世の濁にも汚れず、遙に思ひ上れる、契高く、神代のことなめれば、淺はかなる女の、及ばぬならんかしといふ、右は、かぐや姫の昇りけむ雲井は、げに及ばぬことなれば、誰も知り難し、この世の契は竹の中に結びければ、下れる人のこととこそ見ゆれ、一つ家のうちは照しけめど、百敷の畏き御光には、並ばずなりにけり、安倍の多が千々の黄金をすてて、火鼠の思ひ片時に消えたるも、いとあへなし、倉持の皇子の、眞の蓬莱の深き心も知りながら、僞りて玉の枝に傷をつけたるを過とす、……俊蔭は激しき波風におぼゝれ、知らぬ國に放たれしかど、なほさして行きける方の志もかなひて、遂に人のみかどにも我が國にも、有り難き才のほどをひろめ、名を遺しける心をいふに、繪のさまも、唐と日の本とを取り並べて、おもしろきことども、なほ並なしといふ、」(同繪合)と、作中の人物に好惡の情を寄せるのである。歴史的事實としても「圓融院の御時にや宇津保のすゞし仲忠といづれまされると論じ」られたことがある(公任集)。
 ともすれば凌がれがちなる男の心を恨みわびて、行くへおぼつかなき我身の憂きをなげく女、守り嚴しき園生の花を手折りかねて、やるせなき思ひに胸を焦す男、さては宮仕への中にまじりながら、つらきにも樂しきにも、心うち(332)ひらきて語らふものの無きひと/”\、せまき天地の明くるに暮るゝに、戀と恨との外にない彼等の情生活に於いては、得意にも失意にも、物語なくて何に心を慰めようぞ。のみならず、「昔物語を覽給ふにも、やう/\人のありさま、世の中のあるやうを見知り給」ふ(源語蝴蝶)ともいつてある。「かく世のたとひにいひ集めたる昔がたりどもにも、あだなる男、色ごのみ、二ごころある人にかゝづらひたる女、かやうなることをいひ集めたるにも終にはよる方ありてこそあらめ、」(同若菜下)ともある。うす暗い深宮の裏に生ひ立つて、むぐらもちの日光を恐れる如く、人の世に出るのを恐れてゐた女どもが、人情を知り世態に通ずるを得たのは、物語のおかげである。小説の流行は偶然でない。
 その上に平安朝人は、現實の自己を直に詩中の人物として見ることを好む一特質がある。上に述べた如く、伊勢集の卷首には我が身をよそ人のやうにいつてあり、蜻蛉日記にも「かくありし時過ぎて、世の中には、いと物はかなく、とにもかくにもつかで、世に經る人ありけり、」とかき出してあるところに、同じ態度が見える。和泉式部日記の如きは、日記もしくは自傳の體ではなくして、殆ど第三者の書いた物語らしく見え、自己の直接に見聞しないことが自己の情思自己の行動の記述と絡みあはせて敍してある。(これは或は式部の日記を本にして他の何人かが書きつゞつたものではなからうかとも思はれる。)宇津保物語(藏開の中)にも「たゞありつることを物語のやうに書き記しつつ、そのをりの歌どもをつけた」ことが見え、源語では源氏が須磨謫居のありさまをみづから給にかいてゐるし、紫の上も日記のやうにおのがことを繪にかいたとある(明石)。これは、土佐日記が滑稽の筆を弄して「女もしてみむ」といつたり、自己のことを「或る人」と書いたりしたのとは違つて、筆者自身が自己の生活を客觀化して觀るところに、一種の興味を有つてゐたからであらう。必しも人に示すべきものでない我が心やりの日記であるから、さうでな(333)くては故さらにかういふ書きかたをすべき理由が無いからである。これは一つは、第一章に述べたやうな平安朝貴族の生活態度の一つの現はれでもあつた。彼等が互の行裝の美しさを見ようとするために物見車をたてつらねるのも、彼等自身が舞人となつて舞臺に現はれるのも、同樣の心理であつて、彼等はすべての場合に觀客であると同時に役者であつた。彼等にとつては生活は即ち演藝であつた。さうしてその根柢には彼等みづからその生活その文化を誇る氣分がある。この意味に於いては美しい女がその美しい顔を鏡にうつしてみづから喜ぶが如く、美しく着かざつた娘がみづからの姿を畫中の人として眺めるが如く、彼等は詩に生きる己が心の姿を物語として見ようとするのである。けれどもまた自己と自己の心理の動きとをみづから觀察するところに一つの意味があつたと考へられるので、既に述べた如き自己反省自己批列の態度がそこにある。自己を客觀化することは自己を自己みづから觀察し易い地位に置くものである。さうしてこの兩面の交錯するところに、日記を書くことが自己の心やりとなる理由がある。さて、わが經歴をみづから敍述して物語めかし繪畫めかさうとするほどならば、物語中の空想人物にわが影を看取して、これに同情するを喜ぶは當然である。小説はこの點からも流行せざるを得ない。このことについては、紙畫でも屏風繪でもそれに描かれてゐる光景は平安朝人にとつては、みな自己の生活の姿としてながめることのできるものであることを、考へあはすべきである。賀茂の祭に物見車をたてるのも、秋の野に女郎花を手をるのも、男のふみ讀む女も、女の家の門に立つ男も、みな彼等みづからの姿である。
 物語の興味がこゝにあるとすれば、その物語はもはや現實の生活に縁遠い神仙譚を以て讀者の好奇心を誘つたり、或は滑稽諧謔を以て人を笑はせるものであつてはならぬ。讀者をして物語に同情させるには、物語先づ讀者に同情し(334)てかゝらねばならぬ。だから物語の中の人物はみな讀者と同じ公子と佳人とである。戀になやみ權勢にあこがれる幾多の老若男女である。小説は全く當時の貴族生活の描寫といはねばならぬ。宇津保の結構が竹取の系統に屬するものでありながら、その女主人公が天上に去つてしまはずして、宮廷の奧に隱れたのもこれがためである。勿論、宇津保は、インドの阿修羅シナの仙人や、我が國の天稚みこまで引き出しての奇譚を、開卷第一にならべたててはゐるが、これはたゞ事件の由來を仰山らしく見せようとするために過ぎないので、物語の興味がそこにあるのではなく、また結構の上からいつても、それを切離して毫も支障のないものであるから、竹取物語が神仙譚を全篇の輪廓としたのとは大に趣が違ふ。竹取はかぐや姫の上天で局を結んでゐるが、宇津保は貴宮の宮廷に入つてから後の榮華の生活と求婚者の主なるものが滿足してゐる状態とを、寫さねばならなかつた。飽くまでもおのれらの世界を誇つてゐるものには、失敗を以て終局とするに堪へなかつたのである。當時の物語がどこまでも寫實小説であることは、これでもわかる。源語に至つては別に言を費すにも及ぶまい。螢の卷に物語について「眞にや僞にや」といふ論議があつて、それは事實譚であるか架空の話であるかといふ意義らしいが、ありさうなことかさうでないことか、即ち寫實的であるかないか、といふ意義がその傍にあるやうにも見える。しかしさういふ疑を起させるものがあるにしても、全體の性質が寫實的であることは明かであらう。源語では薫の身體に異香があるやうになつてゐるが、これは香を重んずる風習があつたところから作られた話であつて、薫に超人間的な性質を與へようとしたのではない。(今日から平安朝人の心生活を覗ひ知ることのできるのは、かういふ寫實文學があるからのことで、官府の記録は勿論のこと、事實の外面のみを敍した歴史などでは、當時の世相は何もわからぬ。螢の卷に「神代より世にあることを記し置けるなむなり、(335)日本紀などはたゞ片そばぞかし、これらにこそ道々しく委しきことはあらめ、」といつてあるのは、戯謔の言であるけれども、日本紀と對照してそれよりも物語を重んずるやうにいつたのは、この意味で興味がある。文學は歴史よりも却つて時代の眞相を後世に傳へるものである。)
 しかし寫實の筆のゆきとゞいてゐるのは宮廷生活、貴族生活、京人の生活、についてであつて、その他の方面に於いては必しもさうとはいひがたい。民衆の生活、地方人の生活、は初から寫されてゐず、寫さうともせられなかつたが、いはゆる受領などの地方官のことをいつても、國府に於けるその生活の状態は、具體的には、描かれてゐないので、源語の玉鬘を養つてゐた少貳の家のもその例である。京下りの彼等はできるだけ京の生活を任地で保持しようとしたのであらうが、さうばかりもできないところに地方ずまひの特殊の生活があつたらうに、それが寫されてゐない。少貳の遺族が大夫の藍の玉鬘に對する求婚に困りも恐れもしてゐる有樣はよく描かれてゐるが、それは特殊の事件である。京の貴族と關係の深い地方の豪族のについても同樣であつて、宇津保の種松の邸宅が佛教の經典から脱化したもののやうに見える、といふことは上に述べておいた。地方の地理すらも明かにはなつてゐないので、上記の少貳の遺族が玉鬘をつれ、松浦から舟出して一直線に響の灘あたりまで逃げて來たやうな書きかたをしてあるのもそれである。作者に筑紫の地理も海上の交通路もよくわかつてゐなかつたのではあるまいか。若い時に夫の任地越前に往復した外には地方に出たことが無かつたらしい源語の作者としては、當然でもあらう。少貳の遺族が肥前にゐたことにしてあるのも異樣であるが、これも深く地理を考へることなしに、若い時の友がそこにいつてゐたことから思ひついたのではなからうか。須磨のさすらひや住吉まうでを敍しても、そこまでの往復の記事は殆ど無い。海づらの眺めだけ(336)を、聞き知つたところによつて書いたのであらう。(和泉式部や赤染衛門などの集にも地方の國府でのことは殆ど記してなく、京からの往復の記事も甚だ疎略である。歌集だからでもあらうが、その詞書きとしての紀行すらも少い。公任集にある粉河紀行にはやゝ紀行めいたところがあるが、それとてもとりたてていふほどのものでもない。この點に於いて後に更級日記の書かれたのは興味が深いが、これにはこの女の特殊な性情がはたらいてゐよう。)なほ宇津保の俊蔭の卷の山中の生活に山中らしい樣子の無いことも注意せられよう。源語では、若紫の卷の北山の光景などにも事實らしくないところがあり、「峰高く深き巖の中に」ひじりが住んでゐるといふのも、それが小柴垣うるはしくした「清げなる屋」に美しい女の兒のゐるあたりであるといふのも、その一つである。要するに、京から離れたところは、物語に寫し得られる世界ではないのである。
 
 物語が寫實小説だとすれば、その中の人物もまた、實世間の人物を模型にしたものであらう。但しその間に多少の誇張はあるので、ありさうにないと思はれることの一つはそれである。けれども「その人の上とて、ありのまゝにいひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世にふる人のありさまの、見るにもあかず聞くにも餘ることを、後の世にもいひ傳へさせまほしきふし/”\を、心にこめがたくて、いひおき初めたるなり、よきやうにいふとては、よきことの限りをえり出で、人に從はんとては、また思しきさまのめづらしきことを取り集めたる、みなかた/”\につけたる、この世のほかのことならずかし、」(源語螢)。その意味で、ありさうでないことがありさうなことなのである。
 或はありとうなことがありさうでないことであつて、源氏の子が父帝の子として位に即くといふやうなことは、その(337)最も著しいものである。また誇張といふ點からいふと、源語の如き女性の手になつたものは、女性的な男子を一層女性化してゐるのではないかと思はれる。しかし概していふと、その誇張せられてゐるのは、多く外面的の境遇や行動やの上にあるので、人物の性情の點ではない。さうして源語に至つては、その内生活の上に於いて、當代の種々の人間の型を殆ど遺憾なく描寫して、それらの人物を千載の後に?刺たらしめてゐる。たゞその人物が近代的意義での性格をなしてゐないことはいふまでもなからう。顔などを描いても、その多くは、たゞ美しいとか醜いとか愛敬づいてゐるとかいふやうな、何人にもあてはまることであつて、個人の特色はよく寫されてゐない。(末摘花のやうな滑稽的に作られたもののあるのは、これとは別の意味のことである。なほ繪畫に於いて「ひきめ、かぎばな、」といふ顔のかきかたがこのころにあつたかどうか知らぬが、かういふ物語の人物にはこれでもよいのであらう。)顔面の表情が寫されてゐないことも、このことと一すぢの連繋がある。一般的にいふと、個性の無い社會に、個性を寫した文學の無いのは當然である。當時の文學に寫されてゐるのは、個人ではなくして普遍的な人間の型である。性格ではなくして時代色を帶びてゐる人間性である。
 さて、今傳はつてゐる物語は、人の情思や行動もそれから起る事件もかなり複雜にはなつてゐるが、個人的性格の無い人物であるから、その性格によつて事件が展開せられ事件が更に性格を形づくつてゆく、といふやうな戯曲的展開は無く、物語は繪卷物的な事件の連續から成りたつてゐる。物語に寫されてゐるのは、現代人から見れば、人物の言動であるよりは當時の貴族生活宮廷生活の特殊の情趣であり雰圍氣である。人物はこの情趣を作り出し雰圍氣を釀し出すために言動してゐるといつてもよい。物語の最高峯をなす源語に於いてこのことが最もよく感ぜられるので、(338)それは主人公源氏がその地位と境遇とによつてあの如き生活をすることができたに過ぎず、みづからの力とはたらきとによつてその運命を開いていつたのではないことによつても、知り得られる。源語には源氏その人よりも源氏の置かれた境遇、その境遇によつて作り出された生活の情趣と雰圍氣とが、描かれてゐるのである。夢浮橋までと宇治十帖とは一種の對照をなしてゐるが、それも源氏と薫とのではなくして、源氏を中心とし薫を中心とする雰圍氣のである。女に於いても、その境遇なり運命なりはいろ/\であるが、それが何れも自己の作り出したものではなくして他から與へられたものであり、或る雰圍氣に支配せられて生活してゐる人たちである。もつともこれは今人の眼に映ずるところをいふのであつて、當時の作者にとつては必しもさうではなかつた。現實に於いてすべての人物が境遇によつて作り出されたものであるから、生活の情趣を寫し雰圍氣を寫すことが即ち人を寫すことでもあつたのである。物語の結構が十分に有機的になつてゐないのも、このことと關係があらう。作者によつて巧拙はあるが、落窪は、その主人公が自己の權勢を利用して、妻の繼母たる中納言の夫人に對し惡戯的に憂き目を見せ、後になつてそれに恩惠を施す、といふ一篇の主眼が大體に於いてよくまとまつてゐる。けれども宇津保に至つては、その組みたてが甚だ散漫である。物語が琴を以て始り琴を以て終り、男主人公たる仲忠は琴を生命としてゐるにかゝはらず、女主人公たる貴宮を中心とする戀物語に於いては、その琴が何のはたらきをもしてゐない。貴宮の美と仲忠の琴とは全く無關係であつて、仲忠は琴を以て貴宮の心をひかうとするのでもなければ、戀の失敗が琴の上に些の影響をも與へない。從つて物語の中心點が二つに分れてしまつた。のみならず、その二つのそれ/\についても、周圍の事情と中心點との關係が甚だ疎遠で、貴宮に對する數多き求婚者も、相互の間の連絡が疎く、仲忠の琴も、それによつて最後に位階の昇進(339)した外には、日常生活に何の關係も無い。寫實小説の冒頭に、波斯國とか山の中のうつぼとかいふ現實には見られない場面を設けたのが、そも/\不調和の極みである。竹取は全體の輪廓が神仙譚で形づくられてゐるから、竹の中から美人が出ても富士の山から昇天しても、結構が自然に見えるが、これは木に竹をついだやうな不自然なものになつてしまつた。だから物語が徒らに長篇となつたのみで、まとまつた感じを讀者に與へることができぬ。これだけの長篇とするには作者の荷が勝ち過ぎたのであらう。今傳はらない多くの物語は、かういふ複雜なものではなくして、もつと單純なもの、從つて短篇、であつたらうと推測せられ、さういふものが世に行はれてゐたからこそかういふものも作られるやうになつたであらうが、それだけの構想力が宇津保に於いてはまだ成熟してゐなかつたと解せられる。
 宇津保が貴宮を中心として、それを取卷いてゐる幾多の男子を描いてゐるに反し、源氏を主人公として、その周圍に多くの女性を置いたのが源語であるが、これは全篇を貫通する大筋があつて、種々の插話とこの大筋との關係も齊つてゐる。宇津保に比べて作者の構想力がずつと發達してゐたのである。しかしその插話は、内容から見ると、實は獨立した短篇の物語といつてもよいものが多く、その點で物語の本筋からはづれてゐる幾つもの短篇を強ひてつなぎつけたといふ感じがある。夕顔や空蝉や末摘花の如きは特にさうである。宇治十帖の如きも、別の物語として源語からは切り離してよいものであつて、源語はその前で完結してゐる。勿論、插話にはそれ/\特殊の主題があつて、それが本筋となつてゐる物語に對し何等かの特殊の意味をもち、或は末摘花の如くそれと對照するところのあるものもあるが、それにしても一種の裝飾物の用をなす程度に過ぎない。宇治十帖に至つては、後日譚の如き形をとつて、源氏を主人公とする主なる物語の終つた後に敍述せられてゐるから、その前の物語を読んでゐる間はそのことが感ぜら(340)れない。要するに挿話があまりにも多く而もそれによつて同じやうな光景がくりかへして描き出されてゐるため、物語が斷えず横みちへ外れてゐながら、全體の感じが單調であり、從つて讀者を倦ませる。この單調なところが、とりもなはさず、當時の貴族生活の描寫であるといへばいはれようし、同じ光景の幾度もくりかへされ幾つも重ねられることによつて、それに漂ふ情趣、それによつて釀し出される雰圍氣が、濃厚になるのでもあるが、今日の讀者が見ては、藝術品として、外形の複雜な割合に内容が貪しいと云ふ譏を免れない。
 しかし當時の人は物語に現はれてゐると同じ雰圍氣の裡に生活し、現實の生活に於いてその情趣をみづから味うてゐる。だから物語を讀んで何よりも目につくのは、その間に動いてゐる人物であり、その情思その行動であり、またその置かれた境遇とそれを動かしてゆく運命とである。從つて讀者は、上にも述べた如く、その人物に對して同情なり反感なりを寄せ、またその境遇を或は讃美しそれを羨み、或はその運命を憫みそれを嗟歎するのである。或はむしろ物語中の人物に自己のおもかげを認め、それに同化し、それと共に且つ笑ひ且つ泣くのである。從つて作者も一つ/\の情景の描寫を生き/\とさせるのを主としたのかと思はれる。一つ/\の場面を重ねてゆく繪卷物を畫くのと似てゐるともいはれよう。徳川時代、特に江戸文學の讀者は主として物語の筋を見る。これは、因果應報といふやうな道義的觀念によつて、世態人物を批判する習慣があり、人間の榮枯盛衰が割合に複雜になつて來た世の中であり、また武士的の謀略詭計といふやうな觀念が強くなつてゐたためでもあらうが、その日/\の境遇に反應する外に生活の無かつた平安朝人が、物語に於いてもまたまとまつた筋を見ようとしないのは當然であらう。だから、性格論をこれ等の物語の人物措寫に適用するのが不穩當であると同じく、結構論を持ち出すのもまた無用の沙汰かも知れぬ。
(341) 更に、物語の文章を見ると、拙いのは宇津保である。敍事でも對話でもまたは風景の描寫でも、うるさいほど精細な寫實の筆を用ゐてはゐるが、細大漏らさず書きつらねながら、動もすれば抽象的になつて、空虚な感じがする。少しも情趣が無く、まるで生きてゐない。事物そのことそのものを羅列するのみだからである。「藏開の上」の「御かはらけたび/\になりて、油よき程にさし給ひつ、」とあるのを讀んで、源語の作者ならばこの油の一句にどんな光彩を與へたであらうかと思つたことがある。これでは少しも油をさしたかひがない。かういふ書きかたであるから、形にあらはれたことはともかくも寫されはするが、一歩を人心の内面にふみこむと、まるで筆がたゝぬ。しかし竹取や土佐日記などの概念的敍述から、かういふ精細な寫實に移つたのは、日本文學の一大進歩と見なければならぬ。(もつとも中には漢文の直譯めいたところもあり、吹上の卷の庭園の有樣などのやうに、佛教の經論から來たらしい空想的文字も少くはなく、總じて觀察が親切でない。俊蔭の卷の山中の生活なども、上に述べたやうな性質のものである。)落窪は一本調子に、平坦に、事件の輪廓を描くといふ概して幼稚な筆であるが、宇津保ほどに似而非寫實をしないところに却つてすなほなところがあつて讀みやすい。
 これらに比べると、蜻蛉日記や紫式部日記や和泉式部日記の、情趣に滿ちた敍述や描寫は遙かに進んだものである。
 敍事の文は、古い語を用ゐるならば景中情あり情中景ありとでもいはうか。微細なる心理の動きを敍するに至つては、從來曾て見ざるところの文であつて、自傳とはいひながら優に文學の領土に入るを得べきものであり、筆者の内生活がよくそれに表現せられてゐる。蜻蛉日記をよむと、その敍述に於いて、この心配氣な、くよ/\とする、しかしどこやらに意地のないでもない女の、をりふしの刺戟に反應する感情の動きが、よくあらはれてゐる。たゞその歌には(342)却つて縁語やいひかけやの修辭的技巧に滿ちてゐて興味を殺がれるものが少なくない。さすがに和泉式部のは、歌に於いても寧ろ直情直言といつたやうな風である*から、歌と文と相まつて生氣が?刺としてゐる。枕册子に見える清少納言の筆は、その眼光が深く人心を穿つてその機微に徹するに至らぬため、人の心情を寫すには適してゐないが、耳目に映ずる外面の事物については、鋭敏な感受性と精緻な觀察とを十分に紙上に活躍させてゐる。しかしこれらは自己の心的經驗と實際の觀察とを直敍し直寫したに過ぎないが、紫式部に至つては、それを豐富な空想に織りこんで、巧に人物と光景とその間に起る幾多の葛藤との幻像を作り上げ、さうしてその人物の情生活を内面的に遺憾なく描寫してゐる。こゝに於いて平安朝の文章は殆どその極致に達した。單に文章の點からいつても源語の作者は假名文を大成したものである。
 源語の文章は細密な用意の下に書かれたものであつて、その點で日記のとは幾らかの違ひがある。何かにつけて歌や詩の句を效果的に用ゐてゐるのも「そのたなばたのたちぬふかたをのどめて、長き契にぞあえまし、げにそのたつた姫の錦にはまたしくものあらじ、はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はか/”\しからぬは、露のはえたく消えぬるわざなり、」(帚木)、または「若き人々のいぶせう思ひ沈みつるは、うれしきものから、見すてがたき濱のさまをまたはえしもかへらじかしと、よする波にそへて袖ぬれがちなり、」(松風)、などのやうに、それからそれへと縁語で句をつないでゆくやうなのも、歌の修辭の法と同じであるが、源語のは、その修辭が目だつて見えず、さうしてさういふ書きかたによつてその場合の情趣が濃かに現はれてゐる。それは源語の歌について上にいつたのと同じである。帚木の卷によつて最もよく知られる如く、對話の間に地の文を插むことによつて、その對話を生き/\(343)させることの巧さ、如何なる場合にもをりふしの風物、自然界の光景を描いて、人物の行動をその雰圍気に包ませ、情思の動きをそれに對應させる手法の細かさ、障子の上からもれた「火ともしたるすき影」(帚木)、火かげに美しく見える女の顔(常夏)、さと明るくさした螢の光に驚いて扇で顔を隱した女のかたはら目(螢)、などの精細な觀察、どこを開いてみても、かういふものの見當らぬところは無い。女の容姿などについても「ほゝづきとかいふめるやうにふくらかにて、髪のかゝれるひま/\美しう覺ゆ、まみのあたりのわらゝかなるぞ、いとしも品高く見えざりける、」(野分)のやうなのがあつて、必しも概念的な描寫ばかりではない(日記の宮女の幾人かを品評した條にも同じ觀察がある)。宇治の大君の病み臥してゐる有樣の細かにまた美しく記されてゐることも、注意せられよう。
 物語については、ほゞかういふことが考へられるが、しかし源語に於いても一種の滑稽味は存在する。物語の敍述の上に現はれてゐる作者の態度を考へてみるに、源語についていふと、現實に存在した人物なり現實に起つた事件なりを、ありのまゝに書きとめたやうに見せかけるのは、物語の作者として勿論のことながら、帚木の卷首や夕顔の卷末などの如く、世間に知られてゐないことを、どうしてか知つてそれを記したといつてゐる場合のあるのは、やゝ人の注意をひく。花の宴の卷の藤壺の歌を記すについて「御こゝろのうちなりけむこといかで漏りにけむ」といつてゐるのも、これに似た例である。これらには作中の人物とその行爲とに對する一種の批評が潜んでゐるとも解せられようが、夕霧の卷のはじめの「まめ人の名をとりてさかしがりたまふ大將」に至つては、やゝ嘲笑的とも聞えるほどのいひかたでそれをいつてゐる。同じやうな例は他にもあるが、一々いふにも及ぶまい。或はまた源氏が女に心深げに語ることばを「例のいづこのおんことのはにかあらむ」と評してゐるのにも(澪標)、いくらかはさういふこゝろも(344)ちが含まれてゐようか。「軒の雫も苦しきにぬれ/\夜深く出でたまひぬ、時鳥などかならずうち啼きけんかし、うるさければえこそ聞きもとゞめね、」(螢)にも、似たやうな態度があるのかも知れぬ。宿木の卷の藤の花の宴のをりの人々の歌について「例のいかに怪しげに古めきたりと思ひやれば、あながちにみなも尋ね書かず、……しるしばかりとて一つ二つぞ問ひ聞きたりし、」といつて三四首を擧げ、そのうちの一つをば「うけばりたるぞにくきや」と評し、他の一つには「誰とか」と書いて作者にすら氣をとめないふりをしてゐること、若葉下や椎本にも似たやうな筆つきがあることも、思ひ合はされる。これらは輕い滑稽味を帶びたいひかたであつて、伊勢物語の「人みな聞きてわらひけり」とか「歌はよまざりけれど」とかいふ、評語を插んだりしてゐるのと似てゐる。伊勢物語や竹取物語に含まれてゐる滑稽の要素は、かくして源語にも傳へられてゐるのである。たゞし源語の源典侍や末摘花や近江君の如き人物とその言動とは(落窪の典藥助や宇津保の吝嗇皇子また上野宮などのと共に)、滑稽的に描かれてはゐるが、それらは或は年たけた女に似つかはしからぬすきごゝろ、或は時勢おくれと容貌の醜さと、また或は貴族的教養の無さ、などにをかしみが求められてゐるので、そこに時代相の一面が現はれてもゐるし、結構の上からは讀者の氣分を一時的に他に轉じさせるための用をなしてもゐるが、滑稽としては淺薄である。紅葉賀の卷の源氏が源典侍のところで頭中將に見あらはされた時の滑稽譚も、女が源典侍だからのことである。賢木の卷の朧月夜の室で右大臣に見つけられた話は、考へやうによつては源氏を滑稽化したものであるが、しかし作者はさうは描かなかつた。源語に或る種の批判的精神が存在するにしても、それは戀愛生活そのもの、また源氏その人、に對しては強くはたらいてはゐない。伊勢物語や竹取物語の滑稽は、かういふ方向に發展して源語に現はれてはゐないのである。特に戀の葛藤を表面的にでは(345)あるが滑稽的に解決した竹取物語の着想は、源語のみならず、現存の何れの物語にも現はれてゐない。概していふと、源語に於いてはどこまでも源氏とその生括とを理想的のものとしてゐるのである。
 
 ところで、かういふ物語とその文體とが女流の手によつて大成せられたことは、文學史上、甚だ興味のある現象であるが、それは漢文學に對する國文學の特色を發揮したものとして考へねばならぬ。漢文の大まかな筆つき、その根本となつてゐる古典シナ語の構成、一語一字にシナ思想が含まれてゐるその言語文字が、シナ語とは全く性質と構成とを異にする日本人の言語を寫し、日本の風物を描き日本人の心理の動きを敍するに適しないことは、いふまでもないが、日本人にとつてはシナの故事と成語とを先づ學んでかゝらねばならぬ漢文で書くことは、その點から一層それを困難にする。漢文で書くのは、日本の事物を描寫し日本人の情懷を表現するのではなくして、それを漢文とシナ思想との特殊の型にはめこみ、現實とは違つたものを作り出すことになる。日本の事物と日本人の思想と感情とは、かかる漢文によつて寫し得られるものではない。まして、一種特殊の教養を有し極めて繊細な感受性を有つてゐる平安朝人の情懷が、漢文、特に六朝式の漢文、でいひ現はされるはずは無い。だから、表てだつた文章が依然として漢文であり、多數の男子がなほ齷齪としてそれを摸擬しようと努めてゐる間に、女文として發達した假名文が、現實の事物を描寫し現實の情懷を表現することに成功したのは、當然である。
 勿論、物語の作者も假名文の筆者も、悉く女流であつたのではない。現存の物語に於いて明かに女流の作とすべきものは、唯一の源氏物語があるのみであつて、これに先だつて世に出た宇津保の如きは、後宮深閨よりは表てだつた(346)方面を寫すことが多く、婦人の心情を描くことが割合に少く、また觀察も粗大であるのみならず、漢文直譯風の文體も交つてゐて、その作者は男子らしい。また假名文の文體ができてからは男女間の消息にはそれを用ゐたであらうし、撰集でも家集でも男の書いた歌の詞書きがすべて假名文であることはいふまでもなく、家集の中に散見する假名文の中には、男子の筆の跡のあることも注意せらるべきである(源順集中の前栽合の記、公任集中の粉河紀行など)。早く土佐日記の書かれてゐることは、いふまでもない。勿論、蜻蛉日記があり和泉式部日記がありまた枕册子があるとすれば、これらの筆者と同じほどの筆を有つたものが、他にも無かつたとはいはれず、また最大の物語たる源語の作者が、忽然として一人のみ小説界に現はれるはずも無いから、今に傳はらぬ多くの物語の中には、女流の作もいくらかはあつたであらう。また當時の宮廷生活貴族生活は、文筆に親しむだけの學問を女子にさせる機會も多かつたから、女の作家の出たのにも無理は無い。しかし人にいひかけられて口とく應酬する歌などにこそ、多くの女性の才能は現はれ、またそれをこそ幼い時からの修養とはしたのであらうが、まとまつた物語を作るだけの、豐富な想像と緊肅した構成の力とを、有つて居る女が幾人ゐたか。あまり多くはなかつたのではあるまいか。日記などを書いた女は多くあつたらしく、後に作られた榮華物語は、それらを材料としてつなぎ合はせたところのあるものらしいが、それらがみな文學的慣値を具へてゐるには限らぬ。さうして文學的價値のある日記や隨筆が、或は歌人として或は才媛として、當時に知られた人の作であるのは、その他にかれらと同じほどの女の作家の、むしろあまり多くなかつたことを示すものではあるまいか。
 かぅ者へて來ると、平安朝丈學が一くちに女流文學といひ習はされてゐるものの、物語の作者には實は女よりも男(347)の方が多かつたのではあるまいか。たゞいはゆる女文であるがため、或は消遣の具と見なされてゐたものであるがため、表てだつて作者と名乘らなかつたので、作者の名が後に傳はらぬのであらう。しかし、漢文の拘束を受けることの少いのと、觀察の緻密なのと、感情の鋭敏なのとのため、寫實の文としての假名文が男の作よりは女のに優れたものの出るのは自然の勢であり、特に寫すべき生活の舞臺が、女性的文化の社會と京都のやさしい天地とであり、描くべき人物が女のやうな男であり、またその題材の主なるものが戀愛生活であるとすれば、女性は物語の作者として最も適してゐたものともいはれる。男子の假名文は、上にも述べた如く古今集の序などのやうに漢文の修辭法を摸して、技巧の濫用に陷るか、さもなくば概念的の粗笨なものであるか、現存のものは何れも女性の作に及ばぬ。男の作者が多かつたにもかゝはらず、それを大成したものは却つて閨秀作家であつたのはこの故であらう。源語でも枕册子でも、女ならではと思はれる觀察や描寫が甚だ多く、また單に文章からいつても、絶ゆるが如く絶えざるが如き優柔婉麗な筆つきは確かに女性の文である。だから、平安朝の國文學は女性によつて特殊の發達をなしたもの、むしろ女性化された國文學といつてよからう。
 最後に物語の作者の社會的地位に就いて一言しておかう。今日に名の明かに知られてゐる作者は紫式部一人といつてよいが、第一章にも述べておいた如く、この女はやつと受領ぐらゐの地位のものの女であつて、たゞ宮女として貴族に立ち交り、その日常生活を親しく觀察することができただけである。物語の作者ではないが、清少納言も同じ宮女である。これらの例で考へると、今知られない物語の作者もほゞ同樣の地位のものではなかつたらうか。男の作者でもあまり官位の高い部類のものではなかつたらう。歌には地位のある貴族の中にも堪能なものがあつたけれど、と(348)もかくもいくらかの觀察眼と想像力とかなりの詞藻と、おちついて筆を執る餘硲とが、無くてはならぬ物語の作者は、恐らくは地位の高い貴族の間から多く出たのではあるまい。彼等にそれほどの教養のあるものが多くあつたとは思はれないからである。赤染衛門集に「殿の御前物語作らせたまひて……」といふ詞書のある歌があつて、道長が物語を作つたやうに解せられるが、よしさうであるにせよ、その物語といふものは、かりそめの筆になつた短篇のものではなかつたらうか。
 
 さて物語の流行と共にこれと關聯して發達し、ともすれば智巧主義に陷りがちであつた藝術界に於いて、幾らかなりとも人の情生活を表現しようとしたものは繪畫である。繪畫は、事物を描寫するといふその性質が、既に文學に於ける物語と類似してゐるから、物語が喜ばれる時に繪畫の行はれるのも當然であり、また物語が寫實的になり得たと共に、繪畫も寫實的になり得るものである。源語の帚木や繪合の卷にも、繪の寫實的であるべきことが語られてゐる。のみならず、特にこの時代の物語には繪物語として行はれたものが少なくなかつたから、實際上、物語と繪畫との間には離るべからざる關係があつた。榮華物語のつぼみの花の卷に村上の御時の日記を繪にするといふことがあるが、これも物語繪の一轉したものであらう。(緒卷物の形式はシナ傳來であるが、わが平安朝に於いては、それに特殊の發展があつた。)また紙繪扇繪の類でも、題材そのものが當時の風俗であり、特に「釣殿とおぼしき高欄におしかゝりて中島の松を守りたる女」(蜻蛉日記)、「鰥すみしたる男の文書きさして、つら杖つきて、物思ふさましたる、」(同)といふやうに、何かの説話を含んだものを好んだらしいから、物語繪の喜ばれたのは當然である。「物語繪はこまや(349)かになつかしさまさるめる」(源語繪合)といふのも、そのためであらう。從つて繪を觀るものは、恰も物語の讀者と同樣、畫そのものよりもその畫中の光景または人物に對して、同情と反感とを寄せるのが主であつたのである。人の容貌は幾たび見てもあかないが、繪にかいたものは見なれるとおもしろくないと、枕册子にいつてあるのも、繪畫を繪畫として、即ち藝術として、見なかつたからである。屏風や障子の繪に和歌の賛がある如く紙繪扇繪にも和歌を題したことがあるので、歌繪といふ名もそれがために作られたものらしい。また「よく書いたる女繪の詞をかしうつゞけて多かる」(枕册子こゝろゆくもの)とあるやうに、その題材によつては詞書きをも加へる例であつたが、それを見ても繪畫翫賞の目的が繪畫に含まれてゐる説話にあつたことがわかる。屏風繪などの歌の多くが畫中の人物の情思を詠じたものであるのも、このことと關係があらう。
 なほこの繪について大和物語に「我が肖像を繪にかきて、女のもえたるかたをかきて、烟をいと多く薫ゆらせて、」男に贈つたことが記され(馬内侍集にも似たことがある)、源語にはその主人公が須磨謫居の中に自己の境遇と經歴とを畫にしたといふ話があるが、これは恰も伊勢集などに自己を三人稱で書いてあるのと同じく、自己を直に畫中の人として見たのであつて、その心理については前に述べておいたが、畫裡に自己を認めんとするのは、畫の興味がそれに現れてゐる人物と事件とにあることを證するものではあるまいか。源語の繪合の最後に須磨の繪が出たら、滿座盡く感に堪へずしてその方の勝に歸したといふのは、繪の巧であつた故もあるが、それよりも畫中の源氏に心を動かされた方が遙かに強い。繪畫がかういふ風に、おのれ等の日常生活をそのまゝに描くやうになつたのは、恰も文學の方で日記や紀行が情生活の直敍となつたのと同じ現象である。
(350) さて歌の詞書きや日記やが一轉して物語となると同時に、紙繪扇繪の類もまたそれにつれて物語繪となつた。大和物語に生田川傳説を繪にかいたことが見えるが、源語に、竹取、宇都保、伊勢、正三位の物語繪(繪合)、住吉物語の繪(螢)、また古物語を繪にかくこと(蓬生)があるのは、これらの物語が繪物語として行はれたこと、或はまたその物語によつて繪を作る風習があつたことを示すものである。さうしてこれらの物語がみな寫實小説である以上、それを題材とした繪畫もまた寫實的なものであることはいふまでもない。(繪合の卷によると、長恨歌や王昭君の繪も畫かれたといふが、これらの題材は何れも當時の人々の情生活に照應するものである。)勿論、物語は言語文章によつて人物なり事件なりを描寫し敍述することによつて人の心理の動きを表現することができるが、繪に於いてはそれができぬ。また人物の服裝や容姿にさしたる特色がないから、繪ではそれに含まれてゐる説話を殘る隈なく寫し出すこともむつかしく、從つてその點からも人の感情を動かすには足りないところがある。順次にくりひろげて見てゆくといふ繪卷物の形態は、物語繪にはふさはしいものであり、それに適應する構圖の特殊な樣式も發達して來たのであるが、繪に畫かれた場面だけでは、物語に語られてゐることを十分に理解するわけにはゆかない。だから一方に詞書なり歌なりを加へてそれを説明するか、または物語によつて畫を作るかしなければならなかつたであらう。(性質からいふと、紙繪屏風繪は和歌に當り、繪卷物はいふまでもなく物語に當る。)清少納言が「繪に書きて劣るもの」に、「物語にめでたしといひたる男女のかたち」といつたのは、次にいふやうな理由からであらうが、繪だけでは物語に語られてゐるやうな人の心情が表現せられないからでもあらう。(ついでにいふ。物語に個人が寫されてゐないと同樣、繪畫にも個人は現はれてゐない。これは技巧の不十分な故もあるが、上にも述べた如く、全體に於いて個性の無(351)い社會であつたからでもある。肖像畫のさして行はれなかつたのも、このことに關係があらう)。
 しかし單に繪としては、たゞ見る目に美しく書くことが喜ばれもした。「繪にかきたるやうなり」といふには、夕暮の靜なるに空の氣色いとあはれに前栽の紅葉の色づけるさま(源語夕顔)、四方の梢烟りわたれる春の山(若紫)、須磨の謫居の有樣(須磨)、几帳のほころびより見ゆる女(澪標)、やり水にすめる月の影(總角)などを數へ、また「をかしげなる侍童の姿好ましうことさらめきたる、指貫のすそ露けげに花のなかに交りて朝顔折りてまゐる、」ありさま(夕顔)や、源氏が紫の上の黒髪をなでてゐる樣子(槿)や、または尼の經をよんでゐるさま(手習)を、「繪にかゝまほし」といつてゐるのを見ると、繪は美しいものでなくてはならぬと思つてゐたことがわかる。だから、枕册子には撫子、櫻、山吹、を「繪にかきて劣るもの」とし、「松の木、秋の野、山里、山路、鶴、鹿、」を「かきまさりするもの」に數へた。實物のさまで美しくないものも、繪にかけば美しくなるが、實物の極めて美しいものは、繪にすると見劣りがする。これは繪が寫實を目ざしながら、その顔料や筆や紙やまたその手法やのために、十分の寫實ができず、却つて色彩の鮮かな裝飾的のものとなりがちであつたからでもあらうが、一つは繪に對する根本の要求が見る目に美しい點にあるからでもある。これだけは物語とは違つて、繪畫の性質から來る特殊のことである。けれどもこの要求は、繪畫が寫實的のものでありまたそれを情生活の表現としたといふことには何の障りも無い。事實、繪畫の手法や技巧がすべて不十分であつたのではなく、例へば一むらの萩か女郎花かと幾もとかの尾花とを畫いただけで秋の野を髣髴させるやうな方法が、もしこの時代から行はれてゐたとするならば、それは大和繪の材料をよく生かした巧みなしかたであり、それによつて秋の情趣を現はすと共に、その美しさのどこにあるかを示したことにもなる(352)のであつた。
 繪畫が物語と共に寫實的になつたにつれて、漢詩さへも幾分か同樣の傾向を帶びて來た。「花落林間枝漸空、多看漠漠灑舟紅、夜維桃浦飄紅雨、春艤柳堤送絮風、花蠡泊迷霞亂處、子猷行過雪飛中、更耽濃艶暫停棹、興引鎭爲吟咏翁」(本朝麗藻卷上藤原道長)といひ、「度水落花影又清、舞來唯任緩風聲、玉粧過浦簪先動、紅艶赴波袖自輕、兩岸臺遙移節裏、長橋路遠應歌程、林池勝趣春方暮、寒木欲期何日榮、」(同上紀爲基)といふのは、詩の巧拙は論外として詠ずるところは源氏物語中の光景である。「花前春暖鳳池清、落蕊舞來度水程、分岸粧奢風漸送、上橋簪動月相迎、飄超石瀬紅裙轉、散過波塘玉履輕、此地猶應眞勝地、宸遊再奏九韶聲、」(同上藤原爲時)は、作者が紫式部の父だからといふのではないが、「花の宴」あたりの風情を聯想させる。「偶迎清夜引良朋、滿月光多空碧澄、入?家々添粉黛、照軒處々混華燈、山川一色天涯雪、郷國幾程地面氷、席上英才宜露膽、由來諷論附詩能、」(同上一條天皇)にも、また寫實的なところがあり、月の光を雪や氷と見たてる比喩なども和歌から來てゐるらしい。もとより中には神仙をいひ清談をいひ、仁山智水の套語を並べたものもあるが、少くとも漢詩にかういふ傾向の生じて來たのは、時代の風潮を示すものとして興味がある。和歌が言語上の機智を弄するを得意としてゐるに反し、却つて漢詩にこんな寫實的なものがあるのは、漢詩が抒情に適しないだけ敍景を主としたからで、敍景となればもはや遠く蓬瀛を説き桃源を談ずるを要せず、眼前の光景が直に仙界として目に映ずること、恰も物語が神仙譚から離れて寫實小説となり、繪畫が坤元録や賢聖の像でなくして時世粧を描くやうになつたと一般である。絶句が極めて少く、詩といへば殆どみな律詩のみのやうであるのも、またおのづからこの傾向に調和するものである。
 
(353)   第四章 戀愛觀
 
 平安朝文學の主要なる題材で、また平安朝人の生活を支配する大なる力をもつてゐるものは、依然として戀愛である。撰集を見ても家集を見ても、戀の歌がその半ばを占め、四季の歌にも風物の詠にもその實は戀の歌であるものが少なくないことは、萬葉と同じである。兩性間の交りに關する風俗が奈良朝と大差が無いのみならず、貴族社會に於いてはその習慣を不自然に成長させた傾があり、特に閑散で業務が無く、官位の昇進といふことより外には、社會的に何の希望もなく何の事業欲も無い、平安城裡の貴公子どもが、その女のやうな柔い膚の下にめぐる熱い血しほを、脂氛香圍の間に灑ぎ盡さうとしたのは、無理も無いことである。彼等が性慾の點に於いて甚だ早熟であつたことも、これと關聯がある。兩性の關係を罪惡の如くに説いてゐる儒教的道徳思想が、當時の人心に何等の權威をも有つてゐなかつたことは、いふまでもない。
 男子が正室の外に多くの婦人に通じてゐた當時の習慣は、こと新しくいふに及ばぬ。「ひくてあまた」は決して業平には限らぬ。從つて兩性の情交は永續的でない場合が多い。正室すらも初から正室と定まつてはゐず、また初から男の家へ迎へられたのではないから、正室ならぬ婦人の情交がかういふものであるのは不思議ではない。正室すらも、夫に死なれたか又は離別したやうな時には、二たびも三たびも他の男に逢ふのが常であるから、正室ならぬ婦人が情交の衰へた後、他の男に近づくのも當然である。名高い歴史的事實としては、善子が寵の衰へた後に敦實親王や小野宮實頼にあひ(大和物語)、重明親王の室が親王の薨去の後に後宮に入つたり(榮華物語月宴)、和泉式部が夫の道貞(354)に別れて後、爲尊親王、ついでその弟の敦道親王などに愛せられ、また後に保昌の妻となり(家集、日記)、或はもとの女御などに人々の通つた例がある(榮華つぼみ花見はてぬ夢)。源語の一條の御息所も夕顔も、かゝる風俗の反映である。朧月夜とても一度びは宮中に入つて渾身の情を時のみかどに捧げつくしながら、その崩後にはまた源氏に迫られて舊情をよび起したことがあるらしく語られてゐる(若菜上)。
 のみならず、人妻とても他し男に逢うた例が珍しくはなかつたらしく、有名の好色漢平中が國經の妻と語らつた物語もある(後撰戀、大和物語)。「男侍る女をせちにいはせ」た元良親王の歌(後撰戀)があるが、「わりなし」と思ひながらも、他し男になびいた例も乏しくはなかつたであらう。春宮の宮人に頼定がかよつたといふ話もある(大鏡卷五)。源氏を空蝉に懸想させたり、浮舟を兵部卿になびかせたりしたのも、やはりかういふ事實があるからである。「たゞ人だに少しよろしくなりぬる女の人ふたりと見るためしは、心うくあはつけきわざ、」(源語夕霧)といふのが當時でも良識であつたらうに、實際はあまたの男に名の立つやうな女の例が、物語や日記や歌集の隨所に散見する。或はまた異母兄弟などの間、または繼父繼母とその子女との間の情交も、稀有のことではなかつたらしく、歴史的事實として式部卿宮と桂のみことは異母兄妹であり(後撰戀、大和物語)、中務母子が同時に花山院に寵せられ(見はてぬ夢)、某の少將がまゝむすめに通つたこと(大和物語)もある。源氏と藤壺との關係もその類であつて、紀伊守が空蝉に懸想し、源氏が六條御息所のむすめの齋宮や、夕顔の忘れがたみで子のやうにして育ててゐる玉鬘に心ありげに見えたのも、同じ關係である。謹厚なる夕霧ですらも紫の上を思ふ情があつたではないか。宇津保物語の貴宮の懸想者には同母兄さへもある(嵯峨院など)。
(355) さてこれらは、兩性間の情交が如何にも放縱であつたことを示すもので、また後世の考から見れば破倫の極と考へられるものもあるが、近世の諸學者が説いてゐる如く、通ひ妻が所々に別居し、また情交が必しも永久的のものとも思はれてゐず、勿論、神聖なものとはせられてゐなかつた時代に於いては、男が多くの女に通ひ女もまた男の心の變ると共に情を他に移すやうになるのは、自然の勢であり、家族的生活を重んじなかつた社會に於いて、家族本位の道徳思想が生まれなかつたのも、當然であらう。要するに平安朝貴族の間に行はれた兩性の關係は、當時の社會的風習から自然に生まれた現象であつて、今日の人の目に情を縦にしたやうに見えるのは、社會の風習とそれから生ずる道徳とが今日とちがつてゐたからである。たゞその情交が肉體的本能の發露でありまたはそれによつて結ばれたところに、問題がある*。從つて今人かち考へれば、平安朝人は(一體に修飾が過ぎてゐたにかゝはらず)、性慾の點に就いては殆ど粗野なる自然人であつたといはねばならぬ。かくの如くにして彼等は優雅と粗野との奇なる結合を示してゐたのである。戀歌に肉の接觸のあらはに表現せられてゐるのは、日本の歌の特色であるが、萬葉ではそれが無邪氣であり素朴であるのに、平安朝のは過度の教養と自然の本能の發露との混和したものであるところに、それとの違ひがある。
 
 兩性間の情交に關する當時の道徳觀念は、源語に於いて最もよく覗ふことができる。源氏は父の帝の寵姫、藤壺の女御に子を生ませた。源氏はまた、彼に快からざる權家二條右大臣の女で東宮にまゐるべきはずであつた、騰月夜の内侍の督に通うた。然るに父の帝が崩じて異母兄たる東宮(朱雀院)が即位せられ、その外戚たる二條右大臣が權を(356)起るに至つて、源氏は須磨謫居の身となつた。朧月夜との關係が發覺したからである。朧月夜が後に、「などて我が心の若くいはけなきに任せて、さる騷ぎをさへひき出で、我が名をば更にもいはず、人のおんためさへ、……」などと思ひ出すとも(澪標)、「たれにより多うはさるいみじきこともありし世の騷ぎぞと」思ふともいひ(若菜上)、源氏みづからが「すき/”\しきとがを負ひて、世にはしたなめられき、」(梅が枝)といつたので、それがわかる。しかし朧月夜はその父が東宮にまゐらせようと定めて置いたのみであるから、この情交は當時の道徳觀念に於いて、もとより罪といはれるはずのものではない。だから、須磨の謫居は畢竟時の權家に憎まれたからであつて、源氏自身に罪があるのではなかつた。實際、帝も後に「はかなきことあやまり」といつてゐる(若菜上)。
 けれども源氏には別に藤壺との密事がある。これは素より外間に漏れてゐなかつたことで、二條右大臣も全く知らなかつたのであるから、表面上謫居の原因でなかつたことは勿論である。が、源氏自身の心中には、謫居の時に當つて、これに關する罪惡の自覺が無かつたであらうか。少くともその謫居を人知れぬ罪惡の冥罰と感じなかつたであらうか。どうもさうらしくは見えぬ。須磨のあらしの夜の夢にあらはれた父の帝が、源氏の謫居を怪んで、「などかく怪きところにはおはするぞ」(明石)といひ、「これはたゞいさゝかなるものの報なり」(同上)といつたとある。さうして源氏は、少しも父の帝に對する自己の行爲を悔恨する樣子もなければ、自ら責める氣もなかつた。源氏が藤壺との密事を重大なる罪惡と自覺してゐたならば、こんな夢ではすまされぬはずである。さすれば「いさゝかなるものの報」は、やはり朧月夜に關することをいつたので、藤壺に關することではなからう。だから「おとゞよこざまの罪にあたり給ひしし(薄雲)とある。權家のいはれなき憎惡のためならば、眞に「よこざまの罪」であらう。源氏が後(357)年柏木と女三の宮とのことを知つた時、「故院の上も、かく御心に知ろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ、思へばその世のことこそは、いと恐ろしく、あるまじき過なりけれ、」と思ひながら、「女御更衣といへど、とあるすぢかゝるかたにつけて、かたほなる人もあり、心ばせかならず重からぬうちまじりて、思はずなることもあれど、おぼろげのさだかなる過みえぬほどは、さても交らふやうもあらんに、ふとしもあらはなるまぎれありぬべし、……帝と聞ゆれど、只すなほにおほやけざまの心ばへばかりはて、宮仕のほども物すさまじきに、志深き私の願言になびき、おのがじしあはれを盡し、見すごしがたきをりのいらへをもいひそめ、自然に心かよひそむらむなからひは、同じけしからねすぢなれど、よるかたありや、」(若菜下)と、「もののまぎれ」を認容する口氣をもらしてゐるではないか。
 源氏自身のみならず、周圍のものもまた同樣である。源氏の藤壺に生ませた子の冷泉院が、父の帝の皇子として位に即いた後、その密事を知つてゐる法師が、「知るしめされぬ罪おもくて、天の眼おそろしく思へ給へらるゝことを、……佛天のつげあるによりて奏し侍るなり、」といつて、源氏が帝の實の父であることを奏し、「天變しきりにさとし世の中靜ならぬはこのけなり、幼く物の心しろしめすまじかりつるほどこそ侍りつれ、やう/\御よはひ足りおはしまして、何事も辨へさせ給ふべき時に至りて、とがをも示すなり、」(薄雲)と、源氏に罪ありとはせず、その子として源氏が父であることを知らぬのを罪としてゐる。帝が「故院のおんためもうしろめたく、おとゞのかくたゞ人にて世に仕へたまふも、あはれにかたじけなかりけること、」(同上)と、おぼしなやむといふのも同じ考からであらう。事實、歸京の後の源氏の榮華は、その皇子たる地位、特に父帝の愛を一身に鍾めてゐたこと、並にその美貌と才情とが素因をなしてはゐるが、時の帝の實の父であるといふ關係が、一層それを大にしてゐる。さすれば藤壺との密事が(358)彼をして榮華を極めさせた一大原因となつたのではないか。この世の榮華は必しも道徳上の善行の應報ではなくして、却つて罪惡に伴ふことが多い。しかし源語の作者は、さういふことを示すためにこの物語を書いたのではなからう。權勢と女との外に希求するものの無かつた當時の人は、そのための行爲を、少くとも自然の人情に背かぬ限り、當然のこととして是認したのではあるまいか。
 しかしこれは一面の觀察である。實は源氏の子である皇子が生れた時に、「いとあさましうめづらかなるまでうつしとりたまへるさま、違ふべくもあらず、宮のみ心の鬼にいと苦しう、人の見たてまつるも怪しかりつるほどのあやまりを、まさに人の思ひとがめじや、」と藤壺が苦しがり、父の帝がその皇子を美しがられるのを見て「恐ろしう」源氏が思つたとある*(紅葉賀)。或はまた後になつて「わが君姙まれおはしましたりし時より、故宮の深く思し歎くことありて、御祈つかまつらせ給ふ故なんはべりし、……ことのたがひめありて、大臣よこざまの罪にあたり給ひし時、いよ/\おぢ思しめして、重ねておん祈どもうけたまはりはべりし、」(薄雲)と法師がいひ、源氏の夢に現はれた薄雲が、「いみじく恨み給へる御氣色にて、もらさじとのたまひしかど、うき名の隱れなかりければ、恥かしく苦しき日を見るにつけても、つらくなん、」(槿)といひ、夢さめて源氏が、「おこなひをし給ひ、萬に罪輕げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁をすゝぎ給はざらむ、」(同上)と、ものの心をおぼしたどるとある。藤壺も源氏もおのれらの罪を知つてゐた。源氏がその子たる帝に繼嗣のないのを見て、「思ひ悩ましきおんことなくて過ぐし給へるばかりに罪は隱れて、末の世まではえ傳ふまじかりけるおんすぐせ口をしく、」思つたことがある(若菜下)。彼もその行爲の罪せらるべきを覺つてゐたのではないか。後年、彼の妻たる女王の宮が柏木の子の薫(359)を生んだ時、「さてもあやしや、わがよと共におそろしと思ひしことの報なめり、この世にてかく思ひかけぬことにむかはりぬれば、後の世の罪も少し輕みなむや、」(柏木)とおぼすとあるので、いよ/\それが確められる。源氏は柏木の行爲を以て、おのれに對する因果應報と觀じたのである。
 こんな風に源氏は自己を罪あるが如くに思ひ、また然らざるが如くにも考へ、甚だ曖昧である。が、曖昧であるのは即ち罪の自覺の強くないことを示すものであつて、柏木がおのれに對して同じ罪を犯したとて、それを以て自己の罪を輕めるものと思ふなどは、罪の悔恨の痛切でないことを示すものであらう。罪を知つてゐたとはいふものの、それはむしろ父の帝を欺いてゐること、またはその思ぼされるところが空おそろしいといふ感じである。上に引いた紅葉賀の源氏の心情を敍したところには「恐ろしう」の下に「も、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、」の文字のあることに注意しなければならぬ。特に藤壺に迫つたのは源氏みづからであることについて、深く身を責めたらしい樣子が無い。のみならず彼は實にその罪の結果としての、この世の榮華と歎樂とを滿分に享受して、毫もそれを恥ぢなかつたではないか。さう見ると、藤壺の悔恨は心弱い女の情に過ぎないものともいはれよう。同じく心弱い柏木は源氏と違つて、「さして重き罪にはあたるべきならねど身の徒になりぬべきこゝち」(若菜下)して、憂悶の極、終に病を得て身を失ふに至つたけれども、それでもなほ「六條院にいさゝかなるたがひありて、月ころ心の中に畏り申すことなん侍りしを、……み氣色を給はりしに、なほ許されぬ御心ばへあるさまにおんまじりを見奉り侍りて、いとど世にながらへんことも憚りおほうおぼえ」たので、良心の呵責よりは源氏の不機嫌を恐れたやうな樣子がある。當時の人の道徳觀念はほゞこれで察せられる。
(360) 女の方から考へても同樣である。當時の習慣は、男に抵抗するだけの力を女に與へなかつたのである。さればこそ、藤壺や女三の宮の「もののまぎれ」も起り、おもひの外のつまがさねも生ずる。浮舟の悲しき運命もやはり同じことから開かれた。かゝる場合に男の亂暴なふるまひを避けるには、空蝉や宇治の大姫君のやうに、詭計を用ゐる外は無かつたものと見える。歴史的事實としても、國經の妻が時平に奪はれた時、唯々としてそのなす所に任せたらしい。この妻はそれより前に平中と忍んで逢つてゐたといふが、それとても「現にて誰れ契りけん定めなき夢路にまどふ我は我かは」(後撰戀、大和物語)、夢か現かわからなかつたのであらう。當時の女が、どれほどか、すき心ある男のためによしなき物思ひをさせられたであらうか。しかし浮舟は男がわが男でないことを知つて一たびは驚いたけれども、その美しき容姿、そのやさしく情ふかげな物語にほれ/”\として、移るともなく心をそれに移した。心強く源氏を斥けた空蝉すらも、時には「いとかくしな定まりたる身のおぼえならで、過ぎにし親のみけはひ留まれる故郷ながら、たまさかにも待ちつけ奉らば、をかしうもやあらまし、」と、それをしのばねばならなかつた。朧月夜も軒端の荻も、測らざる一夜の名殘に忘らるまじき面影をとゞめて、人知れぬ涙をありし夜の衣の袖にそゝいだではないか。多くの女は何れもみな、「ふるれば落ちなんとする玉笹の上のあられ」、源氏の如き容姿と情とに動かされないものは無かつたであらう。
 當時の人の容色を重んじたことは、今日から想像のできぬほどであつて、宇津保の嵯峨院が大將を見て「この朝臣見る時こそ齡延ばるゝ心地すれ、……この國の人には餘りにたる人かな、」(國讓の下)といひ、源語の主人公が容貌の美しさから光源氏の名を負ひ、その美しさには見るものが涙を流したといふのでもわかる。だから父母の容色をさ(361)へめでて、宇津保の仲忠はその母の美しさに見とれ、「さらに親と思ひ忘れて、いづくなりし天女ぞ、」(内侍のかみ)と思ひ、源語の夕霧は野分の朝に父を見て、「親とも覺えず、若く清らになまめきて、いみじき御容の盛なり、」(野分)と思つたといふ。だから宇津保には人をほめる時必ず「かほ、かたち、」を第一に擧げて、それから才、心ばへ、などを數へてゐる(忠こそ、吹上の上、樓の上の上、など)。源語では、病んで死に瀕してゐる宇治の大姫君にもその容姿をめで(總角)、紫の上のなきがらを見てもその美貌にほれ/”\とし(御法)、物思ふ時にも泣く時にも、物怨じして腹だつ時にも、その間に容姿の美を認めることを忘れず、(若菜夕顔澪標など)、酒をのんだ顔までもめでたがつてゐる(宇津保藏開の中)。物語のみではない。清少納言は主上の御容貌の美しさに「目は空にのみ見て、たゞおはしますをのみ見奉」り、何か書けと仰せられた時、「年經れば齡は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし」の歌の花の字を君と書き改めて奉つたといひ、皇后の御容姿を「たとふべきかたなくめでたし」とほめ、「とりどころ無きもの」に、「かたちにくげに心惡しき人」といひ、「人の貌にとりわきてよしと見ゆるところは、たびごとに見れども、あなをかし、めづらし、とこそおぼゆれ、」と書いてゐる(枕册子)。容貌の美に對しては、男でも女でも、殆ど何物をも忘れて隨喜渇仰したのが當時の人であつた。
 かういふ有樣であるから、美しい匂宮を見ては女も「七夕ばかりにてもかゝる彦星をまちつけめ」(總角)といふやうな、浮いた心を起すのも無理ではない。その容姿に加へて情ふかく見えたらば、身の地位も忘れて思ひつくのは當然である。さすれば源氏に對して藤壺などの抵抗することができなかつたのも、一つは女にこの弱みがあつたからであらう。既に弱みであつて意志ではない。またこの弱みは何人にも共有のものである。だから、そのためのつまが(362)さねもさしたる道義上の問題とは考へず、よし罪とは思つても、わが心に對する慚悔よりは男に對する身の處置に苦しむのである。浮舟の身を投げようとしたのも、二人の男に二人ながら情をひかれて、わが身一つを定めかねたがためである。男もまたさまでに深くはそれを責めず、薫は浮舟の尼になつて山にゐるのを聞いてそれを訪れた。もとより浮舟の如くおも正しい妻といふほどでない女には、かういふことは有りがちであつて、「一方におぼし定めてよ」と乳母が忠告するくらゐですむのは勿論であるが、正室の位置にあるものとても、道念としてはあまり大した差異もなかつたであらう。
 
 兩性の關係に於いて先づ挑むものは男である。竹取とその系統に屬する宇津保とは、一人の女を圍繞して多くの懸想者がそれを得ようとする有樣を主題としたものである。かぐや姫と貴宮とは別として、多くの場合には挑まれてなびかぬ女は少い。「生ひさきこもれる窓の内」に隔ての關を堅く据ゑても、ともすれば破れがちなるが戀のならひ、一たび破れ初めては、幾夜半の涙を、通ふ人待つ人の袖の上にそゝがせるのである。但し築地の破れから通うた昔男は、垣守る人の勢の強いために路を絶たれて、多感の詩人は、春やむかしの月影を涙に曇る眼に眺めねばならなかつた。志は深くても思ひの遂げられざるがあり、容易くなれて忽ち飽きはてるもあり、心も身も我れながら我れにまかせずして、人知れぬ運命の弄ぶまゝなる戀の葛藤はさま/”\であるが、絶ゆればまた新に通ふかたも通はせるかたもできて、末はいづこにか寄るべの定まるのが、當時のならはしであつたらしい。男には固より神かけて祈る戀もあり、生命をすてて逢はうと思ふのが無いではないが、春の野に飛ぶ蝶々の、花より花に移りゆく浮かれ心も少なくはない(363)ので、一たび逢ひ初めても誠の情の頼もしいものばかりではない。はかなきものは、やはり、女の運命であつた。
 女のたよりなさは必しも平安朝の婦人には限らないが、男が多くの女に通ふのは普通のこととせられ、また男と居を異にしてその通つて來るのをまつといふ習慣の當時では、女の心細さは一しほであつたらう。何時通ひ路が絶えるかも知れぬ、何時棄てられるかも知れぬ、といふ憂慮が、斷えず女の身にはつきまとつてゐる。かういふ女のこゝろもちは、早く古今集の戀の歌にも現はれてゐる。「いつはりの無き世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし」(戀四)、男のことばにはいつはりが多いといふのであらう。男は「いつはりの涙なりせぼ唐衣しのびに袖はしぼらざらまし」(戀二忠房)といふであらうが、それもたやすくは信ぜられぬ。だから「あら小田をあらすきかへしかへしても人の心をみてこそやまめ」(戀五)と考へねばならぬ。信じきつた男でも「すまの海士のしほやく烟風をいたみ思はぬかたにたなびきにけり」(戀四)、さうなつても「海士のかる藻にすむ蟲のわれからと音をこそ泣かめ世をば怨みじ」(戀五直子)とあきらめるものもあるが、かういふことが世に多いのを思ふと、「あかでこそ思はむなかは離れなめそをだに後の忘れがたみに」、或は「忘れなむわれを怨むなほととぎす人のあきにはあはむともせず」(以上戀四)、といふきもちになるものもある。さうしてまた戀を失つた場合でも、一方では「身をうしと思ふに消えぬものなればかくても經ぬる世にこそありけれ」(戀五)とも感ぜられると共に、他方では「こりずまにまたも無き名はたちぬべし人にくからぬ世にしすまへば」(戀三)とも思はれるが、「人にくからぬ世」では、またも男にあふやうになるであらう。後撰や拾遺にもいろ/\のがあるが、一々いふにも及ぶまい。
 物語になると、男の頼みがたさに對する女の心もちは一層細かに寫されてゐる。源語では正室の紫の上ですらも源(364)氏が槿に心をかけてゐるのを知つては、「かゝりけることもありける世を、うらなくて過しけるよ、と思ひつゞけ」、「まことにかれまさり給はば、としのびあへず」思ひ(槿)、女三の宮の場合にもおのづから「身に近く秋や來ぬらむ見るまゝに青葉の山もうつろひにけり」とはかなまれる*(若菜上)。この間の消息を事實の上で最もよく語つてゐるのは蜻蛉日記であつて、その子の道綱が陵王を舞ふほどになつても、なほ男の來るか來ぬかに一喜一憂せねばならなかつたのである。「曇る夜の月と我が身の行く末とおぼつかなさは何れまされる」。年を經てもなほ晴れやらぬ思ひに、一たびは男を恨み身をはかなんで山に隱れた。それには男にすねる情もあり、われから世をすてがほに見せる矯飾もあるが、何れから見ても、心の底では飽くまで男を頼みにしてゐるからである。だから男に迎へられては、表に強ひて心ならぬさまを裝ひながら、まことは喜んで再び山を出たのである。源語の雨夜の品定めに左馬頭が笑つたやうに、をこなるふるまひとは自らも知りつゝ、こんなまねをしなければならぬのが當時の女の身であつた。一夜あひて後、男のうち絶えておとづれぬがために、髪をきつて尼になつた女もある(大和物語)。
 さてかういふ例が世に多いのを知ると、女によつては初から男に逢はぬのがましであるとも考へる。「一生に男せでやみなんといふことを、よと共にいひける」女もあつたといふ(大和物語)。「ありはてぬ命まつまのほどばかり憂きことしげく思はずもがな」、その心情もほゞ察せられる。「女は男に見ゆるにつけてこそ、悔しげなることもめざましき思ひも、おのづからうちまじるもの、」(源語蓬生)とすれば、初から男には見えないのがむしろ心安いのではあるまいか。源語の宇治の大姫君が薫の切なる思ひを斥けたのは、世にかずまへられず世を避けてゐた優婆塞の宮の女として、「昔より思ひ離れそめたる心」からではあるが、妹の中君にあはせた匂宮のふるまひをみて、「月草の色なる(365)御心なりけり」と歎じ、「ほのかに人のいふをきけば、男といふものは空言をこそいとよくすなれ、思はぬ人を思ひ顔にとりなす言のは多かるものと、この人かずならぬ女ばらの昔物語にいふを」(總角)、まことと思ひあたつたところから見ると、やはり同じ考が根柢になつてゐるのであらう。明石の姫が容易に父の意のまゝに源氏になびかなかつたのも、「人數にもおぼされざらんものゆゑ、我はいみじき物思をやそへむ、」(明石)といふ心づかひからであり、逢うた後にも、「中空に心細きことやあらむ」(澪標)、と思ひわづらふ心が絶えなかつた。さうしてその物思ひには「人わらへ」を恐れる情さへも籠つてゐたのである。
 そこで考へるに、平安朝の物語の女主人公には、男の情に動かされぬ一種の型がある。竹取のかぐや姫は天上の仙媛であるから別としても、宇津保の女主人公貴宮も多くの求婚者に對して何等の情をも動かさず、狹衣の源氏宮も熱心なる狹衣大將の愛に應じなかつた(狹衣のことは次篇にいはう)。貴宮は終に東宮の妃となつたけれど、これも父の命に從つたのみである。この貴宮や源氏宮が何故にかく人につらかつたかといふ理由は、物語の上には説明せられてゐないが、作者がかういふ人物を作り出したのは、よしそれが極端な誇張であつて實際に見るべからざるものであつたにせよ、何れの點かに當時の風尚と關係がなくてはならぬ。宇津保は竹取の系統を引いて、物語の筋も幾らかそれに倣つたものらしい。狹衣も或は話の興味を饒かにするために、兩主人公を結びつけなかつたかも知れぬ。けれども單に結構上の便宜とするには、女主人公の態度があまりに冷かで、あまりに無情ではなからうか。或はそれは、まだ何の情をも知らぬ弱年の女子を男にあはせる習慣があつたために、女が男に對することをひたすらに恐ろし苦しと感ずるやうな經驗のあつた故でもあらう。けれども、多くの婦人がこの態度を取つたのではなかつたから、貴宮など(366)のよりどころをかういふところに求めることはむつかしい。さすればやはり、女が男に對して容易に許さないといふ氣風の反映と見る外はなからう。さうしてその許さないのは、女が高く標置してゐたがためではなくして、却て女が男に捨てられるのを虞れ「人わらへ」にならうかと慮つた故ではあるまいか。たゞ作者は、或はその筆力のたらぬがため、或は觀察の到らぬがため、その間の消息を傳へなかつた故に、貴宮も源氏宮も單純な無情の木偶人のやうになつてしまつたのであらう。
 心強く男になびくまいと思ひ定めたものはあつたにしても、それは世に珍らしい例であつて、たよりなき女の身は、人を恨み世を憂しと思ひながらも、やはり男を頼むほかはない。「いかにせむいかにかすべき世の中を背けば悲し住めば住み憂し」(和泉式部家集)。住みうき世を背きはつる覺悟の無いものは、せめてもの憂さを男によつて慰められるより外は無いではないか。だから「こゝろみにいざ語らはん世の中のこれに慰むことやあるとも」(同上)といふ。こゝに於いてか「雨のふる日つれ/\とながむるに、昔あはれなることいひたる人」を憶うては、「おぼつかな誰そ昔をかけたるはふるに身をしる雨か涙か」(同上)と歎かねばならぬ。いひよる男には「白浪のよるにはなびく靡き藻のなびかじと思ふ我ならなくに」といはねばならぬ(同上)。むかし小野小町が「誘ふ水あらば」と詠んで三河に下つたのも同じ動機からであらう。多感多恨の和泉式部を單に好きものとのみ見るのは、未だ彼をも彼の時代をも解せざるものであらう。爲尊親王に別れて「夢よりもはかなき世の中を歎きわびつゝ明かし暮らす」心細さに堪へねばこそ、敦道親王を花橘ならぬ昔の人の袖の香と懷かしんだのである。
 けれども頼むべき男は頼むべからざる男である。うきを慰めんとする世の交らひは即ちまた世を憂くする原因であ(367)る。「心うき身なれば宿世にまかせてあらむ」と思ひつゝも、「また憂きことあらばいかにせむ」と考へねばならぬ(和泉式部日記)。だから「あはれにはかなく、頼む人もあらず、かやうのはかなしごとにて世の中を慰めてあるも、うち思へば淺まし」い(同上)。これが頼みなき女の悲哀なる運命である。たゞその淺ましさの傍には、「なべてのおんさまにはあらず、いとなまめかし」き男の姿のめでたさ、有明の月に門叩くを知つては、「をりふし過ごし給はずかしと、まことにあはれなる空の氣色を見給ひけると思ふ」(同上)をかしさ、さては我れにひかるゝ男ありとのかすかなる自負、恨みつ恨まれつもなほ心とくる戀の戯の戯ならぬ樂しさなどに、「浮きたる世」に「心うき身なれば」といふすてばち的傾向もいくらかは加はつて、いひよる男に心の動かされる和泉式部の如き女は、むしろこの悲哀の運命を味うて、そこに涙の甘さを覺えたのである。彼は今の世にいふ情熱のあるのではないが*、たよりなき女の情に堪へぬところに、一味眞摯の氣の存することを看取しなければならぬ。
 これに反して、終夜たゝく水鷄にも「明けては悔し」と妻戸きしかためた紫式部の如きは、憂き世の憂きに再び觸れざらんがために、深くみづからかゝる交らひを回避したのである。その溢るゝばかりの才筆がありながら玉を韜み光を藏す謹厚の性質は、彼をして「思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すき/”\しくももてなし、わかやぎて、常なき世をも過ごしてまし、めでたきことおもしろきことを見聞くにつけても、たゞ思ひかけたりし心のひく方のみ強くて、ものうく、思はずに歎かしきことのまさるぞ、いと苦しき、」(紫式部日記)といはせ、「行く末の心細さは、やるかたなきものから、」「水鳥を水の上とやよそに見む我も浮きたる世を過ごしつゝ」その水鳥に比べつべき身の苦しさを靜かに堪へてゐたのである。女の身の心細さに堪へると堪へざるとの差こそあれ、紫式部も和泉式部(368)も、平安朝婦人の頼み少き運命に美しい涙をそゝいだのは同じであらう。たゞその性質の相違が表面の行爲に著しく異つた色彩をつけさせたまでである(家集を見ると、紫式部にも「たまさかに返ことしたりける人」があつたらしいが、その間の關係は明かでない)。
 こんな風だから、女はよし男に靡くにしても、初から或る身構へをしてかゝらねばならぬ。歌で挑まれても容易に返歌をしない。返歌をしても「つれなづくり」をする。男の心のたしかに見えるまでは用心に用心をする。「もののたよりばかりのなほざりごとに、口とうこゝろえたるも、さらでありぬべかりける後の難とありぬべきわざなり、すべて女のものつゝみせず、心のまゝに物のあはれも知り顔つくり、をかしきことをも見知らむなむ、そのつもりあぢきなかるべき、」(蝴蝶)と、源氏が玉鬘の侍女に教へてゐるのは、これがためである。この用心は、おのづから男の心を一層強くひきつける效果をも生ずるが、女自身にとつては故意の矯飾ともなる。深窓に育つた女は外間にその容姿性情がよく顯はれないから、男に對してもてつくらふには都合がよく、從つて「文をかけどおほどかにことえりをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつゝ、またさやかにも見てしがなとすべなくまたせ、わづかなる聲きくばかりいひよれど、いきの下にひき入れことずくななるが、いとよくもて隱すなりけり、」(帚木)ともいはれてゐる。「ものつゝみ」するのも「もてかくす」のも、要するに矯飾であつて、矯飾は弱いものが自己を防衛するに必要の手段である。青天白日の下に、自由に快活にまた率直に、行動することの許されない場合に、男女の交が矯飾に傾くのは自然の勢であるが、この時代では特にさうであつた。逢ひ初めてからも同樣で、女がどこまでも男を自分にひきつけて置くには、やはり矯飾と幾らかの政略とを要する。歌の贈答などは一つはこの政略の手段だといつてもよいくらゐで(369)ある(それが機智を重んじ言葉爭ひに類するやうになつたのも當然である)。さうしてそれが甚しくなると、上に述べた蜻蛉日記の作者のやうに、山にまでも逃げこむやうなことをしなければならなかつた。概していふと、萬葉人の戀の如き可憐なあどけないものは、この時代には見られない。
 棄てられはしまいかの疑惧は一轉して女の嫉妬心ともなる。けれどもそれは、他人のためにわが男を奪はれるのを危ぶむのであつて、女も男の愛を一身に專有しようとはしなかつた。從つて源氏のやうに多くの女があつても、「こなたかなた、うらやみなくもてなす、」のが、男として尊ばれるのである。歴史的事實としても、「十、二十人の女御御息所おはせしかど、時あるも時なきも、なのめに情ありて、けぎやかならずもてなさせ給ひし、」は讃められ、それに反したのは譏られてゐる(榮華花山)。多くの女に偏頗の無いことを一人の女にとつていへば、一たび逢うた女を見すてないことであつて、源氏は實にこの點に於いて頼もしがられたのである。宇津保の仲頼や實忠が貴宮を戀ふのに非難は無いが、それがために妻をすてたのが、時人に指彈せられ嘲笑せられた所以である。
 ところで、男は何にひかれて女、特に多くの女、を求めるのか、またどうして女から離れるのか。源氏は容貌が母に似てゐると聞いたことから藤壺を慕ふやうになり、その藤壺に似てゐるのを見て、まだ年の幼い紫の上に心がひかれたといふ。かういふことが事實あり得たかどうか知らぬが、よしあり得たとするにしても、單に似てゐるからといふだけではなく、その美貌に意味があるやうに、物語も語つてゐる。上にも述べた如く容貌の美がびどく重んぜられた世の中である。しかし逢うてから後に初めて女の容貌を見た話もあり(末摘花など)、深閨に育つた女に對してはさういふことがありがちであつたらうから、容貌ばかりが男の心を動かすのではない。「手つきのつぶ/\と肥えた(370)まへる、身なり肌つきのこまやかに美しげなる、」(蝴蝶)に欲望の加はることもあるが、これも普通の間がらでは、逢はぬ前からのことではあるまい。動機はいろ/\であるが、すき心あるものはさしたる理由も無く、偶然の事情や機會から、近づき易い、または近づき難い、女を手に入れようとする。應じない場合には「負けてやみなむ」が口をしいといふ意地もはたらく。むりと思ひ、止めたがよいと思うても、「あやにくなる」心が動く。時には冒險の快味もそそられる。或はまた新しい刺戟を求めるところから、新しい欲望が生ずる。幾人かの女をもてば、その時その場合にそのあひてには專心になるし、女の環境や性情擧動が違へばそれに應じてそれ/\に特殊の興味がもたれ、「とり/”\にすてがたき世かな」(澪標)とも思はれる。たゞ初から肉の接觸の求められるのが常であり、或は(女にとつては)思ひの外の情交がそれによつて結ばれる場合のあるのを見ると、女に對するのは肉體的本能の欲求が主になつてゐることは明かである。これは普通の場合に於いては、戀といふ心情が男が女の許に通ふといふ結婚の形態に伴ふものだからであるが、結婚といふことを豫想もせず期待もしない女に對しても、この欲求が何よりも先にはたらくところに、平安朝人の戀愛生活の特質があることが、注意せられる。源氏の藤壺や空蝉やに對する行動の如何に粗野であり自然人的であるかを見るがよい。しかしまたそれと共に、女の態度とそれを包む詩的な雰圍氣とが男の心をひきつけるのでもあることを、忘れてはならぬ。平安朝人の生活は戀愛に於いてもまた粗野と優雅との奇異なる混合であつた。女から離れるのもまたいろ/\であり、離れようとせずして離れてゆく場合もあるが、他に心を移したり、女の態度に意に滿たぬことが發見せられてさうなつたりすることもある。
 しかし男にもまた女を專有しようとしない一面もある。源語の朱雀院は朧月夜に對して「昔より人には思ひおとし(371)給へれど、みづからの志のまたなきならひに、たゞおんことのみなむあはれに覺えける、たちまさる人またおん本意ありて見給ふとも、おろかならぬ志はしもなずらはざらむ、と思ふさへこそ心苦しけれ、」(澪標)といつて、いくらかの妬ましさは含まれてゐながら、それが強烈にはあらはれてゐない。一人の男の愛を失へば他の男の愛をうけるのが女の常であるとすれば、男がかういふ考へかたになるにも理由はあらう。のみならず、女が同時に二人の男にあつても、それほど深くは女を惡まなかつたことは、前にもいつた如く浮丹に對する薫の態度でもわかる。わが女に通つた他し男を殺して女をも見すてたといふのは、常陸の田舍ものの話であつて、都人士には思ひもかけぬことであつた(浮舟)。從つて浮舟の身を投げようとしたのは、萬葉の茅渟の處女の自殺したのとは全く趣がちがふ。女も男の愛を專にしようとしないと共に、男も女を我がものとしようと思はぬ社會に、茅渟の處女のあるはずはない。平安朝人が生田川傳説について「かちまけも無くてやはてむ君により思ひくらぶの山はこゆとも」(大和物語)などといひ、男にも女にもさしたる同情をよせなかつたのはこれがためである。だから薦刈の傳説(大和物語)のやうに、むかしの男をなつかしくもあはれにも思ひながら、今の男に從つてゐるのは、不思議ではない。かう考へて來ると、源語の夕霧と雲井雁との相思の情の如きは、事實としても、あまり多くは例の無いことであつたかも知れぬ。
 こんな風に男も女も戀には頗る生ぬるい。源氏の槿が「げに人のほどのをかしきにもあはれにも、おぼし知らぬにはあらねど、物思ひしるさまに見え奉るとて、おしなべての世の人のめで聞ゆらむつらにや思ひなされむ、かつは輕々しき心のほども見知り給ひぬべく、耻しげなめる御ありさまをと覺せば、なつかしからむなさけもいとゞあいなし、」といふのも、それに對する源氏の「今さらの御あだけも、かつは世のもどきをもおぼしながら、空しからむは(372)いよ/\人笑へなるべし、」といふのも、また多くの女が、見すてられた時「人笑へ」になるのをおそれて、容易く男になびかぬのも、男女の關係に今の世の人のいふ如き情熱が無いからで、彼等の戀は渾身の愛をその情人に捧げるのではなくして、どこまでも自己を忘れない。人笑へをのみ慮る女の心が自己本位であることはいふまでもない。かの多感の和泉式部ですら、ともすれば「をこなる目をも見るべかめるかな」と我が身を思うた(日記)。だから彼等は情のために身を棄てることはできなかつた。一種の教養を重んずる平安朝人は、戀にも「さまよきほど」をよしとして、直情徑行を賤しむやうに馴致せられて來たので、これもまた彼等の戀の生ぬるい一原因ではあらうが、根本の原因は彼等が如何なる場合にも自己を忘れ得ないところにある。
 固より彼等にも神かけて祈る戀もあり、死ぬばかりなる戀も無いことはない。けれどもそれは、多くはことばの上の花であつて、まことは戀に身をすてた男も女も當時には無かつた。「ひたすらに厭ひはてぬるものならば吉野の山にゆくへ知られじ」(後撰戀時平)といつても、山に入りさうははないのである。宇津保の貴宮の求婚者が、或は修法し或は妻子をすて或は失戀のため家を燒いて山に入つたなどは、現實には見ることのできない作者の誇張であり、或は單に花に迷へる狂蝶のうかれごゝろに過ぎぬ。作者の筆もやゝ滑稽的にそれを取扱つてゐる。求婚者の間に歳爭の念もなければ、貴宮が東宮にまゐることになつた後も、左近少將の出家と源宰相の隱遁との外、多くの求婚者は境遇にも精神にも何等の變化が無い。
 かういつて來ると平安朝人の戀は興趣の甚だ乏しいものになつてしまふ。が、すべての場合に高潮した精神の無い、利害得喪の打算を放棄しかねる平安朝人には、これが當然であらう。雨夜の品定めを讀むものは、それが女に對して(373)割合に冷かな觀察と批評とを加へてゐることを感ずるであらう。女を實用的眼孔から見てゐるらしい點さへもある。赤い血潮の漲つてゐるべきはずの青春の男どもの感懷としては、あまりに落ちつきすぎてゐるではないか。たゞそれにも平安朝人の生活の一特質をなしてゐる遊戯的態度が現はれてゐるために、そこから一種の特殊な興趣が生じてゐる。彼等の戀に情熱が無い代り、さうしてまた無いがために、それが遊戯的に取扱はれ易いのである。紫の上は明石の上に對する源氏の戀を「よろづのことすさびにこそあれ」(澪標)と思つたといふ。戀は「すさび」である。和泉式部が道敦親王との交情を記して「こよなく徒然も慰むこゝちす」といつたのも、かよつて來る親王を「をかし」と見たのも、そこに遊戯的氣分があるからである。源氏が紫の上の「物怨じ」をするのををかしう感じてゐるのも同じことである(澪標)。宇津保の天子が、女御と昔きこえかはしたことのあるといふ右大將とを、「同じところに、らうあらむところにすゑて、なさけあらむ草木、花盛にも紅葉盛にもあれ、見どころあらむ夕暮などありて、ゆくさきをいひ契り深き心いひ契らせ、かたみにあはれならむことを心とゞめてうちいはせ、をかしき物語せむに、けしうはあらじ、」と思ひ(内侍のかみ)、わが女の他し男といひちぎる光景を想像して興がるなども、男女の交のいかに遊戯的であるかを示すものではないか。戀歌が單に遊戯としても作られ、艶書合せのやうな遊び(宇津保忠こそ)の行はれたのも、かゝる空氣の裡に生じた現象である。
 それのみならず、この遊戯的の戀には、それに特有な詩趣が伴つてゐる。今の人、幾人か有明の月の艶なる眺めを知らうぞ。また幾度か曉の露にそぼち夕の雨に袖をぬらしたことがあらうぞ。章臺の柳を攀ぢ青樓の花を折る遊蕩子は知らず、または金屋の阿嬌狹斜の娘子は知らず、いはゆる良家の子女なるもの、誰か待つ夕暮の風にわび夜半の水(374)?にねられぬ耳を欹つることを知らうぞ。平安朝人はさうではない。夏の朝の曉起きに「前栽のいろ/\亂れたるを過ぎがてにやすらひ給へる」源氏の姿(夕顔)。美しい繪ではないか。「初時雨いつしかとけしきだつ」に「木枯のふくにつけても」と忍びやかに怨じた文が來る(賢木)。優しい詩ではないか。「いみじう霧わたれる空もたゞならぬに霜はいと白う置き」たる夜は、源氏ならでも「けさうをかしかりぬべく」思ふであらう(若紫)。春の夜の朧月夜にあくがれては、弘徽殿の細殿口ならでも見すごし難きところがあらう。雨夜の品定めの左馬頭の物語、月のおもしろき夜、女和琴をひくに男は門外に立ちて笛を吹きあはせる。物のねさへも趣を助ける。況や歌の贈答唱和がある。さうしてかゝる光景かゝる情趣が戀ごゝろをそゝると共に、またそれを濃かにも深くもする。平安朝人の戀愛に特殊の趣のあるのはこれがためである。たゞそれ畫裡の景である。詩中の趣である。われを畫裡の男と見、われを詩中の女と見るところに興趣がある。詩中の戀は遊戯で、畫裡の光景は空想世界である。そこに情熱は無くそこに生活は無い。道義のための苦悩の無いことは勿論である。
 
(375)     第五章 權勢觀
 
 戀と共に平安朝人の心を強く支配したものは、官位の榮達と權勢を得ることとである。自己の屬する社會とその文化とを至上のものとし、その間に生活することを最大の誇としてゐた彼等は、この社會この文化に何ものをも加へようとしない。從つて世のため人のため次の時代のためにしごとをするといふ考をもたないのみならず、おのれみづからについてもまた同樣である。すべてに於いて事業欲が無い。だからその欲するところは現實の生活を豐かにすることのみである。當時の用語に於いてはそれは榮華を求めることである。さうしてすべてのものが同じやうに榮華を求めてゐる世に於いては、それを得たものは羨まれ重んぜられ、得ないものは人に笑はれ世に侮られる。笑はれ侮られては生きがひが無い。この思想を最も直截にいひあらはしたものは、清少納言の枕册子であるが、物語に於いてもまた、この思想が多くの人物とその行動とを貫通してゐる。ところで、かういふ生活態度からは、すべての關心が現在に集中せられる。未來を思はず、從つてまた過去をも思はぬ。文藝に於いて史上の人物が題材に採られてゐないのも、そのためであらう。例へば日本紀の竟宴の歌の如きものが作られなくはなかつたが、それは特殊の場合のことである。いはゆる國史の編纂の行はれなくなつたのも、一つはこのことと思想上いくらかの連繋があるかも知れぬ。また繪畫に於いて肖像畫の多く作られなかつたのも、このことと關係があらう。(肖像畫は全く無いではなく、今昔に見える百濟河成の話や將門記によつて見ても、さういふもののあつたことは想像せられるが、これは後世のやうに古人の面影として崇拜の對象とするのでもなく、記念として後に傳へるのでもない)。藤原氏の權勢を得たものが新に寺院を(376)建立するのも、一つはそれを建立しそれを經營することにおのが力の用ゐられその效果の現はれる快感があるからでもあらうが、やはりこのこととも關聯が無くはなからう。或はまた時に後れたのを嫌ひ古代めいたのを笑ふのも、このためである。源語の末摘花はこの故に源氏から嘲笑せられてゐる。老もまた彼等の最も厭ふところであつた。源語などでも、老人の有樣をいふ時には幾らかの嘲笑的態度を帶びてゐないことはないといつてもよい。老人は過去の遺物だからである。が、すべての生活が現在に集中せられることは、即ちまた自己に集中せられることである。何ものも自己の榮華に役だつ限り、自己の生活に調和する限りに於いて、存在の意味がある。病者の喜ばれなかつたのはそのためであらう。それは彼等の生活にふさはしからざるものだからである。源語の髭黒の大將は病妻を疎んじたといふではないか(眞木柱)。「げす」の卑しまれたことは、いふまでもない。
 しかし、彼等が榮華を人に誇らうとするには、第一に富が無くてはならぬ。かなりの地位にありながら、節會の佩刀を質に置かねばならぬやうでは、世にありがひが無い(宇津保吹上)。貴族でありながら、人に賤まれる受領の地位を得ようとするのはこれがためであり(落窪の左少辨の話參照)、受領の女と結婚しようとするのもまたこれがためである(源語東屋)。妻を選ぶにも壻を定めるにも、富を第一の條件とする物質主義的思想を彼等がもつてゐるのは當然である(宇津保嵯峨院、祭の使)。これはあらゆる時代を通じて普通人の生活を支配する考であつて、珍しいことではないが、表面に見える繪のやうな美しい色彩に惑はされて、平安朝の貴族の思想の主要なる一面を見のがしてはならぬから、特に一言を加へて置くのである。しかしその富が何によつて得られるかといへば、それは權勢の力である。高い地位にある權家の庇護によつて何等かの官職を得、それによつておのれもまたそれ相應の權勢を振はな(377)ければ、富は作られぬ。さうしてその權家はまた自己の權勢によつて大なる富を得る。だから富を得ようとするのは、即ち權勢を得ようとすることである。のみならず、權勢にはまた富より外の榮譽がある。要するに富と權力との集る所は官人と貴族とで、人生の榮華はこれによつてのみ得られるから、彼等の希望はこの點にのみ集中する。文學の第二の題材はこれである。
 「何處とも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる」(後撰春)と躬恆がよみ、「いたづらに世にふるものと高砂の松も我をや友と見るらむ」(拾遺雜)と貫之が詠じたのはもとよりのこと、官位の沈滯を歎いた歌は少なくない。「水の面に月の沈むを見ざりせばわれ獨とや思ひはてまし」(拾潰雜文時)といひ、「ほどもなく泉ばかりに沈む身は如何なる罪の深きなるらむ」(同上順)といひ、或は「年ごとにたえぬ涙やつもりつゝいとゞ深くは身を沈むらむ」(同上元輔)といふなど、例を擧げると限りが無い。文人儒生が智嚢を絞つて書いた申文は本朝文粹などにも殘つてゐるが、彼等の學問が官位を得んがためであつたことはいふまでもなからう。歌人や儒生の地位の低いものが官位にありつかうと命がけにかけまはり、それによつて少しでも貴族の社合に接近しようとしたのみならず、貴族の階級にあるものも、また彼等の間に於いて一級一階の昇進を競つたので、除目の朝に喜ぶものと失望するものとがごつたがへしをする有樣が當時のものにしば/\見えてゐる。源氏が夕霧の元服の時、六位のまゝにして置いたので、祖母君が不平であつたといふやうなことも、かういふ事實の反映である。さて榮位と權勢との極は攝關で、その地位を占めようがためには女によつて宮廷に近づく。宇津保の正頼が萬人の崇拜の標的であつた貴宮を東宮に上つたのも、これがためである。源語の秋好中宮や明石女御は少し違ふが、かの昔の頭中將もその女を女御にしてゐる。
(378) 上級の官位は貴族の專有で、貴族は宮廷を頂上に置いた三角塔の上層に、眩きばかりの榮華の光彩を放つてゐる。彼等を仰ぎ見る者はそれを羨み、彼等に攀縁する者はこれを誇り、彼等みづからは得意の眼を以て衆人をみおろす。宮廷の有樣をかいま見ては、「殿守司女官などの、行きちがひたるこそをかしけれ、いかばかりなる人、九重をかく立ちならすらむ、」とゆかしがり、物見車の立ちならぶところに「よきところの御車、人だまひ、引き續きて多く來るを、何處に立たむと見るほどに、御前ども、たゞ下りに下りて、立てる車どもを、たゞのけにのけさせて、人だまひつゞきて立てるこそ、いとめでたけれ、」と、人もなげなる權家の横暴を讃美し、關白道隆が伊周に沓をとらせるのを見ては、「まづあなめでた、大納言ばかりの人に沓をとらせ給ふよと見ゆ、」と感嘆した清少納言の言は、當時の一般の思想を表現したものである。だから女でも「さるべからむ人の女などは」宮廷生活に「さし交らはせ、世の中の有樣をも見せ習はさまほしう、内侍などにても、しばしあらせばやとこそ覺ゆれ、」といひ、その間に立ち交る我が身を誇つてゐる。
 貴族は榮華の源であり、顯官はその權力によつて人を動かし世を動かすことができる。だから彼等にたよつてその榮華のすそわけにあづからうとするものは、爭つてその前に拜跪し、彼等によつて身の榮達を計らうとするものは、悉くその門に伺候する。「高き家の子として、つかさ、かうぶり、心にかなひ、世の中、盛りに傲りならひぬれば、…時に從ふ世の人の、下には鼻まじろきをしつゝ追從をし、けしきとりつゝ從ふ、」(源語少女)と源氏もいつてゐる。大江匡衡が「左相府尊閣者、希代榮貴之器也、居戚里、爲王者之親舅、入法門、爲如來之弟子、遊文場、爲花月之主、在朝廷、爲社稷之臣、外孫則鳳、作皇子、聖日照帝梧之枝、長男則龍、作納言、家風期台槐之葉、」(江吏部集上)と(379)いつて道長に諂諛し、また「昔高祖父江相公、爲忠仁公之門人、備顧問、祖父江中納言、爲貞信公之問人、備顧問、皆蒙不次之賞、列卿相、今匡衡爲相府之家臣、時々備下問、有所發明、」といひ、「沐浴恩波載徳音、自憑相府好文深、幸當下問不停滯、一字千金萬々金」(同集中)といつて、權家の走狗たることを誇つてゐるのは、この時代のすべての人の態度を代表したのである。源語の夕霧の師はひがものといはれてゐるが、その夕霧の師たることによつて榮達が期待されてゐる(少女)。
 これは身分の低いものばかりのことではない。貴族みづからに於いても、時の權家に阿諛することはそれと同じである。伊周は死に臨んでその子道雅の身の上を思ひやり「いでや世にありわづらひ、つかさくらゐ人よりはみじかし、人とひとしくならむ、など思ひて、世に從ひ、もの覺えぬ追從をなし、名簿うちしなどせば、世に片時ありめぐらせじとす、その定ならば、たゞ出家し山林に入りぬべきぞ、」(榮華初花)といつてゐるではないか。しかし權家の?縁によらなければ立身のできない社會に於いて、かくの如き風習が凡俗の間に生ずるのは當然である。けれども權家に阿諛するものは、それによつて我が名利を得ようとするのであるから、その人が一旦地位を離れて勢を失へば、昨日まで追從したものも今日は忽ち背を向けてそれを輕んじ侮る。源語の賢木の卷にもその有樣が描かれてゐる。時世に從つて移るならひ、向背離合の?忽として變ずることは、何時の世も同じ状態であるが、みづから我が力を用ゐずして、人の與へる歡樂の盃からその餘瀝を嘗めようとする平安朝人に於いては、特にそれが甚しかつた。世に「數まへられぬもの」はみじめである。家々に仕へてゐるものの集散離合もまたこれと同じである(源語蓬生など)。改行
(380) 世人が權勢を以て無上のものと認めてゐる時、權勢あるものは何をしても憚るところが無い。だから時を得てゐる勢家は、時人に對して殆ど活殺の權を握つてゐる。一たび彼等の爲めに惡まれると、如何なる手腕あるものもその世に生存することができぬ。この間の消息を最もよく傳へてゐるのは落窪物語である。この物語の起りは、落窪の姫が繼母のために虐待せられたことであるが、これはこの可憐の少女が左近の少將に見そめられ、またそれに愛せられた一原因をなすに過ぎぬ。物語の骨子は、少將即ち後に太政大臣となつた權家の貴公子が、自己の權勢を利用して、わが妻のために憎いと思ふ中納言の夫人を、さん/”\に翻弄しさま/”\に苦しめた後、それにわづかばかりの恩惠を施す點にあるので、中納言の夫人が憂き目を見せられて怨みに怨み泣きに泣くと共に、この貴公子に引き上げられて世に出ることのできたその子どもらが、心の限り追從してあるくところに、物語の興味の中心はある。
 だからこの物語は、貴公子が中納言の夫人を憎む事情があれば成り立つので、それは必しも繼子いぢめでなくてもよいのである。怨恨骨髓に徹した夫人が、後に恩惠を施されてから、「繼子の徳」として喜んだとはいふものの、それは復讐に罪が消えておのづから幸福の運命が開かれたのではなくして、全く權家の與へた恩惠のためである。悲みも喜びも、すべてが貴公子の故意のしわざから來てゐる。結構の上から見ても物語の中心人物は貴公子であつて、他はみなこの貴公子の行動の反映に過ぎない。だから落窪物語の主調は、繼子いぢめから起つた因果應報觀ではなくして、時の權家は何をしてもできぬことはない、といふ權勢無上主義である。權勢なきものは一生の浮沈を彼等の手に委ねねばならぬ時代、彼等に對しては何人も毫末の抵抗力を有つてゐなかつた社曾の縮圖がこの物語である。貴公子が中納言の夫人に對する擧動は、彼みづからに於いては惡戯である。いろ/\にくりかへされたひちくどい惡戯に過(381)ぎぬ。けれども夫人にとつては生死の問題である。泣いても恨んでもどうすることもできぬ。さうして最後に些なる恩惠の餌を投ぜられた時、尾を掉り頭を搖してそれをなめねばならぬ。世人はみなかくの如く憫むべき權家の奴隷であつた。人生を支配するものは、神でも佛でもなく、道徳でも因果應報でもなく、たゞ時を得た人である。かの源氏の須磨謫居も罪の故ではなくして、二條の右大臣に憎まれたためであるとすれば、こゝにも權勢の恐るべき力が寫されてゐる。
 世を擧げて權勢にあこがれ官位を仰望しても、地位には限がある。だからその間に競争が起る。宇津保の正頼と兼正とは物語に於けるその一例である。しかしその競争はなまやさしいことではない。政權を得んが爲には骨肉相食むをも厭はず、如何なる陰險辛辣の方法をとるのをも憚らなかつたことは、歴史的事實として何人も知つてゐよう。物語の上でも、宇津保の后宮はその兄兼正の女の生んだ皇子を皇太子にしようとして、陰謀をめぐらしてゐる(國讓の上)。一條の上は帝を陷れる密計があるといつて忠こそを讒してゐる(忠こそ)。よし競争しないまでも、これがためには親しかつたものも疎くなること、源語に於ける源氏と頭中將との關係のやうな有樣であつたらう。中宮と女御とのことについては、このふたりの間にもいくらかの競争の氣分さへ無いではない(繪合)。また地位の高下にかゝはらず、一官職を得んがために朋友を排し親族と爭ふことは普通であつた。優雅の世界に於ける粗野の一面がこゝにもあつた。
 宮廷生活とか婦人から成り立つてゐる奧向とかで權力の爭が絶えず、嫉妬、讒構、陷擠、が極度に行はれるのは、昔から例の多いことであるが、それは多くのものが狹い世界で勢力なり利益なりを爭ふからのことであり、またこの(382)狹い世界以外に彼等の生活すべき天地が無いと考へるからである。さうして、爲すべき事業が少くして閑暇の多い日常生活が、ます/\この傾向を甚しくするのである。平安朝の貴族や官吏の地位の競爭もこれと同じで、また彼等がすべての點に於いて女性化してゐるのが、一層この類似を強くする。すべてが遊戯的であつた當時の貴族官人に於いて、もし命がけのことがあつたとすれば、それはたゞこの官位權勢の競爭だけであつたらう。官位權勢が彼等の生存欲を充たすための必要條件だからである(自己の生存の危機に際しては朋友も兄弟も世間も無くなるのが、何れの時代何れの世でもの普通人多數人の常態である)。しかし、その生存といふのは、必しも一個の人としての生存ではなくして、彼等の社會の一員としてその遊戯的享樂的生活をすることができるといふ意味である。特殊階級の文化を有つてゐることを唯一の誇としてゐる彼等が、その文化の賜を享けることのできないやうになるのは、彼等にとつては即ち自己の生存を失ふのであるから、どこまでもその社會の一員として生存しようとするのは自然のことである。
 
 遊戯的生活のための競爭がかくの如く甚しかつたとすれば、遊戯そのことに勝負ごとの多いのも當然である。どの時代の遊戯でも幾分の競技的性質は有つてゐるが、當時は極めてつまらないこと、普通には勝負になりさうでないことにまで勝負を爭つた。草合せ、根合せ、紅葉合せ、詩合せ、歌合せ、繪合せ、などがそれである。賭弓、童相撲、などはいふまでもない。さうして當時の人がその勝負を殆ど命がけに争つてゐたことは、道綱の母がその子の賭弓に出た時のことを書いた一條を見ても想像せられる。刻々に一點/\の勝敗を注進して來ると、その一得一失に且つ喜び且つ憂ふること、恰も將軍が戰場の報告を受けると一般である(蜻蛉日記)。これは一面に於いては、遊戯そのこ(383)とが彼等の生活であつたからでもある。事業のない彼等には小兒と同じく遊戯が生活である。だからそれに對して命がけになるのである。しかし一面に於いては、平素彼等が如何に激しい競爭心を有つてゐたかを示すものでもある。彼等は何事にも人を敵として見ることを忘れなかつた。換言すれば、如何なる場合にも自己といふものを忘れなかつた。遊戯ですらもさうである。遊戯に於いてさうであれば、身の浮沈に關する場合に臨んで一層命がけになるのは當然である。命がけで爭つて勝つたものは誇り時を得たものは驕る。けれども一の勝者があれば更に多くの敗者があり、時を得た者の脚下には時を失つたものが傷つき仆れて蠢めいてゐる。花やかな舞臺の裏面には、幾多運命の犧牲者が奈落の底で悲鳴を擧げてゐたのである。
 失意の者は忍耐して時をまつでもなく、努力して新しい運命を開かうとするでもない。心を權勢の外に置いて自由の天地に逍遥することもできぬ。もしくは失意の境遇そのものを味ひ、それによつて自己を精錬することもできぬ。纔かに憂きを慰むる方法は山に入るのみである。「世にふれば憂さこそまされみよし野の岩のかけ道ふみならしてむ」(古今雜)、或は「足引の山のまに/\隱れなむ憂き世の中はあるかひも無し」(同上)。世の憂きはほかではない。我が身の失意である。しかし身は白雲翠烟の裡に置いても、心は常に紫綬紅章の間にある。だから少しく志を伸べることができれば忽ち山を出る。失戀の人が一旦の愁に山に入るのと一般である。否々、山に入らうといふのも實は宇津保の正頼が、わが女の生んだ皇子を位につけようがための威し文句であると一般、多くは口さきばかりであつて、どこまでも權勢に心がひかれてゐる。伊周が貶せられた時に妹の皇后の御所に飛びこみ、御手にすがりついて離れなかつたといふ。後世の武士にいはせれば卑怯未練言語道斷のふるまひであらう。道眞が太宰府の生活にも、涙に曇つた(384)眼に遠く北闕を望んで、ありし日の權榮を忘れかねたであらう。「去年今夜侍清涼、秋思詩篇獨斷腸、恩賜御衣今在此、捧持毎日拜餘香、」(後草)にも、君が恩寵の辱けなさを思ふと同時に、その思寵を蒙つてゐた去年の我を戀うた心もちがある。菅家後草の三十餘篇、すべてこれ「哀哉放逐者、蹉?? 喪精靈、」の十字を反覆したものに過ぎぬ。權勢を生命としてゐるものがその地位を失へば、魚の涸池に置かれたと一般である。時々彼蒼を仰いで泣くより外はない。
 さてこんなに淺ましい生存競争をしても、世がどうなりかうなり成り立つてゆくのは不思議なくらゐである。けれども、そこには人の社會性から來る自然の人情もあり、特殊の貴族的教養から生じた特殊の氣分もあつて、それらが個人的競争の激しい間に磨擦を防ぐ油となつたのであらう。「萬の事よりもなさけあることは、男はさらなり、女もこそめでたく覺ゆれ、」と、清少納言すらいつてゐる(枕册子)。こゝで「なさけ」といつてゐるのは同情とでもいふべき狹い意義のことであるが、それはもつと廣い意義のに通ずるものである。だから顯貴に上つても下位にゐるものを憐み、時に誇つても非運に陷つたものを憫むのは、美しい人情として喜ばれる。事實はどれほどであつたか、よくわからないが、道長が定子や伊周を優遇したといふので、なさけあるふるまひとして榮華物語に讃められてゐる(かゞやく藤壺、初花)。だから落窪の作者は、かの太政大臣をして最後に中納言の一家に思惠を施させた。源氏が爲さんとして爲すこと能はざるなき地にありながら、毫も惡感情をその敵に對してすら抱かず(紫の上の兄の兵部卿に對してはやゝ介意した樣子があるが)、薫が宇治のふる宮に好意を示したのも、作者が物語の主人公をなさけある人としようとしたからであらう。源氏が末摘花を見すてなかつたのも、また同樣である。たゞ美しい人の情にも、人を憐み得(385)る地位にゐるといふ内心の誇と、憐まれるものを眼下に見おろすといふ態度との伴ふことをば否むわけにゆかぬ。
 のみならず、この美しい人情も、彼等の間に共通な趣味と生活とを有つてゐるものに對してのみ認められるので、なさけがあるといふのも、心ばへがあるといふのも、また物のあはれを知るといふのも、畢竟は彼等の社會の内部に於ける特殊な氣分である。なさけを尊いものとした清少納言は、才智と地位とをみづから誇つてゐた女ではないか。だから不幸の人を憐む情も、概言すると彼等の社會の範圍内にあるものに對してのことである。平民と地方人とに對してはそれの及ばない場合が多い。清少納言が泊瀬詣での記事に「あやしきげすども、うしろさしまぜつゝ、ゐ並みたるけしきこそ、ないがしろなれ、」とも、「蓑蟲のやうなるもののあやしき衣きたるが、いとにくき、たちゐ額づきたるは、おし倒しつべき心地こそすれ、」ともいひ、または「げすに讃めらるゝは女だにわろし」(枕册子)といつてゐるのは、女として何たる無情の言であらうか。田舍や民衆生活を描いてもゐるが、それは貴族の目から見たものである。家をやかれた下郎の不幸を憫みはせで、その樣子を「いみじう笑」ひながら、「みまくさをもやすばかりの春のひによどのさへなど殘さゞるらむ」といつてもゐる(同上)。人の不幸も嘲笑の料となるのみであつた。これは平民を觀るたびに「げす」「げす」と連呼して、みづから宮廷や貴族の間に立ち交るのを誇つてゐる女のことであるから、嘲罵の態度も特に激しいのであらうし、それにはまた教養の無いものをさげすむ氣分も加はつてはゐようが、この態度はすべての貴族にありがちのものである。「病して人多く亡くなりし年、亡き人を野ら藪などに置きて侍るを見て、」と詞書きしてある「皆人の命を露にたとふるは草むらごとに置けばなりけり」(拾遺哀傷すけきよ)には、死者に對して露ほども同情らしいものが見えないではないか(萬葉の人麿の讃岐挾岑島視石中死人歌、または憶良の熊(386)凝の歌、と對照するがよい)。
 文學の上のみではない。實際、白骨累々として鴨の川原に横はり、病者死者が到る處の路傍に棄てられてゐても、彼等は平然としてその間に歌舞遊宴してゐたのである。おのが家の奴婢などでも、病んで死に瀕するやうな場合には、それを藪澤にすてて顧ないものすらあつたといふ。もつとも、これは地方の平民にも同樣な風があつて、旅人の病んだものなどは途上に棄てられたことがあるらしい。これは迷信などのために、人としての同情の念が發達しなかつたためであらう。日本紀の大化二年の詔勅を讀むと、かういふことは昔からあつたらしいからである。しかし、おのれらの特殊の教養を誇つてゐる貴族等は、この點に於いて彼等の常に侮蔑してゐる平民と同じであつた。彼等の無情のふるまひ粗野の心情は、毫も教養の無い平民と異るところがなかつたといはねばならぬ。これは平民よりももつと深い宗教上の迷信から來た點もあるが、貴族の態度は必しもそればかりではなく、おのれ等ばかりを人と考へてゐたといふ理由があるのを忘れてはならぬ。さうして平民に對して人格を認めない彼等は、同じ人類である以上、彼等みづからもまたその人格を重んじないことを示すものである。だから官位の競爭のために兄弟喧嘩をしたり朋友を排斥したりするくらゐは、彼等にとつては何でもないことであつた。
 しかし、これがすべての状態であつたとは必しもいひがたい。道長が御堂を建てた時に民衆を夫役に徴發することが多かつたので、人々はその困苦に堪へかねたが、その代り使役せられたものには多くの賜與をしたといふ。これは大鏡の翁の話のうちにあることで、それには幾分か戯謔の口氣も伴つてゐるが、當時の事實が傳へられてゐたのでもあらう。かういふこともやはり人によつて違つてゐたと考へられる。さうして一般にもつてゐた教養が、心あるもの(387)にとつては、そのはたらきをしたのであらう。
 
 以上は京の貴族のことである。貴族の社會がこんな風であるのに反して、武士の間には一種特殊の氣質が養はれつつある。貴族文學たるこの時代の文學には武士を題材としたものが一つも無いから、文學上の思潮としてこゝにそれをとりあつかふことはできないが、零碎な材料と後世の事實とから推察せられる當時の武士氣質を概説して、貴族の思想に對照させるのも無益ではあるまい。
 さて最初に豪族の下に養はれた郎等どもの間には、前に述べたやうに、無政府的状態の下に發生した浮浪人ならずものの徒もあつたであらうが、それが主從の關係に結び付けられて戰闘に從事するやうになると、一つの秩序立つた武人の階級ができ、その主從間に生ずる情愛や戰闘の與へる精神的訓練やによつて、特殊の武士的精神が養成せられるのである。勿論、初めて郎等となり從者となつて或る主人に仕へるのは、そこに何等かの利益があるからである。或は自己の力をそこで思ふさま活動させることができる愉快がある。或はその活動によつて恩賞が得られる。或は自己もしくは自己の所有地を保護してくれる。さういふやうなことがかならず無くてはならぬ。要するに彼等の生活を維持し拭大するに都合がよいからである。武士の語でそれを恩と稱する。武士氣質の根柢には、後世までもこの恩賞といふ觀念が嚴然として存在してゐるのみならず、「身爲恩使」(陸奧話記)といふことが早くからいはれてゐる。これは貴族社會に於いて多數のものが權家に?縁して官位の昇進を求めるのと、畢竟は同じ動機から來てゐるのであつて、現に多くの郎等を從へてゐる豪族、即ち武人の頭領等も、京に於いては攝關の家に阿附してその走狗となり、それに(388)よつて利益を占めてゐる。
 但しこゝに一大差異がある。貴族等は權勢に追從するのであるから、權勢と共にその人は斷えず變る。彼等の社會は官位といふ公のもので秩序が定められてゐて、勢家はたゞそれを運用する權力を有つてゐるのみであるから、あひてはこの權力であつて人ではない。だから彼等が權勢を追うて走るのは、當然であるともいはれよう。勢家とそれに阿附してゐるものとの間に深い情愛が生じないからである。貴族の家にもそれに仕へてゐるものはあつて、その間に主從の關係はあるが、それもかなり稀薄なもので、主人に勢力のある間は人が多く集まつてゐるが、勢力を失ふとぢきに散じてしまふ。しかしこれも、勢力を失つた家の庇の下では、自己の生活ができなくなるからのことである。(ただ源語の末摘花などに見えるやうに、主人が亡くなつてその家が衰へた後も、乳母などの一二のものが主家にふみとどまつて、遺孤をせわする例はあるらしい。これは頼みつ頼まれつする間に、自然に生じた愛情の現はれたものであつて、冷かな義務の念から生じたものではないから、かういふ社會にも決して無くならない美しい人情である。)
 ところが武士は貴族とは違つて、すべてが圭從の關係で維がれてゐる。權力の問題ではなく、人と人との交渉である。公のものではなく、全く私の結合である。從つてその關係が緊密で且つ永久的性質を帶びてゐる。その上、貴族等の生活を支配する權力は全く勢家の掌中に握られてゐるのであるが、武士のはさうでなく、主人の運命は從者の實力と活動との如何によつて定まり、從者の生活は主人の人物と行動とによつて支配せられるといぶ風に、主從の間に相互的關係があるから、その親しみと情愛とはそれによつて互に深められる。既に情愛が生じて來ると、最初は恩賞と利益との觀念によつて結ばれた關係に特殊の精神的要素が加はつて來る。特に武士は常に生死の間に出入して戰闘(389)を務としてゐるものであるから、命を輕んずることを尚び、それを名譽とする風がその間に生ずる。これらの事情から、主人のために我が身を殺すといふ犠牲的精神が養はれるのである。「命依義輕」(陸奧話記)の一句がそこから用ゐられるやうになるので、これは、どこまでも自己本位であり利己主義である貴族等の社會では、思ひもよらぬことである。「心爲恩使、命依義輕、」といふ句が倭漢朗詠集にあつて、その由來は後漢書の朱暉傳の論にあり、陸奧話記の語はそれによつたものであるが、それはこゝに述べたやうにして生じた武士の氣風をいひあらはすに適してゐる。
 この戰闘から養はれる氣風は、すべての點に於いて京の貴族と異つた色彩を武士に加へるものであつて、貴族の生活が遊戯であるのに、武士はどこまでも命がけであり、貴族は偏に身を全くしようとするが、武士は初から身を抛つてかゝらねばならぬ。從つて貴族の欲望はどこまでも生ける間のことであるが、武士には身後の名を思ふ傾が生ずる。貴族は(後に述べるやうに)死んでも淨土へいつて官能的快樂を得ようとするが、武士は死後までも現世に於ける精神的名譽を希ふ。貴族の「人わらへ」は人なみにの享樂的生活ができないことであるが、武士の「恥」は武士の名譽を傷けられることであつて、命にかけてこの面目を保たうとする。また貴族は坐ながらにして歡樂を享受しようとするが、武士は我が意志と力とによりみづから活動してわが生活を擴大しようとする。即ち武士には武士特有の戰闘的精神がある。けれどもまた武士は常に死を眼前に控へてゐるだけに、人に對する同情があり、武勇を以て生命としてゐるだけに、弱者を凌ぐやうのことが無く(今昔物語卷二五第五に惟茂が敵の女子を保護したことがある)、貴族の極端な利己主義で弱者を輕侮するのとは大に違ふところがある。(但しこの時代はまだ武士の氣風の發達の初期であるから、武士の氣質も十分には精錬せられてゐなかつた。例へば今昔物語卷二五第四の復讐譚に讐の寢首をかくこと(390)があるが、それを曾我物語の復讐に比べて見るがよい。)
 かうはいふものの、武士氣質の根柢はどこまでも殺伐な戰闘的精神で、その戰闘は畢竟豪族等が自己の利益のためにするものであり、彼等を主人と仰ぐ多くの武士も、やはり恩賞といふ利益の念が基礎になつてゐる。この點は貴族の風尚の由來と同樣であるので、たゞ貴族は彼等自身に特有な都會文化の温室的空氣の裡に生長し、政府の權力の下にはぐくまれて人の與へる利益によつて生活したけれども、武士は無政府の歌態にある荒涼たる東國の曠野に於いて、自己の力で自己の勢力を作り自己の運命を開かねばならぬ事情の下に生まれたがために、かういふ差異を來たしたのみである。何れも健全の社會に於いて堅實に發達したものではない。また武士の間に養はれる情愛も犧牲的精神も、主從關係以外には出ないのであるから、極めて狹隘なものであり、決して公共的もしくは社會的感情などと稱すべきものではない。これもやはり貴族等の胸にさういふ精神が無いのと同じであるが、たゞ狹い範圍に於いてでもかういふ氣風のあることが武士の特色であつて、彼等が漸次勢力を發展させてゆく重大の原因がこゝにある。極端な利己主義の徒である貴族等が、官位の昇進を競望して餘念の無い間に、彼等の賤しみ侮つてゐる武士等が次第にその實力を發揮してゆくやうになるのは、要するにこの氣風のためである。
 
(391)     第六章 自然觀
 
 平安朝人の生命は女と官位權勢とである。榮華物語に、道長がその二男顯信の出家をきいて「つかさかうぶりの心もとなく覺えしか、またいかでかと思ひかけたりし女のことやありし、」(日蔭のかつら)といつたと記してあるのは、よくこの間の消息を傳へたもので、人生の大事はつかさかうぶりと女との外には無かつたのである。よし直接にはこの二つの何れにも屬しないものがあつても、この二つと共に人生の歡樂と榮華とに關係しないものはない。彼等の花鳥風月に對する感懷、彼等の自然界に對する態度も、またその一つである。
 しかしそれを考へる前に、平安朝人が如何に自然界の風物をおのれらの生活に離るべからざるものとして見てゐたかを概觀して置くべきであらう。歌の一半は四季のであり、さうしてそれには自然界の風物に對する何等かの感懷を詠じたものが多く、また戀歌とすべきものがそれに含まれてゐる。戀愛生活に於いて、あしたゆふべのそのをり/\のながめ花鳥のいろねが大きなはたらきをしてゐることは、日記や贈答の歌などを見ても明かであるが、物語でも同樣であり、特に源語には、いかなる場合でも自然界の風物がその背景とせられ、それと人々の心情の動きとの互にはたらきあひもつれあつてゐるありさまの、こまやかに描かれてゐることは、いふまでもない。屏風や障子などの繪でも「人の梅の花を見たる」、「菖蒲とれる又かざせるもあれ」、「田の中に小鷹狩したるところ」、「山里に住む人の雪ふるを見る」、「女すのこに出でゐたり男ものいふ梅の木あり」、「くれの秋女車の紅葉の中をゆく」(以上貫之集)、の類が多く、年中行事の繪なども四季をり/\の風光の裡でそれが行はれるさまを寫したものである。消息文や歌を花の(392)枝などにつけてやりとりし、時には花びらや木の葉などに歌を書きつけることのあるのも、また襲ねの色の名が「櫻がさね」とか「紅葉がさね」とかいふやうに呼ばれ、またそれがそのをり/\の景趣に應ずることをめでたのも、平安朝人の趣味のどこにあつたかを示すものである。琴笛のねが時の風情にあうた調べをめでたのも、これに似たところがある(これは知識としては、音を五行、從つて四季、に配當するシナの樂論から來たところがあるかも知れぬが、主とするところはそれとは違つて、實生活によつて養はれた繊細な趣味のあらはれである)。歌に詠みならはされた山や川の國々にあるのは、國司などが任地や往復の途上で心にとめたところ/”\の景物がもとになつてゐるらしく、枕册子に山、川、森、野、池、などが列べ擧げてあり、屏風の繪に「名あるところ」のしば/\畫かれてゐることからも、京人がみづからは見ぬ山川の名を聞き知つてそのながめを思ひやることを喜んでゐたことが知られる。後にいふやうに旅はうきものとせられてゐたが、旅ならでは見られぬ異郷のさまを繪の上で眺めたり想像したりすることには、興味をもつてゐたのである。但しその想像は具體的にはせられなかつたので、屏風などの繪にかゝれた名所の歌に、風光そのものを詠じたものが少く、よしあつてもそれが概念的であり、その多くは名の説明かそれから聯想せられることかに過ぎないのでも、そのことは知られるが、これは作者たる京人がみづからその風光に接せず、名にのみそれをきいてゐたからのことであらう。繪そのものにもまたそのところ/”\の特殊の情趣は現はれてゐなかつたらう。枕册子の名所の記述も同樣である(物語に風土の地方色が寫實的に描かれてゐないこと參照)。たゞ官命によつて地方に往復するものは、そのうき旅にも、ところにつけをりにふれての風物が心を惱ましもし慰めもしたので、羇旅の歌はかくして作られたが、これもまた平安朝人が自己の生活と結びつけることによつて自然界を見たことを語るもの(393)である。春秋のながめに佐保姫を思ひ龍田姫を思ふのも、自然界の光景と人の生活との抱合の一つの形であり、いはゆる寢殿づくりの邸宅につきものの庭園も、別の意味での同じ態度の現はれである。一面に於いては人工的な都會的空氣の裡に生活してゐた平安朝人の心情には、かういふ他の一面もあり、さうしてこの二面の間のいろ/\の姿に於いての調和に彼等の趣味があつた。遠い昔から養はれて來た自然界の風物に對する親しみが、平安朝人に於いてかういふ形をとつたので、そこに文化の發達してゐる時代の特色がある。
 平安朝人は自然に親しみ、その生活は常に自然を背景として營まれたにしても、その自然は彼等の目に映じ耳に聞こえる自然、彼等の心情に適應する自然であつて、彼等に特殊の自然觀がそこに現はれてゐる。それを概言すると、彼等にとつては自然は彼等の生活のために存在するものであり、極端ないひかたをすると、人生の歡樂を助けるものとして見られたのである。換言すれば彼等は自然を人の翫賞すべきものと考へてゐた。奈良朝人は單純な小兒らしい態度で自然の美しい色と聲とを愛し、或は自然に我が氣分を融合させたのであつた。然るに平安朝人は、花も鳥も彼等に翫賞せられるために咲きもし鳴きもするものの如く思つてゐた。花を散らす風には吹くなといひ、月を隱す雲には去れよといふのも、一つはこれがためである。それはもとより花を愛し月をめでるからであり、また何ものにつけてもその盛りのすがた圓かなありさまを讃美するためでもあるが、かういふ氣分もその根柢に潜んでゐる。萬葉の歌の如くいかなる花にも興趣を覺えたのとは違つて、古今集以後の作では、春の花は櫻によつて代表せられ、山吹や藤が纔かにそれを助けるに過ぎないのでも知られる如く、翫賞せられる花の種類が少くなつてゐることにも、この意味があらう。
(394) さて平安朝人に翫賞せられるものは、小さいもの美しいものである。現に「なにも/\小さきものはいと美し」(枕册子)といはれてゐる。雄大、魁偉、森嚴、凡そその威力の人を壓しその活動の人を恐れさせるものは、もとより彼等の翫賞には入らぬ。自然界に於いて優美な弱小な方面のみを愛するといふことは、奈良朝から既にさうであつたが、平安朝になると貴族等の氣風がます/\繊弱になると共に、それが一層甚しくなつたのみならず、かういふ特殊の理由も加はつてゐる。特に狹隘で優美で且つ小規模である平安京の山河を世界として、それより外には出ることを好まなかつた當時の都人士は、遊覽を興あるものとした奈良朝人とは違つて、平素見なれてゐる小さい美しい自然界と少しでも樣子の變つた光景に接すると、殆どその前に戰慄するばかりであつた。枕册子の開卷第一に「春は曙」と書き出した一節を見るがよい。すべてが小さく美しく優しいではないか。「恐ろしきもの」に「つるばみの笠、やけたるところ、みづぶき、菱、髪多かる男の頭あらひてほすほど、栗のいが、」のみを擧げたのを見ると、恐ろしいものさへ小さいものばかりであるのに驚かれる。古今集以下の撰集を覽ても家集を讀んでも、その題材となつてゐるのは花鳥の色と音とでなければ、和い月のかげ優しい蟲の聲々である。萬葉に見えるほどな山水の眺めも殆どなくなつてしまつた。その歌が春秋に多くして夏冬に少いのも、美しく優しい眺めが春秋に多いからである。「世の中は春と秋とになしはてて夏と冬とのなからましかば」(和泉式部)ともいはれてゐる。夏ならば「階の下の薔薇けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしき」(源語賢木)眺めか、冬ならば「雪たかう降りて今もなほ降るに、五位も四位も色うるはしう若やかなるが、……紫の指貫も雪にはえて、濃きまさりたるを着て、衵の紅ならずば、お(395)どろおどろしき山吹を出して、からかさをさしたる」(枕册子)美しさのみを賞した。野分でさへも源語の野分の卷や、枕の「野分のまたの日こそ」の一節を見ると、すさまじいよりはむしろ美しい。平安朝人は何物についても優美な點をのみ見出してゐる。
 こゝに春秋の爭といふことがある、これは萬葉から既に見えてゐることで、かの額田王の歌には秋を撰んである。平安朝になつては、伊勢物語に「雁なきて菊の花さく秋はあれど春の海べにすみよしの濱」の歌があるが、選擇の理由が明かに説いてはない。貫之は「春秋に思ひ亂れてわきかねつ時につけつゝ移る心は」(拾遺雜)と、どちらにも都合のよいことをいつてゐる。承香殿のとし子の「大かたの秋に心をよせしかど花見る時は何れともなし」(同上)もほゞ同樣で、一應は秋に心をよせたといふものの、やはりその理由は明かでない。たゞ讀人知らずの「春はたゞ花の一重にさくばかり物のあはれは秋ぞまされる」(同上)に至つて、「もののあはれ」の一轉語を下して秋に旗をあげた。あはれといふからには、春よりも秋に人の心の動かされることが深いといふのであらうが、それは何故であらうか。源語の薄雲の卷に源氏が「歳のうち、行きかはるとき/”\の花紅葉、空の景色につけても、心のゆくこともし侍りにしがな、春の花の林、秋の野の盛りを、とり/”\に人爭ひ侍りける、そのことのげにと心よるばかり顯はなる定めこそはべらざなれ、唐には春の花の錦に如くものなしといひはべるめり、やまと言の葉には、秋のあはれを取りたてて思へる、何れもとき/”\につけて見給ふるに、目移りて、えこそ花鳥の色をも音をも辨へはべらね、狹き垣ねの内なりとも、そのをり/\のこゝろ見しるばかり、春の花の木をも植ゑわたし、秋の草をも掘り移して、いたづらなる野邊の蟲をも住ませて、人に御覽ぜさせむと思ひ給ふる、」といつた話がある。これにも春秋を何れとも判斷はし(396)てゐないが、「秋のあはれ」をいふにつけても、秋草の色と蟲のねとを思ひうかべてゐることに注意しなければならぬ。春を飾る花鳥の色とねとに對して秋の特殊の情趣を示すこの風物が、「もののあはれ」を一しほ深く感じさせるものだとすれば、かの歌に春よりも秋をとつたのは、爛漫たる櫻の花の華やかなよりは、むしろ萩や女郎花のひたすらに優しく小さく、女らしいよわ/\しさのあるのに、心がひかれたのであらう。春を花の一重にさくばかりとして、それよりも秋をまさるとしたのだから、千草の花のいろ/\なるが一層美しい故とも解せられるが、その千草の色には春の花に求められない優しさとよわ/\しさとがある。さうしてこゝに平安朝人の嗜好が現はれてゐるのではなからうか。同じく秋をとつても、花やかな紅葉を手折らうとした額田王とは、理由の違ふことが看取せられる。
 春秋の爭といふやうなことは、シナに故事でもあるかと臆測せられるが、平安朝ではそれが勝負ずきな氣風に投じて喧ましくいはれたまでであつて、かういつたとて必しも春をすてて秋を取るのでないことは勿論である。だから多くは貫之と共に時につけつゝ心を移し、源氏と同じく春にも秋にもそのをり/\の風情を賞でるのであつて、秋を好むといふ中宮のやうに特殊の事情の無い限りは、秋のみを喜んだのではない。源氏が「春の夜の朧月夜よ、秋のあはれ、はた、かうやうなる物の音に蟲の聲より合はせたる、たゞならず、こよなく響き添ふ心地す、」といつたのに對して、「秋の夜の隈なき月には、萬のものの滯りなきに、琴笛のねも明かに澄める心地はしはべれど、なほ故らに造り合はせたるやうなる空の氣色、花の露もいろ/\目うつろひ心ちりて、限りこそはべれ、春の空のたど/\しき霞の間より、朧なる月影に靜かに吹き合せたるやうには、いかでか笛の音なども艶に澄みのぼりはべらむ。女は春を憐むと、ふるき人のいひ置きはべりける、げにさなむはべりける、なつかしく物のね齊ることは春の夕暮こそ、こと(397)にはべりけれ、」(若菜下)と夕霧の答へた類もある。後の更級日記に、春のおぼろの月の夜の琵琶、秋のすみわたつた月の下の箏と横笛とは、それ/\におもしろいが、冬の夜のさえた月の光に篳篥の吹き出されたのも、それらに劣らぬ興趣がある、といひ、春秋の何れに心をよせるかは「わが心のなびき、そのをりのあはれともをかしとも思ふことのある時、やがてそのをりの空のけしきも月も花も、心にそめらるゝにこそあるべかめれ、」と或る人のいつたことが記してあるのも、春秋の定めは春秋そのものにあるのではない、といふのである。この日記の作者が「あさみどり花も一つにかすみつゝおぼろに見ゆる春の夜の月」に心がひかれるといふのも、何かのをりに心にしみてそのおぼろ夜にあはれを覺えたことがあるからかも知れぬ。「もののあはれ」を知るのは秋ばかりではない。源語にも「明けぬれば夜深う出で給ふに、有明の月いとをかし、花の木どもやう/\盛りすぎて、わづかなる木かげのいと白き庭に薄くきりわたりたる、そこはかとなくかすみあひて、秋の夜のあはれに多くたちまされり、」(須磨)とある。普通の場合のことではないが、春にもかゝる感じはある。特殊の風光ではあるが「花さそふ春のあらしは秋風の身にしむよりもあはれなりけり」(和泉式部)ともいふ。一般に平安朝人にとつては、春の情趣とても艶に優にあはれなところにあるとせられたに違ひない。のみならず「わが宿を人に見せばや春は梅夏はとこなつ秋は秋萩」(和泉式部)、春秋のみではない、あはれは四季のそれ/\にある、とも思はれたのであらう。「かゝる時あらじと思へば一とせをすべては春になすよしもかな」(寛平御時后宮歌合)は、こゝにいつたのとは別の考へかたであるらしい。
 さて美しい小さい眺めを愛する自然の傾向として、觀察は頗る細かくなつた。桃の木の若枝の多くさし出たのを「片つ方は青く、いま片枝は濃く艶にて蘇枋のやうに見えたる、」といひ、「日は入り日、入りはてぬる山際に光のな(398)ほとまりて明かう見ゆるに、薄黄ばみたる雲のたなびきたる、」といひ、「明け離るゝほどの黒き雲のやう/\白うなりゆく」といふなどの色の觀察、「有明の月のありつゝもとうちいひて、さしのぞきたる髪のかしらにもより來ず、五寸ばかりさかりて、火ともしたるやうなる月の光、」といふ、光線の描寫などの精緻な筆つきを見るがよい。人工の光ではあるが「おほとなぶらまゐらで、長すびつにいと多くおこしたる火の光に、御凡帳の紐のいと艶かに見え、みすの帽額のあげたる鉤の際やかなるも、けざやかに見ゆ、」とあるのもり參考せられよう(以上枕册子)。細かい點をいふと蚊の羽風や小さな夏蟲が册子の上を飛びあるくさまさへ、清女の筆に上つてゐる。光では源語にも、雪の光に若く清げに見える源氏の容貌(末摘花)、女の色こき衣に映る月光(須磨)、妻戸のあいてゐるところからさし入る月の光に室内の見えるさま(蓬生)、柱によつてゐる源氏の夕ばえにはえた姿(薄雲、などの描寫がある。これらは宇津保に「朝の霞、緑の衣なり、夕の雲、黄なる錦なり、」(春日詣)などとある漢文直譯流のものとは違つて、親切な觀察から來たものである。枕册子には、なほ、花の有るのも無いのも、木や草に對して、微細な觀察をしてゐるので、梨の花をよく見ると花びらのはしにかすかな色があるといふのも、その例であり、歌にはよまぬいろ/\の草木の美しさを見つけてゐる。色ばかりではなく、柴たく香や松の煙の匂ひに興趣を覺え、牛の尻がひの臭氣にまで及んでゐるし、音には板屋うつしぐれなどををかしがつてゐる。これらは、貴族的教養の結果として官能の極めて繊細になつてゐることと、そのために因襲の外に出て人の多く關心をよせぬものにも興趣を覺えたこととを、語るものである。この女の個人的特長ではあるが、やはり時代の教養の生んだものであることは、いふまでもない。
 上に述べた如く翫賞せられる花の種類は萬葉時代よりも少くなつたが、その翫賞のしかたは多樣になつたので、そ(399)れは一つは觀察が精細になつたからである(一つは花に對する主觀的情緒が多趣になつたからである)。春の月におぼろ月といふ特殊の稱呼のつけられたのも、また同じ理由からであらう。(これは大江千里の句題和歌に用ゐられた語であるが、原句の朧々月はおぼろ月ではなく、すみわたつた月である。それをかう轉化させたところに、日本の春の月の特色とそれに對する日本人の觀察眼とがある。)故らに花や月を看るといふ態度が生じ、その花や月の風情を詠ずるのも、このことと連繋があるが、それは戀歌に人戀ふる心そのものを省察した歌の作られるやうになつたのと通ずるところがある。
 
 山水の風景もまた小さく優しくなくてはならぬ。だから大井川の川波すら源氏の桂の院には物すごくきこえ、宇治川すら薫には「同じき山里といへど、さる方にて心とまりぬべくのどやかなるもあるを、いとあらましき水のおと波のひゞきに、物忘れうちし、衣など心とけて夢をだに見るべきほども無げに、すごく吹き拂ひたり、」と心ぼそがられてゐる。まして女などは泊瀬あたりにでも行かうなら、「なでふことなき道も山深きこゝちすれば、いとあはれに、水の聲も例に過ぎ、霧はさしもたちわたり、木の葉はいろ/\に見えたり、水は石がちなる中より湧きかへりゆく、夕日のさしたるさまなどを見るに涙もとゞまら」(蜻蛉日記)ないのである。狹い凡帳の蔭にのみ隱れていたものが、急に都を離れて山繞り水流るゝところへ出ると、自然の力のおのれよりも大いのがわかつて、何よりも先づたよりなさ、寂しさ、心ぼそさ、を感じたのであらう。だから彼等の好む山水は、この寂しさと心ぼそさとを感じないだけのものでなくてはならぬ。道程でいへば都に近い宇治、石山、やゝ遠くて泊瀬、それより遠くとも須磨明石から住(400)吉の浦かけてのあたりを限りとし、性質からいへばてうどそのあたりの景色のやうに、優美温雅なところでなくてはならぬのである。武藏野は廣いとばかり、遠きあづまの話にのみ聞いて、恐ろしがられてゐたであらう。陸の奥に歌枕は多いが、それは京に最も遠く最も京らしくないところに京人が赴任してゐるために生じたことであり、その意味で京の歌人はそれに特殊の感じをもつてゐたらしい。しかしそれは歌で讀んだり繪で見たりする場合のことである。實際その陸の奥へいつたならば、鹽竈の浦も安積の沼も寂しくてたまらなかつたであらう。遠き海山の眺めは歌に詠まれ繪にせられて始めて彼等の翫賞に入つたのである。(平安朝人が旅行を憂きものにし、地方を恐ろしいところと思つてゐたのは、政治の腐敗から生ずる盗賊の横行なども一原因であらうが、趣味の上からは別にこゝに述べた理由がある。)
 鹽竈の烟にもその例があるが、現實の山水よりも庭にうつした方が一層小く一層優雅である。平安朝貴族の邸園に山を築き池を掘り遣り水をしつらひ中島を設けるのはよいとして、その池に龍頭鷁首の舟を浮べるに至つては、如何に彼等が池水のやうな狹い小さいところを世界としてゐたかがわかる。宇津保の種松の四季の庭、源氏の六條院のそれ、何れもこの趣味の現はれである。庭園の草木は春の花や秋の千草を移し植ゑるのが常であつたが、「草木などは心生ひに生びたるは拙きものなり」(宇津保吹上の下)として、朝夕に人の手を入れた姿をおもしろう眺めてゐたらしい。人工の極は金銀をちりばめた洲濱で、それも花やかながら小さい優しいものである。さうしてかういふ趣味は一面に於いて、自然界そのものをも人工視する傾を生じ、富士を鹽尻と見、瀧を白絹に岩をつゝんだやうだといひ(伊勢物語)、車に卯の花の長き枝をかけて卯の花重ねのやうだと思ひ(枕册子)、「見わたせば柳櫻をこきまぜて都ぞ(401)春の錦なりける」(古今春素性)といひ、「足びきの山あひに降れる白雪は摺れる衣の心地こそすれ」(拾遺冬伊勢)といつた。かう形容すると富士も小さくなり瀧も掌上に弄ぶべきものとなる。都の錦はいふまでもなく、山の雪さへ優しいではないか。
 
 平安朝人が自然を人工化して見るといふことは、四季の變遷に關する彼等の態度にも現はれてゐる。萬葉の四季の分け方は大やうなもので、例へば「神無月しぐれにあへる黄葉の吹かぱちりなむ風のまに/\」(卷八大伴池主)といふ十月の歌を秋の部に入れてあるかと思ふと、「なが月の時雨の雨にぬれとほり春日の山は色づきにけり」(卷一〇)のやうに、しぐれを九月にしたのもある。この時代の歌人は、たゞ即目の光景をそのまゝに詠じたのである。然るに古今集以後の歌では、九月を秋、十月を冬、と決めてゐるのみならず、紅葉は秋、時雨は冬、のものと定めてしまつて、一首の着想をそれによつて立てるやうにさへなつた。「深山より落ち來る水の色見てぞ秋は限とおもひ知りぬる」(古今秋興風)。「道しらば尋ねもゆかん紅葉をぬさと手むけて秋は往にけり」(同上躬恆)。紅葉は秋に限られてゐる。「何方に夜はなりぬらむおぼつかな明けぬ限りは秋と思はむ」(九月晦日後撰躬恆)。秋と冬とは暦日によつて劃然と區別せられてゐる。「惜しめども今日を限りの春の日の夕暮にさへなりにけるかな」(勢語)の如きは、その情趣と調べとのよく諧和したよい歌であるが、三月晦日の詠だと見れば興がさめる。六月晦日の作だといふ「夏と秋とゆきかふ空のかよひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ」(古今夏躬恆)には、かういふ情趣すらも無い。古今集の卷頭にある「年の内に春は來にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」に至つては、暦日と暦の上の四季の區別との交錯か(402)らかういふ構想がせられたので、毫末も眼前の風光とは關係がない。季節の變化とそれに伴ふ光景の推移とは徐々に行はれてゐるので、暦日の上で區劃をつけることのできないことは何人でも知つてゐる事實であるのに、當時の歌人にかういふ作のあるのは、歌に智巧が喜ばれたからでもあるが、自然界を人の作つた規範に強ひて嵌めこまうとする態度から生じたものともいはれよう。自然界を詠じながら自然を尊重しないのである。
 平安朝人が四季の變遷を人工的に規定して怪しまなかつたほどであるとすれば、彼等みづからの特殊の思想を強ひて自然界の事物に投影しようとするのも不思議でない。例へば「五月雨の空もとゞろに時鳥何をうしとか夜たゞ鳴くらむ」(古今夏貫之)、「うきことを思ひつらねて雁がねの鳴きこそ渡れ秋の夜な/\」(同秋躬恆)、雁も時鳥もうきに鳴くものとせられた。これは萬葉の歌人が鳥の鳴く音を戀と聞いたのとは違つて、特殊の人生觀を自然界におしあてたものである。一面から見れば、これも時鳥や雁をおのれらと同じ情思をもつてゐるものとしたのであつて、修辭的にはその意味で一種の擬人法となるのであり、擬人法を用ゐたものは多かれ少かれかういふ性質をもつてゐるが、この世を憂しとするのは普遍的意味を有つてゐる一つの思想であるから、雁や時鳥がさういふ思想をもつてゐるといふのは、現實の感じから來たものではない。
 のみならず、平安朝人は鳥に對しても獣に對しても、萬葉歌人のやうに、うぶな氣分から彼等を人の如く見なし友としてそれらに親しむといふことが少い。例へば古今集以後の歌には鶯や鹿の鳴く聲を戀からとしたものが稀であつて、これは戀といふものに對する反省または觀察が深められて來たところに一つの理由があるかも知れぬが、自然界の取扱ひ方にもよるのである。「妻戀ふる鹿ぞなくなる女郎花おのが住む野の花と知らずや」(古今秋躬恆)などは、(403)鹿の妻戀といふことをいつてはゐるが、一首の構想の中心點は第三句以下にある。その上、花を鹿の妻だといふのは單に修辭上の比喩であるのは、鹿が花に戀をするといふのは強ひてそれを事實と見なしたものであつて、そこに虚僞がある。だからこの歌は鹿が戀に鳴くと感じて作つたものではない。「夏山に戀ひしき人や入りにけむ聲ふりたてて鳴くほととぎす」(同上夏秋岑)といふのもこれと同じである。萬葉の歌人がほとゝぎすの妻戀ひを歌つたのとは全く違ふ。かういふことは主として歌に於いて見られることであり、それが特殊な技巧と結びついてゐるものであつて、その由來については第二章に述べておいたが、人の情思を自然界におしあてるといふ態度にも通ずるところがある。
 さてこゝに引いた「妻戀ふる鹿」の歌が、鹿の聲を聞いての感じでなく、自然界のかういふ取扱ひかたに興味を有つて作られたものであると同じく、古今集以後の歌には、自然を自然としてその美を賞でるのでもなく、それによつて感興をひいたのでもなく、たゞ自己の機智を弄するところに構想の中心點のあるものが少なくない。例へば「霞たち木の芽もはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける」(古今春貫之)が、春の雪の降つてゐる有樣がおもしろいのではなく、花が無いのに花が散るといふ見かたが興じられたので、今一歩進んでいふと「花なき里も花ぞ散りける」といふ言語上の滑稽がおもしろがられたのである。「春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝に鶯のなく」(同素性)などもこれと同樣、雪の枝に鶯のなく光景そのものに興味があるのではなく、鶯に雪を花と見させるのがおもしろく思はれたのである。特に「春立てば」といふ理由まで添へて、鶯がそれを知つてでもゐるかのやうにいつてゐるのは、明かに虚僞の構想である。「久方の雲の上にて見る菊は天つ星かと誤たれける」(古今秋敏行)、「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(同躬恆)、なども同樣、觀相として目に映じた有樣でもなく、それによつて動(404)かされた感じでもない。これは「血の涙」とか「涙は瀧つせ」といふやうな誇張の言とは違ひ、着想そのものが理智の作用で虚偽なことを構成したもので、歌の興味はその構成にある。花を愛し月をめでるにしても、花を待つとか月を惜むとかいふことを殆ど概念的にいふのみで、感情の内容の稀薄な歌のあるのも、このことと關係がある。これらは歌の智巧的な取扱ひかた、その修辭的技巧の故でもあるが、また自然に對する態度から來たことでもある。
 自己の主観的な情思を自然の風物に投影するのも、それを智巧的に取扱ふのも、その態度は違ふが、人を本位として、または人によって、自然を見ることは同じである。ところが平安朝人の求めるところは、自己の榮華の生活である。さすれば彼等にとつては自然は畢竟、彼等の榮華の具であるといつても、甚しき過言ではない。このことは庭園に於いて最もよく現はれてゐるので、河原院の鹽竈の浦はその最も甚しきものである。景勝の地を占めて別墅を建てるのも、美しい山水を獨占しておのれ獨りの娯樂とするためであるので、前に引いた源語の「せまき垣ねのうちなりとも」云々の一節はよくそれを説明する。平安朝人は旅を何時でも憂きものとのみ考へてゐたので、※[羈の馬が奇]旅の歌は泣き言ばかりであるが、これは温室育ちの植物が寒い風に解れるのを厭ふやうに、都會にのみ育つた貴公子が、都離れた空氣に觸れる心細さのためと、その都會的貴族的生活を山村水郭の間に營むことができぬからとである。山水の遊覽を好まないのは、自然そのものに自己を投入することができずして、自己の榮華のために自然を利用しようとするからである。だから鹽竈にはゆかずして、鹽竈を我が庭中に設ける。不盡の風月を無限の乾坤に眺めることができないで、わが標ゆうた垣ねのうちに花紅葉を取り圍む。平安朝人は花鳥の愛翫につけてもやはり貴族的であつた。かさね(405)の色あひを花の名で呼び、花の模樣を絹に織るなども、一面の意味に於いては、花を裝飾として翫弄の用に供することを示すものであり、「梅壺の東おもての半蔀あげて、こゝにと云へば、めでたくぞ歩み出で給へる、櫻の直衣いみじくはな/”\と、裏の色つやなどえもいはずけうらなるに、えびぞめのいと濃きさしぬきに藤のをり枝こと/”\しく織り亂りて、紅の色うちめなど輝やくばかりぞ見ゆる、」(枕册子)が、自然を人工化してその美しさを喜ぶ有樣をよく見せてゐる。
 山水と花鳥とが榮華の道具であるならば、それが人の生活の背景となるところに主なる價値のあることはいふまでもない。美しい朱雀院の紅葉のかげも、源氏が青海波を舞つて出てこそ一段の榮えがある。六條院の花さく春の庭も紫の上がゐなくては何の趣があらう。月下には吹きすさむ笛のねが要る。朝霧の艶なる垣ねには直衣姿の袖の色がなくてはならぬ。「物どもしな/\にかづきて霧の絶えまに立ち交りたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことにめでたし、」(源語松風)。かづけものの衣の色さへ、前栽の趣を添へるのである。または「御前の梅は西は白く、東は紅梅にて、少し落ちかたになりたれど、なほをかしきに、うら/\と日のけしき長閑にて、人に見せまほし、簾のうちに、まして若やかなる女房などの、髪美はしく長くこぼれかゝりなど、そひゐためる、今少し見どころありてをかしかりぬべきに、いとさだすぎふる/”\しき人の、髪なども我にはあらねばや、ところ/”\わなゝき散りぼひて、大かた色ことなるころなれば、あるかなきかなる薄にびども、あはひも見えぬ衣どもなどあれば、露の榮えも見えぬに、おはしまさねば裳も着ず、うちき姿にてゐたるこそ、物損ひにくちをしけれ、」(枕册子)。梅さく春の眺めもゐる人の姿によつて美を損ふのである。繪にも風物そのものばかりを描くことは少く、多くはそれを人の生活の背(406)景としてゐることは、既に上に述べた。宋元の山水畫とは趣が違ふ。概していふと、シナ人は自然界を人生と對立するものとして、外部からそれを見るのであるが、日本人は自然界のうちに人生を存在させ、人の生活するところとして自然界を取扱ふのであり、さうしてそれが、平安朝人に於いてかういふ特殊の形をとつて現はれてゐるのである。
 既に自然を人生の背景と見る以上は、見る目にも自然は人の生活に調和しなくてはならぬ。かさねの色を四季をり/\に相應させるのも、「柳の萌えたるに青き薄樣に書きたる女つけたる」、「紫の紙を包みて封じて房長き藤につけたる」、さては「卯の花につけて卯の花の薄やう」に歌かくのも(以上枕册子)、みなこれがためである。見る目ばかりではない。自然は見る人の氣分に應ずるものである。「何心なき空の氣色もたゞ見る人から艶にもすごくも見ゆるなりけり」(帚木)。得意の目には春の夕に散りゆく花も美しい。失意の心には咲き誇る花も愁をひくばかりである。「よそにても花見るごとに音をぞなく我が身に疎き春のつらさに」、「櫻花にほふともなく春くればなどかなげきの繁りのみする」(以上後撰春)。花も月も權あるものと勢あるものとの花月である。花は盛りに月は隈なきを喜ぶのも、榮華を求める心情に通ずる。
 自然界は初から人生の歡樂を助けるものと決められてゐる。從つて、平安朝人は自然の恩惠を感謝するといふやうな考が無い。「このさとに旅ねしぬべし櫻ばな散りのまがひに家路わすれて」(古今春)といひ、「何時までか野邊に心のあくがれむ花し散らずば千代も經ぬべし」(同素性)といつて、春の花に盡きる期なき歡樂を享受しようとはしながら、冬にゐて春を翹望するあこがれもなく、春が來ても飛び立つほどの喜びもない。四季の推移が徐々に行はれ、且つ冬とても人の身人の心を壓迫するほどの烈しさでなく、をりにふれてそれ/\の遊樂もできる京の天地であるか(407)ら、北歐の詩人が春を喜ぶやうな感情の起らぬのは自然のことpであり、また春とても山のかひより白雲と見えるほどな淡い花や芽ぐむ柳の薄緑の色がその象徴であつて、南歐の五月の人の血を沸かすやうな強烈さが無いから、春にあつても我を忘れて躍り狂ふといふ調子の出ないのも當然であり、またさういふ強い力の無い優しい自然界が、平安朝人の自然觀を成りたゝせた一原因ともなつたのである。しかし一方では、彼等の求めるところが人生の歡樂にあるといふ生活態度が、自然界を重んぜず自然界を尊敬しない傾向を生じたのでもある。
 喜びと同じく悲みについても同樣で、「物毎に秋ぞ悲しきもみぢつゝ移ろひゆくを限りと思へば」といひ、「大かたの秋くるからに我が身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ」(以上古今秋)といふやうに、草木凋落の秋に對して悲傷の情を抱いてゐたやうではあるが、それはシナ文學から學ばれたものに過ぎないのであつて、必しも秋に對する實感ではない。平安朝人はむしろ千草の色をめで紅葉の錦を愛し、冬になれば降る白雪を花とも見て興じてゐた。それは秋といつてもシナの自然界の如く蕭殺の氣が天地に滿ちてゐるやうな感じを與へないからではあるが、彼等があらゆるものを娯樂の料として享受することのみを考へてゐたからでもある。或はまた「いざ櫻われもちりなむ一と盛りありなば人にうきめみえなむ」(古今春下)といひ、「やよやまて山ほとゝぎすことづてむわれ世の中にすみわびぬとよ」(古今夏三國町)といつて、花にも鳥にも厭世の氣分を寄託することもあるが、これもまた佛教から與へられた知識のはたらきが主となつてゐるので、それは一般に花鳥の色音が愛翫せられたことによつて明かである。彼等が風雲月露に悲哀を感ずるのは、むしろ自己の失意から生ずる感傷を自然の風物に反映させるのであつた。
 平安朝人の自然界は、人生に對して獨立の權威を有するものでなく、人生の背景もしくは玩弄物たるに過ぎなかつ(408)た。けれども花は咲けば散り月は滿つれば缺ける。そこに人力の奈何ともすべからざる自然界の權威がある。平安朝人もそれを認めないわけにはゆかなかつた。彼等は愛すべく掬すべく山紫に水明かなる京の風光を、我がものと占めてゐた。けれども澎湃たる波濤のうちよせる大海原も、天に聳え空を摩する高山峻峯も、自然の事實として存在してゐる。彼等も官吏として地方に派遣せられた時、罪ありまたは罪なくして歌枕みよと陸奧などに謫せられた時には、いやでもこの偉大なる風光に面接せねばならなかつた。この時に當つて彼等はどういふ態度をとつたか。「かくながら散らで世をやはつくしてぬ花の常磐もありと見るべく」(後撰春)といひ、「あかなくにまだきも月の隱るゝか山の端にげて入れずもあらなむ」(古今春業平)といふのが、彼等の希求であるけれども、その希求の容れられぬに當つては、徒に花ちらす風を恨み月かくす山を怨んで、悔恨として歡樂の忽ち消え去るを悲しむ外はなかつた。さもなくば「散る花を何か恨みむ世の中に我が身も共にあらむものかは」(同上)と一種のあきらめをつけたのであるが、そのあきらめの底にはまた悲哀の情がある。靜かに萬象の變化を觀じてその裡に何等かの安心を得ることもなければ、徂く春の來ん年に再びかへり、入る月の時來つて復た出づるを待つことも無い。彼等はたゞ當面の現象に對して、偏に悲傷の情のやりどころなきを感ずるに過ぎなかつた。これは恰も榮華に誇り權勢に誇つてゐたものが、一朝その地位を失ふに當つて、ひたすらに流涕悲泣するのみであつたと同樣である。またかの山川河海の雄大なる眺めについては、勉めてこれに接することを回避して、纔かにみづからその繊弱な官能を保護しようとしたのである。
 けれども、上に述べた如く平安朝人の生活がそのをり/\の自然界の風物と離れないものであるのは、彼等がその(409)風物に限りなき親しみと懷かしみとをもつてゐることを示すものであり、繊細な官能によつて花にも月にも雨にも露にもさま/”\にその美しさを發見し、もしくはそれを美しいものにしてゆくところに、自然界に對する愛着の深さが現はれてゐる。たゞその愛する風物もその美しさも優艶の一面に限られてゐて、「もののあはれ」を感ずるのも、その面に於いてであることは、明かである。さてその「あはれ」といふのは、對象にしみ/”\と心がひき入れられ、それによつて心が對象に同化し、そのために或る氣分が作られることであるらしいから、それは自然界を榮華の具とするのとは違つた心理のはたらきであらう。「みちのくはいづくはあれど鹽がまの浦こぐ舟のつなでかなしも」(古今東歌)といふ「かなしも」もこの意義での「あはれ」である。かゝるあはれを感ずるのは、歡樂の料として自然の風物を見るのではない。たゞその對象が優艶なもの小さいもの力の弱いものである點に於いて、兩樣の心理の相通ずるところがある。さうしてかういふ心理のはたらくやうになつたのは、自然界の風物に對する觀察が親切になり愛着が深められたためであらう。かゝる心理が智巧的に自然界を取扱ふのと違ふことも、また明かであるが、この二つの結びついてゐるところに平安朝人の生活態度があることは、上に歌について考へたのと同じであつて、彼等の文化、彼等の生活態度の複雜であることを示してゐる。しかし平安朝人の繊細なる官能のはたらきと「もののあはれ」を感ずる心理の動きとによつて、發見せられ作り出された自然界の風物の美は、後世まで日本人の自然觀を指導し、その特色を形づくるものとなつた。平安朝人の自然觀の歴史的意義はこゝにある。
 
(410)     第七章 佛教、儒學思想、及び神の信仰
 
 失意の境に陷つて有爲轉變の世と感ずるのも、花の散り月の虧けるに對して萬有の無常に思ひあたるのも、思想として見るときは、そこに佛教の感化がある。事實この時代になつてから、佛教は一層深く且つ廣く社會の表裏にゆきわたり、從つて奈良朝のころに於いて甚だ疎遠であつた文學との關係も次第に密接になつて來た。歌の作者にも僧侶が多くなり、歌にも佛教思想がいろ/\に詠み出され、經の卷々を題にしたものも作られた。拾遺集に行基や婆羅門僧正の歌として載せてあるものも、このころの僧徒の僞作であらう。また物語の題材としても、佛教及び佛教に關係ある事がらが多く用ゐられた。竹取物語の蓬莱山の光景は仙郷よりも寧ろ佛教の淨土であり、この世をきたなしといふのも神仙思想よりは佛教思想である。宇津保の波斯國の光景も佛教の經典中から取つたものらしい。源語にはさういふ傳説的材料は無いけれども、實社會に於ける佛教の信仰と寺院や法會の有さま、僧侶の行動、一つの流行となつたといつてもよい人々の遁世出家、などが到る處に用ゐられてゐることはいふまでもない。自然界の翫賞にも佛教の與るところはあつたので、特に近くは石山、遠くは泊瀬など、女が京の外に出て山水のながめに親しむことのあるのは、多くは寺詣での場合であつた。また空也や惠心などが念佛を弘く勸めるやうな時代になつては、和讃なども作られた。今樣の形式はこの和讃と關係のあるもので、從つて僧侶の作がもとになつたのであらうとは、普通に考へられてゐることである。いろは歌がこの時代の末に作られたものであらうといふことは前に述べて置いた。
 しかし寺院と世間との關係がかなり疎遠な點も無いではない。例へば佛畫などは世間の繪畫とは大體に於いて別派(411)のものであり、特に密教に關するものは儀軌によつて作り粉本えお摸したものが主である。崇拝の對象としての佛像は勿論のこと、柱畫とか天井畫とかいふ裝飾畫もほゞ似よつたものであつたらう。(だからこれらは概していふと、獨立の藝術として取扱ふよりは寧ろ工藝として見るべきものである。)それから彫刻も盛に行はれてはゐたが、これは全く寺院内に限られてゐた。佛畫と世間の繪畫とは系統を異にしてはゐるものの、同じく丹青の技であるから、その間に關係がないとはいはれず、手法の上なり構圖の點なりに於いて佛畫と世間の繪畫とが相互に影響を及ぼしたこともあつたに違ひない。けれども彫刻は極めて稀に神社の神體がそれによつて作られたことがあるけれども、概言すれば佛像の外には殆ど用ゐられなかつたから、世間との交渉は甚だ少い。これは一つは因襲にもよるが、當時の貴族は男も女も服裝の華かさをのみ尚び、また身體を活動させることを賤んだから、趣味の上からも技術の上からも、佛像以外の彫刻は發達しなかつた。特に彫刻は公共的性質を有するものであるのに、平安朝貴族のやうに生活が全く室内的であり、また後世に記念を遺すといふやうな考の無かつた社會では、彫刻が實世間と結びつくやうにならなかつたのは當然である。從つて世間では彫刻に對する趣味を有つてゐなかつたので、佛像に對しても枕册子の作者のやうに、「佛のきら/\と見え給へる」を「いみじう尊げ」に觀たのみである。即ち金色燦然としてゐればそれでよかつたのである。たゞ繪畫でも彫刻でも佛像の面貌などには、おのづから時代の趣味が現はれて來たかも知らぬが、それも佛畫を作る工人なり佛師なりの間だけのことであつて、技巧上の問題に過ぎなかつたらう。
 それのみならず、寺院のうちには一般の趣味と背反してゐるやうなものさへもある。例へば佛像である。繪畫にしても彫刻にしても、一方に於いては、かの密教の神像がその線に於いても色彩に於いても、優婉にして典雅なる情趣(412)を具へ、この時代の特徴を示してゐるものがあるが、それと共に他方に於いては、いはゆる忿怒部に屬するものの怪奇獰猛なる形相は、優雅を尚んだ當時の貴族の趣味に適つたものとはいはれなからう。藤原時代の華やかな優美な世界の一隅に於いて、香烟にくすぶりつゝ三面六臂の大自在天が恐ろしい目をむき出して、戀に惱み歌に惱んでゐる公子と佳人とを睨みつけてゐるのは、貴族文化の全體から見ればたしかに矛盾である(インド教またはインド教化した儒教に於いて、大自在天が如何なる意義を有つてゐようとも、それはこゝでの問題ではない)。貴族等がその前に脆拜しそれに對して祈願したのは、たゞ畏敬と恐怖との情から來たものである。即ち幼稚な呪術宗教的な儀禮の對象としての氣味のわるい蛇などと同樣のものである。我が國に行はれた佛教には、遠い昔から傳へられて來た低級な呪術宗教的な心情を變つた形で維持して來たといふ一面があつて、從つて祈?と呪術との宗教であり、密教に於いてそれが一層強くなつたといふことは、前篇に述べて置いたが、顯教といはれてゐる叡山の宗旨でもいはゆる台密が兼ね用ゐられて、その實世間との交渉はむしろこの方面にあつたから、かういふものが崇拜せられたのである。(物のけにつかれるといふことが幼稚な呪術宗教的な心情の産物であることはいふまでもなからうが、この時代の僧侶の修法はそれを退治するのが主要な目的の一つであつた。)加持祈?が平安朝人のよわ/\しい氣風によつてます/\盛となり、それがまた一層人心を柔弱にしたことはいふまでもなく、そこに彼等の心生活の一大要素があるのであるが、その祈?を捧げ呪術を行ふには、蛇であらうがインドの神であらうが、大した相違は無かつたのである。
 なほ當時の佛教について一言して置かねばならぬのは、同じ呪術、同じ祈?教ながら、奈良朝前後には政府の機關として國家の平安をそれによつて求める一面の意味のあつたのが、この時代にはそれが漸次薄れて來て、殆ど個人の(413)福利を求めるためのものになつたといふことである。延暦寺や東寺の建てられた初は、皇城なり國家なりの鎭護の道場とせられてゐたけれども、國家の權威が衰へて藤原氏の勢を振ふやうになつてからは、すべての文物が權家によつて利用せられ、學問や技藝に關する政府の機關も漸次私門に屬するやうになつたと同じく、佛教も寺院も彼等權家のためのものになつてしまつたのである。寺院や僧侶を物質的に保護するものが彼等であるから、かうなるのも無理はない。寺院が邸宅または別業の地に建てられ、その構造も庭園泉池の配置も邸宅のと同じになつてゐるのも、一つは佛寺建築の日本化であるが、一つはこゝにいつた事情のためでもあつて、それは要するに邸宅内に於ける持佛堂もしくは念誦堂の規模の大なるものといふべきである。僧徒の修業の道場ではなくして、個人のために現當二世の福利を祈るところである。經典に於いて仁王經や最勝王經よりも法華經が尊ばれたことにも、その意味があり、極樂往生の教が特にこの時代から盛になつて來たのも、この趨勢と連繋するところがあるのであらう。いふまでもなく極樂往生は純然たる個人の問題である。
 ところが、佛教の教理といふやうなものは國民の實生活には殆ど交渉がなかつた。顯密二教の幾多の學徒は煩瑣な講説に忙はしく、その點に於いては僧徒の修業には知識偏重の傾向があつたが、さういふ知識は現實の人生の問題には接觸するところが少く、從つてその講説は當時の思想界にも關係の無い閑詮索であつた。一念三千の理も事々無礙の説も、さては即身成佛の義も、理説としてはそれ/”\に意味があるにせよ、それが現實の生活から遊離してゐる限りに於いては、畢竟知識上の遊戯である。事實、寺院の裡で何ごとが講説せられてゐようとも、人々の佛教に求めるところは加持祈?の類であるし、さういふ講説は自己の寺院の廡下に於ける僧兵の亂行を抑止する力をすらももたな(414)かつた。僧侶自身にも僧官の榮達を競ふものが多かつたではないか。學徒は學徒としてその學にはげみ、その卓越したものは、シナ人の經論の注疏に本づきながら、その上に何等かの新見解を加へたものもあるので、例へば天台の所説と密教の思想とを結合するやうなことがそれであるが、その思惟の方法はシナの佛家のに依據したものであり、またそれはどこまでも經論の文字の上に於いてのことである。かういふ佛家に特異な思惟の方法もまた、當時の一般の知識人には何の影響をも及ぼさなかつた。或はまた常行三昧も法華三昧も概ね儀禮化せられ、從つてまた次第に演藝化せられて來たのでも知られる如く、三昧がたゞ名のみのものとなつてゐることをも考へねばならぬ。だから思想として佛教が當時の人心に與へたものは、たゞ一種の厭世思想と無常の理とに過ぎなかつたのである。
 しかし佛敦の厭世觀は、平安朝人の現世主義とは根柢に於いて矛盾してゐる。だから通常の場合に於いては、無常の理も濁世穢土の觀念も、單に知識の上に存在するのみであつた。さうしてその知識は、平安朝人の思想をも生活をも支配するものではなかつた。彼等にとつては現世が極樂淨土である。それは娑婆即淨土とか煩惱即菩提とかといふやうな文字の上の知識から來たことではなく、彼等の現實の生活の生み出した生きた感想である。「みすの内の匂いと物ふかき黒方にしみて、妙香の烟もほのかなり、大將の御匂さへ薫りあひ、めでたく極樂思ひやらるゝ夜のさま、」(源語賢木)とあるのも、「春のおとゞのお前、とり分けて、梅の香もみすの内の匂に吹きまがひて、生ける佛の御國とおぼゆ、」(初音)とあるのも、たゞ妙香の薫、梅の匂が、佛土を聯想させるのみではなく、光源氏、かゞやく藤壺、六條院の花やかな生活が、七佛樂師の淨土にも阿彌陀の樂邦にも優つた彼等の理想郷であつたからであらう。阿彌陀經の極樂世界の描寫は、金銀瑠璃瑪瑙の眩い色から迦陵頻迦の美しい聲に至るまで、官能的快樂のあらゆる材料(415)を以て滿たされてゐるが、平安朝の宮廷生活貴族生活は、當時の人の目から見れば、殆どその極樂世界がこの世に實現せられたものであつた。「極樂といふなるところには、菩薩なども皆かゝることをして、天人なども舞ひ遊ぶこそ尊かむなれ、」(手習)と、源語の何がしの中將が琴ひくことを小野の庵の尼にすゝめ、「姫君の琴ひきあはせて遊び給へる、阿波にきほひて聞こえ侍るは、いとおもしろく極樂思ひやられ待る、」(橋姫)と、宇治の宮のいつたのも、「雪いさゝか散りて艶なるたそがれ時なり、物の音をかしきほどに吹きたてて遊びて入り給ふを、實にこゝをおきて、いかならむ佛の御國にかは、かやうのをりふしの心やりところを求めむと見えたり、」(匂宮)と、六條院の有樣を書いたのも、極樂を歌舞の場と見たのであるが、かくの如き歡樂は彼等が現に享受してゐるものではないか。彼等はこの上に何を望まう。たゞ長へはこの歡樂世界に安住し、この歡樂を無期に享受しようとするのみであつた。
 けれども、狹い都の限りある榮華の世界は、あこがれの眼を以てその赫灼たる光彩を仰ぎ見るあらゆる人を包容することができない。そこで競爭が起り、時を得てこの佛土の歡樂を縱にすることのできるものがあると共に、時を失つてその外に放逐せられるものもある。時を失つたものは時を得たものに占められたこの極樂淨土を、羨望の情を以て徒らに仰ぎ見てゐなくてはならぬ。無常の理、濁世の教は、こゝに於いて初めてこの失意の人の情を動かすのである。浮きたる世といふのも常なき世といふのも、かういふ境遇にゐるものによつて始めて現實の意味があるので、彼等の戀を失ひ權勢を失へるものが、争つて家を出で山に入るのはこれがためである。だから「世の中をかりそめのことと思ひとり、厭はしき心のつき初むることも、わが身に憂ある時、なべての世も恨めしう思ひしる初ありてなむ、道心も起るわざなめる、」(橋姫)と、源語の宇治の宮はいつた。「み吉野の山のあなたに山もがな世の憂き時の隱れ(416)家にせむ」(古今雜)といふが、世の憂き時は即ち身の憂き時なのである。
 ではあるが、「世のうきめ見えぬ山路に入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今雜)、或は「大かたの憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背き果つべき」(源語賢木)。源氏は出家しようとしても病に惱む紫の上を見すて難くて心おくれがしたといふ(御法)。蜻蛉日記の著者は、死なせ給へと折りつゝまた行ひをしつゝ、現在に心ひかれてゐる心情を告白してゐるではないか。本來、現世の羈絆を絶たんがための出家ではないから、妻子に心ひかれては山にも入りかねる。妻子に心ひかれるのは要するに現世の歡樂に心がひかれるのである。落窪の四の君が「心うき身なれば尼になりなむ」といつたに對して、その母が「なでふ尼にかなり給ふべき、しばしにてもなほ花やかなるめ見給はむぞ、人もかくぞありけりと思ふべき、」といつたのは、平安朝人の處世觀の兩面を道破したものであつて、これは母子の異つた意見であるが、多くのものは一人でこの二面の思想を同時に抱いてゐた。「うき世とは厭ひながらもいかでかはこの世のことを思ひすつべき」(和泉式部)。だからよし出家はしたにしても、彼等の希求するところは本來、現世の歡樂であつた。寂しい山の奧の霞の間から眺めやる都の空には、七彩まばゆき色雲がたなびいて、極樂世界の花やかな幻影が蜃氣樓のやうに現出してゐる。村上天皇の崩御に逢うて出家したといはれる高光の少將さへも、「九重の内のみ常に戀ひしくて雲の八重たつ山は住み憂し」と詠んだではないか。源語の宇治の宮も時々薫が訪れるので、「山のかげもすこしものあきらむるこゝち」がするといつた(橋姫)。尼にならうとした手習が「われ世になくて年隔たりぬるを思ひ出づる人もあらむかし」と、ありし世を懷かしむやうな口氣をもらすなどは、甚だ罪の淺い方である(手習)。「何ばかり深うおぼしとれる御道心にもあらざりしかど、この世に恨めしく御心亂るゝこともおはせず、(417)のどやかなるまゝに紛れなく行ひ給ひて、二つかたに思ひ離れ給へる、」といふやうに、世を離れた境地であるために、そこに安住し得るものもあるが、それでも時には「大かたの秋をうしとは知りにしをふりすてがたき鈴蟲の聲」といつてゐる(幻、鈴蟲)。
 だから多くの人にとつては、山奧は住みうき穢土である。ありふれた出家者流はみな「ひたみちに起したる道心にもあらずなどして、山林にゐて經を讀み行ひをすとも、この世のことゞもを忘るべきやうもなし、」(榮華はつ花)と評せらるべきものである。從つて現世の歡樂が彼等を誘ふ時は、忽ち山を出て宮廷生活の花やかな舞臺に現はれる。よしや我が身は一たび思ひ絶つた世をかりにも顧ようとはすまいと決定しても、源語の明石入道や宇治の宮のやうに、その子を世に出さんためには、道心もゆらぐばかりに焦心苦慮しないではゐられぬ。彼等の眞の希求が現世の栄華にあるからである。だから明石入道は、中宮となつたその孫女が皇子を産みまゐらせたのをきいて、始めて安心して一層深い山に入り、跡をこの世に絶つたのである(若菜上)。けれども我が望が足りたから眞の出家ができるといふならば、出家はもとより道樂であり贅澤である。望が達せられないうちは眞に山にも入れないならば、始から山に入る必要は無い。源氏が萬事を放却して後世の勤をしたいと思ひながら、この世の思ひ出になることをまだしないからさうはなれぬといつたのも、同樣の贅澤からである(薄雲)。こゝに出家が人生の現實に於いて無意味である理由がある。出家はしたけれども子のことを思ふと「背きにしこの世に殘る心こそ入る山みちのほだしなりけれ」といはねばならぬとすれば、「背く世のうしろめたくは去りがたきほだしをしひてかけな離れそ」であらう(源語若菜上)。畢竟、現世は彼等にとつて穢土でも苦界でもないから、何のための出家か意味が無くなる。もしありとすれば、源氏の語の(418)やうに來世のため極樂往生のためであらうか。
 
 淨土往生の思想は既に推古朝時代から知られてゐたらしく、阿彌陀佛もそのころから崇拜せられてゐたから、信仰としては奈良朝時代にもかなりに行はれてゐたことと思はれる。天台の宗派が傳へられてからは、それに伴つて阿彌陀佛の信仰も強められ、常行三昧の法も行はれるやうになつた。しかしそれが大に流行したのは平安朝の中ごろからであらう。慶滋保胤の作だといふ往生記を見ると、往生の傳説が延喜前後から次第に多くなつてゐるやうであるが、空也が念佛を唱へ、千觀内供が阿彌陀和讃を作り、惠心僧都が往生要集を著したころが、その流行の初で、往生記の編纂もその趨勢を示すものである。常行三昧堂が建てられ阿彌陀の佛像が供養せられたのも、このころから多くなつてゐて、道長も法成寺に無量壽院を建立してゐる。往生記などに見える傳説にどれだけの信ずべき歴史的事實があるのか、甚だ怪しいが、空也や惠心の念佛鼓吹が厭穢欣淨の思想から來てゐることに、疑はあるまい。たゞそれが單に經論及びその注疏などの上から來た知識に本づいたものであるか、但しは當時の宗教上もしくは社會上の状態に何等かの關係があるかは、容易に判斷し難い問題であつて、よしそれが後者であるにしても、いはゆる難行道に對して易行道を説くといふやうな、教理上の理由が基礎になつてゐるのか、または時の状態を觀察して濁世の濁世たる所以を特に強く感じたからであるか、輕率にはきめられぬ。けれども往生要集などの思想が、やはり書物の上の煩瑣な思索の産物であつて、現實の人生を觀察した點から來たらしくは見えない點から考へても、また念佛修行を心がけたものが必しもその生活から厭世の情を起したもののみでなかつた點から見ても、淨土思想の流行はむしろ單純な經論上の知(419)識が基礎になつてゐたので、平安朝の初期に眞言宗が輸入せられた如く、偶然さういふ思想が一部の僧徒間に注意をひいて、それが教理上の新傾向としてもてはやされたのではあるまいか。
 しかし僧侶の側で念佛を鼓吹した動機は何であらうとも、淨土往生の教が世間に歡迎せられたことには、それだけの理由があつたであらう。煩瑣な教理の講説の解し難いことは、且らく措いて問はぬにしても、得意の人も歡樂極まつて哀情起り、失意のものは初から悲哀の運命に泣いてゐるとすれば、この教は、現世の歡樂を希求しながらそれが得られず、得ても完くすることのできない貴族社會に、一味の安慰を與へたであらう。或はまたかういふことも考へられる。淨土往生は現世を離れることであるが、それは即ち現世ではしなくてはならぬはずの事業を見すてることである。ところが平安朝人は事業をする意欲が無くしてひたすらに享樂を求める。そこで事業の無い世界、單なる享樂の世界である淨土は、平安朝人のこの欲求と一致するのではあるまいか。また何等の苦難をも伴はず何等の修業をも要せずして佛果が得られるといふこと、その佛士が異香薫じ妙音響き紫雲のたなびく裡に歌舞の菩薩の??する官能的歡樂の世界であるといふことが、遊戯的享樂的生活を誇つてゐるものの心情に適應したのでもある。また淨土往生の教は、それが死もしくは死後の不安に對する慰藉となるところに重要なる、或はむしろ眞の、意味があるのでもあらう。阿彌陀の佛像の手に五色の絲をとほして、臨終の際にそれにすがつて淨土に導かれようとするのも、シナの佛書に見えてゐることではあるが、それの實行せられたのは、このころの往生思想に官能的のところがあることを示すものであると共に、またこの意味のことでもある。聖衆の來迎を思ふのも同樣である。
 更に考へる。失意のものは現世に求めて得られない歡樂を、せめては來世に於いて得ようとするのであるが、道長(420)の如く得意の境地にあるものは、來世までも現世と同じ歡樂を享受しようとする、飽くことなき欲望から出たものとしなければなるまい。道長が剃髪した時に院源僧都が、その功徳によつて「現世は御壽命延び後世は極樂の上品上生に上らせ給ふべきなり」(榮華疑)といつたといふが、現世の壽命の延びるのが佛の力ならば、現世の富貴を極めたのも佛の加護のためであつたらう。それならば現世の穢土たるが故に淨土往生を希求するのでないことは明かである。逆にいふと淨土は現世の否定ではなくしてその延長である。平等院の扉畫の淨土の圖には、平安朝の宮殿や舞樂の有樣などが描かれてゐるが、これは佛の淨土が平安朝人自身の生活する世界と同じものとして考へられるやうになつたからのことであらう。天王寺の西の門から法師が舟に乘つて西の方に漕ぎ離れてゆく繪があつたといふが(金葉雜下)、これもまたこの時代から畫かれてゐた主題ではあるまいか。聖衆の來迎も五色の絲に導かれるのもこれと同じで、何れも人が現世の淨士からそのまゝ來世の淨土に移ることを意味する。現世と來世とは一つゞきの世界である。この世から淨土にゆくのは、人のからだのまゝである如くに思はれてゐたかのやうである。なほ思ふに、このころに建立せられた寺院は、あらゆる佛を羅致しあらゆる修法あらゆる祈?を行ふやうにしてあつたので、道長の法成寺には毘盧遮那佛を安置した金堂があり、阿彌陀堂(無量壽院)があり、法華三昧堂があり、藥師堂があり、また五大堂があり、それがために堂塔の位置が甚だ混雜してゐたほどである。當時の多くの寺院は何れもほゞ同樣であつて、修法や祈?によつて現世の利益を得ようとするのも、淨土の歡樂を目あてにする往生の希求も、ごたまぜであつたことを示してゐる。これは宗派としては叡山の佛法が本來さういふ性質のものであつたし、思想としては種々の異つた教義を一つに會通するのが佛家の智であつたからでもあるが、信者の要求としてはかう考へられる。さうしてこれは、(421)現世の幸福と淨土の悦樂とが同じ性質のものとして考へられたことを思はせる。要するに、淨土は來世にもあらうが、現世は決して穢土ではなく、かれとこれとの間に區別は無い。
 更に一歩を進めていふと、死後の淨土よりも生前の極樂の方が彼等にとつては切實である。だから彼等はその榮華の生活に於いても、特に寺院の建築と裝飾とまた法會とに、あらん限りの贅澤を盡して、彼等の仰景する極樂世界をそこに出現させようとした。上にも述べた如くこの時代の寺院は多く貴族の邸内に建てられ、その方式も昔とは變つて、堂には鏡の如き床を張り、庭には泉水を設け花卉を植ゑ、極めて花やかに作られてある。法成寺などはいふまでもなく、もつと小規模のものすらさうである(大鏡卷三實頼の條)。邸宅内にしつらはれた念誦堂の設備の華麗であつたことも想像せられる(源語鈴蟲參照)。これは寺院建築の日本化ではあるが、一方からいふと寺院を遊樂の場所としたのである。この時代の佛像彫刻に木彫が多いのも、それが賦彩に便利なからであつて、やはり寺院を艶麗にしようとするところに意味があるかも知れぬ。また法會に至つては、法華八講といひ三十講といひ、經文や寺塔の供養といひ、法會といふ法會がいかに華麓を極めたかは、當時の物語を讀むものの想像に餘るところであらう。本來教理の講説を主とすべき法華八講などが、その形式は保たれながら、實質に於いては演藝化せられた儀禮となつてゐて、見る目に花やかなのが尊ばれた。「いかめしきことは切にいさめ申し給へば、しのびやかにとおぼしおきてた」る源語の嵯峨野の御堂の藥師佛供養すら、「まことの極樂ぞ思ひやられし」(若菜上)とある。その極樂とは何をいふかといへば、金碧丹朱の燦として眼を眩する殿堂である。四季をり/\の花紅葉を植ゑ、龍頭鷁首の舟を浮べた庭園泉池である。或は八相成道、或は聖衆來迎を描いて、丹青の表に樂土の幻影を髣髴させる扉や柱や承塵の繪である。管絃(422)の響である。蝶鳥の舞である。形清げに聲美しく、紅紫入り亂れて花とも見まがふ僧衆の讀脛である、行道である。治安二年の法成寺の供養をかいた榮華物語の音樂とまの臺との二章をよむものは、阿彌陀經の極樂世界が眼前に涌き出した如く感ずるであらう。
 しかし、かういふ一時假現の極樂世界は、淨土を希求する信仰の表示であるよりは、むしろ現世の榮華に誇る贅澤三昧ではあるまいか。熱誠から出たものよりは浮薄な遊戯ではあるまいか。源語を見るがよい。「彌生の十日なれば、花盛にて空の景色なども、うらゝかにものおもしろく、佛のおはするところのありさま遠からず思ひやられて、ことなる深き心もなき人さへ罪を失ひつべし、……夜もすがら尊きことに、うち合せたる鼓の聲たえず、おもしろし、ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花のいろ/\、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥の囀るも笛のねに劣らぬ心地して、物のあはれも、おもしろさも、殘らぬほどに、陵王の舞ひて、急になるほどの末の方の樂、花やかに賑はゝしく聞ゆるに、皆人の脱ぎかけたるもののいろ/\なるも、物のをりからに、をかしうのみ見ゆ、皇子たち上達部の中にも、物の上手ども、手殘さず遊び給ふ、上下こゝちよげに興あるけしきどもなり、」(御法)といふ紫の上の法華經供養の記事は、世のつねの管絃歌舞の遊びと何處に違つたところがあるか。「權大納言殿の御八講にまゐりて侍りつるなり、いとかしこう、いける淨土の飾に劣らず嚴めしう、おもしろきことどもの限りをなむし給ひつる、」(蓬生)といふのも、法會をおもしろい見ものとしたのではないか。法會がおもしろいものならぼ、それが加茂の祭などと同樣に見られるのは自然のことで、枕册子には小一條の大將家の八講に人々の集まつてゐるあり(423)さまを描いて「をかしき物見なり」といつてある。道長の法成寺供養の時には、わざ/\物見車を立たせる場所をさへ定めて置いた(榮華音樂)。物見のためならば、美しさは彌が上にも美しいがよい。だから僧徒は容きよらに經よむ聲の美しいのを撰ぶ。「念佛の僧どもは年十五を際にて十二三四までを撰り召したり」(本の雫)、「おん供に二十よ三十に足らぬほどの僧どもの、容きよげにたけ等しく、びゞしき十二十人つゞき立ちたり、」(同上)とあるではないか。おもたゞしい法會ばかりでなく、かりそめの説經などでも俗衆は耳と目との保養のために出かける。枕册子の「心ゆくもの」の條につゞけてかいてある一節を見ると、寺院が今の世の落語や講談の寄席と一般に考へられたことが知られる。既に文徳實録にも論議の有樣を記して「經義論難類俳優」とあるほどであるから、俗人相手の説經はこのことが一層甚しかつたであらう。經卷に繪をかくなども同じ要求から來てゐる。
 それのみではない。榮華物語(本の雫)には子のために建てた法成寺の阿彌陀堂を「いとさゝやかにをかしげに作らせ給」とも、「御堂のありさま、佛いとをかしげにて、」とも書いてある。佛についても、藥師堂の藥師を「いみじくなまめかしく見えさせ給ふ」とさへいつてゐる(鳥の舞)。これは佛堂も佛像も愛翫の對象であつて、それに對して敬虔なる宗教的感情がはたらいてゐないことを、示すものではないか。かうなると、もう一歩進んで誦經念佛までが娯樂の具となるのも自然の勢である。「聲尊き人々に經など讀ませて夜一夜あそび給ふ」(源語手習)のが山でのすさびである。「經よみ歌うたひ」、「經のさるべきところ/”\など忍びやかに口すさびに」(枕册子)するのが、殿上人の消閑の遊戯である。經文は畢竟催馬樂の歌などと同じものであつた。念佛もまた遊玩に供せられた(公任集など)。公任が或る女房を訪づれた時、定頻が既に來てゐたので、方便品を誦んで歸つたといふ話もある(宇治拾遺、古事(424)談)。宗教はこゝに至つて全く遊興の具となつてしまつた。
 宗教が遊玩の具であるならば、それは自然に貴族の占有になる。法成寺の供養の時に道長は見物の庶民を追ひのけさせたといふ。佛教の寺院は初から民衆の集る教會ではなかつたけれども、それでも七堂伽藍は民衆に對して開放せられてゐたらしい。けれども寺院建築が前に述べたやうに貴族の平素の邸宅と同じやうなものになつては、この點からでもそれを民衆の前に鎖さなければならなかつたであらう。法性寺、法興院、法成寺、寶塔が地中から涌き出したと思はれるやうなその美しいながめも、民衆はたゞ遠いところからそれを望み見たのみであつたらう。まして貴族の遊玩に供せられた法筵などは、初から民衆の與るを得なかつたところである。前にも述べたやうに寺院の裝飾に近よつて見なければ判らないほど繊巧なもののあるのも、一つはこれがためである。
 さて寺院は貴族によつて建てられ、貴族の保護によつて維持せられる。從つて僧侶の方でも、貴族の榮華を飾る具となつてそれを誇りにしてゐる。從つてまた彼等は俗界の權勢を羨望し、現世の榮華を希求した。彼等の出家が本來解脱のためでもなく、厭離穢土の念からでもないとすれば、彼等もまた現世の歡樂の外に何物の希望もない平安朝人である。彼等のうちには僧侶となることによつて、權勢に近づき榮華に達する特殊の便宜を得ようとしたものもあつたらう。貴族の子弟の僧籍に入つたものに、その貴族の欲求が持ちつゞけられてゐることも、推測せられる。だから源氏が山に來れば、「山寺にはいみじき光おこなひ出し奉れりと佛の御面目あり」(源語賢木)と、あやしの法師ばらまで喜んだといふ。彼等は源氏の容貌のめでたさをさへ嘆賞して「世の憂ひ忘れ齡延ぶる人の御ありさまなり」(若紫)といつてゐる。彼等の嘆賞し歡喜するところは、即ちまた彼等の羨むところであつたことはいふまでもない。
(425) 僧侶は權勢に依附してゐるのみならず、多くはまた肉體的欲求をも脱し得なかつたらしい。平安朝になつてからも僧徒の破戒を戒飭する政令はしば/\發せられたが、本來慾を斷たんための出家でないから、外部からの禁制は何にもならない。法師の女に通じた物語は到る處にある。さうして、或は薫が浮舟の戀になやむを道心起させんための佛の慈悲といひ(源語蜻蛉)、或は横川の僧都が手習に「御志深かりける御中を背き給ひて、あやしき山賤の中に出家し給へること、却りては佛のせめ添ふべきことなるを、……もとの契あやまち給はで、愛執の罪を晴るかし聞え給」へ、といつた(夢浮橋)など、當時の佛教は男女の關係についてかういふ見解をさへ下してゐる。宇津保(忠こそ)に戀のために修法をさせたことを書いてあるのも不思議ではない。かゝる肉體的欲求こそは一切の罪惡の根原として、佛教の最も強く厭離せねばならぬものであるのに、それがかう説かれてゐたのを見ても、當時の佛教が現世の歡樂に對する態度を知ることができよう。だから尼になつた後に懷姙しても、さして怪まれもしなかつたのであらう(榮華かゞやく藤壺)。
 要するに佛教はその根柢の思想を忘れてしまつて、平安朝人の現世主義に迎合し、またその享樂主義の具になつてゐたのである。勿論、一面には修道の僧として出家の本領を守つてゐるものもあり、また民衆の間に教を説いたものもあらうが、佛教の大勢はさういふ特殊のものを社會の裏面に埋没させてしまつた。しかしこれは必しも當時の佛教、當時の僧侶の罪ばかりではない。本來、佛教の思想的基礎である如く思はれてゐた一種の厭世觀は、人間生存の意義、生存の事實と矛盾してゐる。だからそれは或る特殊の境遇、特殊の文化に於いてのみ發生するもので、さういふ特殊の社會、特殊の人に對してのみ、佛教は修道の教として行はるべきものである。從つて、普通人の間に信仰せられる(426)佛教が横へ外れてゆくのは當然であらう。覺者たる佛は救濟の主としての神となり、大乘佛教は修道の教ではなくして救濟の教と化した。のみならず、佛教はその原始的觀念に於いて、既に人生を苦樂の點から見てゐる。その樂は本來は現世を超越した涅槃の境界にあるのであらうが、一轉して、それが現世的のものとなるのは甚だ容易である。佛教はインドに於いて既に現世の生活のための祈?の宗教と化し、特に密教に於いてそれが著しくなつたが、厭世觀の上に立つ淨土教すらその極樂の状態を示すに(よし方便にせよ譬喩にせよ)官能的快樂のあらゆる材料を並べたててゐるではないか。だから享樂主義の平安朝人が、佛教をこの意味に於いて信仰しまた玩賞し、阿彌陀經などの極樂世界の描寫を文字どほりに受入れたのは當然であらう。失意の人が佛教に隱れるのも、實は釋迦が人生を苦と散じて出家したのと全く別のものではない。勿論、我が身のためのと一切衆生のためのとの間に根本的の區別のあることは忘れてはならぬ。平安朝人は自己の苦痛を人類の苦痛にまで高めることができない。釋迦は人類の苦痛を自己に於いて體驗したのである。しかし平安朝人にはそのことが現實の生活に於いて體得せられなかつた。
 
 佛教の勢力は當時の貴族社會の全面を蔽ひ、彼等の生活を壓服するほどに強大であつたけれども、それは貴族の榮華の具とせられ、また彼等の原始的ともいふべき宗教心に投合して加持祈?を行ふに過ぎないものであつた。佛教の根本をなす修業得脱の教は、學徒の間に行はれた文字上の空疎な詮索でなければ、いはゆる「山に入る」風習となつて失意のものの心に些ばかりの安慰を與へ、もしくは彼等の矯飾の料に供せられるのみであつた。ところがこれと同じやうな傳向は、儒學もしくはシナ思想に於いても現はれてゐる。儒學は素より宗教ではなく、從つて佛教のやうに(427)強く人心を動かすことはできないが、ともかく仕官の方便として書物は學ばれた。けれどもそれは佛教の學問と同樣に文字上の知識に過ぎないものであつて、この知識は漢文をつゞり漢詩を作ることによつて權家の權を振ふ具となり、權家を中心としてゐる文化の修飾に用ゐられたのみである。實際の政治及び道徳の上には何等の交渉がない。
 勿論、儒教の思想は文字の上には何ごとについても現はれてゐる。例へば古今集の序や新撰和歌の序に、和歌の六義をいひ、政治的意義を説き、教化諷刺をいつてゐるのも、それであるが、當時の歌そのものはかゝる儒教思想とは些の交渉も無い。古今集の序で「かゝるべくなむあらぬ」と難ぜられてゐるやうなところに、むしろ歌の本色がある。現實の政治の上に儒教の政治思想が何の效果をも生じないことは、いふまでもないので、三善清行や菅原文時の封事に現はれてゐる意見は、よし時弊を指摘する點に於いて當つてゐるところがあつたとするにしても、如何にしてそれを矯正するかについては、現實の情勢に即した具體的積極的の主張がそれに無いことも、この推定を證する。のみならずその時弊とせられたことについても、何故にそれが生じたかの深い觀察が無く、從つてそれを誘致した根本の原因が見のがされてゐる。儒家の思想やシナの書物の間から得た知識では、かうなるのは當然であらう。道徳思想に於いてもまた同樣であり、從つてそれが文學の上にも現はれてゐないことは、前篇に考へた奈良朝前後の時代と同樣である。「君がためいはふこゝろの深ければ聖の御代のあと習へとぞ」(後撰慶賀忠平)などといふ歌があつても、その聖人の道はたゞ文字の上だけのことである。道の具體的表現とせられてゐる種々の儀禮は、少しも學ばれなかつた。日常生活に於いては、何よりも平安朝人の戀愛生活が儒教の道に背いてゐることが明かである。孝行についても、母に食はせるために氷を割つて魚を得たといふ話を、そのまゝに插話として適用した物語(宇津保俊陰)さ(428)へもあるが、これは同じ物語に波斯國と天の稚みことをかりて來たと同じことである。當時でもやはり前代と同樣、儒教風の孝行よりも子を愛する情の深さ濃かさが歌にも物語にも示されてゐる。「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰雜兼輔)といふ親心を最もよく道破した歌もある。物語に於いても、源語の朱雀院や明石入道や宇治の宮がその女の行末を案じて、それのみをこの世の思ひ出とも出家の障りとも考へてゐたのは、萬事を抛擲しても子の愛のみは思ひきることができなかつたからである。さて親が子を思へば子の親をおもふ情もおのづから生ずる。「老いぬればさらぬ別のありといへばいよ/\見まくほしき君かな」(古今雜業平の母)とあれば、「世の中にさらぬ別の無くもがな千代もと祈る人の子のため」(同業平)と答へる。これはシナ式の孝行思想ではなくして、自然の人情である。特に女親の女の子に對し女の子の女親に對する情の深さは格別であつて、到るところにその例が見られる。わが身獨りのたよりなさを知る時、人を力に心強うならうとする。互に依頼し依頼されて、それによつて纔かに生きてゆかれるのが女の親子ならば、その間に離れ難い情愛の生ずるのは自然である。たゞ女の胸は狹い。我が胸はわが子で一杯になつて、他のものを容れる餘地が無い。だから落窪の繼母のやうなことが起る。繼母の物語はこの他にもいろ/\作られてゐたらしい。男に至つては自己の力を頼むことが女よりは強いから、人と成つて後に親に依頼することもおのづから少い。特に家といふ考が薄く、生活が家族本位でないこの時代の貴族に於いてはなほさらである。
 後世の武士になると家が生活の單位になつてゐるので、地位も職掌も家によつて定められ、領地も俸禄も家に附屬してゐるから、子孫の生きてゆかれるのは父祖の力である。自己の生存は全く父祖の庇蔭であり恩惠である。その上(429)に戰闘の技術やその精神も主として家に於いて父祖によつて養はれるのであるから、父祖は精神的にも常に子孫を支配してゐる。從つて子孫が父祖に依頼する念も強く、感謝の情も深い。子孫が父祖に依頼すれば父祖もまたおのづから子孫に依頼する。特に家を代表するものは一人の主人であるから、子が成人して世に立つやうになれば父はその地位をそれに讓る。隱居の風習なども一つはこゝから開かれるところがあるが、さうなると父の生存は子の保護によらねばならなくなつて、そこに一種の報酬を得たらしい觀がある。かういふ社會組織に於いては子孫の父祖に對する絶對的服從が自然に行はれるので、そこに幾分か儒教的孝行の思想と接觸する點がある。けれども本來自然に發達した習慣であるから、この間の關係には情愛に充ちた暖かさがあつて、儒教的孝行の冷かなのとは違ふ。たゞこの思想の因襲的に權威を有するやうになり、また家が生活の基本であるばかりでなくその主要なる場所となつてゐる状態に於いて、父祖たるものがすべての滿足を家の内に求めようとする傾向が生じ、おのれの意のまゝに家人を支配しようとなると、そこに多少の重苦しさが生ずるのである。
 ところが平安朝の貴族はこれとは全く生活の状態がちがふ。家格の重んぜられることは勿論であるが、子孫は家によつて定まつてゐる父祖の地位をそのまゝに相承するのではなく、それ/\別の官職を有つてゐて、日常の生活も殆ど獨立に營むやうな有樣では、父祖と子孫との間に武士時代のやうな緊密の關係が無い。從つて親も子に對して絶對的服從を強要することが無いと共に、子も親の支配をうけるといふ考が薄いのである。けれどもそれがために父子の間が冷かになつたり葛藤を起したりするやうなことが、事實の上にも文學の上にも現はれてゐないのは、そこに自然の暖かい人情があるからである。宇津保の忠こそが世を棄て家を出たのは、父の愛が何故とは知らず衰へたのを悲し(430)んだからとしてあるが、父の愛の減じたために世をすてるのは、即ち父の愛が生存の必要條件であつたからである。家を出たのは更に父の悲しみを増させる所以ではあるが、それは當時の思想に於いて、人生の悲哀に處するせめてもの慰め草がこれより外になかつたからである。儒教は固よりそれを不孝として斥けようが、當時の人は決してさうは思はなかつた。これは儒者の孝行の教がこの時代に守られなかつたことを示すと共に、シナ式の孝行思想が無くても、父子の親みは十分に保たれもし現はれもしたことを證するものである。
 要するに儒教の發生したシナの古い時代とこの時代との間には、共通な社會状態が無いから、儒教に權威のつく理由がないのである。源語(少女)に見える大學の博士どもや宇津保の藤英でもわかるやうに、儒者の地位の低いのは、權勢と富とが袁族に限られてゐて、その富と權勢とが最大の價値をもつてゐる世には當然のことではあるが、佛教の僧侶が顯榮の地位を占め皇族や貴族に佛門に入るものが少なくないのに比して、儒者がかういふありさまであるのは、儒教が人の禍福を支配する宗教でないのと、寺院による僧團の組織をもたないのとの故であらうが、それにしても實生活に於いて儒學が權威を有つてゐないからでもある。
 
 たゞ儒學ではないが、儒學と結びついてシナから入つて來た種々の呪術宗教的な知識や風習が、佛教に加持祈?が行はれたと同じ理由によつて、割合に深く人心を支配してゐた。それは即ち我が國で陰陽道と呼ばれたものである。陰陽道には種々の要素が含まれてゐるらしく、我が國の祭祀や呪術とも混合して來たが、要するに人事の吉凶を知り禍を避け福を得ようとする種々の方術が基礎であつて、占筮としての易や占星術としての天文やシナの民間信仰や、(431)またはいはゆる讖緯の説に由來するものなどが、その主要な分子である。平安朝貴族の間に行はれてゐた「方たがへ」の風習の如きもそれであり、天變地異を不吉の兆とするのもそれである(元語薄雲など參照)。かういふ思想が、平安朝人の氣風を羸弱にしその知性を麻痺させるに力のあつたことは、かの「もののけ」の迷信と同じである。シナ思想が平安朝人の生活に及ぼした影響の最も大なるものは、かゝる方面のであつた。さうして儒家の學は、かゝる思想の迷妄であることを覺るだけの知性のはたらきを導き出すことができなかつた。
 更に別の方面から見ると、當時の儒生は佛教の法會の願文や諷誦文を作り佛事を讃美してゐる。これは詔勅や上表を起草するのと同じで、文藻あるものが他の依囑をうけて言辭をつゞつたのみのことではあるが、しかし儒家の政治的道徳的思想をも佛教の信仰をも一樣に取扱ふところに、彼等の文藻が單なる文藻であると共に、彼等のもつてゐる儒家の思想が自己の思想とはなつてゐない文字上の知識に過ぎないことを、示すものである。また例へば匡衡集に女と贈答した戀歌が多いのでも知られる如く、彼等にかゝる作のあるのは、僧徒が題詠として戀歌を詠んだとは違つて、彼等の生活が儒教の道徳思想から離れてゐることを、語るものであらう。(千里は戀歌をその句題和歌に加へず、后宮歌合に一首を詠じてゐるのみであるが、題詠についてもかういふ態度をとつたのは、むしろ稀な例である。)だからこれらの點でも、儒教道徳の教は平安朝人には守られなかつたことが知られる。
 シナ思想に於いてなほ考ふべきは神仙思想であつて、これもまた文字の上にしば/\現はれてゐる。しかし竹取物語のかぐや姫は、もしそれを天上の仙界から謫落して來たものであるとするならば、その仙界は人の世界とは全く交渉の無い存在である(これはもと/\神仙思想とは關係の無い天人の説話に長生不死の觀念を附加したまでのもので(432)あらう)。長恨歌がもてはやされても、太眞の仙化せられてゐることにはさしたる關心がもたれなかつた。浦島子傳及び續浦島子傳には浦島の子を龜姫の天仙に對する地仙としてあるが、それは玉匣を開いて老翁となつたといふ説話そのものとは矛盾してゐる。さうして續傳に見える龜姫が浦島の子に對する送別の語には、長生の術を誨へたところがあるにかゝはらず、その歌には、神仙思想とは矛盾してゐる佛教思想が加はつてゐる。(神仙思想と佛教との混合は靈異記の役行者説話にも既に見えてゐた。)佛教思想が支配的になつてゐる平安朝に於いてかうなるのは、自然のことであらう。シナ思想はこの方面でも大なる力をもたなかつた。
 要するに、佛教は宗教としては、加持祈?によつて現世の生活の災害を除き福利を求めるためのものか、然らざれば失意の人に對して、或は死の不安に對して、或る安慰を平安朝人に與へるものかであり、本來道徳精神の稀薄なこの宗教には、さういふ方面に於いて平安朝人に寄與するところは、殆ど無かつた。さうしてその文化上のはたらきは、前代と同じく主として藝術及び工藝の上に於いて現はれ、その方面ではわが國の文化史に大なる寄與をしたことが考へられる。儒家の政治道徳思想もまた時の弊政を改め道義を勘ますには何の力も無く、儒者のしごとはたゞシナの書物を讀むことによつて文字上の知識を與へるのみであつた。
 
 文藝の上には多く現はれてゐないことであり、また佛教にも儒學にも交渉の少いことであるが、國家と皇室とに關する思想をこゝに附記しておかう。國家の經營といふことが思慮に上らなかつたこの時代に於いて、實際政治についての感懷が文學として表現せられなかつたのは、自然のことであるが、しかし抽象的概念としては、日本の國家の性(433)質についての思想が、幾らかは文獻の上にも見えてゐる。その一つは我が國は神國であるといふことである。公文としては貞觀年間の伊勢神宮及び石清水八幡宮への告文にもそれが現はれてゐるが、それを三善清行の封事に記されてゐることと對照して考へると、この神國の語には、皇室が神(としての皇祖)の御血統であるといふことと、そのことから派生した觀念として、我が國は神の加護のある國であり神を崇敬すべき國であるといふこととの、二つの意義が含まれてゐるやうであり、その根柢には、皇室の存在が我が國には本質的なことであるといふ思想がある。皇室に於いて神の祭祀が何よりも重要なこととせられ、いはゆる公事の最も嚴肅なるものが神事であるのも、これがためであつて、神國の觀念は古來の習慣であるこの事實によつて形づくられたものである。たゞ天皇の御祖先としての神は伊勢神宮に祀つてゐる日の神のみであつて、天皇の祭られる神はその他の多くの神々を含んでゐるが、同じく神といはれ同じく祭祀の對象であるために、それがみな同じやうに考へられたのである。なほ皇室に於ける神の祭祀は國家的意義をもつてゐるので、そこに神國の觀念との連繋がある。(春日神社は藤原氏の守護神であるが、祝詞式に見える祝詞によつても知られるやうに、朝廷からはやはり國家の神として取扱はれた。こゝに氏寺との差異があり、神社に特殊な性質がある。)但し天皇が現つ神の地位にあられるといふやうな考はこの神國の觀念には含まれてゐない。天皇の御祖先は神とせられてゐるが、天皇はどこまでも人であられるので、このことは、前篇に説いておいたと同じである。三代實録などの記載によると、一般臣民に對する宣命體の詔勅には「現つ神」の稱呼の用ゐてある場合があるけれども、それはたゞ儀禮的に文字の上で先例を踏襲したまでである、といふよりも宣命のはじめの一定の辭句を昔のまゝに用ゐたのみのことであるので、現實には意味の無いものであり、さうしてかゝる形に於いての詔勅の宣べられるこ(434)とも甚だ稀であり、後には全く行はれなくなつた。また萬葉時代とは違つて、歌などの上にかゝる稱呼の用ゐられることも無い。極めて遠い昔の未開時代の思想の名殘りは、儀禮的にも稱呼の上にもそれが失はれたのである。現實に於いて天皇の地位が現つ神として考へられて見ないからである。さうして神の祭祀を行はれる點に於いて天皇が人であられることは、朝廷の公事と神國の觀念とによつて明かに示されてゐる。なほこのことは、當時の儒生が文字の上で天皇を堯舜に擬してゐることと、おのづから調和するものでもある。儒生のこの態度はシナの文士の模倣に過ぎないものではあるが、儒教思想に於いては帝王はどこまでも人であるから、かういふことになるのである。
 神國の觀念には直接の關係が無いが、一般に神の崇拜せられてゐたことはいふまでもない。佛教が行はれても、日本の神に對する信仰はそれがために少しも妨げられず、特に佛が現世の利益のための祈?の對象とせられる場合には、それは神と性質を同じくすることになるから、この二つはその崇拜の儀禮に差異があるのみである。神と佛との結合せられることの根本は、同じく崇拜の對象としてこの二つが並び存するところにある。のみならず、佛教の側では、この時代の或る時期から、或は台家から出たいはゆる本地垂跡の説によつて、或は密教の特殊の思想によつて、神と佛との一致を説くことが行はれた。一般の信仰としては、また大乘佛教の一面の思想に於いては、佛そのものの實質が神であること、特に密教に於いてはインドの神がそのまゝに、或は幾らか變形せられて、崇拜せられてゐることが、この一致を助けてもゐる。儒家もまた神の祭祀を禮として認めた。勿論神佛の一致も禮の觀念も、知識人の知識として幾らかの意味があるのみであつて、彼等の間に於いても、神に對する崇拜はそれとは無關係に行はれてゐるのであり、一般人に於いてはなほさらであるが、それよりも重要なのは、現實の状態として、佛教の信仰も神の崇拜も同じ(435)やうな祈?もしくは呪術として、その間に相爭ふことなく、或は互に混合して行はれ、さうしてそれらがはたらきあふことによつて互にその力を強めたことである。上にいつた如くシナ思想によつて形づくられた陰陽道に神の祭祀やそれと結合せられてゐる種々の呪術が混合したのも、これと同じである。さうしてそこに、かゝる風習の一面の事實として、何事にも超人間の力に依頼し、自己の力によつて自己の生活を營まうとする意志の無い、從つて自己の道義的責任を重んじない態度が、それによつて助成せちれると共に、またそれを強めもした理由がある。種々の迷信がこれと關係のあることは、いふまでもない。
 しかし神の崇拜は、種々の點に於いて佛教の信仰とは違つてゐる。それには多かれ少かれ、幾樣の變化を經ながら、古來の民族的風習が持續せられてゐるので、神社の建築にも裝備にもまたその置かれてゐる環境にも、或はまた祭祀に與るものの服裝などにもそれがあり、崇拜の儀禮に於いてはなほさらである。神事に奏せられる音樂歌舞もまたその例であつて、佛教の法會で行はれる唐高麗の樂舞とは、その情趣が全く違つてゐる。神事の情趣は、約言すれば簡素であり清楚である點にあるので、そこに一種の莊嚴さもある。「さかき葉にゆふしでかけてたが世にか神のみまへにいはひそめけむ」(拾遺神樂歌)、そのゆふしでかけたさか木葉の清らかな姿はいふまでもなく、「山ゐもてすれる衣の赤紐の長くぞわれは神に仕へむ」(貫之集)といはれた赤紐は艶であるが、山藍ずりの衣はどこまでも清楚であり、赤紐のそれについてゐるのがその感を一層強める*。野の宮の黒木の鳥居どもの「神々しい」のは格別のこととしても(源語賢木)、住吉の神の齋垣の内に奏する東遊びが、こと/”\しき高麗もろこしの樂よりも、なまめかしくはあるが、すごくおもしろいといはれてゐる(同若菜下)。野の宮には源氏が情人を訪れてぬるし、住吉では大宮人の(436)花やかな遊びが行はれもしたが、それにすらかういふ感じがある。宮廷の神事に於いては特にさうである。かういふ情趣が平安朝人の心理に如何なるはたらきをしたかは、ほゞ想像せられよう。さうしてまた、よし明かには意識せられないにせよ、そこに日本人としての特殊の情趣のあることが感ぜられたのではあるまいか。もしさうならばそれには間接ながら神國の觀念と結びつくところがあらう。「大原やをしほの山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ」(業平)、神まうでには神代の昔さへも聯想せられたのである*。
 しかし神についてはたゞ遠い昔が思ひ出でられるのみならず、永き未來もまた考に浮かぶ。「ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ世ふとも色はかはらじ」(古今東歌敏行)。松のみではない。「神まつる時にしなればさか木葉のときはの影は變らざりけり」(貫之集)、常緑樹たるさか木は永久不變の象徴とせられた。さうしてこのことは皇室の永久性を信ずることと、その皇室の何等かの儀禮の如何なる場合にもつきせぬ御代を祝福する點で、思想上の連繋がある。國歌「君が代」の原歌「わが君は千代に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで」(古今賀)にも、それの現はれてゐることはいふまでもあるまい。この歌の「わが君」は、この語だけについていふと必しも天皇の意義とのみは解せられず、「君が代」といふ語もまた同樣であるが、しかし古今集の序の「さゞれ石にたとへ筑波山にかけて君をねがひ」とあるのは、この歌を天皇の御代についていつたものと見たからのことらしいから、それによつて一首の意義を解すべきである。皇室の長久を壽ぐ歌は「蒲生野の玉の緒山にすむ鶴の千とせは君が御代の數なり」(拾遺仁和の御時大嘗會の歌)にも、また「君が代のながらの山のかひありとのどけき雲のゐる時ぞ見る」(拾遺安和元年大嘗會)にも、その例があり、何れにも「君が(御)代」の語を用ゐてある。さうしてかういふことについては、佛教的(437)無常觀は決して適用せられない。儒家の易姓革命説が想起せられないことは、いふまでもなからう。
 
(438)     第八章 生活氣分
 
 平安朝人の生活とその生活態度とは前章までに考へて來たところによつてほゞ知られたであらう。そこで最後にその全體を蔽ふ生活氣分を概觀することにしよう。
 平安朝人は享樂主義の徒であつて、宗教についてすらそれを官能的受用の具として取扱ふ一面があつた。しかしこれがために彼等を單に情の滿足をのみ求めたものとするのは大なる誤であらう。彼等は率直な態度でその情の趨くままに身を任せるよりは、むしろ四圍に順應して怜悧に世を渡らうとする心がけを有つてゐた。さうしてそれには知識と才能とを要する。だから彼等の間に最も重んぜられたものはこの知識才能であつて、それを彼等の常用語で「ざえ」(才)といつた。例へば宇津保に理想的人格の條件を擧げまたは人を讃める時には、かならず「ざえ」を稱し、或は「ざえ」と「かたち」とを并べて擧げてゐる(俊蔭菊宴吹上)。或は繪畫や管絃歌舞の如き特殊の技藝をば「わざ」と稱して「ざえ」と區別することもあるが、多くはこれをも文筆の技と共に廣い意味の「ざえ」に含めていつてゐる。「ざえ」の主なるものは學問、換言すれば漢書を讀みシナの故事を知ることであつて、源語に「ざえ」について才學を本才とし、その他のものとして文才及び種々の技藝に關する才を擧げてゐるのも參考せられる(繪合)。大學の博士の地位は低く、その點で權家からは輕んぜられながら、なほ見識ぶり、學問の世界でのみは權威あるものの如くふるまふのも、この本才の尊ばれたことを示すものであるが、しかし「道々の人のざえの顯はれる世」といふこともあるので、何ごとの「ざえ」も重んぜられたことは、いふまでもない(少女)。歌の智巧的になつたこともこれ(439)と關聯がある。
 けれども「ざえ」のみでは不足である。そこで「たましひ」の必要が考へられた。大鏡を見ると「たましひ」の語のほかに「心だましひ」、「せけんだましひ」、「やまとだましひ」、などの稱呼があつて、それらは何れも同じ意義をもつもののやうであり、「やまとごころ」もそれと同じに用ゐられてゐるやうである。源語に「ざえをもととしてこそやまとだましひの世に用ゐらるゝかたも強うはべらめ」(少女)とある如く、「ざえ」に對する「たましひ」に特に「やまと」の語を冠するのは、「ざえ」の主なるものがシナから學ばれたものであるために、それに對してのことであらう。倭魂漢才の語がこの時代にあつたかどうかは明かでなく、この語の見える菅家遺誡の眞僞は問題であるが、これだけのことはいはれよう。さうしてその「たましひ」は、世に處する才幹といふほどのことである。或は「ざえ」を「ざえ」として活用する能力もそれに含まれてゐるであらう(源語繪合參照)。「ざえ」の方からいふと、それのあることによつて「たましひ」のはたらきも強められるのであるが、「ざえ」をはたらかせるのは「たましひ」である。それは他から學ぶことのできない、その人自身に具へてゐる、能力である。宇津保(祭の使)に學生秀房に對する「たましひ」の有無の評があり、源語(少女)に夕霧の教育に就いて「ざえ」と「たましひ」との關係を説いてゐるのも、この意味でなければならぬ。大鏡(卷八)に高麗人が時平を相して「心だましひかしこし」といつたとあり、同じ書(卷四)に兄の爲平親王を越えて弟の圓融天皇が太子に立たせられた事情を記し、「御をぢたちのたましひ深く非道に御弟をばひき越し申させ……」とあり、また他のところ(卷七)で「心だましひ」について「たけし」といふ語を用ゐてあるのは、少しくこれとは違つた意義のことのやうであるが、それとても世に處し事を行ふ才幹智(440)謀もしくは手腕をいふのであり、「ざえ」はそのために利用せられるのである。要するに「ざえ」と「たましひ」とは知識技能と處世上の才幹とのことであり、平安朝人は容貌の外には何を措いてもこの二つを尊んだのである。(「やまとだましひ」または「やまとごころ」は後世の用語例とは全く違つてゐて、國民的精神といふやうな意義は少しも含まれてゐない。)
 如何なる世に於いても知識技能は尊ぶべきものの一つである。けれども既に成立してゐる異國の文物を學習して來た我が國に於いては、一般に他から學び得るものとしての知識技能を重要視し、從つてすべての方面にさういふ「ざえ」の尚ばれる傾向の生ずる特殊の由來がある。「ざえ」が漢才といはれるやうになるのも、かゝる由來があるためである。現實の生活に於いては「ざえ」は必しもシナ傳來の知識技能のみではなく、特に文藝に於いてさうであつて、和歌はいふまでもなく、手かくこと繪かくこと管絃歌舞なども、我が國に特殊なものである。けれどもなほ、思想の上では、シナ傳來のものが重んぜられてゐる。枕册子に唐の皇帝が我が國を討ち取らうとして我が國人の才をさまざまに試驗した結果、「日本は賢かりけり」といつてその計畫を棄てたといふ話があるが、これは當時の人の才を重んじたこと、またそれがシナを標準としたものであることの好い證據である。(後世の謠曲白樂天の着想はこれを繼承したものであらう。)特に才の基本的なものはシナの學問とせられてゐるが、そのシナの學問はその特質として生活の裝飾たるに過ぎないものであると共に、わが日本人にとつては現實の生活から遊離したもの、またはその妨げになるところの多いものでもある。シナの文字シナ人の學問のしかたがそれを證する。かういふ學問によつて得られる知識技能は、自己の知識的欲求によつて日本人みづから造り出したものではなくして、他から與へられたものである。(441)だからそれは、當時の状態に於いて官位を得るためまたは貴族的文化社會に立ちまじるための、方便としてその效果はあるにしても、世に處するための才幹すら、それによつて多く養はれるところが無い。特に地位が高く世を動かす力をもつてゐるものに於いてさうであるので、かゝる身分のものはいはゆる本才に力を注ぐには及ばぬといはれてゐるのでも、それはわかる(源語繪合)。そこに「たましひ」の必要があるのである。權勢地位の競争の激しい社會に於いてその間に優位を占めるには、それが無くてはならぬのである。
 しかし、平安朝人に知識技能、特に上記の如き性質の學問の尊ばれたことには、彼等の情生活が深さと強さとを缺いてゐたためでもあつた。それは情生活の表現であるべき藝術に於いて、智巧的要素が勝つてゐるのでもわかる。特に不思議に感ぜられるのは、當時の人が音樂らしい音樂を有つてゐなかつたことである。唐高麗の樂と舞とはある。けれどもそれは、音と舞容との官能美とそれに對する技巧上の興味とが主になつてゐて、情生活の表現としては殆ど無意味なものである。しかしそれで滿足してゐたのは、情生活そのものに樂として表現しなければならぬほどな力強いものが無かつたからではあるまいか。聲樂としての歌謠が殆ど無かつたといつてもよいのも、やはりこのためであらう。物語及び繪畫にも寫實的のもののみが發達し、短歌といふ抒情詩から起りまたそれにふさはしい形を有つてゐるものがありながら、それに智巧に墮したものが多くなつたのも、また同じ事情から來てゐる。萬葉の長歌には、シナの神仙説の翻案ではあるが、なほ浦島などの傳奇物語があつた。しかし平安朝になつてからは、さういふものが生まれなかつた。神代の物語などが詩の題材として取扱はれるやうなことも無かつた。これは前に述べた如く、平安朝人が自己の世界、自己の生活、を無上のものとして、それに滿足しそれを誇つてゐたからではあるが、またロマンス(442)となつて現はれるやうな情生活の高潮が無く、またさういふ奔放な想像力を湧き出させるだけの情の泉の深さが無かつたからでもある。もつともこれには、見聞が狹いので、さういふ想像の材料となるものが無かつたのも一原因であらう。平安朝人の藝術は、概していふとかういふ風なものであつた。上記の如き「ざえ」の重んぜられたのは、この事實と照應するものであらう。さうして處世上の才幹としての「たましひ」も、見やうによつてはそれに伴ひ得べきものである。
 けれどもかういふ「ざえ」と「たましひ」とだけで世の中が成りたつてゆくかどうか。そこで考へられることは、一つは「なさけ」であり、一つは特殊の教養を形づくりもしまたそれによつて形づくられもする、平安朝人の生活態度に伴ふ特殊の情趣、その情趣の釀し出す彼等の社會の雰圍氣である。「なさけ」については既に上に述べた。そのはたらきには制限があるけれども、はたらきをしてゐることは事實である。教養の性質もまた既に説いた。それは遊戯的でもあり、その情趣は優雅でも繊弱でもあるが、ともかくもそこに教養とその力とがあり、さうして教養の無いものはその社會に生存することができないだけの權威を、それみづから有つてゐる。或はその教養によつて作られた社會の雰圍氣は、その裡に生活するものをその特殊の情趣に同化させる。かくして平安朝の貴族的社會とその生活とが成りたつのであつた。たゞその「なさけ」には理性のはたらきが伴はず、また道徳性が乏しい。外面的の知識が重んぜられ智能が尊ばれたけれども、理性といふべきものは、もと/\養はれてゐないし、「なさけ」に或る道徳的情操は含まれてゐても、道徳的責務が明かに自覺せられてはゐない。平安朝人の好尚が「なさけだちたるすぢ」(源語(443)初音)に向つて發達し、情趣の濃かなることを尊んだのと、社會意識、公共生活集團生活の意識、の無いのと、また事業欲が無く、ひたすらに享受をのみ求める生活態度とが、彼等の心情をかういふ風にさせたのであらう。また平安朝人の教養の根柢にはそれを可能にする權勢と地位と富とが無くてはならず、それがためには「たましひ」のたけきことが要求せられる。だから「なさけ」には制限があり、教養はともすればそれに特殊な情趣を失ふ。優雅と粗野と、「なさけ」と我慾と、の混合はかくして生じ、そこにこの杜會の弱點がある。もつとも、榮華物語や大鏡のところどころに道理といふ語が用ゐてあり、天道といふのもあつて、それはこの時代からいはれてゐたことであらうと思はれるが、その道理といふのは、世間の習慣または多數人の常識として人がそれに從ふべきものといふほどの意義、天道は人の行を見てゐる神といふのとほゞ同じであるらしく解せられ、何れも道徳的意義を含んではゐるが、それは自己から出るものではなく、また嚴格性をもたない。非も理*にせられる「山科道理」といふものがあるとさへいはれてゐる(大鏡卷七)。なほ世間の評判、人の口、といふものに或る力を感じてゐたことが源語などによつても知られ、榮華物語や大鏡にも見えてゐるが、一般にかういふものの性質として氣まゝなところがある。だから、これらのことが平安朝人の行動に或る規制を加へてゐたことは考へられるが、それは彼等の生活を道徳的に精練するに足るものではなかつた。また上に戀愛生活についていつた如き或る程度の自己省察は生じてゐるし、物語の作られたことに一種の批判的精神の現はれが見え、特に源語の筆致には往々一種の嘲笑の態度さへもあり、また權勢や富のはたらきについても、大鏡の記載として次篇でいふやうな考へかたをするものは、この時代にもあつたであらう。しかしそれには平安朝人の生活を新しい方向に展開させるやうな力が無かつた。物語の製作の如きは、むしろ彼等の生活の特殊な情趣(444)を一層固めるのみであつた。ところがこの情趣には、一種のしめやかな、あはれつぼい、氣分が伴つてゐた。
 
 平安朝の貴族は、彼等みづからの社合を無上のものとし、その間に於ける彼等みづからの生活を誇りとしてゐたが、その生活は遊戯的享樂的傾向を帶びたものであつた。しかし文藝の上に現はれてゐるところを見ると、その生活は遊戯的ではあるが快活ではなく、その事樂主義にも陰氣な薄ら寒い影の伴つてゐることに氣がつく。明るい太陽の光に照らされた暖い空氣を滿分に吸ひこむのではなくして、蒼白い月のさす冷い盃の酒をそつと嘗めるのである(實際彼等は晝よりも夜を好んだらしく、宴飲遊興は概ね夜間に行はれた)。例へば歌を讀んでみる。彼等の歌は戀歌ですらも戀の歡樂を歌つたものが殆ど無い。その男女の贈答唱和は、外形からいへば言葉じりを捕へた駄酒落のやりとりであるが、内容からいへば、男は逢はぬつらさ、女は行末のおぼつかなさである。自然界を詠じた歌でも朗かな聲高い響を聞くことは稀である。歡樂の象徴は春の花であるが、それに對しても「年の中はみな春ながら暮れななむ花みてだにも憂き世すぐさむ」(拾遺春)のやうに、花さく春に對する希求が甚だ生まぬるい。「暮れてまた明日とだになき春の日を花のかげにてけふはくらさむ」(後撰春躬恆)。その底に悲傷のひゞきがある。歡樂の歌の調子の低いのを見るがよい。また彼等の音樂は初から抒情的のものでなく、催馬樂のやうな聲樂でさへも、歌の内容とは關係の無い旋律になつてしまつてゐるが、その聲音や形の上に表はれる情趣からいつても、細い堅い笛のね、濁を帶びた繊弱な笙の音色、聲は鋭いが胡笳の遺音のさこそとしのばれる悲しげな篳篥、力の無い箏、琵琶、樂の節度を支配する力はもつてゐるが物かげでこそ/\と打つてゐるらしい鞨鼓、樂曲の大部分に於いてはその緩慢な節度、地を匍つてゐるや(445)うな旋律。何處にも晴れやかな生き/\とした表現は認めがたいではないか。それは恰も短檠の光ほのくらき殿上の夜の御遊にふさはしい音樂である。舞樂に於いても、緩かな肢體の曲線的運動や舞袖の靜かに翻るのが、規矩に適ひ節度に合つて優雅な趣を具へてゐるし、樂の急調に達する時には、かなり活?な動作ともなるが、全體から見ると、力強い點は少い。太平樂や陵王の如き武ばつたものでも、太平を扮飾する武人の面影がある。繪畫でもさうである。その女が、時の習俗を寫したものである以上、髪の長い「おんぞがち」な風姿であり、またその女はもとより男とても、よし後世の大和繪の「ひき目かぎ鼻」でないにせよ、顔面に表情らしいものの殆ど無かつたらうといふことは、物語の人物の描寫からも想像せられる。つくりゑの色彩は美しいけれど、機械的に塗抹した力の無いものであつたらう。墨繪の筆勢も流暢なだけであつたらしい。かういふ趣味が藝術に現はれてゐるのは、平安朝人に快活な明朗な氣風が無かつたことを示すもので、從つて彼等の享樂主義にもまた同樣の傾向があつたことを想像しなければならぬ。要 るに彼等の歡樂は男性的でなく女性的であつた。陽氣でなく陰氣であつた。これは何故であらうか。
 歡樂を追うて走るものの後に哀愁の影の伴ふことはいふまでもない。こゝに普遍的の事實として歡樂を彩る悲哀の色の一つの由來がある。身の老を歎くなども同樣の心理で、「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」(古今雜)といふやうに、樂しかつた青春の昔を思ふと、老の今が坐ろに哀れである。さうなれば「おほ荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめずかる人もなし」(同上)。惆悵として孤獨の寂しさを歎ぜねばならぬ。しかし老は人の常である。老の何時かは來るがために、青春の樂みが不十分であるとはいはれぬ。歌樂の後に哀情が起つても、歡樂はどこまでも歡樂である。だからこれは歡樂に悲哀の調を帶びてゐる重大な理由とはならぬ。
(446) 更に考へる。平安朝人は、一つはそのシナ風の禮文主義のため、一つはその貴族的文化の優越を誇るために、擧止動作の上に特殊の教養があつた。政務といふものに儀禮の重んぜられたと同樣、彼等の日常生活にも「ほど」を失はぬ用意が深かつた。戀を語るさへ「さまよきほどに」いはねばならぬ(現語浮舟)。醉うても病んでも容儀を亂さぬのが賞揚せられたことは、既に述べた。かゝる教養が歡樂の享受に於いても、奔放な、情の趨くまゝの、行動を許さなかつたことはいふまでもない。彼等は笑ふにも口を開いて笑ふことができない。泣くにも聲を揚げては叫ばれず、「さくりもよゝ」と忍びねに泣かぬばならなかつた。或は「さまよきほどにおし拭」はねばならなかつたのである(源語槿)。(粗野を惡む結果は、おのづから貧を疎んじ醜を疎んじ老を疎んずるやうになる。だから平安朝人の老者病者を嫌つたのは、必しも無情とか殘酷とかいふ點からばかり評せらるべきものではなく、老いさらぼいた身、病んだ姿の、容儀の失せたのを淺ましく思つたといふ理由もあらう。容貌の美を特に尚んだのも同一事情である。)或はまた當時の貴公子の戀のあひては、几帳のかげに深くかくれてゐる女である。その女は身を動かすことは固より、ことばをさへも明かにはいひ得ぬやうにしつけられてゐる。死んだもののやうに靜かな女をあひての戀が、陰氣でなくてどうならう。さうして、さういふ女に通ふにはどこまでも人目をつゝまねばならぬ。かゝる窮屈な戀に快活な感じは起らなからう。
 また思ふ。彼等の遊戯饗宴は、歌合なり繪合なり草合なり或は管絃なり、すべてが室内的で而も肢體を動かすことの無いものである。かういふ生活に快活な調子の出ないのは當然であらう。或はまた彼等の社會は、廣くいへば一人の權家を中心として、多くの貴族がそれをとりまいてゐるもの、狹くいへば自己を中心として、それを妻妾婢僕の圍(447)繞してゐるものである。從つてその社會に行はれる遊宴嬉戯の、畢竟一人を樂しませるために過ぎぬ。他人の歡樂の具に供せらるるものに滿分の歡樂は無い。また或は考へる。彼等は前章に述べたやうに才智を尚んだのであるが、かういふ表面の才能知識に眞率な放膽な態度が伴ひかねるものであることは、われ/\の日常の經驗で十分に知ることができる。情に任せ我を忘れて歡樂を追求するには、彼等はあまりに悧巧であつた。その享樂主義が快活の色を帶びなかつた一理由はこゝにもあらう。
 また思ふ。彼等は容儀を尊んだのであるが、容儀を修めるのは要するに他人に對して自己を高く標置し、自己を誇ることである。容儀についてすらもさうであるから、すべての行に就いて「人わらへ」なるを嫌つた。我を忘れ世を忘れるのが常であるべき戀についてでも、なほ我と世とを忘れることのできなかつたのが平安朝人である。彼等の得意は自己を世に認めさせるところにあり、彼等の失意は世の自己を認めざるところにある。どこまでも自己を忘れることができないのであるから、彼等は萬事を放却して歡樂の淵に身を投ずることが無い。更にまた考へる。狹い世界の勢力競争に勝者は少く敗者は多い。多い敗者の吐く悲痛の氣息は世界の全體に哀傷の氣を漲らせる。戀とてもさうである。戀すとて苟に女に戯れる男が多いから、男に捨てられて人を恨み身を恨む女も多い。その恨みは世の戀をする女、戀をせぬ女、の胸に深く喰ひ込む。捨てらるべき運命を覺悟せねばならぬ戀に、悲哀の調子があるのは當然であらう。
 しかし、これら幾多の理由よりも更に根本的なのは、平安朝人が根柢に於いて情熱に乏しく意志が弱かつたことである。國民として何等の爲すべきことがなく、個人としても何等の事業欲がなく、さうして平安京の都會的文化に蒸(448)されて、體力も衰弱し精神も萎靡した彼等は、何事に對しても、坐つてゐて向ふから來るものを享受しようとするのみで、みづから進んで取ることは夢にも想はなかつた。換言すれば、眼前刻下の榮華を受用することをのみ希求して、一歩を現状より進めて新しい自己を作り新しい世界を開拓する意氣が無かつた。現在の生活に滿足しその間に得意の鼻を蠢かすものは、自己を超越し當代を超越する必要も認めず衝動もない。だから情熱の火は燃えず、意志の力も無い。得意の人もその得意の境遇は自己の人格、自己の努力、から作り出したのではなく、失意の人も自己の過失、自己の缺陷、または自己の罪惡、からそれを招いたのではない。要するに何れも他から與へられた運命である。自己の關與するところなく、また自己の如何ともすべからざる運命である。榮華の極度、權勢の頂點、は皇室の外戚となるのであるが、外戚となるを得ると否とは後宮にすゝめたその女の皇子を生みまゐらせると否とにあり、皇子を生みまゐらせると否とは人力の左右することのできない運命といふより外は無い。榮華の表象たる外戚の地位がかくの如き運命によつて決せられるとすれば、當時の思想の傾向は察せられる。源氏のあの榮華の生涯も、また決して彼みづからの力によつて開いたのではなくして、全く皇子たる地位、特に父帝の愛兒であつたことと、その生れながらの美貌との故である。得意の境遇がさうであれば失意の場合もまた同じである。源氏の須磨の謫居も、本來、彼みづからの罪ではなくして、その母に對する權家の嫉妬の故であり、源氏にとつては動かし難い運命であつた。既に運命であれば坐してその來たるに任せる外は無い。謫居が運命なら歸京も同じく運命である。天外から下り來つた偶然の蓮命である。彼等は運命の力を絶對不可抗のものと觀じて、初からそれに抵抗することをせず、またみづから我が行路を開いてゆくことを知らなかつたのである。
(449) さて如何ともなし難き運命をしておのれに利あらしめようとするには、超人間の力をかりねばならぬ。だから祈?と修法とを頼みにするのである。祈?佛教は是に於いてかその暴威を逞しくし、僧徒はこれによつて利を貪らうとしたから、ます/\この風潮を促進した。中宮や女御の父母が皇子の誕生を祈る場合はいふまでもなく、病氣平癒のためにも官位昇進のためにも、さては戀にも和歌を暗誦するにも、修法祈?をしたのである(宇津保菊宴、枕册子など)。
 もつとも、かういふ思想が養はれたのには佛教の宿命説も興つて力がある。「何ごとも御宿世にてこそあらめ」(源語浮舟)といひ、「みなさるべきにこそあらめ」(同柏木)といひ、「宿世といふことひくかた遲れわびぬることなり」(同夕霧)といひ、人生の運命を過去の業因に歸するのは分明に佛教思想である。しかし佛教の宿命親が無くても、當時の社會状態は、平安朝人に運命の不可抗力を信じさせ、苟にもそれに反抗する意志を棄てさせるには十分であつた。かくの如く意志無く活動なきものの世界が、いかに調子の低いものであるかはいふまでもなく、人の力の頼りなきを觀じてゐるものが、歡樂の甘い盃に悲哀の苦い味を感知するのは當然である。(運命といふことは人生を思索するものの必ず逢着する觀念である。けれども平安朝人は廣い人類の上から見たのでも、深い人生の根本から考へたのでもなく、たゞ自己の現在の盛衰浮沈についての感じである。從つて運命に泣く涙は極めて利己的のものに過ぎない。)
 人の生活を宿命によつて解釋し運命を不可抗力と見るのは、人間の意志を拒否するもので、意志の無いところに行爲の遺徳的責任もなく、また人の性格も無い。この故に平安朝人には是非善惡の觀念が明かでなく、たゞ幸と不幸との思想、快樂と苦痛との感情があるばかりである。だから彼等は何事をしても自己の道徳的責任を感ずることがなく、(450)たゞその行爲の結果として自己の身の上に落ちて來る幸と不幸とは對して、一喜一憂するのみである。源語の浮舟が波のよる/\右にも傾き左にも傾いて、われとわが苦しみの種を蒔きながら、わが行爲の責任については何の顧るところも無く、また當面に落ちて來た運命に對しては、自分でどうすることもできず、たゞ泣きに泣いて身を宇治川に投げようとしたのは、かういふ平安朝人の生活氣分を最もよく示すものであらう。意志の無いもの、自己の力で自己を造つてゆくことのできないもの、運命に對しては些の抵抗もできないものは、その運命に弄ばれて失敗した時、ひたすらにやるせのない悲哀に沈む外は無いのである。他人から見ればたゞ愍然である。ところが自己で自己を造らうとして運命に對して奮闘努力し、自己の道徳的操守を飽くまでも貫かうとする人間は、よし力敵せずして失敗することがあつても、我は我が事をなしたといふ滿足がある。我が渾身の力を用ゐ盡した後の愉快がある。或は我をどこまでも我として樹立したといふところに一種崇高の感がある。他人から見れば壯烈である。けれどもこれは平安朝人の思ひもよらなかつた境界である。貴族文化都會文化の間に於ける長い間の遊戯生活享樂生活は、彼等の生活氣分をかゝるものたらしめた。だから陰氣な、しめつぼい、空氣がこの貴族生活につきまとつてゐるのであつて、貴族文化の發達と共にそれがます/\濃くなつて來たのである。平安朝の貴族はたゞ世に順應してかゝる生活を享樂することにのみ志を向け、「ざえ」も「たましひ」もそのためにのみはたらかせた。權勢を求めるについて「たましひ」のたけきものも現實にはあつたが、それとてもかゝる生活のためであつたから、それも畢竟同じ氣分の變つた現はれに過ぎない。それに對する省察なり批判なりのせられるのは少數の人または特殊の場合のことであつて、一般には力の無いものであり、また一面にそれがありながら、他面ではやはり同じ氣分にひたるのが多くの人また普通の場合の状態であつた。(451)さうしてそこに平安朝人の生活の特殊の情趣があつた。
 この遺族文化の頂點に於いて現はれた源氏物語の一篇は、運命の力と人の頼りなさとを遺憾なく示したものである。宇津保の長篇がなほ竹取物語の系統をひいて、單に一人の女に對する多くの求婚者の競爭を寫した戀愛小説であるのとは違つて、源語は戀愛生活と權力競爭との間に、全體としての平安朝人を髣髴させてゐる。源氏はその美貌と才と情と、井に先帝の愛兒であるといふその地位とのために無上の幸福を得、人生の希求し得べき限りの榮華を縦にした。彼は當代の理想的人物であると共に、彼の境遇もまた理想的境遇であつた。彼は一代の權勢をおのれに集め、なさんとしてなし能はざることなく、求めて得ざることなき地位にあつた。彼はあらゆる婦人を動かし得たほど男としては得意の境遇にゐた。しかしながら、かゝる理想的境遇にゐた理想的人物も悲哀の運命を免れることができぬ。女三の宮と柏木との物のまぎれに不如意の影がさし初め、紫の上の逝去は彼のかゞやける光を曇らせ、終には彼みづからもその黒い雲の裡に隱れねばならなくなつた。さうして彼の死後、その子どもたちも多くは悲哀の運命に泣かねばならぬやうになつた。宇治十帖の上にはかういふはかなげな空氣が常に漂つてゐるではないか。源氏の如き理想的境遇にゐた理想的人物ですらさうである。ましてさうでない多數のものの運命はいふにも及ばぬ。源氏物語の一篇は、要するに人生のはかないこと、そのはかない運命には何人も抵抗すべからざることを示したものである。源氏の花やかな歡樂の舞臺にも、その背後には常に一抹の寂しさがつきまとつてゐるのはこれがためである。源氏の生れたのが既に悲哀の空氣の裡に於いてであつた。桐壺の一篇は通篇涙を以て充たされてゐる。たゞその涙のうちから源氏一代の榮華が導き出されてゐるが、その榮華はかくの如きものであつた。さうしてこの源氏物語が平安朝盛期の寫實小説であ(452)り、平安朝人の情思を表現したものとすれば、主人公源氏の運命は、やがて平安朝貴族の運命、平安朝文化の運命ではなからうか。源氏の權勢は即ち藤氏の權勢である。源氏の榮華は即ち藤氏の榮華である。源氏の權勢と榮華とが遂に悲哀の運命に陷つたのは、即ちまた藤氏の權勢と榮華とそれによつて發達した貴族文化とが、同一の運命に會しなければならぬことを示すものではないか。源氏物語の一篇は平安朝の貴族文化が勢極まつて、終に一轉すべき蓮命を暗示したものでなくて何であらう。
 
(453)   第三篇 貴族文學の沈滞時代
 
       長元ころから承久ころまでの約二百年間
 
     第一章 文化の大勢
 
 藤原氏の權力と共に特殊の發達をした平安朝の貴族的文化は、道長の時代に至つて絶頂に逢した。さうして藤原氏がこの上さらにその權力を高める餘地が無くなつたと共に、この文化もまたもう發達することができなくなつた。さうして沈滞しはじめた。すべての點に於いて生氣が衰へ活力が弱つた。進めるだけ推し進めた力が勢盡きて、内部から萎縮し初めたのである。なぜ萎縮したかといふと貴族的だからである。狹い社會に同じやうな思想と感情とを有つてゐるものばかりが集まつてゐて、その社會が世界の全體だと考へてゐる都會の文化、國民生活の基礎の上に立つてゐない貴族の文化であつて、而も全體としての國民文化といふものが成りたつてゐなかつたからである。さうしてまた外國の形勢とその文化との刺戟をうけることが無い孤立的状態の下にあり、國家として國民としてなすべき事業が無かつたからである。當時の貴族は權力の競爭と官能的快樂の享受とに氣衰へ力盡き、新しい途を開いて新しい事業を行はうといふ意欲もなく、またそれを導き出す新しい目あても無いのみならず、新しい方面から新しい榮養を得てその氣力を補ふこともできなかつた。だから彼等は、酒精中毒の患者が酒を廢することのできないやうに、爛熟した(454)文化に飽滿しながら、やはりそれに耽溺しようとするか、さもなくば些ばかりの目さきの變化を求めて、その弱々しい神經を刺戟させ、それによつて纔かにはかない自己の生存を認めようとするか、この二つの外はないのである。だから彼等の文化は停滯するばかりである。或は幾らかの奇異なものを求めて邪路に陷るのみである。
 貴族文化の停滯は、朝廷を中心として行はれて來た儀禮などが漸次衰へるやうになつたことでも知られる。これは朝廷または貴族の經濟上の事由にもよることであつたらうが、この點からも考へらるべきことである。當時の公卿の日記を見ると、その大部分を占めまた最も重要視せられてゐるのは朝廷の儀禮であり、政務の取扱ひ方もまた半ば儀禮化せられてゐることがわかるが、それについては何事にも先例の重んぜられることが著しく目につく。これは先例を破つてゆかねばならぬやうな生き/\とした生活の無かつたことを示すものである。實生活が動いてゐて新しい事業が常に起つてゆく場合には、先例は破つてゆかねばならぬからである。實務に關係の無い儀禮は、儀禮の性質上、先例の重んぜられるのが當然であるが、それとても一言一行が盡く先例に束縛せられると、儀禮が生きた儀禮でなくなる。政務に先例を重んずるに至つては、先例を破らねばならぬやうな政務が無かつたからでもあるが、それは政務が斷えず動いてゐる國民生活と無關係なものであつたからであり、さうしてまたそれは、貴族輩が現實の國民生活の動きを感知することができなかつたからである。また儀禮の重要なる一面をなしてゐる奏樂を見ると、後冷泉天皇のころには御遊などさへ昔のやうには行はれず(今鏡賢き道々)、その御遊の曲目も何時のまにか三四のものに固定してしまひ、堀河院の時に神樂の其駒を知つてゐる殿上人が無く(著聞集)、胡飲酒と採桑老とが一時樂人の間に絶えた(今鏡新枕)、といふやうなことによつても、それが知られる。樂器なども尺八とか大篳篥とか琴とかいふものは(455)絶えてしまつた。演奏せられる樂曲がわづかのものに一定し、またそれが一二の少數者の間にのみ傳授せられてゐたのは、さうでなくとも國民藝術とはいはれない音樂が、もはや貴族社會の娯樂ですらなくなつたことを示すものであり、また朝廷の儀禮や節會が弛廢したことを示すものであつて、これは必しも堀川院時代に始まつたことではなく、また音樂ばかりのことでもあるまい。これには經濟上の理由もあつたらうが、それのみではなく、宮廷を中心とした貴族生活そのものの性質から來たことである。儀禮などと關係のない文學もまた同じやうに停滯してゐる。歌も物語も動きがつかなくなつた。勅撰集の沙汰も久しく聞こえず、歌風は力の無いものになり、物語も源語以上もしくは以外に出ることができなかつた。
 停滯してゐるもの衰へてゐるものの眼には、灰色の現在を透して過去の活氣ある生活が金色まばゆく輝いて見える。彼等は現在には滿足しないが、前途に希望をかけずして過去の夢を追うてゐる。道長時代の現世無上主義は一轉して過去崇拜となつた。榮華物語はこゝに於いてか作られたのである。しかし過ぎ去つた昔には再び歸ることができない。そこでせめては昔のものをそのまゝに保存したいと思ふ。物語は摸倣のみである。歌にも師弟ができた。(歌についての師弟が長能と能困とに始まつたといふ傳説は必しも信じ難いが、ほゞこの時代からのことと見て大なる誤はなからう。)樂には傳授といふことが行はれた。何事につけても故實を尚ぶ外は無い(今鏡白川のわたり)。もし一歩をその外に轉じようとすれば、それは曾丹の歌、物語では狹衣の天稚御子、濱松の唐の朝廷、の挿話の類であつて、用語や局部の構想やに些少の奇を求めるばかり、全體としては何等の新しさが無いものである。平等院の建築には新意匠が加はつてゐようが、概言すればこれと同じ傾向に過ぎないのではあるまいか。風俗の上からいふと、「車に乘る人(456)の衣の數すべて十五」(榮華日蔭のかつら)といひ、「人一人がいくつを着るべきにかあらん」(同わかばえ)といはれ、裳に金銀を鏤め鏡をつける(今鏡白河の花の宴)といふやうに、貴族の好尚として最も大切な「ほど」を過きた無風流の豪奢となつたのは、新しい服裝を案出することができないから、かういふことをして纔かに目さきを變へたのであつて、やはり同じ心理の現はれである。
 
 文化の沈滯と共に藤原氏自身も、後三條天皇の即位といふ偶然の事情によつて、外戚の地位を失ひ、その地位によつて有つてゐた權力に大なる損傷を蒙つた。天皇の英資もそれにはたらいたであらう。さうして一旦傷ついたものは再びもとどほりになることがむつかしい。勿論、頼通の子孫は後までも攝關の名を有つてゐるので、社會的地位は依然として持續せられ、また莊園を基礎とするその富にもそのためにはさして大きい損失をうけなかつたらうが、莊園の與奪と任官との實權を失つた彼等は、受領を頤使し武門を爪牙とする力が無くなつたので、この點に於いて彼等の勢威と利益とは大なる打撃を蒙つた。師實以後はもはや前のやうな勢で寺を建てたり別莊を經營したりすることもできなくなつた。さういふ力は、廣くいへば皇室にであるが、狹くいへば新に生じた院の手に、移つた。
 院政の生じた理由にはいろ/\あつて、初には先帝からうけつがれた白河天皇の親政の繼續といふ意味もあつたらうが、一度行はれると後にはそれが慣例となる。また幼主を立てる習ひから生じたことでもあり、或はそれを成りたたせた原因ともなつてゐる、或る皇子を早く位に即けまゐらせようといふ欲求が、その時々の種々の事情の下にあつたことも考へられる。堀河天皇の即位は八歳、鳥羽天皇と崇徳天皇とは共に五歳の御時であるが、かゝる幼少の皇子(457)に位を讓られたのである。しかしさうなると何人かが政務を執らねばならぬが、攝關の地位と外戚の家とは分離して居り、また攝關に對抗するだけの力のある外戚もない。下りゐのみかどが政を視そなはせられるやうになつたことには、かういふ事情もあつたらう。さうしてその根柢には、天皇は親ら政治の局に當られないといふ、昔から歴史的に馴致せられて來た、一種の不文律ともいふべきものがあつたことを考へねばならぬ。形の上からいふと、上皇が政務を執られるのは、聖徳太子や中大兄皇子などが政局に當られたと同じであつて、一は上皇であり他は皇子であるのと、時の天皇が一は幼少であり他は女性であられたのとの違ひがあるのみである。さうしてこの違ひは時の情勢とそれを導き出した歴史的徑路との違ひから來てゐる。しかしこの時代には、政務といつても畢竟、從來攝關であつたものが行つてゐた莊園の處置と任官との外には殆ど何ごとも無いから、攝關政治が行はれなくなつても新に制度を立てるほどの必要は無く、自然に馴致せられて來た攝關政治の形をそのまゝ繼承すればよい。院政は即ちそれである。事實、前には攝關の家に阿諛してゐた受領どもが、院宣によつて宮殿寺院を建築する資力を獻ずるやうになつたこと、前には攝關の走狗であつた武士が、これからは院の命を奉ずるやうになつたこと、何れも院が昔の攝關の地位を繼承してゐたことを示すものであらう。だから院政になつても新しい經綸は何も行はれない。事を構へて暴動を起し朝廷を脅かすことをさへ常にする僧兵を、鎭壓することすらできなかつた。
 院政が前代の攝關政治と同一の性質であるとすれば、その文化上の地位もまた同樣であるべきはずである。語を換へていふと、貴族文化の中心が攝關の家から院中に移つたので、白川や鳥羽に離宮が設けられ、またそこに壯麗な寺院の建てられたのは、恰も道長や頼通が立派な邸宅を鴨川の畔や宇治に構へ、またそこに法成寺や平等院を建てたと(458)同一である。(白川の法勝寺はまだ院政にならない前の經營であるが、時代の推移からいふと院政時代の初めのものとして取扱ひ得られよう。)たゞ地位は同じでも人が改まつたのと、何かしなくてはゐられないといふ人としての内的衝動があるのとのため、そこに幾らかの活氣が現はれて、久しく沈滞してゐた文化がやゝ動き出した。けれども同じ貴族文化である以上、文化の性質が根本から變るのではない。だから院政時代の文化の傾向は、衰へて來たものをもとの状態に復さうとするのか、さもなくばそれに少しばかり目さきをかへようとして奇僻に陷るか、この二つの外は無い。歌集の勅撰が行はれたのも歌合などが盛になつたのも、また基俊によつて代表せられる保守的歌學の起つたのも、みなこの復興的運動であつて、崇徳天皇にも宮廷の儀禮などを古に復さうといふ御考があつたらしい(今鏡春のしらべ)。さうしてこの儀禮の復興計畫は頼長や通憲に至るまでずつと系統をひいてゐる。法勝寺などの建築もやはり一種の復興的精神の發現と見られる。儉約の後三條天皇も質素ながら宗圓寺を建てられた。まして離宮や寺院の建築ぐらゐより外に力を用ゐることが無かつた當時、白河天皇以後に至つて再び土木が盛になつたのは當然である。さてその法勝寺の八角九重の塔や、得長壽院やまた後の蓮華王院の無恰好に細長い殿堂などは、俊頼の歌、濱松、とりかへぼや物語、または殿上の管絃の御遊に打物を加へる堀河天皇のころの音樂上の運動と共に、少しく新奇を求めたものである。(八角の塔はシナに模範があつたが。)かの花園左大臣から始まつて忽ち世に流行した烏帽子や装束の新意匠も、また同樣の現象である。奇僻ともいふべき強裝束に當時の人心の趨向が現はれてゐるのではなからうか。しかしともかくも、彼冷泉院ころの沈滯時期に比べると、幾らかの活動がすべての方面に行はれて來たことは、明かである。
(459) けれどもこの活動は、たゞ在來の人工的なものの上にます/\人口を加へるだけのことであり、いよ/\虚飾の度を増してゆくのみである。かういふ風にして強ひて古を凌がうとしても、内に活力の充實してゐないのは一時の目を眩ますばかりである。道長時代の文化が春の花の艶に美しいのならば、これは秋の夕日に映える紅葉の色で、蕭殺の氣が既にその裡に充ちてゐる。だから文運の大局から見れば、やはり退歩または停滯の時代であることは爭はれない。たゞ人は永く何事をもしないではゐられないから、沈滯の時期の後にはかういふ運動が行はれ、一轉しては表面上にいくらかの變化を求めるやうになつたまでである。特に和歌に至つては、それが因襲的風尚であるといふことの外に、當時の貴族等が實世間に於いて何等の希望もなく事業も無いから、せめてかういふ遊戯世界に於いてでもそのかよわい力を用ゐようとする傾向があつたために、一層流行の度が加はつたらしい。前代ではなほ、權勢と地位とを得てできるだけの榮華を領略しようといふ意氣があつたけれども、意氣の衰へたこの時代にはさういふ方面の望みも少くなつたので、實世界以外にそのさゝやかな活動の舞臺を求めたと見るのも、無理ではあるまい。歌の上の競爭が激しくなり、神佛に祈つて名歌をよまうとするやうなことは、むかし必死の力を出して地位と權勢とのために競爭したのと同一の心理である。事實、これから後も、貴族が權力を失へば失ふほど歌の流行は盛になつてゆくのである。
 
 これは、勿論、貴族文化のことである。ところが貴族文化の萎靡して來たに乘じて、また貴族等が何の點かで新奇を求めるやうになつた氣運に乘じて、民衆文藝たる猿樂や田樂や今樣俚謠の類が、次第に頭を擡げて貴族等の社會に侵入するやうになつた。催馬樂などがもはや儀禮となつてしまつて娯樂の用をしなくなつたから、彼等も何かについ(460)てそれに代るものを見つけなくてはならなくなつた。けれどもみづからそれをつくり出す力は無い。そこへかういふものが現はれたので、それがおのづから歡迎せられたのである。またそれを學んでも、それをもとにして新しいものを作ることはできず、たゞそれを模倣するのみであつた。こゝにも無氣力な、創造力の無い、彼等の氣風が現はれてゐる。さて猿樂はシナ傳來の散樂から轉じて滑稽猥雜な一種のものまねとなつたものであるが、明衡の新猿樂記によると、彼の時代にはそれを職業とする專門の藝人があつて、都人士に愛顧せられたらしい。また田樂は農民の舞踊から起つたもので道長のころから既にその名があり、彼が田植をさせ田樂をさせて興がつたといふ話がある(榮華御裳着)。これは彼等貴族が生業を遊戯視してゐた一例ではあるが、他の方面から見ると貴族趣味とは異つた點に興趣がひかれたのであつて、後の田樂流行の先驅をなしたものといつてもよい。このころではこの田樂が、やはり散樂から傳はつた刀玉や高足などを取入れた一種の演藝になつてゐたらしく、郁芳門院もひどくそれを好まれたといひ、匡房の洛陽田樂記には貴族等が鼓舞跳梁して狂奔した状態が記してある。これは彼等貴族の粗野な一面を現はしたものではあるが、一時的のことながら、貴族に特有な優雅の風尚に對する誇りをすてたところに、彼等の社會におちつきの失はれたことを示すものでもある。
 また同じ匡房の傀儡子記に列記せられてゐるやうな種々の俚謠や今樣が、彼等の社會にもてはやされていつたことは、後白河院の梁塵秘抄口傳集によつて見ても明かである。院は最も熱心な今樣雜藝の愛好者で、遊女などをさへ宮中に召してそれを學ばせられたのである。(今樣はもとは寺院から出たものらしいが、それが遊女などの間に行はれるやうになれば、もはや民間演藝と見なさねばならぬ。)もつとも、民間の歌謠を採ることは昔も行はれたので、催(461)馬樂も神樂の歌曲の或るものもさうであるが、昔はその詞章をとつても樂としての曲節は漸次貴族化せられていつたが、この時はそれとは反對に、すべての點に於いて俚謠そのまゝを學んで少しも違はないやうにと苦心したのである。貴族等はもはや、民間の演藝をおのれ等の趣味に同化させるだけの力も無くなつたと見なければならぬ。彼等が過去を崇拜するのみならず、社會的地位の上からひどく賤んでゐる民衆の演藝をさへ歡迎するやうになつたのは、もはやおのれ等の文化を絶對のものとして誇ることができなくなつたことを示すものである。
 猿樂や田樂はこの時代にはかなり廣く行はれてゐたらしく、地方の神社の祭禮などには、それが種々のものによつて演ぜられたらしい。高倉院嚴島御幸記によると嚴島では女が田樂を演じてゐる。また後鳥羽院熊野御幸記に見える里神樂といふものも、宮中の神樂とは別のものであらう。かういふ種類の民間演藝は到るところに行はれてゐたらしいが、それがもとになつて新しい藝術が形成せられるやうにはならなかつたため、消えて無くなるかまたは民間に傳はつたまゝ時と共に變形するかしたので、今からその性質などを推測することもできない。たゞ猿樂のみが後に發達していはゆる能となつたのであるが、そのうちには種々の民間演藝も取入れられたらしい形跡がある。さてこれらのものの多くは本來地方人や民衆が貴族の演藝から學びとつたところのあるものであつて、純粹に民間から起つたものではないらしいから、性質からいふと新演藝の淵源といふよりも、寧ろ舊演藝のくづれたものといふべきである。琵琶法師の琵琶の如きもそれであるが、かの今樣や雜藝に於いてもほゞ同樣なことがいはれよう。近ごろ佐佐木信綱氏によつて公刊せられた梁塵秘抄の殘缺本に見える今樣の形式を有つてゐるものが、佛者の間から出たことはいふまでもなく、さうでないもの、例へば四句神歌の雜の部に入つてゐるものでも、形に於いて七五調が模倣せられ、内容に(462)於いて都會的氣分を帶びもしくは佛教的思想を詠じてゐるものが交つてゐるし、二句神歌には世に知られてゐる三十一音の短歌をそのまゝに、或はいくらかその詞を變へて、採つたものもかなりあつて、眞の民謠らしいものはむしろ少い。形に於いては今樣でもなく七五調でもなく、昔からの民謠と同じやうな無律格なものでも、その修辭なり思想なりには、ともすれば都會文化の面影が見える。畢竟このころの京人に知られた民間の謠ひものも、民族生活そのものの表現として見らるべきものは少く、從つてそこに稚氣のある、素朴な、しかし同時に力強い、といふやうなものが多くは見えない。全く無いといふのではなく、その情趣に於いてその表現法に於いて、民謠としての興味の深いものがいくらかはあるが、その數が少いのである。これは貴族文化の間に生活してゐる貴族に愛好せられたものとしては、當然であらう。民謠風のものでも民衆の口からそれを聞いたのではないからである。
 民間演藝が貴族社會に侵入したと共に、寺院に行はれた僧徒の演藝もまた次第に世間に出て來た。今樣が既にその一つであるが、猿樂の一種として演ぜられた咒師なども、もとは僧家のものであつたらしい。白拍子亂拍子なども、それが春日や熊野あたりで行はれたことを思ふと、この語はもと寺院樂の用語ではなかつたかと考へられ(後鳥羽院熊野御幸記、萬葉緯所載春日若宮神樂歌など)、從つて俗間で行はれるやうになつた白拍子の舞なども、宮廷の雅樂からではなく、僧家の舞曲から系統を引いてゐるのではなからうか。宮廷を中心とした貴族の演藝の外に、別に僧徒の間に行はれた寺院の娯樂的演藝があつたことは、種々の資料から推測せられるので、延年舞の如きもその一つであるが、貴族の文化が衰退すると共に、かういふ寺院の演藝が世に現はれて來るのは自然の勢である。同じ唐高麗の樂でも、採桑老の傳授が絶えた時には天王寺からそれを傳へたといふではないか。今日に傳はつてゐる多くの樂書は、(463)崇徳院の朝に石清水の樂人大神基政の書いた龍鳴抄が初らしく、その後に作られたものにも興福寺あたりの樂人の作が多いが、これらも音樂が宮廷よりは寺院の方に盛であつた一證であらう。まして貴族の間に行はれた娯樂が儀禮的のものとなつたのとは反對に、僧兵のやうな俗界的活動が行はれるにつれて、寺院の中に行はれた放縱な娯樂もますます盛になつたのであらうから、さういふものが漸次世間にも弘まつて來たのであらう。文化の中心はかういふ關係から既に一轉しつゝあるので、これから後は寺院と僧徒とがその一大要素となつてゆくのである。
 
 かういふ趨勢であつたから、地方と民衆ともこの間に於いて少しづつ文化の上に地位を得るやうになつて來た。例へば寺院なども地方に於いて大きなものができた。陸奧の清衡の建てた中尊寺はいふまでもなく特異のものであるが、源氏時代に特に有名になつた伊豆箱根なども、このころから既にかなり規模の大きいものであつたらしい。平家の力によつて嚴島が繁榮したのも、この趨勢から生まれた一現象である。これは昔の國分寺が中央の佛教界の出張所であつたのとは違つて、むしろ地方に根據を有つてゐるものである。南都北嶺ほどでないことは勿論であるが、地方にかういふ寺院が存立したのは、豪族などが資力を供給したからであらうから、それだけの資力が地方にあつたためである。さうしてそれがまたおのづから、それ/\に地方文化の中心になつたであらう。概していふとその文化に地方的特殊性があるのではないが、ともかくも地方の資力で成立してゐる寺院が勢力を得てゐるといふことが、注意すべき時勢の變轉である。地方の寺院は前代から既に所々に大きなものがあつたが、それは主として修業の道場としてのであり、その經濟的基礎も朝廷から與へられた領土民衆であつた。その點に於いてこの時代のは幾らか違つてゐるので(464)ある。
 民衆の力が世に認められて來たのもこれと同じ趨勢である。淨土往生を説くものは早くから民衆をもあひてにしてゐたので、空也などは民衆の間に布教を試みたといふが、これは教理上から見ても自然の傾向である。學匠であつた惠心僧都の和讃を作つたことにも、この意味がある。貴族的な寺院に於いても、淨土教に關しては、その一面にかういふ傾向が生じたので、今は高野山にある有名な二十五菩薩來迎の畫なども、これまでの佛畫とは違つて、崇拜の對象として奧深く安置せられるといふよりは、多數の公衆の目に見せるやうに畫かれてゐる。(從つて技巧としても一種の遠近法が用ゐてあるので、これは貴族的な寺院の壁畫や扉畫などに於いては見られないことであつたらう。)かういふ趨勢がもつと進められたならば、わが國の藝術界にも幾らかは新面目が現はれたであらうと思はれるが、宗派としての淨土宗の方では藝術に重きを置かないので、さういふ進歩を誘ふことができなかつた。しかし法然や親鸞が、漢文での著述の傍に於いてではあるが、國文で教理を説いたこと、またその内容は經文の直譯めいたもので宗教文學としてもさして價値の無いものでありながら、ともかくも和讃などの多く作られたことは、宗教の上に於いても民衆の勢力が認められて來たことを示すものであつて、一般文化史上の潮流とよく適合してゐる。
 かういふ氣運が向いて來ると、貴族文藝の題材としても幾らかは民間のものが採られるやうになる。後に説くやうに、今昔物語には武士や地方人に關する説話、または地方の寺院の縁起めいたものが多く集めてあるが、給畫などに於いても同樣の傾向があつたのではなからうか。後の信貴山縁起や伴大納言繪卷などに類似したものは、作品こそ今に傳はつてゐないが、これらのものよりも前から作られ、さうしてそれには民衆の行動なりその生活なりが描かれて(465)ゐたのではなからうか。勿論一方では後になつても、平家時代の嚴島經卷の繪とかまたは源氏繪卷とかいふやうな類のものができもした。けれどもその傍にはかういふものも現はれかけたのであらう。源平時代になると武人や戰爭を寫した繪卷も作られたらしく、後三年合戰の繪卷が承安年間にかゝれてゐるし、また將門合戰圖のことが吾妻鏡(元久元年の條)に見えてゐる。かういふ新しい題材が畫に入ると、その技巧も、いはゆる作り繪の頽廢的傾向のますます甚しい、色彩の濃厚な、生氣のない、人を寫したのでなく服裝を描いたともいふべき源氏繪卷の類とは違つて、前代に於いて戸外の遊覽などを寫した風俗畫などから系統をひきながら、幾分かは題材の影響をもうけて、一層自由な輕快な筆致のものとなつたであらう。件大納言繪卷などでそれが推測せられる。或は佛畫の摸寫などから養はれた一種の技巧が學ばれた形迹のあるものもあつて、鳥羽僧正の作と傳へられてゐる鳥獣繪卷などにもそれが見られようか。たゞこれらがどこまでも規模の極めて小さい繪卷物の形で、机上の賞玩に供するものであつたから、その筆致も技巧もこの形にあてはまる以上には發達しなかつた。だから人物の表情は主として姿勢の上にあるので、顔面などには思ひきつた誇張をするより外に方法が無かつた。が、これは繪畫を愛するものが狹い室内に住んでゐるものであつて、公衆と共に廣い場所で觀るといふ風習が無かつたからである。けれども繪卷物の性質とその鑑賞のしかたとに適合するやうな、場面の選擇とその構圖とその場面の移りゆきとに、その筆致と相應じて、興趣の甚だ饒かなものが、民衆や武士の行動を描いたものに於いて特に見られるやうである。さうしてそこに時勢の變化による新題材の效果があつたのであらう。
 民衆及び地方人の力は社會的または經濟的の方面にも現はれて來たことが想像せられよう。地方により、國司の人(466)物、領家の態度、または兩者の間の關係により、一樣ではないけれども、種々の事情種々の徑路で地方人に對する國衙や領家の權威の弱められたところがあり、または農民中の力あるものが土地を占有したり武力を以て何等かの行動をとつたりする場合が生じ、またそれが武士の活動する當時の氣運に結びつくことにもなり、そこから土地所有の状態や村落生活の形體までも、幾らかづゝ變つてゆく情勢さへ生じたところがあつたのではあるまいか。前後の状態と一般的形勢とから、かういふことが臆測せられるやうである。さうしてこのことが地方文化民衆文化の高められることとも相關するところがある。しかしこの社會上の動きは、國衙や領家の權力に對し、もしくはそれらの存在する制度に對する、地方人や民衆の政治的反抗ではないので、それはたゞ地方人などが自己の生活を維持しまたはそれを少しでも伸ばしてゆかうとする欲求の現はれである。大きい政治的形勢の上からは、殆ど目に立たないやうな状態で、いつのまにか行はれてゐるのも、そのためであり、さうしてさういふ傾向は前代から既に生じてゐたことの繼續であるのみならず、その由來は遠く奈良朝時代にある。なほこれとは全く違つた意味のことではあるが、朝廷の宮殿や院のための寺院を地方の國司がその國の力によつて建造したのも、さうしなくてはならなくなつた點に於いて、朝廷または院に對する地方の力の強められたことを示すものであらう。
 かういふやうに、多くの方面に於いて民衆や地方人の勢力が現はれては來たが、しかし從來の貴族文化は、沈滯しながらも依然としてその地位を維持してゐる。民間演藝が貴族の間に持てはやされたところで、舊來の貴族藝術が廢れたのでないことは勿論であり、萎靡して振はないにせよ、舊來の貴族演藝たる管絃歌舞は、一種神聖なものとして崇敬せられてゐた。文學に於いては、資質の如何はともかくも和歌が盛に行はれ、古物語も愛読せられ、またそれを(467)模倣した新作も現はれる。宗教に於いても南都北嶺の勢力は勿論、呪術祈  祷の教としての天台眞言の信仰にも、さしたる動搖は無い。のみならず民衆も地方人も、政治的權力に對する反抗的氣分をもたなかつたと同樣、貴族文化に對して反抗心を抱くやうなことは毫も無かつた。彼等はどこまでも從來の貴族文化を尊重し、むしろ彼等みづからの及び難い境界としてそれを仰ぎ見てゐた。新宗教の唱道者ですらも、舊宗教の教權に反抗して起つた樣子は無い。法然の態度はもとより温和な妥協主義である。親鸞はかなり圭角があつて、「末法惡世の悲みは、南都北嶺の佛法者の、輿かく僧達力者法師、高位をもてなす名としたり、」(正像末和讃)などといつてもゐるが、それは末法の有樣をいふためのことであつて、南都北嶺の教權を崩さうといふ考があるのではない。この二人が國文で教を説いたのも、さうすべきものと考へたからではなく、實は漢文に書きたいが、それでは讀めないものがあるからといふしかたなしの方法であつたことは、その著作の全體を見れば容易にわかる。(これは愚管抄の著者が假名書きでこの書を作つた理由を述べたところからも類推せられる。)要するに當時の文化は依然として貴族のものであるから、何人もそれを敬重する外は無かつた。これは新に政權を掌握するやうになつた武士でも同樣である。
 
 武士の勢力はこの時代の初から大なる發展をした。源頼信が平忠常の亂を平げ、頼義義家父子が前後二回の奧州戰爭で威力を示してから、東國の武人は概ねその家人になつたので、平氏の子孫も殆どみな源氏の麾下に屬するやうになつた。そこで板東に於ける武士がほゞ源氏に統一せられ、武士の團結が大きくなつて、その活動が大規模になつた。その他の地方でも、豪族は所々に割據してゐて、それ/\弓馬の家を起したが、統一した大きい勢力となつて現はれ(468)るには至らなかつたらしい。武士の京都に於ける地位は依然として低いけれども、攝關の權が院中に移ると共に、私門の走狗であつたものが院に直屬するやうになつて、一つの地位を朝廷に占め、また彼等が横暴な僧兵を抑制するに必要であつたから、更に一段の重きを加へた。白河院が殿上人に武士の行裝をさせて御覽になつたといふのも、その動機に遊戯的分子はあるものの、やはり武士の重んぜられるやうになつた一證と見ることもできる。政權を維持するにはぜひとも彼等の武力に依頼しなくてはならなくなり、さうして實力のあるところはおのづから權威の歸するところであるから、朝廷に於ける彼等の地歩は、次第に動かせないやうになるのである。地方に根據のある武士がかうなつたのは、取も直さず地方の勢力が中央を動かし、下層の階級が貴族を左右するに至つたので、政治上にも社會上にも、貴族の權勢の衰頽に向つてゆくことを示すものである。
 更に考へると、武士の發達は京に對して地方の勢力を示したのみならず、地方自身の實力もまたこれがために發達したらしい。藤原時代に甚しかつた地方農民の流亡も耕地の荒廢も漸次改まり、盗賊の横行も幾分か減じたのではあるまいか。武士がその實力を養ふには農民を保護しなければならず、浮浪人や盗賊となるべきものも彼等の組織に入つて武士となり、さうでないものは彼等の武威を恐れたであらう。從つて交通も安全になり、特に京と東國とを連絡する道は、武士の往復によつて從來よりも一層繁榮になつたらしい。重要な宿驛に集まつてゐる遊女も、武士をあひてにする場合が多くなつたであらう。
 けれども武士はどこまでも貴族文化の崇拜者であつた。彼等はその文化の社會に伍することのできる一つの表徴として、低い官位をすら無上の榮譽としてゐた。花やかな武將の行裝にも、また貴族等の裝束の武士化したところがあ(469)らう。また彼等、特に源氏のもの、は頼義でも義家でも可なりに歌に堪能で、その作はしば/\勅撰集に入つてゐる。時代はやゝ下るが頼政仲綱になると殆ど專門の歌人である。しかし彼等でもまた平氏の忠盛などでも、歌をよめば相變らずの花鳥風月がその主題であつて、武人の生活を詠ずることはしなかつた。彼等にとつては沈滯してゐる京の文化も、なほ限なき仰景の眼を以て見るべきものであつた*。武士としては特殊の性質を有するものではあるが、かの陸奥の清衡や基衡秀衡の建てた中尊寺や毛越寺無量光院は、その建築もその裝飾も、全く京の技藝家の手になつたもので、而も吾妻鏡によれば無量光院は平等院を學んだ點があるといふ。それらの寺の法會も京のを模倣したものである。武士がみづから特異の文化をもつてゐなかつたのであるから、これは當然である。
 かういふ時勢に於いて保元平治の亂が起つた。皇位や權勢の地位の爭ひも、古くから斷えずくりかへされたことで、藤原氏の攝關時代にはそれが最も激烈であつたが、そのころには權家の間に於ける陰險の手段を以て勝敗を決したのであつた。然るに時勢が推移して、權勢を得るには武士の力によらねばならぬやうになつたため、その爭ひが弓矢と打物とをとつての戰になつたのである。また武士の方からいふと、これまでの戰は多くは地方的勢力の間の小衝突、もしくは一族間の私闘に過ぎなかつたが、こゝに至つて政權爭奪の輸贏を決する唯一の力となつたので、活動の舞臺が廣くなつたのである。但し保元の時には、源氏も平氏もまだ一種の傭兵めいたものに過ぎなかつたけれども、平治の場合には、武士自身が動亂の一原因を作つたので、後年源平二家の爭ひとなつて全國の大動亂を誘つた端緒はこの時に開かれ、武士が政權を握るやうになる基礎もこゝに築かれた。もつとも源平の戰は初から氏族の爭ひではなかつた。現に保元の役では二氏ともそれ/\兩方に分屬してゐるし、もつと前からの關係をいふと、東國にゐる平家の末(470)葉が殆どみな源氏に屬してゐたほどであるが、京都にゐる二氏が平治の亂に於いてほゞ敵身方に分れたので、それがおのづから氏族の爭ひの如き形をとつたのである。勿論二氏に屬する多くの武士は、それ/\の主家と血族關係をもつてゐるのではないから、これはたゞ武士の首領としての源平二氏が敵身方になつたといふ意味である。武士の團結はもと/\氏族を基礎としたものではなく、どこまでも主從の關係によつて形成せられたものである。たゞその主從の情誼にも、根柢に自己の生存欲が潜んでゐるのであるから、敗者の側にゐるものは、少くとも一旦その情誼を破らねばならぬことが生ずる。こゝに於いて世は勝ち誇つた平家の獨り天下となつた。
 平家の世は武家の時代の始であるが、その形に於いては藤原氏の跡を踏襲した。第二の藤原氏となつたのである。攝關の名稱だけは取らず、舊慣によつて藤原氏をその地位に置いたが、それはたゞ名稱のみのことである。朝廷の重要なる官職と多くの莊園とをその一族で占有し、外戚にまでなつた。院政の形もまた保存させたが、それとても名稱のみのことである。だからその實に於いては、武士たる平家が前代の藤原氏の後をうけた院の政治上の地位を更に繼承して、すべての權力をその一門に收めたのである。藤原氏も院もそれを抑へる力が無かつた。それと共に平家は、藤原氏によつて代表せられた貴族の文化上の地位をもまた繼承し、その生活は一般に貴族化した。武士は本來貴族文化の崇拜者であつたが、平家はみづからその文化をすべての方面に於いて領略したのである*。この意味に於いて、平家の栄華の二十年は昔の道長の世の再現であつたといつてもよい。武士の任務には貴族的生活とは、その本領に於いて、調和しないものがあるが、しかし武士の生活には、貴族文化を身につけることによつて、その特殊の情趣を添へる一面もあるので、平家の一門は武士の特色を失はずに貴族的優雅の風尚を養ひ得た。建禮門院右京大夫の家集を讀む(471)ものは、よくその状態を想見することができるであらう。平家の没落及び滅亡に豐かな詩趣の存するのも、武士としての行動とこの貴族的風尚との交錯もしくは結合から來てゐよう*。京都を戰塵の巷にした保元平治の亂に末世の無常を感じ、今にも天下が破滅するやうに考へた京人が、平家に對して一掬の同情を寄せたのは、これがためである。平家は藤原氏や院の如くには華麗な邸宅や佛寺の建築などをしなかつたが、福原の都うつりの企畫がもし放棄せられなかつたならば、そこに新都の建造が如何なる形にてか成就したであらう。そこに藤原氏などの思ひもよらなかつた着想があつた。宮殿や佛寺の燒きうちをもしたが、それはこの時代の戰爭の慣例であり、僧兵なども常に行つたことであると共に、この場合の状況に於いては已むを得なかつたことでもあらうか。敵の據りどころが宮殿や寺院にあつたからである。もし平家の勢威があのやうにして崩れなかつたならば、大佛殿の再建は或はその手によつて行はれたかも知れぬ。平家は横暴な僧兵を鎭壓しようとはしたが、舊來の文化を破壞する考をもたなかつたことは、上記の態度からも知られる。宗教的信仰についても、嚴島の崇拜に平家一門の心情が現はれてゐる。
 福原遷都の企圖は、平家の武人的勇斷を示すものである。これは京都が政治の中心としての價値を失つてゐたからであつて、後から見れば、鎌倉が政權掌握者の所在地となる前驅をなしたものといつてもよい。京都が武力の根據地たる資格をもたないのみならず、一時的防禦陣地としても不適當であることは、これから後の幾度かの戰爭で證明せられる。平安奠都に政治的意義が重きを置かれなかつたからこそ、さうしてまたその後の四百年間に、武力を以て政權を奪はうとするものが出なかつたからこそ、そこが京都とせられ、またこれまで京都として維持せられたのである。事實上、京都は全く文化的意義しか無かつた。さうして福原遷都が京の文化を崩さうとしたのでないことは、明かで(472)ある。もつとも新都の位置を福原としたことが、もし海上の交通によつて西國との連絡を容易にし、平家の勢威の基礎を鞏固にしようとする考から出たことであるとするならば、それはまた、この時代に於いて政權を握るものが地方に根據をもつことの必要があつたことを示すものであつて、この點でも源氏が關東に幕府を開いたことが考へ合はされる。しかし平家は京にゐて京の政權を握つてゐた。その平家が京を見すてることは京人には不人氣である。のみならず、曾て權勢をもつてゐたものは殆どみな平家の敵となつた。院、僧兵、藤原氏、さうして仇敵の源氏、何れもさうである。さうしてそれらのいろ/\の活動によつて平家は覆滅の運命にあつた。
 平家を討滅した頼朝は、鎌倉に幕府を開いて全國の武士を統御した。清盛が太政大臣となつたとは違つて、武人を指揮すべき征夷大將軍となつた。武士はこゝに至つて、始めて合法的の存在となつたのである。しかし文化の點に於いては、鎌倉に京の文物を移植することをつとめた。彼は政治上に於いてこそ、關東に根據を置いたが、文化の點に於いては、どこまでも京の崇拜者であつて、鎌倉はその下に一小京都を現出したのである。一たび吾妻鑑を開いて彼及び彼の後繼者の態度を見るがよい。三善、大江、中原、等を招致して政務を託したことは已むを得ないとしても、勝長壽院や永福寺を建てて奈良や京都から佛師繪師をよびよせ、内部を莊嚴する器具はすべて京で調へたのみならず、供養の儀式といひ、一切經會、萬燈會、さては法華八講、などの法會といひ、何れもみな京の寺院の摸倣でないものは無い。鶴岡では男山のをまねた放生會や臨時祭を行ひ、神樂や舞樂を奏し、その神樂には特に多近方を聘して宮人の曲の傳授をさせる。神事佛事でなくとも、大臣の饗を摸して風流の結構をつくしたといふ。(義仲が京人にひどく賤まれたに反して頼朝が比較的貴族等に尊重せられたのは、こゝに一つの理由がある。)この傾向は實朝に至つて極(473)端に達したので、和歌の會はいふまでもなく、繪合や双紙合まで行はれた。もとより頼朝は華奢を戒め、實朝の時にも京下りの者と鎌倉の武士との間には、氣分の一致しない點があつたとはいふが、ともかくも武家自身に特殊の文化を有つてゐないのであるから、何事につけても京樣を學ぶやうになつたのは自然の勢である。たゞ何といつても京から遠い鎌倉で、周圍の空氣が荒涼たるものであるのみならず、その生活とそれによつて養はれた特殊の氣風とが京人とは違つてゐる多數の武士には、直ちに貴族的文化を學び得るだけの素養がないから、將軍家などは別として、一般の武士の趣味に適ふものは必しも京樣の古典的文化ではなくして、却つて遊女の歌舞や白拍子などであつたらしく、工藤祐經の鼓や畠山重忠の銅拍子ぐらゐが、てうどよいところであつたらう。法會の舞樂といつても伊豆箱根の兒などの演奏であつた。これが京にゐて貴族化した平家の文化とは趣の違ふところである。
 
 けれども京の貴族はどこまでも京の貴族であつた。彼等はおのれらの資力の無くなつたことを十分に自覺せず、なほ過去の幻影を現實の存在であるかの如く錯認して、みづから高く標置してゐたのである。忠通がその書いた額が基衡のためであるといふことを知つてそれをとりもどさせたといふ話、樂人が嚴島のものには舞にも眞の手を教へなかつたといふ話があるが、この態度は概していふと後までも變らない。文化について京人がかう考へるには相當の理由がある。しかし政治についても同じ態度をとるとするならば、それは時勢の推移を知らざるものである。彼等は全く地方に資力のあることを知らず、依然として狹い京都を天下だと思つてゐた。(後鳥羽天皇の即位を計つたのも、京に天子の無いのを全國に天子が無くなつたやうに京人の考へたのが、一つの理由ではなかつたらうか。)だから、福原(474)の都移りときいて忽ち國家の滅亡と悲歎する代りに、京都が靜かであれば天下は太平に還つたと喜ぶ。頼朝の時代に京が平和になれば、もはや院政も回復せられると考へ、貴族等は再び昔の權威を取りもどしたと思ふ。そこで彼等のすることが放縱になり、政務にも偏頗が行はれる。ところが鎌倉の幕府は思つたよりも有力である。單純な武人統御の機關だと思つてゐたのが、實質上の政府になつた。肝心な莊園の上にも武士の壓迫が漸次加はつて來た。それに對して院政と貴族の政治的地位とを回復しようとしたのが承久の役である。勿論、それには側近の武士の功名欲が有力にはたらいてゐた。武士は、戰爭が無ければすることが無く、功名を遂げることもできないものだからである。保元の亂とても、一つの意味に於いては、皇室が宮臣や武士にひきずられたといふべきところがあらう。さうしてこの承久の戰によつて、京の政治的地位は再び回復することのできないほどな打撃をうけた。從つてその政治的地位に伴つて發達して來た京の文化は、ます/\衰頽してゆかねばならぬやうになつたのである。これが宮廷と貴族との勢力によつて維持せられた文化の運命であつた。
 けれども、かうして衰へて來た貴族文化も、思想の上に於いては永く後世を支配してゐることは認めねばならぬ。文化が貴族的な特殊相をもつてゐるとはいへ、そこに日本の風土にねざし日本人によつて創造せられたものである點に於いて、またその根柢に普遍な人間性を具へてゐる點に於いて、後世までも變らないものを含んでゐるからである。後に形づくられた武士の文化も、一面の意味に於いては、それを本にしそれから發達したものである。さうしてまた實生活に於いて過ぎ去つた文化をそのまゝ受用することのできないために、思想の上に於いてはそれを尊重し、それを理想化し、或は一歩を進めてそれを神秘化するやうになる、といふ事情もある。現實の生活は斷えず動いてゆくの(475)に思想の上にのみ存するこの文化は固定してしまつてゐるから、その間の溝渠はます/\廣くなるが、廣くなればなるほど、それを及び難いもの動かし難いものとして仰ぎ見るやうになる。花鳥風月に對してはどこまでも平安朝の歌に現はれてゐるものが趣味の標準になる。戀といへば平安朝の文學に寫されてゐるものにその眞の姿があると思ふ。歌そのもの物語そのものも、到底後人の及び難いものとなつて、古今、伊勢、源語、は殆ど聖書のやうに考へられる。實社會に於いても公家貴族は、實力の點に於いて輕侮せられながら、古い文化の保持者であるといふ點に於いて、一種尊貴なものとせられる。これはいはゆる鎌倉時代以後に於いて特に著しくなつたことであるが、この時代から既にさうなつてゆく傾向は生じつゝある。
 たゞし政治上社會上の状態はそれとは違つてゐる。政權は平氏の權力を繼承しながら京から遠く離れてゐる幕府によつて握られたので、そこに藤原氏や平氏が朝廷の内部にあつて實權をもつてゐたのとの違ひがあり、幕府は朝廷に對立するものの如く見られた。さうしてそれが守護地頭を全國に配置することによつて、天下の政府となつた。承久の役はそこから起されたのである。しかしその失敗によつて、皇室が政治の上に超然たる地位を有せられる永年の習慣はます/\固められた。けれども幕府の設立の意味はそれだけではない。國民はその實生活によつて令の制度を次第に崩して來たが、武士の興起とその勢力の發達とによつて人知れぬ間に徐々に新しい社會的秩序と政治的體制とを形成し、幕府の設立によつてそれが確立したのである。これは唐制から全く脱却して、日本人の創意になつたもの日本に獨自なものであり、簡素な幕府の組織もまた同樣である。この意味に於いて幕府政治は日本の制度史に新時期を開いたものである。シナの制度を學ぶことによつて強められた貴族政治の時代はかくして終つた。
 
(476)   第二章 文學の概觀 上
 
     物語
 
 我が身の幸福に滿足し我が世の榮華を誇るものは、我より外に望をかけるところが無い。われより高い何物かを希求するのは、即ち我が身を足らずとするからである。更科日記の著者が物語を讀むことを好んで、源語の夕顔や浮舟のやうになりたいと、詩中の人物にあこがれたのは、和泉式部などの我をみづから詩中の人と觀じてゐたのとは趣がちがふ。これは物語を讀むものにはありがちのことでもあり、またこの女が遠き東のはてにゐて、華やかな京の文化を雲路の外におもひやつてゐたところに、特殊の理由もあらうが、時勢の變化がおのづからその間に暗示せられてゐるのではなからうか。この觀察がよし誤つてゐるとしても、時代の趨向はかの榮華物語の編述によつても明かに見えるであらう。今を盛の黄金時代にゐるものは、何事にも色のあせた「古代」を嘲つて、わが世の春の華やかさを誇る。藤原時代の貴族は、過去にも未來にも現在にまさる何事をも認めず、現實をそのまゝに詩として、その裡にわれとわが身を夢みてゐた。これが寫實小説たる源氏物語の世界である。然るに藤原氏の榮華と共にその文化が凋落し初めるのを見ると、忽ち世の衰へを感じて、ありし昔をしのぶの情に堪へぬ。見はてぬ夢のさめた曉、黄金時代は過去に輝く。さめた現の今から見れば、道長時代の世はなつかしい夢である。現實を詩とするに堪へぬものが、過去の歴史を詩として見るのは當然である。歴史的物語たる榮華物語の世に現はれ、殊にそれが物語らしい形をとつてゐるのはこれがためである。さうしてそれが單純な歴史ではなく、道長を理想的人物として、その榮華を追慕する情が全篇に溢れ(477)てゐるところにも、作者の態度が見られる。更科日記が空想界を夢みてゐるのと、榮華物語が過去を追うてゐるのとは、その心理に共通のところがある。
 勿論、榮華物語を歴史として見れば、それに特殊の文化史的もしくは史學史的の意味と價値とがある。この物語が年代記の形をもつてゐることは、道長の時代までは、一二の例外はありながら、ほゞ規則的に暦年の移りゆきを敍し、重要な事件についてはその月日を明記してゐることによつても知られるので、その點に於いては、官府もしくは諸家の記録がその資料として用ゐられたであらう。けれども、それが國文によつて記されてゐることと、人々の行動とその場合の状況とを精細に敍述し、特に或は對話の形によつて、或は第三者の觀察によつて、當事者の心情を描寫してゐることが、種々の事件の單なる年代記的記録とは違つてゐるところに、漢文によつて書かれた從來のいはゆる國史や、國語または國語風の表現を交へながら全體としては擬漢文ともいふべき記録と、違つてゐる點があり、そこに歴史の新形態が成りたつてゐるのである。さうしてこの意味に於いては、前の時代に國文の日記の書かれたことから繼續せられた文化上の一運動であり、シナの文物の摸倣から脱却した日本的文化の發生の一現象である。事實、この物語には、かの紫式部の日記の或る部分を殆どまるうつしに寫しとつたところがあるのでも知られる如く、今日には傳はらない女房などの日記または家集の詞書きなどによつて、書かれたところが少なくないであらう。この書が物語めいてゐる所以はそこにもある。章のわけかたが年月の序次と無關係であるのも、年代記よりは物語の性質が勝つてゐることを示すものであり、その章ごとに物語めいた題目をつけてあることに於いて、特にさうである。その根柢には何等かのよりどころがあるにしても、一々の對話やその場合の情景の敍述には、筆者の想像によつて構成せられたも(478)のも多からうから、そこにも物語作者の態度が見える。伊周の左遷の條に「光る源氏もかくや」といつてゐる如く、源語を思ひ浮かべて書かれたところさへあるのでも(浦々のわかれ)、筆者の用意は知られよう。敍述の間に往々評語を插み、而もそれには、例へば「みかどと申すものは、やすげにてまたかたきことに見ゆるわざになんありける、」とか「みかどと申すものは、一たびはのどかに一たびはとくおりさせたまふといふことも、かならずあるべきことに申し思へるに、……」とかいひ(月宴)、官位の昇進について「いつもたゞさるべき人のみこそはなり上りたまふめれ」(見はてぬ夢)といふ如く、かなり忌憚のないものもあるが、これもまた思ふことをありのまゝにいふ日記の書きかたに、一つの由來があらうか。或る人物或る事件に對する世人の感想とか世間の風聞とかいふ形での評語も多く、「世の人の口」の憚かられるさまを敍したところがあるのも、源語などの筆つきを思ひ出させる。作り物語に潜んでゐる批評的精神の一つの現はれとも解せられるのである。しかしそれよりも重要なのは、筆者の根本の着想がどこまでも歴史的事實の敍述にあるらしく、特に、月宴のはじめの書きかたからも知られる如く、皇室と藤原氏の權勢との關係を歴史的にたづね、その權勢の頂點に達した道長の榮華の由來を明かにしようとするところに、その中心思想があるやうに見えることである。外戚の地位の爭ひ、源高明の左遷、花山院の遜位、伊周の貶謫及びその宥免、それについての道長の態度、小一條院の東宮辭退、後の後一條院の東宮册立、などの敍述、定子と彰子との交渉およびそれ/\の彼妙なる心情の動きの描寫、などに意を用ゐたのも、道長の人物とその行動との記述の詳細を極めてゐるのも、この故であらう。すべてが宮廷と藤原氏とのことに限られてゐるのは、主としてこれがためであり、ところ/”\に插まれてゐる批評の言にもそれがほの見える。かう考へることにもし誤が無いならば、榮華物語の述作は我が國に於け(479)る歴史敍述の最初のものとして、文學史上史學史上に重要なる地位を占めるべきものとすべきである。單にその形態からいつても、シナには全く例の無いもの日本人の創意に成つたものである。
 榮華物語の作者、またその作られた年代は明かでないが「鶴の林」 の卷が一段落になつてゐて、それより前を上卷とし、それより後は別人の追加で下卷とすべきものであらうといふ伴信友の説は、今日でも承認せらるべきであらう。上卷には道長の榮華とその由來とを寫すといふ中心思想があるけれども、下卷は何かなしに歴代の事蹟をかきつらねたといふまでで、記事も散漫であり、藤氏の權勢の衰へゆく状態も寫されてゐない。上卷は道長を中心として前後の約三十年間が三十卷となつてゐるのに(上卷の初めの二三卷は道長の榮華の舞臺を開く序幕である)、下卷は道長の薨後、堀河天皇までのほゞ六十餘年間が僅か十卷で、記事の分量は上卷の三分の一よりも少い。もつとも道長の時代は藤原氏の榮華の花の盛であるから、その花の凋落しかけた頼通以後に比べて、記事もおのづから豐富であるべきはず、また道長以後は道長の如き中心人物が無いから、筆つきも從つて散漫になるべきはずでもあるが、本來作り物語の形に倣つて書かれたものとすれば、下卷の方はこの目的にかなつてもゐない。だから當初の作は上卷だけであつたのが、その内容が歴史的敍述であるから、後人がその後の事蹟によつてあとを繼ぎ足したのが下卷であらう。のみならず、下卷の方は文體や筆くせの異つたところが所々に見えて、補綴の跡も著しく(殿上花見の卷の住吉まうで、蛛のふるまひの卷の九月御念佛の條、根合の卷の歌合の條、などにそれ/\特殊な筆つきがある)、また重複したり前後したりしてゐるところもあり(根合の卷の齋院の下り給へること、煙後の卷の先代を後朱雀院とぞ申すめるの語)、「煙後」と「松の下枝」との間に、無くてはならぬ後三條天皇即位の記事が漏れてゐるといふやうなこともあるから、(480)下卷だけすらも果して一人の作であるかどうか、甚だおぼつかない。が、假に下卷を一人の作とすれば、それは堀河天皇の寛治六年以後にでき上つたものであつて、上卷はそれよりも前、即ち道長の時代に後れることあまり遠くない時代の作ではあるまいか。法成寺の美しさを力を極めて寫してゐるのも、白川の法勝寺などがまだできない前の筆ではなからうか。(「玉の臺」の一章は前後に連絡のない插話であつて、尼たちの參拜巡覽に假託して御堂の結構を説明したものであるが、尼なども假想の人物であつて、多分道長時代の何人かの手に成つたものらしく思はれる。)全體からいふと、その文章が悉く作者の筆として一貫してゐるのではなく、つぎあはせものともいふべき部分があるのも、この物語がかういふものの最初の企てであつたからであらう。
 榮華物語の上卷の現はれた後に大鏡が作られた。これは榮華物語に比べると物語的色彩が薄れてゐて、殆ど純粹の歴史の形を呈してゐる。その主題は道長の榮華の有樣を語るところにあり、そのために皇室では文徳天皇から後一條院まで、藤原氏では冬嗣から道長までの事蹟を、御歴代及び系譜の順序により列傳體に記したので、述作の主旨と記載せられた期間とはほゞ榮華物語と同じであるが、その結構は違つてゐる。皇室と藤原氏とを別々に記し、さうして前者をはじめに後者をその後にしたのもその一つであるが、これはその間に離るべからざる關係がありながら、その地位が違つてゐるからであつて、そこにもこの書の物語ではなくして歴史の正統的な形態を守つてゐる點がある。ただ藤原氏の取扱ひかたは新案であるが、これは現實の情勢を敍するにはさうするのが便宜であつたからであり、上記の如き述作の主題のためでもある。その全體を雲林院の菩提講のをりに世繼といふ翁の語つたもののやうにしたこと、並に敍事の間のところ/”\に翁とそのあひての繁樹との對話、また時には傍に聞いてゐる一人の侍のことば、を插み、(481)それによつて、敍述せられた人物の行動や心情やまたは當時の事件や世態に對する、何等かの感懷や批評を述べさせてゐるところに、物語の名ごりが見えると共に、歴史としては新しい構想があり、その點で榮華物語とは敍述の方法も違つてゐる。けれどもシナ風の史籍から離れ、特殊の結構と形態とをもつた國文の歴史としては、榮華物語と共に、文化史上史學史上の重要な作品である。その作者も知られず、編述の時期も明かでないが、この書が、道長に至つて頂點に達した藤原氏專權の時代を、一つのまとまつた過去として、その全體を一と目に見わたさうとする態度で書かれてゐることを思ふと、さういふ見かたのできるほどに、その時代から年月の隔つた後の述作であることが、ほゞ知られよう。或は道長が如何なる人物でありその時代が如何なる時代であつたかを考へる必要の生じたほどに、時勢が變つてからの作であるとも、解せられよう。首尾を通じて一種の批評的精神が、ほのかにではあるが、現はれてゐるのでも、そのことが考へられる。藤原氏の權勢が外戚の地位にあつたためであることと、それを得るために非道の行をもしたこととを、明かにしたことはいふまでもなく、道長を讃美しながら、その榮華が偶然の幸によつて開かれたことをいひ、時にはその行動に對して一種の揶揄を試み、または諷刺ともいはゞいはれるやうな言辭をも用ゐてゐる。所々に諧謔の言の插まれてゐるのも同じ意味に於いてであつて、「ゐなかせかいの民百姓」の目で道長を見させてゐるのも、その一つと解せられようか。一々の事件について世人の風評といふものを記したり、朝光を嘲り(兼通の條)、「よき人といふものはいみじからぬ名の惜しければ、……」といつて道雅を痛罵したり(道隆の條)、するやうなのは、榮華物語にも見えてゐるのと同じであるが、こゝにいつたのは、藤原氏の權勢とその性質とに對するものであつて、そこにこの書の作者の態度があるとすべきであらう。さすればこの書には、過去崇拜の思想が含まれてゐる(482)にしても、單にそれだけのものではないことになる。「あきらけき鏡にあへば過ぎにしも今ゆくすゑのことも見えけり」といひ、「すべらぎのあともつぎ/\隱れなくあらたに見ゆるふる鏡かな」といふのも、かう見ると意味ありげである。「入道殿下のありさま、古をきゝ今を見はべるにも、……」といひ、「今ゆくすゑもたれかの人かかばかりはおはせん」といふのにも(道長の條)、或は別に裏面の意味があるかも知れぬ。しかし作者の批評は偏見に陷ることを避けようとしてゐるやうであつて、人物や事件に對する觀察にも、もし反對の見解が成りたつならばそれをも擧げ、公平な態度で眞相を明らめようとする用意があるらしく見える。鏡の意味はこゝにもあるのであらう。ところがかういふ態度は、藤原氏の專權時代が過ぎ去つた後になつて始めて取り得られることであらう。かう考へて來ると、この書の述作の時代は白河院のころではなかつたらうかと臆測せられる。道長の御堂建立について人夫の徴發に對する非難の口氣のあるのも故ありげであるし、道長の條(卷五)に源氏が運命を開いたことが暗示せられてゐることをも考へあはせねばならぬ。(この書の卷八の終の部分が後人の加筆であることは明かであるが、この卷の全體がもとの作者の書いたものであるかどうかも問題であらう。公事の起源を説いてゐるのも、「源氏の御事をも申しはべらん」といつてゐるのも、大鏡の述作の主旨にはかなはないやうに見えるからである。榮華物語が後から書きつがれたことをも參考すべきである。)
 大鏡をまねてそのあとをついだものに今鏡として知られてゐるものがあるが、この書はそれに記されてゐる時代とあまり隔つてゐないころのものらしい。大鏡に比べると、物語の形態を學んだところが多いのと、思想的意義が稀薄であるのとが目につくが、「村上の源氏」と「みこたち」との二卷があるのと、すべてにわたつて歌に關する記事の多(483)いのと、これらの點に、藤原氏の權勢の衰へた時代、和歌の新しく流行して來た世の中、の反映がある。しかしこの時代の最も著しい現象であつた武人の政權獲得に殆ど意を用ゐず、ひたすらに榮華物語や大鏡の後について貴族文化の夢を追うてゐるのは、作者の地位の然らしむるところであらうが、そこにやはり前章に述べたやうな文化の性質が現はれてゐる。さうしてそれは匡房の江談抄などと共に、信西の朝儀復興運動に現はれた思想と關聯したことでもある。人麿供の場合のやうに古人の肖像畫を崇拜の對象としたり、三十六歌仙の肖像を描いたりするやうになつた繪畫上の一新傾向も、これと關係があらう。さうして古人の肖像を尊敬すれば、自己の肖像を後に傳へようとするやうにもなる。或はまた古を慕ふと同樣の心理から、頼むに足らぬ今の世に滿足せずして、何物をか後の代に期待する念が起つたともいはれようか。信實などが肖像畫を畫いたといふのも、こゝに一つの理由があるかも知れぬ。
 
 貴族等が現實に飽き足らずして過去を追慕したのみならず、彼等みづからの社會のみを世界の全體とする考も幾らか變つて、彼等以外の社會に何等かの興味をひくやうになつたことは、今昔物語の作られたのでも知られる。前代には人として視られなかつた武士、地方人、下級人、の事蹟が、ともかくもおもしろく見られ聞かれたので、世界が少しは廣くなつたのである。これは我が身みづから優人であつた時代とは違つて、專門の藝人の演技である猿樂などが賞翫せられたのと同じ意味のことであらう。但しその編者はそれを材料として歌をも物語をも作ることができなかつた。それほどまでに武士や地方人の状態に通じなかつたからでもあり、また物語に於ては先蹤を踏襲するより外に能力が無かつたからでもあらうが、一つは貴族等がかういふ異聞を別世界のこととして興じはしたものの、彼等みづか(484)らの生活とは深い關係が無いと思つたからのことであらう。彼等の希求するところは、どこまでも榮華物語によつて示された如き過去の貴族生活であつたのである。狹衣、濱松中納言、などの物語はそこで生れた。狹衣は種々の點から見て白河院ころのものらしく、濱松もそれとあまり時代はちがふまい。(狹衣卷四の上に源氏の后となることを敍して「うち續き春日の神もいかゞ覺さん」とあるのは、作者がさういふ事實を目に見てゐたからであらう。濱松に唐帝の后が高陽縣にゐるとしてあるが、鳥羽天皇の皇后の御所は高陽院であつた。名稱の上に何か由縁がありさうにも思はれる。)
 狹衣と濱松中納言物語とに源語から場面を取つたところの多いことは、學者間に既に定説がある。狹衣の猫(卷三下)も柏木のから出て來たのであり、「わが一日ながめくらしたるさまなどを思ふところなく繪に書く」(卷三上)もまた須磨に粉本がある。「吉野川かへす/\も渡れとや渡るよりまた渡れとや瀬に」(卷三上)が、源語の「唐衣唐衣また唐衣かへす/\も唐衣なる」から絲をひいてゐることは明かであるが、こんなことにさへも模倣がある。肝心の藤壺は無論二の宮となつて現はれてゐるが、その子については源語よりも一歩をすゝめて、狹衣自身を位に即かせた。子が天子で父が人臣だといふ不都合を避けるために、かう作りかへて、子に正當な繼承の權を與へたのであらう。濱松にも摸倣の痕跡は明かであつて、例のもののまぎれのあひてはシナの皇后となつてゐるが、たゞ主人公の官位がどこまでも中納言であり、この世の榮華に於いて何の滿足するところもなく、またそこに滿足を求めなかつたところが、狹衣の主人公の無上の位に上つたとは反對で、また少しく源語とも趣の違ふ點である。
 この二つの物語はこれら些少の點に於いて一二の相違はあるが、全體の空氣は源語的であつて、而もその一方面の(485)みが現はれてゐる。その主題はたゞ戀愛のみであつて、舞臺も狹い。作中の人物について見ても、狹衣は源語の悲哀な、はかない、また力の無い、運命にのみ身を任せてゐる點を極端まで押しつめたもので、而もその運命は神託夢想として示されてゐる。大將の斷えず惱まされてゐる厭世的悲哀の念が、何に原因してゐるかわからないのも、後にいふやうに特殊の理由のない一種の厭世的傾向が時代の空氣であつたからとも見られるが、また飛鳥井に生ませた姫をも女二の宮にできた若君をも、わが子として人に語るに何の支障もない關係でありながら、それを明言することのできないほどな薄志弱行の故でもある。「わが心のよろづにいふがひなく男々しき心のなくて」と主人公が自白してゐる。勅諚とはいへ一の宮を表面上の妻にしたり、神託とはいひながら帝位に即いたりしたのも、やはりこのいふがひなき心からのことでもあらう。厭世の念と戀や榮華との間に彷徨して、去就を定めることすらもできず、僅かに夢の告や神託によつて、我からともなき運命に導かれてゆくのが狹衣である。濱松の主人公は厭世の念の起つた動機がやや明かであるのみならず、狹衣に比べると少しく思慮があつて、皇女を嫁さうとする帝の内旨をも却け、官位も玉の臺も何かせんといふやうな思想さへも見えてゐるが、全篇を蔽ふ悲哀の空氣は狹衣と大差がなく、また唐の皇子が父の後身であるといふ夢の告が物語の一半をくみたてる基礎になつてゐる。なほ源語などに見える滑稽の分子はこの二書の何れにもなく、始終の場面が濕つぽい悲げな氣分で滿たされてゐる。摸倣するものは粉本の上に出ることができないのみならず、作者の性情とその時代の空氣とに適合する一面しか手に入れることができないから、かうなるのもむりは無い。
 この時代の物語が、かういふ摸倣の外に出ることのできなかつたのは、何故であるかといふと、やはりそれが貴族(486)文學の繼續だからであらう。新しい着想を求めようとしても、作者の知識が狹い京の天地を出ないから、新しい思想はどこからも湧いて來やうが無く、新しい材料の見つかるはずも無い。だから一旦その材料とその思想とでなし得る限りの發達を源語が遂げた以上、もはやその上にもその外にも出ることができなくなるので、もし何か新しい工夫をしようとすれば、陳套の思想、陳套な材料で、幾らか筋のはこび方をかへるか、場面をかへるかにとゞまる(これは歌でも同樣である)。狹衣でいふと、天若御子を天上からつれて來たり普賢を出現させたりして幻怪の分子を加へたこと、濱松でいふと、舞臺の一半をシナにして目さきをかへたことなどが、せめてもの新しみである。もつとも宇津保にも、天若御子が現はれ波斯國が出て來てはゐるが、これは傳奇的材料を用ゐた竹取から純粹の寫實小説たる源語に向つて進む途中の作であるがため、まだ全くかういふ材料を除き去ることができなかつたからである。それにしてもこれらの挿話は、作の中心思想とも物語の本筋ともさしたる關係の無いもので、切りとつてしまへばしまはれるものである。ところが狹衣や濱松のは、一旦源語が現はれた後のものであるから、よし狹衣の天若御子が宇津保から來てゐるにせよ、また濱松のシナが宇津保の波斯國に先蹤があるにせよ、作者のそれを用ゐた態度は違つてゐる。特に濱松のシナは物語を組み立ててゐる一つの要素であるから、その點でも宇津保の波斯國とは同じでない。
 さてかういふ風にわづかばかり目さきを變へはしたものの、しかし彌陀來迎の有樣をまねて下りて來たらしい天人も少しも天人らしくなく、文を作りかはすのも談話をするのも、すべてが源語の貴公子そのまゝであつて何の神秘の感じもなく、シナの宮廷も平安朝のそれと同じで、シナ人が和歌をすら/\とよんでゐる。だから實は少しも目さきが變つたのでなく、たゞ名が違つてゐるのみである。作者の能力がこの程度であるから、そのできばえも頗る蕪雜で(487)ある。狹衣では、大將をこの世に置くのが惜しいから、天上につれてゆくために天若御子が迎ひに來たことになつてゐるが、それほどの才と情とが彼自身には何の幸をも齎さず、常に憂き身を歎いてゐるではないか。(濱松は首尾が闕けて傳はつてゐないから全體の結構について確なことはいはれない。)文章も委曲に情趣を措寫しようとするよりも、筋のみを運んでゆくといふ傾があつて、特に狹衣は濱松よりも拙い。濱松には風景の描寫などに幾らか巧なところもあるが、狹衣は全體に生彩が無い。
 然らばかゝる物語が何のために作られ何のために讀まれたかといふと、作者はたゞ前からあつたものを模倣したのみであり、讀者は物語といふ別世界の話をきいて好奇心を滿足させ、または源語などで養はれた一種の物語的情調を喚び起すところに興味を感じたのであつて、源語時代の讀者が自己と自己の社會とを物語に見出したのとは少からぬ相違がある。作者が既に當時の世相人心を描かうとしたのではないから、古物語の摸倣でも事は足りる。その描寫が現實の世情の觀察から來たのでないことは、そのころの人心を動かした新しい現象がどこにもあらはれてゐず、田樂の流行とか、武士の勢力とか、または白川のほとり東山の麓に建てられた堂塔伽藍の花やかさとか、さういふやうなものの世に與へた影響が、少しも物語の上に反映してゐないのでも知られる。或は次第に衰へて來た前代の文物を復興しようといふところに些少の意氣を示してゐる時代の風潮もそこに見えない。花園右大臣などによつても知られる如く、一代に注目せられた人物は何か少しく變つたことをしようとしてゐるので、それがやがて頼長や通憲を生むことになるのであるが、物語の人物にはさういふ面影は少しも見えない。作者にかういふ新主題を捉へて、それによつて構想する能力が無いからでもあるが、始からさういふ着眼も無かつたのである。だから何時の世でも同じやうに人(488)を動かす戀愛のみを唯一の主題として、それすらもおもな場面を古物語から借りて來る外は無かつた。もつともこの時代の際だつた人物でも、決して根本的に新しい事業を起さうとするのではなく、たゞ古のものを維持し若しくは復興しながら、表面のわづかな點で目さきをかへようとするだけのことであり、これと同一の傾向が前に述べたやうに物語の結構の上には見えてゐるが、物語に寫されてゐるところにはさういふ人物も思想も無い。要するに昔の寫實小説の型をまねたのみで、それ自身が寫實小説では無い。あんなに變幻奇怪の分子に富んでゐるのも、やはりそのためである。
 物語のこの傾向は後になるほど甚しくなつてゆく。とりかへばや、松浦宮物語、などもこの時代のものであらうが、とりかへばやは、實際にはありさうにない女裝した男子と男裝した女子とを中心とした物語であり、松浦宮の遣唐使の物語も、源語以來なくてはならぬやうになつた「物のまぎれ」を興味の焦點として、それに荒唐不經な插話を附け加へたのである。特にとりかへばやの吉野の宮、松浦宮の唐は、何れも濱松中納言から系統をひいてゐるらしく、摸倣したものを更に摸倣したのであらう。(今のとりかへばやは後に作りかへられたものであるが、原本もひどく違つてはゐなからうといふ藤岡作太郎の説に賛成する。原本はこんなものの作られる時勢から見て、保元平治の亂より前のものではなからうかと思ふ。松浦宮は、「かたちざえ」といふ貴族的思想と「名を惜み恥を知る」といふ武士の套語とが兩立し、萬葉調の歌とさうでないものとが并記せられてゐるやうに、調和しない異分子が含まれてゐ、行文にも同一作者の手になつたものと思はれないところがあるから、これも近古小説解題に見える平出鏗二郎の説の如く、今あるものはやはり作りかへられたものであらう。さうしてその改作の時期は武士の時代、少くとも京人等のしばし(489)ば戰亂に逢うた後であることが、戰爭の記事に多くの部分を費した内容の上から推察せられる。けれども原本らしいところに萬葉調の歌のあるのは、それが萬葉調の流行したころ、即ち顯昭などが萬葉をもてはやした時代の作であることを示すものであらう。)
 さてこれらの物語の内容については、特に言を費すまでもあるまい。たゞ源語をまねた點に於いて、とりかへばやが「物のまぎれ」を女性の春宮と女爭してゐる男主人公との間のにしたことを一言しておく。女性の春宮は歴史的事實としては久しく世に絶えてゐるのであるから、これは源語そのまゝでないやうに性を反對にしようといふ着想の上から來たことであつて、これもまたかういふ話の主題が、當時の現實の世相から來てゐるものでないことを示してゐる。要するに摸倣また摸倣を經て奇怪ます/\奇怪を加へたのである。たゞとりかへばやを今の形のものによつて見ると、かういふ無理な構想ながら、兩主人公が女の裝をした男と男のさまをした女とであるといふ、むつかしいことが一とほりよく寫されてゐるのは、ともかくも賞讃してよい點である。男裝してゐる女主人公が宰相の密通を聞いて、一つは世づかぬわが身をうしと思ひ、一つは女の思ふらんさまを恥づるといふのもよい。たゞそれが妻に對して嫉妬らしいそぶりのあると、吉野の姫に對して懸想めいた擧動のあるとは、やゝ奇怪であつて、こゝでは眞の男のやうに見えてゐるが、原本が果してさうなつてゐたかどうかはわからない。さうして作中の人物がどれも/\宿命によつてのみ動かされてゐて、葛藤の原因がすべて超人間的の力にあることは、前代から引きつゞいてゐる思想の現はれである。
 貴族文化の間から生まれた小説の末路はほゞかういふものであつた。これらの物語の作者は何れもわからず、男か(490)女かを推測するたよりすらない。讃岐典侍日記などの今に殘つてゐるのを見ると、女流にも文筆に親んでゐるもののあつたことは知られるが、それだけでは作者を女とする強い理由にはならぬ。女らしい特殊の觀察から得たところも、その間に見當らないやうであり、よし名稱だけにせよ、唐の朝廷などを材料としたこと、文章が大まかであること、などから考へると、その多くはむしろ男子の手になつたものではないかと思はれる。攝關の家の地位が變つたと共に、後宮の状態も道長の時代とは違つて來たであらうから、宮女の間から才人の輩出する機會も少くなつたのではなからうか。それは何れにしても、やはり宮廷生活費族生活の内部にゐるものの作ではあらう。
 
 さてこの貴族文學を除いて見れば當時、別に寺院または僧徒の文學があつたのではなからうか。僧兵などの行動を敍して戰記ものの淵源となつたやうなものが、僧徒の手によつて作られはしなかつたらうかと思はれるのである。後の戰記文學の淵源は、前代に書かれた將門記や、この時代に入つてからの陸奥話記にあるらしく、これらは漢文ではあるが、いはゆる記録文に見えるやうな日本化した書き方も混つてゐると共に、對?の句などを用ゐる種々の修辭的技巧も施してあり、またシナの故事を引用したり興味ある插話などを加へたりして、おもしろく讀ませるやうにしてあるところが、既に後の國文の戰記ものの特質を具へてゐる。さて將門記の作者は、その内容の上から僧徒であつたらうと推測せられるが、かういふやうな地方の戰争の状態を敍することは、京の文士にはできなかつたであらうし、また戰爭に從事してゐる武人にはさういふ文才は無かつたらうから、地方にも往復しまた文筆の力のある僧侶がその作者であつたらうとは、ほゞ推測せられる。特に僧侶ばかりは戰場に出入することが自由であるといふことが陸奥話(491)記にも見えてゐるから、彼等は戰闘を目撃する場合も多かつたらう。或は後の陣僧のやうに武人の秘書としても用ゐられたのではなからうか、とさへ臆測せられる。ところが、寺院のうちに僧兵ができるやうになれば、僧徒と戰爭との關係はます/\密接になつて來る。さうして歌をよむものが僧徒に多くなり(勅撰集では後拾遺から急に僧の作者が多くなつて來る)、佛教の教義をつゞつた今樣が現はれ、歌合が寺院で行はれ、また法然や親鸞が國文でものを書くやうになつてゆく時勢を考へると、僧侶等の書く戰爭の物語が、漢文から國文に一轉するのは自然の推移であらう。承安年間にできた後三年合戰畫卷は靜賢法印の主宰によつて作られたといふから、その詞書の作者もやはり僧徒であつたらうと思はれる(三浦周行の説參照)。かういふやうにして、次の時代に至つて大に發達するやうになつた戰記ものが現はれてゆくと共に、僧徒の國文學に對する關係も漸次密接になつてゆくのである。
 
 話が文章に關係して來たから、こゝでこの時代の文章と言語との變遷について管見を述べておかう。前の時代に於いては、宮廷生活のありさまや貴族社會の生活をそのまゝに寫すもの、またはそれをもとにした物語には、國文が用ゐられたが、その他は多く漢文であつた。當時の文學的漢文即ち四六文などは別としても、將門記なり純友追討記なり、それより後に作られた陸奧話記なり、寶録を主とするものでもやはり漢文で、その間にも往々四六文めいたところが混在してゐる。國文と漢文とはその間に殆ど交渉が無く、文壇に兩立してゐたのである。ところがこの時代になると大に趣が違ふ。今昔物語は通篇一種の國文であつて、特に將門と頼義との物語は、將門記と陸奧話記とを摘譯したものらしく、その他日本靈異記から取つたものもある。のみならず、インドやシナの事蹟を書いた部分があるのは、(492)著者の興味の大半がそれを國文に翻譯するところにあつたと見なければならぬ。少くとも人によませるには國文につづつた方がよいと考へたからであらう。これは社會状態の上からは、文化の範圍、從つて書を讀むものの世界、が擴張せられたこと、また國文の重んぜられて來たことを示すものであるが、文章の方からいふと、そこに新しい一つの氣運が開かれたものと見られる。
 この新趨勢の由來は主として題材の上にあるらしく、武士や地方人や外國人の事蹟は、舊來の文體では寫し難いから、おのづから漢語を多く用ゐたり、全體の調子を簡潔に鋭く強くしたりするやうになり、それによつて男性的國文とでもいふべきものが生まれて來たのである。この傾向はいはゆる女文の系統をひいたものにも現はれてゐるので、狹衣などには漢文直譯風のところがある。女文を多く含んでゐる榮華物語と大鏡とを比べると、この推移の跡は明かであり、今鏡になると、詩を直譯して載せたり、「山のあらし萬代よばふ聲を傳へ、池の水も千歳の影を澄ます、」(初春)といふやうな、漢文直譯口調の對句などを用ゐたりしてゐる。今樣なども概ねこの直譯風である。詩文を國語風に訓むのは、前から行はれてゐたことで、朗詠などもそれであるが、それが國文の中に融合して來たのはこの時代からである。特に「いとゞ秋のあはれを添へて、有明の月の影も心を傷ましむる色、夕の露の繁きも涙を催すつまなるべし、」(星合)といふやうなのになると、寫實的な女文の性質を破壞するものであつて、終には「黄金白金綾錦などのみてぐら」(こがねのみのり)などの、抽象的な空虚な形容になつてしまひ、漢文の短所をそのまゝに承け繼ぐのである。これはその弊であるが、ともかくも國文が漢文的要素を次第に多く含むやうになつて、その文體が少しづゝ變化して來たことはこれでも知られる。この時代の思想をのべこの時代の事物を記すには、これが必要であつたであ(493)らう。(前に述べた狹衣以下の物語が依然として源語の文體を學んでゐるのは、それが當時の生活を寫さうとしたものでなく、偏に昔物語の情趣を面影にうつし出さうとしたものであるからで、これもまたそれが別世界の物語として見られてゐた一證である。)
 しかし國文の文體が變つて來たことは、口語の變遷にも關係があるらしい。言語は本來動いて止まないものであり、斷えず變つてゆかうとするものである。前の時代に於いては和歌や物語の文章は、ほゞ日常の口語から成りたつてゐたであらうが、その口語は何時までも同じ有樣で續いてゆくものではない。その上、前篇にも述べておいたやうに、特殊の修練を經た宮廷及び貴族の用語は、地方人なり一般民衆なりのそれとは、種々の點に於いて違ひがあつたらしいから、武士などが次第に社會上に地位を占めて來て、京に往來住居するものも多くなり、世の形勢も彼等に動かされるやうな時代になると、彼等の言語が京にも行はれるやうになり、また貴族等の言語も漸次その影響をうけて來る。また學生の間に行はれてゐる漢文直譯風の詞づかひも一般の口語に多く入つてゆく。(源語の少女の卷に大學の博士たちの語がきゝにくい風がはりのもののやうに書いてあるが、漢語を多く雜へたものであつたらう。)
 かういふ風にして口語は變つてゆくが、しかし文字に書かれるものとしての文體は、文壇に大きな權威を有つてゐるので、容易に變らない。特に一般文化が停滯して、何ごとについてもみづから作り出す力が無く、古いことをのみ慕つてゐたこの時代では、文章に於いてもまたさうであるから、口語と文章の用語とは漸次隔つてゆく、即ち流動しつゝある口語とは反對に文章語が固定するのである。(曾丹集の序文めいたものに、後世の七五調に近い、律語だか散文だか到らないやうなのがあるが、かういふものの作られたのは、漢文の修辭法を用ゐて國語の文章を書くことの(494)一轉したものとも考へられるので、その意味では、文章語に口語とは違つたところが早くからあつたのである。しかしそれはこゝにいふのとは違つたことである。)けれども時代とかけ離れたことを記す擬古文でなく、現實の思想なり心情なりを表現し、當時の生活を描寫しようとするものは、文章語の型を墨守することができないから、その文體は次第に物語などのそれから離れてゆく。ところが、表て立つた文章は漢文であつたため、かういふ新體には、一方で幾らか口語の變遷に伴ふ傾向もありながら、他方ではやはり口語とは異つてゐる漢語や漢文直譯の口氣がそれに加はつて、それが漸次口語と一致しない特殊の文章語を形づくつてゆくやうになり、年月の立つと共に言文は終に一致する機會が無くなるのである。歌についてもこのことは考へられるが、それは後にいふであらう。新しい時代の生活に適應しその思想心情を表現することのできるやうに口語を精練し、それによつて新しい文體を作つてゆくやうにならなかつたのが、日本の文化の發達のために遺憾なことであつた。これは漢文といふものがどこまでも尊重せられてゐたためであるので、それが尊重せられたのは、文化が貴族的であつたからである。一般國民から遊離してゐる特殊の存在であつたからである。
 さらに附言する。國文には漢文の要素が加はつて來たが、漢文には國語の分子の混入することが少かつた。本朝續文粹に纂めてあるものを見ても、それは知られよう。漢文はもと/\實生活とは關係の無いものであり、この時代となつてもなほ四六文でなくては文章でないやうに思はれてゐるのも、そのためであるから、これは當然である。和歌の序などには日本の固有名詞がそのまゝ用ゐてもあるが、それにいつてあることは歌の情趣とはかけ離れてゐる。實用的な日記、または雲州消息などによつても想見せられる當時の書簡の如きは、漢文ではないから、これはこゝにい(495)ふのとは別のもののである。たゞ直接に日常生活と關係のあるものは、その中に漢文の要素が含まれまたは漢文めいたところがあつても、眞の漢文ではない、といふ點に、日本人の生活に於ける漢文のはたらきの限界がある。また明衡の新猿樂記のやうなものも、漢文ではない。漢文では書くことのできない日本人の風俗なり世相なりを敍するには、かういふ書きかたをしなくてはならぬからなので、そこにやはり漢文の限界が示されてゐると共に、後の戰記ものなどの文體を導き出す一つの誘因ともなつた點に於いて、新しい國文の一つの由來をなすものであらう。さうしてかういふものの書かれるやうになつたことが、上に考へたやうな文化史上の趨勢の一つの現はれでもある。
 
(496)   第三章 文學の概觀 中
        金葉詞花時代の和歌
 
 古今集以後の和歌には、その主なる風潮として、智的傾向が著しくなり、歌が生氣を失つて來た、といふことは前篇に述べておいた。公任などが一世の風潮を支配したのはこれがためであるが、それが一層歌壇を銷沈させる機縁にもなつて、その後のしばらくの間は、一般文化の停滯と共に、歌人もたゞ舊樣を摸するのみであつた。白河堀河兩朝のころの歌合の判を見ると、形式上の拘束がいよ/\煩瑣になり、歌詞の制限がむつかしく、詞のつゞけがらは一向になだらかなのをよいとしてゐたらしいが、この風習もやはりこの停滯時代に養はれたものであらう。古歌を本歌として取ることがます/\流行し、古歌に例證のある着想用語でなくては歌にならないやうに考へられたのも、榮華物語の文章が古人の日記などを補綴したものであること、また物語に於いて源語の摸倣のみが行はれたことと、同一思潮のあらはれであつて、すべてが前代を慕ひそれを模範にしようとするところから來てゐる。いひかへると、和歌が貴族文學であるため、新しい思想や新しい題材をどこからも取入れることができないので、思想も用語も型にはまつてしまつたのである。たゞ何時の世にもある一人二人のすねものや不平家が、この大勢に對して反抗的態度をとつたので、時期からいふと前の時代に屬すべき曾禰好忠はその先驅者であつたが、これは和*泉式部などの詩人的資質の豐かなものが思ふまゝ歌を作つたのとは違つて、やはり歌を技巧として取扱ひながら、その技巧の上に於いて當時の歌風に反抗したのである。從つてその歌は甚だ情味の乏しい、故らに奇を弄したやうなものであつた。
(497) 好忠の歌の特色は内容よりも外形にある。詩人らしい情感の深さ強さ、もしくは鋭さ濃かさ、にあるのではなくして、むしろ普通の歌人に用ゐられない材料(みやつこ木、松かさ、汗、などの類)、もしくは萬葉には見えてゐるがその後は概ね見すてられてゐたもの(えぐの若菜、さくら麻、の類)を用ゐ、または俚言鄙語(「くゆりつゝ世に炭がまのけふたきを吹きつゝもやせ冬の山風」の類)を使ひ、なは修辭の上では、そのころには多くは用ゐられなかつた冠詞序詞、または音や詞を重ねることや頭韻を好み(「荒小田の去年の古ねの古よもぎ」、「木のめはる春の山邊を來て見れば」、「荒磯に荒浪たちてあるくかも」、の類)、生硬奇僻な造語(「蓬が杣のきり/\す」、「ひこばへにけり」、の類)を用ゐなどする點にある。その他「入日さすさほの山邊の柞原曇らぬ雨と木の葉ふりつゝ」、「秋霧の立ちつるすがら心あてに色なき風ぞさ衣にしむ」、など、後の新古今時代に流行するやうになつた修辭法もあり、「愛宕山樒の原に雪つもり花つむ人の跡だにもなき」といふやうな、歌材を多く用ゐたものもあつて、技巧の點に工夫を怠らなかつたことが知られる。
 しかし好忠にも、「上そよぐ竹のはなみの片よりを見るにつけても夏ぞ凉しき」の細かい觀察、「曇りなき大海の原を飛ぶ鳥の影さへしるくてれる夏かな」、「ともしすと秋の山べに入る人の弓の矢風に紅葉ちるらし」、などの廣いまたは美しい光景、さては「花見んとふる里さして行く道を長びくほどに風もこそふけ」などの長閑な心もちなど(一首のしらべが現はさうとする情趣と調和しないところもあるが)、當時の歌としては新しいところに目をつけたと思はれるのもある。「日くるれば下葉こぐらき木のもとの物おそろしき夏の夕ぐれ」の如きも、これらの類であらうか。或はまた「野邊見れば草わくばかりなりにけり我が苗代も生ひやしぬらん」、「わがまきし麻苧の種をけふ見れば千枝(498)にわかれて蔭ぞ涼しき」、のやうに、農夫の生活を詠んだものも多く、「かぜによりうてば衣を手のたゆく寒さにいそぐ秋のよな/\」の如く、身分の低い女のしわざも歌はれてゐる。けれども、民衆の生活を詠んでも、「賤の女のあさけの衣めをあらみはげしき冬は風もさはらず」、「蕨生ふる矢田の庵野に打むれて折り暮しつゝ歸る里人」、など、やはり外から彼等を見るのであつて、彼等みづからの情思を表現しようとしたのではなく、當時困憊するものの多かつた農民に對して同情をよせてもゐない。だから上記の如き新しさのあるものも、何か變つたことをいはうといふ意味がそれに含まれてゐるらしく、一轉すると「夏の夜の長閑けき雨を足引の山の春風ふくかとぞきく」などの、わざと奇を求めたものとなる。「ひとりぬる風の寒さにかみな月しぐれふりにし妹ぞ戀しき」、「我せこと小夜のね衣かさねきて膚を近みむつれてぞぬる」、など、官能的なものも幾首かあつて、それは或は萬葉人の氣分に立ちかへつたもの、或は露骨な描寫をしたものであり、そこに一種の興趣はあるが、「我妹子が汗にそぼつるねより髪夏のひるまはうとしとやみる」に至つては興がさめる。
 要するに好忠の歌は、多くの歌人の用ゐない題材を用ゐ聞きなれないいひかたをしたところに、その主なる特色があるので、思想の上にさしたる新しさがあるのではなかつた。この點に於いては前々から述べて來たこの時代の一般の思潮に適合してゐるので、好忠の歌をこの篇で考へることにした理由もこゝにある。しかしとにかく、かういふやうな歌を作つたのは、一般の歌界の風習にあき足らぬところがあつてその埒外に出ようとした點に、少からぬ意味はある。縁語などを主にした修辭法から離れて來たこと、また自然界についても、古今以後の歌のやうにそれを智的に取扱ふのでなく、それを目に見る姿としてながめ、それに漂ふ情趣を詠まうとしたことも、このころから漸次發達し(499)ていつて俊成定家時代に大成するやうになつた歌界の新傾向を導いたものである。これは或は新しさを求めたためでもあらうし、また萬葉などから示唆を得たところもいくらかはあらうが、女文によつて世に示された自然界の精緻な觀察が歌の方に應用せられて來た、といふ事情もあらう。さうしてそれが次第に發達してゆくのには、別に思想上の理由もある(このことについてはなほ後章で考へようと思ふ)。また萬葉語や俚言俗語を用ゐたのも、一つの意味に於いては、顯昭や西行などの先驅者といつてもよからうか。萬葉の語を用ゐたのも、用語の點で新しさを求めたものではあらうが、これだけのことはいはれよう。これもまた彼が和泉式部などとは文學史上の地位の異つてゐる點である。
 さて好忠が俚言俗語を用ゐたことは、當時の歌人から非難せられたらしいが、俗語が歌に用ゐられて耳ざはりに聞えるといふのは、歌が貴族的のものであり、その詞が貴族の用語であるために、民衆の用語を交へることが不調和なのである。作者についていふと、それは貴族的教養の無いことを意味するものである。曾丹が俚言俗語を用ゐたのは、必しもこの因襲に反抗したのではなかつたらうが、彼自身が官人としても地位の低いものであつたために、俚言俗語を用ゐなれ、それがおのづから歌の上にも現はれたのであらう。たゞさういふものを排除しなかつたところに、歌人としての彼の態度があつた。萬葉語を用ゐたのも、歌人の因襲に拘束せられなかつた點に於いて同じ意味があらう。
 
 曾丹のやうな奇僻の詞は用ゐず、しめやかに落ちついて、平淡の詞に深い情をこめた歌を作つたものが、曾丹より少しく後れて世に出た古曾部の入道能因である。多く田舍にすみ陸奥に二度の行脚を試みたほどであつて、自然界の(500)觀察も親切であり、この點に於いて後の西行を導き出したものと見られよう。その作は多く修辭的技巧を弄せず、縁語いひかけなどを殆ど用ゐてゐない。從つて輕浮な點もなく古今集以後の歌にありがちな智巧的のものも少い。「山里の春の夕暮來て見れば入あひの鐘に花ぞ散りける」(新古今春)、「ゆふされば潮風こして陸奧の野田の玉川千鳥なくなり」(同冬)、「ねやの上に片枝さしおほひ外面なる葉ひろ柏に霰ふるなり」(同上)、「あしのやのこやのわたりに日は暮れぬいづちゆくらん駒にまかせて」(後拾遺※[羈の馬が奇]旅)、「命あれば今年の秋も月を見つ別れし人に逢ふよなきかな」(新古今哀傷)、「足引の山下水に影見れば眉白妙に我老いにけり」(同雜)、など、何れもこの法師の特色を示すもので、わびしげな光景としんみりした情趣とが互に相應じ、表現の法もよくそれに適合してゐる。彼の撰んだといふ玄々集の歌が、多くは巧なものでなくしてあはれの深いものであるのも、彼の趣味を示してゐる。「世にふれば物思ふとしもなけれども月に幾度ながめしつらん」(中務親王)、「君すまば訪はましものを津の國の生田の杜の秋の初風」(清胤)、「山吹の花の盛に井手に來てこの里人になりぬべきかな」(惠慶)、「こよひ君いづれの里の月を見て都に誰をおもひ出づらん」(馬内侍)、など、殆ど彼自身の作と見てよいほどのものである。もつとも彼にもたまには「一重なる蝉の羽衣夏はなほ薄しといへどあつくぞありける」(後拾遺夏)のやうなものも無いではない。
 さてこの法師のかういふ歌は、歴史的には前代からの智巧的でない歌の繼承であり、歌壇の大勢からいふと智巧的な舊來の歌風から一轉しようとする新傾向を進めたものであり、彼自身からいふと本來具へてゐる詩人的資質と旅に多くの年月を送つた境遇との賜であらう。抖?行脚の身では人と巧を競ふ便宜も必要も無く、また親しく異郷の空氣を呼吸し、日ごと/\に移りゆく風光に接して、詩興を感じもし養ひもすることができる。曾丹のやうに才を恃んで(501)人を驚かすやうなことをせず、おのづからなる情の濃かさがそゞろに現はれて、あのやうな歌となつたのであらう。たゞ山川風物を目に見る姿として見ようとする一事に於いては、おのづから曾丹とも一脈の相通ずるところがあるが、曾丹のは材料こそ實際の觀察から來てゐるところがあるが、歌は机上で構成せられたものであり、能因のは風物そのものが詩人の感興を喚んで、その時の氣分をさながらに表現したものである。曾丹の作には風景を客觀的に描寫したものがありながら、能因のは却つてそれが作者の情調に包まれてゐるのも、一つはこの故であらう。
 能因とほゞ同時代の經信にも、やはり風景を目に見る姿として詠んだのがあつて、古來それらが名歌とせられてゐるが、彼の作は能因のとは違ひ、親切な觀察から來たよりは机上の構想によつたものであるらしく、從つて感じが淺い。例へば有名な「夕されば門田の稻葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く」(金葉秋)にしても、「蘆のまろや」がわが住む庵とは見えず、從つて「門田の稻葉」の語が浮いてゐて、そのおとづれがわが身にしむ秋風の聲とはきこえない。「引板はへて守るしめなはのたわむまで秋風ぞふく小山田の庵」も、引板はへて守るしめなはと秋風との聯想は實際の經驗から來たものとは感ぜられない。「みむろ山紅葉ちるらし旅人の菅の小笠に錦おりかく」(金葉冬)なども、決して目に見た有樣ではなく、後の新古今調ともいふべき「散りかゝる紅葉流れぬ大堰河いづれゐせきの水の白浪」(新吉今冬)もまた同樣である。しかし、かういふやうに風景を目に見る姿として詠まうといふ態度は、これからます/\流行してゆく。
 能因は歌人として特殊の地位を有つてゐるが、當時それが直に一般の歌壇を動かすまでには至らず、沈滯してゐる歌壇は、大體に於いて舊模舊樣に從つてゐるのであつた。久しぶりに勅撰集の形をとつて現はれた後拾遺は、その名(502)稱から見ても、多く前人の作を採つたその内容から考へても、決して新しい運動の徴候であるとはいはれない。けれども、難後拾遺抄の著者がこの集に對して、「むげにたゞこと」、「いとありのまゝなる歌」、のあるのを難じ、俗語を歌に入れるを難じ、「さよふけて旅の空にて鳴く雁はおのが羽風や夜寒なるらん」(伊勢大輔)を詞足らずと難じてゐるのは、よしその間に歌人の世俗的地位の競爭といふやうな感情が含まれてゐるらしいにせよ、一層保守的な考を有つてゐるものから攻撃せられるだけの(因襲的眼孔から見れば不整頓な)ところが、この集にあつたこと、從つて一般の歌壇が幾らか動搖し初めたことを示すものである。實際久しく顧られなかつた勅撰集の沙汰のあつたことが、既に歌壇に何事か起らうとする前兆であつて、白河鳥羽に寺院や離宮が建つて、道長時代の華やかさが五十年の後に再現せられようとした時勢が、和歌の上にも現はれたのである。堀河院が百首の歌をめされたこと、歌合が公にも私にもまた寺院にも盛に行はれ初めたことなどを見ると、少くとも外面に於いては、和歌が昔にもまして活氣づいて來た樣子がある。しかし實際はそれほど新しい運動が行はれたのではなく、當時有數の歌人といはれた匡房なども、「我妹子が袖ふる山も春きてぞ霞の衣たちまさりける」(堀河百首)、「佐保姫のうちたれ髪の玉柳たゞ春風のけづるなりけり」(同)、といふやうなものを作つてゐる。堀河百首の全體が一體に新しみの少いものである。それが新しくなつてゆくのは、この百首にも「取りつなげ玉田横野の離れ駒つゝじのけたにあせみ花さく」などの奇矯な作を出してゐる俊頼などから始まる。俊頑は堀河院時代に年四十前後、既に立派に歌人として世に立つてゐる。後に金葉集の撰を命ぜられたほどに、歌(503)人としての地位は高まつていつたが、官位はその時の木工頭のまゝで終つて、父經信の大納言には及ばず、しば/\「下臈に越えられて」常に悶々に堪へなかつた。「都に住みわびて」近江の田上に流浪したり、伊勢や筑紫に住んでゐたこともあり、沙彌能貧と號して恨躬恥運雜歌百首を詠んでゐるのを見ると、不遇の生を送つたらしい。但し歌合の判者としての態度などを見ると、決して基俊のやうな偏狹な騎慢な人物ではなく、また曾丹の如く才を恃んで氣まゝな擧動をする人でもなかつた。散木弃歌集に多く見える險怪奇僻な歌はたゞ才氣換發の結果であらう。さうして曾丹が歌人として世に用ゐられなかつたのに、彼が時流に重んぜられたのは、世間が新しい運動を求めて來た時勢の變化の賜である。
 さて俊頼の家集をみると、「昔より心ありける山なれば風も櫻をもてはやすかな」、「卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根も年よりにけり」、「咲初むる萩たちかくせ女郎花篠の小薄目もぞきたなき」、「はげしさの深山嵐は手も無きにいかで木の葉をこき散らすらん」、などの口語を使つたもの、「さくらあさのをふの浦浪たちかへり見れどもあかぬ山梨の花」、「雉子なくすだ野に君がくちすえて朝ふますらんいざゆきて見ん」、「はつ苗にうすの玉えをとり添へていくしまつらん年つくりえに」、などの、萬葉の語や語調やを學んだもの、「花見んと思ふ心にひかされてすかるすかるもかき上るかな」、「おる波の後めたさに目もかれず立ちゐふみみる山吹の花」、「御園生に麥の秋風そよめきて山郭公忍びなくなり」、「何時となく鹽たれ山のさゝれ水暮れゆくまゝに音添へつなり」、に見える生硬な造語、または「我が心花の梢に旅ゐして身の行方をも知らじとすらん」、「つはりせし双子の山の柞原世にうみ過ぎて消えぬべき哉」、などの新奇な譬喩が、到るところに充滿してゐる。
(504) けれども俊頼もまた曾丹と同樣、その思想にはさしたる新しさが無い。「郭公末の松山風ふけば波こすくれにたちゐなくなり」などは、本歌によりながら新奇の語を弄してゐることを示すと共に、その新奇が用語の上にとゞまつて着想の上でないことをも示すものである。「田上の山里にて桑の木に露の置きたるを見て」と題して、「露にさへ萎るる桑の枝見ればこき立てられし我が身なりけり」といひ、「宿りたる家に薦をしつらひにして懸けたりけるを風の吹ならしけるをきゝてよめる」歌に、「柴の庵にはこものかこひそよめきてすどほるものは嵐なりけり」といひ、「稻の仆れたるを見て」、「おぼつかな誰が袖のこにひき重ねほうしこの稻かへしそめけん」、「田上にて川の畔に立ち並みたる柳の木にそまむきといふものをかけたるが月夜にこぐらく見えければよめる」歌の、「川柳さしも覺えぬ姿かなそははさみつゝ月に立てれど」、「柿の木の枝の細きに實のなりたりけるに風のいたく吹きて落ちぬばかりにゆるぎけるを見てよめる」歌の、「心してこの實を折らん夕さればよをうみかきに嵐吹くなり」、または「はたけふに黍はむしゝめしゝめきて囂しきまで世をぞ恨むる」、などは、材料も新しくまた實際の觀察に本づいたものではあるけれども、歌はやはり駄酒落であつて、その思想も因襲的である。「いひそめしことばと後の心とはそれかあらぬか犬か烏か」、「恨むるも戀ひしといふもきゝとけば響と聲と水と氷と」、などの禅語めいたものも、歌としては言ひまはしの珍らしいのみであるが、これには佛家慣用のことばづかひに誘はれたところがあらうか。(後の慈圓の作にもこれに似たものがある。)
 要するに俊頼の歌の新しいのは形の上だけのことであつて、耳なれぬ詞と語調とで人を驚かしたに過ぎぬ。家集を見ると連歌にも長じてゐたことがわかるが、それだけに機智がはたらきまた敏捷でもあつて、口をついて歌が吐き出(505)されたといふ風が見える。旅の歌でも戀の歌でも、しんみりと落ちついた感じのあるものは少く、多くは放縱なもので、よくいつたところで輕快である。從つて修辭の上でも曾丹と同じく音を重ね語を重ねることを好み頭韻を盛につかひ、「猶もなほいひてもいはんけふもけふ思ふ思ひの積る積りを」のやうなものさへある。語を重ねるいひかたは、前の時代の女流歌人の作にも稀にはあつたが、それはいはうとする情思がおのづからさういふ表現法をとらせたのに、俊頼のこの作の如きはいひかたそのものに興じたのみのものである。戀の歌や恨躬恥運雜歌百首に序詞を用ゐたものが多いのは、萬葉を學んだものであるが、それにも往々險晦な語がある。しかしそれでありながら、一首としては奔逸流暢の調をなしてゐるのは、上記の理由からであらう。彼が當時の歌壇に雄飛したのもこの點に於いてであつて、また彼が新樣に趨いたのもかういふ資性の故であつたらう。
 しかしともかくも俊頼は新奇な風體を以て世間を動かした。新しい思想が無いといふのは今日からの批評であつて、歌を技巧としてのみ見てゐた當時の歌人には、俊頼のすべてが新奇であつたから、それに刺戟せられただけでも、歌壇に幾らかの活氣がついたのである。彼の撰んだ金葉集が、題名から既に舊來の因襲をすてて一新紀元を勅撰集に開いたこと(私撰の集に行はれてゐた命名法を適用したのであらう)、その歌が多く當代の歌人の作をとつたこと、必しも歌數の豐富を求めなかつたことなどにも、時代の活氣と撰者の意氣とが見える。(俊成は千載集の序で、金葉詞花を眞の勅撰集と認めないやうなことをいつてゐる。その理由は「部類ひろからず歌の數少」い點にあるらしいが、これは僻論であらう。)但し勅撰集だけあつて、撰ばれた歌には割合に新奇なものが採られなかつたやうに見える。彼自身の作でも因襲的修辭法を用ゐたものが多く、また「鶉なくまのの入江の濱風に尾花波よる秋の夕暮」(秋)の(506)如く、能因の詠を思ひ出させるやうなものも、この集に見える。(この集には入つてゐないが「ふるさとは散るもみぢばに埋もれて軒のしのぶに秋風ぞふく」といふのもある。俊頼にはかういふ類の作も無いではない。)
 けれどもその間には「近江にかありといふなるかれいひ山きみはこえけり人とねぐさし」、「盗人といふもことわりさよ中に君が心をとりにきたれば」、「はなうるしこやぬる人のなかりけるあな腹ぐろの君が心や」(以上三首戀讀人不知)、のやうなのがある。どの方面にか新奇を求めようとしてゐた當時の歌壇は、俊頼といふ先達に率ゐられてその蹤に從ふものも少なくなかつたのであらう。「わざもをかしからんとて輕々なる歌多かり」(無明抄)とか、「歌の姿かはりて一ふしをかしきところある歌多くはべる」(阿佛尼)とか、古人もいつてゐる。古人の批評は必しも今人の見る所と同じではないが、「吉野山峰の櫻や咲ぬらん麓の里に匂ふ春風」(春忠通)といふやうな新古今調の前驅とも稱すべき技巧を用ゐたもの、「松がねに衣かたしき夜もすがらながむる月を妹見るらんか」(秋顯季)の萬葉調を學んだもの、などは、或は「一ふしをかしき」ものであらうし、「水の面に散りつむ花を見る時ぞ始めて風は嬉しかりける」(春成通)、「雪の色を奪ひてさける卯の花に小野の里人冬ごもりすな」(夏公實)などは、「輕々なる歌」の例であらう。その思想には何の新しげも無いのみならず、花に風を恨むのを裏面からうれしといひ、卯の花を雪と見るといふ陳套の譬喩から一歩進んで冬ごもりといひ、ことばをのみ弄んでゐる。「郭公まつにかゝりて明すかな藤の花とや人は見るらん」(夏)に至つては、何とも評しやうがないほどのものであつて、これに比べると堀河百首の俊頼の「春きては心のまつにかゝりつる藤の初花さきそめにけり」などは、單に言語上の遊戯に過ぎないだけまだしもである。數の多いものに事を缺いて、「いつとなく風ふく空に立つ塵の數も知られぬ君が御代かな」(賀肥後)などとい(507)ふ奇異なものもある。これは歌といふものが新奇に趨くのにかういふ方向をとつて來たことを示すものである。(かういふ點に新奇を求めるのは濱松中納言物語に唐の朝廷を點出したのと同樣である。名稱や用語は新しいが、その實は極めて陳套の材料、陳套の着想である。)
 
 しかし、一方に新風潮が現はれると、他方にはそれを防ぎとめようとする守舊派があるのは、事物の推移に通有な状態であつて、當時の歌壇にも同じ現象があつた。「歌の詞」に制限を置き、證歌のない新意匠を排斥し、珍らしい修辭法を採らないのは、白河院のころまでの一般の風であつたらしいが、俊頼と同時代の歌人でそれと肩をならべてゐた基俊は、どこまでも頑冥にこの態度を守つてゐた。元永元年の内大臣家歌合を俊頼基俊二人で判じたのを見ると、俊頼はわが歌をよしともせず、却つて「心もえずことやう無極歌」とか、「歌詞ともおぼえぬかな」とか、みづから嘲るやうなことをいつてゐるが、基俊はかならず自讃をしてわが歌を勝としてゐる。俊額を歌の外道と罵つてゐるのは歌風の違ふからだとしても、偏狹な性質であつたに違ひない。詩なんども作つたので博識を自慢にもしてゐたらしいが、歌合の判などを見ると、歌についてすら自慢するほどの學殖も無かつたやうである。かういふ性質の人であるから、「はぢもみぢ」は「むげに耳なれず、こと新しき」材料だとして斥け、「秋風の尾花ふきまく」、「宮城野にふすゐの床」、は古歌によんだ例が無いと難じ、更科は慰め難き月の照ること、富士にはかならず烟をよむことと定め(長承三年中宮亮顯輔家歌合)、また歌詞の制限を固くし、「浮かれゆくありなし雲も晴のきて」は卑陋だとして俗語を排し、「庭もせにさきすさびたる鴨頭草の」といふ詞について萬葉の詞を學ぶのを難じたなど、徹頭徹尾、當時の因襲(508)的思想、因襲的歌詞を墨守しようとしたのも、無理は無い。(もつとも彼自身の作を辯護する場合には曾丹の歌を證歌としてゐるなど、かなりかつてなことをいつてゐる。)從つて彼の歌は、なだらかで、平穩で、無難ではあるが、生氣の無い、つまり歌らしくない、歌ばかりである。
 しかし守舊派は必しも彼のみではない。たまには萬葉調のまねもしてみたほどで、割合に頑固でない顯季でも、「花ざかり末の松山風ふけばうす紅の波ぞたちける」を難じて、末の松山に櫻をよむこと、またうす紅といふ詞は、古歌に無い思想と詞とであるといひ、「高砂の花の白雲立ちにけり」の花の白雲は、耳なれぬ修辭法だといつて斥けてゐる(こんなのを難じたら新古今の歌は一首も歌にならない)。前代から世に行はれてゐた喧しい歌論や、むつかしい「病」の沙汰は、この守舊思想に利用せられ、それがために歌はます/\窮屈にせられた。放縱不羈の歌を作つた俊頼さへも、判者としては、一方でかなりに俗語や耳なれぬ語を許しながら、他方では往々證歌を云々し、歌詞と思想とに制限のあるやうなことをいつてゐる(大治三年永縁奈良坊歌合)。俊頼の隨腦といふものがもし彼の作として信じ得られるものであるならば、それに記されてゐることは歌人としての彼にふさはしいものではない。歌人としての態度と歌學者としての意見とが齟齬してゐるのであつて、判者としての彼の態度にもまたそれが現はれてゐるのであらうか。(このころには、歌合の歌は晴れの歌として一種特別に取扱はれてゐたから、その批評も幾分か嚴密であり、從つて法則などに拘泥する傾が自然に生じ、歌合の歌とさうでないものとの間には、それに對する批評の標準に寛嚴の差があつたらしい。けれども歌に二種あるのではなく、またかういふ場合の判こそ權威のあるものとせられたのであるから、それによつて當時の思想を覗ふことはできるはずである。)
(509) こゝで一言しておく。歌の詞や思想に制限があるといふのは、何ごとについても前代からの因襲に從つてゐる文化の沈滯期の一現象ではあるが、詞についていふと、口語の變遷にも關係があらう。日常の用語は變つて來たけれども、歌の詞は因襲を重んじたために、それを墨守することになるのである。いはゆる院政時代になつて、機智を弄して口とく歌を詠みかはすことが少くなり、戀歌に應酬唱和の作よりは題詠が多くなり、また連歌が咄嗟に口をついて出る上下二句の唱和ばかりでなく、思慮を費して長くつゞけてゆくくさり連歌などがその間に起つたのも、或はまたこの時代に作られたらしい歌についての種々の述作に、古歌の詞の意義の解釋をした部分があるのも、その解釋に誤謬が少からず見えてゐるのも、みな歌詞と口語との分離に一つの理由があらう。散文に於いては、物語などの擬古文の外は、時勢と共に幾らかづゝ變化してゆくのに、歌がさうでないのは形が定まつてゐるためであらう。さて詞がかう制限せられるのは歌の思想が因襲的に規定せられてゐるからであるが、また詞の制限から思想もおのづから限定せられるやうにもなり、その間に互に因果の關係を生じてます/\歌を沈滯させる。これが公衆の耳をあひてにせず、一般民衆をよそにした貴族文學の蓮命であつた。
 
 けれども人心の趨向は頑冥な守舊派の手で防遏することはできない。詞花集は大體に於いて金葉集の先縱を踏襲しながら、それよりも古人の作を採ることが多く、歌風も一層陳套の感があるが、これは勅撰集であるのと撰者が温和派の顯輔であるのとのためでもあらう。しかしそれでも曾丹の歌などが多く採られてゐ、また一つ二つは萬葉調めいたものや俗語を加へたものもある。勅撰集ですらさうであるから、一般世間で萬葉語の復活、詩語の直譯、俗語の使(510)用、などが次第に行はれてゆくのは自然の勢である。顯昭陳状に「故六條左京大夫申されしは、先親修理大夫、予に萬葉を讓侍し時云、萬葉はたゞ和歌の竈にて納箱中て可持、常披見して好讀べからず、和歌損する者也云々、又後日、俊頼朝臣同樣に諷諌仕き、但此兩人共に萬葉の詞を取てよく詠ぜる人也、然は此誡極不重也、若心得ず讀ばあしさまになるべきか、そのたぐひはおほかりき、」とあるのが事實ならば、顯輔は父の顯季より一歩進んでゐて萬葉をそれほど排斥しなかつたのであらう。(但し俊頼に關する話は事實かどうか少しく疑はしい。)その顯輔が「風ふけば浪よせかくる岩の上のいつもの花のいつかあひ見ん」(隆季)と「人知れずおもひいれども梓弓ふすよなければ夢にだに見ず」(顯方)との番ひを評して、「左(隆季)歌萬葉集に思ひいでられ、わざ/\しげにはべめり、右(顯方)歌ふることなればにや、なだらかにはべめり、新しきよりいはゞ左心あり、」(久安五年右衛門督家歌合)といつてゐるのは、古い萬葉ぶりが新しい流行となり後世の風體が舊いと目せられてゐる時勢の趨向と、判者顯輔が自身の趣味では舊い方を好むけれども、さりとて珍しい新樣を排斥はしないといふ、曖昧な境地に立たなくてはならなくなつたこととを示すものである。「萬葉集見ける人の歌にやと心にくゝ見ゆ」(大治三年永縁奈良坊歌合)と俊頼のいつてゐるのは、歌合の判詞としてめづらしかつたらうに、顯輔までが萬葉を證歌としてゐるのは、時勢の變化といはねばならぬ。むかし後拾遺の序に、「萬葉集の心は易きことをかくして難きことをあらはせり」と書かれた時代と比べると、なほさらの變りやうである。
 さて顯輔の態度は、いはゆる六條家の折衷的歌風に伴つてゐるのであるが、その子の清輔なども同樣であつて、「しぐれつゝ秋こそふかくなりにけれ色染めわたるやのの神山」(通能)を評して、萬葉はかくはとらぬことといひ、「さ(511)もあらばあれ涙に袖は朽ちぬとも衣の裾のあひだにもせば」(心覺)について、萬葉にあつてもいひ慣はさぬことはよしなしと評してゐる(仁安二年平經盛朝臣家歌合)。これは萬葉を本歌として取るには十分の注意を要するといふ點に、それをあまり好まない氣味があると共に、それを無下に排斥はしないことを示してもゐる。現に彼みづからも「君來ずば獨やねなん篠の葉の深山もそよとさやぐ霜夜を」といふやうな、萬葉の句を採つたものを作つてゐる。しかし大體からいふと、いはゆる「病」にあまり拘泥しないで、この點にはよほど自由であつた清輔も、萬葉語を用ゐることに大した好意はもたなかつたのである。俊成がまだ顯廣といつて六條家の門にゐた時に判者として、詞の點については萬葉を證歌にとつてゐながら、「ねぬる夜はむべさえけらし朝戸明けて見ればみ雪の庭に滿ちたる」(有房)を評して、「偏效萬葉之歌風、頗背中古之妙體也、」(永萬二年中宮亮重家朝臣家歌合)といつてゐるのも、同じ態度である。
 かういふやうに萬葉は漸次歌人に用ゐられて來たのではあるが、それは作者としては、萬葉の古語を用ゐるとか、またはその歌を本歌として取るとか、いふだけのことであり、批評家としては、それを證歌とするを許すといふに止まるので、萬葉時代の作者の態度に立ちかへり單純な感情を率直にいひ現はさうとしたのではない。即ち從來歌の詞が古今後撰以後の歌に用ゐられてゐるものに限られてゐたのを、一段溯つて萬葉に及ぼしたのみのことである。更にいひかへると、歌の用語の範圍を少しく擴げたといふまでである。しかし萬葉に眼がなれるに從ひ、その率直な風體その素朴ないひざまが覺られて來ると、自然はいはゆる萬葉ぶりの歌がよまれるやうになる。清輔の弟の顯昭などは特に萬葉の造詣が深かつたらしく、「光ある春の日くらし袖たれて垣ねの梅の花みる我は」(永暦元年清輔朝臣家歌(512)合)、「萩が花まそでにかけて高圓のをのへの宮に袖ふるやたれ」(新古今秋)、といふやうなものを作つてゐる。「宇津のやま夕こえ來ればみぞれふり袖ほしかねつあはれこの旅」、「夏草の野島が崎の朝露をわけてぞきつる萩の花ずり」、「芳野山すゝのかりねに霜消えて松風はやし更けぬこの夜は」、なども同じ體であらう。その他、萬葉の詞や名所をとつて詠んだ歌は甚だ多く、「山吹の匂ふ井手をばよそにしてかひやが下も蛙なくなり」、「萩が枝をしがらむ鹿もあらかりし風のねたさになほしかずけり」、「山人の便なりとも岡邊なる椎のこやては折らずもあらなん」、などがその例である。顯昭の歌とてもかういふものばかりではなく、また萬葉の歌も多くは本歌として取られたに過ぎなかつたけれども、後年の六百番歌合の俊成の判に對する彼の陳状に、歌は風情によつて詠むのでその風情は因襲的に限定せらるべきものでないといひ、萬葉の歌を引いてその證としてゐるのも、またその作の取材の範圍が廣くその詞が幾分か自由であり、古今集時代から發達した修辭的技巧を多く用ゐなかつたのも、萬葉を讀んだ效果であらう。(同じ陳状に、歌は必しも事實でないといひ、誇張を許さねばならぬといつてゐるのも、それが自然なる感情の表現についての説である限り、理論としては正當である。)萬葉に心をよせた動機とその效果との如何に關せず、萬葉を參考することがこの時代に漸次行はれて來たことは事實であつて、それに關する著作も尠からず現はれてゐる。仙覺の訓點にかういふ先蹤のあることを忘れてはならぬ(佐佐木信網氏日本歌學史)。
 しかし歌壇の新氣運はたゞ萬葉語の復活ばかりに現はれてゐるのではない。或は遠い昔の萬葉よりは目の前に行はれてゐる詩語を直譯して用ゐたり俗語を使つたり、また或は新しい修辭法を試みたりすることもあつて、何れも歌に新衣裝をつけさせようがための新工夫であつた。が、それも初のうちは一般には承認せられなかつた。清輔は「鹿叫(513)び山も嵐に咽びつゝ秋の終は悲しかりけり」(嘉應二年實國卿家歌合成範)の漢詩から來た語法、「秋の野に何れともなき花なれと招く薄ぞ先づ目には立つ」(經盛朝臣家歌合資隆)、「淺ましや暦の奥を今日見れば一くだりにもなりにけるかな」(實國卿家歌合親宗)、などの、口語を用ゐたものを非難してゐるが、新古今時代の作者になると、かなり漢語を直譯したいひかたを取入れ、また西行や慈圓などは自由に方言俚語を使つてゐる。慈圓には佛語や漢語もそのまゝ用ゐた場合がある。或はまた「聲立ててなく蟲よりも女郎花いはぬ色こそ身にはしみけれ」(平經盛朝臣家歌合定長)、「ながめわび君まちわびて月日のみすきの板戸の明暮の空」(安元元年右大臣家歌合寂念)、なども、同じ判者に攻撃せられてゐるが、これも新古今時代には盛に用ゐられる句法である。これらは何れも時勢の變化を示すに足ることがらである。
 こゝまで述べて來たところで、おのづから明かになつたらうと思ふのは、歌の家ができてそれ/\に流派を形づくつたことである。俊頼、基俊、六條家、がその主なるものであつて、當時盛に行はれた歌合の判者も、ほゞこれらの人々に限られてゐる。また歌道といふ語も作られ、その「道」といふものにもの/\しい意味が附け加へられ、秘事といふやうなことがそろ/\いはれて來るやうになり、またよい歌の詠まれるやうに神に祈るといふことが行はれ、或は靈感によつて歌ができたといふ話が傳へられて、歌が神秘的に取扱はれる場合さへ生じた。歌がこんなになつたのは、一つは歌の思想が固定して歌人のしごとはたゞ技巧のみとなつたので、その技巧には修養を要するためでもあり、或は歌が生きた情思の表現でなくなつたためでもあるが、また一つは歌人たる資質の無いものが盛に歌を作らうとしたからでもあらう。それは何れにしても、歌が技藝となり道となるに從つて、歌の論のやうなものも多く現はれ、(514)古人の名を假りた僞作もできた。かの四家式といはれてゐる濱成式、喜撰式、孫姫式、石見女式、が僞作であることは、その内容から見て明かであらう。この中の濱成式については前篇で一言しておいた。(この四家式の作られた時代は明かでないが、清輔や顯昭などがそれを引用してゐるのを見ると、その時代よりは前にできてゐたに違ひない。内容からいふと、「病」についての沙汰は源氏物語の時代から世にあつたけれども、濱成式の韻の説や、喜撰式に見える五七五、五七五……、七七、といふ長歌の形式などの、實際の歌には適用のできない法則、また實際ありもしない形態の論は、歌のよみやうの指南または批評の標準としてまじめに説いたものではなく、いろ/\の隨腦に刺戟せられてそれよりも更に新奇な説を立てようとしたものと思はれるから、隨腦などの世に出た後の作であらう。崇徳院の時に始まつたといふ(古來風體抄)長歌を短歌と稱へることなども、同じ動機から來てゐるのではあるまいか。さうしてこれらの四家式の中、少くともその二つを古今時代の先達の名によらずして、奈良朝末だといふ濱成や、ずつと昔の人麿に關係のあるものとしたのは、萬葉に目をつけ初めたのと同じ思潮の一飛沫ではなからうか。して見れば、俊頼基俊の時代とあまり隔たつてゐないころのものであらう。當時の歌人がかういふものを作りまたそれを信用した歌人があつたのを見ると、その學識の淺薄さもおもひやられる。)
 さて上に述べた歌の流派も、俊成定家父子が相ついで出るに至つて、殆どその家に統一せられるやうになつた。
 
(515)     第四章 文學の概觀 下
 
       千載新古今時代の和歌
 
 俊成は前に述べたやうな歌についての思想の變化を一人の身に閲して來て、その間から一つの新調を作り出したのである。六條家から轉じて基俊の門に入つた彼は、初のうちは可なりに窮屈な法式に縛られてゐたのであらう。彼は後までも歌の詞の優美であることを望むために、萬葉の詞も優美なものに限つて取るがよいといつて「しらつき山」の語を難じ(右大臣家歌合)、詩の句の直譯である「紅の霞」といふ句をおもしろくないといひ(建久六年民部卿家歌合)、俗語は勿論好まないから、承安二年の廣田社歌合に「えびす」といふ語、治承三年の右大臣家歌合に「皆人の我がものかほに思ふかな」といふ句を俗に近いといひ、御裳濯川歌合に「なべてならぬ」、「さかふる」、を賞めた詞でないといつてゐる。甚しきに至つては歌の内容にも因襲的思想を重んじてゐたらしく見え、「浪かくるとしまが崎のはまひさぎ下枝は雪も積らざりけり」(顯昭)に對して、「末につもらんをば尾花とも疑ひ濱にしけるを月と見んや、雪の歌の本意にや侍るべからん、」などといつてゐる(右大臣家歌合)。
 けれども時勢は次第に彼の思想をも變化させて來たらしく、晩年の作である古來風體抄には、法式に定められた病を去らうとすれば歌が却つて見苦しくなるといつて、一二の外は去る必要が無いと喝破し、韵の沙汰などは詩論から來た妄説であると明言し、また喧しい長歌短歌の名稱の爭などは、萬葉を見ればすぐわかると、一言の下に判決してしまつた。(千載集に長歌を短歌としてあるのは、俊成のしわざとしては風體抄の説と矛盾する。しかし旋頭歌の形(516)式を五七五、七七七、としてゐるのは當時の俗習に從つたので、萬葉の古を考へたものではないから、短歌の名も勅撰集だけにやはり俗説をとつたのかも知れぬ。)詞についても萬葉よりは古今がもとだといひ、古今のうちでも今は用ゐられないものがあるとはいつてゐるが、これは守舊派の萬葉排斥とは少し違つて、歌の用語は耳なれたものがよいといふ意味らしいから、むしろ一種の新しい見方といはねばならぬ。
 要するに、晩年の彼の意見は、歌の風體は時代の推移に應じて變化するものであるから、強ひて或る時代に特有の姿なり詞なりを模擬するのはよくない、その當時に耳なれた詞で而も俗でない優美なものを用ゐるがよい、といふ點にあるらしく、その著書に古來風體抄の名をつけたのも、この主旨から來たのであらう。(歌の風體は時によつてちがふので、必しもその間に褒貶を加ふべきものでないといふ考は、長明の無名抄にも見えてゐる。獨斷的な法則などをふりまはさないで、公平に歴史的發達の徑路を尋ねる、といふ態度が、このころには生じてゐたらしい。歌論の一大進歩である。古歌、特に萬葉、に關する知識が多くなり、また古歌を知ることが一つの學問の如くなつたためであらうか。歌が日常生活から離れた技藝となつたために、特殊の指導者が生じたことは、上に述べた如く歌を神秘にし偏固な歌論を横行させる事情ともなつたのであるが、その間から却つてそれを脱却しようとして來たところに、歴史的變遷の意味がある。)だから萬葉の死語を今の時代に復活させることはおもしろくないが、萬葉時代にはその詞が適當であつたといふので、上にも引いた後拾遺の序文に見える萬葉論を難駁してゐる。從つてまた萬葉の詞でも優美で今人の耳ざはりにならぬものは取つてもよいといひ、萬葉を讀んで歌の風情を養ふことは何の差支も無いといつてゐる。だからこの書を書いた時よりずつと前から、歌合の判などにそれを賞美したこともある(例へば治承二年の別(517)雷社歌合で「霞立つ巨勢の春野の玉椿」などといふ句を讃めてゐる類である)。のみならず彼みづからも、「みしぶつき植ゑし山田に引板はへてまた袖ぬらす秋は來にけり」(新古今秋)といふやうなものを作つてゐる。「たのめ來し野邊のみちしぼ夏深し何處なるらんもずの草莖」(千載戀)になると、かなり怪しい取りかたをしたものである。これらは彼が法式派の?臼から脱け出しかけたことを示すものであるが、それには、歌に對する趣味上の標準が伴つてゐた。歌合の判の用語の優とか艶とかいふのもそれであるが、最も注意すべきは幽玄といふことである。
 さて幽玄とはどういふ意義のことか。先づ俊成自身の用語例を見ると、御裳濯川歌合に「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」を「こゝろ幽玄」と評し、「あくがれし天の河原ときくからにむかしの浪の袖にかゝれる」と「津の國の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり」とを「共に幽玄の體」と評してゐる。このうちで「こゝろ幽玄」といふのがもし一首の歌想についての評であるならば、後にいふやうにこのころ一種の寂しい、わびしい、氣分を味ひ、またそれを樂しむ、といふ風が生じて來てゐるから、幽玄をいふことはおのづからこの風潮に適合したものとも思はれぬことはなく、彼自身の作でいふと「あれわたる秋の庭こそあはれなれまして消えなん露の夕暮」、「夕されば野邊の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里」、「すみわびて身をかくすべき山里にあまり隈なき夜半の月かな」、「昔おもふ草の庵の夜の雨に泪なそへそ山ほとゝぎす」、などをその例と見ることができよう。しかし「幽玄の體」といはれてゐるのは必しもこれとは一致しないやうである。「津の國の」の一首はともかくも、「あくがれし」のはかなり趣が違つてゐる。さうして廣田社歌合に「こぎ出でてみをさ海原見わたせば雲井の峰にかゝる白雲」を評して「みをさ海原などいへる姿、幽玄の體に見え侍る、」といつてゐるのを見ると、幽玄が姿に關する觀念としても考(518)へられてゐたことがわかるから、「あくがれし」の歌のはその意義でいはれたことであらうか。心と姿とは歌合の判に於いて常に對稱または連記せられてゐて、一般にはこの二つは對立した概念を示す語として用ゐられてゐるが、幽玄はその何れにもあるとせられたのであらう。のみならず、心といふのも一首全體の歌想には限らず、二句もしくは三句のことばのつゞけかたいひかたに現はれてゐる何等かの情趣、またはさういふいひかたつゞけかたをしようとした意圖、をさしていふ場合が多く、或はまたそのいひかたつゞけかたそのものに心があるといはれてもゐるやうに見える場合さへある。從つて心と姿とは必しも對立する別々の概念とのみは解されぬ。一首全體の歌想が幽玄といはれるにしても、それを表現する表現のしかたに幽玄があるとせられたのであらう。「優」とか「艶」とかいふのが、心にも姿にもまたはその兩方をかねても、いはれてゐることを、考へあはすべきである。(なほ御室撰歌合の判には「詞も心も花實をかねて幽玄にこそはべらめ」といふ守覺法親王の意見に俊成が同意したやうに書いてあるが、詞について幽玄をいふのは例が少い。詞もまた心に對して前々からいはれてゐるものであるが、これは姿を形づくる要素としての一つ/\の語をさすらしい。)要するに、幽玄といふのは、それが心についていはれる場合にも、一首もしくはそのうちの幾つかの句に於ける句もしくはことばの特殊のつゞけかたいひかた、いひかへると姿、についていふのである。「たゞよみあげたるにも、うち詠じたるにも、何となく艶にも幽玄にも聞ゆることのあるべし、」(慈鎭和尚自歌合の判)といふのも、この意味のことであらう。これと同じことが古來風體抄の序にもいつてあるが、たゞそこでは幽玄の代りに「あはれ」の語が用ゐてあるのを見ると、幽玄は「あはれ」即ち感じの深いことをいふのであるらしい。さうして艶といふのも優といふのも、つまりはこの意義で幽玄といつてもよいことになるであらう。こゝに俊成によ(519)つて一つの方向が與へられ、それによつて後にいふやうな新古今の特色の一つの形づくられてゆく歴史的意味がある。
 けれども幽玄の意義については別に考ふべきことがある。俊成は廣田社歌合の判に於いて「武庫の海をなぎたる朝に見わたせば眉も亂れぬあはぢ島山」(實定)を「黛色  過望蒼海上といひ龍門翠黛眉相對などいへる詩おもひ出でられて幽玄にこそ見え侍れ、」といつて賞美してゐるが、これは漢詩の情趣を帶びてゐるといふ點に幽玄の理由を置いてゐるやうに見える。三井寺新羅社歌合に「唐崎や滋賀の浦わに月すめば遙に歌ふ沖の釣舟」を「棹歌一曲釣漁翁といへる詩の心と覺えて心ぼそくきこゆ」と評してゐるのも同じことで、「心ぼそく」はやはり幽玄の意味であらう。「詩の心と覺え」るところが、「心ぼそい」即ち「深く感ずる」效果があるといふのであるらしい。(物語や日記に「そゞろ寒くあはれなり」といふやうな語がしば/\見えるが、これも身にしみて感ずるといふことであつて、この「心ぼそい」と同じやうな意義であらう。)ところで何故にそれが幽玄かといふと、そこに言外の餘情があると感ぜられるからであらう。言外の餘情といふものは、畢竟讀者が意を以て迎へる、即ち讀者の氣分がその作の示す氣分と相應じ、またはそれによつて動かされ易い場合に生じ、作者からいふと、おのが氣分を隈なくいひ表はさず、またいひ表はすことができない時に生ずる。例へば漢詩に親しんでゐるものがそれに似かよつたところのある歌を讀めば、その漢詩のおもかげがおのづから目に浮ぶ。また作者も漢詩の示す如き氣分をそのまゝにいひ表はすことができないから、その中の一句の詞なり情趣なりをとつて、その他は讀者の聯想に任せる。或は漢詩に似かよつた情趣を詠んで、讀者にその漢詩を聯想させる。言外の餘情はかうして生じ、幽玄の歌はかうしてできたものではなからうか。必しも漢詩には限らず、いはゆる本歌にすがつて詠むのもこれと同じであつて、古人の歌の聯想せられるところにその特殊の興味(520)がある。何につけても自己に獨自の創造性が無く、他にすがつて事をしようとする當時の氣風が、歌についてもかういふ態度をとらせたのは、當然であらう。たゞそのすがるところの一つが漢詩にあつたといふことは、他にすがりながら何の點かで新奇を求めようとして、歌とは趣のかはつたところのある漢詩に目をつけたのであつて、濱松中納言の物語が舞臺の半分を唐としたのと同じである。俊成が常に漢詩を耽讀してゐたことは、歌合の判に衒學的と見えるまでしば/\それを引用して、詩の風情に似かよつたのをほめてゐるのでも、明かである。これには或は基俊の感化があるのかも知れぬが、さうばかりではあるまい。歌人が漢詩から何ものかを得ようとしたことは、古今集時代からのことであり、遠くは萬葉の作者にも既にその例があるが、それは概ね題材を漢詩に取らうとしたのであつて、こゝにいつたやうな意味で漢詩の情趣を歌に認めようとしたり、それを歌でほのめかさうとしたり、したのではなかつた。それがかうなつたのは、上に述べたやうな事情の故であるらしいが、しかしそれと共に、いはゆる幽玄が求められたためでもあらう。
 しかし言外の餘情は、漢詩を借りなくともまた本歌にたよらなくとも、技巧の力でそれを匂はせることができる。歌によむ情思はほゞ一定してゐるから、それを明白に直截にいび現はすと淺露に聞えるが、技巧に意を用ゐておぼろげに、またはほのかに、それを述べ、或は迂曲な表現法を用ゐると、讀者は意を以てそれを迎へるので、そこに言外の餘情の感ぜられる一つの場合がある。姿に心がありそこに幽玄がある、と上にいつたのは、即ちこのことであるので、長明の無明抄の幽玄の解釋もほゞこれに當る。詩、特に短い形の詩、に於いて表現のしかたが感じの大部分を支配することは當然であるが、思想が固定してゐた當時であるから、せめては技巧の上に新しみを求めようとして特に(521)かうなつたのである。さすれば幽玄といふことは必しも西行の「心なき身」や「津の國の」のやうな特殊の寂しい情趣をいふのではなく、この二首の幽玄とせられたのも、むしろその下の句の具體的敍述がその風光を髣髴させるのと一首のことばのつゞけかたいひかたとの故であらう。彼自身の作に就いていふと、「昔おもふ草の庵」の歌はいふまでもなく、その他のものでも「まして消えなん露の夕暮」、「あまり隈なき夜半の月」、などいふ特殊の技巧を有する句法が、これらの歌に於いて重大の要素となつてゐる。「昔おもふ」の歌は明かに白樂天の詩を思ひよせたのであるが、その興味の中心はやはりその特殊のいひかたにある。(これは翻案ではなく、詩の句によつてこの歌の如き情趣を思ひ浮かべたといふべきである。草庵夜雨の文字をそのまゝ用ゐてはゐるが、一首の主想は詩の句のとは同じでない。)
 この臆説は俊成の作歌の用意として傳へられてゐることからも證せられる。彼は歌を作るに當つて語句の推敲にひどく苦心したものらしく、深夜人靜つて後、燈火ほのくらきところに桐火桶を控へて微吟低唱したといふのも、一つはこれがためであらう。「またや見ん交野のみ野の櫻がり花の雪ちる春の曙」(新古今春)、「すぎぬるか夜半の寢ざめの郭公こゑは枕にある心地して」(千載夏)、「まばらなる槇の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらん」(同上冬)、「おき明かす秋の別の袖の露霜こそむすべ冬や來ぬらん」(新古今冬)、などはその例であるが、上に幽玄體の例として擧げたものも同樣であつて、幽玄體は實にこの語句の推敲の賜である。
 しかしかの桐火桶の話は單にこれだけのことではなく、一面には歌を詠む場合に日常生活から離れた特殊の氣分に入り、説實の生活に遠ざかつた一種の夢幻的情調を、故らに作り出さうとする努力を示したものであつて、その根柢(522)の思想は歌の境界といふものを日常生活の外に置くことである。彼が古歌や漢詩の情趣を思ひ浮かべたのは、この方丈の室に端坐してのことであらう。眼前目睹の光景でなく、古人の歌にたよつて得た風趣、または漢詩によつて傳へられる異國的情味は、勿論、日常生活とはかけ離れたものであるが、かういふ特殊の氣分を現はすことが即ち幽玄體の半面の意味である。さうして故らに作り出した情趣を歌とする場合に、技巧を弄する餘地が多いことはいふまでもない。或はまた俊成のこの態度は、戀の歌にせよ花鳥風月のにせよ、その情趣は古人から學ぶべきものと考へたところから自然に生じたものともいふことができよう。さすれば幽玄體の世に現はれたのは、文化の沈滯期に於ける自然の現象で、そこに特殊な文化史的意味がある。さうして前にも述べたやうに、詠むべき思想の定まつてゐる歌に於いては、技巧に向つて新奇を求めるのが自然であるとすれば、幽玄體が技巧と離るべからざる關係のあるのは、この點からも怪しむべきでなからう。
 俊成の特色と當時の歌界に於ける位置とは、ほゞ以上の點にあらうと思ふが、もう一つ言ひ足しておきたいのは、後世まで歌の批評の一つの標準になつてゐた「長けのある」といふことをいひ出したのが彼であるらしいことである。「おしなべて花の盛になりにけり山のはごとにかゝる白雲」、「五月雨のはれまも見えぬ雲路より山郭公鳴きて過ぐなり」、を「長け高し」または「高し」と評し(御裳濯川歌合)、「水鳥の青葉の山は名のみして雪にぞ白き朝明の嶺」(顯昭)を「長ありて高情なり」といつてゐる(正治二年御室撰歌合)。概してこせ/\した修辭法を用ゐないで、一首をすらりと力強く詠み下だしたものを指すらしく、いはゆる幽玄體とは必しも一致しないものであるが、これは多分萬葉から得來つた一種の風體であらう。自身の作にはかういふ風のものがあまり無いやうであるが、彼にもそれ(523)をおもしろいと見るだけの眼はあつたのであらう。(俊成が一とほり萬葉を讀んでゐたことは風體抄を見てもわかる。)これもまた彼の作に萬葉のことばやいひかたを取つたものがあると同じく、時勢の一變遷を示すものである。その他、歌合の判に用ゐられた評語にはいろ/\のものがあつて、姿について「さび」をいふのも、また「景氣」がそふとか「おもかげ」があるとかいふのも、それであるが、それらも畢竟は技巧に關するものである。要するに彼の歌は法式に縛られた平淡なものでなくなつたと共に、俊頼一派のやうに奇才を縱横にはたらかせた放縱なものとはならず、一種獨特の境地を拓いて新古今調の先驅となつたのである。たゞ時に應じ處に從つて奇才を縱横にはせるものは、淺露の弊に陷り險怪の難を免れないにしても、その歌には生氣があり、作者が歌の上に躍り出る。從つてその歌はわりあひに單純直截である。けれども一室に端坐し、故らに特殊の歌人的情調を喚び起してその間に作られた歌は、巧緻であると共に含糊模稜の態が伴ふ。淺薄な言語上の遊戯が少くなると共に、新しい技巧が種々に工夫せられて、そのために意義の判りかねる謎のやうなものさへできる。これが彼の陷つた弊である。しかし彼の歌の學間が古隨腦の法式論を脱却すると共に、六條派の如く故事來歴などを詮索するのとは違つて、歌のよみやう歌の風情に着眼したところに、歌の取扱ひかたの一つの進歩があるので、歌の作者が互にその技能を競つたこと、特に歌合の盛に行はれたことが、それを誘つたのであらう。
 千載集はこの俊成の撰で、その卷數や歌の豐富なことは、金葉詞花を凌いで直に後拾遺に接してゐる。採られた歌は後拾遺に撰り遺されたものから、撰者自身の時代の作までに亙つてゐるから、その風體もまたさま/”\である。撰者は詞づかびの優雅なものを取るといふ大まかな標準で撰んだらしく、從つて時代の趣味を現はすものとしては、物(524)足らぬ感じがする。この點に於いて次の新古今はよほど著しい趣味上の標準を具へてゐる。
 
 保元平治以來の政變にも戰亂にもかゝはりが無く、和歌は貴族及び知識人の間に於ける特殊の技藝として重んぜられ、百首千首を詠むとか歌合とかも盛に行はれた。新に貴族の地位を得た武人もまたそれに參加した。過去からの地位を繼承してゐる貴族等は、これらの政變と戰亂とによつてその政治上の權威を失ひ官府の實務に遠ざかると共に、この時代の一般的氣風として、實世間にはたらきかけ實社會を動かさうとするだけの意氣もなく、從つてその實社會から離れた文藝の世界に身を置くやうになつた、といふ事情もあらう。さうしてそれは、歌そのものの情趣を現實の生活から離れた夢幻の世界に求めた俊成などの態度と相應ずるものである。また武人は從來渇仰の情を以て外から望み視てゐた貴族文化の社會にみづから地位を占めるやうになり、その生活が一般に貴族化したと共に、その生活の一つである歌に心を向けたのでもある。和歌のこの流行は平家滅亡の後にも繼續せられた。といふよりも一層強められたといふべきである。後鳥羽院や順徳院は專門の歌人を凌ぐほどの名手でもあり多作家でもあらせられて、歌に關する著作もせられた。晩年の俊成及びその子の定家を中心として、家隆、良經(後京極攝政)、雅經、通光、通具、有家、秀能、僧では慈圓、寂蓮、女では俊成の女、式子内親王、宮内卿、などが一團の勢力を形づくつて歌壇に雄飛し、歌合には上皇も天皇も「女房」の名または假名で勝負にあづかられ、上皇は判者ともなられた。皇室が文藝に力を注がれるのは、昔からの傳統的な精神の現はれであるが、このころに於いては政治との交渉の殆ど無くなつたことが、ますますそれを助けたのであらう。地位の高い貴族、そのうちでも良經の如き攝政の名を有するものさへ專門歌人の列(525)に伍し、それと共に俊成定家の如き歌人が、昔のいはゆる山柿や貫之躬恆などとは違つて、かなりの高官に上つてゐたのも、このことと關聯して注意せらるべきである。歌は皇室及び朝廷の事業の重大なものであつたといふべきであらう。なほ歌合の場合に「女房」の作は勝とせられることが多く、それが殆ど常例のやうになつてゐたけれども、持とせられることもしば/\あり、負になつてゐることもあつた。また後鳥羽上皇が判者となられた時には御自作をばかならず負にせられたことがあり(千五百番歌合)、多くは負とせられたが、稀には持、または謙遜しながら一首だけ勝とせられたこともある(水無瀬釣殿當坐六首歌合、遠島歌合)。これらは、臣下からは御製を特別に取扱はうとする氣分がありながら、上皇または天皇はさういふことを好まれず、却つて臣下の作を推賞しようとせられたことを示すものであつて、歌合の場合でなくとも、御製に對して臣下の批判を求められたことと共に、歌については全く臣下と同列にゐようとせられ、またすぐれた歌人を尊敬してそれに學ばうとせられたことの徴證であり、そこに文藝を重んぜられる皇室の傳統的精神が現はれてゐる。歌はこのやうにして、後鳥羽上皇の時代に、その上皇を保護者とも中心ともして、前後に例の無いほどな盛況を呈した。さうしてその結晶が、上皇みづからの御撰の形で世に現はれ(序文)、また事實歌の撰擇について上皇の御意見が加はつてゐる(明月記)、新古今集*である。
 しかし新古今の歌について考へる前に、その撰者の主要なる一人であつた定家の歌觀を見ておかう。定家の歌に對する意見については、彼の作とせられてゐる種々の歌論や教訓めいた著述に後人の僞作が多いから、やはり歌合の判の詞とか、近代秀歌など疑を容れるかどのない一二の著述とかに、よる外はない。それによると、大體は父の説を承けてその趨向を一層進めたもののやうであり、姿と詞とに重きを置いたのもその一つである。歌合の判に妖艶といふ(526)評語を用ゐたことがしば/\あつて(百番歌合、石清水若宮歌合、など)、これは俊成の用ゐなかつた語のやうであるが、艶といふ語は常に用ゐられた語であるから、これはそれに妖の一字を加へたものであり、詞についても體についてもいはれてゐる。それを餘情とつゞけていつてゐる場合があるのを見ると、妖艶は餘情に伴ふものであるから、それは即ち俊成の幽玄であり、從つてまた艶であるらしい。幽玄の語もまたしば/\用ゐてあるが、俊頼の「鶉なくまのの入江の」を擧げて「幽玄におもかげかすかにさびしきやうなり」と評してゐる「おもかげかすかに」の語によると、これもまた俊成の意義での幽玄であるやうに見える。たゞ「さびしきやうなり」が俊頼のこの歌でいはうとした風景の情趣についていつてゐるのならば、幽玄は寂しい風情のこととも思はれ、その點が明かでない。定家みづからの考もはつきりしてゐなかつたのであらう。しかしそれはともかくも、姿と詞とを重んずるといふのは、俊成をうけついで詞のつゞけかた、即ち姿、に歌の妙味があるといふ考らしく、それと共に姿と詞とを重んずれば、俚言俗語などはおのづから排斥しなければならず、從つて「詞は古きを慕」ふやうになる。さうして「心は新しきを求」むといつてゐるから、舊い詞で新しい心を詠むには、そのつゞけかた、即ち姿、を新しくしなければならぬ。特に歌に詠むことに動かせない典型がある以上、心の新しいといふのは、舊い情趣、舊い思想、に新しい表現法を用ゐるか、情趣そのもの思想そのものを動かさずして何等かの新意匠を加へるかの外は無いので、さうするにはやはり詞のつゞけかた、即ち姿、を美しくするために繊細な技巧を用ゐねばならぬ(眞に新しい思想は古い詞のみでいひ表はされるはずがない)。いはゆる新古今調はかうしてできたのである。たゞその集の名が新古今とせられたのは、近代秀歌に寛平以往の歌を學ぶべきだといつてあるのでも知られるごとく、貫之及びその時代の風體に不滿足であつて、一新旗幟(527)を歌壇に立て、我より古をなして、三百年來、歌の聖典とせられてゐた古今集の位置を奪はうといふ意氣を示したものらしく、おのれらの一團の作歌を中心としていくらかは古人のにも及ぼし、その古人の作も大體おのれらの趣味に適ふものを採るといふ撰擇の態度も、こゝから出たのであらう。寛平以往を目ざすといふのは、業平や小町などの歌に姿の美しさを認め、貫之にそれが無いとして古今集にあきたらぬ感をもつてゐたからであらう。しかし一面に於いてはやはり、古今の名を踏襲してその上に新の一字を加へたところが、歌そのものと共に、どこまでも古人を本としてゐることを示してゐる。近代秀歌に古今集の序のことばを學んだところのあるのも、考へあはされよう。
 
 新古今を通覽すると、萬葉時代及びそれから後、長い年月の間に次第に生じて來たあらゆる修辭法もしくは修辭的技巧が、遺すところなく用ゐられ、また一首のうちにそれらの二つも三つもを含むもののあることがわかる。いひかけや縁語はいふまでもなく、古今集時代から後は少くなつてゐる冠詞や序詞もあり、同じ音や同じ語のくりかへし及び頭韻などの如く、萬葉に多く用ゐられたものも見えてゐる。しかしそのうちでも、「かぜかよふねざめの袖の花のかにかをる枕の春の夜の夢」(春下俊成女)、「山がつのあさのさごろもをさをあらみあはで月日やすぎふける庵」(戀二良經)の如き同じ音のくりかへし、「あきふかきあはぢの島のありあけに傾く月を送る浦風」(秋上慈圓)、「いろ深くそめたる旅のかりころもかへらぬまでのかたみともみよ」(離別顯綱)、の如き頭韻、などが特に注意せられる。語のくりかへしも頭韻も、音についていへば、そのくりかへしであり、冠詞にもそれと同じ性質のものがあるが、かういふ音のくりかへしは耳に輕快な感じを與へる。同じ音や語ではないが、由じ音調の語をくりかへしたものもあるの(528)で、「うつるもくもるおぼろ月夜に」(春上具親)、「くもるもすめるありあけの月」(雜上長明)、の類がそれであり、やはり同じ效果を生ずる。これらは語尾の「る」のくりかへされるところに主なる理由があらうが、前の方のは「難波がたかすまぬ浪もかすみけり」といふ本の句の同じ語を重ねたいひかたに導かれてゐる。(新古今には入つてゐないが、水無瀬殿戀十五首歌合の後鳥羽上皇の「思ふ人をうきねの夢にみなと川さむるたもとにのこるおもかげ」、また千五百春歌合の俊成女の「思ひねの夢のうきはしとだえしてさむる枕にきゆるおもかげ」など末の二句が同じ語調になつてゐる。)
 なほ新古今の歌には「の」といふことばで幾つもの名詞を結びつけるしかたがあつて、末の二句のさうなつてゐるものが特に多いが、これも音についていふと「の」の音のくりかへしまたは連用である。「忘れめやあふひを草にひき結びかりねの野邊の露のあけぼの」(夏式子内親王)、「年も經ぬ祈る契ははつせ山をのへの鐘のよその夕暮」(戀二定家)、など例を擧げれぼ幾らもあるが、「をりふしも移ればかへつ世の中の人の心の花染の袖」(夏俊成女)、「ながめつゝ思ふもさびしひさかたの月のみやこのあけがたの空」(秋上家隆)、などになると第三句からさうなつてゐるし、「天のはら富士の烟の春の色の霞になびく明ぼのの空」(春上慈圓)は第二句から第三句へかけてそれがあり、また「あしびきの山路の苔の露の上にねざめ夜ふかき月をみるかな」(秋上秀能)は第一第二の兩句がさうなつてゐる。上に擧げた「風かよふねざめの袖の」は第二第三の兩句及び第四第五の兩句にかけてそれがあつて「の」が第二句以下ずつと連續してゐるやうに聞えるし、こゝに引いた「天のはら」は、第四句だけにそれが無いけれども、讀んだ感じでは一首のすべてに「の」が連用せられてゐるやうに耳にひゞく。(道眞の「草葉には玉と見えつゝわび人の袖の(529)涙の秋の白露」の採られてゐるのも、かういふいひかたが好まれたからであらう。)
 さてこれらは新古今の歌に於いて耳に聞く音の感じが重要視せられてゐることをいつたのであるが、かういふ修辭的技巧の用ゐられたのは、そのためのみではない。このことについては後にいはうが、「の」によつて幾つかの名詞を結びつけるのは、名詞を多く重ねることによつて、讀み下す時に次第に語勢が強められてゆくところに一つの意味がある、といふことをこゝでいつておかう。新古今の歌の構造の一つの特色は一首を名詞でとめることであつて、それはその結句が最も強く耳にひゞくために、それによつて表現せられる事物が最も強い感じを讀むものに與へるのであるが、「の」の連用による上記の方法にもまたそれがあり、重ねられた名詞が多いために、漸層的にその感じが強められてゆくのである。「の」によつて名詞をつないでゆくことは、日本語としての自然のいひかたであつて、それは萬葉に既に多く見えてゐることであり、近いころでは久安百官にもいくらかその例があつて、それが新古今のこのいひかたを誘ひ出したものかと考へられるが、概していふと、それらは意識して用ゐた修辭法ではなかつたのに、新古今ではその結びつけかたにむりなものの多いことから見ても、それが修辭的技巧としてことさらに用ゐたものであることがわかる。上に擧げたものもその例であるが、その他にも「馴れぬる花のあとの夕ぐれ」(春下寂蓮)とか「かりねの野べの露のあけぼの」(夏式子内親王)とか「たゞ我からの霧の夕暮」(秋上長明)とかいふやうな、同じ類のものが少なくない。これは昔の萬葉には無かつた特殊の技巧である。「の」の連用は萬葉から學ばれたのであらうが、それをかういふものにしたのは、新古今の歌人のしわざである。萬葉を考へた場合にいつておいた如く、「の」は多義を含む語であり含蓄の多い語であるから、かういふことができたのである。萬葉を讀むことが流行し、それを本歌(530)とした作の少なくないことから見ても、この「の」の用法が萬葉から來てゐると考へることに、むりはあるまい。
 しかしそれにはまた、本來の日本語の用ゐかたのみでなく、上に引いた「天のはら」といふ慈圓の歌にある「春の色」、または「なく鹿の聲に目ざめてしのぶかな見はてぬ夢の秋の思を」(秋下慈圓)の「秋の思」、の「の」によつて最もよく知られる如く、漢詩を直譯して讀む讀みかたから來たものさへも含まれてゐる。名詞で一首の結末とすることが新古今の歌に多いが、これにも漢詩のよみかたから誘はれたところのあるらしいことが、參考せられる。なほ「ふして思ひ起きてながむる」(春)、とか「麻のさごろも月にうつ聲」(秋下宮内卿)とかいふやうないひかたにも、漢詩から來たところがあり、「里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ淺茅生に衣うつらん」(秋良經)の情趣にもまたそれがある如く、新古今の歌にはいろ/\の點に於いて漢詩の影響が認められる。(千里の「てりもせず曇りもはてぬ」を採つたのも、このためであらう。)これは上にいつた俊成から相承せられたことでもあり、詩または漢文で歌合の評をしたり(千五百春歌合)、詩歌合といふことをしたり、または詩の句を題にして歌を詠んだり、さういふことが行はれてゐたのでも知られる如く、一般に歌人が新しく漢詩に關心をもつて來たからでもある。「の」の語のこの用法にもまたそれが現はれてゐるのであらう。二つの語をたゞつゞけていふだけで一つの熟語となし得る、また種々の事物なり觀念なりを、それらをつなぐ語なしに、いひつゞけることによつて何等かの思想を表現し得るのが、いはゆる孤立語たるシナ語の特質であつて、詩に於いてそれが最もよく知られるが、これらの場合に日本人はその間に「の」の語を插むことによつてそれを日本語化しようとするのが、一般の例になつてゐたのである。
 「の」の語はまたいはゆる本歌にたよりまたはその歌の語句を用ゐる場合にも使はれる。古歌を本歌にとることは(531)久しい前から行はれてゐることであるが「ながむれば千々にもの思ふ月にまたわが身一つの嶺の秋風」(秋上長明)、「あけぼのや河瀬の波のたかせ舟くだすか人の袖の秋霧」(秋下通光)、「おもかげのかすめる月ぞ宿りける春やむかしの袖の涙に」(戀二俊成女)、「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下つゆ」(戀四定家)、などにその例のある如く、利用した本歌の語句を「の」でつなぐ場合が新古今にはしば/\ある。これらのうちにはもとの語句に「の」が含まれてゐるものもあるが、それを巧にはたらかせて、「の」を連用するこのころの流行の語調に合ふやうにしたのである。本歌のとりかたはいろ/\であるが、その一つにかういふのもあることが注意せられる。
 かういふやうなものばかりではなく、一般に新古今の歌には、種々の修辭的技巧が一首の音調の美しさを主眼として施され、或はおのづからそれを助ける場合が多い。冠詞や序詞の音にかゝるものはいふまでもなく、いひかけの如きもその本質として輕快の感を與へるものであり、縁語や一語を二義に用ゐることとても、その語のもつ意義よりはむしろ音調に重要さのあることが多い。「いづくにか今宵は宿をかり衣ひもゆふぐれの嶺のあらしに」(羇旅定家)もその一例であらう。
 
 以上は主として音調の上から新古今の歌の特色ともいふべきものを擧げたのであるが、これらは他の一面に於いては、一首の歌材を複雜にし、また敍述を具象的にすることにもなつてゐる。「の」で幾つもの名詞をつなぐのはいふまでもないが、音をかさねたり頭韻を用ゐたりするのも、多くは名詞に於いてのことだからである。いはゆる名詞どめの形も、しば/\用ゐられてゐる初句で句をきる方法も、また同じはたらきをするので、助辭の類を少くするとこ(532)ろにかういふ效果がある。上に擧げた「天のはら富士の烟の」の歌には「に」といふ一つの助辭と「なびく」といふ一つの動詞との外はすべて名詞であつて、それらをみな「の」でつないでゐるし、「風かよふねざめの袖の」もほゞ同じである。これほどでなくとも、かういふ傾向は多くの歌に見えてゐる。(「五月山卯の花月夜ほとゝぎすきけどもあかずまた鳴かんかも」の萬葉の歌の採られたのも、本三句の名詞のみをつらねたいひかたが喜ばれたのではあるまいか。)なほ冠詞や序詞も同じ用をなすのであつて、これはかういふ詞のもつてゐる意義が一首の主想と關係の無い場合でも、それだけで何等かの事物なり觀念なりを髣髴させるものであるが、「石の上ふるのわさ田をうちかへしうらみかねたる春の暮かな」(春下俊成女)の如く、序詞でありながら一首の主想を助けてゐるものに於いては、なほさらである。なほ複雜化といふことについていふと、本歌をもつてゐるものに於いてその特殊の姿が見られる。本歌の詞の用ゐられたその用ゐかたによつて、歌材が複雜になると共に、讀者がその歌を聯想することによつて一首の情趣が複雜化せられ、或は含蓄の多いものとなるのである。
 本歌をとることは、この時代の歌人には特に多く用ゐられた方法であつて、俊成や定家の歌の判やその他の述作に於いても、また八雲御抄などに於いても、それについての意見がいろ/\述べられてゐるが、新古今の歌にも、それによつて作られたものが甚だ多い。一首のうちに二つの本歌をとつたものさへあつて、「梅の花たが袖ふれし匂ぞと春や昔の月にとはばや」(春上通具)の類がそれであり、また同じ歌が本歌として幾首にもとられてゐて、例へば「さむしろに衣かたしき」といふ古今集の歌をとつたものが新古今に見えるだけでも四首もある。そのとりかたにもいろいろあるので、本歌の詞と共にその情趣をもとるもの、たゞ詞だけをとつて全く別の意*義にそれを轉用するもの、な(533)どがその主なるものである。「橘の匂ふあたりのうたゝねは夢も昔の袖の香ぞする」(夏俊成女)は前の例であつて、「いかにせん來ぬ夜あまたのほとゝぎす待たじと思へば村雨の空」(夏家隆)、「老の浪こえける身こそあはれなれ今年も今は末の松山」(冬寂蓮)、などは後の例であるが、數からいふと後ののが多い。「草枕結び定めんかた知らずならはぬ野邊の夢のかよひ路」(戀四雅經)の如きは、本歌の三つの詞を離れ/”\にとつて旅の歌の如くし、たゞ「かよひ路」の一句を加へることによつてその本歌の戀の情趣をほのかに留めたそのとりかたは、この二つを兼ねたものといへよう。當時の作者も讀者も古歌を多く暗誦してゐたから、どういふとりかたをしたものでも、それによつて本歌を思ひ出し、本歌の情趣を新しい歌に移入しまたは結びつけることができたので、上に複雜化といつたのはこのことである。古歌に於いて見なれ聞きなれてゐることばを轉用することによつて、新しい意義をそれにもたせるところに、作者の機轉があり、讀者もそれに興趣を覺える、といふことが本歌をとることの一つの意味でもあるが、それにしても本歌がその歌を讀むにつれて思ひ出されねばならぬ*。
 しかし本歌のとりかた用ゐかたによつては、獨*立した一首としては、意義のわからぬものになる場合がある。上に引いた「あけぼのや川瀬の浪の」、または「里は荒れぬ空しき床のあたりまで身はならはしの秋風ぞふく」(戀寂蓮)、の如きがそれである。古歌のことばのとりかた用ゐかたが作者のひとりがつてんで行はれるために、かういふことも起りがちであつた。當時のことばで「いりほか」といはれてゐたのは、かういふ類のものであるらしい。「うちしめり菖蒲ぞかをるほとゝぎすなくや五月の雨のゆふぐれ」(夏良經)などは、必しもむりないひかたではなく、いりほかといはるべきものでもないが、本歌からとつた第三第四の兩句の語調が張いために、主想である菖蒲のかをりが却(534)つて弱められてゐる。或は本歌をとることによつて歌材を複雜にしたために、その間の統一が失はれたのでもある。本歌をもたないものでも、新古今の歌には歌材を多く用ゐたものが多いので、かの慈圓の「天の原」などはいふまでもなく、「おほ空は梅の匂ひに霞みつゝ曇りもはてぬ春の夜の月」(春上定家)、「春の夜の夢のうきはしとだえして嶺にわかるゝ横雲の空」(同上)、などもそれであるが、歌材があまりに複雜であるために、その意義の明かでないものも少なくないので、この「春の夜の」の如きはその例である。なほ、「の」で多くの名詞をつなぐためにむりないひかたになり、意義がわからなくなる場合のあることも、上に述べておいた。また「やよしぐれ物おもふ袖の無かりせば木の葉の後に何を染めまし」(冬慈圓)、「白妙の袖の別れに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(戀定家)、などが、涙をしぐれといひその涙の色を紅とする一般的約束をもとにして、それによつてむりな構想むりないひかたをしたものであるが、そのいひかたにむりがあることは、本歌によつたものと同じである。
 作者のひとりがつてんからむりないひかたをすることになり、その意味で意義のわかりかねるものの少なくない例は、一つ二つの語句に於いても見られる。「霜まよふ空」(春上定家)とか「あらしをかたしきて」(羇旅有家)とか、または「月に殘れる人の面かげ」(雜中良經)とかいふやうなのがそれであり、「櫻色の庭の春風」(春下定家)の「櫻色」のやうな造語もまたその例である。「そめぬみどり」、「くもらぬ雨」、「わたらぬ水」といふやうな語は一種の比喩ではあるが、やはりむりないひかたの造語である。「の」で幾つかの名詞をつなぐ場合にむりないひかたになる例の少なくないことも上にいつておいた。かういふいひかたは、いひふるされたことでありながら、たゞそのいひかたを變へることによつてそれに新奇の感を與へようとするのか、舊いことばに新しい意義をもたせようとするのか、用(535)ゐなれた構想をもとにして、その上に同じやうな構想を重ねることによつて、または歌材を多く用ゐること即ち少いことばで多くのことをいふことによつて、新味を出さうとするのか、さういふやうな動機から來たものであらうが、何れにしても歌の思想も情趣も一定してゐるのに歌は新しく作らねばならぬからのことである。ことばは古きを慕ひ心は新しきを求めるといふその新らしさが、かういふところに求められたのであらう。本歌をとることも、同じところに理由があり、同じ效果を得ようとしたものである。
 また具象的になるといふことについていふと、名詞を多く用ゐること、特に末の二句でさうすることによつて、その效果が得られるが、四季の詠ではそれはおのづから風光を目に見る姿としておもかげに浮ばせることになる。戀の歌に於いては自然界の情趣を思ひよせることが前々から行はれてゐるが、古今集時代ではそれが本三句でいはれることが多く、序詞の形をとるものは特にさうであるが、新古今のは末の句でそれをいふ場合が少なくない。「思ひ出でよたがかねことの末ならん昨日の雲のあとの山風」(戀四家隆)、「今來んと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月」(同通具)、の如きがそれである。序詞を用ゐても「梶をたえ由良の湊による舟のたよりも知らぬ沖つしほ風」(戀一良經)、といつて、第五句に「沖つしほ風」を置くことによつて序詞の效果を一轉する。これは本歌のあるものであるが、「忘るなよほどは雲井を隔つとも空ゆく月のめぐりあふまで」を本歌にとつて「幾めぐり空ゆく月も隔て來ぬ契りしなかはよその浮雲」(戀四通光)としたのも同じやうな例であつて、かう變へると、本歌によつた上三句の時間の感じはぼやけて今見る浮雲のみが明かに目に映る。結末の名詞が特に強く耳にひゞくのである。しかしかういふいひかたにもまたむりなものがあるので、却つてその目に見る印象の混雜する場合が少なくない。四季の歌でい(536)ふと「柴の戸をさすや日かげの殘りなく春くれかゝる山のはの雲」(春下宮内卿)の如きがそれである。「柴の戸をさすや日影の」といふと、今現に日光がさしてゐる感じがするのに、次の句の「殘りなく春くれかゝる」まで來ると、作者の考は「さすや」で戸をさすことをも示して、春の日の長閑に暮れるさまを詠んだのだといふことが始めてわかる。けれどもそれは思慮した上のことで、讀者の心眼にはやはり初二句のまぶしい日光が明かに印象せられてゐる。しかしともかくもこれで草庵の夕暮が目に浮ぶが、第五句に至つて突然「山の端の雲」と轉じたので、今までは灰色の夕につゝまれてゆく物靜かな草庵を見てゐた目を、急に遠いあなたの空にむけて、そこに花やかな夕雲の色を見なければならぬことになる。作者の現はさうとした情趣は草庵の夕暮だか山の端の雲だかわからない。なほこの歌は暮春を詠じたものであつて、第四句はそのためにいはれ、「くれ」の語が二義をもつことになつてゐるが、一首の情趣からは暮春の感じは得られない。(初句は「柴の戸を」であつて「柴の戸に」ではないから、第二句の「さす」は單に戸を鎖すのをいふのであつて「日かげ」にはかゝはらぬやうに語法の上からは解せられるが、「さすや日かげの」といふ語調からはさうは聞えない。「さす」は戸をさすのに日かげのさすのをかけていつたものであらう。)
 或はまた戀の歌についていふと、上に引いた「思ひ出でよたがかねごとの」の如きは、これだけでは何のことかわからぬ。やはり上に引いた「山がつのあさのさごろもをさをあらみあはで月日や杉ふける庵」に於いて、第三句までの序から「逢はで」の一語をひき出して「月日やすぎ」と述べて來たまではよいが、それが「ふける庵」に轉じたので、逢はで過ぎ來し戀の苦しみがどこかに消えてしまふ。かといつて杉ふける庵もはつきりは目に映らない。またこの歌は二首の本歌をもつてゐるので、第五句もその一つからとつた語を用ゐてあるが、このとりかたでは原歌の戀の(537)情趣も思ひ出されない。これらは、結末の名詞が一首の主想と調和しなかつたり、さしたる意味が無いのに強く感ぜられたり、するためであらう。名詞でとめた歌にはこの類のものが少からずあるが、かういふ構成法が一つの流行となつたために、その形をまねたものが多く作られたからである。戀歌ではないが、「いたづらに過ぎにしことや歎かれんうけがたき身のゆふぐれの空」(雜下慈圓)の結末もその例であり、特に「空」の一語は、一種の譬喩として「ゆふぐれ」といつたために、それから導かれていひ添へたまでであつて、一首の主想からいへば無用の長物である。「空」の語を結末に用ゐることもまた當時の流行であつて、新古今の歌にもかなりそれは見えてゐるが、兩度の正治百首などを讀むと、いかにこのいひかたの氾濫してゐるかを知ることができる。名詞でとめることは久安百首にいくらか見えてゐるから、そのころからそろ/\流行しはじめたものらしいが、「空」の語を多く用ゐるやうになつたのは、それよりも後のことであらう。さうしてそれにはさしたる理由もなく、何人かの用ゐはじめたのが語調の上から興味をひいて摸倣者が出たのみのことではあるまいか。ともかくもかういふ風にして名詞を多く、特に一首の結末に、用ゐることが流行し、それがそのことばとしては具象化のはたらきをしてゐるが、一首全體の上では却つて印象の混雜するものの少なくないことが、注意せらるべきである。
 しかしこゝに具象化といつたのは、何等かの情景を目に見る姿として具體的に思ひ浮かばせることをいふのではあるが、それは必しも客觀的描寫をするといぶ意味ではない。新古今の四季の詠は、その大部分が何等かの主觀的色彩を何ほどか加へたものであつて、單なる客觀的描寫の態度で作られたものは殆ど無い。一般的にいふと、いかなる自然界の描寫も見るものの情懷をとほしてのことであるから、純粹に客觀的のもののあるはずはなく、抒情詩として發(538)達して來た短歌に於いては特にさうあるべきであるが、新古今のは、直接な自然界の觀察またはそれからうけた印象を敍したものではなくして、机上で構想せられたものであり、さうしてそれは、むりないひかたをする動機として上に述べたやうな種々の方法によつて、いはゆる心の新らしさを求めようとしたものであるから、なほさらである。この點に於いては古今集時代の智巧主義が形を變へて繼承せられてゐるが、たゞ一首の主想はその智的な取扱ひにあるのではなくして、何等かの情景を思ひ浮かべるところにある。だからこの意味では、能因經信などから生じて來た新傾向を更に推し進めたものといへよう。具象的になつてゐるといつたのはこのことであつて、末の句に強い語調で或る情景を示す語を置くのもそのためである。けれども一首の構想はむりなしかたでなされてゐるから、それは客觀的な描寫とはなつてゐず、事實としてはあるべからざることさへも少からず見られるし、それほどでなくてもその情景が讀者の目には映じがたいものがある。上に初の句を引いたことのある「霜まよふ空にしをれしかりがねの歸るつばさに春雨ぞふる」(春上定家)なども、その例であつて、初の二句はあり得べきことではなく、それもまた末の二句も、目に映ずる光景ではない。
 こゝに一ついひそへることがある。それは釋教の歌に於いて自然界の風光を寄託したものの少なくないことであつて、例へば寂蓮の往生要集の十樂の歌のうちに「紫の雲路にさそふ琴のねにうき世をはらふ峯の松風」、「これやこのうき世の外の春ならん花の戸ぼその明ぼのの空」、といふのがある。前のは聖衆來迎樂を、後のは蓮花初開樂を、詠んだものであるが、峯の松風をいひ春の明ぼのをいふのは、紫雲にも蓮花にも關係の無いことである。慈圓の二十八品の歌のうちの「いづくにも我が法ならぬ法やあると空ふく風に問へど答へぬ」、普門品の「おしなべて空しき空と(539)思ひしに藤さきぬれば紫の雲」、寂然の法文百首のうちの「吹く風に花橘や匂ふらん昔おぼゆるけふの空かな」、「やみ深き木のもとごとに契りおきて朝たつ霧の跡のつゆけさ」、または俊成の極樂六時讃の繪に題した「今ぞこれ入日を見ても思ひこし彌陀のみ國の夕暮の空」、「いにしへの尾の上のかねに似たるかな岸うつ波の曉の聲」、なども同じやうなものである。眞如の月とか五障の雲とかいふやうな譬喩の言はいひならされたことであつて、これまででも二十八品の歌や法文を題にしたものにはまゝそれに似たいひかたをしたものがあり、さうしてそれは抽象的な思想を歌にするための一つの方法であつたが、釋教の歌の多くはその教説や法文の意義を歌の形にしただけのものが多かつたのに、こゝに擧げたやうなものの作られるやうになつたのは、新古今時代の新しい傾向であるらしい。歌の姿も新古今調の特色をもつてゐる。特に「吹く風に」と「いにしへの」とは、或は本歌をとり或は古歌によつたものである(その意味では佛教が世俗化せられてもゐる)。自然界の風光を譬喩として用ゐたものもあつて、それは前からの風習の一つを繼承したのであるが、それにしても一首の構成からいふと、譬喩であるべき光景が歌としてはそれを敍するために作られたやうになつてゐるので、そこにこれまで見て來たやうな新古今の特色がある。これは自然界に深い親しみをもつてゐるからのことではあるが、また佛教の經文に空想的な自然界の光景を敍したところが多く、淨土を説いたものにもそれがあり、それらに誘はれて山越の阿彌陀を幻視に見ようとするやうになつたほどな、このころの佛家の思想の傾向にも、由來があらう。(ついでにいふ。梁塵秘抄の法文哥のうちに、例へば「大集方等は秋の山、四教の紅葉はいろ/\に、」とか「大品般若は春の水、罪障氷のとけぬれば、」とか、または「靈鷺山の山のはに、月はのどけく照すめり、」とか、いふやうなのがあるが、ありふれた譬喩の言を今樣風にしたのみのものである。その(540)譬喩が日本的の風光であることと、かういふ表現法の好まれたところに自然界に親しみをもつ日本人の情懷が見えることとが、知られはするが、藝術的にはさしたる價値は無い。)
 
 新古今の歌の特色はほゞ上記の如きものであらうと思はれるが、要約していふと、微吟低唱する場合の音調上の效果が重要視せられてゐること、その音調は流麗ではあるが力強い趣のあること、萬葉時代このかたいろ/\に試みられたあらゆる修辭的技巧が用ゐられてゐるが、讀みあげる場合にはそれが用ゐてあることに氣がつかないほどに精練せられてゐると共に、音調上の效果がそれについても注意せられてゐること、しかし技巧を多く用ゐるために音調の美しさがあるにもかゝはらず、ことばのつゞけかた思想のはこびかたにはむりがあること、特殊の修辭法を用ゐても用ゐなくても、ことばとそのつゞけかた即ちいはゆる姿とに惨憺たる苦心がせられてゐること、しかしそれがために往々意義の明かでないものが作られてゐること、などである。後鳥羽院は定家を評して「心あるやうなるをば庶幾せず、たゞ詞姿の艶にやさしきを本體」とするといひ、「心なにとなけれどうつくしくいひつゞけ」るといひ、「詞のやさしく艶なる外、心もおもかげもいたくはなきなり、」といはれたが(口傳)、この評は新古今の作者のすべてにあてはまるのであらう。これは心を姿に對立するものとしてのいひかたであり、この意味で、姿は美しく作られてゐるが心にはとりたてていふほどのものは無い、と見られたのである。これまでに引いた歌の多くは皆かういふ苦心の跡を示すものであるが、なほそれを補ふならば、「櫻花ゆめかうつゝか白雲のたえてつれなき嶺の春風」(春下家隆)、「散りにけりあはれ恨みのたれなれば花のあと訪ふ春の山風」(同寂蓮)、「かへり來ぬ昔を今と思ひねの夢の枕にかをるたち(541)ばな」(夏式子内親王)、「葛の葉のうらみにかへる夢のよを忘れがたみの野邊の秋風」(秋俊成女)、「消えねたゞしのぶの山の峯の雲かゝる心のあともなきまで」(戀二通光)、「淺ぢふや袖に朽ちにし秋の霜わすれぬ夢を吹く嵐かな」(雜上同人)、など、いづれもみなそれである。こゝに擧げた最後の二首、または上に引いた「風かよふねざめの袖の」、「春*の夜の夢のうきはし」、或は「隔てゆく代々の面影かきくらし雪とふりぬる年のくれかな」(冬俊成女)、の如きは、主觀的情懷と客觀的事象との間に不即不離の關係で相通ずる微妙の消息を詠じたものの如くにも、見えるが、當時の作者の態度からいふと、たゞそのいひかた、ことばのつゞけかた、を巧にしたまでのことであらう。
 しかしかういふ歌を讀むと、一首の音調が殆ど音樂的のリブムとメロディイとを有つてゐるやうに聞え、それによつて一種の樂的情調が呼び起され、一々のことばのつながりが混雜してゐて意義が明かでないにしても、一首全體として或る氣分の表現せられてゐることが感ぜられるので、こゝに新古今の歌の新しさがあり美しさがある。姿にあらはれてゐる心、即ちいはゆる幽玄も妖艶も、要するにそれをいふのであらう。萬葉に由來のある修辭の法も、かゝる情趣をもたせるために用ゐられるので、萬葉の歌とはその效果に於いて違ふところがある。けれどもその美しさはどこまでも人工的のものである。そのメロディイは作者の心情からおのづから流れ出しておのづから形づくられたものではなく、特殊の意想により繊細なる技巧によつて構造せられたものである。四季の歌に花鳥風月の種々相からうけた印象をあるがまゝに詠じたものが少いと共に、戀の歌にその情懷の單純に率直にまたは大膽に表現せられたものが殆ど無いのも、これがためであらう。これは現實の生活とは別のところに歌の世界があるとせられたことと相應ずるものであつて、無名抄に見えてゐる俊成の女や宮内卿の作歌の用意といふものも、またそれを示すものである。(こ(542)れらの話が事實を傳へたものかどうかは知らぬが、何れにしても桐火桶の話の俊成から導かれたものであらう。)またその構造に流行の型があつて作者の個性がそれに現はれてゐないのも、一つはこれがためである。さうしてそれはまた、時勢の變化に應じて、或は時勢を動かして、新しい時代に新しい生活を展開させようとする意氣も力も無く、歌といふ現實から離れた世界に隱れてそこに纔かに生を託するのが、當時の歌人であつたからでもある。或は彼等歌人が現實の生活に於いて強い自己をもたず、自己を歌によつて表出しようとする意欲もなく、たゞ技巧の精練にその力を銷盡することによつて、纔かに自己の存在を認めようとしたのでもある。本歌とりが流行した一事によつても、歌人が自己の情懷を自己の情懷としてそれを表現することが無かつたこと、むしろ表現しようとするだけの自己の強い情懷が無かつたことが、知られよう。これが貴族文學としての歌の作者の最後にたどりついたところであつた。
 
 以上、新古今の歌について語を費し過ぎたやうであるが、これは、萬葉時代から始まつてこの時代に及んだ歌風の變遷の趨向が、畢竟如何なる點に歸着したかといふことを考へようとしたためである。歌の題材もその思想も因襲的に一定してゐるが、その一定してゐるものに何か新奇な色彩をつけようとして、さま/”\の工夫がめぐらされた、その最後といつてもよいものが、この新古今の歌風であつた。さうしてかういふ歌風のできたのは、三十一音の短歌の形をどこまでも守らうとしたからであると共に、またそれが日本語の歌だからでもある。その工夫もその效果もそれによつて得られた感じも、日本語だからこそのことである。この意味に於いて、新古今調は日本語の特色の一面を最もよくはたらかせてゐるといはれよう。ところがこゝに一ついひ添へたいのは、かういふ歌風の形成につれて、歌に(543)いろ/\の風體があるといふことのいひ出されたことである。俊成は歌の判などに、幽玄とか優とか艶とかまたは長け高しといふやうな、いろ/\の語を用ゐ、定家もほゞそれを繼承してゐるが、それは作られた歌に對する品評であつて、歌を作るための目標ではなく、歌の姿の品別ではなほさらない。かういふ品評が多くの作者によつて承認せられゝば、作る場合にもおのづからそれらの評語にかなふものを目ざすことにはならうが、よしさうであつても、それは、それらを歌の姿の品別としてそれらの何れかにあてはまる歌を作るといふことではない。然るに或るとき後鳥羽院の仰せで、四季の歌の春夏のを「大にふとき」體(高體とも)で、秋冬のを「からび」(或は細くからび)た體(疲體とも)で、また戀と旅とのを「艶にやさしき」體(艶體とも)で、詠むといふことが行はれた。歌の姿をその情趣に調和するやうにといふことであるらしく、それには意味があるが、この三つの配當はあまりにも概念的であり強ひてせられたことでもあつて、事實、そのとき詠まれた歌の姿に、三つの概念にあてはまるやうな區別は、明かには見えない。たゞかういふことの試みられたのは、ふとした一時の思ひつきではあつたらうが、歌の姿を概念的に区別し、それを作歌の一つの用意としようといふ考が、そこに潜んでゐたことを示すものである。さうしてそれはおのづから歌の姿に何等かの型を定めることになる。毎月抄ともいはれてゐる定家の消息といふものに見える十體の説には、姿と情趣との調和といふ考は無くなつて、この定型の思想のみが機械的に、また歪んだ形で、主張せられてゐる。(奧義抄にも載せてある道濟の十體といふものがこのころ傳へられてゐたが、それはむしろ粗雜な考へかたによる品評めいたものであつて、毎月抄のとは意味が違ふ。たゞ毎月抄のは十の數に於いてそれから導かれたところがあるかも知れぬ。なほこの毎月抄がもし傳へられてゐる如く定家の著作であるならば、彼も晩年にはかういふことをいふやうに(544)なつたのであらうか。但し明月記のことを書いてゐるところなどを見ると、彼の著作としては疑はしい點があるのではなからうか。)かうなると歌はもはや今日のいはゆる藝術ではなくなるのである。
 歌を作ることはこれから後も衰へはせず、勅撰の集もでき、歌合も百首歌などの詠進も同じやうに行はれたが、新しい技巧を工夫する餘地はもう無くなつたので、上に述べた如く歌にいろ/\の型が定められ、歌をそれにあてはめて見るやうになるとか、師範の家が定つてそれが歌界の權威をもつやうになるとか、從つてまたそこに流派ができるとか、さういふやうな形で種々の拘束が歌に加へられるやうになつてゆく。これは一つの意味に於いては俊成定家の時代に既に生じてゐた傾向の更におし進められたものであつて、師範の家も定家の子孫に限られることになるのであるが、俊成定家の重んぜられたのは、多數の歌人の信望がおのづからそれに歸したからであり、また新古今の特殊の風調は一種の流行として成立つたものであると共に、顯昭とか次にいはうとする西行とかの如く、三代集時代の風體と違ふ點に於いては、新古今のと共通なところがありながら、それ/\に獨自の歌風をもつてゐるものが、その傍に存在し歌界に活動してゐるのに、次の時代にはそれがこのやうに變つてゆくのである。新古今の歌風はこの意味に於いて歌の歴史の一つの終結をなすものとして、今日からは考へられるのである。
 
 もつともこの集に採られてゐるものは、上に考へたやうな特殊の風調をもつてゐるものには限らぬ。四季の歌では、例へば「夕月夜潮みち來らし難波江の蘆のわか葉をこゆる白浪」(春上秀能)、「あふちさく外の面の木かげ露おちて五月雨はるゝ風わたるなり」(夏忠良)、「むら雨のつゆもまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋のゆふぐれ」(秋下寂蓮)、(545)「霜さゆる山田のくろのむらすゝき刈る人なしに殘るころかな」(各慈圓)、「かりくらし交野のましばをりしきて淀の河瀬の月を見るかな」(冬公衡)、「しきみつむ山路の露にぬれにけりあかつきおきの墨染の袖」(雜中小侍從)、などのやうな、技巧を加へない、さうして興趣の甚だ豐かなものもある。これらが目前の實景もしくはをりにふれての實感を詠じたものであるかどうかは別として、よし机上の構想であるとしても、歌の上では實景實感を率直に詠じたもののやうに見える。これらは實感の表現としては一條朝時代の女流歌人、また實景の描寫としては能因などに、導かれたものであり、遠く溯れば、和歌の復興したころの、またそれを傳へたものとして古今集の一部分に見えてゐる、歌風に淵源があり、さうしてそこに歌の本質が保たれてゐる。その最も著しいのが歌僧西行の歌である。
 
 西行が抖?行脚の道すがら野のすゑ山の奧に吟嘯歌詠した幾百首の作は、彼の生活、彼の境地に獨得のもの、彼ならぬ作者の摸倣を許さないものである。彼は出家しない前から歌に堪能であつたらしいから、技藝としての歌の修養をも積んでゐたのであらう。晩年になつても自歌合を作つて、俊成や定家の判を求めたほどであるから、歌を妓藝として見ることは後までもかはらず、技巧にも長じ、また陳套な因襲的の歌をも作つてゐた。しかし、山家集を通覽すると、題詠の外に即興咏懷の作が甚だ多く、その題詠すらも彼の内生活の表現として見るべきものが少なくない。要するに日常生活を直ちに歌とし、囑目の光景をそのまゝ歌とするところに、いはゆる歌人輩が自己の生活と交渉の無い特殊の氣分をわざとつくり出して、それによつて歌を作らうとしたのとは、大なる差異のあることを看取しなければならぬ。さうしてかういふものには、特殊の修辭的技巧を用ゐることすら少く、よし用ゐても殆ど天衣無縫の妙を(546)得てゐる。「鈴鹿山うきよをよそにふりすてていかになりゆく我が身なるらん」の「鈴」と「ふり」と「なり」とが縁語として殆ど耳に感じないのを見るがよい。(耳だたなくては技巧としての縁語の價値が無い。)
 また斷えず異郷の風物に接し、農夫漁人の間にも交はることの多いために、「となりゐぬ畑のかり屋にあかす夜は物あはれなるものにぞありける」、「我が戀はみしまが澳にこぎ出でてなごろわづらふあまのつり舟」、などのやうに、俗語方言またはその他の耳なれぬ詞を用ゐたものも少なくない。それらが必しも好い歌といふのではないが、かういふものを自由に取入れるところに、彼の歌に對する態度が見える。(慈圓が俗語を用ゐたのも民衆生活を詠じた場合であるが、たゞ彼に於いてはその民衆を民衆の外から見てゐる。)さうして方言俗語をかまはず用ゐるやうになれば、歌材にも新しいものを使ふことができる。「蓬生はさることなれや庭の面にからす扇のなどしげるらん」などといふのもその一例である。もつとも一面からいへば新しい歌材を使ひ新しい風情を詠ずるから、耳なれぬ語をも用ゐるやうになつたので、それには相互の關係があるが、さういふ新しい風情も材料も、やはり彼の行脚の間に得た親切な觀察から來たものが多く、いはゆる歌人が古歌の間から求めて來たものとは違ふ*。「山賤の片岡かけて占むる庵の界にたてる玉の小柳」、「道の邊の清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」、などは机の上で案じたのでは、とても思ひ浮ばないところである〔「玉の小柳」は當時の流行語であるが)。もとより彼とても全く時代を超出することはできないから、その情趣の根本は當時の一般の花鳥風月觀の外に出ないのであるが、その範圍内に於いて在來の歌人の因襲から離れ、それによつて清新な調を奏することができたのは、彼の世界が貴族と京との狹い天地に局促してゐなかつたからである。要するに彼が多感多恨の詩人的資質は、江湖漂泊の生活をして極めて多趣多樣ならしめ、ま(547)たその行脚の習はます/\彼の詩魂を鍛へさせて、終に彼の日常生活がそのまゝに詩であるといふ境界にまで立ち至らせたのである。かういふ詩人の境界は修辭家や職業的歌人の學び得べきところではない。後鳥羽院が彼を評して「生得の歌人とおぼゆ、これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり、」(口傳)と仰せられ、順徳院が「この道の權者」(八雲御抄)と記されたのも、この故であらう。その歌が新古今に少からず撰入せられてゐるのも、この集の撰者が歌人として彼を尊尚してゐたことを示すものであり、「ふるはたのそばの立木にゐる鳩の友よぶ聲のすごき夕暮」(雜)のやうなものの採つてあるのも、その一證であらう。(もつとも曾丹の「ひこばへにけり」が採られてゐるのを見ると、曾丹時代の歌などはもはや古典となつてゐて、その造語も優雅なものとせられてゐたのであらうか。新古今には入つてゐないが、遠島御百首中の後鳥羽院の御製に同じ人の「蓬が杣」の語を用ゐられたものがある。上にもいつた如く慈圓の作にも俗語を用ゐたものがあるが、これは民衆生活を詠じたものに於いてであるから、こゝにいふのとは少しく違つた意味がある。單に俗語を用ゐることは、萬葉の語をとることと共に、このころの歌人の一つの流行であつたやうでもある。)さて彼が如何なる性質の歌人であつたか、その歌に於いて何ごとが表現せられてゐるか、といふことについては、別に後章に述べようと思ふ。
 
 次には鎌倉の將軍の實朝について一言しなければならぬ。實朝の萬葉ぶりは眞淵以來ひどく評判になつてゐるが、それはどういふ性質のものであり、また當時の歌界に如何なる地位をもち、歌の歴史に於いて如何なるはたらきをしたのであらうか。京の貴族の風習文物を摸倣し移植することに多くの力を用ゐた文化的空氣の裡に育つた彼は、若い(548)時から歌を好んでゐたので、定家に道をきいたことはいふまでもなく、雅經や長明にも教へられたところがあつたらしく、「風さわぐ遠の外山に空晴れて櫻にくもる春の夜の月」、「露を重み籬の菊のほしもあへず晴るれば曇る宵のむら雨」、といふやうな新古今調を學んだものを多く作つたのも、そのためであらう。新古今の撰進のことを傳聞していち早くそれを求めただけでも、當時の流行のかういふ風體を學んだことは想像せられる。それがいはゆる萬葉ぶりを詠むやうになつたのは、必しも建保元年に定家から萬葉を贈られた時に始まつたのではなからう、といふことであるが(佐佐木信網氏による)、それと共に一方では、建保二年及び三年に宮廷の歌合の歌の寫しを得てそれを賞翫したといはれ、それから後にも萬葉ぶりでない歌を作つてゐた(吾妻鏡)。彼の歌風に變化があつて、或る時期から後にはすべて萬葉ぶりになつた、といふのではないらしい。さすれば彼の萬葉ぶりは、當時の流行の風體を學ぶと同じ意味に於いて、萬葉の風體を學んだに過ぎないものではなからうか。さうしてそれは京の歌人が萬葉の詞を用ゐ萬葉の歌を本歌にとつたのと、作者の態度としては、ひどく違はないことではなからうか。題詠ではあらうが、いはゆる萬葉ぶりの歌の中にも、萬葉の地名や詞を用ゐることに興味をもち、またはそれを本歌として作つたと見なければならぬもののあること、また目前の實景を詠ずる場合にも「玉くしげ箱根の海はけゝれあれや二國かけて中にたゆたふ」のやうに、萬葉の東歌に用ゐてある東國の訛音をまねたものさへ作つてゐること、などを考へると、彼の萬葉ぶりは技巧としての萬葉摸倣であつたと解せられよう。もつとも一首の全體の姿を萬葉ぶりにすることは、顯昭などでも多くは試みなかつたやうであるから、實朝の萬葉ぶりは彼の特色を示すものではあるが、しかしさうしなければ表現のできないものが作者の情思にあつたかどうか、そこに問題がある。
(549) 實朝の歌を金槐集だけで見ると、いはゆる萬葉ぶりの歌の數は僅かであつて、而もその大部分が題詠であり、さうして彼みづからの情思の直接に表現せられたものは、むしろ萬葉ぶりではない、といふことが考へられねばならぬ。當時に於いて萬葉の歌に尊重すべきところがあるとするならば、それは現實の生活とは違つた歌の世界といふものを故らに思ひ設けるのではなくして、自己の生活自己の情思の歌としての表現である點であるべきはずなのに、實朝の萬葉ぶりには、さういふものが殆ど見えてゐないではないか。根本的には實朝の生活が五百年前の萬葉人と同じでない以上、その萬葉の詞やいひかたでその生活を表現し得られるはずが無いのである。(歌を現實の生活とは別な世界のものとする場合には、萬葉の詞やいひかたを學ぶことに無理は無い。さうしてそれは新古今調を學ぶのと同じである。新古今の時代に萬葉ぶりの學ばれる根本の理由もこゝにある。)實朝を武人としてその點で萬葉の風體と彼とを結びつけようとするが如きは、萬葉の歌の情趣に對する見解はともかくも、彼の生活の京風であり貴公子的であつたことを忘れたものであらう。さうして武人の歌らしく見られてゐる「もののふの矢なみつくろふこての上に霰たばしる那須のしの原」が、萬葉ぶりであるよりは、その繊細な點に於いてむしろ新古今調から得たところのあることに、注意すべきである(題詠としてのこの歌の作られた年代はわからないが)。かの「箱根ぢをわが越え來れば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ」も、結句でいはれてゐることは第四句までの大きいながめには不調和なものであらう。たゞかういふものの作られた傍に「いとほしや見るに涙もとゞまらず親の無き子の母をたづぬる」、「とにかくにあな定めなき世の中や喜ぶものあればわぶるものあり」、「大海の磯もとゞろによする浪われてくだけてさけて散るかも」、のやうな歌を詠み得た彼には、新古今風の技巧を用ゐない、素朴なところのある、萬葉ぶりに心の傾けられる由縁は(550)あつたであらう。さうして地理的に京の歌界から離れてゐたため、一方では流行の歌風を學びつゝも技巧の精錬または熟達しないところがあると共に、他方ではその束縛を蒙ることが少く、萬葉の姿を摸倣し得たのであつて、それは京風を學びつゝもなほ土臭いところのある鎌倉文化の一つの現はれとして見られよう。さうしてそこに實朝の萬葉ぶりの文化史的意味がある。しかし新勅撰以後の勅撰集に彼の歌はかなり採られてゐながら、その萬葉ぶりが特に重んぜられたやうには見えないから、その點だけから考へても、それは一般の歌界には何ほどの影響をも與へなかつたといふべきであらう。
 實朝がもし弑せられずしてその壽を全うすることができたならば、歌に於いてどれだけのことをしたであらうか。それは固よりわからぬことである。また彼の歌のすべてが後に傳はつてゐるのでもなからう。だから今日知られてゐるだけのものによつて歌人としての實朝を評價するのはむりである。けれどもしばらく金槐集について見ると、彼はやはり歌の拔藝家であつて、「生得の歌人」たる西行とは違つてゐた、といふべきであらう。萬葉ぶりを摸倣したことに於いても、そのことが知られる。歌に詠むべきことが因襲的に定められてゐたにしても、彼がもし眞の詩人であつたならば、當時の幕府の状態や彼の身邊の事情や、要するに源氏の運命について彼に何等かの豫感を抱かせたらしくも見えるその境遇とその間に於ける生活とが、世のつねの歌人の作とは違つた歌を多く彼に作らせたであらうに、さういふ形迹が無い。少くとも今日からはわからない。
 
 しかしながら、この時代とても技藝としての歌ばかりが作られてゐたのではなからう。戀の歌や述懷の作には、自(551)己の生活の詩的表現とすべきものがある。世態からいつても保元平治の亂が起つてから後の京の轉變は、さすがの京人をも動かして彼等に新しい經驗をさせた。詩人ならぬ職業的歌人、即ち歌の技巧家、にはそれがさしたる影響を與へず、俊成も定家もたゞそれを餘所にながめてゐたのみであるが、しかしその間にもかういふ時勢の變遷に刺戟せられて、歌によつてその情生活を表現しようとする傾向がいくらかは現はれて來た。一般に世が末になつたといふ感じから、厭世的になり易い思想上の傾向が歌はれたばかりでなく、崇徳院の變には「かゝる世に影もかはらず澄む月をみる我が身さへ恨めしきかな」(西行)と歎じ、平家の行動に對しては「夜半に吹く嵐につけて思ふかな都もかくや秋はさびしき」(新古今雜實定)となげき、都うつりといふやうな大事件が起ると、春にあつても「かくばかりうきよの末にいかにして春は櫻のなほ匂ふらん」(千載雜)といはねばならぬ。後鳥羽院の「奧山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞとおもひ知らせん」も、また京風の文化を景慕するところからおのづから養はれた心情の發露でもあらうと思はれる點のある實朝の「山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも」も、たゞの技藝としての歌ではない。まして承久の變後に於いては、遠島御百首に見える隱岐院の「我こそは新島守よおきの海の荒き波風心してふけ」も、「とにかくに人の心も見えはてぬうきや野守の鏡なるらん」も、または「問はるゝもうれしくもなしこの海を渡らぬ人のなげの情は」も、一として悲痛の聲でないものは無い。「物思ふに過ぐる月日を知らねども春や暮れぬる岸の山ぶき」、「いかにせん葛はふ松の時のまもうらみて吹かぬ秋風ぞなき」、花にも風にも世のつねならぬ感懷が詠まれてゐる。西行の日常生活が詩人の境地であつた如く、これらの作者は境遇の變化に刺戟せられて、歌の技藝家から超出した詩人の氣分を帶びて來たのである。歌の本質はかくして保たれた。けれどもそれは稀な場合の(552)ことであり、またこれらの歌とても、その多くは單なる感傷の詠に過ぎず、作者の關心が世の治亂に及んでゐないことが、注意せられる。一般的にいふと歌は結局因襲的な束縛を脱することができなかつたのである。
 歌に詠むべきことが因襲的に定められ、從つて歌を作ることが單なる技藝となつたのは、一つはその形が五句三十一音に定められてゐたからであり、さうしてそれは歌が謠ふものでなくなつたことに一つの理由がある。勿論かうなつたのは、作者の情思が固定してゐたからでもあつて、その間には相互に關係がある。謠ふものとしては今樣と呼ばれる形のものができて來て、民間演藝としてそれが行はれたが、歌の作者はそれには目をつけず、それを利用しそれを精練して歌の新しい形を作らうとはしなかつた。(慈圓や寂然が今樣を作つたのは佛者だからのことであり、さうしてそれは歌とは別種のものとしてであつたらう。)その他の種々の謠ひものについてもまた同樣である。和歌は謠ひものとは全く別の世界のものと考へられてゐたのである。さうして次にいふやうに、却つて漢詩と同じ性質のものである如く見られたので、吟誦するものとしても朗詠に於いてこの二つが結びつけられてゐた。歌と謠ひものとの分離は萬葉時代からのことであり、後になるほどその隔たりが遠くなつて來たので、それについては既に前に考へたことがあるが、新しい謠ひものの形ができたこの時代になつても、それが近づくやうにはならなかつた。それほどに歌は特殊の技藝として固定したので、そこに貴族文學としての性質がある。(歌が民間の謠ひものに利用せられた場合はあるので、それは神事の儀禮に歌の形の樂章があることから轉化したのであらうが、しかしこれは歌が謠ひものとして作られることではない。またこの時代にも長歌がとき/”\作られたが、それは概していふと七五調の散文であつて、文字に書かれたのみのものである。かゝる形のものがあるといふことを知つてゐたため、一種のものずきで作ら(553)れたまでである。)
 しかし、歌は歌の形を半ば保ちつゝ別の方面に一つの途を開くやうになつてゆく。この時代から「くさり連歌」とか「いろは連歌」とかいふもの*、が行はれ初めたことがそれである。當時の作はまとまつたものとして遺つてゐないから、その全體を知ることはできないが、今鏡(花のあるじ)にくさり連歌の僅かな見本があり、古今著聞集(和歌)にいろは連歌の一片が載つてゐる。それで見ると、その性質は金葉集の連歌で知られるやうな言語上の機智を弄するものとはやゝ違つてゐるやうである。(くさり連歌は後世の連歌と同じ續けかたである。いろは連歌は頭の字を四十八字の順に連ねてゆくのであるが、その實質はやはりくさり連歌と同じであらう。)言*語や風習の變遷から、咄嗟の間に行はれた單純な二人の間の唱和が實際上あまり行はれなくなつたため、漢詩の連句に倣つてこんな形のものが考案せられたのであらう(無題詩卷二賦連句、參照)。さうして歌に幽玄體などが起つて靜坐沈吟することが尚ばれ、歌が何か神秘らしいもののやうに思はれる時代になると、口とく應答唱和することには輕々しい感じがあるので、連歌に於いても、それとは違つた情趣を求めることになり、さうしてそれが特殊の技巧を要する遊戯となつたのであらう。(いろは連歌にはいはゆる折句の要素が含まれてゐる。)これもまた歌に貴族性の保有せられた一現象である。或はむしろ歌が神秘的になつたために、却つて遊戯としてかゝる連歌の方式が案出せられたのであらう。
 
 もう一つ附記すべきはこの時代の漢詩のことである。歌が漢詩から種々の影響をうけると共に、漢詩も歌から得るところがあつたことは、前の時代と同じであつて、本朝無題詩を見てもそれは知られる。この集に四季による部類わ(554)けがあることは、本朝麗藻と同じであるが、詩題として六月の祓や五節の舞姫や、大原の賣炭婦や、または郭公や卯花や瞿麥や萩やがあるのみならず、春霞とか波路とかいふやうな日本語を用ゐたり、卯の花に郭公を思ひよせたり、または松ふく風を雨と聞き岸うつ浪を花と見たり、さういふ點に於いても歌をまねたところがある。雪を詠んで「曉留明月千程地、冬有衆花四遠山、」(卷一蓮禅)といふなどは殆ど歌の直譯である。「本地便知西土主、毎憑引接涙難禁、」(卷七通憲)、「可憐漁釣罪根事、千介萬鱗民戸租、」(同上)、なども、佛教が詩に入つたといふよりは佛教化した日本人の思想が詠まれたといふ方が適切である。「桂木梅津尤有意、花如白浪月如氷、」(卷六忠通)の如きも、地名を強ひてシナめかした昔とは違ふ。これらは既に前にも述べて置いたやうに延喜前後からの一傾向ではあるが、この時代にはそれが一層強められて來たのである。この集の詩の作者に經信や基俊のやうな歌人のあることも、かういふことについて考へあはされる。殆ど詩とは稱しがたいほどな、律語の形をもつただけの、散文であるが、これは漢詩を摸倣する點に於いては延喜前後の作者よりも退歩したものであると共に、漢詩の形によつて幾らかでも日本の風物を寫し日本的の情趣を詠じようとした點に於いては、それの日本化が前代よりも一歩を進めたものである。漢詩らしく見えるやうにするにはどこまでも摸倣しなければならず、日本化すれば漢詩らしくなくなる、といふのが、日本人の漢詩を作ることに具はつてゐる矛盾なのである。日本化といつても、漢詩である以上、シナ思想シナの古典から求めて來た辭句が文字の上では顯著であり、それと日本的なものとの奇異な混淆を示してゐるに過ぎず、從つて一部分に寫實的なところがありながら、他の部分に漢詩の套語を用ゐたやうな奇怪なものが作られてゐたが(卷二周光の類)、寫録的の部分があるために漢詩の情趣が失はれてゐることは、明かである。それは一つは、作者が漢詩そのも(555)のの情趣を解し得なかつたため、根本的には詩人的資質をもつてゐなかつたためであるので、この點では多くの歌の作者と同じであつた。歌と同じく、ではなくしてそれ以上に、詩は技藝であつたのである。たゞ歌人は修辭的技巧と國語の音調上の感覺とをもつてゐたのに、異國の語による漢詩の作者にはそれが無かつたのである。それでありながら日本人が漢詩の形をしたものを作らねばならぬやうに考へ、さうしてそれを和歌とほゞ同樣に取扱つたところに、一つの意味がある。歌と詩とを同じ性質のものとすることは清輔も明言してゐるが(奥義抄序)、上に述べた如く詩歌合といふことが行はれ、歌合の判を歌でするものがあると共に詩でしたものがあることも、また古事談や後の著聞集に詩(文學)と歌とに關する記載があることも、參考せられよう。散文としての漢文には、上に述べた如く日本化が行はれないのに、詩に於いてのみそれがあるのも、詩が歌と同樣に見られたところに主なる理由があるのではなからうか。たゞ歌には勅撰集があるが詩にはそれが無く、作者からいつても詩のが限られた少數人にとゞまるのは、日本の獨自の文化の形成せられた時代であり、また詩が特殊の知識と技能とを要する異國のものだからであるが、それでありながらかう取扱はれたところに日本の文化の一面がある。
 
(556)     第五章 舊題材と新傾向
 
 貴族文學が貴族文學である間は、さうして貴族が從來のまゝの文化上の地位を維持してゐる間は、その文學の題材として新しいものが用ゐられる望みは無い。前にも述べたやうに、今昔物語などに地方人や武士に關する風説や傳聞が載せられてはゐるが、それは恰もインド人やシナ人に關するものと同じく、たゞ別世界の珍らしい話として傳へられたまでである。武人や地方人の生活は、京の貴族等に了解もせられず同情もせられなかつたのであるから、それが貴族文學の題材となるはずが無い。保元平治以後になると、目のまはるやうな世態の變化、勢あるものが勢を失ひ、權力なきものが權力を得、衣冠の巷は兵馬の塵にまみれ、殿上の人は曠野に屍を曝す、或は平氏が榮華の二十年、福原の都うつり、壇の浦の壞滅、すべてが京の貴族の夢を驚かしたのではあるが、彼等が實社會に於いてこの變亂に處してゆく意氣も實力もなく、たゞ手を拱いて時勢の動くがまゝに任せてゐたと同じく、彼等の文學はこれらの變亂に少しも觸れなかつた。さういふ事變が彼等にとつてはあまりにも思ひがけない搏撃であつたので、それに反應するだけの用意も力も無かつたのである。純文學として取扱ふべきものではないが、この時代の末の貴族の手になつたものと思はれる今鏡などにも、武士については殆ど何等の記事も無いといつてよい。さうして徒らに詩歌管絃の遊びをくだくだしく書いてゐる。もつともこれは大鏡の先蹤に追從したからでもあらうが、歴史を書く場合にもこんな風であつたとすれば、文學についての彼等の態度もほゞ推知せられよう。(當時の公家の記録を見てもその大部分は公事即ち儀禮の記事で  填められてゐて、時勢を動かしてゆく實際問題の記載はそれに比べると甚だ分量が少い。貴族等の思(557)想はこれでもわかる。)だから彼等は物語に於いても和歌に於いても、概して前代の典型に從つて定まつた材料を用ゐ定まつた構想をくりかへすのみであつた。しかし時勢の變遷につれてその取扱ひ方には幾らかの新しい傾向が無いでもなかつた。
 
 前代から引き續いてゐる文學の題材は第一に戀愛であるが、歌に於いてはそれに題詠が多くなり、またその題が不被知人戀とか初遇戀とか遇不逢戀とかいふやうに、細かく定められるやうにもなつた。堀河百首の詠進の時に用ゐられたかういふ題は、その前にも無いことは無いが多くは見うけないやうであるから、多分この時代の和歌復興に伴つて起つた一現象であらう。このころから後にも百首歌などには廣く戀といふ題で詠むことも行はれてゐるが、一般には狹く限る場合が多い。題がかうなつたのは戀歌に一種の型が作られたこと、即ち昔の人の現實の戀愛を歌の上で再現しようとしてゐたことを示すものである。戀そのものは何時の世の如何なる社會でも無い時は無いが、その戀を詠んだ歌にかういふ型の作られたのは、一面の事實として歌が現實の生活から遊離した技藝となつたところに、その主因があらう。歌人としての僧徒が戀の歌を多く作つたのも、そのためである。勿論前代から相承せられて來た形に於いての戀愛が現實の生活に無くなつたのではない。歌人についていつても、例へば俊頼、基俊、顯輔、清輔、隆信、などの家集には女との贈答の歌が少からず見えてゐる(隆信の集のは、その詞書きとして記されてゐることのすべてが事實であるかどうか、疑はしくも思はれ、假構の説話がそのうちにあるのではないかと推測せられもするが、よしさうであるにしても、そのことに歌人の心生活が現はれてゐる)。歌人であつた武士の頼政にもそれがあり、特に小(558)侍從との贈答は、この二人の家集によつて世によく知られてゐる。歌に長じた官女の戀は建禮門院の右京大夫にも著しき例があるが、待賢門院の堀川の集にはかゝる場合に人に代つて作つた歌の幾首かが見える。これが他の一面の事實である。ところがかういふ歌人が一方では題詠としての戀の歌を多く作つてゐるとすれば、その間には相互の交渉があつて、現實の體驗がおのづから題詠に利用せられると共に、歌の上で思ひうかべられた戀を現實に體驗しようとすることにもなるのではなからうか。「ふし柴の加賀」の説話は、能因の白川の關の歌のと共に、作りごとであらうが、かういふ特定の或る一首についてではなく、歌の上で味ひ知られた戀の情趣を現實に體驗しようとするのは、あり得べき人の心理であり、意識してそれを求めずとも、みづから知らずしておのづからさうなるのでもある。堀川院の艶書合せの如きは、もとより單なる遊戯としてであり、題詠の一つの方法でもあるが、作者が男女に分たれ、歌がその間の贈答の形にせられたところに、特殊の興味があるので、それにもまたかゝる心理と相通ずるものがあらう。歌で詠みかはしたことがその作者の間に現實に起るといふのではない。かゝる遊戯に現はれてゐる特殊の情趣が現實の生活に何等かの刺衝を與へるであらうといふのである。要するに、題詠の習慣によつて戀が或る型をもつやうになると共に、その型の如き戀が現實にも行はれる場合があつたのである。それは貴族等の婚姻生活、その根柢には一般の生活、そのものに前代から繼承せられたところがあるためではあるが、こゝにいつたやうな事情もまたそれにはたらいてゐるのではあるまいか。
 題詠としての戀歌の題が細かく定められるといふことは、人の思慮に浮ぶ限りの戀のあらゆる情趣がそれにとり上げられることを示すものであるが、それはまた戀の情趣、戀の心理、があらゆる方面から觀察せられるのでもある。(559)西行が花の歌月の歌を數多く作り、花と月とのあらゆる情趣を詠んだと共に、戀の歌をもそれと同じく數多く作つたのは、與へられた題によつたものではないけれども、廣い意義での題詠には違ひない。さうして細かく定められた題によらずして、かういふ戀の歌を作つたのは、西行の詩想の豐かさと自由さとを示すものである。(百首五百首などの詠進の場合には十首二十首の戀の歌の作られるのが常であり、殆ど唯一の例として後鳥羽天皇には百首の御製もあるが、西行のはそれとは違ふ。)普通の場合には、多くの歌人は與へられた題によつて作るのであるから、その技巧にいろ/\の違ひはあつても、詠ずるところの情趣は概して一樣であり、畢竟、先人を踏襲するのみとなる。この點に於いては、狹衣や濱松や「とりかへばや」に寫されてゐる戀が源語のそれの摸倣であるのと同じである。しかし歌そのものが現實の生活から遊離した技藝となつた一面の事實に伴つて、歌に詠まれる戀が題詠の題に示されてゐる如く一定の型をもつことになると、さういふ戀は強烈なる情熱の無いものとなるが、その代りに、夢のやうに淡く霞のやうにほのかな特殊の情趣が具はり、そこに現實の世界とは違つた一種の詩の世界があるともいはれよう。だからこの一面に於ける戀歌には、恰も特殊の歌人的氣分を以て自然界を詠じた歌と同樣の性質がある。
 これが貴族文學に現はれてゐる戀であつて、それにあてはまらない戀は文學の題材として採られない。武士には武士の戀があらう。明日の命の知られない戰場に夫や子を出してやる武士の妻には、衣冠の人の想像も及ばない氣分があるに違ひないが、それらは貴族の文學には寫されようがない。伏見の常盤も吉野の靜も、或はまた千手や虎も、武人の涙をば誘つたであらうが、貴族等にはその情が解せられなかつたらしい。だからそれらが文學に現はれるには、武士文學の勃興する次の時代を待たなければならぬ*。
(560) 前代に於いて戀と共に貴族等の心生活の一半を占めてゐた權勢の希求、官位の競望にも、幾らかの變化を來たした。勿論、官位昇進の望みは何等かの官位を有するものにとつては、決して棄てることのできないものであり、從つてさういふ感懷を述べた歌の類も少からず詠まれてはゐるので、例へば武士たる頼政の集などにもそれが見えてゐる。「いかなれば沈みながらに年を經て代々の雲井の月を見るらん」(千載雜俊成)の如く、歌人にもそれのあることは、いふまでもない。しかし重要な地位でもその實權が多く失はれ、次いでまた武士が高官に上ることになると、それが社會的に尊重せられることは少しも變らず、またよしそのしごとが主として公事朝儀の上にあるにしても、それがやはり榮譽の存するところであつて、それを得ようとする欲求があるにかゝはらず、前代に於ける如く甚しき競爭などは行はれなくなつたやうである。權勢を振はうとする希望が、時勢の變化に伴つて、とても充されなくなつたからであり、何事に對しても悲觀するやうになつた厭世思想もまたそれを助けたであらう。この時代の物語が、源語を摸倣しながら單に戀愛の點のみを取つて、その主人公の勢威を振ふ方面をまるで打ちすててゐるのは、作者の技倆といふことの外にかういふ事情があるのではなからうか。濱松の主人公の地位が中納言でとまつてゐることも、この意味に於いて注意せられよう。
 
 さて文學、特に歌、の題材として重要なものには、依然として四季の推移によつて生ずる自然界の現象があるが、これについてもまたその情趣は前代に形づくられた典型から離れることが無く、たゞ技巧によつて幾らかの新しみが(561)加へられたまでであることが知られる。そのために光景がひどく誇張せられたり、または事實としてあり得べからざるものにさへなつてゐるもののできて來たことは、既に前章に述べておいた。實際の遊翫としても、花を觀るに自然の落花では滿足せず、わざと他から多くの落英を集めて來て、雪の積つたやうに櫻の木の下に敷かせたといひ(今鏡白河の花の宴)、また雪見をするとて、山道を作つてかねて旅人じたてにしておいたものをとき/”\通らせて興がつたといふ(同伏見の雪の朝)。わざとらしいそのしかたが、歌の技巧と似てゐる。これは固より特殊の場合のことであつて、一般の翫賞の態度ではないが、前人の求め得た情趣を動かせない標準にして、強ひてそれを摸倣し誇張するのである。自然界の風物そのものが同じであると共に、新しく歌を作るには何の點かで新しみを出さねばならぬから、かうなるのである。
 しかし時勢の變化につれて自然界に對する態度にも幾らかは新しい傾向が生じた。それについて先づ氣のつくのは、歌の上に現はれてゐることであるが、前代に於いては主として自然界の取扱ひかたが多く智巧的であつたのを、この時代になつてからそれを客觀的に目に見る姿として眺めようといふ態度が次第に生じて來たため、よしそれが多數の歌人に於いては、親切な觀察から得たものといふよりは、机上で構成せられたといふべきものであつて、その點に智巧的な取扱ひかたから一すぢの絲をひいてゐるところがあるにせよ、ともかくも自然界の風物に興味ある情趣を見つけようとするやうになり、從つてまた目のつけかたも細かくなつて來た傾向がある。前にも述べておいたやうに、これは歌に新奇の工夫をしようといふ點から起つたことではあらうが、それがかういふ方面に向いて來たのは、前代に於いて大に發達した女性の書いた日記や物語に見える自然界の緻密な觀察と描寫とに誘導せられたのではあるまいか。(562)むしろ長い間に養成せられたかういふ觀察の力や描寫の術が、前代にはいはゆる女文に多く現はれたのみで歌にはさほど見えなかつたのが、新しさを求めた動機から、歌に適用せられるに至つたといふ方が適切かも知れぬ。前章に引いた幾多の歌、特に千載や新古今のそれにも、かゝる傾向を示す種々の例が見られるであらう。或はまた「みしま江や霜もまだひぬ蘆の葉につのぐむほどの春風ぞふく」(新古今春上通光)、「岩井くむあたりの小笹玉こえてかつ/\結ぶ秋の夕つゆ」(同夏兼實)、「寂しさは深山の秋の朝ぐもり霧にしをるゝ槇の下つゆ」(同秋後鳥羽天皇)、「たえゝに里わく月の光かな時雨を送る夜半のむら雲」(同冬寂蓮)、などもそれである。作者の興味は「玉こえて」とか「時雨を送る」とかいふやうないひかたをする技巧にあつたかも知れず、一首の構想の中心は必しもこゝにいふやうなところにあつたのではないが、それとは別に、細かい觀察の結果として人の氣のつかぬ風情が詠まれてゐることは、注意せらるべきである。かうなると時雨の音にも露の色にも、おのづから繊細な情趣が味はれ、作者も新しい風情を見つけようとして、或はそれを造り出さうとして、努力するやうになる。しかし歌に詠まれる題材が因襲的に定められてゐて、題詠の題とても同樣であるのみならず、その情趣にも一定の型があつてその外に出ることが殆ど無いことは、いふまでもない。だから新しい風情といつても、その限界のうちに於いてのことであるから、やゝもすればそれは現實にありさうもないものになり勝ちであり、一室に閉ぢこもつてゐて工夫をめぐらす題詠の作に於いて特にさうであることは、既に述べた。けれども、かうして養はれた繊細の趣味は長く後人を支配するやうになつたので、室町時代の連歌も江戸時代の俳句も、その趣味の標準はほゞこの時代の歌にあつたのである。この點に於いては古今集などの作者よりも、新古今時代の歌人の方が後世に及ぼした影響は大きい。
 
(563) 次に自然界を詠じた歌に於いて、思想の方面で新しい傾向の最も著しいのは、第一に、前代に於いては自然界を人生の背景として、或はおのれらの榮華を飾るものとして見てゐたのが、この時代になると人生には背いても自然を愛するといふやうな態度が、幾分か生じたことである。前には山に入るのも再び世に出たいがためであつて、自然の懷を暖かい落ちつきどころだとは感じなかつた。けれども親しく自然に接することが久しくなると、そこに人の世ならぬ懷かしさが生じて來て、一種の安慰が得られる。曾丹が百首和歌の序に、大宮仕への志を達しかねて蓬が門に閉ぢ籠りながら、風月の無常を歌につゞつて纔かに心を慰めてゐる、といつてゐるのは、慰めるものが歌ではあるが、その歌にあらはれるのは風月であるから、やはり人生に志を得ずして風月に心をよせる新しい傾向の先驅とも見られよう。能因が「世の中を思ひすててし身なれども心よわしと花に見えける」と詠んだのは、一歩を進めて、人の世を厭ひながら自然界には心のひかれることをいつたものである。
 この態度は西行に至ると一層明かになる。「花をまつ心こそなほ昔なれ春には疎くなりにしものを」は、人生の春には疎くなつても自然界の春にはあくがれてゐるといふのではないか。春ばかりではない。秋の月でも同樣で、「うちつけにまた來ん秋の今宵まで月ゆゑ惜しくなる命かな」といひ、「來ん世にもかゝる月をし見るべくは命を惜しむ人なからまし」とさへいつてゐる。彼が花月を愛することの深かつたことは、花に對し月に對して、表から裏から上から下から竪から横から、限りなき眼孔を以て限り無き情趣を見出さうとしてゐるのでも察せられる。(自然そのものを深く愛すれば、それに對する觀察も細かになり、そこに見出される情趣も豐かになる。)或る時は「春のほどは我がすむ庵の友になりて古巣な出でそ谷の鶯」とよみ、「獨すむ片山かげの友なれや嵐にはるゝ冬の夜の月」と詠じ(564)て、鶯の聲と月の光とをわが友と觀じ、或る時は「きり/”\す夜寒になるを告げがほに枕のもとに來つゝなくなり」といつて、あの小さい蟲をすらも友だち扱ひにし、また或る時は「こゝにまたわれ住み憂くてうかれなば松は獨りにならんとすらん」と松さへにも離れ難い思ひをしてゐる。これは萬葉の詩人が素朴な態度で、鳥をも蟲をも人と同じやうな心のあるものとし、我が身の友として、親しんだのとは違つて、人の世に背いてゐる我が心の寂しさから、特殊の氣分で自然を懷かしんだのではあるが、ともかくも前代には見ることのできなかつた新しい情趣である。
 だから西行はわが身の死を思ふにも「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と希ひ、死んだ後のことまでも「久に經て我が後の世をとへよ松あと慕ふべき人も無き身ぞ」と松に願ひをかけてゐる。もとより「わきて見ん老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき」、「ませにさく花にむつれて飛ぶ蝶の羨ましきもはかなかりけり」、自然のはかなさも人の世とかはりは無い。けれどもそれを知りながら、ひたすらに萬法の無常を説いてこの世をすてよといふ説法僧とは違つて、詩人たる彼はどこまでも花に月に執着する。のみならず、その執着から却つて一種の現世を懷かしむ思想を展開して來る傾きがある。「すみけるまゝに庵いとあはれにおぼえて」は「今よりは厭はじ命あればこそかゝる佳ひのあはれをも知れ」といつたではないか。狂言綺語が罪業の一ならば、彼は固より甘んじてその罪をうける。花鳥に心ひかれるのが往生の妨げならば、彼は或は往生の望をすてたかも知れぬ。無常の人生を厭ひながら無常の風月に執着し、その風月の詠に執着するのは、修行者としては矛盾かも知れないが、詩人としては當然である。
 さて第二には、前代に於いては自然界はおのれらの榮華の飾であるから、偏に華やかな色をそこに求めて、花は長(565)に散らざれ月は何時までも圓かなれとのみ望んだのであるが、この時代には花の散り月の虧けるやうな悲しげな光景、旅人のたよるところも無いやうな寂しい氣分を愛して、それを味はうとする一種の態度が生じてゐる。能因が「世の中はかくても經けり象潟のあまの苫屋をわが宿にして」と詠んだのは、海士の物あはれな生活とその間に旅ねする身とを憂きものとは觀じつゝも、なほその間に一種の落ちついた、安らかな、或はそれを懷かしむやうな、氣分のあることを示してゐる。經信や俊頼の如き歌人でも、「夕されば門田の稻葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞふく」、「鶉なく眞野の入江の濱風に尾花波よる秋の夕暮」、のやうなものを作り、幽玄體の首唱者俊成の得意の作は「夕されば野邊の秋かぜ身にしみて鶉なくなり深草の里」であつたといふ。彼等の作がかういふものばかりでないことはいふまでもないが、少くともその一面に於いてかゝる心もちを解し得たのは、知識として漢詩から學び得た點があるにもせよ、幾らかは時代の空氣とも何かの關係が無いとはいはれまい。
 それは何かといふと、日常の生活の萎縮、その表徴としての文化の停滯が、すべての人に今の世の衰へを感じさせ、心の底に失意の思を抱かせて來たので、その悲哀の氣分の對象を自然に求めるやうになつたことである。前代に於いては裏面に涙の痕の絶えまが無くても、表面はどこまでも華やいでゐたけれども、その表面の榮華の衰へて來たこの時代には、社會の全體が悲哀に滿たされるやうになつたので、華やかな生活を何處にも求めることのできないものは、せめてもの安慰を悲哀そのもののうちに見出さうとするやうになつたのであらう。歌の題に述懷といふものが設けられて、身をわび世をはかなむやうなことを詠むものとせられたこのころの風習も、參考せられる。さうしてかういふ風潮と密接の關係のある厭世思想を鼓吹するものとしての淨土教の流行も、また少からずこの傾向を助長したのでは(566)あるまいか。前章に引いて置いた例にもあるやうに、紅葉の色を涙の染めたのだといつてゐる歌があつて、その作者の着想は紅涙の紅をはたらかせたのみではあるが、錦とも見まがふその美しさを特に涙の色と聯想させたところに、無意識ではあるが一種の思想上の傾向が作者の胸に潜在してゐたとも見られよう。秋をひたすらに哀しいもののやうに見るのも、實生活から來た感想としては、このころから特に著しくなつた傾向らしい。なほ考へられるのは、上記の厭世思想と關聯して行はれた世をのがれて山に住むものの多くなつたことと、旅に月日を過すのが常である修行者の少なくなかつたこととである。人里はなれたところに住むものが自然界を寂しいものと觀ずるのは、いふまでもない。また自然界を寂しいものと見ることには旅の感じが與かつて力がある。自然界の情趣を知ることは旅に於いて最も強いが、旅がうきものである時代に、その自然界は寂しいものである。だからこれは前代から既にあつたことで、羇旅の情味の一半はこゝにある。たゞこの時代になると、それが旅するものの主觀的情懷であるよりは、自然界そのものの姿となつた。さうして、それには歌の作者に修行者が加はつたことに一因由があらう。
 これもまた西行に於いて最もよく現はれてゐる。この歌僧にとつては、その生活とその藝術をうち立ててゐる基調がこゝにあるので、その作の一々がすべてこの氣分を具へてゐる。「心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ」、「いづくとてあはれならずは無けれども荒れたる宿ぞ月はさびしき」、或は「津の國の蘆のまろやのさびしさは冬こそわきて訪ふべかりけれ」、のみならず、「何となく住まゝほしくぞおもほゆる鹿のねたえぬ秋の山里」、「訪ふ人も思ひ絶えたる山里の寂しさなくば住みうからまし」、とさへいふ。彼の生命はこのわびしさ、このさびしさ、にあるので、あはれはそこに於いて最も深く感ぜられる。勿論一方では「宿ごとにさびしからじとはげむべし煙(567)こめたる小野の山里」ともいつてゐるのを見ると、さびしさは必しも安住の心もちではないかも知れぬ。(この歌は山里の人の心もちとして詠んではあるが、そこに彼自身の心もちが反映してゐるものと解せられる。)西行はさびしさを愛しながら、やはりさびしさをさびしく思つてゐるのでもあらう。たゞそのさびしさを愛するところに意味がある。彼が到るところの山川に行脚の杖をひいたのも、必しも世の常の修行のためばかりではなくして、かういふ内生活の要求から來てゐるのであらう。「思へたゞ暮れぬと聞きし鐘のねは都にてだに悲しきものを」、「涙のみかきくらさるゝ旅なれやさやかに見よと月はすめども」、旅には勿論悲哀の氣分が充ちてゐる。しかし「あかずのみ都にて見し影よりも旅こそ月はあはれなりけれ」、「常よりも心ぼそくぞ思ほゆる旅の空にて年のくれぬる」。同じ月でも年の暮でも旅の空には都よりも深い味がある。「嵐ふく峯の木の葉に伴ひていづちうかるゝ心なるらん」、旅の行方も身のなる果ても測り知られぬおぼつかなさをおぼつかながりつゝ、やはり旅路にさすらひ出るのは、旅の心もちに一種の懷かしさがあるからである。「陸の奧の奧ゆかしくぞおもほゆるつぼの石ぶみそとのはま風」、みちのくの奥ゆかしきは旅して訪ふべきところだからであらう。この境地は前代の歌人の夢にも解することのできなかつたところではなからうか。
 自然のさびしさを愛するのは、それが我が氣分の寂しさに相應ずるが故である。けれどもまた一方からいふと、自然を人のための存在として、わが世の榮華の背景として、取扱はないところに、自然を尊重し自然の大なるを感知する心もちが含まれてもゐる。さうしてそのさびしい氣分も、分析していふと、大自然の前に立つて人の力の弱く小さいことを感ずるに外ならぬ。これが前代に比べて自然界に對する態度の新しくなつた第三の點である。萬葉のうぶな(568)自然觀の時代から歌人は優しい小さい美しい自然を愛し、三代集時代になるとます/\その傾向が強められて、箱庭のやうな自然でなくては翫賞せられなかつたのが、こゝに至つて、よし西行のやうな特殊の生活をしたもののこととはいへ、それがやゝ變つて來たのである。「雪ふれば野路も山路もうづもれて遠近しらぬ旅の空かな」、繪のやうな定家の「佐野のわたりの雪の夕暮」とは違つて、これは天地悉く雪に閉ぢられたところに、自然の威力とひたおもてに相接したのである。「行方なく月に心のすみ/\て果てはいかにかならんとすらん」、限りなく廣い世界をつゝむ月の光は單に優しいのみではない。勿論人の目に映ずる自然界は、それに對するものの特殊の氣分に應ずる方面だけであるから、わびしい寂しい、氣分の西行には、よし自然の大きさ強さを感ずるにせよ、やはり彼をして寂しさとはかなさとの情を強くさせる點のみが見えるのである。だから自然の旺盛な發生の氣とか活動力とかいふやうな方面には、全く感受性が無かつたのはしかたがない。
 さて、自然の前に人の力なさを感ずるやうになると、一人してこの自然に對するには堪へぬ。「水の音はさびしき庵の友なれや峯の嵐のたえま/\に」、或は「ひとりすむ庵に月のさし來ずば何か山邊の友とならまし」、水の音や月の光をせめてもの友とはするが、それは一面では孤獨の寂しさをますのみである。「谷の間にひとりぞ松は立てりける我のみ友はなきと思へば」といふが、さう思ふのはむしろ寂しさの極みである。そこで今度は一轉して人が戀ひしくなる。「吉野山やがて出でじとおもふ身も花ちりなばと人や待つらん」と決心はしても、さすがに「花も枯れ紅葉も散りぬ山里は寂しさをまた訪ふ人もがな」といひ、「霜さゆる庭の木の葉をふみわけて月は見るやと訪ふ人もがな」といはねばならぬ。本來彼は人なつかしい、やさしい、情に富んだ男であつた。故人を忍び舊知を懷ふ歌が山家集中(569)の到るところに散見する。樹蔭納涼の題で「今日もまた松の風ふく岡へゆかん咋日涼みし友にあふやと」といつてみるなどは、極めて單純な極めて自然な感情ではあるが、なほ彼の性質をよく現はしてゐるので、當時の一般の歌人の思ひもつかぬ落想である。彼が山にも入り野にも行き、出羽陸奧のはてにもさすらひ、四國筑紫の濱邊にも族ねをしながら、「かへりゆく人の心を思ふにも離れがたきは都なりけり」、或はまた「世の中をすててすてえぬこゝちして都はなれぬ我が身なりけり」、やはり時々都にかへつて來るのも、こゝに一つの意味があるのではなからうか。「都にも旅なる月の影をこそ同じ雲井の空に見るらめ」、「わだの原はるかに波をへだて來て都に出でし月を見るかな」、或はまた「見しまゝに姿もかげもかはらねば月ぞ都のかたみなりける」、旅で見る月にさへ都が思はれるのである。しかし出家の身はどこまでも出家の身であるから、一たび背いた俗世に再び面を向けようとはしない。だから、せめてもの友として同じ出家の人を求める。人生から回避した人生を求める。「もろ共に影をならぶる人もあれや月のもり來るささの庵に」、「寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里」、或はまた「雪しのぐ庵のつまをさしそへて跡とめて來ん人をとゞめん」、人なつかしさに堪へぬ心の寂しさが無くては作られない歌である。しかしかういふ友は得られない。そこでます/\友を戀ふ。そこに西行のさびしさがあるのである。多感多恨の彼が持つて生まれた詩人的氣質はこの點にも現はれてゐるが、それが、現實の人生に立ちもどつて、人生のためにはたらかうとする態度に出でなかつたのは、佛教の厭世觀と事業欲の無くなつたこの時代の一般的氣風とのためであつて、外部から批評をすれば、その自然と人生とに對する態度に於いて厭世教とは根本的に矛盾してゐるにかゝはらず、なほ世すて人として世を終はつた理由が、こゝにあるといつてもよからう。だから彼は人生から回避して自然の懷に入り、自然の冷たさ(570)に得たへずして詩にかくれ、さうして纔かにきさらぎの望月のころ花の下にてこの世の春を去つたのである。
 
(571)     第六章 厭世思想
 
 西行がよし自然に生き、詩に生き、さうしてまた人生に對して強い愛着を抱いてゐたにせよ、その思想の基調が佛教的厭世觀にあつたことはいふまでもなからう。たゞ修業者としては厭世觀をもつてゐるにかゝはらず、詩人としてはそれを徹底させることができなかつた。むしろ彼の性質のうちの一種のきかぬ氣が、本來の詩人的氣質に背いて、その世すて人の生活を維持し展開させたらしくさへ見える。彼はその一身の生活に於いて、毫末も世に背くべき理由をもたない。保元平治の亂が起つて衣冠の巷が兵馬に蹂躙せられるに至つて、始めて世の衰を眼前に見、人間の頼みなさを切實に感じたのでもない。知られてゐる事實だけから考へると、彼の出家は單に人生の無常といふ人生觀上の問題から來たのであつて、よし何等かの動機があつたにせよ、それは單にその實行を促す機縁となつたに過ぎないらしい。「世を厭ふ名をだにもさは留めおきて數ならぬ身のおもひ出にせん」、世を厭ふは一種の至上命令であつた。何時の作かわからぬ題詠ではあるが、「何ごとにつけてか世をば厭はましうかりし人ぞ今はうれしき」にも同じ氣分がある。もしさうとすれば、彼が出家を敢てしたのは彼の強い意志の力であつたが、彼をしてさうさせるほどに當時の厭世思想が心あるものを支配してゐたことを、注意しなければならぬ。西行のみではない。山家集だけを見ても世を遁れて山に住んでゐるものの少なくなかつたことが知られる。だからこの時代の文學を考へるに當つては、その厭世觀の性質を一應吟味して置く必要がある。
 前代の厭世思想が我が身の失意から世をはかなむ意味のものであるといふことは、前篇にしば/\説いた。志みち(572)望たりたものは得意の翼をひろげて世に飛翔し、我が身のこの世にあることを誇つたのである。厭穢欣淨の觀念を基礎としてゐる阿彌陀佛の信仰についてすら、厭穢の一面は全く見すてられて、現世と同樣の官能的快樂を淨土に求めたのであつた。だから失意者の一部に於いてこそ、むしろ失意の境遇にゐる場合にこそ、世を厭ふ氣分にもなるが、さうしてその間から釀成せられる悲哀の空氣が、やゝもすると社會の全般を蔽はうとするのでもあるが、ともかくも表面に咲き誇つてゐる文化の華の盛りの時代には、或はその華の盛りを領略し得るもののある間は、暗い陰影はどこまでも裏面のものであつた。ところが、文化の華が凋落して來ると、すべての人が失意の情を抱くやうになる。おのれのみの失意、一時の失意は、なほ救濟せらるべき望があり、再び時を得べき頼みがある。けれども世間一般の失意にはさういふ希望が無い。そこで全體に何となく世の末といふ感じが生じ、その間に生ずる個人の失意はます/\その陰影が濃くなり、さうして終には自己の境遇をはかなむといふ特殊の感懷ではなくして、世間的生活そのものを厭ふといふ厭世觀が生じてくる。或はまた厭世思想の一原因として、現世の榮華が人世に於いて頼むに足らざることを知つたといふこともあるらしい。前代には現世の榮華が唯一の目的であつた。しかしそれが畢竟何ものを人世に與へたか。榮華そのものも忽ち凋落したではないか。榮華頼むに足らずとすれば、人生の何ものに頼むべきところがあらう。厭世觀は起らざるを得ないのである。それが即ち西行によつて示されたものであるが、その前から歌人はしきりに「數ならぬ我が身」をはかなむやうになり、物語の作者は狹衣の主人公のやうに泣いてばかりゐる人を寫し、すべてが哀れつぽい、濕つぽい、樣子を示して來た。白河や鳥羽の花のさかりも、要するに小春日和の返りざきに過ぎないので、冬枯れの氣は既にその裡に萌してゐたのである。前代から引きつゞいた念佛往生の信仰がます/\強められ(573)たのも、この社會上の状態と淨土の思想とが互に因果をなしてその趨勢を進めたのである。
 念佛往生の信仰はこの時代になつて新しく流行したのではない。平等院には阿彌陀佛が本尊として安置せられ、法勝寺に阿彌陀堂が建立せられ、その他、扶桑略記などによつても知られる如く、寺々に阿彌陀堂や常行三昧堂のたてられたのも、前代からの風習の繼承せられたものに過ぎない。寺院の壁畫や扉畫や經卷の繪などに彌陀の淨土や來迎の圖などが作られたのも、或は所々に山越の阿彌陀や二十五菩薩來迎などの描かれたのも、また同樣である。それから迎講とか往生講とかいふやうなことが行はれもした。他の諸佛に對する信仰が衰へたのではないが、阿彌陀佛の信仰の盛になつて來たことは爭はれまい。これらは貴族及び京人の間のことであるが、惡人往生の教義は業務の上から人を殺すことの多い武士の信仰を誘ふには適してゐたので、傳説によると頼光頼義なども往生の業を修したといふことである。東夷といはれた清衡のたてた中尊寺にも、阿彌陀佛を本尊にした金色堂や二階堂があり、秀衡も無量光院を建てた。かういふ時勢であるから文學の上にもそれは著しく現はれてゐる。狹衣には所々に念佛や阿彌陀堂などのことが見えてゐるのみならず、天の若みこの來迎は彌陀來迎の變形である。竹取物語の天人の迎へに來たのと對照すると、天上の仙家の使と西方極樂の教主との違ひが著しく目立つ。濱松中納言物語の吉野の宮も紫雲に迎へられて極樂に往生してゐる。かの更科日記の著者も彌陀來迎の夢を見て頼もしがつてゐる。歌などにも「阿彌陀佛と唱ふる聲に夢さめて西へかたぶく月を見るかな」(金葉雜選子)といふ類の彌陀やその淨土を詠じたものが多くなる。俊頼の家集にはそれの多いのが特に目にたつが、それから後の歌人の集にもそれの無いものはないほどである。作者が僧であるのと本迹思想によつて神を視るのとのためでもあらうが、「わが頼む七の社のゆふだすきかけても六つの道にか(574)へすな」(新古今神祇慈圓)の如く、神に對してすらかういふことをいつてゐるものもある。このころの神祇の歌には往々神佛一致の思想を含んだものがあるが、この思想はもとは佛を現世の福利を祈るための神と同一視するところに意味があつたものであるのに、それがかう變つて來たのである。
 さてこれらの文藝に見える淨土の欣求は、必しも穢土の厭離から出たものとはいはれず、前代と同じく現世的な官能的快樂を來世に期待したのでもあらうが、その快樂が現世に於いて事實求め得られないとすれば、それは來世に求めるより外に途は無いのである。狹衣の主人公が紫雲に迎へられようとしたのは、この世の人としてはあまりに圓滿であるからといふのであつたことを思ふと、この世はもはや無上の世界として考へられなくなつてゐたといふことが、この話そのものにもほの見えてゐる。これは必しも天上界に對してのみではなく、濱松にわが國の風俗を貶してシナを褒めるやうな口つきが見え、「とりかへばや」に中納言の才が小國に過ぎてゐるといつて、わが國を小國としてゐるなども、同樣の思想で、これは前代にも既にあつたものであるが、文化が沈滯し世の衰の感ぜられる時代にそれが強まつて來るのも、また自然の勢である。ともかくもみづから誇るべきものを有つてゐない場合に、現實の世界で得られないものを空想世界に求めようとするのは、ありがちの心理であるから、この時代のものの淨土に對する態度は、道長などのに較べると趣の違ふところがあつたらう。この世はもはや淨土には及びもつかぬ醜惡のものと觀ぜられるやうになつたのである。こゝに前代から引きつゞいた阿彌陀の信仰に於いてその根底の思想の一轉すべき機縁がある。狹衣や濱松などの主人公が、特に悲觀すべき理由の無いのにしきりに悲觀し、全篇を通じて何故ともなき哀愁の氣の充ちてゐるのも、やはりその原因がこゝにあるからで、社會の全體または人生そのものに對する絶望の情が、無意識(575)の間に時代を支配した故ではなからうか。「無常」が歌の題とせられ、多くの歌人によつて詠まれるやうになつたのも、やはりこのことと關係があらう。たゞかういふ歌を作りながら神祇や祝賀のには盡きせぬ千代をことほぐのが歌人の習ひであつて、それは彼等の人生觀に統一の無いことを示すもののやうであるが、無常と觀じながら長久を祈るところに人生の一つの意味があると共に、長久を欲しながら無常をいふところに他の一つの意味があり、さうしてまたそこに時代の面影も見えるのである。何となく悲哀の氣を帶びてゐたらしい、古人が亡國の音だと評した、今樣などの謠ひものがもてはやされた一面の理由もまたこゝにあるのであらう。西行などの出家はかういふ時勢の産み出した一現象である。
 
 ところで保元平治の亂が突發した。實は突發ではないけれども、當時の不用意な貴族たちには寢耳に水の感があつたであらう。或は事件を惹き起こした當事者も、あんなことにならうとは期待してゐなかつたかも知れぬ。戰争は噂に聞いてゐたけれども遠い田舍のことである。手近いところではお神輿や神木を擔ぎこむ僧兵の騷ぎか、武士ならば出陣や凱旋の行裝ぐらゐを見たのみであつて、今目の前に馳せちがふ兵馬の姿を見、弓矢の叫び打物のひゞきを聞かうとは、かけても思はなかつたであらう。狹い京を天地とも世界とも思つてゐる彼等は、京の外に起る事件には感覺が極めて鈍い。地方でどんな事亂があらうとも、目に見えぬ世界のできごととして、シナやテンヂクの話とあまり違はないほどにきいてゐた。けれども、彼等が永へに平安だと信じきつてゐた京の騷ぎは、彼等にとつては天下の大亂であり、京の破壞は世界の滅亡である。宮殿が兵火にやける。殿上人の首が鴨の川原に曝される。上皇までが流謫の(576)身とならせられる。衰微しても沈滯しても、なほ彼等の唯一の誇であつた貴族の地位とその文化の權威とは、忽にして地に墮ちた感がある。無常の例は眼前に展開せられ、王法も漸く傾きかゝつた。王法の衰へは即ち佛法の衰へである。南都北嶺はいふまでもなく、大きな寺院には多く僧兵があつて、亂暴狼藉の限りをつくすが、佛の力も法の力もそれを抑へることができぬ。時は今、末法五濁の世、佛の言果して驗がある。「何事も口惜しくあせゆく世の末」(「とりかへばや」)といふ聲は、こゝに於いてか平安城の隅から隅まで響き渡つたのである。
 しかし、それから後の平家の世、その榮華の二十年は、京の文化の滅びなかつたことを事實に於いて示したもののやうに見える。武人たる平氏が貴族化し大宮人化して、第二の藤原氏となつたのであるが、本來の武人的資質がその行動にはたらいて、沈滯した貴族文化に幾分の活氣を與へた觀がある。けれどもこの大宮人的生活は、概していふと、その情趣に於いて舊來の文化を繼承したに過ぎないので、新しい精神をそれに吹きこみ、新しい形を與へたのではない。いひかへると新文化がそこに胚胎するのではなかつた。(結果からいふと、それは平氏の没落に一味の詩趣を添へ、それに感傷的情緒を漂はせたのみとなつた。)だからそれは權力を失つたものにとつては、やはり世の衰へである。院の權は失はれ、貴族等の領地は削減せられ、寺院もまたしば/\凌虐せられた。この有樣に對して、既に失意の底に落ちてゐた京人が如何に世を見るやうになつたかは、いふまでもなからう。その果ては都うつりとなり、平家一門の都落ちとなり、旭將軍の亂入となり、檀の浦の平家の壞滅となり、ついでまた前の内大臣等が俘虜となつて辻々をひき廻される。平家によつて保たれてゐた京の文化もまたくづれ去つた。さういふ一面のみを見て驚心駭魄してゐるものの目には、或はまた平家と運命を共にしたものには、世は既に半ば滅亡したのである。無常の世とは愚か、(577)まことに穢土であり苦界である。この間に於いて厭世思想の高潮に逢したのはむりもなからう。要するに京にのみ存在する貴族文化の權威の失墜と、それを支持して來た宮廷貴族の地位の壞頽とは、その京とこの文化の社會とをのみおのれらの生活し得べき世界だと考へてゐた彼等に、大打撃を與へたのである。
 これは文學の上に明かに現はれてゐる。西行が崇徳上皇の播遷をきいて「言のはの情たえにしをりふしにありあふ身こそ悲しかりけれ」といつたのも、何ごとに心を動かしたのか知らぬが「何ごとも昔をきけば情ありて故あるさまにしのばるゝかな」と詠じたのも、その例であり、過ぎし世の郁々たる文化を追想して現代の衰へを歎いたのである。さうしてそこから「情ありし昔のみなほしのばれて長らへまうき世にもあるかな」といふ厭世觀が導き出された。「世の中にすまぬもよしや秋の月にごれる水のたゝふさかりに」といひ「思ひ出づる過ぎにしかたをはづかしみあるにものうきこの世なりけり」といふのも、かゝる轉變の世のさまから來てゐることを示してゐよう(「世の中」も「この世」も、一般的の意義での現世といふことではあるまい)。特殊な人物のことをいふならば、建禮門院の右京大夫が「うき上のなほうきはてをきかぬさきにこの世の外によしならばなれ」といひ、「歎きわびなからましかはと思ふまでの身ぞわれながら悲しかりける」といつて、「なくもならばやとおぼえ」たのも、人の上を思ひわが身を思うてのことではあるが、平家の運命と世の轉變とが特にそれを刺戟したからである。鴨長明が方丈記に福原の遷都を記して、「道の邊を見れば車に乘るべきは馬にのり、衣冠布衣なるべきは多く直垂を着たり、都のてぶり忽に改まり、たゞ鄙びたる武士に異らず、」といつてゐるのも、慶滋保胤の池亭記を假名文で摸したらしいこの記の全體の主旨が、京の荒廢のさまを敍して「我が身と住家とのはかなくあだなること」を力説する點にあるのも、みなこの京を天地と(578)し、京の文化を世界存在の根本義としてゐる思想から來てゐるので、從つて京と京の文化との壞頽を濁世たり穢土たる最も明かな徴證としてゐるのである。すこし後の書ではあるが愚管抄の著者が「保元以後のことはみな亂世にて侍れば、わろきことのみにてあらんずる、」といひ、その保元を亂世の始とした理由を説いて、天慶の亂も前後十二年の奧州征伐もまた刀伊の入寇も關東鎭西の話であるのは「まさしく王都の内にてかゝる亂れは鳥羽院の御時までは無し、かたじけなくあはれなることなり、」といつてゐるのもまた同一の思想である。
 
 かういふ一般の思潮に乘じて阿彌陀佛による淨土往生の信仰が宗派としての特殊の形をもつやうになつたのが、源空(法然)によつて唱導せられた淨土宗である。從來のこの信仰は、源信の如き學匠に於いては固よりのこと、空也や良忍の如き民衆の間に宣傳したものに於いても、それのみが成佛の道とせられてゐたのではなく、從つて一般人の間に於ける淨土往生の信仰者とても、顯密二教の諸佛を崇拜し、またいはゆる修法の力によつて現世の利益を求めてゐた。然るに、源空に至り、當時の末法の世にあつては、成佛、いひかへると解脱、は阿彌陀佛の本願によつて淨土に往生することの外には可能性が無いとし、その本願力は佛の名號を稱へる意味での念佛によつてそのはたらきが現はれるとして、その他の意義での念佛を重要視せず、顯密二教の種々の修行と諸佛の崇拜とは、淨土往生の意義での成佛のためには用の無いものとした。(念佛はその本義に於いては稱名とは別のことであり、淨土往生も念佛によるのであつて、必しも稱名によるのではないが、シナから傳へられた淨土教の主張者に於いてはこの二つが一つのこととして考へられた。)こゝに淨土往生の教が特殊の宗派として成立する思想的基礎があると共に、その教がいはゆる(579)易行道であるために、一般人をその宗派の信徒としてもつことができ、そこに一つの教團の形づくられてゆくやうになる契機があることになる。しかし從來とても難行道といはれる方法によつて成佛を求めるのは、僧侶のみのことであつて、一般人に於いてではなく、さうして一般人のためには勿論のこと、僧侶についても、成佛の得られる簡易な方法がいろ/\に考へられてゐて、その意味ではやはり易行道ともいひ得られるものが、顯密二教の何れに於いても、説かれも行はれもしてゐた。淨土往生の教がそれらに伴ひ得たのも、このためである。大乘佛教の一面の思想としては、佛も覺者であるよりは救濟の主であり、その意義での神であるから、佛教は現當二世の利益を得んとする祈  祷教であり、同時にさま/”\の呪術でもあつた。さうしてそこに僧侶が神人を媒介するものまたは呪術を行ふものとしての、巫覡の地位にあつた理由がある。だから源空の淨土宗の特色は難行道に對する易行道であるよりも、むしろいはゆる聖道門に對する淨土門であるところにあるので、人は現世に於いては到底凡夫の域を脱することができず、それを脱するには淨土往生の外に道が無いとする意味で、人生の究極の目的は死後の淨土往生にあるとするのが、その中心思想である。厭離穢土欣求淨土の意義での厭世思想たる所以がそこにある。もつとも淨土門に於いても、その修業の方法には難行道とすべきものが多いから、源空の説くところは淨土門のうちの易行道といふべきであらう。
 ところが、淨土往生の道はたゞ稱名念佛にあるとすれば、その往生のためには、即ち成佛のためには、特に出家受戒して僧となる必要が無く、從つて僧としての三學の修業の必要もなくなるし、稱名念佛によつて阿彌陀佛の本願がはたらくとすれば、一般人にとつても巫覡としての僧侶の存在する必要が無くなる。もしそこに何等か一般人に異なるものの存在が必要であるとすれば、それはたか/”\その教の宣傳者であり稱名念佛の指導者であらう。そこで源空(580)の門下にあって僧の地位をもつてゐたものの間には 諸宗に於ける僧としての修業を誹謗し、諸佛の崇拜をも無用とするもの、戒を持せずして肉食妻帯をも敢てするものが、少からず生じたが、源空の思想を論理的に徹底させると、おのづからかうなるのである。勿論、源空みづからは戒律を守るのみならず、その他の鮎に於いても僧としての任務を怠らず、さうして門弟のうちにかゝる行爲をするもののあることを非としてそれを擯斥したが、これには論理的には不徹底なところがある。
 さてこれは僧侶に特殊なことについてであるが、阿彌陀佛の救濟は罪惡を犯したものにも及ぶやうに説かれてゐる場合があり、惡人往生といふことが考へられてゐるために、僧侶についても一般人についても、少くとも思想的には、現世的惡行の容認せられる傾向さへもあつた。しかし源空はこの鮎についても、心の善惡にも罪の輕重にもかゝはらず念佛すれば往生するものと決定の心を起せといひながら、如何なる咎をも嫌はねばとて放縱なふるまひはすべからず、及ぶだけは善にすゝむやうに心がけよといひ、佛の慈悲は宏大なれど罪をつくれとは思しめさず、惡人までをも捨て給はぬ本願と知りて善行をはげめ、とやうにいつてゐる。が、これについてもまた問題はある。佛教の罪惡觀からいつても、罪惡を犯したものをも救濟するのは救濟の極致であらうが、しかしそれはその罪惡の懺悔が基礎になり、さうしてその救濟が更生の轉機とならねば、意味が無い。だからそれは一般的に、或はこれから後に、罪惡を犯すことを容認することではない。現實の人生について考へる限りかう見られる。ところが阿彌陀佛による救濟が稱名念佛によつてのみ得られるものであり、また淨土往生によつてのみ實現せられるものであるとすれば、それはかういふところに重點が置かれてゐるのではない。罪惡を犯したものが稱名念佛をしようと決意するには、懺悔の情が籠つてゐ(581)るかも知れず、また斷えず稱名念佛を續けてゆくことによつて再び罪惡を犯さなくなるかも知れぬが、そのことが明かに説かれてゐない。のみならず、臨終の際の稱名によつて淨土往生ができるといふ教は、罪惡を犯し易いものにとつては、一般的に罪惡が容認せられるものとして受けとられる傾向をもつものではあるまいか。
 然らば何故にかゝる説きかたがせられてゐるか。根本的には、罪惡を犯したものすら救濟せられるとするところに宗教的要求があるからであり、淨土教の經典に於いて念佛の功徳が極度に強調せられてゐるからでもあるが、人は現實の生活に於いては到底凡夫たるを免れないとすることと特殊の罪惡を犯すものであるとすることとが、暖味な形で混同せられ、また修業者たる僧侶の生活の規範としての戒律、從つてそれを破ること、と一般人の遺徳法、從つてそれに背くこと、とが結びついて考へられてゐること、さうして佛教の根本の問題が人生を苦としてそれからの解脱を求めるところにあつて、道徳的に人生が視られてゐないこと、淨土教にあつてはその解脱が淨土往生によつてのみ得られることになつてゐて、その往生を人生の究極の目的とするのであるから、現實の人生に於ける道徳が輕視せられる傾向のあること、などが、これについて考へらるべきであらう。約言すると、これは宗教と道徳との關係の問題であるが、我が國に行はれてゐた佛教に於いては、もと/\それが明確に解釋せられてゐないのではあるまいか。因果應報の教とそれに關係させて説かれてゐる輪廻觀とがあつても、それは道徳の基礎を確立するものではなく、阿彌陀佛の救濟による淨土往生の教は宗教的には一つの、或は考へかたによつては大きな、意味があるにしても、現實の人生に於いては道徳的にさしたる重要さがない。しかし凡夫も人である限り人としての道徳を無視することはできないから、そこにこの教の曖昧さがある。法然の上記の思想が論理的に明快を缺きその態度が微温的であるのも、この故(582)であつて、稱名念佛による淨土往生を説きながら人生の道徳を顧慮しようとすれば、おのづからかうなるのである。
 源空の淨土教は、思想としては、淨土往生を説いたシナ及び我が國の學匠の述作に現はれてゐるところを繼承したものであり、それを世に宣傳したことには、空也や良忍などの先蹤を追うたところもあらうが、彼をしてかゝる思想を懷かせたのは、彼みづからの體驗と當時の僧侶の行動心情に對する觀察とによつて、いはゆる聖道門の修業が僧侶としても極めて困難であり、それによつて成佛を得ることが不可能であることを知つたのと、一般人を成佛させるには、從來すでに世間の一部の信仰となつてゐる如く、淨土往生による外に道の無いことを悟つたのとの、故であるらしく、さうして當時廣く世に行はれてゐた世は末になつたといふ感じと、恰もそれに應ずるが如くに佛家によつて唱へられてゐた末法思想とが、その背景となつたのであらう。僧侶の間に追隨者の生じたのも同じ理由からであり、難行道としての聖道門の修業をする力も無く氣魄も無いものには、さしたる努力の要らない易行道としての淨土門の教が歡迎せられるのである。自力を排して他力に依頼するといふその教が、凡ての方面に於いて自己の力を頼みとせず自己の努力を棄てて、自己以上の力にすがるといふ、當時の一般の氣風に投合したことも、また考へられねばならぬ。從つて源空の淨土教は、平安朝末期の一般的思想が宗教の側面に於いて特殊の形をとつたものといふことができよう。しかしインドに特殊な宗教的雰圍氣の間に發生した佛教の僧侶の修業の方法が困難なものであることは、そのインドに於いてすら次第に知られて來たので、佛が救濟の主としての神となつたのも、淨土思想の導き入れられたのも、一つはそのためであつたらうから、シナや我が國に於いてはなほさらであるので、いはゆる末法の状態は實は佛教の行はれはじめた時からのことであつた。我が國にあつては顯密二教の僧侶が何事を行ひどうしてその地位を保つて來た(583)か、また一般人が如何なる意味で佛教を信仰してゐたか、を考へれば、このことはすぐに知られるが、煩瑣な教理の學習と討究とにその力を消盡し、文字の上の知識に眩惑せられてゐた、當時の學匠などは、それに氣がつかなかつた。源空は今さらの如くそれに氣がついたのである。たゞ彼とてもその思想の理論的根據として説くところは、依然として文字上の煩瑣な思辨であつて、それは實は稱名念佛そのことに於いてはさしたる意味の無いものである。一般の信者にとつては、それよりもむしろ、佛教の輪廻の説によつて特殊の刺戟をうけた死と死後との不安または恐怖が、淨土往生の教によつて或る安慰を得ることが根本となり、さうして專念に稱名をする時の心理状態と、稱名とそれを助けるものとの音樂的效果と、またそれに伴ふ阿彌陀佛の崇拜の儀禮とが、彼等の心情を動かしたのである。のみならず、淨土往生を人生の究極の目的とすることが、實は文字の間から得たところであつて、現實の人生の體驗と觀察とに本づいて考へられたものではない。もしそれに本づいて考へられたならば、現實の人生を肯定する何等かの思想が形づくられねばならなかつたであらう。さうしてそれができなかつたのは、どこまでも文字によつて與へられた淨土教の思想的權威の下に身を置いたからのことである。その權威の下にありながら現實の人生を何等かの意義で肯定しまたは容認しようとすれば、それは源空によつて擯斥せられた一派の行動となるより外はない。親鸞に於いて見られるものもまたそれである。
 親鸞の思想のかたまつたのは、その中年以後であつたらしく、從つてそれは時期からいふと次の時代のことであるが、その思想の中心觀念は源空のを論理的におし進めたものであり、その理論的側面に於いては源空門の幸西のと密接の關係があつて、何れも天台の教學から導き出されたところのあるものである。また彼が一たび僧となつてゐなが(584)ら戒律をすてて妻子をもつたのは、比較的早年からのことであつたらしいから、彼が傳へられてゐる如く源空の門下であつたならば、その師から擯斥せられたものの群に屬したであらうが、さういふ行爲そのものが實は源空の教の論理的歸結であつた。戒律をすてた時にそのことについて苦惱をしたかしなかつたか、したとするにしてもそれがどれだけのものであつたかは知らぬが、思想的にはかう見られる。だから彼のしごとは新宗教の樹立といふよりは、むしろ平安朝佛教の一面を終結させたものとして見らるべきである。彼の生存した時代には彼は一般社會からは殆どその存在を認められてゐなかつたやうであるから、その意味でも社會的に新しい宗教的活動をしたとはいひかねる。源空に附隨させて親鸞を考へる所以である。
 親鸞の特殊の思想の主なるものは、淨土往生に信を起すことは、阿彌陀佛の本願のはたらきであつて、その信のあらはれとしての稱名念佛そのことが、自己から出るのではなくして阿彌陀佛の本願力のはたらきであり、從つて初めて信じたその時に往生は決定せられ、その後の稱名はすべて報恩の行である、といふことである。これは一念で往生するといふ幸西の説と同じ考へかたのやうであるが、その一念の信がどうして起るか、即ち阿彌陀佛の廻向がどうして人に受け入れられるかは、十分に説明せられてゐないやうに見える(信心を佛性とすることだけでは、この説明には不十分である)。教をきけば何人にもかならず信が起るべきものとして、初からきめられてゐるのではなからうか。また往生が決定せられてゐることと、さう決定せられた後の日常の生活との間にどういふ關係があるかも、明かにせられてゐない。現實に往生するまでは、即ち死ぬまでは、凡夫の生活が持續せられるとすれば、その生活と往生の決定せられてゐることとは、無關係に並存するものと考へられてゐるらしく見えるのではあるまいか。凡夫としての行(585)動は、惡業をも含めて、すべて宿業によるので、それと往生とは別であるといふ考が、親鸞の思想であるとするならば、かう推測する外はあるまい。もしさうならば阿彌陀佛の救濟は現實の生活には何のはたらきも及ぼさぬことになると共に、現實の生活はその救濟とはかゝはりの無い獨自の存在であることになる。救濟が死による淨土往生である以上、これは當然であらう。然らばその現實の生活に如何なる意味があり何がそれを規制するかといふと、それは説かれてゐないのではあるまいか。親鸞自身に於いても、妻子をもつていはゆる在家的生活即ち凡夫の生活をする以上、その生活に伴ふ種々の心情が常に動き、いはゆる煩惱に累せられるのであるが、彼は日常生活に於いてそれをどう處理したのであるか。淨士往生が人生究極の目的であるならば、その意味では現實の、特に在家的、生活は價値の無いものであるが、しかしそれを現實の生活として生活してゐる以上、その點では何等かの價値がそれにあるとしなくてはならず、從つて彼みづから矛盾した立場にゐることにならう。決*定せられてゐる淨土往生の實現を期待しながら、踊躍死につかうとするまでには決心しかねる、といふことが考へられてゐたといふのが事實ならば、それもまたこの矛盾の現はれではあるまいか。そこに阿彌陀佛の救濟の意味の深さがあるといふのは、單なる思惟の上のことであつて、生活そのものに於いてのことではない。のみならず、彼の思想の中心觀念となつてゐる稱名念佛の他力説の如きも、やはり思惟としての意味があるのみであつて、稱名をする場合の現實の心理を示したものではないのではなからうか。或はまた、淨土往生は死によつて實現せられるものであるから、かう信ずるのも、自力による稱名念佛の功徳によつてその往生ができると信ずるのも、信ずることに於いて同じであり、また後の方のやうな信じかたをするにしても、その信ずることに阿彌陀佛の本願がはたらく、と考へ得られるのではあるまいか。
(586) 親鸞の思想は淨土教を論理的究極地におし進めたものであるが、しかし彼の思想にも行動にも不徹底なところが多い。ひたすらに稱名念佛を主張しながら、その教理的根據を經論の煩瑣な思辨に置いてゐるのも、その一つである。稱名の行の直截簡易なのと教理の思辨の煩瑣なのとは別のことではあるが、例へば阿彌陀佛を久遠實成の法身とし信心を佛性とするが如き、その思辨が稱名をする心理には何の關係も無いことを考へると、さういふ考へかたをすることは稱名の精神を徹底させたものとはいひ難い。往生には善惡の業を問はぬといひながら、「善人なほ往生を遂ぐ況や惡人をや」といつて善惡に拘泥するのも、それであらう。(これはもとは一種の警句的ないひかたをしたものであらうが、それについて種々の理説が試みられてゐるから、警句の感は無くなつてゐる。)或はまたみづから僧にあらずといふのはよいが、それと共に俗にあらずといふのは、在家往生の思想からいふと不徹底であり、在家生活、即ち俗生活、をしながら僧衣をつけてゐるのも同樣である。阿彌陀佛が救濟の主であり神であるならば、一般人の心理に於いては、やはり神人を媒介する巫覡が必要であり、そのためにこの意味で非俗の地位にゐるもののあることが要求せられるでもあらうが、非僧を主張することからいふと、これはどこまでも不徹底である。修業をするのでないから僧となる必要は無く、一般人のために教を宣傳するのが任務であるから、その一般人と同じく俗生活をしてゐて、少しも支障が無いはずである。さうしてこれらのいろ/\の不徹底は、根本的には、穢土と淨土とを截然として分離させ、厭穢欣淨の態度を明かにしながら、穢土の生活をその實生活に於いて肯定するところに由來がある。もつともこれは人生を迷妄としながら何等かの意味で人生の存在を肯定しなくてはならぬ佛教には、固有の矛盾であるが、大乘佛教が發達するにつれて、思惟の上ではいろ/\の考へかたで佛と人と、菩提と煩惱と、淨土と娑婆とを、別のもの(587)でないやうに説明して來た一面があるのに、淨土教に於いては、淨穢の二つを全くきりはなしたために、再び當初にたちもどつてこの矛盾に直面しなくてはならなくなつた、ともいはれよう。さうして親鸞にあつては、それが單なる思惟上の問題ではなくして、現實の生活にかゝはるものであるところに、この矛盾の特に著しく現はれる理由がある。死によつて始めて實現せられる淨土往生が生前に既に決定せられてゐるといふやうな考は、この矛盾を無くすることにはならずして、却つてそれを大きくするのみである。もしその矛盾を取り去ることのできる道があるとすれば、それは淨土を現世を超越したものとはせずして、現世に於いて淨土を認めることにならねばならぬが、それは淨土教ではできないことである。たゞ前代の貴族は、主觀的な氣分の上に於いてのことながら、淨土を現世の否定ではなくその延長と感じてゐたのであるが、時勢の變化は現世から淨土のおもかげを奪ひ去つた。住むかひもなき現世はどこまでも穢土である。さうしてこの感じは淨土教の思想とおのづから一致する。淨土と穢土とは截然として分離せられてゐるのである。しかしさういふ穢土に住んでゐるのが人であり、住まねばならぬのが衆生である。だから淨土教は上記の矛盾を除き去ることはできず、淨土教の宣傳者もその信奉者も、不徹底な思想によつて矛盾多き生活をしなければならぬのである。親鸞の信仰は純粹でもあり熱烈でもあつたらう。しかしその思想と行動とについてはかう考へられる。その思想には解しがたいところもあり種々の疑問も生ずるが、概觀してかう判ぜられるのである。
 源空によつて唱導せられた淨土教をかう見たについて考へられるのは、それが世の中に如何なるはたらきをしたかといふことである。淨土往生は純粹に個人のことでありまた死後のことでもあるから、それは直接なはたらきを現實の社會にもつものではなく、特にその道徳觀が上記の如きものであるとすれば、なほさらである。たゞ淨土往生の信(588)仰によつて一種の精神的の安慰が得られるとすれば、それが何等かの意味に於いて現實の生活に影響を與へることになり、從つてそこに或る程度の社會的のはたらきがないでもなからう。けれどもそれを事實によつて具體的に知ることはむつかしく、よしそれがあるにしても實際には力の弱いものであつたことは、推測せられる。特に宗教上、自力に頼みをもたずしてすべてを他力に任せるといふ氣分と態度とが、もし現世の生活にも及ぼされるならば、それは決して健全なものではない。宗教生活に於いても、一般人の信仰として他力による往生の可能を宣傳することは、僧侶の地位にあるものが自力によつて解脱するための精進努力をすることとは、聖道門と淨土門とを並存するものとする以上、必しも矛盾するものでないのに、淨土教の宣傳者はその精進努力をしなかつた。親鸞に於いては特にさうである。これは平安朝末期の頽廢的な氣風の一發現とすべきであらう。末法の世を如何ともしがたきものとしてのことではあるらしいが、さう觀ずるところにその末法の世のさまに順應しようとする心易さがある。おのれ一人だけでも、またよし眞の解脱が得がたいまでも、聖道門の修業をどこまでもつとめようとする意氣が無い。それは即ち現實の生活に於いて道徳的な精進努力をすて去るものの生活態度に通ずるものである。人の生活に於いて自己の意欲を全くすててすべてを他に任せることは、事實上できないが、その意欲を僧としての修業にも道徳的な精進にも向けないのである。人の力は弱くまた小い。人の生活に於いてもさうであるが、生死の問題についてはなほさらである。現世を超えたところがもし考へられるならば、それについてはいふまでもない。さうしてそこから神の救濟が欲求せられて來る。しかしおのが力の弱小なることを知るのは精進努力をするからであり、またそれを知ることによつて精進努力がせられるのでもある。救濟は手を拱して待つべきものではあるまい。然るに親鸞は意欲のはたらくことによつて成り(589)たつ凡夫の生活をしながら、かういふ精進努力をすてたのである。親鷺などの生活は源空の門下に於いても特殊のものであり、源空の意志には背いたものであるが、かゝる生活をするものの現はれたことが、淨土教の世に及ぼしたはたらきの一面を示すものであるのみならず、その本質に關するところのあるものではなからうか。一般人に於いては聖道門の修業は初から關するところでない。たゞ親鸞の思想に於いてはいふまでもなく法然のに於いても、淨土教が上に述べたやうなものであるとすれば、それが現實の生活に於いて道徳的な努力をするために力の無いものであつたことは、おのづから知られよう。これもまた淨土往生の教が現世の生活に於ける道徳に重點を置かず、阿彌陀佛の救濟が現實の人生にではなくして、たゞ淨土往生にのみ向けられたところから來てゐるのではなからうか。さうしてかくの如き淨土教が、當時の頽廢して來た社會道徳と文化とを救濟し振興させるはたらきをしなかつたことは、おのづから知られよう。社會道徳と文化との頽廢は、藤原時代からの利己主義、享樂主義、宿命觀、のためであるが、淨土教そのものが、かゝる頽廢の空氣のうちから生れ、さうしてそれと同じ精神をもつてゐるものだからである。惡人をも含めての一般人を等しく成佛させようとする源空等の意圖は、宗教的には意味の深いこととして考へられもしようが、現實の社會にそれが如何なる效果を與へたかは、それとは別のことである。
 淨土教、特に親鸞の思想について言を費しすぎたが、これはこの教が我が國に於ける新興宗教であり、その運動が宗教改革であるかの如く、世間で考へられてゐるらしいので、それに對する卑見を述べようとしたためである。法然は叡山の教權に反抗したのでもなく、それを崩さうとしたのでもない。叡山の正統思想をとるものによつて非難せられたのは、一種の宗派爭ひにすぎず、その流謫は反對派が時の權力者を動かし得たためである。親鷺が地方人や民衆(590)の間にいくらかの追從者を得たのも、民衆的宗教として貴族的宗教に對抗しようとする意志があつてのことではなく、その力も極めて微々たるものであつた。民衆や地方人は一般的には從來と同じ宗教的信仰をもつてゐたのである。特殊の宗派としての淨土教は、一部少數の貴族や民衆の間にその信奉者を得ても、佛教界の大勢を動かす力はもたなかつたのである。
 
 しかし既に述べた如く、阿彌陀佛による淨土往生の信仰は廣くゆき渡り、世上の種々の事變に誘はれて生じた世の末を感じ世をはかなむ氣分が、それにつれて支配的な勢を得て來た。宗教的意義に於いて人生を罪業と見る考へかたの深められたのも、またそれに伴ふ現象であつた。さうしてこれらのことは文學に於いても明かに知られる。一般的に世をはかなむことについては、既に上に述べたが、罪業觀もまたいろ/\の形をとつて現はれてゐる。西行は戀の歌に「物思ふ涙ややがて三つせ用人を沈むる淵となるらん」といひ「たのもしな宵曉の鐘のねに物思ふ罪はつきざらめやは」といつてゐるが、人生が罪業であるならばその根本をなす兩性間の戀愛の罪業であることは、いふまでもなからう。さうして戀が罪業ならば、戀の歌や戀の物語は勿論罪業の記録であつて、かゝるものの作者は許すべからざる大罪人であらう。人生そのものが罪業ならば、人生の表現としての藝術もやはり罪業でなくてはならぬからである。人生が淨土に生れるためのものとして、せめてもの存在を許されてゐるならば、文藝も菩提の縁としてでなくては何の價値も無いはずである。だから和歌も讃佛乘のためだといふやうな説が出て來た。戀を輪廻生死の罪根とし歌を讃佛乘の縁とすることは、朝野群載や續文粹に載せてある延久三年の作だといふ「納和歌集於平等院經藏記」に既に(591)見えてゐるが、これには白樂天をまねたところのあるものながら、その思想は、こゝにいつた意味で、次第に日本人の間に行はれるやうになつて來た。俊成も古來風體抄の序で同じことをいつてゐる。狂言綺語はもとより罪であり、妄語戒を犯すに至つては地獄に墮する大罪である。だから源語の作者紫式部が妄語の罪によつて地獄に墮ちたといふ話も作られ、康頼の寶物集や信實の作だといふ今物語にもそれが見える。辯護者の側では、源語は妄語ではない、狂言綺語ではあらうがそれも佛のいふ善巧方便であつて、やはり人を菩提に導くためである、などといふ。今鏡の卷末にある「作り物語のゆくへ」にもかゝる思想が見えてゐて、それが一歩進むと源氏五十四帖は天台の六十卷を象つたものだといふやうな説になるのであるが、何れも文學を宗教の方便と見るのであるから、どこまでも文學に獨立の價値を認めない見解である。かうなると文藝の立脚地はまるで無くなつてしまふ。從來の佛教は殆ど現世的祈  祷教たるに過ぎなかつたのであるから、かういふ文藝の根本問題には接觸しないで濟んだが、非現世的思想が強くなつて來たこの時代には、人生のあらゆる價値を否認すると共に、人生の上に立つてゐる文學も藝術も墮獄の罪業とせられるやうになつたのである。
 しかし、それにもかゝはらず、和歌は盛に行はれ物語もまた愛讀せられた。西行が世を背きながら、風月に背くことのできなかつたことは前に述べた。長明もまた日野山の奧の方丈の庵に隱れながら、小さい棚には和歌管絃なんどの抄物を往生要集と雜居させ、折琴つぎ琵琶をさへ立てかけて置いた。落日を阿彌陀の畫像にうけて眉間の光に擬し、西方だけは木立も蔽ひ隱さないから觀念の便があるといつてゐるのは、觀法を重んじなかつた源空などとはちがつてゐながら、どこまでも淨土の往生を希求するものであるが、世をすてても管絃をすてることのできなかつたところに、(592)意味がある。「朝夕に西に背かじと思へども月まつほどはえこそ向はね」ともいつてゐるではないか(歌集)。長明にはわざとらしい點があり、方丈記もその書きかたにすら誇張の筆が多く、從つて彼のかういふ態度は、西行がその詩人的資質から人の世を背きはてられないのとは違ふやうに見える。しかしとにもかくにも世をすてながら、少くとも風月の翫賞と文藝とに於いて世に心のひかれる點のあつたことは、彼に於いても明かである。が、上に述べた如く貴族文化の壞頽が事實上厭世觀の高まつた一つの理由であるならば、その厭世思想をもちながら貴族文化の精粹たる風月の翫賞と文藝とに心をひかれるのは當然であらう。しかし風月の翫賞と文藝とがすてられぬものであるならば、風月につけ戀につけて動く人のこゝろもまた無視せられるものではあるまい。世をすてた西行などが風月に身をも心をも任せたことはいふまでもなく、題詠としては戀の歌さへ多く作つた。長明は「世はすてつ身はなきものになしはてつ何を恨むる誰が歎きぞも」といつたけれども、世を歎き身を恨みてこそ方丈記も書かれたではないか。(方丈記の眞僞は學者間に問題となつてゐるらしい。なるほど長明の筆としては怪しめば怪しまれる點が無いでもないが、長明が方丈記を書いたこと、その方丈記が全體の精神も一篇の結構も今傳はつてゐる方丈記と同じものであつたことは、十訓抄の記事によつても推測せられる。さうして文致や結構の點から考へると、今の方丈記は長明の書いたまゝのもので、後人の加筆したのは卷末に附け加へてある歌だけではあるまいか。平家物語などに見える同じ文が方丈記から取つたものに違ひないことは、前後の文勢から明かにわかる。)
 しかし世を厭ひながらすてかねるものとして最も根本的なのは、生きてゐるといふそのことである。世を厭ふのは必しも生をすてることではない。西行は「いづくにか身をかくさまし厭ひてもうき世に深き山なかりせば」といふ。山(593)にこもつて生を送る方法もある。「すゞか山うき世をよそにふりすてていかになりゆくわが身なるらん」と、そのゆくへをおぼつかながりつゝ、修行してあるくのも一つの生きかたである。しかし「世の中を厭ふまでこそかたからめ假のやどりををしむ君かな」、ゆくへ定めずあこがれてゆく身にも一夜の宿はどこかに求めねばならず、山ふかく閉ぢこもつても飢を癒すことはしなければならぬ。けれどもそれは即ち世にあることではないか。生きてゐる限りはうき世の外にもうき世はある。もしそれの無いことを欲するならば、生そのものをすてるより外には道が無い。厭世の極は結局こゝにゆきつくべきではなからうか。しかしそれが好ましいことか。「ながらへんと思ふ心ぞつゆも無き厭ふにだにもたへぬうき身は」といひ「入日さす山のあなたは知らねども心をぞかねて送りおきつる」といひながら、やはりながらへてゐるではないか。「またれつる入あひの鐘の音すなり明日もやあらばきかんとすらん」、わが身に明日のあることを期待はしないが、明日があるならば明日の生を保たねばならぬ。のみならず、人生の無常を思ふのは、一面ではやはり悲しいことである。「こえぬればまたもこの世にかへり來ぬ死での山こそかなしかりけれ」、「はかなしやあだに命のつゆ消えて野べに我が身の送りおかれん」、「そのをりの蓬がもとの枕にもかくこそ蟲のねにはむつれめ」、旅に出ては「何處にか眠り/\て倒れ臥さんと思ふかなしき道芝のつゆ」、西行は死を思ふごとに哀愁の情に堪へなかつた。出家したものとても、人である限り、生を喜び死を悲しむ情は本能的に存在する。厭世觀の力がどれほど強からうと、この根本的生存欲を全く無くすることはできぬ。それをかう明かに歌つたところに、人としての西行、詩人としての西行、の本色があり、さうしてそこに厭世思想と人生の事實との根本的矛盾がある。文化の頽廢とか世の亂れとかいふ特殊の事情はしばらく措き、一般的には、或は根本的には、人生の厭離すべきはそれが無常だからで(594)ある。無常の表徴は死である。死はそれほどに忌まはしい。それならば如何にして死を離れ死ある人生を離れることができるか。それは人生をすてることの外には無いが、人生をすてることは即ち死に就くことである。死を離れんがためには死を求める外は無いではないか。淨土往生の希求はこの矛盾から生じたものである。しかし淨土往生も人生からいへば死である。だから淨土往生を希求しても死はやはり忌まはしい。その忌まはしい死を望むほどならば、初から死を厭はぬがよいではないか。死を厭はねば人生は厭ふべき理由が無いではないか。勿論常樂の淨土は生々流轉の輪廻の世界とは違ふであらう。また思想としてはその間に幾多の思辨を容れる餘地があらう。が、今わが生きてゐるといふ動かすべからざる事實は、かくの如き閑詮索を超越した大威力である。この威力は生きてゐるといふそのことによって直に表現せられてゐる。それに背反する死の教、厭世の教は、畢竟思想上の遊戯に過ぎない。事實、厭世観は特殊の知識人の間にこそ流行したれ、一般人はさういふものとは何の交渉もない。或はまた厭世思想は如何に流行しても、人世は古今を通じて厳として存在してゐる。厭離穢土を強く主張した源空門下の一部に、妻子をもつことによつて再びその穢土に立ち歸つたもののあるのは、この點に於いて皮肉なアイロニイである。
 けれども、かゝる人生の事實にはかゝはりが無く、厭世思想は知識人の間に流行した。厭世思想は人生を苦とし世は住むに堪へぬとするところから生ずる。それは人生を行動する面から見ずして享受する面からのみ見るからである。われを新にし世を新にするのが自己の行動であることを知れば、世はよし末であつてもそれを徒らに歎かずして、却つてそれを新にするために何ごとかをしようとする意氣が生ずる。人にこの意氣の無いのが實は世の末の姿であり、厭世観の生ずる所以であつて、そこに平安朝末の頽廢的氣風がある。だから厭世詩人西行の幾多の吟咏は、よしそれ(595)に人をなつかしみ世をなつかしむ心情の現はれてゐるものがあるにしても、それはたゞ衰へゆく貴族文化に感傷的な哀愁の氣をにじませるのみであつた。
 
(596)     第七章 神秘的及び道徳的傾向
 
 その眞の價値と世に及ぼした影響との如何は別問題として、聖道門以外に淨土門の興隆したのは、佛教の一方面に於いて知識偏重の傾向がその力を失つたことを意味するものと見られる。幾多顯密の學徒はよしその實際の目的が僧官の榮位に上るためであつたにせよ、またその講説するところが殆ど一種の知識的遊戯であつたにせよ、ともかくも經諭の學習に努力してゐたのであつて、彼等は少くともそれを修業の要道としてゐたには違ひない。然るにそれが往生に於いて何等の交渉が無いとせられる以上、少くともこの一面に於いては慧日の光が薄らいだのである。これは佛徒のことであるが、彼等の修業、彼等の煩瑣な講學の方法に見えてゐた知識偏重の傾向が、前代に於いて一般思想界の潮流と相應ずるものであつたとすれば、かういふ變化は他の方面にも現はれなくてはならぬ。
 果然、文藝に於いても同樣の傾向はある。まづ文藝そのものに於いて、製作の上にも翫賞の上にも人力以上の力といふものが考へられて來た。名歌をよむのは人力の及ぶところでないから神に祈らねばならぬとせられ、頼實が五年の命にかへて名歌を詠ませ給へと住吉の神に祈つたので、「木の葉ちる宿は聞きわくことぞなき時雨するよも時雨せぬよも」の歌がよめたといふやうな話ができた(今鏡敷島の打聞)。貴船明神が和泉式部の歌に返歌をせられたといふ話(後拾遺神祇)、都良香が竹生島に詣つた時、三千世界眼前盡と案じたものの下の句がつげなかつたのを、辨才天が夢に現はれて十二因縁心裏空とつけたといふ話(著聞集第四)、などは、神や佛の詠んだ歌といふものがいろ/\世に傳へられてゐることと共に、神などを人のなかまに引き入れたのでもあり、神を衣冠の姿で畫くこととも關係が(597)あらうが、歌の作者を神などにした點に於いては、こゝにいつてゐることとの連繋もある。名歌はまた神をも感應させる。實定が「ふりにける松ものいはゞ問ひてまし昔もかくや住の江の月」の詠を住吉の神がめでて形を現はされたともいふ(同上第五)。住吉玉津島の神が和歌の保護神として崇敬せられ、人麿供を營んでこの古代の歌聖を禮拜したのも、同じ思想から來てゐる。俊成が「詩歌の道も大聖文珠の智慧より起れることなれば、……御納受はべらんずらん、」(慈鎭和尚自歌合の判詞)といつてゐるのも、參考せられる。音樂に於いては特にかういふことが甚しいので、宗輔(著聞集第六)や元正(古事談第六)の逸事のやうな神の感應の話があるのみならず、物語に於いても狹衣濱松またはその他の物語といふ物語、殆ど管絃を一種神秘のものとしてゐないものは無いくらゐである。文藝が心生活の表現でなくなつて、特殊の技藝として見られる時、さうしてその技藝が上達し難く悟入し難いものと思はれる時、奧義を秘するとかそれを傳授するとかいふ風習の生ずるのは自然の勢で、それが一歩進むと、人間界を超越して神秘の雲深く鎖されたあたりに、技藝の故郷があるやうに信ぜられて來るのである。なほ勅撰集の部類わけに於いて、後拾遺には雜の部のうちに神祇と釋教との目がたててあり、千載と新古今とにはそれが獨立の部となつてそれ/\一卷を占めてゐるのも、これと幾らかの關係があらうか。神や佛の作つた歌といふものの載せてある場合のあることからも、さう考へられる。(家集では俊頼のに既にこの二つの部が設けてあり、百首の題としては久安百首にそれが見える。堀河百首のには祝と無常とがあるが、神祇釋教とはなつてゐない。)神祇や佛教に關する歌は前代から多く作られてゐるから、このことにさしたる重要さは無いやうであるが、それが歌の主要なる題材として取扱はれたところに一つの意味はある。
(598) 文藝そのものの性質がかう考へられたとすれば、その作品に於いても同樣の傾向があるのは自然であらう。歌に幽玄體が尊まれ、それに續いて新古今の、よくいふと神韻縹緲たるもの、わるくいふと含糊模稜の態があつて、意義すらも明かに到らないやうなものが流行したのも、やはり一脈の縁の絲をこゝに引いてゐる。昔の古今調は智巧的であるだけに淺露に聞える。だから定家は貫之を評して「餘情妖艶の體を詠まず」といつてゐる(近代秀歌)。今の新古今調はともかくも風情に重きを置いて、言外の情趣をその調べの上にほのめかさうとするのであつて、古今集の歌の智巧的なのとは違つた方向をとつてゐる。歌が自然界を智的に取扱はず目に見る姿としてそれを詠まうとする傾向のあるのも、その一面にはこのこととの連繋があらう。
 文藝に現はれてゐる思想に於いてもまた同樣である。狹衣なり濱松なりを見ると、如何にその中の人物が超人間的の奇蹟によつて支配せられてゐるかがわかるが、これもまた人生は一種の神秘な力に動かされると考へられてゐたからで、さういふ思想が文藝の技巧にも、また文藝に對する態度にも現はれて、上に述べたやうな傾向を呈したのであらう。狹衣の天の稚御子はいふまでもなく、源氏の宮の齋院となるのも夢想、主人公の即位も神託の故である。濱松の中納言が歸朝の後、曾て契を結んだ唐の后のこの世を去つたのを知るのも奇蹟によつてである。もつともかういふことは、必しもこの時代から始まつたのではなく、天人の如きは宇津保にもあり、夢のつげは源語にも見えてゐる。しかし、宇津保の天稚みこは全篇の結構にも主人公の運命にも關係が無いのに、狹衣では到る處に同じやうなことがあつて主人公は全くそれに動かされてゐる。また源語では人生を支配するものは大なる運命であるのが、狹衣以下になるとそれが一々の奇蹟である。人に意志が無く力が無いこと、手を拱して外から落ちて來る力のなすがまゝに任せ(599)てゐることは同じであるが、事ごとに神の手を下すをまつのは、運命といふ大きな威力に服從するよりは、人の力なさが一層甚しい。「世の末」といふ觀念についてもまた同じことがいはれるので、榮華物語(はつ花)に、世によからぬことの起るのは人のためでも政治のためでもなく世が末になつたためだといつてあるが、かういふ考では世が末になつたといふ大きな事實の前には、人の力は何も無いことになる。
 
 さてこの思想を一つの理論として立て、それによつて歴史上の事態を解釋しようと試みたのが愚管抄である。愚管抄は承久以後に、多分承久の役に刺戟せられて、書かれたものと考へられるが、その思想は必しもこの役によつて生まれたものではあるまい。この書の述作は、保元平治の亂後になつて特に流行した「世の末」といふ觀念から出發して、その世の末の現象たる武家政治の由來を説き、現在の情勢に對して人は如何なる行動をとるべきかを教へようとするのが目的であるらしく、それがためにずつと溯つて上代からの歴史をも考察してゐる。その思想は今日から見ると論理的に一貫してはゐないが、最も力を籠めて説いてゐるのは、歴史上の種々の事態はすべて道理の現はれであり、または道理を示すために超自然超人間の或るものの意志、即ち一種の神秘なはたらき、によつて造り出されたものだといふのである。例へば、馬子の弑逆は佛法で王法を守るといふ理の現はれたものであり、鎌足などが蘇我氏を仆したのは、國王の威勢ばかりでは國が保てないといふ理の現はれたものであり、また推古皇極のやうな女帝のおはしましたのは、臣下によき輔佐があることを示すためであり、また例へば、藤原時代に天子の御長命でなかつたのは、攝家が局に當るから御長命を要しないためである、從つて院政のやうな時勢には上皇の御壽命が長い、平家の滅亡と共(600)に寶劍の失せたのは、武臣が身を以て國家を警衛するから劍の必要が無くなつた故である、さうして鎌足以後藤原氏が皇室を輔佐する地位にあるのは、天照大神と春日大明神との間の約諾の結果であり、實朝の死後攝家から將軍を出したのも、やはり同じ神のはからひだと、かういふのである。道理といふ語が大鏡などに見えるのとは違つて、一種の神秘な意義を帶びたものとして用ゐられることになつたのである。
 この考のやうに一切萬事が人の力で動かされない道理の現はれ、超人間の意*志の造作ならば、個人には何の力も無いことになる。またあらゆる歴史上の事態が道理を示すもの神のはからひから出たものならば、すべての世上の現象は理に適つたことで、また世に優勝の地位を占め事業に成功したものは、みな神の心に合つたものとしなければならぬ。(だからこの書の著者の眼に映ずる道長は理想的人物で、頼朝も時勢に應じて現はれた英傑である。)たゞかうなると、人に道徳的責任を負はせることができなくなつて、著者が世をよくしようとして人に教へたことは甚だ力の無いものになる。のみならず、著者の根本思想である世が末になつたといふ悲觀的の考へかたが壞れて、むしろ一種の樂觀思想がその間から現はれて來る可能性もある。(この樂觀主義は次の時代に至つて大に發達してゆく。)だからこの點に於いて愚管抄の説は頗る不徹底なものであるが、これは一つは道理といふ語を二重の意義で用ゐてゐる混雜から來たことでもあるらしい。全篇の結論とも見るべき第七卷に、上古道理が道理のまゝに現はれた世から道理の現はれぬ當代まで、漸次世の衰へて來た情勢を七期に分けて、それ/\の時代相を述べてゐるが、かういふ場合の道理と、世が次第にわるくなるもそれ/\に道理があるといふ道理とは、意義が違ふはずだからである。或は世が末になつたといふ當時の一般の思潮に支配せられながら、道理といふ別の觀念をもち出したために、思想に混雜が生じたのでも(601)ある。が、ともかくも世が次第にわるくなるのは何故であるか、さうなる道理といふのは何であるかといふことを毫も説明せず、恰も自明のことの如くにいつてゐることと、人事に於いて人の力を認めず、すべてを不可思議な力による道理の發現または超人間のもののはからひに歸したこととが、幾分か齟齬する觀念ながらに、何れも當時の思想の傾向を示すものである。皇室についても、百王といふことが世にいはれてゐるがまだ十六代殘つてゐるといつてゐるのも、百王に限られてゐるかの如く思つてゐるらしく見えるところに、やはりすべてが豫定せられてゐるといふ考へかたがあり、その意味で人の力を重んじない思想がある。なは終の方には豫言めいたいひかたがしてあるが、豫言にもまた一種の神秘的分子がある。
 要するにこの時代となつて、文化が沈滯すると共に人心が萎縮し、前代ですらも既に人としての意力の尊ばれなかつたのが、こゝに至つてます/\その頽廢的傾向を強めて來たのである。前代ではなほ知識才能が人生と社會とを支配するものとして尊重せられ、或る點まで人力が認められてゐたが、その知識も才能も、當時の貴族の勢力とその文化とを維持し發達させることができず、世が次第に末になつて人力の頼み難いことを感じて來ると、知識才能の價値も疑はれ、それよりも超人問の力にすがる方が捷徑だと考へられるやうになる。今を卑んで古を尚ぶのも、宗教に於いて自力をすてて他力に依頼するのも、現實の人生に處するに超人間的の力をかりようとするのも、畢竟みなこの頽廢的氣風から生ずるものであつて、歸するところは何れも同一思潮の流れである。
 
 これとは幾らか趣を異にするが、人力以上の力を有つてゐる恐ろしいものが到る處に存在してゐるといふ、半ばは(602)宗教的迷信ともいふべき思想が、前の時代から次第に發達して來たものではあるが、この時代に至つて特に甚しくなつた。人を食ふ鬼の話が今昔物語に多く蒐められてゐるのもその一證である。これは佛教や陰陽道などの與へた知識から來てゐる分子もあり、盗賊などの横行して人を害することの多かつた事實の影響もあらうが、ともかくも人心が萎縮して周圍の世界を恐怖の眼で見てゐたためである。今昔物語(卷三一)に見える酒泉郷の物語などは、本來ならば神仙的歡樂郷たるべき性質のものであるのに、それが恐ろしい食人國となつてゐる。これは宇治拾遺(卷一二)に、浦島の子が大の男を一口に喰つた妖物の兄にせられたのと共に、この時代の思想の一傾向を示すものである。未見の國、不知の世界は、景慕すべきところではなくして、たゞ恐怖すべきものである。外國などが、シナの外は、すべて鬼の國と考へられたのも、同じ考から來てゐるので、今昔(卷三一)の安倍の頼時の見た胡國、または度羅島や佐渡人の漂着した國などの話が皆それである。これには昔外國からすべての文物を學んだ時分に、海の外の國を寶の國として、または神仙の郷として、見てゐたとは反對に、我が國が既に特殊の文化を有するやうになつてからは、異國人に對する態度が變つて來たといふ理由もあらうが、それよりもむしろ自己の世界以外の世界を恐れるといふ方が主な原因であらう。要するに人力以上の力を頼むと共に、その神異の力は一面ではかういふ恐ろしい形に於いても現はれたのである。
 
 人力以上の力に依頼する風習と共に、人事に對して道徳的觀察を下す傾向も生じて、教訓的文字が所々に現はれるやうになつた。我が世の我が意のまゝにならざるを思ひ、我が力の弱小なるを知るやうになると、いかにして他人に(603)對し世に處すべきかを考へると共に、いかにしたらば人々が互にその生を營むことができるかをも考へるやうになつたからであらう。今昔物語にはその一々の説話の後に、道徳的批評または教訓の附記してあるのが多く、それを大和物語などの同じ説話と比べてみると、調子の違ふところがよくわかる。安積山の話(卷三〇)には「女は從者なりとも男には心許すまじきなり」といひ、姨捨山の(同上)には「今の妻のいはんことにつきて由なき心を發すべからず」といひ、下野の男が一旦離別した妻と再び契を結んだといふ話には、「情あるものはかくなんありける」といつてゐる。また葦刈の傳説(同上)については、「前の世の報にてあることを知らずして愚に身を恨む」と男を攻撃し、丹波(大和物語では大和)の或る男のもとの妻が歌を詠んだ話(同上)には、田舍人ながら歌を詠んだこと、男がそれに感じて女の心を思ひ知つたことをほめてゐる。しかし大和物語には毫もそんな道徳的意味が無い。それから伊勢物語に寓言として滑稽的に取扱はれてゐる鬼一口の話は、今昔(卷二七)では事實となつてゐる上に、それについて「案内知らざらんところにはゆめ/\立ち寄るまじきなり」と教へてゐる。かういふことは、宇治拾遺になると、一層強められてゆくが、それについては次篇で考へることにする。
 さて今昔物語の教訓は、情あること、思慮あり才幹あることを賞め、物の思を知り恥を知り我が分を知ることを尚び、人を蔑むな、美しい女に迷ふな、知らぬところに漫りに行くな、人にはうかと心を許すな、兄弟や妻とても油斷のならぬことがあると訓へ、または嫉妬や繼子いぢめを戒める類であつて、何れも常識的な處世の心得であり、事實それは當時の知識人の處世の體驗から得たものであらう。從つてそれは偏狹な獨斷的なものではないが、その代りに、道徳の教としては全體に調子が低い。それはつまり身の安全を計ること世に立つてゆくに過の無いやうにすることな(604)のである。人に情をかけよといふのも、畢竟身のためになるといふ意味からであり、恩を忘れるなといふのも、さうしなければ世に處し身を立てることができないといふ理由からである。だからこれらの教訓は、世に順應するのが得策であるといふ一語でつくされるわけである。即ち自己の所信によつて何等かの事業をなし世にはたらいてゆかうといふのではない。政治道徳としても、攝關の世には攝關を大切にし武士の世には武士を重んぜよ、といふ愚管抄の説は、やはり時勢に順應するのが安全だといふことに歸着する。從つてすべてに對して確乎たる自己の信念も主張もなく、また嚴肅な義務の觀念とか強い犧牲の精神とかいふものも無い。世と時とに從へといふのであるから、世そのものを動かしてゆかうといふやうな積極的な、活動的な、氣象などは夢にも思ひがけないのであつた。さすればこの時代の道念は、前代から承けついで來た利己主義と個人の意志を重んじない思想とから生れたものであつて、同じ腹から生れた神秘主義他力主義とは、雙生兒の關係を有つてゐるのである。たゞそれは自己の力の頼むに足らぬことを感じて、人力以上の不可思議力に依頼するのであり、これは個人に力が無いために、せめては世に順應する方法を考へて、一身の安さを計らうといふのである。世が末になり人心が萎縮して來ると共に、人を排し他を壓して權榮の地を占め、思ふまゝにその勢を振はうといふ前代の態度が一變して、確かに都合よく消極的に身を保つてゆかうと考へたのが、かういふ思想の發生した理由であらう。根本的には、處世法としての道徳に注意の向けられたのが、かういふ時勢となつて來たからのことと考へられる。
 かういふ風にこの時代の道徳觀は、現實の生活から自然に養はれて來たものであるから、佛教や儒教の特殊の教義から出てゐる點は極めて少い。もつとも佛教は因果應報の觀念を世人に吹き込んでゐる。今昔(卷二六)の美作國神(605)依獵師謀止生贄語は、上代では素戔嗚尊の簸の川上の話として現はれてゐる民間説話であるが、この物語では女の救はれたのは前世の宿報だとしてある。物語でも、松浦宮物語の主人公が唐の皇后と通じたのは、源語から絲をひいたものではあるが、その因縁を天上界に於ける前世の契に歸してゐるのは、人生の事實が現世以外の別世界と神秘な關係を有つてゐるとするためか、または道徳的眼孔から非難せられる虞があるためにかういふ因縁話を作つたのか、何れにしてもこの時代の特色である。作の時代は少しく後れてゐるらしいが、現存の住吉物語が繼子いぢめを題材にしながら、落窪物語とは違つて純粹の因果應報物語になつてゐるのも、また同樣に見なければならぬ。これは必しも佛教的意義に於いてのではないけれども、應報觀としてはそれと通ずるところがある。落窪は結末に至つて繼母が幸を得ることになつてゐるのは、住吉でそれが悽惨な境遇に終つてゐるのは、落窪では人生を支配する權力が時の勢家であるから、その勢家の思惑によつて幸を得ることができたけれども、住吉ではそれが因果應報の理といふ宇宙の規範であるから、惡業は容赦なき罰によつて報いられたためである。さて佛教的因果應報論は、來世のために福種を蒔くといふ點に於いて、明かに一種の利己主義であり、また現世の生活をすべて過去の業因に歸する點に於いて、道徳的責任を撥無するものである。だからかういふ思想で、しつかりした道念が建設せられるはずはなく、また世の中が健全になるはずも無い。
 また儒教についていふと、その術語すら多くは用ゐられてゐないやうである。シナの文字は軍に詞藻のために學ばれたのであるから、かうなるのは當然の成行きである。たゞ頼長や通憲などは學問についても幾らか實用方面に心を向け、宋からも絶えず書物などを取寄せてはゐたが、それとても故事先例を知るくらゐのところであり、またいはゆ(606)る宋學の書物はこのころ既に傳へられてはゐたやうであるが、殆ど世には現はれなかつたから、その影響もまた無かつたのである。けれども上記の如き道徳的觀察が流行すると、シナの書を讀むにつけてもさういふ方面に注意が向けられ、また儒教的遺徳説の術語などをも幾らか用ゐるやうになるのは、自然の趨向である。少し意味は違ふが、新古今集の序に治世撫民(世を治め民をやはらぐ)をいつてゐるのも、その一つの現はれと見られよう。けれどもこれらは儒教に導かれて道徳觀念が發逢したのではなく、道徳問題が顧慮せられて來たために、儒教の用語が假りられたのである。新古今集の序の辭句の如きは、古今集の序に倣つてシナ思想を取入れたまでであらう。鴨長明が方丈記に「古の賢き御代には隣を以て國を治め給ふ、則ち御殿に茅を葺きて軒をだにも整へず、煙の乏しきを見給ふ時は、限ある貢物をさへゆるされき、これ民を惠み世を助け給ふによりてなり、今の世の有樣昔になずらへて知りぬべし、」といひ、同じ人の作といはれてゐる四季物語では一歩を進めて、「昔も巡狩とて唐國の帝しば/\國の限り見そなはせ給ひしなり、今の帝まさに然あらんや、ただ鸞輿屬車に國の粟を費し、宮殿樓閣の塵をなん民の汗して洗はせ給ふ、」と儒教的政治道徳論を強調して説いてゐるのも、やはり同じことであるのみならず、君主に政治の實權の無かつた當時の時勢に於いては、頗る見當違ひの適用である。儒教道徳の用語を我が國のことにあてはめようとすると、かういふことになる。(四季物語はその文體も方丈記と違ひ、また宮中の有樣などを記すことも、その經歴から考へて長明にはやゝふさはしからず感ぜられるから、これは別人の作であらうと思はれる。けれどもその思想は宮廷を中心とした古の文化を慕ふ點に於いても、今の世に不平な點に於いても、長明と似てゐて、ほゞ同じ時代に書かれたものらしく見え、また精細にして獨創的な自然界の觀察があることなどから考へても、あまり後の世のものとは思はれ(607)ぬ。)
 しかし純粹な文學の分野には、まだかういふ道徳思想が多くは入りこんで來なかつた。花鳥風月と戀とを生命とする短歌は、さういふものを容れるだけの餘裕も無い。和歌の題材なり情趣なりが因襲的思想に支配せられてゐるのも、さういふ横みちに足をむけなかつた一原因であらう。慈圓の作には儒教の政治思想に由來のあるやうなものもあつて、「日を經つゝ民の草葉の枯れゆくに惠の雨をいかでそゝがん」(家集)の如きがその例であつて、そこに愚管抄の著者にふさはしい政治觀は見えるが、作者の地位からであらうか、迫力の足らぬ感じがある。物語に至つては、それが戀愛生活の描寫を主とした源語の摸倣であるだけに、その着想に於いて道徳問題に接觸してゐるものは割合に少く、前に述べた松浦宮などにやゝそれが見えるくらゐである。作中の人物にそれ相應の道徳觀があるのは勿論であるが、それは如何なる寫實小説にも存在するものであつて、作者に道徳的態度のあるのとは違ふ。たゞ読者もしくは批評家の側から見る作中の人物論は、この時代の末になると、そろ/\道徳的色彩を帶びて來るやうになつた。道徳上の觀點から源語の主人公を非難してゐる無名草子の態度は、必しもこの草子から始まつたのではなからう。もはや源氏を無限の權勢と無上の才貌とを兼備してゐる理想的人物として崇拜する時勢ではなく、浮舟や夕顔も更科日記の著者が見たやうな目では見なくなつたらしい。實世間に源氏のやうな中心人物があつて、それによつて世が動いていつた時代とは違ふから、源氏の權勢も崇拜するにはあまりに縁が薄く、才貌兼備の貴公子も時勢を支配することができない世では、源氏もあまり尊まれなくなるのは自然の趨向である。さうしてさうなれば、道徳的の缺陷が目について來るのもまたぜひのないことである。なほ立ちもどつていふと、政治上の不滿などもまた物語の領域には取入れられなか(608)つた。これはその題材が因襲的におのづから定められてゐるためでもあるが、言論は自由であつたから、物語の形をかりた寓言や諷刺で政治を議する必要の無かつた故でもあらう。
 ついでに附記する。老莊の書も讀まれてゐたので、今昔物語に「莊子」から採つた説話の見えるのもその一證であるが、その思想的影響はさして見られないやうである。世と時とに順應するのが處世の道であるとすることは、老莊の思想と一致するが、しかしそれは當時の時勢とその間に於ける生活の體驗とから生れたものであつて、文字の間から得て來たことではなからう。のみならず、老莊の思想の重要なるものがその點にあることすら、明かに理解せられてはゐなかつたであらう。
 
 上文第五章から第七章までに述べたところは、この時代の文藝に表はれてゐる主なる思潮であるが、これによつて一體の調子が前の時代とはかなり變化して來たことが知られよう。しかし時勢の推移は手の裏をかへすやうに忽然と變つてしまふものではないから、かういふ思潮にもその源流が前代にあつて、それが時勢の推移と共に次第に勢が強められたものもあると共に、表面の潮流は變つても底の方には依然としてもとの水が流れてゐることもある。厭世思想の一淵源が前時代にあるといふのは前の例であり、人力以上の何ものかに依頼するやうな傾向が現はれながら、昔のまゝの意味で才藝を尚ぶことが決して失せないのは後の例である。しかし才能を尚ぶにも、それを神の賜として見るところがこの時代の新しい傾向である。また輕い言語上の滑稽を喜ぶ風などは、この時代でも決して衰へたのではなく、一方で幽玄體が新しく流行して來る傍に、連歌は依然として行はれ、また今昔物語(卷二八)には「ものいひ」(609)の咲しいといふ話が多く列擧せられてゐて、かういふ話の歡迎せられたことを示してゐる。思想上の問題は要するに、時勢に對して特殊な敏感を有つてゐるもの、または幾らかの思索をすることのできる人たちの間に起つて、それがさういふ氣分に共鳴し得るものの範圍に行はれるのであるから、その他のものにとつてはさして交渉の無いのが常である。だから如何に厭世思想が漲つてゐても、多數人はそれに無頓着である。駄酒落や輕い滑稽がさういふ社會に喜ばれるのは當然である。新猿樂記や雲州消息に見えるやうな滑稽猥雜の猿樂も、やはりかういふ世の中にもてはやされたのである(新猿樂記はその文が既に滑稽を主としてゐるので、堤中納言物語の「よしなし言」と同列に置いてもよいものである)。しかし鋭い感受性も深い思索も無いものにもてはやされる滑稽であるから、それが深刻な諷刺にもならず、滑稽的に世を視るやうなこともなく、また文藝としてまとまつたものにもならなかつた。かの鳥羽僧正の作と傳へられてゐる鳥獣繪卷の或るものなどは、見やうによつては諷刺とも取られようが、作者のねらひがそこにあつたかどうかは疑問である。
 
(610)     第八章 武士の思想
 
 貴族文化の沈滯を見その精神の萎縮を考へて來た著者は、この篇の終に臨んで、その貴族に代つて世の表面に進出して來た武士の思想を一瞥しないではすまされぬ。しかし前篇にも述べておいたと同じく、實社會に於いて武士が優勢となり終に政權をも握るに至つたこの時代でも、文學の上には彼等の面影がまだ明かに現はれて來ないから、こゝにいはうとすることは當時の文學とは甚だ關係の薄い問題である。今日に遺つてゐる武士の文學は、保元平治物語にしても平家物語にしても、何れも著者が「武士文學の時代」と名づけようと思つてゐる次の時代に書かれたものであつて、その主題はこの時代の事件と人物とであり、その材料にもこの時代の記録などから取つたものがあらうと思はれるものの、それが文學の形に於いて現はれたのはよほど時が遲れてゐる。武士の歌などは多く遺つてゐるが、それは上にもいつたやうに、武士の特殊な思想や情懷とは殆ど何等の關係が無い。しかし文學には現はれてゐないが、實際には存在してゐた。さうしてそれによつて世が動かされてゐた。だから當時の思潮を論ずるには、それを捨ててはおかれないのである。
 何よりも先づ知られることは、武士は自己の意志と自己の力とで自己のことをしようとするものであつて、そこに自己を失つてゐる當時の貴族との違ひがあるといふことである。貴族とても個人的に勢利を得んとする欲望はあり、それがためには他と爭ひもするが、何等かの事業をしようとする欲求も意氣も無いのに、武士にはそれがある。これはその職業が戰闘であり戰闘は我が力によつて我が事をなさうとするものだからであるが、清盛や頼朝の如く武士の(611)首領の地位にあるものになると、その行動が新しい時勢を造り出してさへゆく。造り出さうとして造り出したのではないにしても、福原遷都なり鎌倉の幕府創設なりは、彼等の意圖して行つたこと彼等の力によつてなされたことであり、それがおのづから新しい時勢を作り出すことになる。さうしてまたそれは、彼等に從屬する多數の武士を統帥し、それらをはたらかせることによつてなされるのであつて、そこに統帥せられた武士の力の現はれがある。ところが、かういふ多數人を統帥することは貴族には無かつたことであり、武士の間に、その生活の社會的紐帶として、主從關係が成りたつてゐるためになし得られたのである。さうしてそれもまた武士の業務が戰闘であるからのことである。
 武士の社會が主從の關係によつて成り立つてゐること、從つて彼等の思想はこの關係が根柢になつてゐることは、既に前篇に説いておいた。さてこの關係は武士の活動の舞臺が廣くなり、また彼等の社會が漸次統一せられて來るに從つて、種々の複雜な形を呈するやうになつたらしい。武士の本場の東國に於いては、頼信頼義義家の三代の間に、各地の豪族が殆どみな源氏に歸服したが、その豪族はそれ/\に部下の郎黨を有つてゐるのであるから、主從の關係が二重になつた觀がある。また源氏の主將と新にその從臣となつた豪族との關係に就いては、場面が大きいだけに親愛の情がいくらか薄くはなかつたらうかとも疑はれる。しかし、それにもかゝはらず武士が大きく結合せられたのは、恩賞といふものがあつて、その間を維ぐ情の絲になつてゐたからである。もつとも從臣どもが主將の人物を尊信し、またおのれらに對するその態度に悦服した、といふ情的關係の伴つてゐることはいふまでもなく、特に主從の關係が年の經つと共に子孫に傳へられると、いはゆる累世の主君、譜代恩願の家人、として頼みつ頼まれつするので、その間の情誼はます/\篤くなる。かうなると恩賞のためといふ觀念は影を潜めて、情愛の上から主人のために身を(612)も命をも捧げるのではある。しかし彼等の生活はどこまでもこの恩賞によるのであるから、何時まで經つてもこの基礎的觀念は無くならぬ。承久記に鎌倉武士の態度を記して、幕府の恩といふことをくりかへして書いてゐるのも、この故である。平治物語(卷一)に「心は恩のために仕へ」といつてゐるのも、前篇に述べたやうに古くからいはれて來た語である。これと對句になつてゐる「命は義に依つて輕し」が、この語から發生してゐることも既に説いた。
 けれども恩賞は生きてゐるためのものである。主人のために死を決する時、屍を戰場に曝す時に當つて恩賞が何にならう。それにもかゝはらず恩賞を望むのは奇怪ではないか。さすればこの二句によつて現はされてゐるもの、即ち武士の生存の根本となつてゐる事實と、それから發生した武士的精神との間には、矛盾があるのではなからうか。ところが彼等武士には、この二つは必しも矛盾するものではなかつた。おのれみづからは潔く死ぬのであるが恩賞は子孫のためだと考へられたからである。これは子を思ふ親の情から自然に生じたことではあるが、主從の關係が譜代であつて親の領地が子に傳へられる風習と、死を潔くする武勇の道の励まれたこととが結合して、武士の社會に於いては、それがかういふ形をとつたのである。保元敗戰の後自首して出ようとする爲義に、子どもらに向つて「入道今度老の頭に冑を戴きて合戰を致すこと、全く我が身の榮華を期するにあらず、もし打勝つて運を開かば、汝等を世にあらせんと思ふためなり、」(保元物語卷二)といはせ、平治の亂の時に戰死した瀧口俊綱の父に「一命を輕んじて軍をするも瀧口を世にあらせんためなり」(平治物語卷二)といはせたのは、物語の作者の構想ではあらうが、よくこの間の消息を明かにしてゐるものであつて、これは決してこの物語の作られた時代に始まつた思想ではない。かういふ思想が生ずるほどであるから、事實、父祖の功績はその主人によつて子孫に報いられてゐたに違ひない。かうなると子孫(613)の生活は全く父祖の恩惠であつて、こゝに武士の祖先崇敬の風習が生じ、また家といひ家名といふ觀念が發達し、從つてそこに家名を揚げるとか家名を辱かしめぬとかいふ思想の養はれる契機がある。父祖は子孫に對して恥かしくない働きをしなければならぬ。子孫もまた父祖の名を墜さぬやうに励まねばならぬ。父の讐をうつといふこともまたこれに關係があるので、武士の間に早くからその習慣があつたことは、今昔物語(卷二五)の惟茂の郎黨の話でも知られる。平氏でも源氏でもその勢を得た時、互に敵の幼兒まで殺し盡さうとした殘酷の行爲も、やはり復讐を恐れたからであらう。それほどまでに家の觀念が強く養はれたのである。けれども家の存立はどこまでも主君の恩惠であるから、家名を墜さぬことは即ちまた主君に報ずる所以である。
 しかし主從の關係は、如何なる場合にも同じやうに維持せられることはむつかしい。その關係を破る第一の事情は、時勢の變化のために主人が地位を失ふことである。平治の亂の結果として、源氏が權力から離れるやうになれば、東國の家人どもは「時世に從ふならひ」、心あつてでも無くてでも平氏に從はねばならぬ。平氏が衰へて源氏の再び勢を得るやうになれば、「昔は昔、今は今、」四國九州の武士どもも二十年の恩顧に背いて源氏に志を通じた(平家物語卷八卷九など)。劍光亂れ飛び失さけびの聲の凄しい間に立つて感情の興奮してゐる時には、さすがに旗色を見て急に敵に降るものは少からうが、退いて身の利害を考へる餘裕がある場合には、勢を失つたものに對する舊情を守つて身を危くするよりも、勢を得たものについて少くともその生活の維持を計るのが、多數のもののとる態度であらう。「源氏は二人の主取ることなし」(保元卷一)といひ「源氏の習ひ心がはりやあるべき」(平治卷一)といふのは、東國武士の間に磨き上げられた強烈な精神ではあるが、さうばかりもできないのが人生の實際であつた。
(614) 勿論、三代相傳の主君を賣つた野間の内海のやうな淺ましい心根を有つたものは少からう。けれども時世の勢やむを得ずとして、一旦平家に服從した多くの東國武士の心情は必しもそれと同一ではない。元來彼等の生活の根據は主君から與へられた恩賞であつて、その與奪の權が主君にある以上、その主君の家を滅ぼしてその權力を握つた平氏は、彼等の死命を制すべき力を有つてゐるから、彼等が自己の生活を維持しようとする以上、平氏に服從するより外に道が無いのである。武士の社會が成立してゐる根本義がこの恩賞關係であるのだから、しかたがない。否、むしろ人の生存欲が生活の根本義である以上、しかたが無いのである。或はまた別の觀點から見れば、平氏が握つたのは政治的權力であり治者としての權力であるから、これはその政權に服從したのであるが、治者と被治者との政治的關係が、武士に於いては、規模の大きい主從の關係でもあるために、かうなるのである。彼等が必しも人情に薄いものでなかつたことは、その多くが頼朝の擧兵に際して舊主家の幕下に集つたのでも知られる。或は一旦平氏に歸服した以上、どこまでも平家のために死なうとした齋藤實盛のやうなものがあつたのでも知られる。この二つは互に反對した態度ではあるが、それはそれ/\の境遇や地位やからその情の向けどころが違つて來たのみである。要するに極めて少數のものは、特殊な利慾のために情誼を破つて主家に背くこともあらうし、またそれとは正反對に、亡びゆく主家と運命を共にして、主人に對する情愛のために自己の生存を棄てるものもあらうが、多數のものは戰場などに於いて感情の特に昂進してゐる場合などの外は、自己及び自己の子孫の生活のために、心ならずも主家に對する情誼を固執することができなくなるのである。
 平氏が西海の波の上に漂泊するやうになつた時、四國九州の武士どもがそれに背いたのは、これとは少しく趣が違(615)ふが、それには一つは、これ等の武士と平家との關係が東國武士と源氏との間のやうな譜代的のものでなく、情愛で継がれてゐるといふよりは權力に服從してゐるといふ分子が勝つてゐるから、その結合が鞏固でなかつた故でもあらうし、一つは、主家の態度などが武士の信を失ふやうになつたためでもあらう。この後の方は、武士の主從關係を破壞する有力な第二の事情であつて、後の北條氏の敗滅も、主としてこゝから起るのである。主從關係の基礎が恩賞である以上、それを舊來の主家によつて維持することができなくなつたと見る時、即ち自己と自己の子孫との生活を委ねるだけの信用を主家に置かなくなつた時、多くの武士は主家に背き去るのである。また主從の關係を厚くする一大因由が主人の人物に心服することである以上、心服しかねる主人が威力を振ふ場合に、主從の情誼が稀薄になるのも自然である。武士の心理を解するにはこの點を看過してはならぬ。要するに武士の主從の關係も決して無條件に鞏固なものでもなく、永續するものでもない。その關係の根本義が、主從相互にその生存と活動とをよくするためであるのだから、それが傷けられ若しくは失はれる時は、即ちこの關係の動搖する時、斷絶する時なのである。たゞいはゆる源平時代では、かういふ動揺が初めて試驗せられたのであるから、「時世に從ふならひ」といふ語には一種悲痛の響がある。それがしば/\くりかへされると、向背去就の變轉が割合に平氣になつて、「昔は昔、今は今、」の語にも、それを正當視する調子が伴つて來る。南北朝時代に作られたらしい源平盛衰記などにはさういふ態度が見える。
 なほこゝに一言すべきは、上にも既に述べた如く、源平時代に於いては、武士の首領こそ平氏なり源氏なりであつたけれども、その勢力は、氏族的團結によつてできたものではなくして、主從の關係によつて形づくられたものであり、その關係には血統の如何は問はれなかつたといふことである。種々の氏姓の武士が或は源氏を主とし或は平氏を(616)主としたまでである。たゞ平治の亂の後には、平氏では一族の數が多いが、源氏ではそれが少くなつた。その多い平氏の一族が都落ちの時から殆どみな一致協力して事に當り、頽勢を挽回せんための斷えざる努力をしたので、そこに平氏自身の間に於ける氏族的團結の鞏固さを見せたのに、少い源氏の一族はその間に互に紛争を生じ、氏族としての活動のできなかつたことが、注意せられよう。義朝の失敗の後、死を免れたものも諸方に分散して纔かに自己の生存を計る他には途が無かつたところから馴致せられた一種の氣風が、頼朝の興起の際にも、彼等相互の協力を妨げたのであらう。それに反して平氏一族のこの行動は、そのいはゆる榮華の時期が短かくして權勢の爭がその間に生ずるほどの時間的經過が無かつたのと、清盛といふ人物の統御力が強かつたのと、並に種々の方面に敵があつたので、それがおのづから内部に於ける結合を固めたのと、これらの事情のためであらうが、ともかくもこのことは、平氏の没落と滅亡とが單なる感傷的情趣を帶びてゐるのみでなく、今人から見ると、奮闘努力しながら力つきて滅びた點に於いて、そこに戯曲的の壯烈を認めることにもなる。けれどもそれはまた武士の勢力が一族間の結合のみによつては維持せられないことを示すものでもある。事實、その滅亡には西國武士の離反が重大なる原因をなしてゐる。さうして源氏の首領たる頼朝が成功したのは、その勢力を形づくつてゐた主從問の結合の鞏固であつたためであることを證するものであらう。北條氏が源氏の權力を繼承したのもまたこの結合を解體させなかつたためである。
 
 以上は武士の生活の根本になつてゐる主從の關係についての觀察であるが、次に武士の業務から生ずる思想を考へてみよう。さて、武士の本務は戰闘であつて、戰闘は人の命のやりとりである。そこで、死を厭はぬ、死を潔くする、(617)進んで死地に飛びこむといふ勇氣を養はねばならぬ。のみならず、命のやりとりは自己が死なねばあひてを殺す。だから戰つて勝つのは人を殺し得るがためであり、勝を求める武士は好んで人を殺すものである、といつてもよい。ともかくも武士は敢て人を殺すだけの勇氣が無くてはならぬ。勿論、戰場に慣れると、人を斬ること大根を斬る如く感ずるやうにもなるであらう。死の前に人が嚴粛になる、または人を殺す場合に憐憫の情が起る、といふ一面の事實もあるが、しかし死に臨むことに慣れると、それが輕視せられても來るのである。或はまた戰場の刺戟的な空氣に誘はれて生ずる極度の興奮状態は、平靜な思慮を人から奪ふのでもある。また戰闘の心理としては、我が力を敵に加へてそれを打ち殺すのが愉快でもあらう。特に勝ちいくさになると、勢に乘じて敵をなぎ倒してゆくところにその愉快が一層強められる。勇ましい戰爭の光景から生ずる一種の美感、筋肉の活動に伴ふ肉體的快感、または自己の力の優越が證せられることによる滿足感、もそれに伴ふ。從つて武士はおのづから殺伐になり、血腥いことを無關心で、或はむしろ好んで、するやうになる。敵の首を取ることなども、今日の人はとてもするに忍びないであらう。また敵に殺されるよりはわれみづから死なうとするのも、斷えず殺すか殺されるかの關頭に立つてゐる武士の間に自然に養はれて來る意氣地であつて、武士の面目がそれによつて保たれ、捕はれて殺されるのは生き恥をさらすことだ、と考へられる。降伏しても殺されることの多い當時の風習が、かういふ氣風を養つたといふ意味もあらう。しかしみづから死ぬにしても、切腹の方法などは極めて悽惨である。勿論、戰場で自殺するのであるから、刀を以て死ぬほかは無いが、腹を切るのは生命をなくするためには最も迂遠で最も苦痛の多い方法である。それにもかゝはらず腹を切るのは、腹が最も切り易い部分であるのと、敵の面前に於いて最も勇ましく見えるからとであらうか。刀を口に銜へて咽を刺し(618)とほすといふやうな方法もあつたらしく、自殺の方法は切腹には限らなかつたが、それにしても咄嗟の際になし得るのと見る目に勇ましく映ずるのとから、工夫せられたことであらう。要するに武士は人を殺すにせよみづから死ぬにせよ、戰場に於いて殘酷の感を起さず、死に對して無關心になるほど、殺伐な光景に慣らされねばならぬ。
 しかし武士の特殊の修養は修養として、または戰に臨んで感情の興奮してゐる場合は別のこととして、人の情としては死を避けようとするのが當然である。特にわが子、わが夫の死を見るのは、おのれみづから死ぬよりも苦しいはずである。子を世に在らせたいがために戰場で懸命のはたらきをするといふ。その子を死ねとて同じ戰場につれてゆく親の心はつらからう。幼子も必しも死を厭はぬ。壽王冠者のけなげな擧動は承久記に力をこめて寫されてゐる。女の子でも弱くはなく、「武士の子はなどか幼き女子もたけかるらん」(平治卷三)ともいはれてゐる。しかし子にそれだけの修養はあつても、親の心はあつぱれの覺悟と喜ぶうちに、ことばには現はされぬ悲みが漲つてゐる。千代もと契る夫を明日の命も知らぬ修羅の巷に送り出す妻の心は、いふまでもない。だから戰記ものといふ戰記ものには、潔く死に就かうとする武士の意地と、生を喜び死を厭ふ人の情との衝突、特に親の子を思ふ情を力強く描き出した戯曲的光景の無いものは無い。その光景は固より作者の想像であらうが、その情はどこまでも武士の心理的事實である。意地と情との衝突は、世に武士あつてより以來、武士の無くなる最後まで絶えたことはなく、また絶えることもあるまい。
 親子夫妻の間のみではない。敵に對しても見知らぬものに對しても、同じ感情の起ることがある。戰終つて後、心靜かにその惨禍を思ふ時、もしくは爲義義朝父子の間の如く、頼む頼まれたの意地づくから、父子兄弟が敵身方に分(619)れて戰ふやうな時、或はまた心ならずも人を殺さなければならぬ時、をりにふれては、さすがに戰争を職業とする武士の生活が心苦しくも思はれ、一味の哀愁が胸に迫つて、「弓矢取る身の習はあはれなり」(平治卷二)と感じなくてはならぬ。わが子わが夫の戰死を悲しむのは、なほ幾分の私情があるかも知れぬ。敵の死を悲しみ見知らぬものの死を憐れむに至つては、全く私を離れた美しい同情である。勿論、勝敗は戰の常であるから「けふは人の上、明日は身の上、」(同上卷三)といふ感じも深く、この同情にもさういふ思慮が手つだつてはゐるに違ひないが、ともかくも斷えず生死の境に出入してゐる武士に、かういふ情操の養はれるのは自然である。この情は武士の精神に大なる影響を與へるもので、後世の語ではあるが、「武士はあひみ互ひ」といふやうな思想ともなり、武士の間に心から起る禮節ともなり、また或は弱者を扶け敗者を憐む義侠の心や寛容の情ともなり、やゝもすれば殘忍に流れ易い虞のある武人の心情を綬和して、血腥い戰の庭にもゆかしい情の花の香を漂はせるのである。但しこの情は戰闘によつて精練せられるのであるから、弓矢の道の修養の深く、戰陣の働きの強いものほど痛切になるのである。だから源氏の家人を武士中の武士とした物語に於いては、この情が源氏に於いて最も發達したものとせられ、「平家の奴ばらは上下すべて情なく物をも知らぬ者どもなり」(同上)といはれたのである。これは必しも事實ではなからうが、源氏の側ではかう見てゐたのでもあらう。
 勇氣となさけとの武士的精神は、戰陣の間に馳驅する男子ばかりでなく、婦人にもまたそれを認めることができる。鎌倉山に心の外の舞袖を翻へした白拍子靜には、權威に屈せずして判官に對する思慕の情を率直に吐露した點に於いて、男はづかしき勇氣があつたとせられたではないか。常盤が清盛の意に從つたのも、愛兒の生命を助けるためだと(620)すれば、これも貴族社會の女の思ひもかけない苦痛を忍んだのである。もつともこれらは特殊の生ひ立ちと地位とを有つてゐる婦人であるが、爲義の北の方が夫の敗亡の後に入水したなども、源語の浮舟が宇治河に身を投げようとしたのとは動機がちがふ。われ獨り在るかひもない世に遺された悲しみにえ堪へないでのこととはいへ、そこに身をも心をも我が夫に捧げつくした女の情が見える。人により境遇によつてその行動は同じでないが、單に運命のまゝに、もしくは人のなすがまゝに、我が身を委ねて、意志も操守もなく、男に對する愛をすら切實には味ひ得なかつた平安朝貴族の女に比べると、そこに一種の意氣なり、忍耐なり、或は敢爲の勇なりがある。これは榮枯盛衰の變化の激しい世を閲して來たので、それによつて精神が練磨せられた故もあらうし、男が常に生死の間に出入してゐる武士であるために、自然にそれと覺悟を共にするやうに慣らされても來、またその感化をもうけて來た故もあらうし、また人によつては、共に艱苦を嘗めて來たところから生ずる特殊の愛情もあらうが、ともかくもこの時代の武士の女によつて、一種の新しい婦人の型が我が國に産み出されたのである。
 さて婦人の精神がかういふ風であれば、男子のそれに對する心情もまたそれに應じなければならず、特に家の觀念が貴族の社會よりも發達してゐた武士に於いては、この點からも婦人に對する態度が貴族の輩とは違つてゐたはずである。たゞかういふ事實があると共にまた、武士の間に肉慾のあひてとして女を視る風習の決して少なくなかつたことを一言して置きたい。それは武士の活動が主として肉體的であるから、その自然の傾向として、肉體的の慾望を充たさうとするやうになるからである。到る處の遊女は多く武人の眷顧をうけて生活してゐたので、鎌倉の繁榮と共に大磯などに遊女がゐるやうにたつたのもこれがためである。概言すると古今を通じて我が國の武士には、制慾といふ(621)觀念が無かつたらしく、この時代でもやはり同樣であつて、この點に於いては享樂主義の貴族等と大した變りは無い。たゞ遊女についても千壽や大磯の虎のやうな物語のあるのは、よしそれが極めて稀な例であるにしても、貴族等に玩弄せられてゐるもののそれとは違つた情趣を、彼等と彼等をあひてとした武士との求めたがためであることを、注意しなければならぬ。
 
 話は少しわきみちに入つたが、武士の職務とその修養とに就いてはなほ考ふべきことがある。武人は如何にしても戰闘の勇者とならねばならぬ。戰に臨んで死を厭はぬは勇士の常であるが、さりとて死を厭ひ生を求める情は人に固有なものである。人の生存欲を棄てなければならぬ武士は、やはり生存欲を有つてゐる人であつて、こゝに武士の身にとつての根本的矛盾がある。さて武士としての外面的生活に必要な恩賞がその働きの根柢になつてゐて、それがために主從の關係が結ばれもし解かれもするほどならば、それよりも一層根本的である人としての生存、人としての生命を、武士なればとて、さうてがるに抛ち棄てることはできまい。けれども、それを容易く抛ち棄てさせようといふのが武士の修養である。さて、どうしてその修養が出來るかといふと、一つはおのれみづからに於いて精神的に一種の安心を有つてゐること、一つは社會的風尚の上からである。精神的の安心といふのは、戰爭の勝敗は時の運である、生死のけぢめは必しも人力のみによらぬ、個人からいふと先き驅けの働きをしても生きるものは生き、人の後にためらつてゐても死ぬものは死ぬ、といふことである。これは戰爭そのものの經驗から體得せられた考であつて、場かずを經た武人には、おのづから固い信念となつてゐる。だから「果報に任せて戰せよ」(承久記)といふ語もできてゐる。(622)(これは勿論天運ではあるが、しかし今日から見れば天運ばかりでもなく、そこに人の有力なる心理作用がある。特に一騎打ちの昔の戰爭に於いてはさうである。)生死が時の運であり天命であるならば、死を避けようとしても避けられぬ。進んで働かれるだけ働く外は無い。結果から見ればそれによつて死中活を得ることもできる。こゝに武士の覺悟がある。
 但し人力の左右し難きところも神は動かし得よう。時の運といひ天命といつても、宗教的にはそこに生きた神と神の力とを認めてゐるのである。だから棄てても棄てられぬ人の生命を保護し、我が力の如何ともすることのできぬ戰の勝敗に於いて我が勝を得ようとするには、神に祈る外は無い。さうして神の我を助けるといふ信念が武士の勇氣を鼓舞することにもなる。源氏が八幡を信じ八幡が弓矢の神となつたのもこの故であつて、武士といふ武士は、古今を通じて、かういふ意味での信仰心が甚だ篤い。武士が神社佛閣を崇敬するのはこゝから出てゐる。武士の宗教心は主としてこの方面に現はれるので、佛教などの特殊な教義や信條などには關係が少い。滿仲が惠心僧都から戒をうけた時に、殺生戒に對しては應答しなかつたといふ話(古事談)があつて、これが事實であるかどうかは明かでないが、武士の職業と佛教の重要な信條とが根本的に背反してゐるといふ考のあつたことは、この話によつても知られる。もつとも頼義は武士の罪業を思うて佛教に歸依したといはれ(續往生傳)、淨土教が行はれるやうになつてからは、武士の中に特にそれを信仰したものもあるが、それは殺人を罪業とする上に於いて、罪人往生の教が幾らかの安心を與へただけであつて、戰闘に於ける武士の勇敢な行動がそれによつて抑制せられたとは思はれない。熊谷蓮生坊の遁世の如きも、平家物語などが傳へてゐるやうに、敦盛の首を取つてから無常を感じた故ではないらしく、それよりも領(623)地のことについて幕府の所置に不平があつたためであるといふ吾妻鏡の記事が眞實であらう。現世に於いてわが生活を擴大するために、わが腕をふるつて戰場に馳驅するといふ態度は、感傷的な、女性的な、陰氣な、當時の淨土教の氣分とは、あまりにも距離が遠い。むしろ厭世觀の上に立つてゐる佛教の根本思想と、現世的な戰闘を本務とする武士の精神とは調和しないものである。たゞ包容的な佛教、如何なる思想にも適應するやうに解釋のできるほど種々な分子を含んでゐる佛教は、いはゆる應機説法を何人に對しても試み得るものであり、武士も常に生死關頭に立つてゐるといふ點に於いて、宗教的氣分に支配せられることがあるから、人によつては、稀には武士の或る情感と特殊な佛教の何等かの信仰とが、何等かの形に於いて交渉を生ずる場合もあらう。かの蓮生坊の物語も、物語そのものは事實ではなからうが、それに表現せられてゐる思想は、當時の一部の武士が稀にはもつてゐたものであるかも知れぬ。しかし大觀すると、それは大多數の武士にもまた武士の根本的精神にも、さしたる影響を及ぼさなかつたものである。
 さて、武士の修養に大なる關係のある第二の條件は社會的風尚である。死を厭ひ生に就かうとする人としての固有の情に背き、喜び勇んで死地に臨むといふのは、人としてなし難きことをなすのであつて、そこに一種の榮譽がある。榮譽のあるところに人は趨くので、そこから社會的風尚が養はれる。死を輕んずるといふことが一般に尊敬せられ、それに反することが卑怯として侮蔑せられる。また生きてゐる身に重きを置かないやうになれば、自然に死後の名譽を尚ぶやうにもなり、生きてゐる世に於いても後代に對して名を重んずることが風習となる。その上、前に述べたやうにして生じた家といふ觀念と結合せられては、我が行爲から生ずる自己一身の名譽と不名譽とが直に家門の榮辱となるので、個人の上に加へられる風尚の權威が一層強くなる。從つて武士は名のために生き名のために死ぬといふや(624)うになるのである。この名といふ觀念は單に戰闘の場合のみならず、あらゆる武士の行爲に適用せられるやうになつて、そこに武士の體面が養はれるのであるが、その弊は一種の矯飾に陷り、純眞なる自己の内生活をば重んじないで、外部に表はれる體面のみを顧慮するやうになることであつて、これも畢竟は人生の基礎となつてゐる自己の生存欲を棄てねばならぬといふ、武士特有の根本的矛盾から發生するのである。
 
 これは武士の修養についての一般的觀察である。しかし名譽のために身を殺すは肉體的欲求が無いだけで、やはり利己主義である。身を殺すといふ點に、意志の鍛錬もあり情操の修養もあるが、到底利己主義たることを免れない。たゞ武士が主從の愛のために身を棄てるに至つて、眞の犧牲的精神が發揮せられ、永遠の生命がその間から求めずしておのづから得られる。かうなると別に神佛に祈?する必要も無い。すべての行動は初から自己の利益のためではないから、おのれの運命おのれの生死に關して何等の顧慮をも須ゐないのである。愛のために身を捧げるところに一種の宗教があるともいへよう。武士的精神の眞髓はそこにある。しかし一般の武士はこの境界までは容易に入り難い。といふよりも、さういふ熱烈な愛情の湧き出るやうな境遇に置かれるものが稀であるといふ方がよいかも知れぬ。といふのは、彼等の愛はどこまでも主人に對するものであつて、對人關係である以上、その主人の情に接する程度に遠近厚薄があり、常に左右を去らず愛顧を受けてゐるものとか、特殊の事件によつて特殊の保護を得たものであるとか、さういふ極めて少數のものの外は、それほどまでに深く主人の情に感ずることができないからである。平常それほどの親みが無くとも、主人の危急を眼前に見て感情の大に興奮した場合はまた別である。さうしてさういふ特殊の境遇(625)に居り特殊の場合に臨んだ少數のものは、普通の人物ならば熱烈なる犧牲的精神を發揮し得られるものであり、英雄的行動を取り得られるものである。平家と共に西海の波に沈んだものも、高時の最期に殉じたものも、みなこの輩である。
 けれども主人に對する親愛の情の疎いものは數の上に於いて多い。さういふ多數の武士には、名譽心とか世間的體面とかいふものに刺戟せられることが必要であり、從つて場合によつては矯飾に陷ることも無いではない。さうしてさういふ刺戟があつてすらも、自己の生存のためにはこの名譽をすて主從の關係を破らねばならぬことが起る。人を中心としての感情のはたらきには多くかういふ缺點が伴ふから、それによつて社會的結合を鞏固にすることは困難である。もしそれが公共的精神、例へぼ祖國に對する愛、とかいふやうなものになると、國民全體が一樣に、同じ程度に、同じ深さ同じ強さを以て感奮することができる。すべての國民が國を我として感じ、相共に身を抛つて祖國を擁護するやうになる。眞の犧牲的精神が是に於いて生ずる。ところが武士の思想はどこまでも主從關係によつて成り立つてゐるものであつて、決して公共的精神といふべきものではなかつた。
 外國との關係が無く國内の紛爭にのみ有らん限の力をはたらかせてゐた當時の武士に、愛國心の發達しなかつたことはいふにも及ばぬ。のみならず、もつと小さい範圍に於いても、公共的精神といふものは彼等の胸には芽ざさなかつたのである。それは第一に、彼等が土地を基礎とした團結でなかつたからであらう。武將の領地は各地方に散在してゐてその間に統一が無く、その家人等に恩賞として與へる土地も、やはり同樣であるから、武將は多くの家人郎等をば有つてゐるが、國を有つてはゐない。敵身方と分れ源平と對立してゐても、國としての勢力を以て爭つたのでは(626)ない。源氏でも平氏でも、忽にして天下の權を得、また忽にしてそれを失つたのは、その根柢が國といふ固定した勢力でなく、たゞ家人といふ人のみであつたからで、その家人の働きによる戰争の勝負によつて、直ちに權力の得喪が生じたのである。だから源平二氏の天下の事は、武力を用ゐると用ゐないとの相違があるだけで、藤原氏相互の間に行はれた政權の爭奪と、性質に於いては大した差異の無いものである。後の戰國時代以後になると、武士の事が土地を基礎とするやうになり、武將の領土が國らしい性質を帶びて來る。が、この時代にはさういふことは無かつた。かういふ風に、武士の活動の背景として土地の上に固定した團結が無いのであるから、團結心も無く、從つて公共心も起らないのは當然であらう。のみならず、その對人關係、即ち彼等の社會組織の中心でもある主從の關係も、一々の家人がその主人に對して別々に結びつけられてゐるのであつて、主人を中心とした家人郎等の精神的團結があるのではない。戰争そのものも隊伍を以て行はれるのでなく、すべて一騎打の勝負を原則としてゐる。勿論多數人の集合でありその行動であるから、いくらかの統制はあるけれども、その組織は極めて散漫である。これは武器や戰爭の技術から來る點もあるが、また根柢に於いて團體的精神が無いからでもある。だから武士の生活は、この點に於いてもやはり個人本位の貴族等と大なる逕庭は無く、たゞ家といふ觀念が強いのと、主從の關係が緊密であるのとのちがひがあるのみである。
 こゝで一言しておかねばならぬことは、當時の武士の皇室に對する思想についてゞある。承久の役には幕府が京方に向つて弓をひいた。さうして東國の武士どもはみな幕府の命に從つたのであるが、それは彼等自身に於いて當然のことと考へられた。後世の儒者などはいはゆる名分論をそれにあてはめて、幕府を難ずるやうになつたが、それはこ(627)の時代の考へかたとは違ふ。當時の鎌倉幕府の態度は、源氏が安徳天皇を奉じてゐる平氏と爭ひ、平氏が後鳥羽天皇を戴いてゐる源氏と戰ひ、また爲義が時の天子方の軍と、義朝が院方の軍と、戰つたのと、さしたる差異も無く、昔から宮臣が敵身方に分れてそれ/\に天皇を擁立しようとしたり藤原氏の如き權力者が廢立を行つたりしたのと、全く同じであつて、たゞ宮廷の奧で陰謀を廻らしたのと兵馬を動かしたとの、違ひがあるだけである。皇室を皇室としてどこまでも尊崇してゐたことはいふまでもないが、保元の變も、壽永の亂も、また承久の役も、さういふ根本の皇室觀に關係のあることではない。これもまた藤原氏が皇室をどこまでも尊崇しながら皇位を左右したと同一である。それから一般の武士についていふと、本來彼等の生活は全く主從問の情誼によつて成り立つてゐるので、その行爲もたゞ主從の關係によつて支配せられるものであるから、それ以上のことは初から彼等の關與すべきことでなかつた。彼等は主人の意志なり行爲なりの是非善惡を論ずべきものとは思つてゐない。義朝が信頼に一味した時、源氏のものが「一門の中の大將既に從ひ奉る上は左右に能はず」といつたとある平治物語(卷一)の筆は、この點についての武士の思想をよく寫し得たものであらう。保元平治の亂でも、壽永の源平の爭でも、一般の武士はたゞ主命によつて武士たる務を盡すのみであつて、敵の何人であり戰の理由が何れにあるか、といふやうなことを顧慮してはゐなかつたに違ひない。承久の役に京方に屬した武士もまた、義朝が朝命を奉じ爲義が崇徳院のために戰つたと同樣、たゞ「頼まれまゐらせた」のである。いはゞ院と直接に主從の關係を結んだのだともいへようが、その關係は一時的のことであつて、主從の情誼がその間に生じてゐないから、旗色がわるくなるとすぐに離散してしまふ。むしろ僧兵が一時的に身方になつたやうなものである。一部の武士が院の身方になつたのは、或は院を動かして事を起させたのは、世が(628)平和になつて武士が功名をあらはす機會の無い時であるから、何か事あれかしといふ希求の情から來たのもあらうし、幕府に對して不平を抱いてゐるところから來たのもあらうし、その他いろ/\であらうが、要するに利益のためである。シナ流の名分論めいた思想からでもなく、今人のやうに皇室を國家の元首として考へ、上皇をその皇室の代表者と見たのでもない。さういふことは武士の思想とは交渉が無かつたのである。
 
 この時代の武士の思想について著者の見る所はほゞかういふものである。要するに武士には主從關係と戰闘に從事するといふ職務と、この二つから養はれた一種特殊の氣風があつて、そこに意地も情けも犧牲的精神もあるが、しかし、その根柢は、恩、即ち主人から受ける利益の觀念である。從つて一般的にいふと、時勢の推移やら主家の變勤やらなどで自己の生存が危くなる場合には、主從關係も破れ、それから養はれた徳操も壞れるのである。さうしてこの氣風なり徳操なりが現實の生活の體驗から自然に發生したものであつて、儒教とか佛教とかいふものによつて養はれたものでないことは、上に述べたところで明かであらう。さてこれらの思想は後世の武士に至るまでほゞ同樣のものであつて、いはゆる武士道がそれである。その武士道がこれから後、如何なる形で現はれ如何に發逢してゆくかは、次の「武士文學の時代」に於いて著者の考へてみようと思ふところである。
 
(648)  索引
 
   あ
 
愛國心 227,229−30,625
赤染衛門 292,312,336
赤人 山邊赤人を見よ
縣主 18
現つ神 20,169,220−1,433−4
草刈の傳説 329,371,603
飛島板蓋宮 53
飛鳥井雅經 524
東遊 279
東歌
 萬葉集の 123−9
 の作者126−7
 古今集の 291
吾妻鏡 472,623
あはれ 366,371,409,518−9
淡海三船 158
近江令 43
阿彌陀經 414−5,422,426
阿彌陀佛183,418,572一3,580,585
天語歌(アメノカタリウタ)96
天稚御子(天若御子)
 宇津保における 334,486,598−9
 狹衣における 455,486,573,598−9
在原業平 163−4,286−7,291,353
在原行平 285
 
     い
 
伊香の小江の傳説 175−6
易行道 578−9,582
生田川の傳説 329,350
池主 大伴池主を見よ
イサナキ・イサナミ二神の物語 83,85, 86
伊勢 292,312,320
伊勢集 288
伊勢物語 288
 の性質 322−3
 の滑稽趣味 324−5
 の製作年代 329
石上宅嗣 114,158
一俵天皇 271
嚴島經卷の繪 465
和泉式部 292,312,314,353−4,367,372,416,496,596
和泉式部日記 332,341
出雲國造神賀詞 99−100,108
石見女式 514
いひかけ(歌の修辭)302−4,527
伊預部馬養 176
今鏡 482−3
 の文章 492
今物語 591
今樣
 の由來 281,460
 の形式 410,461−2,492
 と和歌 462,552
 と民謠 281−2,461−2
 と和讃 410
 と民衆社會 282,459,552
 と貴族社會 459−62
 僧徒の文藝としで 281−2, 491,539
‘亡國の音’として 57
いろは歌 245,281
いろは連歌 553
隱逸の思想 172−3
因果應報觀 604−5
 
〔中略〕
 
(629)義家 源義家を見よ
慶滋保胤
 の往生記 418
 の池亭記 77,577
好忠 曾禰好忠を見よ
義仲 源義仲を見よ
吉野と文學 64−5,174−5
良岑安世159
ヨミの國 83−4,171
頼朝 源頼朝を見よ
 
    ら
 
洛陽田楽記 460
樂浪1,10−1,13
亂拍子 462
 
    り
 
留學生・留學僧 62,78,255
龍鳴抄 462−3
俚謠 459
凌雲集 159−60
陵王 445
梁塵秘抄 460,461,539
艮忍 578,582
令の制度 43,48−9,67,166,258, 261,263
林邑樂 281
 
   れ
 
靈魂上天の思想 171
歴史叙述
 と舊辭 82,86,92−3
 と榮華章物語 477−9
 と大鏡 480一2
戀愛観
 萬葉歌人の 141,192−200
 平安朝人の 355,372−4,557−9
 武士の 559
  (戀歌參照)
連歌 287,307,553,608
蓮華王院 458
蓮生坊 熊谷蓮生坊を見よ
 
    ろ
 
朗詠 252,271,296
老莊の思想 170−1,608
六條家(歌の)513,515,523
 
    わ
 
和魂漢才 439
和琴 55,273
和讃 245,281,410,464
和名抄 252
 
    ゑ
 
繪合 382,4467473
繪卷物 273,348,350′464−5
 
    を
 
袁祁命の物語 64,110
小野小町 291,306
小野篁 162,164,245,286−7,306
小野岑守 159
 
(649)   【文學に現はれたる】國民思想の研究 一 補記
 
一〇頁 一一行 以下、〔及びその製法〕を補入する。
一一頁  三行 以下、〔やその製法に關する知識〕を補入する。
一一頁  六行 以下、〔土器の形状や家屋建築の樣式などによつて推知せられる造形の意匠の優美であることも、その一例である。〕を補入する。
一三頁  九行 <筑紫の君主>を〔筑紫地方の小君主ども〕となほす。
二一頁  七行 この問題について、〔筑波、高山大嶺の神、海上交通の神、漁業の神、または市場の神、などの祭祀、〕の頭記がある。
二二頁 一〇行 <抑壓>の前に、〔甚だしき〕を加へる。
二二頁 一一行 以下、〔到るところに清らかな水が流れ、さうしてそれが同じく清らかな海山の色と相應じて、人の心を清くする。穩かではあるが明るい日の光がまた人の氣分を明るくする。〕を補入する。
三〇頁  六行 以下、〔民間傳承である點に於いて民謠と似たところがありながら、一定の詞章を具へてゐないところに〕を補入する。
三五頁 一三行 <殆ど用ゐられなかつた。>を〔用ゐられることが少かつた。〕になほす。
三八頁 一二行 <重臣の協議によつて處理せられる習慣>について、〔これを補説する〕の頭記がある。
四九頁 一四行 以下、〔昔ながらの神祇の祭祀や咒術が朝廷の儀禮とせられたことはいふまでもない。〕の補人がある。
五〇頁  八行 八行より一六行まで罫線でくゝり、〔天皇親政の問題〕の頭記がある。
(650)五七頁  九行 以下、〔明るいこと清らかなことを喜ぶ日本人には、この暗いところに入り奇異な佛像に面してどんなこゝろもちであつたらうか、〕 を插入する。
五七頁 一六行 この頁の終りに、〔佛像の非寫實的形相、説話の上に現はれてゐる光明皇后の病者を扱つたありさま、〕の頭記がある。
六二頁 一四行 この間題について、〔高岳親王より前に入印したものがあつた(?)〕の頭記がある。
七〇頁  七行 以下、〔兵を動かしたといつても、極めて狹い地域に於いて少數の豪族がその部民に武器を執らせたまでのことである。〕を插入する。
七九頁  九行 この問題について、〔古語拾遺の「吾勝尊」、「天津彦尊」、「彦火尊」、「彦瀲尊」、といふ名の書きかた、〕の頭記がある。
一二〇頁  九行 <「日本古典の研究」第四篇參照>に〔第四篇二五頁參照〕の指示がある。
一四〇頁 一六行 この問題について、〔かほどりの、ぬばたまの、の二首は、序詞が主想の情趣を助ける。〕の頭記がある。
一七〇貞  六行 以下、〔新羅に對して我が國のことを中國といつた例が雄略紀七年と八年とにある。この場合だけの筆者の考かも知れぬが、その一般的背景としては、やはり我が國を中國と稱する氣分が文筆をとるものの間にあつたのであらう。〕を補入する。
二〇四頁  八行 〔「みやび」の原意義は「宮び」で貴族的といふことか、〕の頭記がある。
二二八頁 一一行 <シナの土地、>の次に、〔シナの文化、〕の補入がある。
二三六頁 一五行 この問題について、〔明るきこと清きことが喜ばれたことをこゝに書きそへる、〕の頭記がある。
二四四頁  三行 この問題について、〔一綴音が一字とせられたことには、それが日本語の性質によく適合してゐるといふ理由もあらう、日本語には子音ばかりが獨立してはたらくことは無いからである。〕の補記がある。
(651)二四八頁 九行 この問題について、〔旋律の改定があつたこと、旋律及び調子の研究、それに關する用語の變化のこと、〕の頭記がある。
二五五頁  八行 <そこで>を〔このことについて〕となほす。
二五五頁 一四行 <シナの社會>の次に、〔シナの文化〕を補入する。
二五六頁  七行 段落につゞいて次の一節を加へる。〔我が國自身についていふと、唐朝が倒れ、それとほゞ時を同じうして新羅の王朝が覆り渤海が滅び、東方アジアの形勢に大變動が起つても、我が國は國家として何の動搖も生ぜず、超然として東海の上にその鞏固な地位を保つてゐた。〕
二八〇頁  二行 <同じ傾向>の次に、〔を示すもの〕を加へる。
三一三頁 一一行 この問題について、〔紫式部は「一ふしのをかしさ」をどういふところに認めたのか、〕の頭記がある。
三四二頁  二行 この問題について、〔和泉式部の詠歌の態度は直情直言であるが、作歌に當つては技巧を弄することが多い。この二つはどう調和するか。平安朝人の二面がそこに現はれてゐるのか。〕の頭記がある。
三五五頁  八行 <問題がある。>を〔問題があるのみである。〕となほす。
三五八頁  八行 〔父の帝が源氏の容貌のおのれに似てゐることに氣がつかなかつたのか。〕の頭記がある。
三六四頁  三行 〔平安朝の女に嫉妬があるか、三六九頁を見よ。〕の頭記がある。
三六七頁  八行 〔四九六頁をみよ〕の補記がある。
四三五頁 一四行 この間題について、〔歌集に於ける「神祇佛教」の分類「戀無常」のこれに伴ふやうになつてゆくこと。〕の頭記がある。
四三六頁  五行 段落につゞいて次の一節を加へる。〔この神代の觀念は、神といふ語によつて祭祀に結びつけられてゐると共(652)に、遠い昔の代、ものごとのはじめの時、といふ意義をもつてゐて、それにはこの意義での神代を讃美し尚慕する情念が含まれてゐる。〕
四四三頁  九行 〔理と非(後世の尤の草子に見えることと對照)〕の頭記がある。
四六九頁  四行 この間題について、〔義光の足柄山の物語は武士に管絃の嗜好のあつたことを示す、こゝに附記すべきであつた。(絃の話があるかどうか、しらぺてみるがよい。)〕の頭記がある。
四七〇頁 一三行 この間題について、〔平家のものが貴族文化をあれほどまでに領略し、彼等みづからその貴族的生活をするやうになつたのは、一般に武士が長い間にさういふ修業をして來たからである。〕の頭記がある。
四七一頁  二行 この間題について、〔この交錯または結合に日本の武士の特質がある。貴族的風習は武士的な心情と行動とを妨げない。さうしてそこに貴族的風尚の特色もある。〕の頭記がある。
四九六頁 一一行 〔三六七頁と對照せよ〕の補記がある。
五二五頁 一二行 〔新古今の撰には上皇の力が多くはたらいてゐるが、新古今の歌風の形成には定家の力によるところが多かつたと考へられる。〕の補記がある。
五三二頁 一六行 <別の意義>を〔別の情趣を表はすため〕となほす。
五三三頁 一〇行 段落につゞいて次の一節を加へる。〔本歌とりといふことは作者にも讀者にもそれ/\のはたらきがあるので、作者にとつては歌の着想を導き出すものとして、歌材をその歌から取るものとして、また歌の詞をそれから借りて來るものとしての用をするが、表現が間接になりまたは迂曲になるところにも意味があるし、讀者にとつては、本歌の情趣またはそれによつて聯想せられる情趣を新しい歌に移入することに重なる興味がある。〕
五三三頁 一一行 <獨立した一首としては、>の前に、〔表現が迂曲になり間接になるために一首の意義が曖昧になり、甚だしきは、〕を補入する。
(653)五四一頁  四行 〔「春の夜の夢のうきはし」の歌は、その主想は末二句にある。たゞ「わかるゝ」といふために「とだえして」といひ、「とだえ」といふために「うきはし」といひ、それに「夢の」を加へて成語を用ゐたことにし、また「夢の」といふために別の成語をとつて「春の夜」を加へたのである。だから第三句までは序詞なのである。けれどもこの序詞が「春の夜の夢」の覺めながらなほ見しおもかげの殘つてゐる風情を思はせる點からいふと、それが一首の主想となり「峰にわかるゝ横雲の空」は却つてその象徴となつてゐる。「夢の浮橋」といひ「春の夜の夢」といふ二つの成語を結びつけたのはそのためらしい。五二八頁に引いた俊成女の歌參考。山家集の西行の歌に「横雲の風にわかるゝしののめに山とびこゆる初鴈の聲」といふのがある、「横雲」と「わかるゝ」とを用ゐることに前例があるか。「春の夜の夢」は戀の歌に用ゐられる例がある。和泉式部の「君語るなよ春の夜のゆめ」もその一例。參考「風ふかば峯に別れん雲をだにありしなごりのかたみとも見よ」(新古今戀四)。〕の補記がある。
五四六頁 一一行 この間題について、〔聞書集にある「たはぶれ歌」をみよ(中に夫木集に採られてゐるものもある)。〕の頭記補註がある。
五五三頁  三行 <「いろは連歌」とかいふもの、>の後に、〔または五十句百句の連歌〕を加へる。
五五三頁  七行 <言語や風習の變遷から>の前に、〔百句などについては次篇にいはう。〕を補入する。
五五九頁 一六行 〔梁塵秘抄に見える俚謠の戀、その表現法、〕の頭記がある。
五八五頁  九行 <決定せられてゐる淨土往生の實現……>の前に、〔歎異抄に記されてゐる如く〕を加へる。
六〇〇頁  五行 <超人間の意志>を〔超人間の力をもつ何ものかの意志〕となほす。
       〔2019年6月26(水)午後6時55分、入力終了〕