津田左右吉全集第六巻・【文學に現はれたる】國民思想の研究 三、岩波書店、594頁、4000円、1964.3.17(87.2.24.2p)
 
(1)     まへがき
 
 この一卷は大正七(一九一七)年に公にした「平民文學の時代上」の改訂版である。改訂の主旨と態度とは前二卷のと同じであり、特に「武士文學の時代」の改訂版のまへがきにいつておいたことが、この卷にもあてはまる。
 わたくしは舊版のこの卷の例言で次のやうにいつておいた。「既出の二卷についてはその後の著者の研究によつて補訂したいと思つてゐることが所々にある。また公にするまでには、幾度も稿本に添削を施し、中には數回稿を改めた部分もあるにかゝはらず、書物となつた上で見ると、精粗詳略の宜きを得ないところ、言ひすぎたところ、言ひ足らぬところ、調子の強すぎるところ、弱すぎるところ、などがあり、用語行文の妥當ならぬ箇處も目につき、不用意の誤謬といふべきものさへも發見せられた。この卷に於いても恐らくは同樣であらう。それらは何等かの方法によつて改訂する機會があることと思ふ。」改訂版を出すことにしたのはそのためであるが、この版についてもやはり同じことをいはねばならぬ。しかしこの後さらに改訂をする時期はあるまい。たゞこの卷でいひ足らなかつたことを次の卷で幾らか補ふ場合はあらうと思ふ。
(2) この卷に於いてもまたクリタ君とコバヤシ君とが校正と索引の製作とをひきうけて下された。煩劇な教職にある兩君が貴重な研究の時間を割愛せられたことについて、兩君に深謝する。
  昭和二十八年七月           つだ さうきち
 
(1)目次
第一篇 平民文學の隆盛時代
     正保慶安ころから正徳前後までの約七八十年間………………………一
 第一章 文化の大勢 一……………………………………………………………一
      平和の大勢と平民
 第二章 文化の大勢 二…………………………………………………………二七
      制度の缺陷と平民
 第三章 文化の大勢 三…………………………………………………………五八
      平民の活動
 第四章 文化の大勢 四…………………………………………………………八四
      元緑の天地と平民の文化
 第五章 文學の概觀 一………………………………………………………一一〇
      總論 上
 第六章 文學の概觀 二………………………………………………………一三六
      總論 下
 第七章 文學の概觀 三………………………………………………………一五八
      俳諧 上
(2) 第八章 文学の概観 四……………………………………………………一七五
       俳諧 下
 第九章 文學の概観 五………二〇〇
      浮世草子
 第十章 文學の概観 六…………………………………………………………三二四
      淨瑠璃 附歌舞伎 上
 第十一章 文學の概観 七………………………………………………………二四九
       淨瑠璃 附歌舞伎 下
 第十二章 文學の概観 八………………………………………………………二七八
       擬古文學及び漢文學
 第十三章 武士道 上……………………………………………………………三〇〇
 第十四章 武士道 下……………………………………………………………三四二
 第十五章 平民の思想……………………………………………………………三六〇
 第十六章 世襲制度及び家族主義………………………………………………三七五
 第十七章 戀愛と生存欲二………………………………………………………四〇一
 第十八章 人生観及び處世観……………………………………………………四二四
 第十九章 自然観…………………………………………………………………四五九
 第二十章 知識生活 上…………………………………………………………四七七
(3) 第二十一章 知識生活 下……………………………………………………五〇五
 第二十二章 宗教上の思想………………………………………………………五二八
 第二十三章 政治上の思想………………………………………………………五五三
 
索引………………………………………………………………………………………五九二
 
(1)     第一篇 平民文學の隆盛時代
        正保慶安ころから正徳前後までの約七八十年間
 
       第一章 文化の大勢 一
          平和の大勢と平民
 
 著者はこの書の第一卷「貴族文學の時代」に於いて、我が國の上代文化が朝廷を中心とする貴族の文化、從つてまた京の文化、であつたことを述べ、第二卷「武士文學の時代」に於いて、その上代文化の遺風を保持してゐる公家貴族が依然として存續しつゝも、それが次第に社會上また政治上の地位を失つて來たと共に、文化の中心は、彼等に代つて世の原動力となりまた彼等の後を承けて政權を握つた武士の社會に移り、その武士が地方に居任してゐるところから文化の世界が全國にひろがり、さうして戰國の混亂時代に至つて、下層の平民がその實力を發揮するやうになつたと共に、文化もまた平民の手に歸してゆく趨勢の漸次に馴致せられて來たことを考へた。「平民文學の時代」と名づけたこの卷に於いては、その平民がます/\文化の上に地位を占め、政權はなほ武家の手にあり社會もまた武士を中心として組織せられてゐながら、事實上平民が世を動かすやうになつた我が近世時代の社會状態を觀察し、さういふ社會に生まれた文學を吟味して、それに現はれてゐる思想の如何なるものであるかを考へてみようと思ふ。
(2) しかしそれを考へる前に、便宜上、古來からの民衆の地位の變遷を一瞥しておきたい。昔の貴族文化の時代に於いては、國民は、概觀すると、政府の所在たる京都にゐる貴族と彼等に從屬する官僚または大寺院の僧徒との一團、即ち當時の文化社會と、この社會に生計の資とその需要品とを供給し、場合によつてはそれに使役せられるものとして取扱はれてゐる地方の農民、即ち文化社會の圏外にあるものと、から成りたつてゐた。特殊の技術を要する工匠の徒の多くは、都會にゐて貴族または寺院の需要を充たすために、その保護の下に生存するに過ぎなかつた。地方には古代の豪族から系統をひいてゐて、その間には郡司などの地位を占めてゐたものがあり、また莊園の發達するにつれて莊司といふやうなものが生じ、これらのものが貴族及び寺院と地方の農民との、即ち文化社會と非文化社會との、中間に立つて、幾らかは京の文化を學び得たやうに見えるが、全體の國民生活の上からいふと、彼等によつて中等社會といふやうな地位が形づくられてゐたのではない。彼等みづから社會を動かす力を有つてはゐなかつたからである。
 ところが、貴族政治の頽廢によつて地方の治安が漸次混亂して來ると、かういふ中間の地位にゐるものが地方民の間に大なる勢力を揮ふやうになり、また彼等の間に武力を以て事を爲さうとするものが生じ、彼等及び彼等と同じやうな地位を得て來た豪族が中心となり首領となつて、武士といふ特殊の階級が形づくられた。その武士となつたものには種々の分子があり、そのうちには、あふれもの、ならずもの、の類も多かつたらうが、農民のうちの野心があり幾分の浮浪性を帶びてゐるものも、またその群に入つたであらう。さうしてその重だつたものは何れも所領を有つてゐて、その土地の農民を支配するやうになつた。ところが、その武士によつて世が動かされ、武士の統領が政權を握つて武家政治の世が現出し、全國に武士の網細工が擴げられて、彼等が秩序だてられ組織だてられるやうになると、(3)彼等は一面地主であると共に、一面廣い社會組織の骨幹となつて、一種の中等社會を形成するやうになり、それと共に彼等の文化上の地位も進んで來たらしい。けれども一般農民が文化社會の圏外に立つてゐることは、ほゞ前と同じであつた。然るに南北朝時代の混亂を經て足利の世になると、有力なる武士が廣大なる領地を有するやうになり、それらのものが將軍と共に武家貴族を形づくつて、文化上に特殊の地位を占め、都會に於いては昔からの公家貴族に代り、文藝も學術もまた商工の業も、主としてその保護の下に成り立つやうになつた。さうしてそれと共に、地方にゐる一般武士の文化も一層向上して來た。戰國時代に於いて、文化の中心が全國の武士に移つたのは、戰國といふ社會状態の故でもあるが、歴史的にいふとかうして漸次馴致せられて來たのである。
 しかしかういふ地方武士とても、畢竟一種の地主であるから、その配下の農民の中には彼等の郎黨とも從者ともなつて、京にも上り戰場にも出入するものがあり、從つて主人に引立てられまたは何ほどかの功名を揚げる機會もあつて、武士の列に加はるものも多かつたらしい。のみならず戰亂のしば/\起る世に於いては、工商の徒とても武器を執つて彼等の生命や利益を保護しなければならぬ場合が多かつたらうし、從つてさういふ事情から武士として身を立てる機會を得るものもあつたであらう。武士と農民との間に身分の差異はあるが、それは確定して動かないものではなかつたのである。ところが戰國時代になると、武士の大多數が城下に集中して不斷の戰闘に從事するやうになつたため、武士と農民との生活が概ね分離し、その間の階級的區別が一層劃然として來た。けれども他方では、力に任せて秩序を破壞する實力競爭の世であり、功名手がらのなし易い時であるので、微賤から身を起して大なる領主になり武家貴族となるものが少なくなく、一般の武士とても農民中のあばれもの、あふれもの、ならずもの、または野心の(4)あるもの、などから成上がるものが前よりも多くなつた。が、それと反對に、勢を失つた武士が農民の間に隱れるものも少なくなかつたらしく、特にいはゆる織豊時代から徳川の世の初期にかけては、多くの大名が家を失つたために、殊に離れた浪人のかういふ境界に入るものが多かつたであらう。もとから農民の間にゐたいはゆる郷士といふもののあることをも考へねばならぬ。江戸時代に大地主豪農と呼ばれてゐたものには、たしかな戰國武士の子孫が多い。かういふ有樣で、事實上、武士と農民との間には幾多の混淆が生じ、その半面の現象として、文化上の素養のあるもの文字の知識のあるものが農民として田舍に散在するやうになつたらしい。平和が續いてゆくにつれて學問文藝に志すものが田舍から多く出るやうになるのも、こゝに一つの由來がある。のみならず農民の日常生活が武士から全く離れ、特に平和時代に入つて武士と農民との階級的區別がます/\峻嚴になつたため、戰國時代ならば武士として何ほどかの功名を立てようと思ふものが、農民として郷黨に幅を利かせるやうにもなる。ところがさういふ階級のものは、或る程度の文化を享受する資力を有つてゐる。かういふ風にして農民も漸次文化社會の圏内に入つて來るのである。けれども一般多数の農民の文化の程度が低かつたことはいふまでもない。
 が、それよりも文化の上に於いて重要なのは商人である。戰國時代から、前卷に述べたやうな事情で、急速に商業が發達したが、商業は富を得るに便であり、さうして富の集まるところには文化が發達するのみならず、その業務の性質上知識を要することが多く、また社會のあらゆる方面に接觸し各地方との交通によつて種々の知識が得られ、その上に直接間接に外國の文物の影響をも受ける、といふ商人は、おのづからその社會の文化を高めることになつた。また物騷がしい世に武士の間をかけめぐつて利益を得ようとするそのころの商業は、半ば冒險的性質を帶びてゐるの(5)で、商人も武士的氣を具へてゐなければならず、功名心あるものは純粹の武士生活に入るものすらあつたほどである。が、それと同時に農民の間に隱れると同じやうな事情から、武士の商人になるものもあつた。一城の城主でその子に商人になれと遺言したものもある。京大坂の大商人に武士出身のものが少からずあつたことは、記録の上でも明かであつて、これには徳川の世になつてから身分を變へたものが多いやうであるが、同じことはその前からもあつたであらう。さうしてまたこれは必しも京大坂に限つたことではなからう。そこで武士と商人との混淆もまた生じたのである。かういふ事情で商人の文化上の地位は、戰國時代から既に武士の社會に劣らぬものであつた。
 けれども戰爭の勝敗によつて世の中が動かされ、あらゆるものが戰爭を中心としまた目的として組織せられ経營せられる戰國時代では、武士は一切の社會の原動力であると共に、文化の上に於いてもまた概して優越の地位を有つてゐた。文化そのものの性質が武士的だからである。學問も文藝もあらゆる工藝技術も、戰爭を生命とする武士の生活に必要なもの適合するものが行はれたからである。ところが世が平和になると、社會の活動はおのづから平和の事業に現はれねばならぬ。そうして平和の事業に武士といふ職業的軍人は用をなさぬ。武力は治安を維持する上に必要であつたらう。武士を本位とする秩序の固定によつてのみ治安の維持を圖り、その治安の維持が政務の全體である如く考へられてゐた世の中、また戰國時代の軍政主義をそのまゝ繼承してゐる政治形態に於いては、武士たる治者はたゞ、一般武士の地位を確實にし、その生計を安固にし、またその權力を無上のものとすればよい、と思つてゐたであらう。しかしかういふ外面の秩序だけでは、人の生活の内的要求を滿足させ實質的に社會を活動させることはできぬ。さうして平和の社會に於ける人の生活は多方面に現はれる。或は學問に於いて、或は文藝に於いて、或はまた種々の工業(6)に於いて、さうしてまた或は富の力に於いて。かうなると武士自身がその地位を維持してゆくにも、武力の外の力を要する。ところが地位の定まつてゐる武士には、さういふ活動をすることも、それに適應する力を養ふことも、むつかしい。こゝに於いてか文化の中心は武士の外の平民に移つてゆくのである。さうしてそれはまづ商人に現はれる。
 前にも述べたやうに、田舍にも資産がありまた知識上の素養のあるものが無いではなく、また後にいふやうに、學問の興隆と出版業の發達とは、知識を田舍にひろげる一方便ともなつたであらうし、武士本位の階級制度は却つて彼等の知識欲を刺戟する事情ともなつたのであるが、彼等は地方に散在してゐて、それ/\の地方の農民の間にはかなりの威望があつたにしても、社會的にまとまつた勢力を形成するには至らなかつた。商人にはそれとは違ひ、武士社會の整頓と平和の大勢とのため年々に繁盛を加へてゆく都市や大名の城下に集まつてゐて、ところによつては市政に關與することさへあり、また富の力と金融の權とを握つてゐるところから、社會のあらゆる方面に種々の影響を及ぼし、武家の生活に封しても大なる勢を揮ふやうになる。從つて彼等平民は昔のやうに、或は貴族や武家に生計の資を供するものとしてのみ、或はその需要を充たしその保護の下にのみ、生存するのではなく、彼等自身のために活動し彼等自身のためにその文化を發達させるやうにたるのである。學問藝術または工業などが彼等を中心として興隆して来るのも、當然である。
 勿論、都市の發達商業の繁盛は、主として武家のために誘はれたものであるのみならず、武士の需要が工藝などを進歩させる一大原因でもあるので、事實上、中央に於いても地方の大名の城下に於いても、商工の徒は半ばは武家の用を辨ずるために生存してゐたといつてもよく、後にいふやうに一般の商人氣質にも、それから養はれた種々の缺陷(7)が存在するほどであるから、この點に於いて武士の勢力を輕視してはたらぬが、ともかくも政治的權力と武力との外に世を動かす力が現はれて來たのであるから、その力を有つてゐるものが武士でない平民であつて、それが政治的秩序に於いては武士の下位に置かれてゐるにかゝはらず、融合的の活動に於いては決して武士に從屬せず、少くともそれと相並んでゐるといふことは、平和の社會に於ける自然の勢でもあり、また疑ふべからざる事實でもあつた。その上に窮屈な制度で固められてゐる武士とは違つて、比較的自由であり、租税を納めさせるものとして考へられてゐる農民とは違つて、政治的には殆どその存在を認められてゐないだけ、拘束や抑壓を受けることが少いので、幕府の固定政策の結果、動もすれば気力の萎縮せんとする世の中に於いて、この社會にのみは常に活氣が横溢してゐるのであるから、文化を動かしてゆく力がこゝから湧いて出るのは自然の勢である。こゝに於いてか、一般の武士も武家貴族も、この平民の間に發達した文化を享受しなければならぬやうになる。江戸時代の武士が武士として何等特殊の文化を創造し得なかつたのは、これがためである。たゞその勢力ある平民が農民よりはむしろ商人であるがため、この平民文化もまたおのづから都會が中心となることを免れない。けれどもまた、江戸とか大坂とかいふ全國の大都市を中心として、それと緊密の連絡を有つてゐる地方的小都會が到るところにあり、從つて文化の小中心が全國に遍在するのであるから、この意味に於いて徳川の世の文化は廣く全國にゆき渡つてゐる。さうしてこれは、封建制度によつて政治的権力の中心が地方に分布せられてゐると同樣の、また半ばはそれに伴つて起つた、現象である。
 以上は文化の中心が漸次平民の手に移つて來たことについての一般的観察であつて、その詳細はおひ/\に考へてゆかうと思ふが、なほ一つこゝにいつておきたいことは、江戸時代の初期までに於ける社會的階級と文化上の諸要素(8)との関係である。室町時代を中心として形成せられた武家の文化の主要なる淵源は、いふまでもなく古くからの公家貴族の文化にあるが、直接に武家の受け入れたのはその成熟した隆盛時代のではなくして、その頽廢しつゝあつた時のである。さうして武家がそれを受け入れるに從つて、一方では公家的特質が次第に薄れ、他方では武士自身の生活から生れ出た新しい分子が加へられたのであるが、公家文化の一要素でありながら民間に於いても特殊の地位を有つてゐた顯密二教の寺院と僧侶とが、武家に對して公家文化を媒介する働きをしたのと、武士自身に文化上の能力が乏しいのでその中心がむしろ寺院僧侶にあつたのとのため、佛教的分子が著しくそれに加はつてゐた。室町時代の文化の性質はほゞかういふものであつたので、最も目に立つ文藝の上に現はれたところから見ると、戰記文學も物語草子も繪巻ものも、さては和歌も連歌も舞も能も、多かれ少かれみなその性質を帶びてゐる。茶の湯の如きは、この意味では佛教的分子は殆ど無いが、その情趣には和歌や連歌に現はれてゐるやうな昔の公家文化から傳承せられたものがある。たゞその傍には禅僧によつて新しく傳へられたシナの文物があり、戰國時代となつてはヨウロツパ人によつて西洋のが輸入せられ、それがみな武家の受用するところとなつた。
 ところが、世にはなほ昔の公家貴族の家々があつて、それが衰微しながらも、宮廷と特殊の關係がある點から、またともかくも古代文化の遺風を傳へてゐるといふ點から、思想の上に於いて尊貴の地位に置かれてゐた。けれども彼等の生活が武家の保護によらねばならぬのと政治上の實力が武家にあるのとのため、彼等もまた幾らかの程度に於いて武家の文物に親しんで來た。能を觀たり茶の湯を嗜んだりするやうになつた。そうしてそれと共に、従來公家の手に保有せられてゐた古文藝などの中心は却つて武家に移つたので、連歌師などによつてそれが廣く地方武士に傳へら(9)れ、特に戰國時代から徳川の世の初期にかけては、幽齋やその門から出た貞徳が古文學の研究や歌連歌の製作の中心となるに至つた。武家文化の一要素であつた顯密二教の寺院の權威の失墜も、またこの公家の衰微に伴つてゐる。ただ禅宗の寺院のみは、それが武家と深い關係を有つてゐるだけに大なる變化は無く、五山僧の漢文學に於ける地位も、江戸時代の初めまでは持續せられ、彼等は宮廷や公家貴族にも近づいてゐた。
 さて武家の傍には公家が遺存してゐるが、武家の下には平民がゐる。平民の階級、特に地方の農民は從來概して文化社會の圏外に置かれてはゐたが、彼等は公家貴族とは違つて實社會にそれ/\の活動をしてゐる。だから、秩序が破壞せられて實力競爭の行はれる戰國の世に於いて、彼等の間から起つて武士としてはたらき、それによつて社會の表面に現はれて來るものが多いと共に、この趨勢は文化の上にも現はれ、戰亂によつて生ずる一般の物騷がしい空氣と相伴つて、武士を中心とする文化社會に一種の放縱にして粗雜なる平民的色彩が施された。安土桃山の名によつて代表せられる豪快華麗を喜ぶ風尚も、放縱な官能的快樂の追求も、新奇な西洋文物の翫賞も、俳諧や浮世繪や歌舞伎や人形操りなどに現はれた文藝上の運動も、みなこのことに何ほどかの關係がある。宗鑑や貞徳の如く連歌師が俳諧を作り、或はそれを主とするやうになり、土佐や狩野の畫家が浮世繪を畫き、さうしてそれが商人などばかりではなく多くの武士にも武家貴族にも喜ばれたのは、これがためである。
しかし世が靜まつて人心がやゝおちついて來ると、再び社會の秩序を建てようとするのは自然の趨向であり、特に徳川幕府の固定政策は一層それを助成した。さうしてそれがためには、長い歴史をもつてゐる國民の當然の心理として、過去の社會的秩序が想起せられ、何らかの形に於いてそれを取入れようとする。幕府みづからは室町幕府の風尚(10)を模範とするのみたらず、更に進んでは公家の故實家などを顧問として種々の儀禮を整へようとする。將軍や諸大名が長々しい官位を眉書きにする。のみならず公家と婚姻を結ぶものさへ出て來た。これらは社會的地位に於いて貴族としての風姿を世に示さうとするので、足利家の将軍が公家の裝束をつけ、明治時代に微賤から起つたいはゆる維新の功臣が華族の稱を得て得意がつたと同樣であるが、たゞそれだけでは物足りない。成上がりものとても、新に据ゑられた上流の地位にふさはしい品位をその生活にもたせようとするのは、むりの無い人情である。さうしてそれがためにもまた過去の文物が特に顧みられる。武家時代に發達しまたは形づくられた連歌や舞や能は、戰亂時代にも決して絶えたのではないから、新に地位の固定した武家もまたその翫質を繼承する。のみならず公家を師として和歌などを學び、古代文化の遺韻をさへ傳へ聽かうとするのである。武士ばかりでなく平民とても同樣であつて、彼等の知識ありまた富あるものは、みなこれと同じ態度をとる。古文學の學習研究や歌連歌の擬古文學の製作が、公家貴族の地位の安固になつたと共に、彼等の間にやゝ活氣を呈して來たのも、またこの風潮に伴ふものである。さういふ方面でも民間の貞徳などにその中心はあるものの、彼等もまたその思想に於いて古來の因襲を重んじ秘事や傳授を大切にしてゐたと同樣、實生活の上に於いても公家に師事するといふ形をとつてゐた。
 けれども、戰國の粉亂時代を經過して新しく徳川の世の秩序の定まつたこのころは、國民の心生活にも社會の状態にも、舊時とは異つたところがある。だから公家に遺存する古代文化の殘影はいふまでもなく、室町時代前後の武士の社會とその生活とから生まれたものもまた、新しく興つて來た平民の思想とは交渉の少いものであるのみならず、當時の武士の心生活とも大なる距離が生じて來る。文藝についていふと、舊時の武士文藝は依然として存在しながら、(11)或は儀禮として行はれるやうになつてゆくものもあり、或は古いがために尊重せられ、或は當時のとはかけ離れた情趣をもつてゐる點に於いて賞翫せられるものもある。けれども、現實の心生活を表現するものとしては、それらとは異つた別のものが欲求せられる。こゝに於いてか新しい生活から生れた平民文藝は、平民はもとよりのこと、平民の血と氣風とを多分に傳へてゐる武士にもまた歡迎せられるのである。しかしその平民文藝も過去に歴史を有つてゐるものであるから、舊時代の舊文藝がその根柢にあることはいふまでもない、たゞ新しい國民生活によつて、それに新しい精神がふきこまれ新しい形が與へられるのである。のみならず一方に於いて、人の知識も加はり趣味も進んで行くのであるから、それにつれてこの平民文藝もまた、初めて世に現はれた時の如き粗野な状態を維持してはゐられず、世がおちつき人の要求が複雜となると共に、斷えずその内容を豐富にしその形を整へてゆく。さうしてそれには、國民の心生活に潜在してゐる古文藝の記憶がまた喚び起され、それが一つの要素として取入れられるのである。俳諧に規律が與へられたり、歌舞伎に古い舞の分子が加はつたりするのも、やはりその一現象であつて、それは概觀すれば平和時代に入つて秩序の定められてゆく時勢に應ずるのではあるが、細かに考へるとかういふ特殊の事情もある。たゞそれが上に述べた古文藝の學習と違ふのは、それは古いものを摸倣するのであるのに、これは古いものを現實の生活から新しく生まれてゆく新文藝の養分として吸収し、それは固定したものであるのに、これは斷えず動いてゆく生命ある文藝である點にある。文藝のみならず、すべての方面に同樣の傾向はあるので、それによつて古い文化の要素が現實の生活から形づくられる新しい文化に融合せられるやうにたる。
 たゞこゝに一つ見のがすべからざることがある。當時いはゆる學問が目ざましく興隆して來たが、その學問といふ(12)ものが、概していふと漢籍を學ぶことであり、書物の上、文字の上、の死んだ知識を外から得ることであつて、おのれみづからの現實の生活から生きた知識を組みたて、日常に經驗する事物を觀察し研究してその實相を知らうとするのではない。特にその學問の中心となってゐる儒教思想は、政治上の秩序と社會の統制とを重んじて個人の自由な思索と行動とを認めず、情生活の藝術的表現を輕んじ、また古代シナの特殊の社會状態と特殊の民族性とから作り上げられた思想を普遍的の準則とするものである。だから、さういふ思想を奉じてねる知識社會では、偏に異國のもの古代のものを尚ぶ傾向がある。從つて彼等の社會では、現實の生活の表現せられてゐる生きた文藝、放縱なところはあるが自由な平民的なものを、甚しく輕侮する。勿論かういふ特殊の知識は國民の實生活とは關係の少いものであるから、人はそれには拘束せられず、從つて平民文藝は社會的階級の上下を問はず廣く世に行はれてゆくのであるが、それにしてもかういふ事情があるために、國民の思想が實生活の上に立つて深められてゆくことができず、從つて眞の生きた知識、生きた學問、が形づくられないと共に、平民文藝もまた、種々の點に著しい進歩があるにかゝはらず、概して淺薄な、粗野な、或はどこまでも娯樂的に用ゐられるといふ、境界を脱することができないのである。
 さてこれまで述べたことは、平民時代の考説に入るに當つて、便宜上前巻までに既に説いておいたところを概括すると共に、そこで言ひたらなかつたことを補つたに過ぎないが、その間におのづから戰國の状態を繼承してゐる社會組織と平和の時代の生活との矛盾、武士本位の政治的秩序と平民の勢力の發展して來る現實の状態との背反、或はまた制度と人の力との衝突、知識と實生活との不一致、といふやうな事實の、この時代に存在してゐることが暗示せられたでもらう。
(13) 著者は前卷に於いて、江戸時代の政治的社會的秩序は、戰國割據の状態をそのまゝに固定させた封建主義軍政主義の政治制度、同じく戰國時代の社會組織を繼承した武士中心主義によつて成りたつてゐることを説き、實力競爭の形勢を一轉し、確乎たる權力闘係によつて國家と社會との全體を組織だて、寸分の動遙をも許さない固定的秩序の下にあらゆるものを統制しようとするのが、幕府の根本方針であつたことを述べた。階級制度と世襲主義とはこの秩序の維持せられる最大要件であつて、社會の中心とせられた武家自身の秩序も、武家と公家や平民との間の關係も、みなそれによつて規定せられたのである。戰國武士が生き殘つてゐて、彼等の若かつた時代の熱い血潮がなほその脈管に流れておる徳川の世の初めに於いて、幕府が一方ではその戰國的状態を保持し戰國的態度を以て諸大名に臨むと共に、他方では戰國的動乱の氣を消滅させようと努めたのは、當然のことである。この政策は概觀すれば着々成功していつたけれども、それには長い年月を要した。さうしてその成功したころには、却つてこの政策そのものの缺點が現れて來たので、成功も眞の成功とはいはれない。それは戰國的政治制度及び社會組織と眞の平和とが本來相容れざるものだからである。このことを明かにするために、まづ戰國的氣質と平和の世の風尚との交渉を觀察しよう。
 世が徳川のものになつてから、天下の諸大名は、この新しい權力者に向つて武力を以て爭ふことの到底不可能なるを知つた。さうして徒らに敵意を示さんよりは、むしろ服從し阿附して利を得ることの少しでも多からんことを望んだ。そこで表面は幕府に對しては極めて恭順の状を示し、中には藤堂の如く思ひきつた諂諛の態を示すもの、前田などのやうに深く自ら韜晦して幕府の鋭い嫌疑の眼を避ける工夫をしたものさへあるが、しかし裏面に於いては常に事(14)ある場合の用意をば怠らなかつたのである。諸大名相亙の間にも、戰國以來の怨恨や競爭心がなほ解けないで相反目してゐるものすらあつた。それ/\の家臣どもがなほ割樣の氣風を有つてゐたことはいふまでもなく、上杉家のものが大坂陣で公言したやうに、主人あるを知つて將軍あることを認めないのが、特に外樣大名の家臣に於いては、普通の心理であつたらう。また四代將軍の初年になつてからさへ由井正雪の事件があり、それが方ついた時に松平信綱が浪人の放逐を提議したと慱へられたのを見ると、そのころの浪人にも戰國の昔を夢に見てゐたものが無かつたとはい
はれず、ともすれば思はぬ方から風雲を捲き起す草澤の英雄がありはせぬかと、怪しげな幻影を空裡に畫き出してゐるものもあつたらう。浪人はその氣分の上からも生活のためにも、亂を思ふものである。明暦の大火の時に幕府の當局者が世變を慮つたといふ話からも、大名や浪人にその教を受けるものの少なくなかつた山鹿素行を幕府で罰したやうな事例からも、世がまだ十分におちついてゐないことと、それに對する政治家の用意とが、覗はれる。かういふ形勢であるから、用心深い諸大名は軍用金や兵粮の貯蓄を怠らず、城構へも堅固にし武器を吟味し、場合によつては間諜や探偵を隣國に派遣するやうなこともしたであらう。幕府とても同樣であつた。多くの大名をば敵國として見なければならぬ。水野監物が名古屋城の濠の深さを測つたといふやうな話は、事實かどうか疑はしく思はれるが、幕府が親藩に對してすら警戒をしてゐると思はれてゐたことは、かゝる話の世に傳へられたのでも想樣せられる。今日までもなほ繼續せられてゐる探偵政治の淵源はこゝにあるので、それは大名を制御する幕府の政策に於いては甚だ重要なものであつた。家光の上洛の時に忠長が大井川に浮橋を設けてその便を計つたのを家光が喜ばなかつた、といふ話のあるのも、大名を敵と見る考へかたからである。
(15) また一般武士の風尚を見ても、剣道槍術といふやうなものが尊重せられ、諸大名が高禄を給してその師範を抱へ、戰國武士の行動や戰爭の物語が多く編纂せられ、事實譚としては怪しげなことの多い甲陽軍鑑の類までも作られ、軍學とか兵法とかを標榜して世に立つものが輩出したのも、またかゝる時勢のためである。從つて武士の間には武藝や兵法に身を入れるものがあると共に、戰國武士の惡弊も依然として持續せられ、辻斬やためし斬が盛に行はれ、無意味の闘爭をして互に殺傷することも多く、從つて敵打などが多く生ずる。敵打からまた敵打となるやうなことさへも起る(例へば寛文十二年の淨瑠璃坂敵打とそれから發生した事件)。殉死の風も無くならず、戰陣の間から流行の勢を生み出した男色も一般の風習となつてゐる。いはゆるお家騷動なども一面の意味に於いてはやはり戰國の遺習といつてもよい。かういふ風に戰國的な殺伐の風がまた殘つてゐたので、かの直參士といふ名を笠にきて亂暴狼藉を働いた旗本奴なども、またその一現象である。異樣の容姿服裝をして得意がつてゐたことすら、信長や秀吉の行動と大差はない。
 武士のみならず平民の間にも舊習はなほ殘つてゐて、商人にも帶刀をしてゐるものが多く、市井の間にもいはゆる町奴が横行して、血腥い空氣を所在に漲らせてゐたのである。世に秩序の無かつた平安朝末の關東や戰國時代に於いては、一種の浮浪者があり、同氣相求めてその間に親分子分の關係が成りたち、それが恣に威力を揮つて社會生活をかき亂すと共に、一方では彼等の勢力の及ぶ範圍内に於いて一種の平和が保たれもした。さうしてそれが組織だてられて公然世に認められるやうになつたのが、即ち武士であり武士の主從的結合である。徳川初世の男だてもそれを承け繼いだものといつてよからうが、たゞ政治的權力の確立してそれによつて社會の秩序が定まつてゐる時代であるた(16)めに、それが權力に反抗し、秩序に反抗し、強者に反抗し、我が身を殺しても我が意地を實かうとする遊?の形をとり、從つて政治的權力者からは偏に治安を妨げるものと認められたのである。
 もつとも他の一面から見れば、平和の世が却つて武士を驅つてともすればその暴威を縱にさせることになつた、といふ意味もある。戰爭がかたついて武力を揮ふ機會の無くなつた平和の世でありながら、戰國武士の氣風を繼承して戰のための武力を煉るのが常務である武士があり、その武士が階級的特權を有つてゐて或る程度までの我がまゝが許されてゐ、さうして血に渇しつゝ無事に苦しんでゐるといふ状態に於いて、筆を取れば物實かんことを思ひ刀を持てば人を斬らんことを思ふのが人の常情であるとすれば、軍權の充實を誇つてゐる國が往々侵略的政策を取り、武人に勢力のある政府が時々理由の無い戰爭をひき起す傾向があるのと同樣、正當に用ゐどころの無いその戰國的氣象を不正當に發揮しようとするのは、自然の勢ではあるまいか。平和の世ながら武士といふ職分を定めて置いて、平和の事業に彼等の心をむけ彼等の力を伸ばさせることができないやうにしてあるから、彼等は無理にもその武士的能力を發揮して平和を攪き亂すのである。戰場に於いて人を殺すことの無い時代に我が腕をためさうとするから、濫りに行路の人を斬るのである。堂々たる旗幟の下で勝敗を決する場合の無い世に、命をかけて武士の意地を立てることを誇らうとするから、よしなき喧嘩にも輕々しく刀をぬくのである。公然敵と相見えることができない時代に於いて、武士には持つて生まれた敵對根性戰爭根性を何處かで發揮しようとするから、助けを來めた一人の武士を救ふといふやうな些細のことから、一門同輩が申し合せて強ひてそのあひてを敵として引受け、平地に波瀾をひき起すやうなことをする。   戰場で功名をあげる機會が無いから、故らに人の注意をひくやうな異樣の風俗をしたり異樣のものいひをし(17)たりして、名を賣り聞を求め、恣に強者を凌ぎ濫りに血を流して強がりを示す。いはゆる旗本奴が起つたのはその動機が主としてこゝにある。殉死が戰國時代よりも却つて盛に行はれたのも、男色の契に股をつき指を切つて志の固きを示し、或はそれがために身をさへ殺すのも、また同じ事情から來てゐるので、主君の馬前に打死をし命をすてて友と戰場に馳驅することができない時代に、死を敢てすることを誇る氣風の横に外れたのである。(殉死の起源と意味とについては後にいはう。)かのお家騷動の如きも、隣國を切取りして我が功名心を滿足させることができないから、同じ主家のうちで小さい權力勢利の爭ひをするのだともいへる。平素なすことが無くして脾肉の歎のある武士どもは、何か事が起ると喜んでそれに參加する氣味もあつて、黨派の爭ひなどは一層大きくなり、また閑暇が多いために、戰國時代以來その胸に持ち傳へてゐる權謀術數を用ゐる餘裕もあつて、紛亂がます/\甚しくなる。要するにかういふ騷ぎは主として、外に向つて現はれてゐた戰國武士の欲望が、世の平和になると共に内攻したもの、と見られよう。ひまた月日を正しい平和の事業に利用することを知らずまたそれのできない武士といふものの、世に權威を有つてゐることが、種々の罪惡を生みだす根原なのである。(平和の世に武人の勢力を有つてゐる國の政治が腐敗し勝ちなのは、こゝに一原因がある。)だから、徳川初世の武士に殺伐の風のあつたのは、一つの戰國以來のならはしであり、一つは平和の世に武士が特殊の地位を有つてゐるからである。町奴の殺生に旗本奴に對する反抗の氣味があつたとすれば、それもまた平和の世に武士が恣に暴威を揮ふからのことである。
 この關係は、武士の放縱な官能的快樂の追求や華麗豪奢を喜ぶ氣風に於いても、また同樣である。武士といふものがその生活その職業から生ずる自然の傾向として、制慾の觀念を有たないといふこと、また彼等が何ごとに於いても(18)豪快を喜び刺戟的な華やかさを好み、從つて俗惡な奢侈に陷り易いといふこと、さうして戰國武士も勿論その例に漏れないのみならず、全體に羈束の無い世に活動してゐるだけに、それが最も甚しかつたといふことは、前卷に述べておいた。徳川の世になつてからもこの遺風はあつたので、家康が駿府にゐた時、安倍川の遊女に戯れて職務を怠る家臣が多かつたといひ(明良洪範〕、寛永の家光の上洛の際に武士が多く京に入りこんだため狼藉不義のことが多く、女のかどはかされるものさへあつたので、婦人が警戒して外出しなかつたといふ話もある(同上)。大名や旗本などの武家貴族は数人の妾婢を擁し、京がその産地として目されてゐた(一代女など)。特に江戸の遊里の繁昌には武士も與つて力があるので、元吉原の時代はいふまでもたく、後になつても鑓挾箱をもたせ馬上に股立をとつて堂々と三谷がよひをするものも少なくなく、緋威の鎧を着用して廓内を濶歩したものもある。名高い俚謠の「白き馬にめしたる殿御」が武士であることは勿論で、大名のそこに通ふものも多く、喧嘩から刀傷に及び或は流連して出仕しなかつたために嚴罰を受けた家人もある。旗本奴などがその異樣な姿を見えにして狹斜の街を横行してゐたことは、いふまでもない。この里が如何に豪華を喜ぶ殺伐な武士の氣風に投合してゐたかは、これでもわかる。また明暦大火以前の江戸の大名屋敷は桃山風の華やかなものであつたし、武士は日常の出仕にも緞子などの華美な肩衣や袴をつけてゐたといふ。
 これらは戰國の遺風であるが、平和の世はまたます/\それを助長する。武力を用ゐる外に能力がないのにその能力の用ゐどころの無い、さうして衣食の計には身を勞することがなく、日常の勤務は甚だ閑散でむしろ無事に苦しんでゐる、さうしてまた一面では頗る窮屈な社會的秩序に束縛せられ、何人も一定の身分を保つてゐなければならず、(19)獨立して事業をすることができない、といふ彼等武士の多数が、その單調な生活を何によつて彩り、伸ばせない力を何の方面に伸ばさうとするかといへば、それは官能的快樂の追求か、物質的に華麗な生活をするか、の外には無いのである。なすことの無い我が國の貴族や富豪が今でも常に陷つてゐる弊風がこゝにあることを見ても、極めて單調な抑へられた生活をしてゐた地方の農民の樂みが、やはりこの二つの外になかつたことを考へても、それは明かである。だから上級の武士はいふまでもなく身分の低いものでも、それ相應な遊樂の方法を有つてゐた。昔なら下級の武士にも、首の一つも取れば恩賞に預ることができるといふ希望があり、或は戰場のはたらきに一種の愉快を得ることもあるので、貧しい生活をも忍び、或はそれを氣にかけないで、ひたすらに功名をあげ目ざましい働きをしようとのみ心がけてゐたのであるが、さういふことを期待することのできない太平の世に生まれてゐる閑人は、せめて幾分の贅澤をしたり遊興でもしたりしなければ、生きてはゐられなかつたらう。都人士ばかりでなく田舍侍とても同樣である。概していふとその間に程度の差はあらうが、地方武士とても、參覲制の結果として江戸に往復し在住して、都會の空氣を呼吸するものが多い。さうして一般に田舍ものは都會に出て逸樂の風に化せられ易い素質を有つてゐるのである。
 だから世が太平になるに從つて武士の生活が奢侈になつたとかその風儀が壊れたとかいふ、當時の物識りぶつたものや老人の批評は、必しも事實の眞相を語り得たものではない。武士のこの傾向は戰國時代でも同樣であつた。たゞそのころには一方に熾ゆるが如き功名心と斷えず敵前にゐるといふ緊張した精神とがあつたので、それによつて武士の紀綱が維持せられたのであるが、平和の世に於いてはそれが無くなつたのと、下級の武士が一般に生活程度の低かつた昔のやうな状態に甘んじてゐられなくなつたのと、今一つはもと下級にあつたものが高い地位に上つてその地位(20)相應の生活をするやうになつたとのために、かういふ評を招いたのである。文化の進むと共に生活程度が高くなるのは自然の傾向であるから、昔に比べて奢つて來たといふことは、單にこの點から見ても確かに事實に違ひない。しかし生活程度の高くなるそのことは、固より非難すべきことでないのみならず、こゝに述べた如き理由があるから、このころの武士としてはそれは當然である。その上に事實問題としても、何ごとにつけても昔を壞かしむ老人氣質からの偏つた批評、事實を誤認しがちの實歴譚追想譚は、多大の割引をして聞かねばならぬ。風儀上の問題についてはなほさらである。彼等の生活に放縱なところのあるのも事實であるが、それも畢竟武士が平和の世に於いて戰國時代と同じ特殊の地位を有つてゐるからである。いはゆる寛文時代の寛濶な氣風は即ちこれを指したのであつて、それは戰國的武士氣質が平和の世に應ずる特殊の色彩を帶びて現はれたものである。
 勿論すべての武士がみなかうだといふのではなく、儉を以て自ら安んずるものも、謹嚴に身を持するものもあつたには違ひなく、また殺伐な世の中に温厚篤實のものも少なくなかつたことは明かである。或はまた水戸光圀が修史事業を起したり、前田綱紀が書物を集めたりしたことにも、彼等自身についていふと、ひま人が詩を作つたり俳諧を
弄んだりまたは茶の湯に耽つたりしたのと、同じ心理の現はれとして見るべき一面もあつて、その側面から考へると、かういふ嗜好のあるものはそれに力を注ぐことができるために、故なき野心を壞いたり劣等な快樂貪つたりすることが割合に少い。だから社會的眼孔から見れば、江戸時代の娯樂的文藝や學問は武士生活に於ける一種の緩和劑であつた。たゞ學問は後にいふやうに武士の間には廣くぱ行はれなかつた。
 かういふ世の状態と人心の趨向とに對し、幕府は如何なる態度を以てそれに臨んだかといふに、諸大名の割據的用(21)意は、平和の大勢や、家康以来の巧妙な政策や、または家光時代に參覲交代の制を定め大名の家族を江戸に置くやうにした制度上の拘束や、危險らしく見える大名を連りにつぶした高壓手段や、それらの種々の方法によつて、邊境にゐる二三の外樣大名はともかくも多數の大名に於いては、漸次薄められ弱められて來たのを見ると、寛永以前の幕府の注意は主としてこの方面に向けられてゐたらしい。もつともそれと共に風俗の上に於いて戰國の遺習を矯正することをも怠らず、しば/\令を下して辻斬を禁じ喧嘩口論を戒め、或は異樣の風姿をするなといひ、帶刀の長さをまで制限するに至つたほどであり、また幾度も儉約令をくりかへしてゐたのであるが、寛文前後の政治家になると一層この點に力を入れるやうになり、町人の帶刀をとめたり、男だての撲滅を企てたり、殉死や男色を禁じたり、相變らずの儉約令を雨の如く下したりして、しきりに殺伐の風と華麗の俗とを改めようと努めた。武人政府が武人的氣風を抑止しようとしたのである。特に保科正之などは、寛永以前の當局者とは違つて、儒教的文治主義を以てこの戰國武士的風習を矯正しようとさへしたらしい。諸侯に於いても同樣の考を以てその臣下に臨んだものがある。儒教のことはなほ後に詳説するつもりであるが、儒教と戰國武士の風尚との間に相反する一面のあることを、こゝでは注意しておきたい。
 けれども平和の世はやはり平和の世である。戰國的氣風がなほ一面に存在しつゝ、またそれが一種特殊の色彩を帶びて世に現はれつゝも、他面では漸次それが薄れてゆくことも事實である。さうしてその勢は、戰國の遺老が年と共に凋落し、戰爭の體驗の無いものが次第に世に出るやうになるに從つて、ます/\強くなる。戰爭によつて鍛錬せられ戰國の動亂に刺戟せられて昂奮した心理から殺生した武士の風尚が、さうぃふ刺戟の無くなつた平和の世に於いて(22)頽廢に向ふのは當然である。諸大名の割據的精神も、根本的に無くなつてしまふのではないが、久しい平和が續けば自然に弛緩して來る。武士生活の根柢になつてゐる主從の情誼も、一般的にいふと知行俸祿が主人から給與せられてゐる間は持續せられてゆくに論はないが、戰の無い世の中には主人が家來の力に依頼することも少く、家來が特に主人の恩情を感謝する場合も多くは無いから、相互の間の精神的結合が戰國の世の如く緊張してゐない。それからまた武藝の修行も世間體や競爭心から一とほり行はれはするものの、それを用ゐる戰爭が起りさうにもないから、實戰にどれだけ用に立つものであるかは別問題としても、武士の心がけが眞劍にはならない。武具などはなほさらのことで、甲胄は裝飾物になり、刀は拵へにのみ美麗をつくすやうになる。形の上に現はれる風俗からいつても、戰國時代には必要のことが單なる裝飾となり、或は遊戯的にたり、或はまた無意味に踏襲せられる儀禮となる。便利のために作られた肩衣が便利を犠牲にしても容儀をつくらふものとなり、一種の行軍とも見るべき大名の行列が、徒らに華やかさを強ふものとなつて、鑓持などに遊戯的動作が件ふやうになるのも、その一例である。
 かういふ状態であるから、幕府が命令せずとも、戰國的風習は次第に勢を失くしてゆくに違ひない。旗本奴が人に忌まれ世に指弾せられたのは、それが平和の時勢に適合しないためであるから、そのうちには自然に消滅したであらう。殉死の風も保科などの努力で止んだといふが、この禁令が、動もすれば明良洪範に見える某のいはゆる論腹や商腹を切らねばならぬ多數の武士に、歡迎せられたことは想像に餘る。昔々物語に、衆道が廢れたのでそれから起る命騷ぎが絶え、家々にためし斬りが無くたつた、とあるのは、ほゞ元祿ころのことをいつたものらしいが、もつと前かち徐々に變化して來たのであらう。(衆道のやんだといふのは武士相互の間のことで、一般に男色が無くなつたとい(23)ふのではあるまい。)勿論この傾向は年と共に強くなるので、元禄時代になると一層明かに事實の上に現はれて來る。但し戰國武士から繼承せられた華麗を尚び官能的快樂を喜ぶ氣風は、如何に政府がその抑制に努めても效果は無く、前にも述べたやうに平和の續くと共にます/\盛になり、特に都市の繁盛とそこに遊樂の機關の整つてゆくこととが、更にその趨勢を強めるので、都市遊樂の二大中心たる花街と劇場とが最もよくそれを反映してゐる。固よりこれは武士ばかりのことでなく、平民、特に富の力を有つてゐる商人、に於いて一層甚しいので、武士は畢竟この平民の力によつて發達したものを享受するに過ぎないといつてもよい。武士の政治上または社會上の特殊の地位は、かういふ遊樂の境に於いては少しも認められず、實力があつても武士に頭の上らない商人には、この別天地に於いて彼等に對抗し、または彼等を凌がんとする氣勢さへもあつたやうである。「刀さすかさゝぬか、武士も町人も客は客、」(近松の心中天の網島)。金と一種の意地もしくは情けとによつてのみ支配せられる遊里に、武士と町人との區別が無いのは當然である。
 ところで、殺伐放恣な戰國的氣風の失せてゆくことは、平和と秩序とを欲する爲政者の喜ぶところではあるが、しかし武士の風尚は戰國的動亂の間に養成せられたものであつて、その根本の精神はどこまでも血を見ることを好む殺伐な氣風にあり、我が力を揮つて我が欲望を充たさうとする熾烈な情熱と、わがまゝな切取り強盗主義とに在る。武士の氣節も操守もみなこの間から發生してゐる。だから戰國的氣風の失せてゆくことは、武士的風尚そのものの調子が弱められる結果となる。これは武士を以て社會組織の中心とし武士的風尚を以て世の紀綱としてゐる、徳川氏の政治主義の根柢を動かすものではなからうか。秩序の固定と治安の維持とに急なる幕府の政治家の多數は、この點には(24)まだ深く注意しなかつたらしいが、しかし彼等も、武士をどこまでも武士としてその紀綱を維持しなければならぬことは考へてゐた。また華麗を喜び官能的快樂を追求する戰國武士の遺習は、それが往々殺伐の風と相伴ふ點からも、家政上に及ぽす影響からも、幕府の抑制したければならぬところであつたが、それが町人などの風俗と區別が無いといふことも、また人の注意に上つたらしい。武士の階級的地位を一層明確にして、それによつて武士の品位を保たせようといふ考は、こゝに至つていよ/\強くなつたのではなからうか。法制の上に於いては、かの町人帶の禁にも、幾分かこの邊の考慮が加はつてゐたかと思はれるが、その他、何ごとにつけても武士を百姓や町人とは違つたものとして取扱つてゐたことはいふまでもない。武士に對する刑罰の方法が平民と異つてゐてその極刑が切腹であるのも、戰國以來の風習に起源はあるものの、この時代からはかういふ特殊の意味がそれに加はつたらしい。後にいふやうに武士は生業を營むものでないといふ考の確實にせられたのも、上杉景勝などが却つてそれを奨勵したやうな時代のことではないらしく、「侍衆が浪人して秤を腰にさし算盤をはじけば世に出ることはならぬが、乞食をして菰を被いだは恥にたらいで、世に出た衆を見も聞きもしてゐる、」(近松の一心二河白道)といふのも、戰國時代には固よりのこと、事實上算盤をもつやうになる浪人の多かつた徳川の世の初期の思想ではなからう。もつともこれは再び武士として立たうといふもののことであつて、永久に武士の身分をすてるつもりならば商人になつてもよいのであるが、乞食をしてまでも再び武士として立たうといふ考を有つのが、武士は何處までも武士でなければならぬとせられてゐるからである。武士の一分といひ刀の手前といふ語が平民に對していはれる場合のあるのも、武士の實質が世に認められず、または武士の平民から受ける眞の尊敬の減少しる虞れがあるため、特にそれを擁護する意味が含まれて來たので(25)はなからうか。とにもかくにも武士の世は武士で固めようといふ保守的思想がこのころから強くなつて來たのであるが、それは却つて武士がみづから武士の精神を失はせるものである。武士の精神は固定しない世の中に於いて養はれたものだからである。
 この風潮はおのづから一部の爲政家及び知識人をして、文化の上に於いても平民的要素を輕侮させる傾きを生じた。前に述べた知識と實生活との隔離もまたそれを助けたであらう。幕府が古文藝をのみ保護したのも、このことに關係があらうし、連歌師が俳諧師と全く分離し、土佐や狩野の畫家が今まで畫いてゐた浮世繪を棄て、或はまた能役者が、昔の樂家が猿樂を卑んだと同じやうな態度で、歌舞伎を蔑むやうになるのも、同じ趨向を示すものであらう。浮世繪といふ名は本来は遊樂の圖のことであつて、それに特殊の畫風があるのでもなく、またそれは畫家の流派や社會的地位によつて區別せられたものでもないらしい。たゞそれが多くは土佐繪の傳統を受けながら狩野の技巧を取入れたものであり、而もそれらの繋縛を脱してその間から新しいものを造り出すやうになると共に、こゝに述べたやうな事情でその作家が、古い型を墨守してそれに固まらうとして來た土佐や狩野の畫家から、異端視せられるやうになつたため、浮世繪師といふ特殊のものが生じたのである。歌舞伎役者も寛永時代までは特に賤まれはせず、猿若勘三郎が安宅丸の綱引をしたとか城中へ召されて演奏をしたとかいふこともあり、延寶年間でも將軍がそれを見たほどであるのに、何時からか平民以下のものとして取扱はれるやうになる。元吉原時代に評定所へ出て給仕をしたといふ遊女が、公然世に出ることのできないものとなつたのは、道徳上の意味もそれに含まれてはゐるが、やはり一面ではこの風潮に關係があらう。しかしこれらは單に表面上のことで、その實、歌舞伎役者は一般の世間からはむしろ尊重せられ、(26)武家貴族からも愛顧せられる。俳諧師や畫家は彼等に親しく交はる(老の樂など參照)。遊女でも地位の高いものは特殊の尊敬を受ける。高級の武士などが彼等をあひてにしたことはいふまでもない。だからかういふことで武士を中心とする社會の紀綱が維持せられるであらうか。著者は更に眼を風俗より一轉して制度の上に向け、戰國の遺制が平和の時代に於いて、事實上、如何に變遷してゆくかを觀察しよう。
 
(27)     第二章 文化の大勢
       制度の缺陷と平民
 
 第一に考へねばならぬことは、戰國割據の状態を固定させた封建の政治制度である。割據主義の精神を徹底的に貫かうとすれば、諸藩は事ある場合に獨立して活動のできるやうに、一切の力をその國内だけで養ひ、すべてをその國の力で固めねばならぬ。けれども平和の時代に於ける交通の安全と商業の進歩とは、おのづから先づ人の經濟生活を、漸次その障壁を越えた全國共通の基礎の上に立たせるやうにする。特に學問の興隆に伴ふ知識の發達と、参覲交代の制によつて見聞の廣くなつてゆくこととは、ます/\その趨勢を強める。個人の生活は暫く別としても、藩としての財政も藩だけで維持せられないことは、租税として収納した米穀を貨幣に換へるに當つて、ぜひとも全國共通の市場へ持ち出さなくてはならぬ一事でも明かである。事ある場合には直ちに兵粮となるもので、また殆ど唯一の財源たる多數の米穀を、遠く國を離れた大坂あたりの藏屋敷へ貯へ置くことは、戰國的眼孔から見れば甚だ危險であらうけれども、それを顧慮することのできない經濟状態であり、また顧慮する必要もたいほど平和な時代である。土佐の野中兼山はその新政に於いて有利な商業を藩營としたが、それも他國との貿易によつて利を得るのであるから、彼の財政策もまた藩だけでは始末のつかないものであつた。また儒者や醫者や武藝の師範などには他國ものを抱へることが甚だ多いが、これも人物の上に於いて藩の獨立が保たれない一證である。もつとも人物の問題は或る程度まで戰國時代でも同樣であつたが、經濟上の問題は平和の世の新しい現象である。今日の國際關係に於けるいはゆる國家自給政策(28)が、到底完全に行はるべきものでないと同樣、平和の世に於いては、特に一權力者の下に支配せられてゐる日本の國内のこととしては、封建制度の根本たる割墟的精神を、經濟上に於いて徹底させることのできなかつたのは、當然であり、またさういふ必要も無かつたのである。
 藩政そのものについていふと、諸大名は常に武力を充實させて有事の日に備へねばならないので、一切の政治はおのづからそれを目的としまた中心とすることになる。藩冶の根本方針はこの戰國時代偉來の軍國主義であつた。ところが兵を強くするには富が無くてはならぬ。だからおのづから藩の財政を豐富にしようと腐心する。前に述べた野中兼山の如きは、最も過激なる手段によつてそれを行はうとしたものらしく、開墾や種藝を勸めたのも農民の生活を裕かにするためではなく、藩として財を得んがためであつたことは、農民には極度の儉約を強ひて租税を増徴し勞役を重課すると共に、有利の商業を藩營にしてその利を占め、煩瑣な法令を定め嚴酷苛察の態度を以て民に臨んだのでも知られる。彼はこれがために時人の怨を買つたが、兼山の本意は民の福利を顧みないのではなく、藩としての力を充實させることについてあまりに性急であつたのであらう、しかし多くの藩に於いては、その藩主の貴族的地位を示す必要や、參覲交代及びそれに伴ふ都會生活や、それらの事情から起る財政の逼迫が、積極的に兵備を整へることは勿論のこと、消極的に藩の體面を維持し家臣を扶持してゆくことをすら困難にさせてゆくので、聚斂の臣を用ゐ租税を重くするやうになるのは自然の勢である。ところが民に富なくまた民が悦服せずして、國の富強が圖られるはずはないから、かういふ政策の外に藩の財政を維持する方法が無いとすれば、藩政そのものは到底長く健全な状態で存續すべきものではない、といはねばならぬ。
(29) 事實、多くの大名は京坂の富商から金を借りて、纔かにその年その年の財政を彌縫する外は無くなつてゆくので、いはゆる大名貸といふ特殊の商賣が生じたほどである。けれども諸藩ではその借金をすら返濟しないものが少なくないので、「大名貸のなかまに入つて思はぬ大損をしてゆき」(商人軍配團扇)、それがために富家の町人が財を失ひ家を亡すに至る者が頗る多く、町人考見録の著者の如きは、武家がこれに關して惡辣な手段を運らすことを説き、大名貸のなかまに入るなと戒めてゐるほど、それは町人にとつては危險な商賣であつた。「諸大名には如何なる種を前世に蒔き給へる」(日本永代蔵巻一)と驚嘆せられ、「大名に生まるゝ種の一粒が何萬石ぞ」(丹波與作)と羨まれた大名にも、かういふものが少なくなかつた。かうなるともはや軍備どころの話ではないので、「今の諸侯一國の人數を出してその兵粮あらんことは、二十侯に一二侯も稀なるべし、」(熊澤蕃山大學或問)といふのが眞實を語つたものであつたらう。軍國主義の藩政はこの點に於いて先づ内部から壞れてゆく。が、それでも別に危殆の念を抱かないでゐられたのは平和の賜であつて、それは即ち軍國主義そのものが時勢に適合してゐないことを示すものである。
 さて本來、大名の主なる任務は軍備の充實にあるとしても、それにはその基礎として民を安んぜねばならぬといふことに氣がつくのは、少しく考のあるものには自然のことである。當時漸く興隆して來た儒教の政治學も、またさういふ思想の發達を幾分かは助けたであらう。さうして平和の世が續くと共に、事實上割據的精神が弛緩し軍國主義を緊張させる必要が無くなるに從つて、藩政の主なる事業がむしろこの方面に移るやうになつたのも、また當然の成り行きである。蕃山を用ゐた池田光政の政治の如きは、この點にも少からず注意したのであつて、その税法の改良や林政や治水策やはみなこの主旨から出てゐる。保科正之は社倉を設けて饑饉の時の賑救の用に備へたといふが(保科正(30)之條目)、昔ならば兵粮として軍用のために貯へて置いたはずのものが、かういふ異なつた目的を有つやうになつたのである。さうして儒教的思想を有つてゐる爲政者は、更に一歩を進めていはゆる民の教化に心を用ゐるやうにもなるので、池田にも保科にもみなその傾向があつた。これは必しも割據的精神と背馳するものではないが、戰國的藩治主義の一轉化には違ひない。いひかへると、藩政の當局者が平和の世に於いて民治に注意するやうになつたのである。もつとも農民の生活を豐富にすることに重きをおかない武家政治の根本主義と儒教の政治思想とは、かういふ民治をも消極的ならしめたのであり、また實際に於いてはかういふ考を起したものすら甚だ少く、多數の大名はたゞ徒らにその地位を守つてゐたのみである。のみならず一方からいふと、國家競爭の激しい時に於いて始めて國の富強を圖る必要を感じて來ると同じく、諸藩の間に割據的精神が緊張してゐてこそ、民政を改革して國力の培養をも努めるのであるのに、平和の世はそれを弛緩させたのであるから、さういふ考の起らなかつたのも無理の無いことではある。昔の戰國的競爭心は戰に臨んで勝を制しようといふのであつたが、平和の世には眞に民力を充實させてそれによつて藩國を盛にしようといふのでなくてはならぬのに、前のが衰へると共に後のが起らなかつたのは、やはり戰を生命とする武人の世だからである。さすればこゝにも軍政主義が平和の世に適しない一現象がある。
 以上は諸大名について、封建制度の根本である戰國的政治主義がそのまゝに持續せられなくなつたことを述べたのであるが、幕府についていつても、戰國的態度を基礎とする大名制御策は、或は徹底しないものであり、或は事實上變化して來た。第一、大名の國がへをするのは、本來からいへば封建制度の主旨と齟齬するものであるが、これは政治的に全國が統一せられた世には、政府者の有たねばならぬ權力の行使であつたらう。しかしそれが譜代大名に限るやうになつて來たのは、政策の矛盾でもあり不徹底な態度でもある。もつとも外樣大名の國がへをしなくなつたのは、徳川氏の權力が固定してかゝることによつて幕府の權威を示す必要がなくなつたのと、動かさねばならぬ、もしくは動かし得べき、外樣大名は既に動かし終りまたはつぶし終つたのと、なほ一般に世情の安定を欲するところから少しでも人心の動搖を誘ふべきことをしないやうにしたのと、これらの事情のためであつたらう。譜代大名の國がへはその時々の必要のためであつて、大名制御の方策としてではなかつた。だから上記のやうに評するのは必しも當つてはゐない點もあるが、幕府がかういふ態度をとり得たのは、世が戰國時代から次第に遠ざかつて來て戰國的精神が弱められて來たからではあらう。また前に述べたやうに諸大名が貧窮するのは、割據的思想からいへば諸大名に反抗力が無くなる點に於いて、徳川氏の政權に安固を加へたやうなもので、結果からいふと幕府の大名制御には便宜な状態を來たしたとも見られるが、大名のすべてがかゝる状態ではなく、有力なる外樣大名には却つて力の充實してゐるものがあるから、萬一それらのものが事變を惹起した場合に、幕府の下について活動すべき諸大名に力が無いとすれば、これは徳川氏の地位をしてむしろ不安定ならしめるものといはねばなるまい。もしまた假に、蕃山が大學或問に於いて憂慮した如く、萬一にも北狄の侵略を受けるやうなことがあつたとしたら、徳川氏の地位どころでなく、我が國の全體が一時危殆に陷る虞れが無いでもなかつたらうが、當時に於いても幕府も諸大名もさういふことを夢想だもしてゐなかつたし、また幸か不幸かさういふことを考へる必要もなかつた(對外思想については後章参照)。
 もつとも大名の制御は、幕府の寸時も忘れることができないほどに、重要な徳川氏存立の根本問題であつて、かの探偵政策も決して棄てられはしなかつたが、それでも大名に對して極めて神經過敏であつた當初の態度は、年が經つ(32)につれて次第に緩和せられて來た。寛永年間には島田某が日光の祀を絶たないやうにするには豐國廟を再輿するに如くはないといつて、人々を呆然たらしめたといふが、その豐國神社の再建がともかくも寛文五年には許されるやうになつた(實行はできなかつたらしいが)。もはや豐臣氏を顧慮する必要も無くなつたのであらう。さうしてこのことは歴代の武家法度の上にも現はれてゐる。最初に定められた慶長二十年の法度には、建武式目以來因襲になつてゐる訓諭めいた閑文字の外は、諸大名の行動を束縛して割據の氣風を抑止すること、即ち戰國的眼孔から大名を見てそれを制御すること、に力の集められてゐることが、明かに認められるが、事實それが殆ど初期の幕府政治の全體であつた。寛永の法度もそれと大差は無く、参覲交代制を明確にしたことの外に、慶長のには見える抽象的文字が削られて、全體がかなり具體的になり、すぐに實行のできる事がらをのみ規定してあるやうに見受けられる。ところが寛文になると、不孝者嚴罰の一條が特に加へられ、天和のには、從來定例になつてゐる第一條を改めて忠孝禮儀の文字を點出し、養子は同姓のものを主とせよといふなど、儒教思想がいろ/\現はれて來た。要するに大名制御策としては不必要な文字が漸次加はり、また必しも政府の力で強制することのできないやうた道徳的訓誡の意味が、慶長のとは違つた主旨に於いて、強められたのである。白石の起草した賀永七年の法度には一層この傾向が著しくなつてゐて、語氣を強めていふと、軍政主義の國家を儒教的教化政治主義の國家にしようとする意圖がそれに潜んでゐるやうにも見える*。これらの變遷は畢竟、大名の割據的精神が漸次弛緩し、幕府のそれに對する用意も緊張の度が減じて來たほど、平和が續いてゐる時勢の趨向を示すものである。これで見ても幕府が、大名の困窮を徳川氏の権力の安固な、或は不安固な、原因として、または外國に對する國防上の重要問題として、考へるほどにこの點に注意しなかつたことが想(33)像せられる。が、これは幕末に至つて大なる力を以て當局者の面前に迫つて來た大問題である.
 なほ財政の上からも、割據時代の習慣と戰國的精紳とを基礎としてゐる幕府の制度は、破綻を生じなくてはならぬ。全國の政府でありながらその財政を直轄領の租税で維持してゆくといふのは、その政權を獲得した當時の情勢から見ても畢竟大きな一つの大名に過ぎず、諸大名を敵として考へねばならぬ、徳川氏の幕府としては當然のことでもあり、また全國に對する政務といふものが殆ど無いといふ、封建の制度には固有な事實上の政治的地位から自然に馴致せられたことでもあるが、幕府の任務が單に戰國的政策を以て大名を統御するだけで濟んでゐるうちは、それでもよかつたとして、一國の政府として何等かの事業をしなければならぬやうになると、この制度では到底幕府を維持することができなくなる。それも幕末に至つて明かにせられたことであるが、さういふ危險はこの制度の根本に存在するのである。また幕府は徳川氏としてその旗本家人を養つてゆかねばならぬから、後にいふやうな事情で彼等の生活が困難になると、それを救濟してやる必要が起り、幕府はそれがために斷えず苦心をした。けれども家人が困難すると同じ事情は、また幕府の財政をも窮迫させてゐるから、後には財力を以て彼等を保護することができず、商人に對して不公平な處置をしたり、米價の釣り上げ策を講じたりするやうになる。のみならず元禄時代には、かの荻原重秀の考案として蔵米給與を多く地方知行に改めたやうに、幕府の財政のために家人にとつて不利益なことをもしなくてはならぬやうになつた。これは幕府としては明かに自家矛盾の政策といはねばならぬ。この重秀の考案は、むかし或る人が家康にそれを進言して大に叱責せられたといふ話(落穂集追加)のあるものであるが、家康は家人を保護する考をもつてゐたのに、この時にはそれよりも幕府自身の財政の窮迫を救ふのが焦眉の急として考へられたのである。昔は家(34)人に對して主従關係を親密にすることが幕府政治の根本主義であつたのに、今はそれにのみ力を注ぐことができなくなつたのである。さすればこゝにも、財政の上から戰國思想に本づく封建制度の精紳を貫徹することができなくなつたことを示す一現象がある。ついでにいふ。經濟機關が全國共通の商業によつて運轉せられ、貨幣が一般に行はれてゐる世に、幕府の財政の基礎を米に置くのは、根本的の矛盾であり、武士の生活難もこれと關係がある。これも幕府の襲用してゐる戰國時代の大名の割據的財政制度が、一統の世、平和の時代、に適しないことを示すものである。
 
 第二には、武士を本位とし中心とする社會組織についてである。長い戰國時代の習慣が持續せられて武士は盡く城下に集中し、經濟的見地からいへば全く不生産的の遊民となつてゐるので、將軍なり諸大名なりは知行俸祿を與へて彼等を養はねばならぬ。薩摩の外城、肥後の一領一匹、筑後の「浪人」、肥前の千人足輕及び赤司黨、または土佐の一領具足、などのやうな、土着してゐる武士、または農兵めいたものが全く無いではないが、それは稀有の例である。だから武士に知行俸祿を與へることが幕府や大名の最も大なる任務であるので、領地も租税も多くこれがために用ゐられる。さて扶持米を與へられてゐる下級の武士は別として、領地を有つてゐるものもその土地から全く離れて生活してゐるために農民とは感情上の親みが無く、從つてその間にはたゞ租税を取ると取られるとの關係があるのみである。室町時代以前の武士は領地に生活してゐる一種の地主であつて、配下の農民をその勢力の根據としてゐたから、それによつて一種の輕濟上の實力を有つてゐ、また事ある場合には彼等を郎黨とも從者ともして活動したのであるが、江戸時代では、領主は將軍もしくは大名の權威を後だてにして、遠方から農民に臨んでゐるのであり、從つてその徴(35)收する租税も浮いたものとなつて、それに輕濟上の實力が伴はない。その上にかういふ關係は、農民の生活を充實させることによつて自己の永遠の勢力を養はうとはしないで、目前の利益のために多く租税を取らうといふ考を領主に起させ易く、從つて領主と農民とは利害相反するものとなり、ともすれば互に敵對の感情を抱くやうになる。大名になると、藩といふ一つの固まつた勢力として考へられるから、農民を保護しようといふ考を起すものもあるが、旗本やその他のものは領地が狹くても却つてさうぃふことが少い。領地が小さく分れて所々に散在してゐる場合にはなほさらである。これが農民を疲弊させると共に領主の力をも弱める所以であつて、武士の生活はそれがためにます/\不安定になる。
 しかし農民の困窮は武人政治の根柢になつてゐる軍政主義からも來る。幕府の直轄地についてぃふと、治民官たるべき代官が勘定奉行の支配に屬し、且つ下級の地位にあつたことは、民政の主たるものが徴租の事務として考へられてゐたことを示すものであるが、これは戰國時代に行はれた軍政主義の繼續であらう。「民者國之本也」といふ儒教的標語を提示しながら、代官に向つて「國寛成時者民奢もの也」といつて「無奢樣に可被申付」と訓令した綱吉の最初の命令を見ても、このことが知られる。それより前の訓令に「連々納方もあがり百姓をも令介抱」(正保元年の代官に對するもの)といつてもあるが、この訓令の主たる目的は「納方」にあるので、農民に關する命令は多くの場合「御取箇」についてである。「死なぬやうに生きぬやうに」といふ落穗集追加に家康の語として記されてゐるものが果して家康の語であるか、よしさうであるとしてもそれが如何なる場合に如何なる意義でいはれたものか、わかりかねるので、この語だけを取出してそれを文字のま々に解するのはむりであるが、かゝる語の世に慱へられてゐること(36)に一つの意味はある。一面に於いては、田畑の永代賣を禁じ(寛永二十年)、小農の土地分配を制し(貞享四年など)、さういふやうなことによつて一種の祀會政策を行はうとしてもゐるし、時には治水策として植林を奬勵し(寛文六年たど)、天災地變によつて農地の荒廢するのを防ぐための設備及びその他のことについて農民を指導すべき訓令をしば/\代官に下してゐ(慶安五年など)、また聚斂のために農民を困窮させた旗本の知行を没收する(寛文十一年など)如く、幕府の當局者も農民生活の安固を考へなかつたのではない。代官とても心あるものは必しも徴租にのみ專念したのではなく、農民の保護誘掖に意を用ゐたもののあることが、傳へられてゐる。農民生活を安固にするのは畢竟租税の收納を容易にするためである、といふ推測がせられるでもあらうが、さうばかり考へるのは却つて僻見であつて、農民に親しく接觸するものにはおのづからかゝる心情の生ずることをも認めねばならぬ。しかし代官のすべてがかうではなかつたらしい。「心なき代官どのやほとゝぎす」(猿蓑去來)といはれるやうなものもある。さうして一般的にいふと、貢租が多い上に、かゝる心なき代官やその手代や庄屋大庄屋など、中間に立つものの奸曲も行はれがちであり、その他にも種々の事情があつて、農民は政府の實收入よりは多くの負擔をしてゐた。税率そのものはよしさまで高くはない場合があるにしても、農業による收穫と農民の生活状態とからいへば、高きに過ぐることはいふまでもない。その上、場所によつては助郷などの勞役も課せられた。農民に立つ瀬は無いのである。農民といつても、その生活状態は地方によつて種々の差異があり、その生計の程度も、小は水呑百姓から大は大地主に至るまで、その問に幾多の段階があるし、土地の所有についても地主といふものの存在するところとしないところとがあつて、そこから貧富の懸隔の大きい地方と然らざる地方との違ひも生ずるから、政令の影響を受けることもまた一樣ではないが、(37)こゝではたゞその一般的傾向を概観したのみである。また大名の領地でも、特殊の藩を除いては、多くは幕府の直轄地と同じやうな状態であつたらう。後になつても聚斂のために所領を没收せられた大名があつたほどである(正徳二年に於ける屋代忠位)。勿論、私領に於いても、例へば備前の熊澤蕃山、對馬の陶山鈍翁、などの如く、林政や農政に意を用ゐたものはあり、その他にもこれらに類する篤志の治民官は少なくなかつたであらうが、さういふものばかりでなかつたことは、公領と同じであつたらう。だから概していふと、武士本位の政治は農民を貧窮にさせてゆくのであるが、その農民が武士生活の基本であるから、武士もまたそれによつて困窮するのは當然であつて、こゝに武士本位主義の大なる自家矛盾がある。
 ところが一般の生活程度の高くなることと、武士といふ多數の遊民が江戸や國々の城下に集中してゐるところから生ずる經濟上の事情、特に物價の騰貴と、また彼等の陷り易き逸樂奢侈とは、彼等をして當初與へられた一定の知行俸禄では生計の維持に不足を告げさせる。けれども彼等は生業を營んで收入の増加を圖ることはできぬ。知行を有つてゐるものは租税の徴收を嚴酷にすることもあらうが、それとても限りがある。寛永時代からしば/\行はれた幕府の保護も、幕府自身が漸次困窮して來るのでできなくなる。そこで旗本家人のうちには借金でもしなければ生きてゆかれぬものが生ずる。盲人などから高利で金を貸りるものさへある。甚しいのになると強盗や迫剥をする。さうなれば武士としての身分を誇りはするものの、その實式士としての品位を保つことはできぬ。諸大名にも借金で財政を彌縫してゆくものが多いことは既に述べた。要するに武士といふ職業軍人の一團を特に尊重して、それに遊民的生活をさせ、それを民の力で養ふ、といふ根本の制度が、政府をも農民をもまた武士自身をも困窮させ、その結果武士の面(38)目を失はせるのである。
 のみならず、かういふ生活上の状態が多數の武士にその本務を等閑にさせるやうになるのは、いふまでもないことで、彼等には、十分に武具の用意をし、有事の場合に必要な從者を平素から抱へておくだけの、資力の無いのが常である。從者の如きは渡り仲間や日傭人足で間に合はせるので、戰場では何の用もなさない、といふ憂慮が一部の人たちには有つたけれども、事實上どうすることもできなかつたのである。さすれば當時の武士制度は、武士を養つておく根本の目的をさへ失はせるものであつた。
 また一切の吏務は武士の任であるが、平和の世に於いてはそれが式事の外に渉ることが多く、特に上に述べたやうに、幕府でも諸藩でも財政の問題が最も重要視せられるやうになると、勢ひ武士の本分たる兵法武藝に達してゐるものよりも、むしろ吏務に長ずるものが幅を利かして來る。それらのことは武人の長ずるところでないのが常だからである。浮世物語に或る人が武家かせぎをしようとしてそのことを或る武家に頼むと、「今の世は武勇も首勘状も氏も系圖もいらず、算露盤を得たるか田畠のつもりをしたるか、米の賣りやう金銀のまはしをだに心得たらば、」と仰せらるゝゆゑ、「隨分の臆病ものに侍れども算用かたはよく致す」と述べて抱へられ、主人の前で朝夕徴求課役の談合のみをする、といふ話が作つてあり、可笑記に「おためものといふ出來出頭人」が何處の家にもあると書かれ、武道傳來記にも、それがために、譜代の筋め正しきものは必ず先知を減少せられ、「今より末は諸侍たるもの、刀の代りに秤を腰にさ」すやうになる、と嘲られてゐるのは、誇張せられた言ではあるが、事實の一面を語つたものではあらう。ところが彼等もまた武士の身分を有つてゐなくてはならぬから、かういふ世の中では、武士らしい武士よりも武士ら(39)しからぬ武士が重んぜられることになりかねない.況してさういふものには、ともすればたゞ目前の利をのみ計る傾きがあるのみならず、職制が明確でなく、主人またはその側近者の考によつて事の動かされる當時に於いては、輕薄偏私の行がありがちであるから、いはゆる「出來出頭人」に權勢のつく場合には、一般に武士の氣風を汚濁させる虞れがある。「今時おつかないものは出頭人と質屋より外に無し」(元禄曾我物語)といはれるのもこの故であり、歌舞伎や淨瑠璃に演ぜられる敵役にこの種のものが少なくないのも、やはり一面だけのことではあるが、事實の反映であらう。しかしこれも吏務に與るものは盡く武士でなければならぬといふ制度である以上、已むを得ないことであるとすれば、軍政主義武人政治主義は平和の世に於いて却つて武士の品性をわるくしてゐるといはねばならぬ。
 しかし更に進んで考へると、武力で萬事を解決する戰國時代に於いて武士が世を動かすのは當然であるが、平和の世に於いて社會の上位に立ち多數人を支配してゆくものには、武力よりも外の資格が要る。例へば知識といふこともその一つである。當時の學問、特に儒學は、人をして徒らに文字上の閑詮索に没頭せしめ、眞の生きた知識を造り出すものでない、といふことは、前にも述べたが、さうして徳川の世の初期の政治家には、書物の上の知識を有つてゐないでも、事物と世情とに對して體驗から生み出した實際的理解力を有つてゐて、巧みに事を處し世にも悦服せられたのであるが、しかし一般的にいふと、書物によつて知識を養ふことの必要であることには論が無く、世間全體に學問の興隆して來た時代には、一とほりの書物の上の知識を具へてゐないでは、世を支配してゆくことはできない。ところが武士には概して知識欲が乏しく、從つてその知識は狹少であり低級であるを免かれなかつた。後に吉宗が昌平黌を開放し高倉學問所を設けても、家人などで講義を聽かうとするものは殆ど無かつたので、學校建設の素志をも時(40)期尚早として抛つたといふではないか(兼山秘策)。享保時代になつてすらさうであつた。
 勿論前卷に述べた如く、昔に比べると知識が武士の間にも廣がつて來てはゐるし、大名階級のものでも儒者などの教を受けたものはあり、娯樂的に詩や歌などを作るやうなものも少なくなかつた。しかし多數の武士についていふと、彼等の知識は世間全體、少くとも彼等と同じく都會生活をしてゐる平民の、水準を超えてゐたとは思はれぬ。特に當時の知識階級は、後に述べるやうにむしろ平民出身のものによつて成りたつてゐたのである。武士には閑散たがら一定の勤務があり、任地を離れることも容易でないから、深く學問に身を入れる餘裕も無く、また未知の事物に接してそれを知らうとする強い刺戟をも受けない。また彼等はその地位が世襲的に定められてゐるのみならず、學問によつて身を立てる途もなく、學問をせずとも一應の衣食はできる。さうして治安を維持することと租税を徴收することとの外に、政務も吏務も無い世に於いて、吏としてはたらくより外に事業をすることを許されない武士は、學問をしてもそれを用ゐるところが無い。畢竟武士には知識を要する方面に力を伸ばすことができないから、知識欲が起らないのである。もつとも學問そのものが、概して自己の生活に直接の交渉の少い空疎な文字上の知識を與へるのみで、それによつて世にはたらくために必要な特殊の能力を養ふこともできないから、學問によつて得るところは結局、幾らかの文字を解して消閑の具に供するぐらゐのことに過ぎない。學問の武士に行はれなかつたのは、この點から見ても當然である。
 要するに武士が一切の活動の中心であり、武士自身が斷えず活動をしなければならぬ世には、彼等に比較的知識があり知識欲もあつたのであるが、武士より外の社會に活動の中心ができ、從つてその社會の知識が發達し、彼等自身(41)は無爲にして生きてゆかれることになつている世の中では、彼等の知識が平民の上に出ることもできず、知識欲も盛でないのである。が、武士が知識の上に於いて、彼等の傲然として見下してゐる平民と撰ぶところが無く、學問をするには平民の教を受けねばならぬとすれば、彼等の地位は平和の世に於いて甚だ價値の乏しいものといはねばならぬ。知識と思想とによつて世を支配する力に至つては、全く彼等の有たなかつたところである。
 それのみならず武士は、しば/\述べたやうに、ともかくも一とほりは生計の保證を與へられてゐると共に、一定の身分に束縛せられ、藩といふ狹い障壁の裡にその行動が局限せられてゐて、自由に力を伸ばすことができず、また伸ばさうとするだけの刺戟も無いために、事業欲が乏しく氣力が缺け、遊惰逸樂に流れがちであるから、子孫相傳へてさういふ生活を續けてゆけば、自然に懦弱になり無能力になり、特に上流のものほどさうなるのである。後に述べるやうに幾らかそれを防ぐ事情も無いではなく、またさういふものばかりでないことも勿論であるが、概していふとかういふ傾向がある。さうして武を用ゐる機會の無い太平の状態と、武備を整へる經濟的餘裕のない事情とは、ます/\それを強めるのである。だから平和の世に武士を本位としておく制度は、却つて武士そのものを腐敗させるのである。
 こゝでこの時代に文弱といふ語の行はれてゐたことが想起せられる。この語が殺伐な戰國的氣象に反對する觀念を表はすのならば、それは人として固より希望すべきことであり、幕府の政治家も世の平和を維持するためにそれを目ざして努力したのであるから、それを弱と解する理由は無い。もしまたこの語が、人が精神的に柔懦なこと、即ち操守の無い、意志の弱い、勢利に屈服するやうなこと、をいふのならば、それは戰場に於いて卓越した働きをするいは(42)ゆる剛勇の武士にも甚だ多いことであつて、武に反對する觀念ではないから、それに文の字を加ふべきではない。畢竟武勇であることと人として精神的に剛健であることと、この二つの全く異なつた觀念を混同したのであつて、武士といふ特殊の職業のものに限つて陷り易い誤謬である。さうしてそれも、實は平和の世と武士の本質との矛盾から來てゐる。さうしてこの時代に於いては、表面上武を以て社會存立の根本義としてゐる武家の世であるために、その矛盾が特に著しく現はれ、またそれが社會の根本を動かすほどに、重大の問題となるのである。後の吉宗の逆轉政策もその失敗もこゝに原因がある。
 なほ一言すべきは浪人のことである。浪人がどこまでも武士を以て誇り生業につくことを賤む結果、ありつき場所の無い間は衣食に窮する。そこで知人は勿論、見知らぬものにも合力を頼む。殆ど乞食の境界に墮する。正直なものは自殺もする。餓死もする。蕃山は大學或問で度々の饑饉に浪人の餓死するもの數を知らずといつてゐるが、それは事實であらう。女子を賣つて遊女にするのはよい方であつて、たちの意いものになると、ねだりをする、追剥をする。さういふことは、浮世草子にも淨瑠璃や歌舞伎にもしば/\見える。これは一つは、彼等が武士といふ遊民的生活をしてゐたがため、まじめな生業を營む能力と覚悟とを有たないからでもあらう。自己の力で自己の地位を作つてゆく習慣のあつた戰國武士には、かういふことは無く、場合によつては農にも商にもなつた。それとこれとを對照すると、時勢によつて變化して來た浪人の気分がわかる。(明治の初期に武士の零落した有樣によつて、この時代の浪人のことが類推せられる。)しかし、さういふ浪人でも好機會を得て主人持になれば、立派な武士として認められる。その武士がこんなみじめな境遇に陷り或は淺ましい行爲をするのは、武士といふものが他人の力に依頼しなければ生活する(43)ことができない、といふことを示すものであつて、武士を尊ぶ制度と思想とが、却つて彼等を人として價値の低いものにしたのではなからうか。
 
 要するに戰國時代の遺習たる武士本位武士中心の政治機構社會組織は、平和の世に於いて、武士をして事實上その地位を損はしめ武士たる特質を傷けさせてゐるのである。それならばこの時代の秩序の根本たる世襲的階級制度はどうかといふに、これもまた上に述べた如く、一般の武士をして遊惰安逸ならしめ、武士としての能力を失はしめるものであり、特に上流のものほど劣弱な人間となつて、能力あるものは下級に存するといふ、表面の秩序とは反對な實状を生ぜしめ、階級制度の目的に背反する結果を來たさしめたのである。のみならず階級制度そのものも、到底嚴密には行はれないものであつた。大名以下武士の家格はほゞ定まつてゐても、小異動は斷えずあり、家を失ふものも新に家を興すものもある。知行俸禄を與奪増減する權は将軍もしくは大名が有つてゐるからである。幕府に於いて新しく家を興した最も目に立つ實例は、元禄時代の柳澤吉保であるが、家格の高いものが卑賤から昇進したものと肩を双べるのを不快に思ふのが、階級制度の社會に生存してゐる普通人の心情であつて、さういふ話がしば/\後にも傳へられてゐるにかゝはらず、吉保のやうな寵臣が出て、それが高位に上り權力を揮ふやうになると、如何なる大名でもみなその前に拜跪し、爭つてそれに追從阿諛するのである。こゝに既に階級制度の破綻が存在する。けれども幕府とても何かの吏務がある以上、その適材は必しも一定の階級にのみ存するものではなく、特に上流のものは漸次無能力になつてゆくから、實力あるものを下級の地位から拔擢するのは、已むを得ざることである。この關係は武士と平(44)民との問に於いても同樣であつて、武士の手の及ばない特殊の知識能力を要することについては、身分を問はず階級的障壁を破つて、平民から引上げねばならぬ。上に述べた出來出頭人が即ちそれであるが、多くの儒臣もまたこの類であり、河村瑞軒などの用ゐられたのも同樣である。もし幕府の政治が、近代の國家に於けるが如く、國民の生活を充實させるために、あらゆる方面にその力を用ゐることであつたならば、その主要な吏員は多く平民から採用する必要があつたであらうに、治安の維持が政治の全部だともいふべき世であつたから、特殊の知識の無い武士でも普通の場合には事は足りたのであるが、それでもかういふ特例が無くてはならなかつた。天文や本草の學者を民間から採用したのもやはりそれである。
 世襲制度に於いて最も大切な家の相續についても、一言しておく必要がある。「家」に對する當時の人の考については後に述べようが、嫡々相承といふ標準状態がすべての場合に行はれるものではないから、庶子が家を繼いだり、分家から入つて本家の主人となつたりするのは常のことである。ところが庶子の母は概ね身分の低いものであるから、かうして家を繼いだものには、地位の高い貴族でも微賤なものの血が混つてゐる。それが數代續けば、もとの家の貴族的の血は漸次減少してゆく。將軍の家が既にさうである。これは一面からいふと、貴族の家がともかくも保たれて來た重要の事情であらうと思ふ。貴族間の結婚によつて生まれた子のみが幾代も續けば、次第に身體が弱くなつて、終には血統の斷絶する虞れがある。貴族の家が永續するのは、身分の卑い母方から比較的健康な血を傳へたことが大なる原因ではなからうか。著者はそれを證明するに足る確かな材料を有つてゐないが、これだけの推測はしてもよからう。しかし一面からいふと、これは事實上階級制度を内部から破壊してゐるのである。また中流以下の武士に於い(45)ては公然平民と結婚するものが少なくないから、この點に於いて階級の區別は常に乱されてゐる。何れにしても武士の家は、實質上、武士ばかりでは保存せられなかつたのである。たゞ當時の思想では血統を父方に於いてのみ見てゐたのであるから、かういふ考が起らなかつたに過ぎない。
 庶子や分家からの相續が多いのみならず、養子の制度によつて、家の名は保たれながら、全く血統の變ることもまた少なくない。養子のことは幕府の政策上または財政上の見地からかなり重大な問題とせられてゐて、初めには實子の無いものは領地を没收せられたが、後には漸次それが緩和せられ、事實上一般に養子が行はれることになつた。實子には知行の全部を相續させるけれども、養子にはそれに條件をつけた法令(寛永十九年)の出たこともあるが、それも嚴格には適用せられなかつたらしい。家に知行俸禄がついてゐて、それによつて武士の社會が構成せられてゐるのであるから、人力の如何ともし難き實子の有無が家の存亡となるのは、すべての武士の生活と社會組織とを不安定にするものである。從つて幕府は、世が落ちついて來ると共に人心を安固にする上から、さういふことをしかねたのであらう。寛文三年の諸士法度及びその思想を繼承した天和の武家法度に、養子は主として同姓から選べと命じてあるのは、保科の考から出たらしい儒教思想の適用であるが、それが實行せられたとは思はれぬ。武士の生活が漸次困難になつて、二男以下に遺領の分配をすることのできなくなるに從ひ、彼等を他人の養子として武士の地位を保たせることは普通の例となつたので、幕府の為政家も武士を保護する上から、それを認めねばならなかつたに違ひない。なほ儒者の養子論及びシナ人の「家」の觀念が當時の武士の思想と異なつてゐることについては後に述べよう。
 しかし養子は概して同じ武士階級のものから採つたらしいから、階級制度の上にはさしたる影響を生ぜず、知行俸(46)禄がそれによつて相續せられる以上、世襲主義の傷けられることも無い。旗下の士の某が浪人の子を養子にしようと願ひ出たに對し、親族に適當のものが無くば同じ旗本の子から選べといつて、その願を却下したといふ話が、正徳年間にあるのを見ると、少くとも政府では養子についても、階級的地位を亂さないやうにと心がけてゐたらしい。たゞ貸財を目的として養子をするものが早くからあつて、寛文の初めに既にその禁令が發せられ、白石の起草した武家法度にもそれが含まれてゐるが、さういふ場合に、少くとも下級の武士に於いては、平民から養子をすることはなかつたらうか。後には一般に行はれるやうになつた株の賣買が何時から行はれてゐたかは確かには知らぬが、翁草にその價格が記してあるのを見ると、そのころには普通のことと思はれてゐるほど、早くからの習慣であつたらしい。さうしていはゆる金錢養子はこの習慣の先驅ではなからうか。さすればこゝにも階級制度壞頽の兆候が見える。
 以上は武士自身に家を本位とした世襲的地位があり、また平民に對しては世襲的に武士といふ特別な階級を定めておく制度でありながら、それが實質に於いて内部から崩れつゝあることを示したのである。或はこの状態は、表面の嚴格なる階級的區別を動かすことができないから、裏面に於いて巧みに拔け道を作り、或る程度までその間に融通をつけてゐるものだといつてもよからう。實をいへばこゝに一種の妙機があるので、幕府直參の家人に、もしかの株の賣買またはその他の方法によつて、實力あり活氣ある平民の分子が入つて來なかつたら、事あるに當つて活動のできるものが非常に少かつたかも知れぬ。幕末に働いたものの中にはかういふ部類の人が少なくないことが考へられる。これは恰も身分の低い母系によつて、比較的健康な血が上流の武士に注入せられると同樣である。勿論かういふ分子は數の上からいふと、さうひどく多くはないかも知らず、また上流の階級にはあまり無いことであらうから、その影(47)響を過大視してはならぬけれども、その代り上流人には往々無能力のものがあつて、實務に當るのは割合に下級のものが多いことをも考へねばならぬ。概括して考へるに、絶えず沈滯し頽廢し汚濁してゆく武士の社會に、目に立たぬところから常に新しい空氣を吹きこんで、その腐爛を甚しくさせないのは、かういふ風にして種々の方面から入つて來る平民の力によることが多からう。
 かう考へて來ると、表面嚴格にせられてゐるほどに、當時の制度は融通のきかないものではなく、極めて安固に見えるほどに、徳川氏の政治は基礎の確かなものでもない。制度そのものに幾多固有の缺陷があつて、一くちにいふと制度自身がその制度を内部から崩壞させてゆく性質を具へてゐるのである。さうしてそれがために、表面の制度と實際の状態にはそれ/\に反對の精神が動いてゐるといふ有樣になつた。しかしこれは國民にみづからその生活を發展させてゆく力があり、社會を化石のやうに固定させてしまはないだけの元氣があつたからである。けれどもともかくも世が太平であり、社會がそれで成りたつてゐて、制度を破壞しようといふほどの強い刺戟が無いから、その外形は依然として維持せられてゆく。微禄のものが取りたてられても大名となつて一つの藩ができる。平民が採用せられても士籍に編入せられ世襲的地位を與へられる。さうしてそれらのものも年がたち代が重ねられると共に、普通の大名や武士と變らぬものになつてしまふ。從つて封建制度も武士本位の社會も依然として存續し、依然として人心を壓迫するのである。
 だからかういふ世の中の人の生活には、幾多の病弊がある。武士は廣い世界を自由に闊歩してそれ/\の事業をすることができないで、一藩の内の狹い社會、武士といふ特殊階級の間、に於いて何とかして勢力を張り利益を得よう(48)とするから、陰險な權力の爭ひをしたり、地位を利用して私を營んだりする。公然自己の能力を發揮してそれによつて身を立て事をなすことができないから、上長に阿諛し權家に?縁して榮達を求めようとする。もしまたさういふ欲望さへも無くなるほどに氣力を失つたものは、官能的快樂に耽溺し、或は隱遁生活に入る。平民は表て向き武士に頭が上がらず反抗することもできないから、裏面に利を喰はせて私をなさうとする。賄賂の如きは大名から百姓町人に至るまで殆どそれを用ゐぬものは無く、また何人も怪しまぬほどに普通のことであつた。面從腹非の習慣もこゝから養成せられ、外部からの威壓で秩序は保たれてゐるやうに見えても、その威壓が弛むと甚しき無秩序となる、といふ缺點もこゝに原因がある。社會全體の紀綱のこれによつて傷けられたことはいふまでもない。或はむしろ眞の紀綱が立たなかつたといふ方が適切である。のみならず、これらの病根は不く國民生活の奥底に植ゑつけられてゐて、明治大正の現代に至つてそれが著しく現はれた。
 しかしこゝまで考へて來たのは、平和の時代に於いて戰國の風習を繼承してゐる武士中心の政治制度や社會組織に自家矛盾があつて、それが制度そのものを内部から傷ける力となり武士の生活と品位とを損はせるはたらきをした、といふことであつて、制度そのものが全面的に腐敗したといふのでもなく、武士のすべてが武士らしからぬものになつてしまつたといふのでもない。武士制度はなほ嚴として存在してゐる。武士とてもその多數は武士としての職務を守りその體面を保ち、少くとも因襲的にその地位を維持してゐる。世に傳へられてゐる如きことは、それが武士の一般の状態を示すものであるよりも、むしろ特異なことであるために世人の注意に上り文學の題材ともせられたと解する方が當つてゐよう。制度も組織もそれみづからがそれを維持してゆく力をもつてゐるが、遠い歴史的由來があり自(49)然に形づくられたものに於いてはなほさらである。また武士の地位にあるものも、その地位にあることによつて武士としての氣風を失ふまいとするのが自然であるが、その氣風が長い傳統のあるものに於いては、その保守的意欲が特に強いはずである。武士が武士として現質に存在し現實に生活してゐることによつて、それが明示せられてゐる。
 のみならず、封建制度も武士本位の政治機構社會組織も、缺點ばかりがあるのではない。それによつて世が秩序だてられ、從つて國民の間に秩序を重んずる思想が養はれ、さうしてそれによつて平和が長く維持せられた點に於いて、我が國民文化の發達に大なる貢献をしてゐることは、いふまでもない。特に封建制度には戰國時代から次第に全國にひろがつて來た文化が地方的にその基礎を固めた、といふ利益もあるので、年が經つに從つて種々の事情から、徐々にではあるが、それが發達してゆく。知識の進歩は固よりのこと、産業の興隆なども封建制度に負ふところが少なくない。一藩といふ觀念の下に何等かの行動をするのも、國民全體としてのはたらきをする準備として、一度は經驗しなければならぬことであつたらう。武士本位の政治機構、武士中心の社會組織も、次章でいふ如くそれが却つて平民の文化上の活動を盛にする原因となり、また後に説くやうに武士の生活によつて鍛錬せられたその特殊の氣風は國民の道徳生活に一つの規準を與へる效果があつた。勿論それにはこれまで考へて來たやうな缺陷もあり弊害も伴つてゐたが、如何なる制度にも如何なる組織にも完全なものはなく、かならずそれに缺陷があり弊害が伴ふものであることを考へねばならぬ。たゞ國民がさういふ制度の下にあり組織の裡にありながら、それに對していかに順應しいかに反撥し、さうして入としての力をいかなる方面に發揮し人としての欲求を何によつて充たしてゆくかが、問題であるが、そのことについては後章に考へよう。たゞ概観すると、明治時代になつて急速に發達した日本の文化は、江戸時代に(50)於いて國民がみづから養つて來た能力の現はれであるが、それには封建制度と武士中心の社會組織との與るところが大きい、といふことをこゝではいつておく。この制度この組織があまりに長く續いたために、それによつて國民の生活の萎靡した嫌ひが無いでもないが、長く續いたのは、この制度この組織によつて世の平和が保たれたからであり、また一つは、鎖國制度とそれを維持させておいた世界の情勢とのためでもある。
 
 徳川幕府の制度と實生活との矛盾は、對外關係の上にも現はれてゐる。禁教のために貿易上の利益を犠牲にしたいはゆる鎖國の制は、本來宗教の力を利用する外國の侵略を恐れたがためである。人を見れば敵と思ひ隣國はみな敵國と考へる戰國的思想を外國に通用して、ポルトガルもエスパニヤもキリシタンを手さきとして我が國を侵略しようとするものと思つたからである。かう思つたことには當時としては全く理由が無いでもなかつたが、それにしても、互に國の奪ひ合ひをした戰國紛爭の體験を有する武士が一世を支配してゐた時代、外國に出かけてゆく商民にもなほ倭寇の遺風が全く無くならず、やゝもすれば武力を揮はうとした時代、近い世の事實として秀吉の外國征服が企てられた時代に於いて、己れを以て他を度らうとする武人政治家には、無理のない考へかたでもあつた。オランダ人をキリシタン諸國の目付役にしようと考へたのも、對大名策を對世界策に應用したものである。鎖國の後の正保四年に媽港の商船二隻が通商を請ひに來た時、恰も大軍が攻めよせたかの如く、黒田鍋島二家を始め九州の諸大名が九百艘の船五萬人の兵を以て倉皇として長崎を固めた、といふのを見ても、彼等の眼底に映ずる南蠻の幻影が如何に恐ろしい姿をしてゐたかを知ることができよう。この考は何時まで經つても決して無くならず、禁を犯して來航したキリシタン(51)僧に對する取扱ひかたにもそれが見えるのみならず、ずつと後の時代までも續いてゐて、幕末の攘夷論となつて大に現はれるのである。
 現質の問題としての攘夷論は文化文政以後のことであるが、幕府はそれより前から既に禁書の令によつて思想上の攘夷を行つてゐた。キリシタンといふ危險思想の流入を防止しょうとして、西洋に關する知識の輸入を禁遏したのである。この法令が鎖國の制度と相俟つて國民の精神生活の發達を抑壓したことはいふまでもないが、しかしかういふ制度のために拘束せられつゝも、なほ人としての意氣を失はない國民は、その知識欲と實生活の必要とのために、この嚴重な堤防にもまた穴を明けた。オランダ流の外科は淺薄ながらに學ばれた。オランダ畫を模倣するものも現はれた。西川如見や新井白石の西洋研究が行はれるやうになり、特に白石はキリシタンを以て國家を覬覦するものとすることの謬妄を説いた(大槻文彦氏校訂西洋紀聞附録)。*禁教の得失は複雜な問題を含んでゐるので、多方面からそれを考へねばならず。白石とても禁教を非としたのではない。また禁教の得失と禁教のために取つた鎮國政策の功過とも、區別して見なければならぬ。しかし禁教を徹底させるために行はれた思想上の攘夷は愚策であつた、といはねばならぬ。禁教のための禁書ならば、キリシタンに關係のあるもののみを禁遏すればよかつたのであるが、さうしなかつたからである*。これはヨウロッパの文化についての知識が幕府の當局者に無かつたからであり、さうしてさういふ状態が改まらなかつたのは、鎖國のため禁書のためでもあつた。けれども知識に國境の無い限り、思想上の攘夷を徹底的に實行することのできないことは明かである。のみならず、事實太平洋の波は極めて穩かであつて、長崎の踏繪が一つの年中行事として遊び年分に行はれるやうになつては、外國に對する恐怖心も漸次うすらぐを免れない。オラ(52)ンダ人の取扱ひかたが甚だ窮屈であつて、ケムペルをして恰も敵國人に對するが如しと評せしめ、出島のオランダ人は殆ど囚人であるといはしめたほどであるのは、一つは禁教を徹底させようとして定められた法令とそのために行はれた先例とを墨守した當時の役人氣質からであり、一つは武士がその戰國の遺習から何人に對しても猜疑心を有つてゐたからであつて、特にオランダ人のみに對してさういふ態度をとつたのではなかつた。それをかく考へたのは日本の政府の態度がヨウロッパ人の風習とは違つてゐたからである。
 さて外國に對する恐怖心が薄らいで來ると、外交問題はむしろ道徳的または經濟的見地から取扱はれるやうになる。寛文八年に輸入品を制限したのも、貞享三年に琉球朝鮮の貿易額を定め、無用の品物はすべて買ひ求むべからずと訓令したのも、みなそれであつて、儉約令と同樣の精神から奢侈品の輸入を禁じようとしたのである。後の白石の長崎貿易に關する新制度にはそれとは別に長崎市民の利益を計らうといふ主旨も含まれてゐるが、ともかくも政治よりは貿易が外人に對する主要の問題になつて來たのである。長崎の警察が邪教徒に對するよりも拔荷の監察に力を注ぐやうになつたのも、このことと關係がある。鎮國令の主旨はこゝに於いて次第に變化してゆく。しかし人に好奇心があり得難いものを得ようとする欲望がある以上、寛文貞享の貿易品制限は實行のできるはずが無く、また實際できなかつた。有用無用の區別は程度問題であるが、もし儉約令を出したやうな考から嚴密にいふと、當時の輸入品は殆どみな無用の品とすべきものであつた。藥種と書物との外はみな無用だといふ論の起つたのもそのためである。それは恰も低級な實用的のものでない工藝品などはすべて無用の品であるといふのと同じである。けれども無用の品を斥けようとするものが、事實その無用の品を用ゐてゐるので、それがために我が國の工藝も進歩した。對外貿易に於いても(53)同樣で、無用の品が少しなりとも輸入せられたがために、それに刺戟せられて我が國の文物も幾らかの發達をした形迹もある。もつと多く輪入せられたならば、もつと多く進歩したであらう。だから幕府のかういふ態度は、儉約令が實行せられないと同じ程度に實行せられず、それが産業の發達と逆行するものであると同じ程度に、知識や技藝の進歩を抑止したのである。學問の上からいつても、シナの書物があれほどに斷えず輸入せられなかつたら、我が國の知識の進歩は現實に行はれたよりもかなり後れたであらう。
 のみならず、薩藩の富がそのシナ貿易に關係するところがあつたとするならば、諸藩の貧窮は鎮國制度にも由來してゐるといはねばならぬ。もし國民の海外渡航が續けられてゐたならば、徳川の世の初めにはなほ殺伐な氣を帶びてゐた渡航者も、平和の趨勢と共に次第に純粹な航海商業の民となつてゆき、それによつて利を得る大名も多く、長い年月の間には自然に國産の發達を促し、國民全體の富を増すことができたであらう。だから經濟上からいつても、鎖國制度の上に加へられた貿易制限の精神は、國民生活の發展を妨害すること大なるものであつた。けれどもさういふ政令の下に於いてさへ、些少なりとも外國の文物を受け入れて來たのは、國民がその生活を高めようとする欲求と意氣とを失はなかつたからである。かの拔荷の如きも、人爲の法令で強ひて國民の對外商業を抑制することが如何に困難であるかを示すものである。代官の末次平藏さへも密貿易をしたではないか。たゞかういふ制度の下であるから、對外商業によつて物質的に利を得るものは主として商人であつて、國民全體ではなかつた、といふことは注意せられねばならぬ。
 次に幕府の朝廷及び公家貴族に對する關係にも種々の矛盾がある。家康の本意は朝廷を儀禮の府として政治とは交(54)渉の無い地位に置かうといふのであつた。これは歴史的に見ると、鎌倉幕府以來の武家政治の因襲に從つたものであるが、當時の特殊の事情としては、ともすれば名を朝廷に假りて事をなさうとするもののあつた戰國の騒亂を收拾して、天下の治安を保たねばならぬそのころの形勢に於いて、已み難き方法であつた。畢竟宮廷と政府との區別を明かにして、政府を宮廷から離れた江戸に置いたことになる。禁中並公家中御法度に武家の官位は公家當官の外としてあるのも、幕府の儀禮を定めるに當つて武家の服裝を武家だけのものとしたのも、幕府を宮廷とは別の存在としたものである。これは日本の國家に於いて重大な意味のあることであつて、それがために政治上の責任はすべて幕府が負ひ、皇室に毫末の累を及ぼさないやうになつたので、その結果は皇室の地位をます/\安泰にしたのであつた。が、これは今日の思想での批評であつて、當時の人にこれほど明かな考があつたのではない*。東復門院の入内といふことも皇室と將軍たる徳川氏との間に一つの連絡をつけたものである。この入内は頼朝の意圖しながら實現のできなかつたことを實現させたのであるが、しかし徳川氏は昔の藤原氏の如く外戚となることによつて政權を掌握しようとしたのではなく、平氏の如くその日常生活を宮廷と結びつけるためでもなく、主として徳川氏の地位を高め、それによつて間接にその政治的權力を固めようとして企てられたことであらう。日光廟に勅使の参向を請ひ、輪王寺門跡として法親王を迎へたのと、連繋のある態度として解せられる。だからこれは、直接には政治的意味をもつてゐることではないので、明正天皇の時になつても宮廷と幕府とは嚴に區別せられた。たゞ宮廷の外に政權の掌握者として幕府の存在することは、現實の情勢がさうさせたのであつて、その思想的根據は乏しい。もしあるとするならばそれは鎌倉室町の先規によるといふことかまたは事實上皇室がそれを承認せられてゐるとすることかであらうが、實はこれとても事實(55)であつて思想ではない。要するに昔からの歴史の趨勢が自然にかゝる状態を現出させたのであり、さうして徳川氏の皇室尊崇の態度と、幕府政治によつて國家の安定したこととが、國民をしてこの状態を是認させたのである。けれども幕府の存立の理論的根據が明かでないために、思想的にはその地位が十分に安固ではなく、場合によつてはいはゆる公武の關係が問題となる虞れがある。幕府政治にはかゝる矛盾が内在するのである。
 のみならず、公家貴族を尊ぶことは、彼等によつて保持せられてゐる上代文化の遺風を重んずることと相待つて、上にも述べた如く將軍をはじめとする武家貴族の輩をして彼等と婚姻を結び、または彼等を和歌や儀禮や服裝の師として仰がしめるやうになつた。柳營の大奥に公家貴族の女が女官となつてゐることなども、同じ理由から來てゐるので、この關係は鎌倉幕府の有樣とよく似てゐる。儀禮としては寛永の日光の祭祀に法華八講を華麗に行つたのもその一例である。秀忠と家光とが上洛して二條城に行幸を仰いだのは、遠くは室町邸や北山邸の、近くは聚樂邸の、行幸の先例によつたものであり、それらの先例に現はれてゐる上代文化の儀禮としての尊崇は、この時に於いても同じであつた。これらはおのづから太平を粉飾せんとする武家自身の要求を充たすことにもなつたが、しかしその結果は、公家と武家とを各別のものとしようとする幕府の根本方針に背馳することになるのみならず、權力に於いて武家に服從してゐる公家は、かういふ點に於いて却つて武家を服從させたといつてもよい。武家政府たる幕府としてはこゝに大なる缺陷がある。實際に於いても公家貴族とその風習とをあまりに尊尚した幕府の態度は、徒らにかの高家の輩を驕傲ならしめ、終に赤穗一件の如き騷ぎを惹起して武人の幾人かを失ひ、また世人をして幕府を誹議せしむるに至つたではないか。さうしてこれもまた幕府が實社會と交渉の無い公家貴族の風習を強ひて實生活に結びつけようとした(56)ところから生じた破綻である。大廟でもない殿中で、事々に問はざれば一挙手一投足をもすることができないといふやうな儀禮を、幕府が認容しもしくは制定したのが、まちがひのもとである。(甲子夜話に昔は公家の參府するにも武家の服裝をしたといふ話があるが、信じ難いことである。)
 更に一言すべきは、幕府はその專制政治主義を徹底させなかつたといふことである。政府は今日の内閣にも比すべきところのある一種の合議體として組織せられ、また官僚にはそれ/\の職務についての目付が置かれてゐる。合議組織は前々からいろ/\の方面で行はれてゐた風習であり、目付も戰國時代の軍陣に用ゐられたことにその由來があるが、ともかくもかゝる政府組織によつて將軍すらもその恣意な行動は許されぬことになつてゐる。勿論、事實に於いては制度の精神の貫徹せられない場合が少なくないので、酒井忠清や柳澤吉保の權勢を揮つたやうな事例もあるが、かゝる制度に重要な意味のあることは、承認せられねばならぬ。現に忠清や吉保がさばかりの權勢を失つたのも、一つはこれがためである。或はまた幕府には專制政治にありがちな朋黨の禍や政權の爭などが起らなかつたが、それもまたこゝに主なる理由があらう。しかし忠清や吉保が地位を失つたことには、彼等の民望を失つたことがその主なる原因になつてゐる。家綱や綱吉の生存中には彼等を奈何ともすることができなかつた點に於いて、それは力の弱いものではあつたが、ともかくも漠然たる民心の向背が政治に何等かの影響を與へたことを閑却してはならぬ。さうしてそれは後の田沼や水野についてもいひ得られる。君主國に於いてかゝることのあるのは世界にその類が無いのではあるまいか。上にも言及した如く民政の宜きを失つた大名などを處罰する場合のあつたことにも、また同じ意味がある。なほ幕府の法令には實行せられないものが多く、同じ法令のしば/\反覆せられてゐることも考へ合はされる。例へ(57)ば元禄前後に幾たぴも發せられた出版物や演藝に關する取締令の如きは、當座はともかくも永續的效果は無かつたらしい。これには當局の態度が苛察でなかつたといふ理由もあり、また儉約令や儒教主義の道徳的命令の如きは、本來行はれないことだからでもあるが、そこにもまた或る意味に於いて民衆の力を認めなけれぽなるまい。さうして政府が強ひて無理な法令を行はうとしても、到底永續きのしないものであることは、生類憐みの令でも明かに知られよう。
 
 以上述べて來たところは、文化の状態を考へるのが目的であるこの章としては、あまりに横みちに入り過ぎた嫌ひはあるが、著者は當時の武士の社會と武家の權力との實状を觀察すると共に、武士は文化の中心となり指導者となることができなかつたといふことを、これによつて暗示しようとしたのである。然らば文化の原動力は何處にあつたかといふと、それには眼を轉じて武士の外の社會を觀察してみなければならぬ。
 
(58)     第三章 文化の大勢
 
       平民の活動
 
 政治的には治者の機關または從屬者たる武士に對して被治者の地位にあり、社會的にも概して武士の下風に立つてゐるものは、農商工の徒及び漁夫舟人またはその他の勞役者である。こゝにはそれらを總稱して平民と呼ぶ。
 武士を生存させるために重税を徴せられてゐる農民の多數が、概して生活の程度も低く當時の文化を受用する力も弱かつたことは、いふまでもない。土地によつて樣子は違ひ、舟揖の便の多い、または生活のために出かせぎをする習慣のある、地方のものが都會または他國に往復するやうなことはあるけれども、山間僻地のところでは、伊勢參宮とか京詣でとかによつて一生に一二度幾日かの旅をすることのできるのは、よい方であつて、彼等の多くは時たま附近の城下に出ることのある外には、郷土を離れる機會も少く、僧侶や醫者やまたは行商などから、よその世界の話を傳聞するぐらゐであるから、見聞も甚だ狹く、普通には寺小屋じこみで幾らかの文字の知識をもつてゐても、それの無いものすら少なくなかつた。さうして正月とか盆踊とか祭禮とかいふ歳に浅度かの遊樂によつて、纔かにその單調な生活を彩るのであつた。當時の文學に於いて、田舍もの山家ものが輕侮と嘲笑との的になつてゐたのは、かういふ有樣で文化の程度が低かつたからである。しかし彼等はもとより葛天氏の民ではない。慾もあり虚榮心もあり、修養が無いだけにそれが露骨に現はれて、一族近隣の間に生ずる感情の小葛藤や利益の小衛突が、斷えず生ずるのである。もつとも後章で考へるやうに、彼等の間にも村落民としての道徳は成りたつてゐるので、かういふ衝突や葛藤もそれ(59)によって或は解決せられ或は緩和せられ、また農業そのことから生ずる特殊の氣分のために、全體としては平和な生活がつゞけられるのであるが、しかし一方からいへば、これらの微かな刺戟があるために、彼等は生きてゐられたのでもある。「かはらざる世を退屈もせずに過ぎ」(ひさご荷兮)、その世が過されるのは一つはこれがためでもある。勿論、前章にも一言した如く、農民の生活は物質的にも精神的にも決して一樣ではなく、中にはその程度の高いもの、少くとも生活の困難を感じないもの、も少なくないし、また後にもいふやうに、一般文化の發達が次第に農民にも及んでゆく地方もあつて、都會に近いとか官道に沿うてゐるとかいふところには、それが多い。但し反對の方面を見れば貧農及びそれの多い地方のあることは、いふまでもあるまい。なほ家抱へ、門屋、庭子、名子、などと稱せられて富裕な主家に隷屬しその保護の下に勞役するもの、または他から移住して來て年がたゝないために村民なみの待遇をせられないものなどがあるが、しかし彼等とても人としての人格を認められないのではなく、たゞ主從關係の一形態として、または村落組織に於ける一つの習慣によつて、その生活が或る制限をうけてゐるのみである。さういふものの生活がおのづから低級であることは考へられるが、それは何れの地方にもある貧農と大差の無いものである。要するに農民の生活の程度、從つてその文化上の地位、はさま/”\であるから、こゝにいつたのはその概觀に過ぎない。
 けれども農民は必しも農民としてのみ世を終へるものばかりではない。いくらかの事功欲があるものは、前に述べたやうな方法で下級武士の家を襲ぐこともできる。幾分の放浪性を有つてゐるものは、都會へ出て武家奉公などをすることもある。少年時代から商家に入りまたは職人の徒弟となつて、それによつて身を立てようとし、或は何等かの生計の途を農業の外に求めることもある。家を繼がない地位にあり而も生活のできるほどな土地を與へられて分家す(60)ることもできないやうな二男三男に於いては、特にさうである。概していふと、農民生活の貧弱であることが彼等を驅つて、常に都會に向つて奔らしめ、そこで新しい運命を開かうとさせるのである。かういふことが往々田舍の荒廢を導き或は都會の人口を増加して物價の昂騰を誘ふといふので、後には幕府が、武士の生活を保護するために、令を下して農民の江戸出かせぎを抑制しようとしたこともあるが、「江戸へ/\と草木もなびく江戸には花さく實もなりて」(諸國盆踊唱歌〕、江戸が繁榮して人の身を立てる機會が多く、さうして田舍の生活が貧弱である以上、到底それを防ぎ得るはずが無い。「弟はとう/\江戸で人になる」(炭俵利牛)、田舍人がそれを喜んだことは、いふまでもない。大坂や京都やその他の地方的都會も同樣であつて、すべての都會の商家には田舍出身のものが甚だ多く、またその間に新陳代謝が行はれて、新しく田舍から出たものが富を得ると共に漸次都會化せられて來たことは、周知の事實である。昔の戰國時代には、農民にも武功を立てて世に出る機會を得ようとするものがあつたが、今の平和の世には、それが平和の事業によつて身を起さうとするのである。しかしこの點に於いて特に注意すべきは、學問に志すものが少からず彼等の間から出たことであるが、このことについては後に考へようと思ふ。もつとも農民の間にも大地主もあり豪農もある。庄屋大庄屋を勤めるものなどには、かなりの資産を有つてゐる。その中には武士に交つてそれと姻親を結ぶものもある。さうしてこれらのものはその財力相應に、種々の程度に於いて都會に發生した文化を享受し得る。だから廣い世の中から見れば、地方人も決して文化の圏外に置かれてはゐない。かういふ側面から見ると、地主や富農の存在することは江戸時代の文化の發達に於いて大なる意味をもつてゐる、といはねばならぬ。後に述べるやうに俳諧を弄ぶものなどが到るところの田舍にあるのを見ると、さしたる富豪でなくともおもだつた農民の間には、(61)文字の知識が相當にひろがつてゐることが知られる。俳諧師などは彼等の間を遊歴して生活してゐたらしい.これを思ふと、武士が城下に集まらずして土着してゐたならば、城下または都會と田舍との連絡も密接になり、文化の地方普及を助けたことが多からう。
 しかしかういふやうにして、事功欲があるものは都會へ出て商人などになり、または何等かの方法によつて武士にならうとし、知識あるものは學問をして仕官を志し、また幾らかの富を有するものは遊惰に日を送つて及ぶだけの贅澤をしようとし、農民自身に農業そのことに改良を加へそれを精練しそれを發達させることに力を盡さうとするものが少く、他の方面に向つてその力を伸ばさうとするのは、一つは農民を卑しむ武士的風習の故でもあるので、かういふ側面から見ると、その根本の原因は武士本位の政治制度社會組織にあるといはねばならぬ。彼等が農業そのものを發達させることを知らなかつたのは、彼等に知識が無かつたからでもあるが、當時のいはゆる知識は書物から與へられるものであり、實生活とは甚しく隔離したものであるから、この點に於いて彼等を導くこともできなかつた。宮崎安貞の農業全書の如き農業に關する著述も世に現はれて來たが、その作者は農民自身ではなかつた。農業はその性質として保守的傾向の強いものであり、特に知識あり事功欲あるものが農業から離れる場合に、そのあとに取殘された農民のしごととしては、なほさらである。その上に農業の發達を妨げるものは、自然力のみではなくして政治制度社會組織もそれであるから、人力を以て自然力に打ち勝たねばならぬといふ強い要求も起らず、從つて農業そのことに關する知識を得ようとする切實な欲望も生まれなかつたのである。幕府が代官などに農民のしごとを指導するやうに心がけさせたのも、こゝに理由があらう。さうして一方では階級の區別が嚴密でありながら、前に述べたやうに種々(62)の方面に拔け道が作られてゐて、知識あり事功欲あるものは裏面から世に出ることができるため、農民全體としては武士から壓迫を蒙りながら、それに對する強烈な反抗心が養はれるやうなことも、概していふと、まづ無かつたのである。
 次は商人である。徳川の世になつてからの商業の發達は目ざましいものである。政治上には大名の居城を中心として地方的勢力が藩として固められながら、それが幕府の統一的權力によつて大なる政治上の中心に維がれてゐるために、經濟上に於いてもその間に密接の交渉が生ずるのみならず、上にも述べた如く諸藩の財政上の必要から、全國共通の商業的關係が結ばれる。さうして武士が江戸と各地方の城下とに生活してゐるために、大きくいへば江戸は全國の、小さくいへば大名の城下はそれ/\の地方の、物資を聚めねばならぬ。その上に平和の續くと共に日々に勢を増して來る生活程度の昂進と奢侈品の要求とは、各地方の工業を發達させ、從つて商業の繁盛を誘致する。だから江戸を始めとして各地方の大名の城下は勿論、その他にも貨物の集散地は到るところにあり、特に關西方面には全體に文化が發達し人口が充實し、物資が豐富で工藝品の生産も多く、その上に舟航の便はよく外國貿易とも密接の連絡があるので、大坂を中心として沿海各地に純粹の商業市が數多く昌える。長崎のことはいふまでもない。制限せられた外國交通によつて輸入せられる珍貨奇物は、需要者の欲望をそゝることが特に強く、從つて商人の利益が多いので、彼等は爭つて長崎に集るのみならず、我が國唯一の外國貿易場として外國人も居住するので、よそには見られたい繁昌を來たしたのである。孤帆に波を凌いで遠く利を求めに來た天涯の寄客にも、時として艶かな幾夜の夢を結ばせる丸山の一廓があつたことを知るものは、こゝにも長崎の繁榮の一現象を認めるととができよう。さうしてこれらの都市(63)の間に微妙な連絡をつけて、全國の經濟機關を運轉してゆくのが商人であるから、その活動は靜止状態にある政治關係を維持してゐるに過ぎない武士などとは、比較にもならぬほど活?である。大坂の商人が全國の經濟を支配するのもそのためである。武家の困窮すると共に、諸藩の財政が商人の力をかりて纔かにその日ぐらしのできるやうになつたといふ特別の事がらは、前にも述べておいた。もつとも武家は武家でかなり惡辣の手段を以て債主を苦しめ、甚しきはその産を破るに至らせることも少なくはなく、また種々の點に於いて武士が商人に對して横暴であり、幕府が單純に商人の奢つたといふ理由で財産を汲收することさへもあつて、商業は十分に安固なものではなかつたから、それが商人の氣風に惡影響を及ぼしたこともある。けれどもさういふことは、商人全體からいふと、僅少なる一局部または特殊の場合に限られてゐるので、それがために商業が甚しき壓迫を感ずるほどのことではなかつた。
 この商人にも種々の種類があり階級があり、また土地により職業の性質によつて、その生活状態も一樣でないことは勿論である。が、奇才あるものがその力を發揮し易い實力競爭の社會、自由の社會であるのと、御用商人といふ地位があつてそれが種々の、場合によつては不正の、方法にょつて巨利を占め得るとのため、大都會の大商人には一方に舊家があると共に、他方には俄分限者、今のいはゆる成金の徒も生ずる。さうして一般にこの社會には、産を興すことも早いと共に亡すこともまた急であるので、榮枯盛衰の倏ちに轉ずる例が甚だ多い。西鶴以下の浮世草子に商人の盛衰を題材としたものの多いのは、これがためである。固定してゐる武士の社會に於いては、過去の夢となつてしまつた戰國時代の有樣が、平和の世の商人の社會では眼前の事實であり、才気あり野心あるものは、昔の武士と同樣の心理を以てこゝで功名を立てようとする。從つて胃險心も投機心もこの間に養はれ、近松の博多小女郎浪枕に見え(64)るやうな法網をくゞる拔荷商賈もあり、歴史的事實として知られてゐる先生金右御門の如く、國禁を犯してシナと往復するやうな危險なことをもする(兼山秘策)。
 さてかういふ都市のため商人のために、物質的文化の發達が促されることはいふまでもないので、この方面に於ける商人の勢力は遙かに武士の上にある。何事につけても平民が武士の下位に置かれてゐる政治的秩序を固執しようとする爲政家は、生活程度にまでもその精神を及ぼさうとするが、重税の賦課によつて生活に餘裕の無い多数の一般農民はともかくも、商人に對しては到底それを實行することができない。事實上、武士よりも優つた生活をするだけの富を有つてゐるからである。爲政家は身分不相應として奢侈としてそれを見るのであるが、その「身分」が武士よりは下級にあるといふ意味である限り、これは武士だけの取りきめであるから、爲政家の意のまゝに實行せられるはずが無い。しかし一定の知行俸禄によつて衣食する武士の生活は、生活程度を高めようとしても限りがあるが、自由な商人にはそれが無い。だから中には、富に任せて放縱な羈束なき生活をするものが生ずるので、特に俄分限者に於いてその傾向が著しい。浮世草子の大部分はかゝる種類のものをその主人公としてゐるが、石屋久三郎とか淀屋辰五郎中村内蔵助とか、または世に傳へられてゐる紀文奈良茂とかの話も、またその實例を示してゐる。後に述べるやうに、彼等が財を散ずることを誇りとしてゐるのは、武士の名譽心と同じ性質と由來とを有つてゐる一種の虚榮心からでもあり、また當時の社會状態に於いてその有り餘る財貨を有益な事業に用ゐる途が無く、或はそれを知らず、さうして表面上屈服してゐなければならぬ武士に對して、彼等が對抗しようとするには、財を以てするより外に方法が無かつたからでもあるが、ともかくも彼等の行爲が不健全な奢侈であつたことは、明かである。さうして、かういふ方法に(65)よつて費した財貨は、やはり不健全な一部の社會を一層不健全に誘ふものであつた。けれどもそれが奢侈品の要求を多くして工藝などの發達に資するところはあつたらう.特に財を抛つを念とせず豪快を以てみづから快とする彼等が、技術家をして時間と費用とに拘束せられずして意のまゝに製作をすることを得しめ、それによつて優秀な作品を得たといふ事情もあるらしい。たゞそれよりも大切なのは、さういふ特殊の豪奢をしない多數の商人の生活程度が高められるに伴つて生ずる、全體の文化の發達である。
 しかしそれは單に物質的側面ばかりのことではない。彼等の中には、かなりに知識もあり趣味をも有つてゐるものが少なくない。また俄分限者は勿論のこと中産階級に於いても、初めて家を起したものは、下級から身を立てただけに、さういふ素養は概して乏しいが、二代目以下になると、富と社會的地位とを有つてゐるために、おのづからその修養に心がける(永代藏卷一の三參照〕。俳諧が彼等の社會に流行し、浮世繪が彼等の間にもてはやされ、歌舞伎淨瑠璃等が彼等を顧客として繁昌したことはいふまでもない。浮世草子の讀者なども彼等が主であつたらう。要するに都會的平民文藝は、主としてこの商人社會によつて發達したのである。京坂地方が平民文藝の中心であつたことは偶然でない。
 もつとも上流の舊家は、その生活におのづから特殊の氣分があつて、堺あたりから引續いてゐるもの、または京のいはゆる「よい衆」に至つては、殆ど一種の商人貴族ともいふべきものであり、さういふ社會には一種の貴族趣味が養はれてゐた。ふるくは灰屋紹益などがその好例であつて「賑ひ草」を書いたほどの文筆の力もあつたが、歌連歌や能や茶の湯などの「すき」は一般に彼等の通有であつて、名物といふものも多く彼等の手に保たれてゐる。しかし彼(66)等とても實社會に交渉の少い公家とは違ひ、また單純な保守家でもない。彼等もまた世に立つて世に働いてゐる。從つて活氣がありこの點では勿論平民的である。藝術や工藝に於いても、宗達や光琳乾山などの作品は最もよく彼等の趣味を代表するものであつて、それが當時の土佐や狩野の擬古的作品とは違つて、清新にして氣力ある點に於いて、新時代の新藝術であると共に、時勢粧を寫さうとする浮世繪の類とも同じでなく、或る程度まで傳統を離れずして而も精練せられた趣味を現はしてゐる點に於いて、どこまでも京の藝術であり品位ある富豪の藝術である。島原の太夫に特殊の貴族的教養が施されたのも、彼等のやうな社會にその顧客があつたからでもあらう。
 それほどの舊家や上流でなくとも、京のいはゆる「分限者」「銀持ち」や、京の影響を受けることの深い大坂商人の、幾分かおちついた氣分を有つてゐるものは、彼等に次いでかういふ知識や趣味を養はうとしてゐたらしく、下河邊長流の門人に大坂の富人が多いといふやうな話によつても、それが察せられる(年山紀聞)。加藤盤齋、有賀長伯、儒者では三宅石庵、五井持軒、などが大坂にゐたのも偶然ではない。西山宗因が連歌を以て立つてゐた時もやはり大坂にゐた。町人考見録によると、圖書を集め校舍を建てて學に志すものを保護しようとした商人もあつたといふ(もつとも考見録の著者はそれを非難してゐる)。勸進能がこの時代にも行はれてゐたのは、それが平民の間に多くの觀覽者を有つてゐたことを示すものであるが、また一方では能舞臺を有つてゐた富裕な商人もあつた。さうして能が、一般的傾向としては武家の式樂となると共に、民間ではかゝる私設の舞臺で演ぜられるやうになると、その演奏法も次第に精練せられ、或は型が作られ、さうして年月を經るに從つてそれが固定してゆき、終には今日見られるやうなものとなつたことが考へられる。能がかうなるには長い時間がかゝつたが、當時に於いても上方の富豪の趣味はかう(67)いふものであつた.彼等は古典の知識をも幾らかはもち、歌も連歌も弄んだらしい。狩野や土佐などの作品もまた彼等の購ふところとなつたであらう。後にいふやうに平民文學にも多大の古典趣味があること、また浮世繪の主題として古典や古傳説中の光景を轉用することが行はれたのも、社會的に見ればこゝに一原因がある。しかし彼等の眞の趣味は新興の平民文藝にあつた。よし古典文藝などを學んだことはあつても、それは恰も武家貴族が衣冠をつけたり、やゝ上流の地位にゐるものが公家の門人となつて和歌を學んだりしたのと同樣、概していふと世間的關心から出たものが多いので、極端にいへば一種の虚榮であり、いはゆる「いたり物語」「いたりせんさく」(一代女卷一永代藏卷二)である。或はまた隱居やひま人の消閑事であり遊戯であつて、世に活動してゐるものが自己の情生活の表現または反映として、それに對するのではない。彼等の間にもてはやされた茶の湯が徒らに外形の模倣に墮し、もしくは高價な道具を誇るといふ卑しい動機を含むやうになつたのも、これと同じ傾向である。たゞ富の力の外に、もしくは上に、別に何物かの尊いものがあるといふ漠然たる考が、そのために養はれて、同じく富の力で動かすことのできぬ意氣地を有つた人物があるといふ事實と共に、彼等を甚しく俗惡にしたいための一つの助けとはなつたでもあらう。
 全く別の方面のことではあるが、長崎在住の商人には、常に外人に接觸しまた幾らか外國の工藝品を取扱つてゐるだけに、彼等の本國の文物と世界の事情とを知らうとする欲望が生ずるので、西川如見などの出たのでもそれが知られる。日本人は本來歐洲人に親んでその學問文藝を知らうとする傾向を有つてゐると、ケムペルもいつてゐる。シナの書物の輸入せられたのが長崎であることはいふまでもないが、それには通俗文學とでもいふべきものや種々の俗書の含まれてゐたことにも、注意する必要がある。もとは偶然商舶の齎して來たものであらうが、引きつゞいてさうい(68)ふものの舶載したのは、日本人が喜んでそれを買ひ取つたからであり、さうしてそれが日本の文學に新材料を供給したのである。その他、僅少ながらシナやオランダから得た新知識が、先づ長崎に於いて足だまりを得たことを思ふと、長崎が日本の文化に貢獻したことの少なくないことは容易にわかる。出島は固より唐人町に見られる外人の生活、それに現はれてゐる異國情調、キリシタンの寺が亡くなつた代りに新に入つた黄檗の異樣な寺院、それらが四方から集る商人に異國の文化に對する驚奇の情を起させたことは、どれほどであつたらう。南風がふく夏が來れば、燕と共に海の上に現はれる黒船の帆影を待ちこがれてゐたものは、必しも竹枝に謠はれた下界の織女のみではなく、また必しも商利のためのみではなかつたらう。さうしてこれが商業の副産物であるとすれば、これもまた文化の發達に於ける商人の功績の一つである。
 要するに窮屈な束縛せられた生活の下に、安逸を貪るか小さい勢利を爭ふかして日を送つた職業的軍人たる武士が、文化の發達にさしたる貢獻をしなかつたとは反對に、比較的自由でありあらゆる方面に活動してゐる商人が、文化社會の有力なる原動力になつてゐたことは、以上述べて來たところで知られよう。もつとも政治的秩序に於ける地位が武士より低いために、農民と同樣「武士づきあひ」するを榮とし(壽の門松)、武士のまねをして得意がるやうなものもあるが(武道張合大鑑卷一)、それは彼等の思想の上のことであつて、事實として町人に勢力のあることを否むものではない。のみならず一方では「天下の町人」(二代男卷二など)として誇るところのあつたのも、單に金錢の力にょつて世を支配し得るがためばかりではなく、彼等が實社會に重要なる勢力を有つてゐることを自覚してゐたからでもあらう。
(69) 農民や商人の他にも種々の職業に從事する平民がある.その中でも主なるものは、普通に職人といはれてゐるさまざまの工藝にたづさはるものと、いろ/\の船のりや漁人とである。彼等の生活状態、その社會的地位、職業上の機構、同業者間の關係、武士階級や農民及び商人との交渉、などは、これもまた一樣ではなく、歴史的に養はれて來た習慣もそれ/\にあるので、概言することはできないが、何れも國民の生活と日本の文化とに大きなはたらきをしてゐることは、いふまでもない。特に職人には傳統的に繼承せられた知識技能がある上に、平和の時代、民衆の活動の盛になつて來た時代、の要求に應じ常に新工夫が加へられて、日本人の生活の特色がそれによつて示されまた形づくられてゆく。ところがさういふしごとのできるのは、彼等がそれだけの生活を營み、それに適する社會的地位を有し、徒弟の養成法及びそれとの身分關係、職業上の機構、などに於いてそれ/\の製作に適應するものをもつてゐたからだ、と考へねばならぬ。また船のりについては、一方に於いて、遠く海賊や倭寇などからも系統をひきながら、他方に於いては、海外の通航は禁ぜられたけれども沿海に於ける運輸の業が次第に盛になつて來た平和の時代の新しい使命を帶びると共に、その發達を推進するはたらきをすることになり、當時の日本の經濟界の活動に大きな役わりを演じたのみならず、幕末に始まり明治時代になつて大に現はれた近代的航海事業の淵源となつたことが、考へられねばならぬ。陸上の交通が人力もしくはそれを助けるものとしての幾らかの車馬の力による外は無かつた江戸時代に於いて、各地方の間に文物の交換傳播を媒介した文化上の作用もまた見のがしてはならぬ。寶舟といふことばにはかゝる意味も含まれてゐるであらう。或はまたところ/\の船つきが彼等のために繁榮することはいふまでもなく、「沖に見ゆるは丸屋の船か丸にやの字の帆が見ゆる」、または「沖の闇いのに白帆が見えるあれは紀の國みかん船」、遠く帆(70)影を望んで心をときめかすものは、何れの津にも少なくなかつたであらう。さうして同じく活動の舞臺を海上にもつてゐる漁民の生活の重要性も、それにつれて注意せられるので、これもまた明治時代以後になつて近代式の遠洋漁業として發展してゆく。その他にも平民の職業は多く、商人などの個人的事業として、または尾張や紀伊の如き大藩の組織的な經營として、行はれた林業の下に活動する樵夫、或はまた鑛山の勞役者、なども、それ/\の業務上の機構を有し、さうしてその業務が國民生活の上に必要なはたらきをしたのである。
 なほ當時の文化の状態を觀察するに當つて、見のがすべからざるものは寺院と僧侶とである。寺院と僧侶との文化上の地位が戰國時代から漸次衰へて來た、といふことは前卷に述べておいた。この時代になると、キリシタン禁止のために設けられた新制度によつて、寺院は平民に對する行政上の一機關となつたけれども、それは文化の上にはさしたる關係の無いことである。大きい寺院の内部に於いては、それ/\の傳統による學問もその他の修行もせられてゐたが、さうしてまた經論の解繹などについて幾らかの新見解の現はれることもあつたであらうが、それは當時の國民文化の上に直接のはたらきはしなかつた。また地方寺院の偲侶は農民に幾らかの文字を教へるはたらきをしたのであり、また文字に親しんでゐるために、みづからも學問文藝の嗜好を有つやうになるものが生じ、特に遊民として熊澤蕃山などから見られるほどにしごとのない身分であるため、恰も世事に遠ざかつた商家の隱居や豪農などと同じく、消閑の料として歌や俳諧に遊ぶものも少なくはなく、たまには世の流行に從つて日本の古典やいはゆる外典の知識を得ようとするものもあつた。さういふことが學藝の普及を助けたことはいふまでもない。けれども專門の儒者や歌人(71)や畫家や俳諧師などが現はれて學藝界の中心となり、またそれが廣く世間に行はれて來るやうになつた時代に於いては、僧侶はそれについて特殊の地位をもつものではなかつた。さうして生計が安固なために氣力が萎靡して來たのと、彼等が世に重んぜられなくなつたので有爲の士が佛門に入らなくなつたのとのため、かういふ方面でも彼等は特に際だつた能力を發揮することはできなかつた。もつとも寺院は種々の工藝品を需要するために、その隆盛を助けてゐるが、それも邸宅などに比べて特殊の力があるのではない。また如何なる片田舍でも、寺院だけはかなりの建築物を有つてゐて、茅屋の點綴せる里落の間に異樣な光彩を放つてゐるし、佛前を莊嚴する器具調度は都會の工匠の手になつたものを用ゐるのであるから、宗門の上で京の本山に連絡があり、僧侶も修業のために京上りをしたと同樣、この點に於いても文化的に都市と田舍とを結びつける一機關にはなつてゐた。けれどもそれは地方民の日常生活には相關するところの極めて少いものであつた。
 なほ奈良や京の大きい寺院に、文化の保護者たる資格が薄れて來たことは、前卷に述べておいた。徳川氏によつて建立せられた日光や上野などの寺院に於いて、平安朝以來の儀禮を摸した貴族的な法會が行はれても、その文化上の地位は昔とは大に違ふ。昔はそれが狹い文化社會の全體を動かし、あらゆる文化活動の中心となるほどの大事件であつて、當時の貴族は或は信仰の表象として或は遊翫の具として、全力をそれに注いだのであるが、今は廣い文化社會の一隅に於ける一つの儀禮として行はれるのみだからである。法會そのものに於いても昔それに漲つてゐた藝術的空氣は消散してたゞ形式のみが殘つていたのである。寺院建築なども藝術として健全なものではなかつた。寛永寺の根本中堂の建築が如何なるものであつたかは、明かには想像せられないが、江戸時代になつて作られた所々の五重塔や(72)上野や芝の歴代の將軍の廟などによつて推測することができるならば、それは建築としては退歩してゐたものであつたらう。將軍の廟が、徒らに煩縟で華麗で、精神も無く氣力も無い、ものであることは、いふまでもなからう。それは主として、かういふものが國民の精神生活から遊離してゐるからのことである。國民は居室の經營やその裝飾には細心の注意をしたであらうが、寺院建築の美醜には無頓着であつたほど、それを思慮の外に置いてゐたのではあるまいか。
 もつとも佛教は文化の上に全く關係が無いのではたい。地方の農民などに幾らか見聞を廣める機會があつたとすれば、有名な佛閣を參拜するための旅行が、伊勢參宮などと共に、少くともその一つであつたに違ひない。また都會の寺院、特に民衆的信仰の對象となつてゐる佛閣は、多くの神社と同樣、概ね子女行樂の場となつてゐると共に、或る意味に於いては一種の民衆藝術の展覽場たるはたらきをもしてゐたので、こゝに佛教の平民的傾向が現はれてゐる。地方の寺院とても、その本堂が、佛殿といふよりもむしろ、檀徒が集會して行ふ禮拜のためのものとなつてゐることは、その建築法からも知られる。禅宗の寺院が京鎌倉の大伽藍に見られるやうなシナ式建築の痕跡を存してゐないのも、このことと關係があらう。これは禅宗そのものが、民間に於いては本來の修業の道たる特質を失つて單に儀禮の一形式となり、從つて多くは曖昧な方法で稱名念佛と結合してゐるのと同樣の現象でもあるが、それがまた禅宗の平民化を示すものでもある。民間の寺院が、特殊の貴族などの外護の下に成りたつのとは違つて、多数の信徒の力によつて維持せられてゐるのであるから、あらゆる方面に於いてそこに平民的傾向の現はれてゐるのは、自然の勢であらう。寺院が工藝の隆盛を助けてゐるといふことも、實は寺院を維持してゐる平民の力を示すものである。さうしてそ(73)れはキリシタン撲滅のために定められた檀家制度に一つの由來がある。
 
 次には公家貴族の状態をも瞥見する必要があるが、その前に皇室の文化上の地位を一言しておくべきであらう。歴代の天皇が學問の修養を積まれるのは、皇室の古くからの傳統であるが、特にこの時代の後水尾院、後光明院、後西院、また靈元院、みなこの點に於いて豐富な知識と才能とをもつてゐられた。後水尾院は歌や連歌に長ぜられ漢詩をも作られたのみたらず、古歌古物語の注釋を書かれ、短篇ではあるが、「蝴蝶」の如き室町時代乃至江戸時代初期に世に現はれたやうな物語の擬作もせられた。しかし一方ではよく民情にも通ぜられ、「清十郎きけ夏が來てなくほとゝぎす」といふ發句(これには「笠がよく似た短か夜の空」と後西院天皇が脇をつけられた)、奴ことばなどを用ゐた狂歌、の御作もあるほどである。靈元院も修學院の離宮にしば/\御幸のあつたそのをり/\の紀行を幾篇も書かれてゐる。これは一つは煩はしい政務が無いために文事に心を用ゐられる餘裕があつたからでもあらうが、そればかりではなく、文事が天皇の御職責となつてゐたためにそれに精勵せられたからである。これはこの時代の國民文學の形成とその發展とには直接の交渉の無いことであるが、皇室が、種々の儀禮と共に、古代文化の遺風を偉承せられてゐることと、天皇の御行動が文事に關してであることとに於いて、重要の意味がある。のみならず、後水尾院が「うけつぎし身の愚さに何の道も廢れゆくべき我が代をぞ思ふ」、また「いかにしてこの身一つを正さまし國を治むる道は無くとも」、と詠ぜられたのを見ると、政務に關與せられないながらに、天皇としての御職責が、單に文事を文事として嗜まれるところにあるのではなかつたことが、知られよう。なほ法親王となられるのが常であつた皇族にも、學(74)識文藻の豐かな方々があつたことは、いふまでもない。
 然らば公家貴族はどうであつたか。公家は古代貴族文化の遺風を保持してゐる點に於いて、世にも認められ自らも任じてゐるのであつて、公には朝廷の儀禮に參して一種の式部官となり、私には過去から傳へて來た家々の道を失はないやうにするのが、その職分である。だから極言すると、彼等は現實の國民生活とは交渉の少い一種の特殊階級を京の一隅に形づくつてゐたのであつた。その上に、中流以上のものに於いては、一方では僅かながらも所領があり困難ながらも生計を維持してゐられるため、高い身分を有つてゐることに誇りを懷くと共に、他方では窮屈な格式に縛られてゐて、たまさかに江戸に下る外には京を離れることすら容易く許されない状態にあつたので(寛文八年の幕府の訓令參照〕、文化の上にも新しい活動をしようといふ意氣が生じない。俸禄が少く從つて生活の困難である下級の公家に於いては、體面を維持すると共に生活をしなければならず、而もその身分を脱出することができないから、それが一層甚しい。彼等の間に往々公家貴族としての品位を汚す如き行爲をするもののあるのも、主としてこれがためである。或はまた他人の力に依頼しなければ生活することができないといふ、その境遇によつて養はれた長い間の習慣から生じた性癖として、權家に阿諛するのを常とするところから、その子を徳川の家人として松平の稱號を請ひうけるものがあつたり、將軍の昵近衆といふ名を得て人に誇るものがあつたりするやうに、競つて幕府に諂ひ、それによつて何等かの利益を得ようとする。公家の江戸にゆく場合には、概ね何はどかの利益が伴つてゐることはいふまでもない。かういふ點に於いて幕府が公家貴族を一擒一縱する手段は頗る巧妙なものであつた。また公家が武家と婚姻を結んだり、その女子を江戸の大奥の女官としたりするのも、そこに物質上の問題が潜んでゐることはほゞ推測せら(75)れる。その女を大名の妾にしたものさへある。またいはゆる家道のあるものは、それを利用して傳授や免許の料金を取り、それによつて生計を助けようとするので、これは神佛の名を假りて財を集める神官や僧侶と同様である。かういふことが彼等の品性をます/\低下させ、さうして、それが國民文化の上に貢獻をするものでないことは、明かである。
 かういふ状態であるから、戰國の紛擾が收まつて久しぶりに公家の地位が安固になつた徳川の初世に、少しく復興の氣味のあつた古文學の研究なども、その後はさしたる進歩もなく、もはや室町時代戰國時代の如き活動もできなくなり、そのころほどに學者も文人も多くは出なくなつた。歌人として廣く世に知られてゐたものにも鳥丸光廣などがあるくらゐである。公家の誇りとしてゐるいはゆる堂上の歌學などは、依然として繼承せられてゐるけれども、それらに學問としての債値の無いことはいふまでもなく、例へば岡西惟中の如く民間の俳諧師などに彼等の門人となるものがあつても、多くは名聞のために過ぎなかつたらしい。もつとも中には、安藤年山のやうに一種の尚古思想から誠實に公家の教を受けたものも無いではないが、それもたゞ因襲に從つたに過ぎないので、公家の歌學が無くとも古文學の眞の研究は何の支障も無く民間で發達し、歌人もまた民間に現はれたのである。契沖の學や茂睡の歌が全く彼等と無關係であるのを見るがよい。なほ朝廷に於いて江村專齋、北村篤所、または朝山意林庵、などの學者を用ゐられたのは、一方からいへば公家の家學の衰微を語るものであると共に、學問に於いては世俗的階級の差異に拘泥するところが少かつたことをも示すものである。なほ個人としても公家が處士に師事することはあつたので、熊澤蕃山の場合の如きがその例であり、彼等の間にも何等かの刺戟を受ければそれに反應するだけの氣分をもつてゐるものはあつ(76)た。後の竹内式部にはかういふ先蹤がある。但し蕃山に從遊したものがあるのは、彼の人物とその新しい言説との故ではあらうが、それに公家の地位としての特殊の政治的意味があつたのではあるまい。後水尾院が年中行事の序に書かせられ、また例へば「道々のその一つだに古のはしがはしだにあらぬ世にして」のやうな御製に現はれてゐる御心情、或はまた特殊の場合のこととはいへ、「葦原や茂れば茂れおのがまゝとても道ある世とは思はず」と詠ぜられたやうな御感懷は、公家の輩に少からぬ刺衝を與へたであらうが、それはたゞ彼等の心理の動きに止まつてゐた。公家貴族の一部には猜疑の眼と幾らかの恐怖の情とを以て江戸を見てゐるものが無いでもなかつたらしいが、それもそれだけのことである。彼等に何等の明かな企畫も定まつた意囲もあつたのではない。また蕃山とても、さういふ點について彼等の心を動かさうとするほどに、時勢に盲目でなかつたことは、集義和書や外書に見える彼の思想から推測せられる。國民に何等の根據の無い公家貴族が、世間から注意せられるほどのはたらきの無いものであることは、彼の熟知してゐたことである。また伊藤仁斎や東涯などの詩文集や紹益の賑ひ草などを見ても明かなやうに、文事ある公家は民間の儒生文士または好事家に交つてゐたので、都鄙貴賤を問はず少しく詩名あるものには自作の詩を贈つて唱和を求めた大納言某があつたといふ話も、江村北海の日本詩選に見えてゐる。その他、近衛家煕が民間の好士と交つたことも槐記によつて明かであるので、一體に京の文人や學者は割合に公家と親しかつたのである。公家貴族はみづから高く標置してはゐながら、實力の平民に及ばぬことを知つて、文事の上で彼等を尊重したのであらう。幕末に處土が公家に接近した淵源は遠いといはねばならぬ。さうしてこゝにも平民の勢力が現はれてゐる。
(77) こゝまで説いて來て、著者は當時の文藝と學問との中心と權威とが民間にあつたことを述べる機會を得た。文學のことは後章に讓り、こゝには主として學問の  状態を記さうと思ふが、それについて第一にいふべきは、學問をするところがみな私塾であり學者が多く民間人であつたことである。その主たるものはいふまでもなく京都にあつたが、元禄以後には鳩巣や徂徠の私學が江戸に起つた。それより前の江戸には官儒たる林家の私塾があつたが、それが半ば官學の性質を帶びるやうになると却つて學界に權戚が無くたつた。鳳岡の學がいふに足らず、篤實な鳩巣、新説を唱へて意氣天を衝くの慨があつた徂徠が、儒生に渇仰せられたのである。徳川の幕府は家康の時から和漢の古書を蒐集したり校訂したり、そのうちの或るものを出版したりして、いはゆる文事に力を盡したので、古書の逸散湮滅を防いだその功績には頗る大なるものがあり、水戸の修史事業とそのために行つた史料の探索蒐集とも、或は前田綱紀を主として一二の大名が圖書を蒐集したのも、一つの意味ではその餘風をうけたものとも見られるが、しかしその圖書の多くはいはゆる秘庫に收められて、一般の學者の用をばなさなかつた。家康はまた學校設立の意志もあつたといふが、それも實現せられなかつた。從つて諸藩でも元禄前後に藩士のために公に設けられた學校のあるのは、岡山、姫路、和歌山、など僅かに五六を數ふるのみである。學問は民間の私塾に於いて行はれることになつてゐたのである。のみならず學者もまた多くは平民であつた。
 著者は曾て江戸時代の名ある學者の身もとを一とほり調べて見て、その中に主人持ちの武士の極めて少いことを知つた。特に有名な學者は概ね平民から出てゐるので、それが後になるほど多くなる。もつとも藩士などが全く無いではなく、土佐の野中兼山、淀の栗山潜鋒、水戸の安積澹泊、などはそれであり、また武士階級に屬する浪人もあつて、(78)山鹿素行、熊澤蕃山、新井白石、太宰春臺、などがその例である。中江藤樹もこのなかまに入れてよからうか。が、これらはその數が少い。最も多いのは、醫家に生れまたは醫を志したものがなつた專門の儒者である。さうしてその中には、大名に抱へられて士分の待遇を受けてゐた筑前の貝原益軒、紀伊の祇園南海、の類もあるが、多くは民間の醫者らしい。醫者は民間にあつても僧侶や神職と同樣に一種特殊の地位を有つてはゐるが、武士階級には屬しないものである。さうして新しく醫に志すものは多く平民であつた。だから志は儒にありながら生活の資を醫によつて得ようとするものもあつて、仁齋がそれを非難し並河天民がそれを當然のこととしてゐるやうに、儒者間の問題になつてゐたことを思ふと、平民の醫者から儒者になつたものの多いことが知られる。そのころに儒醫といふ語も行はれてゐたのである。實例を學げると、堀杏庵、管玄同、室鳩巣、山崎闇齋、淺見絅齋、三宅尚齋、藤井懶齋、を初めとして、醫家または醫生出身の儒者は甚だ多いが、彼等は概ね平民らしい。但し物徂徠の家は浪人醫者とでもいふべきものであらう。また谷時中、木下順庵、雨森芳洲、などは農民であつたらしい。那波活所、伊藤仁齋、並河天民、中村タ齋、三宅石庵觀瀾兄弟、などはみな商估の出である。武士の都の江戸にゐた林家の門人とても、幾らか名の知られたものは、やはり醫生出身などが多いやうである。また和學者を見ると、契沖は僧となつたが浪人の家に生れたものであり、戸田茂睡も浪人の部類に屬すべきものであらうが、下河邊長流は農家出身らしい。神道者の吉川惟足も估家に人となつたといふ。神道や國學を唱へるものに諸社の神職が多いことは勿論であるが、これは僧侶が佛教を説くのと同樣であるから論外とする。さて以上の例は、この篇で考へようとしてゐる時代の重だつたものを少しばかりぬき出したに過ぎないが、大體の傾向はこれでも知られよう。梁田蛻巖をして「海内文章落布衣」といはしめた現象が即ちこれで(79)ある。
 しかしこれには種々の由來がある。農民の間に於いて幾らかの文字の知識あるもの、特に歸農した武士の子孫など、が醫を以て郷黨に立たうとし、さうして醫の修業が一層彼をして讀書に親ましめ、遂に醫を廢して儒に專なるに至らしむるは、普通のことであつた。專門の儒者とはならないまでも、醫者が文字に遊ぶを喜び知識を求むるに志のあるのは、その職業と閑暇のある生活とから來る自然の傾向であるらしく、俳諧や狂歌を嗜むものもこの社會には多かつた。事實、江戸時代の學問と文事とは、醫者の與かることが甚だ深かつたのである。固より醫者にならうとするのは、民間にあつてやゝ人の上に立つには醫者が最も便であるからで、浪人などの民間に隱れたものにもその例が多かつたらう。が、また文字を好むがために、醫を以て生計を立てようとするものもあつたらしい。なほ前に述べたやうな事情で民間に知識が廣まつてゐたために、特に求めるところがなくとも學問に心をよせたものもある。また昔ならば僧侶となつたであらうが、世間的の學問が勢力を得るやうになつたために、儒者にならうとしたものもあらう。或は戰國時代ならば戰場で功名をあらはし、それによつて武士にならうとしたものが、平和の時代ではそれができないから、文事を以て世に立たうとするといふこともあらう。しかし多くの平民をして志を學問に立たせたのは、社會的秩序に於いて武士の下風に立つてゐる彼等が力を伸ばさうとすれば、富を以てするか知能を以てするかの外には無いので、前者に便ならざるものは後者に向ふといふことが重きをなしてゐたらしい。これが上に述べた如く、武士に知識欲の無いことと好對照をなす所以である。
 特に修身齊家治國平天下を標榜する儒學は、修身齊家の道に於いて日常生活の社會的慣習を以て不足とは思はず、(80)また治國平天下に於いて何等の關するところの無い地位にゐる、多數の武士をしてその必要を感じさせないのである。彼等は現實に存在する政治的秩序によつてその生活が保たれ、或は彼等みづからその秩序の維持者たるべき職分を有つてゐる。彼等は軍務または吏務に服してゐれば、それでよいのである。約言すると、彼等は既に治まれる國、現に平なる天下に於いて、その機關となつて動いてゐる。その上に何の治國平天下を考へる必要があらうぞ。ところが、現實の政治に於いてさういふ地位も職分も無い平民は、治國平天下の術を以て人を教へようとする。思想の力によつて現實の社會を動かさうとする。儒教の政治道徳の學が現實に行はるべきものであるか否かに關せず、彼等はそれを標榜して世に何等かの地位を占めようとするのである。だから平民が儒學に向ふのは偶然ではない。山崎闇齋が王侯たらざるを以て大なる樂みの一つだといつたといふのは、全く別の考からではあるが、文化史の上から見ると、この意義に於いても頗る興味がある。儒學ばかりでなく、和學でも神道でも、その世道人心に關する方面についていふと、概して同樣の關係がある。
 その上、學問の中心たる京に出て修業をすることは、常務のある武士には特殊の許可を得なければできないから、この點から見ても武士が概して學問に縁遠かつたことが知られる。仁齋の堀河塾には飛騨佐渡壹岐の三國を除いて諸國の學生がみな集つた、と傳へられてゐるが、その多數はやはり農商の徒か醫家かであつたに違ひない。それは京に遊學するだけの學問上の素地がどの地方の平民の間にも作られてゐたことを示すものである。知識が田舍に弘まつてゐなければ、かういふことはできないからである。もとより彼等が悉く或る程度の修業を遂げたのではなく、後年片山北海が「京學々々とて諸國より京に來るもの年々幾百、されど學業の小成するものは十中一二に過ぎず、」(授業(81)編)といつたのは、それより前の遊學生にも適用せられるであらうと思ふが、それにしても郷里に歸つた彼等がそれ/\の地方に幾らかの學問の空氣を傳へ、平民の志あり力あるものをしてます/\書物に親ませるやうにしたことは、疑があるまい。
 しかし、いはゆる業の成つたものはその學を如何にはたらかせるかといふと、民間にあつて書を講ずるものもあるが、何れかの藩に仕官を求めるものもあつて、彼等を抱へる大名もかなりにあつたのである。彼等の多數は身を立てるために學問をしたのであり、さうして當時に於ける立身は士籍に入ることであつたからであるが、「君を堯舜に致す」といふ儒者の標語は、その最もよい口實となる。ところが仕官をすると、その任務は概して君侯の侍讀か藩士の子弟に讀書を教へるくらゐのことに過ぎず、水戸のやうに特殊の學術的事業があるところの外では、學者としてその力を現はすことのできないのが常であつた。いはゆる「道を行ふ」などは全くの妄想に過ぎなかつた。勿論これは人によることであるから一概にいふこともできないが、佐藤直方が學談餘録で「禄仕の儒者十に七人は俗儒」と罵り、その直方が三宅尚齋に黙識録で「言きかれず道行はれず」と攻撃せられてゐるのでも、その状態は知られる。もと/\彼等の學は實務に資するところの甚だ少いものなのである。だから山崎流の二三子の如く一徹に事を考へるものは憤慨もするが、多くのものにとつては、仕官をすればそれで立身の目的は達せられたから、その上に望むところは無いのである。甚しきに至つては君侯の周圍に於ける一種の幇間といふべきものさへあつた。學者中の英雄と呼ばれた徂徠が、綱吉や吉保のお大名藝たる經書の講義を謹聽したり、將軍の前で論議をして聞かせたり、いはゆる唐音を操つて見せたりするのは、富豪のとりまきとなつてゐる俳諧師や浮世繪師の態度と何の撰ぶところがあらうぞ。勿論幇(82)間は主人公を愚にしてゐるのであるから、徂徠の輩も將軍などを愚にしてゐたのかも知らぬが、知識あり英氣あるものも、人の臣となつては、かういふことをもしなければならなかつた。足利時代の禅僧がその保護者たる將軍などに對してとつた態度も、やはり一種の幇間的行爲であるが、儒者がおのれ等に禄を給してくれる大名に隨喜したのも、犬公方の綱吉などを好文の君として讃美したのも、それと同樣である。さうして彼等はみな世襲的地位を得るのであるから、子孫に至つて父祖を辱かしめない知識を有つてゐるものは甚だ稀である。その標本は林家であつて、春齋だけは時に用ゐられなかつたために學者としてはむしろ父に優つてゐたらしいが、鳳岡以下は殆ど言ふに足らぬものになつてしまつた。たゞ實務に關することの無い思想だけは自由であるから、市井に道を説くものは言説を以て世に立つことができ、それによつて新しい追從者を平民の間から吸收するのである。かういふ風にして、士籍に入るものは思想上の權威を失ひ、言論を以て世に呼號し思想を以て世を動かさうとするものは常に民間にある、といふ現象を呈するのであつて、これは儒學そのものが單に文字上の知識に過ぎないものであるからでもあるが、また專制政治の時代であり社會が階級制度で固められてゐるからでもある。
 これに似た現象は和學國學や文藝の上にもある。この時代の和學はまだ概して語釋や故事の詮索の外に出でず、人の思想を動かすやうなことは無かつたが、契冲にしても茂睡にしても、新しい見解を立てて後世に大なる影響を及ぼしたものは、みな民間にあつたので、知識を求むることの切であつた光圀が契冲の教を受けようとしたのも、これがためである。古い學風のまとまりをつけた點に於いて功績のある季吟も、民間にゐたので、それが幕府に召し出されたのは彼の學者としてのしごとには何の關係も無いことであり、その子孫に至つては纔かに儀禮的の「御歌學者」た(83)るのみである.その他、加藤盤齋、山岡元隣、など李吟と同じく幽齋貞徳の系統を傳へてゐる古文學の注釋家も、またみな民間人であつた。なほ、このころから漸く起りかけた自然科學や數學などに志を向けたものが、概ね平民であることはいふまでもない。
 次に藝術についていふと、新しく興隆した平民文藝は勿論のこと、古い傳統を受けついでゐる方面でも、幾らかの新樣を出だすものは、英一蝶などの繪畫に於けるが如く、やはり平民からその門に入つたものである。土佐の末流も、幕府に抱へられた狩野や住吉の家も、概していふと舊樣を摸してゐるに過ぎず、子孫相傳へてその地位をついでゐるものは、上に述べた林家などと同一の運命に陷つてゐる。だから新しい生命ある文藝は、すべて平民の間から現はれるのである。
 
(84)     第四章 文化の大勢 四
 
       元禄の天地と平民の文化
 
 前三章に述べたやうな事情で發達して來た平民の文化の一たびその頂點に達したのが、華やかな元禄の天地である。それは政治的に抑へられてゐる平民が、文化の上にその鬱屈せる力を發揚せしめ、それによつて武士の社會を壓倒したのである。それはまた戰國時代に養はれた豪放の氣が、平和に慣れ窮屈な制度に束縛せられて、武士の間に銷沈して來たとは反對に、平和の事業の興隆と共に商人の社會には却つて持續せられ、その間から釀し出された自由な放縱な空氣を、恣に武士の頭上に漲溢させたのである。或はまたシナ海の波を破り南洋の潮を乘り越えて、世界の上に横行しようとした倭寇的冒險者流の意氣が、鎖國の一令によつて抑へつけられたために、一轉して狹い日本の國内に發散したのである。封建の藩籬、階級の桎梏、政令の壓迫、があるにかゝはらず、國民は到るところにその間隙を求めその弱點を發見して、それに向つて力を伸ばさうと試みたのである。戰國の遺風に對する平和の勝利である。政治的權勢に對抗する人の力の發現である。要するに武家政治の骨組みを蔽ひ隱すまでに、その上に咲き亂れ咲き誇る、平民文化の美しい花の色である。
 元禄の文化のすべてを通じて活氣が溢れてゐ、放縱であり豪華であり、往々野生的で調子の整はない點もあるが、一體に男性的であつて、毫も繊細なまたは弱々しい風の無いのは、これがためである。あらゆる工藝品は人目を眩する華麗と、勞力を惜まぬ精巧と、奔逸な意匠とを、その特長としてゐる。服裝に於けるいはゆる元禄模樣のはでやか(85)さはいふまでもない。その居室を飾るものは金屏風であり、蒔繪の調度であり、その帶びるところの刀には金の目貫がなくてはならぬ。彼等の遊樂は花街と戯場とにあり、その花街には、一擲千金の豪遊を競ふ紀文や奈良茂や淀屋辰五郎がいはゆる「大盡」の模範であり、その戯場には、市川團十郎の所作事によつて示される奔逸の氣、坂田藤十郎などによつて演ぜられる花街情調が漲つてゐる。水木辰之助の美しいうちに壯快の趣のある槍踊が喝采を博し、花やかな大踊が老若男女の觀客を浮き立たせる。粗末な小屋の裡に金屏風と緋毛氈とを以て裝つた棧敷の、不調和なるきらびやかさよ。刺戟的な鼓の音、三絃の調。長唄大薩摩の物々しさ、土佐淨瑠璃の歡樂主義。上方の義太夫には往々誇張せられた感傷主義があるが、全體としてはやはり業々しい點にその特色がある。脚色に於いても理窟づめに因果の關係が結びつけられてはゐるものの、奔放不羈にして端睨すべからざる場面の急調な變化と、思ひきつて大げさにせられた人形の働きぶりとを、近松の時代ものに見るがよい。
 花街戯場は師宜などによつて丹青の上にも現はされたが、繪畫に於いて元禄的精神を代表するものは、時はやゝ後れてゐるが寧ろ江戸の懷月堂一流と京の祐信とである。寛永前後の浮世繪には、往々若衆の冶容と嬌態とが寫されてゐると共に、婦人は却つて生氣の無い堅くるしいものが多かつたが、あの太い強い線を以て描いた懷月堂の婦人に、端然たる姿勢が具はり、祐信の作に豐艶な肉體美が寫されてゐるのを見るがよい。(それに比べると勝川春章などから後の江戸の浮世繪の人物が、甚しく繊弱になつたことはよくわかる。元禄のおもかげを傳へてゐるのは宮川長春までである。)光琳に至つてはその作風に別の由來を有する特殊の趣があるけれども、その強い力の現はれと、よき諧和を有するはでやかな色彩とに、時代の特色がよく現はれてゐる。(その系統をうけながら、やはり繊弱で調子の低(86)い後の抱一に比べると、時代の變化が明かに眼に映ずる。)さうしてこれらの藝術はすべて人間本位であり、また概して官能的であつて、光淋の作の如くその題材に多く自然界を採つたものですら、自然界そのものを寫さうとはせずして、それを裝飾的に取扱つてゐる。活氣の漲つてゐることについていへば、儒者の間に新説を唱へるものが連りに起り、特に山崎一派や徂徠などの出たのも、彼等に盛な意氣があり大膽に自説を主張した點に於いて、後に折衷學などの起つたのとは違つて、やはり元禄時代の精神の發現が見られる。
 しかしかういふ現象は、一面に於いては、江戸時代の政治制度社會組織とその固定主義とに刺戟せられて、その間に發達した平和の世の産物であると共に、他面に於いては、戰國時代に大に現はれた平民の活動の繼續であり、或はその形を變へたものである。紀文も奈良茂も、畢竟機略があり放膽であり豪快みづから喜ぶ戰國武士の商人化したものに過ぎぬ。天災に乘じて暴利を占めたといふやうな點から見れば、奸商であることはいふまでもないが、その惡竦手段は戰國武士の武略と同一性質のものである。彼等が戰國時代にその力を揮つたならば、何れも立派た大名になつたであらう。なほ實世間に於ける放縱なる歡樂主義も、文藝上の人間主義官能主義も、また前代からのことである。談林の俳諧は宗鑑の一轉したものであり、歌舞伎にもお國の遺風がある。が、さすがに平和の世が續いて人心が安定してゐるだけに、その情趣に於いて昔のとは違ふものがある。永徳などの豪放な裝飾畫と、それに一つの由來がありながら精練せられた宗達や光琳の作とを、また狩野派などの手になつた遊樂の圖の生硬なる筆致と、師宣の花街戯場の繪卷の優麗なる技巧とを、比べて見るがよい。
 元禄の文化は平民の間から起つた文化であり、平民の生活が形を具へて現はれたものである。從つてそれは單なる(87)知識によつて學習せられる外國文化の摸倣ではない.このことは文藝に於いても明かに認められるので、師宣や懷月堂がみづから日本繪師また日本戯畫といひ、祐信が大和繪師と稱したのでも、それが知られる、これは彼等の作品が古來の國民藝術たる大和繪の正統を傳へたものであるのと、概していふとシナ畫の摸作を生命としてゐる狩野派などに對して一種の反抗的態度を取つたとのためであらうが、それが即ち彼等の平民畫家として時代の風俗を描いた所以である。音樂の方面でも、三絃樂に於いてともかくも藝術としての樂、特に聲樂、が始めて我が國に成りたつたといつてよからうが、これも平民の樂だからである。上代の素朴な民謠は藝術としての樂とはいひがたいものであり、外國の樂や樂器が輸入せられてからは、民間にはこの民謠が持續せられると共に、文化社會を形成してゐた貴族の間には、國民の情生活の表はれた歌謠とは殆ど關係が無く、器樂として行はれた外國樂が玩ばれたので、催馬樂の如く民謠の詞章を採つたものでも、絲竹の聲に肉聲が加へられたといふのみで、歌謠の伴奏として管絃を用ゐたのではなかつた。細かく考へると種々の現象はあるが、概言すると、聲樂らしい聲樂はどこにも無かつたので、それは即ち國民の惰生活が藝術としての樂となつて表現せられなかつたことを示すものである。寺院の裡から出た今樣以後の謠ひものに至つては、殆ど樂といふべきものでなく、それが室町時代まで續いたのであるが、戰國のころから一般文化の平民化と共に民謠が再び文化社會に現はれ、三絃の行はれるに至つてそれが伴奏の樂器として用ゐられるやうになり、さうして一方ではその歌曲が民謠から一轉して特に製作せられた抒情的詞章となり、從つてそれに節づけをする必要が生じたと共に、他方では三絃の奏法が進歩したので、こゝにはじめて聲樂らしいものが成りたつに至つたのである。勿論その節づけは既に存在する民謠及びその他のものに本づいて、それを幾らか變改するのみのことであり、三絃も、(88)一種の撃樂器らしい用法から纔かに一歩を進めて、幾らか歌曲の表情を助ける奏法となつたに過ぎず、さうしてそれも殆ど幾つかの定まつた型を出でないものではあるが、ともかくも歌曲とはなつてゐる。また箏や尺八が、歌謠の伴奏または歌謠そのものを樂器にうつしたに過ぎない状態から一轉し、時には三絃と結合して、單純ながらに一種の器樂が生じて來たのも、やはりこのころのことである。
 勿論當時の浮世繪に狩野派などから學び得た技巧がその一要素として含まれ、三絃曲に琵琶などから脱化して來たものはあるが、それとても當時の實生活を寫し平民の感情を現はすことに於いて、さしたる不調和の感ぜられないまでになつてゐる。この性質は元禄の藝術のすべてに具はつてゐるので、前代から傳へられた種々の要素がみな結合せられて、齊しく現實の國民生活に攝取せられたのである。後に述べるやうに、淨瑠璃や歌舞伎や俳諧と能や舞や狂言や連歌との關係を見ても、それは明かであらう。藝術が實生活から材料を得て作り出されたものであると共に、實生活がまた藝術の影響を受けるといふ現象のあるのも、藝術と實生活とが内面的に契合してゐるからである。心中物が歌舞伎や操に演ぜられたために心中が一層世に流行したことはいふまでもなく、「二人が噂世話狂言の脚色の種となるならば」(重井筒)と、おのれらの行爲が劇となつて舞臺に上ることを豫期するやうな心もちさへもあるやうに、思はれてゐた。自己の情生活を自己みづから詩としてながめてゐた平安朝人とは違つて、これは自己を世間の前に呈露するのであるが、それは後にいふやうに個人本位の上代と何ごとも世間あひてのこの時代との生活態度の差異からも來てゐるし、公衆のための藝術たる劇といふものの存在する社會だからでもある。浮世繪の如きも風俗の上に影響を及ぼしたに違ひなく、祐信の如きは模樣の雛形をさへ畫いてゐる。俳優に至つてはその傾向が最も強く、「小娘若(89)よめのまねる芝居の女形」(卯月の紅葉)はいふまでもなく、「不断の風俗坂田の藝をうつす」もの(曲三味線)もあり、山本掃部に似た人を思ふといふ話(同上)も作られ、坂田が死んだと聞いて親に別れたよりも涙を惜まなかつた女が多いともいはれた(寛濶役者氣質)。澤の丞帽子、傳九郎染、市松形、さういふ流行の戯場から出たことはいふまでもない。
 元禄の文化はかくの如くして形づくられたのであるが、それは、平安朝の公家文化の絶頂に立つて特異の光彩を永く後世に放つてゐる昔の道長時代のに照應するものであり、遠く七百年を隔てて藤原氏の榮華の盛りと相對してゐる。但し一つは宮廷を中心とした貴族の文化であるのに、他は廣く世間にゆきわたつてゐる平民のであり、一つはすべてが女性的な弱々しい繊巧な情趣をもつてゐるのに、他は男性的な豪快な姿を現はしてゐて、その間に大なる違ひのあることはいふまでもない。更に元禄の時代と對照すべきものを索めて前代を追想すれば、いはゆる東山の世があるが、當時の文化社會は、武士の首領でありながらそれを統御することができず、茶の湯や擬古的の歌や連歌や、またはシナ人の繪畫や禅僧の詩文や、を玩び、世にありながら世外の逸樂に耽溺して、それによつて纔かにその生を保持してゐた、義政といふ頽廢人を中心としてゐるだけに、全體の調子が弱くも低くもあり、萎靡した古代の文化もシナから入つて來た新要素も徒らに雜然として横はり、人はみな動き易い氣分からそれらのものに對して一々變つた刺戟を求めながら、それを渾一して我がものとする強い精神を自己みづから作り出さなかつたのである。戰國の紛亂は一面の意義に於いて既にこゝに象徴せられてゐるが、その戰國の間から發生して來た新精神によつて天下が統一せられ、新しい元氣を以て起つた國民の活動が、平和の方面に向つて轉じ、それが百年間の修練を經た元禄の時代は、その内部(90)に包まれてゐる諸要素の間に幾多の矛盾と衝突と反撥とを藏しながら、全體としてそれが結合せられ、さうして活氣に充ちた一つの大なる文化社會を現出したのである。この意味に於いて元禄の文化は、我が國古來の文化上の諸要素を集めて大成したものともいはれる。
 ところがかういふ風にして過去の文化の諸要素が現實の國民生活に攝取せられ、さうしてそれが平民の文化として現はれたのは、異國の文化をうけ入れることによつて攪亂せられなかつたからであつて、鎖國制度の與へた一つの利益ではなからうか、といふ説が世にはあるらしい。それはたしかに一面の事實である。もしヨウロッパの文物が寛永のころから後に盛に輸入せられ摸倣せられたならば、元禄の文化は現に形づくられたものとは※[しんにょう+向]かに趣の違つたものになつたであらう。光琳も芭蕉も或は現はれず、歌舞伎も三絃樂もあのやうなものとはならなかつたかも知れぬ。さうしてそれは、國民生活そのものが現實にあつた状態とは何ほどか違つてゐたことを、示すものである。勿論、その代りに別樣の藝術的活動が行はれ、別樣の生活が展開せられるやうになつたであらうが、それがそれから後の日本人の生活日本の文化にどういふはたらきをなしどういふ效果を生じたかは、わからぬ。たゞ戰國の混亂がからくも收まつたばかりで人心の安定がまだ十分でなかつた時代、昔からの文化の傳統が纔かにつながつてゐるのみであつた時代に、異質の文物が強い力で入つて來たならば、元禄時代になつて過去の文化の諸要素をあのやうに生かし、さうして新しい精神によつてそれらをあのやうにはたらかせることは、できなかつたであらうと推測せられる。當時の日本人には、異質の文物をよく咀嚼消化してそれからよき榮養分を吸收するだけの能力がまだ十分に養はれてゐなかつた、と考へられるからである。幕末から行はれたヨウロッパの文物の學習には、江戸時代の長い年月の間に修得した日本(91)人の教養の力がはたらいてゐることに、注意せられねばならぬ。またもし鎖國をしなかつたために禁教が十分に行はれず、偏狹固陋で戰闘的精神にみちてゐる上に、ロオマのパッパの統帥の下にあつた當時のキリシタンが、何等の形で遺存し何ほどかの活動をするやうなことがあつたならば、それが信者となつてゐた日本人の思想に種々の抑壓を加へ、從つて一般の日本人の思想の自由な發展を阻止し、或は政治制度や社會組織にも何ほどかの動遙を與へたであらうし、また同じやうに偏狹固陋な儒教思想との間に摩擦と抗爭とを生じ、それが日本人の精神生活を混亂させたでもあらう。戰國時代とは違つて、平和の世には思想の人を動かすことが大きい。要するに人心の安定が得られず、從つて文化の發達が防げられたであらう。この意味に於いて日本の文化に及ぼした鎖國の效果のあることは、考へられよう。
 けれども、かう考へるにもまた制限がある。鎖國令の發せられたころのヨウロッパの文化と世界の交通の状態とから見ると、鎖國をしなかつたとしても、それほどヨウロッパの文物が多く取入れられ、それによつて國民の生活がひどく變化したかどうかは、疑問である。それは、戰國末期から徳川の代の初期にかけてヨウロッパの文物が入つて來たのと、大差が無い状態であつたのではなからうか。さうしてこの状態はいはゆる元緑時代、即ち十八世紀の初め、までは繼續したのではあるまいか。勿論、鎖國が行はれなかつたならば、後の蘭學をまつまでもなく、當時のヨウロッパの自然科學の成果がオランダ人によつて傳へられたであらう。また日本人のうちにも遠くヨウロッパにまでゆくものがあり、今までは偏狹固陋なキリシタンのバテレンによつて隱蔽せられてゐた南ヨウロッパの文化はいふまでもなく、北ヨウロッパの新しい世界にもその見聞が及んだでもあらう。さうして、かゝる日本人によつて、或は來航す(92)るヨウロッパ人によつて、齎らされた文物が徐々に日本人の生活に入つて來たであらう。しかしかういふ状態かういふ程度に於いてヨウロッパの文物が傳へられたとするならば、それは、日本人の文化の傳統を破壞することなしに、ヨウロッパ文化の新しい要素を加へることになるのであつて、それによつて元禄の文化は現に形づくられたよりも一層内容の豐富な色彩の多樣なものになつたのでないか、とも考へられよう。外國の文物を取入れるに敏なる日本人は、新しい世界との接觸から受ける新しい刺戟によつて、その生活意欲を強めたに違ひないからである。のみならず、日本人が親しくシナに往復してその實状を知ることができたならば、徒らに空疎な文字上の知識によつて、書物から得た思想のみを盲信することも無かつたであらう。後にいふやうに、文字によつてのみシナ人を知つた儒生ですらも、必しも書物の記載に拘泥すべからざるを悟るものが少しづゝ現はれて來る。シナ人の實生活を知ることができたならば、それが一層多かつたであらう。日本人のシナ崇拜はシナ人の實生活を知らなかつたからである。鎖國制度が、外から來るものを防ぐよりも内から出るものを止めたことに、その弊の大なるものがある、といふことはこの點からもわかる。もつともこのことについては、キリシタンのことが考へられねばならぬが、それに對する處置には上にいつた如く別に取るべきものがあつたかも知れぬ*。鎖國をしなかつたためにどんな事件が起りどういふ状態が展開せられたかは、もとより今から臆測のできないことであるが、いろ/\の煩累の起ることが豫想せられながら、それに處する道を講ずることによつて、鎖國をしない方策は必しも無かつたに限るまい、と考へられもする。
 要するに、國民生活が歴史的に發展するものである以上、如何なる場合にも過去の文化の要素は現在の生活に含まれてゐてそれが何等かのはたらきをするのであるから、外國の文物の攝取は決して國民生活を過去から切り離すもの(93)ではない.或は外國の文物を攝取することによつて、却つて過去の文化の價値を發見し、さうしてそれを保存しまたそれを精練してゆかうとする意識しての努力が行はれるやうになる。たゞ無氣力な國民のみが過去に拘束せられ、または徒らに新しいものに壓倒せられるのである。公家貴族や僧侶の間に古いものに囚はれてゐたもののあるのは、彼等の生活が空虚で彼等に氣力が無かつたからであり、さうしてそれは、彼等の神經が新しい文物に接してもそれに刺戟せられず反應もしないほどに麻痺してゐたからである。江戸時代の一般國民が彼等と違つてゐたことは、元禄の文化があれだけに形づくられたことによつても證せられる。惜いかな、怯懦なる三代將軍の政府によつて、我が國民は我が力を我れみづから束縛する鎖國制度の下に置かれた。後篇にいふやうに享保以後に於ける文化の停滯も、その一原因はこゝにある。平安朝文化が道長以後に退歩したのも、徳川の代の文化が元禄に於いて既に頂點に達したのも、畢竟は同じことで、一は山で取り囲まれた狹い京の天地に小さくなつてゐて國民から離れ、他は廣い海洋によつて世界から隔てられた日本の島に小さく立て籠つてゐたからである。たゞ前者が退歩したのに、後者が停滯しながらともかくも常に幾らかの新しい色彩をつけて行つたのは、文化の社會が少數の貴族でなくして多數の平民であり、また些少ながらも長崎の關門から斷えず世界の刺戟を受けたためである。
 
 さてかういふ性質を有つてゐる元禄文化の花は、富の集るところに最も多く咲き榮え、自由な活氣ある社會に最も盛であつたことは、いふまでもない。だからその中心はやはり都市、特に商業都市にある。しかしこれは必しも富商の輩ばかりがその保護者であつたといふのではない。文藝に於いてもそれは知られるので、徳川の初世には、浮世繪(94)とても主として金屏風や繪卷ものの大規模な形に於いてせられ、從つてその所有者も富人に限られてゐたらしいが、師宣や祐信は何人の家をも飾ることのできる小品を多く作り、特に木版彫刻の術が進歩して彼等がその筆のあとを廣く世に傳へるやうになると、富なきものもまたそれを翫賞することができる。書物の版行が盛になつたために、手寫でのみ傳へられた昔とは違つて、知識が廣く世にゆき渡るのと同樣である。從つてその題材も前には主として貴族や富豪の遊樂の有樣などであつたが、このころでは師宜や祐信の種々の繪本に見えるやうに、あらゆる階級のものを網羅し、東家西家の些事を畫き、市井の有樣を寫し、また時には工人の勞働状態をも描くやうになつたので、そのために遊樂の圖を指してゐた浮世繪といふ名稱の意義が變つて來た。(商賈や勞働者の生活状態を寫す風俗畫は、室町時代の繪卷ものから系統を引いて、江戸時代初期の屏風繪にも少からず見えてゐるが、それは本來浮世繪とは呼ばれなかつたらうと思はれる。)歌舞伎や淨瑠璃が決して富豪の專有物でなかつたことはいふまでもない。
 元禄の文化が富豪の專有でないと同樣、大都會に限られてゐたのでもなかつたことは、上に述べた如く諸國の船つきや城下が商工業の地方的中心であつた經濟上の状態からも、おのづから推知せられる。また純粹の商業市たる室、下の關、博多、丸山、古市、敦賀、などの花街が繁榮し、歌舞伎の役者や淨瑠璃の太夫が常に地方を巡業し、それを一種の練習としてゐたことは、遊樂の方面に於ける地方市府の状態を語るものであり、やがてまた一般的にその文化の程度を暗示するものである。「國に移して風呂釜の大臣」(永代藏卷三)といふやうな物語の作られたのもこの故であつて、田舍に入つて見ても「諸國ともに三十年此方世界の繁昌、眼に見えて知られたり、藁葺の所は板廂となり、月泄るといへば不破の關屋も今は瓦葺に白土の軒も見え、内藏庭藏、大座敷の襖にも砂粉は光を嫌ひ、泥引にして墨(95)繪の物好き、都に變るところ無し、」(胸算用卷五)といはれたのも、一面の觀察としては事實にあたつてゐるのであらう。各地の工藝品の需要なども都會ばかりにあるのではない。
 しかし政治上に於いて封建諸侯の勢力の根據が地方にあり、特に外樣大名に於いてはその政治にもそれ/\幾らかづゝの特色があるとは、少しく趣がちがつて、文化、特にその精神的方面に於いては、地方は概して都會に從屬してゐたのである。流行の本源は勿論都會である。文藝はすべて都會に發生し、都會的題材を以て都會的氣分を寫してゐる。學者の事を成すのもまた京大坂または江戸の如き都會に於いてしなければならぬ。このころにはまだ、次の時代のやうに地方に鬱然たる大家があつて、それが天下に重きをなすといふまでにはならなかつた。たゞ長崎に幾らか毛色の變つたものがゐたのみである。しかし文藝の愛好者は廣く地方にあり、特に俳諧の如きはその作者が全國にゆき渡つてゐた。だから文學のこの一形態、特に蕉風のに於いては、題材も純粹に地方的のものが少なくない。また學者の出身地が概ね地方であるのが、全國に文藝や學問の空氣が廣がつてゐた故であることは、いふまでもない。勿論地方によつて文野の差はあるので、概していふと關東以北は關西に劣つてゐ、學者でも名のあるものは多く関西出身である。種々の物産、特に精巧なる工藝品、の産地が關西に多いのもこれと同じ現象である。
 地方にょつて文野の差があるといふことを考へたついでに、江戸と京坂との差異について一言しておかう。徳川の初世に於いては、武士の都の江戸も、平民の天下である京坂も、文化上さしたる懸隔は無かつたらしい。戰國の世では武士が概して知識人であり、工藝品なども多く武家の需要を充たすために作られ、商業も武人を中心として行はれてゐたが、徳川の代の初めにはこの状態がそのまゝ繼續してゐた上に、江戸城の經營や諸大名の邸宅の建築があり、(96)それがために商工業は一時江戸に集中せられたやうな觀さへあつたからである。文藝についても、かの可笑記にさへ「東の侍は佛道儒道歌連歌詩作など、よくこそは知らね、少しづゝは百人の中七八十人は心得申候、」といつて、却つて上方衆にその嗜みのないのを非難してゐる一節がある。これは侍といつても上流のもののことであらうし、また少し言ひ過ぎでもあらうと思はれるが、江戸の武士が知識の點に於いて上方ものに劣つてゐなかつたことは、ほゞこれで知られよう。武士でない商人の社會とても同樣であつたらう。江戸の商人が各地方から集つて來たものであることは、恰も大坂がさうであるのと大差が無く、從つて彼等の文化の程度もほゞ似たものであつたらしい。全體から見ても羅山の始めて幕府に仕へたころには學問に於ける江戸の地位も必しも京に劣らず、上方に起つた歌舞伎も江戸で演ぜられ、箏曲の元祖だといふ柳川檢校八橋檢校などはこゝに居り、淨瑠璃に至つてはこゝが本場となつてゐた。概していふと新に江戸が政權の中心となつたために、あらゆるものがこゝに集らうとした傾向がある。
 が、これは寛永以前のことである。工藝などの方面に於ても、世がおちついて來て京の繁榮が囘復せられると共に、何といつても歴史的素地のある上方に技術の優秀なものが出るのは、當然であつて、江戸に下つてゐるものは、それに追從し難い點があつたらしい。特に平和の固まると共に學問文藝が興隆し、京を中心として上方には急速にそれが發達して來たのに、江戸の進歩はそれに伴はず、從つてこの點に於て京坂の下位につくやうになつた。平民文藝に於ては、勿論平民の都の京坂が優勢になる。儒學でも京には新説を唱へる學者が輩出したのに、江戸にはそれが無かつた。山鹿素行はゐてもむしろ兵學者として視られてゐた。さうして林家は官儒として徒らに高く標置してゐた。和學でも上方では長流契沖の新しい研究家が出るやうになつたが、江戸にはさういふものが出にくかつた。繪畫でも京狩(97)野の一流がむしろ平民的傾向を有つてゐて、その外に浮世繪も盛に行はれたのに、幕府に抱へられた狩野家は貴族的になつてしまつた.新しく開けた江戸が固まつてしまつて、古い由來のある上方に新しい運動が連りに起つたのである。これは何故かといふと、一つは新しい運動を生み出す素地が古くからの歴史のある上方には養はれてゐたのと、同じ意味に於いて上方が一體に文化の程度の進んでゐる中國西國地方を背後に控へてゐたとのためである。江戸は全く新しい都であり、また周圍の地方の文化が關西に※[しんにょう+向]かに及ばない。しかし上方をして奮い根から新しい芽をふき出させたのは、そこが政權の中心を離れた自由な平民の都で、且つ平和の事業の中心だからではあるまいか。江戸はこれに反して固定主義の武家政治の本據であつて、自由の雨露に乏しい。特に平和が續いて來ると、上方には富が集つてゐるのに江戸にはそれが無く、また上に述べたやうな事情で平民の知識的活動が旺盛になつてゆくに反し、武士はそれに追從することができなかつた。その武士に壓迫せられ勝ちの江戸の學問文藝が上方に及ばないのは當然である。だから元禄時代になつて、幕府が京から新に和漢の學者などを招かなくてはならなくなつたのは、江戸が文化の上に於いて京に屈服したのであつて、言ひ換へると武士が平民の前に頭を下げたのである。茂睡や徂徠や、新説を唱へるものがこの時になつて江戸に出たのも偶然ではなく、畢竟江戸が平民化して來たのである。
 けれども江戸に於いても、そこに植ゑつけられた平民文藝の苗は決して枯れはせぬ。概していふと京坂には及ばず、特に文學や繪畫などに於いてさうであるけれども、歌舞伎淨瑠璃のやうなものは漸次江戸の特色を發揮し、さうしてそれが平民文藝の本場である上方と相應じ、また互に相影響して、次第に發達して來る。その間におのづから共通の時代精神、元禄趣味、は現はれてゐるが、直接に市民の氣分の反映せられてゐる平民藝術に於いて、江戸と上方とに(98)それ/\特色のあるのは當然である。もつと仔細に考へると、おちつきのある古風な京と、どこまでも活?で進取的な大坂との間にも區別はあつて、それが學者と妾との産地で古代文化の片影が微かに遺つてゐる京と、商人の大坂とを表象し、武士を中心とする江戸に對して、いはゆる三都の特色を形づくつてゐるのである。當時の遊蕩兒の理想であつた京の女(一種の修養を經た人體美及び容儀)と、江戸のはり(武士的の意氣地〕と、大坂の揚屋(金錢を以て求め得られる遊樂の機關の整頓)と、それに加へるに長崎の衣裳、即ち唯一の外國貿易地として舶來品の潤澤を示すものと、を以てするのも、またそれを示してゐるので、文藝の上にもそれが現はれてゐる。
 しかし江戸を中心としてゐる武士とても、特殊の學問などについてこそ無頓着であれ、彼等もまた何等かの文藝を要する。けれども彼等自身はそれを作り出す能力が無いから、この點に於いては平民の間に發生したものを享受する外は無い。俳諧などに遊ぶものも多く、内藤露沾などその道に名高いものもある。歌舞伎や操が將軍や諸大名に喜ばれたことは前卷にも述べておいたが、綱吉も桂昌院も操を見たといひ(後は昔物語〕、尾張侯及びその他の大名に歌舞伎を好んだものは多い(隣の疝氣、老の樂〕。一般の武士はいふまでもなからう。その妻女とても同樣である(昔々物語)。彼等みづから淨瑠璃三味線を學ぶものさへ多かつた(同上)。幸若舞などの廢れたのは自然の勢である(春臺獨語參照)。浮世繪などは身分の上下を問はず愛翫せられたに違ひない。もつとも、武家貴族は、歌舞伎役者は勿論、俳諧師や浮世繪師を尊重はしなかつた。けれどもそれは紀文や奈良茂でも同樣であつて、武家貴族が特に平民藝術家を賤んだのではない。江戸の平民文藝は是に於いてます/\盛になつてゆくのである。
 ところが、その平民文藝の中心が上方にあるとすれば、武士の趣味もまたそれに伴つて上方化する。何れにしても(99)平民の勢力が武家を壓倒したのである。昔氣質の武士は何時もそれを非難するが、さりとてそれに代るべきものを武士自身が作り出さない間は、如何ともすることができない。武士はその力によつて、平民文藝に何等かの新要素を附け加へることすらできなかつた。文藝のみではなく、武士の日常生活に用ゐられる調度や裝飾品等に於いても同樣で、大名などはこれらのものを多く需要する點に於いて、民間の富豪と同じく工藝の隆盛を助けてはゐるが、しかし彼等は商賈の徒と異なる特殊の趣味を有つてゐるのではなく、すべて平民たる工藝家のなすに任せてあるから、新意匠や新工夫を以て工藝の進歩に貢獻するといふやうなことは無い。一二の好事家は彼等のうちにも無いではないが、それとても平民の間に同じ種須のものがあるのと同樣である。また一般の武士及びその家庭に至つては、その服裝などに於いて花街や戯場から來る流行に從ふことは、平民とさして異るところが無い。風俗上の流行の源泉は常に市井の間にある。
 
 以上著者は元禄文化の特質を考へて、それが都市を中心として、平民の力によつて平民の間に發達したものであること、全體に濶達な調子を具へてゐること、を力説した。しかしそれには固よりその缺點がある。同じく平民ではあるが國民の大多數を占め國民生活の根柢をなしてゐる農民が、概してそれから疎外せられてゐること、農業そのこともさして進歩せず、また質實な生産業も彼等によつてさしたる發達をしなかつたこと、從つて當時の文化が全體としての國民生活の眞の發展を示すものではなくして、むしろ都市生活をなすものの贅澤を表象するに過ぎないといふ傾きのあること、その形に現はれたものは主として裝飾的な工藝品や輕い娯樂的文藝であること、從つてそこに放縱な(100)不健全な分子の含まれてゐること、富あるものは多くその富を逸遊の資として費し、甚しきに至つては一時の豪華を快とする風があること、などがそれである。知識が實生活と隔離してゐるといふ當時の文化の大なる缺陷については、眈に前に述べておいた。
 なほ藝術などに現はれてゐる當時の文化の一缺點を擧げると、それが公共的性質を帶びず、どこまでも個人が私室に於いて玩賞すべきものであるといふことも、その一つである。三絃曲が室内的のものであることは勿論である。歌舞伎や淨瑠璃は公衆あひてのものであるが、それでも音曲としては座敷淨瑠璃が現はれ、その方が上品なものと考へられた。後にいふやうに檢校などが淨瑠璃語りを賤むのは、一つはこゝにも原因があらう。劇場に關係の無い音曲がすべて室内的のものであることはいふまでもない。造形藝術に於いても同樣であるが、甚だしきは茶室のやうなところでなくては取扱へないやうなものがある。彫刻などでも、根つけとか目貫とかいふやうな携帶品、置きもののやうな室内の裝飾品、に限られてゐるではないか。次の時代になると工藝品などに於いても親しく手に取り、幾度も熟視するに及んで次第に妙味の現はれて來るといふ性質のもの、いはゆる底光りのする、或はしぶい、ものが尚ばれ、それが横みちに入ると畸形なものが好まれるやうになる。音樂に於いて河東節などの現はれるのもその好例である。が、このころにはまださういふ趣味は?達せず、小さいものでもむしろ精巧なものが喜ばれてゐる。劇場などですらその觀覽の方法に於いて、動もすれば私人的であつた彼等、野外に花を觀る時ですら、幕を張り廻しておのれらのみの小さい世界を廣い天地の間に造つてゐた彼等、公衆の前に豪華を誇つても、公衆と遊樂を共にしようとは思はなかつた彼等、藝術品とても秘庫に深く藏して人に示すを好まなかつた彼等、正當な意味で社交といふものを有たなかつた彼(101)等には、これが當然のことであらう。
 けれどもこの缺點は、商人に勢力をもたせるやうになり、さうしてそれとは反對に、多數の農民の生活を貧弱ならしめ、彼等の正當な生活の欲求を抑へ、彼等の獨立心自重心を養はせないことになる武士本位の政治、國外に對しても國内に於いても、國民がその力を自由に伸張することの許されない鎖國制度、階級制度、人々の財産の安固さへ十分に保護せられない武斷政治主義、また國民自身の意思と能力とを尊重せず、國民の公共生活を發達させない武人的專制政治、封建制度、家族制度、の時代に於いては、已むを得ないことであつて、更に根本的にいふと畢竟戰國時代から馴致せられた一種の軍國主義の結果である。平和時代の國民生活は多方面であるのに、武人が武力のみを以て世を支配した戰國時代の状態をそのまゝに維持して、武人を社會の中心とし一切の政治を武事のために集中するといふ社會組織と政治制度とのためである。
 けれども經濟組織が今日のやうでなかつたため、都市の住民と農民との利害の衝突がよし幾らかは無いでもなかつたにせよ、富者と貧者との間に階級闘爭が生ずるやうな傾向は少しも無かつた。また政治が治安の維持の外には殆ど無かつたため、財力が濫りに政治を動かし政治家が富者に媚びるやうなことも無かつた。一面からいふと、富の力の外に武士の權威があつて、それが重んぜられてゐたといふことが、富の力をして跋扈せしむるに至らなかつた幾らかの原因となつたかとも思はれるが、他面ではそれがまた富の不自然な消費を激成したといふ事情もあるから、その功過の何れが多いかは容易に判斷ができぬ。金力が吏職にある個人としての武士を腐敗させたことさへ甚だ多い。畢竟武士の權威が彼等の人格の力ではなくして、武士といふ地位によつて生ずるものであるから、さういふものが社會に(102)好影響を及ぼさないことは當然である。
 或はまた元禄のこの文化は、形の上に於いて平民の勝利を示し人の威力を發揚したものではあるが、それは無意識の間に行はれたことであつて、自覺して努力した結果ではない。だから思想としては、概して社會的拘束と因襲の抑壓とを脱することができなかつた。事實上内部から徐々に武士の權力と封建制度階級組織世襲主義とを崩しつゝあるけれども、政治的秩序に於いて武士は嚴として存在し、封建制度も階級組織も世襲主義も依然として國民を羈束してゐるからである。しかし抑壓とか羈束とかいふのは今日から考へたことであつて、當時の思想ではない。當時に於ける國民の多數は、それを拘束と考へず壓迫と感ぜず、從つてその壓迫を排しその拘束を脱しようとする内心の要求が無かつた。世は平和であり、さうして人はともかくも生きてゆかれたからである。今人は當時の人のかゝる態度を評して人としての權威の自覺が無かつたといふかも知れぬが、さういふ自覺が生じなかつたのは、實は羈束と抑壓とがさまでに強くなかつたこと、すべての人がともかくも生きてゆかれたこと、を語るものであらう。けれども羈縛があつたには違ひない。さうしてそれがために、放縱な歌樂の追求にも背後に重苦しい氣分が伴つてゐることは、免れなかつた。このことは文藝の上にも現はれてゐて、表面は奔逸で花やかであるが、その根柢には一種の抑へられた調子がある。さうして時には、人間性の内的要求と社會的因襲との間の矛盾を、それとはなしに感知しなければならなかつた。戯曲などの主題となつてゐる種々の葛藤も、今日から見れば、一面の意味に於いては即ちそれである。のみならず、現實の生活とは遙かにかけ離れてゐる古代を崇拜し古文學を尊尚する思想が、種々の形に於いて到るところに存在してゐる。さうしてこの古典崇拜と束縛せられた社會生活から生ずる特殊の氣分とが結合して、一種の隱遁思想(103)をさへ助成してゐる。
 
 ところで、綱吉を將軍としてゐる幕府の政治は、かういふ性質を有つてゐる文化の上に如何なる關係があるかといふに、學問好きの將軍は前代からの文治主義を一層進展させて、ます/\戰國的氣風を排除し去らうとしたらしい。綱吉は残らかの才智もあり英氣もあつて、常にみづから用ゐるを好む性質の人であつたらしいが、その力は主として文事の上に向けられたやうである。彼はみづから書を講じて得意氣であつたといふ。それは勿論お大名藝であつて、彼に於いては、將軍として特殊の經綸があるでもなく、また將軍たるものをして國故に深く思を致させなかつたほどに徳川の權力の固まつてゐた時代でもあるので、それによつてその才能を顯はし、また消閑のよすがを得たに過ぎないのである。さうしてこのことは大名や旗本のためには頗る幸であつた。好んでみづから訴訟を裁斷し臣下に對して頗る苛察でもあつたらしい彼に、學問といふ玩具でも無かつたならば、その專制的手腕はかなり亂暴に揮はれたであらう。彼が神代卷や大原談義の講義を聽いたり、禅僧や儒者に問答や論議をさせたりしたのは、家康が天海や梵舜に道を問うたのとは違つて、純然たる遊戯的動機から來てゐるので、能を好んでそれを演じたのと同じである。
 けれどもその遊戯が武事に於いてせずして、かゝる方面に於いてせられたのは、時代の趨向によつて導かれた彼の嗜好であつたので、彼が將軍の地位にゐただけ、同じ精神は幾らかは幕府の施設の上にも現はれた。天和の武家法度に戰國的精神が衰へてその代りに文治的教訓主義が著しく強められてゐるといふことは、上にも考へておいた。戰國氣質の遺物である神祇組の遊?兒が罰せられたのもこの時である。下婢を手打にしたのを不仁の行だといふので切腹(104)させられた旗本もあるが(常憲院實記元禄十六年二月の條〕、かういふことは戰國武士に於いては普通のことであつた。儒者の「仁」の教もかゝる時代には人の耳に入り易かつたであらう。やかましい生類憐みの令の如きも、その動機が何處にあつたにせよ、鷹狩などを好んだ戰國的の氣風と反對である點に於いて、この文化史上の大勢と全く無關係だとはいはれまい。もつともその實行に當つては、いはゆる獣を率ゐて人を食はしむる暴惡の政となつたので、そこに殘忍な行を敢てし人の生命を輕んずる武士的氣風が遺つてはゐる。前に述べた如く、元禄ごろには衆道の騷ぎが無くなり「ためしもの」なども行はれなくなつてゐたといふのでもわかるやうに、一般の風俗として戰國的氣風の失はれてゐたことを考へねばならぬ。戰國の民は漸く太平の民となり、人を殺すを職業としてゐた武士が、人として生きることを考へかけて來たのである。それを文弱として非難するものもあつたが、このことについては既に前に述べておいた。後になつて幕府が刑罰に耳鼻をそぎ指を切るやうなことを禁じ、連坐の制を廢したことなども、やはりこの趨勢の持續せられたものと見られる。
 しかし綱吉のしたこととして特に目に立つのは、公家の儀禮によつて表徴せられてゐる上代文化の遺風を尊崇したことである。既に述べた如くこれもまた、武家が公家貴族と婚姻するといふやうなことにも現はれてゐる當時の一般の風尚であり、特に學問が起つて知識の上で古代に親しむことが漸次深うなると、衰へてゐる今の公家の有樣に對照して、盛りであつた昔の光彩が特に美しく眼に映り、從つてそれを懷かしむ情も起り、更に一歩進むとそれを復興してみたくもなる。水戸の禮儀類典の編纂にもかういふ思想が潜在してゐたのであらう。さうしてそれが公家自身の間に生ぜずして武家から起つたのは、公家に實力が無かつたためでもあるが、また彼等が衰へたとはいへなほその遺風(105)を傳へてゐて、それをおのれらの唯一の誇りとしてゐたからでもあらう。ともかくも幕府は京の樂人の幾人かを召しよせて樂部を形づくらせる。古い土佐繪の系統を繼承してゐる住吉具慶や和學者の北村季吟を登用する。寛永寺根本中堂の供養を勅會として古風な儀禮を行はせる。根本中堂の建立そのことも、篤い信仰から出たよりは、むしろ古い名稱を有する華麗なものを建てようとしたところに、その主要な動機があつたらう。元禄四年の大成殿の釋奠の時や、寶永二年に吉保の邸で和歌披講の式を行つた時に、林家の門人や吉保の家臣に六位の袍をつけさせたなども、同じ思想から來てゐるので、後の白石の禮文主義はそれに一歩を進めたものに過ぎない。かういふ綱吉が、葵祭またはその他の古禮の復興のために力を致したのは、怪しむに足らぬ。しかし古い儀禮は如何に美しく眼に映じても、畢竟儀禮であつて、現實の生活、現實の權力、を表徴したものではない。武家のそれを喜んだのも實はこれがためである。(のみならずかういふ儀禮には權力の伴はないことが必要である。然らざれば古風な儀禮が世情を緩和し潤色するのではなくして、却つて社會を窮屈にして人心を壓迫する。)吉保がその妾に擬古文で松蔭日記を書かせたのは、榮華物語の主人公を以て自ら任じたのかも知らぬが、それもたゞ文字上の遊戯であつて、微賤から身を起したものが門地を以て誇つてゐる公家の女に箕箒を執らせるに至つた元禄時代の社會状態は、かゝる日記のよく寫すを得るところでない。それと同じくかゝる儀禮の行はれたために昌えた如く見ゆる技藝などは、國民文化の上に寄與するところが甚だ少かつた。宗教的のものについては既に前に述べたが、擬古的の繪畫や文學も概してそれと同樣であつた。だから概言すると、これらのものはたゞ外面的に太平を粉飾するに過ぎないものであつた。上代文化を尊尚する情があつても、それに潜んでゐる上代人の生活態度またはその精神、を復活しょうとするのではなかつた。
(106) だから、前に述べたやうな平民の文化はこれがために何等の壓迫を蒙らず、自由に發達することができた。のみならず、將軍のこの態度は太平の世の風潮と相應じて、一般に華美な生活を好む武人の風尚を一層盛にし、江戸の京都化を強めた傾きがあり、それが直接には商工業を賑はせ間接には逸遊の氣風を高めてます/\都市の繁華を加へ、前から述べて來た文化の趨勢を更に進めていつたのである。儉約令や儒教的教化主義は勿論空文に過ぎなかつた。けれどもそれがために一方では武家の生活をいよ/\困難ならしめたのみならず、幕府の財政をもまた窮迫させた。荻原重秀が連りに新税を起したり、家人をいためてまでも歳出の減少を計つたりしたのは、これがためであるが、最後に行つた惡貨鑄造は却つて物價の騰貴を誘ひ、武家をして一時收入の増加を夢想せしむると共にその生活費を膨脹させ、さうしてその結果は一層彼等を困厄に陷れたのである。幕府の財政もまたこれらの彌縫策によつて決して豐かにはならなかつたので、上に説いた財政上の根本缺陷が、こゝに暴露せられるに至つたのである。重秀は當時非難の的となつてゐたが、それは彼のためには幾らか氣の毒でもあるので、到底維持のできない財政を無理に維持しようとすれば、何人がその任に當つても、何れの方面かの非難を免れることはできないに決まつてゐる。但し彼がこの財政策を利用して私曲を營んだといふやうな話の實否は、別の問題である。
 綱吉の後を承けた家宣も、さし當つて前代の秕政を改めたことは勿論ながら、大體はその前代の方針を維持して、一層強く麗文政治主義を推進しようとした。萬石以上のものに悉く任官をさせ、五位以上のものに狩衣を布衣の侍に六位の袍をきせ、四足門を建て、近衛基煕を顧問として麗法を制定しようとしたなど、百年にして麗樂起るといふ儒教思想にも助けられてはゐるが、概していふと綱吉時代の傾向に一歩を進めたものである。新制の武家法度が儒教風(107)の教化政治主義を表面におし出して、戰國的政策を殆ど痕跡ばかりに殘しておき、その文體までも建武式自以來の慣例を棄てたのみならず、その句解に王朝時代の法令などを引用してゐるのは、武家の特殊の地位と戰國以來の政治主義とを抑へ、半ばは公家の遺習により半ばは異國の思想によつてそれを修飾しようとしたのである。稱呼を正し文字の用法を改めるなども、實際政治の上の必要からではなく書物の中から得て來た思想を實現しようとしたのである。韓使禮遇問題なども、白石が躍起となつて論議したほどに切實なことではないので、畢竟は現實の關係が薄いから、徒らに儀禮を爭つたまでである。(かういふ論議の好きな朝鮮人をあひてにしてのことと思ふと、頗る滑稽でもある。)白石の政治思想についてはこゝには述べないが、ともかくも彼を顧問とした正徳の政治は、質よりもむしろ文を先としてゐた。長崎貿易に關する白石の施設や、それを立案し實行するまでの用意を見ると、彼は實際的政治家としての資質をもつてゐたやうであり、且つその歴史研究と一種の考證的な學風とによつて推測すると、儒者一流の空論癖をもたなかつたらしく考へられるが、その白石ですら國民生活の充實と發展とを期するよりも、禮文を以て社會の秩序を整へることを主としたのは、民を治めるといふことを目的としてゐる儒教的政治主義の現はれであつて、知識社會に及ぽした儒教の影響の好ましからぬ一面を遺憾なく語るものである。さうしてそれが、王朝の制度を標準とし公家を規範とした點に於いて、幕府の存立の根本が朝廷にあることを示したものであるから、白石自身は幕府のために計畫したにかゝはらず、前に述べた公武の關係の問題がそれにからまつて生じ得る。しかしこれは幕府政治の本質に關することではあるが、當時に於いては、實際政治についてさういふ問題の起されるやうなことは無かつた。彼の反對者は、かゝることよりもむしろ目に見える服裝などの點に於いて、白石が武家を公家化しようとするといふ非難をし(108)たのであるが、これは實は前に述べた如き幕府の從來の方針を一歩進めたまでのことである。吉宗の代になつて一切を綱吉時代の状態に復原させたのは、偏狹な黨派心のしわざである。吉宗の主義からいへば少くとも慶長元和の古に復さねばならぬ。
 また正徳の政治は、これまで幕府の大問題であつた財政と家人の救濟とについては、殆ど手を觸れなかつた。白石は武家の困窮は天下全體の困窮ではなく、家人を救濟するはよいけれどもそれにもおのづから方法がある、といつてゐる(正徳三年の建議)。これは固より活眼であるのみならず、生活程度の高くなることをも是認してゐる點に、俗流の追從し難い達識が見えるが、しかし何故に武家が困窮するかといふ根本問題の觀察は、甚だ徹底しないものであり、またさし當つて幕府の財政を如何にすべきかといふことにも、さして重きを置かなかつたらしい。その上に彼の禮文主義は、奢侈を斥けると共に過度の節儉をも排するのであるから、從來の如く實行のできない儉約令を出すことなどを考へなかつたのは勿論である。けれども幕府の財政は依然として逼迫し、家人の多數はやはり困窮してゐるのみならず、諸大名とても概して同樣である。その上に全國の武士を通じて戰國的氣風の薄れてゆく趨勢のます/\甚しくなる當時の状態は、その戰國の遺習たる封建制度の根柢を脆弱にし、武士本位の政治を内部から腐蝕させ、從つて幕府の權力を動搖させるものではないか。幕府は早晩それを何とかせねばならぬ。お鷹公方吉宗の逆轉政策は是に於いてか生まれたのである。吉宗は文治主義の漸次進んで來て白石に至つて極點に達した從來の幕府の方針を一變し、武士の生活を戰國時代の昔に復さうとしたのである。しかしさういふことが果して實行せられたであらうか。それを唯一の方策として、またそれを徹底的に、主張することすらもできたであらうか。さうしてまた彼の政策が所期した(109)如き結果を齎したであらうか。著者は次の篇に於いて詳しくそれを觀察しようと思ふ。
 
 要するに、この時代には鎖國制、封建制、階級制、世襲制、軍國主義の政治制度、武士本位の社會組織、といふやうな人爲の規制と、國民がその生活を高くし豐かにし、また自由にその能力を伸長しようとする、人としての自然の欲求との矛盾、戰國の遺習と平和の精神との背馳があつて、概していふと、後者が漸次前者をその内部から破壞してゆきながら、一方ではなほ前者が後者を壓服してもゐるので、その間の衝突と交讓と爭闘と妥協とが、この時代の文化のすべてを支配する根本の調子である。さうして元禄の世は後者の勢力の最も著しく顯はれた時代、また或る意味からいへばそれが殆ど絶頂に達した時代であるので、前者の羈束の存在してゐるがために、その上の發展が抑止せられたのである。さてこの根本の精神は、如何に當時の文學とそれによつて見ることのできる國民の思想とに現はれてゐるであらうか。これが次章からの問題である。
 
(110)     第五章 文學の概觀 一
 
       總論 上
 
 著者は前篇に於いて、戰國時代から江戸時代の初期にかけて、政治の上また一般文化の上に平民の力が漸次現はれて來たにつれ、文學の上にも同じ現象が見えることを述べ、一方にはなほ室町時代の遺物たる謠曲舞曲や物語やまたはその系統に屬する淨瑠璃説經の臺本が、改作乃至新作せられてゐたにかゝはらず、他方では連歌から一轉した俳諧の連句發句や狂歌が起つて來たと共に、古い貴族文學の摸倣の間から、随筆や紀行名所記などの形に於いて、清新な寫實文學の端緒が開かれ、また新しい俚謠が現はれ、それと民間の踊とを結びつけた歌舞伎が生まれた、といふことを説いた。勿論その傍には歌や連歌の擬古文學も殘つてゐて、江戸時代の初めになつても依然としてそれが行はれ、貞徳はいふまでもなく、かの宗因の如きもその初めは連歌師として世に立つてゐたのであるが、彼等もまたその主なる努力を俳諧に向けたほどに、平民的傾向が文學界の主潮となつたのである。なほ社會的にいへば、平民の知識が一般に進歩し、印刷術が次第に進歩し、交通の便が加はり商業が發達したにつれて、書物を弘める機關もでき、文學が平民の間に普及せられる状態となつたので、ます/\この傾向が強められたのである。都會には怪しげな俳諧の點者が輩出したり、遊女若衆の細見または役者評判記のやうなもの、或は辻賣の繪草子とか讀賣祭文とかの類、が次第に現はれたりしてゆくので、さういふ一般の空氣が平民文學の生れ出る素地ともなり、また知識に乏しい階級のものを導いて漸次文學の門を覗はせる一誘因ともなるのである。世態や時事問題に關して、古典をもぢつた斷片的の文章や(111)落首などが多く坊間に現はれてゐることも、またこゝに附記しれよからう。
 さてこれらの平民文學の中で第一に人の注意をひくものは俳諧であるが、これは典型の定まつてゐる歌連歌とは違ひ、如何なる眼前の事物をも採つてその題材とし、また自由に日常の口語を用ゐることができるので、そこに新時代の新文學として發達するやうになつた理由がある。たゞその發生の事情からいふと、連歌の形式を學んだものであるだけに、古典文學から全く離れたものではなく、漢學の流行につれてシナ文學から新に供給せられる資料をも加へてゆき、また貞門談林から蕉風に至つて作風も常に變化し、人生と社會とに對する態度も一樣ではないが、何れも世と共に推移したもの、或はまた時代思潮の異なつた方面を現はしたものである。のみならずこの俳諧は、他の方面に於いても新しい文學の形式を發生させる重要の誘因となつた。隨筆や名所記を書いたものも、多くは俳諧師もしくは俳諧に親しみを有つてゐたものである。可笑記の著者如儡子の經歴はよくわからぬが、誰が身の作者山岡元隣は季吟の門人、京童の著者中川喜雲は貞室の弟子である。了意は俳諧師といふべきものではなかつたらうが、俳諧に親んでゐたことは、東海道名所記などに狂歌と共に俳句を多く載せてゐるので知られる。(以下近ごろの用語例に從つて俳諧の發句を便宜上俳句といふことにする。)
 勿論、昔の文筆に携はるものがみな歌を詠んでゐたと同樣、このころの平民文士に俳句を作らないものは無かつたといつてもよいほどであるが、浮世草子の作者を見ても、西鶴が宗因の高足であることはいふまでもなく、錦文流も俳諧僧と自稱し、都の錦も季吟門だといふから俳諧の門外漢ではあるまい。それから北條團水は西鶴門であり、下つては立圃門の青木鷺水、淡々門の多田南嶺、みな俳諧に於いて明かな師承を有つてゐる。さうして後にいふやうに、(112)浮世草子に多量の古典趣味があること、また名所記の遊里や劇場の描寫には、そのまゝに浮世草子と稱へてもよいやうなものがあること、浮世草子の形態が主として隨筆式ともいふべき斷片的の説話の集合であること、並に西鶴の作でもすぐに判るやうに、その説話の標題に俳句から轉化したらしい一種特殊の趣致を具へてゐるもののあること(西鶴の三代男や梅薗堂の元緑太平記のは概ね七音二句であり、都の錦の元禄曾我では標題とその小書きとが全く發句と脇との形になつてゐるし、その上に浮世草子の世間の見かた題材の取扱ひかたが、或る點に於いてやはり俳諧と類似してゐることは、浮世草子が隨筆や名所記の類から發達したものであると共にまた俳諧との間に密接の關係があることを、示すものである。
 俳諧と浮世草子との外に文學として取扱ふべきものは、第一に偶人劇の臺本たる淨瑠璃を擧げねばならぬ。次には歌舞伎とその歌舞伎に用ゐられまた遊里に多く行はれた三絃曲の詞章とをも、眼中に置かねばならぬ。偶人劇と歌舞伎との平民演藝は、了意などに端緒を開いた浮世草子の平民文學が現はれるよりも、はるか前から世に行はれてゐたが、それは、文學的製作には少くも幾らかの知識を要し、從つて過去の因襲を脱し難いのに、これらの演藝は民衆の間から發生して來たものだからである。けれどもその偶人劇に於いても語るべき臺本に至つては、やはり新思想によつて新作を出だすことは容易でたいので、初めのうちは從來の舞曲やその改作で滿足してゐなければならなかつた。歌舞伎はその性質上、古文藝の束縛を蒙ることの少いものであるが、漸次重きを置かれるやうになつた物まねの方面では、その筋を立てるに舊い狂言を基礎としなければならなかつた。これらは恰も小説に於いて、恨之介とか薄雪とかいふ室町時代戰國時代の物語の繼續ともいふべきものが、作られてゐたと同樣である。さてこれはほゞ寛永ごろ(113)までのことであるが、寛文のころに淨瑠璃が上方に復興するやうになると、その詞章も漸次面目を改め、歌舞伎も同じころの野郎歌舞伎時代から、狂言の羈絆を脱した新しい寫實劇が現はれ、後に述べるやうにこの二つが互に影響しつゝ發達して、遂に元禄の近松を産むに至り、江戸でもまたそれに刺戟せられ、京坂とは異なつた色彩を帶びつゝ、ほゞ同樣の經路を取つて進んだ。だから淨瑠璃及び歌舞伎がおの/\新時代の演藝としてその特色を發揮したのは、やはり了意などに始まつた浮世草子と同時代のことである。
 但し淨瑠璃には、近松などに於いてすらなほ舞曲や軍記物語などの面影が消え果てはせず、その正本は一種の讀みものとして取扱はれても支障の無いものであり、また事實さうも見られたらしい。いはゆる景事や道行きや、または七五調とか故事成語を用ゐる修辭の法とかは、偶人劇そのものからいへばさして必要なものではなく、かゝる詞章の謠ひもの乃至語りものとしての樂的效果からいつても、價値の甚だ疑はしいものである。それにもかゝはらず作者がかゝることに苦心するのは、畢竟舞曲や物語からの歴史的因襲があるためである。この點に於いて、浮瑠璃の詞章の前代文學に對する關係は、浮世草子よりは遙かに深い。浮世草子にも、西澤與志の作または後期の八文字屋ものになると、脚色のある昔の物語風のものが現はれて來たが、これは主として淨瑠璃及び歌舞伎の影響らしい。また歌舞伎の狂言は、その初期に於いては脚本を世に出すことが無かつたが、いはゆる續き狂言が發達して來た元禄時代になると、淨瑠璃の正本に倣つて出版したらしい筋書が世に現はれたので、これも一種の物語めいたものとなつた。もつとも筋書に過ぎないから、それを直ちに文學的作品として取扱ふことはできない。當時の舞臺で演ぜられたものが、そのまゝ詞章として遺つてゐるのは、踊または所作に伴ふ三絃曲のみである。
(114) ところが操や歌舞伎に於いては、直接に觀客の耳目に訴へるものは、淨瑠璃の太夫や俳優であるから、その作者の如きは、初めの間のはその名もよくは知られず、たまに名の知られてゐるものでも、經歴などは殆どわからない。これも謠曲や物語の作者が殆ど知られてゐないのと同樣であつて、昔の歌人連歌師から系統を引いてゐる俳諧師、及びそれから出た浮世草子の作者が、多くは名をあらはしてゐるのと違ふ點である。俳諧師は昔からの連歌師と同樣の專門文學着であつて、俳諧によつて生計を立てねばならぬから名を賣る必要があり、また草子でもそれを印刷して四方に弘めるこの時代では、作者はやはりその報酬を衣食の資に供する專門文學者となり、從つておのづからその名を署するやうになるのである。ところが淨瑠璃の正本は本來音曲のためのものであるから、署名するのは詞章の作者ではなくして節付をした太夫なのである。たゞ淨瑠璃でも劇としての内容や詞章そのものが重んぜられ、歌舞伎にも脚色が複雜になつて來ると、おのづから作者の手腕を賞讃しその名を重んじなくてはならぬやうになるから、近松などは歌舞伎の方でも淨瑠璃の方でも立派にその名を出してゐる。歌舞伎の作者を筋書に書き現はしたのは富永平兵衛からだといふ。これがやはり謠曲や舞曲の作られた時代と違ふ新現象である。いはゆる古淨瑠璃時代の作者はわからぬが、概していふと、その初めは幾らかの文事あるものがなぐさみに作つたので、從つて一人で多數の作を出したものは少かつたのではあるまいか。後になつて漸次それを職業とするものが生ずるやうになつて來たのであらうが、さうなると一人の作者が斷えず新作を公にするやうになり、近松の如く百餘篇を後に遺すやうなものも現はれた。歌舞伎の作者が俳優から獨立したのもほゞ同じ時代のことらしく、淨瑠璃や歌舞伎の作者はこゝに至つて專門文學者の列に入つたのである。
(115) ついでにいふ。歌系圖によると松の葉の第二卷に見えてゐる三絃曲の長歌にも、元隣、西鶴、團水、言水、其角などの作があるらしく、若緑の序によると、かういふ歌曲集の編纂にも團水が參與したほどであるから、俳諧師は歌曲の方面にも幾分の關係があり、また錦文流(元禄太平記に見える島文柳はこの人か)は淨瑠璃をも作つてゐるし、西鶴に暦などの作があることも事實らしい。しかし客觀的に事物を觀察し、または言語上の遊戯を生命とする俳諧師は、その能力がこの方面には適しなかつたらうと思はれる。たゞ三絃曲の詞章が既に抒情的な單純さと直截さとを失つて、徒ちに古歌や古文辭や小唄流行唄などを補綴したやうなものになつてゐ、また景事や道行きが淨瑠璃の主要部分を占めてゐたので、古文學の知識を有つてゐる彼等がおのづからそれに手を染めるやうになつたのであらう。だから作者の殆ど知られてゐないいはゆる古淨瑠璃などには彼等の作もあつたらうと思はれるが、近松などが出るやうになると、彼等は到底それに對抗することができなかつたに違ひない。また歌舞伎に至つては俳諧師は殆ど與かるところがなかつたのではあるまいか。たゞ遊女や若衆の評判記から發達した役者の評判記には大なる關係があるらしいが、これは冷眼に物を見る點に於いて、おのづから彼等に適當なしごとであつたらう。草子などの方面に手を出さない蕉門の俳諧師でも、其角は吉原源氏五十四帖のやうなものを書いてゐる。
 以上は新しく起つた文學と前代の文學との關係を概觀し、それにつれておのづから作者の問題に及んだのであるが、このことについては更に一言する必要がある。新文學の淵源をなしてゐる室町時代の物語や謠曲の作者または連歌師は、概して僧侶もしくは僧侶の形をしてゐる遁世者に多かつたが、新しい俳諧が起り新しい隨筆名所記などが現はれるころになると、それが漸次變つて來て、擬古文學の方面に於いて武士たる幽齋が中心であつたと同じやうに、武士(116)または武士階級の浪人が作者として立つやうになつた、といふことは前篇に述べておいた。ところがその傍には既に平民階級の商人などが頭を擡げだしたので、俳諧師を見ると、貞門の高足といはれる立圃、重頼、貞室、西武、などは明かに商人である.宗因と芭蕉とは武士出身であるが、その門流で名を得たものに平民が多いことは今さらいふまでもない。別派を立てた鬼貫は郡山や大野などに武家奉公をしたことはあるが、その出身は平民らしい。全體からいつても俳諧に遊ぶものは農民や商人の間に多く、室町時代の地方武士が京下りの連歌師を迎へて連歌を興行したと同じやうに、遊歴の俳諧師によつてその道に入つた地方人が少なくなかつたことは、三千風の行脚文集または芭蕉や支考やその他の多くの俳諧師の紀行を見ても知られ、句集に地方人の作が多く載せられてゐるのでも明かである。もつとも第二章にも述べたやうな事情で、文事に縁の近い醫者または僧侶神職などがこの道に入ることは少なくなく、名ある宗匠でも季吟は醫者出身であり、蕉門の其角は醫家に生まれ、凡兆は醫を業としたが、それも勿論武士ではない。俳諧師が生活のために醫となることもあつたので、玄札、元隣、惟中、などはそれかも知れぬ.なほ浪化、千那、も僧であり、凉菟、乙由、は神職であつて、何れも武士階級のものではない。勿論大名にも一般武士にも俳諧を學ぶものは多かつたので、實世間に於いてなすべき事業が無く、さりとて深い思索や廣い知識を要することには堪へられないといふ武士には、消閑の具として幾らかの力を注ぐには、これは恰好のものであつた。内藤露沾、安藤冠里、藤堂蝉吟、また貞門の正式、蕉門の許六、嵐蘭、荷兮、其角門の其雫、などはその巨擘である、惟中の「あまの子のすさび」にも見えるやうに、地方武士もまた俳諧師を歡迎したが、その指導者が主として平民であつたことは、疑ふべからざる事實である。(これは文藝が階級制を緩和する一方便となつたことを示すものではあるまいか。)たゞそれがた(117)めに、其角の類柑文集や許六の篇つきで慨歎せられた如く、俳諧が一種の營業となつて、如何がはしい點者が輩出し、中島隨流の永代記に罵られ西鶴の織留に冷笑せられたやうな状態にもなつたが、これは文學上の修養の無い多數人の間に流行した餘弊として、昔の連歌にもあつたことで、獨り俳諧のみのことではなく、もとより俳諧そのものの罪ではない。
 さて俳諧師が概して平民であるとすれば、浮世草子の作者もまた同樣であることが推測せられる.西鶴については前に述べた。西澤一風、江島屋其磧、林文會堂、何れも商人である。たゞ錦文流は素性がわからぬ。都の錦については、列傳體小説史に見える彼の訴状といふものに神主を務めたとしてあるが、それはともかくも、その系圖書きに父をよしある武士としてあるのは疑はしい。それから淨瑠璃や歌舞伎の作者として名の知られてゐるものをいふと、近松が商人でないことには疑ひがあるまいが、武士の地位にゐたものではない。彼と對抗しようとした紀海音は商家から出て僧となつたものだといふ。從來ともすればこの時代の文士を浪人として考へようとする傾きがあつて、西鶴をさへさう見ようとする説もあるらしいが、それは事功欲のあるものが文事にその力を向ける風習があつて、さういふ事功欲は浪人に多い、といふ推測から來てゐる。が、前にもいつた如くこの時代では野心家はむしろ平民にある。その中には武士または浪人を父祖とするものもあらうが、彼等自身が浪人であつたとはいひ難い.惟中はその父が浪人であつたことを「あまの子のすさび」に述べてゐ、近松もその辭世に於いてみづから「甲冑の家に生れ」たとはいつてゐるが、彼等みづからは武士の生活をしたのではないらしいから、それを浪人とするのは不穩當であらう。文士が多く武門から出たのは徳川の世の初期のことであつて、このころになつては官能の粗大な、抑情を尚ぶ、また生活が(118)單調で人生の葛藤を體驗することの少い彼等は、平民の間に發達したかういふ文學の作者たるに堪へなくなつてゐたのである。但し前章に述べた如く歌舞伎や操の觀客に武士が多かつたと同樣、草子の讀者にも武士はあつたに違ひないので、武士の行動を題材としたものの少なくないことがそれを證する。平民文學は固より武士社會をも包容してゐたのである。たゞこゝに一言しておくべきは、作者は平民であるけれども地方人が無く、その出身地が何處であるにもせよ、何れも三都に生活するものであつたことである。たゞ俳諧だけが違つてゐる.儒者に地方出身のものが多いにかゝはらず、その帷を下して學を講ずるに至つては、概ね都會に於いてしたと同樣、都會が文化の中心であつたこの時代、特に出版の機關が都會にあり、その讀者も主として都會人である場合には、これは當然の話である.俳諧師とても名を成すにはやはり都會でなくてはならなかつたので、宗因でも芭蕉でも、一世の師表たるものは、何れも都會を根據としてゐたのである。
 なほ附記しておくが、俳諧に四五の女流作家がある外には、婦人はこの時代の新文學に多く關するところが無かつた。婦人が家族の一人としてのみ考へられてゐ、その生活が家庭の人としてであつたこの時代には、これは當然であらう.彼等のうちには人としてまた社會人としての知識をもち感受性をもち、それ/\の家業に重要なるはたらきをするものは多かつたし、武士の妻とても家政のきりもりをする能力を具へてゐることはいふまでもなく、幾らかは文藝に關する教養をもつてゐるものもあつたらうが、その社會的地位と環境とが作者として世に知られるやうになるには適しなかつたのである。たゞ文字の上で摸倣するだけの擬古文を作り歌を作るほどのことはできるから、さういふものは、例へば井上通の如く女にもあつた。特殊な意義に於いての社會人たる婦人は遊女であるが、これもまたかの(119)名妓といはれた八千代の如く俳諧を學んだぐらいのことである。その境遇は彼等に十分の文學的修養をさせなかつたからである。
 平民文學の作者がかういふ状態であつたから、當時の社會に於いてその地位が甚だ低かつたことは、いふまでもない。如何なる俳諧師でも、貴族の前には平身低頭しなければならなかつた。淨瑠璃作者は近松の出るまでは殆ど表面に立たなかつたが、太夫は勿論賤しい藝人とせられた.浮世繪師が職人として取扱はれたのもこれと同樣である。さうして彼等の中には、自己の技藝そのものに對しては眞摯でもあり敬虔でもあるものが少なくなかつたにかゝはらず、社會的地位の低いことは彼等自身もそれを當然としてゐた。事實上、これらの平民文藝が一般の武士は固より武家貴族の趣味をも支配してはゐたけれども、作者の地位は如何ともすることができなかつたのである。一切の民間藝術家は如何に立派な作品を世に提供してゐても、世間からは輕んぜられ、それに反して生命の無い古文學や異國藝術の摸作者が、その品性と行動とが決して民間藝術家に優つてゐないにかゝはらず、歌人、樂人、繪師、文人、として尊重せられたのがこの時代であつた。固定的階級制度と外國の文物を崇拜し實生活から生じない知識を尊尚する風習とから生ずる、社會的地位と實力との不一致は、こゝにも現はれてゐて、それが國民文藝の發達に大なる障害を與へたことはいふまでもない.三絃樂家としての盲人が幾らか重んぜられたのは、それが檢校などの虚名を有つてゐたからである.淨瑠璃の太夫は檢校輩からは河原ぶしを語るものとして見下されてゐたが、歌舞伎の役者より上位にゐたのはやはり受領名を有つてゐたからであらう。藝術家としても人としても、役者や太夫のうちにかなり立派なものがあつたにかゝはらず、世間からはかう取扱はれてゐた。かういふ肩書の尊重は地位の少しでも高いものをして徒らに驕傲(120)安逸たらしめ、低いものをしてます/\その品性を墮落せしむる傾きがあつたので、それは啻に藝術の發達を妨げるのみならず、やゝもすれば藝術家をも腐敗せしむるものであつた。
 作者の品性の高くなかつたことは、多數の俳諧師に於いて最もよく見られる.彼等は自己の作を世に示すのみでなく、連歌師以來の習慣に從つて多數の同好者追從者を指導し、それによつて生計を營むのであるが、それがためには勢ひ媚を公衆に賣つて收入の増加を計るやうになる。貞徳は豪奢な生活をしてゐたといふが、その財源はほゞ想像せられる。その門流が小旗幟を樹てて盛に黨同伐異を行ひ、互に人身攻撃をなし、或は句集などの問題でしば/\衝突を起したことなども、やはりこゝに一原因があつたらしい。のみならず、俳諧の點者としてだけでは生計に困難であるがために、一部の醫者と同樣に幇間とさへなるものがあつた。立圃や重頼がさうであつたといふ話が異本洞房語園に見え、西鶴や其角も同樣であつたといふ。(一蝶などの畫家もまたその類であつた。)また傳奇作書には半時庵淡々や穂積以貫なども幇間であつたやうに記されてゐる。それほどでなくとも、多數の俳諧師が貴族や富豪に取入つて物質的の利益を得ようとしたことは、爭はれない事實であつて、彼等の句集や逸事を書いたものにはさういふ形跡がしば/\現はれてゐる。彼等が權勢と富とに對して何等の權威をも有つてゐなかつたことは、これによつて明かに示されてゐる。貴族等は彼等を詩人とし朋友として敬重したのではなかつた。もつともこれは多數の儒者などに於いても事實はあまり違はないことであるが、たゞ彼等は表面に於いて幾分の體面を保たうとしてゐたのに、俳諧師の多くはみづから持することが甚だ低かつた。俳諧師を極めて賤しきものと太宰春臺が「獨語」に於いて罵つてゐるのは、一つはかういふ態度の差異から來てゐる。昔の遁世ものの系統を承けてゐる俳諧師は、これらの點に於いてもまたその(121)衣鉢を傳へてゐるといはうか。貞門や談林の俳諧と浮世草子とに野卑の氣分があるのは、一つは作者のかういふ生活からも來てゐるのであらう。芭蕉の直門には、その俳諧の特色と彼の人物の感化とによつて甚しく卑陋のものは生じなかつたけれども、名利を趁うて東西に奔馳した支考のやうなものはある。その末流に至つては概ね風雅を賣りものにする俗宗匠となつた。
 俳諧師ばかりでなく一體に平民文藝の作者は、多數の公衆をあひてにするために、作品そのものがおのづから獨者本位觀客本位になる傾きがある。西鶴の作が商賣本位であつたことは、一代男の後に、名實相かなはざる二代男や三代男を世に出したのでもわかるが、浮世草子の作者はみな同樣であつた。興行ごとに觀客をひかなければならぬ淨瑠璃や歌舞伎に於いては、なほさらのことであり、俳諧師が競つて新風を起したのも、後にいふやうに變化を欲する自然の要求からでもあるが、一つは新しい追從者を求めるためでもあつた。彼等の目ざすところは自己よりは他人であつた。從つて製作に對する情熱と眞率さとが無く、生計の方便または一種の遊戯としてそれを取扱つてゐたのである。工藝の方面に於いては往々財を抛ち身を抛つて一心不亂に製作に熱中し、畸人として世に視られる職人もあつたが、文學には却つてさういふものが無かつた。次にいふやうに文學が輕い娯樂的のものとせられてゐるために、幾らかの文才あるものが生計のためまたは消閑の具としてそれに趨きそれを弄ぶといふ風が生じ、作者の全生活をそれに向つて集中するものが無かつたからでもあらう。芭蕉ですら、初めて俳諧の門に入つたころには、やはり時流に隨つて遊戯文字を弄んでゐたらしい。
 かういふ風であるから、作者は少しく名聲を得れば忽ち多作濫作し、同じやうな材料と着想とを反覆し、後進のも(122)のもまた恣に前人の作を摸擬剽竊して恥ぢなかつたのである.西鶴や近松ですらその作品を通讀すると、あまりに似かよつた脚色、同じやうた詞章または插話、などをしば/\襲用してゐるのが目につく。勿論これは、後にいふやうに、娯樂本位の文學として題材に限りがあり、また全體に思想が單純である上に、生きた人を現はすよりも、おもしろい話を聞かせおもしろい場面を見せるが主であるからでもあるが、作者の用意の放漫であつたことをも見のがすわけにはゆくまい。都の錦の元禄曾我(卷三)に西鶴の俗つれ/”\(卷四)の一節がそのまゝとられ、日本莊子(卷二)に二代男(卷五)に見える物語があり、西澤與志の武道櫻(初卷)に一代男(卷五)の話と同じものがあるのを始めとして、八文字屋の作に至つては西鶴を剽竊したところが甚だ多い。一二の例を擧げてみると、色三味線(京の卷)に五人女(卷一)の、また同じ書(鄙の卷)に二代男(卷五)の一節が取られ、なほ曲三味線(卷一)の卷頭は男色大鑑(卷一)の初めから、同じ書(卷二、六)の敵打の物語と大盡の零落した幇間の話とは、武家義理物語(卷四)と俗つれ/”\(卷五)とから來てゐる。なほ禁短氣(卷一)には二代男(卷一)、子息氣質(卷二、四、五)には二十不孝(卷一、四)及び懷硯(卷二)、娘氣質(卷五)には同じく二十不孝(卷一)及び五人女(卷五)、から取つたところがあり、親仁氣質にも一代女や俗つれ/”\から來てゐる文字が見える.これはたゞ著者が讀過の際に偶然氣のついたものの一部分を擧げたに過ぎないから、仔細に對照したならばなほ多くの例が發見せられるであらう。雨滴庵松林といふ人の風流夢浮橋も撞木町順慶町の物語は西鶴の作そのまゝである。なほ淨瑠璃に於いて、紀海音が近松のやきなほしをしたなどはまだよいとして、薩摩外記の出世太平記が近松の源氏烏帽子折の殆ど全部を、人物の名を變へただけで、取つてゐるやうな例がある。これは既に世に行はれてゐるものの節付を改めるのとは意味がちがふ。當時(123)の作者が自己の作品を愛惜せず他人の創作力をも尊重しなかつたことはこれでもわかる。
 
 作者の品性に對する問題がおのづから作品の上に移つて來たから、この機會にこの時代の文學に共通な性質を一とほり概説しておかう。その第一は、多數の讀者をあひてにするために、文學が輕い慰みものとせられたといふことである。國民全體の思想や趣味が進歩してゐない場合には、讀者の中にそれらの低級なものを多く含むことを免れず(いふまでもなく思想や趣味の深淺高下は社會的地位の尊卑とは何の關係も無い)、從つてさういふ多數人の嗜好に投ずる文學は概して輕い娯樂的のものとなる。文學は選ばれたる少數の占有でなければならぬ、といふやうな説もこゝから生ずるので、それには確かに半面の眞實がある。しかしこの時代の我が國にはその少數者が無かつた。次にいふやうに、當時の知識人は概していふと生きた文學には關心をもたなかつたから、文學はおのづから多數の俗衆をあひてにしたので、それがためにかういふことが生じたのである。現に西鶴は二代男の卷末に於いて、この作を「世の慰み草」と公言してゐるほどであり、いはゆる好色本、色双紙、の作られた動機がこゝにあることは、いふまでもあるまい。むかし優れた文學的作品の現はれた平安朝の盛期では、文化が狹い貴族の社會に限られてゐただけに、彼等には全體を通じてほゞ同じやうな修養が積まれてゐたから、その文學にもまた特に俗受けを顧慮して作られるやうなことは無かつたが、文化が廣く民衆の間にゆきわたつて來たこの時代では、それと違つてゐる。
 さて既に「慰み草」であれば笑を誘ふを要する.一代男に西吟が跋を書いて「轉業書」といひ、人に讀んで聞かせたら「大笑やまず」といつてゐるが、西鶴の作の主要なる動機はこゝにある。西鶴ばかりでなく、この好笑的分子は(124)あらゆる當時の文學の一大要素となつてゐるのであるが、それは文學の種類によつてそれ/\特質があるから、次章以下に於いてそのことを各別に考へよう。たゞその何れにも見えることの一二をいふならば、第一にもぢりである。狂歌はいふに及ばず、俳諧特に談林のに於いてもそれが多く、浮世草子でも、西鶴が古歌古語を引用する場合にはこの類のものが少からずあり、三代男の結末には阿房宮賦をもぢつてゐる。八文字屋の寛濶平家物語の起首が平家物語のもぢりであることはいふまでもなく、禁短氣などの佛家の説法に擬したところも同じ性質のものであるし、淨瑠璃では、近松の百日曾我に謠曲の勸進帳に擬した傾城請状があり、津國女夫池には放下僧をもぢつたところがある。傾城酒呑童子とか曾我虎が磨の傾城十番斬とかいふものは、題目そのものがもぢりである。しば/\草子や淨瑠璃の主題とせられた色道、好色修業、または色道傳授、などの語が、武道、武者修行、または武道傳授、といふやうな語のもぢりであることはいふまでもあるまい。これは一つは前卷に述べたやうな古物語の擬作から系統を引いてもゐるが、古文學を尊重する風習とそれを通俗化しなければならぬ平民的傾向とを利用して、滑稽的にそれを取扱つたのである。落首及びその他の政治的諷刺も概ねこの方法によつてゐるが、それについては後にいはう。第二には卑猥な文字である。西鶴が好んでそれを用ゐたのも、また主として讀者に低級な笑を催させるためであつて、これは談林の俳諧にも近松の曲中にも常に見えることである。これは固より排棄すべきことではあるが、しかし後の洒落本や人情本のやうに桃發的な意味を有つてはゐない。八文字屋ものなどになると、幾分かさういふ傾向を生じて來たやうにも見えるが、談林の俳諧や西鶴や近松などのは、たゞ無作法であり粗野であるのみである。もつとも近松の好笑的分子は、あまりに窮屈な義理づめや極度に感傷的な場面がそれによつて緩和せられる、といふ效果はあるが、卑猥な文字については(125)かう見なければならぬ。この時代の文學に現はれてゐる滑稽がかういふものばかりなのではなく、後にいふやうに蕉門の俳諧の滑稽はこれとは違つて、特殊の精練を經たものである。なほ俚謠や三絃曲の詞章にも滑稽の分子は少なくなく、そのうちにはそれが感傷的な分子と唐突につなぎ合はされたり絡みあつてゐたりする場合があるが、これは多くは言語や音調による無邪氣なものであり、その效果はやはり一曲の主調をなしてゐる感傷を漢和するところにあるらしい。さうしてそれは、極度までものをおしつめることを好まないこの時代の日本人がその心生活の一面にもつてゐる氣分の現はれとして解せられる。
 なほ多數人をあひてにすることから生ずるこのころの文學の缺陷は、種々の方面に現はれてゐる。浮世草子にも奇談集とでもいふべきものやシナ小説から翻案せられた妖怪譚があり、好色本などにすら荒唐幻怪な物語が少からず含まれてゐるが、歌舞伎や淨瑠璃に於いてそれが一層甚しいことは、いふまでもなからう。これも低級な讀者や觀客の好奇心を弄ぶために生じたことである。淨瑠璃などに於いて濫りに事件の波瀾を多くして目さきをかへることを努めたり、淺薄なる感傷をふりまはしたりするのも、その一原因はこゝにある。色三味線(鄙の卷)に「今時の若うど何ぞ變つたことにあらではおもしろがらず」といつて、歌舞伎淨瑠璃が徒らに新奇を競つて無理な趣向をこらすことを述べてゐるのも、事實を語つたものである。
 しかし一面からいへば、當時の文學そのものに本來娯樂的遊戯的傾向があつた。勿論、或る意味に於いては遊戯と娯樂とは藝術の一要素でもあり、それが發生する一要因でもあるが、この時代のものに於いては、その他の重大なる要素が輕んぜられ、或はまたその遊戯性娯樂性をそれ以上のものに精錬することができなかつたのである。それは根(126)本をいふと、當時の國民が切實なる内省を缺くと共に自己を重んじないところから、文學の形によつて現はさるべき深い思索と強い情熱とを有たないためである。それには遠い過去からの歴史的由來もあるが、當時に於いては、一方では平和の世であるがためにともかくも生活ができてゆくと共に、他方では後にいふやうな事情で、世聞的な生活に全力を注がねばならぬ世の中であることが、それを助けてゐよう。また第一章で説いた如く、書物の上文字の上の知識を尊重する偏狹な知識主義や、情生活の藝術的表現を認めない儒教思想にも、その原因があるが、文學の内容が貧弱であるといふことが、また知識人をして一層文學を輕んぜしめる理由ともなるので、彼等と文學との距離はますます遠くなり、彼等はその知識と思索とを文學に寄與することができず、文學は單に娯樂を目的とするやうになる。儒者の文學觀藝術觀は後に述べようと思ふが、平安朝時代に於いてでもまた學問的知識と實生活との隔離はあつたので、文學は主としてその學問的知識を表に立てない方面に於いて歌やいはゆる女文として現はれた。しかしそのころの學問がたゞシナの書物を讀みまたその詩文を摸作することであつたのとは違つて、江戸時代になると、學問は政治と道徳との教を學ぶことであつて、儒者はそれによつて直接に世を導かうと擬したのであるから、文學はその壓迫を受けたのである。さうしてそれには、平安朝末に於いて文學が墮地獄の業として佛徒から攻撃せられたのと類似したところがある。何れも、偏狹な教説が人間性と現實の生活との表現としての文學の意義と價値とを認めないところから、生じたことである。
 かういふ風に文學が遊戯と娯樂との具であるとすれば、濫りに低級な滑稽を弄し猥雜な言辭を敢てするのも無理のないことである。もしまたさういふ弊に陷らないものは、輕い氣分で世を視る高踏主義となり、または小さい自然を(127)玩弄してみづから慰めるにとゞまる隱居文學となる。事實、俳諧などは世務に遠ざかつた隱居もしくは閑暇の多い武士や富豪の消閑のために行はれたので、畢竟道具いぢり植木いぢりと大差が無く、蕉風の風雅などは性質の上からもそれに陷り易いものである。またかの連俳の行はれたことも、一つは連歌からの因襲であるが、むかしその連歌が流行し初めたのと同じ理由で、技巧を興味の焦點とする遊戯的性質が喜ばれたからでもあらう.何れにしても娯樂が主になつてゐることは同じである。獨立した抒情詩の殆ど當時に存在しないのも、こゝに一原因がある。
 
 さて文學をして多數人の嗜好に投ぜしむるには、その題材を彼等の了解し得るところ、彼等の日常經驗の範圍の内に取らねばならぬが、讀者は主として都會人であるために、文學もまた主として都會と都會人とを描寫する。さうして遊里と劇場とが都會の花であることを思へば、文學の題材が多くそこにあるのは怪しむに足らず、それがまたおのづから文學を遊樂の具とすることを助ける。俳諧に於いては談林の一流に於いて特にそれが著しく、蕉門でも其角にはそれが少なくない.一代男、二代男、または男色大鑑、などによつて開かれた浮世草子の世界は多くこゝにあり、傾城買ひ、島原狂言、によつて展開の一轉機を作つた上方の歌舞伎は勿論、元禄時代の江戸歌舞伎に於いても、遊里の光景は無くてならぬものであり、武ばつた曾我ものに於いても多くは大磯の一場がある。淨瑠璃は、舞曲などの系統を承けていはゆる時代ものに重きをおくために、割合にそれが少いが、江戸の土佐淨瑠璃には花街の空氣が華やかに現はれてゐるし、近松の作などにも遊女はしば/\寫され、彼によつて創められた心中ものは、その多數が遊女を女主人公としてゐる.淨瑠璃作者で草子をも作つた西澤一風は、常に遊里と歌舞伎淨瑠璃とを離れぬものの如く取扱(128)つて、それを誇つてゐた。また弄齋投節を始めとして元禄のころから流行した長唄端唄などの三絃曲の詞章も、多くは遊女の氣分、花街情調、を歌つたものである。これは箕山の色道大鑑にいつてある如く、室内樂としての三絃樂が主として花街に行はれ遊女の弄びものになつたからでもあるが、それがまた廣く世にも弘まつたらしい。歌舞伎の所作事などに伴ふ歌謠、即ち芝居唄、が世にもてはやされたことはいふまでもない。師宜などの浮世繪の主なる題材がこゝにあるのも、同じ理由からである。遊里のみならず一般にいはゆる好色は當時の文學の主要な題目であるが、色道大鑑が現はれ、昔の兼好を好色の道を説いた粹法師として見てゐた世の中と思へば、これも不思議ではない。
 なほ人物についていふと商人と武士とが最も多い。農民は極めて少く、たまにあつても素朴な、但し無智な、ものとして概ね輕侮せられてゐる。場所についても三都が主であつて、長崎、堺、下の關、その他、關西の所々の舟つきや遊里のあるところはしば/\現はれるが、純粹の田舍は甚だ稀であり、地方の大名の城下とても多くは見えぬ。諸國ばなしとか懷硯とかいふやうなものも現はれたが、それも都會人がそこに集つて來る所々の地方人から奇異の物語を聞いて興ずる、といふ態度で書かれたものであつて、地方の状態そのことに價値を認めたのではなく、やはり都會人本位の考へかたであるのみならず、それに記されてゐる説話も忠實に地方色を描寫したものとは思はれない。なほ近松や西鶴には俚謠が多く用ゐてあるが、それも多くは都會に流行したものらしく、純粹の民謠は少い。また新しい平民文學でありながら前代の文學から材料を取ることは少なくなかつたが、地方の民間傳説などは、多くは用ゐられなかつたやうである。
 商人が平民文學の題材となるのは、その活動の中心が商業都市である大坂と半ば商人の世界である京都とにあるか(129)らである。かの遊里の如きもその最大の顧客は商人であるから、いはゆる好色を主題とした文學に寫される人物もまた商人が多い.さて商人が多く現はれるとすれば、商家の興廢や生計の問題とその基礎になつてゐる利益の觀念、即ち當時の用語での慾、とが重大な題目となるのは當然である。また武士が社會組織の中心となつてゐる世に、それが文學の題材となるのも自然であつて、平民の讀者や觀客にもそれが歡迎せられたのは、怪しむに足らぬ。「衣がへ刀もさしてみたきかな」(曠野釋鼠彈)と世すて人も武士を羨み、芭蕉さへも平泉で兵略を論ずる世の中である(奥の細道)。まして一般人に於いては、その日常生活が直接間接に武士と交渉の無いものはなく、また主從關係などに於いて、彼等の風習とそれに伴ふ思想とが武士の感化を受けてゐる點が多いので、武士の心情はやはり彼等の心生活に通ずるものがあるからである。特に武士の都たる江戸の文藝は、武士を取扱ふことが上方のものより多く、土佐淨瑠璃の如きは遊里に於いてもまた多く武士を主人公としてゐる。ところが、武士を寫せばおのづからその生活態度の中心となつてゐる義理が主題とならねばならず、さうしてそれは多く敵打とかお家騷動とかに於いて現はれる。以上列擧した色と慾と義理とは當時の文學の三大主題ともいふべきもので、浮世草子では前の二つに主力が注がれ、淨瑠璃には後の一つが最も多く用ゐられてゐる。
 但しこゝで注意すべきは、俳諧、特に蕉門の作、に於いて多く自然界の風物が題材となり、また地方的のものごとや田園の光景、從つてまた農民の生活、が取扱はれてゐることである。商人や職人の生活も採られてゐるが、それも多くは地方的の小規模のもの貧弱なものである.從つてこれのみはこゝに述べた概觀から除外せられねばならぬが、その自然界に親しんでゐるのは、俳諧の歴史的淵源となつてゐる歌連歌からの因襲もあり、田園の風趣と地方民の生(130)活とがその吟嚢に入つたのは、作者に地方人が多いといふ俳諧特有の事情からも來てゐる。
 さて當時の作者がこれらの主題を取扱ふに當つて、何處からその材料を得て來たかといふと、多くは彼等自身の見聞や巷談街説の類であつて、浮世草子の如きは確かにそれを潤色したに過ぎないやうなものが多い。その一淵源として遊女評判記の類のあつたことから見ても、これは當然である。歌舞伎に於いてもさういふ市井の事件を採ることが多く、近松のいはゆる世話淨瑠璃もまた同樣であつて、これは多分歌舞伎を學んだのであらう。たゞ世話ものは近松によつて創められた一種餘興的のものであつて、舞曲以來の因襲を有する淨瑠璃の本色はむしろ時代ものにあり、歴史的人物を捉へて來るのが常である。その影響をうけたらしいところのある歌舞伎にもまた時代物が少なくない。が、これはたゞ時を古代に託し名を古人に借りるのみのことで、それに現はれてゐるものは元禄の天地、元禄の人物、である。義經でも曾我兄弟でもみな元禄武士であり、常盤も靜も虎もみな元禄の婦人である。鎌倉は勿論江戸であり大磯はいふまでもなく吉原である。公家などを拉して來てすら、何れも當時の武士か市井の徒かになつてゐる。近松の時代ものに於いてはそれが最もよく知られるが、その作品のすべてがさうであるから一々例を擧げる必要もあるまい。この點から見ればいはゆる時代ものも世話ものとの間に何等の差異が無いので、時代ものは決して史劇ではない。古人に新解釋を下し歴史的事實を新しい眼で觀たのではなく、目前の世態を寫すに傳説的の稱呼を用ゐたのみである。赤穗一件の如き當代の事實を古代のこととするなどは、政府を憚るといふ特殊の必要から生じたことであるが、それもまた單に名を改めたのみである。物語の讀者や觀客には明かに當代の事實であることが知られてゐて、興味の焦點もまたそこにあつたことはいふまでもない。なほ浮世草子に今平家とか御前義經記とか元禄曾我とかいふやうなもの(131)があるのも、平家物語なり義經記曾我物語なりを本にしてそれに擬したのではなく、寫された事がらに似よつた古傳説の名を附會したまでであつて、その興味はどこまでも現實の社會なり眼前の事實なりを寫した點にある。だからそれは擬物語ではない。祐信などが徒然草のやうな古書の插繪に、多く元禄人の風姿を畫いたのもこれと同じであつて、畫家の目的は初めからそこにあつた。從つてその材料はすべて現在の世相から採られるのである。
 元禄の平民文學が現實主義であることはこれでもわかるが、なほ考へると、淨瑠璃などの脚色に於いて、いはゆるやつし事が多く用ゐられ、牛若が馬子に亀井六郎が豆腐屋になり(孕常盤)、業平が歌念佛の旅僧になるやうに(井筒業平河内通)、嚴めしい古英雄が町人姿になり、名だたる上臈が世話女房となるのも、歴史的にいふと舞曲などに先例もあり、また社會的事情からいふと、武士または浪人が生計のため謀略のために町人などを裝ふといふ、世に例の多い事實に示唆せられたのではあるが、如何なる英雄をも貴族をも讀者たり觀客たる民衆と同一地位に引き下ろして見せるところに、興味があつたからでもあらう。いひかへると、名ばかりであるとはいへ古英雄のまゝでは觀客の心情に縁遠いから、やつした姿に於いてそれを平民化し世話化するのである。なほ遊君三世相に夕霧を點出し、種彦の還魂紙料に見える如く江戸の歌舞伎の追善彼岸櫻で中將姫を八百屋お七にしたなども、興行上の特殊の事情によることではあるが思想の上から見れば、これに一歩を進めたものであつて、時代と世話とを混淆する例は、必しも津打治兵衛によつて開かれたのではないらしい。古物語の梗概を書いたに過ぎたい紅白源氏物語のやうなものですら宮女をよね達といひ、紫の上をも朧月夜をもみなよねといつて、それを世話化してゐることをも、考ふべきである。後にいふやうに談林の俳諧に於いて古語成句を突如として卑俗化することの喜ばれたのも、西鶴が行平の須磨の侘びずま(132)ゐの世帶道具として杓子摺鉢まで列擧したのも(一代男卷一)、みな同じ心理からである。(これらは一面からいふと滑稽である。古英雄なり古語なりと、そのやつした姿なり轉化せられた意義なりとの、懸隔があまり甚しいため、忽然としてそれを結びつける時に矛盾を感ずるからである。)
 古人ばかりでなく、幽靈とか妖怪とかその他の超自然のものも、またどこまでも實世間の面影を離れず、何れもありふれた市井の老若男女になつてゐる。諸國話(卷三)の神仙郷に敵打が行はれるやうなことも、やはりこの意味で解釋せられようし、京人の作つた俳諧や浮世草子などに、京が九百年來の帝都であるといふ氣分の殆ど現はれてゐないのも、この點から觀ることができよう。俳諧のやうな幾らかの抒情的分子を加へ得るものにも懷古的情趣は殆ど見えない。芭蕉などのこ三の作、または貞室の「歌書よりも軍書に悲し吉野山」ぐらゐが特異の例であらう。要するにすべてが實社會の状態でなければならぬのである。剪燈新話には神仙譚が甚だ多いのに、その翻案たる御伽婢子にはそれがあまり採られてゐないのは、やはりこゝに一理由があるのではなからうか。
 當時の文學に奔逸な空想のはたらいてゐるものが無いのも、またこのことと關係がある。現實の世相を寫すのが主旨であるとすれば、これは固より當然であつて、浮世草子はいふに及ばず淨瑠璃などに於いても、新奇を求め複雜を欲するがために、場面の變化などが業々しくなつてはゐるが、それはいはゆる「作意」(元禄太平記)の力によつて、機械的に種々の事件を結び合せたに過ぎないものである。さうしてその材料たる事件は何れもありふれた目睹耳聽のことがらであつて、而もそれにはほゞ定まつた型がある。變幻奇怪な物語ですら、傾城反魂香の畫虎が生命を得てあばれまはるといふやうな、性質のものである。後にいふやうに蕉風の俳諧で自然を取扱ふのもやはり同樣で、毫も空(133)想の力がそれに加へられてゐない。なほ廣くいふと、これは一般藝術の上にも見える通相であつて、寫實的な浮世繪の如きはその好例である。抒情約な三絃曲に於いても往々低級な摸聲が行はれ、また淨瑠璃のやうな敍事的のものの流行するのが、やはりその一現象であるといはねばならぬ。ついでにいふ。三絃曲には斷えず新聲が現はれるけれども、これはそれに取られる民謠俚謠の類が少しづゝ變化して來たためであつて、天才的樂人が出て特殊の形式をはじめたのではない。作られた歌謠の節付けとても、現代の意義でいふ作曲とは違つて、作者の空想によつて新しい旋律が形づくられるのではなく、既に行はれてゐるものを少しく變改したり維ぎ合はせたりすることであつた、といつてもよい。我が國に音樂の發達しなかつたことはこれでも知られるので、それほどに當時の國民は散文的で現實的であつた。
 當時の文學の主要たる題材はほゞ上に述べたやうなもめであるが、それが讀者の斷えず見聞すること日常生活に親しいことがらである以上、何事を敍しても何人を拉し來つても、ほゞ同じやうなこととなりありふれた小人物になるのは當然である。だから武士の物語といへば敵打かお家騷動かぐらゐのことであつて、かの赤穗事件が草子や劇の題材となつたのも、要するにそれを敵打と見たためである。古人に假託する場合でもまた同樣である。浮世草子はいふに及ばず淨瑠璃などでも、例へば源平盛衰記や太平記に由來のある傳説を用ゐ、もしくは戰國大名の行動といふやうな政治上の事件を取つて來ても、その寫すところは個人としての武士の面目や義理や小さい勢利の爭ひであつて、廣い天下の形勢はその上に反映してゐない。頼光ものや義經ものなどはもとよりのこと、吉野都女楠でも南北朝の爭ひは話の筋を立てるまでの道具であり、傾城三國志の秀吉にも、驚天動地の大活動を演ずる、または率直簡易な、天才(134)的英雄の面影は少しも見えない。信州川中島合戰に信玄や謙信を舞臺に上せても、戰國の風雲は背景としても動いてゐない。戰國武士の行爲を記したものはこのころにも多く現はれたが、それを材料として史詩を作ることはできなかつた。過去の歴史は、事實を穿鑿するためかもしくは教訓のためかのものとして、考へられまた説かれたのみである。こゝにも知識人と文學との隔離が認められる。商人ものなどに至つては、描寫せられることは、その生計の問題と一身一家の盛衰との外には出ないので、多くは日常生活の些事が主題となつてゐる。後にいふやうに、當時の商人は自己の利益を計ることより外に何の考も無かつた世の中だからである。生計の問題を取扱ひ日常の些事を寫すのは、平民文學の特色であつて、同じく平民藝術たる浮世繪なども同樣であるが、それと共に廣い世界が閑却せられてゐることを見のがすわけにはゆかぬ。蕉門の俳諧に現はれてゐる自然界も農民や商人なども、また多くは日常目にふれ心に映ずる狹い小さい光景や風物や生活の姿やである。これは一つは短い詩形の故であるが、一つは日常生活に親しいものを細かく觀察してその間に詩趣を發見しようとしたからでもあるので、文學のこの分野もやはり當時の平民文學の通相には背馳しないのである。
 これに關聯してなほ一言すべきは、政治上の思想が殆ど文學の上に現はれてゐない、といふことである。全く無いのではなく、後章にいふ如く、一方では世を太平にした徳川氏の功績をたゝへまたその太平を喜ぶ情を披瀝したものがあると共に、他方では權力に對する反感の現はれたものなどが稀には見えるが、政治に關する思想が主調をなしてゐるやうな作品は少い。たゞ上にも一言した如く、時事に對する片々たる落首の類は斷えず世に出たけれども、それは極めて輕浮な態度でいひ表はされた諧謔の言、閑人の手になつた一種の遊戯文字であつて、まじめな諷刺でもなけ(135)れば、深い考や沈痛な心もちがあつてのことでもない。多く歌謠の類をもぢつて作られた形の上からもそれはわかる。さうしてそれが最も激しく現はれるのは、例へば酒井忠清や柳澤吉保の失敗した時の如く、權勢あるものが權勢を失つたやうな場合であつて、そこに死屍に鞭つに似た殘酷さと輕薄さとが見える。もつともこれは、今まで抑へつけられてゐた鬱憤をかゝる場合に晴らして、私に痛快の感を得ようとするからでもあつて、專制政治の治下に於いては已むを得ないことであつたらう。本來かゝる不まじめな戯謔の言を弄して喜ぶことが、正當な方法によつて國民が政治を論評することのできないためであつて、專制政治が人の徳性を損ふことの一現象なのである。が、また一方からいふと、かういふ落首などは、諧謔を好む國民性の一發現として、何事をも娯樂的遊戯的に取扱ふ傾きがあることの一例でもある。ついでにいふ。淨瑠璃には、民繁昌國繁昌とか治まる國ぞ久しきとかいふ祝言が定例として結末にあり、特に源氏に關するものには源氏一統の御代を壽くといふやうな語がかならず加へてあるが、それは謠曲などの慣例に從ひ、また徳川氏に對する一種の儀禮として、書かれたものであつて、必しもさしたる政治的意味があるのではなく、多くの場合では聽衆の耳にも入らぬほどのものである。達俳、特に談林以前のもの、にも連歌以來の風習として、揚げ句にはやはり祝言のあるのが多く、西鶴の浮世草子すら、武家義理物語、武道傳來記、永代藏、胸算用、男色大鑑、などには、章末に同じ意義のことを述べてゐる場合が少なくない。太平の世にその太平を壽き民繁昌國繁昌を壽くのは自然の感情であつて、よしそれに儀禮的意味が加はつてゐるにせよ、強ひていひなしたものではないが、たゞその語の用ゐどころには故さらめいた感じのせられる場合があるので、儀禮的意味が加はつてゐるといつたのはそのためである。息ひもよらぬところに突如としてかゝることのいはれるのは、とりやうによつては滑稽でもある。
 
(136)     第六章 文學の概觀
 
       總論 下
 
 前章に述べた如く當時の文學はその題材を現實の社會から取つてゐる。けれどもその描寫の態度は正しい意義に於いて寫實的なのではない。それは娯樂のために書かれたことからもおのづから推測せられる。かの卑猥の文字もまた低級な笑を求めるためであつて、近代人が小説や戯曲に於いて性慾を取扱ふのとは全く違つてゐる。平民文學が舊典型を脱した新文學であるのは、おほまかにいふと寫實的だからであり、事實そこから發足して來たのではあるが、それは現實の生活を描かうとして描いたのではなく、娯樂の料として話の種を實世間に取つたまでである。だから慰みにするために必要とあれば、奇異の分子をも加へ或は現實に遠い物語をも作るのである。最も寫實的分子に富んでゐて一種の風俗志とも見るべき浮世草子、特に西鶴のに於いてすら、その筆致にも全體の着想にも、わざとらしい誇張を以て充たされてゐるではないか。一代男や一代女が人として現實にあるべからざるものであることはいふまでもなからう。かういふ作品の主なる興味は、それに含まれてゐる一々の物語にあるであらうが、後にいふ如くそれを一人の經歴の如くしたところに作者の重要なる意圖がある。これは單に珠にも似たる多くの説話を貫く緒の役目をもつものとして考案せられたのみのことではなく、それによつて全篇が滑稽化せられるのである。一々の物語に於いてもかういふ例は甚だ多く、またそれは概ね滑稽味を帶びてゐるが、永代藏(卷一)の三井の家財しらべに、實在の人物についての話でありながら「中將姫の手織の蚊帳、人丸の明石縮、」の類を列擧し、事實らしくないことを明かに示し(137)て人を笑はせてゐるやうな場合もある。まして淨瑠璃や歌舞伎に於いては、それが人形をはたらかせたり舞踊と結合せられたりする點から見ても、またいはゆる趣向の奇を弄することから考へても、或は事實らしくない結構を有し、或はけば/\しい色彩が施されてゐることを、推知するに難くはない。歴史的題材を捉へて來ながら寫された世の中が全く作者の時代となつてゐるのも、前に述べたやうな事情からであらうが、やはりその時代その人物を忠實に考察してそれを寫し出さうといふ考が初めから無かつた故でもある。
 その上に當時の作者には何れも一種の成心が有つて、それによつて世の中を觀てゐるから、虚心に事物を觀察し如實にそれを描寫しようといふ考は起らなかつたのである。もとより如何なる文學でも作者の主觀が全く加はらないといふものは決して無いのであつて、この意味からいふと徹底的の寫實といふことはもと/\できないことであるが、今こゝでいふのは、作者が意識してもつてゐる一定の思想を何ごとにもあてはめようとしてゐたことである。このことは文學の種類によつてそれ/\に特色があるから、詳細は次章以下に述べようと思ふが、共通の傾向としてこゝに説いておきたいことは一種の道徳的教訓である。
 貞門の俳諧師が、少くとも理説の上で、世間道徳を顧慮してゐたことは前卷にも述べておいたが、彼等が談林の俳風を攻撃するにも、またこの點からするものがあつた(中島隨流の破邪顯正など〕。芭蕉が往々その作に教訓の意を寓してゐることは周知の事實であるが、彼の門人のには儒教でいふ五倫を主題にしたやうなものがあり、支考などは、衒學的な態度ながら、三教一致などといふことをさへいつてゐる。不猫蛇の著者の如く俳諧には勸善懲惡も仁義禮智も無いといふ論者もあるが、それはむしろ稀な例である。鬼貫にもまた俳諧を道徳的に見る傾きが無いでもない(獨(138)言)。古今夷曲集の序には狂歌をも道徳的に説いてある。西鶴の浮世草子でも、永代藏などの町人ものに、儒教的道念とは違つた考ながら、教訓の意味が含まれてゐるのみならず、好色本にすら所々に教訓文字があり、二十不孝といふやうなものは、その名稱からも、その説話に於いて無理にも不孝ものが身を滅ぼすことにしたもののあることからも、その意のあるところが察せられる。その他の作家に於いてもほゞ同樣であつて、後期の八文字屋ものに至つては明かに勸善懲惡を標榜してゐる。古物語についても同じ考をもつてゐるので、風流源氏物語や紅白源氏物語の序文にさういふ意味のことが述べてある。なほ「總じて狂言淨瑠璃は善惡人の鑑になる」(生玉心中)といはれ、「狂言芝居で貞女をみせるは女房の手本によいことなり」(日本莊子)と記された如く、淨瑠璃や歌舞伎は一般にかう見られてゐたのみならず、作者もまたいはゆる「惡人亡びて善人榮える」やうにその結構を立ててゐる。事實は、作者の考も教訓を主としてゐるのではなく、特に八文字屋ものなどに於いては、後の人情本と同樣、勸懲は單なる看板に過ぎず、讀者や觀客の受ける印象からいつても、教訓の效果は殆ど無いといつてもよいので、儒者などから激しく非難せられたのもそのためであるが、ともかくも表面にさういふことを裝はねばならぬほどに、思想としては、教訓の分子が必要とせられたのである。
 この傾向の萌芽は、前卷の第三篇に述べておいた如く、新文學の發生と共に現はれてゐるので、教訓的の仮名草子の作られたのもその一現象であり、さういふ空氣の裡に世に出た浮世草子にそれが傳はつたといふ事情もあるが、歌舞伎や淨瑠璃にさへ同じ傾向が生じて來たのを參考すると、世の秩序を固めようといふ要求と、それに伴つてます/\世に流行した儒教の影響とが、一層それを強めたのであらう。室町時代の物語などの教訓的傾向とこれとは、歴史(139)的には直接の關係は無いらしい。女歌舞伎若衆歌舞伎は勿論、島原狂言時代までの歌舞伎、十二段や舞曲またはその改作を語つてゐたころの淨瑠璃には、さういふ形跡は見えないから、この方面に教訓の分子が加はつたのは、早くとも寛文のころから後のことであらう。さうしてかういふことを強ひて附け加へるのは、一つは當時の作者に人生に對する透徹した觀察眼と、事實をありのまゝに寫さうとする用意とが無かつたからであるが、また道徳についても文字上の知識をあまりに尊重して、實生活そのものに於いて眞の道徳的意味を發見することができない一般の思想が、ここに現はれたものでもある。故らに教訓を標榜するに至つては、實質の娯樂的であるのを強ひて粉飾しようとする狡獪手段だともいへばいはれる。西鶴の町人ものなどには、却つて教訓の意味が率直にまたかたり力強く現はれてゐるが、それは、淺薄なる處世訓ながらに、實生活から得たものであつて、書物から來た知識でないからであり、さうしてそれは、身を亡し財を失ふ商人が多いといふ眼前の事實に刺戟せられたのであらう。
 次に考ふべきは古典趣味であつて、これもまた當時の文學の寫實的でない一因をなしてゐる。俳諧に於いては、談林のにも蕉風のにも古典的要素は甚だ豐かであるが、蕉風のに自然界が多く主題となつてゐるのも、一つは歌連歌からの因襲である。古典趣味は浮世草子にも存在してゐて、西鶴には特にそれが著しい。彼の作の何處を開いてみても、古典の遺韻のほのめいてゐないところは無いといつてもよいほどである。彼がしば/\兼好や業平をいつてゐるのは、好色本の作者としては自然のことでもあり、また前卷に述べておいた如く徒然草と伊勢物語との摸作が新文學の先驅となつたといふ歴史的事情からも首肯せられることであつて、一代男は畢竟新伊勢物語であり、世之介は今樣の業平である。作者も多分その考で書いたのであらう。一代男に源語から來てゐるところがありまたその插話の翻案もある(140)といふ説には少からぬ疑がある。源語のどこかから思ひついたといふ程度のものは幾らかあらうが、全篇の着想も結構も源語とはつながりがあるまい。世之介が女護の島にもつていつたもののうちにも、伊勢物語はあるが源語は無い。章の數の五十四章になつてゐるのがもし源語の卷の數を思ひよせたものであるならば、それは世之介を六十まで生きたことにしたのと、一年に一章をあてたのとのために、さうすることができたまでのことであらう。また三代男には特に徒然草の影響が著しい。(因みにいふ。後に業平涅槃圖といふものが江戸の浮世繪師によつて畫かれたが、その由來は二代男の結末にあるのではなからうか。)彼はまた到るところに古歌や古語を取り、冠詞または序詞風のいひかけにそれを利用して、巧みに自家獨得の筆致に融合させ、或は古典趣味に本づく自然界め風物光景を所々に插み、或はそれを文章の修飾として今樣の世界に古典的情調を浸潤させてゐる。これは次章にいふ如く俳諧の修養から得たものらしい。そのために和かい優しい氣分が出てゐるが、それだけ現實味が殺がれて獨者に深刻な印象を與へない。彼の追從者に於いても多かれ少かれこの傾向の無いものはない。淨瑠璃の詞章に於いても同樣で、それに伊勢物語や源語などから材を取つたものもある。なほその景事や道行き、または歌舞伎などに用ゐられる三絃曲にも、古典趣味は饒かであつて、近松の作でも、その自然界の措寫は殆ど古典からの因襲以外に出てゐないし、その他にも古典の辭句を利用したところは甚だ多い。これは、一種の尚古思想が普く世間にゆき渡つてゐるので、平民文藝の讀者や看客聽衆もまたそこに幾分の興味を有つてゐるものがあつたからでもあらうが、彼等の多數がさうであつたとは考へられず、一般にはその詞章の意義すら解せられなかつたであらう。もしさうとすれば、かゝることの行はれたのは、やはり文字の上、書物の上、の知識を尊重する當時の風尚によつたのであり、特に淨瑠璃に於いては、上に述べた如く舞(141)曲や軍記ものなどからの因襲が強くはらいてゐたのであらう。もつとも淨瑠璃などの古典的要素は、多くの作者に於いては、直接には謠曲や室町時代の物語から取られてゐる場合が多いらしく、古典に對する關係はむしろ間接であるかも知れぬ。俳諧に於いても謠曲は既に一種の古典と認められてゐるので、「謠は俳諧の源氏なり」(其角雜談集)といつてゐるものもある。談林は固よりのこと蕉風に於いても、謠曲から材料を取るのは常のことである。
 少しわき道に入るが、三絃曲の詞章については後に説き及ぼす機會が無いかも知れぬから、こゝでそれを一言しておかう。初期の三絃曲は前篇に述べた如く小唄であつて、それは純粹の民謠ではなく、主として都會の流行歌であり、またその中には古典の知識を有つてゐるものの作もあつたらしいにかゝはらず、ともかくも俚謠として行はれたものであつた。ところが檢校などの手によつてそれが三絃にのせられ、また三絃が、色道大鑑などに述べてある如く、狹斜の巷に流行し遊女の弄びものになるやうになつたので、詞章はもとのまゝでも、樂としての情趣は俚謠の奔放な性質を失つて、力の無い繊細なものになつて來たに違ひない。ところがさうなると、かういふ趣味にふさはしい新しい詞章が要求せられるので、寛永の末に流行してゐた弄齋節、明暦萬治のころから行はれたといふ投節などは、そのために新作せられたのであらう。柴垣節などの踊り歌が世間に行はれてゐたが、それはかういふ要求には適しないものである。さてこの弄齋や投節の詞章は七七七五の一定した形を具へ、その用語も俚言口語を避けてゐるのみならず、思想に於いても古い戀歌に見える因襲的觀念を踏襲してゐるので、單に詞章として見ても、昔の隆達節や本手瑞手などの組歌に採られた小唄のやうた、奔逸な清新な調は少しも無く、特に投節に至つては「行くも歸るも忍ぶの亂れ限り知られぬ我が思ひ」といふやうに、古歌を改作したものさへあつて、全體に古典的の調子が著しく耳にひゞく。作(142)者は幾らかのさういふ知識を有つてゐるものであつたらう。
 ところが元禄のころになるといはゆる新曲、即ち松の葉などに見えるやうな長歌の類、が現はれた。これは舊來の詞章があまりに單純であるのと、同じく三絃を用ゐる芝居唄、または淨瑠璃の景事や道行きなどがもてはやされたのに刺戟せられたとの、ためであらうと思はれるが、それには七五調が多く用ゐられ、古歌が常に利用せられてゐるのみならず、謠曲や宴曲などに前蹤がある如く、縁語やいひかけによつて古文辭を補綴したやうな部分、または無意味に故事や成語を結合したものが少からずあつて、單に詞章として見れば、古典的要素が遍くゆき渡つてゐる。その作者に名ある俳諧師があつたことは既に述べておいた。もつとも俚言口語も自由に用ゐられてゐるし、樂としての情趣に於いては全く古典から離れてはゐるが、それはおのづから別問題である。要するに三絃曲の詞章が漸次俚謠から離れて來るに從つて、ます/\古典的要素を加へて來たので、そこにこの時代の思潮の一面が認められるのである。俚謠そのものに於いても同じ傾向があつて、都會から流行していつたらしいものが概ね七七七五のいはゆる都々一調になつたのもその一現象である。諸國盆踊唱歌といふものを見てもそれが知られるが、この中には和泉の部にある「ひとはわるない」の歌の如く、隆達節に於いて無形式であつたのをこの形式に改作したものがある。但し純粹の地方的民謠にはこの形式に從はないものが多く存在してゐる。なほ芝居唄に於いて、踊り歌やいはゆる出端は口語を多く含んだ快活な滑稽的のもので、その間にはやゝ初期の歌舞伎を想起させるやうなものもあるが、所作に伴ふものはやはり古典的分子が多く、中には謠曲から脱化して來たものもある。江戸長唄もやはり概して同樣である。これは所作そのものが能や舞やの古藝術に由來があつて、恰も淨瑠璃の景事などと對此すべきものだからでもあるが、當時の詞曲(143)を作るものが、如何なる場合にも古典に何等かの準據を求める習慣であつたからでもある。踊り歌の如き、性質上それによることができないものは別であるが、一般にはかういふ傾向があつた。
 古典趣味に關聯してなほ一つ考ふべきことは、古傳説の改作などが所々に散見することであつて、西鶴にすら二代男(卷五)に平忠盛、男色大鑑(卷四)に袈裟、永代藏(卷四)に小野道風、の説話の翻案がある。細かに詮索したらばこれらの外にもなほ發見せられるであらう。淨瑠璃に至つては殆どそれから成りたつてゐるといつてもよいほどであるが、これは別に述べることにしよう。特殊の古傳説から來たのではなささうであるが、棠大門屋敷の道具の會議なども室町時代の物語に先蹤がある。また新可笑記(卷二)に季札の劍の故事が採つてあるなど、シナの古傳説から來た物語もある。これは巧みに元禄時代化せられてゐるけれども、翻案たることには疑ひが無い。作者の目的が世相の忠實なる觀察と描寫とにあるのでないことは、これでも知られる。近松も、信州川中島合戰で劉備三顧の故事を信玄に應用したやうに、かういふことはしば/\試みてゐるが、これには附會の跡があまり明かに見えてゐるために、往々滑稽の感が伴ふ。
 シナ文學の影響もまた看過しがたい.俳諧に於いては季吟の手になつたといはれてゐる「増山の井」の季寄に、徳元の初學抄、重頼の毛吹草、立圃のはなひ草、などよりもずつと多くシナの故事傳説や月令が探られてゐ、談林の門下からは漢語を多く用ゐ漢詩の情趣をとり入れたものが現はれ、さうしてそれが蕉風に傳へられた。蕉風の俳諧には俳句でも連俳でも息ひの外に漢詩やシナの故事によつたものが多い。また蕉門のいはゆる俳文に至つては漢文の諸體を摸倣しようと企てたものである。これらはシナの古典から來たものであるが、剪燈新話の翻案をした了意の御伽婢(144)子などはいふまでもなく、西鶴の新可笑記などにも、シナ小説の改作らしいものが幾つも見える。その他、青木鷺水の古今堪忍記やお伽百物語には、特にさういふのが多いやうであり、現に堪忍記(卷三)の孝行の堪忍は、惰史にも採られてゐる王善聰の話そのまゝである。月尋堂のこ十四孝の最後の二條も.シナ傳來のものらしい。西鶴の櫻陰比事は割合に我が國の物語が多いやうであるが、それでも一二はシナだねのものがあるやうに見うけられる。これらの物語について著者は今一々その出所を擧げることができないが、この觀察は甚しく誤つてはゐないであらう。近松のでも井筒業平河内通の招魂の法によつて亡骸が生氣を得るといふ話や、傾城反魂香に見える幽霊との結婚は、やはりこの類であるまいか。シナの俗謠を利用したものさへある。ともかくもシナの俗文學の影響はかなりに認められる。これもシナの書物が多く讀まれるやうになつた世には當然のことであり、また新趣向を得んがためにおのづから異國にその材料を求めたのでもあるが、寫實的のものから發達した平民文學としてはむしろ軌道を逸したものであつて、後の馬琴などの愚劣な唐山崇拜もこゝに一つの歴史的由來がある。但し室町時代の物語のやうに佛典から出たと思はれる話はあまり見當らぬやうであるが、これは作者がそのころのとは違つて僧徒でなくなつた故であらう。
 さて上に述べて來た如く、當時の平民文學が主として娯樂的のものであり、また忠實なる人生の觀察と描寫とを目的としたものでないとすれば、この時代の文學に讀者をして反省せしめ沈思せしめるやうなものが少く、また人を感激せしむるものの無いのも、怪しむに足らぬ.もとより今日の讀者が今日の思想でそれに對すれば、幾多の深刻なる問題も提供せられてゐるし、人生と社會とに關する考察の材料をもそこに發見することができようけれども、それは作者の豫期したところでもなく、また當時の讀者の感じ得たことでもない。新しい人生觀や新しい道徳觀が天才的詩(145)人によつて文學に現はれ、因襲的思想や便宜道徳の權威を破らうとするやうなことも、概していふと思ひもよらぬ話であつた。前にも述べた如く、文學はむしろ表面的なりとも世俗的道念、文字上の徳教、に本づく教訓を標榜したほどである。昔から外國の思想を知識として學ぶことに力を盡したのが習性となつて、自己の情生活を重んぜず、既成概念に順應することをのみ考へて、自己の生活から自己の思想を展開してゆくことのできなかつた日本の知識人には、これが當然であらう。
 けれども、いかに遊戯と娯樂との具であつたにせよ、既に文學の形をなす上は、それに何等かの思想が現はれてゐなくてはならぬ。物語であり劇曲である上は、讀者に理解せられまたはその同情なり反感なりを惹く何物かがそこに無くてはならぬ。俳諧の如き多數人の追從を求めるものにも、また彼等の心をそこにひきつけるだけの何等かの趣味があるはずである。俗衆の思想や趣味と合致する程度のものであり、或はむしろそれを反映するに過ぎないものであるにしても、それを巧みに表出する技能、或は彼等の身に行ひながら意識しないところを意識し、彼等が日常見聞しながら氣のつかないところに氣がつくだけの明察と敏感とを、作者は具へてゐなければならぬ。宗因や芭蕉や西鶴や近松が詩人であり藝術家であるのは、即ちこの點に於いてである。その世態の措寫には甚しき誇張もあり、無理な結構のために不自然な形になつてゐることも少なくなく、特に近松などの作には、平和の世には見られないやうな殺伐な光景が甚だ多く、現實の社會に行はれてゐないことであるがために觀客の好奇心をひく、といふやうな氣味のものもいくらかは無いでもないが、しかしそれに含まれてゐる思想は現實に存在するものであるので、それは聽衆なり看客なりが十分の同情と理解とを以てそれに對してゐたこと、また小さければ敵打とか、やゝ大きくなればいはゆる赤(146)穗義士の一件とかいふ、稀に起る事實がそれと一致してゐることによつても明かである。
 さてこれらの作者が當時の社會と人心とを寫し出し、またそれに對して何樣かの觀察をすることができ、それによつて時代の思想を確かに捉へ得たのは、偏狹なる文字上の知識に束縛せられてゐる學者や知識人の社會とは、別箇の存在であつたからでもあつて、儒教的教訓文字を強ひて附け加へても、事實、作者の用意も讀者の受ける印象もそれとは全く別の方面であるところに、彼等の作の價値があるのみならず、かゝる低級な文學に於いても、或は作者に特殊な人間觀人生觀が覗はれ、或は幾らかは俗衆を超出してゐる思想を求めることが、全くできないでもない。また後にいふやうに、どうかすると不用意の間に世間なみの便宜道徳に背反するやうな思想さへ現はれてゐる。しかしそれも上に述べた如く、作者が意識して學問上の知識や世間的道義の權威に反抗しようとしたのではなく、またそこに深い考察と強い主張とがあるのでもない。さうしてこれは前章に述べたやうに、政治上の制度や社會組織の桎梏を脱しようとする平民の活動が、意識的自覺的でないことと相應ずるものである。實をいふと、かういふことも、事實上、世人が無意識ながら表面上の道義に對して不満足を抱き、また儒教などに征服せられてゐなかつたためであつて、作者もまた無意識の間にそれを文字に寫し出したに過ぎないのである。
 
 文學の性質がかういふ風のものであるとすれば、「新板年々板行すると雖も、いづれか、思ひ付き同じことにて、みな板がへしの如し、」(傾城武道櫻)といはれたやうに、浮世草子が千篇一律になつたのも當然である。これは前にも述べた如く作者の品性にも原因はあるが、題材も狹い範圍に限られ、思想もほゞ一定してゐるから、一たび傑出し(147)た作があつてそれが世に行はれると、後出のものが踏襲と摸倣とをのみつとめるのは、この點から見ても自然の成り行きである.淨瑠璃や歌舞伎には、それが斷えず新作を出さねばならぬといふ興行上の要求から數多く作られるだけに、一層この感が深い。徒らに事件を複雜にし波瀾を多くするのも一つはこれがためで、種々な小細工を弄し荒唐幻怪た場面を作る一原因もこゝにある。後にいふやうに歌舞伎淨瑠璃浮世草子が互にその材料や形式を融通しあつても限りがある。浮世草子にシナの俗文學から材料を取るのも變化を求めるためであるが、それは世相を寫さうとする浮世草子の本意に背くので、一時は珍奇の故に人の注意を惹いても大に世に行はれるには至らない。だから何れも或る程度までの發達をすれば、その後はもはや進歩が止まつてしまふ。俳諧に於いて貞門が談林となり一轉して蕉風の開かれたのも、あまりに範圍が局限せられてゐるため、同じ方針を取つて行かうとすれば忽ちゆきつまつてしまふので、方向を轉換して纔かに數歩を進めたのである。だから異風の競ひ起るのは全體が單調だからのことで、つまりは世界が狹小で思想が淺薄である結果に外ならぬ。更に詳しくいふと、文學が人生と世相との觀察に於いて内に深みを加へることができないから、外に新奇を求めるのであるが、國民の生活もその情思も單調である以上、その新奇を求めることも困難であるから、文學は全體に於いて進歩する道が無いのである。
 もつともこれはこの時代のことばかりではない。一體に我が國の文學には昔からかういふ傾向があつて、奈良朝の長歌も平安朝の物語も、鎌倉時代に起つた戰記文學も室町時代に成りたつた謠曲も、或る期間に若干の發達をして一定め形式が整ふと、もうすぐに固定してしまつて、それから社會上に大變動の生ずるまでは、新しい文學上の運動が始まらない。だから短い活動期の後には何時も長い沈滯期が續いて、その間はたゞ摸倣と踏襲とが行はれるのみであ(148)る.短歌や連歌は長年月の間行はれてはゐたが、それも實は奈良朝の短歌、室町時代の連歌であつて、たゞ詩形が簡單で習慣上何人でも作り得られるものになつてゐるため、後までもその摸作が行はれたのである。さうしてそれが社會状態の變牝に伴つてとき/”\活氣を呈するけれども、ぢきにまた沈滯してしまふのみならず、連歌も實は歌の一變形にすぎないのであるから、大體からいふと平安朝以後は長い踏襲時代に過ぎないのである。これらはみな、それ/\の形式の文學が、題材にもその取扱ひかたにも一定の規範を作つてしまひ、常にそれを發達させてゆくほどの新しい思想が生まれず、斷えずそれを變化させてゆく内部からの要求がないからである。だから社會上の變動といふやうな外部的事情によつて、人の思想が動いて來ると、それを盛るための新しい形式が何時となしに現はれて來るので、それは前代の文學に淵源はあるけれども、その過去の文學が内容を豐富にし思想を深邃にすることによつて、その間から新しいものが展開されたものとはいひがたい。江戸時代の淨瑠璃は舞曲に、歌舞伎は狂言に、一つの由來はあるけれども、それから連續した發達ではない。浮世草子が室町時代の物語とは殆ど縁の無いものであることは、いふまでもなからう。
 けれども同じく單調であるとはいへ、江戸時代の文學は室町時代に比べると種類も多く、内容も幾らか複雜になつてゐ、さうして淨瑠璃も歌舞伎もまたは物語草子の類も、おの/\新奇を競つて人の注目を惹かうとし、特に俳諧に至つては、蕉風の徒が、或は「俳諧に古人なし」(芭蕉)といひ、或は「俳諧は新しみを以て命とす」(去來)、「新しきところ無くては俳諧といふべからず」(許六〕、といひ、また或は不易に對して流行にも價値を認めてゐると共に、鬼貫も變化に後れるものを笑ひ(七車)、談林の輩も「新しきは珍し、珍しきは新らし、」(俳諧團袋)と唱へ、「とか(149)くおれが風がおもしろし」(同上)と我流を主張して、文學のこの一分野に群小割據の戰國的状態を現出したのは、前にも述べた如く、一つは讀者を倦まざらしめ新しい追從者を求める必要から來たことでもあるが、また典型に狗束せられず古人に羈縛せられない、自由の文學であるからでもあつて、その變化と新しみとを欲するのは、前人のなしたところに滿足せずして我より古をなさんとし、因襲に服從せずして自我を立てようとする、内心の要求から出るのである。さうしてそこに平民文學の特色があると共に、放縱ともいふべきほどに活氣が横溢しまた互に相下らずして常に人を凌がうとする點に於いて元禄の世相をさながらに示してゐるのであり、何物かをその新奇な形によつて表出しようとする點に於いて、思想のやゝ豐富になつて來たことを證するものでもある。さうして元禄時代に一度その發達の頂點に達した上は、もはやその上に進むことはできずして、概觀するとその後は停滯期に入るけれども、平安朝の物語が院政時代以後漸次衰微し、または謠曲や舞曲が固定して動かなくなつたとは違ひ、なほ幾らかは新しい色彩をつけ變改を試みてゆくのは、それだけに世界が廣くなり知識も加はつて來たからであつて、畢竟國民の生活が昔に比べると充實して來た故である。けれども享保元文以後の文學が元禄文學よりも進んだものであるとか、それに比して内容が豐富になり思想が深邃になつたとか、いふことはできないので、大勢上やはり停滯期に入つてゆくものとしなければならぬ.
 
 次に文學の外形について共通の傾向を一言しよう。用語や文章の點に於いては、俳諧が日常語を自由に使用する端緒を開き、東海道名所記などがそれを文章の中に編みこむ新例を創めたが、西鶴に至つては他人の迫從し難い一種の(150)文體をそこから展開して來た。淨瑠璃の文體もまた室町時代の物語風のから漸次變つて來て、近松になると口語を自由自在に驅使し俚謠の類をも多く利用したが、一方では漢文直譯の調子をも加へて來て、流暢な七五調と共に、口語とは反對な方向にも進み、全體からいふと甚だ複雑な文體を作りあげた。西鶴は口語を用ゐながら、それをさして目だたないやうに雅文化したがため、美しく調和のとれた落ちついたものができたが、近松はむしろその反對に、種々の要素を際立つて耳にひゞくやうに對照させたため、目まぐるしいほどに花やかな、光彩陸離たる、ものとなつた。もつとも近松のには、操にかける語り物であり、さうしてそれが、話の筋に種々の波瀾があり、それ/\に變つた氣分の現はれてゐる幾多の場面によつて構成せられるために、文體もそれに應ずるやうにしなければならぬ、といふ特殊の事情があることは勿論である。それ/\に特色はあるが、何れにしても生氣の横溢してゐる新文章であることは同樣であつて、その新味は、自前の事物を描寫し當時の思想を表現するためには、ぜひとも用ゐねばならぬ口語を取り入れた點にある。しかし、節附をして語り人形の動作に伴はせねばならぬ淨瑠璃は別として、草子に於いても、全體を口語にしないのみならず、會話にすら文語調を多く用ゐたのは、やはり因襲の脱却し難いが故と一種の古典趣味のためとであらう。
 もつとも近代の學者が非難するやうに、西鶴には古典の語法や仮名づかひを誤つたところが多いけれども、それはよし彼の缺點とすべきものであるにせよ、文章の上にも大に發揮せられた彼の才能を累するものではない。俳諧にも古典の語格に拘泥しない用法はあつて、それが俳諧師の間には一般に行はれ、近松にもいひかけなどを濫用したために、語法の破れた場合が甚だ多い。本來七八百年前の貴族の言語に存在した語法をそのまゝ一般に遵奉させようとい(151)ふのが、むりなことであつて、言語が變遷するに伴つて文章語にも變化が生ずるのは當然である。新しい思想を表現するには新しい語法が要る。詩人がその人特有の氣分を託するには、世間一般の法則を墨守することのできない場合もある.特に口語の外に文章語があつて、而もその文章語が舊來のまゝでは不充分であるがために、口語を交へねばならぬ場合に於いては、なほさらである。西鶴の破格は、或は彼の無頓着のため或は知識の不足から來てゐる場合が多く、さうしなければ適切に自己の思想なり氣分なりを表現することができないといふ、内的必要から來たものばかりではないらしいが、一方ではさういふことに無頓着であるだけに奔放な性質が、あの文體を造り出させる一大原因であつたには違ひない。それは恰も彼が學究でなかつたために、自由な觀察を世相に加へ得たと同樣であり、またそこに元禄人たる彼の特質がある。俳句に俚謠や漢語を用ゐ、また例へば惟中などに多く見えるやうな、殆ど形式を無視したものが作られたのも、近松などの淨瑠璃の文體が、古今和漢種々の用語や筆致を交錯して、變幻出没端睨すべからざるやうになつてゐるのも、それが過去現在の種々な文體を盡く集め成した點に於いて、またその奔放不羈にして毫も澁滯の氣がない點に於いて、みな前章に述べたやうな元禄精神の發現と見ることができよう。
 しかし近松などの詞章が種々の文體を包有してゐて、その間の對照が著しく感知せられ、またはその結びつけ方が極めて唐突に見えながら、單に文章として讀む場合でも、ともかくも全體としてまとまつた何樣かの印象を讀者に與へることができるのは、その種々の文體がそれ/\に適切な思想なり情懷なり動作なりを示すために用ゐられ、さうしてそれらが一つの詞章として組みたてられたところに、おのづから一種の統一が生ずるからである。對照の感じのあるのが、即ちその奥に統一せられた氣分のおぼろげに存在することを證する。芝居唄の踊り歌や出端などには俚謠(152)などを幾つもつなぎ合せて一曲としたものがあるが、これもやはり同樣であらう。一體に三絃曲の詞章は、文字ぐさりや名よせのやうなもの、またはいひかけや縁語などで徒らにことばをつないでいつたのみで一曲の意義を捕捉することすらできない、文章としては支離滅裂なもの、が少なくないが、これは樂曲としての進行の上に何樣かの氣分が現はれてゆけばよいのであるから、詞章の方は獨立の價値を有つてゐない。昔の宴曲なども詞章の無意義なことはこれと同一であるが、たゞ曲としては、佛家の聲明から系統をひいてゐて、詞章に或る節づけをしたに過ぎないものであり、殆ど旋律をなしてゐなかつたらしいのに、この時代の三絃曲はそれとは違つて、一旦民謠を基礎とした抒情的音樂の段階を經、ともかくも一種の聲樂となつてゐるだけに、詞章そのものはことばの無意味な排列であるにしても、樂としての統一せられた氣分は、それとは別に幾らか旋律の上に現はれてゐたのであらう。もつとも前に述べた如くその節は、恰も詞章が種々の異分子を維ぎ合せたと同樣、またそれに伴つて、既に世に行はれてゐる小唄や謠ひもののを、幾らかづゝ變改して結びつけたものが多いけれども、それにしてもその進行の上に或る統一がおのづからできてゐたらしい。近松の作の詞章についても同じやうなことが考へられよう。ところで文章の上のかういふ傾向は、作品の結構に於いてもまた見られる。
 この時代の文學的作品は何の種類のに於いても結構が極めて散漫である。俳諧は連歌と同樣、一卷としては殆ど組織の無いものであつて、月花の定座や去り嫌ひといふやうな種々の規律は、主として一卷のうちの變化を求めるために一々の作者の守るべきことを定めたものであつて、まとめられた一卷がそれによつて有機的に組織せられるのではない。西鶴の浮世草子も永代藏とか織留とかいふものは、單に種々の説話を集めたものに過ぎず、その他のものに於(153)いても、その個々の説話を維ぐ絲は極めてゆるく、順序などにもさうなくてはならぬ必然的關係が無い。その摸倣者のうちには都の錦の日本莊子のやうに、その絲が結ばれずにしんでしまふものさへある。淨瑠満などにも全體の筋はあるけれども、それと一々の插話との關係は緊密でなく、例へば近松の女夫池に於いてその題目にまで採られてゐる女夫池の插話、蝉丸に於ける敵討の物語などが、全體の結構から殆ど遊離してゐるといふやうな場合がある。本朝三國志の如きは上半と下半とは無關係である。また景事や道ゆきなども、或はあまりに義理づくめの世界から看客を解放してその氣分を一轉させ、或は主要なる人物のために一種の抒情味を舞臺に漂はせる效果のあるものではあるが、概していふと事件の戯曲的展開の上からはさしたる用をなさないものである。能に狂言をはさむ形式をまねて、段物の間に狂言操やのろま人形などの道化を見せることが、劇の統一を亂すものであるととはいふまでもない。歌舞伎の所作事もまたそれと同樣であり、江戸歌舞伎のいはゆる「つらね」に至つては、一層本筋とは縁の薄いものであつて、評判のよいものは何の作にも恣にそれをはめ込む例であつた。俳諧には連歌の因襲があり、浮世草子も隨筆名所記または遊女の名よせのやうなものから脱化したといふ由來があり、淨瑠璃や歌舞伎には、或は人形のはたらきを見せ或は俳優の技倆を示さうとする要求から、また或は初期の歌舞伎の本質であつた踊、もしくはそれから變化して來た新しい舞踊、と寫實的の物まねとを、強ひて結合したといふやうた事情からも來てゐるし、本來低級の讀や觀客をあひてにする娯樂的文藝であるからでもあるが、衣服の模樣なども全體としての統一よりは色彩や描線の大膽な組み合はせを喜んだらしいことから考へると、そこに戰國的な放縱の氣を傳へてゐる元禄精神の一面も見られるやうである。
 しかし俳諧に於いて連俳よりはむしろ俳句が重要視せられ、連俳に於いても、或は釋教百韻とか戀の俳諧とかいふ(154)やうな、一卷を貫通してゐる題材のあるものが作られ、獨吟が流行し、特に蕉門になると歌仙のやうな句數の少いものが多く行はれ、兩吟とか三吟とかいふやうに作者も二三人の少數を以て一座とすることが好まれたのは、それに幾らかの統一が要求せられて來たためではなからうか。浮世草子でも、男色大鑑などは全く連絡のない斷片的の物語を集めたものであるにかゝはらず、首尾が照應するやうに書かれてゐるし、一代男や一代女などは、それに含まれてゐる一々の説話の上には何等の内的關係が無く、勿論實際の經歴らしく描かれてはゐないけれども、或は人間の性慾生活を象徴した世之介一代の好色修行に、或は我れみづからの「いたづら」が何時のまにか「悲しき身すぎ」となり、わが性慾の放縱なる追求が知らず/\食ふために他人の性慾の犠牲となつてゆく、といふ「さま/”\になり變りし」身の上に、讀者の注意を惹くだけの統一せられた情趣が、全體の上に髣髴として認められるので、單にこの點から見ても、昔の伊勢物語よりは※[しんにょう+向]かに勝つてゐる。さうして浮世草子でも、後には結構のある長篇の物語が現はれるやうになつた。もつとも實質からいふと、西鶴の作、特に好色本でないものは、その個々の説話が多くは、始あり終あり何等かの葛藤とその解決とを具へてゐる一篇の物語であるので、それとかういふ長篇との區別は、たゞ描寫が簡潔であるのと精細であるのとの差異に過ぎない。五人女の如きは恰もその中間に位してゐるものである。たゞ書物となつた形の上からいふと、そこに大なる區別があり、讀者のそれから得る印象もまた從つて違ふ。
 歌舞伎や淨瑠璃が始終あり起結あるものであることは、いふまでもなからう。元禄時代はもはや能の演奏のやうに幾番かの能や狂言を排列したのでは滿足せず、種々の場面を緊密に組織だてることができないまでも、散漫ながらに全體としての結構のあるものを要求するやうになつたのであらう。だから狂言操やのろま人形を獨立に見せることな(155)どは後には無くなり、道化役は曲中の人物としてはたらくやうになる。近松に至つて景事や道ゆきが劇の組織分子として利用せられたのも、これと同一傾向である。これは藝術としての自然の發達でもあるが、多くの劇曲の主題となつてゐる復讐とかお家騷動とかいふやうな事件そのものが、始終を明かにし起結を具へて示さねばならぬものであることからも、題材となつてゐる武士の生活に於いて、長い時日の間に幾多の事件となつて現はれる智計と謀略とが重んぜられてゐるために、それを寫さねばならぬことからも、また因果應報といふやうな道徳的要求を充たさねばならぬことからも、來てゐるのであらう。さうして全體から觀ればそれは、複雜な要素を含んでゐてそれらがめい/\に活動しながら、一面に於いてはその間に漠然たる統一が生じて來た平和時代、固定時代、の民衆生活の象徴としても見られよう。俳諧や草子の上に同じ傾向のあることからもさう考へられる。但し文學の上に見えるこの統一が概して内部的有機的のものでなく、外部的横械的のものであるのは、やはり個人を認めずして社會の統制を重んじ、自由な個人が社會的に結合せられるのでなくして、外部から強ひて萬人を一定の型にはめこむといふ、この時代の精神の一面と相應ずるところがあらう。
 さて最後に附記しておきたいことは、その地理的關係である。前にも述べた如く、平民文學の中心が平民の活動の最も旺盛である上方にあつたことはいふまでもないが、江戸とても文學に縁が薄いのではない。俳諧がそこで上方に對抗するほどの勢力を得たことは勿論である。浮世草子の素地とも見なすべき雜著も、俳諧師などの手によつて少からず作られたらしく(種彦の好色本目録吉原書籍目録參照)、淨瑠璃もそこで幼稚ながら特色あるものが作られた。たゞそれを文學として見るに足るべき草子に成長させるだけ、または劇としての内容を具へさせるだけの、機運が來(156)ず人物も現はれなかつたのである。さうしてそれは全體の文化が上方に劣つてゐたからではあるが、直接に市民の思想の現はれるものだけに、實生活に於いて上方人よりも感受性が粗大で思想が淺薄な江戸人には、上方人ほどの文學を産み出す力が無かつたからではあるまいか。近松などの淨瑠璃には感傷の分子が多く、また論辯を弄ぶ癖が際立つて目につくが、かういふものの文學的價値如何は別として、それを好んだ上方人と、泣き言をいはずまた手ばやく腕力に訴へる傾きのある武士、もしくはそれと共通な性質を有つてゐる江戸人と、を比較すると、そこに文學的製作をなし得る資質の多寡があるやうに見える。さうして江戸人自身が何物かを作り出さないうちに上方に現はれた優秀なものが入つて來て彼等を壓倒したがため、さういふ機會の來ることが後れたのではあるまいか。後にいふやうに西鶴は人といふものに普遍な問題を取扱ひ、近松も上方にゐたとはいへ武士の氣風と習慣とを十分に理解してそれを寫したのであるから、それらが漸次江戸人に翫賞せられるやうになるのは當然であり、また江戸人とても太平に馴れ幾らか知識が進歩するに從つて、西鶴や近松の作品に現はれてゐる上方的氣質を理解し得るやうにもなるのである。また俳諧は實生活との交渉が比較的薄いだけに、地方的特色の現はれることが少く、流行の變遷も土地とは相關するところが殆どない。この點に於いてはやゝ擬古文學に近いのである。俳人は常に東西を往復し都鄙を行脚し、しば/\その居所をすら變へてゐる。蕎麥切頌(風俗文選)によれば「蕎麥切俳諧は都の土地に應ぜず」と芭蕉がいつたといふが、事實は必しもさうではなく、芭蕉の門弟に上方人もある。彼が奥羽には行脚をしても須磨明石より西へゆかなかつたのは、本據が江戸にあつた地理的關係からではあるまいか。これは地方によつて彼の俳風の多く行はれると否との一原因になつたかも知らぬが、その結果ではあるまい。蕉風そのものが芭蕉の生時に於いて京坂以西に流行しなか(157)つたにせよ、次章にいふやうにそれと共通な趣味は上方をも風靡してゐる。
 
(158)     第七章 文學の概観
 
       俳諧 上
 
 俳諧の由來とそれが世に流行し初めた時代の状態とは、前卷に概説しておいた。和歌から俳諧の歌(狂歌)ができると共に、連歌から俳諧の連句(連俳)が生まれ、連歌に於いて發句の重要視せられた習慣が俳諧の連句にも傳はつて、俳諧の發句(俳句)もまた特殊の地位を占め、さうして後にはそれが獨立した一詩形として取扱はれるやうになつたのである。さて宗鑑や守武が連俳を始めた後でも、狂歌と俳句とは一時の興を遣るために歌人や連歌師の間に行はれたので、俳句が獨立の詩形となつたのも、一つはその形が三句十七音の極めて簡單なものであつて、咄嗟の際に口を衝いて出る戯謔の言としてふさはしかつたからでもある。この點に於いて狂歌と俳句とはほゞ同じやうに取扱はれ、兩つながら頓才と横智との所産であつた。貞徳によつて鼓吹せられた俳諧が言語上の遊戯を主としてゐたのも、こゝに一つの由來がある。
 俳句といふ極めて短い詩形が世に行はれるやうにたつたのは、かういふ歴史があるからであつて、後にこそそれに詩としての内容が盛られるやうになつたが、本來は殆ど詩といふに堪へない單純な言語上の戯謔に過ぎないものである。だから俳句の現はれた理由を、我が国民は簡單な小さい形のものを好むからだといふやうに概論し去るのは、妥當の見解ではあるまい。それよりもむしろ、我が國民の戯謔を好む性質が俳句の流行を促したのではあるまいか。もつとも歴史的にいふと、これは短歌が廣く世に行はれてゐた因襲にもよるのであるが、三十一音の歌が何人にも學ば(159)れるものとなつてゐたのは、さういふ詩形ができてゐたからのことであつて、我が國民が特に短い形のものを好んだためにさういふ詩形が生れたのではない。短歌の形は、昔の知識人が民謠に本づいて作つた抒情的な詩形としては適當なものである。抒情詩は感情の高潮に達した刹那の情懷を詠ずるところにその特質があるから、その詩形は短いのがよいのである。さうしてそれにも早くから輕い戯謔の分子が加はつてゐて、特に平安朝に至つてはそれが和歌の流行した一原因ともなつてゐる。さうして短歌が古典的のものとなつて、もはや戯謔の用をなさぬ時代になると、新しい戯謔文學たる連歌が生じ、連歌が古典的なものとせられる時代になると、また俳諧の發句が起つたのである。さうしてそれらが何れも短い形のものとして現はれるのは、戯謔の言としてそれが適當だからである。むかし短歌の外に長歌が作られ、本末二句の連歌では物足らずして五十韻百韻が起つたやうに、遊戯文字としては長いものが常に要求せられ、また實際行はれてゐた。この時代に於いても俳句の行はれたと共に、達俳が依然として存在してゐるではないか。たゞ俳句といふ形が定められると、それにふさはしい詩としての内容が盛られ、そのための特殊の表現法がおのづから發達するやうになるのである。なほ和歌は謠ひものとして用ゐられることは少かつたが、この方面では舊くから種々の長い形のものが現はれた。この時代でも民謠から一轉した抒情的三絃曲にも長唄ができ、そのできない前には強ひて數曲をつなぎ合せた組みものが作られた。勿論これらの詞章は一定した律格を具へてはゐないが、それは古來の民謠に定形が無かつたのと大差の無いことで、詩としてそれを見るに何の不都合も無く、固より普通の散文と見なすべきものではない。だから我が國民が短小な手輕いものを好むといふやうな説は、淡泊な瀟洒なものを喜ぶといふやうな論と共に、深く歴史的事實を考察しないものの言であらう。さういふ趣味も一面にはあるけれども、それ(160)にはそれ/\の文化史的由來があるので、一概に國民特有の嗜好がさうだとはいはれない.濃艶な華麗な趣味については既にしば/\説いたことでもあり、後にもまた述べようと思ふが、詩形については再び言及する機會が無いかも知れぬから、こゝに附言しておく。
 さて一般文化の上に平民の力が著しく現はれて來たにつれて、俳諧の發句は狂歌と共にます/\廣く世に行はれ、「あやしの山がつすら鋤鍬をかたげて畦にうそぶき、ひすらけき商人も秤算盤をさげて市につぶやく、」(宗因の釋教百韻序)といはれるやうになつたが、戰國時代の亂雜な破壞的空氣の裡に生まれた自由な放埒な宗鑑などの作風が、世を固定させようとする時代の貞徳に至つて、理智的な重苦しいものとなり、また煩はしい式目が定められ、作者をして教訓的意味のあることを衒はせるやうにさへなつたので、俳諧そのものは既に生氣を失つて來た觀がある。けれども當時の社會には第一章に述べた如く、一面に固定的傾向が強くなつてゐると共に、他面には戰國的の放縱な氣分が平和の世に於いて新しい形をとつて現はれるといふ事情があり、また本來自由な平民の間には、武力の外に於いておの/\その力を伸べようとする鬱勃たる鋭氣があつたので、寛文時代のこの寛濶な氣象は俳諧の上にも現はれた。或はまた世が固まつて來て實生活が窮屈になつたために、こゝろもちとしては因襲的にもつてゐる放埒な世界を文字の上に作り出さうとした氣味もあらう。貞門の小心な作風に反抗し、奔逸な調子に放膽な思想を託する新體が起り、俳諧の天地に大旋風を捲き起したのは、これがためであつて、俳諧のねちみやくを破つたと稱せられた宗因の、いはゆる談林調が即ちそれである。「末茂れ守武流儀總本寺」。守武は或は宗因の私淑したところかも知れぬが、その風體から考へると、歴史的由來はむしろ宗鑑にあるらしく、少くとも貞徳を排して守武宗鑑の遺意を貫かうとするのが、(161)彼及びその門下の主張であつたことは、談林十百韻の跋を見てもわかる。貞徳は守武宗鑑の思想をすててその形をのみ取り、從つて俳諧を單純な言語上の遊戯としてしまつたが、宗因はむしろその思想と態度とに共鳴するところがあつたのである。しかし彼等は決して俳諧を昔に還さうとしたのではなく、前章にも述べた如く、どこまでも新しきを欲し舊きを去らうとしてゐたので、宗鑑守武を出發點としながらそこに止まつてはゐなかつた。
 宗因の俳諧を通覽すると、到るところに世上の萬事を滑稽視する態度が見える。古人をして感傷的の氣分を誘起せしめた人生の無常に對しても「御合點か世は若竹の一さかり」(句集)、「浮き沈む平家は夢に等しくて、跡白浪となりし幽靈、」(西翁十百韻)と、それを茶化してゐ、戀にも涙にも、或は「君とならこの酒樽も呑みほさん」と戯れ、或は「からし酢にふるは泪か櫻鯛」、と笑つてゐる。神も佛も常に滑稽化せられてゐるので、稱教百韻の如きも徹頭徹尾それである。彼は連歌から俳諧に入つたのであるが、その連歌の大宗師たる宗祇をも「世にふるはさらに時雨の雨合羽、旅から旅にたび/\の空、」などと滑稽化してゐる。「よろ/\と立ちて小町が舞の袖、袴の裾にけつまづきぬる、」を讀めば、彼がこの昔の美人の老の果てをも好笑の料としてゐたことが知られようではないか。その題材にあらゆるものを取入れ、普通に卑陋とせられてゐるものをも決して辭しないのは、宗鑑に始まつた俳諧としては當然のことではあるが、それが貞徳の如く卑陋な事物そのものに於いて低級な笑を求めるためではなく、むしろかゝるものを無遠慮に提出することによつて、世に高雅とせられてゐるものを嘲笑しようとする樣子がある。宗因は貞徳の如く俳諧を單なる技藝として戯謔の言を弄したのではなく、その根柢に於いて世を滑稽視する一種の世間觀を有つてゐたのである。だから彼は決して貞門の士のやうに教訓や世間的道徳を標榜するやうなことはしなかつた。さうしてこれ(162)らは總て昔の宗鑑の態度であつた。
 この態度は宗因の作句法の上にも見える。彼の句は全體の調子が奔逸で輕快であるが、これは即ち彼の思想が放縱にして規矩に拘泥せず、また物に對して凝滯することの無い、自由な輕い心もちを有つてゐたからである。その特色の一つは、貞門の理窟づめに作られた言語上の遊戯とは違つて、或る觀念から突如として他のかけはなれた觀念に移り、それによつて矛盾から生ずる滑稽の感を讀者に與へることである。これにも種々の樣式があるが、成語を用ゐてそれを思ひがけない方面に轉向させるものに於いて最も著しく、特にこの方法によつて高遠なものを卑近化する時に於いては、そこから生ずる別種の滑稽が加はる。さうしてこれもまた宗鑑得意の手段であつた。「さるほどに千々にものこそかな佛」、「春の夜のやみはあやなき溝の端」、「思ひつゝぬればや壁も雪の色」、「雪にとめて袖うち拂ふ駄賃かな」、の古歌を採つたもの、「花やこれ春宵一刻ふる手形」の詩の句を用ゐたもの、または「はつ花や急ぎ候ほどに是ははや」、「里人の渡り候か橋の霜」、の謠曲を材としたもの、などがその例である。連句の中のいはゆる平句に於いてはかういふ例が甚だ多く、西翁十百韻や釋教百韻を讀むと隨所にそれが見つけられる。「古歌に曰くちとせぞ見ゆる鏡餅」の如きは故らに「古歌」のニ字を點出して、矛盾の感を一層深からしめたのである。さうしてこの樣式でも、前に擧げた「さるほどに」のやうにいひかけを利用するもの、「河上や宮前の楊柳肥前の花」、「月落ち烏なき皆なきにけり」、の如く疊音疊語の手段によるものがあり、「命たり素湯の中山香?散」、「直指人參陳皮甘草」、など、いはゆる地口めいたものの媒介によるものもある。
 必しも古歌や成語ばかりではなく、「世の中は蝶々とまれかくもあれ」、「すゞ風や吹き出す天下一貫文」、などのい(163)ひかけによつて、また「夏山や或は野にふし伏見船」の如き疊語によつて、忽然として意外の觀念に轉ずるのは、みなこれと同性質のものである.これらは貞門の發句が観念の統一を保つことに努め、その手段として修辭上にも縁語を多く用ゐるのとは反對に、觀念の反撥離背によつて滑稽の感を得るのを喜んだことを示すものであつて、いひかけもその方便に利用せられたのである。(縁語といひかけとの心理上の性質は、古今集時代の和歌を考へた場合に述べておいた。)しかし貞門の句ではいひかけを用ゐても「花の輪一尺やく(芍藥)のまはりかな」(慶友)のやうに、始終同じ觀念のうちに留まつてゐるが、宗因は稀に縁語を使つても「江戸を以て鑑とすなり花に樽」の如く、飛び離れた新觀念にそれを導く。彼等の嗜好がそれほど違つてゐたのである.さてかういふ句法はその句に極めて輕快な感じを與へるものであるが、觀念の變化の度は激しくなくとも「柴爺がいへり奥は夕暮けさの秋」、「驚けや念佛衆生節氣候」、「富士は雪三里裾野や春の景」、などの如く名詞を並べたもの、「舟路ゆき山路ゆき見る花野かな」、「これは廣袖ふり袖の露、親も子もだての世盛花盛、」のやうに語を疊ねたものも、或は觀念の急速に轉輾してゆく點に於いて、または同一觀念を滑かな語路によつて反覆する點に於いて、やはり同樣の效果を生ずる.一體に宗因の句にはこの疊音疊語が非常に多く、この點に於いて上代の歌謠を聯想させる。
 その他「不二や扇おつとりなほし之を譬ふ」といふやうな動作を敍するもの、「おひまにござれ夕陽いまだ殘んの雪」、「ともかくも申さば古しほとゝぎす」、などの對話調口語を用ゐるもの、または「いかに見る人麿が目には櫻鯛」、「やがて見よ捧くらはせん蕎麥の花」、の如く、先づ初五文字に於いて一喝を與へ人を驚かすもの、或はまた上に擧げた一二の例の如く十七音の形式を離れようとするものもあるが、それらは何れも句をして奔逸の調あらしめ、その(164)表現法の新奇な點に於いて、また讀者の豫想外に出る點に於いて、一種滑稽の感を起させる所以である。いはゆる見立て即ち譬喩は貞門の俳句に於いて最も普通な着想であるが、それは徳元の「あきなひか空ねも高き杜鵑」の如く常に靜的に寫されてゐる。宗因は不二の句の如くそれを一轉して動的に敍したので、興味は譬喩そのものよりはいひあらはし方にある。また對話調口語は鬼貫や一茶の口つきに似たものがある。また特別に激しい調子でなくとも、初五文字で切ることは宗因には甚だ例が多い。
 以上は主として、宗因の求める滑稽が如何なる形に於いて現はれてゐるかを見たのであるが、その句の成立した上から見ると、そこに一種獨得の調子が具はつてゐる。觀念の運び方とそれを現はす言語及びその音調との間に離るべからざる關係がある。彼が對話や動作を活寫することに長じてゐたのもこの故であつて、「その後や何事から先づ杜鵑」の發句、「露の白玉ちらす鐵砲、俄ごと何ぞと人の取り籠り、すはや釣鐘引きかつぐらし、」の連句、を見てもそれがわかる。かう考へて來て宗因の句法を貞徳のに比べると、そこに和歌史上の新古今調と古今調との關係と類似した點のあることに氣がつかう。貞徳のが理窟に墮ちてゐるのと宗因のが音調に重きを置いてゐるのと、かれのが冗漫であるのとこれのが緊張してゐるのと、かれのが分解的なのとこれのが總合的なのと、かれのが内容の單純なのとこれのがやゝ複雜であるのと、かれのが平板であるのとこれのが波瀾に富んでゐるのとの、差異が即ちそれである。いひかけや疊音疊語を用ゐ、或は初句で切つて輕快俊爽の感を喚起するのも、また新古今時代の一嗜好であつた。「おことこを風狂亂の姨ざくら」(小町像賛)、「葛の葉のおつるが恨み夜の霜、」などになると、ことばづかひがかなり無理であるにもかゝはらず、全體の上に作者の氣分が髣髴として現はれてゐる點に於いて、殆ど新古今集中の和歌と趣(165)を一にしてゐるので、それは主として苦心の結果に成つた語のくみ立ての力である(「貴族文學の時代」第三篇第四章参照)。宗因の句の姿は輕快で奔逸であり、その根本に放縱不羈の態度があるにかゝはらず、句を作るに當つては細心な推敲をしたものらしい。どの句を讀んでも甚だ巧妙に感ぜられる。たゞその門弟になると、句の趣は師風を傳へてそれを極端まで推しつめると共に、徒らに多吟多作を誇つて放埒な句を吐きちらすものも生じたのである。ついでにいふ。貞徳は狂歌をも咏み、その門弟から出た慶友未得などは狂歌師としても有名であつたが、宗因はもとより談林の徒にはさういふものが無かつたかと思ふ。この時代の狂歌の滑稽は理智的な言語上の遊戯である點に於いて、貞門の俳句の風體と同一であるから、これは當然のことである。狂歌に例の多い歌のもぢりも、一首を通じて本歌の口調や詞をたどつてゆくのであるから、談林の俳諧が古句を本にしながらそれを離れて新しい觀念に移つてしまふのとは趣がちがふ。さうして輕快奔逸を喜ぶ談林の覘ひどころは、短歌の形に於いてするよりも短い俳句の方が適當してゐる。
 しかし宗因の連句を見ると、そのつけ方は概して前句の文字や言語にたよるのであつて、割合に奔逸の趣に乏しく、まじめな前句を滑稽化するやうな點はたまにあるけれども、讀んでゆく時には、前句との關係よりもむしろ一句々々の上に注意がひかれるやうである.付け方は前句に拘束せられてゐる感があるのに、一句としては奇警なものが多いからである。「戀ぞつもりておく山の芋」に「みなの川流れて落つる大うなぎ」とつけた如きは、一々の語が前句に結びつけられてゐるのみならず、兩句とも同じやうな句法で甚だ單調に聞えるが、一々の句には、放膽な觀念の轉向を行つたところに、輕妙な滑稽の感が生ずる。但し「秀郷の垣ねの秋やふけぬらん」につけた「大織冠より末の白(166)露」の如きは、前句の「秋」に拘泥して「白露」の二字を點出したため、一句としては意義の無いものになつてゐる。即ち無關係な觀念を並べただけでそれが結合せられてゐない。「長櫃の中の秋風吹きたちて」を承けて「古道具屋の夕暮の月」といふなども、道具屋の月に興じたよりも長櫃の中の秋風に對應させるため無理な構造をしたのであらう。「年がよるならよる(の雨」と聞くと、調子は如何にも輕快で「よる」から雨に移るところが甚だ突飛に感じられるけれども「師走やらいつやら知らぬ草の庵」の付句だと思ふと、師走と年のよるのと、草庵と夜雨との關係があまり密接であるために、やゝ興がさめる感がある。もつとも中には「野は若菜つみところほるころ、來て見さい何なけれどむ茶の庵、」「老莊の胸より空の霧はれて、よしや吉野の花も候べく、」など、文字の上の縁を求めぬつけ方も無いではないが、それはむしろ稀であるのみならず、この付合も甚だ付きすぎてゐる。句の構成にあれだけ奇拔な手法を用ゐた宗因としては、やゝ活らきが無さ過ぎるやうであるが、彼の得意な點が語のくみたてや音調の上にあつたとすれば、それは.一句としてまとめられる場合のことであつて、連句としての付け合に適用せられなかつたのも當然であらうか。
 さてこゝまで述べて來ると、宗因の俳諧の興味は事物を滑稽的に取扱ふ點、または觀念の結合のしかた表現法の上に滑稽を求める點にあるので、貞徳の如く理智的な言語上の遊戯ではないけれども、それと同じく主観的であり、事物そのものに於いて詩趣を發見するのではない、といふことが知られる。が、これは大體の觀察であつて、中には具象的な觀相として現はれる敍景的のものもあり、たまには一種の抒情的趣味を帶びてゐるものさへある.宗因の俳諧が宗鑑から出立しながら、それとは異つた方面に歩を進めて來たといふのは、主としてこの點にあり、さうしてそれ(167)は貞徳の全く知らぬ世界であつた。句集を見ると「菜の花や一もと咲きし松のもと」、「風にのる川霧輕し高瀬舟」、「碓屋唄酒屋/\の秋の聲」、といふやうな、言語上の遊戯または滑稽趣味を離れた敍景の句があり、連句にも「草ほう/\と霞む古城、鐵砲に雉のほろゝを打ち合せ、春の野かけに出る若もの、」「暖な日なたに猫の打ちねむり、春雨はるゝぬれ縁の上、」「詠めせん數奇者ゆかしき花の跡、白梅一枝椿一輪、」の類がある。その他、農民の秋の豐かさを敍しては「在々所々もよき秋のころ、今日も踊り昨日も踊り催して、」といひ、遊里を敍しても「霧ふかき出格子に立ち門に立ち、引きよせがほの見ゆる三味線、」と、それを詩中の景とする。或はまた「秋はこの法師姿の夕かな」(西行像賛)といふやうな閑寂の趣、「春やむかしの昨日の空、少年のもとの身にして目はかすみ、」などの、陳套でもあり平凡でもあるが、多少の感慨を述べたものも稀にはある。これらは彼の長い間修練してゐた連歌に淵源があると共に、何等の思想も情味も無く徒らに遊戯文字を弄してゐるにあきたらない氣分が、無意識の間に動いてゐたのかも知れぬ。俳諧が彼に於いて始めて藝術としての幾分の價値を有するやうになつたのは、これがためであつて、それは俳諧そのものの自然の發達と見なすべきことである。さうしてもしそれに時代の影響があつたとすれば、寛文の世がひたすらに放縱なる戰國時代とは違つて、一面に於いては、おちついた氣分が現はれて來たところにあるのであらうか。
 けれども宗因に在つてはこの兩面が調和せられてゐない。奔逸な調子にはどこまでも人事を滑稽視する氣分が伴つてゐて、おちついて自然の情趣を味はうといふ態度とそれとは、殆ど關係が無い。のみならず彼の本領はむしろ前者であつて後者ではなく、その題材には主として人事、特に都會の事物、を取つたので、その作は殆ど一種の風俗志た(168)るが如き感があると共に、遊女若衆、歌舞伎淨瑠璃、小唄三味線、など、都會的遊樂の機關とその状態とを寫すに當つては、時に野卑醜陋の弊に陷ることさへ無いでもなかつた。だから彼の門下にはその放逸な一面を傳へたものが多かつたが、その間におのづから彼によつて新しく道の開かれた他の一方に注意を向けるものも生じて來た。かの芭蕉の如きもまた實に、彼が荊榛を刈り開いた土地にその根ざしを下したのである。
 
 宗因が一たびその新調を高唱して「世俗の眠」をさましてから、多くの俳人は次第にその壇下に集るやうになつた。もとより舊體を墨守してゐるものもあつたが、貞門から轉じてそれに移るものも少なくなかつたのである。今その作風を一々觀察してゐる遑は無いが、「江戸談林」の建立者たる松意によつて公にせられた談林十百韻、京の「總本寺」高政の中庸姿、また大坂では例の「阿蘭陀西鶴」の五百韻、などを通覽すると、何れもその開祖の放逸な點を學んで、一層それを激しくしたものであることが知られる。その思想に於いては世間的道義や社會的秩序に頓着せず、神をも佛をも勝手次第に卑俗なものとして取扱ひ、親をも君をも口輕く茶化し去り、その句法に於いても、普通には聯想せられないやうな懸け離れた觀念に突如として飛んでゆき、(その中の一派が飛び體と名づけられたのは、或はこの故であらうか、)無理な詞づかひをし無遠慮な造語を用ゐ、十七音の形式を無視した句を作り、總てに於いて傍若無人のふるまひをしてゐるのがそれであつて、そこに宗因から傳へられた滑稽趣味がある。連句のつけ方に於いても宗因より放逸であるが、しかしそれに一句としては甚しく亂暴なむしろ無意義なもののあるのは、却つて前句の文字に拘泥し或は季の詞を強ひて嵌めこまうとして、無理な觀念の結びつけ方をした故もあるので、必しも放埒なためばかりで(169)はない。これもまた宗因と同樣である。その題材が主として都會の事物であることはいふまでもなく、「霞のきぬも綸子縮緬」といひ「勘當帳の四方の秋風」といふが如く、自然界をも常に人事化し、または後章に述べようと思ふ浮世草子と同じく、世相の裏面を暴露してそこに可笑しみを求めてゐる點に於いては、宗因よりも更に甚しいものがある。元禄の平民の放縱なる一面は、よくこゝに現はれてゐるといつてもよからう。だから貞門の俳諧師からは「俳諧の切支丹」と呼ばれ「島原狂ひの太鼓俳諧」とも罵られてゐる(中島隨流の破邪顯正參照)。故らに卑猥の文字を弄し意義の通じない句を作つた點に於いては、彼等の非難に理由があるけれども、島原言葉や芝居の有樣は材料にならぬといふのは、いふまでもなく偏狹の言である。また世間的道義を無視したといふやうな非難は、文學に對する批評としてはさしたる價値の無いことであつて、道義を衒つてゐる彼等こそ却つて嘲笑せらるべき資格がある。さうして句法が一體に奔逸であり、特に?刺たる調子によつて對話體の口語を巧みに用ゐ、敏捷な動作をうまく寫してゐること、自然と人事との配合に於いて往々新しい情趣を見つけてゐること、付け方に現はれてゐる思想の運びの、文字に拘泥してはゐながら、變化に富んでゐることに於いては、頗る感嘆すべきものがある。さうして稀有な例ではあるが「江戸はづれ磯に波たつむら烏、御殿山より明ぽのの空、」(談林十百韻)といふやうな自然界の描寫もあり、または「色を含むこ三の絲の片しぐれ」(同上)などの繊細な情味を現はすものもあつて、彼等の官能が必しも粗笨なのみでないことを示してゐる。さうしてこれもまた、連歌に由來のある宗因の一面が微かながらにその門流に於いて持續せられたのである。
 けれども談林の風體は宗因に從つてたゞそれを誇張したに過ぎないのであるから、多数の追從者がそれを學ぶうち(170)には、おのづから型が定まつてしまふので、單調の弊がそこから生じ、一しきり流行した後には厭きが來ることを免れない。その單調を破らうとしたものがあつても、たゞ異樣ないひまはしをしたり奇怪な觀念の結合をしたりするのみで、畢竟談林の病癖をます/\極端に推し進めるに過ぎなかつた。だから初めて接した時には驚異の情を以て迎へるけれども、おちついて味はうとすると内容の貧弱なのに氣がつく。從つて一たび談林の門に入つたものも、何時の間にかそれにあきたらずなつて、何れの方面かに向つて歩を轉じなければならぬことを感ずるに至つた。一面には放縱な風がありながら一面にはおちついた氣分が養はれた上に、一般の知識も漸く進んで來た元禄の社會の状態も、またそれを助けたであらう。宗因自身に於いて既にこの傾向の見えることは前にも述べておいた。だから鬼貫の如きは早くこの不満足を感じて、俳諧の眞趣を手に入れようと苦悶したのであるが、中にはまたこの時代に大に興隆して來たシナ文學に比して、滑稽を主とする俳諧の甚だ空疎であることを覺るものもあつたらしい。かの漢詩から轉化して來たらしい拮屈な文字を故らに用ゐ、或は五字または七字の詩の句らしいものを連句に插むことが行はれたのは、一面からいふと形式を無視する點に於いて談林の放縱な態度が見えるが、他面に於いては勢の窮まるを見て別に一條の活路を開かんとするものでもあつた。「或は唐茶に酵座して舟行蓮の楫」、「舟あり川の隈に夕涼む少年歌うたふ」、「行かずして見る五湖煎蠣の音を聞く」(素堂〕。或は又た「茶に口漱ぎ石に枕すいほりの秋」、「難波にもめづら墨繪の浦囘なりけり秋」(惟中)、のやうなものを好んで作つた素堂や惟中は、その最も圓熟したものであらうか。三千風などもしば/\形式を破つた句を作り、漢語なども交へてゐるが、これは一種の衒氣から出たものらしく、思想として取るところは無い。かういふ漢詩の趣味には塵外に超然たるを尊しとする氣分があつて、そこに人事を去つて自然(171)に親しみ、繁華を厭うて閑寂を愛する態度が生ずる。是においてかたま/\風體の奇ならんことを求めて漢詩に想到した談林の徒は、これによつて從來氣のつかなかつた新世界に足をふみ入れねばならなくなつたのである。
 しかし實をいふと、この新世界は半ば既に宗因が發見しておいたところであつて、たゞ談林の徒の多くは今までそれを閑却してゐたのである。さうして上にも述べた如く、宗因が宗祇時代の連歌を津染としてそこに到り得たとすれば、漢文學と共に漸く興隆して來た古典の研究は、新しきを趁うて時樣の粧ひをするに急であつた俳諧師をして、顧みてその俳諧の起源である連歌を囘想せしめ、それによつて新しい方向に眼を開かせたこともあらう。さてこの連歌に現はれてゐる宗祇などの思想と、同じころに禅僧によつて鼓吹せられ延いてこの時代にも及んでゐる漢文學の趣味とは、その間に種々の差異があつて、決して混同すべきものではないが(「武士文學の時代」第三篇第六章參照)、少く上も浮世の歡樂に遠ざかつて風月の天地にその心を遊ばせようとする點に於いて、相通ずるところがあるので、この二つはともかくも結合し易い。それに加ふるに談林の主調たる人事趣味都會情調に對する反動もあり、また元禄時代の一面に有存るおちついた氣分の影響も幾分かは手つだつて、これらの間から俳諧の新調が生まれるやうになつた。芭蕉に於いて成熟したものが即ちそれである。
 
 芭蕉についてその新風の由來を考へるに、「田舍の句合」の序に嵐雪が「桃翁栩々齋に坐してために俳諧無盡經を説く、東坡が風情、杜子がしやれ、山谷がけしき、より始めて、その體幽になだらかなり、」といひ、虚粟集の序に其角か杜子美の貧交行をもぢり、その故に芭蕉自身が李杜の心酒、寒山の法粥、を語り、また彼が「憶老杜」と題し(172)て「髯風を吹いて暮秋歎ずるは誰が子ぞ」といひ、或は小夜の中山の曉の旅に杜牧を想起して「馬にねて殘夢月遠し茶の煙」と詠じたことなどは、いふまでもなく、其角が「菊賣や菊に詩人の質を賣る」といひ「詩あきんど年を貪る酒債かな」と吟じ、嵐雪が「水村山郭酒旗風」に「沙魚釣や」の一轉語を下し、また彼等の間に往々詩の聯句めいたものを作ることの行はれたのも、蕉風の漸く形を成さんとする時に於いて、彼等が如何に漢詩を尊重し、もしくはすることを得意がつてゐたかを語るものである。前に擧げた素堂などの漢語まじりの破格な句は、芭蕉の周圍に於いてもまた流行してゐたのである。彼の門弟の間から起つたいはゆる俳文に至つては、年ば漢文の諸體を模範としたものである。彼等の多くが、談林の俳諧もしくはそれと密接の関係のある浮世草子と同じ傾向を有つてゐる、浮世繪を愛せずして、却つて許六と共にシナ畫を喜んだのも、またこれと同じ趣味からである。芭蕉が參禅したといふ話がもし事實ならば、それもまたこのシナ趣味から來たことであり、それによつてもし何等かの得るところがあつたならば、たゞこの趣味を一層濃厚にした點であつたらう。後にいふ如く彼の生活にもその作にも禅宗の修行の影響らしいものは見られないではなからうか。また彼等がどれだけ漢詩を解してゐたかも、頗る疑はしいので、芭蕉とても恐らくはこの一種のシナ趣味に對して漠然たる感興を覺えたに過ぎなかつたであらう。
 しかしそれよりも彼の思想の上に大なる感化を與へたのは宗祇及び西行であつて、彼は實にこの連歌師と歌僧とに最も深く傾倒してゐたのである。彼の生活とその俳諧との基調をなしてゐる「風雅」の文字がシナに由來のあることはいふまでもないが、しかしその内容はシナ趣味よりもむしろこの二人によつて教へられたものであり、「細くからぴて」といひ「寂びたり」といふ彼の標語も室町時代の和歌連歌の教から來てゐて、それが早く「田舍の句合」に見(173)えてゐるし、自然を自然としてそれを如實に觀察しその情趣を味はうといふ態度も、また同樣である。(「武士文學の時代」第二篇第四章第六章參照)。文字上の知識によつて養はれた異國思想は、親切に自然に接してその風光を味ふための指針とはならないからである。彼の俳諧の基礎であつた行脚生活も、またこの二人の先先蹤を追うたものであつて、許六の旅の情にも「旅は風雅の花、風雅は過客の魂、西行宗祇の見殘しはみな俳諧の情なり、」といつてゐる。「世にふるもさらに宗祇のやどりかな」、宗因が宗祇の句を茶化したとは違つて、これはどこまでも宗祇に私淑してゐる。しかしともかくも彼の俳諧に、漢詩と連歌及び平安朝末期の和歌との二大淵源があることは疑ひが無く、尾張五家仙に宗祇と李白との名を擧げた句があり、花屋日記によれば浪速の客寓に瞑目した時、その遺物のうちに杜詩と山家集とがあり、遺訓にもまたこれらの名を擧げてゐるのを見ても、彼の新しい俳諧生活の始終を貫通する趣味のこゝにあつたととが知られよう。
 芭蕉と同時代に彼とは何等の關係なしに、而も同じく談林から脱出してまたほゞ同じ方向に進んだ鬼貫については、その思想の發達した經路を知ることができないが、しかし前に述べたやうな當時の一般の空氣の裡から生まれたことは想像しなければならず、實際、有賀長伯などとも交り、また七車を見ると彼が古歌を友としてゐたことが推察せられる。けれどもその作を通覽して、それを「獨言」の記するところに參照すると、彼は古文學や異國趣味の影響をうけたよりは、むしろ自己から出たところが多かつたらしく、芭蕉よりは文字から得た分子が少いやうであり、從つてそこに詩人としての優れた點のあることが認められる。
 しかし芭蕉には、シナ文學にも發見しがたくまた西行にも宗祇にも存在しなかつた、別樣の趣味がある。それは即(174)ち宗鑑守武以來の俳諧に固有な、さうして宗因に至つて更に強調せられた、滑稽味であつて、貞徳の流をくみ談林の奥にふみ分けた彼には、由來の遠いものである。たゞ彼に於いては、それが東海道名所記などに見える洒脱な心もち、西行や宗祇によつて導かれた思想、及び幾らかのシナ趣味と結合し、さうして彼の生活と體驗上によつて統一せられ、彼に獨得な「風狂」の氣分となつて現はれたのである。これは蕉風のまだ明かに形を成さたい前から、かの漢詩趣味連歌的情調と共にその門流の間に尚ばれてゐたので、例へば「田舍の句合」に見える其角の「閑居のぬか味噌浮世にくばる納豆かな」や「常盤屋の句合」の杉風の「茶僧月を見るに梅干の影の如くに來り」などに現はれてゐる趣味がそれであつて、「糠味噌壺に入つて乾坤を忘れたる隱士、せ間寺無用坊、」(田舍の句合判詞)にふさはしいものであり、そこに「わび」を愛する氣分があると共に、一種の輕いユウモラスな態度が見える。彼の自然觀に於けるいはゆる俳味もまたこゝに由來するので、畢竟かういふ氣分の客觀的對象を自然に求めたのである。さうしてこゝに談林では分離してゐた自然觀と人事に對する態度とが、調和せられるのである。この境地は必しも人の學び得るところではないが、その思想は門弟にも傳はつてゐるので、支考さへも「をかしきは俳諧の名にして淋しきは風雅の實なり」(續五論)と、警句らしいことをいつてゐる。しかしこゝにはたゞ談林の風體が如何にして變化し、如何にして蕉風が成立したかを考へるに止めておいて、芭蕉の思想や趣味については別に後章に述べようと思ふ。鬼貫に於いては「わび」の氣分は少いが、滑稽は趣味の上にも句法の上にも甚だ饒かに存在する。
 
(175)     第八章 文學の概觀 四
 
       俳諧 下
 
 前章に述べたやうな徑路によつて成立した芭蕉(及び鬼貫)の俳諧の特色の第一は、あらゆる事物を仔細に觀察してそこに詩趣を發見することであつて、言語の上の遊戯や觀念の突飛な結合や事物を滑稽化することに興味を求めた、貞門談林の舊套から脱却した主要の點はこゝにある。主觀的な俳諧に厭いて一轉化を試みょうとするものが、その出發點を客觀界の觀察に置くのは自然の勢であるのみならず、連歌以來の因襲的態度、俳諧特有の滑稽味、はおのづから俳人をして、内たるものを表出するよりは外なるものを觀察する方に傾かしめたのである。さうしてその眼が和歌や連歌には用ゐられない手近かな事物に向けられたことが、平民文學たり俳諧たる所以である(許六の篇つき丈草の詩歌俳諧辨參照)。貞門も談林も手近かな事物を題材としたのではあるが、彼等は、或はそれを卑俗としてその點に人の笑を求め、或は故らに卑俗なものを誇り示す態度によつて滑稽を示さうとしたのに、蕉門に至つてはそれを卑俗とせずして、いはゞ高雅なものをその裡に發見したのである。かういふ卑近な事物は、從來の俳諧、特に貞門の作、に於いては、獨立した俳句にはあまり多くは用ゐられず、毛吹草はなひ草または山の井などの季寄せの類も、主として連俳のために作られたものらしく、さうしてそれは概ね言語にたよる付け合の具とするのみであり、事物そのものの情趣を發見するのではなかつた。かの謠俳諧とか魚鳥俳諧とかまたは戀釋教などの通篇の賦し物などが行はれ、強ひてそれらの文字を句ごとに用ゐるのも、同じことであつて、遊女とか若衆とかいふ文字があれば、戀の情には何の(176)關係がなくとも戀の句とせられ、花とか月とかいふ季を示す名稱があれば、花や月の趣が現はれずとも花月の句とせられた。談林に於いては獨立の俳句にも多く用ゐられるやうになつたが、それも概していふと滑稽な態度を示すために使はれたのである。彼等の求めまたは求め得た新しみは、修辭的技巧についてか奇拔な觀念の結合かであつて、蕉門の作者が事物そのものに新しい情趣を看取するのとは違つてゐた(篇つき鬼貫の獨言參照)。
 次にはその題材が人事よりはむしろ自然界に都市よりはむしろ田舍にあり、特に旅中の作の多いことであるが、これは前に述べたやうな蕉風發達の歴史から來た自然の傾向である。自然觀については後に述べようと思ふが、たゞあり來りのものに於いても、貞門や談林の輩が舊樣を踏襲するに過ぎなかつたとは違つて、新しい觀察をしてゐることを一言しておかう。例へば宗鑑の「手をついて歌申上ぐる蛙かた」、貞徳の「和歌に師匠なき鶯と蛙かな」、立圃の「鶯と蛙の聲や歌合せ」、重頼の「河中で蛙のよむやせんどうか」、などはいふまでもなく、宗因までが「歌の道になれもさし井出の蛙かな」といつてゐて、ことばづかひこそ次第に變つて來たが、その着想は古今集の序の外に出なかつた。けれども芭蕉の古池の吟は勿論、曠野集に見える「なき立てて入あひきかぬ蛙かな」(落梧〕、「曉をむつかしさうに鳴く蛙」(越人)、「いくすべり骨折る岸の蛙かな」(去來〕、「飛び入つてしばし水ゆく蛙かた」、「ふと飛びて後に居なほる蛙かな」(松下)、などを見ると、これらとは全く趣を異にしてゐるので、この小動物が斷えず歌人や連歌師の吟嚢に入りながら、まだ一度も彼等の心をひかなかつた閑寂の趣や興味あるふるまひが、蕉門の俳人によつて初めて詩の領土に入つたのである。許六の旅譜、百花譜、飲食色欲箴、支考の百鳥譜、といふやうなものが作られ、鬼貫の獨言に四季の風物や旅の情趣をさま/”\に観察し説明してゐるのも、またそれを示すものである。これは蕉風の俳(177)人が書物の上の知識によらずして直接に自然界を觀察した結果であり、寫實を基礎としてゐる浮世草子などの新文學と共に、貴族文學の因襲を脱した平民文學が國文學に寄與した大なる功績である。ついでにいふ。山の井などには俳諧に於ける花鳥の取扱ひかたを説明する美文めいたものがある。百花譜などの着想はこゝに一淵源があるらしい。
 次に蕉門の作に農民生活のおもかげの現はれてゐることは、「麥畑や出ぬけてもなほ麥の中」(炭俵野坡)、「しがらきや茶山しにゆく夫婦づれ」(猿蓑正秀)、「子をひとり守りて田をうつやもめかな」(曠野快宜)、「汁なべに笠の雫や早苗取」(其角〕、「ひね麥の味なき空や五月雨」(猿蓑木節)、「畑見にむせるばかりや草の息」(杉風)、「菜種ほすむしろの端や夕凉み」(笈日記曲翠)、「早稻刈りておちつき顔や小百姓」(續猿蓑乃龍)、「更くる夜や稻こく家の笑ひ聲」(同上萬乎〕、「庭鳥の卵うみすてし落穗かな」(其角)、「とまり/\稻すり歌もかはりけり」(曠野ちね)、「麥まきて奇麓になりし庵かな」(同上昌碧)、などの例を見ても知られる。連俳にも農夫の生活は採られてゐるので、例へば「雲雀なく小田に土もつころなれや」(猿蓑珍碩)、「子は裸父はてゝれで早苗舟」(炭俵利牛〕、「二番草とりも果さず穗に出でて」(猿蓑去來)、「未進の高のはてぬ?用」(炭俵芭蕉)、などがそれである。なほ蕉風の俳諧に於ける田園の情趣は甚だ饒かであるが、これは後に自然觀を考へる場合に述べるであらう。また滑稽を求めるにしても、「鞍つぼに小坊主乘るや大根引」(芭蕉)、「里人の臍落としたる田螺かな」(猿蓑嵐推)、のやうなものがあり、「干大根よめ菜を戀ふる衰へは」、「里芋の長たり畠中の庄司とやらんは」、といふ杉風の句の如く、談林の影響を脱しないものにも早く既に材料を大根や里芋にとつてゐる。
 しかし薫風の句に採られたものは農民の生活や田園の情趣ばかりではなく、特に「越後屋にきぬさく音や衣がへ」(178)のやうな句を作つた其角などには、都市的題材を取扱つたものが多く、劇場も花街も俳優も遊女もみな彼の吟嚢に入つてゐる。その他一般に出代りとかやぶ入りとか踊りとか、または正月しはすなどの人事に於いても、都市的情調の現はれてゐるものが少なくないことは、勿論である。しかし商人や職人の生活に目をつけても、それには地方の小市街や田舍ずまひのものが多いので、連俳に採られてゐるものの二三を擧げてみると、「町内の秋もふけゆく明き屋敷」(猿蓑去來)、「小刀の姶刃なる細工箱」(同上半殘)、「奈良がよひ同じつらなる細もとで」(炭俵野坡)、「減りもせぬ鍛冶屋の店の棚ざらし」(同上利牛)、「帶賣りの戻りつれだつ花曇り」(同上孤屋)、などがその例である。「?用に浮世を立つる京住ひ」(同上芭蕉)も小商人の境界であらう。かういふものばかりではないが、蕉門の好みのあるところがこの方面にあることは、ほゞ想像せちれる。連俳の句は作者に於いては付合に興味の焦點があるが、上に擧げた農夫のと共に、斷片的にではあるがかゝるわびしい、しかし作者にとつては近親感のある、民衆生活を取上げるところにも、興味の一半はあらう。さうしてそこに浮世草子や談林の俳諧の題材とその取扱ひかたとの違ひがある。なほ稀にではあるけれども漁夫のしごとも採られてゐるが、海上での行動は見えず、舟のりの如きは殆ど顧みられてゐないらしい。海は陸地からのみ眺められてゐるからであらう。俳諧師に海路の旅行をするものが少いこと、舟のりなどに作者が無いこと、なども考へられる。物もらひの類も材料となつたので、「猿引の猿とせを經る秋の月」(猿蓑芭蕉)のやうな句もある。或はまた武士のはゞをきかせてゐる世の中とて、それもまた多くはないが吟嚢に入つてゐる。
 たゞ談林の俳諧が人事を取扱ふに當つて、世相としてそれを描寫し、或は強ひて裏面を暴露して低級な笑を求めたのとは違つて、蕉門のはそれを詩中の風光とし畫裡の景趣として眺めてゐる。戀に對しても決して談林の徒の如くそ(179)れを
肉的には見ないので、「後朝やあまりかぼそくあでやかに」といひ「あやにくに煩ふ妹が夕ながめ、あの雲はたが泪つゝむぞ、」といひ(曠野深川の夜)、甚だ美しく描かれてゐる。遊女に對しても「小傾城ゆきてなぶらん年の暮」といつた其角すら、決して西鶴のやうな卑陋の句は作らなかつた。さうして或は「元日や家にゆづりの太刀佩かん」(去來)といふやうな武人の好尚を詠じ、或は「虫干に小袖きて見る女かな」(曠野冬文)のやうた女子の痴態を寫して、生彩の奕々たるものがあるのは、自然界に對するのと同じく、自己の體驗か精緻なる觀察かの結果である。「雲?半偏新睡覺、花冠不整下堂來、」の句を翻じて「春風に帶ゆるみたる寢顔かな」(曠野越人)といひ、「寂寞深村夜、殘雁雪中聞、」の句意を「鉢叩き出も來ぬ村や雪の雁」(同上野水)といつて、春風や鉢叩きを點出してゐるなども、單に文字によつて詩意を翻案したのではなく、その風情を移し得た點に於いて、美人のねざめや鉢叩きの面影をよく觀察してゐる。
 しかし蕉風の俳諧は、單なる風物の描寫に於いてもそれが作者の情調の反映であることを、忘れてはならぬ。如何なる風景に對し如何なる事物に接しても、觀るものの情趣をそれに投影し、または自己の氣分を透してそれを觀るのであるから、それを寫した文學にも純粹に客觀的のものがあるはずは無いが、蕉風の俳諧に於いては、作者の態度が對象に詩趣を發見し、もしくはそれから得た感じを寫さうとするのであるから、特にかういふ效果がある。よし何等の主觀的な文字を着けてゐなくとも、それに作者の氣分がこもつてゐる。古池の吟の如きはその最も好い標本であつて、この句は古池を描くのでも蛙飛びこむ水の音を寫すのでも無く、それによつて與へられた閑寂の趣を詠じたものであり、さうしてその閑寂の趣は實は芭蕉自身のもつてゐる情味である。蛙とびこむ水の音には「鳥啼山更幽」と同(180)じやうな效果があるが、その幽趣が芭蕉の心情の反映なのである。作者により題材によりまたは表現法によつて、その主觀的情趣に濃淡厚薄はあり、中にはそれの極めて少いものもあるけれども、概していふと蕉風の句には題材となつた風景が渾然として作者の情調に包まれてゐるものが多い。この點に於いてもまた古の能因や西行を想起させる。或はむしろ作者の氣分を託するに外界の事物を以てするものさへある。特に芭蕉の作の如きは殆どみなかういふ性質のものであるので、「海くれて鴨の聲ほのかに白し」に現はれてゐる感覺の交錯も、かう見て始めて興趣がある。連俳に於いても同樣であつて、その付けかたに言語上の遊戯や理智的説明的態度が無いばかりでなく、たとひ前句にたよつてそれに新しい光景を添加するにしても、光景そのものの幻影を眼前に現出させるためではなくして、むしろそれによつて何等かの氣分を象徴させようとする傾きがある。いはゆる「うつり」も「ひゞき」も「にほひ」も、付けかたの扱巧たるのみではなく、その根柢のかういふ態度を示すものであらう。「草庵に暫くゐては打ち破り、命うれしき撰集の沙汰、さま/”\に品かはりたる戀をして、浮世の果てはみな小町なり、何故に粥すゝるにも涙ぐみ、御留守となれば廣き板敷、手のひらに虱這はする花のかげ、かすみ動かぬ晝のねふたさ、」(猿蓑芭蕉凡兆去來三吟)。事を敍し景を描いても單にその風物を寫し得たのみではない。
 のみならず彼等の作には純粹の抒情詩といつてよいものさへもある。芭蕉の句集を開いてみると、或る時は「花のかげ謠に似たる旅ねかな」と我を詩中の人としてうち興じ、或る時は「さま/”\のこと思ひ出す櫻かな」とやゝ感傷的の氣分にもなり、また或る時は「うきふしや笋となる人のはて」といひ「ゆく末は誰が肌ふれん紅の花」といつて、人の行く末をおぼつかながつてゐる。興亡の跡に感じては「夏草やつはものどもが夢の跡」と古を弔ひ、故人の墳上(181)に追想の涙を灑いでは「塚も動け我が泣く聲は秋の風」と吟じ、或は「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」と路傍のすて子をあはれがり、また或は「籠り居て木の實草の實拾はゞや」と雲水漂泊の身も時に山林の幽居を懷ひ、「先づ頼む椎の木もあり夏木立」とその幽居を得た心安さを喜んだのも、みなこの類であらう。「病雁の夜さむに落ちて放ねかな」といふやうなのもある。さうしてこれらはすべて彼の心生活の叫びである。「さま/\の心柳にまかすべし」とか「この種とおもひこなさじ唐がらし」とか、またはかの道ばたの木槿や物いへば唇さむしの句のやうに、幾らかの道徳的意義を含んでゐるものも、ま存かういふ抒情詩の一變形と見られよう。おほまかにいふと芭蕉の俳句は、眼前の景趣に誘はれて自己の情懷をそのまゝに表出したものが多く、後の蕪村のやうに豐富な想像を以て種々の幻影を空裡に畫き出すといふ類のものではない。連俳は勿論違ふが、それとても想像力はさして饒かとはいひ難いから、その抒情的の句も概ね彼自身の情懷を詠じたものである。(鬼貫にも抒情的のものは多いが、それには詩人としての空想の所産もある。)その門人に於いては、人によりまたとき/”\の風體の變化によつて一樣ではないが、ともかくもこの一體が俳句にあることは明かである。さうして其角とか惟然とか個人的特色が強いものほどこの種の作が多いので、自由な平民文學であるだけ典型に囚はれることが少く、概していふと、それには作者の惰生活がよく現はれてゐる。なほ「花を見て美しくなる心かな」(曠野たつ)とか「歌がるた憎き人かなほとゝぎす」(同上智月)とかいふやうに、女性の句に男子の想像し難い女性的感情が寫されたもののあるのも、やはり同一の事情から來てゐる。俳諧は本來客觀的敍述を主とする連歌から變化して來たのであるが、俳句が連句から獨立した一詩形となるに從つて、それが和歌に代用せられ、さうして初めのうちに流行した言語上の滑稽が飽かれて來て内容のあるものを要求するに至つ(182)て、それが主として外界の對象に詩趣を覓めるやうになりはしたものの、かういふ抒情的のものがその傍に生まれたのであらう。
 しかし抒情的とはいふものの、根柢に於いて俳諧特有の態度と趣味とがあるため、それは極めて狹い範圍に限られてゐる。さうしてその表現法にも、連歌以來の因襲があるために、和歌とは違つて一種の制限がある。それは如何なる情懷を述べるにも、自然界の風物を聯想させまたはそれに仮託することである。これは主として季の詞を用ゐる習慣から來たのであるが、次にいふやうに蕉風の特色が觀相として目に映ずる具象的な敍述を尚ぶことも、またそれを助ける。さうしてそれが一歩進むと、人の死を悼むにも、「亡き人の小袖も今は土用干」(芭蕉)といひ、「手の上に悲しく消ゆる螢かな」(去來)といひ、戀にもまた「油さし油さしつゝねぬ夜かな」(鬼貫)といつて、感情を直説することを避けるやうにたる。かういふ表現法は、強烈な感情を表出することができない代りに、うちかすめてものをいふ自制した調子があつて、そこに俳句に特殊な妙味があり、芭蕉の人生に對する態度ともおのづから相應ずるところがある。「行く秋を胡弓の絃の恨みかな」(續猿蓑乙州)の如きは、これらとはやゝ趣を異にし、行く秋の恨みが蕉門の句としてはむしろ珍しいほど繊細な感じとなつて現はれてゐるが、しかしそれが胡弓の絃から靜かに流れ出ることになつてゐるところに、これらと一脈の通ずるものがある。本來情熱的でなく、または滑稽的な心もちを抱いて、世に對し人に對するものに於いては、時あつて和歌などに常に見る感傷的氣分が彼等を襲ふことがあつても、それをありのまゝに、或は強調して、ことばに現はさないのが彼等の趣味である。俳句といふ、抒情詩としてはあまりに形が短く弛張あり抑揚ある咏嘆の調を託するに足らぬ、ものの行はれたのが、實はこれがためであつて、連俳といふも(183)のがありながら、それが一篇の長詩として取扱はれるやうに發達しなかつた一理由もこゝにある。が、また一方からいふと、俳句といふ詩形があるためにそれに適應する表現法が工夫せられたといふ事情もあるので、耳にきかせるよりは眼に見せる方に力を注ぎ、感懐をそのまゝにいはずして、自己の情趣に融かされた外界を眼前に髣髴させようとするやうになつたのである。三十一音の歌には抒情詩として必要な幾らかの樂的旋行を託する餘地があるが、十七字の俳句はむしろ簡單な繪畫的スケッチに適するからである。詩として和歌の外に俳句の成りたつ所以は即ちこゝにある。抒情的の句は必しもかういふのばかりではないが、その代りそれにいひ表はされる情思は極めて單純なものでなくてはならぬ。
 抒情的の俳句ばかりでなく、古人や故事を主題とし因襲的な神社釋教戀無常を詩材とするにも、これと同樣の手段により、それを客觀化して描寫することが多い。前のには藤房を「ほと1ぎす啼き止む時を知りにけり」(曠野一井)といふやうな純然たる比喩もあり、曾我の夜討を「兄弟が意見合はすや郭公」(去來)といふやうに、常套的の花鳥趣味によつて當時の光景を想像するものもある。木曾路を歩いて「山吹も巴も出づる田植かな」(許六)といふ類は、古人をかりて即目の興を託したに過ぎないのであらうが、それによつて義仲の生活をやゝ滑稽的に眺めたものとも見れば見られよう。後者については社寺の光景または神事法筵などの有樣を敍するものはいふまでもなく、教理または經典中の文句を題にしても、十如是を「思ふこと流れて通る清水かな」(曠野荷兮)といひ、簗王品の「如寒者得火」を「眞白に梅の先きだつ南かな」(同上胡及〕といふ如く、比喩の方法によつて具象的の光景とするのであつて、平安朝の歌人の多くが教理を抽象的なことばでいひ現はしたのとは趣がちがふ。戀の句については上にその例を擧げた。(184)かの教訓詩めいたものが、いはゆる道歌などとは違つて、ともかくも誇らしく見えるのも、またこの手段によるからであつて、上に擧げた芭蕉の句はその標本である。しかしかういふ表現法には大なる危險が伴ふので、ともすれば單なる寓言となつて讀者をして興趣の索然たるを感ぜしめることが少なくない。
 
 蕉風の俳諧の特質を考へて來た著者は、筆路おのづから技巧の問題に入つて來たから、こゝで作句または付け方の用意として教へられたことを一瞥しておかう。その第一は埋窟に墮することを避けよといふことであつて、外界を寫す場合には、觀相として眼に映ずるところをそのまゝに寫すを尚ぶのである。これは今川了俊時代の和歌、宗祇時代の連歌、の作者に於いて既に考へられてゐたことであるが、貞門や談林から脱却して新境地を開いた蕉風に於いては、特にそれに注意せられたのである。去來が「蕉門は景情ともにその有處を吟ず、他流は心中に巧まるゝと見えたり、」(去來抄)といひ、または句の妙味は「圖して之を知らるべし」(同上)といつてゐるのは、即ちこれであつて、其角が「趣向にかゝはる人はすべて發句なり難し、風景を知る人思ひいで多し、」(雜談集)といつたのも、同じ趣意であり、支考が續五論や十論などに風情よりは風姿を重んじてゐるのも、またこれがためであらう。(支考の風情とは我が情懷を直敍すること、風姿とは目に映ずる觀相を寫すことをいふのであつて、普通の用語例と同じでない。)許六が師説として「發句は畢竟取り合はせものと思ひ侍るべし、」(自得發明辨)といつてゐるのも、このことに關係があるので、主なる光景を鮮やかに目に浮ばせ、またはその情趣を深く感ぜさせるために、それに適合する背景を描きまたは點景を加へることをいふのである。いはゆる「動く動かぬ」の論もこの「取り合せ」について起ることである。(185)上に俳句は繪畫的スケッチに適するといつたが、それはまたスケッチ風に構想するのでもある。蕉門ばかりでなく、鬼貫が俳諧七車の序や獨言に、或は智慧を排しおもしろき句を斥け、或は「發句もまた目前の常を作らば意味深うして而も匂ひあらん」といつてゐる「まこと」の説も、これと同じ考であらう*。
 巧みを避けることは修辭の上にも適用せられる。彼等は修辭法などを多く説かず、上に述べた如く事物を精細に觀察してその裡に詩趣を發見することを教へてゐる。彼等の作を見ても、芭蕉にはたまに「蛤のふたみに別れゆく秋ぞ」とか「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」とかいふやうないひかけなどを用ゐたものがあり、彼の門弟でも最も談林的傾向の強い其角は頭韻や疊語などを好んで用ゐ、往々修辭的技巧によつて輕快雋爽な感じを與へるものもあるが、概していふと蕉風では修辭の上に興味の中心を置くやうなことは無く、從つて奇拔な奔放な調子は見えず、多くはおち付いた温雅な趣がある。鬼貫もまた其角と同じく頭韻や疊語の類を多く用ゐ、また盛に對話調口語を使つてゐるので、そこに談林を經過して來た形跡が明かに現はれてゐるが、しかしそれによつて彼に特殊な氣分がさながらに寫し出されてゐるのであるから、修辭によつて新奇を求めたのではない。もつとも芭蕉が「整はずんば舌頭に千轉せよ」(去來抄)といひ、また句の姿に於いて「寂び」「しをり」「細み」といふ目標を立てたのを見ても、蕉風の作者が修辭の精錬を心がけてゐたことは明かであるが、たゞ彼等の修辭は如何にして自己の氣分や自然の情趣を最も適切に表現することができるかといふ工夫から來るのである。「寂び」「しをり」「細み」といふ語の意義については古來種々の解釋があるやうた見えるが、去來抄や許六去來の問答によつて推測すると、本來頗る曖昧な概念である上にまた互に混淆してゐる嫌ひもあり、明かにそれを定義することはできぬものらしい。概していふと、句の精錬の極まつた境界を(186)指すのであつて、おち付いてゐること、一句を組みたててゐる幾つかの觀念が互に照應しつゝ緊密に抱合してゐること、平淡にして餘韻のあること、などをいふものとして大過はあるまい。許六の百花譜に梅に「風流の細み」があるといひ、同じ人の去來の誄には「幽玄の細み」といつてあるのは、細みといふ語の用ゐかたを知るべき一材料である。鬼貫が俳諧七車の序に「底深く匂ある」といつてゐるのもほゞこれと似たものであらう。それは固より外形、即ち句の姿、の問題であつて、内容についてのことではないが、しかし芭蕉が特に「寂び」といひ「細み」といふ語を以てそれを表現してゐるのは、彼の趣味がかういふ方面にあつたからであらう。鬼貫は七車に載せてゐる「何の姿序」に「細くからび太くたくましく移りゆく時々……」といつてゐて、芭蕉よりは趣味の廣いことを示してゐる。用語に於いても支考が十論に於いて俳諧は平話であるといつてゐる如く、概してそれに制限などを置かぬが蕉門の習ひではあるが、其角が雜談集で句に入らぬ語ありといつた如く、この點でも談林の如く放縱ではない。さうしてそれは芭蕉の、俳諧をまじめなものとしてゐる態度の上から來てゐるのであらう。其角や鬼貫が小唄などを採つてゐても甚だ美しい。なほ談林時代に行はれた十七字の形式を破つた句なども、蕉風では用ゐたくなつた。これは新しさを外形に求めずして内容に於いて得たからである。
 更に一言を要するは季のことである。これは連歌時代からの習はしであるが、俳諧でもそれは繼承せられてゐるのみならず、一層重んぜられたらしく、獨立した句にも季の詞が無くてはならぬことになつた。俳句の如き短詩形のもの、特に自然界を題材としてその情趣を寫さうとする蕉風の作、に於いては、これが重要であつて、それによつて句に現はれてゐる事物に廣い背景が添へられ言外の餘情が生ずることになり、含蓄が饒かになる。さうしてそれは主と(187)して古典の聯想から來る情趣であるから、古典の教養のある作者や讀者には普遍的な效果を生ずるものである。しかし一方からは平安朝の和歌に於いて定められた四季の分類が、こゝに至つて人の趣味を支配するものになつたといひ得られる。さうしてさうなると、自然の現象を一定の取扱ひかたによつて制約するはたらきをすることにもなつて、自由に直截に事物を觀察することを妨げ、また言語文字そのものに既にさういふ特殊の情趣が附隨してゐるため、清新な感じを讀者に傳へることを困難にする弊も生ずる。新しい平民文學としてはこゝに一缺陷が存するといはねばならぬ。かの古池の吟の如きも蛙の一語によつて春の季とせられてゐるが、その情趣は春といふ觀念に附隨する因襲的の氣分とは何等の關係が無いのみならず、さういふ因襲を離れて考へても、卒然としてこの句に對するものは殆ど春の句とは感じないであらう。或はむしろ秋を聯想するかも知れぬ.今日に於いてはいはゆる季題趣味に反對する思想がこゝに生ずるであらうと思ふが、しかし概して舊來の趣味を持續してゐた當時の人はそれほどには考へず、古池の句のやうな例も事實に於いて稀有であつたらう。が、本來四季によつて變化する風物そのものの情趣を寫すを主としないものに於いても、ぜひとも季の詞を結ばねばならぬといふのは、短い形の俳句にとつては却つて甚だ窮屈であるから、芭蕉も無季の句があるべきで戀旅名所離別などには特にそれが必要だといつたと傳へられてゐる(去來の湖東問答)。それが殆ど實行せられなかつたのは、恐らくは彼の謹厚な性質から來てゐるであらう。しかしこの意味に於いていふのならば、從來の慣例は技巧上の興味を増す一因ともなり、また上に述べた如く抒情的の句に特殊の趣を生ずる利益もあるから、得失は輕率に判斷しかねる。それよりも根本の問題は前の方の意味からであつて、新しい思想、新しい趣味、が生ずる場合には、起らなくてはならぬ問題である。
(188) 上述の技巧論は一句の上についてのことであるが、連俳に於いてもその精神は同じである。一句の着想が理窟に墮ち言語の上に興味を求めるのを嫌ふが如く、付け方に於いても理智的説明的になることまた前句の言語にたよることを避ける。前句の語を離れてその句全體に現はれてゐる情趣を捕へ、それと調和する情趣なり光景なりを新に思ひ浮かべてそれを付けるのである。さて前句は既に一句としてまとまつた氣分を有つてゐるから、付け句もまた前句の從屬ではない。だからその間の關係は付くが如く付かざるが如きを尚ぶので、昔の連歌に疎句といはれたのがこれと似てゐる。「うつり」といふのも「ひゞき」といふのも、また「にほひ」といふのも、畢竟この間の微妙な交渉を指すのであつて、見はてぬ夢の現にもなほ殘るが如く一つの氣分がほのかに相互の間に傳はることである。前にも述べたやうに蕉風の連句に抒情的趣味の豐かであるのも、おのづからかういふ付け方を生み出す一原因であつたらう。かういふやうに言語を離れての付け合であるから、貞門や談林に行はれた通篇の賦物などは行はれず、よしそれを試みても其角の雜談集や句兄弟に見える謠または謠ひものの俳諧のやうに、謠曲などの文字を取らずしてその情趣をかりるのである。支考が「女」といふ文字があれば戀の句とせられる慣例に反對したのも(續五論參照)、戀の句には戀の情味をいひ現はさねばならぬといふのであつて、やはりこれと同じ考から來てゐる。
 連俳の興味は主として、付け句によつて前句をその初めの着想とは全く異なつた方面に轉向させる點にあるので、そこに不斷の變化が生じてゆくのであり、蕉風に於いては特にその變化の大なるを喜んだやうに見える。が、一方に於いては一卷の連句全體の上に、幾分の統一を求めるやうにもなつたらしい。もとよりその一句々々に現はれてゐる思想の内容に於いては、全體として何等の統一を有つてゐないが、平静にして温雅たる表八句に始まり、中間に或は(189)艶麗な光景、或は凄涼たる風物、を點出し、或は特に洒脱の氣あり時に哀愁の思ひありまた時には愉悦の情あり、錯綜せる情趣の重疊たる波瀾を經て、輕淡なる名殘の裏に至り、さうして華やかな揚げ句によつて終結せられるところに、句作の進行による情調の變化と共に、その變化によつておのづから生ずるほのかなる氣分の統一があり、さうしてそこに樂曲の進行に似たととろがある。連歌の初中後は室町時代から樂の序破急に喩へられてゐたが、概していふとそれはたゞ單なる理説に過ぎなかつた。ところが蕉風の連俳には、それが實際に注意せられたらしく、前にも述べた如く、百韻などの長篇がやゝ廢れて歌仙のやうな短いものが流行したのも、こゝに一原因があらう。一句としても言語上の滑稽を離れて全體としての情趣を味ふことになれば、連句に於いてもおのづから同一の要求が生ずるのであるが、連俳の興味は作者が前句につけてゆく時の心もちにあるので、一卷にまとまつたものを讀む上にあるのではなく、よし讀んでもその感興は一句々々の跡を追うて作者の付けていつた時の心もちを意識の上に再現するところにあるから、その進行につれて變つてゆく作句の態度に於いて、かういふ統一を求める外は無かつたのである。さうしてこゝに俳諧の遊戯性が蕉風に於いても持續せられたことが示されてゐる。
 さて芭蕉はかういふ方針で技巧上の修養を説いてはゐるが、必しもそれを法則として立て、門弟や後の作者を拘束しようとはしなかつた。「俳諧に古人無し」と主張したのは、主として趣味や思想の上についてのことであらうが、技巧の方面でもやはり同樣に考へてゐたらしい。みづから新風をはじめた彼は、彼の後に彼から起つて彼を離脱するもののあることを許さねばならぬ。實際常に新味を出さうとする不斷の努力の結果として、彼自身に於いてすらその獨得の風體の形成せられてから後にも、なほその句風に變遷があつたことはいふまでもなく、その歿後に至つては諸(190)門弟はおの/\その好むところの方向に動いていつたのである。支考が阿難話の序などに八度の變化ありなどといつてゐるのは、ためにするところのある言であつて、むしろ誣妄に近い嫌ひがあるが、ともかくも蕉風に於いて小變化が幾度も起つたことは事實である。去來と許六との間にしば/\論議の種となつた不易流行の説の如きも、やはり之がために生じたので、畢竟は根本の趣味を不易と觀じながら、句の姿は時々に流行變化するを認めるからのことである。鬼貫も格より入つて格を離れ、自己獨得の句風を造れといひ(獨言)、句風には變化あるべきことを主張して「來いといふ時には來いでおういおい」と守奮者流を嘲つてゐる(七車)。こゝに活?々地なる元禄人の意氣と平民文學の特色とがあるではなからうか。
 
 以上の記述で、蕉風の俳諧の特色は一とほり觀察し得たことと思ふ。著者は曾て室町時代に於ける連歌を考へて、それが言語上の遊戯から進んで事物の上に詩趣を求めるやうになつたのが一大進歩であると共に、題材や趣味や用語を和歌の典型にあてはめようとしたのは、平民文學として見れば逆轉である、といつておいたが(「武士文學の時代」第二篇第四章)、その連歌から生まれた俳諧が、新しい平民文學として現はれたにかゝはらず、再び古い言語上の遊戯に立ち還つてゐたのを、談林に至つて一歩を轉じ、鬼貫や芭蕉によつて始めて詩としての俳諧が完成せられたのである。室町の昔にはできなかつたことが今この元禄の時代に至つて成し遂げられたのは、平民が社會の原動力となつてゐる世の中だからである。さうして俳諧の連句發句と同じ事情で世に現はれた俳諧の歌(狂歌)が、貞門程度のところで留まつてしまつてその上に發達せず、俚語を用ゐる抒情詩の如きものともならなかつたのに、獨り俳句のみが(191)優に詩の領土に入るを得たのは、歴史的にいふと俳句に一轉化を與へた宗因のやうなものが狂歌界に出なかつた故でもあるが、なほ深く考へると、一つは一方に和歌が現存し、さうしてそれが民間にも行はれてゐる以上、それと同形式のものではまじめなものとして取扱はれないのに、俳句は特異の形を具へてゐて特異の世界を開くことができ、さうして一度び俳句が隆盛となれば、狂歌を玩んでゐたものも俳句に趨くやうになつた故であらう。なほ俚語を用ゐる抒情詩には種々の形の俚謠があつて、俳諧の歌の如きものを要しなかつたことも、考へられるかも知れぬ。俚謠は聲樂的のものであつて、和歌とは性質も傳統も違ふが、俚語を用ゐる場合にはその點で接觸が生ずるのである。俳諧についても、その基礎となつた連歌のなほ世に行はれてゐたことは考へねばならぬが、連歌では發句が獨立のものとはならなかつた。連俳はむしろ俳句に附隨して流行したものらしい。また連歌はこの時代になると主として儀禮的のものとなつてゐたことをも、知らねばならぬ。連歌は上流社會にも民間にも行はれてゐたが、民間のは連俳に轉化したから、連歌として殘つたものは上流社會のであるが、文學的活動の中心が民間に移つてゐた當時に於いては、それはたゞ儀禮としてその形骸をとゞめてゐるに過ぎなかつた。だから連俳はそれとは無關係に行はれたのである。
 しかし蕉風は、貞門や談林の風體にあきたらずして、別に新樣を出さうとする一般の要求と、芭蕉といふ一詩人の心生活から?酵した特殊の氣分とが、抱合してできたものであるから、芭蕉に從ひ芭蕉の感化を受けたものでも、芭蕉の心生活を體驗しないものは、必しも芭蕉と同じ境地に入ることはできない。だから芭蕉も諸門人も明言してゐる如く、その高弟其角の如きはその句風すら芭蕉とは頗る趣を異にしてゐる。また芭蕉の思想の一面と感應するところがありながら、やゝ故らめいた點があるほど極端にいはゆる風狂の生を送り、その句に於いても去來や支考などから(192)格を破つたとして非難せられた惟然の如きものもある。丈草去來の如きは、芭蕉のわびしさ寂しさを愛する一面やその自然觀を理解してはゐるらしいが、瓢逸なる點は恐らくは體得することができなかつたのではあるまいか。貞門や談林の風體は興味の中心が主として外形にあるから、迫從者は同じやうに摸倣を試ることができるが、蕉風に於いてはそれが思想や趣味の内面にあるから、門人とてもおほまかにいふと同じく師風を繼承しながら、細かに觀ればおのづからそれ/\の特色があつて、その間互に相容れざる傾向を生ずるやうにさへなる。けれども世間的には芭蕉の名によつてそれが統一せられ、枝葉繁衍して一世を風靡したのである。さうしてそれは芭蕉の人格の力であつたらう。
 のみならず彼の生時に於いても、貞門や談林から脱出しようとしたものは、或はその鬱然たる葉かげに集り、或は少くともそれを一つの目標とするやうになつた。許六の如きは前者の一人で、言水、信徳、露沾、などは後者であらう。鬼貫の如きもやゝ面目を異にしてゐながら、畢竟同じ時勢から生まれ同じ方向に進んだものであるから、事實上蕉風の興隆を助けた觀がある。鬼貫の追悼の詞によれば、蟻道などもその師重頼の風とは大に異なつてゐたらしい(七車參照)。西鶴でさへ晩年にはこの風潮をよそにすることはできなかつたらしく、俳諧團袋に見える彼と團水との兩吟などは、從來の談林とは大なる距りがある。來山にたると談林の面影は甚だ薄れてしまつた。が、これも間接に蕉風の影響を受けてゐるのであらう。蕉風が必しも上方に行はれなかつたのでないといふことは、既に前章に述べておいた。
 けれども蕉風は果して長く世を支配することができるであらうか。芭蕉によつて始めて詩としての内容を盛られた俳諧は、その形式を保有しながら斷えず清新の氣を吸ひこんで、長くその生命を持續することができるであらうか。(193)その根柢には芭蕉特殊の風雅觀があり、さうしてそれには和歌連歌から繼承してゐる因襲的自然觀が纏綿してゐる。從つてその世界は頗る狹小である。この根本的制約の下にありながら、而も常に陳套を脱しようといふのは甚だ困難のことではなからうか。さうして、自由の氣はありながら、概していふと社會と人心との固定してゐる世の中では、根本からこの制約を破棄しようとする考が起りにくい。のみならず、それに代るべき新しい趣味が何處からも湧いて出ない。さすれば俳諧の進むべを道は技巧の上に幾らかの新工夫をするか、題材をやゝ變つた方面から取るか、さなくば風雅趣味の基調を亂さない限りに於いて何等かの潤色を加へるか、の外は無いのであるが、芭蕉といふ偉人の勢力のなほ眼前に存在する間はそれすらも容易でない。だから實際に於いてはさしたる新しみが無いにかゝはらず、連りに風體の變遷を口にして我が作の新風なるを衒はんとする支考の如きものが出た。彼が假名詩といふやうなものを作つてそれを誇示したのも、一つは彼の衒學的態度から來てはゐるが、一つは俳諧のゆきつまつたのを見て別の方面で名を揚げようとするためであつたかも知れぬ。さうしてそれと共に、一方では先師を標榜してその名の下に私かに自我を立てようとし、芭蕉の思ひもよらなかつた秘事や口傳を云々するものが現はれたのも、また師承を重んじ因襲を尊ぶ俗習に媚びるのであつて、その結果は却つて一層俳諧を沈滯させることになる。風雅といふものに一つの型が作られ、外から與へられた概念として、または知識として、それを取扱ふやうになるからであつて、それは本來、風雅が特殊の詩人にして始めて味ひ得べきものであつて、多數の俗衆には眞に體得せられ難いものであるのに、強ひてそれを學ばうとするがためである。いはゆる月並調の淵源はこゝにある。
(194) 最後に俳諧、特に蕉門の、が何故に世に行はれたか、元禄人の生活に如何なるはたらきをしたか、といふことを一應考へておくべきであらう。室町時代から戰國時代にかけて連歌の行はれた事情については、「武士文學の時代」で所見を述べておいたが、江戸時代に俳諧が行はれて來たことには、それとはやゝ趣の異なるところがある。歌を詠み連歌をする風習から繼承せられた點はあるが、文字の知識が民衆の間に弘まつて來たにつれて、口語を用ゐ卑近の事物を取扱ふことができ、特に手輕な十七音の形の俳句が獨立のものとして作られるやうになると、平和の民の消閑の具としてそれが好まれるのは、自然の傾向であり、またさうなつたことが俳句といふ形のものを一層流行させたのでもあらう。この意味では古典的な形の歌が貴族もしくは知識人の玩弄物であるのに對照して、俳句が平民的當代的の性質をもつてゐるのである。ところで消閑の具にしてもそれが一つの技藝である限り、それを弄ぶには指導者と同好者とのあるのが便宜であり、そこに俳句と共に達俳の行はれる理由もあるが、それには貞門といひ談林といひまた蕉風といふ流派の相尋いで起つたことが、おのづからそれを助けたのである。さうして技藝である以上、それに熟達しようとする惰があり、句集が容易く出版せられるやうになると、それに名の現はれることが同好者の名譽欲をも刺戟する。俳諧はかくして都鄙到るところに流行したのである。俳句には必しも世に示すことを期せない詠懷の作もあり、個人間の贈答として用ゐられたものもあるが、本來抒情詩として發達したものではないから、これはその主なるはたらきではない。
 俳諧の種々の流派が思想の面に於いて世の作者に何ものを與へたかは、上に縷説したところによつてほゞ知られるであらう。たゞ一つこゝで考へておくべきは、一句の構成法と連俳に於ける付けかたとであつて、これは特に蕉門に(195)於いて重要なことである。蕉門に於いては、その特殊の情趣、その情趣に浸された景物風光、を表現し描寫するために、その方法と用語とに細心な注意が向けられたので、そこから却つて一句としても往々その意義の解し難いものさへ生じ、付合に於いてはなほさらであるので、それに對して昔から種々の注釋の加へられたのもこれがためである。さうしてこれは主として十七音もしくは七音二句による極度に短い詩形と蕉門に特殊な情趣のある付合といふ方式とのためであり、そこに、かゝる詩形かゝる方式によつて日本語が如何に活用せられ日本人の心理が如何なる動きかたをするかが、示されてゐる。詩形が短いといふことと付合といふ連俳の方式とは、蕉門の作に於いて特に深い意義をもつことになつたのである。
 
 俳諧を考へたついでに俳文について一言しておくのも無用ではあるまい。普通にいひならはされてゐる俳文といふ名は、去來が風俗文選の序にいつてゐる「俳諧の文」の略稱であるらしく、その意義を文字のまゝに見れば、戯文といふほどのことであらう。李由は同じ書の序で「滑稽俳諧新古の文章」といつてゐる。しかし俳諧の名が連句もしくはその發句に特殊な稱呼となつてゐて、俳諧師といふ專門家もあるのであるから、俳諧の文もまた或は大まかに俳諧師の書く文をさしたものといつてもよからうか。ところが俳諧が芭蕉以來まじめな詩として取扱はれるやうになるにつれ、俳諧の文もまじめな文章となつたので、芭蕉の種々の紀行をはじめその雜文にも戯文らしい樣子は少しも無い。素堂や鬼貫などの書いたものもまた同樣である。かうなると俳文の特色は詩としての俳諧と一般、卑近の事物をも題材として俳人の趣味と態度とを以てそれを取扱ひ、また俗語俚言をも自由に用ゐる點にあるので、そこが擬古的和歌(196)連歌やそれに伴ふ擬古的和文と違ふのであらう。但し蕉風の俳諧に言語上の遊戯から離れた一種の滑稽味があると同樣、俳文にもまたそれがあることは考へねばならぬ。許六が文選の自序に、先師が始めて俳諧文章の一格を立てたといつてゐるのも、この意味でのことらしい。
 事實、芭蕉の紀行には「山野海濱の実景に造化の功を見、或は無依の道者の跡を慕ひ、風流の人の實をうかゞ」つて「とまるべき道に限りなく立つべき朝に時な」く、飄々として浮かれありく旅の氣分が、遺憾なく寫し出されてゐるので、その輕い心もちにも「たゞ一日の願ひ二つのみ、今宵よき宿とらん草鞋の我が足に宜しきを求めんとばかりは聊かの思ひなり、」といふ率直の心情(笈の小文)、「おもしろげも無くをかしげもあらず、たゞむつ/\としたる」老僧の「腰たわむまで物負ひ」ゆくをかしき光景を見ての感じ(更科紀行)、持病に惱んで行く末をおぼつかながりつゝも「羇旅邊土の行脚、捨身無常の觀念、道路に死なん是れ天の命なりと、氣力聊か取りなほし、路縱横に踏んで伊達の大木戸をこす」時の心もち(奥の細道)など、何れも矯飾なく誇張なく、擬古文の因襲を脱した清新の筆であつて、特に最後の例などは筆端に力があつてよく緊張した當時の心情を現はしてゐる。笈の小文の須磨の曉の風光、奥の細道の那須の野越に雨にふられた有樣も、從來の和文には見ることのできなかつた生彩のある寫實の文である。奥の細道は、近ごろ考へられてゐる如く、必しも旅程をそのまゝ精細に敍した純粹の紀行ではなく、かなりの取捨撰擇が行はれまた一種の構想がはたらいてゐる形跡はあるが、それに現はれてゐる感懷に造作の迹は見えない。またかの煤掃の説の如きは、芭蕉の人事に對する觀察眼を見るに足るべきものであらう。
 しかし文選などに纂められてゐる門弟の文章は、自然界に對する觀察の緻密た點に於いて俳文の特長を示してゐる(197)ものの、その眼孔は割合に平凡であつて、かの百鳥賦に於いても、小春の田の面に獨り啼くといふ雲雀の聲の寂しさ、朝日の光を滿面にうけた明り障子のおもてにさと過ぎゆく物のかげなど、一二の目新しいふしは無いでもないが、概していふと陳套の分子が多く、全體が理に墮ちて重苦しい感じがする。人事に對するものはそれよりもなほ拙く、往々淺薄な「うがち」などを試みながら、かゝる文章の必要條件たる奇警と飄逸とが無いので、多くは冗漫と膚淺と幾分の頭巾習氣を帶ぶることとを免れない。許六の四季の辭に金銀萬能の世態を寫してゐるところが、西鶴の足もとにもよりつけぬものであるのを見るがよい。木導の出女の説は東海道名所記にすら※[しんにょう+向]かに及ばないではないか。其角の大原木の詞に見える女の風俗の敍述なども平凡である。さうしてその滑稽も古い俳諧師狂歌師や後の蜀山人などが、古いものを新しくしおも正しいものを卑俗化するところにあるとは違つて、むしろ卑俗なものに勿體ぶつた理窟をつけるところにあるやうに見え、從つて知識的分子が少からず含まれてゐる。世相の描寫は本來蕉風の徒の長所ではないが、その長所たる自然界の描寫に於いても、俳文が俳句ほどに清新の感を與へないのは、彼等の修練が主として特殊の形式を具へてゐる俳諧の技巧にあつたからでもあらうか。彼等はその師芭蕉の如き詩人であるよりはむしろ俳諧の技巧家であつた。また彼等の文が賦とか辯とか序とか辭とかいふ漢文の體例を學んでゐるのは、寫實から出立した俳文としては何の必要も無い、文字上の知識を強ひてあてはめたのであるが、それはその作に充實した内容が無いからである。俳文が一種の遊戯文字として終り、文學の上にさしたる貢獻をしなかつたのも、怪しむに足らぬ。かういふ俳文よりも東海道名所記やそれから發達した西鶴の浮世草子などの方が、その筆致と事物を見る態度とに違ひこそあれ、却つて俳文の趣を得てゐるのみならず、よく世情の機微を寫し得て文學上に一新生面を開いたのである。
(198) なほ一言する。賦といふものに韻をふんでみたり、支考のやうに假名詩といふ一種の新體詩を作つてみたり、または同じ人の舞子曲のやうに七五調を綴つてみたりしたのも、やはり遊戯的態度である。いはゆる仮名詩は、それに種々の形式を試みてゐるなど、かなりに苦心の跡も見られないではないが、それも彼の思想を託するにはかういふ律語詩を要するといふのならばともかくも、實は怪しげな大和眞名詩といふやうなものと共に、漢詩を摸作しようといふ動機から來たのであるから、その苦心も畢竟衒學かまたは遊戯かのために外ならぬ。押韻などは讀む場合に何の感じをも與へないものであつて、恰も昔の歌人が國語の性質をも考へず我が耳の感受性をも顧みずして、漢詩の律格論を直譯した歌の規則を作つたと同樣、文字上の知識によつて案出したことに過ぎない。本來唱歌も朗吟もしない、從つてさういふ必要から起つたのでない、新詩形を作り出すといふことが、既に不自然な話であつて、シナの賦などが手本になつたらしい記紀萬葉の長歌も、やはりその例であるが、文字に書いて讀むものとしては何の必要も無い韻の沙汰などは、さすがにそのころには無かつた。さうして長い年月の間行はれてゐる歌の作者が、あらん限りの修辭法を用ゐて來たにかゝはらず、曾て押韻を試みなかつたのに、この時に至つてそれをはじめたのは、新しさを好む俳人の業として見れば幾らかの興味はあるけれども、畢竟見當違ひの物好きに過ぎないのである。事實、調子の抑へられた、また幾分の滑稽味を帶びてゐる、蕉風俳人の思想を以て、猫とか蝸牛とか笠とか茶とかいふ題材を取扱ふ假名詩は、その特殊の趣味を失はない限り、唱歌朗吟するには適せざるもの、音樂的の表現を許さないものであり、從つて詩らしい形式を定める必要のないものである。假名詩に多く七七調を用ゐ、稀には五五調をも試み、絶えて流暢な七五調を取らなかつたのは、かゝる趣味を現はすものとしては、かの眞名詩といふものに普通の狂詩の如き輕快の趣が少し(199)も無いのと同樣、せめてもの着眼として賞讃してもよいかも知らぬが、その五五なり七七なりの形を定めることが無意味である以上、何のかひも無い。
 
(200)     第九章 文學の概観 五
 
       浮世草子
 
 眼を蕉風の俳諧から轉じて浮世草子に向けると、同じ時代のものながら全く別の天地に入つた心もちがする。かしこは風月の天地であるがこゝには「女護島」の歡樂郷がある。かしこでは笠の雪に價なき價を求めてゐるのに、こゝではせち辛い世の中に身を捨てゝも食はねばならず、人を欺いても金を取らねばならぬ。かしこでは茅屋の薄月夜に松笠がもえてゐるのに、こゝでは銀燭かゞやく金屏の裡に伽羅の香を薫らせる。かしこでは霜夜に鉢叩きの聲を聞いて興ずるのに、こゝでは雪の夕にも艶かな三絃の音がなくてはならぬ。かしこには「木枯らしにふか」れゆく飄々たる行脚僧の後姿が見えるのに、こゝには脂粉の香を追ふ遊冶郎が好色修行にうき身をやつしてゐる。かしこには長閑な霞のうちに畑うつ農夫があるのに、こゝには忙しい店さきに算盤をはぢく商賈がゐる。黒木賣の女と島原の太夫と、蕎麥の花と山吹の色と、世にこれほど調子のちがつた世界があらうか。
 著者は前卷に於いて、新しい平民文學の先驅として名所記や隨筆が現はれたこと、それが古典文學、特に伊勢物語と徒然草と、の刺戟を受けて生まれたものであること、またそれに遊樂の氣が充ち滑稽の分子があり教訓の意味さへも籠つてゐることを述べ、別に純粹の教訓的假名草子も作られるやうになつたことをいつておいた。ところがこれらの諸要素を悉く具へ、また隨筆や遊歴譚の性質を脱してゐないにかゝはらず、ともかくも或る人物の經歴を敍したやうにしくまれてゐる浮世物語に至つて、文學のこの方面に一轉化が起り、事實を基礎としながら作者によつて潤色せ(201)られた物語の出現を促した。隨筆の如く説法をしたり感想を述べたりすることを主とせず、具體的に人の心情と行爲とを措寫して、それによつて世相を示し、名所記の如く風俗などの外部的敍述をするに止まらず、やゝ深く人心の内面に立ち入つた觀察を試みようとして來たのである。浮世物語と同じ作者の手になつた御伽婢子の如きシナ小説の翻案も、また作者をしてそれに倣つて何等かの事件を敍述しようとする考を起させたらしいが、これはまたそれと共に、異事奇聞もしくは妖怪譚の類を以て讀者の低級な好奇心を刺衝することをも學ばせたらしい。なほ前にも述べた如く遊女や若衆役者の評列記、または一種の新聞めいた通俗的の册子の輩出したことも、世相の描寫をする點に於いて、新しい文學を生む一誘因となつた。さうしてそれらを集めて大成したのが浪速談林の西鶴であつた。宗因門下の西鶴が浮世草子の創始者たるにふさはしいものであつたことは、前章に述べた談林の性質から見ても推測せられる。
 西鶴の作はその題材からいふと、一代男、二代男、三代男、及び一代女、五人女、の如きいはゆる好色本と、永代藏、胸算用、織留、の如き町人生活を描いたものと、武家義理物語の如き武士の行爲を寫したものと、この三つが主である。男色大鑑の如きは好色本ではあるものの、その前半には武士の義理物語に加へても支障が無ささうな話があり、町人ものにも好色的要素があつて、はつきり區別することはできないが、要するに色と慾と義理との三つが主題になつてゐて、それらの三つはまた互にもつれあつてゐるのである。さうして色は遊女に於いて最も鮮かに現はれ、慾は町人にその表徴を示し、義理は武士によつて代表せられてゐる觀がある。當時の社會に於いて、人を支配する力が主としてこれらの三つにあつたとすれば、西鶴は元禄の世相を寫すにほゞ遺憾なき題材を取扱ひ得たといふべきであらう。懷硯、諸國ばなし、または新可笑記の如く、奇事異聞を集めたものもあり(本朝櫻蔭比事の如きシナ小説の(202)翻案もしくは摸作もこれに屬すべきものであらう)、二十不孝の如く半ば教訓的意義のある、もしくは教訓を標榜してゐる、ものもある。これらの中で好色本は、前卷に述べた平民文學の遊樂の分子と滑稽の要素とが結合し、それが特異の色彩を帶びて現はれたものと觀ることができる。さうしてまた別に教訓的性質の含まれてゐるものがあり、既に論じた如く一般に古典的氣分が伴つてゐるとすれば、西鶴の作がかの名所記や隨筆ものなどから系統を引いてゐることは明かであつて、懷硯や諸國ばなしなどは名所記の一轉したものといつてよいくらゐであり、新可笑記などは標題に於いても明かにかの隨筆の後繼者であることを示してゐる。その上にシナ小説の翻案などがあるとすれば、西鶴は新しい物語を形成するための種々の要素を盡く包容してゐることが知られる。なほ西鶴の死後に公にせられた俗つれ/”\や置士産については、その眞僞に關して種々の説があるやうであるが、著者はその筆致と内容とから考へて、少くともそのうちの大部分は眞の遺稿であらうと思ふ。萬の文反古とても、僞書として一概に排斥するは早計ではあるまいか。よし門弟などの補つたものが含まれてゐるにしても、西鶴自身でなくてはと思はれるものが少なくないやうに著者は觀察する。
 西鶴の作としてまとまつてゐるものは、何れも短篇を集めたのであつて、多くは類似した題材を取扱つてゐるといふより外には、何等の連絡の無い切れ/”\のものである。上にも述べた如く一代男二代男や一代女の如きは、全體を貫通する着想があるけれども、それとても主なる興味が、やはり一つ/\の物語にあることはいふまでもない。この物語には空想に成つたものも多からうし、古典に見える插話の改作もあるが、當時の人の噂に上りまたは世に傳へられてゐる話柄などを潤色したものも少なくないので、二代男のはじめに彼みづから「影も形も無きことにはあらず」(203)といつてゐるのは、廣く彼の作を通じてのことと見てよからう。無事平穩の世には市井の些事も好奇心を以て迎へられ、東家西家の茶話もいひつぎ語りつぎて世に弘まることが早く、全國交通の中心となつてゐて諸國ものの寄り合ひどころである大坂では、地方の種々の事件も出舟入舟につけて艪櫂の音の斷えまも無く傳へられ、特に遊里に起つた事件や名ある遊女の物語などは、場所がらだけ事がらだけに、年經ても人の心に遺つてゐて、作者にかういふ材料を供給することが多かつたであらう。俳諧師として人に接することが多く、幇間めいた態度で遊里に出入するを常としてゐたらしい作者の地位も、またこれらの材料を得るに大なる便宜があつたに違ひない。空想の物語とても、かういふ作者の經驗から生まれたものであるから、同じ市井の讀者には何れもおのれらの日常生活に親しい眼前の事實として受取られたのである。古傳説の改作とてもたゞ話の筋を採つたのみで、當時の風俗や人情で肉づけられてゐるし、その數もまた多くはないらしい。作者はそれによつて、人間の性慾や商家の浮沈盛衰や武士の意地などを具體的に描寫したので、遊蕩兒や遊女若衆などの心生活、商人の氣質、などが頗る生彩のある筆によつてよく現はされてゐるのみならず、平民の風俗や貧富さま/”\の生活状態などは、彼の筆によつて始めて文學の領土に入つたといつてもよく、その觀察と描寫とは微細を極めてゐる。
 さて西鶴の最初に手を染めたのは好色本であつて、後人には西鶴ものといへば即ち好色本であるが如く思はれてゐるほどに、それが有名である。昔からある好色の文字はこの時代に一種の流行語となつて世に現はれ、色道といふ語も作られてゐる。さうしてそれは當時「女若二道」と並稱せられてゐる男色にも適用せられるやうになつてゐる。後には「好色」の代りに「風流」又は「傾城」の語を冠する草子が多く出た(傾城の字を冠するのは歌舞伎の外題を學(204)んだのではあるまいか〕。好色本はまた色草紙(御前義經記序文、風流今平家、傾域武道櫻、など)とも浮世本(其磧役者目利講口上)ともいはれたが、「浮世」の語が單に世間とか當世とかいふ意義ばかりではなく、それから點じて一種の歡樂主義、遊蕩生活、を指す語として用ゐられたことは、既に前卷に一言しておいた。
 この時代の文學を通覽すると「浮世」の二字を冠した種々の語に逢著する。著者の氣のついたものだけを擧げてみても、人倫に、浮世人(千尋日本織、土佐淨瑠璃の名古屋山三)、浮世もの(男色大鑑、俳諧錦?段、俳諧玉藻集、名古屋山三)、浮世男(續虚栗、玉藻集、本朝櫻陰比事、色三味線、百日曾我)、浮世女(一代女〕、浮世後家(心中大鑑)、浮世美人(虚栗)、浮世坊主(二代男、文反古)、浮世出家(曲三味線)、浮世比丘尼(一代男)、浮世茶人(茶人氣質)、浮世紺屋(男色大鑑、心中大鑑)、などがあり、人事には、浮世狂ひ(たからぐら、西鶴友雪兩吟千句、五人女、武道傳來記、今樣二十四孝)、浮世遊び(二代男、淋しき坐の慰)、浮世ことば(古今ぶし唱歌)、浮世ばなし(咲分五人娘、嫗山姥)、浮世がたり(江戸八百韻)、浮世あだ口(今宮心中)、浮世正月ことば(乙女織)、浮世おどり(元禄太平記、曲三味線)、浮世歌(名古屋山三)、浮世ぶし(宗因の發句、土佐淨瑠璃の博多色傳授)、浮世寺(一代女)、浮世念佛(本朝二十不孝、今宮心中、海音の新百人一首)、があり、場所には、浮世町(西鶴五百韻、談林十百韻)、浮世小路(一代女、二代男、棠大門屋敷、など)、また家屋の類には、浮世藏(五人女)、器具には、浮世ござ(三代男、織留、曾我會稽山)、浮世笠(五人女)、浮世楊枝(男色大鑑〕、浮世帽子(土佐淨瑠璃のお國歌舞伎)、浮世もとゆひ(一代女)、浮世烟草入れ(近代長者鑑〕、などがある。その他、浮世|風《カゼ》(男色大鑑)、浮世|風《フウ》(お國歌舞伎)、浮世氣(実景蒔繪の松)、浮世川(棠大門屋敷、熊谷女編笠、乙女織、傾城武道櫻)、浮世木(みなし栗)、浮世(205)模樣(胸算用、渡世身持談義)、浮世小紋(永代藏)、浮世山椒(同上)、などの名が見える。また書名には、了意の浮世物語はいふまでもなく、俳書に浮世長刀があるが、浮世つれ/”\(名古屋山三)、好色浮世踊(元禄太平記)が物語中の書名として擧げてある。(聲曲類纂に載せてある芝居古圖に「世物狂ひ」とあるのは「浮世物狂ひ」で、外題であらうと思ふ。)人物の名としては一代男の浮世の介があるが、土佐淨瑠璃の三世二河白道にこれがその主人公の名となつてゐ、源氏十二段長生島臺にも世の介の名が見える。なほ後人の著書にも、この時代の器物として浮世袋(用捨箱)、浮世巾着(用捨箱、嬉遊笑覽)、浮世人形(?庭雜考)、などの名が見えてゐる。上村吉彌の紋に浮世とあるのもこゝに附記してよからう。著者の寓目したものに於いても見落しがあらうし、まだ讀まないものにもこの種の語が多く發見せられるであらうが、これだけで見てもこの時代に浮世といふ語が如何に流行したかを知ることができよう。これらの中で、浮世ばなしは世間ばなしといふ意義、浮世模樣の類は流行模樣といふほどのこと、また浮世出家、浮世念佛、といふのは、眞實の出家や信仰からの念佛でないものを指す語らしいが、その他の大多数は好色の意義を含んでゐるし、流行の本源も世間ばなしの主なる題目も、やはり遊里と男色がつきものである劇場とにあるから、間接にそれと關係がある。草子に現はれる浮世繪の名の如きも「浮世繪の名人花田内匠」(男色大鑑卷五)は歌舞伎若衆を寫してゐ、「祐善が浮世繪」(一代男卷七)は嫖客の所持品であり、「菱川の浮世繪」(日本莊子卷一)も新町の遊女なにがしに及ばぬとせられてゐる。また浮世男繪(百日曾我)も「おやま繪」に並べて擧げてあるから、若衆か遊客かの繪であらう。「浮世本」が好色本の名として用ゐられたことは、これらの例から見ても當然であらう。ついでにいふ。三代男に世間男の名があり、一代女、西鶴五百韻、芭蕉の冬の日、などに世間寺といふのが見える。世間(206)男は交際家といふやうな意、一代女の世間寺は「大黒」をすませて置くが、これも世間寺だから大黒がゐるので、大黒がゐるために世間寺といはれたのではないかも知れず、その他のは好色とは關係が無い。「世間」は「浮世」から來たのであらうが、意義もまた種々に轉じてゐるのであらう。
 さて好色とか色道とかいふ語に多大の遊戯分子が含まれてゐること、またそれが主として性慾の問題であつて、遊女、特にあらゆる官能的快樂の機關を備へてゐる遊里といふ別天地に特殊の生活をしてゐるものが、その主要なあひてであることは、明白な事實である。だから好色本の主題はこの性慾を充たすこと、この官能的快樂の追求と花街に於ける遊興とにある。固より好色本の題材は種々の社會にゆき渡つてゐるのみならず、上に述べた如く男色もあり、また女の變態性慾にさへ及んでゐるが、その主要なるものは各方面各階級の遊女である。ところが嫖客にとつての歡樂世界は遊女にとつては苦界であつて、こゝに一大矛盾が横はつてゐる上に、嫖客が遊女をあいてにするには金銀を要し、さうしてそれには肉の接觸に伴ふ愛着の情が纏綿するのみならず、遊女もまたその特殊の境遇によつて馴致せられる利慾の念や、政略や、意地や、荒廢した情生活や、その間にもなほ存する一片の眞惰やがあつて、それから生ずる種々の葛藤が好色本に幾多の好題目を供給するのである。のみならずこれにはまた生活の問題が大たる力を以て壓迫を加へてゐるので、遊女も若衆も食ふことの必要から起つた「悲しき身すぎ」であり、嫖客もまたその放縱なる性慾の滿足のために財を失ひ産を破るに至つて、切實に「食ふこと」の問題と面接しなければならぬ。性慾と生きることとの要求、生物の根本に潜む種族保有と自己生存との二大本能は、その一つは畸形を呈しながらに、好色本の作者に向つてその赤裸々の姿を呈露してゐるので、かの一代女の着想は、女に於いて認めたこの二つの力とその間の交(207)渉とにあり、性慾の衝動を如何なる人でも如何なる場合でも抑へることのできないものとすると共に、それを生きるための方便として見てゐるのである。また二代男や町人ものなどには、男に於けるこの間題を取扱つてゐる物語がある(それを如何なる態度で見てゐるかは後に述べよう)。文學に於いて性慾の本能がこれほどまで露骨に取扱はれたことは、未だ曾て見ざるところであつて、こゝに無遠慮であり放縱である元禄時代の一面が現はれてゐる。勿論それは讀者の低級な笑を求めるためではあるが、敢てそれを試みたのはやはりこの氣風からであらう。また生活問題は、前代の文學とてもそれに觸れてゐるものが全く無いではないが、物語の主題として取扱はれたのは西鶴に始まるのであつて、これもまた平民文學の一大特徴である。さうしてこの二つは、俳諧にも歌舞伎や淨瑠璃にも多く見ることのできない、浮世草子の特色である。
 しかし「食ふこと」の問題の起るのはかゝる方面には限らぬ。俸禄を有する武士階級もしくは少数の特殊社會を除いては、緩急の差こそあれ、何人と雖もそのことに接觸の無いものは無い。勿論食ふことには無數の階級があるが、人にはみなその生活を豐かにしようとする欲望があるから、纔かに生きることと豐かに生きることとの間に劃然たる區別をつけることはできぬ。さうしてこの問題に逢着することの最も切であるのは、都市生活を營むものである。是に於いてか西鶴は町人ものを書いた。貧富さま/”\の生活状態、その表裏の背反、身代のやりくり、商略のくさ/”\、事業の成功と失敗と、商家の盛衰興亡、などが、頗る廣い方面にわたつて巧みに寫されてゐる。一くちにいふと、それはいはゆる慾(利慾)の生活を描いたものであるが、如何なる場合にも錢勘定を忘れず、如何なることをも利益の觀念に結びつけて考へるのが、その特色である。西鶴の作には好色本に於いても常にこの傾向がある。大坂人たる作(208)者が同じ大坂人を主たる顧客とするものとしては、これは當然のことであらう。さて當時かういふ町人ものを浮世本または浮世草子といつたかどうか、著者はまだそれを詳かにしないが、好色本の一轉したものであることは明かであらう。なほ西鶴は色の世界と慾の天地との外に於いて義理の世の中にも手を染めて、その題材を武士に求めた。それには多く敵打や男色から起る葛藤やが寫されてゐるが、しかしこの方面は彼の長所ではなかつたらしく、何かの際立つた事件を寫すのみで、町人の如く日常生活を描くことはできなかつた。文字の間に彼ならではと思はれる巧みなところはあるが、概していふと異聞を書き綴つたに過ぎないものである。諸國話の如く異聞そのことを傳へるための作もあるが、それはむしろ一種の通俗的知識欲の要求に應じたものであつて、當時の交通状態に伴つて旅行記などの作られたのと同じ動機から來てゐる。 西鶴の採つた題材はこんなに廣いけれども、しかし彼の最も力を盡したところ、またその最も成功したところは、京坂人の生活であつて、江戸も長崎もその他の地方もしば/\筆には上つたが、そこに特異な地方色はさして現はれてゐない。一代男一代女の類には、武家に用のある場合に江戸を舞臺としてゐるが、それはたゞ武家が顔を出すといふまでのことであり、江戸の商人は大腹だといふ話(永代藏卷六、胸算用卷五)をしても、生活状態が上方とちがふといふことを説明したに過ぎない。室も博多も敦賀も酒田も概ね地理的位置のちがひがあるばかりである。それ/\の土地に特殊な風物とその住民の生活状態人情氣風との關係などが、具體的に物語の上に現はれてはゐない。武士の話に於いてはなほさらであつて、少しも地方的特徴を見ることができない。これは作者の目ざすところが人ではなくして、色とか慾とか義理とかいふ抽象的の文字を以て示し得るものだからである。地理的環境と人の生活との交渉な(209)などは、初めから考の及ばないところであつた。
 だから男を見ても女を見ても服裝や髪かざりを描くことは精密であるが、容貌を寫すことは極めて粗大であつて、女は何時も「當世風の丸顔」ですましてゐる。さうしてその容貌と性質との關係または表情といふやうな點には、全く注意してゐない。師宜や祐信などの浮世繪の容貌が如何なる人物でも同一であると同じであつて、人に個性を認めることができなかつたのである。社會的活動が單調でその社會が横械的に秩序だてられ、世を支配するものが個人の特殊の能力ではなくして地位や階級である時代に、個性が發揮せられず、またそれが認められないのは、當然であらうから、文藝の上に於いてかういふ傾向のあるのもまた不思議ではあるまい。西鶴とても巧みに人情を描寫してゐる場合もあるが、それは概して何人にもまた如何なる場合にも適用せられる普遍な點であつて、個々の人よりもむしろその集合體である世間を觀、人を描いてゐるといふよりも世相を穿つてゐるといふ方が適切である。或はまた何を題材としても人を見ずして事件を見てゐるといつてもよからう。興味の中心は遊蕩生活のさま/”\、財を得財を失ふ商人の浮沈、または敵打とか妻敵打とかいふ事件そのものにあるので、その事件の主人公たる人ではない。彼が常に「人間は慾に手足のついたるものぞかし」(二代男卷三)とか、「命ほど頼み少くてまたつれなきものはなし」(五人女卷四)、とか、いふやうな普遍的命題を先づ提出し、それから事件を説き出すのも、世間はかうと決めてかゝつて、世の中の人はみなこの命題にあてはまるものとするからであり、また境遇や事件が人を支配するものとして考へ、人が境遇や事件を動かしてゆくことを思はないからであらう(このことについてはなほ後に詳しく考へよう)。
(210) しかし西鶴のこの傾向は彼の製作の態度からも來てゐる。前に述べた如く彼がその幾多の草紙を作つたのは、人生を知るためでもなければ、世相の忠實なる描寫を試るためでもない。自己の人生観を仮託するといふやうな考を有つてゐないことは、勿論である。その目的はたゞ頭者の慰みに供するにあるので、特に好色本の如きは幇間が大盡の興を助けるために詼謔の言を弄するのと大差の無いものである。だから彼は何事に對してもそれを滑稽的に取扱はずにはゐないので、色と慾とは勿論のこと、人の死をも死者のなつた幽靈をさへも滑稽化してゐる(二代男卷四)。一代女などには全體の着想に於いても一々の物語に於いても、しんみりとした哀愁の氣分が底の方には潜んでゐるものの、それとても滑稽の調子で常にかき亂されてゐる。滑稽な書き方が却つて悲哀の惰を起させるといふことはあるが、西鶴のはそれではないらしい。「夜發付聲」(卷六)の一段の如き最も淺ましく最も哀れなるものも、讀んで見ればやはり可笑しさが先に立つではないか。五人女の一から四までは何れもいはゞ悲劇的の物語であるのに、それすら例の無遠慮な筆で讀者を笑はせ、特に一の卷には無用な遊里まで書きそへてある。心中(情死)は西鶴の筆には多く上らなかつたが、もしそれを採つたにしても、やはり滑稽的に取扱つたに違ひないことは、二代男(卷五)の「死なば諸共の木刀」や同じ書(卷八)に見える彼の情死觀から推察せられよう。物語が概ね短篇であるのも、やはりこゝに一原因があるらしく、本來興味のある或る場面を示し或る事件を語ればそれで足りるのであるから、さういふ描寫にはかなり精緻な筆を用ゐても、或る人物の心情を微細に観察し、それが行爲に現はれ境遇に反映しまたそれによつて心情の變化してゆく過程を敍するやうなことはせず、從つて長篇とする必要を感じなかつたのである。けれどもそれで西鶴の目的は達せられるので、彼の作の文學的債値はこれがために何の損するところも無い。
(211) さて西鶴が讀者を笑はせようとする手段の第一は誇張である。遊蕩兒は極端まで遊蕩兒であり、吝嗇漢は極端まで吝嗇漢であつて、それが實際にあり得べからざる人物であり事件であることの明かに知られてゐるにかゝはらず、如何にも事實らしく寫されてゐる點に滑稽が生ずる。かういふ例は彼の作の何處を開いて見てもすぐに見つかる。のみならず、七歳から好き心を起し「明け暮れたはけを盡し」て一生を好色に送り、その果ては好色丸に乘り戀風に任せて女護の島にゆく、といふ一代男、あらゆる男に戯れ有らん限りの淺ましき境界を經驗する、といふ一代女に至つては、一篇の着想そのものが滑稽的に好色生活を誇張して寫し、人間の性慾を笑つてながめようとしたものであることは、いふまでもない。如何なるすきものも、一代男を讀んで笑を催さぬものは無からうし、世の介を理想的男子として景慕することはできないであらう。幼童の性慾が近代の自然派のやうな態度て取扱はれてゐないことは勿論である。
 第二は不合理ないひ方をする滑稽であつて、男色大鑑の序文、その卷頭の一節、などがかゝる滑稽の最も巧妙なものであり、五人女(卷五)の結末に、金をつかひ減らす分別が出ない「何としたものであらう」といつてゐるのも、置土産(卷三)の「子が親の勘當」の話も、その例である。一代男の女護島へゆくのもその所持品も、五人女(卷五)の源五兵衛の寶物のかず/\、大黒殿の千石通し夷どのの小遣帳も、やはりこのなかまに入れてよからう。
 第三は裏面を暴露するところから生ずる滑稽であつて、大きなものが小さくなり、強いものが弱くなり、美しいものが醜くくなり、すべて仮面の剥脱せられるところに滑稽がある。この世ながらの喜見城極樂世界として、月花の眺めも物かは「人間遊山のうはもり色里にますことなし」(二代男卷一)といつてゐるこの歡樂郷、「錢とは何のことじや」之いふ顔してゐる太夫を描いても、何ごとにも笑はぬといふ女に金づつみをやつて「異なことに」笑はせ(二代(212)男卷二)、なにがしの太夫の「さゝげ飯の茶づけに干鱈むしり食ふ」有樣を見せ(一代男卷七〕、「烏の目のところはよけて水に酒鹽まぜて、裏よりまぢなひごとして、科から先へのがるゝ誓紙」を書かせ(二代男卷一)、宗教についても「世間寺の大黒」(一代女卷二〕を寫し、「毎日薄おしろいをする出家」、「魚釣針して賣る坊主」(織留卷五)、を擧げ、信心も實は「衣裝くらべの姿自慢」と石山の観音さまを可笑しがらせてゐるなど、何れも滑稽的態度を以て裏面を暴露してゐるのである。同じく人の僞をあばき世のあらを探し、醜所、弱點、閤黒面、を指摘するにも種々の態度があるが、西鶴はそれを憤慨するでも熱罵するでもなく、冷笑するでも諷刺するでもなく、骨を刻むが如き辛辣の筆を用ゐて讀者をしてその苦楚に堪へざらしめるやうなことは、なほさらなく、我れ關せざる如き傍觀的態度を以て讀者と共に世相の矛盾を可笑しく眺め、或はまた讀者と共にみづからその可笑しさを演じて、手を打つてその醜くさを笑ひ、馬鹿/\しさに興じようとするのである。「去りにし昔を問へば、浮は氣と嘘と阿房なるより外なく、みな大笑にして」(三代男卷三)とある、この「大笑」が總てを貫いてゐる根本の調子である。だから皮肉をいつても反語を使つても、常に輕い心持ちがそれに伴つてゐて、例へば「二親懲らしめのために身を隱」すと遊蕩兒にいはせ(二代男卷一)、老若貴賤の大慾の祈願が「聞いてをかしけれども賽錢なげるが嬉しく神の役に聞くなり」と室の明神にいはせるのが(五人女卷一)、動もすれば「勘當」を口にしながらその實は蕩子を溺愛する世のつねの父母に對する反語であり、神の信仰に對する皮肉であるにかゝはらず、讀者の耳にはたゞ一場の戯謔として聞えるに過ぎないのである。東育ちの女を「足平たく首筋太く肌かたく」同時に「慾を知らず」と罵つて、美しい京女の慾の深さを諷してゐるなどは、かなり鋭い針の刺しやうであるけれども、前後の敍述の輕い調子のために、さしたる痛みを感じな(213)いですむ(一代女卷一)。「はなれ難きものは色慾にきまり申候」(文反古卷五)といつて、人をみな性慾の奴隷とし、「つまるところは食はねばひだるい/\」(織留卷一)といつて、人は食ふために生きてゐるものとし、人生を肉的物質的方面からのみ見てゐるのも、また一種の裏面觀察であるが、それもまじめに考へれば種族保存と自己生存との根本問題に關する一見解であるにかゝはらず、西鶴はやはりこれらの文字によつて知られる如く、たゞふざけた態度でそれを取扱つてゐるのである。
 第四は敍述の態度と文章とに於いてである。西鶴は精細に風俗を描き巧みに言語動作を敍し、讀者をしてその光景を眼前に髣髴させる非凡の手腕を有つてゐるが、しかしその態度は近代の寫實派が目ざしてゐるやうに、事物をありのまゝに見せようとするのではなく、敍事の間に常に批評を插み、描寫の傍に必ず説明を加へ、如何なる場合にも作者みづから讀者の面前に現はれて出る。それがために活氣が横溢して幾段か光彩を増してはゐるけれども、その代りに讀者は深く考へる餘裕を與へられず、また寫された事物がありのまゝに印象せられない。前に述べた如く事件を敍するに先だつて「人のうちにはかならず死に殘つてゐる婆あり」(一代男卷八)といひ、「萬年暦のあふも不思議あはぬもをかし」(永代藏卷五)といひ、「用心し給へ國に賊、家に鼠、後家に入聟、いそぐまじきことなり、」(同上卷一)といふやうな、警句めいた形で作者の感想を述べ、或は物語の終に「人みな賢すぎたる世なり」(二代男卷三)、「次第にむつかしき世とはなりぬ」(同上卷六〕、などの評語を加へるも常のことであり、零落した遊蕩兒の身の上を敍して「殘るものとては鶴菱の下着一つ、これも破れ時になりぬ、今一度欲しや、」(二代男卷五)といひ、幾人かの財を失はせた歌比丘尼の懺悔話の末に「いかなる諸分けも使へば嵩の上るもの、その心得せよ、うは氣八助合點か、」(214)(一代女卷三)といふなどは、作中の人物がいふのか作者のいふのか判らぬくらゐである。ところがこれらの二三の例でも知られる如く、評語の調子、それをいふ態度、は甚だ輕い滑稽的のものであつて、舞臺に現はれる作者は何時もふざけてばかりゐる。目見えをする女に小袖の損料などを勘定させて「二十四匁九分の損銀、悲しき世渡ぞかし、」(一代女卷一)といはせ、新墓から現はれた幽靈の物語をして「あらこはやの」(二代男卷四)と結んだのを見れば、悲し怖しといふ語さへ戯謔の用に供せられてゐることが知られる。かういふ態度の裏面には一抹の哀愁が横はつてはゐるけれども、それは表面に現はれてゐないのみならず、作者自身も恐らくは明かに自覺してゐなかつたらう。
 次に文章についていふと、これも談林の俳諧と同樣、故事古歌成語などをもぢり或はそれを意外の觀念に轉向させることによつて、滑稽の生ずる場合が甚だ多く、古典的要素の豐富なのに伴つて、西鶴にはそれが殆ど常套手段となつてゐる.「くず屋の軒に貫きしは味噌玉か何ぞと人のひもじがる時」(一代男卷四)といひ、「戀は盛に据袖をのみ見るものかは」(三代男卷一)といひ、「歸んなんいざ菓子盆將に荒れなんとす」(同上卷五)といふ類、例を擧げれば限りが無い。これは古語を卑近にするのであるが、それとは反對に猥雜な語に莊嚴な古典を結びつける滑稽もあつて、男色大鑑の序やその卷頭の一節の如きがそれである。前章に述べた如く、蕉門の俳文にも卑俗なことを勿體らしくする滑稽はあるが、それは概ね理智に墮して重苦しい。西鶴のはその結びつけ方が甚だ突飛であるために矛盾と不合理とが明かに目に見え、甚だ輕快の感を生ずる。歡樂の場に突如として錢勘定を持ち出すなども、やはりこの類である。
 以上は西鶴の作に見える滑稽の重要なる性質であるが、これによつて見ると、彼は靜かに人生の葛藤を描いて、そ(215)こにおのづからなる滑稽を看取しようとするのではなく、初めから世の中を茶化してかかつてゐる。滑稽は對象にあるのではなくして彼の態度にある。だから性慾といひ生活といひ、人生の根本に存在する大問題を取扱ひながら、常にふざけまはつてゐるのである。この態度は、作の動機が輕い慰みものを提供するところにあるからでもあり、我をも他をも茶化して見、一切の事物を滑稽的に取扱ふが常の、談林の俳諧師としては偶然ならざる思想上の由來もあるが、また人を考へずして世間を見るとの時代の思想的傾向と、世を無關心に觀る彼の處世觀との故もある(處世觀については後にいはう)。
 問題が文章に及んで來たから、こゝで西鶴の技巧の方面に一瞥を與へておかうと思ふ。その第一は、事物を寫すに當つて決して抽象的な、空漠な、おぽろげな、文字を用ゐず、何につけても具體的に精確にそれを示すことである。處をいへばかならずその土地を明かに指し、時をいへばかならずその年月をたしかに記し、人をいへば必ず名をあらはす。二代男が捨てられた所は六角堂の門前で、時は「慶安四年の憂き秋」である(二代男卷一).たづねる人は浮世小路の「花屋、烟草切、駕籠かき、の西隣」であり(一代男卷三)、「雷鳴は遣手のみつが聲より恐ろしい」(二代男卷三)。濱で袷ふものは「浮藻まじりの櫻貝、さはら、いとより、まて、石鰈、」である(同上)。なほこの具體的描寫は滑稽の感じを強める效果をも生ずるので、抽象的に概括していふとさほどでないことも、一々事物を列擧するとそれがひどく可笑しく感ぜられる。例へぽ永代藏卷ニの卷頭の章の葬禮の歸り云々の一節を見るがよい。或はまた數字を利用することも西鶴の特色であつて、一代男が五十四歳までにあつた女は三千七百四十二人で少人は七百二十五人であるといひ(一代男卷一)、揚屋町の北口から南の門までは「太夫ぬめり道中百九十六足のところ」で「この(216)間に七小煎餅四枚食はれ」ないといふ(二代男卷二)。如何なる場所にも忘れない錢勘定についても、一々精密に數字を以てそれを表示してゐるが、これもまた多くの場合には滑稽にきこえる。例へば二代男卷八の遊女を寫して「精出しても損のゆく商事」と興じた一節の「太夫樣入帳遣帳」を見るがよい.風景を敍しても、逢坂山を越すには「椙の葉白き關路の雫はき初む」るといひ(一代男卷二)、梅津川の畔では「防風薊など萌え出づるを」踏み分けさせ(一代女卷一)、單に關路越ゆとか叢をわけゆくとかいふやうな抽象的の文字を用ゐない。西鶴の自然の捕寫が往々清親の味を生ずるのもこの故であつて、一代男卷二の麥秋ごろの里の有樣、卷三の石燈籠の光にうつる人の面影、などがその好例である。時候の推移などもかならず具體的に風物の變遷を記すので、織留(卷一)の「品玉とる種の松茸」の條にその好標本がある。一代男の卷末に見えるやうな名詞の行列、男色大鑑の卷首の男女の比較、織留(卷五)の出家の行動など、概括していへば一言で蔽ひ去ることができるものを、決してさうしないのが西鶴である。一方では極めて抽象的な作者の感想を大膽に喝破しながら、一方ではかういふ風に何事をも具體的に寫さねば承知しないのが、彼の筆くせである。敍事に生氣が溢れまたそれが事實らしく見えるのは、主としてこれがためであつて、故らにおぼめかして書くが習ひの擬古的國文と簡潔を尚ぶ漢文との外に立つ、寫實的な平民文學の一大特色がこゝにある。
 しかし西鶴は前にも述べた如く、決して古典を排斥しないのみならず、常にそれを利用してゐるので、これがために卑近な話柄にもつやがつき、忙がしげな世事を寫してあつても、一種の悠揚たる趣がそれに伴つてゐる。これが第二に注意すべきことである。彼の古典の知識は必しも深くはなく、また博くもなかつたらしく、ほゞ古今源氏伊勢徒然草ぐらゐのところであつたらうが、假名ちがひやあて字などが多いといふやうな理由から、無學者として彼を貶す(217)るのは、失當であらう。古典の引用が適切でまた巧みなことだけから考へても、その情趣を解することは、ありふれた和學者などよりはむしろ優つてゐたらしい。
 第三に眼につくのは、彼の思想のまとめ方、從つて筆の運び方が頗る放縱なことであつて、よい方をいへば變化が自由自在であるが、わるい方をいふと往々統一が失はれてゐる。敍事が何時の間にか作者の感想になつてゐたり、知らぬうちに全く方角違ひのところに踏みこんでゐて、氣がついてふりかへつてみると、何のためにあんな道を通つて來たかと疑はれたりすることが、少なくない。一篇の中心思想が何處にあるのか、容易にわかりかねるやうなものもある。作者には意圖があつてしたことかも知れぬが、讀者から見ると、ふとした聯想によつて思想が思はぬ方面に轉じて來たやうに感ぜられるのである。或は作者自身もゆき當りばつたりにやつてのけたものがあるかも知れぬ。置土産卷四の卷頭の一章の起首などは全く無用のやうに思はれる。これもまた連句の進行と似てゐるから、俳諧の習慣が知らず/\こゝに適用せられたのでもあらう。なほこの付合式句法は行文の間にも多く見られるので、例へば「勘定なしの無帳無分別、十露盤の玉にもぬけて、春の柳の風に手まへ亂れて、日當りの氷の如く昔の水に歸り、湯を呑むべき薪も無く、」(永代藏卷三)、または「夢かとぞ思ふ君のありさま、忝いといふばかりにや、吉野が形よしなしと、木鎌で打ち碎き、今は心にかゝる山も無く、思の雲をはらし、」(二代男卷一)の如く、前の句の縁につれてそれからそれへと思想が移つてゆき、特に後のは三首の古歌を巧みに利用してゐる。「連れ吹きの尺八、巣籠りの懷しや、鎌倉の鶴が岡にて遭ひけるとや、」(男色大鑑卷三〕といひ、「浮き名の立つことをやめ難く、ある朝ぼらけに顯はれわたり、宇治橋の邊に追ひ出され、」(一代女卷一)といひ、「眞實の極樂遠きにあらず、紫立ちたる曙は薄雲樣の御迎、」(218)(二代男卷一)といふなど、何れも付合式であつて、かういふ例は到るところにあり、古句成語などもこんな風に用ゐられる場合が多い。それを修辭法として見る時は昔の和歌にも例のあるものであつて、談林の俳諧には用ゐられた音の上のいひかけは、俳諧のやうな形式上の束縛の無い文章であるだけに、あまり無いが、これはいはゞ思想の上のいひかけである。西鶴は一體に語の上、音の上、の遊戯をすることが少いので、詼謔の言を弄しても駄洒落をいふことは少い。テニヲハを省き名詞を多く並べ擧げても、音調上の類似にたよつたものや疊音疊語のやうになつたものは極めて稀であつて、これは七五調の例が僅にこ三を數ふるに過ぎないことと共に、西鶴が無意味な修辭をつとめなかつたことを示すものである。さうしてこゝにも舊い典型から脱却した平民文學の特色がある。
 
 西鶴の浮世草子が世に行はれてから、その追從者摸倣者が多く現はれて來た。その主要なるものは都の錦、錦文流、北條團水、西澤與志、並に八文字屋自笑(實の作者は其磧)、などであるが、その他にも幾人か有名無名の作者があつた。彼等の作は概していふと、西鶴によつて開拓せられまたは西鶴が前人から繼承したところの外に出でず、やはり好色本を主とし、次は町人や武士を寫したもので、教訓を標榜するものや奇談を纂めたものも幾らかある。一々の作者について見ると、八文字屋の色三味線(の物語の部分)、團水の新永代藏、某の武道張合大鑑、たどは固より、都の錦の御前お伽婢子、青木鷺水の御伽百物語、古今新堪忍記、の如き奇談集、月尋堂の今樣二十四孝の如き教訓ものは、その主題に於ても、簡略な筋書から成り立つてゐる短篇の物語を纂めた體裁に於いても、何れも西鶴をそのまゝに繼承したものである。奇談集や教訓ものは了意などの作から絲をひいてゐるが、これもまた西鶴が試みたところ(219)である。たゞ町人や武士を題材としたものには、錦文流の棠大門屋敷が淀屋辰五郎の事蹟を、都の錦の元禄曾我、文流の熊谷女編笠、または某の雪洲松江鱸、などが、敵打や妻敵打の巷説を潤色して、詳しくその始末を書いてゐるやうな例があり、好色本でも赤穗事件に擬した武道櫻や、やはり淀屋の話を基礎にした竹松の物語がその半ばを占めてゐる曲三味線のやうなものができ、或は與志の御前義經記の色道修行とか、文流の當世乙女織、都の錦の日本莊子の傾城と地女の優劣論、八文字屋の曲三味線や禁短氣の女色男色の比較論とか、または禁短氣のやうに僧侶の説法に擬して遊興の極意を傳へるとか、與志の諸作の如く謠曲や歌舞伎淨瑠璃を加味するとか、また或は元禄曾我や與志の今平家のやうに古物語を聯想させるとかいふやうに、結構の上なり趣向の上なりに新しみを出さうとしたもののあることは、注意しなければならぬ。特に與志の諸作が幼稚ながら筋を立てた長篇の物語であることは、淨瑠璃作者たる經驗から來たことでもあらうし、間接には江戸時代の初めまで世に出てゐた舊式の物語の影響もあらうが、ともかくも形の上に於いて一歩を進めたものであつて、後期の八文字屋ものの先驅者ともいへばいはれる。しかしこれらは何れも浮世草子の千篇一律なるに倦んで新機軸を出さうとはしたものの、たゞ外形に於いてそれを試みたに過ぎないことを示すものであつて、その内容には殆ど進歩の跡が見えない。題材もその取扱ひ方も依然として同じことを反覆してゐる。世の中が同じ世の中で、作者も読者も同じやうな態度でそれに對するのであるから、これは當然であらう。事實彼等には西鶴ほどの觀察眼も筆力も無く、要するにその摸倣者に過ぎないので、既に第五章にも述べた如く、西鶴の文をそのまゝに剽竊してゐるところさへ多い。
 しかし彼等にも人によつて幾らかの特色はある。與志はたゞ笑ひ草にするより外に何の考も無く、遊里の状態など(220)をおもしろ可笑しく書きつらねるのみである。今平家に平家物語のやうな感傷的氣分が無く、結末をめでたし/\にしてあるのも、この故であらうか。淨瑠璃操や歌舞伎を道具に使つたのも、讀者の「腹をよらします」ために過ぎない。表面だけの教訓文字は深く考へるまでもないが、世相を觀るにも何等特殊の眼孔が無いのである。錦文流もこれと大差は無いが、その教訓的態度は與志よりはまじめらしく聞え、棠大門屋敷などにはそれが著しく目に立つ。都の錦に至つては、しば/\無用の講釋をしたり教訓的文字を交へたりして學者ぶるだけに、同じく世相の裏面をあばくにしても、西鶴とは違つて、例へば日本莊子の卷頭の如く、やゝそれを罵るやうな態度が見える。西鶴が心中死を「義理にあらずなさけにあらず」みな不自由から起つたことで「殘らず端女郎のしわざなり」といひながら「とかくやすものは錢失ひ」と輕く笑つてゐる(二代男卷八)に反して、都の錦は「あはう」と叫び「犬死」と罵倒してゐる(元禄曾我卷三)。この點に於いては「昨日も心中、けふもまた、あすか川の淵瀬、變つたことがはやりける、」と書き出した心中大鑑の作者の態度がむしろ西鶴に近い。都の錦はまた西鶴のやうに往々故事や古語を卑俗化してそこに滑稽を弄してゐるが、それにしても在五中將をさして「東あそびののたり死」といふやうな下品な毒舌(日本莊子卷二)は、行平の須磨のわぴずまゐを敍して「別れに香包、衛士籠、杓子、摺鉢、三とせの世帶道具までとらされけるよ、」といつた西鶴(一代男卷一)の口つきと全く違ふ。かういふ風に幾らかの差異はあるが、しかし滑稽を主として低級な譲者の笑を求めることは何れも同樣であつて、往々卑猥の文字を弄することもまた共通である。たゞ文章に於いては、何れも到底西鶴に及ばないのみならず、しば/\舊式の七五調を用ゐ、その他でも陳套な修辭法を踏襲して寫實に遠ざかつてゐるから、この點に於いては明かに退歩である。特に都の錦は太平記を學んだやうな文字をも作(221)り(例へば元禄曾我卷四)、古風な道行きぶりをさへまねてゐる。(例へば元禄曾我卷二)。これらは西鶴の古典分子がその寫實の筆を潤色して温雅な氣分をそれに添へてゐるのとは違つて、全體の調子とは不調和な感じを讀者に與へるものである。地の文の無い會話などが、例へば御前義經記卷頭や元禄曾我卷三の一節の如く、所々に見えてゐて、新しい試みのやうでもあるが、讀むべき草子としては無意味なことである。これは多分この頃世に行はれた歌舞伎狂言の筋書などを摸倣したのであらう。
 さて世を滑稽視する態度に於いても、色と慾とを二大主題とし、またその間の交渉を敍する點に於いても、或は誇張と不合理と裏面の暴露とによつて滑稽を求める點に於いても、色三味線の如く短篇を纂めたものを世に出した點に於いても、初期の八文字屋物は西鶴の正系を繼承したものと見なければならぬ。西鶴の文章を採つたところの多いのも、一つは作者が西鶴に私淑してゐたからであらう。氣質ものに於いても、その題材の取扱ひ方までやはり西鶴を學んでゐるので、畢竟同じやうな考で作られた滑稽譚に過ぎない。文章も西鶴をまねてゐるらしいがその奇警と鋭さとが無く、委曲を悉す點はあるかも知れぬが力が弱い。例へば色三味線(京の卷)に五人女(卷一)の一節を殆どそのまゝに取つたところがあるが、全體に平板冗漫であるのみならず「人の情は金あるうちなり」の一句を見ると「人の情は一歩小判あるうちなり」といふ西鶴の筆とは、一語のちがひで千里の差が生じてゐる。娘氣質の序に「息女化して新婦となり、?變じて姑となり、姑ばけて嫗となり、持佛堂と一つに置きどころの無い身となつてはてぬ、」とあるのを、「嫁の古いのがこんな婆になるものじや」(俗つれ/”\卷四)といひ「それから婆になつてすたりぬ」(一代男卷四)といふ強い句法に比べてみても、そのことはわかる。禁短氣の卷頭の一節と、同じことをいつてゐる男色大(222)鑑の序文とを比較しても、禁短氣のまづいことはすぐ目につくが、娘氣質の開卷に男色大鑑(卷一)の第二章を剽竊しながら「櫛も鼻紙袋に收め」の上に「玳瑁の」の三字を加へるに至つては、全く文章を解せざるものである。なほ前の「一歩小列」と「金」とでも知られる如く、西鶴の具象的なのに反してこれは抽象的であるが、一體に八文字屋ものは寫さずして説き描かずして論ずる傾きがある。西鶴の一代男(卷四)に信州の墓地で死んだ女の爪をはがす一段があるが、禁短氣(卷二)はそれを簡單に概括してゐるので、讀んだ感じがひどく違ふ。遊里についても「粹」を寫すよりはむしろそれを説いてゐる。八文字屋は西鶴を學んで※[しんにょう+向]かにそれに及ばざるものである。
 たゞ曲三味線にその端緒が開かれた長篇の物語は西鶴には無いもので、西澤與志を學んでそれと同じく歌舞伎及び淨瑠璃の結構を摸倣したものらしく、役者評判記の作者であり松本治太夫の淨瑠璃作者である其蹟の筆としては、自然のことであらう。しかし與志の着想は、例へば義經記の好色修行も幼にして別れた母をたづねあるくのも、たゞ作者が諸所の遊里を歴敍するための趣向である如く、外形の統一を求めたに過ぎないが、曲三味線の和甚の三子や竹松の物語は、いはゆる浮世狂ひの遊興譚に男女幾人かの身の上の浮沈をからませ、奸計に長ずる惡手代といふやうな敵役をも作つて、波瀾あり變化ある遊蕩兒の一代記を作り上げてゐる。けれどもその主なる目的がやはり遊里の状態と遊女の生活とをおもしろ可笑しく述べるところにあるのは、歌舞伎や淨瑠璃とは違ふ色双紙の本色であり、西鶴の摸倣である。後に現はれた歌三味線の如きはそれを極端までおし進めたものであつて、よくもこんな材料こんな態度でこんな長物語が作られた、と思ふほどである。曲三味線の後半は棠大門屋敷と同じく淀屋辰五郎の話をもとにしたものであるが、彼の目的が商家の盛衰を寫すにあるとは違つて、これはどこまでも好色本である。かれが主人公の破滅(223)に終つてゐるにこれが終結をめでたくしたのも、やはりこれがためであらう。
 しかしこれらの作の遊蕩兒の描寫が西鶴以上に出てゐないのを見ると、かういふ脚色は作の目的からいふとさして必要なことではない。さうしてさういふことを試みて結構の上から別樣の興趣を添へねばならぬやうになつたのは、西鶴の完成した浮世草子が既にゆきつまつたことを示すものである。だから實をいへば、それは浮世草子の進歩とはいはれぬ。國姓爺明朝太平記の如く淨瑠璃を讀み本に書きなほし、或は淨瑠璃の時代ものに倣つて、義經西海硯や兼好一代記の如く、古人を捕へて來てそれを今樣化するやうなことを試みるに至つては、もはや浮世草子の壞頽期である。かういふ浮世草子の傍に少しづつ行はれてゐた怪談やうのものやシナ小説の翻案などが少しづゝ勢を得て來るのは、一つはこの故でもあらう。が、それはやはり全體として元禄文學の衰頽、換言すれば新しい平民文學の停滯、を示すものである。
 
(224)     第十章 文學の概觀 六
 
       淨瑠璃 附歌舞伎 上
 
 歌舞伎淨瑠璃の世界は浮世草子のともまた別である。
 同じ平民演藝ながら淨瑠璃を臺本とする偶人劇と歌舞伎とは、その由來も性質もまた發達の径路も違つてゐる。淨瑠璃は敍事的の物語であつて、幸若舞曲またはその改作もしくはそれに類似した古武士の物語か、然らざれば武人の主家纂奪譚とか人買にかどはかされた少年の話とか、を書き綴つたものであつたが、この新作のものもまた室町時代の物語の系統に屬する。ところが歌舞伎の創始期には、抒情的の俚謠とそれに伴ふ踊とが主になつてゐて、それに遊里通ひを摸した、もしくは猿若の滑稽的な、物まねが附加せられてゐた。かれが室町時代の文學と密接の關係があり、その題材を古い武人の物語から取り、またはその人物を古人の名に假託してゐるに反し、これは世の年若い男女の奔放な惰懷をそのまゝに現はしたもの、その狂言もまた時風を寫したものである。後の時代ものの起源がかれにあるならば、世話ものの由來はこれにある。かれは多く男子によつて語られ、舞臺に現はれるものは粗末な偶人であるのに、これは婦人もしくは婦人めかした若衆によつて演ぜられる。從つて、かれはその樂的表情も目に見える感じも粗笨であるが、これはむしろ嬌艶であり官能的であり從つて桃發的である。彼は主として武士の都の江戸に行はれ、これは京を根據としてゐたのである。
 さて前卷に述べた如く寛永時代には、歌舞伎に於いても能の狂言をやつした新しい狂言が行はれて來ると共に、單(225)純な踊の外に技巧を加へた舞とそれに伴ふ新作の歌謠とが現はれ、また所作事の端緒も開かれかけたらしい。ところが正保慶安乃至明暦萬治のころになると、上方の狂言は寫實的に一歩を進めて藝鑑に見える浪人盃や氏神詣の如きものとなり、またいはゆる島原狂言が現はれると共に女形が漸次發達し、さうしてこれらの狂言と歌舞とは多く結合せられてゐた。なほ「人の腹筋をよらす」造化も常にその間に加味せられてゐたので、こゝに當時の平民文藝に共通な寫實の風と遊樂の氣と滑稽の分子とがある。上方の歌舞伎はこの點に於いて、お國に始まつた歌舞伎の正統を傳へてゐるといつてよい。さて女形と歌舞の藝者とは上方特有のものとして江戸の舞臺にも現はれたが、江戸では主として能の狂言をやつしたものが依然として行はれてゐ、その傍には能の所作から脱化したやうなものもあつたらしく、概していふと所作事的色彩が著しく、また時代もの的性質をもつてゐたので、音曲としても幾らかの敍事的要素の加味せられた江戸長唄が用ゐられるやうになつてゆく傾向が生じた。だから江戸の歌舞伎の本色として見るべきものは、初期の歌舞伎からはかなり離れてゐる。さうして上方人が人情に訴ふる感傷的分子の濃厚なるを喜ぶ傾向のあるに反し、江戸人はむしろ形の上に現はれる華やかさを好む風があるので、こゝに武士の都に養はれた特徴が見える。上方と江戸との特色が歌舞伎の上に現はれたのは、このころからである(第三章參照)。
 ところが寛文のころになると、上方にも江戸にも續き狂言が現はれたが、江戸のは多分上方のを學んだのであらう。しかし上方では多く市井の事實譚が材料とせられ、有名な非人仇討の如く武士の物語が演ぜられても、當時の人物または世間にありふれたできごとらしくなつてゐるし、傾城買ひを主題とするものも事件を複雜にしてます/\行はれたらしく思はれ、全體に於いていよ/\寫實的世話もの的方向に進んで來たので、よしそれに所作事などが結合せら(226)れ、亡魂や幽靈などの出る幻怪の場面を插むやうになつても、この世話もの的情調を妨げることは無いのに、江戸では續狂言の初めといはれる今川忍車も時代ものであつたらしく、延寶になつて團十郎が出てからは、時代もの的所作事的傾向が一層甚しくなつてゆく。(以上の所説は役者論語、東海道名所記、色音論、三座由緒書、劇場新話、徳川實記、たどから得た資材によつて臆測したものである。)
 淨瑠璃の方面に於いても、やはり承應明暦の前後から種々の變化があつた。江戸には諸流並び起つてます/\繁榮したが、歌舞伎の優人が京から江戸に下つたとは反對に、淨瑠璃の太夫は相率ゐて江戸から京に上り、中にはそこに永住して一旗幟を立てるものもあつて、彼等得意の武士物語を演じはじめた。淨瑠璃はこれまでとても上方に無いではなかつたが、多くは行はれなかつたほどであるから、この新しく上つた太夫もまた初めのうちは「平家とも舞とも謠とも知れぬ島もの」(東海道名所記)として賞讃せられなかつたらしい。けれどもその系統を傳へた井上播磨掾が大坂に現はれるに及んで、その得意の美音と新しい節とを以て大に上方人を喜ばせた。淨瑠璃が上方に流行したのは彼に始まるといふ。こゝで江戸を根據としてゐた淨瑠璃が東西に二分したのである。時は恰も寛文のころで歌舞伎に東西の特色が成り立つたころに當る。俳諧では談林が世を風靡した時代である。
 さて江戸には前に述べたやうな古式士の物語が寛文時代の殺伐な氣風に應じて、或はむしろ平和の世に於いて現實に見ることが少なくなつた武勇のふるまひを演藝の上に求めようとする要求に應じて、特殊の發達をした和泉太夫のいはゆる金平ものがあつて、殆ど江戸淨瑠璃の代表者の如く見られてゐた。頼光四天王の傳説を數衍して新にその子どもたちの武勇譚を作り出したのである。それには彼等の單純な武勇譚もあり、または敵のために一度び勢を失つた(227)源氏の勢力を四天王等が努力して囘復するといふ物語、もしくはそれに類似のもので、その間往々夫婦親子の別離の光景といふやうな單純なる感傷的情緒を誘ふ插話を加へ、或は簡單な景事や道ゆきを配するものもあるが、その基調をなすものは四天王などの武勇の働きであつて、室町時代の英雄譚と同樣、その武勇を示すためにはしば/\鬼神や天狗が使はれてゐる。思想の幼稚な強がりな江戸の士民が、それを歡迎したのはこれがためであるが、強いばかりで思慮も無く修養も無い、猪突的な野性的な、同時に短氣ものであり疎忽ものである金平も、當時の江戸の觀客には恐らくはわれ/\の眼に映ずる如き滑稽人物としては認められなかつたであらう。その詞章も舞の本またはお伽草子を學んだ極めて粗笨なものである。なほ義經地獄破りは田村の草子から、朝比奈島巡りは御曹子島渡りから、脱化したものである如く、題材にもお伽草子から取つたものがある。
 が、上方の播磨になると、その節まはし、語りかた、または人形の演出法に於いて、從來とは違つたところのある特色を示したのみならず、その内容に於いても、概していふと江戸に行はれてゐた舊樣を摸してゐて未だ大に新境地を開くに至らないにかゝはらず、幾らかの上方的情調を加味して來たのである。第一、その材を取ることがこれまでよりもやゝ廣くなつたので、外題年鑑の曲目によると、聖徳太子や業平などの名も見え、蟻通とか大織冠とか今までの淨瑠璃にはまだ取られてゐない謠曲や舞曲を基礎にしたらしいものもあり、古武將に於いても頼光親子は固より、田村將軍、曾我兄弟、楠木正成、百合若、などがある外に、佛教的意義を含んでゐる室町時代の物語から系統をひいたものもある。けれどもその大多數はやはり依然たる江戸式の時代もの的武士物語であつて、歌舞伎のやうな世話もの的傾向は認められず、題材を遊里や市井の事實に取ることも多くは無かつたらしい。その脚色や詞章は著者の寓目(228)した二三の例によつて推測すると、いはゆる金平ものと大差の無い程度のものである。だからそれが京人に喜ばれたのは、主として節まはしのためであつて、頼光跡目論の馬の段とか頼義北國落のかけ物揃の段とかいふ、景事道行の類が特に世に流行したといふのも、これがためである。從つてかういふところの詞章は金平ものより一歩進んでゐるので、そこにやはり一種の上方的特色がある。歌舞伎の道化と同じやうなものが演奏の間に插まれたのも、やはり上方で始まつたことらしい(雍州府志など參照)。しかしかういふものにもこの時代の思想は微かながらに反映してゐるので、何れの曲にも武ばつたしわざ殺伐の氣があり、武將に關するものには多く主君に對する忠義の惰が基礎になつてゐるし、公平武者修行とか敵打の遺恨とかいふものには、その題目にも當時の武人氣質が現はれてゐる。また頼光跡目論などは、このころの武家に例の多いお家騷動が寓せられてゐるかも知れぬ。
 寛文ころの淨瑠璃が概してかういふ風であるとすれば、その節づけもまた三絃の奏法も頗る粗笨のものであつたらう。播磨の新しいのが謠の節や江戸萬歳の節を加味した點にあるといはれてゐるのでも、それは推測せられる。さすれば色道大鑑が「よき傾城の淨瑠璃はのらぬものなり」といつてゐるのも自然のことで、三絃曲としてもこの一分派は狹斜の巷には不適當のものとせられてゐたらしい。ちなみにいふ。當時はまだ上方にも江戸にも説經操りが行はれてゐて、それは佛教的といふよりもむしろ悲哀な氣分を挑發するところに特色があつた。その影響は淨瑠璃の上にも現はれてゐるので、淨瑠璃がその正本を取りまたはそこから題材を得たこともある。世の一隅にはかういふ氣分も潜んでゐることを忘れてはならぬ。
 歌舞伎が著しく淨瑠璃の影響をうけはじめたのは、恰もこのころであつた。續き狂言の上方に起つたのが淨瑠璃の(229)京に復興した後であることを思ふと、それには、離れ狂言からの自然の發達といふ意味もあると共に、淨瑠璃の段物に誘はれたところがあるのではあるまいか.續き狂言となれば、幾らかの葛藤あり波瀾ある物語が演ぜられたであらうが、それも淨瑠璃には普通のことであり、敵打なども淨瑠璃にふさはしい題材でありまた實際しば/\用ゐられたものである。なほ南水漫遊(續編卷二)に見える寛文ころの歌舞伎の外題を見ると、中には時代ものの分子を含んでゐるものがあるらしいが、もしさうとすれば、これも淨瑠璃の影響ではなからうか。出端といふやうな特殊のものが發達したのも、或は淨瑠璃の道ゆき景事などと幾らかの關係があるかも知れず、その唄が獨立の三絃曲として世に行はれたのも、かの道ゆき景事が特にもてはやされたと同じである。後になつてしば/\歌舞伎に用ゐられた幻怪な場面も、本來世話的であり寫實的である歌舞伎にはふさはしからぬものであるが、室町時代の物語から脱化して來た淨瑠璃には例の多いことである。
 ところがこの關係は江戸に於いて最も著しく、團十郎の荒事が金平淨瑠璃から轉化したものであり、また彼によつて創められた顔面の隈取が主として人形のを摸したものであることは、人の周く知るところである。團十郎の作といふ諸曲の荒唐不經なる脚色も、淨瑠璃には有りがちなことではあるまいか。時代もの的所作事的傾向の強い江戸歌舞伎が、同じく時代ものを主とする偶人劇を摸倣するのは自然のことであつて、團十郎を代表者とする江戸歌舞伎の特色は、人のはたらきを偶人化するところにあるといつてもよからう。江戸に於いて淨瑠璃が歌舞伎の演奏に用ゐられるやうになるのも偶然ではない。相並んで行はれてゐる平民演藝であるから、一が他から何ごとかを取入れようとするのは、自然の欲求であるのみならず、觀客を喚ぶ對杭策としても無理の無い競爭の方法であつたらう。しかしその(230)ためにこの章の初めに述べた淨瑠璃と歌舞伎との特色は、漸次薄らぐやうになつてゆく。
 しかし淨瑠璃もまた決して固定してはゐない。江戸に於いてすら殺風景な金平ものが行はれてゐながら、その傍には肥前節や近江語齋の新派が開かれてゐる。語齋の淨瑠璃は遊女の間にも行はれたといふから(洞房語園、吉原嘲讃記、二代男、)女に不似合でないほど、武ばつた金平ものとは遙かに趣を異にしたものであつたらう。人形を離れた語りもの即ち座敷淨瑠璃として行はれた點からも、その情趣が想像せられる。肥前節は操りにかけられたのであるが、その門から半太夫節が派生し、また浮世節の名のあるのを見ると、これにも遊里趣味が加はつてゐ、從つて幾らか和かい艶つぽい傾向があつたのではあるまいか。殺伐な風尚の裏面には遊樂の氣が漲つてゐた寛文の世の中である(第一章參照)。元禄の土佐節及び半太夫節などを誘致すべき氣運は、既に開かれてゐるのである。さうしてこれには、江戸の舞臺にも演ぜられた上方の歌舞伎の影響もあるらしい。江戸の歌舞伎そのものにも、かの荒事などと共に華やかな花街の面影が現はれるのは、やはり同じ事情ではあるまいか。ところがこの傾向は、延寶のころから名を揚げた山本土佐掾、宇治加賀掾、などによつて新境地の開かれた上方の淨瑠璃に於いて最も著しい。
 山本土佐(角太夫)の語りものは、外題年鑑の曲目を見ると、何れも古傳説を本にしたものばかりであつて、特に角田川、阿漕平次、三條小鍛冶、小敦盛、浦島太郎、王昭君、などの謠曲から來たもの、信田小太郎、入鹿大臣、などの舞曲に本づいたもの、鉢かづきなどのお伽草子をとつたもの、また石童丸、小栗列官、の如き説經節から來たらしいものが目に立つが、頼光四天王の物語や金平ものや、その他それに類似した古式士の武勇譚は甚だ少い。却つて小野篁、信田妻、久米仙人、飛騨内匠、といふやうなものがある。題材に於いて先づ江戸式淨瑠璃の舊套を漸く脱せ(231)んとする傾向があるではないか。著者の讀んだものについていふと、詞章は依然として幼稚な敍事文であるが、播磨のものなどよりも幾らか生氣があり、また信田妻といひ角田川といひ、夫婦父子の恩愛といふやうな人情を現はさうとする形跡と、動作などをやゝ詳しく寫さうとする用意とが見え、その結構もまた複雜になつてゐる。
 ところが宇治加賀(嘉太夫)になると、それが更に一歩を進めてゐる。題材に於いては諸方面から自由に古傳説を取つてゐるので、謠曲舞曲の武士的傳説、宗教的意味のある前代の物語及び説經の系統に屬するものは勿論、伊勢物語、源氏供養、葵上、徒然草、などの古典から來たものもあるが、この最後のは上方の平民文學に共通のものである。さうして遊君三世相に夕霧を點出し、團扇曾我で虎少將を團扇賣りにするなど、時代物に世話場を結びつけ、その團扇曾我にも、また義經追善女舞、源氏六十帖、などにも、遊里の光景もしくは遊女の生活を描いてゐて、概していふと世話的遊樂的分子が多く加はり、寫實的傾向が強くなつて來たのである。從來の時代ものとても決して史劇ではなく、曾て述べた如く、人物もその活動する世の中もすべてこの時代の姿ではあるが、市井の日常生活からはやゝ遠ざかつてゐたのに、これらの新曲に於いては著しくそれに接近し、むしろそれに同化して來たのである。從つてその詞章に於いても、口語をしば/\用ゐ俚謠を多く取り、また從來の淨瑠璃の如く單に事件の經過を敍してゆくといふ粗笨の筆致から一轉して、對話や動作を示し、幾分か人心の描寫にも向はうとして來た。これは加賀の特色が、播磨が美音によつて喝采を得たとは違ひ、節まはしの繊細にして巧緻たる點にあり、また彼が謠、平家、小唄、流行唄、または鉢叩き、などのあらゆる曲節を取入れて、適所にそれを配置したらしく見えること、また操りの技巧の發達につれて偶人の動作を細かくするやうになつたことと、相應ずるものであつて、何れも粗雜な大まかな偶人のはたらきに(232)滿足せず、時と場合とに從つて動いてゆく人の情生活を表現しようとするところから來たのである。この點からいへば淨瑠璃の自然の發達ではあるが、また他面から見ると歌舞伎の影響を受けてゐることは明かである。關東小六東六法といふやうなのは、その題目だけを見ても歌舞伎から來たものであることが知られる。もつとも加賀もその初期に於いては播磨などを距ること遠からざるものであつたらしいが、年と共に漸次かういふ風に進んで來たので、是に至つて淨瑠璃が眞に平民文藝としての特色を發揮し、浮世草子や歌舞伎と共通な色相を現ずるに至つたのである。天和貞享前後がこの推移の時期であつたらしく、それは恰も、俳諧に於いて蕉風の將に起こらんとし、西鶴が始めて浮世草子を公にしたころなのである。ところが淨瑠璃のこの轉化には、作者として現はれた近松の才能が與つて力があるので、前に擧げた數曲にも彼の作がある。加賀の語りものには興行年代の不明なものが多いらしく、また義太夫と並び行はれてからは、その影響をうけた作もあらうから、曲目を見渡しての概論は固より精確ではない。また同じものを別の太夫が節をつけかへることがあり、同じ太夫の語りものでも作者は必しも一人でないから、この著の如く文學として淨瑠璃を論ずる場合に、節づけをした太夫やその流派を目標として説くのも穩當ではないが、この時代に於いてはそれが便宜であり、またそれで大なる支障はない。
 土佐や加賀の語りものにはなほ注意すべきことがある。それは淨瑠璃の結構が概ね何等かの葛藤とその解決とを有する物語になつてゐることであつて、主人公に對抗する惡人とか奸物とかいふ敵役があり、それが一旦は威を振ふけれども終局に至つて敗滅し、主人公もしくはその家臣などが種々の艱難辛苦によつて最後に勝利を得る、といふのがその通型である。いはゆる御家騷動などが近い世の事實として人に知られてゐ、また謀略や術數や血腥い爭闘やを好(233)む武士的氣象がなほ存在する世の中と、その間に養はれた一種の道徳思想とが、おのづからかういふ傾向を助長したのであらう。敵打とてもやはりこの型を外れてはゐない。これは歴史的にいふと室町時代の物語や舞曲に幾らかの前蹤があり、從つてその系統に屬する初期の淨瑠璃に於いても少しは見えてゐたことであるが、このころから後の上方淨瑠璃に至つてはそれがます/\廣く行はれ、後までも淨瑠璃の脚色はこの型を離れないやうになるのである。
 一二の實例を擧げてかういふ通型の發達した径路を明かにしたいと思ふが、それには題材に取られた古傳説と比較するのが便利である。例へば謠曲の生贄から來てゐるらしい金平淨瑠璃の同題の曲には、犠牲に供せられる女を奸悪な同僚のために功を奪はれ家を失つた武士の娘とし、娘が助けられると共にその父は敵を滅して再び家を興すことにしてある。播磨のものに於いては著者はまだ適當の例を知らないが、もし多くの正本を讀むことができたら、それはかならず發見せられるであらう。また紅葉狩(繪入淨瑠璃史によれば明暦年間に出版せられた大坂の大和少掾の正本)には、謠曲そのまゝの紅葉狩の場面を出しながら、維茂の敵として清文といふものを作り、惟茂が一旦そのために勢を失ひ後に至つてそれを打破ることにしてある。また何人の語りものかは知らぬが瀧口横笛といふ曲にも、この兩主人公の友である盛次かるもの戀の敵田邊の藏人といふものを作つて、例の葛藤を起させてある。かういふ風であるから、山本土佐の角田川に梅若が人買の手に渡つた原因を叔父のために家を横領せられたことにし、梅若とその母との死を以て曲を結ぶに堪へないため、別にその弟の松若といふものを作つて、それが忠臣粟津六郎の力により敵を滅して家を囘復することにし、加賀の藍染川にやはりお家騷動的葛藤を加へたのも、不思議ではない。のみならず、播磨以前にはかういふ脚色のあるものは割合に少かつたが、土佐加賀以後はそれが普通の例になつてゐるらしい。
(234) さて淨瑠璃に取られた古傳説には戀愛譚が甚だ多いが、淨瑠璃の脚色がかういふ通型に從はねばならぬとすれば、それは淨瑠瑠の主題にはなり難いから、戀愛が一曲の基調をなすことは殆ど無いといつてよい。插話としては常に用ゐられてゐるが、それですら單純な抒情的の氣分は現はれてゐず、またそれが何時でも勢利や權力の爭ひのやうなむつかしい葛藤の裡に觀客を誘つてゆくのである。なほ謠曲などを採つても、その一大要素である花鳥風月趣味は輕んぜられてゐて、昔の狂言の如く花見や月見を主因とした插話などは無く、さういふ場面さへ多くは見當らぬやうである。もつとも道ゆきなどには、因襲的自然觀が常に現はれてはゐるが、それも風月そのものに興味の中心があるのではない。これらは人生の葛藤を寫すが主である淨瑠璃としては自然の傾向であらう。
 ところがかういふ葛藤がすべて殺伐な武士的手段によつて行はれてゐるのは、一面に於いてはそれが時代の反映であることを示すものであると共に、かゝる定型のあることは總ての描寫を不自然にするものであるから、他面に於いては寫實の方面に進み日常生活と接觸して來た淨瑠璃をむしろ逆轉させたものとも見られる。その上にこの時代となつては操りの技巧を弄する傾向も強くなり、それがために人としてはなし難き不自然な行動を偶人にさせ、荒唐幻怪な光景を見せようとして、却つて實情に遠ざかる結果を來たしたのであつて、それが淨瑠璃に大なる累を及ぽしたことをも忘れてはならぬ。(操りの扱巧や機械的裝置の淨瑠璃に與へた影響については繪入淨瑠璃史に詳しい説明がある。)もつとも思想の面からいふと、この傾向は遠く源平盛衰記や太平記に淵源があり、室町時代の物語を經て初期の淨瑠璃にも傳はつてゐるのであつて、一方ではそれが機巧の發達を促した氣味もあらうが、機巧の發達がます/\かういふ傾向を強くしたことも、爭はれない事實であらう。さて淨瑠璃はかういふ兩面の矛盾せる性質を併せ有しな(235)がら、元禄に昌えた大坂の竹本筑後(義太夫)に至つて、その發達の頂點に達したので、新にその作者となつた近松の圓熟期もまたその時であることは、今さらいふまでもない。これは上方の話であるが、それと同時に江戸に行はれた土佐節もまた江戸的特色を帶びつゝ、概していふと同じやうな現象を呈して來るのである。
 
 上に述べた如く、淨瑠璃と歌舞伎とは相互に影響しつゝ進んで來たので、元禄時代になると、この二つは多くの點に於いて共通の性質を帶びるやうになつた。上方に於いては、近松が同時に兩方の作者であつたことからも、その間に密接の關係のあつたことが知られよう。本來世話もの的寫實的であつた歌舞伎は、續狂言の演ぜられるやうになつて結構を複雜にすると共に、淨瑠璃からその時代物的脚色を學んだのであるが、富永平兵衛や近松の作を見ると、お家騷動や敵打の類が主題になつてゐて、主人公とそれに反對する敵役とがあり、その間に種々の詭謀や術數や反間苦肉の計やが弄ばれ、自殺や爭闘やの殺伐な場面が應接に遑なきほど反覆せられ、さうして戀物語、特にいはゆるぬれ場や、滑稽な場面や、怨靈執念などが形を現はす幻怪な光景の、點綴せられてゐるものの多いことがわかる。古くからの歌舞伎の特色であつた傾城ごとも、かういふ脚色の間に編みこまれたので、外題に傾城の二字を冠したものが甚だ多い。但しかういふものでも、淨瑠璃の如く古傳説に仮託したものは割合に少く、富永の業平河内通や近松の御曹子初寅詣の如く古傳説に材を取り、娘孝行記に狂言の墨ぬりを、傾城壬生大念佛に謠曲の隅田川を、插話とするやうな例もありはするが、多くは世界を當時に置いてゐることと、その演出法が寫實的であることとが、上方の歌舞伎の特色である。その上に夕霧やおなつ清十郎やの話、或はそのころの流行の情死譚を取つたいはゆる心中ものといふ純(236)粹の世話ものが多く演ぜられ、「何事にても選りたることあればそのまゝ狂言にしくむ」(世の是沙汰)といはれたほどであるのは、どこまでも歴史的に發達して來た歌舞伎の性質を失はなかつたことを示すものであつて、傾城買の名人と稱せられた坂田藤十郎の寫實的の藝風が、上方歌舞伎の代表者であつたことからも、それは明かである。
 淨瑠璃の受けた歌舞伎からの影響もまた元禄時代に至つてます/\著しくなつたが、それは主として近松の作を語つた竹本筑後に於いて最もよく認められる。上に述べた如く近松の世話ものは歌舞伎のを學んだものであり、それが切狂言として演ぜられたのも、また歌舞伎の先例に從つたのである。時代ものにも多くの世話場が編みこまれ、對話には口語が用ゐられて、全體の感じが當世的となり、小唄流行唄が常に用ゐられ、また道ゆきや景事にも時に應じ虚に從つて多く人情をからませてあるから、歌舞伎に存する如き抒情的氣分が饒かになり、鑓踊奴踊のやうな歌舞伎の所作も摸倣せられてゐる。插話の題材として遊具の取られてゐる曲が頗る多く、その題目に傾城の文字を冠したものがあり、また丹波與作や夕霧阿波鳴門の如く歌舞伎に演ぜられたものが材料となつてゐるものもあるのみならず、ものによつては特殊の役者の演技がモデルとせられてゐることは、既に諸家が説いてゐる。
 さういふ個々のことばかりでなく、彼の作が從來の物語風の平調な外面的な敍事から脱出して、人物の言語動作が活き/\と寫され、特にその白が一人稱のことばとして強く耳に響き、地の文が背後に退いてゐるやうに感ぜられ、またそれによつて、人物の情動、特にいはゆる義理と自然の人情との衝突から生ずる心的葛藤、が委曲に描き出され、その作品が年ば敍事詩の範圍から超出して劇曲の領域に入つてゐるのは、淨瑠璃そのものの發達すべき自然の方向に進んで來たのでもあり、また從來の平板な語りかたを改めて抑揚變化に富むやうにし「音の表裏を備へ節の長短を交(237)へ序破急を定めて一流を起す」といはれた竹本筑後の、表情に重きを置いて新工夫をこらした技巧上の進歩とも相應じ、人形を生きてゐる如くはたらかせようとする要求から出た操りの拔術の發達とも相伴ふものではあるが、歌舞伎がその模範として取られたこともまた疑があるまい。近松は畢竟偶人劇を歌舞伎化しようとしてそれが成功したのである。もつとも歌舞伎が歌舞伎としての特色を保有してゐる如く、近松も偶人劇の特色を利用することは怠らなかつたので、人形でなくてはできない誇張した動作や、機城的の方法によつて神變不思議な光景を見せること、がそれであり、彼の作の喜ばれた一半の理由がこゝにあることはいふまでもないが、それはそれながらに、他の半面に於いては、何處までも人形を人間化せんとしたのであつた.
 竹本のほかの淨瑠璃を見てもこの趨勢は知られるので、例へば都一中は揚卷助六心中、椀久末松山、などの世話ものを語り、また一段淨瑠璃としては傾城淺間嶽などの歌舞伎の曲を採つてゐるし、富松の曲目中には傾城の字を冠したものが少なくない。宇治加賀の曲目にお夏清十郎のあるのもそれらと同じであらう。これも一つは流行を趁うて竹本などのまねをしたのであらうが、一つは時勢に促されたのでもある。操り芝居の觀客はもはや古物語のやうなおのれらに縁遠い話を第三者として傍觀してゐるのでは滿足ができず、おのれらの思想をあからさまに表し、おのれらの情生活をそのまゝに寫したもの、おのれらの生きてゐるせの中をあり/\と見せたもの、でなくては承知ができなくなつたのであつて、近松の作が即ちこの要求に應じて世に出たのであり、世話ものの寫實的演出を本色としそれに抒情的趣味を伴はせてゐる歌舞伎を摸したのも、實はこゝに深い因由があるのである。一中が抒情的な一段淨瑠璃を語り、その節まはしも語るよりは歌ふ方に傾いてゐたらしいのは、淨瑠璃としての一大變化であるが、この傾向は漸次(238)進んで來たので、義太夫にも既にその要素が著しく加はつてゐる。(一中の揚卷助六心中は普通に焉馬の歌舞伎年代記によつて延寶六年の作とせられてゐるが、これは高野辰之氏が歌舞音曲考説に於いて考へた如く、寶永六年の誤らしい。歌舞伎の作者でもあり歌舞伎を操りにうつすことにも努めた近松の心中ものの初めが、元禄十六年の曾根崎心中であることを思ふと、その二十餘年前に既に心中物の作が淨瑠璃に現はれてゐて、その後の長い間打ち絶えてゐたとは、どうしても考へられぬ。一中の一段淨瑠璃が近松の作から採つたものの多いことは曲目を見るとすぐ判るが、彼の心中ものも恐らくは竹本座の先蹤をふんだのであらう。)
 
 かういふ風に歌舞伎と淨瑠璃とは、元禄時代に至つて共通の性質を帶びて來たのであるから、こゝにその淨瑠璃作者の中心人物であつて兼て歌舞伎の作者でもあつた、近松の淨瑠璃を主とし、それに近年世に現はれた覆刻書によつて讀むことを得た僅少の歌舞伎の筋書を參考して、その作品の性質を今少し詳しく觀察して見よう。(後に近松の競爭者となつた紀海音は殆ど全く近松の摸倣者である。また錦文流や西澤與志の如きは、その作として確かなものをまだ知らないから、それについては多くいふことができぬ。)
 さて大體から見ると、近松の淨瑠璃は、むかしの舞曲や謠曲から古淨瑠璃に發展して來た徑路を更に遠く推し進めたものであるから、その題材も殆どあらゆる古淨瑠璃及び多くの説經の語りもののを包容してゐるのみならず、それらを基礎として潤色を加へたものも少なくない。例へば双生隅田川、※[木+色]狩劍本地、娥歌かるた、は前に述べた土佐の隅田川、大和の紅葉狩、某の瀧口横笛、によつたものであるが、古淨瑠璃の正本が盡く遺存してゐるならば、かうい(239)ふ關係はなほ多く發見せられるであらう。播磨の語りものに近松の作と同じ題目のものがあるのは、やはり同じ例ではあるまいか。さうして土佐や加賀のものに於いてはむしろ除外せられる傾向のあつた江戸の淨瑠璃、特に金平系統のもの、をさへも取りこんでゐる。例へば嫗山姥の如きがそれであつて、山姥の物語と頼光傳説とを結びつけてゐるところにそれが見える(金手誕生記、金平山めぐり、など參照〕。曾我ものにしば/\現はれる朝比奈三郎も金平の名を變へたものであり、五郎時致にもその面影は傳はつてゐる。もとより古淨瑠璃に用ゐられなかつた題材を新に謠曲もしくはその他の古傳説から採つたものもあり、國姓爺の話さへも用ゐてゐるが、彼の特色を知るにはこれらの古物語古傳説、並にそれから發展した古淨瑠璃、と比較するのが便利の方法である。
 近松の作を讀むと、現實主義の世の文學として古傳説がすべて當代化せられてゐること、武士の幅をきかせてゐる時代の反映として如何なる曲にも權力勢利の爭ひが大筋になつてゐて、それがために殺伐な血腥いい空氣が充滿してゐることは、何人もすぐに氣のつくところであるが、これは前に述べた如く古淨瑠璃時代から漸次現はれて來た傾向であつて、近松に至つて極點に達したのである。第一についてはいふまでもない。第二については、浦島年代記、用明天皇職人鑑、または松風村雨束帶鑑、井筒業平河内通、などの如く、本來は單純な戀愛譚もしくは歡樂郷の美しい優しい物語であるものさへ、やはりさういふしぐみの中に取りこまれ、もとの話は傍話もしくは插話としてのみ取扱はれてゐるのでも、それが知られよう。浦島年代記に於いて、浦島の龍宮へ行つたのが戰敗れて海中に投ぜられたことにしてあるなどは、その最も甚しきものである。次に近松の作が古淨瑠璃に比べて著しく違つて見えるのは、物語の甚だ複雑になつてゐることである。これは外形の上からいふと、物語そのものの筋を複雜にするのと、人物のはたら(240)きを細かく見せるのと、また場面の變化を求めるために強ひて種々の插話を附加するのと、これらの故であるが、それに伴つて内容の上にも幾分の深さが加はつて來る。
 物語の筋を複雑にするには種々の方法があるが、舞曲謠曲またはその他の古傳説に於いて示されてゐる中心事件の前に溯つて、その原因となる事件を新に設けることがその一つである。例へば蝉丸に於いて、その盲になつた原因を多くの女の嫉妬が一身に集つた故とし、鉢木から來てゐる最明寺殿百人女臈が、常世の零落の原因を説くために源藤太といふ人物を作り出したなどが、それであつて、この原因となつた事件そのものに種々の葛藤を含ませ、それから幾多の波瀾が展開せられるやうにしてある。用明天皇職人鑑の如きは烏帽子折の山路の笛の物語を取つてはゐるが、花人親王が筑紫へ下るまでの徑路に敍述の大部分を費してゐて、そこに興味の大半がある。これは曲の主要なる筋についてのことであるが、本筋とさして深い關係の無い插話に於いても、信州川中島合戰に於いて山本勘介の盲になつた由來譚を構成し、平家女護島に俊寛の赦免せられない理由を作るために、その妻に關する一條の物語を加へてゐるやうに、かういふ例は少なくない。また源氏烏帽子折に常盤の捕はれる話を出してゐるなどは、歴史的傳説に本づいて前に起つた事件を敍したのではあるが、やはりこの部類のものとしてもよからう。
 その二は、古傳説の結末に一轉化を施し、もしくは一歩を進めて、その後の事件を添加することであつて、例へば蝉丸で、北の方の怨念が退散して主人公の目があいたことにしてあるのが、その例である。單なる插話としても、能の安宅と狂言の花子とをそのまゝに取つてある凱陣八島に於いて、辨慶がかの勸進帳を讀んだあとで富樫に寄進を強ひたり、義經と北の方との間を仲裁したりしてゐる。こんな風にあまり隈なく事件を推しつめてゆくために、餘情が(241)無くなり、ひちくどくなり、淺露になる傾きがあるが、これも藝術的鑑賞力の低い多數の民衆をあひてのしわざだからであらう。
 その三は、一曲のうちに古傳説をいくつも繼ぎ合はせることであつて、虎が磨に曾我の物語の外に仁田四郎の人穴傳説を加へ、浦島年代記に眉輪王の殺逆と雄略天皇の狩獵物語とを結びつけたやうなのが、その例である。海音も同じ方法を用ゐたので、例へば末廣十二段には十二段と鬼一法眼の話とを結合してゐる。これは謠曲にも既に例のあることで(「武士文學の時代」第二篇第三章參照)、傳説を資材とする場合には自然の傾向でもある。なほ傍話插話にも、多くは古傳説や昔の狂言や人の知つてゐる故事などを取りまたはそれを改作してゐることは、今さらいふまでもない周知の事實であるが、その一二の例をいふと、用明天皇職人鑑に謠曲の道成寺及び舞曲の鎌足のにせめくらの一段を、十二段長生島臺に隅田川を、蝉丸には鐵輪を、取つてあるし、狂言の靱猿が松風村雨束帶鑑に於いて、平家物語の逆櫓論と宇治川先陣との話が最明寺百人女臈に於いて、改作せられてゐる。さて第四には、筋を運ぶために種々の道具を使ふことであつて、雪女五枚羽子板の寶物の行くへをたづねるといふやうなのがその例であり、さうしてそれによつて種々の插話を附け加へる便宜が得られるのである。
 これらは外形の上のことであるが、内容から觀ると、葛藤の無い物語に葛藤が作られ、葛藤のあるものにはそれが複雑になつてゐるので、上記の四箇條も畢竟そのための用意である。この葛藤は、古淨瑠璃に於いて既に行はれてゐた如く、如何なる曲にも敵役を設け反對の勢力を作ることによつて發生する。吉野都女桶に歴史的事實を曲げて坊門宰相を尊氏に内通する奸物としてあるのも、その例であるが、これは外部に敵が無くては物語が成りたゝないからで(242)ある。本筋に於いてそれが無いものでも、例へば蝉丸や大磯虎稚物語に見える敵打の如く、傍話として加へられてゐる。女についても同樣で、娥歌がるたの師高の如く戀愛譚にはしば/\戀敵があり、さもなくば十二段長生島臺や用明天皇職人鑑に於ける淨瑠璃姫または玉世の姫の場合の如く、繼母といふ敵役を出してゐる。その他、妻妾の嫉妬(蝉丸、双生隅田川、など)、夫爭ひ(※[木+色]狩劍本地、傾城反魂香、松風村雨束帶鑑、など)の好んで描かれたのも、このことと關係があらう。輕い場面でもかういふ二勢力の對抗を見せなければ承知しないのが例であつて、いはゆるやすがたきといふやうなものは、しば/\これがために用ゐられてゐる。さうしてこの點に於いても、近松では古淨瑠璃よりずつと複雜になつてゐる。例へば古淨瑠璃の角田川を改作した近松の双生隅田川では、梅若松若を妾腹の双子として、それから妻妾の間に葛藤を起させ、それが吉田家を奪はうとする妻の兄の陰謀に纏綿することになつてゐ、その陰謀にも鯉の繪といふ道具を使つてゐる。結末でもまた、狂女が梅若の塚を弔つた時に幽靈の如く現はれ出でたのが松若であつたとしてある.さうして梅若を殺した人買は實は罪あつて放逐せられた吉田家の家來で、財を得て罪を償ふために知らずして主人の子を買つたのだとして、そこに新しい一葛藤を添へてある。その他一々は述べないが、古淨瑠璃の紅葉狩や瀧口横笛と近松の※[木+色]狩劍本地や娥歌がるたとを比較して見ても、同樣の關係がわかるであらう。近松を學んだ紀海音の作にもまたそれがあることはいふまでもない。末廣十二段に於いて、淨瑠璃姫に對する牛若の戀の敵の梅堂があることにし、賊の熊坂を實は源氏の舊臣で忠義のために金を取らうとしたものとしてあるやうな一例でも、それは知られる。
 ところが、權力や勢利の爭ひが起れば、善意に於いても悪意に於いても、相互の間に謀路の行はれることは自然の(243)勢であるから、近松の作は何れを讀んでもさういふ話で充滿してゐる。身をやつすといふことが何の曲にも殆ど無くてはならぬやうになつてゐるのも、一つはこのためであるが、にせめくらとか、女の男裝、男の女裝とか、いふこともしば/\用ゐられてゐる。日本武尊吾妻鑑に尊が幼時から女裝してゐられたことにしてあるのは、古傳を誇張したものではあるが、その古傳が作者にとつては最も都合のよい物語であつたらう。最明寺殿百人女臈に時頼が座禅三昧と僞つて行脚に出るとしてあるのは、平家物語の文覺の話を取つたのではあらうが、やはりこの要求に應じたものである。孕常盤に重盛が育王山に寄進すると僞つて金を法王に呈することとし、鎌田兵衛名所盃に長田に討たれた義朝の首といふのは實は僞首であつて、義朝は鎌倉山に潜んで時運をまつてゐるとし、或はまた曾我會稽山に五郎を出家にするのは敵祐經に油斷をさせるためとしたなどは、かういふ作に於いて如何に謀略の必要であつたかを示すものである。身方がほして敵をたばかるとか、故らに敵らしく裝つて人の心を試めすとか、いふやうなのは常のことである(雪女五枚羽子板など)。政略のために戀を裝ふ男も女もあり(曾我五人兄弟、井筒業平河内通、など)、主君を思ふがために惡虐の行を敢てして、おのれを疎ませおのれに對する愛着を除かせようとする妾、我が子を殺して二心なきを裝ふ奸臣さへもある(津國女夫池)。身代りが謀計であることはいふまでもない。親子夫妻の間にもそれの必要があるので、嫗山姥に妻が主君頼光を討たうといふ夫の提議に僞つて賛成したのは、我が生みの子を身代りにする下心からであり、その子が卑怯を裝つたのは、母の惡しみを受けて自分を殺させる方便であつた。何の作でもかういふことが斷えず行はれるのであるから、謀略に對するには更に謀略を以てするを要し、葛藤は更に葛藤を生んで、物語が甚しく複雜になるのである。これもまたその萌芽は既に舞曲などにも見え(大織冠、滿仲、など)、從つて古淨瑠璃(244)にも承け繼がれたことであるが、近松に至つてはそれが極度に發展してゐる。海音も、前に述べた末廣十二段で、鬼一法眼の女を尼にやつして矢矧に下らせ、熊坂には常盤を助けるためにわが娘を殺させてゐる。
 しかし近松の作は單に表面の事件が複雜になつてゐるのみではなく、それと共に一つの新しい意味が加はつてゐる。劇曲が何等かの葛藤によつて成りたつといふことは、その性質上當然のことであつて、淨瑠璃劇そのものの發達につれておのづからさうなつて來たのであるが、たゞ古淨瑠璃まではその葛藤が常に權勢とか利慾とかの外部的の爭ひに過ぎなかつた。主人公と敵役との爭ひであつた。近松とても概していふとやはりその範圍を出ないので、主なる筋はそれによつて形づくられてゐるが、その間に幾分の心的葛藤を點綴してあるのが、この作者の新しいところである。前に述べた双生隅田川で、吉田少將の妻が妾をもその子をも愛してはゐながら、異謀ある兄を憚つて故らに無情の取扱ひをしたのは、兄と夫との間に立つてゐる妻の苦衷の現はれたものであり、かの人買ひの經歴は惡行の裏面に善意があるので、作者はそれによつて彼等の胸中に於けるそれ/\の心的葛藤を描いたのである。主君のためにせよ非道の野心から出たにせよ、我が子を殺すやうな場合に、幾多の煩悶と苦惱とが寫されねばならぬことは、いふまでもない。
 近松によつて描かれたこの葛藤の主なるものは、いはゆる義理と人情との關係から生ずるのであつて、概していふと、男なり女なり主人なり家來なり或は武士なり町人なり、その人の階級地位職業などに相應する義理、面目、またはいはゆる一分、が自然の人情と衝突するところに葛藤が起るのであるが、勘當した子に對する親、繼子に對する母、養父に對する實父、または妾に對する妻、妻に對する妾、といふやうな特殊の身分ではそれが一唇深刻に現はれ、百(245)合若大臣野守鏡、國姓爺合戰、または傾城酒?童子、双生隅田川、傾城反魂香、などに細かにそれが寫されてゐる。この義理と人情との衝突は、一面の意味に於いては元禄時代の固定せる社會形態と、それに對抗する個人的欲求とを象徴してゐる。更に一歩を進めて考へると、作者はそれを描くがために好んで曲中の人物を種々の矛盾を有する困難な境遇に置くので、或は烏帽子折の如く妻が夫の主君の敵たるものに同情をよせねばならず、文武五人男の如く親と夫とが敵になり、或は業平河内通、普雪女五枚羽子板、の如く父子兄弟が敵身方に分れるやうな場合を作る。※[木+色]狩劍本地は男に罪を犯させ妻をしてそれを見殺しにしなければならぬ地位に立たせた。津國女夫池の夫妻を讐敵とするなども同樣である。松風村雨束帶鑑に夫の義理をたてさせようとする妻と、勅命を奉じようとするその舅と、舊恩を報じようとする下男とが、一人の女の處置について互に反對の地位に立つやうにしてあるのは、その葛藤の甚だ夜雜になつてゐる例である。戀物語にもしば/\かういふ關係が結びつけられてゐるので、戀人が敵の女であるとか、戀と戀人の安危とが兩立しないとか、いふ話は甚だ多く、兄妹たるを知らずして相思ふといふのもある。雪女五枚羽子板や孕常盤のやうに互に知らずして邂逅せるものが親子兄弟であるとか、浦島年代記の一插話のやうに主人の子を我が子と取りかへてあるとか、いふやうな話も、一つはかういふ境遇を導き出すために使はれてゐるので、松風村雨束帶鑑に龍宮から歸つた浦鳥が七世の孫の家に下人奉公をするとしたなどは、その極端の例である。要するに親子兄弟夫婦もしくは相思の男女の間に存する自然の情と、それを抑壓する道義的威力とがあつて、そこに心的葛藤が生ずるやうな境遇が必要なのである。敵將義貞の恩を受けてゐるがためにその身代りにならうとする吉野都女楠の小山田高家や、舊主の源家と今の主人の平家との間に立つて去就に苦しむ平家女護島の宗清なども、同じ例であつて、高家の物語が(246)太平記のを一轉して義貞を敵としたところに作者の意圖がある。近松は常に人情を寫すけれども、それを單純な感傷的なものとせずして、かならずかういふ心的葛藤を伴はせてゐる。古淨瑠璃に於いては、それが幾らか暗示せられてはゐてもまだ十分に描かれてはゐなかつた。頼光跡目論に頼光父子の衝突が極めて淡々と敍せられ、頼親はさしたる惱みなしに父を呪詛し、四天王も同じ氣分でそれを討つてゐるが、近松ならば、頼光をして子に對する愛情と源氏の地位または職分を重んずる思想との衝突について幾多の苦悶をさせ、四天王にも容易に頼親を討たせないであらう。
 さてこの心的葛藤に道徳上如何なる意義があり、またそれが思想上如何に解決せられてゐるか、といふやうな問題については、別に後に至つて述べるつもりであるが、たゞそれが境遇から生ずるものであつて自己から起るものでないといふことだけは、こゝに述べておく必要がある。如何に困難な場合に陷らうとも、如何に脱し難い羈絆が身に加はらうとも、それは自己の罪過から出たのではなく、自己の性格から必然に展開せられたのでもなく、たゞ偶然さういふ境遇に置かれたのである。夫妻父子兄弟が敵身方にならうとも、それは主君とか親とか家とかいふおのれらよりも大きい、さうしておのれらがそれに服從しなければならぬ、何等かの力の衛突の裡に捲きこまれたがためにさうなつたので、自己の内的生命の動きがさういふ形をとるやうになつたのではない。だから葛藤の解決もまた外部的である。從つてその結果は、或は身を殺し妻子を殺して義理のために人情を犠牲にするとか、或は表に義理をたて裏に人情を寓して兩方を全うするとか、いふやうなことになるので、それがためにまた新しい事件が形を成して來る。さうして多くの曲に例のある如く我が子を主君の身代りにするとか、曾我會稽山の二宮の如く刀を揮つて相手を殺さうと擬勢しながら實はそれを助けようと苦心するとか、いふやうな場合には、事件そのものがやゝ複雜な意味を有つてゐ(247)るが、時にはそれからまた新葛藤の作り出されることもある。例へば井筒業平河内通に於いて主人の身代りとなる覺悟をしてゐる二人が故あつて互にその實を告げず、一は主人を殺さうといひ、他は繼子をその身代りにすると揚言したがため、終に兩方の爭闘となつて、善意の謀計のはちあはせから血を見るやうになつた話などが、それである。それほどでなくとも、義理またはその他の事情のために表面は敵らしく見せて實は身方になるといふ話は、甚だ例の多いことであるが、それはみな矛盾した境遇から生ずる葛藤を解決する方法として用ゐられてゐる。かういふやうにして葛藤が心的なものになると共に、外部に現はれる事件もまたます/\複雜になつてゆくのである。ところがさういふ事件は往々物語の本筋とは縁の薄いものになるので、それがために斷えず横みちに入つて傍話をからませてゆくやうになり、物語の筋は一層紛糾して來る。本筋を運んでゆくのみではこの種の葛藤を描く餘裕が少いからである。のみならず、かうなると、心情の昂奮や沈靜やその種々の激動や、即ちいはゆる喜怒哀樂のさま/”\、とその互にもつれあつてゆく有樣とを、形の上に示さねばならぬ。從つて詞章の上の描寫並に舞臺の上の演出が、節まはしや三絃の奏法と操りの技巧や人形の製作とがます/\巧妙になつてゆくことと相俟つて、おのづから細かくならねばならず、この點からも物語は複雜になるのである。
 しかし筋が複雜になるのは、單にかういふ事情から生ずるのみならず、觀客を倦ませないやうに變化を多くする必要からも來てゐる。忽にして血、忽にして涙、また忽にして人の頤を解く道化、その間には化生のものや怨靈や亡魂や、或は國姓爺合戰の九仙山の幻視または津國女夫池の夢の場の如き空想的場面や、その他、勇士ぞろへ、乳母ぞろへ、馬ぞろへ、紋づくし、獨樂づくし、或は花軍、などの如き花やかな景事、もしくは感傷的な道行きなどがあり、(248)それが覗きがらくりの如く錯落として現はれ倏忽として變化するのである。さうしてこの點に於いても近松は古淨瑠璃に數歩を進めてゐる。それは變化が複雜になつてゐるばかりでなく、むつかしい武士の義理づめに聽衆の精神が緊張したところへ、飄忽として口を開いて笑ふ滑稽譚をつないでそれを緩和させ、血腥い光景の後に艶かなぬれ場を展開し、もしくは春和景明の長閑な風物を點出して、昂奮した觀客の心事をおちつかせ、或はまた莊重な時代もの的光景が突如として世話にくだけるところに一種滑稽の感を與へるなど、巧妙なる文致語勢の變化に伴つて、よく人心の轉化に應ずるやうになつてゐる。また如何なる場面にも人情をからませてあることが、この變化をして幾分の意義あらしむる所以ともなる。前にも述べた如く、景事や道行きに人物の情懷を反映せしめてゐるのみならず、奇異の物語に於いてもそれに人情を託するので、例へば百合若大臣野守鏡に鷹が妻に化してゐるとしたなどは、信田妻の傳説から傳じて來たものではあらうが、舞曲の百合若の如く單に鷹の靈驗を語るのとは違つて、夫妻母子の情、特に別離の際に於ける哀愁、を現はすに便宜だからであらう。亡靈や怨靈が多く嫉妬などを示すに用ゐられてゐることは、いふまでもない。心中ものの心中の場面のすぐ前に道行きのあるのは、場所の移動を示すために必要だからであるが、その詞章は心中する人物の情思を表現することに重點を置いたものであり、從つて感傷的な辭句をつらねることが多い。時に滑稽の感を抱かせるやうなところのあるのは、それによつて心中そのことの悲哀の情が緩和せられもすると共に、或はまたそれが一層強められる效果を生じもするからではあるまいか。もしさうならば、作者にかゝる用意もあつたことが考へられる。
 
(249)     第十一章 文學の概觀 七
 
       淨瑠璃 附 歌舞伎 下
 
 前章に述べたところは、近松の作が古傳説及びそれを基礎にして作られた古淨瑠璃に對して如何なる特色を有つてゐるか、といふことを主として考へたのであるが、それによつておのづから近松の淨瑠璃の一般的性質がほゞ知り得られたことと思ふ。歌舞伎も筋書によつて知られるその劇としての性質は、ほゞこれに似たものである。さてかういふ淨瑠璃の演奏によつて、聽衆もしくは觀客に何ものを與へまた彼等に何ものを求めるかといふに、その第一は、一々の場面に於けるいはゆる喜怒哀樂の單純な刹那的感情の表現とそれに對する反應とである。但し偶人に於いては、本來動かないものを強ひて動くやうにしようとするのであるから、機械的な、また誇張せられた、從つて往々滑稽の感を呼ぶ、表情を要し、而もそれは到底眞の人間の如く微妙な動きかたをすることができないために、おのづから粗大な型が生ずる。動くべき人間が殆ど動かぬやうにしつけられて來たこの時代の能とは正反對である。音曲としても、かういふ單純な感情の表出に於いて常に一定の節と語りかたとのあることが、これと相應ずるのである。古淨瑠璃にも泣きぶし愁ひぶしなどの名のあつたことが思ひ出される。歌舞伎に於いてもほゞ同樣で、俳優の用意の一つが或る科白によつて觀客を泣かせたり笑はせたりすることにあるのを見ても、それが知られるが、たゞこれは偶人ではないから、名優になるとそれについて細密な工夫がせられ、操りとは異なつた效果が生ずる(耳塵集賢外集など參照)。次には人物の一々の行動及びその態度風采などによつて、それに對する同情や反感を求めることであるが、これも偶(250)人ではやはりそれ/\の型が無くてはならぬ。歌舞伎でも俳優が、立役、敵役、若女方、花車方、などに分れ、評列記が實事、武道事、愁ひ事、ぬれ事、などの名目によつてその巧拙を論じてゐるのを見ると、かういふ概念で分類せられる措どの程度のものであることが知られる。かういふ事實と當時の思想との關係は後章で考へようと思ふが、とにかく操りでも歌舞伎でも、舞臺の上に一貫した性格のある生きた人間が現はれるよりは、離れ/”\の人情と行爲とが示されるのである。
 さて舞臺の上に生きた人間を見ないほどであるから、まとまつた一曲の全體から得る感じは甚だ微弱であつたらしく、從つてそのうちの一段のみを離して演じても興味はさして減殺せられなかつたらうが、しかし葛藤がいはゆる善の勝利として解決せられる點に於いて、一種の道徳的安心が與へられたでもあらう。物語の骨ぐみをなしてゐる二つの力の衝突に於いて、その何れをも惡とし難く從つてそれに勝敗のつけ難いものを、和睦によつて解決するのも、やはり同じことである。信州川中島合戰に於いて謙信と信玄との、吉野都女楠に於いて南北朝の、和睦に終つてゐるのがその例である。かういふ道徳觀念が必しも人生の事實を示すものでないことは、室町時代の文學を考へる場合にも述べたことであるが、當時の人はこれで滿足してゐたのである。歌舞伎に於いて最後の一齣が陽氣な大踊になつてゐる場合のあるのも、觀客をして愉悦の情を懷いて場を去らしめるためであらう。これは思想的には、連歌や連俳の揚げ句にめでたいことをいふ慣例になつてゐるのとの關聯もあらう。
 滑稽もまた當時の觀客の最も喜んだものであるが、近松には地口や駄洒落や、または娥歌がるたの瀧口の引導、嫗山姥の宿ひきの詞、のやうな輕口が、極めて輕く口を衝いて出て來ることはいふまでもなく、總論に述べたやうに卑(251)猥な詞に可笑しみを求める滑稽も到るところにあり、人の首をひきぬくやうな不合理なことを平氣でやつてのけ、または吉野都女楠の大の男が女のまねをするといふやうな、見えすいた不合理のふるまひを臆面もなく演ずる、人形の動作にも滑稽がある。また人物についていふと、傾城三國志の下女の如き低能のもの、曾我ものに多く現はれる朝比奈の如く強いばかりで思慮が無く突飛の行動をするものなどもあり、その強がりが強い力を揮はうとしながら斷えず他の力に制せられて弱くなつてゐる有樣、または權勢や地位や富を恃んで空いばりをするものが、道理や威力の前に忽然として弱くなること、例へば孕常盤の難波經遠や、嫗山姥の四天王に威嚇せられてそのいふなりになる公家などの言行、(敵役、特にいはゆるやすがたき、といふやうなものには往々この滑稽が伴つてゐる)、或は假面を剥がれるところに生じ、または人まちがひや行きちがひから起るもの、などが所々に散見する。古淨瑠璃にも滑稽分子は無いことはないが、これほどにそれを多くしたのは近松に始まるらしいので、それを平民的娯樂としての淨瑠璃の發達の一つの姿といはばいはれよう。
 しかしこれも、あまり隈なく描き過ぎ動作に現はし過ぎるために、下品になり餘情が無くなつてゐるので、例へば業平河内通ひの老女の戀が、源氏物語の源内侍と伊勢物語の嫗とを結びつけたものでありながら、それに見えるやうな淡い滑稽味は無くして、却つて一種醜陋の感を誘ふほどである。趣味の低級なこの時代の平民をあひての文藝としては已むを得ざることであつたらうが、その滑稽の性質が上に述べた如く多く言語動作の上にあり、さなくともその場で口を開いて笑へばそれで消え去つてしまふ種類の、極めて淺薄なものに過ぎないのは、この時代の作としても物足らぬ心もちがするので、この點に於いては西鶴の浮世草子の滑稽の方が遙かに意味が深い。室町時代の狂言の如く、(252)表面的なまた些末な題材を取扱ひながらも、何等かの葛藤を滑稽的に解決するといふやうなものは無く、まして人生そのものを滑稽と觀ずるやうな態度は、思ひもよらぬことであり、從つて喜劇は全く作られなかつた。これは一つは淨瑠璃の結構に因襲的定型があるからでもあらうが、一つは後にいふやうな近松の人生に對する見解にもよることである。凱陣八島に狂言の花子を、浦島年代記にぬけがらを、そのまゝに取りながら、或は辨慶の一段を加へ、或は我が性癖を悔いて夫妻の縁の斷えめと悲しむやうにしてある、思想上の理由はこゝにあるのではなからうか。
 要するに近松の滑稽は觀客を笑はせるために外部から添加した裝飾物であつて、畢竟かの一段々々の間に演ぜられたといふのろま人形のはたらきを曲中に編みこんだほどのものに過ぎない。曲中に取られてゐる狂言を原作で見れば、それに特殊の興味があつても、こゝでは他の緊張した場面の間に插まれ、且つ狂言のやうに進行がゆつくりとせず大いそぎでかたつけられ、その上に人形固有の性質として動作が誇張せられてゐるため、看客に狂言と同じ味を味ふ準備と餘裕とおちつきとを餘へないから、單に人形の動作の可笑しみのみが目に映ずるのである。また結構の上から見ても滑稽の場面は一曲の葛藤の大筋には關係の無いのが普通である。娥歌がるたの重要なる筋をなす人ちがひの滑稽などは、例外と見なければならぬ。歌舞伎の滑稽もその性質は同じであるが、これも俳優が演ずるだけに名優の手にかゝつた場合には、舞臺上の效果が違つて來るのである。
 しかし、觀客の喜ぶところは單に以上述べたやうな、いはゞ劇としての方面ばかりではないので、歌舞伎に於ける踊や所作の分子、即ち役者の術語でいふ拍子事、及び樂的分子、が多大の興味を以て迎へられたことは勿論であり、操りに於いてもその摸倣が重要のはたらきをしてゐる。たゞ操りに於いては、全體が音曲としての淨瑠璃によつて、(253)ともかくも一わたりの統一がついてゐるけれども、歌舞伎に於いてはそれが無いから、劇の分子と踊や音曲の分子とは多く離れ/”\になつてゐるが、結構のある淨瑠璃の全曲をすら、まとまつたものとしては深く注意しなかつた當時の觀客には、それでよかつたのである。
 なほこれに關聯して一言したいのは、當時の看客の態度に知識的分子の混入してゐることである。種々の機城的裝置及び人形つかひの技倆に對する驚嘆の情、特に出づかひの喜ばれたのが、それであつて、これは偶人劇としてはおのづから生ずべきものではあるが、それによつて劇として舞臺を見るまとまつた氣分の妨げられる傾向のあることは、注意しなければたらぬ。出がたりの如きも能の地謠ひなどからの歴史的由來はあるが、やはり同樣の結果を生ずる。さうして機械的裝置が當時としては甚だ巧妙に工夫せられたにかゝはらず、看客を誘つて現實の世界から離れた特殊の劇の世界に入らしめるに最も效果の多い、背景の發達が割合に遲くまた不完全であつたことなどを考へると、これは舞臺にまとまつた一つの世界としての幻影を見ようとしなかつたからではあるまいか。もつとも、出づかひや出がたりは視なれ聽きなれるに從つてその存在が無視せられ、看客は人形の動きとそれに應ずる淨瑠璃とにのみ注意を集中するやうになるから、舞臺はどこまでも現實から離れた詩の世界である。能の演奏に對してそこに現實ならぬ空想の世界を見て來た因襲もまたそれを助け、或はそれによつて養はれた觀賞の態度がかゝる偶人劇に對しても通用せられたであらう。しかしそれにしても、一方では出づかひや出がたりの姿が眼裡に往來するには違ひなく、さうしてそこには彼等の技倆に關心をもたせる餘地がある。歌舞伎でもこれに似たととろがある。作者の心得に舞臺を繪として見るといふことがいはれてゐるが、當時の浮世繪は、材料や技巧上の理由また古い大和繪傳來の因襲のために、畫面(254)に奥ゆきが無くして横のひろがりをもつものであり、全體としての畫面の統一は種々の景物の配置にあるから、舞臺を繪として見るといふのもそのことであらう。橋がゝりが花道に發達してゆくのも、一つはこのことと關聯がある。さういふ舞臺では、踊の如き姿態とその運動との美しさを見せるものを演ずる場合は別として、劇としてのまとまつた世界は看客の眼に映じがたい。しかし一方からいふと、看客はその注意を主として俳優の科白に集中し、それによつて主觀的に劇としての別世界を面前に浮き上がらせ、敍景的の俳句に對する場合とやゝ類似した態度によつて、それを具象化するのであつて、背景などによつて官能的に何等かの幻影を見ようとするのとは、ゆき方が違つてゐる。もつとも他方では、寫實的の劇ですら、例へば「かげをうつ」といはれたことの如く、寫實的でない音響を利用するやうなことはあり(續耳塵集參照〕、後には三絃などの音曲を加へるやうにもなるので、これは目に映ずる背景と同じやうな效果を耳によつて與へ、それによつて看客を一種の空想界に誘ふものとも見られるから、一概にかう決めるわけにはゆかぬ。この音聲の利用は能などの囃から發達したものであるが、三絃曲の導入は劇に樂的分子を加へることになつて、劇そのものの性質にも大なる變化を與へた。しかしともかくも目に見る舞臺面が一つの世界として具象的にまとまつてゐないことは事實であらう。舞臺の上と看客の起居する世界とが明かに區別せられないのも、一つはそのためである。劇場の構造の發達した後でも、看客と舞臺上の特殊の世界とが對立してゐる近代のヨクロッパの劇場とは遙かに趣のちがふのが、我が國の歌舞伎のそれであつて、それは單純に、歌舞伎がヨウロッパの劇のまだ幼稚であつた時代の程度にあるものだ、といふわけにはゆかぬ。さうしてまた、演奏者が看客や聽衆の氣分に應じて、その演出法を鹽梅してゆく心がけのあるのも、これと關係があるのではなからうか。我が國民が藝術そのものに獨立の(255)地位を與へず、それを周圍に順應させようとする一傾向のあることは、前にも述べたことがある。その由來、それと國民の趣味との關係などは、なほよく研究すべき藝術史上の問題であらう。
 話がわき路に入つた氣味があるが、もとに歸つていふと、著者はそれによつて近松の作もやはりかういふ看客の要求に應じたものであることをいはうとしたのである。が、近松自身の才能もまた本來それにふさはしい性質のものであつたらしい。既に述べた如く彼がその多數の曲を作るに當つて、その傍話または插話に多く與曲、舞曲、昔の狂言、または古物語、などを改作してゐるのは、看客が熟知してゐる物語を突如として意外のところで發見する淡い驚喜の情、或は場合によつてはそれが意外の方面に轉化してゐるために生ずる、即ち狂歌や談林の俳諧に於いてしば/\經驗すると同じやうな、滑稽の感、を利用しようとしたのでもあらうが、作者の想像力が豐富でなかつたからでもあらう。古傳説を基礎にしてそれに新解釋を加へてゆくことは、劇詩人敍事詩人の常であるが、近松はそれとは違つて、たゞ古傳説をそのまゝに取つて插話とし、或はそれらを機械的に維ぎ合せたのである。もつともそれにもおのづから彼の時代の色彩は加へられてゐるので、例へば文武五人男に羅城門の物語を改作して、それを鬼の面をかぶる曲者とし、またその假面の剥がれた滑稽を加へてゐるのは、謀略を好む時代の思想と滑稽を要する平民文學の特色とに應ずるものである。けれども作の全體の精神が、古傳説を新しく生かしてゆかうとしたのではない。
 想像力の貧弱であるといふことは近松の作の數が多く、また一曲の結構が甚だ複雜であつて、場面の變化が頗る奔放不羈の觀を呈してゐるにかゝはらず、その取扱つてゐる題材は僅少の種類に限られてゐること、さうしてそれを組みたててゐる場面々々の主題は、何時でも義理と人情との背反から生ずる葛藤であること、からも知られよう。近松(256)はこの葛藤を示すために、當時の思想と社會状態とに於いてできるだけの種々の場合を案出したのであるが、その現はれかたにも解決法にも、またそれに絡ませてある戀愛譚にも、奇異なことがらにも、または滑稽の場面にも、幾種かの型があり、上文に擧げておいた例でほゞそれが盡きてゐる。だから極端にいふと、近松の作には幾つかの話の型が定まつてゐて、たゞ曲によつてその型の組み合せかたをいろ/\に變化させてあるだけのことである。趣向といひ作意といふのも主としてこのことである。さうしてその組み合せかたは極めて機械的であつて、外面的には因果の連絡が一々つけてあり、何ごとにもそれ/\の意味を有たせてあるけれども、さういふ事件が或る特殊の人物の行動として内面的に展開して來るのではない。人物に性格の無いことは勿論である。だから人物の名はさま/”\に變つても、人間は何時も同じ人形である。さうしてそれは啻に作者の想像力の足りないばかりでなく、またその人間觀の單純なることを示すものであらう。
 だから近松は長い文學的生活の間に漸次公にした多くの作に於いて、技巧上の進歩こそは認められるけれども、人生と社會とに對する觀察や思索が深さを加へたやうな形跡は見えない。年を重ね作を重ねても、新しい人物、新しい生活、を創造することはできず、たゞ趣向作意、即ち上述の組み合せかたに新奇を求めるのみであつた。もつともこれには、上に述べた如く偶人劇の臺本であるといふことも一原因をなしてゐるには違ひないが、その人形を内面的に生かしてゆかうとせず、外面的に肢體をはたらかせる方にのみ進めていつたのが、根本に於いてこれと同一傾向を示すものである。偶人劇を強ひて歌舞伎に近づけず、その動作を偶人として適當な程度にとどめておいて、それによつて幾らか人間の内生活を象徴させることもできさうなものであるのに、さうならなかつたのは、やはり作者に詩人た(257)る資質が乏しかつたのと、當時の看客が徒らに外觀の花やかさを喜んでゐた時代の風潮との故であらう。近松が古傳説をとつてもそれに新解釋を施して單純な物語を内面的に生かさうとはせず、徒らに筋を複雜にし人形のはたらきを繁多にすることをのみ勉めたのは、畢竟これと同一の根柢から出てゐるのである。
 これらの點に於いては近松は後の馬琴と對照せらるべきものである。馬琴は實は近松を學んだのであらう。たゞ馬琴の人物が抽象的な道念の化身であるとすれば、近松の人物は抽象的な義理もしくは人情を形に現はしたものであるといふ違ひがある。馬琴の人物が文字の間から現はれ出たものであるに反して、近松のは實社會から生まれてゐるといふ差異がある。從つて近松のは或は誇張でもあり或は不自然でもありながら、元禄人の氣質がその間に現はれてゐて生氣横溢の觀があるのに、馬琴のはすべてが死んでゐる。單に道徳眼から見ても、近松のは自我の欲望もしくは自然の人情と社會的の義務もしくは本分との衝突に苦惱する状が力を極めて描かれ、最後に至つて前者をすてゝ後者に就くことが豫期せられてゐながら、そこに到達するまでの心的經過が、一定の型を有つてはゐるけれども、寫されてゐるのに、馬琴のは初めから一種の固定した道念によつてのみ動いてゐて、さういふ心的葛藤の過程を有しない偶人のみである。人間の道徳生活が自己みづから自己の人格を陶冶し、古い語でいへば心の賊に打ち勝つてゆく過程にあることを知るものは、何人も馬琴の作の道徳的價値が極めて低く、近松がそれに比べると數等の上にあることを否まぬであらう。さうしてそれは近松がともかくも當時の實生活に根據を置いてゐるからであつて、こゝに現實主義の元禄時代と、一般に思想が窮屈になり特に讀書社會に偏固な儒教的知識がゆき渡つて來て、平民文學の作者すらも學究的態度を高しとするやうになつた寛政時代との、差異があるのであらう。
(258) さてこれまで述べて來たところは、主としていはゆる時代ものについての考察であるが、近松には別に世話ものの作がある。この世話もの、特にそのうちの心中ものは、時代ものとは※[しんにょう+向]かに趣きを異にしてゐるやうに考へられてもゐるらしいが、果してさうであらうか。著者はむしろ両者の間にさしたる違ひのあることを發見するに苦しむのである。前に述べた如く時代ものが既に史劇でなく、名を古人に託して當時の世相と生活とを寫したものであるとすれば、特にその多くの場面に於いて市井の状や平民の行動がそのまゝに現はれてゐるとすれば、この點に於いて時代ものは即ちまた世話ものであるといふことができよう。ところが一方からいふと、いはゆる世話ものとても決して事件のまゝを舞臺に上せたのではなく、やはり劇としての脚色が加へてあり、さうしてそれは全く時代ものと同じ精神から來てゐる。
 例へば世話ものにも概ね敵役が設けてある。心中ものの初めといはれてゐる曾根崎心中の九兵衛の如きがそれであつて、專實とあまり離れてはゐないだらうと思はれる心中大鑑(卷三)の「曾根崎の曙」によると、本來この心中は、徳兵衛が別に妻を娶らねばならぬといふ、當時の道徳觀念としてはふりきることのできない羈絆を負うてゐるのと、お初が他の客に身請せられるといふ、遊女としては免れられない境遇に陷つたのと、この二つの事情が同時に起つたからであるが、近松の作では、後の方の事情は無く、前の方もそれを脱却することのできる望ができて來たにかゝはらず、九兵衛といふものが横あひから飛び出して來て、惡計を以て徳兵衛を絶望の淵に陷れると共に、町人として世に立ちかねる如き侮辱を加へたがため、終に徳兵衛をして死を決せしめ、お初をして、一人では死なせないといふ義(259)理から、それに伴はしめたことにしてあるから、心中の直接の動機は、むしろ男が九兵衛の惡計にかゝつてその身の立ち壊を失つたところにある。二人が心中に出かけた後九兵衛の罪状が暴露したやうにしてあるのでも、作者の意圖は推知せられる。生玉心中の長作、今宮心中の由兵衛、二枚繪草紙の善次郎、網島の太兵衛、など、それ/\の地位に違ひがあり、その敵意に女に對する特殊の意圖を含んでゐるのもゐないのもあるが、概していふと同じやうなものであり、卯月の紅葉の如きは小親模のお家騒動めいた葛藤に於いてお今と傳三郎とが敵役になつてゐる。心中ものでない作でも、鑓の權三の伴之丞、堀川浪の鼓の床右衛門、戀八卦桂暦の助右衛門、お夏清十郎五十年忌歌念佛の勘十郎、などの例があつて、これらもみな事實には無くまたはそれとは違つた近松の作意らしい。もつとも事實は明瞭でないものが多いけれども、例へば心中大鑑(卷四)、西鶴の五人女(卷三)、または亂脛三本鑓、雲州松江鱸、のやうなものと戀八卦桂暦や鑓の權三とを對照して見れば、ほゞこの間の消息は知られるのみならず、このうちの後者については月堂見聞集(卷二)に載せてある文書によつてそれが證せられる。お夏清十郎についても五人女(卷一)を參照すれば同じやうに考へられる。敵役らしいものの出ない作も無いではなく、またその敵役も多くは遠謀深慮のある惡人といふよりは、むしろ輕薄な利己主義者、または金の力をかりて我慾を充たさうとする「ぜいこき」の類であり、多分の滑稽分子を含んでゐるやすがたきではあるが、それは世話ものの世界が市井の巷であり、その事件が世間から見れば東家西家の小さい問題だからであつて、葛藤の主因を外的勢力の對抗に置くために敵役としての役目を勤めさせるには、それで十分である。或はまた傳三郎とか勘十郎とかいふやうなものに至つては、むしろ眞の敵役らしい型である。だから主人公を最後の破滅に導く原因が、自己の内部よりはむしろ外部にあるやうになり、從つてまた情死(260)を題材にしても、曾根崎心中に好例がある如く、情死そのことの意味は却つて稀薄になつてゐる。紀海音が八百屋お七に武兵衛といふものを設けたのも同樣の手段である。敵役の無い心中もの、例へば重井筒とか刃は氷の朔日とかいふものでも、或はお房の父の難儀、或は小かんが土地を去らねばならぬ、といふ外的事情が主となつてはたらいてゐるので、主人公は常に受け身になつてゐるから、破滅の原因が境遇にあることは同じである。
 なほこれに伴つてゐる一要件は、この敵役は必ず敗亡に終つてゐることである。主人公は情死をしても、かの曾根崎心中の九兵衛の如く敵役は決して成功しない。或はまた勘十郎の罪が露はれ伴之丞が討たれたやうに、覿面にその應報を得てゐる。これは當時の道徳觀念から來てゐる時代もの通有の脚色であつて、情死者または刑死者の如きは、題材そのものに於いて主人公が死に終つてゐる以上、それを動かすことはむつかしいけれども、その代りかういふ傍話を作つてゐる。のみならず、情死者も刑死者も奸通の如き道徳上の罪を犯して死するものも、看客に對して十分の同情を起させるやうに脚色せられてゐるので、看客はこの同情のために彼等の罪をも弱點をも殆ど暗折に葬り去つて、敵役に對する憎惡のみを著しく心眼に浮き上がらせ、これがために主人公をいはゆる惡人に對する善人の地位に推し進めるやうにさへなるのである。網島の治兵衛や今宮心中の次郎兵衛や卯月の紅葉の與兵衛や、彼等はみな自己の弱點や過失がもとになつてそれから死すべき運命を導き出してゐるにかゝはらず、一つはその弱點や過失のあることによつて、また一つは醜陋なる太兵衛や由兵衛や傳三郎やの敵役があることによつて、人の同情を惹き得るのであり、冶兵衛の場合の如きは舅の五左衛門さへ敵役らしく看客の目には映ずるやうになつてゐる。冥途の飛脚の忠兵衛の行爲も、八右衛門の行動によつて激成せられたことにしてあるために、その罪が著しく緩和せられてゐる。八右衛門は(261)敵役ではないが、その好意からでた詭計が忠兵衛に領解せられなかつたから、劇の進行の上では恰も敵役のやうな地位に立つてゐる。おさゐ權三も事實は奸通であつたが、近松はそれを伴之丞のために蒙つた寃罪として、彼等の陷つた運命を單なる不注意から來たものとした。おさん茂兵衛もやはり奸通であつたものを、一種の詭計から起つた不測の禍とした上に、かゝる運命に導く誘因を幾條も案出して、二人に對する看客の同情を一層強くすると共に、助右衛門の卑劣なる行動をそれに對照させて、ます/\二人の姿を美しくしたのである。その刑死の事實を翻して特赦せられるやうにしたのは、博多小女郎やお夏清十郎などと同樣、上に述べたやうに、看客をして滿足の情を以て場を去らしめるためでもあらうが、おのづからこの着想と相應ずるものである。作者は女殺油地獄の河内屋與兵衛の如きものにさへ、その殺人の動機を寫すに當つて、強ひて一味の同情をよせさせようとしたではないか。現實に起つた事件を材料としたため、その人物の家族などの迷惑にならぬやうに、どんな人物にも幾らかの花をもたせるやうに脚色したといふ説があつて、それも一つの理由ではあらうが、思想的にはかう解せられる。必しも敵役のためばかりではなく、妻あるものの遊女ぐるひの如き場合に於いては、その根本の制約として社會的因襲が主人公の運命を決定するが、敵役がはたらくことにも注意しなければならぬ。劇の上に於いては、敵役が事件の進行と主人公の最後の破滅とに大なるはたらきをしてゐるのである。
 更に一歩を進めていふと、これらの人物の多數、特に情死者が世の屑々たる義理や人情にからまれて去就の間に彷徨し、或はそれに壓迫せられて、いやおうなく脱け道の無い窮地に追ひこまれてゆく心的經過、その惴々焉として名聞を恐れ世間を憚り、斷えず自ら悲しみ自ら恨んで煩悶懊惱してゐる心理状態が、思想の淺薄なる當時の看客をして(262)彼等を觀るにいはゆる善人を以てせしむる根本的原因となるのであつて、彼等の多くが意志の弱い知識の無い小人物に作られてゐるのもこの故である。その上に彼等は常人の見て難しとするところ、人の憐憫を買ひ得るところ、或は武士的因襲によつて何となく嘆美せられるところの、死に陷つてゐる。その死はたゞ浮世の義理に壓倒せられてはかなき最期を途げたのみであるが、一般の俗衆の善人と見なし同情をよせるのは、常にこの種の憫むべき人物であつて、確乎たる自信を以て毅然として世と戰ひ、それによつて自己を樹立しようといふ鞏固な人格、或は悲壯劇的性格とも稱すべきものは、當時の俗衆の領解せざるところであつた。だから世話ものの主人公はよしそれが死に終つても、看客の心には同情と幾分の讃嘆とを以て彩られた美しい姿となつて殘つてゐるので、この點に於いては彼等は必しも敗亡者ではなく、それを碁盤太平記の大星由良之助に比するも、必しも倫を失するものとはいはれぬ。その女主人公も當時の思想から見れば多くは尊敬に値するものとなつてゐて、網島の小春などはその最も秀でたものである。が、その世と世の義理とに對する態度は男主人公と同樣である。世話ものの結構が、時代ものと同樣、善惡の對立を中心觀念としてゐることは、これでもわかる。
 次に一々の場合に於けるいはゆる趣向を考へても、網島の孫右衛門の武士すがた、阿波の鳴門の平岡左近の妻の男裝、伊左衛門の駕籠かき、などのやうなやつしごと、もしくは一種の武士的謀略、堀川浪の鼓のお藤の政略的戀慕なども、みな時代ものの通型である。また義理と人情との衝突から生ずる心的葛藤を寫すために、故らにそれに便利な境遇に人物を置くことも、時代ものと同樣、世話ものの常套手段であつて、例へば阿波鳴門に於いて伊左衛門と夕霧とをしてその子に對し、父にして父と名のる能はず母にして母といふ能はざらしむる場合を作り、女殺油地嶽に於い(263)て父を手代上りの入婿たる繼父として、與兵衛との關係を子ながらも主人らしきものとし、それがため親子の間にもむつかしい義理あひが生じて、與兵衛折檻の場や油屋の店さきに於ける、今日のわれ/\の目には頗る滑稽の觀をなす愁歎場が現出するやうにし、今宮心中に於いて二郎兵衛が貞法に對する義理とおきさに對する情との間に板挾みとなり、または網島に於いて小春とおさんとをして互に義理の重荷を負うてゐることを感ぜしめ、さうしてその義理と二人が別々の地位から治兵衛に對して有する情との間に、紛糾した葛藤を起させるなどが、その最も著しいものである。これらは何れも近松の構想であり、時代ものに普通な脚色である。かういふ場合に、或は身をすてて義理を立て、或は表てに義理を守つて裏に人情を含んだ處置をするといふのも、また時代ものと同樣であるので、網島の小春がよそながら治兵衛に對して心にも無き愛憎づかしをいひ、そのために種々の波瀾が起つて來ること、博多小女郎や冥途の飛脚の惣右衛門や孫右衛門のその子の惣七や忠兵衛に對する態度などが、敵と見えたのが實は身方であるといふ時代ものに普通な着想、また例へば百合若大臣野守鏡の府内の太夫の行動、などと全く同じであることを見ても、それがわからう。善意の詭計が却つて悲劇を生ずるといふやうな時代ものに例の多い話も、薩摩歌や掟鯉出世瀧徳に見える。もし世話もののかういふ物語が當時の社會相を寫したものであるとすれぽ、この意味に於いて時代ものに現はれてゐる種々の葛藤の粉本を、世話ものに求めることができる、といつてもよい。
 その他、曾根崎心中の店さきの段、重井筒の炬燵の段、または桂暦の綱渡りなど、人形のはたらきを見せるために故らに作つたらしいむりな、また滑稽的分子を含んだ、場面のあることも、時代ものと選ぶところは無い。今人の眼には極めて殘酷に見える情死者の最期の有樣なども、時代ものに多い殺伐な光景と同樣、やはり武士が中心となつ(264)てゐる社會の反映でもあらうが、多分人形のはたらきぶりを示すのが主なる意圖であつたらう。滑稽の性質も兩者共通であるが、一々いふにも及ぶまい。さすが世話物だけあつて、超自然の奇跡を見せることは少いが、それでも卯月の潤色に幽靈を出し、長町女腹切には刀の祟を使つてゐる。なほ人物についていふと、時代ものと同樣、名の變つた同一人が何の作にも現はれるといつた方がよいくらゐであり、阿波鳴門と壽の門松とが結末に於いて同じく身請金のはちあはせを演じてゐるなど、多くも無い世話ものに於いてすら、同じ趣向を踏襲してゐる場合さへ少なくない。網島の如きやゝ複雜なものは他の作で取扱つた趣向を幾つも組み合せてあるので、太兵衝から起る葛藤は曾根崎心中の九兵衛などから生ずるものと同じであり、おさんの小春に對する義理だては重井筒と壽の門松とに例があり、夕霧阿波鳴門のお雪もまたそれとあまり違はないものである。さうしてかういふ風に種々の主題をつなぎ合はせることも、また時代ものの常とするところである。
 要するに、世話ものと時代ものとの間には、作者の用意に於いても看客の受ける印象に於いても、さしたる差異を認めることができない。たゞ鑓の權三や桂暦に於いて、奸通でないものが奸通の汚名を蒙るに至る心的徑路、また甘んじてそれを蒙つてゐる心理状態に於いて、幾分か興味のある人間を作り出してゐるやうにも見えるが、それは今人の眼から見るのであつて、實は前に述べた如く主人公を善人としようとする作劇上の慣習と、後にいふやうな當時に特殊な道徳思想と、から來た作者の脚色の結果であり、今宮心中や網島などで、主人公の心情の變化してゆく過程が割合に自然らしくなつてゐるのも、義理と人情との葛藤を示し主人公をして看客の同情を得させようとするために設けた場面などが、重なりあつて生じた偶然の現象であつて、作者にさういふ用意があつたのではない。もう少し詳し(265)くいふと、鑓の權三のおさゐに奸通の寃罪を甘受して權三と共に立ち退かせ、さうしてそれに、夫の一分を立てさせるためといふ、われ/\から見ると極めて不自然な理由をつけてゐるのは、本來女敵打を題材としたものだからであつて、作者がおさゐに看客の同情を集めようとして奸通を寃罪としたため、かういふむりな作意に陷つたのである。「かはす枕」云々と道ゆきでいはせながら、最期に至つて夫をなつかしがらせたのは、恐らくは不用意の間に實説と作意とが混淆してこの矛盾の言となつたのであらう。なほこの不自然な理由づけも、堀川浪の鼓のお藤が姉の命を助けるため姉婿に不義の戀をしかけるといふのと同樣、當時の道徳思想としては、極喘ながら認容せられてゐたらしいことであつて、嫗山姥の冠者丸が臆病者になつた如く時代ものにはその例が多い。數奇屋での醜態も時代ものの常套手段たる人形の見せ場として作られた誇張的光景であり、娘のためか我がためかわからないやうな激しい、但しやゝ滑稽的な、嫉妬も、かういふことに甚しい誇張をして往々人の笑を催すが常の時代ものを見なれた目には、不思議ではなかつたらう。だからこれらのことがらにょつて、曲中のおさゐの心の底に權三を思ふ情があつてその心理がおもしろく寫されてゐる、といふやうな推論をすることはできない。網島については、前に述べたところを綜合して見れば、作意のあるところはおのづから判るであらうし、油地獄の與兵衛の兩親に特殊の關係があるやうにしたのも、それによつて與兵衛の人物が作られてゆく徑路を説明しようとしたのではなく、前に述べた如く愁歎場を現出させるための用意に過ぎなからう。もつとも局部的には心理状態の巧みに寫されてゐるところもあるが、全體としてその人物に特殊の性格が具はつてゐるとは思はれず、概していふと、やはり時代ものと同樣、抽象せられた義理と人情との化身に過ぎない。さうしてこれは道徳的批判に於いても、人間の内生活そのものの價値を認めずして行爲の外形のみを(266)見、人格に根據を置かずして世間との關係のみを標準とする、この時代の一般の思想と相應ずるものである(このことについては別に後章に述べようと思ふ)。概していふと、作者も同じ作者、看客も同じ看客であれば、時代ものと世話ものとが共通の性質を有するのは當然のことである。近松の世話ものに於ける手腕は、たゞ平凡な心中や奸通の話を材料として、義理と人情とのこんぐらかつた幾場の物語を作り出した點にある。
 但し世話ものが、時代ものの如き荒唐不經な光景や場面の變化の少い點に於いて、比較的今人に喜ばるべき性質を有つてゐることはいふまでもない。が、それは主として理智の發達が人をして文藝の寫實的傾向に親しませたからであつて、時代ものとても必しも今人に排斥せらるべきものではない。現實の拘束を脱して天地以外の天地に心を遊ばせようとする欲求が人間にある以上、常軌を以て律し難い奔逸な想像が文藝に現はれるのは當然のことであつて、それは何等かの點に於いて斷えず現實を超越せんとしてゐる人間の内的生命に深い根據を有するものである。奇跡の類とても必しもわれ/\の心生活と縁遠いものではない。特に世の中があまりにも緊密に組織だてられ、窮屈な規律にはめこまれてゐた當時にあつては、實生活に於いて奔逸な行動が許されない代りに、空想の世界に於いてそれを覓めようとするのは、むしろ自然の勢であつたらう。近松の時代ものは今人の要求には適應しないところが多いけれども、その間往々われ/\の嘆賞に値するものが無いでもない。さうしてさういふものに於いては、敍事的三絃樂として極度に發達してゐた義太夫節の語りものとして、樂的生命が附與せられてゐたことを思ふと、それを讀んでわれ/\の幻影に浮ぶ舞臺やその變化が日常の經驗から遠ざかつてゐることなどは、必しも深く興趣を殺ぐものではない。世話ものとてもその興味はむしろ寫實的でないところにあるかも知れぬ。當時の人に於いてはなほさらさうであつたと考(269)られる。だから世話ものでも時代ものと同樣、その甚しく誇張せられてゐるのが、却つて深く聽衆の心を動かした所以であつたらう。
 なほ世話ものに場面の變化の少いのは、切狂言として演ずべき餘興的のものであるため、またそのよるところが世に知られてゐる單純な事實であるために、あまりに大げさな脚色を施す餘裕と便宜とが無い故であつて、時代ものと世話ものとの區別は、たゞ舞臺が廣いと狹いと、規模の大きいと小さいと、社會的地位の高い人物の名が現はれるのと市井のできごととして描かれてゐるのとの、差異にある。この點から見ると、世話ものはむしろ複雜な時代ものの插話として常に現はれる世話場に該當するものといつてもよい。それに幾らかの波瀾をつければ、そのまゝに一篇の世話ものができるのである。心中ものが主人公の死に終つてゐるのも、いはゆる善人が義理のために死する點に於いては、時代ものの插話として例の少なくないことであり、戀を主題としてゐる物語もまた插話としては常に見るところである(心中そのことに對する觀察は別に後章に述べよう)。さうしてその世話場と同じくこの世話ものにも、不自然な分子が混在するのみならず、それが獨立したものであるだけに、前に述べた如くいろ/\のむりな作意が加はつてゐるのである。
 しかし今人の眼に不自然と見えるものでも、當時の人には必しもさうは感ぜられなかつたので、それは主として元禄時代の道徳思想が今人のとは全く違つてゐたからである。後にいふやうに、この時代の義理といふ觀念は今人にとつては殆ど解し難いほどに不思議なものであるから、その義理のために泣いたり苦しんだりするのを見ても、今人はさしたる同情をよせることができないのに、近松はそれを極度に誇張して寫してゐるからである。だから知識の力に(268)よつて十分に當時の特殊な思想を理解してかゝらねば、近松を讀んでもその劇的進行の上に興味を覺えることが少く、曲中の人物の言動に對してはむしろ愚劣さを感ずる場合が少なくない。まじめな話が滑稽に聞え、まじめであればあるほど滑稽の感が強くなるのである。特に世話ものは平民の日常生活を寫したものとして考へられるだけに、その感じが一層強い。それほどに近松のは近松時代の思想的色彩が濃厚であり、從つて時代を超越する普遍的價値が乏しい。勿論、元禄時代の道徳思想も普遍な人間性がその中核となつてゐ、從つて近松の作にもそれが現はれてゐることはいふまでもないが、元禄時代の社會とその間に於ける生活とによつてその人間性に特殊の色調が與へられ、近松の作劇の技巧によつてそれが甚しく誇張せられてゐるために、かういふことになつてゐるのである。
 こゝまで書いて來ると、おのづから近松と西鶴とを對照して見たくたる。同じく市井のできごとを題材としたものでも、近松に今人の同感を惹き難い點が多いに反して、西鶴の妙趣は何人にも容易く理解せられる。西鶴は人間としての普遍なる本能に向つてその鋭い眼を注いでゐるからである。種族保存と自己保存との根本的欲求を觀察の對象としてゐるからである。西鶴の觀察が正當であるといふのではない。たゞ人生の根本問題に接觸してゐるといふのである。全體からいふと、近松はどこまでも世の中にあつて、義理も人情もあるその世の中に生きてゆかうとする人間を寫してゐるに反し、西鶴は超然として世外に立ち、滑稽的に色と慾との世間を眺めてゐる。近松の世間は、四方八方に二重三重の義理がからまつてゐるむつかしいところであるのに、西鶴のは、或は矛盾に充ちた、或は色と慾とでかためた、或は何とかして生きてゆかれる、可笑しい世の中である。近松の遊女は、義理と戀との幾重の羈に身をしばられて、やゝもすればその身をも人をも殺さねばならぬのに、西鶴の遊里は、金の威光のかゞやく歡樂郷であり温柔(269)窟であり、或は美しい貌つきをして金を欲しがるもののゐるところである。近松の心中は、男も女も濺ぐべき限りの涙を濺ぎ盡して、その上に更に血を濺がんとするものであるのに、西鶴のは愚かもののしわざである。これは近松が個人の行動を寫さねばならぬ劇の作家であるのに、西鶴が世相を描く浮世草子の作者であるからでもあつて、近松が曲中の人物に同化してそれと喜怒哀樂を共にし行止動靜を共にしてゐるのに、西鶴が如何なる場合にも傍觀者の位置を離れないのも、この故である。前に述べた如く西鶴も行文の上では常に自己を現はしてゐるが、事物を觀察する態度はどこまでも傍觀的である。近松は文體の上では敍事的であるが、人を寫す場合はいつもその人に同化してゐる。近松とてもその寫すところは、個人の運命などよりは、むしろそれを支配する因果應報の觀念とか義理や人情とかいふものにあるが、ともかくも舞臺に現はれたところは、さういふ觀念に制約せられ、さういふ義理や人情によつて動かされてゐる、個人である。
 けれどもまたこの差異は二人の人生觀もしくは處世觀に由來するところもある。近松の戀に熱情があるのに、西鶴の好色が肉慾かまたはそれを遊戯的に見るいはゆる粹かであるのも、偶然のことではない。近松のおなつ清十郎は戀のために心をやぶり身を滅したものであるのに、西鶴はそれにすら花見の一段を滑稽的に描いてゐるし、柱暦に見える近松のおさんの過失は、うは氣な夫を辱しめるための詭計であるのに、五人女に描かれた西鶴のは、茂兵衛をなぶるための戯れではないか。西鶴のこの態度も、一方からいへば浮世草子として低級の笑を讀者に求めるためではあるが、他面からは見れば彼が社會の外面的規制に頓着せず世間的道徳に拘泥しなかつたためであつて、うき世の義理を寫すよりは人間の本能と根本欲とを描いたのもこの故である。從つて近松は飽くまでも當時の社會の便宜道徳を尊重(270)してゐて一歩もその外に踏み出さうとはしないのに、西鶴は一種のふざけた態度ながらその道徳の上に超然としてゐることができた。近松が、例へば津國女夫池に於いて兄妹相婚を描きながらその實は兄妹でなかつたやうにしたのも、道徳的にそれを否認しようといふ意志が根柢にあるのであらう。彼の作にはすべてに於いてかういふ用意が見えるが、西鶴にはそれが無い。近松と西鶴とのこの反對した態度は、堅固に見える表面の社會形態と裏面に於いてそれを破壞しつゝある力とが存在する、元禄思想の矛盾した兩面をさながらに示したものとも見ることができよう。もつともこれは固より概論にすぎぬ。近松にも往々洒脱な態度はあり、遊女を描いてもかの傾城請状のやうなものを書いてもゐる。
 近松に關する著者の見解はほゞこれで言ひ盡したと思ふから、最後に彼の詞章について一言を添へておかう。いふまでもなく、それは單純な讀みものではなく、語りものとしてまた人形をはたらかせる臺本として作られたのであるが、この點から見て古淨瑠璃とは比較にならぬほど優れてゐることは、既に述べた。しかしその修辭法として好んで頭韻疊音疊語またはいひかけを用ゐ、特に技巧のために技巧を弄ぶやうな場合には、音や語の類似から異つた觀念に際限も無く轉じてゆき、輕快奔逸もしくは滑稽の趣を具へてゐると共に、急迫焦烈の感をも與へるのは、舞臺の上で人形の肢體を敏活にはたらかせることを努めたと同樣のこと、またそれと相應ずるもの、であつて、文章として見る時は甚だおちつきの無い、場合によると下品な、感じを喚び起すのである。もと/\この頭韻や疊音疊語及びいひかけの類は、或る程度までは輕快の感を與へるが、あまり長く續けられたり濫用せられたりすると、觀念の變化してゆく快さよりは、或は同じ音や語に固着してゐる感じが強くなり、或は斷えず新觀念に追ひかけられる苦しさがある。(271)前に述べた如く宗因の句にもこれが盛に用ゐられているが、それは短い詩形の中でのことであるからかういふ弊が無い。近松の七五調に往々流暢であるよりも却つて切迫した感じがあり、勢に乘じて急坂を馳せ下るが如く、輕い氣分よりも息ぜはしく胸のつまる心もちがするのも、これと同樣である。釋迦如來誕生會の耶輸陀羅女が花によそへて思をのべるといふ詞などは、その標本的なものであらう。西鶴の文のおちついた感じを與へるのは、かういふ修辭法を用ゐない故でもある。頭韻や疊音疊語の類は我が上代人の最も好んだところであるが、宗因や近松は必しも意あつてそれを學んだのではなく、輕快を喜ぶためにおのづからかうなつたのであらう。西鶴が冠詞序詞に似た修辭法を好んだと共に、これは國語の特質の古今一貫してゐること、或はむしろ國民の嗜好が古今ともに同じ方面に現はれたことを示すものであらう。近松のはその上になほあまり隈なく言ひ盡すのと、甚しい誇張や種々の言語上の滑稽が累見疊出するのとで、文章としての品位はます/\下るを免れず、この點に於いては西鶴の方が優つてゐるが、これもかの人形のためであるとすれば、近松をのみ咎めるわけにはゆかぬ。巧みに人情の寫されたところもあり警句めいたものもあることは勿論であるが、概していふと、内面の深さよりは外形の花やかさの方が勝つてゐることは爭はれぬ。いはゆる詩歌はいふまでもなく、和漢古今の典籍や佛書などから取出して來た辭句を到るところに利用してゐるのも、それであるが、當時の看客にはその意義をすら理解しかねるものが多かつたであらう。たゞ俚諺や俚謠を巧みに取入れたのは、啻に看客の興味をひいたのみならず、平民藝術としてふさはしいことでもあつた。近松の文章はかういふものであつたが、しかし彼に得るところが多かつたらしい後の馬琴の文章の如く生氣の乏しいものとは違ひ、どこまでも奔放不羈の状があり、五彩燦然として光芒陸離たる感じのあるのが近松の特色であつて、やがてまたそれが元禄(272)時代の世相と相應ずる點であらう。
 
 眼を轉じて元禄の江戸を觀ると、一般文化の大勢に伴つて、淨瑠璃に於いてもまた寛文時代の如くひたすらに武ばつた金平ものなどを喜ばぬやうになり、そのころから既に近江語齋などによつて示されてゐた新傾向がます/\發達して、それが土佐節及び半太夫節に現はれてゐる。土佐の曲目を見るに、酒?童子や和田酒盛のやうな古武士の物語は却つて少く、謠曲を本にしたらしい小町とか松風とか融とかいふものが現はれ、特に光源氏に關するものが數曲に上つてゐる上に、京四條お國歌舞伎とか三世二河白道とか、または名古屋山三、傾城三國志、博多露左衛門色傳授、とかいふやうな、主として遊里の光景を示す目的で作られたものの少なくないのが目につく。源氏六條通とか對面曾我とかいふものにもまた遊里が見えてゐるが、繪入淨瑠璃史によれぼ金平ものにさへその末期には遊里が結合せられたといふから、元禄の江戸にはこれが無くてはならなかつたであらう。他の一面では、平安朝の貴公子などを主人公にしたものでも、やはり武士的な種々の葛藤が加味せられてゐるし、遊里を題材としたものでも、名古屋山三の如きは敵打、お國歌舞伎の如きはお家騷動めいたことの、脚色が施されてゐるので、殺伐な光景や權謀術數の行はれる場面の無いものは少い。そこに徳川時代の演藝としての通相が認められるが、武士的遊蕩兒としての名古屋山三などが特に喜ばれたらしいのは、武士の都府たる江戸で演ぜられたためでもあつたらう。
 しかし土佐淨瑠璃は武士的葛藤を描いても、概ね粗大なまた單純なものであるのみならず、近松によつて代表せられる上方の淨瑠璃の如く、義理と人情とのもつれあつたむつかしい心的葛藤を細かく寫し出してはゐない。從つて物(273)語の筋も複雜でなく、むりな趣向も少いので、近松を觀たものがこれに向ふと、あまりに窮屈な義理づめ、人情づめ、理窟づめ、に氣をつまらせたのが、急に伸び/\として氣樂に美しい舞臺を眺めることができるのである。同じく遊里を見せても、こゝではむしろ浮世草子の面影がある。實際、博多露左衛門色傳授がいはゆる色道修行の物語であるのみならず、三世二河白道や名古屋山三にも色道の思想はあり、また三都の太夫を會合させるといふ傾城三國志の着想も、本來浮世草子の領分に屬すべきものである。三世二河白道の主人公には浮世の介の名さへあるではないか。土佐淨瑠璃の特色は即ちこれであつて、歡樂郷としての花術情調が最もはなやかに寫し出されてゐるのが、近松にもその他の上方淨瑠璃にも見えない江戸ものの特色である。半太夫の曲目にも好色與之助といふのがあるから、これは當時の江戸人には大にもてはやされたのであらう。(ついでにいふ。近松の十二段長生島臺には世之介の名があり色道修行といふ語もあつて、牛若にそれを託してあるが、それは全曲の構想には關係の無いことである。)上方に起つた浮世草子の影響が、その上方よりもむしろ江戸の淨瑠璃に現はれたのは、一見奇怪なやうであるが、それは上方のが近松のやうに人生の葛藤を寫す戯曲として發達するか、または一中富松などの語りものの如く感傷的な抒情の方面に向ふかしたのに、江戸では粗笨な敍事的物語として武士の行爲の外面を見てゐた眠が、そのまゝ遊里に向けられて、やはりそれを外部から美しく眺めたためではあるまいか。さうしてそれは遊里を單なる歡樂郷と見なす江戸人、特に武士、の思想にもおのづから適合したのであらう。
 土佐淨瑠璃の詞章は平板な古淨瑠璃風のもので、全體に於いて生彩に乏しい幼稚なものではあるが、俚謠の類を多く取つてゐるのと、箏歌や種々の三絃曲や、諸流の淨瑠璃の曲節を集めて大成してゐるのとで、樂曲としては興味の(274)淺くないものであつたらしく、にぎやかな花街情調はそれによつてよく表現せられてゐたのであらう。ところが半太夫節になると、抒情的な傾向が著しく加はつてゐたらしく、特に座敷淨瑠璃としてもてはやされたことを思ふと、花やかでも賑やかでもあつたらうが、全體に柔和な傾向を有つてゐたらしい。半太夫の語りものについては、著者は松の葉などに採られてゐる景事道行の類や河東節に傳はつてゐる小曲と、聲曲類纂に見える曲目との外、何物をも知らないが、もと説教や祭文が巧みであつたといふ彼の經歴、それが上方唄にとられたこと、その景事道行に古歌などを多く引用してゐること、またその門から河東節が出たこと、吉原のできごとをそのまゝに書きつゞつて語つたといふ「後は昔物語」の記載などから、かう推測せられる。その曲目を見ると、曾我なり景清なりの古式士の物語も無いではなく、その他のものでも殺伐な光景が多く點綴せられてゐたではあらうと思はれるが、またその間に遊里の物語なども加へられてゐたに違ひなく、特に種々の世話場、例へば袖留曾我の髪梳の如きもの、が結びつけられたことは注意すべき現象である。かう考へて來ると、次の時代になつて義太夫節や一中節が江戸に流行して來る氣運は、この間におのづから開かれてゐることが知られよう。のみならず淨瑠璃に於ける上方の影響は既にこの時代から存在してゐるので、半太夫の語りものには例へば百日曾我や蝉丸などの如き近松のの改作もあり、吉原のできごとを語つたといふのも上方の世話ものの摸倣らしく、時代ものに世話ものを結びつけるのも、直接には歌舞伎から來てゐるであらうが、間接には上方の先蹤に從つたものであらう。外記ぶしに近松から取つたもののあることは上に述べた。土佐節には一々の曲の上にさはどな影響は見えないやうであるが、上に述べたやうな大體の傾向は、一面の意味に於いてやはり淨瑠璃の上方化といつてもよい。けれどもそれが義太夫の如く劇化せられないのは、江戸人の演藝に對する趣味が(275)上方人とは違つてゐたからでもあらう。さうしてそれは歌舞伎に於いて特に著しく現はれてゐる。
 江戸の歌舞伎が主として時代ものであり、その結構が甚しく荒唐不經であつて、演出法もむしろ偶人的であるといふこと、さうしてそれには淨瑠璃の影響があるといふことは、前に述べておいた。ところが元禄のころには、こゝにもまた中村少長のやうなむしろ上方式の役者が現はれ、その上方に於いて傾城淺間嶽の如きものを演ずるやうになつた。また例へば兵根元曾我に髪すきの一段を加へるなど、時代ものの中に世話場を組みこみ、或はまた十郎が鮨屋になつたり五郎が外郎賣になつたりするやうなやつしごとの形をかり、或は大磯の名によつて吉原を示す如き方法によつて、時代と世話とを混ぜ合はせるやうなことが行はれたのも、上に述べた如き平民演藝の自然の要求ではあるが、歴史的にいふと上方の歌舞伎を學んだのではあるまいか。けれども同じく巷談街説を種にしながら、市井のできごとによつて人情を寫さうとする上方のそれとは違つて、「老の樂」の説の如く山姥の子を生んだとか狐の廓がよひとかいふやうな奇譚に目をつけ、或は助六の如く上方の心中物を一轉して艶麗なる花街の光景と寛濶なる?客の氣質とを見せようとするのは、「暫」とか草履うちとかまたは不動に化つて荒行をするとかいふことが喜ばれたと同樣、やはり當時の江戸人の演藝に期待するところが上方とは異つてゐたからである。だからその内容はよし世話的のものであっても、いはゆる世界を時代に定め、さうしてそれに花やかな、または勇ましい、所作事を插まねばならなかつた。或はむしろかういふ所作事を見せるのが主であつて、物語の筋はたゞそれを表面に浮き上がらせる背景となつてゐるに過ぎない、といつた方がよいかも知れぬ。「暫」のやうなものをどの曲にでもかつて次第に插みこむのもこの故である。いはゞ世話的の場面、例へば助六や髪梳や甘酒賣など、にすら長唄なり淨瑠璃なりがそれに伴ひ、或は「せり(276)ふ」といふ特殊の白があるのもこれがためであつて、一體に江戸の歌舞伎は非寫實的であり、また樂的所作事的氣分が全曲にゆき渡つてゐる。元禄時代となつてもなほ新發知太鼓や海道下りの面影が殘つてゐるともいはれようし、繰人形式の演出がどこまでも行はれてゐるとも見られよう。ともかくも看客はその場/\で目を喜ばし耳を樂しませればそれでよいのであつて、舞臺の上に人生を覓め世相を觀ぜようとはしなかつたのである。その筋が非寫實的演出法と相伴つて上方のよりも一層荒唐不經なものであるのも、この故である。歌舞伎の演奏をまとまつた一つの藝術として見ない傾きのあることは上方でも同樣であるが、江戸に於いてはそれが最も甚しく、從つてまた劇中の人物と個人としての俳優との混淆も、また上方よりは更に放縱であつたらしい。
 さてこの歌舞伎と淨瑠璃とは互に影響を及ぼしてゐるが、特に淨瑠璃が歌舞伎に於いて語られる習慣は、一層その間の關係を深くしたに違ひない.土佐のにも半太夫のにも歌舞伎に演ぜられたと同じ外題のものがあり、松の葉に見える永閑節の寛濶一休に團十郎の面影が見られるのも、それを證する。さうして後までも歌舞伎と密接の交渉を有つてゐた半太夫及びそれから出た河東が、一段淨瑠璃として世に廣く行はれたのも、またこゝに一因由があるのであらう。
 以上、著者はこの時代の淨瑠璃と歌舞伎との概觀を述べて、ほゞいはんとするところをいひ終つた。ところがかう考へて來ると、文藝のこの方面に於いても、その發達は殆ど一たび頂點に達したものであることが知られよう。出雲以後の作が近松の外形を一層業々しくしたのみで、その内容に何物をも加へることができなかつたこと、江戸の淨瑠(277)璃が享保以後に於いてはます/\浄瑠璃の特色を失つてゆくこと、歌舞伎に浄瑠璃の改作が多くなつてゆくことは、みなこれを證するものであつて、一般文化の停滯の氣はこゝにも現はれて來るのである。
 
(278)     第十二章 支學の概観 八
 
       擬古文學及び漢文學
 
 元禄前後の國民生活の表現せられたものとしての當時の文學は、前數章に説いたところでほゞつきてゐる。が、こゝに一言しておかねばならぬことは世の一隅に存在してゐる擬古文學であつて、それは尚古思想の一發現として、やはり時代の精神の一面を示すものである。一般の文學の上にもこの思想は種々の形に於いて現はれてゐるが、それが古文學、特に和歌、の摸作としても世に行はれたのである。古代文化の遺物を傳へてゐることが唯一の誇りである公家貴族はいふまでもなく、武家貴族、富裕の農商、または知識階級、の一方面では、室町時代からの因襲によつて和歌を學ぶことが習慣とたつてゐたので、それは閑人の消閑事としても最もふさはしいことであつた。さてその和歌は貞徳及びその門下によつて廣く世に傳へられた點に於いて、この時代の初めから既に平民的のものであつたけれども、彼等が公家貴族を師とする形を取つてゐたことと、二條家一流の傳統的思想を重んじたことと、に於いては、どこまでも貴族的守舊的であつて、むしろ室町時代の方が自由であり活氣もあつたといつてよい(「武士文學の時代」第二篇第四章參照)。それは戰國時代から民間には別に新しい文學が起つて、氣力あるものはすべてその方に向ひ、和歌などにすがりついてゐるものは、その新趨勢に迫從することのできない無氣力の徒であつた故であるが、かうして世の變革に取り殘されたものは、却つて舊樣を保守してゆかうといふ傾きが自然に生ずるのと、平和時代の秩序の固定につれて現はれた特殊の尚古思想とも、またそれを助けたであらう。繪畫に於いて、狩野や土佐の流派に屬するもの(279)が浮世繪または宗達光琳などによつて起された新しい運動に加はることができずして保守的になつたのも、これと同樣である.貞徳自身に於いても、一方ではかういふ古文學の形骸を大切に捧持してゐながら、他方では新しい俳諧に力を注いだので、そこに少しでも心のあるものが舊態に滿足することのできなかつた時代の思想が現はれてゐる。
 しかし平民の知識の進歩に伴ひ、かういふ師承の外に立つて古文學に志をよせるものもまた生じて來たので、それは形の上に於いて公家貴族からの師承が無いのと同樣、歌そのものに於いておのづから奮い傳統から脱しようとする態度を示すことになつた。下河邊長流は和歌は貴族の占有物でないといつて平民の作者を重んじ(林葉累塵集〕、契冲は禁忌の守るに足らざることをいひ(河社)、また戸田茂睡は詞の制限に關する通説を一般的に強く非難してゐる(梨本集)。特に茂睡が古歌には俗謠や道化が多いといつてゐるのは、古歌を解する識見に於いて時流に卓越してゐるのみならず、もしそれを作歌の用意として徹底的に主張するならば、和歌の革新を誘致すべき考である。だからこゝにこの時代の自由な平民的精神が明かに現はれてゐる。
 が、彼等のかういふ主張は、詩人としての自家の已み難き要求から出たといふよりも、むしろ知識から生まれた理説であつて、從つて現に存在してゐる歌といふものを基礎としてのことである。だから概していふと、歌をそのまゝにしておくといふ要約が暗黙の間にあるのであつて、歌そのものを根本的に革新しようといふのではない.特に契冲の如きは語學者であつてその本色は古歌の解釋にあるから、自然に標準を古歌におくことになり、茂睡とても「古にあらすきかへせ言の葉の道は狹くもなりにけるかな」といつて歌の復古を心がけてゐる。本來新しい平民文學の勃興した世の中に於いて、それに向はずして歌に執着してゐることが、既にこの傾向を示すものである。從つて「古にか(280)へす」といつても古歌の成立した根本の精神に還るのではなくして、成立してゐる古歌が標準になるのである。かういふ尚古主義が根柢にある上に、全體の趣味が因襲的であり、作歌を一つの技藝として見る習慣も失せてゐないから、彼等は、よし歌は思ひをのぶるものであるといふ古今の序以來の漠然たる考を有つてゐたとはいへ、決して新しい思想なり情懷なりを歌に託しようとはしなかつた。否、さういふ新しい思想や情懷を有つてゐなかつたのである。彼等の考が不徹底でその作がどこまでも擬古文學たる所以はこゝにあるので、古い革嚢に新しい酒を盛らうとする現代の新しい歌人と違ふところも、またこゝにある。
 だから彼等の歌には、用語の上に二條派の末流の墨守してゐるやうな拘束を受けない點はあるとしても、やはり古來の歌詞によつて因襲的な製作をするのであるから、畢竟はそれと五十歩百歩の差異に過ぎない。内容については固より論ずるまでもないが、外形の上に於いても「小山田のかりほの庵の夕露にからぬ稻つむ秋萩の花」(晩花集長流)。「いかにせん軒端の荻をかりすてて聞かじと思へぼ四方の秋風」(漫吟集契冲)のやうに新古今風を學んだり、「片岡のあしたの原も曇るまで雪ま少き若菜をぞつむ」(同上)の如く萬葉の詞を用ゐたり、その他、古今以後の種々の風體を手あたり次第に摸倣してゐて、さういふ方面にすら何等の特色も無い。「今日までの春の日數は淺みどり立そへ霞色ませ外山」、「秋の色を深く染めても染まりても空し露霧散りし紅葉」(以上鳥の迹茂睡)、などは少しく變つた口つきであるが、たゞそれだけのものである。詩人らしい感觸も見えなければ、情熱は勿論なく、すべてが低調で、理智的で、遊戯的で、要するに死んだ詞の配列にとゞまる。古語の知識を有することが歌を作る殆ど唯一の要件とせられ、和學者と歌人とが同一視せられたのがこの時代の有樣であつたが、それは即ち歌が古語をならべる技術であつた(281)からである。詩の革新は詩人の力によらねばならぬ。和學者が歌に生命を與へることのできないのは當然である。蕉門や鬼貫などの俳諧に於いて自然界の新情趣が發見せられ新しい人生観が表現せられてゐるのに、歌人の歌に全くそれの無いのを見るがよい。茂睡は江戸にゐたがその歌に關東の地方色などは殆ど寫されてゐず、武人の情懷も歌はれてゐない。或はまたこれらの歌の作者の連歌をしなかつたことが、歌の革新のできなかつた一つの理由となつたかも知れぬ。歌の作者を兼ねてゐた連歌師からの師承の無いものであつたのと歌の復古を心がけたのとのために、連歌師から離れたのであらうが、連歌から轉化した俳諧の連句を經て蕉門などの新しい連俳や俳句が生み出されたのを見ると、かういふ推測にも幾らかの意味があらうか。
 しかし歌は一種の簡單な遊技として、隱居しごととして、ともかくも廣く世に行はれた。古歌や古物語の注釋の多く世に出たのも、一つはこれがためであつて、特に貞徳門下の人々にはこの室町時代以來の因襲的思想が依然として存在してゐたらしい。例へば季吟の枕草紙春曙抄の序を見るがよい。が、室町時代以前に作られたやうな擬古的物語などはさすがに現はれなかつた。當時の人の特殊な情生活を寫し出すものとしては、擬古文學はあまりにも縁遠いからである。歌人たる茂睡の紫の一本に東海道名所記を學んだらしい文體のあるのは、洒脱な態度を觀たり風俗などの外部的描寫をしたりするのですらも、擬古文ではできないからではあるまいか(下の卷の掘かねの井、並木茶屋の段、など)。
 しかし古歌古物語の注釋にもやはり知識の進歩が促した一味の平民的傾向は見えるので、例へば季吟が古今集の抄を通覽すると、表てだつて傳授などを破壞はしないけれども、説くべきことは明かに説いておいて、口傳は別にある(282)が無意味なものだから重んずるに足らぬ、とする態度があるやうに感ぜられる。かういふ傳統を有たない契冲などが口傳などを輕んじ、また漫りに古歌を神聖視するを難じてゐるのは、固より當然である(古今餘材抄卷二、一〇)。けれども季吟などの注釋そのものが依然として舊樣式によつたものであることはいふまでもなく、契冲の新しいところ卓越せるところは古語の解釋であつて、文學として歌を見る點ではないから、その新研究は學問の上にこそ新しい方向を指示したものであるが、文學の上にはさしたる關係が無いといつてよい。(これは眞淵以後のいはゆる國學者に於いてもほゞ同樣である。)
 
 次に考察を要するは漢詩である。日本人が一種の文字上の遊戯として漢詩を摸作することは、昔から知識社會に行はれたことであつて、それは本來摸作であるといふことからも、またよしそれによつて自己の情懷を述べ目前の光景を寫さうとするにしても、文字そのものに附隨するシナ的情趣のために妨げられて、到底滿足にはそれができないといふことからも、眞の日本の文學として見るべきものではないが、ともかくもそれが如何に行はれてゐたか、また如何に取扱はれてゐたかを觀察することによつて、時代の思潮の一面が覗ひ知られるからである。さて我が國に於ける漢詩の歴史を囘顧してみると、奈良朝から平安朝の初期にかけての純粹な摸作時代の次には、平安朝の盛時に於ける日本化があつて、それが後までも公家貴族の間に遺存してゐたし、義堂絶海などを中心とした五山僧によつて叢林の間に摸作時代が再び開かれた後には、萬里などに於いて著しくなつた日本化がまた行はれた。勿論日本化といつても、作者の叔本の態度は依然として漢詩の摸作であり、特に五山僧のはシナ趣味がその基調をなしてもゐるが、ともかく(283)も日本の事物を題材に採るやうになり、さういふものに於いては幾らか日本人の情思や趣味が現はれるやうになつて來たのである.が、かういふ日本化は漢詩としてはいふまでもなく退歩である。詩といふものが、散文とは違つて、用語や措辭などの外形とその内容をなす思想とを離すことのできないものである以上、漢詩によつて日本人の思想を表はさうとすれば、漢詩らしくない詞と表現法とを用ゐる必要があり、從つて純粹の漢詩眠から見れば蕪雜になり粗野になるのは當然であつて、それは異國の詩を摸作するといふことから來る必然の徑路である。
 ところがこの時代の初期の漢詩は、日本化した五山僧の詩の繼續といふべきものであり、尺五のも順庵のも仁齋東涯のもまたは鷲峰のも、概していふとその範圍を出でない。さうしてそれは、羅山、惺窩、また溯つては策彦、などのをとほして、それよりも少し前の萬里の作にも接續するので、その間の道すぢがほゞたどられる。「一峯偃蹇峙數仞、雨洗煙鬟翠微潤、湖面高懸鏡山容、水光相對磨不?、」(鏡山尺五集)、「爛漫櫻梢奪晩霞、嫩條恰似柳條遮、絲々今日雖裁錦、更恨無由繋落花、」(垂絲櫻錦里文集)、「故郷願望白雲飛、内屋山邊涙濕衣、欲報行人安穏事、更無相識向西歸、」(宇津山同上)、「須磨浦口月如霜、千鳥飛々聲更忙、半夜潮頭大於屋、不知何處又?翔、」(千鳥古學詩集)、「兩峡成門倚海涯、明光勝景素相誇、天風直自南溟超、萬頃銀濤噴雪花、」(和歌浦紹述文集)、などを、「飛鳴有鳥角田川、名曰京都聲自然、我亦舟中?浦客、斷腸認作琵琶絃、」(角田川惺窩文集)、「小町以歌鳴大倭、偶看遺像涙滂沱、舊時年少勝花面、今作一場春夢婆、」(小町賛策彦集)、「扶桑翰墨若分評、歌道彌高詩却輕、朝霧未晴明石浦、行舟隔島棹無聲、」(人麿賛梅花無盡蔵〕、などと併せ讀めばそのことがわからう。「延喜式中名不泯、松原繁茂海隅濱、昔聞有度羽衣舞、今見庵原鎭座神、」(御穗鷲峰文集)、「五十鈴鳴五瀬聲、到來特覺此心清、人生底事吟根國、八咫鏡中日月明、」(284)(太神宮垂加文集)、などはかういふ風體の最も甚しいものである。國語をそのまゝに用ゐ日本の故事を題材とし歌人の因襲的思想を繼承してゐる作のあることは、これらの一二の例でも知られるが、家集を見るとこれらの作者には和歌の題を詠ずることが頗る多い。日本人の思想で日本の事物を詠ずるとなれば、おのづから日本の歌によらねばならなくなるのであらう。もつともこれには堂上の詩風の影響もあるらしく、京の作者は彼等としば/\唱和應酬してゐるが、それも畢竟同じ由來を有つてゐるのである。これは恰も探幽などが富士山を畫いたと同じである。
 さてかういふ誇は漢詩として見れば殆ど詩と稱すべからざるものであるが、それは必しも漢詩にふさはしくない日本的題材や用語のあるものに限つてのことではない。だからそれにはまた漢詩を摸作する技倆に乏しいといふ理由もあり、本來詩を解しない學者の作つた遊戯文字であるといふ事情もある。概していふとこれらの作は、本來何等の感興の無い散文的な思想を詩の形にあてはめて書きつゞつたものに過ぎず、恰も倭學者たる季吟長流などの和歌と同性質のものである上に、シナの文字の知識とそれを用ゐる技巧とは、倭學者が古代の國語に對するよりも、ずつと淺薄でもあり拙劣でもあつたので、そのためにかういふものになつてしまつたのである。詩が異國のものたる所以はこゝにもある。たゞこの間に立つて獨り異彩を放つてゐるものは深革の元政であつて、平明な文字に託するにその日常生活を以てして、而もよく詩たるを得てゐる。「逐月乘風出竹扉、故山有母涙沾衣、松間一路明如晝、遙識倚門望我歸、」(對月思歸)、「萬里無雲双眼明、杖藜得々曳我輕、フ天爲蓋地爲履、終日吟行行不行、」(漫興)、故山の母を思ふ至情、飄々として天地の間に吟行する方外の士の風懷、がよくその文字の上に現はれてゐるではないか。「絲頭亂緒白雲芳、變態百起終不常、清話濃時尺還短、安禅倦處寸猶長、」(線香)、「夜深心清猶未眠、子規啼徹月明前、半窓掲盡無人見、(285)影滿空牀聲滿天、」(月夜杜鵑、以上草山集)、或は目前の事物を詠じて清新に、或は和歌の風情を傳へて温雅である。しかし彼は詩人たる資質とシナの文字を用ゐる或る程度の技倆とを有つてゐると共に、強ひてシナの詩を摸作しようとしないところに日本化した點があり、從つて詩としてはシナ的氣分に乏しい.賦を作つても賦らしくなつてゐないのもこの故であらうか。その思想に日蓮宗の僧らしいところの無いのは、彼の個人的趣味のためであらう。
 ところがシナの學問の進歩につれて、その文學に關する知識が加はつて來ると、これらの作がシナ人の詩らしくないことに氣がつき、從つてシナ人の詩を摸倣しようといふ考が生ずるので、そこから我が國の漢詩史上に第三囘の摸作時代が開かれることになる。白石、鳩巣、南海、などの木門諸子に始まり?園の才子輩に至つて大いに現はれた新運動が、即ちそれである。これは一面の意味に於いては、契冲などによつて行はれた和歌の復古運動と同じ時代精神の發現であつて、やがてまた後の眞淵の萬葉鼓吹を誘ふものともなつたが、他方から見れば文學上に於けるシナ崇拜の一現象でもある。さうしてこれは、南海などから始まつた南畫の摸作をも誘つたので、この二つは畢竟同一趣味の發現である。
 この新運動の目標は主として千年前の唐詩であるが、それは今體の詩の形の始めて大成した時のものだからであつて、五山僧のも平安朝初期のも同樣であつた。もつともその傍では速く漢魏六朝の詩賦の類を學んでゐるが、これもまた同じやうに昔に行はれたことである。同じものを目あてに同じやうた摸倣時代を上下千年の間に三度も反覆した日本の漢文學の、單調なのと貧弱さとを見るがよい。さて既に摸作であるとすれば、邊城曲とか採蓮曲とか我が國に無い題材を唐詩の文字にたよつて作ることの流行するのはいふまでもないが、我が國の事物を詠ずるにも、やはり昔(286)の弘仁時代の文人や五山僧の試みた如く、用語と表現法とを盡くシナ風にする。日本の固有名詞は詩にはふさはしくないから、いはゆる複姓を單姓にするやうなことばかりでなく、江戸を武昌といひ箱根を函谷といひ加賀を賀蘭州といひ和歌浦を弱水といふやうに、シナの地名をあてはめる。風物もすべてシナ化せられ、しだれ櫻には「h樹垂々紅欲流、春風花外夕陽收、更疑天上銀河水、飛桂君家百尺櫻、」(鳩巣集)といひ、隈田川の雪には「澄江風雪夜霏々、一葉双漿舟似飛、自是仙家酒偏醉、無人能道?溪歸、」(徂徠集)といひ、また難波の浦の霞には「春入三津曙色分、綵霞十里?青雲、浪華城上神仙吏、應有騎鸞朝老君、」(蛻巖集)といふ。神仙の思想も常に詩に現はれるが、これは何ごともシナ思想の背景の前に置かねばならぬからで、水仙に對して「素面黄冠曳碧紗、住煙霞不染煙霞、至清誰道無儔侶、配得當年萼緑華、」(南海集)といふのもその一例である。富士に神仙を附會するのは常のことであるが「西指崑崙東富士」(南海集)といひ「十萬八千丈、天台難比肩、」(同上)といふ如く、崑崙天台に比するものも多い。だから甚しい誇張をして事實に違ふことの多いのは勿論であつて、「不識天台路、遙知仙子家、桃花流水色、蒸作赤城霞、」(白石餘稿)が東叡山の風光であり、「家住駿臺下、門臨萬里流、隱雲平野樹、棹雪遠江舟、」(鳩巣集)が神田川の眺めであるのも、驚くに足らぬ。越中に歸らうとしてゐるものに對して「越王臺上越禽飛、義士當年盡錦衣、莫問陶朱功就後、扁舟獨向五湖歸、」(白石餘稿)といふのは、越の文字によつて土地にも人にも全く縁の無いシナの故事を附會したのである。日本の故事もシナ化せられねばならぬから、伊弉諾尊の幽宮を詠じては「蒼梧慘澹帝陵樹」(鳩巣集)といひ、茅渟海に於ける神武天皇東征の物語を「天將逾津日、黄龍負帝舟、」(白石餘稿)といふ。詠史の類に於いて文字のために專實を曲げ傳説を改作することも普通であつて、義貞が七里の濱で水に投げたのが劍でなく(287)して璧であるぐらゐはいふにも足らず(經七里濱入鎌倉南郭集)、それが甚しくなると、奈良覽古の詩に「黍離除廟略、麥秀入雄圖、冠佩今安存、豺陋狼入九衢、」(平野金華)のやうなものが作られる。
 さてかういふ漢詩界の新運動は、元禄享保のころに於いて一世を風靡したが、それはあまりに現實を無視するといふ點から、或は一種の名分論から、大に後人の非難をうけたことである。その非難は主として?園に集中せられたやうであるが、これは必しも當らない。徂徠の古文辭の鼓吹は明人に特殊の由來はあるが、その詩に對する態度は畢竟木門諸子のを一歩進めたものに過ぎぬ。しかしシナの詩を作る上はシナの詩らしくしなければならず、それには用語も表現法も思想も、すべてシナ人の作と違はないやうにするのが自然であるから、既に詩を作ることを許す以上、この非難そのものもまた必しも當つてゐない。言語と思想とは本來不可分のものである上に、詩に於いては特にさうだからである。日本人がシナの詩を作るのは本來摸作であるべきはずであつて、徂徠の見解は、この點から見ると怪しむべきでない。だから雅俗の辨がこゝに生ずるので、唐詩に用ゐられた事物用語を雅とし、その他のものは俗として詩の國から斥ける。南海が詩訣に於いて和の地名は俗、すべて耳近かなものは俗、實事をそのまゝ用ゐれば俗だといひ、詩學逢原に於いて我が國のこと近世のことはすべて俗だといふやうに説いてゐ、さうしてその雅俗を主として言語文字の上から見てゐるのも、必しも無稽の言ではない。畢竟、自國に無く自己に無いこと、現實でないことを、詩の必要條件として、それを雅といふのであつて、實用的でないといふ意義での雅とおのづから相通ずるところがある。白樂天の詩風を俗とするのもそれが人情に切なる故であつて、その用語が耳近いといふのも根原はこゝにある。これは歌人や國學者が上代を尚ぶと同樣であり、何れも目前の事物を輕んじ自己と自己の情生活とを蔑硯するものである。(288)(次の時代になつて喧ましくいはれる和歌の雅俗辨は、この詩の論が學ばれたものらしい。)
 が、一方からいふと、これは現實には存在しない何物かに對する要求が文字の世界に於いて充たされたのであつて、そこに寫實文學には發見せられない特殊の興味がある。漢詩人にとつては文學に現はれてゐるシナは、恰も儒者として見る時、それが政治と道徳との理想的國土であると同樣、一種の空想世界であり、夢の世界である。さうして一度びその世界の空氣を透して見れば、目前の醜い事物も直ちに美しい姿となつて彼等の眼に映ずる。神仙の二字を點加して富士の山は始めて情趣が生じ、赤城に比して忍が岡も纔かに詩中の景となる。浮世草子の遊冶郎は固より唾棄すべきものであり、東涯が臙脂坡(紹述集)に寫した洛陽の少年も俗物であるが、「獵罷歸來上苑秋、風寒憶得??裘、分明昨夜韋娘宿、杜曲西家第二樓、」(少年行徂徠集)といへば詩人の吟嚢に入るに値する。俚謠は勿論卑しむべき限りであるが、竹枝となれば興味があつて「儂如葛嶺山下雨、郎如葛嶺山上雲、朝々望郎々不到、夜々儂涙濕羅裙、」(江南歌南海集)といへば君子の雅懷を寄するに堪ふるものである。神田川を揚子江のやうにいふのも箱根に函谷の文字を用ゐるのも、畢竟この空想化の手段に外ならぬのであつて、俗を點じて雅となす所以がそこにある。(この時代の平民文學が何物を拉し來つてもそれを現實化するのと正反對であるのを見るがよい。)それを名分論や單純な寫實主義から排斥するのは、詩人の空想を排するものであつて、病なくして呻吟するを笑ふと同樣の誤である。たゞこの夢の世界を、自己のうちから造り出さずして、遠く三千里の外に求め、事物そのものに發見することができずして、異國人の作つた詩にすがつて始めて覗ひ得、またそれを表現するに自己の國語を以てせずして、漢字を借りたのは、これらの作者に眞の詩人たる資格が無いこととそのシナ崇拜とを示すものである。日本人の夢の世界はどこまでも日(289)本人のであつてシナ人のではなく、さうしてその世界は日本語でなくては表現もせられず描寫もせられないものだからである。たゞ漢詩の情趣を解することが深くなりまた漢字を驅使する技巧が熟達すると、摸作ではありながら、それによつて日本人にもシナ人にも共通な人間的感情または類似するところのある風物を表現し描寫し得るではあらうが、それにも限界がありまたは或る程度に於いてのことである。ところが上記の如き當時の摸作者は、それまでになつてゐない。彼等は詩人めいた假面をつけて事物を觀、仁齋や闇齋の如く理窟に墮することは無いけれども、上に擧げた幾つかの例でも知られる如く、どこまでも摸作であり強ひて學んだものであり、要するに借りものであつて、その作は畢竟知識的のしごとに過ぎない。しかし摸作にも巧拙はあるべきであるから、この時代になると、詩に巧拙を問はぬといふ仁齋や素行のやうな説は出なくなる。それと共に東涯が「詩不成章却類眞」といつてゐるのが無意味でなくなる。
 のみならずこれらの詩は、實生活と隔離してゐる點に於てどこまでも遊戯的であつて、それに現はれてゐる空想世界もまた固より遊戯世界である。徂徠などの詩には現實の問題に關係のあるやうなものすら殆ど無い。仁齋の「田家」が窮民のために徴租の苛酷を訴へて「侯門賣女納青錢」といひ、東涯の「陌頭叟」にも同じやうな意義のがあるのとは違つて、徂徠の「田家即興」に「田家女子厭蠶桑、多學東都新樣粧、恰是年々官債重、賣身好與冶遊郎、」とあるのが、官債の重きに重きを置いてゐないのを見るがよい。政治の問題は遊戯の世界に於いて語るべからざるものである。その上に唐詩の典型を離れることができないためにその世界は極めて狹小であつて、題材も用語も思想も甚しく制限せられる。從つて南海が詩盗判を書いて嘲つたやうに、他人の作を剽竊するものもある。古文辭の徒に至つて(290)は、春臺の糞雜衣に罵られないものが幾人あらうか。
 だから時が來ればその間に幾らかの詩人的資質のあるもの、自己の情懷と目前の事物とを詠ぜんとするもの、或はその單調に厭いて新奇を求めんとするものが出なければならず、それによつてこの作風が壞されねばならぬ。南郭が小督詞を曹いて白樂天の及び難きを知つたといふのは(文會雜記)、既に?社の内部から叛逆者が生じたことを示すものであるが、詩は擬作のみとしてそれを作らないといふものが、徂徠の徒にもあつた(八水隨筆)。宇野明霞が我が邦に無きものは詩に作らずといつたのも、裏面からこの風潮に反對したのである。後年六如などによつて新體の鼓吹せられたのは、その機運の熟した時であつて、そこに至つて再び漢詩の日本化が行はれる。ところがそれには唐詩に對する宋詩、格調派に對する性靈派、の張揚が伴ひ、技巧もまた巧緻になつてゆくので、そこに昔の平安朝人や五山僧の末流の作の日本化とは大なる違ひが生ずる。のみならず、さういふ時代になると、漢詩の流行はおのづから我が國文學の上に新しい語彙と表現法とを加へることにもなる。それは本來文字の上の知識として得たことではあるが、言語にはそれに特有の氣分なり情調なりが本質的に附隨してゐる以上、それによつて特殊の心もちが味はれ、さうしてそれに親しむことが深くなると、從來存在しなかつた、或はそれをいひ表はす國語の無かつたことが、日本人の味ひ得る範圍内に於いて、その心生活に加はつて來るのである。漢詩の格調について何等の感受性の無い日本人が、半ばそれを日本語化して、即ち訓讀して、みてもそこに一種の味ひのあるのは、五言なり七言なりの形式のあることが散文とは違ふ感じを與へる、といふ理由からでもあらうが、それよりも主としてこの故であり、從つて作者も初めからその用意を以てかゝるのである。だからさういふ詩は仮名交りに書いても支障の無いもので、畢竟國文學の一形式(291)である、その詳細は次篇に至つて考へるであらうが、日本に於ける漢詩の歴史が、シナの詩を摸作することと、それによつて日本人の情思を述べ日本の風物を敍することとの、二つの態度の衝突と妥協との經過であることは、これでも知られる.
 さてこの漢詩と擬古文學たる和歌とは、その模範とするものは違ふけれども、作者の態度にはほゞ同じところがある。たゞ和歌は國語の歌であり、本來日本人の情思と日本の風物とを表現し描寫するために生じたもの發達して來たものであるところに、漢詩とは全く違つた性質があるので、儒者または漢詩の作者でも、例へば三輪執齋や藤井懶齋などの如く、それに指を染めるものがあり、仁齋の如きは歌集さへもできてゐる。元政はいふまでもない。益軒が愼思録に於いて、シナの聲音に通じない日本人が唐詩を作るは勞して效の無いことだといひ、性情を吟咏するには和歌にまさるものがないといつてゐるのは、今日から見ればいふまでもないことであり、蕃山が集義和書に於いて和歌は日本の風俗だから心得ておくがよいといふのも、推しつめればやはりそこに歸着するのであらう。蛻巖なども一種の日本主義的見地から歌の尚ぶべきことをいつてゐる(蛻巖集)。が、概していふと彼等の歌を作るのは、おも正しいものは漢文にしながら通俗的のものには國文ですますと同樣、甚だ輕い意味のことである。もと/\擬古的和歌の因襲に從つて、ありきたりの粗大な情思を敍するに過ぎないほどの彼等であるから、國語でなくては表現せられないほどな繊細な感情も、生きた國語に對する鋭敏な感受性も、有つてはゐないめである。だからそれほどのことは漢詩の摸作に於いても、その技巧が熟達だにすれば、或る程度まで必しもいはれないことはなく、その上に短い絶句にしても、三十一字よりはやゝ複雜な思想を託する餘地があるから、本來文字上の知識と技巧とを誇り、シナ崇拜の傾向の(292)ある學者の社會に於いては、和歌よりも漢詩を好むのは自然の勢であらう(駿臺雜話卷五參照)。のみならず一歩進むと、漢詩の摸作者たる立脚地から國語を俗とするやうになり(南海詩訣)、徂徠一流のものに至つてはシナ本位の思想から、國語は無益の言が長くして而も鄙俗なりといひ(徂徠の名に託せられてゐる詩文國字牘)、國語は繁冗支離にして言語の次第漢語に比すれば?倒なりといひ(山縣周南爲學初問)、國語そのものの性質も知らずその價値をも認めないのである。
 これには勿論、反對の考へかたがあるので、我が國は水土が清いから國語も清らかに轉化するといふ、後の香川景樹と同じやうなことを主張し(伴部安崇和漢問答)、または國語と梵語との同性質なるを論じてシナ語の缺點を指摘してゐる神道者もあり(龍煕近神國決凝篇)、國語は語尾の變化があつてシナ語よりは精密であるといひ、國字と蘭字との便利なことを主張して漢字は不便だといつてゐる長崎人もある(西川如見町人袋底拂)。國自慢の問題は別として、國人が國語を鄙むのは、自己の思想を表出するに最も自然な言語を斥けることであるから、この一事でもシナ本位の漢詩人に眞の詩人たる資質の無いことは明かである。もつとも徂徠は一方に於いては、言語の違ひのみで詩も歌も違ひは無いといふやうなこともいひ、春臺もそれを繼承してゐる(獨語)。しかしこれも、その説が作者の用意として説かれてゐる限り、國語に對する感受性の鈍いこと、むしろ紙上の知識に薇はれて現實の感じをみづから僞つてゐることを、證するものである。その耳には彼等とても國語が、文字となつてゐるシナの言語より親しくまた強く響かないはずはない。本來徂徠がシナの詩文に熟達しそれに薫染せられて上代のシナ人の氣分になるのが學問の道だといつてゐるのは、一國民の言語、特にその文學に現はれてゐるものには、その國民に特殊の思想や情趣が伴つてゐ(293)ることを認めてゐるのであるのに、すべてに於いて國俗を賤んでゐる彼は、そのことを我が國語に於いては認めまいとしてゐるのである。春臺が古學の思想と唐詩鼓吹の精神とを和歌に適用して、歌の復古を論じてゐるのも、古の風體を學び古の詞を取つて古の人と異らぬ歌を作るといふ點に於いては、やはり普通の倭學者が歌の擬作を説くのと大した差異が無く、たゞ標準を遠い古に溯らせたのみであつて、生きた國語を重んじ自己の情生活を重んじたものではない。なほこの考と眞淵の萬葉皷吹との異同については次篇に述べよう。さうして萬葉と古今とをほゞ同じやうに見、古今を盛唐に擬し唐詩と和歌との交渉を論ずる點に於いては、殆ど和歌を解せざるものといはねばならぬ。三輪執齋が「和歌萬葉短長詞、亦是朝廷里巷詩、日本國風漏刪手、古今任他紀貫之、」といつてゐるのも同じ程度の考である。また見知らぬシナの事物をさへ臆面も無く詩の題材とする徂徠が、南留別志に於いて和歌の衰頽は題詠の故であるといつてゐるのは矛盾である。儒者の和歌論には見當ちがひが多い。
 
 擬古文學と漢文學との状態を説いたちなみに、倭學者や儒者の文學觀を一瞥しておかう。古い倭學者の系統に屬する古歌や古物語の注釋家が一々の文字の解釋や故事出典の詮索を主としてゐること、全體の見かたに於いて道徳的傾向を帶びてゐることは、例へば源語の細流抄乃至湖月抄やこのころに流行した徒然草の諸抄などを見ても明かであつて、これは室町時代からの因襲である。さうして徒然革の、小野道風の書いた和漢朗詠集とか證空上人の馬子の罵倒とかいふ、滑稽趣味が全く了解せられず、その説明のすべてが説法や理窟に墮ちてゐること、色好まざらん男の一段が喧しい論義の種となつてゐることを見ると、彼等が殆ど文學の何たるを知らなかつたことが知られる。契冲の如き(294)新しい注釋家ですら、戀歌を釋するに當つては幾分の道徳的意義を寓してゐるではないか(古今餘材抄卷一二).
 儒者に至つてはなほさらである。倭學者は古文學の解釋を任とするから、ともかくも歌なり物語なりを尊重してゐるが、儒者は概して、文學を道に害あるものとするか、然らざれば道徳、政治、もしくは學問、の方便とするかの、ニつを出でないので、これは儒教の思想として當然のことである。國文學に對しては、後にいふやうに一般には戀愛を題材としたものを誨淫の書として排斥するのであるが、たまにそれを取るものがあつても、伊勢物語から道徳思想を導き出し(五井蘭州勢語通)、源氏物語の本意は教戒の點にあるといつて、作中の人物やその行爲やに道徳的批評を下し、作者についてもその淑徳のあることを稱讃してゐる(蕃山源氏外傳、年山紫女七論、澹泊文集、など)。歌をも道徳的に取扱つてゐることは勿論である(駿臺雜話卷五、年山紀聞、など)。漢詩については、主として實用に益なく玩物喪志の病を誘ふといふやうな點から、それを有害とするのであり(山鹿語類卷三五、仁齋童子間卷下、駿臺雜話卷五、など)、たゞ勸懲の用をなし或は天下のために有用なる言をなす場合にのみ、幾らかの意味があるとするので、この點から杜甫を揚げて李白を抑へるものもある(仁齋語孟字義卷下、童子問卷下、順庵長恨歌跋、など)。彼等自身が詩のやうなものを作つたのは、多分かゝる口實の下に於いてしたのであらう。素行が一方で玩物喪志を斥ける口氣をもらしながら「風流」を許してゐるのは、古式士の生活によつて考へたのと、それだけ人生を見ることが窮屈でないのとの、故であらう(語類卷二四〕。これは、人生の萬事を道徳思想で支配しようとし、また概して低級な實用主義を脱しかねる儒教の根本思想から來てゐることは勿論であるが、日本人の漢詩を作ることが困難でそれがために多く心を勞するといふ事實、また説くものみづからが詩を解せざる故もある。
(295) だから、シナ文學の造詣が幾らかあつてやゝその興趣を解し得るものは、思想としては詩に重きを置くやうになるので、或はそれを學問のためとし、或は人をして温柔敦厚ならしむるものとし、或はそれを觀風采俗の具とし、また或は自然の感通によつて人を善に導くものとする(徂徠答問書、春臺六經略説、周南爲學初問、南海詩學逢原、など)。これらの徒に於いては、詩を情の聲であるとし、勸懲の爲に作つたものにあらずといひ、教としても聲の教で義理の教ではないとする點に於いて、詩を見ることが幾らか正しくなりかけて來たことを示してはゐるが、それに獨立の價値を與へないのは、どこまでも儒者の考である。藤樹は菅公を詠じて「照臨赫々在儒宗」(遺稿)といつてゐるが、昔は「文道太祖風月本主」(本朝文粹大江匡衡)としたのに比して、讃美の意味の違ふところに、文人ではない儒者の尊まれたこの時代の特色があり、さうしてそこに言をたてる儒者の態度が知られるではないか。が、これも一つはシナ人の口まねをして詩は惰の聲であるといひながら、彼等の作る詩がその實は遊戯文字であつて、眞の情の聲としては彼等自身にも感ぜられないために、かゝる功能を説いてみづから慰めてゐた、といふ理由も無いではなからう。例へば彼等自身も、神仙を尚慕せずして神仙の文字を弄してゐることぐらゐには、氣がついてゐたに違ひない。それは唐人の氣分になつて唐詩を摸作する以上、當然なことであつて、上に述べた如く現實の自己を離れた唐人の世界に夢遊するのが、これらの作者の主なる興味だからである。けれども知識の上に於いては、詩は情の聲であるといふことを知つてゐるから、そこに矛盾が生ずる。詩に種々の功能書きを附けるのは、おのづからこの矛盾をぼかす用に立つのである。なほ附言しておく.詩を情の聲であるといふ彼等の言は、情を理智に對していふ限り正當であるが、その情といふものは、詩は詠歎の聲なりといふやうに、自己の實感實惰として考へられてゐるので、病なきに呻吟する(296)ことの難ぜられるのもこの故である。これは今日から評すれば、詩を素朴な意味に於いての抒情辞に限るのであつて、甚だ狹い考であるが、それはともかくも、シナ人と違つた情調と言語とを有つてゐる日本人が、唐詩の摸作をするに當つては、この定義がそのまゝに適用せられる場合の甚だ少いことは、上に述べて來たところで知られよう。なほ仁齋が童子問に於いて「風雲月露山川草木、本天地自有之物、不須詩人摸寫之也、」といふのは、抒情詩の外の藝術を根本的に否認するものであるが、これもいはゆる性情吟味説から來たものらしい。詩に作られずとも情はおのづから存在するから、この考をもつと推しつめていふと、抒情詩の存在をも許さないことになる。しかし彼自身がこれらの無用な詩を作つてゐたことは勿論である。
 儒者の文學觀がかういふものであるとすれば、彼等が當時の平民文學を擯斥することは自然である。生きた國語を賤み、目前の事物に詩趣を發見することを知らずして偏にそれを俗として排する彼等は、もとより俳諧を喜ばぬ。白石は初め俳諧を好んだが後にはやめた。蛻巖が俳諧をすてなかつたのは、佛教を排斥しなかつたと同樣に例外である(蛻巖集後篇、北海授業編参照)。草子、淨瑠璃、歌舞伎、淨世繪、の類はいふまでもなく風俗を紊すものである。三絃曲はすべて淫聲である。だから彼等は唐詩の摸作を喜ぶと同じ意味に於いてシナ畫を尊敬する。日本の雅樂は聖人の作つた古樂の遺制だといつて、ひどくそれをありがたがつた蕃山や春臺もある(集義外書卷一、六經略説)。いはゆる雅樂が唐代の燕樂であることは米川操軒や中村タ齋も説いてゐるし、白石は勿論それをよく調べてゐるが、蕃山などはそのことを知らなかつたのであらう。琵琶や篳篥を用ゐまた鼓吹が主となつてゐる當時の雅樂と、古の聖人の樂といふものとを、どうして混同したか不思議なほどであるが、蕃山は禮樂の存するところとして公家を尊重する餘(297)りに、おのづからかう考へたらしく、春臺はまた何ごとも通俗でないもの、當世的でないもの、人情に遠いもの、を尚ぶために、さう見たのであらう。春臺の三絃を淫聲とする理由が細密で繁手だといふ點にあるのから推測すると、儀禮化した平安朝傳來の樂の表情に乏しい點が、一面に於いて内から表はれた情の聲とはせられながら他面では外部から惰を節するために聖人が作つたといはれ、道徳的には後の方に重きが置かれてゐる古の樂といふもののやうに感ぜられたのであらう。三絃を特に卑しんだとは違つて、箏は俗樂ではあるが淫聲ではないといふのも、本來雅樂の樂器であるためにさう思つたのではなからうか。樂としての旋律などは箏も三絃もほゞ同じものであるのみならず、詞章とても大差はない。彼等の樂の取捨は、自己の耳と現實の感じとによるのではなくして、書物から得た知識によるのである。また蕃山は三絃樂でも詞章に忠臣孝子の事蹟を敍したものはよいといつてゐるし、箏唄などをみづから作つてもゐるが、これは樂そのものをよく理解しないものであり、春臺が淫聲を禁じ雅樂を興すことが好ましいやうにいつてゐるのは、儒家の教化主義をそのまゝに適用しようとしたものであつて、彼みづから淫聲はおもしろいから人が好むといつてゐる、その事實との關係をすら考へないものである。だから經國の大業として誇稱してゐる文章が、彼等に於いては實は文字上の遊戯であると同じく、治國平天下の具とせられる雅樂は、また彼等の消閑事に過ぎなかつたのである。しかし強ちに禮樂説を固執せず樂は人情から出るもので聖人の作ではないといつた雨森芳洲も、それに易風移俗の效があるといつてゐるのを見ると、儒者がどこまでも藝術を道徳的にのみ見ようとしたことが知られる(橘窓茶話)。
 なほ道徳や政治の思想を離れて見ても、倭學者や多數の儒者の古代を尚びシナを重んずることが、古代の文藝シナ(298)の趣味そのものに深い愛着を有し、古人またはシナ人の尊い精神的勞作の結果として、それを尊敬するのではなく、古いが故にまた異國のものであるが故にそれを喜ぶに過ぎないものであることは、彼等が現に行はれてゐるもの自國のものを輕んずることからも明かである。人生の藝術的表現、それがための人間の尊い勞作は、單に古今内外といふやうなことによつて區別せらるべきものではないからである。この點から見ても、彼等が眞の藝術を解するものでないことが知られる。彼等の趣味の標準が自己にあらずして他にある以上、それは藝術を愛するのではなくして骨董的玩賞である。だから一旦古代が輕んぜられシナが重んぜられなくなると、金玉の如くに愛藏せられたものが忽ち泥土の如くに委棄せられる。知識人が古物をむやみに尊びながらまた濫りにそれを破壞して顧みないのは、こゝに一つの由來がある。儒者が一方でいはゆる雅を尚びながら他方では低級な實用主義を唱へてゐる矛盾も、おのづからこれと相應ずるものである。保科正之が勢力を有つてゐたころの幕府が京の大佛を鑄つぶして錢としたといふので、それから後の儒者が口を揃へてそのととを讃美してゐるのは、宗旨敵きの感情が主となつてはゐようが、やはりこゝに一理由がある。
 
 要するに、擬古文學も漢文學も、文學としては甚だ價値の少いものであるが、しかしさういふものが世に行はれ、また尊重せられたのは、前にも述べた如く尚古思想シナ崇拜の習慣の故でもあり、太平の世の閑人にふさはしい遊戯でもある上に、當時の知識人の情生活がその藝術的表現を要求しないほどに調子の低いものであつたからでもあつて、それがまた徳川の世の時代精神の一面を示してゐる。だから國民の實生活そのものはかういふ文學によつて表現せら(299)れてはゐないが、それでありながらかゝる文學の存在を許すやうな思想は、生きた平民文學の上にも見ることができる。前數章に於いても既にそれが暗示せられてゐるが、次章以下に説くところによつて更にそれが明かにせられるであらう。
 
(300)     第十三章 武士道 上
 
 世を動かす實力からいへば、徳川の代はもはや平民の天下となつてゐる。けれども政治上の制度と社會組織とからいへば、その中心となり骨幹となつてゐるものは依然として武士である。權力をもつてゐるもの道義的風尚を支へてゐるものも武士である。平民の文學に武士を寫すことの多いのもこれがためであるから、その文學に現はれてゐる思想を考察するに當つて、第一に問題となるものが武士のであることは、當然であらう。
 武士は戰國時代の遺物である。血腥いその戰國は遠い昔の夢と消えて、今は記憶さへたど/\しい老人が、幼いをりに父祖から聞き傳へたおぽつかないまたぎきひがぎきの物語に殘つてゐるばかり、世は太平の現となつてゐる。この時に於いて武士の存在するのは、大なる時代錯誤であり不自然な現象でもある。けれども事實上、武士は依然として戰國武士の地位と任務とを繼承して存在してゐる。兩刀は腰にある。槍一本は飾りにも持たせねばならぬ。但しその刀を拔く時もなければ槍の鞘を拂ふ機會をも與へられないのが平和の時代であつて、政治上の制度も社會組織も、この平和が維持せられるやうに形づくられ、幕府の當局者も全力を盡して秩序の固定に努めてゐるではないか。世は武士をはたらかせたいやうにしつゝ、その武士を大切にしておくのである。
 ところが前卷の第三篇(第五章)で詳説した如く、武士の風尚即ちいはゆる武士道は、戰國といふ特殊状態の間に發生し、戰爭そのことによつて精錬せられたものであつて、彼等の燃ゆるが如き功名心と、それを滿足させる機會の多いほど世に秩序が無くなつてゐる實力競爭の有樣と、常に死を以て事に臨む冒險的氣象と、斷えず劍の光と血の色(301)とに刺戟せられて昂奮してゐる心理状態と、並に人を見れば敵と思つて警戒を加へねばならぬほどに權謀術數が行はれ人の心の測り難き世相とが、その基礎になつてゐるのであるから、秩序だつた平和の世には、おのづからその風尚が壞れその精神が弛んで來なければならぬ。語を換へていふと、戰爭によつて形づくられた變態道徳が、平和のつゞくと共に常状に復歸しなくてはならぬ。けれども武士が武士として存立してゐるのはこの風尚の故であるから、武士といふ特殊の地位を維持しようと思へば、どこまでもこの精神を緊張させてゆかねばならぬ。即ち平和の世に不適當な使命を有つてゐる特殊階級の存在のためには、この變態道徳を維持する必要があるのである。こゝに武士の風尚の根本的自家矛盾があつて、それは畢竟平和の世ながら戰國の状態をそのまゝに繼續し固定させてゐる政治上の制度及び社會組織そのものに存する矛盾が、武士の風尚に現はれたものである。もとより人心の一面として、固定した世の中に於いては、因襲に支配せられることが強いといふ事實もあるが、他の一面には、現實の生活に適合しない思想なり風尚なりはおのづから崩れてゆくといふことも、また專實として存在するのであるから、概していふと、放任して置けば武士の特殊の思想風尚は漸次荒んで來るのが當然である。
 けれども一方からいふと、平和の時代ながらに社會組織が戰國の状態をそのまゝに繼承してゐるといふことが、或る程度まで武士の風尚の保たれてゆくに恰好な事情とはなつてゐる。いひかへると、武士が武士として存續することによつて、彼等の戰國的風尚が維持せられるのである。武士が武士として特殊の任務を有つてゐる限り、彼等は何れの方面かに向つてその武士的能力を發揮しようとするからである。第一章に於いて述べた如く、寛文ごろに於いては纔かのことばどがめや、いふにも足らぬ禮儀の末節や、または一旦の怒りにより、或は勢利の爭ひなどから生ずる怨(302)恨によつて、濫りに刀を拔き輕々しく人を殺し身を殺すやうなことが甚だ多く、殺伐な闘爭が連りに行はれたが、それは、一つは後にいふやうに武士の體面を保たうとするところから來てゐる場合もあるが、それとても畢竟は、彼等が拔けば拔くことのできる刀を有つてゐるがために、ともすればそれを拔いてみたくなるからである。或は戰闘を職務としてゐる武士が、戰闘の無い平和の世には無聊に堪へないから、何かの機會があればその戰闘力を發揮しようとするからである。血を見ることを好むのは獨り村正の刀ばかりではない。人を昂奮させるのはすべての刀の特性である。
 けれどもそれがために、死を怖れぬ勇氣や、男子一たび閾を越せば即ち敵地であるといふ覺悟や、「武士の身ほど定め難きはなし」(武家義理物語卷四)といふ意味に於いて物のあはれを感ずる優しい情緒や、さういふ武士的氣象が維持せられる效果がある。さうしてかういふことが敵打などの誘因となつて、當時の人に讃美せられた幾多の物語を産み出すのであるが、それがまた武士の氣風を激勵する所以ともなる。武士の體面といふやうな思想も却つてそれによつて刺戟せられる意味もあらう。平和の世にはかういふことでも無くては、武士が武士らしく命をかけて事に當ることもなく、また艱苦を經驗することも、物のあはれを知ることも、或は親子夫妻の愛別離苦を思ひ知り、人の情けを身に沁みて感ずることも、たかつたからである。西鶴の武家義理物語などを初めとして武士の物語を集めた浮世草子の材料は、みなこゝから出てゐるので、中には「我が子をうち替手」(武家義理物語卷二)のやうな優しい話もある。
 もつとも敵打などがよし當時に於いて美譚とせられてゐたとしても、またそれにつれて優しい人の情けの知られる(303)場合があつたとしても、これがためにその原因となつた事件が是認せられるのではないが、人を殺し友を傷けても、利益のためまたはその他の卑しい動機からでない限り、それは必しも罪惡とはせられなかつた。そのときに潔く責任を明かにして我が命をすて、またはかたきとなつて進んで打たれるものが、世人の同情を受けたことは勿論であるが、その場を立ちのいて身を隱すやうなことも、それが甚だ多い例であるのを見ると、少くとも有りがちのこととして寛假せられたらしく、何等かの關係あるものがそれを保護することさへ、武士の情けとして考へられた場合もある。現に武家義理物語(卷三)には「勇を專らにして命を輕く、少しの鞘どがめなどいひつのり、無用の喧嘩を取り結び、その場にて打果たし、或はあひてを切りふせ、首尾よく立ちのくを、侍の本意のやうに沙汰」したとある。事實に於いても、前卷でいつた如く、意恨のために殿中で人を殺したものが武士としてはむしろ同情せられた。同輩と爭論の結果、恨を含んで自殺したものの子が弱年ながらその爭論のあひてを父の讐として討つた時、井伊直澄が健げなものとしてその助命を幕府に乞うたことがある(いはゆる淨瑠璃坂敵打)。その復讐は同族と共に火を放つて讐の家に斬りこんだといふ大げさなしかたであつたので、幕府は府内をも憚らず世を騷がせたといふ理由を以て流刑に處したけれども、一般の評判はやはり直澄の考と同樣であつたらう。但しそれは復讐といふ道義上の問題よりも、むしろその意氣と行動とを武士らしいとしたのであつて、この時に討たれたものの同族がまた討つたものの親族を故人の讐として討ちかへしたといふのを見ても、それが正當な復讐と考へられたかどうかは疑はしい。事の理非よりはむしろ意氣の有無と行動の勇懦とが批評の標準とせられたとすれば、些少の意地のために人を殺しても、それを罪惡とは考へなかつた思想の傾向が推知せられる。それがために種々の葛藤が起り、幾多無辜の人の命を失ひ血で血を洗ふやうなこ(304)とになつても、甚しくは怪しまれなかつたのである。殺伐な戰國の遺風を傳へてゐる武士の思想としては、それが自然であつたらう。
 しかし本來、濫りに刀を弄し輕々しく我が身を捨て人の命を奪ふといふことが、普通の道徳眼から見て不徳のふるまひであるのみならず、それが世の平和的秩序に背反するものであるとすれば、かういふことは當時の武士としても必しも常に賞讃せられたには限らない。だから平和が長く續いてゆくに從つて、それに對する反對の思想が次第に強くなつて來た傾きがある。よしその行爲が是認せられるやうな場合であつたにしても、少くとも堪忍の美徳を有たないものとして非難せられた。武士の逸話を集めた草子などにも、作者みづからまたは篇中の人物が堪忍め徳を説いてゐる場合の甚だ多いのでも、それが證せられる。特に「主人自然の役に立ちぬべきためにその身相應の知行を與へ置かれしに、この恩は外になし、自分のことに身を捨つるは天理に背く大惡人、いかほどの手がらすればとてこれを高名とはいひ難し、」(武家義理物語卷三)といひ、「御主人の御用の外に一命をすて給はんこと、忠義を忘れ私にあらずや、」(國花諸士鑑卷一)といふ思想もあつて、この點からは明かに武士の本分に背いたものとせられてゐた。
 けれども平和の世には、戰國時代の如く主君のために身を捨てる場合は殆ど無いから、當時の武士はこんなことによつて纔かに彼等みづからが武士であることを自覺したのである。勿論かゝる刺戟によつて活氣づけられるものだとすれば、武士の風尚そのものの甚だ尊ぶに足らぬことがおのづから推知せられるが、本來その淵源をなしてゐる戰國が正當な状態でないから、これは當然の結果である。かういふ爭闘が實は戰國紛爭の状態を小規模に實現したものに過ぎないのである。一旦の怒りに隣國との交を破り、或は主君に叛くやうなことも、全體の氣風が荒つぽくて、殺伐(305)で、激し易い、戰國武士には有りがちのことであり、勢利の爭ひに恨みを含んで相闘ふが如きは、戰國時代に普通のことであつた。たゞ昔はそれが多く國と國との爭ひとして現はれたのが、今は泰平の世であるだけに、個人間の爭ひにのみ見られるのである。だからそれを非難するのは、戰國武士の立ち場からではなくして、平和の世に於いてのことである。
 これは前に引いた武家義理物語にも、無益のことに命のやりとれをするのを「昔」のこととして「近代は武士の身もち心の修めやう格別に變れり」といつてあるのでもわかる。勿論さういふことが全く無くなつたのではないが、少くとも元録のころになると武士の思想が變化しつゝあつたことは明かである。近松に於いて朝比奈などが滑稽人物としてのみ取扱はれてゐるのも、思慮あり分別あり堪忍あるものを武士の典型として考へ、躁急な行勤を喜ばぬやうになつた時勢を示すものであらう。昔の正成や當時の大石良雄がこの點に於いて讃美せられたことを考へるがよい。勿論、戰國武士とても思慮分別は大切であつたに違ひなく、名ある將士には多くそれを認めることができるが、全體にあわたゞしい世の中であり、一般に人心が昂奮してゐるので、普通の武士が激し易く熱し易い傾きを有つてゐたことは事實であり、またそれによつて事をなすこともできたのである。のみならず、武士としては或る程度までそれを脱しがたいのかも知れぬ。敵に向つて機先を制せんとするだけでも、はやり氣な氣風は養はれる。日本人にもしかういふ氣象が今もあるとするならば、それは多分かゝる武士の気風が殘つてゐるのであらう。しかし世がおちついて來ると、ゆつくり理非を考へ利害を慮る餘裕ができ、またさうしなければ事を爲すことができなくなるから、自然に思慮分別がついて來、またそれが尚ばれるやうにもなるのである。(306) また主從の關係は戰國武士の生活の基礎であつたものの、一方ではそれを打破るほどに強烈な功名心と我慾とがあつたが、平和時代の武士が君臣主從の秩序を絶對のものとして、偏にそれを傷けないやうにするのも、また當然のことであらう。公平誕生記の公平は、その生ひ立ちに於いて、昔の辨慶と同じく、何等の羈束の無い自由な山の中で野生的の生活を送り、「王威に背く」といはれても山を出なかつたのに、頼光と開くや否や馬より飛んで下りたではないか。嫗山姥の公時も同じやうな境界にありながら、母から頼光と教へられて「はつと手をつき一禮し、隨分御奉公に精を入れ」ることを誓つてゐる。昔の物語の辨慶が千人斬の最後に至つて義經と主從の約を結んだのとは、大なる違ひがある。江戸時代に於いては主從關係は殆ど先天的のものと見られてゐたのである。
 だから「夫れ侍は主を殺し親をも斬つて國郡をきりとるが武士の好むところ」(山本土佐の阿漕年次)といひ、「大將を滅ぽし國家を望むは武士の常、忠孝にことよせ位牌知行に膝を屈する臆病もの、」(雪女五枚羽子板)といふやうな、戰國武士の半面の思想を大膽に吐露したものは、いはゆる惡人の惡口雜言として憎さげに書かれてゐるではないか。茂睡がその作中に、人をして「侍は、……名のためならば、人をも殺し堂塔をも燒亡し、人の物をも奪ひ取り、人をもたらし、はりぬき、いつはりをいひ、如何やうの惡事をしても、それにて名のよくならんことをば行ふべし、これが侍の道の肝要、」(梨本書)といはせたのも、やはり戰國武士の思想を傳へたものであるが、秩序ある世に於いては、それが許すべからざる暴言として見られたことは、いふまでもない。但しかういふ戰國的思想が一部の武士の胸臆に、事實上、潜在してゐたことは、後にいふやうに儒者がしば/\それを非難してゐるのでも知られる。要するに戰國武士の氣象は平和の時代には適合しないものであるから、如何に武士の階級が嚴存してゐても、現實の状態と(307)してはそれが變つてゆかねばならず、それに反對する思想が武士自身の間にも生まれて來なければならぬのである。
 主從關係についてはなほ一言しておかねばならぬことがある.武士が主人から與へられる俸禄によつて生活してゐることは、戰國の昔も平和の今も變りが無いから、それから生ずる主從の情誼もまた同じことであるべきはずである。けれども前卷にも述べておいた如く、戰國時代に於ける主從の情誼は、主君からいへば家來の働きによつて自己の勢力が維持もしくは擴大せられ、家來からいへば主君の力によつておのれらの功名心が滿足せられるといふ、相互的の關係から純化せられたものであり、さうして不斷の戰亂は、彼等壬從をして常に苦樂を共にし喜憂を同じくしてゐることを切實に味ひ知らしめ、また君臣主從が一體にならねば列國競爭の間に立つことができず、國も家も忽ちに滅びる、といふことを事實によつて強く感知せしめ、それによつておのづから相互の愛情を濃厚にも熱烈にもしたのであるが、第一章にも説いたやうに、平和時代にはさういふことが無く、特に主君の家來を思ふ情がおのづから薄れて來る傾向があるから、一般の武士にとつては主君に對する態度は、愛情の發露であるよりもむしろ道徳的義務とたり易い。
 だから例へば、我が身は我がものでなくして主君に獻じてあるもの、從つて主君からの預りものである、といふやうなことが、例へば大道寺友山の武道初心集、井澤蟠龍の武士訓、などに於ける如く、この時代に於いてしば/\説かれてゐるが、これは決して戰國武士の思想ではない。當時の人は戰國武士の主從關係をかう考へてゐたかも知れぬが、それは彼等の誤解である。戰國武士はかういふ風に我を空しくするのではなくして、却つてどこまでも我を立て我を大きくしようとしてゐた。たゞその我を立てるには何人かと君臣の關係を結ぶことが必要であり、さうして主君(308)の我と自己の我とが一致するところに、主君に對する衷心からの愛情が湧いて出て、そのために自己の我を主君の我に没入するのであつた。從つて一朝主君の我と自己の我との間に破綻が生ずると、自己の我を立てるためには主君をも仆すやうになる。惰が深いと我の強いとは一事の兩面だからである。一方に於いて君臣の情誼が極めて濃かであると共に、他面に於いてはしば/\猛烈にそれが破壞せられるのは、これがためである。ところが今平和の世には、君臣は或る距離を隔てて嚴として相對してゐる。だから我が身は主君からの預りものだといふやうに説かれるのである。預りものといふ觀念に君臣主從の對立が豫想せられてゐることは、いふまでもなからう。
 さてどうして我が身が主君のものであるかといふと、それは知行俸禄で買はれてゐるからである。かの井伊直孝が、武士は主君の賜はる知行によつて衣食することができるのであるから、その恩に報じなければならぬ、それが即ち忠である、といつたのは即ちこのことである。上に述べた武道初心集や武士訓、または南部立庵の倭忠經、などにも同じ意義のことが説いてある。反省してみれば戰國武士とても同樣であつたけれども、彼等の主君を思ふ心情に於いては、さういふ反省を經ずして直ちに激しい情動として現はれた。ところが今はかういふ風に武士の道として説かれるやうになつたのである。「主取りすれば討死して命をすて、禄の恩に報ずるがこれ忠の道、」(信州川中島合戰〕といひ、「禄の代りに報ずべき身」(諸國物語卷二)、「知行にかへられたる一命」(風流軍配團卷二)、といひ、または「武士は主人に身を賣り置きたり」(西川如見町人袋〕といふのも、これと同じ思想であつて、やはり理智に訴へてゐるのみならず、利益の交換といふやうな意味さへ明かにそこに現はれてゐる、。力量次第、働き次第、に知行俸禄が増加せられる戰國の世に於いては、新しく主人の恩情を感謝する機會が多いけれども、家格のほゞ一定してゐるこの時代(309)では、さういふ場合が少いから、慣れるとはなしに慣れて、反省し思惟してみなければ、それを自覺し難いやうにもなるから、これもまた自然の勢であらう.この心理は武士に對する教訓の書、例へば山鹿語類卷一三など、にも見えてゐる。かの濫りに身を殺すのが主君に對して不忠であるといふことの特に力説せられたのも、裏面に於いては主君を思ふ情が不斷に緊張してゐなくなつたことを語るものとも見られよう。かうなれば、たとひ理智の上で禄と命との交換せられてゐることを認めてゐても、それが強烈な感じとなつて現はれないから、主從の間がらは戰國の世に比べておのづから疎遠になる傾きがある。
 勿論、生活の基礎としての衣食の資を與へられてゐることを知れば、それから自然に主君の恩情を感謝するやうにはなるのであり、また人によつてその感じの特に強い地位にあるもの、もしくはさういふ事情を有つてゐるものもあり、或は何ごとか人心を刺戟するやうな大事件でも起れば、多數の武士がそのために昂奮することもあるので、「親よりも尊きは君」(公平淨瑠璃清原右大將)といひ、「親子のよしみは内證、主從の忠義は世間末代、」(津國女夫池)、また「親兄弟も主人には見かへるが身のたしなみ」(海音末廣十二段)、といふ、戰國以來の思想の保持せられるのもこれがためである。山口重政は不孝の子とはなつても不忠の人に與してはならぬといつたといひ、堀田正俊の書いたといふ勸忠書にも忠孝の道に於いて忠が最も重いとある。が、それにしても主從の間がらが個人的に維がれてゐる私的關係である以上、人と地位とによつてそれに疎密があり、從つて主君の恩を感ずる程度、また事ある場合のその昂奮、にも強弱の差があるのは當然である。赤穗一件の場合に良推と行動を共にしたものが、あの如く少數であつたのを見ても、平和の世には君臣の關係が堅實でないといふことが推知せられる。
(310) もつとも主家の滅亡する場合には、もはや知行俸禄が與へられなくなるから、その家臣の多數が離散するのは戰國以來の習慣でもあり(「武士文學の時代」第三篇第五章參照)、また上に述べたやうな武士の思想からいへば當然のことでもある。知行俸禄を與へられてゐる間はそれに對して奉公はするが、主家の滅亡はその根本條件を消減させるのであるから、君臣の關係はそれによつて斷絶するはずだからである。だからかういふ場合に主家に殉するものは、特殊の縁故のある少數者に限られるのが昔からの實状であつた。戰國時代ですらさうであつたから、平和の世にはなほさらのことである。たゞ赤穗事件の場合は禄に對する報酬として主君のために命をすてるといふのではなく、特殊の事件によつて不幸な運命に陷つた舊主に同情する餘り、それに代つて怨をはらさう、或はその讐を報じよう、といふのであつて、それは純粹に情から起つた問題である*。ところが、身を捧げてそのことに當るものの少かつたのは、多數の遺臣が事實に於いてそれ低どの熱烈な情を抱いてゐなかつたからであつて、やがて君臣の關係が薄弱であつたことを示すものであらう。平和の世には主君を仆さうといふ欲望を抱くものが無い代り、君臣間の情愛が薄れて來てゐるのである。が、これも畢竟戰國武士の精神が平和時代の生活と一致しないためである。
 
 以上は武士の風尚が、武士が武士としてその地位を持續してゐることによつて、ともかくも維持せられながら、その實、次第に變つて來たことを考へたのであるが、讀者はその間におのづから、平和の社會に適合するやうに武士の道を築き上げようとする、殆ど意識せずしての、または漠然たる、思想の傾向が、彼等の間に發生してゐることを看取したであらう。主從の關係について上記の如く新しい解釋が起つたのはその好例證である。いはゆる武士道を説い(311)たものの中で最も儒教臭味の少い大道寺友山すら、「總じて武士と申すものは世の亂賊を誅し三民の輩に安堵の思をなさしむべきための役人にて候」(武道初心集)といひ、武士の職掌を治安の維持にあるとしたのも、武士の歴史的由來と彼等の祖先たる戰國武士の實状とを無視した話ではあるが、前にも述べた如く、平和の世に於いて、また知識の上で儒家の學が重んぜられてゐる時代に於いて、戰國武士から繼承せられた武士の地位とその生活とを保持してゆくためには、かういふ見解の生ずることにも一つの理由は無くもない。けれども日本に特殊な存在である武士にシナに特異な儒教思想をあてはめようとするのは、本來無意味なことであるから、後に述べるやうに、かういふ考へかたには何の效果も無い。
 ところが、如何に當時の世相に適合するやうな思想を生み出さうとしても、彼等の風尚の由來はどこまでも戰國武士にあるから、そこに強い因襲の力がはたらくことを免れない。その上に一面に於いては、第二章に説いたやうな事情で、社會組織の缺陷と一般文化の發達とが、武士をしておのづから武士特有の氣象を失はせてゆくのであるから、この趨勢を感知した彼等に於いては、何とかしてそれを防止しようとするやうになるが、それにはやはり自然の傾向として古武士を尚慕する氣分が伴ふので、これもまたおのづからこの因襲と一致する。當時の武士に往々今を歎じて古を懷かしむやうな口氣があり、戰國時代もしくは徳川初世の武士の物語が書物となつて多く現はれたのを見ても、そのことが知られる。武道とか武士道とかを説いたものの漸次作られて來たのも、やはりこの趨勢に關係がある。(但しそれには多く儒教的知識の影響があつて、一般武士の思想とそれとは必しも一致しないが、それについてはなほ後に述べよう。)この古式土の尚慕は、武士といふ特殊階級のある間は、彼等にとつて已み難き心情であるだけに、(312)さうしてまたともかくも彼等が武士として生活してゐるだけに、暗黙の間に彼等の社會の風尚となつて現はれ、家庭の教育に於いてもそれが鼓吹せられ、さうしてそれが世の規範となるやうになる。歌舞伎や淨瑠璃に見える武士の思想なども、概していふとやはりそれである。(今日でも現代の國民生活と無關係な過去の風尚を復興しようとする一種の時代錯誤的思想があるが、この時代の武士の守舊思想は、ともかくも武士といふものが現に存在してゐる世の中であるから、これとは違つてゐる。)
 もつとも當時の武士がその規範として考へてゐた古武士の生活は、眞の古武士のではなかつた。彼等は古武士の熾烈なる功名心や、情熱や、放縱な行爲や、憚るところなき權謀術數や、または武士生活の中心となつてゐた主從關係そのものの不安定な社會状態や、一くちにいふと戰國武士の根本精神とその世の眞相とをば看取せずして、たゞその間に於ける一面の事實、即ち主君に對する忠實の行ひや、抑情の習ひや、信義の守られたことや、または死を惜まぬ勇氣や、生活程度の低いことや、いひかへると平和の世にも調和すること、もしくは平和の世にはなし難くして而も希望せられること、のみを見てゐたのである。これは一つは、平和時代の武士道を作り出さうとする考が無意識ながらに彼等の思想の根柢にはたらいてゐるのと、今一つは、秩序の定まつてゐる時代に生活する彼等自身の現實の感じが、おのづから過去を色づけてゐるのとのためである。
 けれども、古武士の生きてゐた世の中を解せずして、その間に發生した生活の一面のみを見、さうしてそれを規範にしようとすれば、その規範は精神なき形骸、情味の無い外的規制となることを免れない。のみならず元來不自然な社會組絨を維持するがために生じた風尚、平和時代の武士の實生活から生まれたものでない因襲的觀念には、どうし(313)ても無理がある。さういふものを道徳的規範として權威づけようとするから、ます/\不自然に陷らねばならぬ。昔ならば衷情から出たことが今人には冷かな義務となり、昔には家常茶飯事であつたことが特別に崇敬すべき行爲、強ひて學ばねばならぬこととなる。しかしそれが一つの權威ある規範として信條として社會的に尚ぶべきものとせらるれば、獨立した識見と操守とを有たない多數人に於いては、たゞ外觀の上または名聞の上でそれを守ることになる。從つてまたかういふ行爲と純眞の情生活との間には、矛盾が起り破綻が生ずる。義理と人情とが反對の觀念として取扱はれるやうになる一原因はこゝにある。(今日の時代錯誤的思想が口にのみ喧しく唱和せられて、毫も實生活と交渉が無く、言ふもの自身がみづから欺いてゐるのは、このことから考へても當然の話である。)さて上記の考説はあまりに抽象的であつて、讀者を首肯せしむるに足らぬかも知れぬが、著者は江戸時代のいはゆる武士道徳の信條が形成せられる徑路をかう觀察してゐる。その當否は、これから述べるところによつて、おのづから判斷せられよう。
 
 武士を武士としてその特殊の氣風を維持させてゆくには、先づ武士が精神的に平民と違つたものであることを信じさせ、そこに彼等の誇りを感じさせることが必要である。第一章に説いた如く、武士といふ階級的地位を固めてその身分を平民から劃然と區分すると共に、その階級の觀念に特殊の道徳的意義を有たせようとするのである。この考は武士の道を説くものの常に口にするところであるから、一々例證などを擧げるには及ばなからうが、伊丹康勝が「死すれども守るところを失はぬは士より上つ方のこと」といひ、平民は苟も生きるためには何ごとでもすると説いてゐるのは、武士に限つて道徳的操守があると武士自身が考へてゐたことを示すものである(藩翰譜第五參照)。「恥を磨(314)くは武家のこと」(心中二つ腹帶)、「おのれは町人、如何やうの恥辱を取つても疵にならぬ」(女殺油地獄)、といひ、「侍は利得をすてて名を求め、町人は名をすてて利得を取り金銀をためる、」(壽の門松)、「武士の一門もちもせず、……娘がいたづらすればとてさして恥にもならぬこと、」(海音八百屋お七)といふのも、武士の道徳觀念が平民と違ふことをいつたものであり、「武士を立てぬ上からは侍冥利の誓文は反古なり」(百合若大臣野守鏡)といつて、武士ならば許さぬ子の勘當を許した話も作られてゐる。女とても同樣で「侍の妻にはまたこのやうな憂きことあり」(夕霧阿波鳴門)といふ如く、つらいを我慢して夫の一分をたてねばならぬ場合もあり、「なまなか武士の娘とは薄知りに人も知る、免れぬ義理にからまつて、」死を決した女もある(心中刃は氷の朔日)。「筋目ほどはづかしきは無し」(武家義理物語卷二)といふ筋目も、血統よりはむしろ武士階級といふ意義に用ゐられたらしく、落ちぶれて馬子とはなつても武士の魂は失はぬと誇らせたのも、やはりそれである(丹波與作)。要するに武士は武士道、即ち武士に特殊な階級的道徳、を建てようとしたのみで、普遍なる人道を築かうとはしなかつた。彼等が常に口にしてゐた體面とか一分とかいふ語も、武士としての問題であつて、人としてのことではない。だから動もすれば「武士がすたる」といひ「武士が立たぬ」といふ。それは即ち階級制度時代に於いてその階級を維持しようとしたからである。事實、果して武士が平民に對してしかく誇り得るほどの道徳を有つてゐたかどうかは別問題として、武士の生活が特殊のものである限り、その生活と離すことのできない點に於いて、彼等の守るところもしくは尚慕するところが、平民と違つてゐたといふことは、前に擧げた淨瑠璃の文句でも知られる如く、平民もまた承認してゐることであつて、この點に於いては平民も武士に對して一應の尊敬をもつてゐたのである。
(315) 武士の生活から來る第一の問題は「死」に關するものである。武士は間斷なく死を覺悟してゐなくてはならぬ、それでこそ言行の愼みもでき、また如何なることが起つても卑怯のふるまひをすることが無い、といふことは武士の心得として常に説かれてゐる(例へば武道初心集、駿臺雜話卷一に見える北國武士某の言、など)。死の前に人の心もちが嚴肅になり精神が緊張するものならば、その死が何時も眼前に迫つてゐることを覺悟することによつて、おのれを持し人に對する態度が眞摯になり、また何事にも身をなげ出してかゝるところに一種の勇氣が出るのは、承知のできることである。しかしかういふ覺悟が果して日常にできるものであらうか。戰國の世に生まれて不斷に戰場に出入してゐる武士は、事實に於いて死の目前にあることを體驗してゐるから、自然にその覺悟がついて來る。けれども平和の社會に於いては死は非常の變事である。その大變事がこ六時中焦眉の間に迫つてゐるとは、特殊の事變でもある場合かまたは特殊の境遇にゐるものかでなくては、身にしみて感じられないのが普通の人情であり、心理的事實である。佛徒が人生の無常を大聲疾呼しても、あまり「驚く」ものの無いのが世間の事實ではないか。だからかういふ教そのものには本來甚しき不自然がある。それを不自然でないやうにするには、事實に於いて日夜朝夕武士の生命を脅すやうな變事を起させねばならぬ。少くともむやみに友を傷け人を殺すやうな風習を流行させなくてはならぬ。が、平和を維持し秩序を保たせようとする社會に於いては、それはいふまでもなく禁物である。さすれば事實上、武士にさういふ覺悟をさせることは甚だ困難といはねばならぬ。その上、常に死を覺悟する半面の事實としては、人をしてすてばちならしめ無責任ならしめ放縱たらしめる傾向があることは、前卷に述べたとほりであるから、この教は單に人心の半面をのみ見て、それからひき出されたものに過ぎない。が、かういふことの教へられるのは、戰國武士の氣(316)風を平和の世に維持しようとするからのことである。
 しかし一方から考へると、戰國武士にとつて家常茶飯事であつた死は、平和の世では容易にできぬことである。その容易にできないことを敢てする點に、人の死を冒すことが特に尊ばれる理由がある。死を敢てした戰國武士を追慕する當時の武士、よし平素は死を覺悟し難いまでも、彼等の任務として死すべき場合のあるべきことを理智の上で知つてゐる武士、にはなほさらである。だから世の風尚として死が讃美せられ、それによつて、事に當つては死を避けない、或は甘んじてまた好んで死に就く、といふ氣象が養成せられる。さうして何時でも死ぬといふ考がこゝから生ずるのであるが、それは平素の覺悟としてではなく、むしろ事の起つた場合に現はれるのである。死を敢てするにはやはり何等かの特殊なる刺戟を要する。これは既に説いた如く、昔からの武士に通有な一面の事實であつて、畢竟は、生を欲する人間でありながら死を厭はぬやうにしなければならぬ、といふ矛盾が武士生活の根柢にあるからである。平和の世には特にこの傾向が甚しい。さうしてそれは社會的風尚に支配せられてのことであるから、よし多くの場合には心ならずも死に就くといふほどでないにもせよ、必しも衷情から死を欲するのではない。
 例へば追腹(殉死)の如きがそれである。戰場に於いて主人に從つて奮闘し共に命を失ふに至ることは、昔からの武士の習ひであつて、主人が先づ討死したやうな場合に、それに激せられて一層猛烈にはたらき、それがために戰死するやうなことも、或はそれから敗戰となつて到底活路を開く見こみが無くなり、自殺を途げるやうなことも、例の多い話である。また例へば湊川に於ける正成の場合の如く、身方が不利に陷つて主從共に自殺することもあるが、これもつまりその一變形である。「軍の習ひは海山を隔てても大將討死したりと聞きては腹を切るも習ひぞかし」(明徳(317)記)とある如く、場所を隔てて主人の後を追ふのも、その場に居あはせたならば主人と共に死すべきものが、偶然居所を異にしてゐたがために、後から自殺をしたのであつて、その精神は戰場で主人と共に死ぬのと違ひが無い。ところがかうなるとおのづから一歩を轉じて、「病死の別れを悲しみて正しく腹を切りて同じく死徑に趨くこと、前代未聞の振舞かな、」(同上)といはれた如く、主人の病死に追腹を切るやうになり、こゝに始めて後世の殉死と同じ形が現はれる。けれどもそれが珍しい例として見られたくらゐであるから、室町時代にはまだあまり行はれなかつたらしい。さうしてそれも主人に對して特殊の情愛を有つてゐるもののことであつて、その動機は衷心から生き殘るに堪へないといふ點にあり、名聞や世間體に關係が無かつたことは、當時世間がそれを豫期してゐなかつたのでも明かである。(こゝに引用した後の方の一節は、群書類從本の明徳記には見えないやうであるが、鹽尻卷五によると異本にはあるらしい。今は天野信景を信用してこゝに孫引きをする。)應仁記に見える男色のための殉死も同樣の心理からであつたらう。ところが戰國時代になつて、主人とても命をすてる場合が頻繁に起ると、或は故あつてその危急の時にはたらくことができず、終に主君をして死に至らしめたとか、或は特殊の恩をうけて命をつないでゐるものが主人の死に逢うたので、その恩を報ずるために命をすててはたらく機會が無くなつたとか、その他いろ/\の事情で殉死するものが生じたらしいが、さういふ例が多くなると、主人の死が如何なる場合であるに關せず、殉死することが一つの習慣となり、また從つて世の風尚となつて來るので、戰國時代から既にさういふ傾向があつたらしいことは、徳川の世の初期の有樣からも推測せられる。昔は戰場でのはたらきの一つであつたのが、このころにはさうでなくなつたのである。
(318) けれども戰國の世には、戰爭の多い時勢であるだけに、一面には今述べたやうな特殊の情誼によつて死ぬものもあり、またかなり無關心に死を視ることができたためにさしたる理由なくして殉死をするものもあつて、殉死といふことがさほどむつかしくは考へられなかつたらうが、平和の世になつてさういふ事情がなくなつて來ると、殉死するものの心情はおのづから變つて來なければならぬ。武家義理物語(卷五)に、殉死すべき夫に對しその妻が、心にも無き不實なことばをいひ放つて、夫をして愛着の念を斷たせ、その首尾よく殉死したのを聞いて、おのれもまたすぐにその後を追うた、といふ話がある。この話が事實であるかどうかは知らぬが、あり得べきこととは考へられる。赤穗一件の時にその子を激勵するために自殺した母があつたことも思ひ合はされるではないか。その夫とても死を厭うたのではないが、それにしても妻がかゝる權略を行つたのは、彼等の衷情に於いて死よりもなほ懷かしき何ものかがあることを、暗黙の問に認識してゐたからであらう。同じ物語に、男が殉死すべき運命を有つてゐるのを知つて、女の父がその求婚に應ずることを躊躇した、といふ話のあるのも、子に對する愛と殉死を讃美する風尚との間に一條の間隙があつたことを示すものではないか。けれども殉死が難んぜられゝばせられるだけ、それを讃美する社會的風尚は強くなるので、いはゆる「商腹」を切つて世評に迎合しなければならなくなる。幸に殉死は政府から禁止せられたが、社會的風尚の力によつて不自然に維持せられる戰國武士の遺習に大なる缺陷があることは、この一事でも明かである。
 敵打(復讐)なども同樣である。これは自殺とは違ふが、死地に入らねば志を遂げることができない。返り討といふ實例もある。復讐も古い習慣であつて、武士といふものが現はれてからは往々世に行はれ、文學の題材にも常に採られてゐた。父を殺したものを惡む情が家族主義、即ち知行の相續、家名といふ觀念、などのために一層強くなり、(319)何ごとにも命をかけて爭ふ武士的氣象がそれを助けて、法律的な制裁の不完全な社會  状態に於いて、かういふ形をとるやうになつたのであらう。さてこの時代の初めには、人を殺すことの多かつた自然の結果として敵打が多く行はれたが、その間にはおのづから敵打をしなければならぬといふ社會的不文法が作られ、すべくしてそれをしないものは卑怯として非難せられるやうになつた。故なくしてまたは惡意を以て父を殺したものなどに對しては、國法の制裁が十分でなかつた世の中に於いて、眞に不倶戴天と感じもしようが、それとてもその事件が生前のことであつたり、物ごころもつかぬ幼年の時代に起つたりしたのでは、衷情からそれほどの怨恨を、見たことも無い「かたき」に對して、有つてゐたとも考へられぬ。父の庇?によつてのみ生活が保たれてゐた武士の思想は、今人の考とは大きな違ひもあり、そのことのために知行が減らされたり家に汚名がついたりした、といふやうな場合にはなほさらであるが、それとても目前にその事件を見て深く感動したといふのとは同じではあるまい。まして當時には有りがちの當座のことば爭ひなどから思はずも刀傷に及んだといふやうな場合に、それほどの深い怨恨のあるはずもなからう。もつとも、社會的風尚が強く人心を支配し、それに對して批列をする考が起らなかつた時代に於いては、その風尚がそのまゝ自己の道徳的責務として感ぜられる。敵打についてもさうであつて、怨恨はむしろこの責務感から生ずるものと解せられようか。考へてみればさしたる怨恨が無いにしても、その考へてみることがせらなれかつた時代なのである。
 けれども我が心に怨のあるなしに關せず、敵打をしなければ武士として待遇せられないとすれば、しかたがない。妻を迎へようとする用意の最中「毎日門に貼紙して狂歌俳諧種々の落書を立て、家中指さして嘲哢する、如何なるゆゑと聞き合はすれば親の敵がある、といふ」ので「この恥を清めずば」と敵打に出かけたものがある(おまん源五兵(320)衛薩摩歌)。かうなると「意趣無しと雖も、……これを敵と脇より取りはやすに、おのづから敵を打ちに出でざれば一分立たず、」と、世聞から無理に敵もちにせられてしまひ、「固より意趣なきことながら、世間の手前に」心ならずも敵ならぬ敵をねらひに出るやうにもなる(武道傳來記卷七〕。敵打も畢竟世間體の問題になつてしまつたのである。このころに流行した妻敵打といふものは、復讐とは全く性質が違ふが、討たうとするものの心理はやはり同じである。鑓の權三重帷子のおさゐが心の外の不義ものになつて、市之進に「男の一分」を立てさせようといふのは、今日のものには理解すべからざることであるが、かりにも妻が不義の「名」を得て「御家中」に「取沙汰」せられた以上、そのまゝにして置けば、「妻敵をも得討たず聞かぬ顔する腰拔」(堀川浪の鼓)として、男の名がすたる世の中として見れば、必しも不思議ではない。もつともこれは近松のおさゐの心事であつて、事實としてはさすがにこれほどのことは無かつたでもあらうが、ともかくも當時の看客にもつともと思はせ得る思想であつた。しかしこれは、敵打を自己の責務とした以上、それに對して一心になり熱情をもつやうになることとは、矛盾しない。敵打が自己から出たものでないにせよ、一旦それがなすべき責務とせられた上は、その責務に對して一心不亂になるのは、啻にそれが自己の武士としての生活の成否にかゝはるところであるが故のみでなく、しなければならぬといふ與へられたる責務がしようといふ自己の欲求となつてゆく心理的事實の上から見ても、當然である。責務と感じつゝもその責務が本來他から與へられたものである以上、それに對する反抗の情が心の底にあり、もしくは生じ、かゝることに懸命になることの愚を思ふやうになりはせぬか、とも疑はれるが、今人の如く自我意識が發達せず、與へられた責務に服從することが人の本分として考へられてゐる世には、一般にはさういふことが無かつたであらう。たゞ敵討の當讃せられたのは、敵(321)討そのことの外に、志を遂げるまでの間の忍耐と苦心とが大なる意味をもつてゐるので、かの赤穗一件のもてはやされたのも、その主なる理由はむしろこゝにあることを注意しなければならぬ。近松の碁盤太平記をはじめこの事件を題材にした淨瑠璃の主眼が、良雄の權謀機略や反間苦肉の計やそれから生ずる人情の波瀾にあるのを見ても、それが知られる(赤穗一件についてはなほ後に述べよう)。
 
 殉死や敵打の場合ばかりではない。嫗山姥の一插話、主君の身代りとして死すべき決心をしながら故あつて卑怯を裝つてゐる冠者丸に對し、その母が「死にともなくば殺すまい、せめて一言潔く弓取らしい詞をきかせ、恥を雪いでくれよ、」といひ、あまりの卑怯を怒つて拔き打ちに首を打ちおとしながら、さすがに子を思うて、「この子が最期は健氣なりと必ず恥を隱して給べ」とその夫に泣き口説く、といふのも、潔き最期の覺悟が世間に對する體面上必要とせられたことを示すものである。要するに平和時代の武士が死を決するにも、または死を賭して事に當るにも、その主なる動機は世間、特にいはゆる「御家中」、の評判を恐れるところにあることが多かつた.他人に對するかういふ評判には、かなりかつてな冷酷なものがあり、恕することの少くして責むることの多い傾向があり、また無事に苦んでゐる狹い一家中では、強ひて噂の種を作り誇張して事を傳へるのが常であつたが、かういふ評判に大なる權威があつたため、武士はその前には極めて怯懦になり、戰々兢々としてそれに背かぬやうに注意しなければならなかつたのである。「恥」といふのも「面目」といふのも、または「一分」といふのも、多くはこの評判から生ずる。のみならず、武士生活の根本義が死を恐れぬこととせられてゐるため、無責任な評判は動もすれば人に擬するに命を惜む卑怯(322)者の名を以てするので、恥とか一分とかいふ觀念がすぐに死の問題に結合せられ、腹を切つて一分を立てるといひ、恥を雪ぐには死を以てするといひ、或は纔かのことにも死を以て相爭ふに至るのである。それが甚しくなると「不忠なればとて卑怯の沙汰には換へられまい」(末廣十二段)といふ考も起りかねないのみならず、徒らに死を誇るやうな氣風さへも全く無いではなかつたらしい。事實としてはともかくも、思想として風尚としてさういふ傾向があつたことは、淨瑠璃や歌舞伎に於いて死を濫りにする人物の多く現はれてゐるのでも推測せられる。固より一方には犬死を非難する思想が武士の間にもあつて、それもまた丹波與作が「死ぬるがさほど珍らしいか」とたしなめられたやうに、淨瑠璃などにもしば/\見えてゐるし、平和の世にはそれが次第に強くもなつて來たであらうが、俗衆の評判は必しもそれとは一致しないのである。
 以上は死の覺悟に對する武士の思想と態度とを考へたのであるが、行爲の動機が世の評判にあることは、必しもかういふ場合に限らない。國姓爺合戰の甘輝が妻の兄の和藤内に身方をするには「恩愛不便の」妻を殺してかゝらねばならぬ。然らざれば女に絆された腰拔と世の「雜口にかけられ」て「子孫末孫の恥辱」だからである。しかし妻の繼母はそれを止めなくてはならぬ。繼子を惡んで娘を見殺にしたといはれては我が身の「恥」日本の「恥」だからである。殺さうとするのも妻を惡むためではなく、それをとめるのも娘を愛するからではない。この葛藤は、夫に人の誹を受けさせまいとする妻の自殺を以て解決する外は無いが、それがために繼母もまた生きてはゐられず、終に二人の死となつた。夫と親との爭ひに、「男の色に絆され」たと人の口にかゝつて「名を汚さんは口惜し」と、心ならずも夫に背いて親に從つた文武五人男の有明も、これと同じである。もつとも一方には「武士の女房でござんする、……(323)親とはいはさぬ斬りますぞや、」と夫に敵する親にはむかつた傾城無間鐘(海音)の今川もあるが、それとても「親を殺すは夫へ義理」を立てるためで、その義理にはやはり「名」があり「恥」がある。かれとこれとの違ひはたゞ親を主とするか夫を主とするかの判斷を異にするのみである。堀河浪の鼓の彦九郎が妻のお種を刺し殺したのも、「世間」から受けた「恥辱を雪」ぐためではないか。殺すほどに惡んだのでないことは、「尼にせんとて命をばなぜに貰うてはくれざりしぞ」と、後になつて人々を恨んだのでも明かである。夕霧阿波鳴門の平岡左近は、我が子と思つて邸に引取つたのが、實は伊左衛門の子であつたと知りつゝ、「あらためては侍の身分立たず」と堪忍したのであるが、その「侍の身分」の立たぬのは、町人にだまされたと世に聞えるからである。だまされたのが武士としてあるまじきことならば、左近は既に一分が廢つてゐる。それをまだ廢らないと思つてゐるのは、世間に知られてゐないからであることは、いふまでもない.「侍の一分」が事實に於いてでなくして外聞によつてであることは、これでもわかる。だから「國では賤しき業もならず、大阪は誰知らず、如何なる身過ぎなされても名字に疵はつかぬ、」(刃は氷の朔日)といふ。人だに知らねば娘が遊女をしても「内證のはぢ恥辱」に止まつて家名をば傷つけぬ、といふのが武士の思想である。「旅の恥はかきすて」といふ諺があるのも無理ではない。これは一つは封建制度の故でもあるが、一つは名聞本位だからである。昔から武士は名を惜しむといつた。これには積極的に佳名を末代に貽さうといふのと消極的に後人から非難せられまいといふのとの二つがあつて、何れにしても世の評判を目あてにしたものもしくは顧慮したものには違ひないが、江戸時代ほどそれが輕薄な意義に用ゐられた世の中はあるまい。「武士は世間が大事ぞや」(曾我扇八景)といふ語には世の常の虚榮心をさへ含んでゐる。教訓書に於いてすら「諸傍輩の中に於いて善惡の批判あるべ(324)き事に候」(武道初心集)といつて、それに氣をつけることを教へ、「身に親しき輩のさげすみを第一に恥ぢ愼み、それより廣く他人の誹り嘲りを恥ぢ入る、」(同上)ことを、少くとも修行の心得として説いてゐるではないか。比較的現實の武士の風尚を重んじてゐる山鹿素行が「世間の風俗を以て義とし人の毀譽を以て義を定めんとすること」を非難し(語類卷一五)、長沼澹齋が「本朝之士風、甚貪乎名、故或有誤認要名以爲義者、」(兵要録)といつてゐるのでも、一般武士の氣風のこゝにあつたことが知られる。
 この氣風はおのづから事を處し身を處するに、實を以てせずして名と外觀と形式とを以てする習慣を作る。勘當すれば子でないといふのも、それによつて親子の關係の無いことを世間に示すのであるが、その實親子はどこまでも親子である。平家女護島の宗清がその娘に刺されながら、離別した女の子だから父を刺したのではないといふのも、同じ意味である。その宗清が源氏烏帽子折に於いて、常盤親子を救はうとしてその話し聲を雀の囀りといひまぎらし、「見ぬが佛、聞かぬが極樂、」と耳を塞いだのも、聞かぬといふ名義があればそれで平家に對する義理が立つといふのであつて、かういふ例は數へきれないほど近松の作にはある。見知らぬ父母を慕ひ、まだ見ぬ兄を懷かしむといふのも、家族制度の時代に於いては親なく兄なきものが肩身が狹く世に輕んぜられるからといふ事情もあるが、親兄弟の愛に飢ゑてゐるといふ特殊の境遇にゐるものは別として、一般的には「親子といふ名に恩もあり義理もある」(浦島年代記)、やはり名目から來る點が多からう。
 そればかりではない。「腰刀を盗まれて我は町人おことは武士」、百合若大臣野守鏡の府内の大夫は、武士としては許されぬ子の勘當を許さうとして、武士をすてたことを證するために故らに刀を盗まれた。刀だに無くば武士でない(325)から武士がことばをかへしたといふ非難は受けぬ、といふのである。鑓の權三のおさゐが、伴の丞に取られた帶のために罪なきものが罪を受けることに決心したのも、やはり同じことである。是非の繋るところは、他人には知られぬ人の心にをるのではなくして、萬人の目に立つ外物にある。去り状とか夫婦の契約とかいふことが特に重んぜられるのも、畢竟形式が大切である世の中だからではないか。曾我會稽山の兄弟の母が五郎の袈裟をかけ、かうすれば五郎であるといつて十郎を兄と呼び、曾我虎が磨で重忠が五郎といふ子は持たぬといふ母の語を承けて、箱王は勘當せられて出家にならねば歸らぬはず、こゝにゐる五郎は父母もなき孤子であるから養子にせよ、といふに至つては、あまりにも甚しい名目の弄びやうである。これらは勿論、戯曲作者の構想であるから、それによつて事實かういふことが多く世に行はれたとはいへないであらうが、思想としては一般に承認せられたことである。のみならず、當時の裁判や行政の手ごゝろなどには、往々上記の話に似たことがあつたといふ。武士の情けといふ語もしば/\かゝる場合に用ゐられたので、これは一つは、表面上の規範が冷酷に過ぎてゐて、そればかりでは世が成りたゝないから、裏面に於いてぬけ道を作らねばならぬ、といふ自然の要求から出たことでもあり、また第二章に述べた如く、全體の社會組織が嚴格な制度で固められてゐながら、その實、内部から斷えず搖がされてゐる、といふ廣い社會上の状態とも、おのづから相應ずるものではあるが、それがかういふ形に於いて行はれるのは、事實の如何よりは名と外觀とで武士の紀綱が保たれて來たことを示すものである。
 
 更に他の方面から觀察する。いひ出しては通さねばならぬといひ、いひかけられては後に引かれぬといひ、強いと(326)見てはなほさらあひてにならねばならぬといひ、動もすれば身を賭して人に對し事に當るのが、武士の意地であるが、これは敵に向つた以上ひけを取つてはならぬ戰場の修練によつて馴致せられた負けじ魂であつて、その由來に於いて既に名聞を思ひ末代の恥辱を思ふ念があるではないか。生命を助けるとあつては不承知であるが、生命をくれよと頼まれゝば承知しないでゐられぬ(傾城島原蛙合戰)、といふのもそれである。命を奉ぜねば殺すといはれては奉ずるわけにはゆかぬが、赦すといはれれば奉じないでははゐられぬ、と家康の家臣がいつたといふ話のあるのも、參考せられよう(東照宮實記附録)。頼まれた上は引受けるといふのも、武士に二言は無いといふのも、また人生に固有な生存欲や人情や利益や權威や武力やの壓迫に降伏しない負けじ魂であつて、やはり同じ事情から養はれたものに外ならぬ。なほ「秋の暮男は泣かぬものなればこそ」と芭蕉がいひ、「錦祥女は目もくれて、弱きは唐土女の風、和藤内も一官も、泣かぬが日本武士の風、」と國姓爺合戰に近松が書いてゐる抑情の習慣は固より、君のため友のために我が身を殺し妻子を殺すのも、惰に負けじとする負けじ魂からであつて、そこにやはり武士の意地がある。
 この負けじ魂は人と人とが對立してゐる以上、人に我がある以上、強弱多寡の差こそあれ、何人にもおのづから具はつてゐるもので、武士の意地とても畢竟それが戰時の間に特殊の發達をしたものに過ぎず、眼前のあひてからひどく敵愾心を刺戟せられて心情の昂奮した場合には、成敗利鈍に關せず猛進勇闘するのも一面の事實であつて、戰國武士の間には特にそれが多かつたが、他面にはまた強者に服從して利益を得ようとする思想もあつて、競爭の割合に少く人の心を激昂させる事情の多くない、さうしておちついて利害を考へる餘裕のある、平和の世に於いては、むしろこの方に就き易い傾きがあり、事實またさうであつたのに、その間なほ幾分か意地の磨かれたのは、やはり名聞がそ(327)の一大理由であつたらう。かの抑情の習ひの如きに至つては、弱きを人に見せまいといふ努力の加はつてゐることが特に明かであつて、口には強う言つても「泪は胸」(用明天皇職人鑑)に潜んでゐ、人前で涙を見せぬ代りに、隱れた場所では思ふがまゝに泣かねばならぬ。これも古武士からの習ひではあるが、泪を抑へるばかりでなく、強ひて笑顔を作るやうな淨瑠璃などに例の多い矯飾は、昔の戰記ものなどには無いことであつて、そこに世間を憚る思想の後になるほど甚しくなつて來た有樣が見える。謠曲などに例の多い物狂ひが淨瑠璃に寫された武家の女には殆ど見當らないのもこの故であらう。吉野都女楠の勾當内侍は宮女として寫されてゐるだけにしかたがない。
 意地を他のことばで義理ともいふ。義理と意地とは一事の兩面で、自己の心情からいへば意地であり、他に對する面から見れば義理である。死すべき時に死するのは、死するものの心情からいへば意地であるが、死すべしといふ社會的規範から見れば義理である。この義理として考へられた事がらは、本來戰國武士の熱情から出たことであるが、それが義理として見られるやうになつたのは、冷静なる分別の上で事を處しなくてはならぬ平和の世だからである。だから「うらみの死はあらねども、たさけの死はあるぞかし、」(金平淨瑠璃碁盤忠信)といふ古武士の意氣は一轉して、「恩の死はせねど義理の死はする」(大織冠)といふ思想となつてゐる。恩に死ぬのは即ち情に死ぬのであるが、今はそれを否定してゐる。吉野都女楠の高家の死をその妻は恩に報ずる「情の死」といつてゐるのに、父は「情にもせよ義理にもせよ」といつて、「情」の一語では滿足してゐず、義貞はそれを「義理ばつたる男」といつてゐるではないか。
 既に義理であつて情ではない。義理と情との矛盾がそこに生ずるのは當然であり、意地が情と戰つてそれに打勝つ(328)ところにあるといふ事實は、これと相應ずるものである。頼まれた人の子の命を不慮に失はせて我が子を生かしてはおかれぬ、と知つた時には、「人間の義理ほど悲しきものは無し」(武家義理物語卷一)といはねばならず、主君の身代りとして子を殺すのは「人界の義理といふ字に責められ」てのことである(嫗山姥)。ところが情と衝突する義理を飽くまで立てるのは、多くの場合やはり名聞を憚ることによつてそれを刺戟するを要する。「笑はゞ笑へ、いはゞいへ、子故に恥はかへられず、」(用明天皇職人鑑)、義理のために子を殺しても、子を思ふ至情はすぐに恥の問題となるではないか。生死の問題についてばかりでなく、義理を守ることが即ち恥を知ること一分を立てることである、と考へられたのでも、それは知られよう。約束を守らねば「人中にて御笑ひ可被下候」といふ誓紙を書いたものがあるといふ話は、義理堅い古武士の例として昔の人に賞められたけれども、その裏面には人中で笑はれねば約束を破つても差支が無いといふ思想が暗々裡に含まれてゐる。我がなすべきことをなし守るべきことを守るのに「人中」は初めから問題でないではないか。義理を生命とする武士道といふ語さへ、しば/\面目や意地の意に用ゐられてゐるではないか(百日曾我、島原蛙合戰、用明天皇職人鑑、など)。
 武士の道義的觀念に於いて名聞と世間體とが重んぜられ、彼等の間の紀鋼がそれによつて維持せられる點の多かつたこと、さうしてそれが平和の世に不自然な戰國的氣風の形骸を保存しようといふ要求から出たものであることは、以上反覆考へて來たところによつて知られるであらう。彼等の道義は心生活の内からの要求から出るのではなくして、社會的制裁から來てゐる。人格にあるのではなくして人の目に見える行爲の末にある。約言すれば自己にあるのではなくして他人にあり世間にあるのである。我が身は我がものでなくて君父のものだと思へ、といふこのころの武士の(329)教にも、一面の意味では、この思想が含まれてゐる。「君父のもの」と思へば「我がもの」と思ふよりも君父に對する責任を感ずることが深いといふのは、おのれみづからの人格に重きを置かざるもの自己を信ぜざるものであつて、畢竟名聞主義と同じ根柢から發生した思想である。自己の人格と實力との如何を問はずして、徒らに家名を誇り系圖を誇り地位を誇り「お家」を誇るのも、この考を裏がへしにしたものであり、いはゆる直參が陪臣を輕んじ大國の家士が小國のものを蔑にするも、みなこのことと關係がある。濫りに人言に雷同して噂に權威をつけようとするのもまた同様であつて、何れにしても頼むところは他であつて自己ではない。かういふ道義が價値の低いものであることはいふまでもなからう。
 當時の武士には、世間の富貴榮華を求めぬと共にその毀譽褒貶を塵芥視し、斷乎として自己の所信を貫かうとする意氣が乏しかつた。齷齪として名聞に拘泥する彼等に獨立と自由との精神が無かつたことはいふまでもない。みづから信ずるところをみづから行ひ一世を敵として敢て恐れざる勇氣に至つては、固より彼等に望むべからざるところである。だから天才的英雄の如きは到底彼等に領解せられなかつたのみならず、戰國武士の精神すらも彼等には認識せられなかつた。一通の奉公人請状をもちあつかひかねてゐる傾城三國志の久吉は、よし滑稽的に秀吉を取扱つたものだとしても、信州川中鳥合戰の信玄と謙信とが小さな恥と小さた義理とに拘束せられてゐる小丈夫であるのを見るがよい。せつかく日本人を代表してシナではたらいた國姓爺もまた同樣である。さうしてさういふ名聞の末によつて生きる死ぬるといふ大葛藤を惹起す近松の劇などは、今日のわれ/\には滑稽に見えるのに、當時の看客はそれに同感してゐた。
(330) 實をいふと、武士たるを誇つてゐるといふことが既に社會的抑壓に屈從してゐるのであつて、「武士は食はねど高楊枝」の諺も、むしろ彼等のいくぢ無さを表白してゐるものである。これが戰國武士の思想でなくして平和の世になつて始めて生じたものであることは、第一章に述べたところで知られよう。人として生活するを得る廣濶なる天地は、武士社會の外に限り無く擴がつてゐるのに、彼等は一歩もそとに踏み出すことができなかつたのである。彼等は「位牌知行に膝を屈する」ことのみを知つて、みづから働いてみづから生きることの如何ばかり尊いかを覺らなかつたのである。これは武士といふ地位が制度の上または習慣の上で特別に尊ばれてゐて、その地位が殆ど動かないものとせられてゐた世の中だからのことであり、またかういふ考でゐたからこそ武士の地位が維持せられたのではあるが、さういふ社會組織さういふ世間の習慣そのものに不自然なところがあり無理があることを思はなかつたほどに、彼等に人としての自覺が乏しかつたのである。だからかゝる社會組織が一朝崩れると、彼等は武士としてのみならず人として生存することがむつかしくなる。さうして武士の地位とその間の社會的制裁とによつて維持せられた彼等の道徳は、その地位その制裁の無くなると共におのづからその權威を失ふやうにもなる。明治の初年に於ける彼等の生活にはさういふ一面があるが、もし假にそのやうな變革が正徳享保のころに起つたとすれば、やはり同じやうな事態が生じたであらう。或はそれより一層甚しかつたかも知れぬ。元禄の武士は幕末のものに比べて、少くとも知識の程度が低く、從つてこの點から彼等の生活と道義とを支持することが一層少かつたらうと思はれるからである。もつともこれは武士の生活の一面についてのことであり、また一般的傾向を見たまでのことでもあるので、武士の教養として他の一面のあること、またその教養によつて人としての高邁な精神または情味の深い人間性を具へるやうになつたものも少な(331)くないことを、忘れてはならぬ。なほ後にこのことに言及するをりがあらう。
 
 以上は、武士といふ特殊社會の存立に伴つて自然に馴致せられた、武士の道義についての觀察である。次に封建制度と武士の氣風との交渉に關して注意すべき二三の點を考へてみよう。第一に、武士の生活の中心となつてゐる君臣主從の關係は、諸侯とその家臣との間に於いてのみ成りたつてゐるのであつて、從つて武士の氣風がともかくも維持せられてゐるのは、封建制度の賜だといふことである。一筋の武士と全國武士の總君主たる將軍との間には君臣の關係がない。彼等に生活の基礎たる知行俸禄を與へるものは、直接の君主たる封建諸侯であつて、將軍ではないからである。彼等も將軍の陪臣とせられてはゐるが、それは理論上のことに過ぎない。だから故あつて主家が滅亡する場合には、彼等は全く知行俸禄を没收せられて、衣食の資を失はねばならぬ。その上に、君臣の情誼といふやうな個人的關係は、その接近する程度の親疎によつて厚薄の生ずるのが常であるから、武士の生活が狹小な一藩一家の中に限られてゐて、概していふと君臣の距離が甚しく遠くないからこそ、その間に情誼も生ずるのである.戰國時代ほどにその關係が親密ではなく、從つてその情誼が概して薄くなつて來る傾向はあつたけれども、或る程度にそれが保たれてゐるのは、これがためである。さすれば、いはゆる旗本の士は別として、一般の武士が將軍に對してさしたる親しみをもつてゐなかつたのは、この點から見ても當然であらう。徳川家と諸藩とが或る意味に於いて敵味方であるといふこと、特に外樣大名の家臣に於いては戰國時代以來の因襲的觀念も、またその一原因ではあらうが、主なる理由はここにあらう。勿論、考へてみれば世が泰平になつたのは徳川氏の力であるから、その意味で徳川氏の恩惠が感ぜられ(332)るであらうし、そこに權現樣の神威も認められるので、徳川家に對する尊敬の念を一般武士がもつてゐたことは明かであり、特に譜代大名の家臣に於いてさうである。しかし權現樣は、日常生活に於ける宗教的信仰の對象であるよりは、政治的權力の權化であるから、その神威には限界がある。(だから明治時代になるとその特殊の權威は衰へて、日光廟はたゞの美術的建築物になつた。)權現樣が神であるから徳川の代が續いたのではなく、徳川の代であるから權現樣が特殊な神として尊敬せられたのである。さうして泰平が續いて來るとその泰平は通常のことと思はれ、そのありがたみも深くは感ぜられない。そこで問題は君臣の情誼のことになるが、著者は曾て鎌倉時代の武士の思想を考へて、圭從關係が廣い天下に擴げられたために、君臣の間がらは情誼よりもむしろ權力及び利益の關係になつたといつたことがある(「武士文學の時代」第一篇第五章)。その時代には封建制度がまだできあがつてゐなかつたから、主從關係が南北朝の混亂と共に壞れて來たが、徳川の世はそれとは違ふから、戰國時代に新な形をとつて復活した主從の情誼が狹い封建諸侯の内部に於いて保たれてゐる。けれども將軍と一般武士との情的な結びつきは少なくなつたのである。よしまた君臣の間を維ぐものが情誼でなくして義理であるにしても、その義理が上に述べた如き性質のものである以上、直接に自己の生活と關係のあることに於いてのみ存在するのは當然であり、從つて全國の總君主に對してさしたる義理を感じないのも自然である。君臣間の武士的情誼が、例へば赤穂一件の場合の如く、往々天下の政治的秩序と衝突するのは、こゝにも一原因がある。また大名に於いては、親藩または譜代の家の外は、將軍を政治上の首長とこそ見てゐたであらうが、それに對して君臣主從の情誼を抱いてゐたらしくは思はれぬ。豐臣氏に對する諸大名の態度によつて十分にそれが推測せられるのみならず、幕末の状態は明かにそれを示すことになつた。もと/\將(333)軍と大名との關係は政治上の統治關係である。しかし一般的には君臣關係によつて武士の社會が構成せられてゐる時代でもあり、譜代大名と將軍との間がらは君臣でもあるところから、道徳的意味に於いて、或は名義上、それを君臣の間がらとしても見てゐたので、そこにこの時代の政治組織の根本の矛盾がある。
 さて武士の生活が一藩一家の中にのみ限られてゐるといふことは、一方に於いて、諸侯が多く對立してゐることによつてその間の競爭心が刺戟せられ、その結果として君臣の結合も幾らか固くなり武士の風尚も礪まされた氣味があると共に、他方に於いては、彼等の眼界を狹くし局量を小さくし無益な私人的抗爭心を他藩他家のものに對して抱かせるやうになる。「他國ものに投げられては國に歸つても成敗」(お萬源五兵衛薩摩歌)といふやうなのは、むしろ弊の少い方であるが、事の是非を問はず「他國もの」といふ點にのみ目をつけるのが、如何にも眼界の狹いことを示してゐるではないか。さうして武士の最も憚つてゐる世の評判も主としてその家中でのことであるために、その制裁が屆かたいところでは往々放縱な行があり、旅の恥はかきすてといふ考にもなる。勿論、他家他藩の士に對して公然我が主君を名のる場合には、お家の恥を思つて愼重な態度を取ることが一般の風習であるけれども、それにしても他家に對してひけを取らないやうにするためには、權略をも詭謀をも無理なことをも行ひかねなかつた。第一章に述べた如く、太平が續いたので藩として國としての競爭や警戒心が漸次薄らいで來ると共に、かういふ私人的の抗爭心は却つて加はる傾きが無いではない。藩國が對立してゐて人の抗敵心を刺戟する以上、何等かの形に於いてそれが現はれねばならぬからである。その餘弊は今日までも殘つてゐて、地方的感情が國民全體としての協同一致を妨げることが少なくない。さうしてかういふ藩國的抗敵心は決して現代の國民生活に適合する眞の愛郷心ではない。それは、幾ら(334)かの例外はあるが概していふと、武士が眞の郷土を有つてゐないこと、また元來藩國が公共團體でないこと、からも明かである。
 當時の武士の生活が農民に親しみを有つてゐないといふことは、既に第二章に一言しておいたが、土地に定住してゐる農民に親しみの無いのは、即ちまた土地そのものに親しみの無いことを示すものである。彼等は城下に集中して特殊の社會を形成し、さうして彼等にとつては、農民は租税を納めさせるところに主なる意味のあるものであるから、彼等の集合によつて成りたつてゐる藩といふ一つの勢力は、農民をその一要素として、土地の上に組みたてられてゐる結合體ではない。特に譜代大名は往々國替を命ぜられるために、それに從屬する武士の社會は、土地の上に立つてゐない浮遊體である。その領地が諸所に散在するやうな場合ではなほさらである。愛郷心といふものが、郷土の地に底深く根ざし、その土地の自然の風物によつて培養せられ、その土地と離すことのできない郷人の共同生活によつて成長するものだとすれば、彼等封建武士の間に眞の愛郷心の發達しないのは、自然のことである。古い歴史のある邊陲の外樣大名の國に於いては、幾らかの親しみを土地にもつてゐるであらうが、それとても武士の誇りとしまた擁護せんとするところは、主として彼等の君主の家とその「御家風」とであることは、疑ひがない。(愛郷心は必しも隣郷を敵としない。元來利害の關係をもつてゐるものではないからである。愛郷心は必しも他郷のものを排斥しない。それは郷土がおのづから彼等を同化するからである。愛郷心はまた新しい世界に新郷土を求めることを避けはしない。自然に親しみ土地に親しむ習慣は新しい自然と土地とを容易に我がものとするからである。愛郷心が現代の國民生活もしくは人類としての生活と調和する點はこゝにある。他國ものを敵硯し自然と土地とに同化ることのできない封(335)建武士の偏狹な思想と違ふところもこゝにある。)
 その上に武士生活の世界をなしてゐる一藩一家は、決して公共的精神を有つてゐる公共團體ではない。それはどこまでも君臣の關係、詳しくいふと主人と一々の家臣との間に維がれてゐる個人的私的關係が、その一々の家臣が同一主君から俸禄を得てゐるといふ偶然の、また單純の、事情によつて結合したものに過ぎぬ。だから主家が無くなれば、家來どもは忽ち本來の孤立の地位に歸つてしまふ。赤穗一件の時に多数のものが離散し去つたのは、この點から見ても不思議はない。元來家臣の間には定まつた組織が無いので、その間がらは今日の官吏生活に於ける同僚関係と大なる差異は無い。主君はあつても、それを中心として多くの家臣が有機的に組織せられてゐるのではない。君臣關係を基礎としてゐる社會では到底さういふことができないのである。實をいふと、當時の武士の間には社交らしい社交すらも無いくらゐであつたので、公共生活は、有形的にも無形的にも、殆ど彼等の間に成りたつてゐなかつた。戰國の世には主從が互に力を協せ家臣がみな心を一にして敵に當らねばならなかつたから、却つてそこに公共心の萌芽が生じたのであるが、戰爭に代るべき何等の事業も無い平和の世では、その萌芽は成長せずに萎縮してしまつた。だから彼等は他家のものに對して同藩士を庇護するやうなことはするが、それは一種の朋黨根性であつて、あひてのあるときにのみ現はれる。家中全體を一つの集團として互にその幸福を増進しようとする考も方法も無かつたのである。この點から見れば、彼等の生活は、極言すれば各自の家かぎりの離れ/”\のものであつて、すべての家來が同一主君に對してそれ/\の任務を有つてゐるのと、義理といふ私人的道義の念があるのとによつて、纔かに彼等の社會が成りたつてゐたに過ぎない。主君に身を捧げてはゐるので、そのためには生命を棄てる場合もあるが、それは、生活の基(336)礎たる俸禄の交換條件であるのと、「名」の上の生存を欲するのと、この二つのためであるから、公共の幸福のために自己を犠牲にするのとは全く性質が違ふ。
 武士が人を見れば盗賊と思ひ敵と思はねばならず、その間に權謀術數が行はれるのも、またこの封建制度と公共生活の無いこととに關係がある。讀者は淨瑠璃や歌舞伎の人物が如何に謀略と詭計とにうき身をやつしてゐるかを知り、さうして當時の看客がかゝることに興味を有つてゐたことを怪しむであらうが、それは當時の思想の反映でもあり、稀には起る事實でもあつた。赤穗事件の大石良雄の行動にもそれは現はれてゐるが、それを題材とした碁盤太平記が、長矩の悲劇でも良雄のそれでもなく、義央を討つための權謀とそれに對する人情の波瀾とを示すのが一曲の精神であるのを、見るがよい。公平誕生記の主人公たる自然兒の公平さへも、山から出ると直ぐに敵に對して「すかして討たん」、「計略にて討つべし」、と工夫してゐるではないか。昔の辨慶物語の辨慶の無邪氣なあばれやうとは大に違つてゐることが、看取せられる。この時代には天眞爛  鰻な人物は殆ど存在が許されない。かういふ意味での詐僞は公然許されてゐるので、近松の大織冠に、面向不背の玉を龍神に奪はれたといふのも海士がそれを取りもどすといふのも、みな事實ではない政略的言明であるとし、松風村雨束帶鑑の汐くみが實は汐をくむのでないやうにしてあるのを、謠曲やその粉本になつた古傳説と比べてみて、そこに時代の思想のあることを悟るがよい。「武士に二言はない」といふ語も一方にはあるが、それは特殊の人に對して特殊の約束をした場合のことであつて、一般には人は油斷のできないものと考へられ、從つて何人に對しても權謀を行ふことが是認せられてゐたのである。食物について毒みといふことの行はれてゐたのも、このことと關係がある。謀略は目的が手段を神聖にするといふ考と相伴ふものであるが、身(337)をたてるためには盗みをしてさへもむしろ賞められてゐる場合があるのは、あまりにそれが甚しいではないか(百合若大臣野守鏡、吉野都女楠、など).しかし戰國時代に於いては、一面的の觀察でもあり故意の誇張でもあり、また冷笑的態度でいつたことでもありながら、武士は盗賊であると評せられたほどであるから、それが封建武士に繼承せられたのは自然であるかも知れぬ。
 ところがかういふ氣風は、今いつた如く生活が孤立的であをといふことによつて助けられてもゐる。第二章に説いたやうに狹い範圍で勢利を爭ふのも、またその一原因であるが、それも畢竟は同一事情から來てゐる。孤立であれば斷えず人に對して警戒をしなければならず、他人を倒しても自己の勢利を求めねばならぬからである。さうしてそれがます/\彼等をして公共心を養ふことのできないやうにしたのである。公共心は社會を組織する各員の自由の意志から湧いて出る相互の信任と助力とを基礎とし、社會全體を大なる自己として見るところに生ずるものだからである。
 
 以上は主として文學の上に現はれてゐるところによつて考へたのであるが、それには作者の意圖もはたらいてゐるし、また劇曲に於いては、劇そのものの性質としてその主題たる何等かの葛藤、從つてまたその人物の心情言動、が抽象化に近いほどに極端化せられてゐるし、特に偶人劇の語りものに於いては、その技巧上の要求のために表現が高度に強められまたは甚だしく誇張せられてゐる、といふ事情もあるので、現實の武士の思想や情懷がそのまゝに示されてゐるには限らない、といふことが顧慮せられねばならぬ。けれども、作者の態度が現實の世相人心を描寫し表現しようとするところにあつたこと、また上にも一言した如く、當時の一般の讀者または看客がそれに同感し、少くと(338)もそれを承認してゐたことを思ふと、上記の點について一應の注意をだにするならば、それによつて現實の武士の風尚を考へるに大過はあるまい。また例へば明良洪範などの如き武士の言行を記したものとそれとを對照して見ても、その間にさしたる乖異は無いやうである。武士の心生活がすべての方面にわたつて文學の上に現はれてゐるのではなく、浮世草子の如きものに於いては世に喧傳せられてゐるもの、劇曲に於いては劇の資材とするに適するもの、が採られたのみであるが、さういふ部面のことについては、ほゞかう解せられる。
 なほ一言すべきは、これまでいつて來たととろでは武士の風尚の缺點とすべき方面が讀者に強い印象を與へたのではないかと思はれるが、武士の思想心情には長所もまた多い、といふことである。武士中心の社會組織も封建の政治制度も我が國民生活の發達にそれ/\大きな貢獻をなしてゐると同樣、武士の風尚もまたさうである。よしそれが多くは名聞と世間體とによつて維持せられたとしても、これは多數人を支配する道徳としては、程度の差こそあれ何れの社會何れの時代にも通有のことである。道徳そのものがそのはたらきに於いて社會的のものであることが、これと關聯を有する。たゞそれが度を越えてひたすらに外面を粉飾するやうになると、そこから弊害が生じもし道徳の本質に背くことにもなるが、江戸時代の武士に於いては、平和の時代に戰國的風尚を維持しょうとするところから、さういふ缺陷が生ずるやうになつたのである。さうして缺陷があるにしても、それによつて強い責任の觀念が養はれ、意志が鍛錬せられて、堅固な操守ならびに事に當つての勇氣と忍耐とがそこから生れ、自己を抑制することと他人のために自己を棄てることとも體得せられ、また互に他人の意地を尊重する點に於いて、武士の情けといふ美しい氣風も保たれ、禮節も整ひ、平民をして「さすがは武家」といはせるだけの修養が、多くの點に於いて積まれたのである。(339)他家他國に對して主家の體面なり自國の品位なりを傷けまいとする、平素の注意と事ある場合の努力とにも、また賞讃せらるべきものがある。またその道義的觀念に他人に對しての名聞から來てゐるところがあるにしても、その道義が長い間の因襲による武士一般の風尚となれば、さういふことを意識せずに、何故とは知らず守らねばならぬ責務として感ぜられるやうにもなる。或は名聞を重んずることが當然の責務と考へられ、それに如何なる道徳的價値があるかを思慮しない。一方からいふと、かういふ無自覺の道念は道念として價値が低いとしなければなるまいが、他方からいふと、これはさういふ責務感が主觀的心情に於いて道念として純化せられてゐることを示すものでもある。なほ文學の上には多く現はれてゐないやうであるが、大名がその家臣を取扱ふ細かな心づかひや、それに對する家臣の氣分など、戰國時代から繼承せられたものが、よし一般的にいふと薄れて來た傾向があるとはいへ、決して無くなりはせず、傳統的な教養としてそれが重んぜられ、心ある大名やその家臣に於いては、幼時からの訓導によつてその風尚が育成せられ、さうしてそれが彼等に自然な心情となる。この時代になつてもなほ少なくなかつた浪人が新にどの大名かに抱へられる場合の態度や、舊主家に對するその情誼、などにも、尊尚すべきものが少なくない。またよし大名の家臣は組織せられた集團ではないにしても、一方では同じ主家の下にあつてそれ/\の任務に服することによつて常に相接觸すると共に、他方では一藩一家のうちに共通な氣風がおのづから成りたち精神的な聯結が形づくられるので、それによつてよい意味に於いて互に恥を思ふ念が養はれ、上に擧げたやうな武士の道義がみがゝれる。殉死とか敵打とかいふやうな異常な事がらについてはともかくも、日常の生活に於いては、家中に對して恥を思ふことにさしたる弊害は伴はない。平和の世の武士の風尚は、かゝる日常生活の間におのづから新しい色彩をつけて育成せられる(340)ので、そこに上にいつた如き平和時代の武士道を樹立しようとする意圖と接觸するところがある。戰國的功名心をはたらかせる機會が無いために、それが次第に銷磨し、古武士の事蹟を知つても、それによつてかゝる功名心は刺戟せられず、現實の生活に適合する道徳的教訓をそれから引き出すやうになる。當時の武士に對する教訓の書などを見ると、かういふ一面を推奬してそれを保持してゆかうと努力した跡が見える。要するに武士道が平和の精神を帶びて精練せられるのである。武士には戰國時代から繼承せられたところがあつて、それが一面では平和の世に適合しない行動として世に現はれもするが、他面ではおのづから純化せられて平和の武士の氣風をその實生活の間から作り出してゆくのである。さうしてさうなると、その氣風は、もはや武士道と呼ばれるよりも人道といはれるのがふさはしいのであつて、武士的精神を保ちながらにそれが人道にまで高められるのである。その上に、如何なる社會にも如何なる人にも自然に存在する人々相互の同情や親和を欲する性質は、武士の時代にも決して無くなりはせず、それが暖い雨露となつて世の中を潤し、不自然な社會組織を融和してゆくのであつて、こゝにもまた社會的規制に全く慴伏してはしまはず、無意識の間に人生の自然を保持してゆかうとする反撥心が、我々の國民の間にあつたことを示してゐる。さうしてかういふ美しい一面を見れば、いざといはゞ死を以て事に當る覺悟を有つてゐるだけに、またよしその生活が狹い一藩の中に限られてゐるとはいへ、平和の世であつて國民共通の文化を享受し、一般に知識が廣くもなり進んでもゐるだけに、昔の平安朝の貴族などに比べると、その道徳生活は遙かに高いものであつた。こゝに爭はれない世の進歩がある。さうしてそれが徳川の世の紀綱を維持し、それにょつて長い年月の平和を鞏固にし、全體としての國民文化の發達に寄與したのみならず、明治時代に至つて新文化を作り出すためのおのづからなる準備をしたことにも(341)なつた。明治時代の活?なる國民的活動は、江戸時代に於いて養はれた武士の風尚の繼續せられたところに、大なる原因がある。
 
(342)     第十四章 武士道下
 
 道徳に關する學者の講説や教訓は現實の道徳生活そのものを示すものではない。この意味で倫理學史は道徳史ではない、といふべきである。二つの間には直接間接に種々の交渉があるけれども、本質的には明かな區別がある。學者の講説は、その學問の特殊の立場から事物を考へるために、現實の状態とは隔離してゐることが多い。或は一般的抽象的な概念を示すのみであつて、特殊性を有する具體的な或る時代或る社會の生活には適合しないものとなる。また教訓は、現實の道徳生活の短所を補はうとして、故らにそれに缺けてゐるものを力説することもあり、現實の状態に不滿足なために一層高い理想を説いてゐることもあり、或はまた一種の懷古思想守舊思想から、もしくは實社會を透察する明の無いところから、實生活とは殆ど交渉の無いことを教へてゐる例さへもある。特に舊來の教は、その免れ難き傾向として、人の生活を生活として、即ち生きた一つの全體として、觀ることをしないから、その説くところは初めから生活そのものとは隔りがある。シナの特殊な民族性の上に立つてゐる儒教の思想を本としたものに於いてはなほさらである。江戸時代の武士に關する教訓もまたこの例に外づれてはゐない。けれども、當時の知識人の思想でもあり、またそれによつて裏面から間接に武士の心生活を覗ふ方便ともなるのであるから、こゝにその重要なる點を觀察しておかうと思ふ。
 當時の道徳を説くものに、多かれ少かれ儒教もしくはもつと廣い意義でのシナ思想の影響を蒙つてゐないものは無い。その間には、主として現實の武士の生活とその風尚との上から立論し、シナ思想を以てそれを潤色するに止まる(343)ものもあつて、上にも引いた大道寺友山の武道初心集などがそれであり、井澤蟠龍の如きは朱子學の思想を交へてはゐるものの、なほこの部類に屬するといつてよからうが、長沼澹齋の如き兵學家の言にすら、シナ思想の分子が多く加はつてゐる。山鹿素行も、軍學者または兵家として春臺(赤穗四十六士論)や鳩巣(駿臺雜話卷五)から目せられてゐたほどに、古來の武士の現實の生活に重きを置いてその説を立て、必しも異國の教に拘泥すべからざるを説いて、「本朝以武爲先」(語類卷一二)といひ、「漢朝」に對して「本朝の風儀」の特色を誇つてさへゐるが、しかし思想としてはやはり書物から得た儒教の知識によるところが多く、或はむしろそれが根本となつてゐる。後にいふやうに武治提要に見える津輕耕道などは、素行の本朝本位の方面から出立してはゐるが、これはむしろ當時の一思潮たる反儒教主義と相伴つてゐるものであるから、それによつて却つて、如何に儒教思想が知識社會の表面に行はれてゐたかを知ることができる。しかし武士の多數が儒者の言と一致しない思想を有つてゐたことは、儒者がその著書に於いて常に世間の「義理」を非難し、それに對して彼等のいはゆる道なり理なり義なりを説明することに努めてゐるのでも、明かであつて、徂徠一派はいふまでもなく、その前の藤樹にでも鳩巣にでも山崎派の諸子にでも、殆どこの態度の見えないものは無い。次に述べるところによつてそれが推測せられるであらう。
 第一に考へねばならぬことは、儒者の武といふことに對する根本觀念である。戰國武士がそれによつて隣人と爭ひ隣國と戰ひ、我が勢威を強くし我が領土を擴めようとしたとは違つて、儒者のいふ武は「孝悌忠信の障りとなるものを退治」し「萬民を惠まん」ためのもの(藤樹翁問答卷二)、「亂を鎭むる」もの(益軒武訓上)、「凶賊を防ぎ天下を警固するもの」(蕃山集義和書卷一五)、である。要するに「兵者凶器也、戰者危事也、」であり、「兵者詭道也」(孫子)(344)であるが、たゞ民の害を除くために、已むを得ずしてそれを用ゐねばならぬ場合がある。それが即ち義兵であつて、然らざれぼ盗賊である(翁問答、武訓、長沼澹齋兵要録、など)。だから徂徠の言の如く「武の本は仁なり」(答間書)である。儒者の多くは、武家の世に順應するために、文武の兩道を必要としてゐるけれども、禮樂制度によつて、或は修身齊家の道を擴充して、天下を治平にしようといふ儒教思想からいへば、文を主とするのが本意であることはいふまでもない。だから仁齋は「文勝其武、則國祚修、武勝其文、則國脈蹙、」(童子問卷中)といひ、鳩巣は韶武の樂に關する孔子の語を引いて武を抑へてゐる(駿臺雜話卷二)。一般的にいへば武が常道でないといふことは當然の話であるが、しかし戰國武士の地位と任務とを繼承してゐる特殊階級が社會組織の中心になつてゐる世の中では、この説は彼等武士の存立の根本精神を否認することになる。彼等の父祖は勢利を得るために武を用ゐたものであつて、儒者のこの考によれば、もとより盗賊だからである。ところが幸に人が戰國の昔を忘れはてたほど世が治平になつてゐるから、多數の儒者はこの事實を知らぬげに見すごし、さうしてその盗賊の子孫たる武士に向つて、この儒教思想に適合する新なる任務を負はせようとした。
 それは即ち武士をシナの書物の上に見える士太夫の士として取扱ひ、儒教的教化の任務をそれに與へようとすることであつて、從つて武士といふよりも士といふ名を多く用ゐた。さて武士が士であるならば、その修養は第一に仁義道徳を明かにすることであつて、それが即ち文道である(翁問答卷二、集義和書卷二、武訓上、など)。次に武道の心得も無くてはならぬが、それはいはゆる武藝のやうな末技のみのことではなく、智仁勇の修業がその根本である(同上)。武藝でも劍術などは匹夫悍卒の事だ、と賤しんでゐる三宅尚齋の如きものもある(黙識録卷三)。畢竟武道は士(345)道であるが、その士道は即ち儒道に外ならぬのである(翁問答卷三)。我が國で中古以來用ゐ慣らされた文武二道の語は、こゝに至つて意義が一變したといつてよい。さてかういつて來ると、武士は人倫の道を明かにするのが職業だといふことになる。だから素行は「天下の民農工商にして、こを教ふるを士といふ、」(語類卷六)といひ、鳩巣は「士以義爲職」(士説)といひ、蟠龍は「士を三民の上に置きて三民をして敬はしむるものは、他なし、義理をよくさとして……己れを修め人を教ふる職なればなり、」(武士訓)といつてゐる。この考は鳩巣が「商賈以利爲職」(士説)といひ、素行が「商賈は利に恣にして奸曲を構ふ」(語類卷五)といつてゐるやうに、いはゆる三民は本來道念の無いものだといふ思想に伴つてゐるので、道義を人間の日常生活、特に生業、とは全く別のものと考へる儒者一流の僻説が基礎になつてゐるが、それはともかくも、武士は儒者によつて特殊の道徳的責務を負はされたのである。
 けれどもかういふ考からいふと、武道、少くとも武藝、を知らないでも、その根本たる文道に達し義を明かにすることができれば、士としての職を盡すには支障が無いから、すべての士に對して武を奬めるにはおよばないはずである。武人は廣い天下の政治からいへば必要かも知れぬが、士が盡く武人になる必要は無い。それにもかゝばらず士を以て文武を兼ね具へねばならぬものとする儒者が多いのは、知らず/\時の有樣に晦まされて、或は故らに時勢に順應しょうとして、所説が曖昧になつたのである。だから、武士といふものの存在を認めながら、儒教的文治主義を徹底的に主張しようとすれば、士と武士とを區別しなければならぬ。平士は軍伍に編まれる士卒であるから古書に見える士君子ではないとし、家老奉行などは文官であるから武士と思ふのは誤だといつてゐる、祚徠の説(答間書)は即ちそれであつて、職に文武を分ち、士君子は文職にあるものに限るとしたのであらう。が、事實上武士である家老な(346)どを武士でないといふのは、たゞ一切の武士を武士ならぬ士とする見かたの範圍を狹めたのみのことである。周南が大名は民政を司るものであるから昔の武家と違ふといつたのも(爲學初問)、多分同じ考であらう。儒者は儒教の經典の記載が當時の日本にそのまゝあてはまるものと思ひ、またそれをあてはめようとしたのである。當時の制度は長い歴史的由來のある日本に獨自のものであることを考へようとしなかつた。のみならず、士の職分をかう見れば、封建的君臣関係、その關係に於いての忠君の觀念、いひ換へれば主人の馬前に討死をするのを最大の責務とする家來の心得が、必然的にそれと伴はなければならぬ理由も無いではないか。要するに戰國以來の因襲となつてゐる武人政治主義軍政主義と、それと離るべからざる君臣主從の關係とは、教化政治主義の上に立つてゐる儒者の認めることができないものであるから、それを何とかして文治主義らしく見ようといふのが、學派の如何にかゝはらず、彼等を通じての一般的傾向であつて、それがためにかういふ考が生まれたのである。
 けれどもこれは儒者の眼底の幻影に過ぎない。儒家の説いた教化政治主義が現實には行ふことのできないものであることは別問題としても、武士が士であるといふのは現在の事實と矛盾してゐる。武士自身も彼等が道徳的に平民と違ふものであるとは信じてゐたが、彼等は決して徳を脩めることがおのれらの職業だとも、平民を教化するのが任務だとも思つてゐなかつた。彼等は特殊の道念を有つてゐるから武士なのではなく、武士であるから平民とは違つた道念があるのであり、その道念は武士といふ職業と地位とに隨伴するものとして考へられてゐたことは、前に述べたところからおのづから推測せられよう。のみならず武を以て仁を行ふためのものだといひ兵は常道にあらずといふ儒者の考すらも、武士の傳統的思想と現實の状態とに矛盾してゐることは、武士が、よしその精神に弛緩したところがあ(347)るにせよ、なほ割據の思想を有し、また武士が依然として名の如き武士であり、また武を以て日常の職務と考へてゐるのでも明かである。
 從つて武士が尚慕してゐる古武士の思想の如きは、概ね儒者に非難せられてゐるので、中江藤樹は信玄を難じ(翁問答卷三)、佐藤直方は「太平記を見よ、胸わるきばかり也、」(學談雜録)といつて、小山田高家の如く恩のために身を殺した古武士を義を知らぬものと譏つてゐるし(前に述べた近松の作に見える思想とは正反對である)、鳩巣も正成を攻撃してゐる(駿臺雜話卷四)。祚徠の徒に至つては「武道は戰國時代の名將の筋を傳へて軍者などのいふことなり」(太平策)といひ、武士の風儀についても「戰國の惡習」(答問書)を去ることを説いてゐる。蕃山が「只今にも事あらばと油斷せず、高名せんと思ひ、疊の上にて病死するは無念なることに思ふ、」戰國的武士氣質を「文盲にして道學のわきまへもなき武士」のこととしては寛容する口氣を漏らしつゝ「浮は氣にてさやうに思ふは僻事なり」(集義和書卷二)といひ、鳩巣が戰場で死を輕んずる武士の風を論じて、必しも義のためにするのでないといつてゐる(駿臺雜話卷四)などは、むしろ穩かな方であらう。益軒の「小を以て大に事ふること是れ理の當然にして天に率ふ道なり」(武訓)といふ考が、武士の誇りとしてゐる意地を無視するものであることはいふまでもなく、秀吉の征韓が將士に頒ち與ふべき土地が國内に無くなつたからだといふ白石の説(獨史餘論卷一〇)も、戰國武士の事功欲を解しないものである。三輪執齋が「口惜しや疊の上ののたれ死にめでたすぎたる御代に生まれて」の意氣を賞してゐるなどは、珍しい例外であらう。(甲子夜話や佐藤一齋の言志録に山崎闇齋が武人氣質を一種の異端だといつたといふ話がある。その出所は知らぬが、且らくこゝに附記して置く。)これは儒者が人の心生活に於いて、その情意の方面(348)を無視してゐるからでもあり、平和の世に於いて疊の上で戰國武士を論ずるからでもあるが、根本は儒教の文治主義が武士の思想と一致しないからである。なほ鳩巣の明君家訓に、たとひ叛逆の行があつても子が親を訴へるのを非としてゐるなども、親よりも君を重いとする武士の思想ではない。儒者の多くは忠臣は孝子の門に出づといふやうな抽象的な忠孝一致論のみをしてゐて、その間に矛盾がある場合を深く考へてゐないが、これは、考へれば孝行本位論にひゞが入る恐れがあるからであらうか。近松の淨瑠璃などにしば/\忠孝の矛盾から生ずる葛藤を描き、而も何時でも親よりは君といふ武士思想を以てそれを解決してゐるのと對照するがよい。もつとも幕府でも保科正之などが儒教主義を採用してからは、眞の武士氣質は却つて斥けられる傾きがあるので、或る場合には孝の方が重んぜられてゐる(徳川實記萬治二年七月三十日の條參照)。
 更に一々のことがらについていふと、殉死は禁ぜられてゐるから別として、復讐は一般には是認せられながら、雨森芳洲の如きはそれを亂世の遺風として排斥し(たはれ草)、堀田正俊を刺した稻葉正休は世聞からは忠臣の如く讃美せられてゐるにかゝはらず、尚齋からは臣の分にあらずといはれてゐる。赤穗の一件については意見が區々であつて、直方や徂徠春臺はそれを難じてゐる。が、これは畢東武士氣質に對する非難であるから、さういふ氣質を尚ぶ武士にとつては少しも非難にならぬ。直方や徂徠の力説してゐる長矩の人物とか事件が復讐であるかどうかとかいふことの如きは、亡君の恨を晴らさないではおかぬといふ武士的情熱とは初めから無關係であり、また良雄の行動が權謀だとか山鹿流だとかといふ攻撃も、事をなすに當つて術數を用ゐるを常とした、また用ゐねばならなかつた、武士には少しも傷を與へないので、世問ではこの點に於いて特に良雄などに同情をよせてゐる。一般には、例へば吉野都女(349)楠の如く、太平記以来の思想を繼承して正成を智謀あり情けある大將として崇拜してゐるのに、儒者がこの點を問題とせずたゞ單純に忠臣として見ようとするのも、これと同じ考へかたである。しかし戰國的武士氣質を是認せずして平和時代の政治的秩序を重んずる儒者からいへば、良雄を非難する方が自然であつて、鳩巣や絅齋などはこの場合むしろ儒者的見地を離れてゐる。たゞ春臺が城を枕にして討死せよといふのは、却つて戰國武士の態度を取らせようとするのであつて、なるべく世の秩序を破らずして武士の意地を貫かうとした良雄などの心事を解せざるものであると同時に、儒者の言としては甚だ不合理である。
 こんな風であるから、武士の間に反儒教思想が起るのも當然であつて、戸田茂睡は梨本書の中の人物にそれを極論させ、津輕耕道は武治提要に於いて「情意の趣き向ふところ、これを志といふ、」といひ「人情の本、好惡の兩端のみ、……人情の好むところは利なり、」といつて、戰國的武士氣質の由つて來るところを説明し、また山下幸内の上書に明君家訓を「日本の正道の弓箭に對し大に無禮至極なる書」といつてあるのも、みなこれがためである。素行は上にも述べた如く古武士の思想を理解してもゐるし、風俗は上から下に及ぼすべきものであるといふ儒教主義ながら、下としては世俗に從ふことも必要であるとさへ説いてゐて、殉死すらも場合によつては寛容する口氣をもらしてゐるが(語類卷一三〕、その代り儒教思想と武士氣質との聞に彷徨して思想の統一を缺いてゐる。戰國武士の行爲を模範として示しながら、上に引いたやうに武士を士として取扱はうとする如きは、この破綻の著しきものである。その教訓が、日常の行動については人の考へ得る限りの多くの事がらを網羅し、あらゆる場合を漏らさず列擧し、むしろ讀者をしてその煩に堪へざらしむるものがありながら、武士としての強烈なる意氣を示すことの無いのも、一つはこゝ(350)に原因があらう。人が臣として君に仕へるのは道のためであるといひながら、譜代のものは別であるといふのも、その一例である(語類卷一四)。君父之辨(語類卷一七)に君父何れに就くべきかといふ異變の場合を論じて、君恩の輕重を料つて事を處すべしといつてゐる類は、武士の志尚でも儒教思想でもなく、兩方を調和しようとしたのであつて、そこに彼の教訓の眞意があるかも知れず、また確かに一見識ではあるが、君臣關係を本意とする當時の武士の精神としては、あまりに微温的であることはいふまでもない。ついでにいふ。昔の武士は君臣といふ語よりは主從といふ語を用ゐた。主從は一面の意味に於いてはシナ思想の君臣と似てはゐるが、上に考へた如く他面に於いてはそれと反するところがある。しかし現實の状態をシナ思想で解繹することを好み、更に一轉してはシナ思想によつて現實を規制せんとする儒家は、この關係を君臣と呼び、シナの君臣の道義觀念でそれを律せんとするのである。
 儒教の君臣論についてはなほ一言すべきことがある。本來シナの忠君の思想は、儒教政治學に於いては、重きをなすものではない。前卷にも述べた如くこの語のできたのはシナの戰國のころらしいが、さういふ思想も、諸侯が割據して互に相爭つてゐた春秋戰國時代に於いて、諸侯の家臣がその直接の君主たる諸侯に對する情誼、俸禄を與へられることの交換條件として君主のためにはたらくこと、として考へられたものである。だから、天下が統一して秩序が定まり、天子に源を發する教化が階層的に逐次民衆に及ぼされるといふ、儒教の理想國に於いては、かういふ特殊な君臣關係の成りたつ餘地がないはずである。忠臣といふ觀念は本來政治的のもの公のものではなく、個人的關係に本づく私のものである。いはゆる五倫のうちの四つが盡く私的關係であることからも、殘る一つの君臣のやはり同樣であることが推測せられる。臣と民とは全く別の意義のものである。政治上の總ての責任が君主にあるとする儒教思想(351)からいふと、民から君に對しては何等の責務が無く、君から民に對してのみそれがあるのである。專制政治の時代、治者たる君主と被治者たる人民とが劃然と分れて對立し、國民が國家を組織するといふ思想の無かつた時代に發生した儒教の政治學は、治者のために如何に民を治めるかといふ治道を説いたものであるから、これは當然のことであらう。さうして子の親に對すると同樣に説かれた臣の君に對する道徳は、理論上それとは何等の關係が無い。シナに於いてもいはゆる郡縣制度が行はれるやうになると、官職を有するもの禄仕するものは、時の帝王と特殊の關係があるものとして、君臣の名がそれに適用せられ、それがために君臣といふ語に政治的意義があるやうに思はれもするので、事實としては臣が君の政治に參與しまたは政治の横關の一員である點に於いて、思想としては君を堯舜に致すといふやうな任務があるとせられた點に於いて、それが見られる。けれども、實はやはり私人的情誼の關係をいふのである。今日の如き國家の觀念の無かつたシナに於いては、官禄を得ることは帝王の恩惠と考へられてゐたからである。だから我が國の儒者でも徂徠のごとく「先王之道」を高唱するものは、忠君といふことに重きをおかないので、尚齋の如きも、君臣の義のよそに過ぎてゐることを蝦夷の夫婦の別の正しいのに比してゐる(黙識録卷二)。前に述べた如く、士は義を明かにして民を数へるものだといふ思想と忠君の觀念とが、しつくり契合しないのもこれがためであるが、それにもかゝはらず儒者が忠君論を口にしたのは、封建的君臣關係が眼前に嚴存してゐるために、それが一種の力を以て彼等に迫つてゐた、といふ事情もある。
 ところが儒者の忠君論は、根柢に於いて現實の主從關係とは一致してゐない。儒者はしば/\忠君の語を口にしながら、當時の君臣の關係が本來如何にして生じたかといふ歴史的事實については、殆ど何等の考察をも加へてゐず、(352)從つて一般武士が忠君といふ語によつて表現してゐる觀念を了解してゐない。素行が君臣上下の差別は「天地自然の儀則」(語類卷一三)だといつてゐる如きは、明かに封建諸侯とその家臣との君臣關係を形成した戰國時代の状態に矛盾してゐるではないか。この語は君臣の關係といふ形式が不變の儀則であるといふのであつて、君たり臣たる人が常住不變にその關係を有つてゐるといふのではないであらうが、その人によつて成りたつ君臣關係の斷えず動いてゐたことが近い世の事實である以上、その形式は現實には常に攪亂せられてゐたことを認めねばならぬ。而も敢てこの言をなすのは、恰も事實を無視して武は戡亂のことだといふのと同樣、文字上の知識によつて事物を律しようとするからである。が、かういふ態度で當時の社會を觀、忠臣二君に仕へずといふ思想を以て世の武士を律すれば、徳川の世の社會組織は根本的に否認せられねばならぬ。二君に仕へた臣、主人を倒した家來、によつて徳川の天下は作られてゐるからである。だから儒者が徳川氏を謳歌しながら忠君論を唱へたのは頗る滑稽である。しかし彼等の説は現に成立してゐる君臣關係を基礎としてのことだとすれば、それは且らく別問題としておかうが、少くとも忠臣二君に仕へざることは徳川の世になつてからの事實にすら背いてゐる。大名のつぶされたために浪人したものは、概ね再び主君を求めて抱へられたではないか。さうしてそれによつて徳川の權力と武士を中心とする社會的秩序とが維持せられたではないか。また彼等が君に仕へるのは道を行ふためだといひ、「諫めて行はれざるとき退くは古の道」(山鹿語類卷一五)といふやうなことを説いてゐるのは、決して現實の君臣關係に適合するものではない。山崎派などでは特にこのことが喧しく論ぜちれたが、これは君臣關係を一時的のものとしまた政治的のものとするのであつて、當時の武士の君臣の間がら、特に譜代の關係を重んずる彼等の思想と背反してゐることは、「三度諫めて退くとは唐人のまだ(353)るき了簡、善にもせよ惡にもせよ、お家譜代、」(忠臣いろは實記)と作中の人物にいはせた後の平賀源内を俟つまでもなく、明白な話である。
 要するに、儒者の觀察も教訓も、その根本の思想に於いて、武士の實生活から遙かに隔離してゐるといはねばならぬ。もつとも具體的に説かれた一つ/\のことがらに於いては、往々武士を啓發することがあり、少くとも種々の知識を與へる點に於いて、間接に彼等の品性の陶冶を助けたところが無いではなからう。民に對する君主の責任を説くことの如きも、當時の封建諸侯には少からぬ教訓となつたであらう。また前にも述べた如く武士の思想には幾多の缺陷があるから、儒者の説はおのづからそれを補ふことにもなつたであらう。例へば武士が他人に對する「恥」の觀念を以てその行爲の基礎としてゐるに對し、儒者はそのいはゆる義理(武士の用語例の「義理」ではない)を以てこれに代へるべきことを教へ、また特立特行の重んずべきを説いてゐる(山鹿語類卷二八など)。けれどもその道といひ義理といふものが、異國の昔に作られた書物の中から來てゐる限り、それは現實の生活にはそぐはないところのあるものである。戰國武士以來の因襲的思想を排除するのも、平和の世に於ける道義を新に立てようとするに當つては、無理ならぬことではあるが、社會組織そのものが戰國時代のを繼承したものである限り、それはやはり實生活と齟齬する。さうして實生活と齟齬する道義は成りたつべきものではない。武士が平和の世に適合するやうに戰國武士の風尚を節制しつゝそれを維持しようとしたとは違つて、儒者はそれを排斥して全く新なる士風を興さうとしたのであるが、武士の希望は彼等自身の現在の地位を保存しようといふ意欲から出てゐるだけに、また彼等の脈管にその祖先からうけた血がともかくも流れてゐるだけに、よし不自然に或は無理に社會的制裁や名譽心でそれを支へてゐる嫌ひが(354)あるにせよ、決して儒者の講説した如きものではなかつた。武士の不自然な風尚を改めるには、その風尚の本源である社會組織そのもの、武士の生活そのもの、を變へてゆかねばならぬので、儒者のやうに異國の思想を外部から附け加へるやうな方法でできることではない。けれども社會組織を改めるのは武士そのものを無くすることであるから、これは武士によつて世が保たれてゐる間はできない話である。
 しかし既に述べた如く、儒者も一方では知らず知らず當時の社會状態に順應した説を立ててゐる。武士を士と見ることが既に、戰國武士を平和の社會に適合させようといふ、時代の要求に應ずるものであるが、その士は義を以て職とすといふのも、生業に從事しない武士が平和の世に於いて遊民として存在してゐるからのことである。戰國の世にはよし儒者があつたにしても、決してかういふことは説かれなかつたらうし、また蕃山などの經世家が考へた如く、武士が土着して農耕をするかその家族が蠶桑に從事するかしたならば、かゝることはいはれなかつたらう。また士の仕へるのは道のためだとか用ゐられざれば去るとかいふのも、封建的君臣關係が武士といふ特殊階級に限られ、一般國民から見れば一種の浮遊状態にあつたからでもある。更に一歩を進めて考へれば、儒者が本來主人もちでなく、新に禄仕を求めるにしても去就自在な地位にあつたことが、彼等のこの考を助けたのでもあらう。鳩巣が駿臺雜話(卷四)に於いて上記の儒教思想から正成の出處進退を論じてゐるのに對し、淺見絅齋が朝廷に對して仕へるとか仕へぬとかいふ論は立たぬといつてゐるのは、皇室と國民との關係が封建的または儒教的君臣關係と性質の違つたものであるからであらう。皇室に對しては、仕へるも仕へぬもなく、國民は常に國民だからである。しかし絅齋に於いてもこの點は甚だ曖昧である。儒教思想としては、絅齋が靖獻遺言で説いたやうな思想は、民衆には適用のできぬもの、ま(355)た事實上摘要せられなかつたものであつて、たゞ封建諸侯の臣下か、郡縣の時代では禄仕してゐるものか、に限つてのことである。民みな伯夷叔齊のやうであつたら、周の天下に人は無くなつてしまつたはずである。しかし儒教に於いては民はたゞ帝王に治められるものであつて臣とは違ふから、その虞れは無い。山崎派の學者が盛に論議した出處進退論も、さういふ思想を踏襲してゐるのであるから、君臣の關係は決して皇室と國民全體との間がらのこととして考へられてはゐなかつた。だから絅齋の正成論は曖昧なのである。が、これも次にいふ神道者と同樣、眼前に存在する封建的君臣關係を皇室と國民との關係に適用して考へたからのことであらう。また彼の説が正成時代の政治情勢を解しないものであることは勿論であり、この點に於いては蕃山の集義和書(卷一)に述べてゐる方が遙かに適切である。鳩巣の説の如きは固より儒者の僻説に過ぎぬ。たゞ水戸學派によつて正成が南朝の忠臣から一轉して皇室の忠臣に押し上げられたのは、南朝正統論の高唱せられたことと共に、天下一統の世の自然の成り行きであり、絅齋の不徹底な論も實はそれと同じ傾向に知らず/\支配せられてのことであらうから、こゝに儒者の説に於ける時代の影響が見られる。なほ儒者が徳川氏を謳歌し家康を讃美しながら、實践道徳上の教訓としては將軍を説くことの少いのも、事實上、一般武士と將軍との間に君臣の情誼の無い封建時代であつたからである。(國家または幕政全體に對することは、蕃山の説いたやうた經世策、または水戸學の如き史論、然らざれば山崎派の好んで論じた如く抽象的な思想問題、として取扱はれてゐる。このことは後章に述べよう。)實をいふと、儒教の知識がともかくも世に受け入れられたのは、前卷に述べた如く、その説くところの政治及び道徳に當時の政治制度及び社會組織と調和し易いところがあつたからである。ところが儒者の知識が深くなつて來ると、その教の精神が實社會と契合しない點の多いことに氣が(356)ついて來る。だから或はこの二つを融合しようとし、或は一を以て他を排しようとし、人により學派によつて意見が區々に分かれて來た。が、何れにもせよ實踐道徳の指針としての效果は少かつたので、そのことは既に前に述べておいた。
 儒者に反して神道者はむしろ武士氣質の身方である。前者が異國の教を以て我が國俗を律せんとするに對して、後者は我が國風を顯揚しようとするため、おのづから現在の習俗、特に武士の風尚、を正當視するやうになつたのである。吉川惟足の説を記してある岡田盤齋の神學承傳記に、儒教が孝を第一とするに對し我が國は君臣の道を以てその本とするといひ、君のために親を捨つる道はあれど親のために君を捨つる道は無しと論じてゐるのが、封建武士の思想を以て我が國民の道とするものであることは、いふまでもない。また我が國は武國であつて武勇を政道の本とすといつて、それを天の瓊矛の徳と見、異教が渡來してから武が衰へて文が盛になつたのを將軍の政治に至つて古に復つたといつて、武家とその政治とを謳歌してゐるのが、歴史的事實を無視した考へかたであり、武士本位の時代の思想であることも、勿論である。この思想は、儒者の文治主義に反對しなければならぬ軍學者の賛成するところであつて、前にも引いた津輕耕道の武治提要などはそれをずつと發展させ、我が國の開基を武徳に歸して國家の精神は武道にあると説き、それと共に號令嚴明なる軍政主義武斷的專制主義を極度に主張して、儒者の仁政論教化論を攻撃し、武家政治のため萬丈の氣を吐いてゐる。日本魂と武士道とを混同する後世の思想はこゝに胚胎する。もつとも我が國の立國の本源たる武は文に對する武ではなくして文を兼ねる武であるといつてはゐるが、それは恰も儒者が文武と並べ稱しながら武の本は文にあるといふのと、正反對の説ではあるが同じ考へ方であつて、武が文を攝するといふ點に武を(357)本位とする思想が明白にあらはれてゐる。松宮觀山や上杉貞健たども、學論や日本傳治亂要訣に於いて、ほゞ同じやうに國家の起原と精神とを説いてゐるし、井澤蟠龍の神道天瓊矛記のも似た考である。我が國の立國の本源が武徳にあるといふのは何の根據も無いことであり、武が文を攝するといふのも無意味の言であつて、これらはたゞ政治的にも社會的にも武士が本位となつてゐた時代に於ける軍學者や武士道者の恣な主張に過ぎない。しかし西川如見が町人袋に於いて、儒教は仁智に厚く神道は義勇に厚しといつてゐるのを見ると、かういふ考は割合に廣く世に認められてゐたかも知れぬ。これもまた武士が幅をきかせてゐる世の中の思想である。
 純粋の神道者は軍學者ほどではないが、人倫のうちでも君臣の道を主として考へねばならぬとするのは、彼等に共通の傾向であつて、而もそれを建國の精神と結合させてゐるのを見ると、君臣といふ語を皇室と國民との關係を示すものとして用ゐてゐるらしい。これも畢竟、現在の封建制度の下に於いて武士の社會組織が君臣主從の關係を骨子としてゐるところから、それを思想の上でこゝまで推しひろめたものに違ひなく、封建制度でありながら天下の一統してゐる徳川の世に生まれた考へかたである。神道者が封建制度武士主義の政治の謳歌者であつたことは、この點からも證せられる。たゞ封建武士の君臣は、國民の大多數を占めてゐる一般の平民をば全くその關係の外に置いてゐるのみならず、知行俸禄によつて結合せられねばならぬのであるから、それをそのまゝ皇室と國民との關係に適用することはできないはずである。本來、禄を給せられない平民は當時の武士の思想に於いては主君がないのである。だからこゝに神道者の頭腦の疎漫なことが示されてゐる。彼等が君臣の道を高唱しながら、現實に存在する武士のそれと、彼等の思想としての建國の精神から見た武士のとの交渉について一言もしてゐないのは、こゝにも一理由があらうか。(358)我が國民の皇室に對する心情が武士の忠君の觀念と達つてゐることはいふまでもないが、そのことが彼等によつて明かにせられてゐないのである。が、一方からいふと、これは神道者自身が武士でない平民であるところから生じた考でもあるらしく、平民が自己の地位から事物を考へるといふ傾向の無意識の間に生じてゐることが、そこに看取せられるやうである。或は平民の階級に屬する知識人が皇室との關係に於いての或る地位をもつことを要求する情があつて、そこから皇室を君とするに對して臣の名をとらうとしたといふ理由があるかも知れぬ。皇室が現實には政治的君主としてのはたらきをせられないことが、それを助ける事情となつたかとも推せられる。さうしてこれは、いはゆる王朝の政治を追懷する意義での尊王論が、將軍を首領とする政治機構に編みこまれてゐない方面から現はれてゆく點に於いて、平民の運動であることと共に、政治思想發達の歴史に於ける注意すべき事實である。(臣といふ語が皇室に對して用ゐられる場合には、漢代以後のシナ人の用語例に從つて、朝廷から俸禄を賜はつてゐる官僚に限るのが古の習慣であつて、昔の大化改新の時の詔勅にも、聖徳太子の作とせられてゐる憲法にもさう用ゐてあるし、隋の高祖の遺詔の文字をそのまゝ取つてある雄略紀の遺詔の「義乃君臣、情兼父子、」の君臣も同樣であるのみならず、後の愚管抄や神皇正統記などにもそれがうけつがれてゐる。皇室と民との間がらを君臣と稱するのは、江戸時代からのことであらう。)
 次に考ふべきことは佛者の武士道に對する態度であるが、これには特に注目すべきものが無いやうである。根本的にいふと「佛法は第一名利を離るゝ教しめしなり、侍は名利を肝要に用ゐる役人なり、」(梨本書)と説いて、侍たるものはかりそめにも佛法には傾くまじきことと斷じてゐる戸田茂睡の語が、よく佛教と武士生活との背反を指摘して(359)ゐるので、佛者も武士道を説いたり評論したりすることは少かつたやうである。たゞ禅僧のみは動もすれば武士と特別の親しみがあるやうにいつてゐたらしい。この時代になると、武士が深く禅僧に歸依したとか禅の修行をしたとかいふ話を聞くことは少いやうであるが、劍道と禅機との契合を説くやうなことはあり、或は生死を離脱してゐる點に於いて禅僧と武士とが一致してゐるといふやうな説をなすものもあつた。しかしそれは禅の修行が劍道に、或は武士の覺悟に、似てゐるといふことに過ぎないので、劍道の達人は必しも禅の修行をしたもののみではなく、生死を離脱した心境とても、他の宗派の信仰による宗教的安心でも得られ、特に武士としては、曾て説いたやうに、宗教とは關係の無い戰場の體驗によつて得られるのが常である。禅宗渡來以前に立派な武士があり、後世でも禅と何等の交渉の無い典型的武士が多いではないか。のみならず生死に拘泥しないといふことは、必しもいはゆる悟道の境に入つたことではない。さうして武士は、戰場に臨むに當つて生死に拘泥しないだけの覺悟をば要するけれども、それは究竟名利のためであるから、茂睡の言の如く禅の教とは終局に於いて正しく相反してゐる。だから禅僧が武士道を抱きこまうとしたのは、意識して或はせずして、時世に迎合しようとしたまでのことである。
 
(360)     第十五章 平民の思想
 
 武士は彼等自身の階級を、道徳的意味に於いて、一般平民の上にあるべきものと考へてゐた。この誇りは果して事實として認め得られるであらうか。武士の道義の基礎たる君臣主從の關係と、戰爭の間から馴致せられた死を敢てする風尚とは、何れも平民には縁の遠いものである。平民に主君が無いことはいふまでもない。土地の上の領主はあるが、それはたゞ治者、むしろ租税の徴收者、に過ぎず、特に譜代大名に於いては領主が往々更迭するので、それと平民との間には何等の人的關係が成りたゝない。また平民が戰爭に關與すべき任務をもつてゐないことは勿論である。けれども社會組織の中心となつてゐる武士の風習がおのづから平民の間にも傳はり、使役者と被使役者、傭主と被傭人、地主と小作人、職業上の師匠とその弟子、といふやうな關係が、武士社會の主從と同樣に考へられて來たため、かゝる關係から生ずる彼等の間の道徳觀念は、殆ど武士と違はないものになつた。さうしてそれにつれて一般の武士の氣風も、それが武士生活でなければ適用せられないものの外は、平民の間に擴がつても行つた。平民の間に武士の血と風習とを傳へてゐるものが少なくないこと、また平民がともかくも武士を尊尚してゐることが、この傾向を助長したでもあらう。
 だから商賈の手代でも職人の弟子でも、主人のためとあれば財をすて身をすててそれに盡すことが、忠義として賞讃せられるので、淀鯉出世瀧徳に描かれた新七兄弟、世間手代氣質の太郎兵衛三郎兵衛、などがその標本である。ただ當時の武士の君臣關係は知行俸禄の授受によつて成りたつてゐる消極的靜止的のものであつて、恩も義理もそこか(361)ら生ずるのに、平民特に商人の主從は、それによつて積極的に事業を營んでゆく活動的のものであるから、主家の榮枯盛衰は手代どもの働き如何により、手代どもの働きは主人の人物や態度次第であり、從つてその間の關係が平和時代の武士の君臣よりは※[しんにょう+向]かに親密であり、相互の感情も緊張してゐる。これは恰も戰國時代の武士と同樣であつて「隨分下人に仕きせもよくして着せ、時々心づけもして、懇ろに目をかけて取らせば、おのづから恩を思うて身を惜まず働くものなり、特さら店を任せ置く手代には氣をつけ滿足がるやうにせねば、何かにつけて得のゆくやうには働かぬものぞかし、」(手代氣質卷二)といふのも、家來を使ふには知行と情けとが本である、といつた古武士の教訓と少しも違はない。さうして損益の定まり無き商業戰爭に從事するものは、失敗しても庇護せられ成功すれば大に賞せられる主人の情けと恩とが、特に身に沁みて感ぜられ、意を安んじて十分の手腕を揮ふやうにもなると共に、主家を思ふ情もそこから養はれ、強い義理の念も從つて生ずることが、また戰國武士と同じである。「大氣にして主人に損かけぬるほどのものは、よき商賣をもして取りすごしの引負をも埋むること早し、」(永代蔵卷二)、さういふ才幹ある手代を喜んで使はれるやうにする主人は、「よき主君」の戰國時代に稀であつたと同樣、割合に少かつたらしく、ともすれば主人に背いて旗を擧げる明智光秀式の手代のあつたことは、必しも彼等ばかりの責ではない。
 主從の情誼に武士と共通の點があるばかりではない。世間に對して恥を思ひ面目を重んずる心情も、武士に劣らず強烈であつた。特に事業の性質上信用の大切な商人に於いては、この點からもそれが刺戟せられたのである。近松の世話ものに、「一分がたゝぬ」といひ、「人中に出られぬ」といひ、さういふ氣分によつて支配せられる町人の行動の甚だ多く寫されてゐることは、いふまでもなからう。その中には白晝街頭で人に踏みつけられてはといふやうなの(362)(曾根崎心中)もあるが、最も重んぜられるのは金銀の問題であつて、商人が金をもがり取られたといはれては恥といひ(壽の門松)、女は思ひ切つても金に手づまつてといはれるが無念だといひ(天の網島〕、さうして壽の門松の淨閑が内實は金で濟まさうとしながら、また網島の治兵衛が妻の衣を典してでなければ「一分」を立てることができない身ながら、なほこれらの言をなすのは、それが純然たる外聞のためであることはいふまでもない。身代の打ち明け話をせねばならぬのが口惜しい、といふのも同樣である(刃は氷の朔日)。「町人の氏系圖は金銀ぞかし」(手代氣質卷三)といはれる商人、身代の尾を見せぬやうにしなけれぼ信用を失ふ商人、に取つては、これは當然であつて、武士が卑怯の名を取つて家名を傷けまいとするのと同じことである。が、金銀が大切であればあるだけ、場合によつては面目のために却つてその金銀を塵芥視しなければならぬ。傾城に金もらうて揚屋へ行つたといはれては人中へ面が出されうかといふ與平(壽の門松)は、取るべからざる金を取る不面目、人に壓せられる體面の毀損、を慮るのであり、夕霧の臨終に臨んで身請の金を取らぬ扇屋(夕霧阿波の鳴門)は、取るべき金を取らめところに、?者として人を壓しようとする面目の張揚がある。さうしてその何れもが商人の意地である。しかし信用の基礎は約束の尊重にあるので、商人の「一分」はこの點に於いて最も大切である。金錢のことはいふまでもないが、一旦親の約束した結婚を子が承知せぬために異變しては世間へ顔が出されぬ、といふほどに、今人の眼には極めて不條理なことにまで應用せられてゐる(生玉心中)。が、こゝには既に明かなる義理の觀念が伴つてゐる。
 「心なき田夫さへ義理にせまれば合點す」(松風村雨束帶鑑)。これも概して武士と同樣で、それは兩刀の手前と誇るけれども、「二本指すを侍、一本指せば町人、とばかり思ふか、大小はこの胸にある、」(生玉心中)。町人冥利、百(363)姓冥利、それ/\の面目をかけて立てねばならぬものは義理である。だからそこにも武士の義理と同じ利弊があるので、形式と名目とによつて義理と人情とを表裏にするやうなことも生ずる。新口村の孫右衛門は、忠兵衛に逢つては「世間が立たぬ」と、子に對する情を抑へ(冥途の飛脚)、道順は銀をやることはできぬが落したものは拾ひどくと、與へぬといふ名をつけて子に金を與へる(戀八封柱暦)。死に臨んですら、髪きれば出家ゆゑ女房はなし、女房なければ小春が立てる義理も無い、と治兵衛はいふ(天の網島)。商人に於いては、業務そのことは戰國武士の生活に比すべきものであるけれども、全體の社會が平和的に秩序だてられてゐるのであるから、一面に於いてはやはりそれに相應する世間的道義の規範が成りたち、それがためにかういふ義理と惰との矛盾が生ずるのである。もつとも近松の作はあまりに平民を武士らしく描いた傾きもあらうが、この思想が平民たる看客の同情を得たことはいふまでもない。たゞ情死のやうな特殊の場合は別として、町人は義理の前にも面目のためにも死を以てする必要は無い。前に述べた手代氣質の三郎兵衛は何虞ともなく行方をくらましてゐるが、それは武士ならぼ死すべき場合であつて、こゝに平民と武士との相違がある。
 
 しかし平民と武士との差異はたゞこれだけではない。みづから働いてみづから生きてゆくものと定まつた知行俸禄に衣食するものとは、その生活の根本が違ふからである。平民は何よりも先きに生計を考へねばならぬ。さうして自己の力によつてそれを豐富にすることを考へねばならぬ。「堺は春の海が寶じや」(西鶴友雪兩吟一日千句)、海をも山をも利益眼から見るのが商人である。だから「人の家にありたきは梅櫻松楓、それよりは金銀米錢ぞかし、」(永代藏(364)卷一)といふ。彼等の生活は金銀米錢によつて表徴せられるのであるが、それにも無數の段階があるので、「申しても申しても貧にして浮世にすめるかひなし」(織留卷三)、少しでも生計を裕かにしたいために金を得ようと思ふのは當然である。武士には生計を高めようとする欲求はあつても、普通には正當の手段でそれを充たすことがむつかしいから、強ひてその望みを達しようとすれば、賄賂をとるとか町人から借金をするとかまたはそれを返濟しないとか、さういふやうな方法をとることにもなるが、平民は正當に利益を得て正當に富を作ることができるのである。「今時は正直を以てその身の骨を碎けば、天望に叶ひ」て渡世が容易く(織留卷三)、富裕になるのも、或は「始末大明神の託宣にまかせ」(永代藏卷一)、或は「面々の智慧才覺を以て」稼ぎ出すので、「しあはせといふは言葉、……福の神のゑびす殿のまゝにもならぬ」(胸算用卷二)ところに、彼等の努力があるのである。
 しかし事實は正直な商人のみではなくして、勞せずして利を得んとするものもあり、富籤や投機が盛に行はれたのもその故であつて、その投機商の徒が年中僞りと欲とを資本にして世を渡ること(一代女卷三)はいふまでもなく、普通の商人でも往々譎詐欺瞞を敢てして恥ぢなかつたものがある。「商賣につけての僞りはことばをかざ」るのが常で、その僞りの「跡からはげる」ものは塗物店ばかりではなく(織留卷三)、「唐人は律義に言約束の違は」ざるに對し、日本の商人は信用し難きものとさへいはれてゐた(永代藏卷四)。これには誇張もあり、一部のもののことをすべてのもののことの如くいひなしたのでもあるが、商略としての譎詐は武士の謀略と同じで、商人が概していふと特殊の人に對する特殊の取引には約束を重んじ義理を守りながら、あひての定まらない廣い世間に對する場合には、一時の利を得んがために種々の不正手段を用ゐることのあるのも、武士が特殊の約束については二言なきを尚びながら、(365)一般には人を敵と考へて相互に信任を置かぬ傾きがあるのと、共通なところがある。武士にしても商人にしても、かういふものばかりでないことは、彼等を含めた日本の社會が現實に存立してゐることからも明かであるが、思想として見ると、人の生活の社會的意義が明かになつてゐないのと、道義の基礎が他人の名聞にあつて自己自身の人格に無いのとのために、公共道徳の觀念が薄い世の中であつたことは、事實であらう。個人の尊重せられない、從つて人が自己を尊重しない、世に眞の道徳が發達しないことはいふまでもなからう。彼等の口癖にする「世間」といふのも「人中」といふのも、自己を知つてゐるものの間のことであつて、廣い社會のことではない。彼等の責任の觀念は、自己を責めるもののある場合にだけ責められないやうにする、といふことである。これは直接に自己の生活を動かすものは知りあつてゐるものの評判だからであつて、戰國時代に於いて、一國一城の内部でのみ信義が守られ、他國ものに對しては詐謀を用ゐることを憚らなかつた、武士の道義心も畢竟は同じととである。なほ河村瑞軒の話などでも知られるやうに、いはゆる御用商人が權略を行つて不正の利を得ることも常であつたが、これには利の多いために競爭者が生ずるので、その間に優勝の地位を占めようとする故もあり、或は權力を以て濫りに商人を威壓しまた動もすれば賄賂を貪る武士をあひてのしごととして、自然に馴致せられたといふ事情もある。大名貸と大名とが互に詭計を戰はして利を爭つてゐたことは、町人考見録などにその例が多く見える。總じていふと、權力の有るものと無いものとの交渉はその間に不正の分子が混じ易いものである。有るものはそれによつて私利を營み得られ、無いものは有るものの庇護によつて同じく私をなし得られるからである。御用商人の弊風は主としてこゝから生ずる。公正なる商業取引は平等の基礎の上に於いてのみ成りたつものである。要するに、武士が平民に對して不正直なことをする場合が(366)あつた如く、平民もまた武士に對して誠實でないことがあつたのであるが、この武士あひての商人の惡風は、一般の商業道徳を低下させる一因にもなつたらしい。
 さて此の如くして富を求めても、得るものがあると共に得ざるものもまた多い。けれども當時に於いては貧者の富者に對する強い反抗心などは存在しなかつた。「世は銀の片いきでこそ過ぎられたものなれ」(棠大門屋敷卷四)。富めるものがあると共に貧しきものもあつてこそ世の中は成りたつといふ。これはむしろ傍觀者の感想で、それにはまた後章にいふやうな一種の人生觀から來てゐるところもあるが、貧富の間に反目の生じ易い現代とは違つて、富者はむしろ貧者に職業を與へるものであつた昔の世の中に於いては、貧者自身とても憎惡の念を富者に對して抱きはしなかつたであらう。さうして全體に身分の尊卑が動かせぬものとせられてゐる世の中でもあり、「富貴は天にあり人の智慧には叶はぬなり」(日本莊子卷一)といふ一種のあきらめ主義も一面にはあつて、それもまたこの傾向を助けたかも知れぬ。この思想は自己の力次第で富が得られるといふのとは反對であるが、反對する思想の兩立することがおのづから世相の兩面を示してゐる。更に一歩を進めて考へると、富を欲するのも畢竟は「命の中に樂々と遊興に心をよせ、一代氣まゝに暮らすべきため、」(日本莊子卷一)であるとすれば、黒羽二重を淺黄木綿にかへ「世は輕く暮して埒をあけ」るのも、貧に安んずる一種の處世法として考へられてゐたのである(置土産卷一)。
 のみならず「福者二代無し」、財あるものが財を失ふ例も甚だ多いが、さうなつても或はなほ人の惠みを受けることを嫌つて昂焉として自ら高くし(置土産卷二)、或は「心は元の飄金山醉狂庵」と浮世を輕く見つもり(三代男卷四)、乞食になつてもありし世の趣味を失はず和歌や俳句に心を慰めるものもあり(五元集など)、必しも感傷的な氣(367)分で、見はてぬ榮華の夢の迹を追ふことはしないのが、當時に稱讃せられる氣風であつた。「時の氣になつて」賤しき業に口を糊しても、やはりそこに一種のあきらめがある(俗つれ/\卷五)。現實にはすべてがかうではないけれども、氣風としてはかういふのが尚ばれた。さうしてかういふ心もちがあれば、ヨウロッパの近代文藝に見えるやうに、絶望のどん底に陷つて自暴自棄となり、または獣的生活に墮するやうなことは無い。彼等の間から起つて富を得るものもあり、さうして富を得れば「人はならはせ」、もとの身分は知られぬまでに品位もつく(永代藏卷一)。「人は知れぬものぞ」といはれるほど貧富の定めなきが世の中であつて、さう觀ずれば家を失つても産を破つても、人を恨み自らはかなんでくよ/\するには及ばぬからである。生存の競爭が今日の如く激しくなく、貧民となつてもともかくも生活ができる上に、農民の間に極めて貧窮な水呑百姓があつてもそれは決して昔のヨウロッパの農奴のやうなものではないと同じく、都市の貧民もまたどこまでも自由の民であつて、彼等平民相互の間に於いては社會的の壓迫などの無いことが、かういふ氣風の養成を助けたのでもあらう。賤しき馬子風情のものすら意地があり義理があり(丹波與作)、貧民は道徳的にも輕蔑せられなかつたのである。
 しかし平民の最も貴しとする金銀は、そも/\何のために貴いのであるか。「世に錢ほどおもしろきものは無し」(永代藏卷四)といふのは、必しも「銀つかうて遊ぶ」(俗つれ/\卷四)ためばかりではなく、富を得またはそれを増殖することに大なる興味があるからでもあるが、ひたすらに貯蓄につとめて餘念の無いものは、むしろ輕侮嘲笑せられ、さういふものが思ひの外の機會から遊蕩に身を持ち崩して産を失ふ話(永代藏卷一)さへ、作られてゐるのを見ると、畢竟は金錢といふものを以て、我が身の贅澤をして浮世の歡樂を購ふためのものとせられてゐたことがわ(368)かる。だから「したいことしてこ十年の夢」(二代男卷八)、それがために求めた富をそれがために失ふのは、おのづからその分を得たものともいはれる。勿論彼等の豪奢には多分の虚榮心があるが、それもまた自己の滿足のためである。生命あるものは生命を浪費するを尚び、財あるものは財を浪費するを榮とするのが、當時の武士と平民とであつて、富者が虚榮心のために財を失ふのも、武士が名譽心のために命をすてるのも、その間に大なる違ひは無い。さうしてそれも、當時の日本人に公共生活の觀念が明かになつてゐなかつたので、生活は畢竟自己のための生活とせられてゐたためである。(このことについてはなほ後章に述べよう。)
 しかし生活が自己のためのであるにしても、それができるのは自己が自己ならぬ世間のうちに生活してゐるからである。商人が利を得るのもあひてがあつてのことである。そこで自己の生活のできるのは他人のおかげである。それをおしひろめていふと世間のおかげである、といふことが知られねばならぬ。その他人その世間は、自己と特殊の關係のある狭い範圍のものであるが、商人の世界は廣いからさういふ關係のあるものは必しも一定してはゐない。そこで彼等の責任の意義が一般的にいふと上記の如きものでありながら、思慮あるものに於いてはあひての定まらぬ廣い世間に對するものともなり、一種の宗教的氣分を含んでゐる町人冥利といふ語が自己のしごとを尊重するといふ道徳的意義を帶びて來て、そのために世間體も名聞も單なる世間體や名聞に止まらぬやうになると共に、彼等の生活のできるのが廣い世間のおかげであるといふ考が、漠然たる氣分として、或は現實感の伴ふことの少い單なる觀念として、ではあるが、生じて來る。この點に於いては、道徳の中心をなす人間關係としての君臣の地位にあるものが一定してゐるのみならず、いはゆる世間が一藩一家の内に限られてゐる、武士とは違つたところがある。かういふ思想が明か(369)な形で文學の上に現はれてゐるばあひがあるかどうか、はつきりしないが、それについては、浮世草子が商人の生活を慾のためとのみ見てゐることと、劇曲が個人に對する義理に重きをおき商人をも武士らしく描く傾きのあることとに、注意すべきであらう。
 
 次に考ふべきは農民の思想であるが、これは文學の上に現はれることが少いから、こゝにそれを詳説することはできぬ。が、概観すると一般多數の農民は商人より生活の波瀾も少く世間も狹く、從つて實社會から得る知識も少いから、生活上の體驗によつて錬磨せらるべき思想も淺薄で、道義の念もまた幼稚であることを免れなかつたらう。それを素朴といへばいはれようが、その素朴は少しの刺戟わづかの誘惑によつてすぐに失はれがちのものである。思慮が足らず操守が固くないために、強者の脅迫に屈し野心家の煽動にのることも少なくない。さうして商人の如く富を得ることも容易でなく、その業務が單調で靜平であり、商人とは違つて實生活の上に權力者の抑壓を受けることが強いので、全體の生活が消極的となる傾きがある。また彼等自身としては農業そのことの性質から保守的氣分が濃厚であり、貧富の地位が商人の如く動き易いものでないから、分に安んずる思想がおのづから養はれる。權力者に對しても、それに抑壓せられて忍從の生を送りながら、全く衣食ができぬほどの窮地にも陷らぬのが、むしろ多數の状態であるから、反抗的態度に出るやうなことも少い。領主や收税吏の如何によつては、百姓一揆と呼ばれた行動をとることも無いではないが、さうなるには種々の事情がある。(一揆については、それが頻繁に生ずるやうになるのは後のことであるから、次篇で考へることにする。)また彼等は土地に定住してゐるけれども、その郷土以外の土地を見ること(370)が少く、他の地方との交渉も少いために、郷土を愛するといふ精神も發達しない。政治的領域と自然的區劃との錯綜してゐることも、また農民の社會的結合を妨げる。富者や知識人は都會に往復してその影響を受けることが少なくないが、その代り農民としての特色を失ひ、またその知識が實生活から形づくられたものでなくして書物によつて外から與へられるものであるため、ます/\その傾きを強くする。
 しかし農民には農民としての道徳がおのづから養はれてはゐる。その主なるものは、村落的共同生活によつて歴史的に形づくられて來た、村落民相互の間の責務感であつて、それが即ち彼等の義理であり、從つてまたそれはその共同生活を維持しそれを鞏固にするはたらきをする。日夕相見て同じ土地に同じしごとをして來た村落民としては、かかる道徳の生ずるのは當然である。もつともそれには、武士や町人の間に於ける義理と同じやうな缺點もあるが、思慮あるものに於いては、それから村落生活を超えたところに對する一種の責任感も馴致せられるので、義理がたいといはれる農民氣質の由來するところもそこにある。地方によつては村落民の間に一種の合議制度も成りたつてゐるし、庄屋年寄などがその人を得た場合には、共同の事業も圓滑に行はれる。農事には困苦が多いが、上にもいつた如く、村落生活の中心である鎭守の神社の祭禮や、盆踊りや、または年中行事としてのその他の共同の娯樂が、農民の生活の潤ひとなり、それによつてその困苦が緩和せられもする。農民の生活は忍從の一語で盡きるやうに見られてもゐるらしいが、彼等みづからの心情に於いては、その忍從が他からの強壓によるとするよりは、むしろ境遇と習慣とによつておのづから規制せられた彼等の分際として考へられてゐる。さうしてそれが一面に於いては、一種の誇りさへも伴つてゐる彼等の職分に對する責任感を示す語として、百姓冥利といはれるやうな或る宗教的氣分を含んだ觀念とな(371)つても現はれる。さうしてかういふ點から見れば、農民が自然の恩惠に浴して靜かにその業務を營むところから、平和な氣分がおのづから養はれると共に、平和の世の民たることに滿足してもゐることが、推測せられるので、上に擧げたことがあるやうな蕉門の俳諧に見られる彼等の生活がそれを證する。「百姓となりて世間も長閑さよ」(續猿簑馬?)にもこの意味が含まれてゐよう。農民の氣風は、その村落の地理的位置、土地の状態、領主の態度、また彼等自身の貧富や彼等の間に於ける身分關係やそれらから生ずる生活の難易や、によつて一樣ではないが、農業の性質と農民の地位とから來るものとして、概言すればかういふところがある。特殊の場合または特殊の状態にあるものは別として、一般的にはかう見られるので、彼等の努力によつて國民の主要食料が生産せられたのは、そのためである。政治的權力の強壓を受けてはゐるし生活のために農業を離れるものもあるが、このことを見のがしてはならぬ。
 商人や農民の外の職業に從事するものの心情や思想も、また文學の上に現はれることは少い。たゞそれ/\の職糞によつておのづから養はれた特殊の氣風があることと、その根柢に、或はそれに包まれて、當時の一般的道徳思想としての義理の觀念のあることとは推測せられる。職人に於いてはその製品に對する責任感、特にそれを商品として取扱ふよりも自己の製作欲を充たすためのものとして見るものの少なくないことが、注意せられる。それは一つは自己の名を惜しむためであり、從つて利益の念の伴ふものでもあるが、優れた、または眞率な、工人に於いては、利はもとより名を求める念をも取去つたいはゆる名人氣質がそこから馴致せられるのである。勿論すべての工人がさうであるのではなく、上にいつた商人と同樣、廣い世間に對しては製品に對する普通の責任感をすら有たないものがあつたやうであるが、職人の氣風として上記の如きことが尊尚せられてはゐたので、事實としても良識をもつてゐる職人に(372)は少くともさういふ心得はあつたことが認められ、またそれにつれて彼等の生活は廣い世間のおかげであるといふ考が、よし明かに意識せられないまでも漠然たる氣分として、存在したらうと推測せられる。彼等の製品を需要するものは廣い世間だからである。また舟のりの如く海上に活動するものが、危險の多いその業務に從事するために、一方では、戰場で生死の間を出入するを常とした昔の武士と同じく、心をこめて神の加護を祈り、さうしてそこから一種の道義心を導き出して來ると共に、他方では、胃險的な氣風を養ひ、敢爲の勇をもち放膽な行動をする習性の作られてゐることが、注意せられる。彼等の歌ふ舟歌には、かういふ生活とその情趣との現はれてゐるものがある。
 
 要約して考へるに、當時の平民はその職業によつてそれ/\に種々の苦惱はありながら、概していふとよくそれに堪へ、その職業に精勵してゐたので、そこに平和の世の民たることの喜びがあつた。さうしてそれによつて彼等の間の道義も成りたち、全體としての日本の社會がその機能をはたらかせてゆくのであつた。
 
 こゝまで考へて來ると、著者はまた平民に關する儒者の思想を一顧する必要を感ずる。彼等が我が國の平民とシナの古書に見えてゐる庶人とを同一視し、それを道も義も知らぬものと考へてゐることは、前章に述べておいたが、甚しきは「民は我が家の職を務むるに暇なく常の産業多きを以て、我が徳を正すべきいとまなし、たゞ欲を逞しくして強を以て弱を凌ぎ衆を以て寡を虐ぐ、鳥獣の相戰ふに異ならず、」(山鹿語類卷一)とさへいつてゐる。禽獣視しないまでもその從事する生業と道義とを反對のこととして相容れざるものの如く考へ、生業そのものに道徳的意味を認め(373)ることができないのが、彼等の常であつて、鳩巣などもそれを明言してゐる。彼等の多くが平民出身であるにかゝはらずかういふ言をなすのは、滑稽にも聞えるが、さういふ儒者が生業を潔しとせずとか家計を意とせずとかいふことを誇りとしてゐたことは、彼等の傳記に多く記されてゐるところである。かゝる傳記の常としてそれには多くの修飾があるから、かういふことも文字のまゝには信じがたいが、その修飾が儒者の風尚を示すものではある。のみならず、事實として生業を嫌つたために儒者にならうとしたのではあらう。しかし嫌ひであるとか性質がそれに適しないとかいふのならば、問題は無い。生業を顧みないのを高しとするやうにいふのが儒者の僻見なのである。特に彼等は人の道を修めるために學問をするといふではないか。さういふ儒者がこの言をなすのは、遊食するものでなければ道義心が無いと考へるためである。この考は理論としては彼等の道徳説の根本に於ける一大破綻にもなるのであるが、それはしばらく別問題として、儒教そのものにかういふ思想のあるのは、シナの上代に於いて庶民が無智無識であつた社會状態の反映であるに違ひない。ところが上にしば/\述べた如く、江戸時代の社會は決してそれと同一ではなく、平民の知識も道徳も必しも武士に劣らないものである。それにもかゝはらず(儒者は典籍の上の知識を以てこの事實を蔽はうとしたのである。
 もつとも一方から考へると、平民、特に商人、が往々譎詐欺瞞を敢てしてまでも貪り貯へた金銀を自己の贅澤のためにのみ用ゐてゐるやうな現實の状態が、おのづから人をして道徳的に平民を卑しませる事情ともなつたであらうが、それは前に述べた如く武士とても同樣であるから、もし儒者がこの點から特に平民のみを卑しむならば、それは大なる誤である。のみならず、それがために生業そのものを道義に反するもののやうに考へるに至つては、社會存立の根(374)本、むしろ人間の社會的生活そのことを否認するものである。かういふ輩の説く道徳の教が、平民の生活に適合しないもの、また平民の道徳を高める助けにはならぬものであることは、いふまでもなからう。平民を輕んずることは平民の道徳を進める所以ではない。世間息子氣質(卷二)の儒學を好む商家の子の物語は、かの生計を意としない儒生に對する絶好の皮肉であると共に、また商業と儒者の教または教へかたとの背馳を示してゐるものではなからうか。(後の心學は一面の意味に於いてはこの快陷を補ふために生まれたものとも見られる。)徒らに區々として孝悌忠信の文字を説くよりも、西鶴が正直にして家業を勵めといつてゐる一言の方が、※[しんにょう+向]かに力があり實效がある。許六が「士農工商の家業の外さら/\別に大道なし」(蕎麥論)といふのも、それと同じ考であらう。なほ儒教道徳と平民の間に紀綱を維持してゐた意地や義理の觀念との差異については、武士について前章に述べたところと同樣である。
 なほ附言する。生業に從事して社會的の交渉の多い商工の徒に於いては、何等かの程度での廣い世間に對する道義のあること、また自己の生活は世間のおかげであるといふこと、が考へられてゐたらうと推測せられるが、儒家はさういふことにも思慮を及ぼさなかつた。彼等の道義は、五倫の教によつても知られる如く、特定の身分的關係に伴ふものであつた。貝原益軒が佛家の四恩の説を改め、衆生の恩に代ふるに天地の恩といふものを以てしたのも、このことと關係があるので、彼には衆生の恩といふことが理解せられなかつたやうである。これは或は君臣主從の關係を樞軸としてゐる武士の生活を基本として考へたためであるかも知れぬが、一般に廣い社會に對する道念の乏しいのが當時の人の缺點であり、武士に於いてもその點は同樣であつたのに、儒家はそれを補ふことができなかつたのである。
 
(375)       第十六章 世襲制度及び家族主義
 
 封建の政治制度と武士を中心とする社會組織とは、君臣主從の關係によつて秩序づけられてゐると共に、その根柢には世襲制と家族本位の生活とがある。これは一定の知行俸禄に衣食する武士に於いて最も明かに示されてゐるが、平民に於いても概して同樣の傾向は見える。平民の生活を立てる職業は種々であつて、それを選ぶには外部から加へられる拘束は無く、現に商人の如きは農民出身のものが甚だ多いのみならず、都會人の「身過ぎ」は人々の能力や事業の成敗やによつて變轉することが常であるが、平民の大多數を占めてゐる農民は、土地に固着してゐるその職業の性質上、やはり世襲が原則であつて、都會に出たり商工業に轉じたりするものは、財産の分配を受けることのできない次男以下のものか特殊の事情のあるものかに過ぎないのであり、都會人に於いても事業が失敗しない限りは父祖の業をつぐのが常であつた。公の教育機關が無く、何れの職業もそれを學ぶには、商家に於けるいはゆるでつちや職人に於ける徒弟の外は、家に於いてするのを原則とすることも、またこの事實と關係がある。さて世襲制度は生活の基礎たる職業を個人のものとせず家のものとするのであるから、社會組織の單位が個人でなくして家であることはいふまでもなく、從つていはゆる家族主義がそれに伴ふ。
 武士の知行俸禄は主君から與へられるのであるが、それは、名義はよし一代ごとに主君から給はるにしても、普通の場合に於いて事實上父祖から繼承したものである。武士の生活が君主の恩であると共に父祖のお蔭であるといふのはこれがためであつて、忠義に伴ふものとしての孝行の觀念がこゝから生ずる、といふことは、既に前卷に述べてお(376)いた。武士における家の觀念は單に血統の相續ばかりではなく、その根柢に知行俸禄があることを忘れてはならぬ。だから血統は絶えても知行俸禄がある間はその家がつゞくので、養子の場合がそれである。貞享元年の服忌令とその後の改訂とを綜合して見るに、嫡孫が祖父から直接に家督相續をした場合には、祖父母に對して父母と同じ忌服を受け、養父母は原則としては實父母より輕いけれども、遺跡相續または分地配當を受けた場合は實父母と同樣であり、子が無くして死去したものがあつて、その名跡をつぐため新規に知行を賜はつたものは、それに對して家督相續をした養父と同じ忌服をうける、と定めてあるのは、家といふものが血統よりはむしろ知行に伴ふことを示すものであるが、これは當時の一般の思想の反映に違ひない。特に家族制度の、根本義として父母と同一に見なさるべき夫の父母に對する忌服が、父母よりはずつと輕くしてあるほど、血縁に重きをおいてある服忌令に於いてかういふ規定のあることを、注意しなければならぬ。家の相續に血統が原則になつてゐることは勿論であるが、その絶えた場合に家の繼がれるのは知行があるからである。浪人をしても家の名は重んぜられてゐるが、この境遇は武士としては一時の變態と考へられてゐた。これがどこまでも血統を重んずる儒教の家の觀念とは違ふ點である。平民には知行が無いが、その代りに財産があり、また武士に身分があるのと同じく、家の格や店の信用があつて、それに社會的地位が伴つてゐる。
 さて家に知行財産があつてそれによつて衣食し、さうしてそれが家を代表する家長の勤務や事業によつて維持せられる以上、家族がすべてその保護の下にあるのは當然である。男でなくては勤まらない業務のある武家に於いては特にさうであつて、こゝでは女といふものは生計の上に於いて何の能力も無く働きをもしないのが普通であり、男でも次男以下は法文の上でさへ「厄介」を以て目せられてゐる。が、一方からいへばそれだけ家族は家長に依頼してゐる(377)ので、家長の庇※[まだれ/陰]の下でなければ生きてゆくことができぬ。家長の地位をその子に讓つて隱居したものも、この點に於いては他の家族と同樣である。この状態は彼等の心情にも大なる影響を及ぼし、後に述べるやうにそれから種々の問題が生ずるのである。まだ見ぬ親や兄を慕ふといふやうな考も、一つはこのことに關係があるらしい。親の無いものは甚だ肩身が狭く、「親のある大事の娘、これ怖いことはない、母にしつかと取つ付きや、」(國姓爺合戰)と、人の妻となつてすらも母親に庇護せられる世の中である。
 多くの淨瑠璃歌舞伎(例へば雪女五枚羽子板や傾城佛の原など)に見える、女が許嫁の男を夫として慕ひ、從つて「嫁入り」を急ぐといふのも、また一つはこれがためである。この時代の戀愛譚には、遊女は別として一般には、男よりも女の方が多く主動的地位に立つてゐるが、それがすぐに夫婦になるとか嫁入りを望むとかいふ形に於いて現はれ(例へば鑓の權三重帷子、一心二河白道、など)、從つて往々起る戀爭ひが常に夫爭ひ嫁入り爭ひになつてゐる(松風村雨束帶鑑、傾城酒呑童子、など)。これには次の章に述べるやうな事情、特に女も有つてゐる武士的の意地、競爭者があればそれに刺戟せられて起る負けじ魂もあるが、やはり家族本位の社會に於いて妻の身分を得なければ女としての資格が無いからである。遊女ですらも、我が依頼する男をば常に夫と稱してゐるのみならず、その父母を舅姑と呼び、みづからは※[女+息]といはれてゐるではないか(賀古教信七墓廻など〕。「女の身には主人にも親にも神にも夫なり」(大織冠)といふのも、この意味で解すべき語であらう。多くの劇曲(例へば※[木+色]狩劍本地など)に現はれてゐる女の嫉妬心が甚だ猛烈であるのも、それは愛情の鍾まるところ、特に両性の關係のそれ、に於いて自然に生ずるものではあるが、また夫の力にすがつて纔かに生存することのできる女に取つては、他し女に夫が心をよせるのは自己の(378)生存そのものに對する絶對の脅威だからであつて、平安朝の女の生まぬるい嫉妬心とはその趣を異にしてゐるのも、これがためであらう(「貴族文學の時代」第二篇第四章參照)。男同志の意地だてや物爭ひが妻と妻との睨み合ひになるのも(持統天皇歌軍法、曾我會稽山、など)、男の不始末を妻が隱して世間體をつくらふのも(夕霧阿波の鳴門、天の網島、など)、畢竟は同じところから來るのである。
 なほ當時の劇曲に現はれる女には、往々夫の愛する他し女を庇護したり夫のために遊女の身うけをしたりすることなどがある(壽の門松、天の網島、など)。かの激しい嫉妬とは反對の態度ながら、これもまた女が夫によつて始めて生きてゆかれる身であるからではないか。妻が夫に妾をすゝめることは事實としても例の少なくない話である。もとより夫妻となればその間に自然の愛情が生じ、その愛情の極まるところ自己を犠牲とするに至るといふ事情もあらうが、愛情にはおのづから男を占有しようとする欲望が伴ふものであるのに、その反對の態度を取るに至つては、よし無意識であるまでも、そこに他の理由が無くてはならぬ。現に夕霧阿波の鳴門のお雪はそれを「うきこと」といつてゐるではないか。そのうきことを敢てするのは、男を世に立てるためであるが、男を立てるのは即ち自己を立てる所以であることは爭はれぬ。江戸時代の女の貞淑は多くこゝに由來するので、それは要するに家族制度の馴致したところに外ならぬのである。
 かういふ状態であるから、家族は個人としての意思が重んぜられない。それは家の基礎となる結婚に於いても顕著なる事實であつて、多くは親の考に任せられるのみならず、幼時からの許嫁が習慣として廣く行はれ、また場合によつては親の顔を立てるために結婚が強ひられ(生玉心中、心中萬年草、など)、さうしてそれにはあひての人物より(379)は地位や財産が目あてとせられる場合が少なくない。この習慣は往々人妻をして他に男に對する初戀を覺えさせることともなり、姦通を誘發せしむる機縁ともなる。近松の作に於いて姦通の多くは女が主動者となつてゐることが考へられよう。それからまた嫁して後さへ「厭きも厭かれもせぬ中なれど暇やります親ゆゑに」(諸國盆踊唱歌)といはれるやうな場合もあり、または女の父から強ひて夫妻の間を割かれることさへもある(天の網島)。子の妻を離別する權が父母の手にあつて往々それが亂用せられることは(心中宵庚申など)、嫁がねばならぬ女にとつては、その一生の運命に對する大なる脅威であるのみならず、夫の人物をすら知ることができずしてその家に入らねばならぬとすれば、年若くして嫁ぎゆく處女の胸には一味の不安と哀愁とが宿らねばならぬ。江戸時代の女には今の人のいふ「處女時代の誇り」などは夢にも思ひかけないことであつたが、晴れがましい婚衣の下にはかういふ心もちが潜んでゐたのであらう。この心もちは古來の歌にも曾て詠ぜられたことが無く、前にも述べた如く嫁入りを急ぐ女をのみ寫した近松、次章にいふやうに「縁づきの門出」を滑稽的に描いた西鶴、の筆にも上らないものであつて、家族制度の重荷に壓せられながら靜かにそれに堪へて、我が身をも我が身のなりゆく運命をも見知らぬ人の手に委ねてゆく、つゝましやかな女の惰は、殆ど文學の上に現はれてゐない。個人の輕んぜられる家族主義の世の中では、處女は單に「嫁ぐべき人」としてのみ見られるのであるから、この心もちは深く人の同情を惹かなかつたからであらう。それは小兒が小兒としての價値を認められず、只「大人になるべきもの」として取扱はれ、小兒でも大人らしいのが賞讃せられたのと同樣である。當時の文藝に小兒らしい小兒の寫されたものが殆ど無いのは、天眞爛漫のふるまひを喜ばずして矯飾を尚ぶがためであるが、こゝにもまた一理由があらう。
(380) けれども當時の家長は、必しも家族に對して專制的權力を揮つたのではない。親の子に對する愛情が力を極めて文學の上に寫し出されてゐるのを見るがよい。「身を立て一分を立つるといふも子孫のため」(夕霧阿波の鳴門)といふ古武士から傳へられた思想は、當時にもなほ嚴存してゐる。のみならず子を世にあらせるためには、自己の武士のすたることをも辭せぬ(百合若大臣野守鏡)。子をして武士の道を貫かせるためには、敢て我が身をも殺す(國姓爺合戰、信州川中島合戰、など、赤穂一件の時にその實例がある)。子の手にかゝつて死なうとさへもする(傾城三國志など)。「天下のため子どものため、死ぬるは命の幸、」(持統天皇歌軍法)と考へられてゐたのである.もしまた親子の何れかが死なねばならぬ場合となつては「人の親として我が身を助け子を殺せといふものあるべきか」(同上)といふのが人情である。「子には子の道」があつて「親を殺せ助からんといふ子もあるま」いが「子を殺させて長らふ親はなほあるまじ」、それが「親の道」だといふ(同上)。子の罪をも我が身に負うて死なうといふのが親ではないか(賀古教信七墓廻)。その子とても時には涙をふるつて殺さねばならぬが、これは子の愛よりも重い義理のため主君のためであつて、戰場に我が子を出で立たせると一般である。「子を棄つる藪はあれど身を捨つる藪は無し」(大磯虎稚物語)、しがない浪人の朝夕に窮して娘を傾城に賣ることもあるが、それも固より「わが子の肉を食らふ人外、畜類と同じ、」と我が身を責め、「娘に乞食の憂きめを見せん不便さ、傾城の身は男づれ、如何なる果報もあるものと、可愛さ故に子を賣」ると、はかない頼みを娘にかけ、もしくはそれをせめてもの心の辯解とした上でのことである(傾城島原蛙合戰)。
 もしまた平民に至つては、殆ど事の理非や行爲の效果如何を辨別しないまでに、その子を溺愛する物語が、世話淨(381)瑠璃や、浮世草子に累出してゐる。讀者は女殺し油地獄の油屋の店頭の一段に於いて、その極端の例を認めるであらう。「八官屋お七」(海音)の久兵衛が一度びは「小家一軒建てうとて厭がる縁を」お七に強ひながら、その結果が意外の變事となつて愛子の刑死を見るに至つては、武士でもない身ながら何故に娘のいたづらを容認しなかつたかと悔いてゐる。道義(と彼等が考へてゐるもの)よりも大切なのが子の生命であるのみならず、この後悔は彼等が親のためといひ「孝行」と稱する道徳觀念に對する一種の否定ではないか。生玉心中の五兵衛が子のために謀るといふのは、實は、無意識たがら、親自身が自己のために人に對する義理や世間的體面を立てることであつたが、その子の死後には、やはり子の生命のためにさばかり大事と思はれた義理や一分の權威を否定したであらう。心中萬年草にも同じ例がある。さすがに武士はどこまでも外聞のため「恥」のためにこの情を抑へてはゐるし、またその恥を子に與へないために子をして生命を捨てさせることさへもあるが、さういふ羈束の割合に弱い平民に於いては、かゝる場合に子に對する愛情の發露を制するものが無いのである。彼等が子を勘當するのは多くは家産を保護するためであるが、それも根本は他日に於ける子の生活を安易にしようとするためであるのみならず、世間に對する一時の體面にとゞまることすらもある。「親父こらしめのために身を隱し」た遊蕩兒に「太夫は無事か、親仁は懲りたか、母は泣いてゐらるるか、」(二代男卷一)といはせた西鶴は、その裏をかいて滑稽的に鋭い皮肉を世間の親どもに浴びせかけたのではないか。「懲らしめのために親仁にちと鹽をふませう」と狂言心中を企てた物語さへも作られてゐる(子息氣質卷一)。或は事實としてあつたことかも知れぬ。これは「もとより愚に作つたる親仁」(色三味線京の卷)の故ではあるが、その愚は必しも「もと惡性人の年よりたるがみな親仁といふ怖きものにな」つたためばかりでなく、本來「子ゆゑの(382)闇」が親の習ひだからである。要するに親の子を愛するのは盲目的といつてもよいほどであるが、これが家長としての父の子に對する態度なのである。
 家長としての夫の妻に對する態度もまた必しも專制的ではない。武士に於いては、家事はおのづから妻の手に委ねられ、幼兒の教育、特に女子については成人となるまでのそれが、母たる妻の任務となつてゐる。武士の妻が武士の妻として恥しからぬ責任感と教養とをもつてゐることが、このためにも有效なはたらきをするのである。さうしてそれだけの責任感と教養とがあれば、夫とてもおのづから妻を輕視することはできない。また平民に於いては、妻は家の業務に與るところが甚だ大きいので、職業によつては妻がその主宰者であることを常とするものが少なくないし、地方によつては妻が夫よりも權威をもつてゐるところもある。江戸時代の家族形態に於いては一般に男尊女卑であり妻は夫に使役せられるものであつたやうに考へるのは、必しも當を得たものとはいひ難い。男子が主位に立ち家長が男子であり家の相續が原則として男系によることは、明かであるが、子からいへぼ父母は同等であり、家系に於いても夫妻は同じ地位のものとせられてゐるので、このことだけから考へても、女が特に劣等視せられてゐたのでないことは、知られよう。
 勿論、當時の家族制度に缺陷が無いではない。それは家族の個人としての人格が尊重せられない場合の少たくないことである。武士に於いて何よりも家が主であることは、いふまでもない。平民に於いても、家長たる親が一方では家族たる子を溺愛しながら、他方では目前に異變を見ない間は、後になつて悔ゆるべきことが起るとも知らず、かの久兵衛の如く「孝行」の名によつて子の情を犠牲にしてまでも、親の利益もしくは家の利益を得ようとすることがあ(383)る。親を養ふために女が操を賣ることの孝行とせられた類も、やはり同じところから來る弊害であり、甚しきは、心ならぬ戀を裝つて女を欺いても盗みをしても、親のため家のためならば容認せられる、とさへ考へられてゐる(今樣二十四孝卷一、四)。これもまた特殊の場合のことであるから、それによつて一般の家族生活を推測することはできないが、かういふ傾向は、少くとも思想としては、存在してゐた。
 家族制度の缺陷はなほその他にもある。その第一は、父が家長である間はその子が大人であつても獨立した社會の一員ではなく、從つて自己の意志による自己の生活ができないのみならず、家の中に於いても一人まへに取扱はれないことであつて、そのために往々家内の紛亂を惹き起す。世に立つべき能力を具へながらそれが抑へられてゐるからである。俸禄に衣食してゐて事業といふものが無く、全體の生活が受動的である武士はともかくも、平民に於いてはかういふことが有りがちであつて「四十に近き息子を叱り廻して當世にあはぬ商ひの指圖、邪魔にはなれど店のためには一つもならず、」(浮世親仁氣質卷二)といふやうなことでもあれば、若いものを不快ならしむるのは必しも無理ではない。のみならず、正當に能力を揮ふことができない状態は、おのづからその力を不正當に使用せしめる傾きがあり、特に無責任の地位はます/\それに便利を與へるので、かの遊蕩兒の生ずるのも、同じ家族制度の一要件たる財産の相續といふことから生ずる依頼心と、かういふ事情とが、その誘因の一つとなつてゐるのであらう。「親がゝりなれば浮世のかせぎを知らず、数年貯へ置かれし金銀我がものと盗みつか」ふ、ともいはれてゐる(本朝二十不孝卷四)。これは子の方の話ではあるが、親とても同樣であつて、世にはたらき得る間は何かしないではゐられないのが人であるから、しなれた家業から手をひきかねるのも無理ではなく、時としては一種の自信力と子に任せてしまふ(384)のをおぽつかなく思ふ不安心とも、またそれを助ける。もしまた隱居したところで、無爲でゐられないことは同じであるから、強ひて家事に容喙するか、然らざれば消閑の事業を何の方面かに求めねばならぬ。浮世親仁氣質の數篇は、それがために生ずる弊害を誇張して滑稽的に描き出したものであつて、家族主義とそれに伴ふ隱居制度との缺陷がよく現はれてゐる。
 第二は※[女+息]と舅姑との關係である。人の情は必しも血縁によつて生ずるものではないから、舅姑に對して父母よりも親しみが厚くならぬとは限らぬが、それは相互の間の温情が自然に養はれる場合のことであつて、制度もしくは風習の上から強ひて父母ならぬものを父母と同視させようとするのは不自然のことである。特に固定してゐる家といふものによつて互に障壁を作つてゐる家族本位の生活に於いては、女の嫁することは我が家から全く他の家に入るのであつて、夫はともかくも、その家族に對しては相互に「他人」といふ一種の疎ましい感じがあるから、家族制度によつて強制せられる※[女+息]と舅姑との結合は、同じ家族制度から養はれたかういふ思想によつて事實上妨げられてゐるのである。この點から見ると家族制度と結婚とは根本に於て不調和を含むものであつて、夫の家からいへば、結婚そのことが本來「他人」を家の内に混入させて、家族の結合を攪亂するものだともいへるし、またその反對の方からいふと、妻の心裡に絶えず生家の念が蟠つてゐるので、懷硯卷二の「後家になり損ひ」のやうた滑稽譚の起るのも、畢竟そのためであるから、家族制度は夫妻の結合を弛めるものだともいへる。離婚の多いのも一つはこゝに原因があり、合はせものは離れものといふ俚諺も生ずる。要するに個人間の問題である結婚を家のこととしなければならぬのがこの混亂の本である。だから強ひて結びつけられた※[女+息]と舅姑との間には温情よりもむしろ冷かな義理の念が生ずる。從つて(385)舅姑、特に姑、は一種の權威者として※[女+息]の目に映じ、それに對して初めから不安の情を抱くので、それがます/\兩方の親和を妨げる一原因ともなり、狹い家の中を天地としてゐる女性は、些細のことをも重大視して繊弱な神經を昂奮させるのが常である上に、或は「女の性は※[女+息]や子の中も法界悋氣口」(海音心中こつ腹帶)といはれる嫉妬心、同性の相反撥するといふ自然の状態、或は姑が閑散な地位にゐるため無用の注視を※[女+息]の上に向けるといふ事情もあつて、いよ/\その乖離を大ならしめる。のみならず、前に述べた父子の間の關係もまたこゝに適用せられるので、善意から出た姑の助言が※[女+息]をして我が上に加へられる干渉束縛と感ぜしめ、悲劇がそこから生ずることもあるではないか(本朝二十不孝卷四〕。まして「女心は愚かにして※[女+息]に家を渡すこと何時までも吝」む姑があれば、それから種々の葛藤が起るのは自然の勢である。※[女+息]が姑の地位を占めるやうになれば、やはりその地位に伴ふ權威をもつので、この關係が順送りになり、人は變つてもそれの變らぬのが常である。
 次には妾の問題がある。妾をもつことは事實としては少數の富貴なものに限られてゐるので、一般の風習ではないが、思想としては因襲的に肯定せられてゐた。のみならず、場合によつては「若殿なきことを悲しみ」(一代女卷一)ての特殊の要求から起ることも無いではないらしいから、この點に於いて家族制度の根本と交渉を生ずる。本來家といふ観念の基礎が主として世襲制度から生ずる家の相續にあり、さうしてそれは男子によつて行はれるのであるから、重んぜられるのは父子の關係であり、從つて母系は普通の場合に於いて問はれないのが風習になつてゐる。しかし妾が家に於いて公然の地位を有するシナの多妻主義とは違ひ、妻はどこまでも一人であり、妾はどこまでも婢として取扱はれるから、妾の子はその實母をも婢として見なければならず、從つてこの名分と母子の愛との間に矛盾が生ずる(386)のみならず、それがために妾が妻の地位を取つてそれに代らうとするやうな紛擾さへも起りかねない。また妾が子を子として愛育することができないため、愛情のやりばが無いところから生ずる不自然な欲望、例へば家の内に於ける權勢欲、などのはたらく場合のあることも、考へねばならぬ。後のものであるが甲子夜話(卷一〇)に子を産んだ妾を斬りすてたといふ人の話があつて、この書の記者は豪傑のしわざとそれを賞讃してゐる。子を得んがための妾であるから目的を達した上は、女に用が無いのみならず、他日に至り子が母の情にひかされて名分を紊す虞があるからだといふのである。この物語そのものが、既に家族制度と常識でも考へられる人道または人間的感情との矛盾を示してゐるのであるが、それはともかくも、妾といふものから種々の紛擾が生ずることはこの話によつても明かである。
 更に繼母の問題があつて、妾をもつ習慣もまゝそれと關聯してゐる。繼母と子との相互の情は子の年齡や性や母からいふと實子の有無やによつて一樣ではないが、自然に存在しない關係の強ひて作られた點に危機が潜んでゐる。それが圓滑である場合ですら「我が母人は繼母にて、……實の母人ならばかくまでの義理を立つるに及ばねども、なさぬ中」なれば特に母の上を思はねばならぬ、といふやうに、繼母に對する惰が情よりもむしろ義理となつて現はれる(今樣二十四孝卷二)。繼子ゆゑに義理を立てる母の心情は既に第十三章に述べておいた。さうしてその義理が守られない時には、幾多の紛擾がその間に生ずる。特に繼母に實子のある場合には、家督相續財産相續の問題が大小種々の形に於いていはゆるお家騷動を誘發せしめる。劇曲に現はれるお家騷動は多くそれであるが(傾城佛の原、傾城淺間嶽、など)、事實としてもそれがあつたらう。大名などの家では、家臣の權力爭ひなどがそれに纏綿して來るし、平民に於いては、老後の身を子にかゝるといふ、家族制度によつて馴致せられた、習慣が繼母をして深く實子に依頼(387)せしむる事情となることは、いふまでもない。
 養子の制もまた家族制度の一缺陷であつて、こゝでもまた親子の間がらは愛情よりも義理によつて繋がれる.恩深き養ひ親よりも亡き實の親が懐かしく、そのために敵を打たうとするものもあれば、養ひ親の高恩が實の親にも換へ難いとあつて、養父の身代りに打たれようとするものもあり(賀古教信七墓廻)、生父と養父とに對する情は人により境遇によつていろ/\であるが、それは幼い時から養はれて自然に愛着の生じたもののことであり、それですらも養ひ親は義理が先に立ち、子もまた「傾城でもかごかきでも眞の親がいとしい」といはされてゐる(夕霧阿波の鳴門)。成長してからの養子に於いてはなほさらであらう。事實、養父子が爭つたために知行を歿收せられたこともあり(常憲院實記貞享元年七月の條)、こゝから起つたお家騷動もある(例へばいはゆる越後騷動)。
 更に社會的眼孔から見れば、家族制度の下に於いては公共心が發達せず公共事業が起り難い。武士の生活が孤立的だといふことは前章に述べておいたが、平民、特に商人、はその取引關係が複雑であるのと、顧客を廣い社會に求めるのとのため、武士よりは社會觀念が發達してゐながら、それもやはり自家の信用のためか、または漠然たる世間といふ考に止まるので、集團的公共的活動は極めて微々たるものであつた。農民にもまた隣里郷黨互に相助けるといふ風習があるけれども、これは範圍が狹小であるのみならず、その行動も多くは消極的のものに過ぎなかつた。だから「人は十三歳までは辨へなく、それより二十四五までは親の指圖をうけ、その後は我れと世をかせぎ、四十五までに一生の家を固め、遊樂することに極まれり、」(永代蔵卷四)といふ。彼等の全生活は家の内に限られ家の内に始終してゐて、財産も我が身の遊樂に費すのと子孫に遺すのとの外には使途が無いのである。公共のために財を用ゐ力を用(388)ゐるといふやうなことは思ひもかけないことであつたので、極めて稀にさういふものがあれば畸人として目せられてゐた。かういふ状態であるから、命令と服從とから成りたつてゐて根本的に自治思想の無い武士の社會とは違ひ、平民に於いては、都市でも村落でも幾らかの衆議的自治的風習の萌芽がありながら、成長せずにしまつたのである。
 なほ彼等の生命とする財産についても、孫子の代まで手入れのいらぬやうに堅固な家普請をするくらゐが、親の誇りの大なるものであるが、その結果は子をして親ゆづりの財産に依頼心を起させ、或は相續問題の紛議を發生させ、また或は往々「親苦勞する、その子樂する、孫乞食する、」ことになるのであつて(世間子息氣質卷一)、これもまた個人とその事業とを重んじない家族制度の弊害である。「總じて親の讓をうけず、その身才覺してかせぎ出」すのが、平民としての誇りであり(永代藏卷一)、「子孫の事まで案じおきするは愚痴」(織留卷五)として、子は子で自由に働いて新に産を作らせよといふ考もあるが、全體の社會が家族本位の生活によつて維持せられる以上、これにはいろいろのむつかしさがある。なほ家族が家長と共に生活することを尚ぶこの制度が、一方では世の秩序を保持するに便利であつたと共に、それだけ他方に於いて家族を遊惰ならしめ進取活動の氣を抑へる結果を生じ、一般に人心を萎縮させた。本朝二十不孝(卷二)の「人は知れぬ國の土佛」の一事に、舟のり希望の快男子が不孝とせられてゐるのを見るがよい。大にしては鎖國制、次には封建制、小にしては家族制、何れもこの點に於いて同一の主義、同一の性質、を有するのである。家族制の最も嚴密に行はれてゐる武士階級のものに、いくぢなしがあつて、比較的個人の活動が容認せられてゐる平民の社會に於いて、割合に元氣が旺盛であつたのは、當然である。
 たゞ個人の活動が十分に行はれないにしても、個人は個人としての情意を有するのであるから、強ひてそれを抑制(389)しなければならぬ社會的風習は、却つて家の結合を薄弱にするものであつて、上に列擧した家族制度の缺陷から生ずる紛爭の原因は、主としてこゝにある。紛爭が生じないまでも纔かに表面的の妥協で事なきを得る場合が多く、浮世草子の多くの物語にそれが現はれてゐる。子の不孝を責めて「口先きでなりとも小優しうものいへばそれで堪能する」(浦島年代記)といふ父の言葉のあるのを見れば、孝行といふことにすらもそれがあつたらしい。生玉心中の嘉平次が「親の心をやすむるは安いこと」と、その場のがれの虚言を吐くのも同じことである。のみならず、強ひて定められた家族道義の觀念は往々それに不純の分子が伴ふことを免れない。「お大名へも知られた關の小萬が父親を水牢では殺されず」(丹波與作)といふ一句は、孝行にも外聞が交つてゐることを示すものではあるまいか。嫉妬したと思はれてはならぬといふやうな女の考も、夫妻の間に義理の念があるからであつて、現に夫婦の義理とか妹脊の義理とかいふ語さへも作られてゐる(吉野都女楠など)。小萬に父を思ふ至情が無いではなく、世間の多くの人の妻に夫を愛する情が無いではないが、不自然の社會組織から生ずる恥とか義理とかいふ觀念は、こゝにも纏綿してゐると共に、家族制度そのものにもまた同じ不自然の陰影がさしてゐるために、かういふことがいはれてゐるのであらう。
 けれども當時の家族制度には缺點ばかりがあるのではない。特に武士に於いては、家名を重んじ祖先を辱かしめず子孫のためを思ふことが重要視せられてゐて、それが彼等の風尚を維持するに大なる助けとなつたのであり、筋めの尚ばれる本來の意味もそこにある。平和の時代には積極的に家名を擧げる機會が無いから、その點でこの精神も幾らかは薄れてゐるし、その裏面には徒らに家系門地を誇る陋習も生じてゐるが、すべてがさうではなく、心あるものは家の名を傷けないために、血統を正しくすると共に子女の教養に力を用ゐるので、武士としての品位の家系に伴つて(390)ゐる理由がそこにある。平民とても舊家にはやはりそれがある。或はまた老を養ひ長上を尊敬し一般に秩序を重んずる風習も、この間に養成せられたことが少くないであらう。これはどこまでも家族制度によらねばならぬものではないが、相關するところの多いものである。家族そのものについても、親の子に對する愛情が、よし時に無意識ながらも親の利己主義によつて累はされることがないではないにせよ、一般にはその純情が保たれ、或はそれが純化せられ、さうして子を育てあげて世に立たせることが親の最大の喜びとして、またその道徳的責務として考へられてゐる。夫妻の間がらに於いても、世間體や義理のそれに絡まる場合があるにせよ、武士の家に於いては、妻の夫に對する心からの從順と夫の妻に對するおのづからなる信頼との、また平民に於いては、家事やその業務をきりまはす妻のはたらきに現はれてゐる夫妻間の情味の、あることは明かな事實である。人の妻とその姑姑との間がらとても、必しもいはゆる義理ばかりで保たれてゐるのではない。人により家族の状態によつて一樣ではないが、人の妻には、少くとも自己に對する一種の指導者である點に於いて尊敬の惰を以て舅姑に對する一面があり、教養のあるものに於いては、そこにむしろ多數人の態度がある。よしそれには努力して舅姑の意に從はうとする念が伴ひ、從つてそれに種々の苦惱があるにせよ、それのみでないところに當時の家族生活の意味がある。かゝる親子夫妻の心情によつて當時の家族生活の風尚が形づくられ、さうしてそれによつて近代日本人の精神生活の基礎となつた教養が成りたつたのである。だから概していふと、封建制度と同樣に、かゝる家族制度もまた國民生活の發達の徑路に於いて重要なるはたらきをしたのであり、それにょつて明治時代の日本の新しい活動ができるやうになつたのである。個人の尊重せられないことがその缺點であるが、これとても、世の中、特に武士階級のものの生活、が單純であつて、個人の特殊なる能力に待(391)つところが少く、從つて個性の發達しなかつた當時の状態と、おのづから相應ずるものである.
 
 家族本位の制度とそれに伴ふ思想とを考察するにつれて、おのづから思ひ浮かべられるのは、これに關する儒者の考である。本來家族制度の社會に於いて發生した儒教が、この點に於いて當時の日本の状態と種々の接觸を生ずるのは自然である。その道徳の基礎とせられてゐる孝行の教が概して世に容れられてゐたのも、偶然ではない。幕府でも寛文時代からは孝行の文字を特に尊重して、武家法度にも不孝者嚴罰の一條を設け、天和の改訂には第一條に忠孝の二字を掲げ出し、諸國に高札を立てて忠孝を奬勵してゐるが、それが儒教から來てゐることは、保科正之や綱吉の學問好きであつたことから推察せられる。さうして綱吉の世には往々不孝の故を以て罰せられる土民があり、百姓では磔になつたものさへある。かういふ風に酷律を以て民に臨むのは儒教的教化政治主義の實行とはいひ難いけれども、その主旨は儒教的孝行の奬勵であつたらう。ところで君臣關係について儒者の言説と現實の武士の思想とが必しも一致してゐない、といふことは前章に述べておいたが、親子の間がらについても同じことがある。日本の家族生活に調和するやうに見えた儒教も、その儒教の知識が加はるにつれて、その實は幾らも背馳する點のあることがわかつて來たのである。
 儒者の孝を説くのは極めて多端であつて、或は庶人の孝から天子の孝に至るまで幾多の段階があるやうにいひ、或は父母を養ひ父母に事へることからその心を安んずることに及んでゐるが、その最も廣い意義では、人の生活は親に事ふることに外ならず、孝はすべての徳の本であると共にあらゆる徳は畢竟孝に歸するとし、或は徳を明かにするの(392)が即ち孝だとさへ考へるのである。かういふと孝は徳もしくは善もしくは人生の責務の總稱であつて、別に孝といふ名を立てるには及ばないのであるが、孝の本來の意義が父母に對する特殊の道念であることには疑がなく、あらゆる徳を孝とするのは強ひてそれを擴充したもの、むしろ強ひて附會したものであつて、それが即ち家の内の生活を生活の主なるもの、或はむしろそのすべて、とするシナの道徳思想の特色である。孝を以て天下を治めるといひ、君は民の父母育といふやうな、政治思想の起るのもこれがためであり、かの教化政治主義もその思想の一由來は家に於いて行はれるものを天下に適用した點にあらう。(但し理論としては、子を教化する責任がその子の親にあるとすれば、それは孝を子の本來の責務とする考とは矛盾するところがある。)だからかういふ考へかたからすれば、廣い社會を主として考へる場合には孝に代へるに社會奉仕を以てし、個人を主とするならば個人の尊重を以て一切の徳を總括することもできるのである。
 ところが江戸時代の道念では、家を重んじはするものの、親よりも君が重いのであるから、彼等の思想では人生は悉く主人のためであつて、すべての徳は忠から出て忠に歸するといふ方が適切であり、この點に於いて儒教の根本と齟齬する。なほ武士の孝は、既に説いた如く、知行俸禄を主君から與へられ勞せずして衣食し得るのは父祖の恩惠であるといふ點に根據があるので、平民と趣きを異にする階級道徳をそれによつて立てるのであるが、儒者が父母の恩を説くのはそれとは違つて、我を産み我を養ひ我を教へる、一くちにいへば我を愛育する、點に於いてするのであるから、こゝにも思想としては大きな距離があるといはねばならぬ。儒者のこの考は武士の考と必しも支吾するものではなく、むしろそれに一つの根據を輿へるものともいはれようが、その代り人類共通の道念となつて武士の最大の誇(393)りとする階級觀念が取り去られるから、武士としては却つてその誇りを失ふことにもならう。儒者は或は士大夫の孝といふ思想を以てそれを補はうとしたであらうが、士大夫といふのがそも/\武士にとつては空疎の觀念であるから、これは何にもならぬ。たゞ主君も知行も無い平民にとつてはこの矛盾は起らないですむ。
 ところが儒者が孝行そのことを説くに當つては、至るところに現實の風習や生活状態と齟齬を生ずる。第一に、彼等の教へる孝行、父母に事へるといふ日常の行爲は、むつかしい禮によらねばならぬので、それは日夜生柴に忙はしいもののなし得るところではなく、また貧民には思ひもかけぬことである。儒者が生業に從事するものは徳を修める暇なしといつてゐる一例がこゝにもある。徳の第一は孝行だと説かれてゐることを考ふべきである。これは儒教が何ごとにつけても士大夫以上のものをあひてとして考へてゐるからでもあるが、我が國の儒者が異國の風習に本づいた教説、しかも文字にかゝれたもの、をそのまゝに受賣りするからでもある。「榾の火に親子足さす侘びねかな」(去來)の如きは、彼等にいはせれば非禮の至りであらうが、貧しいうちの温い情味はむしろこゝにあり、「親にひだるがらせて行儀づようせうより裸になつて働いて一盃酒も飲ませかし」といふ「さるおやぢのくどきごと」(今樣二十四孝卷二)も、もつとものことである。孝行といふことが一種特別のことがらのやうに考へられて、「親仁が小便に出る手を引いてさへ孝行の名は取可申」(贈智悔状其角)と嘲られるのも、これがためではないか。かの三年の喪の如きに至つては、蕃山などの經世家は行ふべからざるものとしてゐるけれども(集義和書卷二)、多くの儒者は天下の通禮としてそれを守ることをすゝめてゐ、現にみづからそれを實行したものがあり、朱子學を修めた某の藩士が父の喪にあつたとき、俗習により三十五日で出仕を命ぜられたため自殺した、といふ極瑞の例もあつて、春臺はそれを孝の(394)至りと評したといふ(文會雜記)。が、かういふ教が自己の勞力によつて衣食しなければならぬものを初めから眼中に置いてゐないことは、明かであるのみならず、三年も職務を空しくすることは如何なるものでも許されないはずである。もつと根本的にいふと、萬事を抛擲するほどの悲みの情がかう長く續くといふことは、心理上の事實として有り得べからざることである。儒者は紙上の知識に蔽はれて自己の心情を省みないために、かういふことを説くのである。
 なほ儒者は、ともすれば妻子の愛を父母に對する孝と對照し、一を慾とし一を道とする傾きがあり、父母のためには妻子を棄てねばならぬと説く。現に孝は妻子に衰ふといふ古語もある。二十四孝の郭巨の物語はシナ人にすら反對の意見はあり、闇齋の大和小學にもその説を引用してあるし、親のために盗をなし人を欺きまたは操を賣るものさへ孝子の列に入れておく今樣二十四孝にも、「郭巨が子を埋む無分別、……これ孝行とはがてんまゐらず、」とその序にいつてあるほどで、評列のよくないことではあるが、畢竟この思想の誇張せられたものである。鳩巣の六諭衍義大意に「妻子は失うてもまた得べし、たゞ一度び失うて再び得べからざるは父母なり、」とて「眼前妻子の愛にひかれて」父母をおろそかにするを戒めてゐるのも、別に本づくところのある著書であるとはいへ、一般の儒者の思想と齟齬してゐないからであらうが、それを極端に實行すれば即ち郭巨の物語になる。これはもとより變に處する道といふのであつて、儒者も一方では後なきことを最大の罪惡とし、婦の七去に子の無きことを數へてゐるほど子を重んじはするが、それも祖先の祀を絶たないためとせられてゐるので、子は親の後なり敢て敬せざらんやといふのと同じ思想であり、どこまでも祖先を本位とするのである。妻を娶ることがそも/\祖先の血統を後に傳へるためとせられるのであ(395)る。
 かゝる祖先本位の結婚觀子孫觀が、何人も體驗してゐる人生の事實に背いてゐることはいふまでもなく、現在の社會、今の我が身、を作り出したものとして祖先を尊重し親を敬愛することは、將來の社會を作つてゆくもの、我から出でながら新しい生命を展開してゆくもの、として子孫を重んじ愛育することと、何等の矛盾を有しないものであるのに、それを強ひて反對の地位に立たせるのは、故らに親の權威を尊重せんとしたがために生じた儒者の僻見であることは、いふまでもない。「老いたる親を養ふより子には心のくだかるゝ」(傾城酒呑童子)といひ、「死に別かるゝ中にも、親より妻は悲しく、妻よりはまた、子は格別にふびんの増すものなり、」(織留卷四)といふのは、人生の事實であつて、事實は必しも道徳でないにせよ、それに本づいて親を敬愛することも教へられるはずであるのに、初めからそれを私慾として却け去らうとするのは、到底人に容認せられることのできない話であつて、當時の人がそれと全く異なつた思想を有つてゐたことは、上に述べたところでも知られよう。現に儒者も孝を以て親の愛に報ずる所以と説いてゐるのに、妻子の愛を私慾として孝と反對のものと考へるのは、それと根本的に矛盾してゐるのではないか。子の愛が私慾ならば親の我を愛したのは全く倫理的債値の無いことであつて、道徳の第一義とせられた孝道の基礎とすべきものではあるまい。
 なほ家族制度の維持に必要な養子についても、儒者の考は異國的のものである。家の名及びその地位とそれに伴ふ知行財産との相續に重きを置くのが、當時の思想であるのに、血統の相續を家の根本義とするシナ思想を繼承してゐる儒者は、異姓の養子を排斥するからである。朱子學派、特に山崎一派のものは、稻葉迂齋三輪執齋などの少數のも(396)のを除いて、峻烈にそれを主張してゐる。これもまた儒教かぶれをした寛文以後の幕府の政治家によつて採用せられ、寛文の諸士法度にも、天和寶永の武家法度にも、養子は同姓を主とすべきことを定めてある。しかし異姓の養子を許さなければ、武士の生活を不安にしその階級の維持を困難にして、社會組織の根本を動搖させる虞れがあり、特に養子を許さぬために大名の家を斷絶させることは、それによつて家中全體を浪人にするものであるから、武士生活の不安は一層甚しい。だから法度に於いても已むを得ざる場合には異姓でもよいとしたので、實際は除外例が本則のやうになつてしまつた。經世家の蕃山や執齋などが異姓養子を可としたのは、さすがに卓見である。本來世襲的階級制度の無いシナに於いて發生した思想が、それを特に重んずる當時の世情に適切でないことは當然であつて、これもその一例である。
 孝についで儒者の力説したことは妻の貞節であるが、これは固より當時に於いて異論のないことながら、一般には情の上から考へてゐるのを、儒者が嚴格な道義としてのみ見るところに、兩者の差異がある。本朝女鑑には節義の模範として昔の狹手姫、横笛、佛御前、などの傳説的人物を擧げ、諸國心中女には正式の夫妻關係でない多くの戀愛譚を載せて、情を全うした女を貞女と呼んでゐるが、これは戀愛を根本的に私慾として斥け去る儒者の承認しないことである。夫妻関係の根本義に關する儒者の考が一般の思想と一致してゐないことは、既に上に述べた。なほ離婚は實際にもしば/\あつたが、それはかの七去説などを規範としたのではなく、特に子無きを去るなどは、妾をもつととが許容せられ、養子をすることが廣く行はれてゐる以上、實際に遵奉せられてゐなかつたことが明かである。
 しかし儒者の説も一面に於いては當時の社會状態とおのづから調和する點がある。あらゆることについて父母の意(397)を重んじ、それに對する服從を力説することは、職業が世襲であり社會の文化が停滯して動かない世に於いて、始めて大なる支障なしに聴かれるのであり、朝夕親の膝下に侍して奉仕するといふのも、世に活動するものが家長のみであつて、家族はすべて家長と同一の家に住んでその庇蔭の下に衣食し、獨立の職業を有つてゐない、といふ當時の武士の生活状態が必要の條件である。蕃山が初めて藤樹の門に入らんことを請うた時、藤樹のそれに告げたといふ語を見るがよい。夫は外に勤め妻は内を治めるといふのも、武家の如く男でなくては勤まらない職業であり、また妻は生活のためにはたらく必要の無い閑暇の多い身分たるを要する。女に自活の方法を與へずして而もその再嫁を不徳とするのは、知行俸禄があつて遊食し得られる状態でなくては、徹底的に主張せられないことではないか。だから浪人の寡婦には春を鬻いで舅姑に仕へた「孝行もの」がある。要するにすべての生活が家族本位であつたからこそ、儒者の言も一應は道理らしく聞えたので、またその言が幾分か世を益することもあり世俗の缺陷を補ふこともできたのである。けれどもその根本の精神に於いて、前に述べた如く時代の生活と矛盾するところがある以上、眞に世を救ふことのできないのは當然である。親の子に對する溺愛を戒めて教の大切なことを説いたなどは、たしかに時弊に適中してゐるけれども、その教といふものが實生活に切實でないとすれば、その效果は甚だおぽつかないものであつた。
 儒教に對抗して起り異國の教を排斥して國民道を樹てようとした神道家が、家の問題に於いてもまた同じ態度を取つたことは、いふまでもない。彼等も忠と共に常に孝の語を用ゐてゐるが、それは家族制度の社會に於いて倫常を説くからであつて、例へば増穗殘口がその孝を説くに當り、我が身を大事にし子孫の繁榮を期することに重きをおいてゐるのは、祖先を本位とする儒教と反對である點に於いて注意を要する。神道は生を樂しむを主とするので、シナ人(398)の如く葬祭を篤うするのは正しくないといふ。妻子を愛するは固より天性であり、男女は平等であるから、夫婦有別といひ七去三不去などといつて女を男の奴隷視するシナ思想は、いふまでもなく誤であると説く(神路の手引草)。なほ一歩を進めては、情愛を無視するむりづくめの婚姻を排斥し、さういふ形式的の妻に眞の貞節の無いのは當然だと力説してゐる(艶道通鑑)。これは後に述べるやうに、いはゆる聖人の道に反對して一部の神道者の間に起つた一種の自然主義ともいはゞいはるべき見解から來てゐるのでもあり、古典文學の思想を繼承したものでもあるが、それだけ人生の事實に適合してゐる。たゞこの情愛婚姻の主張は、實際に於いてそれが好結果をのみ生ずるかどうかが問題であるが、神道者がそれについてどれだけ考慮してゐたか、明かでない。また跡部良顯が異姓の養子の許すべきを主張してゐるなどは(日本養子説)、現實の社會状態に立論の基礎を置いたので、こゝにも紙上の空理を弄ぶ儒者とは少しく違つた態度が見える。因にいふ。この時代になつて神道が著しく倫理的になつて來たと共に、佛者の間にも幾らかは世間的道徳を顧慮するものが現はれたらしく、元政の如きは釋門孝傳や釋氏二十四孝などを作つてゐる。但し本來出世間の宗教の宣傳者であり、經典の煩瑣な學習に力を注ぐことの多い僧侶は、この方面に力を盡すことが少かつたやうである。
 
 以上は、徳川の世に於ける家族制度の根本思想と、それに關する當時の學者の所説とを、概觀したものであるが、その間におのづから制度の弱點と學説の缺陷とが指摘せられてゐる。しかし誤解をしてはならぬ。家族的結合そのものは、人の生活に於いて本質的に存在するものである。人はもと/\家族の一人として生まれ出で、また結婚によつ(399)て新しい家族的結合を作り、それに新しい生命を與へることによつて永久に人生を持續させ發展させてゆくものである。だから、家族の結合を清らかにし温かにしまたそれに生氣あらしめることが、人の重大なる責務であることは、いふまでもない。たゞ江戸時代の家族制度は、戰國傳來の武士生活と當時の社會組織とによつて形成せられた特殊の風俗であるから、かういふ世でなければ存立しない、從つて一般的に考へると不自然な、分子が多く含まれ、種々の缺點がそれに伴つてゐたのである。だからこの特殊の家族制度が、當時の社會に於いて必然的に存立すべきものでもあり、また廣くいふと人間生活の歴史的發達に於いて經過すべき一段階として見るべきものでもあるにかゝはらず、あまりに窮屈に定められたため、それによつて却つて自然な家族生活のすなほな發達が阻害せられたところもある。かういふ家族制度が昔から我が國に行はれてゐたものでないことは、いふまでもない。また儒教の家族道徳の教が、古代シナ人の特殊な思想であるために、我が國民の思想と一致しないといふことは、上に反覆述べておいた。儒教の經典によつて傳へられた孝行といふ語は、かなり前から一般に用ゐられてはゐたが、その意義は儒者の所説とは同じでない。この時代の神道者に至つては或る點に於いてそれを正反對の觀念に變へてしまつたほどである。が、一方からいふと、この時代のあらゆる社會現象の通相として、表面に不自然な形はありながら、その實は割合に自然な家族生活が營まれてゐたのでもある。家族生活の根本をなす親子夫妻の愛、自己の生命を永久に持續させ發展させようとする欲求は、人生に固有なものだからである。文學に寫されたり論議の題目とたつたりするのは、或は何等かの葛藤が生じ或は理論的に押しつめて考へる場合のことで、さういふ時には、思想上、表面の制度に強い權威があつて、それと人の自然の欲求とが衝突するから、上に述べたやうにその弱點も暴露せられるのであり、特に丈學の上に於いては(400)それが極度に誇張せられてもゐるが、實生活に於いてはむしろさういふ困難な場合に逢着せず、或はさういふことを深く考へさせられずに、或はまた何等かの妥協によつて、ともかくも無事な日を送る方が多かつたであらう。さうして孝行も貞節も、儒者の説く文字上の教からではなく、かういふ家族生活そのものによつて自然に保たれて來たのである。なほ個人の能力を基礎とした社會組織によつて世が活動してゐる今日に於いて、世襲制度封建制度の世の中に適合するやうに形成せられた家族制度が、そのまゝに行はれてゐないこと、また現代の生活に於いて、古代のシナ人が彼等の特殊の風俗を維持するために構成した家族道徳の教が、そのまゝ適用せられてゐないことは、明白な眼前の事實であつて、もしそれを行ひそれを適用しようとしたならば、世の活動は忽ち止まり社會組織そのものが崩れてしまふことは、いふまでもない。が、今日に於いても家族生活の重んぜらるべきことは勿論であつて、その家族生活には江戸時代とは違つた新しい形が具はり、それに現代の實生活から發生した新しい意義、新しい生命、が附與せられ、新しい道徳がそのために立てられねばならぬのである。
 
(401)       第十七章 戀愛と生存欲
 
 江戸時代の家の問題は親子の關係を中心として考へられ、夫妻の間がらは從屬の地位に置かれたのであるが、それは家の繼續といふことが世襲制度による社會組織の根幹をなしてゐたからである。もつとも子孫によつて自己の生命を永久に存續させ無限に展開させてゆくことは、生物としての人の根本義であるから、親子の關係が重んぜられるのは、この意味に於いては當然のことであり、當時の思想にも無意識ながらそれが潜在してゐたではあらうが、しかし明かに意識せられてゐたことは、世襲的社會判度としての家の觀念であつた。だから夫妻の關係は子孫相續の本源であるにかゝはらず、むしろ輕んぜられてゐたのである。おしつけ結婚の普通であつたのもこゝに一原因があり、妾をもつことの公認せられてゐたのもこの故であり、夫妻の關係がともすれば壞頽する危險を藏してゐたのも、そのためである。ところが夫妻の關係を輕んずるのは即ち兩性の交渉を輕んずるものであるので、そこに大きな問題がある。
 かういふ社會では女は女性として尊重せられず、從つて戀愛の成りたつ根本條件を缺いてゐるといはねばならぬ。特に武士に於いては、一つは女に動かされないといふ強がりと、一つは女を單なる性慾のあひてとして見る傾向すらもあつた放縱な戰國武士の習慣とからも、兩性の關係を輕視する風は養はれてゐる。その他なほ權略詭謀に滿たされた世に於いて女が往々それに利用せられ、結婚すらも政略として用ゐられる場合のあつた戰國的風習が、女に對する猜疑心を馴致させたことも、幾らかの關係があらう。要するに武士はその特殊の業務から生ずる氣質として、女を尊重しないことをむしろ誇りとさへしてゐたのである。その上に彼等の社會には何等の社交機關が無く、また家は思想(402)的には一種の城廓として堅固な障壁によつて他と隔離せられてゐるから、武士の間には單純な戀愛の生ずる機會が少く、もしさういふことがあれば「不義」として罪惡現せられるほどであつた。戀を政略の具とし(國姓爺合戰)、孝行のための方便とし(今樣二十四孝卷一)、それほどでなくとも、女をつれてかけおちしたのは全く色に耽つたばかりではなく他に理由もあると辯解する(雪女五枚羽子板)。かういふ思想の文學に見え初めたのも、このことと連繋があらう。これは次の時代の劇曲や小説の脚色には普通の例であるが、この時代ではまだそれほどまでに甚しくは無い。しかし両性の相求めることは人生の根本に存在する事實であるから、平民は勿論武士に於いても、何等かの形に於いてそれが現はれる。だからこゝにも當時の社會的風習と人生そのものとの矛盾が横はつてゐる。さうしてそれから種々の不自然な現象が生ずる。
 女は人の妻としてのみ價値がある。この状態はおのづから世の女たるものをして、早く夫の定まることを希望せしめる。特に中流以上の家に於いては、處女には家庭の日常生活に必要な技能か幾らかの藝ごとかを學ぶ外にはさしたるしごとがなく、多く家の内に閉居して比較的閑散な日月を送り、心のはたらかせどころが無いので、それが彼等をして早熟たらしめ、ます/\この欲求を強める。「今時の娘さかしくなりて仲人を悶かしく、身拵へ取り急ぎ、駕籠待ちかね、尻輕に乘り移りて、悦喜鼻の先に露はなり、」(一代女卷一)と「縁づきのかどで」を敍したのは、かういふ一面を滑稽的に誇張したものであつて、それは必しも「四十年」以來の時勢が娘を「さかしく」したためばかりではあるまい。だから戀についてもこの傾向はあるので、劇曲などに現はれてゐる武士の戀愛譚に於いて、鑓の權三のお雪の如き世話ものの人物はいふに及ばず、時代物に於いても殆どみな女が主動者であるのは、やはりそこに事實の(403)反映があらう。「男の子ごに女の勝つはたゞ二つ、やゝ産むことと戀草の……」(曾我虎が磨)と、女も戀には男にまさることを自任してゐる。室町時代には男が女を戀うてさま/”\にうき身をやつす物語が多いので、それには古典文學や外國文學の影響もあらうと思はれるが、この時代のものには殆どそれが無く、用明天皇職人鑑でも源氏十二段長生島臺でも、昔の山路の笛や十二段草子とは違つて、むしろ女から挑むやうにせられてゐるではないか。室町時代の文學にも一方にいては既にこの傾向が生じてゐたので、それはやはり武士の世の特色であらう(「武士文學の時代」第二篇第五章參照)。昔の平安朝貴族の女は我が身のたよりなきを感じて終には男にすがらなくてはならぬことを知りながら、なほ容易になびかぬ態度を持して、雨にも風にも通ひ來る男に幾多の心づくしをさせたのであつた。妻どひの風習が男をして先づ女の心を得ることを要せしめたためである。女は初めから男の家に入らねばならず、許否の權が全く男の手にあるこの時代に於いては、求めるものは女であるからしかたがない。
 ところがこの戀には肉の匂ひが甚だ強い。戀とは人の妻たらんとする要求に外ならぬとすれば、それは初めから肉の接觸を意識してゐるのではなからうか。劇曲などに於いてはそれが極めて露骨にいひ現はされてゐる(例へば源氏十二段長生島臺の淨瑠璃姫の語)。已み難い義理のために戀しい許嫁の人の妻となることができないため、遊女となつてその男に逢はうとした、といふ奇怪な物語すら作られた(傾城島原蛙合戰)。これは極度の誇張であつて、事實としてはさすがに見られなかつたことであらうが、當時の人が何を戀といつたかはこれによつても覗ひ知られる。平民文學たる草子や劇曲には、商家などの状態によつて構想したものが多からうから、武家に育つたものに於いては必しもそれと同じではなからうし、また低級の讀者や聽衆に媚びるため、故らにいかがはしい文字をつらねたものが多(404)いから、それによつて一般の状態を推測するわけにはゆかぬが、かういふものに性的欲求を離れた戀愛の多く見られないことは注意を要する。これは後にいふやうに一體に現實主義の世の中である故もあるが、また前に述べた如く家族的交渉、即ち夫妻としての關係の外に、両性の正當な接觸が認められないからでもある。
 戀に肉の匂ひが強いとすれば、それが官能的であることは自然の勢である。たそがれ時におん手をとりて白がねの毛貫きに人さし指のとげぬきてまゐらせたるが戀の始めといふ(五人女卷四)などは、その景とその趣とその器具と、少女の指の美しい皮下を流れる脈管の搏動の繊細な感じとが、よく諧和してゐる頗る微妙な描寫であつて、西鶴の手腕の凡ならざるを示すものであるが、これも一つは戀愛そのものを官能的に見てゐたからである。灸をせよとのことに、その時「肌をさすりそめて、いつとなくいとしやとばかり思ひこみ、」(五人女卷三〕といふと、よほど卑しくなつて來るが、その心理は同じである。觸覺が官能として最も刺戟的であり、また性的衝動に最も密接なものであることは、いふまでもなからう。劇曲などにも往々粗雜な筆で露骨にそれを描いてある。さうしてそれが直ちに肉の説觸に向つて突進してゆくところに、當時の戀愛の特色がある。
 もとより當時の戀にも初めから遊戯性を帶びてゐる一時的のものもあつて、必しも夫妻としての結合を期するばかりではなく、比較的に社會的制裁の嚴重でない平民の間には、この點に於いて頗る放縱な傾きがあつたが、それはそれだけに性的衝動の避け難きこととして考へられてゐた。相思の二人が兄妹であつたと知れて畜生の猫を羨むといふ物語(津國女夫池、水木辰之助の猫の所作)には、なほ夫妻といふ觀念が絡まつてゐるが、「喰ひたいとき喰はせねば、……いたづらするとて無理とはいはれず、」(心中大鑑卷三)といふやうになると、全く本能的欲求の一時的發現(405)となつてゐる。この考が一歩を進めると、何人もまた如何なる場合にも、この衝動は抑へ難いものとせられる。西鶴の一代男や一代女の類は、畢竟それがために書かれたものであり、「随分世は捨て候へども、離れがたきものは色慾にきまり申候、」(丈反古卷五)といひ、「死なざ止むまい」(投節の文句)といふのが、その骨髓である。一代男(卷四)に獄中の戀の寫されてゐるなどは、この點に於いて甚だ興味がある。或はまた江戸詰めの武士の留守をする妻女の寂しい生活から起る姦通沙汰の劇曲化せられたことにも、意味がある(鑓の權三)。「世の中に化けものと後家立てすます女なし」(五人女卷五)といふのも、主としてかういふ眼から見たものらしく、同じ意味でしば/\寡婦の成りゆきが描かれてゐる(一代男卷二など)。「女ほど淺ましく心の變るものは無し」(一代女卷一)といひ、「一切の女移り氣なるものにして」(五人女卷二)といひ、また芝居入り樂屋歸りの役者を見ようとして千日寺のあたりに立ち噪ぐ※[女+息]子内儀どもの「まゝならねばこそ、いたづらに心はなしぬ、」(男色大鑑卷八)といはれてゐるのも、一つはこれがためであらう。男の放逸の許されてゐるに對して、女のみは「親の授けし男一人を一生守」らねばならぬといふ「片手打ちなる掟」には從ひ難いから、嫁入はせぬ、といふ女の主張(咲分五人※[女+息]卷ニ)も、やはり同樣である。神仙郷が温柔窟とせられ龍宮が歡樂の都として知られたのは、古くからのことであるが、諸國ばなし(卷三、四)の仙人と龍の都とはあまりに肉の匂ひが強いではないか。
 が、かう考へると、一面には本能の滿足を快樂と觀じながら、他面にはまた淺ましくも眺めねばならぬ。一代女の如きはその淺ましい方面を極度に描き出し、「色々の情あつて忘れ難」きこと「嬉しきこと」の憶ひ出も無いではないものの、「戀の莟より色知る山吹の瀬々に氣を濁して思ふまゝ身を持ち崩し」、我が性慾の飽滿を求めた青春の時に(406)始まつて、「惜しからぬ命さへ捨て難くつら」く、「食はで死ぬ悲しさよりは」と、老の身を他人の性慾のはかなきあひてとする終りまで、さま/”\に世を經て來た女が、その最後には「人ばかり年を重ねて何の快樂なかりき、殊さら我が身の上、さりとては昔を思ふに恥かし、」といはせてゐるではないか。しかし歡樂と見るも淺ましと思ふも一事の兩面で、それが世の姿であるとすれば、「ところ/”\にそれ/\の戀」(一代男卷三)のあるのが、局外から見れば可笑しく、幾度か人にあひ人に別れ、「それから婆になりてすたりぬ」(同卷四)、といふ女の一生涯が、滑稽にも眺められるので、これらの語氣でも知られる如く、西鶴の態度が即ちそれである。これには後にいふやうな人間觀との關係もあるが、やはり戀を一時的の性慾と見るものでもあつて、その素朴でないところ遊戯的態度のあるところに、都會人たり元禄人たる特質がある。
 こゝまで考へて來ると、勢ひ遊女のことを考へねばならぬ。性慾に於いて甚だ放縱であつた戰國武士が、遊里の發達に與つて力があつたことは、いふまでもなく、平和時代になつても嚴格な、むしろ殺風景な、武士の家庭、情趣に乏しい婦女の状態は、往々彼等を驅つてこゝに足を向けさせ、お國ものの江戸ずまひなども、また彼等をして遊女に親しませる機縁となつた(松崎堯臣の窓のすさみ參照)。女*を輕んずる風尚が却つてかういふ結果を來たしたのである。もつとも遊里は單にこの點からばかり見らるべきものではない。それには幾多の階級があるが、重だつた場所についていへば、社交機關もなく遊樂の場所もたい當時の社會では、そこが或は交際術の修練場ともなり、天下晴れての遊樂地としても認められてゐたので(昔々物語、我衣、身持談義、など〕、そこには歡樂郷としてのあらゆる設備が整へられ、從つてその中心になつてゐた上流の遊女は、いはゞ交際場裡の女王であり、當時の女性美の理想としても見(407)られたのであるから、その養成法も傾城禁短氣に説いてあるやうな細心な注意を以てせられたのである。遊里が富人の豪華を競ふ場所となるのもこの故であり、遊女にも一種の權威がついて「金出しながら拜まするは恐らく世界に傾城ばかり」(傾城反魂香)といはれるやうになり、それがます/\人の心をひく縁ともなる。武士にもし女といふものを重んじその歡心を求める場合があるとすれば、それはこの遊女に對する時のみのことであらうか。だから一面には「人間遊山のうはもり色里にますことなし」(ニ代男卷一)といつて「浮世の歎樂をこゝに極め」(御前義經記卷二)ると共に、一面にはその間に處するに特殊の修養と技術とを要するものとせられてゐた。色道とか色道修行色道傳授とかいふ語の作られたのも、これがためであつて、箕山の色道大鑑を見るものは、如何にそれがむつかしく考へられてゐたかを知ることができよう。しかし色さま/”\の美しき衣裳で包まれてゐるそのなかみは、依然として性的欲求であることはいふまでもなく、下級の遊女に對する場合にはなほさらのことである。
 だから、あらゆる方法を以てその欲求を刺戟し、底なき淵のいや深く人を引入れないではおかぬ、この歡樂郷の誘惑は、世の幾多の子弟をして身を滅ぼし財を失はせるやうにもなる。「あるほどの伊達しつくし」た果ての紙衣姿が世に珍らしくはないものの、「よね狂ひせぬとて身上のつぶれるものはつぶれるぞかし」(禁短氣卷四)、「きのふの富貴けふ丹波越え」(幽山江戸百韻)の句によつて示される「轉變の世の中」も、却つてすてばち的氣分を促すたよりとなり、更に一歩進んでは「死なぬ身か、あらばつかへ、」(一代男卷七)と豪遊するものも多かつた。だから一方では、この歡樂郷の歡樂を領略しつゝその危難に陷らぬ用意を説くものがあつたので、いはゆる「粹」の一半の意味は即ちそれである。「この道ばかりは銀使はずに粹にはなれず」(當世乙女織卷七)、「傾城狂ひのしまつ……ほど世にい(408)やなものは無し」(一代男卷五〕、とはいふものの、撒くだけは惜し氣なく撒いて「名を色里にばつと殘し、しやんと早く使ひやみ、」(色三味線京の卷)、「よく心得て深入りせぬが粹」(同江戸の卷)であるとせられてゐる。もつと強くいへば「まことの粹はこの里へ來ぬもの」(乙女織卷二)たのである。
 しかし求むるものが歡樂であるならば、金はもはや問題ではない。「夢のまの浮世、死んではいらぬ、お情あらば命あるうちに、」(吉原小唄惣まくり)。また「あすはえんぶの塵ともなれ、わざくれ、浮世はゆめよ、白骨いつかは榮耀をなしたる、これこそ命なれ、その盃これへさゝんせよ、」(浮世物語)。戰國以來の浮世主義的歡樂思想は、今なほこの里に行はれてゐる。「ゆめのこの身とわざくるゝ」(京四條お國歌舞伎)ものは、その身をも命をもこゝに捨てかねはせぬ。だからそれに對しては、遊里がよひそのことを「氣ばらし」(心中大鑑卷一)とし、遊女は「何のことも無う買うて遊ぶべ」きものと教へられたので(一代男卷一)、こゝに乎和の時代のおちついた思慮があり、遊戯的氣分がある。が、すでに遊戯であるとすれば、輕い心もちを以てそれに對するを要し、執拗な態度で濃厚な情味を求めるものは、いはゆる野暮として嘲られるので、「粹」の眞の意味はむしろこゝにあるといつてもよい。だから一代女(卷一)の「今の世のよねのすきぬる風俗は」とある一節に見えるやうな遊びかたが粹であつて、それには、恰も徒然草の「花は盛に」の段に見える「よき人」の風情と似かよつた、わざとらしい一種の修養と、餘裕があつて物に執着しない態度とがある。兼好が粹法師とせられるのはこの點から見ても偶然ではない。「総じて出すぎたることに善きものはなし、……大盡もうちはなるこそ奥ゆかし、」(二代男卷五)といふ「ほど」の尚ばれたのも、同じ意味である。もつとも粹といふ語が上方から始まつただけに(異本洞房語園)、これらの態度にも上方的の分別くさい、も(409)しくは故らに上品ぶつた、ところがあるので、一歩を轉ずれば、それが笑ふべき「半粹」となるのみならず、さういふ遊戯的態度の裏面には、却つて何等の情味をも伴はない性的欲求が横はつてゐる。浮世草子のいはゆる「色」が主としてこの方面のであることはいふまでもない。
 しかしこれは遊客の例のことである。遊女自身に於いては、「あだしあだ波、よせてはかへる波、」に「あさづま舟のあさまし」きを、幾らかでも心あるものは恥ぢないではゐられず、「あゝまたの日は、たれに契りをかはして色を、……枕はづかし、いつはりがちなるわがとこの山、」と歎かなくてはならないであらう。けれどもそれが與へられた運命であるとすれば、「よしそれとても世の中」(あさづま舟)とあきらめる外は無いのが、當時の状態であつた。
 けれども戀にはまた別の趣きがあつて、それは多く劇曲に寫されてゐる。性的欲求は單にそれのみで止まるものでないのが普通であつて、特殊の遊戯的態度を以て始終するものの外は、そこに人としての接觸が生じ、いはゆる戀となつて強烈な情熱が發し易い。さうなると「男も女も、戀といふもの、身をかばうてなるものか、」(娥歌かるた)といひ、「お侍の義にせまるも浮世の戀に身を碎くも、命かけるは同じこと、」(曾我會稽山)といひ、それがために世に立つことができずして身をすて命をすてるものもあつたのである。よしその戀が本能的衝動から起つたことだとしても、生命に固有な本能のために却つて生命を斷つに至るのが、人生の悲劇ではなからうか。火のやうに熾烈ではあるが甚だ單純なお七の如き戀もあり、思ひの外のことから「この上は」と決心した意地から出る戀(五人女卷二、三)もあつて、それらには何れも、事に當つては盲目的に突進する、または負けじ魂の如何なる方面にも向けられる、武(410)士的氣風も手つだひ、「夢まぼろしの春じやもの」(二代男卷五)といふ浮世主義的思想も加はつてゐるので、始めから終りまで身をかばつてゐる平安朝人の戀のなまぬるいのとは違ふ。「おもしろうて、あはれで、だてで、殊勝で、かはゆい戀、」(平家女護島)といふのも、この激しさがあるからである。主と親とは何ものにも優つて尊いけれども、その主にも親にも代へがたきが戀ではないか。幾多の人生の葛藤はこゝから生じてゐる。「親より子より我が身より、いとし殿御のいとほしや、」(五十年忌歌念佛)。お夏の如き物狂ひも戀ゆゑには起るのである。世の掟に背くが如きはいふまでもないことであつて、「不義はお家の御法度」とある世にも「親の許さぬ妹背の中、人目を忍ぶものなれど、互に女なし夫なし、聊か不義にはあらず、」(信州川中島合戰)といひ、下郎と契をむすんだ某の姫が「男なき女の一生に一人の男を不義とは申されまじ、……我れ少しも不義にはあらず、」(諸國ばなし卷四)と昂焉としていふのも、固より怪しむに足らぬ。
 だから「人をたらすは遊女の商賣」(天の網島)といはれてゐるその遊女にすらも「本戀」があり、いはゆる間夫がある。「いろ/\分別して見れども、こればかりは合點ゆかず、」(二代男卷四)と、一應はいぶかしくもあらうが、人の情を玩び我が情をも弄ぶに慣れて、情生活の甚しく荒廢してゐるこの種の女には、却つてそれがために人情の眞僞虚實が身にしみて思ひ知られることがあり、みづからも明かには意識せぬ誠の惰の何人かに鍾められることもあるのであらう。「誠の底を知るものは女郎にまさるものあらじ」(海音の難波椿心中)といはれるのも、この故である。さうなれば「流れの身のつらさ」が一層つよく感ぜられ、「しんぞつらいは勤めのこの身」(松の葉長歌川竹)と、我が身をはかなみ、「かはゆがらんせ流れの身」(同上)と、男にひしとすがらねばならぬ。「勤めものうき一筋ならば、(411)とくも消えなん露の身の、日かげ忍ぶのよる/\人に、あふをつとめの命かな、」(同上加賀ぶし).遊里に行はれた三絃曲のやるせない悲哀の情調はおほくこゝから生ずるのである。「傾城の小唄は悲し九月盡」(其角〕。放縱な歡樂郷の裡に肺腑をしぼつて出だすが如きこの嗚咽の聲があり、陽氣な騷ぎ歌の間からこの繊細な短音階的旋律の聞えて來るのが遊里であつて、青春多感の子弟を救ひ難き耽溺の淵に投ずる所以は實にこゝにある。のみならず、人を待ち人に待たれ、逢ふ夜は恨み逢はぬ夜はわぴ、曉の別れにも人目を忍ぶ音づれにも、しづこゝろなき物思ひの絶えぬのが、かゝる交らひの常だとすれば、「あだしあだ波のよるべに迷ひ、しぐれ朝がへりのまばゆきをいとは」ぬところに、いはゆる良家の子女の戀には經驗することのできない特殊の氣分があり、あしたゆふべの通ひ路の、月につけ雪につけ、花鳥の色にも音にも、遠き昔の平安朝人の戀をそゝり、それをして無限の詩趣あらしめた四時をり/\の風光が、悉く眼前に再現せられて、我を古人かと思はしめる情味がある。當時の三絃曲の詞章に、古歌を引用し縒り合せたものの多いのは、單に古典文學の崇拜から來たばかりではなく、こゝにその一大因由があらう。遊女が男を征服するために種々の政略を用ゐることにも、また平安朝の女の態度と共通の分子があるではないか。たゞ遊女の生活から來るこの政略に對しては、その虚實眞僞の明かならずまた定めなきところに、特に人の興味を惹く契機があつて、反對に彼等を征服しようといふ、幾分の遊戯約分子も混らぬではない、男の欲望を刺衝するのである。遊女自身に於いても「かけし誓ひも嘘となる」時があり、「始めの嘘もみな誠」となる場合もあり、畢竟は「うそも誠も本一つ、……縁のあるのが誠ぞや、」(冥途の飛脚)といはねばならず、多くは「請け出すといふつはものに誠も嘘も流れゆく」(難波橋心中〕のである。だから「嘘のかたまり誠の情け、この眞中にかきくれて、降る白雪の人心、積る思ひ(412)と冷たいと、わきていはれぬ世の中、」(松の葉白雪)に、通ふもの通はれるものの眞趣がある。
 けれども當時の戀は單純な情ばかりではなく、何ごとにも義理と意地とがつきまとつてゐる時代の特色として、戀にもまたそれが伴つてゐる。女に對する約束をすてては「一分立たず」(心中大鑑卷五)といふ。一分はもとより義理である。「思ひつめたる男なら、添ひとほさではわけ立たず、」(用明天皇職人鑑)、「一度は狩野の元信の内儀といはれう/\と、四年が間の氣の張り弓、」(傾城反魂香)、これらはいふまでもなく意地であつて、「姫ごぜの一分立てぬいて、世間廣う添うて見しよ、」(※[木+色]狩劍本地)の「一分」は、負けじ魂の強烈なる發現である。遊女に至つては勿論のこと、必しも「縁のあるのが誠」なばかりではない。「義理づよいは傾城の習ひ」(曾我會稽山)といはれ、「義理の情け」といふ語さへ作られてゐるではないか(御前義經記卷六)。間夫に對する情とても、また意地を立てるにほかならぬのである(一代男卷六など〕。これは金銀のために束縛せられてゐる彼等特殊の生活に於いて、その束縛をふりきつて情の自由を得ようとする反抗心が、自然にそれを緊張させたので、その壓迫の極めて強いだけに、そこから生ずる負けじ魂もまた猛烈になるのであるが、意地を重んずる一般の氣風によつて誘はれたものではある。かういふ世界に於いて張合ひとかつめびらきとかのむつかしいのは、恐らくは我が江戸時代に限られてゐるのであらう。だから日本莊子や乙女織などの傾城地女優劣論に於いて遊女に扇を揚げるのも、主としてこの點に於いてするので、一般に傾城の意氣は武士の義理にも劣らずとせられたのである(乙女織卷三)。さうしてそれがます/\この里の興味を饒かにする所以であつて、「総じて女郎ほど義理を表にして情けを心底に含み、これほど面白きものは無」し、といはれてゐる(置土産卷三)。近松の世詰ものに於いて遊女が概ねしつかりしてゐて、男がその反對に多く懦弱で(413)あるのは、一つは脚色上の理由もあり、特に男の柔弱なのは遊冶郎としての本色でもあらうが、遊女のこの點を力強く寫したものとも見られる。「とかく浮世は氣まゝがよいぞいの」(松の葉小笹)といふ放縱な氣象が遊女にあるのも、またこの氣風の一面を示すものであらう。
 武士の氣風が遊女に影響を與へたことは、種々の方面に於いて認められる。それは一般的には何となき武士風の感化であらうが、特殊のことがらについては男色の媒介によるところがあつたらしい。念友の意氣を示すために股を突いたり指を切つたりするのは、しば/\行はれたことであつて(男色大鑑卷二、武道傳來記卷一、など)、それは血を以て誓ひとする殺伐な武士的風習の一つの現はれである。起請誓紙の類もまた同樣で、武士の風習が男色の契りに應用せられたものである。だから色を賣る舞臺子などの間にもこれらのことは傳はつてゐる(棠大門屋敷卷ニ)。遊女の爪をはがし指を切り誓紙を書くのは、こゝに由來があるので、後にはそれがいはゆる手管の具に供せられて、滑稽的に觀察せられるやうにもなつたけれども(一代男卷四、二代男卷一、二)、その始めはまじめなことであつたらう。かの心中(情死)のごときも、その主なる動機はやはり同じ武士的の意地であつて、これも男色のために行はれた殉死の一轉したものらしい。「男死なせて見てゐられうか」と女がいへば、「女房先き立て長らへあらば、そりや犬猫も同じこと、」と男がいふ(二枚繪双紙)。二人の間の關係が惹き起した何かの問題に當つて、一人が死なねばならぬとき、他の一人のそれに殉するのが心中である。これは念友の間に例の少なくないことであつて、それは必しも同時に死するには限らないが、藻屑物語にも作られ男色大鑑(卷三)にも取られた右京采女のやうに、同時に命をすてることもある。さうしてそれが多くは他に競爭者のある場合に起るのも、また男女の情死と共通な事情ではないか。た(414)だ男色から起る葛藤は直ちに殺伐な爭闘となつたので、同じく死を共にするにしても、戀がたきと戰つて斬り死をするといふやうな風のが多かつたから、情死はこの點に於いて趣を異にしてゐる。但し「死んで見せうか、死にかねはしませぬ、」(今宮心中)といひ、「私は見ごと死にまする」(刃は氷の朔日)といふのは、かゝる心中の決意も武士的の意氣によることを示すものであつて、死にざまについても、世間から「さすがじや、見ごとに死んだ、」(宵庚申)と讃美せられ、「いさぎよき手本」(心中大鑑卷二)と賞められるのを尚んだので、こゝにも死を立派にするを喜ぶ武士風の名殘がある。現に「町人なれど古の武道の燈かゝげたる末世に名こそ照らしける」(海音の二つ腹帶)と、武士出身の八百屋の死にざまが特に際だつて人の目にも映じてゐる。「とてものことに死ぬるなら、思ふさま人にも知られて、草紙になりたや、」(心中大鑑卷三)といふのも、武士の名聞心とさしたる差異は無い。しかし情死者は殆どみな平民階級のものであるのに、その間にかういふ武士風の學ばれたことは、両性の關係が人を駈つて死の淵に臨ましめるほどに、強大な勢力を有つてゐるからである。
 情死する女は多く遊女、特にその下級のものであつて、かゝる風習の起源も遊里から開かれたらしく、從つてその主たる動機は男が金につまつて、或は世に立ち難く、或は契りを全うすることができぬといふ點にあるので、「義理にあらず情けにあらず、みな不自由より」起つたこととせられ(二代男卷八)、「山吹色に憎まれて、せうことなしの死物狂ひ、」(元禄曾我卷三)と嘲られ、心中大鑑からも冷笑的態度で取扱はれてゐるのは、この故である。それを美しく詩化した近松ですら、多くの曲の結末に於いて往々同じやうな語氣をもらしてゐる。これは固より一面の事實であり、また笑ふより外にしかたの無い情死もあるが、金につまるのは遊女といふものをあひてにする以上、免れ難き(415)ことであるから、單にこの一事を以て總ての情死者を嘲るのは當を得たものではない。西鶴の如く遊戯的に世間を視るものにとつては、みづから死するが如き窮地に陷るのは愚の極であるが、事實として身を惜しまぬ戀が世にある以上、これもまた已むを得ないことである。のみならず、情死は必しも金の不自由によるものばかりではなく、男が他の女を妻としなければならず、女が思はぬ客に身うけせられる、といふ場合も多く、それは抗敵し難き世の義理と遊女の生活に固有の羈絆とであるから、それと戰つて勝つことができぬ以上、死してこの苦境を脱せんとするものに對しては、少くともその情を憐まねばならぬ。遊女ならぬ場合にも、女が別に婚嫁しなければならぬといふやうな、これに類似した事情から起ることがある(心中大鑑卷三參照)。今日から考へると、これは命をすてるにはあまりに薄弱な原因であつて、結婚の強制に服從せずとも人としての罪過とは認められないが、當時に於いては、それが守らねばならぬ義理として絶對の権威を有つてゐたから、死を以てする外にこの壓迫を免れることができなかつたのである。
 近松が心中を戯曲化したのは主としてこの點にあるので、その主人公は何れも義理の重荷に堪へずして死に就いてゐる。強制結婚についていへば萬年草がその例であり、生玉心中ではそれがやゝ複雑になつてゐて、心ならぬ結婚を強ひられると共に、一面には目前の窮境を脱すべく金銀を與へられたので、前者の威力は後者によつて一層の重きを加へ、終にそれに壓倒せられて死んだのである。結婚ではないが、卯月の紅葉や宵庚申の情死も、今の世のこととすれば殆ど理由の無いものであるが、當時に於いては死なねばならぬほどの義理の威壓が、そこにあつたと見なければならぬ。さうしてそれは人の全生活が家と離るべからざるものになつてゐる家族制度のためである。家の問題には關係がなくとも、今宮心中や海音の難波橋心中などに於いて、我が過ちのために、或はおのれを愛してくれる主人の母(416)に對して義理を全うすることができず、或はおのれを信じてゐる女の父に對して義理を破らねばならぬ場合となり、生きてはゐられぬと決意するのも、やはり同樣である。これらの曲に材料を提供した事實は、或は主人持ちの身とて思ふやうにならぬための、或は金に窮しての、極めて平凡な情死であつたらう。或はまた女に於いては、、遊女の生活から來る肉體的缺陷とそれに伴つて生ずる特殊の心理とがはたらいてもゐようし、遊女生活の苦痛もそれを助けたでもあらう。が、それが詩人の手によつてかう脚色せられたのは、如何なる場合に人は情死を敢てするか、といふことについての當時の思想がこゝにあつたからであり、前に述べた如く事實またさういふ情死もあつたのである。だから一口にいふと、かういふ動機からの情死は義理といふ世間的道徳の犠牲として行はれたのである。
 先づ死を決するものが義理の前に敗亡したためであると共に、それと死を同じくしようとするものの決意も、また情よりは義理のために生ずる。「のがれぬ義理にからまつて死ぬ」のが小かんであり(刃は氷の朔日)、「引くに引かれぬ義理にふといひかはし」たといふのが小はるである(天の網島〕。「お前を殘し浮か/\と生き殘りてあるならば、人が譽めようか笑はうか、」(難波橋心中)といふ心事から死を共にするのが、義理であることはいふまでもない。兩性の關係に於いては情と義理との明かに區別のできない場合も多からうし、また「心中」の語が本來至情ともいふべき意義に用ゐられてゐたことは、多くの草子などにも見えてゐる明かな事實であり、心中死もその起源は情の死であつたに違ひないが、それが多く世に行はれるやうになると、恰も主人のため念友のための殉死が義理として觀ぜられると同じく、情死にもまたこの意味が加はつたのである。戀愛そのものに義理や意地の分子があるとすれば、これは當然の成りゆきであらう。だからこれは古事記の允恭天皇の卷に見える昔の情死、或は「ことしあらば小はつせ山の(417)石城にもこもらば共にな思ひわがせ」(萬葉卷一六)と詠まれたやうなのとは、遙かにその趣きが違つてゐる。義理に生き意地に死ぬのが元禄人であつて、情死はこの武士的氣象が世を風化した江戸時代特有の現象といはねばならぬ。男色といふやうな變態性慾の發現にすら、義理と義理の死とが伴つてゐた世の中の引きつゞきではないか。
 情死が既に義理の死であるならば、それが決して我を誇り我が戀の勝利を誇り死の勝利を誇るものでないことはいふまでもない。だから彼等は死に臨んで父母を思ひ妻を思ひ、「なさけなき身の果て」(曾根崎心中)をかこち、主人や親に對する許され難き「罪」を謝し、世間の非難をさへ憚り、せめてもの頼みとする「一蓮托生」のおぼつかなき望みも、これらの愧恥と漸悔と愚痴とを輕めるたよりとはならず、むせかへる涙の裡に辛くもその死を途げるのである。要するに彼等は實世間に於いても心生活に於いても、全く敗亡者に過ぎない。たゞそれには、特に多くの場合に從屬者である女には、幾分の「名」の勝利があるので、そこに武士の「義理の死」と相通ずるところがある。けれどもその間には、世間の義理に敗亡しつゝも、消極的に我が情のはかなき滿足をこれによつて得る心もちが潜んでゐるものもあり、世間の評列もその根柢には、人間の生存欲をすてるまでに強烈なる情の發現としての、戀の讃美が存在する。心中死を演ずる歌舞伎淨瑠璃が年若い男女の涙を誘ひ、ともすればそれに倣はんとする考を起させたのは、單に「死ぬるならほめらるるやうにしよう」(唐崎八景屏風)といふ意味ばかりではあるまい。「身は限あり、戀は盡きせず、」(五人女卷二)。果てなきものは戀だからである。
 だから戀するものには、恰も第十三章に述べた親の子に對する愛情と同じく、世に重しとせられる恥をも義理をも顧みる遑は無い。伊左衛門は人目しのぶ身を門づけとなつて相の山を歌ひながら扇屋の軒に立ち、病める夕霧を見て(418)「太夫また逢ひに來たわいの」といふ(夕霧阿波鳴門)。寥々たる一語、情の極であり痴の極であつて、やがてまた戀の極であることを示すものではなからうか。人生のこの事實を解するものは、他人の戀に對してもおのづからそれに處する途がある。「不義は御法度」であるが、情を知るものはそれを寛假しないではゐられぬ(娥歌がるた、丹波與作)。事實に於いても「お手討ちの夫婦なりしを」助けられた例は少なくなからう(窓のすさみ參照).「身の賤しきを思へば官女も語らひがたし、心の鈍きを思へば傾城もなほ交りがたし、もし妹脊をなさんには、この女子をなん、」(凡兆柴賣説)と、黒木賣の姿に興じた芭蕉は、「あまの子の波の枕に袖しをれて家を賣り身を失ふ」ものをすら、「老の身の行未を貪り、米錢の中に魂を苦めて物の情をわきまへざるには、遙かにまして罪ゆるしぬべし、」といつてゐるではないか(閉關説〕。「さま/”\に品かはりたる戀をして、浮世の果てはみな小町なり、」も、西鶴の「ところ/”\にそれ/\の戀ありて」といふ滑稽的な觀察とは違つて、一味の哀愁を帶びてゐる點に戀そのものをまじめに考へてゐる趣きが見える。蕉風の戀の句が一體に談林の如く肉感的でないのはこの故でもあらう。西鶴ですらも「懸の山いくのの道の諸わけ踏み出して見れば、嬉しさ可笑しさ阿房さ哀れさ悲しさ嘘さ、折ふしは誠さも稀に、」(三代男卷一)といつて、哀れさ悲しさ誠さを、そのまゝに可笑しくは眺めつゝも、戀に認めねばならなかつた。「戀しらぬ女の粽不形なり」(鬼貫)、人の情けも優しさもまた物の美しさも、戀によつて始めて知られる。正式の結婚は戀でないと喝破した支考の説(續五論)は、俳諧の世界に於いても戀の重んぜられたことを示すものである。
 
 以上元禄文學に見える戀愛觀を概觀したのであるが、著者はその終に臨み、例によつて當時の學者のこれに關する(419)所見を一瞥しておかうと思ふ。第一に儒者は言のこのことに及ぶを厭ふのが常であつて、素行は伊勢源氏を淫佚の書として斥け(語類一六、一九、武教小學)、闇齋は「世の人のたはぶれ往きて還る道知らずなりぬるは、源氏伊勢物語あればにや、」(大和小學序)といつてゐるし、鳩巣も同じやうに考へてゐる(駿臺雜話卷四)。荷田春滿が戀歌を詠まなかつたといふのも、やはり儒教の影響であらう。古典や擬古文學に對してすらさうであるから、歌舞伎淨瑠璃草紙小唄の類を誨淫の具として排斥することは、いふまでもない。外部から加へる教といふものによつて人生を支配することができると思つてゐる儒者が、かう見るのに無理もないが、この思想の根柢には戀愛そのことの否定がある。鳩巣は昔の重衡の囚人となつて千手と款語しまた死に臨んで妾と相見たといふ話を論じて、丈夫の行にあらずといつたが(駿臺雜話)、これは後に津阪東陽が太閤記の著者が瀬川采女の物語を取つたことを難じてゐるのと同じ考である(夜航詩話)。かういふ思想は、江戸時代に至つて特に甚しくなつた武士風の矯飾とおのづから相應ずるものではあるものの、儒者の見解がやはりそこにあつたのである。
 さてこれは曾て述べたことがあるやうに、儒者が兩性の關係を單に肉の接觸とのみ見なし、從つてそれを慾とのみ考へ、家族組織によつて兩性を結合し禮によつてその慾を節するのが人の道であるとし、性的欲求に本づきながらそれを超越しそれを純化した戀愛のその間から生ずることを、認めなかつたからである。堀川や※[草がんむり/(言+爰)]園の古學派に於いては、理論上この性的欲求を人生の自然であるとする點に於いて、他の學派と趣きを異にしたところがあるが、實踐道徳の教としては大差の無いものである。彼等は人生の已み難き慾として輕くそれを取扱ひ、さうして外部からそれを抑制することをのみ数へたので、人生の根本に存する嚴肅なる事實としてそれを尊重し、尊重することによつてそれ(420)を精錬し淨化させることを知らなかつた。彼等はそれを賤んでゐるが、實はその賤しとするところより外を視る眠が無かつたのである。彼等が兩性の關係をいふに當つて直ちに淫といひ慾といふのはこの故であり、夫婦の倫常を説くに故らに有別を以てするのも、またこれがためである。戀を性的欲求に始終するものとする西鶴などの思想は、この點に於いて儒者と同程度にあるものであるが、一般にはそれから出立して義理と情けとの世界に入るものと考へられてゐたのに、儒者はそれに追從することができなかつた。たゞ徂徠は記義奴市兵衛事のうちに農夫などの至樂は全くこゝにあるといつてゐるが、これは憫むよりはむしろ是認してゐる。
 神道家の説はこのことについてもまた儒者とは違ふ。山崎神道を繼承したものですら、情を抒ぶべき和歌は戀歌に於いて最も感があり、好色を惡むは後世のことだ、といつてゐる(正親町公通卿口訣、玉籤集)。一般に戀を尚び戀を寫した「伊勢源氏」を尊重することはいふまでもない。増穗殘口が戀愛本位の結婚を主張し、太閤記の瀬川采女の一條を美譚といひ、戀愛は人を恐れず世を憚からざるほどの強烈なところに眞情があるとし、情死をも讃美してゐるのは、儒者の見とは正反對である(艶道通鑑)。この點に於いては神道家の見解は、當時のいはゆる和學者よりはむしろ後の宣長などの考に近い戀愛至上説である。これは或は二神の生殖に始まつてゐる神典を所依とするものの説としては、怪しむに足らぬことかも知らぬ。現に天の浮橋の神話を解釋するに當つて、後の篤胤と同じやうな説明を加へてゐるものすらある(正親町公通卿口訣、玉籤集)。神道者のいふ戀もやはり性慾的のものであるから、おのづからかう考へられるのである。これもまた後の國學者と同樣である。或はまたかういふ考には、我が國の上代の風俗を重んずる故もあり、儒者の教化主義に反抗して起つた神道として、一種の自然主義めいた傾向を帶びてゐる故もあらう。(421)なほ神道者は自然の情に重きを置くだけに、この時代の思想の特色である義理とか意地とかいふ觀念には全く觸れてゐないが、それは書物あひての議論だからでもある。
 
 こゝにこ一言附記したいことは、性的欲求と共に人生の根本た有する自己の生存欲である。「蘆垣に秋を過ぎたる朝顔の末葉も枯れ/\になりける蔓を捜し、七十餘りの婆の、その實を一つ/\取りてまた來年の眺めを慕ひける。されば人間は露の命ともいふにこの老人はと、顔がながめられ」る、とはいふものの(置土産卷二)、「とが決りて首はねらるゝものも、その日の朝飯箸持ちて食ふは、人の命ほど惜しきものはな」いからではないか(同上)。「一日も浮世ながら住めるが徳」で「長生の樂み」がそこにあることは、いふまでもない(男色大鑑卷八、四)。ところが、生きてゐるためには食はねばならぬ。「生あれば食あり、世に住むからは何事も案じたるが損たり、」(永代蔵卷四)とはいふけれども、その食は必しも得易くはない。是に於いてか食ふことが世に住むについての根本問題となるので、人の世の事業も功名も紛爭も葛藤も「つまるところは食はねばひだるい」(織留卷一)から起るのだといはれてゐる。「何もいらぬ浮世とは思へども、一日食はねば饑し、」(二十不孝卷一)。一切の欲望を抛擲し去つても、これだけは取り去ることができぬ、といふのである。祖先傳來の知行俸禄に衣食する武士はこの點に顧慮を要しないが、それでも場合によつては浪人しなければならず、浪人すれば忽ちこの問題に逢著する。「武士は食はねど高楊枝」の誇りの裏面には、袖乞ひをしたり娘を賣つてしがない暮らしを立てたりする、皮肉な事實が存在するではないか。平民に於いてはもとよりである。
(422) 是に於いてか「身すぎ」の問題が起る。一擲千金の豪奢を極めた大盡も、零落しては「世渡りとて」つれぶしの讀賣にも棒振賣にもならねばならぬ(二代男卷二、置土産卷二)。が、食はずにはゐられないからの身すぎであるとすれば、それに苦痛の伴ふことはいふまでもなく、「世に身すぎほど悲しきものは無し」(二代男卷一、男色大鑑卷七)と賤しき業務をかこち、「死なれぬ命のつれなくて」淺ましき行ひをしなければならぬものもある。しかしかういふ身すぎには往々闇黒面があるので、織留(卷五)の「只は見せぬ佛の箱」の章末などにその好標本があり、永代藏や胸算用などにも世渡りの苦しい内幕がさま/”\に描かれてゐる。特に女子には「悲しき世渡り」(一代女卷一)が甚だ多く、上にも述べた如く一代女のその一代に閲し盡したところが悉くそれである。「僞も輕薄も惡心もみな貧より起り申候」(丈反古卷五)といひ、「身のかなしきときは盗人もせまじきものにあらず」(同上卷四)といふのが、むしろ世の中の實相と見なければならぬ。惡心も起さず盗みもしないものは、「つらきは浮世、あはれや我が身、惜まじ命、露に代らん、」(一代女卷一)と、清水の西門に歌うたふ袖乞ひの、まことは惜しまるゝ命を人のなさけの露に生きようとするより外に途は無い。歌と歌ふものとの矛盾が皮肉でもあり哀れでもあるが、「貧にては死なれぬものぞかし」(胸算用卷一)、そこに生きてゐるために生きてゐなければならぬ人生の悲哀と痛苦とがあるではないか。
 生きてゐるのは生きることの最低限度であるが、人は少しでもその上に頭を出したい。是に於いてか「慾」が生ずる。妻子に死に別れても「泪のうちにはや慾といふもの」が顔を出し(五人女卷五)、夫の死にぎはに「看病おろかに致さぬは、跡しきの望みゆゑ」であるといふ(織留卷四)。「金ほど自由なるものは無し」(二十不孝卷一)といふのも、「人の情は一分小判あるうちなり」(五人女卷一)といふのも、一事の兩面で、畢竟は「人間は慾に手足のつい(423)たるもの」だからである(二代男卷三)。その欲もつまりは食ふためであるから、性的欲求が人間として抑へ難いものとせられると同樣に、如何なる場合にも慾は離れられないものとせられたのである。が、かうなると性的欲求と同樣、これもまた滑稽視せられねばならぬので、「萬ほしがり帳」(三代男卷五)の冷語を浴びせられ、悲しき世わたりも「それ/\の身すぎと」可笑しがられる(男色大鑑卷八)。しかしこれは固より一面觀であつて、性欲が戀愛として純化せられるが如く、生存欲もまた人生のあらゆる事業となつて展開し、それにつれてこの欲求そのものも精練せられ、さうしてそこから「慾」の放縱なる發動が制限せられる。第十三章乃至第十五章に述べた武士と平民との思想は、主として、それが如何なる形をとつてこの時代た現はれたかを觀察したものである。
 
(424)     第十八章 人生観及び處世觀
 
 著者は前數章に於いて、この時代の社會組織と生活状態とから生じた道義上の特殊の傾向を説き、またかゝる世の中に於いて、人生固有の欲求が如何なる形をとつて現はれてゐたかを、觀察しようと試みた。この章に於いては更に一歩を進めて、當時の人が一般的に世の中と人生とを如何に觀てゐたかを、考へてみようと思ふ。
 この時代の社會が人爲的の親範によつて厳格に組織だてられ、さうしてそれが個人の上に重い壓力を加へてゐること、けれどもそれに壓倒せられてしまはない個人、特に比較的自由な境遇にゐる平民は、その緻密な社會組織の何處かに間隙を求めて、鬱屈した力をそこから送り出させてゐること、從つてその力の發現が不自然な形をとつてゐること、武士本位の制度と平民の活動と、義理と人情と、外形と實質と、表面と裏面との、矛盾や齟齬がすべてこゝから起つて來ること、これらは既に上文に於いて反覆考説したところであるが、社會觀人生觀にもまたこゝから生ずる特殊の色調とその混亂とがある。概括していふと、社會の統制を重んずる傍にはそれを輕んずる思想があり、人生を因果應報の理法に支配せられてゐるやうに考へると共にかつて次第のものとも觀、世の掟に服從しつゝ、或は放縱な享樂主義の徒となり、或は隱遁生活を求め、人生の責務をまじめに考へると共にそれを滑稽視し、それらの種々の思想が互に錯綜混淆してゐるのが、當時の状態であつた。
 封建制度といひ階級制度といひ家族制度といひ、人爲的社會組織が固定してゐて個人の自由な活動が許されないこの時代に於いては、個人の能力は輕んぜられ、從つて個性が尊重せられない。むしろ個性といふものが發達しなかつ(425)たのである。本來これらの制度は、個人がその力を自由に揮はうとしたために起つた戰國の紛亂を鎭靜するはたらきをしたものであるから、その精神が個人をして社會の秩序に順應した生活をさせるにあることは勿論であり、一歩進んでは、社會の秩序を維持してゆくことの外には個人の生活が無い、とせられるやうになる。だから個人がその能力を養ひ或はその内生活を深くし豐かにするといふやうなことは、初めから問題とはせられないのである。上にも述べた如く文學の上に個人が寫されずして世相が描かれ、個人の性情よりも義理とか人情とかいふ普遍的の觀念、個人の運命よりも善人榮え惡人滅ぶといふやうな道徳上の一般的法則、が注意の焦點となつてゐるのもこの故であつて、社會の前に個人の價値が無いから、社會全體の秩序が維持せられてゐれば、個人の幸不幸の如きは固より論ずるに足らぬものであり、人に對しても直接に社會と交渉を有する行爲の外面のみを見て、その行爲の内面に於ける心理を察せず、またそれを一貫せる人格の發現として考へず、善惡正邪といふやうな概念で容易に批列を下すのである。劇曲に於いて生きた人間の認められないこと、その結構が圓滿に局を結んでゐるもののみであつて、悲壮劇の一つも無いことも、こゝに一理由がある。心中ものとても、個人の死には終るが、社會と戰ひ運命と戰つてそれがために自己の破滅に終る悲壯劇ではなく、初めから社會の前に屈伏して死の國に身を逃れるのであるから、思想の上に於いては何處までも社會の權威が確立せられてゐるのである。
 もつとも一方からいふと、かういふ風にして社會の秩序が外部的に維持せられたのは、個性が發達してゐなかつたことがその一理由であつたかも知れぬ。當時の道徳的規範の根本をなす「義理」といふ觀念も、また畢竟この社會的秩序を保持することに歸するのであるが、それがさしたる支障も無く表に遵奉せられたのは、何人も自己の内生活(426)とそれとの間に矛盾や衝突を體驗しないほど、その生活に個人的特色が無く、だれも/\同じやうな思想、同じやうな感情、を有つてゐたからでもある。しかし個性は發達しないでも個人はある。そして個人は自己の生存のために自己の能力を伸ばすために、何等かの活動をしなければならぬ。そこに利害の衝突や勢力の競爭が起つて、紛擾は斷えず生ずるのであるが、さういふ紛擾を裁斷する思想上の標準は甚だ簡單である。
 それは何かといふに、社會的秩序に順應し社會的權威に服從することは道徳的に善であり、服從しないことは惡である、といふことであつて、善惡の兩面は容易にまた明快に識別せられる。劇曲に於いて善人と惡人との爭闘が生ずるのも、畢竟この意味からであり、その葛藤が必ず敵役といふ外部的勢力によつて惹き起されるのも、この故である。だから善人が人の生活について高い理想を抱きそのために身を捨てて世と闘ふやうなものではなく、屑々たる世間の評判やいはゆる義理に拘泥してゐると共に、惡人はその反對に私慾を逞しうするといふだけのものであつて、人生そのものを詛ふ惡魔的性質を具へてゐるもの、惡そのことを喜ぶといふやうな深刻なものではない。善人に智略のあるのが尊ばれ、純眞な惰思の力強く動いてゐる天才的人格の認められないのも、やはり同じ事情から來てゐるので、智略とは畢竟社會的親範に順應してゆく能力をいふのである。さうしてその惡を去つて善に就かねばならぬ當時の人々には、平安朝人の如く宿命の觀念を容れる餘地も無ければ、室町時代のものの如く神佛の力を認める必要もなく、總じていふと人生に神秘も不可解も無い。だから社會に對する個人の力こそ極めて弱小であれ、人そのものは、宇宙に對しても運命に對しても、さしたる畏敬の念を有せず、みづからの力をみづからの力として考へる。深い宗教的情操をもたないのも、人生に對する眞率なる反省が無いのも、また概していふと、その文藝に懷かしみとやさしみとが出(427)てゐるものの少いのも、この故であらう。天地の間に於いて自己の小なることを切實に覺知し宇宙の大きな力に對して人の力の極めて弱いことをしみ/”\と感ずるものに於いて、始めて眞のやさしみと懷かしみとが心の底から湧いて出るからである。平安朝の文學が極めて利己的な現世本位な人生觀を示しながら、なほその中に情味の極めて濃かなるものがあるに反し、この時代の文學にそれが乏しい理由は、こゝにもある。もつともこれには、自己の力を頼みまたは弱みを見せまいとする武士の強がりや意地張りや、またその感情の粗大なるところから來る點もあり、自己の力を揮つて小を仆し弱を凌ぎ勢利の擴大に餘念も無かつた戰國武士以來の因襲的氣風も、それを助けてゐるのであらうが、何れにしても一切の思想と行動とが現實の世にあつてその世の中のみをあひてにしてゐることは同じである。勿論、一般人に於いては、神佛の加護に依頼する念もあり種々の迷信も行はれてゐるが、その求めるところはどこまでも現實の世間に於ける自己の福利である。また武士が刀にかけて誓言をし、平民が町人冥利とか百姓冥利とかいふ語を用ゐることにも、自己を超え自然を超えたところにある何等かの見えざる力のはたらきを認めて、その明鑒に信頼する氣分が含まれてはゐるが、それとても自己の社會的地位と任務とを全くするためのことである。
 近松などの劇曲の構造が極めて理智的であつて、外觀上奔放の致を極めてゐるやうなものでも、人物の行動と事件の推移とには一々細かな因果の關係がつけられてゐるし、天狗や幽靈や妖怪鬼畜の類が現はれても、人智で測られぬやうなものでないのも、やはりこのことに關係がある。人も世も整然たる因果の統制の下に動いてゐて、何物もそれを紊すことができないといふのが、當時の一般の思想であつたからである。作者がよし明かにそれを意識してゐないまでも、奔逸な空想が文學の上に現はれなかつたのが、事實に於いてさういふ傾向のあることを示すものである。當(428)時の文學にも妖怪變化がはたらいてゐるが、それは人の欲望、嫉妬、執念、または世間的道義、或は世俗化せられた佛教風想の何等かの概念、などが、かういふ形に於いて現はれたものに過ぎず、さうしてそれには人と人の運命とを支配するやうな威力は與へられてゐない。一代男卷六の心中箱、二代男卷二の百物語、三代男卷三の金銀の精、色三味線京の卷の傾城買の魂、或は松風村雨束帶鑑に見える二人の女の魂がぬけ出して火玉となつて爭ふとか、蝉丸の女が蛇身となるとか、または一心二河白道の清玄の生靈とか、いふのがみなそれであり、棠大門屋敷の道具の會議などもやはり同樣であつて、その寓意であることが明かに讀者なり看客なりに知られ、さうして往々滑稽の感をさへ生ずる。從つてその妖怪に對しては恐怖の念も畏敬の情も起らず、作者がそれを點出したのは、要するに奇異を喜ぶ幼稚な看客や盤衆の要求に應じたまでである。宇宙もしくは人生に於ける超自然的超人間的の力を象徴したものではない。のみならず、信田妻の狐が恩を報じたり、隅田川の天狗が善人を保護したり、一心二河白道の狸が惡人退治の助をしたりするやうに、世間的道義をさへ守つてゐる。
 さて現實の社會が無上のものであつて、それを維持するのが人の責務のすべてであるとすれば、一歩をその上に進めて當代を超越しようとする要求の起らないのは、當然である。事實に於いては個人がその力を伸ばさうとして斷えず努力してゐるけれども、さうしてそれがために社會の統制と衝突してゐるけれども、意識して社會に反抗しようとはしない。だから、すべての人の希求するところは、たゞ當時の社會に順應してそれによつて我が生活を安易ならしむることにのみあるので、金錢の力によつて身の樂みを得ようとする平民は勿論、名聞と世間體とに支配せられる武士の生活の根本が、即ちそれである。世の有樣にもその間に處する人の態度にも大なる違ひはあるが、我が世に滿足(429)してゐてその外に何等の求むべきものが無く、從つて我から未來に新天地を開いてゆかうといふ意氣の無いことに於いては、古の平安朝人と同樣であつて、社會そのものが固定してゐて新しい事業が起らず、それでゐてともかくもその間に生活することができる平和の世であり、外からは何の刺戟をも受けない鎖國の時代であるために、新しい希望が生ぜず、從つて人をして現實の社會とその規制とに不滿を感ぜしむるだけの内的衝動の無いことが、やはり平安朝の昔と似てゐる。
 さて未來に新しい希望を有たないならば、それと同じ理由によつて、過去をも追懷することが無く、すべての人が權現樣によつて開かれた天下の泰平を謳歌してゐるのも、また當然である。文學に於いて、昔の戰記文學が當時の人を英雄化したとは反對に、古英雄が盡く當代化せられ市井化せられてゐるのは、それが平民藝術であるためではあるが、思想の上に於いてはこゝに幾分の關係も無いではあるまい。學者間に歴史の研究は起つても、それは古代を古代として尚慕し古英雄を古英雄として崇敬するのではなく、むしろ現在の社會の思想によつて古代と古人とを批判し評隲しようとするのである。勿論武士の間には往々懷古の情が無いでもなかつたが、それは現實の社會を非とするのではなく、それに順應することのできない當時の人に不滿なのである。また儒者の間には當時の社會的道義の因襲に異議を唱へるものもあつたが、それは自己の生活の要求が社會と相容れぬためではなくして、たゞシナの書物に説いてあるところが現實と一致しない故であるから、初めから論外である。のみならず、儒教は後に述べる如く本來現實主義の上に立つてゐるものであるから、その精神に於いては當時の思想とおのづから一致してゐる。
 現實本位の思想はおのづから物質主義に傾く。戀愛を性慾の發現とのみ見るのも事業を利慾のためとのみ考へるの(430)も、この故である。また因果應報觀の根柢に物質主義的傾向があることは、世間的福利が善の應報として考へられてゐるのでも明かである。さうしてこの物質主義は前に述べたやうな社會觀と互に因果の閑係をなして、ます/\人を利己主義に導くものである。個人を尊重せず個人の集結によつて社會が成立するといふことが強く意識せられないために、個人の社會に對する責任感が弱く、人をして自己の利益のためにのみ行動させるのである。上にいつた如く、平民に於いては、自己の生活のできるのは廣い世間のおかげである、といふ漠然たる氣分はあり、さうしてそれはその世間に對する一種の責任感を伴ふものではあるが、さういふ氣分の日常生活にはたらく力は、一般にはさして大いものではないやうに見える。だから個人の上に強い社會的羈束を加へようとする當時の思想は、却つて社會的結合を脆弱にするものといはねばならぬ。
 のみならず、あまりに個人の債値が認められないことは、種々の點に於いて個人そのものを墮落せしめるものである。その第一は、彼等が社會的抑壓に抵抗することができずして、一種のあきらめを以てそれと曖昧な安協をすることである。かの努めて貧に安んぜんとし薄倖に安んぜんとするものにもこの心もちのあることは、既に前に述べた。「義理ほど悲しきものは無し」といひつゝもなほそれに服從し、「世間へ顔が出されぬ」ために身を犠牲にするのも、實はこれと同じことである。強いものには負けるが勝ちと、人の至情をも抛ち去る下僚のあきらめ(今宮心中)、「泣く子と地頭には勝たれぬ」と、むりなことをも聽かねばならぬ平民のあきらめが、世渡りの上に於いて大切であつたことはいふまでもない。かういふやうにしてこの時代の多數人は社會の因襲的規制に對して極めていくぢの無い態度を馴致し、個人としての自己を精神的に立てようとする意欲をさへ概ね銷磨させてしまつたのである。勿論それには、(431)上にも述べた如く社會そのものが固定してゐて新しい事業が生ぜず、人をしてその力を發揮せしめ一世の意氣を緊張させるやうな運動が何處からも起つて來ないこと、人は定められた境遇なり與へられた地位なりに安住してゐなければならず、またさうしてゐればともかくも生活ができてゆく状態であること、なども與つて力があるから、自己の力によつて自己の運命を開いてゆくことのできる商人は、武士に比べると比較にならぬほど意氣も旺盛であるにかゝはらず、彼等の思想としては、やはり概して社會の因襲的規制を尊重するより外は無かつたのである。分を守るといふことも、多くの場合に於いては畢竟一種のあきらめであり、世間に對する妥協である。しかし妥協によりあきらめによつてともかくも人が生きてゆかれたのは、社會的抑壓と闘ひ或はその背後にある何等かの力と闘つて、どこまでも個人の存在を主張し、個人間の關係に於いても微細の點まで執拗に自己と自己の利益とを擁護しなければならぬほどに、社會とその背後にある力との抑壓が甚しくなかつたからでもあるので、そこに上記の虚世觀の生じた理由がある。日本人に個人の權利、人の權利、といふやうな觀念の生じなかつたのも、このことに連繋があらうか。またこれは、上にもいつたやうな當時の日本人がものごとをおしつめて考へないといふことの一つの現はれでもある。
 けれどもあきらめの底には一味の不滿足がある。だから時にはそれが面從腹非の惡い習慣ともなるが、時には機を得て何れの方面かにそれが泄散する。談林一派の放埒な態度が實世間に於いて得べからざる自由を文藝界に求めた氣味のあること、政治上の問題に關する放漫な罵詈嘲笑が往々世に出ることは、前に述べたところであるが、これらは文學の形に於いてかういふ氣分の現はれたものとも見られる。また實生活に於いてはこの不平はしば/\放縱なる歡樂の希求となる。それは本來人生の欲望に本づくものである上に、社會そのものを動かさない個人だけのことであつ(432)て、社會的規制によつて抑へられた人の力を發揚するには、最も自然の徑路だからである。さうして商人などの間に於いては、一方に鎖國制度や封建制度や階級制度や家族制度の抑壓を蒙りながら、一方では激しい商業戰爭によつて戰國武士と同樣の放縱な習慣が養はれてゐるので、ます/\この風潮が高められる。それには前にも述べた如く戰國的氣分に促されて生じた浮世主義、早きに※[しんにょう+台]んで行樂すべしといふ悲傷の氣を帶びた歡樂主義もあつて、「短き浮世、死ねば手ぶり、飲めや歌へや、若いが花よ、老いて悔しのなれの果て、」(心中大鑑卷二)と歌はれると共に、ともかくも平和の世であるだけに「生を樂しむ」(近代艶隱者卷二)といふやゝおちついた享樂的思想ともなつて現はれる。人生多くは意の如くならないながらも「思へばうき世も捨て難し」(大磯虎稚物語)、そこに快樂の求むべきものがあるではないか。既に快樂があるとすれば、それがためには高い代償も拂はねばならぬ。「惜めども寢たら起きたら春である」(鬼貫)、來るものの樂しきに代へて惜むに足らざるは、啻に過ぎゆく光陰のみではないのであらう。
 幸にして世は昌平の春である。伸ばさば伸ばし得る力を伸ばすことができず、揮はば揮ひ得る力を揮ふことができぬ窮屈な社會にも、人の世の歡樂を縱にすることのできる生活以外の生活、社會以外の社會が、花やかな姿を眼前に呈露してゐる。だから「たゞ一念に春なれや春、氣さんじに錢かね使へ彌生山、天下ゆたかに永き日のころ、」(西翁十百韻)といふ。この時に當つて誰かその鬱屈せる氣を紅燈緑酒の間に向つて放散し去らうとしないものがあらうぞ。「春得たり人たり殊に男たり」(虚栗楊水)。春の誇り、人の誇り、男の誇りは、かくの如くして浮世の歡樂を領略し得るところにあるではないか。遊興の設備が整つてゐる都會に於いてはなほさらである。「鯛は花は見ぬ里もありけふの月」(西鶴)、「鯛は花は江戸に生まれてけふの月」(其角)、難波に住み江戸に暮すものにして始めてかゝる快樂の(433)飽滿を味ひ得る.この快樂は人の曾て世に求めて求むるを得ず、別に空想の天地を開いて夢の世界にそれを憧憬したものであるが、今は現し世が悉くそれを與へ得るに至つたのである。喜見城も女護の島も、須彌の高きに登るを要せず、蒼海の速きに探るを須ゐずして、たゞこれ北里西島にあるではないか。極樂は固より眼前である(二代男卷一、當世乙女織卷ニ)。棠大門屋敷卷一に「地獄速きにあらず、極樂眼前なり、」といふ語があるが、これは狂言などに散見する室町時代の諺の「地獄遠きにあらず、極樂遙かなり、」を一轉したものであらう。彼此對照して思想の變遷と元禄人の氣分とが知られる。かの浦島太郎がその子を伴れて故郷に歸り(松風村雨束帶鑑)、或は家のため子孫のために龍宮を見すてたのは(浦島年代記)、家族本位の生活の反映でもあるが、また現し世遠き神仙の郷が歡樂の都として特に憧憬するに値しないとせられた點に於いて、現實世界がそれに十分の滿足を與へ得る時世の思想でもある。龍宮の遊樂がこの世の有樣と何等の差異の無いのを見るがよい(諸國話卷四)。さうしてこれは人生のあらゆる行動が現實の社會と始終するものとせられてゐる根本の思想にも、おのづから適合するのである。江戸時代の民はあらゆる點に於いて夢と詩とを有たなかつたものであり、元禄の世は感激とあこがれとを知らなかつた時である。或は彼等にとつては現がそのまゝ夢であり、事實が直ちに詩であつたともいはれよう。だからこゝにもまたこの時代と昔の平安朝との類似がある。たゞ平安朝人は日常生活の全體を詩として觀じ夢として見てゐたのに、元禄人は同じ現し世の中ながら日常生活の外に於いて、夢の世界、詩の世界、を造つてゐたのである(「貴族文學の時代」第二篇第三章參照)。かう考へて來ると、當時の文藝の一大中心がこの歡樂の天地にあることも不思議ではない。
 けれども夢は覺め易い。覺めた現の身は、依然として不自由な、窮屈な、むつかしい、世の中に横はつてゐる。が、(434)生きてゐる以上、この世の中を脱却することができないとすれば、せめてはその窮屈を窮屈と思はずに暮らすことはできないであらうか。それは即ち我れから心を輕くしてその心に映ずる世を輕くするととである。戰國時代から既に現はれてゐるこの思想は、このころにもなほ存續してゐるのみならず、そのこゝろもちは、窮屈な社會的規制の裏面に潜む人生の事實を見ればおのづから生ずるものでもある。表面上の社會制度と實生活との矛盾、道徳上の因果應報が事實に於いて行はれてゐないこと、社會的道義の背後に於ける放漫なる性慾の滿足の追求と利益の競爭と、などがそれであつて、それもまた一つは、あまりに表面の規制が嚴重であり形式的であるところから來てゐる。かの歡樂主義もまた實にその一現象である。かういふ事實が心あるものをして、人の信ずるに値せず、世の頼むに足らず、また富や名聲の顧るを要せざることを思はしめ、世に處しながら世を笑つて過すことの賢なるを感ぜしめたのである。「公家も裝束なしには膏藥賣の顔の白いもの」であり(二代男卷三)、「賤しからぬ先祖を鼻にかけ」ても「公家の娘やら紙屑拾ひの子やら」人には知られない(一代女卷二)とすれば、公家も先祖も尊ぶには足らず、「鈍太郎どのを賢くする」(二代男卷五)も金の光と思へば、人とてもあてにはならぬ。それのみでない。「のけば他人」(織留卷四)となれば夫婦の契りも頼もしからず、あはれな人の身の上に對しても「人なみなれば義理に袖を絞り」(男色大鑑卷七)、「他人の悲しむ義理一片の念佛、泪は當座の形見の袖、ほどなう忘るゝを世のならはし、」(同上卷四〕とすれば、人の生死も幸不幸もまた世間の義理も、重んずるに足らぬではないか。おのれみづからとても同じこと、「戀ほど可笑しきは無し」(一代女卷一)と、我が戀ながら我が心の思ひの外なるに氣がつき、「人のゆく未は更に知れぬものぞ」(同上卷三)と、さま/”\に變りゆく身のさまを考へれば、「人は妖けもの」(諸國話序)とも「よく思へばやくたい(435)もなきものは人」(心中大鑑卷二)どもいはねばならぬ。利慾の爭ひに至つては勿論のことで、借銀の書置(永代藏卷五)や死骸を入れた葛籠を盗んだ盗人の話(二十不孝卷三)などは、いかにもよくその有樣を滑稽化してゐる。さま/”\の世渡りも裸にして見れば嘘と僞とで堅めたもの、「人間萬事からくりの種」(西鶴五百韻)ながら、それでも生きてゆかれるものとすれば、「浮世は廣し」、欺くものも欺かれるものも共に好笑の料である。かういふ觀察をしたものは必しも了意、西鶴、及びその流を汲んだ浮世草子の作者、に限つたことではなく、其角が「我々の腹の中に屎と慾との外のものなし、五倫五體は人の體何に隔てのあるべきやと彼の傀儡に歌ひけん、公卿大夫士庶人土民百姓工商乃至三界萬靈等、この屎慾を蔽はんとて、冠を正し太刀佩き上下を着て馬にめす、法衣法服のその品まち/\なりと雖も、生前の蝸名蠅利なり、」(類柑文集)といつたのもやはり同じことであつて、當時に於いて少しく冷眼に世態を觀得るものには、これは共通の思想であつたらしい。事實上當時の一般人の生活が物質主義である以上、かう見られるのもしかたが無い.
 よしまたさういふ裏面を見ないまでも、いろ/\の浮世のさまが、見やうによつてはそのまゝに可笑くも眺められる。例へば二代男(卷五)の年の暮の世のさまを尾羽打ちからした遊蕩兒の眼孔から見た「四匁七分の玉もいたづらに」の一節を見るがよい。一人々々の主觀世界は泣くと笑ふと怒ると歎くとさま/”\であるが、よそめに見れば泣くも笑ふも同じ客觀世界のできごとであつて、それがまた秩序も無く連絡もなく、銘々かつてにまた唐突に、且つ現はれ且つ消えるところに、矛盾に充ちた無限の滑稽があり、その滑稽なことがらを天下の大事我が身の大事と泣きに泣きわめきにわめくのが、一層の滑稽ではないか(二代男卷五)。特に商人の社會に於ける急速なる貧富の轉變、財貨(436)の得喪は、かの歡樂主義の生活と相伴つて、かゝる觀察の材料を豐富に供給してゐる。俚謠や三絃曲に感傷的な氣分と滑稽な態度とがつなぎ合はされてゐる場合のあることにも、これと通ずるところがあらうか。
 世をかう見ればそれに處することもまたおのづから氣樂になる。「浮世は一分五厘」(日本莊子卷二)ともいはれてゐる。「世の中は蝶々とまれかくもあれ」(西翁十百韻宗因)、我が身はたゞ「氣まゝに遊ぶ胡蝶うぐひす」(同上)を以て任ずるがよいではないか。談林の俳人の態度がすべてこゝにあることは、第五章に述べておいたが、要するに彼等は、思想としては、一切の世を茶化し去り、あらゆる世上の事物を滑稽化して觀じたのである.が、氣まゝに遊ぶには世と同化して世と共に戯れねばならぬ。「好いた人も心に乘らぬ人も舟渡しの岸につくまでの志」と思つて、我をすて我が操守をすて、「浮世に濁りて水の流るゝ如く身を持つ」(一代女卷五)のが明哲保身の道である。「物毎に有りはありのみ無しとても求めはせじな世はなり次第」(古今夷曲集未得)。外に向つて求めるのが我を緊縛する所以であるとすれば、みづから我を守るのが我から我が羈絆を作るものであることは、いふまでもない。人はおのづから「萬事その時の心になるもの」(一代女卷二)ではあるものの、我からその時々の心になつて境遇と共に推し移つてゆくのが、氣樂に世を渡る用意でもある。だから財を抛ち金を散じて放縱な歡樂に耽溺するのも、戀を失ひ富を喪つて陋巷に窮居し江湖に放浪するのも、またはその財を求め富を得んがために東西に奔馳するのも、共に可笑しき身の上と觀じ、物に應じて凝滯することの無いのが彼等の尚ぶところである。「あるほどのだてしつくして紙衣かな」、だてしつくした過去にも紙衣姿の今にも、身につれて變るこゝろには悔恨も無ければ執着も無い。
 世に處するばかりではない。生死に臨んでもまた同樣で、「來山は生まれた咎で死ぬるなりそれで恨みも何もかも(437)無し」(來山)といひ、「その心その期になりてその覺悟まづそれまではそれよ世の中」(無卜)といふ。かう見るものにとつては生も死も共に一場の戯れである。本來世を遊戯視するのは身を氣樂に保つためではあるけれども、世を輕く見るのはおのづから人生を輕んずることになり、さうして生を輕んずるは即ち死を輕んずるものだからである。辭世の類は禅僧に由來する一種の因襲的思想を無意味に繼承した傾きもあり、或は強ひて戯謔の言を弄して衷心の不安をみづから蔽はんとする跡さへも無いではなかつたらしく、「浮世の月見すごしにけり末二年」(西鶴)の如き理智的構想から成つてゐるものなどに至つては、果してそれが眞情を吐露したものかどうか甚だ疑はしいけれども、少くとも思想の上に於いてかういふ態度の高しとせられたことは明かである。この時代のものに平安朝人の如き感傷的情調の無いことはこれでも知られる。(江戸時代の文學に生死を輕んずる思想のあるのは、死を恐れない武士的氣象の影響もあるかと思はれるが、その態度の全く違ふことを考へると、必しもさうではあるまい。)
 さてかういふ態度は知識としては老莊の思想から幾らかの暗示を得たところもあらうが(西鶴は二代男の卷首に莊子の知北遊篇の語を用ゐてゐる〕、老莊は世をも人生をも滑稽視してゐるのではないから、その根本の精神は同じではない。それよりも、その主なる由來は、社會的拘束の甚しいがためにそれを脱せんとするところにあつたとすべきであらう。たゞそれでありながら、社會組織の破壞力として見ることもできる平民の活動、それによつて光彩を放つてゐる元禄の文化状態が、それを促してゐるのは、奇怪のやうにも見えるが、それも實は窮屈な社會組織の下に於いて、不自然な活動が行はれてゐるからである。またこの處世觀は社會の個人に要求する道義の念を撥無し、義理をも人情をも茶化し去つてしまふものであるが、それもまたその世間的道義そのものに大なるむりがあるからである。人(438)生を遊戯視することすらも、人をして自己を尊重せしめないほどに社會が個人を尊重しないことと、あまりに甚しき現實主義の世の中との、然らしむところである。けれども一方からいへば、かういふ氣輕な態度でともかくも生きてゆかれるやうに考へられるのは、思想の上に於いて個人の債値が認められないにかゝはらず、物質的生活が人をぬきさしのならぬ窮地へ陷れるほどに困難ではなく、表面上社會が嚴密な組織によつて固められてゐながら、人々が何とかして世を渡り得、或はそれ/\の力を伸ばし得る間隙や餘地が到る處に存在してゐるからでもあるので、あきらめと妥協とで生きてゆかれる理由として上にいつたことがこゝにも適用せられる。表面上の階級的抑壓がひどく加はつてゐながら、彼等自身の間に於いては比較的自由を得てゐる、平民に於いては、なほさらである。かういふ思想が武士階級の間よりはむしろ平民のうちから多く發生してゐることも、全く無意味ではない.
 
 けれどもこの態度は、世を愚にしてゐる點に於いて、自ら高しとするものであり、また境遇と共に推し移つてみづから輕んずる點に於いて、放縱に流れる傾きがあるので、濃かな情味と眞摯な自省とを缺いてゐる。是に於いてかこの境地を透過して更に一段の高處に至つたものがある。一たび談林の門をくゞつて終にそこから脱出した、蕉風の俳諧趣味が即ちそれである。芭蕉の「旅ねして見しや浮世のすゝはらひ」を前に引いた二代男(卷五)の歳暮の觀察と對照し、「夏草や兵どもが夢のあと」を「その人も殘らず、今また世にある人も殘らず、」(武家義理物語卷一)の冷然たる一句と比べて見るがよい。西鶴は世のさまをも人生の無常をも偏に可笑しと眺めてゐるが、芭蕉には表に輕い氣分がありながら、その裏にはしみ/”\と世の變遷を思ひ人の生活の榮枯に對してそゞろに哀愁の情を懷いてゐるところ(439)があるではないか。夏草の句には「國破れて山河あり城春にして草青みたりと、笠打ち敷きて時の移るまで泪を落し侍りぬ、」(奥の細道〕といふ前書きがあるが、「功名一時の叢となる」ところに一味の滑稽が感ぜられてはゐたらしい。彼の曾て「木がらしの身は竹齋に似たるかな」と吟じ「世間寺無用房」の名に興じたことが、前卷に述べた戰國時代以來の氣樂坊的態度と談林風西鶴式の滑稽觀とに由來のあることを思へば、かういふ氣分は彼の胸中に存在してゐたに違ひない。たゞその滑稽觀の一面に眞摯の氣の溢れてゐるのが、西鶴とは違ふ芭蕉の特色であつて、そこに彼が、人生を人生の内部から觀、自己の生活を自己みづから味ふ、といふ態度があり、從つてその作には談林の徒に殆ど見ることができなかつた濃かな抒情味が現はれるのである。しかしこの兩面は、彼に於いては、渾然として一つの氣分に融合してゐる。人生の諸現象を可笑しとは見るものの、その人生は即ち外ならぬ我が身の上であるとすれば、この觀察は直ちに主観化せられて、我れみづから我を滑稽視することになるが、その我はまた同じ人生に哀樂喜憂しなければならぬ我だからである。さうしてこの兩面の融合したところに彼獨得のユウモラスな氣分が生ずる。次章にいふやうに、芭蕉も世間的生活を色と慾との世界と視てゐる傾きはあるので、そこに西鶴と同じ觀察があるが、西鶴はどこまでもその世界に止まつてゐるのに、芭蕉は別に風雅の天地を開いてゐる。
 芭蕉のこの氣分は如何なる形に於いて彼の生活に現はれてゐるか。「喪に居るものは悲をあるじとし、酒を飲むものは閑をあるじとす、愁に住するものは愁を主とし、徒然に住するものは徒然を主とす、哀に住するものは哀を主とす、」(嵯峨日記〕。悲と閑と愁と徒然と哀との情趣を如實に體驗すると共に、悲と閑と愁と徒然と哀との來るがまゝに我が心を任せ、處るところを主としてそれに同化するのである。だから「すてはてゝ身はなきものと思へども雪の(440)ふる日は寒くこそあれ、花のふる日は浮かれこそすれ、」漢來れば漢が現じ、胡來れば胡が現ずる。「一つぬいで後に負ひぬ衣がへ」、「飲みあけて花いけにせん二升樽」、衣は寒暖の宜きに從ひ、器は盈虚によつておの/\その用をなす。我が心もまたそれと同じである。「空しき時は塵の器となれ、得る時は一壺も千金を抱きて岱山も輕しとせん、物一つ瓢は輕き我が世かな、」(瓢の銘〕、そこに氣輕な飄逸な態度が生じて、かのユウモラスな氣分と相應ずる。氣輕であり卿逸ではあるが、哀をも愁をも哀とし愁として味ひ、味ひながらそれを超脱する。そこにユウモアが生ずるのである。風狂といふのはこの態度であるが、それは畢竟、自己に拘束せられず自己の境遇に羈縛せられず、諸縁を放下し去つて行くところに安住し來るものをそのまゝにうけ入れる、無礙自在の境地をいふのであつて、「いざ子ども走りありかん玉あられ」、興に乘じては小兒と共に走りあるかうとさへいふのである。「子どもらよ晝がほさきぬ瓜むかん」といふやうに、彼が子どもをあひてにしてゐるのも、自己に拘束せられることが無くして常にユウモラスな態度を有する子どもが、彼のよき心の友であつたからであらう。さうしてそれは單に世に處する場合ばかりではなく、生死に就いても同じである。「野ざらしを心に風の沁む身かな」と、悲しき死を心にかけて旅立ちはしても、生きて還ることができれば「死にもせぬ旅ねの果てよ秋の暮」と、おのづから興じられ、必しも死を厭はぬながら、「眼前に古人の心を閲す」るにすら「存命の喜び」を書んでゐるではないか(奥の細道)。「昨日の發句は今日の辭世、今日の發句は明日の辭世、我が生涯いひすてし句々、一句として前世ならざるは無し、」(花屋日記)といつたといふ話でも、彼の生死觀が覗はれるので、故らに辭世として放逸諧謔の言を弄する西鶴の輩と違ふ點はこゝにもある。
 世に處するに當つて境遇と共に推し移るといふのは、芭蕉も西鶴などの思想と同樣であるが、彼等が境遇そのもの(442)居るを便としたことは、心理上の自然の傾向として深く怪しむに足らぬが、徹底的に諸緑を放下し得るならば、貧に居ると同じ心もちで富に處し、愁に處すると同じ氣分で歡樂に處することも、必しも不可能ではない、ともいへばいはれようし、また人生の眞味は必しも常に寂びとわびとに住することによつてのみ求め得られるには限らたいからである。或はむしろその身に幾多の波瀾を閲し來つて、心生活の上にも種々の轉變を體驗し盡すところに、人生の眞味を解し得べき契機がある、ともいはれよう。が、芭蕉のこの態度は、彼自身の性格と境遇とまた一種の因襲的趣味とから來たことであつて、思想に於いては、前章に述べた如く男女の交りに對しても十分の同情と理解とがあり、遊女に耽溺するものをすらも或る點までは寛恕する氣分があつたにかゝはらず、自己の生活に於いては敢てその間に身を投ずることをしなかつたのである。彼が決して人生そのものに背いたのでないことは、俳諧を以て世に立ち多くの門人を導いたのでも知られる。「木曾の橡うき世の人のみやげかな」といひ「籠りゐて木の實草の實ひろはゞや」といふ類は、一種の隱遁思想から出たことらしく見えるが、「先づ頼む椎の木もあり夏木立」と喜んだ幻住庵でも、その記の中に「ひたぶるに閑寂を好み山野に跡を隱さんとするにはあらず」といつてゐるので、その本意が知られる。やや滑稽的な語氣を帶びてゐる「世を厭ひし人に似たり」の一句は、即ちみづから「世を厭ひし人」でないことを示してゐるではないか。後ろ向きの畫像に賛して「こちら向け我れも寂しき秋の暮」といひ、故人と會しては「寒けれど二人ねる夜ぞ頼もしき」といひ、遊女と同じ家にとまり合はせては「一つ家に遊女もねたり萩と月」と吟じてその身の上をあはれがつたのでも、彼の態度は推測せらる。この人なつかしい心もちに於いては、彼の尚慕した西行とおのづから相通ずるところがあるともいはれよう(「貴族文學の時代」第三篇第五章參照)。
(443) しかし元禄人たる芭蕉の人生觀は、決して昔の平安朝の頽廢期に出た西行と同じではない。西行の思想の根柢は世を憂しとする一種の悲觀主義である。勿論それは、世を遁れ山に入ることによつておのれだけは一應の解決がつくといふ手輕な平安朝貴族の厭世觀が、文化の頽廢に刺戟せられて一歩を進め、世間全體を悲觀するやうになり、それがまた同じ事情から特殊の發達をした當時の淨土教的思想と結合したものに過ぎないので、人生そのもの自己の存在そのものを根本的に否定しながら、而もどこまでもそれを脱することができないといふ、絶大の痛苦から出立したのではない。人は現に生きてゐる、また飽くまで生を求める。さうして生に於いて生の樂しみを享受しようとする。けれども事實に於いて生は痛苦であつて、この痛苦は脱せんとして脱すべからざる生の桎梏であり、むしろ生そのものの本質である。だから人は永久にこの痛苦を味はねばならぬ。人は生に苦しみながらその生を欲求し、欲求しながらそれに苦しむ。人生をかう考へる時始めて眞の厭世觀が生ずる。得らるべき榮華の獨り我のみは得られないがために山に入る、といふ平安朝式厭世觀、快樂を來世に期して人生を極めて容易く放棄し去らうとする淨土教は、それとは天地の隔りがある。だから西行に於いては、その淨土教的悲觀主義と平安朝式厭世觀とが十分に融合せられないために、修行者としては人生を棄てようとしつゝ、詩人としては人生を懷かしむ、といふ矛盾が生じながら、その胸裡に藏する風月の世界に於いて、容易に兩者の結合點を見出だし得たので、こゝに彼の努力があると共にまた割合に手輕な安慰があつた。
 ところが芭蕉は違ふ。彼は士籍を脱したけれども、世を避けたのでも遁れたのでもない。その士籍を脱したのが、仮に世に傳へられた如く主君の死を悼んでのこととしたところで、彼はその後佛門に歸したらしくは見えず、勿論出(444)家したのではない。多分浪人して俳諧師の群に入つたといふべきであらう。笈の小丈に「身を立てんことを願」ふといひ、幻住庵の記に「仕官懸命の地を羨」むといつてあるのも、佛頂に參禅したことを指したらしい「佛籬祖室の扉に入らんとせし」といふのと一つゞきに書いてあるその文意から考へると、一とたび浪人した後のことかと思はれる。さうしてかういふ俳諧師の群に彼を導いたのは、その文學に對する趣味であつたことが、同じ文章から推測せられる。これがために彼は貞門のをかしさにも親しみ、談林の滑稽にも興じたのであるが、また溯つては宗祇より西行に及び、傍ら唐人の詩にも接して、そこに彼の新しい藝術の出立點を得、その藝術がまた新しい生活を導くやうにもなつたらしい。
 だから芭蕉は、世すて人たる西行の人生觀から入つてその歌に親しんだのではなく、詩人たる西行の歌から入つてその心生活を味ふやうになつたのであるのみならず、西行を尚慕しつゝもその悲觀的な、厭世的な、動もすれぼ感傷的情緒をさへ交へてゐる、この遁世者の心もちとは違つて、前にも述べた如く一種の洒脱な飄逸な氣分がその根柢をなしてゐるのである。西行に風狂の態度が無かつたと同樣、芭蕉にも彼の作品にも悲觀主義乃至厭世思想の傾向を認めることはできない。(西行を飄逸なもののやうに考へるのは、恐らくはこのころから後のことであらう。歴史的人物としての西行は、世間的の欲望から全く離脱してゐると共に、斷えず努力精進する修行者の態度を生涯失はず、さうしてその胸には、風月の天地と詩の世界とに安慰を得つゝも、人生の無常に關して常に去りあへぬ哀愁の情を懷いてゐたやうに見える。)芭蕉がその席暖まるに遑あらずして江湖漂泊の生を送つたのも、一つは連歌師以來の風習でもあり、一つはその連歌師の連歌と同じく、俳諧が「生涯のはかりこと」(幻住庵記〕であるからでもあり、またその(445)心もちからいへば「いざさらば雪見にころぶところまで」といふやうな幾分の遊戯的趣味をも伴つてゐるので、西行の如く出家としての修行を主としたのではなかつた。西行にも旅の情趣を懷かしむ氣分はあつて、それは芭蕉と同じであるけれども、「鈴鹿山うき世をよそにふりすてゝ」いかになりゆく我が身かとゆくへおぼつかなき感に堪へなかつたのは、「送られつ送りつ果ては木曾の秋」に一種の輕い氣分があるのとは趣きがちがふ。さうしてこゝに現世主義たる元禄人としての芭蕉の特殊の面目があるのではなからうか。
 
 芭蕉の態度は西行と違ふと共に、またシナ人もしくはシナ人を學んだ日本の漢詩人の思想とも同じでない。彼が李杜を愛讀したといふのは、その何の點かに於いて彼の心生活の反映を認めたからであつたには違ひなく、かの「夏草や」の吟の如きは、或は唐人の懷古の詩から脱化して來たのかも知れぬ。けれども李白が「人生飄忽百年内、且須酣暢萬古情、」といひ、杜甫が「萬古一骸骨、隣家遞相哭、曲直我不知、負喧候樵牧、」といつたやうな思想は、芭蕉に於いて認めることができない。彼等は一方に時に感じ世を慨することがあるにかゝはらず、或はむしろそれがために、世をも人をも輕んじて天地の間に放浪し、もしくは人事を抛ち去つて自然に親しむ、を高しとする態度があるので、これはいはゆる楚狂の徒などに於いて古に既に存在し、漢代には高士とか逸民とかいふ形によつて世に現はれ、一轉しては竹林主義ともなつた思想であつて、特に李白などには頗る魏晉人の面影がある。一面にはシナの社會及び政治の状態が、ともすれば知識あり心あるものを驅つてかゝる方向に走らしめるほどに亂脈であり、その間の生活が不安であるために、かういふ思想が事實上世に存在し、また尚ばれたのである。が、それが既に一種の因襲となると、(446)たゞ文字の上に於いてかういふ言語を弄するやうにもなるので、特に我が國の詩人に於いてさうである。だから「酔來天地間、抛去是非難、」(東涯)といひ、「但知阮籍狂耽酒、不是虞卿老著書、」(南郭)といふのが、果して作者の心生活をそのまゝに表現したものかどうかは甚だ疑はしい。といふよりも、彼等の閲歴から考へれば、それは實生活とは關係の無い遊戯文字とすべきであらう。興亡の跡に對しても「策勲與敗績、榮辱隔存亡、銷磨兩無迹、而今水洋洋、」(古戰場東涯)といひ「君不見富貴榮華如朝露、蝸角闘爭空荒壘、」(觀鎌倉圖歌南海)といふが如く、無關心にそれを傍觀してゐるが、これもまた唐人の口まねである。もつともかういふ興亡觀は、一つは太平の世だからでもある。徳川の代のやゝ末に臨んで人心が昂奮しかけて來ると、懷古の詩にも慷慨の氣が現はれるやうになる。このころでも觀瀾の如き特殊の思想を有するものは、拜楠公墓や菊川の詩のやうに多少の感慨のあるものを作つてゐるが、それはむしろ稀な例である。しかし李杜を好んでもそれを摸倣しない芭蕉にはかういふ作が無い。「夏草や」の吟が南海などのとは違ふ心もちで作られたことは、前に述べたところで知られよう。唐人のこの態度は曾て述べたことがある禅僧のと同一であるが、禅宗がシナ思想の上に築かれたものであるとすれば、これは當然のことである。さうしてその禅僧の態度と、西行から系統を引いてゐる宗祇などの思想との、一致してゐなかつた點が、即ちまたこの時代の漢詩人と芭蕉との違つてゐる一半の理由をなすものである。西行や宗祇に無くして芭蕉に至つて現はれた飄逸の趣味、ユウモラスな態度も、またすべてに對して無關心な禅僧の態度とは達つてゐる。(俳諧と禅宗との關係については種々の附會説があるが、多くは精細な觀察から來たものではないので、かの宗因が即非に芭蕉が佛頂に參したといふ話の如きも、必しも彼等の思想の由來を語るものではあるまい。丈草の「蚊帳を出でてまた障子あり夏の月」、鬼貫の(447)「庭前に白く咲いたる椿かな」、などに至つては、たゞ禅語の摸倣か改作かであつて、俳句としての價値の無いことは勿論、それによつて作者の思想を觀るべきでもない、なほ昔の五山の禅僧は現實に江湖漂泊の生を送り得た方外の士であるから、放曠自恣の詩を作つてもその生活の表現として見ることができたが、この時代の漢詩の摸作者はそれとは違つてゐることに、注意しなければならぬ。)
 ところがかういふシナ人や禅僧の思想は、却つて西鶴のとおのづから相通ずる點がある。老莊思想、特にそれから派生した竹林思想は、世に交つて世と共に浮沈し世にありながら世を塵芥視するものではないか。禅僧が生死を無關心に觀るのは、生を重んずるがために世を輕んずる老莊思想の本色ではないが、それにつれてその一隅に生じたシナ思想ではあるので、本來の佛教思想とは根本的に一致せず、いはゞ世に對する老莊思想を人の生に及ぽしたものであつて、生の苦痛から出立してゐるインド思想とは大なる懸隔があり、さうしてこゝにもまた西鶴などの生死觀とその軌を一にしてゐるところがある。彼等の辭世が禅僧の遺偈に似てゐるのは、辭世といふものの因襲にもよることであらうが、やはりこゝにも理由がある。もつとも實生活そのものについて放縱な思想を有する西鶴と、世にあつて世を愚にしながらその放逸の氣をむしろ世事の外に向つて散ぜんとする竹林の徒とが、同じでないことは勿論である。けれども元禄人の歡樂主義と晉人の風流とすら、その主觀的態度には一脈の通ずるものがあるのみならず、西島と竹林と温柔窟と酣醉郷とも、また隣りあはせである。 同じく漢詩に現はれてゐる思想でも、詩人を以てみづから任ぜず、また甚しく詞章の巧みを求めないものの作に於いては、おのづから別樣の見解が現はれてゐるので、それは多く儒者に認められる。名教のうちに樂地ありといふや(448)うな思想は別のこととして、「維がれぬ淺き渚の捨小舟こゝろ安くや世を渡らまし」(古學和歌集仁齋)。強ひて世をむつかしくする傾きのある偏固な山崎派や、教化政治主義を一直線に貫かうとする※[草がんむり/(言+爰)]園の徒はともかくも、一般には儒者とても心の安さを欲するが常である。藤樹の翁問答には人間第一の願は心の安樂だといつてゐるが、これは必しも陽明學派の思想ではない。心を修めるを主とする宋學にこの傾向があるのみならず、宋學を排した仁齋にもまたこんな詠がある。さうしてそれは主として「世味本惟淡、甘辛由疾成、正心無氣累、玉食是藜羮、」(藤樹遺稿)と、心から世味を淡く見ようとするのであるが、「世間富貴片雲輕、天爵常尊知是榮、」(同上)といひ「世間毀譽蚊過耳、尼父從來不怨天、」(古學詩集仁齋)といふ如く、外に求めるところが無くして自ら足れりとするのが、その處世的態度だからである。世を遊戯視せず、また身を塵芥視せず、勿論名教をすてることが無く、世にあつて世の務めを務めとしながら無欲にしてその間に處すれば、心はおのづから安らかだといふのであつて、蕃山の如きはこの點から「天下はまはり持ち」と觀じて、功名を爭ふ戰國的武士氣質を排斥してゐる(集義和書卷二)。この考はその無欲を主とする點に於いて老莊思想と相通ずるところがあるけれども、どこまでも世を重んずるところに儒者の本色がある。だから「天空海濶小茅堂、四序悠悠春色長、笑殺淵明無卓識、北窓何必慕犧皇、」(仁齋)といふ。敢て世を避けるを要せず、我が居るところに於いて身を安んずるを得るのである。こゝに芭蕉と類似してゐる一面があるが、たゞ芭蕉が思想としては實世間の外に風雅の天地を開いてゐるに反し、儒者は實世間そのものに安住しようとし、芭蕉に輕い心もちがあるに反し、彼等にそれが無いところが違ふ。
 勿論彼等にも、幽居を尚び風月を愛しまた古の隱逸の士を景慕する思想はあるので、例へば鳩巣の「楊子談經處、(449)空堂秋気清、窓明知葉落、庭靜見苔生、終日少塵事、四時唯鳥聲、幽期常稱意、不負古人情、」といふやうな境界は、彼等の好んで詠じたところであるが、それは單に一時的の心の休めどころとして靜寂の趣きを愛するのみで、日常の世務とは多く相關せざるものであり、また一つはシナの文學に伴ふ因襲的觀念として實生活とは交渉の少いものである。東涯が「無能無憂何足榮」(鈴蟲引紹述文集)といつて人生爲すあるを要するの意をほのめかし、「誰垂不朽名、萬※[衣+異]*貽典則、」(陌上行同上)といつて名を傳へることをさへ求めたのも、またこれがためであつて、彼等の本意はやはり世にあつて世に處することであつた。これは儒者としては當然のことでもあるが、また社會状態から見れば、おちついて生きてゐられる平和の世の面影もそこに認められる。西鶴の如く平和の世ながら生活の戰爭の激しい商業都市に住んでゐて、親しく市民生活の現實とその裏面とを知悉してゐるものに於いては、世を愚にする思想もおのづから生ずるのであるが、世から遠ざかつて書斎のうちに靜かな日月を迭つてゐるものに於いては、太平の世はどこまでも太平の世である.
 生死觀に於いても同樣である。「無常本是不無常、識得無常反是常、春草萋々秋草死、何人免得土中藏、」(仁齋)。死を無關心に眺めはしないがそれを常理と觀じて、生のうちには生の務を務めようといふのであらう。「あさがほの花一時も千とせふる松に變らぬ心ともがな」、「夢の世と誰がいひそめし夢ならぬそのことわりを身にし知らばや」(駿臺雜話鳩巣)。死生は命であり、夭壽は天である。おの/\その天命に安んじて、夢ならぬ現の世に現の身を全うせよといふのらしい。だから「登仙猶可企、肥遯亦非難、何用違眞境、生涯羈一官、」(登鞍嶽鳩巣)といふ如く、儒者が文字の上に於いて神仙の文字を用ゐても、それが決して長生不死を求めるものでないことは、いふまでもある(450)まい。「靈洲在我方寸地」(題蓬莱圖歌簗田蛻巖)といつて※[瀛の旁]劉二天子が方土に愚弄せられたことを嘲つたものもある。漢詩人や儒者の隱遁思想は彼等の神仙の尚慕と同樣、文字の上から得來つた知識に過ぎないけれども、學者といふべきものでない方面に於いて、却つていはゆる隱士が無いではなかつた。深草の元政は早くから出家の志があつて佛門に歸したのだといふから(行状)、この群に入れるのは妥當でないかも知れぬが、扶桑隱逸傳の著のあるのを見ても彼の思想はほゞ察せられる。安藤爲章の年山紀聞に見えてゐる正惠、宗好、新井白石の停雲集に出てゐる法霖、その他近世畸人傳に見える幾人かの隱士は、よしそのうちに釋氏を冒したものがあつても、概していふと或は無爲を尚び或は江湖放浪の生を喜んだものらしく、何れも昔の遁世よりはシナ人の隱逸に近いものである.下河邊長流、戸田茂睡、などは歌人だけに幾分か趣きは違ふが、やはり長嘯や丈山の系統を傳へたものといつてよく、浮世草子風の作に近代艶隱者といふやうなものがあるのを見ても、隱者の世に尚ばれたことが知られる.その隱遁の動機は明かでないものが多く、たゞ畸人傳の説の如く長流のが「桂川こゝろにかけし一枝も折られぬ水に身は沈みつゝ」(晩花集)、立身の望を失つてのことと推せられるぐらゐに過ぎないが、世があまりに窮屈に固まつてゐて、自己の力によつてそれを動かすことのできない時代に於いては、或は自由を欲して「うき世を安く暮らす」(近代艶隱者)ことを希ふもの、或は事を爲すの材を抱きながら爲すこと能はざるものが、かゝる生活に入らうとするのは甚だ解し易きことである。長嘯や丈山の隱遁は、世に對する幾らかの不平もしくは失意の境遇にあることなどがその原因であつたらしく、戰亂の氣の全く收まらない時代に於ける世の變動の所産であつたが、この時代のはむしろ世の治まり過ぎたために生じたものらしい。
(451) もつとも「如是生涯如是寛、弊衣破椀世閑々、飢餐渇飲只吾識、世上是非總不干、」といつて乞食の群に投じた禅僧の桃水(畸人傳)、或る時は「兩袖にたゞ何となく時雨かな」とも吟じながら、或る時はまた「おもたさの雪拂へども/\」と、我が娘にも會はずして遁れ去り、一たび庵を結んでも幾何ならずして指すところも無く浮かれて出た、といふ放浪兒の惟然、の如きは、禅僧としても俳人としても特殊のものであつて、その異常な生活は彼等の個性から來てゐるのであらうが、嚴密な世の統制に反抗して却つて奇矯に流れたものとも見られよう。惟然のは、室町時代の物語にある、道心を亂さないために子に會うても故らに名のらなかつたといふのとは違つて、嚴格な修業者の熊度ではなく、放浪生活のあこがれから來てゐる。ところで「乞食かな天地を着たる夏衣」(其角)、普通人が乞食を讃美するのは文字の上のことに過ぎないが、それにしても思想としては、無一物の境界、無定居の生活、に何等かの興趣を覺えるからのことであらう。乞食も放浪の生も共に身の自由を得るものと考へられたのである。なほ一般に畸人といふのは主として、名利を眼中に置かず世間的因襲を顧みずもしくは生死を念としないもの、要するに世間ばなれのしたものであつて、それには道徳的操守または藝術的良心の上から來るものもあるが、こゝにいふやうに自由を欲し拘束を脱しようとするところに動機のあるものもある。さうしてそれが一歩を轉ずると世を愚弄するやうにもなる。この種のものが畸人傳などに少からず見うけられるのは、そこに時代の特殊の傾向があることを示すものであらう。
 けれども彼等は世を放れようとしながら、絶つことのできぬ一糸の塵縁になほ維がれてゐなければならぬ。それは「世の中のわたらひ草をふみからし山路の蕨いつか摘ままし」(長流)、世をすてはてては衣食が得られないことである。昔の平安朝の貴族の山に入ることができたのは、かういふことに心を勞する要が無かつたからであり、僧侶が世(452)を超脱し得るのは、僧侶として衣食の道があるからである。だから當時に於いて長嘯や丈山の如き財産が無く、さうして乞食ともならず僧ともならずして世を避ける隱者には、後に菅茶山がいつたやうに、せ渡りの業がなくてはかなはぬのである(筆のすさび)。「我が庵は山も求めず棚橋の短く見つる世を渡るほど」(茂睡)といつて、歌の弟子を取つたのもこの故である。さすれば隱者もその實は隱者でなく、世をさけても世を脱することはできない。それが世のつねの世渡りと違ふところは、たゞ積極的に利を求めて生活を豐富にしようとするのと、消極的に最低度の衣食をなし得られるだけに止めておくのとの差異に過ぎない。それほどならばわざ/\隱者がほをしないでも、世の務めを務めとしてはゐられないであらうか。それのみならず「厭離人生夢中榮、共擇深林結社盟、只爲眞風將墜地、空山亦有不平鳴、」(草山集)、人生ならぬ人生にもまた世のつねの人生と異ならぬ不平があり關心事があるではないか。その元政が一方では「遁れては山里ならぬ宿も無したゞ我からの憂き世なりけり」(草山集)といつてゐるが、これは畢竟一事の兩面である。さて山里を心の内に得てゐるこの僧の態度は「こゝもまた憂き世なりけりよそながら思ひしまゝの山里もがな」(兼好)と、隱れ家を身の外に求めて已まなかつた昔の遁世者に比べて、遙かに徹底的でもあり一段の高きにゐるのでもあるが、「遁れては」の一語によつて寥廓たる胸裡の乾坤を制限しなければならぬのは、何故であらうか。
 それはほかでもない.遁れねば身の安さ心の安さを得難いとするからであつて、それを根本的に考へれば、おのづから隱逸思想の基礎たる獨善主義、即ち一種の利己主義、に想到しなければならぬ。或はまた彼等が世務を棄て無爲にして生を送らんことを欲するのは、人の世に立つて事をなすのは私慾のためであるとのみ考へられ、低級なる實利(453)主義、物質主義、利己主義、が一世を支配してゐて、個人としても社會としても、人間生活そのものを高めようといふ衝動が無い世の中だからである、とも考へられる。公共生活の無い社會、個人の重んぜられない世の中、爲すべき事業が無い太平の時代には、これは免れ難き傾向である。或る遁世者を忠孝の志を失つたものとして罰したといふのは(文昭院實記正徳元年の條)、現實の社會を本位としその維持を終局の目的とする以上、當然の話であるが、實はその同じ思想がやはり隱者を發生させる根本的理由なのである。
 
 シナ思想の影響を觀察してこゝに至つた著者は、この章の終に臨んで、例によつて當時の儒者が教として説いた人生の問題を一瞥しておかうと思ふ。儒教の根本精神は社會的秩序を立てもしくは維持することにあるので、それが政治でもあり、また私人としての道徳でもあり、さうしてこの政治の下にこの道徳的生活をするのが、人生の全體であるとせられる。道徳の外に學問の無いのも、教といふものが特に尊まれるのも、この故であり、その道徳がたゞ社會的生活の形式的親範に從ふことであつて、人間生活そのものを精練してゆくことでないのも、この故である。從つて儒教は人生そのものに於いては何等の理想をも有せず、現實の生活をそのまゝに容認してゐる。これは既に述べたことのある大體論であるが、更にこの時代の儒者の論議に上つた點について少しくそれを考へてみよう。
 儒教の租幹をなしてゐる教化政治主義は、人は教へざれば禽獣に等しいといふのであるが、これには人の方からいふと、自然のまゝたる人の性そのものに於いて、教へらるれば道徳的に完備した人になる種子もしくは素質があるので、教の任はたゞそれを開發するにあるとするか、人の性にはさういふ種子も素質も無いので、教は全く新なるもの(454)を外部から人に附加し、或はそれによつて自然の性を矯正するものであるとするか、この二つの考へ方がある。儒教倫理學に特殊な問題であつて今人の耳には頗る異樣に聞えるところのある性善惡論といふものが、こゝから生ずるので、前者は孟子の性善説となり、後者は荀子の性惡説となるのである。孟子と荀子とは同じく性の語を用ゐてもそのさすところは違つてゐるので、二人の説が正反對であるとは概言しがたいが、性が人に於ける自然の存在を意味する限り、その點ではかう考へられる。また教の方からいふと、その教は自然に存在する何ものかに本づいて形成せられたものとするか、全く聖人の方寸から案出せられたものとするか、この二つの見地があり、從つて教の具である禮樂も、例へば宇宙の節文に則つて作られたといふやうに、自然に模範を取つたものとするか、全く聖人の造る所とするか、この兩樣の見解が生ずるのである。さて性善説は人も宇宙の一現象である點に於いて前者と通ずるところのあるものであり、さうして教の基礎を人性の自然に置くことによつて、外から與へるものがおのづから内に存するものと相應ずることになるが、性惡説は宇宙の一現象たる人の性そのものに道の種子が無いといふ點に於いて、後者に傾く。(老莊の思想では、教を人爲的のものとして人に於いても自然のまゝを尚ぶのであるが、これは教化主義を根本から否認するものであるから、儒教の考にはあてはまらない。さうして人の自然を尚ぶ老莊は決して性をいはゆる善とするのではない。)また人に重きをおくものはおのづから性善説となるが、教に力をいれるものは性惡説に傾き易く、さうして教を純然たる聖人の所造と考へ、從つて聖人を人間以上のものとして殆ど神の如く觀ずる傾向がある。さて心を修めることを主とする程朱陸王の學説は、歴史的にいふと孟子に本づき、また一切衆生に佛性ありとする佛教の影響をうけてもゐるから、それが性善説を主張するのは當然であつて、自己の努力によつて本然の性に復れば聖人と(455)同じ徳に至ることを教へるのである。
 さて江戸時代の儒者で程朱の説を奉ずるものは勿論のこと、王學から出た蕃山もまた「人みな聖人たるべし」(集義和書卷一三)と説いてゐるし、宋儒の復性説を非難し、天地は活物であるからそれに則つた聖人の教も人の性の擴充を目的とする、と説いた堀川の學も、種々の點に於いて程朱陸王とは趣きを異にしてゐながら、畢竟人性の善を主張するのである。が、教化政治主義を高唱した※[草がんむり/(言+爰)]園一派はそれに反して、人は決して聖人にはなれず、たゞ聖人の作つた道によつて外部から薫習せられるのみであり、人慾は絶ち得べきものでなく禮樂によつて節制せられるのみだ、といつてゐるので、前項に説いたところからいふと、これはそれ/\儒教の相反せる一面を力説したものである。なほこの人慾説は堀川流でもほゞ似た考を有つてゐる。さて教はならはしに過ぎぬといふ徂徠派の説は、恰も人は境遇次第のものであるといつた西鶴の思想と同樣であつて、人の意志を認めないもの、從つて人の道徳的責任を無視するものであるのみならず、その教といふものに對しては、人をたゞ受動的地位に置くものであるから、この點に於いては、人がみづから高い理想をもちそれに向つて自己の生活を進めてゆくことを考えないものである。さうしてその教といふのは禮節、即ち社會的生活の形式的規範、に外ならず、飲食男女の慾をそれによつて調整するのが人であり、さうしないものが禽獣である、といふのであるから、人と禽獣との差異は量的であつて質的ではなく、從つてこの説は一種の物質主義、肉體の生活のみを人生とする考の上に立つものである。人慾が即ち人生の本質であるとして性惡説的傾向をもつのは、この故である。程朱陸王の説はそれとは違ふが、そのいはゆる聖人も本然の徳の明かなる境界も、生活の上に現はれては、畢竟上に述べた如き意義に於いて道徳的に完備したものに過ぎず、實踐道徳としてはど(456)こまでも定められてゐる禮節を守ることが重んぜられてゐて、本然の性といふのも性の善といふのも、つまりは禮節に順應し得る素質といふに過ぎないから、その無理想であり物質主義であることは同じである。さてかゝる思想はこの章の始めに述べた如く、當時の時代精神ともいふべき思潮の一方面にはおのづから適合するものであるから、それが一部の知識社會に容れらるべき理由があると同時に、それによつて時弊を救濟することはできないはずである。しかし儒教の所説とこの時代の道徳思想との相違は、かゝる根本精神に於いてではなくして、現實の社會的秩序とシナの經典に見えるそれとの不調和もしくは背反にある。
 さて道徳がかういふものであるとすれば、人に對してそれを強ひることもおのづから嚴格にならねばならず、またそれが形に現はれた一々の行爲の上に於いてせられ、全體としての人格と個人に特殊な心生活とを深く考へないのも、自然の傾向である。いはゆる心術の是非善惡といふのも、書物によつて學ばれた一種の抽象的獨斷的標準を以て、その行爲から推論するに過ぎない。山崎派の如きはこの點に於いて最も苛察であり、むしろ冷酷であつて、實際に於いてもそのためにしば/\師弟知友の間に友情の乖離を來たした。古人を論ずる場合にも同樣で、白石の史論などもやはりその例に漏れない。彼等の考のやうにすれば、窮屈な世の中が幾倍も窮屈になつて、殆ど身動きもならぬものになる。また彼等は天を畏れその理法を尊ぶことを教へるけれども、それは道徳的の意義を帶びて人の世に行はるべきものであるから、さういふ理法を維持するために人に向つて要求するところは、極めて酷薄とならねばならぬ。前卷にも述べた如く後なきを以て父祖の罪惡の故とするやうな考もその一つであるが、あのむつかしく義理を論じた山崎闇齋やその門下の淺見佐藤三宅などの諸學者が、何れも嗣の絶えたことによつて後人の批議を招くに至つたのは、甚(457)だ皮肉である.たゞ徂徠が疵ものでなければ人才は無い、疵の無いものは郷※[原/心]か好言令色か但しは庸人かだ、と喝破し(答問書)、また並河天民が盗むほどの才あるものでなくては倉廩を託するに足らぬといつてゐる(近世畸人傳卷五)類は、これらの二三子が尋常一樣の儒者でなかつたことを示すものであつて、儒家の思想を説いたのではない。徂徠の徒でも、經學を以て自任したといふ春臺の如きは、その態度がむしろ山崎派のものに近い。
 次に神道者の説はどうかといふに、彼等の否認する儒教が文字上の知識によつてむつかしく道徳を説くのであるから、それに反對する意味に於いて、おのづから自然のまゝを尚ぶ思想に傾き易く、特に異國の聖人といふものの教を奉ぜずしてその道といふものを排斥する以上、道を聖人の作つたものとする考に對して、人生の自然を尊重する理由がある。前章に述べた戀愛觀などもその一例であり、全體に生を樂しむといふ思想のあるのもそれである。殘口が情慾を人生の自然として説いてゐるのは、やゝ上に述べた堀川派や※[草がんむり/(言+爰)]園の學説と似てゐるが、たゞ彼等と違ふところは、禮もしつけも無い自然のまゝがおのづから道であるといふ點にある。かゝる自然主義と道義との関係は明かでないが、人生に於いて自然のまゝ(ありのまゝ)を尊ぶならば、社會生活についても同樣に考へられるので、現在の社會組織はそのまゝでよく、人はたゞそれに順應して生きてゆくべきものだといふことになつて、そこに社會的道義が成立すると考へたらしい。だから時に從ふがよいといひ(正親町公通卿口訣)、分に應じてそれ/\の業務に從事するのが道だといふのである(伴部安崇神道野中の清水)。これは後の宣長の説とほゞ同じであるが、現在の生活、現在の社會の状態、に些の不滿を感ぜぬところが、太平の世の民であると共にまた現實主義の徒であることを示すものであつて、この點に於いては儒者と同樣である。なほ生に重きをおく神道者には、生死を無關心に見るやうな態度は無いが、(458)彼等の生死觀については、後章で考へるであらう。
 
(459)       第十九章 自然觀
 
 元禄の詩人でその感興を主として自然界に得た芭蕉は、笈の小文の卷頭に「風雅に於けるもの造化に隨ひて四時を友とす、見るところ花にあらずといふことなし、思ふところ月にあらずといふことなし、像花にあらざる時は夷狄にひとし、心月にあらざる時は鳥獣に類す、夷狄を出で鳥獣を離れて、造化に隨ひ造化に還れとなり、」といつてゐる。(造化といふのは人間界に對する自然界といふほどの意義らしい。宇宙といふやうな觀念ではない。)これは前章に述べた如く、彼が實世間の外に花月の天地を開いて、そこに心遊するを風雅としたのであつて、この風雅の無い世界を夷狄鳥獣に比したのは、多分西鶴と同じく世間的生活を色と慾との世界と觀たからであらう。さうして彼はこの風雅によつて、世間の羈縛を受けない自由の郷に心遊することができた。「起きよ/\我が友にせんぬる胡蝶」、彼はかうして胡蝶と共に世外の世に逍遙しようとしたのである。たゞ彼は風雅の世界と實世間とを相容れることのできないものとしたのではなく、彼自身としてはこの風雅を「生涯のはかりごと」として世に生きてゆくことができ、世間全體としては、夷狄鳥獣の生活もしくは窮屈な義理の束縛が風雅に潤色せられ緩和せられて、人の住み得るところとなり、またそこに人の味ひ得る情趣が生ずるとしたのである。しかし彼が風雅を以て世に立ち世に交はつたところに、シナ式の隱者とも古風の世すて人とも違つた點があるものの、實世間の外に花月の世界を置いたのは、この二つが互にその本質を異にしてゐると考へたからではあらう。この點に於いて彼の風月觀は、奈良朝人のうぶな花鳥の愛玩とも、その花鳥を人の榮華の具とする平安朝貴族の思想とも違ひ、平安朝末期に始つて鎌倉室町時代に繼承せられ、西(460)行宗祇によつて代表せられてゐる態度、即ち世間的生活から離れた點に於いて自然の價値を認めるものと、その軌を一にしてゐるので、こゝに彼の風月に對する因襲的趣味が存在する。或はむしろその因襲的趣味が彼を導いて世間的生活の外に風雅を求め得させた、といふ方が適切であらう。
 元禄詩人の自然觀が主として平安朝末期以來の古典から來てゐるものであることは、そのころから行はれてゐる月雪花の故らなる賞玩や名所の見物が依然として重きをなし、俳諧の季題が概ね和歌連歌の因襲によつてゐるのでも知られる。安積山では「沼をたづね人に問ひ、かつみかつみと尋ね歩き、」ふりし名の吉野の花にあこがれては「吉野にて櫻見せうぞ檜木笠」と浮かれ出で、或はまた「花のかげ謠に似たる旅ねかな」と大和の春にうち興じ、芭蕉の行脚の一半の動機がかういふ古典的情調の尚慕にあることはいふまでもなからう。「きぬたうちて我に聞かせよや坊が妻」、「旅人と我が名よばれん初時雨」、砧にも時雨にもこの古典趣味の背景があることは勿論である。「そよりともせいで秋立つことかいの」(鬼貫)に至つては、明かに古歌を思ひ浮かべてゐるのであり、「月代や昔の近き須磨の浦」(同上)も、須磨の月に古人の面影を見たのではあるまいか。これは眼前の自然を古人の情調に浸して含蓄を饒かにするものではあるが、また新しい自然觀の上に加へられた桎梏でもある。その桎梏の一つは、地方人でありながら特殊な地方色をその周圍の自然に看取し得ないことであつて、俳諧にあつては季といふものに一定した標準のあることが既にそれを示してゐる。次には古人の陷つた誤をそのまゝに繼承することであつて、實境の觀察をするところに新しみと特色とのある俳諧でありながら、三月盡に「明けぬまは星も嵐も春のもち」(丈草)のやうな、眼前の風光に對する何等の感興をも含んでゐない知識的の構想による句の作られたのも、その一例である(「貴族文學の時代」第(461)二篇第六章參照)。ついでにいふ.仁齋が堀河百首の題を詠じた三月盡の七絶に「郤嫌人意生分別、猶有山櫻落後花、」の句のあるのはおもしろい。
 のみならず第八章に述べた如く、蕉門の句には、農民生活の面影の現はれたものが多いにかゝはらず、農民生活そのものには深い關係の無い因襲的花月の翫賞がその中に少なくないので、「奈良坂や畑うつ山の八重櫻」(春の日且藁)、「田をもつて花見る里に生まれけり」(同上羽笠)、のやうなのがその例である。「麥食ひし雁と思へど別れかな」(曠野野水)とても、歸雁についていひふるされたことを農事に結合したのみであつて、その別れを惜しむ情は農民生活からいへばむしろ無意味である。彼等の自然は有り來りの花鳥風月に限られてはゐないが、それを觀る態度はやはり因襲的であつて、例へば俳人の作に田園の情趣がよく現はれてゐても、それはたゞ農耕の光景をよそめに眺めたのであつて、昔の平安朝貴族の觀察に比べると、その間に大なる親疎の差はあるけれども、傍觀的な點はほゞ同じである。「上げ土に何時の種とて麥一穗」(玄察)、「枯色は麥ばかり見る夏野かな」(生林)、「麥かりて桑の木ばかり殘りけり」(作者不知)、「麥からにしかるゝ里の葵かな」(鈍可、以上曠野)。或はまた「新田に稗がら煙る時雨かな」(昌房)、「百姓も麥に取りつく茶摘歌」(去來、以上猿簑)、その他、第八章に擧げておいた幾つかの句も、ほゞ同樣である。何れも農民がおのれみづからの生活を敍したのではない。春が來ても鍬のさきに掘りかへす土の匂ひの新しさを感ぜずして「動くとも見えで畠うつ男かな」(去來)と、風景として畑打をながめ、早苗を取るころになつても「風流のはじめや奥の田植歌」(芭蕉)と、田植を風流視してゐるではないか。「あさ漬の大根洗ふ月夜かな」(曠野俊似)、「時鳥なくや田植の尻の上」(許六)、なども、大根洗つてゐるもの田植してゐるものの月や時鳥ではない。(462)「芋あらふ女西行ならば歌よまん」(同上)に至つてはなほさらである。夏には田にも畑にも作物の盛に生育するを樂しみ、秋には千頃の田の金色に燃えて幾月の辛苦が豐かなる收穫に酬いられたことを喜ぶ情も見えない。季題趣味なるものは、その田園に關するものに於いても概ね遊戯的であつて、四季の推移も農事そのことに現はれてゐるものは少い。だから太陽を讃美し風雨に感謝し、或はその威力を恐れるやうな、農民の生活から生ずる宗教的感情などが毫も文學に現はれなかつたのは、無理も無い。もつともこれは、曾て述べた如く、自然の恩恵の裕かであるのに慣れて、かういふ感じの強くないといふ故もあらうが、文學が遊戯的のものとせられてゐる故もあるので、それは實生活とかゝはりの無い風月の愛玩が、自然界に對する唯一の態度とせられた因襲的趣味のためである。特に俳諧に於いては、事物を客觀視する連歌以來の風習と、この時代の文學に通有な遊戯的性質とが、一層その傾向を強めてもゐる。其角の「燒鎌の背中に暑し田草取」などは珍しい例であるが、これも「憫農」と題してあるのでも知られる如く、農民自身となつてその心情をいひあらはしたものではない。
 けれども當時の自然觀は、古人の外に一歩も出なかつたのではない。同じ趣味に本づきながら變つた方面に眼をむけ、または細かい觀察をしてゐるのみならず、その間におのづから新しい眼孔を以て自然を見、新しい氣分を以て萬有に接するやうにもなつた。元禄人の生活はやはり元禄人の自然觀を生まねばならなかつたので、比較的思想の自由な平民、從つて平民の文學、に於いて特にさうである。談林の徒すら自然と人事との配合に於いて往々珍しい情趣を見つけてゐるが、それも市井の生活に於ける自然を見たためである。「ながめやる海邊の里の二階より、内藏たてる住吉のすみ、」(宗因百韻)、「石臺や水緑にして秋近かなり、二十五間の物干の月、秋の空面と向へば角屋敷、」(談林(463)十百韻)、同じく月を見同じく空を仰ぐのではあるが、その月の光にも空の色にも今までには知られなかつた風情がある。(二十五間の句が瀟湘の詩の句をもぢつたものであることは、いふまでもないが、物干をもつて來たところに意味がある。)織留(卷一)の「品玉とる種の松茸」の章に、四季の推移を商人生活から見た一節があるが、これなどは昔の四季物語式の貴族的因襲を全く脱却してゐる。市井生活ばかりでなく、「すでに城下の明ぽのの風、つき鐘に夢を殘して代り番、」(談林十百韻)、「何百名の秋の野の月、詠むれば道具一筋露分けて、」(同上〕といへば、武士の風月にもまた別樣の趣きがある。蕉門に於いては「秋風や白木の弓に弦張らん」(去來)、「鉄砲の遠音に曇る卯月かな」(ひさご野徑)、の如きがあつて、これも秋風や卯の花曇りに新しい風情を添へたものであらう。その他「横雲はびろうどに譬へ朝日かげ、ねごゝろのよき夢の浮橋、」(西鶴五百韻)などは、作者の興味は新古今の歌を滑稽的に取扱ふところにあつたらうが、それに現はれてゐる風情から見れば、自然界を官能的に觀たところに新しみのある一標本である。
 しかし自然界に發見せられた新趣味の最も著しいのは、蕉門の徒によつて文壇に齎らされた田園の風物であつて、「澤苣やくされ草履のちぎれより」(杉風)、「芋だねや花の盛りを賣り歩く」、「梅若葉鞠子の宿のとろゝ汁」(以上芭蕉)、「芋を植ゑて雨をきく風の宿りかな」(其角)、「朝つゆによごれて凉し瓜の泥」(芭蕉)、「きり/”\す啼くや夜寒の芋俵」(許六〕、「麥飯やさらば葎の宿ならで」(杉風)、「蒟蒻と柿とうれしき草の庵」(芭蕉)、「新蕎麥の信濃話や駒迎」(許六)、「刈そばのあとの霜ふむ雀かな」(炭俵桐實)、「一夜々々寒き姿や釣干菜」(猿簑探丸)、「雪おもしろ軒の掛菜にみそさゞい」(同上〕、などがその例であり、これらは歌人は勿論のこと、連歌師も俳諧師もこれまでは全(464)く氣のつかなかつた新しい風物であり情趣である。
 さてかういふ新風物の發見は精細で親切な観察の結果であるが、それは單純な官能のはたらきにも現はれてゐるので、それによつて新しい事物が詩に入るのみならず、ありふれたものにも新しみが出る。例へば色についても「雲間より薄紫の芽獨活かな」(芭蕉)、「玉うどの美し苣の早苗の薄縁」(杉風)、「肌寒きはじめに赤し蕎麥の莖」(惟然)、の如く、今までは詩人に見すてられてゐた植物の色の美しさをよく觀てゐる。大きい景色についても「黒みけり沖の時雨のゆくところ」(丈草)、「雪は申さず先づ紫の筑波山」(芭蕉)、などの句がある。「おぼろとは松の黒きに月夜かな」(其角)、「青海や羽白黒鴨赤かしら」(曠野忠知)などは、一句の構想が全く色彩にあるではないか。「影むらさき霜を染めなす旭かな」(杉風)に至つては、近世のいはゆる外光派の畫家をして後に瞠若たらしめるものがある。芭蕉も色彩の觀察には興味を有つてゐたらしく、野ざらしにも笈の小丈にも奥の細造にもしば/\それが見え、「石山の石より白し秋の風」、「花にうき世我が酒白く飯黒し」、のやうな、むしろ主觀的情緒を色彩化したやうなものさへある。この石山の石や上にも擧げた「秋風や白木の弓に絃はらん」(去來)、「ひや/\と月も白しや秋の風」(鬼貫)、の類は、秋風の趣きが白い色によつてよく現はされてゐるが、これもシナの五行説から來たのではなくして、現實の感じをいつたのであらう。「葱白く洗ひ立てたる寒さかな」(芭蕉)なども同樣で、かうなると、色は單に目に映じただけのものではなくなる。色とは少し違ふが「月かげに動く夏木や葉の光」(炭俵かな)のやうな光線の反射に目をつけたのもあり、「釣柿の障子に狂ふ夕日影」(丈草)、「雀子や明り障子の笹の影」(其角)、なども物の影を寫して興趣がある。聲については特殊のものが見つからないやうであるが、嗅覺については「夕立に獨活の葉ひろき匂ひ(465)かな」(其角)、「市中は物の匂ひや夏の月」(去來)、のやうなのがあり、味覺では「身にしみて大根辛し秋の風」(芭蕉)、「武士の大根からき噺かな」(同上)、觸覺では「膝頭つめたい木曾のねざめかな」(鬼貫)、「暖かに冬の日なたの寒さかな」(同上)、など、何れもそれ/\の感覺に伴ふ情趣をよく表はしてゐる。
 觀察が親切になれぼ、おのづから繊細な情趣を深く味はうとするやうになる。これは概していふと西行宗祇などから傳へられた傾向ではあるものの、適用せられる自然界が廣くなり新しくなつてゐるだけ、それが珍らしく感ぜられるのである。「名は知らず草毎に花あはれなり」(杉風)、「山路の菊野菊ともまたちがひけり」(曠野越人)、名も知らぬ垣ねの小草にもそのおもしろみを發見するを怠らず、山路の菊にも野路の菊にもそれ/\に異なつた風情を見つける。「何となく植ゑしが菊の白きかな」(同上巴丈)には、その白菊の白きを深く喜ぶ情が言外に溢れてゐるではないか。朝さむとか夜さむとかいふ語が用ゐられ、「夏がすみ」「秋黴雨」(猿簑)の如き新造語のあるのも、さういふ語でなくてはいひ現はし難い特殊の細かい感じがあるからである。曠野で四季をそれ/\初中季の三つに分け、猿簑で四季の順序を冬夏秋春としたのも、或は季の感じの細かくなつたこと、或は因襲に拘泥しなくなつたことを、示すものであらう.
 この情趣は何の方面にもあるが、賑かなよりは寂しい方に、華やかなよりはわびしい方に、動いてゐるよりは靜な方、に於いて特にそれが深いので、芭蕉の如きは「けふばかり人も年よれ初時雨」といひ、「うき我を寂しがらせよ閑古鳥」といひ、恰も人生に於いて貧と病と旅との情味を愛するが如く、自然界に於いてもまたそれに似た趣きに心がひかれた。「雪うすし白魚白きこと一寸」、「海くれて鴨の聲ほのかに白し」、「梅白し昨日や鶴をぬすまれし」、「白(466)芥子に羽ねもぐ喋のかたみかな」、など、野ざらしの紀行の僅々二三枚の間に、白い色をいくつも點出したのは、偶然のことかも知れぬが、おのづから色彩に於いてもこの寂しい色を愛した故とも見られる。鶴の句はシナの詩人の故事によつたのではあるが、梅の色を特に白いといつたところに、芭蕉の趣味がある。風景に於いても壮大な趣きを解し得ないではないが、「寂しさに悲しみを加へて地勢魂を惱ますに似たり」(奥の紬道)といふ象潟などが、特に喜ばれたのである。松島では芭蕉も一つ/\の島の姿などに神工鬼作のあとを認めてはゐるが、松島全體の情趣はその奇景に驚嘆するといふ風のものではなく、やはり深くそれに親しんでしみ/”\と味ふべき性質の風光である。これは一つは因襲的趣味から導かれた點もあるが、自然界が忙がしい變化の多い世間的生活の外に立つ風雅の對象であるとすれば、かういふ物靜かな情味に特に心のひかれるのは、當然である。社會的に見れば、華やかな元禄の世界が反撥的にかういふ氣分を誘ひ出したといふ一面もあらう。
 のみならず、芭蕉の古池の吟に現はれてゐるやうな閑寂の情趣には、我を空しうして寥廓たる宇宙と直ちに相接する感がある。あらゆる神經を沈靜せしめあらゆる官能を屏息せしめて、寂然として無爲なる天地に對するのである。かの冬ごもりの境界の如きもこゝに生ずるので、萬木凋落して物みな無に歸した寂寞たる冬の自然と、孤獨なる心の生活とが、互に融合した心もちである。「冬ごもりまたよりそはんこの柱」、「金屏の松の古びや冬ごもり」(芭蕉)、古びた金屏よりなれた柱さへも、殆ど人間の造作から離れて自然に復歸してゐる。寂しさを愛するのは平安朝末以來のことであるが、例へば西行などにしても、境界の寂しさはあつても對するものの心は常に動いてゐるので、やゝもすればそこから一縷の感傷的情緒が導き出されるのに、芭蕉のは我れみづから我が心の寂然たるを味ふ趣きがあつて、(467)これも西行や宗祇には見られない新しさである。さうしてそれは前章に述べた彼の人生觀と、同一の根柢から發生してゐる。
 が、元禄人は西行時代の平安朝人の如く悲觀的でないから、自然界に於いてもまた明るい陽氣な方面をも見てはゐる。日光を材とした句が多いのもそのためであらう。芭蕉にすら「梅が香にのつと日の出る山路かな」の作がある。鬼貫も「朝日影さすや氷柱の水車」といつた。「ほた/\と朝日さし込む炬燵かな」(丈草)、の如きは靜かな光景であり老人めいた感じでもあるが、ともかくも明るい日光に浴してはゐる。その他「日の出る前の赤き冬空」(炭俵孤屋)を美しく眺め「日のあたる方は赤らむ竹の色」(同上)を見出したものもある。しかしそれよりも例の多いのは華やかな夕日の眺めであつて、「※[風+火が三つ]や雲雀あがれと夕日影」、「烟草干す山田の畔の夕日かな」(以上其角)、「日は焦れたる黴雨の夕榮」(支考)、「蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな」(其袋集沾荷)、など、數が頗る多い。「山つゝじ海に見よとや夕日影」(猿簑智月)といふやうなものもある.「罔兩はよその畑うつ夕日かな」(其角)の長閑な、または「大橋を枯野に渡す入日かな」(續の原金峯)のむしろ寂しいものもあるが、「青柳に蝙蝠つたふ夕榮なり」(其角)には、陰氣な蝙蝠が飛びあるいても空は夕榮に美しく輝いてゐることを、注意しなければならぬ。もつともこれは蕉風の俳諧ばかりではないので、「彩る空は夕陽の山は夕の雲の帶」(二枚繪草紙)といひ、「海原靜に夕日紅」(五人女卷一)、「浪に數よる花貝、紅雪紫瀾の眼を奪はれ、夕日磯に落ちて八色の玉を洗ふ、」(二代男卷八)といひ、近松や西鶴にもしば/\夕陽は寫されてゐて、特に西鶴にはその例が甚だ多いのを見ても、それがはで好きの元禄人に喜ばれたことを知るに足るであらう。「酒店の秋を障子明るき」(凉さの卷其角)の秋の日和を明るく見て、因襲的の悲しげな空(468)氣に蔽はれないのも、同じ理由からではあるまいか。小春といふ語によつて表はされる冬の感じもまた同樣である。或はまた「雛の袂を染る春風」(曠野羽紅)の如く艶かな春風を捕へたものもある。華やかでも艶かでもないが「五月雨をあつめて早し最上川」(芭蕉)、「木枯らしにこ日の月の吹きちるか」(曠野荷兮)、或は「鷹一つ見つけて嬉し伊良胡崎」、「荒海や佐渡に横たふ天の川」(以上芭蕉)、「秋の空尾上の杉をはなれけり」(其角)、「星はら/\霞まぬ先の闇の色」(春の日呑霞)、などの、勢の激しい、或は眼界の廣い、光景も、昔には見られなかつたところであらう。「木枯らしの果はありけり海の音」(言水)なども、句の巧拙は別問題として感じは大きい。昔の平安朝人ならば、かういふ光景に對してその繊弱な神經を戰慄させ、ひたすらに恐しさと寂しさとを感じたであらうに、元禄人は却つてそれを興じてゐた。そこにこの時代の男性的な氣風が見える。
 次に新しいのは自然を滑稽的に取扱ふことであつて、これは前章に述べたやうな、世間に對し人生に對する氣輕な飄逸な風狂的態度と、相應ずるものである。「市人にいでこれ賣らん笠の雪」、「君火を燒けよきもの見せん雪まるけ」(芭蕉)、風雅の世界に於いてのみ價値のあるものを、世間的生活に於いても價値あるが如く、見なすのが滑稽であつて、風雅と世間的生活とを分離して考へる以上、この滑稽は隨所に生ずる。「いざさらば雪見にころぶところまで」(芭蕉)も同樣であるのみならず、「ころぶ」の三字によつて風狂の態が一層よく現はれてゐる。「蚤しらみ馬の尿する枕もと」、「夏衣未だ蝨をとり盡さず」(芭蕉)、の如く、蚤や蝨や一般に卑俗とせられてゐたものに興趣を求めたのも、それが古典的趣味に反對し或は華麗を喜ぶ普通の人情と背馳する點に於いて滑稽である。海鼠とか河豚とか木兎とか簑蟲とか、或は芋とか蒟蒻とか、不恰好な、形をなさぬ、醜い、むさくるしい、或は愚なやうに見える、ものに(469)特殊の興味を有し、「草の葉や足の折れたるきり/”\す」(曠野荷兮)の如く、わざ/\片輪ものを見つけて喜んでゐるのも、その風姿態度が滑稽の感を誘ふのみならず、それを取扱ふ心もちにも滑稽があるので、綜括していふと、蕎麥切や麥めしやとろゝ汁をめで、鉢叩きや黒木賣を愛するのと、同樣の心理から來てゐる滑稽趣味であり、いはゆる俳味がそれである。これは我が身を輕く觀ずる心もちの對象を自然界に求めて得たのであるが、特に河豚に至つては「あら何ともなや昨日はすぎて蝮汁」(芭蕉)の句にも現はれてゐる如く、見やうによつては生命に關する大事件たるべきことが、極めて輕易に取扱はれる點に、大なる滑稽が感ぜられるので、俳味としては上乘のものである。なほ「人何か海鼠の無爲なる貌」(虚栗楊水)の如きは、海鼠に人生の面影を認めてそこに滑稽を感じ得たのであるが、猫の戀もまた同樣で、人の戀に對する滑稽的觀察の一面がそれに投影せられてゐることは、いふまでもなからう。「干大根よめ菜を戀ふる衰へは」(常磐舍の句合杉風)などは、初期の作だけに談林風の言語上の遊戯も含まれてゐるが、その思想は猫の戀に對するのと違ひがない。たゞ人の戀を滑稽視せずして猫にそれを認めたのは、一つは蕉門の士の人生に對する態度が談林の徒と異なつてゐるためでもあらう。「茗荷たけ葉生姜の上に立たんことを」(同上)といふやうなのも、同じ思想の傾向を示すものであつて、.そこにも世相に對する飄逸な觀察が潜んでゐる。
 さてかういふ滑稽的態度に遊戯分子が存在することはいふまでもないが、概していふと元禄人は自然に對しても大なる感激や驚嘆が無い。その生活に於いて最も多く自然に依頼しなければならぬ農民が既にさうであるから、その他に於いてはなほさらである。もつとも「花に來て美しくなる心かな」(曠野たつ)といひ「花に埋もれて夢より直に死なんかな」(春の日越人)、といふやうな句には、或る種の感慨が見えないではなく、「よく見れば薺花さくかきね(470)かな」、また上にも引いた「雪まより薄紫の芽獨活かな」(以上芭蕉)、などは、微細なものにも現はれてゐる天地生生の氣に對して、おのづから發せられた感嘆の聲とは聞かれるが、極めて稀な例に過ぎない。芭蕉が月山で「三尺ばかりなる櫻の莟半ば開ける」を見て「降り積む雪の下に埋もれて春を忘れぬ遲櫻の花の心わりなし」(奥の細道)と、むしろそれをいぢらしく眺めてゐるのでも、彼等の思想の傾向が覗はれよう。風景に對しても同樣で、そこに大自然の嚴肅なる力を感ずることが少い。芭蕉にはやゝ雄大なる光景を寫した二三の句があるが、それを見ても、さしたる敬虔の情を抱いたらしくは思はれぬ。鬼貫が清見寺で「海原見やるところに望めば心暢びまた心弱くなれり」(禁足旅記)といつてゐるのは、眺望の大なるに對して我が身の小なるを覺つたので、そこに彼の詩人的感激があるけれども、自然の前に脆拜せずして我が心の弱きを思ふ態度に注意しなければならぬ。さうして實はさういふ光景に對することすらも甚だ少く、多くは長閑な優しい小さい方面にのみその眼を向けてゐる。雪見の雪が優しい雪で簑蟲や蝨が小動物であることは、いふまでもない。風狂の態も俳味を託するのも、一面の意味に於いては自然界の事物を玩弄し得べきものとするのである。日常見なれてゐる日本の自然界が多くは優しい美しい風情の多いものであり、旅をしても宏壯な眺めに接することが少く、冒險的な行動などをするやうなことは殆どないところから養はれた心習ひで、かういふ氣分が生じたのではあらう。しかし人によつては優しいもの小さいものに對してもそれに大きなまたは強い力のはたらきを看取することはできるので、芭蕉にもそれが無かつたのではないが、極めて稀であるところに、元禄の詩人の自然觀の制約があるので、それは次にいはうとすることからも知られる當時の日本人の平和の生活の致すところであつたらしい。たゞ稀にではあるが芭蕉に上に擧げたやうな句のあるのは平安朝の歌人には見られないことであ(471)つて、それは古人に比べると彼の心生活が或る深さをもつてゐるためであらう。
 蕉門の俳人や鬼貫などには、往々極めてのどかに、むしろ無關心に、自然界の現象を傍觀してゐる場合がある。第八章に擧げた蛙の句、又は「燕の巣をのぞきゆく雀かな」(長虹)、「黄昏にたて出されたる燕かな」(鼠弾)、「桐の葉にとまらで過ぐる蝴蝶かな」(梅餌)、「萱原の中を出かねる蝴蝶かな」(炊玉、以上曠野)、といふやうなものを見ても、かういふ小動物の動靜を見守る作者の態度が、甚だのどかであることがわかる。觀察は精細であつて、そのものの特性をよく捉へ得てゐるにせよ、畢竟それだけのことであるのみならず、「鶯が梅の小枝に糞をして」(鬼貫)などのやうにそれが滑稽味を帶びて來ることさへ多い。それには前に農民生活について考へたと同じ理由もあるが、時代の思想として見れば、そこに無事にして生を送り得る平和の世の面影も認めらわる。燕の巣をのぞいてゆく雀や、飛び入つてしばし水ゆく蛙を、何ごとも無く眺めてゐるのは、太平の逸民の氣分ではなからうか。さうしてそこにやはり現在の政治、現在の社會、に滿足してゐる當時の一般人の思想が覗はれる。
 もつともこんなものばかりでないことは勿論であつて、文字の上には現はれてゐないけれども、例へば「大原や蝶も出て舞ふおぼろ月」(丈草)には、春の夜のおぽろの月に興じて胡蝶と共に浮かれ出た風狂の僧の面影が見え、從つてその光景に深く自我を没入してゐる態度の作者にあることが覗ひ知られる。さうしてそれを明かにいひ現はさないのは、歴史的に馴致せられた、また形の上からも來る、俳句の作者に特有な態度と技巧上の理由とによるのである。或はまた既に述べた如く、觀るものの情懷を外界に託した抒情味の饒かなものも多く、芭蕉などの如く、特殊の世間觀人生觀を有つてゐるものの作に於いてはなほさらである。けれども我が小主観の影を自然に投影してそれを觀るの(472)は、自然そのものを讃嘆するのではなく、おぼろ夜に心のうかれ、しぐれや春さめに興ずるのも、その實、わが趣味に適ふものを自然界に求め得たに過ぎない。
 以上は蕉門の俳諧に於いて認められる元禄人の自然觀であつて、人によつてその趣味に幾らかづゝの相違があるため、全體から見れば、そのうちにいろ/\の矛盾した傾向が含まれてゐるが、それがやはり元禄の世相の諸方面に幾らかづつの關係を有つてゐるのである。しかし概していふと、人間生活との交渉が少く、風月を風月として獨立にまた遊戯的に見てゐるのが、その通相であつて、奔逸なる想像を以て自然現象を空想化することが無く、また現象を現象として見るのみで、それに溢れてゐる大宇宙の生命の泉をくまうとするものが少いのも、こゝに重大な原因があらう。元禄人は實生活に於いて、世間に順應するか、或はそれと共に戯れるか、またはそれから退避するか、の外に出ることができないと同樣、自然界に對しても、單に眼に映ずるがまゝにそれを享受するか、滑稽的にそれを弄ぶか、世間ばなれのした特殊の趣味を以てそれに對するか、に過ぎないと共に、實生活とそれとは全く別の世界をなしてゐる。浮世草子に自然の觀察の少いのも、日常生活を寫すを目的とするこのころの浮世繪に自然界の描かれることの稀であるのも、この故であつて、もし人の生活と自然とを結びつける場合には、繪畫に於ける光淋の如くそれを模樣化するやうになるのも、偶然ではない。芭蕉の風雅の世界とてもこの點から見れば、畢竟遊戯の世界に過ぎないので、その人生に及ぽす效果は、たゞ窮屈な世の中を幾分かくつろげ、色と慾との追求をいくらかなりとも緩和する點にある。その閑寂の趣きとても要するに人生を回避するまでのことである。
(473) 擬古文學に現はれてゐる自然觀については、多くいふ必要が無からう。それは元禄人の自然觀ではなくして、平安朝人の百然觀だからである。平民文學の自然觀は古典趣味によつて導かれ、またはそれを基礎としてゐるにしても、一度び元禄人の心生活に入り、それによつて鎔化せられたものであるのに、擬古文學は昔の平安朝人が日常生活の背景として感じ得たところを、それから分離した特殊の趣味、むしろ知識、として學んでゐるに過ぎない。契冲でも長流でも、または季吟長伯などでも、その自然を詠じた歌が極めて調子の低い、殆ど歌といふことのできないやうな、もののみであるのは、この故である。「天地に洽く滿てる春の色をたゞ花鳥の上にやは見ん」(鹽尻卷一一所載)といふやうなのは、和歌としては珍しい例であるが、その表現法の理智的なところを見ると、決して詩人の作ではない。多分漢文學から得た知識を三十一音にしたのみのものであらう。
 次に漢詩の摸作者の自然に對する態度は、既に述べた如く文字によつて學び得たシナ思想やシナの傳説などの背景の前にそれを置き、もしくは強ひてシナ的風景の如くそれを改造するのである。その心理については既に第十二章に述べておいたが、それにはまた、恰も擬古的歌人が平安朝人の趣味をその生活から離して考へてゐたと同樣、漢詩の摸作者が唐人の詩に現はれてゐる風物なりそれに對する感懷なりを、シナに特殊な風景の描寫でありシナ人に特殊な生活から生まれたものであるとは考へず、風景美の普遍なる姿と思つてゐた、といふ事情もある。が、ともかくも彼等が目前の風光そのものに感興を覺えたのでないことは、江戸の神田川を萬里の流といはねば詩にはならぬといつた鳩巣の語(駿臺雜話卷四)の如く、彼等自身も知悉してゐたのである。だからこの點に於いて先づ、彼等が自然を如實に觀なかつたこと、從つて自然そのものの情趣を味はうとせずまたそれを尊重しなかつたことが、明かに知られる。(474)庭園の所々に誇張せられたシナ風の名稱をつけるなども、これと同樣であつて、人工的のものを思想上さらに人工化するのである。その上にいはゆる詩人がそれによつて更に幾層も誇張した詩を附け加へるに至つては、もはや遠く自然を離れた知識上の遊戯である。
 ついでにいふ。琵琶湖畔に瀟湘八景の名が適用せられてから、所々にその摸倣が行はれて、終に元政をして景色は八つに限らぬといはせ(草山集)、白石をして八景の詩は作らぬと罵倒させたほどであるが(白石手簡)、當時各地に名づけられた八景は必しも瀟湘のに擬したものばかりではない。現に白石詩草などの中にも、例へば黎明、殘月、鹿鳴、夕陽、たどを數へてある備前の蟲明八景といふやうなものがある。これにはまだ夜雨、晩鐘、辟帆、が含まれてゐるが、觀瀾集に見える但州妙見山八景といふものには秋月があるのみで、その代りに沃野、遠花、紅葉、朝暾、といふやうな日本的風景が多い。錦里文集に出てゐる醉樂亭八景といふものには一つも瀟湘のを學んだものが無い。なほ數に於いて八に拘泥しないものもあり、時雨、螢火、鶯聲、とか(白石餘稿)、松緑、蘆花、涼風、鹽舍、とか(南海集)、蟲聲、炭煙、殘月、とか(蛻巖集)、さういふやうな目前の風光景物を取つたものもある。かの八景が何處にでもあてはまるわけにゆかないのと、一般國民の嗜好としては固有の風物に興味を有つてゐるのとの故であらう。日本三景といふものが何時から定められたかは、よく知らぬが、これも古い歌枕としての松島、室町時代から特に喜ばれたらしい天の橋立、さうして平家にゆかりのある嚴島、共に海上のながめまたは海を背景とするものである點に於いてシナ的でなく、さうして或は點綴せられる島嶼によつて、或は一帶の白砂青松によつて、宏壯なる大海の眺めが優美な風致に化し、また或は清らかな内海の水と美しい島山と平安朝式の殿閣との諧和した光景が、北畫的の奇峭や南畫的(475)の澹蕩とは全く情趣を異にしてゐる點に於いて、何處までも日本的また女性的である。三千風の行脚文集の卷頭に見える十二景も、また概して同樣といつてよい。これには勿論、古典時代からの因襲もあるが、日本の風土がおのづからかくの如き趣味を養成したのであるから、漢詩人や儒者の知識的遊戯を除いては、風景の翫賞が一般に優美の方に向つたのは當然である。この點から見れば、例へば弱浦(和歌浦)林莊十二景の明光蘆花とか雪埋鹽舍といふやうな日本的光景が、「開倚西風散倚波、蕭寒却比蓼花多、曉飛宿雁月浸夢、夜釣漁舟雪滿蓑、」(南海)、「雪滿江村迷四隣、撤空休笑與鹽均、望中何處不圖畫、獨缺探詩驢背人、」(同上)とシナ化せられたとは反對に、比牟禮八滿宮十景の豐浦歸帆、北庄夜雨、を「浦近みまつらん妹が門見えて歸る波路の舟いそぐらし」(季吟)、「心ある里のすまひの板びさし雨きく夜半の音そへんとや」(同上〕、と日本化してゐるのが、單に和歌の因襲的思想である故とのみはいひ難い。が、それよりも唐崎には松のおぼろを賞し、月には三井寺の門を叩かうとして、わざとらしい八景などに拘泥しなかつた芭蕉の方が、遙かに自然の情趣を解し得たものであることは、いふまでもなからう。
 けれども、漢文學によつて知識として輿へられたシナ人の自然觀が、我が國の風物に於いても、幾らかは新しい情趣を發見する方便になつたことは、許さねばならぬので、このことは既に五山僧の文學を考へる場合に述べておいた。徂徠が峽中紀行で記したこと、または後になつて妙義や耶馬渓の賞讃せられるのも、その一例である。しかし概していふと、シナ人はその固有の地理的現象に養はれた自然の結果として、光景の大なるところに興趣を有つてゐる上に、ともすれば放曠の氣をそれに寄託するのであるから、織細な情趣を深く味ふことが少い。高きに登つて遠く望むといふやうな詩の多いのもこの故で、奇峭を喜び澹蕩を愛するのもこれと關係がある。特に實景を見ずして詩によつての(476)みそれを覗はうとした日本人は、シナの文字に寫されてゐる言語そのものの微妙な情味を、十分に解し得ないために、ます/\その感を強める。だからこの點に於いて、かういふ好影響にも大なる制約がある。だから漢詩の摸作者が、日本にシナ的風景を發見するよりは、むしろ全く情趣のちがふ我が國の風光を、文字の上でシナ化して喜んだのは、自然の傾向であらう。さうしてこれは、一般の知識に於いてもまた同樣である。次章に述べるところによつて、それが知られよう。それは文學そのものとは直接の關係の少い問題ではあるが、思想史上、閑却すべからざることであるのみならず、文學に現はれてゐる思想の背景として、またはそれを側面から觀察するための資料として、この篇に附記するのも全く無益ではあるまい。
 
(477)       第二十章 知識生活 上
 
 昔から多くシナの文物を學んで來た我が國民た於いては、それがために最も必要である、またそれによつて得ることのできる、知識が過度に重んぜられる傾きがあると共に、その知識が多く實生活から遊離してゐる、といふことは、しば/\述べた如く何れの時代にも通有の状態であつたが、直接にシナ人と接觸することが極めて少く、たゞ書物によつてのみそれを知り得た鎖國制度の下では、なほさらである。のみならずかゝる文化上の事情は人をして、知識は書物を讀み得ること、漢文を書き得ること、もしくは書物に記してあることを知り或は記憶すること、であると思はしめ、おのれみづから自己を觀察し社會を觀察し自然を觀察して、その眞相を知りその間に存在する理法を考察する、といふことに思ひ到らしめなかつた。おのれみづからの體驗とそれから得た思想とを組織だつた知識とし學問とすることができなかつた。書物の上の記載と現實の状態とが適合してゐるかどうかすら、殆ど考慮せられなかつたといつてよい。またシナ思想そのものが、孤立語たる古典シナ語によつて構成せられてゐるいはゆる漢文によつて表現せられてゐるために、その思惟の方法が論理的でないといふ缺點をもつてゐるから、さういふものに薫習せられた日本の學者の思想にもまた同じ病弊がある。斷片的の知識を亂雜に羅列した随筆體の著述がこの時代に多く出たのも、學者の知識が論理的に組織せられてゐないところに一つの理由がある。その上、實驗的であるべきものも書物によつて學ぶことが主であつたので、從つて概して先人の説を繼承する外は無かつた。實驗科學の發達しないのは、これらの事情のためであるので、暦の編成について直接の必要のある天文學、醫藥の上また産業の上に大きな關係のある本草學(478)すら、概觀すると或は幼稚であり或は微々として振はず、さうして一般の知識社會からは殆ど顧られなかつた。城郭の築造、河川の開鑿、灌漑または飲用のための水路の設定、などに要する測量及びその他の方法、もしくは航海漁撈のための天文及び氣象の觀測、植林及び木材の採伐、鑛物の採掘、または農業及び諸種の工藝、に關する技術、については、それ/\の當事者が經驗から生み出した貴重な知識を少からず有つてゐたにかゝはらず、それらを學的に處理しまたは體系だてる知識人が無かつた。もつともこれには後にいふやうに儒教の學の影響もあり、その儒學を盛にした世情にも原因があるが、事實としてかういふ状態であつた。學者によつて例外はあり、また暦學に於ける安井算哲、農學に於ける宮崎安貞、本草學に於ける稻生若水、の如く、シナの書物に誘致せられたところがありながら、獨自の觀測實驗採集により、または數學に於ける關孝和の如く獨創的な研究によつて、大なる業蹟を擧げ、日本に特異な學問的活動をした學者もあるが、一般的にいふと上記の如き傾向を免れなかつた。知識と情生活の表現たる文藝とが縁遠いのも、やはりこゝから生じたことである。
 だから知識は重んぜられるけれども、それは今日の意義に於いての學術をばなさないものであつて、その學習には多大の迷信的態度が含まれてゐる。學問は儒學が中心であるが、儒者はその教に對して何等の批列をも加へることが無く、全くそれを盲信してゐる。彼等の知識が常にシナの書物によつて導かれてゐるのであるから、その師たり指導者たるシナ人の知識を批判しようとしないのは、むりのないことであるのみならず、儒者にとつては儒教は宗教的權威ともいふべきものをもつてゐたからである。よし宋儒などの後人の説を難ずるものがあるにしても、それは孔子の教に無い説だといふ理由からであつて、孔子が絶對の權威をもつてゐる。特にいはゆる古學派のものは、宋儒の説を(479)攻撃すると共に、後の本居宣長が、神の記録は文字のまゝに信用すべきものであるとして、神道者の解釋を私智として斥けたと同樣、後人が新しい考察を古典に加へることを排する傾きさへもあつて、この點に於いては人の智能そのもののはたらきを否認しようとするものである。神道者や宋儒の説、もしくはその説を立てる態度、またはその思惟の方法、に如何なる缺點があるにせよ、自己の見解によつて自己の説を立てること、古典の崇拜せられる世ではそれを解釋しようとすること、は人の知性の當然の要求といはねばならぬ。その要求を非とするのは、即ち事物に對する考察そのことを斥けるものである。徂徠が孟子を排したのもまたこれと同樣、思想の發展を許さないものといはねばならぬ。孔子またはいはゆる先王を全智全能の人として、その教に一切が具備してゐるとする以上、それをすべての標準とするのは當然のことでもあらうが、學者自身からいへば、孟子でも宋儒でも、彼等の見解による先王や孔子の眞意を説かうとしたのであり、他から批評すれば、古學派とてもその實、やはり彼等の見解によつて先王の道孔子の教を説いてゐるのであるから、彼等のかういふ主張は彼等自身の態度と矛盾してゐる。しかしともかくもかういふ考の起るのは、その根柢に於いて、何ごとも自己の思惟によるものでなくして他からの教を奉ずべきものである、とする考があるからである。これはシナ人に於いては、その特殊な生活から養成せられた一種の保守主義の故であるが、日本人に於いては、さういふシナ思想を繼承してゐることの外に、日本人が昔からシナの文學を學んで來たといふ事實が、かういふ考を深く人心に植ゑつけてゐるからでもある。
 そればかりではない。儒教は道徳の教政治の教であつて、儒者はその外には學問も知識も無いやうに考へる。從つて儒學はいはゆる道について直接の關係が無いやうに見える知識を、無用のものとして排斥し、少くともそれを輕ん(480)ずるので、そのため知識欲の發達を抑止する結果を生ずる。極めて少數の例外は無いでもないが、一般の儒者はシナの古書を讀んでも、それに含まれてゐる種々の自然科學的要素などは、殆ど棄てて顧みなかつた。上代にかなりの發達をしてゐた天體の運行に關する知識が、漸次政治道徳の方便として用ゐられ、或は讖緯の説のやうなものに墮落して來た如く、何事をも政治化道徳化しようとするシナ思想の一傾向を繼承した故もあるが、シナ人自身に於いては、種々の自然現象に關する古書の記載が、さすがにその土地の風土から構成せられたものであつて、日常それに親しんでゐるのと、幾らかは外國の知識の影響を受けてそれに刺戟せられるとのため、この方面の講習も少しづゝは行はれてゐたのに、日本ではたゞ文字どほりに、道徳の學が知識のすべてであると考へられたのである。歴史の學の中心が古人の道徳的批判にあるとせられ、文藝が道徳を教へる方便としてのみ意義のあるものと考へられたことは、いふまでもない。もつともこれには社會的秩序の維持が極度に重んぜられてゐた當時の一般の精神にも關係があるので、昔の奈良朝平安朝の學問が主として詞藻の學となり、また道徳的修養の方面よりはむしろ識緯説などの歡迎せられたのが、漢魏六朝の學を傳へたといふことの外に、當時の社會事情にも深い根據があつたことを考へ合はせると、そこに興味ある對照がある。江戸時代の儒學がかうたつたことは、儒教の本質から來てはゐるが、時代の思想もまた與かつて力があるといはねばならぬ。が、平安朝の昔にしても、それによつて眞の學問が起らず知識が形成せられなかつたことは同じである。
 けれども、孔子の教にしてもいはゆる先王の道にしても、それを學ぶにはやはり一種の知識の力によらねばならぬ。それは先づシナの文字を知り古書を讀むことから入らねばならぬからである。教そのものは實踐的のものであるとせ(481)られ、學ばずと雖も學びたりとせんといふ語が重要視せられたにせよ、事實としては讀書によつてのみ道が學び得られる如く考へられ、論語などを讀むことが徳に入るの第一歩であるとせられたではないか。實生活から出立しないで、仁義忠孝といふやうな文字が先づ提出せられ、さうしてその字義を解説することが道を修める根本の方法とせられてゐたではないか。山崎派の學問に、讀書をなるべく狹い範圍に局限しようとする傾向のあつたのは、この點に鑑みるところがあつたのかも知れぬが、それとても小學や近思録が最初に教へられたのであるから、それはたゞ知識を狹めたのみのことである。徂徠春臺一派の説の如く、理智から入らずにシナの古典文學に通じ、それによつて古代シナ人の氣分に薫染せられるを要するならば、なほさら深く古文學の特殊の知識をもつことを要する。が、これは日本人にとつては困難なことであるから、方便としての諸藝を學ぶために目的の修行ができなくなつた、といふ徒然草の一笑話が、徂徠派の學者には適用せられさうである。
 もつとも一方からいふと、當時に於いては、かういふ風にしてシナの書物を讀み得るやうになつたことが、幾らかなりとも國民の知識を増進させる所以ではあつたので、表面上道を教へるためと稱せられてゐた儒學が國民に與へた利益は、政治や道徳の教そのものの效果よりは、むしろ一般に國民の知識を廣くしたことである。その知識が偏狹な儒教主義の型にはめられた畸形なものであり、それを學ぶ方法が文字から入るものであるために、智能の發達にも知識欲の増進にも大なる累を及ぼしたとはいへ、ともかくもそれによつて何ほどかの知識が得られたことは事實であり、政治や道徳についても、歴史や傳記に現はれてゐる世の動きや人々の事蹟や、もしくはそれによつておのづから感得せられるところのある處世訓や鑑戒やが、幾らかの裨益を國民に與へてゐる。これは恰も佛教が國民の宗教生活その(482)ものには大なるはたらきをしなかつたにかゝはらず、それに伴つて傳來した知識や藝術などのために、一般の文化が發達したと同樣である。儒教そのものが國民の道徳生活と相關することの甚だ少いものであるといふことは、前數章に述べたところで知られたはずである。さうして實はこの點に儒者の主張の空疎である明證があるのである。
 さてこの知識は、シナの實社會シナ人の實生活から直接に得たものではなくして書物の上のものであり、特にその中心は道徳上の教訓にあるから、實社會實生活を知らずまた批判力の無い儒者には、或は一種の理想的境地として説かれ或は道徳思想としての一定の概念にあてはめて書かれてゐるその記載が、そのまゝに現實の存在でありまたあつた如く考へられるので、彼等の知識はこの點に於いて根本的の誤謬を有つてゐる。教とても一面の意味に於いては實社會の實生活の反映であること、またその民族その時代の一般の思想と同一根柢の上に立つてゐるものであることは、いふまでもないが、既に教とする以上は、第十四章にも述べた如く實社會實生活には缺けてゐる方面を故らに強調し、現實には存在しない理想郷を空裡に畫き出すのが常である。政治道徳の思想によつて作られた唐虞三代の神話めいた物語に於いては、なほさらのことである。が、シナに於いても古くからそれが歴史的事實として信ぜられ、それによつて教も立てられ、さうして尚古主義を抱きまた修辭に巧なシナ人は、後世まで現實の状態を明らさまには文字に表はさず、古人の道徳觀や教訓を以てそれを潤色するのが常であるから、儒者のこの誤見は殆ど彼等の知識をして眞の債値なからしむるほどに重大なものである。その上にまたシナ人に特殊な民族性と生活状態とから發生した思想を世界の通理として見るといふ、同じく批列と反省との缺乏から生ずる、誤謬も加はつてゐるので、彼等の知識の債値はます/\減却する。事實、種々の學派さま/”\の學統に屬する多数の儒者が、筆を枯らし口を極めて横説竪説して(483)ゐる政治論道徳論の幾千萬言は、今日から見れば殆どみな空中の樓開である。
 
 儒者のこの誤見は、彼等の道徳説や政治論やまたは一般の知識の性質を規定してゐる。前にも述べた如く、彼等の道徳説や教化論が當時の現實の事情と一致してゐないのは、教といふことを過度に重んじ、人は教へだにすれば教へるものの意向のまゝになる、と思つたからであつて、それは、古代シナに特異な社會組織や政治上の制度、その下にあつたシナ人の生活状態、を研究して、何故にそこから教化政治といふやうな思想が發生したかを思索することが無く、たゞその思想を文字どほりに信用すると共に、自己の生活の體驗を反省し現實の社會状態を考察しない故でもある。今日でも道徳的教訓の力のみで道徳を進めてゆくことができると思つてゐるものがあるから、昔の儒者がかう考へたのはむりでないかも知れぬ。事實上、儒者とても、その個人としての思想や性行にもし書物から來た影響があるとすれば、それは儒教の教説そのものよりは、むしろ歴史上の知識や文學の感化によるのであつて、徂徠一派のが詩文に、淺見※[糸+炯の旁]齋または水戸學派などのが歴史に、由來するところのあるのが、その著しい例である。また當時の封建君主がその家臣や領民を教化するに足らないことは、さすがに彼等とても知つてゐたらしいが、それでありながらやはりそれを主張してゐた。彼等が臣下の身分でありながら道を説くのはその主張を裏切るものであるが、敢てこの矛盾した言行をするのは、その言が現實の状態に背反することを認めてゐたものだと許しなければなるまい。君を堯舜にするといふやうなこともいはれてはゐたが、それが實現のできないものであることは、いふまでもない。武士と平民とをシナの古典に見える士庶人と同一視する誤謬も、また現實の状態を考へずして文字上の知識を盲信したためで(484)ある。その他シナ風の尚古癖から世の澆季を歎じ人情風俗の頽廢を論ずるのが事實に背いてゐることは、いふまでもない。
 政治上の問題についてはなほさらである。しば/\述べた如く、シナの政治學の根本ともまた終局の目的ともいふべきものは、今日の政治が國民みづからその生活の充實と進展とを計ることであるのとは違ひ、治者が被治者たる民衆をして平和に自己に服從せしめること、即ち治國平天下の道であり、その教化政治主義もまた、國民をして各その人としての能力を發揮させようとするのではなくして、治者の定めた政治的秩序に從順に服從するやうな習慣を作らせようとするのである。それは根本をいふと、シナ人が現代的意義での國家といふ觀念をもたず、その國家が國民によつて成りたつといふ考はなほさら無く、治者と被治者とが全く隔離した地位に對立してゐる政治形態の下に於いて作られたものだからであるが、事實についていふと、シナ人が昔から殆ど一國家として統一せられたことが無く、眞の平和を得たことの無い民族だからでもあり、從つて後世までこの教がそのまゝに遵奉せられた。郡縣の世とても封建の時とさしたる差異がなく、平和の世とても亂世と大なる違ひはない。さて治國平天下の道は、無爲にして化するか禮樂制度によるかの二つであると考へられたが、これが何れも空想であることは、事實上易姓革命が斷えず反覆せられてゐたのでも明かである。なほこの政治主義は、異民族がシナ人に君臨するに當つても支障なく適用せられる。治者と被治者との對立はこの場合でも同じであるからである。また單に治められるものとなつてゐた一般民衆は、彼等みづからの生活が安固であればよいので、治者が何人であるか如何なる民族に屬するものであるかを問はないが、たゞその生活を脅す租税徭役の過重と天災地變から來る荒歳饑饉とは、ありがちのことであり、またそれが治者に對(485)する民衆の離叛または天下の變亂を促すものであるから、君主としては、※[草がんむり/卯]茨きらず土階三尺の陋屋に住んで民衆の課役を輕くし、天變地異を自己の責任とすることが、教へられてゐる。けれどもこれもまた事實としては曾て行はれたことのないものである。
 ところが、我が徳川の世は天下が殆ど動きのとれないほどに固められてゐるので、治國平天下の目的は既に十分に達せられてゐる。さうしてそれはもとより無爲の政の故ではなく、窮屈な制度のためである。それであるのに儒者、特に徂徠一派のものは、故らにこの治平の世に於いて禮樂制度論を高唱してゐる。これは彼等がシナの古典に於いて理想化せられもしくは案出せられたいはゆる禮樂制度と、それによつて天下が治平にせられたといふ説話とを、歴史的事實として考へるのと、我が國に現實に行はれてゐる禮と制度とが、當時の實際上の必要から、また歴史的發達の經路を經て、おのづから形成せられたものであつて、シナの古典に記された紙上の禮樂制度と違つてゐるのとの、故である。(シナの古典に記されてゐるやうな意義での樂は勿論當時のにはなかつた。)彼等のうちには或は昔の令の制度のやうなものでも夢想してゐたものがあるかも知れぬ。後になつて蒲生君平などが制度の上から平安朝を崇拜してゐたのも、かゝる思想の系統に屬する。たゞ室町幕府の禮制などを一應の目標として考へてゐたらしいところのある白石の禮文主義は、少しく趣きを異にしてゐるので、むしろ現實の制度を潤色し文飾しようとしたやうであるが、しかしその根本の思想は同じところから發生してゐる。この側面に於ける儒者の禮樂制度論は、現在の政治を事實上の存在として肯定した上で、それに儒教による思想的根據を與へようとするものであつたとも見られるので、百年にして禮樂興るといふ考の適用せられるのは、この意味でのことであらう。しかし、當時の現實の政治組織とシナ思想(486)とは根本的に一致しないものであるから、かういふ禮樂制度論が儒教の教説によるものである限り、その思想は現在の政治組織を覆すことになる。例へば天子から公卿大夫士庶人の階級に從つて禮に等差があるといふ儒家の思想を當時の我が國に適用するならば、當時の政治上の權力關係は忽ち崩れてしまふ。さうしてよしさういふことをしたところで、禮樂制度を定めようとする目的は達せられない。一つの例を擧げると、奢侈の風習を抑へるために制度を定めよといふことが、多くの儒者によつて唱へられたが、當時の政治的社會的地位に於ける階級の差によつて、かなり窮屈に生活が親制せられてゐるにかゝはらず、それは毫も生活程度の昂進を防止することができなかつたのが事實であるが、さういふことに注意したものはこの時代の儒者には殆ど無かつた。儒學を政治の學だといつて禮樂制度論を力説した徂徠の一派が、畢竟古文辭を弄ぶものとなつてしまつたのは、當然でもあり皮肉でもある。
 かう考へて來ると、おのづから儒者のシナ崇拜に言及しなければならぬ。禮樂制度といふものが我が國に無くしてシナにあつたといふことが、當時の儒者をして一層それを尊敬させた所以であり、教を重んずることも、道徳の教が特別に學ばねばならぬ異國のものであるといふことによつて、強められてゐるらしいからである。さて儒者の一般の傾向であつたシナ崇拜は、徂徠の徒に於いて最も甚しく、かの日本國夷人物茂卿の語が後人の非難の的になつたほどであるが、しかしこれは昔の五山僧のシナに對する態度に政治的意義が含まれてゐて、或は明朝の元號を用ゐ、或は將軍をして臣と稱して明朝に服從の意を示させたとは違ひ、決して時の清朝の臣屬であるといふ意義ではない。この差異は或は、現實にシナの政府との交渉があつたころでおのれらも入明した五山僧と、國交が絶えてゐる世の中で書物の上に於いてのみシナを知つてゐる徂徠との、時代及び境遇の相違に由來するのかも知れないが、ともかくもこの(487)二つの間には明かな區別がある。羅山の書いた外交文書に於いてシナを尊敬してゐる態度には、よし文字の上のみのこととはいへ、五山僧の因襲を脱せずして幾らかの政治的意義を帶びてゐる點があるが、これは外交文書だからのことでもあり、またその後の一般の儒者の思想でもない。さうして道は自然に存するものでなくして聖人の作つたものであり、その聖人の教によつて始めて人は禽獣たり夷狄たることを免れる、といふ徂徠の學説から見れば、その聖人の教を奉ずるものが、聖人の出なかつた國の民として、おのれみづからを夷人と稱することは、彼自身の思想としては必しも甚しき不當の言とばかりは評せられぬ。不當なのは聖人の教といふものをかういふやうに見ることであつて、そこに昔のシナの知識人の思想をそのまゝに信じて疑はなかつた彼の不明さがある。しかし彼の考に於いてはみづから夷人と稱したことは單なる道の上の問題であつて政治的の意義があるのではないから、佛教を奉ずるものがこの國を穢土と稱するのと大差のないことである。いはゆる聖人の教を學ぶ儒者は、よし道に關する意見が徂徠とは違つてゐて、それを人性の自然に存するものとするにせよ、聖人によつてそれが明かにもせられ教へられもしたと考へるならば、やはり同一の思想を有することになるのであり、現に順庵も、孔孟に對しては東夷小子と自稱してゐるし(錦里文集卷三、我が國は神國であるといつた蕃山も、それと同時に東夷であるといひ(集義和音卷八)、また我が國はシナに次いでのよい國であり或る點に於いてはシナにまさることもあるといつてゐる益軒も、日本は夷だと公言してゐる(五常訓卷一)。さて夷といふ語についてはかう考へられるとして、我が國が古來シナの文物を學んでゐたことは事實であるから、夷といふ稱呼とは別に、シナの曹物に親んでゐる儒者が、その書物に記されてゐることについてシナを尊重するのは、自然の傾向でもあつて、それは昔からのことであり、またシナを中華と稱するのもみづからシ(488)ナ人めかして喜んだのも、一般にその文物を尚慕するからのことと解して見れば、それは今日文化の先進國としてヨウロッパを尊重するのと甚しき差異はないとも考へられる。たゞ彼等は日本人がシナの文物を學びながら、それを資材としてシナのとは違ふ日本に獨自な文化を創造し獨自な歴史を展開して來たことをば、殆ど考へなかつた。日本にシナよりもまさるところがあるといふのも、日本人の道徳についてのことであり、一般文化に關してのことではない。しかしその反面に於いて、儒者が華夷の語を用ゐるのも、一般の文化についてであるよりはたゞ聖人の道といふものについてであることは、注意せらるべきである。もつともシナ人に於いては、中華の語は、單に聖人の道の行はれてゐる國といふのみではなく、もつと廣い意義での彼等の文化の誇りを示す稱呼として用ゐられてゐるが、上代のシナ思想からいへば、シナの政治的領土とシナ民族を中心とする文化世界とは、同一であるべきはずであり、さうしてこの中華意識は後世までも變らずにシナ人の思想を支配してゐる根づよい存在である。しかしこのころの日本の儒者は、そのことを深く考へてはゐなかつたらしい。
 しかし一般文化の上からいふと、當時の我が國民は決して夷と稱せらるべきものではなかつた。學問に於いては獨創的研究が多く行はれなかつたけれども、一般國民の知識生活は決して低級のものではなく、シナの民衆に比して遙かに高かつた。當時に於いてはこのことが知られてゐなかつたけれども、今日から見れば、それは明かである。さうして學問に獨創的研究の無いのはシナに於いても同樣であつた。概括していふと、國民の實生活は、何れの方面に於いても、長い間の歴史的發達の結果として、特殊の形と内容とを具へてゐ、從つて實生活を動かしてゆく日本人に獨自な思想もおのづからその間に形成せられてゐた。それは生活の表現としての文藝が上に考説したところの如きもの(489)であることによつても、明かに知られる。だからその生活その思想は、決してシナ人が夷として賤んでゐるやうなものではない。然るに儒者のうちに夷と稱してみづから賤んでゐるもののあつたのは、彼等がいはゆる聖人の道を奉ずる儒者であつたからであるが、もう少しそれをおしひろめていふと、彼等が知識としてもつてゐる儒教の經典に見えてゐることを、シナ人の實生活を記したものとして信じ、それを標準として我が國のことを考へると共に、シナ人の華夷の思想を、やはり書物から得た知識として、そのまゝに遵奉してゐたからである。儒者の知識と實生活との分離が生ずるのは、これがためであつて、それは恰も歐米の新しい學問が入つても實生活が舊時の状態を脱しなかつた明治二十年前後の思想界に於いて、理論と實際との矛盾といふことが一般に考へられてゐたと同樣である。明治の時代では、その後に至つて實生活そのものに多くの變化が生じたけれども、徳川の世はそれとは違ふから、この矛盾は決して消滅しない。
 そこで儒者の間にも、漫りに文字上の知識によつて實社曾を動かさうとすることを非とする考が起り、素行は時代相應の政があるといひ(語類卷一)、蕃山は風俗は幾らか道理にかなはぬことがあつても濫りに毀つべきものではないとも(集義外書卷三)、學者が政をすれば世は亂れるともいひ(集義和書卷一)、徂徠さへ實際問題については同じやうなことをいつてゐる(答問書、八水隨筆)。素行が學問と世間との各別なるに疑を抱いたといふのは(配所殘筆)、かういふ思想の生じた動機を説明したものであつて、彼や蕃山が一種の日本主義者となつたのも、また蕃山がいはゆる易簡の説を集義外書などで唱へたのも、畢竟こゝに淵源がある。だから教そのものについてさへ、素行は、聖人が我が國に出たらば俗を易へずして教を立てるであらう、といつてゐるし(謫居童問)、蕃山の見も畢竟同じところに(490)歸着する。けれども、知識としてはどこまでも書物によつて與へられるものを重んじてゐるがため、素行などの説も甚だ不徹底である。徂徠に至つては、素行などとは反對に、理論としては徹底的に聖人の道を標準として、それにかなはないものを絶對に不倫とし非理とし、山崎派の直方や尚齋もほゞそれと同樣の言をなしてゐる。春臺が亂婚傳を書いて、近親結婚の行はれた上代の風習を夷狄の俗として非難してゐるのは、その最も著しいものであつて、前にも述べた如く異姓養子を排し武士道を斥けるのも、これと同樣である。(我が國の儒者の思想の歴史は、或る意味に於いて、儒教の教説と現實の生活との衝突及び妥協の經過である。)ところがかういふ論議は實生活には接觸しないことであり、從つて毫も世を動かすものではないが、知識によつて實生活を動かすことができないとすれば、思想の上もしくは文字の上に於いて、現實の生活を知識の形式にあてはめようとするのが、一般の儒者にとつては、せめてもの心やりであるので、それは一轉すれば、知識上の遊戯に墮する虞さへある。やかましい名分論などもその一例と見られる。
 
 元禄前後から儒者の間には、朝廷と幕府とに關する稱謂について種々の問題が起つてゐる。公式の文書に於いては、白石が將軍に日本國王の稱をあてたぐらゐであるが、私の著作に於いては鳩巣の國喪正義にも將軍を王といひ幕府を朝廷と記してゐるし、春臺がさう書いてゐることはいふまでもない。既に羅山にも同じ態度があつた(寛永御入洛記)。白石の考には常局者の一人として、幕府の地位を名義の上にも明かにしようとする意味があつたらしく、春臺の思想も一つはその政治的見地から來てゐるのであらう。殊號事略に見える白石の説は誤解と牽強とが少なくない迂(491)曲の論であつて、春臺が經濟録にいつてゐる方が直截簡明である。しかし強ひて王といふやうな文字を用ゐようとするのは、その根柢に儒者が文字を主として考へる偏見があることを、忘れてはならぬ。詳しくいふと、將軍といふ文字が、シナに於いては、政權の掌握者を示す稱呼ではないからである。現に鳩巣は遊佐某の駁議に對して、將軍大臣などといふものに諸侯を朝し刑政を去る義は無いから、徳川氏は王と稱へるより外にしかたが無いといつてゐる(麗澤秘策)。のみならず更に一歩を進めていふと、日本流の名稱では漢文にふさはしくないといふ、恰も地名などをシナめかして書くと同樣な、詞藻上の便宜もそれに含まれてゐたらしく、後になつて數多く現はれる稱謂論、幕府の官職名を如何に書くべきかといふやうな問題については、明かにその意味が見えてゐる(このことは次篇に述べよう)。伊藤東涯が「今日之稱呼、當用春秋十二國時之例、」(刊謬正俗)といつてゐるのも、半ばはやはりかういふ必要から起つたことらしい。だから彼等がその著作に於いて如何なる名稱を用ゐたにしても、それは畢竟一種の物好き、知識上の遊戯、に過ぎないのである。大日本史に、昔のことながら、頼朝などを將軍と書いてあるのは、それに比べると、さすがに事實を基礎とする史家の筆であり、白石が官職を唐名にては審かぬといひ、※[糸+炯の旁]齋などが恣に唐名を用ゐるを難じてゐるのは、或は政治家としての識見、或は一種の日本主義者としての考であるが、一般の儒者は概してかゝる遊戯を得意がつてしてゐたのである。
 この王號説は、當時に於いても幾多の反對論を惹き起し、雨森芳洲なども反對者の一人であるが、それは王といふ名を一國の政治的君主に普通な稱號として、我が國では皇室にのみ用ゐらるべきものとしてゐるからである。鳩巣などが、王は帝より一等下つたものだから、皇室の下に位する將軍には適當の名である、といつてゐるのは、それだけ(492)の點では筋がとほつてゐる。だからこの爭ひは、畢竟王といふ文字または稱號の用ゐかた如何の問題に過ぎない。將軍が皇室の下位にあるといふ事實は兩方とも同じく認めてゐることながら、文字の用法によつて喧しい議論の起るのが、當時の知識人の考へかたであつた。さうしてそれは、事實上我が國で用ゐない王といふ稱號を、強ひて用ゐようとするからのことであり、それはまた日本のことを強ひて漢文に書かうとするからである。もつともいはゆる所びいきから、江戸人には將軍をえらく見せようといふ意志が闇々裡に存在し、上方人にはそれに反對の傾向があつたではあらうが、主なる意味はこゝにある。固よりこの問題の裏面には儒者一流の正名論の思想があるが、しかしそれとても畢竟は單なる知識上の問題であつて、現實の政治とは交渉の無いことである。將軍が政權を有するのは現在の事實であつて、王といふ名を用ゐると否とは、それに何物をも増減することが無い。公式の外交文書に日本國王の稱號を用ゐたり廢したりしたのですらも、朝鮮に對する將軍の權威には、何の輕重するところが無かつたではないか。
 さて將軍を王といふのは、現實の状態を根據としてそれに適する名を用ゐようといふのであるが、その反對に、儒教の理想とする名分論を標準にして現實の状態を批判しようといふ考もある。大日本史もその一例であるが、これはたゞ過去の事件についてのことである。この思想の根本は儒教的意義に於いて禮樂刑政みな朝廷から出なければならぬとするところにあるから、それを徹底させれば、おのづから幕府政治の基礎を覆すことになるが、それは固より幕府の親藩たる水戸の學者の期待したところではあるまい。水戸派の思想は、早く烈祖成績の序にも見えてゐる如く、幕府が名分を正しうして朝廷を尊ぶといふのであつて、それは家康以來現に實行せられてゐることを指したのであり、從つて政治上の實務には關係の無いことである。いはゆる名分論が、もし政務に於いて一々朝廷の命を奉ぜよといふ(493)意義であるならば、それは幕府政治の破壞であり、また事實上幕府の權力によつて國家の平和が維持せられてゐる當時に於いては、實行を期すべからざることでもあるから、幕府に特殊の關係のある水戸人の間に、現實の問題としては起るはずの無い考である(第二十三章參照)。けれども水戸派の思想が儒教的名分論である以上、論理的には考がおのづからこゝまで進んで來なければならぬから、そこに矛盾がある。だからかゝる名分論は、畢竟單なる思想上の問題、むしろ文字上の知識の問題、としてのみ取扱はるべきものである。また水戸の學者がこのころに於いて、後の維新のやうなことを豫想し、もしくはさういふことを誘起しようとしてゐたとは、勿論思はれない。
 現實の問題と知識もしくは理論との不一致は他にも例がある。白石が栗山潜鋒の保建大記の見解に賛成しなかつた理由は、明かに説いてはゐないやうであるが(白石手簡〕、室町公方を禮文主義實現の一目標とし、折り焚く柴の記に見える如く、北朝と武家との特殊の關係を顧みるところから親王家の新立を建議してゐるほどの白石が、一方で頼朝を非難し、また人物の道徳的批列の上から南朝を讃美する口氣をもらしてゐるのは(讀史餘論)、政治家としての經綸と歴史家としての見解とが、無關係であつたからであらう。南朝正統論は、保建大記などの如く神器の所在を根據として論じても、三宅觀瀾の中興鑑言の如くいはゆる義を本位にして説いても、單に理論の上からいへば、それが本來朝幕關係の問題でないことは明かであるが、事實問題としてはそれと交渉が無いわけにはゆかず、南朝正統論にはおのづから幕府政治を否認する傾向が伴ふ。室町幕府の戴いてゐた北朝の天皇は南朝の天皇から神器を授けられることによつて正統の位を得られたが、これは兩朝合一の後のことであつて、對立時代の正統が北朝にあることにはならぬ。けれども室町幕府の權威はおのづから合一後のこの正統觀を對立時代にまで溯らせることになり、そこから北(494)朝が本來正統であつたとする主張が生ずるやうになつた。當時の天皇が北朝の御血統であられるといふことも、またそれを助けたであらう。續神皇正統記もこの主張によつて書かれてゐる。かういふ見地からは、室町幕府の地位を繼承したものとして考へられる江戸の幕府の側に立てば、やはり北朝を正統とするに傾くのが自然である。しかし多數の儒者はそこまでは考を及ぽさずして説を立ててゐたらしく、本朝通鑑が表面上正統論の決定を避けてゐるのも、伊藤東涯の帝王譜略國朝紀に室町時代からの一般の慣例によつて北朝を正統としてゐるのも、當時の徳川氏の幕府の政權に對する特殊の顧慮からではあるまい。だからこれらの問題も現實の政治とは關係の無いことである。親藩の水戸に於いて南朝正統の説が力をこめて主張せられたのも、これがためである。勿論それには、南朝君臣の英雄的行動に對する讃嘆の念とその不成功に對する深い同情とが強くはたらいてはゐようが、この心情は當時の現實の政治に關聯のあることではない。シナに於ける名分論とても、それはたゞ思想としてのことであつて、現實の政治がそれによつて動かされたのでないことをも、考へねばならぬ。(名分論がシナの政治に與へた事實上の效果は、帝位の纂奪者に口實を教へまたそれに禅讓の形式を學ばせたぐらゐのことである。)たゞ現實の政治問題、國家を如何にすべきかといふ當面の問題が、朝幕關係の根本に接觸しなければならぬ場合になると、國民自身の内的要求が、力強い尊王思想となつて現はれ、儒教的名分論もそれに利用せられるやうになるので、幕末の情勢が即ちそれである。が、この時代にはまださういふ形跡は見えてゐない。さうして儒者の名分論如何に關せず、幕末のやうな場合に逢著すれば、皇室を中心として新しい形での國民的統一を成就しようとするのは、我が國民に於いては自然のことである*。かういふことは異國の文字によつて外部から教へられるものではなく、長い間の歴史が涵養し目前の事實が産み出す生きた國民(495)的感情に本づくものだからである。名分論の本家であるシナの状態と對照するがよい。たゞその尊王思想が如何なる内容のものであり、皇室による國民的統一が、如何なる方法、如何なる形態、如何なる精神、によつてなさるべきであつたかは、大なる問題であつて、幕末維新の際に現に行はれたことが適正であつたとは、必しもいひがたいが、このことについては後篇に考へるであらう。
 ついでにいひ添へる。南北朝の何れを正統とすべきかといふことは、現實の政治に何のかゝはりも無いことでありながら、今日でもなほ一つの意味がある。それは、我が日本の國家が遠い昔から一つの国家として續いて來て、天皇がその統一國家の象徴であられる以上、南朝の天皇が同時に天皇として存在せられたといふことは、その統一が一時的に中絶せられることになるので、その何れかが正統の天皇であられたと考へることによつて、統一國家の永續性が明かになる、といふことである。勿論、政治的統一が失はれてゐたことは歴史上の明かな事實であるから、正統論はそれを無視しようとするのではない。たゞ國民的感情の上からの思想的要請として、かゝることが考へられるのである。事實がどうであつたかといふ問題ではなく、思想の上でどうそれを取扱はうかといふことなのである。さうしてこのこつは並び存して相戻らぬものである。然らばその何れが正統であるかといふと、皇位繼承の行はれた現實の状態から見て、南朝とすべきである。後醍醐天皇及びその繼承者としての大覺寺統の天皇は持明院統に皇位を譲られたことが無いからである。皇位が世襲である我が國に於いては、その繼承の状態に重大なる意味があるとしなくてはならぬ。安徳天皇の御在位中に後鳥羽天皇が即位せられても、それは正當な皇位繼承ではなかつたので、安徳天皇の崩御と神器の歸還とによつて後鳥羽天皇が始めて正統な天皇となられたのである。持明院統の天皇が後亀山天皇から神(496)器を受けられて後、始めて正統の天皇となられたのも、これと同じである.正統の何れにあるかの判定は、勢力の強弱によるのでもなく、今日の皇室との御血統の關係によるのでもなく、また道徳的の批列を南朝に加へるのでもなく、シナ風の名分論などとはなほさら何の關係もなく、當時の皇位繼承の現實の状態によるのである。さうして正統がかくして定められることによつて歴代の天皇の世數も代数も決定せられ、それによつて國家統一の象徴としての天皇の地位が明かになるのである。今日に於いては、江戸時代の學者の思想とは全く違つた見地から正統論の成りたつことが考へられる。
 儒教の政治學については、なほ一言を要するものがある。かの天命説と革命の方式、特にその放伐、とを、いはゆる先王の道として遵奉しなければならぬ我が國の儒者には、このことはかなりにむつかしい問題であつたので、どういふところから出た記事かは知らぬが、孟子が日本に無いといふ五雜俎の説も、この話に關聯してしば/\思ひ出されてゐる。さて放伐に關する儒者の見解は區々であつて、さういふ問題を最も喧しくいふ朱子學派に於いても、闇齋は公然否認はしないけれども暗に抑へてゐる氣味があり(垂加文集卷ニ、大和小學、など)、※[糸+炯の旁]齋は靖獻遺言を作つたことから推測すれば非としたに違ひないが、佐藤直方や尚齋はそれと反對に正當視し(※[韋+媼の旁]藏録、黙識録卷三、四)、鳩巣もまた是認してゐる(駿臺雜話卷一)。特に尚齋は一姓のうちに於いても命が革まると説き、而もそれは變じ得て善からざるものだといつてゐる(黙識録卷四)。一種姓のうちで血統が變るといふことは神皇正統記に見えてゐて、それが正當視せられてゐるが、尚齋がさうは見てゐないところに、易姓革命の説をそのまゝに信奉してゐる徴證がある。親房は一種姓に重きをおいてゐたが、尚齋は命の革まることに力點をおいたのである。が、これは儒教の經典か(497)ら得た文字上の知識をそのまゝに信奉したまでのことであり、從つて單なるまた抽象的な理説であつて、現實の政治に關係のある問題としてのことではない。
 それは何故かといふに、もし當時の朝幕關係を眼中に置いていふのならば、現實の問題としてはこれは全く無意味のことだからである。幕府は現在官職を朝廷から受けてゐるのみならず、名分の上ではどこまでも朝廷を尊崇してゐる。幕府の權力を確立するために禮文を修めようとした白石でも、皇室をその本源としてゐるではないか。幕府の初期には上にもいつたやうに、戰國的眼孔から事實上幾らか公家貴族の行動を抑制しようとしたらしいが、元禄以後になると、舊慣は墨守してゐながら、さういふ精神すら緊張してはゐない。さうして政治上の責任はすべて幕府が負うてゐるので、國民は實生活の上に於いて京都に政治的權勢と威力とがあるとは感知せず、それがために皇室をば、日常の政務の上に超然たる地位にあられるものとして、無上の尊敬を捧げることができたのである。儒教の君主責任論が、幕府時代に於いて、皇室に累を及ぽさなかつたことは、既に述べておいた。けれどもまた上記の如き問題の起るのは、一系の皇室を戴いてゐる我が國の政治形態の本質とこの儒教の政治學との齟齬が原因であるから、それは實權の掌握者の間のこととして起されたのではない。實權の掌握者の間では公家でも武家でも、事實上、易姓も放伐に類したことも行はれ、さうしてそれは昔から怪しまれもせず問題にもせられなかつたからである。たゞ武家の權力が平氏から源氏に源氏から北條氏に移り、また足利氏豐臣民徳川氏と變つて來たことは、儒教思想からいへば實權の掌握者に易牲革命が行はれたのであるが、さう見ると、皇室はおのづから儒教思想に於ける天に當ることになり、その意味で皇室の永久性が明かになる。事實、前卷で述べた如く家康などが革命のことを考へたのは、皇室との關係に於い(498)てのことではなく、實權の掌握者の間のことであつた。具體的にいふとそれは豐臣氏などを顧慮しなければならぬ彼みづからの地位についてのことであつた。徳川氏の權威が動かなくなつた時代の保科正之が、湯武の論は現實の問題でない、といつたのと對照するがよい。だから革命の問題は文字上の知識から起つた閑詮索であり、現實の政治には何の關係も無いことである。
 もつとも尚齋は黙識録のうちで、鳩巣や徂徠が朝廷對幕府の現實の問題としてかういふ説に關係のある論議をしてゐたかの如くいつてゐるが、これは誤解であらう。彼等には、この點について我が國の國家の本質を重んじない傾向はあるので、政談や經濟録を見ると、徂徠春臺の徒は現實の政治に關する論議に於いても、江戸を主として考へてはゐる。けれどもそれが儒者のいふ革命の思想と關係の無いものであることは、彼等の議論そのものから推知せられる。彼等が文章の上に於いて往々京都をいはゆる「勝國のあしらひ」にし、また共主とか山城天皇とかいふ稱呼を用ゐるのは、たゞシナめかさうとする文字上の遊戯に過ぎない。さうしてすべてをシナ式政治道徳觀から見てゐることは、尚齋とても同樣である。たゞ尚齋のは概して理論上の問題に過ぎないのみのことである。さて徂徠春臺などのかういふ態度は、幕府政治といふ現在の事實を基礎として、その施政に關する論議をしたからでもあり、また一つは所びいきのためでもあらう。上方の尚齋が、一方に於いては武家の朝廷を尊崇することを賞讃してゐるのと、對照するがよい。新蘆面命に仁齋が將軍は帝位を踐むがよいといふ意見をもつてゐたやうに記してあるのは、内藤耻叟が辯明してゐる如く訛傳に違ひない(日本文庫第四篇)。藤井懶齋にも何等かの意見があつたとのことであるが(先哲叢談、板倉勝明懶齋傳)、著者はまだその詳しいことを知らぬ。たゞ彼が普通の儒者と違つて我が國の文學などに注意してゐた(499)ことは、考へておかねばならぬ。またいはゆる尊王思想の發現とも見なすべき中興鑑言に、往々天命の語を用ゐてゐるのが、深い意味からでないことは、この著の全體の精神から明かである。幕府について夜會記に、武家が「世を繼ぎて天下をもたせ給ふべきは天の許さぬところなり」といつてあるのも、また武家の政治に缺點があるからといふやうな現實の問題からではなくして、一種の人生觀から出た抽象的の言に過ぎないことは、これと同じである。
 こゝで一言しておくべきことは  網斎の考である。彼は足關東の地を踏まず諸侯に仕へずといひ、もし時を得ば義兵を擧げて王室を佐くべしといつて、靖獻遺言を作つたといふが(文會雜記)、この傳聞の眞否はともかくもとして、彼がもし靖獻遺言の思想をそのまゝ當時の我が國に鼓吹すべき必要があると考へたのならば、それは全く當時の時勢をも、我が國民の思想をも、また常に皇室を尊崇してゐる幕府の態度、否むしろ幕府そのものの由來をも性質をも、解せぎるものであつた。彼は幕府の設置を以て、シナの史上に見える湯武の所爲と同じものででもあるやうに、誤解か曲解かしてゐたのであらうか。前に述べた黙識録や新蘆面命などに見える訛傳も、かゝる誤解曲解に、一部の京人の江戸に對する一種の感情が加つて生じた凝心暗鬼の影であらう。さうしてそれは、シナの歴史の知識に蔽はれて、事實を有りのまゝに觀ることができなかつたからであらう。しかし彼は徳川將軍の政治を「天子の御名代」としてのことといつてもゐるから(識剳録)、上記の推測は中らぬやうでもある。たゞ世間には彼の意見をかう誤認してゐるものがあつたかも知れぬ。またもし靖獻遺言の主張が豐臣民を倒した徳川氏の行動についてせられたものならば、その徳川氏は※[糸+炯の旁]齋の與せざるところであつたに違ひないが、彼の主旨はそこにあつたのではあるまい。
 なほ一つの觀察がある。當時の公家貴族には、その一部に江戸の權力に對する幾らかの反感や猜疑心を抱いてゐた(500)ものはあつたらうが、彼等の祖先が幾百年の昔に失つた政權をこの時代になつて囘復しようといふやうな、具體的の考を有つてゐたらしくは見えず、また國民生活に何等の交渉の無い彼等に、さういふことができるはずも無かつた。むかし公家貴族が政權を失つたのは、彼等が國民に根據を有つてゐず、從つて國民を支配することができなかつたからであつて、それから後は彼等はます/\國民生活から遠ざかつて來たのに、時勢はます/\進んで世の原動力は國民全體に存在するやうになつてゐるからである。が、弱者に同情する世間の一部、特に公家貴族に交りのあるもののうちには、武家に對する意味でのいはゆる公家びいきの感情が、おのづから公家政治の囘復といふことに考を向けさせるやうな傾きが、生じなかつたともいひ難い.しかし單に理論として見ても誤謬がそこに含まれてゐる。公家貴族と武家政府とが對立してゐて、その公家貴族が武家の天下とならない前に政權を有つてゐた彼等の祖先の地位を、名義上、繼承してゐるために、武家政治でなけれぼ公家政治、少くとも當時の公家貴族によつて形づくられる政府の政治であるべきもののやうに、漠然と考へられ、さうしてまた公家貴族が現に朝廷に直屬してゐるために、朝廷と公家貴族とが混淆して解せられ、公家貴族の勢力の無いことが即ち朝廷の衰へであり、もし彼等が武家から政權を囘復することにもなるならば、それが即ちいはゆる尊王思想の實現である、と思はれたのならば、それは大なる誤解だからである。本來、皇室を奉戴する我が國の政治形態の根本についていへば、實權を行ふものが武家であつても公家であつても、その間に差異は無いはずであつて、歴史的に考へれば幕府政治もその前の攝關政治も、即ち武家政治も公家政治も、この點に於いては同一であり、源氏でも平氏でもまた藤原氏でも、それが實權の掌握者行使者であるのに違ひは無い。事實、幕府政治は即ち攝關政治を形をかへて繼承したものではないか。さうしてその武家が皇室を奉戴し(501)てゐることは、決して昔の公家に劣らず、特に徳川氏に至つては、皇室の崇敬を政綱の大切なる一つとしてゐる。政權の運用の方式は時勢によつて變化しつゝも、皇室を皇室として仰いでゐることは少しも變らないのが、事實としての我が國の政治形態の本質であるから、武家政治のみが特に非難せらるべき理由は無い。その上に昔の公家政治は、公家貴族と朝廷とを混同してゐた點に於いて、皇室に大なる累を及ぼしたのであるが、徳川の武家政治には全くそれが無い。公家政治の囘復もしくは公家によつて形づくられる政府の設立といふやうなことが、國民の政治生活の上に於いて無意味であるのみならず、決して眞の尊王を意味するものでないことは、これでもわかる。が、前た述べたやうな感情がもとになつてそれをシナ風の名分論で理論づけ、我が國民の政治生活の實際を解せず、また政權の推移と昔の公家政治の状態とに關する歴史的事實を知らぬものには、かういふ考が起らないにも限らぬので、次の時代には實際それが生じて來るが、※[糸+炯の旁]齋の如きは或はその思想の先驅と思はれたかも知れぬ。皇室と政權の掌撞者としての武家とは對立の關係にあるのではないので、それは皇室と政權を掌握してゐた公家とがさういふ關係にあつたのではないのと、同じである。武家と公家との違ひは、たゞそれが朝廷の外にあるのと内にあつたのとの差異に過ぎない。公家なり武家なりが世襲的に政權をもつてゐながら、どこまでも皇室を戴き、皇室は政務に與かることをせられないながら、どこまでも政權の本源であり政治的君主の地位にあられる、といふことは、世界に類の無い我が國だけのことであるから、シナ思想に束縛せられてゐる儒者にはこのことが理解せられず、武家を皇室に對抗してゐるものであるかのやうに考へたので、それがかういふ思想を誘發した、といふ事情もあらう。武家は公家の權を繼承したのであるから、武家の政治を非難するならば、先づその武家政治を誘致しまたそれと同じ性質を有する公家の政治を非難しな(502)ければならぬのに、彼等は毫もそれを考へない。これは公家に權力の無い世には感情上自然の傾向でもあらうが、思想としては全く成りたゝないものである。要するに、かゝる思想の出立點は公家、對、武家といふ觀念であつて、それを皇室、對、武家といふ風に誤解もしくは曲解したのである。眞に尊王の實を擧げようとし、眞に我が國の政治形態の根本精神を發揚するのならば、第一に公家貴族といふ特殊の地位を超越し、國民全體を基礎とせねばならぬのに、どこまでも彼等を考の根據としてゐるのは、これがためである。いふまでもないことながら、後に行はれたいはゆる王政維新は決して公家政治の囘復でも公家の政府の設立でもない。
 
 以上は主として、實世間と離れてはならない道徳や政治の問題についての儒者の知識が實はさうでない、といふことをいつたのであるが、儒者とても、そのすべてが他の方面のことに考を向けなかつたのではないので、素行が武家の事跡を調べ、東涯が制度故實を考へ文字言語にも目をつけ、益軒が本草などに注意し、白石が國史國語はいふに及ばずあらゆる我が國の事物を研究したことは、いふまでもない。特に白石に至つては、その旺盛な知識欲と卓越した觀察とが、彼をして特異な研究的態度を取らしめたのである。しかし知識社會の全體からいふと、かういふ學者の活動には、當時に於いては、大なる勢力が無かつたのみたらず、一般に儒者の見解は我が國の事物を考へるに當つても、シナの古典の記載を基礎とし標準としてゐたので、從つて概していふと、上に述べた如き缺點を免れることができなかつた。儒者も日本人であるから、彼等の多くは日本の事物についても或る程度の關心と知識とを有つてゐたし、また日本文で述作もしたので、この點に於いては昔の五山僧とはかなり違つたところがある。さうしてそれは、平和の(503)時代となつて、彼等自身をも含めての一般世人の間に知識欲が加はり、さうしてその知らうとすることには自國の事物があり、世人に於いてはそれが主であつたからのことであらう。けれども儒者としては儒家の思想を學びまた世に傳へることがその職分として考へられたと共に、それに關する主要な著述は漢文で書くべきものの如く思はれてゐたので、そこから上記の如きことが生じたのである。特に漢文で書くといふことが、その見解をシナ本位のものとしたのみならず、思惟のしかたをもシナ風にさせる重大な力となつたのである。さうしてその根本は、孤立語たる古典シナ語の特質と、さういふ言語では論理的な思惟をすることがむつかしいといふ事實とにある。
 かう考へて來ておのづから思ひ浮かべられるのは、シナの學者に眞實を愛し眞實を探求しようとする熱意と努力とが少いことであつて、古人の言をそのまゝに信奉し、現實の状態を細かに觀察し自己の體驗をみづから反省することによつて、古典の記載に疑を插み、さうしてそこから出立して事物の眞相を明かにしようとしないこと、或はさういふ用意の極めて乏しいことも、その一例である。一般に因襲的な思想の型にあてはめて事物を取扱ふのが、彼等の態度であつた。このことは、人物の行動や事件の始末を確實に記載すべきはずの史書の述作編纂でありながら、さうなってゐないことによつても知られるので、いはゆる正史もその例に外れない。正史に記されてゐる事件の年代が明かになつてゐない場合があり、本紀と列傳と志類とで同じことにも齟齬や矛盾があり、また記事の出所の記されてゐないこと、などは、こゝにいつてゐるのとは別のことではあるが、やはり確實な記述をしようとする用意の足らぬことを示すものである。(水戸の大日本史が何ごとについてもこ史料を記したのは、それに比べると遙かに卓越した態度である。)後にいふやうに、シナの學者の間には一種の合理主義風の考へかたをするものが無いでもなかつたが、(504)その合理主義とても因襲的思想を根據にしてのこと、または一定の制約の中でのことである.日本の儒者がシナ思想にあてはめて日本の事物を見るのも、シナ思想を尊重するといふことの外に、こゝに重要な由來がある。なほこのことに關聯して考ふべきは、シナ傳來の易占また陰陽説五行説占星術などから形づくられた種々の迷信が廣く世に行はれ、民衆の日常生活に於けるシナ思想の影響は主としてかういふところにあるにかゝはらず、儒學がその蒙を啓くために何のはたらきをもしなかつた、といふことである。當時の日本人の知識生活に於ける儒學の效果としては、かういふこともあることを知らねばならぬ。
 
(505)       第二十一章 知識生活 下
 
 この時代の學問は必しも儒學ばかりでなく、別にいはゆる倭學もありまたいはゆる神道の學もある。倭學者とは古文學の解説を主とするものをいふのが普通の例であるが、この方面に於いては、契冲によつて舊來の傳統を離れた新しい言語上の研究が歌の上に企てられ、特に萬葉については後の眞淵に比して、啻に新研究の開始者である點に大なる功績があるのみならず、古語の解釋そのものに於いても、むしろ卓絶した識見を有つてゐるやうに、著者は考へる。けれどもその歌といふものに對する見解は、やはり儒教や佛教の羈絆を脱してゐない(代匠記總釋參照)。さうして和歌を説くに當つて先づ本朝の神國たることをいふのも(同上)、また古くからの因襲に從つたものであり、こゝに倭學と神道との契合點がある。儒者が何ごとを説くにも聖人の道に附會すると同樣、倭學者は一切の事物を神國の觀念に結合して考へるのが常であるから、こゝた彼等の知識が純粹な學問として發達しかねる點がある。
 ところがこのころでは、倭學といふ名が、儒學などの異國の學に對して、我が國の事物、特に上代の歴史や典故舊章といふやうな政治的意味を有する事がら、に關する知識を、總稱するものとなつて來たので、松下見林などはこの意義で倭學者と稱せられ、その學はまた國學とも呼ばれてゐた(本朝學原浪華鈔)。さうなると、こゝでもまたおのづから神道と結合しなければならぬが、事實、國學の名は神道家も用ゐてゐるので、殘口(神路の手引草)や吉見幸和(學規大綱)などにもその例が見える。(幸和の國學は次章に述べる如く「天皇の道」を主とするので、やゝ特殊の意義が加はつてゐるが、それは彼の道の觀念に特色があるからである。)荷田春滿が創學校啓に於いて唱へた「皇(506)國之學」または「國家之學」、即ち普通にいふ國學は、この意義のと古文學の研究とを結合したものである。だからこの國學は、「古語」の研究を主張する點に於いては、契沖などの倭學と直接の交渉があると共に、そこで間接に神道と接觸し、また「古道」を明かにするといふ點に於いては、神道に直接の由來がある。春滿自身が實に神道家であつて、「古道」に對するものとして「異教」の名を擧げてゐる。だから倭學者もしくは國學者の思想を考へるには、おのづから神道者を觀察しなければならぬ。
 神道者は「我が國」の道をたてようとして起つたものであるが、この精神は一部の儒者に於いても見ることができる。その主張の第一は、一般儒者のシナ崇拜に對する自國本位の思想であつて、それが國家的意義を帶びた名分論として現はれると、シナを外夷傳に收めた大日本史の態度、自己の國が中國であるといつて我が國を夷狄とすることを難じた※[糸+炯の旁]齋の説(中國辨)、などとなるのであるが、神道者がこの見解を支持したことは勿論である。政治上に於ける國家もしくは民族の獨立的地位に伴ふ自尊心は、自然に生ずるものでもあり、或る程度まで無くてはならぬものでもあるが、それは國民の實生活、國民の文化、に於いて、他に誇るべき實質を具へてゐるのでなければ、十分に意味のあるものとはいはれまい。華夷の區別に關するシナ人の思想は、上にも述べた如く本來文化的意義のものであつて、事實として上代シナ人が近接せる周圍の諸民族よりも優越な文化を有つてゐたことから生じたのである。儒教では特に道徳的要素をこれに加へ、シナ民族自身を有道の國としてそれを中華もしくは中國と稱してゐるのであるが、上代のシナ人自身の考へかたからいふと、これも全く空虚な誇りとのみはいひ難い。しかし、後になつて文化の發達した民族と交渉を生じた後になつても、との中華意識を因襲的に保持し、すべての異民族を夷狄視したのは、シナ人が他(507)を知らずみづからをも知らないからであつて、それがシナ民族自身の文化の發達を阻害し外交上の失敗をも誘致したのである。日本を夷狄視したのもその一例であるが、江戸時代の日本の知識人にはこのことがよく知られてゐなかつた。さうしてシナ人の態度を逆にまねてシナを夷狄視しようとするものがあつたのである。しかし當時我が國を中國とし他國を夷といはうとした儒者は、儒教を尊崇してそれがシナのすべての文物を象徴してゐるものででもあるかの如く思ひ、さうしてそれを學ぶに汲々としてゐる以上、この語によつて文物の上で、特に道または教の上で、シナに對して優越を誇るつもりでなかつたことは明かであつて、それはたゞ我が國の政治的獨立を強調していはうとしたのみのことである。山崎闇齋は、兵を率ゐて我が國に攻め來るものあらば堯舜孔孟とてもそれを打破らねばならぬ、といつたといふが、かゝる考も畢竟こゝから生じたのであつて、道については聖人の教を奉ずるが政治的には獨立の國家だといふのであり、保建大記などには明かに華夷の名稱を政治的意義のものとしてゐる。歴史的にいへば昔の令の規定にも既にその精神が見え、シナ人を蕃客と稱してあるのはそのためである。また外國に對して我が國を中國と稱することも雄略紀の七年及び八年の條に見えてゐる。この思想はその後にも斷えたのではなく、北畠親房などにも同じ傾向はあるが、それもまた文化的意義をば帶びてゐない。儒者は文物の本源としてシナを尊尚するのみならず、當時は西洋人に對してもそれを夷狄として輕侮してはゐなかつた。白石がその著述に采覽異言といひ西洋紀聞といふ名をつけ、海外のことをいふ場合に多くは外國西方などの名を以てしたのでも、それは知られる。西川如見の著に華夷通商考の名はあるが、内容を見ると外國を夷狄視してはゐない。一般人に於いては固よりであつて、少くとも西洋人を智巧あるものとして尊重してゐたことは、西鶴の永代藏を見ても知られるし、外國貿易に從事する商人などが文物(508)の點に於いて外人を輕んじなかつたことは、勿論である。このことについては、鎖國以前の思想がそのまゝに繼承せられてゐた。さすれば、外國、特にシナ、との關係が文物、むしろ彼等の遵奉する儒教及びそれに伴ふ知識、の上のみのことであつて、政治的に何等の交渉の無い當時、その政治的意義に於いて我が國を中國といひシナを夷秋と稱するのは、無意味である。少くとも實際には何の必要も無いことであつて、畢竟シナ人の口まねに華夷の空名を弄んでゐるに過ぎなかつた。シナ人の華夷の觀念にも、中國が夷狄を支配すべきものであるといふ政治的意義が含まれてはゐるが、當時の論者のは、中國たる日本が蕃夷たるシナ人を支配すべきものだ、といふやうな考があつてのことではなかつたらしい。日本人はたゞ日本の政治的獨立を主張したのみのことである。シナ人の華夷の觀念に上記の如き政治的意義が含まれてゐる以上、思想の上だけでもかゝる獨立を強調するは、當然でもあり必要でもあつたが、華夷の語をまねて用ゐるには及ばなかつた。然るにそれをまねたのは、多くの儒者のシナ崇拜に對する反抗心の現はれであつたと解せられる。
 勿論、日本人の國民的自尊心には一つの内容がある。それは一系の皇室を戴いてゐる我が國の政治形態が易姓革命のシナに優つてゐるといふことであつて、上に述べた※[糸+炯の旁]齋の中國論にもこの意味が見えるが、神道者になると萬口一致みなこのことを力説してゐる。「日本魂」といふこともこゝから出るのであつて(松岡仲良神道學則)、古來我が國を神國としてゐるのも畢竟これがためであり、この時代に書かれた舊事本紀大成經にも「我中國是神國也、我天皇是日孫也、」とある。松下見林が異稱日本傳の序に我が國は神靈の扶くるところといつてゐるのも、やはり同じところに歸着するであらう。普通の儒者はかういふ問題にはさして注意してゐないが、それは彼等の知識がもと/\文字の(509)上のことに過ぎないからでもあり、また一つはそれが特別に論議する必要の無い明白の事實だからでもあらう。神道者の態度は主として、儒教の易姓革命説に對する一種の反抗思想から出たものである。儒者の一部にも同じ動機からこのことに考を向けたものもあるが、儒者に於いてはそれと儒教政治學の理論との關係を明かに説かうとしなかつた。たゞ蕃山は「やはらかにして上に在します」我が皇室の御位の萬世無窮なる所以を頗る適切に説いてもゐ(集義和書卷八)、また後にいふやうに、このことがシナの教と違ふ理由を風土の差異に歸して、一種の解釋をもしてゐるが、これは稀な例である。日本の儒者の天命論的政治學が空疎な遊戯的知識に過ぎなかつたことは、前に述べたとほりであるが、現實の政治を動かす生きた思想は、現實の国民生活そのものから發生するものであつて、その生活に縁の無い外國の思想によつて、漫りに動かされるものでないことは、これでも明かである。外國から知識として入つた思想が現實の間題となるのは、實生活に於いてそれと接觸するところの存在する場合のことである。たゞ外から知識を供給せられることに慣れて來た日本人に於いては、接觸するところの無い思想をあるかの如く錯覺することがありがちであつて、儒者に於いてもその例にもれないもののあることも、また前に述べたところである。しかし錯覺はいつかは錆覺たることの知られる時が來る。實生活がそれを拒否するからである。
 だからこの空疎な儒者の論を口を極めて攻撃する神道者は、極言すれば的なきに矢を放つ如きものだともいひ得られるので、やはり實生活と關係の無い知識上の閑葛藤に過ぎない。さうしてその神道者は、一系の皇室を戴くといふことと國民の實生活、國民の文化、との間に如何なる關係があるか、といふやうなことは全く考へなかつた。彼等の自國本位の主張は、國民の生活とその文化とが外國よりも優越である、といふことに重きをおいたのではなかつたの(510)である。もつとも中には、あらゆる點に於いて自國を世界第一とするやうな言をなすものもあつて、「日本に生れたるもの第一に知るべきことは、三千世界の中に日本ほど尊き國は無し、人の中に日本人ほど美はしきは無し、日本人ほど賢き人は無し、日本ほど豐なるところ無しと知るべし、」(殘口ほこらさがし)といふに至つた。鎖國時代で海外の事情に無知であつた昔には、かういふ考が極めて手輕に生じたのも當然であらうが、しかしそれとても事實を擧げて一々それを證明したのではない。或はむしろ、事實さうであるといふよりは、さう考へねばならぬといふのであることが、この文の語氣からも知られる。
 が、さすがにかういつたのみでは滿足ができないので、何等かの美所を我が國に發見しようとつとめてゐた形跡はある。神道者が、我が國は東方日の昇るところにあるから、シナよりも善い國であるといつてゐるのは、その一つであつて、我が國の政治形態の淵源をそれで説明しようとしてゐた(黙識録卷三參照〕。地球圓體説の識者間に既に知れ渡つてゐる當時に於いても、なほかゝる説があつたのである。素行は我が國はシナと共に天地の中を得てゐるから中つ國であるといひ(中朝事實)、益軒も日本の風土の中和を得てゐることを説いてゐるが、(五常訓卷一)、これは日本もシナと同樣だといふのであるから、シナに對して日本の優越を説くのではない。蕃山が日本にはその特殊の水土に應ずる特殊の風俗があり道があるといつたのは(集義外曹卷一六)、正當の考であるが、彼もまた決して日本の水土を外國に比して特別に優れてゐるといつたのではなく、さうしてそれだけの考すらも確かな事實を根墟としてのことではなかつた。ところが神道者のいふところは一層根據の無いものである。西川如見が日本水土考に於いて説いたところは、それに比べると具體的であるが、その根本思想には大差が無く、幾らかは海外の知識を有つてゐた彼で(511)すら「朝陽始照之地」などといつてゐる。(水土のことにちなんで一言しておく。「扶桑第一山」たる富士が我が國の大なる誇りであつたことは、「雪嶺崑崙須避席、岱宗華岳豈爲山、」(錦里文集)といひ、「韓客体誇長白山、士峯白雪甲入寰、」(蛻巖集)といふやうな作があり、徂徠すらも長崎にゆく僧を送る詩に「天竺高僧※[にんべん+尚]相逢、爲問須彌優曇鉢、其如日東芙蓉峰、」(徂徠集)といつてゐるのでも知られるが、これは事實上富士山の英姿が世界に例の無いものだからであらう。この山を國民的精神の象徴として世界に誇るやうな考は、ずつと後に至つて始めて現はれたので、この時代では、既に述べた如く概ね神仙思想などに結合して詩にも詠ぜられてゐる。なほ一般に我が國の風景の美を誇るやうな思想も當時には無かつたが、これは鎖國時代の故でもあらう。)
 次には我が國の風俗が美しいといふことであつて、素行も既に或は邦人の淳朴を賞し(語類卷七)、或は智仁勇の三徳に於いては我が國はシナに勝るといひ(配所殘筆)、益軒もまた邦人はシナ人の如き殘忍の行をしないといつてゐるし(愼思録卷五)、蕃山も日本は人の氣質が尤も靈で欲が薄く仁であるといつた(集義外書卷四)。雨森芳洲も、日本の上代の風は淳朴であつたが漢籍が來てからそれを失つた、といふ神道者の説を評して、大に所見ありといつてゐる(橘窓茶話)。もつともこの芳洲のやうな考の根柢には、蕃山が日本も上代には知らず識らず大道が行はれてゐたといつた(集義外書卷二卷六など)と同樣、道家風のシナ的尚古思想があるが、ともかくも日本人に美所があることは承認してゐたのである。蕃山が上代の日本に大道が行はれてゐたといふのは、我が國を東夷としたのとは齟齬するところがあるやうに見えもするが、その大道には道家思想の面影があるので、儒家の聖人の道とは同じでないかも知れず、從つて華夷の觀念とは必しも調和しないものではないでもあらう。けれどももしさう見るならば道は一であ(512)るといふ考とは矛盾して來るので、何れにしてもはつきりしない考へかたである。さうして實はこゝに、道といふものをシナ思想によつて説くことと日本人の道徳生活を觀察することとの間の矛盾が、現はれてゐるのであらう。さて橘窓茶話に見える神道家の言といふのは、淳朴の風と儒家の教とを反對のものとするところに、シナ人は本來風俗が惡いから儒者の説くやうな教を要するのだ、といふ後の國學者の思想と連繋があらうと推測せられるし、蕃山の道家的傾向を帶びた大道説も、眞淵などの説と似てゐるところがあるので、何れも前に述べた徂徠や春臺の論とは正反對であるが、これも儒家の道といひ教といふものが日本人にとつてはあまりにこと/”\しくまた奇異に感ぜられて、それに實效のあることが疑はれるからのことであらう。もしさうならば、教化政治主義の由來が神道者によつて一解釋を與へられたことになる。また徂徠一派は道を聖人の造作したものとするため道家的の尚古思想を有たず、人は自然のまゝでは道に背いた行をするから教が必要だと考へたところに、上記の國學者または神道者の思想と一致するところがあるが、たゞ神道者國學者はそれを日本人とは違ふシナ人の特色として見るのに、徂徠一派はすべての人類に通じたこととして考へる差異があるので、そこに日本人を讃美する神道者國學者と儒教を一般人類の教とする徂徠などとの對立がある。もつとも儒者の日本人讃美は、日本人にも長所がありまたは或る點に於いてシナ人よりも優れてゐるといふのみで、そこから直ちに日本人が何事についてもシナ人に勝つてゐると論斷するのではなく、芳洲も外國の文物を排斥することには固より賛成してゐない。
 ところが神道者に至つては、一系の皇室を戴くといふ我が國の政治形態の本質を尚ぶ思想に關聯して、我が國に於いては君臣間の道徳が萬國に勝れてゐるといふことを、口を揃へて極力主張し、これも人心が正直だからといひ、さ(513)てそれから一躍して、日本は風俗がよくシナは惡いと断定するのである(例へば伴部安崇の和漢問答)。この論は第十四章に説いた如く、武士の間の特殊な君臣關係によつて維持せられてゐる封建制度と、一系の皇室を戴いてゐる全體としての我が國の政治形態とが、全く性質の違つたものであることを理解しないものであつて、そこに既に思惟の混亂があり、從つてかういふ説明の方法では、武士の間の君臣関係が古來常に破られてゐて、戰國時代のやうな世の中を現出し、將軍なども幾度か更迭してゐるといふ、明白な歴史的事實を度外視しなければならぬ點に於いて、推論上の大なる誤謬が含まれてゐる。もつとも封建制度のために維持せられてゐるやうな君臣關係は、さういふ制度の早くから壞れた、或はむしろ竪實な封建制度の成りたゝなかつた、シナ人には、一般の風習としては薄れてもゐ發達しないでもゐるから、かういふ事實が神道者をしてかゝる説を立てさせた有力なる事情となつてゐるでもあらう。この點は寛恕しなければならぬが、皇室と國民との關係を君臣と見ることは、どこまでも誤謬である。また一概に日本人が正直だといふのも、一面的の觀察であつて、西鶴がシナの商人は正直で日本の商人は詐僞を常としてゐるといつたのと對比すると、甚だ興味がある。なほ武士に不正直なもののあることは既に前に述べて置いた.武士も商人も不正直なものばかりでないことはいふまでもなく、特に西鶴の言には文學者の態度に伴ひがちの誇張があるが、少くとも、我が國の政治形態に美點があるといふことと、國民の道徳生活があらゆる點に於いて優秀であるといふこととを、同一視するわけにはゆくまい.シナ人の間にも我が國の政治形態を讃美するに吝ならぬものがあつて(宋史日本傳)、それは我が國が君主國である限り、後世とても異論はあるまいと思はれるが、他方では「夷狄諸國、……莫狡於倭奴、」(五雜姐)といふ評判さへもある。かれは帝王の言であり、これは倭寇といふ海賊的行動によつて特に刺戟せられた(514)感じであると共に、彼等の中華意識、即ち強い自尊心と異國民に對する偏見と、から來てゐるところのある言でもあるが、日本人が道徳生活に於いてすべて世界第一であるといふのは、その世界一般から承認せられてはゐなかつたことである。ケムペルが日本人は猜疑ぶかいといつてゐるのも、あまり好い評判ではないが、上にも述べた如き當時の武士の實状の一面をよく觀破したものである。我が國民が、史上に現はれてゐるシナ人の如き、甚しき殘忍の行をしないといふことは事實であつて、人を殺すことに慣れてゐた戰國武士でも、シナ人ほどには酷くはなかつたから、この點は固より誇つてよいことであるが、それだけで日本人のすべての道徳生活が萬國に優れてゐるとするのは、あまりに一足飛びの議論である。或る民族の道徳生活には、その特殊の民族生活に由來する特異性があつて、外部から見ても長短利弊が互に紛糾纏綿してゐるから、他の民族に對して抽象的にその優劣を概論するやうなことは、できるものでないが、昔の人はこの點に於いて甚だ手輕な取扱ひかたをしてゐた。もつとも江戸時代に於ける日本人の道徳生活は、それにいろ/\の短所があつたにせよ、精細にそれを觀察すればそれに多くの長所があり、全體の上から見て、また世界の諸民族のと比べて、決して低位にあるものでなかつたことは、考へられる。さもなければ江戸時代の文化があれだけに發達し、社會があれだけに整頓してゐたはずが無い。けれども神道者の上記の説は、さういふ着實な觀察から得たものではない。彼等の知識の性質はこれでも知られる。なほ我が國民が昔から一系の皇室を戴いて來たといふ事實には、しば/\考へて來たやうな微妙な歴史的由來があるので、神道者の粗大な論はそれを説明するに足らぬ。
 ところが神道者の考が更に一歩進むと、日本にも固有の道があり教があるといふ主張が生じ、そこにいはゆる神道(515)を建立しようとする企圖が生ずるのであるが、それとても、儒者によつて道といふもの教といふものの本家である如く説かれてゐたシナに對抗して、自國がそれに劣らぬといふことをいはうとするためである。のみならず、神道家は知識のことについてもこれと同じやうな態度を取らうとした。跡部良顯の和字傳來考や伴部安崇の和漢問答の神代文字論などは、文字はシナにのみあるのではなくして我が國にもあつた、といふ主張から出たものであつて、後の平田篤胤などの考と同じであり、何の根據も無いものである。澁川春海がその著天文瓊統に於いて、地球圓體説並に西洋から來た天文の知識に神代史上の説話を附會して、國家の起源を説明しようとしたのも、またそれと同じであり、この點に於いては後の服部中庸や篤胤などの先驅となつたのである。春海の暦の知識は誠實な觀測によつて成りたつたものであるが、これはそれとは違つて、垂加の門人としての神道者である一面に於いてのしわざである。兩部神道一貫口訣抄や本朝天文を書いた源慶安といふものに至つては、西洋から傳へられたこの新天文學を神道天文と名づけて我が國に固有なものであるとし、それによつて佛数の須彌山説やシナの天文家の説を攻撃したが、その知識が單に書物のうちから得て來たものであつて、本來は天文現象の觀察に本づいて形づくられた學術的知識でありながら、彼みづからに於いてはさういふ觀察によつて究め得たものでないことが、當時の知識の性質をよく示してゐると同時に、世界共通の學術的知識を我が國特有のものででもあるやうに説いて、強ひて我が國を外國と同等の地位もしくはその上に置かうとする點に、當時の神道者ならびに後の國學者の態度がよく現はれてゐる。鹽尻(卷一〇)によると、吉川惟足流の所傳である神代卷講習次第に、伏羲も釋迦も大己貴神だといふ説があるとのことで、これも篤胤の思想の一淵源らしいが、伴部安崇が神道野中の清水で、我が國の道を以て異邦を變化させたいといひ、吉見幸和が神武紀蒙(516)訓鈔(平出鏗二郎の論文に見える引用による)に於いて、世界の主である天照大神の御裔が我が國に君臨せられるからは、異邦には眞の神が無いはずだ、と説いたのも、また本居宣長や篤胤などの説と同樣であつて、彼等の口を極めて排斥してゐるシナ人の態度を實は學びつゝ、中華を以てみづから任じてゐることも、また國學者と同じである。が、ともかくもかういつて來ると、上に引用した殘口の「ほこらさがし」の言が種々の知識的遊戯によつて何程かの内容を與へられたやうにも見える。
 貴重な國民的自尊心は、神道者によつてかくの如き不自然な方向に導かれ、横みちに外れて來たのである。これは上に説いた如く、現實に對外關係が無くして外國とその文化とを知らない故でもあるが、また國民の實生活、國民の文化、に於いて世界に對して恥かしからぬものがあるといふ強い信念が無かつたのと、一般に學者の知識が現實から遊離した思想上の遊戯になつてゐたからのとの、ためでもある。さうして政治形態に誇るべきものがあるとすることをすべての生活の優越を示すこととして考へたのは、知識といふものが政治及び道徳の教としてのみ考へられてゐた儒者の思想に誘發せられまたそれに對抗して起つたために、彼等と同じ誤謬に陷つたといふ事情もある。
 勿論、眞の生きた知識、特にその人生に關するものは、人の心生活の一つの現はれであり、その心生活全體の調子によつて形づくられるものであるから、それに個人的特色のあるが如く、民族的特異性の存することは、當然であつて、必しも抽象的論理形式の如く萬人共通世界公有であるのではない。だから日本人のさういふ知識には日本人に特殊な内容があり色調があるべきである。しかしそれは自然に生ずる事實がさうであるといふのであつて、故らにさういふものを作るといふのではない。その上にかういふ知識は、日本人の實生活から發生したものでなくてはならず、(517)また一面に於いて世界の公認すべき普遍性がそれに存在しなくてはならぬ。ところが神道者のいふのは全くそれと反對である。三輪物語に、日本人が我が國を神國としてみづからそれを尊尚することは固より當然であるけれども、それは外國に比較してのことでもせ界に對してのことでもない、といふやうに説いた一節があるが、これは神道者などの言に較べると甚だ卓越した見解である。要するに神道者は儒者に對杭しようとはしたけれども、その空疎な、實生活から遊離した、文字上の知識に對し、同じやうな言議を以て應酬したに過ぎなかつたのである。だからその傍でシナ崇拜が知識人の間に衰へなかつたのは當然である。(由來するところは別であるが、第十三章に述べた如く、人格と實力との如何を問はずして、家系を以て自ら誇り他を卑しんでゐた武士の思想も、これとおのづから相應ずるところがある。)
 神道者がもし我が國をシナと對照して誇るべきを誇らうとしたならば、何よりも、昔からシナの文物を盛に取入れながらそれを利用して、シナのとは全く違つた獨自の文化を創造し獨自の生活をあらゆる方面で展開して來た、我が國の歴史を囘想すると共に、その歴史によつて形成せられた現在の國民生活に、シナとは違つた特異の活動が行はれ特異の樣相が現はれてゐて、それがシナに比べて決して劣らないものであることを、考ふべきであつた。さうして歴史を囘想すれば、我が國が古來曾てその獨立を失つたことが無く、それと一體不二の關係のある事實として、皇室が一系であつて易姓革命の無かつたことが、かゝる獨自の文化の形成、獨自の生活の展開、に重要な意味をもつてゐることが、おのづから知られたはずである。然るに思ひをこゝに致すことができずして、皇室の一系であることにすべてが悉をれてゐるやうに考へ、その他には抽象的な観念としての道といふやうなことをいふか、然らざれば空疎な國(518)自慢をするか、この二つのみであつたのは、一つはシナ人の實生活を知らなかつたからのことでもあるが、同じ理由から、經典の文字によつて道を説くことのほかにはたらきの無かつた、儒者のシナ崇拜に對杭して言を立てようとしたためでもある。どの國民の生活にもどの民族の文化にも、それ/\に優れたところがあると共にそれに伴ふ缺點があり、日本人の生活についても同じことが考へられねばならぬから、上にもいつた如く抽象的に優劣などをいふべきではないが、誇らうとすれば誇り得べきことが實生活そのものにあつたのである.然るにそれを具體的に考へなかつたのは、彼等が啻にシナ人の實生活を知らなかつたのみならず、日本人みづからのをも深くは知らなかつたことを示すものである。彼等は現實の日本人の生活の短所なり缺點なりに注意したらしい形迹のないのもこの故であるが、それに注意しなければ長所もまた覺られないのであるから、神道者は實は日本人みづからの生活についての自省も無く明かな自覺も無かつたといふべきである。しかしかくいふのが儒者のシナ崇拜を是認するものではないことは、いふまでもない。
 
 以上の考説は、當時の學問知識が實生活と交渉することの極めて少いことを述べたのであるが、しかしこれは、學問がいはゆる實用的でなければならぬといふのではない。實をいふと、純粹な思索の途の開けなかつたことが、當時の知識界の一大缺點であつて、これは一つは何ごとも現實の社會的秩序の維持を目的として、それより上にも深くも考を向けることが無かつたのと、おのづからそれに適應するところのある儒教の思想が書物によつて學ばれ、それが學問の中心となつてゐたのとの、ためであつて、實驗的學問の發達しないのと同じ源から出てゐる。當時の學者を代(519)表するものとして見られる儒者には、外界に對する觀察が缺けてゐたと同樣、内生活に於いても反省と思索とが足らなかつた。彼等の所説に明白な自家矛盾が多いこと、その思想が多くは組織だてられ體系づけられてゐないこと、從つてまた學説の發達の無いこと、はそれを證するものである。學問上の異説は起つたけれども、後出のものは前人の所説から發展したものではなく、シナの何の方面かに由來のある別の思想が取入れられたに過ぎない。勿論幾らかの暗示を前人から得たことはあらうし、また漠然たる時代の思想の傾向の現はれと見なすべきものもあらうが、それは學説の發達といはるべきほどのことではない。例へば徂徠の古學は仁齋から何等かの暗示を得たでもあらう。またそれには素行なり益軒なりが朱學に疑を挟んだ如く、朱學の外に出ようとする一部の學者の傾向に誘はれたところもあらう。が、徂徠學は仁齋學が論理的に一歩を進めたものではない.徂徠は、儒教の一面である實踐道徳の問題を大に展開させその哲學的基礎としての心性の學を作り上げた程朱や陸王を排斥した代りに、儒教の他の一面であつて比較的後世の學者には重んぜられなかつた教化政治主義を拾ひ上げて、それを極力高唱したのであつて、彼が古學派と稱せられるのはこの點に於いて頗る適切であるが、仁齋は朱子の研究法に反對し、また其の復性説、道が性に具はつてゐるといふ説、を攻撃してゐながら、なほ概して心性の學であつた.もつとも、宋儒を排し禮樂制度を以て民を化するといふ儒教の一面を強調して説くことは、素行が既に謫居童問などに於いて先鞭をつけてゐる。徂徠がそこから出立したかどうかは知らぬが、よしそれにしてもその上に何物をも加ふることが無く、たゞ考を大にしていつたのみであり、さうして素行も徂徠もたゞ儒教に具はつてゐる一面を力説したに過ぎない。これは神道者に於いても同様であつて、彼等のしごとは種々の思想を種々の典籍から借りて來てそれをつなぎあはせるに過ぎず、從つて相互に齟齬し(520)矛盾した思想がその言説に含まれてゐる。
 個人の學説の變化などを見ても、闇齋が佛教を出て朱學に歸し更に神道を奉ずるやうになつたとて、彼の朱學に佛教から得た思想が加はつてゐないと共に、その神道は朱學とは内的關係の薄いものである。垂加神道に於いて、神道に傳統的な思想である心の神といふものを説明するために朱學の理氣説をあてはめたこと、またつゝしみをいふのが朱學の敬の説に由來してゐるやうなことはあるが、それはたゞそれだけのことであつて、思想として體系をなしてゐない垂加神道が、朱學を取入れることにょつて全體として大きな特色を具へるやうになつたのではない。その門人の神道に趨かずして師に背いたのも、朱學ならぬ神道に反對して朱學に留まつたに過ぎない。或はまた三宅石庵が首は朱子尾は陽明で聲は仁齋に似てゐるから鵺學問だといはれたのも、その學が内から出たものでなくして外から集めたものだからである。だから極言すれば、儒學には學説の變遷はあるが發達は無く、從つて歴史は無いのである。これは恰も昔の佛教に種々の學派が存在しても、我が國のこととしてはそれが論理的發展の徑路を示すものでも、時代の要求に應じて現はれたものでもない、と同樣である。外から傳へられたものを奉ずるに過ぎない學問の病弊がこゝにある。眞淵以後の國學者になるとかなり樣子が違ふが、そのことは次篇で考へよう。
 學説と學者の性格との關係を見ても、その學説が學者の内生活と多く關與するところの無かつたことが知られる。春臺の性格は徂徠とは殆ど正反對であるが、學説に於いては最もよく師説を傳へてゐる。直方も※[糸+炯の旁]齋もその性格は違ふけれども、師説によつて朱學を奉ずることは一樣である。要するに師の見解を基礎にしてその上に自己の學説を築くのではなく、學説としては一定した師説を奉ずるのが普通であるから、自己の性格が學説に影響を及ぼすことは少(521)いので、この點に於いても、儒者の學派は西洋の哲學者の學派といふのとは意義を異にしてゐる。(これも次の時代の國學者になると少しく變つて來る。)もつとも全く無關係だとはいはれないので、幾らかの新説を唱へたり他の學派に韓じたりするやうな場合には、それが學者の性格と何等かの交渉のあることは想像せられる。が、概していふと、學者の性格は、學説そのものよりも、むしろ古くからの学説を受入れまたはそれを取扱ふ態度にある。学説は固定してゐるが、種々の學説の何れを取るかはその人にあるからである。徂徠の豪放な資質は、儒教に於いて心法の學を斥け治國平天下の教を取上げさせる因縁にはなつたであらうが、治國平天下の學また禮樂制度論そのものは、徂徠の性情とは殆ど相關せざるものである。徂徠の性格のよく現はれてゐる彼の教育法が、教化政治主義の精神とはむしろ矛盾してゐることを、見るがよい。
 なほ經世論や時務策には學者の人物の影響が幾らか認められるけれども、それは必しも學説とは内的關係を有つてゐない.同じく闇齋門でありながら※[糸+炯の旁]齋と尚齋とは考が違ひ、同じく朱學を奉じながらその※[糸+炯の旁]齋と鳩巣とは正反對の説を有つてゐ、さうしてその鳩巣と古學の徂徠とが同樣に幕府本位論者であり、徂徠と王學の蕃山とが或る點まで類似した時務策を懷いてゐたなどは、即ちそれを證するものである。また反對の方面から見ても、實踐道徳の學とせられてゐる儒學でありながら、學説の特異な點が人物の特色となつて現はれてもゐない。蕃山の性格とその事業とが、いはゆる江西の學によつて形づくられたものとは考へ難く、※[糸+炯の旁]齋の人物が朱學によつて養はれたものといはれないことは、同じ王學や同じ朱學の徒に於いて、全く異なつた人物であり異なつた態度を以て世に處してゐたものが多いのでも、知られよう。幾らかの影響は無いではないにせよ、性格を形成する主たる要因はそれではなかつた。さうして(522)これもまた畢竟、固定した學説が現實の心生活から遊離してゐるからである。心學といはれてゐる王學の徒に於いてすら、藤樹とその教をうけた蕃山とに、どれだけ共通な點があるであらうか。さうしてその蕃山と例へば素行の如くそれとは全く學統を異にするものとの差異が、どれだけその學派に由來するであらうか。從來の通説は、この時代の學派と人物との關係を過大視してゐはしまいかと思はれるから、特に一言を加へておくのである。學者の人物がその弟子に及ぽす感化は、生きた人と人との接觸であるだけに、固定した學説よりは※[しんにょう+向]かに力強いものがあるけれども、それにしても弟子がそれに適應する素質を有つてゐなくてはならぬ。さうしてその素質を展開してゆくのは、必しも師の人物ばかりでなく、あらゆる内外の生活がみなその縁となる。だから、大石良雄の行動を素行の感化に歸するやうな疎大な説は、容易には首肯せられない。かういふ論は恰も馬子の弑逆を佛教の感化とするやうなものである。闇齋門に偏固なものが多いことなども、それが閤齋の感化のためであるか、または偏固なものがその門に集まつたのか、よく詮索してからでなくては論斷し難からう。
 なほ一言すべきことは、政府の學派に對する態度である。幕府が素行や蕃山を拘束したのは、彼等が浪人や京の縉紳の間に幾らかの迫從者を有つてゐたために、それを危險視したからであるが、それを學派の故と見たかどうか。大疑録の著者益軒が何の咎をも蒙らず、公然朱學に反對した仁齋も徂徠もまた藤樹も執齋も、みな平然としてゐたのを見ると、聖教要録を著した素行、藤樹に從學した蕃山が、學派の故に忌まれたとは解し難い.もつとも幕府の當局者は事理を解し得ないためにさう誤推したのかも知れぬが、少くとも非朱子學派を抑制するつもりでなかつたことは、疑があるまい。時務策な潅どを見ても、素行も蕃山も幕府の政治に反對するやうな説を唱へたことは無いから、もし幕(523)府が彼等の思想を危險視したのならば、それもまた全く誤解であるが、何れにしても幕府のこの處置は、例の戰國傳來の武士氣質に伴ふ猜疑心の故である。さうしてこれも幕府が、キリシタンに敵國の幻影を認めたと同じやうに、浪人とか京とかに關する一種の成心に囚はれてゐたので、深く思想界を達觀するだけの眼孔を有つてゐなかつた故である。
 學説と學者の性格との間に交渉が少いくらゐであるから、その生活と學説との乖離を生ずるものが多いことは、當然であらう。言行不一致の非難もこゝから生ずるが、それは儒者が本來實行すべからざる言説をたてなければならぬからである。直方は道行はれざるに某侯に仕へてゐるといふので、尚齋に攻撃せられたけれども、本來その道といふものが行はるべきことであらうか。我が身を持することはともかくもとして、世に處するに當つては、多くは學び得た知識と自己との矛盾を味はねばならたかつたらう。道を説くことが道そのものとは分離して考へられ、儒者を保護すればそれだけで有道の君だとせられるのも、この故である。仁齋の如き篤實の學者ですら、詩は道に妨があるといひながら詩を作つてゐたではないか.もつと深く考へれば、彼等はその知識によつてみづから識らずして自己を欺いてゐたのかも知れぬ。彼等が詩を作るに當つて、神仙とか隱逸とか、實生活に於いては思ひもよらぬ文字を並べたのは、無意味に套語を用ゐたまでであつて、彼等の思想を表現したものではなからうが、しかしその間の限界は明かに立てられるものでなく、何時の間にかそれが自己の思想である如く考へられても來る。が、その實、彼等が人と社會とを離脱しようとしなかつたことは、彼等の傳記が明かにそれを證してゐる.すべてがそれと同樣で、文字によつて思想が形づくられてはゐるものの、何等かの事件に逢著すると、始めてその思想が眞の自己のでなかつたことを發見(524)する場合もあらう。紙上の道が行はれるものと思ふなども、やはりその例と見てよからう。
 
 儒者を始めとして當時の知識人に、一種の淺薄なるシナ式合理主義に陷つてゐるもののある一理由も、またこゝにある。こゝにシナ式合理主義といつたのは、シナの知識人の智力またその知識に於いて合理的とせられる事物の存在をのみ承認し、然らざるものを否認する考へかたをさすのであつて、日常の經驗から離れた詩人的の空想、現實の人生を超越したところに交渉をもつ宗教的心情のはたらきなどは、かゝる考へかたからは不合理なものとして斥けられるのである。しかし一般の風習または古來の因襲として知識人の知識に存在することがらは、概ね承認せられるので、そこにかゝる考へかたの實は不合理である徴證がある。日本の學者がそれをそのまゝ繼承してゐるのは一層の不合理であるが、それは即ち外から與へられた書物の上の知識によつて自己の心生活が蔽はれてゐるからである。自己の生活と交渉が無く從つて生命の無い内容の乏しい知識が、思想の上に權威を有するからである。もつともこれは昔からのことでもあり、また儒教及び一般のシナ思想に附隨するものでもあるが、江戸時代の社會状態から自然に發生した時代の思潮(第十八章參照)によつて、一層それが強められてゐる。勿論、理智の力で認め得ることを認め迷信の類を排斥することには、意味はあるが、その理智がシナの知識人のもつてゐる上記の如きものである限り、それによつて宇宙間の一切の現象、人の生活のあらゆるはたらき、を律し去らうとするのは、事物を正當に解し得たものではない。さて前にもいつた如く、儒者の尊信するシナ思想でありながら讖緯の説は用ゐられなくなつてゐるが、かういふ點では儒者とても必しも昔のシナ思想に束縛せられてはゐない。休徴説はその實やはり一種のシナ式合理主義が根柢(525)になつてゐるから、理論上儒者の非難することのできないものであるが、自然現象と人事とを對應させるこの説の如き考へかたが、當時の常識に於いては非理な鴻のと見られるため、重きをおかれないのである。常憲院實記にょると、元禄二年に老人星が現はれた時、林信篤などの儒員がそれを祥瑞だといつたために慶宴が設けられた、といふことがあるが、かういふ阿諛の手段も、奈良朝時代とは違つて、世間にさしたる反響を喚び起さなかつたらしい。正徳年號辨で白石が當時の廣い知識に本づいて信篤を痛撃したのも、やはりかゝる時代の思想である。次章にいふやうに、この時代の知識人には概して宗教的信仰が減退してゐて、それは舊來の迷信的また祈祷的宗教の威力が衰へた點に於いては、大なる進歩であるが、それでありながら、上にもいつた如く知識人が一般人の間に行はれてゐるシナ傳來の迷信を排除することができず、儒者自身が易占などを信じてゐるのも、またこのシナ式合理主義と關係がある。
 なほ詩人的空想の所産が否認せられることには、俗説辨といふやうな書さへ作られてゐるのでも知られる。傳説などを單に事實であるかどうかといふ點かちのみ批評し、事實でなければ荒唐不經の説で取るに足らずとしてしまひ、その傳説に如何なる思想が存在し、人としての如何なる要求が現はれてゐるか、を考察しないのである。仁齋が七夕を詠じて「さかしらに誰がいひそめて七夕の今宵なき名を空にたつらん」といつたのも、前卷第三篇(第六章)に引いた丈山の詩と同樣、七夕の傳説の美しさを感ぜずしてそれを單に虚僞として見たのである。だからかゝる合理主義はおのづから文藝の排斥に傾くので、第十二章に述べた如く道徳眼を以て文藝を見るのも、その道徳觀念が合理主義の上に立つてゐる點から見れば、畢竟はこゝに歸着するのである。白石が神は人なりと唱へて神代の物語を國家經略の歴史と解し、天照大神は太腸ではなくしてそれとは別な皇室の御祖先であり、高天原は皇都の置かれた常陸の多珂(526)である、としたのも、神代の物語はそれを語られてゐるまゝに事實として信ずるにはあまりに非合理であるために、かういふ解釋をしたのであるが、それはまた非合理な物語を非合理な物語として、さういふ物語に意味があり價値があることを認め得ないために、強ひてそれを歴史的事實と觀ようとしたのである。かの皇組を呉の太伯とする説が木下順庵(恭靖遺稿卷二)などにもまた三輪物語の著者にも、是認せられたのは、一つはシナ崇拜の故でもあるが、一つはやはりかゝる考へかたのために信ぜられ易かつたからであらう。益軒の如きも神を人とし神代の物語を歴史と解してゐた。東涯が三神山(紹述文集卷二一)に於いて蓬莱瀛洲を我が熊野だとしたのも、傳説によつたものたがら、やはり同じ考へかたがその裏面に含まれてゐるのではなからうか。前に述べた如く蛻巖が神仙を胸裡にありとしたのも、己心の淨土といふやうな佛教的思想と縁がありさうでもあるが、それよりもやはりこの合理主義の見地から長生不死を虚僞としたのであらう。
 しかしこれもまた儒者ばかりではなく、かの神道者などに於いても同樣である。神道そのものに於いてもそれが示されてゐるといふことは、次章で考へようと思ふが、その神代の説話の解釋の一面には、白石と同じやうに神代の神を人とする考へかたのあることを、こゝではいつておかう。度會延佳も一方では神を人の心にあると説きながら、他方では神代の神を人として見てゐるが、垂加もそれを繼承したので、高天原を一つの意義に於いては大和の高市郡にあつた皇都として解してゐるのも、そのためである(風水章)。吉見幸和が國常立尊は筑紫の君主であり天の浮橋は日向の地名であるといひ、大八島の生成を國土の經略と解したのも(國學辨疑)、この考へかたに從つたのであらう。もつと後れると、天照大神の皇都は豐前の中津だといひ(神明憑談)、神々は琉球朝鮮から渡られたのだと一度は思(527)つた、といふものさへ現はれて來る(大和三教論)。これもまた儒者と同じく、人の空想のはたらきを解し得ない彼等には、神代の説話が説話のまゝでは事實としてうけとりがたく思はれたためのことである。太平記(卷二五)の説話に「葛城の天の岩戸」、「大和國天の香久山」、といふことが見えてゐて、これも高天原を地上の大和にあるものとしたのであるが、たゞこれは、或は神代の物語の名を葛城の地に適用し或は名によつてその所在を大和としたまでのことらしく、こゝにいふのとは考へかたが違ふ。
 更に一歩を進めて考へると、かゝる考へかたは必しも知識人のみには限らないのであつて、一般文藝の上に於いてもそれが現はれてゐる。當時の日本人は、儒者などの僻説に服從しないで、ともかくも種々の文藝を作り出してはゐるが、その文藝にもやはり同じ程度の合理主義の面影が見えるほどに、情生活は低調であつた。淨瑠璃などの脚色がいはゆる因果應報で貫かれてゐるのも、かゝる考へかたが道徳の問題に現れたものであるし、奔逸な場面の變化がその實は埋智的に構想せられてゐるのも、やはりこゝに一理由がある。また第十八章に述べた如く妖怪變化がどこまでも人間的であるのも、やはりこのことと關係がある。双生隅田川の幽靈が松若であり、信州川中島合戰の妖怪が實は人であるとするに室つては、作者の作意は奇を弄する點にあつたらうが思想の上から見ると、妖怪を認めたくないといふ意向がそこに潜在してゐるので、こゝにこの時代の合理主義的精神が見えるのではなからうか。が、これは即ち一方に於いて宗教の權戚の失墜を語るものでもある。
 
(528)       第二十二章 宗教上の思想
 
 社會の權威に服從し世の秩序に順應することが道徳の根本義とせられ、書物によつて與へられた知識が重要視せられて、淺薄なる一種の合理主義が知識人の思想を支配してゐる當時に於いて、宗教的信仰が薄弱であることは自然の勢といはねばならぬ。實利主義と一種の歎樂主義とに身を任せてゐるもの、世を避けて獨り心安くしようとするもの、に於いてはなほさらである。もつとも我が國民の多數には、昔から深い宗教生活の體驗が無いといつてよい。固有の民族的信仰はいふまでもなく、事實上祈祷教となつてしまつた天台眞言の宗派は、一般人にとつてはたゞ福利を求めるための信仰であり、さういふ祈祷的性質からは離脱してゐるけれども、その代り死後の生にすべてを求めて現實の人生そのものから背き去らうとする淨土教は、固より人生の宗教ではない。自己の生命、自己の全人格の根柢、を深く信仰の體驗に据ゑ、そこから一切の生活が展開せられるものにして、始めて宗教生活に入つたといふことができる。今の人の思想として宗教の存在を肯定する見地からは、かう考へられるであらう。だから單に現當二世の福利を祈るにとゞまるものは、如何にその希求が熱烈であらうが、眞率であらうが、それはこの意義での宗教的信仰とはいひかねる。祈祷教と淨土教とに支配せられてゐた日本人に於いては、事實上その信仰と實生活、特に道徳生活、とが殆ど無關係であつたではないか。これは恰も知識と生活とが分離してゐると同樣である。
 けれども、室町時代以前には佛教が人心の上に大なる勢力を有つてゐたので、その佛教はともかくも一つの宗教である。然るに、前卷に説いたやうな事情で戰國時代から漸次それが衰頽しはじめ、このころになつては今述べた如き(529)思想界の傾向、また武士に於いては神佛の冥助を請ふを要する戰爭といふものが無くなつた太平の世であること、感傷的氣分を嫌ふ風尚のあることなどが、ます/\その趨勢を強めたのである。世間には往々武士道は一種の宗教だといふやうな説をなすものがあるが、それを武士道が強く人心を支配してゐるところから生じた常識的な譬喩の言として見れば、それまでのことであるが、この二つが全く性質を異にしたものであることは、第十三第十四の兩章で考へたところによつておのづから明かになつてゐるであらう。
 勿論、祈祷的現世教もしくは淨土教は、依然として貴族社會にも民間にも行はれてゐるが、しかし儒者を中心とするやうになつた知識社會に、佛教の權威が失はれたことは事實である。現實の問題として蕃山などが皇族御出家の習慣を非としてゐるのも、主としてこれがためである。のみならず、概して知識の乏しい人々をあひてにする文藝に於いても、同じ傾向はあるので、近松などの劇曲に見える人間の禍福成敗が、不可思議の運命や佛力法力に支配せられずして、因果應報の道徳的親範によつて定められるやうになつてゐるのも、その一例であり、こゝに室町時代の文藝との相違が著しく現はれてゐる。神に對しても同樣で、金もうけは神のまゝにもならぬといふ思想が、西鶴の胸算用や織留に見えてゐる。古淨瑠璃の公平法門諍には出家を勸める僧を公平が論破し、瀧口横笛に瀧口の出家が重きをなさず、近松の曾我五人兄弟に出家の持戒よりも復讐が重要事とせられ、または土佐淨瑠璃の定家に、謠曲の道成寺を摸倣しながら、怨靈の退治を法力ではなくして武力とし、室町時代の物語のやうに戀が佛教的見地よりの罪業とはせられずして、社會的の義理によつて拘束せられてゐるなども、同じ傾向を示すものである。其角が「佛とは櫻の花に月夜かな」(五元集)といつて、花月の天地を淨土と觀じたのは、同じく現世本位な平安朝人の思想にも似かよつて(530)ゐるが、談林の俳諧や浮世草子に於いて僧侶をも佛教をも滑稽化してゐるのは、前卷に述べた宗鑑などの系統をうけながら、この時代に至つて一層強められた思想である。
 或はまた、僧侶が世渡りの方便とせられ(織留卷五)、裏面には醜随な事實があると思はれたこと(一代女卷二)はいふまでもなく、「木のはしといへど法師ほど氣散じなものは無し、したいことして遊び寺、」(男色大鑑卷六)と、よそめには氣樂なものと見られながら、その身になれば「思へばつら/\道心もおもしろからず、後の世は見ぬこと、鬼もちかづきにならず佛もあはぬ昔がまし、」(一代男卷二)と、珠數を賣つて棄てるものもあるとせられた。地獄も威力を失つて、或は好笑の料とせられ、或はこの世の武士どもに苦も無く打破られる(元禄太平記、西鶴冥途物語、小夜嵐、及び金平本の義經地獄破り、など)。許六の四季の辭や日本莊子(卷一)に神佛の金まうけをいひ、其蹟の親仁氣質(卷五)に信仰の茶化されてゐることなども、同じ思想の現はれである。浮世草子の滑稽化は神佛についてばかりではなく、またそれとは反對に、淨瑠璃歌舞伎などには神佛の利生に仮託したものもあるが、ともかくもかういふ思想が民間文學にも見えてゐることは、室町時代などに比べると大なる時勢の變遷である。昔の狂言には僧侶の裏面を滑稽的に取扱つたものはあるが、佛そのものを茶化したものは無いことを、考ふべきである。名所記などに神社佛閣では狂歌などが多く詠まれたことになつてゐるのも、そこが遊樂の場となつてゐるこの時代の風習と同じ精神から出たことであつて、古人が法樂の和歌を捧げたのとは趣きが違ふ。宗因の釋教百韻が經典の文句を滑稽化してゐることは、いふにも及ばぬ。業平涅槃の圖といふやうなものが作られたのも、一面の意味に於いては涅槃の滑稽化である。このころの狩野家などの繪畫に宗教的題材を取扱つたものが、毫も宗教的氣分の無い輕い遊戯的のものとなつ(531)てゐるのも、このことと關係があらう.もつともこれは、その由來をなす禅僧の作、むしろ禅宗そのもの、に既に遊戯的分子が存在してゐるからでもあり、全體に規模が小さくなりまた筆致の輕妙を尚んで來た外形や技巧上の理由もあらうが、こゝにいつたやうな思想の傾向も看過してはなるまい。勿論、寺院は遊樂の場となつてゐると共に、禮拜のところでもあるし、それと同樣、佛も茶化されながらやはり祈願をうけてゐるので、一般の状態としては佛の權威が因襲的に保たれてはゐる。こゝにいつたのは主として知識人の態度である。
 次に佛教の思想界に對する關係を觀るに、教理そのものの講習が概して國民の現實の心生活と交渉の無いものであることは、昔と變らない。その根本をなす解脱の觀念が、現世主義である當時の主なる思潮と何等の接觸をも有たないことは、勿論である。たゞ應機説法を標榜し世間に迎合してゆかうとするのが、これも佛教の因襲的態度であるから、將軍によつて支配せられてゐる国家、階級的秩序が重んぜられる社會では、それに適應する説法をするやうにはなつたであらう.眞宗のやうな徹底厭世教に於いてすら、王法またはいはゆる俗諦の一面を説いて來たではないか。その他の宗派に於いても、幾らかは世間的道徳を説くやうになつて來た。しかし當時の佛教家が最も努力したことは、さういふ實踐道徳の方面ではなくして、大なる勢を以て新に知識社會を風靡した儒教に對する自数の擁護である。が、これについては同じく儒教に對抗しようとした神道と、併せ考へる必要がある。
 神道の歴史的由來を考へると、それには佛者の間から出たものと佛教に對抗して起つたものとがあつて、一つは世界的宗教たる佛教の基礎の上に日本教を立てようとしたもの、一つは佛教的世界主義に對して日本本位主義を發揚しようとしたものである。大まかにいふと、兩部神道や山王神道などは前者で、伊勢神道や唯一神道は後者であるが、(532)本來神道といふ教が我が國に昔からあつたのではないから、後者とてもそれを樹立するには、やはり佛教の教理もしくはその考へ方を取入れねばならなかつた。かういふ歴史があるため、唯一神道が、佛教に對抗する態度から生ずる自然の傾向として種々のシナ思想を利用しながらも、佛教的分子はそれから除かれなかつた。或はむしろ新にそれを取入れようとさへした。けれども儒教が知識人の間に流行するやうになつたこの時代には、その風潮に順應しまたは捲きこまれて、神道者はその神道に儒教思想を附會することが多くなつた。神道の所依とする書紀の神代卷の卷頭には、シナ思想が著しく現はれてゐるにかゝはらず、佛教的分子は全く見えてゐないから、儒學の知識をもつてゐるものには、それが特に目についた、といふ事情もあらうが、昔の神道者が神代卷の種々の辭句を種々のシナ思想によつて解釋し、儒教思想を取るにも經典の辭句を斷片的に利用したのとは違つて、このころのは、伊勢神道以來多く取られてゐた道家の思想をば殆ど棄て去り、さうして儒教を儒教そのものとしてそれを全面的に神道に結合しようとした、といつてもよいほどである。或は昔の神道が佛教に依據して立てられたのと同じく、儒教に依據して神道を説かうとした、といふべきであらう。伊勢神道の系統に屬する度會延佳の態度がさうであり、神は道を教へた聖人であるとし、堯舜孔子の道は神道と同じだといつてゐる。神道も儒道も共に天地自然の道だからといふのである。延佳の思想を繼承したところのある山崎垂加も、神の道を儒家のいはゆる先王の道に比し、道は天照大神の道であるとした。神道に政治的意義をもたせてそれを王道であるとし、また神道は人道であるとしてそれを道徳教化し、祓といふやうな呪術的行事にも道徳的意義を與へたり、三種の神器は心の徳を象徴したものであつて道徳及び政治の根本がそこにあるとしたりすること、或はまた一種の合理主義的思想によつて神代卷を解釋し、神は實在した古人であり、その説話は比(533)喩の言または事理を説明する方法としていはれたものであるとすること、神道は天地自然の理であるとしてその意義で陰陽説や五行説をも利用し、易に「神道」の語があるために神道と易との契合を説くこと、などはこのころの神道者の主なる傾向であつたが、それは要するに神道の儒教化である。(易にある「神道」の神の語は道の形容詞であつて、自然の理法としての道の靈妙なることを稱讃したものであり、この神道は我が國のいはゆる神道の名とは何の關係も無い。)垂加に高天原について合理主義的解稱を下した一面のあることは上に述べたが、人事で自然界(造化)のことを説き自然界のことで人事を説くといふ、垂加に特殊な神代の物語の解釋としての天人唯一説の一半の意義も、またこれと同じ性質の考へかたである。或はまた天人唯一説の他の一半の意義として、人の心の神と神代の説話の宇宙神との同一を説くために朱學の思想をかりて來ることも、垂加によつて行はれてゐるが、これもまた延佳にその先蹤があり、吉田神道を繼承してゐる吉川惟足もそれに似た考へかたをしてゐる。
 かういふ風に神道が儒教化せられて來ると、超越的存在としての神には意味が少くなるので、そこから「人體はみな人の世なり人の世は即ち神代なり」(正親町公通卿口訣)といはれ、「神事即ち人事にして人々今日の境界の顯事なり」(ほこらさがし)といはれたやうに、神を人とし遠い昔の神代を今の人代に引き下ろすことになる。この考は鎌倉末期の慈遍の思想にも現はれてゐたが、それには政治的意義があつたのに、この時代のはむしろ道徳的意義に於いての心の上の問題とせられてゐるので、そこに朱學の行はれてゐた時代の考へかたがある。從つて上にいつた如く神道を人道とし、「神道はたゞそのまゝの人道にて、我が心を明かにして正直の道に歸るばかりのことなり」(神道俗説問答)とせられるのは、當然である。「世の中に神の道とて道あらば人の外なる人や學ばん」(羽倉東滿)も同じ思想(534)である。すべての神道家が一致して説いてゐる正直であれ、心と言とは一致させよ、といふ教も、垂加神道に特殊な「つゝしみ」の説も、畢竟これがために生じたのであるが、道徳的教條としては、人倫五常の道は即ち神道だといつたり(例へば延佳の陽復記)、忠孝を力説したり(例へば安崇の和漢問答、若林強齋の神道大意、など)、するやうになる。これらが儒教道徳をそのまゝ用ゐたものであることは、いふまでもない。なほ垂加の末流の跡部光海が人は生生間斷なきもので父祖子孫は一氣であるとし、その意味で佛教の輪廻説を難じてゐるのも、宋儒の見によつたものであり、安崇が人はみな祖先を祭るべきであると説いてゐるものも、儒教思想である。その他、局部的に儒教の思想を取入れてゐることはいろ/\あるが、一々いふには及ぶまい。神道がかういふやうに儒教化せられたのは、その根柢に、人間本位世間本位の時代精神がはたらいてゐるからでもあつて、畢竟は知識社會に儒教が流行し佛教が衰頽したのと同じ理由から出たことである。神道家といふのではないが、西川如見が町人袋(卷一)に福の神を理智的道徳的に説いてゐるのでも、一般の趨向は知られる。
 ところが神道がかういふ風に儒教と習合するやうになると、おのづから佛教には遠ざかつてゆくのみならず、それを排斥するやうになるのであつて、垂加などはその最も甚だしいものであり、比叡山に登つて「無涯風景雖堪樂、梵磬惱人歸去來、」(垂加文集卷六)といつてゐるほどに偏固であつた。しかしその垂加の神道に於いてすら、垂加自身は意識してゐなかつたらうが、直接間接に佛教に由來のある思想は存在する。例へば死後または生前に於いて道を傳へたものに授けるといふ靈社または靈神の號は、佛教の法名をまねたものと解せられる。これは吉田家で行ひはじめたことを繼承したものである。或はまた垂加の門流にもその他の神道者にもその人の死後についての種々の見解が現(535)はれてゐて、そのうちには儒教の説をそのまゝ適用したものもあるが、何等かの状態に於いての死後の生活を考へたもののあるのは、佛教に誘はれたのであらう。特に高天原を幽界と見てそこへの上昇を説くのは佛教の淨土往生の變形と解せられる(眞野時網神家常談、橘三喜神道四品縁起、など)。死後のゆくへについては佛教の所説と關係の無いものもあるが(強齋神道大意、安崇神道野中の清水)、かゝることが問題とせられたのは佛教に由來があるとしなければなるまい。神道に特殊な葬儀を行ひ、また死者を神として祭り墓地に神社を建てることも、また同樣であつて、佛家の葬儀や墓地に塔を建てることを、形を變へて摸倣したものである。神道が儒教化して政治の道や道徳の教とせられたにかゝはらず、なほ一味の宗教的性質を保有してゐるのは、これらのことのためであるので、神道が佛教と對立して一つの宗教であることを主張しようとすれば、或は神道者が何等かの形に於いて自己の宗教上の要求を充たさうとすれば、かゝることを行はねばならなかつたのである。もつともかういふことは、一般の民俗としての神の崇拜とは關係が無いが、神道である以上、神の祭祀のことは輕視しがたいから、神道者の言議にはそれについての考説に渉ることもあり、垂加すら祈祷などの行事をもしたといはれてゐるので、そこに民俗との或る連絡はある。しかし神道の合理化道徳化には學者の間にも反對の意見を抱くものがあるので、契冲が「神代とて知られぬことのゆかしきをなど淺はかにいひ放つらん」と詠んだのは、宗教家たる彼がこの傾向に對する不滿の感を述べたものであらう。
 しかし實はこゝに考へかたの混亂があるので、神道の合理化道徳化もそこに一つの重要なる理由がある。神道者は神代紀を宗教上の經典の如く取扱ひ、その解釋に主力を用ゐてゐるが、神代紀は上代に作られた物語であつて、そこで行動してゐる主要の人物、歴史的の存在ではなくして物語の上の人物は、宗教的崇拜の對象たる神としてではなく(536)して、純然たる人として語られてゐる。たゞ天照大神は宗教的意義に於ける太陽神であると共に皇祖としての人であつて、神と人との二つの性質が結合せられてゐるが、その他には、宗教的の神としての名が記されてゐても、その行動は殆ど語られてゐない。宗教的意義での神が神として行動してゐないのが日本の神代の物語の特色であり、天照大神とても、その行動の大部分は皇祖として即ち人としてのであつて、太陽神としてのではない。たゞ人として行動してゐるその人が、神代紀の記載の上で、神と稱せられてゐる場合があるために、それと宗教的意義に於ける神とが混同して考へられるやうになつたので、この混同は昔からの神代紀の解釋に既に見えてをり、由來の遠いものである。神は人なりといふ合理主義的解釋も、一つの意味に於いてはこの混同を避けようとしたものである。宗教的意義での神、人ではない神、の存在は何人も認めてゐながら、神代紀の記載の上で神と稱せられてゐる場合のある人をば、神と見ずして人と解したのである。ところが、儒教の經典は宗教的のものではなくして、何れも古の帝王または聖人の行動を記したものとせられてゐるから、何ごとにつけてもシナ思想を規準とする儒者は、神代紀をもそれと同視し、從つてそれを歴史的存在としての古人の事蹟を記したものと考へ、さうしてそれに合理的道徳的解釋を與へようとしたので、神道者がまたそれに迫從したのである。契冲は神代紀の記載を宗教的意義での神の説話と見たために上記の如き言をなしたのであらうが、實はそこに誤解があつた。たゞ前章にいつたやうなシナ的合理主義に陷らなかつたところに、儒者や神道者との違ひがある。
 けれども大勢からいふと、神道が儒教化したこと、少くとも儒教的色彩が強くなつたことは、事實である。ところが、神道が日本本位主義を標榜して世界主義たる佛教に對抗するならば、同じ意味に於いて儒教にも反對すべきこと(537)があるのではなからうか。特に儒教には上に説いた如く、政治學上の天命説及びそれから生ずる禅讓放伐の論があるから、神道はどうしてもそれを容認することはできぬ。是に於いてか曾て佛家の説を取入れつゝ佛家に反對した神道は、それと同じく儒家の説を用ゐつゝ儒教に對抗するやうになつた。佛教の勢力が知識人の間に衰へて儒教がそれに代つたといふ時勢の變遷は、神道をしてそのあひてを前者から後者に向つて轉ぜしめたのである。
 しかしそれを考へる前に、一應儒者の神道觀を見ておかう。むかし佛者が日本人の神の信仰を顧慮しなければならなかつたと同樣、この時代の儒者もまた神道を閑却することはできない。神道といふ名稱が如何なる意義に用ゐられてゐるかといふことについては後に考へようが、ともかくもそれは日本人に特殊な習俗と何等かの關聯があるには違ひないからである。さて儒者で神道に歸したものは山崎闇齋であるが、神道者とはならなくとも神道を學んだ儒者は他にもあるので、林羅山も山鹿素行もそれである。また神道を學ばなくともそれに注意した儒者は少なくないので、江戸時代の最初の儒者たる惺窩が既にさうである。ところが、儒者の多くは神道と儒道と同じである如く説いたので、上に述べた如く羅山もさういつてゐるし、素行も日本が神國であることを認めながら、天下はみた神國であり神道は即ち聖人の教であるといひ(語類卷三八)、蕃山もまた日本を神國としつゝ神道と聖人の道とは同じく人道であるといつてゐる(集義和書卷二、外書卷二、大學或間)。「光華孝徳續無窮、正與犧皇業亦同、黙祷聖人神道教、照臨六合大神宮、」(藤樹遺稿)も同じ考からいはれたのであらう。益軒の見解もまたこれらと一致してゐる(神祇訓〕。これらは、天地間の大道は一つあるのみで、それは世界共通のものであるから、神道が正しいものならばそれは大道、即ち聖人の道、と同一でなくてはたらぬ、といふのであつて、どこまでも儒教的世界主義の上に立つて、神道を認めて(538)ゐるのである。さうして蕃山の如きは、日本の道に特殊なところがあるならばそれは風土の差異によるのだ、といつてゐるが(集義外書卷六)、これは日本特有の神道を立てて儒教に對抗するのとは反對であつて、その態度には佛教的世界主義の上に神道を立てた昔の佛教神道家と少しく類似してゐるところもある。但し蕃山が神道者とならなかつたことは、いふまでもない。素行は晩年にはむしろシナに對する意味に於いて日本に誇るべきものがあるといつてゐるが、それにしてもその誇りは、中朝事實などに説いてある如く、日本の教が儒教に適合してゐるからといふのであるから、思想上どこまでも儒教本位であり、蕃山は前にも述べた如く明かに日本を夷狄の列に置いてゐる。ところがかういふ考へかたが一轉すると、山崎門下で神道に入らなかつた佐藤直方や三宅尚齋の説の如く、聖人の道を害するものは神道だといふことになり、または徂徠の徒が太平策に於いて、大宰春臺が辨道書に於いて、また山縣周南が爲學初問に於いて、いつたやうに、神道といふ特殊の道は無いといふことになる。何れも聖人の道といふものを絶對視することは同じであるが、儒教と調和する限りに於いてその儒教と同じ道を教へたものとして神道の存立を意味のあることとするのと、調和しないところに注目することによつて神道といふものの存在を認めつゝそれを排斥するのと、また日本には本來道といふものは無かつたとして、聖人の道たる儒教の外に神道といふものの存立することを許さないのと、これらのいろ/\の見解が生じたのである。さうしてそれは、神道といふ名に「道」といふ語があるために、儒者の思想に於いての道といふものをいはゆる神道がもつてゐるやうに解したからである。
 さて神道が聖人の道であるといふ儒者の考は、日本人としては日本固有の道のあることを信じたいが、儒者としては聖人の道を絶對のものとして尊信せねばならぬから、かうして兩者を結びつけたのであり、儒教を主として考へた(539)のは、日本に本來教といふべき教の無かつたことが知られてゐたからである。素行は儒教思想によつて書かれた上代史の記載を、儒教渡來前の事實として信じ、蕃山も三種の神器や伊勢神宮の質素なところに教があるが如く思ひ、天照大神が民を教化せられたやうに説いてもゐるが、何れも儒教眼から神道を見て、教の無いのを強ひてあるやうに考へようとしたのである。しかし徂徠一派のものが後に一言にして斥け去つた神道を、この二人が前に承認してゐたのは、理智の上からいふと批評眼の足らないのであるが、情の上からいふと自國に道があり教があることを認め、それを日本の美所としようとしたものである。益軒などの考へかたもそれと同樣であらう。神道を容認する儒者の見解はかういふものであるから、神道者が神道は儒道と一致するといつたのは、それとほゞ同じであつて、多分それから學ばれたことであらう。
 けれども神道者に於いては、一方でかういふ考へかたがありながら、儒教を排撃しなければならぬところがあるので、既に述べた如く儒教が易姓革命を道としてゐることがその最も重要なものである。神道が我が國の道であり我が国が一系の皇室を戴いてゐることに國家としてのその本質があるとする以上、これは當然である。次には儒者の迷信ともいふべきシナ崇拜に對する排撃であり、道は我が國に具はつてゐるとするところにその主張がある。儒教道徳をそのまゝ取入れながら、上に引いた如くそれを神道の道徳とするのも、その一つの現はれである。吉見幸和は「神道は我が國の天皇の道」(學規大綱)といつてゐるが、その天皇はいふまでもなく一系の皇位を承けられた天皇であるから、「天皇の道」は即ち日本固有の道であり日本のみに存在する道なのである。垂加が道は天照大神の道であるといつたのも、畢竟は同じところに歸着するが、それには大神を儒教の先王に擬する考へかたが表面に出てゐるので、(540)こゝにいふのとはその點に違ひがある。「天皇の道」の天皇には古來のすべての天皇が含まれてゐる。またこの考には神道を王道とする儒家の見や儒家の教化政治主義に誘はれたところもあらうが、儒教に對して我が國の道を立てようとするところにこの説の主要な意義があるので、神道に儒佛の説を附會することを非としてゐるのでも、それは知られる。しかし我が國に道があるといふのは、儒教に道といふものが説かれてゐるためにそれに導かれたのであつて、そのこと自身が神道の儒教化なのであり、從つてかういふ考へかたは、儒教の思想をかりることによつて儒教を排斥しようとしたのである。なほ第十七章第十八章に述べたやうな、一部の神道者の唱へる一種の自然主義めいた考からは、儒教の道徳説を排斥しなければならぬので、神道者及び後の國學者が動もすれば黄老を身方にしようとする一因由は、こゝにもある。が、これは前章に述べた如く、シナの經典の記載から出た儒者の知識と日本人の風俗との矛盾から生ずるのであるから、神道者の所説に反對し難き理由があるのみならず、儒者の如き煩瑣な道徳上の形式を立てないで、正直にせよ、敬め、といふやうな簡單な標語を示してゐるのも、徳教としてはむしろ力がある。もつとも神道者のこの自然主義めいた思想と殘口などすら説いてゐるその道徳的教訓との關係は甚だ曖昧であつて、理論としてはこゝに大なる缺點が存在するが、ともかくも神道者の儒教排斥にはかゝるものもあつたことは、注意せられねばならぬ。
 けれども神道者の多くは全面的に儒教を排斥しようとするのでないことは、これまで考へて來たところからでも明かに知られる。さうしてこのことは佛教に對する態度に於いてもまた同樣である。そこで神道者の儒佛二教に對する態度を今一度考へてみるに、貴介問答といふものに、道は一つであるがたゞ風土によつて三教の差別が生ずると説き、(541)だから我が國に於いては神道によらねばならぬといひ、殘口も、儒佛ともにシナまたはテンヂクでは公道であるが、我が國の公道は神道であるから、儒佛に對しては辨別取捨を要する、(ほこらさがし)といひ、「釋迦も孔子も和朝に生まれ給はば日本流の敷島の道の外は説き給ふべからず」(神路の手引草)といつてゐる。また神道俗説問答といふものに、儒佛を全く棄てるには及ばないといひながら、日本の神魂を高揚して儒者のシナ魂や僧侶のテンヂク心を極力排斥してゐるのも、ほゞ前の二つと同じ意見であつて、この説の後半は後の宣長の態度と同じであるが、前半はそれよりも寛容である。要するにこれらは儒佛の二教を同じやうに外國の教として見、さうしてシナまたはインドでは儒佛でよいが日本ではそれではいけないといふ點に、日本特有の道を立てようとする主張がある。が、教そのものとしては必しも儒佛を全面的に排斥はしないのであつて、垂加一流を除く外、神道者は概してかういふ態度である。佛教的神道を繼承する思想もなほ存在し、龍煕近の神國決疑篇の如きもその流れに屬する。垂加も「六合元來唯一中、人間隨所分西東、應想可美葦芽意、萬物發生神國風、」などといつてはゐるが、しかし彼に於いてはそのいはゆる六合のうちに佛教の世界は含まれてゐなからう。
 ところが儒者は概して佛教に好意をもたない.世界主義的思想から道は一であるといへば、神道と同じく佛数をも包容しなければならぬが、それに對して排斥の態度をとつたのは、シナ人によつて形成せられた儒教を奉じてゐる故であつて、それはまたシナが世界の全體ででもあるかの如く考へられてゐたからである。もつとも素行は實際問題としては佛教に對しても寛容であつて、僧侶は遊民であるが遊民のしごとをさせよといひ(語類卷六)、蕃山も僧侶を盗賊とまで極言しながら、佛法を權力で排斥するつもりは無かつたらしく、また神儒佛の名に拘泥することを非とする(542)やうにも説いてゐるが(集義外書卷三、大學或問)、道の上に於いて佛教に反對であつたことはいふまでもない。たゞ梁田蛻巖は三教相悖らずといひ、我が國といふことに力を入れて説いてゐると共に聖徳太子を讃美し(蛻巖集)、雨森芳洲も必しも佛教を排斥せず(橘窓茶話、たはれ草)、森儼塾も儒佛二ならずとしてゐたといふが、かういふのは極めて少數の除外例である。神道者が日本本位主義を高唱しつゝ強ちに儒佛をすてないのに、儒者が同じ外國の教でありながら偏狹に佛教を斥けるのは、我が國が昔から外國の文物を學んで來たその態度が神道者に傳へられたものとして見ても、頗る興味がある。神道そのものが、前には佛教により後には儒教によつてその内容の多くを與へられたではないか.
 かういふ状態の下に於いて、佛教がその敵として最も恐れるものは神道よりはむしろ儒教である。だから、それがためには神道と手を握るを便とする。昔からの佛教的神道もまたこの機會に再び頭を擡げて來る。またもし神道を抱きこまなければ、儒佛不二を説いて敵に糧を借りようとする(嵯峨問答の類)。さうして、更に一歩を進めると三教一致論を唱へる。三教一致の思想は常識的であるだけに廣く世に行はれたらしく、三千風の行脚文集(卷一)などにも見えてゐるが、歴史的に考へれば古くからあつた傾向で、北畠親房や忌部正通一條兼良なども畢竟それだといつてよい。たゞこれらは神道を儒佛の思想で解釋したのであつて、儒佛を神道に結びつけたのではない。同じやうには見えるが、かの潮音の舊事本紀大成經は、特殊の意圖のある點に於いて書紀纂疏の類とは違つてゐる。さうしてその大風呂敷を擴げて、佛教は固より儒教をも道家をも包みこみ、またインドやシナの天文説や宇宙論を神代の物語に附會し、その上、テンヂク、シンタン(シナ)、韓國、をみな我が國の神の子孫とした點は、後の篤胤と似てゐるし、道家で(543)いふ眞人を儒教の聖人の上に置いてゐるのも、國學者の説とゆかりがある。道家で眞人至人を聖人の上に置くのは、黄帝を教祖としてその教の起源を儒教の先王たる堯舜よりも上代に置いたと同樣、儒教に對してその上に出ようとするためであるが、それは神道者や國學者が儒教に對抗するには甚だ便宜であるから、おのづからそれをそのまゝに取入れることになるので、彼等が老子を身方にする氣味のあるのも、やはりこゝに一原因があらう。なほ三教一致論を説いた三貫柏といふものに、テンヂクやシンタンの道がみな我が國に集つてゐるから日本の國は最も尊勝であるといつて、高皇産靈神はテンヂク人であり大己貴神はシンタン人であるとしたなどは、後の篤胤の考へかたを逆に行つたものである。神道者が儒者に反對するため、または儒者が神道を抑へるために、佛教と結合するやうなことは決して無かつたのに、佛者がかういふ態度を取つたのは、一つは佛教の包容的性質にもよるが、それよりも、佛教が他から重んぜられなくなると共に、自力でその勢力を維持することができなくなつたからであらう。さうしてこの場合に、佛者の思想の概して日本本位であることが、シナ崇拜の儒者に對する有力な武器となつてゐたらしい。
 しかし佛者のこの自家擁護はさしたる效果も無く、儒者の多くは依然として佛教を排斥してゐる。が、こゝで考へねばならぬことがある。それは、儒教は政治の學または道徳の學であつて宗教ではないから、この二つが互に宗旨敵きのやうな態度を取るのは奇怪ではないか、といふことである。もつとも儒教そのものが、孔子なり先王なりの教を迷信的に遵奉する點に於いては、宗教めいた権威をもつものとして考へられもするので、それがために佛教に對して本來有るべからざる宗旨敵きの感情が生じないでもないが、しかしいはゆる釋奠の外には宗教的儀禮めいたことは行はず、宗教の本質として考へられる超越的存在としての神の救濟をも説かず、宗教的心情の根本をなす人の力の弱さ(544)またはそのもつてゐる罪といふやうなことは少しも考へてゐないから、宗教でないことは明かである。さすれば儒者の儒教排斥は、儒教が一般に宗教そのものを否認するのか、佛教は宗教として債値が無いといふのか、但しは佛教に含まれてゐる教理の何ごとかが儒者の見解と違ふためであるか、三つの中の一つでなければならぬ。佛教の超現世的性質は、現世に於ける政治上道徳上の規範を立てるが主旨である儒者が取らないところであるから、第三の理由はたしかに存在する。儒者が聖徳太子や馬子を抑へて守屋を揚げ、佛教が亂臣賊子を養成するものででもあるかのやうにいひなしたのも、この故である。(この攻撃はキリシタンの目的が國土侵略にあるといふのと同樣で、勿論正當な考ではない。)抽象的にいへば、政治や道徳の規範を立てることは必しも佛教を拒否するものではないが、儒教の政治や道徳の教の根柢に存在する人生觀は、佛教の思想と矛盾してゐるから、畢竟かうなるのである。
 のみならず、儒者が概ね上にいつたやうな意義での一種の合理主義的思想を抱いてゐるのを見ると、それはおのづから第一の理由にもなる傾向がある。第一の理由があるとすれば、第二は初めから問題にならぬ。もつとも彼等とても、古代シナの風習に本づいて定められ儒教の一要素ともなつてゐる、祭祀祈祷を排斥するわけにはゆくまいから、いはゆる心法の學ではそれに重きをおかないにせよ、鬼神を祀るのは古の風だといつてゐる祖徠の輩もある。(林信篤が綱吉に子の生れることを聖堂に祈らうとしたといふ話があるが、これはよし事實であるとしても、一般の儒者の思想として見るべきものではなからう。)かういふ見解を有するものに於いては、祭祀祈祷はよいが佛教のそれはよくないといふことになつて、第二の理由がそこに生ずる。これは祈祷教としての佛教に對する考であるが、事實上淨土教でなければ祈祷教である我が國の佛教が、かう見られるのはしかたがない。が、なぜ佛教の祈祷がいけないのか(545)といふと、それはおのづから第三の理由に歸着する。もつとも儒教の天の觀念には、一種の宗教的意義が含まれてゐるから、儒者とても全く宗教の存在を否認することはできないはずであるが、シナに於いてはそれが宗教の形に於いて發達しなかつたから、儒者はそれを宗教的意義のものとして取扱はなかつたのである。その上、佛教思想を非とすることの外に、僧侶が遊民であり破戒濫行の徒であるといふことが、彼等の佛教排斥の一大原因をなしてゐるので、水戸や會津や備前の寺院抑制は主としてこれがために行はれたのであり、さうしてその政策の背後に儒教の思想があることはいふまでもない。だから彼等の佛教排斥は、畢竟政治的道徳的見地と一種の合理主義の思想上の傾向とから來たことである。が、佛者はこの點に於いて儒教に對抗することができなかつたらしい。
 然らば神道者は佛教をどう見たかといふに、第一には、佛教は異國の教であるから、日本には適しない思想がそれに含まれてゐると考へるので、儒者と同じく馬子の事跡によつて佛教を非難し、佛教が日本の皇室の存在に有害であるやうな言議をするもののあつたのも、このことと關係があらう。次には、神道の生々主義、人間本位主義、が佛教の根本思想と矛盾することが考へられた。橘三喜も殘口も佛教の女人罪惡説を難じてゐるが、それは天照大神が女性であるといふ理由からばかりではなく、この點に深い根柢がある。現實の人生を肯定する神道は佛教の解脱觀を根本的に否認しなければならぬのである。だから神道がもし佛教を容認するならば、それは佛教が日本本位主義を主張するが如き點に於いてのことであらう。上に述べた如く神道者はインドの教としては佛数を容認したが、これとてもインドに發生したものだからといふだけの意味であつて、その教の内容についての何等かの見解があつてのことではなかつた。このころの神道者の説いたことや行つたことに、佛教の思想または佛徒の風習に由來がありまたはそれを摸(546)倣したものがあるにしても、神道者は、或はそれを明かに覺らず或はさうでないやうに説きなしたのである。
 かう考へて來ると、三教間の闘爭や妥協に於いて、一つの重要なる事實が發見せられる。それは即ち當時の人が、宗教と道徳との關係、並に宗教や道徳そのものに於ける人類の共通性と民族的特異性と、發達した世界的宗教と原始的な状態の繼承せられてゐるところのある民族的神祇の崇拜と、また宗教に於ける一般人の信仰の側面と特殊な知識の體系としての教理の側面と、これらの間の交渉について、極めて混亂した考を有つてゐたこと、宗教と或る國の政治形態とをすら明白に區別してゐなかつたことであり、さうしてこれには、恰も知識の問題について前章に述べたところと同樣の錯誤が存在する。宗教と道徳との間には種々の關係があるけれども、その本質は同じでないこと、宗教や道徳を民族生活の一現象として見る時、そこに民族的特異性のあることが當然であると共に、人生そのもの社會生活そのものの内的要求から發生するものとして、人類に共通な宗教思想や道徳觀念のあるべきこと、幼稚な宗教形態として民族的神祇やそれに對する崇拜に特異なものがあると共に、發達した世界的宗教があること、また一つの宗教に於いてもその通俗的信仰と教理に關する思索とは必しも常に一致してゐないこと、これらは、論の無いことであるが、當時の知識人は、どの教派や思想系統に屬するものでも、それに氣がつかなかつたらしい。
 例へば、政治及び道徳の教としての儒教の學者は、宗教としての佛教を自家の儒教と同じ性質のものの如く思つてゐたらしく見えるところがある。神道者が三教の違ひを風土の差異によつて生ずるものとして、道の一なることを主張するのは、宗教もしくは道徳の根柢が人類共通のものであることを暗々裡に認めたものではあらうが、解脱の教としての佛教と、シナ民族に特異な現實の生活を維持するために生れた儒教とを、同列に置いて考へたのは當らぬこと(547)である。彼等が儒教を排斥するに異國のものであることを以てしたのは、それがシナに特異な政治もしくはそれと離すことのできない道徳の教に關する限りに於いては、理由があるけれども、佛教を以て日本の政治形態に有害であるやうに思ふものがあつたとすれば、それは歴史上の事實を無視したのみでなく、宗教のはたらきと政治のとを混同したものである。これは、神道が民族的神祇の崇拜をその根柢にもつてゐて、それを日本の政治形態と離るべからざるものと考へたのと、佛教がやはりインドに特殊な民族生活の現はれたものとして彼等の眼に映じたのと、のためであらうが、そこに思惟の混雜があることは否まれまい。
 或はまた儒者が神道を排斥するのは、儒教の説くところがシナ民族に特異な政治思想及び道徳觀念によつて形づくられたものであることを知らずして、それを世界共通の教とし、政治形態にも道徳生活にも民族的特殊性のあることを認めないものである。また佛教を排斥することには宗教の存在を容認しない氣味があるが、これも彼等が、民俗としての祈祷的宗教はあつても宗教としての發達の無かつた、シナ人の思想をそのまゝに繼承してゐるからである。さうして佛数が神道と妥協したり儒教に反抗したりするのもまた、世界的宗教の性質をもつてゐるものと民族的風習や國民的政治的思想などとを、混同してゐたことを示すものに外ならぬ。要するに、宗教ではなくまたシナの民族性を離れては殆ど成りたち難い政治や道徳の教である儒教、世界的宗教の地位に進んではゐるが、その根柢にはインド人に特有な思想があり、インドの民族生活の面影がどこまでも纏綿してゐる佛教、上代のまゝなる民族的神祇の崇拜に儒教道徳や佛教的宗教思想を混和し、それに一系の皇室を戴いてゐる日本の政治形態に關する國民的信念を結合した神道、これらの三教が一種の勢力爭ひをしたために、かういふことになつたのである。上に述べた如く、我が國の道(548)を以て異邦を變化させたい、といふやうな神道者の説は、國民に固有の道があるといふ彼等自身の主張と矛盾するものであるが、これも世界的宗教もしくは人類共通の道徳と、國民の政治生活に伴ふ特殊の思想との、混同から來てゐると共に、一つは儒家の説を摸倣したからである。
 なほ神道については特に一言を要する。その根柢にある民族的習俗としての神祇に對する一般人の崇拜は、この時代に於いても殆ど上代のまゝであるが、神道者はそれを日本人に特殊な存在として佛教または儒教に對抗させるために、この二つから宗教及び道徳に關する種々の思想を取入れて、それをこの習俗の知識的粉飾としたので、當時の神道はむしろこの側面にその本質があるかの如き觀を呈し、從つて現實の神祇の崇拜からは浮いたものになつてゐた。三教の關係の考へられたのも、そのためである。一般人の民族的神祇の崇拜としての他の側面のことは、儒家からも日本人の習俗として承認せられ、特に佛家はいはゆる神佛混合の形に於いておのづからそれを支持してゐた。或はまた知識の上では神佛二教相爭ひながら、一般人の信仰としては二教が並び行はれて相悖らなかつたのも、神道の知識的粉飾と日本人の現實の生活に於いて重要な意味をもちそれから離すことのできない神祇の崇拜とが、遊離してゐたためである。三教間の爭ひとか妥協とかいふことが、一般人の生活に何ほどの關係も無かつたのも、これがためである。いはゆる神道は、昔からの民族的神祇の崇拜が、國民の生活の深められまたは高められて來ると共に、その内部から發達しておのづから形づくられたものではない。さうしてこれも、歴史的にいへば、異國に於いて形づくられた思想を知識として取入れねばならなかつたため、固有の神祇の崇拜は昔ながらの状態に於いて存續せられたのと、外來の佛教が宗教としての或るはたらきをなし、さうしてそれが固有の神の崇拜と結びついたのとのためであり、また(549)當時の思潮からいへば、知識人がその生活、特に道徳生活、に於いて宗教に重きをおかなかつたからである。當時の社會は、種々の變化を經てゐながらなほ前代から歴史的に確承せられて來た武士的風尚によつてその紀綱が保たれ、道徳の基礎もそこに置かれてゐて、この點に於いては知識人とても不滿足を感ずることは無く、他に求めるところも無かつた。吉凶禍福についての關心はあつたが、それは神佛に對する通俗的信仰やそれに伴ふ呪術的行事に委ねられ、現世を超越したことについては、佛教に幾らかの頼みをかけるものがあつたが、それらは現實の道徳生活には深い交渉の無いこととせられてゐたやうである。次篇で考へるやうに神道が國學といふものに變化して行くのも、それが宗教としてのはたらきをせず、主として知識的粉飾の一面に於いて世に存立してゐたことを、示すものであらう。しかし實をいふと、如何なる神もそのはたらきとしての如何なる宗教も、人の生活の要請を客觀化してそれを超越的な存在とし、さうしてそれに適合するはたらきと權威とをもたせたものであるから、神も宗教もその要請に應ずる性質をもつことになり、從つてそれにはさま/”\の違つた性質の神いろ/\の違つたはたらきをする宗教があるべきである。上にいつたやうな一切の生活の根本を宗教的信仰に置くことがすべての人の欲求ではない。人の生活が歴史的發達によつて高められて來ても、道徳は道徳として純然たる人のこととし、神のはたらきはそれとは別のこととして考へても、それに十分の意味はある。たゞ日本人が現實の生活そのものによつて、またそのうちから、神に對する宗教的心情のおのづから深められて來ることは考へられるが、それは他から借りて來た何等かの思想を附會することによつて知識的粉飾を加へることでもなく、またすべての生活が宗教的信仰から展開せられるとすることでもない。
 ところがこのことについては、神道者といふものの社會的地位が參考せられる。吉田神道は一種の教派をなしてゐ(550)て、地方の神社の神職にあるものが多くその配下に屬してゐたやうであるし、またかういふ教派とは關係が無くても、神道を説くものには神職にあるものが少なくなかつたと考へられる。しかし惟足や垂加は處士ともいふべきものであつて、その社會的地位は儒者と同じであり、その門弟にも神社に關係の無いものがあつた。かういふ神道は教派ではなくしてむしろ學派であり、從つて神道を奉じないものでも、それに關する知識をかゝる學派の講説や著書から得ることができ、さうしてさういふ知識が即ち神道だと考へてゐた。日本人の生活の中心となつてゐたといつてもよいことであるにかゝはらず、或は却つてそのことが明かな事實として何人にも知られてゐたがために、民俗としての神の崇拜は、知識人が神道といふものを考へるに當つては、重要視せられなかつた。神道は宗教であるよりも一種の學問であつたといふべきである。然らばさういふ學問が當時の思想界に何ごとを寄與したのであるか。それはたゞ儒者のシナ崇拜に對抗する意味に於いて、自國尊重の念を喚起し、日本には日本人に特異な風尚のあることを世人に警告したのみのことであらう。上にもいつた如く、自國尊重の念そのものにも、また日本人の風尚には日本人に特異なものがあるといふ民族的自覚にも、大きな意味があるけれども、神道者の説いたところは妥當ならぬ分子を多く含み、却つて眞に尊重すべきところのあることを忘れたものである。さうしてそれは、古來の日本人の現實の生活を深切に考察せずして、たゞそれから遊離してゐる儒家や佛家の書物の上の知識によつて事物を解しようとしたからである。日本の民族的神祇の崇拜の習俗をその根柢にもつてゐながら、神道が日本人の宗教的心情を深めることができず、道といふものを説いても日本人の道徳生活に何物をも加へることのできなかつたのも、またこれがためである。この章の題名を「宗教上の思想」としたけれども、考へて來たことは、實はこの名にはふさはしからぬものであつた。
 
(551) 最後にキリシタンについて一言を附加しておかう。が、これは宗教としては當時の思想に全く關係が無く、たゞそれが世人から如何に見られてゐたかといふことが問題になるばかりである。さてキリシタンの布教が国土侵略の方便であつたといふことは、このころにも一般に信ぜられてゐたらしく、素行の如きもその一人である(語類卷一二)。蕃山は道徳的にそれを觀て、日本に道が無く人心が闇くなるやうならば、終にはキリシタンに取られるといひ、またキリシタンは日本を夷狄禽獣に化するものだといふ風に考へてゐたやうであるが(集義和書卷八、外書卷一〇、一六、大學或問)、夜會記にキリシタン即ち南佛が國土の侵略を目附とするやうに説いてゐるのは、やはり蕃山の意見であらう。(三輪物語、宇佐問答、夜會記は、蕃山自身に筆をとつたものではないかも知らぬが、その思想は蕃山が集義和書や外書に論じてゐるところとほゞ一致してゐる。漫りに僞作として排斥はし難い。)さて前卷に述べたやうに、徳川幕府のこの認定は、キリシタンの布教とポルトガルやエスパニヤの國土占領とが相伴つて行はれた事實、及び當時のロオマのパッパの二國に對する權力から考へると、必しも全くの誤解としてしまふわけにはゆかないので、誤解ではあつても、海外の状勢に暗い當局者をして誤解させるだけの資料は、事實に於いて存在してゐたのである。さうして鎖國の後は、もはやキリシタンに接することができなくなつたから、國民がこの誤解を正す機會が無かつたのである。もつともキリシタンが現實からは遠ざかつた過去の記憶としてのみ遺存してゐるこのころに於いては、かゝる誤解に本づいた學者の思想も、また單なる思想としての意味のみをもつものではあつた。ところが白石が外人と親しく談話を交へ、また海外の形勢について幾らかの知識を得るに至つて、始めて上記の機會が來たので、第二章に述べ(552)た如く彼は明白にそれを否認してゐる。けれども白石もなほそれを邪教とは考へてゐたので、その教が盛になれば國に反逆の臣子が生ずるといつてゐる。宗教をすぐ政治的に考へたのはやはりこの時代の思想であつて、彼に一向宗を危險視する傾向があつたのも、またこれがためである。(次の時代に少しく西洋の事情がわかるやうになつてから、キリストの誕生を起點とする年紀が政治的意義を帶びたもののやうに思つたのも、一つはシナ思想に囚はれてゐたからではあるが、また何事をも政治的に見てゐたからである。)だから蕃山がキリシタン撲滅の方策たる寺請を無益とし(大學或問〕、光政が神官を以て僧侶に代へ、候徠が政談に於いて儒者にやらせよといつたやうな問題は起つたが、キリシタンそのものについては、邪法と見るより外に何の考も生じなかつたのである。世界の宗教的統一を使命としてゐたキリシタンの性質と日本の國家的統一の精神との衝突が徳川の幕府の禁教政策を誘致したことは、その政策を勵行した當時の幕府に於いても明かに覺られてゐなかつた如く、この時代となつてもまた何人にも考へられてゐなかつた。當時の日本人はヨウロッパの宗教上の事情にも政治上の形勢にも無智であつたからである。
 
(553)       第二十三章 政治上の思想
 
 著者がこの篇で考へようと企てたことに於いて、最後に殘されたのが政治上の思想である。これも文學の上に現はれることの少いものではあるが、國民の思想を考察するに當つては、閑却し難き問題であるから、當時の思想界を見わたして、その著しく目につく點だけを概觀しようと思ふ.
 さて第一に知られるのは、太平を喜ぶ思想が何れの方面にも存在し、從つて一般に徳川氏を謳歌してゐることである.徳川氏の世に徳川氏を讃美するのは、一つは儀禮であり、また一つはおのづから時の權力に威壓せられ、意識して或はせずして、時世に順應するやうな言をなしてゐるのでもあらうが、戰國の昔がなほ追想せられるこの時代に於いて、人の太平を喜ぶのは決して虚構ではなく、「新蕎麥や戸ざし忘れて御代の春」(許六)といふのも、國民の衷情であつたと推測せられる。さうしてその御代をして太平ならしめたのが徳川氏の力であつたとすれば、よしその手段はどうであつたにせよ、「あらたふと青葉若葉の日の光」(芭蕉)、家康の功業を謳歌するのは固より自然のことである。もつともそれは、知識の上でのことでもあり、また平和が續けば續くほど、平和のありがたみの感ぜられることが薄れてもゆくのであるが、しかし何人もそれに反對すべき理由をば有つてゐなかつた。切取り強盗主義の戰國武士的功名心は次第に衰へて來てゐる.外樣大名の徳川氏に對する反感も年と共に綬和せられて來て、よし全く絶滅してしまはないまでも、明かな形を具へてはゐなくなつたらしい。少くともこの點から平和を詛ふものは無かつた。
 或はまた特殊の知識人に於いては、神道者が徳川氏によつて大成せられた武家政治を讃美したことは、第十四章に(554)述べたとほりであつて、そこから我が國は武國であるといふ理論をさへ築き上げたのであり、吉川惟足も「我が國は武國たり、天下の將軍に歸したるはよしあることなり、」といったといふ。闇齋も日本本位主義ではあるが、徳川氏に反對する思想などは少しも有つてゐない。(神道者はこの點でもまた、同じく幕府の謳歌者である後年の眞淵、宣長、篤胤、などの國學者と揆を一にしてゐる。)なほ儒者は封建制度と世襲主義とがいはゆる三代の制と同一であるといふ特殊の理由から、當代を古の聖人の世に劣らぬものと考へる傾きがあり、特に徂徠一派はそれを力説してゐる。かういふ儒者が徳川氏に随喜することはいふまでもない.もつともそれが一歩を進めて豐臣氏などを暴君の如く罵るやうになると、不純の分子が加はつて來るので、鳩巣などにもその口氣がある。「賦本藩立國始末」の一篇などを見るがよい。これには思想としては或はシナの革命説の影響があるかも知れぬが、それよりも徳川氏を揚げることがおのづから豐臣民を抑へることになるところに主なる意味があらう。しかし、一方では時弊の大なるを認めて改革の議を提出してゐる蕃山が「恐れながら大樹君を代官とし奉り、治世にゆる/\と住み侍ると存じ候へば、かやうに有り難きことな」し、といつてゐるのは(集義和書卷二)、むつかしい儒者の見地を離れて、一般人の心情を表示したものとしても見られるので、武人とても浪人とても、元禄前後になるともはや戰國的功名を夢想するものは無くなつてゐたであらう。
 けれども國民が、すべての政治上の施設やその時々の權力者當局者の行動に對して、盡く滿足してゐたのでないことは、勿論であつて、種々の不平もあり怨嗟もあつたことが、斷えず世に現はれる落首などでも明かに知られるのみならず、「百姓はたゞ殿の田つくり」(犬子集)といひ、「早乙女の骨を折りつゝうへ/\の地頭へ米はとる早苗かな」(555)(古今夷曲集宗増)といひ、農民の疾苦のよそながら訴へられることも無いではなく、徒然草の語を利用して「家には鼠、國に代官、」(西鶴)といつてゐるやうに、收税吏に對する怨言も聞えて來る。東涯などにも同じ意味の詩のあることは前にも述べておいた。また一般に武士がその地位と權威とを以て平民に臨むために、それに對する幾らかの反抗心は常に存在してゐるので、「侍に何がなるやら飛ぶ蝴蝶」(其角)といひ、「御上使や勢猛に渡る雁」(談林十百韻〕といふやうな嘲笑の聲も、そこから起る。「徒士若黨も刀の威光」、その刀の「銀ごしらへもうさんな」ものと、實は輕侮せられてゐるではないか(冥途の飛脚)。虎の威を假る狐のふるまひは古風の役人の常態であるが、近松の劇に常に現はれる梶原型の敵役は、君寵を頼み權力を弄んで威福を張らうとする當時の出頭人氣質役人氣質を寫したものであつて、そこにもやはり權勢をもつものに對する一味の反感が現はれてゐる。看客はかゝる敵役の失敗を見て如何に平素の溜飲をさげたことであらう。
 抑壓の下にある平民が、ともすれば武士に對して面從腹非の態度に出る理由はこゝにあるので、江戸の町人が大久保彦左衛門や幡隨院長兵衛を理想化し、高尾に三叉江頭の悲劇を演ぜさせてその意氣を喜んだのも、畢竟平素鬱屈してゐる權勢に對する反杭心が寄託せられたのである。またかゝる時代でも、思想としては、「二本道具の大名もこの身かはること無し」と、人間の平等を叫んで「天下の町人」たることを誇る氣分さへもある(ニ代男卷四)。たゞ近松が常に畠山型の武士を以て敵役に對立させ、それによつて權勢の抑壓が緩和せられるやうにしてあるのは、下にあるものが上にあるものの仁慈によつて生活してゆかれる時代、儒者の仁政論が通用する時代だからである。從つて幾らかの不平や怨嗟は斷えずあつても、それは人に對するものであつて、政治的秩序そのものに對して、または政權の根(556)本に對して、反抗心や破壞思想を懷いてゐるのではない.從つて封建制度武士制度また徳川氏の政權に對する服從の念は、それがために決して傷つけられはしなかつたのである。
 けれども第二章に述べたやうな當時の状態は、少しく心を時務に注ぐものをして、武士社會の前途に大なる不安を感ぜしめたので、それに對する改革の意見がこ三の經世家によつて提出せられた。その第一は封建制度に關するものであつて、そのうちでも、大名の困窮を救濟するのが最大の急務だと考へられたのである。蕃山は既に、財政窘迫の一大原因たる參覲制と家族の江戸在住制とを改めて、三年に一度の參覲、在府五十日とし、家族を國元に住まはせるやうにせよ、と説いてゐる(大學或問)。しかしかゝる改革は大名を敵として見る幕府の大名制御策から見れば、その根本を動搖させるものであるから、容易に實行はできない。鳩巣の如きも一度は、蕃山ほどではないが、參覲制の緩和を案出しながら、後にはそれを非としたのであり(獻可録)、徂徠に至つては參覲廢すべからずといつてゐる(政談、以下一々注記しないこれら三人の改革説の出所は概ね上記の書である)。鳩巣や白石が、大名の出府する場合の從者の數を減ぜよといつてゐるのも(白石建議)、やはり大名救濟策であつて、それは固よりさしたる效能のあるものではないが、根本を動かさないで枝葉を改めようとするから、かゝる説も出るのである。が、大名行列は戦國思想からいふと一種の行軍であるから、この見解もまた武人本來の考とは矛盾する。加藤清正が本多正信の忠告に對し、事があつたら直ぐにも將軍の御用にたつ働きをしなければならぬから、大勢の供をつれてあるくのだ、といつたといふ傳説を參考すべきである。なほ徂徠が大名の國替を廢せよといつてゐるのも、同じところに一理由があるが、これも實行のできないことである。この考は封建制度の精神を徹底させるものであるが、その代り幕府の權力を弱めるもの(557)だからである。これらは大名を救濟する直接の手段であるが、間接の方法としては江戸の物價を低下させることが考へられるのであつて、それには都會の人數を減少しなければならぬとせられた。地方人の江戸に出ることを禁止しようといふ徂徠の見も、こゝから生ずる。參覲制の綬和や大名の家族の國元在住は、江戸の人數を減ずる一方法としても有效であるが、根本的には武士の城下集中制を廢して土着制とすることが必要である、とせられた。江戸も大名自身の城下も、その性質は同じものだからである。そこで問題はおのづから武士制度の改革に移らねばならぬ。
 この點に於いても蕃山は既に旗本を知行所に住まはせよと説いてゐるし、徂徠も同一意見を述べ、鳩巣も程度は違ふがそれに近いことをいつてゐる。それを大名の家士にも適用すれば、武士の大半は農民の間に土着することになるので、これもまた蕃山も徂徠も唱へたところである。徂徠の國替廢止論の一理由もやはり土着主義にある。特に蕃山に至つては、いはゆる農兵の組織を主張するので、よしそれが實行せられない場合でも、武士の妻女に蠶桑の業を營ませよといつてゐる。これは直接には、徂徠のいはゆる「族宿じかけ」の城下生活を改めて、一粒武士の困窮を救ふがためであり、從つて大名の財政を裕かにすることにもなるが、附隨した效果としては、武士とその配下の農民との關係を親密にして、武士の勢力の基礎を固めると共に、武士の生活費の少くなることが、おのづから租税の輕減ともなつて農民を利し、また山野に馳驅する習を生じて武士を剛健にする、といふのである(徂徠答聞書參照)。しかし武士を地方に散在させることは、恰も大名の參覲を緩めてその根據を地方に固めさせると同樣、戰國的眼孔から見れば危險なことであり、よしそれまででないにせよ、主從間の關係を疎遠にして、武士をして主君に對する情誼の念を稀薄ならしめる傾きがあるのみならず、武士を特殊の階級として平民から高く離しておく制度を、破壞するものでも(558)あり、特に農兵制度や武士に生業をさせようとする考に至つては、俸禄を君臣主從の道義的基礎としてゐる武士の根本精神と矛盾する。素行が早く農兵主義に反對してゐるのは、無意味でない(謫居童問)。なほ武士を士として士は義を職とすと説く一般儒者の見地からは、この方案はなほさら許容しがたい。後年白河樂翁などがこの問題をむつかしく考へたのも、これがためである。
 なほ封建制については、幕府の財政救濟策から見た改革案もあるので、徂徠が大名から貢物を徴せよといふのもその一つである。が、これも大名を敵國と見てゐる戰國思想からいふと無謀の擧であつて、幕府の根本方針には背いてゐる。彼の主張する賈誼まがひの大名領土削小論は、主として政治上の見地からのことであらうが、やはり財政問題にも關係があらう。また武士の世襲制度について、鳩巣が、世緑の外に役料を定め新知加増は一代限りとし、無限に俸禄を増加する慣例を改めよと、いつて居るのも、幕府財政の救治策である。が、これも俸禄が人に屬するもの家に屬するものとせられてゐる武士の思想とは、反對の考であつて、武士の主從關係の基礎、家の觀念の根本、を傷けるものといはねばならぬ。恩は子孫に傳へるといふのが昔からの武士の考であつて、主從の情誼もそれによつて固められたのではないか。武士の知行俸禄は、職務に對する報酬といふ意味のものではなく、その子孫に至るまで家來としておくために主人の與へるものである。平時に於ける吏務の有無などは、その俸禄を増減すべき理由とはならぬ。さうして武士が吏務に服するのは、戰場で働くと同じ意味のもので、要するに主人に對する報恩の一形式に外ならぬ。吏務に服するから報酬を得るのではなくして、俸禄を得て家來となつてゐるから主人のために吏務に服するのである。君臣主從はどこまでも俸禄でつながれた人的關係である。
(559) しかし改革論はまた別の方面からも來る。世襲制度のために武士に人才が無くなり上に愚庸のものが多くなつたので、それを救治する方法が必要である、といふのもその一つである。これも蕃山が主唱したところであるが、徂徠も世襲主義と人材主義との矛盾を説いて、むしろ後者に重きをおかうとさへしてゐるし、鳩巣もシナの制度に倣つて選擧(官吏登庸)の法を設けるがよいといつた。さうして鳩巣が財政上より立てた俸禄一代制は、蕃山が早くこの點から説いてゐる。が、それが武士の存立する根本思想に背いてゐることは、上に述べたとほりである。それから蕃山は、無告の民たる浪人の救治を必要とし、浪人としておきながらそれに扶持を與へることの必要を論じ、徂徠もまた治安策の上から類似の説を述べてゐるが、これもまた封建制度と武士の主從關係との精神に矛盾するものである。扶持米を與へればそこに圭從関係ができるから、浪人ではなくなるはずである。浪人でありながら扶持を受けるといふことは、武士の思想としては有るべからざることである。だから、これらのことは社會組織の根本精神を改めない以上、實行せられないことである。徂徠が論じてゐる官制の改革などは、必しも實行のできないものではないが、戰國的軍政主義の上に立つてゐる制度を、根本的に破壞するものには違ひない。代官を重くして大身のものをそれに任ぜよといふなども、民政に重きをおく點に於ては軍政主義とは反對である。ついでにいふ。徂徠の意見は二三の點を除く外は、概ね蕃山が既にいつてゐることである。春臺の經濟策は徂徠の説の外に殆ど出てゐない。
 要するに、當時の改革論は、封建制、武士制、世襲制、並に軍政主義、のために生じた種々の弊害、特にそれらの制度を内部から腐蝕しつゝある經濟上財政上の缺陥、を救濟しようとして、起つたものであるが、これらの缺陷がその制度から生じたものである以上、改革を遂行するには、制度そのものを外部から破壞してかゝらねばならぬから、(560)それはさういふ制度の下に事に當つてゐるものには、到底實行せられないことである。一二の實行すべきことがあつても、それは比較的重要ならざる事がらに過ぎない。が、その改革の主意は、戰國主義に代へるに天下一統の精神、治平の精神、を以てし、軍政主義に代へるに文治主義、法制主義、を以てするのであつて、最も重要なる項目たる參覲制の緩和も、武士の地方在住も、農兵組織も、人材登用も、みなそれであるのを見ると、當時に於ては戰國的の用意が一般に閑却せられ輕硯せられてゐるほどに、人が太平に馴れてゐることを示すものであつて、それは即ち一方に於いて、戰國傳來の制度が時勢に適合せざることを示すと共に、他方に於ては、制度の根本精神が力を失ひ、從つて制度そのものが生きてゐない、ことを證するものである。
 しかし改革論者も、やはりさういふ制度の下に生活してゐるものである。だから彼等は、自己の主張するところが、その實、制度そのものの精神に背反してゐることを明かに自覚せず、むしろそれによつて制度が生きてゆくやうに考へてゐた。彼等の説が、大名を救ひ武士を救ふのが主眼である點に於いて、封建制度、武士主義、を維持しようとしたものであることはいふまでもない。浪人を扶持しようといふに至つては、どこまでも彼等を武士として取扱ひ、永久に平民と區別しようとするのである。租税を輕減して農民の負擔を少くし民政に重きをおくといふのも、やはり武士の生活の基礎として農民を見、もしくは民を本とすといふ儒教の治國平天下主義から來てゐるものである限り、農民生活そのものの充實と發展とを希望するのではない。なほ彼等の經濟論は、社會生活を成るべく原始的状態に逆轉させようとするのであるが、それもまた一面に於ては、一統の世、治平の世、におのづから發達して來た文化上の趨勢に反した思想であると共に、武家のみを眼中に置いたものでもある。だからこゝに、治平的精神と戰國思想と、文(561)治主義と軍政主義との、奇怪な混淆があるといはねばならぬ。
 
 政治上の問題としてなほ人の注意に上つたことは、いはゆる朝幕の關係であるが、これには別に改革論は生じなかつた。國民が徳川氏の權力、その基礎である封建制度、武士制度、に對して何等の反抗の念を有たなかつた當時、幕府政治によつて天下の泰平が保たれてゐた當時、に於いて、その幕府政治を否認しようとする思想の起らないのは、當然である。我が國は神國であつてその神國の存立は皇室が神統だからであることを力説し、禮樂の有するところとして朝廷に對する崇敬の情を披瀝してゐる蕃山も、やはり同じ考であつた(集義和書卷八)。しかし、皇室はみづから政權を行使せられないのが昔からの習慣であつたけれども、その本源が皇室にあることは、何人も明かに知つてゐるのであるから、「天下國郡は公家(こゝでは朝逓の意)より武家へ下されおかれたるもの」(夜會記)として、この知識と眼前の事實とを調和させようとするやうな考も生じてゐる。これは、幕府は朝廷の御委任によつて政權を行ふものだといふ、後年に行はれる思想の淵源をなすものである。さうしてまた、戰國的切り取り主義が變化して、大名の領地は將軍からの預りものだといふ考が生じて來たことと共に(紀州政治鑑參照)、一統の世、治平の世、の思想でもある。
 なほ實際問題としては、朝廷を現實の政治の上に超然たる禮樂の府として仰ぎ見ようといふのが、かういふことに思ひを致す識者の考であり(例へば集義和書卷八)、水戸流の尊王論も、事實に於いては、畢竟同じところに歸着する。朝廷は文を掌り幕府は武を掌るといふやうな考は、後になつて廣く行はれてゆくのであるが、その「文」を禮(562)樂の意に解するならば、それは蕃山などの説と同じことであり、また家康以來、幕府の執つてゐる現實の政策とも矛盾しないものである。勿論、公家を禮樂の師として諸國に派遣するといふやうな蕃山の説は、軍政主義の幕府の夢想だもしないことであり、儒教的教牝主義の空想でもあるが、これは一般に考へられてゐることではない。要するに、幕府政治を否認する意味での尊王論は、歴史的事實の誤解から出立してゐるものの外には、當時には全く存在しないので、幕府政治は尊王論名分論と矛盾しないやうに、解釋せられ説明せられてゐるのである。これは國民が幕府の政治に對して大なる不滿を有たない時代であるため、現實の情勢を基礎としてそれに適合する理論を立てたのであるが、しかしその理論には不徹底的なところがあり、徳川氏の幕府の權力を永遠に維持させるだけの根據を與へたものではない。幕府政治が頼朝の時になつて始めて建てられたものであり、徳川氏のも戰國の騒亂を鎭靜することによつて成立したものであつて、皇室がそれらを承認せられたのも、その時々の現實の情勢の上に立つてのことだからである。皇室はみづから政權を行使せられないけれども、實權の掌握者行使者は幕府であるには限らず、幕府であつても徳川氏であるには限らないからである。實をいふと、かういふ理論を立てることが、幕府の權力の性質について、思想上、幾分の不安を感じたためでもある*。
 皇室のことが當時の問題とせられたのは、上にもまたこゝにもいつた如き朝幕の關係についてであつて、一般國民との交渉に關してではなかつた。現實の政治については、國民は治者被治者として幕府とは對立の關係にあつたが、皇室にはさういふ關係が全く無かつたからである。その代り國民のうちで幾らかでも知識のあるものは、皇室に對し、遠い昔からの傳統的な心情として、その間に精神的な結びつきのあることを自覺してゐた。このころの學者の皇室尊(563)重の思想も、また後年に至つて國民の間に反幕府思想としての尊王論が起るやうになるのも、その根原はこゝにある。國民は彼等と皇室とが對立の關係にあるものとして考へないのみならず、皇室に對し一種の親近感を抱いてゐたのである。連俳の上げ句に「大道ひろき大君の春」(西鶴)といひ「君が代なれば田うち畑うち」(吏荊)といふやうなものが作られ、いはゆる俳句に於いても、「門々の松葉や君が御代の春」(貞徳)、「おれにいはしや先づ御代をこそ千々の春」(季吟)、または「君が代やみがくことなき玉椿」(越人)、と、をりにふれて御代の長久を祝福し、或はまた「今朝しるや國常立の御代の春」(立圃)、「梅や先づ仁徳の御代所の春」(宗因)、と神代を思ひ上世の聖代をしのぶのも、この祝福の意を託するためである。「元朝や神代のことも思はるゝ」(守武)と戰國の世にもいはれたが、今平和の時となつてはその感が一層強められ、「蓬莱にきかばや伊勢の初だより」(芭蕉)の句も作られた。年の始めに國の始めの神代を想起することに、その國と共に始まり國と共に無窮なる皇室に思をよせる心情の籠つてゐることは、いふまでもあるまい。かういふものは、歌や連歌に於いてのしきたりに從つて、半ばは儀禮的に作られたまでだ、ともいはれようが、後光明天皇即位の翌年の正月に「新春と君も祝ふや四方の國」(立圃)と賀詞をのべ、清涼紫宸の造營の成つた時に「新月や内侍所の棟の草」(嵐雪)と衷心からそれを喜んでゐるのを見ると、さうばかりとはいひかねる。徳川氏の權力の下にではあるが、太平の世に生きてゐる幸福を味ひ得たものが、その幸福を思ふにつけて大君の御代の長久に想到するのは、歴史的に養はれて來た國民的感情の發露であることに、疑を容れる必要は無い。室町時代の謠曲に君が御代を祝福する言辭があるのとは、少しく趣きがちがふ(「武士文學の時代」第二篇第七章參照)。俳諧の如き民衆文學にかゝる感情の現はれてゐるのを見て、民衆の皇室觀が上記の如きものであることを知らねばならぬ。(564)民衆の心理としての皇室に對する尊敬は、皇室が權力から離れてゐられるに伴つて深くなり、知識が民間に弘まるにつれて廣くなつた、といふべきである。
 次に一言すべきことは對外思想である。幕府の對外政策が、すべての外國を敵國視する戰國思想に本づいてゐるといふことは、上に述べたところであつて、その後の長年月の間に何等の事變も起らないため、當局者の態度としてはその精神が漸次弛んで來てはゐるが、思想としてはどこまでも保持せられてゐる。個人としての學者の意見も同樣で、素行や如見が四海環海の我が國は要害が甚だ堅固であるといつてゐるのも(中朝事實、日本水土考)、白石が商業國の和蘭を武國として質讃し、また「商賣は皆々軍用の助けのためと見え候、恐ろしき國にて候、」といふやうな觀察をしてゐるのも(白石手簡)、やはり同じ考へかたである.蕃山の北狄來侵論もまたその類と見てよからう。もつとも上に引いた山崎闇齋の言として傳へられてゐるものの如きは、外國からの來侵が事實として起るべきことを思つての意見であるとは考へられないので、これはたゞ聖人とても國敵となつた場合には容赦はしないといつて、道の師としての聖人を尊敬することと國家の獨立を擁護することとの輕重を説いたまでであらう。或はまた外國軍の來侵を思ふについては、昔の蒙古事變を想起するものがあつたかも知れぬが、しかしこのころの學者が「神風」に重きをおいたやうには推測しがたいのではあるまいか。當時もし颱風が起らなかつたならば、蒙古軍は或は一時筑紫の北邊にその暴威を揮つたかも知れないことを考へると、古來未曾有の外國軍の來侵に昂奮した日本人がそれを「神風」と感じ、さうして「神國」のありがたさにしみ/”\思ひ當つたことには、十分の理由があるが、今、徳川の平和の世にはさういふ昂奮は無く、敵國のあるべきことを思ふにしても、要するに現實感の無い仮想に過ぎないからである。蒙古の役(565)に神々が形を現はして戰闘に參加せられたといふ話のできたのも、また「神風」の觀念の生じたのと同じであつて、神々にかういふはたらきをさせたのは日本人の想像としては最初のことであり、その後には神功皇后の物語にもそれをあてはめることになつたのであるが、これとても江戸時代の知識人には切實の感じが無かつたであらう。キリシタンの布教を國土侵略の方便であるとする因襲的な考へかたにも、上に述べた如く、現實感の薄れて來てゐた時勢である。さうしてさういふ假想のせられたのも、一つはやはり思想を以て世に立つ學者だからのことである。勿論彼等の思想に於いても、我が國から進んで武力を外國に用ゐようといふやうなことは考へもせず、たゞ防守的態度で外國を見てゐるのではあるが、これは武人ながら平和の世、鎖國の世、に生きてゐるものとして、當然であらう。我が國は要害堅固だといふ考にも、後の林子平の説とは正反對であるところに、西洋の勢力が強く武人の猜疑心を刺戟しなかつた時代の面影が見られる。たゞ武備が無ければ蒙古のために國を奪はれるやうなことが起らないにも限らぬから、日本はどこまでも武國としての本質を失つてはならぬ、といふものもあつた(三輪物語)。日本が武國であるといふことは、神道者も武士道者も同じく唱へてゐたことである。
 しかし、一般人、特に外人に接觸してゐるものの考は、それとは違つてゐる。西鶴の眼に映じたシナ人オランダ人が、たゞ智巧あり商業に長じたものであるのを見るがよい(永代蔵)。また文學の上にも、外國を征服するといふやうな思想は少しも現はれてゐない。近松の百合若大臣野守鏡にも、昔の舞曲の百合若とは違つて、蒙古退治は背後に隱れてゐるし、金平淨瑠璃の朝比奈島渡りにも、御曹子島渡りのやうな異國征略の面影は見えてゐない。國姓爺合戰の和藤内にも、海外に加へられる日本人の力が示きれたのではなくして、個人としての武士の義理と情けとのみが語(566)られてゐる。たまに日本人といふ觀念が頭を出しても、それは義理に外づれたことをしては日本の恥だといふのであつて、武士の體面を外國人に向つて示さうとしたまでである。桃太郎説話は世に行はれてゐたであらうが、きはだつた文學的作品としては現はれず、お伽噺に於いても、鬼が島はたゞ寶の國であつて外國ではない。これもまた平和の世の思想であつて、戰國的の殺伐な切り取り強盗主義が無くなつたことを示すものである。さうして「四海みな兄弟にして、唐も大和も國民の、一つ心に睦ましき、天の造こそめでたけれ、」(近松の大織冠)、といふのが、激しい民族的競爭を經驗しないがためにおのづから有する、うぶな樂觀的思想ではあるものの、人情としては眞實でもあり自然でもあつて、武士的偏見に囚はれない一般人の思想は、むしろこゝにあつたのであらう。
 もつとも四海同胞といふ考は、儒者も往々口にしたところであつて、家康のころに彼等の起草した外交文書にもそれが見えてゐる。この語は全く違つた意義に於いてではあるが昔のシナ人が用ゐたものであり、現實の對外思想としては親しくシナに往復してゐた五山僧の思想を繼承したところのあるものでもあつて、華夷の觀念となつて現はれるシナ本位の文化的世界統一主義と因縁があるやうにも解せられるが、文學に現はれてゐる平民の思想は、必しもさういふ意味のではなかつたらう。なほ儒者や神道者は、華夷中外の辨といふやうな、抽象的な言辭を弄するのみで、實際問題としては外國に關して何等の考をも有つてゐないものが多いが、少くとも儒者の間には、例へば益軒の如く、秀吉の海外經略を暴擧と見なす點に於いて、戰國的思想に反對してゐるもののあることを、注意しなければならぬ。これは勿論、徳を以て夷狄を懷柔するといふ儒教主義、窮兵黷武を非とするシナ思想、から來たことであり、また幾らかは秀吉の征略の目的が儒教の行はれてゐる國であつたといふ事情、家康の平和主義に對照しての考察、また或は(567)徳川氏を揚げて豐臣氏を抑へようとする思想、も加はつてゐるらしいが、それが平和の世の思想であることも、また看過してはならぬ。
 要するに、異國人との商業上の交渉が僅かにあるのみで、異民族との關係が全く無かつたといつてもよい當時の事情は、異民族に對する我が民族といふ観念を國民の胸に切實に感ぜしめなかつたから、一方では國民の實生活から愛國心が、竪實にまた正當な方向に、發達するやうにはならず、世界の形勢を知らないのと武士的僻見とのために、漫りに外國人を敵と見る偏狹な思想が遺存すると共に、他方ではその反對に、うぶな四海同胞的觀念が深く傷けられずに行はれてゐたのである。さうしてこゝにも戰國思想と平和の世の考との混合がある。しかし武人が表面に立つてゐる世であるがため、現實に對外問題が生ずるやうになると、彼等の偏見が先づ現はれるので、その問題を正當に處理することができず、それによつて種々の無益な混亂を惹き起すやうになる。が、この時代にはまださういふ間題に逢着しなかつたから、かゝる状態で濟んでゐたのである。なほ國民全體の生活を顧慮せず、たゞ武士だけのことを考へてゐた當時の經世家などが、外國貿易の國民に及ぼす利益を知らずして、それを最低度に抑制しょうとし、この點から國富の發達を蔑分でも誘致しようとは思はず、從つて經濟問題から知識社會の對外思想が變化するやうにもならなかつたことは、いふまでもなからう。もつとも鎖國制のために貿易が發達せず、貿易とはいふものの、主として珍貨寄物を買ひ求めるに過ぎない状態の當時では、これも當然のことではある.ケムペルがいつてゐるやうに生活の必需品が自給自足のできる我が國の状態に於いては、今日から考へると、外國貿易を行ふことの主なる利益は、輸出を多くすることによつて産業を發達させるところにあつたが、當時に於いては、かゝる状態であるがために、却つて貿易(568)を抑制する方針が取られたので、さういふことは全く考へられてゐなかつたのである。
 
 以上考へて來た如く、何れの方面に於いても、現状を打破したりそれに大變革を加へたりしようとするやうな思想は、現はれない。制度改革論とても、論者自身はやはり制度の大本を維持するための考案と思つてゐた。さうして、その改革論が實行せられないでも、ともかくも制度が維持せられてゐるのは、一つは、改革が要求せられるほどに行きつまつてゐるのは、たゞ武家のみであつて國民全體でないためであり、從つてその改革が國民全體から痛切に要求せられるのでないからである。農民に困窮者のあるごとも事實であるが、それとても或る程度に自由な行動をすることのできる平民であるために、全體から見ると窮屈な武家とは趣きが違ふ。商人の生活は固より豐かである。さうして第二章に述べた如く、表面の制度が嚴格であつても、事實上種々の方法でそれが緩和せられてゐるから、國民の大部分を占めてゐる平民は、不自然な形式を取りながら、かなりにその間で自己の力を現はしその欲求を充たすことができるのである。さうして事實からいふと、武家の制度の缺陷と武人の困窮とは、むしろ平民をして活動せしむるに恰好な状態でもあるので、平民はます/\制度の間隙を利用して、そこから彼等みづからの力を伸ばさうとする。さうしてそれによつて後等の實力が養はれ、國民の文化がその内容を加へてゆくのである。 しかし武家から見れば、制度の缺陷はどこまでも缺陷であり、弊害は依然として弊害である。特に武人の困窮は、武家の政治組織の根本を腐蝕するものである。外部から動かすものが無かつたために、その外形は維持せられてゐたが、もしあつたとしたらば忽ち倒壞したかも知れぬ。詳しくいふと、國民が世界の形勢の變轉に應じて新しい活動を(569)しなければならぬ、といふやうな場合にでも逢着すれば、この腐蝕しかゝつた武人政治組織は到底それに適しないから、國民は自己の生活の發展のために、幕府を仆さなければならぬやうになるのであるが、當時の世界の大勢はまださういふ時期になつてゐなかつたため、國民はその必要を感じなかつたのである。けれども武人を根據とする武家政府は、少くとも武人の困窮を坐視することはできぬ。吉宗の改革は是に於いてか行はれねばならぬ。その改革が如何なる性質のものでありまたそれにどれだけの效果があつたか、といふことは、次篇に考へようと思ふ最初の問題である。
 
(593) 【文學に現はれたる】国民思想の研究 三 補記
 
三二頁 一四行 以下、〔しかしこれは白石の考であつて、幕府の意圖ではないから、吉宗の時にはそれはやめられた。〕の補入がある。
五一頁 九行 以下、〔この見解には確實な史料的基礎は無かつたやうであり、從つてその當否も問題である。また〕の補入がある。
五一頁 一三行 この問題について、〔キリシタンに関係の無いものは蘭書でも禁じなかつた、といふ説もあるが、その眞僞は明かでない。〕の頭記がある。
五四頁 八行 この問題について、〔五六二頁參照〕の頭記がある。
九二頁 一二行 この問題について、〔カトリックの宗派は禁ぜられても新教は許容せられ得たのではないか。〕の頭記がある。
一八五頁 三行 この問題について、〔しかしこの蕉風のこの態度の根柢には特殊の自然觀なり人生観なりがあるので、いはゆる寫實主義とは違ふ。明治時代の子規が寫生を主張した歴史的由來はこゝにあらうが、この點に差異がある。〕の補記がある。
三一〇頁 八行 この問題について、〔吉良のために主君が命を失ひ家を失つたのであるから、吉良を讐といつてもよからう。〕の補註がある。
四〇六頁 一二行 <女を輕んずる凰尚が>を〔女の教養を嚴格にした風習が〕となほす。
四四九頁 五行 <※[衣+異]>の字について、〔※[言+異]〕の頭記がある。
四九四頁 一五行 この問題について、〔この點再考を要す。〕の頭記がある。
(594)五六二頁 一二行 この問題について、〔政府と宮廷との分離といふ思想は當時にはまだ無かつた。政治は幕府に御委任といふことも考へられてゐたかどうか。しかし事實さうであつたことは、明かである。五四頁参照〕の頭記がある。
〔2020年7月4日(土)夜8時2分、入力終了〕