津田左右吉全集第5巻・【文學に現はれたる】國民思想の研究 二、岩波書店、627頁、4300円、1964.2.17(87.1.26.2p)
 
     まへがき
 
 この一卷は大正六(一九一七)年に公にした「武士文學の時代」の改訂版である。改訂の主旨と態度とは「貴族文學の時代」のまへがきでいつておいたのと同じであるから、こゝではそれをくりかへさない。書きかへたところは前卷ほどに多くはないが、それでもかなりの部分を占めてゐる。少しづゝの添削を施し文字を改めいひかたを變へることは、全卷にわたつてどの頁にも行つた。さうしてかゝる添削變改にも重要な意味をもつものが少なくない。
 舊版の出版せられた時から後に世に現はれた多くの學者のいろ/\の研究によつて、この書の考説が或は陳套になり或は無用にさへなつたところがあるであらう。また或はそれに誤謬のあることがわかつて來た場合もあらう。しかし今一々それを檢討してゐる餘裕が無いから、わたくし自身が訂正しなければならぬと氣のついたところのほかは、その考説を舊版のまゝにしておいた。なほこの卷で考へたことに關しては、時代の下るに從つて、新しく發見せられまたは世に紹介せられた文學上の作品、これまでは手にしがたかつた資料が出版せられてそれを閲覽することの容易になつたもの、などが次第に多くなつて來るが、やはりそれらを十分に利用するだけの餘力が無いために、それによつて考説を新にすることのできなかつたところが多い。これらの部分については、四十年近くも前のわたくしがこゝに書いてあるやうな考へかたをしてゐたといふこと、またそれには多くの誤謬なり缺點なりがあらうから、その叱正を世の學者に乞ひたいと思つてゐるといふこと、を讀者が諒知せられるならば幸である。たゞ第三篇のキリシタンに(2)關する記述には、近年になつて行はれた諸家の業蹟に負ふところの甚だ多いことをこゝに告白し、それに對して深い敬意を表する。但しキリシタンのことについてのわたくしの見解は、わたくしだけのものである。
 次に出すべき「平民文學の時代上」の卷は、今その補訂に從事中である。
 校正と索引の製作とは、前卷と同じく、クリタ君とコバヤシ君とを煩はした。重ねて兩君に感謝する。
        昭和二十七年八月     つださうきち
 
(1)   目次
 
第一篇 武士文學の前期……………………………………一
     承久ころから興國正平ころまでの約百五十年間
 第一章 文化の大勢………………………………………一
 第二章 文學の概觀 上………………………………三一
      擬古文學
 第三章 文學の概觀 下………………………………六〇
      戰記文學
 第四章 政治思想と國家觀念…………………………九七
 第五章 道徳思想……………………………………一二二
 第六章 超人間の力と殺伐の氣……………………一四六
 第七章 古典趣味と新來のシナ趣味………………一六一
第二篇 武士文學の中期………………………………一七九
     北朝の應安時代から文明ころまでの約百三四十年間
 第一章 文化の大勢…………………………………一七九
(2) 第二章 文學の概觀 上…………………………二二〇
      總説
 第三章 文學の概觀 中……………………………二四三
      物語、舞曲、謠曲、狂言
 第四章 文學の概數 下……………………………二八五
      擬古文學 附 いはゆる五山文學
 第五章 武士の思想……………………………………三一六
 第六章 因襲的思想……………………………………三三七
 第七章 政治思想及び處世觀…………………………三五九
第三篇 武士文學の後期…………………………………三八一
     明應ころから寛永ころまでの約百五十年間
 第一章 文化の大勢 上………………………………三八一
      戰國時代
 第二章 文化の大勢 下………………………………四一二
      江戸時代の初期
 第三章 文學の概觀 上………四四七
      武士と文學、文學の舊典型
(3) 第四章 文學の概觀 下……………………………四七七
     文學の新氣運
 第五章 武士の思想………………………………………五一三
 第六章 儒學、佛教、神道、及びキリシタンの思想…五五六
 第七章 隱遁思想及び浮世主義…………………………五八六
 
索引……………………………………………………………六二二
 
(1)     第一篇 武士文学の前期
        承久ころから興國正平ころまでの約百五十年間
 
       第一章 文化の大勢
 
 頼朝が政權をその手に收めてから約三十年の後、承久の役に京方が失敗したことによつて、鎌倉の權威はいよ/\固められた。全國の武士の上にその權威が確立したと共に、守護地頭として全國に配置せられた武士が、次第に國衙と莊園との上に壓力を加へていつた。朝廷は一切の政治を幕府のなすがまゝに任せて、皇位の繼承までも一々その意に從ふやうになつた。世は純然たる武家政治の時代となつたのである。しかしこのことには我が國の政體にとつて重要な意味がある。遠い昔からの風習として、從來とても天皇はみづから政權を行使せられず、從つて國政の責任はおのづから時の權家が負ひ、天皇はその上に超然たる地位をもたれることになつてゐたが、藤原氏でも平氏でも朝廷の内部にあつてその勢威を振つたのであるから、彼等と皇室との關係には微妙なものがあり、保元平治の亂も壽永の役もそのために起つたのであるが、遠く京を離れて鎌倉に本據をもち、朝廷の外に幕府を建てて、そこから天下に號令した源氏及びその後繼者には、かういふことが無くなつたので、政治の上に於ける天皇の超然たる地位は一層明かにせられ、すべての責任が權家に歸して天皇には累を及ぼさない、といふ我が國に特殊な政治形態とその精神とが、か(2)くしてます/\固められるやうになつたのである。頼朝もその女を入内させようとしたが實現せられずして終り(愚管抄)、後に親王が名義上の將軍として鎌倉に迎へられるやうになつても、宮廷と幕府とは別々の存在であつた。次には日本の政府としての幕府の機構が簡易單純であつて、令の制度による朝廷の形態の煩縟なのとは甚しき違ひがあり、さうしてそれが唐制の影響から全く脱却した、日本人の創意による日本に獨自な、ものであるところに大きな意味のあることをも、考へねばならぬ。これは幕府がその配下の武士によつて全國民の上にその權力を用ゐたからであり、政治の運營に交渉の少い儀禮的のしごとが朝廷に委ねられたからでもある。
 しかしこの時代を武家の世といふのは、單に政權が幕府に歸したからといふばかりではなく、社會組織の骨組みが武士によつて形成せられ、武士が社會的活動の中心となつたからでもある。もつともこれは事實上、前代から漸次馴致せられて來たことではあるが、幕府の政權が確立して武士の存在が合法化せられた頼朝の時代から、いよ/\動かないやうになつたのである。そこで武士といふ一種の中等社會が存立するやうになつた。さうしてそれと共に、過去の貴族のとは違つた武士の家族形態がほゞ定まり、後世の一般の家族制度がそれをもととして次第に形成せられてゆくことになる。これもまた武士に於いては前代から漸次馴致せられて來たものであつて、その由來は武士の成立の基盤となつた民衆の家族形態にあらうと推測せられる。さて後にもいふやうに、鎌倉幕府の政治はこれらの武士の所領を保護するのが主なる目的であつた。けれどもかうして武士の生活が一應安定すると共に、幕府の權威によつて世の平和が保たれたために、武士に隷屬する農民の生活も、一面の事實としては、またおのづから安定を得たことが推測せられる。
(3) けれども一般の武士には文化上の修養がなほ淺かつたから、この方面に於いては京の貴族が昔ながらの地位を失はずにゐる。國衙から來る租税も莊園の收入も昔ほどでないことは勿論ながら、それによつてともかくも朝廷を存立させ貴族の生活を或る程度まで維持させることができる。さうして朝廷と共に文化の中心である大寺院もそれ/\の莊園を有つてゐる。さうして世は鎌倉の政治の下に平和であり、朝廷も貴族も種々の儀禮的年中行事を行ふ外には殆どすべきことが無いから、京はやはり貴族等の遊戯的生活の舞臺である。但しそれとても、もう久しい間沈滯してゐる昔の文化の名殘を惰力で支へてゐるのみであるのに、財力が次第に減殺せられてゆくのと、政治上の權威が無くなつたために意氣が銷沈してゐるのとで、活氣はます/\無くなり、規模はいよ/\小さくなるばかりである。けれども、朝廷の年中行事などはともかくも行はれてゐる。ところ/”\への行幸啓もある。それらのことについての故實先例は、貴族に特有な知識として尊重せられる。儀禮などに用ゐられる屏風繪や貴族生活を描いた給卷物の類も作られる。歌合をしたり百首千首の歌を讀んだりすることは依然として盛であり、連歌に至つては前代にもまして流行し、歴代の天皇にもそれを好ませられるかた/”\があつた。閑暇の多い大宮人などの遊戯として、また事業の無いものがその才能を示すせめてもの方便として、財力を要しないかういふことに力が注がれた、といふ一面の理由もあらう。勅撰集も新勅撰を初めとしてその後しきりに世に現はれる。昔ほどでないにしても宮女の間に文藻のあるものもある。儒家の學問もまた繼承せられ、後宇多院花園院また後醍醐天皇に於いて最もよく知られるやうに、歴代の天皇も多くはその修養に勉められた。これは一つは皇室が文化上の活動にその主力を注がれる昔からの傳統の故でもあり、一つは從來よりも一層政務に遠ざかつてゐられたからでもあるが、また天皇の御嗜好と御努力とのためでもあつた。もつとも(4)花園院や後醍醐天皇は、舊來の學風を繼がれると共に新來の宋學にも耳を傾けられ、顯密二教の學を承けられると共に禅僧を召してその談をも聽かれたが、それとても傳統的な儒學や佛教の學問の素養があられたからのことである。かゝる状態で宮廷及びその周圍の貴族によつて舊來の文化が相承せられてゐたのである。それのみでない。日常生活に於いてもまた前代からの遺風が殆どそのまゝに傳へられてゐたことは、増鏡などの記載によつても知り得られる。
 舊來の學問が相承せられながら新來のものも採用せられるといふことは、一つの意味に於いては、みづから造らずして他から與へられるものを何によらず學習することであるが、これは當時の貴族文化の一般的樣相であつた。文藝の上に於いて歌と共に連歌が好まれ、管絃の御遊が行はれると共に後にいふやうに民間演藝の賞翫せられたのも、その例である。必しも新舊の別のあるものに限らず、性質の違つたものを併せ取るのも、その態度は同じである。學問的の意味を含む種々の著作を見ても、我が國の古典の記載やシナ思想や佛教思想やを思ひ/\に、またシナ思想に於いても相互に矛盾し齟齬するところのある儒家道家陰陽家五行家などの説を雜多に、取入れてそれらを綴り合はせるのが、一般の風習であつたことが知られる。その最も著しいものは、この時代に形を成した神道に關するものであつて、北畠親房の作といはれてゐるが實は著者の不明な元々集の如きもそれである。この書はいはゆる伊勢神道の思想を繼承したものであるが、その伊勢神道の經典に擬せられた多くの著作が、後にいふ如く、こゝにいつたやうな態度で書かれてゐた。これにはシナの儒家や佛家の考へかたを繼承したところもあるが、この時代の文化の状態にも關聯がある。音樂に關する述作に於いてシナ思想や佛教思想を附會したもののあるのも、また同じ例と見なされよう。たゞ愚管抄や神皇正統記が、シナ思想や佛教思想によるところがあるにしても、著者の獨自の見解によつてそれ/\の全篇が構(5)成せられ、一貫した精神をもつてゐるのは、この時代の著作としては特異のものである。時勢に對する深憂または自己の主張と行動とは對する所信が、その著作の動機となつてゐるからのことであらう。徒らに種々の知識を外に求めるには、著者の心情があまりに眞率であり或は熱烈であつたのである。
 さて宮廷及びその周圍の貴族に於いては、前代の文化が衰へながらもなほ持續せられた。しかし朝廷の尊嚴の象徴として考へられてゐた大内裏は、荒廢のまゝに打ち棄てられてゐる。名ある寺院堂塔も風に倒れたり火に燒かれたりすると、それを復興することは容易でない。法勝寺の阿彌陀堂や蓮華王院などは、皇室の祈願でできたものだけに、どうかかうか再建せられた(法勝寺の阿彌陀堂は四條隆親が備中を給はつて造進したと百錬抄にある)。藤原氏の權力と平安朝文化との絶頂に立つて有らん限りの榮華を一身にあつめた道長の、最も力を籠めた記念物であるかの法成寺の如きは、徒然草の著者をして「大門金堂など近くまでありしかど、正和のころ南門は燒けぬ、金堂はその後倒れ伏したるまゝにて取りたつるわざも無し、無量壽院ばかりぞその形とて殘りたる、」と記させたではないか。もつともその間には、公經の西園寺や後嵯峨院の嵯峨の御堂など、新に建立せられたものもあり、道家の東福寺の如く新來の禅宗を中心に規模の大きい寺院の經營せられたこともあるが、前代に比すれば寥々たるものといふべきであらう。たゞ宮廷や貴族の直接の庇護を受けてゐない大寺院の財政は、この時代になつても、宮廷貴族の財力の減殺せられたのとは違ひ、政權の幕府に移つたために大なる影響は蒙らなかつたらうから、その寺院を維持し多數の僧徒を養ひ、かたの如き種々の法會を華やかに營むことができた。顯密二教の學匠が絶えなかつたことはいふまでもない。だから寺院の需要に應ずる美術工藝もさして衰へなかつたであらう。寺院の縁起や高僧の傳記や、その他、佛教もしくはそ(6)の經典に關する説話などを畫いた繪卷物の多く作られたことをも、考ふべきである。しかし貴族生活のためのでも寺院のためのでも、技巧と題材とは變化は生じたにしても、概觀すれば前代からの繼承であつて、新時代に新精神があつてそれがかゝる藝術によつて表現せられた、といふやうなものではなかつた。この時代のかういふ藝術に剛健勁勇の氣があるとし、それを武士の風尚と關聯させて解しようとするやうな考には、種々の疑問があらう。禅宗の堂宇の建築に見える特殊の樣式の如きは、當時のシナのの摸倣であるから、我が國に生じた變化ではない。
 けれども時勢の變化は文化の上にも種々の新現象を生じた。昔から引つゞいてゐる文學に於いても、その活動の中心が貴族社會の外にも生ずるやうになる。歌には定家の子孫が家を分ち派を立てて相爭ひつゝも、なほ宗匠の權を握つてゐたが、いはゆる鎌倉時代の末には、頓阿などが出て歌界に於ける一方の重鎭となつた。連歌ではそれよりも前の寛元寶治のころに、道生、寂忍、無生、など、毘沙門堂や法勝寺などの花の下に集まつた地下の好士が、勢力をもつてゐたのを初めとし、後には善阿が出、その門から救濟などが現はれて、連歌界を支配した(筑波問答)。また物語に於いては、一方に貴族の手によつて擬古物語が作られたけれども(無名草子)、廣く世に行はれたのはそれではなく、この時代になつて新に出た戰記物語であつて、その作者は多分僧侶であつたらう。かういふ現象の見えるのは、歌連歌を玩び物語を讀むものが貴族以外の社會に多くなり、從つて文學の中心が漸次その社會に移つてゆくことを示すものである。さて貴族に專有せられてゐた文學がかうなつてゆくと共に、民衆の間から起つた演藝が貴族社會にも接近するやうになつたので、猿樂や琵琶法師などは宮中にも召され(禁秘抄、百錬抄、花園院宸記、など)、安嘉門院は昔の郁芳門院にもまして白拍子や田樂の類を好まれたといふ(増鏡北野の雪)。郢曲が貴族の間にもてはやされ(7)たことはいふまでもなからう。少し趣は違ふが、繪卷物の題材として武士の行動や民衆の生活が用ゐられるやうになつたことも、こゝに附記してよからう。
 かういふ趨勢であるから、種々の民間演藝はこの間に漸次發達したので、歌舞に於いては、前代から傳へられた今樣や白拍子などの外に、早歌や曲舞の類がある(遊學往來)。また猿樂には大和近江などの諸座が形成せられ、田樂にもそれを專門にするもの、いはゆる本座新座の田樂法師があり、南都北嶺を初めとして石清水などの貴族的な神社佛間の祭禮法會などに於いても、それらが定例として演奏せられるやうになつた。勿論その技藝はまだ粗野の域を脱せず、猿樂は滑稽な物まね、田樂は刀玉高足などの輕業めいたものと鄙びた歌踊とが、その主なるものであつたらうが、しかし晴れがましい場所で演奏せられるやうになると、その技藝も次第に精練せられてゆく傾向はあつたであらう。
 さてかうなると、貴族と平民との世界は、雙方から幾らかづゝ近づいて來たやうに見え、また連歌の會が狼籍になつたり賭物を目あてにすることが行はれたり、怪しげな點者などが出たりするやうに、民衆化した貴族文學がその品位を失ふと共に、猿樂や田樂などに上記のやうな傾向が生じて來たものの、概していふと貴族文學と民間演藝とはなほその間に明かな區劃がある。文權漸く民間に移らうとしても、貴族は何處までも昔ながらの文藝をその本領としてをり、民間濱藝は貴族に愛翫せられても、その活動の主要なる舞臺はどこまでも民間である。貴族はその力が衰へたとはいへ、社會上の地位は昔のまゝであり、さうしてその地位を維持してゆかれるのは、彼等が昔からの貴族文化を繼承してゐるからである。從つてこの文化を失ふことは即ちその地位を失ふことであるから、貴族等はどこまでも昔(8)の文化の品位を失はぬやうにしてそれを保持しなければならぬ。のみならず、世は如何に變化しても彼等貴族は、何の新しい事業をも企てず何の新しい活動をもしないのであるから、彼等にはその承け繼いでゐる昔の文化の範圍外に一歩でも踏み出さうとする衝動が無い。また民間のものは、一般の知識の進歩と、太平の世に生まれて生活を高める餘裕ができたとのため、今までは手の屆かないものとしてあつた貴族文藝を高いところから引き下ろすやうになつたものの、文化の上では、彼等みづから新しい方面に新しい活動をするだけの素養をもたないので、その娯樂の料とせられた民間演藝は、やはり民間演藝として低い地位に置かれ、從つてそれに大なる進歩が無かつたのである。だからこの時代は、貴族文藝は衰へ民間文藝はまだ發達しないといふ状態であつたと見なければならぬ。たゞこの時代の民間演藝を資材として、また素地として、次の時代の能が漸次形成せられてゆくことによつても知られる如く、民間のものには將來の發達を孕んでゐたことが考へられねばならぬ。(こゝに民間といひ民衆といふ語を用ゐたが、これは貴族に對する稱呼とするに便宜だからのことで、その實は主として中等社會を形成してゐる地方の武士を指すのである。下文にも同じ意義で用ゐるつもりである。)
 しかし民間の文化とはいつても、それを導きそれを誘發し、またその中心となつてゐたものは、僧徒と寺院とである。武家も神佛を尊崇することは昔の公家に劣らないから、上にも述べた如く南都北嶺の如き大寺院は概して舊來の状態を維持してゐた。さうして一方に朝廷の勢力が減退してゆくから、文化の中心としてはこの方が重きをなすやうになつたのである。文藝に於いては特にさうであつて、唐高麗の樂すらも朝廷よりは寺院の方に盛に行はれてゐたらしく、民間演藝に至つては殆ど寺院によつて發達したといつてもよい。今樣や白拍子の起源が寺院にあるばかりでな(9)く、猿樂も田樂も主として寺院に於いて演奏せられ、また延年舞とか聖道舞倶舍舞とかいふやうな歌舞、または多武峯樣とか群猿樂とかいふ猿樂の一種などが、僧侶の娯樂として寺院内に行はれ、これらは何れも後の猿樂の能の形成に少からぬ關係がある。寺院そのものとは直接の交渉が無いが、宴曲などの大多數は僧侶の作であり、その曲節も、白拍子の歌などと同樣、みな佛家の聲明から出てゐるらしい(宴曲集など)。さうして民間に於ける歌連歌の中心人物が法師であり、戰記物語の作者が僧侶であるとすれば、僧侶がこの時代の文藝の中心であつたことがいよ/\明かである。武人に文藝の修養が淺い時代に於いて、舊くから貴族文化の一要素であつたと共に、宗教といふものの性質上、一般社會に接觸することの多い寺院僧侶が、かういふ地位を占めるやうになつたのは自然の徑路であらう。
 
 以上は京を中心とした文化の状態である。鎌倉ではどうかといふと、源氏三代の間に移植せられた京風の文化は、北條時代となつてもそのまゝに保持せられ、特に攝家の子弟や皇族を將軍として迎へてからは、その御所は一個の小宮廷となつて、増鏡の著者をして「關の東を都の外としておとしむべくもあらざりけり」(つげの小櫛)といはせたほどである。殿閣調度とその間に於ける日常生活とが京風であることはいふまでもなく、方違ひをするとか陰陽師に祈?をさせ僧侶に修法をさせるとかいふ風習までも、宮廷同樣に行はれ、娯樂としては和歌連歌の會が常に開かれ、或は柿本影供を行ひ或は源親行に瀕語の談義をさせ、御所の番衆に歌道蹴鞠管絃郢曲等の藝に堪能なものを選ぶまでに至つた(吾妻鏡)。この風習は一般の武士にも感化を及ぼさずにはおかないので、特に歌連歌などは漸次彼等の間にも行はれ、勅撰集にもその詠が採られるやうになり、新勅撰は武士の歌が多く入つてゐるから宇治川集と呼ばれた(10)といふ話(井蛙抄)さへもある。東撰和歌六帖といふやうなものが撰ばれたり、冷泉家の爲相が鎌倉に下り(家集)、藤谷の新式として連歌の式目を定めた(筑波問答)といふのも、かういふ氣運を示すものであらう。勝長壽院や箱根伊豆には、南都北嶺をまねて管絃舞樂が行はれる。幕府の行事としても、鶴岡や三島などの祭禮には神樂を奏し、寺院では法華八講及びその他の花やかな法會が營まれ、すべてが京風を摸してゐる(吾妻鏡)。學問もまた京人によつて導かれたので、金澤文庫の如きものも建てられた。必しも鎌倉武士にのみ關することではないが、かの平治物語繪卷またはそれに類する戰爭を主題とした繪卷がこの時代に書かれて來たのも、その愛翫者のうちには教養のある上流武士があつたと推考せられる點に於いて、これと同じ趨向が見える。さうして戰爭が主題となれば技巧の上にもまたそれにつれて新傾向が生じ、貴族生活を描寫したものとは違つた情趣が現はれる。武士の行動を語るものとしてのいはゆる戰記物語の現はれたことは、いふまでもない。尚像畫も多く作られたらしく、それには禅僧の風習によつて助けられた意味もあるが、また名を後世に遺さうとする武士の思想とも關係があらう。
 さて、世は泰平であるのに上記のやうにして京風が鎌倉に行はれては、武士の風尚に惡影響を及ぼす虞があるので、泰時や時頼はこれに對して武藝の奨勵に意を用ゐねばならぬやうになつた。しかし武士が京風を學ぶのは、おのれらよりも高い文化の空氣に接しようといふ、自然の欲求の現はれであるから、法令の力などでそれを抑へることはむつかしい。けれども當時の武士がそれ/\土着してゐるのと、多數の武士は急に京風の文化を領略するほどの素養が無いのとのため、この京風の行はれるのも多くは幕府を中心としてのことであつた。さうして一般武士の娯樂は概して白拍子や猿樂田樂の民間演藝であつたらしく、上流階級のものに於いても、古風の管絃舞樂よりは今樣の延年などが(11)喜ばれたのであらう。北條高時が田樂を好んだことは有名な話である。たゞ和歌などはそれが一種神聖なもののやうに思はれてゐたのと、どこにゐても作りも讀みもすることができるのとのため、かなり廣く武士の間にも行はれていつたらしく、今川了俊のやうな歌人が武士の間から現はれてゆくのも偶然ではない。足利尊氏が歌を好んだのもその由來は遠い。概していふと武士もどれだけかの程度で京風の文化を尊尚してゐたので、そこに彼等の教養の一面があつた。
 京や鎌倉を離れたところはどうかといふに、昔の平安朝時代とは違ひ、守護地頭として全國に配置せられた武士がそれ/\の地方に定住することになつて、それに資力があつたのと、幕府の政治が一とほり行きとゞいてゐて、地方が昔の如く疲弊してゐなかつたとのため、一般に地方の文化も進んで來たらしい。さうして平和の世として交通は概して安全になり、武家の常として寺院は崇敬せられたから、當時の文化の一大要素であつた僧侶等が、京鎌倉と地方との間を往復することも多くなつたに違ひなく、また武士も京や鎌倉に勤務するので、それらは何れも地方の文化の發達に幾らかの補ひとなつたであらう。しかしそれによつて學ばれたのは昔ながらの貴族文化ではなく、寺院と僧侶とを中心として京に於いて發達した民間的のものであることが想像せられる。室町時代には田舍遠國諸社の祭禮に猿樂を興行したといふが(世阿彌花傳書)、これは鎌倉時代からの風習であつたらうと思はれるから、一般にかういふ民間演藝は廣く各地方に行はれたのであらう。その他のこともこれによつて類推せられる。
 いはゆる伊勢神道が形成せられそのための種々の著作が現はれたのも、地理的にはやはり地方でのことである。これは神宮の所在地といふ特殊の事情から生じたことであつて、それは佛教に於いて南都などの大寺院の所在地が宗派(12)的にそれ/\の學問の中心となつてゐたと同じであり、京の學問界と密接の關係をもつてゐたことも、また似てゐるが、ともかくもかういふ事實があるので、それがこの時代の新現象であるところに一つの意味がある。伊勢神道は外宮を主位に置いて神宮の由來を説明するところにその主旨があるので、日本人の民族的風習としての神に對する民衆の信仰とは、殆ど交渉の無いものであるが、しかし神宮の性質から考へると、この神道に含まれてゐる思想はその他の地方の神人にも何等かの影響を及ぼし、後にいふやうな當時一般に優勢であつた佛教本位の神道説の傍に、或はそれと混合して、その存在が認められるやうになつたのではあるまいか。
 こゝまで述べて來たところを概括して考へるに、前の時代から文化の上に漸次頭を擡げて來た民間的要素は、この時代となるとます/\發達して、おぼろげながら或る形を具へ、舊來の貴族文化の外に立つて一つの地位を占めるやうになつてゆくことが知られる。昔は文化の社會が貴族と都會とに限られてゐたのが、この時代には、地方に根據を有つてゐる武士が社會的活動の源となつてゐるだけに、さういふ社會にふさはしい文化が低級ながらにともかくも形成せられてゆくのである。だから全體から見ると、文化の範圍が廣くなつたのではあるが、それは舊い貴族文化が國民全體に及んだといふよりは、むしろ地方人なり武士なりが彼等みづからの文化を造り出すやうになつてゆくといふ方が適切であるかも知れぬ。勿論その文化の資材は貴族文化から得たものではあるが、直接に貴族から採つたといふよりは、寺院と僧侶とによつて傳へられ導かれたのである。從つてこの時代には、政治上に於いて京と鎌倉と、即ち公家と武家とが、對立してゐたと同じく、文化の上に於いてもまた、貴族のと民衆のとがほゞそれ/\の領分を有つてゐたのである。後にいふやうに文學に於いてもこの二つの分野のあることが認められる。
(13) 民衆の力が文化の上に現はれたことは、寺院が勸進によつて造られる場合のあつたことなどからも察せられるので、京の祇陀林寺、鞍馬寺、鎌倉の大佛、などがその例である(百錬抄、吾妻鏡)。勸進は東大寺大佛殿の再建に於いて既にその例が開かれてゐるが、それは朝廷もしくは寺院の力のみで造營ができなかつたからであり、これは貴族等の保護によらずして建立をしたのであつて、何れもこの方面に民衆の力の現はれたことを示してゐる。宗教そのものに於いても、親鸞でも一遍でもまたは日蓮でも、主として民衆の間、地方人の間、に法を説き、民衆の力によつて事をしようとしたので、この點に於いても新時代の平民的宗教は、宮廷と貴族との保護の下に發達した昔の佛教とは趣を異にしてゐる。民間信仰の對象として大黒天や夷三郎がこの時代からそろ/\現はれかけたらしいが、これもまた信仰の上に民衆の力の現はれたことを示すものである。福を祈るといふことが既に民衆的傾向を有つてゐる。たゞ新來の宗派としての禅宗は却つて貴族の保護を受けたので、一二の例をいふと、京の東福寺は九條道家によつて、南禅寺は龜山上皇によつて創設せられ、建仁寺や鎌倉の諸寺院も、武家とはいひながら、幕府の力で作られたのであるが、これは一つは、禅宗そのものの性質が宗教として民衆の間に行はるべきものでなかつたからである。曹洞の一波を傳へた道元は、世間から離れて靜かに越前の山中にその徒を集めてゐたが、これも民衆の信仰とは關係が少い。かういふこともあるが、一般的には種々の方面に於いて民衆の力の世に現はれて來たのがこの時代の主なる傾向である。これは政治上に於いて地方人としての武士の力によつて建てられた幕府が政權を握り、武士によつて世の秩序が立てられたのと同じ趨勢である。
(14) 禅宗のことを考へると、問題はおのづから當時のシナとの文化上の交渉に及んで來る。シナの商船の來航は前代から引きつゞいて行はれてゐるのみならず、我が商舶もまた彼の國へ往航するやうになり、それによつてシナの貸錢が得られたのみならず、工藝品などは依然として我が國に齎らされた。禅宗が傳へられ禅僧の往來が頻繁になつたのも、またそれがためである。禅宗がいかなるものであり、それがこの時代になつて初めて傳へられたのが何故であるか、またそれの弘められた理由がどこにあるか、といふことは後章の問題として、こゝにはそれによつて、長年月の間わが國に行はれて來た顯密二教とも、また新にわが國に興つた法然や日蓮の宣傳したものとも、趣の違つた新奇なシナ的佛教として邦人の目に映じた禅宗が、そのシナの叢林の規制や風習を伴つて入つて來たことをいふにとゞめる。しかしそれはわが國の諸宗派に更に一つの宗派を加へ、僧侶の生活、堂宇の建築およびその莊嚴、または種々の儀禮、に幾らかの新樣式新形態を添へたのみであつて、佛教界そのものを變革したのではない。却つて舊來の諸宗派と妥協した一面もある。さうしてそれよりも重要なのは、禅僧の傳へた宋元の文藝の摸倣が在來の文藝の傍に徐々に試みられてゆくことであるが、それの著しくなるのは、次の時代に於いてである。次にはいはゆる宋學の書の多く傳來したことをも知らねばならぬ。これにも禅僧の關與したところがあるが、それを傳へまた講習したものは、必しも彼等には限らない。さうして花園天皇や後醍醐天皇がそれに耳を傾けられたのでも知られる如く、宮廷や貴族の間にもその學説が少しづゝひろがつてゆくやうになり、いはゆる神道者のうちにもそれを利用するものが生じたが、それもまた舊來の儒學の外に一つの新學説を加へたのみであり、それによつて儒學が革新せられたのではない。當時に於いて國民の精神生活に寄與するところがあつたといふやうなものでないことは、勿論である。要するに、この時代のシナとの交(15)通は、昔の奈良朝前後のとは違つて、我が國の文化に大なる影響は無く、たゞ幾らかの新刺戟をそれに與へたのみであつた。それほどに當時の我が國には獨自の文化が形成せられてゐたのである。政治形態はいふまでもなく文藝の上でも、現實の状態としてはシナの影響がます/\薄れて來たことは、上に述べたところからも明かである。學問的性質を含んでゐる愚管抄や神皇正統記も、シナには例の無いもの、何ごとにも王朝の更迭を目標とするシナでは書き得られないものであつて、そこに日本人の創造した史書の新形態があり、その點では大鏡などから一すぢの絲を引いてゐる。戰記物語が同じく日本人の創意に成つたものであることは、いふまでもない。しかしさういふものの作られたのは、それだけの智的能力を過去の文化の長い歴史が養つて來たからである。貴族文化はその活力が次第に弱められて來たけれども、その盛時に?釀せられたわが國に特殊な風尚は、深く國民の精神生活に浸潤し、その生活の展開につれて新樣相を呈しつゝ、歳月を經るに從つて漸次新時代の新文化を生み出してゆくのである。たゞ知識の上もしくは文字の上でのシナ尊重の風習は依然として變らず、從つて知識人の述作にはシナ的要素が多く見られる。禅僧の齎らし來つたものが受入れられてゆくのも、かゝる素地があるからである。生活そのものとそれを表現することとに於いては自己の獨自性を失はないが、知識の上ではシナの文物を尊重した、と前卷にいつておいたことは、この時代でも同樣であり、また後になつても同じである。
 かういふやうに對外關係は平和な文化上の交渉としてのみ考へられてゐたこの時代に、突如として我が國に襲ひかかつて來たのは、蒙古であつた。蒙古の興起、その大陸征服、及び半島侵略の形勢は、殆ど我が國には知られず、從つて幕府もそれに對しては何の警戒もしてゐなかつたが、半島の高麗を從屬させた餘威を以て我が國に服事を要求し(16)て來るに及んで、それを拒絶すると共に、始めて西海の防備に意を致した。さうして日本武士の活動が文永弘安の兩戰役によつて彼の野望を挫折させた。これは地理的には我が國が海によつて半島と隔離せられてゐるからである。この間幕府は「異國征伐」によつてその禍根を除かうとする意向を懷いたこともあるが、實行はしなかつたし、蒙古もまた弘安の役後には軍を出さなかつたので、海波はまもなく靜穩に歸した。この戰役に刺戟せられた國民の興奮も次第に鎭靜した。さうして平和の使命をもつた商舶が依然として我が國とシナとの間を往復するやうになつた。「から國いかに筑紫路の春」(紫野千句)といふやうな句の作られたのも、そのためであらう。たゞ敵國外患の無い世になつたことは、我が國の爲故者に國家の統一に意を注ぐことを忘れさせたのであつて、後に南北朝時代の内亂が長く續いたのも、一つはそのためでもあつたらう。
 
 鎌倉の幕府は京の貴族政府に代つて政權を握つた。それは久しい間事實上世を動かしてゐた武士が、表面に出て組織だつた政府を形づくつたので、その武士の勢力を代表して現はれた源氏は、平氏のやうに貴族政府の舊樣を摸して公家風の衣冠を着けることをしないで、甲冑姿そのまゝで世に立つたのである。さうして源氏が京に出ずして鎌倉に踏み留まつたのは、祖先傳來の根據地にゐて武士の實力を頼みにしようとする用意から來たことではあるが、それがおのづから政治の上に於いて京に對抗する地方の勢威を表象することになつたのである。ところが武家政府の力は個人の力ではなくして多數人の力である。恩賞と情けと譜代の關係とで主家に維がれてゐる多くの家人郎黨の力である。だから幕府がその力を維持するには、どこまでもこの覊を鞏くしなければならず、それには思賞を厚く且つ正しくし(17)なければならぬ。幕府の政治の根本主義はこゝにあるので、それが成功すれば全國の武士は悉く幕府の思ふまゝになつて、その力は即ち暮府の力となるのである。
 源氏に天下を取らせたのは譜代の家人であつたけれども、幕府の武士を統御する機構が大きくなつて時代が隔つて來ると、主從の愛情は薄らいで殘るところは利害の關係である。源氏が天下を取つてから後に幕府に服從した武士は固よりであつて、それはたゞ強者たる權力者に隨從することによつて自己の生存を計つたに過ぎない。だから多くの武士はおのれらの領地が安全で、また新しく働く場合にはそれに相應した新しい恩賞が得らるれば、それでよいのであつて、必しも權力を有するものの家系如何を問はないやうになる。北條氏が幕府の實權を握ることのできたのはこれがためで、和田とか三浦とかの騷ぎがあつても、それが多數の武士を動かすに至らなかつたのもまたこの故である。だから泰時や時頼は全力を盡してかゝる武士を懷柔したので、貞永式目などを見ても、幕府政治の最も大切なものは所領の處置であつたことがわかる。おのれらの生活を質素にしたのも、裁判を公平にして寃抂の無いやうに努めたのも、畢竟は自家の權力を鞏固にするために武士を心服させる手段であつた。武家政治の民主的傾向がこゝにあつたので、それは武家の權力の根柢が多數の武士にあつたからである。
 しかし如何なる政治もあらゆるものを滿足させることはできず、不平家は何時の世にもある。さうしてさういふものは世に事あれかしと私に祈つてゐる。のみならず、戰争があつてこそ働きもでき利益も得られる武士は、その身分と職業とから來る固有の性情として、亂を好むものである。戰爭があるから武士が生ずるのではあるが、武士があるから戰爭が起るのでもある。承久の亂も、かういふところに少からぬ關係があつたらう。文永弘安の役に於ける武士(18)の奮闘は敵に對する、特に外敵に對する、武士的精神の發現ではあるが、一面の意味に於いては、この役は泰平に倦んでゐる武士には恩賞を求めるに絶好の機會でもあつた。竹崎季長の話の殘つてゐるのはこれがためである。かういふ状態であるから、北條氏の政治が宜きを失つて、武士どもが幕府のなすところおのれらに利あらずと考へるやうになると、彼等は漸くそれに背を向ける。幕府によつて所領を安全にすることができなければ、新に信頼すべきものを上に戴くか、さもなければ自己の力で所領を支へ、またはそれを大きくしなければならぬ。幕府と全國の武士とを維いであつた恩賞の絲が切れれば、武士はその本色を現はして實力を以て自己の生活を維持しようとする。多數の武士によつて支持せられた幕府はこゝに於いてか崩れねばならぬ。高時の時に至つて北條氏が仆れ、引き續いて南北朝の騷ぎになるのはこれがためである。
 しかし騷亂の氣を孕むものは武士ばかりではない。その主なるものは南都北嶺及びその他の寺院の僧兵であつて、幕府の力が或る程度にそれを抑制した場合もあるが、なほ依然としてその勢を振ひ、しば/\暴動を起し狼藉をはたらいて都鄙を騷がせた。寺院の地位爭ひ權威爭ひや所領爭ひがそれを誘致したのではあるが、神威佛力の名によつて朝廷をも幕府をも威嚇し得ることに誇りを感ずると共に、その有する武力を何ごとかに用ゐようとする衝動が強くはたらいたのでもある。戰爭の場合には、武士の配下のものでありながら雜兵どもになると、敗軍の將士や寺院民家に對して掠奪を縱にしたので、義仲の亂にも承久の役にもそれが行はれたが、僧兵が武力を用ゐようとする誘惑の一つはさういふところにもあつたらしい。非合法的であつた武士は合法的な存在となつたけれども、僧兵はいつまでも非合法的な暴徒であつた。武士とは違つて操守も信義もなく、たゞ利によつて動くのみのものであつた。次には山賊海(19)賊の徒であるが、これには、守護地頭などがその所管の民衆に對する賦課を重くしてその生活を脅かし、彼等のうちの浮浪性のあるものを驅つてかゝる群に投ぜしめる場合もあつたことが考へられるので、概觀すれば民衆の生活が幕府の權威の下にほゞ安定してゐた間に於いて、かゝる事實もまた所々に見られたのであらう。力を用ゐることを本色とする武士には、民衆に對してもかゝることにその力を用ゐるものがあつたと推測せられる。この時代から朝鮮半島の海岸を荒しに出かけたいはゆる倭寇は、武士が横みちに外れてそれに加はつたものがあつたかも知れぬが、その主なるものはかういふ賊徒であつたらう。(倭寇の史上に見えるのは高麗の高宗十年、即ち我が後堀河天皇の貞應二年が初めであるが、その甚しくなつたのはずつと後の忠定王二年、即ち我が後村上天皇の正平五年からである。)さうして幕府の權力の崩壞はこれらのものに新しい活動の機會を與へるのである。
 しかし北條氏の仆れた誘因としては別に京鎌倉の關係がある。承久の役後、政權は全く京から離れてしまつた。蒙古事件の如き國家の大事が起つた場合には、幕府もその經過を一々朝廷に報告し、朝廷でもまたその處置について講ずるところがあつたが、幕府がその獨自の決意を以て事に當つたことはいふまでもない。また平時に於いても、朝廷にはなほ院政の形態が殘つてゐて、官位の授與と或る範圍内での莊園の處分とがそこで行はれてゐた。また院も天皇も、その御心情に於いては、もしくは思想としては、日本の君主として國のため民のための貴き責務を有することを自覺せられてゐた(花園院宸記など參照)。蒙古來侵の際に於ける龜山院の御行動もまたそこから生じたことである。しかし事實上、國政には關與せられず、從つてまた上に述べた如くそれについての責任の無い地位にゐられた。だから皇室としては專ら文事に力を注がれたが、朝廷のしごととしては儀禮的な公事を行ふのが殆どその全部であつた。(20)が、それは實は一種の遊戯でもあつた。後深草天皇の時、節會などの公事を女房にまねさせて御覽ぜられたといふ話があるのを見ると(増鏡烟のすゑ/”\)、その公事は朝廷に於いてすら遊戯視せられてゐたことが知られる。たゞ公卿には官位があるので、さういふ遊戯世界に於いても、彼等はやはり人よりは上に立ちたい。さうしてその官位の源はどこまでも皇室である。だから大覺寺統持明院統の御位爭ひがあれば、それ/\に加擔するものがあつて、小さな黨派ができる。兩統の更迭の際は、むかし攝關の代つた場合のやうに、多數の公卿は舊を去り新に就いて少しでも榮達を計らねばならぬ(同上老の波、柘の小櫛)。同じ系統のうちでも早く御位を譲らせられるやうに希望するものさへある(同上秋のみ山)。兩統の御位爭ひはかくしてます/\深酷になり、後には持明院の上皇がその系統の皇子の立坊や即位を神に祈られるほどになる。が、物質上の利益を動かす權力は鎌倉にあるから、公卿等はまた爭つて鎌倉に追從する。兩統交立といふことの考へられたのもこのことと關係があつたかも知れぬ。
 けれども、利益のために鎌倉に追從はするものの、長い間の因襲的思想と、なほ文化の優越を誇ることができるとのため、一面には東夷として鄙として鎌倉を卑み(増鏡柘の小櫛など)、朝廷が「無下の民」(同上新島もり)に制肘せられることを喜ばないものもある。さういふものに於いては、承久の失敗以來鬱屈してゐた反幕府の感情がなほ底の方に流れてゐる。是に於いてか、幕府の處置に對して何等かの不平があるもの、または意地があるものは、機を見て現状を打破しようと志す。鎌倉が武士に信ぜられなくなつたのは、恰も京にこの機會を與へたものであつた。大覺寺統の活動がそこで始まる。それは一面の意味に於いては、承久の企ての再演とも見なされたが、たゞ時の事情のために院の事業として行はれたのでないことが、それと違つてゐる。さうして院政に對して天皇親政の形になつてゐた(21)ことがおのづから幕府政治の打倒、朝權の回復、といふ企圖と契合するところがある。しかし大覺寺統が反幕府の態度をとられたため、持明院統はおのづから幕府の側に立たれることになり、その統の天皇や上皇は、或は大覺寺統の行動を狂氣の沙汰といひ(花園院宸記)、或は幕府の勝利を神に祈られるまでになる。從つてまた兩統の對立が武士の行動と關係を生じ、南北朝の抗爭を誘致するやうになる。この點に於いては保元の亂や壽永の役の再現であるといつてもよい。
 しかし京には何の實力も無い。武士の政府を仆すには武士の力によらねばならぬ。是に於いてか鎌倉に親しみの薄い、或は京に何等かの縁故のある、近畿の武士を頼む。利益があるならば何人の身方にでもなる僧兵にたよる。「世に恨みあるもの」(増鏡くめのさら山)は時到れりと飛び出す。變に乘じて所領でもふやさうと思ふものは旗色を見て靡いて來る。「幸にこの亂出來して萬乘の君の御方に參す」る山賊(太平記卷八)、「錦の御旗をさし上げる山賊強盗あふれもの」(同卷九)さへもあるといはれた。靡いて來るものはともかくも、亂暴狼藉の限りをつくして常に朝廷を脅かした非合法な僧兵を頼まうとせられたのは、京のこの企てのいかに無理なものであつたかを知るに十分である。しかし僧兵は頼むに足らなかつたし、身方になる武士どももなほ少かつたために、京の企ては一度は失敗した。けれども鎌倉のぐらつき出したのを見て次第に旗色をかへる武士が多くなり、幕府の本據の關東武士である足利新田の二氏が急に身方になるに至つて、遂に成功することができた。いはゆる建武中興が即ちそれである。武士の政府を仆したものは武士である。後醍醐天皇の播遷に際して「物見車ところせきほど」(増鏡くめのさら山)にならべ立ててお祭のやうに見物してゐた京人の力ではない。光嚴院の即位を見て忽ちそなたに奔り、後醍醐天皇の還幸に會ふと(22)忽ちこなたに集まるやうな公卿輩の力ではない(同むら時雨、くめのさら山、月草の花)。さて、武士の力によつてではあるが、後醍醐天皇はかくして名實共に日本の君主となられ、遠い昔から絶えてゐた天皇の親政が一たび復活した觀がある。天皇が年中行事を書かれた意味もこゝにある。
 武士の力で作られた建武の新政府は武士をその權力の中心としなければならぬ。名義のみの朝廷の官職は昔のまゝながら、實際の政務を處理するところとしては、鎌倉幕府の簡易な制度をそのまゝ適用したやうな政府の新設せられたのは當然である。しかし武士が鎌倉を仆したのは、京の政府を建てるためではなくして、おのれらの所領を安全に保持するために、頼みにならぬ北條氏に叛いたのみである。もしくは新しい恩賞にあづからうとして京の身方に參したのみである。彼等を懷柔するには彼等の欲望を充たさねばならぬが、彼等の欲望は飽くところがない。この困難がある上に、京人は京人で鎌倉を仆したのは京の威勢であると考へ、武士の實力を認めない(神皇正統記後醍醐天皇の條參照)。京人は時勢に疎くして、何故に幕府が倒されたかといふ處の理由を明かに悟らなかつたのである。さうして政權の京に回復せられたのに調子づいて、武士を懷柔するよりは朝廷の尊嚴を示さうとする。それには費用がかゝるが、その費用は諸國の武士の負擔となる。その上に京の公家は武士の事情に闇く武士の生活氣分を解しない。武士の上に立つものとしては、公家は本來不適當なのである。だから恩賞は不公平で綸旨は掌をかへすやうにしば/\變る。武士からいふと、京の新政府はもとの幕府よりも一層おのれらに不利益な、あてにならない、政府である。だから武士は鎌倉に叛いたと同じく、忽ちこの半できの政府に叛いてしまつた。一つ仆した勢でその次のものを仆すは容易のことである。この間の消息を十分に知つてゐる關東武士の足利尊氏が、源氏といふ耳に響のよい名を名のつて旗(23)を擧げるに至つたのは、さうして全國の武士が相率ゐてその下に集まつて來ると共に、初めにはさまででなかつた尊氏自身の欲望も、またそれと共に次第に増長し、終に新しい幕府の起されるやうになつたのは、勢の自然である。下剋上といつても何といつてもしかたがない。武士の力のあるところに實權がついて來る。日本の君主としての天皇の親政はかくして崩れはじめた。實は親政が天皇に政治上の責任を負はせたのである。さてこの尊氏は大覺寺統の朝廷に反抗するに必要な名義のため、また鎌倉時代以來の關係から、持明院統を上に戴く。權力ある武家の保護を得なくては生活に窮する公卿どもが、爭つて武家方に參加するのは、いふまでもない。是に於いてか北朝が成りたつた。
 しかし大覺寺統を戴いてゐる朝廷は新しく起つたこの武家政府とは妥協しない。そこにはどこまでも朝權を樹てようといふ熱情があり強烈な意欲がある。神器のあるところが正統であるといふ主張がある。爭ひとなれば勢の非なるを見てそれを挽回しようといふ意地が生ずる。その間には公家ながらも武人らしい勁勇の氣象が鍛錬せられる。逆境に處るものの互に相助け相憐むといふ美しい人情が光を放つ。昔は花の盛を白雲とのみながめられた吉野の山奧を根據として、南朝の朝廷が微弱ながらも武家の勢力に對抗しようとしたその意氣は、壯といはねばならぬ。さうして弓矢を手にしながら花にも月にも吟味を怠らなかつたその君臣の風懷がそれに特殊の美しさを添へる。さて武家に對抗するにはやはり武力を要する。ところが地方の武士には、自己の所領と勢力とを維持するために、武家方に從ふことの不利益なものもあり、武家方のものと競爭する上から、それに反對の態度をとらねばならぬものもある。さうしてまた、たまには切つても切れぬ情誼の宮方と結ばれてゐるものもある。吉野の朝廷はさういふ武士の勢力を身方にすることができた。南北朝の對立は是に於いてか生じたのである。これは皇室についていふと、兩統の爭ひの形をかへ(24)た繼續であるが、思想的には朝廷と幕府との對立の繼續であり、さうして實際にそれを動かしたものは武士の力であり、武士と武士との爭ひであつた。
 もとより武士の大部分は武家方についてゐるが、それには、武士といふ職業の上から、將軍の名を帶びまたは源氏を稱してゐる足利氏に對して一種の親しみを懷くと共に、鎌倉時代からの因襲によつて幕府の統御を喜ぶ情もあつたではあらうが、それよりも重大なことは彼等みづからの利益が得られるといふ點にあつた。だから「重賞の下には勇士ありといふ本文」があるといはれる(梅松論)。軍がある毎に軍忠目安軍忠捧状が幕府に殺到する。「證人なくして死したらば何ともなき徒事犬死」(源平盛衰記卷三七)、そんな愚かな武士はない。是に於いてか、武家方についた武士も不利益なことがあれば何時でも離れる。離れると便宜上宮方になる。時には足利氏の内訌によつて同じやうな擧動に出るものも生ずる。さうして一度は宮方が京師を回復する。當時にあつては、勢力の優劣を決するものは武士の根據としての地方の向背であつて、京ではないが、吉野の朝廷は、昔ながらの心ならひで、京に歸ることを常に夢みてゐる。その夢が一たび實現せられるのであるが、それはまた忽ちにして破れ去る。宮方は幾度もかういふ武士に弄ばれたが、宮方は弄ばれたにしても、武家方ではそれだけ權力が固定しない。長い間動かなかつた世を動かすことは容易でないが、一旦動き出すとそれを固めることは却つてむつかしい。動くことそれみづからに勢が生じ、とめようとしてもとめ難い。或は動搖の空氣が一般にひろがりまたそれに慣れて來ると、人はそれを常のことと思ひ、靜止してはゐられなくなる。混亂の空氣に刺戟せられて、確かな理由も無く明かな目的も無く、人々が動きだす。固定した世には動くことは不安であるが、動いてゐる世には靜止することが不安になる。だから「天下の人、五度十度敵にな(25)り身方になり、心を變ぜぬは稀なり、故に天下の爭ひ止む時なくして合戰雌雄未だ決せず、」(太平記卷二九)。その心變りも「僅かに慾心を含みぬれば身方になるも早く、聊かも恨みあれば敵になるも易し、」(同卷三九)である。敵となり身方となる恨みも恩も無いものでも、騷ぎがなくては利益が得られぬ。「我れとは事を起し得ず、あはれ謀反を起す人のあれかし、與力せん、」(太平記卷三一)と思ふものも多く、さういふものが機あれば動いて火事場泥棒をはたらく。こゝかしこの僧兵もまた同じ泥棒になる。その上あふれ者どもが多くゐる。山賊、海賊、野ぶし、山だち、混雜の間に利益を得ようとするものは、勝てば就き負ければ離れ、去住自在にして拘束することができぬ。それらのものも動亂の氣を助けて、宮方と武家方といふ旗じるしの下に長い間の爭亂がつゞく。さうしてそれによつて民衆の生活は甚しく困厄し、それがまた場合によつては騷擾と動亂とを助ける。
 要するに鎌倉幕府と全國の武士との間に維がれてゐた恩賞の絲が北條の覆滅によつて斷たれたために、武士はその中樞を失つて一旦ばら/\になつてしまつたのを、建武中興の政府が收拾して新しい恩賞の絲をこれらの武士に維ぐことができなかつたから、そのあとを承けついだ足利の幕府がそれを維ぎなほしたのであるが、維がうとしても維がれない武士があると共に、一たび切れた絲はまたしても切れ易いので、それがために生じた混亂と動搖とが南北朝時代の紛亂となつたのである。だからこの紛亂は、鎌倉幕府の覆滅によつて幕の開かれた劇の自然に展開したものであつて、建武中興の後新に始まつたことではない。更に適切にいふと、恩賞の獲得を根本の主義としてゐる武士が基礎となつてゐる社會の當然の成り行きである。この動亂は容易に方がつかなかつたが、大勢上多數の武士は力の弱い宮方に心を傾けはしないから、この大勢に對抗する南朝君臣の苦慮も熱情も努力も、多くはそのかひが無く、興國の元(26)號に託したその希望も實現の期待は次第に失はれてゆき、正平のころには、事實上、武家方の勝利が確定的になつてしまつた。これが武家に對立するものとしての公家の權力の最後の失墜である。
 こゝでしばらく保元平治以來の幾たびかの政治上の紛亂を囘顧してみよう。それらの生じた事情としては、昔からしば/\生じた皇室の内部に於ける地位または勢力の爭ひ(保元の亂)、院政とそれに對する不滿と(同上)、權臣の間の確執もしくは權勢の爭ひ(保元及び平治の亂)、院政と權力者の權力との對抗(後白河院と清盛との關係、承久の亂)、などが考へられるが、それらが戰亂となつて現はれたのは、武士が關與しまたは武士が權力者であつたからであり、さうしてそれは武士によらなくては、または武士でなくては、また或は武士の權力を抑制しなくては、權力を得または保つことができない時勢となつてゐたからである。或は武士の活動欲權勢欲または武士の間に於ける權勢の爭ひ(源平二氏)が、皇室の内部や權臣の間の紛爭を激成してそれを戰亂化し(保元及び平治の亂)、またはそれが戰亂と共に皇統の對立を誘致し(壽永の變)、さうしてその戰亂によつて勝利を占めた武士が政權を握ることになつたのである(清盛及び頼朝)。ところが一度び政權を握つた武士の勢力は、武士の支援をうけないものがそれを抑制することも伸すこともできない(承久の役)。政權を得るには戰勝によらねばならぬことが保元平治の亂によつて明かにせられ、壽永の變によつて確かめられたので、さういふ經驗の重ねられたことが京方をして承久の企てをさせたのであるが、多數の武士はそれを支援しなかつたのである*。この後には戰亂は起らなかつたけれども、その代りに武士の政權を背景として皇統對立の状態が生じた。かくの如く世を動かすものはすべて武士であつたが、それは武士がそれ/\土地民衆を領有して到るところの地方に鞏固な根據をもつてゐ、さうしてその首領が朝廷に權勢を得また(27)は幕府を立ててそれを主宰したからである。義仲の失敗は、義仲の人物にも當時の情勢にもよることであつたが、地方に根據をもつてゐる武士を多くその配下にもつてゐた頼朝とは違つて、それをもたなかつたところにその一原因があり、平家の覆滅は西國のさういふ武士に背かれたところにその主因があらう。西國の武士の背いたのは平家の勢威が衰弱したからであつて、それには種々の事情があり、京都を維持することができなかつたこともその一つであるが、頼朝の武力に抗敵する力の無かつたことがその主なるものである。
 もう一つかういふことが考へられる。保元及び平治の亂は、權力の所在が確立してゐないところにその一原因があつた。院の權力といふものも實は鞏固なものではなかつた。權力の地位が動かし易いもの取つて代ることのできるものと思はれたために、戰争が企てられたのである。武士として初めて權力を得た平氏の、またそれに代つた源氏の、その權力も、武力を根據としてゐたためにその點では鞏固なものであつたが、何れもそれを得たことが急速であつて歴史的感情が伴はなかつたために、やはり動かし易いものと思はれた。治承壽永の戰も承久の役もそれから起つたのである。源氏を繼承した北條氏は承久の勝利の記憶が長く殘つてゐたのと、歳月の經過につれて幕府といふものに歴史的權威が加はつても來たのとで、その權威は確立したもののやうに思はれてゐたが、その權力の基礎が多數の武士の心情にあるところに危機が含まれてゐたので、その心情の動きは隱約の間に世人によつて感知せられなくはなかつたのである。
 後醍醐天皇の朝廷の企圖に端を發した戰亂には、保元以來幾たびかの紛亂を生じた種々の事情が、たゞ權臣間の確執と院政に關することとの二つを除けば、それ/\違つた形に於いて或は異なつた色彩をつけてではあるが、すべて(28)具はつてゐた。また天皇は院の地位にはゐられなかつたが、武士に對する關係は後鳥羽院と同じであつた。天皇の朝廷の企圖の一時的成功によつて成立した新しい朝廷が、もし武士の信望を得てそれを統御することができたならば、それは朝廷が幕府の權威と任務とを吸收することになつて、それによつて世は、少くとも一度びは、平和に歸したであらうが、事實としてそれができなかつた。そのために新しい幕府が別に起つて武士の大部分を服屬させたけれども、服屬しない武士はなほこの朝廷に連繋をもつてゐた。武士の勢力のこの二分が朝廷と幕府との抗爭となつて現はれたが、皇統の對立がそれと結びついてゐたために、それが二つの朝廷の對立といふ形をとることになつて、戰亂がますます激しくなつた。さうして、保元以來の戰亂の生じた諸事情が同時にそのはたらきを示したと共に、一たび幕府政治の世を經たことによつて生じた時勢の變化が、戰亂を長びかせ、それによつて武士の活動にも新しい情勢が生じた。彼等の向背去就の常なきこと、從つてまた南朝の朝廷も幕府もその權力の不安定なことが、その重要なものである。戰亂のために權力が安定しないが、安定しないために戰亂が息まないのでもある。後醍醐天皇の朝廷が僧兵を頼みまたは利用しようとしたのも、後白河後鳥羽の院廳または都落ちの前の平氏の既に試みたことであるが、長い間常に朝廷を惱まして來た非合法的な、さうして去就常なき、暴力團たる僧兵が、かゝる勢力を得たと共に、その僧兵を鎭壓することが重大な任務の一つであつた武士もまた、同じ性質の暴力團となつた、といつても過言でないほどである。
 かう考へて來ると、後醍醐天皇の朝廷の企圖が失敗したのは、朝廷が保元以來の戰亂の如何にして起つたかを解しなかつたことが、主因であつたと推測せられる。中間の一時的成功は鎌倉幕府に對する武士の離叛といふ、朝廷にとつては偶然の、事情のためであつた。勿論、北條氏の滅亡は朝廷の企圖が機會となつたには違ひないが、その企圖が(29)無くとも滅亡すべき時には滅亡したであらうし、その滅亡の後には、北條氏に代つて鎌倉の幕府を繼承するものがおのづから生じたでもあらうから、朝廷にはそれを承認する方策があつたと、今からは考へられる。しかしさういふ方策を思ひつかなかつたのが、元弘の擧の企てられた所以であり、承久以來の一部の京人の反幕府感情の發露であつた。さうしてそれは、藤原氏や平氏の時の状態とは違つて、朝廷の外に幕府といふ實力政府の建てられたことが、皇室の權威を損ふものの如く錯覺したところから來てゐる。かゝる事情で戰争が起されたために、その自然の歸結として、南朝の天皇に政治上の責任が歸することになり、却つて北朝の皇統によつて、天皇みづから政治に與られない、皇室の傳統的精神が保持せられるやうになつたのである。たゞ後醍醐天皇の企圖は、強者の力に依頼することによつて自己の地位を保たうとするのが常であつた、京人の風習に反抗したものであるところに、當時に於いては、一つの意味があつたので、その後の南朝君臣の意氣によつてそれが繼承せられた。
 
 この政治上の變動は文化の上にも影響を及ぼす。武家の力によつて存立する北朝の朝廷では、地方が戰塵に蔽はれてゐても京師は平靜を得てゐるために、型の如き儀禮を行ふこともでき、歌集の勅撰さへも行はれた。しかし朝廷は武家に對して何等の權力も無いと共に、國衙も公卿の莊園も漸次武人に押領せられるやうになつてゆくので、多くの貴族の生活は次第に窮迫する。太平記(卷三三)に公家の困厄を敍してあるのは幾分の誇張もあらうが、事實もそれに近かつたらしい。公家にょつて衣食してゐたものに至つては、その多數は生活の資を失つたであらう。洞院公賢が牛を有つてゐなかつたなどは、北朝有數の有職で尊氏などの顧問ともなつてゐたものであるだけに、まだ/\よい方(30)である。かうなると物質の上から舊い京の貴族文化を維持することができなくなる。その上、多年の戰亂で寺院などにも兵燹に罹るものがあり、京の樣子も變つてゆくと、長い間惰力で保たれて來た貴族の文化はます/\勢を失ふ。もつとも一方には急に勢力を得て京に出た成り上りものの田舍武士があつて、そのうちには上に述べたやうに幾分か貴族文化の空氣を呼吸したものもあつたらうが、その多くは財力が豐かであつたために俗惡な奢侈を極め、博奕や遊女にそれを費すといふ風であつたから、彼等が直ちに貴族の文化を繼承することはできなかつた。しかし彼等も京に出ては建武の時に於いて既に「着つけぬ冠、上の衣、持ちも習はぬ笏持つて、内裏交り珍らしや、」(建武年間記)といはれ、「下剋上する成り出で者」も幾分か京風を學ぶやうになり、特に吉野に對する政策上の必要から尊氏が幕府を京都に置いてからは、將軍などの虚榮心と一種の武士貴族ができたといふ社會状態とが誘因となつて、更にこの趨勢を強める。それと共に一方では時勢を左右する實權が武士にあるため、「いひも習はぬ坂東聲を使ひ、着もなれぬ折烏帽子に額を顯はして、」武家風をまねる公家も生ずる(太平記卷二一)。「京鎌倉をこきまぜて一座そろはぬえせ連歌」(建武年間記)の行はれるのはこれがためで、京と田舍とが混淆するやうになる。土臭い猿樂や田樂が發達していはゆる能の新演藝を形づくるやうになつてゆくのもまたこの趨勢を示すものである。要するに今までは京の貴族と地方人とは別々の文化を有つてゐて、その間に深い交渉が無かつたのに、實力の武人にある政權の中心が京に移り、地方の武士が新政府に重要なる地位を占めるやうになると共に、この二つが混合する傾向を生じたのである。が、さういふ勢の特に著しくなるのは幕府の權力のほゞ固定する義滿の時代からで、それから文化史の次の時代に入つてゆくのである。
 
(31)     第二章 文學の概觀 上
         擬古文學
 
 この時代の文化に、衰運に向つた貴族文化と興隆の氣を含む民衆文化との二潮流があるとすれば、文學に於いてもまた同じ現象のあることが推測せられる。さうしてかういふ文化の大勢から見ても、また前代の文學からの歴史的推移を考へても、その貴族文學は概して平安朝文學の摸倣であることが知られよう。歌は盛に作られた。けれどもその題材も思想も舊態依然としてゐて、前代に行はれたやうな意味に於いて技巧の上に新奇を求めることすら無くなつた。擬古的小説も少からず世に出た。しかしその多くは摸擬でなければ改作である。讀者の側からいつても、「源氏狹衣たてぬきにおぼえ」ること(十訓抄第一)がこの時代の貴族の修養であつた。古物語の註釋(水原抄、紫明抄、原中最秘抄、弘安源氏論議)、批評(無名草子)、そのうちの人物を論評すること(伊勢源氏十二番女合、源氏人々の心くらべ)、または歌をぬき出して見ること(拾遺百番歌合、源氏狹衣歌合、風葉集、など)、或は古物語の増補(山路の露)、などが行はれたのもまたこれに伴ふ現象で、新しく作るよりは古いものを玩弄する方が好まれたのである。弘安源氏論議の終に古今集の序を摸して、源語の註釋の由來を述べてゐるのを見ても、當時の思想の傾向が知られよう。
 
 しかしともかくも一應かゝる状態での貴族文學を觀察して置かねばならぬ。その第一は歌であるが、これについて(32)最も著しいことは、今さらいふまでもなく、定家の子孫が歌の宗匠の家となり、而も爲家の三子から分かれた二條京極冷泉三家の間に歌に就いての意見が違ひ、特に二條家の爲世と京極家の爲兼との間に甚しい確執が生ずるやうになつたことである。またかの十六夜日記に見える二條冷泉二家の所領の爭も歌道の上に影響してゐる(延慶兩卿訴陳状の一節)。のみならず、二條家と京極家とはそれ/\大覺寺統と持明院統とに特殊の關係が結ばれ、兩統の更迭と共に勅撰集の撰者としての勢力の消長が生ずるやうにさへなつた。歌道といふ語が行はれ、その道に師匠ができ、その間に競爭の風が生じたことは、既に前代からの傾向であるが、それが一つの家に定まり、流派が分れても家系の分れに於いてせられ、從つて家系と歌の教とが結合せられるやうになつたのは、歌といふものがます/\生氣を失ひ文學としての價値を低めて來たことを示すものである。前代からの風習を繼承していはゆる歌道に關する著作が多く現はれたが、それもまたかゝる家系による歌風の維持にかゝはるところの多いものであつた。仙覺の萬葉の抄の如き純然たる學術上の述作もあるが、これはむしろ特異のものである。
 さて繊巧の致を極め絢爛の趣をつくした新古今調の流行した後には、却つて平明な風體が尚ばれるやうになり、定家自身の撰んだ新勅撰に於いてもその傾向が見えることは、既に諸學者が説いてゐる。これは一つは、思想や題材が一定してゐて、たゞ技巧より外に新しさを求めることのできなくなつた歌に於いて、その技巧の發達の頂點に達した新古今調よりは、もう一歩も前へ進めなくなつたため、轉じて平明の境に足を向けようとした故でもあり、事物の推移に通例である反動の勢もあり、また一つは、一般に意氣が銷沈して、何ごとにつけても調子が低くなつて來た故でもあらう。勿論これは、必しも一々の作者の歌風の變遷をいふのではなく、勅撰集によつて當時の趣味の嚮ふところ(33)を概觀したまでのことである。定家の後を承けた爲家は天成の才人ではなく、勉勵して纔かに歌人といはれるまでになつたのであるから、その歌が奔放自在な、色彩の絢爛たる、ものでないのは自然のことであるが、それが恰もこの氣運に適合したので、歌界はます/\さういふ傾向を強めたのである。新古今調の高潮に達した時代の定家に對しては、當時既に初心のものはそれを學ぶべからずといふ説(後鳥羽院口傳)もあつたが、後になると爲家の妻の阿佛尼も、新古今を「あまりにたはぶれ過ごし」たものといつてゐる(夜の鶴)。爲家が、父(定家)の歌は殊勝であるが歌を知らぬものには撰擇がむつかしく、おのれの歌は何人が見ても支障が無い、といふやうなことをいひ、爲世が、俊成は幽玄で及びがたく定家は義理深くて學びがたい、たゞ爲家の體を學ぶべし、といつたと傳へられてゐるなども(水蛙眼目)、よくこの傾向を示すものである。ところで、平明を尚べば新奇を避け造語を嫌はねばならぬ。爲家は是に於いて一つ橋を渡るやうに用心してよめといひ(水蛙眼目)、新樣の詞や主ある詞を制し、漢詩の心や本歌あることを詠むのをも抑へた(詠歌一體)。多くの「べからず」を並べ立てたのもこの故である。十體といふものを更に細分して種々の體を設け、初心のものはこの體を學ぶべからずかの體を好むべからずといふやうな制限を立てたのも、多分この派のもののしわざであらう。いろ/\の體のあることをいふのがそも/\歌を型にはめようとするものである。もつとも十體といふことを説いたり初心のものは萬葉の如き古體を詠むべからずといつたりしてある毎月抄が、もし眞の定家の消息であるとすれば、かういふ傾向を導いたものは定家であつたと言はねばならず、二條家の歌風は定家に淵源があるとすべきである(順徳院の御集に人々が十體をわけてよんだ時に長高樣幽玄樣を詠ぜられた御製のあること參照)。歌が技巧の點からのみ見られた時代に於いて、歌の師範としてそれを教へるといふ態度からかうなつ(34)たのであらう。しかしかういふ歌の教が、人を導くに詞を先とし外形をやかましくいふことになるのは、自然の勢である。
 しかし二條京極兩家の爭を見ると、三代集などの證本や文書を傳へてゐるとか、または口傳を受けてゐるとか、いふやうなことをいひ立てて、互にあひては歌道の辨へが無いと罵るのみであつた(延慶兩卿訴陳状)。三五記、愚見抄、愚秘抄、桐火桶、の類の定家に假託して作られた偽書も、概ねこの間の著作らしい。これらは必しも宗匠家で作つたものでないかも知れず、また今日に一卷として傳はつてゐるものも、幾人かの手を經て増補せられ添加せられたらしい形跡もあるが、ともかくも流派の爭とそれに乘じて歌を神秘にしようといふのと、二つの動機から作られたことは「當家最秘の口傳」とか「當道の秘旨」とかいふやうなことをいつてゐるのでも明かであつて、つまり歌道の本家爭ひの結果である。從つてこれらの書の著作は、歌を作る指南にするとかまたは歌の法則を述べるとかが主なる目的ではないので、これが前代の歌を説いたものとちがふ點である。これらのうちで三五記は二條家の主張を述べたものであるらしく、また愚見抄は西行と實朝とを賞揚し、特に實朝を人丸赤人にも恥ぢず萬葉に入れても遜色が無いといつてゐる(但し不器の前には恐るべきものとしてゐる)ことや、冷泉家の門人でひどく二條家を攻撃してゐる今川了俊が、それを推擧し且つそれを引用してゐること(辨要抄)、などから見ると、或は冷泉派に關係のあるものかも知れぬ。愚秘抄の上卷の方は愚見抄を取つたところが多く、近代秀歌によつて「寛平以往」の語を用ゐたり、俊頼をほめたりしてゐるところもあるが、大體の調子は三五記と共に二條派系統のものの口つきである。愚秘抄の下卷や桐火桶の「古今三ケの大事」をいつてゐるところなどは、或はずつと後世の添加かも知れない。
(35) もつともこれらの抄物には、歌を作るについての細かな心得もあるが、それも題の詞を詠みこむのはよくないとか、名詞どめはいけないとか、或は百首などを詠む場合に晴れの歌(特別に人の注意をひくために工夫を凝らした歌)と地歌(晴れの歌でないもの)とが要るとかいふやうなことであつて、心と詞との關係につき、詞は古きを慕ひ心は新しきを求むといつた(近代秀歌)とは違つて、或は詞は新しく心は古かるべし(愚秘抄)といひ、また或は心を古風にその詞を先達にならふ(愚問賢註)といふなども、畢竟言語を弄したまでのことである。歌の教としては取るにも足らぬことの多いこれらの抄物が尊げにもてはやされたのでも、當時の人の歌といふものに對する態度がわかる。それは根本をいへば、詩人でないものが詩らしいものを作らうとするところから來るのであるが、このころでは、一般文化の沈滯と共に貴族等の知識が退歩したのと、また時代の遠ざかるに從つて古文學を領解することができなくなつたのと、もう一つは、古來文學に縁の遠かつた平民社會のものが歌に手を出すやうになつたために、さういふものをあひてにする必要があるのとで、歌の教といふものがかういふ風になつたのである。
 但しこれらの書に於いても、歌そのものの本意を説く場合には必しも妄誕のみではないので、「寛平以往の風體」を主張するのに理由のあることは勿論、三五記の鷺本に「歌はたゞ打ちながめて聞くにしみ/”\と聞ゆる」をよいとし、「ものの理をも風情をも、いひ盡さんともせでなびらかなるが、いかにもおもしろく、よき歌にて聞ゆるなるべし、」といひ、愚秘抄に松體、竹體、澄海體、といふものを説いて「何時聞くも聞きさめもせず、麗はしく正しきが、さるからに興あるを、この體とすべし、」といひ、また感情を誇張して有りさうにないことを詠むのを非難してゐるなどは、二條家の平明主義無難主義の色彩を帶びてはゐるが、一面の眞理としては聽くに足るものである。さうして(36)かういふやうな歌の感じを説くこと、また十體はいふまでもなく、十八體とか四十八體とかいふ怪しげな名目を立てながら、何の説にも有心體を至極としてゐることは、俊成からの傳統的な思想である。
 こゝでこの時代の萬葉の取扱ひかたを一瞥しておかう。桐火桶に萬葉のことばには用ゐてよいものと然らざるものとがあるといひ、また萬葉にも「やさしき歌ざま」はあるからそれは學んでもよいとして、その例を擧げてあるのを見ると、歌の詞またはその用ゐかたに於いてどれだけ萬葉のをまねてよいかといふことが、二條派の歌人の關心事であつたと解せられるので、それは要するに平安朝末期以來の萬葉觀を繼承したものであると共に、萬葉の歌から「やさしき歌ざま」のものを取り出したところに二條派の好尚が現はれてゐるのであらう。二條良基が近ごろ萬葉が流行するといつてゐるのは(筑波問答)、事實であらうし、それには仙覺によつて訓みかたの示されたことが一つの誘因になつてもゐようが、如何なる意味で流行したかは、明かでない。けれども古歌によつて歌を作ることを學ぶ一般の傾向から推測すると、それはやはり萬葉の詞を採るのが主ではなかつたらうか。
 歌壇の形勢がかういふ風であるから、當時の歌に見るべきものの少いのは當然である。如何なる作者のも、その一首だけを長い歴史と多くの歌とから切離して獨立のものとして見れば、興趣のあるものが少なくないが、古くからの和歌の歴史と多くの歌人の作との背景の前に置けば、殆どみな光彩を失つてしまふ。新しみも個人的の特色も見えないからである。
 
 ところが、二條家に反對した京極爲兼及びそれを中心とする一派の作には、やゝ特異な風體がある。爲兼は大覺寺(37)統の宮廷と結びついてゐた二條家に對抗しつゝ、持明院統の伏見後伏見花園三代の信任を得て、その宮廷の歌人を指導したので、玉葉集を撰進したのみならず、後の風雅集の撰集を導き出した。この集をみづから撰ばれた花園院は、彼の所説を正義であるとして推服せられた(宸記)。その歌の意見は、心と詞とを對等の地位に置きまたは姿や詞を先きにする考へかたに反對して、歌は心がもとであつて、心の動くまゝにいかなる詞をも用ゐて詠むべきだ、といふところにその根本の主張があるらしく、そのことを、歌を漢詩と同じ性質のものと見て、「詩言志」に附會し、また上にいつた二條派の歌人の考へかたとは少しく違つて、萬葉についてもその作者の歌を詠んだ態度を學ぶべきもののやうにいつてゐる(爲兼卿和歌抄)。さてその歌を見ると、四季のでは、「梅の花くれなゐ匂ふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる」、「沈みはつる入日のきはに現はれぬ霞める山のなほ奧の峯」、「枝にもる朝日のかげの少きに涼しさ深き竹の奧かな」、「秋風に浮く雲高く空すみて夕日になびく岸の青柳」、「露おもる小萩が末はなびきふして吹きかへす風に花ぞ色そふ」、「降り晴るゝ庭の霰はかたよりて色なる雲ぞ空にくれゆく」、などの如く、歌材の多い複雜な構想による、または時間的變化を含む、光景の描寫が多い。しかし多くの歌材を用ゐるために、いひかたにむりが生じ、聞きなれない詞づかひをしなければならぬことになる。上に引いたものにもそれがあるが、「月の色も秋にそめなす風の夜のあはれうけとる松の音かな」、「吹きさゆる嵐のつての二聲にまたはきこえぬ曉のかね」、「めにかけて暮れぬといそぐ山もとの松の夕日の色ぞ少き」、「もりうつる谷に一すぢ日かげ見えて峰も麓も松の夕風」、など、かういふ例はいくらもある。このうちには俗語俚言を用ゐたものもあつて、これは歌詞に制限をすべきでないといふ別の理由からでもあるが、こゝにいつた意味もある。例は擧げないが語法にはづれた詞づかひさへあるのも、同じ理由から來てゐよう。
(38) さてこれらの歌には、目に見える光景を客觀的に措寫しようとしたものが多いので、さういふ光景によつて誘はれた作者の主觀的情懷を情懷として詠じたものは殆ど無く、「涼しさ」とか「あはれ」とかいふ詞を用ゐたところに纔かにそれが認められるのみであるが、しかし四季の風光の如何なるながめを描寫しようとしたかといふと、それは概ね從來の因襲をそのまゝ繼承したものであつて、新題材は多く見あたらず、作者に新しい感觸も無い。「をりはへて今こゝに啼くほとゝぎす清く涼しき聲の色かな」といふやうなのも、ほとゝぎすの啼き聲を清く涼しいといつたところに些の新し味はあるが、それとても今まで多くいはれなかつた音色をいつたのみであり、而もそれが當つてゐるかどうかには疑問もある。だから作者の新しい試みは光景を複雜にする外は無かつたのである。けれどもそのために印象の統一を缺く場合も生ずるので、上に引いた「降り晴るゝ」の如きがそれであり、また「ゆくさきは雪のふゞきに閉ぢこめて雲にわけ入る志賀の山越」のやうなのは、歌材が多いためにいふことが混雜してその光景が目に浮ばぬ。かういふ弊もあるが、概していふと複雜な光景がともかくも描寫せられてはゐる。しかしその描寫の方法は甚しく散文的である。抒情詩としての適切な形である三十一音の短歌で、複雜な光景を客觀的に描寫することが、本來むりなのである。風景の措寫は平安朝の末期から行はれて來たが、それは作者の個人的情懷にひたされてゐる單純な眺めであつた。また歌材を多く用ゐることも新古今の歌などに於いてしば/\見られたが、それも讀者の聯想を誘つて抒情の效果を強めるためであつた。爲兼のはそれとは違つて抒情味が無い。彼の描寫したものはたゞ彼の目に映じた、或は目に映ずるものとして構想せられた、外部の存在であり、中には歌とするだけの興味がどこにあるかと思はれるやうなものもある。これにはやはり、歌によむべきことが一定してゐるために、それを離れようとしたといふ理由もあ(39)らうし、また後にいふやうな連歌に示唆せられたところがあるかも知れぬ。
 しかしそれよりも重要なのは、二條派の歌の教と歌風とに反抗しようとした餘りに、俊成定家の目ざしたところ、即ち作者のいはうとする主想とその情趣との詩的表現としてのことばつかひや一首の姿を重んじなかつたことであらう。新古今調に於いて特殊の形をとつて成熟したこの意義での姿とその音調との精練は、爲兼によつて全く無視せられた。さうしてそれは歌を抒情的のものとして見なかつたからであらう。爲兼の心といふのは俊成定家の舊に從つて歌の着想のことをいつたのであるが、その着想が、彼に於いては、抒情的のものではなかつた。また心がさういふ意義のものであるにしても、それが言語を用ゐる歌として作られる以上、その詞づかひや音調の點で言語に用ゐかたのあることを考へねばならぬのは、それを考へなかつた。或は心と詞とを對立するものとし、詞を心の利用する器具としてのみ見、詞そのものが心の表現であることを思はなかつたのだ、といつてもよからう。極言すると表現といふことを知らなかつたのである。歌を客觀的に或る光景を描寫するものとしてゐた彼に於いては、これは當然であらう。かう考へるとそこに爲兼の人としての性格がはたらいてもゐることが知られよう。彼が萬葉に注目しながら、稀にその語を用ゐることはあつても、その一首としての姿や音調から悟り得たところがあつたらしくは見えないのも、こゝに理由があらうか。或は萬葉の歌の抒情的であることを解し得なかつたからかも知れぬが、それとても同じ理由からであらう。彼の戀歌に興趣のあるものの少いことも、またそのためのやうである。爲兼の戀歌はすべてが題詠であり、從つてその着想は因襲的であるが、その數の少いことから考へると、彼みづからそれに長じてゐないことを知つてゐたかも知れぬ。抒情的である短歌の精粹ともいふべきこの種のものが、彼の作に於いてはやはり散文的であつて、い(40)はうとすることを隈なくいひ盡さうとする態度で詠まれてゐるが、それはまた短歌ではいひきれないことを強ひていはうとすることでもあつて、四季の歌と同じ詠みかたがそこに見える。「恨み慕ふ人いかなれやそれはなほ逢ひ見て後の愁なるらん」、「ありし世の心ながらに戀ひかへしいはゞやそれに今までの身を」、これらはむりな詞づかひや造語のために一首の意義すらわかりかねるものになつてゐる。
 かう見て來ると、爲兼の歌は、短歌に適しないことを短歌でいはうとしたために、俚言俗語を用ゐたり、造語をしたり、生硬蕪雜な、時には語法にはづれた、いひかたをしたり、さういふことになつたところに、その特色がある、といふべきであらう。これらのことも歌の根本的革新を行はうとする場合には、許さるべきことであり、或はしなくてはならぬことでもあるが、爲兼のは、その題材も情趣も事物に對する態度にも、從來の因習を踏襲してゐるのであるから、さういふ革新を行はうとしたのではない。歌の革新には、歌の新しい形を造るとか、新しい題材を用ゐるとか、新しいことばづかひをするとか、さういふやうなことが考へられようが、それらの何れにしても、舊來の形や題材や用語では表現することのできない新しい感懷を作者がもち、それを表現しようといふ詩人的情熱が無くてはならぬのに、爲兼にはそれが無かつたやうである。革新といふことを考へないにしても、また用語だけについていつても、個性ある歌人には舊慣などに束縛せられない、自由にして獨自な、ことばつかひがおのづからせられるのであるが、爲兼はさういふ歌人であつたやうには見えぬ。過去の文化を繼承してそれを保持しようとするのがせめてものしごとであつた當時の一般的思潮、歌の教の黨派爭ひに優位を占めようとすることに力を注いでゐた歌界の状態に於いて、かゝる歌人の生れなかつたのは當然であらう。纔かに舊題材を複雜にしてそれを舊歌形にはめこむことが企てられた(41)が、そのためには上記の如く用語の範圍を廣めることが要求せられた。けれどもそれは却つて歌の情趣を妨げるものであつたので、讀むものにはこの異樣な用語のみが目につくことになつた。だから彼のしたことは用語にあつたことになる。結果からいふと、詞を主にした二條派の歌の教に反抗しながら、或はむしろ反抗したがために、やはり詞の上で變つたことをしただけである。二條派から「不避病、不憚禁忌、不嫌詞、不餝姿、唯以世俗之詞、僅詠眼前之風情、」(爲世奏状)と攻撃せられたのは、この故である。しかし新古今調の如き繊細な技巧を用ゐなかつたことは、爲兼も二條家と同じであつて、その點では二條家の歌風を繼承したものともいはれよう。
 爲兼を中心として活動した持明院統の宮廷の歌人の作については、多くいふ必要が無からう。こゝにはたゞ花園院の御製を二三擧げて爲兼の歌との關係を示すにとゞめる。「梢より落ち來る花ものどかにて霞におもき入あひの鐘」、「夕立の雲とびわくる白鷺のつばさにかけて晴るゝ日のかげ」、「吹き移りなびくすゝきのすゑ/”\をのどかにわたる野邊の夕風」、「くれもあへず今さし昇る山の端の月のこなたの松の一もと」、「霧はるゝ田の面の末に山見えて稻葉につゞく木々のもみぢ葉」、「思ひたえて待たぬも悲し待つも苦し忘れつゝある夕暮もがな」、概ねこの類である。
 しかし三代の天皇、永福門院(及びその宮女たち)、進子儀子の兩内親王、など、高貴の地位にあられる歌人によつて當時の貴族的歌壇の有力な一部が形成せられてゐたのは、この時代の後半期に於ける特異の現象であつて、それにはこれらの天皇の學問を好ませられたことが一原因になつてもゐよう。爲兼の歌が、抒情味が無く散文的である點に於いて、知識的であることを考ふべきである。或はまた詞や姿の精練を缺いてゐる點に於いて、上に考へたやうな武士の文化の性質に通ずるところがあるやうに見られるかも知れぬが、しかしこの觀察は當時の文化の大勢から見て(42)むりであらう。が、それはともかくも、爲兼が二條派の歌の教と歌風とに満足しなかつたのは、よしそれに黨派的感情が含まれてゐたにせよ、意味のあることであり、またその歌に上記の如き缺點があるにせよ、あのやうなしかたで自然界の風姿を措寫しまたは構成したことには、幾らかの新境地を歌の上に開いたものとして、それだけの功績はあつたので、それが歌壇の一部を動かしたことにも理由はあつた。けれどもその歌風は後にはさしたる影響を及ぼさなかつたらしい。それは一つは、爲兼の後を承けて二條家に對する京極家の反抗を繼續するものが無くなつたからでもあらうが、歌の抒情的性質が後までもおのづから保たれたからでもあらう。冷泉家は直接には二家の爭に關係してゐないが、京極家に親しい家がらであると共に、歌の教にも幾らかそれに近いところがあり、頗る自由の風のあつたことは、その門から出た今川了俊が、爲相の教として、歌は一體に止まれとはいはず人によつて得るところの異なるのが當然だ、といつたといふ話(和歌所へ不審條三を記したのでも知られ、また了俊の意見からも察せられる。その子の爲秀も俊成以往の歌が本意だといつて、制詞などにかまはず思ふまゝに詠んだといふ(二條良基の今來風體抄)。しかしそれは爲兼の如く歌からその抒情的性質を除き去らうとしたのではない。
 要するにこの時代の歌は、爲兼一派のをも含めていつても、因襲的のものである。勅撰集でも、かの玉葉集及び風雅集が題名に於いて特色を有つてをり(風雅の名は詩經に本づいたものであらう)、特に後者の序に「三代集以後、得其意者、僅不過數輩、其或有昇堂不入室、況頃年以來哉、歎息有餘、爲救此頽風、?温元久故事、適合風雅者、鳩集而成編、」といつてあるのは、勅撰集としては例の無い思ひきつた書きざまであるが、これも爲兼一派の側から二條派の歌風を非とするところに主なる意味がある。その風雅集の序の他の部分には、古今集の序の説を繼承してゐる(43)ところがあり、特に歌を政教の具とすることに重きを置いてゐるのを見ても、歌をいふ態度の因襲的であり、書物の上の知識によつてゐることが知られる。(爲兼の和歌抄にもそれがある。)だから代々の勅撰集に於いて幾らかづゝ風體が違つてゐても、また歌に流派があつても、それは文學としての價値を輕重するほどのことではない。さうして歌を作ることが文字の上の技藝となつてゐるのであるから、頓阿とか兼好とか慶運とかいふやうな、いはゆる遁世ものや歌僧が歌壇の大立物となつても、また武士が歌をよんでも、その歌に彼等特殊の情生活の現はれることは少い。文學の修養の薄い武士などは、型にあてはめて文字をならべるだけであるから、もとよりそのはずでもあるし、文學と因縁の深い遁世もの歌僧の輩も、その境遇と人格とからいふと、多くは純眞な詩人とはいひかねる。
 
 しかし歌はやはり歌であるから、四季をり/\の感興や事にふれ時に臨んでの情思をすなほに詠じたものもあつて、勅撰集のうちにもそれは採られてゐるし、増鏡などの歴史的物語にも見えてゐる。その感興その情思は多くは型にはまつたものであるが、或る人の或る場合の感懷の表現せられてゐるところに、歌の本質が保たれてゐる。ところが元弘の變から始まつて刻々に展開せられてゆく世の動亂、公武の爭となり、建武の中興となり、新田足利の確執となり、南北兩朝の對立となり、動亂が動亂を誘つてどう歸着するかの目あても見えない大動亂は、その渦中に投げこまれ、またはそれをまき起した人々を、今まで知らなかつた境遇に置き經驗したことの無い行動に驅りたてるので、彼等の感懷には事ごとに日ごとに常ならぬものがある。さうしてそれが歌となつて表現せられる。その最も光彩のあるのが新葉集によつても知られる南朝君臣の詠である。
(44) 新葉集はたゞの撰集ではない。その作者は吉野の花をも血腥い風に散らせ、月の光をも戎衣の袖にうけねばならなかつた。「こゝにても雲井の櫻咲きにけりたゞかりそめの宿と思ふに」(後醍醐天皇)、「我が宿と頼まずながら吉野山花に馴れぬる春も幾とせ」(主上)、「都をも同じ光と思はずば旅ねの月を堪へて見ましや」(後村上天皇)、雲ゐならぬ雲の上、都ならぬ宮居には、花にも月にもなみ/\ならぬ感慨がある。まして波路のはてよ野原の末よ、「忘れめや寄るべもなみの荒磯を御舟の上にとめし心は」(後醍醐天皇)、「忘れずよ一夜ふせやの月の影なほその原の旅ごゝちして」(宗艮親王)、そのうき旅の或る時は「身をいかにするがの海の沖つ浪よるべなしとて立ち放れなば」(同上)と行くへおぼつかなく思ひながらも、また或る時は「我を世に下しはてずば稻舟のまた上る瀬もなどか無からん」(同上)とわれとわが身に頼みをかけるのであるが、それもたゞ「あはれはや浪おさまりて和歌の浦に磨ける玉を拾ふ世もがな」(後村上天皇)と思ふがための努力である。「小山田の苗代水のひき/\に人の心の濁る世ぞうき」(親房)とかこちつゝも、「何とかく濁りゆく世ぞ石清水ひとの國とは神も思はじ」(主上)、神のあらん限りは前途に望が絶えはせぬ。「思ひきや手も觸れざりし梓弓起き伏し我が身なれんものとは」(宗良親王)と思ひの外に弓矢とる身となり、「君のため世のため何か惜しからん捨ててかひある命なりせば」(同上)と勇猛心を振ひ起すのも、たゞこの望のあるがためである。
 かうなると、歌はもはや古人の口まねでもなくたゞの技藝でもない。泣くも笑ふも實生活そのものの叫びであり聲である。「治まらぬ世の人言のしげゝれば櫻かざして暮らす日もなし」(後醍醐天皇)、花見るとて花に暮らす日は無くとも、「古は露わけわびし蟲のねを尋ねぬ草の枕にぞきく」(藤原師賢)、きかうともせずしてきかるゝ蟲のねに眞(45)のあはれはある。故らに詩人的情調を求めるのでなくして、日常生活そのものが詩境である。處が花の吉野で人が弓矢を手握りもつ衣冠の人であるといふのが、既に抒情詩的興趣を誘ふには十分である。況や露に臥し霜に起き、波にも漂ひ山にも隱れ、事志と常に違ひながら、なほ行く末に望をかけて粉骨碎身するに當つては、月の影にも鳥の鳴くねにも、世のつねならぬ情趣を我が主觀の對象として見出さずにはおかれぬ。のみならず、さういふ逆境に處して、或は免るべからざる運命を豫見しつゝ、なほ飽くまでも勇往邁進する悲壯劇的過程そのものが、力強い一篇の詩ではないか。新葉集がありふれた勅撰集とは  退かに違つた趣を發揮してゐるのはこれがためである。この集に後醍醐後村上長慶三代の御製及び宗良尊良兩親王の歌が特に數多く編入せられてゐることにも、意味があるので、かういふことは歴代の勅撰集には例が無い。撰者の宗良親王であることもまた同樣である。これは撰集の主旨が、單に巧みな歌を採らうとしたのではなくして、南朝君臣の至情がかゝる歌詠に現はれてゐることを、おのれらも見、また世にも示し後にも傳へよう、とするところにあつたからではあるまいか。
 勿論新葉集にも題詠は少なくない。吉野などの行宮でも歌合は行はれ、百首千首などを召されたこともあり、人々みづから百首などを詠じてゐたのでもあるから、これは當然であり、兵馬倥?の間、而も形勢日々に非なる時であるだけに、平和の場合のとは違つて、一方ではそれがせめてもの心やりでもあると共に、他方では、宗良親王の羇旅の歌に戎馬の間に東奔西馳したそのをり/\の感懷の表現せられたものがある如く、時につけての作者の實感をそれに寄託するのでもあつた。この集の羇旅や離別の歌には作者の實感を詠じたものが多いが、題詠にもまたそれが含まれてゐるのである。たゞ戀歌は殆どみな題詠であるが、中にはさうでないものもあり、特に李花集と對照して見ると、(46)よみ人しらずとして載せてあるものにもそれがある。かゝる境遇にあつたもののかゝる情思には、世のつねならぬ特殊の感懷のあつたことが考へられる。もとより題詠の中にはかたの如き花鳥風月の歌も多く、また實感の表現せられたものでも、歌としての技巧は必しも優れたもののみであるとはいはれぬ。けれども率直な姿で率直に情思を表現したところに、この集の歌の特色がある。これには大覺寺統と特殊の關係のあつた二條派の平明な歌風の影響もあらうが、その眞の原因は、現實の生活がそのまゝ歌となつて現はれ、遊戯的態度で技巧を弄する餘地が無いからであつて、こゝに新葉集の歌の生命がある。かゝる歌を作るには、二條派の詞の制限などは何の妨げにもならなかつたのみならず、一面の意味に於いては、典雅な詞を用ゐることが表現しようとする情思に特殊の詩趣を帶びさせることにもなり、さうしてそれがまた作者の置かれた境地そのものの情趣を深め、苦惱多き現實の生活がそれによつて詩化せられるのでもあつた。さうしてそれが公家の勢力の最後の活動に伴ふものであると共に、また貴族文學に最後の光彩を放つものであつた。
 
 歌のことをいつたついでに一言すべきは連歌である。「いろは連歌」とか「くさり連歌」とかいふものが前代の末から既に行はれてゐたことは前篇に述べておいたが、明月記や後の二條良基の筑波問答によると、後鳥羽院のころから百句五十句の連歌が行はれて、定家家隆などの歌人もそれに參加したらしく、現にそのころの句が菟玖波集に見えてゐる。その百句(韻)などは全體としては今日に傳はつてゐるものが無いから、そのつけかたは明かにはわからぬが、筑波問答の説から推測すると、つけ句は前の句をうけながらその意義を轉化させるばあひのあることと、全體と(47)しては發句に重きが置かれたことと、同じ題材や同じやうな措辭法の續くのを避けて目さきを變へてゆくことに注意したこととが、想像せられるのみである(なほ八雲御抄參照)。上下二句をつらねて一首の短歌をつくつた昔の連歌は、輕い言語上の滑稽を主眼としたものであつて、このころになつても、いはゆる栗の本の衆の連歌はその系統を引いてゐたらしいが、それは當時に於いてはむしろ輕んぜられたので、歌に幽玄體が尚ばれ心ありとか長け高しとかいふことのもてはやされた時代だけに、連歌もまたその實質に於いて歌と接近して來たものがあつたらしい。そのつけかたが風情を主とするやうになつて來たのも、これがためであらう。後鳥羽院の時に有心無心の區別がせられてゐたのは、その先驅であつたらう。
 しかし連歌の興味は、他人の作つた句にわが句をつけてその間に何等かのつながりをもたせるところにあるので、それは主として技巧上の問題である。特にいろ/\の方法で物名を詠みこむ賦し物に至つては、それが一層深いやうに感ぜられたであらう。これは、文字ぐさりや地名を綴りこむ道ゆきといふ一體が散文に於いて行はれたのと、同じ趣味の發現である。ところが百韻などに於いて、單調を避けるための規則としていはゆる式目を定めるやうになると、よしそれがさまで嚴密には遵奉せられなかつたとしても、その點に於いて技巧上の興味は加はつて來る。この式目は爲相や爲世などの手に成つたものがあるといふから、やはり歌に於いて種々の制限を設け規則を作つたのと、おのづから通ずる點がある。もつともこのころには古い連歌の習癖がまだ殘つてゐて、主として前句に對して如何なる句をつけるかに興味を感じてゐたらしく、菟玖波集の編纂法にもそれが現はれてゐる。この集には百韻などの全體が載せてない。しかしその撰者たる良基が筑波問答に於いて、連歌の進行を佛教の無常思想や樂の序破急に喩へて説いてゐ、(48)またいはゆる應安の新式を定めたことなどから考へると、連歌を全體として見る風習は次第に加はつて來たらしい。が、全體として見ると、連歌には一貫した情趣も思想も無く、一句ごとにそれが移り變つてゆくのであるから、その興味はやはり主として前の句に對するそのつけかたにあり、この點に於いても道ゆきなどと似たところがある。だから、情生活の表現としては意味の少い技藝としての歌を作つてゐた當時の歌人が、かういふ連歌を好んだのは怪しむに足らぬ。しかし、短歌としては一首の本または末の句となるべきものを別々に作るのであるから、その句がそれだけでまとまつた意義を有つ獨立のものとなつてゆく傾向が次第に生じ、從つてその詞づかひに普通の歌とは違つた特殊の工夫が用ゐられ、それには許されないことがいはれるやうになる。或はむりないひかたが行はれる。また四季の句に於いては、前句となり付け句となるその何れかが何等かの光景の客觀的描寫となる場合が多い。そこでさういふ光景をおもかげに思ひ浮かべるところに作者の興味が生ずるので、前句につけることが單なる技巧ではなくなる。前句の感想によつてそれにふさはしい光景を想像し、或は與へられた光景に新しい情趣を帶びさせる。前句も付け句も二つともにかういふ描寫となつてゐる場合もあるが、その時にはこの興味は一層深い。なほ次にいふやうに連歌は歌よりも輕いもの遊戯的のものとせられてゐるところからも、また地下の好士によつて喜ばれ、その意味で民衆的性質を帶びてゐる事情からも、歌には用ゐられない新材料と俚言俗語とを用ゐることも、また自然の風物に對して歌の場合とは違つた觀察をすることも、行はれて來る。さうしてこれらの點に連歌の文學的價値の一つがある。
 しかし概していふと、連歌の風情は歌と同じだとせられ、そのめざすところは俊成のいつた幽玄の體であるともいはれ(筑波問答)、その修業の主なる方法は古來の歌を知ることとせられてゐる。歌に本歌とりといふことがあるや(49)うに、連歌の句にも古歌の情趣にたよつたりその詞を用ゐたりすることが少なくない。菟玖波集でもわかるように、連歌の部類わけも歌集のをそのまゝに襲用してゐる。連歌は歌人の間から起つたものであるから、これは當然であらう。けれども連歌をすることは短歌を詠むのとは違ふ。從つて歌人としては連歌を輕く見てゐたので(落書露顯に見える爲相の物語參照)、歌の會の餘興に行ふなど、遊戯的にそれを取扱ふ場合もあつた(水蛙眼目に見える爲家の逸事參照)。さうして歌人が連歌師の歌を連歌歌と稱して卑しむと共に、連歌師は歌人の連歌を歌連歌として嘲つたといふ(落書露顯)。これは上に述べた如く連歌に歌とは違つた特色があるからでもあるが、連歌を職業とする連歌師と歌人とはおのづから別のものであつたためでもあらう。救濟などは爲相の弟子であつたとはいへ、歌人からは重んぜられなかつたらしい。ところが歌がわけもなく高尚なものと思はれてゐたので、そこには手の屆かないやうに考へてゐた人々には、それよりも輕くみられてゐる連歌が、てうど手ごろなもののやうに思はれたのと、流行の初めから物をかける風習などがあつて、さういふことに興味をそゝられる氣味もあつたのとで、これが民間にも廣く行はれるやうになり、幾らかの文字の知識のある遁世者などがその指導者となつた。貴族の間にも行はれはしたが、本來會合を要するものであるから、その性質は貴族としてよりもむしろ民間の遊戯に適してゐる。後嵯峨院時代の有名な辨内侍や少將内侍などは特例として、女の作者の無いのも、この故であらう。菟玖波集の作者に法師や地下のものの多いのも、同じ理由からである。けれども貴族的歌人の間にもそれが行はれたのは、或は彼等とても、明かには意識しないながらに、歌が歌としては新しい境地を開いてゆくことができないことに、幾らかの不滿を感ずる氣分があつて、それが連歌に一つの慰めを得た、といふ事情があつたかも知れぬ。
(50) 連歌そのものについては多くいふ必要が無からう。菟玖波集の撰ばれたころ即ち救濟のゐた時代は、斯の道の一轉期であつて、後からは上古といはれてゐるが、この時ですら舊い因襲がまだ除かれないで、後世のやうに一句が完全に獨立せず、また發句も同じ季また同じ風情の句を續けるやうなことがあつて、一卷の變化も少い(紫野千句參照)。そのつけ方は救濟が「月寒し訪らひ來ます人もがな」に「野寺の鐘の遠き秋の夜」とつけたやうに、前句全體の風情を本にするのもあるが、「鶯のかひこの中の郭公」に「卯の花垣に殘る青梅」とつけた周阿のやうに、句中の言語の縁にたよるのみで、一句としての情趣には重きを置かないものもある。風情につけるとなると、一句としても何かの情趣を具體的に現はすやうになるが、言語の縁によつてつけると、一句の姿もおのづから言語上の遊戯になり、或は理窟に墮する。この周阿のは原始時代の習慣がなほ遺つてゐるので、救濟のは歌の修養から得たところがあるのであらうが、この救濟の風が連歌の進むべき方向を後代に暗示したものである。
 この時代の連歌はほゞかういふものであるが、その求める風情は概して歌からの因襲に從ひながらも、上に述べた如き事情から、材料用語またはいひかたの上に幾らかは歌とは違つた趣が生じてゐる。菟玖波集に見える「梅が香になる雪の下風」、「ぬれ/\も雨にさはらぬ櫻狩り」、「まちわかれ何れも花の心にて」、「見るは一時の春ぞ少き」、「吹くを秋なる荻の上風」、「月いでまじる峯の薄ぎり」、「一さけびなる山のむさゝび」、「曉の林の木ずゑ月落ちて」、「入あひはまたぬ夕も同じ聲」、「露ならず夢の枕に人を見て」、「たきもの合せこれも勝ち負け」、或は紫野千句に見える「暮れて木樵りの歌うたふ聲」、「炭の車をかくる黒牛」、「色は金の菊の一本」、「月をまつ野守が庵の窓くらし」、「曇らぬ鏡これ秋の水」、「わが草まくら鶉ふす聲」、「今こゝにあり古の夢」、などは、新しいいひかた、歌には見ら(51)れない材料または觀察、の例である。さうしてかういふ傾向が次の時代の連歌に於いてます/\強められ、それによつて日本人の自然觀とその措寫法表現法とに一味の新しさが生れてゆくのである。またかういふ連歌の作りかたは、幾らかは歌の上にも影響を及ぼしたらしく、菟玖波集に見える花園院の「日かげさす山の夕立ちかつ晴れて」に前句の「野をゆく道は露ぞ涼しき」をつゞけて見ると、歌に於けるこの院の御製と似たものになる。
 
 次には漢詩にも一言觸れておくべきであらう。漢詩は儒者やそれに導かれた公家貴族によつて常に作られ、禁中でも詩の會がしば/\催され、天皇もおんみづからそれを作られた(花園院宸記)。僧徒にも詩の作者はあつた。また詩と歌とを合せることもしば/\行はれてゐる。自作の詩歌合も前代の末の定家のが遺つてゐ、基家の和漢名所詩合のやうなものもある。(これらの詩歌合の合せかたは多くは無意味であつて、漢詩と歌とは別々のものである。)しかし詩集が編纂せられたかどうかは知らず、詩そのものも多くは傳はつてゐない。さうして遺存するものによつて考へると、時には宋詩などの參考せられた場合もあるらしいが、詩そのものとしてはたゞその形を具へてゐるのみであり、而も作者の主なる興味は依然として對?を巧にするところにあつたやうである。詩は單なる技藝であつた。歌すらも技藝となつたことによつて知られる如く、眞の詩人的資質のあるものの無かつた時代であるのと、唐宋の詩の情趣を解し得ず、シナ人の詩をたゞ知識としてもつてゐたに過ぎなかつたのと、また漢語を驅使する力の養はれてゐなかつたのと、これらの事情の故であらう。二條良基は俊成の歌の幽玄の情趣からの聯想で晩唐の詩を讃美してゐるが(筑波問答)、當時の詩の作者がその風體を學び得たかどうか、甚だおぼつかない。康永二年の五十四番詩歌合の詩を見て(52)もさう感ぜられる。新葉集の歌人が漢詩によつてその情思を表現しようとしなかつたことをも考ふべきである。(江戸時代の末期の時事に奔走したものの詩を想起するがよい。)しかし、歌人が漢詩もしくはシナの典籍から得た知識を利用しようとしたことは、例へば源光行の豪求和歌または百首詠和歌などを見ても知られるが、これは、上に述べた風雅集の序の思想や、次章にいふやうな海道記東關紀行または戰記文學の文體と、同じ思潮の現はれであると共に、シナから與へられた知識に大きな權威を認めた昔からの知識人の氣風の繼續でもある。たゞこゝに一つ興味のあるのは、後京極良經が十體にあてて古人の詩を撰んだといふ話(著聞集卷一三)のあることである。その一つに幽玄體のあることから考へると、これは歌の十體を詩に適用したものであることが知られるが、昔から歌の論には詩のを適用したものが多いのに、これはその逆を行つたものである。知識の上ではシナの文物を尊崇することが少しも衰へないながらに、實生活に於いては我が國に獨自な文化がます/\成長してゆく趨勢がその片鱗をかゝるところにも現はしたのであらうか。
 
 貴族文學の第二として考へねばならぬのは擬古物語である。今殘つてゐるものでは鳴門中納言物語、岩清水物語、風につれなき物語、苔の衣、兵部卿物語、忍音物語、住吉物語、などがそれであつて、「とりかへばや」、松浦宮物語、などもこの時代に改作せられたものらしい。(これらの作られた時代については既に諸家の説があるから一々考證するには及ぶまいし、一讀すれば内容の上からも概ねこの時代のものであることが推察せられる。)これらの物語は、その題材が源語などと同樣な宮廷生活貴族生活、特にその戀愛生活、であること、さうしてそれが當時の現實の状態(53)から取られたのではなく、古物語に現はれてゐる昔の時代を思ひ出させるものであること、文章が擬古文であること、その結構と着想とに源語から絲を引いてゐるもののあること、などから考へると、著作の動機が古物語の摸倣にあることが明かに知られる。増鏡などによると、宮廷及び貴族の私生活には平安朝時代からの遺風がなほ存在してゐるので、かゝる物語の作られもし讀まれもしたのは、このこととも關係があらうが、物語の性質はかういふものである。もつとも岩清水物語には、改作せられた松浦宮物語の主人公が戰陣に働くやうになつたと同樣、伊豫守といふ東國武士が男主人公のやうな地位に置かれてゐるので、これは古物語には見えないことであるが、卷頭の常陸守の生ひたちを述べたところ、また伊豫守が東國の亂を聞いて國に下るところ、などを見ると、その寫された武士は當時の武士ではなくして、平安朝時代の武士であるから、作者はやはり書物によつてそれに關する知識を得たのであらう。伊豫守その人が平安朝の貴公子と武士とを混合したもののやうになつてゐるのである。なほこの物語の女主人公が乳母のゆかりから田舍にいつてゐたこと、後にそれが老人に嫁したこと、また上京して木幡に住んでゐることが、源語の玉蔓と浮舟とを聯想させ、また「物のまぎれ」さへも行はれた點に於いて、源語を摸したものであることは明かである。兵部卿物語の主人公が北山の歸りに西の京で美人を見つけたのは、若紫の一節を思ひ出させる上に、どこやらに夕顔のおもかげも見える。風につれなき物語の關白の隱れ家を宇治とし、忍びね物語に横川に隱れた父をその子の訪ひゆく條は、趣は全く達ふけれども、場所はかの世にかずまへられぬ古宮や手習に先蹤がある。苔の衣に至つては「もののまぎれ」によつて東宮の生まれた話さへあるといふ(近古小説解題參照)。
 以上は現在傳はつてゐる物語についてのことであるが、今亡くなつてゐるものについても、大體の傾向はこれから(54)類推することができよう。無名草子に、海士の刈藻といふものの詞づかひが世繼を學び、宇治の河波といふものがその海士の刈藻をあまりにまねすぎた、とあるから、摸倣に摸倣を重ねてゐることが知られ、海士の刈藻の評に「權大納言の即身成佛こそかへす/”\も口をしけれ、法師になりたるあはれ皆さめ、……」といふ一節があるのを見ると、このころの作者は、新奇を求めるために、天人の天降りや夢の告げを作り出すどころではなく、即身成佛をさへさせたらしい。これにはこのころの佛徒が神社や寺院の縁起を説くために奇怪な物語を作つたこと、また後にいふ如く戰記文學に同じやうな插話の多いことと、思想上の連絡もあらうが、擬古物語についていふと、現實の生活を寫さうとせずまた自己自身の觀察によらずして古人の作を摸倣するものが、局部的にかういふ荒唐不經な説話を案出するのは、當然の成りゆきである。しかしこれもまた既に前代に於いて現はれてゐたことである。文學界の全般にわたつて前代からの傾向が、ます/\甚しくなつて來たことは、これでも想像せられる。
 要するにこれらの物語は、作者も現實の生活を寫さうとしたのではなく、讀者はたゞそれによつて古物語の世界をおぼろげに想起するところに興味を感じたので、恰もおのれ等の情生活とは縁遠い型にはまつた歌を作りまたそれを讀むのと、同じことであつたらう。さうして寫さうとすることが現實の生活でもなく、自己自身の情思でもないとすれば、その作品に充實した感情の内容が無いのは當然であるから、これらの物語は敍述の筆も殆ど筋を運ぶだけに止まつてゐる。その上、物語の題材と着想とが古物語の摸擬であるとすれば、その文章もまた擬古文でなくてはならぬが、擬古文によつて委曲な描寫をなし、生彩ある效果を得ることはむつかしい。從つて當時の物語には短篇が多い。作者に長篇を綴るだけの氣力の無い故もあらうが、長篇にすべき資材も無く、文章もそれに適合しないのである。岩(55)清水物語などは長い方でもありまた割合に整つてもゐる方であるが、今日の讀者には興趣が薄くて讀みづらい。「とりかへばや」などの如く古物語の改作の行はれたのも、作者自身に充實した感情がなく創作力が乏しいから、既に世にある物語にたよつてその一部分を作りかへるので、歌に本歌とりの行はれたと同樣の心理から來たのである。唐物語のやうにシナの話を書きつゞるのも、住吉物語のやうに古い題名を襲用するのも、歌に漢詩を翻案したり歌の教について古人に假託したりするのと同じことであらう。改作をするのが原作の作者とその作品とを尊重しないからのことであるのは勿論ながら、自己に獨創力の無いものが他人の獨創力を尊敬しないのは、怪しむに足らぬ。要するに擬作改作は文學の沈滯期、古人崇拜の世、の一現象であつて、昔からシナ人などが盛に古書の僞作をしたのも、やはり尚古思想の餘弊である。當時の擬古物語は大體かういふものであるから、その作者はやはり貴族であつて、讀者の範圍もまた同じ社會に限られてゐたのであらう。しかしかゝる社會でもその思想や情懷には昔のまゝでないところがあるから、その作にも不用意の間に時代の風潮が幾らかは現はれてゐて、作者が摸倣しようとした古い時代のと奇怪な混合の跡を示してゐる。このことはなほ後に考へよう。
 古物語を摸擬したものの作られると共に、古物語の女王である源語の註釋も、水原抄や紫明抄を始めとして、次第に現はれて來た。それは、言語の變遷と共に源語の文章に解し難いところが生じ、また朝儀の衰頽と風俗の推移とにつれて、源語に見えてゐるいはゆる故實などが當時の一般の讀者には親みが薄くなつたので、それらに對する註解の書が必要になつたからである。このころに行はれた源語の談義といふのも多分同樣のものであつたらう。だからこれらの註釋には、物語としての源語の情趣を開明するといふやうなことは少しも無いので、文字や故實の説明の外には、(56)主人公たる源氏は源高明に準じたの、だとか、夕顔を置いたなにがしの院は源融の河原院に擬したのだとかいふやうに、そのうちの人物なり場所なりについていはゆる準據を考へることがある程度のものである。
 しかしこれはむしろ學究的なしごとであつて、古物語そのものを愛讀するのは、單に知識としてその文字や故實を理解するためではなかつた。上にも述べたやうに、勢語や源語の中の人物行爲に對する好惡もしくは同情なり反感なりを述べたものも作られ、無名草子といふやうな物語(を主として歌集や女流作家など)の批評さへも書かれてゐる。この無名草子は物語中の人物評を主とし、あはれなること、いみじきこと、いとほしきこと、あさましきこと、などに分けて、卷々の特に心を惹くやうな場面に對する感想をも述べ、また種々の挿話の結構及び文章の巧拙をも批評してゐる。人物評のことは後にいはうと思ふが、要するに情けあるを褒め情けなきを貶したのである。また結構については、狹衣の笛のねをめでて天人が天降つたといふやうな奇蹟、みつの濱松の我が國とシナとが混同せられたり后が?利天に生まれたりする如き事實らしくないことを、難じてゐる。「今の世の物語」を論じて「いとまことしからず、おびたゞしきふし/”\ぞ侍る、」といひ、「いと恐ろしき事どもさしまじりて何ごともさむるこゝちす」といつてゐるのも、上に述べた即身成佛のやうに、強ひて奇巧を求めたために荒唐不經の構想をしてゐる弊をさしたのであらう。なほ源語より後の物語が源語から着想を得たものの多いことを暗示し、近代の作にも摸倣の行はれてゐることを指摘してゐるなど、この草子の著者はさすがに一隻眼を具へてゐる。さうして後に述べるやうに、その思想には古物語に見えない新しい傾向があるけれども、物語を翫味する態度と物語といふものの性質についての見解とに於いては、古物語の黄金時代、その時代の精粹である源語、を標準としてゐる。寫實を尚び荒唐不經な構想を斥け、作中の人物と(57)光景とに同情と反感とをよせるのが、それである。源語の主人公の人物を非難してはゐるが、それは勿論源語といふ物語を非難してゐるのではない。この點に於いて無名草子は古典思想の正統を傳へたものであるといつてよからう。
 
 こゝで大鏡今鏡の傳統をついだ増鏡のことを一言しておかう。その體裁は大鏡とも今鏡とも違ひ、年代記的に皇室のことのみを書いたものであるが、これは藤原氏に勢力の無くなつた時代の故であり、實權を握つてゐた鎌倉の源氏をも北條氏をも除外したのは、それが皇室とは縁の薄い存在である上に、京の文化の圏外にあつたからであらう。その敍述には前代の物語を摸したところがあつて、しば/\源語の或る情景を想起し、時にはその成句をさへ用ゐてゐる點に、この時代の擬古物語と一脈の通ずるものがある。「新島守」とみづから呼ばせられた後鳥羽院の隱岐での御ありさまとそのをり/\の感慨とを、また後醍醐天皇の同じ島への遷幸の途すがらところ/”\の風光につけて思し出でられるさま/”\の情懷を、御製を織りまぜつゝ敍してゆくその筆つきにも、古物語の趣がある。すべての敍述に作者の想像が多くはたらいてゐることはいふまでもない。とき/”\「人の口」をかりての批評を試み、また後高倉院について「よこざまの御さいはひおはしける宮なり」といひ(藤衣)、法會の多く行はれることについて「こゝもかしこもこのほどは尊きことのみ多くて、耳ぞ多くほしかりける、」といひ(内野の雪)、曾て龜山院の寵をうけてゐた女たちのことを「ものいひさがな」く語りて、「このころの人の御ありさまも、おのづから輕きことあらば、思ひゆるさるゝためしにもなりてんものぞ、」といひ、それを聽いたものが「いづらこのごろはたれかあしくおはすると問へば、いな/\それはうらおそろしとて頭をふる、」といつてゐる(今日の日かげ)など、源語からもまた大鏡からも(58)學ばれたらしい冷笑やかなり鋭い諷刺もある。しかし増鏡に於いて特に注目せられるのは、政治思想の現はれてゐることであつて、二三の例を擧げると、後鳥羽天皇の即位について「三種の神器なくてめづらしきためしになりぬべし」といひ(おどろの下)、頼朝が總追捕使となり配下の武士を地頭にしたことをいつて、日本國の衰へはこゝに始まると論じ(新島もり)、承久の失敗を「むげの民と爭ひて君の亡びたまへるためし、この國にはいとあまたも聞えざめり、」と慨し(同上)、または「將軍都に流され給ふ」といはれたことについて「めづらしき言の葉なりかし」と評してゐる(つげの小櫛)、類がそれである。後鳥羽院の「おく山のおどろが下」の御製、實朝の「山はさけ海はあせなん」の歌、また後醍醐天皇の遷幸の途上の御製として「あはれとはなれも見るらん我が民を思ふ心は今もかはらず」、「よそにのみ思ひぞやりし思ひきや民のかまどをかくや見んとは」、を記してゐることにも、同じ意味があるのであらう。後鳥羽院を中心として活動した當時の歌壇の状況をかなり詳細に記してゐるやうな場合もあつて、それは政治に關係の無いことであるが、この書の作者が政治に特殊の關心をもつてゐたことは、推測せられる。これは南北朝時代に書かれ、公家貴族の一人であらうと思はれるその作者が南朝に心を寄せてゐたからのことであらう。しかし兩統の爭についての黨派心はもつてゐなかつたやうであり、公平な態度をとつてゐる。大鏡に見える政治の批評は權家の行動についてのことであるのに、こゝでは天下の治亂に筆をむけてゐるのが、注意せられる。
 水鏡といふものも作られたが、これについては多くいふ必要が無からう。これは大鏡の記載よりも前のことを書かうとしたものではあるが、それに記されてゐることも書きかたも三鏡とは違つてゐて、佛教の思想、特にその通俗化せられまた説話化せられたもの、が全篇を貫いてゐることから推測すると、その作者は僧徒であらう。扶桑略記を寫(59)しとつた記事の少なくないこと、「内裏の公家の法として」といふやうな公家自身のいひさうにないことをいつてゐること、なども參考せられる。春日明神が劍から生れた神の子で甲冑を着て魔軍と戰ひ、神功皇后の時に神々が弓矢をとつて戰陣にはたらいたやうになつてゐるところに、武士の活動した時勢の反映があり、後にいふ如く佛典から附會した種々の説話にも鎌倉時代の思想が現はれてゐて、後にいふ源平盛衰記などに見えるものと密接の關係があるが、著作の時期は明かでない。たゞ下剋上といふ語が所々に用ゐられ、また「近ごろのことなんどを人の語り傳へ申すを聞くに、この世の中はいかにかくはなりまかるやらんと、事にふれてあはれにのみおぼえて、……」といひ、「世上りては事定まらず、却りてこのころに相似たることも侍りき、」といつてあるなどは、南北朝初期の筆としてふさはしく感ぜられ、過去の時代のこととして頼朝に言及したついでに、「八幡の氏の子の源氏は今の代まで御繁昌……」といつてゐるのも、(稱徳天皇の條)足利尊氏を思ひよせたもののやうに解せられはしまいか。増鏡より前に書かれてはゐたが、その間の距離はさまで遠くはなからう。何のためにかういふものを作つたかはわからぬが、大鏡より前のことを記してその補足としようとした點に、擬古物語の製作と通ずるところがあり、また戰記物語に故事や傳説を多く書きそへてあることと、思想上の連繋があらう。政治に關心をもつてゐるやうに見えるところのあるのも、また同樣に解せられる。
 
(60)   第三章 文學の概觀 下
 
       戰記文學
 
 前章に蓮べたやうな衰微した貴族文學の外に立つて、特異の光彩をわが國の文學史上に放つてゐるものは、武士とその行動とを題材としたいはゆる戰記物語であつて、これがこの時代の新しい文學である。戰爭などの記録が古くからあつたらうとは前篇に述べておいたことであるが、今までは遠い世界のこととして音にのみ聞いてゐた兵馬の騷ぎを眼前に視るやうになつた保元平治の亂に始まつて、血は血を呼び火は火を誘ひ、兵亂の果てしなく起つて來る源平時代に逢着し、驚きの目を瞠つて忙がはしくそれを送迎した京人は、その状況を繪畫に寫し、それに對する感じを文字に現はすことを怠らなかつたであらう。今日には遺つてゐないけれども、戰争の緒卷物や素朴な筆でその繪ときをした物語が作られてゐたに違ひない。製作の時期は後れてゐるらしいが住吉慶恩の作といはれて來た平治物語繪卷、または詞書のみが遺つてゐる承久軍物語などが、幾分かその面影を傳へてゐるのであらう。高僧の傳記や寺院の縁起の類が繪卷物やその詞がきとして多く作られたことからも、それが類推せられる。或はまた琵琶法師の語りものとしても、かういふ物語が書かれたのであらう。しかし、これらは繪畫として或は語りものとしてはよし價値があつても、まだ文學として見られるほどのものではなかつたらうが、その題材となつてゐる武士の行動が花々しいものであるのと、盛衰栄枯の?にして變轉する世相を最急の律動、最高の色調、で示したこの時代に於いて、自然ににじみ出す感傷の氣分が、佛教の無常思想によつて一段高められるといふ事情があつたのと、またそれが政局の大變動に件ふもの(61)であつたとのために、或はその戰争のさまを興味あるやうに寫しまた語り、或はその人物に同情を寄せ反感を示し、また或は政治的道徳的に幾らかの批判を加へようとする、種々の動機が加はつて、次第にそれが普通に戰記物語と稱へられるやうな特殊の文學として發逢したのであらう。さてその初期のものは保元物語平治物語と平家物語とである。平家物語は琵琶法師の語りものとなつたが、もとは讀みものとして書かれたに違ひない。それは後にいふやうなその文章からも物語といふ名稱からも推測せられるが、異本の多く現はれたのも一つはそれがためであらう。平治物語も琵琶法師の語つたことがあるが、それが今の本のやうなものであつたかどうかはわからぬ。
 保元平治の二つの物語は、概していふと事實を記した史書であるやうに見え、さうしてその目的が特殊の事件の始末を敍するところにあり、その題材が主として武人の行動である點から見ると、將門記や陸奧話記から系統を引いてゐるものらしく解せられる。しかし、對話のうちにまで和漢の故事を引いたり、作者の想像で一々の場合の光景や人物の言動や武士の行裝などを具體的に構造したり、また例へば保元物語の、讃岐院が寫された五部の大乘經を海に沈められたといふ如き、經文書寫の事實に本づきながら事實でないことを附け加へた話、當時の流説であつたかも知れぬが院が生きながら天狗になられたといふ話、または平治物語の、唐僧が信西の才學を試み生身の觀音だといつて禮拜したといふ如き、事實としてはあるまじき話を作り出し、さういふやうにして讀者の感興を惹かうと勉めた跡が明かに見えること、「あはれなり」とか「痛ましき」とか「はかなけれ」とかいふやうな評語を加へたところが甚だ多く、特に保元物語(卷一)の法皇崩御の條や平治物語(卷二)の信西一味のものが官職を停められる條などのやうに、人生の無常を敍するに當つては、意を用ゐて感傷的な文字を連ねてゐること、などを見ると、これらの物語は事實を傳(62)へようとして作られた史書ではなく、「物語」の名によつて昔から行はれてゐる形で、興趣ある讀みものとして書かれたものであることが知られる。大鏡や榮華物語などに比べてみると、それらよりも史書としての性質をもつことが少い。その骨子は事實に本づいたものであり、從つて何等かの記録によつて書かれたものであらうが、事實の敍述とは思はれない多くの修飾がそれに加はつてゐるので、全體から見ると史書よりはむしろ文學上の作品である。しかしその起首の書きざまを見ても、保元物語の刑罰論(卷二爲義誅罰の條)、平治物語の信西の口を假りた選敍論(卷一信頼任官の條)、その他隨所に散見する政治上の批評を讀んでも、また保元物語の忠孝論(卷二爲義誄罰の條)、平治物語の叛逆論(卷三頼朝遠流の條)、などを主として、道徳的批評の所々に加へてあるのを見ても、この作の動機の一つに政治的道徳的意味のあることが知られる。保元から世が亂れたといふことは何人にも知られてゐる事實であつたのみならず、愚管抄にも、ずつと後の保暦間記などにも、現はれてゐる思想であり、保元物語(卷三鳥羽院の政を論ずる條)にもそれを明記してあるほどであるから、その事蹟を考へるにつけて、先づ世の治亂といふ觀念が浮んで來るのは當然である。
 けれども保元平治の物語は、上記の如き修飾がまだ少く、敍述の筆も比較的簡潔であり、また一篇の結構も概していふと兵亂の始末と經過とを事件の順序に從つて記録してゆくといふ風であるが、平家物語になると文學的作品としての性質が明かに現はれてゐる。第一、この物語には全篇を貫通してゐる一大精神がある。祇園精舍の鐘の聲、沙羅雙樹の花の色、を説くに始つて、大原御幸、建禮門院の崩御、で終つてゐるこの物語は、平家の興亡を主題として盛者必衰生者必滅の世相を示すといふ全篇の基調が、その結構の上にも力強く響いてゐるのみならず、始終を通じてそ(63)の一々の説話の上にもこの佛教的情調が濃かに現はれてゐて、何ごとにつけても無常の世だといふ思想がつきまとつてゐる。次にこの物語は、多くの説話を一すぢの絲でつないでいつたといつてもよいほどのものであり、時にはその絲が弱くてきれさうになつてゐるところさへ見えながら、作者の構想が全體の上に現はれてゐる。その最も著しいのは、主要な人物の性情を反對の方向に誇張して描き、それを互に對照させることであつて、清盛を非道なよこがみ破りとして、あらゆる惡事を彼一人に着せてしまひ、その反對に重盛を温厚篤實で智あり情けある君子として、一切のよいことを彼に集中させると共に、氣の弱い人物としてゐるのが、その例である。歴史的人物としては清盛も情け深い人であつたともいはれ(十訓抄第七)、重盛とても物語の示す如き人物ではなかつたであらう。それをかう極端に描いたのが物語の構想である。清盛に反感を示し重盛に同情をよせるのは、保元平治の物語にも見えてゐることであつて、それには清盛の行動事業に由來するところもあり、平家没落の後に書かれたからといふ事情もあり、また後にいふやうなそれに對する世人の心理の動きもはたらいてゐようが、平家物語に於いて特にそれが著しいのは、作者の構想にもよるのであらう。人生の葛藤には相對する人物のある場合が多いから、物語にかういふ構想のせられるのは自然のことでもあるが、平家物語のはそればかりではなく、平家の榮華と早くもその裡に潜んでゐる衰運の萌しとをこの二人に象徴させ、それによつてあまりにも急速な興亡の姿を示さうとする意味も含まれてゐよう。次には平家の事跡が殆ど一篇の詩であるからでもあるが、この物語が給卷物を繰りひろげてゆくやうに、いろ/\の場面がそれからそれへと移つてゆき、而もその間に波瀾あり起伏ありまた色彩の變化もあつて、殆ど純粋の空想的物語の如くも感ぜられ、さうしてその敍述の調子の高まつてゐるところは、必しも事貫として重要なことのみではなくして、美しい光(64)景美しい人情と感傷的な事件とにもそれがあり、また事實に本づきながらそれを潤色した説話、或は事實とは考へられないことの多く含まれてゐる點に、作者の態度の見えてゐることである。故郷の月見の徳大寺實定(卷五)、都落ちの時の忠度や經正(卷七)、または八島の戰の那須の與一(卷二)、さては最後の卷の大原御幸、などの詩趣ゆたかな説話によつてそれは知られる。全體から見ると歴史的事實が紙背に潜んではゐるものの、表に現はれたところはたゞこれ一篇の敍事詩、むしろ感傷的な悲哀な氣分を歌つた一曲の抒情詩である。盲法師の奏する琵琶の哀調もよくそれに相應してゐたであらう。但し一篇の基調は世の無常といふ感傷的な氣分ではあるが、政治的道徳的觀念も所々に現はれてゐる。
 ところが源平盛衰記になるとまた樣子が變つて來る。これは平家物語を本としてそれを増補潤色したもの、畢竟その異本の一つであるが、その潤色のしかたがこの物語に記されてゐる説話を複雜にし、またそれに似たものを多く附け加へてゆくところにあるから、結構はむしろ散漫になり感情は却つて稀薄になつてゐる。あまり多くの説話を並べ立て、うるさいほどに和漢の故事を引き、さうしてそれらの説話には甚だしい誇張の筆を弄し、また平家物語の全篇を貫通してゐる根本的精神をよそにして源氏の事跡を插入してゐるために、全體を一篇の詩として見るよりは、それに含まれてゐる一々の説話に興味の中心ができて、平家物語のやうにまとまつた感じを與へないのである。さうしてその一々の説話も、説話そのものは概して感傷的な情調を誘ふべき性質を有つてゐるにかゝはらず、敍述の態度が著しく知識的でありまた煩縟であるために、讀過したところでは、それによつて知識を得たといふ感じはするが、胸に強く響いたといふ心もちはせず、敍事詩としての性質が甚しく傷けられてゐる。それだけ全體としての文學的價値は(65)貧しい。しかし、それに含まれてゐる説話は甚だ豐富であつて、一方ではそれがこの時代の思想を現はしてゐると共に、他方では後世の文學に多くの題材を提供してゐるから、盛衰記は畢竟國民傳説の一大寶庫といふべきものであつて、この點に於いて文學史上に重要なる地位を占めてゐる。
 盛衰記は本來平家物語を潤色したものではあるが、一々の説話を敍する場合に道徳的の批評を下すことは平家物語よりも?かに多く、また題號が源平盛衰記となつてゐて、その實は依然として平家一門の盛衰を説いたものでありながら、少くとも題號の上では、源平二氏の一盛一衰を敍したもののやうにせられた點に於いて、天下全體の治亂といふ考に觸れて來てゐる。それは、後にいふやうに、作られた時代が南北朝ころであつたからであらう。ところが、太平記になると、その名稱からもまた起首の書きざまからも知られるやうに、政治的意味が明かに現はれてゐるので、所々に插まれてゐる評語にもその傾向が見える。作者の態度が平家物語とは違つて、むしろ治亂興廢の由來を説くことに一つの重點が置かれてゐるらしい。もとより物語の系統に屬する讀みものであるから、作者の空想から生まれた説話や場面が多く、盛衰記とほゞ同じほどにシナの故事をうるさく語り、また感傷的な文字を隨所に點綴してもゐる。後醍醐天皇の隱岐遷幸を敍したところを増鏡の同じ場合のに比べてみると、太平記の書きかたの甚しく感傷的であることがわかる。しかし作者の腦裡に天下の治亂といふ觀念が常に蟠つてゐることは、何處を讀んでもすぐに看取することができるので、これは、北條の滅亡に始つた天下の大動亂が果てしなく續いてゆく南北朝時代に於いては、當然、起らねばならぬ思想であり、保暦間記などが作られた時勢の産物である。神皇正統記はいふに及ばず、増鏡や水鏡などでも政治的色彩が濃く出てゐることは、それを今鏡などに比べて見るとよくわかる。太平記の作られた重要な動機(66)に政治的意味のあることは、怪しむに足らぬ。
 かう考へて來ると、上に述べた諸種の物語は、普通に戰記物語と總稱せられてはゐるものの、作者の精神と作の動機とにそれ/\特異な點のあることが知られよう。但し、さういふ特色があるにかゝはらず、それらが共通の性質を有することもまた明かである。それは、武士の行裝言動、特に花々しい戰闘の状況、またその功名爭ひ、君臣間の情誼、事に當つての苦衷、敵に對してのなさけ、親子相互の愛情、夫妻間の纏綿たる情緒または兩性の戀愛、をりにふれ時につけ詠歌に託しての感懷、など、絶じて武士の氣象と風尚とを示すところにその重なる意圖のあることであつて、戰記物語といはれてゐるのもこの故である。これらの敍述に於いて作者の想像力が多分にはたらいてゐるのみならず、造作した説話の少なくないこと、そのうちには特に感傷的な場面の構造せられてゐるもののあること、そのために人物が少さくなり弱々しくなつてゐる場合のあること、それと共に知識的興味のために和漢の故事を引用すること、などもみな共通である。或はまた世人の口を借り、もしくは何人かの夢に託し幻視に託して、人物や時事の批評を試みることも、どの物語にもある。如何なる事件が如何に敍述せられ、如何なる説話が如何にして作られてゐるかは、後にいはうと思ふが、武士の行動による兵亂が物語の主題となつてゐるのが同じであるのと、後にいふやうに作者も讀者もほゞ同じ地位同じ身分のものであるのと、當時の一般の知識、情思、氣風、が何れの物語にも現はれてゐるのとで、おのづからかうなつたのであらう。さうしてそれにはまた、同じやうに貴族文學としての物語から相承せられまたは學ばれたところのあることも、一つの事情となつてゐるらしい(このこともまた後にいはう)。物語によつて特色のあるのは、主として、それに敍述せられてゐる事件、その事件の起つた時代、または兵亂の性質の違ひ、(67)から來てゐるので、要するに主題に幾らかづゝの變異があるからのことであらう。特に平家物語は、そのはじめの數卷が、概していふと少くとも表面的には平和の時代の物語であるために、兵亂をその主題としてゐないところに一つの特色がある。しかしそれにもかゝはらず、榮華物語などとは違つて、その公達の貴族化してゐた日常生活を敍することは殆どせられず、時々に起つた何等かの事件、特に平家に反抗したものの行動とその運命と、を描くことに主力が注がれてゐるので、そこにやはり戰記物語の性質が保たれてゐる。たゞ上にもいつた忠度の歌や經正の琵琶、また一の谷の戰での敦盛の笛、さては楚囚の身となつた重衝の琵琶や朗詠の話などに、彼等の平素の生活がほのめかされてはゐるが、それとても、武士としての平家の人々の文事的教養とそれを嘆美する世人の平家觀の一面とを、示したまでのものである。なほ物語によつて特色のあるのは、それの作られた順序にも關係があるので、後出のものには前出のものの敍述のしかたが學ばれつゝ次第にそれが強められ複雜化せられると共に、定型化せられてもゆくので、盛衰記と太平記とがその最も甚しきものである。
 さて、これらの物語に政治的意味のあることは、忌憚なき褒貶と批評とが何ものに向つても加へてあることによつても知られる。一二の例をいふと、保元物語は鳥羽院の政を論じ(卷三)、平治物語(卷二)にも時の兵亂を「世すでに末になりて國亡ぶべき時節にやあるらん」と「心ある人」に歎かせ、また平家物語(卷一、五)には「二代の后」についての世評を記し、清盛の專横を「王法の盡きぬる故なり」と慨し、南都の燒亡については「天下の衰微せんこと疑なし」と歎じ、また承久軍物語は後鳥羽院の輕擧を難じてゐる。太平記の作者に至つては、建武の新政を危ぶみ(68)(卷一)、時には託宣をかりて「叡慮の向ふところも富貴榮耀のためにして理民治世の政にあらず」(卷一七)、また天狗の言として「先朝隨分賢王の行をせんとし給ひしかども、眞實仁徳撫育の叡慮は總じて無し、?慢のみありて實儀おはさず、」(卷二七)、とさへもいつてゐる。「叡慮」をいふのは、天皇親政の形になつてゐたのと、政治のすべての責任を君主に負はせる儒教思想とのためであるから、妥當の言ではないが、ともかくもかういふことがいはれた。その他、事にふれて朝政を難じ權家の行爲を非議するのは常のことであつて、それは、多くはやはり儒教風の政治道徳思想によつてではあるが、國の煩ひ民の歎きを立論の根據としてゐる(例へば平家物語卷五)。前篇に述べたやうに四季物語の著者が、同じく儒教思想によつて、當時の政治に對する不平の言を吐いてゐることによつても知られる如く、かういふ考は戰記物語に於いて始めて現はれたものではないが、それにしても近いころからのことである。大鏡などにも權家の態度に對する批評の言が見えはするが、それは低い聲うちかすめたいひかたに於いてであり、またそれは現實の感じをいつたものであつて、儒教思想の上に立つてのことではなかつた。然るにこのころになつてかうなつたのは、世を驚かし人を驚かせた幾度かの戰亂によつて刺戟せられたからであると共に、文權が治者階級から離れたためでもあり、なほ後にもいふやうに文筆に從事するものが書物の上の知識によつて現實を歪曲しがちであつた風習とも關係があらう。平安朝文學に於いて、よし治者の位置から被治者を見ることはあつても、被治者もしくは局外者の目で治者を看ることは少かつたこと、またシナの知識を知識として尊重しながら、必しもそれによつて現實を律しようとはしない場合が多かつたことを、考ふべきである。
 またこれらの戰記物語が人物やその行動について道徳的眼孔から批判を加へることを忘れないのも、作者が權力と(69)權力によつて動かされる人とを離れて、廣い民衆の見地から自由な判斷をすることのできたのが、その一原因であらう。權力が少數者の手にあつて、それによつてすべての社會が動かされてゆく世には、權力の外に立つ道徳の權威は零である。平安朝の極盛期が即ちそれであつた。權力が衰へてもなほその權力によつて生存しなければならぬ社會では、我を空しくして世に順ふのが處世の道である。後にいふやうに鎌倉時代の十訓抄などが教へた貴族社會の道徳がそれである。しかし、さういふ社會の外に立つてゐる民衆は、別に一隻の道徳眼を具へてゐるので、褒貶の評を何人に向つても自由に加へることができる。保元物語は朝命によつて父を誅した義朝を難じてゐるが、權力に從ふ外に道義の無かつた平安朝思想からは、かういふ論は起るまい。その論が起つたのは道徳が權力の外に存立してゐる時世だからであらう。平家物語は清盛をかつて氣まゝなよこがみ破りとして極度に反感を示してゐるが、榮華物語は道長を理想的人物として渇仰してゐたではないか。道長を讃美するのは權力者の人情で、清盛に反感を抱くのは民衆の心理である。勿論、清盛の難ぜられたのは平家が滅亡したためでもある。「奢れるもの久しからず」、「猛きものも遂には亡びぬ」。そのためしにするには、平家の騎奢專權横暴、即ちいはゆる「惡行」、を事實として示さねばならぬからである。と共に、榮枯盛衰の跡に感傷の情を託するには、平家の榮華に一掬の同情を寄せると共に、その裏に既に衰亡の氣を含んでゐることを暗示せねばならぬ。上に述べた如く、重盛の嘆美せられた一つの理由はこゝにあらう。平家物語にはこの二つの態度が結合せられてゐる。しかしかう見ることもまた局外者の感懷であり、民衆の態度である。
 戰記物語によつて國民的英雄が形づくられ、暗黙の間に英雄崇拜の思想が生じたのも、また同じ事情のためである。英雄は畢竟民衆的精神の反映である。重盛の嘆美せられたのも義經の同情せられたのも、或は智謀に長け情けの深い(70)武士の典型として楠木正成の崇敬せられたのも、彼等に民衆の心を維ぐ何物かがあつたからである。平家物語も太平記もこの民衆の思想によつて實在の重盛、義經、正成、から英雄的重盛、義經、正成、を作り出した。曾我物語が二人の兄弟を英雄化したのも、一般の武士が彼等の復讐を道徳的に嘆稱したからである。彼等は實社會に於いては概ね弱者であり失敗者であるから、權力萬能の思想から見れば殆ど顧るに足らないものである。さういふ弱者の尊ばれるのは、重盛や義經の悲哀の運命に對する同情もあり、曾我兄弟や正成の悲壯なる行爲に對する讃美の情もあらうが、何れにもせよ民衆が彼等に於いて、或は上品な、或は美しい、もしくは偉大な、人を看出だしたからである。特に時間といふ幾重の霞を隔てた過去の世界から美しい光を後の世に放つ英雄の姿を認めるのでなく、同じ時代の人物にそれを發見するには、片鱗を雲際に見て黄龍の天に昇るを想ふやうに、地上の民衆が遠いところからそれを眺めるを要する。英雄が民衆の胸に生まれるには、かういふ理由もある。
 それのみでない。平安朝の貴族は光源氏を空想の上に作り出し、或は業平を傳説化してそれを理想的人物としたのであるが、その心理は、おのれもまたあのやうになりたいといふのである。更科日記の著者は現に浮舟になつて見たいといつた。さうしてその羨望するところは人物よりはむしろ境遇であつた。しかしこの時代の重盛も義經も正成も、さては曾我兄弟も、その尊ばれたのは境遇でなくして人物である。凡人の及び難い崇高な行爲である。及び難いとするところに渇仰讃嘆の情があつて、一道の靈光がその間から現はれ、英雄崇葬がそこから起る。さうして實在の人物について時代の要求する特殊の性情と行爲とを見出だし、それを高調してその人物を英雄化するのが、詩人の空想であり文學者の筆である。だからこの意味に於いてこれらの戰記物語は貴重な國民詩であり國民文學である。さうして(71)それが永く後の時代の人心を感化した。思想が生活を導き文學が實世間を動かしてゆくのである。
 
 戰記物語を民衆の思想を表現したものとして見れば、おのづからその作者が何人であるかといふ問題に觸れねばならぬ。が、これは從來文筆に親んでゐた貴族は、武人の生活行動を寫すことも、武人の心理をあれまでに領解することもできなかつたらうし、武人自身は文事に疎遠であつて作者たる能力が無かつたらう、といふ大體の觀察と、他の方面に於いて僧徒が文藝の中心となつてゐた時勢と、また戰記物語の祖である將門記などの作者が僧徒であつたらうといふ臆測とを綜合して、それを僧徒と考へるより外にしかたがあるまい。全體の上に佛教思想が浸み渡つてゐることはいふまでもなく、その中に含まれてゐる種々の説話も、概ね佛者の腦裡に於いて釀成せられたものらしく見える。特に盛衰記や太平記には鎌倉時代のころに行はれてゐた佛家の説が煩はしきまで記してあり、北嶺に關することに於いてそれが最も甚しく、また寺院や僧徒を破壞殺戮した武士を激しく非難してあることを、考ふべきである。もつとも文筆にたづさはるほどのものが幾らかの佛教的知識を有つてゐないものは無い時代のことであるから、單にこの事實によつてのみ作者を僧徒と斷定することはできない。それと反對に、保元平治の物語や太平記には、佛教思想を含んでゐることは勿論ながら、シナ風の政治觀道徳觀が力強く説いてあるけれども、僧徒が外典の知識を有つてゐることは珍しくないから、これもまた作者が僧徒でなかつたといふ論據にはなるまい。だから作者が如何なる地位のものであるかといふことは、上に述べたやうな大體論から考へる外はない。昔から普通に行はれてゐる説には確な根據は無いらしい。のみならず前にもいつたやうに、物語の全體を支配してゐる政治觀道徳觀が、公家貴族の階級に屬して(72)ゐるものの思想らしくは見えない。また宮廷のことを書くにもさういふ場所を遠くに眺めてゐるものの筆らしい點が多い。例へば平家物語や盛衰記の戀物語には、大抵禁中第一の美人がその女主人公になつてゐるし、平治物語(卷三)には常磐のやうなものでも「九重に名を得たる美人を千人召されて百人撰び、百人が中より十人撰び、十人が中の一として」撰ばれたものとしてあり、また美人については女御更衣にもと心がけて傅き育てるといふことが戰記物語の口癖となつてゐるが、これらは宮廷を一種の理想的美人の郷土として遠いところから仰ぎ見てゐるものの思想であらう。盛衰記(卷一八)の管絃の御遊の有樣を敍してゐるところが實際を知らぬものの筆つきであることも、作者の公家でない一證であらう。
 またこれらの物語は、源平の爭ひ公武の關係に於いて、概ね第三者の地位に立つての批評を加へてゐる。平家物語や盛衰記は平家一門のふるまひを惡行として攻撃しながら、その優美なてぶりをば稱讃し、東夷の野卑をばさげすんでゐる。承久軍物語は京方を非難はしてゐても、その失敗には同情してゐる。太平記も概して南朝に心をよせ、また武士をば東夷として卑んでゐるところ(卷二)さへあるが、足利のものでも將軍は將軍として立ててをり、また南朝でもその非難すべきことを非難するに躊躇はしない(卷一、卷一七、卷三五など)。これらは、南朝に心をよせてゐる公家の手になつたらうと思はれる増鏡が、承久の役を「無下の民と爭ひて君の亡び給へるためし」といひ(新島もり)、北條の力で即位せられた後堀河院の父君を「よこざまの幸おはしける宮」と貶し(ふぢ衣)、また鎌倉武士を「ゑびす」といひ(つげの小櫛)、時頼を「いみじう賢きもの」と評する(内野の雪)など、事につけては鎌倉をさげすむ口氣の見えるのとは大に趣が違ふ。かういふ點から見ても、戰記物語の作者が政治上の爭ひに於いて大抵局外者(73)であつたことが推察せられるが、それを僧徒だとするとよくこの事情にあてはまる。落首などを作るのも局外者の態度である。かう考へて來ると、これらの戰記物語にその題材となつてゐる武士の思想と、作者の知識から出てゐる佛敦的または儒教的思想との、二要素が混淆してゐて、而もそれらの間に不調和のある理由もわからう。
 また戰記物語の著者が武士自身でないことは、蒙古襲來といふ大事件が何等の文學をも産み出さなかつたことからも推測せられる。(竹崎季長繪詞などは文學として取扱ひ得るほどのものではあるまい。)これは思想の上からいふと、對外的意義に於いての國家意識が、武士の間に明かに形成せられるまでにならなかつたことを示すものであるが、前古未曾有のこの大事變は、少くとも九州地方の武士には少からざる刺戟を與へ、忘れ難き印象を遺したであらうに、それが文學となつて現はれないのは、武士自身にそれだけの文事上の修養が無かつたからであらう。この時代の末から朝鮮半島を荒し廻つたいはゆる倭寇も、もしそれに加つたものに幾らかの文學的素養があつたならば、冒險譚やうの物語か珍奇の世界に對する感想かが文字に現はれねばならぬのに、さういふものが一つも無い。太平記(卷三九)には蒙古の役のことを記して、その勝利は我が國の武勇のためではないといつてゐるが、これは武士の思想ではあるまい。倭寇については、賊徒がかゝることをすれば我が朝が異國に奪はれるやうなことが起るかも知れないといつてゐるが、これも同樣であらう。
 さて、これらの戰記物語は、初めから今日に傳はつてゐるやうな形で世に現はれたのではなく、時代を追うて幾人もの手で幾度も潤色せられたらしい。異本の多いのもそのためであらう。保元物語と平治物語とは、どの本に於いても、ほゞ統一が失はれてゐないが、それでも保元物語の結末に見える爲朝の鬼が島へ渡る一條などは、もとからあつ(74)たものかどうか疑はしい。さうして今の保元物語と平治物語との種々の異本の原本ともいふべきもののできた前に、同じ主題を取扱つた繪卷物などがあつたらうといふことは、前に述べておいた。今の保元平治の物語は、戰記物語としての特殊の文體が一應形成せられてゐることから考へても、また源平時代のことが傳説化せられてゐることから見ても、その原本がさう早く作られたものとは思はれぬ。「鎌倉殿の御時」(平治卷二義朝敗北の條)が既にほどへだたつた昔となつた時代のものであることは、この語のあるのでも知られよう。
 平家物語も、その平家の榮華と滅亡とが時の人に與へた強い印象のまだ消え失せない時代にでき、作られて後まもなく、これは目に見る繪卷物ではなくして、耳に聞く盲法師の琵琶にも上るやうになつたであらうが、今の形のが最初の作のまゝでないことは、文章の統一が失はれ、意義の連絡さへ怪しくなつてゐるところのあるのでもわかる。例へば卷一の忠盛のことを書いたところに女房の歌の話があるが、これは卷頭全體の着想と文勢とに調和しない贅物である。また卷五の新都のことの條に方丈記から取つた文が二箇所もあつて、それがために文意がつゞかぬやうになつてゐる。これらは盛衰記や長門本にその添加せられない前の原形が遺つてゐる。また種々の傳説や插話も後から加へたものが多からう。例へば卷三の重盛薨去の條の燈籠の話や育王山に金を寄附したことなどがそれであつて、それもその話の出てゐない長門本が原形を示してゐるらしい。小督の説話もまだ原形には無かつたのではあるまいか。これは長門本にもあるが、事實に本づいた説話とは思はれず、さうして平家の榮華には直接の關係の無いことだからである。清盛の「惡行」を極端化するために作り加へられたものと解せられる。(小督は高倉天皇の妃として實在の人物であるが、こゝにいふのは平家物語に見える説話のことである。)かういふ潤色は長い間に幾度も行はれたらしく、(75)そのために種々の異本ができたので、長門本や源平盛衰記はその最も後に改作せられたものでからうが、流布本の平家物語には更に盛衰記から採つて補つたらしい部分さへある。例へば卷一の祇王の説話は、卷初の全體の文勢からいふと全く疣贅であるが、長門本にも盛衰記にも、この説話を拔き取つたと同じ形に文章が續いてゐるから、平家物語の原形はこれであつて、後に盛衰記の別の場所からこの説話を取つて來てこゝに插んだものらしい。なほ琵琶法師の語りものとするために書き改められたり添加せられたりしたところがあつて、それが讀みものとしての物語に寫しとられたこともあらう。だから流布本の平家物語の今の形となつたのが、遙か後のことであるのみならず、多くの異本に共通な形をとつたのもさまで早いことではなからう。確かにはいはれないが、保元物語平治物語も、また平家物語も、それがほゞ今の形を具へたのはいはゆる鎌倉時代の中ごろ以後であらう。
 源平盛衰記は、第一、その文章に無用の故事や説話を多く列べ擧げて平家物語を補綴した跡の明かに見えてゐるところが多く、それがために敍述が徒らに煩雜になり文章が支離滅裂になつてゐる場所さへある。開卷第一の平家興隆の由來を述べた章などはその好例であらう。また平家物語に見える説話をもととしてそれを更に發展させたもの、新に作り加へたと見なければならぬもの、などが多い(後にその例を擧げよう)。だからそれが平家物語を潤色したものであることは明かであるが、それと共に、戰争が絶えまなく續いて、敵味方の向背が忽ち變り親子兄弟すら頼みにならぬといふやうな、南北朝の混亂時代でなければ生じないと思はれる思想が處々に散見しておることと、源平盛衰記といふ題號が、北條が仆れ足利が起つて、源氏の平氏に代つたといふ考の生まれた時代にできたらしく見えることとを、綜合して考へると、盛衰記の作られたのは南北朝時代かと推測せられる。(76) また太平記は初めから一人で書いたものでなく、漸次他人の手によつて書きつがれたものかも知れず、結末の結末らしくなつてゐないのも、書きつぐものが無くて中絶したからのことかとも思はれるが、それにしても異本のあるのを見ると、やはり後からいろ/\に筆が加へられたらしい。互に矛盾したことが所々に記されてゐるのも、これらの事情のためであらう。特にこれは現在世間に活動してゐるもの、またはそれと關係の深いものの行動を敍してゐるだけに、人々の名譽心や利害關係からも種々に變改が加へられたであらうし、實際、難太平記にもそんなことが見えてゐる。なほ曾我物語のやうなものにも異本があつて、今傳はつてゐるのは概ね足利時代に手の入つたものらしいが、原作は鎌倉時代に作られたのであらう。保暦間記にもこの名が見えてゐる。作者は箱根か伊豆あたりの僧徒ではなからうか。文章なども平家物語などに比べると蕪雜である。東國人の知識としては地理などに少し怪しい點が無いでもないが、原作がどうなつてゐたかはわからぬ。
 
 さて戰記物語がかう種々に變改せられてゆくのは、一つはその内容が全體として有機的に構造せられてゐず、雜多の説話がいくらでもぬきさしのできるやうになつてゐるからでもあるが、作者の僧徒であるといふこともその一原因ではあるまいか。僧徒の間に行はれてゐる佛典の學習法は、全體としての精神を明かにするよりは、一々の事がら一々の文字について註釋を施し、屋上屋を架して説明に説明を加へてゆくといふ風であるが、物語に物語を重ね、事にふれては傳説や故事を數多く並べてゆく態度は、よくそれと似てゐる。シナの故事をくだ/\しく説いてゐるなどは全く註釋家のしごとであつて、さういふものを多く並べてある顔半盛衰記や太平記を讀むと、恰も僧徒から經文の講(77)釋を聽くやうな感じがある。その上、戰記物語、特に盛衰記や太平記、の興味は、一般の讀者にとつては、全體としての着想なり結構なりよりは、むしろ勇ましい、或は美しい、或は哀れつぽい、一々の場面、一々の説話、にあるのであるから、かういふ場面、かういふ説話、を數多く作つてゆくことに、作者または潤色者の興味もあつたらう。全體として結構の大きい複雜な物語を書くよりも、插話としての説話の製作に力を費したので、かういふ説話は即ち獨立した短篇の物語であり、盛衰記なり太平記なりの全體の筋はこれらの插話を継ぎ合はせる絲のはたらきをしてゐるのである。勿論、その根柢には連續した歴史的事實があり、また最初の作者には、世の形勢の變化を顧み治亂の迹を敍するといふ政治的意味のある意圖があつたに違ひないが、その治亂の迹にも形勢の變化にも關係の無い插話のあまりにも多いことは、かう見なければ解せられない。平家物語は、今の形のものに於いても、盛者必衰のありさまを示さうとする一篇の着想が讀者にもよく感受せられるが、それでも小督の局の插話の如きは、興味の中心がむしろ仲國の小督をたづねるところにあり、さうしてそれは全篇の構想とは關係の無いものである。それならば何故に平安朝人が源氏物語を作つたやうに、武人の社會、武人の日常生活、を題材とした寫實小説が現はれなかつたかといふと、文筆の徒たる僧侶が局外者であつて武人の日常生活を知らないこと、文字の上の知識をば有つてゐるが、人の心理を微細に觀察する眼孔の無いこと、などがその原因ではあるまいか。讀者たる武人などもその趣味が幼稚で思想も心理も單純であるから、異常なことでなくては感興をひかず、荒唐な傳奇物語や花やかな戰争談がそれにはてうど適當であつたらう。
 その上にかういふ短篇の物語を作り出す作者の想像力はあまり豐富とはいひ難い。勿論、事實をもとにしてそれを(78)潤色する場合に於いては、簡單な骨組みに肉をつけて具體的な光景を現前させる手腕がかなりにあつたので、對話なども巧に作られてゐるのが多く、平安朝の小説に比べてさしたる遜色の無いものがあり、戰闘の状況などにも、生き生きとした敍述の認められる場合がある。けれども觀察の粗大であることと、漢文の成語を多く使ふために敍述の具象化を妨げてゐることと、並に事實を歪め、事實の記述とそれとは縁の無い説話とをつなぎ合せ、または事實としてはあるべからざる光景を構造することとは、戰記物語の通相であつて、特に後になるほど甚しくなり、盛衰記と太平記とに於いて極端に達する。また盛衰記の如きはすべてが煩縟に過ぎ、太平記になると誇張が甚しいために、現實感を殺ぐ場合が多いのみならず、歴史的事實に背いた記載も少なくない。
 また事實に根據の無い、或は有るか無いかわからない、物語には型のきまつてゐるものが多い。例へば戀物語を見ると大抵は、女が禁裡の女房で、男からの文が千束に餘つても容易になびかなかつたのが、終には情にほだされてそれに從ふ、交情極めて濃かであつたが、常なき世のならひ、男は戰場に出る、鴛鴦の番ひ羽はなれ/”\に月日を過す、男は戰死する、女は出家するか身を投げるかする、といふやうな筋であつて、通盛の北の方(平家卷九)、藤房の思ひもの(太平記卷四)、一の宮の御息所(同卷一八)、などはみなこの型であり、時頼横笛(平家卷一〇)、惟盛の北の方(盛衰記卷三一)、成親の妻(同卷五)、義貞の勾當内侍(太平記卷二〇)、などもその變形である。これは武士の夫妻にありがちの別離の哀愁を示さうとするのが主旨であつて、それを高調するための手段として愛情の極めて濃かであつたことを述べ、また夫妻となるまでの心づくしを力強く寫したのであらうが、ともかくも戀物語の大部分はみなこの形を有つてゐる。小督物語はやゝ趣が違ふが、それでも幾らかの類似點はある。要するに戰記物語の戀愛譚は、物(79)語の結構に於いては單なる插話に過ぎず、また戀愛そのことも人生の特異の事件としてであるから、平安朝の物語が日常生活の一つの姿としての戀愛の葛藤を、その物語の主題として、措寫したのとは違つてゐる。
 なほかういふ物語には多く粉本がある。その一つは、既に世に存在する傳説の改作であつて、平家物語の忠盛に女御を下されたといふ話は鎌足の物語から來てゐるらしく、盛衰記の頼政と菖蒲前との話(卷一六)は、參考本が暗示してゐる如く、沙石集(卷五)の梶原のから脱化したものである。郭公の禁獄(卷二)が同じ場所にも見えてゐる雨の禁獄の摸倣で、清盛の化鳥を捕へた話は頼政の鵺の再演であらう。太平記の本間の遠矢(卷一六)が平家物語の那須與一の話から出、一の宮御息所の嵯峨のわびずまゐ(卷一八)が小督のから來てゐることは何人も氣がつく。同じ作者の手になつたものかどうか明かでないが、平治物語(卷一)の軍議の場の惡源太は保元物語(卷一)の爲朝そのままである。平家物語(卷五)の奈良法師の毬杖の毬の話は同じ物語(卷一)の鹿谷の瓶子の話のくりかへしであり、やはり同じ物語(卷九)の佐々木梶原の宇治川の先陣爭ひは生月磨墨の話と同一手段であるが、彼の方のは盛衰記(卷三五)にもう一つ同じことを重ねて二人の使が關東に注進する一段を作り添へてある。平家物語(卷六)の宮女の葵の前に盛衰記(卷二五)が宿禰といふのを加へたのも、これと同じである。
 作りかへといふほどでもないが、太平記(卷六)の天王寺未來記の話は、古事談(第五)の聖徳太子の御託文から着想を得たものかも知れぬ。またシナの故事を改作したものも多く、平家物語の重盛が軍兵を召集すること(卷二)は、いふまでもなく周の幽王の話から出てをり、康頼の率都婆流し(卷二)は蘇武の雁の形を變へたものであつて、作者自身がその種を明かしてゐる。平家物語(卷六)の慈心坊が閻魔王のところへいつて説法したといふのは、今昔(80)物語(卷六)の法祖などに淵源があるかも知れぬ。盛衰記の袈裟(卷一九)が、今昔(卷一〇)に見える長安の女を粉本にしたものであることも、上田敏の考證によつて既に世に知られてゐる。太平記にシナの故事を例證として説いてゐるところには、その故事から暗示を得て作つた物語のある場合が多い。なほ、後に起つた歴史的事實によつて作つたものもあるので、特に託宣とか夢物語とかいふものは概ねそれである。保元物語の法皇熊野詣の時のもの(卷一)、崇徳院が或人の夢に現はれられたこと(卷三)、平治物語の盛安の夢(卷三)、平家物語(卷一、三)の成親や重盛の夢、また同じ書(卷五)の神々の評議の席で嚴島明神が追ひ立てられ、八幡大菩薩が清盛の預つてゐる節刀を取りかへして頼朝に與へ、春日大明神がその後には我が孫にも給はれといはれた、といふ或る侍の夢、などを初めとして、太平記(卷六)の天王寺未來記などまで皆さうである。同じ太平記(卷四)の後醍醐天皇の隱岐遷幸を敍したところに、御歸京を豫想してゐるやうな書きかたのしてあるのも、同じ例であらう。曾我物語(卷三)の盛長と政子との伊豆山での夢物語もまた同樣である。もつともこれらのうちには、世に既に行はれてゐる説話をとつたものもあるらしく、最初に擧げた保元物語の熊野の託宣の如きは、現に愚管抄にそれが見えてゐる。託宣や夢は豫言または前兆の性質のあるものとして一般に信ぜられてゐたから、かういふ話がいろ/\に作られてゐたのである。さういふものでなくとも、例へば平治物語(卷三)の時人の言の頼朝の興起を豫言してゐるやうなもの、平家物語(卷三、四、一二)の重盛の岩田川での淨衣の話、三井寺の炎上を平家の滅亡の前兆とした世人の語、後鳥羽院の隱岐遷幸を暗示してゐる文覺の言、などの如きものもある。(この言を誘ひ出した文覺の隱岐流謫は歴史的事實と違ふ。豫言をさせるためにかう變へたのであらうか。)盛衰記や太平記にも同じやうなことがあるが、一々いふにも及ぶまい。
(81) また前出の書に見えてゐる説話を取つてそれを潤色するのも、常のことであつて、同一題材を取扱つてゐる源平盛衰記と平家物語とに於いて、その跡が最も著しく現はれてゐる。例へば盛衰記の文覺上人が入定といひふらしてその状況を諸人に見せたといふ話(卷一九)は、平家物語の伊豆山に七日參籠したといふ物語(卷五)を、盛衰記の壇の浦の戰に白鳩が飛んで來て義經の旗の上にとまつたといふ話(卷四三)は、平家物語の白旗が一流舞払下がつたといふ話(卷一一)を、一層こと/”\しくしたものである。崇徳院を夢に見たといふ保元物語の話を盛衰記が採つて教盛の夢(卷一二)とし、太平記が更にそれを大げさにして山伏雲景の幻視(卷二七)とし、また崇徳院を後醍醐天皇に作りかへて大森彦七の幻(卷二三)に見せたなどは、かういふ潤色の徑路を示す最もよい例證である。保元物語(卷三)の鬼が島の記事が平家物語(卷二)や盛衰記(卷七)の鬼界が島となつてゐるのも、またこの例であらう。傳説の寶庫ともいふべき盛衰記などは、それに採つてある物語が悉く作者の構想に成つたものではなく、由來の分明でないものにもかういふ風に、前からあつた説話を潤色したものが少なくはなからう。和氣清麻呂を松名といふ名にして脚を斬られることにした話(卷一八)が少しく變つた形で水鏡(稱徳天皇の條)にも出てゐて、どちらが前のものとも判じかねることを思ふと、その本になつた話が別にあつたのではなからうか。平家物語にも既にかういふことはあるので、上にいつた清盛の預つてゐる節刀についての八幡大菩薩と春日大明神との對話といふものは、増鏡(新島守)に記されてゐる方が古い形のやうである。だからこれは、この説話の基礎になつてゐること、即ち藤原氏のものが將軍となつてゐること、が現在の事實であつた時代に作られたものを二つの書が採つたのであるが、平家物語では、この物語の作者の構造したものらしい清盛が夢のうちで嚴島明神から刀を賜はつたといふ話(卷三)に對應させるや(82)うに、それを修飾したのであらう。或はまた太平記(卷三九)の神功皇后の遠征の話は、續古事談や諏訪大明神繪詞に見えてゐるやうなものに本づいたものであらう。これは水鏡では別のしかたで潤色せられてゐる。概していふと、このころは傳説的物語の多く作られもし、また蒐められも記されもした時代であるが、これは兵亂の影響を受けて人が神怪奇異な説話を歡ぶやうになつた故でもあらうし、またインド傳來の荒唐な空想的な物語を聞きなれてゐる僧徒輩が文權を握つてゐて、それらの手によつて作られたからでもあらう。事實、盛衰記などに見える傳説の多くは、幾らかの佛教的色彩を帶びてゐる。
 戰記物語の性質はほゞかういふものと考へられるが、それには貴族文學としての物語から繼承せられたところもある。物語といふ名稱が既にさうであるが、後になつて現はれた源平盛衰記と太平記とがそれを襲用しなかつたのは、一つは神皇正統記や保暦問記といふ名のものの書かれた時代の風潮を示すものであると共に、一つは治亂與廢の迹を敍述しようとする著作の意圖が古物語からあまりにも離れてゐることを知つたためであらうか。保元物語平治物語や平家物語とても、その性質は古物語とは違つてゐるが、興趣ある讀みものであるのが物語の名にふさはしく、歴史的事實が骨子となつてゐる點に於いては、榮華物語にその先蹤があるとすべきであらう。また繪卷物の詞書に由來するものがあるとするならば、そこにも古物語と幾らかの連繋がある。なほ描寫の方法については、對話の形によつて人々の情思を表現させること、人物の言動に自然界の風趣をからませること、をりにふれての感懷を歌に詠ませ、時にはその贈答唱和をさせること、なども古物語から學ばれてゐる。但しその自然界の描寫は古物語とは違つて、多くは型にはまつたものである。またその歌には古歌を或はそのまゝに或はそれを少しく改作して轉用したものが少なくな(83)いが、これは古物語には見えないことである。物語中の歴史的人物が歌を詠まずまたはその歌が傳はつてゐないのと、作者が詠歌に熟達してゐないものであるのと、のためであるらしい。戰記物語の文體が古物語のと趣を異にすることは、いふまでもない。
 
 戰記物語は一種の新しい文體を作り出したものであつて、戰闘の光景と武士の氣風及び情懷とを描寫し表現することに於いて、大なる成果を收めてゐる。上に述べた如く心理の觀察は粗大であるが、これは戰陣に臨んでゐる武士の情生活そのものが單純だからでもある。上にいつた如く武士の行動に絡ませた自然界の風光には寫實的でないものが多いが、平治物語(卷一)に「ころは平治元年十二月二十七日辰の刻ばかりのことなるに、昨日の雪消え殘り、庭上は玉を敷くが如くなるに、朝日の光映徹して、物の具の金もの耀き渡つて、殊に優にぞ見えたりける、」といひ、または太平記(卷九)に「朝霧のはれゆくまゝに越ゆべき末の山路を遙かに見わたしければ、錦の旗一流峰の嵐に翻して、兵五六千人がほど要害を前に當てゝ待ちかけたり、」といつてゐるやうなのは、ともかくもその場/\の光景を讀者の目に浮かばせる。太平記の同じ卷の「主上上皇御沈落の事」の一節には、事件の經過と夜中から明けがたまでの時の進行とを巧みに配合して敍述してある。簡單なものの例を擧げると、平家物語(卷九)に「白旗さつとさしあげ、春風に射むけの袖ふきなびかせ、」といふやうなのもある。或はまた平家物語に於いて、歴史的物語としての事件の年代記的記述の形をとるために書かれた數字に、數字以上の意義の含まれてゐることにも、注意すべきであらう。例へば城南離宮の條(卷三)の終に「年去り年來つて治承も四年になりにけり」といひ、福原落(卷七)の結末に「壽永二(84)年七月二十五日に平家都を落ち果てぬ」といひ、または内侍所都入の條(卷一一)に「元暦二年の春の暮れ……」といつてゐるやうなのがそれであつて、無量の感慨がそこに籠められてゐる。榮華物語などに年月の記してあるのとは趣が違ふ。太平記の兵庫海陸寄手の事の條(卷一六)に「明くれば五月二十五日の辰の刻に」と書き出してあるのも、湊川合戰の敍述の起首としてふさはしい堂々たる筆つきである。或はまた平家物語の都落ちの條に「落ちゆく平家はたれ/\ぞ」といひ出してその名を列擧してあるやうな書きかたは、一つは語りものとしての要求からでもあらうが、讀みものとしてもこの一句によつてその光景が具象化せられる。戰闘の場合で源氏の武士に關東地方の方言らしいものを使はせるのも、戰記物語としては適切な用意である。
 しかし戰記物語の文體には種々の缺點がある。その第一は漢文の成語やその修辭法を用ゐるために、實景實情らしくない空疎の文字となつたところの多いことである。かういふ弊の最も少い保元物語に於いてすら、戰を敍するに當つて「敵魚鱗に騷け破らんとすれば身方鶴巽に連つて射しらまかす、身方陽に開いて圍まんとすれば敵陰に閉ぢて圍まれず、」(卷二)といふやうな書きざまがしてある。平家物語になると、自然界の風光の措寫にも白氏文集本朝文粹または朗詠などの辭句を用ゐ、或はそれらをつなぎ合せてゐるところが多く、それがために敍述が混雜してまとまつた印象が得られない。漢語は用ゐてないけれども保元物語(卷三)の「秋も漸く闌けゆくまゝに、松を拂ふ嵐の音、叢に呼ばはる蟲の聲も心細く、夜の雁の遙かに海を過ぐるも故郷に言傳せまほしく、曉の千鳥の洲崎に噪ぐも御心を碎く種となる、」といふやうなのは、やはり漢文や漢詩の修辭法により、特に對?の法を用ゐたものであつて、それがために松風も蟲のねも雁も千鳥も著しく抽象化せられ、感情が稀薄になつてゐる。平家物語の福原落(卷七)、太宰府(85)落(卷八)、または一の谷の敗戰の結末を敍したところ(卷九)、などにもその例があつて、これらのうちには古歌の詞を用ゐたところもある。或は漢語を用ゐた句と國語によつたものとを綴り合はせたところも多く、平家物語の福原落の「深更空夜閑にして、旅ねの床の草枕、露も涙も爭ひて、」といひ、「極浦の波を分け、潮にひかれてゆく舟は、半天の空に溯る、」といひ、大原御幸(灌頂の卷)の「軒には蔦槿はひかゝり、しのぶ交りの忘れ草、瓢筆しば/\空し、草顔淵が菴に滋し、藜?深く鎖せり、雨原憲が樞を濕す、……板の葺きめもまばらにて、時雨も霜も置く露も、漏る月影に爭ひて、たまるべしとも見えざりけり、」といふやうなのがその例である。かういふ書きかたは、思想的には、詩歌合といふものが行はれたり、歌合の判を漢文や漢詩でしたりするのと、一脈の通ずるところがあるが、書かれた文章としては、書物のうちから得て來た文字を並べたのであつて、作者自身の觀察から生れ出たものではなく、從つて徒らに雜多の觀念が亂舞するのみである。國語の部分とても、それは古典的のものであつて日常語と違つてゐるところに、漢文の辭句と同じ性質がある。この傾向は盛衰記と太平記とに於いて最も甚しいので、到るところにそれが見える。そのをり/\の情懷をのべ光景を敍するために文集や朗詠や古歌の句を用ゐてある源語などの文章との、違ひがこゝにある。
 もつとも漢文の成語やその修辭法を用ゐるのは、戰記物語のみのことではない。そのころの讀みかたで漢文をそのまゝ假名まじりに記したといつてもよいほどの文章は、長明の方丈記に既にその好例がある。海道記といふものにもまたそれがあつて、これは方丈記のよりも文飾が多く、風景を敍するにも感想を述べるにも、漢語を多く用ゐた漢文風の煩縟な修辭に蔽はれてゐる。東關紀行は海道記よりも國語の要素が多いが、修辭の法はほゞそれと同じである。(86)二つともに、表現が簡易率直で措寫が寫實的な點に於いて平安朝の女流文學の系統をひいてゐる十六夜日記と好對照をなすものである。特殊の修辭法を用ゐた漢文を假名まじりに書き下したやうな文體は、六代勝事記にも多く見えてゐるし、また例へば法然上人行状畫圖や一遍上人繪傳の如き佛家の手になつたものにも用ゐてあるので、この時代に於ける一つの流行であつたらしいが、これは口で讀むのを文字に寫したまでのものではありながら、目に見たところでは漢文の國文化になつてゐて、そこにこの時代の思想としての一つの意味がある。佛家に於いてはこれはかなり前から行はれてゐたものではあるまいか。修辭法も文體も違ふけれども、道元の正法眼藏や、日蓮の書いたもの、特に開目抄などは、或は宗旨の、或は個人の、性格のよく表現せられてゐる特異の文章であつて、文學史上看過すべからざるものであるが、假名まじりでかういふものの書かれたことには、歴史的の由來があらう。さうしてそれは戰記物語の文體の發生と關聯するところのあるものであらう。戰記物語は武士の情思言動を敍述するためにおのづから國語の語彙を多く使ふことになるけれども、その間に漢文漢詩の辭句を採つたりその修辭法を用ゐたりしたところが少くないので、そのために上記の如き缺陷が生じたのである。假名が案出せられ國語の散文が作られるやうになつた平安朝時代は、漢文漢語を日本の文學から驅逐するに絶好の機會であつたのに、それができなかつた。戰記物語の發生はその第二の機會であるのに、それがまたできない。それほどまで文筆に從事するものが漢文漢語を尊重したのである。何ごとかを敍するに當つて用も無い「漢家」の例をひき「異朝」の故事を説くのと同じ態度が、文體の上にも現はれてゐるのである。
 その第二は國文脈の七五調であつて、これも保元物語平治物語にはまだ少いが後のものになるほど多くなる。七五(87)調の用ゐられるのは、主として自然界の風光に感傷的な情緒を絡ませたところであつて、平家物語の小督局の條や大原御幸の條などにその標本的のものがある。文字ぐさりのやうに地名をつないでゆく道ゆきの一體もまたそこから生じた。もつとも保元物語には單純な感傷的の述懷にもそれが用ゐられ(卷三爲義の北の方の入水の條)、平治物語の道ゆきには七五調が整頓してゐないもの(卷二成憲の東下り)もあるが、平家物語及びそれより後のものには、概ね上に述べたやうになつてゐる。修辭の方からいふと、七五調は平安朝時代になつてからの長歌や今樣などにその歴史的由來があらうが、散文の間にそれが織り込まれるやうになつたのは、漢文口調の對?法などを好んだと同じ修辭的技巧の要求が、國文の方に於いて七五調を産み出したのであらう。何れも實景を敍し實情をのべるよりは、美しい辭句を並べることに重きを置いてゐるのである。但し對?法の喜ばれたのは均齊的な形式美のためであるが、七五調は淀みなく流れてゆく滑かな調子に興味があるので、特にそれが縁語やいひかけを用ゐるやうになると、知らぬまに思ひもよらぬ方向に觀念の變轉してゆくところに一種輕快な感じがある。遣ゆきが即ちそれであるが、觀念が絶えず變化してゆくから、思想にも感情にも統一が無い。從つて力強い高調せられた感情を現はし、または特殊の風景などを具體的に寫すことはできない。けれども、戰記物語に於いてそれが用ゐられると、殺伐な武士の行動の敍述の間に一種の優婉な氣分を漂はせ、さうしてそれがおのづから勇勁な武士の心情に潜む感傷的情緒に應ずることにもなる場合がある。さすれば、さういふ情緒の表現としてかういふ文體が取られるやうになつた、といふことも考へられよう。
 道ゆきで最も有名なのは平家物語(卷一〇)の重衝の海道下りであつて、これは宴曲の海道(宴曲集卷四)から脱化して來たものらしく、辭句にもそれから取つたところがあるが、何等のまとまつた情調の無い宴曲とは違つて、俘(88)虜となつて鎌倉に伴はれてゆくといふ重衡の氣分を現はさねばならぬ。けれども「相坂山を打ち越えて、勢多の唐橋、駒もとゞろと踏みならし、雲雀上れる野路の里、志賀の浦浪春かけて、霞に曇る鏡山、比良の高峯を北にして、伊吹の岳も近づきぬ、」などのあたりは、春風に誘はれて指す方も無くあこがれ出でた旅路を敍したものとしても支障がない。長閑な春の日に獨り憂を抱いてゆくといふ感じが現はれてもゐなければ、前後にくりかへして「あはれなり」といつてゐるその愁情を深うするための對照の用をもなしてゐない。それを更に發展させた太平記(卷二)の俊基朝臣の東下りは、この點に注意したと見えて、「憂をばとめぬ相坂の、關の清水に袖ぬれて、末は山路を打出の濱、沖を遙かに見わたせば、鹽ならぬ海にこがれ行く、身を浮舟の浮き沈み、」など哀れつぽい詞を始終つゞけてゐる。(これにも宴曲から取つた辭句がある。)けれども讀んだ上の感じは少しも哀れでない。讀者は流暢な輕快な口車に乘せられて、悲しげな詞を味ふ遑が無いのみならず、その悲しげな文字も具體的なその場合の心情をいひ現はしたものでないからである。「あはれなり」といふやうな概念で方つけてゐるのでもそれがわかる。この點は前に述べた漢文口調の場合でも同樣で、成語によつて概括的にありふれた感傷的情緒、型にはまつた花鳥風月の眺めを敍する外はないのである。だから戰爭の具體的敍述などにはかういふ文體は用ゐられず、用ゐればそれは敍述の效果を殺ぐことになる。
 かういふ風に具體的に現實の風景を寫し感情を現はさうとは工夫せず、成語や概念的の文字でまにあはせておくほどであるから、美しい詞を並べるためには、現實の状態と背馳することをも避けないやうになる。平家物語(卷九)の鵯越の條に「ころは二月始めのことなれば、峯の雪むら消えて花かと見ゆるところもあり、谷の鶯音づれて霞に迷ふところもあり、登れば白雪皎々として聳え、下れば青山峨々として高し、」などとあるのも、實景を誇張していつた(89)のではなく、初めからその時その場所の光景にもそれに對する感じにもかゝはりなく、たゞ山と春の初めとの二つの概念を基として、その概念に適合しさうな詞をあてはめたのみである。同じ卷の一谷落城の後に平家のものの落ちゆく状況を敍した「須磨より明石の磯づたひ、泊り定めぬ楫枕、片しく袖もしほれつゝ、朧に霞む春の月、心を挫かぬ人ぞなき、」なども、戰に負けた落ち人を想像したものではない。盛衰記の師長が琵琶を彈いた宮路山が深山幽谷になつてゐたり(卷一二)、文覺上人の苦行が「春は霞に迷へども峯に上りて樒をとり、……秋は紅葉に身をよせて野分の風に袖を翻し、」(卷一八)と大宮人の遊覽らしくなつてゐたりするのも、同じいひかたである。盛衰記(卷三五)の、鴨川で鹽谷が長瀬を打ち取るところに「上になり下になり浮きぬ沈みぬ俵の轉ぶやうに四五段計り流したり、敵も味方も目をすましてこれを見、深き處に流れ入りて水の底にて組み合せたり、やゝ暫く見えざりけるに水紅に流れければ誰うちぬらんと思ふところに、……」とあるなども、鴨川を宇治川ぐらゐの大河と見たのである。太平記(卷四)に、後醍醐天皇が出雲を發して隱岐に赴かせられる舟路を敍して「暮るれば蘆岸の煙に船を繋ぎ、明くれば松江の風に帆を揚げ、浪路に日數を重ぬれば、」といふなどは、全く地理を無視してゐる。要するに修辭のための修辭に過ぎない。だから青山は何處でも峨々として碧海は何時でも漫々としてゐる。四季の眺めも定まつてゐて、その標本は盛衰記(卷一一)の經俊が入つた龍宮城の記事に見える。女は誰でも李夫人楊貴妃であり禁中第一の美人である。「露を含める花の曙、風に隨へる柳の夕の氣色、」(太平記卷一八)といふやうな抽象的な形容はするが、具體的に容姿を敍したものは一つもない。(後の馬琴を聯想させる。)
 現實の状態に適合しない文字を並べるほどであるから、讀者の興味をだに惹けば、事實としてあり得べからざる話(90)をも作る。平家物語の那須與一の扇の的などは、美しいことはこの上も無く美しいけれど、事實らしくないことは何人にもわかる。たゞ一の谷の戰で敦盛に笛をもたせ直實にそれを嘆美しながら首をとらせたと同じやうに、平家の公達の優雅なふるまひと源氏の武士の弓矢に長じたこととを見せるところに、作者の着想があり、そこにこの物語の全體の情趣に應ずるところがあるので、讀者にもそれは十分に感受せられる。太平記(卷三一)の武藏野合戰の記事にある平一揆白旗一揆花一揆の色美しき陣だても、また空想の所産であらう。この物語には、千劍破城の中から麓にゐる寄手の陣中で人の死ぬのを見せたり(卷七)、比叡山の山の上から洛中の軍勢を見下して敵味方の數を比較させたり(卷八)、「拔きたる太刀を左の手に取り渡し、自ら首をかき切りて深泥の中に殘して、その上に横はりて」伏させたり(卷二〇)、さういふこともしてゐるが、しかしこれには何の情趣も無い。「弓手の矢には右の橋桁に飛び移り、馬手の矢には左の橋桁に飛び移り、眞中を指して射る矢をば」切つて落したり(卷一四)、二間あまりの橋の切れ目をゆらりと飛び渡つたり(同上)、「面三尺ばかりありて長さ五六丈もあるらんと覺えたりける大率都婆」を「小脇に挾んでゑいやつと拔」いたり(卷一五)、する近松式の武者ぶりに至つては、操人形でなくてはできぬしわざである。義貞が旗揚げをして笠懸野へ打つて出たところに、利根川の方より馬物具爽かに越後勢が二千騎ばかり馬煙を立てて馳せて來る、おの/\對面色代して人馬の息をつがせてゐると、後陣の越後勢及び甲斐信濃の源氏どもが家々の旗をさし連れて五千騎ばかり到着する、といふ話(卷一〇)なども、多くの事件を短い時間に集中させる劇的の結構で、見る目に映ずる舞臺效果は花やかであるが、勿論事實とは考へられない。(かういふ書きかたはこの他にもある。)表現の誇張もあり、また戰爭そのものが人の好奇心を誘ひ易く、從つて戰爭譚が誇張に流れるのは自然の傾向である、とい(91)ふ事情もあるが、作者(特に盛衰記や太平記の作者)の用意が、平安朝の文學者とは違つて、實状を寫すことを目的としなかつたためでもある。
 もつとも戰記物語の敍述が寫實的でないことについては、別に事情もある。平安朝人はおのれ等の日常生活をそのまゝ詩として觀てゐた。だから彼等は如實におのれ等の感情を現はし、ありのまゝに周圍の世界を寫した。この時代の作者はさうでない。詩の世界は遠いところにあつて、それを思ひやるには漢文學から得た知識もしくは因襲的趣味の媒介を要する。さういふものの力をかりなくては詩の世界を觀ることができない。成語を多く用ゐたりところかまはず花鳥風月を持ち出したりするのはこれがためであつて、この態度は平安朝時代の漢文の作者と同樣である。さうして、作者が方外の人であつて、人物に對しても事件に對しても傍觀者の位置に立つてゐることが、おのづからこの態度と一致する。戀物語でも、戀そのものを敍し戀人の心理を戀人自身になつて寫すことをしないで、外面から他人のこととして觀察する。從つて日常の戀愛生活を具體的に描くことはできず、夫妻の別離といふやうな特殊の目立つた場合を抽象的に誇張して寫す。戰争に對してもその間に馳驅する武士みづからの眼から見ないで餘所から眺めてゐる。だから、戰場を花紅葉に譬へたり「旌旗の風に翻りて靡く氣色は秋の野の尾花が末よりも繁く、劍戟の日に映じて輝けるありさまは曉の霜の枯草に布けるが如くなり、」(太平記卷七)といふやうなことをいつたりする。太平記(卷一一)の名越時有の妻などが海に身を投げる時の状況を「紅の衣絳袴の暫く浪に漂ひしは吉野龍田の河水に落花紅葉の散り亂れたる如く見え」ると書いた傍觀的態度などは、むしろ殘酷である。悲哀の蓮命に遭遇した人物についても、その人となつてその人の心情を寫すことをせず、外部からそれを觀てゐる。同情する時には「あはれなり」と(92)いふやうな概念的の語で方つけてしまふのもこの故であり、反對の場合には落首などを作つて嘲笑的態度をとるのも、また同じ理由からである。もつともこれには、何事に對しても世の無常といふやうな佛教思想の目がねをとほしてそれを見る故でもあり、彼等の知識がすべての點に於いて事物そのものについて得たのではなく、書物によつて與へられたものを記憶するに過ぎないからでもあり、僧徒であるがため人生そのものを深く味はひ得ないためでもある。
 けれども戰記物語は戰闘の敍述と武士の情懷の表現とが興味の中心になつてゐる點に於いて、散文の敍事詩たる資質を多かれ少かれ具へてゐる。盛衰記や太平記は知識的夾雜物があまりに多いから、全體としては詩らしい感じが少いが、局部的にはそれがある。戰爭は萬人の耳目を驚かし萬人に強烈な刺戟を與へると共に、多數の武士の活動によつて行はれ、さうしてその勝敗が一世を支配する力を持ち、その主動者その勝者は時の英雄となる。戰記物語はかゝる戰闘を敍述すると共に、多數人たる武士に共通な情思と風尚とを描寫するのであるから、そこに敍事詩としての性質があるのである。
 
 しかし、僧侶の手になつた他の方面の作品を見ると、それには詩的情味の無いものが多く、謠ひものとして作られた宴曲の如きはその最も甚しきものである。その詞章は宴曲集などに見えてゐて、大部分は撰者明空(鎌倉時代末の人)の作であり、さうして、その曲譜が佛家の聲明から來てゐることを考へると、明空以前にも佛家の手になつた同じやうなものがあつたらしい。水猿曲として傳はつてゐるのも同じ種類のものであるが、これも「水のすぐれて覺ゆるは西天竺の白鷺池」と冒頭にいひ出してゐること、その詞章の形式が今樣や梁塵秘抄中の佛教に縁故のあるものと(93)密接の關係のあることを見ると、これもまた僧侶の作ではあるまいか。(吉田東伍は宴曲概考に於いて猿曲は宴曲の借字であらうと説いてゐる。)これに類似してゐる白拍子が佛家から出たことを思ひ合せてもさう考へられる。
 さてこの宴曲の詞章は殆ど抒情的分子の無いものであるが、さりとて事を敍するでもなく、風景を述べるのでもなく、たゞ言語や事物の縁にたよつてさま/”\の概念を結構も組織もなく並べたてたもので、要するにきれ/”\の詞の行列であり、一曲として何等のまとまつた思想も氣分もない、支離滅裂のものである。さうしてその措辭の態度はすべて説明的註釋的である。故事を多く擧げ、古歌の詞などをつぎ合はせてゐるが、故事なり古歌なりの情趣は少しも現はれてゐない。例へば花といふ曲を見ると、冒頭に先づ「春は義弓木の徳ありて顯はせり、櫻桃李、這の花の中にも勝れたる紅櫻絲櫻初花櫻、咲けるより梢にかゝる白雲、」と説き出し、それから「花の所の名高きは」といつて和漢の名所を並べ、次に「淳和の御門の花の宴、天長八年の春なり、花見の御幸ときこえしは保安第五のきさらぎ、」などと説明的に花の宴の故事を列擧し、終には花に縁ある名詞を多くならべてゐる。宴曲の大體の樣子はこれでもわからう。戀をいつても戀歌の題を列擧したやうなものである。甚しい例をいふと、朝といふ曲に「朝」の字のついてゐる詞を無意味に列べ、山といふ曲に山名を無數に擧げてゐる。海道といふやうな道ゆきらしいものもあつて、これは地名を順次に擧げたのであるが、もとより何等の感情をも含んでゐない。縁語やいひかけなどの力で一々の場所に何かの光景を見せようとし、またその間を維いでゆかうとしてゐるのみならず、夕から夜、夜から朝、と旅ねらしい有樣にしてはあるが、暮になつてから鏡山を見にいつたり、時雨と吹雪とが同時に現はれたりしてゐるから、實景らしくは感じられない。要するに詞章も思想もきれ/”\でその間に何の連絡も無く、平家物語や太平記の海道下りに見える(94)やうな輕快な感じすらも無い。
 宴曲の詞章がかういふ風であるのは、作者が平常煩瑣な乾燥無味な文字上の詮索に波頭してゐる僧侶だからでもあり、また歴史的にいふと、同じく佛家から出た謠ひもので「神の家のこきうたちは、八幡の若宮、熊野の若王子、子守御前、比叡には山王十禅寺、加茂には片岡貴船の大明神、」(梁塵秘抄四句神歌の一)といふやうなものが前の時代から行はれてゐた因襲でもあらうが、今から思ふと、かういふものがどうして世に行はれたのか不思議なほどである。勿論これは、白拍子や曲舞と同じやうに、特殊の藝人の演ずるものであつたらしく、聽くものはたゞその曲節に興趣を感じたのみで、詞章の意義などはどうでもよかつたであらうし、また一曲の首尾を通じてではなく、興味のある一節だけを演ずることが多かつたでもあらう。(應仁略記や閑吟集に見える「花見の御幸と聞こえしは保安第五の二月」といふのは上に引いた如く春の曲の中ほどにある句である。)その曲節の如何なるものであつたかは明かでないが、詞章から推測すると、歌ふといふよりは朗吟するといふべきものであつたらうか。朗詠集の詩歌を朗詠するのとは、その詞章が詩歌としての形をもつてゐるとゐないとに違ひがあるが、樂曲としての旋律をもたない點に於いて共通のところがある。
 白拍子や曲舞などの舞も同樣で、その舞態は詞章の意義とは關係の少いものであつたらしい。白拍子の詞章には今樣や三十一音の和歌なども用ゐられたらしいが、白拍子固有の曲は別にあつた。さうして徒然草に佛神の本縁を歌ふとしてあり、現に法隆寺縁起白拍子といふ長曲さへあるのを見、また上に引いた水猿曲が水白拍子とも呼ばれてゐたことを考へると、それは敍事的のものか、または水猿曲のやうな説明的のものかであつたらう。曲舞の詞章もまた敍事(95)的のものであつたことは、謠曲の隱岐物狂に後鳥羽院の御事を曲舞に作るといひ、歌占、粉川寺、花月、に地獄の状況、朝倉の木丸殿のこと、寺の縁起、を曲舞につくるといふ話のあるのでも推測せられる。けれども白拍子の舞も曲舞も物まねらしい動作ではなかつたらしく、またかの水猿曲などが白拍子ならば、それは動作に現はし得られるやうな意義も感情も無いものであるから、舞のてぶりが表情的のものでないことはおのづから推測せられる。樂曲としても、それに用ゐる樂器が主として打ちものの鼓であつたことによつて、その性質がほゞ知られよう。かういふ歌舞の好まれた時代だと思ふと、宴曲のやうなものの行はれたのも無理はあるまい。文學的遊戯として流行した連歌もまた、全體としての思想もまとまつた氣分も無い點に於いては、これと共通の性質を有つてゐる。戰記物語、特に盛衰記や太平記のやうなものが、全體としてよりは局部々々の光景に興味を惹くことの多いのも、かういふ思想上の傾向と關係が無いとはいはれぬ。畢竟、作者が文字上の知識にのみ心を奪はれてゐる僧徒であるのと、全體に獨創力が無くなつて古人により書物によらなければ何事もできない世であるのとのために、歌曲の類までかゝる無意味なよせあつめものとなつたのであらう。それに用ゐられてゐる材料が概ね古典に由來のあるものであるのも、それを證する。さうしてそれに對するものは纔かに肉聲と舞容との美しさをめでてゐたのであらう。これらの歌舞を集めて大成した次の時代の能の詞章たる謠曲に於いても、またこれと同じ一面がある。
 こゝで一つ考へておくべきことがある。琵琶法師が語つた平家物語は、その内容は全體として見ると一篇の敍事詩といつてもよいものであるが、その形態は詩ではなくしてどこまでも散文である。それは歌はるべきものではなくして、朗吟せられまたは語らるべきものであり、その曲節は聲樂としての旋律をなしてはゐないものである。琵琶とて(96)も伴奏をするのではなくして一種の「あひのて」の用をなすに過ぎないのであらう。また演奏者は盲法師であるから、その聲音には力が缺けてゐる。そこで、聽くものは旋律や肉聲の美しさを感受することができず、何よりも詞章の意義を解することが主になり、たゞ幾らかの曲節と琵琶の絃聲とがその情趣を助けるのみである。ところが、多くの漢語を含んでゐるこの物語の詞章は、當時の一般人にその意義が容易く理解せられたであらうか。讀みものとして知識的興味をひく外には效果の無い故事などを語ることが、どれだけの感興を聽くものに起させたであらうか。こゝにこの物語が琵琶法師の語りものとして適しないところがある。また物語の首尾を通じて演奏することは事實上できず、語られるのは一つ/\の説話に過ぎないので、その説話だけで一つのまとまつた感じが與へられはするけれども、物語の全體としての敍事詩的性質はその場合には認知せられない。讀みものとしても一つ/\の説話に興味はあるが、書物が眼前にあるために全體のうちの一部分としてそれを考へることができるのに、聽く場合にはそれができない。これはこの物語が本來語るために書かれたものでないことの一證であると共に、形態に於いては勿論のこと内容に於いても、日本人が演奏するものとしての敍事詩を作らず、さういふものの必要を感じなかつたことを、示すものではあるまいか。
 
(97)       第四章 政治思想と國家觀念
 
 この時代の文學に政治上の思想が現はれてゐるといふことは前に述べておいた。平安朝の文學を貫通してゐる思想は利己的個人主義であつて、自己の榮達と沈淪と自己の快樂と苦痛とがすべての行爲の原動力、從つてまたすべての文藝の主題であつた。しかしその個人主義には、自己みづから自己のことをするよりも、他から與へられるものを享受しようとする態度が伴つてゐた。だから、世間的の榮華と快樂とを希求しつゝも、不如意の場合にはひたすらに世をわびて山に入る。ところが、貴族の權力とその文化とが衰へてからは、貴族社會全體の調子が沈んで來て、必しも個人的の失意から起つたとはいはれない一種の悲觀的思潮がどこからともなく流れ出し、世が末になつたといふ考を人に起させた。思想上に於いて個人主義の一轉すべき道がこゝに開けたのであるが、それがやはり受動的に世の衰をはかなむといふ態度であると共に、實生活に於いては、せめて身を安らかに保たうとする消極的個人主義を脱することができなかつた。けれどもとにかくこのころから「世」といふ觀念が強められて來たのである。
 ところが、かういふ貴族社會の外から、自己の力で自己を大きくしてゆかうとする活動主義の武士が現はれ、多數のさういふ武士を率ゐてゐる武將が、貴族社會を壓服して新に天下を取つた。個人についていふと武士の思想もまた自己本位のものであるが、彼等を率ゐる武將は如何にして多數の彼等を統率し、如何にして貴族社會の餘勢を抑へつけ、また如何にして民衆に臨むべきかを、考へねばならぬ。「世」といふ考は是に於いてか政治家の實際問題となつたのである。さうして時勢の勝利者たる彼等、昔の文化の尊さを切實に體驗しなかつた彼等にとつては、「世の末」と(98)か「世の衰」とかいふ語は何の意味をも有つてゐない。その武士の中心勢力である快活な東國人に於いてはなほさらである。新時代の代表者たる武士がかういふ氣分でゐるのみならず、舊來の貴族もまた時勢の大變革に逢着して、初めのうちは一層痛切に「世の末」を感じはしたものの、かゝる感傷的の氣分は長つゞきのしないものであつて、時のたつ間に次第に薄らいでゆくのが常である上に、人生は決して亡びもせず、世の中はむしろ新しい色彩をつけて新しく動いてゆくのを見ると、「世の末」といふ觀念の事實に合はないのに氣がついて來る。だから彼等もまた何時までも泣き言ばかりをいつてゐるわけにはゆかぬ。その上、時勢に促されて、心あるものは、よしそれは極めて少數であるにしても、思想の上に於いて世の變遷が如何にして起るかを考へ、或は實生活に於いて機會があらば一度び失つたその勢力を挽回しようと企てる。武家といふ強い敵が現はれたため、今まではおのれ等の社會ばかりが世界であると思ひ、その間に於いておのれ一身の利益を計る外には考の無かつた貴族が、おのれ等全體の地位を自覺し、おのれ等全體の勢力を維持せねばならぬことに氣がついて來たのである。個人の快樂をのみ求めないで、社會、少くとも彼等の階級全體、を思はねばならなくなつたのである。そこで彼等の思想はおのづから政治の得失といふやうな問題にも觸れて來るが、さうなると、彼等も昔のやうに感傷的な厭世思想に沈溺しないで、現實の世に目を向けなくてはならぬ。この時代に於いて政治が人の思慮に上り、それと共に厭世思想が衰へて現世を重んずるやうになつたことには、かういふ事情があつたのではあるまいか。
 しかし政治思想が強く現はれて來たことには別に大きな理由がある。それは、保元以來戰亂がしきりに起つて、それがみな何等かの形で皇室に關聯したことであり、そのために崇徳院や後鳥羽院の遷幸または安徳天皇の入水の如き(99)ことも生じ*、また神器の授受なくして皇位が繼承せられ、寶劍の沈没といふことさへもあつたので、政治の善惡や世の治亂が世人の重大な關心事となつたのみならず、皇室の安危にまでも思慮が及んでゆくやうになつたことである。愚管抄を初めとして六代勝事記の如きものや後の保暦間記などが書かれたのは、これがためである。ところがかういふ戰亂は、一面に於いては「世の末」の感を從來のとは違つた意味で人に與へ、王法も佛法も衰へたと考へられると共に、他面に於いては平安朝時代からいはれて來た「神國」の觀念を新しく人の心に喚びさましもした。何時からいひ初められたのか、百王を守りたまふ天照大神の誓といふことが世に傳へられてゐたが、それにもこの兩面があるやうである。百王の百を數字として考へると前途には限りがあるやうにも思はれるが(愚管抄)、神の守護に重きを置いて見ればそれに限りは無いと信ぜられ、そこに神國の觀念が結びつくのである。この時代に神國の語の用ゐられたのは、主として神の守護する國といふ意義に於いてであるが、その神の最も重要なるものは皇室の御祖先としての大神のことであるから、御子孫たる一系の皇室を無窮に守護せられる意味がそれに含まれてゐるので、そこに、承久軍物語や神皇正統記の説の如く、神國の語が皇位が神の御子孫に傳へられる國といふ意義に於いて用ゐられる契機がある。そこでこの神國では、時に變亂はあつても皇室の前途は憂ふべきでない、と考へられて來る。さうして建國以來はじめての事變であつた外敵蒙古の來侵が失敗に終るに及んで、神の守護する國としての神國の信念が一層強められると共に、外國に對する日本といふ觀念が明かに人の思想に浮かんで來た。「我が國に神のおはしますことあらたに侍りけるにこそ」(増鏡老の波)ともいはれた。後章にいふやうに、蒙古の役にも昔の神功皇后の外征にも神々が形を現はして戰闘に參加せられたといふ話の作られたのも、その根本にはこの意義での神國の觀念がある。さうしてそれに(100)は皇室の永久性の信念が伴ふ。建武中興の挫折と共に戰亂がまた起つて來て、政治的意義に於いての世の末といふ感じが再び生じはしたが、問題は政治の善惡にとゞまつて、皇室の安危には及ばない。却つてその戰亂に刺戟せられて、神皇正統記に説かれてゐる如き思想が世に現はれるやうになる。
 
 この風潮は宗教思想の上にも現はれてゐる。佛家が佛と神とを、或は天台の教派に於けるが如く本迹の關係として、或は密教に於けるが如くそのまゝで同體であるとして、結合したのは、平安朝以來のことであるが、その末期には佛教思想によつて神道を説くことが種々の考へかたで行はれ、著名な神杜についてそれ/\さういふ教説が立てられもした。神道とは日本人の民族的風習である祭祀呪術などの稱呼として用ゐられたものであるが、後には、それと何等かの關聯をもたせながら、神代の物語に附會して構成せられたかゝる教説をも指すことになつたのである。いはゆる伊勢神道は、かういふ佛家の神道説に由來がありまたそれを繼承したところがありながら、儒家や道家や陰陽説五行説などのシナ思想を附會することによつて、神代の物語を説明しようとした點に於いて、それから脱却したところのあるものである。この伊勢神道では、神代の物語の初めに現はれてゐる神々を宇宙神として解するところにその主なる考へかたがあるが、それと共にシナ思想に於いて人の心にあるとせられた神(ほゞ今日の意義での精神に當る)を、神といふ文字が用ゐられてゐるために道家の説などを借りることによつて、この宇宙神と結合し、それを一つの教義の如く取扱つてゐる。しかしこゝでいはうとするのは、神の託宣として國豐民安海内泰平をいひ、日本が神國であることをいひ、また佛に對して神を主位に置いたものがあることである。神道の教説は神代の物語の解釋の形に於いて(101)成りたつてゐるから、それにはおのづから政治的意味が含まれることになるので、神國の觀念も天下泰平の思想もそれであり、必しも當時の政治上の事變や戰亂に刺戟せられて生じたものではない。神主佛從の思想とても、神宮に於いて佛教を拒否する習慣があると共に、思想としては佛教を包容する態度もあるところから、出てゐるやうに解せられるし、この神道説そのものの構成せられたのが、外宮を本位として伊勢神宮の權威を立てようとするところにその主旨があつたのである。
 しかし伊勢神道の説をとり入れた叡山の僧の慈遍が、神道を政治的に解釋して「治世偏頗なく道を知りて徳を施し給ふを皇祖とは申すなり」といひ、「天地一人の皇徳を君の道と名づく、そも/\我が國にては之を神道と申せり、」といひ、また「まことの神道を知らざる故に天下の兵亂國土の災難も出で來をや」といつて「皇道」を主張してゐるのは(豐葦原神風和記、舊事本紀玄義)、明かに保元以來の時勢を念頭に置いての考である。同じ慈遍はまた伊勢神道の説を一層發展させ、從來の本迹説を逆にして神を常恒の法身とし佛をその應迹身とすると共に、神代の國生みの説話によつて、日本はシナ及びインドの根本であると説いたが(同上)、この神本佛迹説は、神佛が一體とせられてゐるためにその本迹の地位が轉換せられ得ること、また本迹が佛とは關係なく神だけの間に於いても考へられるやうになつてゐたこと、などにも由來があり、叡山の大宮權現についてもさういふ考へかたが行はれてゐたかと思はれるが(太平記卷一八參照)、いづれにしても神を佛教思想によつて解釋したものであり、三國の關係を説いたのも、それによつて佛教が我が國に來て我が國の用をなすことをいはうとしたものらしい。だからこの説そのものには政治的意味は無いが、日本を外國に對するものとして考へたところに、この時代の思想と一脈の連繋はある。なほ著者は明かで(102)ないが、元々集や東家秘傳にも、或は「皇王之道」を説いて世の治亂に言及し、或は神道を「理世之術」としてゐるところがある。これらは神道と稱せられる方面についてのことであるが、一遍が熊野權現の神勅によつて教を開いたといはれ、親鷺の系統に屬するものさへも、諸神本懷集に於いて神道と佛教との抱合を是認してゐることに、注意すべきである。親鸞自身も朝家のため國民のために念佛せよといつたやうに傳へられてもゐて、その眞僞は問題であるが、後にはかういふことを考へたものが親鸞の末流にはあつたであらう。また宗教思想としての神道には關係が無いが、釋日本紀の編述せられたこと、戰記物語に於いて神代の種々の説話の改作せられながら利用せられてゐること、なども、時代の思潮に關係が無くはなからう。(神道のことについては拙著「日本の神道」參照。)
 
 ところが宗教に國家的政治的意味をもたせることは、日本が神國であることをいひ、シナにもインドにもまさつた國であることをいひ、また守護國家論とか立正安國論とかいふものを書いたことによつても知られる如く、何ごとをも國土奉平天下安穩の觀念に結びつけ、來世本位の淨土教に對して現世の福利を求めることを主とした日蓮の思想に於いて、一種特異の考へかたながら、最も明かに現はれてゐるから、年代は慈遍などよりも前にかへるやうになるけれども、こゝにそのことをいつておかう。日蓮の主張に於いて重要なものは、法華經の壽量品の所説から出立して、この世界をそのまゝ淨土とすることである。「本地久成圓佛、在此世界、捨此土、可願何土乎、故法華經修行者、所住之處、可思淨土、何煩求佗所乎、」(守護國家論)といひ、「三界皆佛國也、佛國其衰哉、十方悉寶土也、寶土何壞哉、國無衰微、土無破壞、身是安全、心是禅定、」(立正安國論)といひ、「爾前述門にして十方を淨土と號して此の土を穢(103)土と説かれしを打返して、此の土は本土となり十方淨土は垂迹の穢土となり、佛久遠の佛なれば迹化佗方の大菩薩も教主釋尊の御弟子なり、」(開目鈔)と説き、また或は「法華經所坐之處、行者所住之處、道俗男女貴賤上下所住之處、併皆是寂光也、所居既淨土也、能居之人豈非佛也、」(内證佛法血脈)、と論じてゐるのが、それである。娑婆即淨土の觀念は、その考へかたにそれ/\違ひがありながら、いはゆる大乘の種々の經典に見えてゐることであり、また壽量品の靈山淨土の説をかう解することができるかどうかも問題であるが、日蓮はさう説きさう解した。ところが、それは即ちこの世界を穢土とする淨土往生の思想を否定することになるのであつて、釋尊を重んぜずして阿彌陀をのみ崇拜する法然の淨土教は、正法たる法華經を信ぜぬものであり邪法である、とする。何故に法華經の説のみを正法とするかといふと、それは法華經そのものの説によつたのである。しかし法華經は、この經が經中の王でありすべての經に勝つてゐる第一の經であることを強く主張してはゐるけれども、それのみが正法だといふのではないのに、日蓮はかういつてゐる。
 ところで日蓮は、正法を信じない時には種々の災難が起るとして、こゝでは金光明經藥師經仁王經などによつてそれを説き、これらの經に記してある災難の多くは現に今我が國に生じてゐるから、まだ起つてゐない他國侵逼難もまた起るに違ひないといふ(立正安國論)。こゝで「我が國」といふ觀念が日蓮の思想に強くはたらいて來る。さうして偶然に起つた蒙古の來侵をこの豫言の適中として考へる。我が國は神國であり神が守護せられる國であるのに、正法が信ぜられず邪法が行はれて、神も法味を嘗めざるがために我が國を見すて、惡鬼がはびこり蒙古が來侵するといふ。それと共に淨土教を邪法としてゐたその折伏の態度を他の宗派にも及ぼし、念佛無間に禅天魔律國賊を加へ、更(104)にそれを眞言亡國にまでひろげる。後鳥羽院の隱岐遷幸はその時に法然が淨土教を説き禅宗が入つたため、または院が眞言に歸依せられたためだといふ。(少し後に書かれた法然上人行状畫圖に、承久の變は念佛を禁じ法然を流したために起つたやうにいつてゐることと對照して、當時の佛家の態度が覗はれる。)日蓮のこの考は後になるほど強くなり、法華經が信ぜられないために蒙古軍が侵入して國は亡び民は奴隷とせられる、と絶叫する。蒙古襲來は、法華經を信ぜない日本に對する懲罰として、正當視せられるのである。法華經を信じてこそ日本があり日本の神もあるといふ考へかたであつて、日本は神國であるといつても、法華經の力によつてこそ神も國も安穩であるとするのである。國家のために法華輕を説いたことが、一面の意味では逆轉したともいへる。さうして、日本第一の法華經の行者である日蓮は、教主釋尊の御使であり、上行菩薩などの再來であり、當帝の父母であり、從つて日本の棟梁であり、日本の魂である、日蓮がゐるからこそ日本が立つてゐる、日本を亡ぼさないためには神々も日蓮を拜すべきだ、とまでいふやうになる。その狂信と戰闘的な性格としば/\蒙つた迫害とが、日蓮の心理をして此の如き異常なものたらしめたのであらう。
 日蓮は法華經の大旆を高く掲げて急聲疾呼したのであるが、この經を所依としたのは天台の教旨を繼承したものであつて、經文の解釋も多くは台家の説に由來があり、己身の釋迦をいひ即身成佛をいひ、凡夫が本佛で佛は迹佛であるといふやうなことも、またそれである。しかし彼の獨自の主張には、かういふ由來はありながらそれを極言したもの、また彼自身の恣意に出た甚しき附會の説もある。さうしてそのうちには當時の佛教界の新傾向に追從したところが少なくないやうに見える。いはゆる唱題の主張は、經の名を受持するだけでも功徳があるといふ、陀羅尼品の語に(105)根據があることになつてゐるやうであるが、それと共に法華三昧の儀禮に於いて經名を唱へることのあるのに導かれたのでもあらう。しかしそれよりも重要なことは淨土教の稱名との關係である。それは、この唱題にすべてが含まれてゐるとせられる法華經の修行のみを成佛の道とするのが、稱名念佛を正行として他の難行を輕んじまたは排斥することと、末法の時代に法華經が始めて行はれるとするのが、末法の世には淨土往生の教が適切であるとすることと、また十惡五逆を犯したものも女人の身を受けたものも法華經を信ずれば成佛するとするのが、淨土教の惡人往生女人往生の説と、相應ずるものであることからも考へられよう。唱題についての煩瑣な教理上の詮索はともかくも、それによつて成佛するといふのは、稱名による往生と同じ意味に於いての易行道である。理論的には唱題は自力の修行の象徴であるから、この點に於いても淨土教と正反對であることはいふまでもないが、實踐的にはかう考へられる。日蓮が口を極めて法然の淨土教を排撃するのは、實はそれが自己の主張の同類だからであり、さうして時代の前後から考へると、日蓮は法然を學んだものとすべきである。また釋迦が上行菩薩に妙法蓮華經の五字を付囑したといふことをいふのは、或は禅宗の迦葉の説話に示唆せられたところもあるのではないかとも推測せられる。これらはいはゆる新興佛教との關係であるが、初期の思想に於いて法華經と共に正法としてゐた眞言宗から採つたところもあるので、曼荼羅を用ゐることがそれであり、即身成佛をいふのも一つの淵源はそこにあらう。淨士教が現世の利益のための祈?教的性質を擲ち去つたとは違つて、日蓮の徒が加持祈?の舊習を維持してゐるのは、現世本位の主張からも來てゐるが、やはり眞言宗から傳承せられたものでもある。眞言宗といふよりは密教といふ方が適切であるかも知れず、さうして密教には台密もあるから、日蓮のこの態度はそれから來てゐるものとも考へられるが、宗派的意義に於いて眞(106)言宗を念頭に置いてゐたことは事實であるから、かういつた方がむしろ當つてゐよう。天下國家をいふのが、一つの意味に於いては、鎭護國家を説く舊佛教から傳へられたものであることも、また明かである。
 しかし、日蓮があの激越な調子で主張し辯説し論議した幾千萬言も、畢竟法華經とその經題を唱へることとの功徳を説いたまでであつて、宗教的心情の切實なる内省から出たものではなく、人生に對する彼みづからの思索といふやうなもののあることも認め難い。世相に對する感慨の現はれてゐるところは幾らかあつても、實生活に於ける道徳の問題に觸れることすら少い。己身の釋迦といひ即身成佛といつても、それが實踐的にどういふ意味をもつかは、説かれてゐない。淨土はこの國土の外には無いとするにしても、この國土に生活するものがその生活を道徳的に精練することによつて次第にこの國土を淨土にまで高めてゆくといふ風には考へないからのことであらう。これは現實の生活を苦界として否定するか、または何等かの考へかたによつてそれをそのまゝ樂土として肯定するか、二つの何れかの途のみがとられてゐる佛家の思想としては、已むを得ないことかも知れぬ。しかしこの國土が淨土だといつても、淨土である徴證がどこにあるのか。法華經を信ずるものに於いて淨土であるといふのかも知らぬが、それを信ずることが實生活にどういふはたらきをするか。そも/\かう説かれる場合の淨土とは如何なる意義のものか。天下泰平國土安穩、世間的の苦難を免れ福利が得られる状態をいふのでもあらうが、もしさうならば無上菩提を求め解脱を求め成佛を求める佛教の根本思想とそれとの關係をどう解するのか。これらのことは明かにせられてゐない。要するに、現實の自己の生活とは關係なく、經典の文字を斷片的に取つてそれに恣意な解釋を施すのが日蓮の態度であつた。これもまた古來の佛家の態度の繼續であつて、この點に於いては新興の淨土教とてもほゞ同じである。たゞ平安朝末期か(107)ら貴族社會の人心を風靡してゐた厭世觀から、全く離れてゐるだけに、淨土教に見えるやうな陰鬱悲哀の景行が少しも無く、その名を日蓮と稱し太陽を崇拜するなど、狂熱的ではあるが朝日のかゞやくやうな元氣に充ちてゐる點に、日蓮の特色があるので、そこに關東人としての彼の性格が見えるのかも知れず、また武士の氣風と通ずるところがあるともいはれようか。しかしそこにまた時代の思想も現はれてゐるのであらう。淨土教の信仰の一つの表現として踊念佛などが世間に行はれたのも、やはり佛教の國民化せられる傾向と、偏に世をはかなむ厭世教に慊らぬやうになつた時代の風潮とを示すものであらう。既に親鸞すら彼自身の行爲とその世に對する態度とに於いては、厭世主義を論理的究極地にまで押し進めたその思想を裏ぎつて、一つの意味に於いては却つて、人生を肯定することになつてゐるではないか。さうしてその結果、おのづから一種の日本的佛教が作り出されたではないか。彼は畢竟、勢の窮まつて將に變ぜんとする思想の轉換期に立つて、その身の明かに舊境地にあるに關せず、早く既にその兩脚を新空氣の裡に投じたため、脚痕未だ地に着かずして奇怪な跳躍の状を呈したのである。
 さて神國の觀念は、保元以來あまりにも思ひがけない事變がつぎ/\に起つたのを見て茫然としてゐた當時の人々に、一味の安慰と一種の自信とを與へたでもあらう。しかし元弘建武の兵亂はまたしても起つて來る。淨土教や禅宗が行はれてゐても、日蓮のいふのとは違つて、蒙古の來侵は失敗に終つた。世が末になつたと思つても世は亡びず、穢土だといつても人はその中に生活してゐると同じく、この國土が淨土だといひ人はそのまゝ佛だといつても、國はしば/\亂れ人は互に爭つてゐる。佛本神迹でも神本佛迹でも現實の神佛の崇拜には何の違ひも無い。日本がシナやインドの根本であるといつても、インドやシナが如何なる状態であるかを日本人は知らずにゐる。當時の政治思想國(108)宗觀念または宗教思想の如何なるものであるかは、これだけ考へてもほゞ知られるであらう。特にさういふ宗教思想の極めて恣意なものであることは、上に述べたところでも明かである。けれども思想はどこまでも思想として存在した。そこで次には、文學の上に政治思想がどう現はれてゐるかを考へてみよう。
 
 まづ貴族文學の範圍に屬すべき歌に政治的意義を寄託する見解のあることが注意せられる。早く新古今の序に歌を「世を治め民を和ぐる道」としてあるが、風雅新葉または風葉などの序になると、歌と政教との關係が力説せられる。またかの十八體の中に理世體撫民體といふやうな名をつけたものがあり(愚秘抄、三五記鷺本)、或は「詞花集はその聲わろきが故に崇徳院外遷の御歎ありき」といひ(愚秘抄)、或は「和歌者神國之風也、其風亂則天下亂、其風治則天下治、」ともいふ(延慶兩卿訴陳状)。宴曲の「和歌」にも「心内に動きて理世の道も備はり、詞外に顯はれて撫民の信を先とす、」とある。かういふ考はいふまでもなく文字の上に於いて學んだシナ思想に過ぎないので、古今の序と風雅の序とを比べて見ると、同じ難波津淺香山の古歌を引用しながら、風雅のはそれに儒教風の教化政治的意義を附會して説いてある。次に歌そのものに現はれてゐる政治思想を見ると、神祇や賀の歌には「世のためも仰ぐとを知れ男山むかしは神の國ならずやは」(續千載後二條院)、「民やすく國ゆたかなる御代なれば君を千とせと誰か祈らぬ」(同一條)、の如く、國家的意義に於いての神の加護をいひ君が代の長久を祝するものがあるが、これは何時の時代にもある半ばは呪言的また儀禮的の作である。連歌に於いても「草も木も同じ惠みの時を得て」に「野山の春も我が國の春」(菟玖波集崇光院)とつけられたやうな例があり、宴曲にも「四海浪しつかにして九州風治まり、雨壤を犯さず、」(109)といふやうなことがいはれてゐて、何れも同じ性質のものである。けれども、「此の君の御代かしこしと呉竹のすゑずゑまでもいかでいはれん」(玉葉後嵯峨院)、「いたづらに安きわが身ぞはづかしき苦しむ民の心おもへば」(同伏見院)、または「世治まり民安かれと祈るこそ我が身につきぬ思ひなりけれ」(後拾遺後醍醐天皇)、のやうな御製は、天皇としての政治上の御感懷を詠ぜられたものとして、それに特殊の意味がある。「見るまゝに野山の草は茂れども」に「道あれかしと世を思ふかな」(菟玖波集後嵯峨院)とつけられたのも、これと似たことである。直接に政治に關與せられない天皇に於いては、これらはたゞ御心情の發露にとゞまるのではあるが、重要なのはその御心情である。さうしてこれらは上に擧げたやうなシナ傳來の思想とは何の關係も無い。歌に政治的效果があるといふやうな考は、歌そのもので政治上の感懷を詠ずるのとは、全く別のことである。たゞ「葦原や亂れし國の風をかへて民の草葉も今なびくなり」(風雅花園院)は何時の御製か知らぬが、この集の假名序の一節と對照して考へると撰集にま近いころのかと思はれるから、呪言の意を含む「寄國祝」といふ題詠ではあるものの、時勢に對して少しくよそ/\しい感じがせられる。或はこれには北朝本位の御考が現はれてゐるかとも思はれるが、それにしても同じ感がある。けれどもこの集の御製の序、特に漢文のもの、に見える上記の思想とはどこまでも別の意味のことである。
 ところが、世に立つて新に事を爲さんとする場合には、特にその事が爲しがたくして兵亂が却つてそのために誘發せられるやうになると、歌に詠ぜられる政治上の感懷は、平和の時とは違つて來る。「身に代へて思ふとだにも知らせばや民の心の治めがたきを」(新葉雜後醍醐天皇)、「鳥のねに驚かされて曉のねざめ靜かに世を思ふかな」(同後村上天皇)、「集めては國の光となりやせん我が窓てらす夜半の螢は」(同主上)、「民安く國治まれと祈るかな人のひと(110)より我が君のため」(同神祇法親王源勝)、「山深く結ぶ庵も荒れぬべし身の憂きよりは世を歎くまに」(同親房)、南朝君臣の強烈な意氣と困難な境遇とから燃え上つた熱情が、かくの如くにして歌に現はれた。シナ思想とは別の意味に於いて歌が世の治亂と密接の歸係を有つて來たのである。昔の源平時代には作られなかつたかういふ歌の詠まれるやうになつたところに、この時代の思想が見える。
 以上は歌に現はれてゐる政治思想である。次には同じく貴族文學を繼承したものと見るべき物語について、考へてみるべきであるが、それにはとりたてていふべきほどのこともない。また増鏡に記されてゐることは既に上に述べた。そこで次には戰記物語のについて考へてみることにしよう。
 
 戰記物語に政治思想の現はれてゐるのは、その主題となつてゐる戰争そのことが政治上の事變であり、天下の亂れであり、特に南北朝時代の如く戰亂が長くつゞくやうになると、このことが一層痛切に感ぜられるからである。ところでこの政治思想は、一つは何等かの事件または一般の世相に對する作者の批評の言として、一つは説話の形に於いて、現はれてゐるが、作者の言については、その二三の例を上に擧げておいた。また説話には、世間に語り傳へられてゐるものと、作者の構造したものと、その何れであるか明かでないものとがあるが、第二のものは畢竟作者の言である。保元物語(卷三)に見える平治の亂も清盛の惡行も崇徳院の怨靈の致すところだといふ話は第一の部類のもののやうであり、上に記した太平記の後醍醐天皇に關する託宣や天狗の言、または武家や宮方の惡政を痛罵してゐる北野通夜物語(卷三五)の説話、などは第二のであり、保元物語(第一)の徳大寺實能や藤原光頼が意見を述べた話は(111)第三のであらうか。政治的意味を帶びてゐる説話はどの物語にも多く、それは政治上の事變が骨幹となつてゐる戰記物語そのものの性質から來てゐることであるが、前代の今昔物語(卷二〇)などでは佛法の妨をするものであつた天狗が、保元物語の讃岐院の説話や太平記の天狗の言に於いては天下の政を亂すものとなつてゐるところにも、戰記物語に於いて政治思想の重要視せられてゐることが知られよう。(愚管抄に義仲の法住寺殿攻撃の戰を評して天狗の所爲だといつてあるが、これは讃岐院の天狗になられたといふ話と關聯したことであるらしく、當時の世説であつたらう。戰記物語はそれに從つたものと推せられる。)
 さてこの政治思想の如何なるものであるかを見るに、第一には、帝王や爲政者の政治の是非善惡をいふことである。これは上に擧げた二三の説話にも現はれてゐるが、それには國の治亂を時の君主の心術行動の結果としてのみ考へる儒教的政治道徳説の一般的概念をそのまゝ適用しようとしたもの、從つて現實の情勢とは接觸するところの少いものがある。このことは第三章にもいつておいたが、「君は尊くましませど、一人を樂ましめ萬人を苦むることは、天も許さず神も幸せぬいはれなれば、政の可否に從ひて御運の通塞あるべし、」(神皇正統記)といふのも、またこの類である。保元物語の卷首に鳥羽天皇を、太平記の卷首に後醍醐天皇を、聖王として讃美してゐる類も、その書きかたから見ると、儒教的明君の概念を適用したところに意味のあるものである。これらとは違つて現實の情勢に特殊の關係のある思想としては、朝廷の幕府に對する態度が問題とせられてゐるので、承久軍物語には後鳥羽院に對する非難の語氣があるが、愚管抄の著者も、その一家の見地から武家の勢を得たことを當然の道理と考へて、それを排斥しようとした京方の意圖と行動とに批判を加へてゐるし、六代勝事記も「心ある人」をして「寶祚の長短はかならず政の善惡(112)によれり、」といはせてゐる。事の起つた時にもその輕擧を危ぶんだものはあつたであらうが、かういふことの強くいはれるやうになつたのは、京方の企てが失敗したからである。神皇正統記が頼朝の功績を述べて「これに優るほどの徳政(が朝廷に)無くして、如何でか容易く(幕府を)覆へさるべき、」といひ、武家征伐の擧をば「上の御とがとや申すべき」といつてゐるのも、後からの觀察である。だから、みづから關與してゐる元弘建武の場合については、それとは違つた考が生ずる。もう一つは、世の亂れを爲政者の奢り(驕奢專横)に歸することであつて、これは佛教の無常思想と連繋がある。平家の興亡によつて最も明かに示されてゐる「奢るもの久しからず」といふ爲政者の運命が、そのまゝ天下の亂れとなるからである。保暦間記の書かれたのもその主旨はこゝにあるので、平家に限らず、北條高時の如きもその例とせられてゐる。
 第二には、天下の亂れが何人かの怨靈または天狗などのはたらきによつて起るとせられることであつて、かういふ説話の例もまた上に擧げておいた。太平記(卷二五、二七)の説話に見える、武家に政權の移つたのは寶劍が海に沈んだためだといふ考も、政治的權力が不可思議力によつて動かされるとする點に於いて、これと通ずるところがある。同じ太平記(卷二七、三五)の説話で、世の治亂は因果であると論じたもののあるのも、また同樣であり、さうしてそれは世が末になつたといふ考と結びつく。何れも治亂を人力の及ばざるところとするのである。人の運命を宿世の業報に歸する佛教思想は、平安朝時代から一般に信ぜられてゐたことであるが、天下の治亂をそれに歸するのは、戰爭がしば/\起り世相の幾度か變轉するやうになつたこの時代の考であらう。帝王や爲政者の意思や行動や力などのみではかゝる世相の由來が解釋しがたいやうに思はれたのである。たゞかういふ考では帝王や爲政者の政治上の責任(113)は無くなるのであるが、しかしそれでありながら、第一の如き思想もまた存在するところに、重要なる意味がある。後からの觀察であるにせよ、如何なる場合にも人には人としての責任のあることが考へられたのである。ところがかう考へると、おのづから次のことが思慮に浮かんで來る。
 第三には、朝命の重んぜられることである。保元物語(卷一)に「朝威を輕しめ奉るもの豈天命に背かざらんや、」(または「朝敵となるものは天譴を蒙るものなり」)と信西にいはせてあるのも、また平家物語(卷五)に「我が朝に朝敵……その例既に二十餘人、……一人として素懷を遂ぐるものなし、みな尸を山野にさらし首を獄門にかけらる、」といつてあり、太平記(卷一五、一六)に、尊氏が朝敵であるから勢を失つたと考へて、持明院統の院宣を請ひうけ、それによつて勢を得た、といふ話のあるのも、みなそれである。増鏡が承久の役を「むげの民と爭ひて君の亡び給へるためし」と慨歎し、正統記が「下の上を剋するは極めたる非道なり」と、北條の不臣を責めてゐるのは、建武中興以後の時勢の故でもあるが、やはりこの思想を繼承したものである。だから太平記(卷二七)の説話では、義時が權勢を維持してゐたことをこの點から問題としてゐる。(増鏡の新島守の卷に出てゐる義時の語といふものは、保元や壽永の變を閲して來た武士の思想としては、ふさはしくない。梅松論にもほゞ同じやうなことがあるが、恐らくは京人の思想を語つたものであつて事實ではあるまい)。朝命による武士を官軍と稱することも、またどの物語にもあるが、これも同じ考へかたである。もつとも承久軍物語にこの役を後鳥羽院の御謀叛と記し、太平記(卷二)にも後醍醐天皇の御謀叛といふ語を用ゐてあるが、これは増鏡(春の別れ)に「世を亂り給はん」といつてあるのと同じで、現在の政權を覆へさうとするといふ意義でいはれたもののやうである。だから同じ太平記(卷三)は天皇の軍(114)を官軍と書いてゐる。建武の朝廷が成立した後に、その軍の官軍であることはいふまでもない。しかし朝命といつても實は朝廷に於ける權力者の意思であるから、平家都落ちの時の如く京の政權の掌握者が變ることによつて昨日の官軍が今日の朝敵となるのでは、さういふ名義に大きな意義は無いといはねばならぬ。それは要するに勢の強弱と戰の勝敗とによつて名義が變るだけのことだからである。南北朝の如く、二つの朝廷が並立してその間に抗争の行はれた場合には、兩朝のそれ/\の立ち場からいふと、どちらも官軍であり同時にどちらも朝敵であることになる。しかしともかくも、かゝる名義によつて、朝廷を本位とする政治的秩序の觀念が、思想として、一般に成りたつてゐたことは明かであり、武士とても漠然ながらそれをもつてゐたことは、事實である。たゞ皇室についていふと、一般の武士は、皇室の地位が高いところにあつておのれらとの距離が遠いので、その間の親しみが少いのと、建武中興の場合は別として通常の時には、武士生活の根本條件たる所領について皇室は直接の關係が無いのとのため、その日常の生活に於いては、皇室の觀念が彼等の行動に於いて大きな力とはなつてゐない。だから、皇室と、特殊の場合にそのために働いた武士とは、後になつても概ね保元平治の時代と同樣、皇室と國民との關係といふよりも、頼み頼まれる間がらといふべきものであつた。太平記が楠木正成を理想的の武士としたのも、智謀勇氣に富みまた情けの深かつたことと共に、一旦頼まれまゐらせた上は決してその節を變じなかつたことのためである(卷一六など)。正成がどこまでも大覺寺統の皇室の忠臣であつたのも、このためである。だからそれは江戸時代の儒者が、シナ流の名分論から來た尊王思想によつて、正成を賞讃したのとは理由が違ふ。
 さて第四には、神國の觀念であつて、朝命を奉じなくてはならぬのも、その根原はこゝにある。上にいつた保元物(115)語の實能や光頼の意見といふものにも、日本は神國であるから皇位は神の御計らひであるとも、逆臣が亂を起しても皇位は神が加護せられるとも、いつてある。兵亂がしば/\起り、平氏と源氏とが代る/”\政權を握り、北條氏がその源氏の後を承けて幕府を主宰しても、一系の皇位には何の變動も無く、その意義での神國はどこまでも嚴然として存在する。實際、神國を神國として維持するためには、承久の役の如きことを起す必要の無かつたことが、その後の状態によつて後からは明かに知られたのである。さうしてそれは、皇室を皇室として戴くことが、如何なる政權の掌握者にも極めて自然な心もちであつたからである。「草も木も我が大君の國なればいづこか鬼の住み家なるべき」(太平記卷一六)。鬼さへも住むことのできぬ國に、その大君を奉ぜぬ人の住むはずはない。平家物語(卷八)が義仲を無智のものとして滑稽化するために「主上にやならまし、法皇にやならまし、」といはせ、更に「法皇にならうと思へども法師にならんもをかしかるべし、主上にならうと思へども童にならんも然るべからず、よしさらば關白にならう、」と思つたけれども、源氏では關白にはなれないと聞いて、院の御厩の別當になつた、といふ笑話を作つたのも、これがためである。太平記(卷二六)に「都に王といふ人のまし/\て若干の所領をふさげ、内裏院御所といふところのありて馬より下るむつかしさよ、もし王なくてかなふまじき道理あらば、木を以て造るか金を以て鑄るべし、生きたる院國王をば何方へもみな流し捨て奉らばや、」と高師直にいはせたのも、師直の「あさましさ」を示すよりはむしろそれを滑稽化したものである*。神國に於いては一系の皇室は自然の存在として考へられたので、それは必しも神皇正統記の言を俟たない。兩統の並立も實はこゝに根本の理由がある。たゞ大覺寺統を正統とする正統記は、承久の役に對する考へかたとは違つて、神國の實を全くするためのしごととして、建武の事業と南朝の存立との正當なることを(116)主張しなくてはならず、そこに主觀的感情としての、また自己の行動の理念としての、この主張の意味がある。けれども後から見れば、南朝が存立しなくても神國の神國たることには妨げが無かつた。ところがこの神國の觀念には、いはゆる三種の神器の問題が伴つて來る。
 第五がこの神器に關する思想である。神器が特に問題となつたのは壽永の變からであつて、平家物語(卷一〇)には、平家に下された院宣の語として、神器が京を離れたのは亡國の基だといつてあるし、太平記(卷二五、二七)には、神器は神國の徴であるのに、その神器の一つである寶劍が海に沈んでから王法は衰へ武家が權を得た、といふやうに或るものが語つたといふ話がある。愚管抄には神劍の沈んだのは生きた武士が王家を守護する道理の現はれであると説いてあつて、それは武家の權力を正當視してゐることから來た考であつた。神皇正統記はこれに反し「熱田の神のあらたなる御事なり」と眞の寶劍の存在に重きを置いてゐるが、沈没後にそれに代へられた寶劍も神器の性質を有するものとして、「三種の神器」のうちにそれを含ませる近年の慣例を承認してゐる。これは、神が百王を護るといはれてゐる百王の百は數字の百をいふのではなくして無窮の義であるとし、神器の存在によつて寶祚の無窮が知られるとするのであるが、それと共に愚管抄とは違つて武家政治を否認する南朝の態度を示すものでもあり、神器をもたない北朝に對して南朝の正統を主張する理由ともなつてゐる。「四の海浪も治まるしるしとて三の寶を身にぞ傳ふる」(新葉賀後村上天皇)と詠ぜられたのも、「ちはやぶる神代より國を傳ふるしるしとなれる三種の寶をも受け傳へましまし」と新葉集の序に書いてあるのも、みな同一の動機から來てゐる。太平記(卷二七)にも、三種の神器を傳ふることなくして位を踐みおはすことまことに王位とも申し難しと、北朝を評してゐる。さうしてそれに對しては、北朝(117)に於いて一言の抗議をも辯解をもなし得なかつたので、武家もまたそれを承認してゐたらしい。この時代の正統論は江戸時代に起つたシナ流の名分思想から來たのとは違つて、皇位を北朝に傳へられたことが無いといふ歴史的事實と、皇位の相承には神器の授受を要するといふ神國に特殊な習慣とを、根據としてゐる。しかし持明院統も皇室であることは大覺寺流と同じであるから、後に神器を南朝から受けられると、この考へかたからいつても正統の天皇であられることになる。その前とても武家の側では持明院統を皇室として戴いてゐたので、何人も武家を皇室に對する反抗者とは思つてゐなかつた。それは安徳天皇の御在位中に京で後鳥羽天皇を戴いてゐたのと同じである。武家は南朝に抗敵したのみであつて、皇室に抗敵したのではなく、さうして兩朝の對立は、皇室についていふ限り、その内部のことであつて、歴史的には鎌倉時代末期に於ける兩統對坑の繼續である。たゞ思想的には神器の所在が問題になつたのであるが、それはその神器が皇位と共に北朝に傳へられることによつて解決した。さうしてそこに神國の一つの意味があるのである。なほ戰記物語には神器の由來についての物語が多く見えてゐるが、これも世間で神器のことが問題視せられるやうになつたためであらうから、やはりこのことと關係がある。特に寶劍については、平家物語(卷一一)に古傳説とは違つた三種の劍の説話があり、水鏡にもそれから發展したと考へられるものがあるのは、神劍の沈没から生じたことであらうか。神代に三劍があつたといふことは早く禁秘抄にも見えてゐるが、それは多分皇代記に記されてゐるのと同じであつて、こゝにいつたやうな説話はそれに本づいて作られたのであらう。太平記(卷二五)には伊勢で寶劍が發見せられたといふ話さへ見えてゐる。(これは沈没した寶劍に代へられたのが伊勢神宮から獻ぜられたものであることから思ひついたこしらへごとであらう。)ついでにいふ。三種の神寶を神器と呼ぶことは、今傳はつ(118)てゐる平家物語にも神皇正統記にもまた太平記にも見えてゐる。鎌倉時代の末のころからいひ初められたことらしい。
 第六には、外國に對する我が國の優越性といふことである。これについては上にも一言しておいたが、神皇正統記は我が國が一系の皇室を戴く神國であることを「異朝にはそのたぐひ無し」としてそれを誇りとし、一般にはシナ崇拜であつた禅僧の一人が書いた元亨釋書にもそれが説かれてゐる。勿論、何ごとについてでも、また何人もすべてが、我が國の優越を説いたのではない。却つて、宜化天皇の時までは佛法がまだ傳はらなかつたから、心に善惡の業をも辨へず親に孝養することをも知らなかつたとか(盛衰記卷八)、または世の混亂は上代にもあつたが佛法が入つて來てから世が靜まつたとか(水鏡)、さういふやうな説があつて、それは、敏達天皇と推古天皇との兄妹相婚は佛法がまだ入らないので禮義が定まらなかつた時代の風俗だ、といふ愚管抄(卷三)の説と同じ考へかたである。が、神皇正統記にはその反對に、「この國は昔より人すなほにして法令なども定まらず」などといつて、國民性を誇つてゐるやうな口氣がある。この正統記の觀察は、後に眞淵や宣長などの國學者が、我が國に教の起らなかつたのは教を要しないほどに風俗が正しかつたからだ、といつてゐるのと似てゐるが、こ*れらの國學者に先だつて春臺一派の儒者が、聖人が出て道を教へなかつた前は人も禽獣に等しかつたから、我が國でも儒教の入らない前は兄弟相婚などの道に外れた風俗があつた、といつてゐると同じである。この「儒教」を「佛教」といひかへると、そのまゝ愚管抄などの説になるが、知つてか知らずでか四百年も後に同じやうなことをくりかへしたのである。正統記の著者は國學者とは違つて、佛者の説に反對してこの見解を立てたのでもなく、また佛教を排斥したのでもないが、ともかくも親房をしてかういふ考を起させるやうになつたことに一つの意味はあるので、それは神國の觀念の強められたことに通ずるところのあ(119)るものである。太平記(卷一六)の「天照大神この國の主となり……給ふ。或る時は垂迹の佛となりて番々出世の化儀を調へ、或る時は本地の神に還りて塵々刹土の利生をなし給ふ、」といふ神本佛迹を説いた一節は、異本にそれの無いものがあることから考へると、後から插入せられたものではないかとも思はれるが、上にもいつた如くこの思想は當時既に成りたつてゐたから、初めから太平記の作者に用ゐられたものかも知れぬ。もしさうならば、それもこゝにいつたことと關聯がある。しかしかういふ思想は現實の國民生活の上には何のはたらきをもしなかつた。もと/\現實の生活とは交渉の無い單なる思惟の所産だからである。だからそれとは違つた思想の傾向もまた當時にあつたので、親しくシナに往來した禅僧には、何ごとにつけてもシナ崇拜の態度があつたほどである。或はまたシナの書物に親しんでゐるものは、知識の上に於いてシナを尊重した。戰記物語の説話に煩はしきまでシナの故事の語られてゐるのでも、それは知られる。上に述べた如く、太平記の作者が倭寇のことをいふに當つて、日本が異國に征伐せられるかも知れぬと説いてゐるのも、このことと思想上の連繋があらう。
 以上は戰記物語に現はれてゐる政治思想の重要なものをとりあげ、傍らそれと關聯のある考を當時の種々の著作から拾ひ出して見たのであるが、物語には、説話の形をもつものに於いても、時勢なり或る事態なりに對する批評か解釋かが多い。從つてそれには儒教思想や佛教思想の與るところがあり、佛教思想としては世相を客觀視する場合に生じがちな無常觀さへもそれに伴ふことがある。しかし政治は人のすることであり、人のすることには志向があり意欲があり時には強い主張があつて、それを實現しようとする。事が志と違つてその實現が困難になれば、その困難に勝つて素志を貫徹しようとする勇氣も生ずる。これが元弘建武、延いては兩統並立、の戰亂を導き出したのであるが、(120)その戰亂がます/\この氣象を強める。大覺寺統の君臣の活動は即ちそれであつて、神皇正統記の主張はその思想的根據を明かにしたものである。大覺寺統は皇位の正統を傳へたものである、古來皇位に種々の紛糾があつても終には正統に歸するのが歴史上の事實である、「邪なるものは久しからずして亡び亂れたる世も正に還るは、古今の理」であり、さうしてそこに「神明の誓」がある、「神は人を安くするを本誓とす」るから、君に徳があつて政が正しければ皇威も隆になり世も治まる、「時の災難」として「世の安からざる」ことがあつても、災難だからそれはいつしか消えて正理の行はれる時の來る希望がある。かういふのが撥亂反正の事業を行はうとする大覺寺統の強い意氣ごみを思想として表明した正統記の主張である。愚管抄と同じやうに歴史を回顧することによつてその説を立てたのではあるが、愚管抄が權力者の成敗の逆を見ることによつて世相を解釋し、そこから承久の役を起した京方の行動を批判したのとは違つて、これはおのれらが何ごとをなさんとするかの欲求と希望とを示し、その實現を期待するところに、述作の主旨がある。
 この思想もまた新葉集の歌に於いて明かに表現せられてゐる。「ゆくすゑを思ふも久し天つ社國つ社のあらん限りは」(神祇後村上天皇)、神祇の歌にはしば/\いはれたことではあるが、これには強い力と現實感とがある。「道しらぬ葉山繁山さはるともなほあらましの末はとほさん」(雜宗良親王)、「ゆくすゑのあらましにのみ慰めて今の憂き世に厭はでぞ經る」(同右京大夫)、世を治めるといふ大事業のために、この世のために、粉骨碎身しなければならぬ。歌に於いてばかりではない。太平記(卷一六)が湊川の戰の敗れた時に、「七生までたゞ同じ人間に生れて朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」と正李にいはせ、「罪業深き惡念なれども我もかやうに思ふなり、いざさらば同じく生を替へて(121)この本懷を達せん、」と正成にいはせたことにも、罪業消滅後世安樂のために念佛を修業した源平時代の武士とは違反つて、生きても死んでも、死んだ後でも、飽くまでもこの世に於いてこの世の事業をなし遂げようといふ、強烈な情熱が現はれてゐる。同じ太平記(卷二一)の後醍醐天皇の遺詔といふものも、劍を按じて崩ぜられたといふのも、これと同じである。すべきことは現世にある。さうしてそれは爲し遂げねばならぬ。世を厭ふといふやうな思想の入りこみやうが無い。實をいふと、私生活の上にも厭世思想は鎌倉時代になつてから衰へて來た一面があるので、岩清水物語や忍びね物語の主人公の遁世が厭世觀から來たものでないのも、それを示してゐる。實社會に於いても、かういふ思潮の代表者のやうに思はれてゐるらしい兼好などは、眞に出家を志したものであるかどうか疑はしいふしもある。このころに「遁世もの」といふ稱呼の生じたのも、眞の遁世者が少い一證ではあるまいか。まして世にしなければならぬ事業を有つてゐるものは、遁世どころではない。出家の身であつた護良親王も宗良親王も、僧衣を脱いで戎軒に從つたのである。「日にそへて遁れんとのみ思ふ身にいとゞ憂き世のこと繋きかな」(新葉雜懷良親王)、世を遁れるよりは世の事が大切である。「世々を經し我が家の名の惜しければ惜しからぬ身を捨てぞかねぬる」(同宗房)、惜しむべきはこの世の名ではないか。我が言行はれず、或は志の遂げがたく、思の外になりゆく世のさまを見るに忍びず、心ならずも世をすてた藤房や再び落飾した宗*良親王の如きは、ひたすらに世を憂しとして家を出たのとは大に違ふ。彼等は世を思ふことのあまりに深く、世になすべきことのあまりに多きがために、それにえ堪へずして慨世憂國の情を墨染の袖に包んだのである。改行
 
(122)     第五章 道徳思想
 
 政治道徳についての思想を考へた筆はおのづから一般の道徳觀念にも及ばぬばならぬ。
 種々の著作の上に道徳的傾向の見えて來たのは前の時代からのことであるが、この時代になると、貴族または京人の筆になつたものに於いてもそれが著しく強められて來た。これは宇治拾遺物語によつても知られるので、例へば「鬼に瘤とらるゝこと」や「雀報恩事」は、後世の花咲爺や福富草紙と同形式の教訓的説話で、特に雀の話は舌功雀の話の淵源となつたものらしい。もつともかういふのは宇治拾遺に於いても珍らしい方ではあるが、「物羨みはせまじきことなり」とか、「人はたゞ歌をかまへてよむべしとみえたり」とかいふやうなことが、所々にあるのを見ても、この書に教訓的傾向の含まれてゐることはわかる。この瘤取や雀の話はシナかインドかの説話に由來があるかとも思はれるが、或はこの時代に於いて一種の民間説話となつてゐたのかも知れぬ。海道記に竹取の物語を思ひ出して、「この姫は先生に人として翁に養はれたりけるが、天上に生れて後は宿生の恩を報ぜんとて、暫くこの翁が竹に化生せるなり、」といつてあるのを見ると、民間説話や神仙譚を道徳的に取扱つた例は他にも多かつたらう。故事や傳説を記した古事談や古今著聞集にも、鑑戒や才藝の修養をすゝめる意味のものが含まれてゐる。十訓抄に至つてはその名の示す如く純粋の教訓書であり、傳説などを纂めたものではあるが、忠直とか思慮とかいふ徳目によつてそれを分類してあるところに、教訓を主とした著作の意味がある。これには「忠臣といふもの君のために名を惜みて命を惜まぬなり」(第六)といふなど、幾らかの武士的風尚を記したところもあるが、全體としては貴族社會の思想を記したも(123)のである。「凡そ武士といふは、亂れたる世を平ぐる時これを先きとするが故に、文に並びて優劣なし、」(第一〇)ともいつてゐるが、この語調が既に文本位であることを明示してゐる。(十訓抄は序文によると建長四年にできてゐる。これと著聞集とは編纂の時が僅か二年しか隔たつてゐないのに、同一の記事はもとより同一の文章さへあるのは、少しく異樣であるが、さういふ文章は著聞集が十訓抄から取つたものであることが本文に於いて明かに知られる。十訓抄では前後の話と關聯して記述せられてゐるものが、著聞集ではそれが切り離されながら、前後に連絡のある文字が原のまゝに遺存してゐるやうなところがある。例へば十訓抄第一〇の徳大寺公繼の話の末に「これらは歌を人して遣はして心の中を表はせるたぐひなり」とあるのはその前の六七條の總括として書かれたものであるのに、著聞集卷五には前後の話の順序を變へながらそのまゝに取つてある。)
 また純粹の文學的作品たる物語などをも道徳眼を以て觀るといふ新しい態度が生じた。風葉和歌集の序に物語を論じて「世の中にある人、なすこと繁きものなれば、見るにも飽かず聞くにも餘ることを、定かにその人とはなけれど、後の世にいひ傳へて、善きを慕ひ惡きを戒むるたよりになりぬるばかり記しおけるなりければ、一向にそらごとといひはてんも事の心たがひぬべくや、」といつてゐるなどは、その最も著しい例である。無名草子に見える古物語の批評にも、例へば源語について源氏や夕霧を非難し薫をひどく稱揚したところがあつて、それは人物に對する同情と反感とが主となつてゐるらしいが、その根柢には一種の道徳的批判がある。伊勢源氏十二番女合に於いて、二條后宮、薄雲女院、伊勢齋宮、などを、徳操の全からぬ點に於いて持または負とし、有常の娘の姉君をば、卑しき夫に從つてよく女の務を守つたといふ理由で勝としてゐるなどは、明かに道徳眼で物語中の人物を見たのである。物語そのものに(124)於いても、岩清水物語の伊豫守のことがあつてから八幡の託宣によつて姫の入内が止まつたといふ話には、やはり平安朝時代のものに見えない道徳味がある。たゞ和歌だけはまだ道徳的に取扱はれず、教訓歌めいたものも現はれなかつた。これは三十一音の短い歌が、さういふ思想を容れるにはあまりに單純であるためもあらうが、歌の趣味に定型のあつたのが主なる原因であらう。
 古傳説などにも道徳的色彩がついて來たので、上にいつた海道記の竹取の物語もそれであるが、元正天皇の養老行幸の故事が、十訓抄(第六)では、貧しい男の孝行の感應で酒が自然に湧き出したといふ物語になつてゐる。大和物語の蘆刈の傳説が源平盛衰記(卷三六)では、女は情あるものであつたため男に分れた後に幸を得、男は邪見放逸であつたため落ちぶれて蘆刈となつた、といふ話になつてゐる。今昔物語(卷二〇第一第二など)では羽があつて飛行する通力があり、せい/”\のところ佛法の邪魔をするくらゐのものであつた天狗が、太平記(卷一八、二七など)では人の善を妨げるものになつてゐるなども、これと關聯があらう。かういふ風であるから、神も道徳的に視られて「天照大神も唯正直をのみぞ御心とし給へる」(神皇正統記)といはれ、三種の神器についても「鏡は一物を蓄へず私の心なくして萬象を照すに、是非善惡の姿現はれずといふことなし、その姿に隨ひて感應するを徳とす、正直の本源なり、玉は柔和善順を徳とす、慈悲の本源なり、劍は剛利決斷を徳とす、智慧の本源なり、」(同上)と考へられた。大神について正直をいふのは伊勢神道の經典としての倭姫命世紀に見える託宣の語に本づいたものであるし、神器に種々の徳をあてはめることもやはり伊勢神道の説に由來があり、少しづゝ變つて元々集や東家秘傳にも見えてゐるが、こゝでは神道の道徳的に解せられてゐる一例として、正統記の言を擧げたのである。
(125) 貴族や京人の著作の上に道徳觀念の現はれて來たのは、前代からのこであつて、こゝにいつたやうな道徳を説く態度にも、そのころからの繼續と見なすべきものがある。例へば宇治拾遺のは今昔物語のとほゞ同じである。源語の主人公を非難してゐる無名草子の態度とても、必しもこの草子から始まつたのではないかも知れぬ。藤原氏の勢力の衰へて來てから後は、もはや源氏を、無限の權勢と無上の才貌とを兼備してゐる理想的人物として、崇拜する時勢ではなく、浮舟や夕顔も更科日記の著者が見たやうな目では見られなくなつたらしい。實社會に源氏のやうな中心人物があつてそれによつて世が動いてゆく時代とは違ふから、源氏の權勢も崇拜するにはあまりに縁が薄く、才貌兼備の貴公子も時勢を支配することができない世では、源氏もあまり尊まれなくなるのは致しかたのない自然の趨向である。さうしてそれらに眼が眩まなくなれば、道徳的の缺陷が目について來るのもまたぜひのない次第である。しかしこの時代になつては政治思想と共に道徳觀念もまた強められて來たので、それは平家の盛衰なり源氏の興亡なりまたは承久の亂なり、引き續いて起つた急激な世態の變化が人心を刺戟して、道徳的反省の念を起させた故でもあらう、驕を戒めたり因果應報を説いたりすることが流行したのでも、それが推察せられる。もつとも儒學や佛教の影響も無いではないが、これらの教は昔からあるものであつて、この時代になつて急に現はれたのではないから、よしその影響があつたにしても、影響をうけるだけの素地が特にこの時代の人心にあつたからに違ひない。さうしてその影響も、多くは文字の上の知識を適用するだけのことであつたらしい。十訓抄などにも忠とか孝とかいふ儒教風の文字が使つてあるが、事實この書に記してあることはさういふ理説ではなくして、日常の經驗から得て來た處世訓である。「夫婦の中をば忠臣の道にたとへたり」といつて、賢女とか貞女とかいふ名を用ゐながら、擧げてある傳説はむしろ戀物語(126)とも名づくべき領巾振山の話ばかりであるのも、文字の上の知識と兩性の關係についての現實の感じとが別のものである一證であらう。忍音物語の主人公の父が、親の子を思ふほどに子は親を思はぬと歎じながら、徳川時代の文學に見えるやうに不孝を以て子を責めてゐないのも、その例證である。この語は保元物語の爲義の言にも見えてゐる。
 ちなみにいふ。和歌は道徳的に取扱はれない代りに佛教的に考へられて、菩提を勤める要道だとか佛道修行の一つだとかいはれ、或は歌論に經論の解釋法が適用せられ、甚しきに至つては、有名な「ほの/”\と」の歌は有爲無常の霧立ちおほひて生老病死の四魔が君の舟を犯すことをいつたものだなどと解釋せられてゐる(三五記鷺本)。歌の四病八病は人間の四苦八苦に擬したので三十一文字は如來の相好を示すものだともいはれた(悦目抄)。經信に假託して作られた伊勢物語知顯抄にも同じやうな考へかたを一層展開して説いてある。けれどもこれもまた文字上の知識によつて構成せられた理説であつて、さういふ理説が構成せられまたそれが世に傳へられたところに、僧徒が文學の世界に重きをなして來た時代の一傾向が見えはするものの、實際歌を詠む場合にはかゝる理説は何のはたらきもしなかつた。なほこの知顯抄は物語そのものをも佛教思想で解釋してゐる。(問答體の註釋が佛典の註疏の形式を學んだものであることは明かであつて、この書が佛徒の手になつたことを示してゐる。)源氏物語表白といふやうなものも世に行はれてゐた。しかしかゝる考へかたもまた勢語や源語を愛讀するものの心情とは何の交渉も無かつた。
 さてこれらのものに見える道徳思想はどんなものかといふに、十訓抄なども「可施人惠事」とか「可離驕慢事」とかいふその題目によつても知られる如く、たゞ處世の經驗から得た常識的の教訓であるから、人格の修養よりは世に立つ方法を説いてゐ、從つて自己自身の道徳的責務よりは世間からどう見られるかが重んぜられてゐる。時世に從ふ(127)
をよしとし(第二)、剛直なるよりは人に取り入る才氣のあるのを賞で(第一)、人に恥ぢられることを尚ぶ(同上)のも、それがためである。見えを重んずることは後にいふやうな「こゝろにくき」を尚ぶ徒然草のと同じ考であるが、「源氏人々の心競べ」に「古代の衣ばこを取り出だし見せ奉りけん人心さへ口をし」と常陸の姫君を誚つてあるのも、同じ類である。徒然草には、日常の社交に於いてもひかへめなるをよしとし、出すぎたことを非難してゐるところが所々にあるが、これも「愛敬せられずして衆に交るは恥なり」といふ考からであつて、かゝる處世觀は一種の消極的利己主義である。このころの道徳觀に於いて最も重んぜられたものは情けであるが、それも「情けは人のためならず」(太平記卷六、二六)といふ後の諺と同樣、やはり利己主義に歸着する。鳴門中納言物語がおのが妻を主上に奉つたといふ話をのせて、それを情けあるふるまひとするに至つては、當時の人の情けといふ觀念に甚しく不健全な分子が含まれてゐることを示すものである。(この物語は著聞集にも採られてゐるが、多分事實ではあるまい。)かういふ傾向は平安朝思想の一層頽廢したものであるが、これは當時の貴族文化、從つてその文學、が概して前代からの引き續きであるからである。
 しかし同じ情けをいふにも、無名草子に源語を評して、源氏が昔の頭中將と勢を争つたこと、紫の上に思ひやりもなく須磨で入道の婿となつたこと、女三の宮をまうけて若やいでゐたこと、柏木をにらみ殺したこと、などを無情のふるまひとして非難し、また晩年によしなき落葉の宮を得たとて夕霧を誚つたなどは、「宮の宣旨といふもの」の「現し心もなきほど」に切なる戀を「ありがたくあはれ」と讃嘆してゐることと共に、多くの女を有つてゐてそれを一樣に目をかけてゆくことを情けがあるとしてゐた、平安朝時代には見えなかつた新しい思想である。物語そのものに於(128)いても、石清水物語の伊豫守が、我しらず姫に對して思ひの外なるふるまひをしながら、後に至つてそれを悔い、悔いながらも姫を思ふ情はいよ/\切になり、切になると共に我が過ちのために中止せられた姫の入内が實現せられるを見てそれを喜び、喜びながらこの世の望を絶つて出家する、といふのも、そこに道徳的傾向が現はれてゐると共に、或る意味に於いて、平安朝の物語には見えない情の深さ強さがある。伊豫守が姫に對する過ちを前生の宿縁と考へたのは舊くからの因襲的觀念であるが、その出家は世をわび人を怨みてのことでもなく、漠然たる厭世思想からでもなく、全く姫に對する情のためである。忍びね物語の主人公の父が子の立身のために權家の女を娶らせようとしても、主人公みづからは素性の知れない女に渾身の情をよせて父の命を喜ばぬ。さすがに昔の人のことであるから、この衝突は父子の間がらの破裂には終らなかつたが、その主題は近代的の戯曲をそこから展開させるに足りるものであつて、かういふ葛藤もまた平安朝には見えなかつた。主人公は心ならずも父の命に從つて他の女を娶り、女主人公もまた心ならずも宮仕へをしたので、この點はいくぢの無い平安朝氣質を繼承したものであるが、ともかくも主人公が父の命をも身の榮達をも顧みないほどの情を女によせてゐたことに注意しなければならぬ。この男主人公の出家も、また身の不平からでも厭世觀からでもなく、我が身をなきものにして、女のためにもその間に設けた我が子のためにもよきやうに計り、また父の命に背かないことを示さうがためである。戀を一時のきまぐれとして、または遊戯として、見ないといふ思想の生じて來たことがこれで知られる。これは一つは、貴族等の經濟生活が昔のやうに豐富でなくなつたため、兩性の交に關する風習に變化を生じた故でもあらうが、また後にいふやうな多くの戰記物語の插話として傳へられてゐる戀愛譚の思想とも關聯するところがあるらしい。さうしてそれはまたおのづから時代の新趣向を示すも(129)のであらう。
 
 道徳觀念はこの時代の新しい文學たる戰記物語に於いて、一層著しく現はれてゐるのみならず、その思想にも特色がある。これはその題材が武士であるのと、その作者が儒學や佛典の文字上の知識を有つてゐる僧侶であるのとのためであらう。戰記物語が昔から行はれた漢文と同じやうに、風景を敍しても成語や故事を用ゐて強ひて一種の型に嵌めこまうとする癖があることは、前にも述べたが、人事についてもそれと同じく、ともすればシナ風の忠とか孝とかいふ文字を用ゐたがるので、さういふ文字の多く現はれてゐる戰記物語は、道徳的の調子が高いやうに見えるのである。平家物語(卷二)が清盛を諫める重盛に、君に忠を致さんとすれば父の思を忘れんとす、不孝の罪を遁れんとすれば不忠の逆臣となりぬべし、といはせた名高い話などもその一例である。また因果應報説は到るところに見えてをり、戀を以て妄執の罪とするやうな特殊な佛教的道徳觀(太平記卷一一)もあるが、これも作者が僧侶であるからである。しかし、戰記物語に現はれてゐる道徳觀念は、さういふ文字上の知識から來たものよりも武士の實生活によつて養成せられたものにその特色が見られるので、儒學や佛教の信條はたゞそれに幾らかの思想的色彩をつけたに過ぎないのみならず、根柢の精神にはそれと一致してゐない點がある。
 武士を支配してゐる道徳思想は、彼等自身の實生活から自然に生まれたものであつて、外から與へられたものではなく、さうしてそれが教として、もしくは信條として、組織だてられず、思想的基礎をも有つてゐないのみならず、彼等の間の社會的習慣としてもまだ十分に固定するほどになつてゐないから、嚴格なる義務として遵奉せられるより(130)は自然の情誼として實際の行動に現はれるのである。さうして武士の生活そのものが死を期して戰争に從事するところにその根本があるのであるから、その道念その特殊の情操もこの間から生まれ、また生死の關頭に立つ場合に於いて最も著しく發揮せられる。武士の社會組織の中心である主從關係については、八島の戰に佐藤嗣信が義經に代つて討死し、またそれに對する義經の情けあるふるまひに感激して多くの侍どもが「この君のおんために命を失はんことは全く露塵ほども惜しからず」といつたといふ説話(平家物語卷一一)が、最もよくこの間の消息を語るものである。父子の間についても、轡を並べて戰場に馳驅しながら斷えずその子をいたはつてゐる熊谷直實(平家卷九盛衰記卷三七)に於いて、子を思ふ父の情がしのばれ、赤坂の城攻めの時、父の討死したところで同じく討死をしようとして敵にもやさしく取扱はれたといふ本間資忠の話(太平記卷六)には、父を思ふ子の情が十分に現はれてゐる。特に父子が敵身方に分れて戰ふことになつたやうな事情の下に於いては、その間の心情に特殊なものがある。戰に先だつて爲義が重代の鎧を義朝に遣はしたといふ話もあるが、戰の終つた後に義朝が父を殺さなくてはならなくなつた時の苦衷、爲義が親が子を思ふほどに子は親を思はぬといふ諺をげにもと感じながら、わが子あしかれとは思はずといひ、敵の手にかゝるよりも我が子に殺されるのが本懷だといつてゐる、その心情は、その間に處する義朝の家臣の苦惱と相待つて、日本の武士の生活に特殊な劇的場面を展開してゐる(保元物語卷二)。單純な父子の情についてではあるが、曾我物語や阿新丸の話(太平記卷二)のやうな復讐譚がもてはやされたのでも、武士の氣風が覗はれる。しかし武士としては父子よりも主從の方が大切なので、平家物語(卷三)に「親よりもなつかしう子よりもむつましきをば君と臣とのなかと申す」と清盛にいはせてあるのは、かういはせた場合のこととしてはふさはしくもなく、また君臣とい(131)ふ語を用ゐた點に適切でないところもあるが、それは作者が文字上の知識をもつてゐたための錯覺から來たことであつて、かういふ思想は生活の基礎が主從聞係にある武士に特殊なものである。
 また兩性の關係について見ても、瀧口横笛の話(平家卷一〇盛衰記卷三九)を上に述べた忍びね物語に比べると、武士の氣風の特色がよくわかる。どちらも子の榮達を願ふ父の意思と女を思ふ男の情との衝突から來てゐるが、忍びね物語では男が心ならずも一旦父の意に從ひ女もまた宮仕へをしたに反し、瀧口は一念發起、剃髪染衣の身となつて父とも女とも絶ち、横笛もまた直ちに同じく出家して世を捨てた。彼等は女をすて男をすてて父の命に從ふには、餘りに強烈な情を有つてゐたのである。たゞそれが出家によつて容易く解決を得たのがこの時代の特色である。大磯の虎(曾我物語)、俊基の妻(太平記卷二)、義貞の妻の勾當内侍(同上卷二〇)、なども夫に別れて出家したが、これにも渾身を男に捧げた女の情が見られる。重衡の旅愁を慰めただけの千手が出家したのも(平家物語卷一〇)、さういふ女の情の尚ばれたからである。のみならず、更に一歩を進めるとそれが入水になる。爲義の殺された後に入水したその妾(保元物語卷三)、平通盛の戰死した後のその妾(平家物語卷九)、または淡河時治の妻(太平記卷一一)、などの物語がそれであつて、これらのうちには事實によつたものもあり、さうでないものもあらうが、何れも死を以て情に殉じた女を主題とした物語である。一夜の契に百年の命をすてた藤原藤房のおもひもの(太平記卷四)、一首の歌が思ひのたねとなつて住吉の沖に身を投げた嚴島の内侍の話(盛衰記卷三)、さへ作られた。横笛も平家では出家にとゞめてあるが、盛衰記では入水させてしまつた。鎌田の妻が夫のために身を殺したことも平治物語(卷二)に見え、またかの袈裟傳説も身を殺して夫に對する情を全うしたやうに作られたのである。
(132) 情のために身を殺すことは武士の氣風であつて、男に於いては太平記(卷二九)に藥師寺公義が師直を諫めて用ゐられず出家して高野山に上つたのを「うき世を思ひすてたるはやさしく優なるやうなれども、越後中太が義仲を諫めかねて自害をしたりしには、無下に劣りてぞ覺えたる、」と評してある。女はさまででないにもせよ、情のために身を殺すことの稱讃せられたのは、上に擧げたやうな物語の作られたのでも知られる。戰記物語に見える夫妻や兩性間の交渉に關する説話は、一面に於いて相愛の情が深く且つ切なるものとせられてゐると共に、他面に於いては殆ど異變のあつた場合のことに限られ、從つて悲痛の色を帶びてゐないものはないが、これは武士のことだからでもあり、戀愛が甚しく詩化せられてゐるからでもある。けれどもまた事實として、常に生死の巷に立つてゐる武士におのづから眞率の風が養はれたのと、變に臨んで始めて人の眞情が見えるとの故でもあらう。因みにいふ。戰記物語の戀物語には、昔の貴族文學には無かつた題材として、白拍子とか遊君とかいふ特殊の職業の女が現はれる。祇王、祇女、千手、靜、虎、みなそれである。これは彼等が武士に愛せられ、從つて事實として彼等に對する戀愛譚が存在してゐたためであらうが、平安朝に於いては概して遊女などが單なる玩弄物とせられ、才藝を賞せられることはあつても「人」として取扱はれなかつたに反し、戰記物語に於いてはそれが何れも武士はづかしき「人」になつてゐるのである。
 武士に於いて尊重せられるものの一つは情けである。平家物語の重盛が情けぶかい人物とせられ、その點に於いて嘆美せられてゐることは、いふまでもない。死を希求する點に於いてあまりによわ/\しく、武士らしい氣象がないやうな、人物になつてゐるのも、清盛と對照させたためでもあり、また佛家の思想から來た點もあるが、情けのある點を誇張し過ぎた故でもあらう。この情けは、主從、父子、夫妻、などの間ばかりでなく、何人に對してもはたらく。(133)「岩木ならねば」「鎧の袖をしぼる」といふ話は、いろ/\の場合のこととして戰記物語の所々にある。敵に對してもまたそれが現はれ、直實は敦盛を助けようとして助け得られず、泣く/\首を取りながら「情なうも討ち奉るものかな」と「弓矢とる身」を口をしく思つた(平家物語卷九)。敵に對してのこの優しい情けは義經や正成の話に多く見えるが、單なる感傷的な情けでなくして武士に特殊な意味をもつてゐるものもある。吾妻鏡(寶治元年六月)に、隣人が妻の縁故によつて敵方に加はらうとするを知りながら、その本意を遂げさせておいて、さてその敵と共にそれを討取らうと考へた、といふ泰秀のことを「尤叶武道、有情、」と評してあるのは、その一例であつて、武士の情けが敵身方と生死とを超越したところにあることを示すものである。敵となり身方となるは世の習ひである。討つと討たれるとは天運である。敵は敵の間に情があるから、その情を立てさせるが即ち情けである。命を助けるがためにその情を破らせてはならぬ。だから太平記(卷一〇)は、姪に當る義貞の妻から此方へ來よと勸められたといふ鎌倉の安東入道に「武士の女房たるものは、健げなる心を一つ持ちてこそその家をも繼ぎ子孫の名をも顯はすことなれ、」といつて、大にその不心得を責めさせた。のみならず情けは情け、敵身方は敵身方である。打物とつて立ち向つては、討つか討たれるかの外は無い。だから同じ太平記は、上にも述べた赤坂城の軍兵をして、敵の資忠に情けを加へながら終にそれを討ちとらせた。こゝに戰闘の道徳、武士の情け、がある。
 けれども、進んで死地に就かうとすることは、どうしても生存を欲する人間の本能と背反するから、こゝに武士の生活の根本の矛盾があるので、この矛盾から種々の心理的葛藤が生ずる。特に死するもの自身よりは、それに對する主從、親子、夫妻、の情に於いてそれが現はれる。太平記(卷一八)は瓜生判官の母にその子の討死を見て、「悲める(134)氣色もなく」、而もそれと同時に「涙を流して」、主將に一獻を勸めさせてゐる。もつとも戰記物語は傍觀的態度でそれを見るから、さういふ場合の心理を細かに描寫することはせず、盛衰記(卷二〇)に、子の與一の討死した時の岡崎四郎兵衛のことを「たとひ五人十人の子をば失ひ侍るとも、君だに御世に立ち給はばそれこそ本意に候へ、と心強くはいひけれども、さすが恩愛の道なれば鎧の袖をぞぬらしける、」といひ、またそれを、父を見捨てて君のあとを追うた三浦と對照して「一人は若きを先きだてて袖をぬらし、一人は老いたるを見すてて袂を絞る、恩愛慈悲の情とりどりなり、」といふやうに、感傷的な筆法を用ゐるに過ぎないが、事實として武士の心理にはかういふ葛藤が起らねばならぬ。曾我物語の中心思想は復讐であるが、兄弟とその母との間の、または祐成に對する虎の、情が著しく物語の調子を高めてゐるのであつて、こゝにも死を決して復讐をしようとする武士的情熱と、人としての親子夫妻に對する愛着の情との、互に纏綿してゐる有樣が見える。しかし、武士としての行動を支配するものも、決して冷かな義理ではないから、武士の道徳の形式が固定した江戸時代のやうに、かういふ心理的葛藤も、義理と人情との衝突といふ形になつて現はれるのではなく、從つて甚しき矯飾に陷ることも無い。曾我物語の母が五郎を勘當したのも、後世の淨瑠璃に見える如き世間體のためではなく、從つて世間體を憚つて表面だけ情けなく取扱ふやうなことをせず、十郎の取なしで快く勘當を許してやつた。これは親子の間のことであるが、すべてに於いてかういふ態度が見える。武士の道徳は自然に養成せられたまゝのうぶの状態にあつたのである。
 しかし情けは相互的のもの個人的のものである。だからそれだけでは廣い社會を支配する道徳を具體的に打ち立てることはむつかしい。狹い君臣主從の間、または平和の時代に於いて利害の衝突が少い場合はともかくも、一旦世の(135)平衡が破れて天下が動搖するやうになると、今までは情誼に包まれてその姿を隱してゐた生存欲、むしろ自己を擴大しようとする欲望が、卒然としてその外衣を破り本身を呈露して來る。鎌倉の末から南北朝にかけての長い時代が即ちそれであつた。武士はこの時に於いて、或は新しく權勢を得たものによつて所領の安全を計らねばならず、或は動亂に乘じまたは動亂を起して、自己の力で自己を立てねばならぬ。「時世に從ふ習ひ」といふ語が正當視せられる。一歩進むと「昔は昔、今は今、恩こそ主よ、」(盛衰記卷二〇)といふ思想が湧く。主人の人がらによつて去就する(盛衰記卷三六)は當然のこととしても、旗色を見て向背する士卒が多くなる(太平記卷一四、三八)、かういふ勢が激しくなると「天をも度りつべし、地をも度りつべし、たゞ度るべからざるは人の心、」(盛衰記卷七、二一、四三)といひ、「朽ちたる繩を以て六馬をも維ぎて留むるとも、たゞ憑み難きはこのころの武士の心、」(太平記卷三六)といふやうになり、主從親子の間も頼まれなくなつて、「當世は親も子も無き作法なり」(盛衰記卷二二)といひ「このころの人の心、子は親に敵し弟は兄を失はんずる習ひ、」(太平記卷三一)といはれるやうになる。「古より今に至るまで人の望むところは名と利との二つ」(太平記卷七)であつて、名はおのれに利(恩賞)は子孫に歸するを望むのが武士の情けであるのに、「同じく死ぬる命を人目に餘るほどの軍一度して死にたらば、名譽は千載に留まりて恩賞は子孫の家に栄えん、」(同卷三)といふものばかりではない。「目の前の欲に身の後の恥を忘れ」(同卷一七)るが常である僧兵は初めから論外であるが、武士とても「戰功は萬人の上に立ち抽賞は諸卒の望を塞がんと、獨り笑みして待ちゐ給ひたりしかども、その功その賞に中らざりし」を恨んで、或は「天下の大變を憑みにかけて待」(太平記卷一九)ち、或は忽ちに叛いて敵になるのが多いのである。改行
(136) かうなると武士敢會の組織せられてゐる根本の精神は全く懷れることになるが、これは一つは、前篇にも述べておいたやうに、武士生活そのものの根柢に存在する矛盾が表面に現はれたものである。詳しくいふと、武士の生存の第一條件たる恩賞の獲得といふことが強い力ではたらくのである。だから「くらやみに證人も無く死にたらんは正體なし」(盛衰記卷三七)といふやうに、恩賞を得べきよすがが無いから證人の無い場所で戰死するは愚だ、といふ考さへ起るのである。人目にたつはたらきをするといふことの根柢に既にかうなる傾向が潜んでゐるので、戰場で名のりを揚げるのも花々しい行裝をするのも、一つまちがへばかうなつてゆく心理がそれに含まれてゐる。また一つは、武士の情誼といふものが本來狹い範圍の主從の間に於いて成り立つてゐたもの、またさういふ關係によつてのみ成りたつことを得たものであつて、その範圍を超えた廣い天下にはすぐに適用のできないものだからである。だから狹い範圍の主從關係をそのまゝに保存しながらそれを組織立てた封建の社會に於いて、始めてかういふ精神の武士道が廣い天下に成りたち得るのである。鎌倉の時代には關東武士の單純な主從關係をすぐに廣い天下に適用したので、主從の間は情誼よりもむしろ權力關係で結びつけられるといふ状態になつたから、巧みな恩賞政策でこの關係を維いでゐた間はよかつたが、一朝それがほぐれると、主從關係そのものの根柢がぐらついて來るのである。その上、南北朝時代になると、權力の所在が一定しないから、主人に對する情誼を守つてゐても、主人の地位そのものが不定であるために、その交換條件である自己の所領の安全は少しも保證せられない、といふ状態であるので、この點から主從關係が崩れて來るのも當然であらう。だから多數の武士は、權力のありさうに見える方に、即ち旗色のよささうな方につくか、さなくば獨力で切取り張盗をするより外に道は無い。主人に對する働きと主人から得る恩賞とが交換的のもの(137)であり、またそれが互にからみ合つて成りたつてゐる、主從間の情誼が武士の社會組織の根本條件である以上、これは必然の趨勢である。だからこの亂脈な時代が極端まで進んで戰國の世となり、そこに小さい主從關係が再び成り立ち、またその範圍内に於いて主人の權力が確立し、從つてその主人に對するはたらきと主人から得る恩賞とが堅實に結合せられるやうになると、主從間の情誼も自然に固まつて來るのである。
 しかしかういふ時勢に於いても、一方では戰争そのものがやはり武士の精神を錬磨してゆくので、「死を輕んじて名を重んずる」弓矢の道(太平記卷一〇)は決してすたれず、「運命天にあり名を惜まざらんや」といはれれば「恥ある兵」は死を賭して戰ひもし、「一言の情に感じて命を輕くしける」ものも出て來る(同卷二六)。「弓矢取る身の習ひ、人に頼まれて叶はじといふことやあるべき、」といふ義侠心も生ずる(同卷三八)。これはもとより武士の因襲的思想ではあるけれども、本來戰争の間から發生して來た「弓矢の道」は、同じやうな戰争によつて同じやうに養成せられるので、主從の情誼などは別問題としても、戰に臨んでゐる際に自然に生ずる内からの衝動と戰闘そのことから來る一種の昂奮とが、かういふ精神を發達させるのである。さうして、それが人の讃美の的になるのみならず、亂脈な世だけに、主從の情を重んじ節を全うするものがあれば、世間からは一層嘆稱せられるので、そこに漠然たる道徳上の社會的風尚が成り立つ。戰記物語にかういふ思想が顯はれてゐることはいふまでもなからう。けれどもこの道徳は對人關係、特定の人と人との關係、の上に成りたつてゐるものであつて、廣い社會に對するもの、社會的意義に於いての人の道徳ではない。そこで時の情勢とそれを動かす人物とによつては、それが壞れてゆくのである。
(138) 以上は一般の武士のことであるが、武家の首領たるものについては、更に一言すべきことがある。それは、歴史的事實として、平氏でも源氏でも、戰に臨んでは宮殿寺院はいふまでもなく、民家をも火をかけて燒いたこと、戰に勝ちまたは權力を得た場合に、上皇を幽閉しまたは上皇をも天皇をも遠島に遷しまゐらせ、敵であつたものまたはその老父や幼兒に對する處置の甚だ無情であり殘酷であつたことと、戰記物語がそれをどう取扱つたかといふこととである。かゝることが事實として行はれたのは、或は戰となれば勝つためには手段を選ばないからでもあり、或は後難を恐れてのことでもあらうし、さうして一度び行はれたことは、先例となつて後人がそれを踏襲するといふやうな事情もあつたらうが、その根柢には殺伐な、如何なることをも敢てする、武士の氣風があらう。深く意に介することなくして人の生命を斷ち得るのも、武士だからのことである。幕府の草創時代に於ける源氏の一族間に於ける血腥い闘爭とても、或はそれらの人物の性情や從者の主人思ひや側近者の策動などにより、或は戰亂の空氣と當時の形勢との刺戟により、また或は幕府の當事者に於いては新に得た政權を鞏固にする必要にもより、なほその他の種々の事情にもよつて、生じたことであらうが、やはり戰闘を職業とする武士であるがために行はれたことである。足利尊氏兄弟の不和についてもまた同じことがいひ得られよう。ところで、戰記物語はこれらの行動について、例へば清盛の場合の如く、時に幾らかの道徳的批評を加へることがありはするが、多くはその結果に對して感傷的な言辭をつらねるのみであり、佛教の無常觀がそこに結びつく。從つて失敗者に對しては一種の同情が示される。さうしてまた例へば正成などの場合の如く、人によつてはそこから却つてそれを英雄化するやうにさへなる。けれどもまた他の一面では、失敗そのことをむしろ正當視する傾向があるので、この點では愚管抄の思想と相通ずるところがある。かういふ一面に(139)於いては戰記物語の作者は、現に行はれた事實、世に存在する状態を、行はれたこと存在することとして、それに大なる力を認めそれに屈從してゐるやうにさへ見えるのである。しかし權力者の殘酷な命令や無情な處置については、その事に當つた武士に情けある態度をとらせ、または鎧の袖をしぼりつゝ人の命を斷たせるのが常であり、さうしてそれが見るもの聞くものに涙を流させることと相待つて、一面の意味では、その無情と殘酷とを緩和させてゐる。これが戰記物語にしば/\描かれてゐる光景である。
 戰爭の行はれた地域の民衆がそのために直接の禍害を蒙つたことは、いふまでもないが、それを武將はどう視てゐたらうか、といふことも考へてみなくてはならぬ。混亂に乘じて雜兵どもが掠奪を行ふやうなことは、武將の關與したところではあるまい。しかし顯家が陸奧から攻め上つた時、または義貞を援けるために越後勢が北陸道を通つた場合に、その道すぢに當つた地方が甚しく荒廢したといふ太平記(卷一九、二〇)の記載の如きは、戰記物語の常として誇張せられてもゐようが、所領の地に城がまへをするやうな場合とは違ひ、遠征軍として行動する時には、兵糧や役夫の徴發だけでも民衆を困厄させたことは事實であらうし、かういふことは所々にあつたと推測せられる。けれどもこれは、戰爭の場合には致しかたの無いこととして考へられたのではなからうか。殺伐な戰闘を職業とする武人の心理にはかういふ一面があつたと考へても、むりではあるまい。もつとも民衆の側でもそれに乘じて何等かの利益を得るもの、敗軍の將士を襲つて分捕りなどをするもの、浮浪性があり野心があれば、野ぶしや山だちと同じく、戰爭に參加してあはよくば侍のなかまに入らうとするもの、などもあつたであらう。全體に秩序が破れ世間の空氣が動搖してゐる時には、人の氣分もまた荒んで來るのである。戰亂に乘じて掠奪などをする雜兵のあつたことによつてもそ(140)れは推測せられようか。さういふものばかりではなく、戰亂の世にも生業に努力する良民のあつたことは、いふまでもないが、民衆はすべて從順で武人に凌虐せられてゐたとのみ見るのも、また眞相を觀破したものではあるまい。これは戰亂の長く續いた時代の状態であるから、平和な鎌倉時代にはかういふことは無かつた。しかしそれ/\の本領の農民は自己の地位と生活との根據であるから、その領主はおのづから彼等を保護したであらうが、守護となり地頭となり權威を以て地方の民衆に臨む場合には、その權威を濫用する傾向が生じ、そのために民衆の困厄を來した場合もあつたと考へられる。このことは上に一言しておいた。
 なほこゝに僧兵のことを附言しておかう。僧兵が國家の政治的秩序に從はない暴力團であり、何等かの政治的勢力に對しても利害によつて去就するのが常習であつて、操守も信義も無いものであることは、前に既に述べた。増鏡(新島守)に、承久の企てについて後鳥羽院の祈願を容れないのは僧兵の主張を許されなかつたことがあるからだ、といふ山王の託宣を記してあるが、これは僧兵のこの態度の反映であらう。重衡を斬らせたのもかういふ僧兵であり(平家物語卷一二)、落ち人と見れば打取つて物の具をはがうとするのも彼等である(平治物語卷二など)。さうしてかういふ無情な處置をしたり殘虐なふるまひをしたりするほどに、武士風の精神的修養をもつてゐないのは、武士の如き主從關係が彼等の間に成りたゝないところに一つの理由がある、といふこともまた既に考へておいた。僧兵の行動はすべていはゆる「大衆」の僉議によつて決定せられるので、意見の一致しない場合には行動の區々になることもある。もつとも實際は彼等の間におのづから生じた指導者が大衆をひきずつてゆき、大衆はその場合の勢に制せられて動くので、それは暴力團の常態である。僧兵は要するに盗賊の群に過ぎないので、武士の社會から一種の特殊な道(141)徳的風尚が造り出されたとは違つて、彼等からは日本人の道徳生活に何の寄與するところも無かつた。さうしてかういふものの存在とその行動とを容認し、さうしてそれによつてその存立の支持せられる一面さへもあつたのが、南都北嶺及びその他の大寺院なのである。
 
 こゝで筆をもとにもどす。武士の實生活が上に述べたやうな状態であるとすれば、戰記物語などにシナ的道徳の思想が存在し、儒教の術語などが用ゐられてゐるにせよ、それはたゞ作者の知識が文字の上に現はれたものに過ぎないことが知られよう。忠孝の文字などもその例であつて、戰記物語は一方に於いてかゝる文字を用ゐながら、具體的の敍述に於いては全くそれらの知識から離れて、當時の武士氣質を紙上に活躍させてゐる。人物評などでも江戸時代の學者とは違つて、何人に對しても忠奸正邪善惡といふ抽象的の概念で獨斷的に方つけてしまふことはしない。平家物語などは清盛の罪業とか平家の惡行とかいふことをしば/\いつてゐるが、必しも清盛を道徳上の惡人とはしてゐない。基房に「清盛公惡人たりしかど希代の善根をしおきたればにや、世をばおだしう二十餘年まで保ちたんなり、惡行ばかりにて世を治むることは無きものを、」(卷八)といはせたこともあるが、こゝに惡行といふのは政事上に專横であつたこと、傍若無人のふるまひをして院と攝家と寺院とを蔑にしたことをいふので、惡人といふのも畢竟それから出たことである。資盛が恥をうけた返報に基房の行列を襲うたことを、平家物語(卷一)に「平家惡行の始めなれ」といひ、義仲が多くの朝臣の官職を停めたことを、同じ書(卷八)に「平家の惡行になほ超過せり」と評してゐるのでも、惡行の意義は明かである。その惡行をした義仲を、平家物語でも源平盛衰記でも、木曾の田舍者として滑(142)稽にこそ取扱つてゐるが、今日いふ意義での惡人とはしてゐない。平家物語(卷九)に描かれたその最期のはたらきは立派な武士であり、特に盛衰記(卷二八)では頼朝との關係に於いて、それを思慮あるものと評してゐる。清盛も惡人といはれると共に、權勢を得て思ひのまゝにふるまひ得た點に於いてではあるが、權者と考へられ、「たゞ人」でないともせられてゐる。さうして重盛でも義經でも、それを賞讃するには主として情けのある點に於いてするのを見ても、人物を見る標準のどこにあつたかがわかるであらう。清盛の惡行といふのも實はこの情けが無いもののやうに思はれたためである。歴史的人物としての清盛が必しも情けの無い人でなかつたことは上文にも述べておいた。彼が攝家をはじめ多くの公家の權力と所領とを奪ひ、または寺院僧侶を壓迫したのは、そのよしあしは別問題として、彼の政治的地位から來た權力の行使である。それを惡行と見、無情の處置と見たのは、政治上の行動と個人間の情誼とを混同したものであつて、畢竟は權力と地位と所領とを奪はれたものが奪つたものに對する怨言であるが、ともかくもさういふ見地から清盛を惡んだのが公家や僧徒であつた。特に清盛が低い地位から起つて急に勢力を得、一門悉く權榮に上つたことが、この怨恨を一層強めたのである。平家物語なども同じ態度から清盛を極端な暴虐のもののやうに作り上げたので、小督説話などもそこから生まれたのであらう。
 佛教から來た道徳思想に關してもまたシナ思想について上にいつたと同じことが考へられる。人の行動や運命を宿業に歸する考は所々に見えてゐるが、かゝる考が、少くともその一面に於いて、人の道徳的責務を無視する、といふのがいひすぎならば弱める、ものであることはいふまでもあるまい。また例へぼ太平記(卷一一)に、越中守名越時有の一族三人夫妻の亡靈が海上に現はれる光景を寫し出して、それを「夫妻執著の妄念」のしわざだといつてある。(143)盛衰記にはしば/\「繋念無量劫」といふ語を以て戀の罪深きことを示してゐる。しかし、その盛衰記も太平記も艶かな詞を並べて幾多の戀物語を敍してゐるではないか。妄念といはれ罪業といはれるにかゝはらず、戀は人生の事實である。のみならず、榮枯盛衰の定めなき世相に對して起る感傷的な氣分に伴つて、戰記物語の何れにも見えてゐる無常觀も、奢るものは滅ぶといふ一種の因果應報論も、また實生活の上に何等の權威を有するものではなく、從つて武士の道徳を指導するには足らないものである。人生の無常は事實である。しかし、この事實を事實として見ることは人の生活に何等の指針を示すものでなく、人生の葛藤に何等の解決を與へるものでもない。もし有りとすれば出家といふ苟且の手段で實社會を囘避することであるが、それは固より實社會そのものを支配することはできぬ。特に戰記物語の大體の傾向としては、世相の變轉推移を外面から見て偏にそれを無常と觀ずるのみで、その世相の内面に立ち入つて何故に變轉推移するかを考察しないから、道徳論としてはそれに何ほどの價値もない。
 もつとも「奢るもの久しからず」の一語は、かういふ變轉の理由を示してゐるやうにも見えるが、これもまたその根柢には一種の幸福主義、快樂主義、乃至利己主義がある。現世の快樂幸福または榮華を唯一の目的とすればこそ、現世の苦痛と失敗との原因になる奢を戒めるのではないか。さうしてその幸福が榮華の形に於いて現はれるものである以上、どこまでも利己的のものであることはいふまでもなからう。ところが、かういふ利己主義、快樂主義、幸福主義、の道徳思想は、利益の追求を目的として騷ぎまはる多數の武士に何等の教訓をも與へるものでないのみならず、武士生活の間から自然に發生し、よし當時の實際に於いては十分に實現せられることが少いにせよ、彼等の思想として尊重せられてゐる武士の精神は、かゝる紙上の道徳説よりも?かに效果のあるものである。その上に、榮華を目的(144)としながらその目的のために榮華を斥けるといふのは、甚だ不徹底な考であつて、その實踐的意味は、節制の要求か、さらずばおのれのみの利を計らないで人にも情けをかけよといふのか、この二つの何れかに過ぎないが、武士の徒は却つて「情けは人のためならず」といふ、もつと徹底した思想を有つてゐる。さうしてまた、前章にも述べたやうに、この「奢るもの久しからず」から出た道徳説は、因果應報がこの世に行はれてゐるといふ一種の樂觀主義の上に立つてゐるのであるが、それは恰も世上の現象は道理の現はれであるといふ愚管抄の合理主義と同樣、現在の事實を正當視するのであるから、この考からは、時勢を新しい方向に導いてゆく理想も、それに向つて進まうといふ努力の念も、出て來ない。さういふ努力はむしろ南朝君臣の行動の如く現實の時勢に刺戟せられて生ずるのである。要するに、儒學や佛教から出た道徳觀は文字上の知識たるに止まつて、實生活を動かす力の無いものであつた。
 けれども、佛教的無常觀が因襲的思想として人の心の一隅に存在してゐたことは事實である。無常の理を高い調子で説いて感傷的な氣分を誘はうとする平家物語が作られ、またそれが愛讀せられたのも、この故であつて、盛衰記は勿論、太平記とても、所々にこの思想が現はれてゐる。出家といふことの行はれたのもまたこの故であらう。ところがこの思想の裏面には、出家によつて人生の葛藤が解決せられるといふ考が潜んでゐるので、そこにこの習慣の道徳的意義がある。瀧口時頼が出家して父と女とに對する情の衝突を抛下したのは即ちこれである。平家物語の篇末の大原御幸の一段も、女院の一身に象徴せられてゐる平家の興亡の長い歴史、即ち平家と世のあらゆる勢力との葛藤が、出家によつて主觀的に解決せられてゐることを示すものである。世にありし間は敵の如く身方の如く、その關係がさまざまに紛糾してゐた法皇と女院とは、この寂光の淨土に於いて齊しく彌陀の大悲に攝取せられた。これと好一對の、(145)むしろこれにもまして興趣の深い、物語は、太平記(卷三九)の光嚴院が諸國を行脚して吉野の皇居を訪はせられる一段であつて、これは、ありし平家の世が大原の奧の女院の御心に過去の夢としてのみ遺つてゐるのとは違つて、南北朝の爭ひが今なほ眼前の現であるのに、曾てはその北朝の主上であらせられた光嚴院が、今は「散聖の道人とならせ給ひて」麻衣草鞋の御姿で南朝の天子と憂き世の外の物語を遊ばされる、といふところに、出家といふことの意味が一層深く現はれてゐる。けれども、これはたゞ出家したものの主觀的情懷であつて、客觀世界はそのために何等の影響をも蒙らない。
 
(146)     第六章 超人間の力と殺伐の氣
 
 人生が人生を超越したところにある何等かの力によつて支配せられるといふ思想は、いろ/\の形に於いてではあるが、如何なる民族にも共通のものであり、如何なる時代にも無いことはない。平安朝の貴族等は、或はそれを人の力の及ばない宿命と觀じ、或は加持祈?によつて動かされる神佛の力と思つてゐた。後になると前篇に述べた愚管抄などの説のやうに、一々の事件が一々神のはからひであるやうにも考へ、或はまた人生のあらゆる現象を不可思議な道理の發現として説くやうにもなつたが、この思想は種々の物語にも現はれてゐる。例へば上にも述べた嚴島明神と八幡大菩薩と春日明神とが源平二氏の運命を定めるといふ話(平家物語卷五)などがそれであつて、これは萬事は神のはからひだといふ愚管抄の思想を具體的の夢物語としたものである。蒙古來侵の失敗が神々の力とせられたことはいふまでもないが、太平記(卷三九)にはそれを、神功皇后の征韓の成功と共に、武勇のためでないとわざ/\ことわつてある。また例へば後醍醐天皇の御船の伯耆についたのは龍神の冥助のためである(太平記卷七)といふやうな話が、數へがたいほど何ごとについても語られてゐる。人も單に人として生まれたのではない場合があり、安徳天皇の御生誕は嚴島明神の利生でありその身は龍王であるから、御入水は海に歸られたのだといふ話(愚管抄)、寶劍の沈没は神代の物語の素戔嗚尊に殺された大蛇が安徳天皇に化してそれを奪還したのだといふ話、(平家物語卷一一)もある。或はまた正成は毘沙門天の申し子であるといはれた(太平記卷三)。また愚管抄の他の見解は、孝謙天皇は世を亂すやうな女帝の出ることを恐れてそれを戒めるために御位にあられたのだといふ水鏡の説、清盛は惡業の報の如何(147)なるものであるかを世に示すために生まれたので慈惠僧正の再誕だといふ平家物語(卷六)の話、世は人の持つものでなく道理のもつものであるといふ盛衰記(卷四四)の癩人の言といふもの、などとなつて新に世に現はれてゐる。ついでにいふ。再誕の話はいろ/\に作られてゐるので、北條義時が武内宿禰の後身だといふことの著聞集(卷二)に見えてゐるのも、その一例であるが、その意味は清盛のこの話のとは違ふ。なほ清盛が皇胤であるといふ話(平家物語卷六)もあつて、これは清盛の異常な榮華を理由づけるために作られたものらしいが、反對に安徳天皇は實は清盛の子だといぶ話の作られたことには、天皇の異常な御最期を説明する意味が含まれてゐよう。常識では解しがたいと思はれたことをかうして説明しようとした點に、再誕説などと同じ考へかたがある。
 しかし、同じく不可思議力を信ずるにしても、それを宿命と考へると神佛の意志と考へるとの間には違ひがある。さうして、意志が極めて弱く、何事につけても外部から迫つて來る力に屈服して、なるがまゝになつてゐるより外にしかたの無かつた平安朝人が宿命説を奉じたのと、自己の力で自己のしごとをしなければならぬ武士が、神にも佛にも意志のはたらきを認めるのとは、何れも自己の心生活を自己以上の不可思議力に投影したのではあるまいか。勿論武士にも運命といふ考はある。しかしこれには「運に任せて」事をしようとする能動的態度があり、矢つき刀折れて戰の破れた時に「運のつきた」のを感ずるのも、有らん限りの力を盡した後のことで、そこに一種の滿足の情さへもある。何事も「さるべきさだめ」と觀ずる受動的態度ではない。佛者の手に成つた愚管抄や水鏡などがすべてを神のはからひに歸したのは、平安朝思想から轉化して來たのではあらうが、武士の思想はおのづからそれに適合するのである。また武士も平安朝人と同樣、神佛に祈願することを怠らなかつたので、その心理は前篇に考へておいた。しか(148)しそれとても、戰勝を祈る場合のやうに、冥力の我が力に加はり我が事業を助けんことを望むのであつて、昔の貴族が修法によつて皇子の誕生を求めたやうに、人力の全く關與することができないところに於いて、神佛の力のみにたよらうとするのとは趣の違ふ點がある。たゞ戰記物語などに於いては、その作者が僧徒であつたために、この二つの思想が並存してゐる。時政の江の島や義貞の稻村崎の物語(太平記卷五、一〇)はまだしも武士的であるが、惟喬親王位爭ひの話(盛衰記卷三二)とか、頼豪阿闇梨が皇子誕生の祈  兩をした物語(平家卷三盛衰記卷一〇)とかいふのは、武士の信仰よりもむしろ平安朝時代から引き續いてゐる佛者の思想が基礎になつてゐるので、前の方のは現に江談抄に話の由來がある。
 しかしこの時代になつての特色は、神佛の加護などが單に託宣などによつて示されるばかりではなく、目に見える形となつて現はれることであつて、壇の浦の戰に八幡宮の象徴である白旗が義經の弭の上に舞ひ下つたとか(平家卷一一)、白鳩が飛んで來たとか(盛衰記卷四三)、いふ話がその例である。天武天皇が敵兵の襲撃に逢はせられた時、鹿が現はれて鈴鹿川を渡し奉り、或は木の幹が開けて隱しまゐらせたといふ物語(盛衰記卷一四)もあり、何處から來たとも知れぬ兵の加勢によつて勝いくさとなつたといふこと(太平記卷一六)もある。後醍醐天皇が京を遁れて吉野の方へ行幸せられた時、春日の山から金峯山まで光り物が飛び渡つて晝の如くに道を照したといふ話(太平記卷一八)も同樣である。託宣そのものも詞だけでなく動作によつて示されることがあるので、鳥羽院の參詣の時の熊野權現のがそれである(愚管抄保元物語卷一)。神の加護とか人の運命を支配するもののこととかばかりでなく、不思議なはたらきは何でもそれを目に見せたがる。唐皮の鎧が紫の雲の中から落ちて來たといひ、小鳥丸を太神宮の御使の(149)靈鳥が啣へて來たといひ、拔丸をよせかけた大木が一夜のうちに枯れたといふのも、その例である(盛衰記卷四〇)。神みづからさへ形を現はすことが少なくない。夢にそれの見える話は、古事談や著聞集などにもあり、神社佛寺の縁起などにはそれがいろ/\に語られてゐるので、これは現實には見ることのできないものを見たやうに語らうとするからである。神の加護のことのみではないが、夢に於いて未來の事件が豫め示される場合の多いことは、上に既に述べた。しかし時にはうつゝに神の姿の見えることさへもあるので、著聞集(卷五)にもその例があり、脛を切られた和氣の松名の疵が宇佐の八幡大菩薩の力によつて忽に癒えたといふ話(盛衰記卷一八)では、松名の上にたなびいて來た奇しき雲の中に衣冠の姿をした神が現はれたことになつてゐ、宇佐の宮でも月の如くかゞやいた神が顯はれてゐる(水鏡)。江の島の辨天も「赤き袴に柳裏の衣きたる女房」となつて時政に姿を見せたといふ(太平記卷五)。どんな姿であつたかわからぬが住吉明神が後白河法皇と對談し、なが/\と天狗の説明などをしたことさへもある(盛衰記卷八)。記紀に見える昔の神功皇后の物語とは違つて、神々が形を説はして外征の役に參加せられたことになつたのも、一般的には神が人の形をもつものとして考へられるやうになつてゐたからであるが、また上記の種々の説話によつて知られる如きこの時代の思想の故でもある。或は弘安の役に神々の參加したといふ話の反映がそこにあるのかも知れぬ。なほ神ではなく姿を見せたのでもないが、讃岐院の御墓所に詣でた西行に院の御聲で歌をよみかけられ、西行がそれに和し奉つた、といふ話も作られた(保元物語卷三異本)。かういふことは次の時代の能に於いて著しく發達するので、それは舞臺で演ずるものだからでもあるが、かういふ歴史的由來もあらう。或はまた閻魔の廳へ慈心坊をゆかせ(平家物語卷六)、海底の龍宮城を寶劍を捜しにいつた海女の老松に見せた(盛衰記卷四四)のも、同じ性(150)質の説話である。これらは説話としては自然の構想であるが、異常のことを具體的な形で強く印象させようとするところに、その意圖があるのであらう。さうしてそれは佛家の慣用手段である。その經典には不可思議な光景が常に描かれてゐるし、阿彌陀佛が多くの菩薩を從へ紫雲に乘つて來迎するといふ話などは、通俗的にも信ぜられてゐたことが想起せられる。
 しかし人事を左右するものは必しも神や佛ばかりでなく、種々な魔物がある。さうしてさういふ魔物の不思議なはたらきを具體的に見せるに最も都合のよいのは、やはり夢である。讃岐院が爲義忠正などを從へて清盛の第に御幸あらせられたといふ夢を或人が見ると、間も無く清盛が物狂ほしくなつたといふ(保元物語卷三盛衰記卷一二)。上北面某が吉野御廟前の轉寐の夢に現はれ、俊基資朝を召されて早く逆臣を平げよと仰せられたといふ後醍醐院の物語(太平記卷三四)も同樣で、先帝も恐ろしげな魔物の姿で現はれてゐるのは多分讃岐院のから轉化したのであらう。この時代には夢物語が何ごとにつけても多く作られてゐるので、直義の夢には太神宮から寶劍を進らせられたについて神祇官らしい所で大禮が行はれ諸神の臨御せられた有樣が見えたとか(太平記卷二五)、藏王權現聖徳太子などが武藏五郎河津左衛門の夢に現はれたとか(同卷二九)さういふやうな話もあるが、魔物の出現することもまた少なくない。
 ところが、この夢が一歩進むと現に見える幻となるので、羽黒山の山伏雲景の目には崇徳院後鳥羽院後醍醐院などが列座して天下を亂す評定をせられた有樣が見え(同卷二七)、同じく後醍醐院をはじめとして護良親王楠木正成新田義貞源義經などが大森彦七の幻に現はれた(同卷二三)。もつとも變化のものが現はれたり、二三千人ほどの聲で虚(151)空にどつと笑つたりすることは、平家物語(卷五)以來の話であるが、天王寺の妖靈星を見よやと囃し立てて高時の醉眼に映じた田樂法師(同卷五)、法勝寺の炎上のとき堂塔に火を吹きかけて手を打つて笑つたといふ天狗(同卷二一)などのやうに、後になるほどそれが明かな形を具へて來る。さうして、これらの夢なり幻なりに見える妖怪は、大抵は世上の事變または人間の運命を暗示するものとして作られてゐる。もつとも土佐にゆかれる一宮の御息所を船に襲つて奪ひ取らうとした筑紫の松浦五郎が、そのお供で自殺した秦武文の怨靈を波の上に見た、といふやうな話(同卷一八)は、たゞそれだけのことであるけれども。
 さてこの魔物のうちで最も多く飛びあるくのは天狗であるが、今昔物語(卷二〇)に見える昔の天狗は羽があつて飛行するのみで、その通力を失へば臭い屎鵄になり、その能力も佛法の妨げをするのみで、而も法力には敵はないものであつた。著聞集(卷一七)の天狗もほゞ同樣なもので、山伏などの形になつて法師を誑すくらゐである。發心集(卷二)には人が死後天狗になることがあるが、これもさしたる能力のあるものではない。ところが戰記ものになると、天狗がずつと發達して、人に惡行をはたらかせ世の亂を起させる惡魔となつてゐる。保元物語(卷三)の天狗になられた讃岐院が既にさうであり、また教盛の夢に現はれた同じ院が「足手の御爪長々と生ひ、御髪は空樣に生ひて銀の針を立てたるが如し、御眼は鵄の目に似させ給へり、これも柿の衣をぞめしたりける、」(盛衰記卷一二)といはれ、仁和寺の六本杉に集まつた怨靈が「いにしへ見奉りし形にてはありながら、眼の光尋常に變りて左右の脇より長き翅生ひ出でたり、」(太平記卷二五)と寫され、また雲景の目に現はれた場合には金の鵄となつてゐる(同卷二七)のは、人の化つた天狗でさへ世の亂れに乘じてます/\暴威を振ふやうになつたことを示すものである。なほ天狗と(152)魔との關係は上にいつた住吉明神の語として盛衰記(卷八)に見えてゐる。
 次に鬼がゐる。鬼も平安朝時代のは、たゞ人を喰ふものとして恐れられたのみであつて、その形も目に見えぬ精靈やうのものか、或は普通の人の形で現はれるのが多く、面は朱の色、眼は一つ、長は九尺ばかり、手の指が三つ(今昔物語卷二七)といふやうなものは、むしろ稀有であつた。暗いところで「毛はむく/\と生ひたる手の爪は長く刀のはのやうな」ものにあつて鬼だらうと思つたといふ話(大鏡卷三)もあるが、それは目に見えたのではない。ところが戰記物語になると、保元物語(卷三)の爲朝が渡つた鬼が島の鬼の子孫は、毛生ひて色黒きこと牛の如きものであり、平家物語(卷二)の俊寛が流された鬼界島の住人も、鬼界島といふ名があるために、この鬼の形をまねてゐる。もつとも「作文の博士好色の遊客長文成元眞」の化つたもので雲の中から下りて來たといふ青い鬼(盛衰記卷一六)は、シナ人のいふ鬼であつて、人を喰ふものではないが、その姿は佛教の地獄から脱け出して來たらしいものであり、或る公家の娘の生きながらなつたといふ宇治の橋姫(劍の卷)は、顔も身も赤色である。一條戻橋に現はれたの(劍の卷、太平記卷三二)は、今昔物語(卷二七)に出てゐる獵師の母の變化であるが、切られた腕を見ると、銀の針を立てたやうな白い毛が一ぱい生えてゐる眞黒なものであつた。かういふ風に恐ろしい鬼の姿が具體的に想像せられて來た。しかし戰記物語の鬼の特色は、人間に交つて人事を動かす靈物としての鬼の現はれたことであつて、太平記(卷一六)に見える金鬼、風鬼、水鬼、隱形鬼、は藤原千方に使はれ神變不思議のはたらきで敵をなやましたといはれ、盛衰記(卷一四)の大友皇子につかはれた見る目、聞く耳、かぐ鼻、の三人も同じやうな鬼らしい。これらの鬼は人を食ふ昔の鬼とは違ひ、一種の神通力を具へて人の世を左右する魔物である。たゞ保元物語の鬼が島の鬼の祖先(153)は隱れ簑隱れ笠などの寶物を有つて、ゐたものとせられ、平家物語(卷六)には鬼が打出の小槌をもつてゐるものと思はれた話があるので、それはこれらの鬼とはやゝ趣の異なつたところのあるものであるが、しかし或は目に見えないものであり、或は人にはできないことをするものだといふ考が、そこに殘つてゐる。
 更に一段下ると、平家物語(卷四)の頼政に退治せられた鵺といふやうな異形のものがあるが、これも「東三條の森の方より黒雲一叢立ち來りて御殿の上に蔽へば必ずおびえさせ給ひけり」とあるその黒雲の中から夜な/\主上を惱ましまゐらせたのである。動物界にも頼光のやうな武者を三十餘日も惱ました蜘蛛がゐる(劍の卷)。神武紀の土蜘蛛も眞の蜘蛛になつて往來の人を殘害してゐる(太平記卷一六)。また守屋が啄木鳥になつたり頼豪が鼠になつたりする(盛衰記卷一〇)のを見ると、たゞの動物でも人の怨靈だけのはたらきをしたらしい。要するに動物にも人力以上の力を有つてゐるものが現はれたのである。特に上代から一種の靈物とせられてゐた蛇に至つては、佛教に伴つて入つたインド思想と結合して、その力が強められた。素戔嗚尊の率ゐられた一千の惡神が小蛇となつて失せたといひ(太平記卷二五)、その素戔嗚傳説の八頭蛇も、その變身としての日本武尊傳説の伊吹山の大蛇も、龍神と結合せられて龍宮の主人となり、上に述べた如く安徳天皇と生まれて寶劍を奪ひ還へしたといふ話ができた。緒方三郎が蛇の子孫だといふ物語(盛衰記卷三三)などは古い三輪山傳説の變形で、たゞ蛇が獅子のやうな頭に角が生えてゐるといふ恐ろしい姿であつたり、蛇の姿のまゝで女と物語をしたり、さういふ點が違ふのみであるが、素戔嗚尊の話の蛇などは明かに人の世を動かす力となつてゐるので、こゝにこの時代の思想の特色がある。
 さて、かういふやうに人力以上の力を具へてゐる種々の魔物があるが、彼等とても神威佛力には敵することができ(154)ないのみならず、人に對してもその弱點に乘じてでなくては働けない。人の天狗になるのは?慢の故であり、さうしてその天狗も、法力の衰へた僧徒の前か、さもなくば徳の無い高時や世の亂れてゐる南北朝時代かに現はれる。鬼や怪物は世を騷がし人を悩す力があつても、大君の威光の前には降伏しなければならず、頼政や秀郷のやうな勇士には忽ち退治せられる。「草も木もわが大君の國なれば何處か鬼の住みかなるべき」(太平記卷一六)、鬼の如きは本來わが國にはゐることのできないものとせられてゐたのである。開闢の昔この國の上に勢を振つてゐたといふ第六天の魔王も、天照大神に國を捧げたではないか(沙石葉卷一、劍の卷、水鏡、太平記卷一六)。要するに善は終極に於いて惡に勝つといふ樂觀思想が存在してゐるので、人生に種々の障礙があつてもそれを根本的に悲觀しないのがこの時代の思想であつた。勿論、どこまでも人生を呪ふ魔王、根本から、もしくは終局まで、善に抗敵するといふやうな惡は考へられなかつたのである。從つてまたこれらの惡魔邪鬼は、宇宙の根本人生の奧秘に存在する大威力ではなくして、縁に觸れて人の世を騷がせる片々たる魔物であり、人の内部の生命となり根本欲となつて現はれるのではなくして、外部から障礙をするか一時人心を欺瞞するかに過ぎないのである。たゞ神威佛力を頼むことが強く、また種々の魔物の世にあることを信じ、それらが何等かのしかたで人と人の世とを動かすと思ふのは、一つはこの時代の文權を握つてゐた僧侶の知識に存在してゐたインド風の荒唐奇怪な説話から脱化して來たことでもあつて、前の時代から既にそれが見え、この時代になつては神佛についての説話に特にそれが多く現はれてゐるが、時勢の上からいふと戰争に誘はれてます/\強められたらしい形跡もある。戰争の勝敗が時の運とも神の力とも觀ぜられ、人力の及び難い力によつて定まるものとも考へられると共に、戰爭の光景そのものが、鬼とか天狗とかいふ怪異のものの働きを思ひ浮べさ(155)せるには、最もふさはしいものだからである。鬼神の如くにふるまひ夜叉の如くにあれまはるとは、戰場に馳せちがふ勇士に對する常套の形容語ではないか。人馬のどよめき、矢叫びの響、劍光亂れ、血烟立ち、さては青草朱に染んで死屍地に横はる凄慘の有樣、そこに鬼や天狗が飛びまはるのに不思議はあるまい。
 鬼神の話ばかりでなく、戰記物語に見える説話には武士の好尚の現はれてゐるものが多く、それがまたともすれば殺伐の氣を帶びてゐる。題材からいふと、第一に劍とか鎧とかいふ武器の由來についての説話があつて(保元物語卷一、平家物語卷一一、盛衰記卷四〇、太平記卷三二など)、それらは概ね神變不測の徳を具へてゐる。三種神器のうちでも特に寶劍についての物語の多いのは、壇の浦で海に沈んだといふ歴史的事實が縁になつてはゐるが、やはり時勢の反映もある。(平安朝時代には、内裏炎上の時におのづから飛んで宮殿の櫻の枝にかゝつたといふやうな神鏡の靈驗を説いた物語があつたことが思ひ出される。)或はまた春日明神は劍から生れた神の子だといふ(水鏡)。衣冠の人も武裝をしなければならぬので、蘇我馬子も甲冑を着て人の夢に現はれ(太平記卷二九)、春日、住吉、諏訪、などの神たちも甲冑姿で神功皇后の御船に乘られた(水鏡、太平記卷三九、諏訪大明神繪詞)。連歌師も「から國を諏訪住吉のしたがへて」といつてゐる(紫野千句)。その神功皇后は唐から兵法の秘書を召し寄せられた(太平記卷三九)。弘安の蒙古の役にも神々が合戰に參加せられた(保暦間記)。天照大神と爭つた第六天の魔王も軍兵をもつてゐたので、春日明神が武裝してそれをうち破つた(水鏡)。神代の物語を題材としたものでも、素戔嗚尊が一千の惡神を率ゐ一千の劍を振り立てて城郭を造り、天照大神は八百萬の神たちを遣はしてその城を蹴破らせた、といふやうなのが(156)ある(太平記卷二五)。
 空想國土の物語でも、龍宮が美しい少女のゐる歡樂郷ではなくして、戰亂の氣がそこに  藤橋としてゐる。例へば神功皇后の時には三韓征伐のために干珠滿珠を上る(太平記卷三九)。日本の勇士俵藤太秀郷を聘して蜈  艇の來攻を撃退させる(同卷一五、これは古事談第五に見える粟津冠者の話から來てゐる)。若松老松が寶劍を求めに行つた時は、「長二丈もやあらんと覺ゆる大蛇が、劍を口に  蜘へ七八歳の小兒を懷き、眼は日月の如く口は朱をさせるが如く、舌は紅の袴をうちふるに似た、」怖ろしいところであつた(盛衰記卷四四)。史記の始皇本紀に由來のある物語ではあるが、秦の始皇帝さへも蓬莱を求めるために龍神と戰つてゐる(太平記卷二六)。また魔物になると、前に述べたやうに天狗が世を騷がせ戰亂を惹き起すのみならず、九郎義經には鞍馬山の僧正谷で兵法を授け(同卷二九)、彼等自身が軍兵になつて「五百騎三百騎、鹿谷北白川阿彌陀が峰紫野邊に集まりて、勢揃をすること度々に及ぶ」ことさへある(同卷三〇)。鬼に對しても、平安朝時代のやうに、たゞそれに食はれそれを怖れてゐるのではなくして、綱は一條戻橋で鬼の腕を切つてゐる(劍の卷、太平記卷三二)。怪物についても秀郷は蜈  艇を殺し、頼光は蜘蛛を斬る。すべての物語に血腥い空氣が充滿してゐるではないか。人事に關した話でも、天武天皇がおん身をやつして關の長者の召使にならせられたといふこと(盛衰記卷一四)などは、やはり戰亂時代の事例から來たのであらう。(これは江戸時代の文學に例の多い「やつし」の形式の最も早いものであらうか。次の時代に作られた幸若舞曲烏帽子折の插話になつてゐる用明天皇の物語、または百合若大臣の話も想起せられる。)平家物語(卷四)では少女の姿で吉野へ人らせられたとなつてゐるが、これは日本武尊の傳説から脱化したものらしい。戀物語にも兵亂が背景になつてゐないものは(157)無いほどで、甚しきに至つては袈裟説話のやうな凄慘なものもある。宇治の橋姫が鬼にせられてゐるのも、同じ思想の傾向といへばいはれよう。
 かういふやうに、戰記物語に見える説話の題材には殺伐なものが多く、または如何なる説話もこの傾向を帶びてゐないものは無いといつてよい。だから武士または戰爭に關係の無いものは、説話となつて現はれない。例へば前の時代には仙人の物語があつたが、この時代には殆どそれが無くなつてゐる。純粹のシナの仙人は我が國を訪づれたことが無いが、歡樂郷としての蓬莱の仙女は奈良朝以來我が國人にひどく歡迎せられた。しかし我が國には別に一種の仙人があつて、それはたゞ飛行自在の通力を有つてゐるだけのものであつた。その素性を洗つて見れば、佛教と神仙思想との混血兒であつて、早く日本靈異記にも天を飛ぶ風流女や役の優婆塞として現はれてゐる。今昔物語になるとそれが一層著しくなつて、卷一三に多く見える仙人は、飛行自在にして諸天禽獣も來り仕へるとしてあるが、その能力はみな佛教の修業によつて得たものである。かの久米の仙人も龍門寺にゐたものとしてあつて(今昔物語卷一一)、女を見て通力を失つたといふ話もインドに淵源がある(今昔物語卷五、西域記卷九にも似た話がある)。佛法を修行しないでも仙藥を食へば天を飛ぶことができる(今昔物語卷二〇)、といふやうな意味の語があるのを見ても、仙人の通力を得るのは佛法によるのが正式だと考へられてゐたことがわからう。從つてこれらの仙人には、長生不死といふシナの仙人の概念の根本になつてゐる思想は重きをなしてゐない。これはシナで佛經を飜譯した時、かの森林中の修行者などに仙といふ名を擬てたことと、佛の有つてゐる五神通などの思想とが、結合してできたことで、既にシナの佛書に於いて成りたつてゐたのであらう。今昔物語などは、たゞそれを承け繼いで我が國のことに改作したのを取つ(158)たまでであつて、これは宇治拾遺(卷八)でも十訓抄(第七)でも同樣である。だから僧徒が書きまたインドやシナの故事を翻案した説話の多い戰記物語にも、かういふ仙人が現はれさうなものであるのは、飛行自在のものは天狗であつて仙人ではない。平和な仙人の代りに、惡魔の同類の天狗が處かまはず飛び歩くのを見ても、世間の物騷がしさが想像せられる。のみならず怖しい鬼さへも空中を飛んで來る。上に引いた長文成元眞などは昔ならば、よし仙人となつてゐなくとも、せめては村上天皇の琵琶の音を聞いて飛んで來た承廉武と同じほどな姿を見せたであらうに、それが青鬼の形を現はしたのでも、時代の面影が見られる。
 
 戰記物語を讀むと、かういふ奇怪なまたは殺伐な説話が、目まぐるしいばかりに現はれて來るので、甚だ落ちつきの無い氣分になるが、その間たまには破顔一笑しなければならないやうな滑稽と、しんみりとした哀愁の空氣とに、接することがある。滑稽な説話は貴族文學の系統に屬するものにも見えてゐるが、それは多くは言語上のものであつて、堤中納言物語の「よしなしごと」の一篇などは首尾を通じてたゞそれのみである。宇治拾遺にも今昔物語と同じやうなものいひのをかしい話があり、著聞集には興言利口の一章が特に設けてある。しかし宇治拾遺には「兒のかいもちするに空ねいりしたること」、「實子にあらざる人實子の由したること」、「博奕打聟入のこと」、などのやうに淺薄な詭計が成就しなかつたり觀破せられたり、またはそれがうま/\と成就したりするところから來る滑稽、「一生不犯僧に金うたせること」のやうに無邪氣な罪惡の自家暴露の滑稽、「かな暦あつらへたること」のやうに無智と迷信とから生ずる不合理の滑稽、などがある。何時の世にもいかなる社會にも喜ばれる滑稽である。徒然草の小野道風の書い(159)た和漢朗詠集、證空上人の馬子の罵倒、栂尾の上人の阿字本不生、などは意識上のことに過ぎないが、これは一種の輕いユウモアであつて、かういふものもこの時代に無くはなかつた。古典崇拜の風習や僧侶と民衆との知識の懸隔などから生まれたものである。ところで戰記物語の滑稽は多く落首などに現はれてゐるので、これは多くは言語上の遊戯に過ぎず、また局外者の傍觀的態度とはいへ、その輕佻の風が人に不快の感を懷かせるやうな場合さへ無いでもない。けれども平家物語や盛衰記が京に入つてからの義仲を敍したあたりなどを讀むと、この木曾育ちの田舍ものと京の文化との對照をいかにも滑稽に眺めることができる。作者は義仲の野卑と無學とを誇張して寫したつもりであつたらうが、今日の讀者はそれによつて義仲を輕侮するよりは、寧ろ可愛らしく感ずる。京の文化の權威と京人の修養とを知らない自然の兒が、その京に於いて京人の間に交つて、木曾まるだしのふるまひをするところに無限の愛嬌がある。(いふまでもなく、これは必しも、歴史的人物としての義仲ではあるまい。)太平記(卷二三)には、院の御幸に狼藉をして誅伐せられた土岐頼遠の例に懲りたといふ武士どもが、疲れ牛に破れ車をかけた公家に出合つて「院といふくせものよ」と路傍に平伏すれば、車中の人は土岐の一族かと恐れ狼狽へて車から飛び下りる、といふ滑稽譚があるが、これは作者も初めからそのつもりで作つたのであらう。武士の無學と公家の性情との鉢合せで、互にあひての何物なるかを知らず、早合點をして一期の大事と狼狽へるところに滑稽がある。これには諷刺の意味もあるが、軍もせぬ六波羅勢が假首に敵らしい名前をつけて功名を爭ふといふ段に、赤松入道圓心の札をつけた首が五つあつたなどといふ話(同上卷一一)もやはり、皮肉な滑稽である。光嚴院の重祚(實は光明院の踐祚)について「あはれこの持明院殿ほど大果報の人はおはせざりけり、軍の一度をもしたまはずして、將軍より王位を賜はらせたまひたり、」と(160)人々が沙汰したとあるのも(同上卷一九)、またそのいひかたに滑稽がある。さうしてこれらはその何れにもこの時代の世相の反映が見える。
 世の秩序が破れ人が思ひのまゝにふるまひ、また變轉の特に烈しい戰亂の時代には、かういふ滑稽の材料が多く生ずるのであるが、しかし定めなき人生、常なき世相そのものが、考へやうによつてはそのまゝに滑稽であり喜劇であり、さうしてそこに人生の眞趣もあるはずであるのは、戰記物語に見える滑稽が、落首などの輕い駄洒落か、さもなくばこゝに擧げた一二の例のやうに行爲の外面に現はれるものに過ぎないのは、この時代の作者としてはしかたのないことであらう。彼等はむしろ佛教的無常觀を以てこの世態に對するので、そこに感傷的な悲哀の情が生ずる。平家物語などはその一篇の着想がこゝにあるのみならず、祇王祇女といひ、熊谷の出家といひ、或は重衡千手といひ、或は最後の女院隱棲の光景といひ、興味ある插話はみなこの哀愁の氣を以て蔽はれてゐる。太平記でも前にも述べた光嚴院の吉野を訪はせられた一段の如きは同樣であつて、「難波の浦を過ぎさせ給ふに、御津の濱松霞みわたりて曙の氣色ものあはれなれば、遙かに御覽ぜられて『誰待ちてみつの濱松霞むらん我が日の本の春ならぬ世に』とうち涙ぐませ給ふ、」光景にも、この情調は濃かに現はれてゐる。戰記物語の抒情詩的興味は全くこゝにあるといつてよい。しかし、かういふ説話の作られたのは、戰記物語の作者が僧侶であるのと、それが一種の因襲思想になつてゐるのとのためであつて、必しも實生活から生れたものとはいはれぬ。武士時代の思想は前にも述べた如くむしろ樂觀的であるから、戰記物語はこゝに於いてもまた二要素の混淆を示してゐる。しかし當時の文學を廣く看ると、そこになほ一つの別の要素がある。それは即ち古典趣味である。
 
(161)       第七章 古典趣味と新來のシナ趣味
 
 平安朝の文化が衰頽しても、それに代るべき新しいものが起らないため、何事につけても古代を標準にし、古代を崇拜するといふことは、前の時代の思想の傾向として考へておいたことであるが、かうして養はれた一種の古典趣味は、古い文化のます/\頽れ新しいものの發達がまだ幼稚であつたこの時代に於いては、一層の權威を有するやうになつた。文藝についていふと、和歌が因襲的な花鳥風月と戀と神祇釋教との外に一歩も踏み出すことをせず、地下の間に漸次行はれてゆく連歌に於いても、題材とその取扱ひかたとは概ね古い典型を離れないものであること、貴族文學たる擬古小説の内容もまた同樣であること、造形藝術に於いてもいはゆる大和繪が、たゞ題材と技巧との上にいろいろの變化があつたのみであること、などがそれを示してゐる。貴族的音樂のやうに新作の全く現はれないものは、たゞ古代の遺物が神聖視せられるのみであるが、「古今萬葉伊勢源氏」もほゞ同じやうに考へられてゐる。新しく勢力を得て來た民間演藝の類でも、それが發達するに從つて古典趣味が多く加はつてゆくので、次の時代に至つて大成せられる猿樂に於いてこのことが最も著しく目に立つ。宴曲などもその例には外れない。
 旅行などに於いても同じ態度がある。「名所」といふ語がこの時代にできたらしく、いはゆる名所見物といふことも行はれ初めたが、これも畢竟一種の古典趣味であつて、その心理は遺蹟に對して古人の面影をしのび過ぎし昔を懷ふといふのではなく、我みづから古人となつて昔ながらの氣分を昧はうといふのである。即ち古人の趣味眼に映じた光景を古人の態度で見ようとするのである。「道ゆき」の一體が文章の上に開かれ、特に京鎌倉の往復が頻繁になる(162)に從つて、いはゆる「海道下り」が興味を以て傳誦せられるやうになつたのも、このことに關係があらう。戰記物語や宴曲の道ゆきは言語上の遊戯が主になつてはゐるが、それにしても古歌などを利用してゐるところに、さういふ趣味が見える。この時代のはじめには、世が平和に歸するにつれて街道の往復が便利にも容易にもなつたらしく、特に旅行者が昔の京の貴族とは違つて地方の武人に多かつたとすれば、彼等の旅の心もちは、ひたすらにそれを憂きものと思つた平安朝人とは、大なる差異があつたはずである。名所見物といふ思想の生じたのが既にそのことを示すものであるが、それでありながらその名所見物はやはり古人の蹤跡をふんでゆくのが主であつた。海道記を讀むと、京人ながら長汀曲浦のなれぬ眺めにも忘れがたき興趣を感じ、或は大わだの浦の波に映る夕雲の紅をめで、或は雪白き甲斐の白ねを見て齡をのぶるこゝちをし、時には「名を得るところ必しも興を得ず、耳に耽るところ必しも目に耽らず、」とさへいつてゐるが、夏草をわけゆくにつけても「あはれ同じくはこの道の秋の旅にてあれな」と、やはり因襲的の趣味に心のひかれてゐることが知られる。かういふ状態であつたから「何事も古き世のみぞ慕はしき、今やうは無下に卑しくこそなりゆくめれ、」(徒然草)といはれたのも、自然のことであらう。戰記物語に於いても、平家物語が義仲を田舍ものとして嘲笑したり、太平記までが關東武士を夷と稱へたりするのも、この尚古趣味から來てゐるので、かゝる趣味の修養の無いものを野卑としてさげすむのである。
 しかし戰記物語に現はれてゐる武士の社會は、概していふと昔の貴族文化の範圍外に置かれたものであり、その作者もまた、貴族文化と密接の關係のあるものでありながら、貴族自身ではない。だから戰記物語に現はれてゐる古典趣味は、外部から昔の貴族文化を仰ぎ見て何となくそれをゆかしがるのであつて、自己自身のものとしてそれを愛惜(163)するのではない。從つてそれと調和しない思想をも他の一面に有つてゐる。例へば前章に述べたやうな奇異幻怪な魔物のはたらく荒唐な説話などもそれであつて、狹衣や濱松の事實らしくない構想をすら非難してゐる無名草子の作者などは、これを讀んで顰蹙したに違ひない。また漢文學の知識から出た自然觀、男女の情を妄執として罪惡視する佛者の戀愛觀も、古典趣味には適合しないものである。第三章に述べたやうな戰記物語の風月の敍述には、書物の裡から得て來た古典的自然觀が利用せられながら、それによつて具體的な光景を描かうとせずして、徒らに美しい文字を羅列してゐるのと、漢文の用語や修辭法を交へてゐるのとで、その自然觀が甚しく損はれてゐる。さういふ敍述と古典的な十六夜日記や徒然草のそれとを比較して見れば、このことはよくわかる。徒然草のをりふしの移り變りを敍した一節に「言ひつゞくればみな源氏物語枕草紙などにことふりにたれど」といつてゐるのは、その自然に對する趣味が明かに古典から來てゐることを示すものであるが、それが單に文字の上の摸倣ではなくして自己みづからの觀察であることは、同じ文中に「すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める二十日あまりの空こそ心細きものなれ」といひ、田舍の秋を「都の空よりは雲の往來もはやきこゝちして月の晴れ曇ること定め難し」といひ、もしくは「花は盛に」の段に月の眺めを「曉近くなりて待ち出でたるがいと深う青みたるやうにて」といひ、「椎柴白樫などのぬれたるやうなる葉の上にきらめきたる」といふなどの、繊細な寫實をしてゐるのでもよくわかる。十六夜日記のやす川や小野の宿あたりの風光の描寫も、何となき簡素の筆ながら、實感であるだけに興味は深いが、その趣味はどこまでも古典的のものである。
 けれども古人の趣味は古人の生活に於いて養はれたものであるから、後人の實生活とは必しも調和しない。だから、(164)古人の生活そのものから離れて古人の趣味のみを學ばうとすれば、生命も精神も無い外形の踏襲に過ぎないものとなる。和歌の千篇一律となつたのもこの故であらう。たゞ趣味の修養の無いもの、實生活によつて精練した自己の趣味を有たないものにとつては、これにもまた或る程度の價値が無いでもないので、少くとも生存のため實利のための日常生活以外に存在する別天地に彼等を誘つて、彼等の生活を緩和することができる。「和歌こそなほをかしきものなれ、あやしのしづ山がつのしわざも、いひ出づればおもしろく、おそろしき猪も臥猪の床といへばやさしくなりぬ、」(徒然草)。そのおもしろいのも優しいのも、古人によつて養はれ色づけられたかういふ趣味なり表現なりが、實生活から離れた感じを人に與へるからである。勿論、廣い自由な眼で見れば、この別天地は奧ゆきの淺い、また窮屈な狹苦しい、ところではある。古人の眼なり氣分なりをとほして見なければをかしさもやさしさもわからず、山がつのしわざや猪そのものに興趣を發見するのではないからである。たゞ自己自身の趣味を有つてゐないものは、古人によらなければ何ごとにもおもしろみを感ずることができない。またもし知識の上に於いて古人の生活を了解し得るものでも、それは自己の現實の生活とは遠い距離があるから、強ひて古人の趣味に追從しようとすると、そこに心生活の統一が失はれる。もしくは實生活の外で一種の遊戯生活をしなければならぬ。徒然草に現はれてゐる兼好にその好例がある。
 兼好の出家の動機は何であらうとも、ともかくも彼は法師であり遁世者である。(兼好が後宇多天皇の崩御を悲んで出家したといふ徹書記物語などの説は眞僞おぼつかないやうな氣がする。兼好はそれほどに宮廷と深い關係があつたらしくは思はれぬ。)ところがその法師が、一面では人生の無常を説き世事にかゝづらふことの愚かさをいひなが(165)ら、他面では、或は「春の暮つかた、のどやかに艶なる空に賤しからぬ家の奥深く木立ちものふりて、」花の散りしをれた庭に向ひ、「貌、きよげな」二十歳ばかりの男の文くりひろげてゐるのを見て、「いかなる人なりけん尋ね聞かまほし」と思つたり、或は「あやしの竹のあみ戸のうちょり」立ち出でて、月かげに笛を吹きながら、稻葉の霧にそぼちつゝ田中の細道を分けゆく男を「行かんかた知らまほしくて」あとをつけて行つたりしてゐる(これらは何れも兼好の空想の所産であらう)。のみならず、「梢も庭も珍らしく青みわたりたる卯月ばかりの曙」の別れの「艶にをかしかりし」をいつまでも思ひ出す人のこゝろ、「有明の月さやかなれどくまなくはあらぬに、人ばなれなる御堂の廊に」物語する男女の光景、をさへ思ひ浮かべて興じてゐる。「人は容貌ありさまの勝れたらんこそあらまほしかるべけれ」とか、「女にやすからず思はれんこそあらまほしかるべきわざなれ」とか、平安朝の貴公子をおもかげに見てゐるらしいことをもいつてゐる。勿論かういふ風情をおもしろがるのに異議は無い。西行も詩人としては戀の歌を多く詠んだが、詠んだとすれば空想世界に於けるその戀の風情に何等かの感興を覺えたに違ひない。たゞ兼好が現實の世界に於いて古物語にでも見えるやうな貴公子のあることを希求してゐるところに、現實の生活と趣味の世界との隔離があることを指摘したいのである。
 さて現實の生活から遊離してゐる趣味は、特殊の修養を要し、從つてまた矯飾に陷り易い。明くるまで共に月見ありきをした或る人がさるところを訪れた、「よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優に覺えて物の蔭よりしばし見ゐるに、妻戸を今少し推し開けて月見るけしきなり、」。この故らめいたふるまひはともかくもとして、「やがてかけ籠らましかば口惜しかりぬべし、後まで見る人ありとはいかでか知らん、かやうのことはたゞ朝夕の心づかひによ(166)るべし、」といふ。月見る氣分そのものを賞でないで「朝夕の心づかひ」を稱するところに、矯飾ともいはばいふべき修養を尚ぶ考が見える。「花は盛に月は隈なきをのみ見るものかは」の一節も、「花の散り月の傾く」風情もさることながら、「よき人は偏にすけるさまにも見えず、起ずるさまも等閑なり、」といふところに意味がある。「しばし旅だちたるこそ目さむる心地すれ」といひながらも、「さやうのところにてこそ萬に心づかひせらるれ、持てる調度までよきはよく、能ある人も常よりはをかしとこそ見ゆれ、」と、旅路の情趣よりは旅する人の心用ゐに氣をつけてゐる。旅の心ぼそさわびしさに限りなき詩趣を見出して深くそれを味はうた西行とは、同じでない。兼好が「契りおく花と双びの岡の上にあはれ幾世の春を過ぐさん」と、豫め設けた無常所に櫻を植ゑさせたのは、「願はくば花の下にて」と詠んだ西行の自然らしさとは幾らかの違ひがある。「配所の月罪なくして見んこと、さも覺えぬべし、」といつたのも似たやうな心理からであるが、これも、趣味の世界が實生活の世界から遊離してゐるためである。
 實をいふと、彼の厭世思想そのものもやはり一種の趣味ではなかつたらうか。「妻といふものこそ男の有つまじきものなれ」といふにつけても、よそ聞きの「心にくき」を理由とし、「長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」といふのも、「そのほど過ぎぬれば容を愧づる心も無く、人に出で交らはんことを思ふ、」といふ理由からである。日常の社交に於いても、ひかへめなるをよしとし出すぎたことを非難したところが所々にあるが、これも「愛敬せられずして衆に交はるは恥なり」といふ考からであるから、その處世觀は一種の消極的利己主義である。厭世觀にもまたそれに似たところがあるのであらう。或はまた「そむきては如何なるかたにながめまし秋の夕も憂き世にぞ憂き」(家集)、世を背くのは一大事のためであらうが、その一大事も憂き世の秋の夕暮に對する趣味性の滿足(167)と權衡がとれるほどのことである。さうして世を背くのとこの趣味とが兩立しないやうにいふのは、世を背くといふことが既に一種の趣味であるからではあるまいか。「法師ばかり羨しからぬものはあらじ」といつた清少納言に賛成して「實にさることぞかし」と書いてゐるのは、こと/”\しい地位などを有つてゐる僧についての話であつて、一般の世捨人についてのことではないが、法顯三藏が天竺で故郷の扇を見て悲んだといふ話を「優に情けありし三藏かな」と評した弘融僧都の言を「法師のやうにもあらず心にくゝ覺えしか」と褒めたのは、世の常の法師にあきたらぬ情があつたからであらう。それにもかゝはらず彼は法師になつたけれども、さりとて「なか/\あらまほしきかたもありなん」といふその「ひたぶるの世捨人」となつて行ひすましたのでもなく、時にはいはゆる歌僧の一人として尊氏に從つて高野などへ行つてゐる。本來兼好は、世すて人になるにはあまりに世間に執着があつた。この點は西行と似てゐるところが無いでもないが、その違ふところは、西行は眞に出家の境地に入つて、そこから人間をなつかしみ、兼好は、法師の形になつた後も、常に心を世間に置いてそこから出家をなつかしがつてゐるところにある。「すめばまたうき世なりけりよそながら思ひしまゝの山里もがな」といふのも、やはりそれがためであつて、到るところを修業の天地とし、何ごとに對しても美しさを發見する西行には、かういふ心もちはなかつた。上に述べたやうな厭世觀の起るのもこれがためである。要するに兼好は初めから眞に世を背くべき人ではなく、その出家はたゞ「世すて人」といふ境界が趣味の上から心をひいたからのことであらう。兼好の時代には、一般の風潮としては、厭世思想の力が既に弱められてゐたことをも、考ふべきである。彼の老莊を好んだのもたゞ知識の上に於いてのことに過ぎなからう。
 徒然草の一卷はその精緻なる觀察、情趣ある措寫、及びいくらかの詩的空想と、並に當時の人としては秀れたる學(168)識とによつて、作者兼好が優に文學者としての資格を有つてゐることを示してゐる。さうしてそれ故にこそ彼の趣味と實生活との破綻を暴露してゐるのである。しかし多數のものはこの破綻を覺らずして、意味も無く因襲的趣味に追從してゐた。ところがこの時代に於いては別に新しい趣味がシナから入つて來て、それがやはり實生活とは何等の接觸なしに一部少數の人士に好まれるやうになつた。それは即ち禅僧の齎して來たものである。むかし輸入せられた唐の文物は平安朝の貴族生活に攝取せられ同化せられたので、よし佛教とか漢文學とかいふやうなどこまでも異國的の形を保有してゐるものがあるにしても、それすらもはや異國のものとして考へられなくなつたほどに國民の思想と親しくなつてゐる。前の時代から國文の中に漢語や漢文の要素が次第に加はつて來て、この時代の戰記物語などに於いてはそれが最も多くなつてゐるが、さうしてさういふ異國人の思想なり異國の事物なりから造られた成語成句をそのまゝに用ゐるために、現實の状態にも情趣にも相應しない記述となる弊も生じてゐるが、當時の作者も讀者もそれを深く怪まないほどに、唐代から入つて來てゐた漢語漢文やそれに現はれてゐる思想は、當時の人に親しいものとなつてゐたのである。ところが宋代となつて舶來した書物や渡宋した僧徒によつて傳へられた新しい思想なり趣味なりは、一般にはさしたるはたらきをするまでにはならなかつた。例へば朱學の書が傳へられても、多くの儒者はそれに動かされなかつた。ところが、禅宗が入つて來てから急に今までとは違つて上記の如き現象が生じた。それは禅宗といふ宗派にシナ趣味が伴つて入つて來たためではあるが、その根柢には、禅宗そのものが、昔傳はつて來た諸宗とは違つて、最も多くシナ化した佛教、むしろシナ人の作つた佛教、であるといふ事實があるからである。
(169) 禅宗、特にいはゆる南宗禅がどうして起つたかといふことは、深い研究を要するシナ思想史上の大問題であつて、今の著者はそれについてたしかな解答を試ることができない。しかし拈華微笑の説話も、二十八祖の相承も、達磨や二祖六祖などについての種々の説話も、シナ人の思想から生まれたものであること、「不立文字」といふ觀念にも、また實際に於いて甚しく文字を弄ぶ禅徒の風習にも、また或は參禅の方式にも、インド風のものが殆ど無いといふことだけは、いつてもよからう。臨濟一派の棒喝に至つてはなほさらである。勿論、禅宗が佛教の一派として形づくられたものであること、またいはゆる禅那が變形して禅宗の修業の方法の一つとなつたことはいふまでもないが、一つの宗派となつてゐる禅宗は、ほゞかういふものであるらしい。禅宗の禅が單に坐禅をいふのではなくして、人の全生活についていはれてゐることも、また同じところから來てゐよう。さうして、それが經典の煩瑣な解釋と一種の思辨と祭祀祈?との外に立つて、もしくはそれに反抗して、教外別傳といひ直指人心といひ、または佛を呵し祖を呵すといふ、態度を取つたのは、窮屈な氣分で道を説き禮を説く儒教とは反對の方向をとつてゐる老莊の思想と同じ根柢から發生したもののやうである。
 老莊の思想は道をすてたところに道があるとし、名をすて言をすて人爲をすてて、性を保ち己を保ち自然を保て、といふのがその主張であり、處世の道としては、その一面に於いて社會的拘束を離脱しようとする一種の高踏主義、隱遁主義、乃至、獨善主義、放曠主義、に赴く傾向をも有つてゐると共に、我みづから我に加へる拘束を脱却して、性の自由を得ようとする態度もそこから生まれる。が、この自由の境地は我をすてて世に順應し如何なる事物をも來るがまゝに迎へてそれに身を任せることに於いて得られるとする。一切の緊縛を放下して本來の面目をあらはし、そ(170)の意味で自由の境地を得ようとする禅宗は、それと通ずるところがあるではなからうか。煩惱も迷執も緊縛の意義に解せられ、菩提も佛性も自由の境地として考へられ、さうしてその境地を得れば煩惱がそのまゝ菩提であり娑婆がそのまゝ淨土である、といふのが禅宗の特色ではないか。大乘佛教の種々の學説が本來の老莊的な考を潤色しつゝそれに適應する思想を提供し、それによつて禅宗が形成せられたけれども、根本の考へかたはやはりシナ的であり老莊的である。禅宗にインド的な厭世主義の色彩が殆ど無いといつてもよいのも、この故ではあるまいか。この見解にもし幾らかの理由があるとするならば、禅宗の起源が南北朝時代にあつたのは當然であつて、禅徒が北魏の時代にシナに來てゐたといふ達磨をその祖としてゐるのも偶然ではなからう。禅徒の風習、特にその言語文字を重んずることがシナ人の特色であることはいふまでもなく、その言動にはかの清談の徒の面影があるのではなからうか。根本的にいふと、言語動作によるその修業の方法がインド傳來の禅とどういふ關係があるのか、殆どわからぬほどである。
 この禅宗は唐代から漸次盛になつたが、當時種々の宗派が我が國に傳へられたにかゝはらず、こればかりはその例外であつた。最澄は北宗禅を傳へたといふが、それは南宗禅とは頼る趣を異にしてゐるものであつたからであらう。けれどもそれすら世には現はれずにしまつた。檀林皇后が禅僧に歸依せられたといふ話なども事實らしくない。禅宗は經典とその解釋法とを學び佛像と祈  祷の法式とを傳へることが主であつた教宗とは違ふから、それが行はれるのは容易でない。天台の教旨に於いても禅定は重んぜられ、種々の三昧の方式は傳へられたが、それは禅宗のとは違ふ。特に佛教を現當二世の幸福を祈るためのものと考へ、寺院の裝飾や法會に於いて得られる華やかな官能的悦樂をその幸福の象徴と思ひ、もしくは文字によつて學び得る知識をこの上もなく重んじてゐた平安朝人に、禅宗が解せられる(171)はずはない。宋代になつて我が國からシナに渡つた僧侶は、禅宗に接觸する機會が必ず多かつたであらうと思はれ、特に我が園に往復する商船の發着地である地方は、禅宗の根據地ともいつてよいほどの場所であるのに、彼等はそれに注意した樣子が無い。延久年間に入宋した成尋は、天台山で寒山拾得の話を聞き永嘉集や證道歌を贈られたらしいが、彼自身は禅宗に考を及ぼしてゐない(參天台五山記第一)。だから能忍榮西に至つて始めてそれに心の惹かれたのは、平安朝末になつて、その文化の衰頽と共に宗教思想にも種々の動搖が起り、新しい何物かを得ようとする要求が知らず/\の間に生じてゐたからであらう。(元亨釋書に見える覺阿が禅宗を傳へたといふ話は眞僞おぼつかなく思はれるが、それも承安年間の入宋としてある。)
 ところが一度道が開かれると、それから續いて新しいものの流れこむのは容易である。實際の修業がどれほど行はれたかは別問題として、禅宗といふ宗派は短い年月の間に我が國にも存在するやうになつた。たゞそれが禅宗そのものに於いて我が國民の要求する何物かが見出された故であるかどうかは疑問であつて、むしろ種々の新宗派が起るやうな時勢であるのと、恰もその氣運に乘じて入つて來たかの如き觀のある一宗派であるのと、並に何ごとにつけても異國情趣の濃厚であることが好奇心を誘つたのと、これらの事情が、禅宗の弘まつた理由ではなかつたらうか。禅宗は經典の研究や解釋を重んじない點に於いては、この時代に起つた淨土宗と通ずるところがあるが、易行道の淨土宗に時勢の要求に應ずるものがあつたとすれば、一種の難行道たる禅宗はそれとは反對の性質を有つてゐる。淨土教の極樂往生の思想に反對するにしても、稱名念佛の代りに法華經の題目を唱へる日蓮宗の生まれたことを考へねばならぬ。またすべての力が民間に移つてゆく文化の大勢の上から見ても、淨土宗や日蓮宗が平民的のものとしての意味が(172)あるのに、禅宗はその修業の方法も文字上の知識を要することも、日本人にとつては、むしろ貴族的傾向を帶びてゐるものではないか。たゞ禅宗が厭世的でない點に於いて時代の趨向におのづから適應するところはあつたが、しかし何等かの意味で現實の世界現實の生活を肯定する思想は、大乘佛教の種々の經論に見えてゐて、それについての思辨は舊來の佛教の學匠の間にも行はれてゐたことであり、日蓮の主張の淵源もそこにあるから、このことは禅宗のみの特色ではない。だから禅宗の行はれるやうになつたのは、新しく傳來したものであることがその主因であつたとする外はなからう。もつとも禅宗に接觸することが多くなると、その異國的なところから生ずる興味がます/\加はつて、自然にそれに引きつけられるやうにもなつて來たであらう。さうしてそれには、寺院の建築やその内部の佛像佛具の裝置や、そこで行はれる種々の儀禮や、禅僧の生活、特にその服裝や行動や、または文字を弄ぶ風習や、これらのことが大きな力となつたであらう。が、それは必しも禅宗そのものが當時の人心の要求するものを與へたことを示すものではない。道を求めるものがよし成佛を目ざして何人かの會下に集まつたとするにしても、いはゆる師家やそれから印可を得たものがみな成佛したものとして彼等に信ぜられたであらうか。しかしこれは修業の道としての禅宗そのものについていふのであつて、一般の世人に關することではない。禅宗が一般の世人と何等かの接觸があつたとすれば、それは禅宗そのものの本質に於いてではなく、從來の諸宗と同じやうに禮拜祈?などを行つたためであらう。
 しかし世には禅宗の流行を武士の氣風に投合した故であると考へる説もあるらしい。けれども禅の修業そのものは多數の武士の堪へ得るところでもなく、その修業と離すことのできない文字の知識は武士には頗る縁遠いものであつた。また武士が生死を得脱してゐるとすれば、それは實戰に於いて生死の關頭を幾度も切りぬけて來たからであり、(173)もしくはそれから養はれた社會的風尚のためであつて、蒲團上の工夫の如きを要しなかつたに違ひない。事實、禅宗のまだ入つて來なかつた源平時代の武士は、武士として既に完成せられたものであつた。また後世までも武士として優れたものに禅宗と無關係なものが極めて多い。と同時に、禅宗に歸依した武士に武士として價値のないものも少なくない。だからもし武士の氣風と禅宗とが何かの點に於いて接觸があつたとするならば、それは禅僧の行動態度などの點に於いてであつたらう。時頼などが禅宗に傾倒したのは即ちそれであらうか。實際、多數の武士は舊宗教の祈?や修法に對する信仰をすてず、それで何等の不安をも感じなかつたのである。時頼などでも、一方ではやはり舊宗教の信仰を有つてゐたことが、吾妻鏡などを見ても明かにわかる。彼等は舊宗教の煩瑣な思辨などと没交渉であると同じく、禅宗の修業とも無關係であつたらう。武士の花やかな行裝を喜ぶのが禅僧の風尚と反對であることは、いふまでもない。また禅宗は武士の中心たる鎌倉に行はれたのみならず、京にも東福寺や南禅寺が建てられて、公家にも皇室にも保護せられた。さうして曹洞の一派を傳へた道元は、武士とは何の關係も無く、越前の山の奧を中心として別に存立してゐた。禅宗の行はれたのは武士のみの力でないことは、これらの事實によつても明かであらう。武士たる足利氏が禅宗を保護したのは、鎌倉時代以來の因襲と事に與かつた禅僧の政治的才幹との故である。
 さてこの禅宗は、シナ人の思想シナ人の風習が基礎となつて形づくられてゐるほどであるから、禅僧どもがそれを我が國に傳へるについても、すべてをシナで行はれてゐるまゝに移植しようとしたのみならず、その思想を現はすにもシナ語シナ文字を用ゐようとした。いはゆる「見解」を述べるためにもシナ語の偈を作つた。彼等の間に於いても實際は國語で説示もし應對もしたのであらうが、それを文字に寫す場合には、語録の類でもかならず漢文にした。道(174)元が正法眼藏を國文で記したのは例外であるが、その道元のも語録は漢文で書かれてゐる。語録こそは國語で記すべきであるのにそれをしなかつた。是に於いてか禅僧の修業は先づ文字の知識を得ることから人らねばならぬことになつた。さうして漢語の文や偈を作るのであるから、それにはかならず摸倣が伴ふ。不立文字の教が文字に拘泥し、佛を呵し祖を呵するほどに束縛を嫌ひ自由を尚ぶ禅僧が、シナの禅僧の口まねばかりをすることになつた。奇怪な現象のやうであるが、これは單に日本人の摸倣癖から來てゐるばかりでなく、禅宗そのものの思想がシナ人に特有のものであり、彼等の言語文字によつてのみ表現し得られるものだからであらう。不立文字といひながら文字を弄するのは、こゝに根本の理由があるので、その弄する文字はシナ語の表徴としてのシナ文字なのである。正法眼藏の説きかたが、シナの禅宗の成語を用ゐ、シナ語でなくては表現し得られない思惟の方式によつてゐるのも、そのためである。文字の上では無礙自在であるやうに見えるが、實は同じシナ式論法を反覆してゐるのである。
 禅宗はかういふものであるから、禅僧が何ごとにつけてもシナ風を摸倣したのは怪しむに足らぬ。さうしてそれが今まで我が國に無かつたものであるから、新奇を喜ぶといふ點に於いても一層歡迎せられる。勿論、寺院の建築法や叢林の規矩などを摸倣するのは、或る程度まで修業の上に必要なことであつたらうが、娯樂や遊戯などに於いてもシナ風を摸したので、これは、もはや必要を越えた一種の趣味である。たゞそれによつて新しい文藝が輸入せられたのは、我が國の文化の發達にとつて少からざる利益ではあつた。文學についていふと、むかし唐から學ばれ、平安朝このかた漸次國文學に接觸し融合して來て、一種日本人の漢文學となつたものの外に、この時に至つて再びシナ人の漢文學が禅僧によつて齎されたのである。また藝術に於いては、いはゆる宋元畫の一體が入つて來て、繪畫に新要素を(175)加へた。
 この新しく入つたシナの文藝に現はれてゐる趣味は、今まであるものとは多くの點に於いて違つてゐる。それは舊來のものは、その起原がシナにあつても長い歴史によつて日本化せられてゐるからでもあり、またいはゆる宋元畫が唐代のものと違ふやうに、シナ自身に於いて變化したものがあるからでもあり、また新來のものはシナの事物のうちでも禅僧の生活と關係があり、またはそれと調和するもののみであるからでもある。舊來の大和繪が自然を人事の背景として取扱つてゐたとは違つて、禅僧の傳へた宋元の畫は自然を世間から離れたものとして見る。その自然は春の花の艶麗な秋の野の優しい、もしくはをりにふれて感傷的な氣分を誘ふ、ものではなくして、山杳かに水遠く、冲淡夷希たるを尚ぶ。日本風ではなくして大陸式である。文學に於いても彼等に愛讀せられたのは、黄山谷や蘇東坡の詩であつて、平安朝以來經典のやうに取扱はれて來た白香山などではない。禅宗の寺院建築が、我が國で發達した織巧なものでないことはいふまでもなからう。
 しかし禅宗そのものが、宗教といふよりは修業の道であるために、廣く世に行はれなかつたと同じく、かういふ新しい文藝も、當時に於いては、狹い禅院の内だけに行はれたのであつて、一般の文學界藝術界に影響するところは少く、またこの時代に於いては國民の思潮の一つの流れともならなかつた。周文や如拙が禅餘の技として宋元畫を摸作しても、世に行はれまた事實上國民藝術としての價億あり資格あるものは、いふまでもなく在來の大和繪である。民間演藝として新しく發達しつゝある猿樂や田樂にもその影響は殆ど無く、それらは南都北嶺の保護を受け、因襲的の古典趣味の上に生ひ立つて行く。また禅僧輩は、シナを崇拜してゐるのと修業の上の必要とから、漢文漢詩を作るこ(176)とには努力したけれども、和歌などには手をつけないのが普通の状態であつたから、國文學の上には關係が殆ど無かつた。佛國禅師夢窓國師は歌連歌を嗜んでその作は勅撰集や菟玖波集に取られてゐるし、夢窓のは歌集も遺つてゐるが、「夜もすがら心のゆくへ尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと」(風雅釋教佛國)、「出づるとも入るとも月を思はねば心にかゝる山のはもなし」(同上夢窓)、或は「さま/”\に解けども解かぬ言の葉を聞かずして聞く人ぞ少き」、「さかぬ花出でぬ月ぞと見る時は心にかゝる春秋もなし」(以上家集夢窓)、などの禅語を和譯したやうなものか、または「夢のうちは夢と思ふも夢なれば夢を迷といふも夢なり」(同上)のやうな後世のいはゆる道歌めいたものか、何れにしても歌としての價値の無い作の外は、「これやまた春のかたみとなりなまし心に散らぬ花の面影」のやうに、繊巧な修辭的技巧を生命とする因襲的のもののみである。要するに、禅僧の作らしいものは禅語を三十一音としたのみであり、歌らしいものには禅僧の作としての特色が無い。即ち新しい趣味が歌となつて現はれたのではない。光嚴院の御製の「小夜ふくる窓の燈つく/”\と影も靜けし我も靜けし」などは、深夜一穗の燈火が眼前に燃えてゐるだけ、前に擧げた夢窓などの作よりは歌らしく見えるけれども、「心とてよもに映るよ何ぞこれたゞこの向ふ燈の影」、「燈に我も向はず燈も我に向はずおのがまに/\」(御集)、などになると、やはり和譯した禅語といふまでのものである。さうしてこれほどのことでも禅宗の我が文學に及ぼした影響の稀有な例であらう。畢竟禅僧の傳へた新しい趣味は、我が國民の實生活にも眼前の風光にも調和しない純然たる異國のものであるから、それが國文學や國民藝術の上に現はれないのは當然のことである。もつとも、歌ではないが、太平記に記されてゐる資朝俊基具行などの辭世の偈の如きものは、稀に世に傳へられた。けれどもそれらがよし眞に彼等の作であるとするにしても、それはたゞ禅僧のをまね(177)たものに過ぎない。
 しかし、實生活から遊離してゐる古典趣味と同じく、かういふ異國趣味もまた世に存在し得べきものではある。それらは何れも、現實の自己の有つてゐないものを尊尚し仰景するといふ、人生に自然な心理から生じたものであつて、古典趣味はそれを我が國の過去に認め、異國趣味は異國に求め得たのである。さうして古典趣味が因襲的に持續せられる事情があると同じく、この異國趣味も、それが歳月を積んで歴史的に權威づけられてゆくと、單にそれだけの事實でも世に存在する理由となる。さうしてそれは現實の文化が進まないで過去のもの異國のものがます/\尊まれてゆく次の時代に於いて大に現はれる。但しこれは異國趣味を喜ぶものの心理をいつたまでのことで、異國趣味は到底異國趣味たるに過ぎないのに、古典趣味はどこまでも國民趣味であるのみならず、世を支配する勢力からいへば、前にも述べた如く、シナ趣味は世の一隅たる禅院の裡に存するのみであるのに、古典趣味はすべての文藝の基礎となつてゐるのである。
 
(179)     第二篇 武士文學の中期
          北朝の應安時代から文明ころまでの約百三四十年間
 
       第一章 文化の大勢
 
 南北朝の爭は容易に方がつかず、吉野の朝廷が微力ながらに存在してゐる間に、事實上の武家政治は京を中心として固められ、義滿が將軍となつたころには足利氏の權力はもはや動かすべからざるものとなつた。さうしてそれと共に、社會上文化上の新しい現象が、兵亂の斷えまなき間に於いて漸次發生して來た。歴史的にいへば、足利氏は北條氏に代つて武人の首領となり、またそれによつて北條氏の政權を繼承したのであるが、南朝に對する政策上の必要から幕府を京に置いたので、その結果として、文化の本據であつた京と武力及びそれを基礎としてゐる政權の中心であつた鎌倉とが、相對立してゐた北條時代とは違ひ、地理的にはこの二つが京の一つにまとめられた。京は新に全國の武士の勢力が集中せられるところとなり、彼等と京の文化とが接觸し結びつくやうになつた。その上、北朝は全く武人の力によつて成りたち、武人が朝廷と貴族の生活とを支配するやうになつたために、武人の事實上の首領たる足利氏が尊貴の地位に上つて、その威力が朝廷を壓するやうになつたことはいふまでもなく、その家臣たる武士等もまた、朝廷の官位はともかくも事實上、社會的に榮位を占めるやうになつた。さうして彼等の重立つたものは、戰亂の結果(180)として、また足利氏が南朝に對抗するに必要な政策として、恩賞を惜まず多數の大名を身方につけようとしたために、北條時代とは比較にもならぬほど大きい所領を有つてをり、從つてその富の力も強くなつてゐたから、彼等はおのづから京風の文化をできるだけ手に入れようとした。かういふ風にして武士が京に勢力を得、また一種の武家貴族が生じたといふことが、この時代の一新現象である。これは勿論尊氏の時から漸次に馴致せられて來たことではあるが、足利氏の權力の確立した義滿の治世に至つて全く形を具へるやうになつたといつてよい。
 しかし武士のうちにも直接間接に京の文化に接觸してゐたものは前々からあつたので、寺院の間に發生して民間に弘められた文藝はもとよりのこと、平安朝文化のおもかげを傳へてゐる貴族文藝に於いても、和歌や連歌は或る程度まで彼等の間にも行はれてゐたことは、前篇にも述べておいた。かういふやうに幾らかの文化的素養のあるものが、京に住むことになり、またその社會的地位が高くなれば、割合に早く京風の文化を學び得るのであつて、足利氏がその好例である。尊氏が歌を好んだことは、その作が勅撰集に多く見えるばかりでなく、文和二年に鎌倉から兵を率ゐて上つた時、垂井の行宮で途中の詠草に二條良基の點を求めたのでも知られる(小島の口すさみ)。しかし將軍の地位に上つてからはそれだけでは滿足せず、その他のことがらに於いても公家風を學ばうとし、笙を吹いたり樂の傳授を受けたりするやうにさへなつた(體源抄)。實生活の上に於いても、服裝及びその他の故實についてしば/\洞院公賢の教を受け、貴族の體面を裝はうとした。天龍寺の供養をすべて公家風にして、その儀禮に殆ど禅宗の特色の見えないやうなことをしたのも、またそれと同じであり(天龍寺供養記)、その死後には葬儀をもすべて公家風にし、追善には法華八講を營むほどであつた。かういふことをするのは、美しいもの華やかなことを喜ぶ自然の人情でもある(181)が、また成り上りものの虚榮心でもある。もつとも將軍といふ地位から見ると、尊氏のこの態度は鎌倉の將軍、特に實朝以後、の風尚を繼承したものといつてもよいが、頼經以後の鎌倉の將軍は公家貴族または皇族であつたから、尊氏の武士であるのとは違ふ。ところが、その尊氏がどこまでも武人の生活を立てとほさうとはしないで、地位を得ると共に公家らしい體面を急ごしらへにこしらへようとしたのは、思想上、公家を尊重してゐたためである。新に得た地位に適應するほどな教養の無いことを知り、何等かの外的裝飾を加へることによつてそれのあることを示さうとするところに、成り上りものと呼ばれる理由があるが、それは地位とそれに伴ふ教養とは動かし難い傳統のあることを承認しそれを尊重してのことである。さうしてこのことは、社會的には公家貴族が武士の有つてゐない文化を有つてゐて、その意味に於いて一種の權威がなほ彼等にあつたことを證するものである。
 義滿の時になると、かういふことが一層甚しくなつて、室町の邸は寢殿作りにして全く公家のを摸する。歌や鞠の會などはいふまでもなく、管絃の御遊さへも營中に行ふ。樂の傳授を受ける。大臣の官に上り淳和奘學兩院別當源氏長者の名義を久我家から讓り受け、或は節會の内辨を勤めて得々としてゐる。全く公家になりすましたやうな氣分でゐたらしい。永徳の室町殿行幸、應永の北山殿行幸、(並に後の永享の室町殿行幸)は、その儀禮といひ、詩を賻し歌を詠じ、龍頭鷁首の舟を浮べ、管絃の御遊舞樂の演奏をした遊宴の有樣といひ、殆ど全く公家の風習のまゝであつた。嚴島詣での記を擬古文で書かせたのも、平安朝の「左のおほいまうちぎみ」にみづからを擬したかつたのであらう。任槐の後は何ごとにも攝家を摸したといはれてもゐる。さて大臣などの地位を欲したことは將軍だけではものたりなく思つたからであり、公家がほをして喜んだのは武家の身分だけでは不十分に感じたからであらうが、大臣などは朝(182)廷の地位であり公家はその朝廷の儀禮を掌るものである。だから義滿のかういふ態度は、昔から傳へられてゐる朝廷の儀禮とそれに伴ふ古代文化の情趣とを尊重したものであり、その意味に於いては、昔からの社會的秩序と文化上の傳統とをどこまでも守らうとしたのである。しかしこのことはまた、當時に於ける公家貴族の存在の意味がいはゆる故實いはゆる先例を知つてゐるところにあることを示すものであつて、事實、彼等みづからそれを使命とも誇りともしてゐた。彼等は現實の政治にも社會にも何等の力が無い。たゞ過去から傳へられて來た知識または過去に關する知識を失はないことに、その任務を認めたのである。さうしてそれがおのづから過去の文化の遺風の保持者としての彼等のはたらきともなつた。二條良基や後の一條兼良や三條西實隆などに於いてその優れた代表者が見られる。
 けれども公家貴族は、その所領が漸次武人に侵略せられて、生活の物質的根據は甚だしく弱められてゆき、貴族としての上記の地位に居ることすら、幕府の庇護によらねばならなくなつた。是に於いてか、彼等によつて行はれる朝廷の儀禮もしくは儀禮的な事務も、幕府の意に從はねばならず、苟もそれに背くことは許されぬ。先規や慣例が何ごとにつけても重んぜられる朝廷でありながら、武家の意向とあればそれを無視しなければならぬ。改元や元號の制定の如きことすら幕府の指示をうけるのであるから、任官敍爵に至つてはいふまでも無い。公家貴族どもは將軍の意に從はねば地位が危くなるからである。家格や官位の如何にかゝはらず爭つて武家に追從し、日々將軍家に出仕し、事あれば參賀拜禮する。その女の將軍の後庭に仕へるものも多く、關白の子が義滿の偏諱を乞ひうけて改名するさわぎである。「將軍に親しき人々は昵近衆と稱して禁中には肱を張り、傍に人無きがごとし、烏帽子裝束まで公方樣とて人々用ゐ侍り、武家を公方と稱することこのころよりのことなるべし、」(後鑑所引春の夜の夢)といはれ、吾が朝の(183)皇統が武將の家に移つたとまでいはれたほどである(同上)。權家に阿諛しそれによつて地位と利益とを得ようとするのは、昔からの公家貴族の風習ではあつたが、この時に至つてそれが極點に達したのである。一方ではかういふことを快からず思ふものもあつたことが彼等の日記などによつても知られるが、一つは時の勢で如何ともしがたかつた。
 ところが彼等のかういふ態度は義滿をして甚しく驕慢ならしめ、北山邸には紫宸殿といはれた殿舍を建て、公卿を伺候させるために殿上の間と稱せられたものをも設けたといふ。のみならず、彼の希望によつてその妻は國母に准ぜられ、北山女院の稱號が與へられた。また二男は親王に准じ宮中で首服を加へられた。宮中に於ける義滿の直廬には古來未曾有の特別の設備がせられたといふ。關白經嗣の書いたといふ相國寺塔供養記によれば、この塔の供養の行はれた時にその儀禮に臨んだ義滿に對する皇族や公卿の態度は、天皇もしくは上皇に對するのと殆ど同じであり、この記にも最大級の敬語を用ゐてその動作を敍してある。義滿が九歳の義持に將軍を讓り、幕府の實權は依然としてみづから握つてゐたのは、院政の故事をまねようとしたのかも知れず、その死に當つて贈太上天皇の宣下があつたといふのも、一つはかういふところに關係があつたであらうか。(この宣下は義持が拜辭したが、或る人によつてその宣下が抑止せられたともいはれてゐる。)かういふことをこゝでいふのは、必しもいはゆる名分論の思想で義滿の不臣を尤めようとするのみではない。一つの意味に於いては、かゝる待遇をうけかゝるふるまひをして得意げであつたところに、やはり朝廷に於ける儀禮上の地位とそれに伴ふ古代文化の情趣とを尊重する氣分が現はれてゐることを、指摘したいのである。北山邸に行幸を仰いだ時には、臣下として特異な高い地位にあることを示しながら、しかし臣下の節を失つてはゐなかつたことが、やはり經嗣の書いた北山殿行幸記によつて知られる。この行幸は義滿の古代文化尊(184)尚の態度を最高度に表現したものとも見られよう。
 ところでかういふ一面をのみ見ると、足利氏は恰も二百年前の平氏が藤原氏に代つて朝廷に最高の地位を占めると共に京の文化を領略したのと、同じやうに感ぜられるかも知れぬ。勿論この時の公家貴族は、平氏時代の藤原氏とは違つて、その祖先から傳へられただけの文化上の地位を保つてゆく力すらも無く、邸宅や寺院も彼等の手によつて維持することができなくなつたので、昔から彼等の保護によつて成りたつてゐた文學も工藝も、もはや彼等に依頼するわけにはゆかなくなり、さうして彼等の文化的地位を繼承するものは即ち新に起つた武家貴族、その首長たる將軍であつて、寺院も邸宅もみな武家によつて建てられ、從つて文學も工藝も直接間接にその庇護の下に歸するやうになつた。要するに武家は從來の公家に代つて文化の中心となつたといつてよい。この點は、藤原氏の文化上の地位とはたらきとが、蓑へはしたけれどもなほ或る程度に保たれ、平氏がそれと並び立つてゐたのとは、同じでないところがある。たゞ武人から起つて公家の文化を擧ばうとした點に似たところがあるとはいはれよう。
 けれども足利氏の時代はもはや平氏の昔ではない。義滿が公家になりすました氣分になつても、それは主として朝廷に於ける儀禮上の地位についてのことである。樂の傳授をうけたにしても、その關心は傳授をうけるといふことにあつた。平家の公達の日常生活が公家化し、管絃が朝夕の弄び草となつたのとは違ふ。平氏はその生活が公家化してゐたけれども足利氏は公家文化の遺物と遺風とを摸倣したのみである。のみならず實權と朝廷に於ける地位とが分離してから既に長い年月を經てゐるので、將軍自身は成り上りものの虚榮心から、高位高官に上り公家風の裝束をつけて得意がつてゐたが、それはもとより實權には何等の關係の無いことであつた。朝廷に於ける地位が權力と富との象(185)徴であつた平氏の時代とは違ひ、關白以下多くの公卿が型の如く揃つてゐても、政治的に無力であつて將軍に頤使せられてゐるのは勿論のこと、所領なども少くなつたこの時代に於いては、足利氏はその一族家臣を朝臣に列せしめる必要は無かつた。それと同じく文化が傳統的に公家貴族のものであつた平氏の時代とは違つて、鎌倉時代に於いて漸次民間に發達した種々の文物が、ともかくも或る形を具へて來てゐるし、また禅宗と共に新に入つて來たシナ文物の要素もあるので、新しく世に現はれた武家貴族は、必しも事ごとに公家ばかりを摸倣しようとはしなかつたのである。從つて武家貴族は自然にこれらの文化上の諸要素を雜多に取りこむことになつた。これらの點に於いても平氏の公達とは違つてゐたのである。
 しかし彼等はもと/\身分の低い武士であつたし、全體から見て文化上の教養の足りないものでもあつたため、また肉體の活動を主とする武士といふものの性質の上から、肉體的官能的欲望の強烈な傾があつたため、急に權力と富とを得た彼等の生活が概して粗野であつて、徒らに物質的豪奢を競ひ官能的快樂を追求するやうになつたのは、自然の勢である。だから彼等の生活は全體が亂調子でありその趣味は低級たるを免れなかつた。建武式目に「近日號婆佐羅、專好過差、綾羅錦?、精好銀劍、風流服飾、無不驚目、」といひ、「耽好女之色、及博奕之業、此外又或號茶寄合、或稱連歌會、及莫大賭、其費難勝計乎、」といつてあるのでも、また戰記物語の常たる誇張の記事ではあるが、太平記に見える佐々木道譽の茶の會や花の會(卷三三、三九)、畠山道誓の入洛の時の有樣(卷三四)、などによつても、そのことが知られ、さうしてこの状態は後までも續いてゐる。畢竟何時の世にもある成り上りものの豪奢と俗惡な風尚とが、京に勢力を得た武人を支配したのである。義滿とても同樣であつたので、嚴島詣での時に異樣な、きらびやか(186)な、服装をしたのもその一例である(鹿苑院殿嚴島詣記)。たゞそこに精棟せられた趣味が見えないと同時に、豪放な男性的氣風があることに注意しなくてはならぬが、それが即ちこのころの武士の風尚の特質であらう。この點に於いて昔の源平二氏の貴族趣味とは違ふ。
 田樂、猿樂、傾城、白拍子、などの遊樂の具がます/\盛になり、特に遊女の類が京の到るところに充滿してゐたのも、かういふ風潮に乘じてのことであらう。この時代の小説詞曲には小野小町も和泉式部もみな遊女として取扱はれ(小町草紙、和泉式部)、靜も祇王も同じく遊女とせられ(義經記、幸若舞曲の腰越、謠曲の籠祇王)、萬葉から材を取つた謠曲の三山にも縵子櫻子が遊女になつてゐるが、これも遊女といふものが世にもてはやされてゐた故である。一休の狂雲集にも淫坊の詩が少からず見受けられる。實際彼等の中には地位ある武士の妻になつたものさへある(明徳記)。また今川大双紙や宗五大双紙に傾城白拍子に對する心得が書いてあるのを見ると、彼等は將軍の營中にも近づいてゐたらしい。遊女は何時の世にもあるが、京に於いてかう盛になつたのは、地方の武士が京ではゞを利かして放縱な快樂に耽るやうになつたためであらう。かういふ生活をしてゐる武士の文化が如何なる性質のものであつたかは、容易に推察ができる。
 この武士の文化の性質を最もよく現はしてゐるものは能である。猿樂や田樂は前の時代から民間演藝として武士どもに愛玩せられたのであるから、武士が京に勢力を得るやうになつてからは、ます/\盛に行はれて來たに違ひなく、盛に行はれるやうになれば、技藝そのものもまた從つて進歩し改善せられる。猿樂は固有の物まねと對話との外に、白拍子や曲舞や田樂の歌舞やまたは僧徒の娯樂として行はれた延年舞などの種々の歌舞と、歌曲を以て對唱する方式(187)とを採りこみ、またその主題として歴史的傳説などを用ゐるやうになつた。さうして形の上からいふと、地の文と吟唱と白とを組合はせ、内容からいふと、佛教思想と貴族文學から繼承せられた古典的花鳥風月趣味とを綯りまぜ、その詞章にも古歌などを多く補綴した謠曲が作られ、さうして能といふ一種の舞臺藝術ができ上つた。かういふ能の形の完成せられたのは、義滿に愛せられた世阿彌の手によつてであるが、その前から漸次にこの方向に進んで來たらしい。田樂の方でもまた歌舞や刀玉高足などの固有の技藝の外に、物まねを猿樂から取入れて能を演ずるやうになつてゐた。(この時代に延年舞が複雜な形になつたのもまた猿樂から學んだところがあつたやうである。)猿樂も田樂もかかる徑路をとつて次第に發達しては來たが、しかし、當時の觀客の興味は、今日のわれ/\が幾百年の錆のついた古藝術としての能、而も何事をも嚴格な型にはめこまねば承知しなかつた長い江戸時代を經過して來た能、を見るのとは違つて、眩むばかりはでやかな服装、艶美で輕捷な舞、または勇壯な「はたらき」、人を魅する肉聲、もしくは調子の高い、殺氣を含んで聽くものの耳を鋭く刺戟する、笛や鼓の音によつて、官能的な快感を縱にするところにあつたのである。こゝに吟唱といふ語を用ゐたのは、白といつたことばの部分に對し、曲節のある謠ふ部分のことであるが、しかしこれは樂的旋律をもつてゐる歌ではない。また能の樂器は、その吹きかた打ちかたの綬急強弱によつて役者の動作、特に吟唱と舞と、の情景を助けるために用ゐられるので、それみづから樂を奏するのではなく、時に一種の前奏曲または間奏曲の如きはたらきをすることはあつても、實は樂曲をなしてゐない。これはその吟唱が樂的旋律をもたぬと同じである。一般的にいつても、この時代の民間演藝の樂器は打ちもの即ち鼓が主であつた。笛には横笛があり別に尺八があつたが、今日に行はれてゐる能によつて考へると、横笛とてもその吹奏は殆ど樂曲としての旋律をな(188)してゐなかつたやうである。尺八は獨奏樂器としてのみ使はれたらしいが、その旋律などは明かでない。また絃樂器には平家物語の演奏に用ゐられた琵琶があつたけれども、これも打ちものと同じほどの效果しかない。管絃の樂器に重きを置かない音聲が樂として如何に幼稚なものであつたかはいふまでもなからう。雅樂の管絃樂器があるにかゝはらず、それが取られずして打ちものを主としてゐたのは、白拍子や曲舞や延年舞などからの因襲ではあるが、單に樂として幼稚であつたといふばかりでなく、それに滿足しまたはそれを喜んだところに、細かな情趣を味ふことができずして徒らに強烈なる刺戟を喜んだ武人の嗜好が知られる。しかし一般の觀客にとつては、たゞ舞臺面に於ける役者の華やかな動作と刺戟的な聲音とが、わけもなく彼等を熱狂させたらしく推測せられる。能は本來、舞または物狂ひや戰闘の有樣などの目に見て美しい花々しいはたらきを見せるためのものであつた。太平記(卷二七)の四條河原の田樂を記した一節を讀むものは、田樂や猿樂が何故に世に行はれたかを容易に知ることができよう。それは恰も江戸時代の公衆に、官能的なはでやかな歌舞伎の喜ばれたのと同じである。能役者のうちには技藝についての何ほどかの理想をもち細かな心用ゐをし、その練達に努力したものがあつたけれども、觀客はかならずしもそれを了解したのではない。中には江戸時代のいはゆる歌舞伎若衆に對すると同樣な態度で、能役者を見てゐたものもあつたらしい。猿樂田樂の役者を傾城白拍子と同じほどに取扱つたのでも、それは知られる。演奏の場合に衣服をぬいで役者に與へることのあつたのも、そのためである。演奏そのものも決して今日の能のやうな緩かな落ちついたものではなく、すべての進行がずつと急速であつたことは、短時間に番數が多く演ぜられてゐるのでも推察せられる。例へば寛正五年の糺河原勸進猿樂記には、將軍が初日に未刻に來て戌刻に還るまでに、七番の能と六番の狂言とがあり、三日めには時(189)刻は明かでないが十二番の能とそれに應ずる狂言とがあつたやうに記されてゐる。舞臺の構造なども後世とは違ってゐるから、一體に演出法が今日のやうなものではなかつたらう。
 なほこゝに注意すべきことがある。世阿彌の花傳書や覺習條々を見ると、能の演奏について見物衆の氣分を察して、それに適應するやうにといふ注意がある。これは井上播磨の説といふやうなものにも見えてゐて、後の淨瑠璃語りなども氣をつけてゐたことらしく、歌舞伎役者の逸事などにも似よつた話がある。聽衆や觀客の氣分と演奏者のそれとが合致するところに妙境があるといふのである。もつと廣くいふと、樂にも時の調子があるといふやうなこととも關係して來るし、造形藝術の上にも同じやうな趣が見えるので、そこに、今の西洋風のとは違つた、日本人の藝術觀の一特色があるやうである。が、それと共に、能についてかういふことが説かれ、特に貴人の氣分や意向を尊重すべきことがくりかへしていはれてゐるのは、能が成り上り藝術であるといふことからも來てゐるらしい。能役者の社會的地位の低いことが、おのづからかういふ考を起させたらうと思はれるからである。當時の思想に於いては、能は一種の玩弄物に過ぎなかつた。酒宴の時にそれを演奏させることの多かつたのも、そのためである。しかし一方では、能役者が將軍などの愛顧に狃れて過分のふるまひをするやうになつたので、その點で非難せられもしたが、これもまた同じ事情からである。
 要するに、新しくでき上つた能は、昔のやうな猥雜な猿樂ではなく、今人のいふ藝術としての内容と形態とを具へるものとはなつてゐたけれども、民間演藝から發達したものだけに、土の匂ひのまだ失せない點が多かつた。さうしてこの程度の能が昔の猿樂を喜んだ田舍武士から急に都人士らしくなつた成り上りものの嗜好に投じたのである。或(190)はさういふ成り上りものの娯樂として適當な状態に猿樂が進歩したのである。更に語を換へていふと、貴族的な古典思想の外被をきせた猿樂の能は、素養が無くして野習を脱しないながらに、何とはなしに京風の文化を尊尚してゐる武士の趣味の表徴として、恰好のものであつたのである。それが武士の權力と地位との初めて定まつた義滿の時代に大成したのも、偶然ではない。今日から見ると、民間演藝を民間演藝として發達させ、歌舞の如きも純粹の民謠と民間の舞踊とを本としてそれを精練し、それによつて民衆の思想と情懷とを表現させるやうにすることができなかつたかと、一應は考へられるが、武士は粗野なところがあるけれども、その社會的地位は一般民衆とは同じでないのと、京風を學ばうとしてゐるのとのために、それができなかつた。(さういふことは戰國時代を經過した後になつて始めて實現せられるやうになる。)武士の首長たる義滿が公家風を裝はうとしたのもそのためである。しかしその義滿自身にも實は、しかつめらしい雅樂の傳授を受けるよりは、世阿彌の演奏を見てゐた方が?かにおもしろかつたに違ひない。さうしてそこに武士の本色がある。
 義滿が北山邸の經營にもまた同じ傾向が見える。從來の寢殿造りと禅院風の建築とを混和したもののやうに見えるが、典雅でもなく瀟洒でもなくまた莊重でもなく、翰林葫蘆集に黄金臺と記され世間から金閣といほれたその三層閣に、彼の嗜好が現はれてゐる。建築そのものは優美とはいはれようが宏壯雄大の風がないのに、一部分にではあるがその裝飾に重苦しくもはでやかな黄金を用ゐたので、人に美觀を與へずして徒らに贅澤の思をさせたに過ぎないのである。その由來するところは貼金屏風などにあつたらうが、その效果は違ふ。その貼金屏風とてもや*はり成り上りもの趣味の一つとして解せられよう。隆樓傑閣が重さなり合つて園池の美がそれに加はつてゐた當時と、名ばかりの金閣(191)が孤影蕭然として立つてゐる後世とでは、見た感じの違ふことは勿論であるが、概してかう觀察せられる。後に建仁寺や南禅寺に移された建物などは、さういふ禅院にふさはしいものであつたとしても、それは義滿がその建築に現はれてゐた情趣を味ひ、それを愛したためではなく、牧溪の畫や無準の書をたゞ「天が下の奇物」として玩んだと同樣であらう。
 
 ところが、この北山邸の建築は、別の意味に於いてもこの時代の特色を示してゐる。それはその全體が、寢殿づくり及びそれに伴ふ在來の園池や禅院やまたは後に建て加へられた七重の大塔や、樣式も感じも違つた種々のものの雜然と立ち列んでゐることであつて、そこに一貫した趣味の無いこと、從つてまたそれが趣味から出たものでないことが、示されてゐる。要するに、あらゆる高價のものを集めできる限りの華麗を盡さうといふ、成り上りものの欲求の現はれたものに過ぎない。北山の建築ばかりでなく、因襲的花鳥風月趣味の歌を詠み連歌をすると共に、禅院の裡から出たシナ風の山水畫などを玩び、管絃の傳授を受けると共に猿樂を愛し、坐禅をすると共に密教的の修法祈?を盛に行ひ、相國寺といふ禅院を建てながら、その供養には位階の高い天台眞言の僧侶を羅致したり舞樂を奏したりして、平安朝風の華やかな法會を營み、またいはゆる官伴僧伴を左右に隨へ、武人でありながら公家めかし、同時にまた禅僧のまねをする、といふやうに、義滿のすべてが甚だ亂調子なものであつて、たゞそれを一貫してゐることは、權力と富とにまかせて何事をもしようといふ贅澤である。
 義滿のこの態度は、成り上りものたる武士が中心になつてゐるこの時代の一般的傾向を代表するものであつて、今(192)まで存在してをりまた新しく入つて來る文化の要素を、悉くよせ集めるのがその特質であるといつてよい。國民的藝術たる土佐繪の傍には宋元畫の摸作があり、歌連歌に於いては京都附近の風光から發生した昔ながらの温雅なる花鳥風月趣味が基礎になつてゐると共に、禅僧の作る漢詩には大陸の光景を詠じたシナ人の口まねが多い。能が貴族文學の因襲的趣味と佛教思想とを基調としてゐる謠曲と、古い猿樂田樂や曲舞白拍子などの民間演藝から脱化しまたは寺院の裡からも出た歌舞や假面とを、結合して作られたことは、やはりこの傾向の現はれたものであり、たゞ新しい異國趣味が加はつてゐないのみである。かの連歌から一轉した漢和とか和漢とかの聯句が行はれるに至つては、この傾向の極端にはせたものであつて、それは國文學の知識の無い禅僧が連歌に加はつたといふ特殊の事情から流行したことではあるが、かゝる事情そのことが既にこの時代の性質をよく示してゐる。宗教に於いても同樣な現象があつたので、將軍が禅宗に心を傾けたためにその勢力が強くなり、武士の出家する場合には禅僧になるものも生じたほどであるが、その將軍家に於いても、兄弟一族のうちには出家して舊宗教の貴族的寺院に地位をもち某の門跡と稱せられたものもある。禅院自身に於いても、佛像の彫刻には奈良あたりの佛師に依頼し、上にいつた如く、寺院を華麗にするには舊樣式の塔を建てねばならず、法會には舊宗教の儀禮を用ゐねばならぬ。のみならず法華八講を行つたり幕府のために種々の祈  祷をしたりしてゐる。當時の學問にもまた同じことがあるので、例へば忌部正通の神代卷口訣、一條兼良の書紀纂疏、または卜部兼倶の神道に關する著作、などによつてそれが知られる。それらは何れもシナ思想佛教思想または伊勢神道の所説を併せ取り、シナ思想に於いても舊來の儒家や道家のと新來の朱學のとを混合したものである。なほ謠曲に現はれてゐる神の性質やはたらきが佛教思想によつて構成せられてゐることは、いふまでもないが、(193)その佛教思想には本迹説も兩部説もまたそれらの混和せられたものもあり、シナの神仙思想さへ結合せられてゐることがある(富士山など)。のみならず、かういふ神はインドの神と同視せられてもゐる。これもまた同じ思想的傾向を示すものであらう。
 こゝで禅宗のことを一言しておく。臨濟の一派は足利氏の權力の固まるにつれてます/\盛になり、多くの寺院が幕府の力によつて建てられ、さうして將軍に近昵する禅僧は、その顧問とも秘書ともなり外交官とさへなつて、俗界にも手を出すやうになつた。けれども文化の上に於いては、舊宗教の寺院は依然としてその中心たる地位を保つてゐた。文學にたづさはる僧侶が舊宗教に屬するものであることはいふまでもなく、演藝なども南都北嶺の寺院と深い關係がある。一般社會の趣味や思想に對する禅宗の勢力はさして大きいものではないので、後にいふやうに、文藝の上に現はれてゐる宗教思想にも、禅宗的要素は少いといつてよい。禅宗の文化上のはたらきは、禅宗そのものによつてではなくして、禅僧のもつてゐる漢字及び漢文學に關する知識によつてであるが、それについては後にいはう。たゞ明から書籍の類が斷えず輸入せられてゐることは、禅僧の關與したこととして注意すべきである。なほ禅僧の餘技として玩ばれた宋元風の繪畫もあるが、世に廣く喜ばれたのは國民藝術として前々から發逢して來た大和繪である。いろいろの繪卷物の作られたことはいふまでもないが、遣明使の持つていつた貼金屏風や彩畫扇にも、當時の我が國が誇りとした藝術もしくは工藝の特色が見える。禅宗に伴つてゐる一種のシナ趣味は、この時代の社會の中心となつてゐた武人の華美を喜ぶ氣風とは、むしろ反對の傾向を有つてゐるのであるから、それが一般に領解せられないのは當然である。禅宗は勿論この時代の文化の一要素ではあるが、あまりそれを過重してはならぬ。
(194) さて當時に於いては、上にいつたやうにして文化上の諸要素が混在してゐるが、しかしそれらが統一せられてはゐない。能を一つの藝術として見る場合、それを構成する諸要素が調和しても融合してもゐず、たゞ亂雜に結びつけられてゐるのも、その例である。古歌や詩の辭句などを綴りあはせた詩曲の詞章が既にさうであるが、それについては後にいふこととして、その詞章の上に示されてゐる古典的情趣と佛教思想、特にいはゆる執念ものなどに於ける陰慘の氣、とは甚しく不調和であり、また昔の平安朝時代の人物と民間演藝に由來のあるその舞臺上の服裝及び舞踊との如きもそれであつて、概括していふと詞章に現はれてゐる情趣と演奏上の效果とが一致してゐないのである。和漢聯句の類に至つては、形の上でも和漢の二分子が離れ/”\になつてゐる。これは裏返した貴族文學も、程度の低い民間演藝も、また新に傳へられたシナ趣味も、何れにもその一つが本になつて他のものを吸收同化する力が無いのと、社會の中心である武士にそれを統一するだけの文化上の素養が足らないのとのためであり、根本的にはそれらが武士自身の生活から作り出されたものでないからである。武士自身に特有の文化があつてそれを發達させたのではなく、貴族文化にせよ、その他のものにせよ、本來彼等自身の生活と關係の無かつたものを、富と權力とによつて急に外部から取入れようとしたからである。だから目に見るものを悉く手には入れるが、たゞそれを雜然と竝べて置くのみである。成り上りものの態度だといつたのはこれがためであるが、しかしこれは武士の地位が高まりその力が加はるに伴つて生じた自然の現象であるのみならず、文化が貴族に占有せられてゐた昔のやうな状態を一變させて、國民文化の形成に進んでゆく大切な段階でもある。たゞこれらの雜然たる諸要素のうちでおのづから武士の實生活に適應するものがあると、それが武士文化の特色として今人の目には浮き上がつて見えるので、よしその實質は低級なものであつ(195)ても、時代の生命は却つてそこに活躍してゐる。能を樂の面から見れば、それは貴族の雅樂に比べて單純でもあり低級でもあるが、雅樂が古代の遺物であるのとは違つて、これは現在の生きたものである。この時代の小説と源語とを對照してみたところで、初めから比較にもならないほどにその絶對價値は懸隔してゐる。しかし當時の武士の生活と思想とが現はれてゐるところに、この低級な文藝もそれだけの價値を有つてゐる。武士の粗大な感受性に適應してゐる幼稚なものが、即ち當時に生命のあつた所以である。
 けれども、ともかくも武人の生活が精神的に幾らかづゝ高まつて來たことは事實であつて、それは彼等の禮儀作法などに於いても現はれてゐる。特に公方樣といはれてゐた將軍家などになると、殿中の禮儀にも公武を折衷したやうな一種武家風のものが發生した。今川大双紙や宗五大双紙などの作られたのもこの故であるが「男は薫物を不用、若き人は沈をたくも強く匂ふはよからず、」とせられ、「人の衣裳は年のほどよりもちとくすみて出で立つがよし、若々しきは田舍人のやうに見ゆ、」(宗五大双紙)とせられてゐるなどは、身だしなみの用意が公家とは異ると共に、また偏に華美を愛する武人の風尚のやゝ精錬せられんとする傾向のあることを示すものであらう。これは必しもすべての武士の氣風になつたには限らぬが、將軍家といふ尊貴の地位を中心とする社會には、かういふ趣味も養はれ初めた。後世から武家故實といはれるものはかくして生じたのである。
 
 武士が當時世に存在してゐた文化の諸要素を悉く取入れ、さうして成り上りものながらに幾分かづゝ教養が深められて來ると共に、舊文化の保持者たる公家貴族に於いては、却つて新に形づくられようとする武士の文化に興味をも(196)つやうになつた。これは勿論、幕府の權力が朝廷を壓するやうになつた政治上の事情に伴ふ自然の現象であるが、しかし公家とても徒らに舊文化の遺物をのみ擁してゐるに堪へなかつた故でもある。康暦元年に義滿が參内した時、「泉殿爲御會所、自今朝餝之、如僧堂、以綾羅錦  繍張天井、裁金銀宝、餝殿内、」(後愚昧記)とあるのは、特に義滿のためにその嗜好に應ずるやうな華麗な裝飾をしたのであらうが、或は院中に猿樂を召され(應永三十一年)、或は主上が平家琵琶を聽かうとせられ(應永三十二年)、後には禁中で松囃を演ぜられた(永享十二年)ことなどには、朝廷に於いてもやはりこれらの新しい演藝を餘所に見ることができなくなつた、といふ理由があつたかも知れぬ。「散樂者乞食所行也」(後愚昧記)といひ、「當世猿樂とて謠ふことは一向昔は無きことなり、如此の音曲世に出來して天下の亂起ること有之なり、」(體源抄)と非難するのは、新しいものの現はれた場合に何時でも生ずる保守的思想でもある。猿樂が樂として低級のものであることは事實であるが、かういふ非難はそのことをいふのではない。かの禁中の裝飾に關して「禁中如此餝之事、先規希歟、」といひ、琵琶法師を召さうとせられた時「無先例不可然」といふ意見もあつたらしいが、先規先例だけで時勢の趨向と趣味の變化とを拘束することはむつかしい。(昔の後白河法皇は雜藝を好まれたし、花園院が平家琵琶を聽かれたことは宸記に見えてゐるから、民間演藝を宮中で賞翫せられたことには、必Lも先例が無いのではない。また禁秘抄に猿樂は庭上にあるべきでないと記されてゐるのは、藝能の是非よりは身分が低く教養の無いものを宮廷に近づけない意味である。)要するに公家貴族の間にかうして新演藝に關心をもつものの生じたのは、貴族文化の遺物が當時の生活から離れたものになつてゐたことが一つの事情となつてゐる。さうしてまたこれは、一方に於いて貴族文藝の精粹ともいふべき歌の道、「伊勢源氏」のやうな古文學の研究の中心が、貴族か(197)ら民間に移りつゝあることと共に、文化の上で公家貴族と武士階級との畛域が、次第に除かれてゆくことをも示すものである。武士階級に盛に行はれるやうになつた連歌及びその變形である和漢や漢和の聯句が宮廷でも行はれるやうになつたのは、武家の風習が逆に公家の間にひろがつていつたものと解せられる。
 更に一歩を進めていふと、武家に賞翫せられた文物は、昔の文化が宮廷を中心とした公家貴族のものであつたとは違つて、初から幕府とその周圍にゐる新しい武家貴族との獨占ではなかつた。それは將軍の權力に一種の民主的傾向があつて、足利氏の勢威は畢竟多數の武士の實力を基礎にしてゐたものであること、新しい文化上の現象には民間に歴史的縁故のあるものがあること、また貴族の勢力の衰頽、中等社會の發達と共に、前の時代から貴族文化の遺物に漸次民間に弘まつて來たもののあること、などのためであらう。應永二十年の北野勸進猿樂の時の官憲の布令に「望の人は貴賤を論ぜず老若をいはず見物あるべし」と書かれたといふが、この貴賤を同視するところに猿樂などの演藝の社會的地位が見える。狂言に至つては題材にも民間のものを採つてゐるし、小説もまたさうであるが、これもまた文藝が多數の公衆を相手にするからである。さうしてこの猿樂のやうな公共的娯樂の生じたことが、武士の生活は遊樂の點に於いても、平安朝の貴族のやうに、室内的でないことを示すものである。やゝ趣は違ふが、將軍が富士遊覽などの如くしば/\旅行をしたのも、武人としては何でもないことではあるが、またそれには政治的意味もあつたであらうが、活動の舞臺の廣い點に於いて、昔の貴族とは違つてゐることを示すものである。昔の院政時代や平氏の時代にも熊野や嚴島へ御幸があつたが、それは稀な例である。
 貴族的でないと共に、この文化はまた都會的でもなかつた。京に於いて勢力を揮つてゐる武士は、純粹の都人士で(198)はなくして悉く地方に領地を有つてをり、またそれであるからこそ京で勢を揮ふことができたのである。さうして彼等及びその多數の家臣は、斷えず京と地方の領地との間を往復してゐた。從つて彼等は地方の領地から得る富によつて購ひ得た京の文化を、常にその地方の領地に齎しゆき、また彼等の家臣も京に出る毎に京風に親しみが重さなつたのであらう。今川了俊や東氏の一家が有名な歌人で、大内義弘や政弘などが連歌を好んだことは、いふまでもないが、招月庵正徹(徹書記)の草根集を見ると、細川、畠山、山名、一色、今川、武田、及びその他の諸大名は概ね歌を學んで、會などを斷えず家々で開いてゐるから、その感化は必ず領地にも及んだに違ひなく、また彼等の學んだものは歌連歌に限られてゐたのでもあるまい。小説の佐伯や、謠曲の砧、藍染川、などに、田舍人が京の女に馴れ初めて故郷につれてゆくといふ話があるが、事實さういふことさへ多かつたであらう。また猿樂田樂などの役者は地方を巡歴して興行したが、これも京と地方との交通が容易であり、さうして地方に彼等を迎へるだけの資力があり、地方人がその興行を喜んだからである。舞曲烏帽子折の插話である用明天皇の戀物語や小説の文正草子などに、京の縉紳が田舍の女を慕つてはる/”\筑紫や常陸へ下るやうに作られてゐるのも、地方が京人から重んぜられるやうになつた時勢の産物である。この時代の文學には地方の武士を題材としたものが少なくないが、それも一つは同じ事情のためである。
 なほ文化の上で京と地方とを結びつけるものは、前代と同じく僧徒と寺院とであつたが、僧徒のうちには宗教上の修行よりもむしろ歌連歌の指導のために地方を巡歴するものがあつたので、それもまた文化の普及に少からぬはたらきをしたらしい。「六十餘州の抖?殘るところなく三十一字の風情尋ねぬかたもなし」と二條良基に評せられた宗久(199)などは、僧といふよりはむしろ遁世ものであつたらしいが、しかし或る意味に於いて、前には西行のあとを追ふと共に、後には宗祇のために道を開いたのであらう。その道すがらの吟詠は、かならず一夜の宿をかした人々の耳にとまり心をも動かしたに違ひない。この宗久は筑紫では今川了俊とも知合ひになつたが(道ゆきぶり)、「敷島の道のことなど尋ね申しはべりし」都の人に武藏野で行き逢つたといふ話もある(都のつと)。多くの能にワキとなつて現はれる「諸國一見の僧」は、古典の知識をもつてゐて名所舊蹟を訪ねあるくやうにしてあるが、それは曲の結構に利用せられたまでではあるものの、事實さういふ僧の幾らかはあつたことがもしそれによつて推測せられるならば、彼等もまたこれと同じはたらきをしたであらう。禅僧ではあるが正徹も應永のころ尾張の黒田あたりに流寓してゐた時、そこで源語を講じ歌連歌の道を説いたといふ(なぐさめ草)。この正徹もその黒田で都での知人に邂逅したといふから、僧でなくとも歌よむ京人の地方に下つてゐたものが少なくはなかつたであらう。兵亂のために京の貴族で地方に流寓したものも多かつたらしく、現に歌人耕雲の如きは、南朝に屬してゐたものではあるが、晩年遠江に寓居して生を終つたといふ。かういふ輩も地方に古典文學の知識を弘めたであらう。これらは何れも、京と地方との文化上の交渉の有樣と地方人の嗜好がかういふ方向に進んでゐたこととを、示すものである。この趨勢は年と共に強められてゆくが、それについては再び後に言及するであらう。またこの意味に於いての京人の地方下りに關しては、お伽草子にある難波に生れた一寸法師がそこに流された某の中將の子であり、信濃の百姓物臭太郎が同じ境遇にあつた皇孫の子であるといふ話や、鎌足が常陸に生まれたことになつてゐる舞曲の入鹿の物語の、作られたことをも參考すべきであつて、そこに當時の事實の反映があらう。(鎌足の話は中臣氏が鹿島に縁のあつた歴史的事實が一つの資料になつてゐるで(200)もあらうが。)また寺院のことを考へると、南都北嶺の寺院と地方にあるその莊園との關係にも、前々の時代と同じやうに文化的のはたらきが伴つてゐることは、おのづから推測せられる。或はまた京鎌倉の五山と密接の連絡のある各地方の禅僧が、漢文學の知識を弘めたことも閑過すべからざる事實であつて、これは當時の一般の思想や趣味の上には大きな、また直接の、影響を及ぼさないものではあつたにせよ、ともかくも、地方人をして文字に親しませた點に於いて少からざる力があつた。特に關東には北條時代から引き續いてゐる學問的空氣があり、上杉憲實の建てた足利學校が禅僧の管理の下に各地方からの學徒を集めてゐたことは、いふまでもない。下級武士や庶民の間にも文字の知識は次第に及んでいつたので、實語教や童子教の如きものの作られたのも、このころであつたらう。
 これらの種々の事情によつて、この時代には地方人の教養が漸次進んで來たのであるが、なほそれを根本的に考へると、昔の貴族政治の時代に全國は京の貴族によつて統治せられ、地方人はたゞその貴族の生活を維持するための道具としてのみ見られてゐたのとは違ひ、この時代には地方人の力が幕府の權威となつて現はれ、地方人自身が政治的に地位と能力とを有つてゐることを自覺したと共に、文化の上に於いてもまたその能力を發揮しようとするやうになつたことが、それによつて示されてゐる。
 
 こゝでしばらく政治上社會上の情勢を考へてみる。南朝の勢力の衰微に乘じて行はれた幕府の工作が功を奏して、いはゆる兩朝の合一が實現せられ、北朝の天皇は、南朝の天皇から神器を授けられることによつて、始めて正統の地位を得られた。南*朝の皇室に對する一種の尚慕と、宮方の將士に對する歴史的感情とは、地方によつては武士の間に(201)
後までも存在し、ともすればそれが何等かの行動となつて現はれると共に、大覺寺統の皇族の子孫に關しては、これから後にも種々の策動が行はれ、その餘燼は延いて應仁の亂の時までも殘つてゐた。しかしこれらは天下の大勢には殆ど與るところが無かつた。この合一は、思想的には幕府政治の存立を否認した建武朝廷の意圖の最後の失敗を示すものであり、それによつて事實上存立してゐた足利氏の幕府政治は肯定せられたことになる。けれども、兩朝對立の形に於いて宮方と武家方との間に長年月にわたつて續けられて來た全國の武士の紛爭は、この合一によつて終息したのではなく、幕府の政權は一應固められてゐたとはいへ、實はそれが甚だ脆弱なものであつたので、外敵としての宮方の勢力が無くなつても、武家自身の内部に於いて新しい紛爭が起つて來る。鎌倉幕府の下に安定してゐた政治的秩序が元弘建武の企てに端を開いた南北朝時代の戰亂によつて崩壞し、その間におのづから養はれて來た一般の風習として、武士はともすれば輕々しく兵を動かすので、新しい秩序の定まる遑が無い。特に鎌倉時代とは比較にならぬ大きな所領をもつてゐる大名は、自己の力に對する自信をもつてゐるので、その點からも兵亂を起し易い。さうして後から考へると、次第にその紛爭が増大して終に應仁の亂を發生させ、それによつて戰國の時代を誘致するやうになつてゆくのである。この意味に於いては、戰*國時代を誘致したものとして元弘建武の企てが大きなはたらきをした、といふべきである。
 幕府政治に於ける將軍の權威は諸大名が歸服してゐるために成立つてゐ、諸大名の力によつて維持せられてゐると同時に、その諸大名の地位と領土とは將軍の意のまゝに左右せられるものである。こゝに將軍の權威も諸大名の地位も極めて不安定である理由があり、同時に大名の地方的根據も確實でない原因がある。鎌倉幕府の時代のやうに武士(202)の領土が狹小であつた時には、少數の武士の行動は幕府の權力に影響するほどでなかつたけれども、この時代のやうにそれが廣大になつて來ると、一二の大名の反抗的態度は直ちに幕府を動搖させる。特に幕府の財政上の基礎が甚だ薄弱で、明と交通して錢を得なければならなかつたといふ有樣であるに反して、大名のうちには或は領地の廣さからも、或は外國貿易によつて得る利益からも、さして幕府に劣らないやうな富を有つてゐるものもあつたらしいから、この點だけでも幕府の大名に對する權威は決して強大とはいはれなかつた。事ある場合には、武力そのものに於いても、またそれに要する費用に於いても、多く諸大名の力によらなければならなかつたのである。
 諸大名に對する幕府の權威がかう薄弱で不安定である上に、歴代の將軍は必しもその人格に於いて多くの大名を信服させることができず、また全國の大名に君臨するだけの徳望も力量も無かつた。兩朝の合一は義滿の時に成立したが、それとても義滿よりはむしろ幕府の力によつて行はれたことではなかつたらうか。さうして幕府の政權の一應固められた時に將軍となつた義滿は、その地位と生活とを公家風に粉飾することをつとめて、政治に心を用ゐることが少く、大名の取扱ひにも偏私が多かつたので、一族の間にもそれに對する不滿があつた。鎌倉の氏滿が反抗の念を抱いたのは、長い間政權の中心であつた鎌倉の歴史的地位と關東武士を背後にもつてゐる力強さとのためであつたが、將軍の政治に對する不滿からでもあつたらしい。また諸大名はその地位と領土とを維持することに於いて、必しも常に將軍に信頼し難く思ひ、上に述べた如く、ともすれば武力を用ゐようとする。明徳に山名の亂があり應永に大内の騷ぎがあつたのも、そのためであらう。彼等は必しも足利氏に取つて代らうといふ野心を有つてゐたのではないが、將軍のために自己の地位が動かされ領土が危くなりさうになつたので、かういふ態度に出たのである。かゝる状態は(203)後になつても改められず、嘉吉には義教が赤松に弑せられるに至つた。足利氏は尊氏の時代から一族家臣の間に紛亂が絶えなかつたので、それは武士の事功欲勢利欲と何につけても武力を用ゐようとする武士的氣風とに由來があり、戰亂の空氣がそれを助けたのであるが、義滿以後になつてもそれは變らず、管領と稱せられた幕府の重臣の間にもまた權力爭ひがしば/\起つた。義教は恣に公家貴族の地位を剥奪しその所領を没收することが多かつたにかゝはらず、武力を有たぬ彼等はそれに對抗することができず、ひたすらに將軍に阿諛することによつてその地位を保たうとしたが、武士はさうではなかつたのである。鎌倉の管領やその配下の諸大名の内部にもまた紛亂が常に生じた。管領の家臣の間にも黨爭が起つた。一般に主從の間がらが固定するに至らず、事あるに當つては勢を見て去就を變へる家臣が少なくなかつた。領主たる大名と地方人の關係も動搖しがちであつた。急に大きい領地を得たので、その土地に對する歴史的感情がまだ生ぜず、昔からそこにゐた武士との連繋も弱い。多くの武士どもは彼等の領地と利益とを保つことに於いて、これらの大名の權威に信頼し難い事情もあつたらう。こゝでもまた南北朝紛爭の長い間に養はれた習慣が消失せず、武士どもは何事かあればすぐに武力を揮ふ。種々の事情によつて所領を失ひ郷土から離れた牢人(浪人)は機を見て事を起さうとし、利害を共にするものがあれば相集り相結んで「一揆」となる。(一揆とは一つのなかま或は徒黨といふほどの意義をもつ稱呼であつたらしい。)時には足輕野伏などがそれに參加する。全國を通じて武士の間の權力關係が固まつてゐなかつたのである。
 かゝる政治上の紛亂は一般の社會の不安につながる。時々に起る戰亂が社會の秩序と民衆の生活とを破壞することは、いふまでもない。將軍及び諸大名の豪奢な生活や禅院の建立のために租税の徴求が苛重であり、將軍に貨財を徴(204)發せられる大名の負擔も領地の民衆に轉嫁せられて、武士も民衆も困窮する。その間に於いて利を貪るものもある。「徳政」の名によつていはゆる土一揆が幾度も蜂起するのは、その主因のこゝにあることが考へられる。この土一揆には神人僧徒のそれに合流することもあり、時には浪人や足輕野伏がそれを指導したり煽動したりする。それを鎭壓すべき武士さへもそれに加擔することがある。一時的には鎭壓せられても「徳政」に或る程度の效果はあるので、その行動は反覆せられる。武士の權威は一般に損はれ、武士を國中から放逐せよと民衆の豪語する地方もあつたと傳へられてゐる。ところが民衆の多くは無智であり利慾には迷ふ。それに乘じて人買ひ、かどわかし、すつぱ、物とり、惡僧、が横行する。土一揆の亂暴狼藉はかゝる徒輩がそれに混入するためでもあるが、一揆を起した民衆自身が勢に驅られ多數をたのんで放火劫掠を恣にするのでもある。かういふことが上記の政治上の紛亂と絡みあつて、一般の氣風が荒み人心が混亂し、さうしてそれが民衆の困窮をます/\甚しくする。こゝにもまた南北朝の紛爭時代から繼承せられたところがある。
 しかし幕府も將軍もかゝる情勢について何等の思慮もせず何等の方策も講じない。義滿の時におのづから定められた公方家の規模は、もはや動かすべからざるものとなつてゐたが、義政の生活は義滿を學んでそれよりも更に驕奢の度を加へる。義持の時に一度び罷められ、義教の時に復活した遣明船は、來航の明船と共に、珍奇な貨物を齎し來つてその奢侈の料とする。天災と兵亂とのために民はその食を得ず、餓?巷に滿ちても、東山邸の築造に巨費を投じて、それを顧みない。さうして幕府の重臣は權勢を得んがために互に相爭ふ。政治上社會上の混亂はかくしてます/\甚しくなつてゆく。幕府の權威は失墜して、諸大名の大半は將軍の命を奉ぜず、貢賦を上らぬ國々が多くなる。大名の(205)うちには恣に關を設けて交通を妨害するものがある。僧兵は依然として暴力を用ゐる。禅僧にも兵器を以て闘爭するものが生ずる。神社にも武力的爭亂が起り、後には伊勢の兩宮の神人の間にさへ戰爭が行はれるやうになる。かくして全國が次第に兵亂の熾火裡に投ぜられてゆくのである。
 倭寇が終熄しないのも、やはりこの社會の不安定から生ずる混亂の空氣と關係があらう。これは本來あふれものどもの所爲であるが、國内に於ける動亂の氣はます/\彼等を刺戟したであらう。彼等は明や高麗の海賊や亂民に導かれて沿海の地方をあらしまはつたが、それには何等の統一も企畫も無かつた。永久的な目的をもつた行動をしようとしたのでないことはもとよりである。
 さて國内の上記の如き社會的混亂と無秩序との釀し出した一現象は、京にも地方にも微賤のものが次第に頭を上げて來るやうになつたことである。文正記といふものに「本侍者、得替所帶、追從土民、爲資身命、賣於系圖、依無爲方、薙髪易服、僞作沙門、心非沙門、敬富祐者、跪恩顧之輩、移僧房、或住本宅、値遇下賤、傾笠諂咲、是謂?下者、凡下之者、抑留税賦、蔑如公道、棄於農業、習於武藝、買系圖、自稱侍、而蹴鞠閑射、逍遥之餘、翫於鵜鷹?和歌兵術、移於上官、領國名司、成盗棟梁、作國家之怨敵、基徳政張本、做惡行根源、因此下剋上、經蒙天罰、自業自滅、是謂僭上者、」とあるのは、一般の社會が應仁の大亂の前に既にかゝる状態にあつたことを示すものである。こゝの僭上者は惡行をふるまひ身を滅ぼすものとなつてゐるが、微賤から身を立てることは必しもさういふ状態になるには限らなかつたであらう。應仁亂後に作られたものらしい鴉鷺合戰物語にも、百姓町人が作り侍して何某と名のるといふ話があるが、かうして侍になつたものは多かつたに違ひない。常陸の鹽燒が富を得て土地のものどもも多くそれに使(206)はれるやうになり、長女は女御になつて皇子を生み、次女は關白の子の妻になつて、みづからも大納言に任ぜられた、といふ文正草子や、信濃の奥から出て來た役夫が中將となつて甲斐信濃を與へられた、といふ物臭太郎の話の作られたのも、もとの身分は何であつても現に勢のあるものには追從して、それによつて利益を得ようとする人心の趨向と、微賤のものも富貴が得られた時勢とを、極度に誇張して語つたものである。これらの小説に寫されてゐるやうなことは事實あつたはずは無いが、京に出て幾らかの地位を得、地方に於いて或る程度の富なり權力なりを得たものは、少なくなかつたであらう。將軍の事を管領が行ひ管領の事をその家臣が行ふやうな状態が、それより下級のものにも及んだといふこともあらう。武士の所領が複雜になりまたそれに變動があるために、村落の形態にもその機構にも變化が生じ、ところによつては、武士に對抗してその生業を衛るために村落の團結力が養はれ、一種の自治組織が形づくられることもあつたのではあるまいか。根本的にいふと、村落に於ける或る程度の自治の風習は遠い昔から存在したであらうと推測せられるが、それがこの時代に於いて武士に對する一つの力となつてはたらくやうになつたのではなからうか。國一揆といふものの現はれたことには、その素地としてかういふことが行はれてゐたからのやうに想像せられるが、それはまた身分が低くとも資力のあるものが地方的に勢威をもつやうになることでもある。事情はさまざまであるが、要するに下級民の間から身を起して世に現はれるものが生じたのである。
 しかしかういふ状態を下剋上といふのは、社會の秩序が固定してゐるべきものと考へるところから來たことであつて、當時の現實の情勢からいへば、これが當然の現象なのである。社會的秩序の鞏固でない時には、わが力を揮つて何ごとかをなし、それによつて社會の上位に立たうとする欲求が生じ、またその欲求が達せられるが、それがまた一(207)層秩序の崩壞を來すことにもなる。南北朝の混亂時代に於いて身分の低い武士が地位を得て武家貴族の一群の生じたのが、既にそれであるが、これは武士が世に興りまたそれが政權を握るやうになつた遠い昔にその由來があり、畢竟その勢の次第に強められたものである。たゞ下位にあるものが下位にありながら強い力を以て上位にあるものに反抗し、それによつて世を動かさうとするのではなく、みづから上位に上つて權勢を揮はうとするところに意味のあることが、注意せられねばならぬ。上下の地位が無くなるのではなくして、それ/\の地位にある人が變るのであるが、その變るところに不安定の姿がある。なほこれはどこまでも個人としての行動であつて、階級的のはたらきではなく、下層階級の上層階級に對する闘爭ではない。この點に於いてはかの土一揆の騷亂に、政治的にも經濟的にも、階級闘爭の如き意味の無いことが參考せられよう。彼等にはその行動を起すについてたゞ時の政治的權力を蔑視する傾向があつたのみである。或る權力を地方的に樹立したやうに見えるいはゆる國一揆があつたとしても、それも突發的のこと一時的のことであり、武士階級に代つて地方的政權を握らうとする民衆の運動であつたとは考へがたい。
 
 世がかゝる不安定の状態にあるから、室町公方の下にやゝ形を成しはじめた武士の文化はいつまでも精練せられない。武士の社會が全體として修養を積み、彼等自身の實生活の上に新しい文化を作り上げるには、世が餘りに落ちつきがない。さうして下級のもの田舍のものが、後から/\表面に現はれ京にも出て來るのであるから、世の空氣はそれらのものに斷えず掻き亂され、從つて時代を追うて一歩々々に文化を向上させることができず、何時までも粗野の風に滿たされてゐるのである。修養の無い田舍もの下級のものの習として、その望むところはたゞ物質的の富と官能(208)的の快樂とである。この時代の小説に見える理想的境遇が、金銀を山の如く積み宏壯な邸宅に住んで豪奢な生活をすること、即ち「榮華にほこる」ことになつてゐるのは、この故である。だから彼等が幾らかの地位を得るやうになれば、先づその生活を華やかにしようとする。狂言を見ると、寶くらべといふことが流行するといふ話(長光、寶の笠、など)、無識の大名が珍貨を得ようとしてわるものにだまされる話(目近大名など)、または外觀を飾つて過をいふ話(文相撲など)、が多いが、これはみなかういふ時勢の反映である。將軍とか管領とかでさへ俗惡な奢侈に耽つてゐたことは、「華麗奪目、天下改觀、」(蔭涼軒日録)といはれた義政の寛正六年の花見でも知られる。たゞこの花見が昔の花の宴などとは違つて戸外で行はれたことは、前にも述べた如く豪放な武人氣質を示すものであつて、この時代の特色がそこに見える。應仁記などには戰亂の間にも人々が驕奢逸樂に耽つてゐたことが記されてゐる。「公武上下、晝夜大酒、明日出仕之一夜も酒手下行、奉公方者共は當年無爲儀無之者各可逐電支度、……御臺一天御計之間、料足共不知其數、御所持、陣中大名小名以利足借用之、」(大乘院舊記)とあるのは、武士の驕奢が極まつて却つて貧窮し、將軍の夫人がそれに乘じて貨殖をするといふので、俗惡な逸樂に身をもち崩す成り上りもの氣風のいかに極端に達してゐたかを示すものである。いはゆる東山時代なるものの風尚は即ちこれである。
 世間では、義政が禅僧を用ゐ宋元畫を喜び、または茶の湯を好んだのを見て、この時代の將軍及びその周圍の武士を支配してゐる趣味の特色が、靜寂を好み閑逸を愛する點にあつたやうに考へられてもゐるらしいが、それは大なる誤であらう。禅僧とても權力に阿附して勢利を求めるものが多かつたことは、いふまでもない。宋元畫がたゞ高價な珍寶とせられてゐたことは前に述べたと同樣であり、茶の湯もまた一種の贅澤に過ぎないことは次にいはう。彼等は(209)牧溪や文與可を珍重すると同樣に艶麗なる院體の畫をも斥けず、また我が倭繪をも喜んだ。狩野元信が北畫風の山水や禅僧の故事などをも畫き、それとは趣味の上、または畫家としての人格の上、の統一なしに、土佐繪をまねて濃厚な色彩をつけた繪卷物をも作つたのは、畢竟かういふ需要に應じたからである。君臺觀左右帳記などに見える室内裝飾が、あらん限りの珍器を列べ立ててあるやうに、如何にもごた/\してゐて、決して瀟洒でも淡泊でもないことは何人でも氣がつくところであらう。のみならず、かういふものの喜ばれたのも、禅僧及びその影響をうけてゐる少數のもの、世間全體から見れば狹い一部分、に過ぎなかつたので、一般には、古典的なものとしては美しい土佐繪が行はれ、新時代の娯樂としては猿樂が賞翫せられ、文藝の中心と正系とはこの方面であつた。義政自身が、臨濟録の談義と共に法華經を聽き、また徹書記に四年がゝりで源語の談義をさせ、平素歌を詠むことを好んだのみならず、猿樂や延年舞を喜んだのも、同じことを示すものである。その日常生活の豪奢を極めたことはいふまでもない。要するに當時の武家貴族の求めるところは物質的官能的の華やかな生活にあつた。だから眞の藝術は、彼等の下にさしたる發達を見るに至らなかつたのである。たゞ彼等の奢侈の材料を供給する工藝は發達し、さうしてそのうちには、かの貼金屏風の如く傳統的技術に本づきながら、華麗を喜ぶ武士的風尚に適應するものも作られ、それと共に明から舶載した工藝品が同じ武士の欲望を充たしもしそゝりもした。
 こゝで茶の湯のことを一言しておかう。平安朝の昔は別として、いはゆる鎌倉時代以後の喫茶が禅僧によつて新にシナから輸入せられた風習であることは、いふまでもない。さうしてシナ崇拜の禅僧がシナ風をまるうつしにした禅院のうちで茶を飲むに當つては、その飲み方から室のしつらひまでが凡てシナのを摸倣し、茶器は固より一切の裝飾(210)品も舶來品を用ゐ、食物もシナ料理であつたことは、自然に想像せられる。室町時代の作であらうと思はれる禅林小歌に「曲録孤床、繩床靠備、倚子脚蹈副、……敷花氈、肉氈、木綿氈、虎豹皮、或有偃牀臂爲枕、或有登倚子學坐禅人、」とあるのは、茶を飲む場合のことではないかも知れぬが、禅僧の趣味はこれでも知られるので、要するに彼等はシナ風の室でシナ風の娯樂をすることを好んだのである。さすれば茶についてもまた同樣であつたらう。從つて喫茶が世間に行はれるやうになつてもやはりそれをまねたので、喫茶往來には茶會の場所を記して「軒牽幕窓垂帷」といつてある。さて廣く世に行はれたこの喫茶の興味は、主として茶を飲みわけてそれを褒貶批判するところにあるので、それによつて勝負を定め賭物さへかけたらしい。「或四種十服之勝負、或都鄙善惡之批判、」(喫茶往來)といひ、十種茶、六色茶、四種十服、二極四服、等の名目があり、また喫茶の會を闘茶會といつたのでも、それが知られる。これには香をきいて勝負を定め歌合や連歌に褒貶の沙汰があるのと、同じ趣味の現はれでもあり、特に茶と香とは同じやうに取扱はれ「茶香之翫」といふ語もできてゐる。しかし上に述べた禅林小歌に闘茶の場合の批判の有樣が書いてあるのを見ると、禅僧の間に行はれた闘茶の淵源はシナにあるらしい。たゞそれが廣くまた盛に流行したのは、勝負ごとに對する一般の嗜好が茶に適用せられたのであらう。南北朝時代の作らしい異制庭訓往來に喫茶について古風と當世樣との區別が書いてあるが、當世といふのは茶そのものを味ふよりは勝負などに力を入れるやうになつたことをいふのではあるまいか。連歌會の有樣などからもさう察せられる。だからこの時代の喫茶が後人のいふ禅味とか「わび」とか「さび」とかいふやうな風趣のあるものでないことは明かであつて、茶會の後には酒食が供せられ、醉歌狂舞に終るのが常であつたらしい(喫茶往來參照)。太平記(卷三九)の佐々木道譽の花會の有樣を記したところにも、(211)花の「陰に幔を引き、曲?を立て並べて百味の珍膳を調へ、百服の本非を飲みて、賭けもの山の如く積み上げたり、」とある。物質的快樂に耽つてゐた足利武士の間に茶の行はれたのは、それがかういふものであつたからである。
 ところが東山時代になると、民間に別に一種の茶の湯が起つた。「今下々に茶の湯といふことを興じ侍りぬ、その道を得し人は珠光と申す僧はべる、と(東山殿に)申し上げしかば、さらばその者めせとて、これより出頭して數奇屋の法制など定まりしことなり、」と老談一言記といふものに記してあるが、この珠光は南都稱名寺の僧であつたといふ。二水記(大永六年七月の條)に「於池中島有御茶種々儀、尤有興、當時數奇宗珠祗候、下京地下入道也、數奇之上手也、」とあるが、宗珠は珠光の後を繼いだものである。宗長手記(大永六年八月の條)に「下京茶の湯とてこのころ數奇などいひて四疊半敷六疊舗各興行」とあるのも、この「下々」の茶の湯であらう。もと禅僧の間から出た喫茶ながらシナ風の飲みかたを學ぶこともできず、また上流の武士のやうな華やかな茶會を開くこともできない下級の社會に於いて、狹い六疊や四疊半の室に知人を集めて茶を立てたのが、いはゆる下々の茶の湯で、連歌などが下々に行はれたと同樣に、かういふ娯樂も民間に移つていつたのであらう。數奇とは歌や連歌について早くからいはれてゐた語であること、また茶についていはれるやうになる「冷え枯るゝ」といふやうな語も連歌師から出てゐることが、參考せられる。さうして連歌にそれ/\の式目があると同樣に、この民間の茶の湯にも或る式法が定められたのであらう。茶の湯は獨り飲んで樂しむものではなく、幾人かが會合して行ふものであるから、そこで式法が立てられるのである。だから、これは禅宗と直接の關係もなく、また禅味といふやうなものの現はれでもなく、狹隘な室で質素な調度を用ゐ、華かさと贅澤とを缺いてゐるのは、本來富貴でない社會から起つたためである。珠光が(多分すでに數奇(212)者となつた後に)一休について道を聽いたといふことは、彼の茶道が禅宗から出たことを示すものではあるまい。爐をきるといふことも民間の風習で、禅僧によつて傳へられたシナの風習とは考へ難い。もつとも茶を味ふことはシナ人の間に發達してゐたので、茶經茶緑茶疏の類を始めとして茶に關するシナ人の著書を見ると、如何にその用意の細かくゆき屈いてゐたかが判る。いはゆる茶の湯にも禅僧を經て間接にその影響をうけてゐるところのあることは、勿論である。が、それは茶を味ふ點についてであつて、茶の湯全體の趣味は異國的のものではない。この民間化せられた茶の湯の興味はむしろ時雨を喜び蟲のねを愛するやうな、連歌によつて養はれた古典的情調に近いものであつて、そこに自然の風物と調和する點がある。さうしてそれに伴ふ式法も、また連歌に式目のあるのと同じ意味に於いて特殊の興趣を添へたのであらう。これが茶の飲みかたの日本化であつて、それが民間に起つたものであり、豪奢を喜びまた何ごとについてもシナの風習を學ばうとした禅僧を尊重してゐた武家貴族の間に生じたものでないところに、意味がある。なほ禅僧は服裝をかへねば土地へも入られなかつた(梅花無盡藏)といふ南都の僧が、その道に通じてゐたといふのでも、いはゆる茶の湯と禅宗との間に交渉の無かつたことが知られる。かゝる茶の湯が義政などに喜ばれたのは、一般に民間のものが貴族化してゆくといふこの時代の趨勢の故でもあり、また彼の好奇心のためでもあつたらうが、たゞさうなると調度も器具も贅澤なものを用ゐるやうになり、外形ばかりは質素な民間の風習を摸しながら、固有の平民的趣味は棄てられたに違ひない。さうしてその民間的風習を故らに摸するところに新しい式法が立てられてゆくのである。茶の湯に高價な器具などを誇るやうになるのも、それがかういふ風に貴族化してからのことで、その遠き由來は武家貴族が禅僧に導かれてシナ傳來の調度を尊重したところにあるらしいが、多數のものにとつては、(213)それが舶來品の故に高價なものとして珍重せられたのみである。
 茶の湯の文化上の地位はほゞかういふものであるが、同じ時代から盛に行はれた種々の遊翫にも、これに似たものがある。例へば香であるが、これは平安朝時代の香合せとは違つて、人々それ/\の趣味と技能とによつて新に調合した香のその優劣を爭ふのではなく、既に調合せられてゐるいろ/\の香をきゝわけてその當否を判するものであるところに、自己の創意を主としない氣風の現はれがある。繊細な感覺を要するところに茶を味ふのと同じ趣があり、物靜かな室内に於いてするところに、下々の茶の湯と似た風情もあるが、しかしそれを弄ぶのは贅澤なしわざである。造庭の法が平安朝貴族の庭園に現はれてゐるのとは違つた興趣を求めたものであり、さうしてそれには宋元の山水畫から示唆せられたところもあつたらしいが、それもまた武家貴族か寺院かでなくては實現せられないものである。
 
 東山時代の風尚はほゞかくの如きものであつた。しかしこゝに一つの重要なる事實がある。將軍が現實の權力には關係の無い官位を有つてゐなければならぬと同じく、百姓町人の侍になるにも系圖を買はねばならぬ。系圖が無ければ實力のあるものでも幅が利かないといふことは、狂言に系圖爭ひのあるのでも知られる(鞨鼓焙録、酢はじかみ、膏藥ねり、など)。由來を語るといふことのあるのも同じ思想である(蛭子大黒など)。それと同樣、物質的快樂の外に何等かの尊ぶべきものがあつて見れば、如何に成り上りものでもそれを餘所にすることはできない。だから彼等も歌連歌に手を染めねばならぬ。義政義尚などが歌を好んだことはいふまでもなく、飛鳥井家などの歌の會にも武家の參會するものが少なくなかつたが、これは彼等が歌人であるからではなく、たゞ歌連歌をすることが貴族的な遊戯で(214)あるからであつて、「伊勢」や「源氏」の尊重せられたのもまた同じ理由から來てゐる。宗祇は世の將に戰國時代に入らうとする延徳のころ、山口で勢語を講じたといふが(山口抄跋)、かゝる時に地方の武人がかゝる講義を聽いたのは、それをたゞ何となく貴いものだと信じた外に理由は無からう。恰も系圖を買ふと同樣である。さうして彼等自身に新しい文化を造り出すことができないために、さういふ古典文藝が一層重んぜられたといふ一面もある。
 けれども多數の武士のうちには古典文藝に心から興味を有つやうになつたものもあらう。さうしてそれには、或は弓矢と劍と權謀術數とにのみ身を任せることに何となき不滿足を感じ、身を古典の世界に遊ばせてそこに一種の安慰を得ようとしたものもあらうし、或はさういふ激しい現實世界の競爭に堪へずして隱れ家を古典に求めたものもあらう。が、それもまた武士自身の生活が餘りに殺風景で餘りに物質的であつたからである。義政や義尚が歌を好み歌書を集めたのも、一つは同じ氣分からであつたらう。民間の茶の湯がもし武士に好まれたならば、それにもやはりこれと同じ理由があつたであらう。極端な物質主義の世の一隅に閑逸な情味を喜ぶ思想が起る契機はこゝにある。けれどもさういふ趣を眞に解し得たものが、權勢を有つてゐて奢侈を縱にするを得べき地位に在るものでなかつたことは、おのづから推知することができる。
 しかし何れにしても古典は尊重せられた。小説などに於いて、歌をよみかけられて返歌しないものは舌なきものに生まれるといはれたのも(佐伯)、かの信濃の百姓や伊勢の鰯賣が歌をよんだがために立身したり美人を得たりしたやうに語られたのも(物臭太郎、猿源氏草紙)、或はまた歌を詠み連歌をすることが寺院の兒の教養の一つであるとせられたのも(幻夢物語など)、かういふ風尚のためであらう。どの小説にも歌を詠む話があり、特に戀愛譚に於いてさう(215)であるが、これは昔の物語からの因襲ではあるものの、當時の趣味の現はれでもある。事實としても、妙椿が歌に感じて美濃の領地を東野州に還したといふ話がある(鎌倉大草紙)。應仁文明の時代になつて戰亂が全國に擴がつて來ても、地方の武士が概して歌連歌を好んだことは、堯惠の北國紀行、一條兼良の藤河の記、または正廣の日記などによつても知られ、太田道灌などは當時に於いては一かどの歌人であつた。多くの連歌師などが生活してゆかれたのも、特に宗祇や宗長などが到るところの武士に保護せられて、或は諸國行脚の杖を曳き、或はところ/”\に草庵を結ぶを得たのも、またこの故である(宗祇白河紀行、筑紫道の記、宗長手記及び日記、宗碩佐野のわたり、など)。昔は多數の貴族が彼等みづから歌人であつたけれども、この時代には職業的連歌師などがあるから、彼等に生活費を供給する保護者が要るが、さういふ資力のあるものは武士である。いくらか趣は違ふが應仁文明の亂に所領を失つて流浪した公家などにも、またこれと同じ意味で所々の武士に保護せられたものがある。なほ宗祇の筑紫道記や道興の廻國雜記には、都での知人に地方で邂逅することが見えてゐるが、京の變亂は文事に親しみのある京人を地方に驅逐することがますます多くなつたであらう。さうしてそれらがやはり文事を地方に傳へる一助になつたであらう。さてかういふ風に、古典的文藝があらゆる階級あらゆる地方を通じて尊ばれ、さうしてそれが實社會の外にある別世界のものと考へられるやうになると、道に於いて尊卑の別が無いと共に、歌人連歌師もまた社會上の階級を起越した存在となり、卑賤から起つた宗祇なども堂上家と交り、東常縁から受けた古今集の傳授を更に逍遙院に傳へたといはれ、肖柏の如きはその詠草に勅點を賜はり、また御夢想のことによつて宮廷の連歌の會に召され、彼の發句に御製の脇がつけられたといはれてゐる。古典文藝に關する知識や技能は、これほどに社會的權威をもつものとして考へられたのである。(216)少しく趣は違ふが、義視が國文で日記を書いたのも、やはり古典趣味の一つの現はれと見られよう。宮廷に於いて「お湯殿の上の日記」といふものの書かれるやうになつてゐたのは、別の事情から來たことではあらうが、このことと幾らかの連繋が無いでもない。
 こゝまで考へて來ると、上代文化の遺風のもつ意味について別にいふべきことがある。上に述べたやうな政治上の混亂や社會秩序の不安定の間に於いても、なほ實權に關係の無い官位が尊ばれ資力に交渉の無い系圖が重んぜられ、さうしてまた古典文藝が貴いものとして崇敬せられてゐること、朝廷が幕府の權力に依頼することによつて存立しながら、どこまでも傳統的の儀禮の府として仰がれ、公家貴族が將軍に阿附することによつて纔かにその生活を推持しながら、なほ上代文化の遺風を傳へてゐるもの朝廷の儀禮を掌るものとしての誇りをもち、それを失はないための學問に精勵してゐること、武士も一般世人もそのことを認め、さうして彼等を敬重してゐるので、義政や義尚が政治について一條兼良に教を乞うたことによつてもそれは知られること、これらはそも/\何を語るものであるか。それは即ち上代文化の遺風に精神的權威があり、それを尊重する心情に於いて知識ある國民のすべてが一致してゐることを、示すものではなからうか。微賤から起つたものも或る地位に上ればこれだけの知識を得るやうになり、さうしてそれが一種の精神的權威をもつ、といふよりも、國民の心生活に深く潜んでゐる上代文化に對する歴史的感情がさういふ形をとつて現はれる、といふべきであらう。上に述べたやうな政治的社會的混亂の間に於いても、かういふ事實があり、それがすべての地方すべての社會を通じて日本人の思想と心情とを強く支配する。さうしてまたそれがおのづから政治的社會約に混亂してゐる日本の民族を精神的に統一するはたらきをするのである。政治的には幕府の權威の失(217)墜によつて國家の統一が次第に破れてゆくけれども、日本が一つの國土であり日本人が同じ日本人である、といふことは何ごとにつけても意識せられてゐるので、「日本一」といふ語がこのころに行はれてゐるのも、その一つの表徴であるが、その日本人に共通な上記の如き情思のあることが、この統一の大きな標示となるのである。ところがその根本には皇室の存在があるので、上代文化の遺風も、名譽の表徴としての官位も、朝廷の儀禮も、みなそれから出たもの、それに結びついてゐるものである。武家が朝廷を威壓し、多數の武士や一般の民衆は、その日常の生活に於いては、一々皇室を顧慮してはゐない、といふ一面の事實はあるが、皇室の精神的權威は上記の如き形に於いて世の知識あるもの地位あるものの思想と心情とにはたらくのである。驕慢な義政も、後花園院の大葬の時の行動によつても知られる如く、皇室に對しては崇敬の情をば失はなかつた。義尚に至つては特にそれが深かつたやうであり、宮廷と將軍との間がらは甚だ親密であつた。應仁文明の亂によつて京は甚だしく荒廢し朝廷の儀禮も多く行はれなくなり、上代文化の遺風もたえ/”\になつてゆくが、しかしかゝる間にも歌連歌の會などはしば/\行はれ、さうしてそれには將軍も參内詠進した。朝廷の用度の缺乏は甚しかつたが、それも幕府がその供進を怠つたからといふよりも、幕府そのものの財政の困窮と幕府の權威が地方の御領を確保するに足らなかつたとのためであつた、といふ方が適切ではあるまいか。地方の大名とても皇室のことを忘れはしなかつたので、それは次篇に述べるところによつても知られよう。要するに、皇室に對する上記の心情と思想とは、かゝる時代にも決して無くならず、事があり時が來れば、それが生きた力となつて現はれて來るのである。さうしてそれは、上代の文化が貴族によつて形成せられ、皇室の主なるはたらきが政治の上にではなくして文化の面に於いてであつたところに、遠い淵源と深い根柢とがある。概言すると、日(218)本の文化が歴史的には貴族文化として發達して來たものであり、また當時に於いても皇室が權力と關係の無い存在であるところに、この時代の國民のかういふ心情の由來があるのである。
 
 しかしこれが當時の武士の生活武士の文化のすべてを支配するものでなかつたことは、いふまでもない。當時の文化上の諸現象には、上代文化に一つの由來がありまたその遺風を含んでゐながら、民間に起つたものであるため、または武士の生活に適應するやうな形をとつたために、それとは違つた樣相を呈してゐるものがあり、またそれとは別に禅僧によつて齎らされたシナ風のものもあり、さうしてそれらが混合しながら融和してゐないことは、既に上に述べた。シナ傳來の文物についていふと、むかし唐から學んだ文物が平安朝貴族の生活によつて日本化せられ、獨自の風趣を具へたものとなり、それによつて獨自の文化が創造せられたのとは違つて、この時代の武士及び武家貴族の生活にはそれだけのはたらきが無かつた。(さうなるには戰國の世を經過した後の江戸時代をまたなくてはならなかつた。)政治形態も社會組織もうちつゞく戰亂によつて次第に變化しながら、なほ混沌として定形を得るに至らなかつたと同じく、またそれに伴つて、武士の生活そのものが安定せず、從つて精練せられず、また從つてその生活によつて新文化を形成させるには至らなかつたのである。上代文化の遺風の尊尚とても、彼等の日常生活とはむしろ別のはたらきであつたので、この一面に於いては、かういふ氣分は、日常生活そのものの内部にあるよりは、それに伴ひながらその外部に存在してゐたといふべきであり、こゝにもまた生活の調子、文化の調子、の整はない事實がある。ただ武士が地方に根據をもつてゐるために、かゝる文化上の現象も廣く地方に、從つてまた民間にも、ゆきわたる傾向(219)のあつたことが、注意せられねばならぬ。一般の形勢としては秩序が崩れ治安が保たれない世であつて、窮乏せる武士や生業を失つた民衆もあり、天災があつたり疫疾が流行したりすれば、死者道路を蔽ふといふやうな状態もしばしば反覆せられながら、地方により主人により領主によつては、武士にも農民のおもだつたものにも、靜かにその地位を守りまたは産業に從事してゐるものが少なくなかつたに違ひなく、また種々の工藝に從事するものも商賈の輩もそれぞれにしごとがあり利益があつて、それらの間には、或る程度に安定した氣分をもち或は富をもつてゐたものがあつたであらう。武士や民衆がすべて?下者や僭上者でなかつたことは、いふまでもあるまい。上記の文化上の諸要素は、上代文化の遺風の尊尚と共に、かういふ人々の間にも次第に受入れられてゆくのである。これがいはゆる室町時代東山時代の文化の大觀である。
 
(220)   第二章 文學の概觀 上
 
       總説
 
 前章に述べたやうな文化の情勢の下に於いて如何なる文學が世に現はれ、何人によつて作られまた翫賞せられたか、を概觀しようとするのが、この章の主旨である。
 まづ考へられるのは、貴族文學と稱すべきものが殆ど無くなつたことである。歌と連歌とは盛に行はれてゐるが、その中心はもはや公家貴族を去つてゐる。公家貴族は因襲的に歌を詠み連歌をし、宮廷に於いても常にそれが行はれてゐるが、新に興つた武家貴族もまたそれを學んでをり、阿諛の一つの手段ではあるけれども、公家貴族がその歌の點を將軍に請ふほどになつた。京にゐる武士はいふまでもなく地方にゐるものの間にも歌連歌を學ぶものが多くなつた。さうしてその指導者の多くは歌僧遁世ものであつた。その歌などは文學といふほどのものではないにしても、ともかくも歌の形に於いて何ごとかを詠じてゐる。また他の方面でも特に貴族文學と見なすべきものは無い。
 前代に於いては公家貴族によつて作られたらしい擬古物語があつて、それは武人の生活行動を僧徒の書いた戰記物語とは、題材に於いても思想に於いてもまた文章に於いても、全く系統を異にしてゐるものであつた。この時代にもそれに似たものが無いではない。岩屋の草紙とか秋月物語とか、今宵の少將や轉寢草紙とかいふやうなものは、その主要なる人物が何れも公家貴族となつてゐ、その主題が戀愛であり、また或は今宵の少將の如くその場面に源語を摸倣したところがあり、或は文章に擬古體を用ゐてゐるなど、ほゞ前代の住吉物語や忍びね物語などと同種類のものら(221)しくも見える。けれどもそれらが、後にいふやうに特殊の教訓的もしくは宗教的意義を有つてゐる點に於いて、また種々の奇蹟が語られたり結末が主人公の榮華の運を開くことになつてゐたり、特に岩屋の草紙と秋月物語とには繼母が武士を使役してまゝ子を殺さうとするやうな殘虐の行爲が語られてゐたり、さういふ點に於いて、武士を主題とする物語と同じであるのを見ると、前代の貴族文學とは性質が違つてゐるのみならず、貴族文學としての特色が無い。さうして今宵の少將などの宮廷生活を題材としたものに於いては、新編お伽草子の頭註に記されてゐる如く、それがこれらの物語の中で最も多く擬古的傾向を帶びてゐるものであるにかゝはらず、宮廷の有樣を知らぬものの手になつたらしい形跡があるのを見ると、かういふ種類の物語の作者もまた公家貴族ではなかつたらしい。今宵の少將にたゞ人の子が皇子に取り換へられて遂に位に即くやうになつてゐるのも、よしそれが例の源語の冷泉院から一すぢの絲をひいてゐるやうに解せられなくもないにせよ、その構想はそれとは全く違つてゐて、宮廷に近づいてゐるものとしては思ひつき難いものである。のみならず、皇位を榮華の象徴として見てゐるなども、宮廷を遠方から眺めてゐるものの思想である。公家貴族は古物語を讀みなれてもゐ、さすがに文字の知識を比較的多く有つてもゐて、彼等の手になつた古書の註釋、紀行、隨筆、等が少からず今に遺つてゐるのを見ると、物語めいたものを作り得なかつたとはいはれないが、よしそれにしても、遺存してゐる作品そのものには宮廷の状態も公家貴族の生活も寫されてゐない。公家貴族の實社會に於ける勢力が衰へ、その生活が貧弱になつてゐるこの時代では、彼等の生活が興味ある物語の材料とならなかつたのみならず、昔の貴族生活に假託した物語を作つてそこに一種の慰安を求め懷古の情をよせることすらできなかつたであらう。彼等みづからの勢力が衰へその生活の貧弱になつてゆく情勢を仔細に描寫して、そこに世運(222)の變遷とその間に於ける自己の心情とを諦視しようとする如きことは、彼等には思ひも及ばなかつたところであらう。後にいふやうに、公家貴族の手に成つた「伊勢」や「源氏」の註釋が文字の解釋か故實の説明かに止まつて、毫も昔の公家貴族の華やかな生活とその氣分とに觸れてゐないことからでも、それが推測せられる、だからこの時代になるとすべての方面に於いて公家貴族は文學上の特殊の地位を失つてゐたといつてもよいのである。
 然らばかゝる物語は、何故にその人物を公家貴族としたのであるか。それは、一つは戀愛が貴族文學である古物語の主題であつた因襲に從つたのである。或は何人にも興趣をひく戀愛の物語が公家貴族の名を用ゐるにふさはしく思はれたのだといつてもよからう。いま一つは、前章に考へた如く、上代文化の遺風を傳へてゐるものとして、公家貴族を尊重する氣風が一般にあつたためであるらしく、物語としての性質の全く違つてゐる一寸法師、鉢かづき姫、または酒?童子、などの如きものですら、その出自を公家貴族としてあることからも、それは知られよう。この一寸法師や鉢かづき姫は、もとの身分を回復するのであるが、梅津長者物語の如く、素姓の賤しいものも地位の高い公家貴族の庇護によつてかなりの官位に上り所領を得たことになつてゐる。榮華を開くといふことは、公家貴族の地位に上ることか、または本來の公家貴族に於いてはその官位の昇進することなのである。これらは、上代の貴族生活を物語として再現したものでもなければ、この時代の彼等を描寫したものでもなく、たゞ名を公家貴族にかりたことに伴つて、彼等の傳統的地位と宮廷に對する關係と、並に上代文化の遺風の何ごとかとが、外面的の敍述によつていくらかそれに現はれてゐるのみである。現實の世相に接觸するところは、むしろ他の點にあつたので、それは種々の妨害にあひ、或は艱苦を經ながら、最後に思ひを遂げると共に榮華の地位を得たことにしてある、その結構にあるのであら(223)うが、これはこの時代の物語に共通なものであつて、こゝにいふ種類のものには限らない。從つてその作者もまた讀者も他の種類のものと同じであつたと考へられる。
 さて、政治的權力が武士の首長たる將軍の手にあり、世を動かす力も生活の最も華かなものも武士であるとすれば、文學上の作品もまた、武士の生活を寫したもの武士に翫賞せられるものが、多數でもあり流行したでもあらうと推測せられる。從つてこの時代にもまた、前代の平家物語とか源平盛衰記または太平記とかいふやうな、いはゆる戰記物語が作られ、戰爭とそれによつて動かされてゆく政治上社會上の情勢、足利氏の生活とその權力のはたらきとを、描寫しさうなものであつたが、不思議にもさういふものは現はれなかつた。南朝の衰微と、それによつて生じた兩朝合一の形勢と、並に大覺寺統及び南朝遺臣の心情行動とを、敍述したものも作られなかつた。勿論、明徳記、應永記、嘉吉記、などを始めとして合戰の物語や變亂の始末を書いたものは多く現はれたが、それは概して事實を事實として記したものであつて、その間ところ/”\に教訓的文字や陳套な感傷的な評語が插入せられ、また敍事に幾らかの誇張もあるにせよ、さうして文章に於いても時には、「時雨に爭ふ眞木の島、紅葉に移らふ朝日山、暮れゆく秋もさむしろに、衣かた敷く橋姫の、昔を問へば橘の、小島が崎も程近し、」(明徳記)などの道行きや、「定め無き憂き世の中の習ひにて、後れ先だつ道芝の、露の命も消えもせで、猶しも殘る水莖の、迹に留まる老の身の、深き思の涙河、」(應永記)といふやうな、感傷的な文字を七五調で綴つたところさへあるにせよ、作者の本意は主として事實を傳へるためであつたらしく、平家物語や盛衰記のやうに特殊の構想があるでもなく、興味を添へるための插話があるでもない。(224)結城戰場物語などはその題名も、また「されば有爲轉變の理、飛花落葉老少不定の世の有樣、今さら驚くべきにはあらねども、」といひ出し、「京都田舍和談して末繁昌と榮えけり」と結んだ書きざまも、何となく小説めいてはゐるが、本文はやはり事實の記録として支障がない。(後鑑に結城合戰繪詞といふものが引いてあるから、かういふ合戰の物語を繪卷物にしたものもあつたらしい。繪卷物とすればそれは翫賞のために作られたものであらうが、詞書きそのものはやはり大まかな事實の筋書きといつてよいものである。)變亂は斷えず起り、さうしてそれには、權臣の勢力爭ひとか、君臣主從の間の感情の疎隔とか、さては戰争に於いての尊むべくまたは卑しむべきふるまひとか、當時の人の思想としても世の治亂と人心の向背とに歸する反省考察の資となり、または同情と反感とを促すに足る幾多の事件が、因となり果となつて現はれてゐるのであるから、少くとも源平盛衰記や太平記のやうなものが、それを材料として作られさうなものであつたが、それが一つも無い。これは何故であらうか。
 忽にして權を得忽にして勢を失ひ、一夜にして都の春を占め得た眩きばかりの榮華の花が、咲くと見る間もなく西海の嵐に吹き散らされた平家興亡の跡は、事新しくも有爲轉變の急にして盛衰浮沈の激しきに驚かされた京人をして、平家物語といふ幾卷の史詩を作らせ、兩朝の爭ひと全國の武士の蜂起とによつて誘致せられた天下の大動亂は、世の行く末がどうなるかと不安の眼に兵馬の騷ぎを眺めてゐた南北朝時代の人々をして、かの太平記の筆を執らせたのである。戰記物語を讀む興味はむしろその中に含まれてゐる個々の説話に集まるやうになりはしたけれども、本來戰記物語の作られた動機は、世の變亂が人心を激動させたところにあつた。しかし世の亂れも勢家の興亡も、聞き慣れ見なれてはさほどに人の心を動かしはせぬ。何事に對しても單純な佛教の無常觀ぐらゐより外に見る目を有つてゐない(225)とすれば、同じやうなできごとに新しい感興も湧かず思索も生まれぬ。人は違ひ舞臺はいくらか變つても、演ずるところは何時も同じ武士どもの離合叛服、何處も變らぬ戰爭とあつては、書く筆にも厭きが來る。太平記が未完のまゝで筆の絶たれたらしい形迹のあるのも、或はこの邊に一つの理由があるのかも知れない。その上、この時代になつては、變亂は斷えず起りながら、將軍の地位は動かぬやうになり、全體としての武人の勢力には變化が無いから、戰亂そのものからいつても、それが人心に及ぼす影響は大きくはなかつたらう。のみならず後にいふやうに、天下全體の治亂興廢よりも個人の成敗に人の注意が集められて來た時代であるから、政治的意義の含まれてゐるところに一特色のある戰記物語が、太平記に續いて現はれなかつたのは、無理のないことである。
 ところが、まとまつた戰記物語が現はれない代りに、盛衰記や太平記に於いてはそれを組たてる個々の説話もしくは插話として取扱はれてゐたものが、獨立した物語や詞曲となつて現はれた。戰記物語の興味の中心となつてゐたものが、全體を貫通する絲を離れてばら/\になつて發展したのが、この時代の物語である。しかしその一々の物語の性質もまた戰記物語のとは幾らか違つて來る。戰記物語の説話もしくは插話の特色は、實在の人物とその行爲とを英雄化し傳説化するところにあるのであるが、平家の滅亡の後或る歳月を經てから平家の人々の生活を傳説化し、政權の歸着するところのまだ定まらない動亂の最中にその動亂に關與したものを英雄化したのとは違つて、權力關係の一應固まつた室町の世となつては、一つは目前の事實を傳説化するに便宜なところのある動亂の空氣が薄れて來たのと、一つは戰争が多く地方的になり、そこで活動した人物が多く、從つて小さくなつて來たのと、いま一つは權力の在る所を憚るやうになつたのとのため、さういふこともおのづからできなくなつた。一二の兵亂があつても、事實が明か(226)に世間の目に映ずるから、戰塵の間から偉大な人物の幻影を認めるやうなことがなくなるのは當然であらう。また文權が民間にあるために思想が政權から獨立し得ると共に、政治的權力の固定してゐる場合には、それが公然と顯はれ得ないのは自然の勢である。南朝の衰滅の悲哀な歴史が何人によつても詩化せられなかつたといふ事實も、またこの第二の理由から來てゐるのではなからうか。將軍などの豪奢な日常生活、華やかな室町御所の有樣などが、文學の材料とならなかつたのも、またこのことと關係があらうか。義滿の榮華は物語となつて現はれなかつた。義政のに至つてはなほさらである。平安朝時代に宮廷生活が文學の主題となつたのは、作者がその内部にゐてその生活の閲歴を有つてゐるものであつたと共に、宮廷とその周圍の貴族とが世界の全體であつて、讀者もまたその範圍内に限られてゐたから、如何にその生活の眞相が物語に寫されようとも、讀者はそれに對して鏡によつて我が面を見ると同じ感じを起したのである。然るにこの時代では、文筆あるものが武家貴族たる上流社會の埒外にあつて、その生活を外部から傍觀するのみであると共に、もしその生活を暴露して廣く世間に示すやうになれば、おのづから世間に對する彼等の政治的地位に影響が生ずる。從つて權力者はかくの如き文學の世に現はれるを喜ばず、文士もまたそれを敢てしなかつたであらう。だからこの時代に於いては、將軍などの實在の人物または地位の高いものの生活状態が、文學の題材には取られなかつたのである。
 現在の社會に勢力のある階級の生活が文學の題材とせられないとすれば、文學は過去か當時の比較的下級の方面かにその題材を求める外は無い。さてこの第一に屬するものには、古典から來たものと戰記物語から採つたものとの二大別があるが、前のは古典崇拜の思潮に適合し、後のは現實の武士生活に深い親しみがある。古典から出たものを擧(227)げると、讀みものとしては、普通に御伽草子として知られてゐる浦島太郎、和泉式部、小町草紙、ぐらゐのもので、あまり多くはないが、釣舟といふ歌書に出てゐる淺香山、宇治の橋姫、末の松山、などの話を見ると、古歌を本とした種々の物語がこのころに作り出されてゐたことが知られるし、四十二の物爭ひ、十番の物爭ひ、などの如く源語などから着想を得たものもある。しかしそれの最も多いのは能の詞章としての謠曲に於いてであつて、觀阿彌世阿彌のころに既に作られてゐたものを世阿彌の申樂談儀によつて檢べて見ても、業平、井筒、右近馬場、小町、葵上、浮舟、などの勢語源語に出典のあるものはいふまでもなく、融、汐くみ(松風村雨)、姥捨、蟻通、檜垣、逢坂、などの平安朝時代の歌や傳説から出たものも少なくない。文安田樂記にも小野小町、實方、の名が見えてゐる。後のいはゆる内外二百番のうちには、勢語の系統に小鹽、杜若、小町ものに關寺小町、卒都婆小町、鸚鵡小町、草子洗小町、通ひ小町、高安小町、などが見え、源語から出たものには夕顔、半蔀、空蝉、碁、朝顔、野宮、須磨源氏、住吉詣、玉葛、落葉、などがあり、作者紫式部を材とした源氏供養さへある。「伊勢源氏」が古典として崇拜せられ、その講義が所々で行はれた時代にかういふことのあるのも當然であつて、それはまた謠曲の詞章に古歌などの利用せられたことと同じ思想の現はれでもある。その他の平安朝の古典に於いては、竹取物語から富士山、大和物語から求女、蘆刈、采女、また古今集から黒塚、墨染櫻、などが出てゐるのみならず、更に溯つて奈良朝以前のものにも題材が求められたので、萬葉から出た船橋、また續紀に起源のある養老、もう一歩進んでは素戔嗚、鵜羽、などの神代の物語から材を取つたものさへ既に世阿彌の時にできてゐる、後になると、萬葉の岩舟、三山、山城風土記の賀茂、上代の傳説の三輪、草薙、吉野天人、神代の物語の玉の井、和布刈、などが見える。要するに古典から題材を取るのは謠曲に於いて(228)は普通のことであり、また最も早く行はれたものである。ちなみにいふ。この時代の人には光源氏も業平も、紫の上も小野小町も、同樣に考へられてゐて、詩中の空想人物と實在の歴史的人物との間に殆ど區別が無かつた。
 次に戰記物語に出典のあるものは、讀みものとしては平治物語や平家物語に由來のあるやゝ長篇の義經記を主とし、そのうちの鬼一法眼の一插話を獨立の物語としたものや、その話から發展した御曹子島渡りがあり、辨慶物語がある。次の時代の作かと思はれる淨瑠璃十二段草子や天狗の内裏はかなり縁が遠くはなつてゐるが、やはり義經が主人公である。前のは舞曲の烏帽子折などに本づいて別に一段の戀物語を案出したものらしく、烏帽子折と同じ文章も中に見える。また後のは次にいふ舞曲の未來記に本づいて、それに富士の人穴草子と同じやうな主題である地極極樂の光景を見せる説話を結びつけたものである。横笛草紙、小敦盛、などが平家物語に起原のあるもの、またはそれに新案を加へたものであることは、いふまでもない。曾我物語もこの時代に潤色が加へられたものらしい。また中書王物語のやうな太平記の插話を本にしたものもある。しかしこの時代に於いて最も崇拜せられた人物は義經と曾我兄弟とであつて、幸若舞の詞章に至つては、義經記と曾我物語とから出てゐるものが多い。義經記の説話と直接の關係の無いものでも、伏見常盤、常盤問答、笛の卷、未來記、などは幼時または少年の義經のことにしてある。また文覺、敦盛、鎌田、木曾願書、または築島、硫黄が島、などは平家物語か源平盛衰記かの插話から發展したものであつて、その他には入鹿、大織冠、志田、百合若大臣、などの數番、または最後に作られたらしい新曲があるばかりである。謠曲に於いても、世阿彌時代に既に頼政、義經、靜、通盛、實盛、忠度、重衝、敦盛、六代、など、平家物語や盛衰記から出たものが作られてゐたが、その後には小督、紅葉、祇王、俊寛、經政、巴、大原御幸、など同じところに出典のあ(229)るものが甚だ多く、義經記からは鞍馬天狗、橋弁慶、湛海、忠信、鶴岡、舟弁慶、安宅、などが出てをり、曾我ものも頗る多い。(義經記もの曾我ものは概ね舞曲の改作であるらしい。)その他、惡源太、朝長、は平治物語から來てをり、鱗形、藤榮、壇風、往生院、などは太平記の插話によつたものであつて、戰記物語から取つた題材は甚だ多い。武士の世に古武士の物語が愛好せられたのは當然である。
 古典といふ名も不相應であり、また戰記物語でもないが、前代から行はれてゐる傳説から材を取つたものも謠曲には數多くある。松山天狗、雨月、江口、は撰集抄が本で、方丈記は勿論名の示す通りであり、大會は十訓抄(第一)から、春日明神は春日權現驗記から、出てゐるのであらう。鐘引は古事談(第五)の粟津冠者の物語から發展してそれを秀郷に結びつけたものに違ひなく、道成寺は今昔物語(卷一四)から出てゐる。上に述べた養老なども續紀から直接に取られたのではなく、十訓抄(第六)がもとであることは、孝子の徳で靈泉が湧き出たといふ物語の内容から明かにわかる。讀みものに於いても、田村の草子が今昔(卷一四)の利仁將軍の話、吾妻鏡(卷九)に見える惡路王の傳説、などを結合したものであることはいふまでもない。(鈴鹿山に山賊の巣窟があつたことは侍所沙汰篇の泰時が鎌倉の執權であつた時の文書にも見えてゐるが、民間にもさういふ傳説が遺つてゐたであらう。謠曲の田村にも取られた話である。)
 さて古典古傳説から來たものがこれほどあるならば、シナやインドの載籍から材料を取つたものの少なくないことは、怪しむに足らぬ。シナについていふと、謠曲に於いては長恨歌、昭君、東方朔、西王母、項羽、三笑、などがあり、舞曲には張良があるが、特に張良を捉へたのは、兵法といふことが舞曲特有の武人趣味に適合してゐるからであ(230)らう。また讀みものとしてはお伽草子の二十四孝がある。なほ御曹子島渡りに見える島々も、魏志の倭人傳に遠い由來があらう。次に梵天國、毘沙門の本地、嚴島の本地、熊野の本地、または月日の本地、などは直接間接に、或は多かれ少かれ、佛教の藏經の何處かに出所があり、從つてインド傳來の分子が含まれてゐよう。天稚彦物語もまたその類であらうと推測せられる。インドがこの時代の文筆の士に注意せられたことは、舞曲の笛の卷に弘法大師が天竺にいつた話のあることからも知られるので、これは謠曲の富士山にこの山を天竺から飛んで來たものとし、舞曲の劍讃嘆に刀を、謠曲の白樂天に歌を、天竺に起り唐に傳はりそれから日本に移されたものとしてあるのと同じであつて、何ごとについてもその起源をインドに歸する佛者の考から出たことに過ぎないが、種々の物語にインド的分子のあることは、それとは趣が違ふ。さうしてそれは、外國文學のわが國に及ぼした影響を見るについても、またあらゆる方面から材料を採取しようとしたこの時代の文學の一傾向を知るについても、興味の深いものである。ちなみにいふ。百合若大臣や天狗の内裏にギリシヤやロオマの文學の影響があるといふ考には、證據不十分の感がある。これらは外來の知識が無くても作り得られたものである。
  「梵天國」は、その名稱と主人公たる中納言の妻が梵天の女であるといふ筋とが、既にインドに關係のあることを示してゐるが、中納言が羅刹國のはくもん王に奪はれた妻を取りかへすために羅刹國にゆき、首尾よく目的を達したといふ話は、ラアマアヤナのラアマアがシイタをセイロンから取りかへしたのと似てゐるので、セイロンがインドに於て羅刹の住む國とせられてゐたことも考へ合はせられる。中納言夫妻が空を飛ぶ車に乘つて羅刹國から逃れ歸つたといふのも、ラアマアがシイタをつれて歸つた時のと同じ方法である。次に毘沙門の本地の女主人公は瞿婁(231)國の王姫となつてゐがが、瞿婁國がでマハアバラタの物語の産まれたところであることはいふまでもあるまい(但し物語の筋はマハアバラタとは關係が無いやうである)。さうしてこの姫君と契を結んだ維曼國の金色太子が、兜率の内院に上つて一度び失つた姫と再會するといふのは、ゾシャンタ王がシャクンタラ姫と?陀婆の山上に於いて再會した話を想ひ出させる。これらは勿論、インドの史詩や戯曲と直接の關係のあるものではなからうが、インド人の間に廣く行はれてゐたそれらの物語、もしくはそれに類似したものが、形を變へて佛教の經典の何かに採りこまれてゐたのではあるまいか*。嚴島の本地や、幸若舞曲の高館にも取られてゐる熊野の本地の話なども、何か經典に根據のあることが含まれてゐようと思はれる。(この二つはほゞ同じやうなものである。)なほ天稚彦物語にはエロスとサイキとの説話に類似してゐるところが多く、從つてそれに遠い淵源のあることが考へられるので、それについては既に世にその説があることと思ふ。類似の點は一々いふにも及ぶまいが、女の禁を破つたことが、この物語で何等の結果をも生じてゐないのは、それが作者の創意に出たものでないことを示してゐる。前後に何の關係もないこの插話のあるのは、その結果として夫妻の別離が生じたことになつてゐた、原の説話の一段が、遺脱したものと見られるのである。その昔いはゆるガンダアラ藝術に於いて佛教とギリシヤ及びロオマの藝術との結合が行はれたと同じやうな徑路によつて、このロオマ時代の物語が佛教の經典に採り入れられ、從つて佛教的色彩がついてゐたのではあるまいか、と臆測せられる。稚彦の妻が夫をたづねて空中をさまよひあるいた時、夕づゝ、箒星、すばる星、などに道を教へられたといふのは、毘沙門の本地の金色太子が姫を尋ねて大空をゆく時、夕づゝ、彦星、七曜星、明星、などに道をきゝつゝ行つたのと同じことであるが、室町時代に廣く行はれてゐたらしい融通念佛縁起(232)繪卷にも、日天子月天子九曜七星などが梵天帝釋及びその他の諸天善神と同じ群に入つて雲に乘つてゐる圖があるのを見ると、佛家の間には星を天部に准じて取扱つてゐたことが判る。佛教の經典のうちに見える種々の物語を國語で書き現はしたものは、今昔物語の天竺部はいふまでもなく、宇治拾遺などにもあるが、こゝに擧げたのは、翻案か、材料だけを取つて新に結構したのか、何れにもせよ、作者の構想が加はつてゐるから、ともかくも一つの作品として取扱ふべきものである。
  なほいひそへる。舞曲烏帽子折の一插話である山路の笛の用明天皇の物語にある弓をよくひいたものに姫を與へるといふ話は、やはりインドに淵源があるのではなからうか。ラアマアヤナのシイタを得たラアマア、またマハアバラタのドラウバディを得たアルジュナ、の物語に好例のある如く、聟撰みに武藝の競技をさせるスワヤム?ラは、古代インドに於いて普通に行はれたことであつて、その最も主要なるものが弓術であるらしい。わが國にも大和物語に見える生田川傳説に似た話が無いでもないが、この時代の文學にインドだねが多いことから考へると、これも或は佛教の經典の何かから出たことかも知れぬ。特にアルジュナは姿をやつして王子たるその身分を隱してゐることが、この物語に似てゐる。さういふ類の話が何かの佛教の經典に存在してゐるのではなからうか。もしさうとすれば、百合若が弓によつて身の上を顯はしたといふ物語も、そこに縁が無いとはいはれぬ。(こゝに佛教の經典に出所があらうと臆測したその出所を詮索することのできないのは、遺憾である。)
 しかしこの時代の文學としても現在の世相を除外することはできない。實世間に於いて先づ人の目をひくものは、いふまでもなく武士であるが、將軍やその周圍の武家貴族の生活が文學の題材とならないならば、作者は比較的下級(233)のものか地方武士かを捉へねばならぬ。(地方武士が文學の上に現はれて來たのは前にも述べたやうに一體に地方が重んぜられて來たからではあるが、かういふ特殊の理由もそこにあらう。)それが即ち前に述べた第二の材料であつて、讀みものとしての佐伯、朽木櫻、あきみち、月かげ、文正草子、物臭太郎、猿源氏草子、舞曲の信田、百合若、謠曲の望月、放下僧、籠祇王、鳥追船、廣基、苅萱、砧、藍染川、園田、などがその例であり、繪詞として遺つてゐる男衾三郎もこの類であるが、これらのうちには當時の事實譚を潤色したものもあるらしい。佐伯、砧、藍染川、は妻子のある地方人が訴訟のために上京したをり、都の女に馴れ初めたために起つた葛藤、あきみち、望月、放下僧、は復讐譚、朽木櫻、苅萱、は出家したものがその子に再會する話(この物語は主人公の名を行繼として吉野拾遺にも出てゐるから、むしろ一種の傳説と見なすべきものかも知れない)、信田は婿が舅家の所領を横奪し、百合若は家臣が主家の地位所領を奪ひその妻を虐待し、男衾三郎は亡兄の邸宅を奪つてその妻子を放逐苦使し、また鳥追船は從者が主人の不在に乘じてその妻子を凌虐する物語であるが、終局に於いてそれらの何れも、正當の地位にあるべきものが樣領者纂奪者を克服してその地位を囘復しまたは一層高い地位に上ることになつてゐる(男衾三郎繪詞は結末が失はれてゐるが多分同じであらう)。それから籠祇王、廣基、園田、には、地方人が黨を立て派を分けて互に闘争してゐる有樣が見え、文正草子、物臭太郎、猿源氏、などには微賤のものが立身する世相が現はれてゐる。その他、謠曲の粉川寺、鷄龍田、丹後物狂、などには、杉村某、平岡某、岩井某、などといふ名があるのを見ると、これらもまた當時の事實を材料としたのではあるまいか。少くとも事實らしく思はれたことであつたらう。なほ百合若の蒙古との戰爭には、倭寇の反映もあるのではあるまいか。蒙古との戰爭は御曹子島渡りにも見え、田村の草子の一插話にも關係(234)がありげであるが、これについてもまた同じことが考へられようか。
 さてこれらのうち、信田、百合若、などの人物は、地方人でこそあれ、身分の低いものとはせられてゐないが、文正草子や猿源氏や、または梅津長者物語などになると、もとは極めて微賤のものか貧民かであつて、身分のある百姓でも武士でもない。さすれば文學の材料に取られた當時の人物は、武士のみでなく、もつと低い階級にまで及んでゐるのである。謠曲でも、數の多い物狂ひものの人物には庶民階級のものがあるらしく、また遊女なども材料になつてゐるが、物狂ひの主なる原因になつてゐる人買ひやかどわかしは、このころには事實として少からず行はれてゐたであらうし、遊女なども勿論實際に存在してゐた。なほ捕虜になつて箱崎に來てゐるシナ人のことを題材にした唐船に至つては、明かに倭寇の行はれた時代の産物である。但し謠曲に現はれてゐる土地はかなり廣く各地に亙つてゐるけれども、その人物には一般の民衆は割合に少いが、狂言になると、中等以下のあらゆる階級のものが網羅せられてゐて、農夫(水論聟、瓜盗人、など)もあり、商賈(酢薑、伯母酒、柿賣、など)もあり、藝人(猿替勾當など)もあり、不具者(聾座頭、三人片輪、など)や奸盗(末廣がりなど)の類まである。シナ人さへ除外せられてゐない(茶拜々など)。これは能が民間に起つた演藝でありながら、題材を古物語や戰記物語などに取り、詞章にも古典の辭句をそのまゝ利用するやうになつたために、現在の事實譚を題材とする場合にも、おのづからそれに古典的色彩を施さぬばならぬから、民衆の状態とその思想心情とを如實に現はすことができないけれども、狂言にはさういふ制限が無いからのことであらう。
 かういふやうに詞曲なり小説なりの主なる題材として地方人や下級民の生活が多く用ゐられて來たのは、前章に述(235)べたやうな政治上社會上の情勢のためであるが、それと共に、文學の民衆化してゆく傾向がそこに現はれてゐる。かの職人歌合などができたのも、また狂言と共に文藝の題材として下級民の生活を捉へるやうになつた時勢を示すものであらう。民謠が注意せられたのも同じ趨勢を示すものであつて、閑吟集の編纂にそれが見える。狂言に民謠の用ゐられてゐるのは、狂言そのものが民衆生活を題材とするものだからであるが、閑吟集の編纂はそれとは違ふ。また下級民を題材とする自然の結果として、生活(みすぎ)の問題に接觸するやうになるので、梅津長者物語や福富草紙がその例であり、狂言にもそれが少なくない。謠曲でも池贄に少しくその面影が見えてゐるし、物語では猿源氏でも文正草子でも幾分かそれに關係がある。これがまた文學史上の一新傾向である。
 實世間から取つた物語の題材について、なほ一つ見のがせないのは寺院の一社會である。奈良の得業の女を女主人公とした初瀬物語、やはり奈良得業の子と叡山の法師との戀を寫した「あしびき」、男色から山門寺門の合戰を惹き起したといふ秋の夜長の物語、その他、鳥部山物語、松帆浦物語、幻夢物語、などの兒ものは、何れも寺院を離れないものであつて、嵯峨物語だけは一方は文士であるが他方はやはり寺の兒である。男色が僧侶の間に行はれてゐたことはいふまでもないから、これらの物語も事實譚が根據となつてゐるのであらう。鞍馬寺にゐた牛若丸としての義經の幼時のことが題材とせられたのも、またこの兒の愛翫と關係があらう。さうしてかういふものが多く現はれてゐることからも、當時の作者が概ね寺院のうちにあつたといふことが推測せられるであらう。
 以上はこの時代の文學に如何なる社會、如何なる人物、が描かれてゐるかといふことを概觀したのであるが、これで見ると、取材の範圍が平安朝時代の古典文學や鎌倉以後の戰記物語はいふまでもなく、古くは神代の物語、遠くは(236)シナやインドのものにまで及んでゐること、現在の社會に於いては、公家及び武家貴族の一階級を除けて、その他の武人から庶民にも及び、外國人及び特殊社會たる寺院をも包合し、古今内外のあらゆるものを網羅してゐることが知られる。これは、前章に述べたやうな、種々の要素を盡く包括しようとするこの時代の文化の一般情勢の故であるが、文學そのものに於いては、古くからの説話などが新しい形をとつて現はれて來たことと、庶民が文學の題材となつたこととの二つの特徴がそれに見える。新しい形に變改し新しい意味に解釋しながら古傳説を繼承することは、既に宇治拾遺や著聞集十訓抄などに於いても行はれ、盛衰記や太平記などの插話に至つて大に發逢したのであつて、それは時勢の推移と變化とに伴つて生ずる自然の傾向ではあるが、この時代には、古典尊崇の思想が盛であるのと、文學の權威が僧徒に移つたため彼等に特殊な宗教思想を以て古典を解釋しようとする傾向があるのとで、特にそれが著しくなつたのであらう。その上、謠曲などは斷えず新曲を作る習慣であつたらしいから、それがために古文學古傳説が簡便に題材を供給してくれたといふ理由もあらうし、また武士に關する傳説については、一種の英雄崇拜の思想も加はつてゐたであらう。
 ところが、英雄崇拜の起るのは多數人がその英雄を認識してゐるからであつて、幸若舞曲の結末の多くに「貴賤上下おしなべて感ぜぬものこそなかりけれ」といふ語のあるのが、よくこの間の消息を語るものである。またさういふ古武士が能や舞の主人公として公衆の喝釆を得たのも、公衆が多かれ少かれそれについての知識を有つてゐたからであらう。だから古文學そのものがよし廣く讀まれるには至らなかつたにせよ、その物語は口から耳への傳説として、かなり廣く世に弘まつてゐたらしい。が、これは文學に取られる題材が廣く一般の社會に及ぼされるやうになつたの(237)と同樣に、文化が多數民の間に及んで來た時勢を示すものである。民間説話の類もこのころから文學的作品に取入れられたらしく、福富草子などはその一例ではなからうか。これは、文字に現はれてゐるものについていふと、宇治拾遺の鬼に瘤をとられる話に前蹤があるけれども、その着想はかの花咲爺の物語と同じで、その主題は民間説話として行はれてゐたものらしい。鉢かづき姫、一寸法師、蛤草子、のやうなものも、民間説話に由來があるらしく、また動植物を擬人したもの、例へば土蜘蛛の類にも、さういふ分子がありさうに考へられる。木幡狐の狐が女と化つて婚嫁し犬を恐れて逃げたといふ話も、日本靈異記(上)や水鏡に出てゐるが、これもこのころには民間説話となつてゐたのではなからうか。(動植物の物語には佛典に見える説話から系統をひいてゐるものもあるらしいが。)酒?童子や田村將軍の物語なども、その本來の出所は文字にかゝれたものであらうが、お伽草子などの題材はやはり民間説話として世に弘まつてゐたものから取つたのではあるまいか。しかしこれらのものも、かういふ形式の物語として書かれた上はお伽草子として傳へられてはゐるけれども、單に童話として行はれたのみではなく、大人にも興がられてゐたことは、そこに當時の社會情勢と接觸するところのあることからも推測せられる。さて民間説話が文學的作品に取入れられたのは、かの閑吟集に民謠の編入せられてゐることと、同じ傾向を示すものであらう。
 次には、これらの文學上の作品が、何れの種類のものに於いても、その主題その構成に於いてそれ/\ほゞ定まつた型のできてゐることが考へられる。これは後出のものが前出のものを摸倣したため、または製作の便宜上一つの型がおのづから定められたためであらうと推測せられるので、讀みものとしての物語は前の方のであつて、舞曲、能、または狂言、の如きは後の方のであらう。能の主題に定型のあることは、脇能もの修羅もの女もの狂女もの幽靈もの(238)現在ものなどとして、それが分類し得られることからも知られるし、能の主眼たる舞にも幾程かの型がある。またその構成に於いては、一曲の筋を運んでゆく道すぢ、人物の舞臺上演奏上の役め、その登場退場及び種々の形での吟唱や白、などに一定の規格と順序とがあり、吟唱の部分ではその形によつて語數句數または修辭法までもほゞ同じである。曲によつて幾らかづゝの變異のあることは認められるが、概していふとかういふ状態である。服裝や假面にも幾程かの定まつたものがあつて、曲によつてその何れかが用ゐられることは、いふまでもない。狂言はその性質上これと違ふところはあるが、やはりこれに準じて見られ、その形にも内容にもほゞ幾つかの型が定まつてゐる。たゞ舞曲には構成の上にかういふ型はできてゐないが、主題はほゞ一樣である。これは作者の能力に限りがあつて、獨創のはたらきの乏しいところに主因があるらしい。能に於いては、世阿彌一人が多くの曲を作つて後人に摸範を示したといふ事情もあらうが、彼みづから或る型を守つてゐたところに、さうして後人がみなそれに從つたところに、意味がある。さうしてそれは、何ごとにつけても既に存在するもの與へられたものに依存するこの時代の文化の大勢に應ずるものであつて、歌や連歌の擬古文學もまた同じであり、古典崇拜、古代文化の遺風の尊重、にも通ずるところがある。
 ところがこのことは、文藝に於いて知識的興味の重んぜられてゐることとも關係がある。讀みものとしての物語に於いても舞曲謠曲に於いても、故事來歴を語る場面の多いことによつてもそれが知られる。讀みものの例を擧げると、義經記の吉野での危急の場合に辨慶が履を逆さまにはいた故事を語つたやうなのがある。貴船の本地に節分の追儺の起源の語られてゐるのもその一つであるが、本地を説くことが既にそれである。神社佛寺の縁起は前代にも盛に書かれてゐて、それは主として宗教的意味のことであるが、知識的興味もそれに伴つてゐるし、前篇に考へた如く戰記物(239)語にうるさいほど故事を記してあるのは、全く知識的興味のためである。宴曲の詞章もまたそれでからう。それがこの時代にも繼承せられてゐるのであるが、こゝにいつたやうな意味も含まれてゐる。天狗の内裏の牛若と天狗や大日如來との問答もまたその類である。なほ舞曲の烏帽子折には草苅笛のいはれとして用明天皇の戀物語が語られ、常盤問答には教義の論議があり、笛の卷には笛の由來が説いてあるが、高館では鈴木が熊野の本地を語つてゐる。一刻の遲疑をも許さぬやうな忙しい對話の間に、ゆる/\と故事を語らせてある。謠曲には特にそれが多く、神社佛寺名所舊蹟にはいふまでもなく、戀にも花にも歌にも舞にも、シテがそのことの由來や昔のありさまを説かないものは無いくらゐであつて、一曲の主題がそれによつて示され、その由來譚や昔物語のうちの人物が後シテとなつて現はれるのが常である。「いはれをきけばありがたや」また「いはれをきけばおもしろや」といふやうなきまり文句もある。何ごとも「げに/\見聞くにいはれあり」(富士山)であつて、そのいはれを知らうとするのである。かういはれてゐる場合の多くは一曲の構成に關することであるが、さうでないものにも、老松に古文學に現はれてゐる松を列べさせ、藤榮や自然居士に舟の來歴を語らせ、俊成忠度に歌の由來の説かせてある類は甚だ多く、例を擧げれば限りが無い。これほどまでに故事來歴を知ることが能では重んぜられてゐるが、それはやはり古典尊崇の思想である。名所舊蹟を訪ひ歩く諸國一見の僧をワキとしてはたらかせるものの少なくないのも、これと同じ趣味の現はれであり、根本的には一曲の主題を古典に取ることに既にそれがある。
 名所舊蹟を訪ふことは讀みものとしての物語にもあつて、義經記の伊勢の三郎と共に奧州にゆくところにもそれがある。舞曲では、信田の姉が弟をたづねまはるやうな場合にさへそれが用ゐられてゐるが、これは、後にいふやうに(240)當時にありがちのことであつたらしい、人をたづねて所々を遍歴する話に、名所舊蹟の歴訪を結びつけたのである。ところが、義經記でも信田でも、その詞章は七五調の道ゆき體になつてゐる。この道ゆきは能の構成の一要素ともなつてゐるが、それにはやはり名所の觀念が含まれてゐて、その詞章もまた概ね七五調である。七五調は讀みものとしての物語にもしば/\用ゐられてゐて、義經記の上記の條や後の都落ちの條にもそれがあり、音無し草子の如きは通篇殆どそれによつて成りたつてゐる。これは歴史的には戰記物語などから繼承せられたことであると共に、この時代の思想としては一種の古典趣味の現はれであつて、そこに上記の種々の傾向との連繋があり、古代文化の遺風の尊重せられる時代の一現象である。
 
 ところで、かういふ文學上の作品の作者は何人であらうか。人物を公家貴族に假託した物語の作者が公豪貴族自身ではなからうといふことは、既に考へた。題材を古典から取つたものとても、歌連歌の指導者なりその作者の中心なりが公家貴族でなくなつてゐたこの時代に於いては、やはり公家貴族の手になつたものとは思はれぬ。(舞曲謠曲の作者については次章にいはう。)然らば武士の生活を寫したものは武士であつたらうか。歌連歌は武士の間に廣く行はれたが、その師範となり宗匠となつたものは、今川了俊や東常縁の如き一二の人物を除けると、概して武人ではない。歌人の正徹、堯孝、連歌師の梵灯、宗砌、智薀、心敬、宗祇、などは、みな僧徒か但しはいはゆる遁世ものである。さうして彼等が歌連歌の詞づかひについて教へたところを見ると、一般武士の作者が如何に文辭に通じてゐなかつたかがわかる。このことはなほ後にいはう。かゝる有樣であるから、武士が物語などを作り得たかどうか、甚だお(241)ぼつかないことであつて、今日に遺つてゐる武士の著作として明かに知られるものが、今川了俊の歌についてのそれ、同じ人の難太平記、道ゆきぶり、鹿苑院殿嚴島詣記、など極めて僅少であるのを見ても、それが推測せられる。幕府の記録が多く禅僧の手に委ねられたのを見ても、武人の文筆に於ける能力を知ることができよう。勿論例外はあるので、上に一言した義視の日記のやうなものもあり、また戰亂を記したものなどには武士の著作もあらうかと考へられもするが、文學的作品に於いてはそれとは事情が違ふ。だから武士の生活を寫した物語の作者は武士自身ではなくして、前代に作られた戰記物語と同樣、やはり南都北嶺もしくはその系統に屬する僧徒であつたらしい。後にいふ如く、どの物語にも佛教的色彩が濃厚であり、特に物語の主要人物に出家する場合の少なくないこと、また出家の功徳を語つたもののあること、觀音とか地藏とかの信仰を鼓吹するために作られたものなどのあること、などからも、この推測の誤らないことが知られる。實社會の中心は武士であるけれども、文筆の士の多くは依然として寺院の裡にあつたであらう。かの人物を公家貴族に假託してある物語の作者も、また多くは僧徒ではなかつたらうか。それにもまた宗教的信仰のために書かれたもののあることを考ふべきである。またその讀者翫賞者がすべての活動の中心となつてゐる武士に多かつたことは、おのづから推測せられ、特に武士の生活を描いたものに於いてさうであらうが、公家貴族とてもまたその讀者であつたことが、彼等の記録によつても知られるし、作者と同じ社會に屬する僧徒にもまたそれがあつたらう。僧徒の中に作者のあつたことは、かゝるものが僧徒に喜んで讀まれたからに違ひなく、それであればこそ作者もその間から出たのである。かゝるものを作ることが文筆ある僧徒にとつて一つの流行となつてゐた、といつてもよいかも知れぬ。もしさうとすれば、この時代の文學は題材と翫賞者との主なるものからいへば武士の文學で(242)あるが、作者からいふと僧徒の文學である。
 
以上概説したところを念頭に置いて、次に物語なり舞曲なりそれ/\特殊の形を具へてゐる各種の文學を觀察することにしよう。これが次章の課題である。(ちなみに一言する。謠曲や狂言はもとよりのこと、物語の類でも、書かれた時代の明かにわからないものが多いから、上に擧げたものの中にも、この時代の作でないものがあるかも知れぬが、今一々それを甄別しかねる。)
 
(243)     第三草 文學の概観 中
          物語、舞曲、謠曲、狂言
 
 先づ讀みものとしての物語から考へよう。それを通覽すると、その大部分は、平安朝の物語が人の情生活の動きを細かに寫し出さうとしたのとは違って、別に著作の動機があったらしい。その第一は教訓であって、お伽草子の蛤草子とか二十四孝とかが孝行を説くためのものであることは、いふまでもなく、唐絲草子が同じく孝行をすゝめ、福富草子が物羨みを戒め、梅津長者物語が正直をすゝめ、音なし草子や若草の結末に特に一節の教訓文を附載して、或は女のたしなみを諭し、或は慾深きこと短氣なることを戒めてゐるなどは、この主旨を明かに示したものである。出家の功徳を説いたものらしい朽木櫻に「これを思へば徒らに夫婦の契深き故、親に孝行あるが故に、喜びに喜びをかさね榮え給ふなり、」とありながら、本文には孝行らしい話の出てゐないのを見ても、教訓文字を附け加へることが物語の常例のやうになってゐたことが知られよう。また道徳といふほどの嚴格な意味は無くとも、岩屋の草子の一節には、田舎ものとて侮るなといふやうな、處世上の心得を説く考が含まれてゐるらしく、あきみちの復讐譚にも「計略の深き物語、昔も今もありがたきことなり、これを御賢ぜん人々は萬つゝしみ給ふべし、」と書いてあり、猿源氏が歌を詠んだので美人を得たといふ話などにも、その裏面には才藝を養ふことの必要が諭されてゐる。更に一歩を進めていふと、岩屋の草子や秋月物語のやうな繼子いぢめから事件の起つた物語は、平安朝の落窪物語が權勢に敵することのできない社會状態と、その權勢に阿附する人情とを寫したのとは違って、繼母に對する教訓の意が寓してあるらしく、(244)めでたし/\に終り榮華の地位に上ることに終るのが常であるすべての物語の結構そのものにも、漠然たる勸懲の影が見える。物語に教訓的意義を寓することは、鎌倉時代の十訓抄などから絲を引いてゐるのであらうが、作者が僧徒であるとすれば、沙石集などに先蹤のある説教の形がこゝに移つたとも考へられ、また書を讀むものの範圍が文字の知識の少い下級民にも擴げられたので、昔ならば漢文の經籍について索めた教訓を、讀み易い國語によつて得ようとする世人の要求も手つだつてゐるらしい。或はまた道義の頽廢が何人にも強く感ぜられたこの時代にかゝるものの作られたことに、特殊の意味があるのでもあらう。
 第二には宗教的信仰の勸めであるが、その中でも最も多いのは、觀音とか毘沙門とかの、むしろそれらの祀られてゐる寺院の、利益を説いたものである。秋月物語の結末に「この草紙御覽ぜん人々は清水を御信仰あそばして、月の十八日毎に詣り給ふべし、何事も所願成就なるべし、」とあるが、これは鉢かづきのやうなお伽草子にも、今宵の少將のやうな擬古的分子の多い物語にも、また田村の草子のやうな英雄譚の結末にも共通なことである。毘沙門の本地とか嚴島熊野または貴船の本地とかが、それ/\の神の信仰を鼓吹したものであることはいふまでもない。梅津長者物語などは七福神の話だけに輕いものであるが、それにしても幾分の信仰的要素がある。後にもいふ如く一切の人事を神佛のはからひに歸し、富貴榮華を神佛の御利生の故と觀じ、また英雄を佛菩薩の化身と考へるのが、佛者によつて宣傳せられたこの時代の一面の思想であり、またこれらの物語の作者が僧徒であつたから、故意でなくとも自然にかういふ説法が物語に附け加へられるやうになつたでもあらう。だからこれらの物語が悉く信心を勸める特殊の目的を以て作られたものばかりとはいはれないけれども、さういふものの少なくないことも事實である。さうして知識の程(245)度の低い武士もその他の讀者も、それを怪まずに信じたのであらう。戰亂の世、轉變のはげしき世、自己の力の頼みがたき世、僥倖の求められる世に、かゝる作品の喜ばれたのは、むりも無いので、そこに道義の頽廢と通ずるところがある。
 次には教義を示すためのもので、富士の人穴草子が富士權現の信仰を勸めると共に、地獄極樂の有樣を示すために書かれてゐるのが、その一例である。特殊の教義は示されてゐず、禅宗風の思想も密宗のも用ゐてあるが、天狗の内裏といふものにも地獄と淨土との光景が語られてゐる。青葉の笛が法華經の功徳を説き付喪神が眞言宗の信仰を勸めてゐるのも、この部類のもので、特に付喪神には「もし深意を知らんと思はば、顯網をのがれて秘密に入れ、」と顯教を排斥して密宗を立てようとする宗派爭ひの思想さへ現はれてゐる。但し彌陀の淨土の有樣を示して念佛を勸めるといふやうなのは、お伽草子の小敦盛に極樂往生を説いてある外には、あまり見えないやうである。物語を作り得るものが比較的知識のある天台眞言などの僧であつて、學問には割合に縁の遠い念佛僧にそれだけの力の無かつた故か、但しは觀音や毘沙門を本尊としてゐる寺院が多數の民衆の信仰によつて維持せられねばならぬので、さういふ必要からかゝる著作をする傾があつた故でもあらうか。(權家の保護の無い寺院は民衆の喜捨を要するので、こゝから通俗文學の生まれたのは、民衆的演藝としての猿樂が勸進興行をすることに伴つて發達したのと同樣である。これを思ふと禅僧が民衆的文藝に關係しなかつた理由の一つは、彼等が幕府の保護を受けてゐたからでもあらうか。)なほ、佛教的傾向の今一つは、佐伯、朽木櫻、初瀬物語、三人法師、のやうな出家の功徳を説いた物語である。何れも作者が僧徒であつたからのことである。
(246) 以上は特殊の目的で作られたものまたは特殊の傾向を有つてゐるもののことであるが、義經記、御曹子島渡り、田村の草子、辨慶物語、酒  顔童子、のやうな英雄物語、あきみち(または舞曲の信田や百合若)などの武士の物語は、武士思想の反映としておのづから生まれた武勇譚、冒險譚、復讐譚、などであり、文正草子、物臭太郎、などの出世物語も、また當時の人の一般の欲求を反映したものであつて、よしそれに教訓または宗教的信仰の着色が施されてゐるにせよ、物語の本旨はこれらの武士思想を寫す點にあつたらしい。また轉寐草紙、嵯峨物語、鳥部山物語、などの戀愛譚の作られたのは、何時の世の文學にもある共通の現象と見なければならぬ。但し戀愛を主題とした物語の人物に武士が少いのは注意を要する。さうしてそれが異性のは公家貴族、兒のは僧徒、になつてゐるのは、前のは古典の因襲、後のは作者が僧徒であつたからであらう。(いはゆる男色は僧徒の間には昔から行はれてゐた。けれどもそれが物語の主題になつたのは文權が僧徒に歸した後の現象である。また武士の戀愛觀についてはなほ後章にいはう。)なほかの魚鳥平家(精進魚類物語)や鴉鷺合戰物語などの作られたのも、戰亂の多い武士時代に特殊な現象である。
 この異類合戰物語は戰記物語をもぢつたものであるが、柿本系圖などもやはり同じ性質の滑稽が主となつてをり、謠曲をもぢつた狂言も同樣である。また魚鳥平家には魚鳥の動作にもその寫しかたにも滑稽があるが、物臭太郎の卷首の書きかたもそれに似てゐる。滑稽としては低級のものであるが、戰記物語に種々の滑稽譚や落首が載せてあり、歌人や連歌師が狂歌を作り、能に狂言が伴つてゐるやうに、如何なる場合にも口を開いて笑ふことを忘れないところに意味があるので、必しも諷刺や皮肉でなく苦笑でも嘲笑でもない、無邪氣の笑がそれによつて得られたのである。混亂の世にもかゝる一面があつた。或はさういふ世であつたからこそ、かういふものが生れたのでもあつた。
(247) さて物語の大部分が宗教上道徳上の特殊の動機によつて作られたとすれば、その主眼は話の筋てあつて、話そのものではない。觀音を信仰するものがその利生によつて榮華の運を開き、親孝行のものがその報として金銀財寶を得た、といふ筋道がわかれば、それで作の目的は達せられたのであるから、その間の複雜な人心の動きなどは實はどうでもよいことであつて、それはたゞこの筋を組たてるに必要な道具として用ゐられるに過ぎないものである。かういふ事情がある上に、作者は文字上の知識と佛教的偏見とを有つてゐるに過ぎない實生活の門外漢であり、讀者の思想も幼稚であつたから、世相と人の情生活とを精細に觀察してそれを委曲に描寫するといふやうなことは、できもせず期待もせられなかつたのである。義經や頼光や田村將軍に武士の理想を寄託したものは、英雄崇拜の思想の自然の發現ではあるが、それとても武士の粗大な思想から生まれ、僧徒の手によつて書かれたものであるから、その人物はやはり表面に現はれる行爲が勇ましいだけのこと、その筆もまた目に見えるその行爲を外部から大まかに寫し出したに過ぎないので、しば/\描かれてゐる夫婦親子の情愛とても、やはりきまりきつた感傷的な場面を、きまりきつたことばで敍述するのみである。けれども當時の讀者にとつては、かゝる敍述にも少からぬ意味があつたので、曾我物語や、義經記の如きものが愛翫せられたのも、この人間的情味のためである。
 だから、どの草子を見ても描寫法は極めて粗大であつて、人物をいへば、武士はいつでも鬼神の如く貴公子はたれでも業平光源氏、女はかならず小町衣通姫のやうである。榮華といへぼ、何時でも四方に四萬の藏をたてて金銀財寶が意の如くなり、四季の庭を作つて詩歌管絃に日を暮らす、風景をいへば、どこへいつても春は梅に鶯に柳に櫻、夏は卯の花に杜鵑、菊と紅葉と月と露との秋、時雨と雪との冬であつて、浦島太郎の龍宮城、貴船の本地のみぞろが池(248)の底の穴から通はれる鬼の國、田村の草子の鈴鹿御前の住家、などがその標本である。人物についても自然界についても、かういふ一定の道具を機械的に組たてるのであるから、「口より下は見ゆれども鼻より上は見えもせず」といはれた鉢かづき姫を「はづかしげにてそばみたる顔のあいきやうの美しさ、楊貴妃李夫人もいかでかこれに優るべき、」などといつてゐるやうに、その場合そのものに不調和な文字をさへ、わけもなくならべてゐる。
 さて四方に四萬の藏を立てるとか、「堀の内七十五町に圍ひ籠めて、四方に八十三の倉を立て、家の棟數九十軒造り並べたり、」(文正草子)とか、「地よりは三里高く、八十町の鐵の築地、鐵の網を張り鐵の門を建てたりけり、」(御曹子島渡り)とかいふやうに、算數的に建築物の有樣を記述することは、この時代の草子に共通な筆癖であつて、古くは平家物語(卷三)の重盛の邸の段にも見えるが、これは、宮殿をいふ時にはかならず金銀珠玉の柱や梁をいひ(淨瑠璃十二段草子の申し子の段など)、城郭をいふ時はかならず幾重の築地に金銀銅鐵の扉があるといひ(貴船の本地など)、また事をするに「朝三百三十三度、夕三百三十三度、こりを取り、三年三月精進する、」といふやうに、多くの數を並べると同じく、何れも佛教の經典に慣用の文字であつて、作者は無意味にそれを摸倣したまでである。固より我が國にかゝるものがあるはずはない。かういふ點からもこれらの物語の作者が僧徒であることと、彼等に現實の状態を寫さうといふ心がけの無かつたこととが、知られる。七五調の用ゐられてゐるのも、一種の古典趣味から來てはゐるものの、また同じところに一つの理由がある。要するに文字の上の知識から來たものであつて、現實の觀察に本づいた想像ではない。從つて人物やその行爲を寫すにも、抽象的な概念的なことばで異常な事變を外面から敍述するのみで、日常生活を具體的に寫すといふことはできないのである。たゞ義經記の堀河夜討の段のやうに、戰爭を敍す(249)る場合には、さすがに筆が活きてゐるので、こゝに武士文學の文章の特色がある。
 しかし、かういふ措寫法かういふ文章によつて書かれてゐながら、物語の筋に於いてその多くに共通な着想のあることが知られ、そこにこの時代の物語の一つの意味のあることが考へられる。それは、例へば繼母のまゝ子惡み、同じ地位にある女性の嫉妬、家臣の貪慾野心、強者の專弑横暴、などの如き何人かの惡意ある企てによつて、物語の主要人物が、或は殺されんとしまたは一たび殺され、或は悲境に陷り、また或は言語に絶する艱苦を嘗めながら、多くは神佛の救ひ、指示、またはその他の種々の奇蹟によつて、その境遇を脱し、終局に至つて或は所思を遂げ或は敵を仆し、終に榮華の道を開く、といふ一篇の結構である。上に述べた岩屋の草子、秋月物語、男衾三郎、などがそれであり、舞曲の信田や百合若、謠曲の鳥追舟、も同じであるが、これらは社會的秩序の崩れてゐるこの時代の武士にありがちの事實に本づきながら、その結末を幸福を得たことにしたものであるらしく、讀者の興味は主としてそこにあつたと共に、教訓的または宗教的意味もそれに含まれてゐるのであらう。嚴島、熊野、月日、の本地にも同じやうなことが見えるので、これは本地を語るについて、當時の人心を感動させたかういふ話を取入れ、さうしてそれにインド的要素を加へ佛教的色彩を施したのであらう。あまりにも殘酷な行動や陰慘な光景がそれらに語られてゐるのは、神や佛の本地を説かうとした物語の性質から考へると、釋迦の本生譚などに幾らかの由來があるかも知れぬが、それよりもこの時代の殺伐な氣風の反映と見るべきであらう。さうして神または佛となつて人の苦難を救ふのはみづから苦難を經それを體驗してはじめてできる、といふ考がそれに寄託せられてゐるのではあるまいか。物語の本筋はこれらとは違ふが、毘沙門の本地、天稚彦物語、梵天國、などにも、主要人物が或は不幸の境に陷り或は種々の艱苦もし(250)くは試錬を經て、最後に幸福を得るやうになつてゐる點は、これらと同じであつて、そこにもやはり上記の興味の一半がある。
 なほこゝにいつた毘沙門の本地以下の三つの物語には、妻をたづね夫をたづねまたは得がたきものを得んがために、天空または人の到りがたきところを遍歴する話が、重要な意味をもつてゐる。これはこの時代にしば/\見聞せられた事實、そのうちには能の物狂ひに現はれてゐるやうな、人買ひにかどわかされたことから起り、または戰亂のために、或は所領を失つたために、また或は出家の風習から生じた、親子夫妻の別離、などがあらうが、さういふ事實に本づいて作られたであらうと考へられる種々の物語に、別れた子をたづね親をたづねまたは夫をたづね妻をたづねて所々をめぐりあるく話のあることと、連繋があるので、その點にも讀者の感興がつながれたであらう。舞曲にもそれがあつて、信田には姉が弟をたづねて日本國中を歩きまはる話がある。なは遍歴といふ點に於いては御曹子島渡りの着想とも關聯のあることを參考すべきである。
 これらは現實の世相に題材を求めたもの、もしくはそれに適應するところのある説話を佛教の經典などから取つたものであるが、後の方のは天空を遍歴して星辰と語つたり、地獄への入口を見て過ぎたり、梵王宮または兜率の内院にいつたり、さういふやうな空想的神話的物語となつてゐる。これは富士の人穴草子や天狗の内裏に地獄極樂の有樣を見ることにしてあるのとは違ひ、それに宗教的意味が幾らか含まれてはゐるものの、物語としては、それと共に全體の情趣の空想的神話的であるところに一つの興味があるやうに解せられる。女が龍王を夫としたり梵王の女が天から下つて人の妻となつたりするのも、それと同じであり、鉢かづき姫や一寸法師の如き童話的または民間説話的要素(251)のある物語も、それらと共通の性質をもつものとして見られる。かゝる物語の好まれるのは、何時の世でものことであるが、このころの如き現實の世相の甚しく殺伐な時代には、古典文學の尊重せられる一つの理由として上に述べたのと同じ心理から、特にそれの喜ばれる事情があつたのではあるまいか。たゞ童話的民間説話的のものにも、當時の世相と接觸するところのある構想を加へ、或は教訓的宗教的意味を附會したと同じく、これらの神話的物語にもまた同じ色彩の加へてあるところに、この時代の作品たる所以がある。
 この時代の物語の特質はほゞかういふものであらうと思ふが、最後に一言すべきことはこれらの物語と繪卷物との關係である。木版印刷の術は既に世に行はれてゐるけれども、それは漢籍に於いてであつて、まだ國文學に應用せられるまでにはならなかつたから、歌書でも古物語でもすべて寫本で傳はりも弘まりもしたであらうが、草子の類は古來の慣例で多く繪卷物ともせられた。(應永のころに融通念佛縁起の繪卷物が版行せられたのは特殊の例であつて、普通には寫本で行はれたであらう。)大和繪の需要の少くとも一半はこの方面であつたらしく、物語の世に弘まると共にかういふ繪畫も盛に行はれた。(國民藝術としての繪畫がこの大和繪であつたことは、上にもいつておいた。)ただ平安朝時代とは違つて讀者の範圍が廣く、從つてまた昔の宮廷の貴公子や婦人のやうに閑暇も多くなく知識の程度もそれよりは低い社會に行はれたのと、前にも述べた如く教訓などの意味のあるものが多いのとのため、物語を主にしてそれに繪を摘むものがあると共に、むしろ繪が主であつて物語はその解釋に過ぎないやうなものも現はれたらしく、物語として價値の少いものの多いのも、お伽草子のやうな單純なもののあるのも、こゝに幾分の理由があらう。なほ讀みものとしての物語と語りものとしての舞曲の詞章との間に何等かの關係のある場合もあつたかと思はれるが、(252)その間の關係は明かでない。次に舞曲を考へて、そのことにも言及するであらう。
 
 讀むために作られたものではないが、幸若の舞曲も謠曲もその詞章は文學上の作品として取扱はれねばならぬ。特に舞曲のには、殆ど純粹の草子物語として見られるほどのものもあつて、その中でも、百合若、信田、などは、一つの葛藤があつてそれが解決せられるやうな筋をもつてゐる物語である。大織冠、入鹿、景清、などもまたそれに准じてよからう。舞曲の大部分を占めてゐるものは、戰記物語及び義經記と曾我物語とから出てゐて、それらは何れもさういふ筋だてが無く、たゞ斷片的に或る光景を敍するだけのものであるのに、これらの數曲がそれとは趣の違つてゐるところを見ると、もとから舞曲の詞章として作られたものか、或は單純なる物語であつたものが舞曲に用ゐられるやうになつたのか、疑はしくもある。しかし義經記ものも曾我ものも、いろ/\の潤色は加へてあるが、殆ど原本を幾つかに切り離して、別々の題目をつけたまでといつてもよいほどのものであり、さうして信田でも景清でも長篇のものは、舞としてその一部分づゝを演じたらうと思はれるから、實をいふとその間に明かな差別を立てかねる點がある。現に四國落、靜、小袖曾我、夜討曾我、などの起首には「さるほどに」とか「さる間」とかいふやうな、前を承けるべきはずの句があるから、これらは詞章の上に於いては前の曲から引續いてゐるものであることを示してゐる。その反對に、景清などには中間に「黄塵上下おしなべて感ぜぬ人はなかりけり」とか「上下萬民おしなべて惡まぬものはなかりけり」とかいふ、堀川夜討、八島、和田酒盛、などの結末に用ゐられてゐるのと同じ句があるから、これは演奏の場合にこゝで段落になることを示すものであり、從つてそれまでを一曲として演奏することがあつたらうと(253)推測せられる。從つて百合若や信田などが讀みものの物語を舞曲の詞章として用ゐたものと見ることには、なほ問題があらう。特に信田や景清には普通の物語には見えない舞曲特有の句法があるから、この點からもそれが單純な讀みものとして作られたものでないことが推測せられるやうである。しかし舞曲としては後期の作であるかも知れぬ。特に信田や百合若に於いてさう感ぜられる。
 舞曲の詞章は読みものとしての普通の物語とは違つて、演ずる場合に聽くものを強く刺戟する場面のあることが必要であり、さうして長篇のものを一時に演ずることはむつかしいから、全體の物語の筋はわからなくなつても、かういふ場面を中心として、幾つかの短い部分に切り離すやうになるのは、自然な取扱ひかたである。だから詞章としての物語は長篇のものであつても、舞曲としては短い斷片的のものになる。たゞ短かくても平板な抽象的な敍述では演じて興味が無いから、何か際立つた光景を目に見えるやうに表現することが必要である。平治物語(卷三)から材料を取つたらしい伊吹に、頼朝が六條河原に引き出されて今しも首を斬られるその一刹那、池の尼が車を急がせて來て赦免の由を傳へ、邸へ伴れて歸るといふ、一場の光景を作り出したなども、この故であらう。さて舞曲の詞章が舞のためのものであるならば、その題材と用語とに於いても、それに必須な制約があるはずである。それを知るには舞を翫賞するものが何人であつたかを考へねばならぬ。
 舞の起原に關しては、桃井直常の孫で叡山の兒であつた幸若が始めたといふ傳説があるばかりで、確かなことはわからないが、今傳はつてゐるものの大多數が武士の物語であつて、謠曲などのやうに平安朝の古典から題材を取つたものが一つもなく、「入鹿」にさへも鎌足を武士らしくしてあることと、僧徒の現はれるものも無く、佛教的な悲哀の(254)氣分も無いこととから考へると、初めから武士のために作られたものらしい。琵琶法師の平家はあるが、力の無いめくら聲で濕つぼい空氣を漂はせるのが、武士の耳には快くない點があり、女の演ずる白拍子の舞も、美しくはあるが武士の心情はそれに現はれず、さりとて曲舞もあまりに單純であり、その主題の多くは武士にとつてはよそ/\しいものである。その缺陷を補つて、武士らしく勇ましい物語を耳にもきゝ目にも見ようとしたのが、幸若舞の起原ではあるまいか。舞や朗吟のしかたは、よくは判らないが、多分、舞態も曲節も粗大であり、鼓の鋭い響によつてその風情を助けたのであらう。
 舞曲の由來がかういふところにあつたとすれば、その多くに勇ましい場面のあるのは當然である。景清の、清水の隱れ家で追手を討ち退ける一段や、牢破りの場、信田の浮島太夫の軍の場、などはその標本的のものであつて、義經記や曾我物語を潤色するにもこの點に注意したらしい。例へば堀河夜討に於いて、義經記では靜が醉ひ臥してゐる義經をよび醒まし、かひ/”\しく甲冑をきせて出で立たすといふことになつてゐるが、舞曲では靜自身に花やかな武裝をさせて敵に向はせてゐる(女の出陣は信田にもある)。富樫の話が、義經記では辨慶が東大寺勒進の山伏と稱したのみであるのは、舞曲では勸進帳を讀ませてゐる。また和田酒盛も、曾我物語では和田が大磯に宴を開いて十郎を招き五郎にも逢つたといふのみで、虎も席に出るだけであるのは、舞曲では虎のたてひきと五郎の働きとを案出して、勇ましくも花やかな酒宴の場を現出させた。これらは傳説發展の自然の徑路ではあるが、作者の用意がこゝにあつたことをも示してゐる。必しも形に現はれた勇ましい場面を見せるとは限らないので、腰越などにはさういふところが無いが、その代り武士の運命について一種の哀愁を催させる。要するに武士の情感を刺戟する何物かが必要であつた(255)のである。入鹿や大織冠も、僞盲目になつて我が子の殺されるのを傍觀してゐる苦衷や、入鹿を倒す光景、或は蜑が乳房を割いて玉をその裡に藏すところ、などに武士の感興をひかうとしたものであらう。近松以後の淨瑠璃にでもありさうな趣向であつて、その先驅となつたものであらうが、これは多分、この時代の種々の戰争の記録にも見えてゐる如く、武士が權謀術數を行ふことが多いために、それをかういふ形によつて物語としたのであらう。百合若や烏帽子折の插話の用明天皇が或る目的を達するために身をやつしてゐたといふのも、或は義經主從が奧州落ちの時に山伏の姿になつて人目を欺いたといふのも、畢竟同じことである。大織冠の蜑が海底にある龍宮にいつてその有樣を見たといふのは、盛衰記の寶劍を捜しにいつた蜑の話から來てゐるでもあらうが、玉を乳房に藏したことにしたのは、やはり一種の欺瞞である。
 しかし舞曲には、武士の心情行動が語られ示されてゐるところに他の舞曲と同じ趣がありながら、むしろ物語そのものに主なる興味のある百合若や信田の類があるので、かういふものに於いてはその感興が複雜になつてゐる。詳言すると、そこに苦難の間に處する武士の操守や主從夫妻親子兄弟などの情愛に對する同情と讃美と、物語の結末に至つて生ずる滿足感とが、あるのである。或はまた武士の行動を示すところの全く無いものもある。笛の卷、常盤問答、伏見常磐、未來記、などがそれであつて、笛の卷は笛の由來を語つたもの、常盤問答は佛教に關係のある論議であるし、伏見常磐は結末の田歌に主なる興味があり、未來記とても、豫言をすることは戰記物語にしば/\用ゐられた着想であり、特に太平記には未來記といふ語も見え、天狗がそれを語りまたは示す場合もあるから、これはたゞそれを學んだまでのものである。これらは義經に關係をもたせた點に於いて、武士の心情と或る連繋があるのみであるが、(256)舞曲としてかゝるものの作られたのは、これがためであらう。
 舞曲の詞章は、概していふと當時に普通な敍事の文であるが、殺氣立つた急迫した光景を敍する場合になると、文章にもおのづから活氣が加はつて、或は捉音揚音を多く用ゐた鋭い調子の武士的口語を用ゐ、或は地の文を省いた對話の形とし、古風な語で形容すれば、それを讀んでおのづから血湧き肉躍るといふやうなところがある。上に述べた和田酒盛などはその最も妙境に達したもので、高館の衣川の合戰、堀川夜討の靜が義經に甲冑をきせる一段、なども同じ例である。「三枚の草摺が切るゝか、膝の節が違ふか、踏まへた板が大地に落ちつくか、三つに一つは定のもの、と思ひて、ふんちがへて立つた、はつしんをいらゝけ、前へえいと引いた、後へえいと引いた、草摺切れてのきけれど、立所を知らずして、ふんちがつて立つた、」(和田酒盛)、また「鈴木このよし見るよりも、十三束三つがけ三人張にからりと番ひ、本弭末弭ひとつになれと、きり/\と引き絞り、かなぐり放しにかつきと放す、一陣に進んだる照井が從弟に、丸田の藤次がたか野がたうの矢一筋と、進み懸けたる胸板に立つより早くくつと拔け、裏に控へたるむき野の四郎が首の骨にひつしと立つ、」(高館)、といふやうな現在法と擬音的(特に加行と促音との)形容詞とを見るがよい。擬古的分子の多い物語や、古歌や成句を剪裁補綴した謠曲の詞章とは違つて、率直な口語に力強い調子もあり、具體的な敍述がその光景を眼前に活躍させて、この時代の文學に異彩を放つてゐる。但しかういふ特殊の光景でない場合には、間の伸びた平板な敍述も多く、七五調などもある。特に景清の清水で敵を追ひ拂つてから尾張に下る場合の道ゆきの如きは、哀れげな語を連ねた典型的のもので、景清の曲としては甚だ不調和である。たゞ場合によつてはこの優雅な七五調が舞曲の主題から來る殺伐な氣分を一時的に緩和する特殊の效奧があることは、注意せられね(257)ばならぬ。
 幸若舞の舞人には、大夫があり、ワキやツレもあつて、詞章はそれらの獨吟または獨白ともなり、かけ合ひともなり、また合唱ともなつたのであらう。けれどもその形は純然たる敍事體であり、また舞人は曲中の人物に扮するのではなく、たゞ詞章の朗吟を分擔するのみであつて、その數も少く、舞人と曲中の人物との間に一定の關係もない。例へば高館に於いて、大夫が鈴木の詞をも辨慶の詞をも語ると共に、鈴木のはワキにもツレにも語られるのである。地の文を大夫などが語ることは、いふまでもない。その服裝も、どの曲にも一樣に當時の武士のを用ゐるので、曲中の人物とは何の關係も無い。本來幸若舞の主題は武士の物語であるから、詞章に於いては、語りものとして行はれてゐた平家などの典型から、遠く離れることがまだできなかつた。また舞としては延年舞や曲舞などに淵源があつたらうと思はれるから、おのづからその因襲に從つたのであらう。舞といはれるほどのものであるから、よしその所作に幾らかの物まねの分子があるにせよ、それは簡單なまた形式化せられたものであつたらう。要するに幸若舞曲は、舞ではあるものの、むしろ語る方が主であつて、その意味では、平家からすぢを引きながら、その曲節と樂器とを變へたまでのものといつてもよいほどである。
 
 ところが謠曲を詞章とする能になると、役者は曲中の人物に扮するので、假面もそのために用ゐられるが、曲の形も外觀上かなり劇曲らしくなつてゐる。これは本來、物まねを本色としてゐる猿樂から發達したものであるから、初めから對話や獨白とそれに伴ふ動作とがあり、詞章もそれに應じて作られ、田樂の歌舞や延年舞や曲舞や白拍子の舞(258)などから取つたところがあつても、それをかういふ構成の中にはめこんだのである。たゞ演奏の上で從來の舞から繼承せられてゐる地謠があつて、その部分の詞章にはおのづから敍事の體になるところがあるのと、詞章に古典的要素を多く含んでゐるだけ、從來の形に拘束せられる氣味があるのとで、なほ敍事的な地の文がところ/”\保存せられてゐる。演奏上の地謠と詞章としての地の文とは必しも一致せず、地謠にも曲中の人物の吟唱すべきことの含まれてゐる場合があり、また曲中の人物ではない何人かがその情思を謠つてゐる如く聞きなされるところもあつて、後者はいはゞ舞臺に上らない一般人の情思を表現したものともいはれようか。曲中の人物の吟唱と地謠とが連吟または對唱になつてゐる場合のあるのは、主として演奏上の便宜から來てゐるやうであるが、こゝにもまた一つの理由があらう。けれどもまた地謠が明かに詞章としての地の文として敍事の體になつてゐるところもあり、それと共に、シテまたはワキの扮してゐる人物を第三者としてその行動の敍してある地の文を、その人物みづから語る場合もある。これは謠曲の詞章が敍事の體から離れてゐないこと、從つてまた完全に劇曲化せられてゐないこと、を示すものであり、詞章の上から見ると、曲中の人物の種々の形での吟唱と地謠とが連續して一章の敍事の文となつてゐるところがある。これは今人からは不合理に感ぜられるが、當時の能の觀客はそれを怪まなかつたと見える。もと/\舞臺上の花やかな動作を見るのが主眼だからであらう。能の形のまだできない前の猿樂は、歌曲または何等かの形での吟唱と白と物まねの動作とのみであつて、一定した敍事的の詞章、從つて地の文、が無かつたのではあるまいか。謠曲の詞章の作られたのは、一つの意味に於いては、猿樂に古典的要素を加へたものである。或は讀みものとしての物語の情趣をもたせたものといつてもよからうか。要するにこれは猿樂が變質したものと見るべきであらう。
(259) しかし猿樂の變質は他の方面にもあるので、それは能に舞が重んぜられたことである。これは謠曲を讀み能を觀ればすぐに氣のつくことであるが、世阿彌の書いた能作書にも、能に取るべき題材を説いて「老若男女の人體悉く舞歌によろしき風體に作り入れて之を作書すべし」といつてある。世子六十以後申樂談儀にもまた「遊樂の道は一切物まねなりと雖も、申樂とは神樂なれば舞歌の二曲を以て本風と申ぬべし、」とある。この點からいふと、能の主位にあるものは舞であつて、物語の筋はそれを導き出すためのものであるといつてもよいほどである。これはその題材となつた古傳説と比較してもわかることである。例へば幸若舞曲の富樫と笈さがしとを結びつけたらしい安宅に於いて、辨慶などの僞山伏が關を通つた後で富樫が酒を贈ることになつてゐるが、これは辨慶に「鳴るは瀧の水」を歌はせて舞をさせるためであらう。道成寺で舞臺を鐘供養の場とし、今昔物語から出たかの有名な昔物語を僧の談話としたのは、怨靈の蛇體を白拍子に變化させて舞はせるのは都合がよい故と思はれる。蘆刈が、大和物語や今昔物語では女がすでに人妻になつてゐるのとは違つて、夫婦めでたく再會して京に男をつれて歸ることになつてゐるのも、後に説くやうに思想上の理由があると共に、さうしなくては男に舞をさせる機會が作られないからでもある。當時の事實譚から脱化したものらしい籠祇王に於いて女の名を祇王としたのも、籠の中の父に會ふために舞をさせることにしたため、名をこの有名な白拍子にかりる必要があつたからである。
 能の主眼は舞であるから、羽衣、吉野天人、鶴岡、山姥、など、傳説そのものに歌舞の具はつてゐるものは、題材として最も適當のものであり、佛の原や楊貴妃なども、その亡重なり魂魄なりに白拍子を舞はせ霓裳羽衣の曲を奏させるに適應する人物を拉して來たのであつて、かういふ種類の題材は殆ど遺漏なく取られてある。石橋の獅々舞、遊(260)行柳の柳花苑、難波の梅の精の春鶯囀、蝴蝶の「蝴蝶」、なども舞樂の名に附會するに便利な題材である。從つて、舞の種類は殆ど有らん限りのものを集めてあるので、神社に關係あるものには神樂、大和舞(淡路、葛城、弓八幡、嵐山、など)、佛教については龍女の舞(春日龍神)、彌陀の淨土の二十五菩薩の舞(誓願寺など)、があり、古典的のものには舞樂(難波、白樂天、など)を取る。また亡靈の成佛には、或は歌舞の菩薩の舞(空蝉、軒端梅、など)、或は報謝の舞(身延、現在七面、など)とする。その外、客を慰むるための舞(老松など)、酒宴の舞(三澤、木曾、など)、喜びの舞(春榮、小袖曾我、など)、昔語を曲舞にすること(隱岐物狂)もある。また民間演藝の曲舞(粉川寺)、鞨鼓八撥、獅子舞(望月)、田歌(飛鳥川)、なども取られてゐる。題材によつては舞はせる手がかりの無いのもあるが、さういふ場合にさへ強ひて舞はせてゐる。鸚鵡小町に業平玉津島の法樂の舞といふのを、杜若に歌舞の菩薩の垂跡としての業平の舞を、させるなどがその例であつて、極めてむりな舞はせ方である。定家、采女、などに昔なれにし舞の袖を飜へさせるなども、物語全體の氣分とは少しも調和せず、敦盛の幽靈に一の谷の昔語をさせてその時の舞をまねさせるのも窮策であり、上に述べた籠祇王の舞なども苦しい趣向である。その他、辨内侍の法樂の舞も、融の後半のありし世の遊樂のさまを見せる舞といふのも、或は玉の井の豐玉玉依二姫の舞も、かなり無理なものであつて、かういふ例は數へ擧げれば限りが無い。寐覺に天女と三歸の翁と龍神とにそれ/\舞をさせるやうなこともある。それほどにして舞はせねばならぬほど、舞が大切であつたのである。物まねを本質とした能がかうなつたのは、舞を演ずるそのことが物まねの一つの姿であつたところに遠い由來があると共に、田樂やその他の民間演藝の舞を取入れたことが觀客に喜ばれたので、次第にそれを主とするやうになつて來たからであらう。曲によつては舞の無いも(261)のもあるが、それには物狂ひとか勇ましい戰闘の有樣とか、その他の何等かの特殊の所作とか、即ち能の術語でいふカケリや働きなどの際立つて美しい見せ場を以てそれに代へてあるので、多くの狂女ものや曾我ものなどにその例がある。これには猿樂の本質であつた物まねから繼承せられたところもあらうし、また舞のみでは多くの題材を用ゐることがむつかしかつたからでもあらう。これらは猿樂が全く變質してしまはないことを示すもののやうでもあるが、物狂ひは舞の要素を多く加へて美化せられてゐるし、カケリや働きとても寫實的でないところに、猿樂の昔の姿とは違つた情趣があり、それらが舞に代るものとして取扱はれ、一曲の構成上舞と同じ地位に置かれた意味も、そこにあらう。何れにしても能の主眼となるべき舞臺上の花やかなしぐさが最後に無くてはならないのである。
 能の主眼は舞臺で美しい舞もしくはそれに代るものを見せることであるが、それにしてもその舞を導き出す何かの物語が無くてはならぬ。さうしてそれを舞臺上の役者の動作と吟唱と白とで運んでゆかねばならぬ。これが猿樂本來の物まねの部分であると共に、詞章としての謠曲の主要部分でもある。舞を主とする點からいふとこの部分はそれを書き出すためのものであるが、曲の全體からいふとこれにも重要な意味があり、一曲の主題がそれによつて示され、從つていかなる舞をさせるかもそれによつて定まるのである。能は舞とこの部分との二つによつて構成せられ、この部分から、多くは中入を經て、舞の段に移行するのである。さうしてその全體が、一定の方式によつて時間的に進行する種々の形の吟唱と白とそれに伴ふ動作とのかなりに變化のあるつなぎ合はせから成り立つ。世阿彌はこの進行に樂の用語の序破急の名を適用してゐるが、それは必しも當つてゐるとは思はれぬ。たゞ最後の舞の場面に到達するまでの徑路とその舞への移りゆきと、即ち一曲の進行の過程、に於いて、その過程とそれにつれて情趣の變化してゆく(262)有樣とを、かういつたところに一つの意味はあるであらう。
 能はかういふものであるから、その形が敍事の體を脱しきれないながらに、ほゞ劇曲らしくなつてゐるが、劇の如く相對する二つの力の葛藤がそれによつて示されるのではない。曲によつてはさういふ傾向をもつてゐるものが無いでもないが、明かにさうと解せられるやうに構成せられてはゐない。一般の例としては、シテとなつて最後に舞をする一人のその舞をするやうになるまでの遺すぢに於いて、それを誘ひ出す役めをもつものが、それと共に行動するだけのことである。役者がシテの外には、名稱からもその性質の知られるワキとかツレとかがあるのみであるのも、シテ一人の演ずるのが能の本質だからである。曲によつてシテと後シテとが全く別の人物になつてゐる壇風や舟辨慶の如きもののあるのも、そのためである。舞の場合にシテの外にツレの舞ふこともあるが、それとても舞ふものはツレなのである。この名稱は幸若舞などの因襲によつたものであるが、それがそのまゝ用ゐられてゐるところに意味がある。かういふ舞臺上演奏上の地位によつて役者が呼ばれるのは、能が人とその性格や活動とを示すためのものでもなく、事件の展開と落着と、または何等かの葛藤とその解決と、を見せるためのものでもないからのこととも、いはれようか。たゞ一曲の進行してゆく過程に於いて、そこに現はれて來る人物なり生起する事件なりに對する觀客の心情が動き、それがおのづから最後の舞を鑑賞する準備とはなるのである。物狂ひの如きも、眞の物狂ひの状態ではなく、狂うて見せよといはれて狂ひだすのが常であり、時には「われは物に狂ふよな」とみづからいふ場合(三井寺)があるのでも、知られる如く、狂ふことを意識して狂つてゐるやうに作つてあるが、これは舞臺の上で一定の場合に物狂ひを演ぜさせる必要からであり、さうしてそれは、物狂ひの吟唱に古典的情趣が漂ひ、その狂ひかたが舞踊化せられ(263)美化せられてゐて、陰慘の氣の無いことにも助けられて、おもしろい見ものとせられたからである。たゞ物狂ひになつた事情がその前に何等かの方法によつて示されてゐるため、觀客の同情もしくは憐愍がその間にはたらくのではある。けれども能としては、それよりも見ものである點が重要である。舞などばかりでなく、それを導き出す部分に於いても、舞臺の上で演じ得られる光景をむりにも作り出さねばならぬので、傳説から題材を取つたものに於いても、それをかういふ風に改作するのが常である。義經記に出典のある舟辨慶で、原作にはたゞ暴風を平家のものの死靈のしわざとしたのみであるのに、知盛の幽靈が現はれることにしたのも、怨靈を舞臺に上ぼせるためである。黒塚の古歌の鬼を眞の鬼女にしたのも、萬葉(卷一)の三山の戀物語を、卷一六の櫻子縵子の傳説と結びつけて、二道かけて通ふ男の話として人物を點出したのも、傳説發展の上からいふと自然の徑路ではあるが、また同じ理由からも來てゐる。もつと根本的にいふと、神に形を顯はさせたり幽靈を出したりするのも、思想上の理由は別として、能としては、さうすることが必要だからである。謠曲を文學として見るにはこの第一の制約を忘れてはならぬ。
 能の多數は何等かの葛藤があつてそれを解決するといふやうな筋のあるものではない。從つてその主題もその取扱ひかたも甚だ單純なのが一般の例である。然らばその主題は何であるかといふと、それには、その演奏が神社佛寺に於いて行はれたといふ猿樂以來の歴史と、將軍家の特別の保護を受け武人に愛翫せられたといふ事情とが、最も多く影響してゐる。從つて第一に重要なのは、神社の縁起を述べ神徳を讃美するいはゆる脇能もので、淡路、大社、春日明神、白鬚、龍田、など數は頗る多い。さうしてそのうちには、神事に深い關係のある祝言の意の寓せられたものもあつて、龍田などがその好例である。神事とは結びつけてない祝言もあつて、高麗唐から君に捧げる貢物を積んだ寶(264)の船が住吉の浦につくといふ岩船、昔の呉織漢織または王仁が現はれて、治れる大君の御代を壽くといふ呉服、難波、などがそれであり、君に仙藥を奉るといふ浦島、唐帝の使節に不死の藥を與へるといふ富士山、などもこれに關係がある。この思想は前篇にも述べた如く、鎌倉時代から文學の上に現はれて來たものであるが、武家政治の世ながら將軍を謳歌しないところに謠曲の古典趣味がある。(後にいふ狂言の祝言と比べて見るがよい。)さて第二に多いのは、佛教に關係のあるもので、その中でも僧の廻向をうけて成佛するもの(いはゆる幽靈ものの多數)、祈?や法力で怨靈鬼畜などの消散降服するもの(舟辨慶、道成寺、黒塚、など)が最も多く、また念佛や經文の功徳を説いたもの(盛久など)もある。傳説をとつてもこの思想で改作を施すので、萬葉(卷一四)の佐野の舟橋の歌をもとにして作られた船橋で、女の親がその船橋を取り去つたため男が水に墮ちて死ぬといふ、萬葉では思ひもよらぬ趣向を立てたのは、亡靈を弔ふ必要があつたからであり、姨捨山で、大和物語では一度棄てた姥を更につれて歸ることになつてゐるのを、姥が棄てられたまゝになつてゐるのも、西ゆく月の光から彌陀の淨土を聯想させるためであらう。さてかういふやうな佛教的意義のあるものの作られたのは、一つは當時の信仰の反映でもあり、一つは作者がさういふ知識を有つてゐるものだからでもあらうが、寺院と僧侶とが猿樂の發達に重要な關係があつた歴史的事實に深い由來があらう。また製作の技術からいふと、幽靈などは過去の人物を舞臺に現出させる方法として便利な姿でもあつたらう。
 けれども謠曲の主題には、かういふものばかりではなく、他の方面にも重要なものがある。それは武士の翫賞を目的にしてゐるために、勇ましい戰闘の有樣を見せることであつて、義輕記曾我物語に本づいた幸若舞曲を改作したものはみなこの類であり、草薙、大江山、小鍛冶、雷電、湛海、橋辨慶、惡源太、佐々木、または外國種のもので第六(265)天、張良、龍虎、なども同樣である。幽靈ものでも、熊坂、八島、生田敦盛、碇潜、伏木曾我、などは、亡靈が戰闘の有樣を形に現はして見せるところに、他の曲に於いて舞を舞ふと同樣な、能としての主眼があつたらしい。能を陰鬱な悲哀な氣分を現はしてゐるものと思ふのは大なる誤であつて、前項に述べた祝言ものといひ、またこの武士的のものといひ、むしろ華やかな、もしくは壯烈な、有樣を示すのが主であることは、謠曲の詞章からも推察せられる。佛教思想は何れの曲にも存在するが、それは毫も祝言や武士の勇ましい行動の表現を妨げるものではない。幽靈ものさへ、美しく艶やかな舞や勇ましい働きが中心となつてゐるではないか。
 しかしこれらは、まとまつた筋の無い斷片的のものである。ところがこれではあまりに物足りない。能は舞などを主眼として目に見るものではあるが、それを演ずるまでの過程として物まねが演ぜられるとすれば、それに物語として興味のあるものを求めるのも、自然の成りゆきであらう。だから夫婦、主從、親子、などの間の人情の葛藤を示さうとしたものが作られた。物狂ひもその一つであるが、それは夫婦や親子の一方の行くへがわからなくなつたために、他の一方が物狂ひとなり、後にそれがめでたく再會する、といふ筋である。物狂ひではないけれども、歌占、飛鳥川、舞車、花月、などはやはり同じ主題である。竹雪、松山鏡、などの繼子いぢめ、藍染川、砧、のやうな嫉妬物語、水無瀬、苅萱、のやうな出家した父が子に再會する話、或は春榮、滿仲、の如き身代りを主題としたもの、富士大鼓、放下僧、望月、の如き復讐譚、或は鉢の木、藤榮、の如き横領せられた所領の同復せられる話、または上にも述べた鳥追舟など、何れも當時の武士の心情を動かす何等かの物語を含んでゐる。義經記や曾我物語の系統をひいてゐるものも、單に勇ましい光景を見せるのみでなく、そこに武士的氣質と義經主從の情誼または曾我親子の情愛とが、現は(266)れてゐる。固より能としての型が定まつてゐるから、かういふ人情を委曲に表現することはできないが、ともかくも單純な舞臺上の言動でその筋がわかるだけにはしくまれてゐるので、これらのものには單調ながら、また外面的ながら、葛藤とその解決とが示されてゐる。
 ところが、能のやうな短い時間の單純な演奏では、簡單な話の筋ですらもそれを盡く舞臺の上で示すことはできない。だから、實際に演ずるところは、舞またはそれに類似の所作を誘ひ出す場面であつて、全體の筋からいふと概ね終局の一段である。從つて舞臺に現はれるまでの徑路は、最初に現はれる人物にそれを説かせるのが多數の例であつて、それがためにかういふ種類のものは、ワキの次第に始まりそれから名乘を擧げて道行に移るといふ普通の形とは變つた構成になつてゐる(鳥追、苅萱、弱法師、天王寺物狂、春榮、など)。初めて舞臺に現はれるものに名のりを擧げさせ場所を語らせることは、背景などの無い簡素な舞臺に於いては必要な用意であつて、これは元曲にも古いヨウロツパの劇にも例のあることであるが、筋のやゝこみ入つたもの、または古典なり傳説なりによつて人の多く知つてゐる物語でないものに於いては、それと共に大體の筋を話させておく方が便利なのである。
 しかし、これだけではなほ全體の筋を觀客に領解させるには不十分であるが、舞臺の上で時と處とを無造作に結びつけることによつて筋が簡單に運ばれるから、この方法によつてそれが補はれる。道ゆきが既にそれであつて、如何なる遠方でも三四句を謠ふ間にゆきついてしまふが、重要な動作の演ぜられる場所でもそれと同樣、必要の場合には自由に處をかへ自由に時を縮めてしまふ。自然居士で雲居寺がすぐ琵琶湖の畔になり、丹後物狂では花若が父に叱られた時から一足とびに彦山修業の幾年かの後國へ歸る時になつてゐる。苅萱に於いて、初めは山の麓の宿であるのが(267)すぐ山の上になり、また一轉してもとの宿になるなども、その例である。
 けれどもまた、稀には中入によつて場面を二つに分けることもある。中入は、神や亡靈の現はれるものに於いては、人の身をかりてゐる段と神または亡靈自身の出現する場とを區別するために用ゐられる演出上の一つの方法であるが、さうでないものでも、例へば小督の仲國が勅命をうける場と小督を訪ねる場と、また鉢の木の佐野源左衛門のわび住ひの場と鎌倉の場との如く、一つゞきの事件を二つに分ける場合にも用ゐられる。舟辨慶の義經が舟出に臨んで靜を都に返へす場と船中で知盛の幽靈に出合ふ場と、また烏帽子折の烏帽子を折る場と熊坂を退治する場との如きも、中入によつて區別せられるが、これらは實は同じ人物が引き續いて現はれるまでのことで、前の場と後のとは事件の連絡がまるで無く、別の主題を取扱つたものであるから、能の構成の通型からいふと、これは實は獨立した二曲に分つべきものである。それが一曲になつてゐるのは、舞曲などから材料をとつたために敍事體の詞章にひきずられたからであらうか。實際、舞曲から來た義經もの及び曾我もの、また羅生門、惡源太、七騎落、のやうな戰記物語に淵源のある曲は、詞章の形が一般の例とは違つてゐて、殆ど純粋の敍事文といつてよい。だからこれは除外例として、鉢の木などのやうに一つの物語の場面を二つに分けることは、幾らか複雜な物語のあるものを演ずるやうになると、起つて來なくてはならぬことであるが、それがあまり多くはなく、またさういふ方に發達してゆかなかつたのは、能の主眼が物語そのものではなくして舞などの所作であるからであらう。
 以上は舞臺で演ずる場合の用意であるが、物語そのものの構成に於いても、なるべく多くの事件を短い時間と一つの場所とは集中するやうにしてあるらしい。例へば春榮に於いて、春榮を斬れといふ命令と赦せといふ使とが殆ど同(268)時に來るやうなのがそれであつて、苅萱が子に逢ふのと妻の死ぬのとを同時にしたり、藍染川で妻の入水したその時に夫が京から歸るやうにしたりするのも、同樣である。これは感じを強くするためにも必要であらうが、時と處とに限りのある舞臺に上せるための便利から來たのでもあつて、劇曲作家としての常套手段である。
 しかし能にも發達の歴史があつて、その初期のものは構成が幾分か違つてゐる。猿樂の能の初めて現はれたのが何時ごろであるかは確かにはわからないが、大和に觀阿彌が出た時よりは前であつたらしく、その先輩であつた田樂の一忠などは既に能を演じてゐたやうであるから、謠曲らしい詞章もそのころには作られてゐたであらう。しかし今傳はつてゐるやうな形の諸曲は、觀阿彌のころから世に現はれたものらしく、それより前のは、もつと單純のものであつて、今も遺つてゐる田樂の能の菊水などが、さういふ古曲の名殘ではあるまいか。近江猿樂も大和猿樂も演出のしかたこそ幾らか違へ同じ曲を用ゐたことは、世阿彌の申樂談儀によつて推測せられる。田樂とも多分共通ではなかつたらうか。更に一歩を進めて考へると、能、從つて謠曲、の形の整頓したのは世阿彌の時、むしろその晩年、であつて、觀阿彌時代には今の多數の謠曲のやうな形がまだ定まつてゐなかつたらしい。それは演出の技巧に於いて世阿彌が田樂や近江の長所を悉く集めて大成した、といふことからも類推せられる。
 觀阿彌時代のものがどれだけ今傳はつてゐるかは明かでなく、古くあつたといふ曲と同名のものでも後に改作せられたのもあるらしいから、確かにそれを知ることはむつかしい。例へば嵯峨の大念佛の女物狂といふのは、世阿彌の花傳書に觀阿彌が演じたと書いてあるが、同じ題材を取扱つてゐる百萬は申樂談儀に世阿彌の作としてある。兩方とも事實とすれば世阿彌が改作したのであらう。能作書によつて見てもさう考へられる。融の大臣の能も觀阿彌が演じ(269)たけれども、それは「鬼になつて大臣を責むる能」だといふから、たゞ河原院の鹽がまを題材としてある今の融とはちがふ。多分改作せられたのであらう。また今の通小町は四位少將の話であるが、それが觀阿彌の作といふ四位少將であるかどうか、うつかりさうとは斷言ができない。申樂談儀によると世阿彌は前からあつたものを多く改作したらしい。けれども申樂談儀に觀阿彌の作と記してある自然居士、また世阿彌の作(又は改作)としてある松風村雨、戀重荷、または(作者は明かでないが世阿彌の時には行はれてゐた)丹後物狂、碪、鵜飼、などは、その構成が普通の形とは違つてゐる。
 自然居士は現在ものともいふべきものであるが、初から狂言が出るのは後の作には例の少いことであり、居士の説法の場と琵琶湖畔で人商人から少女を救ふ場とが引きつゞいてゐることも、後のものとは形が違ふ。後の作ならば第一の場は第二の場の白でわかるやうにせられたであらう。松風村雨は幽靈ものであるが、諸國一見の僧の出のところに次第も無く道ゆきも無く、また二人の女も幽靈ものの定型に從つて里の女などに形をかりて現はれることをせず、初めから松風村雨の姿を見せてゐるから、多くの例のやうに後シテとなつて形をかへる必要もない。また丹後物狂の花若が父に誡められる場も、後の作ならば物狂ひの場の誰かに物語らせてすましたであらう。碪や戀重荷はシテになるものの生前と死後の亡靈とが二つながら舞臺で演ぜられるが、これも後の作ならば生前の有樣は亡靈の白によつて示されたであらう。戀重荷は綾鼓の改作と能作書にあるが、綾鼓もその構成はほゞ同樣である。鵜飼に閻魔王が後シテとなつて現はれるのも變つてゐる。能作書には松風村雨も戀重荷も古いものの改作であるとし、鵜飼について申樂談儀に同じことが見えてゐるから、これらは改作せられたものにも古風が遺つてゐるのではなからうか。自然居士に(270)ついては能作書にも「古今有」と見えてゐて、改作せられたといふ話はない。申樂談儀に見える詞が今のには見えないから幾らかの添削は施されたことがあるかも知れないが、大體は前ののまゝであらう。
 さてこれらのことを考へておいて、次に申樂談儀に、弓八幡、井筒、通盛、などを能の摸範のやうに説いてあるのを見ると、世阿彌の晩年に今傳はつてゐる多數の例で知られるやうな能の構成の通型、即ち弓八幡や井筒のやうなもの、の定まつたことが察せられる。もつともすべてがこの型にはめて作られたとは限らないので、義經記もの曾我ものなどは固よりのこと、いはゆる現在ものにも幾分か構成を異にしてゐるものがあるが、それらが世阿彌の作であるかどうかは明かでないやうに思はれる。
 さてこゝまでいつて來たところで考へられるのは、能が何故に何等かの葛藤があつてそれを解決するやうな筋をもつた物語、即ち一般に劇として考へられる如きもの、を演ずるやうにならなかつたか、といふことである。舞曲に信田や百合若があるのを見ると、能に於いてもさういふ性質のものを舞臺に上せようとする試みがあつてもよささうなものである。もとの猿樂の物まねの本質をかういふ方向に發展させること、能になつてからの舞の場に到達するまでの過程を委曲に演出することが、現在ものや戰記物語などから題材を取つたものには、できたのではなからうか。然るにさういふことが企てられなかつたのは能がどこまでも舞を主とするものとなり、そのためにできた型が動かせないものとせられたからであらう。さうしてかういふ型の能を幾番か組み合はせて順次にそれを演奏することになつた。これはもとの猿樂からの習慣であらうが、或は雅樂の演奏の法式に倣つたところがあるかも知れぬ。この組合はせは題材の性質の違ふものを排列するので、ほゞ一定の順序が立てられることになり、それにも序破急の語が適用せられ(271)てゐるが、この適用もまた妥當とはいひかねる。たゞ演奏の進行によつてその情趣に變化のあることを感じつゝ、すべてを通じて或る氣分を觀客に起させようとする意圖がそれに含まれてゐるではあらう。さういふ考がありながら、一曲としては斷片的のものであるところに、能の特質がある。(この曲目の組合はせの順序は必しも一定してはゐないので、或は番數によつて、或はそれと共に勢威ある觀客の意向によつて、動かされる。演藝以外の力がそれにはたらくのである。)
 能が物まねの方面で發達せず、劇としての筋のある物語を演ずるやうにならなかつたのは、その演奏が寫實的でないこととも關係がある。世阿彌は學習條々に於いて寫實的な演奏を排斥してゐるが、實際、その主眼である舞が寫實的の所作でないことはいふまでもなく、白も當時の口語ではなく、吟唱の部分には、樂的旋律をなしてゐないながらに、謠ひものとしての曲節が附けてあり、樂とはいひかねるが笛と鼓とが用ゐられる。服裝が現實には何時の世にも用ゐられたことの無いものであることも、これと同じである。古典や古傳説をもとにしたものはいふまでもなく、その他のもので比較的下級の社會また當時の人物の行動などから題材を取つた曲でも、舞臺で演ぜられることは、現實の生活からは  過かに離れてゐる別箇の世界である。觀客と舞臺との間には明かな區劃があつて、觀客は舞臺の上に一種の夢幻世界をながめるのである。このことは、その詞章が多く古典の辭句を綴合したものであるところに、最もよく現はれてゐる。謠曲の吟唱の部分が、多く古歌を用ゐ、文字ぐさりのやうにいひかけでそれをつないでゆくことによつて成りたつてゐることは、今さらいふまでもないが、その歌はもと/\相互に關係の無いものであるから、そのつなぎ合はせにはむりがあり、從つて原歌の一二句を變改して違つた意義に轉化させることが多い。なほ歌と漢詩の(272)辭句とを結合する場合も少なくないが、これは戰記物語などに既にその例がある。(前篇第三章參照)。謠曲に於いてはそれがために和漢朗詠集がしば/\利用せられてゐる。ところがかういふ詞章は、一般の觀客には殆ど理解せられないであらうが、たゞ古典を知つてゐるものにとつては、一種の知識的興味がそれによつて喚起せられもしよう。或は實生活に於いて殺伐な世の中に古典に心をよせ歌連歌に興ずるのと、相通ずるところがあるともいはれようか。しかしそれは上記の如くして綴合せられたものであるから、それによつて一貫した意義は成りたゝず、まとまつた情趣も現はれない。全體として見ればすべてが附會であり、畢竟無意味なものである。また曲の主題によつては、その全體の感じとは調和しないことになる場合が多く、例へば現在ものの如きがそれである。たゞ題材を古典から取つたものの中には、かゝる詞章によつて特殊の抒情味を全曲の上に漂はせることもあるので、松風村雨などがその好例であらう。けれども、それとても、謠曲として詞章を讀みまたは聽く場合に多い。能としての演奏の上ではやはり種々の不調和がそれから生ずるので、笛や鼓の音などとの關係もそれである。
 もつとも詞章のみについて見ると、古歌などの綴合が甚だ巧みで、天衣無縫の妙を得てゐるものも無いではなく、百萬の「これかや春の物狂ひ、亂れ心か戀草の力車に七車、積むとも盡きじ、重くとも、輓けや、えいさらえいさらと、」などにも、萬葉の歌が效果的に取つてある。しかし道成寺の「山寺の、や、春の夕暮來て見れば、入相の鐘に花ぞ散りける、さるほどに、寺々の鐘、月落ち烏鳴いて霜雪天に滿汐ほどなく、日高の寺の江村の漁火、愁に對して人々眠れば、」といふやうなのは、その綴合のしかたが甚だ無理である。養老に老を養ふ靈泉を讃美して「實にや尋ねても、蓬が島の遠き世に、今のためしも生藥、水また水はよも盡きじ、」といふはよいが、その次に「夫れゆく川の流は(273)絶えずして」と方丈記の文を引くのは不調和である。「久しくすめる色とかや」と轉ぜさせてはゐるが、それが「かつ消えかつ結んで」を承けていふところに甚しき牽強がある。この曲の結末に山の井の水から「水滔々として波悠々たり」の一句を導き出したのも無理であるが、それから直ぐに「治まる御代の君は船、君は船、臣は水、」と「荀子」の語を用ゐて祝言に轉じ、忽ちまた君臣の義に結びつけるのも無意味である。要するに支離滅裂といつてよい。詞章を詞章だけで見てもかういふものが多い。
 かういふ風に、本來關係の無い、或は矛盾した、思想の現はれてゐる種々の古典の辭句を所々から取つて來て、強ひてそれらを綴合するのは、作者自身の思想と強い情感との無いためであると共に、また既に存在する文化上の諸要素を何によらず取入れようとする、この時代の一般の思潮とおのづから契合するものであるが、能はその題材に於いても詞章と同樣、縁もゆかりも無いものをつなぎ合はせることによつて一曲を構成してゐる場合さへある。例へば清閑寺に高倉院の紅葉の物語と小督傳説とを、遊行柳に西行と遊行とを、江口に性空と西行とを、或は雲林院に源語の花の宴と伊勢物語とを、結合してゐる類がそれである。岩舟に萬葉の歌と外國の來貢とを結びつけ、三山に同じく萬葉に見えてゐるものではあるが三山の戀物語と櫻子縵子の話とを、また錦木に狹布の細布の歌と錦木の傳説とを、つなぎ合はせてあるのも同樣であらう。勿論その結合がうまくゆけば作者の手腕の巧みなことを示すものであつて、ここに擧げたものなどはこの點に於いてむしろ賞讃すべきものではある。しかし三輪に「我が庵は」の歌と大物主神の故事とを結合するのはよいとしても、天の岩戸の一段を附加へるに至つては、舞を舞はせるためではあるが、あまりに縁遠いものを用ゐたものといふべきであらう。ちなみにいふ。歌によつて物語を作ることは早く伊勢物語などにも(274)その例があるが、能にはそれが多い。黒塚や墨染櫻などはその中の最も自然なもので、旅人が鬼の住家に一夜の宿を借りるとか、墨染櫻の精が現はれるとか、さういふ能作者慣用の手段をそれに適用したに過ぎない。けれども大部分はそれを他の物語に結びつけてあるので、そこにこの時代の文學的作品の特色が見えてゐる。
 しかし、古今東西の文學や傳説からさま/”\の題材を取り、種々の詩歌や古語成句を集めて來たとはいへ、根本の思想が殆ど定まつてゐるから、どれを見どれを讀んでも同じやうな感じがするので、全體から見ると能もその詞章も甚だ單調なものである。のみならず上にもいつた如く能そのものが數多く作られたにかゝはらず、その實、五つか六つかの型を出ないのであつて、如何なる題材を取扱つてもみなそれらの型に入れてしまふ。曲の數が多くなつたのは、一つは新しい演奏の場合に新曲を作つたからであらうが、本來が目に見る花やかな舞があればよかつたのであるから、シテの扮するものが小町でも靜でも但しは辨慶でも景清でも、それは大きな問題ではなかつた。從つて、弱法師と天王寺物狂とのやうに、同一題材の見方を少しづゝ變へて幾つもの曲を作ることができ、藤榮に自然居士の詞章(舟の故事)をそのまゝ取つてあるやうに、詞章までも踏襲する。能もその詞章も踏襲から成りたつてゐるといつてもよい。幸若舞曲を取つてもその構成は殆どもとのまゝである。舞曲の多くは能に改作せられてゐるが、烏帽子折に山路の笛の插話を省き、滿仲に美女丸と幸壽とが死を爭ふ光景を加へ、または鞍馬出の改題せられた關寺與市で與市を殺したぐらゐが、その改作のしかたである。小袖曾我に少しも小袖の話の無いのも、舞曲の一部分だけを取りながら、原曲の名をそのまゝ襲用したからのことらしい。
 能及びその詞章としての一般的性質はほゞこれまで述べたところで盡きてゐると思ふが、最後に一言しておきたい(275)ことはその作者である。世阿彌の花傳書によると、彼は能の作者は能役者自身であるがよいと考へてゐたらしく、「能をせんほどのものの知才あらば申樂を作らんこと易かるべし」といひ、特に能作書の一篇を著してその用意を説いてゐる。自身にかういつてゐるほどであるから、彼が多くの能を作りその詞章を作つたことは事實であらう。現に世阿彌の作といはれてゐる曲はかなりに多い。しかしそれらがすべて彼自身の創作であるかどうかは問題であつて、上に考へた如く改作にとゞまるものもあるらしい。申樂談儀に彼の父の觀阿彌の作としてある四位少將を、同じ書に別人の書いたものとも記してあるのを見ると、一般的にいつて、幾らか手を入れただけで某の作と傳へられた場合も多からう。まして他の多くの役者が何れも作者になり得たとは思はれないし、現に同書に浮船を素人某の作としてある。察するに、謠曲には役者の需に應じて文筆あるものの書いたものが少なくないのではあるまいか。さうしてそれは俗人にもあつたらうが、當時の文學界の大勢と、能の起源が日吉なり大和なりの寺院に關係の深いことと、また何れの曲にも佛教的色彩が濃厚であることと、これらのことを考へると、やはり僧徒むしろいはゆる遁世ものが多かつたのではないかと臆測せられる。(連歌師の宗砌が四季の戀といふ早歌を作つたといふ話が應仁略記にあるのを參考してもよからう。)もつとも能は大和猿樂に於いて大成せられたけれども、そのころには幕府の保護を受けてゐて、本據はむしろ京にあつたらしいから、南都の僧がそれと特別の關係があつたのではなからう。謠曲に現はれてゐる宗派を見ると、道成寺、安達原、のやうな密教に關係のあるもの、實盛、當麻、誓願寺、土車、のやうな淨土教の信仰の現はれてゐるもの、通盛、藤戸、のやうな法華脛の功徳を述べたもの、山姥、卒都婆小町、自然居士、放下僧、車僧、のやうな禅宗的のもの、身延、現在七面、のやうな日蓮宗の思想を含んだもの、或は特に觀音の利生を述べた田村、(276)盛久、籠祇王、などがあつて一樣でなく、そのうちにはそれ/\の宗派に屬するものの作があるかも知れないが、それよりもむしろ題材によつて適當な教説なり修法なりが用ゐられたと見るべきであらう。現に僧にしても廻向するにしても、或る宗派の特徴の見えてゐないものが少なくない。念佛を唱へるものは割合に多いが、これも嵯峨の大念佛のやうに、必しも宗派としての淨土宗などには關係がなく、廣く行はれた習慣であつたためにそれを取つたまでのことであらう。禅宗についても同樣であつて、この時代の禅僧で國文學に手を染めたものは少い。禅語の多い東岸居士に一遍上人縁起の文句を併せて取つてあるのでも、その作者が宗派と關係の無かつたことが知られる。(禅宗と文學との關係はなほ後にいはう。)謠曲に種々の宗派が現はれてゐるのは、玉の井、養老、楊貴妃、羽衣、浦島、などの如く神仙説の用ゐてあるものが少なくないのと同じやうに、作者が如何なる思想をも取り用ゐるといふ態度から來てゐるのであらう。
 
 能の演奏には往々狂言(の役者)が舞臺に現はれて何等かの役めを勤めることがある。狂言はその用語は當時のものであり、服装などもそれと大なる違ひの無いものであつて、その多くは社會的地位の低い民衆を現はすものであるから、それを能に用ゐるのは、甚だ不調和であるが、これは猿樂がまだ能とならない前の物まねから繼承せられたものであらうか。しかしまとまつた狂言は一曲ごとに能の演奏の間に插まれ、それとは違つた興味を喚起するものとして舞臺に上せられる。それには、小唄の類を謠ふ場合がある外には、獨白にも對話にも樂的要素は無い。囃のまねをすることがあつても、それは狂言の形態の構成要素ではない。その演出はほゞ寫實的であり、その意味での物まねで(277)ある。たゞ今の寫實劇とは違つて、すべての動作が一種の象徴的傾向を帶びてはゐるが、これは舞臺の構造にもよることであり、また能及びその他の演藝の一般的性質でもある。
 能の題材が多く古典古傳説や戰記物語から出てゐるに反して、これは、堤中納言物語のうちの一つから思ひついたらしい墨塗女、著聞集(卷一六)から取つた泣尼、または戰記物語に由來のある那須與一や朝比奈、などの僅少の例外を除けば、概ね現實の社會相を資材としてゐる。また能の主題が、古典中の人物や古英雄に關するものに於いては、大きい背景を有つてゐる歴史的に顯著なことであるのは勿論、現在ものでも復讐とか所領の回復とかまたは夫妻親子の情愛の激動とかいふ、重々しい或は調子の高いものであるに反して、これは、伯母をだまして酒を飲んだとか、聟と舅とが水論をしたとか、いふやうな、日常の瑣事であり、その人物も當時に於いて微賤とせられてゐた農商の徒が多く、大名などを捕へて來ても、それを愚物として精神的にその地位を引き下げ、僧徒なども僧徒らしくないものばかりを拉して來る。同じく祝言を主題にしても、能は勅使などに天下泰平民繁昌を祝させるのであるが、これは三人百姓や餅酒の如く農民に領主の繁榮を壽かせ、または蛭子大黒天などのやうに民衆自身の福を祝はせる。能は古典的要素をもつてゐる舞を舞はせるが、これは時に民謠としての小唄を歌はせる。要するに、寫實的民衆的のものまねである。その基本が故意に謠曲をもぢつた少數のものの外は、概ね敍事文の緊縛を脱した劇曲の體をなしてゐるのも、日常の口語を用ゐてあるために、文章といふものの因襲を離れることのできたのが一原因であらう。謠曲は初めからあゝいふ形を具へた詞章として作られたものであるが、狂言の臺本は、そのはじめは、單に心おぼえのために記されたものに過ぎなかつたのではあるまいか。
(278) 狂言の特色は民衆的また寫實的な點にある。古文學に依頼せずまた束縛せられずして、民衆の言語を以て自由に民衆の生活を直寫した點にある(いくらかの例外はあるが)。だから狂言は我が國の平民文學の魁といはねばならぬ。古典崇拜の思想がその中に現はれてゐるものもあるが、これは當時の民衆が實際に古典を崇拜してゐたからのことであるから、狂言が平民文學であることを妨げぬ。さて狂言の多數は滑稽的のものであるが、これは狂言の本來の性質ではなからう。能の曲中に用ゐられる狂言も、能に現はれる人物よりは階級の低いものを、舞臺に現はすためである。民衆が文藝の題材とせられた點に於いては、職人歌合といふものの作られたことと一すぢの連繋もあらう。さうして世阿彌の申樂談儀に書いてある初若といふ能に出る狂言にも滑稽の風が少しも無いことを考へると、狂言は民衆の生活を主題としたものではあるが、滑稽がその本質でないことが知られよう。狂言の「狂」も滑稽の意とは思はれず、延年舞で物まねをするものを遊僧とも狂僧ともいつてゐる。多分「狂言綺語」などから出た語であらう。たゞ能が古典的要素を加へて莊重なものになつて來たがため、それに對して輕い笑を催すものを狂言で演ずるやうに傾いて來たので、上にも述べた如く戰記物語に落首を加へまたは滑稽譚を添へるやうな意味で、それを能の演奏の間に插みこむやうになつたのであらう。この時代の讀みものとしての物語にも滑稽を主とするものが作られ喜ばれたと同じである。或は歌人または連歌師の間に言語上の遊戯に滑稽を求める狂歌風のものの作られるやうになつたこととも、共通なところがあらうか。もつとも、昔の猿樂に滑稽な物まねを演じた餘風が幾分か狂言に傳はつたといふ、歴史的由來があるかも知れぬが、猿樂そのものは發達して能となつたので、狂言はそれとは系統が違つてをり、役者からいつても狂言のは近江大和の猿樂の諸座の能役者とは別のものであつたらしい。また實質に於いても、古い猿樂の滑稽は猥雜な(279)言語動作を以て觀客の笑を求める低級なものであつて、新しく興つた狂言はそれとはやゝ性質が違ふ。古い猿樂を狂言といつたことは聞かないやうである。能になつてから神聖視せられた翁などこそ、却つて滑稽な古猿樂の遺物である。狂言によし古い猿樂の影響があるとしても、それは間接のものであらう。狂言の名が南北朝時代の作らしい遊學往來に一聲、早歌、白拍子、などと並記せられて「催酒宴之一興」ものの中に入れてあるのを見ると、猿樂の外にかういふものがあつて、それが能の形成と共に新しい形をとり、また能の演奏と結合したのかも知れない。今のやうな狂言が何時から現はれたかは明かでないが、觀阿彌のころに槌大夫などといふ名人があつたといひ、世阿彌が狂言に關する教を永享二年に書いた習道書に説いてゐるのを見ると、そのころには既にあつたらしい。同じ書に申樂の番數は信の能の申樂三番、狂言二番、合せて五番、とあるが、これも前からの習慣であらう。たゞ狂言はおも正しいものとせられなかつたから、古く作られたものは今傳はつてはゐないのが多からう。狂言記に載つてゐるもので寛正五年の糺河原勸進猿樂記に見えるものは、朝比奈、入間川、などの一二曲に過ぎない。
 さて狂言の内容を考へるに、先づ目に立つものは福渡、連歌毘沙門、蛭子大黒天、といふやうな福を得る話、または三人百姓、松ゆづり葉、のやうな單純な祝言ものであつて、この祝言ものは能にそれのあるのと同一事情から來てゐるが、祝言能を演ずる場合にそれに適應させるために作られたのでもあらう。その他、小唄を歌つたり踊つたり囃をしたりするところに重なる興味を求めた烏帽子折、相合袴、地藏舞、のやうなものなどもある。しかし今傳はつてゐる狂言の大部分は滑稽を主としたものである。それにも種々あるが、その第一は、單なる動作や言語の上の滑稽である。狐塚、宗論、入間川、すはじかみ、などがそれであり、謠曲をもぢつた通圓、祐善、樂阿彌、双六僧、などの(280)如く、莊重な謠曲の形式でたわいもないことをいつたりしたりするものもまた同じである。「貝をも持たぬ山伏が道々うそを吹かうよ」といはせ、その祈りのことばをいろはにほへとなどとしてある山伏もの、平家物語の話からヒメノリの名を導き出す「ひめのり」、見えすいた誇張と虚僞とを眞實らしくいふ膏藥ねり、などもこの部類に屬する。なほ鹿狩、鈍根草、のやうな落語めいたものもあり、後の近松の作を聯想させる茶拜々、唐人相撲、のシナ語などもやはり言語上の滑稽である。第二には、まじめなものを不まじめに取扱ふもので、金岡、折烏帽子、などがそれであり、鶯、あかゞり、富士松、などに於ける歌や連歌の取扱ひかたにもそれがある。堂々たる古英雄が最後の一句に至つて忽然として平凡化する七騎落、奈須與一、などもこの類であるが、これらはその變化が主として言語の上にある。第三は、怖しい大きい力のあるはずのものが弱小な無力なものとせられることによつて滑稽の生ずるもので、ゑさし十王、鬼の養子、朝比奈、などがそれである。萩大名、二人大名、柿山伏、止動方覺、などもこのうちに入れてよい。大名が平民に、僧侶が惡ものに威壓せられ、山伏が農夫に、主人が從者に、愚弄せられるのである。大名、僧侶、または主人とか親とかいふ社會的に或る地位を占めてゐるものが、劣弱者として取扱はれるものは甚だ多いが、それらもこの點ではみなこの部類に屬すべきものである。しかしそれらの中には何等かの葛藤を含んでゐて滑稽がそれから生ずるものがある。
 その一つは、淺薄なる詭計から生ずる滑稽であつて、これは宇治拾遺などにその先縱がある。そのうちでも多いのは、詭計にかゝりながらそれを觀破することができずして愚なふるまひをするといふので、初めから詭計といふことを知つてゐる傍觀者には滑稽に感ぜられるものである。末廣がり、佛師、粟田口、などはその單純なものである。ま(281)た自ら企てた 詭計が暴露して失敗し、得意になつてゐたのが忽ち失意に轉ずるところに滑稽の生ずるものがある。あかゞり、長光、三人片輪、などがそれである。ところが、伯母酒などはこの二つが結合せられたものであり、花子などでは詭計にかけたものが反對に詭計にかけられるので、滑稽が二重になつてゐる。なほ詭計が暴露しつゝあるのを知らずにそれを續けてゐるところに滑稽のある、墨塗女のやうなものもある。この種の詭計には無邪氣なものもあると共に、また道徳的に惡意のあるもの(長光、茶つぼ、など)もあるが、その何れも主要人物の知識の貧弱、意志の缺乏、によつて生ずるのが常である。しかし、武惡、胸つき、のやうにあまり劣弱に過ぎたものは却つて滑稽の感が薄い。また聾座頭の如き肉體的快陷を利用するものもあるが、どぶかつちり、猿替勾當、などになると、行爲そのものは滑稽であるけれども、その人物に精神的缺陷が無いため、全體としてむしろ殘酷の感を生ずる。(つんぽ座頭は互に詭計を弄するために、殘酷の感は消えて滑稽のみが殘る。)さて第二は、自己の習癖、性質、または何人かに對する情愛、などが弱點となつて、それがために當初の企圖と矛盾した結果を生ずるところに滑稽の生ずるもので、子盗人、盗人連歌、などは勿論、水論聟、貰聟、などもこの部類に屬すべきものであらう。
 何等かの葛藤を含んでゐる滑稽はほゞこの二種に包括することができるので、これらが第四第五として擧げられよう。これらのうちにも多くは言語や動作に滑稽が含まれてゐるし、また小唄や囃が用ゐられてゐてそれによつて興味が助けられてゐるものも少なくない。さうしてどういふものにしてもその主題は、輕い、小さい、半ば遊戯的性質を帶びてゐるものであつて、やるまいぞ/\で簡單にかたがついてしまふ。或は意味もなく小唄や囃で葛藤が消滅してしまふ吟聟や柿賣のやうなものさへいろ/\ある。その上、局部的に、または言語動作の上に、滑稽があつても、全(282)體として却つて滑稽の感を弱めるものも多い。例へば子盗人で、子に心をとられて盗みに入つた目的を忘れるのは滑稽であるが、その子を質にとつて爭ふのはもはや滑稽ではない。墨塗女も墨を顔に塗るまでで止めておけばよいのを、後で爭ひにしたから滑稽が消えてしまふ。泣尼なども著聞集そのまゝならば滑稽であつたらうが、説教師との爭ひになつては興がさめる。また惡坊や六人僧なども、結末の宗教的意味を帶びた解決がよけいものであり、荷文に文を重いといつてゆづり合ふのは滑稽でおもしろいが、戀の重荷の古諺に結びつけて實際重いやうに見せたのは、理窟に墮ちて興を損ずること夥しい。結末のやるまいぞ/\も、舞臺から引きこませるために必要な方法であつたかも知れないが、多くはあらずもがなに感ぜられる。滑稽はその前で完成してゐるのが少なくないからである。だから作者の主意は葛藤が滑稽的に解決せられる點にあるのではなく、目に見える動作や言語に可笑しいところがあればよいとしてゐたらしい。要するに狂言の滑稽は觀客に輕い笑を催さしめるだけのものである。
 上記の分類に入りかねるものもあり、またもつと詳しく分類を試みてもよいが、大體これらで狂言の多數は包括せられると思ふ。これも謠曲と同樣、作の數は多いけれども、同じ形により同じ題材を用ゐ、辭句さへも踏襲したものが少なくないから、數の多いほど種類は多くない。主人の命によつて寶ものを京に買ひに出てわるものにだまされること、主人の留守中に酒宴亂舞すること、などは、しば/\反覆せられてゐるが、茶壺と長光、釣女と伊文字、姫糊と文藏、松ゆづり葉と雁かりがね、ねぎ山伏と犬山伏、※[門/亀]罪人と祇園、などはそれ/\同じ題材である。或はまた料理聟は吟聟と水論聟とをこね合はせたやうなものであり、路蓮坊主は比丘貞と※[手偏+主]杖との二つを結びつけたものであるが、彼のはそれがために前半と後半とは殆ど無關係なものとなつてゐる。
(283) ところで、かういふ滑稽の材料は當時の世間の到るところに幾らでもある。大名や僧侶はいふまでもなく、將軍でも公家貴族でも、或はまた一般武士でも、見やうによつてはすべてがみづから知らずしてかゝる狂言を演じてゐる。特にこの時代に多い成り上りもの、權勢の競爭にうき身をやつすもの、に於いてさうである。このことについては改めて後にいはうが、世の秩序が崩れて人がみな名利のために力を以て爭ふ時代には、かういふことがありがちである。たゞ狂言では、それが多く地位の低い民衆のこととして取扱はれてゐる。大名などが現はれなくもないが稀である。能と狂言とを喜んで觀またそれを保護した將軍や、または幕府の實權を握つてゐた大名などを、聯想させるやうなものを狂言は捉へて來ない。將軍などは狂言を見てもたゞそのをかしさを笑つてゐたのであらう。
 かういつて來ると狂言の作者が問題になるが、それはまるでわからない。謠曲をもぢつたものなどは、謠曲の作者などのいたづらかも知れぬ。?立や櫻爭ひの如き詩歌を多く用ゐたもの、上にいつた墨塗や泣尼の如く古物語に出典のあるもの、などもその作者は謠曲のと同じほどな知識人であつたらう。しかし知識人には、何事にもその知識を誇示することと、文章にも古文辭を摸倣しまたはそれを剪裁補綴することとが好まれ、なほ彼等の作にはかりそめのものにでも宗教的色彩が加はつてゐないものは無いといつてもよいこの時代に於いて、狂言の多數がさういふ因襲から離れ、國語によつて下級民の生活が寫し出され、また宗教的臭味を帶びてゐないことから考へると、その作者にはいはゆる文事には縁遠いものが多からうと推測せられる。さうしてまた讀まれることを豫想しての作ではなく、即ち文學的作品の一形態として作られたものではなく、たゞ演出の心おぼえに記しとめられたものといふ方が適切であらうと思はれるから、作者は多く狂言師の間にあつたのではなからうか。たゞ當時の世相からあれだけに滑稽の材料を見(284)出し、或はあれだけに世相を滑稽化したところに、作者が社會状態の觀察に於いて一隻眼を具へてゐたことが知られる。稀な例ではあるが、能の放下僧のアヒの狂言のことばに一種の警句めいたもののあること、また「理が非になるは公事の常の例でござる」(内沙汰)のやうなことのいはれてゐる場合のあること、などをも考へねばなるまい。或は狂言師の背後に眞の作者の何人かが隱れてゐたかも知れぬ。たゞその何人であるかはわからぬ。しかしともかくも、これだけは世すて人を中心としてゐた當時の文壇の範圍外に立つてゐたものであつて、今日から見ればこそ文學史上に特異の光彩を放つものとして取扱はれ、また後世の文學に大なる影響を及ぼし、新しく開けてゆく平民文學の先驅として尊重せられるが、その時代には舞臺上に演出せられるをかしみの外には何人にも顧られなかつたものであらう。が、それが即ちかういふものの世に存在することのできた所以であつて、もし文事あるものによつて讀むものとして作られたならば、これだけ自由なものはできなかつたに違ひない。特に大名や坊主の類を無遠慮に平民もしくは平民以下に引きずり下ろし、それらを愚弄したものに於いては、そこに平民の自由な態度の現はれてゐることが認められる。作者の直接の意圖は、單に大きいものを小さくし尊いものを卑しくして、そこに滑稽を求め無邪氣な笑を求めたに過ぎないであらうが、或はそこに一種の諷刺の意味の含まれてゐる場合があるかも知れぬ。滑稽な題材をかういふ方面から取つたところにそれがある、と見るのである。謠曲が古歌や詩の句を常に引用してゐるとは反對に、狂言は、その題材を民衆の生活にとつた自然の結果として、民謠を多く使つてゐる。民謠が民謠のまゝで翫賞せられたのは、狂言が舞臺に演ぜられたのと同じ傾向を示すものである。しかし、文學的製作として尊重せられたのは、依然として擬古的の和歌連歌が重なるものであつた。次にその方面の考察に移らう。
 
(285)     第四章 文學の概觀 下
        擬古文學 附いはゆる五山文學
 
 貴族文學であつた和歌が漸次民間に行はれて來たのみならず、その中心さへも民間に移る傾向が生じた、といふことは既に前篇に述べておいた。現に二條良基の如きは頓阿を師とした。和歌が一つの道とせられるやうになると、道を得たものが尊重せられるのは自然の勢で、その道を得たものは必しも貴族には限らない。かういふ理由と、貴族の活動がすべての方面に於いて沈衰して來たといふ文化の大勢とのために、この時代には貴族の和歌壇上に於ける特殊の地位がもはや失はれたのである。その上、長い間宗匠家として權力を有つてゐた二條家も京極家も、南北朝時代にその血統が絶え、たゞ冷泉家のみが殘つてゐるが、それすら歌壇に或る權威を有つてゐたのは爲尹のころまでであつたらしい。堂上にはその他に飛鳥井家が幾らか重んぜられてゐて、雅世の如きは最後の勅撰集である新續古今の撰者となつたが、これとても貴族であるといふ點から撰者とせられたに過ぎないので、實際には堯孝のはたらきがあつたであらう。勅撰そのことも南北朝時代までは頻繁に行はれたが、これは主として二條家の人々が、幕府の推擧によつて、勅撰集の撰者とならうとしたからのことらしく、畢竟、鎌倉時代の末に起つた二條家と京極家との競爭の餘波に過ぎない。だから新後拾遺の最後の撰者爲重が殺されて二條家が絶えてからは、これも久しく行はれず、五十餘年の後の永享時代になつて新續古今が撰ばれたが、それが勅撰集の最後となつたのである。勅撰集の沙汰の無くなつたのは朝廷と公家貴族との衰微のためではあるが、歌を作ることは依然として行はれてゐたのであるから、これは朝廷公(286)家貴族並に堂上の宗匠がこれまでもつてゐた歌壇に於ける特殊の權威を失つたことを示すものである。
 かういふ状態であるから、この時代の初めには冷泉家の門から出た武人の今川了俊が、その冷泉家の爲尹と同時代でありながら、却つて歌壇に於ける一方の雄となつてゐて、その著書落書露顯の如きは爲尹を辯護するために書いたものらしい樣子さへ見える。了俊の次には永享嘉吉のころを中心として正徹(招月庵)が歌界の中心人物となり、その傍には頓阿の系統を引いて二條家の末流を代表してゐる堯孝(常光院)がゐた。正徹の門人に叡山の僧の心敬僧都があつて、これは連歌の方にも有名である。堯孝の弟子で正徹にも教をうけたことのある武人の東常縁(野州)は、かの古今傳授といふことをはじめ、連歌師の宗祇がそれを傳へて更に堂上の逍遥院(三條西實隆)に授ける。これが應仁前後の時代である。歌界の權威はこれらの人物に歸し、彼等が歌の宗匠として職業歌人としての地位を占めるに至つたのである。勿論、歴代の天皇はみな作者であられたし、皇族や公家貴族は因襲的に歌を詠んだのみならず、そのうちには上にいつた飛鳥井家の如きものがあつた。けれども和歌が廣く民間と地方とに行はれるやうになると、通常の場合には、公家貴族はその社會的地位のために直接にこの廣い歌界に接觸することが少いから、よし雲の上の歌よみとして尊敬はせられてゐても、實際に歌界を指導することはできなかつた。將軍及びその周圍の武家貴族にも詠歌を好むものはあつたが、彼等は公家貴族の歌人や民間の宗匠の指導をうけて、作者の名を得るやうになつたのである。
 歌界の權威が公家貴族の手を離れると共に、爲世爲兼の時代に激烈を極めた流派の爭ひが漸次衰へて、歌に對する態度が一般に穩健に近づき、その思想も中正を得るやうになつたので、この點に於いては却つて少からざる進歩を示(287)してゐる。これには、黨爭の中心であつた二條家京極家そのものが絶えたといふ事實も、大いなる關係を有つてをり、またあまりに愚劣な爭ひをした反動もあつたであらうが、歌が廣く行はれ黨派的觀念に拘束せられない人々が歌壇に勢力を得て來たこと、それを道として多數人に向つて説くに當つては、何人にも了解せられ首肯せられるやうでなくてはならぬことも、その一理由であらうし、全體からいふと、世の秩序が壞れたにつれて思想が自由になつて來たことをも、看過してはならぬ。要するに世の動亂と文化の民衆化とがかゝる傾向の生じた主なる原因であつたと考へられる。
 さてかういふ自由な思想を鼓吹した第一人は今川了俊であるが、この人がかうなつたのは、歌の體は人によつて特色があると教へ、二條派の作つた規矩を守らない京極家に同情を有つてゐた、冷泉家の態度を傳へたからでもある。元來、歌を窮屈にし陳腐にし平凡にしたのは、主として二條派のしわざであつたから、歌を自由にし清新にしようとするには、先づ二條派の反對派からその運動が起るのは自然の順序である。だから了俊は聲を高くして、二條派で喧ましくいふ詞と思想との制限に反對し、「心をも廣く憚らず案じてこそ、歌のかさも上り風情も浮ぶべきと覺ゆるなり、」とも「新しきをこそ我が歌とは申すげに候へ」とも云ひ(和歌所へ不審條々)、秘説々々と大事がることを攻撃してゐる(落書露顯)。もつとも秘説などの點については、いくらか冷泉家に遠慮してゐる樣子もあり、また二條家に對する攻撃にはやゝ黨派心の陰影がさしてゐないでもないやうに見うけられもするので、二條家の教に反對する點に於いては京極家の爲兼の主張と通ずるところがある。しかし概していふと、了俊の態度は公平であつて、「和歌所へ不審條々」に於いて二條家で大切にする制の詞の由來を説いてゐるなども、穩健な考である。ところが正徹になると、(288)別に冷泉家に執した樣子は無く、かの三流はそれ/\一體を學び得て互に爭つてゐるのであるから、何れを揚げ何れを貶するにも當らない、だから末流をすてて本流に溯るがよい、といつてゐる(徹書記物語)。これは三流の黨波爭ひを超脱せよといふ意味であつて、歌の體そのものについては、二條派は一體を固執し冷泉派は衆體をかねてゐると考へ、從つて後の方に同情を有つてゐたらしい(東野州聞書)。
 冷泉家の系統に屬するものがかういふ態度を取つて來たのみならず、系統からいふと二條流に屬すべきはずの耕雲(花山院長親)は、もつと徹底した見解を有つてゐた。耕雲口傳を見ると、歌は性情を吟詠するものであるといひ、師のまねをすべからずといふことがあると説き、昔の人の口まねは歌でないと喝破し、古事古傳などは「知らずともわづらひなし」と斷言してゐる。もつともこの口傳は出家の後の作であつて、若い時とは思想も變つてゐたであらうし、またその總論めいたところに述べてゐる和歌の本質論やその修業の工夫についての意見などを見ると、禅宗の思想から得て來たところが多いやうである。禅宗の思想も幾らかは前に述べた歌界の空氣を新にすることを助けたかも知れぬ。もつともこれは、歌に關する見解を整理し表現するについて禅宗の用語が或るはたらきをしたといふまでのことであつて、さういふ見解そのものは上に述べたやうな事情からおのづから生じたものである。なほ歌の流派には關係の無い一條兼良も、定家をどこまでも尊敬しながら、その末流には邪僻を執し謬を傳へてゐるものがあるといつてゐる(古今集童蒙抄)。たゞ二條派の正統を承けてゐるものは、その派の思想を全く脱却することはできないので、堯孝は頓阿を崇拜してをり、常縁も正徹を先輩と仰ぎながら、その説に服しかねて堯孝の門人となつた。常縁は、正徹が二條派は一體だといつてゐるが一體でも正體ならばよいではないか、とその説を難じてゐる(東野州聞書)。愚(289)にもつかない古今傳授もやはり二條派の衣鉢を承けたものであらう。けれども黨派心は昔から見るとよほど弱くなつてゐるので、他派のものに對しても甚しい競爭心や反目をしなくなつたことは、正徹と常縁との交によつても知られる。新續古今に正徹の作の少いのは堯孝が妬んだからだといふ話が、後鑑に引いてある梅庵古筆傳といふものに見えるが、これは歌風を好まなかつたからとも解釋せられる。さうして初めからさういふ傳統に關係の無い人々は、流派などを眼中に置かなかつたらしく、歌人といふよりはあらゆる方面の學者であつた一條兼良の如きも、穩當な公平な考を有つてゐたらしい。
 歌を二條派の拘束から離さうとする運動は、詞から入る歌の修業の方法にも反對しなければならぬ。正徹は定家を理想としながら、てには詞を摸倣せずして風骨心づかひを學べといつてをり(徹書記物語)、その師の了俊は、もつと明かに、詞を後にして風情を前にせよといひ(辨要抄)、かの耕雲も、詞を前にして「その身だに心得ぬことを詞にまかせてくさりつゞけ」ることを難じてゐる(口傳)。さすればその風情はどうして學ぶかといふに、定家の風骨心づかひを學べといつた正徹は、定家の歌を玩味してそれを悟れといふ考であつたらう。この人は、二條派が頓阿や爲家ぐらゐを標準にしてゐるのに對して、定家まで溯つたのである。了俊も定家を尊敬することは人に劣らず、爲氏爲世以來の二條家の歌を、定家の風體と變つてゐるとして、攻撃してゐるほどであるが、おのれは俊頼の風體を本とするといひ、好忠、西行、頼政、を羨み、また人丸、赤人、を上品上生として崇拜してゐるのを見ると(辨要抄)、決して定家ばかりを理想としてゐたのではない。事實、了俊の作には萬葉を愛讀してゐた形迹の見えるものもある。けれども、よいと思ふ古人今人の歌を常に吟詠し、または「伊勢」、「源氏」、枕冊子、などによつて詩情を養へといつてゐる(290)のは(落書露顯、辨要抄)、やはり歌を歌によつて學べといふのである。ところが耕雲は「朝夕の風の聲に心をすまし、雲の色に眺めをこらして、」行住坐臥の間にも詩情を養へと教へ、また「絶妙といへばとて人間よの常の日用を離れず」といつてゐる。古歌によるよりも直に自然に接せよといひ、詩の世界は日常生活の世界そのまゝだといふのである。歌を詠むためには深夜桐火鉢を擁して日常生活から離れた特殊の夢幻世界に入らなければならなかつた、俊成の態度とはおのづから趣がちがふ。古歌によつて古人の風情を學ぶのとも同じでない。我が日常の心生活が即ち我が歌となり、我と自然とがありのまゝで相接するところに歌ができる、といふのである。その作から見ると耕雲もまた萬葉を讀んでゐたらしいが、これもまた萬葉の歌をかゝる性質の歌として解してゐたからであらうか。これには、歌は性情を詠ずるものであるといふシナ思想と、着衣喫飯そのまゝが禅であると云ふ禅宗の思想と、から來たところもあるらしく、同じ性情吟詠説でも江戸時代に新に起つた思想ほど淡泊ではないが、ともかくも歌といふものを我と自然とに還元させたのは、因襲から歌を離脱させる點に於いて、了俊などよりも一層徹底してゐる。どうしてかういふ考が生じたかは明かでないが、多分、こゝにいつたやうな種々の事情がはたらき、また自由な見解が歴史的に強められて來たからであらう。
 然らば實際詠まれた歌はどんなものかといふと、今日から抽象的にこれらの説を讀んで考へられるほどに清新なものではない。題材が依然たる四季の花鳥風月と神祇釋教戀無常とは定められてゐるからであらう。勅撰集は勿論とり立てていふほどのものでない。著名の作家のを個人的に讀んでみるに、了俊のは、石山の御堂の柱にかきつけたといふ「遙かなる南の海の補陀落の石の山にも跡はたれけり」(草根集第三)、また「何處にかいなさ細江の蘆鴨の住家も(291)なくて焦れ立つらん」(東野州聞書)、などにその片鱗が見られよう。耕雲には「はるゝ日の長井の浦の沖つすにたゆたふ舟はあさりすらしも」(千首)の萬葉ぶり、「身を隱すさゝの庵の臥して思ひ起きてぞ忍ぶ世々の昔を」(同上)などのやゝ變つた句法を用ゐたものもあるが、この人のも大體は措辭が優麗であつて、長い間の鍛錬が生んだ熟達の跡が見える。(「身を隱す」の歌は爲兼集にも入つてゐるが爲兼の作らしくはない)。一二の例で概言することはできないが、この二人は歌に對して自由な考を有つてゐただけに、窮屈な制限に束縛せられてはゐないものの、その詩想はいふまでもなく、用語や句法に於いても決して恣な革命的のものではなかつた。
 ところが正徹になるとかなり違つて來る。「ふけ嵐暁出づる星清く晴れたる峯の松の一もと」(千首)、「古き世の春にぞ似たる朝ぼらけ何れの年の霞なるらん」(草根集卷三)、「人はなど憂しと聞くらん秋の蟲鳴くは喜ぶ聲深き夜を」(同上卷七)、「山のはも秋や立ちくる昇る目の光を出づる風ぞ寂しき」(同上)、などは着想の幾分か奇拔なものであるが、歌集を通覽すると、それよりも生硬な語、晦澁な句法、また意義のわかりかねるもの、の多いのが目につく。「世と共に物思ふころの眺めには草木もつらし庭の前栽」(同上卷三)、「嶺高み林の木の實なほ春におのれ色こき猿叫ぶなり」、「逢ふことぞ暗き世の夢月の色嵐の聲はねぬになせども」(同上卷七)、などがその例である。これはむつかしい句法の定家の歌を解釋するのが得意であつただけに、必しもその顰に倣つたといふのではあるまいが、新古今風の修辭法を用ゐたせいもあらうし、作者の構想の混雜から來てゐるものもあるらしい。「色にふけ草木も春を知らぬまの人の心の花の初風」(同上卷四)などは前の例で、「天の戸を出でし神世の常闇や春の霞に晴れ殘るらん」(同上)などは後の部であらう。「行く春の闇の現の遲櫻夢路さだかに嵐をぞきく」(前攝政家歌合)、「春のきる身の代ご(292)ろもうちかすみ山風ふけば淡雪ぞふる」(同上)、のやうなのは、本歌があるからでもあるが、殆ど無意味であつて、判詞の筆者(兼良か)も往々この作者の作に詞のつゞきのいかゞはしいものがあることを難じてゐる。要するに「心姿いかゞ覺え侍れどまた一ふしなきにあらず」といふ同じ判者の説が、すべてに亙つての適評であらう。有名の多作家だけに精練の足らない點もあるが、昔の俊頼のやうな奔放な調子は無く、構想が智的であるため新吉今風の修辭を用ゐても新古今調のやうな音樂的情趣が無い。音調上の效果に意を用ゐないため、俊成や定家の意義に於いての幽玄の趣には甚だ遠いものになつてゐるのである。この點に於いては爲兼の作に或る連繋があるやうにも見える。或はまた定まつた思想と材料とを種々雜多に組み合せるところに、作者の意圖があるので、この作者に於いては、そこに前二章で考へたやうなこの時代の文學上の傾向と通ずるところがあるともいへようか。だから單純な氣分を率直にいひ下し、または目に見る光景をさながらに敍したといふやうなのは少い。この點では、俊頼の「鶉なくまのゝ入江」などの例をひいて眼前の氣色を少しもはたらかさず(理智を加へず)詠み現はせと説いた了俊の教(辨要抄、落書霧顯)とは、ひどく違つてゐる。たゞその智的構想は、昔の古今集時代のやうなものとは同じでないが、これは用語が日常の口語とは遙かに懸け離れてゐる上代語であるのと、新古今などの時代を經過した後であるのとの、故であらうか。さうして古今集の歌に似た言語上の遊戯を弄ぶものは、別に狂歌として作られるやうになる。さてこの正徹の歌風が廣く世に行はれたかどうかは明かでなく、この人に教を受けたらしい多くの武人なども、如何なる歌を作つてゐたのか、遺つてゐるものが少いからよくはわからぬ。
 以上は技藝としての和歌についての考察である。當時に於いても歌合せや百首千首などの歌を詠ずることはしばし(293)ば行はれたし、その他にも題詠は常に試みられた。技藝としての歌がかくして作られたのである。然るにさういふ歌には、後にもいふやうに、武士とても武士に特殊な情感を詠じたものが殆ど無い。公家貴族とても彼等の生活を詠じたものはやはり見られない。所領も削られ權威も無くなり、彼等の任務である朝廷の儀禮もかたばかりにしか行はれず、さうして事ごとに武家に抑壓せられてゐる公家貴族は、彼等の運命とそれに對する情懷とに歌として表現せらるべき多くをもつてゐたであらうに、さういふ歌は作られなかつた。上にいつた如く萬葉はこのころにも讀まれてゐたらしく、將軍義尚が「人々に萬葉風體の歌をすゝめて褒貶し」たことのあるほどであるが(家集)、それとても題詠としての「風體」のことであつて、萬葉人の如く自己の情生活を率直に歌はうとしたのではなかつた。たゞ職業歌人や公家貴族とても、事に當りをりにふれて感慨の止みがたい場合があり、さうしてさういふ時には、作らうとせずしておのづから歌が作られた。それはもはや技藝としての歌ではない。このことについてはなほ後にいふであらう。技藝に長ぜず或はそれを知らないものでも、同じ場合に同じやうにして歌の形でその情思を詠じたことは、當時の種々の著作によつて知られるし、物語などの歌にもそれと同じ性質のものがある。それらは歌の形をもつてゐるだけのものではあるが、とにかく一種の詠懷である。かういふものを作るところに日本人としての一種の風習があり、さうしてそれには、上に述べたやうな一般的な古典崇拜、上代文化の遺風の尊重、との關聯がある。
 
 草根集などを見ると、宗匠またはその他の家々に於いて歌の會の開かれることが多かつたらしいが、それにもまして世に行はれたのは連歌の會であつて、宮廷幕府に於いてはいふまでもなく、大名や一般の武士まで、殆どそれを弄(294)ばぬところは無かつた。狂言を見ると民衆の間にもその風習の擴がつてゐたことが知られるやうである。連歌は一種の國民的遊戯として流行したのであるが、歌よりもむしろこの方が喜ばれたのは、付合といふことと幾人かの會合によつて行はれることとは特殊の興味があつたからであらうか。かゝる連歌は、この時代の初め(和歌に了俊のゐた時分)には梵灯庵が盟主であつたが、應永の前半には、彼は筑紫のはて吾妻の奥に漂泊してゐて京にはゐなかつたといふ(返答書、心敬老のくりこと)。宗祇の吾妻問答に、この時代を中古として救濟時代の上古に對照させてゐる。それから永享嘉吉のころ(和歌で正徹堯孝の時代)には宗砌智薀などが最も有名であつて、應仁前後を中心としてゐた宗祇や心敬は直ちにその後を承けたものであるが、これが即ち吾妻問答のいはゆる當世である。これらの時代々々で風體に變遷もあるが、それについて考へておくべきことは、このころになると歌と連歌とはます/\近づき、前代までは全く別のもののやうであつた歌人と連歌師とも、また漸次接觸して來るやうになつたことである。了俊は連歌道を善阿に學んで歌の方とは別の系統を承けてゐるし、また歌と連歌とに輕重の別があると思つてゐたらしいが、しかし歌も連歌も詠むべき風情は同じであつて、連歌も決して言語上の遊戯ではない、といふやうに説いてゐる(落書露顯)。正徹は連歌に手を染めなかつたが、弟子の心敬は連歌に入り、梵灯門から出た宗砌も正徹の教を受けたといふ(吾妻問答)。宗祇、心敬、肖柏、などが、歌人としても連歌師としても世に用ゐられたことは、いふまでもない。これは一つは和歌の中心が堂上を去つて民間に移つたのと、一つは連歌そのものの風體が變遷して歌に近づいたとの故であらう。
 前篇で者へた如く、前代(いはゆる上古)に於いては、連歌の一句が獨立せず、前句とのつけぐあひも主として詞(295)の縁によるのみであつたといふが、この時代の初めになると、句は漸次獨立して來たけれども付合の方法はさして改まらなかつたらしく、「一村雨のさくる中空」に「中空」の縁から「富士」を引き出して「富士見えて浪のどかなる沖津舟」(梵灯)とつけた如く、付句の風情は前句のと適合しない(老のくりこと)。「弓矢の外もまた文の道」に「桑蓬しげれる陰をかき分けて」(作者未詳)と付けたのも、桑弧蓬矢といふ文字にたよつたのである(宗祇老のすさみ)。また一句の風體も「暗をまつ漁のあまの月にねて」、「あま人のこの世は罪にたすかりて」、といふやうな理智的のものがあつた(吾妻問答)。ところが宗砌以後(いはゆる當世)になると、一つ/\の詞にはかゝはらず前句の全體の風情につける。「野里の秋の暮ぞ寂しき」に「招くとも薄が下は誰か來ん」(宗砌)とつけ、「風や枯野の色に吹くらん」に「冬されば蘆の花ちる遠干潟」といひ、「あはれにも眞薪折り焚く夕煙」に「炭うる市のかへるさの山」とつける類である(同上)。また一句として「山もとの野を夕碁と鹿なきて」(宗砌)、「秋さむき片山岸に水落ちて」(忍誓)、といふやうに、何等かの風情をそのまゝに敍するといふ(吾妻問答)。心敬や宗祇の書いた連歌の教にも、一句の姿については、或は工みなく(理智を加へず)ありのまゝに目に見る如く氣色を敍したものを賞し(同上)、理智で作り上げて考へて見ねば解らぬやうなのを「入りほか」として難じ(心敬さゝめ言、老の繰言)、或は秀句のやうな言語上の遊戯を排斥した(さゝめ言、吾妻問答)。付けかたについても、詞によつてつける「親句」よりも、詞にかゝはらずして風情によつてつける「疎句」を重んじ(さゝめ言)、前句を解釋するやうな句を斥け(吾妻問答)、すべて詞を離れて風情を見よと説いてゐる。付けかたに篇序題曲流といふことがあるといふのも(さゝめ言)、畢竟同じことであらう。心敬は親句を教に疎句を禅に見立ててゐるが、詞を離れよといふ教にも、或は禅宗の思想から來た考へかたが幾(296)らか含まれてゐるかも知れぬ。言句の縁によらず意外のものを提へて來て前句につけるのは、禅僧の問答のしかたに似た點が無いでもない。心敬はまた歌に冷暖自知の境があるといつてゐるが、これもまた禅宗の思想に關係があらう。上に述べた耕雲の思想と共に、間接に歌連歌の上に及ぼした禅宗の思想の影響が認められる。しかし心敬に於いても、連歌に關する見解を表現するために禅語を用ゐたまでであつて、さういふ見解そのものは、連歌の性質とその歴史的發達の方向とから自然に生じて來たものである。
 さて詞を後にして心を前にせよといひ、工まずして眼前の氣色を詠めといふのは、今川了俊の歌の教と全く同じであるが、心敬や宗祇は連歌も歌の風情を離れずといひ、その修行としても萬葉以下の歌集や「伊勢源氏」などを熟讀してその風情を養へといつてゐて(吾妻問答、心敬庭訓)、これらもまた了俊の説と同じである。その上、歌の面影のある連歌は上品で、歌を詠まぬものは連歌が上達せぬといひ(さゝめ言、心敬獨言)、更に一歩を進めては、連歌にも歌詞でないものを用ゐてはならぬといひ(吾妻問答)、連歌にも歌と同じ十體があるといひ(さゝめ言)、また有心なるところに本づき長高きを希ふと説いてゐる(吾妻問答)。連歌は獨立した句を以て前句につけるといふ特色があるのみで、その他は全く歌と同じだといふのが、これらの人たちの意見であつた。さうしてかういふ態度によつて連歌の地位が高められたのである。連歌には強ちに秘事なしといひ、修行の極意には無師自悟冷暖自知の境があるといひ、種々の法則も達人に至つては必しも拘泥しないといふやうな考(さゝめ言)も、思想としては禅語から來てゐる點もあるが、秘事を重んじ規矩を設けて外形から人を導く二條派に反抗した了俊などの歌の教から相承せられたものらしく、これもまたおのづから連歌が歌と共に高尚な道とせられた故である。要するに、連歌を高尚にするには、それを(297)歌と同一地位に押し上げるのが必要である、と考へられたのであるが、これは文化の中心が民間に移つてもその標準が上代文化の遺風にあるこの時代の通相に應ずるものであり、猿樂が發達して能となつたのとその趣が似かよつてゐる。
 歌よりも低く見られてゐた連歌がその地位を高めたことはよいが、しかし國民文學の歴史的發達といふ觀點から見ると、それを歌に近づけたことは、必しも正當の方向に進めたものではなかつた。連歌はもと貴族文學たる歌に胚胎し、また貴族の間にも行はれてはゐたものの、むしろ民間文學の一つとして世に弘まつて來たのであるから、民間の宗匠がそれを發達させるには、貴族文學に存在しない新しい情趣を與へ、新しい材料を用ゐ、新しい詞によつて、純粹の平民文學となるやうにしむけるのが自然であつた。だから、歌界の新運動に導かれて言語上の付合から、風情、心、の付合に向はせたのは、よかつたが、用語や情趣を歌と同じにしようとしたのは、この點に於いてむしろ逆轉である。宗祇が「瓶にさす花の盛は短くて」、「しみのすむ文を空しきかたみにて」、などを「詞、品、おくれ、心新しさ過ぐ、」といひ(老のすさみ)、心敬が「春はたゞ何れの草も若莱かな」を評して「七草などは二葉三葉、雪間より求め得たるさまこそ艶に侍るに、これは何れをもわかずむしり取りたる、無下に侍り、姿の俗の句なるかな、」(さゝめ言)といつてゐるのは、和歌の用語と情趣とを以て連歌を律せんとするものであつて、連歌に加へた重い桎梏である。だから幾分かおもたゞしく取扱はれた新撰菟玖波集は勿論、その前に宗祇の撰んだ竹林抄を見ても、また宗祇の句集である老葉、下草、などを讀んでも、連歌が平民文擧であるといふ特徴は概して見えないし、今遺つてゐる文安千句、寶徳千句、河越千句、などの風體は、前篇に述べた紫野千句よりもむしろ貴族的になつてゐる傾きがある。
(298) けれども連歌は、事實として、その作者に民間のもの、また親しく地方を遍歴したものがあるだけに、「旅の暮乘る駒いばへ犬吠えて」(宗砌)、「犬の聲する夜の山里」(心敬、以上新撰菟玖波)、或は「櫻咲く山べの川に舟よびて」(心敬)、「植ゑし田のいなびかりしてふる雨に」(宗砌)、「しば粟の落つる木かげの草の庵」(同上)、「寒き日は野べも小鳥も人なれて」(智薀)、「狐なく道の末野に寺見えて」(宗砌)、「草苅り笛の暮るゝ山みち」(心敬、以上竹林抄)、「ゆふべの色の薄墨の空」、「白髪なる神の宮人沓はきて」へ宗砌)、「月更くる夜に白き澤水」(原春、以上寶徳千句)、といふやうな、和歌には詠まれぬ材料が稀には用ゐられてゐる。「もののふの祝ふいくさの門出して」(河越千句修茂)、「もののふの戰ふ場に身を忘れ」(賢盛)、「家を思へば勇む武士」(心敬)、「國安くなるは我の力にて」(專順)、「亂れたる國を治むる謀」(同上)、のやうに武士の行動を材料とするのも、歌には例の少いことである。「思はぬ國に身をすつる人」(心敬)、「太刀さげはきてやすむ旅人」(以上竹林抄)、なども武士のことをいつたものらしい。さうして「水たまり梅散る庭の眺かな」(宗砌)、「若草にまじる二葉の小松かな」(智薀)、「名もしらぬ小草花さく河邊かな」(同上)、「日の御影花に匂へる朝かな」(心敬)、「木葉朽ち水草きよき川邊かな」(宗祇)、「浪青し山やかげすむ夏の海」(兼載)、「夏の日に色こき山や雲のかげ」(同上)、などの發句には、多くの歌人にはできなかつた珍しい觀察の結果が現はれてゐる。もし連歌師が歌の因襲的趣味に拘束せられずして、自由に、またあらゆる方面に、新材料を求め、それにこの觀察眼を向けたならば、連歌そのものの文學的慣値はともかくも、いくらかの新生面がそこに開かれたであらうに、高級の文藝といへば古典めいたものと考へられ、新しいものを創造してゆくだけの力が無かつた時勢とて、惜しいことであつた。たゞ猿樂から發達して貴族的になつた能の傍に、平良的な狂言が新しく生まれたと同樣、(299)歌と同地位に押し上げられた連歌も、あまりの重々しさと窮屈とに堪へずして、却つてその傍に輕い平民的なものが生じたので、それは宗祇の門人の宗長あたりに萌し初め、宗鑑に至つて大に現はれて來る。しかしそれは、新材料を多く採り口語を自由に用ゐてゐる平民的のものではあるが、その多くは高雅と思はれてゐたことを強ひて卑俗に取扱つたといふやうなもので、文學としての價値は決して高くはなく、歌の傍に生じた狂歌とほゞ同樣のものである。狂言ほどの内容も無い。(このことは次篇に詳しく述べよう。)
 けれども、この時代の連歌が、歌と違つた方面に於いて、文學の上に幾らかの貢獻をしたことは事實である。その第一は、二句をつゞけて見ればそのまゝ一首の歌となつた昔の連歌とは違つて「一句を獨立させて取扱ふところから、十七音または十四音の短い句に於いて、まとまつた光景を敍しまとまつた情思を表現しなければならぬため、この意味に於いて一句の構成の法が進歩したことである。菟玖波集などの句にも既にその傾向のあることは前篇にいつておいたが、それがます/\發達して來たのである。「花匂ふ山もと遠し朝がすみ」(智薀)、「花散らば流れて匂へ春の水」(賢盛)、「花落る曉露に旅立ちて」(心敬)、などが、僅々十七字中にそれ/\の風情を髣髴させてゐるのを見るがよい。「霞みけり雨は夜のまの朝日かげ」(能阿)に至つては、時間の經過がある爲にむりな句法となり、理窟に墮ちてもゐるが、それでも作者の苦心の跡は見られる。「夕暮深し櫻散る山」(心敬)、「世の中つらし花の散るころ」(能阿)、「月に戀ひ月に忘るゝ都かな」(心敬)、「思へば今に似たるいにしへ」(作者未詳以上竹林抄)、などの句法も歌には見られない。かういふやうなものに限らず、全體に一句の構成、即ちことばのつゞけかた、が三十一音の歌とは違つて來た。姿に幽玄を求めた新古今のとも同じでない。發句では、それが一卷の連歌に於いて特に重要視せられただ(300)けに、かういふ工夫が一層大切であつたので、宗祇にも「春よまて散る櫻あれば遲櫻」、「櫻がりかへさは野邊の菫かな」、「露に起き霧に朝立つ山路かな」(以上老葉)、「月落つる朝潮はやし夏の海」(下草)、などの例がある。句そのもののよしあしは別として、十七字詩が後になつて連歌から獨立した一つの詩形となる基礎は、明かにこゝに据ゑられてゐる。季の沙汰のやかましくなつたのも、付合の上の便宜からでもあらうが、それによつて表現せられる情趣の背景を面影に浮かべさせ含蓄を饒かにするためでもあつたらう。
 第二には、客觀的にものを見ることであつて、これは前に述べたやうに歌から傳へられた一傾向でもあるが、また連歌といふものが本來抒情的のものでないといふ特質からも來てゐる。全體として抒情的のものでないのみならず、一句ごとに他の作者の手に移るのであるから、前句に現はれてゐる主觀的情思を承け繼ぐよりも、客觀的に光景を敍してゆく方が取扱ひよく、また斷えず變化を求めてゆく上からも、さうしなければならぬのである。歌には例の極めて少いことであるが、「御階の下に物申す人、君がめす歌をはるかに聞え上げ、」、「むせぶぞ涙袖におさへし、彈く琵琶の音ほろ/\と手に鳴て、」(竹林抄)、といへば、御階の下に跪くものも涙おさへるものも、畫中の光景となる。「遠きかへさを思ふ旅人、白川や關路の月を西に見て、」(同上)の旅人も同樣である。もつとも戀などはまだ十分に客觀化せられてゐないが、さういふ傾向は次第に見えて來る。また一句の姿からいつても、宗祇などの目あてが理智の作用を加へずして具體的に光景を寫し出すところにあるのみならず、短い句に於いてさうするには、なるべくテニヲハを少くして材料を多く使ふ必要があるので、それがまたおのづからこの主旨にかなふことになる。昔に溯つていふと、新古今時代の歌に既にかういふ傾向のあるものがあつて、連歌も間接にその影響をうけてはゐるであらうが、(301)連歌の一句は詩形が歌よりも短いだけに、その點からもかうなつて來たのである。
 この傾向は、付け方がいはゆる心づけとなるに從つて、ます/\著しくなり、それと共に觀察もまた細かくなる。前句の風情に適合して而も變化を失はないやうな光景を想ひ浮かべなければならぬからである。連歌の國文學に寄與した主要の點はこゝにあるので、大觀すると自然界に對する觀察の態度にも趣味にも、またそれを表現する用語にも、新しみといふほどの新しみが無く、古典によつて示されてゐる範圍外に出ることが少かつたにもかゝはらず、ともかくもその範圍内に於いて、できるだけの新情趣を見つけ、できるだけの新觀察をしようとしたことだけは、認めなければならぬ。前に擧げた二三の發句もその努力の跡を示すものであるが、當時の句集や百韻千句の類を見ると、往々歌には見出されない風情を敍したものに遭遇する。例へば「行く水寒く日の殘る山」(河越千句宗祇)といふ句には、木枯らしの吹きやんだ後にでも見られさうな、蕭條たる冬の曠野の夕暮の光景が「日の殘る山」の一語によつて特に鮮かに寫し出されてゐるのではなからうか。さうしてこれは宗祇が、霜枯の野路の行脚の何の時にか、しみ/”\と眺め入つたそのをりの印象ではなからうか。もし精細にこの時代の句を一々檢べていつたならば、後の芭蕉や蕪村によつて發見せられた風情が、既に現はれてゐないにも限るまい。少くとも當時の思想と趣味とに適應する自然界の情趣は、殆ど殘すところ無く捕へられてゐるやうに見える。
 第三には、上に述べたやうな特殊の表現法の上の工夫と、また古典の知識の足らないものに向つて古語を説く必要とから、連歌師の間に一種の文法上の研究の萌芽が生じたことである。例へば切字の沙汰の如きもその一つであらう。發句に切れる切れぬといふ問題のあるのは、既に梵灯時代からのことであつて(返答書參照)、宗祇時代にはそれが一(302)層やかましくなつたらしいが(袖下參照)、これは一句を獨立した詩形として取扱ふやうになつたため、まとまつた思想をそれに盛るに必要な手段として考へ出されたものであらう。切字を用ゐると「テニヲハ」を少くして種々の觀念を結合するに便利である。これには孤立語たるシナ語の詩の句法から思ひついたところがあるのではないかとも臆測せられるが、當時の連歌師の學識から考へると、さう考へることはむりであらう。また宗祇の袖下や心敬の馬上集には、後の文法家の「かゝり結び」らしい考や「テニヲハ」の用ゐ方についての教もある。なぼ宗祇は七音の句は二五とせずして三四とせよといふやうな、修辭上の注意をも與へてゐるが、かういふことは、事實上吟詠した感じによつて、歌人なども氣が付いてはゐたであらうけれども、法則としてはこれまで説かれなかつたらしい。(文法上の考は後になるほど次第に詳しくなつてゆくので、宗祇の白髪集の卷末に附いてゐる作者未詳の説には切字やテニヲハのことがやゝ詳しく説いてある。)もつとも袖下の古語の解釋が、幼稚な誤謬で滿たされてゐるほどであるから、これらの説も今から見ると缺陷の多いものではあるが、ともかくも考がこゝに及んだことだけは注意しなくてはならぬ。さうしてそれは連歌が平民の間に行はれてゐたからのことであらう。
 さてこれまで述べたのは、一句の上または前句との關係についてのことであるが、宗祇や心敬の説いてゐるところも、またこの方面のことである。もとより連歌は百韻なり千句なりの全體として成りたつものであつて、一卷のまとめ方には定められた方式があるけれども、それはむしろ宗匠や執筆の統裁法に屬するもので、一々の作者に取つては、この制限が作句の上の興味を刺戟するのみであり、さうしてその主なる興味は前句につける點にあつたのであらう。
(303) 以上はこの時代の和歌と連歌とに對する大觀である。概していふと歌も連歌も一種の技藝となつてゐたのであるが、かうなつたのもさうなるべき理由のあつた文學史上の事實であり、またその技藝の上にも時勢の影響はある。のみならず、それが廣く民間にもゆき渡つて武士や民衆に一種の古典趣味を養はせ、特に殺伐な武人の心胸に一味温雅の氣を通はせた點に、大なる效果があつたには違ひない。その趣味を因襲的だといふのは、廣く古今の文學を見わたしてのことであつて、さういふ知識に乏しい當時の武人などは、それを陳套だとも思はなかつたらう。さうしてそれによつてともかくも花鳥風月の情趣を味ひ得たのである。たゞ今日から見れば、その和歌連歌は文學として取扱ふには内容が頗る貧弱である。特に歌は着想と題材と用語とが一定してゐて、要するに古歌の摸倣をする外に出ないのであるから、如何に自由な態度をとつてゐるものでも、たゞその範圍内でのことである。連歌に至つては自然界の觀察が歌よりも親切になり微細になり、幾らかは新しい風情がそれによつて發見せられたけれども、その情趣と題材とは、概していふと昔から歌に詠みふるされた花鳥風月と神祇釋教戀無常とであつて、その外には出ることが少なかつた。この時代には、武人の世の中として、義經や曾我兄弟の如き古英雄が崇拜せられ、さういふ氣分が幾多の物語となり演藝となつて世に現はれてゐる。けれども歌にも連歌にもさういふ形迹は殆ど見えない。亂れた世である。戰場に臨む心がまへは斷えずしてゐなければならぬ。時には昨日までの身方をも敵としなければならず、我が身も何時死ぬかわからぬ。けれども武人の歌連歌に戰場の光景を敍したものも無く、戰に臨んでの昂奮した感情や戰の終つた時の心理状態を表現したものも無い。戰勝も敗軍も人を殺したのも友の亡くなつたのも、歌人の心には何等の印象をとゞめない。兵馬倥?の際にも到る處に好士があり、矢叫びの聲を聞きながら城郭の裡に吟詠に耽り、陣營の間に連歌の會を(304)開く武士も多かつたので、さういふ光景を想像してみるのも興趣の深いことであるが、しかしその作には彼等の武人としての情感が殆ど現はれてゐないではないか。或はかういふ好士の間を巡りあるいてその人たちを指導した宗匠なども、みづから兵馬の間に馳けまはることこそしないが、陣營の有樣や武士の生活を見も聞きもし、または戰の跡をもしばしば訪うたであらうに、彼等の作には直接にそれから得て來たらしく見えるものが少いではないか。全く無いではなく、上に擧げたやうな例もあるが、その數は甚だ少い。宗祇の「治まらぬ世をも知らぬは哀れにて」、「いくさの場もたゞ秋のつゆ、風わたる蓬が月の白き野に、」(本式連歌百韻)などは、この點に於いてむしろ稀有のものといつてよからう。要するに、歌連歌は作者の實生活と接觸することの少いものであつた。が、當時の人にいはせれば、それを作るのは實生活から遊離した別樣の世界に暫し身を置いて、日常生活とは別樣の氣分に浸らうとするのであつて、こゝにそれが世に行はれた理由があるのである。血腥い世の中に血腥い生活をするものが、娯樂の上にも血腥ささが伴ふのでは、娯樂のかひが無い。
 歌が特殊の天分を有つてゐる特殊の詩人の作るものではなくして、何人にでも作られるものになつてゐ、またその着想が一定してゐた當時に於いては、それを作るのは、古人の歌を讀んでそれを味ふのとほゞ同じことであつて、ただそれに製作に伴ふ技巧上の興味が加はるに過ぎない。さうしてその興味は、一定の方式に從つて一定の動作をする蹴鞠や茶や香の遊戯と似たところのあるものであつて、特に連歌に於いてさうである。もとより眞の詩人が世に出て一世を導くならば、多數の作者の詩境もまたそれによつて新しく開拓せられるであらうが、當時の文化の大勢は到底それを許さなかつたのである。特に歌界連歌界の中心となつてゐる宗匠の多くは、遁世ものか僧侶かである。衣食の(305)計のためにする多數の宗匠などは別問題としても、心敬宗祇の輩とても、彼等の乾枯らびた心生活には活き/\とした情感が無い。出家をするにしても、したにしても、西行のやうに深刻な心的闘争を體驗したのではなく、單に世の習慣と生活の便宜とから來たことである。西行の風月の愛着には彼の全心生活のあらはれがある。彼は人間に執着し、それと同樣に風月に執着した。宗祇などのはそれとは違つてゐたのではあるまいか。(この時代の西行觀は西行物語の西行の取扱ひかたにも現はれてゐるので、それには西行の人間に對する愛着が重んぜられてゐない。)かういふ人々に清新な歌のできるはずがなからう。一般の作者とても昔の奈良朝や平安朝のやうに青年男女は無い。女の作者の極めて少なくなつたのは、多くの女流作家を出した昔の貴族社會が衰微したのと、女の教育の發達しない、または女と縁遠い、武人及び僧侶の社會に文學の中心が移つたのと、歌や連歌の會に女が列席しかねるといふ事情と、これらの文化上の状態から來てもゐるが、老の繰言に見える如く好士には數奇と道心と閑人との三つが大切とせられた時代には、青年男子もまた多くその群に加はることはできなかつたであらう。戀も恨も閑人に翫ばれる文字の上の遊戯であるとすれば、この時代の歌連歌の性質はおのづから知られよう。
 もつとも幾らかの不平や世の亂れに對する感慨は、歌にも全く現はれてゐないではないので、歌集を見ると、「四方の海にみな名のりそをかりもちて民は一人も無き世なりけり」、「人ごゝろさらになほらん世ぞかたき上におきてず下に恐れず」(以上正徹)、或はいはゆる下剋上の風を、或は權力者が權力を失つてゐることを、歎じてゐるかういふ作に接することも稀にはある。或はまた「さもこそはうき世の旅にさすらはめ道さまたげの關なとゞめそ」(藤河の記兼良)、「住みなれしこの山水のあはれ我がさそはれ出づる行くへ知らずも」、「旅ごろもうらぶれてゆく鹽のやに煙さ(306)びしきゆふがすみかな」(以上廻國雜記道興)、戰亂の世に京に住みかねて旅路にさすらひ出た時の感懷が切實に詠まれてもゐる。かういふものを拾ひ集めたら、なほいろ/\あるであらう。しかし上記のやうな歌を詠んだ同じ作者が、一面に於いてはやはり「治まれる國つ萬の初風に今朝うち靡き春は來にけり」、「世を治め民を惠むも君と臣身を合せたる時ぞ賢き」(正徹)、などと天下泰平らしいことをいつてゐるので、題詠の祝の意味のあるものは概ねこの類である。表面からいふと、これは無意味に綴られた儀禮的文字であり、さうして歌に於いてかういふ無意味な、或は明かに虚僞な、文字が弄ばれてゐるほど、歌といふものは實生活から離れてゐたのだともいはれる。もつともこれについては別に考へねばならぬこともあるが、それについては後にいはう。
 
 さて歌連歌が上記の如きものであるならば、いはゆる歌詞を學ぶにも歌の風情を養ふにも、古歌を解釋することが必要である。古歌集の註釋の作られたのは昔の顯昭時代からのことであるが、口傳とか秘事とかをやかましくいふ時代になると、却つてさういふものができなかつたらしい。ところがこの時代には再びそれが規はれて、一條兼良の古今集童蒙抄などが出た。まとまつた歌集の註釋ではないが、古歌や歌詞の解釋は正徹や心敬などの著書にも散見してゐるし、了俊の(冷泉家の説を傳へたといふ)師説自見集や兼良の歌林良材集などにも、それが半ばを占めてゐる。(これらの書に見える註繹は概ね正しいものであつて、誤謬に滿ちてゐる宗祇の袖下などとは雲泥の違ひがある。ここに堂上の學者と地下の連歌師との學識の差が見える。)またこれらの書には古歌に詠まれた傳説や故事を註記してあるが、これも歌を作るについての材料としてである。なほ注意すべきことは、前篇に述べたやうな古歌に宗教的意(307)義を附會して解釋することが、これらの書には無いことであつて、これも秘事などが知識ある社會に於いて尊ばれなくなつたと同じ傾向の現はれであらう。謠曲の自然居士や物語の小町草紙などには、やはりかういふ附會説があるが、それは作者が佛者であるからで、學者の間にはかゝる説は承認せられなかつたのである。心敬のさゝめ言などには歌を人格の發現として幾らか宗教的に説いてあるが、これは古今集序註に見える親房の説と同樣、歌そのものの性質の論であつて、古歌の意義を宗教的に解釋するのとは違ふ。
 和歌と同樣、古物語、特にこの時代に於いて最も尊崇せられた勢語と源語との註釋もまた作られた。が、これも歌道の修養のためにするのが重要な動機であつた。その勢語でも、前篇に述べた知顯抄が宗教的意義を附會して説いたのとは違ひ、兼良の愚見抄は、頗る手痛い攻撃を知顯抄に加へつゝ、艶詞を肝要としてゐる點に於いて、大體の見かたが正しくなつてゐる。また物語全體を必しも業平の實録とはせずして、作り物語の分子があると考へ、業平の作でない歌の出所を考證してゐるのも卓見であつて、宗祇の山口抄も肖柏の肖間抄もその説を繼承してゐるらしい。宗祇は「み吉野の田のむのかり」また「武藏野は今日はなやきそ」の段などを明かに作りごととして説いてゐる。次に源語は、この時代の初めに四辻善成の河海抄が作られ、はじめて完備した註釋が出たといはれてゐるが、それは概して水原紫明の兩抄を本にして用語、出典、故實、などを解釋したものであり、全體についても、石山寺で書いたといふこと、源高明が準據であるといふこと、君臣の交、仁義の道、好色の媒、菩提の縁、がみな具つてゐるといふことなど、すべてが前代から行はれてゐた思想を繼承してゐる。たゞ好色のことは業平の話を粉本にしたといふのが、この註家の獨創かと思はれるのみである。けれども作者紫式部が好色の物語を書いたのは罪であるといふやうな考はまる(308)でなく、雲隱の卷についても紫明抄の六條院頓滅説を難じてゐる。兼良の花鳥餘情になると、さらに進んで雲隱の卷を天台四教の法門に擬して説くやうな、河海にはまだ用ゐられてゐた、考を排斥した。朱晦庵の毛詩論などを引用したのは天台に擬するのと同樣の附會説であるが、物語の解釋が佛教思想から離れてゆく傾向のあることはこれでも知られる。さうして舊説の「並」の説を更に詳しくして横竪の並といふことをいひ出し、また年立を精細に考へたのは、物語の筋を明かにする上に於いて從來の註釋よりも一歩を進めてゐる。但し物語そのものに對する批評とか、物語中の人物なり光景なりについての感想とか、さういふことには毫も及んでゐない。もつともこれは註釋といふものの性質から來たことでもあらうが、前代に於いては註釋家の外に無名草子の作者のやうな批評家があつたのに、この時代にはそれが無くなつた。古典と實生活との距離が一層遠くなつたのと、文化の衰頽の甚しくなつたため古典が神聖不可侵のものになつたのと、また感受性が荒んで來たのとのためであらうか。けれどもこれらの註釋が物語を宗教的に見なくなつたのは、歌についての見解が一般に正しくなつたと同樣、注意すべき事實である。たゞ宗祇の雨夜談抄に箒木の名を天台の亦有亦空の説によつて説き、小町草紙などに業平や小町を觀音の化身とし、謠曲の源氏供養に紫式部の罪障を説いたやうなことはあるが、これは作者が或は遁世ものであるため、或は僧侶であるため、また或は佛家の思想によつたためであらう。當時の文學的作品としての物語や謠曲には、佛教思想が濃厚に現はれてゐるが、古物語の解釋にはそれとは違ふところがあつた。
 歌や物語の解釋に宗教的意味を帶びた甚しい附會説が無くなつたのは、さういふ附會説が本來僧侶の間から起つたもので、歌や物語の學者の間には、初めから必しも承認せられてゐたのではなかつたからであらう。また思想の上か(309)らいふと、この時代に禅僧によつて傳へられた新しい儒學の影響もいくらかはあらうか。思想上の問題は別にいふとして、その禅僧はこの時代に漢文學の上に盛な活動をしてゐた。いはゆる五山文學がそれである。當時の國文學の上にも思想の上にも直接に關與するところは甚だ少かつたが、ともかくも世の一隅に存在してゐる事實であるから、一應それを吟味しておく必要がある。
 
 禅宗とシナ語シナ文字とが離るべからざる關係を有つてゐることは前篇に述べておいた。從つて我が國の禅僧も漢字漢文を學ぶことに努力したので、彼等の間には文筆に長じたものが多かつた。しかしシナ思想の上に建てられたといつてもよいほどな禅宗の修業をするにつれて、すべての點に於いてシナを崇拜してゐる禅僧が、シナ語シナ文字によつて詩文を作るのであるから、畢竟シナ人の口まねをするに過ぎず、それによつて日本人の情思を表現し日本の事物を描寫することはむつかしい。よしさうしようとしても、それをシナ人の思想や趣味の型に入れるのであり、またさうするところに興味があるのである。だからこの點に於いては、奈良朝や平安朝初期の漢詩人漢文學者のしごとを再びくりかへしたまでのことである。模範としたシナの詩文そのものに幾らかの違ひのあることと摸倣の巧拙とは別問題として、これだけのことはいひ得られる。たゞ禅僧のうちにはシナの地を踏みシナで修業しシナ語を知つてゐるものもあつたので、さういふものはその點で昔の漢詩人とは違つてゐるが、その效果がどれだけ彼等の詩文に現はれてゐるであらうか。シナ語も知らずシナ人と交つたことの無い作者の多かつたことも、考へねばなるまい。要するに禅僧とても日本人であり、日本人がシナの詩文を摸作するのである。「納々乾坤、落々身世、風月無定主、天付閑人(310)管焉、故吾徒落煩惱之※[髟/米]、服稻畛之衣、朝而萬烟聚落、暮而一?招提、禅誦餘暇、觸景感發、則蚓鳴蛬吟、宜寫性靈、豈有所爲而強爲之者乎、」(旱霖集祖應)といひ、「詩者非吾緇家者徒學而所爲焉、譬如時鳥鳴於春、候虫吟於秋、謂之出於自然者也、」(村庵小稿靈彦)といふけれども、その性靈といふのはシナ人の詩文によつて養成せられた特殊の趣味であつて、たゞそのシナ趣味を解し得ずして文字のみを摸擬することを不自然として斥ける、といふまでのことである。特に詩に於いてはそれに特有な技巧があるから、それを摸作する場合には、歌人の歌と同樣、千篇一律になり、たゞ人によつて巧拙の差があるのみとなる。作者によつて詩風に或る差異はあり、狂雲集に見える一休のなどはかなり變つたものであるが、それは正徹の歌が他の作者のと幾分か違ふといふ程度のことである。要するに、禅僧の詩を作るのは彼等の言語でないシナ人の言語によつてシナ人の詩を摸倣するところに、技巧上の興味があるからであつて、そこに彼等の遊戯的態度がある。さうして日常語でない古語を用ゐて歌連歌を作るよりも、その技巧が一層困難であるだけに、その遊戯的興味もまた深いのである。
 もつとも、題材に於いては漸次我が國の事物をも取るやうになつて來るので、中恕の碧雲稿には藍染河とか思河とかいふやうなのがあり、一休の狂雲集には錦木、市原小町、松風村雨、などを詠じてゐ、※[さんずい+(夾/?桶萬里の梅花無盡藏に至つては、例へば社頭月といふやうな歌の題をさへとつてゐる。のみならず一休は戀草とか戀衣とかいふ語を詩中に用ゐてゐるし、萬里も「日出詞從岩戸初、國呼阿毎見唐書、」の如きいひかたをしてゐる場合がある。この傾向は時代の下るに從つて強くなつて來るので、後の策彦などの集にも我が國の事物や歌に關係のある作が少なくない。これもまた平安朝の詩に於いて既に見られた變化であつて、それは畢竟、日本人が詩を作るからのことである。けれども平安(311)朝中世の詩の作者が概ね歌人でもあつて、詩も歌と同じく平安朝人の趣味によつて眼前の風光を詠ずるやうになつたのとは違ひ、禅僧は詩を作つても歌に手を染めるものは少く、詩歌合には詩をのみ作り、純粹の連歌には顔を出さないで、和漢や漢和の聯句に於いて漢句のみをつけたと同樣、たまに我が國の題材を用ゐても、趣味と思想とに於いては概ねシナ風を固持してゐる。和漢や漢和の聯句の行はれたのは、一つは漢句とても日本語脈になほして讀みも作りもしたからであり、また連歌に用ゐられる詞が日本語ではあつても日常の口語とは違つたものであつて、その點で日本語よみにした漢句と大差が無いやうに感ぜられたからでもあらうが、しかし文字に記した上では全く性質の違つた日本語の句とシナ語のとであるから、それを同じやうに取扱ふかういふ聯句は日本人みづからの國語の特色を忘れたものともいへよう。これは詩と歌とを別々のものとしてそれを合はせた詩歌合といふものとは性質が全く違つてゐるので、そこにシナ崇拜の禅僧の重んぜられた時代の特徴がある。和漢または漢和に於いて漢句をつけたのは禅僧のみではないが、禅僧が多かつた。渡唐天神の傳説は禅僧の間から出たものらしいが、文學の神として特に彼等の崇敬してゐる菅公を無準に參禅させたところに、彼等が思想上シナ本位であつたことを示してゐる。もつとも禅僧が全く國文學に無關係であつたとはいはれないので、清巖茶話にも祖月といふ歌よみのあつたことが見えてゐる。その清巖、即ち正徹、も禅僧ではあるが、これは禅に入らない前から歌に志したのである。さうしてその作にも「おのづから逢へる時かな宿れとは水も思はず月もたづねず」、「有り無しの外に心の源を三世の佛の名をも忘れて」、など禅語を飜譯したやうなものの外には、禅僧の作らしいものは少しも無い。
 禅僧の漢文學が容易に國風と同化しないのは、それがシナ人特殊の思想と趣味とに本づいたものであるからである(312)が、禅僧は昔の僧徒が文學を宗教に利用しようとしたとは違つて、文學をば文學として獨立に取扱つてゐる。だからその作には宗教臭味が割合に少い。學問についても、朱學を講ずる場合にそれを佛教に附會するやうなことをせず、朱學を朱學として説いた。これは禅宗がシナ人の思想の上に建てられたものであり、從つてシナ人の文學にはおのづから禅宗と調和してゐる方面があり、朱學も本來佛教思想と關係があるから、故らに牽強な説を立てる必要がないためでもあらう。なほ禅宗そのものについても、教義を強ひて國體に結びつけたり佛を我が國の神に附會したりした舊宗教の故轍を踏まなかつた。元亨釋書にさういふところのあるのは例外である。これも禅宗が純粹に個人の修業を目的とするものであつて、布教的性質を有つてゐない故でもあらうが、また初めから國體にも我が國の禅にも無頓着であつた故でもあらう。要するに禅宗と禅僧の思想とは、この時代になつても依然として異國のものであつた。しかし禅僧はシナを崇拜するだけに、シナ文學の趣味を我が國に、むしろ彼等禅徒の間に、傳へることには、かなりに注意してゐたので、漢文漢詩の修辭論を著したり、詩の註釋などを作つたり、シナの書物の翻刻をしたり、さういふことをしてゐる。さうして、その著作に詩の講義などをそのまゝに筆記したらしい口語體のもののあるのは、興味ある事實であつて、こゝに却つて國文學に寄與したところがある。(後の山崎閤齋一派の經書などの講義や、降つては平田篤胤の講説の、口語體はこゝに由來がある。)彼等が文語によらないで直ちに口語を用ゐたのは、彼等の事業が古典から系統を引いてゐる國文學とは交渉が無く、どこまでも漢文學を世に弘めようとしたことを示すものであると共に、當時の状態に於いては、異國の文學を學ばせるにも國語によらねばならぬといふ事實を證明し、從つて異國の文學をそのまゝに移植することができないことを語つてゐるやうなものである。
(313) けれども禅僧は幾らかの影響をこの時代の漢文學には與へたので、文安詩歌合の判詞に一條兼良が、近代の流行は白樂天の風體ではなくして李杜蘇黄のである、といつてゐるのでもそれが知られる。なほ謠曲の三笑などに禅僧の傳へた題材が用ゐられ、放下僧などに禅語が用ゐられたのを見ると、禅僧たちが國文學の上に幾らかの新材料を供給したことは認めなければならぬ。けれども、後にいふやうに、それはシナ趣味そのものが世に弘まつたのではない。また禅僧の講説した漢文漢詩の修辭論も、昔の空海の文鏡秘府論などとは違つて、國文學の上に影響を及ぼしたらしい形跡は無く、四六文を作ることなども彼等の間の遊戯に止まつてゐた。これは國文學が遠い昔に形成せられてゐて、それが古典として尊重せられてゐる時代であつたのと、歌人などが昔のやうにシナ崇拜の徒でなかつた故であらうか。この時代に於いて禅宗と國文學との間に何等かの關係があるとすれば、それはかういふ漢文學の知識ではなくして、前に耕雲や心敬について述べたやうに禅宗そのものの思想である。要するに禅僧の漢文學は、概していふと、叢林の裡にのみ行はれた別世界の文學的遊戯に過ぎなかつたのである。
 こゝで少しく禅僧とは關係の無い方面での詩のことをいひ添へておかう。詩は昔からの因襲に從つて、儒家も作り公家貴族や教宗の僧侶のうちの學識あるものも作り、詩歌合もしば/\行はれた。御製もまた世に傳はつてゐる。和漢または漢和に於ける漢句にも、また御製もあり公家貴族などの作もある。その詩風は概ね前代から繼承せられたものであるが、上に引いた文安詩歌合の兼良の判詞にあてはまるやうなことは、事實、當時の詩に現はれてゐる。しかしそれとても詩の主題と一々の用語とのことであつて、一首の構成はむしろ因襲的であり、そこに禅僧の作との違ひがある。のみならず、その多くは詩としての形を具へてゐるだけであつて、この點に於いても前代のと異なるところ(314)が無い。たゞをりにふれ時に臨んでの詠懷の詩には、作者の眞情の流露したものがあるので、この側面では技巧に長じてゐる禅僧の作よりも興趣が深い。さうしてその詩風は、いはゆる李杜蘇黄を摸したものではなくして、むしろむかし學ばれた元白のに近い。「南來北望漢宮天、一夜江邊聽雨眠、白髪更添新白髪、青氈不是舊青氈、」(藤河の記兼良)、「寒燈挑盡夜沈々、獨臥空牀思不禁、爲我詩神如有感、松風生砌助愁吟、」「雲路隔蹤鴻雁行、他郷何耐想家郷、暗香吹斷故園雪、唯有梅花似洛陽、」「客旅尚添雙鬢花、江山阻跡故人遠、孤帆明滅暮煙外、落日天邊雁陣斜、」(以上廻國雜記道興)、兵馬の騷ぎのうちに旅路をさまよひ歩いた作者の感懷がよく現はれてゐる。歌よりもむしろ詩にかういふもののあるのは、詩の方が複雜な情思を詠ずることができるからのことであらうか。たゞそれにはシナの文字を自由に驅使するに足る修養が無くてはならぬが、それが當時の時勢とその間に於ける作者の境遇とに刺戟せられて、これだけにはできたのである。
 立ちかへつて禅僧のことをいふと、それと特殊の關係のあるいはゆる宋元畫の摸作も、その文化上の地位は詩を作るのと同じであつて、この種の繪畫が當時の國民藝術として取扱はるべきものでないことは、いふまでもなからう。國民文學が歌連歌と物語と能の詞章などとであると同樣、國民的繪畫は大和繪であつて、廣く世に行はれてゐるのもまたそれであつた。シナ畫を見てそれを摸作するに過ぎないもの、即ちシナ人やシナの山水を題材にしたものは、勿論のこと、その技巧によつて日本の風景畫などを作つても、當時の畫家はやはりそれをシナ畫の型にはめて畫くのであるから、或はその型にはまりさうな題材を取つて、シナの山水畫の特色を壞さないやうに構造するのであるから、それは決して日本の風景の情趣を現はした日本畫ではない。さうして、さういふものすら實は少く、多くはシナ畫を(315)摸作するに過ぎなかつたにである。よしシナの風物を題材とするにしても、日本人たる作家が彼自身の眼を以てそれを見、彼自身の氣分を以てそれを描いたならば、それは立派な日本畫であるが、當時の作家のはそれではなかつた。シナの風物を眼に看た畫家すら雪舟の外には無く、その他はすべて畫を見てそれをまねたのである。その雪舟の入明も彼の藝術に於いて、技巧の上達といふやうなことの外には、どれだけの效果があつたろうか。日本にゐながら日本の風景を多く畫かなかつたことからも、彼の自然に對する態度はわからう。大唐國裡に師なしとし山水そのものを師としたといふ話がもし事實であるとすれば、それはシナの山水でなければ畫にならぬとしたこと、或はシナ畫の型にはまらなければ畫でないとしたことを、示すものである。日本の山水を何故に師としなかつたのか。要するに彼等の繪畫もまた彼等の文學と同樣、一種の遊戯に過ぎなかつたのである。シナ畫そのものに妙趣もあり藝術的價値もあることはいふに及ばず、その技巧が後世の日本畫の發達に大なる貢獻をしたことも明かであるが、摸作はどこまでも摸作に過ぎないので、如何にそれが巧みであつても、眞の藝術に無くてはならぬ自由と獨創と純眞なる生命とは、そこに認められない。狩野元信が大和繪のまがひものを作り、雪舟にもまた大和繪の技巧を取入れた作品があるといふが、それは彼等によつて新しい日本畫が作られたことを示すものではない。禅僧がその詩に日本語を混用しても新しい日本の詩がそれによつて創造せられなかつたのと同じである。
 
(316)     第五章 武士の思想
 
 武士の文學は武士を寫す。その武士には古人もあり當時のものもあるが、古武士は一種の英雄として崇拜せられたのであるから、如何なる古武士が文學に現はれてゐるかを見れば、この時代の武士の風尚がそれによつて知られる。さて物語としては義經記と曾我物語とが最も多く愛讀せられ、幸苦舞曲にも謠曲にもそれらから題材を取つたものが多く、また義經記の插話に本づいた種々の物語が作られたとすれば、義經と曾我兄弟とは當時の人に最も深いなじみのある古英雄であつたといはねばならぬ。この中で、曾我の方には人の注意を惹き易い復讐といふ事件があるが、義經は何故にまた如何なる人物として、かくも崇拜せられたであらうか。
 義經記を讀んで第一に氣の付くことは、この古英雄が義仲や平家を討平した將軍としての義經でもなく、頼朝に忌まれて身の破滅に陷つた悲劇の主人公としての九郎判官でもないことである。平家追討は極めて輕々に敍せられ、兄との確執もたゞ腰越状の一節があるのみで、頼朝追討の院宜を請うて天下に號令しようとしたことなどは、語られてゐない。さうして敍するところは、母常盤の懷に抱かれてゐた時のことから、沙那王時代の美しい兒姿、清水での辨慶との立合、鬼一法眼に關する物語、などで、それから殆ど一足飛びに都落ちとなり、没落の歴史に全卷の三分の二を費してゐる。要するに個人としての義經であつて、天下の人としての義經ではない。頼朝追討の院宣を奏請したことなどは、歴史的人物としての義經の性格から見ても、それに何れだけの決意と計畫とがあつたのか、おぼつかない話であるけれども、物語の作者が義經を公人として取扱はうとしたならば、見逃すことのできない重要な事件である(317)のに、少しもそれに注意してゐないのである。また奥州落ちは頼朝との不和の結果ではあるが、義經記では單にその間に生起した事件が興味の中心となつてゐる。これは義經と共にもてはやされたのが曾我兄弟であり、さうした天下の人である頼朝とか清盛とかが殆ど物語の題材に取られなかつたことから考へても、當時の人心の一方面を覗ふに足るべき事實であつて、かの全天下を舞臺にした源平盛衰記や太平記のやうな戰記物語が作られなくなつたことと共に、世の治亂よりも個人の成敗が主として考へられるやうになつた時勢の一現象である。もつとも前に述べたことがあるやうに、義經記などが知識の程度の低い讀者をあひてにする半ばお伽噺的のものであるといふことも、義經をかういふ風に觀た一原因ではあらうが、思想上の理由も無いとはいはれまい。
 一方では將軍の權威が堅實でなくして、斷えず世が動搖してゐるから、武士はみな自己の力で自己を保護しなくてはならず、すべてが自己中心自己本位の行動をするやうになると共に、他方ではともかくも將軍があつて、或る程度まで政治的統一が成りたつてゐるから、天下に目をつけるといふ考も起らない。かういふ時勢に於いて、一般の武士に政治思想が缺乏するのは當然であらう。源平盛衰記や太平記には、天狗を世を亂す魔物として取扱つてあるので、如何なる英雄もそれに惱まされてゐたのに、この時代の物語には、鬼神にも魔物にも政治的意味が無く、さうしてそれを退治し降伏させる武者物語の多いのも、世といふことを主眼とせずして個人的に英雄を見るからである。また後にいふやうに、田村の草子の田村麿俊宗の外征や御曹子島渡りの異國遍歴譚に於いて、歴史的事實である倭寇に民族的活動としての意味が無かつたと同樣、日本民族として異民族に對する感じが現はれてゐないのも、これと同じ理由から來てゐるのであらう。義經記のみならず、獨立の物語としての鬼一法眼にもまた十二段草子にも、天下の將軍と(318)しての義經の面影は全く見えない。この點に於いては、盛衰記や太平記の現はれた前代とは趣が違つて來て、文學上に於ける政治的思想はずつと退歩してゐる。
 然らば私人としての義經は如何なる人物かといふに、義經記によると、少年時代には大惡僧辨慶や鏡の宿の強盗やまたは湛海などを苦もなく打ち負かす神變不思議の力を有つてゐると共に、鬼一法眼の女に愛せられる、といふ可愛らしい美少年であつて、その美少年であることが、武勇な働きに於ける神變不思議の感を一層強くする。幸若舞曲の烏帽子折及びそれを改作した同名の謠曲に於いて、熊坂を打ち破るのは、この前の方から出た話であり、鬼一法眼の女との話や御曹子島渡りの冒險譚に於いて喜見城主の女に契る話や、十二段草子の淨瑠璃姫との物語は、後の方から發展したものであつて、横笛の名人としたことなどは、一層この美少年的色彩を濃厚にしてゐる。これにはこの時代の兒尊重の風習の反映もあらうし、また後にいふやうな人力以上の神怪な力を英雄に有たせる思想の現はれた點もある。さうしてその不思議な力が「兵法」によつて得たものとせられてゐるのも、この時代に至つて發達して來た新思想であつて、また義經の武人的英雄たる所以でもある。兵法といふことは太平記にも既に現はれてゐて、楠木正成はその達人とせられてゐるが、これにはまだ神異の分子が少い。ところが義經になると、辨慶を打ち負かしたのも鞍馬で學び得た兵法のためであり、平氏を滅ぼしたのも鬼の國で兵法の秘卷を讀んだおかげであつて、而もその兵法には一種人間以上の力がある。(義經記には鞍馬で兵法を學んだといふ話は無いが、前篇に述べた如く太平記には見えてゐる。舞曲の未來記はそれを天狗に學んだことにしてある。)戰亂の斷えまの無い世に兵法の尊ばれるやうになるのは勿論であるのみならず、普通の武士のはたらきの外に別に學ぶべき兵法があるとすれば、それが神異なものとせら(319)れるのも自然である。ともかくも義經の景慕せられた第一は、この兵法によつて得た不思議の力を有つてゐる少年英雄としてである。
 しかし、義經記に於けるこの英雄が没落の時代に入つてからは、たゞ可憐なものとなつてゐて、平家を滅ぼした將軍らしい威風の見えないことは固より、不思議なはたらきで辨慶を降參させた少年時代の面影も無く、曾て學んだ兵法さへもどこかへ亡くしてしまつたやうである。斷えず身の不運をなげき、時々感傷的な氣分になり、最後の場合にも戰には出ずして法華輕を讀誦し、自殺の方法を兼房に問ふに至つては、殆ど讀者をして義經の武士たることを疑はしめるばかりである。たゞ義經が情けある主將であつて、部下の士卒がこの主人のためならば命を惜しまぬといふほどに心服してゐたといふことが、簡單な平家追討の章に明記せられてゐるのみならず、忠信の最後にも、また都落ち以後の幾多の物語を通じて現はれてゐる辨慶はじめ幾人かの從者の心づくしにも、反映してゐるので、こゝに義經の英雄的資質が仄かに光を放つてゐる。けれども義經自身の行爲に於いては、少年時代の颯爽たる英姿は消えてしまつて、たゞ貴公子らしい風采に於いて、纔かに昔の名殘を留めてゐるに過ぎない。要するに、都落ちの後の義經は、何のためにかゝる行動をしてゐるのかわからず、たゞ辨慶たちの計らひに任せて何の計畫も目的も無く、生きのびるために生きのびてゐるやうに見うけられる。これらは僧徒らしく思はれる作者の故でもあり、義經の末路に同情を寄せたがためにその艱苦と失意とを極度に描かうといふ着想にもより、また辨慶といふ大だてものを表面に出して來たために義經は背後に小さく隱れてしまつたといふ事情にもよることと思はれる。能の安宅で辨慶がシテとなり義經がたゞ子方となつてゐるのは、舞臺上の制約から來たことではあるが、一脈の絲をこゝからも引いてゐよう。この最後の事(320)情は幸若舞の夜討曾我に於いて、和田畠山が連歌で曾我兄弟を保護する意をほのめかし、畠山が家來を遣はして兄弟に祐經の寢所を教へさせ、また虎の妹の龜壽が室内から懸けがねをはづすことにして、兄弟に對する人々の同情を示したがために、却つて兄弟のはたらきを小さくしたのと似てゐる(これは曾我物語には見えない舞曲作者の新意である)。或は一歩を進めて、本來義經に具はつてゐる武士的資質、特に武勇と機略とを抽き出して、辨慶といふ一人物を新にそれから作り上げたために、義經には却つてそれが空虚になつてしまつたのだといつてもよからう、義經記とはいふものの、その後半には辨慶が主人公として活動してゐるのも、この故である。
 ともかくも義經記に現はれてゐる成人の義經は、武士的英雄といふよりも、むしろ女はづかしき貴公子であつて、たゞ武士の中の武士である辨慶たちが命を捧げて主君と仰ぐところに、武將としての片影が過去の名殘としてとゞまつてゐるのみである。さうしてその影には情けの一字のみが濃く映つてゐる。この時代の人が義經に於いて認めた英雄的要素は、畢竟これであつたらう。なほ御曹子島渡りの義經が、諸所の海島に於いて不思議に命の助かつたのも、鬼の國に於いて兵法を竊むことのできたのも、笛を吹いたり女の力をかりたりしたためであつて、辨慶や湛海に對して示したやうな、武勇な、或は不可思議な、働きのためではない。十二段草子の義經に至つてはたゞ美しい貴公子である。義經は後世になるほど武士的要素を無くせられてゆくやうであるが、これは義經記の傾向が次第に極端にはせていつたのであらう。
 さて、義經が武將たる資質を失つた代りに、辨慶が武人的英雄となつて現はれたとすれば、その辨慶はどんな男としてであつたらうか。義經の從者としての辨慶は、なみ/\ならぬ武勇と機略とを具へ、而も主君のために渾身の情(321)を捧げて粉骨碎身する、血も涙もある英雄であつて、こゝに武人としての一大典型が現はれてゐる。幸若舞曲や謠曲に取られたのは、主としてこの點であつて、どこまでも眞面目な武人である。しかし義經に從はない前の、人を人とも思はぬかつてきまゝのふるまひは、それとは頗る趣が異つてゐて、辨慶の性質に二つの要素のあることを示してゐる。これは當時に於いて尚ばれた武士氣質の二つの方面を、一人の辨慶に結びつけたからではあるまいか。辨慶物語の辨慶はこの第二の性質を大膽に發展させたものであつて、直情徑行、怒れば鬼神も恐れ戰き笑へば嬰兒も共に戯れるといふ、極めて無邪氣な性質に、六尺ゆたかな大男としての身體と天の成せる絶倫の腕力武技とを配して、思ふままに暴れまはらせ、世間と世間の權力とを事もなげに蹂躙させてゐる。生まれるとすぐに山に棄てられて、他人の力をかりずに獨りで育ち、自由にあばれまはり思ふまゝに遊びあるいた、といふのも、本來自然の子として、獨立獨行の人として、世間的の束縛を受けないものとして、生まれたからである。
 だから、成人の後の辨慶は、何者をも憚からず何事をも恐れず、我がまゝ一ぱいに、したいことをしてゐる。「いさかひ」が面白く暴れるのが何よりもすきである。たゞその暴れ方に策略や智巧が無くして、一直線であり突飛であり、あまりに人の意表に出でるので、そこに一種滑稽の感が生ずるのであるが、世間に對しては非常に強いものが、彼の前には忽然として弱くなるために、傍觀者は痛快を覺えると共に滑稽の感を一層強くする。比叡山を出る時、六十あまりの老僧の衣を奪ひ取つて、色美しき兒の衣裝をきせ、大長刀の鞘を拂つて嚇かしながら、山内の堂舍佛閣を遍く經めぐつたといふが、如何にその有樣の可笑しかつたことであらう。到る處の亂暴狼藉みなこの流儀である。だからまた、人を斬つても物を取つても寺を燒いても、毫も惡むべき點が無く、驚くべき暴威を振ひながら、何時も興(322)がる法師として滿分の愛嬌を湛へてゐる。これは戰亂時代に現はれた野性と、落ちついてゐることができず有り餘る力を常に何物かに向つてぶつつけようとする一種の衝動と、世の秩序と權力とを無視する破壞的態度及びその破壞力と、並におのが力でおのが事業をしなければならぬ時代の精神とを、大惡僧辨慶の一身に象徴させたのであつて、その我がまゝ一ぱいのふるまひの根柢に、一點も利慾の念の無いところが、すべての武士が血まなこになつて利慾のためにあらん限りの力をはたらかせてゐる時代に於いて、一種の理想的英雄として創造せられた特殊の人格ではあるまいか。(義經にも、義經記の鬼一法眼を訪れる話、それから出た物語の鬼一法限、御曹子島渡りの或る部分、また舞曲の烏帽子折、などには、人を人とも思はぬ大膽不敵の態度があるが、これはこの時代の英雄の一資質として、無くてはならぬものであつたらう。)この點に於いて辨慶物語の辨慶は、我が國文學の上に現はれた殆ど唯一の人物である。同じく野性的ではあるが辨慶とは反對に、手を動かすことすらものうがつて、何事をもなるがまゝに任せておく信濃の百姓物臭太郎がある。見やうによつては、人みなが手をもがき足をもがいて利達を競ひ、さうして纔かに得た榮華の夢の極めて覺め易い時勢に逆行した點に、興味があるとも思はれるが、しかしこれはむしろ考へすぎた話であつて、この人物は民間説話から出たものらしく、特殊な時代思想の産物ではあるまい。京に出て女を見初めてからの態度が、全く信濃時代とは變つてゐるのも、作者がありふれた説話を捕へて來て、それを利用したために、前後矛盾の弊に陷つたのであらう。
 けれども武士は必しも破壞者のみではない。廣い天下についていふと、秩序の定まらぬ、何ごとも強者のまゝになる世ではあるが、狹い君臣主從の間にはなほその間の情誼が保たれてゐるので、その情誼をどこまでも守つて、主君(323)のためにあらん限りの力を盡さうといふ意氣が、武人の間に尚ばれてゐた。辨慶の後半身が即ちそれを象徴するものであつて、義經記にも幾番かの幸若舞曲にも、また安宅などの謠曲に於いても、このことが明かに示されてゐる。惡僧辨慶が武士になつたのである。その他、主君の子や夫人の身代りに我が子を殺したといふ滿仲の臣の仲光、百合若の舊臣の門脇の翁、入鹿を誅伐するために盲目を裝うて我が子を見殺しにしたといふ鎌足、身を捨てて主君信田の小太郎を助けた浮島大夫など、幸若舞曲の滿仲、百合若、大織冠、信田、がこれらの人物を造り出してゐるのは、そこに武人の一典型があるからである。さうして、小太郎の領地を横領しようとした小山行重、主家を簒奪しようとした百合若の家來の別府兄弟、などとなつて物語に現はれてゐるやうな人物が、事實に於いても多かつたらしい時代に於いて、かういふ武士が理想的人物として仰景せられたのは當然のことである。舞曲の景清などにも、この平家の遺臣を舊主のためにどこまでも活動させた點に於いて、この思想が現はれてゐるので、景清が滿身に漆を塗つて容姿をやつしたのも、鎌足や仲光の苦心と同一轍である。この着想が直接には盛衰記の覺明の物語、間接には豫讓の故事、から來てゐることは明かであるが、それはこのこととは別の話である。君臣主從の關係が鞏固でなくなつた情勢の記されてゐる鎌倉大双紙に「主人に向つて敵をなすもの亡びずといふことなし」といふ信念の披歴せられてゐるのも、參考せられよう。
 しかし、景清が喜ばれたのは主としてその武勇の點であり、辨慶物語の辨慶が世人の喝采を受けたのも、また主として如何なる強敵をも無雜作に打ち負かす武勇であつて、辨慶を屈伏させ熊坂を仆した義經の愛せられたのも、そのはたらきは武力の強い大の男の辨慶とは違つて、かよわさうな兒姿に具はつてゐる神變不思議の力ではあるが、また(324)この故である。それを一層誇大にすると、超人間的威力のある惡鬼羅刹の類を征服することになるので、大江山の酒?童子を退治した頼光(酒?童子)、近江のみなれ川に大蛇を斬り殺し、人を食ふといふ奧州の惡路王を征伐した俊仁將軍、日本の佛法を妨げんがために阿修羅王から派遣せられた鈴鹿山の大だけ丸を退治し、冥土へいつて閻魔王を威嚇し、死んだ妻の鈴鹿御前を奪ひ還した俊仁の子の田村麿(田村の草子)、などのはたらきがそれである。紅葉狩の戸隱山の鬼女を殺した惟茂も羅生門の綱も、やはりこの同類である。これは思想の幼稚な時代の英雄的行爲として、何れの國民にも共通なことであつて、その説話は一種のお伽噺的性質を帶びてゐるものであるから、知識の程度の低い武士時代に至つてそれが大に行はれたのは當然である。あひての鬼も武人の氣質を受けて殘酷になつて來たので、昔はたゞ一口に人を食つたのが、酒?童子や惡路王になると、さま/”\に人を調理するといふやうな、甚しく血腥いものになつた。御曹子島渡りの鬼の王も貴船の本地の鬼の王もおのが娘を殺してゐる。鬼に家族のできたのも家族制度の發逢したこの時代の新現象であるらしいが、その家族を事もなげに殺すほどな環酷のことをしてゐる。
 この時代の文學に現はれてゐる武人的英雄の典型はほゞこれで盡きてゐる。即ち主人としては家來に對して情けのあるもの、家來としては身を捧げて主人のために盡すもの、その何れに於いても、武人としては世を世とも思はぬ放膽のふるまひをするもの、如何なる強者をも打ち負かす武勇があり、兵法の奧義を得たものである。たゞこれらの英雄は決して道徳的に完全な人ではない。無邪氣の辨慶も人を欺いて武器を奪つてゐる。田村麿の父俊仁は女に接すること四百六十四人といふ好色漢である。義經記の義經の忍んで通つた女が二十四人とあるなどは、いふにも足らぬ話であらう。これらは江戸時代の物語の英雄とは違つて、この時代のものが必しも道徳的完備を理想の人物に求めなか(325)つたことを示してゐると共に、譎詐を事とし官能的快樂を縱にしてゐた室町時代の武士氣質の反映が、そこに認められるのである。武士に美しい一面があると共に淺ましい他の一面があるのは、いふまでもないことで、情慾を縦にするぐらゐのことは論ずるにも及ばず、利慾のために權謀術數至らざることなき有樣も、合戰記の類には重出累見數ふるに暇なきほどである。狂言の節分に惡人でもない女が鬼を欺して寶を取ることが作つてあり、「どぶかつちり」の如き殘酷な感を與へるものもあるが、かゝるところにもこの風習は現はれてゐる。もう一歩進んでいへば、主人にも背き近親をも虐ぐる例の少なくないことは、前に述べた百合若の別府にも、信田の行重にも、謠曲鳥追船の左近尉にも、それが現はれてゐるのでも知られる。事實、世に紛亂の絶えないのが利慾のための爭闘であることは勿論ながら、戰爭に於いても、負け戰になると主人を捨てて落ちゆく士、腰拔け武士の俄坊主、親戚をも賣つて恩賞を得ようとするもの、目の前にて父の討たれるを見捨てる不覺人もあり(以上明徳記)、人を殺すにも、將軍義教や太田道灌の場合のやうに、卑怯なだまし打ちをする例もある。日本國中の大小神祇をかけての起請文を書く風習があるのも、かういふ状態であつたからであらう。「罪は人間にあり」とか「疑は人間にあり天に僞なきものを」とか、いふことがいはれてゐることも參考せられる(謠曲三輪、羽衣、など)。「鬼神に横道なし」といふのはこのことを裏面からいつたものであらう(野守など)。概していふと、武士の氣風が源平時代よりも壞れて來た傾きがあるが、これは前に述べておいたやうな事情から、主從關係が疎遠になつて社會全體が動揺し、實力を以て競爭しなければならぬ時勢になつたからである。また武士の命を惜むことなどは、武士の階級が固定せず、武士としての修養が無くしてその地位を得てゐるもののあることも、その一原因であらう。人生固有の生存欲に背馳する敢死の氣象は、戰爭の體驗と社會的制裁と(326)によつて、訓練せられねばならぬからである。
 武士の文學には武士の典型が寫されてゐるのみならず、種々の方面に於ける武士の思想が現はれてゐる。山賊や鬼神を征伐し冥土の十王を威嚇するやうな冒險的氣象が、海外に對する活動となつて現はれてゐることも、その一つであつて、これは、事實として同じやうな武人氣質のはたらいてゐるいはゆる倭寇の活動や、高麗明に對する交通の頻繁であつた時勢やの、刺戟をもうけてゐるらしい。前代に於いては事實として存在してゐても思想の上に影響を及ぼすまでにはならず、從つて文學の上にも現はれなかつたのが、この時代となつて少しづゝそれが見えるやうになつたのである。百合若大臣は蒙古退治のために高麗に出征し、御曹子島渡りにも蒙古征伐の軍を起すことが見える。その御曹子が鬼界島、裸島、女護島、小人島、さては腰から上は馬で下は人であるといふ怪物の國、を經て鬼の國にゆくのは、その材料に第二章に説いておいたやうな由來はあるけれども、それがかういふ物語に取られたのは上記の時勢の影響であつて、前代の文學には見えないことである。田村の草子の俊仁も唐を討つたが、これは今昔物語から出た話ながら、それには新羅征伐としまた彼の國で法力を以て我が國を調伏することになつてゐるのに、これでは唐征討とした上に不動の利劍を以て戰つてゐる。こゝにもこの時代の特色が見える。鬼が島が寶の國となり蓬莱となつてゐることにも、遠い海外に出て掠奪をした倭寇の反映があらう。桃太郎の童話もこのころから世に行はれたものではあるまいか。外國は上古には寶の國であつた。平安朝末から鬼の國となつた。それが今は鬼の國そのまゝに寶の國となつて、鬼は打出の小槌を持つた寶の主になつたのである。これは保元物語にも既に見えてゐることであるが、それが廣く世に行はれるやうになつたところに意味がある。賊でも海外に渡るので、田村麿に征伐せられた大だけ丸は、唐(327)と日本との界に城を築いたとある。唐と日本との潮界のちくらが沖といふ海の名が百合若の物語などに見えてゐて、意義も由來も確かにわからぬが、やはり倭寇のなかまからいひ出された語ではあるまいか。(因みにいふ。御曹子島渡りの鬼の國は蝦夷が千島といふ名であるのに、土佐から出帆してゐる。大だけ丸は近江から信濃駿河を經て陸奧の率土濱に逃げ、そこからこゝに來た。地理には無頓着である。)なほ梵天國の中納言が海路羅刹國へいつたり、田村の草子の阿修羅王から遣はされたといふ大だけ丸が天竺へも往復するのは、材料が佛典から出てゐるためではあるが、眼界の廣くなつてゐることはこれでもわかる。辨慶が日本の上にこすもの無くば唐土に渡るべしといばつてゐるのも(辨慶物語)、鎌足の女が唐の帝の皇后となつてゐるのも(舞曲大織冠、謠曲海士)、或は外國の貢船が難波津に輻湊するといふのも(謠曲岩舟)、唐の帝と相撲してそれを投げつけるといふのも(狂言唐人相撲)、これに關係のあることで、平安朝末期の濱松中納言などに舞臺の一半を唐にしたのとは趣が違ふ。それはたゞ名のみをシナに假りたのであるのに、これらにはみな幾らかの現實味があつて、外國といふ觀念が明かになつてゐる。武士にも戰闘にも關係の無い平和な光景ではあるが、「ながめやる海は入日を限りにて」に「松浦の沖につゞくもろこし」と義政がつけたことも聯想せられる(文明五年幕府の連歌始*)。文化の點に於て一々シナを師表としてゐた禅僧が、深く彼の國を崇拜してゐたのと、武力のみを頼みにしてゐるものが海外に暴れまはつたのとは、好對照をなすものであるが、その禅僧も平安朝人の如くにシナを遠方の國だとは考へてゐなかつた。
 
 武士の特色は遺徳思想の上にも現はれてゐる。義經記や御曹子島渡りに、親子は一世、夫婦は二世、といふ諺が見(328)えてゐるが、同じ義經記や謠曲の橋辨慶または朝長などには、主從は三世とあり、辨慶物語にも謠曲の春榮や滿仲などにも、三世の主君といふ語がある。或はまた謠曲の攝待に「親子よりも主從は深き契のなかなれば」といふ句があるではないか。親子夫婦にも優つて主從の契の深いことをいつたもので、これは明かに主從關係が生活の基礎になつてゐる武人の思想の特色である。唐絲草子にお主の御恩を忘れなかつたといふ萬壽姫の侍女更科が賞讃せられてゐるのも、「滿仲」の仲光が嘆美せられてゐるのも、みなこれがためである。要するに世の紀綱は君臣主從の關係によつて保たれるとせられたので、他の如何なる人的關係よりもそれが重んぜられたのである。鎌倉大双紙に、氏滿がその臣下に、天子も人、將軍も人、我も人、汝等も人、であるから、時々は主從の地位を變へてみたらどうか、といつたといふ記載があるが、それに對する臣下の態度から見ると、それはたゞ一時の戯言であつたらしい。當時に於いては、主從の間がらは道徳思想としては絶對視せられてゐたと考へられる。(主從と同樣、義經記や辨慶物語には師弟の契も三世とせられてゐるが、これは多分佛者の間に行はれてゐた考へかたであらう。俗界では主從であるが、寺院の裡でそれに代るべきものは師弟である。)さて親子は一世の契といふ語は、舞曲の靜にも謠曲の滿仲にも見え、夫婦は二世といふことは、來世は一蓮托生といふ語となつて物語の浦島太郎にも現はれてゐるが、この二つを對照して見ると、親子よりは夫婦の親しみが深いといふことになる。義經記や御曹子島渡りに、鬼一法眼や喜見城主の女が父の意に背いて兵法の秘卷を夫の義輕に示すといふ話、貴船の本地に、鬼の娘が父の命を用ゐず我が男の中將を庇護し、謠曲の舞車に、親に出された妻の跡を追うて旅に出た男がめでたくそれに巡りあひ、また武士のこととはしてないが狂言の水論聟などに、妻が夫の身方をして父と爭ふことの作られてゐるのを見ると、これも當時に普通の思想であつた(329)らしい。狂言のは、咄嗟の間に夫を助け父を負かして凱歌を揚げながら、いゝ氣になつて「父さま祭には來ませうぞや」といふところに、輕い滑稽と和やかな氣分とが見えるので、まじめに父子の爭となつてゐるのではないが、聟貰ひにも料理聟にも似たやうな題材が取られてゐて、何れにも父よりは夫につくといふ思想が、當然のこととして取扱はれてゐる。これは儒教道徳の思想が實生活に於いて顧られなかつたことを示すと共に、御曹子島渡りや貴船の本地の女の行爲が、單に男女の情愛からばかりでなく、夫婦は二世といふやうな一種の信條から來たものとしてあるところに、妻の夫に對する道義觀念が存在する。さうしてかりそめになれ初めた男をも夫といふ名で稱へるのは、平安朝時代とは?かに違つて、家族觀念が兩性間の關係に重大な力をもつてゐるためであつて、これも武士時代に於いて漸次馴致せられたものであらう。但し家族道徳としては子の親に對する責務が考へられたであらうに、上記の説話に於いて妻の夫に對する責務とそれとの間に生じた衝突が深く思慮せられず、夫にのみ心の傾けられたやうになつてゐるのは、一面に於いては道義よりも情愛として夫妻の關係が視られてゐることを示すものであらうか。さうしてこのことは親子の關係に於いてもほゞ同じである。
 家族觀念に於いて親子の關係が重要視せられたことは勿論であるが、江戸時代のやうに社會が固定し家格が動かぬものになつてゐて、人がみな父祖の餘澤によつて生活をしてゆく時代とは違つて、自己の力で自己の生活を開いてゆく動亂の時代では、父祖の力を頼むことも比較的に少かつたらうから、家族に於ける親子の關係も後世と違つてゐるのは當然であらう。さうしてこゝに注意すべきは、この時代の草紙などに於いて孝行を主題とした物語は、二十四孝とか蛤草子とかまたは七草双子とかいふ外國だねのものまたは民間説話風のものであつて、武士の思想として親子(330)の關係を寫したものは、曾我や「あきみち」の如く、復讐といふやうな特殊の行爲が興味の中心になつてゐることである。謠曲の養老も孝行よりは神仙思想が主となつてゐる。異國風の不自然な孝行の教が行はれずとも、親子の關係は自然に暖かであつたのである。謠曲の木賊川、隱岐物狂、丹後物狂、または百萬、三井寺、隅田川、櫻川、などに於いて子を尋ねて物に狂ふ父なり母なりの情を見れば、土車や飛鳥川のやうに父母のゆくへを慕ふ子のあるのも不思議でなく、三界の羈を絶つた法師も子には心がひかされ(朽木櫻)、男の在りかを敵方に密告した景清の妾も、子を世にあらせんがためとせられてゐる(舞曲景清)。親の子に對する愛情は、國文學の古今を貫いて何時の世のものにも濃やかに寫されてゐるが、この時代のでも同樣であつた。親は決して二十四孝の異國の物語に見えるやうな不自然の孝行を子に向つて要求しない。さすれば子の親に對する情もまた極めて自然であつたらう。かの復讐などの尚ばれたのも、文字の上の教から來たのではなくして、やはり自然に養はれた武士氣質の故と見なさねばならぬ。因みにいふ。謠曲の壇風に、梅若が本間を父の讐として討つてゐるなどは、不自然な復讐であつて興趣を損ずること夥しい。これらは強ひて作つたもので、當時の一般の復讐に對する觀念を現はしてはゐないのであらう。この話は太平記に本づい
てゐるには違ひないが、太平記の阿新の行爲は自然で美しい。
 兩性の關係に於いては、女の男に對するのと男の女に對するのとに幾らかの差異がある。謠曲の物狂ひには夫妻の別離が動機となつてゐるものが多いが、斑女、花筐、加茂物狂、籠太鼓、など、何れも夫の行方を尋ねわびた妻の物狂ひである。相離れて頼りなさを感ずるものは男でなくて女である。二世の契は女の方にとつての頼みであらう。それに反して、男は事もなげに女を棄てることがある。義經記や御曹子島渡りの女は、義經のために身を犠牲にして兵(331)法の秘密を盗み取つた。義經は女を利用したが、その目的が達せられると忽ち弊履の如くにそれをすて去つた。男に取つては女はむしろ利用すべきものである。「あきみち」の妻は夫の素志たる復讐を遂げさせるために、身を仇敵に任せたではないか。もつともこれは後に佛門に歸し、夫もまたその後を追うて同じ道に入つたのではあるが、女が男のために身を無きものにし、さうして男が或る目的のために妻の貞操を破らせたところに、この時代の武士の態度が覗はれる。これもまた平安朝と違ふ點であつて、それは一つは家族制度が固定して來たからであるが、家族制度が固定して女は男の力によつてのみ生活しなければならぬことになれば、女が男に依頼する必要も多くなり、從つて男の權力が強くなり、女が男の道具に使はれるやうにもなるのは、自然の勢である。さうしてこの家族制度は、男の武力によつて家を保護しなければならぬ武士時代に於いて、特に固定すべき理由があつたのである。けれどもそれと共に、武士にはその職業と境遇とから女を性慾のあひてとする傾向があつたことをも、考へねばなるまい。但し一般の民衆の夫妻の關係は必しも武士と同じではないので、輕い笑を催すものとして作られたのではあるが、狂言の聟貰ひ、法師物狂ひ、箕かづき、などには、ほゝゑましい夫妻和合の光景が現はれてゐる。
 武士の女に對する態度が上記の如きものであつたとすれば、戀愛譚が武士の物語に多く現はれないのも當然である。前にも述べたことがあるやうに、この時代の戀愛譚は多くその主人公を公家貴族にしてある。文正草子、秋月物語、岩屋の草子の二位の中將、今宵の少將の中納言、鉢かづきの大將殿の御曹子、などみなさうであつて、物臭太郎さへ二位の中將の子としてある。舞曲烏帽子折に見える山路の笛の主人公は用明天皇となつてゐるではないか。翻案ものらしい梵天國や貴船の本地でも、その主人公はみな中將である。公家尊重の風習と古典の因習とからさうなつてゐる(332)のであらう。義經記の奧州落ちのところに記してある北の方に對する戀愛譚やまたは十二段草子の義經は、武人としてよりは貴公子として取扱はれてゐる。兵法の書を盗み取らうとした義經は武人であるが、鬼一法眼や喜見城主の女に對するその態度は戀愛ではない。曾我物語に見える祐成と虎との關係でも物語の上には戀愛そのことが現はれてゐず、舞曲の和田酒盛でも世間に對する二人の意氣地に興味の中心がある。たゞ田村の草子の鈴鹿御前に對する田村麿の話は戀愛譚といつてもよからうが、これも或は田村麿が古代人として語られてゐるところにさうせられた理由があるかも知れぬ。勢語源語の崇拜せられたと同じく、戀愛譚も世に行はれたけれども、それを多く武士としないところに時代の思想が見える。塵塚物語に或る地方の武士が勢語の講義を聞いて、子女に読ませるものでないといつたといふ話があつて、これはもつと後のことかも知れぬが、そこに少くとも一部の武士の考が現はれてゐる。戀は歌や連歌の題材として常に用ゐられたのでも知られる如く、武士にとつては現實の生活からは縁遠い古典趣味の一つであつて、のせ猿草子、小幡狐、玉蟲の草子、かざしの姫君、のやうに、動植物またはその精が戀物語の主人公とせられたのも、一つはこれがためであらう。
 要するに、事實上、武人は女を家族の一人たる妻として、もしくは性慾のあひてとして、それを取扱ふけれども、詩の世界に見えるやうな戀愛の對象としては認めなかつたので、戀愛そのことも現實界を離れた別の世界の話としては、興味を以て讀んだであらうが、彼等自身のことではないと考へてゐたらしい。幾多の辛苦の後に弓を射ておのれの身分を現はしたといふ點の甚だ似てゐる、百合若の話と山路の笛の物語とに於いて、武士たる百合若は妻に對して夫たることを示し得たのであるのに、用明天皇はこゝにはじめて戀人を得た。一つは家族のことで一つは戀愛譚であ(333)る。こゝに二つの區別が見えるのではなからうか。(但し用明天皇に弓を射させたのは武士時代の思想である。)戀ゆゑに種々の苦心を重ねまたは艱難を冒す物語は幾篇も作られてゐて、文正草子もその一つであるが、これも當時の武士氣質としてはふさはしからぬことである。梵天國の中納言、毘沙門の本地の金色太子、天稚彦物語の稚彦、が幾分かそれに似てをり、外國には例の多いことであるのを見ると、これもやはり翻案ものだからのことではあるまいか。前の時代に作られた戰記ものには武士の美しい戀物語が多くあつたのに、この時代にかうなつたのは、一つは戰記物語が武士にも古典的色彩をつけて取扱つてゐた故もあらうし、また前節に述べたやうな社會状態の變化から武士の思想そのものが違つて來た故もあらう。因みにいふ。武士の間に男色の行はれたことは嘉吉記などにも見えてゐるが、應仁略記には戰死者に契のある少年が追腹を切つたといふ話もある。戰陣に日を送る武人におのづからかういふ風俗が流行するやうになつたので、武人だけに命をそれがために捨てるものも起つたであらう。しかしそれはまだ文學の題材には取られてゐないらしい。兒物語は概ね僧侶のことになつてゐる。
 兩性の關係についてなほいふべきことは、「七人の子はなすとも女に心ゆるすな」(舞曲鎌田、景清)といふ諺が世に現はれて、女に對する不信用を明言してゐることである。これは多分、敵身方が何時變るかも知れず親子兄弟も頼み難いといふやうな、動亂時代に生まれた思想であつて、特に女と指したのは、それが比較的誘惑せられ易いものであるためであらう。「あきみち」の妻の如きは、仇敵としてねらはれた山賊の方からいへば色を以て人を欺いた妖婦であつて、それに心を許したのは一生の不覺であつたが、男の間ですらも譎詐欺瞞を常とする戰亂時代に於いては、女がそれに利用せられることは有りがちであつたらう。「不義は御家の御法度」といひ、單純な兩性の戀愛を不義と(334)稱して罪惡視する後世の風習も、或はまたこの時代から始まつたことではなからうか。將軍義教が侍女と遁世者との密通を知つて女を流し男を斬つた、といふ事實があるが、これはこのころ既にかういふ思想が世に存在してゐたからであらう。さうして當時に於いて、私通をかう嚴罰するほどに、兩性間の道徳が嚴格であつたとは思はれないから、これには別の意義があつたに違ひなく、それはやはり敵に對する戒嚴といふやうなことではあるまいか。もしさうとすればこれも武士時代の特殊の風習である。或はこの諺の生じたのは、家を離れることの多い當時の武士生活に於いて、妻が他の男に誘惑せられる場合が生じがちであつたからではなからうか、とも臆測せられるが、さういふ話は物語などにも殆ど現はれてゐないやうであるから、この臆測にはむりがあらう。
 さて女に心を許さぬほどに、人に對して斷えず戒嚴しなければならぬ武士の心情には、どうしても不自然の分子がある。社會的動物たる人間は、本來他人を我と同じ心情を有つてゐるものとして、親愛を以てそれに接するのが自然だからである。しかし生きようとしつゝ命を捨てるが職掌の武士には、その根柢に生物としての大なる矛盾を抱いてゐるから、それから發生する情念に不自然なところのあるのは、しかたがない。生命を輕んずるのもその一つであつて、君のためとはいひながら、我が子を殺す「滿仲」の物語も、そこから出てゐる。特に「入鹿」の鎌足を僞せ盲にし、我が子を爐中に投じて殺させるなどは、近松以後の淨瑠璃にありさうな着想であつて、君のために我が子を犠牲とするところに忠烈の念があるといへばいはれようし、かゝる着想も畢竟それを誇張したのではあるが、あまりに甚しい誇張であつて、今日の讀者にはむしろ殘酷の感のみを起させる。けれども「滿仲」に於いて、仲光の妻が主君の身代りとしてその子の殺された時、手習鑑の小太郎の母とは違つて、人目を憚からず悲哀啼泣してゐたのは、まだ後(335)世ほどに矯飾の甚しくないことを示すものである。明徳記に或る男が女房の髪一筋と女房の歌とを膚の守に入れて討死したといふ話のあるのも、江戸時代にはありさうにないことで、やはり情が情として認められてゐたことを示すものである。
 兩性の關係に於いても、江戸時代の物語ならば、義經記のやうに都を落ちる時に靜を、奧州に下る場合に北の方を、伴はせないであらう。また夫のためとはいへ我から貞操を破つたあきみちの妻が、江戸時代ならば自殺したであらうに、出家で事を濟まし、後世ならば當然情死に終るべき「若草」の少將と姫とが、姫の入水したにかゝはらず少將は出家したまでであり、佐伯なども淨瑠璃作者ならば刃物騷ぎを起させたであらうに、これもすべてが出家で終つてゐるのは、佛教の信仰の強かつたためでもあるが、死に對する態度がまだ江戸時代ほどになつてゐなかつたことを示すものである。音なし草紙の女が「音なしに」願ふところは、平安朝の女(例へば浮舟)が途方にくれてひたすらに泣き悲しむのとは違ふと共に、堀川波の鼓のやうな葛藤がそこから起らずに濟んでゐるのも、道徳意識の強くないところに室町時代の特色が見える。かのあきみちの妻の如きも、江戸時代の物語作者ならば、決して貞操を破らず、何等かの策略を用ゐて夫の目的を達せさせたであらう。本來事實としてはあるまじき無理な着想であつて、作者の意圖は妻の獻身的努力を極端に誇張する點にあつたであらうが、江戸時代ならば道徳的觀念を滿足させるために、もう一層無理な細工をしたに違ひない。武士の矯飾が江戸時代ほど甚しくなつてゐないと共に、全體として武士の遺徳觀念が後世のやうに固まつてゐなかつたのでもある。もつとも江戸時代の道念は社會的風尚の上から來てゐる一種の世間體、またはいはゆる義理であつて、眞の意義の道徳としては頗る低級のものであるが、それだけのものすら武士の社會が(336)固定したために生じたのである。さうしてその武士社會を固定させたのは次に來る戰國時代の賜であつた。
 
(337)       第六章 因襲的思想
 
 武士の思想は、前章に述べた如く、武士自身の生活から自然に發生して來たものである。けれども歴史ある國民であるから、彼等の知識に入つてゐる舊くからの因襲的思想も少くはなく、さうしてそれが彼等の生活に適合するものであれば、即てまた彼等の思想、彼等の心生活、の一要素となるのである。さてその第一は、佛教思想であるが、文學の上に於いては、作者が概して僧徒であつただけに、それが武士が現實に懷いてゐるよりは遙かに強くまた誇張せられて現はれてゐることにも注意しなければならぬ。中には武士の思想とはむしろ背反してゐるものすらもある。
 この時代の物語の多數が宗教的信仰の宣傳を目的として作られてゐるといふことは、第三章に述べておいたが、既にこの目的がある以上、人生の萬事、特にその成功や幸福が神佛の力であるとせられるのは、自然の傾向であらう。しかし、特にかういふ目的で作られたらしくないものに於いても、同じ思想が現はれてゐるのを見れば、これが當時に於ける一般の信念であつたことが察せられる。まづ物語の主人公が概ね神佛の賜はつたもの、即ちいはゆる申し子、である。例を奉げれば限りが無いが、百合若は初瀬の觀音の申し子、一寸法師は住吉明神、文正草子の女主人公は鹿島明神、梵天國の中納言は清水の觀音、毘沙門の本地の女主人公は梵王、また舞曲築島の明月女は鞍馬の多聞天、謠曲丹後物狂の花松は橋立の文珠、の申し子であつて、辨慶さへも、義經記ではまださういふ話ができてゐないが、辨慶物語では父の別當が熊野の若王子に祈願したために生まれたことになつてゐる。英雄も美人も、傳説中の、またはありふれた、人物も、さては天竺の王女も、みな尋常の子ではなく、生まれた時から既に神佛の力が加はつてゐる。(338)生れるのが神佛の力であるのみでなく、田村麿は清水觀音の、その妻の鈴鹿御前は竹生島辨天の化身(田村の草子)、業平は十一面觀音、小町は如意輪觀音、の化身(小町草紙)といふやうに、神佛自身が假に人身を現じたものさへあり、或は物臭太郎が愛宕明神、本院の中將が貴船明神、の本地だといふやうに、人が後に神となるものもある。特殊の人物が神佛の力によつて生れ、または神佛自身であるほどならば、その行動、事業、運命、に神佛の力が加はつてゐることは、いふまでもない。人の幸福も榮華もすべて神佛の利生であつて、鉢かづきの姫が宰相の妻となつたのも、今宵の少將の子が皇位に上つたのも、小落窪の姫が別れた夫と再會したのも、みなそれである。物語の大部分はこの利生譚が骨子となつてゐるといつてよい。奇蹟も多く、これもまた數へ擧げれば限りが無いが、一寸法師が大人になつたり、鉢かづきの鉢が割れて金銀が出たり、文正草子の鹽に不思議の效能があつたり、また白髪の老翁がかき消すやうに失せたり、龍王が出現したり、斬らんとして劍を拔けば忽ち三つに折れたり、さういふことの無い物語は殆ど無いといつてよい。人間の萬事は實は人間のしたことでなく、すべてが不可思議力のはたらきである。かよわい女や貴公子のみでなく、鬼神を退治するやうな武士的英雄でも同樣であつて、頼光の大江山征伐は住吉八幡熊野の神の加護により、田村麿の大だけ丸退治も千手觀音や鞍馬の多聞天の力によつて、神變不思議の活動をしたのである。百合若大臣の豪古を破つたのは言ふまでもなく神の力で、孤島に年を經た後歸國することのできたのも人力ではない。義經が喜見城で兵書を盗んだのも、辨天の化身たる天女の計らひであり、辨慶が平家の囚れを免れたのも法力である。
 のみならず、古英雄は身體そのものにも異常の點があるとせられてゐる。田村麿の母は益田が池の大蛇であつて、(339)諸天善神の命に從つて假に女身を現じたものではないか。蛇の子といふのは、父と母との相違こそあれ、古くは大物主神の物語、近くは平家物語の緒方の傳説、に現はれてゐる民間説話の一つの型であるが、異類のものの子であることとその子に神變不思議の力のあることとの間に關係のあるやうに考へられたのが、この時代の思想の特徴である。この田村麿や辨慶は三年の間母の胎内にゐたといはれ、特に辨慶は生れ落ちてすぐに臂を張り目を瞋らしてから/\と笑つたといふ。將門の身體が黄金であつて  諸事のみが肉身であつたといふのも(俵藤太物語)、これと同樣である(こめかみよりぞ云々の歌から作られたことではあるが)。これは鬼神を退治しなければ英雄でないと思ふのと同じ程度の幼稚なお伽噺的思想であつて、知識の乏しい一般武士の間に行はれるにふさはしいものであると同時に、英雄に不思議な神佛の冥助があると考へる宗教的信仰の所産でもある。しば/\考へた如く死生を運に任せて戰はねばならぬ武士が、さりとて生命も惜しく恩賞も得たいといふ事情から、神佛を信ずることが強かつたと共に、戰争の勝敗と人の生死とが、人智の測るべからざるものとして感ぜられ、さうして戰闘そのことに於いても、それが激しくなればなるほど、超自然的もしくは超人間的勢力の發現かと思はれるやうな光景に接することが多い。また一般に戰亂の世には何ごとにも轉變の急激にしてまた極りなきことが思ひ知られる。かういふ状態に於いて武士が何等かの宗教的信仰をもつやうになるのは、自然である。たゞ文學に現はれてゐるほどに、武士が實際さう考へてゐたかは疑はしくないでもない。少くとも文字の上に現はれてゐるところは、上にも一言した如く、作者が僧徒であるだけに甚しく誇張せられてゐるのであらう。のみならず佛者の思想には武士の考と一致しないものもある。
 謠曲を讀むと、野邊にも山邊にも到る處に幽靈が顯はれて、をりふしの眺めに花を賞で月に嘯かうとする諸國一見(340)の僧に向つて、廻向を求めてゐる。そのうちには漁夫や獵師のもあつて、殺生の罪によつて地獄に墮ちてゐることになつてゐるが、それと共に昔物語の美人のもあり貴公子のもあり、また朝長や知章や實盛や通盛やまたは巴やの如く千軍萬馬の間を馳驅した源平時代の吉武者のも多い。この武者どものが修羅道の苦みを讀經念佛の功力によつて救はれたいといふのである。生田敦盛の如きは、敦盛の靈が無數の修羅と火花を散らして戰ふ有樣を現に見せてゐる。佛教の思想の行き渡つてゐる時代であるから、武士とても人を殺さねばならぬ戰爭を宗教的意義での罪業と心得てゐるものはあつたらう。戰敗れて自殺するやうな場合に西に向つて念佛を唱へたといふ話の例も、合戰の記録に少なくないが、それにも罪障多き武人の身として、臨終の一念によつて淨土往生を求める意味があつたであらうか。けれども武士は決して戰をやめない。さうして一方では、上に述べた如く戰に勝ち敵を破ることを神佛の加護の故としてゐる。また彼等の間には、知識として六道輪廻の教を知つてゐるものも無くはなかつたであらう。けれども彼等は修羅道に墮ちるを恐れて弓矢を捨てはしない。彼等は死後に受くべき修羅道の苦患よりも、眼前の敵を破る愉快を思ふ方が強かつたであらう。少くとも彼等は武人としてのその職務のために、或は自己の生存のため自己の生活を擴大するために、戰に勝ち敵を殺さなければならなかつた。のみならず、修羅の巷は幾度もこの世で閲歴してゐる。何を恐れてか死後の修羅道を避けようぞ。さうして佛者のために修羅道へ投げ入れられた源平時代の古武者どもは、武士の思想の上にはなほ嚴として生きてゐて、彼等の渇仰讃美の的となつてゐる。義經も辨慶も敦盛も實盛も、偉人として英雄として彼等の尊敬をうけてゐる。だから佛者がこれらの古英雄の幻影を作つて、それを修羅道の中に苦しめておくのは隨意てあるが、それは吉武者自身も當時の武人も初めから關知する所ではなかつたのである。
(341) 武士に直接の關係は無いが、謠曲の戀重荷や、綾鼓や、女郎花、求塚、船橋、定家葛、砧、などに於いて、戀が妄執とせられ罪業とせられてゐるなども、これと同樣である。憐むべし、古來の幾多の公子と佳人とは、謠曲作者のために紅蓮大紅蓮の堅氷の裡、焦熱大焦熱の熾火の中に投りこまれ、怪しげな廻國僧に向つて效なき廻向を求めねばならなくせられた。が、それもまた佛者の恣に作つた夢幻的人物であつて、彼等自身のありしながらに美しい姿は永くこの世にとゞまつて、今なほ諸人に追慕せられてゐる。物臭太郎も猿源氏も、賤しき身ながら彼等の跡を踏まうとしてゐるではないか。「烏帽子折」の用明天皇は、戀のためにうき身をやつしてはる/”\九州に下り、そこの長者の牛飼となり、二位の中將は物賣りとなつて常陸へ下つた。さうして地獄にも墮ちず惡鬼にも責められず、その姿は舞にも舞はれ、その物語はめでたきためしと多くの人に讀まれてゐたのである。もつとも佛者は一方に於いては、繋念無量劫といふことを説いて、人に思をかけられてそれを遂げさせぬのは却つて罪だといひ(横笛草子、和泉式部、淨瑠璃十二段草子)、こゝに戀愛と奇妙な妥協をしてゐるのみならず、そのはてには、袈裟またはその變身たる天女御前の母をして、盛遠に一夜は逢へと娘に説かせるやうになつた(源平盛衰記、猿源子草紙)。しかし袈裟の悲劇がこの時代の人の婦人觀に適合するものであつたとすれば、この佛者の説がそれと矛盾してゐることは明かである。どちらにしても戀に關する佛者の考は一般人の心生活を支配してはゐなかつた。
 要するに戰を罪業といひながら、現實の世に於いて戰亂を平らげ國家を安泰にする方策を講ぜず、戀を妄執としながら、戀なくて生きられない人生の現實の問題に何等の思慮を用ゐない佛徒が、英雄をも美人をも、死後いたづらに彼等を驅つて地獄に投じ修羅に投じてみたところで、戰と戀とに惱まされる人生に於いて、果して何のかひがあらう(342)ぞ。かゝる思想が現實の人生と交渉の無いのは當然である。それは恰も、謠曲の作者が、世の人の求めても得られずまた當時の人の求めもしなかつた、長生不死の道を説く神仙思想をかりて來たと同じく、畢竟實生活から遊離してゐる知識の遊戯に過ぎないのである。神仙思想は謠曲の羽衣、楊貴妃、邯鄲、養老、玉の井、富士山、浦島、西王母、などに見えてゐるが、多くは係教的色彩が加へられてゐて、特に東方朔に於いては西王母を、西の文字からか但しは不死の思想の聯想からか、西方極樂の無量壽佛の化身としてゐる。青葉の笛の物語にも「法華經は不死の靈藥」といふやうな語が見える。神仙とか不老不死とかいふ思想が單なる知識、むしろ一種の遊戯文字、に過ぎないことはこれでも知られる。
 かう考へて來るとこゝに一つの問題がある。漁夫や獵師や古武士や昔の公子佳人やは、地獄に墮ち修羅道に墮ちて死後の苦しみをうけてゐるが、彼等は必しも道徳的罪惡を犯したものではない。ところがさういふ罪惡を犯したものの死後の状態については、文字の上に現はれることが少い。「地獄遠きにあらず極樂はるかなり」、罪人のゆくへは定まつてゐるであらう。地獄極樂のありさまは物語にも示されてゐる。しかし或る人物が地獄に墮ちてゐることは多く語られてゐない。それはさういふものが、百合若や信田などの説話に見える如く、常識的因果觀として現世に於いてその應報をうけることになつてゐるからであらうか。それとも勢利を求めるためには如何なる道徳的罪惡を犯すことをも憚らぬものに於いては、死後の苦艱の如きは初めから念頭に無いのが一般の常態であることが、知られてゐたからであらうか。或はまた古英雄でもなく古典上の存在でもないその人物が、この思想を託するための文學の題材には適しないからであらうか。何れにしても佛者の輪廻觀が道徳的に無意味のものであることが、それによつて示されて(343)ゐる。さうしてそれは佛教が現世の利福のための祈?教であることと表裏をなすものである。
 佛者の無意味な宗教的偏見は、その他にもこの時代の文學の種々の方面に現はれてゐるので、歌を佛乘に入る方便とし歌人を佛陀の化身と考へ(鴉鷺合戰物語)、「ほの/”\と明石の浦の」の歌を三世不可得の理と説く(曲舞五輪碎)、などもその例である。小町草紙に至つては、歌をも戀をもすべて菩提の道として解釋してゐる。三十一字は三十二相に擬したものだとか、六義は六道の衢をあらはしたのだとか、いふ説もある(謠曲自然居士)。これらの思想は前の時代に作られた伊勢物語知顯抄などの考と同系統のものであつて、この時代の歌學者がそれを排斥してゐることは第四章に述べておいたが、物語などの文學に於いては、作者が僧徒だけになほそれを繼承してゐる。けれどもそれが必しも普通に信じられてゐる説でなかつたことは、同じ章にいつておいた。謠曲に佛法の妨げをする天狗の現はれてゐること(車僧、是界、など)も、佛者間の因襲的思想に過ぎない。
 武士とは特殊の關係の無いことであるが、この時代の神道について一言しておかう。上にもいつた神代卷口訣と書紀纂疏とには一種の神觀が見えてゐて、それには人の心の神といふものを重大視し、神代の物語の神とそれとを同じものとする考がある。これは伊勢神道に一つの由來はあるけれども、その説きかたには宋學を大成した朱熹の思想によつてゐるところが多く、從つて道徳的意味に重きが置かれてゐる。さうして神代の物語の解釋でありながら、前篇にいつたことのある慈遍などの説とは違つて、特殊な政治思想を含んでゐないところに、前章に考へたやうな文學上の作品に政治思想の薄れてゐることとの連繋がある。この二書の思想は單なる理説であるが、卜部家の唯一神道では、その教説の側面に於いてこの考へかたを取入れ、また伊勢神道の説をも繼承したところがあると共に、宗教としての(344)神道の一派を樹立しようとするその意圖のために、佛教から密教の行事を學び、またシナの道教からその通俗的信仰を取入れ、さうして壽命無病福禄を神に求める祈?教の性質をその神道に有たせることにした。この點では上に述べた文學に現はれてゐる宗教思想との關聯がある。
 
 次に武士の思想の一要素となつてゐるものは古典趣味である。武人が歌連歌を好み「伊勢源氏」を崇拜したことは既に述べたが、文學の上にもそれは現はれてゐる。物語中の人物で歌を詠まないものは殆ど無く、漁夫の浦島太郎も鰯賣りの猿源氏もそのなかまだとすれば、田舍武士の佐伯や古英雄の田村麿が歌を作るのに不思議は無く、酒?璧童子にさへも一首の詠はある。歌をよく詠むのは佛を作り供養をすると同じ功徳があるといふ話(小町草紙)は、佛者の言ひ分であるが、謠曲の蟻通は歌が神を感ぜしめた物語、卷絹の着想は歌によつて罪を釋されたことであり、また白樂天では和歌を詠む日本は神國であるといふのでこのシナ人を恐れさせてゐる。古歌を解することすら尊ばれるので、義經記には伊勢の三郎が牛若に一夜の宿をかした妻を責めた時、古歌を解した故にそれを許したとある。狂言の竹子爭ひに歌で勝負をつけることがあり、舟ふな、雁かりがね、?立の江、松ゆづり葉、などでも古歌によつて爭ひをかたづけてゐる。古物語の崇拜も殆どあらゆる物語に見えてゐるが、舞曲の靜にこの有名な白拍子が「源氏」を引いて頼朝に應對し、政子に「伊勢源氏」の奧秘を問はれるとしたなども、その一例である。古物語ばかりでなく、上にもいつた如く故事來歴をくだ/\しく説明することもやはり古典崇拜の表象である。物賣詞(文正草子)とか謎のやうな「やまと詞」(十二段草子)とかいふものが古典趣味の現はれたものであることは、勿論である。
(345) 或はまた物語に於いて人の榮華を敍する時、春は花の下に日を暮らし秋は月の前に夜を明かし、詩歌管絃の遊をする、といふことの無いものはない。鉢かづきのやうな公家貴族や、あしびきなどの僧侶を、題材としたものはいふまでもなく、インド的要素のある毘沙門の本地や異類の物語の木幡ぎつねにさへそれが見える。管絃については武士的英雄の義經もそれに長じてをり、笛を吹いて難を免れた(十二段草子、御曹子島渡り)。幻夢物語にも見えるやうに、兒のたしなみの一つは笛であるやうに思はれてゐる。岩屋の草子の姫君も、やはり管絃に通じてゐたために正しき夫人の地位を得た。だから恐ろしい羅刹國の女さへ「葦原國には笛を吹き賤しき賤までも管絃の道を嗜むなり」と優しい評判をしてゐる(梵天國)。謠曲に管絃をいふことの多いのは、舞を中心とする能の組みたての上から來ることではあるが、やはりそれを尊いものとして敬重してゐるからである。歌連歌を好み古物語を重んずることは、事實上當時の習慣であつたが、管絃になると少しく趣が異つて、武士の實生活には甚だ縁遠いものであつた。當時一般に行はれてゐた管樂器の主なものは笛と尺八とであつて、絃樂器は、盲法師の彈く琵琶の外には、殆ど無く、さうして耳目に親しい歌舞は、白拍子と曲舞と延年舞と幸若舞と能と、これらのものに過ぎなかつた。而もその縁遠い管絃が通俗文學の上に斷えず現はれて來るのは、知識の上に於いて、古代文化の遺物を尊いものと考へてゐたためである。
 謠曲の祝言ものに、將軍を謳歌せずして君が代の長久を讃美し、また甲冑姿の武臣を出さずして衣冠をつけた勅使や「當今に仕へ奉る臣下」を舞臺に上ぼせるのは、上に考へた如くそのことみづからに理由があるけれども、一つはこゝにいふのと同じ意味も含まれてゐるので、すべらぎといひ大君といび勅使といふ語によつて上代の世界が髣髴せられるからであらう。戀重荷や綾鼓に女御を戀したといふ話が作られたのも、西行がなにがしの御息所と一夜の契を(346)結んだとか、志賀寺の上人が京極の御息所を戀うて「初春の初ねのけふの玉はゝき」の歌を詠んだとかいふ話と同樣、やはりこの思想と關係がある。即ち宮廷を現實の生活とは違つた古代文化の世界として仰ぎ見るからである。女と生まれたかひには關白の北の方になるか、それができなければ尼になるかだといひ(文正草子、のせざる草子、小幡狐)、男といはれる上は公卿殿上人の姫君を得るか、さなくばこの世を思ひすてるかだといひ(猿源氏)、公卿の重んぜられてゐるのも同じ思想から來てゐるので、實世間に於いて系圖の尊ばれたと同樣である。物語の主人公に多く公卿の名をかり、また梵天國が淳和天皇、岩屋の草子が清和天皇、さゞれ石はずつと上つて成務天皇、の代のこととしてあり、武者の物語でも、百合若は嵯峨天皇の時、信田は天暦の世のこととなつてゐる如く、その時代を上代に置いたものがあり(朽木櫻、あしびき、一寸法師、鉢かづき、今宵の少將、小落くぼ、などでは中ごろとか中昔とかしてあるが、現在の事實とはしてない)、また謠曲の主題に古典から取られたものの少なくない、理由のーつがこゝにあることも、また既に説いた。
 古典の尊重、古典崇拜の思想は、文學上の自然觀にも現はれてゐる。歌連歌は勿論、物語に於いても謠曲に於いても、もしくは武士的な舞曲や民衆的な狂言に於いても、その自然に對する趣味は平安朝以來の因襲的思想の外には殆ど出てゐない。謠曲のやうな古歌古文を剪栽補綴したものに於いて、毎曲かならずなくてはならぬやうになつてゐる花鳥風月の翫賞に、新しい情趣の無いのは不思議ではない。鉢の木の雪の景色などにはやゝ目新しいところがあるが、かういふやうなのは例外である。けれども連歌などの比較的自由なもので、また幾らかは日常生活から養はれる特殊の情懷で自然に接し、變つた眼孔から山川風物を取ることができさうに思はれる武人の作でも、さういふ傾向が見え(347)ない。たゞ連歌師などの間に於いては、前にも述べた如く、その觀察にいくらか新しいところがあり、繊細な情趣が味はれるやうになり、次にいふやうに閑寂な風情が喜ばれもしたが、根柢の趣味は變らない。また戀愛に對しては、前章に述べたやうにやゝ特殊の見解があつて、それが物語などに現はれてゐるが、これは實生活と交渉の深いものだからのことであらう。しかし歌連歌に於いてはどこまでも古典的戀愛觀を踏襲してゐる。物語に男をいへば業平光源氏、女をいへば小町衣通姫と相場がきまつてゐて、かならず容貌のめでたさをいふのも、古典の模倣に過ぎない。「たゞ人は心にてこそ候へ」と秋月物語の色黒き男のいつたのが、むしろ武士の實際の思想であつたらう。
 古典趣味について特に一言を要するのは、當時の連歌師に一種特殊の嗜好があることである。それは「冷えさびたる」(心敬さゝめ言)、「ふけさびたる」(同老の繰言)、「やせからびたる」(同庭訓)、または「枯れたる句、寒き句、」また「冷えやせたる句」(宗祇白髪集)、といふことが連歌師の常套語であつて、かういふものが最も重んぜられたらしいからである。救濟が「しをれたる所」に心をかけたといふ(梵灯庵返答書)のも、同じ意味のことであらう。心敬宗祇のころにはあまりにこの體のみを求める風があるので、初心のものに對しては却つてそれを戒めてゐるほどである。これは歌の姿を形容した名稱のやうにも聞えるが、心敬宗祇などの説明を見ると、さうではなく、寂しい風情を詠んだ句をいふのである。(風體といふ語は一般に歌の姿とそれに詠まれてゐる風情との兩方に用ゐられてゐる。)事實、遺存する連歌にはかういふ句が多い。ところがこの考は、正徹が「物哀體をば歌人の嗜み詠むなり」(徹書記物語)といつてゐる如く、本來歌人の間から生じたことであり、歴史的に考へると、その淵源は平安朝末の歌に現はれてゐる寂しさを愛する氣分にあるのであらう。心敬はこれを説明する時、禅宗の思想を聯想してゐるが(さゝめ(348)言)、それは好んで禅語を引用する彼の一家言に過ぎない。さうしてこれが擬古文學たる歌連歌の上のこととすれば、當時の現實の生活から生まれた趣味でないことはいふまでもなからう。
 たゞ第一章の章末に述べておいた如く、俗惡な豪華を競つた時代に於いて、それとは反對に、閑寂を喜び枯淡を尚ぶ氣分が世の一隅に生じてゐたので、これとそれとはおのづから契合するところがある。歌連歌を弄ぶことが既にそのためであつて、それは要するに物騷がしい説實の生活から離れて暫しなりとも心を別天地に遊ばせようとするのである。だから古典の世界を仰景しても、その華やかな人間的の方面には向はずして、むしろ自然界にのみ心をとめる傾向があり、自然界に於いても艶かな情味をすてて寂しい趣致を喜ぶ。古典が現實を遠ざかり生氣を失つた過去のものであるといふことと、寂しげな空氣に充たされてゐる平安朝末の時代をとほしてそれを眺めることとも、またこの態度を助ける。或はまた斷えまなき戰亂に世のさまの常なさと人の身のはかなさとを感じ、さういふ氣分の對象を自然界に求めたためでもあらう。寂びたる風趣を喜ぶといふことにもし意味があるならば、それは即ちこの點であつて、自然齋宗祇の連歌の如きは、殆どそのすべてを通じてこの趣味が現はれてゐる。第四章に於いて述べたやうに、彼は自然界を親切に觀察して、そのあらゆる風情を捉へようとした。けれどもその最も心にかなつたもの、さうして句として最も感じの深いものは、やはりかゝる寂しさの一面であつて、「世にふるもさらに時雨のやどりかな」(老葉)が彼の發句として最も有名になつたのも偶然ではない。宗祇や心敬などによつて代表せられる連歌師が遁世ものまたは僧徒であり、その半生が旅で送られ、またその道に練達したのが多く老境に於いてであることも、このことに深い關係がある。さうしてかういふ連歌師によつて導かれた武士の古典趣味にも、おのづから同じ傾向のあるのは自然の勢(349)でもあり、またそれが彼等の要求に適つたものでもある。
 なほ附言する。世阿彌が能役者の「擧動」について「しをれたる風體」といふことをいひ、「うす霧のまがきの花の朝じめり秋はゆうべと誰かいひけん」といふ古歌の風情がそれであると説き(花傳書)、また上手の能は「さび/\としたる中に何とやらん感心」のある「冷えたる曲」であるといつてゐるのは、役者の技藝の極致を形容したものであつて、寂しい氣分の現はれたことをいふのではないが、その形容にかゝる詞を用ゐるところに、ことばづかびの上に於ける當時の嗜好が見えるのではある。これは、能の十體をいひ特に幽玄をいつてゐるのが、歌の教から來てゐることと共に、連歌師の用語を學んだものらしいが、その用ゐかたは同じでない。世阿彌の幽玄が主として「美しく柔和なる體」をいふのであつて(覺習條々)、俊成定家の用ゐたのとは意義が全く違ふのと、似てゐる。能といふものの性質として、歌でいはれる幽玄の趣や連歌で重んぜられる特殊の風情を、それにあてはめることはできないからである。しかし珠光などに始まつた茶の湯の趣味には、この連歌の風情に通ずるところがある。
 要するにこの時代の武士は、第一章に説いたやうな文化上の状態から、古典を崇拜し古典に現はれてゐる情趣を仰景した。前の時代に於いては、古典趣味に支配せられてゐたのは主として京の貴族や僧侶であつて、武士は概してその門外漢であつたが、この時代になると、武士自身がその古典崇拜の民となつた。武士が歌を詠み連歌に興じ、幾らかは古典の知識をもつやうになつたからである。けれどもその古典趣味は、武士の現實の生活からは遊離してゐる。文化の沈滯した平安朝末期の貴族が華かであつた前代を景慕したのは、夢と失はれた過去の生活そのものが眼前に髣髴としてゐたからで、それに對して張い執着があつた。徒然草の古典趣味とても、なほすたれゆく古典的生活に懷か(350)しさを有つてゐたのであつた。けれどもこの時代になつては現實の武人生活と平安朝の貴族生活とはあまりにも遠く隔離してゐる。だからその古典趣味は畢竟文字上の知識に過ぎないので、古典時代の生活そのものに親しまうとするのではない。むしろそれが現實の生活から離れてゐるところに價値を認め、それによつて現實の生活とは全く違つた氣分を味はうとしたのである。ところで禅僧によつて傳へられたシナ趣味に對する態度についても、ほゞ同樣のことがいはれる。
 
 武士の思想と禅宗のとの間に何等かの親しみがあるといふことは、「諸宗何れも愚ならずと雖も武勇には禅のみ相應せり、敵に相合てかんじと打ち合はする、端的のみ、別に法なし、」と鴉鷺合戰物語の知時がいつてゐるやうに、このころから既に一部人士の間に考へられてゐたやうであるが、これは禅僧が我が佛を尊しとするところから出たことらしい。のみならず、これは禅が武士のはたらきに似てゐるといふのであつて、武士の修業が禅によつてできるといふのではない。武士が生死を得脱するのは、禅の工夫よりも實戰の體驗からであることは、前篇に述べておいた。參禅した武士が武士として特別に秀でてゐたといふ事實も無い。叢林の裡に如何なる修業が行はれてゐたにせよ、それは實社會とは殆ど交渉の無いものであつた。禅僧が、文筆に長じまたはシナ語を知つてゐたために、政治家の秘書官や或る意味での外交官らしいしごとをしたとしても、或はまた一種の政治的手腕を有つてゐて、それによつて將軍の眷顧を得たり寺院を建立したりしたとしても、それらは禅そのものとは何の關係も無いことである。圓月が建武天子に上つたといふ原民原僧二篇も、その精神に取るべきところがあり、その所説に正しい點はあつても、時務策として(351)は甚だ空疎であるし、義堂が義滿に説いたところなども、實際政治の上に效果があつたとも思はれぬ。のみならず、それらもまた禅とは別のことである。戰亂に對しても「經年群國未休兵、那處雲林寄此生、只恐白?眠不穩、春風江上鼓?聲、」(猿吟集惟忠)といひ、「西海官軍戰未休、風塵何處得閑遊、雜然治亂非關我、野鶴孤雲不自由、」(同上)といつて、世の治亂よりも自己の生活の安からざるを憂ふるのか、さもなくば「兩虎爭雄勢未休、家々避亂出皇州、去唐幾世今宵月、又照關山笛裡秋、」(梅溪集永瑾)と、よし世の亂れを悲む情が言外に見えるにもせよ、よそ事としてそれを眺めてゐるかに過ぎなかつた。彼等の多くが現實の生活に於いては往々勢利の奴隷となり、權門に阿諛して得々としてゐたにかゝはらず、その文字の上に現はれた思想はかくの如きものであつて、武人の生活とは相距ること實に千里であつた。單に世を憂へるといふことからいつても、後花園天皇が將軍義政に賜はつたといふ「殘民爭採首陽薇、處々閉門鎖竹扉、詩興吟酸春二月、滿城紅緑爲誰肥、」の如き憂心?々たる詩は、幾千首に上る禅僧の作には殆ど見當らぬ。
 禅宗の宗義または禅僧の悟道といふやうなものは、一般社會の實生活にはさしたる影響を及ぼさなかつたけれども、知識として漸次世に弘まつて來たことは事實である。文藝の上では、耕雲や心敬の和歌連歌に關する考に、禅宗の思想の影響があるだらうといふことは、既に第四章に述べて置いた。世阿彌が「てきはを忘れて能を見よ、能を忘れて爲手を見よ、爲手を忘れて心を見よ、心を忘れて能を知れ、」(覺習條々)と教へたなども、同じ書の所々に禅語を引用してゐることから考へると、やはり禅宗の説から示唆をうけたのかも知れぬ。技藝の九位といふことを説くにも禅語をあてはめてゐる(九位次第)。また道徳上の問題については、宗五大双紙に「身を修むるとは心を修むるなり」(352)とか、「心の師とはなるとも心を師とすること勿れ」とかいつてゐるのは、處世の術を教へるのが教訓の目的であつた前代には全く無かつた新しい考であつて、これも禅宗の思想、或はむしろ禅僧の傳へた宋儒の學、に淵源がありはしまいか。
 けれども禅僧の文學的事業はむしろ他の方面にあつた。それは一種のシナ趣味を傳へることであつて、繪畫と詩とに於いてそれが現はれてゐる。或は青山白雲、沙村煙樹、或は停棹看山、松下牧讀、また或は翡翠荷雨、寒林獨烏、もしくは寒山拾得、虎溪三笑、李白觀瀑、四皓圍棋、これらの畫題によつて彼等が風景に於いて人事に於いて何樣の趣味を有つてゐたかがわかる。さうして、それが我が國の歌連歌に現はれてゐるところと違ふことは、いふまでもなからう。同じく自然界に對しても、春の花の艶なるながめ秋の干草の優なるすがたを愛するのではない。同じく閑逸を喜んでも、板屋の軒に村時雨の音を聽くやうな繊細な趣味と、寂しさそのものを懷かしむといふ氣分とが無い。また同じく行脚をするにしても、旅の情趣を深く味ふのとは逢つて、無關心に江湖放浪の生を送る。連歌に現はれてゐる、または宗祇や道興准后などの紀行に記されてゐる、ところと彼等の詩文に現はれてゐることとを對照して見るがよい。梅花無盡藏によつても知られる如く詩僧と歌人との接觸はあり、詩歌の贈答も行はれたが、詩はおのづから詩、歌はおのづから歌であつた。彼等の尚ぶところは、人事を放下し去つて我を空しくするにあり、天高く地廣き寥廓たる光景にある。「人間得失楚人弓、一笑歸山萬事空、想見松軒秋霽夜、氷輪轆出梅門東、」(空華集義堂)、人事もし心にとめるに足らぬとなれば、古人を思うても「赤壁英雄折戟遺、阿房宮殿後人悲、風流獨愛樊川子、禅榻茶烟吹鬢絲、」(蕉堅稿絶海)と、多情の詩人としてよりも楊州の夢の覺めはてたその境地を喜ぶのは當然であり、山に向つて(353)「稜層高出白雲間、萬仞孱顔天斧刪、安得神僊方外侶、秋風一策試躋攀、」(同上)といふのも自然のことであらう。「漁翁日暮擲長竿、凍合蒼江萬里瀾、地是孤舟天是笠、一身風雪不知寒、」(九鼎)、彼等がどこまでも人界にゐなければならぬならば、むしろ漁翁となつて天地を枕衾とするを興がつたであらう。さうしてかういふ趣味を託する自然の風光は、畫裡に於いてのみ見られるシナの山水である。昔し奈良朝時代に一たび傳へられ、さうしていつのまにか消え去つたこの趣味は、禅僧によつて再び齎らされた。けれども、それが依然たるシナ趣味、文字によつてのみ知られる異國の風光である以上、それについての特殊の知識を有つてゐるものの間にのみ好まれるものであることは、いふまでもない。のみならず、さういふ知識を有つてゐるものにしても、山緑に水清く、美しく優しい瀬戸内海を往復するものが、烟波渺茫たる、もしくは濁流滔々たる、揚子江上の感じを感じ得ないと同樣、眞にその趣味を解することはむつかしい。弓矢のひゞき打ちものの音に夜半の夢さへ破られがちの武士が、松下讀書の趣を解し得ないのは勿論である。
 だからかういふ情景を國語でいひ現はしたものは一つも無い。それに適する國語そのものが無いのである。正徹の「沖つ風立つ夕波に飛ぶ鳥の歸るを見れば舟のいさり火」(遠浦歸帆)、逍遥院の「ながめわびぬ尾の上の鐘の夕けむり霜夜はまれの夢もありしを」(煙寺晩鐘)、「いつも見る入江の松のむらたちもこゝ夕波のうす雪の空」(江天暮雪)、などは、琵琶湖畔に瀟湘の面影を見るよりも、もつと情趣の隔つてゐるものである。歌連歌や物語などの自然觀が平安朝以來の因襲的思想であるのはいふまでもなく、何れの曲にも自然界に對する情趣の見えてゐないものはない謠曲に於いても、猩々や赤壁のやうな、禅僧によつて傳へられたらしい新しいシナの題材を取扱つてすら、少しもこのシ(354)ナ的光景、シナ人的情趣は現はれてゐない。これは、白菊のきせ綿を温めて酒を飲ませたり(猩々)、「聞きし名所ながめんと野くれ山くれ里くれて、行けばほどなく名にし負ふ赤壁に早く着きにけり、」と、日本流の名所見物をさせたり(赤壁)、シナの光景を寫さうといふ用意が作者に無かつた故でもあるが、赤壁賦中の章句を直譯したところさへあつても、全體の上に赤壁の感じが出てゐないのは、寫さうとしても寫されないからで、それはやはり景情そのものを味ひ得なかつたからでもある。風景のみならず、「赤壁」には塵外に超然として不義の乾坤無限の風月を領略するといふ東坡の思想は全く棄てられてしまひ、また「三笑」が禅僧のかく畫などとはまるで違つたものになつて、不老不死の神仙思想に結びつけられてゐるのも、當時の人が新來のシナ趣味を解することができなかつた故である。
 勿論、歌人や連歌師やその他文筆に從事するものの趣味なり思想なりは、概ね古くからの因襲を出ないのであつて、文學上の用語もまたそれを現はすに適するものに過ぎない。だから我が國の風景でも、彼等の眼には映じない美しさ、彼等の言語では寫されない情趣がある。禅僧がもしさういふところを發見し、またそれを描寫したならば、我が國民の趣味の上にも文學の上にも、一大貢献をなしたであらう。彼等もそのシナ的趣味眼によつて各地の風景に對し、そこに今までの歌人輩とは變つた觀察をしてゐたかも知れぬ。禅宗は全國に弘まり、師弟や同學の關係を有する禅僧が各地方に散在してその間の交通往復が連りに行はれたから、江戸時代後半期のいはゆる文人墨客が見たところは、早く既に彼等によつて認められてゐたでもあらう。けれども彼等はたゞ文字の上で得た知識、またはシナ的趣味の定型、にあまりにも拘泥してゐたために、全體から見て風致の甚だ異つてゐる我が國に於いて、その型にはまるところを發見するのは困難であつた。彼等の山水を詠じた詩に、畫賛の類が多くして實景を詠じたものの少いのも、この故であ(355)る。もしまた實景を詠じても、牽強と誇張とによつてそれとは違つた光景を文字の上で造りあげる外は無かつた。さうしてその文字は純然たるシナ人の模倣であつたから、彼等は新しい風趣を眼前の光景に發見することもできず、また國民文學の上に大なる影響を與へることもできなかつたのである。
 もつとも禅僧とても山水ばかりを眺めてゐるのではない。王昭君や楊貴妃を詠じ、宮詞樣のものさへ作ることがある。が、彼等は人事に對しては概ね一種の傍觀的態度を取り、作者自身は世外に超然たるが如き地位を保つてゐる。我が國の傳説を題材としたものには、一休が松風村雨を詠じて「可憐二女一身吟、但仰神扶波上心、惱亂秋風戀艸露、烟波萬里涙痕深、」(續狂雲詩集)といつたやうなものがあるが、これはむしろ例外である。舊宗教の僧侶が歌人としては戀歌を多く作つてゐるに反して、禅僧がさうでないのは、どこまでも詩に對するシナ風の因襲を守つてゐるからである。たゞ奇妙なのは、心田詩稿や三益艶詞などに美少年に對する頼る感傷的な詩のあることで、これは彼等の間にかういふ風習のあつた反映に違ひないが、義堂が「題後鳥羽帝祠」に「遊*人不關興亡事、閑讀碑文認篆蟲、」(空華集)と、政治に心をとめぬやうなことをいひ、また上にも述べた如く當面の戰亂をもよそごとと眺めて白?の眠を貪らうとする禅僧が、これにのみは大なる心づくしをしたところに、彼等の作つた超世脱俗の文字と彼等自身の實生活との背反が覗はれる。
 この種の傍觀的態度は戀に對してばかりではない。江上に釣を垂れる漁夫があり、山徑に薪を負ふ樵者があり、或はまた野外に牛を追ふ牧童がある。彼等はみな營々として生活のために勞役してゐる。その心情は市廛に錙銖を爭ひ官府に簿書を檢するものと、何等の差異が無い。然るにシナ式の詩人は、偏に彼等を以て天地の間に放浪するものと(356)し、畫家は單に彼等を山水の點景とする。自然界を人生に對立させてそれを愛するものが、外觀からいへば比較的自然界に親しみの深い彼等を、かう取扱ふのに無理は無いが、それと同時に、彼等の現實の生活をば全く無視してゐるものであることを、否むことはできない。稼穡圖などを作つてすら、その多くが一幅田園の風景畫たるに止まつて、農民生活そのものが力強く現はれてゐないのは、別に技巧上の理由もあるであらうが、かういふ思想上の關係もある。(我が國の貴族文學が花鳥風月の愛翫者としてのみ農夫を取扱つてゐたことは、前にも述べたことがある。彼等の生活を顧ないのは似たやうな態度ではあるが、趣味と精神とは全く違つてゐるので、我が國の歌人は農夫が花鳥風月を愛するものと見てゐるのに、シナ人は漁樵の徒を人として見るよりは寧ろ自然の一部としてゐる。)ところが水論聟や瓜盗人の世界は全くこれと違つてゐる。どちらが國民生活に親しいものであるかは、いふまでもあるまい。
 要するに、禅僧の思想も趣味も、たゞシナ人の因襲と定型とに從つて、文字の上でそれを學んだのみのことである。入明したものの詩集を見るに、航海の有樣やその時の感想などを詠んだものが殆ど無いやうであるが、これも大陸國のシナ人にその模範となるものが無かつたからではあるまいか。だから禅僧がかういふ文字を翫ぶ興味の一半は、彼等が特殊の異國的境地に心を遊ばせるところにあるので、それは彼等方外の徒が、一般の國民生活から隔離した別世界を形づくつてゐる、といふことによつて大なる便宜を得てゐる。もつとも禅宗そのものがシナ特有の思想の上に建てられたものであるとすれば、禅僧にとつては、それが特殊の境地ではないかも知らぬが、それにしても「往來無住著、江海任風烟、」(蕉堅稿絶海)といふやうな彼等自身の境遇すらも、禅僧であるがために得られるのである。さうしてかういふ境界によつて味はれ、彼等の特殊な知識によつて養はれたものが、日本人の風習や趣味と遙かに懸隔し(357)てゐることは、爭はれない事實である。從つて彼等もその世間と接觸する點から見れば、或は外部から附加せられた知識や習慣を剥ぎ取つた純眞の自己から見れば、やはりそれが一種異國的のものであり、或は知識上の遊戯であることに、氣がつくであらう。一部の日本人の間にシナの山水畫のもてはやされたのも、それによつて平常見なれてゐる風光とは甚しく違つた景觀に接することが、おもしろみの半ばを占めてゐる。しかし、みづから海外に遊んで親しくそれを見ることのできない日本人が、繪畫をとほしてそれを知ることは、異國的な情趣を幾らかでも覗ひ得る點に於いて興味のあることでもあり、また知識を豐富にする上に於いて稗益があることは、勿論である。或はまた禅僧の傳へた趣味が異國的のものであるとすれば、日常生活から離れた氣分にならうとするものは、おのづからそれに心が惹かれるやうにもなる。特にそれが人事を離れた境界を尚ぶのであるから、なほさらさういふ傾向を生ずる。後になつて一種の隱逸思想がこれと結びつけられるのも、歌人や連歌師によつて傳へられた花鳥風月の趣味とは異つた方面に於いて、山水を喜ぶ氣風のこれによつて促がされるのも、ふしぎではない。禅僧の文藝の影響が後世になつて日本人の心生活に現はれたとすれば、それはこの點にあるのであらう。けれども當時の日本人にとつては、それはどこまでも異國風のものであり、自己から出たものではなくして、外から與へられたものであり、從つてまた知識的要素の勝つたものである。
 
 以上述べたところを回顧してみると、この時代の文學には、前代に作られた源平盛衰記や太平記の如き戰記物語に於いて既に見えてゐる佛敦思想や古典趣味が依然として存在してゐることが知られる。さうしてこれらのものには武(358)士の實生活に適合する方面があると共に、調和しない方面もあるが、或は作者が僧侶であつた故に、或は因襲的思想が一種の權威を有つてゐたために、さういふものも、或は甚だしく誇張せられ、或は内容が稀薄になりつゝ、なほ文學の上に現はれてゐるので、單に文字の上より見れば種々の矛盾した思想が雜然として存在してゐる。たゞこれらの中で古典趣味だけは、日本の風土に深い根ざしがあり、また歴史的に養はれて來たものであるために、當時の武士の心情に大なる力をもち、さうしてそれが後世にも傳へられてゆくのである。それに反して外來のシナ思想は、武士の生活の上にも文學の上にもまだ多くの影響を及ぼすまでになつてゐない。武士たる太田道灌が歌人でありながら、漆桶萬里などの禅僧と親しく交り、江戸城の靜勝軒の眺めに烟波速く山影遙かなる大陸的光景の面影を髣髴させてゐたのは、この間に於いて幾分か諸種の趣味を綜合し得たものといつてもよからうか。
 
(359)     第七章 政治思想及び處世觀
 
 この時代の文學には政治思想が多く現はれてゐない、といふことは上にいつておいた。政治上の具體的な問題に關する見解についてはほゞさう考へられる。しかし、主として抽象的な思想または一般的な感情ではあるけれども、政治的意味をもつてゐるものが、必しも見えなくはない。そこでそのことを一應概觀しておかう。
 當時の多くの大名や一般の武士は自己の權勢所領を維持し擴大することにのみ全力を費し、その他を顧る暇が無かつた。けれどもさすがに將軍や幕府の實務に當つてゐるものは、何かにつけて世の亂れに想ひ到ることがあつたでもあらう。義政も「さま/”\のことにふれつゝ歎くぞよ道さだかにも治め得ぬ身を」と詠み「亂れたる世をのみ歎くわがこゝろ」と思つたことがある(家集、獨吟百韻)。しかし彼の實際の行動はそれとは調和しないものであつた。「はかなくもなほ治まれと思ふかなかく亂れたる世をば厭はで」(應仁記所載)ともいつてゐるが、それを治めるための努力はしなかつたのである。義政とはその心情に於いてやゝ違つたところがあつたらしく思はれる義尚も、旅祝言といふ題詠ではあるが、「都おもふ草の枕のかりねにも靜かなる代ぞ夢に見えける」(家集)といつてゐる。これには將軍の地位にあるものとしての衷情の發露が認められはするが、「靜かなる代」が「夢に見る」より外にしかたの無い時勢であつたことには、作者自身もやるせの無い思ひがしたであらう。或はまた幕府の當局者も、日々生起する事件についてそれ/”\の處置を講じはしたに違ひない。能の鉢木が演ぜられたのを見ると、時頼のこの物語は治者の地位にあるものに何ほどかの感慨を催させたかも知れぬ。けれども天下の混亂を如何にして收拾すべきかについての構想を(360)有つてゐたらしくはない。治者本位の考へかたから、農工商の輩は露命をつなぐ叢の蟲の如しといひながら、民の煩ひを顧念したところのある氏滿の一家臣(鎌倉大双紙)の如きは、武士としては思慮あるものであつたらう。もつとも第一章で考へた如く、如何なる戰亂の世でも秩序の崩れた時でも、民衆のすべてが困苦してばかりゐたのではないに違ひない。それ/\に生活のたづきはあり、農民とても領主や地域の如何によつては、また天災地變の無い場合に於いては、比較的安定した生活のできた一面もあらう*。歌人の戯作である職人歌合の職人の歌に、生活の苦痛の現はれてゐるものの極めて少いのは、この一面が作者の眼に映じてゐるのであらうか。狂言に現はれてゐる民衆もほゞこれと似たものであつて、地方の農夫が京の領主に年貢を約めにゆくのを喜ばしげに思ふほどな生活をしてゐることになつてゐるのは、さういふ領主たちが觀客のうちにあるための顧慮から出た作意ではあらうけれども、やはり同じところに一つの由來があるとも見られよう*。「愚僧」や「僞山伏」ですらどうにかかうにか生きてゆかれる世の中が、狂言に於いて示されてゐる。スツパや「心のすぐでないもの」さへも、どこかに愛嬌があるやうになつてゐるのは、觀客を笑はせるのが本意である狂言の性質から來たことではあるものの、社會苦といふやうなものがそれからは感ぜられないところに、一つの意味はあらう。たゞ謠曲には世わたりのわざについて、時に「棹さし馴るゝ蜑小舟、渡りかねたるうき世かな、」(白鬚)、または「離れ得ぬうき世のわざぞ悲しき」(通盛)、といふやうな詞があるが、これはむしろ民衆を微賤視し、勞働をさういふ賤の男賤の女のしわざとする知識人の態度の現はれであらう。だから一方では「さのみなど蜑人の、うき秋のみを過さん、松島やをじまのあまの月にだに、影を汲むこそ心あれ、」(松風村雨)とも、「うき世の業をしづの女は、風寒しとて衣うつ、身のためにはさもあらで、秋のうらみの小夜ごろも、月見がて(361)らにうたうよ、」(雨月)ともいふ。「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の聲」に至つては、「人間萬事さま/”\の世を渡りゆく身の有樣」として、むしろ樂しげに聞えるではないか(志賀)。世わたりの苦しさをいふのは、古の武士の幽魂が修羅道に墮ち漁夫や獵師の亡靈が地獄に於いて殺生の罪に責められてゐることを訴へるのが、現實の武士や漁夫獵師の心情ではなくして、佛家の思想で彼等を取扱つた作者の構想に過ぎない、のと同じである(箙、善知鳥、阿漕、など)。それと共に、潮の水に月かげを汲み秋の恨みに砧うつのも、また作者の古典趣味の現はれにすぎないが、たゞ文學の上に民衆の生活苦社會苦といふやうなことが寫し出されてゐない、といふことだけは認められよう。けれども、全體の形勢の混亂としば/\起る戰爭と並に領主によつてはその苛斂誅求とが、一般的に民衆の生活を脅かしてゐることは、事實である。そこで政治の當局者はともかくもとして、知識人はそのことをどう考へてゐたであらうか、といふことが問題になる。
 當時の歌集などを讀むと、上に引いた正徹の作の如く、かゝる時勢に對する嗟歎の聲を開くばあひがある。けれども如何にしてかくも亂れた政治的社會的秩序を立てなほすかは、歌人輩の思ひ及ばなかつたところである。のみならず、これらの歌は世の亂れをいつてはゐるが、民衆の生活には觸れてゐない。一條兼良が將軍のために政治の心得を説いた文明一統記や樵談治要に於いても、所領を押領せられて困窮に陷るものの多いことを訴へ、時には「上下萬民世帶を離れて飢寒にせめられたるもの幾干萬といふ數を知らず」といふやうないひかたをしてゐるところもあるが、主として考へられてゐるのは公家や武家や神社佛寺などの所領についてであることが、全體の口氣から推測せられる。撫民のことに言及してゐる場合があつても、甚だ抽象的である。これらは、民衆の生活を上に述べたやうなものとし(362)てのみ見、それとは違つた他の一面のあることに考へ及ばなかつたからであらうか。それとも一般的に民衆のことを深く思慮しなかつたからであらうか。文明年間の詩歌合の田家秋寒の詩に「近年租重衣猶薄、月冷風寒思不禁、」(高清)といふのがあるが、それと共にまた「縣吏憐民租不重、妻兒衣破豈憂寒、」(實隆)といふのもあり、「家々不啻黎民樂、?哺新雛牛引兒、」(教秀)とさへもいはれてゐるのを見ると、初めに擧げた詩の作者とても、農民に對する切實な同情をもつてゐたには限らず、むしろシナ傳來の概念的な憫農の意を述べたに過ぎないのかも知れぬ。
 ところが謠曲を讀むと、往々國豐かに民榮えて治まれる御代を謳歌することばがあり、特にいはゆる協能ものに於いては、どの曲にもそれの無いことは無いといつてもよい。例へば「……田の面の早苗とる、田子の裳すその色までも、國土豐かに樂しむなり、」(御裳濯)とか、「神の惠みに作り田の、雨つちくれを潤して、千里萬里の外までも、みな樂める時とかや、……民も豐かなる、天の村わせ種まきて、萬歳の秋をまつとかや、」(淡路)とか、いふやうなのがそれである。さうして民がみなその業を樂しみ生を樂しむのは、國土の惠み神の惠みであると共に、大君の御代の惠みでもあるので、そこに「道ある御代」を讃美し「道の道たる時とてや、國々ゆたかなるらん、」(呉服)と歌ふ理由があるとせられる。「君と神との道すぐに、治まる國ぞ久しき、」(白鬚)とも、「すべらぎのかしこき御代の道廣く、國を惠み民を撫でて、四方に治まる八洲の波、靜かに照す日の本の、影豐かなる時とかや、」(難波)ともいふ。これらはその主題が、或は上代の話であり、或は時代は明かに示してないが能の作られまた演ぜられてゐる當時のことではないやうになつてゐるにしても、その能を觀てゐるものに於いては、眼前目睹の現在のこととして受けとられる。「當今に仕へ奉る臣下」のその當今が今の世のとして解せられるものに於いては、なほさらである。そこで、よし民(363)衆の生活に必しも困窮してのみはゐない一面があるとしても、天下泰平民豐かとは何としてもいひかねる當時に、かかることの謠はれるのは、前章にも一言した如く甚だしき矛盾であり、或は虚僞である、といはねばならぬ。謠曲の作者は何のためにかういふことをいつたであらうか。
 これは一つは何となき因襲でもある。前篇にも考へた如く、代々の勅撰集の序や神祇または賀の歌などには、これらとほゞ同じ意義の詞があり、連歌にもまたそれが相承せられてゐて、菟玖波集にも賀の連歌があるが、また「かまどにぎはふ民の樂しみ」(紫野千句)といふやうな句も作られてゐた。宴曲の「祝言」にも「九州風治まり雨壤を犯さず、……曇らぬ光は玉鉾の道ある御代をや照すらん、……民も久しき御影を仰ぐ天の下、のどけき春の耕すより、苅りほす稻葉の秋を經て、……」といふ詞があつた。能の祝言ものにいつてあることはたゞそれを繼承したまでである。このころの連歌にも、「秋樂しめる民のまじはり」(熊野千句)、「めぐみの露の廣き世の中」(河越千句)、のやうな句があつて、明かにはいはれてゐないが、それはやはり神と皇室とを念頭に置いての言であらう。何れも上げ句であるが、同じ場合に神をいひ君が代をいつて祝言とする例があるからである。しかしそれにしても、かういふことが因襲となつたのは、一つは儀禮としてであるけれども、またそれに一種の呪言の意味を含ませ、天下泰平民豐かな時世を實現させようとする心もちが、よし明かに意識せられなくとも、その根柢にあつたからだ、と解せられる。神祇に關聯してかゝることのいはれる場合には、それに祈願の意が潜んでゐるのであらう。事實としても天下泰平の御祈?のしば/\行はれたことが、考へあはされる。さうしてそれには、漠然ながら、上代はかゝるめでたき世であつたといふ考も伴つてゐたであらう。もしさうとすれば、これは天下が泰平ならず民が豐かでない時代に於いて、特に意(364)味のあることであつたとも考へられる。能にかゝることが多く謠はれてゐる理由も、また多分こゝにあるのであらう。大君の惠みをいふことに、皇室を上代の如くにしたいといふ意志が含まれてゐるとまではいひ難いが、古典の時代を尚慕する氣分がそれに潜在すると共に、第一章に考へた如き上代文化の遺風の傳へられてゐる皇室を尊崇する感情がはたらいてはゐよう。皇室讃美の意をもつ祝言ものの作られたことに、既にそれがある。
 ところが、かういふ國民的感情は、當時の歴史的事實によつても知り得られる。第一章にいつておいた如く、騎慢なる義滿も義政も皇室に對する崇敬の情を失ひはしなかつた。後にいふやうに日本國王の稱を用ゐたことはあるが、それはこの心情とは關係が無い。この稱呼は、本來皇室の地位を示すものではなく、いはゆる「中國」の皇帝が夷狄の首長としての義滿などに與へたものだからである。一般の武士も、皇室に背いたものは子々孫々までも冥加がつきると考へてゐた(鎌倉大双紙)。或はまた世人が將軍の政治を非難することはあり、或は將軍に反抗することはあつても、皇室に對してさういふ態度をとるものは一人も無かつた。政治は幕府の政治であつて皇室はそれに開與せられないことを、何人も知悉してゐたからである。太平記などに南朝の政治に對する非難の言があるのは、吉野朝廷が天皇親政の形になつてゐたからであるが、この時代の朝廷にはそれが無いから、さういふ聲がどこからも聞えて來ないのは、當然である。皇室でも例へば今出川義視に勅書を賜はつた如く、稀には何等かの政治上の事態について或る行動をとられた場合もあるが、それは幕府の要請があつたからのことと解せられる。應仁の亂の時に室町の邸に行幸御幸を仰いだのも、皇室の安泰を計ると共に、西軍に對して東軍が皇室を戴いてゐることを示さんがためであつた、と傳へられてゐるが、かゝることの行はれたのも、幕府の當局者が皇室の精神的權威が武士の間に深く浸透してゐるこ(365)とを信じてゐたからであり、西軍が南朝の後裔を奉じようとしたといふのも、同じである。しかし皇室は東軍のために何ごとをもせられなかつた。また西軍の企ても實現せられず、南北朝對立の如き形勢を誘致するやうなことは當時に於いてはできることでもなかつた。皇室は政治の上に何等のはたらきをもせられなかつたのである。義視が勅書を賜はつた時に「辱くも九重の、雲の上なる大君の、勅を蒙るうれしさは愚かなるをも欺くぞよ、上にも下の從はで、心のまゝに亂す時代を、」と歌つたのも、勅書の辱けなさに感泣したことを示すのみである。たゞさういふ心情を足利義視のもつてゐたことには、大なる意味がある。土一揆が皇居に推參しようとしたことがあつたといふが、これも皇居が神聖の地であつて何人もそれに向つて兵を進めないことを信じてゐたからである、と解せられてゐる(三浦周行)。彼等に對する防衛のために皇居の周圍に堀を作らうとする議のあつた時、それを非とする意見のあつたのも、民衆は皇室に反抗するものでないといふ考からであつたと推測せられる。或はまた新菟玖波集が勅撰集に准ぜられたことを大なる榮譽としてゐることによつて、連歌師の皇室觀が覗はれよう。文學の上に上記の如き皇室觀の現はれてゐるのは、現實の國民的感情がかういふものであつたからである。
 さて、神と皇室との讃美はおのづから神國の觀念に結びつく。能にも「そも/\大日本國といつぱ神國なり」と明言して「豐葦原の國治ま」る根原をそこに置いてゐる場合もある(逆矛)。さうしてそれはまた「神代は遠からず」といひ「げに今とても神の代の、誓ひは盡きぬためし(しるし)とて、神と君との御威光(御惠み)、」といふ思想ともなり(淡路、右近、松尾)、慈遍の「神代在今」、または神皇正統記の「天地の初めは今日を始めとする理なり、……君も臣も神を去ること遠からず、」といふ考へかたが、文藝の上に現はれることになつた。「今もさぞ神代のまゝに(366)諸人のものいふことはみな歌にして」(正徹)も、歌についていつたのではあるが、同じ考へかたがその根柢にある。「さても手向くる大和ことのは」に「わが國の人をや神は守るらん」とつけたのも、似かよつた思想である(寶徳千句宗砌)。ところで日本が神國ならば、それは日本が他の國よりも優れたところのあることを示すものである。「日の本にいづくまさらん神の春」(熊野千句專順)である。岩船や難波や呉服やの如き能の作られたのもそのためであり、白樂天の如く、「よも日本をば從へさせ給はじ」と住吉の神の力で樂天を逐ひかへし、「げにありがたや神と君、……神と君が代の動かぬ國ぞ久しき、」と謠ふことにもなる。住吉の神の現はれてゐることを思ふと、この曲の作者は蒙古の役を想起してゐたらしいが、この役に神々がはたらいたといふことは、當時一般に信ぜられてゐた話らしく、幸若舞の百合若にもそれが反映してゐるので、これも神國のしるしである。神の力ばかりではない。「唐土も君になびける時なれや、四つのゑびすも同じ心に、」(寛正の將軍家百韻)、それはまた大君のみいづでもある。或はまた「法ぞこれこの日の本の神の國に佛も出でば歌をときてん」(正徹)にも、神國日本を他の國に對して優位に置く思想がある。これもまた歌のことをいつたのではあるが、慈遍の神本佛從の説、また和國はシナやインドの根本であるといふ考が、かゝる形に於いて歌人の詠に現はれてゐるからである。卜部家の唯一神道に於いて、慈遍の説を少しくいひかへ、神道は萬法の根本、儒教はその枝葉、佛教はその果實、と説くやうになることにも、幾らかはこの思想と關聯があらう。しかし當時の日本の状態、日本人の實生活、に於いてかゝる神國思想日本優位の觀念が何の意味をもつのか、といふと、これもまた上代のこととしてそれを尚慕するか、然らずば單なる信念としてか、この二つの外にはあるまい。ただ知識人がかゝる思想をもつてゐることに一つの意味はあるので、現實にはその力の現はれてゐない神國の觀念が思(367)想の上に一種の力をもつてゐることを示すものと解せられる。神代をいひ大君をいふことにも、また同じ意味があらう。從つてこれは現實の政治に關する思想ではなくして、むしろ詩的情趣を帶びた一種の願望といふべきものである。けれどもそれは知識あるものの心情に深い根柢を有するものであつて、機會があれば何等かの形に於いてそのはたらきをあらはすことが考へられる。たゞその機會は當時にはありさうになかつた。
 だから、實際の對外聞係に於いては、神國の觀念も日本優位の思想も何のはたらきをもしなかつた。義滿義教義政などの明に對する態度は周知のことであるから、こゝに絮説する必要も無い。これは國家意識をもたない方外の徒である、特にシナ崇拜の念の強い、禅僧の言を用ゐ、彼等を使節としまた彼等の起草した文書を用ゐたからのことでもあり、なほそれには錢貨を求め貿易上の利益を得んがための政策が含まれてゐたことをも考へねばならぬが、いはゆる「中國」に對し夷狄を以てみづから居るものであるのみならず、義滿の如きは國内に於いてもその夷狄の首長としての「日本國王」の稱をむしろ得意げに用ゐてゐたらしい。日本の事實上の首長であつたからといふ理由もあらうが、それよりも明から與へられたものであることに主なる價値を置いたのではあるまいか。皇室の臣であり皇室よりも地位の低い將軍であることが、明の皇帝に對しても臣禮を執ることを意としない一つの理由となつたのかも知れぬが、それにしても文書の書きかたについては、同じ禅僧の間にすら異見があつたほどである(善隣國寶記)。義持が明との交通を絶たうとして日本は神意に從はねばならぬことを理由としてゐるのは、傳統的な神國思想に本づいたところがあるが、義教に至つてまた義滿の舊に復したところに、幕府の實際上の要求と禅僧の勢力とが見られる。朝鮮を文化國として重んじてゐるのも、當時の禅僧の對外思想の現はれである。けれどもこれは、現實の政治の上には意味の(368)ないものでありながら、一般知識人の思想として神國觀の存在したことを妨げるものではなかつた。さうしてそれには夢になりとも天下の泰平を思ふ情が伴つてゐる。
 
 以上は、日本人として日本をどう考へ、それについて何ごとを希求してゐるかを觀察したのである。天下泰平民安穩といふことには、一般的な希望としては一人として異議を懷くものは無からうが、どうしてそれが得られるかについては、何人にも具對的な方法を案出することができない。政權の掌握者たる將軍の政治によつてそれを求めようとするにしても、第一章に述べたやうな天下の形勢と武人の氣風との下に於いては、それだけで泰平が果して得られようか。といふよりも、さういふ效果のある政治といふものが將軍一人の手でできることなのか、と問はねばならぬ。或は將軍がその人にあらずして泰平の治を來すことの期待せられない場合に、如何にそれを處置せんとするか。もしそれを動かさうとするならば、武力によつてその地位を得た將軍を動かすにはおのづから武力によらねばなるまいが、それは泰平を求めるのとは反對のしかたではなからうか。ことによつたら却つてそれが天下の兵亂を誘致することになるかも知れぬ。或は將軍も大名も武力を抛棄することによつて泰平が得られるとするにしても、武力の無い政治的權力が當時の状態に於いて果して民衆の安寧を保つことができるか。或は新に制度を設けることが考へられるかも知らぬが、設けた制度を破るものの生じないことがどうして保證せられるか。或は道徳の力に依頼することを思ふものがあるでもあらうが、第五章で考へたやうな武士の遺徳觀念は一種の風尚として存在するけれども、事實としてはそれに背くものが如何に多いことか。また或は宗教的信仰に何ほどかの力を認めようとするものがあるかも知れぬが、(369)當時の宗教が世に如何なるはたらきをしたものであるかは、既に述べたところによつて知られよう。天下の泰平は、當時に於いて殆ど實現の希望の無いこと、たゞ夢に於いてのみ纔かに存在するのみのこと、ではなかつたか。祈?や呪言の外にそれについての具體的な方法の考へられなかつたのは、むしろ自然のことであつたともいはれよう。これは當時の情勢を情勢として、また人心を人心として、客觀的に見ての考であつて、將軍なり諸大名なりまた一般武士なりに重大なる政治的道徳的責務のあつたことを否定するのではなく、むしろ彼等がさういふ責務を感じなかつた事實を明かにしようとしたのであるが、客觀的に見た状態がかういふものであつたとすれば、人はその間に立つて如何にその身を保ち如何に世に處しようとしたのであるか、それが次に考へようとすることなのである。
 
 何よりも氣がつくのは、人の希望のすべてが福利を求めるにあるといふことである。武士は佛教を信じた。しかしその佛教は菩提に入る道としてでもなく、現世を超越した常樂の涅槃を來世に求めるためのものでもなく、佛といふ神は現世の成功と幸運とを加護し、信者をいはゆる榮華の地位に導くためにはたらいてゐる。室町時代の文藝には佛教的要素が多いために、何となく厭世的な、または陰鬱悲哀な、空氣がその上に漲つてゐるやうに思はれてもゐるらしいが、實はそれとは反對に信仰そのものがむしろ現世的である。これは我が國に入つた佛教の最初からの性質であつて、多數人の信仰としては古今を通じて一貫してゐる。たゞ平安朝などでは權勢あり富ある社會の信仰が文學に現はれてゐるから、それに見えるところでは宗教が榮華の道具となり装飾物となつてゐる。この時代では一般人の信仰が寫されてゐるから、榮華を求める方面にそれが集中せられてゐるのである。けれども現世の福利を主とするところ(370)はどれにも違ひが無い。厭世觀などは佛者の間の知識として存在してゐるに過ぎないものである。神の信仰が幸福を祈るにあることは、いふまでもない。
 また同じく武士の間に行はれてゐた古典の崇拜は、彼等をして宮廷や攝關の地位を今の時代に於けるその生きた象徴として考へさせたのであるが、かゝる尊貴の地位を低いところから仰ぎ見るものの目には、現世に於ける榮華の極みをそれに認めようとする。或はそれを幻に見る。今宵の少將の子が皇位に上つたのを觀音の利生としたのも、皇位を榮華の地位として考へたからのことで、七草双子などにも同じ思想は現はれてゐる(平安朝の狹衣物語などにはかういふ思想は無かつた)。官位の高い身分も官位そのものが貴いのでは無くして、「榮華に誇り給ふ」のが羨ましいのである。かの花月のながめ詩歌管絃の遊びの古典趣味も、たゞこの榮華の象徴として取扱はれてゐるに過ぎない。幸福を榮華に求めるのは、いづれの時いづれの國にも通有のことであつて、怪しむには足らないが、それが文學の上にかうまで露骨にまた極端に現はれてゐるところに、時代の思想がある。當時の武士が力を極めて相爭ふのは、よし辨慶物語の辨慶によつて示されてゐる如く、爭ひそのこと活動そのことに一半の興味はあるとしても、意識しての目的を考へると、全くこれがためであつた。
 榮華に誇るとは富貴を得ることであるが、尊貴の地位は容易く得られないから、多數人の求むるところは富にある。昔の平安朝文學に於いては、官位に伴ふ權勢が榮華の象徴であつて、富は權勢の自然の結果と見られてゐた。これは何人も權家の庇護によつてのみ生活し得られる狹い貴族社會から生まれた思想である。今は權勢そのものが一つに集中してゐないのみならず、廣い世の中に於いて、多數人が自己の力を以て自己の榮華を求めなくてはならぬ時代であ(371)るから、主なる欲望はおのづから富に集まる。第一章に述べた如く、事實に於いて多數の武士は物質的快樂の追求に餘念が無かつたが、それには富が無くてはならぬのである。物語に人の果報をいふ時、かならず金殿玉樓に住み、綾羅錦?を纏ひ、數百の家人を使役し、七珍萬寶が家に充ち、金銀財貨が泉の如くに湧く有樣を敍し、それを人間の理想的境地としてゐるのでも、この傾向が知られる(田村の草子、物臭太郎、文正草子、淨瑠璃十二段草子、貴船の本地、など、一々いふまでもない)。謠曲の岩舟は「住吉の岸に寶の御船をつけ納め、數も數萬の捧物、運び出すや心の如く、金銀珠玉は降り滿ちて、山の如くにつもりの浦、」を敍して、君が代を祝うてゐる。鉢かづきの鉢が落ちて出たのも金銀綾羅である。一寸法師が鬼から取つた打出の小槌も金銀を打ち出す。その鬼の國さへ寶の國と思はれてゐた。大黒や惠比壽がもてはやされ、毘沙門が(ク?ラとしては本來の性質であるものの)福の神として信仰せられたのも、この故であるが、梅津長者物語の如く大黒惠比壽の助けを得て富を得る物語もある。神が財貨を與へるのみでなく、神佛自身も物質的の報酬を得なければ加護を與へないので、立願をするには、かならず金銀財寶を多く奉り、宏壯な殿堂をたて華麗な裝飾を施すことを約束するのである(百合若大臣、淨瑠璃十二段草子、梵天國、毘沙門の本地、など)。人の欲望を神に反映させたのである。
 さて榮華が人生の目的ならば、物語の大部分が最後にその目的を達することになつてゐるのは當然である。結末の「めでたし/\」になつてゐないものは無いが、そのめでたし/\は即ち榮華に誇ることに過ぎない。それを神佛の利生としまたはその人物を公家としたのは、宗教的信仰や古典崇拜の思想によつて色づけられたのみであつて、その主題は榮華の希求にある。しかし、物語に於いて人生の葛藤を圓滿に解決させたことには、今少し深い理由がある。
(372) お伽草子の浦島太郎では、浦島と姫とが古傳説の如く永久の別離に終つてはゐないので、夫婦の明神と現はれて長く契をかへずにゐる。(姫が浦島に別れる時に、來世で二世の契を結ぼうといつてゐたり、また浦島が鶴となり姫はもとより龜の身で、共に蓬莱に遊ぶことになつてゐたりするのは、佛教や神仙説から轉化した考で、夫婦の明神となるといふのとは別の思想であるが、かういふ混雜した取扱ひ方をしてゐるのが、この時代の特質である。さうして何れにしても、夫婦を永久に結びつけて置くことは同じである。)謠曲の浦島も、明神が仙女と共に規はれてゐるから、やはりお伽草子と同じ着想によつて作られてゐるらしい。同じ謠曲の蘆刈も、古傳説とは違つて、夫婦めでたく昔の契を新にすることになつてゐるし、鵜羽も、尊と豐玉姫との別離には重きを置かずして、寶珠が主になつてゐる。多くの物狂ひも、また概ね夫婦なり親子なりの再會の悦びに終つてゐる。これらは、夫妻の別離のまゝで物語を結ぶことが、當時の人の思想に於いて許されなかつた故ではなからうか。なほ多くの草子が殆どみなめでたし/\に終つてゐるのも、たゞに榮華の有樣を示すのみではなく、むしろ一種の滿足または安心の情がその根柢になつてゐるのであらう。
 これは何故であらうか。作者が因果應報といふやうな一種の道徳思想、または神佛の加護を説くための宗教的意義を寓したのも、その一原因には違ひない。さうして、事實上めでたからぬことが多い世の中に於いて信仰なり道徳なりを説くには、特にめでたいことを作る必要があつたのかも知れぬ。或は生活が安定せず人心が險惡になつてゐて、何時如何なる災禍が身にふりかゝつて來ないにも限らぬ戰亂の世には、かゝる考へかたが一つの安慰となつたでもあらう。また或はたゞめでたいことを好む素朴な人情に投じたものに過ぎないでもあらう。けれども少しく考へて見る(373)と、別に理由が無いでもない。それは、當時の人が、根本に於いて淺薄な樂觀主義をもつてゐて、人はともかくもして世間的の幸福を得られるものと考へてゐたからではあるまいか。自己の力で自己の運命を開いてゆかねばならぬ武士には、我が手で目ざすものを?み取らうとする意思があると共に、取れば取られるものとそれを考へる。希望の對象が直ちに現實の存在らしく見えて、幸福の幻影が眼前に浮ぶ。勿論、神力佛力の加護をも求めるが、前にも述べたことがあるやうに、超人間的の力を平安朝時代のやうに宿命と考へず、人格化せられた神佛のはたらきとしたのは、人の力がそれに投影せられてゐるので、おのづから武士の心情にかなふ。從つて意識してかせずしてか、悲哀の事實には眼を向けない。世阿彌の五音曲條々に「當世は祝言を以て本とする故、哀傷は斟酌すべし、連歌にも哀傷は絶えたり、」とあるのも、舞曲の靜で畠山に「しづやしづ」の歌をめでたく解釋させてゐるのも、また連歌を祝言の意義をもつ句で結ぶ例が多く、舞曲の終に「末繁昌と聞えけり」といつてあるものが少なくないのも、みなこの故ではあるまいか。舞曲の四國落の結末に、義經が都を落ち惡風に妨げられて住吉に舟をつける話をしながら、突如として末繁昌の一句を語り出すなどは、甚だ無意味であつて、伏見常盤の同じ文句なども、全體の氣分とは調和してゐない。謠曲の戀重荷が、戀のために身を滅ぼして衆合地獄の重き苦しみに逢ふことを述べるかと思ふと、何のゆかりもなく忽ち一轉して「姫小松の葉守の神となりて千代の蔭を守らん」で結んでゐるのも、同じ類である。幽靈の成佛するのも根本の思想はこれと違ひは無い。これらは、結末をめでたくしなければ承知ができないため、むりにかういふ文句を附會したのであつて、それまでにしても「めでたし」の一語を求めて已まなかつた當時の思想を示すものである。もつとも、舞曲などの結末をかうしたのは觀客に對する一種の儀禮の意味もあらうが、それは觀客がかういふことを喜(374)ぶからであつて、それにはその理由がなければならぬのである。勿論、何人もめでたからぬ事實に逢着しないわけにはゆかぬが、それは、金銀の報謝と交換的に得られる神佛の加護によつて、容易に幸福に轉じ得られるものと考へてゐたのである。これには素朴な樂天觀の伴ふ原始的な宗教觀念から來た點もあるので、思想上の修養の淺い田舍武士が世に出ると共に、さういふ思想がそのまゝ現實に力を得て來たのでもあるが、神の崇拜に於いては固よりのこと、民間信仰としての祈?的佛教とてもまたそれに適合するものであり、因果應報説も應報が世に行はれるといふ意味に於いて平凡な樂觀主義であるから、よくこの思想と調和するのである。
 その上、當時の人には、如實に人生を見世情を見るだけの眼が無かつた。虚心に觀察すれば、人生の種々の葛藤は決して圓滿にのみ解決せられるものではなく、因果應報の道徳觀を單純に適用することのできないことも明かに知られる。だから、昔の源氏物語の作者は、人生に悲みと喜びとがさま/”\に纏綿して、世情の極めて複雜であることを認め、或は源氏や薫が彼等の地位と身分とによつてもなほ免れることができない悲哀の運命に陷つた有樣を敍し、さうして幾多の葛藤に何等の道徳的解決をも下してゐないと共に、測り難き人生の窮通を人力の如何ともすべからざる宿命に歸したのである。それは勿論、人の意志と力とを重んじなかつた世だからでもあるが、作者に忠實な觀察眼と細かな感受性とがあり、それによつて人生の眞相を解することができたからでもある。ところがこの時代の思想の粗笨な武士や、人生を偏狹な教義で律しようとする佛者などには、それが無かつた。だから、人生の事實に何等の考察をも加へず、また淺薄な應報説に滿足してゐたのである。かう考へて來ると、この時代の物語がすべて、めでたし/\に終つてゐる根本の理由が了解せられようではないか。當時の人は、人生が脱すべからざる運命の桎梏を加へられて(375)ゐると考へたり、世の中にほぐし難き葛藤があり解き難き謎があると考へたりすることはできなかつたので、眼前に幾多の激烈な爭闘が行はれ、從つて悲壯な事實が多く存在してゐるに關せず、文學の上に於いてはさういふことを描寫したものが一つも作られなかつたのである。源語のやうに悲哀の情調の漂ふものすらも、無いではないか。
 
 けれども、當時の人々も、事實に於いて圓滿ならざる世であることを否むことはできなかつた。特に兵亂が相ついで起り人心の向背常ならざる世態は、心あるものをしてそゞろに世の頼み難さを感ぜしめた。が、それはたゞかゝる事實を外部から見て、その事實あるを悲しむに過ぎないので、一歩進んで考へても、ありふれた佛教的無常觀によつて人の世のはかなさを歎くのみであつた。淺薄なる樂觀の半面には、同じく淺薄なる悲觀があるのみである。歌人などの態度は多くこれであつて、「心なしと岩木を見しが昔にて今は岩木や人を見るらん」と木石にも劣る人の有樣を悲しみつゝも、「まことには亂せる人のとがも無したゞ世は果ての時來るとて」(心敬)といふのみで、どこまでも傍觀的また絶望的である。みづから起つて新しい道を開いてゆかうといふ意氣も無く、何故に世が亂れたかを考へる思索の力もない。これは歌人の因襲的思想ではあるが、當時の歌人が實生活の上に於いて多く遁世者であると共に、思想の上に於いてもまた遁世的態度を離れなかつたのだとも見られる。物質的榮華の幻影に囚はれてひたむきにそれを攫まうとするのが、世間的にはたらくものの態度であると共に、その實社會にはたらけないものは、偏に世を退避しようとしたのである。新葉集に現はれた詩人的情熱は、南朝の衰微と共に跡を絶つてしまつた。さうして、一般に政治思想公共的觀念が退歩して、すべての人が利己主義になると共に、歌にもまた同樣の傾向が生じた。たゞ世間の多數(376)は積極的の利己主義であるが、遁世ものなどの歌人は消極的の利己主義、即ち一種の獨善主義、であるといふ違ひがあるだけのことである。
 しかし、世を退避しようとしても、事實に於いて退避することができないと共に、人は何時も泣き言ばかりいつてゐるわけにはゆかぬ。そこで同じく傍觀的ながらも別樣の態度が生ずる。それは即ち世上の萬事を茶化し、人事をすべて滑稽化することである。まじめなものを不まじめに取扱ふことである。狂言がそれであつて、恐ろしい閻魔王も人を食ふ鬼も、堂々たる大名も殊勝げな善知識も、こゝでは凡て茶化されてゐる。(辨慶物語の辨慶の我がまゝのふるまひも、あらゆる世間の權力を茶化してゐるものと見ることができよう。)が、これもまた、人生そのものを徹底的に觀察してそれに根本的矛盾を認めたのではなく、人の行爲を表面的に取扱ひ、如何なる敗亡もちよつとした失策として見てゐるのであるから、すべての葛藤が輕い笑の裡に無意味に消散し、おもしろ可笑しい小唄や囃ものでかたつけられるものさへ多いので、何人も人としての致命傷をこれらの作から受けるやうなことがない。落首などの作られるのも同じ態度である。
 が、こゝでしばらく考へてみる。人の熾んな生活欲や榮華の希求と、この世の無常をはかなんで世を遁れ、もしくは極樂往生を願ふのとは、矛盾してゐる。この矛盾した欲望を同時に有つてゐるのは滑稽ではないか。世をはかなむのは、個人についていふと、生活欲が充たされず求める榮華が手に取られないのか、但しは一たび得た生活を失ひ榮華を喪つたからかであり、廣い世間についていふと、すべての人がこの目的を達することができず、また轉變の常ならぬ世だからである。けれども、まゝにならぬのは人類あつてからのことで、無常は世のつねの有樣であるから、そ(377)の間に立つて富貴を求めたり榮華に誇つたりするのは、鬼の面を被つて伯母の酒をのむ山一つあなたの甥と同じことで、化の皮が剥がれる時には淺薄なる喜劇役者たるに過ぎない。或はまた遁世も極樂往生の希求も、一つの世界に於いて思ふまゝの生活ができないから、轉じて他の世界にそれを求めることだともいはれよう。けれどもこの二つの世界は全く反對の方向にあるから、世間の榮華を求めもしくはそれに誇る態度と、世をすてようとする心もちとを、率然と結びつければ、これもまた坊主と料理人とがごつちやになるのと同じ狂言の材料である。それのみでない。しばしば述べたことがあるやうに、榮華に誇つたものが一朝にして勢威を失ひ、得意であつたものが忽ち失意の境に墮ちるのも、當事者自身にとつては悲哀であらうが、局外から見れば、もしくは當事者が一段高い地位に立つて、我れみづから我れを見下ろせば、たゞ一場の滑稽劇であつて、有爲轉變の世に、喜ぶものも悲しむものも、畢竟は主人の留守に酒宴亂舞をして得意になり、主人が歸れば忽にしよげかへる太郎冠者たるに過ぎないのである。當時の人もこの滑稽をば看取した。さうして一篇の常盤嫗の物語を作つた。
 年老いた嫗がある。世の無常を觀じて一刻も早くと彌陀の來迎を願つてゐる。さうして人よりも先づ我れをとかつてをいふ。そのうへ、極樂往生を願ひながらさま/”\の甘いものを食ひたがる。多くの子どもらをかはゆがつて育てたことを思ひ出しては、その子どもらが老の身を嘲り笑ふのを恨む。むかし「伊勢」や「源氏」の物語に見えるやうな榮華の日を送つたことを追想しては、今の衰へを悲しむ。せめては饑寒を凌ぐものが欲しい。いや/\それよりも極樂へ行きたい、と高聲に念誦する。これが常盤嫗の物語である。世に生きようといふ欲望と世をすてたいといふ希求とがごた/\になつてゐて、而もその二つが何等のかゝはりなしに、また極めて急迫な態度で、いひ現はされてゐ(378)るのが滑稽であるのみならず、念佛も孝行の教も古典趣味も、さては貧も老も榮枯得喪の?忽たる轉變も、みな滑稽的に取扱はれてゐる。作者は、無意識ながら、この時代の一般の思想を老嫗の一身に象徴させて、世の欲望の一切を茶化し去つたのではあるまいか。但し、作として見ると、結末に至つて無造作に老嫗を紫雲に迎へ取らせてしまつたために、全體としての滑稽の興味は大半殺がれてしまひ、また輕い筆致でおもしろをかしく讀ませるやうにしたために、老嫗もたゞひようきんな婆さんに過ぎないやうになつてしまつた。これは作者がたゞ讀者を笑はせるために書いたといふことを示すものであると同時に、人生の矛盾を根本的に考へることができなかつたことを語るものであらう。が、ともかくも常盤姫の矛盾した欲望を茶化すだけの目的は達せられてゐる。
 ところが、佛教的悲觀思想にせよ、茶化し的態度にせよ、かういふやうな傍觀的態度は、現に世に生きてゆかうとするものに、何等の指針をも示すものでない。だからこの無常の世、轉變の特に激しい兵亂の時代に於いて、如何にして生きようかと考へる時、そこに何等かの處世の態度が生れなくてはならぬ。一條兼良は應仁文明の亂の最中に書いた藤河の記の冒頭に「胡蝶の夢の中に百年の樂を貪り、蝸牛の角の上に二國の諍を論ず、善しといひ惡しといひ、たゞ苟のことぞかし、とにつけかくにつけて、一つ心を惱ますこそ愚なれ、」といつた。兼良の思想は、夢の世の中に小さい事をすることの愚を説いた一種の高踏主義であつたらう。が、かくの如くして世と世の紀綱とまた政治的道徳的責務とを輕く視る思想は、一轉すれば直ちに別樣の態度になる。どうせ夢の世ではないか。善といふも惡といふもたゞかりそめの水の上のうたかた、取るにも取られず、取るにも足らぬ。さらばしたいことをするのが人と生まれたかひではないか。何を憚つてか前後左右を顧慮しようぞ。世をかう考へる時、人生固有の生活欲は猛然として動く。(379)我がゆく道に人あらば人を仆せ、世あらば世をも覆せ。人みなかく思ふ時、天下泰平の希望は何處にか消え去つて、戰國の時代は忽ち眼前に展開せられる。
 
(381)   第三篇 武士文學の後期
    明應ころから寛永ころまでの約百五十年間
 
     第一章 文化の大勢 上
 
       戰國時代
 
 我が國の戰國時代は政治、社會、また文化、のどの方面に於いても、歴史上極めて重要の意味を有つてゐる。それは一つは、南北朝時代の騷亂から漸次馴致せられて來た勢が極度におしつめられて、一般國民が從來の政治組織社會構造を覆し、鎌倉時代以後徐々に變化して來つゝもなほ昔からの惰力によつて或る程度に支へられてゐた貴族と寺院とを中心としての傳統的文化の權威を仆したのがこの時代であつて、その意味では戰國時代は破壞の時代である。さうしてそれは武力が何ごとをも支配したからである。しかしかゝる破壞そのことが、一面に於いてはあらゆる事物すべての生活の上に國民みづからの力が現はれ、それによつて激烈な戰亂の間に新しい時勢が展開せられて來たことを示すものである。だから一くちにいふと政治と社會との改造の時期であり、新文化の黎明の見え初めた世であり、また國民の力の始めて大に發揮せられた時代である。江戸時代の政治組織も社會構造も文化状態も、戰國時代の間に漸次形成せられて來たものである。戰國時代を單に騷亂の世、破壞の時代、と見るのは大なる誤であらう。
(382) 戰國時代は地方的闘爭の世である。地方の豪族がその領地を根據として互に勢力を爭つたのは、南北朝時代以來のことであつて、足利氏の權力が一とほり固まつてからも、さういふ大勢に變りは無く、特に九州とか關東東北とかいふやうな京都へ遠い地方では、諸大名の領地がほゞ固定してゐて、幕府の權力によつてさほど動かされないと共に、その爭ひも概して地方的であつて、小さいところでは領分境ひめの爭ひに互に睨みあひをして、隣りの領分の作毛をふみ荒らすやうなことも、少なくなかつた。固より中央の政權を左右しようといふのではなかつた。けれどもそのほかの地方では、幕府の權力によつて領地が動かされるのみならず、幕政に關與してゐる大名の領地が多かつたから、それらの大名の爭ひは中央に於ける政權の爭ひと密接の關係があつたので、その最も著しくまた最も大規模に行はれたのが應仁の亂である。ところがこの大亂によつて、將軍の實力が諸大名を拘束するに足らないことが證せられると、それから後はすべての大名が實力を以て爭ふ外は無く、さうしてその實力の本源は領地であるから、全國を通じて領地を守り領地を擴げようとする地方的の爭ひが行はれるやうになつた。そこでいはゆる戰國割據の世が開かれたのである。
 かうなると、全國を通じての大きい政治的中心が無くなつて、その代りに地方的の中心が多くでき、國民のすべての行動が、その小さい中心によつて結合せられてゐる小國家の存立を目的として行はれ、從つてそれに適應する社會構造が成りたつやうになる。列國競爭の行はれる自然の結果として外交術が發達し、或は鄰國親和、或は遠交近攻、合縱連衡が成りたつたり崩れたりする。國内に於いては、今まで割合に散漫であつた行政組織が、領主の居城を中心として幾分か緊密になる。從つて南北朝時代から戰爭などの場合にしば/\現はれる野武士、旗色を見てどちらへもつくといふあふれもの、または無所屬の浪人、といふやうなものが少なくなつて、武士は概ね定まつた主人持ちにな(383)る。士民を國々で固めて他國ものを排斥するやうな傾向ができる。例へば、大内家壁書には御家人以外のものを養子にすることを禁じてあり、今川紹僖の制詞や信玄家法には他國ものとの縁邊について誡飭が加へてある。また朝倉敏景十七箇條には、僧俗とも一藝あるものが他國にゆくを禁じ、猿樂の役者すらも京から呼び下さずに國内で養成せよといつてある。また信玄家法や長曾我部元親百箇條には、他國との音信往來を自由にさせないやうにしてある。これには軍國の秘密を保つといふ意味もあらうが、國々が互に障壁を築いてその内で固まらうとする傾向の現はれでもある。君臣主從の關係が領地と結び付く。從つて一種の國自慢が生じ、他國人に對する敵愾心が發達する。三河武士とか甲州ものとか越後ものとかいふ語に地理的名稱以上の意味がつけられる。領主はおのれらの武力を強め地位を固くしまた他國に對して國勢を伸張するために、幾分か農民を愛育する傾向が生ずる(北條早雲の逸話など參照)。農業そのことを保護し土地の開拓を助ける。鑛山のあるところでは金銀を採掘し、外國交通の行はれる場所では貿易を盛にして、富の蓄積を計る。金の産出の多くなつてゆくことは信長や秀吉の行動事業によつても知られる。政治上の中心である領主の居城がおのづから經濟上の中心ともなる。從つ、てすべての文化が國々に於いて或る程度の發達をする。要するにあらゆる點に於いて地方的大名の領地が小さな國らしいものになるのである。これが戰國時代の第一の特色であるが、且らくそれを名づけて割據主義といつておかう。しかしこれは、いふまでもなく大名の割據であつて、民衆のではない。民衆はたゞ領主たる大名に隷屬するまでのものである。「おほけなやみなすべらぎの海山をわがものがほに民の爭ふ」(三條西實隆)ともいはれたが、この「民」は大名をさしたものである。
 さてこの地方的闘爭は主として武力によつて行はれ、その勝敗は戰爭によつて決せられるから、かういふ小國家の(384)政治はいはゆる軍政主義であり、その社會は武士を中心として組織せられ、またその文化に於いては戰爭に必要な事物が際立つて發達する。更に詳しくいふと、官吏はすべて武士で、制度は戰争を目的としてたてられる。行政機構が野戰陣營の組織そのまゝであるといふ徳川幕府の制度は、即ちこの戰國時代に生まれたものである。一面に於いて農民を愛護する思想が幾分か發生しながら、他の一面に於いては課税賦役が頗る苛重であるといふのも、戰時に於ける徴發の意味を考へるとおのづから了解せられる。戰争本位の政治に於いて、農民が兵粮を供給するものとしてのみ認められるのは、自然のことであらう。刑罰が嚴酷になつて死刑を輕々しく行ひ、特に磔刑とか焚殺とかいふ殘忍な方法が行はれ、一人罪あるとき妻子までも罰せられるといふ習慣の生じたのも、やはり軍政の自然の傾向であり、またやゝもすれば殘忍に陷り人の生命を重んじない武士の思想の現はれたものである。刑罰とはいひがたいが、敵を破つた時にその一族を殺戮する昔からの風習も繼承せられてゐるが、これは復讐を恐れてのことである。戰争の場合または敵境に入つた時に人家を燒き拂ひ作毛を荒らすなどは、常のことであり、無辜の民衆を殺すことさへあるが、同じ態度はすべての場合に見える。
 それから、四隣みな敵で何時も臨戰状態にあるから、國主の住地は勿論、或は領地の防禦陣地として或は敵國攻撃の根據地として、到る處に堅固な城塞を築かねばならず、武士は斷えずそれ等の城塞に住つて、咄嗟の間にも出陣のできる用意をしてゐなければならぬ。また國主からいふと、配下の武士がそれ/\の知行所に住居するのは主人に反抗し得る實力をそこにもつことになるので、それを制止する必要もあつた。江戸時代に武士が城下に集中してその生活が農民と全く分離してゐたのも、かういふ必要から戰國時代に發達した習慣であつて、武士階級の特殊部落がこの(385)間に成りたつたのである。地方によつてはその國の領主に屬しながら農民の間に居住し、武士の身分をもちながら地主の如き地位にあるものもあつたけれども、大觀すればかういふ状態となつた。この武士の部落は經濟的見地からいふと單なる消費者の集團であるから、かういふ社會に特有な經濟組織がこの間から生ずる。もつとも場合によつては武士とても農業などをしなければならぬことがあつて、三河武士の田植をしてゐたことが三河物語に見え、また家康も武士の妻には木綿を織ることのできるものを求めよといつたと傳へられてゐるが、妻子はともかくも、武士が田を作るのはその本分ではないとせられてゐたことが、三河物語の記事によつてもわかる。そこで武士が政治的に特殊の權力を有つてゐるのみならず、社會的にも農民とは懸絶した高い地位を占める。百姓に對して切捨御免の特權が武士に與へられ、同じく戰死するにしても百姓に首をとられるのは非常な恥辱と考へられたのも、この故である。戰爭本位の世の中に武人が權威を與へられるのは自然の勢である。百姓との關係に於いてばかりではない。「とても死ぬる命をいかで武士の家に生れぬことぞ悔しき」(應仁記一條太閤)。公家貴族とても武士を羨まねばならぬほどに、武士ならでは生きがひのあることのできない戰亂の世であつたのである。「人は武士」といふ諺もこのころから行はれたのではあるまいか。
 こゝで公家貴族の武士觀を一言しておかう。彼等の多くが將軍の地位にあるものを尊重したことは、前篇にいつておいた。その始めはたゞ權勢に屈したのみであり、または保身のため何等かの利益を得んがためのことであつたらうが、かういふ態度が長く續くと、いつしか將軍を衷心から尊敬するやうになつたらしい。三條西實隆の日記などを見ても、さう感ぜられる。昵近の公家が將軍と共に陣中にあつて敗戰の場合に自殺しようとしたといふのも、その地位(386)のためではあつたらうが、かういふ感情もはたらいたのではあるまいか。九條攝政の末子が細川政元の養子となり、それよりも後に將軍が九條家の息女を養女として筒井順慶に嫁したことなどを見ると、かゝる地位の武士をも輕んじ得なかつたことが知られる。所領を失ひ邸宅を燒かれた公家貴族が地方に流寓して心ある大名に身を寄せるやうな時勢の下に於いては、かうなるのも自然の状態であつたらうが、こゝでは地位の高からぬ武士も、武士なるが故にかゝる待遇を公家貴族から受けたことを、いはうとするのである。戰國時代はどこまでも武士の世であつた。
 なほ戰闘の方法が一騎打ちの舊態を脱しないで、人々がみな一番槍の功名をめがけるのであるから、劍術や槍術が發達すると共に、一面に於いては大規模の戰争がしば/\行はれるにつれて、戰爭が漸次組織的になり、隊伍を整へ節制を重んずるやうになり、從つて軍ぞなへや懸け引きや、乃至は兵粮小荷駄といふやうな後方勤務の問題が研究せられ、いはゆる軍學が進歩して來る。また前に述べたやうな事情から平地に城郭を構へることが必要となるにつれ、築城術が發達する。それから刀劍工のやうな武器製造の術が進歩し、鐵砲が傳來すると忽ち全國に擴が*るといふのも、みな戰争中心の社會に於ける文化の状態である。かういふ風に武士に特殊の權威のある社會状態とその思想とを假に武士本位主義と名づけることにしよう。これが戰國時代の第二の特色である。
 さてこの割據主義と武士本位主義とは相伴つて行はれてゐるから、その結果として武士の社會と土地とが結びつけられ、從つて主從關係が一定の土地の上に存立するやうになり、武士の生活と思想とに新しい傾向が生じた。源氏時代の關東武士の社會を組みたててゐた主從關係は、恩賞が基礎になつて養はれた情誼によつて成りたつてゐたのであるが、それはどこまでも主從の人的關係のみであつて、一つの國をなしてはゐなかつた。北條時代以後は源氏によつ(387)て建てられた幕府の權力が全國にゆきわたつたため、主從關係が全國に擴がると共に結合が散漫になつたから、その間の感情的要素は薄らいで、恩賞で維がれてゐる單純な利害關係のみが殘り、從つて情誼よりはむしろ權力の強弱が武士を支配した。足利の時代には將軍と諸大名との間に於いてその傾向が一層甚しくなると共に、諸大名と領地との關係が固定しない場合が多いので、大名とその配下の武士との間がらもまた緊密でなく、主從の關係が固定しなかつた。それがために世の中が斷えず動搖してゐたのである。ところが、その勢が極點まで進んでこの戰國時代になると、全國の主權者と諸大名との間には事實上主從關係が全く無くなつたと共に、諸大名がそれ/\の領地を一つの國として有つてゐて、それら諸國の間に國としての闘爭が起り、さうしてそれが領主とその家來として養はれてゐる多くの武士との働きによつて行はれるのであるから、主人は家來の力に依頼し、家來もまた主人の勢威によつて、この闘爭に勝利を占めねばならぬ。そこで主從の間が極めて親密になり、そこに深い情愛が生じ、さうしてそれは多數の武士が主人の居城に集中して生活することや、時代を累ねていはゆる譜代の主從となるに從ひ歴史的感情が加はることやによつて、一層濃厚になるのである。ところが主人の勢力は即ち一定の土地の上に立つてゐる國の勢力であつて、武士の行動は直ちにその國の盛衰興亡に關し、國の盛衰興亡はまた直ちに彼等の生活と運命とを動かすのであるから、多數の武士におのれらの家中、おのれらの國、といふことについて一種の公共的精神が生ずる。さうして闘爭といふことから自然に起る他家他國に對しての敵愾心も、またそれを促進するのである。もつとも、大名の勢力を形づくる根幹はどこまでも主從關係で結合せられた武士であつて、その武士は土地に固着してゐる農民からは遊離してゐる。だから大名の勢力も武士の生活も、それと土地との關係は十分緊密にはなつてゐない。その上、國をなしてゐるとは(388)いふものの、日本全體から見れば地方的勢力に過ぎず、また闘爭の激しい結果、大名の興亡が頻繁であつて、土地からいふと領主とその家來とはしば/\變更せられる。さうして土着の農民は單なる被治者もしくは武士に租税を輸するものとしてのみ取扱はれ、その意味で領主にとつては必要な存在であるために、彼等に保護せられる場合もあるけれども、國の原動力としては認められない。かういふ状態であるから、武士にも農民にも愛國心といふやうなものは發達しない。けれどもともかくも一種の、また或る程度の、團結心が武士の間に生じたことは注意しなければならぬ。
 なほ一つの明白な事實は、戰國時代が資力競爭の世だといふことである。幕府が實權を失つてからは、將軍と諸大名とを結びつけてゐた權力關係が消滅し、すべてが資力によつて支配せられるやうになつたのである。これには二つの面があるので、一つは諸大名の盛衰興亡の激しいことであり、將軍の權威の及ぶ範圍の日々に狹少になつて來たのも、またそのためである。一つは身分の低いものが資力を養ふことによつて勢力を得、主家を仆し舊家を滅ぼして次第に強大となつて來たことであつて、將軍の實權が臣下に移り、次いでまたその家臣に移り、終にその名ばかりの地位をすら失ふに至つたのも、それである。名義上の幕府は或る期間持續せられてゐながら、將軍は漸次儀禮上の地位を有するのみのものとなつて來た、その權力の衰弱の過程はこゝに絮説するにも及ぶまい。最後の將軍義昭は斯波氏の家臣たるに過ぎなかつた織田信長によつてその地位を得たが、またそのためにそれを失つたのである。この状態は領地の大小にかゝはらず、多くの地方の領主とその家臣との間にも見られたことであつて、要するに權勢の有無盛衰は家格や血統で定められず、資力できまるのである。微賤から起つた秀吉が天下の權を握つたのは、それを最も極端な形で實現したものであつて、戰國の世を經過したがために始めてできたことなのである。ところが實力競爭の世は(389)優勝劣敗の行はれる世であり、また實力の大小強弱は、人により場合によつて固定しないもの、斷えず變動するものであるから、その實力の競争で成りたつてゐる世は、固定した秩序が無くなつて、不斷に動搖してゐる。この不斷の動搖といふことが戰國時代の第三の特色である。
 戰國時代の性質はほゞ右に述べた三つで概括することができよう。しかしこれは大體の傾向であつて、その間には幾分かそれと調和しないやうな状態も見えないではない。國々が固まつて來たとはいふものの、商工業とか文藝學術とかいふ文化上の現象は、概ね列國共通であつて、特に僧侶、連歌師、猿樂の役者、などは、いはゆる鉾楯になつてゐる國々の間をもあちこち往來してゐて、その間に障礙が少い。武士に於いても各國を遍歴する武者修行が行はれ、また他國の大名を主人に持つことさへ少なくはなかつたので、尾張浪人や甲州浪人が越後の家來になつたといふ例もある(松隣夜話)。連歌師や僧侶は猿樂や刀鍛冶と同樣な職人であつて、何處へでも需要のある地へゆくのは當然であり、武士とても武藝が一つの職業となれば、報酬の多いものに買はれるのに無理は無からう。なほ武士は主從關係の網細工に編み込まれ、また武士と百姓とは明かに區別せられたとはいふものの、亂波《らつぱ》といふ野ぶしめいたものが存在するところもある(北條五代記)。戰が起れば百姓も飛び出して來て、時には敗け方に對してひきはぎもし、大將の首をとつて恩賞を得ようともする。武士でないものでも、戰亂の斷え間が無い世には、それに乘じて何等かの利益を得ようとするのは自然である。のみならず、既に武士となつた上は百姓との間に身分の違ひが生ずることになつてゐるけれども、百姓とても功名心のあるもの、落ちついて家業に從事してゐられない飛び上りもの、ならずもの、乃至多少の放浪性を有つてゐるものは、武士の從僕となつたり戰場へ出入したりして、それから武士として取り立てら(390)れるものがあり、戰爭の頻りに行はれる時代だけにかういふ機會が多い。それのみでない。殺人、強盗、詐僞、横領、平和の世には大なる罪惡として糾彈せられねばならぬことが、戰亂の世には公然と行はれ、さうしてさういふことをするものが機を得れば武士のなかま入りをもする。戰争といふもの、即ち武士の行爲そのもの、が一面の意味に於いては本來殺人強盗だといつてもよいのであるから、これは當然である。平和の世の罪惡は戰亂の間に於いては、むしろ正當視せられるのである。
 武士が社會組織の中心になつてゐて、最も幅をきかしてはゐるものの、商人の勢力は却つてこの間に加はつて來た。中國四國九州との海上交通の要衝に當つてゐるのみならず、海外との交渉にも重要な地點となつてゐた堺が、武人の制御を受けない獨立都市として發達し、戰國時代に於いて特異の地位を占め、文化的にも旺盛な活動をしたことは、いふまでもなく、博多などの如く小堺ともいふべきところが所々にあつた。國々の城下も商業上の中心となつて、そこで商賣が盛に行はれた。農民が武士を養ふために存在するものとして取扱はれたに反し、商人はむしろ武器や贅澤品の供給者として重寶がられ、經濟上のはたらきをするものとして大切にせられる傾きがあつたらしい。これは或は消費者たる武士と生産者たる農民とが全く分離したため、或は交通の便の少い割據の世の中に武士の需要を充さうとするには、商人が無くてはならぬからであらう、或はまた商人が常に武士に接觸してゐるのと、當時の商人には一種の機略と冒險の氣とを要し、その點で武士と共通な氣風があるのと、戰亂の空氣が彼等に功名心を煽つたのと、これらのいろ/\の事情で商人から武士になるものもあつた。だから一見調子外れに見えるやうなこれらのことも、實はやはり戰國時代に於いて自然に生じた現象である。
(391) なほ特殊の現象として考へられることの一つは、本願寺の勢力である。一向宗の内部に於ける勢力爭ひに絡んで生じた領主に對するその領民の不平が、各地に流行した土一揆の行動にも影響せられて、武力的反抗の態度をとり、北陸一帶の騷亂を現出させたいはゆる一向一揆は、宗教的信仰によつて鼓舞せられた民衆の蜂起が侮るべからざる勢をもつものであることを示したが、その後この宗派の中心たる寺院は、武裝してみづから守ると共に、信徒の武力的行動を指導する風を生じ、叡山の僧兵や、完敵たる法華教徒の一揆や、または武將たる何人かの軍と衝突して、所々に戰闘を起すに至つた。富裕を以て知られた山科の本願寺は燒かれたが、新に建てた石山の本願寺は、時に幾らかの弛張はあつても、概言すると城塞の實を具へ、その有する武力と富とは、後年の信長もそれを討滅することができないほどになつた。南都北嶺とは違つて文化的には何のはたらきも無い本願寺が、かういふ勢力を急速に樹立したところに、武力とそれを支へる富とがすべてを支配する戰國の世の時代相が見えるので、強大なる宗教的武力集團が戰國割據の間に現はれたのである。たゞその武力が特殊の身分を有し主從關係によつて結合せられてゐる武士のはたらきではなく、むしろ民衆的性質をもつものの行動である點に於いて、また或は浮浪者などがそれに參加したらしい點に於いて、一揆の舊態が保持せられてゐることと、その集團の首長が一定の國土に君臨する戰國的領主とは趣を異にするところのあることとに於いて、特異の存在であつた。さうしてまた、それが宗教的信仰によつて維がれてゐる集團ではあるけれども、政治の權力に對立するものとしての宗教の權力を張らうとするものでなかつたところにも、大なる意味があるので、それはたゞ戰國的勢力の變態的なものであつたのである。因みにいふ。所々の僧兵はなほ存在したが、その性質には周圍の情勢につれて次第に幾らかづゝの變化を來したので、これもまた概言するとそれ/\に戰國(392)的勢力の一つとなつてゐたといつてよからう。北嶺が信長に討滅せられたのもそのためである。
 さて、國々の間の戰爭が長く續いてゐる間に次第に兼併が行はれ、小領地を有つてゐる小君主は、滅亡するか、附近の大國の附庸となるか、但しは諸大國の間に介まつてゐるために、勢力平衡の關係上、纔かに存在するを許されるか、に過ぎない状態となつた。地方的勢力がかうして大きく固まつて來ると、競爭の舞臺も廣くなり、今までは交渉の無かつた遠方の國々が互に接觸して、その間に種々の外交關係が生ずるやうになり、さういふ大君主の欲望も大きくなつて、單に地方的競爭に於いて領地を擴めるのでは滿足せず、機會があらば天下に號合しようとする。戰國割據の勢が極まつて統一の氣運の開けて來る契機がこゝにあるのであるが、さすがに全國が全く分裂してしまつたのではなく、古くから歴史的に養はれてゐる日本人としての精神的結合が嚴として存在してゐるのであるから、大なる欲望を有つてゐるものが天下に事をなさうとする場合には、それが生きてはたらいて來る。そこで彼等はおのづから朝廷に思ひを致すことになる。
 應仁文明の亂の後に於けるいはゆる朝廷の式微は、今さらいふまでもない。しかし武士でも民衆でも少しく知識のあるものに於いては、名譽の源泉として皇室を仰景することと、薄れはしてゐるがなほ古代文化の遺風の存するところとして朝廷を尊重することとは、それがために衰へはせず、見やうによつては皇室に對する親しみの情が特殊の形に於いて却つて深められたとも考へられる。さうしてその根本には、皇室が昔ながらの皇室であるといふ嚴然たる事實がある。名譽の源泉であるといふのは、將軍が將軍としての地位をもつには、その職とそれに相當する官位とを朝廷から敍任せられなくてはならず、また暮府の事務に與るものも地方の大名も、何等かの官名と何ほどかの位階とを、(393)特殊の方式によつて、朝廷から與へられることを名誉としそれを欲望したことに於いて、示されてゐる。地方の大名に對してかゝる敍任の行はれたのは、朝廷の儀禮または皇居の修理などに要する費用を献じた、といふやうな場合の賞賜としてであることが多く、さうしてそれには朝臣の何人かが何等かの縁故をたよつての内諭によることもあつたし、或は敍任に對する謝禮の意味に於いて財貨を獻ずることさへもあつたが、さういふ場合にしてもその敍任が尋常ならざる名譽として感ぜられたからである。また古代文化の遺風を仰ぐことは、前篇に記した肖柏の逸話などによつても知られよう。公家貴族は、疲弊しながら、或はかたばかりながら、なは公家としての地位を保ち家々の家格とそれに伴ふ任務とによつて朝廷を形成してゐたので、その點に於いて世間から尊敬せられてゐたことは、これまでと變りは無い。朝廷式微の長い時期を經ても、なほ古來の儀禮またはそれに關する知識と一種の氣分とが、ともかくも後に傳へられたのは、そのためである。ところが、皇室の窮乏の状態は心あるものの注意をひいて、遠國の二三の大名や近國ではさまでの勢力の無い小領主などまでも、即位の儀禮などの行はれた時の祝賀の意を表するために何ほどかの財貨を、または季節のをり/\に何等かの物品を、獻上するやうなこともあると共に、皇室もまたそれらを嘉納せられることによつて、地位の低いものに親しみの情をもたれるやうになつた。上杉輝虎が禁裡の修理に奉仕せんことを内願し、織田信長がみづから事を督してそれに當つたのも、かゝる情勢の下に於いてである。式微の極に達した時が回復の氣運の新しく開かれる機會となつたのである。多くの方面に於いて傳統的權威が失はれて來た時代に於いて、どこまでもそれの持續せられたのは、皇室であり、それに伴ふ古代文化の遺風であつた。
 ところが、かういふ情勢はおのづから現實の事態の上にも或るはたらきをするやうになつた。信長が勅命を請うて(394)石山の本願寺と講和したことのあるのがそれである。將軍が兵を用ゐるに當つて綸旨を請うた例はあるが、それは將軍の地位にゐるもののことであつて、信長の場合とは違ふ。信長は京に權力をうちたてて朝廷に重きをなしてはゐたが、強力なる一大名に過ぎなかつたからである。然るに敢てかゝることを奏請したのは、本願寺といふ特殊の勢力に對するには勅命によるのが效果のある方法であつたからであらう。幕府にもし權威のある時代であつたならば、かゝる場合にはその命をかりたでもあらうが、當時なほ將軍の名をもつてゐた義昭は、地方に流寓してゐて殆ど世間からその存在を忘れられてゐたし、信長みづからは、その權力を得た事情からいふと將軍義昭に代つたものであり、また世間からは將軍と呼ばれたこともあつたらしいほどでありながら(大村由己の播州征伐記、惟任退治記、柴田退治記)、足利氏の後を承けて將軍の地位につかうとはしなかつたので、そこからもかういふ態度をとつたのであらう。信長が將軍の名を求めたならば、それはできることであつたらうに、それを求めなかつたのは、將軍の名に權威が無くなつてゐた時代だからと推せられる。さうして將軍義昭の官位が三位の權大納言であるのに、信長が二位の右大臣にまで上つたところにも、一つの意味があるので、それはたゞ朝廷に於ける儀禮上の地位ではあるものの、かゝる敍任の行はれたのは、やはり將軍の輕視せられたことを示すものであらう。ところが、上にいつた勅命の效果は、戰國の擾亂を治平して天下を統一することに於いて最もよく現はれる。秀吉が幕府の首長としての將軍とならず、朝廷の官職としての關白の名を以て全國に臨んだことによつて、事實の上にそれが示された。秀吉に從屬した有力の大名の幾人かが公卿に列するやうになつたのも、このことと關係がある。この敍任は信長の時からの慣例が更に推進せられたものといへよう。これは、秀吉が信長の一僕隷たる最微最賤の地から身を起して朝廷に於ける至貴至高の位に上つた(395)ことと共に、戰國的實力競爭の勢の極まつてそれが一たび終結するに至つた情勢と、皇室の精神的權威が現實に力をもつやうになつた大勢の推移とを、語るものである。天下の統一せられたのは、秀吉の人物事業と、彼をしてそれを成就せしめた上記の戰國的情勢と、人心の漸く戰亂を厭うて、無意識ながらにではあらうが、平和を欲する氣分が機微の間に動いて來たのと、これら幾多の事情のためであつて、約言すると、戰國時代を經過して來たからのことではあるが、日本人が本來一つの國民であつて、皇室がその國民的結合の象徴として存在せられる事實と、それに含まれてゐる國民の皇室に對する歴史的感情とが、隱約の間に大きなはたらきをしたことも、また明かである。かう考へると、天正十六年の聚樂第行幸は、啻に洋々たる太平の象がそれに具現せられたのみならず、全國の有力な諸大名が奉迎參列した點に於いて、四海みな皇室の榮光を仰いだことを示すものである。これは室町または北山の邸の行幸の先蹤に從つて行はれたのではあるが、それらが單に足利將軍の權勢とその古典文化の尊尚とを表象するものであつたとは違つて、現實の國情に於いて重要なる意味をもつものであつた。秀吉の強勢な戰國的武力行動によつてその戰國の擾亂が殆ど終結し、曾ては夢であつた天下の泰平が實現に近づいて來たのであるが、それには國民の胸底に潜んでゐた皇室の精神的權威が大きな力となつたのである。
 けれどもこれは、皇室が政治に關與せられるやうになつたといふことではない。信長が上記の勅命を請うたのは、事態を收拾するためにそれを必要と考へた特殊の事情からであり、他の場合にはすべてその專斷によつて事をなした。秀吉は朝廷の關白となつても、事實は武人の首長であり、またその部下を率ゐて意のまゝに天下に命令したので、その權威は將軍と異なるところが無かつた。この點から見ると、信長も秀吉も自己の權威を固めるために皇室を利用し(396)たのだともいはれようし、朝廷が前例の無い破格の處置をしたのも、彼等の勢力に壓倒せられて已むを得ずその意に從つたのだとも考へられよう。たしかにさういふ一面はあるが、しかしたゞそれだけではない。利用したとするにしても、それは國民が皇室と朝廷とを尊重してゐたからである。また朝廷が破格の處置をしたのも、大勢の趨くところを見てそれを承認したのであつて、平氏滅亡後の皇室が鎌倉幕府を、また持明院統の皇室が足利氏の幕府を承認せられたのと同じであり、さうしてその結果は、おのづから政治上の責任を時の權力者が負ふことになるのである。信長や秀吉の皇室のために行つた最も重要なことは、政治に關してではなくして、或は皇居を造營し或は御料の地を獻じ、また公家貴族の所領を回復もしくは新に與へて、その生活をともかくも安定させ、さうして室町時代から次第に停廢して來た朝儀を行ひ、古典文化の遺風を保持することが、できるやうにした點にある。戰國時代にも纔かに傳へられて來た公家貴族の知識や技能がそれによつて生かされ、現實にはたらきをすることになつて、朝儀が或る程度に復興することができた。後水尾院が年中行事を書かれたのも、それに誘はれてのことであらうか。朝廷は儀禮の府として存在し、皇室は政治の上に超然たるその傳統的地位をどこまでも保たれるのである。さうしてまたそこに古典文化のおもかげも見られるのである。
 しかし上に述べたやうにして成就せられた天下の統一は、どこまでも地方的領主を基礎としたものであつて、諸大名の領地が渾一せられてしまつたのではない。たゞそれが資力の競争によつて動かされず、權力者の意志の下に左右せられるやうになつたのみである。領地を獲得し維持するのは大名自身の力ではなくして權力者の命令である。大名の轉封の行はれたのも、信長や秀吉の部下の將士が大名となつたのも、みなその力である。これがこの時の統一の意(397)味であつて、いはゆる封建制度がそれによつて成立し、政治上の秩序がそれによつて定められたのである。さて政治上の秩序が定められると、社會上の秩序もそれに伴つて立つて來る。しかしこれも、政治組織がいはゆる割據時代に形成せられた大名の領地を基礎とした封建制度であると同じく、戰國時代に養成せられた武士本位武士中心の習慣がそのまゝに繼承せられたものであつて、たゞ資力競争によつてそれが動搖しなくなつただけのことである。要するに前に述べた戰國時代の三つの精神のうちの第一第二のものは依然としてゐて、たゞそれを支配するものが第三の實力競争ではなく、新に生じた政治上の權力がそれに代つたのである。
 
 ところでかういふ時代の文化の状態はどうかといふに、武士の生活と戰争とに必要な事物が、盛に行はれもし進歩もするのは自然である。前に述べたやうに、工藝に於いては武器の製法がます/\鍛錬せられ、その附屬品がいよいよ精巧になるのは勿論のこと、城郭建築の行はれるにつれて、土木工業や建築術の發達したことも明かな事實であり、特にその城郭は公家風の邸宅や寺院とは違つて、堅牢なものとなつた。それの最も發達したものが安土城、大阪城、伏見城、聚樂邸、または二條城、の如き、雄大華麗の致を極めたものであるが、このことは後にいはう。かういふやうに戰國時代に適應する文化はおのづから發逢してゆくのであるが、しかし一方からいふと、戰争は破壞の事業である。人を殺すは勿論のこと、かつて次第に火を放ち物を毀す。勝つために必要な手段とあれば、如何なることをしても憚らないのみならず、殺伐な武士は勢に乘じて必要以上の破壞をすることも珍らしくはない。それに機を得て一揆や亂民の掠奪も行はれる。だから全國が戰場と化し去つたこの時代に、上代の遣物が無くなり、舊くから續いて來た(398)文化が衰微することはいふまでもない。、
 けれども、全國に號令する幕府の權力は無くなつたものの、ともかくも或る時期の間は將軍の地位はあり、さうして何人が實權を握つてゐても、幕府といふものは京畿の狹い範圍にいくらかの勢力を有つてゐるのであるから、それに伴つて舊來の文化は或る程度まで京に存續してゐて、文藝の上でも歌や連歌や能などは盛に行はれてゐる。朝廷でも朝儀などは多く行はれなくなつたものの、上に述べた如く公家貴族によつてそれに關する知識は傳へられ、また歌連歌はいふまでもなく、管絃や古典の學習も絶えたのではない。のみならず、さすがに京であつて舊い傳統が存在するから、荒廢した都も部分的には次第に復興し、種々の工藝技術は、寺院や地方の大名や新興商人などの需用に應ずるためにも、存續し或は繁榮した。金屏風のやうなものも少からず作られてゐたと推考せられる。さうしてそれは信長や秀吉が將軍に代つて權勢を振ふ時に至つて大に利用せられるやうになる。繪畫の如きも後にいふ永徳などの現はれて來る徑路がおのづから作られてゐるのである。また地方を見ると、鎌倉時代室町時代の長い歴史によつて漸次文化上の修養を積んで來た武士は、決して平安朝時代の田舍ものではない。彼等は因襲的に昔から續いて來た文藝を尊重してゐて、京から下る公家貴族や歌人連歌師やを歡待する。彼等はまた武士たる職業の上から、神佛に對する信仰を失はず、その領地内の神社佛閣に相當の保護を加へ、僧徒をも優遇した。さうしてその僧徒は宗教的職務の外に於いて、學問の師匠として何處の田舍でも重んぜられ、特に諸大名の直接の保護の下にあるやうな大寺院に於いては、神僧ならば漢學の知識を武士に與へ、教僧ならば古文學の趣味を弘める上に於いて少からぬ力があつたであらう。足利學校も依然として學徒を四方から吸收してゐる。さうして武士には、戰闘の方法が進歩して兵學的研究が必要にな(399)り、行政や外交のためにも知識を要することが多くなつて來たので、自然に學問の大切なことが感ぜられ、或は彼等の社會があまりに血腥く、あまりに落ちつきが無く、その日常生活があまりに殺風景で、あまりに無趣味であるので、それを緩和し調節するものの必要を思ひ、また或は浮沈榮枯の定めなき世、明日の命の知られぬ身を感ずることが切實であり、死を以て情に殉じ義を立てねばならぬ場合の少なくない彼等が、その情懷を抒べ苦衷を訴へることのできる文筆の技を重んずる事情もあるので、文事はこの間に於いて却つて一般に奨勵せられた。
 これは事實を見てもわかる。諸大名の制詞や訓誡には概ね學問歌道を奨勵してゐ、文武二道とか左文右武とかいふやうな語がしば/\この時代のものに見えてゐる。連歌の會は到る處の陣營に行はれ、女などでも非常の場合には、拙いながらに、辭世の歌を詠むものが多く、北條氏康には武藏野紀行があり、毛利元就には詠草が遺つてゐ、謙信や信玄は詩を作り、文選を開板させた直江兼續の如き篤志者が越後の田舍にもあつた。信玄家法に引用せられた漢籍の少なくないことも注意せられよう。小田原の文化については相州兵亂記などにも記事があるが、慶長見聞集の著者三浦淨心などが出たのを見てもそれが知られる。この時代に作られた戰爭の記録などは僧侶の作もあるが、武人の手になつたものもあるらしい。現に大内義隆記などは僧徒の作らしいが、相州兵亂記や今川記や別所長治記の如きは明かに武人の筆である。大内義隆や島津忠昌が、或は公家の風尚を學び、或は禅僧を招いて宋學を講じさせたことなどは、いふまでもない。織田の家來が山科言繼の歌の弟子になり(言繼卿記)、陣中で古歌を誦し(信長記)、名護屋の陣中で或る士がしき物が無いといふ謎に臆月夜といふ額を打つた(備前老人物語)、といふ話などを聞いても、文事についての武士の教養が察せられる。落城の場合に七珍萬寶は惜むに足らず榮雅自筆の古今集を取り忘れたといつて氣にか(400)けたといふ話(鹿島治亂記)などは、固より一種の物ずきを示すに過ぎないのではあるけれども、武人が文事を重んじたことの一證ではある。もつとも、それによつて多數の武士がどれだけ文筆の力を養ひ得たかと云ふと、それはさしたることではなかつたに違ひない。このことはなほ後にいはう。文事のみならず田舍武士が鞠の稽古をさへしてゐる(言繼卿記、備前老人物語)。武人の演藝ともいふべき能や舞が地方武人の間にもてはやされ、茶の湯が流行したことはいふまでもない。武士が公家風を學ぶことは、一面に於いて非難の的ともなつてゐて、大内義隆の敗亡の原因がそれであるやうにいはれ、また上杉定正の如きは武士の歌連歌に耽るをすら難じてゐる(山鹿語類卷二二)。北條早雲も、歌は奨勵しながら、笛尺八の友は惡友としてゐる。これは遊藝に耽溺して武事を忘れるのを非としたので、人によつては、例へば加藤清正などのやうに、歌連歌をも喜ばなかつたが、ともかくも武人の間にかゝる嗜好のあつたことは事實である。さすれば、諸大名の城下はそれ/\にかういふ文藝の地方的中心ともなつてゐたであらう。
 戰闘を職業としてゐる武士の間に廣く文藝が傳はつてゐたのみならず、商業の發達と共に平和的な市府が繁昌して、そこに文藝の中心ができ、從つて商賈の間にもそれが重んぜられるやうになつたらしい。堺で書籍の印刷が行はれ、またそこが連歌や茶の湯の本場のやうになり、能にもこゝに一根據を据ゑたものがあり、隆達の小歌もこゝから起つたことはいふまでもなく、工藝技術もまたこゝに榮えたことと推測せられる。この意味に於いては堺が京と同じほどな地位にあり、或はそれに代つたやうな觀がある。地方的都市も小規模ながらそれ/\の地方の文化に深い關係があつたらしく、中國西國などの海上交通が行はれる地方では、特にさうである。たゞ戰國割據の時代であるから、大名の城下がおのづから商業の中心ともなつてゐたところが多く、東では小田原、西では山口などが、その最も名高いと(401)ころである。しかし、これは富の發達につれてのことであつて、その富が商賈の手に握られ、從つて平民の力によつて文藝の維持せられたことが、この時代になつて新しく生じた現象といはねばならぬ。早く宗長手記にも坊の津の商人が京で連歌を興行したことが見えてゐる。
 けれども、商業の發達に伴ふ文化上の現象は、舊いものが保持せられるばかりでなく、新しいものが興されたのであり、文藝のやうな精神的方面ばかりのことではなく、物質的側面にも大なる影響があつたので、それは主として海外貿易の興隆したためである。明との貿易は昔から斷え間なく行はれて、奢侈品の供給をそこからうけてゐただけに、この時代になつて急に新しい事態の生じた樣子も無いが、それでも三絃のやうに、後になつて我が國の民間樂に大きなはたらきをした新樂器の輸入があつた。(三絃は通常琉球から傳へられたことになつてゐるが、或はそれとは別にシナから直接に堺に入つて來たといふ徑路があつたのではなからうかとも考へられる。三味線といふ名は琉球の蛇皮線の轉訛ではなく三線の音から來てゐる。)けれども忽然として海上に現はれたポルトガル人の來坑は、この外國貿易の趨勢に一大轉化を與へたものであつて、今までは見も聞きもしなかつた珍貸奇物が、それによつて次第に入つて來た。さういふものを取扱ふ商人は利を得ることも多かつたに違ひなく、堺などはそれがためにます/\繁榮を加へたであらうし、全體から見るとこれによつて我が國の文化に新しい要素が加へられたのである。ところがその要素は、少くとも種々な贅澤品を供給する點に於いて、恰も戰國時代の人心の一面に投合したところがある。
 昔から一般に産業が著しい發達をしなかつた上に、長い間の戰亂に惱まされたのであるから、地方の武士は概していふと生活程度が低かつたに違ひない。後の人はそれを回顧して質素といふが、實は意識して行つた儉約ではなく、(402)全體の文化が發達しなかつたので、しかたなくそれに滿足してゐたに過ぎない。けれども華やかな生活を望むは普通の人情であつて、手が屆けばそれを取らうとするに躊躇はしない。もつとも一方には、慣れた質素の生活におのづからなる安らかさを求めて、生活程度の向上を喜ばないものがあることは勿論であるが、武士のすべてがさうではない。のみならず、戰爭といふ荒つぽい殘忍な血腥いしごとをし、籠城にしても野戰にしても場合によつては極度に肉體の困苦を味はさせられ、その上に何時死ぬかわからぬといふ境遇に置かれる武士は、その自然の傾向として利那的な官能的の快樂を求め、從つて刺戟的な華やかさを悦ぶ傾きがある。これが武士には自然な心理的また生理的の要求であつて、質素でゐられず禁欲的生活をしてゐられないのが、武士の常態である。特に社會の秩序が無くなつて全體の空氣が動搖してゐる世の中では、思ひきつた放縱な行をすることもできて、ます/\この傾向を増長させる。だから一方で古典的文藝などを尊重しても、そればかりで滿足するのではなく、或はそれを官能的悦樂と結びつけ、或はその外に別な刺戟と快樂とを求める。前篇にも述べておいた如く、武將ともいはれるものの生活は概ねそれであつて、この時代になつても、外國貿易などで多く利益を得てゐる西國方面の諸大名は、豪奢な生活をしてゐたらしい。大友義鎭や大内義隆が豪華をつくした有樣は大友記や大内義隆記に詳しく見えてゐる。ところが兼併の結果として大名の領地が大きくなり、また金銀などが多く出て財貨が潤澤になると、この傾向はいよ/\甚しくなるので、一般の地方武士はともかくも、いくらかでも地位のあるもの、または都會生活をするものは、決していはゆる質素な状態に滿足してはゐなかつたらう。
 武士ばかりでない。如何なる物騷がしい世でも、如何に混雜した社會でも、何かの場合には何かの遊樂が無くては(403)ならぬ。古い文化が衰頽して舊い遊樂の方法が無くなれば、それに代る新しいものが要る。世が固定してゐて因襲的趣味が權威を有つてゐる時には顧られなかつたものも、かゝる紛亂の時代には容易に行はれ、それがまたおのづから一般の要求にかなつて急速にひろがる。この時代になつて京に民間の盆踊が流行を極めたのは、その一例であつて、老若貴賤群集してそれを見物し喝采したのである。朝儀の廢絶と共に公事として行はれた貴族的の葵祭などがすたれて、町人の盆踊が京の年中行事になつたのは、この時代の特色を示すものである。文學に於いて古風の連歌の外に宗鑑や守武の俳諧體が起つたのも、一つの意味に於いては同じ風潮に屬する。この踊は金銀綾羅の目のさめるやうな行裝をして、幾十人の男女が町々を練りあるき踊りまはつたので、物まねめいたことをも演じたらしい(二水記、言繼卿記)。精練せられたところの無い代りに、思ひきつて華美なものであつたらしく、それは民間の遊樂の特色を示すものであると同時に、戰亂時代の嗜好の現はれでもある。平和な時代に尚ばれるやうな、優雅な趣味は、落ちつきの無い、物騷がしい、荒つぽい、強烈な刺戟でなければ感應しない、戰亂の世に生を送るものには適合しない。さうしてそれは前に述べた武士の嗜好とも一致する。だから、これは必しも京のみに限つたことではなかつたらう。
 安土城の裝飾に先づ形を成し、いはゆる桃山式となつて大に世に現はれた藝術上の新傾向は、かゝる戰國時代の趣味が、世の治平に歸すると共に、一層華美に一層雄大になり、或る點に於いては一種の精練を經たものである。桃山城や聚樂邸の建築及びその裝飾はそこに豪放な秀吉の性格の影響も全く無いとはいはれなからうが、彼を俟つて初めて興つたものではない。特に多數の諸大名を會合するために要する廣い室には、狩野永徳などの絢爛たる色彩と雄渾な筆致とがふさはしいのを見ると、裝飾畫などには建築そのものから生ずる自然の要求もあつたであらう。また柱や(404)天井を漆ぬりにするやうなことも、一つは城郭建築の必要から來た點もあるのではなからうか。屋根に瓦を用ゐたり重苦しい唐破風を作つたり、その他すべての點に於いて全體の結構が堅牢で外觀が莊重であるのも、城郭建築としては自然のことであらう。同じく華麗ではあるものの、金閣などの繊細な輕快な結構とは?かに趣が違つて、どこまでも戰國武人の間から生まれたらしい特色がある。信長の安土城の天守の装飾畫に、釋迦十大弟子や成道説法または天人影向の圖などがあるのを見ると、その意匠は佛寺から來た分子があるに違ひないが、柱繪や天井繪を寺院ならぬ建築に用ゐるのは、これより前には例の無かつたことであらうと思はれるから、これは技術の點に於いても直接もしくは間接に佛寺建築の影響を受けてゐるのであらう。たゞ邸宅または城郭としては不似合な宗教的題材がそのまゝに用ゐられてゐるのは、かういふ裝飾の法が世俗的建築に初めて適用せられたものであることを暗示してゐるのではなからうか。もつとも題材は宗教的なものであつても信仰のために用ゐられたのではなく、單なる裝飾として見られたところに意味がある。さすればこれは、柱を朱や金で塗るやうなことと同樣、この時代になつてから行はれたので、そこに堅牢莊重を欲すると同時に華美を喜ぶ戰國武士の風尚が、現はれてゐると考へても大なる無理は無からう。壁を總金の張付にすることは金閣に淵源があるが、その後も世俗的建築には用ゐられなかつたであらう。呂洞賓だの許由だの、または商山四皓だの竹林七賢だのと、隱者のすまひか禅院か、ともかくも瀟洒たる、もしくは淡泊な、建築の裝飾にふさはしく、また水墨畫に適する題材を、はでやかな金地の張付や屏風や襖に畫くのも甚だ不調和ではあるが、これもまたその題材の思想的内容には關係が無く、たゞ畫面の裝飾的な效果を求めたのみである。要するに思ひきつて大きく、思ひきつて強烈で、また思ひきつて豪華なところに、戰國的精神が現はれてゐる。桃山城や聚樂邸の建築(405)裝飾はかゝる宗教的隱者的題材から轉じて花鳥畫などを主としたものであつたらしいので、それは禅院の裡に行はれてゐた宋元畫と世間に廣く喜ばれてゐた土佐繪との二つの技巧を結合し、さうしてそれを大規模な極めてはでやかなものにしたものである。桃山建築の裝飾的彫刻などは頗る煩縟なもので、かういふ豪華な精神とは調和しないやうに見えるが、それとても色彩の燦爛たるところにこの時代の精神が見える。
 服裝なども同樣で、天正九年に信長が諸大名を從へ馬揃へをして叡覽に供した時、信長は紅梅に白のだんだらの小袖をきて、その上に袖口に金で覆輪をした蜀紅の錦の小袖を重ね、紅緞子の肩衣袴をつけ、腰に造り花をさし、諸大名もわれ劣らじときらびやかな裝束をしたといひ(信長記卷一四)、秀吉が伏見から參内をした時、鳥を背縫にし襟を摺箔にした濶袖の羽織を着たといふ話にも、服裝についての武將の趣味が見られる。いはゆる桃山藝術は畢竟この趣味の現はれたものに外ならぬので、婦人服のはでやかな大きい模樣も、やはり同じ精神から出てゐる。秀吉の時代から一般に遊樂の風が盛になり、而もそれが野外的公衆的で、また頗る華美の趣のあつたのも、この風潮と關係があらう。子女遊樂の圖といふやうなものもこの時代から多く作られたらしい。またこのころ盛に行はれた茶の湯は、その本質はともかくも、それに用ゐられる器具がシナ畫と同じく高價な骨董品とせられ、天下の名物となると、一つの茶碗にも數千金を投ずるところに、武人の豪奢を喜ぶ風尚が見える。有名な北野の大茶の湯に、秀吉の濶達な氣象と時代の精神とが表現せられたことは、いふまでもない。
 ところが、かういふ華美の生活と遊樂の氣風とに少からぬ關係のあるのが外國貿易であつて、前にも述べた如く輸入品がその材料として用ゐられ、また貿易によつて富を得てゐるものが一層この風尚を盛にしたらしい。珍奇を喜ぶ(406)情と利益を得ようとする欲望とは、ます/\外國貿易の發達を刺戟し、九州の諸大名は外國船を爭つて自己の領土に誘致しようとし、信長も秀吉も貿易の利を認めた。明人はもとよりのこと、毛色の異つたヨウロッパ人も歡迎せられた。九州の大名にキリシタン宗門の信者が生じたのも、一つはポルトガル人との貿易を進めようとする彼等の意圖と關聯したことであつた。しかし宗教の側から見ると、すべての新しいものを喜ぶ邦人が、ポルトガルの東洋經略の進展の跡を追つて入つて來た「珍しい佛法」のこのキリシタン宗門をもてはやすやうになつたのも、自然のことである。特に戰亂などのために人心の動搖してゐる時には、新しい宗教は流行し易いものであるし、流行となれば深き理由なしにそれに趨くものも生じて、それが次第に弘まつて來たのである。或はそこに舊い傳統の破壞せられる戰國的精神も幾らかははたらいたでもあらうか。また或は異風の「佛像」を安置し異風の音樂を奏し、異風の儀禮で異風の祈?をするのも、好奇心を誘ふに力があつたであらう。さういふ異教的空氣の裡に身を置くことに、一種の悦樂も感ぜられたに違ひない。特に大名にとつては、自己の權力と富とによつて異教及びそれに附隨するものを保護し採用するのは、そこに自己の力を示し得たことの誇もある。また一般人にとつては、貧民の救助や病人の治療やがその布教者たるバテレンによつて行はれたことも、この宗門の弘通を助けたであらう。なほ知識人にとつては、バテレンの傳へた異國の知識、特に天文地理や醫術、に興味を有つものがあつて、それもこの新しい南蠻の宗門の流行を助けたらしい。まだ見ぬ世界のことを聞き今まで知らなかつた知識を得れば、それを喜ぶと共にその知識を齎した異國人とその宗門とを尊重するやうにもなるのも、自然である。宗門の學校が諸所に設けられて、そこで神學が講ぜられたことはいふまでもなく、ラテン語も教へられ、その語學のためにはヨウロッパの古典に關する幾らかの知識も與へられたやうで(407)ある。神學のことはともかくもとして、かゝる古典の僅少な知識は日本人の思想に何ほどのはたらきをもしなかつたであらうが、概していふと新知識の歡迎せられたことは、推測せられる。また禮拜堂が多く設けられ、儀禮を行ふための音樂が一とほり演奏せられ、マリヤや十字架上のキリシトの如き畫像や彫像が將來せられたのみならず、その製作の技術も次第に傳へられたので、それが廣く行はれるやうになると、それは單に好奇心をそゝるのみのものではなくなつたであらう。勿論、信者となつた動機はいろ/\であつたに違ひなく、バテレンやイルマンの教化、特にその説教の巧みさ、によつて信者となつたものも少なくなかつたであらうし、如何なる事情からにせよ一度び信者の群に入ると、入つたことによつて信仰の深められて來るものも多かつたであらう。さうなるとそれは「佛法」とは違つた特殊の性質をもつてゐるキリシタン宗門であることが、一般に知られもする。
 このキリシタン宗門の弘まつたことには、一面に於いては、むかし佛教が百濟や隋唐から渡來した場合と類似した状態もあつたが、しかし、布教がロオマのパッパの威令とポルトガル王の特殊の保護との下に組織的に行はれたことと、ゼズス會の戰闘的態度をもつた特殊の氣風と、並にバテレンの徒の熱心努力及び一種の功名心事業欲とが、この弘通に大なるはたらきをしたことは、それとは違つてゐた。昔の佛教が皇室と貴族との歸依によつてその根據を朝廷の所在地に据ゑたのとは反對に、初めから地方の大名と民衆との間にその信者を得たことも、戰國時代に於ける特殊の状態であると共に、當時の對外貿易が地方の大名によつて行はれたためでもあつた。從つて宗門の弘まるにつれて、ポルトガルとの貿易も進み、從つてまた思想上、異國に對する一種の親しみも生じて來たので、終には九州の大名から使節をロオマのパッパの教廳に派遣するに至つた。しかしこの派遣はゼズス會のバテレンの計畫によつて行はれ、(408)その行動も彼等によつて導かれたのであるから、その見聞は殆ど教界のこし寺院のことに限られ、ヱネチヤなどに於いて俗界の事物に接したことはあつても、それはむしろ例外であつたから、南欧文化の世界に少からぬ時日を送り種々の歡迎をうけながら、その文化の性質をも時代の精神をも會得することはできず、畢竟キリシタン宗門の勢力とそれを主宰するパッパの權威とに感嘆しまた壓服せられたのみであり、その他にはたゞ珍奇の世界に於ける珍奇の事物と王侯の豪奢な生活とに驚いたたけであつたらしい。バテレンの計畫の眞意もそこにあつたであらう。サンデの使節對談記がどれだけ使節の眞の感想を傳へたものであるかは明かでないが、使節等が歸朝の後にゼズス會に入つたことから見ても、宗門外のことにはさしたる興趣を覺えなかつたやうである。また一般日本人にとつては、ヨウロッパは何といつても遠隔の地ではあり、交通は極めて不便であり、さうしてそれに關する知識を與へるものは偏狹なるゼズス會のバテレンであつたから、その文化が直接には日本人の日常生活に大なる影響を及ぼすには至らなかつた。
 のみならず、キリシタン宗門がよし弘まつて來たにしても、大觀すれば國俗としての神の崇敬及び佛教の信仰は必しもそれがために動搖せず、特にバテレン及び一部の信者のそれに對する甚しき排撃的態度、神や佛を惡魔と呼んだり神社佛寺を破壞したりするやうな言動は、却つて一般人の反撥を招いた*。神社佛寺の破壞は、戰國武士のともすれば用ゐる暴力的行動でもあり、ゼズス會の戰闘的精神の現はれでもあるが、また個人的の性質にもよることであつて、廣く行はれたことではなく、むしろ少數の例外と見なすべきものではあるが、キリシタン宗門の信仰がその根據になつてゐることは、明かであらう。從つてそれが宗門に對する世人の反感を喚起したのである*。佛者としては少數の僧侶が改宗したことはあつても、その大多數が從來の信仰を維持したことはいふまでもない。さうしてかういふ反對の(409)勢力の強かつたことも、また佛教傳來の時には無かつたことであつて、長い歴史をもつてゐる文化の權威が當時の我が國にはあつたことが、それによつて示されてゐる。さうしてそのバテレンらのやゝもすれば日本の國俗を破壞せんとする言動と、布教に絡まつてゐるやうに解せられもしたポルトガルの東洋經略に關する過去の政治的意圖、長崎が寺領として寄進せられてゐること、そのためにわるくするとゴアやマカオの轍をふむことにならぬとも限らなかつたと今からは考へられるその地の状態、などが秀吉をして禁教の令を發せしむるに至つた。その布令に日本は神國なりといふことが強調せられてゐるのも、意味のあることであつた。戰國割據の時代には地方の大名がその領地内に布教をさせたこと、またはこの宗門が佛教の一派と考へられてゐた時代に名のみの將軍がそれを承認したらしいことは、ともかくもとして、全國に命令すべき政權の把持者が生じた後には、さうしてキリシタン宗門の活動が上記の如く解せられた上は、その把持者がかゝる處置をしたことに十分の理由がある。國家の統一がほゞ成るに至つて、始めて外來の宗教を如何にすべきかが爲政者の思慮に上つたのである。この禁令は徹底的には行はれなかつたが、少くとも一時その布教の勢を弱めた。たゞ奢侈品としての貨物は依然として輸入せられ、貿易はそのために阻害せられなかつた。
 さて、外國人との接觸が實際方面に於いて邦人の海外渡航を促したことは、少なくなかつたので、いはゆる倭寇から引き續いて冒險的に海外へ出かける風習は、ヨウロッパ人に刺戟せられ誘發せられて、一層盛になつた。ポルトガル人から得た知識によつて造船術航海術も發達したので、十六世紀の末期に近づくと日本船とポルトガル及びその他のヨウロッパ船とがシナ海及びその南方で入り亂れて活躍するやうになつた。秀吉の胸に畫かれた明國征服四海併合の計は、もとより彼の個性、彼の閲歴と、時勢によつて激成せられた彼の尋常一樣ならざる事功欲とから、出たもの(410)ではあるが、その背景としてやはりかういふ形勢のあつたことを忘れてはならぬ。さうして秀吉の企ても、かの冒險者流が確實な知識も秩序だつた計畫も無く事を起したのと、大差が無かつたので、畢竟我れから恣に空中に畫きなした幻影を追うて走つたものといふべきである。たゞ一たび決意すると、その實行に當つてはかなり周密な計畫を立てて事に當つたことは、國内の幾多の戰陣の場合と同じであつた。しかし彼の企てが國民的要求から出たものでなかつたことは、倭寇一味の活動が堅實な多數の國民が海外に發展しようとする必要と希望とから生じたものでないのと同樣である。征韓の役に從軍した將士は、武人の習として敵に向つてこそは奮戰勇闘したれ、多くは故國の天を望んで歸ることの一日も早きを願つてゐたので、國民の全體から見ても、海外征服そのことを喜んだものは殆ど無かつたといつてよい。秀吉の薨去と共に遣外軍を撤退するについて、一人の異議の無かつたのでもそれが判る。しかし秀吉も多くの冒險者も、我が力を新しい土地に向つて試るところに大なる愉快があつたので、こゝに活動的な、進取的な、また放膽な、戰國的精神が現はれてはゐる。たゞ秀吉のは大なる事功欲を充たすために過ぎず、またそれが一定の國土に對して企てられ、彼のみによつて行はれたことであるため、功名も事業もその人と共に消え去つたのであるが、個人的に海外に出かけたものは、それによつて物質上の利益を得ようとしたのであるから、それがもし秩序ある平和的事業に向つて進んでゆくならば、到るところに、また何時までも、彼等の活動する場所と機會とがある。けれども倭寇的習癖戰國的氣風と、當時の交通の状態、及び商人にも武器の用意が必要であつた、むしろ武士と商人との區別の無かつた、當時の事情とは、海外渡航をしてなほ冒險的な性質をもたせたのであつた。さうしてその結果は、その渡航者が贅澤品の輸入によつて利益を得たのみであつて、國民の多數の日常生活と國民全體の文化とは、それがため(411)に直接なまた大きい影響を受けるには至らなかつたのである。
 
(412)     第二章 文化の大勢 下
         江戸時代の初期
 
 前章に逮べたやうな形勢の間に、政治上の權力は豐臣氏から徳川氏に移つて來た。秀吉といふ個人の力によつて樹立せられ、固定した根據地も譜代の家來も有たない豐臣民の權力は、事實上幼い秀頼によつて維持せられることができなかつたのであるから、さうしてあの天縱の英雄が死に臨んでの慘澹たる苦衷から考へ出された、頼みになりさうもないことを頼みにして不安心な將來に強ひて安心しようとした、合議組織の中央政府は、初めから永續きのすべきものではなかつたのであるから、さうしてまた力づくで事をしようとする戰國的氣風は一面に於いてなほ存在してはゐるものの、或は平和を望む自然の要求から、或は戰亂に疲れた點から、また或は既に得た地位と領地と勢力とを失ふまいがために、一たび治まつた世を再び戰亂の渦中に投ずるを避けようとする大名の態度から、治平を欲する念が一般に擴がつてゐたのであるから、用心に用心をしながら而も思ひきつて賽を投げた家康の大博奕は、首尾よく成功して、關が原の一戰に世は忽ち徳川氏の手に歸してしまつたのである。勿論かうなるには種々の事情があつたけれども、それはたゞ大勢の推移を促したまでのものである。縱横の機略を胸に藏してゐたらしい黒田如水などが、大言壯語をしながら、九州の一角でむしろ落ちつき拂つて世のなるさまを眺めてゐたのでも、或はまた戰後に諸大名が爭つて徳川氏に阿附したのでも、それが察せられる。
 さて徳川氏の政治は、その將軍といふ名義上の地位が足利氏の後を繼いだものであり、朝廷との關係も、豐臣氏が(413)關白の名により朝廷の最高官職をもつものとして天下に號令したのとは違ひ、再び足利氏の舊に復つて、朝廷の外に幕府を開いたのであるが、これはたゞ名義上の變化に過ぎないので、豐臣氏の權力とても、事實は嚴然たる武家政治であつた。たゞ徳川氏の幕府が京を遠く離れた江戸に置かれたがため、政治上の中心がまた關東に移つて、朝幕の關係が鎌倉時代と同じやうな形になつたことが、秀吉の時とは違ふのみである。秀吉は微賤から起つたので歴史的因縁を有する自己の根據地が無く、朝廷の關白となつたのも、一つはそこに理由があつたらうが、家康はそれとは違つて鞏固な自己の立脚地を有つてゐたから、頼朝の鎌倉を動かなかつたと同樣、江戸に根據を据ゑる必要があつたからであらう。この點に差異はあるが、その政治組織は豐臣時代に成りたつた封建制慶を繼承したものであつて、たゞ大名とその配置とを變改したまでである。更に語を換へていふと、戰國時代の割據主義武士本位主義から成りたつてゐた状態をそのまゝにして、それを動搖させないやうに、幕府の權力で固定させたのである。これは秀吉が諸大名を服屬させた時からの政治の方針であつたが、秀吉はその旺盛な事功欲、飽くまでも進まうとする勇猛心、その豪放な性質に於いて、むしろ戰國的精神の權化であつて、その對外活動もまた、統一した國家を提げて外國に向つたところに、舞臺を大きくした戰國競爭の態度があるといつてもよい。民*間の兵器を没收したり大名の配置に注意したり、内政に於いても決して放漫ではなかつたが、秩序を維持するには、それよりもむしろ、彼自身の偉大なる人格とその威力と、今一つは時勢の趨向とに、任せてゐた傾きがあつた。ところが細心で打算的で組織的頭腦をもつてゐた家康は、その政策の根本をこの方針に定めて、全力を秩序の固定に盡したのである。だから家康は秀吉の事業を繼承してそれを完成させたものといふべきである。戰國時代を經過して始めて秀吉の事業ができたが、その秀吉の事業が無かつたなら(414)ば家康の成功もまたできなかつたに違ひない。長かつた戰國時代の終結して統一の業の成就するまでには、おのづから踏んでゆくべき段階があり、從つて時間がかゝる。さうしてまたそれ/\の段階に適應したはたらきをする人物を要する。恰も好し秀吉と家康とはその人物であつた。或はまた秀吉は朝廷の官職の名によつてその政權を用ゐた點に於いても、その期間が短かつた點に於いても、昔の平家に似たところがあり、その權力を繼承しながら幕府を江戸に設けた點に於いて家康は源氏に比すべきところがあるが、平家は武士から身を起して權力を得たのみであつて、全國の武士を統轄する政治組織を作らず、それを作るのは源氏の事業として殘されたのに、秀吉は戰國時代の騷亂を收拾するために既にそれを遂行しておいたから、家康はおのづからそれを完成する地位に立つたといふ違ひがある。さうしてそれは南北朝時代室町時代以後の長い歴史を經て來たためである。
 家康の上記の態度は當時に於いては已むを得ざるものであつた。大名がそれ/\の領土を有つてゐることも、武士本位の社會組織も、長い間に自然に養はれて來たものであつて、容易に動かすことはできず、さうして諸大名の上に君臨してゐる將軍自身の資力も、また大名のと同じ性質であり同じ由來のあるその領地と武士とが基礎になつてゐる。特に諸大名の間には、一般に平和を望む念が生じて來てはゐるものの、それは彼等が自己の領土とそれによつて有つてゐる勢力とを維持せんがためであり、また戰國的氣風もなほ遺つてゐて、やゝもすれば資力を以て爭はうといふ考が全く取り除けられず、或は世が太平に歸して腓肉の歎をなすものも少なくなく、武士の常として亂を思ふ氣分は決して消滅しないので、何時割據の世が再現せられないとも限らない、といふ時代であるから、將軍自身も諸大名も常にその用意をしなくてはならず、從つてこの政治組織の上に根本的大變革を加へることなどは、初めから思ひもよら(415)ぬことであつた。だから政權を握つたものは、この歌態を基礎としてその上に權力を樹立するほかは無く、さうしてその權力を鞏固にする方法は、たゞこの状態をそのまゝに固定させることである。戰國時代の根本精神であつた實力競争主義を除き去つて、世の中に寸分の動搖を許さない秩序を樹てることである。さうしてかゝる方策によつて徳川氏の權力の固められることが、おのづから戰國の状態の一變して天下が統一せられ從つてそれが泰平になることであつた。秀吉によつて行はれたことが家康によつて固められたのである。
 徳川氏の政治形態は、戰國時代の風習をそのまゝに繼承すると共に、それを逆に適用して戰國的紛亂を防止するやうにした巧みなしくみである。さてその形に現はれたものの第一は、封建制慶であるが、諸大名の幕府に對する權力關係はみな一樣であるものの、徳川氏に對する情誼には、いはゆる譜代と外樣との間に大なる區別があつて、譜代は本來の主從であるのに、外樣はむしろ徳川氏の敵である。だから幕府はその配置に意を用ゐ、また譜代をして外樣を監視させるやうにすると共に、政略的結婚とか妻子を人質として江戸に留置するとかいふやうな戰國的外交術を用ゐ、外樣大名を拘束して事を起すことのできないやうにした。これらのうちには秀吉が既にそれを用ゐたものがあるのみならず、戰國大名がその家來に對して行つたことのあるものもある。武家法度に大名の居城の新造を停止し私に婚姻することを禁じてゐるなども、やはり戰國時代の國主がその勢力を維持するために家來に對して取つた用意であつて(長曾我部元親百箇條、朝倉敏景十七箇條)、徳川氏は廣くそれを天下の諸大名に適用したのであるが、これもまた、かの五百石以上の大船製造を禁じたことと共に、諸大名の活動を拘束する方法である。これらは一國の主權者が國民に向つて取る政策といふよりも、むしろ諸大名を敵として見るところから生じたものであつて、徳川氏の平和政策そ(416)のものに戰國的精神のあることを示すものである。最初の武家法度に「自今以後、國人之外、不可交置他國者事、」とあるのも、また前に述べておいた如く、戰國の世に養はれた思想であるが、それを武家法度の一箇條としたのは、やはりこの戰國的精神を以て社會を固定させようとしたためであらう。「凡因國、其風是異、或以自國之密事、皆他國、或以他國之密事、告自國、佞媚之萌也、」といふのが、どれほど幕府の政策に關係があるか、やゝ不明の點もあつて、寛永の法度にこの條を削つたのは偶然ではなからうが、ともかくも動亂時代の戰國思想によつて却つて動亂を防がうといふ意志だけは、こゝにも認められる。不審のものに宿を貸すなといひ、身元出所のたしかなものに限つて郷中へ移住させてもよいといふ、寛永十四年の法令なども、かの五人組の制度と共に、一種の警察的方法に過ぎないものではあるが、やはり小範圍に於ける同一精神の發現である。大名自身が一方で治平を望みながら、他方では戰國約割據主義をその國政の基礎としてゐる當時に於いては、これは當然のことである。
 第二は、これもまた戰國時代そのまゝの武士本位武士中心の社會組織であるが、この武士は主從關係と世襲的階級制度とによつて緊密に結合せられ秩序づけられてゐる。さうして彼等は將軍及び諸大名の城下に集中してゐるのが原則であつて、その生活は主人から給せられてゐる祖先傳來の知行俸禄によつて維持せられる。この風習は戰國時代から平和の世に移るに從つて、おのづから幾らかの變化があるので、戰國の世の主從關係は、譜代が根本になつてはゐるものの、間斷なき戰闘は武邊ものを要求することも多く、武人もまた戰場に働きを見せる機會が多いので、それがために新しい主人をもち新しい家來を抱へる場合も多く、また譜代の家來とても、概していふと家格が定まつてはゐるものの、働き次第で知行も身分も引き上げられる。ところが戰爭の久しく絶えた平和の世になると、自然にさうい(417)ふことが少なくなつて、主從の關係も家來の家格及びその知行俸禄も次第に固定する傾向が生ずる。徳川の世の初期にはまだ戰國の餘風があつたのと、新しい大名ができまた浪人が多かつたのとのため、新に人を抱へ、また抱へられる場合もあつたが、それでも一方では、大名の家のつぶれることも多いために、それから生じた浪人などは、ありつく場所がないので、社會の裏面に沈淪してゆくものが少なくなかつたらしい。(中村座などの芝居もののうちには饑餓に迫つた浪人があつたといひ傳へられ、乞食に落ちぶれた浪人もあつたといふ。小説の七人比丘尼には浪人の娘が遊女になつた話がある。)さうしてこの主從關係や家格の固定するのが、そのことは自然の趨勢であるけれども、おのづから徳川幕府の固定政策と一致してゐる。また主從關係を生活の基礎としてゐる武士が、社會の中心となつてゐる時勢であるから、武士でない町人でも百姓でもまたは職人でも、雇主と被雇者、主人と僕婢、師匠と弟子、などの間がらは、武士の主從と同樣に見なされ、男のみならず女もさう考へられた。徳川の世の社會の紀綱は主としてそれによつて維持せられたのである。
 社會を固定させようとする徳川幕府にとつては、浪人といふものは大なる障礙である。社會からいふと、整頓しつつある社會組織に編みこまれないあふれものであり、歴史的にいふと、戰國時代の遺物であり、また彼等自身についていふと、その身を立てる機會を得んがためには戰亂を好むものであり、或は平和な窮屈な社會組織に編みこまれるにはあまりに放埒なものであり、權勢に服從するにはあまりに意地張りであつて、一くちにいふと戰國的精神を平和の世に持續してゐるものである。事實からいつても、大阪の役は半ばこの浪人の行動によつて起つたので、社會的眼孔から見れば、この役は徳川氏によつて代表せられてゐる治平的精神が、この意味での戰國的精神を折伏したもので(418)ある。さうして戰後にその浪人どもを赦して、それ/\に主人を求めてありつかせるやうにしたのが、このあふれものどもを社會組織に編みこんでしまはうといふ幕府の巧妙な政策であつた。この後も幕府は浪人に對する吟味と注意とを怠らないと共に、彼等の主人もちになることを希望した樣子がある(寛永十一年七月の法令參照)。もつとも割合に多く大名をつぶしたり、末期の養子を許さず子の無いために大名の家を斷絶させたりしたのは、一方に於いて斷えず浪人を作つてゆくのであつて、こゝに政策の矛盾があるやうであるが、これにはまたおのづから別個の政治的理由があつたので、それもやはり徳川氏の政權を固める必要からのことであつたらしい。が、大名の淘汰も三代將軍ごろでほゞ方がつき、また養子相續の條件も後には緩和せられて、この點から大名の斷絶することも殆ど無くなつた。なほこゝで附言する。治平的精神に反抗する戰國的分子の浪人とは少しく趣が違ふが、かの異樣な風姿をして亂暴をはたらく「かぶきもの」、または後の男だてと稱するものも、また權力と秩序とに反抗するあふれもの的精神を現はしてゐる點に於いて、浪人と共通の點がある。江戸つ子の間に生まれた侠客氣質は、或る意味に於いては、征服者たる三河武士とは反對な、被征服者たる關東ものの風尚を傳へてゐると見なすべき點もあるが、ともかくも幕府の權力的秩序維持主義に對する一種の反抗的態度をもつてゐることは明かである。
 さて武士本位の政治、武士中心の社會、を維持してゆくには、武士の地位と權力とを何處までも保護し、それと平民との間に明かな區別をしなければならぬ。武士の階級を固定したものとして、平民から成り上がることができないやうにする。戰國時代のやうに平民が武功を樹てる機會が無いから、これも自然に馴致せられる状態ではあるが、政治の方針としてもそれが取られる。町人には帶刀を禁ずる(慶安元年二月の令)。武士ならぬものに「いらざる武藝」(419)を心がけることを禁ずる(正保四年六月の猿樂の役者に對する命令)。特に農民に對しては、戰國時代以來の風習を一層徹底させて、それをたゞ武士に生活の資を供する道具としてのみ認めるのであつた。本佐録に「百姓は財の餘らぬやうに不足なきやうに治ること道なり」といひ、「一年の入用作食をつもらせ、その餘を年貢に收むべし、」といつてあるのは、百姓の生産物から彼等の最低度の衣食に必要な部分だけを除けて、その他は全部取り上げよといふので、その取り上げるのが武士の生活の資とするためであることは勿論である。これは固より一種の政治上の見解に過ぎないのであるが、寛永年間にしば/\下された法令を見ると、百姓は雜穀を食つて米を食ふな、布木綿の外は衣るな、酒茶を買つて飲むな、といひ、農民の生活を最低限に据ゑて置かうとし、さうして貢米を澁滯させぬやうに注意してゐる。實際そのとほりに行はれたかどうかは別問題としても、爲政家の用意の少くとも一半はこゝにあつたので、或る程度までそれは實行せられたであらう。家康も「難義にならぬほどにして氣まゝをさせぬが百姓への慈悲なり」といつたと傳へられてゐる。この家康の言の「氣まゝ」といふのは、戰國時代に於けるが如く農民が武士をまねて放恣な行動をしたり一揆を起したりすることらしいが、もしさうならば、この言には治安推持の意味が含まれてゐる。しかしそれにしても、徳川幕府の對農民政策が、農民自身のためを計るものでなかつたことは、同じである。農民を大切にせよとは武士に對しても常に教へられてゐるが、それは主として武士の生活を支へてゆくに必要だからといふ意味である。かういふ時代に於いて政治上社會上に農民の地位が低かつたことは、當然であらう。因みにいふ。徳川幕府は外交上に於いても國民を保護するといふやうな考は無く、日本に來る外國人の犯罪を彼等の長官の裁斷に任せたにかゝはらず、外國に從つてゐる日本人については、それを一切その土地の外國官憲の處置に委ねた。これは國際的(420)交渉の經驗が無く、その意味で國家觀念の發達しなかつた故であるが、一つは何事につけても國家が國民を保護するといふことが考へられてゐなかつたためでもある。
 以上は徳川の政治の二大綱領であるが、概括していふと、その根本の精神は動搖してゐた戰國時代を固めようとすることである。さうしてその固めかたは戰國時代の状態をそのまゝに動かないやうにするのであるから、今まで山風に弄ばれてゐた池水の動搖をぴたりと止めて、急に零度以下の寒さにさらしたやうに、結晶した氷の表面には波の有樣がそのまゝに遺つてゐるのである。たゞ戰國時代はすべてに自由の氣が充ちてゐて、かつて次第に我がまゝのできたのが、この固定政策は一切それを抑壓して、あらゆる事物を動きの取れない窮屈な型のうちにはめてしまはうとするのであるから、少しでも新しいこと變つたことは成りたゝないやうにせられた。寛永の法度に「企新義、結徒黨、成誓約之儀、制禁之事、」とあるのは勿論のこと、すべてに於いて新規新儀を禁じ、舊例先規を重んじ(慶長二十年の禁中並公家中御法度、諸山諸寺の法度、など)、風俗の上ですら、しば/\異樣の行装、いはゆる「かぶき」たる風を禁じ、武士に對しては「がさつならぬ」やうにと訓戒してゐる。これは前に述べた戰國時代の自由な放埒な異樣の風體を好む氣風が一般に遺つてゐるのを見て、それを抑制し、風俗を一定の型にはめようとしたのである。思想の上に於いても同樣で、少し後のことではあるが山鹿素行の罰せられたのも、新義を唱へて人心を動搖させるといふところに一原因があるらしい(このことはなほ後編にいはう)。
 少し樣子は違ふが、幕府の皇室に對する態度も、またかのキリシタン宗門の禁止及びいはゆる鎖國の處置も、畢竟はやはりこの固定政策の發現に過ぎない。皇室は遠い昔から政治には關與せられず、國民的統一の象徴として、また(421)名譽の源泉として、一種の道徳的精神的影響を國民に與へられるのみであつたこと、朝廷は儀禮の府であるところに存在の意味のあつたこと、は既にしば/\述べた。應仁以後のいはゆる朝廷の式微も、この朝儀の頽廢をいふのであるが、信長秀吉は御領を奉つて或る程度それを復興するやうにしたのである。彼等の尊皇の意義も主としてそこにあり、皇室の彼等を嘉賞せられたのもまたこれがためであつた。當時の皇室に政治に關與しようといふ意志が無かつたことはいふまでもなく、事實またさういふことができる時勢でもなかつた。だから信長秀吉よりも一層多く御領を奉り、朝儀の回復を一層便にした徳川氏は、一層尊皇の實を擧げたのであつて、皇室もそれを嘉納せられたことは、後水尾院がその年中行事の卷首に書かせられた一節を見ても到る*。もつとも應仁の亂の前ほどにもならなかつた點に於いて、幾らかの御不滿足があつた御樣子は拜せられるが、それはそれとして、承久や建武の昔を追想せられたのでないことは、明かであらう。秀吉や家康の奉つた御領はよし多くはなかつたにせよ、彼等の行動が國家をぬすみ皇室の直轄せらるべき國土を私したと評すべき筋のものでないことは、勿論である。朝廷の式微は足利幕府が實權を失つて治安の維持ができず、戰亂によつて御領が武士に占領せられたからのことであるから、實權ある政府が成立することによつてその状態が改められたのである。
 徳川氏は皇室が高く俗界の上に在つて政治上の實務に關與せられないやうにしたのであるが、諸大名が皇室に接近することを阻止したのも、またそのためであつた。これは、遠くは承久や建武の變の如き事態が生じないやうにすると共に、近くは信長や秀吉のやうに、皇室の精神的權威を利用し、直接に勅命を標榜して事を起すものの出ることを防遏するには、必要の手段であつて、政權の安固を計る上には已むを得ないことであつたと共に、おのづから直接に(422)政治に關與せられない古來の皇室の地位を一層確寶にすることにもなつたのである。幕末の状態は事實に於いてかゝる憂慮の杞憂でなかつたことを證明してゐる。要するにそれは世の動搖を誘致すべき何等の機會をも作るまいとする固定政策の一つの現はれであつたのである。さうして結果から見れば、それは、江戸時代のやうな專制政治の状態、而も政治上ばかりでなく天體の運行から風雨水旱までの責任を皇帝に負はせる儒教思想が、知識階級の間に存在してゐた時代に於いては、おのづから皇室を安泰にする好方便となつたので、これがために國民はすべての政治上の責任を幕府に負はせると共に、宮廷を塵界遠く離れた雲の上の宮居として仰ぎ視るやうになつたのである。しかしそれがために文化的にも皇室が國民と遠ざかつた地位にゐられるやうになつたのは遺憾であつて、戰國時代に萌芽しはじめた皇室と國民との接觸が却つて薄れて來た。さうしてかういふ状態に於いておのづから養はれた習慣は、國民生活の状態が全く舊時とは違つてゐる明治時代以後にもなほ殘つてゐて、それがために現實の國民生治に適しない一種の固陋頑冥な思想が一部の權力者の間に生じ、皇室に對する國民の眞の愛情の發達を妨げてゐた事實がある。またその宮廷の周圍にあつて朝廷を形成してゐる公卿の輩には、或は衣食の必要から、また或は權力あるものに阿附するのが常であつた昔からの歴史的遺習から、幕府に諂諛して些少の物質的利益を得ようと努めるやうなものもあつたが、それは現實の國民生活にはさしたる交渉の無いことであつて、概していふと、彼等は畢竟一種の別世界の住民たるに過ぎなかつたといつてもよい一面をもつことになつた。たゞその歴史的に保持して來た社會上の高い地位と家々に傳へられてゐるそれ/\の知識技能とは、一般に尊重せられ、幕府も諸大名も知識人も敢てそれを疑はなかつた。
 次にはいはゆる禁教と鎖國との問題である。徳川の幕府は、外國に對してこれまで行はれて來た戰國的または倭寇(423)的態度を一變して、平和的通商を盛にしようとしたので、エスパニヤの商船を浦賀に招致しようとした初めには、その目的のために、秀吉によつて禁ぜられたキリシタン宗門の活動をさへ黙認してゐた。ところが外國賢易をば何處までも發達させようとしながら、慶長十六七年からはキリシタン宗門嚴禁の態度を取つた。それには、秀吉と同じくこの宗門が日本の國俗たる神の崇拜を無視しそれを破壞するやうな行動をした事實に注意したからでもあらうし、僧侶や神道者などが家康に何等かの建言をしたといふ事情もあつたらうし、キリシタン宗門が國土侵略の方便であり先驅であるといふ或る種の情報を得て用心をしなくてはならぬと氣がついたといふ理由もあつたらうし、また或はその教徒に關する何等かの事實を探知した故でもあつたらうが、要するにこの宗門を、幕府の固めようとした政治的秩序を動搖させ、從つてまた日本の治安を攪亂するものと、認めたからには違ひない。この宗門が國土侵略の先驅となるといふ情報は、必しも眞實を傳へたものではないが、しかし全くの誤解のみではないので、幕府の禁教がそれについてどれだけ確かな事實を知つてのことであつたかはともかくもとして、當時のロオマのパッパの政治的權力とポルトガルやエスパニヤの東方經略との關係を考へると、この宗門の布教に幾分の危險性のあることを感じたとしても、それには無理の無い事情もある。かういふ情報は、人に逢へば敵と思つて直ちに身がまへをし、あらゆる人を猜疑の眼を以て見る武士の耳には、甚だ入り易かつたには違ひなく、幕末の武士が黒船來と聞いて直ちに我が國を覬覦するものと思つたのも、これと同じ心理であるが、たゞそれのみのこととして見るわけにはゆくまい。當時のキリシタン宗門と幕末の黒船とは、その間に大きな違ひがある。特にゼズス會のバテレンがオランダ人を海賊として宣傳したことは、彼等とポルトガルの政治的權力との結びつきを思はせるものであつた。幕府の當局者はヨウロッパの政治上の形(424)勢をも植民地爭奪の状態をも解せなかつたであらうが、バテレンが宗門の範圍を超えた問題にも容喙することをば感知したであらう。さうして禁教の令の發せられた後にも國禁を犯して潜入するバテレンの斷えなかつたことや、家光の時になつて島原の亂を起したものが、その動機は何であつたにせよ、この信徒であつたことなどは、この宗門の危險性を事實によつて證明するものの如き感を與へ、それがまた國禁を一層嚴重にする動機となつたであらう。
 かう考へて來ると、徳川幕府の禁教政策の主旨はおのづから明かである。たゞ我が國がポルトガルやエスパニヤの侵略をうけるであらうといふやうなことが、もし幕府の當局者によつて考へられてゐたとするならば、それは風聲鶴唳に驚くものであるが、海外に關する知識が如何に乏しかつたにしても、武力に自信のある彼等はそれほど怯懦ではなかつたに違ひない。しかし恐るゝところは武力でなくして宗門の信仰であつた。一向一揆の經驗は徳川氏も有つてゐた。幕府の當局者の眼には、キリシタン宗門は日本の國家を内部から攪亂しようとするもの國家の敵として映じたであらう。事實バテレンがさういふ明かな意圖をもつてゐたのではないが、幕府をしてさう思はせるやうな行動をしたのではある。さうしてそれは、宗教本位、むしろロオマのパッパの主宰する宗門本位の思想、キリシタン宗門を絶對のものとし、すべての人類はそれを奉ずべきものとする甚だしき偏執の見を、偏執と感ぜずして、もつてゐて、布教のためには國家の權威をも無視したからである。キリシトの教を日本人の間に傳へようとするのは、宗門の立場からは當然であらうし、バテレン等の熱心と艱苦に克つて志を遂げようとする敢爲の勇とには、同情すべきところもあるが、宗門の外から見れば專恣の行であるから、危害のそれに伴ふことを感じた國家は、當然の任務としてその布教を禁じ得る。だからこれは國家と宗教との關係の問題であるので、禁教はそれを解決するものとして行はれたのである。と(425)ころが、その動機が何れにあるにせよ、國家の法として禁教をする以上、それに背くものを罰するのは當然である。法を犯して日本に潜入し日本人の間に布教しようとするのは、啻に違法の行爲であるのみならず、極*言すれば日本に對する反逆だからである*。だからそれを罰するのは決して迫害の語を以て評すべきことではない。大友宗麟やその他の一二の大名などが神社佛閣を破壞したり燒いたりしたのは、政治的權力者たる地位にゐるものが、信者としての宗教的偏執によつて、一般民衆の信仰に加へた侮蔑または壓迫であるが、神佛に對して惡魔よばはりをするやうなキリシタン宗門のバテレンは、それを正當視したであらうし、ヨウロッパに於いていはゆる異教徒または自由思想家に對する甚しき迫害、殘酷な處置、をパッパ及びその徒の行つた幾多の事蹟も、彼等は知つてゐたに違ひないが*、それにもかゝはらず、幕府が國法を犯したものに刑罰を加へたことを宗教に對する迫害と見るのは、上にいつた宗門本位の偏見から來てゐよう。こゝに國家と宗教との關係の問題が上にいつたのとは別の形に於いて現はれて來る。(當時のバテレンの報告や著作には偏見が多く、事の眞相を傳へたものとは見られないことが少なくないから、さういふもののみに本づいて何等かの見解を立てることには危險があることを、注意すべきである。)
 勿論、幕府の行つた刑罰または「轉ばせる」ためにとつた方法は、甚しく殘虐なもの、人をして正視すること能はざらしむるものであつたが、これは一つは信徒の態度が甚しく執拗であり、またバテレン等がいはゆる殉教を力を極めて奨勵したのと、一つは後章にいふやうな戰國時代に於いて敵に對してともすれば用ゐた武士の行動の遺習との故であらう。さうして刑罰が苛烈であればあるだけいはゆる殉教者の讃美も強められるので、そこに宗教上の運動に對する處置の困難さがあり、逆にいへばこの宗門の指導者に特有な行動としての宗教上の闘爭の悲劇がある。我が國に(426)は古來未だ曾て無かつたかういふことが、キリシタン宗門を信ずるものの生じたことによつて始めて起つたのである。幕府は何故にキリシタン宗門の徒が國法に背くことにあれほど執拗であるかを解することができなかつたであらうし、宗徒、特に人類はみなキリシタン宗門に歸すべきものであると信じてゐたバテレン等は、何故に幕府がさばかり苛烈な態度を以ておのれらに臨むかを考へてみることができなかつたであらう。
 なほ世界的見地に立つて考へると、日本でキリシタン宗門といはれたロオマのパッパの權力下にあるカトリック教會は、ヨウロッパでは中世時代から繼承せられた舊精神舊體制の維持者であり、國によつていろ/\の違ひはあるが概していふと、新しく生じた思想と新しく形成せられた國家とによつて現出した、近世的な新精神新體制と對立してゐたものであるが、日本ではそれが新宗教である點に於いて、それと時代的または文化史的に一種のくひ違ひがあると共に、自己の宗門を國家の上に置きまたすべての國家に共通のものとしようとする傳統的精神を抱きつゝ、新に統一せられた國家と直面したところに、國家の禁教政策を誘致した理由の一つがあるといへよう。從つて今日から回想すると、當時の日本がキリシタン宗門に對して取つた禁壓の態度は、ヨウロッパに於ける新精神新體制がカトリック教會に對して行つた反抗とおのづから一脈の通ずるところがあつた、といへないこともない。勿論その動機も方法も目的も全く違つてゐるし、また相互の間に思想上の連絡があつたのでもない。徳川治下の日本がヨウロッパの近代思想に似かよつたものを有つてゐたのでないことは、勿論である。これは日本がすべての方面でヨウロッパとは全く隔離した別世界の存在であり、宗教的にも本來キリスト教の圏外に立つてゐたからのことである。たゞ當時のカトリック教會と對立の地位に立つやうになつたその關係に於いて、外觀上かういふ點のあることが、考へられもするといふ(427)のかみである*。更にまた今日から見ると、幕府が禁教をするについてあのやうな苛烈な方法をぜひとも行はねばならなかつたのか、また禁壓するにしても、それと共に執らるべき他の方策が無かつたかどうか、は問題であつて、例へば識者をヨウロッパに派遣して彼の地の宗教上思想上政治上の實情を親しく觀察させること、それには新に來航しはじめたオランダやイギリスの商舶を利用すること、或は廣く海外への渡航を盛にして、それによつて世界の形勢に關する知識を得ること、なども考へられなくはなかつたであらうから、もしさういふことが行はれたならば、それによつて何等かの適切な方策が講ぜられるやうになつたかも知れぬ。勿*論、今日のカトリック教會を見るやうな目で、それとは?かに違つたところのある當時のキリシタン宗門とそのバテレンの行動とを見ようとするのは、大なる誤であつて、それに對する方策を今日から輕々に考へることはむりであるが、一應は上記の如く思はれもする。しかし幕府の當局者はそれとはむしろ反對の方向にその歩みを進めていつたのである。
 禁教の方針が定められてからも、外國貿易は依然として行はれ、邦人の東南アジア諸國に渡航するものも多かつた。大名や商人がいはゆる朱印船によつて貿易の利を得たのみならず、上に述べたやうにして生じた浪人の輩もまたそれに便乘して海を越え、商人と共に諸國に在住し、いはゆる日本町を形成して種々の活動をした。伊達政宗が通商をルスンやノビスバンなどに對して開かうとし、それと關聯して使節をロオマに派遣したのは、かゝる一般的形勢を背景としてのことと解せられる。ところが幕府はその禁教を徹底させるために、遂にいはゆる鎖國政策をさへ取ることになつた*。それには三代將軍時代の幕府當局者が、家康時代の政治家の意氣とまだ幾分か大やうであつた當時の心もちとを失つて、ひたすらに守成的になつて來たこと、西國人とは違つて東國育ちの彼等には、海外に手を出す習慣が無(428)く、從つて貿易から利益を得た經驗が無く、また世界に關する知識の乏しかつたこと、などの理由もあらうが、ともかくも禁教といふ重要事業のために、海外通商に關する家康以來の政策を抛擲してしまつたのである。幕府が政治的秩序を固定させるためには何ごとをも犠牲にしたことは、これでもわかる。
 なほ幕府のこの政策を鎖國と稱することには問題がある。幕府の主要な目的が、外人の渡來を止めるよりは、むしろ邦人の海外渡航を禁ずるにあつたことは、寛永十年と十三年と、一令は一令より嚴に反覆意を致して仔細に制定した法令の上からも明かであつて、ポルトガル人來航の禁は島原の亂後(寛永十六年)に至つて發せられた比較的輕いものである。幕府は外國貿易杜絶の方針を定めその除外例としてオランダ人シナ人などのみに特許を與へたといふよりも、たゞ禁教といふ特殊の目的のためにポルトガル人の來航のみを禁止したといふ方が適切である。後になつて、海外通商禁止の大方針がこの時に立てられたやうに考へられたのは、外國に對する思想の變化したためである。事實からいつても、當時の世界の大勢は西洋諸國の商船を盛に東洋に派遣させることはできなかつたので、エスパニヤ船の來航は家康が切に求めたにもかゝはらず永續しなかつたし、イギリス船もオランダ人との競争に敵せずして來なくなつてゐる。ポルトガル人の東洋貿易さへも全體から見れば既に衰運に向つてゐる。だから明船及び安南東蒲塞暹羅などの商船は勿論、蘭船も「御忠節」の報賞として依然來航を許されてゐる以上、ポルトガル船の禁止せられたのは、海外通商の大勢からいへばさしたる變動ではなく、またかういふ状態を鎖國といふのも適切でない。さうして、當時の貿易は要するに奢侈品の輸入が主であつて、我が國産を外國に輸出するのではなかつたから、その利益は我よりもむしろ彼にあり、我が國では商人が利益を得るに止まつてゐたのであるから、この禁止は、我が國の一般の産業の上(429)にも、國家經濟の上にも直接には大した影響は無かつたに違ひない。もつとも外國貿易が盛に行はれるやうになれば、自然に國産も輸出せられるやうになり、從つて産業の發達をも誘つたではあらうが、これは當時の状態ではなかつた。それよりも?かに重大な損失は、海外渡航の禁によつて邦人の意氣を銷沈させ、精神を萎縮させ、また廣い世界の事物に關する直接の見聞の道を斷ち、或はまた浪人などの海外に於ける活動の舞臺を閉ぢ、さうしてその結果、後年ヨウロッパ人が東洋に向つて新しく進出して來る時に至つて、海上の權を全く彼等の手に委ねてしまはねばならぬやうにさせたことである。鎖國といふ語を用ゐるならばその眞の意味はこゝにあるので、それは窓を鎖して外から來るものを防いだよりも、むしろ門を閉ぢて内から出るものをとめた點に、その重要さがある。しかし文化の點に於いては、この二つが相倚り相俟つてその發達を妨げたことが考へられる。キリシタン宗門のバテレンが、着手した幾らかの學問的事業、例へば日本語の語法の考察の如きものも、日本人がそれを利用して新研究を起すことができなかつた。のみならず、これから後の邦人がヨウロッパの學問文藝に接する機會が無くなつたのも、この政策を徹底させるために案出せられた諸種の規制のためであり、日本の學問文藝を刺戟するものがシナの書物のみとなつて、知識人の間に於ける昔からのシナ崇拜の風習が改められず、その思惟の方式と事物の取扱ひかたとが概してシナ風を脱却しないのも、そこに大きな原因がある。勿論、ポルトガル船の來坑が禁止せられなかつたにしても、それが偏狹な思想をもつてゐるキリシタン宗門のバテレンの配下にある限りは、このことについて日本人に大きな寄與をすることはできなかつたらうが、それでも宗門と關係の無い文物の幾らかがそれによつて傳へられたであらうし、また日本人の海外渡航が盛に行はれたならば、ポルトガル人などの妨害を排して新教國との接觸も生じ、そこから新しい文物を取入れる機會が(430)作られるやうになつていつたであらう。さういふ道の塞がれたところに日本の不幸があつた。幕府の當局者はロオマのパッパの主宰するキリシタン宗門の外にはヨウロッパに宗教は無く、その宗教に伴ふものの外には學問も文藝も無い、と思つてゐたやうであつて、それは世界の情勢を究めようとしない當局者の淺慮の致すところであつたが、キリシタン宗門の布教者の宣傳によつて誤られたのでもある。始めて日本に傳來したキリシトの教の宣傳者が主としてかのゼズス會の徒であり、後に入つて來てそれと抗爭し互に嫉視してゐたフランシスコやドミニコの教派とても、同じくパッパの下に屬し同じ性質を有するものであつたことが、我が國に大なる累をなしたのである。要するにこの時ポルトガル人の來航を禁じたのはさしたることではなかつたが、邦人の海外渡航を阻止したのは、日本の文化の發達にとつても大きな損失であり、さうしてまた世界の情勢の變化に應じて新しい對外政策を行はうとする態度を後までも取らなかつたところに、今日、から見ると、幕府の過誤があつたのである。しかし鎖國の状態であつたがために特異な日本文化が江戸時代に形成せられた、といふ一面のあることも見のがしがたい。このことについては次篇で考へるであらう。
 
 さて、世はかゝる徳川氏の幕府の下に平和になつた。平和にはなつたが、全體の社會組織が戰國時代のまゝであるから、一般の文化にも急激な變化は無く、たゞ固定した社會、平和の状態、に應ずる新運動が、徐々にその間から現はれて來るに過ぎない。政治上に於いて徳川氏の權力の全く固まり幕府政治の整頓した寛永時代までは、文化の上に於いてもまた概して戰國時代の引き續ぎであつたといつてよからう。諸大名はおの/\その領地に於いて萬一の場合の準備をしなければならぬ。武具の用意を缺かしてはならぬ。城郭も堅固にして置く必要がある。從つてこれと同じ(431)事情から發生した戰國時代の工藝は、やはり同じやうに需要がある。武士は依然として城下に集中してゐるから、それから生ずる經濟組織にも變化は無い。學問や文藝も戰國武士の間に行はれてゐたとほゞ同じ程度に行はれてゐる。身分の低い武士の急に大名になつたものが多く、そのために新しい武家貴族ができても、それはもはや室町時代初期の成り上りものとは樣子が變つてゐる。彼等もまた概して學問の上に一と通りの素養はあつたので、木下長嘯はいふまでもなく、豐鑑の著者竹中重門があり、また淺野幸長などの如く惺窩の門人となつたものがあるのでも、それが推せられる。が、それと共に彼等少數のものが特別に文字あるものとせられてゐたといふことによつて、一般には文字の知識の少かつた樣子がわかる。文筆の權もまだ概して僧侶の手から脱しないので、幕府の文事秘書官が主として崇傳であり顧問が天海であるのみならず、家康の企てた書物の出版や校正に從事したものもやはり五山僧である。獨立の儒者としての道を開いた惺窩も禅僧の緇衣を脱いだものであり、道春もまた叢林の間から出て來た。勿論、惺窩が緇衣を脱ぎ道春が出家をせず、また石川丈山が一度び佛門に歸して後まもなくそこを去つたことに、時勢の變化は見えるが、彼等の儒學そのものが禅僧の學統を承けたものであることはいふまでもない。後に考へるやうに通俗文學の作者も僧侶、少くとも武士の佛門に歸したものが多く、連歌師もやはり遁世者の衣鉢を傳へてゐる。藝術も概していふと桃山式の繼續であつて、寺院にもそれが用ゐられ、繪畫には土佐や狩野の系統さへそのまゝに存在してゐる。能がなほ一般に賞翫せられたことは、勸進能があり遊女などが能を興行し(慶長見聞集など)、操にも能を摸したもののあつたことで察せられる。幸若舞が武家の間に好まれたことはいふまでもあるまい。
 しかしその間におのづから新傾向は生じつゝある。その第一は、平和の續くにつれて、戰國的の豪放な精神、濶達(432)な氣象、が漸次銷磨し去り、その代りにこせ/\した風尚が徐々に現はれて來るのみならず、幕府の固定政策の直接の影響を受ける方面では、一層それが甚しかつたので、すべてが型にはまつた窮屈な傾向を帶びるやうになつたことである。永徳や山樂と探幽とを比較してみてもこのことはわかる。日光廟の建築などは最もよくそれを示すものであつて、華麗を極めてはゐるが雄大の氣はなく、堅牢でもあり贅澤でもあるが堂塔の配置にも構造や裝飾にも濶達なところが無い。これには城郭建築の影響もありまた土地の狹い故もあるが、その狹い谿谷の地を撰んだことが、それに如何なる宗教上または政治上の意義があつたかは別問題として、既に精神の萎縮した明證ではなからうか*。寛永十三年のその祭禮が、三十年前の慶長十年に行はれた豐國神社の大祭の、花やかに豪壯にまた大規模に行はれ、特にそれが平民的であつて京の市民が盡く熱狂して踊りつ舞ひつしたのとは違つて、甚だ嚴肅で且つ貴族的官僚的であつたのも、また同一傾向の現はれたものであらう。
 その上に徳川幕府の爲政者は、家康によつて代表せられてゐる如きその質實な三河武士の氣風を承けてゐる點から、またその固定政策の上から、さうしてまた後になつては生活程度の向上によつて一定の俸禄に不足を感じて來た旗下の武士の家計紊亂を防止する必要から、一種の(儒教思想とおのづから相通ずるところもある)功利的な實用主義をその政治の上に行はうとして、文華な傾向を抑へようとした。だから、幕府の施設が外觀上甚だぢみで無趣味で、むしろ殺風景で、あつたのは自然の勢でもあらう。武士の服裝などを見ても、信長や秀吉の時代の華やかな面影は、少くとも表てだつた場合には、次第に無くなつて來たではないか。もつとも武士の全體から見れば、一方に於いて長い戰國時代の生活程度の低い、困苦艱難を事ともしない、習慣が維持せられ、またそれを尚ぶ傾向もあつたことは勿論(433)であつて、家康などのぢみな考も畢竟それを繼承したものではあるが、前にも述べた如く、戰國時代の他の一面には放縱な自由な豪快な氣風があつて、秀吉はむしろそれを代表してゐたのに、徳川氏の態度は前の方を奨めて彼の方を抑へようといふ方針であつて、それがおのづから政治上の固定政策に伴つてゐたのである。
 その第二は、商業の發達とそれに伴ふ商人の勢力の増加とである。商業は戰國時代から既に盛になつて來てはゐたが、世の平和になつたのと、社會が固定して經濟活動が秩序だち、生産者と消費者とが全く區別せられたのと、中央と地方との間に經濟上の連絡を要するやうになつたために、その活動の範圍が廣くなつたのと、一般に生活程度が高まつたのと、貨幣が多く行はれて金融が圓滿になつたのと、これらの種々の事情から、徳川の世になつては急速にそれが發達したので、大阪が政治上の力を失ふと共に商業都市として新に勢力を得、堺に代つてそれよりも大なる活動をするやうになつて來たのは、その明證である。しかし、武士本位の社會に商人の勢力を得るのは、その實、武士本位の社會であることが商業の發達した一つの理由とはなつてゐるけれども、社會組織そのものからいふと一種の矛盾であり、また商業の進歩はます/\物質的文化の發達を促がし、生活程度の昂進を誘ふものであるから、そこに徳川氏の實用政策との矛盾も生ずる。
 その第三は、今までに無かつた新しい分子が文化の上に加はつて、それが平和の時勢に投合したことである。新來の三絃が民謠の伴奏樂器となり、また淨瑠璃に結合し、それによつて新しい民間樂が起り、操と歌舞伎との民間藝術が進歩したことは、その最も目だつた一例である。キリシタン宗門の儀禮に用ゐられたヨウロッバの音樂もあつたが、これは一般には弘まらなかつた。たゞ繪畫は世俗的題材をも取扱ふことのできるものであるため、油繪の技巧がいく(434)らか世に傳へられた。さうしてこれは、趣味の上からは、濃厚な色彩を加へられた寫實的な風俗畫を喜んだ當時の人に愛好せらるべきものであり、西洋畫の摸作としては、異國情調を漂はせて邦人に喜ばれたに違ひなく、從つて屏風繪などとして賞翫せられたであらう。摸作ではないがいはゆる南蠻人や南蠻船を描いたものの少なくないことは、それを示すものである。しかしそれには技巧に於いて土佐繪的分子が混じてゐるやうに見えるから、その反對に何等かの影響を主なる系統を土佐繪から引いてゐる浮世繪などの上に及ぼさなかつたともいはれまい。けれどもそれは何時のまにか消え去つてゆくほどのことであつたらしい。
 さて操や歌舞伎の新藝術の發達は、當時一般に盛になつて來た遊樂の風と密接の關係がある。概していふと、平和の世に於いて遊樂の機關の發達するのは自然の傾向であるが、特にこの時代に於いては「馬上少年過、世平白髪多、殘  脹天所赦、不樂亦如何、」(伊達政宗)の感慨もあつて、ます/\それを強めた。政宗の眞意如何は別問題として、明けても暮れても身方を勝たせよう、敵を破らう、一番槍の功名を擧げよう、と太刀打ちものの吟味、兵法謀略の詮議、にあらん限りの力を注いだものが、その力の用ゐどころが無くなつた新しい太平の世には、それを別の方面に向けねばならず、さうして太平の世ながら社會組織は依然として戰國のまゝであり、武士はどこまでも武士として生活しなければならぬ世に於いては、彼等は新しい方面に新しい事業を起して、そこに新しい活動をするわけにはゆかないから、それがどこかに遊樂の天地を開いて官能的の快樂を求め、それに向つて有り餘る精力を注ぎ盡さうとするのは、自然の成り行きである。さうして彼等の多數が、概して武術の外にはさしたる修養の無いものであるため、武人の地位にあつても企て得る正當の事業に手をつけるだけの能力が無いこと、また武士には自然の傾向として放縱な快(435)樂を欲求する風が戰國時代からあつたこと、並に商業が發逢して奢侈品の供給が潤澤になつたことも、その趨勢を助ける。かの操や歌舞伎の新しい演藝は實にこの氣風に投合したものであるから、それが京にも江戸にも到る處にもてはやされたのはむりではない。法令の力でそれを制しようとしてもできることではなかつた。女歌舞伎が禁ぜられると若衆歌舞伎が起る。若衆歌舞伎が止められると野郎歌舞伎が生ずる。操は斷えず新しい淨瑠璃、新しい説經節、を迎へてます/\繁昌する。實用主義の道學先生が如何にむつかしい顔をしてみても、それを抑へることはできない。それのみでない。吉原といひ、新吉原といひ、六條といひ、島原といひ、いはゆる遊里の繁榮は徳川の世になつて急速に加はつて來たらしく、「一寸先は闇、命は露のま、明日をも知らぬ浮世なるに、たゞおせおせ、」とて、わざくれ橋を渡りゆくうかれ男が多かつた。大名さへも遊女を妻にしたものがあるといふ(當代記)。その日常の生活が無趣味で殺風景であるだけ、遊樂の境をこの生活以外の生活、社會以外の社會、に求めたのも怪しむに足らぬ。一種の實用主義と粗野なる戰國的武士生活の遺習とが、眞の精練せられた趣味をその日常生活に養成させないで、却つてかういふ横みちに彼等を誘ひ入れるやうになつたのである。
 或はかういふことも考へられる。戰國の世を經て來た武士には新しい平和の状態はその氣分に適合しないところがあつた。あけくれ戰爭に從事して來たものには平和の状態が不思議にさへ感ぜられたであらう。こゝから徳川の世の初期に於ける種々の外面的内面的葛藤が生じた。不思議な世を彼等の氣分の上で正常と思はれる戰國の状態に引きもどさうとしたのが、浪人や「かぶきもの」や男だての行動であり、或は大阪の役であつた。適合しない世に強ひて自己を適合させようとしたのが、遊蕩な生活であつた。もつとも新演藝や遊里は武士ばかりのために繁昌したのではな(436)く、商人の力も大きかつたことはいふまでもない。ついでにいふ。遊女は昔から斷えたことが無く、特に京では戰國時代にも足利の世から引き續いて多かつたに違ひないが、それが六條や後の島原のやうに一定の場所に於いて一定の制度の下に行はれたのは、やはり平和の時代になつて社會全體が秩序立つて來てからのことではあるまいか。江戸の吉原のやうに、新に政府の特許を得て開かれたものはいふまでもない。
 
 戰爭を本務として戰爭の外に心得のない武士が、その戰争の無くなつた世の中に於いて、用ゐどころの無くなつた力を横みちに向けてゆくのは、自然の勢であるが、それが長く續けばおのづから本務には遠ざかつてゆく。大阪陣に於いてすら早く既に武士の氣風はゆるんでゐたらしく、三河物語の著者は激しい嘲罵をそれに浴せかけてゐる。もつともこれは、何時の世にもある昔氣質の老人が今の世にあきたらぬ不平の言として、幾分の割引をして聞く必要はあらうが、それに一面の眞理の含まれてゐることは疑ひがなからう。この役は政治上に於いてこそ重大の意味があるが、戰争としては、戰國時代に生ひ立つて幾度か生死の間をきりぬけて來た古武士の眼には、兒戯ともまゝごととも映じたであらう。それから二十餘年の後の島原の役に至つては、將士の武事に疎かつたといふ話が後までも傳はつてゐる(常山紀談)。實戰の經驗のあるものの少なくなつてゐた時代であるのに、四十餘年の太平に慣れては、さうなるのが自然ではあるまいか。勿論、古老から武邊の物語は斷えず聞かされてゐたらう。劍道槍術弓鐵砲の修業も一ととほりは行はれてゐたであらう。家のをしへとしても社會の風尚としても、一種の武士氣質が養成せられ砥礪せられないことは無かつたらう。けれども日常の生活が戰爭と縁遠くなつてゐる時、戰争によつて養はれて來た武士的精神が弱(437)められるのはいふまでもない。或は戰争といふ外部からの刺戟によつて緊張してゐた武士の氣風が、その刺戟の無くなつた世に弛緩するのは、當然である。おのれみづから閲歴して來たことでも、時が經てぼそのをりの昂奮した感情は遠い世の夢として仄かに想ひ浮かべられるに過ぎないのが常である。況してみづから體驗したことの無い戰場のはたらきや戰國の世の心がまへなどは、如何にそれを古老から聞かされたとて、切實に胸に響き心に銘して我が情生活の基調がそれによつて定まるに至らないのは、怪しむに足らぬ。
 その上、その武道の訓練も概して家庭と私の師範と各自の心がけとに任せてあつて、公の制度としては行はれず、世襲的階級制度が次第に固定して來て、自己の力量で自己の地位を作つてゆくことができなくなつた當時に於いて、訓練が行き屆かず自身に勵みも起らないのは、自然の勢である。のみならず、戰闘的精神の根柢には、自我を大にしようといふ欲望と一種の奔放な情熱とがあるのに、外部に現はれる秩序を重んずる幕府の固定政策、また太平の世の氣風は、それを抑制しようといふのであるから、「肩衣にて目をつかせてありく」(三河物語)ものが多くなると共に、眞の武士的精神は年々に銷沈してゆくのである。さうして日々に盛になつて來るのは、なすべき事業が無くして衣食だけはできる遊民には必ず伴つてゐる遊惰の習ひと享樂的氣風とである。要するに、戰争の無い世に於いて戰國時代の習慣をそのまゝに保持してゐる杜會組織は、社會の中心である武士そのものの生活を不健全に導き武士的精神を失はせてゆく根本の原因である。さうしてこゝに徳川時代の社會組織の自家矛盾がある。
 それからまた、武士の俸禄は一定してゐるのに、平和のつゞくと共に生活程度は斷えず高まつてゆくから、彼等の家計は漸次窮乏を告げて來る。幕府直屬の將士は都會的生活をしてゐるだけにそれが特に著しく、三代將軍の時すで(438)に家計困難に陷つたものが多く、幕府はその救濟法に苦しんだといふ。それがために領地を失くしたもの(堀田上野介)さへある。大名の經濟も次第に苦しくなつてゆく。さうして金融の權を握つてゐる商人がそれと共にます/\勢力を得て來る。武士本位の世に世を動かす資力を町人が有つてゐるのは、矛盾であらう。また武士が困窮すれば自然に農民に對する徴求を酷にする。が、農民の疲弊はそれによつて養はれる武士の困窮を一層甚しくするものであつて、こゝにもまた武士本位主義の自家矛盾が生ずる。
 そればかりでない。封建制度にもまた矛盾が伴つてゐる。大名を拘束して活動させないやうにするのが幕府の治安策であるのは、その結果は、一旦事あつて彼等のはたらきを要する日に當り、却つて彼等を束縛することになる。島原の亂の時、既にその弊が現はれたので、幕府はその前には、諸大名に對して如何なる事變があつても兵を國外に動かすなと命令してあつたのを、戰後に至つて改めねばならなかつた(寛永十五年五月の法令)。戰爭の場合に於いても、動もすれば征討軍の間に統一を缺くやうなことがあつたらしく見えるが、それも諸大名がおの/\その手兵を有つてゐたからである。また幕府の内治策からいへば、大名の貧窮なのがむしろその望むところである。參覲交代制も結果から見ると大名を衰弱させることになる(本來の主旨は必しもさうではなかつたらうが)。時々國役を課するに至つては、固よりである。ところが大名の貧窮は即ち全國の貧窮で、いひかへると幕府政治の根柢が薄弱であるといふことになる。これは諸大名を敵と見なければならぬ戰國的思想から來た幕府の態度と、全國の政府として大名に臨むといふ幕府の地位との、矛盾した二精神がこの封建制度に含まれてゐるからである。
 徳川政治の二大綱領である封建の政治制度と武士本位の社會組織とは、かういふ根本的自家矛盾を有つてゐるので(439)ある。さうして皇室を高く俗界の上に置いて國民との接觸を妨げるのも、外國民との交通を甚しく制限するのも、國家に於ける皇室の性質と人類の自然の状態とに矛盾する不自然の制度である。だから何時かは内部に潜んでゐるこの矛盾が、矛盾として明かに表面に現はれる時が來なくてはならぬ。内政に於いては寛文元禄時代に既にそれが規はれて來て、種々の改革策、彌縫策、糊塗策、が論議せられ實行せられた。けれども年を經てその彌縫や糊塗がその效果を失ふと共に、海の外から斷えずうちよせて來る干波萬波は漸次にこの幕政の根本を動かすので、それによつてこの矛盾が次第に暴露せられ、幕府は遂にそれがために崩壞してしまふのである。それまでには二百餘年の長い月日があるけれども、その矛盾は幕政そのものが初めから有つて生まれたものなのである。
 けれども、徳川の時代は、我が國民生活の發達の徑路に於いて、一度びはぜひとも經過しなければならなかつた重要な段階であつたので、封建制度も武士本位主義も、國民文化の歴史から見ると、そのために大なる貢獻をしたものであることは、いふまでもない。それは、長い間の戰亂が徳川氏のこの制度によつて鎭靜せられたばかりでなく、かくして秩序の固定した社會に於いて始めて全體としての國民の資力が養はれ、古くからの文化上の種々の要素が融合統一せられ、さうして活氣のある、また世界に於いて異色のある、日本の國民文化が創造せられたからである。勿論それには上に述べた如き矛盾をもつてゐる制度によつて種々の制約をうけたところが多く、文化そのものの性質にそのことが現はれてゐるが、さういふ性質の文化を創造したのが、制約をうけながらそれに屈服せず却つてそれを利用して、その間から新しい生活を展開して來た日本人の旺盛な意氣を示すものである。さうしてそれは寛文元禄の時代から大に現はれるのではあるが、しかしその勢は既に戰國時代から徳川の世の初めにかけて徐々に馴致せられて來て(440)ゐる。
 
 戰國時代から徳川の時代へかけての文化上の特色は、第一に、これより前には個々に分立してゐた諸要素が、本來の固有のものを中心とし基調として、融合せられる傾向を生じて來たことである。それは藝術に於いて最もよく現はれてゐるので、禅僧の傳へた宋元畫の技巧は國民藝術たる大和繪に融合せられて狩野永徳や山樂などの作となつたことが、その一例である。東山時代の狩野元信は既にその端緒を開いたものであつて、有名な清涼寺縁起繪卷の如きシナ畫の筆致で土佐繪まがひの繪卷物を作り、同時代の作者でその姻戚でもある土佐光信も、また或る點に於いてシナ畫の樣式を應用した形跡があるが、彼等の作にはかういふものでも、一つの畫面に於いて兩つの要素がなほ互に遊離してゐる樣子が見え、元信の如きはその本色はどこまでもシナ畫の模作であつた。混合してはゐるが融和はしてゐない。ところが永徳などになると、それが渾然たる融和の域に逢した。これには個人的資質の致すところもあつたらうが、當時の需要に應じて大規模な殿舍の裝飾畫などを描くには、因襲的な技巧を墨守することができず、また全體としての調和が無くてはならぬからでもある。さうしてその題材を主として日本の自然界の風物にとり、從つて狩野派の技巧を局部的に用ゐながらその基調は大和繪に置かれてゐるところに、色彩を重んずる裝飾畫としての特色がある。ところがこの大和繪化の傾向は狩野派の手になつた風俗畫としての遊樂の圖の如きものにも現はれてゐるが、これは主として題材のためであり、從つてその畫風が浮世繪に移つてゆく。それと共に、大和繪に一轉化を與へたものでありながら幾らかのシナ畫的要素をも取入れた新畫風が起るやうになつて、岩佐勝以のしごとの一つもそこにあり、宗(441)達に至つて別に特異の風趣を示して來る。或はまた建築物に於いて、わびを主とする茶室の樣式と禅院の間から出て來て室町時代以來の邸宅に用ゐられた書院作りとが一種の調和を見せてゐるところのある、いはゆる桂離宮や修學院離宮の築造せられたのも、性質の違つたものの融合せられた一例と見なされよう。本來無關係のものも長く接觸してゐると、その間におのづから一致點が見出され、時の經つに從つてそれが融合して來るのは自然の傾向ではあるが、戰國の混亂時代に於いて人心が自由になつて因襲的緊縛が解かれた氣味のあるのと、新しく外國から入つて來る有力のものが無いのと、また次に述べるやうに一般文化が民衆的になり、從つてすべてが實生活と緊密に接觸して來たのと、これらの事情がその趨勢を助けて、かういふ現象を生んだのであらう。
 特色の第二は、民衆の文化が創造せられるやうになつたことである。これは前々から漸次馴致せられて來たことではあるが、社會上政治上の活動の中心が民間に移り、下級の民が起つて上級のものを仆し、新しい家が榮えて古い家が亡びた戰國の世に於いて、それが著しく現はれ、この戰國を承け繼いだ徳川の時代、特に世が平和になつて商業などの發達して來た社會に於いて、その傾向が一層加はつたのである。文藝に於いて宗鑑や守武によつて唱へられた民衆的文學が起り、歌舞伎や操の民衆的演藝が盛になり、印刷術が發達するやうになると、文學上の著作はもとよりのこと、その插畫としての繪畫も世に普く流布せられるやうになつてゆくことなど、何れもその徴證である。昔の文化は公家貴族によつて發達したものであり、足利の盛時にはその公家貴族に代つた武家貴族が文化の一つの中心であつたが、二つともに勢力の衰へた戰國の世になつては、文化が民間に弘まり、さうしてそれが徳川の時代に傳へられた。しかしこの時代では、前代からの文化が民間に弘まつたのみではなくして、民衆みづからがその間から新しい文化を(442)作り出すやうになつたのであり、さうしてその平民文化が武士にも貴族にも及んでゆくところに特色がある。三絃樂でも歌舞伎でもまたは俳諧でも物語草子の文學でも、或は浮世繪でも、すべての生きた文藝、前代の文藝から發達しまたそれを要素として取り入れながら民衆によつて作り出された新しい文藝、が貴族にも賞翫せられるやうになるのである。現に慶長の初には宮廷に於いてすら歌舞伎や操などが演奏せられ、將軍やその世嗣もまたそれを觀て喜んだ。後に宮廷や幕府でそれらを遠ざけたのは、或は徳川氏の政策の故であり、或はかの儒教風な政治道徳の見地から行はれたことであつて、趣味の上の問題ではない。大名などは勿論歌舞伎も操も見た。さうして浮世繪とか俳諧とかの新藝術は、貴族たる大名もまた平民と同じくそれを愛好したので、現にその作品は大名の家に遺存し、或は武家貴族にその作者があつた。また工藝などに於いても、將軍家なり大名なりのみがそれを保護する位置にあつたのでなく、富裕の商賈などもその發達に大なる貢獻をしてゐる。だから、文藝に於いては社會上の階級的區別が存在しなくなつたのである。さうしてそれはまた一般の文化に於いても同樣である。
 第三は、文化が地方に普及したことであつて、これもまた地方に政治の中心ができた戰國時代の状態と、それを繼承した徳川の封建制度とに伴ふ現象である。勿論、京なり大阪なりまたは江戸なりの大都會が特に優越の地位を占めてはゐるが、大名、特に大きい大名、の城下は概ねそれ/\の地方的文化の中心となつてゐて、交通が便利になつたのと、參覲交代の制が行はれたのと、經濟的に全國が結合せられてゐたのとで、地方的都會の文化もさして大都會に劣らないやうになつたのである。さうしてその都會文化も、武家の中心の江戸、商業の中心の大阪、また古代文化の傳統をもつてゐて文學や工藝の上にはおのづから優越の地位を占めてゐる京都が、それ/\に特殊の風格を具へ特殊(443)の色調を有つてゐて、昔のやうにあらゆるものが中央政府の、所在地に集中せられてゐないのが、この時代になつて生じた新現象であつて、やはり文化の中央集權が崩れたことを示すものである。もつとも文藝などに於いても、作者が名を成すのは主として大都會の檜舞臺に上つてからのことであるけれども、その出身地は地方であるものがあり、その愛好者は廣く全國にゆきわたつてゐる。
 第四は、寺院が昔からの文化上の地位を失つたことである。所々の大寺院は平安朝の貴族文化が衰微した後、そのあとを承けて文化の主なる中心となつた觀があり、室町時代まではともかくもその地位を維持して來たが、戰國時代を經て徳川の世になると、さういふ状態が見えなくなつた。この間に昔からの所領なども減少したのであらう。さうして世が平和になつても徳川幕府の與へもしくは公認した所領では、昔の如き勢力を回復することはできない。これは、文化が廣く世に弘まりまたそれが民衆化してゆく時勢にも、また宗教そのものの勢力が減退してゆく思想上の趨向にも、適合する。秀吉の大佛建立には特殊の理由があり、徳川氏の寛永寺や輪王寺も、宗教的動機から建てられたものではなくして、政治的意味が重きをなしてゐると共に、この寺もその僧侶も文化の上には何ほどのはたらきをもすることができなかつた。さうして一般には、寺の建立そのことすらも多くは行はれず、建築にしても、昔權力を得たものが何よりも先づ寺を建てたのとは違つて、この時代には城郭や邸宅が主であつた。たゞ民衆の力によつて建てられた本願寺などが特殊の例であり、その他にも寺院の再建や修補は世が平和となるに從つて所々に行はれ、中には桃山城や聚樂邸の建築物の一部を移したものもある。けれども大觀すると、建築とそれに伴ふ裝飾藝術とは、城郭及びそれに附隨する邸宅とを中心として發達したのである。徳川氏の一統以後に於いては勿論である。
(444) 以上はこの時代の文化の一般的觀察であつて、概していふと、前代から繼承せられた文化の諸要素が、國民生活の状態の變化につれまたそれに應じて、かういふ形で融合して來たのであるが、この時代に新しく海外から輸入せられたものも、ほゞ同じやうな過程をとつて來た。三絃が入つてもすぐに民謠的の小唄やまたは民衆演藝としての淨瑠璃に結びついて世に弘まる。朝鮮役の副産物である陶業なども地方的の工業となる。同じく朝鮮から傳へられた活字印刷の術は、特殊の學者もしくは知識人の要求に應ずる漢文の書物の版行に多く利用せられたが、それのみではなく、國文の書物にも適用せられた。これには或はキリシタン宗門の布教者によつて傳へられたヨウロッパ風の活字印刷の術の刺戟もあつたであらうか。
 しかしこの時代になつても、かういふ新しい趨勢から遊離してゐるものが無いではない。古い文化の遺物は概してそれである。さうしてそれは特殊の遊戯または儀禮として特殊の社會に特殊の状態で保存せられ繼承せられてゐる。例へば平安朝の貴族文化の所産である雅樂または大和繪の如き、また例へば鎌倉時代から盛になつた連歌、室町時代に形成せられた能や宋元畫の如きがそれであつて、これは朝廷や寺院やまたは幕府や大名の特殊の保護の下に存續してゐる。狩野家の繼承者が幕府の繪所に入り、連歌が殆ど柳營の儀禮となり、能がいはゆる武家の式樂として取扱はれることになるのである。大和繪や宋元畫の技巧が新しい繪畫で生かされ、連歌が俳諧となり、能や狂言が操や歌舞伎に取入れられたやうに、從來の藝術が新しいものの要素となることによつてそのうちに不朽の生命を有つてゐる傍に於いて、もとの形のまゝで遺存してゐるのである。けれども、公家貴族とその家々に傳へられてゐるそれ/\の知識技能とが尊重せられてゐる如く、かゝる遺物もまた、國民の日常生活とは遠く隔つてゐる別世界の存在として、何(445)人からも尊重せられるのみならず、例へば堂上の歌學が民間の歌人と或る連絡を有するやうに、單なる遣物ではない側面もある。戰亂時代の遺習として公家貴族と民間人との接觸が、特に文學の上に於いて、行はれるのである。なほ書物として傳へられてゐる平安朝の文學上の著作が新しい文藝に斷えず題材を提供しまたは何等かの刺戟を與へてゐることは、いふまでもない。さうしてそこに前代から繼承せられてゐる古典尊崇の氣風があり、日本の文化が長い歴史を有つてゐることの徴證がある。
 けれども、遠く時を隔てた古代の文化を回想することがこの時代の國民生活に大なるはたらきをする、といふやうなことは無かつた。武士が政治上の制度と社會組織との中心となり、戰亂のやみまが無かつた長い時代を經過して來たこのころの國民生活は、その制度と組織と、並に武士に特有な生活を基調としておのづから形成せられた一般的風尚とに制限せられて、人としての自由を失つてゐたのであるから、さういふ制約の無かつた時代の平安朝の文學に親しむことによつて、その制約に對する不滿の情が刺戟せられ、失はれた人生の自由を回復せんとする欲求がそこから生じさうなものであつた、と今人は考へるかも知れぬが、當時にあつては知識人の間にもさういふ欲求は起らなかつた。世は平和になつても知識人みづからが武士的氣風をもつてゐるために、かゝる制約を制約とは感じないのと、古典文學を文字の上に於ける知識の對象とするのみで、それに含まれてゐる精神と思想とを見ようとしないのと、古典の尊崇は戰亂時代から繼承せられたことであつて、それについては新奇の感が無いのと、これらの事情のためであらう。また根本の思想には大なる違ひがあるけれども人の生活に制約を加へる點に於いては同じである、儒教の學が次第に彼等の間に行はれて來て、學問としてそれが重んぜられたことも、それを助けたであらう。さうしてキリシタン(446)宗門がもし禁ぜられなかつたとしても、この點に於いては儒教の學と同じやうなはたらきをしたであらう。なほこのことについては、歴史的に養はれて來た日本人の風習として、思想の形に於いて政治的もしくは社倉的制約に反抗しそれと闘はうとはせず、その制約の下にありながら日常の生活そのものに於いて新しい境地を開き、それによつて自己の欲求を遂げようとする傾向のあることをも、知らねばならぬ。(このことについては次篇以下に於いて詳しく考へるであらう。)戰國末から徳川の世の初期にかけて流行した放縱な遊樂の風はその一發現であつて、それによつて上記の制約がおのづから緩和せられたところもあると共に、その間から文藝の新しい傾向も生じ、それがまた同じはたらきをするのである。
 
(447)     第三章 文學の概觀 上
            武士と文學、文學の舊典型
 
 戰國の世は武士の活動の絶頂に達した時代、武士のはたらく戰争があらゆる社曾と人心とを支配した時代である。だからこの時代に時勢粧を描き時代の精神を表現した文學があるとすれば、それは武士の内生活を寫し出したものであり、從つて戰争とそれに開聯して生ずる人生の波瀾と葛藤とを主題としたものでなくてはならぬ。ところが實際の状態を見ると、さういふものは殆ど存在しないといつてよい。勿論、軍記の類は多く作られた。けれどもそれはたゞ戰亂の外面的經過を概括的に敍述したのみのものである。今日でいへば新聞の記事とほゞ同性質のものであつて、時として幾らかの道徳的評語が加へられ、または型にはまつた感傷的の文字の插まれることはあるものの、概していふと單純な事實の記録に過ぎない。文學として取扱はるべき資格の無いものであることは、いふまでもあるまい。その作の動機は、主として戰亂の事實もしくはその間に起つた奇事異聞を傳へようとする點にあるので、いはゆる武道の吟味に役立たせようとするのか、または一種の道徳思想から來る教誡の意味か、何れかが幾分かそれに加はつてゐればゐるのみである。
 徳川の世になつてから現はれたものには、時のたつに從つて漸次この教誡的色彩が濃くなつて來たらしいが、それは一つは、世が平和になつて武人が武を忘れる虞のあるのを見て、漸く薄れてゆかうとする古武士の面影を眼前に復活させ、それによつて新しい時代のものを教育しようとするのと、−つは、幾度びか生死の巷をきりぬけて來た老武(448)者が、今泰平の時に逢うて、却つてありし昔を偲ぶの情に堪へないために、過ぎ去つた我が身の經歴をも、親しく見もし聞きもしたそのころの先輩や同輩のはたらきをも、語り傳へて、變りゆく世の鑑にしようとするのと、また一つは、この時代から儒教的道徳思想が文字ある人々の間に次第に盛になつて來たのに刺戟せられたのとの、ためであらう。老人雜話とか武功雜記とかいふものの現はれたのは、主として第一の理由からであり、かの大久保彦左衛門が九代のお主樣に對する祖先以來の御忠節を記して、我が子孫に三河武士の精神を傳へようとした三河物語などは、第二の主意から來た最も生彩のある文字である。さうして小瀬甫庵の太閤記や、著者の知られない豐内記(秀頼事記)の如く儒教的觀念が明白に現はれてゐるものは、いふまでもなく第三の部分に屬する。その他、或は滅び去つた舊主の家の事蹟を後の代に傳へようといふ、特殊の感慨の籠つてゐるらしい三浦淨心の慶長見聞集の或る部分(北條五代記)や、竹中重門の豐鑑のやうなもの、或は幾分か英雄崇拜の思想が加はつてゐる信長記や川角太閤記の類もあり、または佛者の手に成つたらしい大内義隆記などのやうに、盛者必衰の倏忽なるためしに心の動かされたらしい形跡のあるものもある。或はまた封建の世とて、家々の由來や事蹟やを書き記さうといふ動機から作られたものもあらう。が、何れにしても文學の領分に入りかねるものであることは同樣である。三河物語の如きは素朴な、むしろ幼稚な、筆致に眞率の氣と熱烈な精神とが力強く現はれてゐて、この點に於いては殆ど天下一品の武士の著作である。が、要するにそれだけのものである。遺徳的批評や教訓を目的としたものは、その目的が達せらるればよいのであるから、武士の思想や情懷を寫すことに重きが置かれないことは、いふまでもない。
 軍記の類が文學でないことは勿論として、何故に武士の生活を寫した文學が現はれなかつたかといふことは、國文(449)學史上の大きな問題である。前にもこのことに言及してはおいたが、斷えまなき戰亂の間に起る幾多の悲劇喜劇が絶好の題目、絶好の材料、を供給してゐるにかゝはらず、それが詩として文學として結晶しなかつたのは、戰國時代だけに特に注目に値する。戰國の世は平家物語や太平記の時代とは違つて、廣い世界の花やかな舞臺に於いて萬人の注目をひく大活劇が行はれない代りに、一國一家の間に於いて深刻な葛藤が到るところに生じてゐる。家康が築山夫人や信康を自殺させたやうに、家を保ち國を保つためには最愛の妻子をも犠牲にしなければならぬ。その家康の家來には宗教的信仰と主人への情誼との衝突に心を惱ましたものもある。また戰國時代一般の習慣として人質のやりとりもあり、それから生ずる悲劇も少なくはない。父を殺した敵の妻妾となつた女もある。かういふことに關して世に傳へられてゐた幾多の物語が、果して事實のまゝであるかどうかは別問題として、ともかくもさう世に傳へられてゐたとすれば、今人の目から見ると、それはみなそれ/\に戯曲の好題材である。當時の人とてもそれを見聞して、武士の苦衷を知り、美人のあはれなる運命に同情し、或は彼等の壯烈な行爲を讃美したではあらう。が、さういふ事實なり感慨なりが文學としては毫も現はれなかつた。この時代になほ新作が試みられてゐたらしい謠曲は勿論、草子物語の類にも、かういふ武人の心情や行爲を主題としたものは殆ど見あたらぬ。
 それのみでない。腕一本の力で天下を取り、なみ/\ならぬ努力と機智と好運とによつて戰國の紛亂を戡定し、微賤の草履取りから身を起し、おのが力一つで全日本の主宰者となつた古今獨歩の英雄兒秀吉のやうな人物、または高麗や明を征服しインドやルスンをも降伏させようとしたその絶大の事功欲、或は聚樂や桃山や大阪の宏壯華美な邸宅や城郭、その間に於ける彼の豪華な生活、またその慘ましい末路、幾多の優れた資質を具へてゐると共に、少からぬ(450)缺點をも有つてゐる人間秀吉の波瀾が多く光彩に富んだ一生が、當時に於いて何の文學をも生まなかつたではないか。榮華を極めたといはれる昔の藤原氏や平家よりも、幾層か強烈な色彩をつけ幾層か高調な旋律を奏し、さうしてまたそれとは比べものにならぬほどに力の強い、規模の大きい、變化の激しい、この英雄の全生涯そのものが、そのまゝ一篇の史詩であるのみでなく、或は秀次の悲劇、或は淀君との艶話、或はこの老英雄の幼い秀頼に對する愛着、插話としても或は感傷的情調を誘ひ或は深刻なる心理的葛藤の結ばれてゐる幾多の事件、幾多の戯曲的場面、がそれに附隨してゐるにかゝはらず、昔の寫實小説たる源氏物語に比すべきものはいふまでもなく、事實を潤色した平家物語や太平記になぞらへられるほどのものすら、それを題材として作られなかつたではないか。
 これには種々の理由がある。概していふと、前々から文學には一定の型ができてゐるし、またそれに現はれてゐる思想も淺薄であり感情も粗大になつてゐるので、さういふ文學に目なれて來たものは現在の事實を精細に如實に觀察し描寫することができなくなつてゐる。更に少しく考へて見ると、この時代に入つてからも文筆に長じてゐるものはやはり僧徒が多かつたらしい。公家は衰へ武人は戰闘に忙しいといふ世の中に於いては、彼等に代つて文權を握るものがまだ出なかつたに違ひない。ところがこの僧徒は前篇にも述べておいたやうに、一種の宗教的僻見を固執してゐるので、如實にまた暖い同情を以て人生を觀察することができず、また彼等に特有な傾向として文筆の上にも因襲を脱することができないから、武士の心情を十分に理解することもそれを表現することもむつかしい。人の欲望や愛着や、それから生ずる種々の葛藤や紛爭や、心理の苦悶や歡喜や哀愁やは、彼等の思想から見れば無價値であり無意味であり、超脱すべきもの放下すべきものである。さうしてそれに逢へば、平家物語などから後の文學に於いて常にく(451)りかへされてゐる如く、たゞ因果應報の觀念や無常の理を以て外面から手輕く、または平凡な感傷的態度で、評し去るのみである。だから彼等の手によつて眞に武士の内生活を描寫した文學の作られないのは、怪しむに足らぬ。その上に戰亂が長く續いた時代のこととて、彼等自身の學識も文筆の力も次第に衰へて來たに違ひないから、彼等にはもはや平家物語や太平記の作者のやうな詞藻を有つてゐるものすら、少なくなつてゐたのであらう。文筆に長じてゐたものは禅僧であるが、彼等はたゞ漢文の模倣をつとめたのみであつた。
 それならば武士自身はどうかといふに、前にも述べた如く、彼等は漸く文筆に親しんでは來たが、しかしそれとても、定まつた樣式と用語と材料とで簡單に作られる和歌連歌を翫ぶか、さもなくば軍記ものなどに於いて見聞した事實を外面的に記すか、要するにそれだけの能力しかもたないので、彼等みづから體驗したところ、或は他人の心理について同情し理解し得たところを、措寫し表現する手腕は無かつたであらう。また斷えまの無い戰亂の世に働かねばならぬ彼等には、その武士といふ身分の上からも、心靜かに想ひを錬り筆を執る餘暇も無く、さういふ修養もできなかつた。その上、彼等の觀察は、武士生活そのものに對しての外には、一體に粗大であつたから、この點からも文學的著作をすることはできなかつた。のみならず、彼等は彼等の武士的氣質から情を抑へることを鍛錬してゐる。實生活の上に於いて抑情を尚ぶ彼等が、文字の上に於いてもその情生活を委曲に描寫しようとしないのは、當然であらう。さうして同じ傾向が彼等の生活をして、少くとも外觀上、甚だ色彩の乏しいものにさせたので、それもまた戰國武士の生活を寫した文學を産み出させる誘因を無くするものであつた。文學的作品の一要素として、或は少くともその插話として、無くてはならぬ戀愛物語などが、事實譚としても武士の間には多く聞えてゐないことによつてもそれが知(452)られよう。松隣夜話に見えてゐる上杉謙信の戀物語や、甫庵の太閤記に出てゐる九州の或る武士の妻が高麗在陣の夫に贈つた書簡によつて出征を免ぜられた、といふ話などは、この時代に於いては珍らしいものであつたらう。
 しかし華やかな秀吉の一生涯、傷ましい豐臣氏の滅亡に至つては、單にその外面だけを見ても人の興味をひくには十分である。この天縱の英雄の心理を内面的に解剖し描寫し、この大人物を中心としてその周圍に起つた幾多の葛藤を戯曲的に構想し、もしくは廣い天下を背景として動いてゐるこの偉人によつて、時代の精神と大勢の推移とを明かにするやうなことは、當時の人には望まれないことであつたらうが、豐鑑や太閤記よりも今少し文學的色彩のあるものが作られてもよささうなものであつた。ところがそれすらもできなかつたのは、前にもいつた如く全體に文學が沈衰してゐたからではあるが、また別に多少の理由がある。外面的にいへば、徳川一統の世になつて幕府に憚つたといふこともあらう。豐國神社が廢せられたほどの時勢である。地下の秀吉を文字の上に復活させるのは、徳川政府の好まなかつたところであらう。書物が筆寫によつて少數人の間にのみ傳へられた時代には、その人心に及ぼす影響も少いから、昔は著作も言論も自由であつたが、印刷術が發逢して著作が公に弘められる時代になると、爲政者の權力がその上に加へられ、作者もまたその壓迫を感ずるやうになるのは、自然の傾向であらう。政府の權力の強い徳川時代に於いてはなほさらである。それからまた外征の役の如きはそれが全く秀吉一人の事功欲から生まれたことであつて、國民は概ねそれに同情してゐなかつたから、かういふ國民の心胸に共鳴しない事業が、詩によつて文學によつて讃美せられなかつたのは、當然である。
 しかしそれよりも一層内面的な理由は、平和を尊び無事を喜ぶやうになつた、また何事をも偏狹な道徳的眼孔で評(453)隲し去らうとする儒教思想が文筆にたづさはるものの間に漸次勢を得て來た、この時代に於いて、戰國的精神の象徴であり、自由な豪放な武人の一面を最もよく代表してゐるこの英雄が、時人に了解せられなくなつた點にあるのではなからうか。人生を一種の合理主義的思想で解釋し社會的統制を重んずる儒教思想に於いて、天縱の偉人が認められず英雄が崇拜せられないのは、當然である。甫庵の太閤記が秀吉の思想を如何に誤解もしくは曲解してゐるかを知るものは、この觀察に少くとも一面の理由のあることを承認するであらう。勿論一般人は儒者のやうな偏見を有つてゐたのではなく、秀吉を偉人として尊敬し、またその豪快な風姿とその下に世の榮えた時代とを追懷してはゐたであらう。けれどもさういふ感情は文字の上には多く現はれなかつたのではなからうか。さうして世が固定して人みなが動きのとれない社會組織に編みこまれ、一般の傾向としては戰亂に倦んで平和を望み闘爭に厭いて安逸を求めるやうになつた世人が、むしろ喜んでこの趨勢に順應しようとする時代となつては、その英雄の面影も漸次薄れて來たのではなからうか。
 秀吉を描寫した文學は世に現はれなかつたが、しかし秀吉自身は文學によつて自己を千載に傳へようとした。當時の武士は文學によつて自己を表現する考が無かつた。武士は名を重んずるといふが、それは自己の行爲に對する後人の道徳的批判を恐れることであつて、自己の事業を後世に傳へそれによつて名譽を得ようといふのではない。よしさういふ念が全く無いではなかつたにせよ、彼等は目前の生活があまりに忙はしくあまりにあわたゞしいがため、その他のことを考へる暇が無かつた。彼等は自己の行爲が後世に如何なる影響を及ぼすかをすら顧慮してはゐられなかつた。現在の生活に於いても、平安朝人が自己を客觀的にながめて喜んだやうな遊戯的態度を取るには、あまりに彼等(454)のしごとが命がけであつた。ところが秀吉は違ふ。彼はおのれ一人の力によつて何事をも思ひのまゝに成し遂げた。さうして天下の第一人となつた。晩年には征明の企圖が空しく失敗に終らうとしたし、死後のことに大なる心がゝりもあつたが、その前までは彼の志を妨げる何物も無かつた。この上に彼の望むところは我を世界に示し萬世に示すことである。彼はみづから征明の計畫の動機を説いて、佳名を三國に顯はし聲譽を後代に傳へるためだといつたといふ。これはむしろ事功を遂げるといふ意義に解すべきものであらうが、ともかくも自己の名を後に遺すといふ考があつたに違ひない。かの大佛の造營の如きも、宗教的信仰からではなくして、大佛によつて秀吉自身を永く天下衆人に認めさせるためであつたらう。死後に神として祀られたのもまた同樣で、これもまた彼みづからの希望から出たことらしい。この時まではまだ、人が功業を立てたために死後すぐにそれを神として祀り墳墓の地に神社を設けた例は無かつた。この破天荒の企ては神道家などの思想から出たことではなくして、その眼の古今を曠しうする英雄の意志によつたものに違ひなく、さうしてその本意は、自己を不朽に傳へるためであつたらう。(家康の東照宮はこの前蹤に從つたものであるが、これはむしろ政略上の意圖が基本になつてゐた。)秀吉の考がこゝにあつたとすれば、彼が大村由己に命じて自己の事業を謠曲に作らせたのも不思議でない。のみならず彼には天才に伴ふことの多い稚氣がある。と同時にまた自己を客觀的にながめる餘裕と滿足とがある。だから彼は自己を詩中の人として眺め、自己みづから自己を主人公とした劇の中のその主人公に扮して樂しんだのみならず、それによつて自己と自己の事業とが後世まで美しい文字に遺り華やかな舞臺に上せられることを、豫期してゐたであらう。或は私かにその光景を想像して微笑してゐたかも知れぬ。この天縱の英雄が、自己を廣い世界と長い歴史との裡に置いて、みづからも眺め人にも見させようと(455)したことは、これでも知られる。
 秀吉は自己が文學によつて傳へられることを望んだのみならず、また文學の愛好者でもあつたらしい。勿論その趣味は低級でありその知識は狹少であつたらう。けれども能を好み茶の湯を嗜んだこと藝術を愛したことから考へると、連歌師としての紹巴などを近づけたのも偶然ではあるまい。彼はこの點に於いて戰國武將の趣味のある一面を代表してゐたのである。ところが、家康とその後を承けた徳川歴代の將軍とは全くこれと違ふ。彼等は學問を保護し奨勵したが、それは實用的のものに限られてゐたので、彼等の文道といふのも政治の學であつた。彼等に用ゐられたものは、詩人や藝術家ではなくして學者や宗教家であつた。彼等は連歌を單なる儀禮として取扱つた。秀忠は歌舞伎を觀ないのを誇りとしてゐた。彼等は政略と實利との外に何物をも顧なかつたので、文藝をばむしろ武道の邪魔ものと思つてゐた。專制政治の時代に一國の政權を握つてゐるものとして、徳川氏ほど文藝に縁遠かつたものは、多くその類があるまい。もつともこれは文藝の中心が國民にあつて、もはや政府者の保護を要しないまでになつて來た故でもあるが、彼等の態度によることでもある。さうしてそれと共に、彼等みづからもまた文藝に向つて何等の題材をも供給しなかつた。今人の眼から見れば、彼等の行爲に幾多の詩材、特に戯曲の好題材がある。けれども、華やかな波瀾に富んだ敍事詩的光景や美しい抒情詩的情趣をばそこに認めることはできないではないか。それは一つは彼等が究極に於いて成功者であつたからでもあるが、ともかくも彼等とその周圍とは如何にも殺風景であつた。要するに彼等は戰國武將の最も無趣味な一面を代表してゐたのである。
 話は物語から抒情詩に移つて來たが、一般に考へても武士特有の情感の現はれた抒情詩は殆ど無いといつてもよい。(456)武士も和歌を詠み連歌を好んだ。特に細川幽齋や木下長嘯の如きは、或は學者として或は歌人として當時有數のものであつた。しかし前々から述べて來たやうに、歌連歌には特殊の風情特殊の趣味があるので、作者は何人であつても一樣にその典型を守るに過ぎなかつた。それが武士をして現實界を離れた一種の空想世界に身を遊ばせる方便にはなつたので、そこにかういふ文學の一面の價値はあつたに違ひないが、しかしその歌連歌が彼等の實生活とは縁遠い遊戯的性質を帶びてゐるものであつたことも、爭はれない。例へば毛利元就の詠草といふものにも細川幽齋の衆妙集などにも、武士の歌らしい特色は見えない。蒲生氏郷が「世の中に我は何をかなすの原なすことも無く年や經ぬべき」といつて、武士の事功欲をほのめかしたなどは、珍しい例である。もつともこれには武士の抑情主義の影響もあるらしく、感情をありのまゝに現はすことを女々しいとする氣風の武士に、抒情詩の作られないのはむりも無い。上にも述べた如く、歌連歌そのものを排斥するほどの武士もあつた世の中である。たゞ武士の和歌に於いて一つの注意すべきものは辭世であつて、さすがに死に臨んでの詠であるだけに、普通の遊戯文字とは少しく趣が違ふ。が、それとても殆ど一種の習慣として、また或る意味に於いては儀禮として、行はれたのであるから、その思想には一定の型があつて、「命をも惜まざりけり梓弓末の代までの名を思ふ身は」(別所長治記友之)のやうに、名のために身をすてるといふ武士的思想を述べたものか、「討つものも討たるゝものもかはらけよ碎けて後は元のつちくれ」(北條五代記三浦道寸、高橋紹運記に或人の道歌として「討つ人も討たるゝ人も諸共にたゞ一時の夢の戯れ」といふのがある)、「見よや立つ煙も雲も半天に誘ひし風の音も殘らず」(大内義隆記冷泉隆豐)、または「五蘊もと空なりければ何ものか借りて來らん借りて返さん」(富樫記)、のやうな禅語めいたものか、或は「露の身の消え殘りても何かせん南無阿彌陀佛(457)はたすかりぞする」(信長記荒木娘)のやうな極樂往生を期待する風のものかが多い。もつとも多數の士卒を助けるために城を明け渡して自殺するごとき特別の場合には、「今はたゞ恨みもあらず諸人の命に代る我が身と思へば」(別所長治記長治)のやうなのがある。また女の辭世にはさすがに「消ゆる身は惜しむべきにもなきものを母の思ひぞさはりとはなる」、「殘しおくそのみどり子の心こそ思ひやられてかなしかりけり」(以上信長記たし)、といふ類のものも無いではないが、男の辭世には父母妻子を思ふ情を歌つたやうなものすら殆ど見當らない。(辭世といふものは禅僧の間に行はれた臨終の偈とか遺偈とかいふものから轉じて來たのではあるまいか。もしさうとすれば、それに禅語めいたもののあるのは自然の傾向でもある。)歌ばかりではなく擬古文で書いた從軍紀行ともいふべき長嘯の九州道の記、吾妻道の記、幽齋の筑紫紀行、などを見ても、彼等がかなりに古文辭の取扱ひ方を知つてゐたことは判るが、武人らしい思想や行動は毫も寫されてゐない。長嘯の「さか衣」に秀吉の功業を讃美してゐるなどは、珍しい方である。
 俚謠のやうなものに於いてもまた、武士の生活と特殊の交渉のあるものは甚だ少い。この時代の俚謠は割合に多く今日にも遺つてゐるが、武士に關係のあるものには、「織田の源五は人ではないよ」とか「徳川樣はよい人持ちよ」とかいふ風の、事實の評判めいたものが目につくので、それに武士の思想が見えてはゐるが、要するに一時的のもの外面的のものに過ぎず、民謠としての價値は甚だ低い。「城に笛ふくが麓に聞こゆる、それは推した、うらに來いとの笛のね、裏道來いとの笛の音、」(日本歌謠類聚上卷所載)などは、極めて珍しいものの一つであらう。これはいはゆる少人の戀を題材としたものらしいが、殺風景な戰國武士の生活に於いて、叢の裡に咲く薊の花の如く一點の色彩を(458)添へる兒の姿も、あまり多くは俚謠の上にも現はれなかつたらう。
 以上は文學と武士との特殊の關係を考へたのであるが、更に一般文學界の状態を見ると、戰國時代となつても大體は前代からの繼續であつて、和歌も連歌も行はれ、物語も作られ謠曲や狂言の新作もあつたらしい。もつとも戰亂の世に文事が抑へられるといふ一面の事實はある。また幕政が壞頽すると共に、京の文化上の地位も次第に輕くなり、從つて京とは關係の深い文學が衰へて來たことは、おのづから推測せられる。和歌や連歌は格別、物語とか謠曲とかいふものはやはり京人の作であつたらうから、それらの作は自然に少なくなつたに違ひない。けれども朝廷と公家貴族とこそはひどく衰へたれ、武人の首長たる將軍は、權力が易くなり、またその地位が斷えず動搖はしてゐながら、なほ存在してゐた時期があり、それが亡びると信長や秀吉がその後に強い權威を京にたてたのであるから、京の文學もまた全く地に落ちてしまつたのではなからう。作者も作の時代もわからないのが物語や謠曲などの作品の例であるから、この時代の作であることの明證せられるものは殆ど無いといつてよいが、一般の形勢からかう推測せられる。しかし新作が出たにせよ、全體として文學の沈滯して來た時代であるから、何れの方面に於いても舊形式舊思想を踏襲するのみであつた。また徳川が天下を取つてからも社會状態が戰國の引きつゞきであると同樣、文學の上にも急激な變化は固より起らない。たゞ世が平和になると共に、戰亂のために抑へられてゐた文學の復活する氣味があるのと、徐々に生ずる社會状態の變化と共に文學の新傾向が芽ざし初めて來るのと、この二つのことがその間に看取せられるのである。
(459) 先づ物語草子の類をしらべて見るに、戰國時代の作として明證せられるものは殆ど見當らぬが、前篇に述べたもののうちにその實この時代の作であるものもあらう。しかしよし新作があつても、内容の上からそれを判定することのできないほどに時代の特色が無い。文學が全體に沈衰して來たといふ趨勢の上から摸倣の行はれるのが自然であるばかりでなく、前にも述べたやうに、この時代でも文筆にたづさはるものには概して僧徒が多かつたとすれば、實社會の變遷は割合に彼等の思想に影響を及ぼさず、また全國の形勢と地方の状態とには大なる變化があり武士の生活は樣子が違つて來ても、京の有樣が上にいつたやうであるとすれば、幾分か寫實的性質を有つてゐる物語に於いても、それに新しみが見えないのは深く怪むに足らないことであらう。特に物語の主題は、前代に於いても宗教的信仰や因果應報の道徳觀が基礎になつてゐて、神佛の加護によつて幸福を得るといふ話が多いから、京の樣子に幾らか變つたところがあるにしても、さういふ文學上の題材にはさしたる關係が無い。
 もつとも、世が徳川になつた慶長のころから出た物語には、明かにさうと知られるものがあつて、恨之介、薄雪物語、薄雲物語、七人比丘尼、四人比丘尼、二人比丘尼、などがそれであるが、しかしその着想も題材も文章も概して前代のものと同樣である。恨之介の觀音の利生の話も、身分の早いものが貴族の姫を戀ふといふのも、すべて舊い型であり、男女の契は久遠劫からの約束であるといひ、死に臨んで一蓮托生を來世に期待するといふのも、或はまた美人といへば小町や楊貴妃の名を擧げ宮殿といへぼ金銀珠玉を縷ばめたやうに記すのも、前篇に述べたと同じ佛教的古典崇拜的思想である。薄雪物語や四人比丘尼もまた恨之介と同樣、貴族の女をあひての戀物語であつて、その結末が出家に終つてゐるのも前代からの因襲的思想であるのみならず、四人比丘尼の作者は、男から思ひをかけられるのも(460)前世の縁だとか、ふみの返しをしないと蛇身を受けるとか、いふことを女に説かせ、または「さゞなみのあはれはかなき世を知れと教へてかへる子は知識なり」と教へたといふ觀音の靈夢によつて、子の死を出離の縁としてその子に感謝させてゐ、その上、地獄の有樣を幻に見せたり、最後に比丘尼たちに往生の素懷を遂げさせたりしてゐる。この書は題號が内容にふさはしくないところから考へると、七人比丘尼や二人比丘尼などの後にできたものではあらうが、さうひどく後の作ではなからう。また薄雪物語の、女が死んだのをきいて男が自害をしようとするのを人にとめられて出家するといふのは、竹齋物語の一插話に男色のこととして同じ筋のがある。この時代の人に好まれた話らしい。その出家で終るのが古い型なのである。薄雲物語は薄雪物語とは男女を反封の地位に置いて同じ趣向を用ゐたもので、着想からも名稱からも薄雪の模倣であることが明かである。さうして戀の成就と共に女の父が大宮人を婿にして榮華に誇るといふのと、それが孝行の報だといふのと、また全體を加茂の明神の利生で維いでゐるのとが、どこまでも室町式である。七人比丘尼の出家物語が、かの鈴木正三の二人比丘尼と同樣、佛教のすゝめを目的として書かれたものであることはいふまでもない。七人比丘尼の一人には前篇に述べた佐伯と同一題材を反對に取扱つたものもある。
 大體の着想はかういふ風であるが、しかしその材料としては新時代の事物を取つたところもある。恨之介に、三味線を彈かせたり隆達節を歌はせたり、また女主人公の姫を關白秀次の家來木村常陸の遺子とし、秀次の侍女どもが刑せられた時の有樣を插話としたりしたこと、四人比丘尼で業平式の優男が敵に逢ふと急に勇士になること、七人比丘尼の一人が公家の女でありながら男の讐をうつたこと、などがそれである。さうして恨之介の結末に、姫の死を見て幼い時からそれを育てた嫗や媒をした女が自匁したことにしたのは、出家に終らせない點に於いて舊套を脱したもの(461)であつて、この點に於いては確かに戰國時代を經過した後の産物である。が、その他は、局部的に新材料を取つても、全體の結構はすべて前代の物語の摸倣に過ぎない。
 文章に於いてもまた同樣で、往々七五調を用ゐ、故事古歌をうるさく引用し、何かといふと古今萬葉「伊勢源氏」を持ち出すところは、全く因襲的である。特に四人比丘尼の四季の庭の敍述などは前代の草子に多い例であり、姫君が嵯峨のわび住ゐの話は、いふまでもなく小督物語そのまゝである。また作中の人物にも歌の贈答をさせたり七五調の艶書を書かせたりしてゐるが、たゞ薄雪物語が二人の間の書簡の贈答で殆ど全部を成りたゝせてゐるのは、新趣向である。但しその書の内容は、女の「わが身神の木にて」と靡かぬ理由を述べるに對して男が切なる戀を訴へるのであつて、互のおし問答に故事古歌を引證するところが物語の興味の中心になつてゐる。この「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々しき御たとへをいつも/\」くりかへしてゐるのが、前代からの因襲的古典趣味であるのみならず、當時に於いては事實としてあり得べからざることである。
 空想の物語ばかりではない。隨筆または實録やうのものに於いても、その筆致なり文體なりは概ね舊套を脱しないものであつて、それがために、事實を寫すべきはずのものが直接の觀察によつて書かれず、無意味に成語を並べたに過ぎない、といふやうなことさへある。慶長見聞集ですら故事や古歌を多く引用してゐて、眞の見聞よりは文字の上から來た知識の多量に含まれてゐることが目につく。例へば待乳山へいつても角田川を見ても、たゞ昔ばなしや故事來歴の詮索ばかりしてゐる(卷五、七)。さうして中には、歌を詠んだのが優しいとて繩をゆるされた(卷五)といふやうな、一種の因襲的觀念をもとにして結構せられた物語もある。この集の物語に假託のもののあることはいふま(462)でもあるまい。見聞を書いたところも無いではないが、歌舞伎踊りなどについてすら、女といへばかならず楊貴妃李夫人でもちきつてゐるのでも、ほゞ作者の筆致が知られよう。徳永種久の筑紫から京に上り江戸に下つた紀行といふものや吾妻めぐり(色音論)を見ても、全體がほゞ道ゆき風の七五調で成りたつてゐること、また例へば神田明神から眺めた四方の景色を八景に見たてたり、愛宕山を記して「宇田川橋にさしかゝり、ゆんでを見れば愛宕山、岸高ければ峯深く、一片の雲に相同じ、」といつてゐるやうに、毫も寫實的用意の見えない點に於いて、全く前代の文學の模擬であることがわかる。江戸城の記述なども室町時代の小説そのまゝの筆つきである。種久のこの作は紀行ではなく、紀行風に綴つた戯作であらう。後の名所記の淵源でありながら眞の名所記になつてゐないところに、注意しなければならぬ。
 或はまた實録めいたものの例をいふと、甫庵の太閤記の伏見城の眺望や聚樂邸の結構を記したところにも、現實の有樣が現はれてゐない。信長の安土城は乾燥無味な筆つきながら信長記に簡單な記述があるので、それによつてほゞその概要を想像することができるが、天下の富と力とを以てあらゆる當代工藝の粹を蒐め、第一流の藝術家と工人とをして、その妙技妙腕を思ふまゝにふるはせた天下の偉觀、文化上の地位からいふと、昔ならば道長の法成寺に比較すべきこれらの大建築も、殆ど當時の人の筆に上つてゐない。その法成寺を「ことの數にもあらず」といつて大阪城の宏壯を讃美した木下長嘯も、「さか衣」に於いて極めて型にはまつた文字をつらねてゐるのみである。甫庵の如きは僅々二三行を以て、「瑤閣星をかざ」れる聚樂の邸と、「遠浦の歸帆、漁村の夕照、」をながめやる伏見の城とを、記すのみであつた。この聚樂の記述は聚樂第行幸記に本づいたものらしいが、行幸記そのものの筆致に、既に成語のつな(463)ぎ合せが多い。榮華物語にとられた「玉の臺」の作者のやうなのがこの時代に無かつたのである。
 實社會の事物が文學の題材として重んぜられなかつたことは、珍しい南蠻人もその黒船もその宗教の寺院やそこで行はれた儀禮も、または半商半寇掠的の海外渡航者のその行動も、その船の經めぐつて來た異國の風土も人物も、さてはシナ船、南蠻船、オランダ船、の入り亂れ行きちがつてゐた洋上の壯觀も、殆ど當時の文學に現はれてゐないのでも知られる。もつとも禁教の後には、南蠻人や異教に關することについては、幾らかの著作も亡びてしまつたといふ事情もあらうし、また商賈や舟のりの徒が文學とは極めて縁遠いものであつたといふ理由もあらうが、それにしても九州の大名の遣欧使節も後の支倉の一行も、一篇の見聞録すら遺してゐないではないか。前者についてはゲヮリチェリやサンデなどの記述によつてその行程と彼等の得た感想とが知られるのみである。(サンデの記した使節の感想がどれだけ眞實であるか疑はしい、といふことは前に述べた。)「昔より今に渡り來る黒舟、縁がつくれば鱶の餌となる、さんたまりや、」(三絃曲端手組長崎)の俚謠、または「黒船はゑげれす舟のあひ近み、俄に風のかはる洋中、」「枕上の時鷄に夢を覺されて、南蠻人の月を見るさま、」(正章千句)の連句ぐらゐが、黒船來航のせめてもの名殘であり、初めて來朝した南蠻人を「人間の形にて、さながら天狗とも見こし入道とも名のつけられぬもの、」といひ、「鼻の高きこと榮螺殻の疣の無きをすいつけたるに似たり、目の大きなることは眼がねを二つ並べたるが如し、まなこのうち黄なり、かうべ小さく足手の爪ながく、せいの高さ七尺あまりありて、色黒く鼻赤く、齒は馬の齒より長く、あたまの毛鼠色にして額の上におかべさかづきを伏せたるほどの月代を剃り、物いふことかつて聞えず、聲は梟のなくに似たり、」(寛永十六年著吉利支丹物語)といふ類が、文字の上に描かれた南蠻人の殆ど唯一の面影であるとすれ(464)ば、約百年の間國民生活の上に少からぬ影響を及ぼした海外交通の文學に對する関係は、あまりにも輕微ではなからうか。當時の文學が貧弱で空疎で、國民の内生活の表現としては甚だ物足らぬものであつたことは、このことからでも推測せられる。今遺つてゐるものでも南蠻人を描いた繪はあり、歌舞伎草紙や豐國神社祭禮の圖などにも西洋人は畫かれ、また神社などに奉納せられた御朱印船の圖などもあつて、繪畫の上には當時の外國交通の有樣が寫されてゐるのに、文學の上にはそれが殆ど見えないのは、土佐繪の系統を引いてゐる繪畫が寫實的であるのに、文學にはなほ擬古的傾向が勝つてゐたためであらうか。
 要するにこの時代の文學的述作は、何の方面に於いても概して舊型に捉はれてゐる。その敍述は文字から學ばれたものであつて、自己の觀察から來たものではなく、從つて寫實的分子は少いといつてよい。だからこれらは、前代の文學の繼續または復活であつて、新しく生まれたものではない。たゞその間に、ともかくも市井の状態や日常の瑣事を寫し、或る程度まで見聞のまゝを記さうとした慶長見聞集のやうなもののあることは、新時代の文學に向つて一つの出發點を與へたものではある。
 
 讀みものとしての物語のみでなく、謠曲なども同樣である。能が依然として翫賞せられてゐると共に謠曲の作も斷えはしないので、戰國の世でもかなりに新作が舞臺に上つたであらう。秀吉が自己の事蹟を作らせたのでも、當時なほ一般に新曲の作られてゐたことが推測せられる。徳川の世に入つてもこの風習はなほ續けられたらしく、かの貞享元禄正徳の三期に百番づゝ印行せられたもののうちには、この時代になつてからの作が少なくなからうと思はれる。(465)》勿論、貞享の百番中にある戀重荷や元禄のに入つてゐる綾鼓は、世阿彌の昔に既に行はれてゐたことが明かに知られてゐるし、箱崎、空也、などの名も申樂談儀の中に見えてゐるほどであるから、幾らかの文字の改作はあつたかも知れぬが、三百番のうちに古い作の多いことはいふまでもない。しかし近ごろ佐々木信綱氏によつて世に出された新謠曲百番の中には、明かに徳川の世に入つてからの作があり、中には寛永以後にできた明證のある黒池龍神、筑紫箏の蕗組の唄を取つた柏木、なども見えるから、それから類推しても、この時代になつて新作の現はれたことは確かであらう。薄雪は薄雪物語の出た後のものであるから、早くとも寛永ごろの作であらうし、「歌舞伎」も名古屋山三の傳説がお國に結びつけられた後のものであるから、そのお國の生きてゐた慶長ころの作ではあるまい。
 けれども、徳川の時代、特に寛永以後の作は、それが能として演奏するために作られたものかどうか、疑はしいので、その大部分はむしろ好事家の消閑の作ではあるまいか。もつとも社會状態が戰國時代とほゞ同樣であつた慶長元和のころには、前々から引きつゞいてゐる謠曲の作者もあつたであらうし、彼等と能役者との連絡も保たれてゐたであらう。しかし世情がほゞ固定すると共に、能も武家の式樂とせられてその役者が多く幕府や諸大名に抱へられるやうになつたらしい寛永以後の時代になると、一般公衆のために斷えず新作を舞臺に上ぼせてゐた昔とは違つて、演奏の上から新作は要求せられなかつたらう。藝術に對して新しさを求めるのは自然であるが、歌舞伎や操が恰もその要求に應ずるものであつて、それこそ不斷に新作を演じ、さうしてそれによつて不斷に發達していつた。こゝに新時代の民衆の血の通つてゐる生きた藝術がある。このころの能はもはや新しい作を求めるだけの生氣を失つた前代の藝術の遺物である。のみならず、長い戰亂の間に武士の服裝や言語や趣味も變化し、さうして徳川の世になつて三十年も(466)經つた寛永時代では、それに新しい形ができてゐるから、さういふ人々が能の演奏を見ると、室町時代の人々よりも一層現代ばなれのした感じがあつたであらう。かういふものは、古い色彩、古い形、むしろ古い作品そのもの、に特殊の興味があるので、新作は却つてそれを打ちこはす傾きがあるから、この點から見ても新作は能として行はれ難かつたであらう。このころにはまだ、演出法も後世ほどに精練せられても型が定まつてもゐず、歳月の重なるにつれて生ずる特殊のさびもついてゐなかつたらうが、それでも舊くから傳へられて來たものにはそれだけのふるびが出てゐたと考へられる。たゞこれらの新作に節附けがしてあるのを見ると、文字の上のみのものばかりではなかつたらしいけれども、謠曲としても世にどれだけ行はれたか、後世に傳へられたものによつて推測すると、かなりおぼつかない。
 室町時代から行はれてゐた他の演藝を見るに、幸若舞が戰國の世は勿論、徳川の世の初めまでも、多くの武士に愛好せられてゐたことは明かであるが、舞曲に新作のできた形迹は無い(「新曲」といふものは何時の作かわからぬが)。もつともこれは、後になると、酒宴の席などの餘興として玩ばれたのみで、能のやうに舞臺藝術として演ぜられたのではないらしいから、少し性質は違ふかも知れぬ。また能のつきものになつてゐた狂言は、戰國の世のものも多く傳つてゐるらしく、枕物狂に鐵砲が用ゐてあるなど、早くとも天文以後の作または改作である證跡の見えるものもある。また徳川の世に入つては、淨瑠璃に三味線を用ゐることの見える昆布賣の如く、慶長ころの作または改作もある。けれども、新作の多く出たのはやはり慶長元和ころまでではあるまいか。狂言は室町時代でこそ民衆的寫實的なものであつたが、徳川の世のやゝ固定して來た時代の觀客には、それに對する感じが昔とはよほど變つて來て、新しい寫實劇は別に歌舞伎に屬する狂言として起つてゐる。だから舊い型の狂言に新作は多く現はれなかつたらう。さすれば狂(467)言と同じ舞臺に上せる能の新作もまた現はれなかつたのではあるまいか。さうして能として演ぜられないのに、謠曲の詞章の新作ができたのは、それに一種の文學的遊戯として取扱はれる性質があつたからで、そこに狂言との相違があるのではなからうか。さうしてかういふ型にはまつた謠曲の詞章に興味を有つてそれを摸作するものが出たところに、この時代の文學がまだ前代の因襲を脱しなかつた一例が見える。
 さて戰國の世に作られた新曲が何々であるかはまるで判らないが、これも物語と同樣、時代の特色の無いほどに前代の作の踏襲であつたからに違ひない。舊いものの改作もあつたであらう。前篇に述べたやうな類似の結構や同一の詞章を用ゐたものの中には、この時代の作もあらう。もと/\演奏の上に型が定まつてゐて、その古い型にあてはめての作であるから、新作があつてもそれに新しみの加はらないのは當然である。次に徳川の世になつてからのものはどうかと、大部分がこのころのものと思はれる新謠曲百番を見渡しても、その題材の多數が前代の文學または世に行はれてゐる傳説から來たものであつて、當時の事實を取つたものはあまり無ささうである。古典文學や戰記物語に典據のあるものはいふまでもないが、信田が幸若舞曲から取られ、花丸が前篇に名を擧げて置いた幻夢物語の一半、足引がやはりその「あしびき」から來たものであり、また上に述べた薄雪物語を少し作りかへて薄雪が作られてゐるなどは、近い時代の文學に淵源のある二三の例である。甘樂大夫、瀬艮田、戀妻、などのまとまつた脚色のある物語も、かならず出所があるに違ひない。
 また着想の上にも新しい傾向は少しも見えない。現在ものが割合に多く、特に道成寺、實盛、箙、などを現在ものに翻案したことは、思想の變化を示すもののやうにも見えるが、幽靈ものも依然として存在し、さうでなくても佛教(468)的情調の一般に漂つてゐることが、前代の謠曲と何の違ひも無いのを見ると、これはたゞ結構を改めたまでのことであらう。どこまでも古い作に拘泥してゐるところに作者の態度が覗はれる。たゞ神事に關するものが少いのは、神社に特殊の關係のあつた猿樂の歴史が忘れられ、事實として能の演奏が寺社から遠ざかつてゐたこの時代に於いては、當然のことであつて、こゝに時代の一影響が認められる。また詞章の點に於いても、全く舊い型を守つてゐるのであるが、正徳の百番などになると、詞藻の花やかさが薄れて頗る平板なものが多くなつてゐるやうに見うけられる。文學上の遊戯としても、古文學を渉獵し補綴する努力と興味とが謠曲の作者に減じて來たのではあるまいか。
 たゞこの間に於いて、一つだけ異彩を放つてゐるのは、お國歌舞伎を題材にした「歌舞伎」であつて、うまくその踊り歌を取つて巧みにそれを維ぎ合はせ、「命おん身もあられうかの」と、老若貴賤の心を浮きたゝせた「見れども飽かぬお國が姿」を眼前に躍り出させてゐる。單に詞章としてもかういふ俚謠めいたものをそのまゝに取つたのが極めて珍しい。が、これは果して能として演ずることのできるものであらうか。能は本來華やかな舞容を中心として作られたものではあるが、文學としての謠曲はどこまでも古典的情調が基礎になつてゐるのみならず、能としての舞もまたこの時代になつてはそれを亂さないほどに形式化せられてゐる。お國歌舞伎は華やかな點に於いてはそれに適するが、かういふ古典趣味とは?かに違つた當世的なその踊と踊り歌とは、少くとも上にいつたやうなこの時代の能には不調和である。だから歌舞伎の興味はやはり歌舞伎そのものにあるので、能にそれを取入れることはむつかしい。さうしてかういふやうな舞臺に上せ難いものの作られたことも、またこれらの作が單に文學的遊戯であつた一證ではあるまいか。
(469) 歌舞伎に言及したので筆がおのづから新しい民間演藝に關係をもつて來たが、その歌舞伎踊は且らく別問題として、物語や謠曲が古い時代の摸作であると同樣、この新演藝に於いても詞章を要するものはやはり前代からの型を離れることができなかつた。操の臺本となつた淨瑠璃が即ちそれである。かの十二段草子の淨瑠璃姫物語が、享禄天文のころ既に座頭の語りものに用ゐられてゐた前代の草子もしくはその詞章を幾分か改作したものであることは、いふまでもあるまい。のみならず、慶長ころにこの十二段と同じく操にかけられた「阿彌陀の胸割」なども、よしそれが操のために新作せられたものだとしても、その構想なり詞章なりは全く前代の物語の典型に從つたものである。が、もう一歩進んで臆測するならば、これもまた前からあつた物語を語りものに適するやうに改作したのではないか、とさへ考へられる。それはこの物語が阿彌陀の信仰を勸めるといふ特殊の宗教的意義を有つてゐるもので、操の詞曲としてはふさはしくないやうに感ぜられるのと、それが前篇に述べたやうな種々の宗教的物語と同種類に屬すべきものであるのと、今一つはこれと同時に語られたといふ鎌田が舞の本のそれであつたらうと思はれるので、すべてこのころの語りものには、古くからある草子詞曲の類を改作して用ゐたものが多いやうに見えるとの故である。さすればかの「牛王の姫」などについても、やはり同じやうに考へられはしまいか。操がまだ淨瑠璃物語を用ゐない前には、或はその後とても、能を演じたといふが、その場合には謠曲が謠はれまたはその曲節を幾らか改めて語られたであらう。操の初期に於いて用ゐられた詞章が古いものであることはこれからも類推せられる。元和乃至寛永の初めのころにゐたといふ京の女淨瑠璃語り六字南無右衛門が、十二段も厭いたとて幸若舞曲の八島、高館、曾我、などを語つた、と(470)いふ話もあり、同じころに流行つた江戸の薩摩淨雲もやはり舞の本を演じたらしい。その曲節なり演出の法なりは  過かに趣の違つたものであつたらうが、詞章は概して前代の遺物であつたのではあるまいか。もつとも淨瑠璃が流行するにつれて、新曲も漸次作られてゆくやうにはなつたらしく、繪入淨瑠璃史に於いて紹介せられた安口や村松などは、この部類に屬するものであらうが、それとても趣向は前代の草子の模倣である。さすれば新しく起つた平民演藝に於いても、その文學的分子は概して舊型を脱することができなかつたことが知られる。かの女歌舞伎でさへも能を演じたことがあるではないか。女歌舞伎の演じた能の失敗した話が慶長見聞集に見えてゐるが、これは能役者でない歌舞伎役者が能そのものを演じたために、看客の豫期してゐる能としての氣分が現はれなかつたことをいふのである。操で能を演じ淨瑠璃で舞曲を語つたのは、たゞその詞章を取つただけで、初から別種のものとして演出するのであるから、看客は全く別の豫期を以てそれに對する。一つが失敗し一つが長く世に行はれてゐたのは、これがためである。
 少しわき路に入るが、便宜上こゝで淨瑠璃と操との由來と發達の有樣とを一言しておきたい。このことについては既に多くの考證も世に現はれてゐるが、文學と關係の深いことであるから簡單に私案を述べてみるべきであらう。さて座頭の語つた淨瑠璃は座敷藝ともいふべきもので、その曲節なども平家まがひの低調な陰氣なものであつたらう。京の盆踊の場合にも演ぜられてゐるが、戸外で語るものとしては不相應であつたに違ひない。(この時には種々のものまねも演ぜられたが、淨瑠璃はそれとは別のものであり、また踊と持合せられたのではあるまい。)ところがこの淨瑠璃は慶長ころになつて、琵琶または扇拍子の代りに三味線を使ふやうになり、また操に應用せられることになつた。傀儡師は、平安朝末の新猿樂記時代からの連絡のあるものかどうかは判らないが、室町時代には既(471)にあつたので、庭訓往來や一休の狂雲集などにその名が見えてゐる。たゞそれは民間の、むしろ兒童の遊翫に供せられたぐらゐのもので、士人の間に認められるほどのものではなかつたらしいが、戰國の末、遊樂の風の大に起り、民衆的娯樂が盛に行はれるやうになると共に、それが世に現はれたのであらう。さうしてそれは最初は簡單な物まねを演じただけであり、少し進歩してからは能のまねをしたのであつた。或は狂言をもまねたかも知れぬ。能を人形で演ずるのは、本歌をもぢつて狂歌をよみ伊勢物語をまねて仁勢物語を作るやうなもので、まねをするところ、特に人形が生きた役者のまねをするところに、一種滑稽的の興味が生ずる。が、それだけではおもしろくない。そこで能のやうな型のあるもの科の單調なものでなく、人形を自由にはたらかせる臺本を求めて淨瑠璃にそれを得たのである。慶長のころの目貫屋長三郎とか京の次郎兵衛とかに始まつたといはれてゐるのがそれである。こゝで淨瑠璃が、盲人の語つた室内的音曲から一轉して、普通人の大夫が公衆の前で演ずるものになつたのと、人形の動作の方からも影響をうけたのとで、その曲節も演出法も少しづゝ變化していつたに違ひない。さうしてそれと共に他の詞章のも加へられて、淨瑠璃がこの新しい語りものの總稱となつた。
 さて淨瑠璃の伴奏樂器として用ゐられた三味線には、それに特有な音色があるが、時のたつに從ひ、その奏法の發達と共にこの特色も次第に發揮せられたであらうし、臺本として舞の本が用ゐられるやうになると、その男性的の武ばつた情趣も添へられ、また敍事の間に對話の插まれたその詞章によつて、語りかたが一層發達したでもあらう。舞の本を用ゐたのは單に十二段などに厭いたばかりでなく、その詞章に對話があり動作が活き/\と寫されてゐて、人形をはたらかせるに恰好であつたのが、主なる理由であらう。その上に元和から寛永の初めにかけては、(472)京に南無右衛門などの女大夫が現はれ、江戸には杉山丹後※[木+掾の旁]や薩摩淨雲があり、それによつて幾分かづゝの個人的特色と地方的趣味とが加へられたであらう。これらの事情によつていはゆる淨瑠璃節は、その間に種々の流派の生ずる傾向があると共に、全體として次第に發達してゆく。この自由に新しい分子を加へ、個人的に新しい風體を創めてゆくところに、典型を固守する舊藝術とは違つた、生命ある民間演藝の特色がある。たゞこの時代のは、十二段とか舞の本とかいふ語りもの乃至敍事的の謠ひものをそのまゝにとつて、もしくは改作して、たゞその演出法を當世化したに過ぎないものが多かつたらしいから、その興味は幸若舞を見るのとほゞ同性質同程度のものであり、それに幾らかの滑稽分子が加はつてゐたのみであつたらうが、しかしとにかくこれによつて新しい敍事的音曲の基礎が据ゑられたのである。操と淨瑠璃とは相依り相俟つて、これから後次第に發達し次第に劇的になつてゆくけれども、この時代にはまだそれが幼稚であつたのみならず、如何に發達しても淨瑠璃は敍事的性質を失はなかつた。戯曲的要素のある能の影響は、淨瑠璃節が謠の曲節をとるとかまたは式三番を演ずるとか、狂言操をするとか、さういふ方面にはあつたが、能そのものを人形で演ずることは何時のまにか廢れてしまつた。能は舞曲などとは違つて、その演出を當世化することがむつかしく、また人形のはたらきには適しないからであらう。操や淨瑠璃の初期の状態、またその發達の徑路などについては、なほ疑問が多いが、こゝでは細かい點について一々考説する必要は無からう。
 操と結合した語りものには淨瑠璃の外に説經があるが、これは多分淨瑠璃をまねたものであらう。説經語りといふものが古くからあつて、普通に本地ものと稱せられてゐる草子類がその語りものであつたらうとか、それが淨瑠璃の(473)淵源だとか、いふ説もあるらしいが、説經にさゝらをするなどの演藝的分子が幾らか加はりまた遊戯的傾向を帶びたものは、前代からあつたに違ひないけれども、一定の詞章を具へたものを語つたかどうかは疑はしく、また本地ものは讀むための物語として見るに何の支障も無いから、いはゆる説經語りは、それが公然演藝として現はれた徳川の世に始まつたものと見るのが穩當ではあるまいか。その歴史的由來は古くからの説經にあるでもあらうし、また最初の大夫は或は説經者の系統をうけたものであつたかも知れぬが、濱藝としての説經は初めから宗教的意味を有つてゐたのではなからう。たゞかういふ由來がありまた説經と名のつてゐるだけに、操にかけても三味線を用ゐても、感傷的な悲哀な氣分が、その曲節と苅萱とか三莊大夫とかいふその臺本とに、具はつてゐたらしく、そこに淨瑠璃とは違つた特色があつたので、この二つが並んで行はれたのである。さうして、さういふものを喜んで聽きもし見もしたのは、七人比丘尼などの物語を讀むのと同一の心もちからであつたらう。苅萱や三莊大夫の構想や詞章が前代から行はれてゐた物語を摸したものであることは、いふまでもない。或はこれも讀みものとして行はれてゐた物語の改作ではなからうかとさへ思はれる。
 
 次に古典文學の系統に屬するものはどうかといふに、戰國の世にも歌連歌は依然として一般に行はれてゐたが、それにも宗祇時代の活氣はもう無くなつた。肖柏の春夢草などには意義の通じかねるやうな歌があるが、それも古語の知識が淺薄になつたためであらう。かの古今傳授などが重んぜられたのも、古文學に心を潜めてゐるものが少いために、さういふ人々が尊ばれるのと、一體に古文學の知識が無くなつて來たために、妄誕を觀破することができないの(474)との故であつて、やはり戰亂の結果である。だから前代に於いてやゝ開け初めた自由の態度は却つて抑へられ、そのころ幾分か衰へかけた氣味のあつた二條派系統の思想が再び勢を得て來た。後にいふやうに、外部から古典の權威を壞さうといふものは現はれたが、それと共に内部ではます/\偏固にならうとするやうになつたのである。戰亂時代の初には秩序の破壞に件ふ自由の空氣があつたが、戰亂が長くつゞけばそれよりもむしろ文化の沈滯が大きいはたらきをしたのだ、とも考へられる。さて歌連歌の宗匠はそれを職業として、また武人の保護によつて、生活するものであつたが、堂上の家でその道に長じてゐたものは、さすがに古典文學の本筋を傳へてゐるらしく世間から仰がれてもゐ、實世間に於いて全く勢を失つた代りに、彼等みづからもこの方面に於いてその地位を維持しようとしてもゐたらしく、逍遥院以後の三條西家が歴代「伊勢」や「源氏」の註釋に從事して諸種の抄物を書いたのも、この故であらうか。山科言繼の如きもその歌には往々見るべきものがある。しかし文禄慶長のころには、古典文學の權威が武人たる細川幽齋の手に移つた觀がある。彼は單に歌連歌に長じてゐたのみならずその道の學者でもあり、また廣く古典にも通じてゐて、それに關する著書もあり、「源氏」の註釋を大成しようといふ素志さへもあつたといふ(岷江入楚序)。武人の勢力の絶頂に逢した時に、古典文學の權威が武人に歸したのは、偶然ながら興味のある現象である。けれどもその思想には何の新しみも無い。
 ところが、世が平和になり京都が秩序だち公家の地位が安固になるに從つて、長い戰亂の間に纔かに行はれてゐた公家貴族の古文學研究が、また少しく活氣を生ずるやうになつた樣子があり、それと共に、一般にも古典文學に對する親しみが加はつて來たらしい。當時に於いても公家といへばすぐ古文學が聯想せられたので、物語の恨之介にも、(475)戀人の返書を得ながら謎のやうな歌や詩の意義が到らないので困つてゐるこの主人公が、幽齋の弟子の宗庵といふ男にそれを質問して「かほどのことを知らずして雲の上人を戀ひまゐらせしことの恥かしさよ」といつたとある。雲の上人と詩歌とは離れられないものであつた。これは何となき因襲でもあるが、事實としても、幽齋の企てた「源氏」の註釋も、中院通勝の岷江入楚によつて成就せられたほどで、ともかくも古典に關する知識と一種の研究欲とが公家の間に保存せられてはゐたのである。しかし彼等の古文學の知識は、たゞ在來のものを承け繼いだに過ぎないのであつて、舊來の諸説を集成した岷江入楚がよくその傾向を示してゐる。從つてその間から新しい何ものも生まれて來ない。彼等の生活に實社會と交渉するところが少かつたやうに、彼等の文學上の知識や見解もまた實生活と交渉の無いものであつた。だから彼等がこの知識をもとにして歌を作り文を作つても、それは概ね死語を綴るに過ぎなかつた。それにもかゝはらず彼等がそれを玩ぶことを好んだのは、古典崇拜の因襲的思想と、しば/\述べたやうに現實の生活から離れた別世界に心を遊ばせようといふ要求と、また一種の技巧上の興味とから來てゐるので、それは前篇に既に述べておいたと同じである。もつとも古文學の學習は公家ばかりでなく、民間にも行はれてゐたので、幽齋門の貞徳がその中心のやうになつてをり、連歌もまた同じなかまで行はれてゐた。が、彼等とても實世間では公家と一種の連絡を有つてゐると共に、思想の上では何處までも舊い因襲を守つてゐるので、學問としては秘事や傳授を大切にし、作の上でもたゞ舊型を墨守するのみであつた。物語草子の類が、構想に於いても文章に於いても、概して前代のを摸倣してゐるのも、一つの原因はこゝにあるので、人物を大宮人らしくし、歌の贈答をさせ、その敍述に於いて典型的な七五調を反覆してゐることには、強ひて古典的色彩をつけ加へ、それによつて一種の興味を喚び起さうとする意味(476)もある。四人比丘尼に古歌をそのまゝ取つて物語中の人物の作としてあるなどは、一つは作者に創作の力の無い故もあらうが、一つはかういふ態度からも來てゐるらしい。
 漢文學に對してもまた同じ觀察をしなければならぬ。徳川の時代になつても、その初期ではなほ五山僧が舊來の地位を有つてゐたが、實社會に幾らかの關係の生じて來た儒教の流行に伴つて、今までは禅僧の遊戯であつた漢文學が漸次士人の手に移るやうになつた。惺  竃や道春のやうな儒者が漢詩漢文を作つたのみならず、學者でない石川丈山などもそのなかまに入つた。しかしこれはまた古語よりも一層實生活に縁遠い異國の語、而もその語の生氣のぬけた文字のみを學ぶのであるから、それは全く禅僧のと同棟、初めから遊戯性を帶びてゐる。少くともシナ文學の知識によつて養はれた特殊の思想を寫す特殊の技術であつて、文學としては一種の異國趣味と知識上のシナ崇拜とから來たものに過ぎない。漢字を取扱ふことに熟して來れば、それによつて或る程度まで思想をも感情をも表現することはできるが、しかしそれとても、興味の大半はその漢字を使ひこなす技倆、特に詩に於いては一定の律格にあてはめて漢字を組みたてる手腕と、並に歌を詠む場合にその詞と形態とに存する一種の古典的情調を以て自己を包むところに、特殊の趣があるのと同じく、漢文漢詩の用語と文字と形態との布するシナ的氣分の裡に自己を投入するところとにある。
 
(477)     第四章 文學の概觀 下
         文學の新氣運
 
 前章に述べたやうに、この時代の文學はまだ概して舊型がそのまゝに維持せられてゐた。けれども時代の趨向は文學の上にも何等かの影響を與へないではおかぬ。大觀すると舊樣の摸倣が各方面に行はれながら、下級のものが起つて上流のものを仆し新しい勢力が現はれて奮い勢力を打破つてゆくといふ戰國的精神は、文學の上にも見えてゐる。その第一は俚謠が文字に記載せられ、もしくは俚謠を作るものが現はれたことである。俚謠は何時の世にも無いことはないが、それが知識階級のものに顧られない場合には、文字の上には現はれない。それが文字に寫され、またはその作者として名のるものが出て來たのは、俚謠が知識人の注意を惹いたからのことで、それだけ民衆の力が認められ民衆的要素が文學の上に加はつたのである。さうしてそれは、民衆の生活を題材とした狂言が武人の間にも盛にもてはやされ、または第一章に述べたやうに民衆の踊が貴族の輩からも喝采せられたのと、同じ時勢の現はれである。事實、俚謠は狂言に多く取られてゐて「花子」などには特にそれが數多く見え、また盆踊とかこの時代に有名であつた北嵯峨の踊とかいふやうな場合にも、歌はれたに違ひない。
 さてこの俚謠の最初に集められたのは、永正戊寅(十五年)の日附けのある閑吟集である。たゞ閑吟集は俚謠を集めようとしたものではなく、當時の知識人の間に行はれてゐた種々の短い謠ひものを書きとめたものであるから、海道下りや放下僧や、或は「花見の御幸と聞えしは保安第五のきさらぎ」といふ類の、宴曲謠曲またはその他の謠ひも(478)の、或はその一部分を取つたものなどがあり、「春風細軟なり西施の美」とか、「ふたりぬるとも憂かるべし、月斜  窓に入る曉寺の鐘、」とかいふ詩の句らしいものさへある。この詩の句は主として禅僧の間から出たもののやうである。詩を直譯して朗吟することは、むかし貴族の間に行はれた朗詠に先蹤はあるが、この時代のはそれから繼承せられたものとは思はれぬ。常に漢詩を玩ぶものにかういふ遊戯の生ずるのは自然であつて、禅僧の娯樂としては適當なものである。江戸時代の漢學書生の間に詩吟の行はれたことが思ひ合はされる。閑吟集編纂の主旨がこゝにあるから、そのうちに取られた俚謠もまたさういふ知識人の間に用ゐられてゐたものに限つて掲載してあるらしい。それから文禄ころの人だといふ堺の隆達の名を負うてゐる隆達節の小唄集があり、それによつて戰國末期の、少くも畿内地方に於ける、俚謠を知ることができる。(隆達節のうちには閑吟集に出てゐるものがあり、「豐後や薩摩の殿たちに」といふやうな遊女の間に行はれてゐたらしいものもあり、明の全浙兵制に附載せられてゐる日本風土記に見えるものもある。また小説の恨之介には隆達節で「君が代は千代に八千代に」の歌を歌つたとある。隆達節の詞章にはこの人の作も少なくないであらうが、前々から謠はれてゐたものも含まれてゐることがこれで判る。隆達はむしろ節づけをしたものらしいが、隆達節といはれてゐるもののすべてが彼の手で節づけがせられたかどうか、俚謠として既に世に行はれてゐたもののあることから考へても、疑問がある。)またかのお國歌舞伎に用ゐられたもの、三絃曲の本手組破手組などに取られたものにも、この時代から行はれてゐた俚謠が多からう。
 但し閑吟集の俚謠はそれを悉く純粹の民謠としては取扱ひ難い。こゝに民謠といはずして故らに俚謠といつたのはこれがためである。それは民間にこそ行はれてゐても、その内容に古典的要素の多いものがあるからである。例へば(479)「葛城山に咲く花候よ、あれをよと、よそに思ふた念ばかり、」といふやうな、有名な古歌を改作したものがあり、また必しも古歌をそのまゝに取らないでも「花故に顯はれたよなう、あらうの花や卯の花や、」といふやうに、古典文學の因襲的思想乃至修辭法によつたものが見える。これらは多分京都あたりに行はれた俚謠であつて、その作者も古文學の知識を有つてゐたものらしい。山科言繼卿の記にこの人が踊の歌を作つたことが見えるが、同じやうなことは前から行はれてゐたであらう。閑吟集の編者は富士の眺められる田舍にすんでゐた世すて人だといふが、それは老後の話で、かういふ謠ひものを玩んだのは若い時に都にゐてのことであつたらう。だからこゝに集めてある俚謠は都に行はれてゐたものと思はれる。隆達節の集中にも「待つは慰むものなるに鳥はものかはと誰かいひけん」、「杜子美山谷李太白にも酒を飲むなと詩の候ふか」、といふ類があるのみならず、全體に詞章の上に俚語が少く、却つて古典的要素が多いやうに見えるのは、隆達であるかどうかは判らないが、知識人の作がそれに多いからでもあらう。俚謠を作るにも古典の知識を借りるのは、俳諧の歌に古歌によつたものがあるのと似てゐる。
 さて純粹の民謠は、概していふと時代的色彩を帶びてゐないのが常であつて、特にその題材などは何時の世のもほぼ同じやうなものであり、また流行り廢りは勿論あるものの、かなり長い間いひ傳へられ謠ひ傳へられるものである。けれども知識人の手に成つたもの、または都會に行はれ都人士の遊翫に供せられたものは、流行り廢りが割合に激しく、從つて時代的特色も農民の間に行はれるものよりは濃厚である。だからこゝでこれらの俚謠に一瞥を與へておくのも無用ではあるまい。(こゝでは閑吟集中の俚謠らしいものと隆達節とを同じに取扱ふ。隆達節として傳へられてゐるものでも、その詞章が彼の作でないものは閑吟集中のものと同一に見らるべきはずであり、また彼の作でもその(480)目的は俚謠として世に行はせるにあるからである。實際どれだけが彼の作であるか全くわからない。)
 先づ題材から見ると、その殆ど全部は戀であつて、自然の風物とても「うしろ影を見んとすれば、霧が、なう朝霧が、」といふやうに、多くは戀の道具に利用せられてゐる。「木幡山路にゆき暮れて、月を伏見の草枕、」とかいふやうなのも稀にはあるが、これはその詞章の上に古典的要素が多いことから考へると、知識人の作であらう。或は謠曲などから取つたものかも知れぬ。さて、その戀には「獨ねになき候ふよ、千鳥も、」とか、「いつも曉なく鹿は、逢はでなくねか、逢うて別をなくねか、」といふやうな、萬葉の昔を聯想させるものさへある。次にその表現法は、前に引いた「うしろ影」や、「それを誰が問へばなう、よしなの問はず語りや、」「あまりことばのかけたさに、あれ見さいなう、空ゆく雲の早さよ、」「たゞ置いて霜にうたせよ、科はの、夜ふけて來たが憎いほどに、」「鐘もなる夜もふける、あぢきなの我が身や、獨ねをする、」「夜ふけておりやるを今思ひ合せた、いとほしの君や、身がまゝならぬ、」などの直截な單純なものがあつて、それが興趣も深くまた民謠としてふさはしくもある。多分かういふ類のものが眞の民謠、即ち小唄と稱せられたものであつたらう。
 次に修辭上の工夫では「ふりよき君の情の無いは、冴えゆく月にかゝる村雲、」「梅は匂ひよ木立はいらぬ、人は心よ姿はいらぬ、」のやうな譬喩が最も目に立ち、中には「身は破れ笠よなう、きもせでかけておかるゝ、」(或は「身は破れ笠、きもせで、すげなの君や、かけて置く、」)「人はよいもの、とにかくに破れ車よ、わがわるい、」のやうに、一語を兩義に用ゐてその譬喩を説明したものが少なくない。これも昔から好まれてゐるもので、譬喩は記紀時代の歌から既に見え、一語を兩義に用ゐる言語上の遊戯は江戸時代以後の俚謠にも甚だ多い。けれども和歌に多く用ゐられ(481)てゐる「いひかけ」などは「君は月思ひ明石のうらみねば須磨の浦浪須磨の海」などの、古典的臭味を帶びたものの外にはあまり見うけず、縁語といふやうなものもない。これはかういふ修辭法が、筆に書くものに於いては因襲的になつてゐるけれども、耳にきくものとしては興味が無いからでもあり、本來貴族文學たる和歌に於いて發達した人工的のものであるから、俚謠としてはふさはしくない故でもあらう。和歌に於いてかういふ修辭法の盛に用ゐられた平安朝に於いても、神樂歌や催馬樂の中の民謠から取つたらしいものには、多く見えなかつたことが、思ひ合はされる。だから純粹の民謠には固よりそれが無く、俚謠として作る場合には、古典の知識を有つてゐる作者もそれを避けたのではあるまいか。なほ閑吟集には入つてゐず隆達節にも無いが、狂言の中に見えるものでは「十七八は竿に乾いた細布、とりよりやいとし、たぐりよりやいとし、……」(棒しばり)とか、「太刀佩いたも憎いか、小太刀佩いたも憎いか、弓かけたも憎いか、……」(節分)とかいふ疊語法があつて、これは前の卷に述べておいたやうに、上代の民謠にも行はれたものであり、中古でも神樂や催馬樂に取られた民謠(閑野、磯等、早歌、老鼠)にも見えてゐる。この時代の俚謠にもかういふ古今を一貫した民族的趣味は現はれてゐる。但し閑吟集や隆達節の小唄集には都會的また古典的趣味のために、かういふものは取られず、また作られなかつたらしい。
 古典の知識の俚謠に及ぼした影響は他の方面にもある。それは詩形の上の問題であるが、本來民謠は上代から形の定まつてゐないのが普通であつた。この時代のでも眞の民謠らしいものは、やはり同樣であつて、上に引いた四五の例、または「とがも無い尺八を、枕にかゞりと投げあてても、さびしや獨寢、」「帶をやりたれば、しならしの帶とて非難をおしやる、帶がしならしならば、……」といふものなどのやうに、閑吟集や隆達節の中にもその例は多く、ま(482)た狂言やお國歌舞伎や或は三絃曲の本手組などに取られてゐるものを見ても、それは判る。ところが、閑吟集中にも既に「磯すましさなきだに見る/\戀となるものを」、「君來ずばこむらさき我がもとゆひに霜は置くとも」、「よしやつらかれなか/\に人の情は身の仇よ(なう)」、「思ひ染めずば紫の濃くも薄くも物は思はじ」、「庭の夏草茂れば茂れ道あればとて訪ふ人もなし」、のやうに、一句の音數が七か五かに定まつてゐるものがあつて、隆達節には同じ類が多いのみならず、「夢になりとも情はよいが人のつらきを聞くもいや」、「ねてもさめても忘れぬ君を焦れ死なぬは異なものぢや」、などの七七七五といふ後世の都々一と同じ形のものがある。一曲の句數を定めまた七音か五音かに一句の音數を定めようとする傾向が見られるのである。定まつた形の無いものが後までも行はれてゐるのに、一方にかういふものが生じたのを見ると、これは俚謠としての自然の要求から出たのではなく、作者の古典の知識から來たことが推察せられる。こゝに擧げた例でも知られるやうに、かういふ形の定まつたものは詞章の上に於いても古典的要素が多いのと、「縁さへあらばまたもめぐり逢はうが、命に定めないほどに、」「月夜烏はほれてなく、我も烏か、そなたにほれてなく、」「逢ふは稀よひとりねは繁し、あの君故にあらぬ名の立つ、」「獨およらばまゐらうずものを、とすに雨ふり眞の闇なりと、」などのやうに、一音か二音かの添削をすると何の造作もなく何れかの形にすることができるものを、さうしないで置いてあるのとを見ると、ます/\この臆測の誤らないことが知られよう。なほ閑吟集では「めぐる外山に啼くく鹿は、逢うた別かあはぬ恨か、」となつてゐたものが、隆達節ではそれが崩れて前に引いた「いつも曉」のやうに四音の句があることになつてゐるのを見ても、實際歌ふ上には七音五音の定型がさして必要のないものであることが判る。ことばや音に少しづゝの違ひの生じてゆくのは、歌ふものとしては自然のことであるが、それが一句(483)の音數に拘束せられずして行はれるのである。歌ふ場合には音の伸縮がどのやうにもできるのが國語の性質だからである。つまり古典の知識を有つてゐる作者が、何となく七音とか五音とかに耳なれてゐて、詞章を作る時に(節をつけて歌ふ場合でなく)知らず識らずこの型にあてはめるやうになつたので、それは恰も七五調散文の作られたと同樣であらう。或は宴曲や謠曲のやうな謠ひものに七五調などのあるところから自然に馴致せられたのかも知れぬ。「生まるゝも育ちも知らぬ人の子をいとほしいは何の因果ぞ(の)」といふやうなもの、または三絃曲の「我が戀は千本小松の枯るゝほど鯛が水ひてほこり立つほど」(本手鳥組)、「山がらが籠の内での恨みごと籠が小籠でもんどり打たれぬ」(裏組錦木)、のやうな俗語調和歌ともいふべきものが作られたのも、その由來は同じであらう。だから純粹の民謠らしいものにはかういふ形のものが無い。
 かう考へて來ると、これらの俚謠には古典的分子が多いため、民謠としての價値が乏しいやうであるが、しかし平安朝末の今樣、鎌倉時代から室町時代にかけて一般に士人の間に賞翫せられてゐた謠ひもの、即ち宴曲や白拍子曲舞の詞章などは、何れも概して敍事的説明的のもの、または無意味に故事などを列べたに過ぎないものであつたのに、このころからかういふ抒情的のものが行はれるやうになつた、といふことは大なる變化である。閑吟集にはなほ海道下りや放下の謠や文字づくしのやうなものがあるが、それと同時に直截に戀を歌つた俚謠が數多く取られてゐる。隆達節に至つては、よしそれに古典的分子が含まれてゐるにせよ、一として抒情詩でないものは無く、詩形もまた緊張した利那の感情を歌ふにふさはしい短いもののみであつて、中には眞率な、素朴な、さうしてこの時代の人の特殊の氣分のよく現はれてゐるものが、少なくない。勿論、民謠としては何時の世にもかういふ種類のものがあつたに違ひ(484)なく、狂言などには既にそれが取られてゐて、「花子」の「雨のふる夜に」、「こゝは山かげ」、「秀句大名」の「雨のふるに」などは、甚だ興趣の深いものであるが、普通に士人の問に賞翫せられたものは、やはり舊くからの宴曲やうのものであつたことは、八十一番職人歌合などにも曲舞、白拍子、早歌うたひ、琵琶法師、などが擧げられ、應仁略記に宴曲(早歌)のことが出てゐるのでも知られる。それがこの時代になつて漸次變つて來たのである。語數の多いやや叙事的分子を含んでゐるものでも「暇乞ひには來たれども、碁盤おもてで目がしげゝれば、まづお待ちあれ、柴の編み戸も押せば鳴る、あはれ霰がはらほろと降れかな、そのまに、あゝ笑止や立つ名や、笑止と立つ名や、忍びの踊はおもしろや、」(三絃曲本手忍組)といふやうな清新なものがある。貴族文學として作られた昔からの長歌で、かういふものは殆ど無い。舊來の謠ひ物によつて抑へられてゐた純眞の感情が、こゝに至つてその壓迫を免れたのである。これは文化の大勢の上からいふと民衆的の俚謠が重んぜられて來たことを示すものであるが、思想の上からいふと、やはり自由に自己を表現しようといふ精神の現はれたものであらう。舊くからの型のある舞とは違ふ自由な原始的な民衆的な踊の流行したのも同じ時勢の趨向であり、また事實それが俚謠の發達に大なる關係がある。さうしてこの俚謠は、後の文學の上にこそさしたる直接の影響を與へないが、歌舞伎の主なる要素となりまた三味線と結合して、新しい演藝、新しい音樂、を作るやうになるので、演劇史と音樂史との上には一大變動を與へたものである。(三味線の用ゐられなかつた時代でも俚謠の曲節は舊來の謠ひものとは違つてゐたであらう。)鼓を主なる樂器とした白拍子曲舞の敍事的樂曲から抒情的の三絃曲に移つてゆくのが、恰も之と相伴つてゐる。(三絃曲には別に敍事的のものもできたが、こゝではこの一面についていふのである)。但し同じく民衆的のものでも、次に述べようと思ふ俳諧が客(485)觀的に事物を取扱つて滑稽を主としてゐるに反し、俚謠は抒情詩であるだけに、どこまでもまじめであると共に往々感傷的の氣分が伴ふ。同じく古歌や古典の詞章を用ゐても、俳諧ではそれを茶化してゐるが、俚謠ではさうはしない。これは戀を主題としたものが多いからではあるが、また古文學の因襲を脱しきらない都人士によつて作られ、主として都人士の間に玩ばれたものだからでもあらう。
 さてこの俚謠は徳川の世になつて三味線に上るやうになつた。三味線が物ずきに弄ばれたことは、天正ごろから既にあつたといふが、その演奏法が定められるやうになつたのは、やはり慶長のころからであつたらしい、俚謠の伴奏としてこの新樂器が用ゐられたのである。伴奏といつたけれども、初めのうちは盲法師の琵琶または前篇に述べた白拍子や曲舞や能の鼓などと同じほどのはたらきをしたに過ぎなかつたであらう。さうして琵琶を用ゐた盲法師の手になつたために、その曲には俚謠固有の奔放な情趣が損はれて、力の弱い陰氣なものになり、同じ俚謠でもお國歌舞伎で歌はれたのとは、その效果が?かに違つてゐたと推測せられる。しかしともかくもこの新音樂は、俚謠特有の抒情的性質をば矢はなかつたらう。が、本手組や破手組の如き組ものが定められて連絡も關係も無い數首の小唄が一つの組に結びつけられ、或は腰組の第六、忍組の第五、早船の第二、八幡の第一、などの如く、別々の歌が一曲としてつなぎ合はされるやうになつたのは、その抒情的性質が輕んぜられて來たことを示すものであつて、例へば松の葉の第二卷に見えるやうな後の長歌などを導き出す機縁になる。長歌は用語と音樂としての曲節とそれに現はれてゐる氣分とこそは違へ、詞章として見ればその古典的要素を含んでゐる點に於いても、敍述的説明的で一貫した思想も力強い情熱もない點に於いても、殆ど昔の宴曲や種々の謠ひものと同じ性質のものであつて、抒情詩を基礎として發達しか(486)けた新音樂がこゝで逆轉するやうになつたのである。さうしてそれと同時に、獨立した小唄、即ち單純な短い抒情詩として行はれるものに於いても、その形が後のいはゆる都々一の如きものに固まらうとする傾向を示して來た。
 なほ俚謠の形について一言しておくべきことがある。種々の踊り歌や地方唄が取られてゐる三絃曲の組みものに於いては、七七七五の形のものも少しはあるが、概して形は定まつてゐない。「吉原小唄總まくり」に出てゐる小唄には、かういふ地方唄などは少く、また一句の音數が七か五かに定まつてゐるものが多くなつてゐるが、それでもその句數や七音の句と五音の句との配置はさま/”\である。ところが異本洞房語園に出てゐる弄齋節といふやうなものは全くこの都々一の形であつて、閑吟集中の歌をそれにあてはめて改作したものさへも見えてゐる。さうしてこの形が上に述べた如く古文學の知識から出て來たものだとすれば、これはかの長歌の作られるやうになつたことと共に、民間から起つた自由な抒情的な俚謠が、定型化せられ知識化せられてゆくことを示すものであつて、後にいふやうに宗鑑に始まつた放縱な俳諧が貞徳によつて規則だてられ理智的になつたのと、同樣の現象ではあるまいか。小唄を三味線にのせることが行はれてからも、久しい間種々の他の形が用ゐられてゐたと共に、一節切にあはせたものにこの形に類似してゐるものもあるから、この形は三味線と特殊の關係があるとも思はれぬ。後には純粹の民謠にもこの形が一般に行はれるやうになつたので、それには詩形と共に曲節も一定せられる便利があつたからでもあらうが、さりとてそれとは違つて定形の無いものも甚だ多い。要するに、俚謠の形の一定せられるやうになるのは、文化の普及と共に古典の知識の影響が民間と地方とに及んでゆくことを示すものであらう。
  因みにいふ。筑紫箏の組みものは三絃曲のを摸倣して作られたに違ひない。たゞ樂器そのものが雅樂の箏から來(487)たものであるだけに、それを高雅めかさうとして詞章にも古語を用ゐたのである。從つてそれは無意味な古語の行列になつてしまひ、文學として何等の價値もなく、また初めから抒情的のものではなかつた。が、民間樂たるこの樂曲がかういふものに變化して來たのは、やはり奔放な野趣を厭ふやうになつて來た江戸時代の一面の思想が現はれたものであらう。筑紫箏の歌曲がもとは俚謠を取つたものであることは、糸竹初心集などによつても知られるので、雲井弄齋の如きも明かに俚謠である。古めかしい詞章を作つてあてはめたのは後のことであらう。
 
 ところが、この俚謠を別の方面に用ゐて、その自由な奔放な情趣を十分に發揮させたものがある。それは即ち歌舞伎である。歌舞伎は慶長八年ごろからお國の始めたものだといふが、それは一人か二三人かの女が當時の俚謠であつた小唄を歌ひながら踊るのであつて、能の囃めいた樂器の演奏がついてゐるが、踊の前後には幾らかの物まねとしての科白もあつたらしい(歌舞伎草紙參照)。小唄が主として戀の歌であるから、その物まねもそれにふさはしいもので、お國が男裝をして茶屋の女に戯れるやうなことを演じたといふのも、さういふことが放縱な當時の風俗に適合したからであらう。お國歌舞伎にはかういふ小唄及びそれに伴ふ踊と物まねとの二要素があるが、その名を踊といふところから考へると、物まねの方は後になつて附け加へたもので、またそれが附け加へられた後も、本體はやはり踊であつたに違ひない。さてこの踊の由來は何かといふに、それが小唄を歌ふのと、舞といはずに踊といひ、地謠なしに踊るもの自身が歌ふのとを見ると、前代から演藝として行はれた白拍子や曲舞やその他の舞から系統を引いたものではなく、民間の踊から來たものであることが推測せられる。第一章に述べたやうに、戰國時代から京都附近には盆踊(488)がひどく盛になつたが、それにつれて種々の地方的の踊もその踊り歌も流行して來たであらうから、お國はそれを一層官能的な花やかなものとして演じ、それによつて喝采を博したらしい。勿論その小唄にも踊にも新作があつたらうが、その趣味は從來行はれてゐたものと同じであつたに違ひない。笛や鼓の囃は、たゞ踊を調子づけるために當時の演藝に附きものであつた樂器を應用したのみである。或は前から民間の踊に於いても用ゐられてゐたかも知れぬ。ところで、この踊と小唄とは本來抒情的のものであるから、俚謠が今樣以來の敍事的な謠ひものと全く異つた新要素を歌曲の上に加へたと同じく、またそれにつれて、舞踊の上に新しい天地を開いたものであつて、長い間舞容の形式美のみに目を奪はれてゐた公衆が、こゝに至つて始めて血がめぐり脈が躍る活きた踊を演藝として觀ることを得たのである。その上に、それが女の艶かな肉聲や嬌かな姿態となつて現はれ、また能のとは違つて浮き立つやうな鼓の音が添へられるので、一層官能的になり刺戟的になり、後にはまたそれと共に挑發的な物まねを演じたので、遊樂の氣の張つてゐる當時の都人士はます/\それを歡び、「夢の浮世にたゞ狂へ」と熱狂してそれに趨いたのである。猿若の物まねがお國時代からあつたものならば、この低級な滑稽は却つて觀客の氣分を一層浮き立たせたのであらう。要するにお國歌舞伎は放縱な戰國的氣風の間から生まれたものである。
  お國とその歌舞伎とについては種々の傳説があるが、多くは信じ難いもので、名古屋山三の話などもその類である。また歌舞伎事始の記載の如きは、一見してすぐに妄誕であることが到る。これは歌舞伎の起原をこと/”\しくしようとするための捏造説が多いからである。なほお國歌舞伎と民間の踊及び俚謠との關係は、歌舞伎草紙に見える小唄に忍び踊の名があつて、それが三絃曲の本手忍組に取られた俚謠と同じであることなどを見ても判る。この(489)草紙にはまた因幡踊の名も見えるが、これも狂言の靱猿や三絃曲の本手飛騨組に出てゐる飛騨踊と同じやうに、やはり民間のものであらう。(後にも柴垣とか岡崎とかいふ踊の歌曲がもてはやされた例がある。それらは唄ばかりになつたのであるが、この時のは踊そのものが用ゐられたらしい。)北村季吟の次嶺經やかの東海道名所記などにお國が演じたと記してあるやゝ子踊といふのは、どんなものか判らないが、それと共に踊つたといふ大原木はその唄が明かに俚謠であることを考へると、やはり民間の踊をまねたものらしい。林道春の徒然草野槌などによると、僧衣を着て念佛踊をしたこともあるらしいが、これも宗教的の意味のあるものではなく、娯樂として民間に行はれてゐた念佛踊をまねて、その他の踊と同樣に演じたまでのことであらう。念佛踊の遠い起源を考へれば、念佛鼓吹の方便として始められたものではあらうが、後には全くの娯樂になつてしまつたので、一乘寺の念佛踊のことを記した言繼卿記の一節を見ても、當時の有樣がわかる。かの有名な北嵯峨の踊なども、或は嵯峨の大念佛と關係があるものではなからうか。何れにしても、念佛踊が民間の踊の一種であつたことには疑ひがあるまい。但しこの歌舞伎にも、古い演藝から傳はつた分子が添加せられてゐないのではない。東海道名所記には「絲より」を演じたとあつて、それが果して延年舞の同じ名のものと關係があるかどうかは明かでないが、猿若がもしお國時代からあつたのならば、それは能の狂言から脱化して來たものに違ひない。なほ附言しておくが、「かぶき」の名義についても「かぶきもの」とか「かぶきたる風」とかいふのと同じ意義であるやうにいはれてもゐるが、この意義での「かぶき」は形容詞または副詞には使はれたが、名詞としては用ゐられなかつたやうであるし、踊の形容としてこの語をつけるのも奇異な感じがするから、これはやはり歌舞伎の文字のまゝにとつた方が穩當であらう。かういふ新語を(490)作るだけの文字の知識は當時にもあつたと考へられる。「かぶきの大將」といふやうな語もあるが(寒川入道筆記)、この「かぶき」は「かぶきもの」の略稱であらう。お國歌舞伎が何時まで行はれたか確かには判らぬが、慶長の末にはそれを學んだらしい遊女の歌舞伎が規はれ、寛永の初めまで續いた。慶長見聞集によると、それには多人數の席があつたらしいが、これは盆踊などから繼承せられたものらしく、三味線が樂器に加はつて小唄の抒情詩的效果が強められたことと共に、お國によつて創められた新演藝の精神を一層發揮したものである。また新猿樂記の昔を想起させるやうな猿若の物まねもやゝ發達して、踊と離れて獨立する傾向があつたらしい。女歌舞伎で能を演じたなどはほんの餘興に過ぎなかつたらう。この女歌舞伎にやゝ後れて現はれたのが、元和寛永の時代を通じて行はれた若衆歌舞伎であるが、その演藝は女歌舞伎と大差がなく、やはり小唄を歌つて踊つたのであり、多人數の踊も、少くとも上方に於いては、行はれたであらう。明證は無いやうであるが、後の歌舞伎時代になつて一座の大踊とか脇踊とかいふことのあるのは、この時代から傳承せられたものと推測せられる。但しこゝに注意すべきは、物まね即ち狂言の方がこれから次第に進歩もし勢力をも得て、新發知大鼓といふ類のものが演ぜられるやうになることである。これは主として能の狂言を當世風に變改したものであるが、その狂言の結末が囃や小舞になつてゐるもののあることから誘はれて、この新しい狂言にも踊が結合せられたらしい。ところがその踊は、狂言が能に附隨したものを學んだところから來た自然の趨向と、また從來の踊があまりに單純であつたので、それに新工夫を加へる必要があることとから、古い舞の分子を加味することになつた。そこで一種の技巧を具へた新しい踊ができ、從つて音曲も抒情的な小唄とは趣の違ふ敍事的分子の加はつたものになり、特に江戸では(491)いはゆる江戸長唄が發生し、またそれによつて所作事の端緒が開かれるやうになる。かうなると踊り手みづからの歌ふことが廢れて、地謠がそれに代つて現はれる。さうして小唄とそれにつれての踊とは漸次舞臺から消えてゆき、踊のみはいはゆる大踊などに纔かに面影をとゞめるほどになつてしまふ。こゝでお國に始まつて遊女の歌舞伎に傳はつた歌舞伎の精神は一轉し、抒情的性質は漸次うすれてゆくやうになつたのである。この傾向は上に小唄について述べたところと同樣である。
 かういふ事情で、抒情的の小唄とそれに伴ふ踊とから起り、そのころの遊樂の風に乘じて行はれ、またそれを煽つた歌舞伎は、却つてその附屬物であつた滑稽な物まねから發達した新しい狂言に勢を奪はれたのである。が、若衆そのものが既に遊樂の一對象であるのみならず、後にはいはゆる傾城買または島原狂言となつて新しく發達してゆく寫實的の演劇そのものの内容として、この遊樂の氣分が盛られるやうになる。また蹄と滑稽との分子も決して無くなつたのではなく、踊は上に述べた如く性質を變へて存在し、滑稽も劇中に組みこまれるのである。同じく劇として發達するにしても、小唄と狂言の對話とを、能に前蹤のあるやうに、吟唱と白との形で結びつけ、歌劇風のものを作り出すことができさうなものであつたのに、さうならなかつたのは、一つは昔の世阿彌のやうな作者が出なかつた故でもあらうが、一つは時勢のためでもあらう。昔の猿樂の發達の有樣に比べて見るに、猿樂はもと寫實的の物まねが主であつて、歌舞は物まねの一種として纔かに存在してゐたのであるが、後にはその方の分子が多くなり、さうしてその歌が古典的となりその題材が歴史的のものとなつた。然るに歌舞伎はむしろ反對の方向をとつて、本來の唄と踊とは次第に勢を失ひ、寫實劇の分子が加はつてゆくのである。猿樂は社會の下層から生まれ、それが地平線上に現はれる(192)と共に、在來の種々の演藝に結びつき、當時の古典尊重の空氣に包まれて、あのやうな形のものとなつたのであるが、歌舞伎は、古いものが古いものとして尊崇せられながら、それが現實の生活から離れたものとして特別に取扱はれ、または儀禮として用ゐられるやうになつた時勢だけに、現實の生活をそのまゝに現はす寫實劇が要求せられる氣運に際會したのである。歌舞伎が俚謠と民間の踊とから出立したのも、その物まねが能ではなくして狂言を繼承したのも、やはりこの時勢を示すものであつて、これもまた戰國の世を經過したために生じた變化である。歌舞伎の踊が前代の舞と結合しても、猿樂の歌舞が古典化せられたのとは違つて、むしろそれを當世化してゐる。しかしともかくも歌舞伎が古い舞や謠ひものと結合しなくてはならなくなつたのが、この時代の一般の風潮に應ずるものであつて、上に述べた如く三絃曲に於いても同じ傾向を示してゐる。
 俚謠や民間の踊が世に現はれ、民衆的要素が文藝の上に勢力を得て來ると共に、古典文學を當世化し高雅とせられてゐたものを卑俗化する運動もまた行はれたが、これもまた舊來の秩序を破壞してゆく戰國的精神の一發現である。さうしてそれが最も守舊的な歌連歌の世界に於いて生じたのは、偶然でない。歌連歌といふ高い天上の別世界に心を遊ばせて、物騷がしい殺風景な現實生活の外に一脈の優しみと温かみとを求めようとするものがあると同時に、それをおのれらの生活してゐる現實世界に引き下ろさうとするものが生ずるのは、むりの無いことであらう。しかしそのもとになつた歌連歌が本來實生活から懸け離れた遊戯的のものであるから、よしそれを手近いところに引きよせたにせよ、この遊戯的態度を變へるまでにはならなかつた。思想の上から見ると、却つて一層遊戯的に實生活を取扱ふや(493)うにさへなつたのである。
 この新しい歌連歌はいはゆる俳諧體である。和歌に言語上の滑稽を目的ともし明らさまに見せてもゐる俳諧の一體が昔からあつたことは、いふまでもなく、連歌の發生も實はそこに胚胎したといつてもよいのであるが、その連歌が後には却つて俳諧の域を脱して來たことは、前篇に述べておいた。古今集の俳諧歌は、全體に言語上の遊戯を弄ぶ傾きのあるこの時代の普通の和歌と比べて、效果の上にさほどの差異も無いやうに今人には感ぜられるが、それは一つは用語が何れも當時の口語で、今人の耳には同じやうに縁遠くひゞく故でもあるので、俳諧歌は故らに滑稽にいひなさうとする作者の態度と滑稽の程度とに於いて、普通の歌と幾分の違ひはあつたらしい。ところが、口語の變遷によつて上代の口語であつた歌詞と日用語との間に區別が生じて來ると、昔ならば滑稽に聞えた言語上の遊戯としての修辭法が襲用せられても、その詞が既に耳遠くなつてゐるために、事實上滑稽とは感ぜられない。もしそれを滑稽と感ぜさせようとすれば、歌詞ならぬ日用語を用ゐねばならぬ。それと共に歌の題材が一定して來てゐる後世では、歌にはならないとせられてゐる題材を用ゐると、そこに別樣の滑稽が生じもする。さういふ歌はその思想や用語そのものには滑稽の感を起させる要素は無いが、型にはまつた歌詞が用ゐられるもの、因襲的の花鳥風月と神祇釋教戀無常とが詠まれるもの、と豫想せられてゐるところに、突然日常語を聞かされ歌らしくない事物を見せられるため、形態と内容との矛盾を感じてそれが滑稽に聞えるのである。さうしてこゝに上にいつた戰國的精神が現はれてもゐる。それに加へて言語上のだじやれなどを用ゐると、滑稽の感は一層強くなる。一方では歌が幽玄なもの實生活から離れた別世界のものとせられて來たと共に、他方ではかういふ滑稽の歌が歌人の遊戯として作られたので、落首などもその一(494)例である。職人歌合とか調度歌合とかに見えるものも、やはりこの部類に入れてよからう。それによつて好笑的趣味が滿足せられ、また實生活に關係のある、歌にはよめない、思想を歌の形によつて表現することができるのである。が、おも正しいものとせられてゐる歌を滑稽化し遊戯化するこの態度は、おのづからその取扱ふ事物そのものをも、滑稽祝し遊戯視するに適するので、このころから後の狂歌とか俳諧歌とかいふものには、概ね當時の世相なり自己自身の行爲なりを傍觀的態度で茶化してゐる。永正五年の日附けのある狂歌合にその好標本が見えるので、これは「世にそむける食客ども」の戯に擬して作られてゐるだけに、「今朝照らす日なたぼかうに貧乏の神代の春や立ち返るらん」といひ、「今は世にめたと醉ひたる我なれど酒が無ければ斷酒をぞする」といふやうな風のものである。さて和歌界の一隅にかういふ現象があるとすれば、歌と同じく高尚なもの幽玄なものと考へられ、その詞も概して歌詞を用ゐるやうになつて來た連歌界に於いても、また同じ氣分によつて同じ遊戯が行はれて來るのは、自然の趨向である。特にすべての事物に對して傍觀的態度を取り、客觀的にそれを敍述する傾向のある連歌は、思想の上からもかうなるには適してゐる。歌人連歌師の間に俳諧の歌や連句が弄ばれるやうになつたことについては、歴史的にはかういふ事情がある。(俳諧の名はこのころでは歌にも連句にも用ゐられた。歌の方には別に狂歌の稱もあつたが、俳諧が連句ばかりの稱呼となつたのは、もつと後のことである。)
 この傾向の大なる代表者は宗祇の門人の宗長であらう。宗長手記や宗長日記の到るところにそれが見える。「いづくもる木柴炭たえ茶湯たえ味噌鹽しらぬ雨のつれ/”\」などは、故らに言語上の滑稽を弄したのではないが、我と我が身を嘲つたやうな傍觀的態度があることと、俗語を用ゐて歌にはよまぬ日常生活を詠じたこととによつて、滑稽の(495)感が生ずる。長歌風のものに「めしおあし、にごり九こんも稀れ/\に、」とか「夕顔白き垣つゞき、小家がちなるあたりにて、市女あき人さりあへず、菜候いも候なすび候、白瓜候と聲々に、」とかいふのも、やはり同樣である。その他「福は内へいり豆の今夜もてなしを拾ひ/\や鬼は出づらん」などは、鬼が豆を拾つてゆくといふ滑稽的觀察の外に「いり」のいひかけによつて言語の上にも滑稽が見える。これは歌に於いて常に用ゐられる修辭法ながら、俗語だけに歌ではさまでに聞えない滑稽が強く耳に響くのである。なほ「すゞか山ふりすてぬ身の悲しきは老かゞまれる腰をかゝれて」、「鏡山いさ立よりて見てゆかじ年經ぬる身はおしはかるなり」、など、古歌をもぢつた滑稽も多いが、これは上にいつた狂歌合にも例のあることで「狂歌には態此風を用侍る也」といつてあるし、後世の狂歌には殆ど無くてはならぬ必要の手段とせられたものである。古歌を思ひ浮べてそれから生ずる一種の氣分を豫想してゐるところへ、突如として異樣のものが現はれて、意外の方向へそれを外らしてゆく點に滑稽がある。それから連句としても、宗長手記に「爐邊六七人集て田樂の鹽噌の次で」に戯作した俳諧があつて、その材料には兒も若衆も乞食も高野聖も茶屋坊主も、さては後家のなつた浮かれ君も密夫もあり、さうして馬に乘つた人丸にも金覆輪の源九郎にも、歌聖や英雄の面影は消え失せ、梅が枝にも菊の花にも古典の色や香は無くなつてゐる。これは恰も狂言の古人の取扱ひかたと同樣であるので、その滑稽は「不動も戀にこがらかす身か」と恐ろしい不動明王から宗教的威嚴を剥ぎ取つて戀にうき身をやつさせると共に、それに言語上のだじやれを結びつけ、また或はこゝに引用しかぬるやうな卑陋な事がらを露骨にいつて低級な笑を求めたりする點にある。
 ところでかういふ俳諧には、歌のでも連句のでも、その題材に主として人事が用ゐられる。自然界の現象を捉へて(496)も多くは人事を配合する。本來滑稽は人間界のことだからである。自然界の現象そのものに滑稽は無いから、それを滑稽的に觀察しまたはいひなすには、人事を配合すると共に言語上の滑稽による外は無い。「夏の衣の破れかや堂立ち出でて」(宗長手記)の類が俳諧とせられたのは「破れかや堂」を見つけたのとそのいひかたとのためであらう(前句との關係にもあるが)。が、かういふものは用ゐなれると滑稽には聞えなくなる。ところで短い歌や連句に於いて人事を材料とし、さうしてそれを滑稽的に取扱はうとすれば、よほど高い趣味と深い思想とを有つてゐるものでなくては、そこに理智の働きが多く加はつて來る。特に連句に於いては、付けかたが「心づけ」でなくして言語の縁にたよる傾向を生ずる。題材そのものに對する態度は連歌固有の性質として傍觀的敍事的であるが、その取扱ひかた結びつけかたが主觀的理智的になる。前篇に述べたやうに客觀的敍述の方向に進んで來た連歌が、こゝで逆轉するやうになつた。さうしてそれが、言語上の滑稽から發逢して却つてその境地を脱し去つた連歌そのものが、この俳諧體によつて再びもとの滑稽に立ち還つたのと、相伴つてゐる。宗鑑の犬筑波集を見るとそれがよく判る。
 犬筑波集には宗鑑と同時代の連歌師の作もあるらしく、兼載宗碩などの句として知られてゐるものもあり(守武千句跋文參照)、また菟玖波集を摸倣したらしい名稱からもさう推測せられるが、故らに付けにくい前句を撰んだ形跡のあるのと、前に引いた宗長手記にある俳諧と同じ前句のあるのとを見ると、その大部分は宗鑑の作であつて、編纂の主旨は前句に對する付けかたの技倆を示すためであつたらう。さてその付けかたを見るに、先づ目に立つのは純粹に自然界の現象を材料としたものの殆ど無いことである。「山郭公穴になく聲」に「夏の衣の空を狐に化されて」とつけ、「すい/\風の萩に吹く聲」といふに「啼くく蟲もむかばやぬけて弱るらん」とつけたなどは、それに近いもので(497)あるが、それでも狐に化されたり蟲の齒がぬけたりしたところに人間らしい點があるので、作者の着想はそこから生ずる可笑しみにある。「蜻蛉に似たる蟲飛ぶ須磨の浦」も「問ふ人あらば虻と答へよ」といはれる。「大長刀に春風ぞふく」は既に人事的要素が加はつてゐるが、「辨慶も今日や火花を散らすらん」とつけると、もはや春風どころでない。「雲の腹にもつくる膏藥」に「月星は皆はれ物の類にて」といふに至つては月も星も雲も下界に引き下ろされて汚い腫物やみにせられてしまつたのである。一句としても「花にぬる蝴蝶は雨にたゝかれて」、「花を風ちりやたらりと吹き立てゝ」、「田子の浦にうち出て見れば茶屋も無し」、など何れも人間化せられ人事を交へてゐる。四季の部に句數が少くて雜の部が非常に多いのでも、かういふ俳諧作者の趣味が知られよう(雜の部にも李のあるものが少しはあるが)。
 ところで、噴く蟲を齒ぬけにし、雨に蝴蝶をたゝかせ、雲に膏藥をはらせるのは、これらのものを作者と交渉の無い遠いところに置いてそれを眺めてゐるのであるが、決して自然をそのまゝに見るのではない。さうしてその取扱ひかたは甚だ理智的のものであつて、例へばすい/\風が吹くには齒をぬかねばならぬからのことである。さてかういふやうな自然の取扱ひかたをすることになると、句のつけかたもいはゆる心づけではなくなる。「武さしをさして飛んでこそゆけ」に「辨慶がつぶりも蜂や知らざらん」とつけるやうに言語にたよつたもの、または「淋しくもあり淋しくもなし」に「世を厭ふ柴の庵に錢もちて」といふやうな理窟に墮したものが多くなる。宗長が彼みづからの付け句を宗鑑のと比べて「心付け」の點に於いて優つてゐるといつたのも、この故であらう。これは發句としても「なべて世にたゝくはあすのくひなかな」または「白山の神の本地や雪佛」のやうなものを好んだこの作者としては當然で(498)あらう。また「無念ながらも嬉しかりけり」に「去りかねる老い妻を人に盗まれて」とつけ、「斬りたくもあり斬りたくもなし」に「盗人を捕へて見れば我が子なり」とつけたやうに、人情を穿つたといはれさうな句もあるが、それも實は前句から理づめで引き出したことであつて、むしろ虚僞である。この點に於いて犬筑波は昔の三代集時代の歌や後世のいはゆる月並調の俳句を聯想させる。俳諧の系統に於いては貞徳などがこの一面から出發したものらしい。
 しかし犬筑波集を通覽して興味の感ぜられるのは、同じく言語上の縁にすがるにしても、「八幡の山を拜む尼御前」に「今こそあれ我も昔は男して」とつけるやうに、突如として意外の方向に着想を轉換させることであつて、これなどは、付け句そのものに於いて既にそれがある。一句としても「高き屋に上りて見ればやけにけり」、「人間萬事詐はれる中」、などにはやはり同じ態度があり、「大般若はらみ女の祈?して」、「あのくたら三百餘騎を引具して」、に至つては、それにいひかけの遊戯が加はつてゐる。後の談林調はこの一面を極度に發展させてゐる。前句の着想をかけ離れた方向に轉換することは、連歌に於いて自然に養はれて來たことでもあり、また一首の歌としてもいひかけの技巧によつて常に行はれてゐることであつて、そこに輕快の感があり、場合によつて滑稽にも聞えるので、發句に於いて「佛壇にほそんかけたかほとゝぎす」といふやうなものを作つてゐるのは、この趣味からである。が、こゝに擧げた俳諧ではその轉換があまりに方角違ひであつて、特に内容の上では莊重なものが突如として輕いものになり、高い地位のものが低いところに落されるために、滑稽の感が一層強い。さてこのまじめなものを茶化すのが、思想の側から見た俳諧の特色であつて、言語上の滑稽は無くても「來迎の阿彌陀は雲を踏みはづし」といひ、「彩色の佛の箔はみなはげて」といひ、または「乾瓢になる夕貌のやど」といふなど、みなその例である。「足洗ふ手洗の水に月さして」(499)なども、作者の考では月の光の新しい風情を見つけたよりは、むしろ清らかな月かげをきたないところにさゝせ、天上の月さへも茶化したのであらう。戀を茶化してゐることは勿論である。
 犬筑波集は單に一句づゝの付合を編纂したものに過ぎないが、一卷の連歌に於いても同じ態度で作られることがあつたらしく、荒木田守武の獨吟千句の跋によつて、さう考へられる。この千句は後に遺つてゐるかういふ連歌の最初のものであらうが、かゝる連歌の最初の作ではなからう。さてこれは一卷をなしてゐるだけに種々の要素を含んでゐるが、概觀するとその傾向は犬筑波集の句と同樣であつて、甚しく卑陋な句の少いのがそれと違ふのみである。「花さく山に喉はかはかじ、み吉野の茶のむの雁や歸るらん、すきの間なれど春のふる里、」「曉の秋の嵐のうちあてて、露心得ぬながめするなり、」「ひつこめと川風寒み日は暮れて、頭巾大きに千鳥なく聲、」などによつて、自然を人事化し、高雅とせられたものを卑俗化し、古句を茶化し、だじやれを多く用ゐ、風情よりも言語によつて付け、また理智のはたらいてゐる有樣が、ほゞわからう。「小町戀ふ四位の少將狸にて」、「枕よりあとよりこひと鮒と來て」、「久方の天つ乙女の鼻のさき」、の如く、戀も美人も滑稽化せられてゐることは、いふまでもない。これらの態度には能の狂言にその先驅のあるものもあるが、狂言は行動の上にそれを示したのに、連句では言語の上に現はれてゐるところに違ひがある。狂言と連句の性質がさうさせたのである。
 さてこの萬事を茶化す態度は、後にいふやうに戰國時代の思想の一面をよく現はしたものでありながら、徳川の世に入つてもます/\流行して來るが、高雅なものを卑俗化しまじめなことを滑稽化するのも、概言すると過去を破壞し權威を破壞する戰國時代の精神の現はれである。犬筑波集の戀の部に甚しき猥雜の文字を用ゐたもののあることに(500)も、やはり同じ精神が見られる。(但しそれでゐて挑發的な感じが無いのは、取扱ひかたが遊戯的滑稽的で、全體の態度が傍觀的だからである。)「伊勢源氏」の風情を學ばうとしてゐる連歌には取られなかつた辨慶や曾我やその他の武士を自由に捉へて來たり、眼前の事物をすべて題材にしたりするのが、因襲的權威に對する戰國的破壞思想、貴族文學に對する武士的民衆的態度であることは、いふまでもない。俳諧そのものによつて一篇の句集ができ一卷の連歌が作られるといふことが、既に高雅なおも正しい歌連歌を卑近にし滑稽化し遊戯化するものであつて、それが即ちかういふ時勢の反映でもある。しかしかういふ態度を取りながら、なほ古歌古句を弄び「源氏」や「伊勢」を棄てかねる點に於いて、實社會には自由な放恣な空氣が全體に溢れてゐながら、思想の世界ではなほ古いものに拘束せられねばならないほどに内容が貧弱であつた、この時代の面影が見られる。文學を民衆化しながら、それをまじめのものとはしないで、どこまでも遊戯的滑稽的に取扱つてゐるのも、また本來實生活とは縁遠い歌連歌の遊戯文學の因襲を脱することができないからであつて、前にも述べた俳諧發生の歴史から來た必然の趨勢である。
 以上は文學としてはさしたる價値のないこの時代の俳諧について言を費し過ぎた嫌はあるが、これは和歌連歌から一轉してかういふものの作られたのが、時代の氣風の現はれたものとして興味があるのと、今一つは後世になつて文學の特殊の形態として大に發達したいはゆる俳句の淵源がこゝにあるのとのためである。さて宗鑑や守武を繼ぐものは暫く現はれなかつたが、これは文學を翫ぶものの間には古典崇拜の思想が容易にぬけないので、連歌が尊ばれた故であらうか。それを徳川の世になつて復活させたのが貞徳である。文藝が漸次民衆化せられてゆく趨向と、太平の民が消閑の遊戯を求めて來た時勢とに投合したのであらう。だから同じく俳諧を標榜しても、それに對する態度は宗鑑(501)などとは違つてゐる。宗鑑には根柢に於いて世上の萬事を滑稽視する態度があつた。貞徳はたゞ遊戯文字を弄するのみである。宗鑑には古典を當世化し高雅なものを卑俗化しようとする破壞的態度があつた。貞徳は初めから卑俗の地にあつて、むしろそれを意味深げに見せようとする。宗鑑が一種の隱遁者であつたのと貞徳が俳諧を職業としてゐるのと、戰國時代と太平の世との相違がこゝにある。さうして貞徳が宗鑑のあまりに放縱な態度を攻撃し、また御傘を著し、連歌に擬して俳諧の式目を定めたことが、一つのまとまつた技藝とするに必要な要求ではあるものの、おのづから社會の固定してゆく時勢に適合するのであつて、前に述べた小唄や歌舞伎の變遷と相伴つてゐる。彼の門人の徳元の書いた俳諧初學抄に卑俗を避けることを力説してゐるのでも、彼等の態度が知られよう。その實彼等の作には宗鑑に讓らない野卑なものがあるのみならず、宗鑑の如く放逸でないだけに却つて醜陋の感を深くする傾がある。
 貞徳の作については多言を費す必要が無からう。その目的は俚語を用ゐて言語上に理智的の可笑しみを求めようとするところにあるので、いはゆる誹言がそれである。發句についていふと、そのをかしみを求める修辭的技巧は、多く縁語を用ゐ、二語を兩義に使ひ、または音の類似などを利用するところに生ずる言語上の滑稽であつて、「霞さへまだらに立つや虎の年」、「木だちには過ぎたぞ花の大つばき」、「雲霧や芋明月の衣かつぎ」、「つゞりさせとちゝ/\なくやきれ/\す」(以上犬子集)、といふやうなものである。いひかけなどをも用ゐるけれど、「先づかつぐ頭はかんなづきんかな」(同上初冬)といふやうに、いひかけそのものをしやれとして、そこに興味の焦點を置いてゐる。(このころに行はれてゐた狂歌の趣味もほゞこれと似たものであるが、それには本歌をもぢるといふことが少なくないので、それだけが違ふ。)連句の方でもそのつけかたは理智的説明的で、やはり多くは言語上の縁を求めてゐる。「碁盤の上(502)に春は來にけり」に「宵のとしの舞は三番能二番」、または「歌合せ十首過ぐれば四方拜」(油かす)、とつける類がそれである。從つてその姿は重くるしい。宗鑑の後を追つて多く人事を材料にするが、世に對し事物に對して彼の如き滑稽的態度が無く、彼の如き奔放の趣が無い。卑陋な材料を用ゐながら故事古語を盛に利用し、説明が無くてはわからない謎のやうな句を作り、また付けかたをする。連句のうちには自然界を賦することもあるが、新しい觀察も情味も見えない。觀相と趣致とよりは理智のはたらきが主になつてゐる。この點に於いて彼の風體は、周阿時代の連歌や遠くは古今集時代の和歌の一面と趣を同じうしてゐる。たゞ何物に對しても傍觀的態度でそれを取扱ふことは、連歌以來の特質であつて、和歌の多く主觀的なのと違ふ點である。要するに彼の作は文學としては價値が甚だ乏しいが、たゞ民間文學として俳諧を世に弘めたことと、民衆的ながらに、また可笑しみが主でありながらに、それをおも正しいものとしたこととは、彼の功績であつて、宗鑑の句のやうに放縱な茶化したやうな趣が無いだけ、まじめな文學として發達すべき素地がそこに築かれたのである。その材料にあらゆる人事を遺すところ無く取り入れ、古文學についても「伊勢源氏」の古典を用ゐると共に、謠曲幸若狂言小唄などを自由に使つてゐるのも、宗鑑守武以來のことではあるが、文學の材料の範圍を擴げた點に於いて、後にいふ尤の草子や東海道名所記などと同樣、平民文學の發達の上に大なる貢獻をしたものである。
 だから貞門の諸子に至つては、大體は師風を守つてゐながら、その個人的特色と時勢の趨向とによつて、幾分かづつ新しい方面に進んでいつた。特に貞室の如きは「御手洗や浪間の月に茶を賣りて、踊のかへさ松崎あたり、初秋のばら/\雨は岡つゞき、一度に渡る小鳥大鳥、」(正章獨吟千句)などの例でも知られるやうに、その情趣と句法と自(503)然界の觀察とに於いて、後の蕉風の先驅ともいふべきものを作るやうになつた。自然界に於いても新しい材料と風情とをみつけてゐる。これは貞徳のまじめな一面から出立して、理智と言語上のしやれとから遠ざかつて來たのである。もつとも強ひて卑陋な事物を花にも月にも配合して、低級な滑稽を求めたものもあるが、それでも貞徳よりは幾らか進んでゐる。また慶友の如きは、別に狂歌を好んだ關係もあらうが、滑稽の方面を發達させてやゝ輕快の句を作り、次いで起るべき談林調に近づいていつた。「朝倉や木の丸つぶの青山椒」、「綸言の汗をあふぐや大うちは」(犬子集)、などは、忽然として意外の觀念に轉じてゆくところが宗因得意の手法に似てゐて、即てまた宗鑑の遺風である。同じいひかけを用ゐても、それによつて無關係な觀念を卒爾として維ぎ合はせるのが貞徳などとは違ふ點である。立圃句集にも二三これに似たやうな句が見える。實際、談林の建立は貞徳の理智的傾向と平凡との厭かれたに乘じて、一たび宗鑑の昔に立返ると共に、更に別樣の新旗幟を翻したものであつて、それには寛文時代の時勢の影響もあり、從つてまたおのづから一種の處世觀が伴つてゐる。が、それはむしろ次の時代の新しい現象として説くべきものであらう。
 さて貞徳によつて唱へられた俳諧の一體は、平民文學として廣く世に行はれるやうになつたらしく、犬子集が國々所々から到來の句を以て編纂せられたのでも、それが知られる。狂歌の流行したのもこれと同じ現象である。發句が獨立のものとして見られるやうになつたのも、この時代からのことらしく、犬子集には連句よりも發句を先にしてゐるほどであるが、それは連歌に於いて、またそれから轉じて來た俳諧の連句に於いて、發句が自然に獨立するやうな形になつて來たからではあるものの、また俳諧が民衆文藝として廣く地方にも行はれるやうになつたのが、その一原因であらう。地方の民衆では百韻などは容易に興行せられないから、發句だけを作るのが便宜である。さうして古典(504)的の歌を作るだけの知識の無いものには、その代りとしてもこれが歡迎せられたであらう。
 
 以上は戰國の破壞時代、自由な放縱な時代に於いて、民衆の間から起り、もしくは民衆化せられた文藝が、徳川の世の固定時代になつて、却つて舊要素を加へて來た情勢を考へたのである。ところがその徳川の世に入つてから、一方では、古典文學が當世化せられ、古いものから新しい文學が生まれかけて來た。それは物語草紙の方面であつて、伊勢物語を狂歌風にもぢつた仁勢物語ができ、枕の冊子に擬した尤の草子が作られ、または徒然草を學んだ如儡子の可笑記(形には今昔物語をも摸したらしい點がある)、山岡元隣の誰が身の上、などの現はれたのがその一例である。可笑記には「神無月十日あまりの暮つかた柳原を通りて」(卷四)、また江戸日本橋で馬の上に眠つてゐるものを見て(同上)、の感想など、徒然草中の物語を殆どそのまゝに取つたところがあり、誰が身の上の四季の推移を書いた一節(第二)も、「をりふしの移り變る」段の當世化である。思想や筆致の上の摸倣も所々に散見する。竹齋物語もまた伊勢物語から脱化してゐることは、京では身すぎができぬから田舍へ下らうといふ藪醫者の竹齋坊が「京にありわびて」東に下つた業平の滑稽化せられたものであることからも、中に勢語の文章を殆どそのまゝに取つたところのあることからも、推察せられる。なほこの系統はこの竹齋の子か孫からしい樂阿彌を捉へた淺井了意の東海道名所記にまでも及んでゐて、それには所々に明白な勢語の摸倣が見える。同じ作者の浮世物語はまた一節ごとに「今は昔」で筆を起してゐる。さうして後にいふやうに、この名所記などにこそ次の時代に至つて大に現はれる新文學の曙光がほのめいてゐるのである。これらの作よりも早く世に出た慶長見聞集なども、その體裁はやはり今昔物語をまねたもので(505)ある。さてかういふ古文學の擬作は、その一半の意味に於いては、宗鑑や守武が連歌から俳諧の連句を作り出したのと同じであつて、滑稽の觀の伴ふのもそのためであるが、俳諧の方が前に行はれたのは、古い俳諧の歴史があるのと作り易いのとの故であらう。
 ところでこれらの古文學の擬作は、その主旨がむかし行はれたのとは全く反對である。昔の源語を摸倣したものは、何ごとも粉本と同じであるやうに見せかけようとした。擬作によつて、古物語の世界と情調とを讀者の胸裡に再現させようとしたのであつた。近代に作られた「十番の物爭ひ」などまで、やはりさうであつた。ところがこの時代のは、狂歌やそれと同じ態度を以て書かれた仁勢物語などはいふまでもなく、さういふ滑稽化したり茶化さうとしたりする考の無いものでも、枕の冊子なり徒然草なりの結構や體裁を摸して、それとは全く違つた新しい世界を作り新しい氣分を出すのであつて、古いものを當世化し、貴族的のものを民衆化し、高雅と思はれてゐるものを通俗化するところに、作者の興味の一半がある。古典を古典として崇拜することは昔と變らないけれども、その古典の世界はあまりに現代と懸隔してゐるので、もはやその間に自己を投入することができなくなつた。これが戰國の破壞期を經過して來たこの時代の新傾向である。古典はそれほどに當世ばなれがしてゐるために、當世人の思想を拘束する力が無い。だから、それを擬作することによつて、それとは全く別のものにすることができるのである。室町時代の社會は當世の生活から日々に遠ざかつてゆくけれども、なほその間に多少の脈絡がある。特に文學の上に於いては間斷なき傳承があるので、前代の文學はなほ當世人を拘束する力を有つてゐる。だからその踏襲が怪しまれずに行はれるのである。けれどもそれは當世の文學、當世の思想の表現、としてはどうしても不滿足である。さうしてその缺點を補ふものが(506)却つてずつと古い文學の擬作にあるのは、不思議なやうで實は不思議でない。古典は自由にそれを當世化することができるからである。
 さてかういふ古典の操作が、物語について行はれず、勢語とか枕の冊子とか徒然草とかいふ、まとまつた結構の無いもののみを本にしたのは、それが最も當世化し易いからである。目睹耳聽のまゝに思ひ出すまゝに斷片的の文字を並べると、さういふものの擬作はすぐにできる。見聞のまゝを記すそのことも、平安朝文學の寫實的なところから幾分の感化をうけたのかも知れぬ。けれどもどのやうなことがらにせよ、人生の或る葛藤とその解決とを敍述しなければならぬ物語を作るには、作者に一とほりの構想力とその中心になる何等かの思想とがなくてはならぬ。さうなると幼稚な作者では何かにたよるところが欲しくなり、從つて世に行はれてゐる物語を粉本にすることになる。前章に述べた物語類がそれであつて、比較的おのれらの生活に縁のある近代のものがそのために使はれ、從つてかういふ作は舊型の踏襲に陷るのである。古典の物語は、それとは違つてあまりに當世と縁が遠いから、それを擬作するのは畢竟新しいものを創作するのと何ほどの差異もない。それのできないのがこの時代の状態であるから、最も神聖視せられてゐる源語などには、却つて操作ができなかつたのである。
 かう考へて來ると、斷片的に見聞のまゝを書きつゞるところに、かういふ操作の寫實的意義があり、從つてそこに新文學の端緒の開かれる契機があるのは、怪しむに足らぬ。寫實をすれば典型と因襲との緊縛を脱することができるからである。自敍傳もしくはそれを物語風にしたものが新文學のために道を開くことのある理由も、一つはこゝにある。ありのまゝに自己を表出するところに、換言すれば自己の生活の寫實をするところに、眞率と自由とがある。但(507)し反省と白覺との足りないこの時代には、さういふものはできないから、寫實の眼は主として外界に向けられるのである。慶長見聞集は既にその先驅をなしてゐるので、可笑記もその亞流であるが、なほ書物から得て來た知識的分子が多かつたり、やゝもすれば抽象的な理説に陷つたりして、寫實的態度が徹底せず、讀んだ上の興味も乏しい。尤の草子もこの點に於いては同程度のものである。が、竹齋物語ではそれがよほど變つて來、もう一歩進むと東海道名所記になるのであるが、これらの作が勢語から脱化した遊歴の物語になつてゐることは、無意味でない。異郷の山川に接し所かはれば品かはる風物のさま/”\と、をりにふれ事に當つて心にとまる世態人情とを、見聞のまゝ感じのまゝに書きとめるのは、寫實の方法として最も容易でもあり興味もあることだからである。もつともかういふ紀行や名所記の作られたのは、實用的には、地方人の江戸に往復することが多くなり、田舍ものの京詣でや江戸見物が流行した故であり、文學上の歴史からいふと、舊くからの紀行類の先蹤もあるが、それが現實の見聞を細かに描寫するに至つて、始めて新文學としての價値を生ずるのである。同じ名所記の類にしても、前代の草子の系統を受けて型にはまつた文字をつらねてゐる徳永種久の色音論などとは全く違つて、寫實的なところに東海道名所記の文學史上の地位がある。(東海道名所記は固より机上の作で、慶長見聞集や京童から取つたところもあるが、その根幹は作者自身の觀察から成りたつてゐる。故事來歴の説明は因襲的でもあるが、案内記として實用上の目的もあつたらう。)
 さて見聞のまゝに實状を記さうとすれば、文體もおのづから新しくならねばならぬ。東海道名所記の女歌舞伎に心を奪はれてゐるものの有樣、吉原の遊女、原の比丘尼、懸川の田舍女、見付の座頭、京の大原女、などの描寫が、雅文脈ながらに俗語俚言を自由に使ひこなして、生き/\とした面影を紙上に現はしてゐるのを見るがよい。美人には(508)相かはらずの芙蓉のかほぼせ柳の眉で濟ましてゐるところもあるが、風俗身なりなどに至つては頗る精細な寫實を試み、方言などもそのまゝに書いてゐる。浮世物語などもほゞこれと同樣で、西鶴の筆致の由來は主としてこゝにある。了意が新文學開拓に最も功績のあるものであるのは、これがためである。しかしこの作者は實際の觀察と描寫とだけはするけれども、まだ結構のある物語を作るには至らなかつた。浮世物語がその前半をなしてゐる「浮きにういて瓢金なる法師」の經歴を敍したところと、後半の説法めいたところとの間には、殆ど連絡が無い。
 古典文學は新文學の發生にこれほど特殊の關係があつた。けれども漢文學は思想の上には幾分の影響を及ぼしてゐるが、文學そのものには直接の關係が無い。あり來りの詩文は何等の新しい刺戟をも國文學に與へないからである。たゞ剪燈新話によつて了意の御伽婢子が作られるやうになつてゆくことはあるが、それは從來から行はれてゐた詩文とは性質の違つたものである。またキリシタン宗門の布教のために、もしくはそれに伴つて、述作せられ、またはラテン語ポルトガル語などの書物から翻譯せられ、さうしてそのうちには、印刷して世に行はれたものがあり、内容に於いても文學上の作品に准じて見るべきもの、もしくはさういふ色彩を帶びてゐるものがあつたが、禁教のためにそれらは世に跡を絶つた。イソップの説話は後に傳へられたが、それが一般の文學界にどれだけの影響を與へたかは、問題である。またこれらのうちには口語で書かれたものがあるが、さういふ書きかたもまた五山僧の口語體の著作と同樣、一つの文體として重要視せられるやうにはならなかつた。禁教によつてロオマ字を用ゐラテン語を學ぶことが絶えたのは遺憾であるが、よし禁教が行ほれなかつたにせよ、かういふ知識または學問がキリシタン宗門のバテレンの手から離れない限り、日本人をしてヨウロッパの文學に親しませるための用をばなさなかつたであらう。
 
(509) 以上がこの時代の文學の鳥目觀である。概括して考へるに、文學界の半面には前代の舊型を守つてゐるものがあると同時に、他の半面には新運動が起つて來た。さうしてその新運動は、文學を民衆化し通俗化し、もしくは民衆の間から新しいものを創造することであつて、小唄歌舞伎俳諧に於いてそれが現はれてゐるが、これはおのづから戰國の破壞時代とそれを經過して來た徳川の世の初期との時勢に適合してゐる。しかし民衆化したもの民衆の間から起つたものは、自由であり清新であり活氣が横溢してゐるけれども、内容が貧しく形も整はない憾みがある。それを補ふには、奮い文藝の分子を取り入れるか、またはそれみづから何等かの方法でそれを精練してゆかねばならぬ。だから徳川の世の社會が整頓してゆくにつれて、これらの新文藝の何れにもかういふ傾向が生じて來たが、それがまたおのづから時代の思潮と相應じてゐる。たゞ最後に現はれた寫實文學は一方に古典文學から來た要素がそれに具はつてゐると共に、他方では實社會を描寫することによつて、それみづから内容を充たしてゆくことができる。さうしてそれは、歌舞伎の踊が古い舞と結合しても、狂言はます/\寫質的になつてゆくと同じく、またそれと共に、次の時代の新文學新演劇に發達してゆくのである。
 これは竪に發達の順序を見たのであるが、横に見ればこの時代の特色は、あらゆる文學の要素を混和し融合することであつて、古典的、貴族的、武士的、文學の要素は盡く新に起らうとする平民文學に結合せられ包容せられる。さうして孤立して新文學の外に遺つてゐる舊文學は、連歌でも能でも儀禮として保持せられることになつてゆく。これもまた第一章に述べておいた文化の大勢に適合するのである。やゝ趣はちがふが、やはり同じ傾向を示すものとして(510)今一ついふべきは、從來互に縁遠かつた禅僧及びそれによつて鼓吹せられたシナ趣味と國文學とが近づいて來たことである。禅僧も和歌を詠むやうになつた。惺窩歌集には相國寺丹首座の歌が見えてゐる(惺窩自身は冷泉家の人であるから別として)。幽齋の衆妙集には東福寺で詩歌の會があつたとある。これは詩歌興行とあるから禅僧は詩ばかり作つてゐたのかも知れないが、少くとも彼等が歌と親しんで來たことはこれでも知られる。狂歌にかの雄長老の出たのもかういふ時勢だからであらう。秀次が五山僧に謠曲を註釋させたのは、文字の知識のあるものが彼等に限られてゐるやうに思はれたからでもあらうが、ともかくも禅僧が國文の學に手を染めた一事例である(當代記)。禅僧の詩に日本の事物を材料にし、歌人がシナの事物を詠むやうになつて來たことは、既に前篇にもいつておいたことであるから、惺窩がその庭に桃花源とか枕流洞とかいふシナ風の名をつけながら、それについて一々歌を詠んでゐるなどは、さして新しいことともいはれなからうが、それにしてもシナ趣味と國文學との融合が次第に行はれて來た一證である。
 次に新文學の内容に立入つて觀察すると、第一には、それに遊樂の氣の滿ちてゐるのが目につく。小唄や歌舞伎はそのものが既に遊樂の具であるのみならず、その題材としても遊女などが用ゐられ、俳諧に於いても傍觀的態度ながら傾城や若衆を取扱つたものが少なくなく、名所記の如きもさういふところに特殊の光彩がある。これは恰も浮世繪に子女遊樂とか傾國遊翫とかいふものが多いのと同樣であつて、畢竟第二章に述べたやうな時勢の反映に過ぎない。なほ遍歴遊覽が新文學の重要な題材であることは前にもいつたが、これもまたこの風潮とおのづから相通ずるところがある。中村座の有名な狂言「猿若」にもこの二つの結合せられてゐる有樣が見えてゐる。第二には、滑稽的態度の(511)あることであつて、多かれ少かれその分子が含まれてゐないものは無い。このことも既に考へておいた。さてこれらの二つの性質は、徳川の世の文學が後になつても遊戯的傾向を免れることができず、從つて士人の手にすべからざるもののやうに思はれた一由來をなすものであるが、それは當時の知識人が偏狹な儒學の影響を受けて、正面から仁義忠孝を説いたものでなくては書物として尊重しないやうになり、また從つて彼等が文字によつて與へられた道徳的規範を外部から人の生活にあてはめることにのみ力を注いで、人生そのものを内面的に觀察することができなかつたために、文學の發達が妨げられたからでもある。上記の性質を有つてゐるものに於いてすら幾らかの道徳的傾向は含まれてゐるので、これが第三に注意すべきことである。徒然草を模倣した如儡子や元隣の作は固よりのこと、了意の東海道名所記などにも、往々さういふ態度がほの見えてゐるし、浮世物語の後半は全くそのために書かれてゐる。貞徳ですら宗鑑の句を評するに當つて、俳諧を教訓の意味のあるべきものと説いてゐる(淀川)。しかしこれは儒教思想の影響ばかりではなく、世が平和に歸して、亂雜であつた戰國時代の氣風を一轉させ、社會を秩序づけようとする時代には、自然に生ずべきことであり、かの遊樂の風の大に行はれたのもそれを促す一動機となつたであらう。(教訓を目的とする草子が現はれて來るのも同じ理由からであらうが、それは且らく別問題とする。)たゞ文學に於けるかういふ道徳的傾向も、人生を如實に觀察してその裡に道徳的意味を發見したのではなく、多くは既に定まつた信條を説くに止まるのであつて、その説きかたも世相の描寫とは遊離してゐるのが常である。
 さて文學上のこれらの傾向は、何れも世相と人事とに興味の中心を置いてゐることを示すものであるが、それがまたおのづから第四の特色をなすものであつて、自然界に對する趣味はこの時代に於いてむしろ減却してゐる。俳諧も(512)人事を主とする。名所記の類にも自然の風光を寫してゐるところは殆ど無い。新しく生まれかけた國民藝術たる浮世繪が、土佐繪の系統をうけて人事を主としてゐるのも、これと同樣の現象である。自然界に新しい情趣を見出すことが困難であるのと、平民文學の初期に於いてそこに手の屆かぬのは當然であるのとの故でもあらうが、人みなが我が力を揮ひ我が勢を張らうとする外に餘念のない戰國的武士氣質の餘風も、社會を整頓させようとする徳川時代の主なる要求も、また一般に漲つてゐる遊樂の風も、それを助けてゐる。要するに人心が現在の生活に集中せられてゐたのである。
 最後に一言しておくべきは作者のことであるが、俳諧の宗鑑、貞徳、その門下の徳元、談林の開山宗因、草紙の如儡子、みな武士である。了意は僧であるが元の身分は浪人であつたかも知れぬといはれてゐる(列傳體小説史參照)。また舊文學の系統に屬すべきものではあるが、あだ物語の作者三浦爲春や、二人比丘尼因果物語などの著者鈴木正三は、武士または武士の出家したものである。なほ守武は神主であり、その餘風をうけたのか、伊勢には俳諧を好むものが多かつた。また元隣や貞門の立圃は商人出身である。僧徒でないものが漸次文學界に頭を擡げて來ることがこれで知られよう。平和の世になつて武士に文事に親しむ餘裕があるやうになつたこと、また浪人といふ特殊の境界にゐるものが、閑暇が多いのと、書籍の印刷が行はれるやうになつたのとで、おのづから著述に從事する傾向の生じたことも、その一理由であらう。しかし彼等の著作には、前にも述べたやうに武士の特殊の思想を精細に措寫したものが無い。だから武士特有の思想を考へるには、却つて粗笨な軍記ものなどによる外は無いのである。
 
(513)     第五章 武士の思想
 
 武士の精神は武士がその力を揮ふことの最も大なる時に於いて、最も明かに發揮せられ、武士の思想は武士の活動の最も激しい世に於いて、最もよく成熟する。いはゆる源平時代の昔に既にほゞ形をなしてゐた武士特有の氣象は、武士生活の根柢に依然として存在しつゝも、その後の三百年の世情の推移に伴つて、その間に弛張もあり變遷もあつたが、晝にも夜にも斷えまのない戰爭が行はれ、西も東も武士ならでは世に立つことができない戰國時代の大動亂によつて、再びそれが緊張すると共に、新しい時勢につれて新しい色相を帶びても來た。これが我が國の武士の最盛期であつて、武士の美點が最も著しく現はれると共に、その缺點もまた赤裸々に暴露せられた時である。
 戰國時代は武力闘爭の世である。この闘爭世界に於いては、人を倒さねば人に倒される。我が生存を維持するためには、進んで隣人を打ち負かさねばならぬ。戰は力の餘りに行はれる遊戯ではなくして、死ぬか生きるかのしごとである。文字のまゝの命がけのはたらきである。渾身の力を以てあらん限りの勢をふるつて、我がすることをしなければならぬ。こゝに戰國武士の熾烈な情熱がある。勿論、人の欲望には限りが無い。隣人と爭つて勝てば、更にそのさきの隣人を打破らうとする。勢を得れば更にその勢を大きくしようとする。こゝに武士がその生活を擴大しようとする飽くことなき欲求と、それを遂行しようとする強いいきごみとがある。或はまた我が力を揮つて我が事をなすところに大なる愉快がある。必しも物質的の欲望があるのではなくとも、力次第運次第の世の中に躍り出して、思ふまゝに飛びまはり暴れまはり、力だめし運だめしをしようとする。功名富貴手に唾して取るを得べし、といふ事功欲が武(514)士の心をそゝることのあるのも、勿論である。さういふ武士の欲望と欲望と、意氣と意氣とが、衝突し紛糾し混亂し、その間に生ずる恩や讐や恨みや情けや、相手となれば激して起る敵愾心や、邪魔するものがあれば押しのけてゆかうとする勇猛心がそれを煽つて、全國を兵亂の熾火裡に投じ去つたのが、いはゆる戰國時代の百年間である。
 だから戰國の武士氣質の根柢は、この情熱、この事功欲、我が力によつて我が事をしようとするこの努力にある。榮華はもとより欲するところであるが、神佛の力にすがつてそれを得ようとするのではない。力を揮つて敵を破ることは勿論好むところであるが、物語に見える辨慶の如く無雜作にやす/\とするのではなくして、奮闘によつてそれを遂げようとするのである。武士の思想を知るにはこの武士生活の根本義を了解しなければならぬ。武士の思想は道學者の説法から生まれたものでもなければ、冷かな文字上の知識から來たものでもなく、彼等の現實の生活から長い間の體驗によつて精練せられたもの、現實の生活そのものの結晶であり精粹であるからである。
 
 この武士の爭ひは、一定の土地の上に立つ主從の團結によつて行はれる。前々からくりかへして述べたやうに、武士の生活はその起源から既に主從の結合によつて成りたつてゐたのであるが、この時代には諸大名の領地がほゞ一小國家に固まつて、その間に闘爭が行はれるのであるから、國主たる大名とその家來との關係が昔よりも緊密になり、國際間の闘爭が激しくなればなるほど、またそれが長く續けば續くほど、その度が加はつて來るのである。たゞ昔はこの主從關係が、源氏に養はれた坂東武士の間に於いて特に著しく發達したけれども、南北朝時代以後、兵亂が全國に擴がつて漸次に戰國の形勢が馴致せられて來たために、この關係もまた同じやうに全國の諸大名の下に成りたち、(515)從つてそれから生まれた武士の氣風もまた、ほゞ同じやうに各地方に於いて發達したのである。だから坂東は、よしそこに多少の特色があるにせよ、もはや武士の本場ではなくなつた。さうして武士の氣風の弛張は、土地の状態よりはむしろその國の國情によつて生ずるのである。
 この圭從關係の物質的基礎が、主人から家來に與へる生活の資、即ち知行俸禄、にあることは勿論である。これは源氏時代の昔と變りは無いが、たゞその與へるものが財産として取扱はれず、俸禄として知行として考へられたことが違つてゐる。昔は財産であつたから、その相續も分配もすべてが私法的關係であつて、事のあつた場合にも本領安堵が原則になつてゐた。ところがこの時代にはそれが俸禄であるから、與奪の權は全く主人にある。それだけ主人の家來を支配する權力が強くなつてゐる。しかし事實に於いては、習慣上概してその俸禄が世襲になつてゐるので、それを父子相傳へてゆくと、圭從の關係がいはゆる譜代となつてます/\緊密の度を加へ、その間の情誼は一層濃厚になる。腕に覺えのある武士を要することの多い時代、從つてまた功名を顯はし利禄を得ることの容易な時代であるから、新參ものも斷えず抱へられ、渡り侍といふものもでき、またたまには一言の知遇に感じて永く主從の約束をするものもあり、さうして彼等とても必しも浮薄なもののみでないことは勿論であるが、情誼は親しみの深うなると共に厚うなり、親しみは年と共に加はるのが普通の例だとすれば、「新座ものはその身のいせいの時は奉公仕るものに候、自然手前惡しき時はその身のかたつきを本とし、結句表裏を致すものに候、」(武家事記所載利家遺訓)といはれたのも、概していふと事實であつたらう。だから一國の勢力の中心たり根幹たるものは、どうしても譜代ものであつて、家中の作法としても制度としても、譜代ものをば特に尊重するのが一般のならはしであつた。祖先以來の君恩によつ(516)て家を立て身を立ててゐるものに於いて、始めて心からの家來となることができる。武士の家族制度と祖先崇拜とが、この風習につれて完成せられたことは、いふまでもなからう。
 武士の主人に對する情誼と祖先に對する崇敬心との結合せられる契機は、全くこゝにある。この時代から、儒教の忠孝といふ語をかりて、武士の道念を表現することが行はれてゐるが、その意義は即ちこゝにある。井伊直孝の訓誡として傳はつてゐるものに、「人間一生の勤は忠孝の道なり、……忠孝を勤めんと思はゞ、主君并に先祖の恩を常に忘るべからず、……人間の苦は飢寒より甚しきは無し、百姓町人の晝夜となく骨を折る、飢寒を防がんためなり、……然るに武士は生まれながらの飢寒無し、みな/\父母妻子兄弟を養ひ家來を使ひ安樂に暮らすは、これ主君并に先祖父母の恩徳にあらずや、この恩を常に忘れずば忠孝の道忘るべきやうなし、古老の物語などに、毎日食に向ひ衣服を着る時、主君并に先祖父母の恩徳を思ふべきとなり、」とあるのは、世が治平に歸した後の思想であるだけ、戰國時代の強烈な精神はそれに見えないが、武士が忠孝といふ語によつて示さうとした意義だけは明かに判り、さうしてそれは戰國時代から繼承せられて來た思想であることに疑ひは無からう。主君と先祖との恩に報いるのが忠であり孝である。その恩とは何かといふと、おのれらの生活の資として俸禄が君から與へられ知行が父祖から傳へられたことである。平らたくいふと、主君と父祖とのお蔭で自分たちは食つてゆかれるといふことに過ぎない。さうしてその知行俸禄は、父祖が主君から拜領したものであるから、その本源は父祖よりはむしろ主君にあり、その自然の結果として孝よりは忠が重んぜられるものの、畢竟は忠孝が一に歸する。
 かういふと忠も孝も畢竟物質上の問題、利害の打算、勞働と報酬との關係、になつてしまふやうであるが、生きる(517)といふことが人生の根本義であり、生きるためにはぜひとも食はなければならぬのが、生物としての必然の要求である以上、食ふものを與へられるのは、即ち生命を與へられるのであり、人としての存在を與へられるのであるから、そこに人の生命の根本から自然に發生する情愛が成りたつのは當然である。物質的の關係はかくして精神化せられ、淨化せられ、靈化せられ、終にはそれが却つて物質を抛ち、衣食を抛ち、肉體の生存を抛つ、強烈な犠牲的精神となつて現はれるのである。忠孝といふシナの文字をかりて表現せられた戰國武士の思想は即ちこれである。この思想が儒教でいふ忠孝の意義に適合するかどうかは、後に考へようと思ふが、ともかくも戰國時代から引き續いてゐる封建制度及び武士の世襲制度と家族制度とによつて、社會が成りたつてゐた徳川の時代では、後までもこれがそのまゝに傳はつてゐたのである。
 けれども井伊直孝の言は、戰國武士の思想を説明したものとしては、頗る物足りない。彼等はたゞ食ふことができるといふのでおちついてはゐなかつたからである。功名の成し易き世に生まれあつた彼等には、その功名を求むる心が火のやうに燃えてゐた。力次第で名を擧げることもできる。働き次第で知行も加増せられる。その上、赤手を揮つて立ちながら大名となり國主となつたものさへもある。機に乘ずればどんな幸運を?めないものでもない。かゝる世に我が名を成し我が利を得んと望まぬものは少かつたらう。よしやかゝる欲望を有たないまでも、戰爭になれては戰爭そのことに興味が生ずる。冒險の快感、敵を破るおもしろさがある。我が力をふるつて我が事をなすのは、いふまでもなく愉快である。武士がじつとしてゐられる世ではない。しかし武士が武士のはたらきをするには、主君を戴かねばならぬ。譜代のものは固よりのこと、さうでないものは新に主人を求めねばならぬ。その主人に我が力の認めら
 
        (518)れ我が働きの報いられる時は、即ち我が欲望の漸く實現せられる時であり、また主人の恩情を感謝する時である。さうしてその主人の下に多數の武士が一つの團結をなす時、身方同志には自然に親しみが深くなり、敵に對しては敵愾心が起り、主家を大きくし主人の名を擧げさせようとする更に大なる欲望も煽られ、おのれ自身の事功欲もそれにつれてまた昂進する。戰國武士の主從關係はかうして成りたち、主人に對する家來の情誼はかうして發達したのであつて、それは要するに戰闘そのことと戰國的形勢との賜である。
 しかし戰國武士の精神を鞏固にして主從の間がらを美しくするについて、最も直接にはたらくものは、主君の人格であつて、國としての團結がありまた斷えまなき戰爭の行はれる結果として、主從の間が密接になつてゐるだけに、主人の人格が家來を動かす力は昔よりも?かに大きくなつた。主君の一言一行は直ちに家來の身の上に影響するのみならず、延いては家臣全體の向背と國勢の消長とに關し、さうしてそれがまた忽ち彼等の身の上に反射するのである。從つて家臣の間に武士的精神の緊張するのも弛廢するのも、主君の人格と家臣に對する態度の如何とによることが多い。だから、一國一城の主たるものは、如何にしてその家來に臨むべきかに考慮を費すやうになつて、この時代の名將の言行を書きとめたものまたはそれを批評したものに於いては、しば/\この問題に觸れてゐる。さうしてそれには往々、人心を收攪する法とか、人材を鑑別することとか、または哀來の取扱ひかたとかいふ、意識しての用意に渉ることもあるが、それも畢竟は主君自身の人格の修養と家來を愛することとに歸着するのであつて、それがまたこの問題の當然の解決でもある。
 世に傳へられてゐる東照宮遺訓といふものなどは、その全體の主旨が全くこゝにあるので、主君たるものはその身(519)を正しくし武道を研いて家來に情をかけよ、といふことを反覆縷説したものに外ならぬ。蒲生氏郷の書といふものにも、「第一家中者に情を深く、知行下さるべく候、……知行と情とを車の兩輪鳥の兩翼の如くに候はねば不叶事に候、」とある。知行は勿論のこと、それと共に家來を愛してこそ家來もその愛に報いるのである。「大切なるものはなさけ深き主君、命を輕んずる臣下、」(尤の草子)であるが、その臣あるはこの君あるが故である。さうしてかくの如き君は、「めぐみある主を拜みて後のこと神も佛も第二第三」(尤の草子)、人を動かすことは神佛よりも強い。武士の強烈なる犠牲的精神は全くこの愛情から生ずる。だからそれに背く主君はかならず家來に見はなされる。大内義隆や大友宗麟や武田勝頼やを論じて、彼等の奢侈な生活、放縱なふるまひ、諂佞を近づけ忠直を遠ざけたことを擧げ、家臣の離反し國家の衰亡した原因をこゝに歸するのは、このころの武士の批判としてしば/\物にみえてゐる。この考には成敗の跡によつて人を論じ事を評する傾きがあつて、必しも一々首肯することはできないけれども、その間に一面の眞理が含まれてゐることは明かである。主從の關係は情誼によつて維がれてゐるのであるから、主人の人格如何によつてそれが濃くもなり薄くもなり固くも脆くもなるのは、當然であり、この主從關係によつて成りたつてゐる國家の勢力が、またそれによつて消長するのも、不思議ではない。
 家運の傾く場合にはこの關係が最もよく事實に現はれる。國亂れて現はれる忠臣のあることもうそではないが、多數の家來にそれを要望することのできないのも、また事實であるのみならず、情愛は普通の場合に於いては相互的のものであるから、主君の家來を愛しなくなつた時、家來もまた主君を愛しなくなるのに無理はなからう。主君の態度によつて我が生活の基本でありこの情誼の淵源である知行俸禄の維持が不安心になる場合、賞罰が不公平で我がはた(520)らき我が力の認められない場合に、その主君を有りがたがらなくなるのは、當然である。のみならず、名將の下に弱卒の無いのと同樣、主君が優れた人で家運の興隆する場合には、家中全體の意氣が揚り精神もひきしまつて、平凡な武士もおのづからそれに感化せられてゆくが、その反對に家運の傾きかゝつた時には、全體の元氣が阻喪して、強くなるべきものも弱くなり、働くべきものも働かなくなる。後の場合には、主君の統御力が弱くなるから、武士的の利己心が頭を擡げえう。彼等の間に權勢の爭が起る。猜疑が生ずる。權勢を得んがために主君に諂ふものも現はれる。家臣が分裂する。敵がこれに乘ずる。その結果、遂にその家を亡ぼすやうになるのである。さうしてその主なる原因は主君の人格にある。ところが主君も人である以上、從つてまた常にその英明を期し難い以上、かういふ場合が生じがちである。勿論、主人が幼少な時または外部的事情から國が弱くなるやうな場合などには、必しも主人の人格のためではなくして家臣の氣分の動搖することがあることをも考へねばならぬので、すべてを主人の人格に歸することはできない。しかし何れにしても、主家が弱くなつておのれらの働きがひの無いことが感ぜられて來る時に、かういふことが起るのであつて、その場合に敵の誘惑でもあれば、それに心を移すものが生じて來る。けれども最も大きいことはやはり家來の不平不滿であり、その不平不滿の主なる原因は主人の家來に對する扱ひ方にある。君臣主從の情誼といふやうな、對人關係を骨子としてゐる政治的勢力の根本的缺陷が、こゝにある。亡國の場合にその最後までふみとどまつて主君に殉するものも、必しも愛情から出た犠牲的精神の故ばかりではなく、或は名を恥づる考、或は一種の意氣地、或はまた郷國に對する自負心、といふやうな他の分子がそれに加はつてゐることが多からう。
 更に一歩進んで考へると、圭從關係そのものが本來永久的性質を有つてゐないのである。國自慢の情がこの時代に(521)なつて武士の思想に現はれて來た、といふことは前に述べておいたが、それは郷土についてよりはむしろ人についてのこと、圭從關係に於いての人についてのことである。國としての勢力が一定の領地の上に立つてゐるにかゝはらず、その基礎はどこまでも主從關係であつたのである。ところが、前に述べたやうに、主君の人格が家來を心服させることのできない場合に、國が亡びて主從が離散するのは勿論のこと、たとひ主君に過が無くとも、列國闘爭の結果として小よく大に勝つことができず、「時節到來」、國の破れ家の亡びる悲運に遭遇しなければならぬことがある。その時必しも心から君に背くのではないけれども、主家が滅亡すれば知行俸禄もおのづから無くなつて、我が身を支へることができなくなるので、どこまでも主家に殉して身を殺す特殊のものは別として、多數の家來はみな分散しなければならぬ。落城となれば「たゞ一命の助からんことばかり願ひ、親をすて子をすて、我さきにと落ちゆく有樣、あさましかりける次第なり、」(北條五代記)といはれねばならぬ。だから、如何に武士の精神が訓練せられてゐても、結局主從の關係は主家の存在する間のことである。換言すれば主家が知行俸禄を與へ得る間のことである。更に他の語でいふと、家來が家來らしい働きをして武士の精神を發揮することができるのは、主人が幸運を開き得る場合に於いてのことである。武士の思想の根柢が愛國心でなくして忠君の情である間は、どこまでも主從の關係が本位であるが、この關係は斷絶することが多い。列國闘爭の主體が、國民の團結でなくして君臣主從の結合である間は、何時かはこの結合の分解すべき時が來る。北條氏も崩れた。豐臣氏も崩れた。さうして徳川氏もまた終に崩れねばならぬ運命を有つてゐたのである。
 しかし徳川氏の主從關係が崩れるやうになつたのは三百年の後の話である。その初めこの松平家が幸運を開いた時(522)に於いては、いはゆる三河武士は主從關係の最も美しく發達した標本として、世間から認められたのである。徳川氏が強國の間に介在してゐる一小國から起つて、一歩々々にその地位を堅め、一年々々にその勢力を加へ、さうして終に天下を取るに至つたのは、地理的位置や、時節や、用心深くて思慮に富み智計に長じてゐた家康の人物や、または幸運や、種々の事情がそれを助成したことは勿論であるが、その基礎となつたことは、譜代の家來がよくその幼主をもりたてて、主家のために粉骨碎身したのと、家康がよく家臣を信任してそれを愛しそれを用ゐたのとにあるので、要するに君臣水魚の如くに相得、心を一にして徳川氏の興隆を計つたからである。前にも述べたことのある三河物語はよくこの間の消息を明かにしてゐるので、三河武士の主從の間に如何に濃かな情愛が有つたかを、それによつて知ることができる。これは勿論、長い間の譜代の主從であるのと、織田と今川との間に板挾みとなつて、斷えず兩方から壓迫せられてゐる苦境を、如何にしてかきりぬけねばならぬ、といふ境遇から激成せられたのとのためではあるが、家康の人物と態度ともまた人心を維ぐに十分であつた。が、こゝでいはうとするのは、その家康は人を扱ふことが上手であつたといふばかりでなく、眞に家來を愛したであらうといふことである。
 もとより彼は幼時から幾多の艱難辛苦を體驗して、おのづから世態にも人情にも通ずることができたのみならず、歳を重ねると共に種々の事變に遭遇し、さ/”\の場合に處して、それがためにます/\世故に長けるやうになり、懸引もうまく謀略も巧みになつたのであるから、人を知ることも扱ふことも上手であつたには違ひない。けれども單に上手のみでは、あれだけに人を心服させることはできなかつたのではあるまいか。世に知られた家康の行動によつて考へると、彼は實に老獪で猾智で打算的で、時には冷酷と評しなければならぬことさへあり、死に臨んでさへも政(523)略を弄してゐて、殆ど純眞な感情の發露を認めることができない男である。が、襁褓の裡に母と別れ、引續いて父を失ひ、長じて後は織田の歡を買ふために妻をも子をも犠牲に供しなければならぬやうな境遇に陷り、親子夫妻の親しみをもしみ/”\と味ふことができなかつた、といふ經歴から考へると、彼が情愛を解しない冷血動物として考へられるやうになつたのも、無理の無いことであつたらう。彼は女色に溺れなかつた、といふと昔風の遺徳眼からはえらさうに見えたかも知らぬが、その實、彼は多くの女に接しながら肉の上に於いてのみそれを取扱つたので、女性に對する情味を解してはゐなかつたらしい。それほどまでに功利的の男になつた。しかし人には情がある。親子夫妻の情をすら切實に解し得なかつた彼は、別にその渾身の情を濺ぎつくすあひてがあつたではなからうか。さうしてそれは即ち譜代の家來ではなかつたらうか。
 頼るところも無い孤兒として、織田に囚はれ今川に質となり、誇張な形容をすれば流離困頓とでもいふべき月日を送つてゐた間に、さうして纔かに國に歸ることができた後も、弱小なその國を抱いて列強の間に處し、如何にして世に立つべきかを苦慮しなければならなかつた時に、彼のために心からの愛情を捧げたのは、即ち彼の家來ではなかつたか。茫々たる天地の間、家康の頼みとしたのは、獨りこの家來あるのみであつた。家來もまた譜代の恩義といふことの外に、この氣の毒な幼主に滿幅の同情をよせたのであらう。主從の愛は濃かにならざるを得なかつたのである。かうして養はれた家康の家來に對する愛情は、徳川氏が漸く勢を得てます/\家來のはたらきに依頼しなければならぬことを感ずるに至つて、一層強くなつたに違ひない。彼が士を愛したといふ後に傳へられた幾多の逸事を、盡く事實と信ずるわけにはゆくまいが、一向一揆の中にも「宗門よりはお主」といふ考のために信仰を捨てたものが(524)あり、「徳川さまはよい人もちよ」と世にも歌はれたといふのは、その根柢にかういふ事實があつた故ではあるまいか。さうしてそれによつて、三河武士の氣風が礪き上げられたのではあるまいか。
 勿論、それが順調に發達したのは、徳川氏の勢力が次第に強盛になり、それによつてその家來がみな三河ものたることを誇るを得、また彼等が功名を顯はし彼等自身の欲望を充たしてゆくことができるやうになつてゆくので、彼等の意氣を沮喪させる何ごとも起らず、たゞ彼等の武士的情熱を煽る機會のみ多かつたからではある。さうなつてから新に麾下に集まつて來る武士においては、なほさらである。しかしそれにしても、上にいつたやうな主從間の情愛によつておのづから釀成せられた一種の暖い雰圍氣が家中に漲つてゐて、新參ものとてもそれに包まれそれに化せられたのではあるまいか。「御代々々の御慈悲を以て一つ、御武邊を以て一つ、よき御普代を以て一つ、御なさけを以て一つ、これによつて御代々々も末ほど御繁昌目出度成、」(三河物語)と、生えぬきの譜代の彦左衛門はいつてゐるが、その御武邊も、よき御普代も、御慈悲御情の力によることが多いので、同じ人が時勢の變化に對して滿腔の不平を瀝瀉しながら、「例へば地行は得取らで餓え死ぬるとも、かならず/\ゆめ/\この心もちを一つも棄てずして持つべし、」と子孫に教へた三河武士の精神も、こゝから生まれたのである。だから信長の慘ましい最期と對照して、家康の好運を開いた有力な原因をかう考へるのは、必しも成敗の跡からのみ見たものではなからう。
 こゝで附記しておく。武士の生活の根本が主從關係であるならば、武士は何ごとをも主人のためには犠牲としなければならぬ。親よりもお主の方が重く見られてゐたのは、この意味に於いて當然のことであつて、これは既に前篇にも考へておいた如く、そのころから親子の一世に對して主從は三世の契とせられてゐた。徳川の代になつても同樣で、(525)公文の上にさへそれが明かに見える。慶長十九年、時の執政等が家康父子に上つた誓書に「雖爲親子兄弟、奉對兩御所樣、御爲惡舗族、並背御法度輩、於有之者、有體に可申上事、」といふ一條があり、上杉景勝の式目といふものにも同じ意義の箇條がある。孝といふシナの文字がしば/\借用せられてゐたにかゝはらず、「子父のためにかくす」といふ儒教道徳は認められなかつたのである。平和の世に於いては、實際問題としてかゝることが起る場合は殆どあるまいが、ともかくも思想の上に於いて、親を第二位に置いてあることを注意しなければならぬ。しかし戰國時代では、眞田父子が石田方と徳川方とに分れた如く、場合によつては親子が敵身方にならぬとも限らないから、かういふ用意も必要であつたらう。後に作られた幕府のお定書百箇條に、主殺の刑は鋸引の上に磔としてあるが、親殺はたゞの磔であつて、その間に輕重の差のあるのも、やはりこの時代の武士から傳はつた因襲的思想に淵源があらう。親子ばかりではない。夫妻の間がらについてもまた同樣である。武士の縁邊は主人の聽許を要するのが普通の例であつたらしく(長曾我部百箇條、上杉景勝式目、など)、場合によつては主人から妻の離別を命ぜられることさへある。主命と雖も妻をすてず、といつて、却つて義と情とを具へてゐることを信玄に賞せられた甲州の小幡某の話のあるのでも、かかる場合のあることが推測せられる。
 なほ附言する。武士の生活の基本は主從關係であるから、彼等の思想もまた概してその外に出ない。だから彼等の多數は、全體としての日本國といふことを思ふ暇が無かつた。世がほゞ平和となつた後でも、日本全體を統一する政治的權力のあることをすら、深くは考へてゐないものがあつた。大阪の役ですら、屋形樣へ身命を擲つてかせぎはするが公方への奉公だては仕らず、といつた上杉の家臣もある。彼等は主人の恩によつて生きてゐるが、將軍の恩は受(526)けてゐないといふのである。事實上全國を統一する將軍の無かつた戰國時代では、なほさらである。たゞ彼等の主君たる領主のうちには場合によつては天下に號令しようといふ欲望をもつてゐるものがあつた。けれどもそれすらも、日本を統一することよりは諸大名を服從させることであつた。國内のことについてもさうであるから、對外的意義での日本といふことはなほさら強く意識せられなかつた。キリシタン宗門の弘まつたことも、幾らかはこのことと關係があるかも知れぬ。長崎を寺領として寄進したり、ロオマのパッパに對して服從の意を表したりしたもののあつたことは、當時のゼズス會の性質や。パッパの政治的地位についての知識が無かつたからでもあるが、このこともまた或る程度のはたらきをしたのではあるまいか。勿論、西國大名などは外國貿易を營み、また龜井茲矩が琉球に目をつけたり伊達政宗が圖南の鵬翼を萬里の海風にうたせようとしたりしたことはあるが、それも日本國民としての考からではなく、たゞ彼等の利益のためであり、或は國内にその力を用ゐる餘地の無くなつた時代に於いて、何ごとをかしようとする彼等自身の事功欲たるに過ぎなかつた。また海外に出て活動してゐるものには、いろ/\の意味で異國人に對する敵愾心が生じ、日本人であるといふ意識が強められたに違ひないが、それも對外的國家意識にまで發達はしなかつたであらう。たゞ一國の政權を握る地位に立つと、おのづから國家全體を考へるやうにもなるので、對外關係に於いても、秀吉の征明計畫が本來は彼の個人的事功欲から出たことでありながら、實行に臨んでは我が國の領土の擴められるといふ考が自然に加はつて來たらしく、家康も家光も外國に對する國家の防衛に思ひ到つたらしい(東照宮遺訓、實紀附録)。禁教政策に於いてはいふまでもない。けれども多數の武士にはさういふ考が少かつた。さてこれらは武士の日常生活に於いて、また權力者の實際政治に關する行動に於いてのことであるが、思想としては日本が國民(527)的統一の象徴としての皇室を戴いてゐる一つの國家であり、日本人の日本であることが、幾らかの知識をもつてゐるものには明かに意識せられてゐたのみならず、一般の武士とてもその日常生活に於いてはこのことが意識せられなかつたにせよ、事ある場合にはそれが一種の力を以て彼等の心裡に現はれて來ることは、上に既に考へたところである。
 
 さてかくの如くして主從關係に結合せられた武士が、長い間の斷えまない戰闘によつて與へられた精神的訓練は、おのづから彼等に一種特有の武士的氣風を形成させた。それには昔の武士から承け繼いでゐる傳統的な精神も含まれてゐるが、もと/\同じく戰闘の間から發生したものであるから、その根本に於いてはこの時代の武士の氣風も源平時代の武士のと違つたところが無い。畢竟、戰闘が彼等に敢爲の氣象と忍耐とを教へ、死を怖れざる勇猛心と死を見ること歸するが如き安心とを與へ、強者に屈せず弱者を侮らず、權勢と利益とに感はされず、友を愛し人を慈み信義を守り禮節を重んずる氣風を養はせたのである。武士の意氣地といふのも義理といふのもこのことであつて、或はそれを情意の側から見、或はそれを知性の側からいつたに過ぎない。武士の情けといふのもまたその一面であつて、意氣地あるもの義理を辨へてゐるものに於いて初めて情けもあり、情けあるものにして始めて意氣地を立て義理に背かぬことができるのである。常に死を覺悟してゐれば、權勢にも利益にも心は動かされぬ。權勢や利益の欲求に壅塞せられない時、人に對しても始めて純眞の同情が湧き出る。戰場で武勇のはたらきをすることを重んずれば、老功の士に對する尊敬心もおのづから生じて、そこに禮節の基礎が据ゑられ、我が身の死を覺悟するものが敵の首級に對して敬意を失はぬのも自然である。武士の身だしなみといふこともこゝから生まれるので、戰死したり首をとられたりした場合(528)に、見苦しき感じを敵に與へないやうにする心がまへがそれである。或はまた歌連歌の嗜好などにも、人によつてはこれと同じやうな心用ゐの含まれてゐることもある。要するにこれらのすべてが戰闘から養はれたものであつて、その間相互に密接の關係があり、渾然たる武士の氣風を形づくつてゐるのである。さういふ修養の無い百姓町人に對して有つてゐる彼等の精神的の誇りも、またこゝにあつた。百姓どもが平生は弱いにかゝはらず、敗け戰になつたものゝ混雜に乘じて分捕をしたり、明智光秀などの場合の如く落ち武者の首をとつて恩賞に預らうとしたりするやうな、卑怯な無情なふるまひは、武士の賤しんだところである。婦人とても男と同じ氣象は養はれたので、みづから戰場に出た例こそ備中兵亂記に見える三村高徳の妻などの二三の他には、さして多くは聞えないやうであるが、當時の人から尊敬と同情とを以て見られた柴田勝家や細川忠興の妻の悲壯な最期によつても知られる如く、心ある婦人には事あるに臨んでその家とその身とを恥かしめず、或は夫や子を激勵し、或は士卒を愛撫し、また或は從容として死に就くだけの、素養ができてゐたらしい。荒木の滅びた時の如く城の陷つた場合の多くの女子の態度行動とても、またこれに准じて見られる。世に喧傳せられたものは多くはないにしても、これらの二三の例は當時の一般の風尚を示すものといはねばならぬ。戰亂の世に於いては婦人の間にもおのづからかゝる氣風が養はれてゐたので、武士の家の女性は道徳的にも決して低い地位にあつたのではない。
 けれどもこの武士の氣風には根本的に大なる缺陷がある。それは、源平時代の武士の思想を考へた時に述べておいたやうに、本來武士の任務が人間の生存欲を賭し死を冒しての戰闘であるから、その生存欲を克服するだけに、主人に對する熱烈なる愛情があり、或は敵に對する強い敵愾心が起り、また或は戰場の殺氣立つた空氣に刺戟せられた時(529)などに於いて、始めてそれが著しく現はれるので、武士の氣風を緊張させるには、社會全體がかういふ興奮状態にあるを要する、といふことである。從つてかういふ感情の鎭靜してゐる平和の世に於いては、戰闘の間から發生した武士の精神が銷磨するのは、當然である。個人についていつても、武士氣質の根本とせられてゐる死を恐れぬ氣風は、戰になれることによつて、幾たびか生死の界を出入して來た體驗によつて、始めて得られるのであるから、それを養ふには不斷に戰爭が無ければならぬではないか。
 のみならず、戰國時代に於いてもかゝる武士の氣風の練磨せられるには、社會的風尚の力が大きいので、それが名を惜むといふ形に於いて現はれてゐる。人の本能である生存欲をすててかゝるのは、人のなしがたきことをするのであるから、それには世間から賞讃せられること、その意義で名譽を得ること、によつて支持せられるのが昔からの武士の心理であつた。「武士の命を棄つるは名を惜み世の嘲弄を恥づる故なり」(大友記)といふのが、彼等の一面の思想なのであつた。「身は一代、名は末代、」といふのもまたこの意義である。しかし世の聞えと人の評判とを標準にして我が行動を定めるとなると、そこにおのづから矯飾が生ずる。場合によつては體面のために心ならぬふるまひをしなければならぬことになる。自己の純眞の情を抑へて世間體を裝はねばならぬことが起る。武士の意氣地にも武士の義理にもかういふ不純の分子が混つてゐるので、これらのことばそのものに於いて既に人に對し世に對していふ態度が見える。信長記に、荒木一族の妻女などが多く殺されようとした時、某といふものが、「日ごろは女房の間さのみ親しくは候はねども、今度妻女を捨て置き候はんこと本儀ならざるよし、」を申して、妻の命に代らんことを懇望した、といふ話がある。この男に妻に對する情愛が無かつたのではなからうが、身代りを乞うた動機、少くも申し分、は情(530)愛よりもむしろ妻を見殺しにするのが不面目であるといふ考にある。さういふのが言ひ過ぎであるとすれば、夫は妻を見殺しにすべきものでないといふ義理であるといつてもよい。夫妻の間に於いてすら、情よりは義理が働く傾きがあるとすれば、その他の場合についてはいふまでもなからう。女の辭世には親や子を思ふ情の率直に述べてある歌があるのに、男のにはさういふものの殆ど無いのも、やはり一種の矯飾から來てゐるのではなからうか。後になつて劇曲などの主題とせられる義理と情との衝突もまたこゝから生ずるのである。さうしてそれは、戰亂が鎭定した平和の時代に於いて特に著しくなる。
 そればかりでない。本來武士の活動の根本は、多數のものに於いては、自己の生活の擴大にあり熾烈な事功欲にある。いひかへると勢利の欲求にある。ところが、勢利の欲求の根本には生命の欲求がある。武士の働きはこの欲求から起るが、たゞその欲求を達する手段としての戰闘が、却つて武士をしてこの欲求をすてさせる習慣を養つたのである。こゝに矛盾があつて、それが即ち武士の生活、武士の思想氣風の根本的缺陷である。だから特殊の興奮状態と社會的風尚とに支配せられない場合、もしくはさういふ人物に於いては、この欲求が何物をも排除して猛然として頭を擡げて來るのである。戰國の騷亂はそこから起つたのだといつても過言ではない。そこで武士の精神的教養といふことが考へられねばならぬ。
 武士の上記の氣風はその任務たる戰闘からおのづから生まれるものではあるが、しかしそれと共に、教養の與かるところがあるので、世に武士道といはれてゐるものには、それが含まれてゐる。その教養とても、主とするところは武士の實生活から形づくられたものではあるが、自然に發生した心情のみではなくして、武士はかくあるべきもので(531)あるといふ道徳的規範ともいふべきものが成りたつてゐるところに、教養の意味がある。さうしてまた戰國時代に於いては、昔からの傳統的の思想がその一つの要素となつてゐるので、上に昔の武士から承け繼いでゐるものといつたのがそれである。このことは武士道といふ語の上にも現はれてゐるから、それをこゝで少しく考へておかう。
 武士道といふ語が何時から用ゐられてゐたのかは明言しがたいが、遲くとも戰國時代の末ころには、できてゐたらうかと思はれる。中古以來「道」といふ語は、例へば歌道といふやうに、今ならば「專門の學藝」とでもいふべき意義に用ゐられてゐたので、戰國時代には文道に對する武道といふ名が普通に行はれ、武藝、武術、戰爭の心得、などといふのと、大差の無い概念を現はしてゐた。だから武士には文武兩道の修養が無くてはならぬこととせられてゐたのである。今川記に見えてゐる了俊の制詞といふものに「不知文道武道、終に不得勝利事、」とあり、早雲寺殿二十一箇條の最終に「文武弓馬の道は常なり、記すに及ばず、文を左にし武を右にするは古の法、兼ねて備へずんばあるべからず、」と記してあるのも、その一例であつて、後の方のは、徳川幕府で發布した最初の武家法度の第一條に、殆どそのまゝ取られてゐる。なほこの武道の語は鎌倉大双紙などの軍記ものにもしば/\見えてゐる。要するに人についていふよりは、むしろ知識技術を指した語である。たゞ知識技術をいふにしても、それを「道」とする以上、それには既に世に行はれてゐるもの前々の時代から傳へられて來たものを學ぶ意義を含んでゐることは明かである。さうしてその武道に長じ戰場のはたらきに熟達してゐたものを、武邊ものとも武邊の功者ともいふのであつた。ところが信長記(卷一三)などに見える武者道または武篇道の語は、これとは少し違つてゐて、全體としての武士の心得といふ意義に用ゐられ、知識技術よりは寧ろ人に關するものとせられてゐるらしいが、かうなるといはゆる武道だけではなく、(532)武士の人としての道がそれに伴つて考へられるやうになる。武道を體得することがおのづからその人にあるのと、武道に熟達したのみでは武士としての根本が缺けてゐるからとの故である。しかし人についてのことであるにしても、それを「道」といつたのはやはり上にいつたと同じ考からであつて、そこに教養の意義が含まれてゐるし、またそのためには古武士の回想せられた形迹が見られる。武士道といふ語も、この武者道または武篇道と同じ意義に用ゐられるのが普通である。豐鑑(卷二)に家康のことを「武士の道に賢く萬よくおきて給ふ」と記してあるのも、同じ例であらう。のみならず、この語の由來はやはり武道にあるらしく、時代を溯つて考へると、平治物語(卷三)または前にも引いたことがある如く吾妻鏡に武道の語が見えてゐて、それは人についていつてある點に於いて、こゝにいふ武士道に近い意義のもののやうである。また近くは戰國ごろ(或は徳川の世に入つてからか)の作と思はれる義貞記といふものにも、文に對する武を「當道」の基とし、詩歌管絃の藝に對してそれを弓馬合戰の道と解しながら、一切の武士の心得をその當道の教として説いてある。この義貞記には武士道といふ語は用ゐてないが、徳川の初世に書かれた備前老人物語や武功雜記などには明かにこの語があつて、その指すところはほゞこれと同じであり、可笑記や浮世物語などの武士道とか侍道とかいふのもやはり同樣である。もつとも備前老人物語には「武士の道」が戰場での心得といふほどのことにも用ゐられてゐるが、これには昔の武道の意義が遺つてゐるのであらう。それと反對に東照宮遺訓などの武道は、文道と相對して用ゐられながら、一種の政治的意義が含まれてゐる。いふものの地位からおのづからさうなつたのである。(後の山鹿素行などになると、儒教思想でこの語を解して、武士の「士」をシナ風の士農工商もしくは士大夫の「士」とし、「道」の語も道徳の「道」としてしまふので、その士道の教訓は戰國時代の武士道と(533)は?かに違つたものであるから、これは論外に置かねばならぬ。)武士道といふ語の用ゐられるやうになつたことにはかういふ歴史があるが、この語を用ゐないでも武士には武士としての教養のあるべきことは、古くから考へられてゐたのである。なほこの教養には知識技能としての武道を補ふ意味での文道がおのづから含まれるので、そこに一般文化の武士道に及ぼすはたらきのあることが、注意せられねばならぬ。
 しかし武士道が道であり遺徳的規範であり、武士の氣風を訓練する教養の意味をもつものである以上、その道に背き教養の效果をなくする場合の生ずることが考へられねばならず、さうしてそれは上に述べたやうに武士の生活武士の任務そのものに根柢がある。だから武士の氣風も武士道も本來そのものを否定する基礎の上に立つてゐる、といはねばならぬ。或は武士の活動の最も盛であつた戰國時代は、上にいつた如く武士の氣風の最も高潮に達した時であると共に、その弱點その缺陷の最も明かに現はれた時であり、また武士道の最も強く要求せられた時であると共に、それが最も甚だしく蹂躙せられた時である、といふべきである。さうして平和の時代には、武士の氣風がおのづから壞頽する傾向をもつと共に、武士道はそれに對抗する意味に於いて、次第に偏固になり、從つてまた歪曲せられた形で主張せられるやうになるのである。
 
 以上は武士の氣風の本質と武士道の由來とに對する觀察であるが、それは概していふと源平時代の武士の思想または氣風と同じであつて、たゞ戰爭の激しい世であるだけに、凡ての調子が強くなつてはゐる。のみならず、戰國の世はもはや源平の昔ではない。全體が實力競爭弱肉強食の時代であり、また昔には無かつた列國間の戰闘が行はれて、(534)四隣みな敵であるといふ有樣でもあり、その上に南北朝時代から足利の世にかけて斷えずくりかへされた混亂の長い年月を經て來てもゐる。だからこの時代の武士の心情には、源平時代には見えなかつた、或はあまり發達してゐなかつたものがある。前に述べたやうに、主從の人的關係の上に國土の觀念が幾らか加はつて來たといふことも、その一つである。
 それからまた「源氏は二人の主とることなし」といふやうな、昔の武士の思想もかなり變つて來た。昔の東國武士は、長い歴史的因縁から悉く源氏の家人となつてゐたのであり、また東國といふ廣い場所が、彼等のために特殊の世界を形づくつてゐたのであるから、彼等から見れば源氏が即ち天下唯一の主人であり、その主從關係は殆ど絶對のものであつた。だから平家全盛の時代に東國武士の平氏に從つたのは、生活上已むを得ないことであつても、衷心に一種の苦痛を感じたに違ひない。ところがこの時代では、全國に大名が數多く存立してゐるのみならず、その滅亡が頻々として起るから、主從關係は必しも絶對のものと考へられなくなつた。さうして亡びた家の家來どもは、その時一度びは浪人とならねばならぬが、浪人となれば衣食に窮する。窮した彼等が武士として働かうとすれば、また新しい主人を見つけて抱へられねばならぬ。さうして何處の大名も覺えある武士を要する時代とて、ありつく場所は少なくない。甲州ものが多く徳川氏に從つた如く、主家を仆した敵の家來にさへもなる。現に「侍は渡りもの」(甲亂記)ともいはれてゐる。前に述べた如く主家が無くなればもはや主從の關係は絶えたのだから、それはむしろ自然である。だからこれは「昔は昔、今は今、」と、利のあるところを求めて敵ともなり味方ともなり向背去就を恣にした、南北朝ころの武士の考とは違ふ。禄に望みがあつて仕へるべき主人を撰ぶことなども、同じ考から來てゐるので、武士は或(535)る意味に於いては、報酬を得て戰闘を職業とするものであつた。武士が農民と全く區別せられ、城下にのみ集まつて戰闘を常務としてゐたといふ生活状態も、またこの思想の生ずる一原因となつてゐるであらう。勿論、單に禄の多寡のみが理由で主家をかへたといふことは、多くはあるまいが、何かの事情で他家に仕へるものは少なくなかつた。割據的状態に伴つて國といふ考が幾分か生じて來ても、上に述べた如く國勢の中心は土地から離れてゐる武士の主從關係であるから、武士の一部分に、或は彼等の思想の一隅に、かういふ考の生まれるのも無理はない。
 なほこの時代の武士の思想を源平の昔に比べて見ると、人としての缺陷、社會としての弊害、の方が多く目につく。本來が亂雜の世であるからこれは當然であらう。さてその第一は、人を見れば敵と思へといふ用心から、何人に對しても猜疑心を抱くことである。他人に對して信頼を置けないのが武士の社會であり、そこから養はれた武士の氣風である。しかし人は孤獨では生きてゐられぬ。主君もしくは家來と同輩とが無くてはならぬ武士に於いては、なほさらである。そこで人に對しては猜疑しつゝもそれと交はらねばならぬ。猜疑は自己本位であるから、かゝる交はりは要するに他人をわがために利用することである。人が互に他を利用しつゝ交はつてゆくところに武士の社會がある。かういふ社會が淺ましき社會であり、人間性を歪曲する社會であることは、いふまでもなからう。それからまた他の方面から見ると、人を信頼しないために胸中を人に見すかされまいとして、自然に矯飾を加へるやうになるので、率直な淡泊な言行が、この時代の武士には容易に見られないやうになつた。「壁に耳、石に口、ある習」(大内義隆記)であるとすれば、「一言にても人の胸中知らるゝもの」(早雲寺殿二十一箇條)であるとすれば、ことばを愼むことは勿論である。「深きもの」の第一に「物いはぬ人」を擧げ、「淺きもの」に「ことば多き人」を數へたのも(尤の草子)、(536)かういふ武士的思想から來てゐる。女を淺はかなものとして心を許すなと教へるのも、また同樣である。喜怒色にあらはさずといふ武士の氣風も、忍耐とか人に弱みを見せないとかいふ方面からも生ずるが、それよりはむしろこの點に深い原因があるらしく、抑情の習慣もこれによつてます/\養はれたのであらう。(率直に人と交ることのできない傾向が、今日でもなほ邦人の間にあるのは、この武士的氣風の餘弊でもあらうか。)
 のみならず更に一歩を進めていふと、場合によつては、うそも僞りも當然のこととして許されてゐた。戰爭は勝利が目的であるから、勝利を得るためにはいかなることをもする。個人としても、功名を爭ふためには身方同志ですらも互に欺くことを咎めなかつた。(義貞記といふもの、細川幽齋の覺書、備前老人物語、武功雜記、などにそれが見えてゐる。昔の宇治川の先陣爭ひは事實かどうか疑はしいが、この時代にはそれに似た例が實際あつたらしい。)明智光秀が「佛のうそをば方便といふ、武士のうそをば武略といふ、土民百姓はかはゆきことなり、」といつたといふのも(老人雜話)、もつとものことである。その結果、權謀術數を盛に用ゐるやうになるが、それがまたます/\人々の警戒心と矯飾の風とを増長させる。「のせられてのする」を得意としてゐた家康は、特にこの權謀術數に長じてゐたので、本多正信などの用ゐられたのもこの故であらうが、直情徑行を以て世に知られた秀吉とても、單にそれのみでは無かつたらう。たゞ秀吉は氣宇が大きくて人を恐れないのと、機略と決斷とに富んで物に拘泥せず、時に應じて宜きを制することの自在であるのとのため、屑々として矯飾をつとめる必要が無かつたのである。平氣で自己の弱點を暴露するのは、大きい人物、自信のある人物、でなくてはできないことである。
 その第二は、死を輕んずる氣風が惡い方面に流れて來たことである。戰に臨んで死を怖れないのは、武士としての(537)當然の修養であり、それから種々の美徳も發生して來る。敵に向つて奮戰する場合はいふまでもなく、運命の極まつた時にも、敵に降りまたは敵に殺されるのを屑しとせずして、みづから我が刃を我が身に加へる。自殺といふ風習の由來はこゝにある。そこに一種の悲壯の趣があつて、落城を眼前に控へての最後の酒宴、從容として死に就く辭世の詠、無限の詩趣がそこに湛へられてゐるのみならず、平生にこの覺悟があつて始めて武士の氣節も砥礪せられる。生死關頭に立つてゐることを自慢することによつて、人の心も嚴肅になる。しかしそれは死が人生の大事であるからのことである。敢て死に就かうとする武士の心情に悲壯の趣のあるのは、死を輕んずるがためではなく、實は死を重んずるからである。その重大なる死を敢てするところに尊とさがあるのである。けれども戰に慣れ人を殺すに慣れると、おのづから死を家常茶飯視するやうになる。人の生命を輕んずるやうになる。人の生命を輕んずるのは即ち人生そのものを輕んずるのである。人生を輕んずることが人生そのものと矛盾し人間性の根本を破壞するものであることは、いふまでもない。ところが當時の武士にはかういふ傾向があつた。彼等はしば/\他人の死をば無關心に視てゐた。このころの武將には、往々一旦の怒によつて家臣を手打ちにすることがあつたが、これもやはりその一つの現はれであり、刑罰に死を適用することが多いことと共に、知らず識らずの間に人の生命を重んじない習慣が養はれたのである。「毒の蟲をば腦をわり髓をぬけ」(瓦林政頼記)といふやうに、後害を恐れて敵の子女を殺すことは、源平の昔にもあつた如く、まだしもとして、信長が荒木を滅ぼした時のやうに、幾百人の女子どもを磔殺したり焚殺したりするのは、たゞ無情殘酷といふより外に評しやうが無い。もつとも信長の敵に對する處置は、この時代の武士としても特別に苛酷であつて、朝倉や長嶋一揆を仆した時でも叡山を滅ぼした時でもみなさうであつたけれども、上杉謙信や伊(538)達政宗にも、敵地に入つて老若男女を撫で切りにしたといはれた場合がある。これらは傳へられてゐるとほりに信用してよいかどうか問題であつて、何ほどか誇張せられてゐるでもあらうが、殺さなくてもよいものを殺したことがあるのではあらう。秀吉が秀次の侍女などを殺し盡したなども同樣である。かういふ行爲は殺伐な戰爭に慣れたところから自然に養はれた一種の殘虐性ともいふべきものの現はれとしなければなるまい。しかしこれも人により場合によることであつて、普通には、戰場の殺氣だつてゐる時でなくては、殘忍の處置はしなかつたやうである。
 が、自己が他人の死を輕んずるほどならば、自己の死とても他人からは輕んぜられる。終には自己みづからの死をも輕んずるやうになる。人の命の廉價な時代に於いては、どうせいつかは死ぬる身だと思ふ。そこに絶望的な、すてばち的な、勇氣が起る一契機があると共に、浮薄な死にやうをする原因もある。さうして戰争から生れた社曾的風尚として、命を輕んずることを何につけても讃めるといふ傾向も、またそれを助成する。自殺が輕々しく行はれたのもこの故であらう。殺伐な世に於いては、命を捨てるといふやうなことでなくては人心を刺戟しない、といふ理由もあらうが、今日から見ればあまりに死を濫りにしたものである。責任解除の意味で自殺をすることなどもこのころからの風習であらう。かの殉死の如きもこれに關係があるので、その半面には生命を重んじない態度がある。殉死の習慣は戰場で主人と共に死ぬること、それから轉じて敗戰の場合に主人と共に切腹すること、に由來があらうが、後には戰場でなくとも主人に對してでなくとも行はれるやうになつた。徳川の世になつてから作られた恨之介に於いて、女主人公の乳母や朋友や侍女が自殺し、竹齋物語の插話、薄雪物語、四人比丘尼、などに於いて、戀人に別れた男女が自殺を企てたことにしてあるのも、みなかういふ風習の反映である。固より殉死の半面は情に殉することであるが、(539)事實としては、主人を失ひ契りし人に別れて世にあるに堪へないといふ至情からよりは、むしろ主從の情誼のために身をすてるのを賞讀する一種の社倉的風尚と、それから養はれた因襲的道念とのために死ぬことが、特に男に於いては、多かつたであらう。男色の關係から來る殉死も同樣である。またこゝに擧げた物語に見えるやうな、戀人を失ひ夫や妻に別れたがための自匁といふことは、夫の戰死したといふやうな特殊の場合に妻がその後を追うた例などはあつたらうが、その他には事實として多く聞えてゐないことであり、さうしてかういふ場合でも、やはり情に殉するよりも恥を受けまいといふやうな用意が主因になつてゐたのであらう。(これも平家物語源平盛衰記などに見えるのとはいくらかの違ひがあつて、それらの書には純粹に情に殉したもののやうに書かれてゐる。)けれども物語の作者がかういふ構想をしたのは、死を敢てするといふことが世に尚ばれてゐたからに違ひない。昔ならば出家に終るべきものが多くは自殺をするのが、この時代の習慣であつて、殉死の如きも實はその一例であるから、戀のために身を殺すといふのも、生命をすてるといふ點に於いて讃嘆せられたのであらう。薄雪物語や四人比丘尼では、自殺を遂げなかつたものは出家をしたことになつてゐるが、謠曲の薄雪では女を自殺させてゐることを、考ふべきである。さうしてかういふ風習の生じたために、場合によつては死を希望し死を欲するやうにさへ人の心が養ひならされて來たのである。これは源平時代には見えなかつたこと戰亂の世の生んだ風尚である。
 死を輕んじ人命を輕んずるものは生きてゐる人に於いてもおのづからその人格を輕んずる。人質といふものに於いてもそれが認められるので、これは、それを取る側からいふと、人情の弱點に乘じてあひての意志を拘束する方法であるが、與へる側からいふと、人情を無視しまたは忍んでそれをあひての手中に委ねるところに、人よりも勢利を重(540)んじた時代の思想が現はれてゐる。政略的結婚なども同樣で、これもまた單に姻親によつて兩家の結合を堅めようとするのではなく、半ば人質の、半ば間諜の、意味で行はれたほどであり、次にいふやうに初めから敵を亡さんがための詐謀としてさへも用ゐられた。この場合に婦人が全く人格を認められてゐないことは、いふまでもない。だから秀忠の女を秀頼に嫁せ、その秀頼を滅してから更に他に再嫁させるなどは、戰國思想から考へると家常茶飯事ともいはるべきことであつた。婦人とても唯々として政略の具に使はれてゐたものばかりではなからうが、一面に於いてかういふ思想のあることを忘れてはならぬ。戰爭そのことが、少くともその半面の意味に於いては、本來主君たるものがその家臣たる多くの士卒を勢力競爭の具として使用するのであつて、その點では彼等の人格を認めないことであるから、その餘弊がかうなるのも自然の勢である。因みにいふ。戰闘が何ごとにつけても原動力となつてゐる社會に於いて、それに直接のはたらきをしない婦人が概して重んぜられず、武士の家庭に於いて男子が主宰者であるのは、當然であるが、さりとて夫に對する妻の地位が特に低かつたのではない。一般的にいふと夫妻の間は決して冷かなものではないので、細川忠興とその妻との間がらの美しかつたことは世に傳へられてゐるし、上に擧げた甲州の小幡某や太閤記に見えてゐる九州の武士の妻のやうな話もある。「霜滿軍營秋氣清、數行過雁月三更、越山併得能州景、遮莫家郷憶遠征、」(上杉謙信)、陣營のうちにあつてもかゝる情懷を抱かせるところのあるのが武士の家庭であつた。勿論、妻の外に妾をもつものもあつたけれども、それは男子の僕があるのと同樣に思はれてゐたのである。兩性の關係はどこまでも家族的見地より考へられてゐたから、夫妻はむしろ對等の地位にあり、特に子にとつては父母はどこまでも同じ親であつた。政略的結婚などは親や子を人質としたと同樣のことであつて、夫妻間の一般の問題ではない。
(541) その第三は、武士の義理も情けも、主として一國一城の間、いひかへると主從關係によつて結合せられてゐる一團の間、だけのことであつて、その外に出ては何ほどのはたらきをもしなかつた、といふことである。敵國に對してそれがはたらかなかつたことは、いふまでもない。今日に於いても國際道徳が發達してゐないのであるから、昔に於いて、而も不斷の戰争の行はれてゐるこの時代に於いて、かういふ有樣であつたのも不思議ではあるまい。武士は信義を守るといひなさけを知るといふ。しかし大名間の約束などは、それを破ることが平氣であつて、天照大神、八幡大菩薩、熊野の權現、あらゆる日本大小の神祇をかけての起請誓紙も、忽ち一片の故紙となつてしまふ。家康はかうして豐臣氏を倒したではないか。人質のやりとりや姻戚の親みとても必しもあてにはならなかつた。特に政略的結婚に至つては、初めから敵をたばかる一時の手段とせられたことも少なくない。細川藤孝や龍造寺隆信や宇喜田直家が婿を殺し、黒田長政が妻の父を殺し妻さへも火あぶりにしたことは、名高い話であるが、これらは信義の無いばかりでなく無情の極みである。暗み討ちや毒害は固より、戰場での詐僞的和談さへも、珍らしくはなかつた。反間を放つて敵の主從を離間したり、敵に利を啗はせて内通をさせたりするのも、甚だたちの患い權略であつて、勿論信義あるしわざではない。秀吉が北條征伐の後、見せしめのためといふので曩に降參して上方勢を導いた大道寺父子を誅したとはいふが、その秀吉は現に松田を誘つて内通させようとしたのである。見せしめのために誅伐すべきほどの不忠ものを敵方に作らうといふのは、敵に對しては何をしてもかまはぬといふ考からではなからうか。
 或はまた、武士は一旦の威に屈して媚を勢家に呈するを恥辱としたといふ。そこに武士の意地がある。けれども昔から武士の本場と考へられてゐた關東ですら、小さい大名は北條なり上杉なりの優勢な大名に阿附することによつて、(542)纔かにその領地を支へてゐたのである。もつともこれは致し方の無い小國のあはれさではあるが、かなりに力のある大名でもやはり同樣であつて、關ケ原の役に家康が勝ち、大阪の役に豐臣氏が滅びたのは、畢竟、意地も無く氣概も無く、強いものにはかなはぬ、長いものにはまかれよ、といふ考が多數の大名を支配してゐたがためではないか。この點に於いて幾多の大名は、三河物語の著者から「百姓同前にて、この前々も、草の靡きにて強き方へばかり附きければ、後世にもかく可有、」と罵倒せられて、一言の抗辯もできないものどもであつた。しかし彼等が大名としてその領地を永く保持することができたのは、これがためであつて、もし豐臣氏のために情誼を守つて飽くまでも操守を貫かうとしたら、家は滅び國は除かれるにきまつてゐる。大名とても世渡り上手でなくては、その身その家が保てないのである。
 もとよりこんな話ばかりではない。毛利勢が秀吉と和睦した後に本能寺の變をきいた時、隆景が堅く人々を制してどこまでも約束を守らせたといふことや、瀧川一益が信長の事變に際して厩橋を引き上げた時の關東武士の態度などは、武士の信義を敵にも示した好話柄である。勿論これらにも戰國的機略が結びついてゐるかも知れぬが、ともかくも信義は守られた。敵方の妻子を助けたことも少なくはなく、また別所長治が三木城の蓮命の定まつたのを見て自殺を決意し、部下の將士の命乞ひをした時、秀吉がそれを許し、酒肴を贈つて彼等を犒つた、といふ美譚もある。謙信が甲州に鹽を贈つた話はよく世に知られてゐる。しかしこれらのうちには、自己の存亡に關しない、事に餘裕のある場合、またはその行動が大局を左右するに足らぬものに對してのこともあるので、自己の領地を失ふか失はぬかの危急の際、もしくは自己の勢力を擴張するに絶好の機會、といふやうな時には、必しもさうばかりはしなかつたかも知れ(543)ぬ。本來我國の競爭は、諸大名がそれ/\に自己の領地、自己の勢力、を大きくしようといふ欲望から起り、その欲望の衝突から生じたものであるから、彼等の行動の根本義は、この領地とその上に築かれた勢力との保存もしくは擴大にある。戰闘はその最も必要な手段であるが、強者に阿附するのがそれよりも便利な方法であるとすれば、それを撰ぶのであり、約束を破り詐僞をはたらき無事の婦女子を殺すのが必要であるとすれば、敢てそれをも行ふのである。戰國競爭の單位が主從によつて結合せられてゐる一國であるから、その競爭の方法としての戰闘によつて養成せられた武士的精神は、その主從間、身方同志の間、に於いてこそ發揮せられるが、その範圍外にまで及ばなかつたのは、自然の勢であらう。
 もつとも戰闘が習慣となり、また戰闘にょつて鍛錬せられた精神が武士の人格の中心となつてゐる時代であるから、大名にも不利益と知りつゝ一戰を試みようといふ意地があつたには違ひなく、個人的の性格からさういふ傾向の強いものもあつた。新納忠元や坂部岡江雪が日本國の軍を引き受けて一戰するのは武士の面目だといばつた談もある。また主從の結合は必しも永久的のものでなく、また土地の上からいつても畢竟地方的團結に過ぎないのであるから、よし敵に對して詐謀を用ゐても殘酷なふるまひをしても、それは政策の上から來る國主城主もしくは主將の態度と行爲とであつて、一般の武士は敵方に對して、競争心と國自慢と敵愾心とこそはあれ、甚しき憎惡の念を有つてゐたのではない。だから無事の民を殺すにしても、個人的に殘虐を加へるやうなことは無かつた。これは同一民族から成立してゐる我が國民の間に自然に養はれた性情の現はれでもあり、また武士的修養の結果でもあるが、たゞむやみに人を殺してもそのことに無關心でゐられるだけに殺伐な氣風が、戰爭といふものによつて、彼等の間に養はれてゐたので(544)はある。
 しかし、信義を破り情けを思はぬのは、必しも敵國に對する場合のみではない。實力競爭の時代であり強いものがちの世の中であつて見れば、同じ主人を戴いてゐる同じ家中の武士の間でも、それが無いとはいへぬ。一國一城の狹い範圍内で功名心を滿足させよう權勢欲を充たさうとするところから、相互に爭が起り、それが武士の殺伐な氣風と結びついて、血腥い陰險な爭ひとなるのである。のみならず、場合によつては家來とても主家を仆さうとしないにも限らぬ。特に一體の氣風が殺伐で荒つぽくて激し易い戰國武士に於いては、深いたくみや思慮分別の上からばかりでなく、一旦の怨や不平からもさういふことをしないとはいはれぬ。現に齋藤道三の如きは主を殺し聟を殺して家を起し、「昔は長田、今は山城、」と世に歌はれた。けれどもそれが既に一國の領主として勢を振つてゐれば、非難はしつゝもそれに從ふ武士も多く、現に信長はその聟になつたではないか。明智光秀が信長を仆したのも、成功すれば罪を問ふものの無い世の中であることを知つてゐたからであらう。それが單なる逆臣として取扱はれたのは、武運拙くして秀吉に打破られたからのことである。その秀吉も織田氏を排して主家の權を奪つたものといへばいはれようし、現に信孝をば武力を以て倒した。主從關係を絶對のものとして見れば、勿論、武士道の罪人である。けれども世はそれを咎めず、天下の主として全國の武士がみなその命に服したではないか。陶氏でも毛利に破られなかつたなら、大内のあとを承けて毛利が占めたのと同じ地位に立つたであらう。もつとも光秀が主家に叛いたのは怨恨がその原因となつてゐるので、秀吉が權力競爭の結果として信孝を仆さなければならぬやうになつたのとは違ふ。これは世間にもわかつてゐたので、多くの武士が光秀には從はないで秀吉には歸服した一つの理由は、こゝにあつたであらう。けれども(545)また光秀のしたことの動機が天下を取らうといふ點にあつたとすれば、地位と場合との相違が二人をして異つた態度を取らせたのではあるが、その間に共通の點が無いでもない。主從ばかりではない。父を逐ひ出した信玄も立派な武將として、強國の主として、畏敬せられてゐたではないか。さうして武士として恥かしからぬ、もしくは武士の龜鑑とせられてゐる、幾多の勇士がその下にゐて懸命のはたらきをしたではないか。要するに、世を支配するものは實力と實力の優劣によつて定まる成敗とであつて、義理でもなければ情けでもない。「非はもとより理におさる、理は法度におさる、法度も時の權におさる*、」ところが、強いものがちの世に於いては、時の權はたゞ強者にある。主に背き親に背いて人に指彈せられるのは、主と親とに背いたからではなくして、それが弱者であり失敗者であるからである。武士生活の基礎となつてゐる主從關係も、かう考へると頗るたよりないものであつた。かういふ風に強者の行爲が、少くとも事實上、正當視せられることは、南北朝の混亂時代から馴致せられ、戰國時代に至つて極度に達したものであつて、源平時代の武士にはまだ經驗せられなかつたことである。これが戰國武士の氣風の昔と違ふ第四の點である。
 さてこれは武士の實状である。敵を打破るに手段を撰ばないことは勿論、場合によつては我が主君をも仆して我が領地を大きくし、我が勢力を振ひ、我が欲望を遂げようとする。戰國武士の實際の行動はこんなものであつた。戰國時代は武士の氣風の缺陷が最も明かに現はれ、武士道が最も甚しく蹂躙せられた時である、と上にいつたことはこゝにもその例證を示してゐる。かう考へると、武士、特に國主大名、は畢竟一種の盗賊であつたといつてよい。「盗賊と武略とは文字かはり道異なれども心は同じ」(北條五代記)。必しも武略ばかりではない。その武略を肝要とする彼(546)等の全體の行動がさうである。けれどもかゝる盗賊によつて支配せられる世は、あまりにも亂脈であり、あまりにも心もちがよくない。だから當時に於いても心あるものはこの形勢を慨歎した。幾多の軍記ものにもしば/\その意がほのめかされてゐる。齋藤道三などが世間から非難せられたのもこの故である。さうしてこの考は漠然たるものながら事實上世を動かす力ともなつたので、明智光秀の失敗した理由の一つはこゝにもあらう。が、それだけではあまりに力がない。そこで、彼等は思想の上で、この亂脈な放埒な強いものがちの世態は果して人生の眞實であるかと考へた。考へた結果、世には「天道」といふもののあることを知つた。「權は天道におさる」(尤の草子)の一轉語を下して、理をも法をもおさへる時の權の上、強者の上に、更にそれをおさへる天道を拉して來たのである。
 しかしその天道とは何か。今川了俊の制詞といふものにも、既に「不恐天道働事」の一條があり、この時代の軍記ものなどにも往々この語が見えるが、それは畢竟、無道の行をしたものは、一旦の榮華に誇り一時は權勢を振つても、かならず天罰を蒙る時が來る、といふことであつて、それを天道の働きと見るのである。特に主從關係が社會の紀綱となつてゐる世であるから、「昔より今に至るまで主に對し不義ありしものかならず滅ぶること疑ひなし」(相州兵亂記)といふ思想があつて、それが天道の權威の最も著しい證徴とせられた。世は如何に亂脈に見えても、その間にこの天道が行はれてゐる、といふので、それを教訓風にいひ換へると、人はこの天道を恐れて不義無道の行を避けよといふことになり、強者の權をそれによつて抑へようとするのである。これは通俗的道徳觀念として生じ易い思想でもあるが、人生と社會とを支配する宇宙間の道理があるとして、それを道徳的のものと見る點に於いて、儒教の影響をうけてもゐるらしい。が、それはともかくも、前篇にも既に述べたことがあるやうに、この思想は榮枯盛衰を以て天(547)道の行はれる徴證とするのであるから、世に榮えてゐるものは天道にかなつたものであり、從つて栄華を求める根柢の精神は是認せられることになる。たゞその求める方法に善惡があり、またその應報が長い時間に於いて行はれる、といふのみである。
 が、競爭が激甚で、眼前の自己の存亡が切實の問題である時、人生五十年の短い間に我が功名を遂げようとして、あらゆるものが血眼になつてゐる時に、目的のために手段を撰ばなくなるのは免れ難い事情であり、また長い後世のことが多くの武士の心情を支配するに不十分であることは、いふまでもない。彼等は不義非道によつて榮えてゐる諸大名にも服從して、それに忠節を盡すを本務としてゐたではないか。また子孫の繁榮を希ふに至つては、既に權勢を得たものの問題であつて、權勢を求めてゐるものの考へるところではない。のみならず、この思想は現實の事態そのものに於いて天道が行はれてゐるとするものであるから、如何なる世態もそこに正當視せらるべき理由があるといはねばならぬ。家の滅びるのは惡逆の報かも知れぬが、滅びるのが正當ならば、それを滅ぼすのも、同一現象の裏面の事實として、正當でなくてはならぬ。或は天道の執行者として賞讃せられなくてはならぬ。その間に是非善惡の批判を容るべき餘地があるにしても、事實に於いて、人の家を仆し人の國を滅ぼすことは是認せられなくてはならぬ。戰國の紛爭を鎭定するにはあまりにも力の無い思想である。これはこの天道説の上に立つての話であるが、更に別の方面から觀ると、明白なる事實として、實力の大小強弱が家國の盛衰興亡を支配してゐる。何等の罪過が無くても、國が小さく勢が弱ければ覆滅の運に逢ふことを免れない。これは天道説とは矛盾してゐるではないか。だから天道説そのものが、世のさまと人の行ひとの唯一の規準として、當時に於いても認めもれたのではなかつた。現に彼等は家の衰(548)へ國の滅びる場合には、別に「時節到來」といひ「運の極まり」といふ思想を以て、この眼前の事實を解釋しようとしたのである。ところがこの運命觀とかの天道觀とは互に齟齬する觀念であるのに、彼等はそこに氣がつかなかつた。それほどに彼等の天道觀は不徹底な力の無いものであつた。
 天道が既に力の弱いものであるならば、人はたゞ激烈なる戰國競争の間に立つて、その身を保ちその勢を張らうと懸命に努力する外はない。努力して事の成るか成らぬか志の達せられるか達せられないかは運命であるが、運をば運に任せて我は我が力を揮ふのみである。秀吉は固より運がよかつた。家康もまた運のつよい大將といはれてゐた。事實、徳川の天下を取つたのは家康の長壽のおかげであつて、その長壽を得たのは運命に違ひない。けれども家康の言行によつて考へると、彼は實に人力の重んずべく尊ぶべきを知つてゐたので、どこに落ちるかわからぬ雷についてさへ、その禍を少くする方法を考へてゐたといふ。彼の事業がこの愼密の用意に負ふところの多いことは勿論、長壽さへも攝生の功によることが少なくなかつたであらう。實力競爭の世に人力の尊重せられるのは當然のことであるから、家康ほどに意識してゐないにしても、我が力が我が事をなすに足るといふ考が、武士の間に生じて來たことは爭はれまい。けれども世には人力の如何ともすべからざることがある。特に戰陣の間に於いて、もしくはその勝敗によつて事の決せられる勢力の爭ひに於いては、なほさらである。だから「運は天にあり」といふ源平時代以後の武士の思想がなほ持續せられ、「武士は冥加と武邊と果報と三つ揃はねば本意を不達事も有之事に候」(武功雜記)といはれたのである。が、人力を頼むも天運に任せるも、畢竟は強いもの勝ちの世に於いて強きを制し勝ちを制しようとする武士の心理に外ならぬ。さうして武運めでたく開けて勝利に勝利を重ね、強者の上の強者になつたものが、終に天下を統(549)一してこの競爭の結末をつける。その間の徑路に如何なることがあつたにしても、天下の權を得た以上、あらゆる武士はみなその前に雌伏する。たゞその權を得たものは、それを長く子孫に持續させたい。彼はこゝに至つて始めて天道の恐るべきを思ふ。家康が治平の後にしば/\天道を口にしたのは、この意味に於いて甚だ興味がある。
 しかし家康のいふ天道には往々政治的意義があつて、武家の政の治まらぬ時には天道が新しい武家に世を預けるから亂れた家は亡びる、などとシナ風の革命説らしいことをいつてゐる(東照宮遺訓)。儒者と道を談じて禅讓放伐論などをしたといふから(駿府政事録)、その影響があるかも知れぬが、政權を得た彼としては自然に思ひがこゝに到つたのでもあらう。(この考が皇室に關したものでないことは、いふまでもない。)本佐録といふものが果して本多正信の著であるかどうか、疑ひもあるが、こゝにも政治的意義を含んだ天道論が見える。ところが政權を握つて諸大名に臨むのは、一國一城の主君として家來を率ゐるのとは性質が違ふ。家來は主從の情誼によつて結ばれてゐるもの、命を主君に捧げてゐる武士であるが、諸大名は政治的權力關係に於いての治者に對する被治者であり、實際の情状からいふと勢に從ふ「百姓同前」のものである。(もつともこれと同じいひかたをすると、家康が大阪を滅ぼしたのは強盗同樣であらう。)けれども、家康は自家の權力を鞏固にするためには、諸大名を巧みに操縦し、威を以て嚇し利を以て誘ひ、また人情の弱點を捕へる結婚政略や人質の招致を以て、彼等に臨まねばならぬ。武士道は主從の間を規定するものであるが、將軍と大名との間のことではないからである。大久保彦左衛門が諸大名を罵り、彼等に對する將軍の態度に不平を鳴らしたのは、主從と政治的權力關係としての治者被治者との間がらの區別を考へなかつたためである。けれども三河武士が大名の班に列して外樣大名と肩を列べる時には、外樣大名もまた習慣上、將軍と主從らし(550)い形になる。主從の名があつて主從の實の無い時に、眞の主從の情誼に累を及ぼすのは、自然の勢である。武士道はこゝに至つて何等の動搖をも見ないで濟むであらうか。
 かういつて來ると、前にのべた問題に立ちもどつて更に一言しなければならぬことがある。秀吉が織田に代り家康が豐臣に代つて天下を取つたのは、主從の情誼もしくは誓約を破つた點に於いて、不人情でもあり不信でもあり武士道の罪人でもある。しかし國家を統一し國政を主宰する資力のあるものが出なければならぬ場合に於いて、事實上、信長の死後の織田家にも秀吉の歿後の豐臣家にも、その資質のあるものが無いとすれば、何人かが彼等に代らねばならぬが、何人が代つても秀吉や家康と同じ地位に立たなくてはならぬ。人によつてその手段に綬急寛嚴の差はあつたであらうが、畢竟は同じ態度を取る外は無かつたらう。さすれば不信不義を敢てするものにして始めて天下を治平にすることができた、といふ奇怪な結論に到着する。昔から大盗は國を盗むといふ語があるのは、この事實を直言したもので、儒教の革命論も家康の天道論も、それを肯定すべき理論を立てようとして案出せられたものに過ぎない。が、如何なる理論を案出しても事實は事實である。さうしてかういふ大盗の出現の要求せられたのも、またその時々の動かすべからざる事實であつた。これは政治上の實際情勢と政治道徳との根本的矛盾であるが、それを取り去ることは、專制政治武斷政治の世の中に於いては到底できない話であつて、それには眞の國民政治をうちたてる外に途は無い。我が戰國時代にさういふことのできるはずが無かつたことは明かであるのみならず、かういふ事實の起つたことが、實は武力闘爭の結果として優者が天下を統一しなければならなかつた戰國時代の必至の勢である。さうして闘爭の手段が武力である以上、我が勢の強いことを證するためには、主家をも滅ぼし政友をも殺さねばならなかつたのである。(551)たゞ社會が主從關係によつて成りたち、その間から生じた武士道によつて世の紀綱が維持せられてゐた當時に於いては、自然にかういふ政治上の問題をも、同じ主從の情誼または武士道によつて批評し裁斷するやうになるので、政治上の著明なる事實と道徳觀念との矛盾が特に目立つ。武士道は本來、狹い一國一城の主從間に於いて發達しまた維持せられて來たものであるから、それを廣い天下の政治の上または政權爭奪の情勢に適用することは、事實上不可能であるにかゝはらず、全體の政治組織の骨ぐみが表面上主從らしき形をなしてゐるがために、理論上それを適用しなければならぬやうになつたのである。が、それは即ち國家統一の場合に於ける武士道の破産ではあるまいか。
 そればかりではない。武士道は戰亂の間から發生したものである。その根柢には世の紛爭に際して我が腕を揮はうとする、もしくは力次第運次第で功名を成さうとする、熾烈な情熱が燃えてをり、それを冷さないやうにするには、社會の全體が戰争の刺戟によつて興奮状態にあることを要する。ところが世を平和にするには社會の秩序を固定させねばならず、徳川の政權を鞏固にするには人心を鎭靜させねばならぬ。戰爭はもとより禁物である。この點に於いて武士道の精神は、むしろ徳川氏によつて統一せられた新しい社會の整つた調子を擾すものである。けれども社會そのものが、戰國時代の状態をそのまゝに承けついだ武士中心組織である以上は、その武士の紀綱を立て、從つてまた社會全體の風尚を維持するには、やはり武士道によらなくてはならぬ。こゝに徳川の世の根本的自家矛盾がある。豐島某が遺恨によつて宿老井上主計頭を殿中に刺した時、幕府の秩序を保つためには某を極刑に處する必要があるといふ説と、武士の意地を養ふためにはさういふ處罰を非とする論とがあつた(大猷院實記寛永五年の条)。後の大石良雄の場合もこれと同じで、政治的眼孔から見るものと武士道の思想から論ずるものとの間に、見解を異にしたのである(552)が、これも武士道が廣い政治の上に適用せられないものであることを示すと共に、當時の政治組織社會組織にこの矛盾した二要素を含んでゐることを語るものであつて、また武士道が平和の世に於いては、そのまゝに行はるべきものでないことの好例證である。
 その上、武士道そのものが平和の世には衰頽すべき性質を有つてゐる。主從の情誼も死に對する覺悟も、それから養はれる武士的氣質も、戰爭と戰國約状態とによつて濃厚にもなり緊張せられもするものならば、戰が無くなり世が秩序立てられた平和の時代に、それが薄くもなりまた緩んでも來るのは當然である。けれども長い戰國の間に養はれた武士道は、それが因襲的觀念として權威を有つてゐるのと、その基礎になつてゐる主從關係が封建諸侯の内部に於いて昔のまゝに存續し、それが社會組織の根幹をなしてゐるのと、また全體の政治形態が戰國的状態を固定させた封建の制であるのとのため、よしそれが漸次に生氣を失つてゆくにもせよ、ともかくも道義觀念としての形體が保持せられる。さて生氣が失はれ熱が冷めて來ると、それを維持するには主として知性の力に俟たなくてはならぬ。ところが武士道はよし教養としてのはたらきをもつてゐるにせよ、その本質は自然に發達した武士の風尚であるから、思想としての構成をもたない。或はそれが幼稚であり粗雜である。だからそれを知性の次第に發逢してゆく平和の世に適合させるには、別にこの缺陷を補ふ何物かが要る。この要求に應じたものは即ち儒教であるが、儒教もまたそれを實踐的に意味のあるものにしようとすれば、おのづから實社會の風尚に調和させ或はそれと結合させねばならぬ。けれども儒教は本來異國の國情と日本人の生活とは甚しく違つてゐる異國人の生活とから發生した特異の政治思想道徳思想であるから、それは困難である。が、このことは後の問題として、今はたゞ武士道が平和の世には衰頽すべき性質(553)をもつものであることを、一言するのみである。
 武士の氣風及び武士道の短所と弱點とは、ほゞかういふやうに見られるが、しかしこれは一面の觀察であつて、他の一面にはそれに多くの長所と美點とがあることは、上に既に考へておいた。戰國時代に於いて日本人の禮儀が正しく知識欲が旺盛であること、約言すると教養のあるものであることが、キリシタン宗門のバテレンによつて報告せられてゐるが、これは武士のことをいつたものと解せられる。當時の武士は偏固なバテレンの目にもかう映じたのである。パッパの教廳に遣はされた青年使節が到るところで好感を以て迎へられたのも、かゝる武士的教養があつたからである。世が平和になつてからも武士が依然として社會組織の根幹となつてゐる限り、やはり同樣であるので、その傳統的精神によつて江戸時代の社會の一般の紀綱も保たれ禮節も成りたち、個人としての人格も陶冶せられた。のみならず、その遺風は社會組織の變つた明治時代の士人の教養としても少からざるはたらきをした。勿論それには戰闘によつて形づくられたものであることに伴ふ缺陷があつて、今人にはその缺陷が特に著しく目にたつが、當時にあつては、それから種々の弊害が生じたにせよ、少くともこの氣風と道義とが我が國を安定させる力となつたことは事實であつて、江戸時代の光輝ある平民の文化が發達したのも、その力によるところが大きかつた。武士中心の社會であることがその文化の發達に制約を加へもしたが、それと共に、その制約をうけながらそれに壓迫せられず、却つてそれを利用して文化みづからの力を伸張してゆくところに、この時代の文化の特質があつた。このことは次卷に至つて詳しく考へるであらう。
(554) 武士の氣風を考へたついでに、その武士の權力の下にあつた民衆の思想をこゝで一瞥しておかう。戰國時代に於いては武士と一般民衆との間に身分上の區別はできてゐたが、百姓でも町人でも武士になる機會は多く、武士もまた浪人すると民間に隱れるものが少なくないので、町人や百姓に武士から轉身したものがあり、そのうちには商業に新生面を開き或は土地の開拓に功を成したものがある。平和の世になつてもこの相互の融通は決して無くならないので、そのことは次篇に詳説するであらう。さうしてもとの身分が何であつても、一旦武士になると武士の氣風に感化せられると共に、武士の身分を棄てたものでも、もとの武士の氣風は或る程度に持續せられるので、武士本位の社會であるだけに、かういふ傾向が強い。のみならず、武士の主從關係が民衆生活の諸方面で模倣せられるやうになり、そこからも武士の氣風が民衆の間に弘まつてゆくことは、これも次篇で考へるであらう。勿論、百姓にも町人にもいろいろの階層があり、地方的にもさま/”\の違ひがあるから、一概にはいはれない。一般的に考へると、彼等の多數は武士とは縁遠いものであり、從つてその氣風も道徳觀念も武士とは違ひ、武士から見ると教養の無いものであつて、上にもいつたことがあるやうに道徳的に武士から卑まれたものがあらう。その代り百姓は村落的に、町人はその職業による、それ/\の慣習があつて、それによつて彼等の間の道徳が成りたつてゐたに違ひない。なほ政治的には武士は治者に屬するものであり百姓町人は被治者であるが、被治者であつても武士の抑壓をうけてのみゐるのではなく、それ/\の生業に努力もし安住もしてゐるものが比較的に多かつたことは、これも次篇にいふ如く、彼等によつて江戸時代の文化が創造せられたことから推測せられる。それと共にまた、三河物語の著者のいつたやうに百姓は勢にのみつくものと概言することはできない。戰國時代に於いて戰闘が彼等の住地に行はれた時、または小領主の互に爭つて(555)ゐた場合には、さういふことがあつたらうが、普通の状態では彼等が如何なる領主に屬するかは治者たるものの權力によることであり、さうしてそれは彼等か被治者たる地位にゐるためである。
 
(556)     第六章 僑學、佛教、神道、及びキリシタンの思想
 
 學問が主として漢字で書かれた書物を讀むことであり、文章の重要な部分に漢字が多く用ゐられる以上、學問をして文筆にたづさはるものは、多かれ少かれシナの思想を受け入れてゐる。從つて、文字を解し書物に親しみのあつた戰國武士は間接ながら儒教の知識をもつてゐたといはねばならぬが、その知識には必しも特殊な師承があるには限らない。しかし彼等の間に直接に學問を傳へたものとしては僧徒があり、そのうちで特殊のはたらきをしたものには禅僧のあること、その禅僧が宋學と關係を有つてゐたことが注意せられる。戰國時代の諸家の法度に往々忠孝とか仁義とかといふ儒教道徳の語が用ゐてあり、軍記ものに於いてもまた同樣であるし、尼子晴久の夢想の句といふものにすら「孔子も今のこの文字は跡へ還りてあるものかな」(夢想披百韻)といふのがある類は、いはゞ常識的のものであるが、慶長見聞集(第四)に「仁は愛の理」といふ朱註の語を用ゐてあるのは、宋學の書を讀んでゐる武士のあつたことを示すものである。
 それと共に儒教の思想は、戰國時代に於いて歡迎せらるべき理由がある。當時の武士には、昔の公家貴族の如く遊翫のために、もしくは實生活に縁遠いシナの故事を知つてその知識を誇るために、漢字を學び漢籍を讀む必要も餘裕も無い。けれども諸大名は、如何にしてその國を強くしその臣下をはたらかせるかを考へねばならぬ。さうして國を強くするにはおのづから民を治めることに想ひ到らねばならず、臣下をはたらかせるには、その扱ひかたを慮らぬばならぬ。前に引いた尼子晴久の夢想披百韻に於いて、彼はみづからその第三に「國民は惠あまねき春まちて」とつけ(557)てゐるが、孔子の教を如何に解してゐたかはこれでもわかる。少しく高所に立つて眼を天下の大局に注ぎ、この亂世を奈何にせんと考へるものに至つてはなほさらであつて、今川記の卷頭に治亂の大勢を論じてゐるなどもそのためであらうが、それは稀有な例として、如何にして我が領國を治むべきかに心を勞するものは少なくなかつたであらう。室町時代に於いて甚しく個人的利己的に傾いて來た武士の思想は、地方的小國家が固まりその爭ひの激しくなると共に、再び國を考へ世を思ふに至つたので、こゝに儒教と接觸する契機が生じたのである。この卷の第一篇に説いたやうに、鎌倉時代から南北朝時代にかけて世といふことが人の思慮に上つたが、それは或は一種の批評的態度からであり、或は廣い天下を相手の、從つてまた抽象的の、問題であつた。この時代のは、それよりも範圍の狹い一國一城の間のことであるだけに、むしろ當事者の實行間題であり、從つてまた具體的である。一般の武士とても、その主君に對し父祖に對する特殊の道徳觀念がある。この觀念は前章に述べた如く彼等の生活から自然に發生したものであつて、決して文字の間から得て來たものでないことは明かであるが、既にかういふ觀念を有つてゐるものが漢籍を讀み儒書に接する場合には、彼等の眼はおのづからそれと接觸するところのあるその教の内容に向けられるのである。
 ところが天下が一統せられる氣運に向つて來ると、世を治めるといふことがます/\重要視せられるので、それにつれて儒教の思想も一層深く注意せられる。信長が「儒道の學に心を碎き國家を正さんと深く勵す者、或は忠孝烈之者」を特別に計らへといふ法令を出したといふ傳説(信長記)は事實として信じかねるが*、家康に至つてはともかくも儒教の所説に耳を傾けたので、前にも述べた如く武家の興亡を革命説によつて解釋してゐる。かの本佐録などにも佛教を斥けて儒教に重きを置く傾向が見える。事實、徳川の世の政治には、儒教の思想とおのづから調和すべき點(558)があつたのである。徳川の政治の根本主義は、實力競爭の戰國的状態を一變して、すべての社會を統一せられた秩序の下に置かうとするところにある。これは儒教の政治思想と趣を同じくしてゐる。さうしてこの秩序が固定すれば幕府の政治の目的は達せられるので、國民の生活を旺盛にするといふやうなことは考へられてゐない。世の秩序を維持し社會の統制を全うするためには、むしろ國民の活動を抑へる。個人の價値を認めないことは勿論である。ところがこれもまた儒教思想と同じである。幕府は民に教へて、彼等の生活することのできるのは將軍や領主のおなさけであるといふ。これもまた、民の生存は天のめぐみ即ちまた天の代表者である天子の仁惠である、と説く儒教主義に適合する。その他、封建の制も、將軍を首として漸次下級の武士に及びその下に民衆を置くといふ政治的秩序も、儒教の起つた春秋戟國時代と類似してゐ、從つて儒教が世に存在すべき唯一の政治形態社會組織として説いてゐるところに一致する。なほ家光の末年には頻りに訓令を農民に下し、特に慶安二年には彼等の日常生活について極めて煩瑣な注意を與へてゐるが、もしかういふことが何等かの實際上の必要から出たものであるとするならば、幕政は自然に儒教の教化政治主義にさへかなつてゐるのかも知れぬ。
 世が平和になつて社會が固定して來たために、一般の武士の地位が世襲的で、家がすべての本位であり、子孫の生活は父祖の餘澤であり、家族は常に家長の庇護の下に生活し、個人として單獨の活動をすることができないし、また文化の進歩が遲緩であるため、子孫が父祖よりもその知識を進めその力を伸ばしその生活を豐富にすることが容易でない、といふこの時代に於いて、父祖に絶對的權威をもたせる儒教の孝行説が、單に學説としては、さしたる批評にあはずして世に行はれたことにも理由がある。また主從關係が武士生活の根幹をなしてゐる社會に、昔のシナ人の忠(559)君説が適用せられたのも不思議ではない。シナで忠君といふ語の用ゐられたのは戰國時代が初めらしく、諸侯から俸禄をうけてゐるその臣下が君主たる諸侯に對して有する道徳的義務をいふのである。荀子が忠と孝とを對稱的に用ゐてゐるのもこの意義に於いてである。忠君は俸禄の代償としての性質をもつてゐる私的道徳であつて、公的政治的意義のものではないので、君臣の結合の鞏固であることの要求せられた戰國競爭の世にかういふ道徳觀念の生じたのは自然であらう。韓非子(忠孝の章)にはそれを人民と天子との間のこととしてあるが、さういふ關係は戰國の世に於いて事實上存在せず、またシナの政治思想に於いては人民の天子に對する道徳的義務といふものは一般に認められてゐなかつたから、これはこの語の正しい意義ではない。だからこの點に於いては、昔のシナ人の用ゐた忠君の語を、我が國の武士の主君に對する道徳に適用しても大なる支障はない。
 けれども徳川幕府の下に政治的秩序の成りたつたのは、儒教でいふやうな禮樂制度のためでもなく、またいはゆる名教の力でもなくして、幕府の武力と、その巧妙な政策と、また戰國時代の長い年月の間つゞいて來た大名の割據の状態と武士の主從關係とを政治形態社會組織の基礎として、封建の制度を建てたのと、これらの事情のためである。(後に白石や徂徠などが禮樂制度論を喧しくいひ出したのは、儒教政治學の教條を標準にして幕政の缺陷が却つてこゝにあると考へたためである。)さうして武士の社會を維持する武士道の根本精神には、幕府の固定主義秩序主義と相容れない點があると同棟、儒教の禮の思想とも矛盾したところがある。また上にしば/\述べたやうに、武士の思想に於いては父祖の尊敬と主君への情誼とは離れることのできないものであつて、そのいはゆる忠孝は主君と父祖との結合から生じた世襲の俸禄を基礎としてのことであるから、さういふ忠孝の觀念は、自己の力で自己がはたらいて(560)衣食しなければならぬとせられた農工商、即ち一般の平民、には適用のできないものであり、特に忠君については、武家に年貢を納めるものとせられた百姓や、武家と主從關係の無い町人には、初めからさういふ道徳觀念のあるべきはずがない。たゞ第二章で考へたやうに、百姓町人自身の間に於いて主從關係が成りたつやうになると、その間の道徳は君臣間のと同じ性質のものとなるのみである。儒教の忠君思想も、それが平民に適用せられない點に於いては、武士の考と同樣であるが、その忠と孝とが別々のものである點に於いて違つてゐる。さうして孝はすべての人に共通の道徳として説かれてゐる。またもし主君と父祖との何れかを撰ばなければならぬ場合には、武士はむしろ主君に就くのが必要のこととせられてゐるけれども、儒教に於いてはさういふ要求はしない。また武士の思想では、一旦主從の約を結んだ以上は主家の亡びざる限りその關係は絶對のものとせられ、みづから浪人したり他家に仕へたりするのは、事實上無いことではなくとも、特殊の場合に於ける異常のこととせられてゐたが、儒教思想に於いては、君臣の義は斷ち得られるものとせられ、また斷つのが正當であるとせられた場合もある。これも畢竟、儒教の君臣關係が義の字によつて示されてゐる如く、武士の君臣が愛と情誼とによつて維がれてゐるのとは違ふからである。
 けれども、奈良朝や平安朝の昔に、儒教道徳の思想がいくらの影響をも實社會に與へず、一般の社會でもまたこの異國の道徳思想にさしたる注意をしなかつたとは違ひ、この時代に於いてともかくもそれが教として世に重きをなすに至つたのは、文化が昔のやうに貴族的でなくなり、從つてシナの書物が漸次廣く世に讀まれるやうになつて來たことや、當時の儒教が訓詁を主とする昔の儒學とは違つて、宋學によつて道を開かれたことや、それらの種々の事情の外に、上に述べたやうに當時の社會が儒教を迎へ得る状態であつたことが、最も重要な原因であつたらう。思想上の(561)細かい分析などは、當時の人の堪へ得るところではなく、またおのれ等にしつかりした思想が無いために、文字と書物とを過度に尊崇する邦人の習癖もあるので、その實、自己自身の心生活、自己の純眞な感情、とは幾多の相容れざる點があるにかゝはらず、書物の上また文字の上で知つた儒者の説をそのまゝ信ずるやうなものも現はれたのである。
 が、世にはまた「あらいやの孔子風や」(可笑記)、「あらむつかしの論語風や」(浮世物語)、と儒者の説法を嫌ふものもあつた。彼等に深い思慮があつてのことではないが、また儒者には徒らに文字と書物とを標榜する癖があつて、それがかういふ嫌厭の情を一般人に惹き起させる一原因ともなつたに違ひないが、文字によつて始めて得られる特殊の知識を有たないものに取つて、論語風孔子風が異樣に感ぜられたのには、儒者の所説が日本人の生活に適合しない點があつたためではなからうか。一般世人は書物の上の知識に眩惑せられてゐないだけに、却つて儒者の講説の價値の低さを看破し得た點があるのではあるまいか。儒者には現實の武士の生活とその心理とを解し得ないところがあつたからである。儒者の講説は初めから彼等自身の眞率な内省、人生に對する切實な考察、の結果ではなく、たゞ書物から得た知識に過ぎないから、さういふものの歡迎せられないのは、必しも聽くものの罪のみではない。幕府に於いても家康などが儒教に注意したことは事實であるが、それによつて家康が儒者を重用したとか幕府の政治が儒教主義であつたとか考へるのは大なる誤であつて、特に幕府が宋儒の學を尊信したやうに論ずる後の儒者の説が事實に背いてゐることは、いふまでもない。家康は道春よりも天海や崇傳を重んじたので、彼にもし幾分の政治的意味を帶びた顧問のやうなものがあつたとすれば、それはむしろ天海であり、道春の如きはたゞ文字を解してゐるがために、崇傳(562)と同じやうな一種の文事秘書官として用ゐられたに過ぎない。また道春が宋學を奉じてゐたことは事實であるが、家康の彼を用ゐたのは彼が宋學を奉じてゐた故ではなくして、たゞ漢籍をよみ漢文を作り得たからである。家康は諸宗の僧侶に法論をさせてそれを聽き、五山僧にも物をたづね、吉田梵舜にも神道を聞いた。彼は何人を問はずそれによつて知識を得べきものを利用するに憚らなかつたので、儒者とか佛者とかに拘泥しなかつた。まして宋學といふやうな學派的觀念などがあつたのでないことは、勿論である。武家法度の如きも崇傳の起草したものらしく(駿府記)、その條草も諸大名を拘束して世の秩序を定めるために必要な實際問題の外は、建武式目や戰國大名の法條やから取られたものが多く、儒教的臭味は少しも見えてゐない。詳言すると、その第二第十二第十三は建武式目から、第五第六第八は戰國大名の法條から、繼承せられてゐるが、たゞ第四第七に於いて戰國的風習を抑制しようとする一統の精神が現はれてゐる。徳川の政治はすべて武家の因襲的思想と常識と實際の經驗とから割り出されたものである。現に松平信綱は四書五經よりは御代々々の御法度を學べといつたといふ(信綱記)。酒井忠勝も儒者の言にあきたらないやうなことをいつてゐた。これには儒者の言議に對する反抗の氣味もあるらしいが、政治家としては當然の言ひ分である。徳川の政治に儒教的思想の加はつたやうに見えるのは、書物から知識を得た保科正之や光圀がそれに參與するやうになつてからのことで、武家法度にも寛文のからそろ/\儒教的分子が入つて來る。恰も武士道に儒教的解釋を加へるやうになつたのと同じころからのことで、また同じ事情の故でもある*。このことは後篇に述べよう。寛永十二年の諸士法度に「忠孝を勵まし」云々の語のあるのは、單なる因襲に過ぎない。
 なほ儒教思想と武人の精神との契合しない二三の點を擧げてみよう。何事をも儒教的眼孔から見てゐる甫庵が太閤(563)記でその太閤を評隲してゐる態度なども、その一例である。甫庵は太閤の大器であることを許し英傑であることを認めてはゐるが、その小田原征伐の目的を政道の衰へたる世を改めるためだといひ(卷一二)、外征の動機を彼自身の言として「舊功の者どもに爵禄を厚くし、異國の佳風を見もし聞きもし、吾が朝の政務を改め見んと思ふ、」が故としてゐる(卷一三)などは、斷えず我が力を揮つて我が事をしようとし、常に隣人に向つて我が力を伸ばさうとする、戰國時代の精神をも、それを象徴してゐる秀吉の事功欲をも、解しないものの言である。もつとも外征については、世評の一として「屈せぬ氣かな、士たる上は靜かなる境界を樂しみ暮らすべきことにあらず、」といふ一面觀をも載せてゐて、それは秀吉の人物として妥當に近い評ではあるが、事業の目的を上に引いた語のやうに解したのは、まるで見當違ひである。特に「異國の佳風」の語は儒者のシナ崇拜から來てゐるものであつて、秀吉としては思ひもよらぬことである。同じく儒教的偏見を有つてゐる豐内記の作者が引いてゐる宗夢といふものが、朝鮮は箕子の國で仁義が行はれてゐるのに、秀吉のそれを討つたのは無道の極である、この惡逆のために豐臣氏が滅びた、といつてゐるなどは、今日から見て滑稽であるのみならず、當時の武士の思想でなかつたことも勿論である。
 秀吉の外征が國民的要求から出たものでなく、從つて國民の間に概して不評判であり、從軍の將士も早く故郷に歸ることを望んでゐたことは、事實であるが、彼等はそれを道徳的眼孔から見て、不義だとか無道だとか考へたのではない。彼等戰國武士は、我が國内に於いてすら激烈な戰闘をくりかへし、互に領地を取らうとして爭つてゐたではないか。朝鮮征伐はたゞ島津征伐や北條征伐と同じことを大規模に外國に向つて行つたのみである。當時の思想に於いては不思議でもなければ不義でもない。彼等のそれを好まなかつたのは、さういふ理由からではなくして、外國征伐(564)に興味を感じなかつたからである。利害の關係の無い、それに對して敵愾心の起らない、元來どんな土地だか人間だか知つてもゐない海外を征服しようとすることに、氣がのらなかつたからである。いざ戰争となると、興味が生ずるし敵愾心も起つて來るから、從軍の將士も敵に向つては勇戰奮闘したけれども、それは外征を喜んだのではない。更にいひかへると、彼等の念頭に外國といふものが無かつたのである。儒者輩の言は武士の考とは相距ること甚だ遠い。
 因みにいふ。惺窩が明使や朝鮮使と應酬して得意がつてゐたのはともかくもとして、甫庵の太閤記や豐内記などが、シナや朝鮮を仁義道徳の完全に行はれてゐる國のやうにいつてゐるのは、實際状態を知らないからでもあるが、要するに文字崇拜書物崇井の病弊である。また幕府の外交文書にシナや朝鮮に對して、名分論者の非難を免れないやうな態度で書かれたところのあるのは、歴史的にいふと五山僧の關與してゐた足利幕府の先蹤もあるが、文筆を掌るもののシナ崇拜の思想が現はれてゐるのでもあらう。なほ秀吉の外征に對する徳川の世になつてからの非難は、平和の世に自然に生ずる思想でもあり、徳川氏を揚げるために豐臣氏を抑へようとする意圖がはたらいてゐるでもあらうが、外征そのことを好まないシナの知識人の因襲的觀念を繼承した儒者の見解にも起因があらう。三浦淨心などもやはりそれを免れない(北條五代記)。外國に對してではないが、可笑記が漫に他の國郡を取るのを難じてゐるのも、平和時代の思想であると共に儒教思想でもある。(秀吉の外征を今日の國際關係の觀念で律しようとするのも、また誤である。これは近代の國際關係がヨウロッパに發生しなかつた前に、功名心の盛な張國の君主がしば/\行つたことと同じである。またその地理的位置のために古來斷えず北方民族の侵寇をうけてゐた朝鮮にとつては、秀吉のこの擧は、さして新しいことではなかつた。たゞ北方の政治的勢力を強大國と信じてそれに威壓せられてゐたに反して、南方の(565)日本を小弱國と見たところに、違ひがあるのみであつたらう。もつともかう考へることは、秀吉のこの擧が日本にとつてよい效果を齎したといふのではない。)
 儒者の道徳的意義を帶びた一種の人生觀も、また太閤記などに於いて極端に主張せられた。宇宙問に理法があるとしてそれを道徳的に見るシナ思想に於いては、人の行爲も世に起る事件も悉くこの理法の發現であり、從つて善の權威がそこに示されねばならぬ。だから積善の家には餘慶があり積惡の家には餘殃がある。家の絶えるのを罪惡の徴證とするのも、その一つの由來は家系の存續を絶對の要求として重大視するシナ人の習癖にあるが、理論的にはこの故である。從つて太閤記も豐内記も、秀頼の憐むべき最期を以て秀吉の犯した罪惡の責に歸してゐる。(太閤記の評論を見ると、到るところにこの思想が見え、何人に對しても同じ筆法を用ゐてゐる。)今日の思想から見てかういふ考へかたが世相の眞諦を解したものでないことは、いふまでもないが、それはともかくも、彼等のいふ秀吉の罪惡とは何をさすのかといふに、或は「守文の學勤めざりし故」(太閤記凡例)に、或は「聖人の道を知り給はず」(豐内記)して、一人の榮華のために萬民を苦しませた、といふのである。秀吉が豪壯なる城郭を經營したのは事實である。また彼の日常生活はいふまでも無く豪華であつた。が、萬民がそれがために苦しんだといふのは、當時の經濟状態と政治組織とから考へて事實とは信ぜられぬ。少くとも我國諸大名の下にあつた時、または徳川の世に比べて、豐臣時代の農民が特に苦境にあり、さうしてその原因が秀吉の日常生活の豪奢にあつた、と見なすべき理由は無ささうである。商工の民に至つては勿論秀吉の下に繁榮を來たした。儒者輩の批評は、昔のシナ人が空想に畫いた土階三尺茅茨きらざる古の聖王の宮室といふものを標準として、秀吉を視るに桀紂の幻影を以てしたに過ぎなからう。さうしてその幻(566)影を空裡に認めたのは、豐臣氏が滅びて子孫が絶えたといふ事實があるためである。
 彼等はかくの如くして秀吉の大なる功業をも、徳川氏のために道を開いた歴史的地位をも、その陰暗なる幻影の背後に投じ去つた。秀吉の時代と、その時代の精神と、彼自身の人物、特にその天才的の素質とを、認め得なかつたことは勿論である。治平がつゞくに從つて秀吉を解するものが武人の間にも漸次少くなつて來たらうとは、前にも述べたことであるが、それにしても彼等は、大阪の滅亡に對して一掬の涙を濺ぐことを惜まなかつたに違ひない。北野の大茶の湯に衆と共に樂みをつくした率直簡易な態度、或は參内の途上に征討の門出にきらびやかな服装をした馬上の英姿を、面影にうかべて、時勢の變化に思ひ當るものは、必しも直接にその恩顧を蒙つたものばかりではなかつたらう。さういふ彼等が、秀頼の滅亡を倫理上に正當視して、その責任を聖人の道を知らなかつたといふ秀吉に歸する、この冷酷な觀察に同意しなかつたことは、いふまでもない。儒者の偏固な道徳説が人情に遠いことは、この一例でもわかる。
 理法が世に行はれてゐるといふ或る意味での樂觀思想は、前に述べたことのあるやうに、愚管抄などによつて既に世に現はれてゐたが、それには時勢の變化を正當視し、朝家をしてそれに對する適切な態度を取らせようといふ意味があつた。また神皇正統記にも見えてゐるが、それには事業をしようとするものが未來に頼みをかける希望が維がれてゐた。戰國武士の間に信ぜられてゐた天道もまた同じであるが、それは力づくの世に於いて強者の權の上になほそれを抑へるものがあることを示して、時勢を緩和しようといふのであつた。何れに於いても、現實の状態に何等かの不滿足を感じて、別に一新境地を開いてゆかうといふ意志が伴つてゐたのである。さうしてそれらの思想に於ける理(567)法または天道の道徳的權威は、冥々の間にさういふ傾向または力が存在するといふほどのものであつた。ところが太閤記などは、批評的態度で纔かに過去となつたばかりの人物の行爲を批判し、失敗者に向つて一々容赦なき鉄槌を加へると共に、その思想上の傾向はおのづから、現在の成功者に對してその行動を道徳的に是認するやうになる。當時の儒者が概ね徳川の政治の謳歌者であつたのは、彼等が意識して或はせずして、時の權勢に慴服してゐたといふことの外に、また儒教の政治主義が徳川氏の政治と調和すべき點を有つてゐるといふことの外に、かういふ思想上の理由もあらう。愚管抄の説に於いても失敗者には失敗すべき、成功者には成功すべき、理由があることにはなるが、それらの個々の人物に對してかういふ道徳的批判は加へなかつた。全體の精神が時勢の變化を觀察するところにあつたからである。然るにこのころの儒者の態度はそれとは違つてゐたのである。なほ儒教的仁政論は、清水物語などの通俗的のものにも見えてゐるのを思ふと、或は當時に於いて農民が苛重の租税賦役を課せられてゐるのに對する考がそれに含まれてゐたのかも知れないが、一方で現にさういふ課税を行つてゐる徳川氏の政を仁政として謳歌してゐるから、それもまた空論に過ぎない。(歌集を見ると惺窩は時勢に平ならざるところがあつたらしいが、それはかういふ根本の問題についてのことではなささうである。)
 政治上または廣い社會上の問題を離れて考へても同樣である。人生を主として合理性の側より見、さうしてそれに道徳的色彩をつけねば承知しない儒教思想は、直接に合理的解釋を容さないもの、または道徳的意義の現はれてゐないものをすべて否認し、または價値の無いものとする。或は萬事を實用的功利的眼孔からのみ見る傾向さへある。慶長見聞集(卷五)の春庵といふものが卒都婆小町の能を見て、「草木ものいふことなし、人死して二度かへらず、」能(568)は「そらごと」を作つたものだといひ、「百年の老婆と衰へはて、關寺の邊を乞食し、一世の恥をさらしたる」小町の「まね」を見て泣くものは愚者だ、といつてゐるのは、かういふ儒教思想からであつて、いはゆる春庵は作者の儒者かぶれをした半面の假に名づけられたものであらう。道春も古來の物語や草子を冒して「淫於虚誕」(徒然草野槌序)といつた。石川丈山が七夕を詠じて「何用痴人乞巧棚、新秋新月弄新晴、徒含淫思勞星會、傾瀉銀河洗不消、」(覆醤集)といつたのは、二星歡會の物語を妄誕とした上に、儒者一流の道徳眼を以てそれを見たのである。この淺薄な合理主義と偏狹な道徳觀念とは、おのづから文藝を抑制することになるので、甫庵の太閤記(卷一六)は、秀吉が新作の謠曲によつて仕舞を演じたことを誹議する口氣をもらしてゐ、豐内記も、歌道詩聯句は隱者のすることだとして、それを翫ばなかつたといふ秀忠を讃めてゐる。惺窩や道春がお國歌舞伎を非難したことは今さらいふまでもない(徒然草野槌)。從つて彼等は文學上の作品をも遺徳的見地から解釋しようとするので、道春がすべての物語を「無教誨訓誡之法」として斥け、獨り徒然草を撰んでその註釋を作つたのは、これがためである。この傾向は既に慶長見聞集に於いて著しく現はれてゐるが、可笑記、「誰が身の上」、なども同樣であつて、特に可笑記は、詩連句歌連歌を「有用」のものとして、功利的にさへそれを見てゐる。前にも述べた如く武士の一部にも文藝を好まない風はあつて、それはおのづからこの儒教思想と相通ずるところがあるが、武士の考は文事を女々しいもの人心を柔弱にさせるものとしたからで、文事は武人にはふさはしくないといふ素朴な單純な考であるのに、儒者のはそれとは違つて、一種特殊なシナ的道徳思想がその根據になつてゐる。それだけ耳立つて聞え、わざとらしくも不自然にも見えるのである。
 儒者の戀愛觀もまた同樣である。惺窩が大磯の虎石を詠じて「有石相傳虎御前、大磯遺迹舊因縁、若逢李廣掣身去、(569)没羽箭頭聲響邊、」(惺窩文集卷三)といつたのは、それに對する世俗の迷信に顰?したからではあるが、根本的には、虎の物語の情趣を解し得なかつた、もしくは解しようとしなかつた、からには違ひない。(惺窩も戀歌を作つてゐるが、それは家がらから來た因襲に過ぎなからう。)儒者も「男女の道は人倫のことわり」(徒然草野槌)としてそれを認めてはゐるものの、それを「ことわり」とするところに既にその情を情として見ない態度があるのみならず、それを「過不及なきをよしとす」といつて、抑制すべきものと思ふのは、やはり兩性の關係を性慾の發現としてのみ考へるからである。可笑記に「戀せしとき仇かたきとなりしもの、覺めての後はみな面白く觀念のたよりともなる、」といつてゐるのも、戀を迷妄とのみ觀じたからであらう。「きたなきは戀の道」(尤の草子)といひ、「親のあはする妻女の幸ありて氣に入るはうれし」(同上)といひ、戀を性慾としてのみ見、或は兩性の關係を家族的關係からのみ考へてゐた當時の思想の一面は、この儒教的見解と共通のところがある。けれども遊女などが盛にもてはやされ、蓄妾が正當視せられ、遊蕩に流れるものの尠なくなかつたのは、實はさういふ思想がもとになつてゐたのであるから、この見解によつてそれを救濟することのできなかつたのもまた當然である。
 要するに、儒教は當時の社會状態と武士の思想とに適合する點があり、從つてその點に於いて世に行はるべき理由を有つてゐたのであるが、しかしそれとても、根本の精神は必しも一致してゐない。だから戰國武士の氣風が漸次ゆるんで來る平和の世に於いて、知識の上から儒教がそれを補はうとしても、實際上どれだけの效果があつたか。武士の道徳の基礎になつてゐる忠孝に於いてすら、それをともかくも維持することができたのは、主從關係と世禄制とが根本になつてゐる社會組織と、それから生まれた社會的風尚との力であつて、儒教の如きは纔かに文字上の知識によ(570)つてそれを助けたに過ぎなからう。儒者の政治學の中心である仁政論に於いてもまた同様であるが、たゞこれは、百姓は武士の生活を維持するために必要なものであるから大切にしなければならぬ、といふ考が、思慮のある國主の心得たるのみであつて、忠孝の觀念の如く社會的風尚として存在しないものであるだけに、知識としてそれを注入する必要もあり、またすることもできる。從つてこの點に於いては、儒教が幾らかの影響をいはゆる學問をした諸大名の民政に關する思想の上に及ぼしたでもあらう。儒教が道徳または政治に寄與したのは、このくらゐのことであつた。また佛教の感化を受けてひたすらに世を無常とのみ觀、國家の興亡にも人の盛衰にも一様の感傷的氣分を以てそれに對した昔とは違つて、偏狹な考へかたながら、その盛衰興亡の由來を考へて當事者の道徳的責任を明かにしようとするやうになつたことが、このころから生じた一大變化であつて、それは戰園の世を經過して來たために自然に生じたことではあるものの、儒教もまた幾分かその傾向を進める力とはなつたかも知れぬ。なほ儒教の典籍と共に老莊の書も當時の知識人の一方面に喜ばれてゐたが、これについては後に言及するであらう。
 
 しかし佛教の信仰は、戰國時代に入つてからも甚しく衰へたのではない。諸大名の法度とか制詞とかいふものには、概ね神佛社寺の崇敬を訓示した簡條がある。戰勝を人力以上の力に向つて祈るところに武士の宗教心があるといふことは、前にも述べておいた。けれどもそれは戰爭が特殊の事件として考へられた時代のことである。この時代のやうに戰爭が日常の業務となつては、さういふ思想が薄らぐのみならず、事實に於いて祈?に效力の無いことが經驗せられ、佛力に依頼するのが無意味であることが知られたでもあらう。一般的に考へても、武力萬能の社會、戰争の激甚(571)な世の中、我が力を揮つて我が事をなす意氣の旺盛な時代に於いて、祈?教が輕んぜられる傾向のあるのは、自然の勢であらう。さうして頼むに足らぬ佛は恐るゝにも足らぬ。人を恐れず敵を恐れぬ世には佛力をも恐れなくなるのである。或は戰國の世の破壞的精神もそれを助けたであらう。叡山の燒き討ちも根來征伐も憚るところなく行はれ、佛敵としてそれを非難することができなくなつた時勢である。阿彌陀も雲を踏みはづし佛も箔が剥げた世ではないか(犬筑波集)。勿論他の一面では戰爭が人の心を弱くもしたので、敗戰の時には特にさうであり、そこに佛力の依頼せられる一原因がある。かういふことは人により場合によつて違ふので、戰爭は佛教に對してこの二面の關係があるともいはれよう。しかし大勢としては上記の如く考へられる。たゞ現世の福利を祈る諸種の信仰とは全く趣を異にしてゐる一向專念の特殊の教は、戰亂の時代に於いて特に人心を動かす一面の理由が無いではなく、蓮如によつてそれが急速に弘められたのも、こゝに一つの理由はあらうが、しかしその信者によし武士があつたとしても、彼等の武士としての行動がそれによつて大なる影響をうけたやうな證跡は認めがたくはあるまいか。かの一向一揆の如きも、上に考へておいた如く、概していふと戰亂の空氣に誘はれ同じく武力を用ゐて世俗的勢力を張らうとしたものであつて、蓮如が守護地頭を尊重せよといつたのとは反對の行動をとつたのである。さうしてそれは現世を否定して淨土往生を希求するものでありながら、事實は現世の威力に降伏したものと見られる。それだけ現世のことが大切になつてゐる世の中である。蓮如が王法を重んぜよといつたのはそれとは別のことであるが、現世を重視することに於いて相通ずるところがある。(この王法は世法といふのと同じく世俗的道徳の意義らしい。)だから前にも述べた如く信仰よりはお主が大切になり、宗門よりは意地が重く見られる場合がある。これは一向宗についてのことであるが、一般に佛教(572)の威力の衰へて來たことは、藝術の中心が寺院でなくして城郭であることによつても知られる。上に述べた如く安土城の裝飾藝術に佛教的題材が採られたのも、寺院の襖繪などに花鳥畫の類が用ゐられたのも、反對の態度ながら同じく宗教の世俗化を示すものであらう。もしまたこの時代になつて新に人の注意を惹くやうになつた經國治民の術に至つては、佛教が何ばかりの知識も與へないことはいふまでもない。佛教はこの點からも輕んぜらるべき性質をもつてゐる。
 武士に於いても、上にいつた理由で一面には宗教的信仰の強められる場合もあつた。かの辭世の歌(第三章參照)に宗教的意義のあるものが多いことを見ても、死に臨んでは極樂往生を信じ、または萬法の空なるを思つて、それによつて一種の安心を得たことが推測せられる。けれども彼等はこれらの信仰がもとになつて死を決したのではなく、死を決した後にかうしてその安心を助けたのである。さうして死を決するのは宗教的信仰とは關係のない、戰闘によつて養はれた、武士的精神の發現である。特に極樂往生を頼みにしてゐる辭世の歌が、女子に多くて男子に少いのは、女性的傾向のあるこの思想が、一向宗の門徒といふやうな特殊のものは別として一般的にいふと、武士の氣象と調和しないからでもあつて、武士にはむしろ禅語めいたものの方が、ふさはしく感じられたでもあらう。しかしこれとても禅宗の修業とか悟道とかいふものから來たのではなく、死を見ること歸するが如き武士の氣象が、おのづからかういふことばを借りるに適したからのことに過ぎない。秀次の侍女どもが刑せられた時には女でもかういふ風の辭世を作つてゐる。彼等が禅宗の修行をしたものでない以上、それは宗教的信仰の現はれたものといふよりは、武士の氣風に感化せられたものと見るべきであらう。武士は來世の安樂よりは現世に於ける死後の名を希ひ、一切を空(573)とは觀ぜずして、身は碎けて土に歸するとも名は殘つて千載に傳はる、と考へてゐたのである。
 勿論、武士にも神佛に祈つて身方の勝利と身の安全とを祈ることが無いではなかつた。けれどもこの世の禍福のみを見て佛力によつて榮華を得ようとした時代とは違つて、佛の手から落ちて來る幸福をまつよりも好運を我が力で開いてゆくことに重きを置き、我が力を伸ばしてゆくことに愉快を感じて來た武士には、佛力の加護を求めることが少くなつたのである。また知識人の思想に於いては前々から佛教的色調が少しづゝ褪めかけてゐた、といふことをも考へねばならぬ(第二篇第三章及び第六章參照)。さうしてこの傾向は徳川の世になつてます/\強くなつて來た。ただ思想上の傾向がかうなつては來たものの、因襲の勢力は依然として存在する。特に通俗文學の作者にはなほ僧侶が少くなかつたらしいから、さういふものの作品には、外形に於いて前代のものと區別ができないと共に、内容となつてゐる佛教的思想も殆どそれと同じである。また實際に於いても、因果物語や二人比丘尼の著者たる鈴木正三の如く、武士の出家した例もある。「本心の明かなる人」を尊び「根本の師匠は我が心」として、宋儒風の説をのべてゐた可笑記の著者如儡子も、後には佛門に歸したらしいといふ説がある(列傳體小説史)。しかし石川丈山は出家の念を絶つて別の形で隱遁をした。世に志を得ないものが世を遁れることはあつても、それが剃髪染衣の姿とならないところに時代の新趨向が見える。これが戰國の世を經過して來た時代の特徴である。もはや昔のやうな感傷主義と極樂往生の希求とが知識人の多數を支配してはゐないやうになつたのである。
 儒者が僧衣を脱いで世に現はれて來たことも、また同じ風潮を示すものである。宋學は佛教から幾らかの思想を採り入れてはゐるが、佛教そのものには敵對して聲を揚げたものである。從つて禅僧によつて傳へられ育てられた我が(574)國の宋學も、何時かはその保姆たる禅僧に反抗して立つべき運命を有つてゐた。さうして世の状態が今その獨立を歡迎する時となつたのである。ところがさうなると、佛者の方から却つて儒者に近づいてゆく。佛教の權威を説かうとした祇園物語や糺物語などの通俗的な假名草子ですらも、或は世間的道徳や政治の論に於いて、或は理氣の説に於いて、儒者の説をそのまゝ認容し採用してゐるではないか。しかし專門の儒家でないものは、思想の主調が儒説であつても必しも佛説をすてない。慶長見聞集の著者でも可笑記のでもさうであり、大佛物語の作者の如きは後世の心學と同じやうに、儒佛も畢竟は同じ高ねの月を見る麓の道の殊別に過ぎないとして、通俗的な折衷説を立ててゐる。これは當時に於いて儒佛の爭が世に喧しかつたことを示すものであるが、それだけ佛教が絶對的權威を失つたのである。さうして佛徒すらも現世的道徳や治國の術を説かねばならぬやうになつたほど、政治や道徳に重きが置かれて來たのである。後にいふやうに彼等がキリシタン宗門を攻撃するに當つて、主として世間的道徳の上にその説を立てたのも、同じ思想の傾向である。ところがこの風潮は神道に於いてもまた見られる。
 神道と稱せられた古來の民族的風習としての神の祭祀や呪術は、或は地方的に或は神社の性質により、また或は佛教の種々の宗派との結合によつて、幾らかづゝの變異はありながら、一般に行はれてゐるが、卜部家の唯一神道の形づくられるに及んで、佛教に對立する一つの宗派としての神道が成りたつた。それは思想的には特殊な教説を有するものであると共に、祭祀祈?呪術を行ふ點では一般の民族的風習に連繋がある。それが初めて成立した時には政治思想は含まれてゐなかつたが、卜部氏が豐國神社の祭祀に關與したことによつて、實際上それに幾らかの接觸が生じた。(575)けれどもその主とするところはどこまでも祭祀祈?と一種の教説とにあつたが、その教説の一面には口訣や纂疏の説を承けて心の神を重んじ神は心であるとする思想がある。「我に神體無し、慈悲を神體とす、我に神力無し、正直を神力とす、我に神通無し、智惠を神通とす、」といふ住吉明神の託宣とせられてゐるもの(東照宮遺訓所載)も、多分唯一神道の教説のこの側面と何ほどかの關係があるのであらう。これは理論的には祭祀祈?を主とするのとは違つた考へかたであり、神の力を道徳的のものとし、從つて人の神に對する關係をも道徳的に見ることになる。「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」と考へられ、神が不可思議力を有つてゐるとしてそれに依頼するよりは、神のはたらきを人の道徳的努力に應ずるものとして我が心我が力に重きを置くのと、思想上の連繋がある。(「心だに」の詠が菅公の作でないことはいふまでもない。)勿論唯一神道に於いてはこの二つが曖昧に結びつけられ、さうしてそこから天地の神と心の神との相應もしくは合一が考へられて來るのであるが、ともかくもかういふ一面がある。祭祀祈?の對象としての超越的存在である神と心の神とのかういふ關係は、その由來が佛教にもあり、伊勢神道及び口訣や纂疏の説にもあるが、このころに於いては上に述べたやうな自己の力を重んずる戰國時代の思想とも關聯するところがあらうか。
 ところが儒者たる林道春の書いた神道傳授には、唯一神道の説に從ひつゝ「善をすれば我が心の神に隨ふ」と唱へて道徳的色彩をそれにつけ加へると共に、「民は神の主なり、民とは人間のことなり、人ありてこそ神をあがむれ、……民を治むるは神を敬ふ本なり、」といひ、「神道即ち王道なり」といつて、政治的意味を表面に現はして來た。神道は王道であるといふ考は豐内記にも見えてゐるし、徳川義直が編纂した神祇寶典にもまた政治的意味が含まれてゐ(576)る。特殊な神道には關係がないが、惺窩もまた神代のことを考へるに當つて國家の治亂を聯想してゐたことは「宗隆が書ける神代卷の序」でもわかる。世の漸く治まらんとして識者が經國治民の務を思ふに至つた時勢の影響であらう。全く別派に屬する天海の山王一實神道も、大已貴神(山王)と國家との關係を高調して説いてゐる點に政治的意味があり(一實神道記)、彼の神道思想の與つてゐる東照宮の建立が、徳川氏の權力を固めようとする實際上の必要からであることは、いふまでもない。
 もつとも道春などの神道論に政治的道徳的意味の含まれてゐるのは、彼等が儒者であつた故でもあるので、上に引いた「民は神の主なり」は左傳の語であるし、豐内記には明かに神道は堯舜の道と同一だといつてあり、道春の書いた神祇寶典の序にも神道は儒道であり聖賢の道であると説いてある。儒者は易に神道の語があるために、その意義が全く違ふことを考へないで、そこからもかう思つたらしい。だからこれは一面から見れば、儒者が佛徒の故智を學んで神道を抱きこんだのでもある。彼等はかうして神道と結合しつゝ佛教を排斥したが、佛徒はそれに反して、神道は勿論のこと、儒教をもむしろ包容しようとする態度をとつた。さうして儒者の思想では、神道を身方にする場合でも、國家觀念は甚だ稀薄であつたが、佛徒は却つて日本本位であつて、我が國を世界の中心とし本源として説いてゐた。後の平田篤胤などの思想の淵源はこゝにある。佛徒のこの態度は、第一篇に述べた如く鎌倉時代から既に現はれてゐるので、これは包容的な佛教の性質からもまた長い年月の間に國民化したといふ事情からも來てゐる。さうして儒者のあの傾向は、シナ崇拜の五山僧から傳へられた因襲、宋儒の排他的學風、また政治の道として世に現はれてから日が淺いといふこと、などの故であらう。しかし神道が儒教に吸收せられてしまつたのではなく、神道は神道として別(577)に存在してゐる。が、その所説は實践道徳の上にも政治の上にもさしたるはたらきのないものであつた。
 しかし特殊な教説としての神道はともかくも、遠い昔からの民族的風習としての神の崇敬祭祀は一般に行はれてゐて、その點で國民的宗教としての性質をもつてゐる。儒者が神道に考を及ぼしたのもこの故であるが、たゞ彼等は一種の知識人であるだけに、その神についての教説を有つてゐる唯一神道の如き神道に注目したのである。かういふ状態であるから、もしこの民族的風習を破壞せんとするものがあれば、それが非常な問題を惹き起すのは當然である。いはゆるキリシタン宗門の場合がそれであつた。
 
 キリシタン宗門を如何なる教としてバテレンが説き、また日本人が受けとつたか。それを説いたのは中世的キリスト教の教條によつたものであるが、日本人の受けとりかたは、人々の生活の状態や有つてゐる知識やによつて必しも一樣ではなかつた。從來日本の神々を崇敬すると共に種々の佛像を禮拜し、それによつて現世後生の福利を祈るのみであつて、宗教上の教理などに關する知識も理解力も無かつた一般人は、同じ福利を求めるために、特に神や佛に背いてデウスを頼みマリヤやキリストの像を禮拜しなければならぬことを解し得なかつたであらうが、同じ理由はまた容易にその信仰の對象を前者から後者に移し得たのでもあらう。大名がキリシタン宗門を奉じたためにその家臣や領民が一時に多く改宗したといふやうな*、場合には、彼等の改宗*に宗教的信仰としての特殊の意味があつたとは考へられぬ。一般人の信者のみでなく、信長などが布教を許したといつても、宗門そのものには無關心であつたらしい。バテレンに親しみをもち布教を保護した大名にも、信者にはならなかつたものがある。知人などに勸められて洗禮をうけ(578)た大名もあるが、彼等がどれだけの信仰をもつやうになつたのか疑はしいので、後にそれをすてたもののあることによつても、そのことは知られよう。また大友宗麟などの二三のものの外には、信者たる大名がその主人としての權威や政治的權力によつて家臣や領民を改宗させようとしたことも、多くは無かつたらしく、たゞその改宗の影響が上にいつたやうな状態に於いておのづから家臣や領民に及んだことがあるのみであらう。しかし一般人は一たび信者の群に入ると、入つたことによつていつとなく彼等相應の信仰を得るやうになつて來たと考へられる。或はまた佛教についての幾らかの知識を有し、またはその種々の説話を聞きなれてゐたものは、キリシトがデウスの子として生れたとか、三位一體の思想とか、マリヤの處女懷胎とか、キリシトの十字架上の?罪とか、その復活とか、または天堂地獄の沙汰とかも、それを受け入れるに大なる困難はなかつたかも知れぬ。佛教に於いてもそれらと幾らかの類似點を有する思辨なり説話なりはあるからである。デウスそのものとても、大日とか阿彌陀とかの聯想によつてその漠然たるおもかげを思ひ浮かべることができたのであらう。この意味で佛教はキリシタン宗門のために道を開いたものといつてもよい。何等かの機縁で、さして深い意味もなく、いはゞ偶然に洗禮をうけたといふやうなものも、一般人と同じく、既に信者となると、なつたそのことによつて次第に深入りをし、かういふキリシタン宗門の教條を信ずるやうになつて來たであらうが、それには佛教の知識が助けになつたでもあらう、といふのである。しかし一般人に於いても知識人に於いても、キリシタン宗門に從來の佛教とは?かに違つたところのあることが、信者としての體驗をつむことによつて、漸次知られるやうになつたであらう。
 キリシタン宗門に特異な點の第一は、例へば日曜日に關することなどの如く、日常生活に於いて信者の守るべき規(579)範があり、またミサはもとよりのこと聖餐式などの種々の儀禮的行事を、一つの教會に屬するものが集團的に行ふので、信者としての結合があり、それがまたおのづからその信仰を固めるはたらきをもする、といふことである。周圍が異教徒である場合には、同じ信者であることがその間の結合を強めることにもなるが、それと共に信者がかゝる結合から知らず/\の間に加へられる一種の壓力と信者間の相互の間に生ずる特殊の心理とが、信仰そのものを固める、といふ事情もあらう。(いはゆる殉教の行はれるのも、禁教の後に於ける潜伏キリシタンの信仰保持といふことも、こゝに重要なる理由があるのではなからうか。)佛教の信者に於いては、一向宗の徒に幾らかこれに似たことがあつたらうが、一般にはかういふことが無い。また儀禮そのことについていふと、儀禮によつて宗教的欲求が充たされ、その力で信仰も固められる、といふ事實がある。佛教のとは違つたこの宗門の儀禮にかういふはたらきがあつたと考へられる。次には、佛教に比べて道徳的の調子の高いことと、その道徳的信條が日本人にとつては特異なところのあることとである。道徳的信條がデウスの信仰に本づくものとせられてゐることはいふまでもなく、實踐的には日常生活について懺悔の告白をしなければならぬことが重大の意味を有する。さうしてかういふ道徳的の調子の高いことが、信者を靈魂不滅や原罪やキリシトの?罪やまたは最後の審判などに對する信仰に導くのである。ところがさう考へると、問題はおのづからキリシタン宗門の神學上の思想に移つてゆく。
 ドチリナキリシタンなどの書を見ると、それには上に擧げた種々の説話に關する神學的思辨が行はれてゐる。これは一つは傳統的な神學上の思想を日本の神學の學徒に傳へようとしたものであらうが、一つは當時の日本人にそれに對する疑問を抱くものがあつたのでそれを解明するためでもあつたらしい。しかしこれは一般人に對してよりもむし(580)ろ少敷の知識人に對してのことに違ひなく、妙貞問答といふものが儒教佛教及び神道を論難することに重點を置いて書かれ、而もその論難が多くは一般人には解し難い理説に向けられてゐることによつても、それが知られる。知識人に對してはキリシタン宗門の眞理なることを示すためにかゝる論難が必要であつたので、それは佛者儒者などがバテレンの説くところを容易に承認しようとしなかつたからであらう。(この書がバテレンによつて支持せられてゐたかどうかは明かでないが、彼等の多數はこれらのことについての知識をもたなかつたであらうから、それに對してさしたる異議は無く、この論難に的をはづれたところの多いことにも氣がつかなかつたらうと推測せられる。)神道家で唯一神道の如き特殊の教説をもつてゐるものはその教説を攻撃することに對して、また一般には、日本人の習俗としての神の崇拜を破壞せんとすることに對して、強い反感を抱いたに違ひなく、佛家はいふまでもなく彼等の教説によつて反對の態度をとり、特に儒家は上記の種々の説話やそれについての思辨やをば強く否定した。何よりも天地萬物を創造したといふデウスとそのしごととが、近代の自然科學が與へたやうな知識は有たないにしても一種の合理主義的思想を抱いてゐる儒家には、承認のできぬものであつた(羅山「排耶蘇」など)。從つてそれを基礎としたあらゆる神學的思辨は彼等の拒否しなければならぬものであつた。原罪の思想、ノアの説話、キリシトがデウスの子であること、處女懷胎、死後の復活、最後の審判、などは、それらのこと自身が不合理のこと、あるべからざることとして、彼等には考へられたに違ひない*。儒者のみではなく、當時の知識人は、デウスの名によつて傳へられた唯一の神の存在について、深い關心をもつやうになつたとは考へ難い。もしそれをもつてゐたならば、キリシタン宗門は撲滅せられても、宗門とその神學的思辨とを離れまたデウスの名を離れて、思想として世に遺り、何等かの形でそれが人生觀か世界觀かの(581)上に現はれさうなものであるのに、さういふ形迹が少しも見えないではないか。だから一般人のデウスの信仰も、思想的には佛徒が釋迦や大日や阿彌陀などの名によつて崇拜した神に對するのと大差の無いものであつた、と推測せられる。(宗教的には釋迦は覺者としてよりも神として信ぜられてゐる。)局外者からも釋迦とキリシトとはほゞ同じほどのものとして考へられてゐたらしい(惺窩文集重建和歌浦菅神廟碑銘序)。今日から考へても、神の名は何であつても、またそれが一神であつても多神であつても、要するに思想上の要請を客觀化して救濟の欲求をそれに投影したものに外ならず、その點に於いて同じである。キリシタン宗門の特殊の信仰はむしろその行事その儀禮に於いてであつたので、いはゆる潜伏キリシタンの行動によつてもそれは知られよう。
 然らばキリシタン宗門はどれだけ信者の實生活を動かしたか。この宗門の教に佛教と比べて道徳的の調子が高いことは既に述べたが、宗門の信仰によつて、事實どれだけ道徳生活が高められたか、懺悔の告白といふやうなことにもどれだけの實效があつたか、は問題である。これに關聯したこととして、顯僞録の作者によつて非難せられてゐるパッパの赦罪状の賣與といふことも、參考せられよう。なほこのことについては、ヨウロッパのキリシタン國民に罪惡を犯すものが幾らもあり、戰亂も斷えまなく生じ、宗門のためにさへ戰争がしば/\起されたことをも、知らねばならぬ。(妙貞問答の著者はキリシタン國では千有餘年來兵亂が無かつたといつてゐる。これは日本人がみな改宗しなければ兵亂は治らぬといはうとしたためではあるが、ヨウロッパのことを知らなかつたからでもあらう。このころの日本の信者のヨウロッパに關する知識はこの程度のものであつた。)却つて當時の日本に於いては、大名の信仰が違ふために大なる政治的紛亂の起つたことは無いやうに見える。普通の武士にしても、その信仰によつて武士的氣風(582)の上に大なる動搖が生じたらしい形迹は無い。細川忠興の夫人が信者たる故を以て自殺しなかつたとか、小西行長もさうであつたとか、いふ話がよし事實であるとしても、すべての信者がさうではなかつたらしく、現に天草の亂の時、その主將であつた四郎時貞の妹は、みづからもその夫も信者であるにかゝはらず、武士の戰場で不覺を取ることは妻子に心の殘る故だといふので、その夫を勵ますために自殺したと傳へられてゐる(島原記*)。また武士の根本思想たる名譽心の如きは、彼等教徒とても少しも變りは無く、島原一揆の矢文にも「尸捨山、名欲留後代、」とあつたといふ(甲子夜話)。一般的に考へても、元龜天正から文禄慶長にかけての諸所の戰争に參加した教徒は少なくなかつたらうに、彼等がその間に於いて信者ならぬ武士とは違つた行動をした樣子は見えないのである。この點については考察の材料が少いから、かう簡單に論じ去るわけにはゆかぬかも知れぬが、概していふと日蓮の徒たり親鸞の徒たることが武士の精神に差異を來たさないのと同棟であつたらしい。武士の思想が武士の實生活から精練せられたものであり、かゝる思想を有つてゐるものでなくては、武士としてのはたらきもできず優勝者ともなれない時であつたとすれば、如何なる宗教を信じてゐるにせよ、如何なる神佛を崇拜してゐるにせよ、この思想この精神をすてることはできないからである。かの殉教の徒の多かつたのも、死を恐れない、また武士たるものが威光に恐れて宗門をすてたといはれては恥辱だといつたといふ家康の家來の一向門徒の如き、武士的精神が少からぬ力となつたのではあるまいか。或は主君のために死ぬといふ武士の習慣が宗門のために適用せられたといふ意味もあらう。當時の人は死ぬことを今日の人ほど苦しくは思はなかつたことを、考ふべきである。勿論、殉教は武士には限らなかつたが、一般民衆に於いては、殉教によつて死後天國に生れるといふ希望、また苦痛を受ければ受けるほど神にすがり神の救濟を頼むといふ心理も(583)はたらいてゐよう。神のために苦痛をうけるが、苦痛をうけるから神だのみが生じ、この神だのみが更に苦痛を忍ぶ念となつて來るのである。或はまた武士にせよ民衆にせよ、壓迫を蒙れば自然に生ずる反抗心、意地張り、または昂奮した感情、などもそれに力を添へたであらうし、上に述べたやうな事情もかなり力強くそれを助けたと考へられる。要するに日本人のいはゆる殉教者の心理は複雜であつて、それには當時の日本人の特殊の氣象が加はつてゐたと解せられる。
 次に日常生活に於ける道徳を考へるに、その大綱はいはゆる十誡によつて教へられてゐて、それはデウスを信ずることと隣人を自己と同じに思へといふこととの二つに歸着する、とせられてゐる(ドチリナキリシタン*、契利斯督記)。佛徒はキリシタン宗門はデウスのためには君父の命をもきかぬことを敦へるといつて非難してゐるが、ドチリナキリシタンには、第四誡として父母に孝行せよといふことを擧げ、それに主人や官に仕へることをも含ませて説いてあるから、この非難は必しも當らぬ。たゞデウスの掟に背けといふ親や主人の命があつてもそれに從へといふのではない、といつてゐるところに、この宗門の主張があるには違ひない。また主人によく仕へよとはいふものの、日本の武士の教の如く主從關係を特に重んじてはゐない。のみならず、この誡の本文には父母のことのみいつてあるから、主人に對することを加へたのはこの教義の編者の意見らしい。孝行といふ語を用ゐたのも日本人の習慣に從つたのである。しかし事實として、宗門の信者であるために君父の命をきかなかつた、といふ例が多くあつたやうには見えぬ。信仰の點で意見を異にしたことはあつたかと思はれ、その點で何よりもデウスの信仰に重きを置いたではあらうが、これは必しも日常生活に於いてのことではない。たゞこの宗門の教は全體の氣分が日本人の生活とは違つてゐるので、一(584)夫一婦の掟と離婚を非とすることとの教へられてゐるのも、その類であらう。これらのことがどこまで信者によつて實行せられてゐたかは、明かでないが、長い歴史を有し日常の生活にはたらいてゐる日本人の生活氣分は、外から與へられたかういふ教によつて急速に變化したとは考へられない。隣人を愛せよといふことの強調せられたのは、この宗門の道徳思想として日本人にとつては新しい考へかたであり、日本人の道徳生活の缺陷を補ふものであるが、さういふことも、主從關係と家族的結合とを枢軸として形成せられた日本の社會にどう適用せられるかは、困難な問題であり、從つてどれだけそれが實行せられたか、おぼつかなくもある*。また日本人の風習としての神の崇敬とても、事實この宗門の信徒が全くそれをしなかつたかどうかは、疑問であつて、例へば秀吉の家臣であつた信者たる大名も、豐國神社の祭禮には關與したであらうと推測せられはしまいか。しかし禁教の命に對してはどこまでもそれと戰ひ惡魔の業の迷信者たる權力者と戰ふべきことが教へられ、ロオマのパッパもそれを激勵したことを注意すべきである。一般の信者がパッパをどう見てゐたか、それが政治的權力をもつてゐることを理解してゐたかどうかは、明かでないが、少くとも宗教上のことに關してはそれにデウスの代理者としての絶對の權威があることを信じてゐたであらう。從つて信仰を保つためにはパッパの命を奉じて國法に背き國家の主權者と闘ふのが信者の任務とせられたのである。(パッパの慰問状及びそれに對する信徒の答申に「戰ふ」といふ語が強い調子でいはれてゐる。この慰問状などのことは幕府では知らなかつたでもあらうが、戰ふ氣分はいはゆる殉教者の行動の上に現はれてゐる。)さうしてそこに第二章で考へたやうな宗教によつて國家を支配せんとする中世的精神の維持者たるキリシタン宗門の悲劇がある。
 かう觀察して來て、キリシタン宗門が日本人の精神生活に如何なるはたらきをしたかを考へると、バテレンがキリ(585)シトの教を傳へようとしたにしても、それは結局、民族的風習としての神の崇拜を排斥し、佛教に對して宗派的にキリシタンの一宗門を建て、さうしてその信徒にこの宗門の宗教的儀禮を行はせたのみのことではあるまいか。既に述べた如く潜伏キリシタンの保持してゐたのが何ごとであつたかを見ても、それは推測せられよう。だから今日から見ると、日常生活に關して考へる限り、かゝる宗門は放任しておいても治安の妨げにはならなかつたとも考へられるが、その代り偏狹固陋なこの宗門は、當時に於いては、日本人の精神生活にさしたる裨益は與へなかつたであらう。たゞその信徒をロオマのパッパの權威の下に置かうとしたことには重要なる意味があるので、そこに國家に對する反抗的精神の胚胎する危險がある。なほこの時代の思想に關聯して特に注意せられるのは、コンテムツスムンヂ(「キリシトの學び」)がラテン語から翻譯せられたのでも知られる如く、「世界の實の無きことを卑める」中世的思想をその一面にもつてゐるキリシタン宗門には、一般に現世の生活を重んじて來た徳川の世の新精神と背反するところがあることである。日本に於いては厭世觀はもはや過去のものとなつてゐるのである。
 
(586)     第七章 隱遁思想及び浮世主義
 
 戰國の世は武士の事功欲の極度まで緊張せられた時である。さうして力次第でその欲望をみたすことのできた時である。そこに現世本位人間本位で、樂觀的で、さうしてまた自由な、やゝもすれば放縱に流れる傾きさへある、武人氣質の一面がある。が、その力は武力であつて、武力の闘争は人の命のやりとりであると共に、家でも國でもその勢力を轉瞬の間に變化させるものであるから、こゝに或は前代からの悲觀思想が繼承せられ、或はまた一轉して隱遁主義高踏主義に墮する契機があると共に、またそれがおのづから一方に於いては、武士の制慾主義や名譽心を高める原因ともなり、事功欲を刺戟し放縱な享樂主義を生む機縁ともなる。「電光石火の如くなる夢の世に、何と渡世を送ればとて、名には代へべきか、人は一代、名は末代、」(三河物語)と教へて、無常の世に執着することなく死後の名を惜めといつたのは、目前の利慾をすてて武士の本務を盡せといふのであり、信長が何時も「人間五十年、げてんのうちをくらぶれば、夢幻の如くなり、」と「敦盛」の舞曲の一節を謠ひ、「死なうは一定、忍び草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの、」と小唄の一ふしを口くせにしたといふのは、何をしたとて夢の世なれば、生きてゐるうちに思ふまゝのことをせよと、われから我が事功欲を煽つたのであらう。さてこの武士の本務または事功欲と、それから生ずる種々の思想とについては、既に前に述べた。こゝには戰亂の世の生んだ隱遁主義高踏主義の一面と、享樂主義の他の一面とを觀察する。
 隱遁主義は古くからの因襲としても存在してゐる。その思想の根柢は佛教的無常觀であつて、その形は出家の姿に(587)於いてする。ところがこの隱遁者は、平安朝末の文化の状態から生じた習慣として、現世を避けると共に古代文學の世界にその心を遊ばせ、捨てはてた世に身を置くくよすがをそれによつて得たのであつた。能因や西行がその道を開いたのであるが、彼等にはおのづから獨自の境地がある。普通にいふ隱遁者の最も著しい代表者は長明や兼好であるが、いはゆる連歌師の徒もまたその系統に屬する。しかしさういふことが習慣となると、歌連歌を弄ぶものはそれがために遁世者の姿となるやうにもなるので、彼等の間に際だつた地位を占めてゐる某宗祇なども、やはりその例といつてよからう。室町時代に「遁世もの」と汎稱せられたものは論外としても、地下の歌人連歌師が一種の職業となると共に、遁世の姿もやはり衣食の計をなす一つの方法と見なされるやうになつた。だから彼等の生活はもはや出家の實を具へないやうになつたので、連歌師として世に重んぜられた柴屋軒宗長の如きも、本來僧侶から身を起したものであるにもかゝはらず、妻子を有ち(宗長宇津山記)、少人を愛したこともあるらしい(紹巴富士見道記)。連歌師として各地を巡歴する場合に、酒宴に日を暮らし夜を明かすなどは常のことであつた(宗長東路のつと、宗牧東國紀行、など)。たゞ彼等はその本來の身分が低いにもかゝはらず、社會的階級の外に立つて平民にも貴族にも齊しく交はり、牡丹花尚柏の如きは宮廷にも參るほどであつたといふが、これも一つは、彼等が遁世者の形を有つてゐたがために、一種方外の人として世間から視られたからでもある。
 しかし戰亂の世は、却つて一方に眞の隱者らしいものを生ずる傾向がある。人と爭ひ人と闘はねば生きてゆかれぬ戰亂の世に於いて、何處までも我を立て何時までも人と爭はうとしないもの、もしくは爭つて敗れ闘つて傷ついたものは、或はその紛爭の煩はしさに堪へずして、或は不平と失望とを抱いて、世を避けようとする。それが文事の知識(588)と趣味とを有つてゐるものであるならば、おのづからかういふ隱遁の境界に入り易い。そこに一種の心安さが得られるからである。だから「九重の都のうちに、春秋を送り迎へて、とにかくに、心をのべし身なりしを、昔にこえし亂れ蘆の、世の波かぜに漂ひて、名をのみ聞きし津の國の、いなの渡りの山里に、葎のかどをさしこめて、」(肖柏春夢草)、世を遁れた身の、歌に心を慰めたものも少なくはなかつたであらう。たゞ後までもその名の聞えてゐるものは多くないが、かの山崎宗鑑の如きはその最も著しき一人といへよう。が、かうなるとその遁世は、もとの佛教的厭世觀からは距離が遠ざかつて、むしろシナ人のいはゆる隱逸思想に近づいて來る。彼等は無常の人生を厭つて山に入るのではなく、たゞ世間の羈束と紛爭とを嫌つて江湖に放浪するのである。そこに世を離れて世に戯れる一種の思想が生じ、從つてまたそれが一轉すると、世に交りながら世を輕く見て、我をも人をも茶化して暮らさうとする態度にもなる。宗鑑の俳諧は、文字の上に於いて、既にその傾向の規はれたものではあるまいか。こゝにも佛教的思想が知識階級の間に漸次衰へて來た趨勢が見える。宗鑑の遁世は將軍義尚の薨去に逢うて無常を感じたからだといはれてゐるが、よしそれが一つの機縁となつたとするにせよ、遁世の後の彼の態度から見ると、彼の隱遁にはさしたる思想的根據があつたのではないらしい。彼の心生活は嚴肅ではなくして放漫である。沈痛な心もちは無くして輕い氣分に充ちてゐる。勿論かたの如き出家ではない。だから昔の西行などとは全く趣が違ふ。けれども隱遁者の趣味は、ともかくも古典的で、その生活にはなほ幾らかは修行者または行脚僧の遺風があつた。宗祇並にその門下の連歌師はいふまでもなく、宗鑑のやうに俳諧の新體を鼓吹したものでも、その根柢には古典趣味があり、また西國行脚をも試みたのである。後の俳諧師はこの系統を傳へてゐる。
(589) 隱遁思想とは少しく趣を異にするが、こゝに一言しておきたいことは茶の湯の趣味である。茶の湯は戰國武士の間にも盛に行はれるやうになつたが、これは茶そのものの味や、茶器なり茶室なりの好みの外に、彼等の日常生活から離れた特殊の境界にしばしの間なりともその身を置くところに興趣があるので、この點に於いては歌連歌を慰みにするのと同樣、やはり一時的の隱遁生活を樂しむのである。特にその閑寂な心もちと味覺や嗅覺の上に於ける繊細な趣味とは、物騷しい戰場に馳驅して官能の粗大になつてゐる武士にとつては、全く別世界に入つた感じがあつたらう。その起源が民間にあるために、質素な平民的な趣きが尚ばれはするものの、既に一つの技藝となり、それについて特殊の式法が定められた上は、その質素なのも平民的なのも、うぶのまゝ自然のまゝのものではなくして、人工的に作り出されたものであり、その人工を自然らしくするところに茶の湯の趣味がある。「さび」にも「わび」にもこの人工的要素がある。「式の茶の湯」、「上手」、「功者」、に對して「數奇」を尊ぶのも、式法と技巧とを有しながらそれを自然らしくするのをよしとするのである(長闇堂記參照)。てうど「夕顔のさける軒ばの下すゞみ男はてゝれ女はふたのもの」(木下長嘯集所載)を天下の至樂と思ふのも、本來さういふ境界にあるものの感じではないと同樣、一疊敷二疊敷の茶室を「わび」として見るのも、貧者の態度ではない。都人士が山林に入るからこそ隱遁であるが、本來の山人は山林にゐてやはりうきよの煩しさをかこつのである。茶の湯の趣味も畢竟この人工的の「わび」にある。茶の湯の式法、茶室や庭園の構造、または器具の好尚などは、それを指導する數奇者または愛好者の人物によつて幾らかづゝの變異が生じ、定められた式法と時に臨んでの機轉及び創意とのかねあひにそれが見える。また時代による變化もあつて、傳統的趣味としての「わび」と高價な名物を誇る態度との關係にもそれが現はれる。かの秀吉の北野の大茶の(590)湯はこれらが奇異な混淆を示した好例である。徳川の世になると、茶の湯そのものの歴史が古くなつたのと、一般の社會的風潮とのために、形式化せられ固定化せられる傾向が強くなつて來たが、しかし茶の湯そのものの上記の趣味は失はれず、日常生活から隔離せられた世界を形づくるところに隱遁思想と一味の通ずるところもある。
 ところが、徳川の世の初めになつてしば/\起つた政治上の變動から、時勢に追從することのできない落伍者や、主人を失つた浪人や、またはいろ/\の意味での不平家やが多く生じ、「今はわれまろばにとげる腰刀世につかはれぬ身とぞなりける」(北條五代記)、それらのものが心からの、或は心ならずもの、隱者の生を送るに至つて、上記の系統の外に種々の隱遁思想が現はれた。そのうちでも木下長嘯の如きは、日野の外山の秋をたづねて「朽ちもせぬ代々のかたみとなりにけり昔へだてぬ庭の岩がき」(家集)と、鴨長明を慕つてゐたらしいことから見ても、歌人であつたことから見ても、昔からの思想に最も近いものであるが、佛教的厭世觀の分子が無いのと、シナ的隱逸主義を少からず含んでゐるのとが、それと違ふ點である。彼の東山々家記は方丈記を摸ねたらしいところがありながら、往生要集の代りに杜少陵の詩卷を取り、昔ゆかしき折り箏つぎ琵琶の代りに「無舷の琴に似たらん」と淵明の故事を想ひ浮かべて、一張の琴を置いてゐたのでも、その趣味が知られる。惺窩と交の深かつたのもこれがためであつて、相共に老莊を談じたといふ。惺窩自身も「君が住む山の田ぶせに伏せ庵を我も結ばな契たがふな」といひ、「濁る酒にごらぬ人とよしゑやし醉ひなきしつゝ笑はなんやそ」(歌集長嘯子につかはしける詞)といつて、長嘯子の境界を羨んでゐたが、それはいふまでもなく許由巣父を面かげに見てのことである。この態度は必しも長嘯子に始まつたのではないやうであつて、早くは長松軒惟翁の如きもその類と見なされるが(年山紀聞)、上記の理由からこのころになつて明かな形を(591)とつて現はれたらしい。ところが石川丈山になると、この傾向が一層強くなつてゐて、「胸統乾坤以葆眞、風花爲友道爲隣、議書看盡數千載、自是神仙不死人、」(覆?集)の一絶にも、彼の思想が見えてゐる。この思想は知識としては五山の文學から傳へられたものらしいが、それが徳川の世の初めの社會状態に於いて特殊の境遇に置かれた長嘯や丈山によつて受入れられ、こゝに始めて彼等の思想の一大要素となつたのである。「飄然黄綺儔、避害逐巣由、百戰爭蝸圖、千城構唇樓、雷霆小蝉噪、日月兩螢流、隨分須行樂、聖仙亦一?、」(覆?集)。懷風藻の詩人が單に文字の上で許由や巣父を弄んだのとは違つて、今は彼等自身の實生活に於いて、この隱逸の氣分を味はうとする要求が生じたのである。偏固な道徳を説く儒教の學が漸く世に行はれんとする傍に於いて、老莊の思想が一部の知識人に喜ばれたのも、またこの故である。隱逸思想は老莊の思想の本色ではないが、その一面と關與するところがあり、後世ではそれと離るべからざるもののやうに解せられもした。
 しかし昔の遁世家が古典文學をその隱れ家としたと同じく、今のこの隱士はシナ文學とシナ趣味とに身をよせた。現實の社會から身を脱するには、その心を遊ばせる別の世界が無くてはならぬからである。長嘯は歌人で漢詩をも作つたが、丈山は時々歌をも作る漢詩人であつた。丈山が詩仙堂を設け(東山山家記に見える長嘯の歌仙堂から思ひついたものか)、またその林泉の勝景佳境に一々シナ風の名稱をつけたのが、彼のシナ趣味を示すものであることはいふまでもない。これも五山僧からの因襲であつて惺窩にもそれがある。かうなると、彼等はそのシナ趣味を以て何物にも接するやうになる。歌人や連歌師が古典の目がねをかけて花紅葉を看ると同じく、彼等はシナ文學によつて養はれた特殊の氣分を以て風雲月露に對する。だから彼等は山林に入つても自然そのものに即してその情趣を味ふことがで(592)きぬ。かのこと/”\しいシナ風の命名が、既に思想の上に於いて眼前の風景を異國趣味化するものである。禅院の裡から現はれて來た一種の造庭術は、人工的の林泉を作るのであるが、漢詩人は思想の上でそれを行つてゐる。それは恰も如何なる風景を寫しても、シナの山水の方式にあてはめなくては作られなかつた我が國のシナ畫の摸倣者と一般である。彼等が居宅を構へ庭園をつくつてそこに居を定め、昔の遁世家のやうに行脚の杖を野山の末に曳かなかつたのは、この故でもあらう。(「春上竹梢雖奏鳴、形聲毛羽異倉庚、見來爾是鷦鷯類、幸被人呼黄鳥名、」といつて、うぐひすがシナの黄鳥でないのを嘲つてゐる丈山は、今鳴いてゐるうぐひすのねを喜ばないで、見たことも無い黄鳥の姿を文字によつて愛するものである。彼等の嗜好はこれによつても知られる。歌人や連歌師の古典的花鳥趣味は、因襲的であつても狹少であつても、ともかくも我が國の風物にかなつてゐるが、シナ的自然觀は目前の光景とは全く別のものである。)
 しかし、こゝに別樣の態度がある。「隱れ家は心のうちにあるものを知らでや山の奧に入るらん」。慶長見聞集(卷五)は、この古歌を歌ひあるいた樂阿彌といふ乞食坊主の話を載せて、「己身彌陀唯心極樂なり、あらありがたの樂阿彌が遁世、」といつてゐる。いはゆる樂阿彌は淨心の影法師らしく見えるが、それはともかくも、身を市井の煩はしき間に置いて獨りわが心の安らかさに隱れるといふ思想が、この北條の遺臣の胸の中にあつたことに、疑ひはあるまい。(樂阿彌の名は尺八の名人として狂言の「樂阿彌」に出てゐる。後撰夷曲集に由己法橋の作として「君とわれつれ吹きにする尺八はこれぞ浮世の中の樂阿彌」といふ一首があるのを見ると、この名は當時に於いても輕い滑稽的の調子に響いてゐたらしい。東海道名所記に再生するところからもさう考へられる。淨心もそれを興がつて、この乞食坊主(593)の名としたのではあるまいか。)が、樂阿彌は「士農工商の家にもたづさはら」ぬ特殊の境界にゐるから、こと/”\しい隱者がほして山の奧に入らぬだけで、實は一種の隱者である。或は世のつねのなりはひを顧ないところに、世を輕んずる心もちさへある。
 ところが、「誰が身の上」(卷二)のなにがしが「隱遁を願ふとも、とてもうき世も背き難ければ、」「心の樂」を希ふ、といつてゐるのは、士農工商の務を務としながら、その間に於いて心の安らかさを得ようといふのである。「萬事心もちゆゑおもしろくもうたてくもあるものなり」と觀じて、心を樂しくして萬事に對しようといふのである。世事を謝して山林に隱れても、隱れるものが生きてゐる我である以上、隱れたところにもやはり世界があり人生がある。背を向けた世をさへも心の上に斷ちがたいことは勿論である。それを斷たうとするには、何よりも先づ我みづからを我が上に超脱させねばならぬ。けれどもさうなれば、故らに山林に入るを要せずして、煩はしと見た世事そのものが却つておもしろく眺められはしまいか。世を煩はしと見るのは世に拘泥するからで、世に拘泥するほどならば、山林にも拘泥する、シナ趣味にも拘泥する、詩にも歌にも拘泥する。自然の水の流れに枕流洞と名をつけ岩の姿を群書巖といふに至つては(惺窩歌集)、拘泥の最も甚しきものである。その拘泥を離脱し一切の緊縛を放下し去つて、自由な目で世を見れば、世は却つて笑つて彼を迎へる。或は世と共に浮沈して無關心にその生が送られる。こゝにも我をすてて世に順應するをよしとする老莊の思想と一致するところがある。或はそれから何ほどかの暗示をうけたのかも知れぬ。のみならず、山林に生を營むことのできるものは、世に於いて生を營む必要の無いものである。隱逸の民は、畢竟、徒手して遊食することのできるものであり、世を避けるのは固より一種の贅澤に過ぎぬ。さういふ贅澤のでき(594)ないものは、世の中の務を務としながら、その世の中を心安く見る工夫をしなければならぬ。その工夫ができれば故らに世を避ける必要は無い。
 しかし淨心でも元隣でも、その思想の根柢には、或は轉變の激しき世に逢つて思ひの外の月日を送る境遇から起る自然の傾向として、世を憂しと觀ずる念があり、或は佛教やシナ的隱逸思想の影響をうけて形づくられた知識として、世を遁れるを高しとする考がある。從つて彼等には、世の務を貴重なものとしてその務を全うするところに、心の樂みを得ることはできない。だから淨心は、乞食の樂阿彌を空想に畫いてそれを讃嘆した。樂阿彌を知らぬ元隣は、四季のもてあそびによつて心を樂ませるといつた。けれどもその四季のもてあそびが、人事を離れた花紅葉や月雪花の上にあるならば、それはやはり臨時に隱者的氣分となることである。徒然草の「をりふしの移り變り」を當世化した「誰が身の上」(卷二)の一節を讀むものは、元隣の思想がなほこの邊にあつたことを容易に看取するであらう。けれども彼は、この四季の變遷を敍するに當つて多く市井の雜事を交へ、且つ全體に亙つて一種の滑稽的な輕い心もちを以てした。市井に處するものは市井を離れることができないと共に、それに對して心を煩はさないやうにするには、世をも人をも輕く見なければならぬからである。萬事を局外から見て、或は我みづからをも一段の高所から見下ろして、それを滑稽視するところに、一種の超然的態度があり、心の安らかさがそれによつて得られる。
 が、これはむつかしい。そのむつかしいのを容易にすることはできないが、やゝそれに近いのは世を避けずして世を離れた境界に身を置くことである。世をすてた姿をそのまゝ世を渡るたつきとして却つて世に交はるのである。東海道名所記の樂阿臓がそれではないか。この樂阿彌は「世になし者のはて」が「青道心を起し」た「すりがらし坊」(595)で、浮世物語の浮世坊と一族であるが、その系圖を調べてみれば、近いところには竹齋物語の竹齋もあり、慶長見聞集の乞食坊主も世に羈束せられない點に於いて幾分の血縁が無いとはいはれず、遠い祖先を尋ねると、宗長宗鑑などの俳諧の歌や連句の作者を經て、ずつと昔の遁世者まで溯らねばならぬ。出家の姿はいふまでもなく、その東海道の旅路にも行脚僧の先蹤を追うてゐる。たゞその旅が修行のためでないことは勿論、都離れた山川の寂しきながめにわびしき旅ごゝちを味ひ、鳥のこゑ蟲のねに憂き世の外の風趣を求めたのとは違つて、堺町をのぞき吉原をも見巡り、賑かな街道筋の宿々で調子も合はぬ座頭の琵琶を聞き、麥餅のやうな頚に白粉をつけた山だしの女に「つれないお旅人」と呼ばれ、さては富士の山をも飯かと眺め、八橋の里に紙衣の破れを笑つて、驛から驛へと浮かれてゆくのである。自然界よりは人事に興味を有つてゐるところが、昔の世すて人とは違ふ。さうしてその旅路の明けくれ茶屋宿屋の出入りには、「ものうき事、嬉しき事、腹の立つ事、おもしろき事、あはれなる事、恐ろしき事、あぶなき事、をかしき事、」が、あとから/\起つて來るので、たまには「慮外ものの第一」と馬子どもを叱りつけ、薄化粧した比丘尼の柴垣ぶしをきいては、風俗の頽廢を「あはれなることかな」とすゝり上げて泣くことがあつても、ゆきすぎてしまへば何時のまにか忘られて、また諷輕な氣樂坊となるのみならず、泣いたり怒つたりするおのれみづからが可笑しくも眺められ、だじやれ/\て五十三驛を京に上つた果てには、その身さへ「行がたも知らず」なつたのである。ところが「我が哀はからかさの下あめの下。人間萬事旅の行末、」(宗因)。人生は畢竟旅であるとすれば、樂阿彌の處世觀もやはりこの旅心地と同じことで、うきもありつらきもあり、時には戒心をも要するが、氣輕にしてゆけばともかくもその日/\を笑ひながら暮らすことができて、一期は何時のまにか過ぎてしまふ、といふのであらう。「立ちやすし(596)こんなことなら百年も」(宗因)。その立ち易き世を憂きものと窮屈に考へるよりは、浮き世と輕く思ひとつた方が氣樂である。「人の世はたゞあやつりのでき坊主」(宗因)。絲が切れたら壞れようまで。わざ/\むつかしい顔をして山に入るには及ばない。
 この態度はもとより東海道名所記の樂阿彌に始まつたのではない。前にも述べた如く宗長宗鑑などに於いて既にその傾向が見えてゐる。自然界よりも人事を取りその人事を滑稽的に取扱ふ、といふ俳諧に於ける彼等の態度は、やがて人生に對する感想であつたらう。要するに我をも世をも茶化して暮らさうといにのである。固よりその裏面には、夢の如き人生、幻の如き世間が、あはれな姿で印象せられてゐる。たゞそれをはかなきものとして感傷的に眺めず、可笑しきものとして遊戯的に視るところに、彼等の特色がある。前篇に述べた常常盤物語などは多分かういふ思想の前驅であつたらしく、生死の無常、栄枯盛衰の轉變も、その一つ/\の事實に對して心からの涙を濺ぐには、あまりに見なれ聞きなれて悲哀の感じが薄らぐほどな激しい戰亂が、その矛盾に滿ちた人生、亂雜な世態を、一歩高いところから見下して、それを滑稽視するに至らしめたのではあるまいか。たゞ前代には局外からの批評的態度に止まつてゐたが、この時代にはそれをおのれみづからの處世觀として考へるやうになつたのである。もとよりそれには、本來氣輕な傾向を有つてゐる國民性の故もあらうが、この時代に至つて一體にかういふ氣風の高まつて來たことには、特殊な時勢の影響が無いとはいはれまい。
 時勢の影響は他の方面からも來る。戰亂が收まつて世が徳川幕府の下に秩序立てられ、寸分のゆるぎを許されぬほどに社會が固定して來ると、人は我が力を揮つて我が事をなすことができぬ。地位あれば愚者も幅をきかせ、利禄な(597)ければ能あるものもその能をあらはすたつきが無い。かゝる世にわれはと思ふものは、或は不平から憤悶に陷り、或は世を謝して隱遁し、また或は世と浮沈して世を愚にする。氣がるに世を渡らうといふ態度がこゝから生ずるのも、不思議ではあるまい。
 更に一つの觀察がある。生存の競争が激しくなれば、一方に於いては、その手段として矯飾をもし假面をもかぶることが行はれると共に、他方に於いては、人がみなその欲望をあからさまに暴露する。それが極點に達して生死の別れる剃那となれば、あらゆる假面も矯飾もみな打ちすてられる。戰國の世の一面にはかういふ事實がある。のみならず、その競争の手段が武力であるために、人の動物的能力が極度に發揮せられ、從つてまた動物的欲望がそのまゝにさらけ出される。だから、戀は「何よりもきたなき」ものと見られる(尤の草子)。人の世は「食ふの道より外は無きかや」(守武千句)と思はれる。かう考へる時、それを淺ましと觀ずるものもあらうが、そのきたないものにうき身をやつし、口腹の慾のために死力を盡して爭ふのを、滑稽と見れば見られる。きたないものを美しく思ひ食ふためのしごとを立派さうに考へるのを見れば、なほさら滑稽である。或はその美しい衣裝を剥ぎ去つて、赤はだかの正體を暴露させるところに、別種の滑稽がある。宗鑑以後の俳諧師が、戀を思ひきつて肉的に取扱つたのは、おのづからその滑稽的態度に適ふ。戀と食ふとばかりではない。世のことわざのすべてを慾のためだと觀ずる時、世をも人をも愚にする態度が生ずるのは自然である。さうしてさういふ眼を以て見れば、平和の社會もやはり同樣に映ずる。「たゞ世の中は錢ぞかし」(東海道名所記)と見れば、「阿彌陀の光も地獄も極樂も」有りがたくもなければ恐ろしくもない。我にも世にも何の權威も無くなるのは當然である。
(598) 隱遁者の觀察を試みてゐた著者の眼は、何時のまにか移つて、世の中ををかしく渡る氣樂坊に向つてしまつた。が、これは不思議ではない。隱遁者も氣樂坊もその根本の思想は、缺陷世界の缺陷を覺つて、我が身一つをその間に心安くしようといふのであつて、たゞそれに對する態度が人によつて違ふのみだからである。人の動物たることに氣のついた彼等は、或はそこに一種の哀愁と嫌惡とを感じ、或はそれを滑稽視して偏に好笑の料とする。淺ましき世のさまを見るものは、或はそれに背いて別の世界に身を隱し、或は心を世に放つて世と共に浮沈する。彼等には何れもかくの如き人生そのものを向上させ、かくの如き世を改めてゆかうといふ考が無く、たゞそれを傍觀するに過ぎないのであるが、しかしともかくも世に對してかういふ考を有つてゐるものは、特殊の知識階級に屬するものである。ところが多數人に於いては、たゞ世の風潮につれてその日/\を送るに過ぎない。さうしてその世の風潮の最も著しいのは、やはり戰亂に刺戟せられて盛になつた一種の歡樂主義である。
 何人も歡樂を求めないものは無い。特に明日の命の知られない武士が、それについて放縱になり易く、肉的官能的享樂主義に墮し易い傾向を有つてゐることは、前にも述べておいた。おのれみづからが武士でなくとも、命の定めなさ世の變り易さが痛切に感ぜられる戰亂の世に於いては、「何せうぞくすんで、一期は夢よたゞ狂へ、」(閑吟集)。せめて命のあるまに人みなが樂しみを盡さうとするのは、無理のないことである。だから「とても消ゆべき露の身を、夢のまなりと、夢のまなりとも、」(隆達節小唄)といふ。世を夢幻と觀じても、昔の平安朝人のやうに偏にそれをはかなむのではなく、そこから一種のすてばち的氣分を喚び起して、短い命をおもしろく遊んで過さうといふのが、戰(599)國人士の態度である。「夢の浮世の、露の命の、わざくれ、身はなり次第よの、身はなり次第よの、」(同上)。今やうの一ふし、底には沈んだ響きが聞えるが、調子はどこまでも浮いてゐる。平和の世になつても、一度び養はれた風尚は容易に變らないのみならず、遊樂の機關が發達するにつれて却つて甚しくなる。「一生の歡樂しやらや伽羅の香」(釋教百韻宗因)。女歌舞伎の繁昌も、傾國遊翫の圖の多く作られたのも、小唄三味線の流行も、みなこの思想の現はれたものであつて、「浮世」といふ語がこれによつて特殊の意義を帶びるやうにさへなつた。物語の人物に夢の浮世の介(「恨之介」、西鶴の一代男の主人公世之介の名はこゝから出てゐるらしい)、浮世坊(浮世物語)があり、物語そのものの名にも浮世物語が現はれ、また「浮世人」(薄雪物語插畫)といふ名も作られたが、これらはみなこの「夢の浮世をぬめろやれ」(恨之介)の歡樂主義を離れては解することのできないものである。これから後、浮世ぐるひ、浮世あそび、浮世ぶし、浮世小路、など、浮世の二字を冠した語が數多くできたので、寛文元禄時代の文學から著者の拾ひ出したばかりでも五十に餘つてゐる。そのうちには幾分か意義の轉化したものもあるが、原意義はやはりこゝにあるらしい(このことはなほ後篇に至つて述べる機會があらう)。かの浮世繪の語も、もとはやはり遊樂の圖を指したものであつて、單に風俗畫といふのとは、意義が違ふのではあるまいか。浮世物語の卷頭に浮世の語義を解釋して「一寸さきは闇なり、……歌を歌ひ酒飲み、浮きに浮いてなぐさみ、手まへをすり切るも苦にならず、沈み入らぬ心だての、水に流るゝ瓢箪の如くなる、これを浮世と名づくるなり、」といつてゐる、後半は「浮」の字からの附會であるが、前半は正しい。「月に遊べ五尺にあまる身なりとも一寸さきは闇の浮世ぞ」(古今夷曲集行風)。月花ばかりではない。「浮世は夢よ、消えてはいらぬ、解かいのう、解けて、解かいのう、」(隆達節)。或は「誰も浮世は假の宿、さのみ人(600)目をつゝむまじ、」(三絃曲本手浮世組)。「夢の浮世」が戀をも放縱ならしめることは固よりである。
 こゝまで考へて來ると、むかし佛者をして世の無常をはかなませ、厭穢欣淨の思想を養はせた人生の事實が、それとは全く反對の方向に人心を導いて來たことに氣が付く。浮世主義は即ち歡樂を現世に求めるものである。「極樂の花見はさきへ先づござれ、我等は祇園清水の春、」(宗因十百韻)。たゞこの浮世主義の根柢には一種悲痛の情がある。時には「またあぶなきは露の命ぞ」(守武千句)と意識しなければならぬ。是に於いてかまた「おもしろくたゞ心細かれ」(同上)といふ態度も生ずる。その上、歡樂の後には哀情が伴ふ。だからこの歡樂主義の奏する樂聲は決して明朗な、喜悦に充ちた、長音階的旋律ではなくして、遊女の奏でる三絃曲の、むしろ短音階的である。あだ物語に、無常の世なれば生きてあらんうちに歡樂をつくせ、樂しみ盡きて菩提に入るたよりとなる、といつてゐるのは、佛者が牽強の辯に過ぎないが、歡樂の希求と無常の思想とが互に纏綿してゐるこの時代の思想は、こゝにも現はれてゐる。これはこの歌樂主義が本來戰國の社會から生まれた特殊の性質を有つてゐるからであつて、それが悲傷の調子を帶びてゐるのは、恰も戰亂の産物である武士道が殺伐の氣に充ちてゐるのと同樣である。
 
(623)【文學に現はれたる】國民思想の研究 二 補記
 
二六頁 一四行 <多數の武士はそれを支援しなかつたのである。>の次に、〔支援しなかつたのは、彼等の首領となり彼等に恩賞を與へるものが京方に無く、京方が彼等を統轄し彼等の上に立つて權力を有つてゐる鎌倉幕府を敵としたからである。〕の補入がある。
五二頁  三行 この問題について、〔土御門院御集の詩の句を詠じた歌〕の頭記がある。
九九頁  一行 このことについて、〔安徳天皇の入水の如きことを平家が行つた心情、平家のものは天皇をどう見てゐたのか、〕の頭記がある。
二五頁 一四行 (滑稽化したものである。)の次に、〔笑話ではあるけれどもかゝる笑話の作られたのは皇室の精神的權威が薄れたからのことであるやうに見えるかも知れぬが、同じ物語の作者が皇室をどこまでも皇室として尊重してゐるのみならず、これらの話に於いて義仲や師直の名に託した語を承認するやうな態度のどこにも無いことを思ふと、實はさうではなく、神國たる日本には本質的の存在である皇室の尊さを知らぬものを假設してそれを滑稽的に取扱つたのが、これらの笑話であることが知られるのである。〕の補人がある。
一一八貞 一一行 <これらの國學者に>の前に、〔愚管抄などの説は〕の補入がある。
一二一頁 一三行 宗良親王について、〔新葉集離別、雜上、下、及び序〕の補註がある。
一九〇頁 一五行 <やはり成り上り>の前に、〔當時に於いては〕の補入がある。
二〇〇頁 一五行 <南朝の皇室に>の前に、〔合一の條件として兩統迭立の約があつたと博へられてもゐるが、よしそれが事實であるにせよ、幕府は初めからそれを實行する意志をもつてはゐなかつたらう〕そのことが明かに知られるやう(624)になつた時に大覺寺統の君臣が悲憤の情を抱いたことは當然でもあり同感もせられるが、當時の情勢に於いては、かゝる條件の實行を豫期したことが既にむりであつたので、兩朝の合一はさういふことよりももつと高い見地から南朝の天皇が承諾せられたのではなからうか。もしさうならば大覺寺統が後までも皇位に戀々としてゐたのは、むしろ彼等の過誤といふべきであつた。持明院統もまた彼等と同じ皇室であつて、それが皇位を相續せられるのは、皇位が一系の血統によつて傳へられることを妨げるものではない。兩統迭立といふ如き方式が皇室の内部に於ける紛爭を誘致し易いのみならず、延いては世の混亂を導き出す處のあるものであることは、過去の苦き經驗によつて既に知られてゐたはずである。〕の補入がある。
二〇二頁 一二行 <戰國時代を誘致した>の前に、〔結果から見ると、〕の補入がある。
二三一頁  六行 このことに關聯して、〔インドの史詩の敍述のしかたとそれに含まれてゐる官能的欲望や世間的な福利快樂の希求の強烈であるインド人の心理とが、室町時代のこれらの物語に現はれてゐるかどうかを、兩者を對照することによつて考へる必要がある。〕の頭記がある。
三二七頁 一二行 このことに關聯して、〔應永十五年の北山殿行幸の時の連歌に「今やすくもろこし船のかよひ來て、あひあふ君ぞ共に久しき。」〕の頭記がある。
三五五頁 一〇行 この句について、〔「……不關興亡事」といふいひかたは唐人にその例がある、〕の頭記がある。
三六〇頁  五行 <比較的安定した生活のできた一面もあらう。>の次に、〔國民の主要食料としての米が彼等によつて生産せられたことによつても、それが知られる。〕の補入がある。
三六〇頁  九行 <一つの由來があるとも見れらよう。)の次に、〔或はまた場合によつては領主が彼等の保護者であつたといふやうな事情も、それにはたらいてゐるかも知れぬ。戰亂の多い當時では農民が他からの侵略を拒ぐには領主の保護に依頼する必要があつたと共に、領主もまた彼等を保護することによつて領土を保持することができもし(625)たらう、と思はれるからである。なほ他の方面から見ると、〕を補入する。
三八六頁 一〇行 <鐵砲が傳來すると忽ち全國に擴が> の次に、〔り、さうしてそれによつて戰術が變化す〕を補入する。
四〇八頁 一二行 <却つて一般人の反撥を招いた。>の次に、〔この排他的精神は唯一神の信仰には必然的に伴ふものであるから、キリシタンには固有のものであり、昔から異教に對して常に取られた行動に現はれてゐるものであるが、日本人は始めてそれに接したので、大なる衝撃を感じたのである。〕を補入する。
四〇八頁 一五行 <世人の反感を喚起したのである。>の次に、〔十字架上のキリシトの如き陰惨な設像も、恐怖もしくは嫌惡の情を喚起したのではなからうか。〕を補入する。
四一三頁 一二行 <民間の兵器を>の前に、〔檢地を行つたり〕を補入する。
四二一頁 七行 この間題について、〔寛永三年に二條城に行幸を仰いだのは聚樂行事の跡を追ふたものではあるが、この時のは世が平和に歸して既に十餘年を經た後のこととて、將軍の威力を示すはたらきをしたことは明かであるものの、室町や北山の行幸の時のと同じく上代文化尊崇の意も加はつてゐたかも知れぬ。〕の頭記がある。
四二五頁 二-三行 <極言すれば>の前に、〔幕府から見ると、〕を補入し、<反逆だからである。>の次に、〔少くともバテレンが日本に潜入しまたはせんとしたのは、日本の武士の思想からいへば許すべからざる間諜的行爲である。〕を補入する。
四二五頁 七行 <彼等は知つてゐたに違ひないが、>の次に、〔(舊いことをたづねるには及ばず、イタリヤでブルノの殺されたのは慶長五年である)、〕を補入する。
四二七頁 一行 <のみである。>の次に、〔しかし世界的統一の精神をもつてゐる宗教と國家との對立した情勢には、おのづから共通の意味があつたのではある。〕を補入する。
四二七頁 六行 《勿論》を削除し、そこに、〔しかしまたその觀察の如何によつては、それ/\の國内に發生した宗派間の闘爭(626)及び國際間の戰亂が幾多の好ましからざる知識を日本人に與へる虞れが無いとはいひかねるので、いづれにしてもパツパの如き宗教上の地位と政治的權力とを兼有するものの存在にかゝる紛亂の根原があるから〕を挿入する。
四二七頁 一四−一五行 <鎭國政策をさへ取ることになつた。>の次に、〔國民の海外渡航の嚴禁せられたのは、その重要なものである。〕を補入する。
四三二頁   七行 この問題について、〔城郭建築のことを今少し詳説する必要がある〕 の頭記がある。
五四五頁 五−六行 <「非はもとより理におさる、理は法度におさる、法度も時の權におさる、」>の次に、〔(尤の草子)。〕を挿入する。また、この草子について、〔續群書類從雜部にある慶長年間に書かれたといふ尤の草子に見ゆ、下二十七おさるゝもののしな/”\。この草子に記されてゐることは當時世に知られてゐた事物であり、文辭である。尤の草子をひくことは五一九頁に例がある。理と非との關係については「貴族文學の時代」四四三頁參照」などの頭記がある。
五五七頁  一四行 このことについて、〔この法令のこと當代記に見える〕の頭記がある。
五六二頁  一四行 <また同じ事情の故でもある。>の次に、〔しかしこのことは、幕府の政治が、事實、儒教思想によつて行はれたことを示すものではない。〕の補記がある。
五七七頁   一行 この問題に關聯して、〔妙貞問答の神道論を參照すべし、〕の頭記がある。
五七七頁  一三行 <改宗したといふやうな>の次に、〔または父母がその信仰を子どもに及ぼして何の思慮も無い小兒などを受洗させるやうな〕を補入する。また<彼等の改宗>の次に〔または受洗〕を補入する。
五八〇頁  一四行 この問題について、〔日本人はキリシタンに對して教義上のむつかしい論難をするから、そのことに氣をつけて適當な傳遣者を送れ、と故國へいつてやつた傳道者があつたと思ふ。〕の頭記がある。
(627)五八二頁 一-四行 <細川忠興の夫人が信者たる故を以て自殺しなかつたとか、小西行長もさうであつたとか、いふ話がよし事實であるとしても、すべての信者がさうではなかつたらしく、現に天草の亂の時、その主將であつた四郎時貞の妹は、みづからもその夫も信者であるにかゝはらず、武士の戰場で不覺を取ることは妻子に心の殘る故だといふので、その夫を勵ますために自殺したと傳へられてゐる(島原記)。>を〔小西行長は信者たる故を以て自殺しなかつたといふが、すべての信者がさうではなかつたらしく、現に細川忠興の夫人は自殺したやうに日本では傳へられてゐるし、また天草の亂の時、その主將であつた四郎時貞の妹は、みづからもその夫も信者であるにかゝはらず、武士の戰場で不覺を取ることは妻子に心の殘る故だといふので、その夫を勵ますために自殺したといふ(島原記)。〕となほす。
五八三頁  七行 <ドチリナキリシタン、>の次に、〔妙貞問答、〕を挿入する。
五八四頁  六行 <おぼつかなくもある。>の次に、〔パツパの權威の下にあるものがいはゆる異教徒に對して絶えずこの戒を破つてゐたことは、明白な事實である。〕を補入する。
〔2020年2月15日(土)、午後1時45分、入力終了〕