津田左右吉全集第七巻・【文學に現はれたる】國民思想の研究 四、岩波書店、726頁、4700円、1964.4.17(87.3.24.2p)
 
 
(1)     まへがき
 
 この一卷は大正十(一九二一)年に公にした「平民文學の時代中」の改訂版である。昭和二十三年の秋に舊著の補訂をはじめてから、今年の春の末までかゝつて、ともかくも一とほり既出の四卷に手を入れることができた。それを讀みかへしてみると、さらに補訂を加へたいことが少なくないので、しごとをいそぎすぎたかと思はれる憾みもあるが、今のわたくしが次に出すべき第五卷を新に書かうとするためには、これもしかたの無いことであつた。その一卷を書き了へるには、少くとも二三年または三四年の歳月を要するであらうが、「國民思想の研究」でわたくしの考へようとしたこと書かうとしたことは、實は、維新前後の三四十年間の思想界の情勢に對する觀察を内容とするこの最後の一卷に、その重點を置いてゐたのである。長い歴史によつて次第に獨自の文化とそれに内在する思想とを造り出して來たわれ/\日本國民が、全く歴史を異にするヨウロッパの文化と思想とに新しく接して、それを如何に處理せんとしたか、さうしてその效果が如何に現はれその得失が如何なるところにあつたか、またそれがそれから後に日本の進むべき針路をどう向けてゆき、世界の文化に對して執るべき日本人の態度をどう導いてゆくことになつたか。これらの問題についての私見を述べようとするのが、この一卷の意圖である。これはこの書の著作を企てた時の最初の構想に含まれてゐたことでありながら、四十年近くも實現せられずに過ぎて來たのを、今いそいでそれにとりかゝらうとするのは、わたくし自身にとつては、別にいさゝかの理由が無いでもない。明治の初年に或る人が詠んだといふ(2)「夜は寒くなりまさるなりからころもうつに心のいそがるゝかな」の一首が、それにつけても思ひ出される。第四卷の卷首にかゝることを書きつけるのも、またそのためである。
 この卷の校正と索引の製作とには、例によつてクリタ君とコバヤシ君とを煩はした。また校正などについてイハナミ書店の諸氏が注意と助力とを與へられたことに對し、深き感謝の意を表する。
    昭和二十九年十月   つだ さうきち
 
(1)     目次
 
第二篇 平民文學の停滯時代…………………………………………………………一
      享保ころから天保前後までの約百三四十年間
 第一顕 文化の大勢 上……………………………………………………………一
      政治上の制度及び社會組織
 第二章 丈化の大勢 中…………………………………………………………三六
      國民生活と文化
 第三章 丈化の大勢 下…………………………………………………………九二
      新氣運の萌芽
 第四章 文學の概觀 一………………………………………………………一〇八
      緒論
 第五章 文學の概觀 二………………………………………………………一三七
      浮世草子及び淨瑠璃文學 附歌舞伎
 第六章 文學の概觀 三…………………………………………………………一七五
      江戸の滑稽文學
 第七章 文學の概観 四…………………………………………………………二〇四
      江戸の小説 上 讀本
(2) 第八章 文學の概観 五………………………………………………………二四一
      江戸の小説 下 草双紙及び人情本
 第九章 文學の概観 六……………………………………………………………二六〇
      俳諧 上
 第十章 文學の概觀 七……………………………………………………………二八三        俳諧 下
 第十一章 文學の概觀 八…………………………………………………………三〇七
    擬古文學 上
 第十二章 文學の概観 九…………………………………………………………三三六
    擬古文學 下
 第十三章 文學の概觀 十…………………………………………………………三六五
    漢文學
 第十四章 知識生活 一……………………………………………………………三九六
    儒學
 第十五章 知識生活 二……………………………………………………………四二七
    國學とその影響 上
 第十六章 知識生活 三……………………………………………………………四七一
    國學とその影響 下
 第十七章 知識生活 四……………………………………………………………四八九
    蘭學とその影響
(3)第十八章 文學觀……………………………………………………………………五一八
 第十九章 道徳思想…………………………………………………………………五三六
 
 第二十章 戀愛觀及び自然觀………………………………………………………五六五
 第二十一章 人生觀人間觀及び處世觀……………………………………………五八九
 第二十二章 政治思想………………………………………………………………六二六
 第二十三章 對外思想………………………………………………………………六七三
 索引…………………………‥…………………‥…………………………………七二二
 
(1)     第二篇 平民文學の停滯時代
         享保ころから天保前後までの約百三四十年間
 
       第一章 文化の大勢 上
      政治上の制度及び社會組織
 
 元禄を盛りに咲き誇つた文化の花は、平和の春の光を不十分ながらに享受することのできた平民の手によつて育てられ、平民の力の現はれたものである。平民は、制度の上では下級の地位に置かれ、またその制度によつて種々の羈束を受けてゐながら、彼等みづからの生活を發展させ向上させ豐富にしようとする人としての根本的な欲望を有つてゐることと、窮屈な社會的規制の下にありたがら武士階級のものよりは比較的自由な境遇にあることとによつて、制度の 虧隙を覗ひその缺陷に乘じて、種々の方面に彼等の力を發揮することができたのである。さうしてこの平民の文化は、平和の世にありながら戰國的制度と戰國時代からの因襲的氣凰とに拘束せられてゐる武士階級の上にもその力を及ぼすことになつたので、彼等平民に對して傲然として臨んでゐる武士もまたその前に拜跪しそれを享受しなければならなかつた。けれども表面の制度は依然として嚴存し、さうしてそれによつて世を固定させようとする。それがために平民の活動は不自然な形を取らねばならぬやうになると共に、その力もまた局限せられるところがあり、從つ(2)てまた長い間には漸次弱められてゆく傾向もある。のみならず、概していふと鎖國の状態であるのと平和が續いてゐるのとのため、國民の生活状態に大きな變化が無く、變化させようとする強い刺戟なり衝動なりが無いために、その力の新しい動きかたもそれを動かす新しい欲望も生じかねる。だからその文化もまた無限に發達してゆくことができずして、一度び或る程度の高さに達すると、そこでその進歩がおのづから止るやうになる。元禄の世はその頂點であつて、それから後は次第に停滯の時期に入つてゆくことを免れぬ。要するに、元禄の文化は封建制といひ武士制といひ鎖國制といひまた階級制や家族制といふ、或は平和の時勢、平和の世の人心、とは相容れないところのある、或は人の自由な欲望と行動とを羈束する、政治上の制度や社會上の風習と、平和の生活、人間の欲望、との矛盾衝突から生ずる美しい火花であつて、後者が前者を幾分なりとも内面的にくづしてゆくところにその發達があり、その反對に前者が後者を外部から抑壓するところにその停滯の機縁が存するのである。これが前篇に述べておいた著者の文化觀の概要である。
 かういふ見解から、著者は享保のころがそろ/\この停滯期に入る初めであると思ふ。さうしてそれから後、徳川の世が、少くとも表面上、大なる變動なしに持續せられてゐる間は、即ち幕末の壞亂時代が來ない間は、概して同じ状態が續いてゐると考へる。數字で現はせば約百三四十年間、十八世紀の大部分と十九世紀の前半とを含んでゐる長い停滞期である。フランス革命を中心にしてヨウロッパに一大變革が行はれた時代であることを思ふと、なほさらである。この間に江戸時代の文化は停滯し、固定し、或る意味に於いては爛熟し、或はむしろ腐朽に傾いて來た。日は月となり月は年となり、一年は十年となり十年は百年となつても、若きは老い老いたるは死し、子は父をつぎ孫は子(3)をついでも、同じやうな朝夕を同じやうに送り、同じやうに局限せられた同じやうな小さい欲望を抱いて、同じやうな生活を反覆してゐたのである。日本風俗備考の名で杉田成卿などが飜譯したオランダ人フィッシェルの天保の初年に出版せられた著述に、もし百年前の死者が墓穴の中から蘇つて來て今の世の中を見ても、むかし生きてゐた時と少しも變つてゐないと思ふであらう、といつてある。今人はそれを奇異と感ずるかも知れぬが、當時の日本人はさうは感じなかつたに違ひない、それほどに世の中は固定してゐ、それほどに國民がこの状態に慣れてゐたのである。
 もつとも一方からいふと、これは表面の、また大觀してのことである。靜かに流れてゆく川水の面にもさゝ波は斷えず動いてゐる。のみならずその底の方では、この靜かな流れそれみづからの力によつて、何時のまにか瀬を淵とするやうな大變化が冥々の間に行はれてゐるかも知れぬ。うち見たところでは何の變化も無いやうな制度やそれに伴つてゐる風習の内面には、刻々にその制度風習を腐蝕する力がはたらいてゐる。時々それに氣がついて姑息の修理をしようとするが、さしたるきゝめが無い。さうして一朝その制度や風習を活用しなければならぬやうになつた時には、もはやそれをそのまゝに活用させることができないやうになつてゐる。これがこの長い文化の停滯期に人知れず行はれてゐた變化である。が、もう一歩進んでいふと、この腐蝕作用は、文化の花の盛りであつた元禄時代に於いて、既に行はれてゐた。元禄の文化は一面の意味に於いてはその作用の現はれである。享保以後の停滯期にはその腐蝕作用が徐々に進んではゆくが、これに新しい力が加はつたのではない。さうしてそれに對する姑息の修理策もまた甚だ力の無いものであり、また幾度行つても畢竟同じことをくりかへすに過ぎない。腐らすのも保たせるのも共に力の弱いものであつた。だから表面に見えるほどの變動が無くして、制度も風習も何とはなしに持續せられて來た。が、その(4)持續せられるところに人のはたらきを抑制する力がある。それが即ち文化の停滯となつても現はれるのである。けれどもまた他面からいふと、かゝる内面的の腐蝕作用、かゝる人知れぬ變化の行はれたのは、制度や風習に抑制せられ束縛せられてゐながら、なほ國民、特に平民、に何ごとかをしようとする内からの衝動があり、彼等が人としての欲求とその欲求を如何なる形かに於いて實現しようとする意氣と力とを失はなかつた故である。おのづから行はれたことではなくして、國民が意識しないながらにみづからそれを行つたことである。さうしてそれは停滯してゐる文化そのものの内部に於いて新しい文化活動を芽生えさせる力となつたものである。腐蝕作用はそのまゝ更新の作用であり、更新の力をもつてゐたからこそ腐蝕の用をなしたのである。平静な水の流れの底に於いて、新しい方向にまたは新しい状態にその流れを變へるはたらきは、かくして行はれた。しかしそれは平静なる流れそのもののはたらきであり力である。封建制、武士制、階級制、家族制、及びそれから生じまたそれを支へてゐた國民生活のさま/”\の風習、そのものによつて、またそのもののうちから、かゝる力が養はれまた生じたのである。
 然らば上記の制度は如何なる状態に於いて持續せられてゐたか。それを考へるには、一應元禄前後の世相を回顧することが必要である。著者は前篇に於いて、戰國割據の時代から馴致せられて來た因襲に從ひ、諸大名を敵と視る戰國的態度に由來する幕府の根本政策、その政策の實現とも見るべき諸般の制度が、幕府及び諸藩の財政を困難ならしめたことを説いた。それからまた、武士を本位とする政治機構社會組織と武士の世襲制度とが、武士をして經濟的には消費者の地位に立たしめ、その意味で一種の遊民たらしめると共に、その生活を困難にし、また武士でありがら武士としてはたらくべき機會のない平和の世であるため、その武士たる精神をも氣力をも用意をも漸次弛緩させてゆく(5)と共に、正當の事業に向つてその力を用ゐることができないため、おのづから不正當の方面にそれを向けることにもなり、官能的快樂の追求と物質的の欲望とが盛になつて、いはゆる逸樂奢侈の風を生じ、それがます/\生活の困難を甚しくしてゆくこと、さうしてそれが幕府や諸藩の財政の上にも反映すること、その影響は、さらぬだに戰國的軍政主義の對農民觀から租税徴收の對象として見られがちである農民の上に及び、彌が上にも苛重な負擔を彼等に強制することになつてゆくといふこと、それでもなほ足りぬから借金または種々の不正手段によつて纔かにその日その日を送るに過ぎないやうな大名や武士が多くなつてゆくといふこと、をも述べた。かういふ状態と一般の國民生活や文化との關係はしばらく別問題として、幕府自身も諸大名も直參陪臣の一般武士も、概していふと武家といふ武家は、公私ともに財政的經濟的破綻の淵に臨んでゐるものが少なくなかったのであるが、これは畢竟、戰亂を戡定して世を平和にするための方策として、戰國時代の状態をそのまゝに固定させた封建制度と武士制度とを定めたことにその根本がある。だからそれを矯正するにはこの制度そのものを變革しなければならぬが、當時に於いてはさういふことを考へるものは無かつた。そこで姑息の彌縫策が講ぜられ、また試みられる。前篇の最後の一章に述べたところは學者によつて案出せられた彌縫策で、それを或る程度で實行したのがいはゆる享保の改革である。
 
 享保の改革の第一は儉約令であるが、その直接の目的は幕府の政費と武士の生活費とを節減するにあり、間接にはそれを一般民衆に及ぽすことによつて物價を引下げ、武士の生活を安定させるためであつたらしい。
 さて政費節減の必要は、日本の政府としての幕府にも、旗本家人を養ひ直接の領地を有つてゐる徳川氏一家にも、(6)共通のことであるが、武士生活の安定を考へるのは主としていはゆる旗下の士についてであつて、それは即ち戰國的精神によつて武士を抱へておく以上、當然のことであり、また事實、幕府がその設置せられた初めから常に注意を怠らなかつたことである。享保の時にも、或は金を貸し下げ或は借金の利子の制限を設け、或は人によつて地方知行を蔵米給與に引かへ、また或は米を買ひ上げたり圍ひ米をさせたり、道徳的には非難せらるべき空米相場の取引を容認したりしてまでも、米價の引上げ策を講じたのであるが、これらはみな旗下の士を保護するためであつた。金銀貸借に關する訴訟を受理しないといふやうな令を出したのも、或は同じ理由から來てゐるかも知れぬ。大名に參府の時の從者を減少し江戸住ひの家臣を少くせよといふやうな命令を出したのも、それがおのづから大名自身の經費節減にもなるのではあるが、主なる目的はやはり江戸の物價引下げであるから、畢竟は旗本家人の保護のためであつたらしい。
 このことについて最も重要なのはかの上ゲ米の新制であつて、それは勿論幕府の財政の窮迫を救ふためであつたが、その直接の動機の少くとも一半は、「千はやぶる神代もきかず春かしの夏まで取らでたゞ勤めとは」と歌はれたほど、旗下の士に俸禄を給することができないところにあつたのである。だからこれは家人を養ふために大名をいためたのだといつてもよい。しかし大名の財政も幕府に劣らず困難であつたため、上ゲ米の代償として參覲をゆるめ、それによつて幾分か彼等の負擔を輕めてやらうとした。が、かうなると旗本家人を養ふ戰國的制度を維持するために、大名を敵として見る戰國的精神を傷けたものといはねばならぬ。後になつて上ゲ米を廢し參覲制を復舊したのは實はこれがためである(前篇第二十二章參照)。一定の領土もしくは收入しか無い徳川家が、限りなく旗下の士の采地俸禄を増加してゆくに堪へないところから來る財政上の必要と、人材の登用とを、調和しようとして案出せられた足高の制の(7)如きも、また根本の意圖としては武士の地位を保護しようとしながら、俸禄に對する武士の傳統的思想と主從間の情誼に關する戰國的精神とに背くものである(同上參照)。平和の世に於いて戰國的制度を維持しながらその精神を全うしがたいことは、これだけでもわかる。
 しかし享保改革の主旨は、決して平和の世の趨勢に順應しようとしたのではなくして、却つて人心を戰國の昔に復歸させようとしたのである。儉約令の如きも、戰國時代の武士生活を質素であつたと考へて、標準をそこに置いたのであるが、改革の主旨の最も明かに現はれたのは尚武的氣風の奨勵であつて、勤儉と尚武とが結合して考へられたのもまたこれがためであり、儉約令そのものに武士の氣風を緊張させようとする意味が含まれてゐたのである。けれども戰國的尚武の氣象を熾にしようとしながら太平の治を希望するのは、やはり矛盾である。尚武の氣象は戰爭に刺戟せられて始めて熾になり得るものであり、またその結果はおのづから武を用ゐる機會を作らうとする傾向を生じがちのものだからである。鷹狩で武を練らうとするが如きは、固よりお殿樣的空想の一つに過ぎないので、それは實は、死ぬか生きるかのはたらきとなつて現はれねばならぬ武人の精神を遊戯化するものであり、從つてまた太平の状態と戰國的氣風とをむりに結合したものである。なほ矛盾はこれのみではない。享保改革の精神には儒教的道徳思想が含まれてゐるので、儉約令の一半の意味もまたそれであり、いはゆる學問の奨勵は正面から儒教的文治主義を鼓吹することになる。この文治主義が戰國的精神武士的氣風と相容れぬものであることは、前篇の所々に述べておいた。
 享保の改革は、かういふ不徹底な、曖昧な、矛盾に充ちた、從つてまた姑息な、ものであるが、それは即ち戰國的制度を治平の世に保持しようとする根本の矛盾から來てゐる。かういふ不自然なことをするのであるから、その方法(8)にもおのづから無理があるので、その態度の強制的になり抑壓的になるのは、當然である。空疎な儒者の机上の考案から出たものなどは、なほさらである。森川出羽守のいつた如く、吉宗の新政が「権現樣の御大法」に背いてゐるのも(甲子夜話)、戰國時代に戰國の法を行つた昔と、平和時代に戰國的精神を以て臨まうとし、その上に全く思想の根本が違つてゐる儒教主義を加味した今との、差異から生ずる。勤儉尚武の實行に於いて吉宗がみづから範を垂れたといふのは、一面からいふと美事であるが、他面からいふと権威を以て臣下を壓するものであり、君主自身だけの徳行と天下の政務なり人の取扱ひかたなりとを混同したものでもある。だから、それによつて期待せられた如き效果を得ることはむつかしかつた。幕府の財政の窮迫は一時救濟せられたやうに見えたけれども、それとても一面に於いては水野和泉守神尾若狹守などによつて行はれた聚斂政策があつたことを忘れてはならぬ。のみならず元文時代になると、再び荻原重秀の故智に倣つて惡貨の鑄造を行はねばならぬやうになつたではないか。
 勿論、旗本の風俗は改まったといはれてもゐて、部分的にはそれに眞實性がある。が、裏面にはそれに伴つて、紀の國凰の流行といふやうな事實があることを考へねばならぬ(賤の小田卷)。命令によつて風俗の改まるといふことは、多數のものが權力者の意志に迎合するといふこと、またその改められた風俗が一時的のつけやきばであるといふことが、それに含まれてゐるのである。と同時に、權力者もしくはその意志が變るに從つて、さういふつけやきばが剥がれ、矯飾せられた風俗が本身を呈露する時の來ることが豫想せられる。享保政治の道徳的效果が薄弱であつたことは、怪しむに足らぬ。もとより少數者の間には、その思想に於いてもまた生活上の便宜のためにも、衷心から吉宗の主旨に賛同するものがあつたに違ひないが、こゝにいふのは大勢の觀察である。のみならず儉約の如きは、吉宗自(9)身に於いても徹底的に實行することができなかつた。麻上下ばかりつけてゐたのが何時のまにか止まつてしまつたといふ話(甲子夜話)は、一直線な儉約令の到底實行せられないこと、並に彼自身がそれを示してゐること、を明かにしたものである。延喜式染の工夫や曲水宴の復興や、容儀の典雅を以てその子の田安宗武を賞美したことなどに至つては、それが彼の儉約主義、武人主義、實用主義、と矛盾するばかりでなく、彼の極力排斥した白石の禮文主義と全く同じ思想から出てゐるではないか。犬追物や流鏑馬の復興もまた同樣であつて、武人の古禮であるといふことによつて、曲水宴などのそれと區別せらるべきものではない。宗武に至つては、歌を詠み管絃の遊びを好み公家の風習を學ぶことを喜んでゐたではないか。更にいふと、吉宗の功績として最も稱讃せらるべき物産の開發にも、また儉約令の精神とは一致しない點がある。生活程度の向上を非とするならば、新しい産業の興隆とそれとには種々の意味に於いて矛盾を生ずる一面があるではないか。
 尚武主義の實行せられないことはなほさらである。戰の上の功名の求められない世、武術で立身のできない時代に、どうして武術が磨かれ戰闘的精神が盛にならうぞ。その上、武士には文官もあり屬吏もある。それは戰國傳來の軍政主義に本づいた制度のためではあるが、平和の世には法制上の身分はともかくも、事實は單なる文官であり屬吏である。さういふものに對しても武士と名づけられた身分のために武藝を練習させようといふのは、大なる誤であり不可能事でもある。
 その上に享保の政治の主旨は幕府の財政救濟と旗下の士の保護とにあるので、一般民衆の生活は概して度外視せられてゐる。儉約令の結果は直接には商工業の抑制となり、府庫充實策はおのづから農民に對する苛欽誅求となりかね(10)ない。だから山下幸内は、「天下國家のため」の政治ではなく、幕府のための「金銀の御徳用」をのみつとめられるといひ、世間の金銀はすくむといつた。雜賀某もまた享保の新政が種々の點に於いて江戸の寂寥と市民の困弊とを來たしたことを論じた。本來貧窮なのは公私の武家であつて、全體の上から見ると必しも一般國民ではないが、政府の政策はこの武家のためにするものであつて、國民のためにするものではなかつた。幕府にとつては國民のためにするよりも武家と武家政府とのためにすることが先にたつたのである。そこに武家政府の根本的缺陷があると共に、國民が生きてゐる限り、さういふ政策が十分に成功するはずもない。時には市民の遊樂をむしろ奨勵し貸借訴訟不受理の令を撒廢するなど、極端な儉約主義や武人保護策を緩和するやうな法令を出さねばならなかつたのでも、それは知られる。
 さて改革政治が徹底的に行はれないとすれば、權力の行使に對する一時的の迎合によつて、武士生活の上に暫く跡を潜めたやうに見えるいはゆる逸樂奢侈の風が、その權力の行使の時と共にゆるんで來るにつれて、再び表面に現はれるやうになるのは、自然の勢である。或はむしろ反動的に一層激しくなることが考へられる。權力による人爲の緊肅は到底永續すべきものでなく、さうして封建制武士制の窮屈なる羈束が依然として存在する世に於いては、士風のかうなるのは當然のことである。もしそれをどこまでも防遏しようとするならば、人の力を自由に如何なる方向にも伸ばし得る機會を與へねばならず、さうしてさうするには、封建の政治機構や武士本位の社會組織を根本的に變革しなければならぬが、これは、今人が今日の思想で考へることであり、今日でなくては考へられたいことであつて、上に述べた如く當時に於いては何人も夢想だもしなかつたことであるのみならず、よし當時の知識人のうちにさういふ(11)ことの考へ得られるものがあつたとするにしても、國民があらゆる方面から現實にその必要を感知するまでになつてゐない時代に、單に思想として構成し得られたに過ぎないかゝる變革を、もし實現しようとしたならば、それは徒らに政治をも社會生活をも、根本的には人心をも、混亂させ、世の動亂を誘致するのみであつたらう。享保の政治家がどこまでも現存の秩序、現存の制度、を維持しようと努め、かゝることに想ひ到らなかつたのは、啻に幕府傳來の固定政策を守らうとしてゐたのみではない。けれども當時の封建制や武士制が、武士の地位にあるものに活動の氣象を無くし事業欲を起させないために、おのづから彼等の生活を利己的にし物質的にし、官能的快樂と奢侈逸遊とを追求させることになつたのは、事實である。だから政府の方針の如何に關せずこの氣風のあるのは同じである。たゞ逸樂奢侈の方法が時代によつて變るので、そこに政令の效果も幾分か見られる。
 しかし吉宗があゝいふ改革を行つたのは、當時に於いては已むを得なかつたことである。その考にはむりなところもあり、その效果は薄弱であつたが、本來不可能な改革を企てねばならなかつたのであるから、この點で彼を尤めることはできぬ。のみならず、その知識欲の旺盛であつたことから天文や物産の學を保護したり、蘭學の道を開いてやつたり、また開墾や産業の奨勵をしたり、さういふことが我が國民生活の上に好影響を及ぼしたことは勿論であつて、吉宗の功績は主としてこゝにある。さうしてこれは彼が、みづから識らずして、戰國思想を基礎とした固定主義ともまた儒教主義とも反對な、現實の状態としての、治平の世の新精神に順應したことを示すものである。幾分なりとも時勢の趨向を看ることのできるものである以上、戰國思想のみを墨守せずして、新しい方面に眼をつけてゆかねばならなくなつてゐたのである。吉宗がもつとこの方面に積極的にはたらき、例へば海外渡航の禁を緩めるやうなことを(12)したならば、國民の活動の天地が新たに開かれ、それにつれて一般の産業も發達し、武士の窮迫もそれによつて救はれるやうになつたであらうし、また封建制武士制はそのまゝにしておくにしても、蕃山や徂徠などの制度改革策を幾らか取入れたならば、そこからも大名の財政の困難が少なくなつたであらう。例へば一たび行つて間もなく中止した參覲制に關する新處置の如き程度に戰國主義を綬和する勇斷は、平和時代のこととて、できさうなものであつた、百年の平和になれて來た當時の人心はそれがために大なる激動を生ずるやうなこととは無かつたのではなからうか、と今からは考へられもするが、そこまで考の及ばなかつたところに、一般に人智といふものの限界があると共に、さういふ改革をする必要を彼が感じなかつたほどに、制度の缺點が、爲政者はもとよりのこと多くの知識人にも、考へられなかつたのであり、さうしてそれは、一つは制度が嚴として存在してゐたからである。またよしそれが感ぜられたとしても、徳川氏の地位に立つて見れば改革によつて生ずるかも知れない萬一の危險が憂慮せられたであらう。だから傳統的な戰國思想に對する平和時代の新精神は、制度の改革といふ方法によつてではなく、國民の生活そのもののはたらきによつて制度の内部に於ける自然の腐蝕作用、その意味での更新作用、として人知れぬ間に徐々に現はれてゆくのであつた。さうしてそこに、制度の缺陷の知られるのは直接には武士の生活に於いてであつて、一般の國民に於いては實際はさほど甚しくはなかつた、といふ一面の事實が示されてゐるのである。吉宗の改革についてはかう考へられるが、彼の施設の一面は、歪んだ形に於いてでありまた小規模でもあるが、後の田沼の政治によつて繼承せられたところがある。
 第二の柳澤時代ともいふべき田沼時代の社會状態は後にいふことにするが、彼の政府の取つた政策は、享保のとは(13)反對に、むしろ都市に於ける商工業の繁榮を助成したことになつたので、そこに一味の平民的色彩があると同時に、表面のまた眼前の繁華を是認し利用してゐるところに、うはついた調子のあることをも認めねばならぬ。奢侈逸樂の風を増長させたといふ武人氣質や儒教主義からの非難は、この點に於いて決して無意味ではない。しかし吉宗の勤儉尚武が當時の制度の下に於いて到底奢侈逸樂の矯正にならぬものであつたとすれば、田沼がそれを是認し利用したのも一つの方法であつたには違ひない。どちらにしても政府の財政難や武人の貧窮を救ふことはできなかつたのである。だから現實の財政救治策としては、結局、享保のと同樣、聚斂と惡貨の發行とに歸着する外は無い。商工業の徒から運上金を徴發したのは財源としてはむしろ適當のことであるが、これは惡貨鑄造と共に元禄時代の遺策である。また旗下の士の保護策としても、金を貸したり米價引上げ策を講じたりしてゐるが、それに大きな效果のあるはずのないことは享保の時と同樣である。のみならず、都市に於ける商工業の繁榮を助長しながら、定められた采地俸禄によつて上にいつたやうな意義での一種の遊民生活をしてゐる、さうして或る意味に於いて商工業者と利害相反する、旗本の人爲的保護策を講ずるといふことが、そも/\矛盾である。それよりも彼が大計畫をたてたいはゆる融通金の制度に一つの經綸が見られるのであるが、それを強制的に行はうとしたのと、民衆が武家を信用しなかつたのと、また何事についても新計畫を喜ばない保守的氣分が一般にあつたのとのため、實行に至らずして終つたのである。要するに彼の財政策は一時を糊塗するに過ぎなかつたが、當時に於いてはこれより外に方法は無かつたのであらう。しかし、さういふこととは別に、彼が開墾事業を起したり、外國貿易の制限をいくらか緩めるやうな處置をしたり、オランダのものを愛好したりしたのは、それがよし一時の思ひつきや物好きやから起つたことであつたにせよ、ともかくも新(14)しい方面に人の心を向けさせた點に於いて幾分の價値がある.さうしてそれは吉宗の事業の善い半面を繼承したものと見なければならぬ。
 この田沼の後を承けたのがいはゆる寛政の政治であるが、それは吉宗の企てて效果の無かつた一面のみを殆どそのまゝに踏襲した上に、その道徳的意味、儒教的色彩、を一層強くしたものである。都市の繁榮と商工業とをできるだけ抑制しようとしたのも、また享保政治の主旨を擴張したものである。だからそれが同じく效果の無いものとなり、田沼の時代を導いた享保政治の運命と同樣、世は何時のまにか化政度のいはゆる大御所時代に移つてゆき、さうして更に第三囘目の改革、即ち水越の政治を誘致するやうになつたのも當然である。大御所時代の政府が如何に財政の困難に苦み、甚しい惡貨の濫發や運上金の徴發や租税の追求やを以て、纔かにその日その日の一時凌ぎをしてゐたかは、いふまでもなからう。「士風の廢頽」に至つては勿論のことである。松平定信は忠直誠※[殻/心]な人ではあるが、一つは田沼時代の施設と反對の方針を取らねばならなかつた時勢であるのと、一つは「ぎし/\と唐の大和の舊例など出て」(内安録)といはれるほどの曹物好きな儒者肌の人物でもあり、またそれだけ儒教思想の偏見に囚はれてゐることが強いのとで、消極的な、また不徹底な、緊肅主義を取つたのである。だから彼は祖父吉宗に微かながら存在してゐた積極的方面を繼承することができなかつた。吉宗のために道を開かれて興つた蘭學に對しても、幾分かそれに心を傾け西洋の知識を得ることの必要をば知つてゐたし、蘭學者をも用ゐたけれども、それに十分の理解をばもたず、また深い興味を感じなかつたのではあるまいか(退閑雜記、花月草抵、など)。殖産興業などについても新しい企畫をせず、外國貿易に對してはそれを抑制しようとはしなかつたが、積極的に擴張するやうな態度はとらなかつた。一大名として(15)は産業などについても幾らかの事業を起したが、それは主として家士の生活保護のためであつた。疲弊した農村や窮民を救濟し、一種の農兵めいたものの創設をも試みたが、これとても幕府の執政としてのことではなかつた。さうして執政としては傳統的な固定政策を守り、いはゆる異學の禁の如き思想統一を試み、林子平を罰した如き專制的な人心鎭壓策を行ひ、頑冥ともいはるべき態度で新思想の展開を抑制した。彼みづからの施政を滑稽的に取扱つた黄表紙の絶版を命ずるに至つては、徒らに襟度の狭小なるを示したのみである。しかし異學の禁も後になると事實上ゆるんでしまひ、また如何に思想を固定させ人心を動搖させまいとしても到底それができなかつたことは、事實が證明してゐる。もつとも局部的にいふと、定信の政策に於いて、昌平黌の革新や學問吟味による人材登用の法や、または江戸市民のための圍ひ米の制度、人足よせ場の新設、などが、それ/\に效果を收め得たことは事實であり、特に昌平黌の革新は、幕末に於ける人材の輩出を誘致したものであるし、かの儉約令の如きも、餘りに放縱な前代の気風を一時的にせよ緊肅し得た點に、少からぬ意味のあることをも、認めねばならぬが、それと同時に、その新思想抑壓が、やはり一時的のことではあるが、一部の知識人の活動を萎縮せしめた、といふやうな結果の生じたことをも、許さねばならぬ。儉約による政費の節減も、また種々の方法によつて試みた旗下の士の生活保護も、文武忠孝の奨勵による士風の維持も、封建制武士制の根本的缺陷を補ふに足らなかつたことは、明白である。彼の政策そのものの缺點は享保政治の場合と同樣であつて、特にその思想の儒教的色彩を濃厚に帶びてゐる點に於いては、武士制度武士的精神と矛盾することが一層甚だしい。文官登用の新制度が當時に於いては必要でもあつたし、それに效果もあつたけれども、思想としては武士の世襲主義と一致しないことも、また既に述べたところである。そこにおのづから平和時代の新精(16)神に順應するところはあつたたしても、、それと傳統的な戰國的制度との調和が考へられてゐなかつた。彼の著述や彼の意見として世に傳へられてゐるものによつて考へると、彼自身はさまで頑冥ではなく、世情人心をよく理解してもゐたやうであるが、その政治の迹について見ると、上記の如きところがあつた。
 天保の改革は寛政の政治の主旨を一層急迫苛察な態度、一層武断的な手段、で行はうとしたのであつて、それがために世人から大なる反感を買ふに至つた。享保の改革にも寛政のにも部分的に反對論はあり、特に商工業者からは概ね歓迎せられず、定信に對しては農民に對する聚斂が改まらないといふ非難をするものさへもあつたらしいが、天保の時のほどに甚しき不滿を買ひ攻撃をうけはしなかつた。町人や農民のみではない。「白沙映帶碧※[山頁燐の旁]※[山+旬]、落日蕭條七里濱、始識禁奢新政遍、清和時節少遊人、」(大槻磐溪)、詩人もまたそれを讃美しなかつたらしい。それには鳥居のやうなものが實行の局に當つたといふ特殊の事情もあるが、改革者の根本の態度が本來人心を服するに足らなかつたのである。水越の政治には、勿論、政費節減もあり旗本家人の生活保護もあり、その手段としての物價引下げ策や江戸の人口減少計畫などもあつて、これらはすべて享保寛政の政策を繼承したものであるが、その最も力を籠めたのは道徳的意味を有つた風俗矯正であつて、それは本來法令や權力を以て實行すべからざることであるのみならず、前にも述べた如く、矯正すべきものと認められた風俗は、その實、當時の制度の下に於いては發生し易いものであつたからである。法令雨の如くに下りながら往々朝令暮改の状があつたのも、これがためである。さういふむりな政策を短兵急に貫徹しようとしたために、「烏頭大黄の激劑」も起死囘生の效は無くして、徒らに人心を沈滯させるに過ぎなかつたのは、ぜひも無い。
(17) たゞ水越の政治に於いて寛政に見ることのできなかつた積極的事業は、田沼の企てて成就しなかつた印幡沼の開鑿であるが、これもまた失敗に終り、幕府にとつては一大改新である江戸大坂十里四方收公の計畫もまた遂行することができなかつた。この計畫の、少くとも一半の、理由が歳入の増加を得る點にあつたとすれば、因襲的政費節減策が幕府財政の救治に對して效果の無かつたことを語るものであると同時に、幕府政治の根本たる對大名策にひゞの入るやうな冒險をしなければ財政が維持せられなくなつたといふ事實は、その幕府政治のよつて立つところの封建制武士制の根本的缺陷が、殆ど弥縫のできないほどに、力強く財政の上に現はれて來たことを示すものである。事實、この計畫が實現せられずして葬り去られたのは、それが制度の根本に重大の關係があつたからである。なほ旗本家人の生活が水越の改革によつて何等の安定をも與へられなかつたことは、いふまでもない。
 要するに幕府の財政の窮乏と徳川家の旗本家人の生活の不安定と、また武士的精神が弱められて武士が逸樂奢侈に流れて來たといふ事實とは、元禄のころから、或はむしろその前から、引續いてゐることであり、それに對して政府の企てた改革も畢竟同じことを反覆したに過ぎない。反覆せられるといふことが取も直さずかういふ改革に永久的效果の無かつたことを語るものであつて、國艮の生活はそれがためにさしたる影響を蒙つてゐない。極言すれば、改革は多くは一時の人騒がせに過ぎないものであつた。さて同じやうな状態がかう長く續き、さうして同じことがかう幾度も反覆して行はれた點に、この時代の國民の生活の單調さが見られ、かういふ不安な財政状態に於いて怪しまれるまでに幕府が存立し得、かゝる旗本家人を基礎として不思議なほどに徳川氏の權力が維持し得られた點に、それを變革しようとする強い要求が國民の間から生れなかつたこと、またさういふ要求を生むほどな刺戟の何處からも來なか(18)つたことが、知られるのである。けれどもその改革が一度ごとに次第に小規模になり、次第に神經質になり、次第にコセ/\して來た點に、爲政者の意気が次第に萎縮し次第に小さくなつて來たことが看取せられる。恰も病人が病氣の進むにつれ氣力の衰へるにつれて、いよ/\氣がいらだち、ます/\おちつきがなくなるのと、一般である。これは一面からいふと、國民全體の氣風の變遷がそこに反映したものとも見られるが、他面からいふと、國民が權力の壓迫に反撥するだけの底力を有つてゐたことを示すものとも考へられる。幕府の強制的改革は國民全體のためよりはむしろ幕府自身とその旗下の士とのためであつて、それを成就させず、彼等の病を一層甚しくしたのは、冥々の間に無意識に行はれた國民の反撥力の發現であつた。さうしてそれが、事實上、封建制武士制を刻々に内部から腐蝕させてゐた。爲政家の思ふやうにならずまた制度の型に全くはめられてしまはなかつたところに、國民の力があつたといふことができる。たゞその力が自由に伸び/\と發揮せられずして、抑へられまた曲げられてはゐるが、それながらに大なる潜勢力として存在し、種々の畸形を呈して世に現はれ、さうして一朝時機が來ると、そのためにこの制度が倒されるやうになる。いはゆる大政維新がそれであつて、それは、徳川氏の政權とそれを支へてゐる封建制武士制とを廢棄しようとする強い要求が、世界の形勢に刺戟せられてそれに對應するために生じたからである。ところが、かゝる國民の力は、根本的には遠い昔から歴史的に培はれて來たものであるが、直接には、上にもいつた如く、この封建制武士制の下に於いて、またそれによつて、養はれたものであるので、例へば商人に於いて最も力強く現はれてゐる平民のはたらきは、封建制武士制の下で、またそれによつて、或はそれに對抗して、生じたものである。だから概言すれば、封建制武士制によつて養はれた政治的經濟的文化的の力が、封建制武士制のはたらきを弱め、終にはそれを(19)變革するようになつてゆくのである。が、また別の見かたをすると、制度が内面的に崩れてゆくといふことは、その外形の長く保持せられた一理由でもある。もしその實質がどこまでも堅固であつて、國民にその力を伸ばさせる少しの間隙をも與へなかつたならば、國民は割合に早く制度そのものの變革を企てねばならぬやうになつたかも知れぬからである。前篇で考へた如く、封建制も武士制も階級制も家族制も、かなりに融通のきくものであつて、制度の精神に反することがいろ/\の形に於いて行はれ、それによつて事實上、制度の抑壓が緩和せられてゐる。それは内面的に制度が崩れてゆくことではあるが、かうして崩れてゆくことによつて表面的にその形が保たれてゐるのである。さうしてまたこのことは、上にいつたやうな外部から特殊な刺戟の起つて來ない限りは、その制度が全くそれを破壞してしまはねばならぬやうなものではなく、知らぬまに行はれてゆく内面的な緩和作用によつて、國民が或る程度に、または部分的にではあるが旺盛に、活動し得るだけの弾力性をもつてゐることを、示すものである。これは制度や法規の運用に關する當局者の態度に於いても同樣であつて、事に與るものの人物如何によつては、暖かい人情をはたらかせ手ごゝろを加へる餘裕をも餘へられてゐるため、法規を緩和して制度に對する不滿を少くしその缺點を補ふことができたのである。
 しかし財政の窮迫も武士の生活の不安定も幕府及び徳川氏の旗下の士ばかりではなく、諸藩とても同樣なものが少なくないことは、既に前篇に述べた。大坂あたりの商人から金を借りて纔かにその日その日を送つてゆき、またはその借金の返濟ができない大名が多く、中には領地の石高に幾倍する借金を負つてゐるものがあるのみならず、財政の全部を商人に委託するもの、いはゆる「商民の哺啜を以て武家の身命を保つ」(本多利明の經世秘策)ものさへ珍らし(20)くはないので、仙臺の如き雄藩が升小(山片蟠桃)に萬事を任せるやうになるのもその一例である。當時の經濟を論ずるものが口をそろへて、武士が商人に支配せられ租税の大半が商人の所得になることを慨嘆してゐたことを見ても、それがわかる。だから大名が農民に對する租税などを苛重にするのは勿論のことで、さういふやうなことから百姓一揆を惹き起したところもあり、享保ごろからそれが特に多くなつて來た。領分の百姓から金を借りた例もあり、藩境で關税を徴收するやうなものもあつた。錢の鑄造や紙幣の發行なども多くは財政救治の意味からであつた。かういふ貧乏大名に於いては家臣に俸禄を給しかね、從つて事實上の減俸を行つたものも少なくはなく、水戸の如き親藩ですら天保年間にはそれを半減にしたといふ。もつとも中には富裕の大名も無いではなく、甚しき貧困に陷らぬものもあったけれども、それらは概ね公稱の石高よりも實收入が遙かに多い國であるとか、または特殊の國産がありその賣買を藩營にして利益を得るとか、さういふやうな事情の下に於いてであつたらしく、概していふと大名には貧乏なものが多かつたのである。
 是に於いてか諸藩でもまた改革の必要が生じたのであるが、しかし幕府に比べると規模が小いだけに、斷じて行へば或る程度のしごとはできるし、藩主の意見も比較的實行し易い。政治的施設としては大なる效果の無い儉約も、情的關係で君臣の間の維がれてゐる藩國では徒らにはならず、幕府の財政を救治するには役にたゝぬにしても、方法の如何によつては大名の勝手をなほすには效果がある。松代の眞田幸弘が家臣恩田木工にすべてを委任して行はせた改革はその最も著しきものであるが、それが成功したのは、藩主の明智英斷と、恩田の獻身的な努力勇氣及びその虚置の宜きを得たことと、家中の武士の協力と、並に恩田と領民との相互の信頼とのためであり、その根本には恥を知り(21)約諾を重んじ君國のために一命をかけて事に當る武士的精神がある。肥後の細川重賢が家臣堀平太左衛門に委任して行はせた改革も、またその堀の示唆によつて行つた津山藩の改革も、よ*く世に知られてゐるが、何れもその成功にはやはり松代のと同じ君臣間の信頼と武士的精神とがはたらいてゐる。(肥後の改革は單なる勝手立てなほしのためではない。このことは後にいふであらう。)その上、國によつては戰國的意味に於いての富國思想も遺存し、武士とても小禄のものは傍ら農耕に從事し家族に養蠶機織などの内職をさせる風習のあるところがあり、また大都會から見れば全體に生活程度も低いといふやうな點に於いて、消極的緊肅主義の改革にも便宜のある事情がある。上記の諸藩や米澤や白川や或はずつと後の水戸や長州やに於いて、或る程度に改革が成功し、或は佐藤信淵や二宮尊徳などの意見を採用することによつて甚しき貧困を免れ、また升小の如き達識の商賈に委任して財政の整理を行ひ得たもののあるのは、これがためであらう。しかし儉約にも限界があるから、それのみで根本的に勝手を立てなほすことも困難である。米澤で行つたやうな物産の藩營は、前から行はれてゐた薩摩及びその他の諸藩の同じ施設と同樣、よしその事には效果があつても、他國との通商によつて利益を得るものである以上、戰國的割據思想とは矛盾する點があり、またその米澤や白川などの或る意味に於ける農兵主義採用、即ち武士に農耕養蠶などの生産業を營ませること、も武士を俸禄で抱へそれによつて生活をさせるといふ主從關係の道義的基礎、また武士を特殊階級とする制度の精神、とは一致しないところがある.肥後の官制の改革は思ひきつたもので、平和時代の制度として頗る整備してはゐるが、その代りに根本の主旨が軍政主義と矛盾し、人材登用法、特に平民の拔擢、は武士の階級制度世襲主義と齟齬することを考へねばならぬ。固よりこれらは徳川の世の初期から裏面に於いて既に行はれてゐたことであるのみならず、その遠き由(22)來は戰國時代にあるので、さうしなければ大名の勢力が成りたゝずまた維持せられなかつたのであるが、徳川氏の固定政策とその精神とから見ると、思想的にはかう考へられる。その上、所々で行はれた産業の保護奨勵もしくは官營は、局に當る武士の無理解と不親切と驕傲とのために、往々農民の反感を招いて豫期の如き效果を奏しなかつた場合がある(林子平の上書及び名主官藏の上訴)。改革はやはり困難な事業であつた。しかし、さういふ改革が幾分なりとも人心を新にし藩政の維持に役立つたこと、また特殊の改革をも企てず憫むべき状態のまゝでともかくもその日その日が送られてゐるものもあつたことは、恰も漸次腐朽に近づいて來た蕃府が存續し得たのと同樣である。
 
 以上は幕府及び諸藩の政治家が財政の救濟と武士の保護とのために試みた特殊の施設についての觀察であるが、なほ一般的に考へても、封建制や武士制やその根本となつてゐる幕府の初期からの傳統的思想やが、外形は舊態を保ちながら實實が次第に變化して來たこと、さうしてそれがみな制度自身のもつてゐる矛盾、戰國思想と平和一統の世の生活との背反、に本づいてゐることが知られる。幕府が諸大名を敵と見る戰國的態度をどこまでも維持し、(有徳院實記附録によれば、外樣大名からの獻上物は將軍は食はぬといふ慣例を吉宗が破つたといふが、これは僅かにその一小部分のことである、)常に間諜政策を行ひ、親藩に對してすらともすれば猜疑の眼を向けることはいふまでもなく、幕府の制度や旗下の士の状態などをすら公表するを許さず、懷中道しるべ、青標紙、殿居袋、の著者を罰したことなども、國状を敵に秘する戰國的精神から來てゐるが、それにもかゝはらず伊能忠敬に全國の測量をさせ諸大名に命じてそれに便宜を與へさせようとしたのは矛盾であつて、大名の中には領内の地勢を秘しようとしたものがあるといふの(23)も(甲子夜話卷二八)、戰國思想から見れば當然のことである。人の城池の廣狭淺深を測るは間諜的行爲だからである(後にいふ對外思想の條參照)。饑饉の際に食料の供給を他の地方のものに命じたのも、兵糧として不斷に米の貯蓄を要する戰國主義とは一致しない。陪臣を登用するのも敵國人として見れば危險なことである。のみならず、尚武の精神を全國に鼓吹し武備の整頓を諸大名に求めるやうなことは、幕府存立の根本義と本質的に相容れざるものである。けれども幕府が日本の政府である以上、かういふ種々の施設をしなければならぬから、幕府はその當然の任務のために自家の立脚地を破壞しつゝあるものであり、それでゐながらなほ自家を擁護する考でゐたのである。その施設が力の弱い空虚なものとなるのは當然である。 諸大名とても同樣で、戰國傳來の因襲的思想が決して無くなりはせず、「御家來としては國學心がくべきことなり。……釋迦も孔子も楠木も信玄も終に龍造寺鍋島に被官かけられ候儀これ無く候へば、當家の家風にかなひ申さゞる事に候、……御先祖樣を崇め奉り御指南を學び候て、上下共に相濟み申す事に候、」(「葉隱」に見える佐賀藩士の信條)といふやうに、思想の上までも極端な封建割據主義を主張してゐるものすらあつた。(こゝで國學といふのは鍋島家に特有な武士の氣風を學び知ることである。)藩政もしくは藩士の行動に割據主義が内在することはいふまでもない。けれども借金で首がまはらぬやうになつたり大坂の商人に財政を任せたりするやうなことが、事實上この割據主義を破壞してゐることはいふまでもなく、本來ならば軍用のための貯蓄であるべき圍米が、或は備荒の用として、或は物價調節のために常平倉めいた作用をするものとして、考へられるやうになつたのも、またこの精神に背反するものである。家人保護のために物産の藩營を行ふことが割據的精神と齟齬することは前に述べたが、もつと根本的にいふと、(24)大名がその地位を維持するために、事ある場合には自己の勢力の基礎となるべき農民を虐げ國力を弱めてゆくことが、割據的状態にある大名の存立そのことの精神を破壞するものである。また別の方面を見ると、他家のものを抱へたり、または家臣を他家へ仕へさせたり、或は他家のものと縁を結ばせたり、さういふことも行はれてゐた(但し藩によつて習慣が區々になつてゐたらしいから一概にはいはれぬ)が、これも割據思想とは一致しないものであつて、戰國時代には法度としてそれを禁じてゐた國があり、幕府の最初の武家法度でもそれと同じやうな精神から來てゐる禁條が載せられてゐた(前篇第一章第二章參照)。佐賀では江戸時代になつても、國のものは他方に出さず他方のものは抱へず、知行を取上げられたものも切腹を命ぜられたものの子孫も國内に置く習慣であつたといふ(「葉隱」)。戰國の遺風であらう。米澤の※[さんずい+莅]戸大華の建議に、諸士の二三男などの他家奉公が享保以來御免になつてゐるが事實行はれてはゐず、他家のものと縁邊を結ぶものも無い、といふ事實を擧げてそれをよいこととしてゐるのも、この割據主義の思想である。しかし同じ人が百姓については他國への奉公縁邊を自由にすることを希望し、それによつて生活の困難を融和し嬰兒壓穀の惡風を除かうとしたことから考へると、この精神は徹底しないものである。生活の困難は武士にもあるからである。要するに、戰國割據の遺風と平和一統の世の國民生活とが矛盾するために、かういふことが起つたといはねばならぬ。
 以上は封建制の精神である割據主義についてのことであるが、武士制に關しても同樣であるので、幕府は家人の養子を、平民からは固よりのこと、浪人から取ることさへも戒め、町人と同じやうに貸家などを有つてゐる家人を罰し、また百姓町人の武藝を學ぶことを禁ずるなど、武士と百姓町人との區別をできるだけ嚴格にするつもりであつたけれ(25)ども、一方では知識技能または特殊の才幹を要することについては平民から有能者を拔擢する外は無く、田中丘隅などの登用せられたのでも知られる如く、勘定方などの官吏には町人や農民出身のものが少なくなかつた。このことの根柢には民政を重要視する意味、いひかへると農民の生活を保護しようとする心用ゐ、が潜んでゐたと考へられるが、こゝでいふのはそのために民間人を採用したことである.儒者や暦學者が民間から取りたてられたことは、いふまでもない(次章參照)。これは武士階級を特殊のものとして、また世襲の制度によつて、維持しょうとする本旨に背いてゐるけれども、さうしなければ事務が處理してゆけないのだから、しかたがない。大名の財政を商人に委任するのも、武士にさういふ能力のあるものが無いことに主なる理由があらう。のみならず、事實に於いては金錢養子、株の賣買、によつて平民が多く武士階級に入つてゆき、また旗本などですら内實は商賣類似の行爲によつて利益を得てゐるものがあり、身分の低い家人は内職をする。また前に述べたやうな生活状態の自然の成りゆきとして、武士としての威嚴は薄れ平民から輕侮せられるやうになる。家人の株を買つたものが、その身分になつてみれば武士の生活がつまらぬもので借金ばかりふえることを悟つて、またそれを人に賣らうとするので、四代血統の續くのは稀だ、といふ話もある(大久保仁斎の富國強兵問答)。幕末の有能な官吏には株を買つて土人の列に入つたものの子孫が少なくないから、かうばかりはいはれないが、かういふものもあつたであらう。
 諸藩に於いても同樣で、武士を武士としておく精神でありながら事實上それが徹底的には行はれず、儒者などは概ね平民から登用せられる風習であつた。安藝の頼春水や杏坪、水戸の藤田幽谷、などはそのうちの有力なものであり、杏坪は郡宰となつて民政に當り、幽谷も單なる儒臣ではない。のみならず、惡い意味での成り上り武士も到る處に多(26)く、金を約めて武士になるものすらあつた。平民の血の武士に入るのも常のことである。さうして一方では平民でも或る社會的名聲を得ると、何時のまにか氏を名のり處士と稱して傲然としてゐるやうになる。なほ武士の子女などが過失またはその他の事情で一時または永久に町人となるものも少なくない、大坂のやうな四方から人の集まる場所では特にそれが多く、零落し放浪してゐる奮主家のものと昔その家に仕へたことのある町人などとの間に於ける種々の物語が、淨瑠璃や戯曲に幾多の材料を供給してゐる。以上は元禄時代以前の状態として既に前篇に述べたことと同様であるが、たゞこの時代になるとそれがます/\甚しくなつて來たらしい。が、さうしなければ幕府も諸藩もまた武士階級そのものも維持せられなかつたとすれば、或はまた自然にさういふ状態が馴致せられて來たとすれば、それは平和一統の世に於いては武士制度の精神がどうしても崩れて來なければならなかつたことを、示すものである.
 
 しかし他の側面としては、封建制にも武士制にもそれの保持せられる理由もあるので、それは主として大名及びその家士の心がまへである。甲子夜話(卷一九)に載せてある澁井大室の「世の手本」を讀むものは、諸大名にそれ/\の家風があつて、それが家士及び農民の取扱ひかたや幕府及び他家に對する態度などに於いて、一面では戰國武士の遺風を傳へてゐると共に、他面では平和時代の世情に適合するやうに潤色せられたところのあるものであり、愼重な用意のその間に覗はれることを感ずるであらう。勿論これは美風と考へられたことを擧げたものであつて、その裏面には種々の弊風のそれに伴つてゐることをも推測しなければならぬが、概観すると由緒のある諸藩に於いては、傳統的に武士間の秩序が保たれ禮儀が正しく、それと共に人あつかひに温情の籠つてゐることは、事實であつた。一藩だ(27)けの特殊の風尚を記したものではあるが、「葉隱」に見える鍋島家の君臣間の相互の情誼及びその民衆に對する態度も、かゝることの一例である。民衆の取扱ひについては、百姓あたりがよくなかつたため浪人を仰せつけられたものがあること、裁判の時には死罪にならぬやうに心得て陳述を聞けとか、罪人に申開をがあるやうに思へば細かに吟味し無いやうに思へばさして吟味をせず、何かの理由で罪を輕くせよとか、死罪に當つて遁れる道が無いものには一等を減ぜよとか、いふ藩主の心づかひのことが、それに記されてゐる。かういふ話は所々にあるので、鍋島家に限つたことではない。日本の如く權力あるものが權力を恣にして民衆を凌虐しない國は、世界に類が無い、權力者たる君主も法には從はねばならず恣意なことはできない、と日本風俗備考の著者がいつてゐるのは、將軍や大名についてのことらしいが、ほゞ當を得た觀察である。さうしてそれには、祖先の遺訓とか家風とか武士としての一般の風尚とかいふやうな、精神的權威のあるものが權力者の權力の上に大きな力をもつてゐるところに、重要な理由がある。多くの缺陷がありながら封建制も武士制も保持せられてゐるその根柢には、かういふことが少からぬはたらきをしてゐるものと解せられる。世を動かすものは制度だけではなくして人の力の與るところが多く、制度をどうはたらかせるかも、また制度そのもののもつ力のみではなくして、人にかゝはるところが多大である。制度が人を支配する一面があると共に、人が制度を動かす他の一面もあることを、知らねばならね。こゝに人の力といつたのは、個人的な力量などのみのことではなく、人と人との情的なつながり、それによつておのづから形づくられる多數人に共通な或る氣分、といふやうなものをも含むのである。いはゆる外樣大名に多いことではあるが、封建制の廢止せられた明治時代またはその後までも、昔その配下に屬してゐた民衆が、奮藩主の家に或るなつかしみを懷き、過去の事實となつた「舊藩」が(28)今なほ現實の存在ででもあるかの如く思つて、それに一種の誇りをさへもつてゐたのも、故なきことではない。これには權力を失つたものに對する追憶がそれを美化するといふ一種の心理、または封建時代の遺風と見なさるべきところのある地方的感情、などのはたらきもあらうが、それのみではあるまい。 徳川の世に於ける民衆がその領主たる大名に對する感想については、なほ次のやうなことも參考すべきであらう。藩主がそれと知らせずに或る農家に立ちよつた時、そこにあつた米をふみ越したので、殿さまにさし上げる米をふみ越すとは何ごとだと、その家の老婆がひどく尤めた、といふ話が「葉隱」に見えてゐるが、御年貢米を鄭重に取扱ふことは、一般に農民の心がけであつた。命令や強制によつてではなく、衷情からさうするのであつた。或はまた百姓はおのれらの領主を神さまのやうに思つてゐて老婆老夫は数珠をもつて拜むといはれ(司馬江漢の春波樓筆記)、領主が食事をした箸で物を食ふと瘧がおちると信じてゐるとも語られてゐる(海保青陵の稽古談)。これらは農民の愚直と迷信とをいつたものではあるが、彼等の心情にはかういふところもあり、さうしてそれは大名を一種の精神的優越者と思つてゐたことを示すものである。勿論、農民のすべてがさうであつたには限らず、これは多分僻陬の地の無智のもののことに過ぎなからうが、かういふものもあつたとすれば、そのものにとつては、大名は恐るべき權力を以ておのれらの上に強壓を加へるものではなかつたと考へられる。或は何ほどかの權力をもつてゐると共に何等かの靈威に似たものを具へてもゐるやうに思はれたのである。さうしてこのことから類推すると、將軍に至つては一層靈威のあるものとしてかういふ農民には信ぜられたであらう。農民がいはゆる天領の民であることを誇つてゐたのは、地位の高いものに屬することに一種の優越感を抱いてゐたところに一つの理由はあるが、このこととも幾らかの關係があ(29)らうか。一般の武士に對する民衆の感想はそれとは違ふであらうが、しかし武士の凰尚については、明治時代となつてからかなりの後までも、或る程度の尊敬の念をもつてゐるものが少なくなかつた。さうしてその風尚は、考へてみれば徳川の世に武士制が存在したために保持せられたのである。
 
 こゝまで考へて來たところで、少しわき道に入るやうでもあるが、一ついひ添へたいことがある.徳川幕府及びその治下にあつた諸藩の政治は極端な專制主義であつた如く一般に考へられてゐるやうであるが、さうしてこの考は概觀すれば事實にあてはまるものとして認められようが、このことに於いてもまたその專制主義が種々の方法によつておのづから緩和せられてゐたことを、知らねばならぬ。その一つは、前篇にも一言したことであるが、柳澤や田沼や水野の例によつても知られる如く、權力を振つた幕政の當局者が民望を失つた場合には、おのづからその地位を去らねばならなくなつたことであつて、專制政治形態の下に於いてかゝることの行はれたのは、世界にその類が無いのではなからうか。やゝ大げさないひかたをするならば、この意味に於いては、幕府にはおのづから一種の責任内閣制めいたものが成立してゐたといつてもよいのであり、その内閣が幾人かの年寄、即ち老中、の合議制であつたこと、並に老中の任免が必しも君主即ち將軍の意によつて決せられるものでなかつたこと、根本的には將軍の多くが専制的權力を揮はうとしなかつたことにも、それと相應ずるところがある.勿論、かう考へるのは一種の比擬でもあり一面のみのことでもあるが、かゝる風習は將軍にすべての政治の責任を負はせないことになるといふ意味に於いて、徳川氏の政權の長く存續したことに幾らかの寄與するところがあつたと考へられよう。幕府が政權を有ちながら政治に關し(30)て幕府の外にあるものの意見をきくことについては、後に外國との交渉事件を朝廷に報合したりそれについて諸侯の意見を徴したりするやうになることとも連繋があり、また合議制の由來は歴史的には室町幕府にあるといつてよ.いかも知れず、或はそれよりも戰國時代の諸大名もしくは都市や村落の間に於ける古くからの慣習に起源があるとすべきであらうが、ともかくも徳川幕府の政治にはかゝる一面もあつたのである。
 なほ民政に關しては、幕府の權力の定まつた後でも、京や江戸や長崎や堺などの直轄都市に於いては、市民生活に直接に關係のある市の事務は多くは、奉行の統制をうけてはゐながら、市民の自治が許されてゐるので、その局に當る年寄名主組頭などは、世襲の、または交代の制による、または何等かの方法で選擧せられた、市民であつて、それが數人ある場合には合議で事を行ひ、また寄合(全町民の合議)によつて事を決する習慣のあるところもある。農民の庄屋名主などは多くは世襲であるが、退役または死亡した際には全村民の選擧で後任を定める慣例になつてゐるところもあり(地方凡例録)、私領に於いても大名主を一般農民の投票によつて選擧させた領主もある(成嶋道筑の農譚拾穗)。領主及び地方によつてその制度慣習は區々であるが、村落の民治に當る庄屋の多くは、一面に於いて代官などに隷屬して村民に臨むと共に、他面に於いては官府に對する意味での村民の代表者でもあり、また農民生活の指導者でもある。なほ村民の共同の生活を營むための寄合(村民會議)の制度のあるところもあつた。だから、或る程度の自治が行はれてゐることと、村民の意向によつて庄屋などが定められると共に衆議の機關のあることとの、二つの意味に於いて、民政もまた必しも専制的なものではなかつた*。勿論、農村にあつては、後にいふやうに大名やそれに屬する奉行や代官や庄屋年寄などの人物の如何によつては、民衆はそれらから甚しき抑壓をうけてゐたのであるが、制(31)度としてはかういふ一面のあつたことをも忘れてはならぬ。さうして直轄地に於いても私領に於いても民衆のために努力し彼等をして自治の能力を發揮せしめた代官があり、村民をよく指導愛護した庄屋年寄のあつたこともまた事實である。(農譚拾穗、勸農固本録、民間省要、世事見聞録、など)。特殊の事例をいふと、酒匂川二萬石の幕府の代官で、俸禄を割き麥を買つて管内の農民に附與し、それを基本にして農民自身に協同して麥を貯へさせ、その運営を彼等に任せて、平時には薄利で貧農に貸すと共に、災害の際の備へにもした、といふ話があり、また勢州邊の諸侯の老吏が社倉也いた方法を工夫して、農民の生活の安定を計つた、といふことも傳へられてゐるし(農譚拾遺)、安藝の頼杏坪が地方官であつた時に、生計の苦しい村落に柿を栽ゑてその助けにさせたといふこともある(「行看貧民助生計、十村栽柿二千餘、」春草堂詩鈔)。この類のことは所々にあつたに違ひない。これらは必しも幕府時代の政治の大本にかゝはることでもなく、またその特殊の性格を示すほどのものでもないけれども、一般民衆の生活に直接の關係のあることなので、民衆の幕府及び大名に對する感情なり態度なりはそれに起因するところがある。上に述べた如く國民が徳川氏またはそれ/\の藩主に對してさしたる反感をもつやうにならなかつたのは、こゝにも一原因があらう。
 或はまた戰國時代の制度慣習を保持しょうとする封建割據と武士本位との思想の傍に、それとは違つた精神による幕府及び諸藩の施設のあることをも、こゝに附記しておかう。その一つは、主として儒教の文治主義、教化政治思想、による學問の奬勵、從つて學校の設立、であつて、享保寛政の改革に於いてそれが重要視せられ、諸藩でも學校の設立がそのころから多くなつた。學問は戰國武士の間にも重んぜられてゐたが、それは武士の個人的の修養としてであり、江戸時代となつてもその意味で繼承せられて來たのに、このころからは、むしろ政治的意義を含んだ徳教の興隆(32)のためとせられたので、平和時代の政府の施設たる所以がそこにあつた。かゝる性質の學問の奬勵にどれだけの效果があつたか、といふことについては後に考へる場合があらう。次には農村に對する社會政策を行はうとしたことである。幕府は早くから農民の耕地の賣買及び配分を禁止または制限する法令を發してゐたが、それは或は却つて弊害を生じ或は實行せられなかつた。けれども土地の兼併が種々の方法で行はれ、農民の間に貧富の差が次第に甚しくなつて來た享保以後に於いては、何等かの方法で土地所有の平均化を計らうといふ意圖が二三の藩國に生じ、またそれが實際に企畫せられた。その效果は一樣でなく、肥後の細川家で行つた方法は農民に好感を與へたと傳へられてゐるが(肥後物語)、伊勢の藤堂家の所置は、政令の誤解やためにするものの煽動などもあつて、却つてその反抗を招いたといふ。最後に行つたのは肥前の鍋島家であるが、これにも幾らかの缺陷は伴つてゐた*(小野武夫氏)。しかしともかくもかゝることを企てたのは、社倉もしくはそれに類する施設をしたところがあることと共に、農民生活の不安を除かうとしたのが少くともその一理由であつて、平和の世の民政の新しい用意がそこにある。或はまた細川家の官制改革の如きも、戰國的軍政主義を一變したものである。極めて少數の藩國に於いてのことではあるが、かういふ施設の行はれたことは注意せられねばならぬ。
 
 制度の上からなほ考ふべきことは鎖國制であるが、これもまた前篇に述べた如く、シナ人オランダ人との交通貿易が微かながらに國民をして外國の状態を覗ひ知らしめ、或は知識欲から或は趣味の上からまた或は商利の欲求から、外人と接觸することを希望せしめ、特にオランダに關しては、蘭學の興隆となり、科學的知識の輸入となり、西洋の(33)事惰の研究ともなり、徐々でもあり微力でもありながら、國民の胸臆に新思想を植ゑつけることになつたので、その間からは鎖國制度の破棄を主張するものも現はれ、終には、よし少數人士の間に過ぎなかつたとはいへ、ヤソ教に對して或る程度の理解をすることもできるやうになつた。もつとも後章に述べるやうに、書物によつて新しく當時の人の知識に入つて來たヤソ教と鎖國政策の根本動機となつた昔のキリシタンとの異同は、明かには知られてゐなかつたらしく見える。なほ商賈の徒が貿易の擴張を欲したことは、拔荷の頻繁に行はれたのでも知られよう。これらはおのづから國民自身が鎖國制の精神に背いた行動をしてゐることになるので、後から考へると、他日その鎖國制を破壊するやうになる一つの因由がそれによつて少しづゝ作られてゆくのである。(對外思想については後文に詳説しよう。)守舊主義の幕府は依然として態度を改めず、時々オランダ風のものを禁じたり蘭書の流布を抑制したりして新知識の弘まることを防ぎ、現實の問題としても、漂流民を送還してくれた外國人に對し、以後必しも送還するには及ばずといふやうな、今日から見れば驚くべく非人道的な、また非國民的な、囘答をしたり(ロシヤの使節ラクスマンに對する告示)、送還せられたものを殆ど禁錮せんばかりに取扱ひ、異國の物語をするなといふやうな箝口令を下すなど、どこまでも外國に對して恐怖心と猜疑心とを抱いてはゐたが、それでもこれらの漂流者を死刑に虚するやうなことはせず、ラクスマンの一行に對しても頗る寛容な襟懷を示すに至つた。レサノフの來た時には却つてその待遇に宜きを失ひ、西洋の事情を幾らか知つてゐる杉由玄白から「御取扱の不行屆」(野叟獨語)と評せられたほどな態度に歸つたが、一方では蝦夷經略の任に當つてゐた有司がロシヤ貿易開始の提議をするやうになつたことから見ても、對外政策に動揺の生じて來たことが知られる。これらは外部からの刺戟により海外の形勢に誘致せられたことではあるが、何(34)れにしても鎖國制度を維持することの困難は徐々に考へられて來たやうである.
 次は幕府の朝廷に對する制度上の關係である。これは國民の日常生活には直接の交渉の無いことであるが、いはゆる尊王論が種々の形に於いて漸次盛になつて來るので、それが幕府政治に對する國民の思想にいろ/\の意味で絡まるやうになつた。もつとも當時に於いては、明治時代以後になつて誇張的に考へられたほどに、それが幕府政治の根本を動揺させたのではなく、文字の上から得た知識や一種の感情から來た一二奇矯の士の所説を除けば、當時の尊王論は、概していふと、幕府政治と調和するものとして考へられてゐたのである。だから幕府でもこの趨向に順應するやうな態度を取ることができたので、寛政の皇居造營などにもそれが現はれてゐる。尊王論は現實の政治の問題であるよりも、むしろ儀禮の上、經費の上、もしくは趣味の上、のことである。しかし嘉永以後、幕府が内外の混亂した事局を收拾しかねるやうになると、そこで初めて現實の政治問題と結びつき、強烈な勢を以て幕府政治をゆり動かすやうになるので、これもまた葛府政治の根本に存在する一種の矛盾の現はれである。だからそれは、冥々の間に思想の上から幕府政治を腐蝕する一作用としてはたらいてゐるものではあるけれども、封建制や武士制やまたは鎖國制やがそれ自身に於いて國民生活の進展と矛盾してゐるのとは、大に性質が違ふ。(尊王思想そのものの考説は後章に於いてする。)
 けれども制度そのものは、少くともその形態が、嚴として存在する。封建制や武士制が内部に於いて、或はその精神に於いて、崩壞に向つてゐた、と上にいつたのは、現實にその形態の崩壞し去つた後からの囘想であり、今日から當時の情勢を客観的事實として觀察したものであつて、當時に於いては何人もその崩壞を豫想せず、從つてまたかゝ(35)る觀察をもしなかつた。制度は現實の存在であるのみならず、思想の上でも永久に存續するもののやうに考へられてゐたのである。その理由については上に既に考へておいたが、如何なる制度も制度としてそれが固められた上は、制度そのものにそれを保持する力がおのづから具はる、といふ一面もあり、特にそれが長い年月の間繼續して來た場合には、それが人爲のものでなく自然に成立してゐる存在として、本來動かすべからざるものの如く國民に感ぜられる、といふ事情もある。然らばかゝる制度の下に於ける國民の生活はどんな状態であつたか。
 
(36)     第二章 丈化の大勢 中
 
       國民生活と文化
 
 まづ武士から観察しよう。第一に考ふべきことはその生活状態であつて、江戸在住の武士、特に旗本や家人に貧乏のものが少なくないこと、さういふものはそれがために種々の不徳な、陋劣な、或は悪辣な、行爲をするといふことは、既に前に述べたが、それは寶暦年聞に書かれた世間お旗本氣質のやうなものにも見えてゐる。家來に給料を支拂はぬぐらゐはよき方であつて、甚しきは、御番に出る時に衣服佩刀を質から出し歸ればすぐに質に入れる(世間見聞録)、出張を命ぜられて旅費がないため娘を茶屋奉公に出す(半日閑話)、數千石取りの旗本で乞食のやうな生活をしてゐるものさへある(富國強兵問答)。だから知行所を書入れて高利の金を借りたり、または支配所の百姓から借金をしたり、獻金を強制したり、或はいはゆる仕送り用人を抱へて家政を百姓町人に任せたりする。更に一歩を進めると、不正な商賣を秘密にするもの、賭博をするもの、御家人といはれる分際では妻女を密娼にするものもある(甲子夜話續編)。甚しきは脅迫詐僞強盗追剥をするものさへある(栗山上封など)。さういふことのために罰せられる場合も珍らしくないが、概言すると、幕府も百姓町人に對しては武士を曲庇することが多かつた。懇意の間がらですら「町人の武士つき合ひは、憎い奴とて斬り倒されずば、甘い奴とて借り倒される、」ともいはれてゐた(一話一言に見える平秩東作の言)。後のことではあるが、嘉永年間に上訴をした名主官藏が武士を罵つて、「上げても下げても金まうけのしごと」といひ「その腹の穢らはしきこと目もあてられぬ次第、これをや人面獣心とも可申、」といつたのも、この故(37)である。官藏の言は何か激するところがあつて發したものらしく、よしさういふ武士が彼の接觸したもののうちにあつたとしても、廣い世間から見れば、かゝる武士がそれほど多くあつたのではないに違ひない。如何なる世の中でも幾らかの不良分子が混在するのは免れ難いことである上に、さういふものが特に世間の注目をひいて時人の話頭にも上り後世にも傳はるのであるから、かゝるもののあることによつて直參武士階級のすべてがさうであつたと考ふべきではない。むしろ數の上からいふと、貧に處しながら何とかしてその日その日を送つたものが多く、また儉素な生活を營むこLによつてさまでの貧困に陷らぬものも少なくなかつたであらう。かう考へなくては直參武士が概して士人としての品位と體面とを保つてゐたこと、また職務の上またはその他の點に於いて世に傳へられてゐるやうな業績を後に遺したもののあることが解せられぬ。乞食のやうな生活をしながら武具と出陣の際の費用としての金子とは立派に用意をしてゐたものがあつた、といふ話があるが(甲子夜話)、それがもし事實を傳へたものならば、旗下の士の風尚の一面を知るに足るものである。けれどもその一部のものが上記の如き状態であり、さうしてその一つの由來が武士といふものの存在をのことにあるとすれば、江戸の如き都會に生活する武士には、人によつてかうなることの可能性もあつた、といつて大過はあるまい。
 だからよし罪惡を犯さないまでも、その道徳觀念の一般に底かつたことは事實であり、賄賂やいはゆる役徳をとるが如きは、何ほどかの地位にゐるものには普通のことであつて、「役人の子はにぎ/\をよくおぼえ」(柳樽初篇)、それが大した不徳とも考へられなかつたのである。幕府がしば/\公然たる訓令を以て要路の有司に對する音物の贈遺や紹待饗宴を諸大名に要請してゐるのは、今人の眼には如何にも奇怪に映ずるが、これは必しも賄賂の如き意味をも(38)つたものではなく、むしろ一種の禮儀と見なされたことではあるものの、また容易に賄賂に轉じ得るものでもある。或はまた、戰國大名が徳川氏に服從したのも、自己の功名心や自尊心を賄賂にして領土と地位との安全を購ひ得たものと、いはばいはれるのと同じほどのことである。しかし後になつて多くの役人に賄賂の公行したのは、これらとは違つて、一つは武士生活の困難からも來てゐる。なほ消極的のむりな儉約で家政を維持するものがあつても、それは、ともすれば人心を卑吝にし根性をきたなくし氣風をいぢけさせる。大名の儉約の結果、家臣がひがみ根性を起し心の持ちかたが賤しくなつた、といふ雲萍雜誌の批評は、一面觀ではあるものの、或る程度に眞實性が含まれてゐよう。質素の生活は固より賞讃すべきものである。けれども、爲すべき事業があり、何事をかしようといふ内からの強い衝動があつて、それがために物質生活の外に心を向け得るものは別として、それの無いものが少なくない武士に對して儉約を強制しようとすれば、かうなるのは自然の傾向でもある。
 事實、當時の制度に於いては、武士は一定の身分があつて閑散な勤務の外には何をすることも許されず、長い間さういふ生活にならされて來たため、どの方面に於いても事業欲が起らない。極言すれば、彼等はたゞ食ふために生きてゐるといつてもよいほどである。これが武士生活に於いて第二の注目すべき點であつて、その根本は武を用ゐることの無い、またあらゆる手段によつてそれが防遏せられてゐる、時代に於いて、彼等が武士とせられてゐるところにある。かういふやうに人としての自由の活動のできない武士が愉安姑息に流れ、或は物質的利益や官能的快樂を貪らうとするのは、自然の傾向であつて、前篇にも所々に述べておいた如きそれから生ずる種々の弊害は、時の經つと共に一層甚しくなる。上級の武士や大名などに我がまゝで癇癪もちのもののあるのも、何かしようとしてもすることが(39)無いところから起るいら/\しさが一つの理由ではなかつたらうか。上流社會の通弊ながら、彼等にもともすれば生ずる家庭の紊亂もこゝにおもな由來がある。武士が武士らしくなくなりその氣風が一般に懦弱になつたといはれ、その本職とせられてゐる武藝や兵學の修業がやゝもすると形式的のものとなり、「弟子の器量のあるなしにかまはず、弓矢打物の大事さへ金次第で傳授する、」(壇浦兜軍記)といはれたのも、畢竟かういふ生活から來てゐるとも考へられるので、小金原の鹿狩の時、戰場に出陣する如き心得で離別の盃を酌みかはしたとか(野叟濁語)、島津重豪の豪語をきいて越侯がふるへ上がつたとか(甲子夜話)、いふやうな話の傳へられてゐるのも、冷静に觀察すればさして怪しむべきことではない。一般の風俗として敵打などが少くなつたといふのも(甲子夜話)、殺伐な氣風の減退した點に於いて武士氣質の薄れて來たことを示すと共に、太平の世の現象としては當然のことでもある。勿論、武士といふものがある間は全く殺伐の氣がなくなるはずは無く、或は何かの爭ひから或は故なくして、刀に血をぬらうとすることも有りがちであるが、それはむしろ武士階級の不良分子に多いのであつて、善良な方面に於いては一般に氣風が温和になつて來たことは明かである。五十年前には武士の人を斬ることが多かつたが近年はそれが止んだ、と享保のころの田中丘隅は書いてゐる(民間省要)。しかし武士として失つたところがあるのに人としてそれに代るべきものが確立しないとすれば、彼等にはおのづから墮落する傾向がある。事實、貧窮の一原因である逸樂奢侈もまた、半ばはこゝに半ばは世襲的階級制度に由來する。
 さてその階級制度が第三に考ふべきことであるが、事功により實力によつて立身を望むことができず、地位の固定してゐる社會、特に事業らしい事業の無い世の中、に於いては、少しでも儕輩をぬかうとするものはたゞ地位を高め(40)る外は無く、さうしてそれには權門に對する阿諛請託によるのが便である。田沼などの權勢を振ふを得たのは一つはこれがためであるが、この状態は何時でも同じであつて、手腕あり實力あり他の方面に於いては謹嚴な士人も、この點ではやはり賄賂を用ゐるのが常であり、大名とてもまた同樣であつた。渡邊華山の全樂堂日録によつてもこの間の消息が除はれる。權家の門に伺候者が群集するのもそれを示すものであるが、その權家の權力の盛衰や地位の異動によつて伺候者の向背が忽然として變ずる有樣は、平安朝の昔と同じであつた。上官に對する迫從輕薄が一般の風をなしてゐたのも同じ理由から來てゐるので、「世の中は諸事御もつとも有難い御前御機嫌さて恐入」(後見草所載)は、必しも「奸臣」田沼のはゞをきかした天明時代ばかりのことではない。「明君」吉宗の上にゐた享保の世に、地位を失つた白石に對して語をかけるものが無かつたといひ、「賢相」定信が政を執つた寛政の世の學問吟味に、岡田寒泉の親戚であるがため無能ながらも及第したものがあるといはれ、定信の前で自己の意見を主張するものが無かつたとも傳へられてゐる(有徳院實記附録、蜑の焼藻、甲子夜話)。これもみなかゝる役人氣質の現はれである。のみならず、前にも述べた紀の國風の流行も、「遙知聖堂上、子曰日夜通、懷入不讀本、手携無射弓、」(銅版先生の太平遺響)と嘲られ、「時世につれねばならぬ身の上なれば……みせかけばかり」(通氣粹語傳)に武ばつた行裝をすると皮肉られた、文武修業の表面的流行も、または寛政二年に甘露がふつたといふので儒者が賀表を上つたのも、畢竟は權力者に對する何諛迎合に外ならぬ。道徳的説法の聲高く演ぜられた享保寛政の世にかゝる現象のあるのは、さういふ道徳的説法の如何に無意味であり、權力者が獨りぎめの道徳的信條を世に強制しようとしてもその效果の如何に少いかを、證するものであるが、さういふ權力者の下に立つて生きてゆくには、かういふ卑屈な態度をとり或は道徳的説法そのこと(41)を阿諛の手段とするのが便利であつたことは、明かである。だから、田沼に愛せられた畫家であるといふ理由から狩野榮川の作が世に珍重せられたことなどは、怪しむに足りなからう.江戸時代の武士には、これほどまでに自己をすてまたは自己を欺き、外見ばかりの不まじめな生活をしなければならない、といふ一面の事情があつた。實をいふと、彼等が武士とせられ、またみづからもさう思はねばならなかつたことが、かゝる生活の最も大にして且つ最も根本的なものであり、すべての弊害がこゝから起るのである。
 かういふ状態は江戸に於いて最も甚しかつたが、幾分か程度の差があり、また地方によつていろ/\の變りはあるものの、概觀すれば田舍武士についてもほゞ同じことがいはれよう。同じ制度同じ社會組織の下にあるのであるから、一般の傾向が違ふはずは無い。のみならず世間が狭いだけに、それから生ずる弊害などは却つて諸藩に多い、といふ一面の事情もある。家老などが權を恣にして無道な處置をするとか(甲子夜話)、水戸などの例の如く家臣の黨派爭ひが起るとか、いふことは即ちそれであつて、仙石家の紛擾のやうないはゆる御家騷動もまたそこから生ずる。なほ個人についていふと、いはゆる「武左」が肉慾の追求者として小説などに寫されてゐることをも考へるがよい。さうしてその根本はやはり前に述べたやうな武士生活の状態にある。都會に縁遠い田舍武士がその都會の文化に接觸しない間は比較的武骨である、といふことは認めねばならぬが、それは必しも思想が健實であるとか、精神が緊張してゐるとか、いふことを意味するには限らぬ。
 けれども既に考へた如く、武士のすべてがこゝにいつたやうなものばかりではない。彼等の階級に屬するものは、一般にはむしろ武士たることの誇りとそれに伴ふ自制とをもつてゐるのが常である。その誇りも自制も、多くは前篇(42)に述べたやうな外聞と世間體とによつて支持せられてゐるのであつて、そこに缺點もあるけれども、社會的風尚の力が多數人を支配するのは、如何なる社會にも普通な状態であるのみならず、本來社會的意義をもつてゐる道徳は、社會的通念によつて成りたつものであることをも、考ふべきである。平民から身を起して武士になつたものがいつのまにか武士の氣風を帶びて來るのも、これがためである。從つて純粹の倫理眠からは賞讃しかねることも、社會的の紀綱を齊へるためには寛假しなくてはならぬことがある。のみならず、世間體を重んずるのは、人は孤立して生活することができないからであるので、そこに一種の社會感情の現はれがあり、道徳の社會的意義に對する認識がある、といつてもよからう。たゞ武士に於いては、それが主として一藩一家中の狹い範圍内のことであるところに一つの缺點もあり、純なる人間精神と一致しない場合のある虞れもあることは、考へられねばならぬ。なほ社會的通念といふことについて見ると、社會組織が變り生活状態が變れば社會的通念も變るが、その變つた生活状態社會組織がまた變つた社會的通念を作り出し、さうしてそれには從來のとは變つた缺點が伴ひ變つた弊害が新に生ずることを、知らねばならぬ。社會的通念を無視する特立特行の土は、それが確乎たる道念の上に立つてゐるものである限り、個人としては尊敬せらるべきであるが、その行動が社會的に如何なる效果を生ずるかは、それとは別の問題である。さういふものが社會的通念、從つてまた間接に社會組織そのもの、の變革を導き出すために何等かの力となる場合のあることも、考へ得られようが、かゝる變革にはそれを誘起する多くの事情が無くてはならぬから、單なる個人的の行動にはさしたる效果を期しがたく、多くの場合には徒らに一種の自己滿足に終る。なほこゝに社會的通念といつたのは、長い歴史によつて形成せられ一般社會がそれを支持してゐるもののことであつて、江戸時代の武士の風尚はその好例である。(43)一時的の流行思想などをいふのではない。さてその風尚の大なるものとして、主君の恥、お家の恥、にならず祖先の名、家の名、を辱めぬことの重んぜられてゐるのは、それが自己の利害に關せざるものであり嚴肅なる道念である點に於いて、特に賞讃に値する。これは武士の社會組織から生れたものであると共に、その社會組織を維持するはたらきをするものであり、この點に於いて單なる對人的道念ではなく、間接にではあるが社會的意義をもつものである。人によつてはその道念の眠つてゐる場合があり、太平の世に於いて都會の生活に慣れてゐるものにはそれが少くはなく、これまで述べて來たやうな武士の氣風の廢頽もこゝに原因があるが、しかし何等かの事ある時にはそれが覺醒して強い力を現はすので、幕末の状態が即ちそれであり、時勢の刺戟をうけ新しい形をとつてそれが活動するのである。武士の傳統的精神は武士の社會がある限り決して無くなりはしない。
 これは武士の道念についていつたのであるが、彼等の知識技能といふやうな方面に於いても、またほゞ同じことが考へられる。前篇で考へた如く、また後にもいふやうに、戰國時代以來の因襲として武士の多くは一應の文事の教養をもつてゐて、和歌や俳諧を學び幾らかは古典にも親しみをもつてゐるものが少なくないし、また或る程度に漢文を解するだけの知識を具へてゐるものもあつて、諸藩に學校が設けられるやうになつてから後は、なほさらそれが多くなつた。將軍はいふまでもなく大名とてもかなりに儒學の知識をもつてゐて、實效の有無は別問題ながら、仁慈を以て民に臨むことが君主たるものの道徳的責任であることを知つてゐた。また蘭學の世に行はれるやうになつてからは、島津重豪、朽木昌綱、*または紀州侯、などの如く、よし物好きの程度であるにせよ、ヨウロッパ傳來の新しい學問の知識を得ることに心を傾けた大名も幾人かある。能力あり達識才能あるものは武士でも下級のものであつて、大名を(44)も含めての上級のものには學識も才能も無いものが多い、といふやうな觀察は、必しも當つてゐない。大名に於いて、松平定信、本多忠籌、または松浦清稱、の如き自己の著作があるもの、細川重賢とか上杉治憲とか眞田幸弘とかいふやうな藩政の改革を行つたもの、などのあることは、高級武士の教養の如何なるものであるかを示すことにもならう。よき傳統がありよき師傅がある家に於いては、幼時よりかゝる學問的教養を積むことのできるのが、當時の大名の生活であつた。
 知識技能ばかりではない。藩主として家臣の首長としての彼等の心事行動に至つては、或は祖先から守られて來た特殊の家風により或は一般の凰尚によつて、嚴格なる訓練をうけるのが常であつて、よき素質のあるものは、一種の明識も才幹も情操もまたおのづからなる品位も、それによつて育成せられたのである。シイボルトが島津重豪を、禮儀正しいと共に靜淑であり威嚴があると共に親しみがあり、またその人となりが理性的である、といつて激賞してゐることも、參考せられよう。大名がかういふ状態であつたとすれば、上級の家臣にもそれが無かつたとはいはれぬ。固より大名にも上級武士にも彼等の地位に伴ふ缺點はあつたであらうし、家により人によつては教養の乏しいものもあつたに違ひないが、それは如何なる時代の如何なる社會にも如何なる地位のものにも免れがたいことである。こゝではたゞこの時代の武士の生活に多くの缺陷があり弊害があつたにかゝはらず、それによき一面もあり、むしろその面が多かつた、といふことを、いはうとしたのである。さうしてそれによつて、戰國武士の遺風を傳へながら平和の世に處する道がおのづからその間に開かれてもゐることが、看取せられるであらう。もつとも武士の心がけは、藩國にあつては直接には、主君と家臣との間がらのこともしくは他の藩國に對することであり、要するに武士社會の内部の(45)ことについてであつて、民衆に對することではなく、武士の風尚といふのもそれであるから、こゝにいつたことも政治的には大きな意味の無い場合が多いが、これは封建制度武士制度の形成せられた歴史的由來、從つてまた制度の性質、の致すところである。大名とても、政治的には民衆に對する治者であるが、直接には家臣の首長たるところに武士としての本務がある。その家臣のうちには主家のために民政に參與するものもあるが、それとても武士としての本務は主君に對する臣下としてのはたらきをするところにあり、民政に意を注ぐにしてもそれは主君のためにするのである。平和の世となつても武士の教養の根本はこゝにあるので、それが戰國傳來の武士の風尚であると共に、政治が武人政治軍政主義である所以である。勿論、大名の地位にあるものがその心情に於いては民の休戚を念としないのではないが、特殊の明識あるものの外は、民衆、特に農民、の生活については、臣下に壅遏せちれてその實状に通ぜないものが少くはなかつたらしく、この心情も現實の政治の上にそのはたらきを及ぼさない場合があつた、と推せられる。勿論、松平定信にしても細川重賢にしてもまたは上杉治憲にしても、幕政や藩治の改革を行つたほどのものは、民政について深く思ひを致したことは、いふまでもない。將軍吉宗とても同樣であるが、家齊の如きもその明智はこのことにもまたはたらいたはずである(匏庵遺稿)。
 しかし既に述べた如く、制度と権力とに羈束せられて不まじめな生活をしてゐる武士のあることも、また事實である。ところがかういふ武士とても、生きた人である限り、何等かの方面に於いて暫しなりとも拘束の無い境地に身を置くことを欲するのは、自然の勢である。彼等が自己の階級を離れた、もしくは階級を保持することのできない、遊樂の天地に身を投ずるのも、一つはこの故である。彼等が劇場に出入したり音曲を學んだり狂歌を作つたりするのは、(46)藝術の愛好といふ單純な動機からばかりではない。特に旗本や家人には、かういふ物好きに於いて町人や職人と殆ど區別のないものがある。それが一歩進むと、十八大通といふものの一群に立派な旗本の身分のもののあるやうなことになる。幕末の歌澤節の形成も旗本の隱居が中心人物であつた。次には生活以外の生活にはかなき安慰を得ようとして、酒色の間にそれを求めることである。本來官能的快樂の追求に向ふべき素質を有つてゐる武士は、この意味に於いても、いはゆる逸樂驕奢に趨り易い。また或は自己よりも強いものから受ける壓迫を自己よりも弱い地位にあるものに轉嫁して、せめてもの心やりとする。ところが逸樂驕奢には金が要り、金を取る最も手近いところは農民であるが、最も弱い地位にゐるものもまた農民である。是に於いてか武士はその壓力を農民の上に加へるのである。
 
 農民といつてもそれには貧富の幾多の等差があり、また領主や土地の如何によつて生活の状態にも農村の構成にも種々の變異のあることは、いふまでもない。富農の由來もまた一樣ではなく、戰國時代または徳川の世の初期に於いて舊くからの郷士として地主であつたもの、または新に浪人となつた武士が、未開墾地を占有すると共に部下のものを率ゐまた多數の農民を招致してそれを開墾させ、かくしておのづから形成せられた農村に大地主として臨むやうになつたもの、などもあるが、近いころに生計の困難になつた農民の土地を種々の名義で兼併した比較的小規模なものもある。概觀すると農民の興廢盛衰は町人の如く急激ではなく、基礎の堅固な大地主には數代もしくは十餘代もその家の繼續するものがあるが、さほどでないものでは、奢侈遊惰のために一二代もしくは二三代で没落するものもあり、その反對に勤勉であつた貧農が次第に産を蓄へ家を起したものもある(百姓嚢、民間省要、など)。「昨日や今日まで(47)水しの女、今はニケ所の倉の主、」といふやうな俚謠のあるのも、或はそれを示すものかも知れぬ。負擔の過重なために一般農民の生計は概して貧窮であるが、勤勉なものには分に應じてその報いがあるともいはれてゐる。或はまた、農民の多數は善良であり、特に富民はその身分と地位とを思ふためにおのづから正直であるが、小前百姓には偏僻なもの片いぢなものがあり、また村のうちには少數のよからぬものもあつてそれが種々の紛爭を起す、といふ觀察もある(民間省要)。これは享保のころのことであり、また多分主として幕府の直轄領のことをいつたのであらうと推測せられるが、武家の貧窮が次第に甚しくなるにつれて、農民への誅求が強められて來ると、徴税者は少しでも多く出させようとし農民は少しでも少く出さうとして、官吏と農民とは互に疑ひ互に信ぜず、それがために農民が取扱ひにくくなつて來た、といはれるやうにもなる(中井竹山の社倉私議、萬尾時春の勸農固本録、著者不明の昇平夜話、など)。もつとも上にいつた松代の改革の如きは、官民相信ずることによつてそれが成就しそれによつて農民も窮乏と痛苦とを免れたのであるが、これは爲政者が誠實であつたからであるので、民が爲政者を信ずるのは爲政者がまづ民を信ずることによつて導かれるのである。一般にはかういふ状態であるが、徐々にではあるけれども農具や耕種の方法の改良も行はれ、農民の生活程度も高まつて來たところがある、ともいはれてゐる(太田錦城の茗會文談)。農民のすべてが窮迫の極に陷つてゐたのではない。前篇にも述べた如く、如何なる地方の村落にも、鎭守の神の祭祀が定期に行はれて、その場合には、地方的の特色があり古くから傳承せられて來た種々の民間演藝も奏せられ、また正月の行事とか盆踊とかの類が村落民共同の娯樂となり、さういふことによつて農民の生活氣分がゆるやかになることも、注意せられねばならぬ。祭禮の餘興としての笛や太鼓の陽氣な響き、田植ゑ歌取入れ歌臼ひき歌などの朗らかな旋律、(48)が農民のかゝる生活氣分を示してゐる。農業そのことについても、種まき田うゑ刈とりなどのそれ/\の場合に古風に從つて家々村々で行はれる簡素な神事が、農民に精神的た安慰と一種の希望とをもたせることをも、看過してはなるまい。或はまた蕪村の春風馬堤曲に現はれてゐるやうな農村の風光、「東風漸近浴蠶時、牆外柔桑緑拔枝、看他村婦歸寧路、茜裾紅映野※[酉+余]※[酉+靡]、」(田能村竹田)の如き情景をも、想見すべきであらう。
 けれども概觀して農民に貧困なものが少なくないこと、商人などに比べると一般に生活程度の低いことは事實である。それはもとより法定上の貢租が苛重であるからではあるが、そればかりではない。收税吏もしくは農民に接觸する地位にある武士、特に旗本などの小領主の種々の追求が、農民に幾多の痛苦を餘へたのである。一種の徴税請負者ともいふべき代官に不正が多く、その下僚たる手代などに横暴專恣惡辣の行があり、相率ゐて農民を凌虐したのである(民間省要)。「閭巷人奔走、言吏檢田來、連日院正宅、珍羞滿厨堆、」(菅茶山)、或は「爲遅檢田吏、孟冬未收穫、汚邪幾千頃、空自飽鳥雀、」(同上)、これらは普通の話であつて、もつと甚しい事實がある。江戸繁昌記の著者から地獄に投ぜられて百姓に手痛き復讐をせられるやうなものも、少なくなかつたであらう(繁昌記後篇)。幕府に於いても代官などを罰した例が少なくないが、それは數多き不正事件の一小部分に過ぎなかつたらう。
 勿論、租税のために農民の苦しむことは當事者の私曲からばかりではない。直轄地では享保以後聚斂の令がしばしば下り、それが權力に阿附する下級官吏の耳に強くひゞいたといふ事情もあり、さうしてそれは概していふと多くの小領主及び收税吏の心理であるので、「武家方は百姓は油に等しく絞れば絞るほど出ると申候由」(名主官藏の上訴)といふ怨言の出るほどであつた。(享保の神尾若狭寺は百姓と種油とは絞るだけ出るといつた、といふ話が傳はつて(49)ねたが、しかしそれに確かな出所があるかどうかは知らぬ。)さうして、かういふ小領主や收税吏の状態は、彼等と農民との中間に立つ名主庄屋などの請託私曲を誘ひ勝ちであり、それが更に配下の農民に對する壓迫となつて現はれるので、「庄屋の内儀のもみうら小袖地下の百姓の血の涙」といはれ「庄屋どのには及びもないがせめてなりたや殿さまに」と歌はれたところさへあるといふ。代官でも名主庄屋でも配下の農民の保護誘掖に意を用ゐたものも少なくなかつたが、さういふもののみではなかつたのである。また富農のうちには獻金によつて苗字帶刀を許され一種の格式を與へられて、ともすれば小前百姓を凌虐するものがあつた。だから農民の生活の悲慘なところも所々にあり、地方凡例録に見える農家の收支計算が支出超過になつてゐるのでも、それが知られる。「笠やたんびはどもこもせうに二斗の年貢が不足かな」、年貢の未進のために娘を遊女に賣るといふ話が、淨瑠璃などに多く見えてゐるのも、事實の反映であらう。「東村老翁誤租期、雪天下獄斃鞭※[竹/垂]」(茶山)といふやうなこともある。貢租は米に對してばかりではなく、「本自農家無暇日、又聞村吏索橦征、」(同上)ともいはれてゐる。普通の場合でもさうであるから、天災地變の時などに於いてはなほさらである。農村の戸數が漸次減少し耕地の次第に荒廢してゆくところが所々にあるのも、無理ではない。「邨似廢人痿不起、民如墜葉散難留、」(秋晩巡北邑親杏坪)。この状況は領主や地方によつて差異があるが、概していふと幕府直轄領または旗本領に於いて甚しく、また地方的にいふと奥羽方面が最もひどかつたらしく、※[草がんむり/(さんずい+莅)]戸大華をして「郷村の疲れ心外の至り驚き入り存候、」といはせるほどであつた。蒲生君平もそれをいひ(今書)、かの官藏の上訴にもこのことは痛論せられてゐる。嬰児壓殺の風の行はれたのも畢竟生計の困難から來てゐよう。これが絞られたあとの「紋りかす」にも此すべき農民の状態として、地方によつては見られるところである。農村の荒(50)廢は農民の遊惰奢侈によることも少なくなかつたが、彼等がさうなつたことには、無智無氣力であつたのと農村の疲弊のために自暴自棄に陷つたのとから、來てゐる場合もあつたであらう。二宮尊徳の事業などからもこのことは考へられる。農民ばかりではない。漁民の如きは「雖有漁税薄於紙、不知田野有苛政、」(記漁翁言頼春水〕、といはれてもゐるが、また場所によつては「吾儂生計薄如統、一年漁利半輪官、」(淺浦詞菊池溪琴)、といふやうな場合があつたでもあらうか。
 いはゆる百姓一揆の起るのも、農民の生活の痛苦が主因であることは、いふまでもない。一揆を誘發した事情はいろいろであつて、必しも貢租の苛重ばかりがその直接の原因ではなく、またそれには、或は地理的位置により或は歴史的由來を有する農民の氣風や、何等かの不平を抱いてゐる郷士浪人または事を起すことを好むものの煽動や、他の地方に起つた一揆の影響や、富豪などに對する一時的な反感の爆發や、時には政令の誤解や、さういふやうなことが、或は單獨に或は複合して、かゝる行動をとらせることになるのであるが、何れにしても農民生活の痛苦にその淵源はあり、さうしてそれには貢租の苛斂誅求もしくは代官やその手代などの冷酷な處置、またはそれらに關する疑懼が大きなはたらきをしてゐる場合が多い(黒正巖の「百姓一揆の研究」)。しかしそれは何れも爲政の當事者もしくはその下僚として直接におのれらに臨む官吏に對する不平と反抗とであるのみならず、將軍はいふまでもなく、藩國に於いても大名自身に對するものではない。小藩の君主またはその他の小領主に對しては時に怨恨を壞く場合があつても、それは大藩の君主とは違つておのれらに近接する地位にあるからである。まして政治形態や社會組織としての封建制武士制そのものに對する反抗、または農民階級の武士階級に對する闘爭、といふやうな意味は、百姓一揆には全く含(51)まれてゐない。抗爭のあひてが武士であつても、それは武士の社會的地位に關することではなく、武士社會といふものに對してのことでもなく、たゞ彼等が治者に屬する官吏もしくは軍人であつて、その點でおのれらに對立してゐるためであり、さういふ職務をもつてゐるからのことである。また今日から考へると、かゝることの行はれたのは封建制武士制の缺陷の一つの現はれではあるが、當時に於いてはさういふことを考へたものは無く、農民の取扱ひかた爲政者の心術態度にその起因もあり解決策もある、とせられてゐた。首姓一揆を以て革命的行動とするやうな言説に至つては、誣妄の甚しきものである*。のみならず、百姓一揆が頻發したといつても、農民のすべてが一揆を起すやうな氣分になつたのでもなく、一揆の起り得るやうな状態にあつたのでもない。一揆は特殊の事情から起つた特殊の事件であつて、それによつて一般的に農民の心理やその生活の状態を推測すべきではない。事實、一揆の一度も起つたことの無い農村は到るところにある。また一揆の起つたことが封建制や武士制の崩壞に向つて來たことを示すものでもない。制度の崩壞はさういふことに現はれてゐるのではなくして、既に述べた如くもつと深いところ人の氣のつかないことに於いて徐々に行はれてゐる。百姓一揆もそれとつながりはあるが、かういふ特殊の事態の生じない政治の動き、社會の動き、人々の日常の生活に、今日から考へると、崩壞の眞の兆候が見えてゐたのである。
 勿論、一揆の頻發を誘致するに至つた生活の痛苦が農民にあつたことは、疑はれない。けれどもこれは一部の農民または農民生活の一面であつて、他の一部の農民または農民生活の他の一面には、これと違つたもののあることを見のがしてはならぬ。當時の農民のすべてがかゝる痛苦を常に抱き斷えず不安の生活をしてゐた、とのみ考ふべきではないからである。しば/\述べた如く、農民の生活は風土や村落の位置や土地制度や副業の有無や、または領主や收(52)税吏の如何によつて、種々の差異があり、年の豐凶に關するところも深いから、場合によつては非常な窮境に投ぜられることもありながら、概していふと比較的安靜の生活をなし得るところも少なくない。「秋田橦圃正西成、社雨初收澹午晴、且喜今年秋熱遍、山村時過賣魚聲、」(菅茶山〕、「四圍山色翠高低、春入湖村雨一犂、縷々茶煙家五六、菜花籬落牛※[奚+隹]啼、」(松本圭堂)、平和な農民の生活が詩人の吟嚢に入つてゐるのを見るがよい。歌人にも「豐かにもありし田の實を頼みにて更にや麥の秋をまつらむ」(八田知紀)と歌つたものがある。常に自然と抱合して年々の收穫を樂しみにすることのできる農業そのことの性質上、農民の生活には一種の安定した気分の伴つてゐることをも、考へねばならぬ。農業は勞苦の多いものであるけれども樂しみは春生夏長秋收冬藏の間にある、と或る老農がいつたといふが(山田文靜の譬稻性辨)、これは一般農民の心情である。「腰が痛いよ田植の腰が……」といはれ、「雨が降つてもやく日が照るも青田の中でしよぼ/\と」、また「臼ひけば肩もやめるし手の中までも七十四骨がみなやめる」、と謠はれはするが、「……先の手當は一番草よ、二番三番とりかさなりて、終にお稻は身もちとなつて、二百十日や八月半ば、これを凌げばできたる稻を、嬉し喜ぶお百姓さまよ、苅りとりなされよ、……」、勞苦は徒らなる勞苦ではない。もしそれ「今とし世がよて穗に穗がさがる枡はとりおけ箕ではかる」場合の喜びは、農民ならでは經驗することのできないものである。農事に關する俚謠にほがらかなものの多いのは、一つは呪言の意味からでもあらうが、事實として收穫の喜びがあるからでもあつて、「沈種鋤由事已多、穉苗初長又分禾、欲知豐穣昇平象、謳曲自非亡國歌、」(箕作阮甫)といはれる所以がそこにある。「苦勞と思ふな世界は車またと豐年まはり來る」、といふ樂天觀さへ農民の心情の一隅にはあるのである。田植や田の草とりなどの謠ひものに、とぼけたものや男女の情事に關するほゝゑましいものがあ(53)るのも、一つはそれによつておのづから勞苦がまぎらされるからでもあるが、一つは氣分にゆとりがあるからのことでもあらう。
 要するに農民の勞働には、勞働としての痛苦があると共に、農民としての楽しさ安らかさがあつたのである。ツンベルグは日本の農民は農業を愛し、忍耐と細心の注意とを以て耕作をなし、勞働そのことを樂しんでゐる、と激賞してゐるが、シイボルトもまた農民の黽勉に驚嘆してゐる。これは日本の農業が、その土地の状態に於いても耕作の方法に於いても、ヨウロッパのとは全く趣を異にし、農業よりもむしろ園藝に近いといはれてゐるほどであるからでもあるが、それはともかくもとして、かういふ氣分の下に於ける長い間の農民の努力の跡は、到るところの田舍に限りなく展開せられてゐるので、「枯藜※[手偏+耆]上白雲邊、驚見松梢出土田、清世山中人漸密、新※[余/田]亦欲及青天、」(菅茶山)、山陽の地方色ではあるが、これもまたその一つであり、「孤驛西巖登絶巓、山光水色遠籠煙、田園歴々青黄間、正是移※[のぎへん+央]穫麥天、」(大窪詩佛)とも詠ぜられてゐる。貧富の差も生じ、かせいでもかせいでも貧乏に追ひつかれる窮民もあり、小作人などは概ね過重な負擔を課せられてゐるが、努力に對する報酬が全く得られないではなく、小作人は勤勉であるから少々の田地もちよりは却つて生活がし易い、といふ觀察すらもある(民間省要)。貧農の生じた事情や小作人の生活状態は、村落の位置や耕地の土地がらや地方的の氣風や家族の多少や知識の有無やまたは地主の人物態度や、なほその他の種々の條件によつて違ふので、決して一樣ではなく、特に小作人については、土地に愛着をもつことが少いために努力の念に乏しい場合も少なくないが、こゝにいつたやうなこともあるのであらう。だから一二の言説や觀察によつてすべてを推測することはできないが、同じことは一般の農民に關してもまたいひ得られる。たゞ大觀すれ
 
        (54)ば、不滿足ながらも一とほりの生活のできる中産階級の農民が當時の我が國には多く、實富の懸隔も甚しくはない地方が少なくない、といふことだけは考へられよう。どの地方にもそれ/\の地方色を帶びた農家が村落を成してゐるのが見られるが、長い歳月の間に自然の風土に培はれてできた、從つてまたその風土に調和してゐる、その建築の樣式は、おのづから一種の美しさを具へて彼等の生活を象徴してゐる。貧農の陋屋がその間に點綴せられてゐるところもあり、東北地方の僻陬の農家は一般にかゝる美觀に乏しいやうであるが、全國を通覽すればかう感ぜられる。
 なほ貧富の差といふことについて考へると、富農といふほどでもない幾らかの資産家も村々に散在するが、その地位は比較的安定であつて、一方からいふと小作人などの勞力によつてその富を蓄積するが、しかし新陳代謝はその間にも行はれぬではなく、上にいつた如く小農から起つて新に資産を作るものも生ずる。或はまた大地主たる酒田の本間家が代々その所有地の貧民を愛護したことの傳へられてゐるやうな例もある(蕉齋筆記)。この話が事實をそのまゝ傳へたものであるかどうかは知らぬが、よしさうであるにしても、かゝる富豪はその數が多くはなかつたでもあらう。しかし一般に、地主は小作人に對してかなりに重い負擔を課しながら、それと共に彼等のためにその財を用ゐもしたので、それによつて地主の名聲と品位とを保つのが常であつたことは、學校の建築またはその他の村落的公共事業に於いて多くの負擔をしてゐた明治時代の状態からも、逆推し得られる。却つて小作人のうちには氣まゝなものがあつた。土地が自己の所有でないからである。が、概していふと、日本の地主と小作人とは、數村にわたつて廣大なる土地を有するやうな大地主のあるところは別として、多くの場合には、同一村落の住民であり互に親近の情をもつてゐるので、その間の關係は、ヨウロッパの貴族とその領地の農民との間がらとは大なる差異があることを、知らねばな(55)らぬ。多分地主であつたらうと思はれるが、天明の饑饉の時に貯藏米を郷黨隣里に配與したのみならず、平素も道を作り橋を架して村民の便を計つたといふ宇都宮の富民、藏を開いて窮民を救ひ、苛酷な處置をした奉行などに對して町民が反抗した時に責を負うて刑死した、といふ新潟の富民、などの世に傳へられてゐることをも、考ふべきである(蒲の花かゞみ、新斥繁昌記〕。これらの例から見ても、同じやうなことは世に少なくなかつたであらう。勿論、實農や小作人の富農または地主に對する幾らかの反感はあり、利害關係から生ずる直接の衝突も起りがちである上に、幾分の嫉妬心なども加はつて、「白壁のそしられながら霞みけり」(一茶)といはれるやうな場合も少なくなかつたに違ひない。「おだいじん衆は太鼓をたゝくわしは貧乏で鍋たゝく」、「……暮す百姓ども旦那だんさま苦を思やんせ」、といふやうなことも謠はれ、その他にも田植歌などには時に地主に對する幾らかの皮肉の現はれてゐるものもあるのは、そのためである。しかしまた一方では「今日は殿ごさまのおも田が植わる苗を小わけにもとさし上げて植ゑて上げませう」、また「今年世がよて穂に穗がさいて殿も百姓も嬉しかろ」ともいはれてゐる。貧農も富農もありながら彼等の間に階級意識が形づくられ彼等の間に執拗な闘爭が起るやうなことはなかつた。貧者は或はその運命にあきらめをつけ、或は別の方面にその力を伸ばさうとつとめたのである(第二十一章參照)。彼等の間に貧富の懸隔があるとはいへ、法制上同一の平民として取扱はれてゐて、何れも自由民であり、またその貧富の地位が固定したものではなく、一方では富の頼み難きことが知られると共に、他方では或は業務に勉勵することによつて、或は智能をはたらかせることによつて、また或は好運によつて、新に富を得ることが期待せられもするのみならず、一般の富者がその富力を以て貧者の生活を支配することの少い世の中であることを、考へねばたらぬ。ツンベルグなどが、日本に奴隷は無いとい(56)ひ、また日本では富者が貧者を壓迫することが無く、貧者は貧者としてその生活を樂しんでゐるといつてゐるのも、ヨウロッパの社會を知つてゐるものの眼に映じたこととして興味がある。これは農民だけについていつたのではなく、それよりもむしろ商工業者に對する觀察が主になつてゐるかとも思はれるが、農民にも適用せられるものであることは、上に引いた同じ人の言によつても知り得られる。一般的にいふと、見聞の狹かつた異國人の感想をそのまゝ是認することはできないが、これらの意見の中つてゐることは事實の示すところであり、文藝の上にもそれは現はれてゐる。さうして後にいふやうに、江戸時代の文化の基礎の一半はかゝる農民の生活に据ゑられてゐるのである。
 けれども、農民の多數が武士の抑壓を蒙ることの最も強い地位にあることは、疑が無い。さうして彼等もまた人として抑壓を嫌ふものである以上、やはり何處かに彼等のにげ途が無くてはならぬ。是に於いてか彼等は滔々として都會の地に趨くのである。抑壓を蒙つてもそれがために全く氣力を失はずして、別の方面に生活の新境地を開拓しようとする意氣を有つてゐる。そこに田舍ものの強みもあり、同時に國民の元気もある。さて地方的都市や域下でも幾らかの生活の方便はあるが、江戸や大坂の如き大都會はこの意味で斷えず地方人を吸收する。その中には、生活のたつきを得ずして浮浪人となり雲助となり乞食となり盗賊となるもの、または武家奉公をしたり武士に經上つたりするものも少なくないが、その多數は商工の社會に入つて新しい運命を開かうとする。農民の商人化職人化が是に於いてか盛に行はれる。享保寛政天保の幕府政治家は、或は武家保護のために、或は一種の道徳的意味から、それを抑制しようとしたけれども、農村生活の貧困なのに反して都市が繁榮し商工業に勢力が集まつてゐる以上、かくの如き法令の無效であることはいふまでもない。儉約令は何時も三日法度であつたが、かういふ法令もまた同樣であつた。
(57) さて商人の現實の社會的地位は武家に比べて決して低くはないが、制度の上ではどこまでも武家に支配せられまたは抑壓せられてゐる平民である。だから、彼等もまたこの抑壓によつて生ずる不平の氣を何等かの方法で、また何れの方面かへ向けて、發散しょうとする。その方法は金力をふりまはすより外には無く、その力の向けどころは彼等みづからに於いては驕奢な生活をすることになるが、他に對しては金力で人を支配することになる。さうして武家の貧窮は恰も彼等に好機會を與へる。權力で服從させられてゐる武家を金力で服從させようとするのは、即ちそれであつて、そこに賄賂や請託が行はれ、惡辣な誘惑脅迫さへも行はれる一理由がある。かういふ方法で占め得た商人の利益は、やがてまた彼等の生活のために消費せられて、彼等の驕奢逸樂はます/\甚しくなる。「豪家率作娼家媚、官人甘爲商人奴、」(※[人偏+狹の旁]行西山拙齋)、都市の繁榮はその規はれの一つであるが、それがまた武家窮乏の一因由ともなり、直接間接に農民の困厄ともなる。「市人心喜此炎旱、米慣踊貴利可專、況乃毎戸※[しんにょう+甫]租賦、稱貸斂息倍常人、村人心憂此飢荒、離散溝壑免終難、……今時上下同窮乏、時需大半仰市人、市人驕奢故其所、獨恐人情見物遷、」(茶山)、利害相反する場合も無いではない農商の關係は、かゝる觀察をも容れ得るのであつて、農村の荒廢と都市の繁榮とは即ち人情の物を見て遷ることを示すものである。 しかしこれは商人の一部のもの、またはその生活の一面、であつて、それによつて一般の商人と商業とのはたらきを推測すべきではない。さうしてこのことについては、江戸時代の學者や論客には、一つは武士本位の社會秩序を動かすべからざるものと考へるために、一つはシナ思想による一種の重農主義に本づいて世情を批判するために、また−つはいはゆる質素を尊ぶ一種の道徳觀念から商業の發達はおのづから人の奢侈を導くものとしてそれを喜ばないた(58)めに、ともすれば武士の上にその力を加へることのある商人、農業と對立する如く見えるところがあると共に、武士にも農民にもその生活程度を高める便宜を與へる如く考へられる商業、に反感をもちまたはそれを輕侮するものが多く、從つてかゝる偏僻の見が彼等の筆に上る傾向があるのと、商人の生活事業に上に記したやうなものがあつて、それが特に目だつて見えるために世に喧傳せられるのと、これらの事情から、當時に於いては商人の多くの功績と國民の生活に對する商業の重大な寄與とが世間に認められなかつたことをも、注意しなければならぬ。概觀すれば貨幣經濟の發達に伴つて商人の活動が盛になりそれによつて國民の生活が營まれるやうになることは、自然の情勢であるので、現代の銀行の事業や郵便の制度の萌芽も既に當時に見られた。商品の蒐集及び配給の機關の全國的につながつてゐることが、おのづから文化の交流と傳播とを導きまた助けたことは、いふまでもないので、この點に於いてはその商品の一つに書籍のあることをも看過してはならぬ。米を貨幣に換へることによつて成りたつ武士の生活も、商人の力によらねばならぬ。農民にも商人の社會に入りこむことによつてその生活の道を開くことのできるものが少なくないことは、しば/\述べたが、これは職人に農民出身のものの多いことと共に、商工業が國民の生活を維持し發達させるために大なるはたらきをしたことを示すものである。また制度との關係を考へると、封建制武士制が、それによつて發達しそれによつて制約せられてゐる、當時の商業に特殊の性格を與へはしたが、それと共に商業によつてこれらの制度が維持せられたのでもある。のみならず、封建制武士制の廢止せられた明治時代に至つて新に起された新しい商工業は、實はかゝる制度の下に養はれた江戸時代の商人の活動にその由來があるので、後から回想するとおのづからその準備または習練となつたものである。
(59) 平和が長くつゞいて武士及び民衆の生活程度が次第に高められるにつれ、その需要に應ずるために諸種の工業が次第に發達し、その製作物は商品として賣出されるから、この意味に於いて商業と工業とは密接の關係がある。これについてもまた幕末以後に於ける工藝品の海外輸出の淵源のこゝにあることが考へられよう。かゝる工業に從事する職人がそれにつれて多くなつたことは、おのづから推測せられるが、その職人の生活は工業の種類及び性質によつて一樣ではないものの、それ/\に一種の職人氣質が培養せられ、さうしてそれが傳統的のものとなる。このことは漁人や舟夫の如き特殊の職業に從事するものに於いてもほゞ同樣であつて、それが國民の生活に重要なはたらきをすることは、前篇にもいつておいた。「前船運米後船薪、相喚相應曉※[さんずい+敍]喧、別有※[竹/均]籠積如塵、載將白※[魚+善]向都門、」(茶山)、かかる小光景にもまた彼等の生活の一部面がある。
 こゝで商人や職人生活の社會關係について一言しておかう。商人にはその事業の性質にも大小にも幾多の種別と階級とがあり、貧富の差等もまたさま/”\であるが、概觀すると、それらは互に相頼り相待つてその事業を營み得るのであり、上にいつた如く富者の事業が貧者を壓迫するやうなことは無い。從つて貧者もまた貧者ながらにその生活を樂しむことができる。貧富の懸隔が農民に關して特に問題視せられるのは、彼等が租税の負擔者であるために政治的に重要な意味をもつてゐて、それが農民自身の心情にも反映すると共に、村落生活の状態としてその貧富の差が何人にも知られ、また土地所有の關係から富者の態度が貧者に直接のはたらきをするからであらうが、商人は政治的拘束をうけることが少いのと、農民の場合とは違つて貧富の差が多く人に注目せられず、また貧者は富者によつて生活の資を得ることが多い、といふ事情も考へられよう。規模の大きい事業を營むものには多くの被使用者が從屬するが、(60)それは今日の意義での雇用ではなく、人としての結びつきがその本質であるので、被使用者は使用せられることによつて、事業の學習と練磨と並に人としての修養とをつむことを心がけると共に、主家とは永久の情誼を保つのが本義とせられてゐる。それは一種の主從關係であるが、武士の如く何時までも主家の俸禄によつて衣食するのではなく、或る年月を經ると獨立して事業を營むことになる彼等に於いては、かゝる情誼は精神的のものなのである。このことは工業に從事する職人とてもほゞ同樣であるので、職業の違ひによつてその形はさま/”\であるが、職人は親方または師匠に育てられて一人まへになるのであること、それによつて主從の人的關係が結ばれることは、同じである。「野でも山でもお主さまよかれお主のおかげで世に出づる」といはれてゐるのも、こゝにその根據がある。ツンベルグが、日本では工場主と勞働者とは身分の區別は嚴であるが互に同胞としての尊敬と愛護との情をもつてゐる、といつてゐるのも、かゝることを聞き知つての感想であらう。彼が日本には奴隷が無いといつたのは、工業の勞働にもあてはまるものと考へたに違ひない。たゞ主從關係や階級的秩序に束縛せられてゐるために、日本人はヨウロッパ風の考へかたでの平等と自由との民ではない、といつてはゐる。日本人は卑賤なものでも禮儀が正しいといふのは、戰國時代以來日本に來たヨウロッパ人の一致した見解であるが、これもまたこのことと關聯があり、シイボルトが日本の難破船の舟夫の擧動を賞讃してゐるのも、彼等に人としての矜持があることを認めたのであらう。しかし鑛山の一部の鑛夫には、金で買はれてゐて終身はげしい勞働をさせられるものもあつたが、これはしごとの性質による特殊の風習である。 もう一つ考へておくべきは寺院の僧侶である。その文化上のはたらきについては前篇でも述べておいたし後にもい(61)ふ機會があらうから、こゝではたゞその社會的地位を管見するにとゞめるが、それは主として一般民衆、特に農民、に對する關係である。戰國の世にもなほ傳承して來た寺領の所有を幕府から認許せられ、または徳川氏によつて新に建てられ所領を與へられた寺院は、一種の小領主であつて、それが公儀や旗本領と隣接または交錯してゐるところでは、その間に於ける農民の心理にも何等かの動きがあり、年貢や役務の少いために寺領に屬することを好む場合もあつた(民間省要)。また農村に散在する寺院には、一種の地主となつてゐたり僕婢を使役して農業を營んだりするものもあり、その點で農民とのいろ/\の交渉があつた。だから寺院は、或は遊民たる僧侶が農民から財貨を徴することによつて衣食するところとして視られ、或は幾らかの富農めいた性質を帶びてゐたものもあるやうに考へられた。かかる状態にあることが、一面では僧侶が文化的のはたらきをすることのできる事情ともなつてゐるが、他面では宗教上の或る權威と幾らかの知識とをもつてゐるために農民に對して特殊の地位を占め、それによつて安逸の生を送ることのできる境遇にゐるので、彼等の品性の墮落や種々の惡徳がそこから生ずる。或はまた世外の世に於ける名譽心の滿足のために學業を勵むものもあり、さうしてそのうちには眞の修行の道に導かれてゆくものもあると共に、金錢その他の方法によつて地位の昇進を求める風習もあつた。眞の世外の道人は彼等に於いても甚だ少かつたことはいふまでもないが、しかし必しも墮落僧ばかりではなく、僧侶の體面を傷けまいとするだけの用意からでも或る程度の規制を守り、それによつて一種の品位を保つてゐるものも、その間に無くはなかつたのである。
 當時にはなほ半ば社會組織の外に置かれ多少の浮浪性を帶びたものが諸方面にあつた。交通機關の運轉者として必要訣くべからざるものではあるが、雲助の類もその一つである。浪人もしくは浪人を裝ふものもこの群に入れてよく、(62)乞食の徒もまた看過し難い。かういふものが往々殺伐の氣を帶びまた種々の惡事をはたらいて良民を害する場合も多く、小説などの上にもそれは現はれてゐ、浪人については「鬼よけよ浪人よけよさし柊」(一茶)といはれてもゐる。さうしてこれらもまた當時の社會組織の缺陷から生れたものである。今人のいはゆる特殊部落や所によつては存在する乞食の部落が、一般社會から除外せられてゐるために、偏僻な氣風を馴致し、その間に幾多の惡徳が釀成せられたことは、周知の事實である。
 要するに、當時の國民生活には何れの階級、何れの職業、に於いても不健全なところがあつた。窮乏の境にある武士や下級の農民は勿論のこと、官を求めれば求め得られる都市の住民に於いても、それに病的な不自然な影の伴ふことが少なくない。如何なる世にも、すべての國民がおの/\その處を得て健全な活動をしてゆくといふことは望むべからざる話であり、さうしてそれは如何なる社會組織にも缺陷が存在するといふことに一つの大なる理由があるが、この時代に於いては、國民が封建制と武士制とに羈束せられてゐるところに主なる由來がある。のみならず、海外渡航を禁じた鎖國制度もまたかゝる状態を誘致した一因であつて、例へば農民の困窮についても、もし外國との交通が自由であつて海外に新郷土を見出す方法でもあるか、または貿易が盛に行はれてそれが産業の開發を刺戟するといふやうな事情でもあつたならば、上にもいつた如く、彼等の窮乏も幾分か緩和せられたであらう。大名の貧困などもまた外國貿易が自由に行はれてゐたならば、その方面から救濟の途がつき、或は甚しき窮状に陷ることも無かつたであらうし(薩摩の例を見るがよい)、一般武士とても氣風が濶大になり、智見も高まり、彼等のための新しい事業も起り、從つて彼等みづからに事業欲も生じ、前に並べたやうな※[女+兪]安姑息の生活がこの點から改められたであらう。それは固(63)より航海術が發達して海外との交通が容易敏速になつた十九世紀以後の状態を以て推測し得べきことではないけれども、その前とても或る程度の海外に於ける活動と對外貿易とは行はれ得たであらう。然るに鎖國の制度はその途を杜絶し、すべての國民をかゝる状態に置くことになつたのである。さうしてそこから同じやうに不健全なところのある文化、風俗、思想、生活感情、が導き出されたのである。
 
 文化に不健全なところのある第一の表徴は、封建制武士制やそれに伴ふ幕府の政策、前に述べたやうな國民の生活の状態、などの自然の趨向として、國民の文化が不平均になつてゐることである。土地からいふと都市と田舍と、京坂及び江戸と地方との間、人についていふと商人と農民との間に、大なる懸隔があつて、特に國民の多數を占めてゐる一般の農民に精神的にも物質的にも低級の生活をしてゐるもの修養が少く知識の乏しいものが多い、といふことが當時の文化の最も著しき缺陷である。後にいふやうに、地方民の間にも中流以上のものにはかなりの知識のあるものが少くはなく、また都會に出て學問をするものなどが彼等の間から出るけれども、小前百姓や小作人は概ね無智のまま無修養のまゝに殘されてゐるのである。また物質生活に於いては都會が一般に發達してゐるが、その都會には特殊の文化的空氣が釀成せられてゐるので、それがために地方人田舍ものは都會人から輕侮と嘲笑との的にせられてゐる。武士に於いても江戸人が國侍を武左と呼び新ござと名づけ、彼等自身の文化を解せぬものとしてそれを蔑視してゐたことは、洒落本などの上にも明かに現はれてゐる。「春情學び得たり浪花風流、郷を辭し弟に負いて身三春、」(春風馬堤曲蕪村)。「さすが古園の情に堪へず」して藪入の一夜を「ひとりの親の傍」に明かす身も「故郷の兄弟を恥ぢ卑し(64)む」ぱかり「浪花の時勢粧」に心の移つておるところに、この大都市と附近の田舎との生活状態の差異が見られる。「越後出るときや涙で出たが今は越後の凰もいや」、どの地方にもこの俚謠が適用せられてゐるので、到るところの都市が田舍もののあこがれの的となつてゐるほど、それが彼等の目に美しく映じ、その都市生活の仲間入りをすることが彼等の誇りであつたことが知られる。勿論、「お主にや暇とりあの山越えて都まさりの親里へ」、奉公人の心情の一面にはこの郷愁がある。のみならず、「むかし/\連りに思ふ慈母が恩」にその「慈母の懷抱別に春あ」ることを知るものもあり、それが生活上の種々の事情と結びついて、彼等を「親里」にひきもどす場合の多いことは、いふまでもない*。
 ところがこの都市文化の表徴として最もよく目立つものは、遊里もしくはそれに類するものと、やはり遊里の空氣に充ちてゐる戯場とである。風俗や流行がこゝから出こゝに集まりまたこゝに反映することは勿論であつて、都會人の耳目はこの二つに集中してゐるといつてもよく、さうしてそれが彼等の生活の最も華やかな方面であり、或る意味に於いてはその焦點である。實生活の上では斷えず重い抑壓を蒙つてゐる彼等がその鬱懷を放散させるには、實生活から離れたこの夢幻世界に於いてすることが最も適當だからである。彼等の窮屈な日常生活に一味のくつろぎを與へる音曲も、その題材は遊星と遊女とに關係の無いものは殆ど無く、從つてそれに現はれてゐる情趣は最もよく遊里の氣分に共鳴する。江戸淨瑠璃に最後の轉化を與へた河東節や都下りの一中節が、或は詞章の作者に於いて或は太夫自身に於いて、吉原に特殊の關係のあるのは偶然でない。と同時に、それは戯場とも密接な關係を有つてゐる。また大名や旗下の士が遊女をうけ出し、歌舞伎役者をひいきにし、また或は淨瑠璃語りに扶持を與へ、或はみづから某太夫(65)と名のつてゐたものさへある(江戸箱根元記、賤の小田卷、甲子夜話、など)。田舍武士は勿論、その他のものの江戸土産として最も愛重せられた浮世繪は、主として役者と遊女との面影を寫したものではないか.上方の浮世繪とても同様である。文學の題材も概してこの二つにある。田舍源氏が六條御息所を遊女に山の中の紫の上の住ひを遊里にかへてゐることをも、參考するがよい。だから「髪かたちも妓家の風情を學び正傳繁太夫の心中の浮名を羨む」のが大坂化した田舍娘であり(春風馬堤曲附記)、「以馬換妾髀生肉、眉斧解剖壯士腹、」(後兵兒謠山陽)が京の水に軟化した薩摩武士である。江戸に於いて武左の嘲けられたのは、たゞこの空氣と調和しないがためではないか。寺社が往々市民の遊樂の場となり、さうして娼家が多くその附近に設けられたことも、注意を要する。道學先生や偏固な政治家がかゝる状態に對して顰蹙したことは別問題としても、そこに少からざる病的分子のあることは何人も否むことができまい。
 もつともこれは既に元禄時代からのことである。しかし享保以後になると、元禄の昔に存在した豪快な、また或る意味に於いて率直な、気象が漸次消耗し、繊弱な、また繁縟な、凰尚が次第に高まり、その點に於いて一層不健全になつたといひ得られる。さうしてそれは江戸に於いて最も著しい。劇に於いて、市川式の荒つぽい荒唐不經なる所作事が漸次緩和せられ、扮裝や用語も次第におだやかになつたといふが(後は昔物語、反古籠、など)、音曲の方面でも、江戸淨瑠璃が半太夫節から更に一轉して河東節となり、その曲節が柔和になつて遊里にも多く流行したといはれてゐる。情趣に於いてはそれとは謠かに違つてゐるものながら、上方下りの義太夫節も行はれ、次いでまた一中ぶし豐後節が傳へられ、その豐後節の變形たる常盤津、それかち派生した富本、清元、もしくは新内、などの淨瑠璃が行はれ(66)るやうになれば、(それらのものの一面に存在する浮はついた調子と滑稽味とには別の由來があるとして、)その感傷的な氣分と優柔繊細な旋律や節奏とが如何に前代のものと趣きを異にしてゐるかは、いふまでもなからう。淫聲といはれ「いたづら節」と解せられ(母親氣質、妾氣質)、また「衰へはてたる聲」として、その流行が「上下貴賤泣き聲出さぬはなし」(窓のすさみ)と評せられた豐後節の情趣を想像するがよい。しかしこれは必しも豐後節によつて始めて江戸に齎らされた氣分ではない。淨瑠璃ではないが「愁の音あり」といはれた鶴山ぶしが現はれたのを見れば(吉原雜話)、豐後節を迎へ得る氣運は既に江戸に開かれてゐたのである。花街に於ける元禄時代の花やかな遊興ぶり、金をつかふためとせられた大盡遊び、が漸次衰へ、遊里がよひの態度がしみつたれて來たといふ話(我衣、吉原雜話、隣の疝氣、賤の小田卷、昔々物語)、遊女にも太夫といふものが無くなり江戸の特色として誇られた張りの強いといふことが見られなくなつたといふ話(後は昔物語、飛鳥川)、などは、必しも文字のまゝに受取り難い點もあるが、元禄の「粹」と天明の「通」とを比べて見れば、それだけでも花街の氣分と遊興の態度とに變遷のあつたことは肯はれる。深川の繁榮もまた一面の意味に於てはこの現象に伴ふものであらう。 或はまた、衣裳の好みが表面の花やかさをさけて裏面に贅澤を盡すやうになり、一般にいはゆる澁い、凝つた、或は繊細な、趣味の生じてゆくのも、一つは政令の影響であらうが、一つは氣風の變遷にもよる。天明の世に「かつたい眉毛、疫病本多、首くゝり帶、」が流行し、「大小は火箸の如く細し」といはれたではないか。「長大小に網代笠、麻着肩衣に藁草履、」(半日閑話)といふ寛政風は固より一時の話、遠からずして「いづちゆきけんいつとなく、今は昔となりはてて、……腰に短き太刀をはき、一寸見附の花がいき、」(巷街贅説)、天保の趣味はやはり繊巧である。時勢(67)粧の直寫として見るべき浮世繪に於いて、勝川春章以後のものが懷月堂や奥村正信のと如何に違ふかを見ても、それは知られる.屋形舟が減じて屋ね舟猪牙舟がはやるといひ(塵塚談)、贅澤品の嗜好が小規模に於いて精緻な小器用な技巧を弄するものに向つて來たこと、人の氣のつかぬところに無益な費用と手數とをかけることを喜んだのも、またそれに應ずるものであらう。天明時代に權門の賄賂として用ゐられたといふ「まゝごと」(五月雨草紙)の類はともかくもとして、天保のころに行はれた贅澤屋の製品に、墨塗の下駄に引出しをつけ銅壺をしこんで湯の氣で足を暖める裝置をしたものがある、といふに至つては、驚かれるばかりの繊細さである。一斑以て全豹を知るべしである。文化文政のころから鉢植の流行が甚しくなり、朝顔などの翫實が盛になつたといふのも、自然の愛が小さい、またひねくれた、ものに向つて來たことを示すものである。天保のころの浮世繪の頽廢期に於いて、精巧ではあり美麗ではあるが、繁縟で統一が無く力が無いものの現はれたことも、一つは彫刻及び印刷の技巧の進歩でもあらうが、また同じ傾向の現はれでもある。
 概していふと、當時の江戸の文化には、すべてに於いて、力強い、率直な、快活な、伸び/\とした、氣象が無く、全體に調子の弱い、規模の小さい、態度のひねくれた、無理に抑へつけられたために横みちに外れた、といふ趣きがあり、さうしてその傾向が年と共に甚しくなつて來たのである。もとよりその間には元禄時代の粗放と絢爛とに比べて趣味の精錬せられたといふ一面の事實はあるが、その精錬に病的な頽廢的な色調があり、伸びんとする意志が無くなつて手近いところに小安心を求め、もしくは細かな技巧をそこに弄して纔かに心やりとする、といふ風がある。詞章に古典分子が多く加味せられ、曲節が歌謠的となり、淨瑠璃の系統には屬しながら劇的性質が殆ど無くなり、直截
 
        (68)な感情の表現をさけてすべての調子が抑へられてゐる、河東節が江戸人の誇りであつたのを見るがよい。上品とせられ澁いといはれるのは、華やかさと強烈さと奔逸の趣きとの缺けてゐることを示すものである。歌麿の遊女は懷月堂の女の端正な姿もなく祐信のそれの豐艶な肉體美も無い代り、彼等には缺けてゐた夢みるが如き情趣に滿ちてゐるが、それは肉慾の飽滿を求めてやまぬ西鶴の女、義理の刀に胸を貫かうとする近松の女、の氣分ではなく、常盤津や新内のかよわい旋律に顫へてゐる頽廢の美であり、淫蕩の美であり、要するに遊女の美である。當時の浮世繪師が女の全身を畫く場合に、その脚部を少しく露はし、さうしてそれが殆ど立つに堪へざるが如き、また活き/\とした肉の美しさの毫末も見られない、織弱なものであるのも、西鶴の大膽な肉慾措寫とは違つて、道義の衣に被はれてゐるところに却つて桃發的な筆法を認め得る人情本の態度と似かよつてゐる點は且らく措き、また女に對する時人の嗜好を示してゐる。齋藤彦麿が「肩をすくめ肘を膚によせて寒げに縮みたる姿」(傍廂、神代餘波)と評したのは、天保のころの浮世繪についてのことらしいが、それが時勢粧の反映であることはいふまでもない。讀本や草双紙の插繪の人物に、前こゞみな、いぢけた、卑屈な、姿勢を取つてゐるものの多いことも、時代の氣風と關係が無くはあるまい。光淋を學んだ抱一にその光琳の力と華やかさとが無く、かれに夕日のまばゆき金色の強い光があるとするならば、これは和い月の光に映ずる白銀の色調にその特質が認められるのも、同じ傾向が現はれてゐるのであらう。
 以上は主として江戸についての觀察であるが、かういふ空氣の裡に生活してゐる江戸人が有爲の氣を失ふことは當然であつて、彼等が順送りに田舍ものにその地位を奪はれてゆく傾向のあるのも無理ではなく、武士についていふと、最後に維新の變動によつて田舍武士に江戸を占領せられるやうになるのも、こゝに一つの由來が無いとはいへぬ。が、(69)當時の文化が都市の文化であり、さうして最大の都市が江戸であるとすれば、それはやがて全體としての文化の趨勢を表徴するものといはれよう.京坂は江戸に對して一種の特色を具へ、關西に於ける文化の中心となつてはゐるが、一方では義太夫や豐後節の東下が江戸のこの傾向と相應じ、もしくはそれを助成してゐること、特に豊後節が種々の意味また種々の方面に於いて江戸の風尚を動かしてゐること、文化文政のころになつては生粹の江戸つ兒を以て誇つてゐる式亭三馬をして、浮世風呂などに於いて口を極めて上方風の流行を罵倒せねばならなくさせたほどに、京坂の風俗が一般の江戸人に歡迎せられたこと、によつて知られる如く、或る意味に於いて江戸が上方化して來たと共に、他方では、「新曲清巉自關左、翻來亦遏鴨干雲、」(鴨東四時雜詞)、音曲や浮世繪の上に於いて上方が江戸の影響をうけ得る状態であつたことを思ふと、この風潮はやはり同樣であつたことが覗はれる。勿論、江戸の豐後節の三絃には長唄の手が入つてゐるといはれ(江戸節根元記)、常盤津以後の淨瑠璃が上方人から唄淨瑠璃としてやゝ特別に取扱はれてゐる如く(傳奇作書)、音曲とても上方のものが江戸に行はれるには或る程度の江戸化を要するといふ事實はあり、またかの三馬の言や膝栗毛に於ける一九の觀察、または「見た京物語」の描寫、などにも見える如く、江戸人と上方人との氣象及び趣味にそれ/\差異のあることは明かであるが、西澤一鳳をして「侠氣は昔のこと、今は悧巧になつた、」(皇都午睡)と許せしめた如く、江戸人の氣象にも變化の生じたことは疑がなく、さうしてその悧巧といふのが本來上方人の特色なのである。江戸人のしぶい、凝つた、または一種瀟洒たる、趣味と、上方の却つて華やかな、或は濃厚な、嗜好との間にも一致しない點はあるが、江戸人のこれは決して昔からのことではないから、この差異には、色合ひを異にし形を異にしてあらはれた同じ時勢の表徴と見なすべき一面もあらう。江戸人の衣服の師部い趣味が、政(70)府の所在地として政令の遏迫の最も強く、從つて表面の華美をさけねばならぬところに、一原因があるとすれば、上方人の華麗もしくは艶美を愛するのは、さういふことが比較的弱く、特に大坂に於いては商業の繁盛に伴つて人心が江戸よりも遙かに活動的であるため、或は物質的の富に伴ふ俗惡の趣味の故かも知れず、京に於いては一種の保守主義にもより、または全體の社會が沈靜してゐるため、せめてかういふ色彩でも着けなければ生きがひが無いやうに思はれた、といふやうな理由があるらしい。しかしそれとても元禄の豪華とは比較にならぬ程度のものである。
 京坂及び江戸の他の都市にはそれ/\の地方色があり、特に大藩の所在地に於いてさうであつて、そこに封建制の文化的意義が認められるが、概していふと、地域によつて江戸もしくは上方の影響をうけ、それに同化せられる傾向がある。また上記の風潮の主なる由來が封建制武士制の存在にあるとすれば、その風潮が全國的なものになるのも自然であり、特に武士の社會に於いては大名の參覲交代とその家族の江戸在住とがこの趨向を助けてゐることは、いふまでもない。一般の地方人については、特にいふべきほどのことも無からう。大局から見れば、不健全な都會文化の潮流にまきこまれてゐないところに彼等の強味があり、そこに國民の元氣の源泉もあるけれども、彼等自身の獨自な文化が發達してゐるのではないから、一度び都會の文化に接觸すれば直ちにその汚濁に染まる危險があることをも、考へねばならぬ。要するに、かういふ頽廢的傾向は、制度の束縛と新しい氣運を開いてゆくだけの強い衝動の無い生活とのために、人心が沈滯して生氣を失つたところから來てゐるのであつて、そこに同じく文化の爛熟期であつた平安朝末の貴族社會の生活氣分と幾らかの類似點もある。
 けれども、當時の固定した社會停滯した文化が、一面に於いておちつきのある生活氣分を馴致し、そこに一種のお(71)つとりした、濕ひのある、空氣を讓成したことを、見のがしてはならぬ。家々の年中行事などに古風が保たれてゐるのも、かゝる氣分の一つの現はれとして、またそれを持續させるはたらきをなすものとして、それに情趣の饒虜かなるものがあることを許さねばならぬ。一般の民衆娯樂が強烈な刺戟をあわたゞしく感受しようとする類のものでないのも、またこのことに關係がある。特殊の職人がその製作品を單に市場の商品とのみ見ず、むしろ藝術品としてみづから翫賞しみづかち尊重する氣分のあることなども、かゝる空氣の裡に於いておのづから養はれた風尚であらう。世間が氣ぜはしくなく、從つて躁急にしごとをしようとしないこと、同じしごとを同じやうにしてゐるために生ずる熟達と精錬と、そのしごとに對する愛着の深さと、があること、を考へねばならぬ。この點に於いては上にいつた如き農民の農事に愛着をもつのと通ずるところがある。浮世繪の板畫の技術があれほどに發達したのも、一つはこれがためである。一方からいふと、これらは工業の状態や一般の經濟組織が今日とは全く違つてゐるところに根本の理由があるのであり、また或る程度に生活の安全が保證せられてゐるといふ事情もあるので、必しも世の中が固定してゐるためのみではないことをも、考へねばならぬが、それによるところのあるのもまた事實であらう。
 しかし生活に遊戯的氣分が伴ひ、何ごとにつけても輕妙な機智を尚ぶ傾向があるのも、一つの意味ではこのことと關聯があらう。これはこのころの文藝の一特色をなすものである。古くから歴史的に養はれて來たところもあり、江戸人に於いて最もよく發揮せられた點に特殊の事情もあるが、まじめに努力してまじめに力を伸ばすことの許され難い世の中に於いて、かういふ風潮の生ずるのは自然の勢である。何ごとにも強い情熱が無く、どこまでも事をなし遂げようといふ執着性と底力をが乏しい。江戸の音曲が一方では感傷的であると共に他方では滑稽味を帶びてゐるのも、(72)また三絃の手が全體に上はづつた調子であり、歌にも咽でころがすといふやうな輕い技巧を弄する傾向のあるのも、やはり同じ氣風の現はれであらう。幕末に現はれた歌澤の一派がこの趨勢を最もよく示すもののやうである。繪畫に輕妙な筆致で描かれたスケッチ風のものが賞翫せられるのも、同じ例と見られようか。工藝品に於いても−面の事實としては、手輕なものを小器用に作ることが喜ばれる風がある。
 さて固定してゐる社會、同じやうな生活の同じやうにつゞけられる世の中、に於いては、何ごとにも因襲の權威が強く、從つて新しいことを喜ばない氣風が馴致せられる。當時の人心が一般に保守的であつて、變革を好まず新事業を嫌ふのもこの故であり、「朝發十萬夫、夕發十萬夫、鑿渠涸湖湖未涸、從役侯伯財力枯、風雲變幻世事改、財力已枯渠亦廢、君不聞荊徐當國講利作、新進建言染山伯、」(藤森天山〕、田沼や水越の開墾事業が喜ばれなかつたのも、一つはこれがためである。政府の「新規」を蛇蝎視するのは幕府創立以來の固定政策を繼承したものではあるが、また長い固定時代に養成せられたかういふ氣風の故もある。司馬江漢は春波棲筆記に於いて奥州人は愚直にして新奇を好まずといつてゐるが、それは必しも奥州人ばかりではなく、また必しも愚直の故のみではない。一體に煩瑣な禮儀や習慣があつて、それに背くことのできないのは、あらゆる社會に通有な状態であり、官府の事務とても、たゞ先例舊規を墨守して一歩もその外にふみ出せなかつた。たゞ特殊の人物が特殊の計らひをする餘地はあつたので、そこに官吏の人間味がはたらいたのであるが、これもまた一つは一般に先例舊規を重んずる慣習であるために臨機應變の處置をすることの困難な窮屈さを緩和する必要があつたからであらう。この守舊的氣風は當時の文化の停滯を示す一現象であると共に、またます/\その趨勢を強めるものでもある。楠無益委記長生見度記などの黄表紙に未來永劫あるべか(73)らざることの如く考へて書かれたことが、後になつて事實として現はれたことと少なくないのを見ても、如何に人々が世を固定してゐるものと思ひ些細な變化をも豫想し得なかつた時代であるかを、知ることができよう。が、一方に於いては人が生きてゐるものである以上、何の點かで新しいはたらきを要求する。豫想せられなかつた變化が現實に生じたのは、即ちそれを示すものである。まじめな新事業、意味のある新治動、を嫌ふ傍に於いて、ふまじめな流行を追うたり無意味なことに好奇心を動かしたりするのも、またその故であらう。だからもし一朝因襲の權威を弱めるやうな事態が外部から迫つて來て、それによつて社會的秩序が動搖して來ると、人がみな適從するところを失つて世は忽ち混亂の状を呈し、人々は利己主義目前主義となつて激しい舊物破壞が行はれる。極端な守舊的氣風と極端な破壊運動とが親近な關係を有することは、我が國では見られないことであるが一般に、奴隷的服從と暴動的反抗とが同一根原から出るのと、同じであらう。かういふ状態が健全な文化の發達を阻害するものであることは、明かである。
 このことに關聯してなほ考ふべきは、既に前篇にも言及しておいた如く、すべての社會が君臣主從といふ私的個人的關係によつてのみ維がれ、また日常の生活が家族を本位とするものであり、その上に政治上では治者と被治者といふ關係によつて世が支配せられてゐるために、社會的意義に於いての公共生活の觀念が發達しなかつたことである。從つて人々の生活の根柢には一種の利己主義がある。命令と服從とによつて外面的に秩序が保たれてゐるやうには見えるが、それの無いところでは無秩序にさへなる。君臣關係や武士本位の階級制度やまたは政府の命令に權威のある間は、それでもよいが、その權威が事實上弱くなりながら、それに代るべき公共生活の精神が乏しいとすれば、國民はその利己主義を赤裸々に表はす外は無い*。金のあるものが無意味な奢侈を縱にするのも、公共事業が殆ど起らない(74)のも、この故であり、ぶちこはし騒ぎの如きものが.起るのもこれがためである。やゝ趣きは違ふが、江戸時代の名園や城池が明治時代になつて多く破壞せられ、藝術品などの散亂したのも、一つは經濟上の變動にも本づくのであるが、また一つはそれがみな私人の所有であつて公共的に利用せられなかつたからでもある。如何なる名園も城池も民衆生活とは無關係であり、如何なる藝術品も民衆の目にふれないものである以上、民衆が或はその價値を知らず或はそれに重きをおかないのは當然であつて、その破壊にも散失にもさしたる感じの無いのは怪しむに足らぬ。或はまたそれには無趣味な田舍ものや平民が急に權力を得て新時代の指導者になつた故もあるが、それもまた國民の間に趣味の涵養ができてゐなかつたからであつて、それに關する公共的設備が無いところにその一原因がある。
 人の生活に利己主義がはたらくといふことには、また物質的に抑へられた生活をするものの欲望がやはり物質的に自己を伸ばさうとする點にかゝり、それができればその點に於いてのみ自己を誇り他を遏しようとする、といふ意味もある。農民の多くが金をためることの外に考が無く、金ができれば家を建て蔵をたてることの外にその用途を知らぬのは、それを示すものである。かういふものはまたその金を得る方法に於いても不正當なことを敢てする。「奥山も博奕の世なり春の南」(一茶)、都鄙到るところに賭博の行はれたのは、多くの人の有つてゐる射倖心の發現で、心理的に考へれば冒險そのことに興味もあり、また利益の得易い境遇または時世にゐるものがます/\その利益を多くしようとする欲望から來ることもあるが、その反對に利益の得難い壊合にそれを求めるところからも誘はれるので、いはゆる「とみ」の流行は、一面の意味に於いては、多数人が物質的に抑遏せられた生活をしてゐることの反映とも見られる。さうしてそれはまたすべて物質的の榮華の生活のあこがれである。かういふ社會に健全な文化の發達しな(75)いのは當然であらう。
 更に考ふべきは、何ごとについても自己を反省し自己の現實に立脚して自己の識見を立てることができず、すべてに於いて因襲と權力とに服從してゐることである。處世の秘訣が「世の中はさやうで御座る御もつとも何とござるかしかと存ぜず」(塵塚談)にあるのも、また正當に自己を立てることの許されない世の中だからである。當時の知識社會に於いて見のがすべからざる漢字漢文の尊重、儒教道徳の盲目的尊信、またはシナ趣味、公家崇拜、或は一種の國學者的尚古思想、生氣の無い擬古的和文の製作などにも、またこの意味が含まれてゐることは、自然に推測せられる。學問についていふと、それがおのれ等の現實の生活に本づき現實の生活のためにおのれみづからが観察し思慮することではなくして、他から與へられた書物のうちに何等かの定まつた知識を求めようとすることであり、それがために學問と現實の生活とが隔離せられてゐる。例へば老農などの間に農業や水利やまたは植林やに關する或る種の知識があり、商工業者でも漁夫や舟人でも、それ/\の職業について長年月の經驗から得た貴重の知識を有つてゐるにかゝはらず、それが學問として取上げられず、學者からは全く閑却せられてゐる。前篇にも一言したことがあるやうに、地方に於ける水利灌漑に關する事業や設備には注目すべきものがあり、田中丘隅の行つた酒匂川改修の如きもその一つであるが、さういふことの成功したのは、それだけの知識と技術とを當時の人がもつてゐたからである。琵琶湖を中心として小濱と大坂とを水路でつながうといふ計畫も、單なる空想ではなかつたと考へられる(甲子夜話)。しかしさういふことは學問の世界からは無視せられてゐたのである。一般に使用せられる平易な文體があるのに、學者はそれを顧みずして漢文や擬古文を書いて得意がつてゐる。(明治時代になつてから却つて民間にも漢語が弘まり政(76)府の公文が解し難い漢文直譯體になつたのは、一つは新しい思想をいひ現はすに必要であつたからでもあるが、その主因は江戸時代の誤つた學問によつて養成せられたものが文壇にも政府にも勢力を得たところにある。)儒者のシナ崇拜が依然として存在することはいふまでもないが、文藝に於いても、馬琴を中心とする「唐山」の小説の外面的模倣や南畫といふシナ畫の擬作の喜ばれたこと、寫實の必要を主張したにかゝはらず應擧の一派が唐美人を好んで畫いたこと、その他、「唐音」の遊戯的流行など、何れも同樣の現象である。茶の湯や生花やなどに於いても、必しもその本質に關するところがあるとは見なし難い方式が機械的に守るべきものとして規定せられ、無意味の傳授が尊重せられ、骨董品に他人の鑑定が必要とせられたのも、一面の意味に於いては、これらと通ずるところのあることであつて、かういふものが自己の趣味から出たのではなく、またそれによつて眞の趣味の養はれないことは、明かである。
 また公家に關することについては、高倉家の衣紋、飛鳥井家の鞠、冷泉家の歌、四辻家の箏、などを學ぶ大名や武士が多いこと、さうしてその多くは名聞のためであり、烏帽子に紫の懸緒をかけるため鞠は學ばずに飛鳥井家の門人に名を列するといふやうな場合さへあつたこと、武家が公家と姻親を結ぶに當つて、表面上對等に待遇せられず輕蔑した態度を以て臨まれながら、なほそれを榮とし、生活費を供給してまでそれを希望してゐたこと(鹽尻、續一話一言、甲子夜話)、歌人などが往々雅樂を學び町人にすら舞樂を好むものがあつたこと(甲子夜話)、いはゆる處士または文人儒者の輩に公家の一顧を得ることを誇りとし、その門に出入して得意がつてゐるもののあつたこと、などによつて、公家貴族が門地の故で尊敬せられてゐたことが知られる。これには、彼等が一般國民から隔離せられてゐて、その實状の明らさまに知られなかつたことや、また神官僧侶盲人などは固よりのこと學者文人などでも、彼等を利用(77)して、または彼等に利用せられて、何等かの利益を得ようとする事情があつたことも、考に入れねばならぬが、その根本は一種の尚古思想にあつた。當時の人の目には彼等はなほ昔ながらの大宮人として映じたからである。さうしてかゝる意義での尚古思想は、その一面に於いてはやはり自己を反省し正當に自己を立てようとしないところから來たところがある*。
 最後に擧げねばならぬのは、かゝるシナ趣味や尚古風想やが、それ自身に不健全な一面をもつてゐるものであるのみならず、それと現實の生活とが隔離し背反してゐるために、それによつて實生活を精錬してゆく力が弱い、といふことである。そこに國民の内生活の不統一と分裂とがあるので、一方が互に他方の權威を輕蔑し否認しようとしてゐる。現實の生活に不健全なところはあるが、シナ趣味や無意味な尚古思想もまた同樣に不健全である。不健全なものが互に背反し衝突しつゝ存在してゐるのでは、國民生活の健全な發達は望まれない。幕末に攘夷論が盛に行はれるやうになるのも、やはりこゝに一由來がある。 けれども、この間にもなほ健全な生活があり、もしくは健全な精神がその内面に動いてゐることを、否むわけにはゆかぬ。制度の束縛のために人心の萎靡した傾向が國民の生活の一部または一面に見えてゐるにかゝはらず、全體としての國民の生活力は決して銷盡してゐないからである。さうしてかういふ點から見ると、當時の文化に大なる價値のあることは勿論、かの尚古思想などにも少からざる意味が生じて來る。武士にも農民にもまた商工の徒にも、その生活に幾多の缺陷があるけれども、概觀すればそれ/\の地位と職業とに應じた矜持をもちそれを保持しようとして(78)ゐたことは、既に上に説いた。このことについて前篇に述べたところもまた參照せらるべきである。また社會的經濟的意義に於いての階級といふものが存在せず、その間の闘爭といふやうなことはなほさら起らず、また國民のすべてが自由民であつて奴隷らしいものが無い、といふことは、特に注意せらるべきである。なほ上にいつたやうな不健全な氣風は、多くは都會人の生活に於いて養はれたもの、またはその一面、であるので、地方に在住する民衆の生活氣分にはそれと違つたもののあること、そこには遠い昔からの傳統的なものが保たれてゐるために、生活に一種のおちつきがあること、をも知らねばならぬ。都會の武士とても、また商家では由緒の古いものに於いても、これは同樣であるので、それは一面では、固定した制度によつて養はれまたそれと同じはたらきをする點に於いて、上に述べた不健全な生活を誘致する一つの力となつたものではあるが、それがまた他の一面では、こゝにいつたやうな效果を生じたのでもある。世を動かし人を動かすものは制度のみではなくして人であることがこゝでも重要な意味をもつと共に、傳統と日々に生活を新しくしてゆくこととは、互にはたらきあひつゝ、而もその使命を異にすることによつて、その間におのづからなる調和が行はれもするからである。或はまた知識人の抱いてゐる尚古思想とても、國民としての傳統を尊重するところに、さうしてそれが現實の生活に何等かのはたらきをするところに、意味があるのである。
 次に最も重大なる事實として、文化の上に現はれる平民、特に地方民、の力とはたらきとの著しいことが、注意せられる。社會的にも武士の特殊の地位が、事實上、斷えず平民出身のものによつて補はれてゐること、その身體にも平民の血が常に混合してゆき、彼等の健康が保たれたのもそれが一つの助けとなつたことは、前篇に既に説いたところであるが、文化上の活動が平民を中心とし平民によつて導かれてゐることも、また前篇にいつたのと同じである。(79)さうしてその平民の間に於いても、また文化の舞臺である都市に地方民が常に流れこみ、それが後から後から新勢力を樹立して代る/\先住の市民を驅逐し征服してゆくことも、また既に述べた。江戸や大吸の如き大都市の生活が活溌であり、そこに文化の花が榮えてゐるのは、この新陳代謝が旺盛であるためであつて、同じ都市でも京都の如きところは比較的それが微弱であるため、一般に空氣の沈滯を免れなかつた。これは政治的眼孔から見れば、抑壓せられてゐる平民、特に地方民、の鬱結した力を放散させる安全瓣の作用をなすものであつて、制度の維持せられ平和の保たれる一方便ともなるものであるが、事實からいふと、實質的に制度を腐蝕しつゝある平民の力の現はれである。幕府の偏固な改革者がそれを禁遏しようとしたのは、後者の危險を慮るがために前者の效果を見ることができなかつたのである。だから、よし當時の文化そのものに不健全な影がつきまとつてゐるにもせよ、またそれが都會の文化であるにもせよ、それがかくの如く平民の力によつて動かされてゆくところに、國民の健康な状態が見られるのである。さうしてこの點から考へると、文化が不平均であり田舍ものをして都會の生活にあこがれさせるのも、田舍ものの生活欲功名欲事業欲を唆る點に於ては大なる價値があり、國民全體の意氣を沈滯させない效果があるが、これには文化が都會的ではあつても決して特權階級の專有ではなく、すべてのものに向つて開放せられてゐるからであつて、そこに平安朝時代とは趣を異にするこの時代の特色がある。
 この事實を最もよく示すものは文藝學術の權威が平民の掌中にあることであつて、この點に於いては前代からの趨勢がます/\強くなつてゐる。文學についての觀察は後章に讓るが、藝術に於いてはその題材に主として平民の生活を取り、また極めて廉價な、何人の手にも入り何人にも賞翫せらるべき、浮世繪の版畫の盛に行はれたことが、その(80)平民化の最も著しい現象であるのみならず、その作者もまた、歌川國信などの二三者を除けば、殆どみな平民である。もつとも彼等が畫家として立つた時には何れも都會の住民であり、特にその題材が主として都會生活である點に於いて、さうでなければならぬのであるが、その本貫もしくは父祖の出身地は必しもさうではあるまい。たゞそれが明瞭でないことを遺憾とする。その他の畫家に地方人が多いことは勿論であり、作品の需要者もまた主として地方人の間にあるので、彼等はいはゆる遊歴によつてその生活の資を得る場合が多かつた。
 名のある學者が平民から出てゐることもまた周知の事實であり、儒者はもとより國學者でも多くは農商出身であり、その農に屬するものは多く地方人である。例へば儒者では、龜田鵬齋、冢田大峯、片山北海、皆川※[さんずい+其]園、村瀬栲亭、猪詞敬所、柴野栗山、尾藤二州、細井乎洲、松崎慊堂、國學者和學者では、眞淵や宣長をはじめとして、村田春海、富士谷成章、御杖、上田秋成、狩谷※[木+夜]齋、高田與清、橘守部、みな農商の家に生れたものであり、特にかの青木昆陽、服部蘇門、富永仲基、山片蟠桃、の如き特異の學者が江戸または京坂の商賈であることを注意しなければならぬ。もつとも醫者の經歴のある學者が多いことは前代から引續いてゐる状態であつて、儒者では、井上金峨、西山拙齋、廣瀬淡窓、旭莊、朝川善庵、などがあり、國學者や和學者では、宣長はいふに及ばず、清水濱臣、尾崎雅嘉、たどがそれであるし、天文學の麻田剛立もそのなかまに入れてよからうが、中には官醫もあつて、秋山玉山、太田錦城、などはそれである。また蘭學者に於いては一々列擧するまでもなく、官私の醫者が主要な部分を占めてゐる。が、これは、よし官醫であつても普通の武士としては取扱ひかねるものである。さうして主人もちの武士で學者になつたものは數へるほどしか無く、儒者では、中西淡淵、松崎觀海、山本北山、佐藤一齋、帆足萬里、齋藤拙堂、國學者和學者では、(81)加藤千蔭、美樹、屋代弘賢、伴信友、平田篤胤、中島廣足、鹿持雅澄、また蘭學者では山村才助、などがその主要なものである。なほいはゆる心學によつて民衆に對する教化運動を行つた石田梅巖や手島堵庵が農家または商家の出身であることは、いふまでもない。
 儒者が一とほりの修業をすると、いはゆる禄仕を求めるに汲々として爭つて諸侯に抱へられようとするのも、彼等が本來武士階級に屬しないものだからである。彼等の多數は畢竟立身の手段として學問をするので、官儒の門が繁昌するのもそのためであるが(江戸繁昌記二篇)、それは社會組織からいふと、平民から武士階級に登る道がこゝにあるからであり、學問からいふと、治國平天下を標榜するものだからである。が、よし禄仕のための學問にせよ、それは學問の權の平民にあることを妨げるものではなく、またすべてが禄仕するのでもない。必しも禄仕を求めたのではないが、上にも一言した如く、その藩侯の顧問となり或はそれに拔擢登用せられたものもある。何れにしても、大名は學識のある平民を採用しなければならなかつた。幕府とても寛政の學問振興には平民、少くとも地方人、を登用して官學の權をそれに委したのである。また禄仕の機會の少い國學和學の方面では、却つて學問そのことを目的とする傾向があるが、その代りこれには神職などの職業的關係から來るものもある。たゞ蘭學や天文學本草學などに志すものになると、大部分は純粹の知識欲から出立するので、そこに眞の學者としての權威がある。さういふ方面の學者にも新に幕府や諸大名に抱へられるものがあり、幕末になつては大名の家臣であるものが幕府に徴用せられるやうにもなつて來たが、それがまだ一般の風習とはならないため、立身の方便として廣く認められるには至らなかつた。ところがこの種の學問らしい學問をするものが武士階級、少くとも武士を本職とするもの、から出ずして、平民もしくは主(82)人もちでも醫者の間から生まれたのは、武士といふものが全體として如何に學問の發達に與ることの少かつたかを示すものである。江戸時代の後年期に於いて武士の間に學問の空氣が次第に弘まつて來たことは、上に述べたが、それは書物に親しみ知識が加はり文筆の技能をもつやうになつたといふことであつて、必しも學者として立ち學問の研究に從事するやうになつたといふことではない。
 さてこれは學者と名づけ得られるほどのもののことであるが、さういふものが多く平民の間から出るくらゐであるから、一般に書物に親しみ幾らかは學問的の事業に心をよせるものが、都鄙到るところの平民にあつたことは、自然の趨向である。田舍のことをいふと、純粹の學問とはいはれないが歌を詠み詩を作るものがかなりにあつて、遊歴の詩人などが所々で歡迎せられたのでもそれは知られる。京や江戸に出ても半途にして歸るものもあり、國學和學の方では名簿を途つて弟子となる習慣もあつて、それらが地方に學問の氣蓮を進めてゆく。が、少しでも學問に志すものは、多くは醫者や神官僧侶やまたは資産を有する農民階級のものであつて、中流以下の農民には少かつたらしい。勿論特殊の例外はあらうが、概していふとかういふ状態である。中流以下のものは學問で身を立てようとする欲望を起すには微賤にすぎ、また學問に志す便宜と餘裕と親しみとを有たなかつたからである。しかし都會では比較的身分の低いものでも書物に親しむ機會を得易いから、樣子が幾分か違ふ。身分のある市民が種々の著作をしたことは、いふまでもない.
 なほ、本居宣長、菅茶山、三浦梅園、廣瀬淡窓、などを主なるものとして、鬱然たる大家が田舍に根據を据ゑ、またそこに多くの學生を吸收してゐることも、このころの特色であつて、それには封建制度または封建的氣風ともいふ(83)べきものの影響もあり、諸藩に於ける學校設置の流行が一面の意味に於いては封建制度の賜であるのと、參照して考ふべきことでもあらうが、一方かをいふと、學問が必しも都會にのみ集中しないところに、知識が比較的廣く田舍にも普及してゐる事實が認められ、そこに國民の文化に健全な一面のあることが知られる。それほどの大家でなくとも、家塾を開いて附近の子弟を教育したり、書物を蒐集したり、郷土の地理や歴史を調べたり、または見聞を記し旅行記を書いて今日の學問的研究に必要な種々の資料を後に遺したり、さういふやうな篤志家が地方々々に少からず存在してゐた。生活のためまたは名譽欲のために禄仕しようとせず、また郷土を離れ難い事情のあるものに、かゝる人々があつたのである。さうしてそれも、身分や地位が固定してゐる社會に於いては、何ほどかの危險を冒したり制度の裏面をくゞつたりしなければ世間的な功名心を滿足させることができないため、かういふことによつて心を慰めもし力を伸ばしもしたのである。さうしてこのことからも知られるやうに、地方人の間に知識の廣がつてゐることは、幕府倒壞の時勢を導く上に種々の點から關係がある(第三章參照)。もつとも前に述べたやうな大家の地方にあるのも、また民間から學者や知識人の出るのも、關西、特に中國九州、に多く、それに比べると奥羽方面には少かつたので、そこに文野の地方的差別が幾らかは見え、概していふと東北の西南に及ばなかつたことが示されてゐる。勿論、これは民間人のことであつて、大名の家臣に於いてはかゝる違ひはない。なほ學問の中心が京坂と江戸とにあることは勿論であるが、後になるほど江戸に權威がついては來るものの、なほ京坂の勢力に確乎として動かすべからざるものがあるのは、單に舊來の因襲的勢力があるためばかりではなく、その土地が一般に知識の發達してゐるところである上に、瀬戸内海によつて京坂と密接の連絡を有する廣い地域を背景にしてゐるからであつて、江戸は政治の中心であるがた(84)めにその地位をもつてゐるのであらう。林家は勿論、順庵や鳩巣が江戸に下り、徂徠がこゝに起つたのは、直接間接に幕府と交渉のあることであつたので、さういふものの力によつて江戸の學問は盛になつたのである。眞淵が新しい旗をあげるには江戸に出てするのが便宜であることを知つたほど、江戸に學問の氣運は向いて來たが、それもまたここが將軍の居る都だからである。しかし一旦道が開けた上は、直接に幕府や大名と關係が無くとも民間にその空気は廣がつてゆき、江戸の市民をも江戸を中心とする關東地方の地方民をもその勢力の下にひきつけるやうになることは、いふまでもない。さうしてその關東地方の學問は、水戸のやうな封建君主の特殊の事業があつてそれによつて刺戟せられてゐるところは別として、それの無いところでは江戸と交通の便宜のある地方が最も發達してゐるらしく、下總地方にかなりの學者ャ文人が輩出したのも、利根川の水運によつて江戸と密接な關係があつたからのことらしい。從つて江戸の勢力範圍に屬する地域は割合に狭少であつて、北陸方面なども一般文化と同じくやはり上方の系統に屬する。これは海運の關係と宗教上の連絡のあることとの故であらう。また天文學とか物産の學とかに志すものが、例へば麻田剛立、間長涯、橋本宗吉、木村孔恭、などの如く、或は大坂で生活し或は大坂の商家に生まれ、蘭學の一つの中心が大坂にあり、西洋の知識を吸收して新意見を立てるものが江戸よりは上方もしくは九州に先づ現はれたことは、交通の便がよくして長崎と密接な接觸を有つてゐる土地だからである。儒者に於いても、當時の京坂には竹山履軒兄弟あり※[さんずい+其]園あり栲亭あり山陽あり後素あり、和學者にも成章御杖父子あり、幾多の詩人や歌人と相呼應して當時の學界を風靡してゐたのである。但し大坂で※[酉+媼の旁]釀せられた朱子學が寛政時代に江戸を壓倒したのは、政治的改革に伴ふ特殊の現象であるから、論外とすべきであらう。また繪畫に於いて圓山派四條派がこゝを根據とし、南畫が特にこの方(85)面に行はれてゐたことは、いふまでもない。これらの事實もまた、幕府の衰亡にも幕末明治の新文化の開發にも重大の關係があり、江戸の財權を上方人が握つてゐることとも相應ずるところのあるものである。
 さて文藝學術の中心もしくは指導者が平民にあるといふことは、疑の無い事實であるが、しかしこのころになると、武士の間にも漸次それに追從するものが多くなつて來た。武士としてなすべきことの無い平和の世に於いて、世俗的遊樂に親しむことのできないものまたはそれを好またいものが、世間一般の気運に導かれて、力を用ゐる方法なり消閑のよすがなりをこの方面に求めて來たのである。昌平黌の改革や文化文政ごろに連りに行はれた諸藩に於ける學校の設立、書物の出版、またはシナの圖書の購入、などは、本來の主旨は儒教的教化主義にあつたけれども、現實の效果は武士に文字の知識を與へた點にあり、さうしてそれも、一つはこれらの事業が上記の氣運に順應して起つたからである。昌平黌については、賄賂以外請託以外の方法としで官途に身を立てる一つの道がそこに開かれた、といふ事情もある。もつとも、上にもいつたやうに讀みもしない書物を懷にするものや、「上學則上、從師則從、還是進取之階梯、不過籍以粧外面、」(江戸繁昌後記)といはれるやうなものもあつたには違ひないが、さういふもののみでなかつたことは、幕末に活動したものの中に昌平黌出身者の少なくなかつたのでも知られる。諸藩の學校とてもほゞ同樣である。なほ上にもいつた如く身分の高い武士、特に大名に於いても、著述や編纂をなし得るほどの學力あるものが現はれた。しかしかういふ大名なども學問文藝については直接間接に學者たる平民出身の家臣の教をうけ、處士や平民の學者と交つてその學業を進めもしたのである。しかしその多數は學問といふよりもむしろ一つの趣味として書物に親しんだのであるから、詩文でも作るといふやうな方面に主なる力が注がれた。眞淵や宣長などの門人にも武士が少なくなか(86)つたが、それも學問の途に進むよりは歌を學ぶものが多かつたらしい。しかしこれとても、武士に狂歌や小説の作者が現はれ畫家の門人になるものなどが生じて來たことと共に、文藝や學問が國民の何れの階級にも普及するやうになつたことを、示すものである。當時の文藝に貴族的と平民的との差別が無かつたことは、前篇にも述べておいたが、浮世繪などの最も平民的な藝術が上流階級にも喜ばれたことは、後にいふ平民文學が武家貴族に愛翫せられたと同じであり、同時に擬古的の、またはシナ文藝の模倣たる、和歌や漢詩や繪畫やが一般平民の間に廣く行はれ、その指導者たる歌人や詩人やまた幾多の畫家がみな平民であることも、後にいふとほりであり、能なども武家の式樂たるのみではなく、大坂に能の常舞臺があり勸進能も催されたことが、それを示してゐる。かくの如く、文藝に階級的區別がなく、平民の間に發達し平民によつて指導せられた文藝が上流社會を支配してゐるところに、江戸時代の文化の健全たる一面があり、さうしてそれは、明治時代に於いて文化の一般に普及するやうになつたことの歴史的由來をなすものである。な壮この意味からいふと、大名が表面上卑しめられてゐた俳優などに交はるやうなことも、事實の上で階級の差別を幾らか緩和してゐる點に於いて、嘉すべきことであつた。
 次に一言すべきは、全國にひろがつてゐる神職僧侶などのことである。彼等の學問そのものには大なる債値が無いにしても、その職務のために文字に親しんでゐることが、一般國民の間に學問の空氣を作つてゆくことに少からざる關係があるのみならず、たまには彼等の間から世に知られた學者を出してもゐる。儒者としての安積艮齋、和學者としての藤井高尚、足代弘訓、語學者としての義門、慈雲、などがその著しいものである。(一般の文化と大した接觸のない佛教内の學問は且らく問題外とする。)特に彼等の地位職務の上から京の土地及び公家貴族と密接の連絡のある(87)ことが、京と地方と、公家と民間人と、を結びつける重要なる役めを演ずることになり、尊王論の流行するやうになるとそれにつれて一種の思想上の色彩がそれに施されることにもなるので、前にも述べた公家と民間處士との關係と相伴ひ或はその一部分となつて、幕末にはそれに政治的意味が加はつて來るのである。こゝにもまた文藝學術の普及と幕政の崩壞との間に一脈のつながりのあることが示されてゐる。
 公家の階級それ自身の學問については、概していふとその地位を保つための因襲的知識を纔かに傳へてゐるに過ぎないのであつて、その地位が國民から隔離せられてゐると共に、その知識もまた國民とも實社會とも接觸の少いものであつた。舊慣に從つて日記などを書いてはゐても、たゞそれだけのものである。天明のころに高辻胤長が學校を建てようとしたといふのも、家學を傳へる計畫であつたらしいから、よし實行せられたとしてもそれにどれだけの社會的效果があつたか、甚だおぼつかない。天保末の學習院設立は、後にいふ中井竹山などの意見との連絡もあつたらうし、全體からいふと儒教式名教主義に由來するところもあつたらうが、それにはやはり民間の處士を登用しなければならなかつた。彼等が政治上社會上の現實の問題についての知識を殆どもたなかつたことは、幕末に至つて明かに世に知られるやうになつた。もつとも世間で尊王思想の高まつて來たのに刺戟せられて、幾分か彼等の地位を省るといふ傾向が生じないでもなかつたらしい。かの竹内式部事件の如きは別問題であるが(第二十二章參照)、柳原紀光の續史愚抄、裏松光世の大内裏圖考證、または一二の樂家の樂道類聚や樂家録の編纂なども、古典古史の研究、奮儀の復興、などに促された點があるかも知れぬ。また彼等の中には、民間の學者や歌人詩人やに交はり、宣長の上京した時にその講義を聞くなど、世間の新しい學風に觸れたものもあるので、それは文藝學問の權威が民間にある限り當然の(88)ことではあるが、しかしそれとても、多くはかりそめの物ずきに過ぎなかつたらしく、それによつて彼等の社會に何等かの新氣運が釀し出されたやうには見えぬ。彼等が西洋から傳へられた新知識を受け入れなかつたことは、勿論である。要するに彼等の知識は概觀すると、當時の國民文化の上に寄與するところの少いものである。彼等が世間に何等かの影響を及ぼしたことがあるとすれば、それは彼等自身の學問などではなくして、彼等が接觸した地方人民間人のしごとによつてであるから、こゝにも國民の精神生活の中心が民間にあるといふ事實が示されてゐる。昔の戰國時代に諸國に流寓してゐた公家が、それ/\の地方に京の文化を植ゑつけ古典時代の遺風を武士の間に傳へたとは違つて、このころには京にゐる公家が、地方人民間人の力によつて、間接に幾らかの文化上のはたらきをなし、或はむしろそれによつて彼等自身の存在を世に示したのみである。さうして公家貴族はいふまでもなく、高貴の御身でも、なにがしの法親王がしば/\蘆庵を訪問せられた如く、文藝に關しては社會的地位の高下にかゝはらぬ態度の取られたことが、少くとも一つの美風として注意せらるべきである。
 さて平民はいふまでもなく、武士にしても神官僧侶の輩にしても、彼等の間に知識がこれだけ普及せられたといふことは、各地方の間、特に京坂または江戸と地方との間、の交通が便利になつてゐたからであつて、一般的にいふと、商業上の取引、及び宗教的信仰から來る神社佛閣と國民との關係、また寺院の系統が全國にわたつて組織だてられてゐること、參覲交代の制度及び江戸に諸侯の邸宅があることが、その主要なるはたらきをしてゐるし、幕府の直轄領及び旗本の采邑が各地に散在するのも、この意味に於いて江戸と地方との連絡を助けてゐよう。またいはゆる文人墨客俳諧師の遊歴や俳優などの地方巡業もそれを助けてゐる。都會藝術である浮世繪に廣重が一新生面を開いたのも、(89)このことに關係があり、一九の遍歴小説の書かれたのもそのためである。封建制の世でありながら、かういふ状態で國民の神經系統ともいふべきものが全國にゆき渡つてゐることは、取りも直さず文化が國民的になつてゐることを示すものである。勿論、今日に比べて見ればこの交通状態の幼稚なことはいふまでもないが、當時に於いて全國民の間にこれだけの連絡のあつたことは、看過すべからざる事實であつて、それが冥々の間に封建制の精神を弱めてゆく作用をなしてもゐ、幕末の政治運動が全國に擴がつたのもこれがためであることを、想起しなければならぬ。
 次には學問と藝術とに新要素が加はり新傾向が現はれて來たことが注意せらるべきである。その最も著しいのは蘭學者によつてヨウロッパ人の學問の傳へられたことであり、よしそれが知識社舍の極めて狭い部分に於いてであるにせよ、それによつて世界的性質をもつてゐる、また從來の學風とは全く異なつた、實證的な學問の存在が知られたのであも。國學の勃興とても、よしその尚古主義や國自慢や一種の神道的教説やに空疎な病的な點が甚だ多く、それが世人を誤まつたことは儒教の學と同じであるにせよ、我が國、自己の國、といふ觀念を知識人に強めさせ、またシナ思想の桎梏を排除しようとしたことが、幾らかなりとも人の知識を現實の生活に近づけた點に於いて、意義の深い文化運動ではあつた。西洋傳來の知識と反シナ思想とは往々結合せられたので、後にいふやうにそれは學問文藝の上にもその他の文化上の活動にも現はれてゐる。なほ國民藝術として浮世繪に重大の意味と價値とのあることは、いふまでもないが、我が國の風物、日常生活に親近な光景、を題材とすを點に於いては、四條派にも幾分の資格がある。國學者的尚古趣味に誘はれて田中訥言や浮田一宸ネどの試みた一種の擬古畫にも幾らかの意味が無いではないが、たゞこれは當時の國民の實生活とは交渉の少いものであることを否み難い。総じて書物の上の知識によつて導かれたもの(90)でなくして國民の實生活から生れたものには、ともかくも生氣があり新しみがあり、作者もその個性を作品の上に表現する。さうして、さういふものの生じたのは、やはり國民がその健全なる精神を失はなかつたからのことと見なければならぬ。心學の書物はいふまでもなく、一部の禅僧の作にさへ、口語を用ゐたもののあることも、また同じ意味に於いて注意を要する。
 更に附記すべきは、藝術でも學問でも、流派もしくは學派の混和せられる傾向のあることである。浮世繪の作者が花鳥や風景をかくには狩野派などの手法を取入れ、オランダ畫から幾何學的遠近法を學びもしたし、詩の作者で歌を詠むものも現はれる。なほ村田春海や萩原廣道の如く和學者が小説を作り、または馬琴や京傳の如く小説家が學究めいた著述もする。和學者でもなく儒者でもなく雜學者といはれたものの多く出るやうになつたことも、このことに關聯して注意しなければたらぬ。一方では流派を嚴守し門戸を堅く守つてゐるものがあると共に、他方でかういふ傾向の生じたのは、單に流派の桎梏を脱しようとしたといふばかりでなく、學問や藝術を實生活に近づけまたはそれによつて自己の個性を表現しようとしたからのことであつて、そこにかゝる現象の文化史上に重要なる意義が認められる。心學などもこの點に於いては或る價値を有するものである.
 なほ他の方面についていふと、諸藩の事業として或はその保護の下に、種々の生産業の起つたことも、また同じ意味に於いて考ふべきことである。よしその直接の動機は大名の財政救治とその家臣の生活保護とにあつたにせよ、また國によつては當事者の無理解なために十分の效果を奏しなかつたことがあるにせよ、ともかくもそれが國民經濟の發達に少からざる貢獻をしたこと、また明治時代に至つて大に發達した諸種の産業の基礎となつたこと、は明かな事(91)實である。さうしてそれが、一面に於いては封建制度の賜であると共に、他面に於いては前に述べた如く封建制武士制の精神に背くものでありそれを變質させてゆくはたらきをもつものである點に於いて、特殊の意味を有つてゐる。或はまた江戸に於いて男色の如き戰國的惡習が漸次減退したことや(塵塚談)、かの敵打の減少や、また殺伐な氣風が幾らかなりとも薄れて來たことやが、世の進歩であることに疑は無からう。
 ところで、これらの健全な状態はおのづから、停滯せる文化の内部に於いてその停滯を破つてゆく新しい活動、もしくはそれを誘致するもの、でもある。文化の不健全な點は、封建制や武士制や鎖國制から來たところのあるものであると共に、その制度を内部から徐々に腐蝕してゆく用をするのであるが、健全な方面もまた、これらの制度によつて生じたものであると共に、その精神とは背反する性質をもつてゐるもの、從つておのづから制度をその内部から徐徐に變革してゆく道を開くものである。さうしてそこに、人を羈束するのみのものではない制度のはたらきがあると共に、制度を外部から崩さうとせずして内部から變質させてゆく人の力の現はれがある。如何なる制度にも缺陷の無いものはなく、從つてそれから弊害の生じないものはないので、それは一つは、その制度の形成せられた時の特殊の事情がその内面にはたらきそれを規制してゐるため、一つは、人の智力には限りがあつて人の要求のすべてを滿足させるやうな制度は本來案出し得べからざるものであるため、特に時勢が如何に變化してゆくか、斷えず新しく生じて來る人の要求の如何なるものであるか、を豫知することができないためである。たゞその本質として人間性のはたらきを制約または抑壓するところのあるものでありながら、一面に於いてその新しいはたらきを生み出すことのできる制度は、國民生活の歴史的發展の徑路に於いて價値の高いものであるとしなくてはたらぬことを、考ふべきである。
 
(92)     第三章.文化の大勢 下
 
       新氣運の萌芽
 
 前二章の所説には既に前篇に述べたのとほゞ同じことをいつたに過ぎないところもあるので、時には重複と見らるべきことさへも無いではない。が、これはこの篇の起首にいつておいた如く、國民の生活状態そのものがさして違つてゐないからである。世の中が新しい觀察を向ける間隙が無いほどに固定してゐるからである。目だつほどな事件も起らず、人の耳を驚かすやうな變動も無い。いはゆる昇平の三百年は即ちこれを指すものに外ならぬ。讀むことに倦むやうた無事の歴史を有つてゐる國民が果して幸福であるとすれば、徳川治下の日本國民は世界に類の無い幸福を享受したものといはねばならぬ。これは必しも、皮肉や反語とばかり見ることはできぬ。一面の意味に於いては、滿洲人に蹂躙せられたり太平天國の擾亂にあつたりしたシナ人、バスチイユの破壞ナポレオンの騷ぎを見たヨウロッパ人の、夢想だもすることのできなかつた安らかさとおちついた氣分とを、當時の日本人は味ひ得たのである。政治らしい政治が無かつたにかゝはらず、世の治安が保たれてゐた點だけに於いても、徳川氏の世を謳歌すべき一面の理由はある。のみならず今日から考へても、長い戰國時代の紛亂と動搖とを靜止させて世を秩序だて、それによつてかゝる平和をかためることのできた、封建制度と武士制度とは、その意味に於いて讃美せらるべきものであつた。さうしてそれによつてともかくも日本に特殊な文化が發達し日本人に特殊な生活氣分も養はれた。
 しかし、生きてゐる人は死んだやうな平靜の空氣を永く呼吸するには堪へられぬ。新しい刺戟が断えず起つて來な(93)くては生きてゐる感じが無く、生きてゐるに堪へられない倦怠があるからである。だからそこには却つて平和の重苦しさがある。さうしてそれは平和が長く續けば續くほど抑壓の度を増して來る。だからこの倦怠を破るために何等かの刺戟を何處かに求めようとする。市井の瑣事が大げふに物語られたり、因幡小僧鼠小僧の輩が大英雄であるかの如くに傳へられたりするのも、一つはこの故であり、風俗上の流行の變遷が激しくなるのも、同じところに一理由がある。或はまた強ひて事を起し、みづから作つた刺戟にみづから反應することによつて、纔かに生きてゐることを自覺しようとする。正月とか節句とか祭祀とか盆踊とかいふ年中行事が甚だしく重んぜられ無上の樂事とせられるのも、またその根柢にかういふ希求が潜在してゐる。特に公衆的性質を帶びたものになると、それが催眠術的暗示の如きはたらきをして、多數人の間に急速に傳播し、それがまた交互に刺戟と反應とを錯綜させる。江戸人が祭禮のために相競つて金錢を浪費するのも畢竟こゝから來てゐる。或はまた盆踊の盛な有樣を見るがよい。「細腰の法師すゞろに踊りけり」(蕪村)、「泣くなとて母が踊るや門の月」(一茶)、世捨て人も踊り人の母も踊る盆踊が年の若い男女を浮き立たせたことはいふまでもないので、「盆のお十六日踊らぬやつは木佛金佛石ぽとけ」であり、「五十年踊る夜もなく過ぎにけり」(一茶)とかこたるゝ身は生きがひのない一生と思はれたであらう。「踊れや踊るぞ踊らにや損ぢや、踊る阿呆に觀る阿呆、同じ阿呆なら踊るが得ぢや、」(天言筆記)といはれ、老若男女一斉に氣の狂つた如く踊りまはつたといふ天保の京の蝶々踊のやうな騒ぎが突發するのも、向じ理由からであり、お蔭まゐりとか田舍のお鍬祭りとかが暴風の如くに世間を荒しまはるのも、一つの動機はやはりそこにある。しかし、こんなことでは一般の世の單調を破るにはあまりに力が弱い。年が經つに從つて人は漸く太平に厭いて來る。さうして何ごとか變動の起らんことを期待(94)する情が、隱約の間に動いて來る。斷えず起つて來る小さい刺戟に反應してその日その日の耳と目とを動かしてゆくことのできる都會人はともかくも、それができない田舍人に於いてはなほさらである。田舍にも知識は普及してゐる。さうして田舍ものはそれによつて種々の示唆を受け、またそれによつて世間を見ようとする。人によつては、じつとしてゐられないやうな氣分が胸の底のどこかの隅に動いてゐるものもあつたらう。戰亂の世のさまを敍した太平記を讀んで感奮したといふ高山彦九郎の脈管のうちには、かういふ衝動によつて沸かされた血潮が泡立つてゐたに違ひない。王朝の制度典章に心を傾けた蒲生君平についても、同じことがいはれよう。「丈夫生有四方志、千里劍書何處尋、」(君平)、彼等が天下を周遊したのは、封建の藩籬に拘束せられない平民であつたからでもあるが、その心情にはかくの如きものがあつた。山縣大貳にも竹内式部にもそれが無かつたとはいはれぬ。さうしてそれは、太平のために抑へられてゐる浪人氣質の一角とおのづから融け合ふ性質のものである。勿論それが定まつた形をとつて現はれるまでには、かなりの時間を要する。いはゆる寛政の治は一時知識人の目を眩ました。次いで文化文政の文恬武煕時代が來た。世はます/\太平である。表面から見れば不穏の脈搏などはどこにも認められぬ。しかし太平が績くに從つて倦怠の感はいよ/\強くなる。人は何時までそれを忍び得るであらうか。
 そこにはまた別の問題がある。江戸の文化はいはゆる大御所時代に於いて爛熟の極に達した。さうしてそれから放たれる腐臭が全國に瀰漫した。封建制も武士制も、その病毒が骨髓を冒してゐることを、心あるものはうす/\ながら感知するやうになつて來た。よし明らさまには意識せられないまでも、漠然たる不滿の情がこゝかしこに動いてゐる。さうして不滿の情にはかならず不安の念が伴ふ。もはや陳套な學者の生ま温い改革論を繰りかへしてゐる時勢で(95)はない。改革の要求は書齋から世間に現はれて來る。理説から激情の動きに移つて來る。「春曉城中春睡多、遶檐燕雀聲虚弄、非上高樓撞巨鐘、桑楡日暮猶昏夢、」(洗心洞詩文大鹽後素)。人は既に心耳に警鐘の響くを聞いてゐるではないか。水戸や長州や松代*の改革は、否、水越の改革すらも、その一半の意味に於いては、何等かの經綸を抱いてゐるものや守舊主義者たる官憲やが、その響に應じて立つたものである。が、それにもましてなほ昏夢の裡にあつた多數人の耳を驚かしたのは、かゝる詩を作つた洗心洞夫子自身の警鐘の亂打である。梁川星巖はそれを許して「清平有事是天警」といつた。勿論、天警と聽いたのは特殊の知識人のことであつて、一般の民衆はさうではない。事件そのものは、無思慮、無計畫、かゝることによつてかゝる民衆を動かし得ないことに氣のつかなかつたほどに、輕率な暴動の企てに過ぎなかつた。それに應じそれに續いて起つやうなものは、どこにも無かつた。けれども事を企てたものにとつては、それが抑へても抑へきれない癇癪玉の破裂であつたと共に、知識人をそこまで追ひこんだところに時弊の重大さがあつた。或はそれによつて暴動者自身のうさはらしができたと共に、傍觀者は少しく倦怠の氣を慰むるを得た、ともいはれようか。世間の空氣はそろ/\勤搖し初めたのである。
 更にそれを刺戟するものがあつた。對外聞題が即ちそれであつて、時々海上に奇怪な姿を現はす黒船の帆影は、ヨウロッパ人に對して傳統的に猜疑心をもつてゐた武士の目には、彼等の包藏してゐる異心の表現として映じた。のみならず、天明寛政文化のころには既に北門の警報が傳へられ、ロシヤ人の騷擾が現實にも起つたほどである。長崎にはイギリス船の闖入事件が生じた。日本を窺※[穴/兪]するものは到るところにあると考へられた。その騷ぎは一たび鎭靜したが、天保のころになると、鴉片戰爭の噂がシナ人やオランダ人によつて傳へられたのみでなく、ヨウロッパ人の東(96)方侵略の一般的形勢が次第に知られて來た.日本は戒心せざるを得なくなつた。國民には今や胡元十萬の兵が海を壓して押しよせて來た文永弘安の昔と同じやうな境地にゐるとさへ思はれた。この危惧の念が期せずして國民の心情を緊張させたと共に、それがまたおのづから、太平の惰眠を破るやうな事件の起るのを期待してゐるものには、天の與へた絶好の機會として感ぜられた。鐘のねならね巨砲の聲が大洋の上から響いで來るのを「求めても無き日本國中のよきお目ざまし」として聽かうとするものは、必しも夢々物語の著者ばかりではなかつたのである。
 けれどもやはり武士の世である。彼等の倦怠を破る唯一の方法は刀の鞘を拂ふことである。彼等が當時の人心に腐爛の氣を感ずるのは、文弱だといふ點にあるではないか。「寧得武愚譏、恥爲丈弱人、」(藤田東湖)。外人に對する危惧の念を掃ひ去るのが武力であると考へられたことは、いふまでもない。「竊祝干城藩翰任、遮莫擧世醉管絃、聞説君新鑄十二支砲、達發何不驚彼長夜夢、」(呈松代侯詩東湖)。目ざめたる諸藩の改革が武備に集中せられることは當然である。骨格や臓腑の名を知るに努力してゐた蘭學者は兵書の翻譯に心を向けねばならぬ。長崎の町年寄も伊豆の代官も兵術の師範や武器製造の技師となる。享保や寛政の武藝奬勵は將軍のお慰みか宰相の道徳的教訓かであつたが、天保以後になると現實の必要から生じた國防思想によつて根柢づけられて來る。もはや鷹狩で武を練るといふやうな時節ではない。ともかくも大砲が曳きずり出されるやうになつたのである。
 しかし外寇は當時の日本に於いては一種の幻影であつた。元兵はどこからも攻めよせては來ない。太平洋の波は依然として穩かである。だからさういふ危惧に深く國民を動かす力は無かつた。が、それでも一時的に人心の倦怠を破る效は確かにあつた。のみならず、それにょつてヨウロッパ傳來の新知識の必要が、少くとも軍事の上に於いて、痛(97)切に感ぜられ、またそれが武器製造の上に實現せられたのは、文化史上重要な意味のあることであつた。大砲の鑄造はこの新知識のおかげではなかつたか。大砲のみではない。諸藩に於いて蘭學者を抱へることの漸次流行しかけて來たのは、西洋の天文學や地學を好んだといふ寛政文化のころの二三大名の物ずきとは違つて、それに實用上の何ものかを期待したからである。さうして學問がかゝる意義での實用を目あてとするものとなつた點に於いて、儒者の主張した學問の名教主義が一轉化の機運に向つたことを示すものである。そればかりではない。かういふ蘭學者の招聘は、人物經濟の上に於いて、封建割據主義と世襲的武士制度との精神が維持せられなくなつたことを語つてゐる。新知識の需用が盛になりそれによつて新事業を起さうとする企圖の生ずるに從つて、この趨勢はます/\強くならねばならぬ。實をいふと、幕末に至つて第一の緊要事とせられた西洋式海陸軍の編成が最もよくそれを證するものであつて、國防といふことが考へられヨウロッパ風の武器武術や軍隊組織を學ぶ以上、封建制度と武士制度とは到底それに適せないのである(第二十二章參照)。さうしてそこに國家の新しい統一と階級制度の打破との新氣運が、冥々の間に既に動いてゐるのである。
 そればかりではない。一旦動き初めた人心は、更に何れかの方向をとつてその波動を傳へてゆかうとする。さうしてそれを刺衝する問題が幾つもある。いはゆる尊王論もその一つであつて、それが對外問題と畸形な連結をつくつて現はれたのが、水戸に中心を有する尊王攘夷論である。後にいふやうに、尊王思想は政體の變革、幕府政治の顛覆、を主張するものではなく、一般の傾向としてはむしろ幕府政治と調和し得る見解であり、或はまた幕府政治を支持する根據ともせられたのであるが(第二十二章參照)、政權の本源が皇室にあることを強調する以上、時勢の趨向によつ(98)ては、それから倒幕論が展開せらるべき素質を有つてゐるのみならず、故らに尊王といふ語を標榜するのは、無意識ながら幕府政治の思想的基礎に對する不安の念が當時に潜在することを示すものであると共に、それによつて世を動かさうとすることを語るものであり、さうしてそれは政體の上に何等かの變改の齎らさるべきことを、やはり無意識ながら、豫想してゐるものである。ところが、思想を以て世を動かさうとするものの生じたのは、我が國の歴史に於いては一種の新しい現象である。公家の權が武家に移つても、北條が足利となり豐臣が徳川とたつても、或はまた治平の世に戰亂が生じ戰亂が極まつて治平に歸しても、それは或は權勢爭奪の結果であり、或は自然に展開せられた大勢の推移である。その根柢には無意識の間に存在する國民の要求があるにせよ、意識せられた思想上の運動によつて時勢を導かうとしたのではない。ところが、長い間の平和とその間に於ける學問の發達とは、國民の間に一種の知識階級を成立せしめ、さういふ知識階級の間から、これらの思想上の運動が現はれて來るやうになつたのである。よしその世に現はれた動機がどこにあるにせよ、また時勢の展開と共に不純の分子がそれに加はつて來るにせよ(第二十二章參照)、思想は思想として取扱はれねばならぬ。さて既に思想上の運動となれば、それは一般國民に共通の問題であり、封建列國の藩籬をも武士とか百姓町人とかいふ階級の差別をも超越したものである。だからこゝにもまた封建制度と武士制度との崩壞に向ふ機運がある。事實、知識階級を形づくるものは武士よりは平民もしくは平民出身のいはゆる處士が主であり、また武士の思想はおのづからそれ/\の從屬する藩國に拘束せられ、また彼等の地位にはそれ/\の任務があり彼等の言議には責任が伴つて來るために、純粹な思想問題として廣い天下のことを考へる餘地も少く、またそれを囘避する傾向もあるから、いはゆる天下國家のことについては處士横議の風が盛になる。藩士とて(99)も全くそれに關與しないではなく、特に江戸在住もしくは在勤の諸藩士が互に交つて國事を談ずる場合もあり、大名でも松代侯が東湖を引見したやうな例もあつて、さういふ風習は漸次盛になつてゆくのであるが、概していふと行動の自由な處士が言論界の中心である。幕末に至つていはゆる志士の運動に加はらうとするものが往々脱藩するの已むなきに至つたのも、同じ理由からであつて、こゝにもまた國民的運動と封建主義及びそれに從屬する武士の地位とが兩立し難いことを示す一現象がある。處士横議はもとより知識が開け學問が發達すると共に早くから生じて來た現象であつて、學者の政治論も多くそれに屬するが、世間全體の調子が平静である間はその所説もおのづから温和であつて、概していふと當時の政體を是認する根據の上に立つてをり、よし現状に滿足せずしてその變革を思ふものがあつても、それは漠然たる夢想か單純なる感情の現はれかに過ぎず、世間に於けるその反響も弱かつたけれども、人心が動いて來ると、それが現實的意味を帶びた國家經綸の策または制度變更の要求となつて現はれ、その調子も強くなりその反響もまた聲高くなるのである(第二十二章參照)。人心の趨向が何ごとかの異變を期待するやうな時節に於いては、なほさらである。が、これは社會を固定させ既定の秩序を維持してゆかうとする幕府政治の根本方針に背反するものであつて、それが甚しくなることは、即ち幕府の權威の減退を示すものに外ならぬ。
 事實、天保のころになると、幕府の威力の衰へが機微の間に現はれて來てゐる。享保度の上ゲ米が、よし一時のこととはいへ、無難に實行せられながら、天保度の江戸大坂十里以内收公の令が撒囘せられたのも、その一例であり、 鍋島家から松平の稱號の返上といふやうな騷ぎの持ち上がつて來たのも、一旦發令した大名の所替を中止しなければならなくなつたのも、水越の出る前後に於いて、幕政の破綻の現はれが單に財政の點にとゞまらなかつたことを、示(100)してゐるものとも見られよう。もつとも柳澤や田沼の失脚も、一つの意味に於いては、幕府の政策に對する不信の聲の反響であるし、改革といふことの行はれたのがそも/\幕府みづから前代の政府の政策を破棄したものであり、さうしてそれにはやはり間接に國民の力が與つてゐる。のみならず農民がかの百姓一揆を起すやうなことさへあり、それは明君といはれた吉宗の時代から特に多くなつてゐる。けれどもそれらは上にもいつた如く、みな一時的地方的の騷擾であり、また多くは代官などに對する不平の現はれでもあつて、當時の制度や幕府の權力そのものはそれがために何の動搖をも生じなかつたが、天保度に起つた上記の事實はそれとは違つて、後から囘想すると、幕府の運命のそろ/\ゆきつまつて來たことがそれによつて暗示せられたやうに見える。天保の改革そのことがまた幕府の權威を損つた一大事情でもあるので、できないことを強ひてしようとする改革が事實上幾度も失敗して來た上に、更に一層強くそれを行はうとすることは、その失敗を一層大なる程度に於いて反覆するものであることが、明かであり、一囘ごとにその失敗を嘲笑する聲も高くなつて來るのである。さうしてそれは國民の上に加へられる幕府の壓力にもおのづから限界のあることを示したものであると共に、一面から見ると、さういふ事實の起つたことに一般の人心が動き出さうとする時勢の趨向と相關するところがある。對外關係の同じころから切迫して來たことも、偶然たがら時を得たものである。
 しかし、當時に於いて人心が動搖し初めたといつても、それは決して下級武士の上級武士に、或はまた平民の武士に、對する反抗ではない。概観すれば思想界の中心人物は多くは民間の處士であり、武士があつてもむしろ下級のものであつたが、これは識見ありまた意氣あるものが武士に、特に上級武士に、少かつたからである。だからそれが、(101)事實上、當時の社會組織の精神を薄弱にすることにもなつてゐたし、また處士横議の風の起つたことには、爲すことあらんとするものが固定した制度から生ずる抑壓と倦怠とに堪へなくなつた、といふ事情もあつたらうが、さればとてそれは制度を破壞せんとするものではなかつた。或はまたこの動搖は社會的經濟的意義に於いての階級闘爭といふやうな事態が生じたことを示すものではなく、さういふやうな情勢はどこにも見られなかつた。時々勃發したぶちこはし騷ぎの如きも、特殊の事情の下に於いて米の無いものが米を有つてゐるものまたは米商などに對する一時的憤懣の現はれに過ぎない.貧者の富者に對する漠然たる反感は固より存在したので、義賊といふやうな名の生じたのもそのためであるが、それはたゞそれだけのことである。さうしてこのことは、政治上外交上の問題で人心が動搖するやうになつても、さして變化せず、時勢の動きもそれに對して大きな影響を與へなかつたのである。
 事實、當時の政治上の論議は社會間題經濟生活の問題とは殆ど交渉が無かつた。問題は抽象的な名分論や漠然たる對外的態度についてであつて、すべての耳目はそこに集中せられ、國民生活に切實な經濟問題などは概ね閑却せられてゐた。後にいふやうに、長い間の學者の机上の論議の種であつた貧農救濟のことすらも、徒らに調子の高い、思想の粗大な、尊王攘夷論などに壓倒せられて、このころでは忘れられてゐたやうである(第二十二章參照)。後のいはゆる明治維新が、政治形態の變改もしくは政權掌握者の移動ではあつても、社會の改革ではないことを考へるがよい。
 幕府や諸藩の財政の困難はあつても、それがそのまゝ國民經濟の窮迫ではなかつたのと、民衆の態度が上記の如きものであつたのと、のためであらう.貧農救濟の必要は何人も感じてゐたけれども、救濟は爲政者の心術態度によるとせられてゐ、さうして爲政者に對して要求せられる重大問題は別に生じてゐたのである。名主官藏が嘉永三年に「お(102)上樣の御政事是迄の趣にては無事治り行候義有之間數奉存候」と、農民に對する官吏の態度を非難して、幕府の權威の存續に大膽なる疑問を投じたのも、畢竟一種の悲憤の言に過ぎず、そのいふところは要するに仁政を希望することであつたらしいことが、注意せられよう。
 しかし政治の方面に於いても、民間處士の論議には實行力が伴はない。さうして實行力の伴はない論議は、おのづから感情に流れ矯激にはせる。思想上の問題とても、或は何ごとにか激するところがあつて、或は黙して已むことのできない内からの衝動から、人の心に生ずるその時々の社會状態の反應がかういふ形をとつて世に現はれるのであるから、それには本來感情の分子が潜在してゐるが、實行を期する思想に於いて實行する方法も力も無い場合には、それが一層感情的になるのは自然の勢である。と同時に、やはり實行を所期する。是に於いてか、彼の處士の輩は諸藩の力をかり武士の力をかりようとする。ところがさうなると形勢は逆轉して、長い間の平和に漸次沈靜して來た戰國割據主義の復活を誘ふ。功名心を生命とする、或は殺伐な、血を見ることを好む、また或は詭計謀略を事とする武士氣質の再燃を導く。或はまた彼等は※[夕/寅]縁をたよつて京に集り公家貴族などを動かさうとする。尊王論はこの運動に好辭柄好機會を與へたのであるが、達識をもたない公家貴族のうちには、世が急に承久建武の昔に返つたかの如く考へ、忽ち彼等に乘ぜられるものがある。延いては京に勢力を扶植し、信長や秀吉の故智を學ぶことによつて幕府や列藩に臨まうとする大名も生ずる。かくの如くにして日々に混亂に向ふのが幕末の状態である。さうしてこれらの現象は、前章に説いたやうな文化状態の自然の成り行きであり、更におしつめていふと、封建制と武士制と鎖國制と保守主義固定主義と、並にそれによつて維持せられて來た約二世紀半の昇平と、によつて培養せられながら、その間からそれ(103)に反對する精神を柞り出した國民の生活力の現はれである。
 
 要するに、戰國主義に基調を置いてゐる幕府の政治とその基礎をなしてゐる諸制度とは、上に考へた如く、一方では國民の活動を羈束して來たけれども、他方では日常生活に於いて制度を徐々に變質させるはたらきをさせた。さうして平和の情勢が固まつて來るに從つて國民のこのはたらきを次第に強めた。制度の壓力に屈服してしまふには國民があまりに活きてゐる。さうしてその活きた力が制度とその精神とを内部から斷えず腐蝕させ變質させてゐたのである。制度の方からいふと、それが平和の世には適しない戰國傳來のものであるがために、或は人としての自然の欲求を抑壓し拘束するところのあるものであるがために、いひかへると、本來それ自身に有つてゐる矛盾のために、かういふ情勢を導き出したのである。たゞその制度があまりに堂々たるものであまりに頑強に感じられてゐたため、その外觀は依然としてゐた。ところが、その依然たる外觀の長く續いたがために、明かに意識せられてのことではないが、それに對する不滿の情が機微の間に漸く動き初めるやうになつた。さうしてその時は幕府の權威もまた積弊のため漸く傾き初めた時であつたので、今まで抑へられてゐた國民の意氣は、この機に乘じて將に勃發せんとする勢を示して來た。をりもをり對外問題が發生し、それによつて幕府の權力は俄然として大動搖を起し、それと共に制度本具の矛盾とその缺陷とが覿面に暴露せられることになつてゆくのである。封建制度から生ずる幕府の財政難、諸藩の疲弊、世襲的武士制度から來る武士の氣風の弛緩、諸藩のうちにはその實質が殆ど空虚になつてゐるものさへある。幕府は幾度か改革の政を布いたが、根本的に弊害を除かうとすれば、制度そのものを破壞し幕府そのもめの存立を失はせる(104)外は無い、病を癒さうとすれば生命を断たなくてはならぬ、といふヂレムマにかゝつてゐるので、到底それを明快に解決することができなかつた。ところが不自然な鎖國制が世界の大勢に脅かされて、それを變革するの餘儀なきに至ると共に、その世界に對して國家の獨立と統一とを確立する必要が生じ、それがためには終に封建制度をも武士制度をも崩さねばならぬことになる。それは啻に古くからの懸案が解決の必要に迫られた故のみならず、新しい國家經營の要求がそれを促したからである。その一二をいふと、前にも述べた如く國防問題のためにこれらの制度は到底持續せられなくたるのみならず、外國貿易を盛にするには、種々の點から封建の藩籬が妨げになり、またあらゆる方面に於ける國民の能力を養成し發揮させてゆくには、武士第一主義はぜひとも崩されねばならぬ。もつと根本的にいふと、かういふ新形勢に順應してゆくには、武人の首長が政權を握り軍政を以て民に臨む政治の組織が改められねばならぬ。軍政の存續を許さない新しい世が事實として展開せられてゆくからである。多年解かうとして解くことのできなかつたヂレムマは、かういふやうにして大勢の推移によつて自然に解かれるやうになる。が、それが解かれることは即ち幕府の存在が失はれることであるので、それによつて朝幕關係の葛藤もまたおのづから解決せられるのである。さうしてこの變革の主動者となるものは、比較的に意氣がありまた功名心の強い粗野なる田舍ものであつた。都會人、特に江戸人、は武士にあつてはそれが政治上の關係に於いて被告の地位にあり被審判者となつてゐた幕府直屬のものであるといふことの外に、そのうちには、長い間の頽廢した生活によつてその氣力の衰へてゐるものがあつたのである。いはゆる維新の變動によつて江戸が田舍ものに壓倒せられるやうになつたのは、一つはこれがためでもある。しかしこれは幕府政治の壞頽の情勢を今日から過去の事實として客觀的に見た一面の觀察である。幕府の存立する間は、そ(105)の當局者も旗下の士人も、時勢の刺戟によつて新しい形をとりつゝ復活した武士的精神を發揮し、後から囘顧すればよくもあれだけのことができたと思はれるほど、その任務を全うするために渾身の力をこめて奮闘したのである。幕府の仆れたのは萬策盡きた上でのことである.さうしてこれが幕府の政治家の心事行動を主として見た歴史的事實の一面である。
 もつとも年代からいふと、幕府の仆れたのは封建制度と武士制度との形式的廢滅よりは前のことであるが、それは當時の表面上の問題が多年動搖してゐた政權を如何にして安定せしむべきかといふ點に集中せられ、政治的紛亂の歸着點を求めることが急であつたためであつて、幕府の滅亡の眞の由來は、その權力の依つて立つところの封建制度と武士制度とが新しい時代の國家的要求と相容れぬものであつたところにある。國家の統一を要する時代に於いて、諸大名を敵國と見なして直屬の領土と武士とを權力の基礎とし、世襲的武士階級によつて政權を運用してゐる幕府が、維持せらるべきものでなかつたことは明かであつて、單に財政の點からいつても、國家の政府としての施設の甚だ少かつた時代ですら窮迫に窮迫を重ねてゐた幕府が、新に内外諸般の國務を負擔する場合になつて破産しなけれぱならぬのは、當然である(前篇第二章參照)。幕府みづから封建制や武士制を破壞して新制度を立て得れば、幕府の命脈はなほ幾らか維持し得られたかも知れないが、かくの如き變革は幕府といふものの存立する限り、事實として不可能のことである。諸大名も一般國民も、これらの制度とそれに附隨してゐる戰國的感情とを離れて幕府を見ることができないからである。實際の政治運動からいつても、幕府を介した主動者は封建制度の下にあつた二三の大名であつた。戰國割據主義の復活した形勢であつた。戰國時代の因襲に本づいた制度によつて權力を維持して來た幕府は、やはり(106)その制度のために仆れたのである。それは即ちその制度が變革せらるべきものであつたからである。さうしてそれが容易く變革せられたのは、長い平和によつて久しい前からその實質の腐蝕してゐたことが、一つの事情となつてゐる。と共に、それを變革しようとする欲求とその力とが、かゝる制度そのものによつて國民の間にいつしか養はれてゐたのである。
 筆は思はずさき走りすぎた。この篇に於いて取扱はるべき時期に在つては、幕府はまだ仆れもせず、封建制武士制もまだ存在してゐる。たゞ急轉直下の勢を以てその崩壞に突進した如く見えるいはゆる維新前後の情勢は、畢竟機會が與へられたに過ぎないのであつて、それを崩壞させた事實上の腐蝕作用は早くから徐々にまた確實に行はれてゐる。さうしてそれはこれらの制度によつて養はれた國民の生活力の自然の現はれであつて、それによつて次の時代の新しい政治形態や社會組織が作られてゆくのであり、腐蝕作用がそのまゝ更生作用である所以がこゝにある。このころの文化もまた實に、幕府の權力とこれらの制度とに順應しながら、またはそれによつて培はれながら、それらに拘束せられずして人としての力を現はさうとしたところから形成せられたものであり、さうしてその文化がやがてこの權力と制度との腐蝕作用となつたと共に、上記の意義での更生作用ともなつたのである。歴史は畢竟斷えず自己を新しくしてゆく過程である。自己の生活を維持せんがためにその生活の形態を作りながら、更に高き生活を展開せんがためにその形態から自己を解放して新しき形態を作り出さんとする努力の連續である。さうして文化がこの間の交渉によつて生れる。約二世紀半に渉る江戸時代の歴史は最もよくそれを證するものである。特にその後半に於いては、固定した制度が生活を壓迫したために停滯した文化が、その停滯に堪へなくなつた生活の内部から發生した新しい動きに(107)よつて、幾らかは生氣を帶びて來て、次の時代の文化を展開させる素地をその間に作つてゆく情勢が、看取せられる。特にその末期に近づくと、かゝる制度と文化との裡にありながら、何ごとかをしようとする強い衝動が、次第に急迫して來た内外の情勢とおのづから相呼應し、または絡みあひはたらきあつて、一方では人心を興奮させまたは勤搖させながら、他方では文藝學術思想の上に新生面を開いてゆくやうになつた。さうして更に時が進むと、それは世界の形勢に對應して我が國をたててゆくために鋭意西洋の文物を學習し採用しようとする幕府の施設となつてゆくが、そこに幕府の手を通じて現はれた國民のこの意氣がある。しかしそれもまたやがて幕府の權力を破壞する力の一部となる。滅亡に瀕してゐる幕府が、意識して或はせずして、自己の權力の崩壞を誘致すべき種々の文化的もしくは政治的企畫を敢行した悲壯の心事、それらの新事業に從事した旗下の士人の時勢に刺戟せられて緊張した精神、世界の大勢に目ざめて國民の使命を自覺した少數の幕府當局者の心理、その國民文化に及ぼせる功績、並に激するところがあつて復活した武士的氣風、内外の困難な情勢に處して、ともかくも獨立日本の地位を列國の間に確立し、ヨウロッパ諸國の侵略をうけることの多かつた東洋の天地に於いて、獨りよく國威を損はず、明治の時代になつてそれを新しく發展させることのできる基礎を据ゑた、幕府の政治家の苦心と努力と、それらは次篇に攻究すべき題目として、しばらく保留せられねばならぬ。
 
(108)     第四草 文學の概觀 一
       總論
 
 今日から囘顧すれば、江戸時代の一般文化は元禄時代を頂點として一たび發達の極に達し、それから後は漸次停滯の時期に入つて來たのであるが、それと同樣、文學もまた元禄時代に於いて行きつまりの状態となつた。前篇にも考へておいた如く、從來取つて來た方向をそのまゝに進めてゆくにはもはや途が無くなつたので、それは當時の文學そのものの性質から來たことではあるが、固定した社會、停滯し初めた文化は、それに新しい精神を吹きこみ新しい思想と題材とを供給して、新しい方向にそれを展開させることができないので、このゆきつまつた文學はそこに立ちどまつてゐるか、但しは退歩するかの外は無くなつたのである。これは恰も、道長時代に極點に達した平安朝の文學がその後になつて衰退したのと同樣である(貴族文學の時代第三篇第二章參照)。
 享保時代以後とても文學の中心は依然として上方にあつた。が、西鶴の系統を繼承したいはゆる八文字屋ものが、強ひて淨瑠璃や歌舞伎から趣向と脚色とを借りて來て、浮世草子の本領を没却する傾向が生ずると共に、新しく現はれた氣質ものの類は、畢竟、浮世草子の一面をまねたものである。さうして氣質ものといふ總稱ができたほど、同じやうな作物が續出した點に於いて、摸倣と踏襲とが小説界の大勢を支配してゐたことが明かに知られる。出雲以後の淨瑠璃が近松のを摸してその力と鋭さとを失ひ、徒らに煩冗と複雜とを加へたものであることは、いふまでもなからう。操芝居の繁昌またその作の廣く世に行はれた點から見ると、出雲や半二の時代には近松のころよりもむしろそれ(109)が盛になつたといふべきであらうが、文學または藝術としての價値からいふと、それはもはや退歩の時期である。かかる状態の下にある文學に、もし何等かの新しみが出るとすれば、それは技巧の末節に於いて幾分の奇を求めるくらゐのことに過ぎない。さうしてそれは、根本の思想が因襲的であるのに強ひて新奇を裝ふために、不自然な畸形を呈する外は無い。上方の小説や操芝居の衰微は當然の運命であつたといはねばならぬ。淨瑠璃樂とても、操にかけるものとしては、義太夫節に最後の發達が示されてゐて、それから後には新派を開くものが出なかつたではないか。偶人劇とそれに伴ふ淨瑠璃の曲節及び三絃樂とが一旦あれだけに發達すれば、もうその上に工夫を進めることができないから、しかたがない。
 寫實から出立し當時の世相と人情とを表現するものとしての上方の文學は、かうして衰運に向つて來たが、この間に於いて少しく新要素を供給したものは、書物の中から取出された知識である。寫實文學の發達を促した一誘因として、古典、特に徒然草や伊勢物語があり、またその傍には材料の供給者としてシナの小説類があつたことは、前篇に述べておいたが、このころになると、國學の勃興と共に古典の研究にも一段の活氣が加はり、長崎に於けるシナ人との貿易によつて俗文學に關する書物も輸入せられ、それらが文學の上に幾分の影響を與へたのである。もつともこのころの古典の研究は、それが著しく學究的になつてゐるのと、神道的國家主義的主張に重きがおかれてゐるのと、尚古思想の調子が強いのと、これらの理由によつて、擬古的の歌などを作ることがそれによつて刺戟せられはしたが、現實の生活を描寫し表現する文學の上には、よし幾分の影響があつたにしても、大なる貢獻をするには至らたかつた。本居宣長が石上私淑言や玉の小櫛に説いた情の解放、戀愛至上説、の如きもたゞ古典や古代思想の解釋の上に、もし(110)くは一般的の文學觀の上に、おぼろげな光明を放つたのみであつて、製作の上には直接に寄與するところが無くして終つたのである。しかし建部綾足や上田秋成の後期の小説などには、少くとも文體の上に於いて、この古典研究にいくらかの關係はあらう。綾足の片歌もまた同じ思潮の上に現はれたものであるが、これは固より一時的の泡沫に過ぎなかつた。
 それよりも當時の文學界に交渉の深いものはシナの俗文學であつて、それは長崎の通事に源を發し徂徠學の流行がそれを助け、漢畫の翫賞もそれに伴ひ、物ずきな柳里恭などによつて玩ばれたものである。もつとも上田秋成、近路行者、または椿園、などの諸作に見える如きシナ小説の翻案は、了意も西鶴も鷺水も既に試みたことであるが、浮世草子などの行きつまつた時代だけに、新奇の感をよび起して一部の讀者を引きつけることはあつたであらう。なほ李笠翁の戯曲が歌舞伎の評者や淨瑠璃件者に知られ(役者綱目、役者全書、傳奇作書、など)、市川柏莚も「唐人の狂言の本」を見たといひ(老の樂)、少し後れては賣油郎の翻案をしたものさへあるといひ、銅脈先生の唐土奇談にシナの劇の話があり千里柳塘偃月刀といふものの翻譯を載せてあるといふが、それが單なる衒學以上に何等かの影響を淨瑠璃や歌舞伎の作者に及ぼしたかどうか。長崎ではシナ人によつて劇の演ぜられたことがあるが(一話一言など)、言語の通じない邦人には強い印象を與へることができなかつたのではあるまいか。それはともかくも、小説の上ではシナの俗文學がかなり大きい影響を後の江戸作者に及ぼしてゐるが、その由來は上記の上方文學にあるのであらう。なほ文學として取扱ふはどのものではないが、通俗な歴史物語ともいふべき種類のものが作られ、または翻譯せられて、それも後の江戸作者の作に幾らかの關係があるらしい。
(111) しかしこれらは、國民文學の進むべき徑路としては、決して正しい方向をとつたものとはいはれない。古典分子とても、その古典に現はれてゐる上代人の思想に於いて、當時の國民生活の如何なる點かに接觸するところのあることを看取し、それを物語の上に投影させたのではない。たゞ幾らか耳速い古言を使ひ古い時代の話を題材としたまでのことであつて、それに表はれてゐる思想は生きた國民の情懷とは交渉するところが極めて少い。シナ小説の翻案に至つては、たゞ好奇心を喚起するに過ぎないものであるのみならず、近路行者の作の如きはその生硬なる直譯式の文章と、それによつて寫されてゐる異國の風俗および異國趣味異國的気分とが、翻案せられてゐるだけに日本の風俗人情らしく見える點に於いて、少からざる場所錯誤の感を起すほど、それは日本の文學としては邪道に陷つたものである。シナの文學に現はれてゐるシナ人の思想に自己の情懷の反映を認め、それに何等かの感興を覺えたために、それを紹介し譯述したのでもなく、また自己の思想を盛るに便宜な題材をシナに得たために、それを利用したのでもなく、一種の知識的興味から、または奇異の物語を以て人を驚かさんがために、その材料をシナの書物から取つて來たのである。かういふものが當時の日本人の内生活と關係の少いものであることは、いふまでもない。が、かゝるものの作られもしくは讀まれたことが、取りも直さず小説界のゆきつまつてゐたことを示すものであり、それがまた即ち文化の停滯の一現象なのである。文學はかういふやうにしてます/\知識的技巧的に傾いて來るのであつて、それは次にいふ江戸の作者に至つて一層甚しくなる。
 上方の文學が漸く衰へて來た明和安永天明のころは、恰も江戸に於いて新文學の發生しつゝある時代であつた。勿論江戸とてもその前から文學の一中心ではあつた。その主なるものは俳諧であつて、談林もこゝに榮え蕉風はこゝか(112)ら起つた。淨瑠璃に至つてはこゝがむしろ本源地であつて、上方に新派の興つた後もおのづから特殊の方向をとつて進んで來た。たゞ上方に於いて大に發達した浮世草子、並にそれに伴ひもしくは促されて起つた種々の物語、などがこゝには生ぜず、幾らかの萌芽があり或は上方の影響をうけたらしい幼稚な作品の現はれたことはあつても、成長するに至らなかつたのである。が、こゝに武士の都たる江戸が文學の發達に適しなかつた事情が見えるので、江戸淨瑠璃の文學的價値が低いのも、これがためである(前篇第六章參照)。ところが太平が續いて武士が文事に清閑のよすがを求めるやうになり、一般に江戸人の知識が發達して來ると、文學の氣運も漸次高まつて來、それと共に木版印刷による浮世繪の發達と歌舞伎の流行とが、外形の上からも内容の點に於いても、文學的作品の出現を誘つた。さうして八文字屋ものなどの浮世草子がそれに模範を示したのである。山岡明阿の作といはれてゐる跖婦人傳や風來の戯作のやうなものは、元禄前後に於ける僅少な江戸作者の遺風が間歇的に現はれたものと考へるよりも、むしろ上方文學の繼承者と見るべきものであるが、ともかくもそれが江戸に現はれたのであり、さうして滑稽を主とする文學の勃興にも少からぬ關係を有つてゐる。さてその滑稽文學は、一方では子どもあひての草双紙から發達した黄表紙もの、他方では洒落本であつて、その傍には狂歌が大流行を來してゐる。やゝ後に出た三馬や一九の滑稽本は洒落本がその取材を別の方面に向けたものである。それらは何れもその輕い遊戯的な點、滑稽的態度を以て世に對する點に於いて、極めて幼稚な状態ながら江戸の特色を具へてゐるので、同じく遊戯的であり同じく滑稽分子があり、また多くの點に於いて上方文學の影響をうけ或はそれから題材を供給せられてゐながら、上方のとはその趣を異にするところがある。さうしてこの江戸の新文學は、歌舞伎及び浮世繪と相伴つて當時の民衆の生活とその思想とを現はし、比較的シナ文(113)學や古典の知識に束縛せられないところに價値があると共に、その興隆はいはゆる田沼時代の世相と相應じまたそれを表現するものとして、特殊の意味があり、歌麿などを中心とする浮世繪の隆盛と相伴ふ現象であつた。或はむしろ田沼時代の遊樂の空氣に促されて起つたものといつてもよからう。元禄時代にはまだこれだけの文學の成長する素地ができてゐなかつたが、その後の四五十年間にそれが養はれたのである。
 しかし、一旦道が開かれた江戸の文學は、田沼時代が去つてもそれと共に頽れはせぬ。さうしてそれには、別の形に於いて與へられた上方文學の誘導と刺戟とがあり、一般に上方を中心として發達した學問や文藝の江戸に行はれてゆく風潮も、その背景となつてゐる。その中でも文學の上に特に關係の深いのは、淨瑠璃ものが江戸の劇場で演ぜられたことであつて、歌舞伎年代記を通覽してもそれは明かに知られる。國姓爺、曾根崎心中、網島心中、またはお千代半兵衛、の如き近松もしくは海音の作が享保の初年に演ぜられ、忠臣金丹册、菅原傳授手習鑑、義經千本櫻、並に忠臣藏、の塁も、原作の現はれて間も無い時に上場せられてゐる。津打治兵衛が時代と世話との維ぎ合はせをしたといふその世話は、主としてこの淨瑠璃の世話ものであつて、江戸特有の曾我ものと上方傳來の心中ものとが彼の作に於いて無意味に結合せられてゐる。もつともそれは改作せられてもゐ、原作の一部分だけを取り、または所作事として用ゐられるやうな場合が多く、甚だしきは人名だけがもとのまゝである、といふやうなことも無くはなかつたらう。團十郎の演じた助六が一中節の助六でないことはいふまでもあるまい。演出の上からいつても、江戸の役者が江戸人に見せるのであるから、全體の氣分が違つてゐるのは當然である。が、とにかくそれが江戸の歌舞伎に題材を供給し、またそれによつて一般の江戸人が上方傳來の幾多の世話物語に親しんで來たことは、明かである。淨瑠璃の人物はか(114)うして江戸化せられたのであるが、後の京傳種彦などの作の多くは實にこゝから出てゐる。歌麿がその作品に夕霧伊左衛門とか梅川忠兵衛とかいふ名をつけてゐるのも、かういふことが背景となつてのことである。勿論一方に於いては、義太夫節そのものの流行もこの點に於いて見のがしてはならぬけれども、江戸人に及ぼした影響は、一旦歌舞伎に入り歌舞伎化せられたものの方が※[しんにょう+向]かに強かつたらしい。さてこの義太夫節の流行は、江戸に操座の開かれたことによつて一層刺戟せられたのであるが、さうなるとおのづから江戸特殊の新作淨瑠璃が要求せられ、風來などの作が現はれるやうになる。これが江戸文學の一新現象であると共に、その作はまた出雲や半二などのものと同樣、文化以後の小説界に材料を供給することにもなり、馬琴なども密かにそれを取入れてゐる。
 次にはシナ文學から脱化して來た物語もしくはその思想があつて、馬琴によつて新形態を取つて現はれた讀本にはそれが最も著しい。これには、寛政の改革によつて高調せられたシナ式道徳思想の鼓吹、並にシナの文字の知識の一般的普及によつて、強められた氣味もあるが、畢竟沈滯期の上方文學が江戸に繼承者を得たものである。なほ村田春海や石川雅望などの小説の如く、古典文學の影響をうけてゐる上方小説の繼承者もその傍に存在するが、しかしこれは當時の文學界に特殊の貢獻をしたのでもなく、また事實さしたる地位を文學界に有つてゐたものでもない。さて、江戸文學のこの部分に屬するものは、概していふとその精神に於いて現實の國民の思想とは交渉の少いものであつて、多數の讀者はそれに對して、奇事異聞に接し筋にひかれて先きはどうなるかの好奇心を滿足せしめる、いはゞ一種の知的興味を感ずるに過ぎないのである。草双紙の合卷として現はれた物語風の作も、ほゞそれと同じものである。かういふ文學の重苦しさと虚僞とに慊らずして起つたらしい人情本、並にその傍に存在する三馬や一九の作に於いて、(115)幾分か江戸の世態と江戸人の生活氣分とが寫されてはゐるが、しかしその内容は反省と思索とに缺けてゐる淺薄ななものであつた。さうして何れの方面に於いても、その大部分は踏襲と燒き直しと繼ぎはぎとによつて形づくられたのである(後文參照)。
 だから、表面隆盛を極めたやうに見える文化文政度の江戸文學は、實は内容の空疎な、力の無い、ものであり、文學史上の大勢から見れば、いふまでもなく停滯の時期に屬するものである。かういふ文學の世にもてはやされたことそのこ上が、文化の停滯と氣力の萎靡とを語るものであつて、江戸は當時に於いても力強い清新な文學を産み出すことのできないところであつたのみならず、もはや何處にもさういふ文學の現はれ得る場所が無くなつたのである。このころなほ餘脈を保つて幾人かの作者を出してゐる上方の小説界も、やはりかゝる大勢に支配せられてゐる。一度江戸に繼承者ができれば、上方には到底それに對抗して新しいものを作り出すだけの力が無い。江戸に繼承者の起る起らぬにかゝはらず、上方では既にその力を失つてゐたからである。上方の歌舞伎が京傳や馬琴の作を燒直して舞臺に上せたのも、またその一現象である。江戸の小説は勿論上方人に愛讀せられ、馬琴の小説が大坂の書肆から出版せられたこともあるので、江戸の浮世繪師の門人もしくは摸倣者が大坂に現はれたことも、またそれに伴ふ現象である。
 西澤一鳳の讃佛乘に寫し取つてある滑稽外國通唱(文化元年の作か)の如きも、京人の作らしい特色はあるが、やはり江戸の洒落本を摸ねたものであらう。文化文政度に於いて文學の中心が江戸にあつた、といふのはかういふ意味のことである。
 もつともこの地方的關係は俳諧に於いては少しく趣きが違ふ。俳諧は貞門及び談林に於いては他の姉妹文學、特に(116)小説、と最も密接な交渉があり、むしろその源泉となつたものであるが、蕉門に至つてこの關係が殆ど斷たれたので、それから後は俳諧は一般文學界からは別世界のものとなつた。もつとも小説家が俳句を作るのは常のことであり、種彦が田舍源氏でそれを歌の代りに用ゐ、一九や春水なども俳句を作中に使つてゐるし、また馬琴が壯年時代に俳句を好みそれによつて文學界に足を踏み入れたといふやうな例もあるが、これらは專門俳人とはおのづから世界を異にしてゐる。月成としての俳人が手柄岡持として狂歌師、喜三二として黄表紙の作家であり、月居や大江丸などが役者の評判記を書き(傳奇作書〕、伊勢の某俳人が伊勢音頭を作つた(※[草がんむり/幸]野茗談)、といふ話もあるから、俳諧師が全く文學の他の方面に關係が無いとはいはれないが、さういふ例はあまり多くはないらしい。さて俳諧はそれ/\の宗匠を中心として多數の作家が全國に擴がつてゐるから、上方にも江戸にもまたは名古屋などのやうな地方的都會にも、名あるものが門戸を張つてゐるので、この時代となつても江戸に特殊の重みが加はつたのではない。これは恰も上方が文藝の中心であつた時代にも、俳諧に於いては江戸が特殊の地歩を占めてゐたのと同じであつて、江戸に文學が盛になつて來たこのころに於いては、それとは反對に、蕪村などによつて上方に一大中心が形づくられ、その作には特殊の上方情調、京都的氣分、が頗る濃厚に現はれてゐる。のみならず、その蕪村もまた同時に京にゐた嘯山も几圭も太祇も、共に江戸俳人の系統を承けてゐる點に於いて、俳諧が文學の他の分野とは反對に却つて西移した現象さへも見られる。それは彼等の郷土の關係にもより、また何かの個人的事情にもよることであらうが、ともかくも俳人として世に立つに於いて江戸が重きをなさなかつたことは、これでも知られる。さうしてそれは、消閑の玩弄物として何人も作者たり得るといふ俳諧の性質から來てゐる。もつとも天明前後から大に流行した狂歌は、六玉川や川柳によつて開(117)かれた俳諧の一變體と共に、江戸の戯作の勃興を刺戟し、またその源泉の一つともなり、後までも江戸の戯作及び浮世繪の或る方面とは離るべからざる關係を有つてゐるので、それは恰も昔の貞門や談林の俳諧が上方の文學界に有つてゐた地位と同じであり、その狂歌は、やはり川柳などと共に、江戸人の特色を帶び江戸を中心として發達したものではあるが、上方にも古い狂歌の系統を傳へてゐるものがあり、加茂季鷹もその方で世に聞えてゐ、地方にも幾多の追從者のあることは、勿論である(後文參照)。
 なほ一つ考ふべきことは、擬古文學たる和歌や外國文學の摸倣たる漢詩である。これはそのものは文學であるが學問と密接な關聯があるから、かういふ地方的關係に於いても、第二章に述べた學術界の状態に伴ふものであり、從つて一般文學界の形勢とは交渉が少く、さうして作者とその指導者と並に兩者間の關係とに於いては、俳諧とほゞ同じ状態であつた。特に學者ならぬ歌人詩人は、蘆庵、景樹、山陽、及び彼等の門下生、並に彼等を中心としてゐる一群、を初めとして、幾多の才人が京を根據として關西の文壇を領略してゐたので、全體からいふと江戸よりもこの方の勢力が強かつた。星巖の如く京と江戸との間を所定めず往來してゐたものもある。さうして上方と江戸とには、おのづから競爭もしくは反目の状態が生じたので、和歌に於いて桂園派と千蔭春海の一波との關係の如きは、その最も著しいものである。漢詩に於いても上方の詩人は「東樣」を喜ばぬ傾向があり、「勿酢江戸酒、勿作江戸文、請看江戸雨、富士膚寸雲、」(河野鐵兜)とさへいふものがあつた。もつともこれには趣味の差異から來るところもあり、四條派の畫が江戸人に好まれず、藤井竹外のいつたやうに東人に嵐山を寫すものの罕であるのも、土地の關係よりはむしろ趣味のためであらうが、その趣味の由來の一つがやはり土地にある。しかし和歌や漢詩の行はれることは、京も江戸も(118)同一であつて、その間に違ひは無い。なほかういふ歌人や詩人と俗文學との関係を考へても、春海や雅望などが小説を書いたのは、江戸に於けるその流行に誘はれたに過ぎないので、擬古文學者の特殊の運動ではなく、從つて彼等の業績の地方的關係を示すものとはいひ難い。上方でも萩原廣道(蒜園)が馬琴の侠客傳の續篇を書いてゐる。
 
 さて文學の中心が江戸に移つたことと關聯して、その作者に幾らかづゝ武士が現はれて來たことを注意しなければならぬ。勿論、作者の大多數は依然として平民であるが、江戸の戯作者の先駆者ともいふべき山岡明阿、狂歌師の四方赤良、手柄岡持、酒上不埒、唐衣橘州、朱樂菅江、などは武士であり、その赤良(四方山人)、岡持(喜三二)、不埒(戀川春町〕、などは、同じく武士階級に屬する蓬莱山人歸橋、梅暮里公峨、東里田人、などと共に、洒落本もしくは黄表紙の作者でもある。かく江戸文學興隆の初期に於いて武士が表面に現はれて來たのは、一つは田沼時代の世相と當時の武士の気風との故でもあるが、一つは、一般に武士が文學に親んで來、また彼等の間に學問をするものが多くなつて來たことと共に、從來平民の間から起り平民の力によつて發達した文學の感化が、武士の社會に及んで來たことを示すものである。いはゆる寛政の改革はやゝこの氣運を阻止したので、直接もしくは間接に加へられた政府の壓迫のために著作の筆を絶つた武士もあるが、それでもなほ後になつて、柳亭種彦はじめ二三の武士作者が合卷讀本もしくはいはゆる中本を書くやうになつた。もし中間に政府の干渉が無かつたならば、武士はもう少し引續いてこの方面に活動することができたかも知れぬ。が、一方からいふと洒落本や黄表紙くらゐのものであるからこそ、武士もそれに指を染め得たのかも知れない。寛政の政治の方針は何時までも續いたのではないから、もし志をこの方面に向(119)けるものがあつたならば、第二の田沼時代ともいふべき文政天保の大御所時代には、幾らでも彼等の頭を上げる機會があつたであらう。それにもかゝはらず多くそれが出なかつたのは、やはり武士にかういふ志向と技倆とを有つてゐるものが少かつたためらしい。
 だから、概していふと文權はやはり平民にあつたといはねばならぬ。狂歌に於ける宿屋飯盛、大屋裏住、鹿津部眞顔、平秩東作、などはみな平民である。戯作者としてあらゆる方面に活動し小説界の中心人物となつたものは京傳ではないか。三馬や一九やまたはその他の有名無名の多くの作者は、概ね町人か町人出身かである。馬琴は武士の家に生れたものであるが、著作家としての彼自身が武士の生活をしてゐなかつたことは、いふまでもない。黄表紙などの作をした浮世繪師もまた平民である。南瓜元成、唐來三和、などの如き娼家の主人さへも文士の列に入つてゐた。京坂の作者に至つては前代の遺風を享けてゐる寶暦前後のものが、南嶺にしても近路行者にしてもまたは秋成にしても、すべて平民であるのみならず、後になつても曉鐘成及びその他のものはみな商人である。歌舞伎並に豐後節以後の淨瑠璃の作者に至つては、上方の並木正三や江戸の篠田金治などが、或は浪人の子であり或は旗本の次男であるとはいふものの、もとより武士の階級を離れまたは逐はれたものであり、さうしてそれは文筆の力があつたから武士をすててこの道に入つたのではない。俳諧に於いては也有白雄などの如く武士にも名ある作家が出、完來が雪中庵を繼いだ如く宗匠となりすましたものさへあるが、これは前にも述べたやうな俳諧そのものの性質から來てゐる。しかし多數の宗匠はやはり平民であつて、闌更、士朗、道彦、のやうな醫者出身者もあり、また乙二のやうな僧侶、少し前に溯ると涼菟のやうな神官、もあるのみならず、このころに農民生活村落生活を主なる題材とした點に於いて殆ど唯一の(120)俳人である一茶の如く、農家に人となつたものもある。蕪村もまたその出身は農家であつた。成美や大江丸の如く商人のあることは勿論であり、蕪村門にも商家のものが少なくない。武士はそれに追從したに過ぎない。俳諧は勿論のこと、狂歌の愛好者さへ武家貴族たる諸侯に少なくなかつたことも、やはり同様の現象である。江戸時代の文學はどこまでも平民の文學である。さうしてその讀者には、一般武士をも武家貴族をも網羅してゐたのである。松前侯などが馬琴の作を愛讀したといふ話が傳はつてゐるのは、たゞその一例に過ぎなからう。將軍家の大奥ならびに諸侯の奥向に草双紙などのもてはやされたことは、いふまでもない。
 たゞ平民の文學ではあるが、概言すればやはり都會の文學である。從つてその作者も殆どみな都會人であり、武士の作者とても多くは御家人か江戸定府のものかである。地方人では種彦の門人だといふ笠亭仙果、仙客亭柏淋、または椒芽田樂とか鬼卵とかいふやうな、四五の名を數へ得るにとゞまる。從つてまた職業の上から見ると商人が最も多く、焉馬が大工であるやうに職人から出たものも幾らかあるが、農家は殆ど無く、竹塚東子くらゐがその代表者であらうか。なほ職業上の關係からいふと、戯作者には醫者があまり多くない。田螺金魚のやうな例もあるが、それが少いのは、專門文學者として著作に從事するには、特殊の氣分と時間とを要するからであらう。しかしその讀者は地方にも各種の階級にも行きわたつてゐたので、一般文化の状態に伴つて、田舍よりは都會に地方の都會よりは中央の大都會に多いことは勿論ながら、江戸繪が全國にひろがつた如くに、この都會文學もまたすべての方面に弘まつてゐたのである。たゞ俳諧に於いてはその中心が多く都會にあるにかゝはらず、都會文學を以て目すべきものでないことは明かであつて、名ある俳人に田舍ものが多いことはいふまでもない。
(121) 擬古文學や漢文學の方面に於いては概ね俳諧と同樣である。歌や詩の作者は半ば國學者和學者または種々の學派に屬する儒者であるが、その間に學者ならぬ歌人詩人として取扱はるべきものもある。縣門でも村田春海、加藤千蔭、楫取魚彦、などはそれであり、上方の小澤蘆庵、香川景樹、は何れも純粹の歌人である。蘆庵と同時代の蒿溪、夢宅、などもそのなかまとしてよからう。漢詩の方では※[草がんむり/(言+爰)]門の才子に於いて既に學者よりも文人といふべきものが少なくなかつたが、寛政文化のころからは上方でも江戸でも專門詩人が輩出した。菅茶山などは學者を以て自ら任じてゐたかも知れぬが、世間にはむしろ詩人として聞え、頼山陽以下その系統をひいてゐる文人も多い。江戸の菊池五山、大窪詩佛、やゝ後の梁川星巖、みな專門詩人であつて、それらの門下から多くの作者が輩出した。ところでこれらの名ある歌人詩人の出身を見ると、縣門の歌人には身分の低い幕臣が一二ある外には武士は少かつたが、それより後には、專門歌人ではないけれども、歌に心をこめた武士も武家貴族も少なくはなく、中には田安宗武や松平定信の如き地位にゐて歌集を遺したものもあるし、桂園門下の熊谷直好や八田知紀の如く殆ど專門歌人として目せられ得る諸侯の家臣も出た。しかしその多くは農商階級のものであり、從つてその出身地はやはり田舍が多く、下總の神山魚貫の如く、農業生活をしてゐながら歌人としての聲譽を郷黨に得たものもある。かなりの田舍までも歌を詠むものが多いのは、一種の通信教授によつてそれを學ぶことができることも、その一事情であつたらしい。詩人でも豐後の村上佛山の如く、田舍住ひをしてゐて廣く關西にその名の知られてゐるものもあるが、地方に詩の作者のあるのは、京なり江戸なりに遊學し郷里に歸つてその生を送るものが多いためであるらしく、さういふ人々は江戸や京の詩壇と斷えざる連絡をもつてゐるのである。詩人の遊歴が行はれるのもそのためである。
(122) なほ歌に於ける澄月、詩に於ける大典や六如、などの如く、いはゆる方外の徒もあるが、それらが僧侶なるが故に重んぜられたのでないことは、明かである。また歌の方では堂上歌人の一群があつて、因襲的に地下の門下生を有つてゐるが、一般の歌壇が平民歌人によつて主宰せられてゐるこのころに於いては、世人も特殊の文學的地位を彼等に許してはゐなかつた。彼等の門地を誇り舊習を墨守してゐるものは、世の歌壇から速ざかつてゐるし、千種有功の如くやゝ新傾向を帶びてゐるものは、民間の歌人に交つてその感化をうけてゐる。平民歌人も彼等の門地をば重んじ、彼等と交ることを一種の榮譽と考へてゐたのみならず、時には卑屈諂諛に近い態度を以て彼等に對してはゐるが、歌人として特殊の尊敬をしてゐたらしくはない。現に國學者の側でも京の歌人でも、歌は縉紳家の專有物でないと公言して、それを國民的のものにしようと努力してゐる(荷田在滿の國歌八論、蘆庵或問)。
 作者として更に一言すべきは婦人であるが、これは小説などの方面では殆ど見當らぬ。京傳の妹の黒鳶式部に黄表紙の作があるといふが、恐らくは自作ではなからう。俳人には千代とか多代とかいふものがある。歌人では蒼生子、倭文子、たせ子、少し風がはりの荒木田麗女、京では蓮月、など、中には女であるからこそ人に知られてゐるが、歌人として優れてゐるとは思はれぬものもある。漢詩では五山堂詩話などに幾人かの女の作者が見え、その後にも細香や紅蘭などの少しく人に知られた女流詩人もあるが、これらも歌人について述べたとほゞ同樣であらう。家庭の人としてのみ取扱はれてゐるこのころの婦人には、これが當然である。紅蘭集に星巖が「女工餘事」と題したのを見るがよい。 以上は作者の側についての文學界の情勢であるが、同じく文學と呼ぶにしても、小説の類の如く或る作者の作品を(123)多くの讀者が翫賞するものと、俳諧和歌漢詩の如く多くの翫賞者が一面では作者でもあつて、たゞその間に高く頭角を現はしてゐる俳諧師歌人詩人が職業的に指導者の地位にあるものとは、種々の點に違つたところがある。例へば俳諧と歌と詩とでは作者即ち翫賞者がそれ/\に別々な分野をなしてゐるのみならず、その指導者と一般作者との間に個人的な結びつきがあり、そこから流派が形成せられるのに、小説の類の作者と讀者との間には、概してさういふことが無く、讀者の好惡が作者とその作品の種類とによつておのづから違ふ、といふ程度のことがあるのみである。俳諧と歌と詩とに於いて上記のやうなことのあるのは、文學にかゝる形態があつて、それについて幾らかの知識あり才能あるものは、その好むところに從つて作者たり得るからであつて、そこに日本の文化、日本の文學、の一特色があるが、江戸時代、特にその後半期、に於いては、歴史的にそれ/\違つた由來のある文學のこれらの形態が並び行はれてゐて、それ/\の愛好者をもつやうになつてゐるのと、人々がかういふことによつて、或はその日常生活の勞苦を慰め、或はそれに生活の餘力を注ぎ、また或は一種の世間的名譽が得られるほどに、民衆の間に知識と文學趣味とが普及してゐるのと、これらの事情によつてその翫賞者作者が多くなつてゐるのであり、さうしてそこにこれらの文學形態の文化史的地位がある。またかういふことについては、これらのそれ/\の形態の職業的指導者の功績をも認めねばならぬ。俗俳諧師の如きものとても、この意味に於いて文化の普及に或るはたらきはしたのである。
 
 さて文學の中心が平民にあり、その平民の文學が漸次武士の社會をも包容してゆくといふことは、國民文學の發達史上、自然の順序でもあり喜ぶべき現象でもあるが、しかし一方からいふと、階級制度の世の中に於いて社會的地位(124)の低い平民が文權を有つてゐるといふことが、文學そのものに幾多の暗い陰影を投げかけてゐることも事實であつて、それは既に前篇に述べておいたところと同樣である(前篇第五章參照)。社會的地位の高いものに對する作者の態度が概して卑屈であることがその一つであつて、或る攝家に招かれたといふので「天つたふ星のみかげになく千鳥」(曉臺)といふやうな諂諛の言を弄するのが常であることを見ても、それは知られる。傲岸な馬琴も或る大名にその著作が讀まれたことを得意氣に書いてゐる(日記)。ところが、みづから卑しくしてゐるものの作に崇高な精神の無いのは、自然の勢ではあるまいか。加賀侯の前に屈しなかつたといふ一茶は、この點に於いてむしろ稀有の例である。
 次には俗に諂ひ世に傲ることであつて、それは種々の方面に現はれてゐる。このころになつても曉臺などの如く二條家から宗匠號の免許をうけた俳人があるのを見ると、賣名のために堂上家を利用する風習のなほ存在したことが知られるが、名家の門人に.なるとかその名をついで二世三世と稱するとかいふのも、同樣の心理からであらう。特に俳人には、火事にあつた時の蓼太の如く風雅を裝つて名を得ようとする俗物、もしくは口傳や秘事を賣りものにするものが多い。行脚に形をかり金銀を強要してあるく俗俳諧師さへある。戯作者が俳優の名を仮りてその作を世に出すなどは、名よりもむしろ利のためらしいが、名を求めるのも畢竟は利を欲するのである。馬琴が表面みづから高く標置しながら、實はひどく世評を氣にかけ、人氣のよいことを得意がり、世評のわるいことを理由として他人の作を罵つてゐるその心理は、俗うけ本位であることを公言してゐる三馬春水などと全く同じである、といふよりも、それよりもむしろ卑劣であるといふべきである(作者部類)。許列のよいために最初の腹案に無いことをむやみに補綴して八犬傳などの長篇を作り上げたのは、藝術品が全體として統一のあるものでなくてはならぬことを知らぬからであらう(125)が、また作品そのものを尊重せず、自己を人氣のために動かして敢て恥ぢざるものであり、その裏面にはやはり利益の念も存在する。「沈金彫の唐机にもたれ花色木綿の帙にはいつた茶表紙の本をひねくつて文人らしく見ゆれども、心の内へはいつて見れば算盤ぱち/\にて大の俗物なり、」(這奇的見勢物語の作者のみせ物)と評せられないものがどれだけあつたらう。これらは必しも作者が平民階級のものであるから起つたこととはいはれないが、如何に卓越した文人藝術家でも社會的地位がそのために高められない、階級制度の世に於いては、そこに一つの理由があるといはねばならず、或は他人の地位を利用し、或は自己の有せざる地位を何物かによつて補はうとするために、かういふことも生ずるのである。馬琴の如くみづから尊大ぶるものに於いては、それが特に著しく現はれてゐる。社會的地位の高いものに阿諛するのも世評に迎合するのも、畢竟同じことである。さうしてこれがまた、おのづから文學そのものの價値を低めてゐる。
 なほ第三として、作者みづからその社會的地位の低いことに滿足し、知らず識らずの間にそれを作の態度の上にも移し及ぼし、著作そのことを尊重しなくなる、といふ事實を擧げてもよからう。戯作者がみづから戯作を以て許してゐるのは、次にいふやうな別の由來もあるが、これもまたその一原因であるらしく、例へば一九の膝栗毛に寫されてゐる兩主人公が人としては見るに忍びない醜陋のふるまひをしてゐるのも、この故であらう。膝栗毛の文學的償値は別として、それに寫されてゐる人物の品位の卑しいのは掩ふべからざることであるが、それは題材の取り方またはその取扱ひ方の如何よりは、むしろ作者の作に對する態度から來てゐる。
 社會的地位の問題とは少しく違ふが、作者がみづから卑しくしてゐることは、官府に對する態度にも現はれてゐる。(126)寛政の改革に際して武士の作者が筆を絶つたのは、武士として生活する以上、已むを得ざる事情からでもあり、作そのものを遊戯視してゐたからでもあるが、何れにしても作を尊重しなかつたのか、心ならずも官權の壓迫に服從したのか、の二つを出ない。京傳が不得意な讀本を書くやうになつたのも同樣であるが、官憲の忌諱にふれる作をしなかつたことを自負してゐる馬琴に至つては、彼の驕傲が、その實、眞に自己を尊重するものでないことをみづから告白したものである(著作堂雜記)。卓然たる自己の識見から出たことならば、官憲の態度に合ふか合はぬかは初めから問題でないではないか。時には草紙改めの名主の干渉に對して不平がましいことをいつてもゐるが、それは彼が枝葉の點に於いての、また權力の小さいものに對しての、例の尊大癖から來たことに過ぎない(同上)。小説中の人物の名について權門を憚るほどの彼ではないか(犬夷評判記)。このことの思想上の由來については別に述べようと思ふが、ともかくもかういふ事實はあり、さうしてその事實はやはり文學の價値を低めることになる。文學が官府に輕視せられるといふことが既に、作者自身の卑屈な態度とそれから生ずる文學の品位の低いこととに、一原因がなくてはならぬ。
 更に一般的に觀察すると、前にも言及した如く、作者が戯作を以てみづから許しみづから滿足し、もしくは世間に對する辯解としてゐるところに、彼等のみづから輕んじてゐる最も直接の證跡が見える。戯作といふ稱呼は江戸に於いて盛に用ゐられたものであるが、上方に榮えた前代の文學も事實はやはり同樣であつて、江戸にもその精神が傳へられてゐるし、特に源内の戯文や狂歌、または青本洒落本などの輕い滑稽もの、に於いて先づ現はれた江戸文學の歴史的由來もあり、また尚古主義シナ崇拜の廣く行はれ、書物の上の知識を偏重し、紙の上に書かれた道徳の講説でなくては學問でないといふやうな思想の認められてゐた時代に於いて、小説などの作者がかう考へたのは無理もない。(127)だからそこには、前篇にも述べた如く、知識と人の生活との分裂、學問と文藝との乖離、といふやうな問題も潜んでゐる。江戸人ではないが秋成が晩年になつて若い時に小説を作つたことを恥ぢてゐたらしいのも、こゝに由來があるのであらう(一話一言)。衒學癖の多い馬琴が「稗官野乘は鄙事なり、よしと思はず、」といひ、或は無用の書を作るものであると揚言してゐるのは(八犬傳七輯序、九輯十九簡端贅言、及び囘外剰筆)、一方からいふと、懸命の作を戯作だと稱してゐると同樣、えらく見せようとする矯飾ではあるが、さういふ矯飾をしなければならなかつたところに、彼の思想と時代の風潮とがあるので、その非とし無用とすることを職業とするに當つて、婦女子のために道を教へる方便だといふのはまだしも、有用の書を購ふためだといふやうな辯解までしてゐるのは、やはり知識の上からは、事實、小説の作を大人君子のなすべきことにあらずと思ひ、いはゆる有用の書を眞に尊敬してゐたからであらう。評判のよい作者であることを内心には誇りながら、書物の上から來た知識ではかう考へなくてはならなかつたのである。さうしておぼつかない考證などによつて學者のなかま入りをすることを、見えとも慰めともしてゐたのである。京傳京山兄弟や種彦などの風俗史上の考證は馬琴のに比べると遙かに價値の多いものであつて、儒者や和學者のしごとの外に別天地を開いたものであるが、それでもやはり當時の知識社會に通有な俗見を脱し得ないところに、著作の一動機があらう。種彦が「戯作者ばかり羨ましからぬものはあらじ、……實學者に出あひては一言も」無い、といつてゐるのでも、彼の思想が窺はれる(胎内十月圖)。が、かう考へてゐるにかゝはらず戯作をするとすれば、その作に對する態度がおのづから不まじめになるのは自然の勢である。固より「論語よみの論語知らずより論語よまずの論語知らずの方がよつぽど徳」(浮世床初編〕といひ、市井の無學黨を以てみづから誇り、萬葉家や儒家や馬琴一流の衒學者や(128)を到る所で痛快に罵倒してゐる三馬の如きものもあるが、彼に於いても戯作はどこまでも戯作であつて「慾心深きところに筆をとる」(浮世床二編序)などと、金のために著作することを公言してゐるのも、必しも皮肉や當てこすりばかりではない。かうなると戯作といふことは、その作が不まじめなものであることを示すのみならず、その作者が不まじめな人物であることを語るものともなる。何れにもせよ、當時の作者が作そのことを尊重しなかつたことは事實である。
 作者自身が作そのことを尊重しないのであるから、その作品が俗受け本位商賣本位になるのは當然である。種彦のやうにそれによつて衣食の資を得る必要の無いものでも、作の用意がやはり「當りをとること」を主としてゐたのは、それが本來戯作であつてまじめなものではない、といふ考から來てゐると見なくてはなるまい。さうしてかういふ作を職業とするものの品性がおのづから卑しくなつてゆくのは、また免れがたきことであるのみならず、それが既に一般の風潮となつた上は、自己の品性を重んずるものは初めからその濁浪の中に身を投ずる事ができなくなる。著者は青棲に流連してゐたといふことを以て京傳をとがめたり、酒癖の惡い男であつたといふことを以て三馬を責めたり、またそれを彼等の品性の卑しさに歸したりするやうなことはしないが、さうしてまた彼等の作に於いて認むべき價値を認むるには決して吝ならぬものではあるが、俗受け本位商賣本位の作をして憚らなかつた點に於いて、彼等が作者として尊敬せらるべき第一の資格を失つてゐたといふことは、明かにしておかねばならぬ。馬琴、春水、並にその他の末輩、に至つては固よりである。彼等が書肆の奴隷になつたり畫家と喧嘩をしたり、馬琴の如く匿名で自讃をしたり同輩の惡罵をしたりするのは、文筆を以て職業とするものに有りがちなことでもあり、また人情の弱點のあらはれ(129)でもあるから、それによつて彼等戯作者のみを罪することはできないけれども、ほめた話でないことは勿論である。かの歌舞伎作者に至つては、一般の戯作者よりも更に陋劣なものの多かつたことは周知の事實であり、「人間の棄てどころ、野良の塵芥場、」(芝居気質卷四)とまでいはれてゐるが、これも一つは作者に權威がなく、作者みづから權威を立てようともしなかつたからである。劇が殆ど俳優を見せるものであることは、戯作の賣れ行きが插畫によつて左右せられる比ではなかつた。
 作者の知識の程度の低いこともまたこゝに附記してよからう。藝術家は道學先生でないと同様に學者でもなく、その本領は別にあるのであり、特に當時の學問によつて與へられた書物の上、文字の上、の知識は、作者にとつては却つて害になることもあるくらゐで、馬琴に於いてその好標本が示されてゐる。いはゆる無學者の作に實社會の觀察と描寫とに於いて長ずるところがあり、そこにまた有りのまゝなる當時の人の内生活が現はれてゐるとすれば、それはさういふ知識に拘束せられず、もしくはそれを顧慮しないところに、一機縁がある。だから源氏物語の講義などは戯作者には用がない、といつた三馬の言(戯作六家撰)にも確かに一理はあるので、國學者や和學者の源語の解釋は、今日から考へても作者にとつて直接の參考にはなりさうもない。しかし、文字上の學問を尊んでゐた當時に於いては、その點に素養の乏しい戯作者が知識社會から輕んぜられ、從つて文學の價値が世間から認められないのは、自然の勢であるから、文學者の社會的地位、また文學の發達、といふ點から考へると、それが大なる累をなしてゐることは明かである。このことに於いては馬琴に幾らかの功績があるので、彼の作に人氣のあつた一理由は、それが知識人の間に或る程度の同情と讀者とを有つてゐたところにあり、さうしてそれは、彼が臆面も無く四角な文字を振りまはした(130)からである。これは殿村篠齋、小津桂窓、木村黙老、などがその熱心な讀者であつたことからも知られるが、彼の衒學に眩惑せられるほど當時の知識人の智能は粗笨であり、彼等の文藝の趣味は低級であつたのである。勿論、馬琴のために一般の作者が尊重せられるやうになつたのではないが、少くとも戯作者の地位が幾らか引上げられたことは許さねばなるまい。勿論これはたゞ外面的地位のことであつて、作そのものの價値をいふのではない。しかし表面は輕蔑もせられ排斥もせられながら、實は知識人の間に於いても一般の低級な文學がかなり愛讀せられた點に於いて、文學が固陋な學者の權威を破壞していつたのであり、それは恰も平民の文藝が貴族社會を支配してゐたのと似かよつた現象である。貴族が平民よりも優れた品性を有つてゐなかつた如く、いはゆる學者も高い趣味を解することができなかつた。彼等の鑑賞眼は知識の無いものと殆ど擇ぶところが無かつたので、それは彼等の學問が、眞實の人生とは交渉の少い、文字の上の空しき知識を與へるに過ぎないものだからである。
 作者の態度についての上記の考察は、主として俳諧師狂歌師戯作者などに屬するもののことであるが、彼等の作品を通俗文學と稱することは、この意味に於いて適當であらうと思ふ。勿論これは、當時の人の考へてゐたやうな雅に對する俗でもなく、または平民的であるがために俗として斥ける意味でもない。しかし歌人や漢詩人に於いても、類似の傾向は存在する。彼等は俳諧師狂歌師や戯作者の群に對しておのづから文人といふ一階級を作り、その間に一つの交際社會が成立してゐたのみならず、春海や茶山の如く、歌人にして詩を作り詩人にして歌を詠むものもある。けれども通俗文學の作者となつたものは甚だ少く、歌人では既に述べた如く秋成春海廣道などの二三子が小説を作つたくらゐのことに過ぎず、貞徳時代には歌人の兼業のやうであつた俳諧も、このころでは歌と全く分離してゐるが、そ(131)れは俳諧の方から獨立した故もあり、このころの古學者の特殊なる尚古癖にもよるのである。秋成も古文學に興味を有つてからは俳諧に遠ざかつたらしい。却つて漢詩人に俳諧を弄んだものはあるが、それも單なる戯れに過ぎず、秋山玉山が唐詩を俚語譯にしたやうなことも全く一時のすさびである(近世畸人傳、一話一言など)。何ごとにつけても物好きな柳澤※[さんずい+其]園も同じやうなことを試みたことがあるが、これとても取り立てていふほどのことでない(歌系圖)。かういふ風に彼等は通俗文學者に對してその領域を異にすることを誇つてゐるのであるが、しかし人としてはその間にさしたる差異の無いものが多い。
 第一、貴族に對する諂諛の言は歌集や詩集の到るところに見えてゐる。山陽が白河侯に上つた書をこの意味で非難するものもあつたが、それは彼等の常態であつた。歌を賣り詩を賣つて生活するものが世に阿り人に傲ることも、同樣である。日本詩選の撰者の江村北海と龍草廬とは「納錢入選江君賜、待價作文龍子明、」と嘲られたが、五山堂詩話などに無名の作者の作を多く擧げてゐるのも、詩を世に紹介するといふ意味ばかりではなかつたらしく、詩によつて衣食するものとしては已むを得ざることながら、そこから世に媚る態度も生じがちである。歌人にも愚劣な素人おどかしをして顧客を喚ばうとしたものがある(松屋筆記卷一)。書畫合などの陋態はいふまでもない。たゞ戯作者などがみづから卑しくしてゐるとは反對に、彼等はむしろみづから高く標置してゐるが、それは馬琴の同樣な態度と似たものである。歌集や詩集の編纂刊行に門人の名を以てし、心ならずも世に公にするといふやうな辯解を附するものの多いことも、また彼等が矯飾をつとめることの一例である。「角つきあひ」のうしたちが歌界に充滿し、黨同伐異が詩人の間に行はれてゐることは、いふまでもなからう。景樹派と江戸の歌人との間に行はれた執念深い論難の交換など(132)も、必しも單純な見解の相違からのみ來てゐるのではない。その他、いはゆる文人の行の放縱なことについては、例へば擁書樓日記や半日閑話などを見たばかりでも推測に餘りがある。たゞ彼等は、古典崇拜シナ崇拜の世に於いて、狂歌師や戯作者よりも幾分か尊重せられ一種の社會的地位を與へられてゐるために、世間に對する體面を顧慮しなければならぬ必要があるのと、ともかくも或る程度の知識を有つてゐるのと、また文學を生活の職業とする必要の無い好事者がその間にあるのと、これらの種々の事情のために、暗黒面が甚しく曝露せられない場合もあり、また事實さういふ風潮の上に超脱してゐるものも幾らかはあつたのである。
 江戸時代の下半期に於ける平民の文學には上記の如き暗黒面があるので、それは即ち當時の文化の一般的性質が文學の上にも現はれてゐるものである。しかしその作品の價値は別問題として、あれだけに世に行はれあれだけに盛になつたのは、それが平民の文學であつたからである。全國にゆき渡つてゐる商人の連絡と、江戸と京坂とを中心とする交通系統の成立とは、容易に書物を四方に普及させたのみならず、小説の類に至つては、貸本屋といふ一種の圖書館も大都會には具はつてゐて、その傳播を助け、それによつて多數の讀者を吸收することができ、書肆をしてその利を博しその發刊を促させるのであつた。また狂歌俳諧は勿論のこと和歌や詩の類でも、多數人の作を撰集の中に加へて世に公にする方法があつて、それによつて同好者追隨者を廣く四方に求めることができた。これは恰も、木版の印刷によつて廉價に且つ容易にその作品を公にするを得た江戸の浮世繪師が、その特殊の技巧と情趣とをその間から發達させると共に、民衆の嗜好をそれに反映させ、民衆的藝術としてそれを完成させたと同樣の、またそれと相伴ふ、(133)現象である。江戸の通俗文學の發達が浮世繪師によつて誘導せられ、またそれと協力した結果であることは、いふまでもなからう。插繪のみのことでなく、黄表紙の作者には浮世繪師が少なくない。小説の類のみならず、狂歌と浮世繪との關係もまた頗る密接であつた。
 なほかゝる江戸の文學が民衆的娯樂の中心である歌舞伎と密接の關係があることを、忘れてはならぬ.天明前後の草双紙に歌舞伎の筋書もしくは芝居繪の如きものから變化して來た形跡のあるものがあり、その題材もまた歌舞伎から採つたものが少なくなく、出版の時期の春であることから、春狂言の曾我ものに附會した作もある。洒落本もまたその體裁が歌舞伎の脚本から轉化したものらしいことは、世に既にその説がある。役者の評列記をまねた種々の評判記も出たが、その中に菊壽草、岡目八目、乃至、犬夷評判記、のやうな文學的作品を目的としたものがあることは、文學の進歩にも幾らかの關係がある。これは浮世繪の題材の一つが役者であり、長唄なり淨瑠璃なりの諸派の音曲が常に劇場から出て來るのと同樣であつて、すべての流行や風尚の淵源が歌舞伎にあることの一現象である。文學と歌舞伎との關係は上方に於いても既にあつたので、浮世草子に於いてそれが著しく見られるが、江戸に於いても早くから寶永忠信物語の類があり、風來山人の作にも飛んだ噂の評や根なし草があつた。文化文政度の全盛期になると、小説の題材に歌舞伎から取つたものが甚だ多いのみならず、插繪の人物に役者の似顔を寫したものがあり(蜘蛛の絲卷)、またその構圖を舞臺面の人物の配置から學んだものが少なくないやうに見受けられる。種彦が目に見る歌舞伎を書物の上で讀ませようとしたことは、いふまでもない。役者が俳名を有し俳句を作ることを衒つてゐるなどは、俳諧のためにはさしたる關係のないことであり、また役者の記念としての出版物が現はれ、或は草双紙に役者を表面上の著者(134)としたものがあるなどは、書肆の商略から來てゐるのではあるが、一面に於いてはやはり文學と歌舞伎との關係の深いことを示すものである。一體に小説と浮世繪と歌舞伎とは相互に密接な關係を有つてゐるので、小説が歌舞伎に演ぜられることは勿論、小説を錦繪にすることも少なくない。田舍源氏を描いた豐國の「其姿紫の寫しゑ」などはその主要なものであらう。そのころ流行した武者繪の如きも、讀本の影響として盛になつたのではあるまいか。或はまた錦繪が歌舞伎の粉本になつたこともある(歌舞伎年代記續篇)。すべてこれらは江戸の小説が浮世繪と共に歌舞伎を中心として發達して來たことを示すものであつて、そこに當時の民衆文學の特色があり、同時にその隆盛を來した一大事情があるのである。
 勿論、平民の文學とても、必しもいはゆる寫實的のもの特に平民の生活を描寫したものには限らぬ。擬古文學や漢文學は別問題としても、讀本や合卷ものの草双紙などに現はれてゐるところに於いては、實生活とは大なる距離のあるものが多い。が、少くとも平民文學の一半は當時の世相の描寫であり、浮世繪や歌舞使と同樣、時々の風俗や流行ものや開帳祭禮などの市井の光景が自由に題材として採られてゐる。そこにいはゆる際物的の剥げ易い色彩がついては來るが、それだけ平民の日常生活とは緊密な接觸がある。さうして讀本の類とても評判のよいものになると、それがまた世間の流行や風俗に影響を及ぼすので、京傳の作中の或る光景が東海道の宿驛の障子に畫かれ(京傳一代記)、馬琴の作の人物が煙管の彫物や紙蔦畫や暖簾の模樣などに用ゐられ(作者部類)、または種彦の田舍源氏が流行すると共に、染模樣や押繪までそれから意匠をとつたものが行はれたといふ(歌舞伎年代記續篇)。俳優の「せりふ」がまねられ、その紋章が着ものや持ちものの模様などに取られたことは、いふまでもない(後は昔物語、賤の小田卷、江戸(135)塵捨、噺の苗、など)。こゝにも平民の文藝と彼等の日常生活との離れ難い關係がある。さうしてその流行が廣く武士の社會にも貴族の奥向にも及んでいつた點に、文化に於ける平民の權威があつたのである。
 
 こゝまで考へて來たところで、俚謠のことを一言しておかう。俚謠には、例へば田植ゑ、田の草とり、刈り入れ、臼ひき、などの農事に關するもの、舟歌、木挽き歌、馬子歌、茶つみ歌、などの特殊の職業またはしごとに關するもの、盆踊りなどの一般的なもの、及びその他のいろ/\のものがあり、さうしてそれらにも、地方的時代的にさまざまの違ひがあるが、しかしそれらは互に混和しあふ傾向もあるから、必しもかういふ風に區別することのできない一面がある。さうしてそれは、一般民衆の生活感情に共通なところがあるためであつて、そこに俚謠といふものの性質がある。從つてその發生地の違ひや作られた時代の新古などは、それに現はれてゐる生活感情を知るためには、さして重要でない場合が多い。都會の地に於ける一時的の流行歌の類は、この意味に於いて、俚謠から除くべきものである。かゝる俚謠を作つた多數の無名の詩人は、自己の心情を一般民衆に共通な生活感情に同化させて表現し、また一般民衆によつて歌はれる旋律を構成したところに、特殊の功績があり、日本語に特殊な情趣もそれによつて味ひ得られたのである。もつとも同じく俚謠ではありながら、その詞章が俚言俗語によつて成りたつてゐるものと何等かの程度で古典的要素を含んでゐるものとの二極があり、その旋律にも朗らかな陽氣なものと感傷的な清婉なものとがあり、また歌ふといふよりは語るといふべきものもあるが、何れにしても民衆的生活感情の表現せられたものではある。なほ近ごろ民藝の名によつて呼ばれてゐる工藝品があつて、その性質には俚謠と通ずるところがあり、實用的のもので(136)はあるが、日本の特殊の風土を基盤とも背景ともしてゐる民衆の生活氣分がおのづからそれに表現せられてゐる點に大なる價値があることを、こゝに附記しておく。
 
(137)     第五章 文學の概觀 二
       浮世草子及び淨瑠璃丈學 附歌舞伎
 
 不斷の連續である歴史の流れを任意に截断して劃然たる時期の區分をするのが誤であることは、いふまでもない。著者が江戸時代文化の停滯期をほゞ享保のころから始まるとするのも、假に目標を定めたのみのことである。一般の文化がさうであるが、特に文學に於いては、享保といふ年代記上の時期に特殊の意味は無い。しかし淨瑠璃文學の大成者たる近松は享保の初めに死んでゐる。八文字屋は依然として新作を世に出してゐるが、もはや何れも陳套の譏を免れ難い。京坂を根據とする俗文學がこのころから衰退しはじめたといふのは、必しも妄斷ではないのである。
 初期の八文字屋本が西鶴の好色本の摸倣であり、その主なる筆者である其磧の作の主題が、後になつても概して西鶴のの外に出てゐないこと、また彼が到るところで西鶴を剽竊してゐることは既に前篇に述べておいた。この點に於いて作者としての彼の價値は、ひどく減損せられるはずである。傾城禁短氣で宗論や説法に擬して色道を論じ遊女の裏面や手管を説いたのは、一種の新工夫であつて、これは其磧の得意の手段であるらしく、渡世身持談義にも似たやうな趣向があるが、しかしその内容には新しいところが無く、西鶴の好色本に於いて覗ひ知られることばかりであつて、特色はたゞそれが變つた形で委曲に述べてあるといふにとゞまる。最初の二卷を占めてゐる男色女色の優劣論に於いても、男色黨の言ひ分は男色大鑑の序文以外に出てゐず、文章さへそれをまねてゐるところがあるではないか。しかし、ともかくもその達筆で色と慾との世界を縱横に描寫したところに、なほ元禄文學の餘韻がある。その中で、(138)傾城情の手枕のやうな純粹の好色本、または渡世身持談義のやうな永代藏式のものについては、特にいふべきことも無い。少しく新味のあるのは淨瑠璃歌舞伎の摸作であつて、これは單調に厭れた浮世草子に一點囘を試みようとしたところから出たものであらうが、今日から見ればさしたる效果があつたとは思はれぬ。例へば國姓爺明朝太平記は近松の國姓爺と後日合戰とを一つにまとめて、それに幾らかの小細工を加へたに過ぎないものであつて、こゝにも彼の獨創的作者でないことが明かに示されてゐる。風流西海硯や兼好一代記の類に於いては、淨瑠璃式の結構と好色本式の遊里の描寫とを外面的に結合しただけであつて、この二要素は互に遊離してゐる。いひかへると、好色本としては淨瑠璃式の義理と人情との小葛藤や表裏の計略や敵討などは全く不必要であり、またさういふ結構にはくだ/\しい遊里の描寫などは無意味である。義經が流したといふ弓の話を改作して傾城勝浦のきつた指としたなどは滑稽であるが、全體がさういふ滑稽から成りたつてゐるのではない。次に重要なのは子息氣質を始めとするいはゆる氣質ものであるが、これは其磧以後にも續いて多く摸作せられたものであるから、それについて一應考へておく必要がある。
 其磧の気質ものは概していふと西鶴を繼承した滑稽本である。その中には、人々に有りがちな弱點を誇張して寫した子息氣質の一の卷の三、親仁形氣の四の卷の一及び二、のやうなもの、また特殊の性癖、趣味、嗜好、を極度に強い調子で描き、普通に期待せられる子息や娘や親仁やの型とそれとがあまりに背反し或は矛盾してゐるところに、不合理の感を起させて、そこに滑稽を生ぜしめるもの、例へば娘氣質の一の卷の一、二の卷の一、親仁形氣の二の卷の二及び三、などがある。なほ子息氣質のこの卷の一、三の卷の三、親仁形氣の三の卷の三、などは、その不合理な性癖や嗜好から失敗を招き、得意の境遇から忽然として失意に轉ずるところに、別の滑稽が加はり、特にその中の金を(139)ためたために放逐せられたり親が子から勘當せられたりするのは、世間普通の状態とは反對である不合理の點にも滑稽が生ずる.もつとも氣質ものの滑稽は必しも子息とか娘とかの身分に特殊な不合理ら生ずるものとは限らず、子息氣質の四の卷の三、娘氣質の二の卷の三、三の卷の一、親仁形氣の四の卷の三、などは何人のこととしても滑稽たるを失はぬ。しかし、中には滑稽として見難い話もあるので、子息氣質の二の卷の二、娘氣質の二の卷の二、などは、裏面を暴露したものではあるが、作者はそれを滑稽として取扱つてはゐないやうであり、子息氣質の一の卷の二の如きは、滑稽となるべき材料が滑稽として寫されてゐない。これは作者に西鶴の如く矛盾に充ちた世の中を滑稽的に眺めようといふ特殊の人生観が無く、たゞ筆のさきだけで西鶴を學んだためであらう。が、文字の上では、西鶴の筆致を摸倣し剽竊することによつて、到るところに人生を滑稽視する態度が見え、娘氣質四の卷の三の如く心中をさへ滑稽化してゐる。さうしてその滑稽はかなりよくできてゐて、死にともながる老人や、娘自慢の父親や、武士氣質の女房や、或は生ま學者風の子息や、それ/\の面目が巧みに描かれてゐる。のみならず、親から自由に遊蕩費を供せられて却つてその興味を失ひ、はげしい悋氣女房が夫の悋氣責めをもてあます、といふやうな話も、粗い筆致ながら一とほり首骨せられるまでに書いてあるので、人情を穿つたものとして其磧の賞讃せられるのは、多分この點にあるのであらう。さうして話の多數が甚しく誇張せられ、或は親仁形氣三の二の仙人の如く初めから空想的の材料をさへ用ゐてゐて、事實としてあるべからざることが明かであるにかゝはらず、それが事實らしく寫されてゐる點にも、また一種の滑稽が感ぜられる。たゞ手代氣質だけはこれとは※[しんにょう+向]かに性質が違つてゐて、むしろ永代藏式のものであり、手代の惡辣な一面と忠實な他の一面とが描かれてゐる。手代氣質の名は習慣上つけられたに過ぎなからう。
(140) ところが其磧の後になると、氣質ものの性質が漸次變つてゆく。南嶺の作とせられてゐる諸藝袖日記は、やはり其々氣質と稱すべきものであるが、それにはなほ其磧の面影があつて、開卷第一に生ま學者の失敗を可笑しく描いてゐるのがその代表的のものである。秋成(和譯太郎)の諸道聽耳世間猿も同性質の作であつて、その一の卷の一、二の卷の二、などは、武藝好きや信心者の自ら陷つた失敗を滑稽的に描き、無跡山人の學者氣質の最初の物語もまたその系統をひいてゐる。それらの作は題材も寫し方も其磧のと大差は無く、やはり南嶺が書いたといふ母親氣質(二の卷の一)に娘氣質(二の卷の一)の話をとり、前に述べた世間猿の初めの方のが子息氣質(一の卷の二)のと同題材であるやうに、明白な剽竊と摸倣とをさへしてゐる。たゞ文章の點では、秋成に於いて、其磧と同樣な西鶴から傳へられた筆致が或る場合に見えるのみで、南嶺にさういふ皮肉な奇警な批評的の文字が無く、同じく傍觀的態度で世間を茶化してはゐるものの、その書きかたは冗漫で平板である。
 さてこの文體の變遷は、やがてその思想の推移をも語るものであつて、同じ南嶺のものでも母親氣質になると、その最初の話に於いても知られる如く、母親のよい方面をまじめに寫したものが少なくなく、秋成の妾氣質にも一面には妾の裏面を訐き、時には三の卷の一の田舍侍が屋敷まはりの商賣女に欺かれるやうな話(これは江戸の戯作に於いてしば/\現はれるいはゆる武左の滑稽談である)をも作りながら、他面では三の卷の二及び三の如く妾の可憐な一面をも寫してゐる。世間猿の四の卷の三なども、女郎の唐癖は少しく滑稽であるが、香具屋と戀に墮ちてからの物語はさうでなく、滑稽になりさうでなつてゐないところに作者の態度が見える。秋成は西鶴とは違ひ、幾分か世を愚にしてもゐ時々は人を罵つてもみながら、全體の筆つきから考へると、たゞ書くことに興味を有つて書いただけのこと(141)らしい。妾氣質の二章にわたつて述べた浦島の物語も、主旨がどこにあるかわからず、玉手箱を鼠が食つたといふ結末に滑稽があるかとも思はれるが、それにしてはそれまでの徑路が冗漫に過ぎるので、滑稽のきゝめが無い。本來虚無縹渺の間にあるべき神仙譚を現實的に取扱つたのがそも/\無理であつて、初めから不合理が見えすいてゐるから、その上の不合理には滑稽が生じないのである。秋成のこれらの作に一貫した思想の無いことは、これを見ても知られるので、その點は其磧と同樣である。文章とても西鶴を學んで及ばざるものであることは、妾氣質二の卷の一の結末と一代女卷の一の同じことを書いたところを比べて見れば明かである。大梁金陵合著といふ署名のある化物氣質にも、なほ儒者の滑稽譚(二の卷の一)などがあり、題號にも世間を滑稽視してゐるやうな意味がほのめかされてゐるが、最初の話の如きは金もうけの辛辣な機略を寫してゐながら、それを滑稽的には取扱つてゐない。永井堂龜友の諸作に至つては、其磧以來看板にしてゐた教訓文字が現實にはたらきを見せ、嫁いびりの姑が改心するなど(姑氣質一の卷の二、二の卷の二)、勸懲の傾向を明かに示してゐ、商人の心得をもまじめに説いてゐる(旦那氣質など)。別に外瓢といふ名の著してある御旗本氣質といふものがあるが、これは題材からいふと純然たる江戸のものであるけれども、作者は吝嗇をしわいといひ白痴をたわけといひ妻を内儀といふなど、上方人らしい點がある。その内容は旗本の裏面を寫すのが主旨であつて、それを滑稽と見るよりもむしろ顰蹙し憂慮しての作らしい。從つて甚しい誇張の跡は無く、殆どそのままに事實譚として信用せられ、文學としてよりは記録としての價値があるほどである。當時の旗下の土の腐敗した一面、遊惰と無智と放縱と窮迫と、並にそれから生ずる幾多の罪惡とは、かなり暢達な筆で敍述せられてゐる。
(142) 要するに、氣質ものは漸次常識的になり、教訓的になり、浮世草子の本色が次第に失はれて來たのである。さうしてそれは、一體の氣風が萎縮して人の思想が規矩にはめられるやうになつた時勢の影響であらう。享保以後の上方文學は、その内容に於いても元禄の活氣と奇警と奔逸と放縱とを失つて來たのである。好色本の變形と見なすべきものでも、聖遊廓の如き江戸の洒落本式のものの現はれたことを見るがよい。なほ何れの作でも最初の一章は強ひてその結末をめでたくしなければならぬ慣例になつてゐるので、これは連歌や連俳から系統を引いてゐることであり、西鶴の作に於いても既に見えてゐることであるが、このころのものにはそこにわざとらしい造作の跡が著しく見える。ここにも時代の思想が窺はれよう。それから手代來質以後、一つの話が二三章にわたつてやゝ長く敍述せられてゐる場合があるが、これも作者の着眼が滑稽を離れて來たことを示すものらしい。浮世草子の滑稽は誇張の筆を用ゐて世相の矛盾を剔抉し、傍觀的態度でそれを茶化す點にあるから、それには短篇が適應してゐる。たゞ後になるほどその取材の範圍は擴げられて來たので、西鶴に於いては女とか町人とかいふ廣い類別で一切を網羅し、其磧に於いて親仁とか娘とかいふ特殊の身分にそれをわけたのが、次にはまた學者とか醫者とか茶人とかいふやうな職業の區別をするやうになつたと共に、主題も取扱ひ方も同じことながら、何處かに新材料を見つけようと苦心するやうになつたことが知られる。この變遷はおのづから、色とか慾とか身すぎとかいふ何人にも共通な點に於いて發見せられた滑稽から一轉して、特殊の身分や職業に附隨することがらに於いて滑稽を求める傾向を伴ふのであり、從つてまた、何事につけても滑稽的な見かた寫しかたをする態度から轉じて、人の生活に於いて特に滑稽な面を見出さうとすることにもなるのであつて、其磧の諸作や諸藝袖日記などに於いて滑稽的に取扱はれた失敗譚のやゝ多くなつたのも、かういふとこ(143)ろに一つの理由があり、さうしてそに西鶴よりも一歩進んだところのあることが覗はれる。しかしその方向へは深く入ることができずして、却つて平凡な常識的物語に流れてしまつた點に、時代の思潮が覗はれるのである。
 
 上方に氣質ものの行はれた時代に於いて、江戸にも浮世草子の影響をうけた二三の著作がある。もつとも好色本めいた種々の出版物もあるが、それは畢竟吉原源氏五十四帖のやうなものの繼續と見なし得るものであつて、文學界の大勢には深い關係が無いやうであるから、且らく別問題として、山岡明阿の作だらうといふ跖婦傳、風來の根無草、志道軒傳、などは同時代の上方文學の一分派と見なされる。跖婦傳は夜鷹と太夫との問答と老子をもぢつた色説とに於いて、いはゆる色道を説いたもので、多分禁短氣の系統に屬するものであらう。風來のお千代傳はこれから出たものながら、この作者に特殊の面目が露はれてゐる。しかし同じ人の根なし草は、役者の死を主題とした點に於いて、寛濶役者氣質や江戸の正徳追善曾我などの先蹤をふんだものであるのみならず、幽界または地獄を假りたのもそこに由來があり、さうしてその地獄の滑稽化は元禄太平記や小夜嵐などに粉本がある。また男色女色の優劣論をしたのはやはり禁短氣の摸倣で、志道軒傳の島めぐりに於ける女護の島は、いふまでもなく西鶴によつて既に發見せられてゐたものである。のみならず、それには教訓分子すら混入してゐる。が、それに現はれてゐる風來の特色もまた固より閑却することができぬ。平秩東作のいはゆる「憤激と自棄とあいまぜの文章」(飛火落葉序)は、これらの作よりはむしろ後に書かれたもの、即ち六々部集に入つてゐる狂文など、に一層適合した批評であらうが、しかしこゝでも彼の溌刺たる才氣と「うそで堅めた世の中」を罵る鋭い舌鋒とは、明かに認められる。遊戯文學のまだ發達しない江戸に(144)於いて早くも現はれた遊戯文學であるだけに、その遊戯は單純な遊戯、遊戯のための遊戯、ではなかつたのである。
 だから彼は、天明期に榮えた一種特殊の江戸文學のために先驅者として見られてゐ、寢惚先生(蜀山)の先輩であり、竹杖爲輕(森羅萬象)の師であり、三馬の如きは彼の後繼者を以て任じてゐるにかゝはらず、いはゆる戯作者の群に入れるべきものではない。特に六々部集に至つてはその根本の意圖が嘲風罵俗にあるので、讀者はその一語々々によつて口をついて迸り出づる彼の冷罵の飛沫を浴せかけられる。彼の態度は皮肉でもなく諷刺でもなく、正面から罵倒するのである。超然として高いところから世を見下ろしてゐるのではなくして、世間を喧嘩の相手にしてゐるのである。たゞその罵倒には多少の技巧が加はつてゐて、その技巧から滑稽が生れる。狂歌や狂文の形になつてゐることが即ちそれを示すものであるが、その滑稽は主として卑陋な醜惡なものを堂々と正面にもち出し、それによつてあらゆるものを卑陋化し醜惡化するところにある。古語を俗化し、まじめなものを不まじめに取扱ふのは、次にいふやうに戯文通有の方法ではあるが、彼にとつては世に對するこの態度が文字の上に現はれたのであつて、單に言語上のをかしみを求めたばかりではない。才氣煥發の彼の不平の鳴が、おのづからかゝる詞華を開いたのである。だから文章としては勢があつて奔放自在である代りに冗舌が多く、精錬せられた西鶴の力と美しさとには遙かに及ばない。特に敍述するよりは罵倒し、觀察するよりは自己を主張するのであるから、いひ表はし方が滑稽ではあるが、甚だ理窟くさく、議論を以て人を壓せんとする傾向がある。從つて單に作品の上から見ると、文學としての價値は其磧輩の作よりもむしろ劣つてゐる。のみならずその嘲罵もたゞ目前の世態に對するのみであつて、西鶴の如く人生の根本問題には接觸してゐない。おちついて人生を觀照した結果ではなくして、「青雲の梯を踏失して天竺浪人となりしより、(145)滄浪の水※[米+參]に濁醪の世の醉を醒し吐散したる酒反吐、」(六々部集序)であり、世に用ゐられない不平の餘りに發したものだからである。だから志道軒傳に胸穿國を寫して胸に穴のない人間が片わものとして取扱はれるといつたり、女護の島に於いて男郎といふものになつた話をしたりしても、それはたゞ反對のことをいふ點に些のをかしみがあるのみで、人生そのものに對しまたは性欲の根本問題に對する、痛切な諷刺にはなつてゐない。けれどもあれだけに自己を丸出しにしたものは當時の文學界に於いては稀有の例であつて、そこに田舎者たる彼の特色があるかも知れぬ。蛇蛻青大通に於いて大通よりはむしろ新吾左に身方したのも無理ではない。
 風來の作が世を罵り俗を嘲つてゐるのとは違ひ、その影響をうけながら教訓主義に立ちもどつたものに、やはり上方で出版せられた和莊兵衛、笑註烈子、東唐細見噺、の類があつて、共に志道軒傳から系統をひいてゐるらしい。かういふものが一時に輩出したのは、蘭學が行はれて世界の珍らしい風俗などが幾らか世に紹介せられ、萬國夢物語のやうなものが現はれて來た時勢の影響もあるらしく、現に東唐細見噺に於いては外國の地名が入つてゐる。從つて珍術瞿粟散國の如く教訓的意味の重きをなさぬものもある。さて和莊兵衛の好古國では儒者の弊を指摘し、大人國ではその國人をして莊子めいた態度で聖賢の教を小さい智慧と笑はせてゐるが、全體の主旨は儒教道徳の鼓吹にあることが明かであり、笑註烈子に於いても最後の大上品國が仁義忠孝の行はれてゐる理想的國土としてある。後の馬琴の夢想兵衛はこれらの作に一歩を進めたものであつて、偏固な道徳的説法をしながら、筆つきには八文字屋ものの影響が認められる。何れの作に於いても、種々の空想國土が概して當時の世相の一面を反映させたものであり、その描寫に幾分の滑稽味が伴つてゐる點に於いて、浮世草子の後繼者であるが、その教訓が常識的といふよりはむしろ儒教的で(146)あるところに氣質ものとの相違が認められ、特に自由な思想を大膽に述べた西鶴の作などに比べると雲泥の差がある。和莊兵衛に於いて尚古思想、忠孝道徳、尊老の教、などに對する反對思想を擧げながら、それに何等の意義をも價値をも認めず、その國を自暴國と名づけてゐるのが、浮世草子の態度と異なるのを見るがよい(前篇第十六章及び第十七章參照)。元禄の濶達な氣風は、もはや文學界のどこにも認められない。事實、文學的作品にまで窮屈で偏狭な村學究的態度の加はつて來たのが、このころの特色であつて、やがて馬琴などの讀本を誘發する機縁となるものであるが、その讀本の淵源がやはりこのころにある。
 
 氣質ものに於いて最も多く滑稽化せられてゐるのは儒者もしくは生ま儒者であるが、それほどに當時の儒者は弱點を有つてをり、さうしてそれは、現實の生活と交渉の無い文字上の知識、異國人の作つた書物の上の思想、を丸呑みにしてゐるところにある。徂徠學が天下を風靡してゐたこのころに、かういふ非難のあるのは當然であつて、「唐の反古にしばられて我が身が我が自由にならぬ」「屁ぴり儒者」(志道軒傳)は、特に※[草がんむり/(言+爰)]園の末流に適切な評語であり、諸藝袖日記や學者氣質で唐音の冷笑せられてゐるのも、やはりこの一流が攻撃の目標となつてゐたことを示すものである。しかしさういふ怪しげな唐音の衒學的流行は、直接にシナ人と接觸する機會の殆ど無かつた當時に於いて、特に經典の解説を以てみづから任じてゐる學者にとつては、甚だ無意味なものであつたが、文學上に於いては、それが小説や戯曲に親しませる上に幾分の關係が無いでもないので、岡白駒などがさういふ研究に少しく手をつけたことは固より、岡島冠山の水滸傳の翻譯のやうな事業がこの氣運に乘じて行はれた。が、當時の一般の讀者には、純然たるシ(147)ナのことは興味が無かつたのか、或はまた正直な翻譯をするまでに俗文を讀み得るものが無かつたのか、翻譯はあまり世に現はれず、その代りに前代からぼつ/\行はれてゐた短篇小説の翻案がまた頭を擡げて來た。その取られた材料には奇異の物語、特に妖怪譚、が多いが、これはさういふものを喜ぶほどな低級な好奇心がもとになり、それにシナにゆかりがありさへすれば意味ありげに思ふシナ崇拜の思想と、浮世草子の衰頽と、それらの事情が重なり合つて生れた現象である。
 さてその翻案の方法や日本化の程度は作者によつて一樣でない。近路行者のには、今古奇觀第四囘の「裴音公義還原配」を取つた英草紙(第九篇)の「高武蔵守婢を出して媒をなす話」に於いて、師直が「功名の下には久しく居り難し」といふ旅僧の言を意に介せず、身をすてて名のために働いた、といふ原作に無い話を加へ、昔の御伽婢子(卷六)が「伊勢兵庫仙境に到る話」に於いて、不忠不義の名を取るまいために仙郷を辭して還つたといふことを書いたのと同樣、日本人の思想を以て原作に變改を施したやうな例がある。上官に阿諛する下吏が權力と詭謀とを以て少女を拉し去つたといふ原作の筋を改め、進んで權家に仕へさせたことにしたなども、もとの話が或は日本人にはふさはしくないこととしての、或は憚るところがあつての、作意らしい。しかしかういふ變改は話そのものには關係の無い附加物か、取り去つても支障の無い挿話かのことであつて、物語に現はれてゐる根本の思想は原作のまゝであるのが多い。だから日本の話としては有り得べからざる道術などを説き、夫婦親子の倫理觀念に於いても、英草紙(第四篇)の「黒川源太主山に入つて道を得たる話」にある如く、夫婦は二世親子は一世といふ日本人の考とは違ふ「夫婦は義合、親子は天合、」といふやうなシナ思想をそのまゝに承認してゐるのは、どこまでも儒者式である。源太主の妻が夫(148)の死後再嫁するに至る徑路を同情を以て寫さうとはせず、その夫が故らに假死して妻をして再嫁するに至らしめ、覺醒の後それを發いて妻の不貞を證明させた殘酷な態度も、女を本來淫蕩なものと見る不自然なシナ式道徳觀から來てゐる。詩を歌とし、話の輪廓を日本のこととし、時には歴史的專實に合ふやうにもしてあるが、全體の氣分は異國的である。文章とても生硬な直譯的分子が多く、それに比べると御伽婢子の方がよほどよみよい。會話の如きは特にさうである。
 秋成のは、文章に國語脈むしろ雅文脈が勝つてゐる如く、日本的情調で色づけられてゐるので、普通の讀者にはさほど異國的な感じがしなかつたらう。しかし雨月物語(卷四)の蛇性の婬の條に見える女の詞の「親兄に仕ふる身のおのがものとては爪髪の外なし」といふ道徳觀などは、やはり儒教式であつて、かういふ物語としては甚しく耳障りである。のみならず、行文が雅文體になつてゐるだけに現實味が薄く、從つて妖怪の正體のシナにあることが目につき易い。西鶴が新可笑記に於いて同じやうなシナ傳來の妖怪譚を取りながら、當時の思想や風俗で巧みにそれを裝ひ、元禄人の氣分にそれを浸してゐるのとは、讀者に與へる感じが※[しんにょう+向]かに違ふ。文章のみならず西鶴がすべてを現代人としてゐたのに、このころの作者はそれを縁遠い古人にしてゐる。
 だから概していふと、近路行者は日本化する點に於いて了意よりも劣り、秋成は現實味を與へる點に於いて西鶴に及ばぬといはねばならず、そこに當時のいはゆる學問の缺點と、それに眩惑せられて自己を失つてゐる時代思想の一面とが見られる。もつとも本來の主旨が奇異の物語を作ることであるから、シナめいてゐても事實らしくなくても支障がないのみならず、その方が一層奇異の感を強くする效果がある、ともいはれようが、既に翻案する以上、日本の(149)こととして考へ得られるやうにしなければならず、その上で好奇心を滿足させるのが作者の技倆であらう。
 更に考へるに、これらの作者は今古奇觀などのシナ小説の中から、何を標準として或る少數の物語を採擇したのであらうか。本文を通覽しても序文を讀んでも、英草紙や繁々夜話にはそこに多少の教訓的意味が存在するらしい。しかし作者が原作を翻案するに當つて、或は義經範頼重忠の名を用ゐ、或は師直などの傳説に附會したのは、單に翻案の便宜のためであつて、その人を寫したり品評したりするためではなかつたらう。作者眼底の或る人物を描くに當つて、それに適切な物語をシナの小説に求める、といふことはできないはずだからである。さすればその教訓といふのも、單にシナ式道徳の抽象的な知識を傳へるまでのことであつて、人物の上にそれを示すのではない。また雨月物語の如きは單に事の奇と文の妙とを求めたに過ぎないらしく、作者自身の思想も感情もそこに現はれてはゐない。シナ小説には關係の無いものではあるが、この物語に含まれてゐる白峯の一篇の如きも、たゞ撰集抄と保元物語との記載をとつてそれを補綴潤色したに過ぎないものであつて、そこに何等の新解釋も施されてゐないではないか。放伐論に對する批評の插まれてゐるのは目新しい感じがせられるけれども、それは偶然のことである。そのためにこの一篇を書いたのでないことは、一方に儒教的政治思想を説いてゐるため、その主旨が徹底してゐないことによつて知られるのみならず、全體の書きかたの上から見てもそれは明かである。だからこの作は、作者にも作者の時代にも特殊の關係の無い遊戯文字である。この點から見てもこれらの作にさしたる文學的價値の無いことが知られよう。
 英草紙や雨月物語に翻案せられたものは斷片的の奇談に過ぎないが、綾足の本朝水滸傳(吉野物語〕はこれに反して、その名の示すが如く、結構の雄大を以て知られてゐる水滸傳の翻案である。完結せられずに終り、出版せられた(150)ものはその不備なる稿本中の一部分に過ぎないが、全豹を知るたよりにはなる。恵美押勝が道祖王を奉じて伊吹山にたてこもり、そこを策源地として各地方に人を派し、同志を糾合して道鏡を討ち、君側の奸を除かうとする、といふのが大よその着想で、和気清麻呂なども引き入れてある。水滸傳は、草澤の豪傑が期せずして梁山泊に集まり、一方では權力に對抗しながら他方では民心を收攬し、一種の意氣を以て結合せられた團體を作る、といふのであつて、官界にゐて權力を有するものは、その實、人民を凌虐して私を營む賊徒であり、官權の及ばざるところに巣窟を構へてゐる賊徒は却つて義氣に富み民望を有する、といふ思想がその根柢にある。シナには古來盗賊の群が到るところにあつて、犯罪人や放浪者や破落戸やが所々から集まつて生をその間に託するのみならず、不平家や或る種の讀書人も往々その群に投ずることがあるので、それが大きくなると、おのづから一種の組織を有する團體となり、常に附近の民衆を脅迫して財貨を要求するが、民衆もまたその害に遭ふを恐れて、貢租をそれに贈ること官憲に對すると同じである。さうして政府がそれを討滅することのできない湯合には、往々妥協を試みて彼等もしくは彼等の團體をそのままに官吏とし政府の軍隊とする。もし全體の政綱が亂れて民間に不平の氣が高まつたり、災害があつて衣食に窮するものが多くなつたり、するやうな場合には、それに政治的色彩がついて來て、時勢と首領の人物とによつては、次第に勢力をひろげて終に時の帝室に取つて代ることにもなるので、それが即ち易姓革命の事實である。盗賊團と政府とは民衆に取つては畢竟同じものであり、賊魁と帝王との間には本來區別が無い。これがシナ幾千年の古今を通じて變らなかつた状態であるが、水滸傳の一篇はその眞相を最もよく語つてゐる。だからそれは到底他國には翻案し難い性質のものである。綾足の作に於ける上記の如き着想が如何に水滸傳から隔つてゐるかは、いふまでもなからう。
(151) その上にこの作に於いては、本來無關係な所々の英雄がおのづから來り集まるといふ原作とは違つて、偶然會合した押勝と伊吹山の白猪とは兄弟であつたとか、その白猪の婦は清麻呂の恩顧をうけた巨勢金麻呂の女の遊女となつてゐたものだとか、淨瑠璃式に人々の間の連絡が種々につけてあり、一々の插話とても、豐丸角丸が二皇子の身代りとなつて戰死したり、浪人の女が遊女に賣られたり、取つた首が繪であつたりして、やはり淨瑠璃式の小葛藤が多く語られ、そのために小細工が多く施されてゐる。伏魔殿の代りに懷風藻や萬葉に見えてゐる柘枝傳説を用ゐたのも、世をさけて漁に隱れたものの例として事代主神を利用したり、太平記よみを古代めかして磐余彦命東征譚の講譯としたりしたのと同樣、眞淵の弟子になり片歌を唱へた彼としてふさはしいことではあるが、しかしまた、擬古文を作らうとして作り得ず、古今をつきまぜた鵺の如き文章を作つたと同樣、水滸傳の翻案としては不調和なことである。勿論、獨立の作品として見る時、水滸傳に拘泥する必要は無いが、さう見たところで淨瑠璃の時代ものほどの效果も無い。水滸傳はその本來の性質が人の情生活を委曲に描寫するといふやうなものではないから、その點に缺けてゐるところがあつても支障は無いが、この作に淨瑠璃式の葛藤が語られてゐる以上、そこに注意するところがなくてはならぬのに、それが全く現はれてゐないのである。耳遠い古文を用ゐようとしたのもその一原因であるが、これは馬琴の評した如く、そも/\無理なことである。今人が死んだ古語を用ゐて人の微妙な情生活が寫されるはずがない。が、一方からいふと、生きた情生活を描き出さうといふ考が無かつたため、かういふ文體が用ゐられたのでもあらう。要するに、文體のことを問題外に置いて見ると、畢竟淨瑠璃の基本を讀み本の形に變へて而もそれに及ばざるものであるから、これに比べると其磧などの類似の作の方が大に優つてをり、さうしてその特色たる文體が、實は片歌式の素人お(152)どかしである。だからこゝにも、古學者の迷妄の一面と文字上の空疎な知識の前に人の屈服してゐた時代思想とが示されてゐる。さうしてその知識が眞の知識でないことは、水滸傳によりながら水滸傳に現はれてゐるシナの状態とシナ人の思想とを了解しなかつたことによつても知られよう。もしまた水滸傳の着想を幾分なりとも了解してゐたならば、彼がこの作に水滸傳の文字を題したのは衒學にあらざれば欺瞞である。たゞ蝦夷人を利用し楊貴妃を日本につれて來るやうな奇拔なことを考へたのは、眼界をやゝ廣くした點に於いて幾分の興味がないではないが、それもたゞ好奇心のために書物の上から材料を求めて來たに過ぎない。楊貴妃のことが世に傳へられてゐた熱田の話に由來のあるのを見るがよい。
 さてかういふ作の世に現はれたことについては、その背景として文學の領土には入れることのできない實録ものの類が廣く行はれてゐたことを、考へねばならず、世相を寫す浮世草子の外の何物かを讀者が要求してゐたことを、それによつて推測しなければならぬ。しかしそれは決して過去の美しい夢によつて現實の醜さを蔽はうといふのでもなければ、未來の希望を昔の人の面影に見出さうとするのでもなく、要するに奇異を欲する低級な知識欲の現はれに過ぎなかつたらう。作者のそれに對して與へたものが、現實の生活にも交渉が少く、生きた人間を現はしてもゐないことからも、それは知られる。かういふものに比べるとなほ幾分の人間味を認めることのできる淨瑠璃文學に於いて、時代ものに毫も過去の時代の生活が現はれてゐないことも、またその傍證となるであらう。
 
 近松の歿後も竹本座に於けるその後繼者は斷えず淨瑠璃の新作を出し、豐竹座の作者もまたこれに對抗してゐて、(153)操芝居の繁盛は一層加はつて來たにかゝはらず、文學的作品として觀る場合に、その淨瑠璃はたゞ近松の摸倣と踏襲とに過ぎない、といふことは既に上に述べたところである。竹田出雲の菅原傳授手習鑑が近松の天神記に、双蝶々曲輪日記が壽門松に、本づいたものであるやうなことはいふまでもなく、局部的な趣向や文章にも近松のを摸しまたそれから暗示を得て書かれたものが少なくない。饗庭篁村の指摘した如く、出雲の蘆屋道滿大内鑑に百合若大臣野守鏡の文を取り(雀躍)、または西澤一鳳などの作である北條時頼記の女鉢木が最明寺殿百人上臈の結末を殆どそのまゝに寫しとつてゐるやうな例さへもある。さういふ特殊の關係はなくとも、全曲の結構、插話の着想、または材料の取扱ひかた、何れの點にも近松の外に、または上に、一歩も出たものは無い。その主題は依然たる義理と人情との葛藤であつて、主人や親や養ひ親やに對しまたは身分や職務やに伴ふ義理と、妻や子に對する情愛または両性間の戀愛といふやうな人情と、の衝突が力を極めて描き出され、表面上の義理は義理として裏面に情を立てる妥協的態度、義理のために自害したり子を殺したりする悲壯な行爲、子のために己れを殺す親、夫のために身をすてる妻、などが何れの曲に於いても見えぬことはなく、妹脊山婦女庭訓の如く義理の死によつて却つて冷い義理の氷が人情の暖かさに融解せられることさへもある。總じていふと、表面上の、或は矯飾せられた、義理の觀念が強大な力となつて人を壓迫すると共に、終局に於いては人間性の核心から生ずる美しい、和い、同時に力強い、人情がすべてを光被し包容するところに、根本の着想があつて、この二つの力の互に纏綿し紛糾し衝突し調和するところに生ずる悲哀や苦悶や憤怒や歡喜やを示す幾多の場面によつて、一曲が構成せられるのである。この着想が如何なる形で具象化せられてゐるかといふと、それには次に述べるやうな幾多の缺點があるが、これだけのことは考へられる。さてその葛藤は、局部的には(154)世の習慣や制度や迷信やまたは人の弱點や過失やに由來する場合もあるが、一曲の骨子をなすものに於いては何時でもいはゆる惡人の野心から生ずるのである。人物の行爲についても、惡意のためにはいふまでもたく善意や義理を立てるためにも、詭計と謀略とが斷えず行はれてゐるので、惡意とみせたのが實は好意であり、敵とみせたのが實は身方であるといふ話も多く、計略と計略との鉢合せや、裏の裏をかく計略や、さういふことが間斷なく現はれて來るので、義經千本櫻に於いて知盛の幽靈が實は幽靈でなくして計略のための見せかけとせられたやうに、古い傳説などを取つてもしば/\この意味に變改せられてゐる。多くの曲に於いて用ゐられてゐる身代りとかやつしとかいふものは、勿論、計略の一方式であるが、一谷嫩軍記の熊谷に首を取られた敦盛は實は熊谷の子であつたといふやうな、取代へ子もやはりそれに屬する。さうしてかういふ計略がまた義理と人情との葛藤を生むのである。なほ何れの曲にも、物騷がしい殺伐な場面と、濃艶なぬれ場と、また滑稽なちやり場と、が存在することはいふまでもない。が、これは前篇に考へた如く、すべて近松の作に現はれてゐるものである。のみならず、人物の名が如何に變り曲の數が如何に多く作られても、それはたゞ同じ型が反覆して現はれ、同じ主題がさま/”\に組合はせられたのみであつて、その實は新人物でも新曲でもない。
 だから、このころの淨瑠璃文學に於いてもし近松のと違ふ點があるとすれば、それはたゞ結構上一曲の本筋と關係の少い插話を數多く附け加へるところにある。手習鑑の土師の里の場、白太夫の七十の賀の場、千本櫻の狐忠信、などみなさうであつて、妹脊山の十三鐘の話や三輪山の物語なども、無くてよいものである。一段ごとにやまができてそのために興味は加はるけれども、全體としては場面が徒らに複雜となつてそれらの場面のつなぎあはせに無理が生(155)じ、そのためにまた更に種々の小細工をしなければならぬやうになる。近松に於いても既にこの弊は少なくなかつたが、このころのものでは、内面に於いて新しい思想が生れないため外形に於いて新奇を求めようとして、ます/\それが甚しくなり、特に數人の合作といふことが行はれてからは、一層その傾向が強められたのである.だから一曲としての統一が失はれて、或は全體が支離滅裂となり、或はいろ/\の場面がむりにつなぎ合はされたために、筋だけはたどられるけれども、まとまつた感じの無いものになる。これは人形の指や眉を動かしたり、幾人もして一つの人形を使つたり、舞臺上の機巧の新奇と精緻とをつとめたり、さういふ末節に力を入れて肝心の人間を現はすことを忘れてゐたのと同樣であつて、小細工と繁縟とがすべての場合に於いて頽廢的傾向の徴證であることを知るものは、表面上隆盛を極めてゐた當時の淨瑠璃がその實、衰微の運命に向つてゐたことを、これによつて察することができよう。合作といふことの始まつたのが既に、一人で全曲を完成しかねたこと、少くとも新工夫を加へることのできないこと、いひかへると作者の力量の足らないこと、を告白してゐるものである。もつとも局部的の場面に於いてそれ/\の人物に同情と反感とをよせ、または人形使ひの技巧を見て喜んでゐた當時の看客には、それでよかつたのであり、後になつて一段づゝきり離して演奏せられるやうになるのもその故であらう。しかし人間性の内面に深みを加へてゆくのとは違つて、かういふ外面的の新奇を求めることには、おのづから限りがあるから、ぢきに行きづまりの状態に陷つて、淨瑠璃そのものが衰退してゆく虞れがある。
 近松以後の作家が如何なる點に於いてまた如何なる方法を以て新奇を求めようとしたか、を見るには、同じ題材を取扱つた曲を比較するのが最も便利である。今その一例として、摸作改作の最も多い赤穂事件の淨瑠璃を調べてみよ(156)う。(これには歌舞伎との關係もあるが、こゝではそれを考慮に加へないことにする。)近松の碁盤太平記の寺岡平右衛門は歴史的人物たる寺坂吉右衛門の名を暗示したものであつて、それは足輕の身分で一味に加はつたために特に世聞から稱讃せられた故であらうが、事前に死んだとしたのは萱野三平をそれによつて想起させるつもりであつたらしい。三平の話もまたこの特殊の事情が強く世人を感動させたものである。また由良之助の母と妻とが自殺したのは原總右衛門の母の話を適用したのであらう。さて平右衛門の無筆を裝ひ岡平と名乘つての反間苦肉の計も、それが覺られずして力彌に殺されたことも、臨終に敵の邸の結構を教へたことも、固より事實ではないが、かういふ計略の裏をかく計略や、岡平としてのやつしや、子や夫のために母や妻が自殺することは、既に述べた如く淨瑠璃の常套的着想である。だからこの曲は、赤穂事件を描くためでも良雄以下の人物を示すためでもなく、たゞありふれた脚色の淨瑠璃にこの事件を想起させるやうな一二の事件と人名とを適用したに過ぎない。さうしてそれには、既に前篇にも述べた如く、この事件に於いて恰もかういふ淨瑠璃の着想に適合するやうなことのあつたのが、便宜をも機會をも與へたのである。
 かう考へて、次に現はれた並木宗輔の忠臣金短册(豐竹座所演)を見ると、碁盤太平記の平右衛門が分身して、寺澤七右衛門と、由良之助の放蕩の虚實を探らうとして僞唖となり敵の間諜と疑はれて力彌に殺された早野勘平と、の二人になり、僞無筆が僞唖に發展してゐるが、勘平は勿論萱野三平の名を暗示してゐるので、碁盤太平記ではまだ隱れてゐたこの名がはつきり顔を出して來た。さうして七右衛門の養女であつて遊女に賣られた九重の實父で、敵の間諜とたつて京に上り、父と知らずして九重に殺され、臨終まぎはに非を悔いて敵の邸の結構を知らせる、といふ武太(157)夫は、やはり碁盤太平記の岡平から轉化したものである。また九重の身賣、その力彌に對する戀と計略おの纏綿した心情、父を父と知らずしてのふるまひ、などがすべて浄瑠璃に例の多い插話の型であることはいふまでもなからう。その次が有名な出雲の忠臣蔵(竹本座所演)であるが、それは結構がよほど複雜になつてゐて、かほよのこと、勘乎お輕伴内の插話、力彌小浪本藏の物語、斧定九郎、天川屋儀乎、共に新案である。しかしお輕の身賣は金短冊の九重から脱化したもので、そのお輕が平右衛門の妹となつてゐるのもこの故であり、また偵察に來て由良之助に殺される九太夫は武太夫の後身で、本藏の自殺も武太夫の死(もう一段溯ると岡平の死)の再演であるから、金短册の武太夫が九太夫と本藏とに分身したのである。斧九太夫は武太夫の後身でありながら、實在の人物たる大野九郎兵衛の名をもぢつたのであらうが、彼の事蹟とは全く關係が無い。なほ平右衛門の由良之助に對する態度も金短册の勘平の一歩を進めたものであるが、忠臣藏の勘平は全く別人であり、歴史上の三平と同樣、自殺してゐる。それから由良之助お輕の插話が力彌九重に胚胎してゐることは明白である。さうして新にこの曲に加へられた種々の插話は、何れも相變らずのぬれ場や滑稽や義理と人情との衝突やを主題としたものである。ついでにいふ。忠臣藏の勘平は實録體の讀本とも稱すべき忠義太平記の吉野勘平から來てゐるらしい。
 忠臣藏のあとに出たものは一々いふ必要もないが、いろは歌義臣※[務の力が金](豐竹座所演)は金短册をもとにして忠臣藏をつきまぜ、なほそれに幾らかの小細工を施したものであり、山科の段の如きは文章までも忠臣藏のをそのまゝに取つてゐる。澳の長監の話は金短册から承けつがれた勘平の一面を取つて、同じことを二重にしたものであり、その勘平を殺したのが力彌でなくしてお輕であるのは、勘平を忠臣藏の九太夫に維ぎ合はせたのである。たゞ小栗の弟一學の(158)ために由良之助の二男が身代りになる一段は新案であるが、これは次に出た半二の太平記忠臣講釋(竹本座所演)に利用せられ、一方では弟が遺子に變り忠臣藏の山科の段と混和せられて平右衛門僞上使の一場ができ、他方では弟のまゝでお輕の變形した浮橋との話が作られた。その浮橋は間十太郎の名を聯想させる矢間重太郎の妹となつてゐるが、その代り九太夫の娘は勘平の妻にせられた。妹を賣つた重太郎は固より金短册系統の七右衛門であり忠臣藏の勘平である。九太夫はやはり由良之助に殺されたが、その場所が祇園から赤穂に變つてゐる。躾方武士鑑以下のものについて一々考へるのは、あまりに煩雜になるから省略するが、この曲で由良之助の母と妻とが自殺せる如くみせかけて實は死なないことにしたのは、例の如き計略思想を以て碁盤太平記に一轉化を與へたもので、反間の座頭は金短册の唖を盲にしたのである。以上の記述も既に煩雜に過ぎてゐるが、當時の作者の慣用手段を示すために冗言を弄したのである。
 金短册以後の作は碁盤太平記と違つて事件の始終を敍するやうになつてゐるが、その人物も一々の場面も系統的に改作の跡を尋ねることができ、さうしてそれが主題や材料の取扱ひかたに於いて毫末の新しさを示さず、たゞ名や場面をかへるだけに止まつてゐるのみならず、人物とても殆どみな最初の碁盤太平記の寺岡平右衛門から分れたものであるのを見ると、如何に當時の作者に創作力の無かつたかを知ることができよう。全體としては舊套を守り前出のものに從ひながら局部的な些末な點で新奇を求め、さうしてその新奇な點はありふれた題材を用ゐて變つたつなぎ合はせかたをするところにあり、それによつて少しく人の意表に出で輕く觀客を壓せんとするのであつて、それがいはゆる「趣向」なのである。固定してゐる世でありながら、その世の調子を亂さない範圍に於いて新しい刺戟を欲するも(159)のには、これがてうどよい慰みであつたのである。合作といふことには、期せずして趣向の奇が得られるといふ效果が生じたらしいが、もしさうとすれば、この點から見てそれに特殊な文化史的意義がある。しかし趣向が重なると、そこに無理が加はつて來る。だから後出のものは屋上屋を架し、小細工が次第に多くなり、義理も人情も次第に極端にはせて甚しく不自然なものとなる。金短册の力彌が持つてゐる母の繪姿はその小細工の一つで、由良之助がはるばる訪ねて來た母と妻とに會はないといふ一段は不自然になつたことの好例である。この繪姿は手習鑑に使はれた木像と同一で、當時の作者が好んで用ゐた趣向である。かういふ小細工にからませる義理や人情であるから、それが人形つかひの手に操られる人形の義理や人情であつて、生きた人間のでないのも當然であらう。さうしてそれは、元禄時代に世の中を支配してゐた義理の觀念が、實生活の上に漸次勢力を失ふと共に知識の上に於いて固定してゆく當時の世態と、おのづから相應するものである。
 さてこれらの作は、そのいはゆる「世界」が鹽冶であつても小栗であつても、畢竟その作られた時代の思想を現はしたものであるが、すべての時代ものがみなさうであることについては、近松を考へた時に既に述べておいた。だから當時の看客は、出雲以後純粹の世話ものが殆ど無くなつてもさして寂しくも感ぜず、近松の世話ものの改作にお家もの的脚色が加はつて來たのを見ても驚きはしなかつたであらう。壽門松をもとにした出雲の双蝶々曲輪日記は少しく趣きが違つてゐて、濡髪長五郎放駒長吉の話をつたぎ合はせたものであるが、それがために、近松の作の中心點である與次兵衛吾妻お菊淨閑の間の葛藤から轉じて來てそれを複雜にした、與次兵衛と吾妻とお照と並にこれらの三人の父との間に於ける例のむつかしい葛藤は、單に一場の插話となつてゐるのみならず、全體に結構が混亂し統一が失(160)はれてゐる。かういふ風に無關係な幾つかの説話をつなぎ合はせるのも、また外形上の複雜を求めるためである。夕霧阿波鳴門から出た半二の傾城阿波鳴門が十郎兵衛の傳説を附會したのも、これと同じことであり、夕霧伊左衛門の物語は一場の插話とせられてしまつたが、これには奸臣が主家の寶刀を盗んで權力を得ようとするのを、忠臣が看破して苦心の末にその寶刀を發見し奸臣を斥ける、といふ歌舞伎に於いて最も多く用ゐられてゐるお家もの的脚色が適用してあるので、長町女腹切を發展させた京羽二重娘氣質もまた同樣である。海音の袂白絞から來てゐる同じ作者のお染久松新版歌祭文もやはり似よつた結構であるが、これは久松を歸參に終らせる着想と本來の心中物語との二つの分子の調和ができずして、結構上の破綻を示してゐる。
 ところがこゝに注意すべきは、傾城阿波鳴門に伊左衛門の許嫁の婦のお辻があり、京羽二重娘氣質に半七の妻のお岩があり、結局お辻お岩が妻、夕霧お光が妾、となるといふ條件で圓滿な解決をつけてゐる、といふことである。曲輪日記のお照吾妻もまた同樣であり、半二の紙屋冶兵衛でもおさん小春は妻妾としてかたがついてゐる。さうしてお花半七も小春治兵衛も、情死をするに至らず、或はそれを遂げずして救はれてゐる。これにはすべてに於いて妥協的態度を取るやうになつた時代の思想の反映もあらうが、心中に終らせないのは主として享保七八年の交に出た政令の影響と見なすべきものであり、出雲以後純粹の世話ものの作られなかつた一理由もまたこゝにあらう。だからその法令の羈束力が弛んで來ると、少しづゝは心中ものも作られるやうになるので、半二の晩年の作である新版歌祭文や絲の時雨がそれである。實をいふと、心中ものの改作は先づ歌舞伎に於いて現はれたらしく、其磧の御伽名代紙衣に助六が揚卷を身請してめでたく終るやうにしてあるのも、歌舞伎に演ぜられたまゝを書いたのであらう。助六心中の舊い(161)物語がこゝで一變してゐる。情死は本來歌舞伎の好題材であつたから、全くそれを廢することをしないで、かういふ變通手段に出たのである半二はそれを學んだのであらうが、更に一歩進んでいふと、寶物の詮索を中心とするお家もの的脚色を世話ものに結び付けることも、既に歌舞伎に於いて行はれてゐたのではあるまいか。寶物の紛失といふ主題は近松にはあまり用ゐられてゐなかつたが、これは事實として世間にありふれた話とも思はれないから、それがこのころになつて盛に用ゐられるやうになつたのは、多分歌舞伎などの因襲に從つたのであらう。一度型ができると無意味にそれが繼承せられるのである。
 心中ものとても、新版歌祭文が上に述べたやうな結構になつてゐるのみならず、絲の時雨でもその局部の趣向として敵討をしくんであるので、近松の如き單純な世話ものとは違つて來た。世話ものとして新工夫を加へる道が無かつたからであらう。網島の改作が、或は太兵衛を奸計によつて治兵衛を陷れようとする惡漢とし、或は例の如き計略を用ゐて小春が太兵衛に心をよせその家に隱れて居る如く裝うた書置きを作つて出奔することにしたなど、ありふれた小細工を加へて却つて原作の力強い點、自然らしい點を失はせ、さうして肝心の情死に移る徑路を少しも描いてゐないのを見ても、作者の態度が察せられる。賣僧や贋金のやうな無用な道具が一曲の情趣を妨げるのみならず、長町の一段を加へたり、紙屋の段でまた孫右衛門をはたらかせたりして、同じやうな場面を繰りかへすのも、緊張した原作の調子を弱めるのみのことである。世話ものに於いても、局部的に小さい葛藤を數多く作つてゆくことに作者の注意がむけられたのであるが、それがために義理や人情の不自然になることも、また時代ものと同樣である。京羽二重娘氣質のお柳お花のとりちがへから起る葛藤などは、現實に有り得べきこととは思はれず、さりとて滑稽にもならぬ。
(162) 出雲半二時代の作者の着眼がかういふところにあるとすれば、その文章などの拙劣なことは、いふまでもなからう。曲輪日記の道行に「春にも育ち花誘ふ、長吉は情の味知らず、長五郎は我がわけ知らず、知らず知られぬ中ならば浮かれ初めまい狂ふまい、」とあり、八段目の終に「合す兩手の數よりも九つの鐘六つ聞いて殘る三つは母への進上」とあるのが、有名な壽門松と曾根崎心中との道ゆきから來てゐること、絲の時雨の質に入れるために箪笥をあけるところが網島の摸倣であることを知つて、それらの兩方づつをそれ/\對照すれば、その拙さ加減はすぐにわかる。曲輪日記の方のは近松を知つてゐるものにはむしろ滑稽に聞えるが、作者が滑稽のつもりで書いたのでないことは明かである。要するにすべてが近松をまねて※[しんにょう+向]かにそれに及ばざるものである。往々人の賞美する文句もあるが、その多くは節附けせられた語りものとして耳から來た感じが主になつてゐるのらしい。
 以上は上方の淨瑠璃文學に對する觀察であるが、半二が大坂で活動してゐるころは江戸にも義太夫一派の操芝居が盛に行はれ、複内鬼外(凰來)などによつて續々淨瑠璃が作られた。この江戸の淨瑠璃は、場所を江戸鎌倉もしくはその附近とし、人物の會話に江戸語を用ゐるのが特徴であつて、神靈矢口渡では都の太夫にも江戸語や吉原ことばをまねさせ、忠臣伊呂波實記では由良之助の遊蕩の場所を大磯にしてある。江戸の風俗や流行ものを取入れることは勿論であつて、「大通」も「きん/\たる男」も「太いのね」も笠森お仙も「暫」も、みなその藥籠中のものとなつてゐる。しかしその内容には新味が無く、畢竟從來の型を守つてゐるに過ぎないので、義理と人情との衝突も、子に對する親の愛も、計略も、計略のうらをかく計略も、例によつて例の如きものであり、それがために矢口渡の兵庫之助や源氏大草紙の孫作などに見える如く、子を主君の身代りにするといふありふれた趣向もしば/\用ゐられ、古傳説を(163)取つても嫩葉相生源氏の如く、牛若の千人斬りが實は牛若でなくして計略のために源氏の遺臣が牛若の名を冒したのだ、といふやうに作られる。驪山比翼塚(源平藤橘作)で、權八小紫を殺さず「家も治まる本妻妾、せきにせかれぬ小紫、」といふ解決をしたことなども、やはり上方淨瑠璃の摸倣である.萬象亭の反古籠に、矢口の渡の六郎と兵庫とは左傳の程菅杵臼を取つたものだといつてあるが、實は淨瑠璃の常套的な趣向に外ならぬ。
 なほ一例を擧げるならば、伊呂波實記がやはり上に述べた碁盤太平記以後の諸作を基礎にして、その上に同じやうな繼ぎたしをしてゐるではないか。はたらくものはやはり平右衛門勘平であつて、新しく現はれた久松半六も片岡傳吾の家來も、この二人の分身もしくは後身に過ぎず、薄雲はいふまでもなくお輕浮橋の名が變つたものであり、大礒の一場では忠臣講釋を取りながら由良之助を本人でないとする點に於いて、例の如き計略の利用を更に一歩進めてゐる。その他、躾方武士鑑から取つたところもある。たゞ師直を天下を取らうとする野心家とし、鹽谷の行爲を天下のために奸臣を除かうとしたもの由良之助などはその遺志をつぐもの、としたのは、源氏大草紙に義經を蝦夷の王とし更に韃韃靼にまで押し渡らせようとしたことと共に、作者源内の個人的な氣象の現はれであり、債鬼にせめられて死を裝ふ一段は、江戸人の遊戯的氣分を示してゐるのであらう。
 源内の作にはまた、彼に獨得の罵倒と、口たつしやな江戸つ兒氣質と、その江戸つ兒に喜ばれさうな元氣のよい華やかな場面と、が到るところに現はれてゐるので、それがために筋や結構の上では上方の作と大差が無いにかゝはらず、與へられる感じはいくらか違つてゐる。さうしてこの點からいふと、有名な矢口渡よりも源氏大草紙などの方が彼の特色をよく現はしてゐる。さてこれらの作に於いては、近松以來最も重きを置かれた主題である義理と人情との(164)葛藤もかなりに寫し出されてはゐるが、作によつてはそれがあまり強くは感じられないものもある。例へば伊賀越道中双六と志賀の敵討(紀上太郎作)とを比べてみるがよい。絲櫻本町育(同上)などでもそれは判るので、一曲の結構に於いては「お房小絲は妻妾」といふ終結まで、半二などの作と同じでありながら、この點で少しく趣きが違ふのは、やはり江戸の淨瑠璃の特色であらう。さうしてそれは京傳などの合卷ものに受けつがれる。但し義太夫節の劇としての性質は、かういふ葛藤を現はすところに長所があるから、この傾向は義太夫節の語りものとしては不適當ではあるまいか。
 
 義太夫節の淨瑠璃文學の次に附言しておかねばならぬのは、歌舞伎である。このころになつても操狂言と歌舞伎との間には密接の關係があり、歌舞伎で義太夫ものを上演することが多いと共に、操の方にも歌舞伎から出たものがある。これはこの二つが共通の性質を有つてゐるからである。もつとも歌舞伎で操狂言を演ずることは、歌舞伎の傳統を重んずるものからは好まれず、澤村長十郎が歌舞伎衰微の基としてそれを難じたといふ話もあるが(傳奇作書)、事實は如何ともし難かつたのみならず、それは操に對する反感に過ぎないので、劇の内容についてのことではなかつたらしい。近松時代に於いて既に存在してゐた、或は近松によつて一層促進せられた、この二つの關係は操の繁盛と共にます/\深くなつたが、操の方では、むしろ役者や役者の科白を曲中の人物及びその言動のよりどころとするといふやうなことに於いて歌舞伎を取るのが普通であり、それに反して歌舞伎では、やはり人形のしぐさや着つけを模倣する上に、操の全體の脚色をも一々の插話をもほゞそのまゝに取る場合が多い。さうして並木正三のやうに、淨瑠璃(165)作者の系統から出て歌舞伎の作者となるものがあると、この傾向は一層強くなる。少し後の近松徳叟も半二の門人であるが、京攝戯作者考によると出雲の門下から出で歌舞伎作者となつたものもある。舞臺の機械歴裝置及び演出法などに、操から學ばれ或はそれに示唆を得て工夫せられたものがあり、甚しきは舞臺に手摺を作つて操と同じにするといふやうなことさへもあつたのは、主としてこゝに理由があらう(並木正三一代咄)。これは歌舞伎としては邪道に向つたものでもあるが、それはともかくもとして、全體に舞臺の機城的裝置は享保以後漸次に發達して明和安永のころには甚だ巧みになつたので、それが劇作の上に及ぼした影響には頗る大なるものがある。舞臺面の變化を複雜にしたことはその主なるものであつて、操の脚色をそのまゝに適用し得るやうになつたのも、この故であらう。作者が趣向の持ちよりをするといふのも(戯財録)、淨瑠璃の合作がまねられたのではなからうか。歌舞伎の作はどこまでも役者本位であるから、演出の上に於いて繰と違ふ點のあることは勿論であるが、それでも立ち廻りなどには操から學ばれた點もあらうし、殘酷な血腥い殺人や卑猥なぬれ場などが常に演ぜられることにも、操の影響がありはしまいか。これは著者の推測であるが、死骸の腹から勘合の印を取出す趣向(並木正三一代咄)などは、操から來たものに違ひない。人形ではよはどな誇張をしなければ情が移らず、また誇張をしても人形であるがために甚しき不快の感を看客に起させないといふ事情もあるが、歌舞伎でそれを學べば見るに堪へざるが如きものになる。ところが事實さういふものが演ぜちれたのである。科白の細かい色合ひになると歌舞伎はどこまでも歌舞伎であるが、その點を除けば歌舞伎も操も大差が無く、特に全體の結構やそれに表現せられてゐる思想、いはゞ文學的側面に於いては、両者殆ど同一であるといつてよいのではあるまいか。「著者は當時の脚本の多くを知らないが、私かにかう推測してゐる。
(166) このことを證するために西澤一鳳の脚色餘録(初篇下)に載せてある天明年間の作だといふ劇場樂屋探を見てみよう。それには、「主人の成行、勘當の身の上、……歸參の種は寶物の詮議が大かたの御定り」といひ、「御主人の色遣ひに質屋にある寶物を請出したがる立役に金のあつたことなく」、「とつおいつの思案、女房を勤奉公に出すしうち、それとはいはで謎々が暇乞ひ、」といひ、「義理に詰り切腹する男、刀突込んで本心を明かすなど、今まで他人かと思ふものを、娘久しかつた、エ扨は小い時別れた爺さんでござんしたかと、※[立心偏+匈]りせぬ前から見物がよう知つてゐるほど古い事、」といひ、「始の工みは手つがひよく戀と慾とのつかみどり、工みに工んだことども水の泡、五段目のどんちやんが生死の境、寶は取り返され、憎しと思ふ若殿は歸參、めつたやたらにめでたい/\お暇乞ひ、」といつてあるが、これは劇の脚色が千篇一律であることを示すと共に、またそれが淨瑠璃と同じであることを語るものである。「一從失寶物、騷動及家中、若殿初踐土、上使肩切風、説愁幽魂白、巧事惡人紅、梅幸此場出、詮議皆盡忠、」(太平樂府銅脈先生)。何人が見ても同じことではないか。三代といひ、時代といひ、お家ものといひ、世話ものといふ、名はいろいろであるけれども、大體の着想は違はないので、それもまた淨瑠璃と一般である。
 歌舞伎のこの性質を明かにするには、巷間のできごとを素材にした脚本を見るのが便宜である。並木正三の宿無團七時雨傘は、主人公茂兵衛を寶刀を失つて主家より放逐せられた浪人とし、岩井風呂の亭主治助は侠氣からこの主人公のために寶刀を取りもどして歸參のかなふやうに努力してゐたのを、その手段として一旦茂兵衛とそのなじみのお富とを離さねばならぬことになつたため、誤解を生じて茂兵衛に殺された、といふことにしてある。しかしこれは全く作者の構想であつて、事實は放蕩兒が情人との仲をせかれたのと、すべてに於いて絶望の域に陷つたのとのため、(167)人を殺し自ら殺したまでのことである(傳奇作書殘篇中)。劇曲に於ける戀の敵の數右衛門も、お富の表面のあいそづかしも、治助の表に冷淡を裝うて裏に恩情を含んだ所置も、すべて近松以來の淨瑠璃の常套手段であるが、たゞ寶刀問題を提出してそれを一曲の筋にしたのが、近松には無くして半二時代の作に通有の型なのである。半二は實は歌舞伎からそれを學んだのであらう、といふことは前に述べて置いた。並木五瓶の五大力戀緘は歌舞伎にも淨瑠璃にも既に用ゐられた題材であるが、これも事實は平凡な賣女殺しに過ぎなかつたのを(傳奇作書捨遺)、寶刀詮索の型にあてはめて構想したものである。今人は菊野(小萬)の心理の動きに興味を覺えるかも知れぬが、それは恐らくは偶然のことであらう。源五兵衛が菊野を心がはりしたと見てそれを憤るのも、單純な裝話としてならば、やはり一つの心理描寫としての意義があるかも知れぬが、全曲の葛藤を解決する關鍵がそこにあるとすれば、脚色の精神と矛盾して來るので、全體の統一を失ひ、一曲の效果を薄弱にするものである。歌舞伎がやはり淨瑠璃と同じく、抽象的な人情を示すことを主眼として具體的な人を示さうとせず、局部的の場面に興味の中心を置いてゐたことは、これでも知られよう。歌舞伎の作者とても結構の上に幾分の注意はしてゐたので、或はそれに序破急があるとか起承轉合があるとか(戯財録)、或は四番續きの仕組は喜怒哀樂の順序に應ずるものであるとか(傳奇作書初篇)、説いてゐる。それは全く無意味なことではないが、本來役者を働かせることを主とした作である上に、結構といふのも種々の場面の無理なつなぎ合はせに過ぎない。少し時代は後れるが、近松徳叟の伊勢音頭戀寢刃も、例の如き女殺しを脚色して同じく寶刀詮索のお家ものとし、惡人の惡計、正直正太夫のちやり惡を點出したり、貢は歸參が叶ひお紺は落籍せられることにしたりしてある(お紺を伯母と僞らせたのは近松の長町女腹切から來てゐる)。かういふ種類のものとても「世界」や(168)趣向は古狂言を的にするといはれてゐるから(戯財録)、何れも同じやうなものになるのであるが、その通型はこれらの二三の例によつて知られるであらう。ついでにいふ。並木正三一代咄には彼がしば/\一夜づけの心中ものを作つたことが見えてゐるが、これは心中の場面をそのまゝに見せたのか、または結末を改めたのか、著者はそれを明かにしない。
 江戸の歌舞伎は少しく趣きが違つてゐた。結構の放縱な、筋のまとまらぬ、ものの多いことは、かの時代と世話との無意妹なつなぎ合はせが一般の慣例であつたのを見ても明かであつて、「一部の趣向立たず」といひ「着物を重ね着して帶を縮めず歩くに同じ」といはれてゐるのは、このころのものに於いて一層適切であらう(傳奇作書初篇及び後集)。踊や所作事とそれに件ふ三絃樂とに特に重きをおき、全體に樂劇的氣分が濃厚で寫實的傾向が少いから、筋が筋になつてゐないのも當然であらう。それは恰も歌舞伎の樂的要素をなしてゐる長唄や河東節の詞章が、語呂や文字鎖りやで種々雜多の語句を無意味につないでゆき、種々雜多の幻像がしどろもどろに連結せられてゐるのと同じである。しかし一々分析して見ると、市川流の荒事や「にらみ」やがわけもなく喜ばれ、御ひいき勸進帳の首の芋洗ひが喝采を博し、「見ごとな立ちまはり」や早口や惡たいやが賞美せられたのでも、江戸の看客の歌舞伎に對する趣味が知られる。だからさういふ歌舞伎は、文學的にその脚色や思想を觀察する場合には殆ど無價値のものである。局部的には長々しい「つらね」や所作事などにおほやうなところがあるが、全體として見ればどの作に於いても、奸惡な謀計と血腥い爭闘と卑猥なぬれ場と低級な滑稽と華やかな傾城姿と伊達な侠客風と青公家と赤つ面とが、連絡も無く理路も無く走馬燈の如くに忽ち現はれ忽ち消えてゆくに過ぎないのである。
(169) しかし、この状態も徐々に變化はして來る。その一つはやはり舞臺の機械的裝置の發達及び鳴物の複雜にになつて來たのにつれて起つた現象であり、今一つは江戸の氣風の變化と上方の影響とのために生じたことである。並木五瓶が江戸に下つてから作風が一變したといふのも、江戸人がそれを受入れ得るやうになつてゐたからである。まだるきことが無くなり賑かな大詰が廢れたといふのも(後は昔物語〕、役者にも上方に生立つたものが多くなり芝居が操狂言になりたがるといひ、今の役者は藝をこまかにするといふのも(芝居乘合船)、をかしみよりは實らしくすることを喜ぶといふのも(飛鳥川)、または荒事が少なくなり、「つらね」が短くなり、隈どりが變つて來た、といふのも(浮世風呂)、江戸の歌舞伎に寫實的分子が加はつて來たことを示すものであつて、この變化は寛政文化のころに至つて突然生じたものではあるまい。義太夫の流行し操狂言の繁昌した明和安永以後の時勢は、やがて歌舞伎にもこの傾向の徐々に進みつゝあつたことを示すものであらう。事實、江戸でも淨瑠璃ものを演ずるやうになつたので、芝居乘合咄や作者年中行事にはそれに對する反對論が見えるほどである。なほ歌舞伎と離るべからざる音曲の變遽をも併せ考へるがよい(第二章參照)。豐後節以後の淨瑠璃が歌舞伎に用ゐられるやうになれば、それは長唄や河東節などとは幾らか趣きが違はねばならぬ。が、さうなると江戸の歌舞伎は、なほその傳統的特色を或る程度に保持しながら、文學的側面に於いては漸次上方のと大差の無いものとなつてゆく。
 歌舞伎の作が、上方のも江戸のも、やはり踏襲と摸倣とで成立つてゐることは、上に記したところでも明かであらう。古狂言を作りかへまたは上方狂言を江戸のに引きなほすのは常のことであつて、「洗濯もの」は必しも七五三助に限らず(傳奇作書初篇)、「ばゝもの作者」(作者年中行事所引秀鶴日記)も到る所にあつた。局部的趣向を淨瑠璃もし(170)くは古狂言から取り、またはそれらをつなぎ合はせることは勿論であり、上方でもいはゆる「はめもの」が常に行はれ、並木正三はそれに巧みであつたといふ。江戸の櫻田治助は人の狂言を盗むけれども筋の裏をとるから新作らしく見えた、といふ話もある(反古籠)。五瓶が竪筋横筋といふことをいひ、狂言を新しく見せるのは横筋であつてそこに趣向があると説き、また趣向は古くても見ざめのせぬやうに鎌を入れ衣をかけて薪狂言にするといつてゐるのも(戯財録)、畢竟あり來りの筋によりながら局部的に目さきをかへることに外ならぬ。一興行ごとに新作する習慣であるから純然たる新作の現はれ難い事情もあり、また時代によつて流行の變遷もあるが、大體からいふと同じやうなものを反覆してゐたことは明かである。かう考へて來ると、その新奇な點が淨瑠璃について述べたと同じやうな「趣向」にあることは、自然の勢であつて、江戸ので一例をいへば、女暫や女助六の如きものが演ぜられる類であるが、年々の曾我ものが少しづつその趣きをかへてゆくことに於いて、最もよくそれが示されてゐる。劇と現實の世界との往々混淆せられるのも、また一つはこの趣向のためであり、役者が見物席から躍り上り、見物の狼藉と見せて忽ち劇中の人物となる、といふやうな極端の例もある(歌舞伎年代記)。劇中に改名の披露をしたり口上を述べたりするのは常のことであり、劇中の人物と役者とを混同することも甚だ多い(御ひいき勸進帳など〕。上方の脚本にも作者が劇中に現はれることが見える(例へば宿無團七時雨傘の結末)。もつともこれには劇を見る興味が半ば役者を見るのであつて、看客が既に劇と現實の世界とを混淆してゐる故もある。詳しい狂言本、即ち脚本、の世に出るやうになつても、その一々の科白に劇としての人物ではなくして役者の名が示されてゐるのは、本來役者のための手控に過ぎないものであつた因襲であらうが、看客から見ても劇が役者本位である故でもあらう。
(171) 趣向に趣向を重ねた結果が不自然になり意味のわからぬものとなるのは當然であつて、江戸の歌舞伎でも見物に筋が判らず不評判であつたといふ話が時々ある(歌舞伎年代記)。それと同樣に技藝の方面に於いても、根本を改めず末節の技巧にのみ工夫を加へようとするために、その工夫はおのづから舊來の傾向を極端に押しつめてゆくことになり、その方面では非常に發達する代りに、ます/\人工的となりいよ/\不自然となり、終には行きづまつて自滅しなければならなくなる。特に女形に於いてはそれが最も著しく、女形としてなし得る限りの發達をした代りに、その不自然さも極度までもつてゆかれたのである。だからその發達が頂點に達すると同時に、女形自身がその不自然さに堪へられないやうになるので、彼等が立役や敵役を乗ねようとするのもこゝに一原因があらう。これもまた、本來人爲的の制度をます/\窮屈にし、終には内部からそれが腐蝕してゆくやうになる、江戸時代の社會組織そのものの運命と同じである。
 さて上方の歌舞伎と江戸のとは、それ/\に特色があるにしても、概していふとその性質は似たものであつて、どちらに於いても看客の主なる興味は、今人のいふ劇としての物語よりも、舞臺に現はれる役者の演技にあり、またそれによつて醸し出される全體の空氣にある.詳言すると、それは、幾人もの役者のそれ/\の動作や姿態とその相互のはたらきあひと、せりふやそのやりとり、顔のつくりや衣裳、その形や色彩とそのとりあはせと、また繪の如き舞臺面の人物の配置とその動きと、などである.或る劇の一幕なり二幕なりを舞臺に上せたり、縁もゆかりも無い他の劇の或る場面をとつてそれをつなぎ合はせたり、さういふことのせられるのも、主としてこれがためのやうである。作者が役者から分離した後でも、その作はなほ役者本位であり、また主たる作者の下に助手のはたらく習慣の生じた(172)のも、このことと關聯するところがあらう。勿論、あまりに筋のたつてゐないものは喜ばれなかつたであらうが、それも一つは見物によつてのことであらう。かういふ歌舞伎に於いては、荒唐不經な結構によつて生ずる攸忽たる場面の變化が、それに應ずるやうに工夫せられたせり上げ、押し出し、引き返し、ぶんまはし、などの機械的裝置により、出たり入つたり動いたり止つたりする幾多の老若男女によつて、忽ち造られ忽ち崩される舞臺面の繪模樣の覗きからくり的轉囘となつて現はれ、また誇張せられた愁款場や濡れ場や滑稽なちやり場や騒がしい立ちまはりやが、三絃やさま/”\の鳴りものや、けたゝましい附拍子や、によつて幾層も強められ、目と耳とにひき切りなしに與へられる官能の刺戟によつて當時の看客の粗大な神經が絶えまなく震動してゆくところに、多くの芝居の興味はある。その上に所作事や踊の華やかさ美しさと、それに伴ふ長唄や淨瑠璃の三絃樂とがあるではないか。窮屈な社會制度のうちにおしこめられて單調な生活を送つてゐるものが、解放を欲し變化を求むる我が情意の對象を、この放縱にして變轉極りなき夢幻の世界に於いて認め得る喜ばしさは、どれほどであつたらう。さうしてその一つの光景から他の光景への移りゆきが、如何に不自然な人工的なものであつても、本來不自然なところのある社會組織の中にあつて、抑へられた感情が畸形を呈して露はれることの少なくない當時の世に於いては、深く怪しまれもせず、それが却つて看客の心情に相應してゐたのでもあらう。或はまた、一貫した理路と調和のとれた情趣とを缺いてゐるかういふ歌舞伎では、殺伐な爭闘も殘忍な行爲も、または感傷的な愁歎も、續いて現はれる滑稽なちやり場や艶麗な濡れ場のために、ぼかされたり消されたりするので、何時までも深く人の心に殘つてはゐない。從つて看客はそれに惱まされもせず苦しめられもせず、華やかな印象ばかりを胸に抱いて、打ち出しの太鼓の浮き立つ響と共に氣輕く場を出るのである。かうい(173)ふ外面的の光景の變化や、取りとめの無い刺戟の亂調子な連續やが、深く人心を動かすことのできないことはいふまでもないが、それもまた恰も、深い反省と眞率な考察とが無くその日/\を送つてゐる看客には、適合してゐるのであつた。さうしてさういふ人たちにとつても、作者が標榜してゐるやうな勸善懲惡などの效果は、多分なかつたであらう。かう考へて來ると、化成度前後の歌舞伎は、今人の目から見ての劇としての進歩があつたとはいはれず、その發達したのは舞臺上の演技であり、その點に於いて日本の歌舞伎の特色がこの間に形成せられたのである。さうしてそこに歌舞伎にも單なる踏襲のみでなかつた一面がある、といへよう。
 だからこのころの歌舞伎の興味は、今人が脚本を讀んだだけでは想像し難いものである。劇としての思想内容に重きがおかれてゐないからである。役者の科白によつて舞臺の上に何が表現せられるかは、主なる問題ではないからである。勿論そこに或る程度の寫實味はあり、そこから感傷的な同情や反感は生れて來る。脚本によつてもそれだけは理解せられる。しかし歌舞伎、特に江戸歌舞伎、の興味の焦點はそこにあるのではなく、それはどうしても劇場に入つてでなくては味ひ得られないものである。これは一般に劇といふものの本質であつて、日本の歌舞伎に限らぬことであるが、歌舞伎に於いては、看客自身が殆ど劇中の人物であるかの如く感ぜられるほど、劇と看客との關係が密接であるので、舞臺と看客席とを混和させる用をもなす花道のあることも、それと關係がある。或はまた日本の歌舞伎は劇場全體が舞臺であり、舞臺に空想世界が展開せられて看客がその世界の外からそれを看るのではなく、看客自身が空想世界の裡にあるのだ、ともいへよう。劇場に入ることが看客みづから一種の役者になることなのである。舞臺に現はれる、もしくはそこから聞えて來る、色彩と音聲と役者の動靜とが、無數の看客のきらびやかな衣裳や髪飾り(174)などによつて織り成される色彩の交錯、低聲喃語立ちゐふるまひ衣ずれの音の絶えまなき動揺、さては人の匂ひ肉の匂ひ脂粉の匂ひの紛然たる嗅覺の刺戟、などと、互に混合し反映し交響して一種特殊の雰圍氣が場内に漲りわたるところに、いはゆるお芝居的情調が醸し出されるのである。誇張したいひかたではあるが、この意味に於いてお芝居的情調の一半は幕あひに、また見物席に、あるともいへようか。役者が三都それ/\の氣風を呑みこみ、またその場に起つて來る見物の氣合にうまく投合することを心がけるのも、作者が劇のしくみを見物の氣分の變化に應ずるやうにし、四季によつて題材に適不適があるといふやうなことを説くのも、一つは人氣とりのため、一つは幾分の衒學的態度が交つてはゐるものの、またこゝに一理由がある。だから脚本が獨立した文學的作品として見ることのできないのも當然であらう。
 以上は前代から連續してゐる上方中心の文學の概観である.小説と淨瑠璃などとは方面は違ふが、前代から一歩を轉じて新しい方向に進んだものといひがたいことは、同じである。幾らかの特色のある文藝が摸倣者や追從者の手にかゝつて變化してゆく徑路に二つある。一つは平凡化し常識化することで、一つは畸形となり不自然となることである。常識的となつた浮世草子は前者で、外面的に變化と複雜とを求めて來た淨瑠璃などは後者である。さてかういふものが化政度の江戸文學に對して如何なる關係を有するかが次の問題であるが、その前に江戸の土地に發生して江戸の特色を有つてゐる滑稽文學を一瞥する必要がある。
 
(175)     第六章 文學の概觀 三
       江戸の滑稽文學
 
 江戸の通俗文學には、概觀すると、筋のある物語となつてゐない斷片的のものと、筋を主とする物語風のものと、の二つがあつて、前者は或る時代の草双紙、即ちいはゆる黄表紙もの、蒟蒻本(洒落本)、または中本と稱せられる滑稽もの、の類であり、後者はいはゆる讀本、及びそれに準ずべき合卷ものの草双紙、並に人情本、などを含んでゐる。前者のうちにも筋のあるものもあるが、作者の主眼はそこにあるのではなく、さうしてそれは狂歌や川柳點の前句づけなどと思想上の連絡があり、また後者は歌舞伎淨瑠璃及びシナ文學と密接の關係を有つてゐる。この章に述べるところはその前者であるが、後者の多くに非寫實的傾向の勝つてゐるに反して、これは寫實的分子に富んでゐ、同時に滑稽趣味がその基調をなしてゐる點に特色がある。滑稽趣味は元録文學にも甚だ豐かに存在してゐたのみたらず、やはり寫實的分子と抱合してゐたが、江戸文學に於いては一方にそれと反對な色彩を有つてゐるものがあるので、このことが特に目立つて見え、さうしてそこには江戸人に特殊な氣分の反映もある。江戸の歌舞伎に於いて滑稽が一大要素をなしてゐること、常盤津以後の俗曲に於いてもそれが缺くべからざるものであつたことは、既に述べた。
 天明のころを盛りとして江戸に狂歌の流行したことは、周知の事實である。この狂歌は「人の笑ふをのみ種子と」するのであつて(歳旦手鑑序蜀山)、その笑ふのは要するに言語上の滑稽に過ぎず、さうしてその根本は、和歌の形態によりながら和歌に用ゐない俗語を使つて、似て非なることをいふところにある。それは萬載集とか古混馬鹿集(狂(176)言鶯蛙集)とかいふやうな狂歌集の名、四季戀雜などに分類したその體裁、多く和歌の題を用ゐたこと、四方赤良とか手柄岡持とかいふ古人の名に擬した作者の戯名、また狂歌集の序には古今集の序をもぢるのが例のやうになつてゐること、などからも推測せられる。蜀山などの狂文も同種類のものであつて、或は古文の體に擬し或は古語成句をもぢり、またはそれをくだけた俗語に結びつけて全く別の思想に轉向させるところに、滑稽があり、「四方のあか」の開卷第一にある達磨の賛に「拈華微笑の床花は正法眼藏の帶を解かせ、教外別傳の正傳節は文字太夫が流を立てず、蘆の一葉の猪牙に乘りて九年面壁のゐつゞけ、」とあるやうなのがその標本である。鳩溪の作にも文章として見るとその分子が多く、京傳や三馬が好んで書いたその戯作の序文なども同樣である。それによつて莊重古雅と思はれてゐる形態もしくは言語と、それとは正反對に輕浮卑俗とせられてゐる内容もしくは言語とが、同時に混雑して目に入り耳に入つて來るところに、矛盾と不合理とから生ずる滑稽があるのである。
 蜀山(寢惚先生)や銅脈先生によつて鼓吹せられた狂詩及び狂體の漢文も、その趣味は全くこれと同じであることが、通詩選や狂詩諺解または太平遺響の類を見てもわかる。昔々春秋の如きはその反對の徑路を取つて、子どもあひてのお伽噺をシナの古典の形に於いてもつたいらしく莊重に敍述したところに滑稽があるので、寢惚先生の送桃太郎序などよりも興味が深いが、さういふものは他に例が無いやうである。さて狂詩の類は前に述べた「趣向」の産物であるが、趣向とは人の意表に出でることであつて、それには全く無關係に見えることを卒然として何の點かで結合するか、またはその反對にまとまつた氣分を破壞し懸け離れた方向に突き放すかの二方法があり、その態度が急迫で而も結合せられまたは分離せられた觀念の距離の遠い場合には、それが滑稽となつて現はれるのである。かの春草の美(177)人の圖の竹林七妍といふやうな題號も同じ嗜好から來てゐるので、人丸赤人玉津島明神などを今樣の女風俗で描き達摩を傾城の姿で道中させるなど、かういふことは當時に流行したらしい(巴人集など)。北齋の富士の圖などに思ひがけないものを配合して構圖の奇拔で人を驚かしてゐるのも、同じことである。更にいふと、このころに流行したいはゆる地口もまた畢竟それであり、そこに簡單な「趣向」がある。
 だから、狂歌に於いても「歌よみは下手こそよけれ天地の動き出してはたまるものかは」(家集宿屋飯盛)のやうに、古人の歌を違つた意義にとりなしてそのうらをいつたり、「あちこちの手次もいらぬ傳授をば錢のさせたる呼子鳥かな」(萬載集布留田造)、「郭公なきつる方をながむればたゞあきれたるつらぞ殘れる」(同上平群實柿)のやうに、古歌の口調を辿つて別の思想をのべ違つた意義に轄じさせたりする例が甚だ多い。勿論さういふものばかりではなく、いひかけや縁語などに興味の中心を置くものもあるが、それも「春の夜はあんの如くに霞みつ⊥月の影さへおぼろまんぢう」(同上山手白人)のやうに、古典趣味を俗化するために用ゐたものが少なくない。蜀山の狂文にいひかけや冠詞やうの修新法を用ゐたところが多いのも、同じことである。本來いひかけや冠詞は古文に於いても滑稽趣味の發現として見るべきものであつて、このころでも「一杯のみかけ山のかんがらす」といふやうな「通人」の間に流行したしやれも、それが主になつてゐるが、狂歌に於いては古歌の因襲的修辭法を俗語に適用するところにも、特殊の滑稽が生ずるのである。けれども全體からいふと、或は古歌や成句に拘泥する氣味があり、或は三十一音をつらねるといふ形が輕いしやれをいふにはやゝ長すぎ、また和歌の修辭法の因襲に知らず/\囚はれ易いといふ事情もあり、從つて談林の俳諧の如き奔逸輕快の趣きは少く、むしろ理窟に墮して重くるしい。狂文とても、冠詞や對偶法やの修辭を(178)うるさく用ゐ、古語成句を引用することが煩しいため、局部的に一句/\のつゞけがらを見れば輕妙な飄逸な點があつても、全體としての感じは頗る窮屈であつて、西鶴の文章の如く不羈自由でない。一句として見ても、奇拔なやうではあるが西鶴のに累出する如き警句などは無い。自己から出るのでなくして文字から來るものだからである。こゝにこのころに通有な知識の拘束が認められる。
 狂歌の興味がこゝにあるとすれば、それは貞徳以下卜養貞柳などの作つたものとさしたる違ひの無いものであることが知られ、現に萬載集などにこの時代の作をも採つてある。貞柳が「狂歌は箔の小袖に繩の帶したらんやうにあるべし」といつたといふが(皇都午睡二編)、それは恰も上に説いたところと同じことであり、さうしてこのいひかたも鎌倉時代に流行した歌の教を摸ねたものらしく、そこにも狂歌師の態度が見られる。だから狂歌の流行はこのころの新運動ではなく、畢竟前代から引續いてゐるものであり、現に貞柳の系統を傳へてゐる作者は上方にもある。これは狂文でも同樣で、了意や西鶴が既にその範を示してゐる。だからこのころの江戸に於いてそれが急に盛になつたのは、田沼時代の輕浮な生活氣分、日常の會話に於いても口さきのだじやれが好まれたほどの世の中に、適應したからであらう。從つてこれは單純な遊戯に過ぎないので、何の内容をも有たないものである。談林の俳諧の如く一種の處世觀がそこに現はれてゐるのでもなければ、世を諷し俗を刺るといふのでもない。蜀山は前に引いた句の次に「いつしか實のあるやうにぞなれりける」(歳旦手鑑序)といつてゐるが、それは「種子」の縁語で成熟したことを指したものらしく、狂歌に特殊の思想的内容が與へられたといふのではない。「月見ても更に悲しくなかりけり我が身一つの秋にもあらねば」(狂言鶯蛙集つむり光)といつても、それは必しも何等かの意義での樂觀思想がそこに認められるのでは(179)なく、たゞ古歌を茶化したところに作者の意圖があるのみである。もつとも即興の作などに於いては、作者の何等かの感慨がおのづからそれに寄託せられてゐないには限らぬが、それも狂歌といふものが、始めて詠み出された昔とは違つて、既にそれが一つの遊戯となつたこのころでは、歌や漢詩と同樣、思想に一定の型ができてゐるから、どこまでが作者の心の聲であるかを知ることは、作者の人物を精細に考へた上でなくてはわからぬ。鳩溪の狂歌や狂文の如きは明かに彼の不平の鳴であるけれども、概していふと、好んで諧謔の言をなすものでも、必しも人を愚にし世を愚にしてゐるのではない。或はむしろ世を茶にしてゐることを衒つてゐたかも知れぬ。俳人が風雅ぶり讀本作者が道學先生ぶつた世の中である。世を世とも思はぬ放埒な生活をしてゐたのでないことは勿論であつて、町人としてまたは武士として、商賣をし世間なみの地位を保つてゐたのでも、それは明かである。彼等にして羈人傳中の人となるべきものは、恐らくは殆ど無かつたであらう。事實、この空疎な言語上の遊戯を生命とするところに流行の理由があるので、狂文とてもそれが談林の西鶴や蕉門の作者の俳文と違ふところは、主として滑稽が内容に於いてでなくして言語の上にある點にある。警句の見えないのも一つはこれがためであるが、狂文が恰も長唄の詞章と同樣、ことばの縁にひかれて思想が次から次へと移つてゆき、全體の主旨が力強く現はれてゐず、往々支離滅裂に陷つてゐるのも、作者の本意が言語上の遊戯にあるからである。窮屈な世の中にあつて、抑へられた生活をしてをり、さうしてまじめな事業をすることのできない社會に於いて、その有り餘る才能を用ゐるにところなき才人どもが、かういふ方面にそれを放散せんとしたのは、無理の無いことであると共に、全體の氣風が萎縮して來た當時にあつて、西鶴の如く大膽に自己を表出することも、芭蕉の如く眞率に自己を味ふこともできず、彼等の遊戯的の一面のみを傳へてそれを極めて輕く取(180)扱ひ、それによつて我をも世をもごまかしてゆかうとするのも、當然であらう。特にかういふ世の中に自己の地位を保つてゆかねばならぬといふ事情から、處世の術に長じ辭令に巧みになつた江戸人は、それを玩ぶに最も適してゐるので、いはば彼等の表面的な虚僞の生活、ごまかしの生活が遊戯として現はれたものである。權門に阿附して利を求めるのも遊戯の世界に身を置くのも、その態度と倫理的價値とこそ違へ、世に處する心理に於いては同一である。 蜀山などの狂歌は落首めいたこと時事に關する詠を避けたといふが(萬載狂歌集序、一話一言)、その落首も題材を時事に取つたのみで、作者の態度は一般狂歌師と大差が無い。彼等の目的は諷刺するのでも不平をもらすのでもなく、たゞ戯謔するにある。いひかへると落首を作ることに興味があるので、時事はそれに機會と材料とを供給したのみである。田沼の失脚を笑つたものが忽にして寛政の改革に戯れるのも、この故であつて、彼等は必しも政治上に特殊の識見を有つてゐて、それによつて爲故者や政治の方針を批評したのではない。天變地妖はいふまでもなく、火事や病氣のやうな災禍をさへその戯謔の用に供してゐることを見ても、それは知られる。もつとも見やうによつては、人生のこと一として滑稽ならざるはないので、讃嘆し仰景し憤怒し怨恨し、もしくは同情し憎惡すべきことが、そのまゝに何れも好笑の料となり得るであらうし、橋の落ちたのも人の死んだのも、それを諧謔の用に供するのは必しも怪しむに足らぬが、落首の作者はさういふ態度で人生と社會とを取扱つたのではなく、たゞ何ごとでも採つてしやれの材料としたまでであらう。水越の如き不人望な政治家に對する落首にはかなり激越なものもあつて、それには幾分の民心の反映が無いでもないが、それとても深い思慮から出たものとは見えず、概して輕浮な雷同附和の聲であるといはねばならぬ。さういふものを作る心理については既に前篇(第五章)で考へたことがある。
(181) さて落首の方法はやはり、百人一首とか六歌仙とか、或は役者のせりふ俗曲淨瑠璃の文句、手鞠歌やちょぼくれ、または野馬臺の詩とか經典の章句とかいふ、人の熟知してゐるものに擬してそれをもぢるのであつて、そこに例の趣向があり、長い間に斷えず現はれた落首が殆どこの範圍を出てゐないといつてよいほど、それは千篇一律である。もし然らざるものがあれば、それは有名な「世の中にかほどうるさきことは無しぶんぶというて夜もねられず」の如き、流行語や問題の人物などを咏みこんだ狂歌風のものであつて、これも畢竟は言語上のだじやれに過ぎない。かういふところにも江戸時代の人心の單調さと思想の停滯とが見られると共に、それが深刻な諷刺ともならず、まじめな文學にも發達しなかつた點に於いて、一種の遊戯に過ぎないことがわかるのである。かの川柳點の前句づけの如きものも、やはり諷刺ではなくて穴を探すのであり「うがち」をいふのであつて、その興味は作者の自己滿足、即ちよく穿ち得たといふ誇り、にあるから、それが遊戯であることもまた落首などと同樣である。さて遽戯であれば、それは心情の現はれではなくして智能のしわざであるから、それに知識的要素の多いことはいふまでもないが、川柳點などはそのいひ現はし方が如何にも迂曲であり理詰めであり、從つて謎の如きものが多く、當時の風俗や流行などに通曉しないわれ/\には何のことであるかわからないものが少なくない。
 
 ところが草双紙も洒落(しやれ)本も、また洒落本の變形たる一九や三馬の作も、かういふものの流行を背景として生れたものであるから、何れもそれと共通の性質を具へてゐる。さて草双紙も子どもをあひてにした赤本時代の作は別として、「大人の見るもの」になつてからの作、即ち黄表紙ものになると、いはゆる「四海いきちよんと治つた」(182)「太平大通の御代」、「當世しやれの世の中」の世相を寫し、「きん/\たる男」を描いてゐるものが多いのみならず、時には悦贔負蝦夷押領(春町)、通増安宅關(作者不明)、間合嘘言曾我(歸橋)、の如く、官吏の私を營み權門に阿諛する状態の現はれてゐるものもあり、特に松平定信の局に當つた初めには、文武二道萬石通(喜三二)、天下一面鏡梅鉢(唐來三和〕、孔子縞于時藍染(京傳)、玉磨青砥錢(同上)、新吉原聖賢畫圖(二世喜三二)、などの如く、時事を題材にしたものさへ作られた。しかし黄表統の興味の中心はそこにあるのではなくして、やはり趣向にある。草双紙と夢とはつきものであるといふので、そのことを題材にしたもの、例へば京傳の廬生夢魂其前日のやうなもの、さへ現はれたほどであるが、夢は無關係のものが唐突に結合せられて辻褄のあつてゐるやうであつてゐないところに「趣向」と同一の趣きがあるので、「草双紙といふやつは起きてゐて寐言をいふやうなもの」(戀川好町の元利安賣鋸商内)といはれたのも同じ意味からである。「それ赤本は一つ趣向を種として萬の笑とぞなれりける」(京傳の桃太郎發端話説)といふのが、そのまゝ赤本ならぬ黄衷紙にもあてはまるので、事實、その多數は殆ど何等の内容も無い趣向だけのものであり、そこに滑稽があり遊戯的気分がある。四天王大通仕立(是和齋)、面向不背御年玉(萬象亭)、または大悲千録本(全交〕とか三國傳來無匂線香(京傳)とかいふものは、恐らくはその代表的の作であらう。
 然らばその趣向は如何なる性質のものかといふと、それは狂歌の場合に述べたことからも類推せられるが、要するに周知の説話や觀念に別の觀念を結びつけ、或は別の觀念にそれを轉向させることであつて、「新しい」ところがそこにあり、「古きをたづねて新しく書きかゆるが即ち趣向の新しきといふもの」(廬生夢魂其前日序文)といはれてゐる。「こじつけ」といふのも即ちそれであつて、例へば三太郎天上巡り(喜三二)に、通り天、野暮天、ところ天、道春(183)天、古天、有頂天、早合天、などの諸天を巡りあるく、といふやうなのがよくそれを示してゐる。地口やだじやれやもぢりも畢竟同じ性質のものであつて、音調や言語の類似によつて意外の觀念を結合するのであるが、黄表紙の文章や會話は殆どみなその類であり、楠無益委記(戀川春町)とか江戸生艶気蒲燒(京傳)とかいふ題號にもそれが見える。誇張の手段もまた常に用ゐられてゐるし、それと少しく趣きを異にして反對のことをいふ方法もあるが、これらもまた目前の事實を事實らしからぬやうに見せかけ、或は事實らしからぬことから事實に歸つて來るところに、人の意表に出る趣向がある。誇張のはいふまでもないが、反對のことをいふのは、一部の趣向としては「親仁の夜行息子の看經」を主題とした壽御夢相妙藥(古河三蝶)、シナ人の日本癖といふことを書いた此奴和日本(四方山人)、などの類、局部的には楠無益委記及びそれをまねた長生見度記(喜三二)や夫從以來記(竹杖爲輕〕の如き、未來記風のものに例が甚だ多い。ところが極度に誇張をすると通常の状態とは反對の有樣になるので、この二つは往々結合せられる。孔子縞于時藍染に儒教思想を茶化して、金銀を嫌ふために貧乏人ほど尊く福人ほど卑しめられる、といつてゐるやうなのがそれであり、寛政の改革を材料にしたものにはこの類のものが甚だ多い。世上洒落見繪圖(京傳)の趣向も同樣であつて、それはしやれそのものにかういふ滑稽のあることを認めて、それをまた滑稽の材料としたのである。(かの和莊兵衛の不死國や自在國で死を祈り貧乏を求めるといふのも、似たことではあるが、それは道徳的教訓のための寓喩であるのと、敍述するよりも説明する態度で書かれてゐるのとのため、滑稽とは受取られない。風來の志道軒傳にある穿胸國の話や女護島の男郎はそれよりも滑稽に聞えるが、穿胸國または女護島といふ特殊の場所としてあるため、その感じが薄い。)きん/\先生や通人を寫す場合でも、その特徴を甚しく誇張するため、實際にあるべか(184)らざる話であるといふことが明かに知られるので、反對のことをいふのと同じやうな滑稽が生ずる。反對のことをいふのは八文字屋もの(例へば親仁形氣のやうなもの)にも見えてゐるが、それは不合理のことが實際らしく寫されてゐるので、そこに一つの滑稽があるが、黄表紙のは初めから事實らしくないこととして、即ちしやれをいふためのしやれとして書かれた點に相違があり、そこに黄表紙を作つた江戸人の特殊の態度がある。
 ところが、かういふ滑稽かういふ趣向の材料として用ゐられるものは何かといふと、それは當時の世相の弱點もしくは裏面であつて、「いきを專らとして當世の穴を探」す(京傳の御存商賣物)といふのが即ちそれであり、こゝに内容の上から來る別種の滑稽がある。開帳や見せものやその他とき/”\の世間のできごとを題材にしたものは勿論のこと、浦島や桃太郎の昔話でも曾我や四天王の芝居ものでも、または志道軒傳などから系統をひいてゐる島巡りものでも、それに結びつける新要素は即ちこれであつて、何の點かで世相に觸れるところがなくてはならぬのである。しかしそれは決して、社會の病弊や人生の缺陷に對して根本的な或は深酷な批評を下し鋭くその急所をつく、といふのではなく、弱點にせよ裏面にせよ、笑の種となるだけの程度に於いて輕くうはべをなでておくに止まるので、それは作者の態度が人生を觀察し世相を措寫しようとするのではなく、社會のため人生のため眞摯にその缺陷を憂慮してそれを矯正しょうとするのではなほさらなく、たゞそれをしやれの道具に使ひ、讀者の笑を求めるまでだからである。通人やしやれを材料にしても通人の穴探しそのことを通とし、しやれのうがちそのことをしやれにしてゐるのである。更にいひかへると、世間の「穴」を知つてゐることを誇りとし、それをわれは顔に見せびらかすところに、生命がある。作者自身が顔を出す場合のしば/\あるのも、一つは歌舞伎などと同樣、藝術と實世界との混淆に由來があらう(185)が、一つはやはりこれがためらしい。要するに全體が作者のしやれである。復讐後祭祀(京傳)の復讐のすんだ後でわざ/\苦勞をするといふのも、復讐そのことに對する諷刺ではなくして、單に草紙の趣向に過ぎず、江戸生艶氣蒲燒(同上)で情死を滑稽化しても、艶次郎の話の全體が初めから事實らしくないから、少しも情死の諷刺にはなつてゐない。或はまた齢長尺桃色壽王(甲龜)の長生にあいて死を求めるといふのも、生存欲そのものに對する皮肉な考察ではなくして、たゞ口さきだけのしャれにとゞまる。目前の世相に關することでも、寫しかたがあまりに空々しい虚構であるため、實生活とは無關係な遊戯文字になつてしまふ。染直大名縞(信普)で木綿の直段が高く絹物の價が廉いといつても、照子淨頗梨(京傳)で姿婆が善人のみになつたから地獄に墜ちるものが無くなつたといつても、寛政の改革は少しもその弱點を抉られた感じはしない。さうしてその時事を材料とするのは、たゞそれが世間の話柄になつてゐるからのことであつて、開帳や見せものが利用せられるのと違ひは無く、大通の世には大通を茶化し、文武流行の世には文武流行を茶化すだけのことである。神も佛も孔子も通人も、黄表紙の作者にとつては同じくしやれの道具としてのみ意味があるのである。それは恰も上に述べた落首の態度と同樣であるので、當時の江戸人の氣風と處世觀との一面がこゝに現はれてゐる。西鶴の浮世草子も滑稽を主としたものではあるが、描寫法が具體的であるのと、根柢に一種の處世觀があるのとで、その滑稽に或る程度の深みがあるが、黄表紙にはそれだけの意味も無い。
 しかしともかくもこの時代に特殊な世相の一面が現はれてゐる點に於いて、黄表紙ものに寫實的要素があり、從つて風俗史や趣味史の上に好資料を供給するものであることは、明かである。けれども通としやれとを生命としてゐるだけに、當時の江戸人でなければ興味の無いやうなものが多い。そのしやれはしャれなかまのしやれであつて、いは(186)ゆる樂屋落ちに類する點があるから、局外のものには殆ど理解しかねることさへ少なくない。そこに江戸文學の特色もあらうが、それがために普遍的價値が少いこともまた否み難い。文章としてもしやれの外に見どころは無いが、插繪の人物のことばは寫實的であり、而もむだがなく簡潔であつてしやれの粹を拔いたやうなものであるのが甚だおもしろい。なほ黄表紙ものには教訓の伴つてゐるものが多いが、これは金々先生榮華夢(春町)などに於いては、子供をあひての赤本から繼承せられたものであり、寛政以後のには新しく勢を得て來た儒教的政策、またそれに伴ふ世間の風潮、に順應するために強ひて附會せられたといふ理由もあらう。このころ一部の社會に流行してゐた心學の思想を附會したものもある。何れにしても外部からの附加物である。が、前のは本文の趣向とそれとは區別して見られるから、さしておもしろ味を損じないけれども、後のは趣向の上にそれを寓するのであるから、寓喩譚めいてその趣向もしやれも窮屈になり、興味索然たるものになつてしまふ。京傳の心學早染草、全交の常々草、などがその好例であり、馬琴の作はいふまでもない。なほ文學史上の大勢から見ると、この教訓の要素もまた上方文學からの因襲として考へられようが、心學早染草の善玉惡玉の如きは、或は八文字屋ものの商人軍配團に見える貧乏神と福の神とが白黒の玉となつてそれ/\の人に宿るといふ話に、由來があるのではなからうか。同じ京傳の唯心鬼打豆が八文字屋ものの改作であることを幸堂得知がいつてゐる(黄表紙百種)。
 
 「穿ち」を主としながら寫實の筆が一層精細になり題材を遊里にとつたものが、いはゆる洒落本である。洒落本の範圍がどれだけであるかといふやうなことは且らく問題外として、こゝでは安永天明を盛期として江戸に流行した遊(187)里文學を漠然かう稱しておく。その本來の性質はやはり滑稽にあるので、初期の作たる異素六帖や遊子方言を見ても、それは知られる。この題號が既に古書をもぢつたものであるが、それは後の大抵御覽(朱羅菅江)、世説新語茶(山手馬鹿人)、または古契三唱、通氣粹語傳、京傳予誌(以上京傳)、船頭深話(三馬)、などにも傳へられてゐる。また異素六帖は、古人の詩歌をとつて見えすいた虚僞の解釋を附會するところに、滑稽があるが、これと同じやうな態度はやはり多くの洒落本に存在するので、阿彌陀如來を遊客にしたてた一事千金(田螺金魚)の趣向などもその類であり、また文章の上からいふと、序文などにはそれが特に目にたつ。少しく毛色の變つたものであるが、李不盡通詩選、通詩選諺解(四方山人)、などもそれに屬する。また遊子方言の描いた半可通の失敗も、しば/\摸倣せられた主題であつて、かの武左と共に題材の上からの滑稽を形づくるものであり、和唐珍解(唐來三和)の如きは、シナ人を捕へ來つてシナ語を操らせた點に滑稽がある。のみならず當時の一般の嗜好として、何れの作にもぢぐちやだじやれが作中の人物の會話となつて現はれてゐる上に、作者の遊里や遊女や嫖客を取扱ふ態度もまた遊戯的玩弄的であるから、ここにも滑稽が含まれてゐる。京傳予誌の申に心中を滑稽化してゐるのを見るがよい。もつと根本的にいふと、本來かかる生活を寫すことが既に不まじめとせられてゐたのであるから、そこに既に人の笑を催さしめる契磯があり、また作者の「うがち」の巧みな點からも滑稽の感が生ずる。洒落本の洒落本たる所以はこゝにあるのであらう。
 しかし今日から見ると、洒落本の文學的價値はその寫實の精細な點にあるので、種々の階級に於ける遊客や遊女の状態、または北里南江及びその他の幾多の岡場所の地方色を活き/\と現はしてゐる點に、作者の手腕がある。花折紙の如き評判記を見ると、當時の讀者もまたそれを喜んでゐたらしい。特にその會話の描寫は、上方文學に於いて既(188)にその端緒が開かれてゐるとはいへ、またそれがあまりに煩冗な惡寫實の弊に陷つてゐるとはいへ、ともかくもこのころの江戸文學に於ける一異彩であるといはねばならぬ。洒落本が遊びの手引草となつた、といふやうなことがもしあるならばこの點に於いてであらうし、作者の意圖にも幾らかその意味の加はつてゐたものがあるらしい.洒落本の大成者ともいふべき京傳の作に於いては、例へば夜年の茶漬の如く女郎の手くだを摘發して「紋日を逃げる智意袋」を提供したものもあり、吉原楊枝に至つては更に一歩を進めて、青樓の悟道を説くと稱してゐる。けれどもこの寫實的分子と前に述べた滑稽的氣分とは常にからみ合つてゐるので、如何なる場合でも冷靜な態度で客觀的描寫をするのではなく、むしろをかしみのために寫實をするのであつた。京傳はこの二つを最も巧みに結びつけてゐるので、どの作を讀んでも全體としては滑稽の感があり、娼妓絹ふるひの如くやゝ感傷的な情致を描いたものですらさういふ分子が半ばを占めてゐる。三馬の辰巳婦言、船頭深話、船頭部屋、の三部作に於いてもまた同樣で、筋のある物語めいたものにさへなつてゐるけれども、それはたゞ娼家と遊客と遊女との状態を寫すための方便たるに止まり、その描寫の目的はうがちとをかしみとにある。戀も情けもそこに無いのを見るがよい。よしや色里に一分の情があり三分の意氣があるにしても、通人の通なる所以が這裡の消息に通ずることにあつて、その通の根柢がしやれであり、通人の態度は他から見ても滑稽であるとすれば、洒落本の主調がをかしみであることは當然である。
 さて遊里の描寫は西鶴以來の浮世草子の主題であつて、洒落本そのものが好色本の轉化した上方出版の聖遊廓などにも一淵源があるとすれば、全體に浮世草子の影響のあることは認めねばならぬ。客衆肝膽鏡(京傳)の序にある「浮世師」の語もこの意味に於いて看過し難い。のみならず、滑稽を主とするのも、吉原楊枝に見える如く色道傳授とい(189)ふやうな思想の伴つてゐるのも、上方文學たる浮世草子の特質である。が、洒落本と浮世草子の元祖たる西鶴とを比較すると、その違ふところは、西鶴はいはゆる好色を人生の根本的事實たる性慾の發現として取扱つてゐるのに、洒落本はたゞ遊里をおもしろをかしく描いたのみであり、かれは遊興を人間生活の一断片として、または複雜な社會の一現象として、寫してゐるのに、これはそれを究極の目的とし、遊里もしくは嫖客と遊女との關係を世界の全體として見てゐ、從つてまたかれは好色そのことを滑稽化してゐるのに、これは傾城買ひを肯定した上に於いてたゞ嫖客や遊女のうがちに笑を求めてゐる點にある。だから西鶴のは遊戯的に世間を眺め滑稽的に性慾を取扱つてゐながら、そこに一種の思想の深さがあつて、往々讀者をして人生の眞趣に想ひ到らしめるものがあるが、洒落本には全くそれが無い。かれには思ひきつた露骨の性慾描寫があるけれどもそれが極めて淡泊であるのに、これは恰も白い脛を少しく露はした婦人を畫く浮世繪と同樣、比較的卑猥の筆を避けてゐながら頗る挑發的であり、かれには一方に強烈な戀があり情があるのに、これの描くところは概ねそのをり/\の性慾の滿足と不滿足と、小さな見えの成功と不成功と、に止まつてゐる。かれが山なす黄金を惜し氣も無く撒き散らす花やかな大盡遊びを寫し、その大盡には力を以て遊里を壓せんとする氣魄があるのに、これはたゞ齷齪として娼婦に媚び「傾城にかはゆがられ」ることを無上の榮譽としてゐる遊蕩兒を描き、かれには銀燭眩くかゞやき絃歌湧くが如くに起る豪遊の光景を敍してゐるのに、これは蘭燈影くらき閨房の有樣を寫すを主としてゐる。插繪の趣きにもまたこれに應じた差異がある。またかれは全盛の太夫でも手ひどく罵倒してゐるのに、これは遊女のあらを探すことは比較的少く、武左や半可通のうがちを得意としてゐる。夜半の茶漬に於いて、女郎の手管よりも客のいつはりを暴露するのに重きを置き、「客ほどうそをつかぬ傾城」の一句(190)を正當視してゐるのも、これと同じ態度であらう.從つてその文章も西鶴は奇警な觀察に興味があるのに、これはただぢぐちやだじやれを以て滿足してゐ、かれの強い鋭いまたは優雅な筆つきに反して、これはたゞ煩冗であり平板であり、寫實としても彼の印象の鮮かなのに比べると、これは徒らに多くを描くのみで核心を確かに把握することが無い。意気の衰へた、表面を矯飾し世に處するに巧みになつた、この時代の江戸人の作としては、これは自然の傾向なのである。教訓を標榜するのも畢竟同じところに由來がある。が、かういふ氣風は一面に於いて繊弱な感傷的情調ともなつて現はれるのであつて、豊後節や新内の氣分とよく適合する點がそこにある。前に述べた京傳の絹ぶるひに、梅川忠兵衛の名を用ゐてありながら近松の作に現はれてゐるやうなこの人物の面影は全く見えず、一篇の情趣はたゞ青樓の痴情痴話にあるのを見ても、それが知られ、傾城虎の卷(田螺金魚)、契情買二筋道(梅暮里谷峨)、などに寫されたところも、またそれに似たものであり、洒落本が一轉して人情本となる契機もこゝにある。契情買二筋道の如きは「見物の落涙を催さるゝ」と花折紙にも評してある。さうしてそれもまた昔の浮世草子には認められないものである。
 
 遊里がよひが人生最大の樂事とせられ「ゆくものはかくの如きかと晝夜をすてず猪牙船の」通ふことしげき世の中に、洒落本のもてはやされるのは當然である。が、同じ主題と同じ材料とを同じやうな筆つきで取扱つてゐては、單調に流れて厭きが來る。たまには道中粹語録(山手馬鹿人)の輕井澤や和唐珍解の丸山などの如く、場所を江戸の外に求めたものもあるが、江戸人を相手の戯作としては、幾らかの好奇心を喚起するにとゞまつて、深い興味をひくには足りなかつたらう。その上に寛政の文武奨勵政治があり、京傳の罰せられるやうな騷ぎもあつた。是に於いてか、(191)氣の利いた作者は何の方面にか新しい途を見つけねばならぬ。一九の膝栗毛や三馬の浮世風呂の類は、かういふ事情の下に現はれたのであらう。この二つは概していふと洒落本の變形であつて、出版の時期からいふと膝栗毛の方が少し早いが、江戸を舞臺としてゐる點に於いても、うがちとしやれとを生命としてゐる點に於いても、洒落本に最も近いのは三馬の作である。彼の最も得意とするところは市井の老若男女を寫實的の會話によつて活き/\と描き出す點にあるので、これが洒落本から脱化しながらそれを繼承して來た第一の特徴である。浮世風呂や浮世床は勿論、四十八癖や古今百馬鹿などに於いても、よくその言語によつてそれ/\の種類の人物の型を表はしてゐるし、病人や醉漢の口つき、または方言、などをも注意して寫し出してゐる。のみならず酩酊氣質に於いては「自問自答の言語」によつて「傍に人ありて應對する如く」聞えさせる工夫を試み、ことばのまを注意し、讀みかたを指示して、幾らか表情のしかたにも氣をつけ、潮來婦志に於いては特殊の音を寫すため新案の濁り點を用ゐてゐるなど、この點に於いて頗る周到の用意をしてゐるので、これは從來の作者の試みなかつたことであり、膝栗毛に於いて方言を寫さうと試みた一九よりも更に一歩を進めてゐる。文學史上に於ける三馬の功績は主としてこゝにある。大千世界樂屋探に於いて、源平盛衰記の敦盛直實組討の段を京瓣と關東瓣とで對應させたなども、同じ嗜好から來てゐるのであらう。口の達者な江戸つ兒を寫さうとして、おのづからかうなつたのでもあらうが、「江戸前の市隱」を以てみづから任じ、生粹の江戸つ兒たることを以て最大の誇りとしてゐたらしい作者自身も、このとほり口達者な男であつたらう。作者は浮世風呂の趣向を落語から教へられたやうに書いてゐるが、趣向ばかりでなく會話を以て人物を現はす方法そのものにも、やはり噺し家の影響を受けてゐる點があるのではなからうか。その噺し家の噺しぶりが本來寫實的なものである。
(192) 三馬の寫したところは中流以下、むしろ職人などを主とした一部の社會であつて、さういふもの自身の口によつてさういふ社會を寫すといふことが、目なれぬ讀者には既に滑稽の感をよぶものであり、それが巧みに寫され「世人の暗穴」(古今百馬鹿序文)を捜すとみづからいつてゐる「穿ち」がよく中つてゐれば、をかしみは更に加はる。その上にぢぐちやだじやれの濫發せられる會話自身にも滑稽がある。しかし今日から見れば、下流社舍の状態を寫したといふ點に於いて滑稽は感ぜられず、また當時の世から遠く隔つてゐる今人にとつては、巧みな穿ちもいはゆる樂屋おちめいたものになつて意味が甚だ少い。だからわれ/\は三馬を通讀しても、言語上の滑稽や醉漢の不合理な囈言に一種のをかしみを覺えるのみで、全體として滑稽を主とした讀みものだといふ感じはしない。さうしてそれには、言語を寫すばかりで行爲を寫さないといふ理由もあり、表には裏があるもの、人のいふことはあてにならぬもの、と初めから決めてかゝつてゐ、冷靜な態度で人間生活の矛盾を觀察したいといふ事情もある。言語のみを寫すのは、作者の着想がそこにあるのだから已むを得ないとしても、例へば人心覗機關に於いて表と裏とを明快に區別して口と心との反對を示さうとし、早替胸機關に於いて新婦と姑婆との如く時間を隔てた變化の結果を對照して見せるのみで、表裏兩面の矛盾が知らず識らず讀者の前に現はれて來るやうに、または思想や感情の變化してゆく間に矛盾が自然に暴露せられて來るやうに、描いてゐないのは惜しいことであつた。これがために、作者の意圖が一應肯はれはするものの、眞のユウモアはそこに認められない。一九の人心兩面摺なども同樣である。
 なほ三馬の作には諷刺もまた認められない。穿ちや穴探しが諷刺でないと同じく、三馬も決して諷刺家ではない。諷刺にはおちついて客觀的に人生を描寫する態度と高い識見と深い透察力とを要し、またその根柢に世相に對する深(193)憂があり、冷かな態度の内面に熱情が無くてはならぬ。三馬にはそれが無いのである。彼のみならず、作者みづから表面へ出て穿ちをいふことを得意がり、穴探しをするのを誇つてゐる。當時の作家にはさういふ資格も意圖も無い。醫者の澤庵(浮世風呂前篇上)、國學かぶれの鴨子鳧子(同三篇下)、または裏店儒者の孔糞子(浮世床初篇上)、の描寫などは、諷刺と見れば見られなくもないやうであるが、それは當時のいはゆる學者の學者たる所以が單に口さきだけの書物の講釋にあつたのであるから、その口つきがよく寫されてゐれば、それがおのづから諷刺としても聞えるからである。しかしその醫者や儒者に澤庵とか孔糞とかいふ名をつけたり、床屋の留公にひやかさせたりするのを見ると、作者のねらひどころはたゞ例の如き穿ちをいふに過ぎないものであることが知られる。まじめな學者、まじめな學者生活、そのものに不合理と無價値とを認めて、それを深刻に描き出すところに諷刺もあり滑稽もあるが、初めから下らない人物、下らない生括、を捉へて來て、その下らなさをさらけ出すのは、單なる穿ちに過ぎないのである。作者自身からいつても、一方では市井の無學黨を以て自ら任じ馬琴の衒學を罵つてゐるこの作者が、他方では、例へば大千世界樂屋探初篇などに於ける如く、やはり時々怪しげな講釋をして、學問流行の時好に迎合しようとしてゐるのでも、彼に學者を諷刺する資格の無いことは明かである。たゞ儒者や國學者は、かゝる淺薄な穿ちによつてすら、一たまりもなく敗北しなければならなかつたものである點に於いて、今人が讀んでも微笑し得るだけの滑稽がそこに存在するのではある。樂屋探に見えるかの敦盛の京瓣の如きは、それよりも一層上できであつて、遠い昔の平家の公達と今の京の町人言葉との矛盾にをかしみがあるのみならず、無官太夫敦盛の紺の錦の直垂をも萌黄匂の鎧、白星の冑、をも無造作に引き剥いで、美しい雲の上の詩の世界から目の前の俗界にそれをひきずり下ろした點に、大なる滑(194)稽があり皮肉がある。但しこれもまた作者の期したところではないらしく、同じ樂屋探の中の精靈の述懷などが單なる穴探しに過ぎないのを見てもそれが知られる。
 しかし「三千大千世界、戯房なくんばあるべからず」(樂屋探自序)と喝破して、裏面の暴露に笑を求めた三馬の態度は、決して三馬に始まつたのではなく、上方の浮世草子、特に西鶴の作、がもつと大きく、もつと内面的に、それを行つてゐるし、その裏面を暴落するための誇張的方法もまた西鶴以來八文字屋ものを經て種々の氣質ものに至るまでの共通手段である。だから三馬の特色は、たゞ言語を以てするその描寫法にあるのみであつて、その主題とそれから生ずる滑稽の性質とは、因襲以外にさしたる新境地を開いてゐない。のみならず洒落本について考へた如く、西鶴に於いてはすべてを人生の根本問題として取扱つてゐるのに、三馬はたゞ當面の穿ちを生命としてゐるし、衣食の問題にすらも觸れてはゐない。西鶴に始まつた浮世草子では、商人の日常生活が極めて微細に寫し出されてゐ、その餘流を酌んだ八文字屋ものなどに於いても、多かれ少かれ諸方面に於ける市民の生活問題に交渉があるが、三馬は町人や職人を材料としながら殆どそれを閑却してゐる。それは固より三馬に限らない江戸作者一般の傾向であつて、上方の小説に於いてその主題の一半を占めてゐた「身すぎ」の問題の全く消失してゐるのが、江戸文學の一特色である。さうしてそれは、江戸人自身が概して衣食の問題にくよ/\しないことを喜ぶ傾向があるからでもあらう。だから浮世草子を讀んでどうして生きてゆくかを斷えず考へさせられるとは反對に、三馬からはそれについての何等の思慮も反省も誘はれない。同じく儒學もしくは儒者を滑稽的に取扱つても、例へばかの子息氣質(二の一)、鎌倉諸藝袖日記(一の一及び二)、もしくは學者氣質(一)、などに於いて、それが人としての欲望や日常の生活と矛盾するため、いつ(195)しか附けやきばが剥がれて滑稽な失敗者となることを描寫してゐるのは、浮世床の孔糞子の一條よりは遙かに興味が多い。文章とても言語こそ精密に寫してあるが、全體に冗漫で西鶴の鋭利と奇警とには及びもつかぬ。同じく滑稽的に人の生活や弱點を寫すにしても、言語のみではなくして行爲を具體的に描いてゐる點に於いて、八文字屋ものなどの方が却つて味が深いといはねばならぬ。
 三馬はまた風來の正統を以てみづから任じてゐたといひ、例へば素人狂言紋切形の序と風來の根南之久佐前篇二卷の初めとを對照すればすぐにわかる如く、往々その摸倣か剽竊かをさへしてゐるが、しかし風來の戯作は、やりばの無い不平の漏らしどころであつたのに、三馬のはそれとは違ふ。京傳が通人の穿ちをいふのを通としてゐたと同樣、三馬は江戸つ兒の穴を探すを得意としながら、實は同じ穴をもつてゐる江戸つ兒に過ぎなかつた。浮世風呂や浮世床でむだ口をたゝいて太平樂をならべてゐる連中と、同じ種類の人物である。當時の世の中に順應して、幾らかの利慾と見えとのために頭を上げたり下げたりして、得意になつたり失意になつたりしてゐる「江戸の水」の本舗の主人である。彼にもし不平があつたとすれば、それは上方風が流行して江戸の古風のくづれるのを不快がるくらゐのものである(浮世風呂三篇下、四篇下、など)。
 要するに三馬の諸作は、將軍のお膝下にゐて、また太平の徳澤に浴しつゝ、一方では小さい名利を爭ひながら他方では甚しき生活の困苦を味はず、切迫した心もちにもならぬと共におちついた氣分をももたず、むだ口といたづらと下らぬ喧嘩とに生活の餘力を滑費しつゝ、よいかげんにその日/\を送つてゆくものの多い化政度の江戸の産物として、最もふさはしいものであつた。ところが三馬が側面からその穴探しをして通がつてゐるのに反し、いゝ氣になつ(196)てそのむだ口といたづらとを得意がつてゐるのらくらもの自身を寫し出したのが、次にいふ一九の膝栗毛である。
 
 東海道のを首として現はれた一九の膝栗毛は、三馬の作とは違つて行爲の上の滑稽である。勿論だじやれも吐き散らすし狂歌もよむが、興味の主なる點は彌次郎兵衛喜多八の道々演じていつた惡ふざけにある。この着想は遠くはかの東海道名所記から絲をひいてゐるらしく、現に雲津で犬に吠えられた一條は、名所記の袋井の話をそのまゝに取つてゐる。また道中粹語録のやうな洒落本からも暗示を受けたところがあるのではないかと思はれる。道中に出女はつきものであるから、これは確かにはいはれぬが、本來洒落本から轉化したものだけに、かういふ推測もせられる(三馬の潮來婦志は後年の出版であるから、別として)。なほ洒落本風の筆つきで常套の主題を離れ地方のことを書いたものには、森羅亭の田舍芝居があるが、これも場所が江戸でないといふ點に於いて膝栗毛の前驅と見られよう。ともかくも、江戸の外に殆ど出たことのない京傳や、江戸を世界の理想郷と心得てゐたらしい三馬とは違つて、道中にふみ出したのは、たしかに一九の新意匠であつたに違ひない。海上交通の殆ど行はれなかつた時代に於いて、參覲交代はいふに及ばず、江戸に往復する一般の旅客が必ず通らねばならぬ幹線道路として、あれほどに賑かであり何人にも熟知せられてゐた日本の大動脈たる東海道が、これまで江戸の文學の題材に採られてゐなかつたのは、むしろ不思議であるが、そこに江戸本位の文學の特色があるのかも知れぬ。一九が今初めてそれに目をつけたのである。特に道中記めいた名所舊蹟の案内や名物の詮索までしてゐるし、また方言を寫したり幾らかは風俗の特徴を描いたりしてゐるのは、やはり洒落本式の寫しかたではあるが、一層目新しく感ぜられる。この書が非常な好評を博したのは、單に目さ(197)きが變つてゐるといふことの外に、多くの人の經驗してゐる道中の話になつてゐるのと、地方の記事があるため地方人に廣く讀まれたとの故sわらう。
 けれども更に考へて見ると、東海道膝栗毛は山をこえ川をこえ長亭短亭を行きつくして京にゆき大坂にまでいつてゐるが、しかし何處も同じ彌次喜多の惡じやれの舞臺であつて、山姿水態は、いふまでもなく、彼等の眼に映じてゐないし、ところ變れば品かはる土地々々の風俗人情とても、昔の芝居の書わりほどの用をもなしてゐない。長い道中はたゞ二人ののらくらものに惡戯と失敗との機會を供給するに止まつてゐる。さうして兩主人公は何處でも同じ性質の惡戯を反覆してゐるに過ぎず、その事件はその場書でなければならぬといふ、事件と土地との必然的關係がないから、五十幾驛は畢竟品川の延長であり、彌次喜多は品川川崎間を幾囘か往復してゐれば、それでこの膝栗毛の幾篇かはできるのである。江戸文學は到底江戸文學であるといはねばならぬ。世評に促されて後から出した宮島や木曾などの道中も、たゞ東海道のをむしかへしたに過ぎず、時にはわざ/\旅行までして材料を求めはしたものの、それもやはり道のりと方言と幾らかの風俗とを知り得たにとゞまる。實際、それに現はれて來る幾多の小葛藤は、その中に一九自身の經歴から出たこともあらうが(三篇序、續四篇序、同十篇序、など)田舍侍を寫せば必ず例の如き武左にする如く、ありふれた話をそのまゝはめこんだところもあらうし、また書物の中から取つたものも少なくないことが、狂言の翻案があることからも、推測せられる。本來きれ/\の滑稽譚をつなぎ合はせるのであるから、その主題にも限りがある.だから後になるほど趣向が無理になつて、狂言ものが多く插みこまれるやうになつた。東海道のですら、初めの方の二三篇で種は殆どつきてゐる。さういふ單調なものが二十餘年間も書きつゞけられ讀みつゞけられた點に、(198)當時の讀者の思想の低級なことと世情の固定してゐたこととが知られる。
 膝栗毛の滑稽は、要するに彌次喜多の無智と不用意と衒氣と自惚とから來る不合理の行爲にあるので、その不合理のために得意の状態が忽然として失意に轉じ、すべてがみづから招いた失敗に終るのである。さうしてその中には、一種の惡戯的興味から人をかつがうとしてそれが露顯したり却つて人にかつがれたりするものが少なくなく、それにはまた無邪氣な、罪の無い、場合もあるが、さうでないことも多い。風呂の底を踏みぬいたなどは單純に無智から生じた失敗であり、三百の煙草入を調子に乘つて四百に買ふのも、不用意から起つた滑稽であるし、天川屋義兵衛や山崎村の與市兵衛と名のつて宿屋の主人に弄ばれるのも、無邪氣な話である。輕蔑してゐた田舍ものにたばかられたり、大盡氣どりでゐるところを損料貸の着物と知れて悄氣かへつたりするのも、惡意からでたことではなく、大井川のにせ侍なども淺薄な詭計が暴露したまでである。しかし座頭をだますが如きは惡戯のたちがわるく、團子の代をごまかさうとしたり駕籠かきの錢をとらうとしたり、または富籤の當り札を拾つて百兩まうけようとしたりするに至つては、明かに罪惡の領分に入つてゐる。さうしてさういふ惡戯の根本には一種の利己主義、特に劣等な意味での好色と小さい利慾とがあり、それが多くの場合に滑稽の演ぜられる動機となつてゐる。だから滑稽が單純な滑稽ではなくなつてゐるので、例へば三百のものを四百で買ふといふ滑稽を演ずる動機として、賣り手が娘であるといふことを點出したから、それには娘の目がやぶにらみであつたといふ傍観者の發見のために、自惚の失敗といふ別種の滑稽が加はつてゐる。但し清水の舞臺で鉦をたゝく一段は同じ主題であるが、かういふ特殊の動機が無いだけ、極めて輕妙な單純な滑稽となつてゐる。座頭の川渡りとその次の茶屋の段とは、狂言の「どぶかつちり」をとつて二つの場面に分割した(199)のであるが、狂言では盲人の肉體的缺陷から生ずる不合理の行爲を滑稽と見ただけで事が終つてゐるのに、こゝでは喜多八が復讐的に水の中へ墜されたり、だまして飲んだ酒の代を拂はせられたりしてゐて、彼等の詭計が失敗に終つたところに、狂言のとは違つた新しい滑稽味とそれに伴ふ一種の痛快な感じとが生じて來る.彌次喜多の滑稽にはかういふ性質のものがかなりに多いが、その動機に罪惡の分子のあるものは、失敗を滑稽と見る傍に幾らかの道徳的意義が潜在する。
 膝乗毛の滑稽はその材料に取られた狂言のに比べて見ると、甚だしつこくなつてゐる。例へば骨皮(續七篇)と竹子爭(同上)との作りかへに於いては、傍觀者たる彌次喜多は和尚と小僧とを取りなしたり、筍を兩方にわけて仲裁をしたりしてゐるし、暇袋(續八篇)や布施ない(續一二篇)の改作に於いては、婚姻の媒酌とか女に對する墮落坊主の失敗とかいふ無くもがなの話を結びつけてゐるので、滑稽の感じが薄らいでしまふ。中には鱸庖丁(續七篇)や墨ぬり(續一一篇)の如くほゞ狂言のまゝのもあるが、それでも無用の説明をしたり騷ぎを大げふにしたりしてある。これは彌次喜多の旅行で話をつないでゆかねばならぬ必要からでもあり、また低級の讀者を相手にする通俗文學としては隈なく描き出さねばならず、また古い話を材料とする場合にはそれを複雜にするのが自然の傾向である、といふ理由もあらう。つんぼ座頭をとつた宮での話に於いて、瞽女が喜多八の耳の穴を塞いで惡口をいふやうにしたのも、極めて無理な趣向であるが、これはつんぼでないものをあひてのことだからである。だから「どぶかつちり」の改作か前に述べたやうなものになつてゐるのも、禰次喜多自身が滑稽を演じてゆく以上、こんな風にしなくてはならなかつたのかも知れぬ。しかし狂言に於いては滑稽と女に不具者をたばかつた通行人の殘酷な態度が觀者に印象せられ、(200)座頭に對する憐愍の情がそこに生ずるのであるが、喜多八を失敗させた膝栗毛に於いては、それが無い。そこには或は室町時代と江戸時代との思想の差異があるのかも知れぬ。
 しかし−方からいふと、膝栗毛の滑稽はその題材が主人公の言動と共に甚だ野卑であり不道徳である。小便などのしば/\用ゐられるのはまだよいとしても、さま/”\の女に對する惡戯、金錢や酒食をごまかさうとする行動の反覆せられるのを見ると、滑稽は滑稽として、この點から一種嫌厭の情を生じないわけにはゆかぬ。後に附け加へた發端の死屍の取扱の如きも、あまりに人生そのものを侮辱してゐるではないか。われ/\はかう考へる。たゞ彌次喜多自身はそれ/\に對して全く無頓着である。彼等は平然としてそれを行つてゐる。それは道徳意識の麻痺してゐるのであらうか。けれども彼等は絶えず反覆せられるその失敗に對しても、また平然としてゐる。それは彼等の小なる利己主義、小なる色慾、小なる利慾、が畢竟そのをり/\の戯に過ぎないことを示すものではあるまいか。作意は彼等をして、出女にも瞽女にも順禮の娘にも、女といふ女には盡く戯れさせてゐる。また彼等をして絶えず二百か三百かの錢のために爭はせてゐる。しかしそれは西鶴が性慾といふ人生の根本的事實を滑稽視するのとも違ひ、また生きるために食はねばならぬ絶體絶命の事實を遊戯的に取扱つてゐるのとも違ふ。彼等にとつては色も慾もたゞ戯である。初めから終りまで戯である。既に戯であるとすれば、それは利害關係の上にも道徳意識の上にも超然たるものとして、見るべきではなからうか。だから、だまされようとしたのも、だまさうとしたのも、一首の狂歌に「双方大笑ひ」となつて葛藤は忽ち消散し、彌次郎兵衛喜多八は、金をなくしても面目を失つても、何事も「旅の氣さんじ」、興じ興じて草鞋も輕く驛から驛へと浮かれてゆくのである。さうしてこの不合理な人物とその旅行とに、全體としての膝栗毛の滑稽(201)があるのではなからうか。膝栗毛の興味は主として一つ一つの滑稽譚にあるので、それを彌次喜多の旅でつないだのは、たゞ作者の趣向に過ぎないのではあらうが、一面にはかういふ觀察を容れ得るのである。
 一九のまねをして大山道中膝栗毛などを書いた瀧亭鯉丈の八笑人や和合人なども、やはりそれに准じて見るべきものであらう。その滑稽は主として茶番とその失敗とにあるが、茶番は、それを演ずるものに於いては、何かの事變をしくんだ遊戯を現實のできごとと見せて人を驚かし、その頂點に達した時、忽然としてそれが遊戯であることを明かにして再び人をあつといはせるところに、欺瞞せられた看客を滑稽的にながめることができ、そこに人を弄び人を壓する愉快があるので、その趣向が人の意表に出れば出るだけ、即ち人を驚かすことが強ければ強いだけ、この愉快が大きいのである。さうしてこの現實と遊戯との唐突な變化が、看客には滑稽の感を喚起するのである。ところが趣向に無理があるため、または演者の不用意や過失や無能力やのため、或はまた何等かの障礙が起つたために、初めから人を欺瞞することができないのに、演者自身は欺瞞し得たつもりになつてそれを進行させてゆくか、または半途で眞相が暴露するか、或は意外の事變を誘發して遊戯が遊戯でなくなるかして、茶番が失敗に終る時には、看客にとつてはそこにまた別種の滑稽が生ずる。茶番として計畫したのでなくても、人をかつがうとして却つてかつがれ、人を驚かさうとして却つてみづから驚かされるのも、これと同じ性質の滑稽であつて、それは彌次喜多のしば/\演じたところであるが、八笑人や和合人にもそれが甚だ多い。さうしてさういふ滑稽を斷えず演じつゝ、懲りずまに幾度も茶番を企ててゆき、如何なる失敗も曾てまじめな問題とならず、ぢぐちやだじやれの輕い笑のうちにすべてが消散してゆくところに、生活を遊戯視する當時の市井ののらくらものの本領があり、彌次書多式生活があるのである。
(202) 以上、著者は江戸の滑稽文學を一とほり観察して來たのであるが、全體から見てそれが内容の極めて貧弱な、調子のうはづつた、要するに文字どほりの戯文であり戯作であることは明かである。さうしてそれが寫實的であるといふことも、目前の世態をしやれや穿ちの道具に使つたためであつて、世態そのものを忠實に觀察し描寫するといふ考から來たのではない。青樓の有樣や娼婦の言動を仔細に寫すのも「よく穿つた」といふところに落ちを取るためである。田舍ものの擧動や方言などを細かに記すのも、それが江戸人にとつて滑稽に見えをかしく聞えるからである。もつともその動機が何處にあつたにせよ、精細な寫實をすることが流行して來ると、おのづから寫實そのことに興味を感ずるやうにもなるので、三馬がことばの調子を寫さうとしたなどはそれであるが、しかしそれもよく寫したといふ技巧に滿足を求めたのである。さうして「穿ち」のためには、その目あてとすることの印象を強くするため、幾らかの誇張した描寫を要することは自然であるが、誇張が甚しくなれば現實に背くやうになり、この點からも寫實の範圍を逸出する傾向がある上に、讀者の笑を買ふためには事實として有り得べからざることをも構想するので、寫實的態度はます/\壞れてゆく。一九に於いては特にそれが甚しく、三條に於ける大根小便の話などは、京の風俗と京人のしみつたれ根性とを誇張したものとして、なほ寫實の域を脱せず、そこに興味があるが、梯子をかついで宿にとまるに至つては、もはや趣向のための虚構としなければなるまい。狂言の改作なども概ねこの類である。さうしてかういふことによつて生ずるをかしみは、子どもあひての草双紙の滑稽と同一程度のものである。よし風俗や會話などが精細に寫されてゐるとしても、それは文學史上の注意すべき一現象ではあるが、それがために洒落本や浮世風呂や膝栗毛の(203)文學的價値がひどく高くなつたとはいひかねる。だから技巧の上に於いて幾らかの特色はあるものの、概觀すると、これらの文學も前代の上方文學の繼承者であつて、而もそれよりは一層淺薄なものであることを否み難からう。こゝにこれらの文學がこのころの文化の大勢と相應ずる所以がある。
 しかし作者の意圖は世相を寫さうとしたのでないにしても、今日から見て江戸文學のこの分野に特殊の價値のあるのは、そこに當時の江戸の凰尚や江戸人の生活の一面がよく現はれてゐる點にある。かういふ種類の滑稽を喜ぶことが、即ちまた江戸人の趣味のあるところでもあつたので、それは新内などのやうな俗曲の一方面にも現はれてゐ、北齋漫畫に見える北齋の滑稽的な取扱方にも幾分の交渉がある。北齋は市井の日常生活の斷片をあらゆる方面から拾集して來てゐるので、それはこれらの文學に於いては見がたいところであるが、この差異は一つは文學と繪畫との性質のちがひにも由來する。市井の状態をいふと、時々に形を變へて現はれて來る種々の物もらひ、或はまた怪しげな大道商人などに於いて、甚だのんびりした愛嬌のある一面が認められるが、それはやがて北齋の好畫題であると共に、またこれらの滑稽文學の内容と共通の點があり、前に述べた如き江戸人の氣分がそこに見えてゐる。さうしてかういふ風によく時勢粧の現はれてゐるのは、これらの文學が割合に書物の上、文字の上、の知識から離れてゐるからである。ところが讀本になると全く性質が違ふ。
 
(204)     第七章 文學の概觀 四
       江戸の小説 上 讀本
 
 洒落本から一轉した一九や三馬の滑稽ものが現はれ初めたのは、小説の方面に於いてもまた新運動の起つた時である。讀本と稱せられる長篇の物語が世に出たのは、この時からであり、また草双紙が物語めいたものとなり、それに伴つていはゆる合卷の體をなすに至つたのも、ほゞ同じころであつた。暦年でいへば、享和から文化の初年にかけての數年間が恰もそれに當る。洒落本も草双紙も同じやうな題目にあいて、何等かの新境地を開かうとする希望が隱約の間に動いて來たをりもをり、寛政の政治は、洒落本を他の方向に轉じさせる好機會を與へたと共に、その武斷的専制主義は文學の政治に接觸しようとする新傾向を抑止してしまつたので、從來の草双紙も世相を滑稽的に取扱つたその特色を失つて、或は教訓的傾向の著しい「理窟臭いもの」となり、或は怪談や敵打の物語または軍談めいたものを主とするやうになつた。これは一方からいふと、子どもあひての初期のものから引續いてゐる因襲でもあるが、「大人の見るもの」になつた後の双紙としては、その書きかたが變らねばならぬから、内容に於いては古いものとは趣きの異なつた、幾らか實録風の形體をもつものになり、それがためには歌舞伎や淨瑠璃からもその題材を取入れるやうになつた。さうしてまたたまには水滸傳をもぢつた梁山一奇談(京傳)のやうなものも作られた。これはほゞ寛政年間のことである.ところが、寛政政治の學問奨勵、儒教尊崇主義は、一般の知識社會に於ける儒教思想の流行、シナ文字尊重の氣風、を一層煽揚し、間接にその影響を文學の上にも及ぼしたので、その結果としてこの新しい草双紙の外(205)に、思想としてはいはゆる勸懲主義を有し、その題材や形態の上に於いてはシナ小説を摸作し翻案し附會し、從つてまた全體として文字の上の知識的分子が勝つてゐる讀本が、享和のころから別に現はれ初めたのである。さうしてそれには、既に上方で出版せられてゐた近路行者や椿園などの諸作、建部綾足の本朝水滸傳、などの前蹤に追從したといふ歴史的由來があるが、しかし一方ではまた歌舞伎や淨瑠璃からその題材と趣向と局部的の種々の着想とを受入れたのであつて、これは草双紙から系統を引いてゐる。讀本がこの二分子の結合によつて生じたことは、その先驅とも稱すべき馬琴の高尾船字文が仙臺騷動の歌舞伎から取つた題材を取扱ひながら、水滸傳の發瑞を翻案結合し、京傳の忠臣水滸傳が忠臣藏に水滸傳的脚色を加へたのでも、明かである。
 さて讀本に於いてシナ小説の摸倣が際だつて目につくことは、本朝水水滸傳とか本朝醉菩提とか曲亭傳奇在釵兒とかいふ標題をつけたり、怪しげな漢文の序跋を加へたり、篇章の題目を漢語にしたり、本文に漢詩漢文を插み、シナ小説慣用の語彙を用ゐたり、または「出像」の形態をいはゆる唐山の稗史に學んだり、さういふことをしてゐるのでも知られるが、全體の着想や局部的の插話をシナ小説から借りて、それを翻案附會する例の多いことはいふまでもなく、馬琴に於いてそれが最も甚しい。現に八犬傳については「竊取唐山故事、撮合綴之、」(八犬傳序)と自白してゐる。このことについては木村黙翁の國字小説通、三枝園の犬夷評判記、依田學海の八犬傳や弓張月の細評、などにその出所の一斑が擧げてあり、蒜園が侠客傳の續篇を書いた場合にもそれが注意してあるが、單に弓張月、八犬傳、美少年録、朝夷巡島記、などの代表作に於いて、シナ小説から來てゐる部分を調べただけでも、かなりにそれの多いことがわからう。何ごとにもシナ通を衒はうとする馬琴であるから、神社を拜するに香を焚くといふなど(八犬傳三の五)、(206)故らに唐山めかさうとして書いたところもあるが、かういふこともしてをり、さうしてそれがためには我が國にあるべからざることをも書いてゐる。京傳の忠臣水滸傳が多くの插話を水滸傳から借りて來たことは、結末の兼好法師の夢が金聖歎本の第七十囘の翻案である一例によつてもわかるが、これは本來水滸傳に擬するところに作者の趣向があるからではあるものの、仙人や道士やしぴれ藥や肉包や、日本には無いシナ特有の事物をも用ゐてゐるのを見ると、作者の興味のどこにあつたかが知られる。殘忍な殺人が讀本に多いのも、一つはシナ小説に由來がある。馬琴のシナ小説に對する理解は甚だ淺薄なものであつたと考へられるが、これだけのことはいはれよう。
 しかし一方に於いては、淨瑠璃や歌舞伎から來た分子も決して少なくない。京傳の優曇華物語は局部的には安達原などを取つてゐながら、全體としては淨瑠璃から來た物語ではないやうであるが、櫻姫全傳曙草紙は清水清玄に、稻妻表紙は土佐淨瑠璃の不破名古屋と近松の傾城反魂香とに、由來があり、少しく後れて出た雙蝶記は、勿論、出雲の双蝶々曲輪日記から出てゐる。馬琴の墨田川梅柳新書、雲妙間雨夜月、新累解脱物語、三七全傳南柯夢、頼豪阿闍梨恠鼠傳、松染情史秋七草、句殿實々記、常夏草紙、または種彦の阿波之鳴門、淺間嶽面影草紙、及び逢州執着譚、などの主なる物語が、同じく歌舞伎もしくは淨瑠璃から採られたものであることは、いふまでもない。なほこれらの作の局部的の場面や趣向に於いて、自殺、身代り、殘酷なる殺人、肉感的な兩性の關係、怨靈や妖怪のはたらくこと、謀略に對するに謀略を以てし、互に欺き互に計り、敵と見せる身方や忠臣と思はせる奸物のあること、または全篇の輪廓を形づくる復讐談やお家騷動的物語、それにからまる寶物の紛失及び發見、いはゆる忠臣と奸物との對立、または人物の倏忽たる離合集散、などは何れも歌舞伎や淨瑠璃の常套的脚色を繼承したものに外ならぬ。馬琴が三七全傳南(207)柯夢の結末に於いて三勝が半七の妻となり園花が妾となるとしたのも、半二式の解決法である。同じ作(六下)に於いては、近松式の道行をまねた文章さへあるではないか。をこのすさみ、本朝水滸傳、雙蝶記、木石餘譚、の評などに於いて「院本」に惡罵を加へてゐる馬琴が、實はそれを剽竊してゐる。馬琴の趣向の淨瑠璃に由來のあることについては饗庭篁村の丹波與作評釋及び八犬傳諸評答集にも説いてある。さて讀本にはかういふやうにシナ小説から來てゐるものと淨瑠璃歌舞伎から取られたものとの二分子が結合せられてゐるために、種々の矛盾した思想が雜然として混在するのであるが、このことは後にいはう。
 しかし馬琴の弓張月や八犬傳になると、唐山の演義かぶれがます/\甚しくなると共に、歌舞伎的淨瑠璃的分子は殆どその影を隱してしまつた。勿論、弓張月でも、源家の重寶兵學の秘書が道具に使はれ(殘篇五)、白縫の亡魂が王女の身にやどるやうな話もあり(績篇四)、國姓爺の花軍までも採つてあるし(前篇二)、朝雅を紙鳶にのせて足利に送る時、または阿公が鶴龜にうたれようとする時の形式的名義主義もまた近松式である(後篇二、殘篇三)。八犬傳でもお家の重寶嵐山の一節切(六の三、毛野の敵討があり(九の一)、惡漢と見せたものが實は身を犧牲にして人のために盡す忠良のものであつた、といふ淨瑠璃式構想も見え(四の三)、歌舞伎のだんまりをまねた場面(五の三)、脚本から學ばれたらしい地の文の無い會話(四の三等)、畫虎がぬけ出るといふ近松から借用した趣向さへもある(九の二八)。また美少年録にはお夏瀬(清)十郎の名を用ゐ、朝夷巡島記が源氏大草紙に本づいてゐるやうな例も無いではない。が、全體の結構も色彩もそれに盛られてゐる思想も、殆ど全くシナ式であり儒教式である。それと反對に、シナ小説式のつけやきばが剥げかけて來て淨瑠璃式の本領を露はし初めたのは、雙蝶記に見える京傳であるが、その傾(208)向の一歩を進めたものが種彦の作である。種彦はその初期の讀本に於いて、一方ではやはり綟手摺昔木偶の發端に月山山中の地仙を用ゐたり、所々にシナ的道徳思想を織りこんだりして、馬琴かぶれをした形跡がありながら、他方では題材を淨瑠璃から採つてゐるのみならず、その−つには綟手摺昔木偶といふやうな標題をつけ勢多橋龍女本地のやうな讀本淨瑠璃をも書いてゐるし、作中に俚謠などを多く用ゐ、或る程度まで花街の敢樂的情調をも寫し、同じ講釋や考證をするにしても、馬琴の如くシナの文獻や古い歴史を漁つて得た知識を並べるのではなくして、近世の風俗などを説いてゐる(逢州執着譚、綟字摺昔木偶)。これは玄同放言や兎園小説と用捨箱などとの對照によつても知られる二家の反對せる傾向を示すものである。要するに、後期の京傳や中期の馬琴によつて形をなした讀本に含まれてゐる二大要素が、種彦と後期の馬琴とによつておの/\一方に偏つて來たのである。だから、馬琴がます/\シナ式に固まつてゆくに反して、種彦は年と共に、いよ/\歌舞伎式淨瑠璃式傾向を強め、書物の形態も讀本から合卷に轉じ、正本製の銘をうつたものさへ作るやうになつた。かの田舍源氏もその結構と思想とは全く歌舞伎式淨瑠璃式である。彼自身もしば/\近松に私淑してゐることを公言してゐるので、それは馬琴の「唐山」を衒ふのと好對照をなすものであり、またそれよりも正直であることを示すものである。
 
 然らば讀本の性質は何であるか.その物語がシナ式勸懲主義によつて結構せられ、シナ式道徳觀念に於いての因果應報といふ法則の上に脚色せられてゐることと、人の意表に出ようとする趣向に重きをおくこととから、筋が大切になつてゐること、その筋が機械的な組みたてであること、神靈怪異が常に現はれ、人物の離合集散が奇蹟的に行はれ(209)て筋を都合よく運んでゆくこと、善人と惡人との間に截然たる區別を立ててそれを極度に誇張してゐること、從つて人物が概念の擬人に過ぎなくなつてゐること、などは周知の事實であるから改めていふにも及ぶまい。さて勸懲主義も因果應報觀も、淨瑠璃や歌舞伎に於いて、また八文字屋ものの浮世草子に於いて、既に存在してゐたものではあるが、そこではそれがたゞおほよその輪廓をなすに止つてゐて、興味の中心はそれよりもむしろ美しい、勇ましい、或は艶つぽい、物凄い、華やかな、一々の場面にあるのであつた。特に近松の淨瑠璃に於いては、義理と人情との衝突といふ一大主題があつて、それが強調せられてゐるため、聽衆や看客の注意は全くさういふ場面に集中せられた觀があつた。然るにこのころの物語に於いては、勒懲主義をどこまでも徹底させるため、細かい因果の網の目を全篇の物語に蔽ひかぶせて一々抽象的な道念でそれを結びつけてゆき、さうしてそれを破るほどの強い力がどこからも出て來ないため、それが一字一字讀者を束縛してゆくのである。
 人物についても、淨瑠璃歌舞使の敵役は私利を貪り權勢を張らうとするものであつて、弱者を苦しめ忠良を害する點に憎惡の感を起させるが、それでありながら滑稽にも見えるのに、讀本のは微塵も人間らしいところの無い惡魔として描かれてゐる。女にしても、勢利の爭ひとか繼子を惡むとかいふ、當時の社會組織と家族制度とに於いて動もすれば生じ易い事情から、或は他人に誘惑せられ或は自己みづから邪道に陷り、奸惡な行をする、といふやうなのが淨瑠璃などの通型であるのに、讀本では何等の理由も因縁も無い生れながらの毒婦、例へば八犬傳の船蟲のやうなもの、が現はれて來る。と共に、罪惡そのものを一つの大なる力として見、もしくは罪惡が人生に存在する一大事實であることを認めて、その由つて來るところを明かにし、それに陷つたものに同情しまたそれを救濟しようとするやうなこ(210)とは無く、單に憎むべく嫌惡すべきものとしてのみそれを取扱つてゐる。善人が生れながらの善人である如く、惡人も生れながらの惡人とせられ、而もその惡人は惡人たる責任の全部を負はなければならぬとせられてゐる。かういふことが人生の事實でないことはいふまでもないが、これは作者が徒らに書物の中から抽き出して來た文字上の知識に本づいて、概念的に善惡を對立させ、さうして直ぐにそれを擬人したからのことであつて、毫未も自己の心情行動を反省しないのみか、目に見耳に聞き得る實世間の状態をすら觀察しようとしなかつたためである。近松などの作とてもやはり事件の運び方は機械的であり、それに現はれてゐるところも抽象化せられた義理と人情とであるが、その義理も人情もすべて現實の生活に根據があるのに、このころの讀本の道徳観念はそれとは全く性質を異にしてゐる。讀本の作者の人生を觀る態度が輕浮であり、冷酷であり、不まじめであり、不親切であることは、これだけでも明かであらう。
 もつとも、淨瑠璃や歌舞伎から題材を採つてゐるものに於いては、その淨瑠璃などの着想を繼承したために、おのづから義理や人情やその間の種々な交渉やが説かれることになつてはゐる。京傳の忠臣水滸傳の、おかるの死(七)、義平が子を身代りにする話(一〇)などは、忠臣藏の翻案であるから別としても、稲妻表紙(三、四、五下)には、子が主君の身代りとなるために父を欺き、その母も子を殺すために夫に對して計略を用ゐる話、恩と仇との紛糾した關係、身を殺して兄と情人とに義理を立てる話、があり、その續篇たる本朝醉菩提(一、一六)には、父を救はんがために夫をすてて身を賣らうとする女の話、夫婦の情と親の讐との矛盾を寫した場面があり、雙蝶記(五)にも、貧に迫づて孫のために自殺しようとする祖母の情を寫してゐる。馬琴の頼豪阿闍梨恠鼠傳(一五)の、正忠が主君の身代(211)りとして子を殺す段、松染情史秋七草(九)の、久作久松父子が死を爭ふ話、墨田川梅柳新書(十二)の、光政が妻子を殺す條なども同樣であり、淨瑠璃とは關係のない弓張月(後篇六)にも、義理のために父子相逢うても名乘りをしないことや、子のために母の自殺することが、見えてゐる。
 しかし、かういふ場面をもし近松などが書いたならば、そこに義理と恩愛との衝突、妻に對し子に對し夫に對する切なる愛情をすてて義理の命令に從はねばならぬ心裡の苦惱と煩悶とを、力をこめて寫し出したであらうに、讀本の作者は時に多少の感傷的文字をつらねることはあつても、概ね平々淡々としてその敍述の筆をすゝめてゆくために、人を動かすところが無い。近松以後の作に於いても、義理の觀念そのものは近松よりも更に不自然の度を加へて來ながら、それに對する態度は同じであり、「侍の義理が敵じや」(妹脊山婦女庭訓)といひ、「前生にどんな罪をして侍の子には生れしぞ」(伊賀越道中双六)といひ、または「浮世の中に武士ほど義理の悲しきものは無し」(一谷兜軍記)といつて、最愛の子をさへ殺さねばならぬ浮世の義理を恨み、「子ゆゑに迷ふうき涙」をさめ/”\と濺がせてゐるが、讀本のはそれと雲泥の差があるのを見るがよい。これには淨瑠璃歌舞伎が、舞臺上の演奏とそれに伴ふ樂的效果とによって看客に強い刺戟を與へねばならず、從つて局部的の光景とそれに現はれる人の情動とを特に強調する必要があるのに、讀本はそれとは性質が違つてむしろ人の理智に訴へることが多く、また淨瑠璃が口語を用ゐるのに、讀本が漢語まじりの文語で一貫してゐるといふことにも、幾分の關係はあらうが、主なる理由は作者の態度にある。それにもまた、江戸の淨瑠璃や歌舞伎を考へた場合に述べたやうに、彼等が江戸人であるところから來てゐる點が無いではなからうが、それよりもむしろシナかぶれ書物かぶれをした作者の思想に主要なる由來があらう。讀本の作者は妻子(212)に對する情を私のものとし、戀を劣等なる肉慾とし、それを無造作に抑壓すべきもの、またいはゆる大人君子に於いては何の顧慮も無く抑壓し得られるものとしてゐたのであるが、それは全く儒者の口まねだからである(前篇第十六章參照)。
 このことをもう少し考へてみる。淨瑠璃は何處までも情の權威を樹立しようとし、戀についても力を極めてそのせつなさ、やるせなさ、を描寫してゐるのに(例へば蘆屋道滿の保名物狂ひなど)、讀本は甚しくそれを輕視してゐる。戀が政略とせられ(稻妻表紙、松染情史秋七草)、或は怪異怨靈のしわざとせられ(本朝醉菩提、綟手摺昔木偶)、またはふるく父祖の世などから絡まつてゐる因果であるとせられ(八丈綺談、松浦佐用媛石魂録〕、戀を戀として認めまいといふ傾向さへあるではないか。特に馬琴がその特色を發揮した時代の作に至つては、それに何等の價値をも力をも認めてゐない。兩性の愛情の幾分か是認せられるのは、許嫁の間または夫妻の間に限られてゐる。またその情を抑へるものも、淨瑠璃のやうな武士的の義理ではなくして、儒教式の紙上道徳である。「義理と惰と恩愛のしめ木にかゝる久松お染」が松染情史秋七草には現はれてゐないのを、見るがよい。さうしてそれは淨瑠璃や歌舞使とは全く違つた題材を取扱つてゐるものに於いて最も著しくなる。淨瑠璃では「景清ほどの勇士なれども實に色は思案の外」(兜軍記)とせられ、英雄義經も靜の別れに萬斛の涙を濺いでゐるのに(千本櫻)、馬琴の「大丈夫」は何時でも色に迷はぬことを誇りとし、弓張月の爲朝は白縫姫との別れに際して「男子一度び家を去りては妻子を忘るとぞいふなる」と呵々として大笑してゐるではないか。子に對する愛についても、朝夷巡島記がその粉本たる源氏大草紙の、子を取りかへて育て我が子を君の身代りにするといふ、話を取らなかつたところに、馬琴の主張があるかも知れぬ。子の愛を(213)いふのは、彼の思想に於いては卑しむべきことだからである。親の子に對する濃かな愛情を力を極めて寫すことは、古來の日本文學の一特色をなすものであるのに、馬琴に至つてそれを一轉し、シナ思想によつて子の親に仕へる話を多く作つたのを見るがよい。夫妻親子の愛についてではないが「公道人情兩つながら全うし難きものなるを、愛惜せんは惑なり、」と、何の未練氣も無く人情を突き放してゐる場合もある(美少年録二の五)。なほこの讀本の態度を佛教思想で着色せられた室町時代の小説に對照して見るに、昔のものでは、例へば戀を罪とは觀じても戀は戀としてその切なる情を美しく寫してゐ、子の愛に至つては力をこめてそれを讃嘆してゐるのに、馬琴輩に至つては全くそれを醜惡化してゐる。佛者の方がなほ人といふものを解してゐるといはねばならぬが、それは彼等が紙上の知識からのみ物語を作らなかつた故である(馬琴などの戀愛觀や道徳觀はなほ後章に述べよう)。
 讀本の作者の目的が人を描かうとするのでないことは勿論、淨瑠璃に見えるやうな人情を示すのでもないとすれば、それに廣い世間の上に行はれてゐるべきものとせられた因果應報の理が現はれ、多くの人物の離合集散の不可思議なる現象が描かれてゐるのは、自然である。本來淨瑠璃や歌舞伎は、全體として見る時は、或る特殊の葛藤を中心としてその經過と解決とを示すのであるが、讀本に於いてはその淨瑠璃などから題材をとつたものでも、廣い舞臺にのせられ大きい事件に絡ませてあるので、從つて物語が非常に複雜になり、敍事の筆も長い時間と廣い世界とに及ばねばならなくなつた。雙話を數多く重ねてゆくことは、出雲以後の淨瑠璃また多くの歌舞伎の常套手段であるが、讀本のは單にそれだけではない。淨瑠璃などに於いて一々の插話が殆ど獨立の物語として見なせるほどのものであるのとは違つて、これは全體にわたつて因果の絲が張りめぐらされ、而もその中心が何處にあるのか殆どわからなくなつてゐ(214)る。この差異を明かにするには、出雲半二などの手になつた世話ものの改作とそれを更に敷衍した讀本とを、對照して見るがよい。
 出雲半二などの改作に於いて、原作の主題がお家もの的脚色に吸ひこまれたためにその本來の價値を失つた、といふことは既に述べたが、それでもなほ新に作られた戯曲的葛藤が一曲の中心となつてゐた。然るに讀本のはそれとは違ふ。この變遷の徑路は、例へば壽門松と曲輪日記と京傳の雙蝶記とを、または夕霧阿波鳴渡と傾城阿波鳴門と種彦の阿波之鳴門とを、比較すれば明かに知られる。時代もの、お家もの、敵討などのものでも、ほゞ同じ傾向があるので、傾城反魂香と京傳の稻妻表紙とを、また中村七三郎の演じたといふ傾城淺間嶽と種彦の面影草紙及び執着譚とを、對照すればそれはわからう。雙蝶記は北條時行及びその家臣が南朝に身方をするといふ大きい輪廓の中に幾多の人物を點出して、めまぐろしく變化して行く筋で種々の物語を織り成してゐるが、その中心となつてゐる事件といふものは無く、吾妻餘五郎の話は固よりのこと、例の如き敵討も、主なる物語とはなつてゐず、さりとて時行も背後に隱れて殆ど讀者の注意をひかない。阿波之鳴門では、半二の作でなほ一插話をなしてゐた夕霧伊左衛門の話が影を隱してしまつたが、お鶴の敵討としては弓子を畠山の許嫁としたために生ずる種々の葛藤が餘りに複雜すぎおほげふすぎ、而もその畠山の話はたゞ時代を昔に置くだけの役にしかたつてゐない(この作は半二の作が反道徳的であるために改作したのだといふが、それは別問題である)。また稻妻表紙は傾城反魂香の如く狩野四郎二郎と遠山との關係を寫すところに重きをおいたのでもなく、土佐淨瑠璃の山三郎の如く葛城から生ずる不破名古屋の反目と敵討とを寫したものでもなく、さういふ中心の無い徒らに複雜なものであり、面影草紙及び執着譚も原作の淺間嶽の如く巴之丞を主人(215)公としたお家騷動ではなく、逢州や皐月の幼時の徑歴から一場の復讐譚を作り出してゐても、それを主としてゐるのでもない。敵討はめでたく行はれても巴之丞には關係の無いことであり、その妻も愛妾もまたなじみの逢州もみな殺され、情縁全く斷えて維ぐに由なくなつてゐる。馬琴の染松惰史秋七草がお染久松を強ひて南北朝抗爭の大舞臺に立たせたなども同樣で、結末になるとこの背景が殆ど消え失せてゐる。
 だから、かういふ物語の興味も作者のねらひどころも、淨瑠璃などとは全く趣きを異にしてゐるといはねばならぬ。馬琴のいはゆる演義小説、史外の史、に至つてはいふまでもない。從つて同じく勸懲主義を標榜し、惡は一旦勢を得ても終局の勝利は善にあるといふ筋を作るにしても、淨瑠璃などでは立役に對する敵役があつて、善惡の二つの力はこの人物の對立によつて示されてゐるのであるが、演義小説では主人公の存在は一貫してゐるけれども、反對の勢力は時々に變化してゆく。八犬傳の如き複雜な物語に於いては、里見と八犬士との關係が頗る紛糾してゐて、八犬士が里見の敵であり惡の力の象徴でもある玉梓の怨靈と離るべからざる關係があるため、いはゆる善人と惡人との對立すらも明白にはなつてゐない(但しこれには別の思想からの説明があるが)。劇と讀むべき物語とは同じでないから、この差異のあるのは怪しむに足らないともいへようが、讀本のこの性質が前に述べたやうな全體の着想と結合せられてゐるため、人の力はそれに現はれずして、たゞ普遍なる因果の理法もしくは人の與り得ざる偶然のみが、そこに無限の勢力を振ふやうになるのである。讀本が一面には因果關係を外部的に機械的に細かくつけてゆきながら、他面では奇蹟的の偶然によつて人物の離合集散が都合よく行はれ、密謀には立ち聞きするものがあり、危急には救ふものがあり、偶然相逢ふものがその實深い縁故のあるものであることになつてゐて、この二つの思想の關係は後にいふやうに(216)頗る曖昧であるが、何れの思想にしても人の力が重きをなさないことは同じである。
 勿論この二つは近松の時代ものに於いてもまた歌舞伎に於いても既に存在してゐるものであり、讀本の作者はそれを極度まで推し進めたに過ぎないとも見られるが、淨瑠璃などは或る葛藤を中心としてそれを解決してゆくのであるから、そこに人のはたらき、人の力、が主とならねばならず、またその興味の中心となつてゐる局部的場面には、いはゆる人情が極度に高調せられてゐる。ところが讀本にはそれが無くして讀者の興味は全體の筋とその變化してゆく過程とにある上に、舞臺が廣いだけ因果の關係がうるさくつきまとひ、偶然の機會が限りなく利用せられるので、人の情意が全く力の無いものになるのである。偶然の利用は實は作者の趣向のためであつて、常に目さきをかへ事件の波瀾を多くして讀者をして變化の奇に驚かしむる工夫をしながら、一貫した筋でそれをつないでゆく必要から來たことではあるが、それはおのづから彼のしば/\述べてゐる「料り難きは世の中になべて離合と集散となり」といふやうな思想に適合してゐる。さうして、かういふやうに人を抑壓するものが、元録文學に見える如き世間の義理ではなくして、因果應報といふ宇宙の理法であり、人にとつては偶然のできごとであるのを見れば、人の弱さが特に著しく目だつではないか。この意味に於いて、讀本は淨瑠璃よりも一層人を輕侮し冷酷にそれを取扱つてゐる、といはねばならぬ。世間の義理には涙があるが宇宙の理法はどこまでも峻嚴である。これは讀本作者の道徳観念が近松などよりも一層低かつたことを示すものであり、さうしてそれは彼等が文字の上から得たシナ思想に盲從したからである。ただ一つは太平が續いて安逸の氣が生じたのと、一つは社會的規制に慣れまたそれに順應することによつておのづから人の生活が營まれるのとのために、世間に對して自己を立てようとする意氣が現實の社會の一部には衰へて來てゐる(217)ので、それとこれとの間には一脈の通ずるものが無いではないかもしれぬ。浮世の義理に對する人情の反抗が力を極めて寫されてゐる元禄の文學と對照する時、かういふことが考へられもする。元禄文學は元禄の日本人の思想と心情との反映であつたと共に、その元禄人の一面には自己の力によつて自己を立てようとする意気があつた。
 讀本の道徳觀念が低いことは、勸懲主義そのものの意義からも、明かに知られる。勸懲がいはゆる因果應報、即ち事件の進行によつて生ずる事の成敗と人の禍福とによつて示され、それがまた富貴と貧賤とを標準として考へられる以上、その道徳は低級な功利主義の上に立つものであり、從つて利己主義、物質主筆成功者謳歌主義、に墮するものだからである(第十八章參照)。自己の信念と努力とによつて自己の道を開いてゆくことを考へないのが、讀本の道徳観なのである。だから讀本の勸懲主義に價値が無いといふことは、それが道徳的であるからといふよりも、その道徳觀念が極めて低級のものだからといふ方が適切であらう。或はむしろ非道徳的であるからといふ方が、一層適切であるかも知れぬ。
 讀本が好んで殘酷な行爲を寫すことも、また道念の低級な一證である。淨瑠璃でも歌舞伎でも血腥い殺伐な空氣で充たされてゐて、如何なる曲でも血を見ないものは無いが、讀本もそれと同樣であり、自殺にあらざれば殺人、流血は常に紙上に漂つてゐるので、櫻姫全傳の野分、逢州執着譚の皐月、などの如く、女にさへもむごたらしい殺人をさせてゐるのみならず、その殘酷さが淨瑠璃などよりも一層甚しい。さうして一面では思ひきつて兇惡な人物を作ると共に、いわゆる英雄節婦にも甚しく殘忍なことを何の思慮するところも無く行はせてゐる。藥用のために姙婦を殺して胎児を取らせるといふのは優曇華物語の山賊大蛇太郎ばかりでなく、雷豪阿闍梨恠鼠傳の仁人畠山重忠も七歳末滿(218)の童子の心臓の血をとらせてゐる。八犬傳(一の一)の朴平が、殺した敵の血をすゝつて咽を潤したといふのも、あまりな想像である。弓張月(五)の白縫姫は作者が婦人の典型としてゐるものであるが、その婦人がよし讐敵であるとはいへ武藤太を殺すに當り、侍女をして両手の指を一本一本に切り落させ、數十本の竹釘を四肢五體にうちこませ、また敵方の郎黨であるといふのみで怨も無きものの鼻をそぎ唇を割かせてゐる。英雄と稱し大丈夫と讃美してゐる八犬傳(八の八下及び九の四七〕の犬士が、牛の角で船蟲を突き殺させ、馭蘭二などの手足を斬り離し胸をさき腸をひき出させたなども、よしそれが毒婦や惡徒の刑罰であるにしても、あまりに殘忍な行爲ではないか。この惡徒の處刑に際して恨を抱いてゐる農民がその肉を食つたといふのは、同じ物語(九の四)に奸賊蟇田素藤が多くの胎児を調理して啖つたといふのと同樣、シナの書物から得た知識を適用したのであつて、忠臣水滸傳の肉包と似たものではあるが、日本人としては事實あるまじきかういふ話を作るのは、物ずきにしても程がある。或はシナの小説がシナの社會の反映であることを知らなかつたのであらうか。作者は惡人の惡行とその惡人の蒙る天罰の恐るべきこととを極度に誇張したといふのであらうが、敢てかゝる行爲を寫し得たところに道念の低さを示してゐる。
 本來武士には、戰國時代の遺習として、その一面に血を見ることを恐れない傾向があり、從つてその武士が中心となつてゐる世の中には、やはりその一面に殺伐な氣風のあることを免れない。太平が久しく續いたため漸次それが緩和せられ、敵討すら稀になつたとはいへ、血腥い騷ぎの武士によつて演ぜられることが事實上珍らしくはない。また博徒無頼漢浮浪人の間にもしば/\血の雨をふらすやうな慘劇が行はれてゐる。それのみならず甲子夜話の著者が、石川丈山が無禮者を斬り殺したといふ話を載せて、それを稱美してゐるのを見ると、隱逸の翁に對してもかゝること(219)を期待する武士氣質の當時の知識人にもあつたことが覗ひ知られる(續篇七〇)、さうしてそれが國民全體の風尚にも影響してゐる。淨瑠璃や歌舞伎で演ぜられる殺伐な光景は恰もよくそれに投合し、また斷えずそれを唆つたのであり、特に義理や情けの閑却せられてゐる讀本では、武士の武士らしいのはたゞこの點にのみあるやうに見えるほどである。幕末混亂の際にいはゆる志士の輩が恣に人を殺すを憚らなかつたやうに、世の動搖する場合にはそれが現實の行爲に現はれて來るのであるが、しかし馬琴の描いたやうなことをするものはさすがに無かつた。當時の讀者もこれには顰蹙したであらう。なほ櫻姫全傳に小萩の死屍の腐爛してゆく有樣が、寫實的ではないが、敍してあるやうに、醜穢なる光景を明らさまに書くことも、こゝに附記してよからう。これはシナ小説に淵源があることかどうか、著者はそれを知らぬが、筆者の心理は殘忍な殺戮を描くのと同一である。
 次には妖怪神異の物語の極めて多いことである。これもまた淨瑠璃や歌舞伎に用ゐられたものではあるが、讀本では世界が廣く筋が複雜になつてゐるだけに、話を運ぶためとしても一層多くそれが使はれ、一篇の物語にも幾囘かうるさくそれが反覆せられる。神の顯現、佛の化身、夢のつげ、亡魂、怨靈、天狗、變化のもの、動植物が靈異を示しまたは人に化けることなど、ありとあらゆる神怪が遺るところなく取入れられてゐる。その上に弓張月(續篇三)の朧雲の幻術、八犬傳(九の五)の妙椿の妖術など、シナ式のものさへ多く用ゐられてゐる。忠臣水滸傳の四十七星や八犬傳の八つの玉などの靈異はいふまでもない。弓張月(續篇一、殘篇一)や侠客傳(三の一)には神仙さへ現はれてゐるではないか。淨瑠璃などの妖怪譚は恐らくは低級な好奇心を滿足させるためのものであり、歌舞伎にしば/\現はれる亡魂や幽靈は、古くから一般に行はれてゐる迷信を利用して、看客の好奇心や恐怖の情を刺戟するためであ(220)つたらしく、時にはそれが筋の運びを便にする役にもたつたらうが、さして深い意味を有つてはゐなかつたやうである。初期の草双紙の化けものに至つてはむしろ滑稽の材料であつた。しかるに讀本では、それが物語の結構の上に極めて重要な地位を占めてゐるのみならず、思想としても一々に人の生活を動かすものとなつてゐる。特に馬琴に於いては、それが往々いはゆる勸懲の執行者として善人を助け惡人を罰するためにはたらいてゐ、もしくは人物の運命を豫告し前兆を示すものとなつてゐる。この後の方のには、弓張月の崇徳院の靈の如く、古い戰記ものの插話に本づいたものもあるが、もとよりそれには限らぬ。さうして全體からいふと、讀本のかゝる神異譚は宗教的信仰の現はれでもなく、またそれによつて何等神秘の消息がもらされてゐるのでもない。普通の知識を具へてゐるものが直ちに妄誕として斥け去るを得べき程度のものだからである。それにもかゝはらず物語の上では人生を左右するものとなつてゐるので、この點に於いても人の力と價値とは甚しく輕視せられ低下せられた觀がある。作者は殆ど人生を玩弄してゐるといつてもよい。そこにやはり不まじめな、人間自身を侮蔑してゐる、時代相の一面の反映があるのではなからうか。さうしてそれは一九の膝栗毛が世に流行したと同じ根柢から出てゐるといはねばならぬ。
 更に一篇の結構を見るに、罪なきものを恣に苦境に陷れ、可憐の児女をみだりに驅つて窮地に投じ、或は訴ふるに處なき寃苦をそれに負はせ、はてはその命を奪ひ身を失はせる、といふのが作者の常套手段であつて、お家騷動も敵討も、その脚色は概ねこゝから展開せられるのであるが、よし最後にいはゆる善の勝利があるにしても、そこに達する長い過程に於いて奸黠は更に邪惡を生み慘風は更に凄雨を齎し、幾多の老若男女をしてその犧牲となつて身を破り命を失ひ、幽愁暗恨、遣るにところなからしめる幾多の物語は、今人をして殆ど讀むに堪へざらしむるもののみであ(221)る。これらの物語を讀めば、天下は悉く奸佞邪惡の徒によつて占據せられ、さういふものが何時忽然として目前に現出しわれ/\を脅威するかも知れない、といふやうな感を懷かずにはゐられない。勿論、他の一面には思ひの外のいはゆる忠臣義士もあり、また昭々たる天の明鑒といふものもあつて、かゝる奸惡の輩のみが横行濶歩してゐるやうには描かれてゐないが、物語といふ物語の殆どすべてがかくの如き行爲によつて蔽はれてゐ、さうしてそれが已むを得ずして寫されたのではなくして、むしろ好んで書かれたらしい傾向があるとすれば、作者がそこに特殊の興味を有し、多數の讀者もまたそれを見るを喜んだのであらう。しかしそれはかういふことが當時の社會の實相であつたからであらうか。
 如何なる社會にも暗黒の一面が無いではなく、戰國の餘風の銷盡しきらぬところのある封建制度武士本位の世、特殊の家族制度が行はれ世襲的に階級が定まつてゐる状態の下に於いては、特にさうであつて、種々の陰謀や權力財産の爭やがその間に行はれ、幾多の罪惡もそこから生じ易いのでもあるから、かういふことの結構せられたのも、そこに一つの理由はあらう。けれどもまた、ともかくも太平が長く續いて多數人は概して靜穏な生活を樂しんでゐるのであるから、かういふことがよしあるにしても、それは廣い社會から見ればやはり僅少なる一部のできごととすべきものであらう。さすれば文學上のこの現象は、必しも現實の世相を描寫したためであるよりは、むしろ奇異を求めたために生じたものらしい。たゞ「氣象進須樂太平、近來稗史若何情、儻非讎敵模糊血、盡是紅愁緑慘聲、」(讀稗史有感蜀山)。奇異を強ひてかういふところに求めるのは、糢糊たる血痕を見るを厭はず紅愁緑慘の聲を聞くを嫌はない心もちが世間のどこかに微かながら潜んでゐるからではなからうか。北齋の插繪の人物の容貌などに醜陋奇僻の甚しき(222)ものがあるにかゝはらず、それが世に歡迎せられたことをも考へるがよい.さすればそこにやはりこのころの思想の或る一面が反映してゐないとは、いはれぬかも知れぬ。
 なほ歴史的に考へるならば、かういふことが過去の淨瑠璃及び歌舞伎に比して一層甚しいのは、一つは屋上更に屋を架してありふれた主題を積み重ねてゆくからでもあるが、一つは人心が萎靡して神經が麻痺し悲慘を悲慘と感じなくなつた故でもあらうか。いひかへると、そこに頽廢期の特徴が現はれてゐると見るのである。よしんば勸懲主義の標榜する一味の道徳的意義がそこにあるにせよ、勸懲には必しもかゝる題材と着想とを必要としないのであるから、少くとも好んでそれを採つた點に於いて、當時の思想が示されてゐるのである。さうして事實はそれによつて勸懲の效果が縛られるのではなく、却つて讀者をしてかゝる光景に慣れさせ、それに對する驚異の情を失はせるに過ぎないのであつて、小説はむしろ武士本位の社會に潜む道徳上の缺陷を一層強大にする結果を生まなかつたにも限るまい。人生に悲慘の專實は嚴存する。或は自然派のやうな態度でそれを描くのも、或は神秘的にそれを取扱ふのも、何れも詩人のしごとである。しかし讀本作者のはそれらとは全く意味が違ふ。なほ小説をしてこの方面に向はせた動機の一つに寛政の政治があつたとするならば、その政治の餘波が豫期せざる方向をとつて動いていつたことが、それによつて知られよう。
 全體にかういふ風であるから、讀本に美しい、晴やかな、樂しげな、或は平和な、物靜かな、悠揚たる、光景を寫すことが殆ど無いといつてよいのも、怪しむに足らぬ。いはゆる太平の氣象は全く讀本に現はれてゐない。小春日和の暖い花園に双つの蝶のもつれあつてゐる長閑な風光を敍しながら、突如として花下の猫兒にそれを喰ひ殺させた雙(223)蝶記(卷三)を見るがよい。これは勿論結構の上から來た作者の特殊な意圖が含まれてゐるものではあるが、それにしてもことがらの殘酷を蔽ふことはできぬ。逢州執着譚(卷五)の美しい夢にも慘らしい現實が潜んでゐるのみならず、それがすぐに理窟に墮ちて來る。或はまた美少年録(一の二)にお夏清十郎の艶つぽい道ゆきはあるが、いはゆる蕩子婬婦としてそれを下げすむ氣分が裏面にあるので、戀の款樂を敍したものとしては受取られない。山村水郭の風物にも田園の情趣にも、そのおちついた、ゆるやかな、一面が寫されてゐないことは、勿論である。淨瑠璃や歌舞伎に於いては殺伐な血腥い光景があつても、次いで現はれる美しい花やかな場面によつて、それが緩和せられもしくは打消される感があるが、讀本に於いてはそれが少いため、紅愁緑慘の聲が何時までも耳について離れないことをも考へねばならぬ。なほ讀本に滑稽の見えないことも、こゝに附記してよからう。馬琴は時々低級な而も場所がら不相應なだじやれをいつたり、極めて猥褻な文字(例へば八犬傳七の三、九の二七、朝夷巡島記三の二、など)を用ゐて俗衆の笑を求めたりすることはあつても、ユウモアに至つては藥にしたくも無い。あの輕妙な黄表紙を書いた京傳も讀本に於いては全くさういふ氣分を失つてゐる。強ひてむつかしい顔をしなければ讀本の作者らしくない、と思つてゐたのであらう。
 讀本に現はれてゐる人と世とはほゞ上記の如きものである。しかし讀本は何れもその時代を昔に置いてゐる。これは一つは讀本といふものの由來にもより、その題材をとつた淨瑠璃などの時代ものから繼承せられた因襲にもより、また一つは當時の事件を寫すを喜ばない官憲の態度からも來てゐるので、この最後の理由は歌舞伎は勿論、黄表紙時代の草双紙も洒落本も後の人情本さへも、江戸の名を避けてその土地を鎌倉としてゐるものがあるのと同じである。(224)たゞ馬琴の演義小説は主としてシナ文學の模倣であるが、お染久松や三勝半七のやうなものをさへ南北朝抗爭の世界ではたらかせてゐるのを見ると、そこに彼の衒學癖と高尚がらうとする態度との強くはたらいてゐることが認められ、さうしてその根柢には、古を尚んで今を卑しむ當時の知識社會一般の思想的傾向が存在する。彼が俗謠であるべきものを、甚だしきは乞食の歌をすらも、雅言めいたものに改作してゐ、作中の人物に萬葉の歌をさへ歌はせ、無用の漢文をかゝせてゐるのでも、それは明かである(八犬傳五の四、九の二、美少年録續一七、など)。京傳が稻妻表紙に催馬樂や新猿樂記の猿樂や平家琵琶などを用ゐ、種彦が面影草紙に古代の歌舞の名をとり阿波之鳴門で今樣を歌はせてゐるなどは、それほどな主張もない、むしろ一場の戯に過ぎなからうが、「江戸節もまだ/\低しと高くとまつて神樂催馬樂をうたふ」(楠無益委記)といふのが小説の上で實現せられたところに、尚古思想は現はれてゐる。さうして淨瑠璃の時代ものやそれを摸倣した浮世草子が、人物の名を古人としながら當時の世相を寫してゐるのとは反對に、江戸時代の生活から生れた物語をともかくも南北朝や室町時代のことらしくしようとした點に、現實を重んじた元禄のころの作者とそれを輕んじた化政時代のとの差異が見られる。同じくシナの裁判小説を翻案しても、西鶴の櫻陰此事がすべてを世話化し、彼の時代の風俗思想でそれを潤色したとは反對に、馬琴の青砥藤綱摸稜案は時代を鎌倉の昔に置き、物語をも成るべく古代めかさうとしてゐるではないか。かれに板倉をとりこれが青砥に擬しただけでも、その思想が推知せられる。その代り風俗などの上に幾分の考證が費されてはゐるので、淨瑠璃の時代ものの荒唐不經なのとは少しく趣きが違つてゐる。その考證は決して正確なものではなく、種彦などは時代錯誤の多いことを明かにことわつてゐるが(逢州執着譚卷尾)、それだけこの點に顧慮してはゐたので、そこに學問の餘澤があるのかも知れぬ。
(225) しかしそれらの考證はたゞ外面的の事實か目に見える風俗などかに過ぎないので、そこに現はれてゐる人物とその思想や氣分とはその時代のと全く關係が無い。京傳や種彦のは、淨瑠璃式の人物にシナ的道徳思想を結合したものに過ぎない馬琴が爲朝を寫してもそれは保元時代の爲朝ではなく、戰國時代を描いても戰國武士の氣風は全く現はれてゐないではないか。弓張月の爲朝はいはゆる仁人君子であつて、歴史的人物の如き亂暴ものではなく、筑紫落ちも信西の憎みを恐れての父の計らひである。のみならずその仁人君子は極めて意志の弱い、斷えず他人に動かされ、常に不思議な運命の絲に繰られてゐる懦弱漢、一々自己の行爲を辯解し、齷齪として規矩に外れざらんことに腐心する小人物であつて、大島では自殺しようとして果さず、家臣の諫により心ならずも舟にのせられ(後篇三)、白峯でもまた自殺しようとして果さず、崇徳院の怨靈の戒によつて心ならずも生きながらへ(後篇四)、色を好むのではないが世のため人のためを思ふからだと辯解しつつ、心ならずも女護島の長女を妾とし(後篇一)、後にはまた心ならずも琉球の王女を娶つた(拾遺三)。何時の世にこんな武士があつたと思はれよう。弓張月の爲朝が古武士らしいところは、ただ武藝に秀で戦闘に長じてゐる點ばかりである。朝夷巡島記の義秀が辭するによしなくして心ならずも友鶴を娶つたのも、爲朝と同じである(二の三)。八犬傳の戰爭はかならず仁義の戰であり(一の三、九の四九、など)、犬土の行動は一々儒教道徳の外面的規矩に從つてゐて、それは、戰國武士の旺盛なる事功欲、人を凌ぎ我を立てようとし、敵を作らず刀をぬかずにはゐられない昂奮した心もち、放縱な官能的歡樂の追求、それと共に生命をかけて君國のために努力する熱情、おちついた思慮、心からなる禮節、なさけあるふるまひ、それらのものの複合と反撥と摩擦とから醸し出されて全國に漲つてゐた戰國的精神とは、全く違つてゐることを考へるがよい。前篇に述べた如く近松の戰國(226)武士も戰國的氣風をもつてゐないが、それは元禄時代の義理に支配せられてゐた。馬琴のは儒教の紙上道徳に屈伏してゐるのである。仁人義士が小さくなつてゐるのみならず、惡人奸物も同樣で、朝夷巡島記の時政が甚しき小人物となつてゐるのは、その一例である。彼の考證が小さい事實や風俗などの末節に止まつて、時代の精神には少しも觸れなかつたことは、これでも明かである。さすれば彼が演義小説を書いた動機が、前に述べた如き高尚がりに過ぎなかつたとしても、無理はあるまい。だからまた彼の尚古主義が、當時の生活に何等かの缺陷を感じ、それを補ふべき精神を古代に認め得てそれを尚慕した、といふやうなものでないことも、これによつて知られる。それはたゞ淺薄なる知識上の要求に應じたものに過ぎないのである。
 勿論、馬琴の讀本の人物は初めから人を寫さうとして作られたのでなく、抽象的なシナ的道念の擬人せられたものに過ぎないから、かゝる批評は見當違ひでもあらうが、しかし彼とても、古式士を寫さうとする意圖が全く無かつたのではない。犬夷評判記に於ける三枝園の評に對して「戰國の人氣」を説いてゐるのは、一つは辭柄に過ぎないでもあらうが、それにしてもそのことが考慮の中に加へてはあつたらう。八犬傳(九の三三簡端附録)に於いて小説は架空譚で正史ではないといつてゐるが、それは表面に現はれた事件についてのことである。演義小説、史外の史、と稱してゐることからも、八犬傳の著作に戰國武士の生活を書くのだといふ考が漠然ながら存在してゐた、と見るのは誤ではあるまい。だから彼の作中の人物がこんな風になつてゐるのは、それが書けなかつたからでもある。さうしてそれが書けなかつたのは、一つは書物の中から得たシナ思想に誤られたのでもあるが、一つは現實の人といふものを觀察し得なかつたからでもある。現在生きてゐる人を知らずして、どうして死んだ古人を生かし得よう。勸懲主義を託(227)するにしても當時の社會相を寫すことができないはずが無いのに、讀本の作者はそれを取らなかつた。また日常の生活、目前の事實、或は市井の瑣事にも、重大なる道徳的意味の無いものはないのに、彼等はそれを悟らず、何時でも奇異幻怪な、驚心駭魄的な、業々しい事件を構造して、それを大きい舞臺に上せるのである。洒落本などを書いた京傳などには、もつと寫實的なものが作られさうなものであつたのに、それが無いのは、單に官憲の壓迫や時の流行のためばかりではなく、遊里などの外には市民の實生活が彼の眼に映じなかつたからではあるまいか。彼には到底西鶴などの如く各方面に渉つて時世粧を寫す力が無かつたらしく、それは次にいふやうな彼の文章からも知られる。馬琴に至つては特にさうであつて、何ごとを敍しても寫實的なところが見えない。彼が現實の武士を描く能はず武士の氣象を寫すことのできなかつたのは、當然である。
 もつとも馬琴の作にも武士が全く現はれてゐないではなく、弓張月の紀平治は固よりのこと、琉球人でも日本の武士らしくなつてゐるものがあるし、八犬傳などにも時々武士といふ語を使つてはゐる。たゞそれは主人のために身を殺すとか死を厭はぬとかいふ點に於いてのことであり、かの爲朝にしば/\自殺させようとしたのもその一例であるが、ともかくも因襲的な武士の思想の或る一面がそこに示されてはゐる。戀を政略とし、曾我十郎が虎を愛したのは敵に油斷させるための謀計であるなどと論じたのも(夢想兵衛)、やはり權謀術數を弄することの少なくない武士氣質に由來するものである。けれども白峯で爲朝の自殺をよそながら止めた怨靈が「事に迫りて死を輕んずるは日本魂なれど、多くは慮の淺きに似て學ばざるの誤なり、」といつてゐるのは、馬琴がさういふ武士氣質を好まなくなつた傾向を示すものであつて、八犬傳などになると殆ど全くそれから離れてゐる。さうして武士といふ語の代りに英雄とか大(228)丈夫とかいふ稱呼が盛に用ゐられる。かういふ變化の起つたのは、かの武士氣質の敍述が實社舍に對する親切なる觀察に本づいた確かな知識から來たものでなくして、淨瑠璃などの受賣りと摸倣とに過ぎず、畢竟文字上の空疎な知識を適用したまでのことだからである。彼の作に武士道が寫されてゐる、などといふ批評の誤つてゐることはいふまでもない。
 もつとも淨瑠璃などに見える武士氣質は、かの殺伐の氣風が緩和せられて來たのと同じく、思想としても漸次薄れては來てゐるが、しかし當時の武士の脈管の中にはなほ戰國武士の血が流れてゐると同樣、全く無くなつてしまつたのではない。だから馬琴がその點に於て淨瑠璃を摸倣したのは、結果から見れば、必しも現在の武士の思想と全く背反するものではないが、作者が意識して現實の武士思想を寫さうとしたものでないことは、それとは反對なシナ風の「英雄」を描くやうにたつたのでも明かである。かういふ作が比較的知識あるものに喜ばれたのは、彼の文字に眩惑せられたに過ぎないので、如何なる思想がそれに現はれてゐるかを問ふ遑がなかつたからであらう。といふよりもむしろ、彼等の知識そのものが實生活とは交渉の少い書物の上のものであつて、馬琴の作が恰もさういふ知識に投合したのだ、と見るべきであらう。事實、儒教思想を書物によつて注入せられた知識人の知識としては、武士に期待するところが元禄の昔とは變つて來てゐた、といふことをそれによつて認めてもよいのである。儒者の武士觀は即ち馬琴の武士觀であつて、平和が續いて武士としての現實の活動が見られなくなると共に、かういふ考が漸次知識人の間に擴がつて來た、と考へられるからである(前篇第十四章參照)。一々紙上道徳の教條に依頼しようといふ、コセ/\した、氣魄の無い、局量の小さい、馬琴のいはゆる英雄は、文字のみを弄んでゐる儒者などの好みさうな人物である。(229)けれどもまた一方からいふと、作者自身はよし意識しないにしても、おのづからそこに時代の面影の覗はれる點がある。齷齪として道徳的教條の末節を窮屈にあてはめようとし、人を機械の如く取扱つて人生そのものを忘却するのは、氣力の萎靡した世の中に有りがちのことであり、小人の常とするところであるのを思ふと、昂然として自己を立てることを知らない一種の懦弱漢、弓張月の爲朝の如きも、全く當時に縁が無くはないのである。當時の一部の武士には、事實、かういふ一面と無意味に刀を弄するを好む他の一面とがあつたので、何れに於いても頽廢期の特質を具へてゐる。馬琴が一方ではかゝる人物を作りながら、他方では儒者に排斥せられねばならぬやうな殺伐な行爲を書きつらねてゐるのも、彼が全く時代の空氣から離れてゐない限り、怪しむべきではなからう。しかし一般の讀者はかういふことには無關心に、たゞそれからそれへと目さきの變つてゆく物語の面白さに興じたのみのことである。自己の生活にも當時の世の中にもかゝはりの無い話として、それを讀んだのである。知識社會のものとても馬琴の作を喜ぶ主要な理由がやはりそこにあつたことは、犬夷評判記などを見ても知られる。
 讀本の作者とてもその局部的材料を當時の實世間から採つてはゐる。優曇華物語(五下)にある金鈴道人の入定説は兎園小説に見えてゐる信州の風聞がもとになつてゐるらしく、朝夷巡島記(初の四)の榎の虚の崑崙佛は蜀山の半日閑話にも出てゐる江戸の話から來てゐよう。同じく優曇華物語(四下)にも忠臣水滸傳(四)にも採られてゐる佛法僧鳥の話については、傳奇作書にその説が擧げてある。稻妻表紙(二)のさゝら三八や弓張月(後篇二)の痘鬼も、民間の風習ャ俗説から取つたものであることは、いふまでもなからう。仔細に詮索したならばこの類のことは他にもあらうが、それは古人の逸事、古書に見える説話、またはシナ小説の或る一節などを斷片的に取り入れて、附會結合(230)するのと同樣であり、歌舞伎などでも常に行はれてゐることであつて、畢竟かの趣向のために外ならぬ。それによつて當時の社會相がうつし出されてゐるのではない。作者がみた江戸人でありながら、江戸人の氣質すらも全く現はれてゐないのを見るがよい。源氏大草紙の朝比奈三郎が江戸つ兒肌の若者であるのに、それから脱化した朝夷巡島記の義秀は、全く儒教的君子人となつてゐるではないか。國民中の最大部分を占めてゐる農民とその生活とが、殆ど讀本に現はれてゐないことは明かな事實である。近松及びその繼承者は、例へば菅原傳授手習鑑の白太夫の家の場の如き插話に於いて、田舍人の生活の片鱗を示してゐるが、讀本にはさういふものが見あたらぬ。馬琴などはしば/\「荘客」を點出してゐるが、かういふ文字を用ゐてゐることによつても知られるが如く、その記述は空しき文字の行列に過ぎないので、田舍の地方色は固よりのこと、一般的な農民生活すらも寫されてはゐない。農民の年中行事や民間説話の如きもまた採られてゐない。
 讀本が非寫實的であることは、その人物の容貌動作や風景などの措寫からも知られる。英雄は重瞳で異相があり、惡人は「奸佞の面野狐の如く、貪欲の眠皀雕に類し」てゐるし(弓張月、稻妻表紙)、女は「巫女廟の花の夢裏に殘れるが如く、昭君村の柳の雨外に疎なるに似た」のでなければ、「月の眉の艶なる柳の腰のなよやかなる、譬へば櫻の枝に海棠をさかせて芙蓉の色香をこめたるに異なら」ざるものである(優曇華物語、弓張月)。沈魚落雁閉花羞月といふやうな文字が用ゐられてゐることは、いふまでもない。人物は何れも、勇士、惡漢、美人、醜婦、などについての概念が、古い戰記ものやシナ小説から借りて來た常套の語で表現せられてゐるに過ぎない。從つてその行動が現實にはあるまじきことの多いのも怪しむに足らず、危急の場合に長々しい故事の講釋をするやうなところも少なくなく、場(231)所がら不似合いの閑文字を連ねるのも常のことである(例へば八犬傳六の一の五一囘の結末の類)。また子どもは何時でも立派な大人であつて(例へば弓張月後篇三の爲頼)、これには作者の倫理觀から來てゐるところもあるが、事實を無硯してゐることは同じである.侠客傳の姑麻姫の如き極端の例さへある。實はかういふやうな一々の場合を數へ擧げるまでもなく、物語の全部がすべて現實の状態に背反してゐることのみで成りたつてゐるといつてもよい。架空的形容としては「いとゞ玉なす血の涙、巖に落ちては正に是れ、かの東海にありといふ、珊瑚の枝に異ならず、」(弓張月續篇一)などといふやうた文字さへもあるではないか。
 自然界とても同樣で、四季をり/\の風物に關するありふれた形容語を機城的に並べるだけであつて、或る時或る場所に於いて或る人の眼に映じ心に感じた光景なり情趣なりを具體的に敍することは、せられてゐない。例へば八犬傳六の一の江戸の風光を描いた一節を見るがよい。これには強ひてシナ風の對※[藕の草がんむりなし]の句を用ゐようとしたところから來た點もあるので、かういふ修辭法は敍述の具象化を妨げるのが常である。馬琴は好んで名山大川を口にするが、それがみなこの類のものである。また戰記ものを摸倣した七五調の道ゆきなどもしば/\作られてゐるが、多くは人物の境遇にも情懷にも關係の無い文字を恣に弄んでゐるのである。七五調ではないが、身を置くに處なく旅路にさすらひ出て、山路の冬に歩む力もなくなつた年若き女と死に瀕せんとするその從者とが雪に逢つた光景を「紛々揚々として柳絮を飛ばすが如く鵞毛の舞ふに似たり、見る/\高く積もりて滿地玉をしけるかと疑はる、」(優曇華物語三)といふに至つては、そののん氣さに驚かぬものはあるまい。
 概念的の描寫も類型的の形容も必しも尤めるには當らず、誇張にも虚構にも興味が無いではない。たゞそれが作者(232)獨創の文字たることを要する。さうして獨創の文字は作者自身の觀察から生れて來る。然るに讀本には全くそれが無く、すべてが摸倣である。すべてが書物の中から出て來てゐる。だからかういふ印象の不明な、場合不相應の、文字が多いのである。平安朝の立派な寫實丈學が存在するのに、鎌倉以後の戰記文學に至つて類型的な描寫が行はれたのも、既に一つの退歩であるが、それにはなほ獨創の分子があつた。浮世草子や蕉風の俳諧によつて人事界にも自然界にも精細な寫實の道が開かれてゐるのに、その後になつて再びかういふ文字が現はれたのは、その戰記ものを摸倣した點に於いて一層甚しい墮落であつて、事實を見ようとせずして文字を學ぶことをつとめ、自己を忘れて他に追從することをつとめた當時の文學の弱點を、最もよく示してゐる。化政度の文學の頽廢的性質はこれだけでも明かに知られよう。
 なほこゝに附言すべきは、讀本の會話が全く口語を用ゐてゐないことである。それは一つは秋成や綾足以來の歴史的因襲でもあり、一つは物語の時代を戰國以前の昔に置いてゐるためでもあらうが、馬琴に於いては彼の高雅癖もそれを助けてゐるので、人情を寫すには俗語が適するといひながら、今の俚言はそのまゝ文とすべからずといつてゐるのでも、それが推せられる(八犬傳九の一九はし書)。もしまた淨瑠璃の時代ものの如く昔の人物に江戸時代の口語を使はせないのが、作者の學問癖の現はれたものだとすれば、それは彼等が當時の世相を寫さうとしなかつたところに由來があるので、何れにしても今を卑み古を尚ぶ思想の表示である。戀愛を卑しとする馬琴が、往々シナ小説から借りて來た春畫の如き文字を弄んでゐるのも(例へば八犬傳七の三、九の二七)、文字だにシナ風にすればそれで高雅を裝ふことができる、と思つてゐたのであらうか。なほ滑稽なるべき光景が滑稽の感をひかないのも、一つは口語をす(233)てて文章を古雅めかさうとしたために、すべてに生氣が失はれたところから來てゐる場合もあるらしい(逢州執着譚三の六に見える太九六素兵五、綟手摺昔木偶四の八の田子松など)。
 讀本は現實を無視し人の生活を無視した架空の小説である。しかしそれは現實に滿足せざる自己の内心の要求から何等かの空想世界を創造したものでもなく、さういふ世界に對する止み難きあこがれから生れたものでもない。これまで述べて來たやうな作者の態度と作品の性質とは、明かにそれを證する。何よりも根本に於いて人の情意の權威と力とを認めないものに、さういふ精神のありやうが無いのである。彼等の勸懲主義の基礎をなしてゐる道徳思想の低級であることは既に述べたが、その道徳思想はたゞ文字上の知識として與へられたものに過ぎない。西鶴のやうに自己の觀察から生れた處世法を説いたり、近松のやうに當時の武士氣質を寫さうとしたりしたほどにも、現實の人生との交渉が無いものである。だからその道徳は人の生活を高めてゆかうとする眞摯なる内的要求、活き/\とした人間的精神から出たものではない。彼等の道念の低級なのはこゝに由來する。馬琴が兩性の關係を單なる性欲の發現としてそれを卑しむ結果、いはゆる大丈夫をして女に心を動かさぬものたらしむると共に、君子人だといふ金碗孝吉をして過つて通つた女の懷姙したのに對して墮胎を勸めさせ(八犬傳一の四)、或は大丈夫※[草がんむりを重ねたようなもの]平をして且見姫の戀を却けるに當つて「仇なる戀に連係せられて縛頸刎ねられんは亡き後までも怨みなるべし」といふ利己主義を以てし、自己の潔白を證せんがためには姫を道義上の罪人とするをも顧みざらしめ(朝夷巡島記三の一)、或はまた前に述べた如く、英雄を道徳的に完全ならしめようとして、却つてそれを意志の弱い小人物とし、また或は天罰の執行をして殘忍酷薄なる形をとらしめるなど、事實に於いて道徳生活を低下せしめてゐるのは、當然である。馬琴は理想的人物を描かう(234)としたのであらうが、その理想が現實の人生、自己の内的要求、から出たものでなくして、外から與へられた空虚なる儒教的概念であるがため、かういふことになつたのである。さうしてそこに馬琴の詩人たる資質を有たないことが明示せられてゐる。これは恰も、得意げにシナ畫を摸作してゐた畫家に藝術家としての資格が無いのと、同樣である。だから馬琴などの讀本は、道徳的意味が濃厚であるといふよりも寧ろそれが極めて稀薄であるといふ方が適切である。道徳が藝術を壓迫してゐるのではなくして藝術の内容をなすに足る道徳味が無いのである。彼等の作品を支配してゐるものは、道徳ではなくして文字上の空疎な知識である。
 讀本の作者はまた、當時の政治もしくは社會に對する何等かの感懷を、それに仮託しようとしたのでもない。讀本は治者と知識人との目からすべてを見てゐて、民衆の目から見てはゐず、民衆の思想はどこにも現はれてゐない。從つて近松などに見える如き權力者に對する批評の言などは少しも存在しない。好んで水滸傳を口にした馬琴は、水滸傳にシナの政治に對する批判的精神の含まれてゐることを全く解し得なかつたのではないが(犬夷評判記)、それには重きをおかず、さうして徒らに勸懲をそれに求めようとした。彼の作者としての態度もそれによつて知られる。朝夷巡島記や侠客傳の序文で、英雄の後なきものに同情するといふやうなこともいつてゐるが、それがよしこれらの物語の書かれた動機を語つたものであるとするにしても、それはたゞ後なきものを道徳的に非難するシナ思想からの考であつて、現實の生活とは何の交渉も無いものである。また侠客傳が南朝諸將のことを題材としたのは、尊王思想の發現だといふこともいはれてゐるが、蒲生君平などと交つてゐた彼の思想の一隅に太平記的勤王論に刺戟せられたところのあつでたことは、或は事實であらうから、かういふ着想もそれと幾らかの關係があるかも知れぬ。現に彼はこの作(235)の所々に勤王家めいた口吻で南朝を讃美し、美少年録(三の四)に於いても南朝の人々は何れも忠臣ならぬものは無しといふやうなことをいつてゐる。しかしそれによつて彼が幕府の滅亡を豫想しもしくはそれを希望または期待してゐた如く考へるならば、それは大なる誤であらう。官憲に疾視せられなかつたといふ點に於いて時の權力家と調子の沓合てゐることを誇つてゐるほどの彼は、決してさういふ政治思想を抱いてゐたものではない。彼がよし勤王ともいふべき思想を筆にしたことがあるとするにしても、それは當時の知識社會の一隅に現はれた言議に文字の上で追從したのみであつて、彼自身が詩人的敏感を以て表面に現はれない時勢の趨向を觸知した、といふやうなものではない。明治時代の學者や批評家には、古人を讃美するに倒幕的勤王家であつたといふことを理由とする癖があつたが、これは明治時代の人の思想であつて江戸時代のものの考ではない、といふことを注意しなければならぬ。(墨田川梅柳新書に後鳥羽院を暗に玄宗に比し、楊貴妃に擬した龜鞠の問題を承久擧兵の唯一の動機としてゐるのが、南朝尊崇の思想と背反してゐることなどは、作の時期などから考へて且らく論外としておかう)。弓張月を論じて琉球の日本に統一せらるべき理由がそこに示されてゐるとする類の批評もまた謬妄であつて、よしそこにかゝる思想があるとするにしても、それはたゞ琉球が當時薩摩領であつた事情を肯定するだけのことであつたらう。京傳や種彦の作に至つては、政治に關して何等の寓意をも認めることができない。
 最後に結構のことを一言しよう。讀本に幾多の物語を因果の絲でつないでゆく大體の筋はあり、讀者も知識の上でそれを辿つてゆくことはできるけれども、さて讀み了つたところで、全體としてまとまつた強い感じは得られない。それには種々の理由があるが、結構に中心點が無く、筆致の上に全篇をひきしめる一つの調子が無く、從つて敍述の(236)間に強弱濃淡詳略の變化の無いことが一大原因であらう。如何なる插話も同じ態度同じ強さで書かれてゐて、而も趣向に限りがあるため、おのづから似よつた場面を反覆することになるからである。馬琴が立ち消える人物の無いのを誇るのも、やはり同じところから來てゐる。文章の平板であり筆法が單調であるのも、またそれに應ずるものであつて、特に馬琴は如何なる場合にも煩冗なほどに人物の言動と思慮とを敍し、いはゆる大丈夫、いはゆる英雄、については、どこまでも禮義あり智謀あり深慮ある仁人君子であることを、一々根氣よく説明しようとするため、讀者はその煩に堪へなくなる。同じ七五調でも、近松は一種の抒情味を託する特殊の場面にそれを用ゐたから、そこに高調せられた或る氣分が現はれ、聽くものに強い印象を與へるが、馬琴には、その場合の光景や情趣とは關係が無く、たゞそれを用ゐんがために用ゐたといふ傾向があり、ところ嫌はずそれが出て來るので、徒らに煩冗の感を與へるのみである。
 しかし長年月にわたつて少しづゝ公にせられた當時の讀者は、恰も今日の新聞小説に對する如く、次はどうなるかの好奇心につられて局部々々を見てゆくのであるから、全體を一つの作品として見るわれ/\とは感じかたが違つてゐたであらう。作者も年々にその先き/\とつぎ足してゆくのであつた。筋の重んぜられるのも一つはこの故であつて、未完の作品を他人が書きつぎ得るのもそのためである。さすれば弓張月や八犬傳の如きものは、本來一つの藝術品として一氣に讀了すべき性質のものではないといはねばならぬ。弓張月などは比較的まとまつてゐるとはいふものの、爲朝外傳としては無用の插話が甚だ多い。京傳や種彦のはそれほどの長篇は無いが、短ければ短いながらにむだが多い。さうして何の作品もほゞ同じやうなものである。かゝるものを喜んだ當時の國民の心生活の調子の低さと單(237)調さとは、今日から殆ど想像の外であるが、そこに窮屈な社會組織にはめこまれ停滯せる文化の裡に生活して、それに慣れそれに滿足してゐる時代の面影が、現はれてゐるのであらう。或はそこに太平の象があるともいはれようか。但し全體から見ると、讀本の發現が戯作界の新奇な現象であり、特に馬琴のは當時の知識社會を喜ばせ、一般にもその異國的な學者ぶつた點が人の好奇心をひいたところに、變化を喜ぶ人心が認められないではないかも知れぬ。
 
 以上は讀本と稱せられる物語の概觀であるが、作者の個人的特色については多くいふ必要が無からう。その中心人物であり代表者であるものは勿論馬琴であつて、京傳の如きは實はこの方面に手を出すべき人物でなかつたのである。從つて京傳の作にさしたる大作も無いが、たゞ稻妻表紙及び本朝醉菩提に於いて、歴史上もしくは傳説上の江戸時代初期の民間藝術とその藝術家とを多く羅致してゐるのは、骨董集や近世奇跡考の著者の作として興味がある。藝術家としては六字南無右衛門、文彌、お國の代理としての八重垣、佐渡島坊、露の五郎兵衛、大津繪の又平、木枯竹齋、白炭の忠知、から江戸の畫家のお龍をまでも捕へて來、藝術としては催馬樂、古い猿樂、今樣、平家、曲舞、謠曲、倶舍論舞として傳へられてゐるもの、または小唄や歌比丘尼をも取り、歌舞伎では「暫」も草履うち及び鞘當をも利用してゐる。稻妻が歌舞伎から來てゐることはいふまでもあるまい。これは優曇華物語に俗謠を採り、雙蝶記の標題に俳句を用ゐたことと共に、彼の馬琴と異なるところを示すものである。種彦は主として京傳のこの一面を繼承したものといつてよからう。それに對する馬琴のシナ癖、道學癖、衒學癖、については一々いふに及ばぬ。
 こゝに附記すべきことは、馬琴がその衒學のために事實らしくない場面を作つたことにつき、理外の遊戯を以てみ(238)づから辯護してゐるのが滑稽だ、といふことである(犬夷評判記)。彼の理窟癖は弓張月に於いて、古人が空想の上に作り出しもしくは空想化した女護の島や鬼界が島を實世界の存在として、合理的解釋をそれに與へようとしてゐるのでも明かであり、自由に想像の翼をひろげ得べき夢想兵衛蝴蝶譚や昔話質屋庫が、道學先生式の説法と俗説辨めいた考證とに終つてゐることによつても、知られる。驚くべき勉勵と衰へざる精力とを以て書きに書き綴りに綴つたその業績の多いことは、實に嘆稱に餘りあるのであるが、その書きかたは如何にも事務的であり、その結構はどこまでも理智的である。依田學海が八犬傳の批評に述べてゐるやうな鍼線の密なること、著者自身が講説してゐるやうな稗史の法則(八犬傳九輯中帙附言)も、人の内生活には交渉の無い外部的のことではないか。眞の「理外の幻境」は到底彼の窺ふ能はざるところであつた。しかし著者はこの點に於いて馬琴を非難しようとはしない。それは彼の時代の故だからである。さうしてさういふ時代を代表した點に於いて、馬琴は一大文豪であつたには違ひない。たゞ近松が元禄時代を代表するのは、主として彼が元禄人とその特殊の思想と氣分とを寫し出してゐる點に於いてであるが、馬琴にあつてはその作品の性質に化政度の思想の一面が示されてゐるのであつて、作中に描かれてゐる人物は當時に(もまた何れの世にも)決して存在し得ないものである。著者は曾て近松の作に普遍的の價値が少いといつたが、馬琴のは、それとは別の意味に於いて、またそれよりも一層普遍的價値を有つてゐない。近松によつて生きた元禄人を見ることができるが、馬琴によつては全く人に接觸することができない。だから我々が馬琴を讀み得るのは、たゞかくの如き作品を産み出しまたそれを歡迎した化政度の國民の思想の一面をそれにょつて覗ひ知ることができる、といふ知識的興味があるためである。文學史乃至思想史の材料としてのみの價値がそこに認められるに過ぎないのである。
(239) さて、讀本の作者が上記の三家に限られないことは勿論であるが、讀本といふものの性質はこれらの三家の作品によつて知られるから、その他には言及しないことにする。たゞ和學者もしくはそれに縁りのあるものの作は、作者に特殊の文學上の地位があるため、一應それを考へておかねばならぬ。その中で純粹の和學者の作といふべきは高田與清によつて公にせられた村田春海の竺志船物語(或は大井の三位の物語)であるが、これは文章の擬古文たる點に於いて、平安朝の古物語の摸倣とも見られる。しかし、その内容は、馬琴がいつてゐる如く(八犬傳九の一九簡端贅言)、今古奇觀の蔡小姐忍辱報仇の翻案であるから、宣長の手まくらの類と同一視することはできぬ。書かれたのはその發瑞だけであるが、眞淵門下の和學者がシナ小説を翻案したこと、賊のために父は殺され女は姦せられるといふ慘禍、その女が復讐のために忍んで賊の言を聽くといふ一種の道徳思想が、古物語の氣分には相應しないものであることは、その作がよしはかなき一時のすさびであつたとはいへ、注意に値する。
 近江縣物語及び飛騨匠物語を書いた石川雅望は、狂歌師としても聞え草双紙も書いたほどであつて、和學者といふには躊躇せられるが、その文章が當時の通用語や漢語を多く交へてはゐるものの、なほ擬古文脈を保持してゐるのと、題材を平安朝に取り時代をもそのころに置いてゐるのとの二點から、やはり春海の作と同樣に取扱ふべきものであらう。しかし近江縣物語の、盗賊が婦女を奪つて償を取りまたは袋に入れてそれを賣るといふこと、母子相知らずして母子の契を結ぶといふことなどは、シナ小説と淨瑠璃式の常套的脚色とから來てゐるし、梅丸の薗を購ふのが色情の故ではなくして報恩のためであるといふのは、馬琴式の道徳思想である。また梅丸を初瀬の觀音の申し子とし觀音の利生を説くところは、室町時代の小説をまねたのであらう。飛騨匠物語の仙界は古物語や古歌に見える神仙思想から(240)系統をひいてゐるのではあらうが、昔は一種の温柔郷として考へられたこの超人間世界に「不義は仙界の御法度」があるとしたのは、どうしても江戸時代の思想であり、また淨瑠璃式の插話が所々に見えてゐて、勅使の沙汰もその一である。たゞ近江縣物語にウニコオルを持ち出したのは、馬琴が道士から傳へた仙藥などを用ゐたのと對照して、和學者の一面を見るに足り、飛騨匠物語の自動船、自動馬、自動飛行機、の考案も、今昔物語から思ひついたらしいところに興味がある。次に月宵鄙物語の作者四方歌垣は和學者との距離が一層遠く、文體も擬古文とはかなり縁が薄いが、それでも歌を多く用ゐ、薗原のはゝき木、松山かゞみ、姥捨山、の話などを結びつけ、また木だまが人に禍したり、亡靈が月宮殿へいつたり、不老不死にあこがれたり、するのは平安朝式であり、因果應報の觀念が儒教的といふよりはむしろ佛教的であるのも、江戸時代の知識人の思想とは違ふ。しかし貪慾の老婆、孝子、惡漢、婬婦、などとその間に起る種々の葛藤と殘忍なる行動とを寫した點は、全く一般の讀本を學んでゐる。
 要するに幾らか新機軸を出さうといふ考がありながら、やはり時の流行に從はねばならなかつた、といふのがこれらの物語に共通な性質であつて、そこにやはり時代の思想の一面が反映してゐる。さうして純粹の擬古文が到底當時の思想と心情とを寫す用にたゝなかつたことは、雅望などがかゝる鵺の如き文を作つたのでも知られる。飛騨匠物語(卷三いしはま)にある淨瑠璃式の滑稽な一場が少しも滑稽らしく見えないのも、主として文章のためであるらしい。
 
(241)     第八章 文學の概觀 五
       江戸の小説 下 草双紙及び人情本
 
 讀本の傍に廣く行はれてゐたいはゆる合卷ものの草双紙についても、一言しなくてはなるまい。これには敵討の物語に怪談を絡ませたものなどが多く、三馬の雲龍九郎や坂東太郎などの如く盗賊を興味の中心としたものもあり、またたまには滑稽ものもあるが、お花半七、吾妻與次兵衛、小春治兵衛、お千代半兵衛、といふやうな近松の世詰もの、または不破名古屋の如き時代ものに淵源がありながら、半二の改作もしくは歌舞伎に演ぜられたものの系統をひいてゐるもの、梅の由兵衛や小三金五郎の如く歌舞伎で多く演ぜられた題材を取つたものも少なくなく、京傳、京山、種彦、のにはそれが最も多い。さうしてそれには京傳の文法古が小栗と一休とを、濡燕子宿傘が頼豪と不破名古屋とを結びつけた如く、歌舞使で常に試みられたやうに二つ以上の物語を綴合した例もある。但しかういふものでも、筋は敵討や寶物詮索の物語などになつてゐるものが多く、全體に殺伐な殘酷な光景と謀略詭計とで滿されてゐる。しかしこの方面でも種彦のは概して世話的分子が多く、中には純粹な世話ものもある。近松の「心中刃は氷の朔日」を改作した浮世形六枚屏風の序に「この書になきものは先づ第一に敵役、異人妖術怪談、狐狼ひきがへる、家の系圖や寶物、紛失すべきものも無い、親子兄弟名のり合ふ印籠かんざし割かうがい、神や佛の夢知らせ、腹切り身代りぬき刀、血を見ることが少しも無い、」といつてゐるのは、一般草双紙の趣向を最も痛切に皮肉つたものであると共に、彼の趣味の一面を暗示したものでもある。彼が好んで俗謠を双紙中に引用してゐるのでも、その嗜好が知られる。また京山の(242)三國小女郎物語が歌三味線中の插話から來てゐるやうに、八文字屋ものをそのまゝ取ることもあるが、この例は割合に少いらしい。
 かういふやうに作者によつて幾らかづつの差異はあるが、概觀すると、合卷の大部分はその内容が淨瑠璃式歌舞伎式のものであるといつても大過はなく、特に直接には歌舞伎と親密の關係のあるものが多からう。もつとも一方には京傳の牡丹燈籠や三馬の玉藻前三國傳記のやうなものもあるし、また馬琴の作、特にその傾城水滸傳や金瓶梅のやうなもの、もあつて、これらはシナ的傾向が合卷の領分をも蠶食して來たことの徴證である。虚僞の分子の多いシナ式の孝行も少からず描かれてゐ、また表面上の口實として勸懲主義を標榜し、時々講釋めいた文字を並べることも、三馬や一九の作にさへ見えてゐて、これも間接に受け入れられたシナ的要素である。この點に於いて合卷は書物の體裁、筋の繁簡、篇帙の長短大小、文章の難易、または會話に口語を用ゐると用ゐないと、などに於いて相違があり、また讀者層にも差異があるものの、物語としての性質は讀本に接近して來たので、中には讀本を簡單にしたといつてもよいものさへある。事實、讀本を書きかへたものもあり、または種彦の浮世一休廓問答の如く、讀本とすべき腹案を草双紙にしたものもある。だからさういふものは、その内容と思想とを考へる場合には、兩方を同樣に取扱つてもさしたる支障が無いほどである。しかし種彦の作は勿論、その他の作者のでも、淨瑠璃式歌舞伎式のものは、その間に多かれ少かれ讀本式シナ思想の加味せられてゐることは明かであるが、なほ幾分かそれとは趣きの異なるもののあることを忘れてはならず、數の上からいふと、それが大部分を占めてゐる。
 さて淨瑠璃の系統に屬するものに於いて草双紙の特色を明かにするには、それを原作と對照するのが捷徑である。(243)近松の心中ものに由來のある作が何れも心中とならずしてめでたし/\に終つてゐること、全體の結構が敵討や寶物詮索の物語であつて、それもめでたき結末となつてゐることは、半二の改作と同樣であつて、草双紙は畢竟それを繼承したに過ぎない。女を中心とする葛藤の解決が京山の紙治小春早引説要の如く、おさんは妻、小春は妾、として方つけられたのは、勿論、半二式であるが、種彦の浮世形六枚屏風の如く、男が情死の企を裝つて女の眞情をためさうとしたに過ぎなかつたものとし、或は同じ人の高野山萬年草紙の如く、二人ともそれ/\の義理のために一旦は自殺しながら、弘法大師の化身に助けられて蘇生したとし、その他種々の工夫を加へて無理にも情死を避けてゐるのは、やはり例の政令の影響であらう。お千代半兵衛に五大力の趣向をつなぎあはせた京山の隅田川藝者容氣に至つては、情死は全く影を隱してしまつた。種彦の桔梗辻千種杉(小春治兵衛)で、小春治平が夫妻となり、おさんは實は治平の妻でなかつたことにしたなどは、窮した趣向である。また同じ人の五大力と柱暦とを結合した笹色猪口暦手で、おさん茂兵衛を密通とせず、小萬源五兵衛をめでたき結合に終らせ、邯鄲諸國物語(播磨の卷)の鎗の權三の改作で、おさゐは寃を雪がんがために自殺し、深雪(お雪)は逸之進(市之進)の養女となつて權三に嫁し、女の小菊(お菊)は主君の妾となるとしたのは、本來情死の話でないがため、同じ思想が少しく趣きを異にして現はれてゐる。
 ところが草双紙の着想が半二などと違ふところは、葛藤の動機としての戀を否認したがる傾向のあることであつて、例へば早引説要では忠實な紙治、孝行な小春とが戀に落ちたのが、彼等の心から出たのではなくして、男郎花女郎花のしわざだとしてある。京傳の松梅竹取談(八百屋お七)に、お七を人でなくして寺の欄間の天人がぬけ出て假に人身を現じたもの、實は人間愛慾の迷を戒めんがため下界に下つた月宮の天人であるとし、吉三郎の戀は寶刀をたづね(244)出すための計略から出たもの、二人の媒をした杉も吉三郎を不義ものとして我が子に家督をつがせるための計略であるとした。それがために紙治小春の戀も無意味となり、お七の強烈な情熱も全く消え失せてしまつた。浮世形六枚屏風などで男女を許嫁の間とし、それによつて二人の戀を正當視しようとしたのは、馬琴式の道徳觀念であるが、戀の力を認めないことは同樣である。戀が戀とせられないのみならず、義理もまた純粹の義理ではなくなつてゐるので、早引説要のおさんが小はるに依頼したのは、原作のやうな思ひ餘つての懇願ではなく、先づ姉妹の約を結び、さてそれによつて姉の夫に戀するは不義であるといふことをいひたてたのであつて、おさんの眞情も小春の意地もこの謀略のために全く破壞せられてしまつてゐる。義理と人情との紛糾した關係が殆ど問題とせられてゐないのは、種彦の吾妻花双蝶々に於いて、兄が大の家の敵であるといふむつかしい地位にある小菊に、その點で毫も煩悶や苦惱をさせてゐないのを見ても、知られる。草双紙の着眼のあるところは半二などとは全く違つてゐるのであつて、それは恰も前に述べた讀本と同樣である。たゞその結構は淨瑠璃式、といふよりもむしろ江戸歌舞伎式の荒唐不經なものであり、そこに低級な讀者をひきつける一理由があつたらしい。歌舞伎と草双紙との關係は種彦に正本製の作のあるのでも知られるが、會話に用ゐられる口語も寫實的ではなくして、一種の型を有する歌舞伎の口跡を學んだものらしい。歌舞伎の舞臺面をそのまゝ寫したやうな場面も、また草双紙に於いて常に見るところである。種彦の作に多い音曲の利用も、やはり歌舞伎から來てゐるのであらうか。 この草双紋の特色は、種彦の大作田舍源氏に於いて最も濃厚に現はれてゐる。これはいふまでもたく淨瑠璃にも歌舞伎にも關係の無い源氏物語の翻案であるが、その脚色は全く歌舞伎式であつて、原作の筋にたよつて、それをさま(245)ざまに反復重疊したものに過ぎない。時代を東山の世に置いて、山名細川の確執爭闘をその背景とし、例のごとくお家もの的脚色に寶物の探索をからませてある。だから光氏(源氏)の一切の行動は、義尚に家をたてさせるのと、盗まれた寶物を手に入れるのと、山名宗全を仆すのと、これらの三つの目的から割り出されてゐるので、戀も好色もすべてがその目的を達するための政略とせられてゐる。光氏が好色の名を得たのは、懦弱と見せて義政に疎んぜられ義尚に家をつがせるためであつたといふ。一々の女についても、藤の方(藤壺)に心をかけると見せたのは、この婦人に關する山名の欲望を絶たせ、それによつて細川との確執を解かうとしたのであり、後には故らにその噂を高くして父に罪せられ都を追放せられようとしたのであるが、みづから都落ちを望んだのも、播磨へ下つて山名黨を征伐するためであつた。また遊女になるべき紫(紫の上)をうけ出したのは、その父を山名の味方にさせまいための人質としてであり、桂木(朧月夜)に通ふと見せたのも、また實は富徽の前(弘徽殿)の怒を男ひ、かねての望みの播磨落ちを實現しょうとしたためである.なほ光氏の好色修業は寶劍のゆくへをたづねる方便であつて、黄昏(夕顔)とかたらつたのも、この女が寶劍を盗んだ賊と縁ありげに思はれたからである.遊女阿古木(六條御息所)の許にかよひまた水原(源内侍)に戯れるやうに見せたのも、同じく家寶である勅筆の短册や鏡を得ようとするための政略に外ならず、稻舟(常陸の宮)に心をよせると見せたのは、父にこの婦人の待遇をよくさせるための謀計に過ぎなかつた。かの朝錐(明石の姫)に思ひをよせたのも、その父(明石入道)と宗全との關係を探るための手段であつて、入道が女を光氏に上つたのも、また半ばは家の安全を計るための政略であつた。原作に於ける源氏の生活は全くその意義を失つてしまつたのである。
(246) この着想は一つは儒教式道徳觀念から來てゐ、一つは淨瑠璃式歌舞伎式の計略の思想の現はれである。前の方の分子のあることは、一般に戀愛が卑しまれた點に於いてのみならず、藤の方や空衣(空蝉)の如き有夫の婦人に對する戀を全く否認し、また玉葛に思ひを懸けたことをも否定して夢の名殘の黄昏と見あやまつた一時の錯覺としたのでも、知られる。人物を道徳的にしようとしたことは、富徽の前をも初めのうちは嫉妬を包む賢女らしくしたほどである。また例の如き計略は到るところに用ゐられてゐるので、光氏が藤の方に艶書と見せて送つたのは、實は不義の虚名を負うて自殺しようと決心したための遺書であり、その藤の方の生んだ子の義植を光氏の子らしく世間に疑はせるためには、出産の發表を二月も遅らせてゐる。後に義植がおのれを光氏の子だと誣告した妖僧の言を信じがほに見せたのも、家を義尚の子に讓るための計略であるといふ。その他、石堂馬之丞が殺されたやうに見せたのも、馬之丞の死靈が光氏に憑いたとしたのも、みな光氏の計略に過ぎず、稻舟を腰元に扮せしめ門番の女を稻舟に裝はせたのも山名を紿く謀計であつた。古寺で黄昏を襲うたものも、光氏を殺さんために生靈の仮裝をしたものであつたといふ。戀が政略として用ゐられるのは怪しむに足らぬ。(京傳の文法古に今昔物語の飛騨の狙神の話をとつて、それを平家再興の軍用金をつくる計略とした一節がある。古傳説を計略の思想によつて改作することは、既に述べた如く淨瑠璃に於いて行はれ、草双紙作者によつて繼承せられたのであるが、田舍源氏はそれを一層大規模に試みたのである。)なほ間諜や反間や身代りや敵討なども織りこまれてゐる上に、暗殺や毒殺の計畫が間斷なく反覆せられ、開卷第一から奥女中が殺され、光氏すらも紅葉狩を舞ひつゝ曲者を斬り倒してゐる如く、血腥い空氣が全篇に漲つてゐることは、いふまでもない。宗教的迷信から生ずる一種陰慘の氣と、權力の爭ひから來る幾らかのもつれと、人生のはかなさをはかな(247)む悲哀の情調とはありながら、外面的には概して平和な享樂の氣に滿ちてゐる源語の戀愛生活は、この改作に於いて全く面目を改めてしまつた。讀本の條下に述べたやうな社會状態と文學界の氣運とは、到底作者に平安朝人の氣分を懷かせることができなかつたのである。
 更に全篇の結構の上から見ると、作者の意圖は須磨明石のあたりで一旦まとまりがついてゐる。義尚は既に職をつぎ、寶劍は取返され、山名もまた亡びてしまつた。光氏の好色修行は悉くその目的が達せられたのであるから、その歸京はすべてに於いての大團圓となるべきはずである。然るに原作たる源氏物語に於いては源氏の榮華の舞臺が却つてそれから開かれてゐる。原作の筋をたどつてゆく以上、田舍源氏もまた新境地をそのさきに拓いてゆかねばならぬ。是に於いてか作者は窮したに違ひない。山名の餘黨や富徽の前の光氏に對する反抗はあつても、それは眞の餘波に過ぎず、そこから何ものも出て來ない。曩に手に入れた寶劍は實はにせものであつた、といふ一案は實はこれがために新に拈出せちれた趣向ではあるまいか。前にはそんな樣子が少しも見えてゐなかつた。しかしそれとても、新しい事件を展開させるには餘りに力が無さすぎる。「應仁の修羅場がすんで張扇の張合ぬけ」(三十四編序)と作者の自白したのは、この故である。だからこれから後は原作の筋を通俗に書きかへたぐらゐのものであつて、作者の變改したところは甚だ少く、全體に氣ぬけがしたやうな心もちがする。原作に倣つて光氏の榮華を寫すには、上に述べたやうな草双紙通有の歌舞伎式脚色を要しないが、それが無くては双紙にならず、讀者の興味をもひかぬ。筋を讀む當時の讀者は、平安朝人の如くその日/\の穏かな生活の繪卷物的展開を見てゐるに堪へられない。のみならず、根本に於いて源氏の戀愛を否認した作者は、その榮華の生活をうちたてる大切の基調を失ひ、またその誘因をも亡くしてしまつ(248)てゐる。その上、應仁亂後の世の中は、さういふ生活の背景としてはあまりにも不適當である.源氏をもとにした作者の着想は行きつまらざるを得ないのであつて、藤袴まで書き續けたのは、せうことなしの努力ではなかつたらうか。政略上の好色が眞の好色らしくなり、家のために苦心した光氏が何時のまにか享樂主義の徒となり、光氏の素志からいふと本來無意義であるべきことながら、六條の館に多くの婦人を住まはせるなど、原作の影と作者の意圖との矛盾から生ずる破綻が到るところに現はれてゐるのも、この故である。人質として請け出した紫が正室のやうになつた理由すらも、明かにはなつてゐない。根本的にいふと、婦人に武士の妻女らしくないものがあり、文字の上に説かれてゐる道徳観念や武士氣質が人物の行動と一致しない場合の少なくないのも、やはり同じところから來る破綻であり、そこに寫されてゐる風俗や人情が平安朝のでも東山時代のでもなく、さりとて作者の時代のでは勿論なく、鵺のやうなものになつてゐるのも、今日の讀者には極めて奇異の感を懷かせるが、かゝる作に對してそこまで考へる必要もあるまい。水滸傳に對抗して源語を捕へて來たところに作者の趣向があり、そこに種彦の趣味も現はれてゐることを、をかしく眺めておけば、それでよいのであらう。(この作が徳川氏の大奥の有樣を寫したといふやうな説は、當つてゐるらしくもない。插畫に現はれてゐる風俗などにはそれがあらうけれども、それはそれだけのものである。)
 しかしともかくも源語をもととし、原文の趣きをそのまゝに書きなほしたところさへ少なくないほどであるから、時には他の草双紙に例の無いやうな物靜かな光景も見え、四季をり/\の風物も敍せられてゐる。が、本來にせものであるだけに、押繪細工の美しさはあるが生氣が少しも無い。人の心情の寫されてゐないことは、いふまでもなからう。改作のしかたも夕顔を烏瓜の花にしたなど、一二の點に氣のきいたふしが無いではないが、概していふと餘り鮮(249)かな手ぎはは見えず、歌を俳句にしたのも思ひつきではあるが、無理な仕事である。文章とても一般の草双紙のただ筋を話してゆくに過ぎないのとは幾らか違つてゐるが、それも原文にたよつてゐるからのことであり、またその點から見ると甚しく下品になつてゐる場合が少なくない。例へば卷初の花桐に對する廊下の惡戯を敍するあたりを見るがよい。なほ常陸宮の鼻が門番の娘のこととなり、水原の戀が政略で、堅田(近江守)に周圍の典雅な空氣がないとすれば、原作の滑稽は全く亡くなつてゐるのであるが、これは滑稽を解しない當時の作者としては當然であらう。
 同じく草双紙の形をとつて現はれた傾城水滸傳傳や金瓶梅については、多言する必要が無からう。それは内容の上から見ると、馬琴一流の讀本式のものであつて、歌舞伎から來た分子が殆ど無い。例の殺伐殘酷な光景を數多く反覆し、シナ式の山賊や淫婦やを遠慮なくはたらかせてゐる。勸懲を標榜してゐるにかゝはらず、讀んで不快の感を抱かぬところは殆ど無いくらゐである。
 さてかう考へて來て氣のつくのは、讀本よりも知識の低級な讀者をあひてにする草双紙に於いても、武士を主要な人物としながら當時の武士生活の現實の状態が描かれてゐないことは勿論、武士氣質もしくは武士の思想も寫されてゐないことである。少くともそれが歌舞伎式の定つた型や幾らかのシナ思想やによつて、ねぢ曲げられ或は色づけられてゐる。それに比べると、却つて講釋師の講釋などの方に武士氣質の見える場合があるといつてもよい。種彦の作などには往々寫實的要素の勝つたものもあるが、概していふと趣向の奇を求めて結構するために、現實の武士からは縁遠くなつて來るのも、當然であらう。
 文化文政天保のころを盛りに長い間世に流行した合卷の草双紙は、ほゞかういふものである。ところが、これはい(250)はゆる大御所時代、江戸の文化の最も爛熟した時期の而も比較的文字上の知識の乏しいものの讀みものとして、果してふさはしいものであつたらうか。田舍源氏の如きものに於いては、書物の裝幀や插繪の艶麗な點にはそれがあらう。しかしその物語の内容は、餘りに太平の氣象と調和しないものではなからうか。勿論、讀本の條に述べた如く武士時代の一部の人の心の底深く流れてゐる暗潮と一脈の相通ずるところは、そこにあるに違ひなく、特殊な家族制度や武士中心の社會組織の缺陷から生ずる陰謀や兇惡の行ひの有りがちな世態の反映も、そこに現はれてはゐようが、少くとも多數の讀者が、それに對して何等かの不滿足を感じなかつたであらうか。その傍には一九三馬の諸作またはその流れを酌んだ滑稽本も行はれてゐたので、そこには或る意味に於いての太平の餘響も聞えるのであるが、それは固より深く人の心を動かすには足らぬ。特に戀といふ戀を政略の道具とするやうな着想は、餘りに人情の自然に背くといふ感じを有たなかつたらうか。如何に人心が萎縮してゐるとはいへ、ともかくも戀もあり情もある人間ではないか。いはゆる人情本の現はれたのは、この缺陷を充たさうとする自然の要求に應じたものと見ることができよう。
 
 人情本はいふまでもなく一種の戀愛小説であつて、その女主人公には往々女藝者がある。女藝者は洒落本にも取られてゐたが、そのいきな姿の最もあでやかに描かれてゐるのは、この人惰本であらう。人情本の歴史的由來は洒落本中の或るもの、例へば契情買虎の卷や傾城買二筋道の類、にあるともいはれようが、それは概ね遊里を題材としてゐるのに、これはもつと範圍が擴げられてゐる。春水の如きは、遊女を寫しても遊女生活そのものよりは、むしろ情人のために身を沈めたもののその情人に對する態度とか、落籍せられたものの心理とか、を描いてゐる。のみならず、(251)洒落本はいはゆる傾城買の「穿ち」を主とするものであつて、人情本の人情そのものを寫すのとは性質が違ふ。遊女は勿論のこと、女藝者もまた一種の賣笑婦ではあるが、「地金は娘氣」(娘節用)といひ「互に惚れては素人にも劣る唄妓の實競べ」(春色辰巳園)といふところに、人情本の極意があり、從つて洒落本が男を主とするに反し、これはむしろ女に重きをおく傾向があるので、男は却つて受動的地位にある場合が多い。洒落本は、遊女に媚びもしくはみづから通人たることを衒つて彼等の一顧を求めんとする、男の裏面を滑稽的に描いてゐるが、人情本は男のためにうき身をやつす女を寫し、それから生ずる苦惱や煩悶や猜疑や嫉妬や戀爭ひや、または時々に移つてゆき變つてゆく我がこゝろ人のこゝろや、幾多情海の波瀾を精細に敍してゆくのである。娘節用のお龜、梅暦のお蝶お柳、などの如き世のつねの處女もあるが、それとても情人に對する女の心づくしが力を極めて寫されてゐるわりあひに、男の側についてはむしろ淡泊な筆づかひが多い。さうしてそれには世に有りがちなことがらが、洒落本や滑稽本と同樣、寫實的な筆法で書かれ、會話などにも日常の口語が用ゐてあるから、荒唐不經な、實生活に縁遠い、草双紙とは違つて、讀者に親しい感じを與へ、讀者は彼等自身の心情の反映を作中にながめることができる。さうしてそこにはいはゆる花柳界の消息などがもらされてもゐる。人情本の喜ばれたのは當然であらう。淨瑠璃や歌舞伎で用ゐふるされた題材をとつたものもあるが、その取扱ひかたが草双紙などとは違ふ。娘節用もその人物に小三金五郎の名を用ゐたり、偶然あつた藝者が相思の間であつた娘であるとするやうな淨瑠璃式構想を加へたりしてゐ、梅暦にも小梅のお由といふやうなものがあり、また丹次郎を榛澤六郎の子とし畠山や梶原をさへ倩つて來た上に、親子兄弟の再會といふ話をも作り、殘月のお茶入といふやうな道具さへも使つて、歌舞伎的脚色を加へ、さうしてまたお蝶は妻、米八は妾、といふ例の(252)半二式の解決をもつけてはゐるが、それはたゞ話を運ぶための筋に過ぎないので、物語の輿味の中心はそれとは別のととろにある。なほ戀愛譚は昔の浮世草子にもしば/\見えてゐるが、そこでは廣い世の中の一つのできごととして新聞記事的に取扱はれてゐるのに、こゝではその戀愛生活が世界の全體であり、かしこでは高いところから見下ろす如き態度で書かれてゐるのに、こゝでは男女自身の心情を訴へる如き筆致で寫されてゐる。要するに浮世草子は戀愛を外部から眺めてゐるが、人情本はそれを當事老自身の心情として内部から寫してゐる。だから浮世草子の戀は多くの場合に滑稽的に取扱はれてゐるが、人情本のはどこまでもまじめであり、戀の甘さと苦しさとが類型的な描寫ながら切實に現はれてゐる。人情本の戀が感傷的である一理由はこゝにもある。
 さて人情本がよく時世粧を寫してゐることは、その人物の如何にも弱々しい點に於いて知られる。娘節用の小三は金五郎にとつては幼なじみの思ひ妻であり子まで設けた隱し妻でありながら、常にその身の境遇をはかなみ、金五郎の祖父の白翁が親しく訪ねて來て酸いも甘いもかみわけた老巧な思慮から、家のためを思つて暫し遠ざかつてくれよと懇請するに至り、男の上、我が身の上、を思ひやつて終に自殺した。それは女の運命はかゝるものと甘んじて死んだので、或はうき世の義理にはどこまでも服從すべきものと覺悟して死んだので、人をも世をも恨みず、我が身をさへも恨みずして、美しき瞿粟の花の風もなきにはかなく散つたやうな最期である。そこに人に對し世に對する何等の闘爭も無い。彼女を死に到らしめた家族制度を詛ふやうな情も見えない。あきらめがよいとはいふものの、意志の弱いことは爭はれぬ。金五郎もまた養家に對する義理のために心ならずもお雪と結婚し、結婚しつゝも小三に心がひかれ、「まゝになるもならぬもみな約束、しかたがねえ、これもうき世だ、どうなるものか、」と不安ながらもその日そ(253)の日を送つて我からとなき運命にひきずられてゆくのであつた。お雪に對する義理の自覺も明かになつてゐないではないか。否々小三に對する情すらも全うすることができず、獨り彼女をして寂しき死出の旅路に赴かしめたでではないか。思ふ人に添はでやまぬといひ、一人死なせておかれうかといふ、近松の世話淨瑠璃に見えるやうな元禄人の強烈な意地は何處にも認められず、勿論、情死のできる人々ではない。梅暦の仇吉や米八には江戸藝者の意気地も幾らか見られなくはないが、それとても「戀には愚痴な娘氣」となるではないか。丹次郎や宗次郎に至つては、たゞ女にかはいがられまた如何なる女のあひてにもなるやさ男に過ぎない。意思の弱い點に於いては弓張月の爲朝と同じである(前章參照)。
 これらは數多き人情本中の僅か一二を取つて考へたことに過ぎないが、この種の小説の性質はこれだけでもほゞ覗はれよう。固よりかういふ人情本に大なる藝術的價値があるとは評せられぬ。「東都人情本の元組」といふ怪しげな自讃をしてゐる爲永春水の如きは、人も知る如く尊重すべき人格の所有者ではなく、作の動機には俗情に媚びる意味のあつたことが明かである。さうしてその代表作たる梅暦の如きは、冗漫であり煩雑であり、特に作中に説明や辯解や作者の自讃やをところきらはず插入してゐるなどは、藝術品たる資質を損すること少々でない。しかし人情本は啻に江戸の小説界に一新境地を開いたものであるのみならず、またよく時世粧を如實に寫し得たものであるのみならず、讀本や草双紙によつて化石の如くせられた人を復活して、それに温かい血を通はせた點に於いて、推賞せらるべき十分の資格を有つてゐる。讀本の人物が概念を擬人したものであるとは違つて、人情本のはともかくも人である。單純なまた生れながらのいはゆる善人や惡人が製造せられてゐず、境遇と事情とあひての態度とによつて心情の變化する(254)有樣の、粗笨ながらに幾らか描かれてゐるのも、この故であつて、例へば梅暦のお柳の處女時代と遊女時代とまた落籍以後とによつて、文次郎や宗次郎に對する感情の推移がおぽろげながら寫されてゐるのも、そこに生きた人を認め得たからである。女ごゝろの弱々しく戀には意気地も壞れて愚痴になり、涙がちなる明け暮れの時には嫉妬の燃ゆるのも、人としては當然であつて、めゝしいのが人情の眞であるといふ宣長の見解は、江戸の小説に於いては人情本に至つて初めて具體化せられた、といつてもよい。美々しい事件や人を驚かす如き奇異のことではなく、市井の間にありがちな小情話小葛藤を寫して、そこに人生を髣髴せしめてゐるのも、實讃しなくてはならぬ。文字上の空疎な知識や一知半解のシナ小説やの拘束、または淨瑠璃歌舞伎の定型、から脱却して、或る程度まで現實の社會、現實の人生、に立ち還つたところに、人情本の大なる誇りがあり、この點に於いては讀本や合卷の草双紙よりも※[しんにょう+向]かに文學としての價値が高い。さうしてそこに儒教式の紙上道徳に對する人としての反抗があり、それに征服せられてしまはなかつた文藝の權威がある。春水などの作に幾多の缺點があるにせよ、かういふ性質のものが世に現はれたことに少からぬ意味があるのである。春水が表面上教訓を標榜したのは、昔の浮世草子以來の因襲であるから、これは彼のみのことではない。戀愛、或はむしろ性慾、の取扱ひかたが、率直な、力強い、ものではなく、頽廢的な、或は遊戯性を帶びた、ものであり、從つて往々挑發的な筆を弄んでもゐるが、これも同じく遊戯的な性慾を寫してゐる馬琴の春畫的筆法に比して容易く軒輊し難いものである。淫婦を寫さずと稱してゐるのは、善人には淫奔の行あらしめずといふ馬琴の餘唾をなめたものかも知れぬが、ともかくもそれがために、殺伐殘忍の描寫の無いことと共に、極端な淫婦を憚るところなく描き出した馬琴の作の如く讀んで不快の感を起さぬ。水越の改革に馬琴を罰せずして春水をとがめたのは、(255)文字に眩惑せられた爲政者の無識を遺憾なく暴露したものである。
 春水はその作に於いて盛に種々の俗曲を利用してゐる。これは必しも彼に始まつたことではなく、洒落本などでも既に試みられたことであるが、人情本にあつてはそれが甚だ適切である。人情本は畢竟、清元や新内やまたは端唄や都々一に現はれてゐる、頽廢期の江戸人の情生活を物語として寫し出したものだからである。同じく遊女の情を寫しても、長唄や河東節などでは、古い抒情曲や江戸淨瑠璃の節事やに由來を有する歴史的事情から、曲節が詠歎的であると共に、詞章もまたそれにふさはしい婉曲なものであり、或は意義が不明になつてゐるほどであるため、それが淡くなりおぼろげになつてゐるのに、常盤津系統のものに於いては、本來劇曲的な上方淨瑠璃が感傷の方向をとつて進んで來たものだけに、弱い調子ながら表情が直接である。詞章もまた口語を多く交へてゐる點に於いて、それに適合する。一種女性的な優柔な甘つたるい調子を有する端唄の類については、いふまでもない。かういふ俗曲の廣く行はれてゐる世に、人情本の喜ばれたのは當然である。歌舞伎に於いて鶴屋南北が特に力を入れたといふ生世話ものの流行したことも、また同じ趨勢を示すものであり、或はそれが人情本の發生を誘つたものであるかも知れぬ。たゞ人情本にはこれらの俗曲や歌舞伎の半面に存する滑稽の分子を缺いてゐるが、文學としてはそれは一九や三馬の系統に屬する別の分野に現はれてゐる。
 
 前章からこの章にかけて述べたところは、江戸文學の一分野たる物語もの、即ちいはゆる稗史小説に對する著者の管見である。概觀するに、かういふ物語は前期の上方文學に於いてはまだ十分に發達してゐたかつたものであるから、(256)そこにこの時代の江戸の文學の特色があるが、しかし單に物語としての性質からいふと、淨瑠璃の詞章にその粉本があり、それがシナ小説の刺戟をうけて讀みものとして形を成したのである。その題材や結構がこの二者に由來するところの多いことも、既に述べた。のみならず、局部的の插話を他の作から取つてそれを機械的につなぎ合はせる方法も、また淨瑠璃や歌舞伎と同樣であり、草双紙ものに至つては踏襲また踏襲、殆ど新意の掬すべきものが無いことも、また淨瑠璃や歌舞伎と一般である。人情本とても一旦それが現はれると、同じやうなものが數多く作られて來る點に於いて、それと變りは無い。もつとも今日の新聞の續きものと同樣、初めからその時限りの慰みものとして作られるのであるから、まじめに取扱ふ必要は無いが、それにしても年々現はれる新作に殆ど新意の出ないといふことが、やはり固定した世の中の現象である。古い物語をとつてそれに新解釋を加へ新生命を與へることは、詩人慣用の手段であるけれども、當時の作者のはそれとは違つて、例へば弓張月(續篇二)の史記の西門豹の話、美少年録(三の四)の今古奇觀の錬金術の話の如く、そのまゝに取つてはめこむのである。日本のものに於いても同樣であり、忠臣藏の某々の場面などはしば/\草双紙(例へば京傳の濡燕子宿傘や種彦の勢田橋龍女本地の類)に利用せられてゐる。だから京傳と馬琴とが互に插話の主題を取りあつたり、馬琴が弓張月(拾遺一)と八犬傳(一の二)とに同じ主題を編みこんだりするやうなことも、不思議でない。一篇の物語は、畢竟、一定した主題や型のきまつた插話をいろ/\に結合することによつて作られる。これは恰も三絃の樂曲や踊の手にそれ/\定型があつて、新作はたゞそれを新しく組合はせるに過ぎないのと同樣である。さうしてかういふ場合の作者のはたらきは、たゞ巧みにそれを利用して前後の物語とうまく連絡をつけ、ありふれた着想に何等かの轉化を與へるところにあるので、そこにいはゆる趣向がある。(257)さうしてそれは稗史小説の興味が「異事奇談人意の表に出づるにあり」(八犬傳九の三六簡單附言)とせられたからである。特殊の插話でなくとも、馬琴が頼豪阿闍利恠鼠傳に身を賣つて乳母になる女の話を作り、「貧家の身賣花街に赴かずして乳母とす、奇にしてます/\妙なり、」と自評を加へてゐる如く、ありふれた主題に小變改を加へるのも、また同じ興味を求めるための趣向である。さうして當時の一般の小説の批評もまたこの作意趣向にむけられてゐることは、犬夷評判記の類を見ても知られる。京傳の忠臣水滸傳の如きに至つては、水滸傳に附會するといふことの趣向の外には何の興味もなく、作者の意圖もそこにあつたに違ひない。
 だから作者のしごとは、單なる技巧に過ぎず、從つて知識的である。彼等の作の態度が事務的であるのも、實生活と交渉の無い文字上の知識を基礎にしてゐるのも、また全體に何等の感激のない極めて散文的なものになつてゐるのも、みなこの故である。作者が文字上の知識を衒ふのもそれに伴ふ現象であつて、馬琴が三馬や種彦の小説を評するに當つて、作者に學識が無く文字が雅馴でたいと責めてゐること(※[馬が横に三つ]鞭、をこのすさみ)、また彼が到るところに無用の講釋をしてその學識を誇り、崇拜者の三枝園にすら難ぜられてゐること、なほシナ思想のみでなく新しく世に弘まつて來た國學者の知識を借りてゐること(美少年録續篇二七の枉津天女の條、侠客傳二の三にも同じ知識が用ゐてある)、などは、馬琴の人物の故としておいても、京傳や種彦は固より一九三馬さては春水までが、時々考證や講釋をしてゐるのを見るがよい。古典などを利用しても、昔の西鶴に於いてそれが彼自身の氣分に渾然として融合せられてゐるとは違ひ、このころのは外部から強ひてそれを結びつけたものが多く、從つてそこに不調和が生じてゐる。前者は古典を自家藥籠中のものとしてゐるが、後者は故らに古典の古典たることを示してそれを援引附會するのであつて、(258)そこに衒學癖が現はれる。かういふ作がごち/\として手ざはりの粗い、感じのよくない、ものになるのは當然であつて、馬琴の作に於いてそれが最も甚しい。
 最後に一言しておくべきは、小説が歌舞伎に演ぜられたことである。それは小説に題材を供給した歌舞伎が反對に小説からその報酬を受けるやうになつた點に、化政度の文藝界に於ける小説の地位とその流行の状態とが示されてゐるからである。上方の歌舞伎に於いて小説の或る場面を利用することは、既に浮世草子などについて行はれてゐたのであるが(傳奇作書初篇下拾遺下など)、このころに江戸の小説を取つたのは、それとはやゝ趣きの違ふ點がある。が、近松徳雙などの手法を見ると、やはり在來の歌舞伎の型にはめてそれを脚色したものらしい(同殘篇上續篇下など)。だから、單なる一場の插話を取つて或る作にはめこんだり、淨瑠璃を殆どそのまゝ取つたりするのとは、幾らか用意が違ふにしても、既に一定の型によつて脚色する以上、それは歌舞伎の上に何の新しみをも與へなかつたらう。勿論、小説がそのまゝ舞臺に上されるはずは無いが、思想や題材からいつても、歌舞伎として演じ得べきところには新しみが無く、從來の型にはまらないところは、全く舞臺に上らないか、または看客に喜ばれないか、であつたらう。讀本、特に馬琴の作、には後の方のが多い。だから從來の歌舞伎眼から見て都合のよいところだけを採つて、それを從來の型にはめる、といふことは自然の方法である。それにもかゝはらず、さういふことをして小説から材料を取らなければならぬところに、歌舞伎作者の無能力が示されてゐる。江戸に於いては、讀本草双紙はもとより、心學早染草の如き黄表紙や、膝栗毛の如き滑稽本や、または契情買虎の卷の如き洒落本さへも、用ゐられてゐるが(歌舞伎年代記續篇)、前に述べた如き江戸の歌舞伎としては、これは怪しむに足らぬ。なほ小説から取らないにしても、例へば南北の(259)生世話ものが、やはり怪談などを多く交へてゐる草双紙や、一九などの滑稽ものや、または人情本などと、同じ思想、同じ氣分、から成りたつてゐる如く、文學的側面からいふと歌舞伎も小説もやはり共通の性質を有つてゐる。なほ全體として歌舞伎が舊作のやきなほしや絢ひまぜものを演じてゐたことは、いふまでもなく、そのやきなほしかたや綴合法も、讀本や草双紙のとほゞ同樣である。だから歌舞伎の文學的側面については、別に述べる必要があるまい。
 
(260)     第九章 文學の概観 六
       俳諧 上
 
 談林に一轉し蕉凰に再轉した俳諧は、蕉風のゆきつまつた後もう三轉する力を失つた。それは一つは、俳諧を言語上の遊戯から解放し藝術としての内容を始めてそれに與へたのが、この蕉風だからであつて、この意味に於いては、蕉風以後第二の蕉風の起らないのは當然である。だから蕉風の傍に存在してゐた貞門の餘流や談林の殘黨すらも、師弟相承の關係に於いてこそ貞門であり談林であつても、作風に於いては貞門もおのづから談林の影響をうけ、談林はまた貞門と共にいつしか蕉風の感化を蒙つて、漸次その特色を失つて來た。後から考へると、貞門は談林のために道を開き談林は蕉風の先駆となつた點に、その主なる任務があつたので、それが談林に壓倒せられ蕉風に靡伏したのは當然の運命であつたのである。是に於いてか俳諧は即ち蕉風であるかの如く考へられるやうになつた。けれども蕉風には局限せられた趣味がある。それのゆきつまつたのはこの意味に於いてであつて、新境地を別方面に開かねばならぬ必要がこゝに生ずる。が、享保以後の社會は粗野なる戰國の遺風のなほ存してゐた寛永時代でもなければ、寛濶な寛文の世の中でもない。活氣横溢してゐた元禄の社會すらも再び見られぬ過去の夢となつてゐる。この固定してゐる社會、型にはめられた生活には、新しい運動を俳諧の世界に起さうとする内からの要求が無い。蕉風が俳諧の大成者となり、同時にそれが停滯し萎靡したのは、これがためである。
 然らば蕉風は如何なる状態に於いて持續せられたか。芭蕉の生活から出て芭蕉の人生觀が象徴せられてゐる芭蕉の(261)藝術は、到底他人の追從し摸倣することを許さないものである。「わび」の情味と滑稽洒脱の態度との抱合によつて生じ、彼の俳諧の本質をなしてゐる「風狂」の氣分に至つては、いふまでもない。だから芭蕉に親炙した門弟は必しも強ひてそれを摸倣せず、自然界に對する特殊の趣味、即ちいはゆる風雅の道と、表現法や技巧上の大體の傾向とを、繼承したのみであつて、人々は何れもそれ/\の自得の境地から自得の句を作つてゐたのであつた。ところが芭蕉の歿後、蕉風といふ一つの殿堂が建立せられ、この大宗師の偶像が祭壇の上に高く安置せられるやうになると、おのづからそこにむつかしい信條が制定せられ、さうして人はみなそれによつて一樣にこの偶像の風貌や容姿を摸倣しようとする。俳諧といふ形が多數の俗衆の娯樂として、消閑の遊戯として、用ゐられ易いものであり、また歴史的にさういふ因襲を有つてゐるだけに、この傾向は特に甚しい。宗匠と名づけられるその堂守りや僧侶の異なるに從つて、信條や偶像の作りかたにいろ/\の違ひはあるが、この態度は同じである。
 さてこの摸倣者の主として目ざすところはいはゆる風雅であつて、それは歌人や連歌師によつて昔から傳へられた因襲的花鳥風月趣味が根柢になつてゐるだけに、その歌人連歌師が知識として、もしくは概念として、それを取扱ひ、固定した型に鑄こんでしまつた、と同じ徑路を、この俳人の輩も辿つてゆくのである。勿論、蕉門に於いては歌人や連歌師の見つけなかつた自然界の風趣を捉へ、手近なところに詩趣を發見することを喜んだのであるが、それは詩人の天分を有し鋭敏な感受性を具へてゐるものに於いて、初めて期待せらるべきことである。だから多數の追從者に於いては、理窟に墮するか、または世間的人情味を結合するか、の二方向に外れてゆくのが自然の趨勢であり、後者にはまた往々教訓的意義が添加せられる。さうしてこの二つの方向は多くの場合に相伴ふものである。芭蕉の藝術の一(262)面には抒情味が頗る濃厚に存在してゐるのみならず、それから派生したものと認むべき道徳的傾向さへも附隨してゐたが、俳諧の形は本來純粹の抒情詩としてはふさはしからぬものであるから、一般の作者がそれを摸倣するに當つては邪路に陷るを免れ難い。一般に國民の氣風が萎縮して來た上に、文字の間から抽出せられた道徳的教化を世に施さうとする知識社會の傾向も、またそれを助けてゐる。
 次は「わび」の氣分であるが、これは多數の俗衆にとつては、文字の上と行爲の外形とに於いて摸擬せられるのみとなり、從つて虚飾の外に何物も無い僞りのわびとなるのが常である。滑稽味に至つては、思想の自由を失ひ、窮屈な、調子の弱い、生活をしてゐる當時の人士に於いては、纔かに低級な言語上の遊戯にそれを求める外は無いが、それは蕉風の既に一度び抛棄し去つたところであるのみならず、俳諧を漢詩や和歌と同樣な、世俗的意味に於いて上品な、ものにしようとする要求からも、排斥せられる傾向がある。(だからそれは概ね狂歌の領土に委ねてしまつた。)當時の俳諧に滑稽味の薄れて來たのはこれがためであつて、いはゆる蕉風はこの點に於いて風狂を生命とする芭蕉の藝術の根本の調子を失つてゐるのである。
 芭蕉から出てその名をさへ負うてゐる蕉風は、かゝる状態になつてゐたのである。それは芭蕉といふ個人の生活と元禄の空氣とによつて醸成せられた蕉風が、一般の俗衆、特に享保以後の世の中、に於いて當然享受すべき運命であつたのである。なほ技巧の上に於いては、種々の法式や規則を設けて煩冗な拘束を作者に加へる傾向が生じ、秘傳口授などをいふものさへ起つたので、これも中古の歌人の既に陷つた弊竇であるが、俳諧玩弄者の多數が知識の低いものであるために、それが一層強くなつてゐた。「其發句、※[食+丁]※[食+豆]響影、可觀者鮮、然而刻鵠不成、猶類鶩者也、至聯句、(263)則徒守株耳、斷不能出繩墨之外、」(三宅嘯山の俳諧古選總論)といふのは、三都以外の俳諧に對する批評ではあるが、今日から見れば三都とてもさしたる相違は無く、「蕉門の風雅は力なきものとのみ心にとゞめず」(大江丸俳諧懺悔文)といはれたのも、必しも輕佻なる流行の點取俳諧に心を奪はれてゐたためばかりではなからう。
 この傾向は江戸の雪中庵一派に於いても、またはいはゆる美濃派に於いても伊勢風に於いても、ほゞ同樣に認められるので、芭蕉の風雅の一面を傳へようとするものに取つては、特に陷り易き弊竇であつた。こゝにその代表者として同じく寶暦のころに名聲を騁せてゐた蓼太と也有との二人を擧げて見るならば、蓼太の「禮帳やまづ鶯とかき初めん」、「片袖は秋の風なり夏ころも」(白河關)、也有の「蠅が來て蝶にはさせぬ晝ねかな」、「來てほすはどこのしぐれぞ山がらす」、の類は、何れも因襲的花鳥風月趣味が理窟に墮したものであつて、和歌史上に於ける三代集の風體と遠く年處を隔てて互に此照すべきものであり、蓼太の「むつとして歸れば門の柳かな」、「我がものと手折れば淋し女即花」、また也有の「出代りや人浮雲の二日月」、「竹もまた子ゆゑに暗し木下闇」、の類は世間的人情味を結合した例である。蓼太の「毛蟲から人もかくあれ飛ぶ蝴蝶」、也有の「積善の肥しやきゝて福壽草」、の如きは、更に一歩進んで露骨な教訓文字となつてゐる。
 「名月のさがして照るや岩間水」また名高い「五月雨や或る夜ひそかに松の月」の如く、蓼太が好んで修辭上の擬人法を用ゐるのも、これと同じ根柢から生ずるので、「屈原にさうでもないと柳かな」といふやうな也有の句も、同樣である。端的の感情を直寫するでもなく、觀相として自然界を見るでもなく、概念化せられた一定の趣味を基礎として理智的の構想を加へ、或はそれを世間なみの人情や道徳觀處世觀に結合するのが、彼等の得意とするところであつ(264)たから、それには修辭上の擬人法が最も適切な表現の手段となる。それによつて外界の光景が主觀化せられるからである。しかしその主観化は理智化であり概念化であるから、そこで形成せられる十七字の句が詩として見らるべきものでないことは、いふまでもなく、その句法が往々説明的になりまた抽象的な觀念を排列することの多いのも、これがためである。特に也有の作の如きは、その大多數が單純な平談俗話を俳句の形で述べてゐるに過ぎないものである。彼等が何れも常識的であり、その思想が悉く陳套であるのも、この故であるので、蓼太が「鶯の笠さがしけり初時雨」、「掃きよせん君いざつくれ雪だるま」、の如く芭蕉の句を摸倣して得意がつてゐるのでも、也有が「若草やまだ井筒にもせの足らず」のやうに、古歌の意をそのまゝ取つてゐるのでも、如何にその着眼が因襲的であるかを知ることができよう。
 しかし彼等が蕉風の徒であることを標榜する以上、やはり「わび」に安んじ「寂しみ」に住することを示さねばならぬ。是に於いてか蓼太は「米ありやなしや薺の粥たかむ」といひ、「質に置くものに月あり年の暮」といひ、時にはまた「魂の入れもの一つ種ふくべ」(自像)と悟つたがほのことさへいはねばならぬ。火災にあつては「緋櫻を忘れて青き柳かな」と心にもなき風流を衒はねばならぬ。也有が俳席の掟を作つたのも、わざとらしい點に於いてやはり僞風狂の徒であることを自白するものであらう。だから滑稽趣味が二家に於いて殆ど存在しないのも當然であつて、猫の戀の如き滑稽的に取扱はるべき題材すらも、さうなつてゐない。也有の「みつけたり蛙に臍の無きことを」、「鬼灯を妻にもちてや唐辛子」、の如きは少しく滑稽味を帶びてはゐるが、或は故らに作つた句であり、或は句法が説明的であつて、それが十分に現はれてゐない。鶉衣に輯められた也有の俳文は一般にをかしみに富んでゐる如く考へられて(265)ゐるが、そのをかしみは、卑俗の材料と俚言俗語とをまじめらしく用ゐた點にあるのであつて、その思想は概していふと常識的であり、或はむしろ道學先生的村夫子的であり、滑稽の氣分の如きは毫末もそれに見ることができないではないか。俳諧歌の辨に於いて狂歌との區別を論じ、狂歌は言句にをかしみを求め俳諧歌は趣向に滑稽をこらすとやうにいつてゐるのを見ると、彼も俳諧の滑稽妹が言語の上にあるのではないことを解してはゐたらしく「煤はきの日とて立てたる据風呂によごれぬ旦那先へ入りけり」と世相を可笑しくながめてもゐる。が、そのいひかたは如何にも説明的であり、些の輕妙さも鋭さも無い。趣向にあるとしたのも、それを智的に見たことを示すものであらう。さうしてこれだけの滑稽味も彼の俳句には殆ど見當らぬ。かなりの社會的地位を有し、世間的の勤務を世間的につとめ、衣食に不自由の無かつた彼としては、深く人情の反覆世相の矛盾を思ひ知ることも無く、滑稽的に事物を觀察することもできなかつたであらう。言句にをかしみを求めることすら常識的の彼にはむつかしかつたらしく、時には「も一重で雨になるべし八重霞」の如く、貞門の句に於いて往々見るが如き言語上の遊戯を試ることがあつても、彼自身はそれを滑稽とは考へなかつたであらう。
 かういふ風體が蓼太と也有とに限らないことは勿論である。蕪村が春泥集の序に於いて巧みに人情世態を盡すと評した伊勢の乙由の「萍やけさはあちらの岸に咲く」、「鹿の聲心に角はなかりけり」、なども同樣である。嘯山が俳諧古選に「横にふる心なほるや春の雪」、「實櫻や忘れてとほる人ばかり」、といふやうな句を採つて、それ/\に讃辭を加へてゐるのを見ると、京攝の作者にもまたかういふものの喜ばれたことが知られる。「人情世態のをかしき句」を作つたといふ几圭の如きもまた同じ嗜好を有つてゐたのであらう(其雪影序參照)。勿論人によつて趣味はさま/”\であ(266)り、必しもかういふもののみが好まれたのではなく、俳諧古選にもいろ/\の句を採つてあるのみならず、その序にも「さびしみを古池の蛙にさとり、をかしみを道側のむくげに得て、」と芭蕉を讃し、蝶夢の俳諧語録にも滑稽を俳諧の要諦としてゐる先哲の言を擧げてゐて、滑稽味の重要なることをさへ説いてゐる。しかし當時の俳人がどれだけさびしみとをかしみとを體得したかといふと、それは頗るおぼつかない。彼等の作品にさういふ心生活の體驗の現はれてゐるものが殆ど見當らぬからである。
 しかし一方にはこれと少しく趣きを異にするものがある。蕉門に於いて別に一家の風格を具へてゐた其角の末流は、談林の餘脈とおのづから結合していはゆる江戸座(曖昧なまた不正確な稱呼ではあるが)の一風をなしてゐた。其角の豪放も談林の奔逸も無いが、幾分の機智を以て奇怪な觀念の結合をするところに特色があるので、作者の誇りとするのはその觀念の結合法、またそのいひ現はしかたにあつたらしい。その多くが強ひて作つたものであるため、輕妙なるべくして輕妙ならず、滑稽なるべくして滑稽ならず、往々謎のやうな句になつてゐる。僞風雅の徒、常識的の句、とは全く傾向を異にしながら、智的分子の勝つてゐることと多く人事を題材とするところとに共通の點があるので、そこに時代の趣味が見られる。湖十の一派が浮世風といはれてゐたのでも江戸座の俳諧の風調が知られよう。其角の門から出て談林の空氣のなほ遺つてゐる大坂に門戸を張つてゐた淡々も、またその群に屬するものであるが、蕪村から「等閑の輩にはあらず」(新花摘)と評せられただけあつて、幾らかの特色を有つてゐる。その最もよく目に着くのは「昨日今日初日春風窓の梅」、「月も弓つるが岡松男山」、などに於いて極端な例を示してゐる如く、テニヲハを省いて名詞を多く列べ、一語一語聯想によつて觀念を轉向させてゆくものであつて「あづまやのまやの産やのもちつゝじ」(267)(灌佛)、「夢なれや春なれや宿むかし國」、の如く、同音同語もしくは同じいひかたを重ねたものもあり、上に擧げた句にも見える如く、頭韻や冠詞やいひかけを用ゐたものも少なくなく、またこの「あづまや」や「高々と田園まさに蕪かな」の如く古句を取つてその意義を變へたものもあつて、そこに談林の餘韻がきこえる.種々の觀念を突如として結びつけると共に音調の上の用意もあつて、句法が頗る輕快である。但し上記の例や「またるすかされど孤山の夕霞」などによつても知られる如く、奇拔なのは主としてことばやそのつゞけかたであつて思想や觀察ではなく、中には殆ど意義をなさぬものすらあり、またその奇拔なのも強ひて工夫を加へた跡がある。さうしてそれがために光景を敍しても觀相をなさぬ句があるのは、自然そのものの美しさに感激したのではなく、それを材料として機智をはたらかせるところに興味を有つてゐた故らしい。けれども句法が緊肅してゐて冗漫の弊が無く、從つて一句の内容が豐富になりまた説明的でないのは、その長所であつて、やがて後の蕪村などの凰體を導くものである。「梅もどき未だ楊家の娘かな」のやうないひかたなども、蕪村の好んで用ゐたところではないか。が、一體にをかしみが閑却せられてゐ、談林の盛時の如き放縱な趣きも無い。この點は智的傾向の勝つてゐることと共に、彼が時代の子たる所以である。しかし、それと共に、型の如き「わび」を愛しまたは衒ふやうな樣子の無いのは、都會人、特に難波人、の氣風と彼の生活との現はれたものとして興味がある。蕉風の末流が僞風雅に墮しなければ實質に於いて蕉風を離れてゆくことは、これでも知られる。かの無腸(秋成)の如きもまた、西行宗祇のあとを追うた芭蕉の行脚生活を嘲つてゐる。
 
 芭蕉に遠ざかつてゆくもののあるのは、一面の意味に於いて蕉風の内部に於ける新気運の發生を促すものである。(268)俳諧は本來時と共に移つてゆく平民の文學であり、特に新しみを喜ぶのがその傳統的精神であるから、一方に於いて型がきまり生氣が無くなると共に、それがあまり甚しくなれば、微弱ながらもそれに對する反抗運動が現はれて、何等かの點に於いて幾らかの新味を出さうとするものが他方に起つて來るのは、自然の勢である。さうして國學の勃興に伴ふ古典研究の流行と漢文學の普及とは、外部からもそれを刺戟する。この刺戟をうけて起つた新風の代表者は蕪村であつて、師承の上に於いてやはり其角の系統を傳へながら、京に居を定めて談林の遺風のなほ存在する當時の上方の俳壇の空氣をも呼吸し、その間から釀成せられたのが彼の俳諧である。古典及びシナ文學の一般平民文學に及ぼした影響は既に述べたが、蕪村の句に平安朝の貴族生活とその餘韻のなほ遺つてゐる京の情趣とを尚慕する氣味があり、また古代語を多く使用してゐるのは、一つは京に住んでゐるといふ地理的事情にもよるが、この古典崇拜の思潮と關係があらうし、また往々シナ趣妹を寄託しシナの事物を題材にしたのも、一つは彼の南畫家としての地位に伴ふものであらうが、また周圍に於ける漢文學の流行と交渉が無いではなからう。彼自身が實に漢詩の參考すべきことを述べてゐる(春泥集序、十番左右句合)。嘯山の俳諧古選が漢文で書かれ、應擧から出て四條派の一流を開いた呉春が俳人月溪として蕪村の門人であるとともに、その繪畫にも幾らかは南畫から來たところがありげに見えるなど、シナ趣味と當時の俳諧との間には種々の交渉のあつたことを、考へねばならぬ。俳句は和歌漢詩と同樣に取扱はれることを要求してゐるのであるから、この二つから得たところのあるのも怪しむに足らぬ。この點に於いては蕉風そのものの發生した當時の事情と頗る趣きを同じうしてゐる(前篇第七章參照)。一般の文化が停滯し社會が固定してゐて、その間に於ける生括が單調である場合に於いて、少しなりとも人心に變化を與へるものとしては、書物によつて與へら(269)れる知識の力が大きいからである。しかしかういふ事情によつて現はれた文藝が國民の日常生活と縁が薄いのは當然であつて、それは馬琴一派の小説に於いても示されてゐるが、蕉風の俳諧には超世脱俗の趣味があるから、文字の上から來た思想がそれに結合せられても、小説に於ける如き甚しき矛盾を感じない.同じシナ趣味でも馬琴輩の摸倣するところが小説であるとは違つて、これの私淑するところが詩と畫とにあるのは自然の傾向である。
 蕪村の尚古趣味は、繪卷物のやうに美しく春の霞の如くに暖い情味を以て詩化せられた、平安朝的氣分の憧憬である。「烏帽子きて誰やら渡る春の水」、「指貫を足でぬぐ夜や朧月」、「衣がへ母なん藤原氏なりけり」、または「秋立つや素湯香ばしき施藥院」、「名月や神泉苑の魚躍る」、「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」、「雪白し加茂の氏人馬でうて」、必しも遠い過去の平安朝人の生活を題材としたのではないとしても、この懷かしい昔の夢の世界を思ひ浮かべて初めて興趣の湧き出づる句である。烏帽子も指貫も江戸時代の平民であるからこそ興趣がある。平安朝の貴族に於いては日常生活の用具であるから、かういふ詩興がそこからは得られない。これらの句が尚古趣味の現はれである所以はここにある。或はまた「春の夜に尊き御所を守る身かな」、「瀧口に燈を呼ぶ聲や春の雨」、御所には特にこの歴史的情趣が伴はねばならぬ。「命婦より牡丹餅たはす彼岸かな」と命婦の一語によつて世のつねの彼岸の行事が詩化せられるのも、この故である。「短夜を眠らでもるや翁丸」といひ「梶の葉を朗詠集の栞かな」といひ「弓取に歌とはれけり秋の暮」といひ、かりそめの一語にも故事を聯想し古代人の情趣を髣髴させる文字を用ゐてゐることを見るがよい。「しぐるゝやわれも古人の夜に似たる」、時雨の風致もさることながら、それによつて古人の境地をさながらに味ひ得るところに、特殊の感興があるではないか。彼が好んで歴史的光景を題材とするのも、その根柢にはやはりこの趣味があ(270)るといはねばならぬ。その他「春を惜む座主の聯句に召されけり」、「短夜や暇たまはる白拍子」、などにも、廣い意味での尚古思想が伴つてゐることは疑があるまい。
 この趣味は彼の門人にも傳へられてゐるので、「曲水や江家の作者たれ/\ぞ」、「雛の宴五十の内侍醉はれけり」(以上召波〕、「正月や※[月+并]いたましき采女たち」、「春の夜や連歌みちたる九條殿」(以上几董)、などに於いてそれが見られ、「梅に月朗詠歌ふ人あらん」、「曲水に秀句の遲參氣色あり」(以上曉臺)、などの如く、蕪村の交友の間にもまたこの風がある。特に曉臺には「鳥羽田には時雨ふるらし水菜船」、「西寺の櫻告來よ老鼠」、の如く古歌謠古物語中の成語を用ゐたものが頗る多く、「昨日見し妹がかきねの花あやめ」の如く歌の上半句とも見なされるものがあり、京の情趣を寫したものも少なくない。かういふ古典趣味は當時の上方の俳人の間には一般に流行してゐたらしい。「蝙蝠や古き軒端のしのぶより」(闌更)などもやはり古歌をとつたのであるが、これはやゝ言語上の滑稽に類する。「竹の子やあまりてなどか人の庭」、「ちぎりきなかたみに澁き柿二つ」(以上大江丸)、の類に至つては、全く談林の風體であつて尚古思想とはいひ難いが、古歌の利用の好まれた點に於いて、この風潮と些の接觸を有つてはゐる。
 蕪村の他の一面にシナ趣味のあることもまた周知の事實であつて、「秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者」、「採蓴を諷ふ彦根の※[人偏+倉]父かな」、の如きがそれである。「愁ひつゝ岡に登れば花薔薇」、「行き/\てこゝに行き行く夏野哉」、の如きは、或はその着想に於いて或はそのいひかたに於いて、常に詩を友としてゐるものの作である。「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」が唐詩式の誇張で「白梅や墨芳はしき鴻臚館」がシナ式文人の趣味を現はしてゐることはいふまでもなく、「二もとの梅に遅速を愛すかな」もまたシナ式隱者の氣分であらう。「鯨賣市に刀を鼓らしけり」もシナの市井の光景(271)を思はせる。「秋風の呉人は知らじ鰒と汁」、「易水にねぶか流るゝ寒さかな」、なども、シナの地名を取つたばかりではない。その他、唐詩の成語などを用ゐた例もあろが、それによつてシナ的風光の聯想せられる場合がある。けれどもこの種の句が數に於いて少いことは、幾分の日本化を試みたとはいへ、南畫家たる彼としてはむしろ怪しまれるほどであつて、彼の俳諧と彼の繪畫とは頗るその情味を異にしてゐるやうに見える。それが何故であるかは且らく措いて、著者は「かな書きの詩人」と評した無腸の言の頗る失當なるを感ずるものである。
 さてこのシナ趣味も、古典思想ほどでないことは勿論たがら、幾らかは蕪村に親しい俳人を動かしたらしく、「晉人の味噌の洒落や蕗の薹」(召波〕、「菜の花やかへりみすれば邯鄲里」(曉臺)、の如き句があり、「何を釣る沖の小舟ぞ笠の雪」(召波)、「梅折りて僧歸る方は雪深し」(曉臺)、の如きも、シナ畫中の光景であらう。「梅さくや馬の糞道江の南」、「春の雲ゆく/\鶴に後れたり」(以上無腸)、なども、或は江南の語に於いて、或は鶴を倩ひ來つた點に於いて、シナ趣味が加はつてゐることはいふまでもない。但し「たんぽゝヤ五柳親父のしたしもの」(几董〕に至つては、たゞこの昔の隱者の名を點出したに過ぎない。
 さて蕪村のこの尚古趣味と漢詩から來た思想とは、相距ること頗る遠いもの、むしろ相反する性質のものである。前者が春の句に後者が秋のに多いのもこの故であつて、これは作者がよくその情趣を解してゐたことを示すものであると共に、またそれが深く自己の詩人としての資質、自己の體驗、に根ざしてゐないことを語るものではなからうか。概觀すると蕪村の趣味は頗る廣い。「片町にさらさ染るや春の風」、「廣庭の牡丹や天の一方に」、の如く彼は濃艶と富贍とを喜ぶと共に、また「夕風や水青鷺の脛をうつ」、「蕭條として石に日の入る枯野かな」、の如き瀟洒たるもしくは(272)落莫たるながめをも愛し、「春雨や小礒の小貝ぬるゝほど」の小さな風情を見つけると共に「霜百里舟中に我れ月を領す」の大きな光景をも領略してゐる。「金屏の赫灼として牡丹かな」の豪華、「庭の月あるじをとへば芋ほりに」の野趣。「匂ひある衣もたゝまず春の暮」には一味の春愁を帶びてゐる女性的優婉があり、「痩脚の毛に微風あり衣がへ」にはやゝ豪壯の趣きさへも感ぜられる男性的輕快がある。長閑けさには「轉ねの覺むれば春の日くれたり」といひ、殺氣ある光景には「鞘走る友切丸や郭公」といふ。大宮人と共に漁夫や農夫をも取り入れ、西行や宗祇と共にお夏清十郎をもすてない。戀に關したものには「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の類もあるが、「返歌なき青女房よ暮の春」には幾らかの春恨が寄託せられてゐる。その他、「細腰の法師そゞろに踊りけり」と世すて人も浮かれて踊るその手拍子足拍子に興じもするが、さりとて「木曾路ゆきていさ年よらん秋ひとり」といひ「居眠りて我にかくれん冬籠」といふやうな、芭蕉に於いて見られる如き境地をも解し得る。さうしてまた「この里の人は猿なり冬木立」の類の輕い滑稽味をさへ具へてゐることを思ふと、蕪村が如何に多方面にその鋭敏な感受性をはたらかせてゐたかが覗ひ知られる。芭蕉などは到底その比ではない。かの畫家たる蕪村と俳人たる蕪村との十分に一致してゐない場合があるのも、またこれがためではあるまいか。彼は種々の異つた情趣を同じやうに味はひ得るといふ風の詩人であつたらしい。
 蕪村のこの性質は彼の作句の法とおのづから一致する。彼はすべてを觀相として繪として寫してゐる。「すてやらで柳さしけり雨のひま」といひ「春の夕たえなんとする香をつぐ」といひ「この冬や紙衣きようと思ひけり」といふ類も、さ*ういふ事實、行爲、もしくは情懷、を客觀的存在として思ひうかべてゐるのである。「討ち果たすぼろ連れ立ちて夏野かな」、「西行の夜具も出てある紅葉かな」、の如く、想像したり推測したりするやうな語句を加へず、明白な(273)事實としてそれを敍し、「乾鮭や琴に斧うつ響あり」の如く比喩を比喩といはないのも、やはりこれと同じところから來てゐる。觀相として事物を寫すことは前篇に述べた如く俳句に自然な傾向ではあるが、蕪村はこの點に於いて最も徹底的であや、さうしてそれが極めて巧みであつて、「四五人に月落ちかゝる踊かな」(畫賛)、「水鳥や提灯遠き西の京」、などに於いて、その一斑が覗はれる。それには或は彼の畫家であつたといふことが助をなしてゐるかも知れぬ。のみならず、それはまた彼が人生に對しても自然に對しても常に保持してゐる傍觀的態度と關係がある。この態度もまた俳諧の由來をなすものであつて、その滑稽味もまた半ばこゝに根ざしてゐるが、談林の徒は、根柢の思想に於いては世外に超然としてゐながら、世を愚にする點に於いて現實の自己を強く表出してゐるし、蕉風に至つては自己そのものをも傍觀的にながめる點に於いていはゆる風狂の氣分がそこから生ずると共に、外界を自己の情懷の反映として見る點に於いて一種の抒情味を具へて來、それが一轉すると也有蓼太輩の如く世間的人情味を加へるやうにもなつたのである。ところが蕪村はこれらの何れでもなく、自己の實生活とは交渉の無い夢と幻とを眼前に髣髴させて、それを賞美してゐるのである。彼の俳句はこの意味に於いて全く遊戯的であつて、芭蕉の句が彼の心生活の表現であるのとは大なる違ひがある。さうしてこの點では彼の南畫が遊戯的であるのと通ずるところがある。彼の夢の世界がかなりに豐富な色彩を有つてゐて、芭蕉の單調なのと違ふ所以もこゝにある。
 けれども蕪村は決していはゆる寫實主義者ではない。(純粹の寫實は事實上あり得べからざることである。)彼は或る幻影を客觀的存在として描寫はするが、その幻影はどこまでも彼みづからの作つたものであり、更に一歩進んでいふと、その幻影は、畢竟、或る氣分、或る情調、を表現するための具たるに過ぎない。「肘白き僧の假寝や宵の春」と(274)いひ「春雨や人住みて煙壁を洩る」といひ、或は「春の海終日のたり/\かな」といひ、必しも春の海を寫しまたは夕げの煙や僧の肘の白さそのものを賞でるのではなく、むしろそれらの光景によつて現前せられるさま/”\の春の情趣を懷かしんだのである。くつきりと浮き出してゐる肘の白さを見つけたことなどは、近代人にとつても甚だ興味があるが、この句に於いてはそれが主になつてゐるのではない。この點に於いて彼の句は一種の氣分藝術ともいふべきものであつて、そこに蕉風の俳諧の一面を傳へたところがあり、また彼の好んで畫いた南畫と共通な性質もある。彼の尚古思想もシナ趣味もまた同樣であつて、必しも平安朝人の生活やシナの風景そのものを尚慕するのではなく、彼の夢みてゐる平安朝的氣分やシナ的情味に心がひかれたのである。よしまた或る眼前の光景そのものに興趣を見出した場合にせよ、その光景は彼自身の氣分をとほして、またはそれによつて、認め得たところのものであることは、いふまでもない。だから彼の句を見ると、單にそれに描かれてゐる事物が鮮かに讀者の前に展開せられるのみならず、否むしろそれよりも、作者の氣分が夢の如くにそれを包んでゐるのが感ぜられる。彼が頗る空想的であるのもこのことと關係があるので、歴史的の題材を取扱つた一半の理由もこゝにあらう。「公達に狐化けたり宵の春」、「猿どのの夜寒訪ひゆく兎かな」、の如く、往々動物を捕へて來るのも同じ傾向の現はれである。
 ところがこの氣分を形づくつてゐる基調は、概して書物の間から養はれて來た因襲的のものである。芭蕉の句にも古典趣味とシナ思想とが要素をなしてゐたのであるが、その古典趣味の目あてとするところは、彼自身の體驗上、西行宗祇と鎌倉以後の連歌とに限られねばならなかつたのに、何ごとに對しても感受性を有つてゐる蕪村は、その上に更に芭蕉が解し得なかつた艶麗なもしくは華やかな情趣、いはゞ一種の平安朝的氣分をも喜んだ。が、既に因襲的である(275)以上、その趣味にも題材にもおのづから限界があるので、特に四季の風趣については殆ど動かせない規範が存在してゐる。事實は春の雨にも悽愴なる感じのある場合が少なくなく、秋の日かげも長閑な心もちを誘ふことがあるのに、春雨といひ秋風といへばそれに伴ふ趣味は因襲的に一定してゐて、その外に出ることが許されてゐない。その因襲とても本來自然の風物から得た感じに本づいたものであるから、概していふと妥當であり、また短い詩形の俳句に於いては、かういふ因襲的趣味を背後に有つてゐることが作句の上に便利でもあるので、いはゆる季題といふことがそこから生ずるのであるが、その代り、前篇にも述べた如く、新しい情思の表現を妨げるものであることも明かである。蕪村の趣味は廣いけれどもこの範圍から離脱したのではない。彼が好んで人事を題材としたのは、或はこゝに一由來があるかも知れぬ。自然界に對して新しい觀察をすることは困難であるが、變化極りなき人事をそれに配合すれば新味は限りなく湧いて來るし、新しい幻影は幾らでも作り出されるからである。歴史的人物を捉へて來ることの多いのも、一つはそれに關係があらう。
 蕪村の句に純粹に自然の光景を敍したものは甚だ少く、多くはそれを人事の背景とし、もしくは人の生活の或る空氣を以てそれを包み、或はまた自然と人事とが渾然として融合するところに、特殊の情趣が※[酉+媼の旁]醸せられてゐる。如何なる自然も見るものの氣分をとほして人の目に映ずるものであることは勿論ながら、描寫の態度には自然を自然として取扱ふ道があるのに、蕪村はさういふ道をとらなかつた。「山に沿うて小舟漕ぎゆく若葉かな」、「よらで過ぐる藤澤寺の紅葉かな」、の如く觀る者の行動を敍し、「古寺の藤あさましき落葉かな」の如く評語を加へ、「懷かしき紫苑が下の野菊かな」のやうに好惡の惰を述べ、または往々擬人法を用ゐ、「鶯の麁相がましき初音かな」の如き、一歩を轉ず(273)れば殺風景な蓼太式俗俳諧に墮する虞れのあるやうな、ものをさへ作つてゐるのを見るがよい。よく俳味を失はずまたよく春の田舍の自然の情趣を寫し得て、而も巧みにやぶ入りの女の途上の情懷を詠じてゐる、春風馬堤曲の一篇に至つては、この作者が抒情詩人としての優れた資質を有つてゐることを示すものである。或はまた「ゆく春やおもたき琵琶の抱きごヽろ」に、ゆく春の輕き恨みが現はれてゐ、「鮓おして暫しさびしき心かな」には、事をなし了へた後の氣のゆるみとそれに伴ふ一種のさびしさとが見えてゐることを知るものは、作者の心理觀察の頗る鋭敏であることを感ずるであらう。
 けれどもこの方面に於いてもその見かたは殆ど定まつてゐるので、例へば農についても「春の水せとに田作らんとぞおもふ」、「麥まきの影法師長き夕日かな」の如くそれを遊戯的に取扱ひ、もしくは畫裡の景として眺め、農業または農夫生活を農夫自身になつて描かうとは決してしない。「菜の花や筍見ゆる小風呂敷」などは田園の長閑な好風景であり、農家生活の一側面でもあるが、どこまでも外部からそれを見てゐる。のみならず、同じく人の生活を畫として見るにしても、繪卷もの式または南畫式光景に限られてゐるので、自由な眼でそれに對することができず、あらゆる社會に於ける日常生活を生活そのものとして寫し出すわけにはゆかなかつた。かういふ遊戯的傍觀的態度で見られてゐる生活が、鋭さと強さと深さとに乏しく、すべてが柔かい優しい或はあどけない、さうして夢のやうに淡い、また繪のやうに平面的の、ものになるのは、自然の勢である。極めて稀には「子を捨つる藪さへ無くて枯野かな」、「首縊る繩きれも無し年の暮」、といふやうなものをも作るが、子をすて首を縊らねばならぬほどに切迫した氣分が句の上に現はれてゐないではないか。「かりそめに戀をする日や更衣」は、眞にかりそめの戀であつて毫も痛切な情が無く、(277)「逢はぬ戀おもひきる夜や鰒と汁」も、むしろ滑稽味を帶びてゐるし、「腹あしき隣同士の蚊やり哉」も、その蚊やりの烟にむせぶほどの苦しさすら無く、輕い心もちで腹のわるさを眺めてゐる。「門前の老婆子薪貪る野分かな」の如きも、たゞその慾深婆を輕い興味を以て見てゐるに過ぎない。だから「やぶ入の夢や小豆の煮ゆるうち」、「麥蒔や百まで生きる貌ばかり」、などが皮肉にも諷刺にもなつてゐないのは當然である。その滑稽味とても、談林の如く世の裏面を發いて手をうつてその醜陋を笑ふといふのではなく、芭蕉の一面に存する如く我みづから我れを滑稽視するでもなく、「木曾殿の田に依然たる案山子かな」、「西行は死に損うて袷かな」、などの輕い滑稽の例も甚だ少い。さうして「炭團法師火桶の穴より窺ひけり」の如き子どもらしい觀察、或は「徳鈷鎌首水かけ論の蛙かな」といひ「茯苓は伏しかくれ松露は露れぬ」といふやうな言語上もしくは文字上の淡泊なしやれが目につく。
 かういふ輕い調子で人生を見てゐるのであるから、彼が上にも述べた如く「わび」の境地を領解しそれに一味の同感を有つてはゐながら、それが芭蕉の如く彼の詩人生活の基調とならなかつたのは當然である。「嵐雪と蒲團引きあふわび寢かな」、「鬼貫や新酒の中の貧に處す」、それを興がつてゐるのに無理はないが、「鍋しきに山家集あり冬籠」にはむしろ造作の嫌のあるのを見るがよい。芭蕉の風狂は芭蕉の人格から出たものであるが、蕪村の句に現はれてゐる寂しさとわぴしさとを愛する心もちもまたその滑稽味も、たゞ彼が詩人として理解し共鳴し得たにとゞまるので、それは他の豪快を喜び艶麗をめでるのと同樣である。芭蕉は自己の體驗そのものを十七字詩に表現したのであるが、蕪村は客觀的に存在する如何なる情味をも自己に同化し得て、それを句の上に飜譯したのである。蕪村は詩人ではあるが芭蕉の如き哲人ではない*。
(278) 蕪村の作と彼の俳人としての地位とは、かくの如きものではあるまいか。彼が人として強い自己を有つてゐなかつたこと、如何なる趣味をも領解し得たこと、但しそれが因襲的であり文字の上から得た知識的要素を多く含んでゐること、並に彼の態度が遊戯的であること、これらは何れも反覆述べて來たこの時代の通相と一致するものであり、題材に於いて純粹の自然界よりもむしろ人事に重きをおいてゐることも、也有や蓼太に見える傾向と、その態度は全く違ふけれども根本の精神に於いて、相通ずるところがある。從つて蕪村と同時代の他の俳人もまた、それについて幾らかづつの共通點を有つてゐる。思想の因襲的であることは一般俳人の常であるのみならず、多くは蕪村の如く、それを基調としてまたその範圍内に於いて、なし得る限りの自由な觀察を試み豐富な空想にそれを織りこむことができず、概して摸倣と踏襲との譏を免れないが、それでも時々は興味ある描寫に接する。特に優れたのを撰んだわけではないが、「白雲や雪解の澤へ映る空」(太祇)、「春雨や伊勢海老動く籠の中」(曉臺)、「そら豆や白つゆに花の小紫」(大江丸)のやうた自然の觀察もある。特に大江丸は「春さびし蕗の古葉に夜の雨」といひ「泣くとばかり聞きなば蟲の笑ふべし」といふやうな、幾分か因襲的趣味をはづれた句をさへも作つてゐる。
 人事趣味の勝つてゐることもまた蕪村と同樣で、「若菜野や赤裳引ずる雪の上」(闌更)、「人戀し燈ともしころを散る櫻」(白雄)、「花盛りさゝらに狂ふ聖あれ」(曉臺)、「切つてやる跡のあいたる牡丹かな」(大江丸)、などにその例が見える。「蚊はつらく蚊やりいぶせき浮世かな」、「落ちぶれて關寺謠ふ頭巾かな」(以上几董)、も世相を詠じながら理窟に墮せぬところに蕪村の感化がある。「頭巾くれし妹かりゆく夜霙ふる」、「凍え來し手足うれしくあふ夜かな」(以上几菫)、の如く、戀する人自身の情懷を直敍したもののあるのも、俳句としては珍らしいが、「鉢叩き今は昔の忍(279)び路や」(曉臺)、「春や昔出口の柳見てかへる」、「おぼろ夜やわれも昔の男ぶり」(以上大江丸)の類の、遊蕩生活に關するものは更に興味がある。大江丸は談林の遺風を承けてゐるだけに「吉田屋の蚊に食はれけり伊左衛門」とその遊蕩生活を茶化してもゐるが、「傾城にならうよ夢の喋よりは」と遊女に一種の興味を有つてもゐたので、それを題材にしたものが頗る多い。大江丸が老いてからも遊女の美を讃美したことは「あくがれの三月四月」に見えてゐる。几董にもまた青樓曲として「月今宵やりてが歌の昔ぶり」なぞの作がある。なほ大江丸の「老を泣く猫もあるらん春の月」、「雨の蛙あるは妻戀ふ夜もあらん」、などもまた少しく蕉凰俳人の常套を脱してゐるが、この大坂の市人にしてなほその市人生活もしくは市街の光景を題材としたものが多く見あたらず、「花の春萬里一條の松飾」、「海棠やかたげて過る日本橋」、「長松が親と申して西瓜かな」、または「大坂や祭のあとの秋の風」、などに僅少の例を示してゐるに過ぎないのは、やはり俳諧といふものの因襲的趣味を脱し得ないからであらう。
 しかしかういふ人事趣味は、ともすれば蓼太式の俗調に陷り易いので、「藪入や木履ふみかく人ごゝろ」(曉臺)、「世の中を知れ羽子板の裏表」(白雄)、「名月や座頭の妻のかこち顔」(闌更)、などがそれである。「冬ごもりとかくして世の情に落つ」(曉臺)るのが彼等の傾向であつた。擬人法も往々用ゐられ、「花の醉さましに來たか夕つばめ」(同上)の如きものさへある。なほ蕉凰の特色とせられてゐる「わび」の氣分についても、因襲的にそれを重んずるのは常のことであり、白雄が寂栞に於いて古池の吟と木槿の句とを擧げ、このこ句を蕉門の奥儀といつてゐるのは、多數俳人の意見を代表するものであらうし、彼の「茶の花に喩へんものか寂栞」といひ「月は花は今日は時雨の翁かな」(芭蕉忌)といつてゐるのも「わび」の讃美であらうが、それと上に擧げた世間的人情味との關係は明かでなく、彼(280)等のかういふ態度は蓼太などと同じ性質のものであつたことが推測せられる。これらは蕪村とは大に趣きを異にする點である。蓼太を先輩と仰ぎながら大江丸にこの僞風狂の跡が無いのは、やはり大坂の市人であるのと談林的傾向とのためであらうか。
 最後に蕪村の句法について一言しておく。俳句は三句十七音によつて成りたつ短詩形のものであるから、僅か一音一語の用ゐかた少しのいひかたの違ひでも、その全體の情趣に大なる隔たりが生ずるので、句にはその思想内容(蕪村のいはゆる意匠)と共にいひかた(いはゆる調聲)が大事であり、從つてそこからいひかたの内容に適切であることが要求せられる。芭蕉が調はずんば舌頭に千轉せよといつたのもこのことであらうが、蕪村も、句の評や添削または自己の句の推敲の跡を見ると、この點に細密な注意をしたことが覗ひ知られ、歌に於ける景樹の調べの説がそれについて聯想せられる。俳句が日本語の特色を如何にはたらかせ、またそのはたらきに如何に寄與したかも、このことに現はれてゐる。もつとも彼は單語としての漢語を多く用ゐ、時には漢詩に見える如きシナ語の修辭法を學び、そのために短詩形の割合に内容を充實させることができたが、それとても日本語の語法に轉化させてのことである。なほ彼はテニヲハを少くし種々の省語法をも用ゐたので、それによつてやはり句の内容が豐富になつてゐる。「山蔭や誰呼子鳥引坂の音」、「東雲や露の近江の麻畠」、などがその例であつて、この點では歌に於ける新古今調を想起させるものがある。さうしてその方法が巧みであれば、それはおのづから讀者の想像に委ねる部分を多くすることになつて、いはゆる餘韻をそこにのこす。彼の句が一種の氣分藝術であるのは一つはかゝる技巧の力によるところが多い。さうしてそれは漢詩の讀みかたからも來てゐるが、また談林の影響もあらう。「忘るなよ程は雲助郭公」、「閑古鳥可もな(281)く不可もなくねかな」、などに談林的要素があるのを見るがよい。「立去ること一里眉毛に秋の峯寒し」の如きも、また或る時期の談林に流行した口調である。蕪村は意あつてそれを摸倣したのでないにしても、同じ要求から同じ技巧が生れたのだとはいはれよう。几董や召波に往々談林調に近いもののあることからも、蕪村の趣味の一面が覗はれる。さて漢語を用ゐ漢詩の讀みかたに倣ふことは、他の俳人にもあるので「城春にして菜の花咲きぬ外廓」、「花に歎きまた花を呵す天龍寺」(以上曉臺)、などがそれであるが、これは或は蕪村の感化かも知れぬ。「杉暗し五月雨山に風薫る」(曉臺)、「またひとり春の八重山人もどる」(闌更)なども、その緊肅した句法と造語とに於いて蕪村と同じ傾向を示してゐる。「朝には紅顔の桃夕烟」、「菊同じからず然るに作る人」(以上大江丸)、の如きも、この群に入るべきものであるが、この作者にはまた「花とぴ蝶驚いて袷きたりけり」、「春の夜のゆめ/\油断すべからず」、の如き純然たる談林調が少なくなく、それと共に「扨はあの京の鶯呼ぶかいの」、「雁はまだ落ちついて居るにお歸りか」(一茶送別)、といふ類の鬼貫調もしば/\見うけられる。「宗因の風致を思ふ」(俳諧懺悔)とみづからいつてゐる大江丸が談林を喜んだのは當然であるが、才人たる彼が必しも一體に拘泥しなかつたことは、これらの僅少の例からも推測せられる。彼にとつて俳諧が遊戯であつたことはいふまでもないが、俳人としては決して「等閑の輩」ではなく、蕉風の單調と平凡とにあきたらず、談林に趣味を有つただけでも注目に値する。さうしてこれは蕪村に於いてもまた認められるところである。彼の俳諧に對する態度の遊戯的であることが、既に談林と一脈の相通ずるところである、といつてもよからう。上方に談林の空氣がかなり濃厚であつたことは、前にも述べておいたが、自由な氣象のある談林の遺風が澁滯した蕉風の世界に一道の生氣を與へたのは、意義のあることである。
(282) 蕪村は女流の句に或る關心をもつてゐたやうであつて、玉藻集を撰んだのもそのためであらうが、それに因んでここに附記しておきたいのは、女流の作者に女らしい特色のある句が幾らか發見せられる、といふことである。時代は少し早いが「はや膝に酒こぼしけり更衣」、「負うた子に髪なぶらるゝ暑さかな」(以上園〕、「鶯や手もと休めん流しもと」、「うたがるた憎き人かな郭公」(以上智月)、などの例もあり、千代に至つては「蝶々や女子の道の跡や先」、「涼しさや恥かしいほど行き戻り」、といふ類のものが家集に散見する。句の價値は別として、自己の生活が少しなりとも句の上に現はれてゐる點に於いて、平民文學としての俳句の地位が示されてゐる。歌に於いては女の作家にもかういふ類のものが極めて少いことと、對照するがよい。
 
(283)    第十章 文學の概觀 七
       俳諧 下
 
 蕪村の後、彼とは正反對の地位に立つて俳諧史上に特殊の光彩を放つてゐるものが、俳諧寺一茶である。生きてゐる時代には、蕪村が上方俳壇の中心人物として名聲四方に聞え、幾多の門弟と友人とを有してゐたのに反し、一茶は成実の如き友と幾らかの社中とを有し、諸方に行脚してかなりの知人を得たには違ひなかつたけれども、概していふと片田舍の一俳人として、俳壇にさまで重きをなしてゐたらしくはないが、今日から見れば啻に當時に於けるのみならず、また啻に俳人としてのみならず、我が国民文學の歴史に於いて、これほど特異の地位を有つてゐる詩人は殆ど比類が無い。近代に至つて地下の一茶が新なる多くの崇拜者を得たのは、當然である。しかし且らくそれを一個の俳人として蕪村と對照すると、かれが京にゐて京の情趣を濃やかに措寫したに反し、これは信濃の田舍にゐて田舍生活を細敍してゐる。かれが自然をも人生をも繪として眺め、傍觀的態度を以てそれに對してゐるに反し、これに於いてはすべてが抒情詩であり、自己の情懷の直接の表出である。かれに知識から得た要素が多く、むしろそれが俳諧の基調をなしてゐるのに、これは自己の體驗を以て一切を實通してゐる。かれが空想的であるのに、これは徹頭徹尾現實に立脚してゐる。かれが俳諧を遊戯としてゐるに反し、これに於いてはそれが自己の心生活の本眞の叫びである。かれが自己を藝術の上に現はさないのに對し、これは常に強烈なる自我を面前に抛向する。かれが人の生活をも畫裡の點景視するに對し、これは動物をも自己と同じ生命のある情意のあるものとして取扱ふ。かれは特殊の修養を經た成(284)人であるのに、これはむしろ直情徑行な赤裸々の小兒である。彼が古語や漢語を多く用ゐるに反し、これは日常の口語に重きをおき、かれが詩歌を引據とするに反し、これは往々俚諺俗謠を取る。二人の生活と藝術とは、これほど對角線的に反對してゐるのである。けれども一茶はまた芭蕉とも違ふ。彼は芭蕉と同じく體驗の詩人であるが、芭蕉が現實の社會と人生とから離れて別に風雅の世界を開き、そこに風狂の生を送つたとは反對に、一茶は現實そのものに生きてゐる。しかし蕉風の末流が概念化せられた世間的人情味を抽象的に説明してゐるに反し、一茶は嚴肅なる事實として端的に自己の感情を瀝瀉し、而もそこに人生の核心を確實に把握し、永遠なる宇宙の生命の溌剌として現はれてゐるものがある。一茶が芭蕉と共に詩人たるを得るはこの故であつて、そこに彼の眞の價値がある。
 一茶の俳句はすべてが抒情詩であり、彼の感懐の直接の表出である。「元日や上々吉の淺黄空」、「元日も立のまんまの屑屋かな」、「あばらやのその身そのまゝ明けの春」、「先以て別條は無し今朝の春」、「めでたさも中位なりおらが春」、去年生れた子に膳をすゑては「這へ笑へ二つになるぞ今朝からは」といひ、重病の快癒した翌年には「今年からまる儲けぞよ裟婆の春」といふ。正月元日の作からがこの調子である。「睦ましや生まれかはらば野邊の蝶」、「我が庵や蛙初手から老をなく」、「親といふ字を拜むなり衣がへ」、「盂蘭盆の月願ひしは昔なり」、「妻やなきしわがれ聲のきりぎりす」、「生き殘り/\たる寒さかな」。四季をり/\の風物と行事とについても、一々に作者の感慨が現はれてゐるではないか。亡き父を思うては「父ありてあけぼの見たし青田原」といひ、その墓に詣うでては「息災でお目にかゝるぞ草のつゆ」といひ、妻に後れては「爐開てみてもつまらぬ獨かな」と身の上をわび、母なき我が子を見ては「幼子や笑ふにつけて秋の暮」と我をも子をもあはれがり、子を失うては「露の身はつゆの身ながらさりながら」と歎ずる(285)類は、勿論のこと、妻を娶つては「逃しなや水祝はるゝ五十聟」と興がり、その妻に對しては「吾が菊やなりにもふりにもかまはずに」と喜ぶなど、常人のいひ難しとすることをも直截に且つ淡泊にいつてゐる。その他、故郷にゐては「我が里はどう霞んでもいびつなり」といひ、その故郷の人の心ざまを見ては「故郷は蠅まで人を刺しにけり」といひ、都會に對しては「江戸櫻花も錢だけ光るなり」、「初螢都の空はきたないぞ」、といふ。或はまた獨り住んでは「衣かへて坐つて見ても獨りかな」、「まつ時は犬も來ぬぞよおこり炭」、と寂しがり、自由を欲しては「小菊なら縄目の恥は無かるべし」と莊子めいた感慨をもらし、「下々に生れて夜も櫻かな」と平民のありがたさを誇り、さてはまた「我庵は草も夏やせしたりけり」と我が身の貧を憐んでゐる。彼の句集はそのまゝ直ちに彼の自敍傳に外ならぬものである。凡そ三百年の俳壇に於いてかくまでに自己の感懷を、その世に對し人に對する好惡の情さへも、率直にまた端的に道破したものは他には一人もあるまい。のみならず、彼はいはゆる風雲月露に對しても、花鳥の色につけてもねにつけても、すぐに彼の社會觀と人生觀とを直敍する。「小うるさい花の咲くとて寐釋迦かな」、「庵の梅よんどころなく咲きにけり」、「霞みけり憎い宿屋もあとの村」、「かう生きて居るも不思議ぞ花のかげ」、「雁ゆくや人のかれこれいふ中に」、「撫子や人が作ればなほ曲る」、「人の世は月も惱ませ給ひけり」(月蝕)、「世の中は泣く蟲さへも上手下手」、「なくな蟲だまつてゐても一期なり」、の類、列擧すれば限りがない。この一事に於いても彼は古今獨歩の俳人である。一茶のこの特質は、彼が生涯を通じて、純な感情を失はなかつたことから來てゐる。書物から得た知識のためにそれが弱められず、世渡りのためにそれが濁されず、その心生活にごまかしや矯飾が無く、どこまでも生一本であつたからである。「二百十日田中の旭拜みけり」、あらしも吹かずして靜かに明けゆく二百十日の美しい朝日を拜み、田舍(286)人の敬虔を以て心からの感謝を捧げたのも、この故であり、「明月や寢ながら拜むていたらく」(病中)と月を拜むといつたのもまたこの心もちからである。「もたいなや晝ねしてきく田植唄」といひ「田の人よ御めん候へ晝ね※[虫+厨]」といふのも、同じ感情の發露であつて、彼は人々のはたらくのを傍觀してゐる罪の深さに堪へなかつたのである。だから老の身の情としては「子どもらを心で拜む夜寒かな」ともいつたのである。この句は孝子をもたなかつた彼自身の實感ではなかつたらうが、彼は老樂をかくあるべきものと思つてゐたに違ない。その他「芭蕉さまの脛をかじつて夕すずみ」、「芭蕉塚まづ拜むなり初紙衣」、など、芭蕉を教祖として尊敬しその恩を感謝するのも同じことであつて、「芭蕉さま」の一語は恐らくは彼の外に口にしたものは無かつたであらう。この生一本、此の純一無雜、が彼をしてその渾身の情を赤裸々に表出せしめ、喜ばしきものを喜び、憐まるゝものを憐み、愛好し嫌惡するところをさへ何等の躊躇もなく囘避することもなく愛好し嫌惡し、さうしてそれを直言せしめた所以である。獨りずまひのわびしき時にはむつまじき野邊の蝴蝶をも羨み、妻を娶りては歡天喜地の情を明らさまに述べてゐるのも、この故であるが、繼母や異母弟の横暴を見ては「春風の底意地寒し信濃山」と詛はしきまでに故郷を惡んでも、遺産問題が解決せらるれば「見限りし故郷の櫻咲きにけり」と喜びの情を禁じ得なかつたのも、また同じことであつて(この事實は束松露香氏「俳諧寺一茶」による)、そこにやはり光風霽月の如き子どもらしい情がある。故らに身を傷けて繼母の意を迎へた丈草は、財を輕んずるところに一つの意味はあるが、畢竟妥協主義でありまた獨善主義であつて、そこに一味の矯飾の分子さへも無いではない。正當に所有すべきものを所有せんとし、惡意を以てそれを妨げるものを深く惡み、而も一度び事が解決せらるれば、もはや怨恨をそこに留めない一茶には、むしろ彼の感情の純なることを認めねばならぬ。村役人(287)に對して上納金の不公平を訴へたのも、かゝることを容認ゐられない生一本の性質から來てゐるらしい。
 一茶の純なる感情はどの句の上にも現はれてゐるが、「嬉しいか垣の小竹も若盛」といひ「朝やけが喜ばしいか蝸牛」といふやうな句を讀めば、夏の朝に生き/\と伸びてゆく庭の若竹、朝やけの空に動き出した蝸牛を見て、若き生命のいはんかたなき喜ばしさ、朝の空の限りなきこゝちょさを、その竹その蝸牛と共に心の限り喜んでゐる作者の深い感情が「嬉しいか」「喜ばしいか」と呼びかけたその語調の上に、見ゆるが如く躍動してゐるではないか。「どれほどに面白いのか火取蟲」の我を忘れ身を忘れての面白さに面白がるのを見るがよい。「可愛さよ川原撫子歸り花」、その可愛さは目にも入れたいやうだといはなくてはなるまい。もし夫れ「並んだぞ豆粒ほどの蝸牛」の一句に至つては、如何にこの豆粒ほどの蝸牛の行列を面白く見てゐたことであらうぞ。この時の一茶には、一茶も無く世間も無く天も無く地も無く、全世界がこの蝸牛の行列に吸ひこまれてしまつてゐたのであらう。さうして彼は子どもの如くに手を拍つて喜び聲を揚げて喜んだのであらう。彼には子どもの如き感情を以て事物に對してゐる場合が多いが、純一無雜の感情が子どもに於いてのみ認められることを思へば、これは當然である。「下りよ雁一目散に我が前に」、「鶯にほうりつけたりうがひ水」、などは、子どもごころで雁を呼び鶯にいたづらをしたのであり、「蛙なく狐の嫁が出た出たと」、「おれとしてにらみくらする蛙かな」、も子どもの見た蛙の風情である。「ぼうふらが天上するぞ三日の月」も、三日月とぼうふらとの聯想は、やはり幼児の想像に似てゐる。のみならず彼が赤い色を喜んだのも、また子どもらしい嗜好からではあるまいか。一茶の句に於いて際立つて目につく色は赤であるが、「掃溜の赤元結ひや春の雨」、「春雨やとある垣ねの赤草履」、の赤の如きは春の情趣にふさはしい色として、必しも一茶に特殊な選擇ではないとしても、(288)「ふだらくや赤い袷の小巡禮」、「御祭や誰が子寶の赤扇」、「葉がくれの赤い李になく小犬」、「蝉なくやつく/”\赤い風車」、「秋風やむしりのこりの赤い花」、「赤い月これは誰がのぢや子どもたち」などは、必しも赤いといふを要しない場合もある點に於いて、また明かに子どもを點出してゐる點に於いて、作者がその子どもと共に赤い色を好んだことを示すものらしい。 それのみでない。一茶は實に子どもが好きであつた。子どもの句を彼ほど多く作つた俳人は全く他に比類が無い。「子ありてや蓬が門の蓬餅」、かりそめの坐ろ歩きにもすぐに子どもが目につくのである。從つて子どもの心理や行爲を各方面から描寫してゐる。「蓬莱に南無々々といふ子どもかな」、「これほどの牡丹としかたする子かな」、「人なみに晝ねしたふりする子かな」、「露の玉つまんで見たる童かな」、「かたみ子や母が來るとて手をたゝく」(亡妻新盆)、「鬼灯を取つてつぶすや背中の子」、「そのあとは子どもの聲や鬼やらひ」、など、一々擧げる暇は無い。嬰兒もまた勿論彼の觀察に漏れないので、「畠打や子が這いあるく土筆原」、「蚊の聲に馴れてすや/\ねる子かな」、「餅花の木かげにてうちあわゝかな」、などに、その例がある。「かんじきや子らに習うてはきにけり」には、子どもに物を教へられる無邪氣さが見え、「子寶がきやら/\笑ふ榾火かな」には、子によつて示される幸福の象徴があるではないか。「乞食子や歩きたがらの凧」、「七歳の順禮ぶしや夕時雨」、「僧になる子の美しや芥子の花」、または「小座頭のあたまへかぶる扇かな」、子どもとあれば如何なる境界のものでも直ぐ目についたらしい。人の子ばかりではない。「子鳥や佛の日とて口をあく」(涅槃會)、「子蛙もなくなり口をもつたとて」、など、動物の子にも心がひかれ、特に雀の子などは多方面から寫されてゐる。從つて「雁どもももつと遊べよ打門田」、「柱ごとなどして遊ぶ薮蚊かな」、「鼠らもまゝご(289)とするか杓子栗」、「萍や遊びがてらに花が咲く」、一茶の目には彼等がみな子どものやうに遊んでゐると見えたのである。みづから子どもらしい感情を有つてゐるものにして、始めてかくまでに子どもを愛好することができたのであらう。
 しかし一茶のこの思想にはまた別の由來がある。「孤のわれは光らぬ螢かな」。幼にして母に別れ、繼母に虐待せられ、六歳にして「われと來て遊べや親の無い雀」とおのづからなる句を口ずさんだと傳へられてゐる彼は、母の愛に饑ゑてゐた。さうして後には妻にも別れ子をも失ひ、世のつねの子に對する愛さへも十分に味ふことができなかつた。是に於いてか一茶は、一面に於いて幾らか人間嫌ひの傾向を養ひつゝ、他面に於いてはそれよりも強く親子の愛にあこがれてゐたのである。親子團欒の境界は彼にとつてはみづから入ることを許されざる天國であつたので、彼はそれに對する尚慕の餘り、力を極めてその美しさを畫きその樂しさを讃嘆したのである。まづ彼が如何に母子の情を寫したかを見るがよい。「下冷の子とねかはりて添乳かな」、「ねせつけし子の洗濯や夏の月」、「澁いとこ母が食ひけり山の柿」、「母親を霜よけにしてねた子かな」(橋上乞食)。母ある子の如何に嬉しく彼の心には感ぜられたであらう。だから「乳呑子の風よけに立つ案山子かな」と、案山子をさへ母親らしく眺めもする。この情は勿論動物にも及ぽされるので、「行く雁や子とおぼしきを先に立て」、「人中を猫も子ゆゑの盗みかな」、「母馬の香して飲ます清水かな」、「人聲に子を引きかくす女鹿かな」、などといふ。「雀子や川の中にて親をよぶ」、親が子を愛すれば子もまた親を慕ふに無理はない。家族生活の状態を動物に認めるのは常の話であつて、「春風に猿も親子の湯治かな」、「燕の親子揃うて歸りけり」、「息才に紅葉を見るよ夫婦鹿」、「今蛇も穴に入るなり夫婦づれ」、「鶯の兄弟づれや同じ聲」、などといつてゐる。(290)もし夫れ「浮世とてあんな小鳥も巣を作る」、「神前になく小男鹿も子や欲しき」、に至つては、一茶自身の巣を欲し子を欲する情が鳥獣の上に反映したのであらう。だからその親子の愛を味ひ得ないものの不幸はどれほどであらうぞ。腸を斷つ悲痛の叫びは「撫子やまゝはゝき木の日かげ花」の一字一字から搾り出されてゐるではないか。「またむだに口あく鳥のまゝ子かた」にも、深い同情が籠つてゐる。「まゝつ子がひるねしごとに蚤拾ふ」、「まゝつ子が一つ團扇の修覆かな」、まゝ子の境遇がさま/”\に寫されてゐるのを見るがよい。
 親子の愛を求むる心はおのづから隣人に及び人類に及ぶ。一茶の人なつかしさはこゝに起因があり、同時に隣人に對し人類に對する彼みづからの愛もこゝに由來する。「近づきの樂書見えて秋の暮」に、舊知を慕ふ惰の深きを示したことはいふまでもないが、「わけてやる隣もあれなおこり炭」には、何等の純なこゝろもちが現はれてゐるのであらう。彼は冬の朝のわが快き暖かさを隣人と共に分ちたかつたのである。もしまた「花の蔭あかの他人は無かりけり」に至つては、彼の博愛心、人類をみな同胞とする彼の思想が、美しい春の花の下に於いて坐ろに發露せられたものといはねばならぬ。けれども不幸にして世は彼の期待する如く單純ではなく、人はみな彼の如く美しい心を有つてはゐない。是に於いてか彼はその滿幅の愛を動物に向つて瀝瀉したのである。一茶にとつては、あらゆる動物はみな人と同じものであるのみならず、彼の親しい友であり兄弟であり、或はむしろ彼自身であるり「鶯のやけを起すやしまひぎは」、「早立ちは千住どまりか歸る雁」、「土手べりに江戸を眺むる蛙かな」、「明神の鴉も祝へ田植飯」、「豆蒔や鼠の分も一つかみ」(節分)、何一つ人として取扱はれないものは無いではないか。既に人であれば、暖き春の日の惠も冷き秋の風も、また人と同じく彼等の上に加はらねばならぬ。「鷺鴉雀の水もぬるみけり」、「窓際や蟲も夜寒の小寄合」、(291)の如き句はこゝに於いてか作られる。さうしてまた「疲せ蛙負けるな一茶こゝにあり」、「逃げて來て溜息つくか初螢」、などに、一茶みづから彼等の保護者を以て任じてゐる有樣が見え、「よい聲のつれはどうしたきり/”\す」「おとなしう留守をしてゐろきり/”\す」、「鷦鷯きよろ/\何ぞ落したか」、などに於いて、彼等に對する限り無き優しみと親しみとが現はれてゐるのを見るがよい。「雀子の早知りにけり隱れやう」、「塊も心置くかよ巣立鳥」、に至つては、人の心を恐れねばならぬいた/\しい子雀や巣立鳥を憐むの情が、眞心からあらはれてゐる。だから「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」、「ねがへりをするぞ脇よれきり/”\す」、と、この小動物の危險を慮り、「親不知蠅もしつかり負ぶさりぬ」と、人の背に依頼する蠅の心をいとしがり、「やれうつな蠅が手をする足をする」、「我が味の柘榴へ這はす虱かな」、と、蠅や虱の生命を庇はうとするのも自然である。「蟲どもが泣き言いふぞともすれば」といひ「馬鹿鳥よ羽ぬけてから何思案」といふ類は、やゝ冷眼に彼等を見てゐるやうに聞えるが、實はさうでなく、最も親しく最も愛するものを最も馴々しく取扱ふ態度である。猫の鯉に對しても同じ情が見えるので「うかれ猫どの面さげてまた來たぞ」などにも、蕩子に對する慈母の情に類するものがある。「かはいらし蚊も初聲をあげにけり」、蚊の初聲をもかはいらしく聞く一茶ではないか。從つて「逢坂や手馴れし駒に暇乞ひ」の駒の主の惜別の情は、彼の深く同感したところであらう。古來の駒迎の歌にこんなのは一首もあるまい。だからまた「まかり出でたるはこの藪の蟇にて候」、「雨一見の蝸牛にて候」、のやうなものには、一茶自身が蟇となり蝸となつてゐる感のあるのも、怪しむに足らぬ。「時鳥蠅蟲めらもよつくきけ」の「蠅むしめら」も時鳥に同化した作者の口つきである。のみならず、彼に取つては動物もまた彼を愛するのである。「小便所こゝと馬よぶ夜寒かな」、「犬どもがよけてくれけり雪の道」、といつて彼が馬に(292)も犬にも感謝してゐるのは、この故である。動物を友として見、戀するものとして見、子を愛する親、親を慕ふ子、として見ることは、萬葉の詩人にもあつた。しかし一茶ほどの愛を以てあらゆる萬有を包んだものは彼等には無かつた。一茶は日本の生んだ唯一の愛の詩人であり、一茶の句はすべてが愛の句である。彼が或る時期に故郷を惡んだのは、故郷を愛することの深かつたがためであり、彼に世間嫌ひの氣味があつたのは、人と世とを愛することの強かつたがためである。眞に人を愛するものにして始めて眞に人を惡み得るのである。さうしてその愛は孤獨なる一茶の體驗が生み出した人なつかしさに由來する。
 以上は思想の方面から見た一茶の特色の主要なる點であるが、なほ一般的に考へると、彼ほど目前の光景、日常の生活、の何ごとをも取つて句としたものは殆ど他に比類が無い。それは上に引用した多くの例からも知られるが、「小坊主が棒を引いても吉書かな」、「わんばくが先づ手の平に筆初」、の正月から「のし餅や皺手のあとのあり/\と」、「母人が丸めて投げる手本餅」、の歳暮に至るまでの、或は「今一つ雛の目をせよよい娘」、「爐の蓋をはや雀らがふみにけり」、「母親やすゞみながらの針しごと」、「古犬が先に立つたり墓參」、「鬼灯の口つきを姉の指南かな」、「一夜さはでき心なり寒念佛」、「つき合や不性々々に寒念佛」、などの、四季それ/\の何でもない些事がみな活き/\とした句になつてゐる。彼自身についても「撫子に二文が水を浴せけり」、「南無阿彌陀南無阿彌陀佛夜永かな」、「我が門へ來さうにしたり配り餅」(おらが春)、など、みなそれである。自然界に對しても彼は常に手近いもののみを取り、さうしてまた常にそれを日常生活化してゐる。「鶯がちよいと隣のついでかな」、「今日まではまめで啼いたよきり/”\す」、「わんといへさあいへ犬も年忘れ」、などを見るがよい。彼には特殊の繊細な感受性があるとか新奇な觀察がある(293)とかいふよりも、平凡なことを苦もなく捉へて來るところにその長所があるので、彼の俳句の文學的價値は平民の日常生活の斷片が徹底的な眞實味を以て描かれてゐる點にある。特に「婆どのの目がねをかけて茶つみかな」、「妹が子や笠をほしさに田を植ゑる」、「そんじよそここゝと青田のひいきかな」、「稽古笛田は悉く青みたり」、「なぐさみに藁をうつなり夏の月」、「米國の上々吉の暑さかな」、「踊からすぐに草とる騷ぎかな」、「藁苞の豆腐かつぎて枯野かな」、「末枯や諸勸化入れぬ小制札」、「窓の穴壁の割れより吹雪かな」、などに見えるが如く、山家や田舍の生活と光景とを描寫するのは、彼に於いて最も自然なことであり、この點から見ても一茶は、殆どすべてが都會文學である我が國の文學史上に、特異の光彩を放つてゐる。試に「妹が子は餅負ふほどになりにけり」を、蕪村の「妹が子は鰒食ふほどになりにけり」、また成実の「妹が子は薺うつほどになりにけり」、に比べて見て、そこに一茶の田舍味の眞率さを味ふがよい。「おのが里しまうてどこへ田植笠」と「身一つを過すとて山家の寡婦の哀れさ」に同情してゐるのも、これがためであるが、「夕立のとり落したる小村かな」、「今のまに二夕立やあちら村」、「言ひわけに一夕立の通りけり」、「音ばかりでも夕立の夕かな」、「とかくしてはした夕立ばかりかな」、「あとからもまたござるぞよ小夕立」、「向ふから分れて來るや小夕立」、などの句に於いて、旱天つゞきの夏の農村の夕立を翹望してゐる有樣が如何に四方入面から活寫せられてゐるかは、其の農村生活に經驗のあるものには直ちに看取せられるところである。
 一茶はかういふ農民生活の描寫にお於いて俳人の常套を脱してゐるのみならず、自然界の觀察に於いても頗る世間なみの花鳥風月趣味を離れてゐる。「門の蝶子が這へば飛び這へばとぶ」、「けろりくわんとして鴉と柳かな」、「きりしやんとして咲く桔梗かな」、「向脛ざうときりたる芒原」などにもその例が見えるが、蛙や鶯や猫の戀や螢や火取蟲など(294)の多くの句を見れば、そこに一茶特殊の觀察と感慨との斷えず現はれて來ることが、容易に知られよう。だから「ありやうは我も花より團子かな」(これには一種の皮肉も含まれてゐよう)といひ「御祝儀に月見てしめる庵かな」といつて、ありふれた風流思想とは似てもつかぬ句を作り、「蜘蛛の子のみな散り/”\に身過ぎかな」、「木枯らしや雀も口に使はるゝ」、の如く、生活のための勞働者として動物を見、また「三越路は秋立つ日より村時雨」、「秋立つといふばかりでも寒さかな」(これは「春たつといふばかりにや」の古歌によつてそれを一轉したもの)、など、地方の特色を發揮して普通の季題趣味に矛盾するやうなことをもいつてゐる。往々無季の句のあるのも同じ傾向の一現象であつて、思ふこと見ることがそのまゝに句となる一茶に於いては、おのづから因襲的觀念に狗束せられないからである。こゝにも彼の純一さが偲ばれる。
 從つて一茶には多數の俳人の如く風雅を矯飾することが毫末も無い。「合點してゐても寒いぞ貧しいぞ」、貧に處することを衒はないのは固よりであるが、道のくの行脚に出で立つに當つても「思ふまじ見まじとすれど我が家かな」、つく/”\名殘の家に惜しまれ、行末のおぼつかなさに心細くなつては、取つて歸さうかとさへ思つたといふ(おらが春)。こゝに郷里を離れるものの眞の情味がある。だから「しぐるゝや家にしあらば初時雨」ともうめき出されて、よそめをかしき時雨の雨の身に降りかゝるわびしさをもわぴねばならず、「これほどの月や我が家にねてみたら」、と月にもおのづから我が家の偲ばれるのは當然である。だからまた「一人とほると壁にかく秋の暮」と、その秋のくれの心細さが行脚の身には特にしみ/”\と感ぜられるのではないか。故郷に歸つても「これがまあ終の栖か雪五尺」、雪に興ずるどころの騷ぎでないことは勿論である。が、家に歸つたといふことの落ちついた感じは「ねたとこは花の信濃(295)ぞ年のくれ」にも現はれてゐ、「笠の蠅我より先へかけ入りぬ」の如きは、如何に彼が子どもらしい喜ばしさを以ておのが庵にかけこんだかを示すものであつて、行脚を見えにするもののいひ得られることではない。もし夫れ子を思ひ妻を思ふに至つては「名月や膳にはひよる子があらば」といひ、「小言いふ相手もあらばけふの月」といひ、讀者をしてその情に堪へざらしむるものがある。一茶は決して惟然の如き矯飾の徒ではなかつた。多情多感であると共に純一な彼は、矯飾とごまかしとで因襲的のお座なりをいつてゐることができなかつたのである。かけ落ちをする若い男女に向つて「人問はゞ露と答へよ合點か」といひ含め、戀する人に十分の同情をよせて、區々たる世間的道義の説法やありふれた教訓主義に墮しないのを、見るがよい。
 一茶が世間的の儀禮や習慣に拘束せられてゐないのも、浮雲の如き名利富貴が彼を動かさないのも、その根柢はやはり同じところにある。「折りてさすそれも門松にて候」、「今しがた來た年玉で御慶かな」、「二つ三つ藪へかけるや七五三」、の如き、氣輕な洒脱な心もち、「それがしも宿無しに候秋の暮」の、われみづからわが宿無しををかしく眺めてゐる風狂の態度は、こゝから生ずる。彼が芭蕉と一脈の相通ずるところのあるのもそのためであるが、彼に於いては、それは恰も自由な感情で思ひのまゝに言動しさうして利慾の念の薄い子供の心理と同樣であつて、そこに滑稽味の存在するのもまた子どもの態度が滑稽に見えるのと同じである。たゞ子どもはみづからそれを滑稽とは感じないが、一茶は大人であるだけに子供らしい心事をみづから滑稽視してゐる。彼の句に滑稽の充ちてゐる理由は主としてこゝにあるらしい。句作の上に於いて「名月や先づはあなたも御安全」の如く對話調口語を用ゐるのも一茶の慣用手段であり、そこにもまた特殊の滑稽味があるが、何ものに對してもそれを自己と同樣の人と見なすのは、やはり子供の心(296)理であり、大人から見て滑稽に感ぜられるものであることは、いふまでもない。しかし口語を使ふのは「永き日や沈香もたかず屁もひらず」、「これはさて寝耳に水の時鳥」、などの如く、方言や利諺をかつて次第に利用することと共に、讀者の意表に出づるところに別樣の滑稽があり、その或るものには談林の風體と似かよふ點がある。しかし口語などを滑稽と見るのは成心ある讀者の感じであつて、一茶自身に於いてはむしろ自然のいひあらはし方であり、規矩に拘泥せず、自由な心もちで自由な語を用ゐたばかりのことである。「われ汝をまつこと久し時鳥」の如く、句法の上では明かに談林的のものもあるが、興味の焦點は談林の覘つたやうな言語上の滑稽にあるのではなくして、時鳥をまつ心もちをこの成語でいひあらはした機轉にある。のみならず、一茶の方言や對話調口語の使用は、打ち融けた親しい感じを與へるものであつて、そこにやはり彼の子どもらしい人なつかしさが現はれてゐるのである。一茶を大江丸などと同樣に見、滑稽作者として取扱ふが如きは、全く一茶を知らざるものであらう。一茶には上記の如き滑稽味があり、また時には「浦風にお色の黒い雛かな」のやうな、やはり子どもらしい、滑稽的観察をすることもあるが、彼は決して滑稽のために滑稽を弄することは無く、だじやれや知識的の遊戯などを試ることも無かつた。眞率な純一な彼にはさういふ餘裕が無く、さうして彼の滑稽味は實にこの眞率と純一とから自然に湧き出たものなのである。
 口語の問題に就いてはなほ一言すべきことがある。歴史的にいふと、宗鑑守武の時代から發達して來た俳諧の形の上の一特色は、日常語俗語を自由に使用する點にあつたので、貞門でも談林でもそれを繼承したのであるが、それは口語を卑俗と見て故らに卑俗の語を弄したところに、意味があつたのである。しかし談林の一面には却つて古代語や漢語を重んずる傾向が生じ、蕉風に至つては全體としてむしろ口語から離れるやうな態度を示して來た。俳諧の特色(297)を言語の上に置くよりは題材や趣味の上に求めるやうになつたのと、俳諧に詩歌と同樣の、當時の人の考に於いて、高い地位を與へようとする俳人の要求とが、口語を卑俗とする尚古主義文字崇拜主義の世の中に於いて、かういふ形をとらせたのである.しかし鬼貫などは盛に口語を用ゐてゐるし、蕉風の末流でも也有の如きは方言俗語を多く使つてゐた。が、蕪村を初めとしてその時代の作者は、やはり上代語や漢語を好む傾向を有つてゐたので、白雄の如きも俗言でなくては俳諧でないといふ説を非としてゐる(白雄夜話)。目前の事物、日常の用語、を卑俗としてゐる世の中に於いては、さう考へらるべき一面の理由がある。ところが、一茶は全くそれと反對の態度を取つた。さうして詩に於ける高卑雅俗の區別は言語の上にあるのではなくして思想の上にあることを、事實によつて證明したのである。現代の思想を表現するには現代語を要し、目前の事物を敍するにはやはり日常語を要する。田舍の風物田舍人の生活を寫すに田舍語を要することは、勿論である。國學の勃興と共に上代ぶりが好まれ、小説界に於いても馬琴などが得意げに上代語や漢語を列べてゐた時代に於いて、一茶のこの着眼は特に讃嘆に値する。この點に於いても彼は文學史上に特筆大書せらるべき功績を後に遺したものといはねばならぬ。
 要するに、一茶は俳諧の作者ではなくして俳諧の人であり、職業としての俳諧師ではなくして人としての俳人である。さうして人としての追隨者が彼にできないと同樣、俳諧に於いても他人の摸倣を許さゞるものであつた。彼みづからに於いても生前に句集を公にしなかつたし、すべてが即興の作であるその句には、讀みすていひすてにして、心覺えの手帳にも書きとめられなかつたものさへあらう。「古垣のしようことなき若葉かな」と「庵の梅よんどころなく咲きにけり」との如く、同じ着想のものの少からずあるのを見ると、句そのものに對しても頗る超然たるところがあ(298)つたらしい。しかし句の推敲には決して無頓着ではなかつたらしく、また「牛にひかれて善光寺」の上に「春風や」の一語を冠し、「われ汝を待つこと久し」の下に「時鳥」の二字を加へた、手ぎはなどには、頗る巧緻の跡も見えるが、彼の句の特色は表現法の單純直截である點にあり、故らめいた修辭法を用ゐようとしなかつた點にある。彼が動物を人の如く視たのが修辭上の擬人法でないことは、勿論である。さうして描寫の巧みなのも表現の活きてゐるのも、描かうとするもの言はうとすることに強い生命があり、そこに脈うつ律動があつて、それがそのまゝ語調の上に移されるからである。試に歸雁とか蛙とか猫の戀とか多數の句のあるものについて互にその句を對照してみると、一句一句の姿勢と調子とその内容をなす光景や情趣とに渾然たる調和があり、句の上には千變萬化の姿態を示してゐながら、分析して見れば何れも一樣に平凡の語をつらねてゐるのみである。さうしてさういふ平凡の語を用ゐて平凡な日常生活を寫しながら、也有などの如く理窟に墮せず、概念的常識的な説明ともならず、どこまでも生きた人生の表象として、詩として、存在するところに、彼の詩人たる資質とそのたしかな技巧とがある。もとより一茶の俳諧が上記の如き特色を發揮したのは中年以後のことであつて、その壯年時代のは頗るこれと趣きを異にするものであつたらしいが、そのころに得た學問的知識にも囚はれずしてかくの如き自由な境地を開くことを得たのは、一つはその學問の力にもより、また一つには足跡全國に遍かつたといふ行脚生活によつて變化の多い自然の風光と種々の俳風とに接した故もあらうし、特に談林や鬼貫の風調は彼に少からざる刺戟を與へたでもあらうが、しかし最も大切なことは彼が眞卒なる自己、純一なる自己、を失はなかつた點にあるので、すべてがそこから展開せられて來たらしい。さうしてそこに一茶の強い個性があるので、その個性を十分に發揮し得たのは、この時代の人としては特に尊敬せらるべきものであ(299)る。都會に於いてかなりの地位を得ながらそれを抛ち去つて故郷に歸つたのも、また同じところに由來があるので、稀ではありながらさういふ人物の時々出現する點に、權力や因襲や時の風潮やに全く征服せられてしまはない我が國民の意氣の象徴として、少からざる意味があるのであり、都會人に對する田舍人の反抗もそこに見えるのである。
 こゞまで書いて來てふりかへつて見ると、著者が一茶を敍したのはやゝ煩冗に過ぎた嫌があるかも知れぬ。その代り彼と同時の俳壇については思ひきつた省筆を用ゐるであらう。一茶よりも少しく先輩であつた成実の如きは、當時の江戸の俳人として出色のものであり、一茶と親交があり、その特異の風調に推服してゐただけでも、凡庸の徒でなかつたことが知られる。何よりも僞風雅や似而非道徳味が無く理窟に墮しなかつたのが、彼が當時の俗俳人に一頭地をぬいてゐたことを示すものである。しかし一茶が田舍にゐて田舍生活を描いた如く、この江戸人が江戸の風光や江戸人の市民生活をその句の上に示してゐるかといふと、それは少い。大江丸の大坂に於けるよりも一層少いかも知れぬ。成美句集を通覽するに「薺うつ江戸品川は軒つゞき」、「小判よむ隣をもちて夜寒かな」、などが、せめてもの例として擧ぐべきであらうか。「名月にあふや小庭の一つ瓜」も田家の風趣らしくないところに、江戸の場末の面影があるといへばいはれようが、「花だしや動き出でたる秋の山」(神田祭)が神田祭らしくないことも注意せられる。旅行すらも多くはしなかつたこの作者が、山家や田舍の光景を敍した句を多く作つたのは、隱逸を尚ぶ氣味のあることと共に、やはり蕉風の因襲を脱し得なかつたことを語つてゐる。が、それが却つて江戸人の江戸人たるところであり、田舍ものの一茶と趨向を異にする所以かも知れぬ。
 
(300) 著者は上文に於いて、享保以後の蕉風の末流が多く僞風雅の徒となり、その作は理窟に墮するか世間的人情味を加味するかの、二途に出でるのが自然の徑路であつたことを述べ、たゞ尚古思想とシナ趣味とに刺戟せられて生れた蕪村と、小兒のやうな氣分で自己の生活感情を直截に道破した一茶とによつて、一度びこの沈滯が破られたことを説いた。しかし俳諧が動かし難い一種の型を有つてをり、またそれが概して知識の低級な方面に行はれてゐる當時の状態に於いては、かういふ少數な特異の作家は必しも大勢を動かすものではない。幾らかの摸倣者や追從者は勿論あるが、蕪村を解するにはかなりの學識を要するし、一茶の境地に至つては到底他人の垣間見るを許さざるものである。さうして國學及び和歌の流行は多少の才藻あり意氣あり學識あるものをしてその方面に向はせたので、文化文政以後に於いては、歌壇に新しい氣運が開かれて來たとは反對に、俳諧の世界はいよ/\さびれ、從つて蕪村時代のやうに知識の上から新刺戟を受けることも無く、全く俗人相手の低級な遊戯に墮落してしまつたのである。だから士朗、道彦、乙二、の徒、下つては天保時代の蒼※[虫+糺の旁]、梅室、の輩によつて支配せられてゐる俳壇には、やはり也有や蓼太に於いて最もよく現はれ、闌更、曉臺、白雄、などの一面にも存在した、上記の傾向がます/\強くなり、いはゆる天保の俗調、いはゆる月並調、によつて全體が蔽はれてしまふやうになつたのである。この風潮は文學界の大勢からいふと、馬琴や後期の京傳やまたは種彦やによつて代表せられてゐる、小説界の傾向と同一精神の發現でもあるので、種彦が田舍源氏に俳句を用ゐたのも、この意味に於いてよくその處を得たものであらう。兩方とも調子の低い、常識的な、世間向きな、かれに於いては勸善懲惡因果應報、これに於いては風雅、といふ套語を無理解な口まねによつて標榜した、自己の無い、省察の無い、情熱の無い、要するに人間味の無い、似而非文學に過ぎないのである。當時の俳句に(301)於いて滑稽味が殆ど失はれてゐるのも、またこれがためであらう。かういふ状態であるから、自然界に對しても何等の新しい觀察が無く、乙二の如く蝦夷に渡つたものでも、その句には毫も蝦夷地の地方色が現はれてゐないのは、怪しむに足らぬ(斧の柄、我が佛)。地方の俳人などには幾らかは特異な地方色の描寫をしてゐるものがあるかも知らぬが、そこまでの詮索はまだしかねてゐる。
 この天保調は用語の上に於いても、またその常識的態度を示してゐる。梅室は俳諧の特色を俗談平話を以て風月の用に供する點にあるといひ(梅室隨筆)、蒼※[虫+糺の旁]門の梅通も故事古歌などによらず上代語や漢語を使はずして風雅の道に遊ぶのが俳諧であるといつた(麥慰舍隨筆)。これは用語の上で歌連歌と俳諧とを區別する場合に常にいひふるされたことであつて、必しもこの輩の特殊の見解ではないが、蕪村などによつて俳壇に新風潮の齎らされた後に於いてそれをいふところに、彼等の言ひ分がある。事實、梅室や蒼※[虫+糺の旁]の句集を見ると、上代語や漢語の使用は全く認められない。しかし一方に於いては決して一茶の如く方言や口語を使つてゐない。そこに彼等のいふ俗談平話の意味があるので、畢竟俚耳に入り易く解し易く、而も俗衆からは高雅でありげに見られることを期してゐるのである。この點に於いては爲永春水が人情本を書いた態度の一面に似かよつたところがある。さうしてそれは俳諧そのものに於いても認められるので、梅室が「人情世態にわたること」を俳諧の長所としてゐるのも、やはりこの俗人あひてのためである。田舍源氏や梅ごよみの俳句はこの點に於いても、また天保の俳壇と交渉がある。田舍源氏のは固より源語の歌の翻案であるから、おのづからいはゆる人情にわたらねばならぬのではあるが、それを俳句の形にしたのは、かゝるものが俳句として認められてゐた時勢だからである。種彦のこの俳句は原歌の詞にたよりすぎてゐて、獨立の句としては意(302)義をなさぬものが多い。和歌を俳句の形に改作しようといふのが本來無理なことであるから、かうなつてもしかたがあるまい。
 
 以上は俳句についての觀察であるが、俳句はたゞ俳諧の半面に過ぎないので、他の半面には連句があり、作者の手腕は却つてその方に於いて發揮せられたのである。俳諧の手引草の類にも連句に關する部分が主位を占めてゐる。今日から見れば、それは遊戯文字中の遊戯文字に過ぎないやうであるが、歌人や詩人の和歌も漢詩も、その大部分が遊戯文字に過ぎないものである以上、こればかりを斥け去るべき理由は無い。むしろ和歌などには見られない想像力と特殊の技巧と幾分の機智とが交錯して順次に形づくられてゆく畫面の展開をそこに認めて、それをおもしろく眺むべきである。かの江戸座の謎めいた付合ひは論外であるが、蓼太の如きも連句に於いては頗る巧みな手ぎはを見せてゐるので、ことばにたよらずに情趣に付け繪として光景を見せる、といふ蕉凰の連句の特質の半面は、この俗俳人にもなほ全く失はれずにゐる。しかしその最も見るべきものはやはり蕪村一派のであつて、それは彼等の俳句に於いて知られる如く、繪畫的に事物を見る傍觀的態度と、その畫面に夢幻的な氣分を與へる空想の力と、廣い趣味と、歴史的題材または異國的情趣をも自由に取扱ひ得る豐富な知識と、また緊肅した表現の法とが、連句に於いて最も適切なはたらき場を得るからである。約言すると、蕪村の俳句に對する態度がそのまゝ連句にあてはまるのである.或は連句のつけかたがあのやうな俳句を作つた蕪村によく適應してゐるのである。試に一夜四※[口+金]をよめば「我が山に御幸のむかし偲ばれて、逃げたる鶴の待てど歸らず、錢なくて壁上に詩を題しけり、灯を持ち出づる女うるはし、黒髪にちら(303)ちらかゝる夜の雪、」、または「小暗きと明るきと燭の二所、手こねの香爐うち守りつゝ、かくて世に四位となるべき身なりしを、野上の君が色に沈みぬ、中垣の障子に蠅の二つ三つ、近くも神のとゞろ鳴り來る、よき僧を乘せて去りぬる筑紫舟、」、など、如何にその材料の豐富で空想に饒かであり、また前句に對して巧みな付合ひをなし、一句としても緊肅した句法を用ゐてゐるかを知ることができよう。前の方のに、尚古思想とシナ趣味と當時の女のとしても解し得られる艶麗な風情とが、次第に現はれて來てゐることは、何人も認めるであらう。一卷として折ごとの變化の乏しきを憾み、付合ひに於いて蕉門の連句の骨髓とせられてゐる「うつり、にほひ、ひゞき、」が薄れて來たことを惜しむものもあるが、前者は蕉門に於いて特に注意せられたことながら、事實上、一卷をまとめてよむ場合にも、それは強く人の耳に感じないものであり、特に作者としての興味の中心はやはり一句二句を付けてゆくところにあるから、これは深く咎むべきことではなく、また後者は鮮かな印象を與へることによつて十分に補はれてゐる。一茶に至つては豐富な想像力を有たないから、情趣の饒かな點に於いては到底蕪村に及ばず、單調の譏りを免れないやうであるが、目前の事物を材料とし田舍生活を敍した句を多くつけてゐるのは、さすがにこの作者である(文政六年八月獨吟など)。直截に自己を表出する抒情詩人の彼には、連句はむしろ適しなかつたであらう。天保時代の連句に至つては、その俳句と共に無趣味な俗談平話を並べたに過ぎないものであることは世の定論であつて、今さら絮説するまでもなからう。その上に連句は詩人的の空想の力とそれを具象化するための資料を供するものとしての多量の知識とを要するものであるから、その力の少く知識の狹いものがそれを試みても、失敗に歸するのは當然であつて、この點に於いて連句は單獨の俳句よりも多數の作者にとつて一層困難である。これは固より天保時代には限らないことであり、蕉凰の形を(304)なして後まもない時から、法則や禁制が煩雜に説かれたのも、それがまた多くは淺薄愚劣なものであるのも、口傳秘訣といふやうなことをいふものの現はれたのも、主として連句についてであるが、それはやはりこのためであつて、無智なもののために或る型を示さうとすることと、どこかに上達の方法がありげに衒ふことと、から生ずる現象であり、むかし和歌や連歌の世界に行はれたのと同じ状態が、俳諧のに於いてくりかへされたのである。だから一般的にいふと、連句に妙を得たものの少いのは當然である。
 しかし連句は、よしそれに詩人的の空想をはたらかせる興味があるにせよ、畢竟文人の遊戯に過ぎないので、それは一卷としてのまとまつた情趣と精神とが無いことからも知られる。蕪村が春風馬堤曲に於いて試みた如く、獨立した句を多く重ねて或る光景を敍し一貫した情趣を現はさうとするやうな企ては、漢詩の構成法から示唆せられたものらしく、敍事敍景を抒情詩的氣分に包み、俳句に詩の一句としてのはたらきを與へたことによつて、それが推測せられるが、また連句から轉じて來たところもあらう。けれども何人もそれを繼承するものが無かつた。これは一つは、俳句の因襲がかゝるものを作るに適しなかつたからでもあらうが、一つは一般に文學が遊戯的のものとせられてゐたのと、かゝる形によつて表現せらるべき強い精神の無かつたこのころの思潮との故でもあらう。さうして閑人の消遣事として、連句のやうな遊戯が依然として行はれたのである。
 
 さて蕉風の俳諧についての上記の考察によつて、いはゆる蕉風が、事實上、種々の程度と色合ひとに於いて、芭蕉の俳諧と趣きを異にしてゐることが知られたであらう。蕉風の特色が俳句を詩としての地位に高めたことにあるとす(305)れば、蕪村も一茶も勿論蕉風の徒であり、大江丸や樗良曉臺闌更白雄なども、また概してそれに屬するものと見られよう。しかし天保の俗調はこの點に於いて全くその選を異にし、蓼太や也有もまた同じ群に入るべきものであつて、その埋窟に墮してゐる點に於いては、彼等の作は却つて貞門の風體に接近してゐる。たゞ貞門では多く外形たる言語の上にそれを示したが、これはそれを内容の上に於いて求めた、といふ差異があるのみである。またもし蕉風の本質が芭蕉の特殊の趣味と氣分とにあり、「さびしみ」と「をかしみ」との融合した風狂の境地にあるとすれば、蕪村も一茶も、共に蕉風の圏外に置かれねばならぬ場合が多い。なほ句の姿の上からいつても、彼等には或は談林の風趣を採り、或はそれに類似した句法を用ゐることがあつて、この點に於いても蕉風の一格を立てた後の芭蕉の作風とは、かなりに隔たつてゐる。不易流行の陳套な論議はさて措いて、蕉風の諸作家の間にこれほどの差異があるとすれば、それを齊しく蕉風の名で蔽ひ去ることは、少しく妥當を缺いてゐはしまいか。貞門と談林と蕉風との差異とあまり違はない程度の懸隔が、蕉風の内部に生じて來たのである。彼等はその師承に於いて芭蕉の門流であり、また同じく俳句を作り連句を興行し、同じく季題的花鳥風月を取扱つてゐる、といふことの外に、共通の點がむしろ甚だ少いのである。しかし彼等とてもやはり蕉風の徒を以て甘んじてゐたのみならず、彼等の如き特殊の風格を有つてゐたものは極めて少なく、その追隨者とても或は小範圍に止まり、或は短い時代に限られ、多數の俳人に至つては、何の思慮も無くたゞ因襲的に蕉風の名を冒しつゝ、型の如き十七字の遊戯文字を弄んで、約百五十年の歳月を送つて來た點に、やはり單調なまた變動を好まない、固定したこの時代の生活が現はれてゐる。當時なほ別に貞徳風を標榜するものも談林の系統を傳へてゐるものもあつて、時には蕉門との間に幾らかの論爭などを生ずることもあつたが、それは固より(306)さしたる勢力の無いものであり、また必しも昔の貞徳と宗因との作風を墨守するものでもなかつたらしい。彼等はただ門流の名によつて相爭ふに過ぎなかつた。却つて蕉夙に屬する蕪村にも一茶にも談林の要素の加はつてゐるのが、注意に値する。
 けれども俳諧、特にその中の俳句、はともかくも江戸時代の新しい産物であり、平民の手によつて創造せられた文學であつて、それがために知識社會からは概ね輕視せられてゐただけに、一方ではひどく卑俗に陷る傾向があると共に、それと同じ理由が他方では或る程度の自由と活氣とを與へることにもなるので、蕪村や一茶の出たのもそれを證するものであり、彼等、特に一茶、によつて因襲に對する反抗が力強く現はれてゐる。さうしてそこに彼等の俳諧の文化史的意義がある。さて文學上のこの傾向は、和歌に於いてはどう現はれてゐるであらうか。これが次の問題である。
 
(307)     第十一章 文學の概觀 八
       擬古文學 上
 
 元禄の前後に於いて長流や契冲や茂睡が和歌を堂上家の歌學の羈縛から解放しようとしたことは、既に前篇に述べておいた。この趨勢はいはゆる國學者の手によつて一層強く推し進められ、眞淵以後その學問の系統に屬するものが歌壇にも一大勢力を占めるやうになつた。彼等は堂上家の歌學とは全く交渉の無いものであり、また幽齋や貞徳に源を發した民間の宗匠たちとも何等の連結を有つてゐない。さうして地理的にいふと、江戸を中心として發達し、それから各地に普及したものである。もつともこれは國學といふ學問の副産物であつて、よしその間に學者よりは文人として見るにふさはしい千蔭や春海などがゐるにせよ、概していふと本來歌人を以て目すべきものではない。和學者は、一面に於いては古文學を解釋する學者であると共に、他面に於いては古歌を擬作するといふ意義での歌人であつたが、國學者は學問を主なる任務としてゐた。後にいふやうに眞淵の國學に於いて歌を作ることが古道を明かにするに必要な方法として説かれてゐるのは、必しも彼等の歌を作るやうになつた事實上の動機を語るものではないが、少くとも思想の上で歌を學問の隷屬視したこと、または彼等の思想にさういふ一面のあつたこと、がそれによつても知られる。
 さて國學者はかうして歌壇に雄飛するやうになつたが、このころになつても堂上家を師範として歌を學ぶものが決して絶えはせず、武家に於いてもそれが少なくなかつた。また貞徳の系統に屬する民間の宗匠も無くなつたのではない。しかし一方では國學の影響があり他方では一般の知識の發達につれて、因襲的の歌風にあきたらず思ふものがま(308)すます多くたり、漸次その羈絆を脱して親に一風を創めようとする傾向が歌人の間にも生じた。小澤蘆庵や香川景樹はその最も著しいものであつて、何れも堂上家の歌學の埒外に出ようとしたのである。彼等ほどでなくとも幾分か自由な方向に進まうとするものはその周圍にも起つてゐたので、伴蒿溪などもその一人であつたが、才氣溌剌たる景樹が物珍らしいその「調べ」の説の大旆を鮮かにひるがへして打つて出、華やかなその新調が世人の耳を驚かして來ると、舊式の歌人にもまたその下に馳せ參ずるものが現はれ、その勇ましい武者ぶりが堂上家の竪壘を震駭させた。さうして鴨の川原から渦まき起つたこの新しい歌風は、忽ちにして關西を打ち靡かせ、東は信濃の山の奥を吹きまくつて、速く國學者の勢力範圍に屬する江戸の歌壇をも襲ふやうになつたのである。ところが京のこの改革者は學者ではなくして歌人であり、蘆庵が歌の論を書き景樹が古今集正義を著しても、それは歌人たる彼等の立脚地を明かにするための事業であつて、國學者が片てまに歌を作るのとは正反對の態度である。江戸と京との對峙はこの點にも意味があるのて.和學者が歌人であつた昔の状態が二つの方向に分岐した、と見ることができる。
 しかし歌人とはそも/\何ものであるか。和學者の歌を作つたのは、古歌を解し幾らかの古語を知り、中世以後漸次に形成せられ師弟相承けて後に傳へられた歌の規制を學び得たため、それによつて型の如き三十一音の歌を摸作したに過ぎない。だから彼等の歌の大部分は題詠であり、その思想にも題材にも一定の規範があり制約がある。契冲や茂睡はかの師弟相承の習慣から離れ、口訣や傳授を排斥し、用語の上などに存する無意味の規制をも破らうとしたのではあるが、その思想と題材とに於いては、依然として舊套を保持してゐた。彼等はたゞ中世以後の因襲を去つて、標準をそれより前に置いたに過ぎないから、この點について何等の改むべきものを見なかつたのである。彼等は自己(309)の情生活に於いて歌として歌はずにはゐられない何ごとかがあるために歌を詠むのではなく、歌といふものをたゞの技術として作るのだからである。歌人とは今日の用語例に於いての「詩人」ではなく藝術家ではなくして、「詩」の技巧家であり「詩」を作る職工であつた。このころになつて大に興つた國學者の歌に對する態度もまたこれと同樣であつて、眞淵及びその門下の或るものが歌の摸範を遠く萬葉の昔に求めたのも、たゞ一層古い時代にその目標を置いたまでである。
 眞淵はその學問に於いて徂徠派の儒學の影響をもうけ、一種の古學を唱道したと共に、歌に於いてもまた同じ學派から暗示を得た點があるらしく、その萬葉摸倣は、一面では契冲の萬葉研究から繼承せられてゐるところがあると共に、他面では徂徠派の盛唐詩擬作からも一すぢの線をひいてゐるので、萬葉の尚ぶべきを説くことも春臺が既に先驅をなしてゐる(獨語)。古學派の思想を歌に適用すればおのづから生ずべき考である。小山田(高田)與清が萬葉の歌をまねるのは詩經の詩を擬作するのと同じで「一笑に堪へたり」といつてゐるのは(松屋筆記一)、萬葉がやはり三十一音の歌であつて、詩經の詩が唐詩と形を異にしてゐる以上、當を失したものであるが、長歌をつゞるのは少くとも古詩を作るに似てゐて、催馬樂などの擬作は古樂府をまねるに比すべきものかも知れず、そこにもまた漢詩の作者の態度を學んだ形迹が無いでもない。萬葉を模範にすることは歌風のゆきつまつた時におのづから生ずべきものであつて、平安朝の末期から鎌倉時代の初期にかけてやゝそれに似た試みが歌壇の一隅に生じたのであるが、徂徠學が眞淵の首唱に刺戟を與へたことは、彼の所説によつて明かである(第十五章參照)。眞淵の萬葉好みには武人氣質から來てゐるところもあるらしく、奈良朝の氣風を男々しいとしたことにも實朝の讃美にもそれが見えるやうであるが、その(310)主張の由來についてはかう解せられる。
 もつとも眞淵が萬葉の摸作を主張したのは、人の心がすなほで思ふことを有りのまゝにいへばそれがおのづから調べのある歌になつたといふ、上代人の氣分になるための薫習の方法としてであつたが(歌意考、新學、など)、それもまた徂徠派の口吻である。さうして事實、眞淵の時代の人が奈良朝人と同じ氣分になり得るものではないから、徂徠一派のしわざが古文辭の玩弄か文人としての遊戯かに過ぎなかつたと同樣、眞淵の企ても畢竟萬葉の遊戯的擬作に終つたのは、當然である。さうしてそれは、後にいふやうに、彼等の上代趣味が實生活とは關係が無く、遊戯の世界に於いてのみ存在するものであることと、相應ずるものである。勿論一方に於いては眞淵も、歌の用語は萬葉の耳遠きをすて、古今後撰のさして後世ぶりでないものを取り、さうして古の體によむがよい、といつてゐるが(国歌八論餘言拾遺)、それが上記の薫習説と矛盾してゐること、また歌の用語と歌の凰體との間に存する離るべからざる關係を思はなかつたこと、は別問題として、歌を學ぶべきものとし、その模範を古に置き、用語や風體の上からのみそれを見てゐることは、明かであつて、いはゆる「ますらをぶり」もまた主として歌の風體についてのことである。
 荷田在滿が、今人は古人の如く歌つて心をやることができないから、詞花の華かさを弄ぶに如かずといひ、その點で新古今を推賞してゐるのも(國歌八論)、考へ方こそ違へ、自己の情生活の表現として歌を見ないことは眞淵と變らない。宣長が自己の歌を古體と近體とに分けて詠んでゐるのは、今人の情思を古代の言語風調で表現し得る場合は少く、後世風に詠み出し得ることが多い、といふ彼の説(初山ぶみ)と共に、歌はんとする情思とその用語風體との間に密接の關係のあることを示してゐる點に於いて、むしろ一進歩と許すべきものであり、後から見ると景樹の調べの(311)説に少しく近づいて來たものとも評し得られるが、古人こそ思ふまゝに詠んで歌となつたが、今人の情思はそのまゝでは歌にならぬから、古人(近體の歌の作者も含めていふ廣い意義での古代の歌人)の氣分になつて、即ち古人の歌に現はれてゐる情趣を學び古歌の用語風調によつて、よめ、といつてゐるのは(初山ぶみ、玉の小櫛)、やはり歌を擬古的のものと考へてゐたからであり、この點から見ると、古體と近體との區別をしたこともまた模範を二樣にしたに過ぎないものと解せられる。千蔭が男は萬葉ぶりを女は伊勢小町の風を學ぶがよいといつたのは(長瀬眞幸に答へた書)、性の差別に從つて歌風にも相違が生ずることを認めた點に於いて宣長が古體近體を分けたのに似てゐるし(但し千蔭はこの宣長の考へかたをば非難してゐる)、春海が花山一條以前の風體を模範とせよといひながら、長歌は萬葉を學べと説いてゐるのも(稻掛大平に贈つた書、歌がたり)、長歌とすべきものと短歌とすべきものとによつて表現すべき惰思が違ふからといふのならば、やはりそれと同じ考であらうが、たゞ形の上からのみいつたとすれば、それとはむしろ反對であつて、歌をどんな風體にでも作り得るものと思つたのである。さうして歌によむべきものは雅情で雅情は古人の情であるとする點に於いて、明白な擬古主義者であり、その雅情は古歌によつて養ひ得られるとする點に於いて、眞淵の繼承者である。短歌は古來よみ盡されたから新しい歌はできかねるといつた春海の説(歌がたり)を見ても、彼が歌に詠むべきことに定まつた制約があると考へてゐたことが知られる。
 國學者の歌に關する意見については別に後章に於いて考へるつもりであるが、彼等が歌は學ぶべきものでありその模範が古歌にある、と考へてゐたことは明かである。從つて彼等の作がやはり題詠本位であることは怪しむに足らぬ。後世の歌は飾つたものであるといふ意見も、一つは彼等みづからが自己の情生活とは交渉の少い古歌を摸作してゐる(312)ところから出たものであらう。歌に關する意見と詠んだ歌の情思とは、必しも十分に一致するものではないが、本來學者であり、特に古文古歌もしくはそれによつていはゆる古道、を研究しようとするものだけに、作つた歌とても知識から入つたもの古歌を學んだものであるのは、當然であらう。
 歌の模範が外にあるやうに考へた國學者とは反對に、内の方から歌を見たのが京に起つた歌人の一派である。蘆庵は無師無法を修業の第一義とし、用語や風體に制限も傳授もあるものでないといひ、歌は平易の大道であるといひ、思ふことをありのまゝにいふのが歌であるといつたが(蘆かび、ちりひぢ、或問)、景樹もまた古歌をすてて我が歌をよめ、思ふことを思ふまゝにいふところに調べがあるといひ、平言の外に歌が無く、歌詞といふ特別のものは無いといひ、至道無難であるから巧を求めるなと説いた(隨所師説)。後にいふやうに蘆庵が歌は思つてゐることを理りのきこえるやうにいふものとしたに反し、景樹が「理るものにあらずして調ぶるものなり」の一轉語を下した點に、二人の差異があり、特に景樹の調べの説は内容と外形との間に不可分の關係のあることを明かにしたもので、これは蘆庵のいはなかつたことである。しかし言語に古今の變遷があるから今人は今日の言語を用ゐよといつて、國學者一流の擬古主義、特に擬萬葉主義、を攻撃し、それと共に歌の道は思ふまゝに自然に詠むほかはないとして、堂上風の規制を排斥した點は、兩者共通である。二人とも古今集を尊重したのも、擬萬葉排斥の自然の傾向としてその轍を同じうしたものらしい。これもまた萬葉派に對する反動として當然生ずべきものではあるが、徂徠一派の僞盛唐詩を排斥して中晩唐もしくは宋詩を學ばうとする新主張、格調派に對する性靈派、が漢詩壇に起つたのと類似した、或は幾分かそれに刺戟せられて生れたであらうと思はれる、現象でもある(次章參照)。
(313) 要するに、心のまゝを述べて歌になるのは古人のみであるとしてそこから擬古主義を導き出した國學者に反對し、それは今人でも同じであるといふのが、この二人であつたのである。國學者の思想にも、その根本には、歌はその本質として心のまゝに歌ふべきものであるといふ考はあるので、蘆庵も景樹もその精神を繼承してゐるが、たゞその實現を古人に限つた點が二人の滿足しなかつたところである。景樹は蘆庵の影響を受けてゐるらしいが、二人とも同じ方向を取つたのは、彼等が學者出身でなくして本來の歌人であることが共通であつた故もある。外から内に及ぼし外形から内容を規制しようとする國學者に對し、内から外を規制し内容から外形を作つてゆかうとする彼等の態度の差異は、こゝに由來する。我が思ひは念々新なるが故に歌は常に新しい、と説いた蘆庵の説(蘆かび)を、上に擧げた春海の考と對照するがよい。勿論、蘆庵も景樹も歌の復古を主張し、景樹は「敷島の歌のあらす田荒れにけりあらすきかへせ歌のあらす田」と詠んでもゐるが、それは自由に思ひをのべて歌とした古人の態度に還れ、といふのであつて、古人の歌に現はれてゐるその情思、その用語、その表現法、畢竟するにその歌、に還れ、といふ國學者の説とはく違ふ。しかし、これは彼等の主張であつて、彼等の歌にその主張が實現せられてゐるかどうかは、おのづから別問題である。
 のみならず、彼等はその主張するところに於いても歌の内容の何ものであるかを明かに説いてゐない。それはやはり歌として詠むべきことに一定の規準なり制約なりのあることを無意識の間に承認してゐたからではあるまいか。これには勿論、思ふことをいふのが歌である、といふ古今集の序の大まかな考へかたをそのまゝに繼承して、それで滿足してゐた故もあり、後にいふやうに、思ふことの如何なるものが歌となり如何なるものが歌とならぬか、といふこ(314)とについて明確な觀念をもたなかつた故もあるが、この點も閑却してはなるまい。景樹が「歌は姿のみ趣向によらず」(桂園遺文)と説き「趣向にひかれず姿を目ざせ」(隨所師説)と教へてゐるのは、理るものでなくして調べるものだといふのと同じことであるらしく、現に調べは即ち姿なりともいつてゐる。詳言すると、姿は調べによつておのづから成りたつものであり、ことばとことばづかひとそのつゞけかた即ち景樹の用語での語脈語勢と、から生ずるリヅムと音調とによつて歌想の次第に展開してゆくその過程に調べがあり、その調べを整へることが調べることであり、さうしてそれによつて一首の姿ができ上る、といふのであらう。しかしその調べその姿は歌想によつておのづから違つて來ることが考へられるから、調べるといふことは歌想の表現を適切にすることであり、そこに歌想と姿との、即ち内容と外形との、相應といふことが重要視せられる理由がある。また趣向はその歌想の成立が主として理智のはたらきによることをいふのであつて、趣向を重んじないことには理智を斥ける意味があるのではなからうか。然らばその歌想はどうしてできるかといふと、上にいつた如くたゞ思ふことをいふとだけしか考へてゐなかつたやうである。彼の歌の教へ方が拔巧の點にのみ向けられてゐることも、またこのことと關聯して注意を要する。彼の技巧は上記の意義での調べのための技巧であり、いひかへると調べることが技巧なのであり、さうしてその極致は技巧なきところに技巧ありとすること、または長い間の練磨の結果として技巧であることを意識しないまでに技巧に熟達すること、であつて、この點に於いて好んで禅語めいたいひかたをさへしてゐるが、技巧のための技巧、意識しての技巧、でないだけで、技巧であることは爭はれない。いはゆる調べはこの技巧によつて得られるので、それは歌想を表現するしかたについていふのではあるが、如何なる歌想をよしとするか、或は如何にして歌想を養ふべきか、といふのとは考の(315)向けどころが違ふ。彼の先輩である蘆庵が「たゞ言歌」の標語を用ゐたのも、一つは歌に特別の用語があるやうに思つてゐた世人の誤見を正す主意から出たのであらうが、一つは彼の新しい歌が歌想の新しさではなくして表現の新しさにあつたからでもある。蘆庵や景樹がやはり因襲に從つて型の如き題詠を主としてゐたのでも、それは知られよう。形の止に於いても蘆庵が「今思ふところを一句にも二句にもいふ、これ歌なり、」(ちりひぢ)といひながら、三十一音の歌をのみ何の躊躇するところも無く作つてゐたではないか。かう考へて來ると、歌人といふものも畢竟歌の技巧家に過ぎないのであつて、擬萬葉家や國學者系統の歌よみとは、ことばやことばづかひやが、即ちそのいはゆる調べが、幾分か違ふといふことの外に、何ほどの差異も無いものであることが、その歌に關する意見の上から先づ推知せられる。のみならず、その國學者の歌も京の歌人の作も、彼等が齊しく排斥した堂上家や舊式宗匠の歌と違ふところは、やはり單なるいひ現はしかただけにあるのではなからうか。
 
 が、これはしば/\いつたやうに、社會の固定した、文化の傳滯した、さうして人の個性の發揮せられない、時代に於いては當然のことであつて、馬琴がもてはやされ僞風雅のいはゆる蕉風俳諧が行はれてゐた世に、歌の革新が行はれないのは怪しむに足らぬ。因襲的な花鳥風月と神祇釋教戀無常との外に歌の題材も着想も無いのは、この故である。歌といふものに心を向けるのが既にこの因襲に從ふことを豫想してゐるのである。さうしてかういふ歌を作ることに大なる興味と或る誇りとをもつてゐた歌人は、まことに太平の逸民であつた、といふべきであらう.また歌を作るのは、一般には學問に附隨した遊戯でなければ閑人の消遣事と考へちれ、またそれは長い間師について修業すべき(316)ものとせられてゐたのであるから、歌人として世に知られるころには、何れもかなりの年配に達し、青春の情熱も冷却し、人としての純な感情が銷沈した時なのである。事實、彼等にはその青春時代の情懷をさながらに歌つた作が殆ど見えないではないか。例へば自己の體驗としての戀の歌の如きである。もし戀をし戀をせられた青春の時代には、歌の上にそれを現はす技巧を有つてゐなかつたのだとすれば、彼等の歌に長じた時は、もはや青春の血を失つてゐたものと見なければなるまい。或は戀の歌を我が情懷の直接の表出として世に公にするを憚つたといふならば、それは世間的道徳の前に自己を屈服させたものであり、それほどに人として弱かつたことを示すものである。桂園一枝の戀の部の終の「人の許へつかはしける」歌は妻に與へたものであらうが、それすらもかうおぼめかしてゐるのを見るがよい。これは昔の歌集の詞がきの例に從つたまでのものであるが、さういふ書きかたをしたところにこゝにいつた態度が見える。(泊※[さんずい+百]筆記によれば縣門の宇萬伎と倭文子とは相思の間であつたといふが、公にせられた歌集などの上には、多くそのことが現はれてゐないやうである。その他にも同樣のことがあつたかも知れないし、村田春郷の家集にも自己の閲歴らしく見える戀の歌があるが、そこに記してある女の來るのをまつてゐるといふことが、當時の風習に於いては少しく異樣に考へられるから、かう解してよいかどうか、明かでない。)
 だから歌壇に新旗幟を樹て新調を唱へるにしても、それは決して人として因襲的思想の權威に屈服してゐるに堪へないといふやうな、内的要求から出たことではない。蘆庵でも景樹でも、彼等が師家から離れて新風を開いたのは、單に技巧の問題についてではなかつたか。さうしてこのことは題詠の作に於いても見えるので、すべてに情熱が無く、何事に對してもよそ/\しい態度である。學者の歌が理窟に墮し説明に陷つてゐるのは已むを得ないとしても、歌人(317)の側に於いてもこの點ではさしたる違ひが無い。例へば戀の歌に於いて「けふよりや人をこひぢにまどふらんあたしく袖の濡れてかわかぬ」、「まだ知らぬ思ひこそつけこれや身のこがれゆくべき始めならまし」(以上蘆庵)、「世の中の一花ごろも何時のまに身にしむまでは思ひそめけん」、「けふ放つとやでの鷹の苦しくも始めてこひにかゝりけるかな」(以上景樹)、などを、だれが初戀の心もちとして肯ひ得ようぞ。これはたゞ初戀の因襲的な概念か、但しは言語上のだじやれかに過ぎないものではないか。初戀のやうな気分を三十一音の歌でいひ現はすことの困難であることは勿論ながら、これらの歌からはその初戀の甘さ、うれしさ、寂しさ、おぼつかなさ、もどかしさ、苦しさ、さてはかかる複合した氣分の基調をなしてゐる強いあこがれの、何のひゞきも聞えて來ないではないか。戀の歌にさま/”\の情趣は悉されてゐるが、要するに題の意を概念的に敍述し、または言語の上で機智を弄したものであつて、宣長が往往新古今式の修辭に技巧を示し、景樹が萬葉式の、但し一首としての姿はひどく違つてゐる、序詞でお茶をにごしてゐるのが、珍らしいくらゐのものである。
 或はまた詠史の歌などを見ても、史上の人物に對して強い同情や反感の現はれてゐるものは稀であり、その人と同化してその心情を吐露してゐるやうなものはなほさら少く、外面的の行爲や事蹟についてのお座なりを並べてゐるものが多い。澤田名垂が南朝人の作に擬して詠んだ歌とそのことば書きとには多少の感慨が寄託せられてゐるが、これはもとより純粹な詠史ではない.一般には「言の葉の玉の光も唐衣てりこそとほれ萬世までに」(衣通姫景樹)、「立ちかはる人の心の荒波にこの世離れしあまのつり舟」(祇王)、「錦着ていなんといひし故さとはやがても死出の山にざりける」(齋藤別當、以上木下幸文)、「あはれ世のさが野に置ける露の身を雲井の月に知られつるかな」(小督局八田知(318)紀)、のやうなのが詠史の作の例であつて、それによつて如何に當時の歌人が無關心な傍觀的態度を以て古人を觀てゐるかを知ることができよう。紀行の類を見ても、宣長の菅笠日記に吉野の花を詠じてはゐるが、南朝については極めて淡々しい記事があるばかり、濱臣の遊京漫録に至つては、吉野に遊んでも全くそれに觸れてゐない。景樹の中空の日記にも、古蹟に足を印しながら懷古の作が甚だ少い。古人に對してのみならず、かたの如き哀傷慶賀の詠はあつても、日常生活に於ける人生の凡百の事態をば殆どよそに見てゐるではないか。この點に於いては※[しんにょう+向]かに漢詩人に劣つてゐる。歌集が詩集に比べて甚だ索莫の感のあるのは、こゝにも一理由があらう。
 なほ千種有功の和漢草が、多感多恨な中晩唐の詩人の作を歌にしようとしてそれを殆ど散文的なものに化し去つてゐることをも、こゝに附記してよからう。例へば「青草湖邊日色低、黄芽瘴裏※[庶+鳥]※[古+鳥]啼、丈夫飄蕩今如此、一曲長歌楚水西、」と「江の水の恨みも深き一ふしに名も知らぬ鳥の聲合せつゝ」とを、また「柳色參差掩畫樓、曉鶯啼送滿宮愁、年々花落無人見、空逐春泉出御溝、」と「み溝水さそふを花のかぎりにて人めも見えぬ宮の春かな」とを、對照すれば、異國語の詩ながら原作によつて味ひ得られる情趣の何分の一も、歌には現はれてゐないではないか。それには固より、七絶に含まれてゐる光景なり感懷なりのすべてを三十一音の歌には移し難く、特に一首の主想の表現とその背景となつてゐる、またはそれを導き出す、風物の描寫とが伴つてゐるのみならず、主想を直説せずして風物の描寫によつて暗示してゐる場合のある詩の情趣を、何等かの感懷を單純にまた直接に述べるのが常である歌によつて髣髴させるのは、甚だむつかしい、といふ理由もあり、言語の性質が全く違ひ、詩の形態上の構成と歌のとが同じでないことをも考へねばならぬが、原作の單語をさへ用ゐながら、それに現はれてゐる一首全體の氣分を歌の上に現はさうとしなか(319)つたところにも、その原因があるので、上に擧げた例に於いて宮怨の一首の如きはその最も著しいものであり、下二句の如きことをいふに至つては原作の「怨」を全く解しなかつたやうにさへ見える。「瀟湘何事等閑囘、水碧沙明兩岸苔、二十五絃弾夜月、不勝清怨卻飛來、」を「夕月夜雁かへるらん琴のねにひきもとめずやいつき島姫」とし、「煬帝行宮※[さんずい+卞]水濱、數株楊柳不勝春、晩來風起花如雪、飛入宮墻不見人、」を「青柳の花の雪ちる宮のうちをかいまみれども見る人も無し」とした如きも、同樣であつて、原作の主想を全く逸してゐるのみならず、その語義を誤解してゐるのではないかと疑はれるほどである。「江の水の恨み」の一首もその意義は原作と違つてゐることを考ふべきである。さうしてそれは、歌の作者が原作者の氣分に共鳴し得るだけの感受性に乏しかつたからではあるまいか。概觀すると苦心の跡は十分に見え、土地や人物を日本のにいひかへ、いひかけや縁語をさへ用ゐて、歌らしくしようとしたところに思ひつきともいふべきものもあるが、それだけにまた原作の情趣からは遠く離れてゐるので、その點では詩を歌にしたかひが無いことになつた。これは必しも和漢草の著者に限つたことではなく、一般の歌人に適用し得べきものであることが、前に考へたところから推測し得られる。伊能頴則の長恨歌句題和歌の如きものにも、原作の情趣は少しも現はれてゐず、「漁陽※[革+卑]鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲、」を「舞の袖かへせば雲となる神のとゞろ/\とうつ鼓かな」とするに至つては、沙汰の限りである。俳人成美が「養在深閨人未識」を「行く春を鏡に恨む獨かな」としたのに對照して、歌人の心情のひからびてゐることを見るがよい。長恨歌のこの句の意義を成実のやうに解してよいかどうかは問題でもあらうが、よしそれにしてもそれをかう轉化させたところに詩人的情味の豊かさが見える。歌人の心生活がかういふ状態であるとすれば、それが單なる技巧家であり、因襲的思想を以て型の如き題詠を反覆してゐるのも、(320)怪しむに足らぬ。
 しかし國學者系統の歌人の題詠には、やゝ特殊の意義がある。彼等はその尚古主義から上代の風俗を尚慕し、上代人の氣分を味はうと勉めてゐた。眞淵がそのシナ排斥漢字排斥の根本思想に矛盾するをも顧みず、長歌の詞書を漢文で書いたり、その門弟が往々萬葉仮名で長歌を書くことのあつたのは、萬葉の單なる摸倣でもあつたらうが、その根柢には身を萬葉の時代に置いて萬葉歌人の心もちにならうとした、といふ理由があるかも知れぬ。古歌を學ぶことによつて古人の氣分に薫染せられることを説いた眞淵及びその門人としては、これは當然であらう。旅ゆく人にぬさに擬した紙を贈つたり(眞淵家集)、萩ずりの衣を作つたり(春郷家集)、管絃の遊びをしたり(天降言)、月の宴に洲濱を作つたり、扇合せをしたり(うけらが花)、子の日に松を引いたり(つゞら册子)、さういふことをするのは、主として平安朝の風俗をまねたのであるが、その意味は同じである。贈答の會といふものを催し古人の贈答に擬して歌を作るのも(眞淵家集、うけらが花、琴後集)、同じことであつて、その中には戀歌さへもある。全體に戀歌の題は待戀、逢戀、契戀といひ、後朝戀、來不留戀、といひ、多くは男が女に通ふといふ、この時代の風習としては全く見ることのできぬ、上代の風俗から來てゐるので、それは題詠が始まつてからの因襲であるが、上記の如き好尚を有つてゐる國學者にとつては、それに特殊の興味があつたのである。子日とか白馬節會とかいふ年中行事の歌も同樣であり、擬送遣唐使歌を作るなども同じ趣味から來てゐる。
 だから四季風月の題詠に於いても、往々その題材を上代にとるので、「關こゆる新防人が麻衣に散るはゝそ葉の名さへなつかしし(關路落葉千蔭)、「あれにける志賀の都の村紅葉錦だにはれ昔しのばん」(故郷紅葉春海〕、「宮人は白馬(321)ひけり少女らは雪間の若菜今やつむらん」(若菜)、「信濃なる大野の御牧春されば小草もゆらし駒いさむなり」(春駒、以上田安宗武)、「わがせこが衣すらんとしめ野ゆき紫野ゆき菫つみけり」(すみれ栗田土滿)、などにその例がある。國學者のうちに數ふべきものではないかも知れぬが、上田秋戌の「弓矢負ひいざ駒なめて武夫の花見がてらに鳥かりする岡」(武士)、「畝火山木末にさわぐあさ鳥のさきにむれ立つ輕の市人」(市賈)、なども、昔の武士、昔の市人、ではないか。花鳥につけていはゆる名所を點出するのも同じことであつて、それによつて古人の情趣にひたらうとするのであるから、花に志賀山越をいふなど、歴史的考證をしなければわからなくなつてゐるやうな場所をも材料とする。春海が歌は題詠から衰へたといひながら(稻掛大平に與へた書)、やはり主として題詠をしてゐるのも、一つは無意味の因襲であらうが、一つはやはりこゝに理由があると見ることもできよう。眞淵の言として、同じ題詠ながらその境に身を置く心もちで詠んだ昔の歌はよい、といつてゐるのも、この意義に解せられる。
 しかしかういふ古代の世界は現實には存在しないものであり、そこに於いてのみ味はるべき情趣は當時の人の日常生活とは交渉が無い。從つて歌人が題詠によつて思ひ浮べるものも、古代人の日常生活から遊離してゐる或る特殊の光景や行動に過ぎず、古代人の生活そのものにあこがれをもち、その生活を空想に描いて自己をその中に置き或は自己の情生活をそれに同化させようとするのではない。これは古代人の生活を具體的に想像し敍述し描寫するのではなくして、たゞその生活から生れた抒情詩としての歌を擬作するのみだからでもあるが、主なる意味はこゝにある。だから歌人にとつては、それは畢竟、生活から離れた遊戯に過ぎない。故らに作つた或る氣分にわれから涵つてそこに實生活を没入させようとする、いはゞ一種の美的生活に生きようとするやうなことは、當時の歌人の夢にも思ひよら(322)なかつたところだからである。眞淵などの説いた古人の心になるといふのは、たゞ作歌の上のみのこととしては全く無意味ではないにせよ、彼等の現實の情生活とは殆ど關係が無い。さればこそ其磧の子息氣質(卷三)の歌人が滑稽に取扱はれてゐるのである。戀の如き古今その情を同じくするものに於いては、古人の藝術に現はれてゐる古人の氣分に共鳴し得るものであり、戀を戀ふといはれるほど、みづから作つた幻想世界にみづからあこがれることにもなり易いものであるが、それですらも社會組織や家族生活の状態が全く奈良朝や平安朝と違つてゐる江戸時代の彼等に、その奈良朝人平安朝人の戀愛生活が體驗せられないこと、またそれを體験するために風習や制度に反抗しようとしなかつたことは、いふまでもなく、さういふ戀愛生活の情趣を空想してそれを樂しむことすらも、實はできなかつたのである。
 かう考へて來ると更に一歩を進めて、彼等の歌が上記のやうなものであるのは、みづから古人の氣分にならう、少くともそれを味はう、といふよりも、むしろ古語を用ゐることに興味を有つてゐたのではないか、とさへ疑はれる。よし遊戯の世界だとしても、全く生活を異にしてゐる江戸時代人が、歌を作ることによつて古人の氣分になりまたはそれを眞に味ふことは、困難だからである。將軍の日光拜禮に供奉した大名に對して「大君のまけのまに/\前つ君草葉おしなみ借廬せすらむ」(楫取魚彦)といふが如きは、草葉おしなみ借廬する古の旅の情味をしのぶのではなくして、たゞさういふ語を用ゐることに興味をもつて作つたのに過ぎないではないか。かゝる情味を江戸時代人がなつかしく思つたとは考へられないからである。多數の作者が萬葉ぶりを摸倣したり長歌を作つたり、眞淵のやうに神樂催馬樂の歌を擬作したりするのは、その動機の大部分が摸擬そのことにあり、從つて作者の誇りは如何によく摸擬し得(323)たかの技巧にあるらしく、推測せられる。眞淵やその門下のものが將軍に對して、昔は皇室についてでなければ用ゐなかつた最上級の敬語を用ゐ、「東路のふじの高ねの高しらす君が世仰く三つの韓人」(韓使眞淵)といひ、「うめつ道武藏の國は、御心を廣し御國、民草の豐けき國、その國の國のまほらに、大城を高く貴く、しきまして遠く久しく、うらやすに治め給へる、畏きやわが大君、」(楫取魚彦)といふやうなことをいつてゐるのも、一つは彼等の、後にいふやうにどこまでも將軍を日本の君主として認めてゐた、政治上の思想からも來てゐようが、一つは奈良朝人の口つきをまねて見たかつたからでもあるらしい。「み民われ生けるかひありてさす竹の君がみことを今日きけるかも」(眞淵)の如きもその例である。眞淵が江戸を「東の都」と書いたことには、文章の語勢上さう書く方がよいといふ理由もあつたといふではないか(錦織舍隨筆)。彼が平安朝人の女々しさを貶しながら、その平安朝人の遊戯を摸倣して喜んでゐるのも、漢字排斥論者であつた彼が眞名で祝詞などを書いたと同樣、すべての動機が摸倣にあるからであらう。彼等が畢竟歌の技巧家たる所以は、これを見ても明かである。俳人に於いても蕪村の如く古代人の情趣を味はうとしたものはあるが、それは現實の自己の生活から離れた夢幻の世界とその世界に住むものの氣分とを客觀的に描き出して、それを美しくも面白くもながめてゐたのである。歌は多くは自己みづから、現實に於いてでも空想の上に於いてでも、或る環境に身を置くことによつて始めて咏まれ得べき抒情詩として作られるだけに、眞實には體驗し難き古人の情懷を古人の言語を用ゐて故らに構成する場合に、かういふことが生ずるのは、當然である。
 もつともこれは、必しも國學者系統の作者には限らない。蘆庵も景樹も題詠には、戀歌は勿論のこと、昔の年中行事や古代の風俗をも咏み、いはゆる名所の歌をも多く作つてゐるし、「宿も無き野原篠原わけくれぬまたこよひもや草(324)枕せん」(旅蘆庵)のやうな、古人でなければ味ひ知られぬことをもいつてゐる。蘆庵がその家集を六帖詠草と名づけたのでも、彼等の趣味の一面は覗はれよう。蘆庵も一面では「古は大根はじかみ蒜なすびひるほし瓜も歌にこそよめ」とも「何をかはあぜくらかへし求むらん見きゝにみてる言の実の種」ともいひ、事實、日常生活の些事、耳目にふれる何ものをも、そのまゝに歌にしてゐるのは、國學者系統の作者とは根本的に考が違つてゐるからである。六帖詠草を見ても、四季の部に題詠でないものが甚だ多く編入せられてゐる。景樹の桂園一枝に「事につき時にふれたる」の一部門を立ててあるのは、それの一歩を進めたものである。しかし概していふと、歌材としては上記の如きものを用ゐることがあつても、その主題は依然たる花鳥風月趣味を離れない。景樹に至つては蘆庵ほどにも新歌材を取入れてゐない。たゞ越後獅子とか鉢叩とか盆踊とかいふ當時の風俗畫に賛をしたものが見え、彼の門人の歌集になると、さういふものが一層多くなつてゐるやうである。さうしてそれを琴後集の題畫歌の畫が殆どみな古典的のものばかりであるのと比べると、彼等の思想の差異はかなり著しく目に立つが、これは歌人の作に於いて歌材の範圍が漸次廣げられて來たことを示すものであらう。だから後になると、例へば柿園詠草のやうな、國學者系統の作者の歌集にも風俗畫の賛などが見えて來る。しかしそれにしても歌としてはその題材に限りがあつて、例へば民衆の生活、特に農民のしごとや農村の状態など、を歌材とすることは殆ど無い。もしあつても昔からの歌人の因襲に從つて外部から「賤のを」のしわざを見たり思ひやつたりするのみである。蘆庵の「暮るゝまで唄ふ田歌に永き日も植ゑはつくさぬさ苗をぞ知る」、また「土裂けて照る日にぬれし民の袖かわくばかりの雨もふらなん」、などもその例に外ならぬ。景樹の「苅りあけし畑も大麥こきたれてふる五月雨にほしやわぶらん」も同樣である。「おもしろく囀る春のゆふひばり身をば(325)こゝろにまかせはてつゝ」といふ畫賛の歌を、農作に忙はしくして身をこゝろに任せかねる百姓のこゝろもちを詠んだのだと、景樹みづからいつてゐるが、調べはそれに切實でないやうであり、さうしてかういふ態度で詠んだ歌すら他には無いかまたは極めて少いかではあるまいか。歌人の紀行を讀んでもさういふことに注意した樣子は見えない(次章にいふ漢詩人の態度と對照すべきである)。それほどに歌人は保守的であつた。婦人の歌に婦人らしい特色の見えるものが無いのも、やはり歌の題材にも情趣にもまた用語にも一定の型があるからである。もつとも歌の題材に新しいものが全く無いではないので、當時俗間に行はれてゐた事物を題材とすることもその一つであり、上にいつた風俗畫の賛などもそれであるが、また民謠俚諺などを用ゐることもある。但しかういふものはその例が少いから歌人がそれをどう取扱つたかの一般的傾向を見るだけの材料に乏しい。それよりも多いのは、古來歌人のしば/\試みたやうなシナの詩を題材としたものであつて、詩を讀み詩を作ることの流行してゐるこのころには、さういふものが少からず現はれた。かの和漢草はその最も著しいものであるが、秋成や蘆庵が詩經の詩の大意を歌にしてゐるのも、同じ例である。詩の一句を題とするやうなのは普通のことであり、春海の如きも詩趣の歌を作つてゐる。特殊の詩には關係が無くとも、シナの風物や説話や歴史上の事件などが題材として取られてゐる場合は頗る多い。これもまた昔から斷えず試みられてゐたことであるが、このころには一般にシナの書を讀むことが多くなつてゐるために、それがます/\行はれたのである。シナ畫を摸作したものの賛なども少なくない。但しさういふ歌に於いてシナの故事シナ人の説話などがどう解せられてゐるか、シナ人の思想や生活感情がどう取扱はれてゐるか、といふと、それには上に和漢草についていつたことが、その他の場合にもほゞあてはまるであらう。たゞこゝで一言して(326)おくべきは、詩を日本語に翻譯することは、昔から行はれなかつた如く、このころにも殆どせられたかつた、といふことである。次章にいふやうに詩を半ば日本語化して讀むのが昔からの習慣であつたため、純粹の日本語に翻譯する必要を感じなかつたからであらうか。といふよりも、さういふ讀みかたをすることがそのまゝ今人の用語例に於いての翻譯だと思はれてゐたのだ、といふ方が當つてゐよう。單語に於いても漢語をそのまゝ日本語として用ゐてゐるのとほゞ同じである。たゞさういふ單語によつて何等かの辭句の構成せられた場合にかゝる讀みかたをするのは、語法の上に於いて眞の日本語にはなつてゐないので、こゝに「半ば日本語化した」といつたのはそのためである。これが日本人の詩(及び漢文)の讀みかたから來たその取扱ひかたであつて、それは根本的には昔の日本人が口にいふシナ語を學ぶ必要がなく、文字に書かれた漢文の意義を知ることの欲求せられたところに、遠い由來がある。
 さて歌の多くは題詠もしくはそれに准ずべきものであるが、即興もしくは自己の現實の感懐を詠じたものが全く無いではない。景樹がさういふものを特別に取扱つたことは、既に上に述べた。しかし題詠の内容は因襲的にほゞ定まつてゐるから、この二つに齟齬し矛盾した思想の現はれる場合の生ずるのも、自然の勢である。單純な樂天的な上代人を尚慕してゐる眞淵に「たま/\に人とある世をうき時は背かまほしく思ふはかなさ」(述懷)の詠のあるのも、その一例であるが、これは作の時代が不明であるから且らく措くとしても、宣長が古事記傳の稿を始めた後の明和五年の作に「この暮に消ゆともよしや法の道聞きて迷はぬ今朝の白雪」(雪朝聞法)といつて仏教を讃美してゐるのは、見のがすわけにゆかぬ。栗田土滿の「後の世を思ひ入るてふ山川の心清くも見えわたるかな」(釋数)なども、同じことである。景樹が一方で「長閑なる大かたの世を知らずして山に住めばと思ひけるかな」といひながら、他方で「世の(327)中のなげきは我もこりはてついざ山賤と相すまひせん」と詠んでゐるのも、時々の變つた心もちからかういふ矛盾した歌が作られたといふよりも、山家といふ題にについて變つたことを案じたがためであらう。(この二首は桂園一枝拾遺に並んで出てゐる。)題詠によつて直ちに作者の思想を知り難いのはこれがためであるが、その他のものに於いてもこの點は大同小異である。
 さて題詠ならぬ作には、知人間の贈答應酬、慶賀哀傷、もしくは人の需に應じての庭園泉池の歌や畫賛の類が多いので、それは幾らかの機智を以てお座なりのことをいふのが常であり、作者の特殊の思想は概ねそれに現はれてゐないから、人によつて違ふのは技巧だけである。旅行遊覽の歌や風月に對する即興の詠とても、ほゞ同樣である。文化年間幕吏に隨行して國後までいつた桂園門下の兒山紀成が書いた蝦夷日記の歌ですらも、北門經略の行はれてゐた時代の日本人の意氣が毫もそれに現はれてゐず、土佐日記にでもありさうなものばかりであるのを見るがよい。たゞ國學者の國自慢のやうなものになると、彼等の間に於いては共通の思想であるが、一般の歌の因襲から離れてゐる點に於いて、特殊なる作者の情懷をそこに認めることができる。しかしそれと多くの題詠との間には思想上何等の連絡が無い。名ある作者がその一生涯によんだ歌は無數であらうが、技巧の上にこそその作者としての統一も發達もあるものの、思想の上にはそれが見られないではないか。さうして彼等が家集を編纂するに當つては、たゞ技巧の秀れたもののみを撰ぶのであつて、人としての特色のあるもの、その作者に獨自な心生活の現はれてゐるもの、を取らうとした形跡は無い。この點に於いて亮々遺稿に見える木下幸文の貧窮百首の如きは、廣い歌壇に特異の光彩を放つてゐる。鹿持雅澄の伸拙懷歌、病中戯作問答歌、などもそれに準じてよからうか。しかし幸文とても、多くの歌は例によつて(328)例の如きものであつて、俳人一茶の作が何れの句にも一茶みづからを呈露してゐるのとは大なる懸隔がある。さうしてそこに擬古文學の本質も認められる。勿論題詠に於いても、何等かの感懷の寄託せられる場合、または無意識の間に時代の思想が反映せられることはあるので、後にいふやうに國學者系の江戸の歌人が好んで「ますらを」とか「ものゝふ」とかいふことをいひたがる癖のあるのも、その一例であるが、本來技巧を生命とする作者にさして深い思想の無いのは、むしろ當然であらう。數多い歌人が、技巧こそ違へ、たれも/\同じやうな題材で同じやうな歌を作つてゐることは、今日かち見ると驚かれるばかりであつて、歌人の作に興味の深いものが少い理由もこゝにある。それは既に考へた如く文化の停滯を示すものであると共に、人心が安定してゐる點に於いてそこに太平の徳澤がある、といはねばならぬ。だから世に事變が起つて人心の動搖するやうになると、かういふ歌ばかり作られてはゐない。特に職業的の歌人でない作者の作に於いてさうである。幕府の權威が漸く傾いて何事かの動亂が國民に期待せられるやうになると(第三章參照)、その傾向がます/\強められて、技巧本位の職業歌人にもその影響が及ぶやうになる。このことはなほ後に述べよう。
 
 以上は當時の作者の歌に對する意見とその作品との概觀である。かう考へて來ると、歌の風體の如きは深く論ずるに足らぬものであるが、しかしそこにやはり時代の思潮が現はれてゐるから、次に名ある作者の口つきを一とほり觀察しておかう。さてその第一は眞淵のである。眞淵の師の春滿は國學の先驅をなしたとはいへ、學説そのものに於いてさしたる創見を示さなかつた如く、歌に於いてもまた著しい特色を有つてゐない。「春にけさふくも音せぬ谷風に(329)氷とけゆく水の白波」、「閨の戸の隙もとめ來て世は春とつげの枕に薫る梅が香」、「霞めたゞ波の浮きねの夜半の月春とみるまも慰まばこそ」、など、或は古今の詞をとり或は新古今の姿をおもはせるものもあるが、要するに契冲などの作と同じほどのものである。ところが、眞淵は前に述べた如く、古學の唱道と共に擬古歌の製作を主張したのである。さてその作は「さを鹿の妻とふ宵の岡のべに眞萩かたしき獨りかもねむ」、「はしだての倉梯山に雲きらひ高市國原雪ふりにけり」、といふやうなのが、いはゆる萬葉ぶりとして作者の誇りとしたものであらう。しかし「橘のもとに道ふみゆきかへりもとつ人にもあひにけるかな」などは、萬葉語を用ゐながら萬菓調とはいひ難いやうであり、「大伴のみつの浦なみ吹きよせて松原こゆる秋の夕凪」の如きは、末二句の着想がむしろ新古今時代のを思はせるほど繊巧であり、また「鳰鳥のかつしか早稻の新しぼり酌みつゝをれば月傾きぬ」、「信濃なるすかの荒野をとぶ鷲の翼もたわに吹く嵐かな」、なども、その自然界を見る眼や態度が萬葉歌人のとは隔たりがあるのではなからうか。修辭の上に於いても、冠詞は往々用ゐられたが萬葉に最も多い序詞は殆ど無く、頭韻や疊音疊語疊句の法などもまた使はれず、總じて萬葉の歌に音調上の效果のあることが解せられてゐないやうであり、從つてその作には萬葉に多く見られるやうな輕快の趣きが乏しい。萬葉の比較的素朴な粗大な單純な歌想と大まかな表現法とに目をつけ、それを男々しいますらをぶりとして尚慕し摸倣したのであらうが、萬葉人でない彼は、拔巧の上に於いてすら、眞に萬葉ぶりを摸倣することはできなかつたのである。戀歌に至つては萬葉人の眞摯さをしのぶに足るものは一首も無い。さうして自然界に對しても枝直との贈答の歌(家集冬の部)の如く、後世の思想で雪見などを詠んでゐる。慶賀哀傷の作に於いてはその大部分が平安朝以後の因襲思想に本づきその口つきを學んでゐるではないか。眞淵の上代尚慕の理説と彼自身の作つた(330)歌とには、一致しないところがあるやうに見える。もつとも歌集に於いては作の時代の不明なのが多いから、上記の批評には或は不當なものがあるかも知れぬが、萬葉學びを唱道した後の作に於いて萬葉ぶりでないものの多いことには、疑があるまい。萬葉のみの摸倣は彼の眞意でなかつたといはれてゐるが(春海の稻掛大平に贈つた書、清水濱臣の村田春郷家集序)、彼みづからも用語の點に於いて古今後撰などをも取るべきやうに説いてゐるのは(上文參照)、或はこの破綻に氣がついたからのことでもあらう。しかしそれがために、上代尚慕の根本思想はおのづから動搖して來る。もつとも用語についてのこの説は機械的の考から來てゐるので、萬葉語だけでは窮屈すぎるため古今後撰のにまでそれを廣めたに過ぎないが、彼がもし用語とそれによつて表現せられてゐる情思との間に離すことのできぬ關係のあることに氣がついてゐたならば、かういふことはいはなかつたかも知れぬ。その代り彼の歌はどこまでも彼の理説とは一致しないものになる。
 眞淵の門弟は、概していふと、眞淵のこの矛盾した二面に於いておの/\その一方づゝを受け入れたために、おのづから二流に分れた。田安宗武や楫取魚彦などは萬葉擬作の方面を繼承して更にそれを極端に推し進めた觀があり、村田春郷にもいはゆる萬葉ぶりの歌が多いが、それに反して千蔭や春海はむしろ平安朝の風體を學ぶ方に傾いたのである。さて擬萬葉家が萬葉を摸倣する技巧は、宗武も魚彦も眞淵よりは※[しんにょう+向]かに進んでゐるので、「春雨はしば/\ふれり佐保川の岸の青柳色まさるらし」、「春日のかすがの野邊に今日もかも里の少女ら菫つむらむ」(以上宗武)、「浪の音のあらきいそわの白眞砂またく時なし我が戀ふらくは」、「紀の國の名草はあれどなぐさまず戀わするとふ貝ひろひてむ」(以上魚彦)、など、特に秀れたものを取つたのではないが、ともかくも萬葉人の情思であり口つきである。しか(331)し既に萬葉の歌があるのに、それと同じやうなものを作ることに何の意味があるのか。もしあるとすれば、それはただ摸倣の巧みであるといふことに過ぎなからうではないか。佐保川の岸の青柳の色深くなるのは、春まちわぶる古の奈良の都人にして始めて興趣があり、名草や戀忘れ貝のやうな言語上の遊戯は、後世になつて限りなくそれの反覆せられたことを知るよしもなかつた昔の奈良朝人にして、始めて輕いをかしみがある。それを江戸時代の作者が摸作したとて、自己の情思と何ほどの交渉があるはずも無い。「秋の野の尾花葛花萩の花知らえぬ花も今盛りなり」(魚彦)の如きも、心生活の單純な古人に於いては或は興味があつたかも知れぬが、平安朝以後千有餘年の間、秋の千草の花の色々にもつと細かい情趣を味つて來たものが、故らにかう單純めかすのは、大人が強ひて小児のしわざをまねるのと同じである。俳人一茶が子どもらしい感じを率直に吐露したとは反對に、これは子どもらしからぬものが子どもをまねたのである。だから聽くものはそこに一種の矯飾を感ずる。少くとも不自然を覺える。或はまた「いその上ふりにし里の笛竹を吹き立て遊ぶ今よひ樂しも」が、平安朝の貴族の宴遊を想起せしめる管樂の合奏についての歌としては、如何に調子の不似合であるかを聽き知るがよい。從つて萬葉の語を用ゐながら或は「人みなは秋を惜めりその心空に通ひてしぐれけむかも」の如く後人の思想に本づいたもの、「かへらむと我がせし時に我が紐を結びし姿いつか忘れむ」(以上宗武〕、の如く後朝戀の情趣を解せざるもの(この歌の末二句は讀者をして永き別離を思はしめる)、があるのも當然であつて、それは何れも萬葉人になり得ないで萬葉語をつゞるからのことである。かういふことになると、萬葉の專門家だけに山齋集に見える後の鹿持雅澄の作などは、すつかり萬葉ぶりになりきつてゐて、あまり破綻を示してゐない。その代り、彼の境遇を訴へた少數の作の他は、鹿持某といふ個人の作としては甚だ無意味である。
(332) 琴後集やうけらが花に見える春海や千蔭の歌は、これとは※[しんにょう+向]」かに面目を異にしてゐる。のどやかなる調をよしとして古今集を標準とし、雅情(みやび心、古歌の風情)を雅言(古人の言)で詠むのが歌である、と主張した春海の作は、概ねその主張を實現してゐるし、千蔭もほゞ同意見同成績である。この意味に於いて彼等の歌もまた擬古的製作であるが、しかし春海が古今時代を標準とするといふのは、たゞ用語や詞のつゞけがらについてであつて、歌そのものは概していふと古今の如く理智的でなく、また言語上の遊戯に重きをおくことが無い。「舞人の立ち舞ふ袖も霞むなり三笠の山の山かげにして」、「しらみゆく尾上の櫻色見えて片山くらき春のあけぼの」、「行舟は霞たちこむる波の上にほの/”\殘る有明の月」、といふやうに、題に從つて四季をり/\の光景を描き出し、或はそれに何等かの情思を寄託するやうなものが多い。いひかけは往々用ゐられるが、縁語をひちくどく絡ませてゆくやうなものは多く見當らず、すら/\といひ下してゐる。千蔭も「あしぶきや霞む軒端の苔のつゆまなくも落つる春さめのころ」、「をつくばの山かきくもり葛飾や苗代小田に小雨ふり來ぬ」、「あじろ木に下りゐる鷺のみの毛のみ一むら白き宇治の川霧」、のやうなものを作つてゐる。かういふ風の繪畫的描寫は、むしろ院政時代の和歌復興期から始まつてゐることであつて、三代集の口つきではないが、そのころから行はれてゐる題詠の習慣を持續してゐるため、おのづからかうなつたのでもあらう。萬葉ぶりを鼓吹した眞淵の門下の作として、かういふ後世ぶりの作られたのは少しく異樣にも見えるが、あのころの歌は、三代集時代の理智的傾向に反對した點に於いて、萬葉のおもかげの見られるところもあり、また事實萬葉の囘顧せられた時であるから、そこに一脈の連絡はある。
 もつとも彼等の作はかういふものばかりではないので、「くやしくも深くぞ花になれ衣袖のわかれのあるを忘れて」(333)(春海)、「秋くれて早くも冬は立田彦うらさびまさる今朝のあらしか」(千蔭)、の如き後世風のものも少なくはないので、かなりに廣くいろ/\の時代の風體を取つてゐる。しかし三代集時代の如き理智的着想が少いと同樣、新古今式の入りくんだ修辭と微妙な音調上の效果を求めたものともまた認めることができず、俊頼や爲兼に似たものもまた作らなかつた。(爲蒹は千蔭などのひどく排斥するところであつた。筆のさが參照。)全體に穩かではあるが、思想の上には勿論、技巧の上に於いても何等の新味を出してゐないのが、やはり太平の民たる江戸人の遊戯的製作として甚だふさはしい。清水濱臣とか本間遊清とかいふ江戸の作者は、概ねこの系統に屬する。
 學問の上で國學者を代表してゐる宣長の歌は、眞淵及びそれに親炙してゐる江戸の作者とは、少しく變つてゐる。歌はめゝしかるべきものであるといひ、「言の葉よ百の草木をみても知れ花さきてこそ實にはなりけれ」と詞をあやなすことに重きをおいてゐる彼が、擬萬葉派でないことはいふまでもない(鈴屋集、石上私淑言)。しかし彼は新古今の詞花を喜び、西行の歌をすら技巧的でないといふ理由を以て好まなかつた點に於いて、春海干蔭の一派とも違つてゐる(美濃の家苞、初山ぶみ、玉勝間)。かゝる思想の由來の何にあるかは後にいふこととして、彼の作も概してこの考に調和してゐる。「夢かとよ寢ざめの袖の春風もほのかにすぎし窓の梅が香」、「袖にふけ都の夢も花の香にかへて一夜は梅の下かぜ」、「ふる年の夢の浮橋春かけてさむる枕の鳥の初聲」、「きえねたゞしのぶの山の木がくれに袖のみぬらす下草のつゆ」、「ひまも無く軒のしのぶの露落ちて曇らぬ雨のふる里の空」、の類が、新古今調の摸倣であるのを見るがよい、新古今の歌を本歌としてゐるもののあるのも、新古今時代の流行をまねたのである。新古今式でないものでも、いひかけや縁語を盛に用ゐてゐるので、縁語の多いのは、新古今に於いて詞の「よせ」なき歌を非難してゐる(334)彼としては、當然であらう(美濃の家苞)。勿論、三代集時代のものに似てゐる作もあり、ずつと後世の風體らしいものもあつて、一樣ではないが、純粹の客觀的描寫と古今風の理智的な言語上の遊戯とは見うけることが少い。こゝに彼が「もののあはれ」を歌ふものとして歌を抒情的に見てゐる考が、現はれてゐるのであらうか。
 しかし一方に於いては、多分中年以後、彼もまたいはゆる古風を作つてゐるので、そこには「ぬば玉の夜はふけぬれど我がせこが駒の足音の聞え來ぬかも」(待戀)、「浪間より雲井に見ゆる粟島のあはずてのみや戀わたりなむ」(不逢戀)、といふやうな萬葉ぶりがある。彼の「古風」には往々萬葉語よりもむしろ古今時代の用語を採つたものがあるが、それにしても上に擧げたやうな作風とは全く違ふ。しかし、それが果して彼の理説どほりに、それ/\適當な形に於いて異なつた情思を詠じたものであるかどうかは甚だ疑はしく、古風といひ近風といふ型がまづあつて、それに似つかはしい詞をあてはめたのみではあるまいか。作者の空想に浮んだ待戀も不逢戀も、古風とするのと近風とするのとに於いて、情思そのものには何の違ひも無く、違ふのはたゞ如何にそれをいひ現はすかにあつたのであらう。さうしてそのいひ現はし方に型があるとすれば、作者のしわざは畢竟その何れの型をまねるかにあるのみである。待つ夜半に駒の足音が聞えぬといひ、逢はずしてのみ戀ふといふことが、後世の風體で詠めないに限らぬ以上、かう考へねばならぬ。このいひ現はし方の違ふところに、それ/\の時代の人の情の動き方の差異がある、といふこともいはれようが、それにしても後人がそれを摸倣するのは、たゞ違つた時代の人の氣分を思ひ浮べるといふことに過ぎない。さすれば或る情思を歌ふに當つて、何故に新古今時代の氣分をすてて萬葉時代のそれを取らねばならぬか。宣長の歌の論からはこの問題に答へ難からう。特に新古今風の詞花を喜ぶ傾向と萬葉調をまねるのとの間には、大なる矛盾が(335)あるではないか。だから、宣長のこの「古風」は國學者であつて古歌を取扱ひなれてゐるために、何となくその外形を模倣した、或は知らず識らず世間の擬萬葉風にまきこまれた、に過ぎないものであつて、上記の矛盾は、平安朝の物語に源を發したらしい趣味と、古事記などに考をむけた國學者的態度とが彼に於いて混合してゐるところから來てゐよう。この點に於いてすら作者としての統一を失つてゐるとすれば、彼の歌が自己から出ない摸倣であり生命の無い詞の行列に過ぎないことは、いよ/\明かである。
 かう考へると、上記の例によつても知られる如く、新古今を學んでもその音調上の效果に注意しなかつたために、微妙な樂的情調を失つて、たゞ入りくんだ詞のつゞけがらだけを移し得たに止まり、また往々萬葉語を並べただけで萬葉調をなしてゐない歌の作られたのも、當然である。新古今の歌は造作した技巧的のものであるから、技巧として學び得る點があるが、それにしてもさういふ技巧となつて現はれた作者の氣分は學び得られない。萬葉人の生活感情が摸倣せられないことは、いふまでもなからう。さうして「よの中は何につけても神を思へ神のめぐみをつゆ忘るなよ」、「さひづるやから國人の僞りは似つきてすれば人まどひけり」、といふやうなものを見ると、詞のあやを重んずるといふ歌についての意見も、彼の本領たる學問上の信念か見解かを述べる場合には、少しもはたらかなかつたらしいではないか。「百八十の國のおや國本つ國すめらみ國は尊きろかも」などには、一種の強い調子が自然に具はつてゐ、「手にまける白玉しらに人みなのおそや世の人石をほりすも」の如きは、いはゆる詞のあやもあつて幾らか歌らしく聞えるけれども、かういふものはむしろ少い。彼はその信念を説いたけれども歌ひはしなかつた。學者ではあつたが詩人ではなかつたのである。
 
(336)     第十二章 文學の概観 九
       擬古文學 下
 
 國學者系統の作者の歌が畢竟古歌の摸倣に過ぎないといふことは、上記の考説でほゞ知られたであらう。ところが宇萬伎の門に入つたといふ點に於いて眞淵の學統をうけてゐ、時には「高圓の野邊見にくれば新草に古草まじり鶯なくも」といふやうなものをも作りながら、前記の諸家とは頗る趣きを異にした作者に上田秋成がある。俳句も作り小説も書いたといふ經歴から見ても、なみ/\の作者でないことは知られるが、歌の添削をすることを拒み、一般の歌人輩を歌の商人だと罵つた彼(膽大小心録)、狷介にして人とあはない彼が、歌に於いても幾らかの特色を具へてゐることは、おのづから推測せられる。「我こそは面がはりすれ春がすみいつも伊駒の山にたちけり」、「紀の海の南のはての空見ればしほけに曇る秋の夜の月」、「いわけなき里の童が夕まどひ月に指さし門遊びして」、「八束穗の山田かるひまを高畑の粟生豆生の喜びを添ふ」、「畑つくる大根青菘の隔りに麥もはつかの雪のながめは」、「鯨よる浦山松につもる雪波にけたれてまたふりつもる」、など、或はその歌材に或はその着想に、また或はその目に映じた自然界の光景と風情とに、少しく因襲を破つたところが見える。さうしてそれは何れも直接の觀察から來てゐるらしい。根本の趣味に於いては變りが無いが、徒らに古歌をまねたり机上で案じたりしないで、即目の感興をそのまゝに歌としたのが新しいのであり、歌に於いて幾らかの新境地を開いたものである。しかしその代り、表現のしかたには潤ひが無く、全體に情味が乏しい。これは精錬を缺いてゐるといふよりも、作者の人となりの然らしむるところであらう。「夜にか(337)くれあひにし人に花山の道にゆきあふおもなしやわれ」の如きは彼みづからの閲歴を歌にしたものらしい點に於いて珍しい作ではあるが、やはりこの憾みがある。
 秋成は間接に眞淵の系統を傳へながら、京にゐて京の歌人と交つてゐたので、彼の歌風にはおのづからその影響をうけてゐる點があるかも知れぬ。ともかくも、彼が自己の觀察に本づいた歌を作り、從つて幾らかの新題材を取入れ、用語に於いても或る程度の自由を有つてゐたことは、一つの意味に於いては、國學者系統の作家と蘆庵などの歌人との中間にたつもの、またはこの二つを連結するもの、とも見られよう。さて蘆庵の特色は、目前の光景を如何なる場合でも即興的に詠じ出すところにあるので、それがために頗る清新の趣きを呈するものがある。「波となり小舟となりて夕暮の雲の姿ぞ果ては消えゆく」、「山遠くたなびく雲に映る日もやゝ薄くなる秋の夕暮」、といふやうなもののあるのも、この故であるが、それはおのづから「白妙の大根の花は雪に似てもゆる草葉と見ゆる麥はた」、「瓜つくる野畑の賤にこと問はん思ふがごとはなるやならずや」、のやうに、新題材を用ゐることにもなる。だからまた長閑な晝ねの夢を鳥の聲に呼びさまされては「人めなき垣ねのきゞすねになきて春の眠を驚かしぬる」と吟じ、夏の日に鶯をきいては「鶯よさのみな鳴きそ汝とても老ぬる聲は誰かすさめん」と歌ひ、聞きなれた田歌の聞えぬ時には「響き來る田歌は今も友となりて稀に聞えぬ暮ぞさびしき」と詠じ、靜にくれゆく夕の空を眺めては「月はまだ三日月ばかり影ほそし野火の煙よ立ちな隔てそ」とよみ、何ごとでもすぐに詩化するのである。「今日くれば明日も暮れなん明日くれば今年の春は殘らざるべし」などは、三月晦日に春の盡るといふ因襲的思想に本づいてゐる概念的の着想ではあるものの、なほ即興的詠懷として聽くことができる。「限りある人のよぞかし待ち/\し今宵の月の曇らずもがな」なども(338)同樣で、そこに多少の感慨さへもある。「あな寂したぬ鼓うて琴ひかんわれ琴ひかばたぬ鼓うて」などは、俳諧歌には入れてあるが、獨り居の心やりに琴かきなでて歌ひゐるこの翁が、月の夜ごろに狸のさすらひ出て荒れたる庭のしげみに隱れゆくをしば/\見た時の即興としては、いかにも情趣がある。何事でも歌にするといふ點に、散文的な平談俗語を三十一音にしただけのやうな作の少なくない機縁があり、思ふことをさながら述べるといふところに、技巧のために技巧を弄することが無いと同時に、平板な、調子の低い、歌の作られる理由もあるが、根本の趣味は因襲的でありながら、故らに古人の口つきを摸ねた痕跡が無く、すなほな姿にやさしい情をこめてゐる。さうしてそれが歌に對する彼の意見とも相應じてゐる。天分が豊富であるとはいひ難いけれども、彼には世のつねの職業的歌人の有つてゐない「詩人」的資質があつた。
 蘆庵のこの平板と散文的な傾向とに反して、極めて巧みな歌を作つたのが景樹である。景樹の歌は當時に於いて、江戸の作者からひどく異端視せられたほどに、耳新しかつたのであり、今日から見ても特異の風格を有つてゐるが、それは既に述べた如く表現しようとする歌想に特異なものがあるのではなくして、たゞその表現のしかたにそれがあるのであり、さうしてその特色をなすものは、一首の調べの鮮かさである。
 景樹は古今集を尊重してゐるが、因襲的に歌の重要なる題材となつてゐる自然界に對する態度については、事實、彼の歌に少しく舌今のに似た點がある。桂園一枝を通覽すると、自然界を詠じたものに於いても、その大多數にはかならず作者の情思や態度が明かに現はれてゐる。例へば「おぼつかなおぽろ/\と吾妹子が垣ねも見えぬ春の夜の月」、「さやかなる月ゆゑだにもねられぬを山郭公きく夜なりけり」、「照る月のかげのちりくるこゝちしてよるゆく袖(339)にたまる雪かな」、などの類である。「五月雨の雲ふきすさぶ朝風に桑の實落つる小野原の里」、「夕づく日今はと沈む波の上に現はれ初むる淡路しま山」、「ゆふ日さす淺茅が原に亂れけり薄紅の秋のかげろふ」、といいふやうな作も稀にはあるが、「粟田山松のしげみをもりかねて木の間數ふる月の影かな」、「おぼつかな塵ばかりなる浮雲にかくれはてたる三日月の影」、「朝ふめど露もしめらぬ水無月の野づらにさける月草の花」、になると、既に「木の間數ふる」といひ「おぽつかな」といひ「朝ふめど」といふ語を插んである。景樹は或る光景に對し、或はそれを空想に思ひ浮べて、繪畫的に眺めたその情趣を味ふのではなく、或はまたその光景の裡に自己を没入させるのでもなく、自己と對境とを明かに對立させ、如何なる氣分を以て自然界を取扱ふかに興味を有し、その氣分を歌の上にいひ現はし、或はその取扱ひかたを述べることによつて、歌が作られたのである。こゝが古今のと共通點を有するところであるので、「歌は有るがまゝをいふものにあらず、思ふまゝをよむべし、」(隨所師説)といふ彼の意見がそこにあるのであらう。さうしてこゝに既に彼が才智の勝つてゐる人物であることを示してゐる。もつとも景樹の歌に於いては、概していふと、古今時代に流行したやうな理智的な構想によるものは少く、上記の例によつても知られる如く、直接の感じがもとになつてゐるものが多いので、この點に於いては當時の他の作家と大差は無い。勿論、因襲に支配せられて實景にあるまじき虚僞の歌を作る場合のあることも、また一般の例に漏れないのみならず、才智の人たる景樹には、何等かの光景をその才智によつて構成する傾きのあることからもこの弊が生ずる。
 然るに景樹の歌が一般歌人のに對して著しき特色を有つてゐるのは、ゆるみの無い、齒ぎれのよい、立板に水を流すとでもいふべき、語勢で、息もつかせず、いはうとすることを一氣にいひ下すところにあるので、而もそれが甚だ(340)巧みにいひ現はされてゐる。「妹と出てて若菜つみにし岡崎のかきね戀しき春雨ぞふる」、「しらかしのみづ枝動かす朝風に昨日の春の夢はさめにき」、「身は老いぬ松は木高くなりにけり變らぬものは秋の夜の月」、などを見るがよい。「津の國の深江のま菅いちじろくねに亂れても戀ふと知らずや」、「すびきする梓の弓のうら筈の音のみ高き戀の苦しさ」、など、序詞を好んで用ゐるのも、やはり同じ效果を求めたものである。「霧の中に夜はこもり江の澪標見ゆるや明くるしるしなるらん」、「富士のねを木の間/\にかへりみて松の影ふむ浮島が原」、などの如きは、特に智巧を以て秀でてゐる。しかし、あまり明快すぎ、或はあまり智巧を弄し過ぎた感のあるものもあつて、戀歌の多くにはその憾みがあり、また「醉ひふして我とも知らぬ手枕に夢の蝴蝶とちる櫻かな」、「さめておもふ夢も昔の小夜時雨おとのみきゝてぬれし袖かは」、なども、巧みは極めて巧みであるが、巧みに過ぎてむしろ情味に乏しいのではあるまいか。「風のまも亂るゝ秋の白つゆを結べるものとおもひけるかな」、「月見んとあけたる窓の燈のきゆるこゝろはこゝろありけり」、など、反對の概念を表はす二つの語を一つのことをいふために用ゐ、或は同じ語を別の意義に用ゐるところに、言語上の遊戯を弄してゐるやうなものも、才氣換發の餘りであらうが、歌としては何の興味も無い。かういふいひかたをするのは、彼の用語例に於いての趣向であらうから、これらの歌は趣向がはたらいてゐると共に姿のよいものであるかも知れぬが、それにしても趣向が重んぜられたのではある。その他、いひかけや縁語やを盛に用ゐることに於いても、彼の智巧は見られ、「今宵もやまろねの紐をゆひの濱うちとけ難き波の音かな」などは、その最も美しいものであるが、「つく/”\とながめ入日の影落ちて色なき雲に秋風ぞ吹く」に至つては、第二句の急迫ないひかけと末二句の寂しい情趣とが調和してゐないのではあるまいか。これもまた智巧の過ぎたためであらう。疊音や疊語もまたしば(341)しば用ゐられ、「山里のしのの簾のしのゝめにひま見え初めて梅が香ぞする」、「山かげのちりなき庭にちりそめて數さへ見ゆるけさの初雪」、などに、その例があるが、これも輕い調子がやゝ滑稽に聞え、それがために一首の表はさうとする情趣が損はれた感がある。この二首にも同じ音の語を二義に用ゐたところにいはゆる趣向がある。
 要するにこの作者は、鋭い才氣の迸るに任せて歌を作つたので、その長所も短所もこゝにあり、どれを見ても才氣が閃いてゐる。巧みなのは勿論その故であるが、明快であるのもまたこれがためである。もつともこれは長い修練の效果でもあるが、天與の才もまたはたらいてゐるに違ひない。人には巧むなと教へてゐるが、彼自身は巧まずしておのづから巧みであるだけの才氣を有つてゐたのであらう。或はむしろ自己の作が巧みであることを知つてゐるために、それの避くべきことを教へねばならなかつたのかも知れぬ。しかしその巧みは新古今のそれの如く、故らに求めた技巧によつて人爲的に特殊の氣分を造り出す點にあるのではなく、從つて含糊摸稜の弊に陷ることが無い。前に引いた「さめて思ふ」などは新古今調に近いものであるが、かういふ例は少い。「色なき雲」の如く新古今のことばを學んだものも、多くは見えぬ。「今宵もやまろねの紐を」の如きは修辭の方法に於いて新古今のと通ずるところがあるが、一首の調べは甚しく違つてゐて、極めて明快である。新古今の歌の姿は極度に技巧を加へたものであつて、どの歌に於いてもそのことが明かにわかり、そのために意義すらも明かにわかりかねるものさへあるが、景樹は技巧の迹を見せないほどにそれに熟達してゐるので、その姿その調べは甚だ自然であり、そこから新古今の歌との違ひが生じてゐる。しかしまた古今のやうに理智商量によつて一語一句の上に因縁を絡ませてゆくやうなものは割合に少く、よしあつても調子の輕快なために、それにはさして氣がつかない。これは疊音疊語を好み序詞を多く用ゐたことによつても知ら(342)れるので、景樹の作はその自然界に對する態度に於いて古今のと相通ずる點があるにかゝはらず、歌そのものの風體はそれとは※[しんにょう+向]かに趣きを異にするものが多い。全體の風趣と用語とこそは全く違へ、一首の組みたての上に於いては萬葉風のものが少なくなく、中間に句切れが無く一氣によみ下すところ、序詞を好むところ、疊音疊語の多いところなどは、いはゆる擬萬葉家よりも却つてよく萬葉の風體を傳へてゐて、特に音調に注意することに於いてそれが見られる。多分若い時に萬葉を耽讀したためであらう。
 かう考へて來ると、景樹の歌の理論たる調べの説と彼の作つた歌そのものとの間には、必しも一致してゐないところのあることがわかるやうである。彼の歌論の中心思想をなしてゐる「調べ」の説は、歌の姿とそれによつて表現せられる歌想との間に微妙なる調和のあるべきことをいふのであらうが、彼の歌の姿は大きく觀るとどれにも同じやうな趣きがあつて、その間にさしたる變異のあることの認め難い憾みがある。一々の詞のつゞけがらは一首ごとに違つてもゐようが、さうしてそこにその歌想との一致もしくは調和もあらうが、一首全體の姿は、何れの場合にも多くは輕快であつて、それがためにその歌想とは反對の效果を生ずるものすらある。「思ひきや立ちまちゐまち待ち重ね獨りねまちの月を見んとは」(連夜待戀)の如きは、そのヤゝ滑稽の感をさへ喚ぶいひかけの不似合さは別としても、「まち」の語を幾つも疊みかけていふ急がしい調子が、夜ごと/\を徒らに待ちあかす時の長さと、もどかしさと、またおぼつかなさとの、入りまじつた氣分とは、あまりにも相應しないではないか。さうしてそれはみづから知らずしてその才氣に驅られたがためであらう。一體に戀の題詠は、戀そのものの體驗を有たないものに於いては、新しい風情を求めることの困難であるために、奇を言語の上に弄し易いものであるが、才人景樹の如きは特にさうであつた(343)らう。戀歌のみならず、すべてにこの傾向があるので、おちついた、しめやかな、或は長閑な、風情などはその歌の姿の上に現はれてゐることが稀である。彼がしば/\悲しとか嬉しとかいふ語を明らさまにいひ現はして、姿の上でそれを暗示することのむしろ少いのも、こゝに一つの理由があるかも知れぬ。古今集正義を讀むと、ことばとそのつづけかたとそれによつて生ずるおのづからなるリヅムと音調とに對する景樹の敏感が遺憾なく現はれてゐるので、それは契冲も眞淵もまた宣長もとても及ばないところである。これらの諸家の説に對する景樹の非難には、強ひて疵を求めた嫌ひのあるものが時に見えないこともなく、その語釋には恣意なものもあるけれども、これだけのことは許さねばならぬ。しかし彼自身の作には、一首の調べに於いて彼自身の一つの型がおのづからできてゐるやうに感ぜられる。さうしてそれは、根本的にいふと、この作者が非常に熱練した技術家ではあるが、やはり眞の詩人とは見なし難いところがそれにあるからのことではあるまいか。彼の描いた線は流麗雄勁であり、そこに彼獨得の筆致もあるが、それがともすれば描かうとした素材とは離れ/”\になつてゐることがある。如何なる場合でも同じ筆致をふりまはしてゐるやうに見えるのである。蘆庵には彼ほど特殊の筆くせが無いだけに、どの場合にもさしたる不調和が見えないが、彼には前に述べた如く往々それがある。蘆庵を廣重とすれば彼は北齋に似た點があるともいへようか。けれどもこれは、彼の調べの説の正當なることを少しでも妨げるものではなく、また彼のことばについての感受性の鋭敏であることをいさゝかも疑はせるものでもない。
 しかしさすがに才人の歌とて、種々の點に於いて新しみが見えないではない。「かくばかりなぞや心は亂るらん野邊の苅萱かりそめの世に」(苅萱)といふやうなのは、題そのものを詠じないところに題詠のよみかたとして一境地を(344)開いたものであり、またこの歌に於いても知られる如く、陳套の見ではあるが、人生觀や處世觀を題詠に託することが多い。「ともすればふせごにこもる鷄のせばくも世をば思ひけるかな」なども、その一例である。覇氣があり功名心があり「やむを得ざるの歌三昧」と自ら稱してゐた景樹として、をりにふれてかういふ感慨の現はれるのも自然のことであらう。その他、「春の野のうかれ心は果ても無しとまれといひし喋はとまりぬ」、「故里のもとあらの木萩ひとりすらこぼるゝ露をふく嵐かな」、などに見える繊細な情趣にも注意しなくてはならぬ。かういふところにかの強ひて古人の粗大な點を摸する萬葉家との著しい對照が見られる。なほ「世の中の花の遊びにくたびれて一ねいりせる君が手枕」(涅槃會)の如く口語を用ゐる場合のあることも、今の歌は今の語を以て詠むべしといつたこの作者としては、無意味でない。しかし彼が今の語といふのは今人に容易く了解せられる語、歌ならば歌に用ゐなれた語、といふ意義かとも思はれるから、これは或は當らぬ評かも知れぬが、俳諧歌の中に入れてある口語を用ゐた歌に興味のあるものが少なくないことは、事實である。たゞ古代語を用ゐる歌のうちに口語を插入しながら一首の調べを整へることは困難であらうから、景樹はそれを敢てせず、稀に試みてもかゝる作をば特に俳諧歌と稱したのではあるまいか。家集に俳諧歌の目をたてたのは題材や着想にもよるらしく、用語ばかりの故ではないが、かういふことも考へられる。しかし題材などのためにこの部に編入したと推測せられるもののうちには、特にさうすべき必要の認められぬものが多い。この部を設けたのは、六帖詠草のと共に、古今集を摸倣するところにその主なる動機があつたのであらう。
 景樹の歌については上記の如く考へられるが、概言すると、その風體には、表面に現はれたところでは似たところが無いやうでありながら、實はその調べその姿に於いて萬葉と新吉今とに或るつながりのあることが感ぜられる。萬(345)葉との關係については上に述べたが、似たところの無いのは萬葉語を用ゐないのと歌想に違ひがあるのとのためであらう。新古今との關係については、姿を重んじことばのつゞけかたとその音調とに細心の注意をすることが取上げられるが、姿そのもの調べそのものは同じでない。さうしてかゝる違ひのあろところに歌の長い歴史を經過した後のこの時代の作である徴證が見えるが、共通の點のあるのは、萬葉や新古今と同じく日本語の特性がよくその效果を現はし、その用ゐかたが精錬せられてゐるからであらう。景樹の功績の一つはこゝにあるのではあるまいか。「調べ」の説を立てたことによつても知られる如く、歌に於いて、その一々のことばについてもそのつゞけかたについても、彼ほどに.日本語の語感を細かく正しくまた巧みにはたらかせたものは、新古今以來はじめてではあるまいか。室町時代には連歌師によつて、江戸時代になつては蕉風の俳人によつて、別のしかたで別の方面にそれが試みられたが、歌に於いてはそれに注意するものが少く、擬萬葉家や新古今の詞づかひをまねた宣長などは、この點に於いて何ばかりのしごともしなかつた、といふべきであちう。景樹は才人であると上にいつたが、ことばづかひとその音調とに對する繊細な感受性があつて、それを十分にはたらかせたところに、その才人の才があつたと解せられる。
 景樹の門に集まつた多くの作者については、木下幸文や穗井田忠友などに於いて、幾らか氣のきいた歌が見られるが、概していふと平明な作風のが多く、高足といはれる熊谷直好や入田知紀のは特にさうである。景樹の歌の特色が彼の才氣、ことばとその音調とに對する彼の感受性の鋭敏なこと、萬葉をよく讀んだ若い時の修養、などから來てゐるとすれば、それらの無いものの「思ふまゝ」に詠んだ歌が、調子の低いものになるのは自然であらう。なほ景樹の歌風は江戸にはあまり行はれなかつたが、しか心その影響が全く無かつたとはいはれぬ。調鶴集に現はれた井上文雄(346)の歌などにもそれが見えるやうである。好んでだじやれをいふほどな才人の文雄としては、景樹のその一面が受け入れられるのは自然である。口語を用ゐたもののあるのもそれに−由來があらう。
 さて上記の考察を囘顧してみると、どの作者にも上代の歌の種々の姿が混合して現はれてゐることに氣がつく。いはゆる萬葉家も萬葉ぶりで押しとほすことができず、近調を作るものでも古風を交へ、古今集を標準とするものでも後世の風體が加はつて來る。景樹の如きは自己一流の風體を有つてはゐるが、題材の取扱ひかたや自然界の見かたに於いては、種々の時代の種々の樣式が併用せられてゐるし、國學者系統の作者には、さういふ統一せられた風體の無いものすらある。これは古歌を摸擬しながら或る時代の古人の氣分になることができず、さうならうとすれば現實の自己との懸隔があまりに甚しくなつて、擬古的の歌すらも作られなくなることを示すものであつて、根本的にいふと、擬古文學の無意味なことを語るものである。さうして萬葉調の摸倣が、この時代の如くそれを本領とするものは無かつたにせよ、平安朝末から鎌倉時代の初期にかけて既に試みられたことであり、蘆庵が西行と幾分の類似するところを有し、景樹が俊頼とも或る點に於いて相通ずるところをもち、秋成に爲兼もしくは徹書記を聯想させるものがあるやうに、この時代の作者に中世の或る歌人とそれ/\相應ずる點のあることが發見せられるのも、兩時代ともに歌が擬古的性質を有つてゐたからである。煩瑣な規制に對する反抗の如きも既に幾度も繰返され、口語の使用もまたしばしば問題となつたことである。同じやうなことが同じやうに反覆せられる我が國の歌界の單調さを見るがよい。
 
 しかし、あまりに同じことが反覆せられたのに厭き、また世間の空氣が動搖し初めたのに伴ふ一現象として、かう(347)いふ作者にあきたらぬ情を懷き、自己の言語で自己の感情、自己の生活、を如實に詠み出さうとするものが生じて來た。大隈言道が歌人の題で「老ぬれどまたこの春も咲く花の散る花ののともいひくらしけり」と詠んだのは、歌の因襲に對する一味の反感があつたからではなからうか。歌といふ題で「身に負はぬことのみいひていつも/\歌の心に恥ぢ思ひつゝ」といつたのも、表面の意義はともかくもとして、歌と自己の眞の情思との間に何等かの溝渠があることを自覺したものと解することもできよう。思ふにこの作者は、從來の歌人の歌が古歌の摸倣でありこしらへた歌であることに氣がついたのであらう。その歌に關する見解を述べた「ひとりごち」に、かゝる歌を木偶歌といひ魂の無い歌といつてゐるのでも、それは知られよう。だから彼が舊來の歌に對する不滿は景樹などが堂上家の歌風に反抗したのとは意味が違つてゐる。草徑集を通覽すれば「咲く花を尋ねてゆけば何時よりか去年來し道に道はなりにき」、「こぐまゝに夜明けて見れば見知りたる昨日の船にまた並びけり」、「よく見れば門田のそほづ何時も/\そなたに人のある心地して」、「さま/”\の鳥面白きゆふ花にまた加はりぬひわの一むら」、「夕日影半ばも海に入る時ぞうね/\光る沖のさゞ汲」、「人と人かたらふ窓のうち見えて谷間ゆかしき冬の山里」、といふやうな、新しい歌に目がつくが、これらはみな彼みづからの現實の見聞から出たものである。從つて「秋ふけて港や寒くなりぬらむそば賣りめぐるさよ中の舟」、「はきだめの塵の下なる芋すらも子は親にこそつきてありけれ」、など、普通の歌人の用ゐない材料を取入れることは固より、俚音俗語をも使ひ、或はむしろそれを主としたものさへあり、一般には解し難い方言をすら避けてゐない。これらは蘆庵の傾向の更に一歩を進めたものであつて、彼が思ひきつた態度で自由な方向に進みかねてゐたのを、言道は、何の躊躇も顧慮も無く、すら/\と歩んで行つた。「これのみや今日はありつることならむ租の實一つ落(348)ちし夕暮」、「みなぎはの今一きはもまさりなば沈みはつべぎ川骨の花」、「わりて見るたぴにおもしろしいつも/\並べるさまの同じさや豆」、平凡な日常生活、目前の些事、がすべて彼の吟嚢に入つてゐる。歌は彼に於いて自己の生活に復歸したのである。この集に鯉歌の無いのも、現實に閲歴しないことを詠まなかつたからではあるまいか。景樹とは正反對に毫も因襲的の修辭法を用ゐず、その表現法が甚だ素朴であり、或はむしろ稚拙であり、もしくは表現の工夫に殆ど意を用ゐてゐないやうに見えるのも、また歌を單なる技巧としないからである。さうしてそれが單純なうぶな氣分とうまく調和する場合には、甚だ興味の深い歌ができる。同じく單純な歌でも、擬萬葉のとは全く違ふ。
 しかしそれよりもこの作者に於いて大切なことは、現實の人間生活に對し純な心もちで深い愛着を有つてゐたことであつて、そこに詩人たる眞の資質がある。子どもを詠み家族生活を歌つた作の甚だ多いことが、頗る俳人一茶に似てゐるのを見るがよい。もつとも言道のは、子どもの無邪氣な方面を見るよりは、そのいた/\しいあはれな點に目をつけてゐることが多いやうであり、從つて子どもみづからとしてよりも、大人の目から子どもを見ることが多い傾きはあるが、それも子どもに心のひかれることが強く且つ深かつた故であることは、いふまでもない。「何ごとか遊ぶ遊ばぬいさかひも泣くぞ限りのわらはべの友」、「きゝすてゝ飯たく親の見ぬまにも聲の限りに泣くうなゐかな」、「いくばくの劣り優りも見えぬ子の負へる負はるゝあはれなるかな」、「親なけば子さへなくなり世の中のせんすべなさも何も知らずて」、などの例を見るがよい。「けふ見れば少女になりぬ去年までは一足しても飛びしならずや」なども、子どもの成長に對する驚歎と歡喜と並にまたそれに伴ふ一味の危惧とがよく現はれてゐるではないか。なほ動物の生活を家族的に見た歌も少なくないが、「つばくらめ親まちかねて並べれば我も遲しと見る軒端かな」の如きものには、(349)小さい燕の子に子どもらしい同情をよせてゐる作者があり/\と目に見える。また「手にだにも据ゑて見るべき妹が島遙かに細く幼なげにして」に至つては、島の姿をも子どもらしく見ようとしたのである。かういふ作者が「雲もなき空も一むき見えぬるを道をかへてもゆかぬ月かな」と、子どもらしい觀察をしてゐるのも、怪しむに足らぬ。「なだの沖のこなた見やりてゆく月に一人向へる人もなきかな」も、修辭上の擬人法ではない。「よく見れば我れにめやすく親しくて遠くもあらぬ空の月かげ」ともいつてゐる。上に引いた「こぐまゝに」また「人と人」の如きも、單にその着想が新しいばかりでなく、そこに西行の歌に見られるやうな人なつかしさが現はれてゐる。彼が極めてうぶな感じを以て事に對し物を觀てゐたことは、これによつても知られるので、自己の閲歴からあどけない歌の自然に流れ出るのも、この故である。かう考へると、彼が景樹などの行き得なかつたところに行き得たのも、單に歌に對する意見の相違から生じたのみではない。人々が歌集を出すのを見て「おのれもまたせまほしくなりて」この集を公にする、と告白してゐるほどのこの作者の、子どもらしいすなほさが偲ばれる。さうしてこれは普通の職業歌人には思ひもよらぬことである。言道は歌の職工ではなくして藝術家であつた。たゞ荒削りの藝術家であつた。特に歌として音調の重要であることに注意せず、ことばづかひに彫琢の足りないところにそれがある。歌想にのみ重きを置いてその表現の法をおろそかにしたのである。但し當時に於いては、その荒削りであることが、かういふ新しい歌を作らせた重要な事情でもあつたらう。蘆庵や景樹が歌の拔巧に於いて行つたことを、言道はその内容に於いて試みたのであつて、歌の形態を守りながら歌人の因襲から脱却しようとしたのである。歌から出て歌を離れようとしたといつてもよからう。
 言道のかゝる歌は、著者をしておのづから非歌人歌に筆を移させる。非歌人歌といふのは次章にいはうと思ふ「非(350)詩人詩」の語をまねた著者の造語であるが、これは歌に愛着をもちまた作者としての資質と技能とを具へながら、歌人として門戸を張り歌を職業としてゐないものの作つた歌のことである。三十一音に何等かの情思を託することは、少しく國書を頭み少しく古人の歌を知つてゐて幾らかの才能のあるものには、さしたる難事ではないから、いはゆる素人で歌を詠むものは甚だ多いが、よし職業歌人でなくとも、歌を遊藝視して型にはまつた題詠をしごととしてゐるものは、こゝにいふ限りではないので、例へば松平定信などは歌集まで世に遺してゐるけれども、その作は職業歌人のと擇ぶところが無いから、それは實は素人の歌ではないといはねばならぬ。これに反して、抑ふべからざる自己の内生活の強烈なる要求として、歌にそれをいひ現はさないではゐられなかつたものが、稀にではあるけれども世に存在するので、そのうちには世の動きに刺戟せられてさうなつたものがあり、さういふものの作には時代の思想の反映が認められよう。かういふものばかりではなく、また職業歌人にも人により場合によつて往々かゝる歌の作られることがあるので、上にも述べた幸文の貧窮百首の如きはそれである。さてこの類の非歌人歌を時代の順序でいふと、景樹と時を同じうしてゐる越後の僧良寛のが最初に視野に入つて來る。
 良寛の歌には萬葉から學ばれた分子もあるが、それは萬葉歌人の素朴な氣分に共鳴するところがあり、詞のつかひざまを幾らか學んだ、といふに過ぎなからう。だからいはゆる萬葉調ならぬものも甚だ多く、全體の態度が擬萬葉家とは全く違ふ。世すて人として世間を離れた寂しい境地に安住し、自然の懷に淡い樂しみを享受しつゝ、うぶなやさしい心で人と世とをつ⊥んでゐた温かい彼の胸臆から、泉の如くに湧き出たのがその歌だからである。「山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみ渡るかも」、「とふ人もなき山里に庵して獨ながむる月ぞ隈なき」、「飯乞ふと我が(351)來しかども春の野にすみれ摘みつゝ時を經にけり」、「月よみの光をまちて歸りませ山路は栗のいがの多きに」、「わが袖は涙に朽ちぬさよふけてうき世の中のことを思ふに」、などによつて、その一斑がわからう。自然の風光のおもしろさには「いざ歌へ我れたち舞はむぬば玉のこよひの月のいねらるべしや」といひ、別れゆく人をなつかしんでは「こよひあひ明日は山ぢを隔てなば獨やすまむもとの庵に」といふなどは、山家集に現はれた西行のこゝろもちと甚だよく似てゐて、歌としての風情もまた同樣である。さうして彼が「霞たつ長き春日を子どもらと手鞠つきつゝこの日くらしつ」、「こどもらと手たづさはりて春の野に若菜をつめば樂しくあるかも」、「秋の雨のはれまに出でて子どもらとやちまたとれば裳のすそぬれぬ」、など、子どもと同じ氣分で子どもの友となつてゐると共に、何ごとに濺ぐ涙か明かには述べてないが「人の子の遊ぶを見ればにはたつみ流るゝ涙とゞめかねつも」とうち詠め、人の子に對する深い愛着の坐ろに動いてかくの如き歌となつたのを見れば、この作者が決して世のつねの世すて人でも歌よみでもなかつたことが知られる。もしまた「はちの子にすみれたんぽゝこきまぜて三世の佛にたてまつりてむ」、「春は雨夏ゆふだちに秋ひでり世の中よかれ我れ乞食せむ」、「あわ雪の中にたちたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞふる」、の如きは、彼の僧としての生活と空想とから生れた、他人の摸倣すべからざるものである。しかし良寛の歌には長い間の修練の迹が見える。渾然として成熟はしてゐるので獨者に技巧のあることを感ぜさせはしないが、決して思ふまゝをよみちらすといふ風に技巧を無視してゐるのではない。
 近年に至つてその名の始めて廣く世に知られた平賀元義の如きも、またこゝに記すべき一人であらう。この人も次にいはうとする橘曙覽も、その時代からいふとむしろ次の篇(著者の腹案に存する維新前後の時代)に至つて述べる(352)のが妥當のやうであるが、その作に現はれた思想と感懷とにこそ幕末時代に特殊なものがあれ、歌の風體と歌人としての態度とに於いては、上に述べたところと離すべからざる連絡があるから、その點をこゝで考へておかう。さて元義の作は全く萬葉ぶりであつて、この意味ではほゞ同時代の人たる鹿持雅澄と並べ稱すべきものであらう。二人ともよく萬葉の調を得てゐる。しかし雅澄は、時に貧を訴へ病を訴へ一種排悶散鬱の具として歌を作つてもゐるが、全體から見ると、なほ知識の力によつて萬葉を摸したものといはねばならぬ。山齋集の大部分が萬葉仮名で書かれ、詞書が漢文で記されてゐるのを見ても、彼れの態度は知られる。然るに元義はその心生活の一面に於て、殆ど萬葉人と相合致するところを有つてゐたらしい。彼の歌が單なる知識上の遊戯ではなくして、人としての彼の正直なる告白であるのは、これがためであらう。さうしてそれは彼の「相聞」の歌によつて知られるのである。彼は世間の職業歌人が題詠としての戀の歌の多くを有するにかゝはらず、自己の閲歴としての戀の歌を殆ど作らず或は世に示さなかつたとは違ひ、斷えず「吾殊子」を思ふ歌を詠んでゐる。「若草のつまの子ゆゑに河邊川しば/\わたるつまの子ゆゑに」、「吾妹子を山北に置きてわれ來れば濱風寒し山南の海」、「はしきやし妹に別れてわが辟歸今朝はな鳴きそ人呼子鳥」、「久方の天の金山かさめ山雪ふりつめば妹は見つるか」、「埋火は消え果てにけり旅にして身に添ひぬべき妹もあらなくに」、など、をりにふれて妹々と叫んでゐるのが彼であつて、中には「たらちねの母にころばえ夜逢はむ妹とし我は晝こそ逢ひけれ」といふやうなものさへあるではないか。その「妹」には妓などもあり、またそれが一人のみではなかつたらしく、この點から見ると世間普通の遊蕩兒たるに過ぎなかつたやうでもあるが、またさういふ女についてかゝる歌を作つたことには、それによつて古人の氣分を喚び起し、その喚び起した氣分にみづから涵つて獨り喜んでゐる、(353)といふ氣味もあつたらうが、しかし彼の多くの歌に現はれたところから考へると、彼はさういふ女どもに對しても、その時その場合では、一本調子なまじめな態度になつてゐたらしく、單なる肉のために、或は遊戯的な餘裕のある心もちで、女を弄んでゐたのではないやうであるから、それを萬葉人の戀と同視しても、甚しき誤ではあるまい。彼の女に對する情は今人のいはゆる戀愛ではないが、すぐに夫婦といふ家族的觀念に飛び移らずにはゐられない江戸時代の心もちではなく、少くともこの點に於いて上代人に似てゐる。だからその歌もまた決して萬葉の知識的摸倣ではない。さうしてこのことは彼の歌の他の方面についても、またいひ得ることであらう。元義は世間と妥協することのできない調子はづれの人物であつたらしいが、それが即ちかういふ歌の作られた所以であらう。
 曙覽はまた趣きを異にしてゐる。この人が歌の模範としてぬき出した古歌集「華廼沙久等」を見ても、またその家集を見ても、古歌に於いて萬葉を第一に尊尚してゐたことは明かであるが、しかしそれは萬葉人の歌に對する態度をよしとしたのであつて、萬葉語やいはゆる萬葉調を摸倣するのでないことは勿論、みづから萬葉人の氣分にならうとしたのでもないらしい。彼は彼自身の氣分で彼自身の情懷、閲歴、境遇、見聞、を自由に詠んでゐる。「すく/\と生ひたつ麦に腹すりて燕飛び來る春の山はた」、「賤が家はいりせばめて物うゝる畑のめぐりのほゝづきの色」、「こぽれ絲網に作りて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす」、「木こり歌鳥の囀り水の音ぬれたる小艸雲かゝる松」、「蟻と蟻うなづきあひて何か事ありげに奔る西へ東へ」、など、いづれも萬葉人の詠み得るものでなく、また萬葉調でもなく、勿論萬葉語を使つてもゐない。鑛山採掘の状を詠んだものや獨樂吟の五十餘首なども、或はその題材とそれに對する態度とに於いて、或はその貧に處して獨り樂しむ處世觀に於いて、全く萬葉人の思想とは違ふ。自然界に對する態度に(354)於いてもまた同樣で、萬葉の歌人はそれを自己の情生活と離るべからざるものとして見てゐるので、元義の歌はよくそれに適つてゐるが、曙覽は自己から離れた存在として繪畫的にそれを描寫することが多い。要するに、何ごとでも見たまゝ思つたまゝを三十一音につらねるといふ態度である。だから彼はさしたる修辭上の技巧を弄せず、三代集以後の風習たる言語上の遊戯などをすべて抛棄し、自己の語で自己の歌を作つた。口語や漢語を用ゐたものも少なくない。
 しかし何ごとでもありのまゝに三十一音にまとめるといふ態度は、彼の歌をして非常に興味のあるものたらしめると共に、また歌にならぬものをも多く作らせたので、この點に於いては上に擧げた大隈言道なども同樣である。その上、曙覽には「山にありて磨り破りたる古硯奪はんとにや雲まどに入る」、「松の露うけて墨する雲の洞硯といふも山の石くづ」、の如き詠にも現はれてゐる一種のシナ式文人らしい面影も微かに見え(彼の歌にはかなり多くシナ思想が取入れられてゐる〕、幾分の道義的傾向も存在し、また學究的要素も加はつてゐる。神國主義排外思想もしくは武士的氣象を詠じた歌などに至つては、このころのさういふものに例の多いうはつらな空いばりをしたものが多い。「取りて來む夷が首を肴にて脊子に飲ません待酒かみつ」(閨怨)などといふシナ式の誇張の言は、むしろ不快の感を、少くとも今日の、讀者に與へる。そこに人生に對する深い洞察も苦惱も愛着も無いのは、空疎な理説を好む、感情の粗大な、國學者的氣風の通弊でもあり、幕末動亂時代の故でもあらうが、また彼に「詩人」としての資質が乏しかつた故でもあらう。時勢とは関係の無いものであるが「燈火のもとに夜な/\來れ鬼わがひめ歌のかぎりきかせむ」、「凡人の耳には入らじ天地のこゝろを妙にもらすわが歌」、の如きも、今人の耳には誇大な放言としてのみ感ぜられるのでは(355)なからうか。彼の好んで試みた繪畫的描寫に、例へば蕪村の俳句に見えるやうな、情趣が無く、徒らに材料を並べたのみで全體としての空氣の現はれてゐないのも、一つは技巧の練磨せられない故でもあらうが、一つは眞實に對境の精髓をつかむことができなかつたからでもあらう。
 職業歌人ならぬ歌よみとしてこゝに擧げたのは、近年公にせられた家集などによつて著者の知り得た人々にとゞまる。その他にもこれと同樣に取扱はるべきものがあるであらう。平田篤胤、野々口隆正、橘守部、などといふ國學者のも、歌としてはこの非歌人歌の群に入れてよいかも知れぬが、彼等はたゞその主張を三十一音につゞつたのみであるから、實は歌人の作として見ることはできない。非歌人歌とても、歌である以上、政治上の主張や時勢に對する感慨が詠ぜられてゐる場合でも、歌として藝術としての情趣を具へたものでなくてはならぬが、かゝる國學者輩の作にはそれが無いからである。上記の幾人かの作はそれとは違ふ。ところでこれらの歌人が、それ/\違つた考からではあるが、何れも多かれ少かれ萬葉に興味を有つてゐたのは、注意すべきことであつて、それは歌を自己の情懷の表現として見るものに於いて最も自然な徑路である。自由な率直な態度で情懷を述べること、いひかへると歌を自己のものとすることが、萬葉によつて示唆せられたのである。この點に於いて曙覽の志濃夫廼舍歌集の編纂法が歌集の恆例を破つて年代的に歌を排列してあるのも、無意味ではない。山齋集も同樣であるが、これはたゞ萬葉のを摸したまでであらう。さうして歌が我が歌であるといふこと、自己の生活の表現であるといふことは、國學者系の作者に於いても京派の歌人に於いても、理論上是認しまたは主張してゐたところであるにかゝはらず、事實そこまでゆきつかれなかつたのを、歌の理を説かうとしないこれらの作者の作、即ち著者のいはゆる非歌人歌、によつて、或る程度まで實(356)現せられたのである。さうしてそれには時勢の趨向に關するところがあらうといふことも、既に説いた。かの國學者の輩、特に隆正など、の歌に詠史の作の多いのも、彼等が對外的意義に於いての神國主義を露骨に説いてゐることと共に、時勢の反映として注意すべきことであり、歌の方からいふと、その題材が現實の政治思想と密接の關係を生じて來たこと、またその詠史に一種の熱情の加はつて來たことが、歌を單なる遊戯から一轉させようとした大勢と相應ずるものである。しかし國學者輩の空疎な、一種の宗教的色彩を帶びた、對外的神國主義が、一般人の情思と殆ど交渉を有たないものであることは、いふまでもない。(神國思想そのものについては後章にいはう。)のみならず、これらの非歌人歌にしても、當時の日本人の日常生活、その現實の生活感情とは關係が甚だ薄い。農民、漁夫、舟人、樵者、種々の工人、彼等の生活とその勞苦及び歡喜と、その背景となりその活動の場所となりまたはそれによつてそれそれの生活氣分の作り出される自然界の風趣とその恩惠及び威力と、または彼等の生活の内面に存する素朴な宗教心及びその現はれでもありそれを支持するものでもある祭祀の儀禮とそれに伴ふ遊樂、或はまた郷黨隣里同業者などによる社會的結合もしくは民衆の粗野な戀愛生活、凡そこれらのものは、かゝる歌にも現はれることが極めて少いので、一茶の俳句に於けるが如く農民生活の斷片を三十一音として歌つたものすら殆ど無い。さうしてそれは種々の俚謠によつて始めて表現せられてゐる。歌人が稀に俚謠の類を題材とすることはあつても、口語俚言と謠ひものとしての音調とによつて始めてその情趣の解せられるかういふものは、三十一音の歌にそれを移すことはできない。だから民衆の生活を歌ふには歌の用語とその形とを一變しなくてはならぬが、それは歌人にはできないことである。彼等の歌が擬古文學を以て稱せられねばならぬのは、これがためである。用語に於いては、口語俗語を雜へ用ゐる傾向が次第に(357)生じては來たので、言道の如きはその最も著しいものであるが、他の作者に於いてはそれまでにもなつてゐない。のみならず一面からいふと、上代語によつて作られる歌に幾らかの口語俗語を雜へることが、歌としてどれだけの意味をもつかも、問題である。さうしてかういふ擬古文學の尊尚せられたところに、このころの思想が見える。次いで來つた政治上の改革にも「復古」が目標とせられねばならなかつたではないか。
 
 このころの文學の一分野としての歌を考へるに當つて、著者の筆はやゝ冗長に失したかも知れぬが、歌と時代の思潮との交渉を考へるには、これだけのことをいはねばならなかつたのである。さて以上は短歌についての考であるが、當時の歌人の遊戯としては長歌もまた作られてゐた。これは古學の發生に伴つて起つた現象であつて、契冲長流が既にその端を開いてゐるが、眞淵が萬葉學を唱へるに至つて大に行はれるやうになつた。さうしてこれにもまた、古文辭派の漢詩人が古詩を多く作つたことによつて刺戟せられた氣味があらう。契冲などのは外形の上からいつても萬葉風の五七調と後世風の七五調とが混淆してゐて、純粹に古風のものではなかつたが、眞淵とその門人とによつて長歌は萬葉調によるべきものであることが殆ど一定し、短歌に於いてむしろ平安朝風を喜んだ春海なども、長歌は萬葉調であるべきことを承認してゐた(歌がたり)。もつとも縣門でも女のには往々七五調が加はつてゐ、宣長のもまた同樣である。景樹は青年時代には多く擬萬葉調の長歌を試みたといふが(隨所師説)、歌壇に一旗幟を樹ててからは、さして作りもせず、長歌は感うすく短歌を優れりとした(同上)。彼の調べの説からいへば、長歌を感うすしといつたのは當然であるが、しかし古人の長歌を評するに當つて、全體としては奈良朝以前のものを推奬しながら、貫之のを格に(358)入らない獨得のもののやうにいつてゐるのは、牽強附會である.その門人にも多くは幾首かづゝの長歌の作があるが、八田知紀の如く五七調を取りながら萬葉語を用ゐないもの(しのぶ草)、高橋殘夢の如く古今集風の七五調を加味したものもあつて、この一派はどこまでも萬葉の摸作を排斥してゐる。歌人が長歌を擬作することは一つの流行のやうになつて來たので、千種有功などにも一二の詠があるはどであるが、一々いふにも及ぶまい。しかし鹿持雅澄や平賀元義などは、短歌に於いても萬葉の摸倣者であるだけに、同じ態度で作つた長歌が多く、橘曙覽のも中年以前のものは概ねそれと同じである。ところが萬葉の擬作とはいつても、眞淵や千蔭春海などのは、修辭的技巧に於いても冠詞を用ゐまた稀に對※[藕の草がんむりなし]の句を作るぐらゐのことであつて、極めて平板な單調なものである。魚彦などになると、擬萬葉調の短歌が漸次巧みになつて來たと同じく、長歌の技巧もまた萬葉のに近づいて來た。しかし宣長は冠詞や序句のやうなものによつて詞藻の花を求めてゐるが、對※[藕の草がんむりなし]法などは殆ど顧慮してゐない。そのことを考へると、やはり雅澄などがよく萬葉長歌の形を學び得てゐる。しかし中間に段落も句切れも無い長歌の形態をそのまゝ摸倣するのは、長歌を作るものに通じてのことである。
 しかし長歌を作るのは短歌では表現することのできない複雜な歌想があるからでなくてはならぬのに、當時の人のさういふものを萬葉の語を用ゐ萬葉式の五七調によつて表現しようとするのは、單純な情懷を擬萬葉調の短歌で詠ずるよりも一層困難である。のみならず、萬葉の長歌が本來文學的價値の少いものであつて、それが散文と異なつてゐるのは主として種々の修辭的技巧の力であるのに、その技巧に對する趣味は古今同一でないから、このころの長歌が五七調の散文とより外に評しやうのないものになつてゐるのも、當然であらう。桂園門下の作には少しく變つたもの(359)もあつて、熊谷直好の天王寺の開帳の賑はひを敍した長歌(浦の鹽貝)に參詣の群衆や見せものの有樣を寫してあるなどは、その最も著しいものであるが、その代り長歌の形とその内容との不調和もまた甚だしい。かう考へると、景樹が長歌を作らなくなつたり曙覽が中年以後それをやめたりしたことに、一つの見識があつたといはねばならぬ。歌を詠嘆の聲と見る時、長歌はそれに適せず、歌を自己の情懷をのべるものとする時、萬葉の擬作は無意味だからである。たゞ萬葉語萬葉調でいひ現はしてもさしたる不滿足と不調和とを感じないやうな思想、例へば宣長などの好んで詠んだ神國思想の如きもの、については、さういふものを作ることにも何ほどかの意味はあらうが、それとても萬葉の長歌を摸作するところに主なる動機はあつたと考へられる。同じことは短歌によつても詠ぜられてゐるからである。要するにこの時代の長歌の作者は、長歌でなくては表現せられない情思の動きがあるからそれを作るのでなく、たゞ技巧の上に於いて萬葉のを摸作したまでのことである。長歌にも題詠が行はれ、而もそれに短歌の題が適用せられるやうになつたが(藤垣内集、ぬでの舍長歌集、など)、本來單純な、型にはまつた、思想を短歌としてつゞりなれてゐるものが、同じ用意で長歌に向ふのであるから、それが徒らに多くの語を費すに過ぎないのは、當然である。さうして、かういふ題詠が長歌を一層遊戯的のものとした點に於いて、短歌がやゝ實世間實生活に近づいて來た時勢と正反對の方向を取つて來たことを、示すものであり、それがまた長歌の摸作に文學としての價値の無いことを語るものでもある。
 ついでに一言すべきは、宣長あたりから七五調四句の今樣の形のものが往々作られるやうになつたことである。眞淵の奈良朝崇拜に對して平安朝の文學に特殊の重きをおき、「物のあはれ」を強調して説いてゐた宣長がそれを試みた(360)のは、無意味ではない。勿論それは、今樣が文字どほりの意義に於いての今樣であつた平安朝末期に作られた如く謠ひものとしてではなく、單に詞藻を弄ぶまでのことではあるが、長歌の五七調に對して七五調であり、長歌の句切れも段落も無いのに對して、四句で一章をなし、場合によつては數章を重ねて一篇とすることもできる今樣の形は、謠ひものなどに於いて長い間七五調に耳慣れても來、また一定の律動を具へた形の上の美も感知せられるやうになつてゐる、この時代に於いては、長歌よりもむしろ親しみのあるべきはずである。宣長などがそれを見出したのは確かに一見識であり、明治時代になつてそれに新生命の與へられるやうになることから見ても、歴史的意義のあることである。然るにそれを作るものがさして多く生じなかつたのは、今樣が單に中世の謠ひものとしてのみ知られてゐたのに、聲樂の詞章としての效用から全く離れてしまつてゐる短歌を作ることの流行してゐた當時に於いては、自然の傾向でもあらう。なほこれについては、短歌はむしろ文字に書くことによつて目に見るものとせられ、時に微吟低唱することはあつても、朗吟することすらしなくなつてゐたのと、長歌が文字に書いて讀む歌の一體として取扱はれ、特に上代崇拜の國學者によつて宣傳せられたのと、これらのことも考へられねばならぬ。特にこのころには今樣の如きものを詞章とする聲樂そのものが存在せず、さういふ詞章を要求するものが無かつたこと、從つて一般に今樣の作者がそれを謠ひものとしては見なかつたことが、注意せられるべきである。檢校の輩の指導し傳授する三絃や爭のいはゆる俗樂は、歌人にとつては別の世界のものであつた。また民間演藝としての俚謠はどの方面でも盛に行はれてゐたが、その詞章には歌人の製作に俟つところは無かつた。歌はどこまでも擬古的のものであり、今樣とてもまた同樣であるので、それが俚謠との交渉をもつやうにならなかつたのは、この時代の文學の特色、從つてまた一般文化の性質、を(361)示すものである。なほ當時作られた今樣の内容からいふと、模範とせられた昔の今樣が感傷的な情思を述べたものとして知られてゐただけに、概して抒情詩的性質を有つてはゐたが、因襲と型とに囚はれてゐて眞に自己の情思を歌はうとしない一般歌人には、かういふ形によらなくては表現せられない情思そのものが自己にあるとは、考へられなかつたでもあらう。
 さて、長歌は五七調の散文に過ぎず今樣も多く世に行はれなかつたとすれば、當時に於いては長篇の歌を作らうとする要求が無かつたであらうか。次章にいふやうに、歌よりは複雜な情思を託することのできる漢詩の作者が多く、さうして異國語の詩の形態でありながら國語の歌よりもむしろその方に抒情的效果のあるものが見られるとすれば、心情の表現として短歌の形態では滿足し難いものが當時の知識人にあつたことは、推測せられる。さすれば詩に示唆せられてそれに代る國語の新しい歌の形態を案出しさうなものであつたが、それがせられなかつたのは何故であらうか。それには、シナ文物の尊重といふ、知識人の古來の習性がはたらいてゐるのであらうか。或は詩があつてそれが半ば日本語化して讀まれたために、純粹な國語でそれに代るべきものを作らうとする要求が生じなかつたのであらうか。多分その何れもが考へらるべきであらう。さうしてこれについては、上にも一言した如く詩を國語に譯することの行はれなかつたことが、參考せられる。柳澤※[さんずい+其]園の子夜呉歌の俚語譯は世に傳へられてゐるが、もとより一時の戯れに過ぎず、それに追從するものも無かつた。詩は絶句に於いてもその各句がそれ/\獨立した意義をもつてゐるのが普通であるから、それを國語に譯すれば長歌の如きものとはならず、また幾らかは詩の語法も移されたであらうから、それによつて新しい歌の形態が導き出されたかも知れないのに、それがせられなかつたのである。擬古文學とし(362)ての歌が因襲的に作られてゐたのと、同じ思潮の一つの現はれであらう。(詩のことについては次章に詳説する。)
 
 歌のほかには擬古文學として特にいふべきものが少い。秋成が萬葉の歌を補綴した鴛央行(秋成遺文所收)は物語めいたものにはなつてゐるが、要するにそれだけのものであり、女を男に裝はせてつれてゆくといふのも、また敍事の間に織りこまれた歌の論も、後世の思想である.宣長が言辞物語の六條の御息所のことを書いた手枕の如きは、古代語で古代人の情懷を敍したものであるが、それもかりそめのすさびに過ぎぬ。荒木田麗女の擬古小説もあるが、これについては一言しておくべきことがある.この作者は當時の國學者の系統から全く獨立してゐるのみならず、彼等とさしたる交渉もなく、特に江戸の文人などには殆どその名の知られてゐなかつたことが、遊京漫録などを見ても推考せられる。さうして俳諧をも漢詩をも作り、その方に却つて知友や先輩があつた。それは彼女が多方面の才藻を具へ、またみづから學びみづから自己を造つていつた女であるからでもあるが、一つは國學者の型にはめられなかつたことが、その奇才を自由に發揮し得た所以でもあらう。さてその擬古小説は、平安朝の古物語のおもかげを見せようとしてかなりに成功してはゐるが、それに寫されてゐる戀愛は、一面に於いては近松の世話ものに見えるやうな性質のものでありながら、全體としては江戸時代の思想ではなく、山賊を征伐した將軍も大宮人と武人との混血兒である。或はまた遊仙窟を摸したといふ「ふじの岩屋」や、シナ小説の何かから脱化して來たらしい「斧の柄」が、あまりに現實的で仙郷らしくもなく、鬼氣人にせまるといふやうな心もちのしないのも、平安朝風の氣分とシナ思想との不調和から來てゐよう。要するにこの作者の作は、古物語を目あてにしたものであり文章にも擬古文を用ゐてゐながら、(363)前に述べたやうな理由で、古物語らしい情趣が現晴れてゐない。さうしてそれは、江戸時代に平安朝の物語を擬作しようとしたからである。文章にも、まゝ古語の誤用などのあることはさしたる問題ではないとしても、全體におちついた情味が無く潤ひが無いが、これも一つは、物語が文字の上から來た知識の産物であり、自己の體驗、自己の生活、から出たものでないからである。平安朝の宮廷などについてはともかくもその輪廓を描き得たのに、「ふじの岩屋」に見える空想世界の措寫が全く失敗に終つてゐるのも、またかの長恨歌を翻案した構想が極めてむりであつて、源語の桐壺には及びもつかぬものであるのも、畢竟同じ理由から來てゐる。「月のゆくへ」や「池の藻屑」の如く、外面的の歴史を世繼風に書きつゞつたものが比較的無難にできてゐるのも、他面からこのことを證するものである。才人だけあつて、作中の歌は物語歌の口つきをほゞ摸し得てゐるが、複雜な構想を要する物語を作ることは、それほど容易ではなかつたのである。たゞ短篇を多く作つて大きいものを書かうとしなかつたのは、この點から見れば、よくその分を知つたものといはれよう。しかし何れにしても、作者が達筆であつて、且つ擬古の技※[手偏+兩]が或る程度まで成熟してゐるといふことのほかに、文學としての價値が多く認められないことは、いふまでもない。
 次に當時の風俗などを古代語で書かうと企てたのは山岡俊明の作といはれてゐる紫のゆかり、石川雅望の都の手ぶり、北里十二時、または秋成のくせ物語にある大坂長町あたりの場末の描寫、などの類であるが、これはたゞ古代語を使ひこなす技巧を見せただけのことであつて、その中に含まれてゐる俚謠の古語譯が、俚謠の調子を失ひながら古代の俚謠らしくもないと同じく、文章の上に表はれてゐるところは古代の有樣でも當時の状態でもない怪しげなものとなつてゐる。秋成が綾足の西山物語と同一の題材を取扱つた物語(秋成遺文所收)に至つては、古語古文脈が勝つ(364)てゐるといふだけであつて、必しも古文を擬したものともいひ難く、その思想は勿論作者の時代のものであり、ところどころに古事記や萬葉の語を插んでひどく古代めかした西山物語の文章が古文でないのと、同樣である。さうしてこれらは當時の思想を古語で寫さうとする企圖の失敗を語るものとも見られる。古代語を用ゐても古文の操作だけでは興味が無いから、現在の世相に題材を取らうとしたところに、一つの意味はあるものの、それが本來むりなことであつたのである。その他、和學者や歌人は紀行や贈答の文や庭園屋舍の記や書物の序文などを擬古文で書いてゐるし、たまには在滿の白猿傳の如く説話めいたものをも作つてゐるが、これは詩文を併稱するシナ式文人の文の方をまねたものであつて、その多くは文學としての價値をもたないものである。單に文章として見ても、宣長などの冠詞をむやみに使つたものなどは、冠詞の本來の性質を解せないところから來てゐるのでもあらうが、また文章としての本質をも失つたものである。それよりも源内や蜀山の狂文に用ゐてある方が、※[しんにょう+向]かに冠詞の性質にも適合してゐるし、狂文としてもふさはしい。宣長がまじめな文章にまじめに用ゐてゐるのがをかしいのである。また日記などでも平安朝の婦人の作ほどなものすら無いのは、強ひて古文を摸したのと江戸時代の一種の道徳觀に拘束せられてゐるのとのため、眞率に自己の情懷を述べ得ない故でもあらう。景樹の「またぬ青葉」の如きものにも、故らめいたところがあるではないか。
 
(365)     第十三章 文學の概觀 十
       漢文學
 
 擬古文學を考へた筆はおのづから漢文學にも及ばねばならぬ。漢詩が歌とほゞ同じやうに取扱はれてゐるのみならず、當時の知識人の思想や情懷は歌よりもむしろ詩の方に多く現はれてゐる場合があるからである。詩は異國の文學ではなくして、或る意味に於いては、日本の文學の一形式と考へてもよいほどだからである。しかし幾度もいつた如く、詩は本來外國語を用ゐるものであり、從つてその外國語に特有な、それと離るべからざる、特殊の氣分や色合ひがあるために、日本人の思想や情懷を有りのまゝに表現することが困難であり、それを表現しようとすれば詩としての味が薄れて來る、といふ矛盾がある。もつとも一般の知識に漢語によつて與へられたものがあり、日常の用語にも漢語の語彙が多く入つて來てゐるし、また知識人に於いてはその情生活に於いても、斷えず漢文漢詩を讀むことによつて、おのづからそれに薫染せられたところがあるので、漢語といふものが全く當時の日本人の心生活を現はすに適してゐないのではない。けれどもなほその間に何ほどかの隔たりがあり、或は齟齬するところがあることは、爭はれないから、詩の作者はこの二つを如何なる程度で讓り合はせ、また如何なる點で調和させるか、を考へねばならぬ。さうしてそれがためには形に重きをおいて内容を抑へるか、内容を主として形を壞すか、どちらかに傾くのが自然の勢であり、時代によりもしくは作者によつて、その方向が二つに分れる。我が國の詩の歴史がそれを交互に反覆することによつて成りたつてゐる、といふことは前篇に述べておいた。
(366) さてこの時期の初めには、元録時代に於ける木門諸子の態度に一歩を進めると共に、李王の古文辭説を受入れてそれを繼承した、※[草がんむり/(言+爰)]園一派の盛唐詩摸倣が流行を極めてゐた。學術に於いては必しも古學派に屬しないものでも、詩文に於いては多くこの風潮に捲きこまれる、といふ状態であつた。盛唐の格調をまね盛唐詩人の作から取つて來た詞を用ゐなければ詩でないやうに思はれてゐたのである。從つてそれが單なる摸倣に終り※[食+丁]※[食+豆]補綴が詩の能事とせられて、作者の思想情懷とも眼前の事物とも殆ど交渉が無くなり、すべてが純然たる技巧上の問題となつたのは、當然である。だからその流行が餘り激しくなると、それに對してあきたらぬ情を抱くものが生ずる。その上、摸範とするところが狭い盛唐の一時代に限られてゐるため、單調と陳腐との弊がそこから生じ、こゝにも人をあかせる因由がある。安永天明のころからそろ/\反動の氣運が向いて來たのはこれがためであつて、葛子琴や方外の人六如などがその先驅として現はれた。六如の「※[土+龍]麥欣々蒿雀※[言+華]、農歌聲裡日西斜、老牛耕罷渾無事、臥嚼※[こざと+是]邊董菜花、」、「溪南煙樹兩三家、棠棣補垣猶帶花、清氣浮々風不斷、隔林知是焙新茶、」、「茅簷西日照籬斜、老蔓相支挂晩瓜、冷蝶徘徊無意味、偶然逢者凰仙花、」、などを見れば、目前の小光景を親切に觀察してそれを寫實的に描いた點に於いて、盛唐調の摸倣をつとめたいはゆる格調家の舊套を全く離脱してゐることがわかる。六如庵詩妙に夜時雨とか千鳥とかいふやうな和歌題の詩のあるのも、またこの作者の詩に對する態度を示すものである。歴史的に考へると、六如はかの元政などの詩風を復興したものともいはれよう。
 しかし當時の詩壇に於ける反格調派の盛な活動は、經學に於いて反古學派が頭をあげ、或は折衷學の唱道となり或は朱子學派の復興となつたのと、おのづから相伴つてゐる。この運動は江戸に於いては、山本北山が作詩志殻や孝經(367)樓詩話に於いて手ひどく格調派を攻撃し、その代りに李王に反抗して起つた袁中郎を標式とし、また遠く中晩唐の作や宋詩を稱揚して、「清新性靈」の四字をその旗じるしにしたのが始まりであつて、「藉君首唱性靈功、一洗僞唐摸擬風、」と大窪詩佛が北山を讃美したのは、この故である。井上金峨も晩唐の詩を好んだといふ。次いで市川寛齋が江湖社を開くに至つてこの凰が大に起り、詩佛や菊池五山や柏木如亭などをはじめとして、幾多の才人が一時に輩出した。また京坂に於いては江村北海なども既に修辞派に對してあきたらぬ感をもつてゐたが(授業篇)、やはり安永天明のころに現はれた混沌社詩窮社などの同人によつて新風が唱へられ、さうしてそれが四方にひろがつた.その結果として寛政文化ごろの漢詩界には、この新潮流が横溢するやうになつたのである。
 これらの中で江戸派ともいふべき江湖社系統に屬するものを見るに、寛齋自身は白香山や杜樊川を喜び後には陸放翁を好んだといはれ(寛齋集序)、その門下の詩佛は南宋三家に私淑したと稱せられ(詩聖堂集序)、五山はまた楊誠齋に心をよせたことを自白してゐる(五山堂詩話)。中晩唐のと宋のとは大にその風趣を異にしてゐるのに、彼等が齊しくそれを喜んだのは、いはゆる格調の高古を尚び徒らに青山白雲の文字を羅列することを喜んでゐた擬盛唐詩の粗大な趣味に反抗し、委曲に情懷をのべ精細に目前の光景を寫さうとするに當つて、おの/\取るところがあつたからではあるが、一方からいふと、格調派に對する反動としていはゆる盛唐調でないものは何でも新しく見えたからでもあり、また詩が畢竟才人の才を弄ぶためのものに過ぎなかつたからでもあらう。性靈を重んずるとはいふけれども、既に中晩唐を學び陸放翁楊誠齋を摸する以上、それは決して眞に性靈を發揮するものでないことは明かである。盛唐詩人の作とても、やはり彼等の情懷を詠じ彼等の目睹する光景を敍したものであるから、詩人の詩を作る態度につい(368)ていふならば、特に盛唐を却け中晩唐以下を取るべき理由は無い。のみならず、盛唐調といはれたものは實は盛唐詩人の作の一面の傾向のみを、またはその用語措辭の外形のみを、見たものであつて、もしよくその情趣をすべての方面にわたつて吟味したたらば、強ひてそれを排斥する理由は認められないのではなからうか。また格調派が用語や格調の末に於いて盛唐を摸したことを非とするならば、それと同じ理由で、中晩唐以下を學ぶこともまた排斥すべきである。もしこの二つの間に根本的な差異があるとするならば、それは盛唐の用語や格調が當時の日本人の情懷を表現し日本の風物を寫すに適せず、中晩唐以下の風體がそれに便である、といふ點になくてはならぬが、シナ人の詩は到底シナ人の詩であるから、この點に於いてもその間の區別を過大視するわけにはゆかぬ。中晩唐の詩が往々感傷的であり宋詩に平明なところがあつて、模範をそれに取るのは自己の情懷を披瀝し寫實的な敍述をするに幾らか適合するところのあることは、事實であらうが、それとても用語や表現の技巧を主として考へる以上、畢竟五十歩百歩である。「作僞唐詩者刻鵠類鶩、其言雖笨、猶且不失君子體統、宋詩失眞則畫虎類狗、其言庸俗淺陋、與誹歌諺謠又何擇焉、」(五山堂詩話)といはれてゐるのを見ても、當時の作者が概ね外形の諸倣のみをつとめてゐたことが知られる。だからこの新風の鼓吹は、むしろ詩壇の沈滯にあいて何處かに新奇を求めたのと、表現法の或は繊巧であり或は平易であつて才人の才を託するに便であると共に親しみ易いのと、この二つのためであつた、と見なければならぬ。從つてそれが往々浮華に流れ繊弱に失し「篇似髯蘇元博大、詞如老陸自豪雄、近人學宋成何語、病婦※[口+需]言氣力空、」(五山堂詩話所載村田春海)といはれ、「浮聲繊調日陳々」(一話一言所載太田錦城)といはれるやうになるのも、自然の傾向である。
(369) しかし彼等が事實どういふ詩を作つたにせよ、その運動は少くとも理論上詩の尊むべきは「性靈」にあることを世に知らせたのであり、また彼等の新風に趨いた動機が何れにあるにせよ、その結果はおのづから詩を日本化する方向に導いたのであつて、從つてそれがために詩が現實の生活に接近する傾向を生じて來たのである。「各々不相襲、此謂之清新、百花雖異種、總是一般春、」(詩佛)といふやうな考は、宋詩に心を傾けてゐた作者の言としては、やゝ不似合であるが、ともかくも詩は自己の作るべきものであるといふことを知つた點に於いて、格調派の拘束を脱せんとしたのであり、從つて「一面々松濤麦浪、幾畦々翠稻青蒿、田家生計稍多事、肩※[金+挿の旁]腰鎌操桔槹、」(北山)、「耕耘時節正牢晴、烟靄深籠日色輕、幾處人家門半掩、衡茅屋上午※[奚+隹]鳴、」(寛齋)、「嫁女城中已抱孩、終年相面兩三囘、水仙蘆※[草がんむり/服]倶裝擔、衝雪今朝入郭來、」(五山〕、のやうな寫實的に農村の光景や農夫の生活の一面やを詠じたものが作られ、或は「如二三立山門」(伊賀侯邸觀角觝戯詩佛)のやうに用語が自由になつたことも感ぜられる。「淡々輕風顫帽紗、征衫露濕欲啼鴉、及攀山上天全曙、看作白雲渾是花、」(詩佛)、または「到處爲家※[食+胡]口足、落花飛絮又經年、客中吾久無愁恨、夜々新聲待杜鵑、」(如亭)、の如きは、帽紗飛絮の語にシナ人の口まねの跡が殘つてはゐるが、全體の情趣は歌のを學んだ日本的のものである。これらの點に於いては第三囘めの詩の日本化が行はれたといつてもよいので(前篇第十二章參照)、江村北海が日本詩史、市川寛齋が日本詩紀、を編纂して過去の日本の詩を追懷したのも、おのづからこの趨勢と關係がある。南郭が上代の詩は論ずるに足らずといつたのに此べると、詩といふものを見る眼の違つて來たことが、明かに知られる。
 香奩體ともいふべき作品の往々現はれて來たのもまた注意を要する。これは晩唐を摸倣するものには自然の傾向で(370)もあらうが、やはり詩を現實の情生活に近づけたのであり、寛齋の北里歌、五山の水東竹枝及び續吉原詩、その他、如亭などが好んで作つた竹枝體の風俗詩も、またこの風潮の一現象である。さうしてそれが、例へば「細艸新裙相映宜、妙音宮畔踏青時、蘆芽一寸巧堪管、五指摘來從口吹、」、または「錦字裁成漏已闌、起看爐火小星殘、無端阿妹和衣睡、爲覆輕衾護夜寒、」(以上五山)、の如く、繊細な官能的寫實的の描寫をする點に於いて、南海の江南歌、秋山玉山の江都春日行、または南郭などの竹枝體の作、が全く唐詩の摸倣であるのとは、性質が違ふ。同じく樂天を學んでも、南郭の小督曲、玉山の遊夜詞、などは、平家物語や謠曲の筋をそのまゝに取りながら、それに現はれてゐる情趣は小督や湯谷らしくないのに、寛齋の窮婦歎などになると、ともかくも江戸時代の農民生活が寫されてゐることを參考するがよい。かう見て來ると、浮華だとか繊弱だとか非難せられたのも、それは浮華であり繊弱である時代相が詩に反映してゐるからであつて、強ひて博大豪雄の詞をつらねないところに、却つて當時の詩の長所が認めらるべきであらう。歌麿が愛玩せられ清元や新内が喜ばれた世の中ではないか。さういふ非難が偏狹な道學先生的思想から來てゐるならば、それは初めから論外であるが、病婦※[口+需]言を詩にあらずとするのは、病婦※[口+需]言にも詩とするに堪へるもののあることを知らぬものであるのみならず、また當時の實社會を解せざるものである。もしまた精細な描寫と現實の社會を題材にすることとを喜ばぬならば、それはシナ式尚古主義の偏見として、固より論ずるに足らぬことである。
 詩佛や五山や如亭の輩は專門の詩の作者であつて、學者ではない。學者と詩の作者とのこの分離が、彼等をして往々道學先生の非難をうけるやうな詩を作らせた一事情でもあつたらしい。朱學が復興して學者の道學臭味が加はつた時に當り、詩を詩らしくした點に於いて、かくの如き專門作家の現出したのは意味のあることであつた。※[草がんむり/(言+爰)]園の徒(371)は學者でありながらその學術が道學臭味の比較的少いものであつたため、一面に於いて詩の作者を兼ることができたが、朱子學派に於いてはそれが困難だからである。當時上方の詩人の作が江戸のとやゝ趣きを異にしてゐたのは、一つは彼等がなほ學者としての地位を離れることができなかつた故でもあらう。詩に於いてもかなりに名聲を得てゐた西山拙齋の作が、例へば螢を詠じて「秋々欺兒女、栖々迷棘荊、」といひ「由來生朽質、汝敢有貞明、」といつてゐる如く、多く道學臭味を帶びてゐるのを見るがよい。しかし天分のある詩人はさすがに詩人であつて、僞唐詩の臼※[穴/果]から脱すると共に道學先生の理窟にも墮しない。たゞ風教を口にするものは艶詞綺語をつらねるを避けたまでである。平明の詞を以て實生活を親切に描寫し、端的の感興をさながらに表現するところに特色のある菅茶山の如きは、その第一人者であらう。「述實事、寫實際、不倣前人顰、不學時世粧、乃始非僞詩也、」(復古賀太郎右衛門書)といつた彼の詩は、よくこの主張にかなつてゐる。黄葉夕陽村舍詩の首尾を通じてこの特色は現はれてゐるが、試にその一二を擧げるならば、「晏起家童未掃門、繞簷梨雪午風喧、一雙狂蝶相追去、直自南軒出北軒、」といひ「村園秋色日凄清、籬下陰蟲晝亦聲、橦絮爭開枝愈重、瓠瓜欲熟架先傾、」といふ村居の即事、「桃半開時出故郷、櫻初殘日到三芳、病躯遠渉※[立心偏+斤]無恙、花下題詩寄阿孃、」、「阿孃往歳故來看、時歡兒曹作此觀、阿孃到日花方盛、今我來時較已闌、」の家庭の情懷、「驛樓一帶枕流開、粉壁參差荻渚隈、多少舟船連復斷、高帆徐拂屋簷來、」、「大路蜒締※[虫+廷]百里程、磨關遙指浪華城、平疇四面皆油菜、人自黄花堆裡行、」、の旅中の光景、何れもいはゆる實事實際でないものは無い。特に田舍住ひの彼は農民に深い親しみと同情とを有つてゐたので、「女兒傾筐采新橦、雨後寒生※[しんにょう+向]野風、知是授衣期已近、村家竹裡響綿弓、」といひ「旱田爭水四郊喧、處々松明路不昏、村婦夜深來慰勞、左懷孩乳右盤※[歿の旁が食]、」といふが如き、農民の日常生活を詠じ(372)たものがかなりに多い。旅に出ても「長程沿路故人饒、日々吟觴餞復※[しんにょう+激の旁]、行聽秧歌音節異、始知桑梓已遙々、」といふやうなものを作つてゐる。概していふと外部から農民の生活を觀たのではあるが、或る程度まで彼等の心情に同化して居るので、代官などの横暴を訴へた作のあるのもこの故である(第二章參照)。茶山は情熱の人ではなく、また奔逸な空想、富贍な詞藻、を有つてゐるのでもないが、平淡な日常生活をおちついて味はつた人であり、觸目の光景に無限の情趣を認め、家常の茶飯事にも深い興味をもつた、心からの詩人であり、實生活の詩人であり、人生の詩人である。何ごとでも詩にした點では歌人に於ける蘆庵に似てゐるし、「善録微事而不流繊弱」(六如庵詩第二抄序)と六如を評したのがそのまゝ夫子自身の作に適用せられもしようが、隱逸の氣のある蘆庵や方外の六如とは違つて、日常生活を離れないところに彼の特色がある。
 さて目前の小光景を寫實的に描くことは、頼杏坪などにも見られるので、「桃花臨水鴨媒驕、竹裡一村通小橋、門外時過賣魚媼、家々相戒繋兒猫、」の如きがそれである。篠崎小竹の「野在何處送微馨、坐看秋烟横遠※[土+囘のような字]、憐殺稚兒忘晩飯、夕陽原上※[走+珍の旁]蜻※[虫+廷]、」なども、同じ部類に屬すべきものであらうが、野田笛浦はこれを評して東樣といつてゐる。茶山の「花作顛狂逐午風、半奔苔徑半翻空、移茵獨就花前酌、時亦飛來帆酒中、」を六如が東樣と評したのに參照すると、上方の作者には、輕妙な或は新奇な題材を取扱つたものを、江戸風として尊重しなかつたらしいが、かういふものを作ることにも當時の詩界の傾向が現はれてゐる。やゝ時代は後れるが藤井竹外の二十八字詩にも「種桃繞屋是吾家、樹々樹頭團絳霞、嫁女四隣呼可答、隔花機杼響※[口+伊]唖、」といひ、「野花穿村通小※[舟+刀]、落花滿店賣香※[酉+繆の旁]、東風吹老漸無力、箇々紙鳶※[風+易]不高、」といふなど、やはり平和な村落生活を描寫してゐるし、「桃花水暖送輕舟、背指孤鴻欲没頭、雪白(373)比良山一角、春風猶未到江州、」、「喚取藍輿便換舟、浪華南去是平疇、西風吹白木綿國、一路穿花到紀州、」、の如きは、好箇の風土記と稱すべきものである。「遙想荒園雪已消、爺孃開宴定今朝、紺牙紅甲爭※[手偏+欣]土、頼有山妻代我挑、」に至つては、温和な家庭の描寫と共に繊細な自然の觀察のあることを認めねばならぬ。村上佛山もまた多く田園の情趣を寫實的に描いてゐるし、「落花深處踏車忙、抖得溝渠水亦香、始識南州風土異、田疇三月已分秧、」(肥前道中)などの、よく地方色を寫し得たものもある。
 目前の小光景を寫實的に詠ずるのは即ち詩の日本化であるが、詠史の作もまた或る程度まで日本人の思想と行動と感情とを寫す點に於いて、同じ傾向を示すものである。詠物は詠史に如かずといつた山陽に、それの多いことはいふまでもなく、古樂府に擬した日本樂府のやうなものさへあるが、獨り彼のみならず、當時の作者の家集を播いて見れば、この種の作の幾らかが無いものは無い。星巖集(戊集)によると皇朝詠史百絶といふものを作つた人があり、詩人の群に入れるのは妥當でないかも知らぬが、水戸の青山延壽も讀史雜詠を公にしてゐる。これらの作のうちには歴史上の事件や人物を題材とすることに興味をもつたもの、從つてそのおもしろさは單に技巧の上にあるものもあり、山陽の作の如きもその妙味は主として敍事のいき/\としてゐる點に存するのであつて、史上の人物に對する批評や感想には、さして特異の點の見えないものが多いが、しかしそれに何等かの感懷が含まれてゐる點に於いて、元禄以前の作者のとは頗る趣きを異にしてゐる。のみならず、「湖田麥秀菜花黄、舊苑春光悲樂浪、豈識周公升帝位、華山底處弔成王、」(頼香坪)の如きは、大日本史の筆法よりも更に一歩を進めて、天武天皇の即位に道徳的批判を加へたもののやうに見える。「是有何人薦藻※[草がんむり/繁]、澹烟微雨鎖黄昏、湖南三尺無情土、※[病垂/(夾/土)]却英雄未死魂、」(星巖)もまた平家物語以(374)來の義仲觀を一轉したものであつて、「木曾どのと背なかあはせの寒さかな」(芭蕉)と共に、粟津懷古の雙璧といふべきものであらう。芳野や湊川やに關するものの如く太平記から着想を得てゐる作も多く、また神功皇后や太閤や對外的に活動した古人も好んで詠ぜられてゐて、そこに時勢の趨向とおのづから相關するところもある.菊池容齋が歴史畫を作つた時代である。前章に述べた如く歌人の詠史の作の多くなつたのも同じ思潮の現はれであるが、歌のはやはり詩のを學んだのであらう。時勢を知ることに於いては、詩人は歌人よりも遙かに敏感であつたので、そこにシナの文學によつて養はれたところがある、といはねばならぬ。農民生活や風景の地方色を寫すことについてもまた、詩は歌よりも長じてゐるが、これは一つは、五言七言の絶句にしても三十一音の歌よりは語數が多く、またシナ語に特殊ないひかたがあつて、具體的な敍述をするに適してゐる故も無いではないものの、それよりもやはり歌ではその題材と着想とが因襲的に一定してゐて、さういふ方面に眼をつけることができなかつたのに、詩の方ではシナに於けるその模範が多樣の題材を包容してゐるので、それを我が國に適用し得た點に、主なる理由があるらしい。歌人は長歌に於いても、さういふ方面のことをば全く閑却してゐるからである。國語の歌よりは異國語の詩によつて國民の日常生活の詠ぜられてゐる場合が多いとすれば、當時の國文學の貧弱さと全體としての文化に不健全な側面のあつたこととが、それによつて明かに示されてゐるのではなからうか。
 詠物よりも詠史を好むといふのは、直接に人の生活を取扱ふことを喜ぶのであつて、山陽が四寒詠に特に有情のものを撰んだのも、偶然ではない(詩鈔卷四)。さて有情のものに心を傾けることが詩人の本色であるならば、妻子を思ひ父母を思ふの惰が詩に現はれるのは當然であつて、この種の作もまた諸家の集に散見する。のみならず、いはゆる(375)艶詞、いはゆる香奩詩、の作られるのもまた怪しむに足らぬ。山陽にも赤間竹枝や長崎謠があつて、中には五山から一矢を報いられたものさへあるではないか。月琴に淫聲のあるを歎じた星巖も、同じく瓊浦雜詠を作つてゐる。上方に於いても山陽の時代からは專門文人が輩出したので、さういふ作者は必しも道學思想に束縛せられなくなつた。中島棕隱に鴨東四時雜詞のあるのでもそれは知られる。かの偏固な道學先生西山拙齋にも「蝶戀花兮花逐波、餘芳猶入夢魂多、多年情緒割難得、藕斷絲連如汝何、」の作があつたではないか。「戯賦婦人」とはいつてゐるが、戯の一字は固より詩人慣用のごまかし手段である。當時の詩人の艶詞によつて、必しも作者に一々風流罪過があつたとすることはできないので、その多くは「戯」かまたは一種の風俗詩かに過ぎないのでもあらうが、材をそれに採るのは「戯」なるが如くしてその實必しも戯のみではないところに、この體の詩の興味がある。
 さて既にこの種の咏があるとすれば、更かに一歩を進めて何ほどかの戯曲的構想を有する歌行の作られるのも、當然である。佛山の棄婦行、棄兒行、※[女+霜]婦行、三絃行、涙雨行、などはその最も著しい例であつて、棄婦棄兒の二曲は殆ど淨瑠璃を讀むが如き心地がする。「妾身分一死、胎中奈有子、珍重應掬養、定與君顔似、縱得掌上珠、靡父又何怙、涕零如雨將上車、梨花無力有誰扶、尚是良人所手寫、十襲懷來離婚書、」といふ棄婦行の一節を見るがよい。「將上車」の如き文字があつても、一曲の情趣が純然たる日本人のであることは、いふまでもない。棄兒行の主君の身代りに我が子をすてるといふ構想は、全く淨瑠璃から來てゐる。松本奎堂の三叉行や阿古屋松などもこの部類に屬すべきものであつて、何れも淨瑠璃から題材を取つてゐる。淨瑠璃樂そのものを詠じた篠崎小竹の三絃詞が既に作られてゐたことも、こゝに附記してよからう。これらは詩の風體からいふと白香山の影響を受けてゐるらしいが、それに現はれて(376)ゐるところは、當時の日本人の心生活である。因みにいふ。俳句を詩に改作することもまた行はれ、千代のによつた六如の「井邊移植牽牛花、狂蔓樊欄横復斜、汲※[糸+更]無端被渠奪、近來乞水向隣家、」にも既にそれが見えてゐるが、五山堂詩話に採録せられた「別後鸞衾睡未成、子規忽得妾心驚、歸舟下水今何處、啼到郎邊第幾聲、」もまたその一例である。原句に於いて情趣は十分に現はれてゐるので、詩はむしろ蛇足を加へたに過ぎず、或は語り盡して却つて風情が薄れてもゐるが、ともかくもかゝるものが作られた。この類のものも一二には止まらないであらう。和歌題の作の少なくないことと共に、詩の日本化がかういふところまで來てゐたのである。古傳説もまたしば/\詠ぜられたので、中には「故關無趾白鴎飛、小謫王孫去不歸、村雨松風還一夢、暮寒併上緑蓑衣、」(遠山雲如)のやうなのもある。村雨松風の四字をかう用ゐることによつてやゝ別樣の情趣が生じてはゐながら、潮くみわぶる二女のおもかげはなほ髣髴として現はれてゐる。「紫藤花落鳥聲新、泣把孤衾度一春、已分※[糸+周]繆束薪苦、未曾説與薄情人、」(臥柴加賀鐵兜)の如きは、古傳説にふさはしい光景を添加することによつてそれを詩化したのであり、いはゆる歌枕を主題とした「多情倚柱恨難銷、又見春風上柳條、心緒絶兮誰復續、梅花零落夕陽橋、」(緒絶橋磐溪)も、また同樣の手段を用ゐてゐるが、これらは前章に述べた詩の情趣を歌に詠まうとする場合のとは反對の方法であるところに、歌と詩との違ひが示されてゐる。
 しかし詩は畢竟詩であつて、その模範がシナにあることはいふまでもない。茶山以下の上方詩人は、必しも中晩唐とか宋とかいふことに拘泥してはゐなかつたやうであるが、その目ざすところが格調派の反對に向いてゐたことは明かであつて、この點に於いて上に述べた詩界の大勢と趨きを同じうしてゐる。ところが一方にはそれにあきたらぬも(377)のもあつたので、廣瀬兄弟の如きがそれである。淡窓は「開天豈不美、中晩勿相捐、」といひ、「正享多大家、森々冽鼓旗、優遊兩漢城、出入三唐籬、格調務※[莫/手]倣、性靈却蔽虧、里嬪自謂美、本非傾國姿、天明又一變、趙宋奉爲師、風塵拂陳語、花草抽新思、雖裁※[傲の旁]避志、轉習淫歪哇辭、楚齊交失矣、誰識烏雌雄、」(論詩)といつて、公平の態度を持してゐるやうに見えるが、旭莊は「白雲明月字、多於魚卵繁、關山萬里語、恰如玉條懸、一詩孕千句、千詩出一肝、」と格調派の陳套を笑ひながら「最恠今時好、甘吮范陽涎、憐彼無識輩、胥溺海漫々、」といひ「笑彼楊與范、繊巧安足觀、婦人長惟幕、終身飾髻鬟、」といつて、時好の宋詩に向ひ詩風の繊弱に流れてゐるのを嘲り、更に一歩を進めて「宋詩少醇者、數公追唐賢、」また「萬古論詩者、從此歸開天、」と喝破してゐる(論詩)。「歌詩寫情性、實隨民俗移、風雅非一體、古今固多岐、作家達時變、沿革互有之、苟存敦厚旨、風教可維持、」(淡窓)、「詩者人精神、何必立父祖、舍芸他家田、吾詩我爲主、莫倩古人來、逆旅于我肚、」(旭莊)とはいふものの、特に敦厚を尚んで繊弱を嫌ふのは、人心みな敦厚であつて繊弱の調が性情を詠じたものでない、といふ證明の無い限り、思想としては大なる矛盾であつて、それは詩を教化の具と見る道學的見解から來たのか、または自己の好むところに阿るに過ぎないものかである。況や「強將繊巧論新奇、畢竟邦人所見卑、輓近諸公束高閣、且繙漢魂六朝詩、」(旭莊)といふに至つては、漢魏六朝の詩が自己の情生活に特殊の交渉のあるものでない限り、やはり古詩の摸倣を詩の能事とするものである。事實、旭莊は好んで長篇の古詩を作つてゐるが、その思想は殆ど純然たるシナ人のである、古詩が知識的分子の勝つてゐるものである以上、これは當然のことであらう。「宇佐宿神廟」といふやうな日本的題材に於いても「萬靈夜趨朝神所、雲車※[車+歴]轆佩玉鳴、傾墻壞屋搖磔々、龍蛇如活畫壁拆、祠陰蒿莱高没入、風來隱見石馬脊、」のやうに、シナの套語を用ゐシナ(378)の材料をかりて來てゐるではないか。物凄さうな文字を並べてゐるだけで、少しも物凄くない。かういふ風であるから、眼前の光景を如實に寫し出すことは殆ど無い。旭莊よりは温雅である淡窓の盆踊を詠じた「女學男粧男女粧、少年遊戯一何狂、紅袍翠袖翻風去、三日頭街蘭麝香、」「戸々懸燈未夜開、衣香人影亂徘徊、誰知市上婆娑者、曾是今朝哭墓來、」にも、盆踊の情趣は殆ど現はれずして、却つて道學先生の顰蹙した顔が見える。詩佛が西遊草に「絃繁管急鼓彭々、兒女聯翩成隊行、好々相呼齊和曲、滿村明月踏歌聲、」といつてゐるのがともかくも盆踊の光景を寫してゐるのと、比べてみるがよい。
 淡窓も旭莊も半ば學者であるが、詩人を以て自ら任じてゐた梁川星巖にも類似の傾向が見られる。「今人遺古尚新裁、刻葉鏤花豈是才、一部杜詩君試閲、盡從文選理中來、」(論詩)、刻葉鏤花を却けるはよいが、杜詩のすべてを文選理中より來るとすることに何の意義があるのか。彼の詩を讀むと、典故を多く用ゐ莊重なる語を好み、目前の瑣事微物に就いても不相應なほどに業々しい修辭をしてゐることに氣がつく。「青棠※[女+亞]※[女+宅]能鎰忿、丹棘連娟解忘憂、一種人間好花草、西風腸斷不勝秋、」(秋海棠)、「春容隔水蒲牢吼、擬問寶陀開士家、何物飛廉敢相阻、滿湖吹起鐵蓮花、」(雇舟遊長命寺阻風)、「兒善板※[横目/會]女善※[戈+立刀]、阿翁醉脚叩舷歌、君聽一曲漁家傲、大※[さんずい+獲の旁]威※[音+召]不較多、」(湖中雜吟)、などに、その一斑が見えよう。長詩に於いては勿論のことで、すべてが多量の知識的分子で修飾せられてゐる。從つて如實に見聞を寫し單純に力強く感懷を披瀝したものが少い。措辭の巧妙とか格法の正しいとかいふことはあるにしても、眞率な情味に乏しいといふ非難は免れ難いので、茶山などと趣きを異にする所以はこゝにある。かう考へると上に引いたやうに杜詩を評した所以もおのづから解せられよう。彼は知識の人であり、彼の詩は披巧を以て秀でてゐるのではあ(379)るまいか。丙集の序に齋藤拙堂がいつてゐる如く、時流の弊を矯めんとしておのづからかうなつたのかも知れぬが、詩佛や如亭と同じく北山の門からでて江戸風の揺籃のうちに生ひ立ちながら、彼等とは變つた方面に走つたのは、彼の性質からであらう.晩年に多く道學風の詩を作つたのも故なきことではない。
 しかし淡窓や旭莊や星巖は、決していはゆる格調派の如く唐詩の擬作をしたのではなく、徒らに關山萬里の文字を羅列したのでもない。よしその作に虚僞の修飾が加はつてゐるにしても、なほ彼等自身の作であることは明かであり、彼等の態度の單なる反動に止まらなかつたことが、それによつて知られる。この意味に於いては、彼等の作もまた日本人の詩として見られよう。さうして根本がシナの文字シナの言語を用ゐシナの詩の形態を學ぶものである以上、いはゆる性靈派の作とても大觀すれば彼等と相距ること五十歩百歩である。茶山などの日常生活を詠じたものでも、何となく業々しい感じのする場合が少なくない。詩の評が多くは、格法に合ふか合はないか措辭妥當であるかないかといふやうな點に向けられ、險題難韻を巧みに取扱つたとか、見るが如くに光景を敍したとか、または李杜の意をえ香山樊川に似てゐるとか、いふ點が稱讃の理由であり、技巧の妙でなければシナの大家のおもかげがその作に認め得られるところに、詩人の能力があるやうに考へられてゐたのでも、それは知られる。これは恰もシナ畫の摸作に對して、筆墨の上の評をするか、シナの某々名家の筆意が見えるといふか、の外は無いのと同一である。先人未發の言だといふやうな、着想の上に加へられた評も無いではないが、それはむしろ稀であるのみならず、多くは一言一句の思ひつきが奇拔であるといふ程度のことに過ぎず、思想が新しいといふのではない。唐とか宋とかいふ標準を決めてかかるのが、既に詩といふものに於いて自己を表出することを重んじないことを示してゐる。だから詩の日本化といふ(380)のも、畢竟、程度の問題である。しかし全體に技巧も發達し、詩といふものに對する理解もできて來たのであるから、日本化した當時の詩は、決して平安朝の末期や江戸時代初期の作の如く詩の形をもつた散文ではなくなつてゐる。さうして耳にきく聲調の感じを全く缺いてゐて、たゞ法則に從つて文字をあてはめただけでありながら、ともかくもシナ人の詩に對して恥しからぬものを作り、後に兪曲園をして東瀛詩選を編纂せしむるほどの技※[手偏+兩]を有つてゐたことは、一面の觀察としては常讃に値するものであらう。
 かう考へて來ると、彼等の詩が少しく空想的になる場合には、シナの書物から得た知識の外に出ることができなかつたのも怪しむに足らぬ。旭莊が穩渡歌に共工氏をかり廣村瀑布歌に女※[女+渦の旁]傳説を用ゐたのはいふまでもなく、銀杏樹歌にも神仙思想を取つてゐる。詩佛ですらも「夢遊月宮」の一篇は全くシナ思想から成立つてゐるではないか。鐵兜も好んで神仙を材料に用ゐ、菊池溪琴にも小遊仙の作がある。空想的のものではないが星巖の芳野懷古の「今來古往事茫々、石馬無聲坏土荒、春入櫻花満山白、南朝天子御魂香、」が、その第二句に於いて我が國にはあるべからざることをいつてゐるのも、似たやうな例である。一方では寫實的の作の多い佛山が奈良について「同輦同車常侍君、明眸皓齒媚青春、空餘南花數株柳、曾蔭三千第一人、」、「※[壘の土が糸]々墳墓對殘陽、埋着諸姫在此岡、金鏡玉釵誰掘去、苺苔仍帶麝蘭香、」、といつてゐる類は、昔の宮人を想像するにもシナ人の因襲的觀念によらねばならなかつたことを示してゐる。佛山のこの詩などは、聲調こそ違へその思想に於いては※[草がんむり/(言+爰)]園一派の作と全く同じである。
 けれども、詩はそれに異國的情趣が伴つてゐるため、一方に於いて日本人の生活に切實ならざる憾みがあると共に、他方に於いてはすべてをその情趣に包むところに、一種の空想的氣分を漂はせる效果がある。だから明白な虚僞の言(381)辭をつらねたり典故の引用やその他の修飾のために主想の表出を弱めたりしない限り、そこに特殊の興味がある。日本人が竹枝體などの詩を作るのは主としてそのためである、といつてもよからう。地名に佳字を用ゐることなども、事實を曲げたり全體の氣分を損ねたりしない場合には、この點から見て甚しく非難すべきものではないので、事實を記録するのでなくして花月の興をやるものである以上、例へば向島と書くよりは夢*香州とする方が、文字による聯想をはたらかせることになつて、感興を深める效果がある。本來文字による藝術であるから、一首の情趣を助けるやうな文字を用ゐようとするのは、むしろ當然の用意である。三浦梅園が詩轍に於いて「興象の間、唇氣浮動、しばらく空裏の樓臺を湧出せんも、道理そむかざらんほどは、文苑の幻華、何ぞ許さざるべけん、」といつて、地名に雅馴の文字を用ゐることを是認したのは、當然である。ところがこれらは和歌には無いことである。歌は本來純粹な日本語で作られ、日本の事物と日本人の情懷との詠ぜられるものであり、よし稀にシナに由來のあることの含まれる場合があつても、異國的情趣がそのまゝには現はれず、何ほどか日本化せられてゐるのであり、また文字にたよらずしてすべてがことばによるものだからである。古代語を用ゐることがシナ語によるのに似てゐるやうでもあるが、それとても語であつて文字ではなく、また歌の全體が古代語であるからそれだけが耳だつて聞えるのでもない。さて詩がかういふものであるところに、それの文學界に存在すべき理由の一つがあると共に、また文學が遊戯的であり知識的であり、自己の思想、自己の情懷の力強い表出をそれに期待しないこの時代の通相がこのことに現はれてゐる、といふ一面のあることも、それによつて認められよう。
 けれどもまた一方からいふと、前にも述べた如く日本人の思想そのものが複雜になり、シナの知識から得た分子も(382)それに加はつて來たため、シナ人特有の氣分を帶びてゐる漢語も、日本人にとつて決して純然たる異國のものではなくなつてゐると同時に、漢語を全く排除したのでは、あらゆる思想あらゆる情懷を表現することができなくなつてゐる。何故に日本人が漢語をそのまゝ用ゐずして國語でそれを現はすことを考へなかつたか、といふやうなことは別問題として、當時の現實の状態に於いて、純粹の國語のみを使はうとする和歌や和文のみでは、この點に於いて物足りない。さうして既に漢語を使ふ以上は、單に單語としてのみならず、漢語の特色を十分に發揮し得る詩によつてその思想を表現しようとするのも、また自然の欲求であらう。自由に熟語を作り、また單語と單語とを並べその間に生ずる聯想を利用するだけで何等かの光景を敍し情思を表現することができ、さうしてまた語と語と、獨立した句と句と、の間に不即不離の關係を保つて思想を展開させてゆくことは、いはゆる孤立語たる漢語の特色であるが、それが詩に於いて最もよく現はれてゐる。だから詩を半ば日本語化して讀んでも、國文學の一つの形態としてはむしろかういふ讀みかたをすることによつて、それに散文とは異なつた情趣があり、和歌からは生じない興味がある。「きさらぎやよひ日うら/\」は有名な昔話であるが、こんな風に讀んでも、普通の國語の歌などとはいひかたが違つてゐるのに、漢語が日本語として用ゐられるやうになつたこのころでは、「二月三月日遲々たり」と讀み、それによつて、單語として漢語を使ふのみでなく、テニヲハを殆ど用ゐずしてその情趣を表現することができる。これは單に表現の法が簡潔であるといふばかりではなく、テニヲハによつて明かに語と語と觀念と観念との關係が示されないところに、論理的でなく散文的でない辭句の組みたてがあり、それが詩として特殊の意味を有する。言語としては低級のものであるにしても、またそれによつて精密な思想や繊細な感情を現はすことができないにしても、この點は認めねばたらぬ。句(383)と句とが不即不離の關係にあるのは思想の運びかたにもよるので、必しも言語の性質から來てゐるばかりではないが、それにも關係があることは疑はれない。(テニヲハを省いて詞を多くつらねる俳句の一體には、日本語化した漢詩の讀みかたから暗示を得た點があらう。句と句との關係に於いても、蕪村の春風馬堤曲のやうなものは、やはり詩から思ひついたのであらうが、たゞこれは一句が獨立した形と意義とを有ちすぎてゐるため、多くの句がまとまつた一曲として組みたてられてゐるャうには感ぜられない。)その上に詩には、思想の運ばせかたに關して因襲的に定められてゐる法則、例へば絶句に於ける起承轉結といふやうなこと、によつて藝術として必要な變化と統一とが得られるが、これも歌には無いことである。歌の一首はそれによつて表現せられまたは描寫せられる内容からいへば、ほゞ詩の一句に當るほどのものであるから、かゝる變化を容れる餘地が無く、從つてその統一を求める必要も無い。また外形の上からいふと、詩はその一句ごとに音の強弱長短高低などによることばの一定のくみあはせがあり、一首としては、このくみあはせのそれ/\違つてゐる幾句かをそれらの句が獨立したまゝでつなぎあはせ、押韻によつてそれを統一することによつて成りたつので、その變化も統一も詩の内容には關係が無く定められた機城的なものであるが、歌の一首が一首として成りたつのは、前章でいつた如く、一首全體の着想とその表現の方法、いひかへるとそれに用ゐられることばとことばづかひとそのつゞけかたとから生ずる自然のリヅムとその音調と、即ち景樹のいふ「調べ」、によるのであり、さうしてそのリヅムその音調はその歌の内容のおのづからなる現はれであるから、一首ごとに違つたものである。さうしてそこにシナ語の詩と日本語の歌との違ひがある。けれどもこゝにいつた點に於いて歌とは違ふ特殊の興趣が詩にあることは、事實であるので、詩の流行には、作る場合の拔巧上の興味などの外に、この點に一つの(384)理由のあることもまた忘れてはならない。シナ語としての音韻聲調を解せず、その點では詩を解し得ざるものといつてよい日本人が、一首の全體またはそれを構成する句を半ば日本語化して積むことによつて、詩を作りまたそれを傳誦する所以の一つは、こゝにある。半ば日本語化して讀むといふことは、それによつて表現しようとする、または表現せられてゐる、情思をも或る程度に於いて日本化することになるが、日本化せられたがらやはり詩である。日本語化して讀むために五言とか七言とかいふやうな語數の定めすらも明かには覺知せられないが、それでも散文と違ふ律語のおもかげはおぽろげながら思ひ浮べられ、五言と七言との區別さへも或る程度に感受せられるところに、詩の興味がある。また或る句を日本語化して讀むに當つて、單語としての漢語を漢語のまゝに音讀するところとそれを日本語に翻じて讀むところとが生じ、この二つが互に交錯することによつて詩の本來のとは違つた音調上の興味が喚起せられると共に、その交錯のしかたが詩の内容によつて違ふために、詩の一つ/\にそれ/\の異なつた情趣のあることが感知せられる點にも、特殊の興味がある。詩によつて日本人の情生活が豐富にせられ、特殊の表現法が教へられ、また藝術上の要求の幾らか充たされる點のあつたのは、これらの事情のためであらう。
 なほ、詩は歌よりも用ゐ得られる語彙が豐富であり組みたても複雜であり、また上にいつたやうた孤立語としての性質もはたらき、從つて敍述の進行に變化もあるから、その點に詩の流行する理由の一つがあることが考へられる。題材について見ても「西湖看月具神通、望遠有鏡補雙瞳、瑩然是水黯然土、萬影如泡布其中、月球地球成聯璧、飛在虚杢互映射、」(遠思樓詩鈔淡窓)といふやうに新天文學を取入れたり、またはいはゆる佛郎機の如き新武器を詠じたりすることは、歌にはむつかしい。幕末になると、佐久間象山が西洋の兵術や蘭學から得た知識を詩に詠じ、齋藤竹(385)堂や大槻磐溪が外國竹枝とか外國詠史とかいふものを作つたが、歌人にさういふ試みをするものが無かつたのも、同じお理由からであらう。前に述べた如く農民生活の實状が歌よりは詩に現はれてゐるのも、一つはこの故である。もつとも一方からいふと、歌が新題材を詠じようとしないから語彙が貧弱で表現法が因襲的なのでもある。例へば歌人に遊歴生活をすることの殆ど無かつたことは、彼等の作をして單調ならしめた一原因かも知れない。春海や千蔭でも蘆庵や景樹でも、もし詩人が長崎の風土を寫し得たほどにその地の風物なり氣分なりを詠じようとしたならば、彼等の用ゐなれたことばやことばづかひではそれができないために、おのづからそれらについての新工夫をする必要を感じたに違ひない。平安朝末期かちの歌僧が修行の旅をする習慣は、その意義が變りつゝ連歌師から俳諧師に傳へられて來たが、歌人がそれに倣はなかつたのは、この意味に於いて遺憾であつたともいはれよう。歌人は地方の志あるものを門人として吸收し、通信教授の方法によつてそれを指導することができたのと、彼等のうちには一面に於いて學者であるためにその點での矜持をもつてゐるものがあり、その氣風が學者ならぬ歌人にも傳へられたのと、これらの事情のためであらうか。それは何れにしても、彼等に遊歴の風習の無かつたことは、歌の固定化を助けたであらう。しかしさういふことを除いて考へても、詩の方が新題材を取入れ易いことは、疑があるまい。さうしてそれが詩を實生活に近づけることになり、さうなることによつて詩の流行の勢が強められるのでもある。
 
 以上は當時の詩に日本人の作とんて如何なる價値があるか、何故に詩が流行したか、といふ點から見た一面の觀察である。國文學の一形態として詩を取扱ふには、これが主要なことだからである。作者については詩界を代表する少(386)數のものを取つたのであるから、詩人としてよりは學者として考ふべき人々は、おのづから省略せられたのである。さてかういふ作者が如何なる場合に詩を作つたかといふと、その第一は旅行の際である。それは日々に送迎せられる異郷の風土人情が饒かなる題材を彼等に供給するのみならず、今日の如き交通の機關の無かつた當時に於いては、旅行が困難であると共に興味も深かつたのであり、春風秋雨のをりにふれてはしみ/”\と感ぜられる流轉漂泊のおぼつかなさ、知人故舊に對する離合集散の定まりなさも、一しほであるので、そこに詩の作られる幾多の動機があつたのである。特に「心跡未間雲出岫、應縁范冉甑生塵、」(星巖)、職業詩人に於いては、俳人や畫家と共に、遊歴が生活の一方便でもあつたので、旅行と詩との關係は一層密接であつた。また當時の唯一の外國貿易港たる長崎が、蘭人清客にも接し幾分の異國情調をも味ひ得られ、或はまた「盈々積水隔音塵、穿眼來帆阿那邊、自慰吾儂勝織女、一年兩度※[しんにょう+牙]郎船、」(山陽)といふやうな情味の、採つて詩とするに堪へるものもあるがため、詩人の巡禮の一大目的地であつたことは、いふまでもないが、それにつれて中國西國の旅行も常に行はれ、詩佛の西遊詩草、山陽の西遊稿、星巖の西征集、たどのできたのもそのためである。山陽がナポレオン歿落の三年後に早く佛朗王歌を作り得たのも、長崎のおかげである。次には知人に對する贈答の作、特に離別會合讌飲の場合のが多く、それは花月の翫賞山水の探勝などと共に、詩の一大領域を占めてゐる。その他、詠物畫賛の類や林園泉池の景勝を詠じたものなど、人の依頼に應じての作も少なくないが、習作もしくはそれに准ぜられる場合の外には、歌ほどには題詠が行はれず、この點に於いて詩は却つて歌よりも即興的であるといひ得られる。さてその即興的であることから、必しも他に示さうとせず、をりにふれことにあたつての感懷のおのづから詠出せられる場合、いひかへると自己の現實の感懷を詠ずるといふ意義での(387)抒情詩の作られる機會、のあることが考へられる。ところで、これらの何れの場合のにしても、詩といふものがもともとシナ人の詩の摸倣であるから、その思想にも用語にも概して一定の型があるために、日本の事物を敍し日本人の情思を詠じても、なほそこにシナ思想シナ人的情趣が混和することになる。從つて作者自身の現實の感懷を詠じた抒情詩に於いてすら、どこまで作者の衷情が現はれてゐるかを知るに苦しむものが多い。たゞ上にいつた如き詩の形態上の特質があつて、それが歌とは違つてゐるために、よしそれに幾分の異國的色彩がつけられるとはいへ、歌よりも複雜な思想や情懷をそれに託することができ、その點から却つて歌よりは切實に自己を表出し得る場合もある。さうしてそれには、詩を半ば日本語化して讀むことによつて、上にいつたやうな別樣な興味も加はる。詩の情趣の主なるものはむしろこゝにあるといへよう。しかしかうはいふものの、詩の大部分はやはり遊戯的のものであつて、少數の詩人の作を除けば、國民の實生活と深い交渉のあるものが多いとはいはれぬ。田能村竹田の作の如きは、その殆どすべてが、彼の南畫と同じく、世外に逍遥するを高しとするシナ式文人趣味によつて貫かれてゐる。歌妓の三絃曲を詠じ袖香爐といふ曲名をさへそのまゝ用ゐたやうなものをも、極めて稀には作つてゐるが、それとても、後にいふ詩餘の或るものと同じ性質の遊戯文字である。詩人の詩の興味の薄いのはこゝに一大原因があるので、それは恰も歌人について上に考へたのと同樣である.
 しかし詩にはまた非詩人詩がある。羽倉簡堂が非詩人詩を編したのは、職業詩人の職業として作つた詩に對して然らざる詩の存在を主張したものである。學問がシナの書を讀むことであつて、學問をするものが詩を作る習慣である以上、幾らかの學問があり幾らかの才能のあるものは、巧拙にかゝはらず詩を作る。それは一方からいふと、詩を毒(388)し學問を毒することにもなるが、他面から見ると、その間に却つて眞の詩の作られる機縁が存在するので、かゝる詩にはよしその技巧に足らざるところがあつても、その情趣には掬すべきものがある。「邑官講利策無遺、迂拙吾曹何所爲、自笑書生餘舊態、半思民苦半思詩、」といひ、「人去訟庭將夕陰」獄情疑處自相尋、牆頭偶見秋山好、復使詩心奪吏心、」といふやうな頼杏坪の詩の如きは、その最も優れたものであり、例へば藤田東湖とか佐久間象山とかいふやうな人々の作もみな同樣である。それほどでなくとも、詩によつて感懷を表現し得るものは少なくなく歌について考へた如く、世間の空氣が動搖して人の感受性が鋭敏になり、或はその間に自己を主張せんとする衝動が生じて來ると、かういふ臨時の詩人が數多く世に現はれる。さうしてさういふ詩人にとつては「究來詩篇渾感慨」(箕作阮甫)である。ところがさうなると、職業詩人もそれに刺戟せられて、一般に詩といふものが實世間と密壊な關係をもつと共に、上にいつた意義で自己の現實の情懷を表現するやうになる。非詩人詩と職業詩人の詩とは必しもその間に劃然たる區別があるのではなく、職業詩人の詩が非詩人詩といはるべきものであることがあり、その場合には技巧の熟練がその效果を強める。さうしてその技巧は主として天明寛政のころから次第に世に行はれるやうになつた新調のであつて、詩が日本人にとつての抒情詩としてのはたらきをするやうになつたのは、かくして起つた新調の賜である。上にいつた如く詩を日本人の現實の生活に近づけた混沌社や江湖社の功績はこゝにあるので、彼等の手によつて日本人の抒情詩としての詩が育てられたのである。勿論、詩には、シナ語を用ゐるためにいはうとすることがそのまゝに表現せられず、時には文字によつて思はぬ方向にそれの外れてゆくことさへ、ありがちであるが、その代り異國の言語文字にかくれて婉曲ながら自由にその所思を吐露する便があり、作者にとつてはそこに技巧上の興味も加はる。ととろが、か(389)ういふ詩はもはや單純な遊戯ではなくなつてゐるので、從つて廣い専門的知識が無くては作られぬやうなものではなく、作者もそれによつて學識を衒ふやうな餘裕は有たない。長篇の古詩または聯といふ形態上の制約のある律詩などよりは、絶句がそのために多く作られるのも、この故である。本來抒情詩としては絶句、特に七絶、の形が最も適應してゐるので、性靈派の作者がそれに重きをおいたのは當然であり、五山が「優遊不迫、委婉有餘、性情之微、寄託之妙、外此而無可※[手偏+慮]者矣、」(詩話)といつてそれを推重したのも、竹外が二十八字詩に力をこめたのも、その根柢にかゝる理由があるのであらうから、職業詩人たらぬものがそれに向ふのは、怪しむに足らぬ。さうして上記の如き實世間の情勢とそれに刺戟せられた人々の情懷との文學に入つたのが、小説や俳諧の方面ではなくして詩(及び幾らかは歌)であるのは、一つはそれが抒情詩として適切な形を有つてゐるからでもあるが、一つは作者にもよることであり、廣い世の中のことを考へ得るもの、政治上社會上の情勢などに感受性を有つてゐるものが、やはり詩を作り得る知識人の間にあつたからであらう。そこに文化史的に見た詩の地位とはたらきとが示されてゐる。さうしてこゝにも詩の日本化の一つの意味がある。異國の文字と形態とによる詩がかゝる力をもつてゐて、それに代るべき日本語のものが作られなかつたことは、當時の文化の停滯せる一面を示すものであるが、それと共に、上記の意味での詩の日本化にその文化みづからが新生面を開いて來た迹が見られ、詩そのものからいふと、シナの詩から生れて來た日本の詩がその母胎から離れて獨自の生命をもつやうになつたことを、語るものである。時勢が急迫して來ると、かゝる詩がおのづから激越な調を帶びて來るやうになるのも、またこの生命の現はれである。
(390) 詩の外には漢文學は、文學として取扱ひ得べきものを多く有たなかつた。賦などを作つたりまたは詩餘に手を染めたり四六文を書いたりしたものはあるが、それによつて文壇に特異の地歩を占めたのではない。竹田の如きは詩餘に興味をもつてゐてそれを作つたけれども、唱歌すべき調を文字の上で摸作するのは、詩に於けるよりも一層むりなことであるから、それを讀むものは、長短錯落たるその句形の變化とその配合とから詩とは違つた一種の感興を覺えることがあるに過ぎなかつたであらう。さうしてそれとても、その變化配合が日本語ではむりなところの多いものであるために、日本語化して讀む場合には却つて感興がそがれ易い。從つてそれは世間に廣く行はれないのみならず、作者自身に於いても多くは一時のすさびに過ぎない。また普通の散文は、詩文として詩と併稱せられてはゐたが、文學的價値の無いものが多い。中井履軒の昔々春秋などは、ありふれた童話を「春秋」に擬した莊重な形に編み上げた點に於いて、一種の淡泊な滑稽文學であり、その鮎に興味はあるが、内容に於いては何のとるべきところも無い。紀行文の類も多いが、多くは風景の誇張せられた敍述にとゞまつてゐる。大陸的光景を寫したシナの成語をそのまゝにかり用ゐるからである。たゞ寺門靜軒の江戸繁昌記の如きものは、啻に風俗を微細に描寫したのみならず、幾らかの小説的構想をも加へてあり、また諷刺もあり諧謔もあり作者の人物がそれに躍動してゐる點に於いて、紫のゆかりや都の手ぶりの類よりは遙かに價値が高い。その中にある地獄めぐりは、元禄太平記以來小説家の用ゐふるした構想を學んだのではあるが、政治上の諷刺の加味せられた點だけは、シナ思想に養はれた漢文家の特色である。惜しいことには例の偏固な道學氣質がかういふものを多く世に出させなかつた。その他、淨瑠璃の翻譯を試みたものなども無いではないが、もとよりまじめの事業とはせられなかつた。シナの俗文學の影響も却つて漢文家の間には少かつた。それ(391)は異國の語で世態人情を細かく寫すことが困難であり、またさういふ要求が起らなかつたからでもある。
 
 第四章からこの章までの十章は、享保ごろから天保前後までの時期に於ける、文學の諸形態についての大觀である。この観察がもし甚しき誤でないとすれば、當時の文學は何の分野を見ても摸倣と踏襲とがその大勢を支配してゐたのである。或は前代のものに、或はシナのものに、また或は遠き上代のものに、さうしてまた一々の分野に於いてはその前出のものに。これは世の中が固定し一般文化が停滯してゐる時代の自然の現象であるが、それがまた長く續いた太平の世の状態でもある。但し生きてゐる人間は、かゝる間にもなほ何等かの新しさを欲求しまた新しい何ものかを造り出す。だから或は舊い主題をつなぎあはせることに、或は書物の上の知識に、それを求め、また或は文學の中心が江戸に移つたことによつて、おのづからそれが造り出された。さうしてそれによつて、局部的にまたは末節に於いて、幾らかの目さきをかへることができ、或は何ほどか新しい文學の形態が現はれた。しかしそれがために、或は徒らに新奇を求め、或は技巧の上に技巧を加へて不自然に陷り、或は漫りに結構を複雜にし、或はまた古代や異國の文學を摸倣することの巧みなるを誇るやうになり、その結果は、これらの新しみが却つて文學を人生の現實から離れさせてゆくことにもなつたのである。書物の中から得た知識の分子の勝つてゐるものに於いては、なほさらである。
 本來、局部的に目さきをかへてゆくといふことは、いはゆる趣向、即ち小さな智巧のはたらき、であるから、さういふことに人心の向ふのは、強ひて書物の中に「たね」を求めることと共に、文學が既に現實の人生から縁遠くなつてゐる故でもあり、さうして.それは文字偏重、上代崇拝、シナ崇拜、の一般の思潮とも相伴ふものである。だからか(392)ういふ文學に、單純な、素朴な、力強い、ものが無いのは當然であり、鳥の歌ふ如くに歌ふといふやうな、すなほに美しい抒情味が無く、天馬の空を馳せるやうな、奔逸な空想のはたらかないのも、無理は無い。小兒らしく、あどけない、かはいらしい、ものが見られないと共に、世相を寫しても表面的であり人を描いても眞に迫らぬ。小さい皮相の「うがち」や低級な教訓やに墮するのも、やはりこれがためであつて、口さきと手さきとでできた小細工であり、まじめに人生を觀ない、或は眞率な自己の反省から出ない、遊戯的氣分の所産であり、さうしてそれは根本的には、人々に現實の苦惱を深く味ふと共にそれを克服せんとする深い思索の力と強い意志とが無いからである。寫實的要素の重きをなしてゐた江戸時代の通俗文學に、却つてそれを輕んずるものが生じて來たことも、またこゝに理由がある。勿論、元禄文學に今人のいふ寫實主義的態度があつたのではないが、ともかくもそこに比較的率直な世相の措寫があつた。しかしこの時代のものには概してそれが少くなつてゐる。固定した教説や趣味の型に入れて、輕く萬事を取扱はうとしてゐる。寫實的であることの豫想せられる浮世繪に於いても、師宜や祐信と歌麿や北齋とを比較すれば、同じ對照が明かに目につく。歌麿や北齋は決して寫實主義者ではなかつた。廣重の作にすらも寫實的とはいひ難い點がある(後章參照)。
 しかし實社會に於いて、國民が制度や風習の權威に全く壓倒せられてはしまはず、事實上それに對する反抗力をその制度風習そのものによつて養つて來たと同樣、文學に於いてもまた書物の上の知識に服從せず、また小さな智巧に滿足せず、實生活の權威を立て人生そのものを描寫し表現しょうとする態度がその聞から生じて來たので、それが種々の形で多かれ少かれ各方面に現はれてゐることは、文學の形態の一々について上に述べたところで知られたであら(393)う。もとよりその力は微弱でもあり、またそれはおのづからそれを抑制することになる因襲的のものと互に絡みあつてもゐるので、熾烈な文學上の革新運動として現はれたのではなく、このことに於いてもまた實社會の状態と同じであるが、ともかくもそこに因襲から脱却しようとする要求があつたことは、認められねばならぬ。さうしてそれが書物の上の知識に縁遠い方面から起つて來るのは、自然の勢であるが、この點から見ると、江戸の滑稽文學が一面の意味に於いてやはりその趨勢を示すものであり、それに存する寫實的分子の價値もまたこゝにある。俳諧や歌や詩に於ける幾分の新傾向については既に述べた。たゞそれはやはり實世間に於けるものと同樣、殆ど無意識的に現はれたのである。またそれは文學上の因襲に對する反抗たるに止まつて、概していふと、自己の内生活の要求と因襲的思想との矛盾から生ずる苦惱、生活そのものの因襲に對する人間性の自覺、が文學の形に於いて現はれたのではなく、それもまた實世間に於ける改革の要求が主として官憲の態度や行動に向ひ、制度の缺陷が考へられてもその根本たる封建制や武士制そのものには及ばなかつたことと、並行をなすものである。文學が時勢にひきずられてはゆくが時勢の先驅となることの少かつたのも、これがためである。もつともこのことについては、當時の思慮あるものをして因襲の權威を疑はせ、それに對して人間性の自覺を誘致させるほどに、因襲そのものが生活を壓迫せず、或は生活に於ける因襲が強力でなかつた、といふ事實が、少くともその一面に、あつたことを考へねばならぬ。封建制武士制家族制などの因襲の下に於いて、ともかくも生活が營み得られ、幾らかの不滿足もそれらと妥協することによつて補ひ得られたからである。もつと適切にいふと、制度や因襲に順應しながらそのはたらきを緩和し或は人知れずそれを變改してゆく現實の生活そのものに於いて、意識せずして人間性がおのづからはたらいてゐたのであつて、因襲や制度に對抗(394)して人間性の權威を主張するのではなかつたのである。抽象的觀念としての人間性の意識せられることを俟たずして、事實の上に具體的な姿で人間性が現はれてゐたのである。のみならず、もつと根本的に考へると、當時の特殊な因襲や制度そのものの内面に普遍的な人間性が保たれてゐたのであつて、さういふ因襲や制度が生活を甚しく壓迫せず、人の内生活の要求とそれとの矛盾が深く感知せられるに至らなかつたのも、そのためと解せられる。實世間に於ける改革の要求がこれらの制度そのものに向けられなかつたのも、やはり同じ事情の故であつたので、そこに太平の徳澤があつたと見られるのである。
 かう考へてみると、これまで觀察して來た文學の諸形態の價値が改めて注意せられる。それらには何れも種々の缺陷があるが、それにもかゝはらず、當時の人心と日本の文化の發展とに對してそれ/\に何等かの寄與をしたことを、忘れてはならぬのである。上方及び江戸の小説や種々の音曲や歌舞伎がその讀者と聽衆と看客とに娯樂と慰安とを與へて日常生活の勞苦を緩和し、それに心のゆとりと潤ひとをもたせ、さうすることによつて彼等みづからにはその生活を更に進めてゆくための力を養はせると共に、世の中の動きを滑かにするはたらきをしたことは、いふまでもない。なほかういふものが一般世人に文藝に對する趣味をもたせ、幾らかは世上の事物に關する知識をも與へた、その效果もまた決して少なくない。今人の考へるやうな文學の使命から見れば、それは外面的なことでもあり貧弱なものでもあるが、文學が廣く國民の間にゆきわたつてゐるために、ともかくもこれだけの效果はあつたのである。さうしてそのいろ/\の形態は、その間に思想の上で相互に何等かの結びつきまたははたらきあひがあると共に、種々の異なつた思想がそれらの一々に現はれてゐて、それ/\にその愛翫者または同好者のあることが、この效果を助けてもゐた。(395)特殊の讀者群があつてそれがそのまゝに作者群でもある俳諧や歌や詩には、それが特に大きかつた。のみならず、歌には古來の日本人に傳統的な情趣を保持すると共に、國語を精錬する作用をもしたことが考へられ、また詩はその構造が歌には存在しないものであり歌では表現せられないことがそれによつて表現せられるものである點に於いて、抒情詩の一形態として無くてはならぬものとせられたことが、注意せられる。さうしてこの二つは、現實の世情に對する感懷とその間に處する自己の心事とを表出するものとしての使命をもつやうになつたことに、特殊の意味があり、世が動いて來るに從つてその使命が新にもなり重要にもなつてゆく。さうして概觀すると、文學に種々の形態があつてそれが廣く民衆化せられてゐることは、明治時代になつて新文學の發生するおのづからなる準備ともなつたのである。
 然らばその文學に如何なる思想が現はれてゐるか。これが次の間題である。が、それを考へるには、先づこの時代の思想を知識の上から支配してゐる學問の状態とその性質とを知り、さうして次にその知識によつて與へられたところと、實生活の間から現はれて來てそれに反抗する思想との、交渉を知らねばならぬ。
 
(396)     第十四章 知識生活 一
       儒學
 
 江戸時代の學問の基礎が漢字を學び漢籍を讀むことであり、上代シナ人によつて構成せられた道徳及び政治に關する特殊の教義をもつてゐる儒教の學がその中心になつてゐたこと、並にそれから生ずる學問及び知識の性質、については既に前篇に述べておいた。このころになるといはゆる國學が盛になり、蘭學も起り、その蘭學によつて近代的な實證科學の方法とその成果とも次第に知られては來たが、概していふと、なほ儒學が學問界を主宰してゐたといはねばならぬ。今日から見て價値のある當時の知識は、必しも儒學そのものに存在してゐるのではないが、儒學の書物を讀むことによつて刺戟せられ、誘發せられまたは養成せられたところの多いことは、明かであらう。國學者でも蘭學者でもその學問の徑路は概ね儒學から出發し儒學を經由してゐる。現代の學術に幾多の貴重な材料を供給してゐる地理や風俗の記述や考澄やは、多くは好事家の道樂しごとであつて、當時にあつては學問上の事業として考へられてはゐなかつたが、それでもそのしごとの根柢に、もしくはその背景として、儒者から得た知識があつたことは勿論であり、通俗的文藝に於いてもまた同様である。本草や農耕及びその他の生業に關する知識なども、一般からは輕んぜられてゐ、暦學や數學などについては特異な研究が行はれ貴重な業績が現はれてゐたにかゝはらず、いはゆる學問の世界からは殆ど除けものにせられてゐたのであるが、それを學ぶにすら少くとも漢字漢籍の知識を有つてゐなくてはならなかつた。大學や論語は當時の普通教育の教科書であつたのである。なほ醫者と儒者との間に特殊の關係があつた(397)ことは、いふまでもない。だから當時の知識生活を觀察するに當つては、先づ儒學から始めねばならぬ。
 儒學は政治及び道徳の學であるが、その道とし教とするところは、シナ人の特殊な政治形態と社會組織とその間に於ける生活状態とに本づいて、一面にはそれを正當視する理説を立て、一面には實現すべからざる思想をそこから展開して來たものであり、さうしてその思想は、道徳的教條の形に於いていひ現はされるか、または上代の歴史的事實らしく假託せられてゐるかであり、その理説とても多くは斷片的な感想に過ぎず、論理的推考によつて形成せられた一般的な學説としては、成立してゐないものである。だからそれは、一方では、前篇にも述べた如く、また後にもいふとほり、生活状態を異にしてゐる我が國民に適用のできないものが多いと共に、他方ではそれが今日の意義での學術ともなり得ない。かういふ事情がある上に、その經典が漢字漢文で書かれてゐるから、儒者のしごとが我が國にとつては、空疎な異國人の思想を取次ぐだけのことであると共に、文字の解釋もしくは故事を知ることを主とするやうになるのは、當然である。彼等もしくは彼等の所説が、風來から「井戸で育つた蛙學者」、「畑で水練を習ふやうな經濟」、と嘲られ(志道軒傳)、或は海保青陵に「老耄おやぢのねぼけ論、亂心もののねごと、」(稽古談)と罵られ、生きた世界を見ずして書物に囚はれ注疏に囚はれ文字に囚はれてゐることを非難せられたのも(天王談〕、故なきことではなく、紀平洲すら國政をあづくべき人にあらずと評せられ(※[草がんむり/(さんずい+位)]戸太華の樂言録)、その建議によつて行つた施設に效果のよくないものがあつたともいはれてゐる(丹羽※[日/助]の平理策)。また學問は漢語漢文によつてのみ得られるやうに考へられてゐたことは、一般の平民の教化に於いて儒者の講釋が固滯の病を生ずることを説いてゐる陽明學者の三輪執齋すら、やはり四書などを讀ませよといひ(正享問答)、古文辭の弊を覺つてゐた井上金峨さへ、國字解諺解の類の(398)流行を非としたのでも知られる(匡正録)。吉宗や定信の學問奬勵を喜ばぬもののあつたのも、その學問が漢籍を讀むことであり儒教の經典を學ぶことであつて、日常の生活に縁遠いものであつたからだ、と推測せられる。儒書から得た知識に本づくところが多く、往々その辭句を引用することさへありながら、一般人に對して通俗的に修身齊家の道を説くところに主旨のある「心學」の起つたのも、これがためである。幕府の官儒が評定所の目安を讀むばかりの役目となり(栗山上封)、諸藩の「文學」が句讀の師に過ぎなかつたのも、無理ではない。封建君主が到るところにあるため「致君堯舜豈無術」といふやうな口實を彼等に與へる機會はあるが、その實は何れも「競々備顧問、喋々説詩書、十年無一調、終身※[禾+氏]守株、」(菅茶山)である。
 實踐躬行を目的としながらそれができない學問は、おのづから學問そのものを遊戯的にする。儒者のシナ崇拝も唐人好みも、その根本は儒教がシナの産物であり、我が國に於いてそれに對立するほどのものが無いからであるが、一つはこゝに由來があるので、我が國で實行せられない尊い教がシナでは實行せられてゐる、と思つてそれを景慕し、從つてそれが政治や道徳の問題から轉じて趣味の問題となり、實生活の上にではなくして遊戯の世界にそれを示さうとするやうになるのである。上にも述べた鎌倉諸藝袖日記や學者氣質などの浮世草子に寫され、または志道軒傳などで罵られたのは、「唐人めかす享保學」のことではあるが、シナ崇拜は單に彼等ばかりではなく、多くの儒者は「居を品川に移しては漢土の裏店に近よらんことを思ひ、驪を目黒に放ちては唐人の人別に入らんことを祈る、」(三馬四十八癖)と嘲られても、抗議のできないやうなものであつた。たゞ實行の上で「唐人めかす」のは遊戯の世界でも容易ではないが、文字の上にそれを現はすだけはさまで困難でない。是に於いてか詩文がその方便となるので、儒學の政(399)治的方面を特に強調して説いた徂徠の學が、事實に於いて古文辭の玩弄に終つたのも、この故である、といふことは既に前篇に述べておいたが、それは概していふと、一般の儒者に適用のできることである。現に學者とは詩文を作るもののやうに思ひも思はれもしたのである。學者も何の點かで自己の力を表はさねばならず、或は世に對して學者たることを示さねばならぬが、いはゆる教が空しき標語に過ぎない以上、それはこの方面に於いてする外は無かつた、といふ事情もあらう。肥後の藩政に一大改革を行つた細川重賢の時にも、詩を作ることが學問のある徴證とせられてゐ(肥後物語)、寛政の聖堂の學問吟味にも詩文が考慮せられた(寛政五年の法令)。學問の奬勵が武士的氣風を失はせる、といふ考のあつたのもこの故である(塵塚談)。
 學問は古人の教へた道徳及び政治の道を學ぶものであつてその外に學問は無い、といふ考が一般に知識欲研究心を抑制する傾向を生じた、といふこともまた前篇に述べた。紀平洲が、學問所の設立は人を利口發明にするためではなくして祖先の遺風を守らせるためだ、といつたのは(嚶鳴舘遺草卷六)、處世上の用意に關することであるらしいが、よしそれにしても、利口發明が智力のはたらきである以上、かういふ考はおのづから知識の價値と事物に對する研究心の重要さとを認めないことになるではないか。これには儒者の文字上の知識が實生活にも交渉が少く事物の眞實を探求するにも適しない空疎なものであつて、それがために一般に知識と研究心とを輕視させた、といふ事情もあるが、その根本は智力及び知識と徳性とを全く別の、または反對の、ことと見るところにある。これは今日にもなほ遺存する誤見であつて、それには道徳といふものを外から規定せられたもの一定不變の形のあるものとし、道徳的教訓の力のみによつて人の徳性が養はれるものとし、人の精神生活に於いて徳性といふ固定したものが存在するものとするな(400)どの、幾多の誤見が含まれてゐるのであり、人の精神生活は全體として統一せられたものであると共に、不斷に新しい境地を展開してゆく生命の過程であり、從つてあらゆる方面について知識を進め事物の眞實を探求することが人の道徳生活を高めてゆく所以であることを、知らないところから來てゐる。のみならず、儒者は、儒教そのものが昔のシナ人の智力と知識とに本づいてゐることを、忘れてゐたのである。ところがかういふ考は、今日の科學的知識についていはれる場合に最も甚しい。後にいふやうに蘭學として世に傳へられた西洋の科學的知識が儒者に排斥せられたのも、一つはこれがためであり、「理窮毫末終何用、見到綱常始是高、」(齋藤竹堂)といふのが、その理由である。安藤信友が家重の持つてゐた望遠鏡を破壞したといふ有名な話(有徳院實記附録)も、それが人の深奥なる知識欲に本づく研究の結果として作り出されたものであることを知らず、またそれを正當なる知識欲研究心の培養に利用し、さうしてそれを徳性の完成に資することを考へずして、偏に玩物喪志の弊を誘ふものと見なし、君徳の養成に妨げがあるとした點に於いて、この考と關係がある。いはゆる教化いはゆる治國平天下をその理想とするのみで、現實の國民生活を生活そのものによつて高め且つ豐にしてゆくことを思はないものに於いては、かういふ知識と研究との力が閑却せられるのは當然のことであらう。あれほどの大事業をなした伊能忠敬が微賤の地位に置かれたなども、一つはここに由來がある。學問に對するかゝる抑制は、後にいふ文藝の無用論と共に、儒者の二大偏見といはねばならぬ。
 しかし人の知識欲も研究心もそれを全く抑へることができない。儒者が文字上の知識を得ようとし、或はそれを有することを誇りとしたのは、實はこゝに一つの理由がある。實踐道徳を説くに當つて故らに難解の漢文を以てするのは、甚だ不合理であるが、それが普通のこととして行はれてゐたのは、さういふ知識と能力とでも無くては、知識欲(401)の滿足も學者らしさを示すこともできないからでもあつたらう。「陵遲習俗日浮虚、辯博驚人學却疏、賢傳聖經束高閣、爭求新種舶來書、」(村田春海)。型の定まつた道徳を説くには賢傳聖經だけで十分かも知れぬが、それでは知識欲が滿足せられない。新種舶來の書が爭つて求められるのは、これがためである。それを浮薄といふのは知識の欲求を否認するものであるが、實は儒者とてもさすがにそれほど知識欲の無いものばかりではなかつた。さうしてそれによつてともかくも幾分の知識が得られたのである。折衷學派が興り、また三浦梅園や皆川※[さんずい+其]園などの如き特色のある學者の出たのも、畢竟その結果と見られよう。なほ陽明學が廣く行はれなかつたのは、一つは禄仕に不便であつたからでもあらうが、知識を與へる點に疎かであつたことも、また一理由ではあるまいか。山崎派が堀川の學や※[草がんむり/(言+爰)]園派に壓倒せられたのも、またこゝに因由が無いではなからう。寛政以後の朱子學者の多數が、知識を求める點に於いて山崎派の如く偏固でなく、頗る博渉をつとめたことをも考へるがよい。直接に道のためにならぬ知識は無益だ、といふやうな考は彼等自身によつて覆へされてゐる。これもこの考が、自己から出たものでない、シナ人の口まねだからである。たゞ彼等の求めた知識がやはり文字上のことである點に於いて、眞の知識を形づくつてゆく力に乏しかつたことは、明かである。與へられた文字上の知識から離れて事物の眞實を研究することは、儒者にはむつかしかつた。
 儒者の品性の墮落もまたこゝに一原因がある。彼等は教を説くのが任務であるとせられ、事物に對する研究心を抑へられてゐるから、學問そのものに興味を有たず、眞埋の探求に身を委ねることができない。名利に奔り劣等な欲望に心を奪はれ、または黨爭の弊に陷るのは、當然ではないか。眞の篤學者が天文本草の學者または蘭學者など、儒者ならぬ方面に多いのも、理由のあることである。その上に彼等の口にする教そのものが實行のできないものである以(402)上、彼等は實生活に於いてそれを棄てねばならぬが、さりとて自己の生活から自己の徳性を造り上げることができないとすれば、彼等は道徳生活を撥無する外は無い。せたその位にあらざればその政を論ぜずとすれば、政を論ずるのが職務であると考へてゐた儒者が禄仕を求めるにも口實はあるが、既にそれを求める以上、その態度が卑劣になるのは自然の傾向である。求め得た後にはなほさら自由が失はれる。佐藤一齋も地位のために所信を明らさまに講説し得なかつた、といふではないか(洗心洞剳記に見える書簡)。一般のこととしても、儒者は商人であるといはれたのは、まだよい方であつて(上田秋成の膽大小心録)、權門勢家の前に匍匐する幇間であるとせられ(塵塚談)、「售儒敗俗」(江戸繁昌記二篇〕とさへ評せられてゐるのを見るがよい。松平定信さへも儒の腐つたのは害があつても用にはたゝないといつたが(修身録)、腐らない儒者がどれだけあつたか。「世俗視之如埃塵」(東方書生行安積艮齋)といふ世間に對する儒者の不平もさることながら、埃塵視せられる理由も無いではなかつたらう。
 學説の差異が學派の爭ひを起し、それがまた直ちに人身攻撃となり黨爭となることのあるのも、こゝ一に一誘因がある。これは社會的には偏狹な封建的氣風がもとであつて、時には名利權勢の爭ひも絡まつてゐるが、學問が遣を教へるものであるといふ考は、おのづから自己の取るところと違つた見解は道に妨げがあるもの教に害があるものとすることになり、さうしてそれが黨同伐異の爭闘を起させる機縁となるのである。その實、空疎な文字上の知識たるに止まる當時の儒學の教といふものが、人の生活を支配し得べきものではなく、特に儒者の學説の差異の如きは、實踐道徳の上に深い交渉のあるものでもない。心術の是非に關するとか毫釐の差が千里のたがひを生ずるとかいはれもしたが、さういふことは眞に體驗となつて日常の生活に融けこみ生きた人格となつて現はれる思想についてのみいはるべ(403)きものであり、當時の儒者の講説したことについてかう説くのは、單なる妄想に過ぎないものではあるが、それが黨爭の機縁となつたことは明かな事實である。或は單にそれを黨爭の旗幟として用ゐたものもあらう。安永天明のころに關西に於いて復興した朱子學派には、特に偏狹な人物があつて、彼等の主張が終にかの寛政政府をして異學の禁を行はせたのであるが、これには徂徠の學派に對する反動の勢がおのづから彼等の主張を極端ならしめた、といふ事情もあり、尾藤二洲の如く自己の學問の經歴に於いて他の學派から朱學に移つたものに於いては、その思想の偏固になり易い特殊の理由もあつたらうが、正學指掌などの如く、かれも異端これも功利で讀むべからず近づくべからずといふやうに説くのは、儒學によつて遁を修め政をするといふ空疎な紙上の知識に惑はされたのである。林子平が學派に拘泥せず博く書を讀んで古今の治亂興廢を考ふべきだといつたことは(上書)、世によく知られてゐるが、定信ですら學文の流義は何でもよいといつたこともある(修身録〕。海保青陵の如きは、わが學は何の派にも屬せず自己一家の學だといつてゐる(稽古談)。「千年學術推元晦、萬古英雄見守仁、」(鍋島閑叟)。朱王の二つについても達識の政治家はさういふ學派の相違などには拘泥しないが、水戸をはじめ諸藩に往々現はれた黨爭が學問の派別に彙縁する場合のあつたのも、學問の上に濫りに正邪の名せ冠らしめ得ることによつて、助けられたのである。
 なほ儒者が先王の道といひ聖人の教といふものを絶對に信奉し、經典の記載に對しては、何等の批判をも加へず、我が國のことを考へるにもそれをすべての規準としたことは、いふまでもない。古のシナに出た聖人によつて始めて道といふものが定められ、さうしてそれは古今を通じ萬國にわたつて渝らないものであるから、日本人とてもその道に從はねばならぬ、とせられたのである。山片蟠桃が儒家の書に孔子に假託せられた言説の多いことを論じ、また孔(404)子は時と共に推移するを是としたので單なる尚古主義者ではない、と辨じたなどは(無鬼論辨)、どこまでも孔子を尊重してゐながら、職業的儒者でないだけに、やゝ自由の見解を有つてゐたといはねばならぬが、世のつねの儒者にはこれほどの考も無かつた。當時の現實の問題に關しても、政治を論ずればかならず教化をいひ禮樂をいひ(例へば山縣大貳の柳子新論、中井竹山の草茅危言、菅茶山の冬の日影、など)、制度を説けばかならず封建を讃美し(例へば蟠桃の夢の代、帆足萬里の入學新論、など)、武士に對すればかならず士を以てそれを見る(例へば蟹養齋の武家須知、皆川※[さんずい其]園の答要、本多忠籌の匡正論、齋藤拙堂の士道要論及び鐵研餘録、など)。當時のこととして異姓養子を可とした三浦梅園すら、同姓嫁娶の上代の風俗を非難してゐたではないか(梅園拾葉)。特殊の問題に關する彼等の所説はそれ/\後に言及しようが、すべてにわたつて同じ傾向がある。純粹の學説に於いても、根本に動かし難き教條があるから、よしその考へ方や説きかたが幾らか違つてゐても、大觀すれば歸するところに於いて大差が無い。從つてまたシナ人の諸説の上もしくは外に出て、新學説を提供することがむつかしい。文字の解釋などに於いては、新見解が無くはないにしても、或は山井鼎の七經孟子考文の如く考證の上に幾分の功績を現はしたもの、または曾て伊藤東涯が「大學」に對して、また三宅萬年が「中庸」に對して、行つた一種の本文批判めいた考説などがあつたにしても、それすら稀有の例である。(佛教については富永仲基や服部蘇門の考説が世に現はれたが、儒教に對しその經典の檢討によつて批判を加へるものの出なかつたことも、こゝに附記してよからう。)また經典に一切が具はつてゐるとすれば、この點からも知識欲が抑制せられるのであつて、知られぬことは知られぬにして置くがよいといふやうな考も、こゝに一つの由來があり、この意味から神道の如きは辨せざるに如かずといはれてゐる(例へば尾藤二洲の素餐録など)。(405)なほ學派の上にも同じ傾向はあるので、一つの學派には一定の見解が動かされずにゐるから、例へば疏徠學派流行の後に朱子學が復興しても、その朱子學は徂徠學の所説を參考し吸收してそれによつて新境地を開いたのではない。それは固定してゐる學派の世間的勢力に隆替があることを示すのみであつて、異説が現はれて研究が新にせられ、それによつて學説が進歩したのではない。自由の無いところに創造は無く、創造の無いところに進歩は無い。學説の進歩しないことは、儒者の考へ方が論理的でないことからも來る。彼等の崇拜する上代のシナ人は、あれほどに種々な思想を有つてゐながら、思惟そのものの法則を考へたことが無かつた。いはゆる名家の説または荀子の思想には概念の性質に關する考察はあるが、それ以上には展開せず、ギリシヤ人の間に發達したやうな論理學は勿論のこと、インド人が研究した因明學に類するものすら、構成せられなかつたのである。實生活に直接の關係のある問題でなくては興味を有たなかつた彼等が、或は儒者の如く政治を論じ道徳を説き、或は老莊の如く身を保ち世に處する術を談じ、また或は韓非などの如く國を富強にし事功を立てる法を語りはしても、知識そのものに對する考察をしなかつたと同樣、遊説の法、詭辯の術、には注意はしても、思惟に法則のあることをば考へてみなかつたのである。易の理論や陰陽説五行説の如き幾らかの形而上學的思惟を含んだものはあるが、それもすぐに實生活の問題と結合せられる。心理上の觀察も無いではないが、多くは教訓のためである。因明學も他を破し我を立てる論法を説いたもので、そこに實用上の目的があり、ギリシヤ人の論理學とは性質が違ふが、その根柢には思惟の法則が考へられてゐる。シナ人にはそれが無い。從つて彼等の思索は、多くは聯想と類比とによつて行はれてゐて、何れも獨斷的であり斷片的であり、推理と組織と體系とを具へてゐない。その上にいはゆる孤立語である古典シナ語の上に成りたつてゐる漢文(406)の表現法は、極めて粗大で曖昧で、語と語との關係が明かでないために、いろ/\の辭句が次ぎ/\に綴られてゐても、その間の思想のつながりははつきりしない。また同じ語によつて幾つもの違つた觀念が示されてゐる場合も多いが、それが同じ語であることによつて同じ觀念である如く取扱はれる。一般に漢文では語法が修辭に隷屬してゐる觀があるが、それもまたこのことと關聯があらう。從つて彼等の所説には思想の混亂と矛盾とが多く、然らざるものでも零碎な知識を輕率に結合して事物を判斷する。それを文字の上で繼承した我が國の儒者の考へかたがやはり同樣であるのは、自然であらう。當時の學者としては該博な知識を有し獨創の見解を立ててゐた梅園の玄語の如きは、めづらしく組織だつたものではあるが、その考へかたにはやはり聯想と類比とが多く用ゐられてゐるし、例へば天とか氣とかいふ如き多義を有する語のその多義が明かに辨別せられてゐないやうに見える場合もある。シナ語とは違つて精密な思索に適する日本語の文章を用ゐずして、漢文をまねて書いてゐることによつても、それは知られるが、逆にいふと、梅園の玄語の考へかたは漢文であるからこそ成りたつてゐる、とも見られよう。しかしかういふものは特異の例であつて、概していふと、儒者の著作の多數は書物の注釋にあらざれば組織だつた構成をもたないものである。さうしてその注釋も書物の全體の精神を明かにするよりは、字句の解説が主となつてゐる。かういふ雜駁な非論理的な考へかたから確かな學説が建設せられず、學説の歴史的發達が見られないのは、當然である。梅園の學の如きも、前にそれを導き出したものも後にそれを繼承しまたは發展させたものも無く、歴史的地位をもたない孤立したものである。しかしこれは、天體の運行及びその他の自然界の現象に關する考察と、儒學を本位とした人倫道徳についての思索と、またシナ思想に於いてもいはゆる諸子などに見えるところとを、結合した彼の特殊の學風によることであり、(407)後繼者の無いのは、彼の主著が出版せられなかつたことにも一理由があらう。
 梅園は普通の意義での單純な儒者ではなく、この點ではどこまでも儒者であつた同時代の皆川※[さんずい+其]園とは違つてゐた。しかし上にもいつた如くその主著を漢文で書いてゐるし、それに用ゐた術語も、その意義を幾らか變へたものもありまたいろ/\の新しい造語を含んでもゐながら、概していふとシナの古典のを踏襲してをり、從つてその考へかたもその思想を構成する個々の概念も、シナ風のものであるから、その見解にはおのづからシナ思想の中心となつてゐる儒學に依據したところが多く、特に人倫道徳に關するものに於いてさうである。儒教の經典と先王の道とを尊重し孔子を聖人として仰いでゐることは、いふまでもない。だからこの點に於いては彼は儒者であつたといふべきである。たゞ彼は儒書またはその他の古典の記載に於いて世の儒者が深く思慮せずして信奉してゐることについても、その根本の明かにせられてゐないものには疑をもち、自然界の現象及び人事の實情に徴して「條理」のあるところを求め、それによつて自家の見解を立てようとしたので、そこに世のいはゆる儒家の説に拘束せられず或はそれから離れんとする態度があつた。さてその考へかたは、例へば陰と陽と、天と人と、氣と物と、物と事と、經と緯と、動と靜と、時と處と、有意と無意と、肉體と心性と、といふやうな、互に對立する概念の成立をすべての事物に認め、相對する二つの概念のそれ/\の本質とはたらきと、その間の相互の關係をたづねると二つでありながら一つであり一つでありながら二つであることがわかるとしてその關係とを、明らめ、さうしてそれが宇宙と人をも含めての宇宙間のあらゆる事物とを通じて同じであり、人倫道徳の本意も是非善惡の由來もこゝにあることを、看取するところにあるらしい。從つて多方面にわたつてせられたその考説はおのづから一つの體系をなしてゐる。これには古來のシナの思想家(408)の説いたところを部分的には含んでゐるが、思惟のしかたを考へ、またその思想を體系だてて説くことは、梅園に獨自な思索の結果であり、これまでの儒者のしなかつたことである。けれどもその考へかたによつて成りたつてゐる條理の講説には、宇宙と宇宙間のあらゆる事物*とを一樣に取扱はうとしただけに、かなりのむりが含まれてゐるのみならず、對立する概念とその間の關係とが、宇宙と宇宙間の事物とを觀察したことによつて形成せられたものであるよりは、古典などによつて與へられた知識に本づいてそれが先づ思惟せられ、さうしてそれを具體的の事物にあてはめた、と見られる場合の方が多いやうであり、またそれを圖式として説明したことによつても知られる如く、今日から考へると、自然界の現象については固よりのこと人事についても、歴史的な生成展開の情勢には考を及ぼすことが無かつたやうに見えるので、そこにもやはりシナ風の考へかたがある*。人倫をいふことは概ね儒教に依據してゐるが、一般的な人生觀世界觀などについては、諸子百家の説もそれ/\見るところがあつて生じたものであるとして、彼の獨自の考へかたによつてそれらを包容し、佛教に對してもまた同じ態度を取り、王者の道は大同にあるので天下の人の思想を一に歸せんとするのは誤であるといふところに、儒家から超出した點がある。また宇笛に本氣と神氣とがあるとし、人に於いては本氣は肉體にあり從つて動物的であるが、神氣は意智にあり從つて人の特長であるので、本氣が神氣に從ふところに道徳はあるが、神氣は本気を傷塞してはならぬといひ、意智による是非の判斷を重んじながら、肉體及びそれに存する情と慾とは人に本質的のものであるとして、それを輕んぜず、人の道を説くに理のみによれば酷薄に失するから情がそれに伴はねばならぬ、といつてゐるところに、儒者にありがちな偏固な態度を非とする態度が見られる。善惡は衆と共にするのとおのれ獨りのためにするのとの違ひであるといつてゐるのも、また天(自然)と(409)人との畢竟一なることを考へながら、天を無爲なもの人を有爲のものとして、天に對する人の特質と任務とを明かにしたのも、一般の儒家とは違つてゐる。
 以上、梅園について多く語り過ぎたやうであるが、これは、上記の如き彼の學風の特色と、かゝる特色がありながらなほ彼が儒者でありその考説が概してシナ思想に依據してゐることとを、示さんがためである。儒家から超出してゐることの一つは情と慾とを重視することであるが、堀景山が、人情が無ければ人でないが人情は欲のことで欲の上に心の善惡邪正はある(不盡言)、といつてゐるのも、これと通ずるところがある。儒家の思想が儒者の系統に屬する學者によつて疑はれはじめたのである。しかしこれは特異のことであつて、一般の儒者はさうではない。皆川※[さんずい+其]園の如きは、用語の意義の究明によつて、儒家の種々の經典の所説に統一的解釋を下さうとしたところに新しい試みがあり、易の卦の成立の過程に關する考案の如きも苦心の結果ではあるが、要するに儒家の思想の埒内でのことであり、今人から見れば獨斷的なまた附會の跡の著しいものである。儒教の經典の編纂せられた時代を尋ねてその思想の變遷を考へるやうなことには、思ひ及ばなかつたらしい。儒者は畢竟儒者たるを免れなかつた。※[さんずい+其]園が、例へば武士の道を儒教の士の觀念によつて律せんとした如く、シナ思想の眼で我が國の事物を見てゐるのも、その事物が如何なる歴史によつて形成せられ、我が國民生活に於いて如何なる意義を有するかを考へず、單にそれのみをとつてシナの經典の記載と卒爾に結合するのであり、多くの儒者と同じ態度から出たことである。この點に於いても梅園が儒者として異色をもつてゐることは、後にいふであらう。
(410) 儒者の多くがシナ思想によつて我が國のことを考へるのは、彼我の現實の状態をよく觀察しないからでもあつて、何ごとについてもそれがある。例へば、儒教政治學に於ける君主本位の教化政治説や仁政論が單なる空想に過ぎないばかりでなく、歴史的に見れば君主によつて曾てそれが實現せられたことの無かつたことすらも、彼等は考慮しなかつた。本來經典の記載を一々文字のまゝに信奉することが、事實を探求しようとしないからである。かういふ考へかたであるから、封建制度といへば、黄河の流域が少数の諸侯に分れてゐた春秋時代の状態と、我が國が三百の諸侯に分治せられてゐる當時の日本の状態との間に、殆ど比較にならぬほどの大きな差異のあることをも思はず、似たもののやうに考へてゐた。諸侯間の戰爭がしば/\起つてゐた春秋時代と、平和の確保せられてゐる江戸時代との、また遠い昔の制度として傳へられてゐるシナのと、長い歴史の結果として近代に至つて始めて形成せられた日本のとの、違ひに注意しなかつたことは、いふまでもない。政治といへば、、治めざるを以て治めたりとし、官吏と盗賊とを同一視し、民衆をして帝力何ぞ我にあらんやといはせるほどな、茫漠たるシナのと、隅々までせわをやいて民衆をして一々「お上」を思はせてゐた江戸時代の日本のとを、また權力の地位にあるものはその權力を限りなく使用するのが常であつたシナと、將軍があつてもその多數は專制的な行動をせず、また間接ながら民望を失つたことたよつて幕府の當局者がその地位を去らねばならぬやうになつてゐた日本のとを、同じもののやうに信じてゐた。家といへば、古のシナのも當時の日本のも同樣に考へ、家族生活の状態や社會組織に於ける家族の地位の異なることをも顧慮せずして、そのシナの家族道徳の教を宣傳してゐたのである。
 本來、日本の儒者はシナ人の思想を信奉奉しながら、シナ人の現實の生活を知らうとせず、シナの地理や風土をすら(411)考へやうとしなかつたのである。だから、史籍を讀んでもそれが何ごとを語つてゐるかを知ることができず、從つて何故に儒教の如き思想がシナに發生したかをも解せず、その儒教が如何なる意味に於いて後世に傳へられたかを覺るにも至らなかつたのは、當然である。海保青陵が養心談に於いて、孟子の王道は天下を丸取りにする法である、といつたなどは、當時に於いては卓見であつて、一般の儒者が單にいはゆる仁政いはゆる民を治める道を説いたものと考へてゐたとは、大なる違ひがあるが、これだけのことすらも型の如き儒者でなかつたがためにいひ得られたのである。帝王對人民の政治的關係から生じた湯武放伐の思想と、君臣間の私人的情誼の關係に本づいた忠君の情とを、同一範疇に屬する反對の觀念の如く見たのも、一つは思想の混亂でもあるが、一つはシナの政治と社會との實状を知らなかつたためである。シナには儒教が文字のまゝに行はれてゐる、とさへ思はれてゐたではないか。シナ人に稱揚すべき美點はいろ/\あるにしても、それは彼等の實生活を見て始めて知ることができるのであつて、儒教の經典の文字の上のみで輕率に考へらるべきことではない。從つて日本の儒者は、見當はづれの讃辭をシナ人に贈つてゐたのである。シナ人觀ばかりでなく、インド人の生活がすべて佛教の教理として現はれてゐるやうな人生觀の上に立つてゐるものの如く思つたのも、同じことであつて、實生活の観察ができず、一半の意味に於いてはその生活を否定してゐるところのある教のみを見、その教がそのまゝ實生活の表現である如く考へたのである。
 だからわが國のことについても、歴史上の觀察にさへ歴史的事實に背いたことの多いのは、むりも無い。修史といふことがシナ式名分論の適用か、または漢文でシナ風の史書の形態に摸したものを書くことか、をいふのであつて、歴史の眞相を明かにしようとするのではなかつたではないか。事實の如何を探求しないことの一例をいふと、佛教が(412)入つて來たために綱常が亂れたやうにいひ、その意味で聖徳太子などを非難する多數の儒者の考などがそれであつて、これは固より事實でもなく、事實に立脚した批評でもない。人物の批評についてはこの弊が最も多く、茶山が楠公を論じて「不獨南朝節臣、亦皇統之忠臣也、」(楠公墓下作引、筆のすさび)といひ、尊氏に皇位を窺※[穴/兪]する念でもあつたらしく見てゐるなども、全く歴史的事實を考へない放縱な臆測であり、さうしてそれは、一つはシナ風の易姓革命がどこの國にも行はれ得るもののやうに漠然ながら思つてゐたからであると共に、一つはその根柢に、善いことのあるのを認め惡いことのあるのを見たものに對しては、すべてを善くしすべてを惡くしたいといふ考が潜んでゐる。彼等が人の傳を書く時に、美所長所ばかりを擧げて短所や缺點を隱して置く癖のあるのも、一つはこれと同じ心理から來てゐる。なほ忠奸順逆の論から、正成や義貞はいふまでもなく忠臣と考へられ、尊氏は勿論のこと、義時や泰時も賊臣とせられたが、甚しきは頼朝を賊臣の首と論じたものさへある(例へば蒲生君平の今書)。如何なる人の如何なる場合の心術行動にも道徳的責任はあるから、古人に對して道徳的批判を加へることに異議はないが、かういふ風に手がるにかたつけてしまふ考へかたには、國家治亂の由來するところをも、政權推移の歴史的情勢をも、何時も行はれる權力爭奪の状態をも、また豫期せざる事變から豫期せざる方向に勢の展開せられてゆくのが人の世の常であることをも、或はまた政治上の問題と君臣間の情誼との關係をすらも、十分に考察しないものである。人の心術行爲が複雜なものであつて、自己みづからすらそれを一々明かに辨知することができない場合のあるものであること、みづからも明かには覺知せざる心理状態が生じ、志向しなかつたことが行動せられてゆくやうな、場合さへ少なくないことなどは、もとより考へられなかつた。特に頼朝については、神皇正統記の説いてゐる如く、彼が勅命もしくは院宣によ(413)つて事をなしてゐる以上、儒教式名分論としても賊とか逆臣とかいふ名の與へらるべきはずは無く、また事實の上からいふならば、攝關の名を有つてゐた藤原氏なども同じ意味に於いてすべて逆賊としなければならぬことを、思はないものである。
 かう考へて來ると、彼等の迷誤の根本が人といふものを誠實に觀察しないところにあることが知られよう。彼等の古人を論ずるのは、常に獨斷的な一定の尺度を外部からあてはめるのであつて、その人物をその人自身について見ようとするのではない。嘉言善行といふことが道徳的教養の上に重んぜられるのも、これと同樣な考へかたであつて、或る言行だけを人からきり離して取扱ふのであり、人の言行がその人の全人格全生活の表現として始めて眞の意義があり價値があることを思はないものである。抽象的な道徳の學としては如何なる考へかたがあるにせよ、生きた人物の心術や行動が他から與へられた規範によつてのみ支配せられるとは思はれないのに、彼等は初めからさう決めてゐる。彼等がともすれば當時を澆季の世と觀じ、さうしてそれは名教がすたれたからだと考へるのも、時務策として禮樂を立てよと論じたり(柳子新論、草茅危言、年成録、冬の日影、東潜夫論、など)、階級的秩序、即ちいはゆる等差、によつてあらゆる生活を規定せよと説いたり(栗山上封、年成録、など)、末節について細かい机上の改革案を獨斷的に立てたりするのも、また同じところに由來がある。正邪善惡といふ抽象的な概念がそのまま現實の人にあてはまると思ふのも、また全く人といふものを理解しないからである。時勢の如何にかゝはらず、君主や將相の行動のみで世をどうにでも動かしてゆかれる如く思ひ、それを根據として歴史上の人物を是非するのも、畢竟同じことである。
 史上の人物に關する儒者の觀察について、なほ一言しておく。武家政治の由來は歴史上重要の問題とせられたが、(414)その創始者たる頼朝に對する批評は、上に述べた例でも知られる如く概して貶黜に傾いてゐる。山陽は彼を讃美してゐるが、天下萬世のために已むを得ざることを始めて踰ゆべからざる限りを立てたといひ、然らざれば莽操懿卓踵を、接して我が國に起つたであらうといつてゐるのは、やはりその根柢に茶山の正成論と同じ思想がある。莽操懿卓の我が國に起り得るかの如く思つてでもゐるらしいところに、特にそれがある。帆足萬里も頼朝が皇室に代らうとしたのではないことを説いてゐながら、彼を叛臣としてゐる(肄業餘稿、東潜夫論)。叛臣といふのは政權を掌握したからであらうが、かゝる稱呼が失當であることは、賊臣といふのと同じである。山縣大華の如きも彼を評して勢然らざるを得ずといひながら、その跡は不臣惡むべしとしてゐる(國史纂論)。頼朝を讃美した愚管鈔、その功績を賞揚し國を盗んだものとはいひ難いと論じた神皇正統記、と對照して、鎌倉時代や南北朝時代の思想との差異を見るがよい(武士文學の時代第一篇第四章參照)。昔の論者は國家の治亂、民衆の休戚、を主として考へてゐたのに、この時代のは一切を抽象的な忠奸順逆論で判斷してゐる。これは儒者の根本的態度から來てゐるのでもあり、すべてが君臣關係で支配せられてゐる世の中だからでもあるが、愚管抄でも神皇正統記でも、鎌倉幕府の行動が起因をなした變亂の時代に身を置いたものの考だけに、現實の國家の治亂が彼等の思想を強く支配してゐたのに、その騷ぎは速い昔のこととしてたゞ文字の上にのみ遺つてゐる太平の世の儒者には、それが痛切に感ぜられない、といふ點に他の重要たる理由がありはしまいか。頼朝を貶しながら他方で家康を讃美してゐるのは、徳川氏に對する儀禮としてこの矛盾の言をなしたのでもあるが、それもまたおのれらの生活してゐる太平の世が家康によつて開かれたことの切實に知られてゐるからでもあることを、參考するがよい。單純な忠奸正邪の論が現實から遊離したものである、といふことがこれによつて(415)示されてゐる。さて頼朝に對する批評は、時代が遠ざかつたため昔よりは冷酷になつたのであるが、南北朝時代のことについてはその反對に、南朝君臣の事蹟が殆ど理想化せられてゐる。このころの儒者の間には殆ど意見が一致してゐる南朝正統論は、正成を忠臣とし尊氏を逆賊とする道徳的批判が、その主なる内容となつてゐる傾きがあり、逆賊尊氏の擁立した北朝だから正統でないといふやうな考が、漠然ながら存在してゐたらしいが、すべてが眼前の事實として知られてゐたその當時には、忠奸正邪がかう明快にかたづけられはしなかつた(武士文學の時代同上參照)。名分論もまた遠い昔に對してのみ適用せられるのである。(正統といふ考は、シナ思想に由來するものであつて、シナに於いてはそれは民衆の生活に何等の關係の無い帝室の名義上の要求に過ぎないものであるのみならず、現實の政治とも交渉の無いものであるが、我が國に於いては前篇に述べた如く、國家の統一が昔から曾て失はれなかつたものと信じようとする國民の要求に本づき、その國家統一の象徴として皇室を仰ぎ視るに當つて、おのづから生ずべき思想であり、さうしてそれは、當時に於ける皇位繼承の歴史的事實から見て、南朝を正統とするのが當然である。だから南朝正統説は今日に於いても意味のあることであるが、それはシナ思想をそのまゝ繼承した江戸時代の儒者のとは立論の基礎が違ふ。たゞ南朝が正統であるとすれば、北朝の天皇を擁立した尊氏は、正統の天皇に叛いたといふ意義で、いはゆる名分論上の叛臣であり、從つてまた賊臣といつてもよいであらう。しかし北朝の天皇も皇室であるから、尊氏も皇室に叛いたのではないことを知らねばならぬ。)
 但し當時一般に行はれた南朝君臣の讃美は、理説であるよりはむしろ感情の發露である。儒者の言よりはむしろ詩人の筆によつて表現せられてゐる。處は花の芳野であり、時は人の血のわきかへつてゐた戰亂の世であり、人は逆境(416)に處して奪闘勇戰、仆れて後やんだ悲壯劇の英雄である。同情と讃嘆との集められるのは、これだけでも既に十分である。況やその事蹟はその光景と情趣とを併せて、波瀾重疊たる太平記の敍事詩に於いて、美しく詩化せられてゐる。落花の雪と翻る春うら寒き夕暮を芳野の山奥に訪づるゝもの、誰か一掬の涙を延元陵下の青苔に濺がざるものがあらうぞ。「萬人買醉攪芳叢、感慨誰能與我同、恨殺殘紅飛向北、延元陵上落花風、」(杏坪)、「古陵松柏吼天※[犬三つ+風]、山寺尋春春寂寥、眉雪老僧時輟帚、落花深處説南朝、」(竹外)、或はまた「山禽叫斷夜寥々、無限春風恨未銷、露臥延元陵下月、滿身花影夢南朝、」(鐵兜)、吉野懷古の作が幾多の詩人にょつて世に公にせられたのはこの故ではないか。儒者の人物論は理説としては誤を含んでゐる。たゞそれがかくの如き感情の潮にひたされた時、そこに人を動かし世を動かす力が生ずる。誤まつた理説は依然として誤まつた理説ながら、美しい感情はどこまでも美しい感情である。この二つの交錯が幾多の葛藤の原因となるためしは、世に少なくない。けれどもまた、南風の競からざりしをひたむきに恨むのみがよいのではない、として「……天家依舊傳日嗣、自祖宗視無南北、中興偉業警百世、陰制奸雄不肆毒、噴※[口+喜]君王可瞑目、」(山陽)、または「休將擁立咎奸雄、正閏雖分胤則同、骨肉禮成南北合、相傳神器到無窮、」(磐溪)、と歌つたものもある。南朝の衰亡は皇統の無窮たるを妨げるものではない、といふのである。南朝を讃美することと尊氏を奸臣とすることとは變らないけれども、皇統についていふ限り、視野がこゝまで廣められた。さうしてこれは、儒教思想からもシナ式名分論からも考へ得られないことであり、日本人としての特殊の感懷である。
 名分論が徳川の政治を動かさうとするのではなく、文字の書きかたか過去の事實の批判かに止まつてゐることは、前篇に述べておいた。過去の事實の名分論的批判は、孔子春秋を作つて亂子賊子懼るといふ古人の言の如く、それに(417)よつて後人に鑑戒を垂れるのが主旨であらうが、それはいはゆる勸懲主義の小説、または賞罰を以て道徳を維持しようとする考と同樣、實效の極めて少いものでああるのみならず、動もすれば適用を濫りにし易く、または權力のあるものをして自己の慾望を蔽ふに名分の衣を以てする便を得しむるものである。人の生きた心理を了解せざるものであることは、いふまでもない。しかし一種の倫理的要求の現はれとしては、そこに或る意味はあり、如何なる點で名分を立てようとしたかに、時代の思想も現はれるのである。さて當時の名分論の第一は對外的の華夷の考であるが、これは※[草がんむり/(言+爰)]園の學徒の中にもシナを中華と稱し我が國を夷と呼ぶことを非とする南郭の如きがあり(文舍雜記)、その後の儒者もほゞ同じ見解をもつやうになつた。梅園の如きも明かに、シナを中國と稱し華と呼ぶのは自國を外とし夷とするものであるとして、強くそれを非難した。順庵徂徠の如き態度をとるものは漸次少なくなつて來たといつてよい。※[草がんむり/(言+爰)]園門下の山縣周南が、神武天皇などにはシナの明君にもまさる聖徳があつたらう、といつてゐるのも(爲學初問)、この風潮を示すものであるが、これは華夷の語を濫りに用ゐなくなつたことと共に、日本人としての感情の現はれでもあつて、そこに日本人たる儒者の態度がある。(聖徳云々の思想は儒教の古帝王觀をそのまゝ適用したものである。)「和學」の名は國體を失するといふやうな論も同じ思想から來てゐる(平維章和學辨)。地名や國名をシナ風にすることについても議論があつたが、これは單純なる名分論上の考と詩文に於ける修辭上の問題としての觀察とで、おのづから見解が異なつてゐる。概していふと風雅の文字に於いては或る程度までそれを許すが、實用上の文章に於いては非とする傾向が生じて來たので、詩話文話の類に多くその説が散見し、村瀬栲亭の藝苑日妙にも同じやうな考がある。こゝでも徂徠派の思想は漸次排斥せられて來たのであるが、それは何れにしても初めから文字の用法の問題に過ぎな(418)い。
 次には朝幕關係についてであるが、徂徠學の流行時代には、文字の上だけでのことながら、なほ幕府本位の思想が存在してゐた。かの三王外記や澁井孝徳の國史の筆法は、どこまでも將軍を最高の主權者とし、京都をいはゆる勝國あしらひにしてゐる。その考を論理的におしつめると、天に二日なしといふことにならう。南郭はこの點でも異見を有つてゐたが(文舍雜記)、最も強くそれに反對したのは三宅尚齋の門人であつたといふ留守友信の稀號辨正であつて、正面から徂徠派の態度を攻撃した。そこで實權のあるところによつて名を立てようといふ徂徠派の思想を繼承しながら、皇室を皇室とする點に於いてそれを緩和した説を出した菱川賓の正名緒言が現はれた。中井竹山の逸史や尾藤二洲の稱謂私言などは、幕府の權力をどこまでも認めてゐながら、皇室に重きをおくことはそれよりも一歩を進めてゐるので、そこに知識人の思想の變化が見られる。このころの學者は幕府政治の存在を認めながら、名分は名分として皇室の地位を明かにしようとしたのである。が、これらの稱謂論の多くは、畢竟漢文に書くための必要から起つたことで、非王非侯の地位にある將軍を如何なる稱呼を用ゐて表現するか、といふやうなことが問題であつた。竹山國字牘によつて傳はつてゐる論爭などによつても、それが知られよう。だから現實の政治の上には何の意味も無いことである。當時の儒者の力をこめて論議したのが、かゝる空疎なことであったところに、彼等の知識の性質が覗はれる。かの異説を見れば道に害ありとしてそれを攻撃するやうな偏狹な思想を有する儒者は、かういふことについても一字一語の詮索をして、逸史糾繆といふものを書いたり、山陽が名分を亂したといつたり(今日抄序)、するやうなものも現はれた。現實の生活をよそにして、文字の間から世の冶亂が生ずるやうに考へたのである。が、この文字上の名分(419)論にも、その根柢に皇室の地位を明かにしようとする考があるから、それが上に述べた太平記的の詩的感情によつて生命を與へられ、さうしててそれが現實問題から生じた幕府に對する反感に刺戟せられるやうになると、それが一種の標幟となつて大なる力を有するやうになる。恰も西洋人を夷狄とする思想から、征夷大將軍にいはゆる攘夷の責任を負はせようとするのと同樣である。空虚な觀念に内容を附與するものは、その時々の現實の要求である。
 
 さて儒者が事實を探求せずして文字の上の知識にのみ依頼し、また事物を論ずるにも文字に寫すことを主として考へるのは、一方からいふと知識欲が無いからでもあるが、他面から見ればそれがまた知識欲の發達を阻害してゐるのでもあつて、そこに相互の關係がある。事實と面接するに至つて始めて文字上の知識にも疑問が生じ、事物の眞相を知らうとする欲求も生ずるのである。ところがシナのことについては鎖國の時代であるために、その實状を知る便宜が極めて少かつたので、そこから知識欲を刺戟せられることが無い。この點から見ると、上に述べた儒者の通弊にも恕すべきところがあるので、鎖國制度が國民の生活を阻害したことの少々でないことがそれによつて知られる。全體に我が國民の知識欲が弱かつたのは、異郷の風土や變つた事物に接し異なつた民族とその生活とを見て驚奇の情を發することの無かつたのが、一大原因だからである。たゞ廣く書を讀むものは、文字の上から幾らかの推測を試みることもできるので、南郭などが「シナ人の人がらの惡いこと」を知つたのはそれがためであり、また松崎觀海は明律を湯淺常山は小説を讀んで、シナ人に往々見られる奸惡不仁は日本人の思ひもよらぬほどに甚しいものであることを悟つたといふ(文會雜記、常山樓筆餘)。さうして南郭は聖人が禮樂を以て世を治めたのはこの故であるといふ解釋をこ(420)こから引出し、禮樂なくして世の治まる日本人を讃美した(文會雜記)。儒教に對して根本的の疑問を發することはできなかつたが、これだけのことを考へ得たのも廣く書を讀んだ賜であつて、これは一面に於いて極端なシナ崇拜者であつた徂徠學派が、他の一面に於いて人をして文字に親しませた功績である。偏狹な道學先生はこゝに着眼することができなかつた。徂徠學派ではないが、三浦梅園もシナ人の殘忍性を指摘してゐる(贅語)。これを思へば、好んで殘忍酷薄のことを書いた馬琴輩の「唐山」崇拜が愚劣であることは、いよ/\明かであらう。少しく思慮のある儒者のうちには、そのころ既に極端なシナ崇拜から解放せられかけてゐるものがあつたではないか。
 次に儒教の教説と我が國の状態との關係については、既に山鹿素行や熊澤蕃山の思想に於いて、儒教を盲信しない傾向が生じてゐたのであるが、このころになつても、山片蟠桃は儒者がシナ傳來の知識を玩んで我が國の實状に疎いことを難じ、日本には日本の制度風俗があるからシナの法度を用ゐて我が國のを亂すべきでないといひ、儒者を政局に當らせるならば風俗にあはぬ新政を行つて害を招くと説き、シナの古の制度は日本の今に行はれるはずがない、と論じてゐる(夢の代〕。三浦梅園も、一方では徂徠學派とほゞ同樣な教化政治の思想を容認しながら、道と俗とは風土に從つて異なるといつてゐるし(贅語)、廣瀬淡窓も風土宜きを殊にし古今情を異にするから、儒説にはこゝに行ふべからざることが多いといひ(折玄)、現實の問題としても異姓養子を可とするもの(例へば梅園の贅語、佐藤一齋の言志録、など)、不娶同姓の法則は行はれないとするもの(例へば淡窓の義府)、がある。山崎派の二三子及び春臺のやうな考を有つものは少くなつたのである。政治の形態についても放伐思想が一般に排斥せられたことは、いふまでもなく、尚齋の如くそれを是認するものは殆ど見當らなくなつた。後にいふやうに山縣大貳の思想は論理的には放伐を(421)容認することになるが、現實の問題としてそれを適用しようとするのではない。しかしシナに於いて何故に易姓革命が行はれ放伐思想が生じたか、我が國に於いて何故にそれが生じなかつたか、といふ疑問を起して、それを事實の上から解釋しようとするものは無かつた。我が國のことについては、曾て蕃山は、皇室は實權をもたれないのが御位を永久にする道であるといつたが(集義和書卷八)、帆足萬里もほゞ同樣の考から、皇室が權力をもたれる時の來ないのはめでたいことであるといつてゐて(東潜夫論)、これらは江戸時代の状態を根據としての見解ではあるが、それを遠い過去にまで溯らせて類推すると、そこに一種の解釋が生ずるのである。それだけですべてが説明せられるのではないにしても、この見解には重要の意味がある。しば/\述べた如く、皇室には親ら政局に當られず權力を行使せられない習慣が遠い昔から生じてゐて、そのために政治上の責任はすべてその時々の權家に歸することになつたからである。さうしてこのことはシナ人の思ひもかけない風習であり、儒教思想によつては全く説明のできないことである。儒者には儒教思想によつて皇室の永久性を皇祖の徳に歸する考へかたがあつて、蕃山もそれをいつてをり、前篇に一言した如く呉太伯皇祖説を信ずるもののあつたのも、そのためであるが、堀景山が、今の世でも權力者が皇室を主としなければ忽ち天下の人心は離れる、政權を握つた武家でも皇室に代らうとしたものは一人も無かつた、こゝに日本の神妙不測なところがある、といふと共に、呉太伯説を信ずるやうな口氣をもらしてゐるのも(不盡言)、同じ理由からであるらしい。これは儒教思想で説明することのできないことを強ひて説明しようとしたものであつて、そこに儒者の偏固さがある。或はまた蟠桃が武家の天下となつてから皇室によつて天命が下されることになつたやうにいつてゐるのも(夢の代)、強ひて天命説を適用したものであつて、勅命によつて將軍の職を與へられたことをかう説明した(421)ものらしく、從つてこれは皇室が儒教思想に於ける天の地位にあることになり、そこから皇室の永久性の由來を引出し得る考へかたである。天と天祖(皇祖)とを同一視する後の水戸學派の説も、畢竟、同じところに歸着するといへよう。要するに、我が國のみに獨自な皇室の地位と性質とをどこまでも承認し、また國民的の誇りとしながら、儒教思想を適用してそれを解釋しようとして牽強の辯をなしたのである。それに比べるとこゝにいつた蕃山萬理または後にいふ松宮觀山などの考には、極めて適切なところがある。
 
 以上は儒者の知識がシナの書物から來てゐるといふことについての觀察であるか、別にまた時勢の影響もある。上にも述べた封建制や世襲制の讃美は勿論のこと、例へば嚶鳴館遺草に見える如く、君は根本、民は枝葉で、君は民の儀表である、といふやうなシナ思想の受入れられたのも、一つは封建制度、專制君主制度、の世の中だからである。封建制度を可とすることは、蟠桃の如く普通の儒者とは見なし難いものでも、同樣であるのを見るがよい(夢の代)。君を民の儀表として考へる如きことも、江戸時代のやうに君主が民衆とは遙かに隔絶した高い地位にゐて、單に權力を以て下に臨んでゐる場合には、廣い天下にとつては勿論のこと、狹い藩國に於いても、到底空疎の言たるを免れないが、密接の關係のある君臣主從の間では、即ち君民の間のことでなく君臣の間の話として見れば、全く無意味ではないから、現實の問題としては、封建的君臣關係があるからこそ受入れられたのである。忠君といふことの強調して説かれたのは、孝を主とする儒教思想、天子に政治上の全責任を負はせて民に何等の義務をも要求せず、そこから放伐思想をさへ導いて來る政治思想と、孝を徳の本として一切の責務を子に負はせる家族道徳の教とが、全く別の基礎(423)の上に立てられたものであつて、天下と家とは現實の状態としては何等の類似も無いにかゝはらず、理論上、天下をを一つの家と見、天子を民の父母として考へるほどに、家族生活をすべての標準とする儒教思想、とはむしろ一致しないものであるが、これも家族生活よりは俸禄によつて維がれてゐる君臣主從の關係が社會組織の骨組みとなつてゐて、家族制度はむしろそれに從屬してゐた時勢の故である、といふことは既に前篇に説いておいた(第十五章參照)。皇室と國民全體との關係を封建的もしくは武士的君臣の意味で解釋しようとする傾向のあるのも、同じところに由來がある。武人政治は儒教の文治主義とは一致せず、堀景山が武を以て民に臨む幕府の態度を難じてゐるのは(不盡言)、儒者として當然であるが、しかし一方では武士を儒教思想に於ける士としながら武の必要を説くもののあるのも、武士中心の世の中だからである(齋藤拙堂の士道要論、佐藤一齋の言志録、安積艮齋の閑話、など)。蟠桃も日本の武國であるべきことを説いた。しかし、かういふ時勢に順應し時の制度を肯定した上で立てた説は、その時勢が變化し制度が改まると、全く權威が無くなつてしまふ。明治の世の中がほゞ固まつてからは、封建制度や武士中心の社會組織や世襲主義を讃美するものが全く無くなつたではないか。時勢が如何に變化してゆくかは何人も豫見のできぬことであるが、人が生きてゐる以上、變化することだけは確實であり、人の作つた制度に完全なものは無く、それはたゞ歴史的に馴致せられたのか、但しは斷えず變化し展開してゆく國民の要求の或る時代に於いて最も緊要切實なる點に順應すべく案出せられたものかであつて、人の生活の全要求を充たすに足らないものであるから、如何なる制度でも必ずそれに存在する缺點とそれから生ずる弊害とが世に現はれて、何時かは一大變革の行はれる時の來ることは明かである。人は生きてゐる限り、制度を動かしてゆく思想をその制度によつて規定せられてゐる生活そのものの間から造り(424)出すものであり、畢竟、制度自身がその制度を變革してゆくものである。もしまた永久に動かずにゐる制度があるとすれば、それはその運用法、またはその制度の精神として投入せられる思想が、國民生活の變化に順應して推移してゆくからであり、さういふ變化と推移とを容れ得べき制度だからである。だから或る時代の特殊な制度や思想を金剛不壞のものとして、それを骨定し是認するために立てた議論は、何時かはそれみづから立脚地を失つて崩壊しなければならぬ運命を有つてゐる。時の制度や思想を是認し骨定するために案出せられた理論の力でその制度や思想は保持せられるものでなく、それは刻々に展開せられてゆく國民の實生活によつて變化してゆくからである。それを知らずして、あやふやな脚跟下を大盤石と見てゐた江戸時代の儒者の所説は、それが崩れてしまつた今日から見れば無意味なものであるが、社會が固定し文化が停滯して、世はいつまでも變らぬものだと思はれてゐた時代の考として見れば、無理のないことでもある。また考へかたの上から見ると、制度が固定して存在するやうに思ふのは、個人について生れてから死ぬまで變らない、善とか惡とかいふ抽象的な概念に相當する、固定した性質があるやうに考へるのと、類似してもゐる。何れも人が生きてゐるものであり世が動いてゆくものであることを忘れてゐるために起つた考である。
 要するに儒者の所説は概して空疎であり、その考へかたは甚だ粗笨である。しかし儒學の行はれたことが全く無意味ではない。個人的家族的及び君臣間の道徳の教としては、日本人の生活と生活氣分とに適しないものであるために、直接にはそれに效果のあることが認められないので、そのことは、前篇にも述べておいたしまた後にもいふであらうが、日本人の道徳、特に武士道、の根柢に存在する人間性、その現はれとしての人遣、に包容せられそれに同化せられることによつて、幾らかのはたらきをする場合のあつたことは、考へられる。道徳生活にとつて必要な意志の鍛錬(425)と情操の修養とは、文字上の知識によつては得られず、日常の生活そのものによつて始めてできるものなのであり、道徳に社會性時代性國民性艮族性のあることが、それによつて示されるのである。儒學によつて與へられた知識が武士生活に融けこむことによつて、またそれのできることがらに限つて、道徳的效果を生じたのも、そのためである。また政治の思想とても、具體的には、それが當時の封建制度武士制度と一致しないものであるために、政治の上に實現することはできなかつた。封建諸侯のうちで賢君と稱せられたものが多く儒書をよんだことは事實であるが、君主として現實に行つたこと施設したことは、儒學によらずとも常識によつてなし得られることであり、たゞその常識の形成せられる資料の一つとしてシナの書物から得た知識がある、といふまでのことである。君主は民衆を愛育せねばならぬといふ抽象的な教條が、將軍及び封建君主に彼等の任務についての或る知識を與へた場合のあるやうなのが、その一例である。爲政者の地位にゐるものでなく、例へば本多利明、佐藤信淵、二宮尊徳、大原幽學、などの如き、民間にあつて經濟の道を講じまたは實行したものも、その思想には常識化せられた儒學の知識が含まれてゐる。だからそれは、ありふれた職業的儒者が經典の記載をそのまゝ實行しようとするのとは、違つてゐる。從つて儒教を江戸時代の封建制度武士制度の精神的支柱と視るが如きは、專實に背いた全くの謬見である。また我が國の國家形態について儒教式名分論や天命説が適用せられないものであることは、既に考へた。けれども上記の點に於いて儒學が何ほどかの用をなしたことは、承認せられねばならぬ。儒學の特色をなすものではないけれども、儒書に散見する思想に普遍的な人間性または人道の含まれてゐるもののあることも、また注意しなくてはならず、例へば孔子の言として傳へられてゐるもののうちにはさういふのがある。また儒學と關聯してシナの書を請むことによつて種々の知識が得ら(426)れたことは、前篇にも述べておいた。その知識は偏僻なものでもあり限られたことについてのでもあるが、ともかくもそれが得られ、さうしてそれが日本人の智能を高める一つの力とはなつたのである。なほ儒學には一種の合理主義的傾向が含まれてゐるので、それが幾らかのはたらきをする場合のあることも、考へられる。白石が昔の林羅山と同じく、キリシタンの教に對して造物主宇宙創造説の非理なることを難じたのは、その一例であるが、蘭學者が近代科學とその方法とを容易く理解することのできたのも、こゝに一つの由來があらう。このシナ式合理主義には限界もあり缺陷もあつて、一方ではシナの古傳説を信じ易占の如きものを容認すると共に、他方では日本の神代の説話に説話としての意義と價値とのあるべきことを考へず、強ひてそれから歴史的事實を取出さうとするやうな誤つた態度をとることにもなつたが、ともかくもその合理主義にこれだけの效果はあつた。また儒學そのもののことではないが、日本人がシナの書物を半ば國語化して讀む習慣が、一方では日本語の語法を亂すことになつたと共に、他方では日本語の語彙を豐かにする效果を生じたことも、考へられる。かゝる讀みかたは、日本語とシナ語との言語としての性質の根本的な違ひを明かに理解することを妨げ、從つて漢文の意義を正しく知ることを困難にさせたが、かういふ利益もあつたのである。漢文を讀むものが多くなつて來たこのころに於いて、特にこのことが注意せられる。これらの點に儒者の存在した文化史的意義がある。
 ところが、かゝる儒學に誘發せられながら、それに對する反流として現はれたのが、いはゆる國學である。
 
(427)     第十五章 知識生活 二
       國學とその影響 上
 
 國學といふ名の由來は前篇第二十一章で一言しておいたが、こゝでいふのは、主として我が國の道といふものを建てまたは明かにしようとする思想上の意圖を出發點または中心として展開せられた、賀茂眞淵本居宣長平田篤胤などの講説したものを指すのである。その一つの淵源は前篇で述べた神道者の思想にあるが、それとは別に時の學界から新しい刺戟をうけ新しい形をとり新しい精神を發揚しようとして現はれたのが、この國學であつて、上記の三學者によつてその思想が順次に發展して來たのである。
 いはゆる國學者としてその主張を具體的に説いたものは賀茂眞淵に始まる。眞淵はいふ。皇國人は本來生れながらによき心を得てゐるから、それが純粹に保たれてゐた上代には人心がすべて直かつた。だから教へずとも人の行が正しく、從つてこと/”\しく教を設け道を説くことが無かつた。道が無かつたのではなく、天地自然のまゝの道がおのづかち存在し、人の行ひが知らず/\それにかなつてゐたのである。道が自然のまゝの存在であるから人は意識することなく自然にそれに從つてゐた、といふのであるらしい。その證據は國がよく治まり國民がみな衷心から皇室に服事してゐたことである。道がどういふものであるかといふその内容については、明かには説いてゐないが、このことから考へると、それは皇室が一系であるといふことにその中心を置いてゐたのであらう。ところがシナは人がらの惡い國である。だからそれを治めるために聖人といはれたものが出て、道といふものを作り教を設け禮樂制度といふや(428)うなことを定めた。その道は故らに人の作つたものであるから、天地自然の大道ではなく、小さくひねくれてゐて正しくない。その最大の證據は、王室の地位が不安定で易姓革命が常に行はれ、さうしてそれが是認せられてゐることである。人に華夷の別をつけて道なきものを夷としてゐるが、その夷人でもしば/\華人の帝王となる。國を治める道をさま/”\にむつかしく講じてゐるが、國の治まつたためしが無い。だから我が國でもそのシナの道が傳はつた後には、上代の自然の道がやゝ衰へて來た。皇室に服事しないものが時々現はれたのは、これがためである。何故に我が國は人がらのよい國でありシナはさうでないといふ違ひが生じてゐるかは、明かに説かれてゐないやうであるし、天地自然の道が我が國にあつたとしても、その道が道の衰へを防ぐ力をもつてゐないことになるとすれば、その道にどれだけの價値があるかが問題になるが、そのことも考へられてゐない。たゞ我が國は本來よい國であるから、上代からの道は決して絶えはしないので、皇室の萬世一系であられることによつてそれが知られる、とはいつてゐる。眞淵の説はほゞかういふ考のやうである(國意考、歌意考、冠辭考序、その他の雜文)。
 かゝる眞淵の思想に於いて第一に氣のつくのは、我が國に道があるといふことを主張し、その道を政治的意義のものとしてゐることである。さうしてその政治的意義の根本には、皇室の一系といふ事實がある。「皇神の道」(歌意考)、「神皇の道」(新學)といふ名稱が用ゐられてゐるが、皇神または神皇は宗教的意義に於いての神をいふのではなく、古の神代に存在せられたといふ皇室の御祖先の義であるので、その道を「神代の道」とも「古道」ともいつてゐるのは、そのためである(國意考、歌意考)。御祖先の世におのづから行はれてゐた道が皇神または神皇の道であり古の道であり神代の道である、といふのであらう。もつとも「神皇の道」を神皇が天下を治められた道、いひかへると天皇(429)の政治の道、の義に用ゐてあるやうに解せられるところもあつて、この點は曖昧である。さうしてかう解せられる場合にはその道は自然に行はれてゐる道のまゝに政治をせられる道といふことになるかも知れぬが、これもまた明かでない。次には、我が國とシナとを對立させ、我をよい國とし彼をわるい國としてゐることである。天地自然のまゝであるといふ我が國の道と人の作つたといふ儒教の道との對立も、こゝから生じ、人の作つたものだから眞の道ではなく、自然の存在であるから眞の道である、としてゐる。老子の道が我が國の道に近いといつてゐるのも、この故である(國意考、語意考、遺草〕。ところが、人の行ひが自然に道にかなつてゐるといふのは、人智による分別、人の智能、を非とすることになるから、眞淵は人よりもむしろ禽獣がよいとさへいひ、人を萬物の靈とする考に反對してゐる(圍意考)。しかしこの自然の状態と「皇神の道」または「神皇の道」の觀念を引き出した皇神または神皇との關係は明かでなく、この點に於いて彼のいふところは甚だ曖昧である。また自然の道と道を政治の道とする場合の政治との關係も、上にいつた如く曖昧である。なほ彼の尚古主義の根據もまた、古代はシナ思想のまだ入つてゐない、我が國風が純粹に保持せられた、時であつた、といふ點にあるから、やはりシナとの對立を豫想してゐる。
 眞淵の後をうけた本居宣長は、眞淵の思想を繼承しながら、道は天地自然のものでもなく人の作つたものでもなくして、神の定めまたは始めたものである、とした點に於いて一歩を轉じた(直毘靈、玉くしげ〕。宣長は始めたとか定めたとかいふ語を用ゐてゐるが、自然に存在するものでないとすれば作られたものといふことになる。始めるとか定めるとかいふのと作るといふのとは、語感が違ふので、宣長がかういふ語を用ゐた意圖の一つはそこにあつたかも知れぬが、その意義は同じだとする外はなからう。人の作つたものではないが神の作つたものだ、といふところに彼の(430)主張があつたと解せられる。ところでかう考へると、眞淵に於いては曖昧であつた「皇神の道」の觀念がそれによつて明かになつたことになる。宣長に老莊を稱揚する氣味がありながら眞淵ほどにそれを重んじないのも、この故であらうか。さてわが國の尊いのはこの道があるからであつて、それは即ち我が國が神の國だからである。神の國であることは記紀に見える神代の傳へによつて明かであるが、事實についていふと、神の御子孫が萬世一系の皇室であられるところにその實證がある。かういふ風に神は即ち皇祖であるから、この神の道、即ち「皇國の道」「神のみ國の道」は「天皇の天の下しろしめす道」であり、さうしてそれは、神代の皇祖からのしきたりのまゝに私意を加へずして、即ちその意義での「神ながらに」、歴代の天皇が行はれるものである。(「神ながら」の語をかゝる意義に用ゐるのは、宣長に特異な見解によるものであつて、この語の原義ではない。)これが宣長の考であるから、彼のいふ道は天皇の政治の道であることになるので、この點でも眞淵に於いて曖昧であつたことが明かになつてゐる。しかしその政治の道が如何なるものであるかは説かれてゐない。皇祖からのしきたりのまゝとするにしても、そのしきたりが如何なることであるかは考へられてゐないのである。然らば一般人にとつての道があるか、あるならばそれはどういふものかといふと、それは世の風習として存在するもの、または人に生れながら具はつてゐるものであり、從つて人は從ふことを意識せずしておのづからそれに從つてゐる、とせられてゐるらしい。かゝる道がどうしてできたかは明かには説かれてゐないやうであるが、神が作つたといふ道にそれも含まれてゐるものと推せられる。ところがかう考へると、その道は神の作つたものとはいふものの、人にとつては自然の存在または自己自身のうちの存在であるから、ことさらなる教といふものを外部から與へる必要がないことになり、その意味でも眞淵の思想が傳へられてゐる。しかし道を(431)神が作つたといふ宣長自身の説としては、こゝに矛盾が生じてゐる。もつとも宣長は「天皇の大御心を心としてひたぶるに大命を畏み敬」ふことを説いてもゐるので、これは意識してさうする責務があることになるやうであるが、それと上にいつたこととの間に如何なる關係があるかは、明かでない。多分當時の常識として人には道徳的責務があるとせられてゐることから、何となくかう考へられたまでであらうが、そこに宣長の思想に於ける道徳的意味が見えはする。或は上にいつたことは古の状態であり、これは後世のであることになるのかも知れぬが、それほどの明かな考があつたかどうか、わかりかねる。また天皇の政治の道と一般人の道との關係についても、一應は上にいつた如く推せられながら、實は明かでなく、天皇の政治によつて人に生れながら道が具はつてゐることになつたとか世の風習ができたとかいつてゐるところは、無いやうに見える。要するに曖昧なところが多い*。
 さて眞淵は我が國とシナとを對立させ、或はそれを日出づる國および日さかる國としてインドの日入る國と鼎立させてゐたが、宣長は我が國は世界を照す日、即ちアマテラス大神、の生れられた國であり、その御裔が天皇として天つ日嗣を傳へてゐられるから、世界の本國であり宗國であるとし、外國は、大八島の生れた時に潮の沫の餘りから成り出でたものであり、スクナヒコナの命の經營せられたところであるから、末の國であるといひ、我が國に從屬すべきもののやうに考へようとした。「四方八方に國は多けど敷島の大和しま根ぞ八十の親國」、「天てるや月日のかげを知る國は本つ御國に仕へざらめや」。從つて道についても、我が國の道は本の道で、諸外國の道といふものは末々の枝道であるとした。「國々に道はしあれど天照す日の大神の道ぞまさ道」。後の國學者の間に本教または本學といふ名の作られるやうになつたのもこのためであらう。(本教の語は古事記の序に見えてゐるが、その意義はこゝにいふのと(432)は同じでない。)但し一系の皇室といふことを道の中心觀念としてゐることは、眞淵と同樣であるのみならず、儒教のいはゆる道を以て、人の國を奪ふため人に奪はるまじきために聖人の作つた治國の法であるとして、眞淵よりも一層強くその非を鳴らした。彼はシナの教に存在する理智的傾向をこちたき私智として排斥し、それから更に一歩を進めて人の心のはたらきとしての智能の價値を否認しようとしたのみならず、儒教そのものを「穢惡き心もて作りて人を欺く道」として道徳的に非難したのである。「聖人はしこのしこ人いつはりてよき人さびすしこのしこ人」。
 ところが本末主從の關係と是非正邪の區別とは、全く別のことである。本は末を攝すべきもので正は邪を斥くべきものである。一つは神代の物語から抽き出したもの、一つは儒教排斥の思想を理由づけたものであつて、この二つは全く由來を異にしてゐるのに、宣長はそれを不用意に結合した。こゝにも彼の思想の曖昧な點があり、外國及び外國思想を包容するのとそれを排斥するのと、二つの反對した傾向のそこから分出すべき機縁がある。たゞ宣長の考からいふと、外國は末の國で王統が一定してゐないからマガツヒの神が強くはたらき、それがために人がわるくなつたので、いはゆる聖人の道が邪であるのもマガツヒの神のしわざだからである、といふ意味らしい(答問録)。シナ思想が入りそれがために我が國の亂りがはしくなつたのも、マガツヒの神のしわざであるとしてゐる。あらゆる事物はみな神のしわざであつて、神のしわざは人智の測るべからざること人力の奈何ともすべからざるものであるが、その神のうちにナホビの神とマガツヒの神とがあつてそれ/\のはたらきをする、といふのが彼の思想であつて、こゝでも人の智能を否定してゐると共に、一種の宗教的傾向がそこに現はれてゐる。本末と正邪との觀念は、このマガツヒの神のはたらきといふ考へかたによつて結合せられてゐる。しかし同じく神の作つた世界に於いて何故に或る國境を設け(433)それによつて本末を區劃したか、といふことは、何故に神の造つた國に於いてマガツヒの神があるかといふ疑問と共に、後にいふやうな考へかたのほかには適切な解釋が與へられてゐない。宣長に於いては、それが神の代のこととして語られてゐるからであり、さうして神のしわざは人智で測ることのできないこととせられてゐるらしい。この宗教的傾向は眞淵には無かつた宣長の特色であつて、「あやしきはこれの天地うべな/\神代は特にあやしかりけむ」、彼の尚古主義の本據もこゝにある。さうしてそれは、記紀の神代の物語を事實あつたこととして絶對に信じ、さうしてそれに彼自身の恣な解釋を加へたところから來てゐる。ナホビの神とマガツヒの神との名も古事記の説話に出てゐるが、そのはたらきが上記のやうであるといふのは、宣長だけの意な解釋なのである。
 こゝで宣長が神といつてゐるのは何かといふことを見ておかう。眞淵の皇神または神皇は皇室の御祖先のことであるから、その意義では神代に生きてゐた人であり、少くとも道についていふ限り、それに宗教的性質は無い。しかし宣長は、皇室の御祖先を、人であると共に宗教的性質を具へた神であるとし、それと共にまた皇祖ではない宗教的な神の存在を信じ、道といふものについてもこの二種の神がかゝはつてゐるとしてゐたやうである。宣長の考に於いては、神代の説話に語られてゐる神は概ね人であり、さうしてその人が宗教的性質をもつてゐるのであるが、これは、アマテラス大神が自然神としての太陽でありながら皇祖であることになつてゐるのと、今日に傳はつてゐる記紀の神代の説話では、説話上の人物が宗教的性質の神と同じやうに神と呼ばれてゐる場合があると共に、宗教上の神が人の如き名を有しまた他の人物や神と血統上の結びつきがあるやうに記されてゐることがあるのと、この二つの事情のためであるらしい。しかし同じく神といはれてゐても皇祖であるのとないのとの區別がその間にあることは、宣長も認(434)めてゐたであらう。そこで、道を作つたのは皇祖としての神であり、さうしてそれには、あらゆるものを産み出した神として説明せられ、また宗教的性質をもつてゐるものとしても考へられてゐる、ムスビの神(の靈)の力がはたらいてゐると共に、別に皇祖ではなくして單に宗教的な神であるナホビの神とマガツヒの神との何れがはたらくかによつて、道の行はれるのと行はれないのとの二つの場合が起るとし、終局に於いてはナホビの神の力が勝つにしても、時と處とによつてはマガツヒの神のはたらきを抑へることのできない状態が生ずる、といふ見解が構成せられたのである。ところで宣長のこの見解に從へば、ムスビの神の力のはたらくことによつて生じた道は、この點からも、この神の産み出した他のあらゆるものと同じく、人にとつては自然の存在であることになつて、神が道を作つたといふ考とは一致しないし、また道を作つた皇祖神は道の行はれるのを妨げるマガツヒの神のはたらきを抑へることができず、道そのものにも道の行はれるやうにする力が無く、さうするにはナホビの神のはたらきによる外は無いことになるのみならず、道の行はれるのも行はれないのもナホビの神とマガツヒの神とのはたらきであるとすれば、人には道を守る責務が無くまたその力も無いことになつて、實踐道徳としてはいろ/\の支障が生ずる。マガツヒの神をかういふものとしたのは、道の行はれない場合の多い現實の状態を見て、その理由を考へようとしたところに、由來があらうと推測せられるので、そこにも宣長の思想に於ける道徳的意味があるが、しかしそれは實踐的には甚だ力の無いものである。
 なほ神を人と見る彼の思想についても、考へねばならぬことがある。宣長は蛇とか玉とかいふやうな神のあることを認めつゝも、それにはさして重きをおかず、神の多くを人と見てゐたので、この點では白石の考と似てゐるが、白(435)石が神と呼ばれてゐる人を人として、合理的な行動をするものとして、考へたのとは違ひ、神といはれてゐる人は、普通の人にはできない、また世の常の人智では測られない、神異なこと不合理なことをする特殊の能力があるので、それが人でありながら人でなくして神である徴證だとしてゐる。神代は實在した古代であり、その時代の人はこの意味での神であつたといふ。だから、上に宗教的意義での神といふ語を用ゐて來たのは、實は當らぬところのあるいひかたであつた。宣長に於いては神と人との違ひはたゞその能力の大小強弱にあることになり、その神は今人の考へるやうな宗教的性質をもたないもののやうである。また彼の思想に宗教的傾向があるといつたのも、彼にはあてはまらぬところのあるいひかたであつた。宣長のいふ神の道が天皇の政治の道であるといふのも、このことと關係がある。しかし宣長がその實生活に於いて神を思ふ時、その神がみなかういふものであつたかといふと、必しもさうではなく、神を祭るやうな場合には、今人の考での宗教的性質をそれに認めてゐたであらうと推測せられる。ナホビの神やマガツヒの神のはたらきを考へる場合、または神の力の不測なることを信ずる心情、などにも、またそれがあつたのではあるまいか。もしさうとすれば、こゝにも彼の態度または思想の矛盾がある。 眞淵と宣長との思想とそれに曖昧な點や自家矛盾があるといふこととは、これまで述べたところでほゞ知られたであらう。然らばどうしてかういふ思想が形づくられたであらうか。この二學者の思想の中心點は、易姓革命を骨定または主張する儒教を排斥して、一系の皇室を戴く我が國の道を建てまたは明かにしようとするところにある。すべてに於いてシナ人の生活態度を排斥するのではあるが、それを代表するものが儒教である如く考へられた。これは知識社會に儒教の流行してゐる状態が彼等の思想に反映してゐるのである。のみならず、よく見ると、その實、彼等の主(436)張の多くは儒教からの借りものである。第一、道といふ觀念がそも/\儒教から取られたものである。例へば宣長は、我が上代に行はれてゐた血族結婚の風習を儒者の多くが道にはづれたものとして非難したに對し、それは神の定めた道だといつてゐるが、その意義はかゝる風習そのものに本來神の道が内在してゐるといふことであつて、人のなすべきこととして神によつてそれが教へられ、人はそれを道徳的責務として守つてゐた、といふのではないから、それを道といふのは儒者の道の語の用ゐかたとは違つてゐる.道といふやうなことをいはずして風習だといへばそれでよいのである。それにもかゝはらずさういつたのは、道といふ觀念がシナに起つた儒教にあるために、日本人の思想に於いてもそれがあるべきだと考へ、または事實あつた如く思つたからのことである。しかし我が國の上代思想に於いては、さういふ觀念は成りたつてゐず、道といふものについて考へたものもそれによつて教を立てたものも無かつたから、眞淵や宣長がかう思つたのはむりなことであり、儒教からの借りものである所以がそこにある。のみならず、眞淵がシナの道は人の作つたものだといつたのは、徂徠派の説をそのまゝ取つたものであり、宣長が道は神の定めた道であるといつたのも、道は聖人の作つたものであるとする徂徠派の説の聖人の二字を神の一字に書き改めたまでのことである。聖人は人であつて神ではないが、神代の物語の神を人と見ることによつて、かういふいひかたをすることができたらしい。或はまた宣長が(或は眞淵も)そのいはゆる神の道を政治の道とし天皇の天下しろしめす道として説いたのも、道を政治の道とする徂徠派の説をそのまゝ我が國のこととして適用したものに過ぎない。宣長が天皇の道は皇祖から傳へられたまゝに天皇が行はれるものとしたのも、聖天子の世には先王の道がそのまゝに行はれるといふ儒家の言を我が國に適用して、それをいひかへたまでのことである。たゞ孟子以後の儒家が説いた先王は王朝の祖(437)先の義ではないのに、宣長のこの説でそれを皇祖のこととしたのは、我が國には易姓革命が行はれず皇室が一系であるためである。しかし先王は聖人と同じく純然たる人であるのに皇祖はその一面の性質として神*であるから、その點でこの適用にはむりがあるが、やはり神代の物語の神を人と解することによつて、かう考へることができたのであらう。二人の尚古思想すら實は儒者の、特に徂徠派の、同じやうな考から來てゐるところがあるらしく、古學といふ名稱の由來の一つもそこにある。これは眞淵や宣長が徂徠學派の流行時代に出たからのことであるので、朱子學派によつて儒教を解したならば、かう簡單には考へられなかつたはずである。例へば道といふものを政治の道とする考へかたについてみても、皇室の本源とその國家統治の由來との語られてゐる神代の物語によつて考へる以上、神の道といふものを説くとすれば、それに政治的意義をもたせることは自然の徑路であつて、鎌倉時代から既にその説はあり、後の神道者にもその思想は傳へられてゐるので、國學者もその先蹤には從つたのではあらうが、當時の學界の情勢から見れば、宣長の説は、少くとも徂徠派の主張によつて強められたとしなくてはなるまい。宣長が仁義禮讓孝悌忠信は人に自然に存在するといつてゐる以上、朱子學派でその思想の中心觀念としてゐる儒教の性善説には同意しなければならぬが、それを重要視しないのも、徂徠派の説によつて儒教を解したことに一由來があらう。(ついでにいふ。禮讓といふ熟語は儒書にもあるが、それを仁義と連稱することは儒者の一般の例ではないから、これは彼が智を排斥するために、仁義禮智の智を讓と改めたのではなからうか。)しかし彼等は徂徠派の説を借り用ゐると共に、それによつて却つて徂徠派の主張を難じたので、その儒教攻撃が主として禅讓放伐の思想に向けられ、また血族結婚の辯護に力を盡したのも、理論上易姓革命を是認しまたいはゆる亂婚を非とした徂徠派の思想を目あてにしたものであることは、(438)いふまでもなからう。皇室の一系であることは厳然たる事實であり、一般に我が國の誇りとせられてゐることであるから、ことさらにそれを説く必要は無いのであるが、國學者が強くそれを主張したのは、徂徠派の思想に刺戟せられたからのことと解せられる。人としてあるべき道義は人が自然に守るから敢て教をまたぬ、といふやうな考も、やはりあひてが教化政治説に重きをおいた徂徠派であるために生じたのである。宣長の「漢意」も一つは徂徠派の口くせにした「和習」または「和俗」の換骨奪胎であるらしい。日本の風俗のわるくなつたのを儒教の入つた故としたのも、儒教によつて始めて日本人が道を知つたといふことを強調して説いた徂徠派に對する逆襲であらう。
 だから眞淵や宣長の思想に於ける上代や神は、眞の上代や神ではなくして、儒教眼、特に徂徠派のそれ、によつて見た上代や神であることが知られる。宣長は彼等から道の作者としての聖人の觀念を取り、さうしてそれを神に適用してゐるが、これは上代人の神の觀念とは似もつかないものである。神代の物語の神とても宣長のいふやうな神ではないので、神が道を作つたといふやうなことは、物語のどこからも出て來ない。徂徠派でなくとも一般に儒者は、シナ人の間に發生した特殊の政治や道徳の教、即ちいはゆる聖人の道、に世界的普遍性があるものとして、その道で一切の人類を、從つて我が國民をも、律しようとしたが、宣長がかの中外本末説に本づいて、そのいはゆる神の道を外國にも行はるべきもの、即ち世界の道、であるやうに説かうとしたのも、また儒者のこの態度を學んで逆にそれを適用したものである。かういふことも神代の物語には縁もゆかりも無いことである。眞淵はシナの道に對して我が國の道を立て、かれを非としこれを是としたのみであつたのに、宣長がかう説いたのは、眞淵よりも一層深く儒教思想に依據したものといはねばならぬ。この點から見れば、宣長の中外本末説はシナ人の中國思想、華夷の觀念、の變形に(439)過ぎないのであつて、シナを戎狄と稱したのもそこから來てゐる。馭戎慨言に外國に對する名義をひどくやかましく論じてゐるのも、やはりシナ思想に本づいたものである。眞淵や宣長の思想に上にいつたやうな曖昧や矛盾が多く含まれてゐるのも、その主因は、シナ思想を借り用ゐながらそれとは一致しない我が國の状態を何等かの考へかた何等かの形で肯定し、またはその優越性を主張し、シナの書物の中から取出して來た思想を日本のことがらに強ひて適用しようとしたところにある。神の道といふものについての宣長の説を復古神道と稱するのは、彼の後まもないころからいひ初められたことであるが、これほど甚しき誤解は無い。神の道といふ觀念はいふまでもなく、さう稱せられるやうなものも、古代には無かつた。シナ思想や佛数が入つて來てから日本人の神の崇拜に神道といふ名を與へることにはなつたが、その神道は宣長のいふ神の道ではない。シナ思想に關係の無いことでも、彼の神に關する考説の多くは、我が國の古代の思想にも神代の説話に語られてゐることにも背いてゐる極めて恣意のものであつて、上にもいつた如く、ムスビの神の性質やナホビの神マガツヒの神のはたらきなども、その好例である。
 眞淵や宣長の考が儒教に束縛せられてゐたことは、知識もしくは文化の排斥に於いても現はれてゐる。儒教の教説には日本人に不適當なもの到底實行のできないものの多いこと、生きた人間性と人としての内的要求とを無視し、外部から強ひて人の行爲に恣意な規範を與へようとするものであること、並にさういふ考の根據にはむりが多いこと、などはいふまでもないから、國學者のそれを非難するのは當然であり、そこに眞淵や宣長の功績がある。しかし彼等がシナ人もしくは儒者の誤つた考へかた、またはそれから出た教、を非難するに止まらず、一躍して人の智能もしくは知識そのものを排斥し、或は道義を矯飾として見たのは、甚だ理由の無いことであるが、これは人の考といへば儒者(440)のやうな考であり、知識といひ道義といへばシナ人の説くところに限る、と思つてゐたからであるらしい。彼等は人に道徳のあるべきことを否認したのではなく、それを言擧げすることを非としたのであるが、それは儒者とは違つた言擧げのあるべきことを考へなかつたからである。儒家の如き言擧げを非とするのはシナでも道家にその例があるので、眞淵の道についての意見には、一つはそれから示唆せられたところがあらう。老子の道は我が國の道に近いといつたことにもそれは現はれてゐるので、儒家の道を非とする考が道家の道の説と一致するのである。また道家とも儒家とも違つた言擧げをしたものもシナにはあつたが、我が國ではさういふものがさしたる力をもつてゐなかつたために、兩家の言のみを聞いてかういふ考へかたをしたと解せられる。皇室の一系であられることを極力高調して説いたのは當然であるが、それも一つは、外國の政治思想はみなシナに於ける如き意義での易姓革命を正當視する儒教のと同じだと思つたからであるらしい。知識の多くが儒教の書物によつて供給せられた時代の考としては、むりの無い事情もあるが、國學といふものが儒教を豫想しなくては殆ど意味の無いものである、といふことを看過してはならぬ。
 さてこれほどまで彼等の知識が儒教に拘束せられてゐながら、その儒教を攻撃したのは、儒教そのものの思想の批判から來たといふよりも、むしろそれが外國の教であるといふところに主なる動機があつたと解せられる。儒教の思想と當時の日本人の生活との矛盾を考へることには、さして重きを置かなかつたので、この點に於いては熊澤蕃山などの見解が國學者よりも現實的であつたことを、囘想するがよい。國學者は何よりもシナに對する我が國の優越性を主張することを努めたのである。我が國の道は自然の道であつて聖人の道は人の作つたものだといふのも、特殊の徳教を立てたものの無かつた我が國の状態を正當視しようとするところに、一つの動機があつたであらう。彼等は無い(441)といふ事實を正當視しようとして、無いことがよいといふ理説を立てたのである。宣長がシナの古傳を作爲したものとしながら我が國のそれを絶對に信用し、彼を不正とし我を正とするのも、我が國のだから正しく眞實であるといふのであつて、「外國は神代の傳へなけれこそ眞の道を知らずありけれ」といふのがその本旨である。日本人は先天的もしくは本質的に人がらがよいと説いてゐるのも、シナの如き王室の易姓革命が我が國には無いといふ理由によるのであるが、その易姓革命を非とするのも、畢竟はそれが我が國のとは違ふシナの風習だからである。或る國民の性質も氣風もまたは制度も風習も、その國民に特有な素質が基礎となつてはゐるけれども、その素質とても遠い昔からの長い閲歴によつて歴史的に養成せられたものであり、さうしてそれが更にその後の歴史によつて變化も發達もして來た間に、おのづから形成せられたものであるから、それには多くの要素があり多くの方面があつて、外部から善いとか惡いとかいふ語で簡單に評價せらるべきものではないのに、當時の學者は、儒者でも國學者でも輕率にさういふ許價をするのが常であつた。さうして儒者の評價の標準が教の有無にあるのとは違つて國學者のはたゞ國の自他内外といふ一事にあつたのである。シナ人の道といふものを以て我が國を律するを攻撃しながら、我が國の神の道といふものを世界の道として立てようとするのも、同じことである。或はまた我が國も外國も同じく神が造つたのならば、何故に我が國が本で外國が末であるかといふに、それはたゞ我が國だから本であるといふ一事に歸着する。アマテラス大神としての太陽が我が國に生れたといふ神代の物語によつたのであるが、その物語は本來我が國だけのものであり我が國といふことを初めから決めて置いてのものである。我が國が何故に廣い世界に於いて狭い一國として定まつた限界を有つてゐるかは、彼の考へ方では「神代の傳へ」によるとするより説明のしやうが無い。我が國の神を世界の神(442)としながら」どこまでも我が國の神としておくのもをかしいが、これもまた我が國の神だからである.上代のシナ人の華夷の考には、そのころのシナが周圍の民族に比して優秀な文化を有つてゐた以上、その點では一應の理由のあることであつたが、國學者がそれを逆に適用したのは、單に外國だから夷とするといふだけのことに過ぎない。彼等は何ごとによらず自國のを正とし外國のを邪としなければ承知しないので、人の音聲をすらも我が國は純粹正雅で外國のは溷濁不正であるといふ(漢字三音考)。國語の音が單鈍平明であることは事實であるが、それを正しいとする理由はどこからも出て來ないではないか。別派の學者である富士谷御杖の言靈の説に於いて言語の靈妙を我が國語に限つたことのやうに説いてゐるのも、畢竟同じ考へかたである。宣長が歌とシナの詩とを比較し、本質に於いては同じかるべきものとしながち、彼を抑へ我を揚げたのは、シナ人はすべてを矯飾するといふ彼の根本的見解から來てはゐるが、さう考へさせた動機はャはり自國尊尚の思想でるる。自然の風物についても「もろこしの人に見せばやみ吉野の吉野の山の山櫻花」(眞淵)の如く、シナに對して誇りを見せてゐるではないか。彼等が梅を詠じ月をながめるにも往々神代の物語から説いて來るのは、一つは萬葉の摸倣でもあるが、一つはこゝにも由來がある(眞淵詠梅歌、村田春郷八月十五夜縣居に集ひける時よめる歌)。すべてを「我が國」といふ觀念に結合して考へたのである。
 眞淵や宣長の思想の由來についてなほ考へねばならぬものは、從來の神道である。これは後の篤胤から俗神道として排斥せられたものであるが、その實、國學はその精神と考へたことに於いて神道を繼承したものといふべきである。上に述べた如く國學の名もまた神道者の間に於いて既に用ゐられてゐた。江戸時代の神道は主として儒教に對杭するために説かれたものであつて、その本旨はやはり自國本位の考であり、その中心思想は儒教の易姓革命説に對して皇(443)室一系の事實を肯定することであるから、國學者の思想はそれと何等の差異が無い。例へば、眞淵や宣長ほゞ同じ時代に現はれた松岡多助の日本靈などを、宣長の著作と對照してみるがよい。また神道を政治的に解釋して天皇の道とすることは、吉見幸和によつて強く主張せられたのみならず、南嶺遺稿や度會常彰の日本國風などにも見えてゐる。神道者のこの見解も儒者の思想を取入れたものであるが、江戸時代の神道家の所説は一般に儒家化した神道ともいふべきものであつて、その根柢には神は道を教へた古の聖人であるといふ考さへもある。眞淵や宣長の思想がかゝる神道者に少くとも一つの由來があることは明かである(前篇第二十二章參照)。また神道俗説問答の「支那魂」や「天竺心」は、宣長の「漢意」や「佛意」の造語を誘つたものかも知れない。のみならず、神道者のうちには、或は儒教のいふ人倫はおのづから我が國の太古に具はつてゐたとすること、或は儒教の道徳の條目を排斥することに於いて、宣長と同樣な見解を抱いてゐたものすらあつた。更に一歩進んでいふと、眞淵が日本とシナとインドとが世界の全部であるやうに考へたのも、神道者の口まねである。たゞ神道者が記紀の神代の卷の文字の解釋に於いて一々儒教の説を附會した態度は、國學者のと違つてゐて、それが國學者から非雜せられた理由であるが、宣長も説きかたこそ神道者とは違へ、上に述べた如く種々の點に於いて儒教思想を.借り用ゐたのである。さうして所説の荒唐不經なることは宣長とても神道者に劣らない。「國學者は神道者に三本毛の多いまでのもの」(くせものがたり頭書)と評せられたのも、決して強言ではない。ついでにいふ。宣長とほゞ同時に生存した伊勢貞丈の如きは、同じく儒者の見を罵り徂徠派の態度を攻撃し、また同じく神道者の所説を繼承して、皇室一系の專實を上代の人心の正しかつた證擧とし、教の無かつたのは人心が正しかつたからだとさへいらてゐながら、日本が世界の主であるといふやうな空疎の言を弄せず、(444)天皇の道といふやうなことをもいはず、國學者よりは却つて健實な思想を有つてゐた(幼學問答、神道獨語、安齋隨筆、など)。上代の神道は神社を崇拜する造であるといふのも、當時の考としては妥當な見解であつて、俗神道の迷妄を破するには國學者の説よりも力がある。この人の説の廣く行はれなかつたのは惜しいことである。
 然らば國學者と神道者との違ひはどこにあるか。それは一つは、神道者は自己の所説に何等かの意味で宗教的權威をもたせようとし、または宗教家めいた行動をしたのに、國學者にはそれが無く、その神の道に關する講説が、今人の目には學問的研究として認められないけれども、彼等自身に於いては學問的のしごととして考へられてゐた、といふことである。宗教的意義をもつてゐる神道を説いたのではなくして國學を講じたのである。いま一つは、神道者は現代的意義での學問的なしごとをしなかつたのに、後にもいふ如く、眞淵も宣長も、神の道を説くこととは別に、古語古文學の研究に今日の學問眼から見ても偉大な業績を遺し、後人をして國學の眞の精神は却つてその方面にあるやうに思はせるやうになつたことである。神道者は當時の思想界に何ほどかのはたらきをしたにせよ、我が國の學問の進歩には殆ど與かるところが無いのに、國學者は上記の分野に於ける學問的研究の開拓者であつた。それは、勿論、それより前の倭學者のしごとによつて導かれたものではあるが、それらの單なる繼承者ではないところに、彼等のしごとの特色がある。
 
 さて眞淵や宣長の神の道に關する思想がかういふものであつたとすれば、それが彼等の他の方面の見解や主張との間におのづから矛盾や衝突が起らねばならぬ。眞淵が儒教が入り唐の文物が學ばれたため氣風が柔弱になり人心に虚(445)僞が生じたといひながら、萬葉の歌を男々しいとして賞讃し眞ごゝろの歌として崇拜するのは、矛盾であるが、これは儒教排斥の思想と萬葉研究とが彼に於いて無關係に兩立してゐたからである。眞淵も宣長も、後にいふやうに、當時の幕府の政治を謳歌してゐるが、それは漢意が人の心を惡くしたといふのとは齟齬してゐるではないか。彼等とても當時が漢學流行の世であることを知らなかつたではなからう。宣長は神の道は今も行はれてゐるといつてゐるが、この考とその上代崇拜ともまた矛盾であり、上代を人心の直かつた時代として崇敬するのと上代にも後世と同じくマガツヒの神のあらびがあつたといふのとも、一致しない考であるといはねばならぬ。古も今も神の國であり、さうしてすべてのよくないことがマガツヒの神のしわざならば、古今の區別がどこにあるのか。或はまたすべてが神のはたらきの現はれであるならば人智もまた神の所産であるから、それを私智として排斥するのもをかしいではないか。私智として排斥することが既に智のはたらきであらう。すべてが神のしわざならば人に自由も無く責任も無いととになるから、玉くしげに説いたやうに人事を盡せといふのは無理である。人事を盡すには我が善しとし爲すべしとするところを行はねばなるまいが、彼の思想からいふと、善惡の論をするのも私智であり、或はむしろ善惡の觀念も無いはずであるから、その盡しやうが無いではないか。また如何なるものもマガツヒの神の力に敵することができないといふのと、ナホビの神の力は究極それに勝つといふのとは、よしそこに何等かの調和點を設けることができないではないにせよ、その考へかたは互に反對してゐる。のみならず、上にもいつた如く國を作つた神が、何の故にマガツヒの神を産み出したのか。それはすべての一元思想に含まれてゐる弱點であるといはうか、或は宣長が一元思想と二元思想との間に彷徨して歸するところを知らなかつたためであるといはうか、何れにしてもそこにむりがある。宜長はさ(446)ういふことを考へてはゐず、それであるからこそかういふことを説いたのであらうが、今日から見るとかう考へられる。さうしてこれらは、儒教の排斥と古典の信奉と當時の知識人の常識と自己の内心の要求と、互に無關係な種々の分子が雜然として彼の腦裡にあつて、それを統一することができなかつたために生じたものである。彼れ自身の立場からいつても、あるがまゝが道であるといふならば、直毘靈などを書いて正しい道を主張するといふのも、今の人は今の掟を守れと説くのも、無用のことであり、智能を排斥する以上は、彼みづからその説を立てることもできないではないか。その實、彼も人である以上、意志があり欲望があり、またその智能をはたらかせようとしたのである。すべてを神にまかせるといふのは、彼れ自身の内生活を反省しない空虚の言に過ぎない、といはねばならぬ。
 自己自身を反省しないほどであるから、歴史上社會上の事實を無視したのも、怪しむに足らぬ。儒教の入らなかつた上代には人心がみなすなほであつたとか、神の道がそのまゝ行はれてゐたとかいふのが、どういふ事實に本づいてゐるのか。國民がすべて皇室に服事してゐたといふ一事を以てかゝることがいひ得られるか。いひ得られるとするにしても、彼が歴史的事實を記したものと信じてゐた神代の物語がそれで説明し得られるか。或はまた彼等の思想の中心である「天地のそぎへの極み覓ぎぬともみ國にましてよき國あらめや」といふ主張が如何なる根據の上にせられたのか。玉くしげには米穀の美と國民の殷富稠密とを述べてあつて、それは日本人の感情を表現したものとして一應の意味はあるが、世界に於いて最もよい國であるといふ證據がそれで十分だとは、いひがたくはあるまいか。自國に誇りをもつことは自然に生ずる國民的感情でもあり、國家の存立のためには或る程度に無くてはならぬものであり、特にシナ崇拜の傾向のある儒者が思想界に一種の勢力をもつてゐた當時に於いては、それを克服するために必要でもあ(447)つたが、しかし學者がそれを主張するには、誇り得るだけの事實を提供しなければならなかつた。さうしてまた實際それに適切な歴史的事實が嚴存する。前篇(第二十一章)にも一言した如く、我が國が昔からシナの文物を取入れながらそれを資料としてそれとは違つた特異の文化を創造して來たことが、その最も大なるものである。或はまた江戸時代に於いて世界のどこにも例の無いほど長年月にわたつて平和が確保せられてゐることも、その一つであつて、日本人の政治的能力がそこによく現はれてゐるではないか。その他、風土の美を擧げるもよからうし、國民の勤勉をいふのもよからう。誇らうとすれば誇り得ることは幾らもある。たゞ誇り得るものの多いのは、昔からの國民の努力の結果であることを明かにし、これから後にも誇り得ることを更に多くしその程度を更に高くせんがための努力を國民に要望する用意が、それに伴はねばならぬ。それと共にまた、かゝる誇りが他國民に對する驕慢とたつてはならぬこと、並に日本人には缺點もあるからそれを改めねばならぬこと、を國民に覺らせなくてはならぬ。然るに國學者の態度はこれらの點に於いて極めて疎漏であつた。彼等は日本人の美風は自然に存在するものまたは神の定めたものの如く思ひ、過去の國民の努力によつてそれが養はれて來たものであることと、これから後の努力によつて更にその美を加へてゆくべきこととを考へず、さうしてまた、国民に日本人の缺點を反省させることを忘れてゐると共に、ともすれば自國を尊んで他國を卑しむ如き氣分を馴致させる虞れのある言説をしてゐた。國民の努力といふことを考へないのは、何ごとをも自然または神の力に歸して人の力を重んじない彼等の根本思想から來てゐるのであらうが、それが果して現實の人の生活を直視することによつて得たものであらうか*。また他國を卑しむやうな言説は、徒らに他を尊んでみづから卑しくする習ひのあつた儒者に對する反抗心の現はれとして、むりの無い事情もあつたが、國學者の國(448)自慢にかゝる缺陷のあつたことは、明かである。のみならず、他に對する驕傲は裏をかへせばみづから卑しくする態度となるから、國學者の國自慢は實は儒者のシナ崇拜と同根から出たものである。さうしてそれらは、儒者と同じく、またはそれから繼承せられた習癖として、事實の如何を探求しようとする用意の足りないところから來てゐる。
 宣長の言に根據の無い臆見を主張したもののあることは、何人も知つてゐるであらう。服部中庸の三大考の説に賛意を表してゐるのもその一つであるが、自然科學としての宇宙生成論の知識をもたなかつた彼としては、これには恕すべきところがある。しかし確かな事實によつて證明することなしに儒教を以て人を欺く道とするが如きは、それとは違ふ。昔からの儒家が欺瞞の目的で作爲し言議した書も多く、いはゆる經典のうちにもそれがあるが、そのことを明かにするには精細な本文研究を要する。のみならず、宣長のいふのはかゝる特殊のもののことではなく、儒教の一般的性質についてであるから、なほさら確實な證據が必要なのである。或はまた人物評に於いても、例へば鎌倉の北條氏について「大君をなやめまつりしたぶれらが民はぐくみて世を欺きし」といつてゐる下二句の如き非難をするには、その證跡を明かにしてでなくてはいはれないことであるが、それをしてゐない。(ついでにいふ。後に橘守部が蒙古諸軍記辯疑に於いて時宗を論じ、ムクリを利用しまたはそれと内通して皇位を窺※[穴/兪]する隱謀を抱いてゐたやうにいつてゐるのは、かゝる臆斷の最も甚しいものである。)
 しかし何よりも奇怪なのは、宣長が古事記の神代の物語を文字のまゝに歴史的事實と見なし、アマテラス大神といふ實在の人舞る神が太陽そのものであると考へ、それを基礎としてかの中外本末説を築き上げようとしたのみならず、國生みの説話も高天原やヨミの國の物語も、みな歴史的事實であると信じたことである。彼の時代に彼だけの智能を(449)具へ彼だけの知識を有つてゐたものが、果して眞にさう信じてゐたのかどうか、甚だ疑はしくも思はれるが、彼の心情の誠實を疑はない限り、彼は古典の記載をどこまでも信じようとして、終にさう信ずるに至つたのであらう、と解せられる。初めから素朴な態度でさう信じたのではなく、信じなければならぬと考へ、努力の結果さう考へならされたのであらう。或は信ずべきものであると考へたその考が催眠術約暗示の如きはたらきをして、さう信ずるやうになつたのでもあらう。かういふ心理は必しも理解せられないことでもあるまい。それほどまでに彼は古典の文字のために自己の智能を排し知識を棄て日常の經驗を否定したのである。が、これはさすがに考のあるものには承認せられなかつたので、「すゞのやがすゞろのことを書きちらし今ぞ知りぬる伊せのひがこと」と嘲られたのも、主としてこのためであつたらう。秋成から手ひどく罵倒せられ(膽大小心録、秋成遺文所載神代がたり)、守部から強く反對せられたのも(稜威道別、難古事記傳、など)、無理ではない。宇宙間に不合理なことのあるのを信ずるといふのも、神は人智の及び難き不測のはたらきをするといふのも、知識の限界内に於いて知識の力を認め智能の限界内に於いて智能を許容するのでなければならぬ。然らざれば根本的に知識と智能とを否認することになつて、學問が成りたゝない。宣長の古典信奉の態度は即ちそれであつて、これでは學問、從つて宣長の國學、は成りたゝない。
 不合理なことの多く語られてゐる神代の説話の取扱ひかたについては、このころになつても人々の考が區々であるが、それをそのまゝに歴史的專實と見なさないことは、一般の通説であつた。概していふと、秋成の神代がたりや高天原を大和の葛城の地とした貞丈の神道獨語の如く、上代の事蹟が比喩の形で表現せられたものとして、白石と類似の見解を抱くものが多く、級戸の風の著者沼田順義なども同樣であるが、儒者または儒者系統のものは、それに道徳(450)的意味を寓するのが常であり、例へばアマテラス大神を日とするのは、日に配してそれを祭りまたはその徳を日に比したのだといふ(例へば三浦梅園の贅語、帆足萬里の入學新論)。また傳説として語りつがれた間に不合理な分子が加はつて來た、といふ考もある(貞丈の安齋隨筆)。これらは何れも神を上代の實在の人と見て、それに合理的解釋を下さうとしたのであつて、平惟章が神の壽命の長いのを疑つたのも、この故である(和學辨)。しかし神代の物語を全く後人の造作と見なすものもあるので、富士谷御杖の古事記燈及び北邊隨筆、山片蟠桃の夢の代、などにその説が見え、古事記燈には神武天皇が教のために作られたものと説いてある。「まがのひれ」の著者市川匡も後世の天皇の御心から出た秘事だといつてゐる。守部がそれを分析して、目に見えぬ神のことを人のことらしく敍した比喩譚や童話やまたは民間の昔語りやがその中に含まれてゐるとしたのは、當時に於いては珍らしい見解であるが、教誡のために歴史的事實を理解し易くまた興味のあるやうに語つたものとして説いてもゐ、比喩譚に於いてもその根柢には目に見えぬ神秘の事實があるものと考へ、その意味で古典の記載を信用してゐるから、その説は頗る晦澁曖昧であり、その考へかたは宣長と五十歩百歩である。或はむしろ宣長よりも考へ方が混亂してゐる。また神代の物語を概ね古傳と見ながら、その中に後世の思想が混入してゐることを説いたものもあつて、アマテラス大神を女神としたのは聖徳太子の姦策だといふやうな説は、種々の人々(例へば秋成、蟠桃、萬里)によつて唱へられたが、貞丈はヨミの物語を佛説から出たものとした(安齋隨筆)。藤井貞幹もまた神代の説話に佛家の思想が混入してゐるやうに考へてゐた(衝口發)。しかしまた、疑はしきは疑はしとし不合理な點は措いて論ぜざるを可とす、といふ意見もあつて、儒者の間には前々からかういふ見解があつたが、貞丈や春海も開闢説などについてはかう説いてゐる(安齋隨筆、織錦舍隨筆)。概括し(451)ていふと、儒教思想から出た解釋や何となき臆測やが多く、御杖蟠桃の説または守部の考の一面などの外には、今日から見て注意すべきものは少い。宣長の考も、中庸や篤胤などのほかには多く信奉せられなかつたらしいが、しかし宣長は、古傳にあるから眞實である、それを疑ふのは私智であり漢意である、と一も二も無くこれらの説をはねつけてしまつた。
 宣長のこの態度は葛花、鉗狂人、呵刈葭、など、彼の反對者に對する論辯に於いて最もよく現はれてゐる。秋成がそれを評して、我が國の古傳を所依として論を立てても異國では承知すまいといつてゐるのは、確評であらう(膽大小心録)。衝口發の如きは杜撰の説ばかりで、殆ど取るに足らぬものではあるが、宣長の推測した如く、我が國を卑しめるといふやうな考がそれにあるらしくは見えず、國土日月の創造に關する自國の古傳をそのまゝ事實として盲信しない點には、却つて幾らかの學問的態度があるともいはれよう。國學者と儒者との爭ひが一方は神代の物語、他方は儒教の經典、をおの/\唯一の根據とするならば、それは互に人を心服させるには足らぬ。しかし宣長のこの態度は、實は聖人の教といふものを絶對の準則として説く儒者、特に徂徠派、の論法をそのまゝに適用したのであり、神代の物語を歴史的事實と考へたことも、儒者がその經典の記載をそのまゝ信奉するのと同じであるから、宣長が聖人を攻撃したことを儒者が怒るのは、自ら知らざるものである。たゞ温厚な宣長が儒教に對する場合にはいはゆる聖人を罵つて賊とよぶが如き矯激の言を放つてゐるのを見ても、彼等が冷靜に理を究め眞實を求めようとしてゐないことが知られる。もつともこれにも、儒者と同樣、彼等みづからその主張が世道人心に關するものででもあるやうに妄想してゐた、といふ事情もあらう。後に橘守部が宣長に反對するに當つて道の妨げだからといふことを理由としてゐるので(452)も、それが類推せられる(難古事記傳)。
 かういふやうに神代の物語を文字のまゝに信じてゐるから、彼等がその道の中心思想としてゐる最も重大なる事實、即ち皇室が一系であること、についても、その由つて來るところを歴史的事實によつて明白に考へようとはしなかつた。島國である我が國の地理的位置と附近の諸民族の状態及び諸國家の間の複雜な關係と、並に平和な農業に從事しその生産物によつて食料の十分に供給せられてゐた日本民族の生活状態とのために、對外戰爭の起つたことが極めて少く、從つてさういふ戰爭によつて國民生活が脅かされたり混亂したりすることが無く、戰勝の名聲を得た武人が勢威を振つて國民に臨まうとするやうなことの生ずる事情が曾て無かつた、といふことも、同じ地理上の状態によつて、國民を形成してゐるものが遠い昔から國外に類縁のものをもたない特異なる一つの民族であり、皇室はこの民族の内部から起つてそれを政治的に統一せられたのであり、さうして民族と國民とのこの關係には後になつても動搖や混雜が少しも起らず、從つて諸外國にしば/\見られるやうな、他國に含まれてゐる同民族の行動または自國内に於ける異民族間の紛爭によつて政治上の變動の促されるやうなことが、全く無かつた、といふことも、また國家の體制が整つてからは朝廷の貴族も地方の豪族もその出自を皇室に歸したこと、後になつても皇居に武力的防備の設けの無かつたこと、によつても知られる如く、皇室と國民との間には常に親近感があつたことも、或はまたこれまでしば/\述べても來たし、前章に記した卓識ある學者の見解にも現はれてゐるやうなことがら、即ち天皇は昔から政治の局に當られず、國民に對して權力を用ゐようともせられず、政權の掌握者は時と共に變勤しながら別にあつて、政治上の責任はすべてそれに歸してゐた、といふことも、か*ゝる權力者の間に競爭の行はれる場合もあつたが、それは皇室の地(453)位をおのづから安固にする事情ともなつた、といふことも、或はまた皇室の現實の地位及びはたらきとそれに關する思想的解釋とが、時勢の推移に應じて次第に變化して來たといふことも、なほ昔からの皇室の活動は政治に於いてよりも文化に於いてであつたので、天皇としても、政治的手腕を揮ひもしくは軍事的功業を立てられた方は無いが、學問または文藝に關してはその時々の第一流の學者文人藝術家であられた方は極めて多く、それがために皇室に對する國民の親近感が何時の世にも強かつた、といふことも、また遠い上代に於いては天皇の地位の稱呼としての現つ神の觀念に現はれてゐる如き一種の精神的權威が皇室にあつたと共に、國民生活の安寧のために祭祀や呪術を行ふ任務を天皇がもつてゐられ、それが國家の儀禮として後世まで繼承せられたこと、後になると國民の幸福のために心力を勞せられた天皇が多く、また天皇はさうせらるべきものであるといふ理念が皇室には傳統的なものとなつてゐたこと、國民の心あるものはそれによつて皇室に對する感謝の念と崇敬の情とを特に深めたこと、これらのいろ/\の事情から、國民の間に皇室を國民の皇室とし天皇を國民の天皇とする心情の養はれて來たことをも、國學者は考へてゐなかつたやうである。遠く上代に溯つていふと、初めから永續する習慣が無く、しば/\更迭するものに對しては、それを永續させようとする欲求が起らないが、或る程度まで永續して來ると、永續してゐるといふ事實に權威が生じて、永續することがそのものの本質と見られ、從つて何時までも永續するものと考へられるのみならず、それから一轉して、如何なる事情が生じてもそれを永續させようとする強い欲求が生じ、さうしてその欲求から、永續させることが道徳的責務である、といふ信念が形づくられるやうになる、といふ心理的觀察の如きは、固より思ひも設けぬところであつた*。勿論、こゝにいつたことの多くは今人にして始めて考へ得られることであるから、宣長などがそれに想ひ到ら(454)なかつたのは當然であるが、こゝにいはうとしたのは、何ごとも人の力により國民のはたらきによつて歴史的にできて來たものであるのに、國學者はそれを考へず、皇室の一系であることも、たゞ神代の昔に神の定めたところとしてのみ説いてゐた、といふことである。
 なほ宣長の所説には道徳的意義を含んでゐるにかゝはらず、その點が甚だ曖昧である。すべての罪惡をマガツヒの神に歸しながら馬子や尊氏を責めるやうな矛盾は措いて問はぬにしても、「かもかくも時のみのりに背かぬぞ神の誠の道にはありける」といひ、「今は今の世の風儀に從へ」(葛花)といふならば、故らに神の代を説き古の道を主張する必要は無いではないか。また後章にいふやうに彼が徳川氏の權力を認め幕府政治を謳歌してゐることを思ふと、「時のみのり」といふのは幕府またはその下にある大名などの定めた制度法令をさすのであらうが、それならば「天皇の大御心を心としてひたぶるに大命を畏み敬」つたといふ上代を尚慕することが、國民の日常生活に於いて如何なる意味があるのか。或はまた事實に於いて仁義禮讓孝悌忠信を人の心に具はつてゐる道として承認する以上、實踐道徳に關して儒教の、説きかたや教へかたに異議を立てることはともかくも、徳目を斥ける必要は無いではないか。なほ儒教に對抗して道を説く以上、それは何等かの點に於いて實踐道徳に觸れねばならぬが、彼は道の内容を説くことが極めて少い。たゞ道は世の風習または人の心に具はつてゐるといふやうな抽象的ないひかたにその根本の意見の示されてゐることが注意せられるが、それは實踐的には畢竟世の風習を守り人の常識に背かぬこととなるのであり、時の制度法令に從ふこともおのづからそれに含まれる。だからおしつめていふと、ことさらに道といふものを説く必要が無いことになる。さうしてそれでありながら、日本に道のあることをいひ、それを神の道と稱したのである。道徳(455)觀の根本がかういふものであるとすれば具體的の問題に考へられたことがいろ/\の點で互に枝梧撞着を生ずる壊合のあるのも、自然であらう.例へば彼のいはゆる古の道は單に學問の對象としてそれを研究するのではなく、我が國の道としてそれを主張するのであるが、それでありながら、實生活にはその道を適用しないと公言してゐる場合がある(葛花)。現に神の定めた道だといふ血族結婚も今日に行ふのはよくないといつてゐる。かういふ考へかたをするならば、シナ人が中華と稱しながら清朝の如き夷狄に服從してゐることをも非難ができなくなるし、また同じ理由から彼の中外本末説も現實の情勢を考へるに當つては放棄してもよいものではなからうか。彼が今の風習を是認する根據はそれも神の心の現はれだからといふのであるが、同じ神の心が何故に古今によつて趣きを異にして現はれるかは、全く考へられてゐない。一方では我が國もシナもそれ/\の特質は古今を通じて固定してゐるやうに考へてゐたらしいが、他方ではかういふやうに古今の變化を許してゐて、その間の關係は極めて曖昧であるが、曖昧ですんだのはそれが文字の上だけのことだからである。しかし現實の問題について當時の状態に滿足し世に順應するをよしとする思想は、宣長に於いては、鎌倉時代の神道者が既にいつてゐるのと同じことながら、神の道は今も行はれてゐるから、今の世も上代と同じく神の代であるといふところに、一應の根據をば有つてゐるので、畢竟それは一系の皇室が神の御裔であるといふことに歸するであらうが、この根據が實は古今の間に變化があるといふこととは一致しないところのあるものである。これは宣長が人の力といふものを考へず、人の意志と行動とに重きを置かず、從つて世の移りかはり事實の歴史的變化といふことをよくは理解してゐなかつたからであらう。
 宣長の思想に於いてなほ注意すべきは、理智に對して情の權威を立てようとし、人の生活は儒者の講ずるやうな抽(456)象的徳目にはあてはまらぬことを説いて、偏固にして窮屈な儒教道徳の教條から人の生活を解放しようとしたことである。情の權威の主張は元禄文學の一部面に於いて既に現はれてゐるが、その情は、一方では人として自然な肉體的欲求を含んでゐると共に、他方では武士風の義理と衝突するものとせられてゐた。宣長の情にも肉體的欲求が一要素となつてはゐるが、それよりも心理的なものが主となつてゐ、さうしてそれについて武士道との對立に言及した場合がある。けれどもそれにはさして重きを置かなかつたらしい。これは彼の思想の主なる由來が平安朝の文學にあつたからであらう。情を重んずることが、現實の社會を支配してゐる當時の因襲的道徳觀念に對する反抗または人間性の強い自覺であるよりは、儒教思想に對する日本人としての生活氣分の肯定であるところに意味のあることを思ふと、儒教の道徳を矯飾として難じた眞淵の思想にその由來の一つのあることが考へられる。要するに、宣長のこの思想もまた現實の生活から導き出されたものではなくして、書物の中から汲取られたものである。
 
 眞淵と宣長との思想についてこれだけのことを見ておいて、次に平田篤胤のを考へよう。篤胤はその道を「神代の道」とも「神の道」とも、また「古道」ともいひ、それを天皇の政治の道であるとしたが、この點では宣長を(或は眞淵をも)繼承してゐる(靈の眞柱など)。たゞそれを「大道」といつてゐるのは篤胤の創案らしい。また「神ながらなる道」といふ稱呼をも用ゐてゐて、この名は彼の宣傳によつてそれから後には廣く世に行はれるやうになつてゆくが、その意義は宣長の説に從つてゐる。たゞ上代の制度などをもそれに含ませるのみならず、一般人の心におのづから具はつてゐるといふ道にもそれを適用したところに、違ひがある。さうして政治の道として上代の制度を擧げてゐ(457)るのは儒家のいふ先王の制から思ひついたことながら、宣長が内容を説いてゐない天皇の政治の道に一つの内容を與へたことになる。また人の心に具はつてゐる道をいふ場合には儒教の性善説を想起してゐるが(玉だすきなど)、これも宣長に於いていひ得られることながら、彼のいはなかつたことをいつたものであると共に、篤胤が道を説くには天皇の政治の道のみでなく、すべての人の道を考へねばならぬことを感じ、それについては儒教の道を取入れようとしたことを、示すものである。のみならず、政治の道としての「神ながらなる道」を説くには、道家の思想を附會してゐるので(古史徴開題記など)、それは眞淵に淵源のある考へかたである。我が國の道は天地自然の大道である、といつてゐる點に於いて眞淵に復歸した觀のあるのも、偶然ではない(いぶきおろし)。ところがかういふやうにシナ思想を援引するのは、宣長の中外本末説から展開せられた思想として、世界のあらゆる國は我が國の神の開いたものであるとし、シナの上代の帝王も、今日では後世になつて形成せられたことの明かになつてゐる道教の神も、またインドの神も、それ/\の國にゆかれた日本の神であるとしたのみならず、ヤソ教の神もまた同樣であるとし、「萬國みな大綱をうちかけて引よせ」、從つてどの國の上古にも「神ながらなる道」は傳へられてゐた、といふ考へかたによつて助けられてゐる。その道のシナに傳へられたのが黄老の道、即ち道家及び道教の主張するところ、であり、インドに傳へられたのがバラモン教であるとして、それらを近づけ、その道が衰へてから起つたのが儒教であり佛教であるとして、それらを遠ざけた。眞淵及び宣長の力を極めて非難したあひては儒教であつて、宣長に於いても佛教は傍に置かれてゐたのに、篤胤はこの二つを同じやうに取扱つた。
 篤胤のころになると、徂徠派の勢力は既に凋落し、また前章に述べた如く儒者の間にも我が國といふ觀念が次第に(458)強められて來たので、國學者も儒教の攻撃に勢力を集中する必要がなくなり、從つて儒教に對する態度もおのづから變るやうになつた。篤胤がその師の所説を繼承しながら佛教の攻撃に力を入れたことにも、或はかういふ事情がはたらいたかも知れぬ。しかし當時の日本の佛数は徂徠派の儒教とは違つて、前篇に考へておいたやうに、決して我が國の風俗に反對するのではなかつたから、この攻撃は眞淵や宣長の儒教に對して有つてゐた如き強い反感が伴はない。篤胤が、儒教も佛教もその遠い淵源をたづねれば、本來我が國の道から出たものであり、根本から邪なものではないから、我が國の正しき道を心得た上はそれらの教に於いて取るべきを取るがよいといひ(入學問答など)、從つて儒佛二教そのものにも何ほどかの價値を認めるやうになり、眞淵宣長の考と背馳する傾向を生じたのは、こゝに一つの理由があつたらしい。ヤソ教の思想については儒佛二教と同じやうな考へかたをしてゐないやうであるが、これはそれに關する知識が少かつたからであらう。もつとも儒教の教説は知識として文字あるものに親しまれてゐるものであり、佛教の儀禮なども日本人の風俗に混入してゐるのみならず、國學者自身もその知識を有しその儀禮に慣れてゐるから、全面的にそれらを排斥することには疑問を抱くものもあつたであらう。だから二教もしくはそれに含まれてゐる何ごとかを何等かの考へかたで容認しようとする傾向は、本居大平にも伴信友にも存在し(古學要、藤垣内答問書、佛神論)、大乎はやゝ曖昧ながら儒佛二教の入つたことを神の計らひであるとして、必しもマガツヒの神のあらびとはせず、信友もまた同じやうな考を有するのみならず、佛は本來インドにゆかれた我が國の神であり、佛を禮するのも廣い神の道のうちの一つである、とさへいつてゐる。藤井高尚も同樣の考から儒佛を却くべからずと説いた(松の落葉)。篤胤のみがかういふ態度をとつたのではない。こゝに宣長の後の國學者の態度の一變化がある。しかし他方に於いて(459)は國學者系統の學者にも儒佛に對して不快の情をもつてゐるものゝあることは勿論であつて、それは宣長の思想の他の一面である中外正邪説を保持したのである。聖徳太子に對する諸學者の非難、または天智天皇及び大友皇子がシナの文物制度を學んだり摸倣したりせられたことに對する信友の意見(長等の山風)の如きも、その例と見なされよう。
 ところがバラモン教または佛教を我が國の道に結びつけまたは取入れることになると、道を天皇の道、治國の道、としてのみ見ることが、この點からもできなくなる。篤胤が道をいふについて、一方でどこまでもこの政治的意義を保持しながら、他方で宗教的性質を強めて來たのは、偶然でない。宣長の神の道には神を祀り神の力の不測なることを信ずるところに宗教的意義のあることが考へられはするが、信仰としてのその内容は殆ど空虚である。ところが篤胤になると、宣長が單に「あらはにのことは大君かみごとはおほくにぬしの神のみこゝろ」とのみいつてゐる古傳の顯露事と幽事とを、人の生時と死後とのことに關するものとし、オホクニヌシの神を幽界の主宰者として死後に於ける人の魂を管治しそれに對する賞罰を行ふものとしてゐるが(靈の眞柱、古史傳卷二十三、幽顯辨)、これが佛教思想を取入れてゐる神道者の説から繼承せられたものであることは、前篇に述べたところから、おのづから知られよう。しかし篤胤はその賞罰が如何なる状態に於いて行はれるかを具體的には明かに考へてゐないやうであつて、この點では却つて神道者の説よりも空疎である。また罰せられたものは永久に救濟せられないやうに見えるが、果してさうなのか。宗教的には重要な問題でありながら、それが明かでない。たゞ死後の賞罰は生時の行の善惡によるのであるから、人はその行について道徳的責任を負ふことになり、罪惡をマガツヒの神のはたらきに歸してゐる宣長に於いては曖昧であつたことが明かになつたとも解せられる。が、篤胤がこのことを意識してゐたかどうかは、わからない。篤(460)胤は邪神のはたらきを克服するところに人の力を認めてゐるやうであるが、これには人の道を重んずる點に於いて儒教の思想と連絡があることが考へられ、上に一言した如き篤胤の思想の一傾向がこゝにも現はれてゐる。なほ彼は死者の魂を靈異のはたらきをもつてゐるといふ意義での神としてゐるやうであり、それを祭ることをもいつてゐて、それにもまた宣長の見解とは同じでないところがある。全く方面の違つたことではあるが、篤胤がアマテラス大神は太陽そのものではなくして太陽を主宰する神であるといつてゐるのも、それによつて宣長の説のあまりにも不合理な點がおのづから改められたことになる。これは服部中庸の三大考にも見えてゐる説であるから、篤胤はそれに從つたのであらう。たゞ大神を太陽でないといふことは儒家及び神道者にその先蹤があることを、注意すべきである(前篇第二十二章參照)。なほ天皇が神を祭られるから神の力で天下が治まるといふ意義で祭政一致説を承認してゐるのも、宣長とは違つた篤胤の意見であり、さうして祭政一致をいふことは、その意義は違ふけれども、やはり神道者の説に由來がある。(神道者は概ねいはゆる祭政同訓説と上代には祭を掌るものが政に參與したといふ考とによつてその一致を説いた。)かういふやうに宣長に無かつたいろ/\の考が篤胤によつて説かれてゐる。さうしてそのうちには彼の思想に於ける宗教的また道徳的傾向の認められるものがあるが、このことは佛教や儒教の説を取入れたことと關係があり、その點でも神道者の言に導かれたところがある。
 上にもいつた如く眞淵や宣長とてもその思想に神道者から繼承せられたところはあるが、彼等の學問上の地位と事業とは神道者のとは違つてゐた。ところが篤胤になると、それがむしろ神道者に近い。或は國學から離れて神道者に復歸した觀がある。實は道といふものを説く以上、復歸しなければならたかつたのである。眞淵や宣長のやうな内容(461)の無い道では、道をたてることができないからである。彼も神道者の態度や講説を非難して俗神道大意といふやうなものを書いたことがあるが、宣長に傾倒したのも、主としていはゆる道に關するその主張に於いてであつて、古文學などに關する學問的研究の方面についてではなかつたらしいことが、彼のそれから後の著作によつて推測せられ、さうして、既に述べた如くそれに現はれてゐる彼の思想に宗教的傾向の強いことが認められるとすれば、神道者との連繋の生ずる契機のそこにあつたことが知られる。篤胤の思想は時期によつて變化があるので、後になるほど宣長から離れて神道者に近づいてゆくのである。俗神道を罵つたものがその俗神道の徒となつてゆくのである。次には、上に考へたやうな事情から、シナ思想やインド思想を恣に取入れてそれを古典の記載に附會する方法を取つたことが、おのづから神道者のと一致し、從つてまたその神道者の態度を肯定しそのしごとの迹を追ふやうになつたことが、考へられよう。事實、篤胤の大がかりな世界包容説も、三大考の思想を更に擴張し、西洋から傳へられた天文學上の幾らかの知識を眞の理解も無く取入れて古典に附會し、それによつて怪しげな宇宙志や宇宙生成論を構成したことも、神道者にその先驅がある(前篇第二十一章參照)。篤胤みづから曾ては排撃したシナの五行説や陰陽説を容認する如き態度を示すやうになつたことも、また神道者の先蹤に從つたものであり、西洋の天文學説を上記の如くして附會しながら、高天原を北極星に擬する如く、シナの古代思想をも取入れるやうに、何ごとでも思ひつくまゝに利用するその取扱ひかた考へかたも、また神道者と同じである。儒佛の書を引用するに當つて、その場合々々で自己の主張に適する經典やそのうちの片言隻句を恣に取つて來るのも、またその例であらう。種々の異國の思想を取入れることは、篤胤に於いては、一つは、宣長の道といふものが内容の無いものであり、根本的には、我が國の道といふものを説くの(462)が、もと/\さういふ觀念の無かつたのを有つたやうにいひなしたことであるために、それに内容を與へ無から有を造り出すにはかういふことをしなくてはならなかつたからであるが、一つは世界は我が國に從屬するものであり、從つて世界のすべての思想はみな我が國のものであるといふ主張からも來てゐるので、そこから篤胤にも神道者、特に幾らかでも國外の事物に關する知識をもつてゐる神道者、にも共通な態度が取り得られたのである。篤胤の後期の思想に於いては、宣長の中外正邪説が影を潜めてその本末説がかゝる形をとつて現はれたのである。或は宣長の中外本末説がシナの華夷思想の變形である如く、神道者や篤胤がインド思想及び佛教を我が國に從屬させたことには、佛家の本地垂迹説の逆用といふ意味があるともいはれよう。
 篤胤の思想とその考へかたとは、ほゞかういふものであるが、學問的な氣分と態度とが無いためにそのいふところが多數人に受入られ易いのと、彼の言説に一種の強い調子があつて宣傳效果が大きいのと、彼みづからも意識して宣傳につとめたらしいのと、これらの事情のために、直接または間接の追從者が多く現はれた。さうしてそのうちで著述によつて活動したものは、彼の思想の傾向を多くの方面に於いて吏に強く推進したので、野々口隆正の如きがその著しい例である。我が國を世界の本國とし、シナの古帝王もヤソ教の神も我が國の神であるとし、西洋で發達した窮理の學も天文の術も、また儒佛の説も、シナで發生した種々の思想も、みな神代の物語に備はつてゐるとし、古典の記載にそれらを附會することによつてそれを證しようとした。一々はいはないが、これだけでも彼の考が篤胤のを一層誇張したものであることはわからう。たゞ顯幽二界の區別については篤胤とは違つた考へかたをしてゐて、顯界は人の世界、幽界は神の世界、だといつてゐるが、その二界の生じたことをばシナの古典の一記載をそのまゝ適用して(463)説明してゐる。彼は世界のあらゆる思想を我が國の道から出たものとして、その道を本學とか本教とかいつてゐるが、實は外國のいろ/\の思想を本にして、それによつて日本の古典に牽強附會な説明をしてゐるのである。さうしてその附會のしかたは神道者のと同じである。眞淵や宣長の末流はかういふものになりはてたのであるが、その源泉となつたものは、既に考へたことによつておのづから知られる如く、實は眞淵や宣長であつた。篤胤の門から出たのではないが、その主張に於いて彼の説に從つたところの含まれてもゐる橘守部の思想については、煩を厭うてこゝには言及しない。たゞ神と死して神となつた人の魂との住むところとした高天原と、普通人の死後の魂のゐるヨミとを、併せて幽界とし、人の世界を顯界として、人の力は神に比して極めて小さく、また顯界は幽界に包まれてゐる狹い世界であるから、幽界が顯界の本である、といつてゐるのは、神道者の説と宣長のと篤胤のとを、結合したものであることを、一言しておく(このことに關する篤胤の説については第十七章參照)。彼の考へかたはもとよりのこと、秘事とか口傳とかをいつてゐるところまで、神道者の舊に復歸してゐることは、今さらいふには及ぶまい。
 かう考へて來てこゝに附言すべきは、篤胤などが儒教や佛教を上記の如く取扱ひ、それらが全體として如何なる思想を宣傳したものであるかをも、兩者の間に如何なる違ひがあるかをも、顧慮せず、またさういふ思想が如何にして生じたかをシナ人やインド人の實生活との關係に於いて尋ねようとせず、從つて我が國の古典に現はれてゐる思想とそれらとの間に接觸するところがあるかないかを考へてみることをしなかつた、といふことである。もつともこれは、神道者も曾て試みなかつたことであるのみならず、儒家自身佛家自身も問題としなかつたことであるが、篤胤などの如くそれらと古典の記載とを結合しようとすれば、先づこのことを思慮しなければならなかつたのに、彼等はそれに(464)は氣がつかなかつた。ヤソ教の神にさへ上記の如き考へかたを適用した彼等が、その神の観念とその成立の由來とには少しも考を及ぼさうとせず、イスラエル艮族の苦惱の歴史の生み出したこの民族に特殊な宗教的信仰を繼承すると共にヤソ教の形成によつて新しい精神を與へられた一神思想そのものの本質が、ヤソ教徒をして、その教が世界に於ける唯一の眞實なる宗教であり、すべての人類はそれを奉ずべきである、といふ信念をもたせるやうになつたことを知らなかつたのは、當時にあつては當然でもあるが、それでありながら、極めて輕々しくかゝる取扱ひをしたのである。學問的方法が彼等には理解せられてゐなかつたのである。勿論、現代の日本の學界に於いてすら困難であるかういふしごとを、當時のいはゆる國學者、特に篤胤やその後繼者、に向つて求めるのは、いふまでもなく、むりであるが、一方に於いて着實な學問的研究を行ひ不朽な業績を遺した宣長もまた、この方面のことについてはやはりそれができなかつたところに、彼が道といふやうなととを説くことのむりがあつたのである。
 さて以上考へて來たところを總括してみると、眞淵宣長の系統に屬するいはゆる國學者の説いた神の道といふものは、すべて書物から得た知識によつて構成せられたものであり、さうして後出のものは前出のものに屋上屋を架するやうな態度で何ごとかを加へ、または少しくそれを變改したものであることが知られる。篤胤は宣長が倭ごゝろ漢ごゝろといつたのによつて更に生倭意生漢意といふ語を案出したが、それはこのことをよく示してゐる。彼等は神を説いてもその思想は自己の宗教的心情から出たものでも、一般民衆の神觀によつたので為ない。篤胤の思想に宗教的傾向があるといつても、それはたゞことばの上に於いてのことであり、さうしてそれとても、その態度から見ると敬虔な宗教的心情から發したものとは考へ難いやうである。また神の祭祀崇拜は民間信仰の表象として民衆の日常の生活(465)または何等かの儀禮に現はれてゐるのに、國學者のいふところはそれとは殆ど關係が無いが、これもまた神道者のと同じである(前篇第二十二章參照)。たゞ宣長が神の祭祀崇拜を重んずべきことを説いたことは注意せらるべきであるが、これは彼の神の道の觀念とは交渉が無く、また世間的關心の深かつた篤胤は神葬といふことや家々で死者を神として祭るべきことを説いたらしく推測せられもするが、もしさうならば、これは佛家によつて行はれてゐた現實の風習によつて佛の名を神に變へたものであらうと考へられる、といふことを附言しておかう。
 普通には國學者といはれてゐないかも知れぬが、眞淵宣長の系統の外に立つて特殊の思想をもつてゐたものもあるので、その最も著しいのは富士谷御杖である。語學者でもあり、言靈についての特殊の説をも立ててゐたが、神についても一家の見をもつてゐた。神代の物語を歴史を語つたものとはせず、神武天皇の作られた教であるとしたので、そこに帝王の教を説く儒教思想が潜んでゐるが、神が實在の人ではないことになる點では、宣長の主張と一致しない。さて神には、人の外なる天地にあるのと人の心のうちにあつて神氣といはるべきものとの、二つがあるが、この二つはその本質に於いて同じであるとせられ、そこに神道者の天人合一觀と心の神をいふこととのおもかげがある。また神氣は欲であり、それに對するものとして理が心のうちにあるが、欲は人としては本質的なもの生そのものの根本から生ずるものであり、さうして理はそれを抑制する道徳的規範としてのはたらきをすべきものでありながら、實はその力が無い、却つて神氣である欲から道徳が生ずる、といつてゐるところに、儒教道徳から情(欲)を解放しようとした宣長の思想と通ずるものがある。人の外にある神を祭ることを認めながら、それよりも内にある神氣のはたらきに重きをおくのであつて、それによつて御杖の神の觀念が宗教的であるよりは道徳的であることが看取せられ、その意(466)味では神道者のとも宣長のとも違ふ、御杖に特殊な、考へかたである。この神氣の説は前章に考へた堀景山や三浦梅園の思想とおのづからなる關聯があるが、たゞ神氣の語の用法は梅園とは反對である。彼の説は北邊隨筆と古事記燈とで一致しないところもあり、外なる神と内なる神氣との關係に於いても明かでない點があるが、ほゞ上記の如く解せられる。道徳といへば儒教を聯想するのが常であつた當時の一般の傾向と、遙かに趣きを異にするものであるのみならず、今日から見れば注意すべき思想を含んでゐる。もつとも彼の思想には神道者や宣長や儒家の説とそれ/\につながりのあるもの、幾らかはそれらから示唆せられたところのあるもの、もあるやうに推測せられるが、たゞ日本は世界の本國であるといふやうなことをいはず、叨りに儒教や佛教の思想を日本の古典に附會することをもしなかつたことは、學者的態度である。しかし彼の見解は學界にも世間にも影響を與へたことが少かつたやうである。これらの點に於いては上にいつた伊勢貞丈の説と似たところがある。
 國學者の思想に對する著者の見解はほゞ上記の如きものである。眞淵宣長及びその思想的繼承者の主張が、儒教に惑溺しやゝもすればシナ崇拜の陋習を脱しない知識人の多かつた當時に於いて、「我が國」といふ觀念を世人の腦裡に植ゑつけたことには、十分の意味があるので、その點では彼等の功績を認めねばならぬ。たゞその鼓吹したところが、空疎な國自慢の誇張せられた言辭であり、事實に根據を置かない獨斷説、文字上觀念上の恣な構成であつて、この點では過去の神道者のしわざの、またそれと共に儒者の態度の、繼承者である。かゝる言辭よりも、眞淵宣長及びそれによつて導かれた一群の學徒の着實なる學問的事業に於いて、却つて我が國の言語及び一般の文化の特質が具體的に闡明せられたのである。やまとだましひの主張にも意味はあるが、他面に於いては秋成のいつた如く「どこの國でも(467)その國のたましひが國の臭氣」(膽大小心録)であることをも考へねばならぬ。しかしかういふ誇張せられた國自慢の説き得られたのは、やはり鎖國時代であつてせ界の状態を知らなかつたからであることは、いふまでもない。それは恰も、江戸の外を知らぬ江戸人が江戸よりよい處は無いと思つてゐたのと、同じ心理の現はれである。或はそこに他國を卑しむ封建的氣風の影響もあらうか。
 時勢の影響はこればかりではない。眞淵も宣長も、皇室の一系であることを極力高調して説いたけれども、それと共に記紀ャ姓氏録などに見えてゐる、諸氏族が何れも同じやうにその出自を皇室としてゐることには、さして重きをおかなかつたやうである。これは一つは、易姓革命の主張とは違つて彼の敵として目ざす儒教の思想にかういふことに關係のあるものが無かつたからでもあるが、一つは、當時の現實の状態が上代とは違つて、皇室は、少くとも一般國民から見れば、すべての氏族から超越した至高の地位にあられ、國家全體としてもかゝる氏族關係を顧慮する必要が無かつたからである。我が國は一家族の發達したものである、といふ明治時代になつてから盛に宣傳せられるやうになつた思想に至つては、宣長などの全く考へなかつたところである。篤胤は人はみな神の子孫であるやうにいつてゐるが(古道大意)、それは別の意義のことである。この思想は上記の如き古典の記載を歴史的事實と信じ、それによつて統一國家の性質と成立の由來とを説かうとしたものであるが、また國家の統一が鞏固になり國民が一つの集團であることの自覺の生じた時代であるために、それが事實である如く考へられたのでもある。一般民衆がその日常の生活に於いて一國民であるといふ考の弱かつた封建の世では、かういふ思想が生じなかつたのは當然であらう。或はまた封建制度世襲的身分制度を、何等の理由をも述べずして、正當なまた最良な制度のやうに説いてゐ、人の平等觀を(468)排斥してゐるのも(直毘靈、葛花、大平の古學要、守部の神風問答)、また道を行ふことは上にある君の務であつて下にゐるものの事ではないといひ、臣は論議をせずにたゞ服從すぺきものだといふのも(玉勝間、神代直語)、徳川の世の中だからである。なほいはうなら、宣長が人の意志と力とを重んじなかつたのも、實は權力者の命令と世の習はしとが尊重せられて、その外に出ることのむつかしかつた時代だからのことである。さうしてかの古代崇拜や知識の排斥やが、そも/\文化が停滯し社會が固定してゐて、人々が現状に滿足せずして新しい生活を展開してゆかうとする意氣ごみの弱かつた時勢であつたからである。國自慢を未來に期待せずして過去に求めたことにも、同じ事情があつたらう。また特殊の問題についていふと、眞淵が武勇を日本人の特色とし、篤胤がそれを承けて大和心をその意義のこととしたのも(古道大意)、やはり武家の世だからであつて、神道者が日本を武國としたのと違ひは無い(前篇第十四章參照)。儒者のうちにも同じやうな見解をもつてゐたものがあるが、これにもまた同じ理由があらう(前章參照)。眞淵が萬葉の歌を男々しいとして揚げ古今以後の歌を女々しいとして抑へ、また實朝とその歌とを稱讃したのも、その根本は同じところにある.大和心については、宣長がそれを朝日に匂ふ山櫻花に擬してその美しさを嘆稱したのであるのに(大平の信友に答へた書)、篤胤に至りてはそれが全く別の意義に解せられたのである。後に黒澤翁滿も志築忠雄のケムペルの抄譯の跋に、日本の武國であることを強く主張してゐる。上代の我が國民は概して平和な生活を迭つて來たのに(貴族文學の時代序説)、上代崇拜の國學者が國民の精神を武にあるとしたのは、事實に背いた考へかたであるが、平和の世に於いても「大丈夫や下には人を戀ふれども益良夫さびて現はさずけり」(魚彦)、「楯なみてとよひあひにし武夫のこてさしが原は今はさびしも」(宗武)、「今日とてや大和河内のいみき部の太刀上る萬代の(469)聲」(枝直)など、戀にも土地にも年中行事にも、をりにふれて武人的感情を示さうとするこの時代の國學者の思想が、對外問題から何等かの事變の起るべきことが豫想せられて來た幕末に至つて、かういふ形をとつて現はれたのは當然であらう.たゞ宣長は武に重きをおかなかつたが、これは彼の個人的趣味によるのである(第十八章參照)。
 しかし國學者の思想の根據となつてゐるものは古典の記載または上代の状態であるから、それには江戸時代の現實の形勢と一致しないことが多い。が、國學者はそれによつて現實の状態を變改しようとはせず、たゞ言辭の上でそれに上代的粉飾を加へることによつて滿足した。例へば江戸の幕府を「天皇の遠の御門」と稀し(眞淵の雜文、枝直のあづま歌、雅澄の山齋集、など)、封建諸侯を「大君の御楯」といふやうなのがそれであり、長崎貿易を朝貢と解してゐるのも、その類である(靈の眞柱、稜威雄誥、神代正語〕。幕府が昔の太宰府などと全く性質の違つたものであり、封建制度が戰國割據の遺風であること、貿易に朝貢の語を用ゐるのがシナ人の摸倣であることは、彼等とても知らなかつたのではあるまいに、かういふことをしたのである。現實の制度などは彼等の思想によつて動かすことのできないものであるから、かういふ態度をとつたので、それは恰も前章に述べた儒者や漢詩人のしわざと同樣であり、そこに一種の遊戯的態度がある。宣長や後の隆正などが、皇室の下にある將軍と外國の帝王とを同一地位に置くといふ理由で、對外關係上、幕府の存在を是認してゐるのは、皇室は世界に君臨する地位にあられるとする彼等の主張が、現實の制度によつて證明せられたやうに考へると共に、現實の制度を彼等の主張に適合するものの如くいひなさうとするものでもあつて、そこに上記の例と同じ心理の現はれがある(馭戎慨言、本學擧要附録)。本來國學者の上代崇拜は、彼等の生活してゐる時代に何等かの缺陷を感じ、それを補ふ何物かを上代の精神に求め得たからでもなく、自己の内(470)生活の要求するところを上代の思想の何の點かに認めたといふのでもなく、むしろ上代だから崇拜するといふ一種の因襲から來てゐる。だからそこに強い情熱が無いのは當然であつて、徒らに文字上の遊戯に終るのも自然の勢である。が、かういふ文字上思想上の遊戯も、政治に關係のあることについては、シナ風の名分論と同様、現實の時勢そのものが動いて來るやうになると、その場合の生きた國民感情がそれに移入せられて、實世間にはたらきかける。理説を以て人に示さうとした國學者の思想が、詩人的な情熱を帶びて叫ばれて來る。幕末の状態が即ちそれである。
 最後に附記する。この章では儒學を取扱つた前章とは違つて、ほゞ國學の史的敍述のやうな形をとつた。それは、一面では思想そのものの展開により、他面では學者の性格や時勢の影響などによつて、眞淵宣長篤胤と次第に思想の變遷して來たことが、儒家の學派の盛衰とは趣きを異にしてゐるので、それによつて國學がともかくも日本の思想界の所産であることが示されてゐるからである。
 
(471)     第十六章 知識生活 三
       國學とその影響 下
 
 眞淵や宣長の主張が公にせられると、その反響は忽ち各方面に生じた。そこでそれらが如何なるものであつたかを管見しておかねばならぬ。儒者がそれに反對するのは當然であつて、その主要な點は、智能の排斥を非とし(國意考辯妄に見える林※[火+韋]の序)、國學者の説には教の内容が無いから修身治國の道にはならぬとし(帆足萬里の東潜夫論)、マガツヒの神の説は人の道徳的責任を無視するものであるとする(會澤安の讀直昆靈)、ことなどであつて、これらは何れも適切な非難である。しかしいはゆる道の論になると、儒者は儒教の説くところを以て、或は天地自然の道とし、或は萬國を通じて渝らざるものとするのであつて、それには何等の説明も論證もしてゐない。また徂徠派凋落の後に於いては儒者も道を聖人の作るところとはしないのが常であるから、徂徠派の説によつて論を立てた國學者の思想をこの點から反駁するのは、抽象的な道の觀念の問題である限り、おのづから的が外れたことになる。さうして具體的な問題になると、國學者の主力を注いだ政治の道に於いて、彼等と同樣、禅讓放伐を非とすること、少くとも我が國に適用すべからざるものとすること、に於いて悉く一致してゐるから、儒者はこゝで治國平天下の道の根本思想をみづから破壞したことになる。そこで彼等は日常彜倫の道に重きをおいて説を立て、それは儒教による外は無いと主張すると共に、儒教は我が列聖の尊奉せられたところであるから儒教を奉ずるのは即ち列聖の遺訓を守るものである、といふやうに論ずるのであるが、この後の方の説は、おのれ等が列聖の尊信せられた佛教を口を極めて罵つてゐるこ(472)とと、全く相容れぬものであつて、儒者の主張の恣意なものであることを示すに十分である(讀直毘靈)。
 儒者の多數は國學者の主張に反對したけれども、中には、例へば寺門靜軒の痴談の如く、儒者の偏僻を攻撃した點に同情するものもあつた。また例へば紀維貞の國基の如く、孔子の夷齊をほめたことを引いて湯武はその非とするところであつたと論じ(藤井高尚の松の落葉に見える如く國學者にも同じ考がある)、或は「唐堯傳舜舜傳禹、瞽子※[歹+極の旁]兒俄至尊、無訝他人主重器、從來同一出軒轅、」(篠崎小竹)といひ、シナのこととしても易姓の事實を認めまいとし、我が國の風習にあふやうに儒教を解釋しようとしたものもあつた。なほ國學者の自國本位の思想には賛同するものが多かつたので、「所使何命學何道、有顔能結李家纓、」(遣唐使日本樂府)の如く、昔の阿部仲麿を攻撃した詩人もあり、淡窓をして「西風不與歸帆便、莫説※[日/兆]卿是叛臣、」と辯護せしむるに至つた。山陽が秋山玉山の富岳を詠じた「帝掬崑崙雪、置之扶桑東、突兀五千仞、芙蓉插碧空、」を改作して「帝掬芙蓉雪、抛作崑崙山、雪汁即黄河、卻向東海還、」といつたのも、崑崙を主とするのを排して富岳を本としなければならぬといふのであり、同じ人の「扶桑葉間金烏躍、一葉陰蔽赤縣國、四百餘州夢未醒、群仙卯飲看海色、大甑小甑炊瑞穗、稻姫釀酒神皆醉、……」(大和遊仙詞)にも國の誇りが歌はれてゐる。これらは必しも國學の影響とのみ速斷することはできず、仲麿の攻撃は安積澹泊などにも既にその説があり、自國本位の考は山崎派の思想にもあつたが、「天中之國是大和、瑞穗扶生五色禾、……白櫻之枝桂朝彩、請君三復大和歌、」(中國頌鐵兜)に至つては、明かに宣長の精神が現はれてゐる。同じ人の三景合一畫卷歌が「瓊矛一滴流還峙、散作千山與萬水、」に筆を起し、三景の勝を敍して廣く五大洲にその批判を求め、シナの王室の革命相つぐのとは違つて「天皇大寶長無渝」き我が國が「副之洲島盡神境」であることを誇り、「以爲萬歳鎭國之寶鼎」と結んで、(473)風景を國體論に結合してゐるのも、またそれに縁が無いとはいはれぬ。我が國の風景がシナのに勝つてゐるといふ考は、寧靜閣集の旭莊の題辭にも見えてゐて、この時代の思潮の一面がそこにも現はれてゐるが、この詩がそれを神代史の物語から説いて來たところに、國學者に啓發せられたらしい形跡がある。佐久間象山の次韻歐陽脩日本刀歌や次韻明太祖倭扇行も、またシナに對して我が國と我が皇室とを誇つたものである。これらの詩の作者は必しも儒者といふべきものではないとするにしても、それと縁の深いものであることはいふまでもない。だから學問的にも我が國の特殊の政治形態と儒教との調和を考へるものが生じたので、前に擧げた國基の如きもその一つである。學習院の榜聯に「聖人の至道をふみて皇國の懿風を崇ぶ」とあるのも、同じ思想から出たものであらう。儒者もしくは儒者系統の學者が一般に「我が國」といふことを考へて來たのは、直接間接に國學の影響があり、或は國學の行はれるやうになつた思潮の故であつて、國史略、皇朝史略、日本政記、などの作られたのもその一現象である。が、このことはいはゆる水戸學に於いて最も力強く且つ特殊の色彩を帶びて現はれてゐる。さうしてそこに現在の事實として對外問題の生じて來た時勢の影響がある。
 水戸學の中心思想はシナ風の名分論にあるので、それによつて、皇室が政權の本源であるといふ思想の下に成立してゐるものとしての幕府の存在を肯定する理論を立てたのであるが(前篇參照)、それと共にシナの華夷説を逆に適用して我が國を中国と視るところに、日本本位の思想が現はれてゐる。藤田幽谷の正名論なども幕府については同じ考であるが、この人の「宇内至尊天日嗣、須令萬國仰皇朝、」には、對外問題に刺戟せられたと共に、國學から受けた影響がありはしまいか。東湖の正氣歌の「天地正大氣、粹然錘神州、」、また「神州孰君臨、萬古仰天皇、皇風洽六合、(474)明徳※[人偏+牟]太陽、」には、このことが高い調子で歌はれてゐるので、主として對外的觀點から皇室を見たのであり、時勢の變化と共に國學思想の一面である中外本末の説が新しい色彩を帶びて現はれてゐる。弘道館記の「照臨六合、統御宇内、」もまた同じ思想であつて、東湖の述義に「絶海遠洋之外、蠻夷戎秋之郷、亦將無不慕我徳輝仰我餘光、」は一層それを明かにしたものであるが、但し他方では「尊王」を「攘夷」に結合することに於いて、それに矛盾する考へかたも強く示されてゐる。もつともこれも國學思想の他の一面である中外正邪説と相通ずるところはあるが、水戸派のは、次にいふやうに、それとは異なる點もあるから、これには別に由來するところがなければならぬ(後文參照)。なほ水戸派の思想は弘道館記の「祀建御雷神」に於いて神道と結合してゐる。しかしその思想の内容はどこまでも儒教にあるから、「奉神州之道、資西土之教、」といひ「營孔子廟」といつてゐる。弘道館記の尊王攘夷は「我東照宮」の功業として記されてゐるから、水戸思想の中心が神道によつて象徴せられる日本の國家と儒教と徳川家との三位一體にあることが知られる。これは大神宮と四書五經と家康の遺訓とを床の間に安置したといふ白川の立教舘の精神と同一であるが、大神宮ではなくして領内の鹿島の神を祀つたところに、水戸人の氣分が現はれてゐるのであらうか。
 さて水戸學のこの思想は、儒教の説く人倫は天地自然の道で(國學者とは反對である)、我が國の上古にも事實上それが存在したのであり(この點には宣長と通ずるところもある)、儒教の傳はつてからはそれによつてます/\綱常が立つた(これは國學者と違ふ)、さうしてそれは我が國とシナとは風氣人情が同じであるからである(國學者とは反對)、皇室の一系であることも、敬神祭祀の風習も、本來、君臣父子の人倫の現はれであつて、この人倫の道から我が「國體」も生れてゐる(これも國體から道徳が派生したやうに考へてゐたらしい國學者とは道すぢが逆になつてゐる)、(475)が、我が國は世界の中で正氣を得た國であり、この點でシナにも優つてゐるから、人倫が特に正しく行はれ、中にも君臣の義に於いては世界萬國に秀でてゐる(こゝに國學的臭味が加はつてゐる)、しかし堯舜の道も畢竟それと同じである(國學者と反對)、だから尊王は即ち儒教の道で、それが我が國の精神でもあるが、馬子によつて明證せられた如く佛教は過去にそれを亂し(佛数についてだけは國學者の一部も同説)、西洋の邪教も今それを犯さんとしてゐる、といふので、そこから攘夷思想が展開せられ、尊王と攘夷とが結合せられるのである(東湖の弘道館記述義、常陸帶、會澤安の閑聖漫録、混食間語、讀直毘靈、など)。國學者のうちに、宣長の中外本末説からせ界包容論を發展させ、後にいふやうに蘭學の與へた知識をも受け入れ、時務策に於いても開國説に傾くものがあるのとは、反對に、これはしつかり儒教にとりついてゐると共に、どこまでもシナ以外の外國を排斥し、實行上の攘夷にさへ進まうとする。そこに水戸人の偏固と彼等の思想に存在したシナ式華夷觀の一面とが見えるので、華夷の主要な觀念はやはり華の夷を包攝する點にあるにかゝはらず、そのことを全く無視したのは、現實に起つた外船事件によつて強い衝動を感じた時代であつたのと、その外國の事情に無知であつたのと、また次にいふやうに彼等が武人を以て自ら任じてゐたのと、の故である。水戸の内部に於ける黨派的感情で知らず/\馴致せられた偏狹な氣風も、またそれを助けてゐようか。しかしこのころの水戸人が、少くともその一面に於いて、宣長の精神に共鳴するところをもつてゐたことは、讀直毘靈や吉田令世の聲文私言よつても知られる。儒教思想によつて皇室のことを考へるのは水戸學の傳統であるが、このころになるとそれに新しい色あひが生じてゐるので、そこに國學の影響があるやうに見えるのである。また水戸學に於いて祭政唯一説の主張せられたことには、或は篤胤の思想と何等かの連絡があるかも知れぬ。會澤の新論によれば(476)水戸學のこの説は、天皇の政は御祖先たる大神の業を繼承せられることであり、その意味で大神に事へられること即ち追孝であるが、祭もまた追孝であるから、祭政は畢竟一である、といふので、儒教思想を根據としたものである。だからそれは篤胤の説とは違つてゐるが、たゞ祭政の唯一をいふことに於いてその間におのづからなる結びつきのあることは推測せられる.或は兩方ともに神道者の思想とつながりがあるのでもあらう。
 水戸學の所説には本來感情分子が加はつてゐるのと、時勢に直接の關係があるのとのために、言議が頗る激越の調を帶びてゐる。そこに散文的な理説を以て人に臨まうとした、また對外問題が現實に起つてゐなかつた平和の時代の、眞淵や宣長の態度と甚しく違ふ點があるが、思惟の方法に於いては似たものであつて、特に儒者風の粗大な考へかたと、漢文に書く場合にはその不精密な語の組みたてと、によつて、それが一層強く感ぜられる。國學者のと同樣の見解については、前章に述べたそれに對する批評が適用せられるが、我が國の政治の状態や風俗習慣を儒教の道徳思想で説明しようとするのも、佛教のために人倫が亂れたといふのも、みな事實を無視したのか、または一二の事件を以て全體を妄斷したのかである。家康の攘夷といふのもキリシタンの禁止を指したのであつて、それを尊王と結合することにはやゝ縁遠い感じがある。ロオマのパッパの權力の下にあつた當時のキリシタンが、日本人の皇室に對する尊崇心を否認するやうな態度をとるものであつたとすれば、その影響の及ぶところ或は測るべからざるものがあつたかも知れぬが、事實に於いてさういふ形迹がまだ明かには現はれてゐなかつたからである。しかしこれらは今日から加へ得る批評であつて、このころの多數人にそれほどの批評眼がなかつたのと、それを主張するものに或る氣魄があつたのとのために、彼等の言説が世を聳勤したのである。
(477) 弘道館記には「尊神道、繕武備、」の語があり、建御雷神を祭つたのも一つは武神の故であらうから、水戸人の思想に於いては、我が國といふ觀念に武國といふことが重きをなしてゐたのである。これには勿論上記の如き時勢の影響もあり、また武人たる水戸の家中で一つの學風を作つてゐたからでもあるが、全體として武家の世であることがその根本となつてゐるから、この點に於いても水戸流の考は宣長以外の國學者のと同一であり、文に重きをおく一般の儒者とは趣きを異にしてゐる.前篇に述べた如く、從來とても神道者は、儒者とは反對に、武士気質の身方であつたが、このころになつても、武士道を口にするものは概ね國學者風の國自慢をその思想に加味し、日本は武國であつて日本の外國に優つてゐる理由がそこにあると説き、または建國の精神を武にありとする風がある(松宮觀山の學論、高山健貞の治亂要訣、中村元恆の尚武論、など)。神武天皇の御諡號はその最も適切な證據とせられ、「敬神與奮武、貽謀垂後昆、」(詠古雜詩東湖)と歌はれたのである。林子平が能の鼓笛などは日本人にふさはしい武勇の音であつて、それを殺伐だといふのは唐人気質だといつてゐるのも、やはり同じ考へかたである(父兄訓)。但し水戸學で國風の衰へを佛教の罪に歸したに反し、純粹の武士道論者はそれを儒教の責とする傾きがある(例へば高山正英の守行矩)。これは儒教が文を主として武を卑しむやうに考へられたのと、その易姓革命の是認との故であつて、そこにも武士道論者の思想が國學者の主張と相通ずる點がある。もう一歩進んでいふと、武を國自慢の旗じるしにすることには、文の國であると考へられてゐたシナに對抗する意味もある。
 次に考ふべきは一般の和學者及び歌人に與へた國學の影響である。同じ眞淵の門流でも文人もしくは和學者として見られるものは、その自然の傾向として眞淵の道の論については概して無頓着であつたが、宣長の説になると殆どみ(478)な反對の見を有つてゐた。みづから儒者だと稱した春海は別としても(和學大概)、その系統に屬する與清も宣長の説を喜ばず(松屋筆記)、彼等の交友であつた雅望も宣長を攻撃した(ねざめのすさび)。秋成が宣長を嘲罵してゐることはいふまでもないが、前に述べたことのほかに、國風の變化するは當然であるとし上代崇拜を非とするなど、その説は頗る正鵠に中つてゐる。偏竟な黨派感情は和學者の間にも強かつたから、彼等の所説がみな冷靜な思索の結果であるとのみは評せられないが、宣長の説が反對せられたのは決して理由の無いことではない。宣長の神の道の追隨者は多分神職の徒に多かつたであらう。しかし一方に於いてはその影響もまた少なくなかつたので、歌に關してひどく國學者に反對するやうになつた景樹の思想に、その實、宣長の主張が力強くはたらいてゐることは、古今集正義の總論を見れば明かである。瑞穗の説も音の清濁論も、要するにその日本優越論は、みな宣長の見解である。歌には自然に調べがありシナの詩は故らに調べをつけるものだ、といふ歌と詩との優劣論は宣長の見解とは少し違ふが、その論の根據となつてゐる性情秀靈、聲音正清、言靈靈妙、の思想は、どこまでも國學者的である。直好の補註の儒教攻撃や國俗論も同樣に見なされる。たゞ、知紀の考は少し違つてゐるが(經義大意)、これは彼の儒學の知識から來てゐるらしい。景樹が歌に於いて思慮を遠ざけ義理を排し自然の性情にすべてを歸したのも、宣長の説に由縁が無いとはいはれぬ。少し別のことになるが、萩原廣道の源語評釋に末摘花の人物について、大體は美しくない人のやうにしてあるが中に好いところもあるやうに描き、よきはよくわろきはわろく方つけてしまふ物語の弊に陷つてゐないことを賞めてゐるのは、やはり宣長に由來があるらしい。但これらの諸家は神道にも觸れず、日本を世界の本國とするやうな思想にも共鳴しなかつたやうである。しかし歌人曙覽は本來宣長の學統に屬するものであるから、おのづからその思(479)想を繼承し、「からになる蝶には大和魂を招きよすべきすべもあらじかし」(書中乾蝴蝶)など、だじゃれながら、かかることにも大和魂を思ひ出してゐる。なほ「今日よりはみかど尊みさひづるや唐國人に諂ふなゆめ」といふやうな元義の歌にも、國學的思想は著しく現はれてゐる。また篤胤の思想は一時世を風靡した觀があり、次篇にいふやうに歌などの上にもその影響は現はれてゆくが、これには上に既に述べたやうな理由があると共に、かの攘夷論の流行と同じく、幕末の動搖せる人心が、靜かに事理を説くものよりも聲を大にして呼號する宣傳に乘り易いといふ事情もあり、思想としては尊王論の風潮に助けられまたそれを助けたからでもあらう。
 しかし通俗文學の方面には國學の思想の影響が多く認められない。上に述べた如く三馬の作に國學を嘲つたところがあるが、これは固より戯作者の戯言に過ぎぬ。馬琴の作には文字に於いて宣長から來てゐるらしいものはあるが、それは必しも思想が取られたのではない.小説などの思想界に於ける地位のためであらう。俳句に於いても「我が國は草も櫻を咲きにけり」、「唐人も見よや田植の笛太鼓」、「けふからは日本の雁ぞ樂にねよ」(以上一茶)、などは、必しも國學といふやうな特殊な思想に由來があるのではあるまい。たゞ「我が國」といふ觀念が俳人にも強く現はれてゐる點に、全體としてのこのころの思潮の一面が知られるのみである。
 神道者が思想の上に於いて國學者に強い後援者を見出し、從つてその説を幾らか取入れるやうになつたことは、おのづから推測せられよう。吉田家で神道を天皇の天下を統治せられる大道であるといふいひかたをしたり(神道正統記)、白河家で神道を世界の道とし天皇を萬國一君の眞天子とし、また「神ながらの」道の語を用ゐたり(神社伯家學則、神道通國辨義)、したやうなのが、その一二の例である。神道を帝道としてゐることは、必しも圍學者の説から來(480)たとしなくてもよいが、上記の言説には從來の神道者からよりは、宣長または篤胤の思想、特に篤胤のに、由來のあるものがあらう。通國辨義に西洋の天文説を取つてあるのも、國學者の影響らしい。神道者の所説も局部的には時勢と共に常に變化してゐる。勿論、神道者の一般的態度は、國學者のと違つてゐるが、これは前々からの因襲といふことの外に、ともかくも幾分の宗教的性質を有つてゐて民衆の實生活と或る接觸を有する以上、それの無い國學者には追從し難いといふ理由もあつたらう。神道者の所説は牽強でもあり附會でもあり論ずるに足らぬところが多いが、天地生々の氣を説くところなどに、國學者の説よりもむしろ力づよい點のあることは、注意を要する。
 最後に世の經濟家に與へた國學の影響を一瞥しよう。後章に考へるやうに佐藤信淵は篤胤に從遊してゐるが、その混同秘策の官制案に於いて神事臺の設置を説いてゐるのは、昔の令の制度の復活であると共に、國學の思想にも由來があらう。二宮尊徳も、その開國(土地の開發)の主張は天祖の事業を繼承しその精神を發揚するにあることを、強い語調で説いてゐる.その門下に篤胤の思想の追從者の生じたのも偶然ではない。また大原幽學は武士道を尊尚して、それを神代より傳はつて來た道であるといつてゐるが、武士道についても神代を想起したところに、注意すべき點がある。宣長とほゞ同時代に一種の空想的變革思想を抱いてゐた安藤昌益が、儒教及び佛数を激しく非難して、それらの入つて來なかつた前の純粹日本を尚慕してゐるのも、考慮に加ふべきであらう。彼等は上に述べた如く一面に於いてシナ思想にも依據してゐるが、それと共にかういふことをも考へてゐるところに、儒者の間にも日本人であることの自覺の生じて來た時代の思想的傾向が認められる。
(481) 國學者にはそのいはゆる道に關する主張とは別に、國語學國文學または國史學上の研究があつて、それが日本の文化に大なる寄與をしたことは、上に既に説いた.それとても、例へば鹿持雅澄がことばの道が即ち皇道であるといつてゐるやうに、一方では國學者的氣分が絡みついてゐるために、今日の意義での純粹の學問としては、ともすれば横みちに入る傾向がありながら、大観すればそれとは獨立な價値を有つてゐる。固よりそれは上に考へた如く倭學者によつて道が開かれたものであり、またシナの考證學に刺戟せられたふ*しもあるが、宣長及びその學問的研究の系統を傳へてゐるものの功績の大なることは、明かである。宣長のこの方面の事業と古事記の盲目的信奉およぴ道の主張とは、全く別人に屬するもののやうであるが、それの結びつけられてゐるところに、國學といふものの構成せられた特殊の意味がある。それは、一方ではシナ本位の儒者の思想に對抗して日本本位の思想を樹立しようとし、その面では道徳及び政治の道を説くのが學問であるといふ儒者の因襲を繼承しつゝ、他方ではかゝる日本の道を説くことが、おのづから學問は異國の書を學ぶことのみでなく、おのれ等の生活してゐるおのれ等の國の事物、おのれらの生活現象、を明かにするところにその本色があることを、強く自覺させることになり、それによつて儒者から傳へられた上記の因襲から離れ、學問をかゝる狹い制約から解放して、事物の眞相を探求し闡明するといふ眞の學問的研究にその力を用ゐさせながら、なほこの二つが結びついてゐたことを示すものである。さうしてかゝる學問的方面の國學者の事業は次章にいふ蘭學によつて開かれもしくは促進せられた天文地理の學や自然科學の研究、また第二章に述べた如き幾多の好事家の生活の餘事として行はれた地理風俗などに關する記述、もしくは河村秀根などの律令の研究、塙保己一の系統の考證の學、或は富士谷成章御杖父子の言語の研究などと共に、江戸時代後期の學問界に於ける一大偉觀をな(482)すものである。これは學問の大勢からいふと、儒學によつて抑へられてゐた知識欲研究欲が漸次その頭を擡げて來たことを示すものであつて、和學者及び國學者も期せずしてかゝる新運動の有力なるはたらきをすることになつたのである。先輩に白石などがあるにかゝはらず、儒者の側に於いてかういふ方面に向つたものの少いのは、どこまでも教を説くといふ空疎な觀念に囚はれてゐたのと、漢文によつて養はれた考へかたが學問的研究法を取ることを困難にしたのとのためであるが、また儒學から離れてこれらの新しい學問が起つたからでもある。さうしてかういふ國學者のしごとが學問の側から「我が國」といふことを切實に意識させる效果を生じたことは、既に述べたところである。
 國學者の研究法には缺點もあるので、その資料が主として書物とその記載とに限られ、從つてその主題もまた概ねかゝる資料によつて考へ得られることに止まつてゐたことも、その一つであり、何ごとについても歴史的發達といふことを考へなかつたことも、それである。なほ多數の學者に於いては故事を多く知るのが學問のやうに考へられてゐたことは、隨筆的著述の多いことからも知られ、文字や古語の解釋に重きがおかれてゐたことは、古文學の注解を見ても明かである。物語の解釋に於いても、或る作品の全體の精神を看取してそれを解説しようとする用意が少く、歌に於いても、景樹の古今集正義が異彩を放つてゐるくらゐのものである。けれどもこれらは倭學者のしごとからの繼續でもあり、また儒學の因襲から纔かに脱却したばかりの状態としては、已むを得なかつたことであらう。さうして上記の如き資料によりながら、實證的また比較的歸納的方法のとられたことは、特に注意を要する。古典時代の國語の法則を發見したなどは、全くこの新方法の賜である。國學者の系統には屬しない故實家やまたは藤井貞幹穗井田忠友やの古藝術に關する述作も、やはり斷片的であり骨董的でありはするが、かういふ研究の端緒を開いた點に於いて(483)功績のあることはいふまでもない。
 かういふ風に學者のしごとが斷片的であるから、他人の説をとつて我がもの顔をする便宜もあり、さういふ非難も受け易い(しりう言)。このことと、他人の説に於いて自己の考に合はない點もしくは缺陷と認められる部分のみを指摘して、聲高くそれを攻撃することとは、我が國の學者に最も多い缺點であつて、前者には他國に發達した學問を學ぶといふ我が國の文化的地位から自然に馴致せられたといふ意味もあり、獨創性が少く從つてまた他人の獨創を尊重しない缺點がそこにある。また學問の領域が狹く問題が少いから、その間に於いて「我」を立てるためにはおのづから他人の説を攻撃するやうになる、といふ事情、人によつては學問そのことに興味をもつよりもそれを世渡りの方便とする傾きがあることは、後者の重大なる原因となつてゐる。さうして兩方とも自他の個性を尊重しないことは同一であるが、その根本には封建制や階級利から誘致せられたところのある感情の偏僻、寛容の徳の無いこと、外見を以て人を壓せんとする態度、などがある。國學者もしくは和學者にもこの通弊を免れないものがあつた。しかし宣長がその門人に對して自説の信奉を強要せず、また秋成が獨學を尚び自己の識見を重んじ「私」をよしとしたやうなのは(春雨物語、膽大小心録)、そこに温厚な宣長や一癖ある秋成の個性が認められると共に、儒者の習癖から脱離することを努めた國學者の態度も覗はれる。
 
 國學を觀察してその儒教や佛教に對する關係をも考へたついでに、いはゆる三教の間の交渉についてのこのころの學者の考へかたを一言しておかう。本來政治道徳の教である儒教と宗教である佛教とが、全く性質の異なるものであ(484)るにかゝはらず、儒者が佛教を宗旨敵きのやうに取扱つてゐることについては、既に前篇(第二十一事)に述べた。概していふと、儒者は人生に存する宗教の要求そのものを是認せず、たゞ道徳的解釋を附會し得る神の祭祀をば容認するに過ぎなかつたが、中には、中井履軒などの如く、鬼神の存在を否定して經典に見える祭祀を俗に從ふ聖人の方便とし、從つてまた我が國の神の祭祀をも是認しないものすらあつた(山片蟠桃の無鬼論辨)。だから祈祷教としての佛教が彼等に排斥せられたことは、當然である。しかし儒者の佛教を攻撃するのは、主としてその非現世主義出世間主義や來世の思想及びそれに伴ふ因果應報觀などについてであつて、彼等の多くは、知識として佛教の教理を非難することが直ちに佛教の宗教としての存在を否定するものであるかの如くに、思つてゐたらしい。儒者ばかりでなく、富永仲基の出定後語や服部蘇門の赤裸々が、佛典そのものの研究によつて、經の多くが眞の佛説でないことや、またその中に含まれてゐる種々の所説の由來や、を考へたのは、必しも宗教としての佛教に對する批評ではないが、彼等がかういふ意見を述べたのは、それにょつて佛教の宗教的信仰そのものを否認したつもりであつたかも知れぬ。だから佛教を寛容するにしても、畢竟は愚民に對して世間的道徳を教へる方便として、それを見るに過ぎなかつた(例へば萬里の入學新論)。三浦梅園が感應の理を以て鬼神を説きその人格化せられる心理を論じ、佛教についても「世人知天堂地獄之説出浮屠、未知出人情、」といつて、來世に於ける應報を人情の要求であるとしてゐるのは(贅語)、儒者としては珍らしい考であるが、それでもやはり今人の考へるやうな意義での宗教の性質には觸れてゐず、救濟といふやうなことは考へなかつた。全體に一種の合理主義的傾向があり、また現實の生活を人としての究極のものとしてゐる當時の知識人の思想としては、これは自然であらう。當時の人心を支配してゐた武士道に宗教的情味の無いことは、(485)前篇(第十三章)に考へておいたが、これもまたその一つの現はれと見なされよう。
 だからこの間に世に現はれた國學者も、根本に於いてはやはり同樣であつて、宣長以後のものが神の道を力説したところに宗教的意義が含まれてゐるにかゝはらず、それは主として知識もしくは思惟の上の問題としてであつて、體驗から出たよりは古典の文字の上から來てゐる。宣長は人智の限りあることと神の力の測るべからざることとを主張してはゐるが、その態度は甚だ理智的であり説明的であつて、やるせなき人生の苦惱の叫び、神によつて與へられた救濟の喜びなど、要するに切實なる宗教的信仰として今人の考へるやうな性質のものは、そこに現はれてゐない。上にいつた如く神の力を人の力の強大なるものとしてゐることからも、それは知られよう。篤胤や守部の説にも知識としては一層宗教的要素が加はつてゐて、死後の生活に關する見解にもそれは現はれてゐるが、その態度はやはり宣長のと同樣であり、死後の問題について彼等が思ひ/\の説をたてたのも、やはりそれが心情の現はれではなくして理智の所産であることを示すものである。或はまた「吹風の目にこそ見えね神々はこの天地に神づまります」、「天地の間に隔なき魂をしばらく體の包み居るなり」、「幽顯一重の蝉の翼もさへず人の臭もたぬ我が眼には」、といふやうな曙覽の思想にどれだけの宗教的體驗によつたものがあるであらうか。これらの歌の説明的であり理智的であるその態度から見ても、甚だ疑はしいといはねばならぬ。彼等は知識として或る見解を構成しそれを説きそれを歌にすることによつて、いつのまにかそれを信念としてもつやうになつたでもあらうが、それは見解に對する信念であつて、宗教的の信仰ではない.本來國學者の所説の根據とする神代の物語には、風俗として存在した上代の民間信仰が含まれてはゐるものの、全體の精神は政治的意味のものであり、主なる神たる太陽を皇祖神とし人として見るのであるから、今(486)人の考へるやうな宗教的信仰がそこから導き出されないのは、當然であるが、國學者がさういふ神に彼等としての宗教的意義を認めてゐるのは、その宗教的意義の如何なるものであるかを示してゐると共に、また上に述べたやうな當時の一般の思潮の故であらう。佛教に對抗するためまたは附會するために神代の物語を強ひて經典視し、それに宗教的意義を附會しようとした中古以來の神道者と對照してみても、彼等の態度が知られる。宣長にもその遺風はあるので、彼の宗教的傾向はそこから出てゐるが、神代の物語を神の道の經典としつゝ、それをそのまゝ事實を記した史書と見てゐるところに、彼の見解がある。宣長などの人生觀が樂觀的であり、すべてに於いて現實に滿足してゐるのも、このことと關係がある。彼等の神の道が宗教としての意味の少いのはこの故であつて、それを意味深くしようとすれば、いはゆる俗神道に墮する外は無いのも、またこれがためである。だから佛教を非難するにも「佛ぶみよめばをかしきこと多み獨笑ひもせられけるかな」、「死ねば皆よみへゆくとは知らずして佛の國とねがふ愚さ」(以上宣長)、といふやうに、その教の何の點かを不合理とし、また神代の物語に反對な思想を非とするのみであり、篤胤の出定笑語に至つては、出定後語を利用して佛教の經典に惡罵を加へるに過ぎないものである。彼等は佛教を單に知識上の問題として取扱つてゐるのである。然らざれば「西の方に黄金なす人ありといへど我が日の本の日こそ照さめ」(楫取魚彦)、「異國の佛の道の鏡こそ世の曇りぬるしるしなりけれ」(井上文雄)、の如く、異國のものであるといふ理由を以て佛教を嫌ふものが、國學者系統の人々に多い。もしまた信友、高尚、守部、などの如く佛数を容認するものでも、それは佛教の起源が我が國の神の道であるといふ考へかたから來てゐる。何れにしても宗教そのものを領解しないものである。
(487) かういふ思想界の状態に於いて淨土教が一般の知識人に喜ばれず、禅宗が比較的寛容せられる氣味のあるのも當然である。淨土といふ觀念は固より現世主義の儒者や神國主義の國學者に容れられないものであるが、假にそれが容れられたにしても、愚人往生の教の如きは、その道徳的見地から當時の學者には排斥せらるべきものである。救濟の觀念が宗教の核心である以上、淨土教で説く如き惡人往生の思想は、宗教として本質的のものであり、或はその極致と見なさるべきものであらうが、たゞ淨土教に於いてはその救濟が死を意味し人生の終を意味する淨土往生とせられるが故に、そこに人生としての道徳とこの宗教的信仰との矛盾が生ずるのである。禅宗はそれに反して現世的であるところに、このころの學者に喜ばるべき資格がある。特に儒教的知識を有するものは、禅宗の見性の説が、それと思想上の關係のある朱學もしくは王學の説と同じく、心を治める道として考へられてゐる點に於いて、或る親しみを有するらしい(梅園の贅語、高尚の松の落葉、など)。心學が三教併せ用ゐるといふ態度を持しながら、その主なる思想が禅宗と朱學もしくは王學との抱合のやうなものであるのも、この故であり(例へば石田梅巖の都鄙問答)、禅僧もしくは禅を修したものが世間法を説きもしくは三教一致論を主張するのも、またこの點に於いてする(澤水法語、白隱遠羅天釜、慈雲十善法語、など)。心學の主意は、實踐道徳としては、世間の風俗習慣制度政令に服從してそれを守るべきこと、分に應じた生活をすべきことを説き、修養の工夫としては心を治め己れを空しくすることを教へるのであるが、その資料としては、どの宗教や道徳説をも包容するので、そこに論理の徹底しない鄙近の折衷説もしくは妥協説たる所以があり、從つて佐藤一齋からは郷愿として卑しめられ(言志録)、篤胤からもさういふ考へ方が排斥せられてゐる(伊吹おろしなど)。二宮尊徳などにも三教一致の思想が存在するが(語録)、實踐を主とするものが論理の透徹を重(488)んじないのは自然の傾向であるとはいへ、思想としてはそこにやはり思索の力の乏しい缺陷が示されてゐる.
 
(489)     第十七章 知識生活 四
       蘭學とその影響
 
 儒學や國學が日本人の知識生活日本の国民精神にそれ/\寄與するところがあつたにかゝはらず、それによつて形成せられた思想そのものは、概して内容の空疎なものであり、その考へかたが粗笨であることは、前三章の考察によつてほゞ知られたであらう。かういふ考へかたによつて權威ある學問も生れず深い思索もできないことは、當然であつて、當時の日本人の知識の所産に於いて、世界の學術に貢獻し得るものの割合に少かつたのも、怪しむに足らぬ。さうしてかういふ知識の性質を究めてそれに對する深い疑ひを起さなかつたのは、實生活に於いて權力と因襲とに服從することに慣らされてゐることと共通の現象であり、現實の事象について強い探求心が生ぜず、痛切に自己の生活を内省するやうな刺戟が無いほどに、世が固定してゐると共に、大觀するとその間に安らかに生きてゆかれ、從つて、一般に精神生活の力が弱かつたからである。たゞ上にも述べた如く、儒者や國學者の圏外に立つてゐるものの間に、また國學者でもその國學的精神の宣傳とは全く異なつた方面の事業に於いて、却つて眞の學問が成りたつて來たので、それは恰も權力と因襲との下に生活しながらさういふ生活そのものによつて、因襲や權力のはたらきを弱め人としての活動を強めて來たこと、またシナ思想や古典に拘束せられながら、それを利用することによつてそれから離れ、新しい分野を開拓した文藝に藝術的價値の高いものがあること、と同樣の、またそれに伴ふ、現象であり、知識の世界に於いても、人としての欲求が決して抑制せられてはしまはなかつたことを、示すものである。が、かういふ新運動(490)の間に最も重大なる地位を占め、學問界に新しい天地を開いたものが、蘭學であることは、いふまでもない。偏狹な儒者や國學者の思想が世にひろまり、儒者はインドのことなどを知らうとせず、國學者はインドは固よりのこと、シナに關する知識をすらも輕んじ、さちぬだに狹い知識の範圍を一層狹くして、貴重な知識を無量に包含してゐる佛教の藏經などを全く學問の領域から放棄してしまひ、この點では却つて室町時代よりも眼界が狹くなつてゐるほどである。その時代の文學にはインドの説話が藏經の中から多く採られてゐたのに、このころのものにはそれが殆ど閑却せられてゐるのでも、このことが知られる。かゝる時代に於いて、文化の性質に大なる違ひのある遠い西洋の知識に接したことは、當時の人にとつてどんなにか大きな驚異であつたらうぞ。鎖國時代に於いても、書物によつて與へられたこの新知識が日本人の思想に一大變動を與へたのであり、儒教思想の桎梏を放ち去ることに於いて、國學よりも遙かに效果の多いものであつた。
 西洋に發達した知識を我が國に取入れた初めは、シナ語譯もしくはシナ撰述の書物の媒介によつたので、それは主として暦の改定に必要な天文學及び天體の觀測法に關するものであつた。しかしその天文學は天主教の僧侶の傳へた天動説に本づいたものであり、また概していふとそれによつて西洋人の學者の研究の結果が知られたのみで、研究法そのものには深く注意せられなかつたらしい。その他には、世界の地理や風俗に關する僅少なまたは粗雜な知識が、シナの書物によつて得られたのみである。ところが、これまで行はれてゐた天體の觀測を一層精密にするために、また時々オランダ人から傳へられた植物や動物などに關する零碎な知識を確實にするために、なほ聞きおぼえ見おぼえのオランダの醫術を鞏固な學問の基礎の上に立てなほすために、天文家や本草家や醫家がオランダの文字を解しその(491)書物を讀むことの必要を感じたのみならず、オランダ船によつて舶載せられる種々の奇巧にも刺戟せられ、また一般にオランダ及び西洋に關する知識を得んとする欲求もはたらいて、そこからいはゆる蘭學が成りたつやうになつたが、その學問の方法が實證的實驗的なまたは數理的なものであるところに、從來のと違ひのあることが、その學に從事するものによつて次第に理解せられて來た。勿論これには從來の天文觀測や本草學や瞥學やの知識と技術とをもつてゐたことがそれに對するおのづからなる準備となつたのでもあり、儒學に含まれてゐる一種の合理主義的な考へかたさへもそれに與るところがあつたと考へられる。また一般的には、長い歴史によつて養はれて來た日本人の優れた智能がその根柢となり、この學に心を傾けたものの旺盛な知識欲研究心と強烈な情熱と不屈不撓の努力とがそれに加はつて、この遠西に發達した學術を短日月の間に理解し會得するに至つたことを、忘れてはならぬ。志築忠雄の暦象新書に於いてニュウトンの力學があれほどに理解せられ、またシナの空想的宇宙論に示唆せられたところのあるものではあるが、その元氣屈伸の説や混沌分判圖説に於いてそれがあれほどに利用せられてゐることは、最もよくそれを證するものである。それから後いろ/\の方面に於ける近代科學の知識が漸次蘭學者によつて學びとられまた世に紹介せられたことは、あらためて記すには及ぶまい。從つてまた源内によつて驚かされ、「西洋巧器照筵寒、火迸肌膚水※[口+巽]盤、究寛線毫無所用、漫將奇伎眩人觀、」(拙齋)と非難せられた電氣のことなども學術的の問題として取扱はれ、技術の面では伊能忠敬の大事業がみごとに行はれたことは、いふまでもない。早く明末清初に於いて、天主教の宣教者によつて傳へられた天文地理數學測量などに關する西洋の學問技術を驚奇の情を以て迎へそれを利用せんとした爲政者はあつても、彼等の學問上の事業を目撃しまたはその著作を助けさへしながら、進んでそれを學びその科學(492)的精神を理解しようとするものの殆ど無かつたシナの知識人と對照して、日本の學者の好學心の深さとその業績の大なることとを認むべきである。シナの知識人に於いては、その執拗な中華意識と、新しい學術を理解する能力の缺乏と、また或はいはゆる聖人の道を講ずるを重しとしその他の知識を輕んずる因襲とが、上記の如き態度をとらせたため、日本よりも早く西洋の學術に接しながら、それを學びまたそれを理解することに於いては日本より遙かに後れまた淺薄であつたのである。
 かうなると儒者のうちにもまたこの新知識に關心をもつものが生じて來る。早くから天體のことに興味をもつてゐた三浦梅園もその一人であるが、帆足萬里は或る程度にオランダの書を讀むことができ、それによつて窮理通を書いたし、山片蟠桃も天文學と暦と世界の地理などとに關する知識を得たので、その點に於いては西學に傾倒した(夢の代)。しかし梅園は地動説を知りながらなほ天動の説をすてかねてゐたし、萬里は西洋人は實驗實測のできることには努力するがそのできないことについては無智であるとし、新來の科學の知識をもいろ/\に批評してその誤を正すといつてゐるが、その考へかたは科學的ではない。蟠挑も道徳及び政治の思想に於いてはどこまでも儒教本位である。これらは畢竟、西洋人は形而下のことには通じてゐるが形而上のことは與り知らぬ、といふ白石の見解を繼承したものといふべきである。司馬江漢がいはゆる天學窮理を以て人生の問題を解釋しようとしたのとは、反對の態度であるが、これは江漢が儒者でなかつたからであらうか。しかしその窮理は正確でも精緻でもなくシナ思想を混和してもゐる(春波樓筆記〕。儒者ではないが上にいつた志築忠雄も、宇宙の間は一元の氣であるといひ、元氣といふ形而上學的觀念を物としての氣と同視し、陰陽説五行説をも取入れ、概念としての動静の關係を考へることによつて地動説を天(493)動説に融和させようとしてゐるところに、シナ思想を利用しまたは顧慮してゐるところがあり、大虚をいひ神氣をいひまた宇宙とその運行との不測をいつてそこから人の道徳を引き出してさへゐるが、しかしその根柢は、どこまでも近代科學に置かれてゐるので、天動説と地動説との分れるところを觀象と察理との別に歸してゐることによつても、それは知られる。人により時代によつてその態度が一樣ではないが、シナ思想に關する知識を有するものは、多かれ少かれそれに心がひかれたのである。かの解體新書はいふまでもなくその他の蘭學者の科學上の述作に漢文を用ゐるものが少なくなかつたのも、このことと關聯するところがあらう。しかしそれでありながら、概觀すれば漸次新來の科學的知識を理解するものがその間に生じて來たのである。さうして蟠桃が西人の天文學醫學などについてかゝる發明が更にその上の新發明を導き出すべきことをいひ、科學の無限の進歩を豫想してゐて(夢の代)、シナ風の尚古主義から脱却せんとする傾向のそれに見えることに、大なる意味があるので、そこにも科學の與へた思想上の革新がある。志築忠雄が混沌分判圖説の篇末に「後世かならずこれを詳にするものあらん、或は西人既にその説あらんも知らず、たゞ未だ聞かざるのみ、」と記してゐるのは、自己の創見の未來に完成せられんことを期待する點に於いて、向後に於ける科學の進歩を豫想すると共に、その創見を誇らない謙抑の精神が現はれてゐて、學者としての尊い態度であり、そこにもまた科學のもつてゐる道徳的意味があることを、注意すべきである。
 ところが蘭學の發達は一面に於いて、西洋の地理人情風俗または政治の状態に關する知識をも與へることになり、それが天明寛政の際に於けるロシヤ人との交渉、並に制度の改革を要求する内政上の、特に富國策となつて現はれた經濟上の、時事問題と關聯して、一層人の注意をひくやうになつた。さうしてそれがシナ式の政治思想に對する反抗(494)となつても現はれた。なほ幾らかは蘭學者の與へた地理的知識に刺戟せられたところがあらうと思はれる最上徳内、近藤重藏、間宮林藏、などの北地の探檢とその民俗の調査とは、政治的意味をもつたものではあるが、學術の上にも大なる寄與をしたことはいふまでもない。現實の對外問題は文化文政のころには一たび鎭靜したやうに見えたが、天保のころからは再び新しい力を以て迫つて來たので、それがます/\西洋の事情、特にその東洋侵略の形勢、に關する知識を要求するに至つたと共に、當面の方策として國防論が高唱せられ、それがために蘭學者のしごとが、或は軍隊の組織や兵器製造の技術に關する書物の翻譯に向けられ、或は時事問題としての西洋研究に集中せられるやうになり、國政と密接の交渉を生ずるやうになつた。
 西洋から學び得た知識は醫術や暦や測量術などに直接な實用的效果を現はしたのみならず、在來の知識もしくは考へかたの上に及ぼした影響もまた大きい。その最も明かなのは、地理的知識がシナの中國思想を破壞したことであり、大槻磐水の蘭學楷梯などにそれが明記せられ、村田春海も時文摘批でそれをいつてゐる。次には人天感應の思想、祥瑞や災異の説が、それと同じく覆へされたことであつて、海保青陵の養心談などにそのことが見える。五大洲は廣いから、一國だけの政治によつて全地球の上に現はるべき自然界の感應のあるはずが無い、といふのである。「彗星竟天妖言紛、※[言+巨]知天象有定分、龜著誤人讖生惑、……」(箕作阮甫)、儒者には破ることのできなかつたシナ傳來の迷信を破るやうになるのも、蘭學の力である。またヨウロッパの文明がおぽろげにでも知られた以上、シナ人の華夷の思想も根本的に崩れねばならぬ。このことはシナを呼ぶ名稱の上にも現はれてゐるので、蘭學者は儒者の徒の曾て用ゐた中國または中華の名を取らず、一般にシナをシナと稱した。蘭學階梯の序に朽木昌綱が「支那僻在一邊、獨稱中國、(495)驕傲自限耳、」と書いたのは主として地理的位置のことをいつたのではあるが、それにはシナ人の中華意識を非難する意味が含まれてゐる。いふまでもなく、中国の名は、禮記の王制篇や春秋の三傳などにも明記してあるやうに、一般には、シナ人が自國の文化的優越を誇るために用ゐたものであつて、四隣の民族を夷狄として輕侮することと相伴つてゐたが、前篇にも考へておいた如く、儒者の間にはそのシナ崇拜の念からこの名を用ゐるものがあつた。それがこのころになると、世界的な知識をもつてゐる蘭學者によつて、かくの如く非難せられたのである。シナといふ名は、かくしてこのころから次第に世に弘まり、儒者または詩の作者もそれを用ゐるやうになつてゆくのである。梅園もまたその一人であつたし(讀法)、儒者ではないが服部蘇門などもそれを用ゐた。(シナには昔から古今を通じまたシナ人の住地のすべてにわたつての土地または國もしくは民族の稱呼が無く、政治的にはその時々の王朝の名を國名の如く用ゐてゐたが、南北朝のころに中央アジヤまたはインドの方面からシンまたはそ*れと同じ語に土地の義であるタンを加へたシンタンといふ稱呼が傳へられたので、それによつて始めて一般的なシナの国土及び民族の總稱ができた。シナ人はこの稱呼に支那、至那、脂那、震坦、振旦、などの文字をあて、主として佛家がそれを用ゐたが、佛家ならぬものも往々それに倣ふやうになつた。我が國でも震旦の名は佛家の間に行はれてゐたが、神道者もそれを繼承した。ところがシナの名はまた遠西にも傳へられ、シナをさす普通の稱呼となつたので、白石が西人からこの名を聞いたのも如見がそれを用ゐたのも、そのためであるが、蘭學が行はれるに至つて、この世界的稱呼を日本人も用ゐる慣例が生じたのである。)なほシナ人の中國思想に對して行はれたと似たところのある批評は、佛徒の所説に對しても適用せられたので、インドの西方に國は多いが淨土は無いとか、世界に須彌山のやうな山は無いとか、いふ説も出た。淨土(496)の問題などは少しく見當違ひでもあるが、須彌山説は現世界のことだけに、かういふ非難にもあはねばならぬ。圓通の佛國暦象篇などの辯護説の現はれたのはこの故である.
 だから儒教の攻撃を生命としてゐる國學者は大にこの新來の學説を喜び、服部中庸は地球圓體説がシナ人の宇宙觀を覆したことをいひ(三大考)、本居大平も蘭學によつて儒教の謬妄が知られたのは神のみこゝろとして尊いことであるといつてゐる(古學要)。しかし國學者の最も得意げであつたのは、天文學説を神代の物語に附會することであつて、中庸の三大考が、神道者の先蹤を踏んだのではあるが、その魁をなし、宣長もそれを是認するやうなことをいひ、篤胤や隆正の徒が尾鰭をつけて盛にそれをもてはやしたのである。佐藤信淵の天地溶造化育論、穗積重胤の古始大元圖説、も似よつた考である。この中で三大考は、地動説でも支障が無いといひながら必しもそれによらなかつたのであるが、篤胤以下のものはみな地動説を探つてゐる。地動説は寛政文化のころにはかなり廣く世に知られてゐたので、上にいつた如く暦象新書にそれが記されてゐ、本多利明の西域物語、司馬江漢の春波樓筆記及び和蘭天説、山片蟠桃の夢の代、などにも説かれてゐるから、國學者はどういふ徑路かによつてそれを知るやうになつたのであらう。しかし彼等のいつたことは毫も學術的價値の無いものであつて、蟠桃が「その智及ぶべしその愚及ぶべからず」(夢の代)と三大考を批許したのが、すべてに當てはまる。精緻なる學術的研究の結果をかゝる荒唐不經の譚に取りなした點に於いて、國學者輩の考へかたの如何なるものであるかが知られ、彼等に科學的精神とその研究法との理解せられなかつたことが推測せられる。(地球の圓體であるといふことをシナの昔の空想的渾天説と同じやうに考へるもののあつたのも、單に結論の類似してゐるのを見て、そこに到達した研究の徑路と方法とを考へないからである。西川如見の(497)天文義論、河野龍岡の渾天新語、など。)それよりも秋成がゾンガラスで觀た日月の状態を述べて、宣長の神代史盲信を嘲つた方が、常識でも明かなことながら、遙かに確實である。日本本位の世界創始説が廣い地理的知識によつて覆へされることも、シナ中心の世界志が破れたのと同樣であつて、科學は實は國學の根本思想を崩壞させるものであつた。日本とシナとインドとが世界の全體であるやうに考へてゐた神道者や眞淵などの考が、五大洲存在の地理的知識によつて既に破られてゐたことは、いふまでもない。さうして國學者の滑稽な世界創始説とは違つて、早く元文年間に書かれたといふ北島見信の紅毛天地二圖贅説に、五大洲の外に別にヤマト洲を立て、日本を中心としてアジヤ大陸の東方に連つてゐる群島及び朝鮮半島をその範圍としようとしたのは、地理的情勢に適應した合理的な考案である。これは實際的經綸としては、おのづから後の本多利明の海外發展策に連絡を生ずるものとも考へられるが、思想的には、やはり後の高橋景保が日本の京都を中心とした世界圖を作り、また京都の天文臺(改暦所)を起點とした經度を定めたことと、同じ意味を含むものとも見られ、世界を一つの世界としながら日本の立場に立つてそれを考へるところに、その精神があるが、しかしそれはどこまでも世界的意味をもつてゐる科學に本づいたものである。景保のこの構想が少からざる追從者を得たことは、當然である。もつとも景保のこの經度の立てかたは鎖國時代の考であつて、日本が世界的に活動する時代になつては、事實上、不便の多いものであることは、いふまでもない。明治の初年に東京を起點として經度を定めたものが現はれても、それが廣く行はれなかつたのは、そのためである。なほその起點を江戸にせずして京都にしたことは、日本人としては當然ではあるが、當時の思想界の動きにも幾らかの關係があるのでもあらう。また京都中心、即ち日本中心、の世界圖を作つたことは、思想の上に於いて廣い世界の中心に自國を置き、(498)その自國の立場から世界を見ることによつて、自國が如何に世界に處すべきかを明かにすることができる、といふ意味で注意すべき態度ではある。蘭學が日本人の國民としての意識を強めるはたらきをしたことの一つは、こゝにもある。
 なほ蘭學そのものの知識が漢字漢文の不便を日本人に知らせたことをも、看過してはならぬ。早く西川如見も日本語の精妙たるは漢語の比にあらずといつてゐるが(町人嚢底拂)、漢字が遠く仮名に及ばざることは、蘭學者の多くが主張したことであり(森島中良の紅毛雜話、江漢の春波棲筆記、本多利明の經世秘策及び西域物語、など)、日本に漢字が行はれず仮名ばかり用ゐられたならばよかつたらうに、と蟠挑もいつてゐる。これもまた國學者のシナ排斥論に利用せられたので、早く眞淵にも既にその説があり(國意考)、桂園派の歌人にも同樣に考へたものがある(熊谷直好の古今集正義總論補註)、漢文を綴り漢詩を作つた大槻磐水も意見としては同樣である(西韻府敍)。今日ですらまだ解決の緒にだもつきかねてゐる國字問題が、當時に於いてこの程度にとゞまつてゐたことには、むりも無いが、少くとも知識の上で漢字の絶對的權威に對する反抗が現はれたのは、主として蘭學の賜である。儒者のうちにさへも日本人には國語と仮名とで十分だといふものが生じたので、堀景山もそれをいひ、村上佛山も「世儒勿嘲甚簡素、寸刀時勝丈二殳、」といひ、「和國從來言辭耳、加之民用萬事符、」ともいつてゐるが、これらもまた多分蘭學者の見に誘はれての考であらう。
 西洋諸國の國情や人情風俗に關する知識が漸次因襲思想を破つてゆくことは當然であるが、概していふと、日本やシナばかりが文明の世界であると思つてゐたのは全く迷妄であつたことが、それによつて知られたはずである。紅毛(499)雜話に西洋人の風俗人情の敦厚なることが説かれ、桂川甫周の魯西亜志にロシヤ人の性質が賞讃せられ、同じ人の北槎聞略や磐水の環海異聞でロシヤ人の状態も紹介せられたではないか。司馬江漢や本多利明が、西洋の開闢は古く日本などの比でないから彼の地の文物は優秀であるといひ、特に利明が西洋の政治やその國民の科學的研究の盛なことやそれに本づいた諸般の事業やを極力讃美したのは、上に記した諸書の西洋紹介と共に、その所説に誤謬や臆断や不精密な點が少なくないにかゝはらず、當時の人の妄想を破る力にはなつたであらう(春波棲筆記、經世秘策、西域物語)。利明が日本は海國であるのに大陸國たるシナの摸倣をのみ勉めてゐることの愚を説いたなどは、シナ思想に束縛せられてゐるものにとつては一大鐵槌であるのみならず、正當の見解である。その利明及び帆足萬里が西洋風の建築法を學ぶ必要を論じ(經世秘策後篇、東潜夫論)、古賀※[人偏+同]庵が我が國の風俗には西洋に及ばぬもののあることを示し、また徒らに古をのみ師とせずして現實生活の改善進歩に努力する西洋人の氣風を稱揚して、この點からロシヤのペテル大帝を讃美したのも(泰西録話)、また固定せる生活に滿足してゐた當時の人土に對する警鐘であつた。「東邊拓地三千里、曾倣荷蘭設學科、吾邦空説英雄跡、官歳無人似伯多、」(佐久間象山)の感慨は、西洋の形勢を知るものの早くから懷いてゐたところであつた。さうしてその西洋の文明の基礎がいはゆる算數の學、窮理の學、いひかへると科學、にあることは利明の極論するところであつて、江漢もまたそれをいつてゐる(上記の諸書)。要するに寛政文化のころになると、西洋の文明に優れたところがありその國民の活動の旺盛であることが、蘭學者によつて漸次説き示されたのである。
 しかし思想上の問題になると、蘭學者でも事の眞相を知ることのできない場合が少なくないので、ヤソ教をどう見(500)るかといふこともその一つである。このころになるとキリシタンといふ名も依然として用ゐられながら、シナの書物によつて傳へられた稱呼としてヤソ教といふのが新しく使はれるやうになつたが、そのキリシタンとヤソ教との異同すら一般には明かに知られてゐないやうであつた。江漢は、今キリシタンを弘めるものがあつても何人も信じないであらうから恐れるには足らぬ、といつてゐるが、舊約聖書の創世記に語られてゐる天地創造説話をヨウロッパの開闢を記したものと考へてそれを信じてゐた。利明もキリシタンを邪教として我が國を奪ふものと考へてゐたが、それと共に「ジュデヤの良法」のことをもいひ、それをシナの聖人の説いたと同樣な治國平天下の教と見たのは(經世秘策)、この二つを別のものと思つたのであらうか。或は故意にかゝるいひかたをしたのであらうか。それはともかくも、ヤソ教を政治の道としたのは儒教眼を以てそれを觀たものであつて、甲子夜話續篇にもそれに似た觀察が載せてあるが、政治の道だとすると儒教に對する優劣是非が問題になるので、儒教主義の蟠桃がヤソ教をマホメット教や佛教と共に邪教としたことには(夢の代〕、或はこの邊の事情もあつたかも知れぬ。多くの蘭學者はヤソ教を邪教とは思はなかつたらしいが、たゞ國禁の故を以てそれを公言するものが少く、「蝦夷國風俗人物の沙汰」や北槎聞略、環海異聞、などにも、ロシヤ人の宗教について曖昧な書きかたがしてある。ヤソ誕生の年による紀元の意義も理解し難かつたらしく、早く山村昌永の西洋雜記に、西洋中興革命として政治的意義があるもののやうに書いてあるのは、やはりシナ思想によつて考へたものらしい。佐藤信淵の著とせられてゐる西洋列國史略にも、羅馬聖帝誕生の次年を以て革命の元年とし西洋諸國今に至るまでその正朔を奉じてゐるのだ、といつてゐ、夢の代にはイタリヤの元組ペエトル元年として、やはり政治的に見てゐる。風來がその戯著に於いて神武より二千四百三十九年と書いたのも、多分このヤソ誕生紀元(501)の立てかたを學んだものらしく、三馬もそれをまね、藤田東湖の「鳳暦二千五百春、乾坤佐舊物光新、今朝重感縁何事、便是橿原即位辰、」も同樣であらうが、これもヤソ誕生紀元に政治的意義があるものと思つたからであらう。たゞ野々口隆正になると、西洋の紀元がヤソ教の教主を本に立てたものであることを知つてゐて、日本では神武天皇の即位を本として國家的性質をもつた紀年の法を立てるがよいといつてゐるが(本學擧要)、それが教主紀元の紀年法をまねようとしたものであることは、明かである。
 こゝでついでに、國學者のうちにヤソ教の創造説話を神代の物語に附會しようとしたもののあることを、一言しておかう.それは篤胤が古道大意や靈の眞柱や古史傳などに於いて、我が國の神が天地萬物を生んだといふ神代の物語の説話が遠西に傳はつてかの創造説話となつたやうに考へ、隆正が一層それを誇張して説いたことであつて、その考へかたは、西洋から傳へられた思想を神代の物語に附會した點に於いて、上に述べた服部中庸の説ともつながりがある。篤胤が天つ神にゴットのふりがなをつけ、または造物主をゴートとしてそれを天つ神に擬したことから考へると、これは蘭*學によつて與へられた知識によつたものと解せられるが、その些少の知識を利用してかゝる荒唐不經の説を生みなしたのである。(昔のキリシタンは宇宙の創造者主宰者の稱呼としてデウスの名を用ゐてゐたのに、篤胤などがゴットの語をあてはめたのは、その知識が蘭學者から傳へられたためであらう。)なほ附記する。篤胤は利瑪竇などの書を讀んでヤソ教に關する幾らかの知識を得たらしいが(村岡典嗣氏)、彼はそれを古典の記載に附會して説くことはあつたとしても、それによつて彼の思想に何ものかを加へたやうには解しがたくはあるまいか。これは彼のシナ思想やインド思想を恣に古傳に附會したことからも、類推せられる。のみならず、利瑪竇などはシナ人に對してその(502)教を宣傳するために彼等の知識に適應する文字や表現法を用ゐる場合があつたので、例へば篤胤の「人於今世惟僑寓耳」(本教外篇)が利瑪竇の著から取られたものであるとしても、それはむしろ佛教によつて與へられたシナ人の思想がその著に利用せられたものではなからうか。現世の生活をはかなきものとすることは中世的ヤソ教からの傳統的思想の一つであらうが、僑寓の語がさういふ思想を忠實に示してゐるとは解しがたいやうである。さうして、人の生きてゐる間は假の世で死後が「本つ世」である(古史傳卷二十三)といふ篤胤の言が、もし本教外篇の上記の語に本づくところのあるものとするならば、それにヤソ教の思想が現はれてゐるかどうかは、かなり疑はしい。假の世といひ本つ世といふ語の意義は明かでなく、このことをいつてゐる前後の文辭を併せ讀んでみると、それには種々の思想の混亂して現はれてゐることが知られるが、ヤソ教に特有な終末觀をそれによつて看取することは、むつかしくはなからうか。「本つ世」の語は、或はシナ撰述のヤソ教に關する何かの書の記載に示唆せられて造られたものかも知れぬが、よしさうであるとするにしても、篤胤はかういふことを他のところではいつてゐないやうであるから、彼自身もそれに重きをおいてゐたのではなささうである*。この語によつて表現せられるやうな觀念が日本の古典のどこからも出て來ないことは、いふまでもない。死後に於ける靈魂のゆくへに關する篤胤の思想は神道者から繼承せられたものであつて(前篇第二十二章參照)、その由來は佛教にあるのであらう。
 さて當時に於いて西洋の事情を知ることは、上記のやうに困難であつたから、山陽の佛朗王歌や磐水の佛蘭王詞に於いてフランス革命が毫も思慮に上つてゐないのも、無理は無い。ずつと後の安政年間に世に出た倭蘭年表ですら、フランス革命やアメリカ獨立の意義がまるで理解せられてゐないではないか。青地林宗の輿地志略にイギリスのパア(503)ラメントを政府と譯してあるほど、議員政治のことが會得せられないのも同じである。外國についても帝國といふことに特殊の敬意を表し(高橋景保のケムペル日本史抄澤凡例、鶴峯戊申の意見、齋藤竹堂の蕃史、など)、ペリが來て和戦の論が紛起した時、帝國であるがためにロシヤを親しく思ひ、帝王が無いといふ理由を以てアメリカを無道の國の如く考へるもののあつたのも、怪しむに足らぬ。自己の知識と何等の連絡の無い事物は理解するに難く、それに接するに當つて先づ自己の知識によつて解釋を施すのは、當然である。かう考へると「童男女去竟無聞、海上茫々五色雲、今日泰西種人策、二千年前已有君、」(過徐福墓菊池溪琴)にも見えるやうに、西洋人の植民政策が漢詩人にさへおぼろげながら知られてゐたのは、むしろ不思議なほどである。植民の説明は早く志築忠雄の譯した鎖國論にも既に試みられてはゐるが、西洋諸国の東方侵略をこの意味で理解するものは少かつたやうである。
 純粹な學問上の問題についても速斷や誤解は免れ難かつたので、利明が北方開拓説を高唱するに當り、單に経緯度の上からのみ気候や風土を論じたなどは、知識の乏しかつたためであるが、江漢が佛教をヤソ教から出たものとしたのは、キリシタンを佛教から出たやうに考へた白石の説と共に、單なる臆測に過ぎなからう。その他、西洋諸國の形勢などについても誤見はまゝあるが、文化元年に於ける津太夫などの地球を一周して歸國したことが「前代未聞未曾有の一大奇事、上下古今剖判三千年來、絶えて無きことの奇話奇聞、」(環海異聞)であつた時代に於いて、貧弱な材料によりて與へられた知識が不完全であるのは、當然である。のみならず、この不完全なる知識に本づいて立てられた種々の國策や時事に關する論議に、甚しく正鵠をはづれてゐないもののあるのは、やはりその根據が現在の事實にあるからであつて、そこに昔のシナ人の空言を規準とする儒者の考へかたと違ふ點がある。
(504) 西洋の知識に本づいて唱へられた種々の時務策、特に開國説や蝦夷經營策や海外征服論などが、儒者の經濟論と全く趣きを異にしてゐることについては、後に考へようと思ふ。西洋風の陸海軍を學ぶ以上、武士の世襲制階級制が維持せられないやうになることについてもまた別にいふ場合があらう。しかし國防論に於いて、今後の戰爭には智術器械が重要であつて血戰を頼みにすることができない、といふ考が起つたのは(寛政年間の著である北地危言など)、その血戰から生れた精神によつて立つてゐる武士にとつては、根本的の打撃であることだけは、こゝに一言しておかねばならぬ。林子平の海國兵談にも、日本の武士の考が血戰を主としてゐることを非難してある。西洋風の兵術や武器は武士の因襲的精神に對する革命的のものである。もつともかういふ問題が切實に感ぜられたのは、幕末になつてからのことであり、またそのころとても多數人の間に明かに意識せられるまでにはなつてゐなかつたことを、注意しなければならぬ。本來思想上の問題に於いては、「西儒尚實測、早已破虚説、茫々覆載間、萬理轉煥乎、」(象山)といはれ、太陽暦の知識が從來の暦面に記されてゐる種々の迷信を破つた如く(夢の代)、一般に科學が因襲的の偏見や空疎な儒者の説を崩してゆく傾きはあるものの、蘭學者自身とても科學の知識によつて大なる變革をその心生活の上に生じてはゐなかつたらしい。知識として形づくられたのみで、實生活に於いてそれが體驗せられない間は、深く人の心を動かし難いものだからである。佐久間象山ですら「東洋道徳西洋藝、匡廓相依完圏模、大地一周一萬里、還須缺得半隅無、」といひ、後に中村敬宇から「西洋器藝之精、實與道徳相爲表裏、以道藝分貼東西、恐未確、」と評せられたのも、一つはこの故であつて、知識技藝はそれだけで獨立のものであり、全體の民族生活、特にその精神生活、から離して見られるもの、と考へてゐたのである。但しその象山が「數理推四三、乘星在指掌、發揮本實測、敷宜非誣罔、(505)至哉星天學、恣嗟足欽仰、」(讀宋氏宇宙記)といひ、「珍木何亭々、廼在至人囿、墜果感玄識、鬼帶始可究、茫々天壤間、長夜開清晝、功績眞無窮、足以蓋于宙、」(讀洋書)といふに至つては、科學は單なる知識ではなくなつてゐるはずである。「一奮G鶚翼、萬里恣廻翔、始知宇宙大、無礙吾※[行人偏+尚]※[行人偏+羊]、」はよし放言に過ぎないとしても、「予年二十以後、乃知世夫有繋一國、三十以後、乃知有繋天下、四十以後、乃知有繋五世界、」(省※[侃/言]録)は明かに西洋の知識が彼の人格の陶冶を助けてゐることを示すものである。この雄大の氣魄と眞率な自覺とは、固晒な儒者などには到底求むべからざるものではなかつたか。早く大槻磐水などが「オランダ正月」に祝宴を開いたことなども、一つは儒者が冬至(いはゆる周正)を賀したのと同樣の動機から來てゐようが、「九千里外存知己、五大洲中如比鄰、」(新元閑宴圖題辭杉田玄白)、そこに四海を同胞とする世界的親和の感情が動き初めてゐることを看取しなければならぬ。西洋の知識が隱約の間に道徳觀の向上を助けてゐることは疑ひが無い。のみならず、身を世界の中に置くことによつて始めて日本人としての自覺も生ずる。世界人であることを知るのと日本人としての自覺とは、かくして相伴ふ。蘭學が國民的精神の振興に與かる所以はこゝにある。
 さてこゝに引いた詩に五大洲といひ「大地一周」といふやうなことがいつてあるが、それについて考へておくべきは、その五大洲に於いて西方ではヨウロッパの諸國とアメリカと、東方では我が国とシナとだけが思慮に上つてゐたので、いはゆる西洋と東洋とは主としてそれを指したものである、といふことである。世界に於いてこの意義での東西兩洋の中間に位する廣大な地域を占め、無數の人口を含み、歴史的にも東西文明の媒介者として重要なはたらきをしたことのあるマホメット教徒のことは、當時の蘭學者には殆ど注意せられてゐなかつた。世界の宗教の一つにマホ(506)メット教のあることは知られてゐて、地理書の類にもそのことは記されてゐたが、その教徒の世界に於ける現在の地位や歴史上の活動に至つては全く問題外に置かれてゐたのである。これは世界に關する知識を當時の日本人に供給したものがキリスト教徒たるヨウロッパ人であり、日本に傳へられた文明も、東洋に對して政治的經濟的壓力を加へて來たいはゆる西洋諸國も、またヨウロッパのであつたからであるが、蘭學者が世界はこの意義での西洋と東洋とによつて成立してゐるが如く思つたのは、過去の知識人が我が國とシナとインドとが世界の全體であるやうに考へてゐたのと、ほゞ同じである。地理志の類にマホメット教徒の過去の活動に??關する記載の無いのは、その地理的觀念が現在の状態を主としたものであつたからでもあるが、例へば西洋列國史略の如き歴史的敍述をしたものに於いても、この點に於いては同じであるのを見ると、いはゆるせ界に關する知識が上記の如くして得られたものであつたところに主因があらう。インドすら殆ど閑却せられてゐたのは、これがためと解せられる。ヨウロッパの文物を學び取らうとすることに重點が置かれてゐた當時の情勢に於いては、それでもよかつたけれども、蘭學者の世界に關する知識は、今日から囘想すれば、局限せられたものであつた。從つて上にいつたやうな文明の性質に關する東西兩洋の對此も、五大洲を比隣と見る考も、かゝる意義での世界についてのことであつた。
 しかし、蘭學によつて與へられた西洋の知識を有つてゐるものは、極めて少數の專門家に限られてゐた。一般人は殆どさういふ學問の存在を知らず、また當時の知識人の中心勢力をなしてゐた儒者の多くは、なほ概ね頑冥にそれを排斥した。蘭學が少しく芽をふき出したころの一般人にとつては、西洋人は殆ど人ではなかつたので、容貌言語や風俗の異なるところから、足に踵が無いとか五十以上の壽を有つてゐるものが無いとかいふ話までも生み出され、磐水(507)をして蘭説辨惑を書かせたほどであるが、儒者もまたそれを信じてゐたらしく、「紅毛之人乏老壽、得及五十比彭祖、」(大槻玄澤六十壽言茶山)などといつてゐる。かういふ誤解の根柢にはシナ風の夷狄觀があるので、鎖國の制度が長く續き西洋人に接する機會が殆ど無くなるに從つて、漸次それが當時のオランダ人に適用せられるに至つたのであらう。白石などは特別としても、元禄前後の學者の言説には甚しく西洋人を輕蔑したり嫌惡したりしたやうな形跡は見えないやうであるが、蘭學が世に現はれるころになつてから却つてかうなつたのは、こゝに理由があらう。或は蘭學者に對する儒者の反感も幾分かそれを助けてゐるかも知れぬ。本來シナ人の夷狄觀は、事實上、シナの周圍の民族が未開であつたために生じたのであるのに、優れた文明を有つてゐる西洋人をさう考へたのは、やはり現在の事實を探求しようとせずして昔のシナ人の思想を文字のまゝに、またすべての場合に、適用してゐたからであつて、それは西洋の實状を知る機會が無かつたことから導かれはしたものの、さういふ考が固定すると、西洋人によつて示された事實そのものまでも否認しようとする傾向を生じたのである。「蠻舶行窮五大洲、輿圖兼造地天球、妖言眩世搖民心、無乃覬覦逞詭謀、」(拙齋)。彼等の中には、五大洲の存在する地理的事實や地球の圓いことをすらも、妖言として頭からそれを排斥するものがあつたではないか。「煽妖鵙舌布東土」(管恥庵)として蘭學者を嫌忌し、西洋の窮理の説は理に近いだけ害をするといひ、科學的の機械を奇技淫巧として斥けるのも(言志録)、同じ考へかたであつて、かういふ輩には實驗から得た知識も知識として理解せられなかつたのである。如何に鎖國時代で海外に出られなかつた世の中としても、これはあまりに固陋である。西洋の解剖學の正確なことが事實上證明せられた後に於いて、人も日本と西洋とは違ふから西洋の醫術は必しもあてにならぬ、といつてゐる松平定信があることを思ふと(花月草紙)、これもむ(508)りではないかも知れぬ。
 が、さすがに儒者の間にも上に述べた如く實属實驗の學として西學、即ち自然科學、に心を傾けるものが徐々に生じたので、それには「彜倫之道有聖人、天地之實測有西學、」(梅園)といふのがその精髄で為り、「西説未來六合仄、地傾東南天西北、蘭書既至四遺張、始覺鄒衍不荒唐、……紅髪碧瞳異類耳、豈此支那與我地脈本相通、人心物態皆一軌、醫術天丈彼亦工、録長捨短論乃公、……」(淡窓)といふのが、その時代の儒者としては、進歩した考であつたらしい。從つてまた「天文醫術許看過、其餘莫教入皇和、」(篠崎小竹)といふ意見も生じ、前に引いた象山の考も畢竟そこに歸着する。對外問題が起つてから、西洋の武器兵術を學ぶことを主張しながら攘夷説を唱へたのも、この考へかたにつながりがあらう。けれども長とし短とすべきことは抽象的に、また固定した規準を以て、判定せらるべきものではない。國民により民族によつて特殊の生活があり、從つてその文明にも特殊のものがあるべきではあるが、それとても歴史的に養成せられ發達して來たものであるから、艮族生活の現實から離れて長短をいふことはむつかしい。が、このことはまた、長とし短とすべきことは、歴史的に展開してゆく現實の民族生活の變化に伴ひ、またそれを不斷に進歩させてゆかうとする民族的要求の推移に伴つて、常に變化推移してゆくものであることをも示す。のみならず、長所と短所とを截然と區別することもまたできない。個人の生活にしても民族の文明にしても、それが眞に生きてゐるものである限りは、その諸方面の活動はみな一つの生活の現はれ一つの文明のはたらきであつて分割せらるべきものでない。西人の天文醫術は西人の生活とその文明とから生れたものであつて、それがまたやがて彼等の生活を指導しその文明を發達させてゐる。換言すれば、その天文醫術といふ一二の學問技術の上にも、西人の生活と文明と(509)の全體が集徴せられてゐる。勿論、天文醫術そのものは民族などの差異を超越した世界的普遍性をもつてゐるが、さういふ普遍性のある學術を創造したところに、東洋人とは違つた西洋人の特殊の生活があり文明がある。從つてその天文醫術のみを彼等西洋人の生活と文明とから機械的に分離することは、できない。もしそれを分離して取扱はうとするならば、それは學問の研究の結果のみを學んで、それを造り出した人の力とそこに到着した道すぢとを、顧みないものであるが、それでは日本人がその學問を更に進めてゆくことができない。だから日本人は、少くともそれを取入れることによつて、在來の政治思想や道徳觀などに變るべきもののあることを知らねばならなかつた。西洋の科學と儒教道徳とを結合しようとするに至つては、現代の經濟組戯のうちに於いて昔の主從關係や家族制度をすべてそのまゝに維持しようとすることの不可能であるのと、同じであらう。なほ彼等が西洋の異風なるに對して我が國とシナとを同一視しようとするのも、全く事實を知らないものであつて、日本人の生活とシナ人のとの間に存する差異はシナ人と西洋人との間の違ひよりも却つて大きい、といふ方が當つてゐる場合がある。だからかういふ考よりも「漢土與欧羅、於我倶殊域、……王道無偏黨、平々歸有極、咄哉陋儒子、無乃懷大惑、」(讀洋書)といつて、シナと西洋とを對等に取扱つた象山の思想の方が、遙かにすぐれてゐる。
 なほ儒者の間には、西洋の精密な科學的知識を誤だとか妖言だとかいはないまでも、それはただ形而下の問題であり末技であり、天地を死物として機械的に取扱ふものであるとし、西洋人は形而上の理を知らず宇宙の活物なるを考へないから、そのいふところは淺薄にして取るに足らぬ、といふものもある。會澤安などがそれであつて、蘭學を邪説の中に加へてゐるし、蘭學の知識を幾らか有つてゐた帆足萬里などもそれに近いことをいつてゐる(新論、閑聖漫(510)録、息邪漫録、東潜夫論、窮理通、など)。天文醫術から物理學や化學に及び、實驗科學の方には手をつけたが、まだ西洋の哲學や文藝を知るに至らなかつた蘭學者のしごとを見て、かう臆斷したことにはむりのない點もあるが、然らば彼等のいはゆる形而上の理とは何かといふと、シナの陰陽説五行説ぐらゐのものである。その陰陽説五行説で説明せられ構成せられたシナの天文醫術が、西洋の天文醫術によつて誤りであることの知られた當時、シナの天文醫術に伴ふ陰陽説五行説の存在を知つてゐる彼等が、何故に天文醫術の行はれてゐる西洋にも形而上の理の研究のあるべきことを考へ、それを探求しようとはしなかつたか。こゝに彼等の知識欲の乏しく研究心の弱い偏固さが現はれてゐる。これは、西洋人そのものを、徒らに商利を求めて世界に横行する奸曲の徒で仁義道徳を知らないものだ、とする儒者の考が、貿易のために彼等の來航する事實から見ての臆測として、幾らかは寛恕すべき事情はありながら、私利に汲々とする商人の甚だ多い日本に於いても、仁義道徳を知つてゐるものの少なくないことから推して、西洋にも同じ状態のあるべきことを思はなかつた、のと同樣である.日本人にも西洋人にもよいものもありよからぬものもあるので、その點は同じであるべきことが、考へらるべくして考へられなかつたのである。だからこれは考へかたの粗笨なよりは、むしろ初めから西洋人を異類視してかゝつたからのことである。偏狹な儒者には人類を同胞視する美しい情が無く、「しきしまの直なる道を横がきの蟹はいかでかふみも知るべき」(東湖)、西洋人は邪なものと初めから決めてゐるのである。但し會澤などが新論に於いて、その夷狄視する西洋人の武器を學ばうとして大聲疾呼してゐるのは、甚しき矛盾である。彼等の考からいふと、大砲も軍艦も末技であつて取るに足らないものではないか。
 しかし水戸學派の蘭學嫌ひには別に、洋學は洋教の先驅であり洋教は我が民をかつて外虜の掌握に歸せしむるもの(511)である(閑聖漫録)、といふ思想がある。「國家視ヨ在耶蘇、曾火蕃書警蠢愚、何事訪求吹遺燼、公然問世泰西圖、」(讀泰西圖説西山拙齋)。西洋の地圖をすらヤソ教に關係のあるもののやうに考へたこの偏狭な儒者が、水戸にその後繼者を得たのである。大橋訥庵の闢邪小言の如きはその末流に過ぎない。徳川幕府のキリシタン禁遏は、その教徒がロオマのパッパの世界政策の下に動いてゐて日本の國家の精神的統一を侵害する虞れがあると認めたためであつたが、その後ヨウロッパの形勢もパッパの地位も一變したにかゝはらず、さうして蘭學者によつて傳へられた西洋の状態には、さういふ意味に於いてのヤソ教の危險性を示すものが無かつたにかゝはらず、水戸學の一派はそれを知らず、依然として西洋諸國はヤソ教を方便として我が國を侵略するものと信じてゐた。況んや西洋の學問をすべてヤソ教の道具のやうに考へるに至つては、蘭學者の事業そのものをすらも誠實に觀察しないものである。水戸にも蘭學者の聘せられたことがあり、長久保赤水の地理的研究も西洋の知識に本づいてゐるところがあつたほどでありながら、弘道館記となつて現はれたやうな偏狹な水戸氣質は、その水戸人をしてかゝる態度を取らしめるに至つた。蘭學をも西洋傳來の知識をも實用に供しようとはしたけれども、思想上の問題となると、對外問題の勃興した時勢にも刺戟せられて、それをかういふ風に見ることになつたのである。
 かういふ状態であるから、蘭學者の傳へた西洋の學問によつて明白に誤謬であることの知られてゐるシナ人の思想を、儒者が依然として尊奉してゐたのも怪しむに足らぬ。さて儒者が一知半解の知識によつて蘭學を排斥したに反し、同じく一知半解の知識によつて蘭學を利用しょうとしたのが國學者であるが、これには、儒者がその所説に昔からの傳統があるのに、前章に考へた如く國學者にはそれが無かつたからでもあらう。しかし國學者系統の人々とても必し(512)も蘭學を喜ぶものばかりではなく、本居内達の如きも、西洋の窮理學はシナ風の空理よりは勝つてゐるが、我が國の風俗に反することがある、といつてゐる(古學本教大意)。西洋の學は形而下の理をのみ説いたもので靈妙の道を知らぬ、といふもの、西洋人は利を漁る商人であつて、道義の念の無いものだといふもの、もあつた(黒澤翁滿の異人恐怖傳論、上記の古學本教大意、守部の神風大意、など)。これらは儒者の口まねであらうが、「利のみ貪る國に正しかる日嗣の故を示したらなむ」(曙覽)には特に國學者の口吻が強く、翁滿が大和だましひを損ふものは蘭學者だといつたのも、同樣である。何れもみづから蘭學を修めずその眞價を知らなかつたのであるが、西洋の知識を利用しようとしたものもこの點では同樣である。しかし鶴峰戊申が西洋の事物を賞讃し、その文明を採用せよといつてゐる類は、それとは違つてむしろまじめな考である。さうして、それは、時勢が進んで西洋との交通が開かれた後の見解だからであり、彼が蘭學を修めたからでもある。
 蘭學の流行には好奇心も助けてゐよう。しかし好奇心が知識欲を刺戟するものである以上、これは蘭學にとつて何等の累ともならぬ。のみならず、上にもいつた如く非常な努力を以てその研究を進めていつた蘭學者は、知識欲の旺盛なること、遙かに儒者などよりも優れてゐる。これを思ふと、蠻書は到底ほんたうに會得することはできないから、さういふものは深く頼むに足らぬ、といふやうなことをいつてゐる定信の如きは(花月草紙)、考へかたの偏固なよりもむしろ知識欲の弱い點に於いてなさけなく思はれる。これもまた蘭學の與へる知識の利用すべきことをば考へながら、學問としてそれを理解しなかつたからであらう。彼のころには西洋の政治や道徳に關する學問がまだ知られてゐなかつたから、儒學によつて養はれた思想では蘭學を學問と見ることができなかつたであらうか。しかしまた一方か(513)らいふと、政治や道徳の思想には民族的特異性が無くてはならぬから、蘭學がもしさういふ方面の學を傳へたならば、その點から却つて蘭學に反對するものが生じたでもあらう。天文醫學、即ち自然科學、は取るべきであるが、その他は學ぶべきでない、といふ儒家または國學者の主張には、おのづからかういふ意味が含まれてゐることにならうと解せられもする。たゞ儒家がシナの思想を奉じながらかう主張するのは、矛盾である。かういふ儒者などの考とは違つて、林子平の大學校案に於いて唐音と蘭學とを學科の中に加へてあり、天文臺や醫學館を設けることをもいつてゐるのは(上書及び海國兵談)、やはり實用のためであり、蘭學を主として自然科學の面から見たものでもあるが、それにしても直接にシナや西洋の現實の情勢を知る必要をも感じたからであらうから、それはおのづから學問を名教のためとする儒者の因襲的見解を破つてゆくことにもなる。帆足萬里すら蘭學による諸學科を學ぶがよいといつてゐる(東潜夫論)。少しく海外の空氣に接したものはみな西洋の知識を得ようとしてゐたし、また幾らかのさういふ知識を得たものは、例へば本多利明や佐藤信淵の如く、それによつて國家の經綸を説かうとしたのである。信淵がその泉源法の構想に於いて、養育舘療病館廣濟館開物館製造館などの設置を考へ、混同秘策の官制に於いて會議堂の名を奉げてゐることなどは、蘭學者から與へられた知識によつたものではなからうか。一方からいふと、蘭學者は書物によつてのみ西洋を推測するため、或はみづから意識せずして好むところに阿りがちであるため、彼等の間にはおのづから西洋崇拜の心情が生じないでもなかつたらう。利明の著書などにはそれが見える。また純粋な學問にのみ從事するものに於いては、その考はやゝもすれば現實の日本人の生活から離れ易い事情もある。のみならず、彼等は西洋の科學を學びながら、何故に西洋に於いてそれが發達し東洋ではそれができなかつたかを、考へてみようとはしなかつたやう(514)である。これはオランダ人が航海貿易の民であることを知りながら、どうしてさうなつたかを究めようとしなかつたと同じでもあり、それと關聯したことでもあるし、儒者が何故にシナに儒教が起つたかを問はうとしなかつたことともつながりがある。西洋の諸國民の實生活とその歴史とを知ることのむつかしかつた當時に於いては、むりの無いことではあつたが、我が國で科學を起さうとするためには考へねばならないことを考へるに至らなかつたのは、事實である。しかし彼等の學問は、儒者や國學者の如くいはゆる道を説き教を立てるのではなくして、事實を明かにし事實を探求するにある。だからその點から、儒者や國學者が一定の思想を教として説くのにあきたらずして、ありのまゝなる人の權威を立てようとすることにもなり、そこから却つて上にいつた如く人の徳性を涵養するはたらきをもした。それは延いては、鎖國制や武士制や封建制や世襲制やの如き、歴史的に馴致せられた制度や風俗に對する疑惑を誘ふことにもなり得るのであるが、當時に於いてはまだそれだけの力は無く、またさういふ方向には進んでゆかなかつた。ところが、儒者などの蘭學排斥も、實は鎖國の時代であつて西人に接觸し西人の實生活を知ることができなかつたためであるから、それを知り得る時期が來れば彼等はいやでもその主張をすてねばならなくなる。安政のころになつてもまだ、西人の天文地理の學は悉く信ずべからずと考へてゐたものがあるが(海保漁村の邊政備覽)、明治時代になつてからは、如何なる固陋の儒者もかういふことはいはなくなつた。こゝにも事實に立脚せざる空疎な思想の運命が示されてゐる。
 けれども蘭學は單に西洋に關する知識を供給するだけのものではなく、また世界共通の學としての自然科學を講ずるのみのものでもなく、上にもいつた如く、幕末の時代になると直接に國政との接觸を生じ、從つてまたその事業も、(515)海外からおしよせて来る荒波に對抗し、世界の一國として如何に島國日本を鞏固にうち建ててゆくべきかの、國策の樹立に與かることになつてゆき、さうしてそこに國學の根本精神と結びつくところも生じて來る。知識を世界に求めることが、國家の新しい統一を完成し世界列國に對して國力の進展を計るために最大の緊要事となり、それに寄與するところに蘭學の任務があることになるのである.蘭學がもしその起つた時に起らず、さうしてその後に於ける蘭學者の努力がそれをあのやうに進展させなかつたならば、西洋諸國の東方侵略が強力に行はれるやうになつた十九世紀に至つて、我が日本はどうしてそれに對處することができたであらうか。その侵略の形勢すらもよくは知られなかつたのではあるまいか。要するに蘭學は、不完全ながらも徐々に世界の形勢及び西人の行動に關する知識を日本人に與へ、日本が世界の一國であることを知らしめ、またそれによつて世界に於ける日本人としての自覺を喚起したと共に、西洋に發達した自然科學とその實證的な研究法とを日本に移植したので、この二つの意味に於いて、當時の知識人の思想を啓發し、さうしてそれはおのづから、後の明治時代に日本が新しい文明を創造するための素地となつたものである。
 
 第十四章からこの章までに考へたことは、江戸時代の下半期に於ける學界の情勢と當時の思想界に於けるそのはたらきとの概要である。便宜上、儒學國學蘭學の三つに區別したが、儒學の學習は國學者や蘭學者とてもその學問の過程に於いて一度はとほつて來なければならたかつたものであり、國學者の系統に屬しない和學者もしくは諸方面にわたつて我が國の事物を明らめようとするものでも、また前篇に述べたやうな神道者の亞流を汲むものでも、武道を講(516)ずるものでも、或はまた經國濟民に志を抱くものでも、救貧致富の道を講ずるものでも、この點では同樣である。從つて、儒者と然らざるものとの別は必しも明かでなく、またその儒者の間に於いても、一方では舊來の學派のそれ/\の傳承がなほ存在すると共に、他方ではその何れにも屬せざるものまたはそれらを折衷しようとするものがあるので、後者は儒者の態度がやゝ自由になつて來たことを示すものである。儒者から出立しながらそれから離れまたはそれに反抗するものが生じたのも、儒者が自然科學に關する知識については蘭學によるべきことを承認するやうになつたのも、儒者の權威またはその拘束力の弱められたものと見ることができよう。のみならず、三浦梅園の如く儒學を中心としシナ思想に依據しながら、獨自の研究法によつてそれを超出したものが現はれたこと、また儒者の通弊であつたシナ崇拜を非とし日本人としての誇をもつものが多くなつたことも、注意せられる。この日本本位の主張によつて儒者のシナ偏向を排撃したのが國學であるが、しかしその考へかたが儒者のを繼承した非論理的のものであると共に、その思想の發展は却つて儒學を包容する傾向を生じたが、その包容のしかたはやはり非論理的のものである。ただ單なる外國排斥が日本人の眞の誇りとならぬことを示したところに、一つの意味はある。ところが、かゝる主張とは別に國學者の行つた古典古語またはその他の日本の事物の研究には、今日から見ても學術的價値の高いものが多く、その研究法もまた概して學術的である。かゝる國學の興起とほゞ時を同じくして蘭學が世に現はれたが、それは上にいつた如く西洋の學問とその研究法とを傳へて、日本の學界に新しい氣息をかよはせると共に、粗雜ながらに世界の形勢を日本人に知らせることによつて、日本人としての自覺を呼びさまし、なほシナ思想に拘束せられてゐた儒者の迷妄を打破することが多かつたので、そこに國學との或る結びつきがある。或はまた國學と蘭學とにはそれ/\の方(517)面で一種の流行性を帶びた迫從者が生じたやうでもあるが、學界の全體から見ると、舊くから自己のもつてゐるものに對する愛着と、新奇と異國的な情趣とを喜ぶのと、文化の發達に缺くべからざるこの二つの氣分が同時に動いたことには、興味がある。さうしてこゝにいつた學界思想界の新運動は、當時の停滯せる文化のうちから、またそれによつて、生じたものながら、それがそのまゝその停滯せる流れを新しい方向に導くはたらきをしたところに、日本人の智的活動の旺盛さが現はれてゐるのである。年代的には必しも一致しないが、これは第十三章の終に一言した文學の諸形態に於ける新運動とおのづから相伴ふ現象であり、それがまた第一章から第三章までで考へた文化の大勢にも應ずるものである。
 
(518)     第十八章 文學觀
 
 前數章に考へたやうな知識生活の状態を背景として、當時の知識人が如何に文學を觀てゐたかを考へてみよう。儒者が文學そのものに價値を認めまいとしたといふことと並にその理由とについては、既にしば/\述べておいた(前篇第十二章など)。このころになつても詩は風雲月露の詠、浮華靡麗の詞、人心を流蕩するのみで學問に益が無いとか(尾藤二洲の正學指掌)、學者の剰技であつてそれを生命とするものは輕薄者流だとか(津坂東陽の夜航詩話)、人によつて幾らかづつの違ひはあるが、ほゞ似よつたことをいつてゐる。小説に至つては、人の心術を壞るものとして排斥せられたことは、いふまでもない(例へば井上金峨の匡正録)。「騷人動犯青編誡、女史徒増※[丹+衫の旁]管光、彼美寧知遺毒甚、漫將流臭做傳芳、」(獨大和物語世繼物語西山拙齋)ともいはれてゐるではないか。この考は國學者もしくは和學者の方にもあつたので、「うるさくも歌をなよみそ篤胤がいふ言の葉の歌ならぬかは」(篤胤)ともいはれ、國學者も古歌の解釋などに強ひて新意を出さうとするよりは、制度典章などについて有用の學をつとめるがよい、といつた石原正明(年々隨筆)、榮華物語を史實の記録として揚げ源語を作り物語として抑へた伴蒿蹊もある(閑田次筆)。また伊勢貞丈は伊勢源氏は好色淫亂不義非禮を書いたものであるとし(安齋隨筆)、秋成も源語中の人物一人として道々しきは無いといつてゐる(遺文所收ぬば玉の卷)。何れも實用主義の思想から、もしくは道徳眼から見て、文學を輕視しまたは否認したのである。またオランダに詩があり、その詩に韻脚あることの知られながら(三浦梅園の詩轍、志築忠雄の鎖國論凡例、磐水存響、など)、それを探求しようとするものが少かつたことを思ふと、當時の蘭學者は概して(519)文學に重きをおかなかつたらしい。もつとも忠雄は「蘭詩作法」を書くつもりであつたといひ、仙臺侯の祖母に獻ずるために長崎在留の外國人に賀詩を求めたといふ大槻平泉には、オランダの詩とシナの詩と日本の歌との體制の異同を考へたものがあるさうであるが(岡村千曳氏〕、蘭學者にも漢詩の作者が多いにかゝはらず、西洋の詩のことを説いたものは甚だ少い。出島の商館で演ぜられたオランダ人の劇(一話一言、參照)もどれだけ蘭學者の注意をひいたか。造形藝術に至つては玩物喪志の病を誘ふものとして、それを排斥する傾向が儒者にあることはいふまでもないが、佛教に關係のあるものについては、排佛的偏見もそれに加はつて一層それを嫌ふ。梵鐘を鑄つぶして大砲を作れといつた佐久間象山の如く、實用主義を極端に主張したものもある。(明治初年の舊物破壞は、かゝる思想に一つの由來がある。)中井履軒が日光廟を立ち腐れ次第やけ次第にせよといつてゐるのも(年成録)、この類であり、齋藤竹堂も鎌倉の大佛を無用の長物とし、「鑄之爲錢不可量」といつてゐる(鎌倉大佛歌)。
 かういふ考からいふと、文學が許容せられるのは、それが政治もしくは道徳の助となるか、または學問もしくはその他の實用に役立つものとしてか、の二つの場合に過ぎない。聖人の道を政治の術と解した徂徠派に於いては、特に政治的意味を詩に有たせたのであり、從つて、多くの點に於いて徂徠派の思想を繼承してゐる國學者の眞淵が、歌に教化もしくは觀風采俗の政治的功用があることを説いたのも、偶然ではない(國意考、歌意考、国歌八論餘言拾遺、萬葉考序)。田安宗武も同樣に考へてゐた(國歌八論餘言)。また眞淵が、源語には權力の臣下に移つたのを概して皇室親政の古に復らんことを希望する寓意があつたらうといつたのも(源語新釋)、一面の意味に於いてそれと關係がある。源語についてのこの考は萩原廣道によつてうけつがれ(源語評釋)、皇室の御血統のまがひなきことを明かにする(520)ための諷諌が一部の眼目である、といふ守部の説(稜威雄誥)、伊勢物語は時勢に憂憤するところあつての作である、といふ御杖や内遠などの論(北邊隨筆、和歌の浦鶴)と共に、何ごとについても皇室のことを考へて來た、また政治が學問の主要な問題とせられてゐた、このころの思想であつて、そこに國學的精神の一面があると同時に儒學の影響も認められ、すべてを佛教的意味に解釋した鎌倉室町時代の考と全く違つてゐることを示すものであつて、秋成の如きは繪畫をさへ政治の具として考へたほどである(膽大小心録)。歌の道、敷島の道、といふやうなことばのあるところから、その道に歌としての外に何等かの意義があるやうに考へる傾きがあり、御杖の如くそれを神道と結合して説くのは、政治的意義を附會したのではないが、やはり文學の獨立した價値を認め得ず、または認むべき十分な理論を立て得なかつたからであつて、この點では室町時代の思想と同樣である。なほ文學に道徳的攷果を求める考もあるので、詩に人の徳性を涵養するはたらきがあるとする儒者の見は、このころの歌人や和學者にも繼承せられ、眞淵は勿論のこと、歌のこゝろを常の行、常の心、に移すべしといつた蒿蹊にも、また歌の用は淺き情を深き情になほすところにあるとする藤井高尚などにも、同じ思想が存在し(國歌八論餘言拾遺、讀雅俗辨、歌のしるべ)、よい歌は正しい心からできるといふ宗武や蘆庵の意見も、畢竟同じところに歸着する(國歌八論餘言、蘆かひ)。小説については、源語に當時の人の褒貶が寓してある、といふ御杖の説があつて(北貶隨筆)、これはいはゆる勸懲の論とは違ふが、道徳的意義があるとする點にそれと通ずるところが無いでもない。
 さてこれらの説は古歌の性質論や古文學の解釋としては全く事實に背いてもゐ、作品の現はれた時代の思想を理解せざるものでもあるが、さういふことを顧慮せずして恣に空疎の言をなすのは、當時の學者の通癖であつた。もつと(521)も詩歌によつて政治家が民心を觀察し得る場合もあらうひ。また文學が一般に人の道徳を進める所以ともなり、個人の修養に益することのあるべきことも明かであるが、それは文學に人生そのものが表現せられ、或は新しい生活を創造してゆかうとする人の要求と進みゆくべき方向とが暗示せられてゐるがためであつて、或る時代、或る社會、の道徳の因襲的便宜的信條または或る教派の思想が文學の形を以て説かれてゐるがためではない。生命ある文學はむしろさういふ信條に反抗する場合が多いが、それが即ちおのづから人の道徳生活そのものを一段高く進めてゆく所以である。が、上記の人々の考はさういふのではない。蒿蹊や高尚の考は、見やうによつては生活の藝術化とでもいふべき意味に解せられなくもないふしもあるが、その歌の心といふのも深き情といふのも、やはり古歌に現はれてゐるところを標準とする一定した觀念に於いてのことであり、また彼等の思想の傾向から推測すると、それには、ともすれば實生活から離れた遊戯の世界を造ることになり易いところがある。道徳といふ語の意義次第では、人の生活は即ち道徳生活に外ならぬのであつて、藝術も學問もすべてがそこから發生しそのために存在する、といふこともできようが、當時の人のいふのはそれではなかつた。たゞ歌人の思想は歌についての考であるだけに、儒者の如く偏固ではなく、そこに一脈の人間的情味があることは、注意を要する。
 また小説に於ける勸懲の思想に至つては、その因果應報觀が普通人の道徳思想に於ける自然の要求から出たものではあるものの、既に述べた如く少しく知識あるものから見ると、禍福を以て人を誘ふその道徳觀念の低級であることはいふまでもなく、普通人に於いても、果して得られるかどうかの明かでない將來の福利が現實の生活を支配するに足らないこと、刑罰の世に嚴存することを知りながら犯罪者の世に絶えないことは、目前の事實ではないか。木村通(522)翁などの如く、當時の知識人がもし小説の存在を許す理論を何かに求めようとしたならば、この勸懲の思想に於いてそれを得る外は無かつたであらうが(國字小説通)、それがたゞ文字上の知識に過ぎないことは、勸懲小説そのものと同樣である。人生のこと一として道徳的意味を有たぬものは無いから、小説がその點に力を入れるのは固より當然であるが、書物の中から借りて來た淺薄なる道義の觀念に物語の衣をきせるのは、それとは全く違ふ。
 古の道を明かにするための學問の方便として詩を見た徂徠の説を眞淵がそのまゝ歌に適用したことは、既に説いた(第十一章)。かういふ功利的眼孔から文學を見た例も珍らしくはなく、馬琴が童幼婦女に知識を與へるためだといつて小説のうちでいろ/\の講釋をしてゐる類は、まじめに考へるほどのことではないが、思想としてはこゝにその由來があらう。造形藝術に於いてはそれが一層著しく、學問の具でない代りに實用的のものとして考へられてゐる。宣長や江漢が繪について説いたところを見ると、國學者や蘭學者にもその傾向があるらしい(玉勝間、春波樓筆記、西洋畫談)。散文的な國學者、實用の學を主とする蘭學者、としては、これも無理の無いことであらう。
 さて當時の學問は主として古書を讀むことであるが、上記のやうな考からその助になるとせられた文學が、古のを重しとし今のを輕しとせられるのは自然であり、全體に尚古想が知識人の間に存在してゐることからも、さうならねばならぬ。同じ上代のもののうちでも古い方のがよいとせられるので、眞淵の萬葉崇拜は勿論、彼が伊勢物語を揚げて源氏物語を抑へた氣味のあるのも、主なる理由はこゝにあるらしい(伊勢物語古意、大和物語序)。國學者系統の歌人が、上代の歌は心のまゝをすなほに歌ひ出したものとして特別にそれを尊んだのは、「道」についての眞淵の思想から來てはゐるが、歌についていふとこゝにも理由がある。千蔭や春海が漢詩人の用語を學んで雅俗の別といふこと(523)を主張しながら、それを上代と後世との違ひとして説いたのも同じ考からである(筆のさが、など)。本來國語を重んずるのは、それがおのれらの生きた感情、生きた思想、を表現する生きた言語だからであるのに、國學者が死んだ古代語を尊び生きた現代語を卑しむのは、甚しい矛盾であるが、それは即ち彼等の自國尊重の思想が、現實の國民生活、自己自身の生活、に本づいたものでないからであると共に、古代崇拜といふ別の考がそれに加はつてゐるためでもある。用語にすら古を尚ぶのであるから、歌そのものについて古人を標準とすることは勿論であり、成章御杖の如く中古の歌の数を尊重してゐるものさへあつた(歌袋)。
 かういふ考からいふと、俗語を用ゐる俳諧は「あさましきもの」であつて、涼袋はそれを芭蕉の流した毒とし、ただいはゆる調ある句、即ち雅なる文字を用ゐた句、に於いて芭蕉の遺した藥を認めてゐる。彼の片歌の主張はこゝから出てゐる(二夜間答など)。千蔭や春海が景樹の歌を難ずるにあたつて、それを蕉風の俳諧に比し、昔の爲兼の歌を今の俳諧者流だといつてゐるのも(筆のさが)、また清水濱臣が俳諧を「あながちにおとしめいふべきものにはあらず」としながら、歌に近い心と詞とのあるものを稱揚したのも、同じ考からである(泊※[さんずい+百]筆話)。俳諧を文字通りの戯謔の言と解し、それがために却つて蕉風の俳諧を難じてゐるものがあるが(橘よしふるの俳諧論)、これは文字上の知識に本づいて事物を論ずる儒者の見解を學んで、古語の意義によつて現在の事實を批判する國學者に、普通な癖論ではあるものの、その裏面には俳諧の形によつて歌らしいものを作るのは僭越だ、といふ尚古思想がある。馬琴が古池の吟を萬葉の歌に此して雲泥の差ありと評してゐるが如きは、彼の衒學的尚古癖の發露であるのみならず、萬葉をも芭蕉をも解し得なかつたことを示すものでもある(曲亭遺稿所載風月庵主に答ふる文)。小説についても、岡本保孝が(524)皇國では小説にも雅文を用ゐるといつて、京傳馬琴の用語の俗なるを難じたのも、同じ考らしいが、いはゆる雅文が昔の俗語であつたことには氣がつかなかつたのであらう(難波江)。古語を少しばかり知つてゐるといふことのために、三馬や種彦を賞賛し京傳を難じた齋藤彦麿があるではないか(神代餘波)。かの潮來考を書いた村田了阿が淨瑠璃本の老松の注釋を作り、小文字太夫の序と岸本由豆流の跋とをそへて劇場の看客に頒布せんとしたのを、春海の後室が怒り高田與清が嘲つたのも、同じ思想の現はれである(松屋筆記七)。 この尚古主義は歌の本質を考へる場合にも適用せられてゐる。歌は思ふことをそのまゝにのべるものであると考へられてゐたが、思ふことのすべてが歌になるとは信ぜられないから、歌になるべき思ひの何であるかを明かにしなければならぬことになり、眞淵春海千蔭などは、宣長も或る場合には、古人の思つたことがそれであるとした。彼等は歌によつてのみ古人を見、古人の思ひは歌に現はれてゐることの外には無いと考へ、それに對して、今人の思ひには歌にならない、例へば實用的の、ものがあるから、それは邪曲であり俗である、と斷じたのである。歌になる思ひと然らざるものとの區別をしようとして、明晰な概念を得ず、また誤つた推論をしたのではあるが、それがかういふ方向に導かれたのは、根渟に尚古主義があるからである。他の藝術に於いても同樣な傾向がある。三絃樂が知識人に卑しまれたのは、一つは道徳的見地からのことであるが、「何知聲歌壞中和、雍々大雅欲墮地、」(三絃弾市川寛齋)には、やはり古の樂に「大雅」の音を認めようとする尚古主義がある。星巖が月琴をきいて「正始之遺復何夢、新艶※[禾+氏]足媒※[女+謠の旁]姦、」と歎じたのも、同じく道學先生的思想と尚古主義との結合である。繪畫に於いて、現代の風俗を寫すといふ點から浮世繪が知識人に輕んぜられたのも、同じこと(525)であつて、その淨世繪師の祓信すらも、寫生に專になると俗に陷るから古法を守れといつてゐる(繪本倭比事附言)。この古法といふのは古い大和繪のをいふらしく、彼は唐畫には反對してゐるが、このころになつて知識人の一部に流行し初めた南畫に至つては、殆ど寫實を求めないものであり、古代とシナとの相違こそあれ、現實を卑しむ心理は同じであつて、また事實、純粹の南畫家は古法の墨守を生命としてゐた(中村竹洞の金剛杵など)。南畫家は形似を尚ばずして気韻を主とすといひ、畫に近く眞に速きを尊ぶとさへいつてゐるが、かういふ考の承認せられ易いのは、畫によつて畫を學び、而もその畫が日本人の眠にふれる光景とは全く趣きの違つたシナの風物を寫したものだからである。だから彼等はシナ人の立てた法則に從つてそれを守る外は無いが、本來シナの畫法は彼の地の自然界の觀察から得來つた寫實の手段に外ならないことを、彼等は考へなかつた。もつともそれは、山水などに對するシナ人の趣味と、作畫の材料たる紙や繪絹や墨や顔料や並に筆を用ゐる技巧やから來る特殊の要求とによつて、便宜化せられてゐるので、遠くは王維の山水式や、近くは董其昌の畫旨、沈芥舟の學畫篇、或は芥子園畫傳など、江戸時代の南畫家が金科玉條視してゐたものに説いてあることは、すべてそれである。形似より氣韻を尚ぶといふことも、一つは宋代以後に於いて特に繪畫の上にそれの適用せられた思想上の理由もあるが、實は主としてこの技巧上の要約を正當視しようとするところから來てゐるので、用筆の上からいふ書畫一致論などと由來を同じくする。(氣韻といふ語の意義は、謝赫の時代はいふまでもなく唐の張彦遠のころになつても、人物やその他の生物が生きてゐるやうに寫されてゐる、といふほどのことであつたらしいが、後にはそれが一種の形而上學的思索によつて變化させられた。こゝでは後の意義でいふのである。)その實シナ畫とても寫實が基礎でもあり主意でもあることは、上にいつた畫論の何れにも説かれてゐる。(526)たゞ日本の畫家にはそれが解せられず、從つて畫と自然とは全く別もののやうに考へられたのである。素朴な寫實主義が藝術觀として低級なものであること、並に文字のまゝの寫實主義が、實現すべからざるものであることは、別の問題であるとしても、法則化せられた用筆用墨の技巧によつて粉本を摸寫するに過ぎないのを、気韻とか傳神とかいふ空虚な語を以て粉飾するのは、全く無意味である。彼等のしごとは、物の精神を捕へたとか、自己の内生活を表現したとか、評せらるべきものではない。「山依北苑學披麻、樹倣南宮作落茄、」といひ「墨※[さんずい+審]溌成王洽暈、毫尖掃取董源※[俊の旁+皮]、」(題自畫山水山陽)といふ山水畫に、作者の何が表現せられてゐるものぞ。われ/\がシナ人の名作に接した時、讃嘆の情がおのづから生ずるにかゝはらず、邦人の南畫を見ては器用であり巧みであると感ずるに過ぎないものの多いのは、この故であらう。かういふ無意味な摸倣が日本の南畫家によつて行はれたのである。
 ところがかういふ意義での文藝上の尚古主義は、一つは文藝を以て自己の内生活の表現と考へないからであるので、そのことは古文學の解釋や批評やに於いても見られる。漢文を書くものが文のよしあしを論ずるのは、それに表はれてゐる、もしくは現はさうとした、作者の情懷または思想とはかゝはりがなく、作者の個人性をも考へず、用語文字とその結構とだけに對するものではないか。詩の批評が主として技巧の點にあるのも同じことである。和學者の古文の注釋がやはり文字の上にとゞまつてゐることは、既に述べた。萩原廣道の源語評釋はこの點に於いて一新境地を拓いたものではあるが、文章や結構に於いては漢文を解剖する方式を殆どそのまゝに適用したものであつて、その見かたは頗る機械的である。我が國には注釋あつて批評なしと稱し、金聖嘆式の小説批評をまねた馬琴の考も、やはり襯染とか照應とかいふ結構や用筆の上のこと、または勸懲が何處にあるかといふやうな、いはゆる作者の隱微をさぐる(527)こと、などである。歌についていふと、眞淵が實朝を稱揚したのも、たゞその歌に萬葉ぶりのものがあるためではないか。さうしてかういふ考へ方は、古人に對する道徳的批評が抽象的な忠奸正邪の觀念を尺度とするのと同樣である。
 さてかう考へて來ると、文學の輕視せられたのは、畢竟、書物の上の知識を尊重する態度に根本の由來があるといはねばならず、さうしてそれにはまたシナ式合理主義の陰影が伴つてゐるやうにも見える。國學者系統の歌人たる宗武もまた蘆庵も、歌に詠むことがらは理にかなつてゐなければならぬといつてゐるが、その理といふ語の意義がかなり曖昧ではあるものの、かゝる語を用ゐるところにさういふ形迹のあることが感ぜられるではなからうか。歌についてではたいが、松の精からできるものは茯令松茸松露の類であつて、老人夫婦のそこに生れることは本草綱目にも見えないから、高砂の尉姥は虚僞である、と美しい古物語を一蹴し去つた伊勢貞丈の考(安齋隨筆)は、明かに合理主義的である。かういふ考へかたから文學が生れないことは、いふまでもなからう。鎌倉諸藝袖日記(一の一)にかういふ見解が滑稽的に取扱はれてゐるのを見るがよい。勿論、文學がかう見られるのは、當時の文學上の作品に、何れの分野のに於いても低級なものがあり、遊戯的な或は理窟に墮したものがあるからでもあつて、それはまたしば/\述べたやうな社會状態と國民生活との故ではあるが、知識の上から文學を輕んずることが、また高級の文學の生れない一理由でもあつた。けれどもかゝる知識人の批判の下にありながら、ともかくもいろ/\の形態に於ける文學の斷えず世に現はれてゐたことが、やがて彼等の見解の無意味であり空疎であることを示すものであるので、學者の所説は初めから事實によつて否定せられてゐる。さうしてさういふ事實を見て、そこに人生として如何なる意味があるかを考へようともしないのが、當時の學者であつた。のみならずこれらがすべて前篇に述べたところと同じであるのを見(528)ると、停滯してゐる世の中と共に知識人の思想にもまた變化の無かつたことが、知られよう。
 
 しかしこゝにもまた、上記の因襲思想に反抗する考がその傍に現はれてゐる。その最も重要なるものは宣長の意見であつて、彼は石上私淑言及び玉の小櫛に於いて儒者の文藝に關する教化主義を排斥し、古人の雅樂を弄んだのは今人の三味線淨瑠璃を玩ぶに同じだといひ、また道徳的教訓的に歌や物語を見ることをも非とした。この考は後の和學者や歌人によつて繼承せられ、源語は教誡にはならぬといつた石川雅望(ねざめのすさび)、徒然草の道心がましきを抑へて枕の草紙を揚げた石原正明(年々隨筆)、眞淵の教訓的傾向を難じた岡本保孝(難波江)、また安藤年山の同じ思想を攻撃した木下幸文(さや/\草紙)、などがその例である。夏目成美が俳諧を道徳的や宗教的に見ることを非としたのは、必しもこれらの國學者の影響ではないかも知らぬが、それにしてもやはり同じ思想の傾向を示すものである(四山蒿)。また宣長は歌や物語の本質が「もののあはれ」を知ることにあるといひ、歌をよみ物語を作るのは物のあはれに堪へぬ時であり、思ふことをいはではやみ難き故であるといつて、情の生活、内なる生活、の表現としてそれを見た。歌は思ふことをのべるものだといふその「思ふこと」が、前に述べた眞淵などの考とは違つて、情であると斷定せられたのである。在滿の国歌八論には既に歌を政治や道徳にかゝはりの無いものと説いてあるが、歌の本質の何であるかを積極的に規定するには至つてゐない。それが宣長に至つてから明かに示され、さうして物語もまた歌と同じ性質のものとせられたのである。さて情は本來女々しいものであるから、歌も自然に女々しかるべきものであるとして、男々しさを尚んだ眞淵とは正反對の意見を立て、情の極致は戀に現はれるものであるから、歌や物語の重(529)要なる主題は戀であるとし、更に進んで情は我ながら我が心にまかせぬものであるから、道ならぬ戀の歌はれ寫されるのも當然であるとした。漢詩に戀愛詩の無いのを難じたのも、この故である(玉勝間)。今日から見れば、詩歌や小説の全體を「もののあはれ」の一言で蔽ひ盡さうとするのは、固より妥當ではないが、和歌と平安朝の物語とについての觀察としては、意味の深いものであつて、殘口などの神道者にいくらかの先蹤はあるけれども、これほどに徹底した解釋をそれに與へたものは、未だ曾て無かつたといつてよい。これによつて始めて知識から情が、外面的の道義觀念から文學が、解放せられたのである。宣長の一大功績はこゝにあるといはねばならぬ。ついでにいふ。歌に幾分の道徳的意味を寓する傾きのあつた御杖が、一方では、それをたゞ排悶散鬱の具であり情をのべるものであるとしたのも、歌を實用主義から解放しようとした點に於いて、大なる意味がある。
 宣長のこの考は眞淵の思想からも導き出されるので、道義を矯飾と見て人情の自然に對立させ、それによつてシナ人と日本人とを區別した點にそれが現はれてゐるが、この點は實は前章に説いたやうな偏見から出たものであるのみならず、彼の上記の見解を立てるにぜひとも必要のことではない。だから彼の考はむしろ彼が好んで平安朝の歌や物語を讀んだ趣味の上から來てゐる、とすべきであらう。神道論となつて現はれた彼の國學思想とこの文學上の意見や趣味との間には、よし矛盾するとはいひがたいまでも、幾分か調子の合はぬふしがあつて、それが歌の作者としての彼にも現はれてゐる(第十一章參照)。ところがこの思想もまた後に追從者を得たので、守部が歌を情の聲とし、色を思ふ情を忠孝の誠と同一であると喝破したのも、こゝに淵源があらう(神風問答)。種々の點に於いて宣長の思想を繼承してゐる景樹が、歌に教誡の言なしとしたことは勿論、歌は嗟嘆の聲であるとし、實情を述べるものだといひ、戀(530)は實情の最も實なるものであるから、戀歌の取分けてもてはやされるのは當然であり、それについては「たはれ亂れたることもなどか無からん」といつてゐるのでも、その由來するところの宣長にあることはおのづから推測せられよう(桂園遺文)。
 丈學上の尚古主義に對する宣長の態度はやゝ不徹底である.因襲と趣味とのために事實としては尚古思想が彼の説に存在してゐるが、しかし彼の思想を論理的に推し進めてゆくと、すべての點に於いて尚古主義は亡くなるわけである。歌についても、古いのは雅で今のは俗だといはなければならなかつたけれども、俗謠も和歌もみな歌であつて本質的には差異が無いとした點に、尚古思想を脱せんとする傾向が見えるではないか。蘆庵や景樹はもう一歩進んで、理論上古今の差別を認めてゐない。景樹が雅俗は古今について分つべからずといつてゐるのを見るがよい(隨所師説)。秋成が俗謠に人情をつくしたもののあることを説いたのも、この點に於いて意味がある(膽大小心録)。俳諧についても景樹は、その心ばへは和歌と違はないものであるといひ、芭蕉や蕪村を稱揚してゐる。「彼等に一棒を加へたらば」といつてゐるところに、和歌を尊しとする偏見があるらしいが、それだけは當時の歌人としてしかたがあるまい。御杖も和歌俳諧その道を同じうすといつた(俳諧てにをは抄)。歌人ではないが柴野栗山が※[食+丁]※[食+豆]補綴を事とする和歌や漢詩に對し、心のまゝを述べるものとして俳句を稱美したことも、注意を要する(甲子夜話)。鵬齋が俳人と親交のあつたことは勿論、竹堂も佛山も芭蕉の句を稱讃してゐる。歌人の如く商賣がたきの氣味が無いだけに、漢詩人の俳句觀に公平なところがあるのは自然の傾向でもあらうが、ともかくも俳句をひどく卑しまない考が、歌人や漢詩人などの間に生じて來たのである。
(531) 歌を情に本づけた宣長の文學觀は、理智を排斥する國學者としての彼の思想とおのづから相通ずるところがあるが、景樹の調べの説は別の意味に於いて明白に歌を埋智主義から解放したものである。「理るものにあらずして調ぶるものなり」といふ標語は、主として製作の方面からいつたものらしいが、それはやはり歌の性質としての説明ともなる。さうしてそれは、八田知紀によつて一種の形而上學的思惟にまで發展した。宇宙は理のみによつて成りたゝない、その活物たる所以は別に靈妙のはたらきがあるからである、人生に於いてはそこに情の關するところがある、歌に於いてはそれを調べといふ、といふのである(景樹翁全集下卷所收贈勝安房守書)。景樹が歌の「感」を力説し、冷暖自知の境があるとして禅語めいたことをいつてゐるのも、概念としての世界の外に別に直觀の世界のあることを示したものであらうから、それをおし廣めるとかうもいはれよう。國學者が智能を拒否したのとは違つて、これは頗る肯綮を得てゐる。この考には禅語もしくはシナ思想の或る方面に由來する點があるにしても、いはゆる活物の活物たる所以を超自然もしくは超人間の何物かに歸せずして、現實の人生そのものに認め人情の關するところとしたのが、われわれの興味をひくところである。そこに弱いながらも人間性の昂揚があるからである。景樹が古今集の解釋に於いて意義を説くにとゞまらずして調べの上からの感じを示さうと努め、また作者の人物と時勢と歌のよまれた場合とを考に入れてゐるのも、一々の歌についてのその説の當否は且らく措き、この意味に於いて看過し難いことである。御杖が書紀の用語に本づいた倒語諷歌の觀念ですべての歌を律しようとしたのは、勿論甚しき偏見であるが、古歌を解釋するに當つて作者の心もちを説かうとした點は、注意を要する。歌は人のよんだ歌として見られて來たのである。
 空想の力を文學に認めるやうになつたことも、こゝに附記したければならぬ。古文學については、伊勢や源氏を作(532)り物語とは知りつゝも殆ど事實の記録の如くに取扱ふ風習があつたが、作意を論じたり結構を批評したりするやうになれば、さういふ考も變らねばならぬ。廣道の源語評釋はこの點に於いても幾分の價値がある。もつともこれらは寫實的のものについてであるが、宣長が古事記の不合理な記載をも一々事實と見たに反し、守部がそこに製作せられた物語のあることを説いたのは、よしそれが今日の意義での文學として見たのではないにせよ、さういふ空想のはたらきを是認した點に於いて、シナ式合理主義を打破つたものである。たゞ歌に於いては、思ふことを直接にいふのが歌であるとせられ、それに對して何等の異議も出なかつたが、これは歌が詞章の簡單なものであり、さうして單純な抒情詩として取扱はれてゐた故であらう。
 歌についてはなほ一言すべきことがある。宣長は歌を情の表現とはしたが、それには技巧を要するとし、さうしてその技巧は詞のあやと調べとの點にあるとした。このことについての宣長の意見は頗る曖昧であつて、深い情から出る詞はおのづからあやがあつて聲が永くなるともいひ、表現の上の技巧で詞をあやなすのだともいつてゐるが、眞淵の説とは違つて萬葉にも拔巧があるといひ、また新古今を喜んだところなどから見ると、後の方に重きがおかれてゐるらしい。景樹は宣長に一歩を進めて、歌は嗟嘆の聲そのまゝであるとし、宣長の考の一隅に存在してはゐながら成長しなかつた思想を成長させ、眞淵が上代人に限つて許したところを一般におし擴めて、その嗟嘆の聲におのづから調べがあると説いた。そこで理論上無技巧主義となつた觀がある。彼はまたしば/\「まこと」といふことをいつてゐて、これは歌は自己のありのまゝなる情思を詠ずべきものだといふ意義であるらしいが、しかしまた表現についての技巧を排斥する考が含まれてゐるやうにも見える。しかし、歌を作ることを指導した彼としては、おのづから修業(533)を經てこの無技巧の境地に入るを得べきものとしなければならなかつたから、事實上、技巧、もしくは技巧なき技巧、を許すことになつた。この考には歌の本質の論と歌を作ることを學ぶための用意との混淆があり、歌は何人にも詠み得られるものとする因襲的觀念がはたらいてもゐるが、實をいふと、こゝに自家矛盾がある。のみならず、嗟嘆の聲が歌たらば、歌は詞をなさぬ音だけでもよいはずであるから、こゝにも矛盾が存在する。熊谷直好と八田知紀との論爭の一つはこれがために生れたので、畢竟景樹の思想の一面づゝを互に主張したのである(古今集正義總論補註論及び辨)。歌とその技巧との關係については、かういふ風に問題が展開して來たが、その技巧も情を表現するためのものであるから、技巧のための技巧ではない。宣長や景樹の詠んだ歌そのものに對する許價は別として、この考は少くとも理論上、歌を技巧主義から解放したものである。
 こゝまで考へて來たところで、歌と詩との異同についての當時の主要なる見解を一瞥しておかう.一般にはこの二つは同じ性質のものと考へられてゐて、蘆庵の如きも、ことばは違ふが人の情は同じであるから、としてそれをいつてゐる。たゞ宣長はシナの上代の詩は日本の歌と同じ性質をもつてゐたが、シナでは後になつて何ごとについても理智をはたらかせ人も矯飾をつとめるやうになつたから、詩は歌とは違つたものになつた、と眞淵以來の國學者的シナ觀をこの間題にも適用してゐる。ところが景樹になると、日本人とシナ人とではことばと聲音とが全く違つてゐるので、聲音の單純清明な日本語にして初めて聲に出せばそのまゝ歌になり、その歌におのづからなる調べがあることになるけれども、聲音の溷濁不正なシナ語ではそれができず、從つて詩には義理を弄ぶことが主になるとし、さうして日本語のこの特質は日本の風土の秀麗なることに起源があるといひ、言語聲音の點から歌と詩とをはつきり區別した。(534)こゝにも國學者の思想から展開して來たところがあるが、それをこのやうな主張としたのは、嗟嘆の聲そのまゝが歌であり、歌の本質は理わるところにあらずして調べることにある、と説いた景樹の根本思想とその音調に對する敏感とから出たことであつて、その無技巧主義とも深い關係がある。言語聲音の差異によつて歌と詩との別を説いたのは、これまでの歌人の明かにしなかつたことを明かにしたものであつて、景樹の創見であり卓見でもある。たゞその差異に褒貶を寓したところに、今日から見れば國學者的偏僻のあることは、いふまでもない。が、歌人でありながら詩との區別を正しく理解しないものがあり、一般の知識人に於いてはなほさらであつた當時に於いては、この主張に大なる意味がある。さうしてそれはおのづから、文學をシナ思想またはそれとつたがりのある技巧主義から解放することを、助けたのである。
 かういふ傾向は造形藝術の上にも認められる。繪畫についての宣長の寫實主義は、江漢のと同じく極めて素朴な考であるが、それでも、形式化せられた筆意や筆勢を主としシナ畫の摸擬を生命とする作家に對する反抗としては、相當の理由がある。畫家としても菊池容齋が畫もと法なく流なしとして粉本家を嘲り、寫眞を以て畫の原としたのは、歌に師なく法なしとした蘆庵や景樹の思想と共通の點がある(畫章十五則)。同じ人が娼妓を寫すも卑しきにあらずといひ(同上)、南畫家とも稱すべき渡邊※[華の草がんむりが山]山が風俗畫を賤しむべからずといつたのは(一掃百態)、畫のよしあしは題材にあるのではないといふ點に於いて、尚古主義や道徳主義に反對したものである。文晁が西洋の畫法を取入れた清人の作を評して一見識があるといつたのも、拔巧の上に於いて同じ傾向を示すものである(文晁畫談)。溪齋英泉が粉本家を罵つたのは、浮世繪師としては當然の主張であらうが、明白にそれを述べた點に注意を要する(無名翁隨筆)。(535)容齋が寫實派の作に生気がないといひ、※[華の草がんむりが山]山が浮世繪は鄙しいといつたのは、その思想の根柢にやはり因襲的の何物かがあつたからではあるらしいが、素朴な寫實主義に滿足せず、浮世繪師の態度に慊らぬ點があつたのは、今日から見ても首肯せられるのであるから、それは彼等の意見の革新的なるを妨げるものではない。繪畫そのものに於いては、シナ畫に對する反抗が事實として現はれたので、浮世繪は勿論のこと、四條派の發生にも幾分かその意味が含まれてゐるし、獨立の藝術としてオランダの繪畫が學ばれ、または種々の流派の畫家、特に浮世繪師によつて、その寫實的な技巧や景物の見かたの取入れられたことが、このことに大なる關係があるが、畫論としてもかういふ意見の現はれたのはやはり一般の思想界と交渉が無くてはならぬ。
 さて因襲思想に對するこれらの反抗が概して國學者の側から現はれたのは、因襲思想が儒教またはシナ思想と密接の關係を有する以上、當然のことである。さうしてそれには平安朝の文學が一つの誘因をなし、或る場合には蘭學によつて與へられた西洋の知識の刺戟もあつたことに、意味があるといはねばならぬ。しかしその根本は人間性を抑壓しようとするシナ思想もしくは儒教思想に對する人間性そのものの反抗であつて、それは事實としては本來存在してゐるものであるにかゝはらず、文字上の知識に於いてシナ思想に抑制せられてゐたため、理論としてはまだ現はれなかつたものが、そろ/\頭を露はして來たのである。國學者の思想界に及ぼした功績があるとすれば、それは主としてこの點にある。さうしてそれは、社會的の規制に對して隱約の間に幾らかの不滿を抱いて來たもののある思想界の情勢とも、相通ずるところのあるものである。
 
(536)     第十九章 道徳思想
 
 江戸時代の道徳思想の特色が、當時の政治制度及び社會組織とその間に於ける生活の状態とから形成せられたものであるととは、いふまでもない。このころに於いてもそれが多くの知識人によつて正當視せられてゐる。けれどもまた一方では、人としての自然の欲求から、それに對する幾らかの反撥も生じてゐる。そのことについて一應の觀察をしようとするのが、この一章の主旨である。
 このころの道徳思想を概觀すると、封建制度に伴ふものとして君國のためお家のために、また君臣主從の關係によつて構成せられた社會のこととて主人のために、あらん限りの力を盡して奉仕することが重んぜられ、特に武士に於いては死を覺悟してその事に當ることが尚ばれてゐる。なほ世襲主義の世であるところから祖先の名を辱しめず子孫に汚名をきせない心がけが必要とせられてゐる。これらは主として武士についてのことであるが、すべての社會の通念としては、人の身分が世襲的に定められ、それによつて世の秩序が維持せられ平和が保たれてゐる當時のこととて、この身分制度を守るのが道徳上の責務と考へられてゐたことが、注意せられる。事實かゝる制度に慣らされ、その下に於いてともかくも生活のできてゐる多數人は、それに對してさしたる疑惑をも反感をも抱かなかつたのである。身分制度そのものに幾分のゆとりがあり、身分の變動が事實上或る程度に行はれてゐることも、またそれを助ける事情となつてゐるが、道念としては人おの/\その分を守ることがどこまでも重んぜられてゐた。教訓の言としても「足ることを知るや蝴蝶の花のつゆ」(祇徳)、「足ることを知れや田螺のわび住居」(士朗)、などといはれてゐる。知足安(537)分の語は一般に人の口にせられたところであつて、例へば石田梅巖の如く通俗道徳を説く心學者、または二宮尊徳のやうな救貧致富の策を講ずるものも、同樣である(齊家論、報徳記)。この想想は秩序の亂れた社會に於ける處世法としんて、もしくはさういふ社會を新に秩序づけるための要求としても、生じ得るものであるが、このころのは現在の身分的秩序に服從することに重きがおかれてゐて、國學者の主張などは特にさうである(上文第十五章參照)。綾足の本朝水滸傳が、原作の着想とは違つて、百段にきつた柘の枝から百人の子が化生することを説くに當り身分の觀念を以てしたのも、そのためであらう。世襲的身分の定めの無い商人の社會でも、旦那と手代と世は次第送りとして、おの/\その分を守ることが説かれてゐる(世間手代氣資)。
 知足安分の思想は、いはゆる名利、特に物質的肉體的欲望、の無限の追求を非とし、それの抑制すべきことを教へるものとしては、十分の意味がある。しかし、その知足が人生有爲の氣象を抑止し事業欲を否認することであつたり、またはその安分が社會的身分には關係の無い方面に於いても人の力を伸ばすことを許さないことであつたりするならば、それは徒らに人心を萎縮させ世の動きを停滯させるものであるのみならず、人が生きてゐるものであり、何ごとかをすることによつてその生活力をはたらかせようとするものである限り、實現することのできないものといはねばならぬ。身分による社會的秩序の維持が要求せられることには理由があると共に、人をしておの/\何の方面かにその力を伸ばさせることが、却つて社會的秩序を保たせる所以でもあるので、それは事實が明かに示してゐるところである。個人的には時に身分の制約を破り身分そのものを新にすることがあつても、新しく得た身分が社會全體としての身分制度の中にその地位を占め、從つてその制度を維持することになるのである(第一章第二章參照)。全體の傾向(538)としては停滯してゐる文化も、人々のかゝるはたらきによつて、新しい動きを生じ、親しい生面を何の方向かに開いてゆき、さうしてそれによつて世の平和も保たれてゐるのである。
 けれども、知識人が知足安分を説く場合には、ともすればたゞ社會の外面的秩序を重んじ、すべての人の行動を強ひてその秩序にはめこまうとする傾向があり、また一般人とても、上に一言した如くその秩序に順應して生活することの安易に慣れて、自己の力を揮ひ自己の事業をなさんとする意氣を無くするものが多い。それがために文北が停滯するのみならず、種々の弊害が生ずる。特に分を守るといふことが身分の低いものに對していはれる場合には、おのづからそれの高いものの權威を認めることになり、地位あるものをして横暴ならしめ地位なきものをして卑屈ならしめることにもなる。のみならず、かゝる身分上の地位が重んぜられるのは、人の欲望をその地位の獲得に向はせるものであつて、事業に興味を有たずして地位を高めることにのみ力を注ぎ、また努力して得た地位に誇りを有するため、それの低いものに對して地位といふものの勢威を示さうとする。尾上岩藤の物語によつて示される奥女中の下僚いぢめは、狹い奥向を天地としてそこに權力を振はうとするからでもあり、女としての本能の抑壓せられてゐる生理的事情から生ずる病的な殘忍性の故もあるが、こゝにもまた一理由がある。「緋の衣きれば浮世が惜しくなり」(柳樽初篇)といふのも、僧侶社會の同じやうな俗習に對する皮肉であらう。しかし一般に品性の低いものの多かつた當時の僧侶に世俗的權勢欲の割合に少かつたのは、彼等の物質的生活が或る程度に保證せられてゐることや、知識人から尊敬せられたくなつてゐることや、または破戒の行爲が事實上半ば許されてゐて、生理的本能の抑壓のために欲望を他の方面に向ける必要の少いことや、それらの事情もあるが、かういふ宗派内に於ける地位の獲得によつて、それが緩和せ(539)られてゐることも、その一原因であらう。なほかゝる性質の身分的抑壓は、官僚とか商家の手代とかの間にも行はれがちであつて、淨瑠璃などにはそれがしば/\語られてゐる。武士の平民に對する態度にも同じことがあり、それを賄賂要求の手段とするものさへ少なくない。名義や肩書を尊重する風習も、また身分制度の生んだものであつて、それが他の事情と結合すると金銀の力でそれを求めることにもなり、或はそれを僞稱する弊も生ずる。武士のにせものは膝栗毛の滑稽譚にも見えてゐるが、草双紙の常套的材料となつた寶物のにせものといふ觀念にも、根本に於いてそれと相通ずるところがある。だから一方に於いては、身分の低いものが高いものに對して何となき不滿の情もしくは幾らかの反杭の念を抱くやうになるのは、自然の勢である。
 廣い世間に於いて身分的に上位にあるものは武士であるが、平民は必しも衷情からすべての武士を尊敬してゐるのではない。第二章に述べたやうな品性の低い武士、賄賂請託で動かし得る武士、が輕んぜられるのは當然であつて、福内鬼外の源氏大草紙に於いて、「侍といふ商賣」といはれ「高が侍風情」と罵られ、甚しきは「出家侍犬畜生」といふ語さへも用ゐられてゐるのを見るがよい。これは固より口達者な江戸つ兒式の放言に過ぎないものであり、またそれは平民が武士階級の權力に對して反抗の念を抱いてゐることを示すものではなくして、何ごとかで或る武士に接觸する場合にやゝもすれば横柄な態度を見せられることに對する反感の現はれであり、個人としての侍に對するものであるので、菅原傳授手習鑑に「小糠侍鋸層公家」の語があるのも、その類である。もつともかういふいひかたをするのは、その個人が侍の身分をもつてゐるからではあるので、そこに武士の地位に對する或る反感が含まれてはゐようが、それにしても現實の武士階級に對する反抗ではない。武士は無理をいはれても上命とあれば心を屈し或は阿諛のため(540)にそれに從ふが、百姓はそれと違つて權力には心を屈せぬものである、といつたものがあるが(日本文庫所收夢物語)、これは一面觀であつて、他の一面には地頭には勝たれぬといふ諺もできてゐる。官禄のために生活を羈束せられない平民に比較的意氣がある、といふことは考へ得られるが、それは百姓よりはむしろ町人にあてはまることが多からう。百姓、特に小百姓、に氣まゝなところがあるといふことは、上にも言及しておいたが、それは必しも權力に屈しないといふのではなく、彼等が地位も無くみづから恃むところも無く、從つて自己の行動について節制の念をもたないからのことであらう。かういふことは人にもよりその人の境遇や教養にもよるのであつて、概言することはできないが、教養ある武士に於いては、必しも平民に對して驕傲なのみではないと共に、また彼等から常に輕侮せられても嫌惡せられてもゐなかつたのが、事實のやうである。さうしてかういふ側面から見ると、むりな上命にも服從するのは、むしろ武士の地位から來る一つの節制として解すべきであつて、そこに地位の無いものの氣まゝな態度に對立するところがある。秩序の定まつてゐる平和の時代に於いては、自己を主張するよりもみづから謙抑するのが美徳とせられたのである。勿論、武士も平民も、その態度行動には時の風潮なり俗習なりによつて動かされることも多いので、田沼時代の武士の氣風もその一例であるが、これはそのことみづからが世に順應する態度を一般人がもつてゐることを示すものであり、さうしてそれは根本の精神に於いて身分制度に順應して生活する安易さと通ずるところのあるものである。古淨瑠璃に於いて強いばかりの疎忽ものとして取扱はれ、近松に於いては單なる滑稽人物とせられた朝此奈を、源氏大草紙が、身分を百姓にして、武士の輩を眼中に置かず傍若無人のふるまひをする市井の英傑としたのは、やはり江戸つ兒の人氣に投じようとしたためのことには違ひないが、そこに田沼時代の平民の氣分の一方面が暗示せられ(541)てもゐよう。しかしそれはまた時勢が變れば變つた態度になり得ることをも示すものであり、武士に於いては、第三章で考へた如く、幕末に至つてこれまで眠ってゐた武士氣質が目をさまして來るのも、それである。さうしてこのことは必しも武士と平民との身分關係には大なるかゝはりが無い。百姓一揆の形で現はれる民政上の不滿または收税吏などに對する特殊の反感などは別として、一般的にいへば平民は武士に對して深い怨恨を懷くやうなことは少く、また階級的の反抗心などもあつたらしくないことは、第二章にも述べておいた。武士、特にその上級のもの、が平民をおのれらより地位の低いものとして見下してゐたことは事實であるが、しかし平民も兩刀さすことを許されて武士と同じ地位に上るを榮譽としてゐたことも、また事實である。そこに身分制度が全體の上で維持せられ、知足安分の思想が事實の上で緩和せられながら、道念として生命をもつてゐる所以があると共に、個人的には身分の差異が絶對のものでないことが、やはり事實に於いて示されてもゐる。
 身分といふのは妥當でないが、穢多の名をもつてゐるものが特殊の部落民として取扱はれることは、一般に是認せられてゐたので、尾羽うち枯らして乞食をしても穢多に錢貰ふことを恥ぢて入水した浪人があり(閑田耕筆)、穢多は神祇道の弟子とすべからずといつた學者もある(篤胤の伊吹於呂志)。穢多は心が良民と違つてゐて夷狄の裔であるから黥をさせて良民との區別を明かにせよ、といつたものさへある(海保青陵の善中談)。しかし「灌佛や裸は同じ乞食の子」(大江丸)といつたものもあり、人類の平等觀は司馬江漢のやうな蘭學者によつても主張せられた(春波樓筆記)。彼等の穢多觀は明かでないが、和學者の中には、肉食が上代の風習であつたといふ理由から穢多を賤しむを非とした岡本保孝があり(難波江)、儒者にも、穢多を神社で祓をうけさせ蝦夷地に移して牧畜をさせよと説いた帆足萬(542)里がある(肄業餘稿)。また中井履軒は年成録で、屠は賤業なれば良民が婚姻を通ぜぬはよいとしても、人の外なるもののやうにして火をとりかはさぬのはあまりのことだと、いつてゐるが、この考の根柢にもやはり人としての平等觀が弱いながらも潜在する。かういふ考は現實の問題としては勿論のこと、思想としても殆ど人の注意を惹かなかつたやうであるが、それがおのづから身分の差異を重んじない思想と相通ずるところのあることは、注意しなければならぬ。
 身分制度のみのことではないが、一般に定まつた秩序を重んずる世に於いては、その埒を外れた行爲が非難せられる。義經千本櫻に於いて辨慶が無法ものあつかひにせられてゐるのを、昔の辨慶物語に於いてそれが英雄とせられてゐたのに對照するがよい。この秩序の政治面に於いて最も大なるものは政府の命令の行はれることであるから、何ごとによらずそれを守らねばならぬ。國防計畫のため土地收用のことがあり、或る貧しげな小家がそれに取りこまれようとした時、祖先傳來の大事の住居は如何なる貨財にも土地にもかへられぬといつて、主の老婆が頑として應じなかつた、といふ話を書いて「しぶときをこのもの」と一茶が罵つてゐる(一茶句帳)。事の是非は別として、フリイドリッヒ大王の命に從はたかつたといふ水車小屋の主人の物語を作つたプロシヤ人の思想と對照して、兩者の差異のよつて來るところを深く考ふべきである。しかしこれについても、事實に於いては政令を守らないものが世に少なくなかつたこと、むしろ政府がそれを勵行しようとしなかつた場合のあることを、注意しなければならぬ.幕府の政令に「三日法度」が多いのはそのためである。さうしてそれがやはり民衆の生活の維持せられた所以であり、幕府が民衆の怨嗟を買はなかつた理由でもある。幕府の頻りに發した政令がすべて文字どほりに勵行せられたならば、民衆は何(543)の活動をもすることができなくなつてしまつたであらう。
 さて武士の傳統的道徳思想、特に武士の身分に固有なものについては、このころになつてもさしたる變化が起つてゐない。淨瑠璃歌舞伎もしくはそれを改作した草双紙などに現はれてゐる武士の道念は、さういふ作品そのものが前代の摸倣であると共に、當時の現實の武士の心情を寫したのではなくして、淨瑠璃歌舞伎によつて型が作られた、或はむしろ淨瑠璃化歌舞伎化せられた、ものであるともいはれようし、平和の時代に於いては本來不自然なところがあり矯飾せられた分子もある戰國傳來の武士の道徳が、かういふ作品の上では、強ひて新趣向を立てようとした點からも、摸倣に摸倣を重ねてます/\現實の生活から遠ざかつて來た點からも、一層不自然になり一層矯飾の度が加はつてゐるとも見られる。しかし他方からいふと、さういふ文藝の一般に愛好せられてゐることが、それに含まれてゐる造念の世に是認せられてゐる一證とも見られ、また一つの意味に於いてはこれらの文藝にさういふ道念を鼓吹する效果をも生じたことが考へられよう。社會そのものが固定し武士の身分も變つてゐない世の中だからである。が一般的にいふと、強ひて戰國武士の気風を平和の世に維持しようといふ特殊の要求の含まれてゐるこのころの武士道は、その平和が長く續くに從つて、おのづからその力が弱められてゆくことを免れない。武士の現實の生活に於いて古武士の氣象は眠つてゐる、といつたのがそれである。武士の思想とは齟齬するところの多い、或はむしろ反對の性質を有する、儒教道徳の思想が知識として承認せられようとし、それを根據としてゐる馬琴の小説が世の好評を博したのも、幾らかの原因はこゝにあり、歌舞伎や淨瑠璃に現はれてゐる武士の思想に甚しく不自然なもののあるのも、現實の武士の道念にかういふところがあることに一つの理由があらう。いはゆる武士道に反抗する思想のぼつ/\現はれて來(544)るのも、偶然ではあるまい。
 武士に特殊な義理の觀念が人としての自然の情に背馳するものとして取扱はれた近松及びその後繼者の淨瑠璃は、その義理によつて立つ武士道そのものに對する一種の反抗心を是認してゐるものとして、見ることができる。義理を以て人情を抑へるところに武士の道徳があるにしても、人情は人情として道徳を超越した境地に、その權威と力とが認められてゐる。だから妹脊山の如く、義理のためには相思の二人を二人ながら殺しはしても、死んだ二人の相思の情は、結んで解けなかつた怨家の怨を終に解かせてしまつたではないか。のみならず「つくらうた義理といふものはまさかの時には剥げ易い」(北條時頼記)とさへいはれてゐる。死を厭はぬといふ武士の覺悟についても「戰に臨みて死を忘るとは嘘の皮」(世間猿)と冷罵するものもある。學者の見解に於いても、君國のために潔く討死するものも心の奥には父母妻子も戀しく命も惜しいに違ひない、大丈夫だといつても究竟は女童と同じことである、といつた宣長がある(石上私淑言、玉の小櫛)。戰國の世に於いては、特に戰場で敵と直面する場合には、昂奮の極、我みづから我を忘れて、生命を顧みる餘裕の無いのが常であり、またその時代の一般の空氣と、戰闘の體驗と、幼時からの訓練と、社會的風尚と、身をすてることによつて始めて身を立てることができるのと、これらの事情から武士は死を敢てするのである。命を惜しむ情は命を棄てることと離れてあるものではない。だから宣長のやうな考の根柢には、よし事實と認められるところが含まれてゐても、要するに一面觀である。それと共に「武士道といふは死ぬことと見つけたり」といふ「葉隱」の思想は戰國武士の氣分をそのまゝ平和の時代の道義の基礎とするものであつて、これはむしろ冷靜なる思慮の所産である。そこに二つながら何人も實戰の體驗を有たない平和の世の机上論たる所以がある。勿論、死(545)を覺悟して事に當るのは戰場のみのことではなく、平和の世に於いて日常の任務に就くにもそれが必要とせられ、そこに武士の地位にあるものの特殊の教養があるべきだと考へられたので、「葉隱」に説いてあるのもこの意味のことであるが、その由來は戰國武士の風尚にある。ところが宣長の考はむしろ平安朝の文學から彼の汲出して來たものと解せられるので、當時に於いてかういふことを主張しようとすれば、當然思慮せられねばならなかつた武士道との對決を彼が試みようとしなかつたのも、そのためらしい。いふところが武士道に觸れてはゐるが、迫力が無い。これは彼の見解が彼自身の實生活から出、彼の時代の現實の武士の道念に對して形づくられたものでないからであらう。しかしともかくも彼の主張が武士道に對する一種の反抗であつたことは、疑はれないであらう。なほ曾て武士の責務とせられた敵討を滑稽的に取扱つた黄表紙(例へば敵討後祭祀や敵討記乎汝)のあるのも、事實として敵討の少たくなつた時勢の故であると共に、武士の氣風がその權威を疑はれ初めた一證とも見られよう。
 しかし武士の氣風がよし弱められて來たとしても、文字の上だけで考へられてゐる儒者の武士觀、武士を士として見るやうな考がそれに代つたのではない。「土の商賣とは唯義の一字を賣り候が家職に候」と松平定信がその家臣に訓諭したのは、全く儒者の思想であつて(前篇第十四章參照)、それは産業を賤む思想から來てゐるとともに、民と利を爭ふのを非とすることにもなるのであるが、その定信は家臣に産業を行はせ藩廳自身に商賣を營んだ上杉治憲を賞美してゐる。のみならず彼みづからも農兵の法を講じたではないか。それは封建制度の缺陷から生じた財政難の救濟、從つてまた武士生活の維持のためではあるが、武士制度を維持するためにはこの儒教思想に從ふことができなかつたのであるから、定信の訓諭が彼自身によつて破られてゐるのも無理はない。封建制度と武士の生活との當時の状態に(546)於いては、武士は民の利を征するか民と利を爭ふかして衣食しなければならないやうな一面が、多くの封建國家に存在した、といつても甚しき過言ではない。
 
 武士生活の基礎は君臣關係にあるが、この關係が俸禄によつて成りたつてゐることは、既に前篇に述べた。この時代の通俗道徳を説くものの言にも「君より俸禄を受けて命を維ぐ故に我が身を君に委ぬる、これを臣の道といふ、」(石田梅巖の都鄙問答)といふやうなのがある。或はまた「古より君臣は市道なりといふなり、臣へ知行をやりて働かす、臣は力を君へ賣りて米を取る、君は臣を買ひ臣は君へ賣りて、賣買なり、」(海保青陵の稽古談)といはれてもゐる。これはシナの遠い昔の戰国時代に於ける思想をそのまゝ繼承したものであり、「市道」も史記に見えてゐる語であるが、當時の我が國の状態にも、部分的にはそれにあてはまるところがあるのだから忠君といふ道義の根柢に利益の觀念の含まれてゐることは、このころの人にも覺知せられてゐたのである。武士のみならず、主從關係、親分子分の關係、が社會構成の樞軸となつてゐる當時の世間全體にこれに似たことがあり、概していふと、利益を與へるものと與へられるものとの個人的結合が集合して世間を成りたゝせてゐた、といつてもよいほどである。恩といふのもやはり何等かの形での利益を意味する場合が多い。勿論その結合には武士のとは性質の違つたところのあるものが少なくないが、その間に共通のところもある。從つて恩をうけ利益を與へられたものに對して身を碎いて働くことが、當時の社會の一般の道義として重要なものであつた。しかし利益の問題には感情の衝突が生じ易い。特殊の能力も無く能力をはたらかせる事業も無いものの多い武士、新しい主人にかゝへられ新しい地位を求めることの困難になつた平和時代、固(547)定時代、の武士には、さういふ場合が無いが、自由な活動の舞臺が到るところに開かれてゐる商人などの世界に於いては、それがしば/\起り、そのために主從關係の破壞せられる例が少なくない。だから一定の君臣關係主從關係が維持せられるのは、人が爲すことなくして地位を保ち得られる時代もしくは社會に於いてである、といつても大過が無いほどである。が、それは即ち君臣關係の精神が既に弛緩してゐることを示すものであるから、君臣關係の精神が緊張してゐる時はその關係の動搖を免れない時であり、關係の固定してゐる時は精神の弛緩した時であつて、君臣關係はこの矛盾の上に立つてゐるとも見られるふしがある。
 なほ君臣主從の關係を基礎とする生活が、人をして主人の覺えのめでたいことをのみ心がけさせ、從つて阿諛追從をつとめ、その行に表裏をつけさせること、君寵に誇り主人を笠にきて私福を營む社鼠城狐の徒を生み易いことも、自然の勢であつて、淨瑠璃や歌舞伎が常にこの種の人物を材料としてゐることは、いふまでもない。柳澤や田沼が姦佞の徒として一般に考へられたのも、一つはかういふ社會に於けるかういふ事實から形づくられた思想の反映でもあつて、その點では淨瑠璃歌舞伎に現はれる惡人の型にあてはめられたのである。
 さて當時に於ける主要なる道義が君臣主從の關係によるものであるとすれば、廣い社會に對しての道念のそれに比して薄弱であることは、自然の勢である。これは公共生活集團生活の觀念に乏しく、おのれらが結合して社會を構成してゐるといふ考の明かになつてゐないところに、一つの由來があらうと解せられるが、君臣主從の関係による個人的結合が社會の樞軸である世には、かゝる思想は發達し難いからである。一九の膝栗毛を讀むものは、見知らぬ人々が些細のことばとがめをしたり何かにつけてすぐに喧嘩腰になつたりする場合の甚だ多いことを、知るであらう。こ(548)れは市井ののらくらものの行動を描いたものであつて、必しも一般人の態度を示すむのではないが、かういふ人たちでなくとも、ともすればかゝる行動をするものがある。それは人々に相互の人格を尊重する考と謙讓寛容の精神とが無いこと、思慮の足りないこと、などから來てゐると共に、漫りに面目を張らうとする心理もはたらいてゐるので、特に最後に擧げたことは「道なりにたつの市人斬りすてて股はくゞらぬ大和魂」(韓信股をくゞる畫蜀山)と大和魂にまで高められたものである。武士や何ほどかの地位のある百姓町人には、さすがにかういふことは無く、堪忍の重んずべきことが教へられてもゐるが、しかしそれとても社會に對する個人の道義としては考へられてゐない。商賣に詐僞の多いのもそれを示すものであつて、社會的意義に於いての責任感は概して薄い。このころの人土にもしかゝる性質の責任といふ觀念があつたとするならば、それは自己の面目を傷けまいとするためか但しは習慣や法規に外づれまいとする用意のためかである。だから面目さへ立てばそれで事は濟むのであり、形式の上で法規や習慣に背かねばそれで責任は解除せられるのである。このことは武士道を考へた時に既に述べた(前篇第十三章參照)。また形式を重んずることは俗吏に普通な態度であつて、先例や規定に拘泥して危急な場合にも臨機の處置をせず、自己の職務でないことはすべて傍觀し、それがために災害を大にしたり人命を失つたりする例も多い。一方からいふと、形式上の規定を以て人を責める習ひがあるから、責を免れるためにかうなるのでもあるが、いづれにしても自己の行爲が社會全體に如何なる關係があるかを考へないものであり、責任者自身についていふと全く自己本位のしわざである。さうしてそれはやはり自己が社會を構成する一負であるといふことを自覺しないからであり、さうしてそれはまた、現實に於いて集團生活社會生活が深く體驗せられないからである。公共事業の起ることの少いのでもそれが知られよう。
(549) 一般の平民に、概していふと、その直接の領主たる封建諸侯に對して深い情誼を感じないものが多く、諸侯の家臣が將軍に對してもほゞそれと同樣であるのも、その間に主從關係または俸禄を授受する君臣關係が存在しないところに主因がある。平民と領主との間がらは、領主の人物とその治民の態度とにもより、しば/\國がへの行はれる譜代大名とさうでない外樣大名との差異にもより、また民衆の知識の程度やその職業の如何やまたは土地の氣風などにもよつて、違つてゐるし、いはゆる陪臣の將軍に對する心情にも、直接の君主たる諸侯の地位やその他の種々の事情によって同じではないが、一應はかう見られるところがあり、少くともさういふ一面がある。事實、一般平民は國がへによつて領主が更迭しても、その治民の態度、特に農民に於いては貢租の徴收、について變化が無い限り、さしたる痛痒を感ぜす、維新の後になつて諸侯が廢せられても強い衝激を受けなかつた。また武士は旗本家人でない限り、徳川家が政權を失ふやうになつても、痛切な心の傷みを感じはしなかつた。彼等の主なる關心は自己の屬する藩國の廢罷にあつたのである。もつとも、徳川幕府の顛覆や封建制度の廢滅の場合のは、日本の國家の存立のために要求せられた政治形態の大變動が行はれ、またそれに伴つて君臣關係を樞軸とする社會組織が一般に廢棄せられた時のことであるから、それには特殊の事情があるが、徳川の治下にあつてもほゞ上にいつたやうな状態であつた。
 更に一歩進んでいふと、對外問題のやかましくならない前には、現實の政治に關する側面についていふ限り、日本人全體が一國民であるといふ意識すら、強くはなかつたが、これもまた國民全體を包含する君臣關係が存在しなかつたところに一理由があらう。因みにいふ。王臣または朝臣といふ語を幕臣と對立する意義に於いて用ゐたことは、維新の際までの習慣であつて、君臣といふ語は、公式には、國民全體を包含する何等の關係にも適用せられなかつた。(550)これはこの語の正當な用ゐかたである。寛政の尊號事件の起つた時に「何れか王臣に無之者可有之哉」と幕府でいつたのは、幕府が公家の地位にある中山などを罰し得ることを主張するために附會した一時の權宜に過ぎなかつたらしいが、それにしてもこの王臣の稱呼には一般平民は含まれてゐず、いはゆる任官しない下級武士さへもその範圍外とせられたやうである。たゞ黒船問題が喧しくなつて對外感情が緊張するやうになると、君臣關係とは別の意味に於いて、我が國といふ觀念が國民の間に明かに形成せられ、武士の思想に於いてもそれが重要な地位を占めて來ると共に、國民的統一の象徴としての皇室に對する尊崇が、思想の上また心情の上でそれに結合せられたので、水戸派の主張にもそれは強烈に現はれてゐるが、しかし国民全體として行動する訓練のできてゐない世の中であるから、實際問題に逢着すると、藤田幽谷が東湖に命じて夷人の宿所に飛びこんで彼等を鏖にせよといつた如く(囘天詩史)、また幕末の攘夷論者が恣に外人を斬つて攘夷を實行したと誇つた如く、放從な個人的行動に出ようとするものが少なくなかつた。これが公共生活の發達しなかつた國民の道徳觀念の一面である。
 かうは考へて來たものの、君臣主從の關係にはなほ別の意味があり、そこにむしろこの關係の本質がある。それは單なる市道ではなく、利益の觀念ばかりがそれにはたらいてゐるのではない。日本の武士の君臣關係は戰爭によつて生じたものであつて、昔のシナのそれとはその點に根本的の違ひがあるから、市道といふ語が部分的にはあてはまるところがあるとしても、全體としてはその間に大きな差異がある。あてはまる場合でもそれは客観的存在としての冷やかな觀察であり、またはその成立の要件を擧げたのみのことであつて、君臣の地位にあるものの主觀的な心情、もしくはそれが成立した後の兩者の實生活上の交渉によつておのづから養はれる氣分としては、君臣を結びつけるもの(551)は相互の曖い親愛感と切なる依頼感とであり、さうしてそれは君臣の間がらが譜代となることによつて一層強められる。このことは昔の平安朝末期または後の戰國時代の武士の氣風を考へた場合にくりかへして述べておいた。このころの平和の世にはそれが意識しての道徳的責務として考へられるやうになつたことも、また既に述べたが、この責務の念にもまた情愛が籠つてゐる。「何といひ何と語らむ昔今の君の惠みのつゆかゝる身は」(松平定信)。君に對する臣の道徳的責務はかゝる恩惠に對する感謝の情に本づくのであるが、その恩惠は必しも物質的の利益のみではなく、人の生活のすべての方面に關するものである。封建君主の家臣に對する細かな心用ゐについては上文(第一章)にも一言したが、事あるに當り寛容の情を以て臣下に接することが臣下にとつては大なる恩惠として感ぜられることは、いふまでもない。「葉隱」の如き特殊の傳統的精神の現はれてゐるもの、または明君賢主といはれた諸侯の言行を記したものなどを見れば、このことはおのづから明かになるであらう。かくしてこのころにも封建諸國に於ける君臣の關係が保たれてゐるのである。それは必しも武士がその力をはたらかせる場合の無くなつてゐるためのみではない。封建制度と武士との存續する限りこのことに關する君臣の心情と思想ともまた存續するのである。平時に於いて武士が死を以て事に當る場合のあるのも、これがためであつて、梅園がシナ人の氣風と對照して「我長于敢死」といひ、「自裁報國家之恩」を嘆美した如く、儒者もまた武士道の存在を誇つてゐる。平和の世の日常の生活に於いては、戰國の世の如くそれが斷えず強烈に動いてはゐないにしても、心生活の奥底に深く潜んでゐるので、機會が來ればそれの表面に現はれることが期待せられる。君臣關係の精神が平和の時代となつて弱められて來たと上にいつたのは、戰國時代と對比してのことであり、弱められたといふよりもその現はれかたが違つて來たといふ方が當つてゐよう。或はま(552)た民衆とその領主たる諸侯との間にも上に述べた如く或る情味の存することが考へられ、外樣大名の領國に於いては特にさうであつた。これには封建思想の現はれとして他國に對する抗爭心に助けられてゐるところもあらうが、そればかりではない。陪臣と將軍との間には緊密なる心情の結びつきはないけれども、しかし必しも路傍の人ではない。江戸に在住しまたは期限つきの江戸づめとなつてゐる地方武士が、江戸城の壯大を仰ぎ見、または正月などに諸大名の登城する光景を觀て、將軍の權威の大なるを知ると共に、武士としての自己の生活がその權威に依存することの深きを覺つたに違ひない。幕府の倒れるやうになつた時には、すべての武士が、少くとも、何となき寂しさを覺えたのは、そのためである。武士のみではなく一般民衆にもまたこの感があつたので、明治時代になつても國民が徳川氏宗家の後繼者に對して或る敬意と親しみとを懷いてゐたことによつても、それは知られよう。
 なほ公共心は發達しないにしても、また人の責任感がよし上記の如きものであるにしても、ともかくも彼等、特に武士、はその任務と地位とに關する責任感をもつてゐるので、事ある場合にはそれが君國のために身をすてて努力することになる。のみならず、社會構成としては君臣關係がその樞軸となつてゐるが、その君臣の行動し關與し接觸するところは多方面に渉つてゐるから、この道念にはおのづから社會的意義が含まれることになる。君臣間の道徳はただそれだけに止まるものではない。町人などに於いては、前篇にいつておいた如く、世間のおかげといふ漠然たる觀念に一種の社會感情がこめられてゐる。白木屋の或る番頭が寛政年間に書いたといはれてゐる獨愼俗語に、人はそれ/\に違つた地位職業任務をもつてゐるが、世の成りたつてゐるのはそれらがおのづから互に助け合ふことになつてゐるからである、といひ、また人は天地、國王、父母、衆生、の四恩を知らねばならぬ、と説いて、貝原益軒とは違(553)ひ、佛家の説に於ける衆生の恩をもとのまゝにして置いたことにも、町人の道徳觀念に含まれてゐる社會的意義が認められよう(前篇第十五章參照)。これは教訓の書に記されてゐることであるから、町人のすべてが事實かういふ道念をもつてゐたには限らぬが、商人たる著者が自己の經驗によつてかう説いてゐるところに意味があり、思慮ある商人の道徳觀として大なる價値がある。
 要するに平和の時代でありながら封建制度武士制度の下に生活してゐるこのころの日本人の道徳思想には、今日から見るといろ/\の缺點があり、特に武士のに於いてさうである。當時に於いてもまた武士の因襲的道念に對して異議を提出したものがあつた。しかし現實の具體的な道徳は、如何なる時代の如何たる制度の下に於いても、おのづからその時代その制度に適應するやうになつてゐるから、抽象的な倫理觀から見れば決して完全なものではなく、普遍的な妥當性をもつてゐるものでもない。他の時代に於いて他の制度の下にあるものが自己の思想を標準として見れば、その缺點と短所とが特に目につく。しかし歴史的に觀察すれば、さういふ意味で缺點のある道徳がその時代の國民生活社會生活のためには有效なはたらきをしたことが知られると共に、時代が變り制度が改められた後の社會生活國民生活のために必要な道徳が、それから展開せられ、或はその適用を變へることによつて形成せられてゆくことが、考へられねばならぬ。このころの武士の道徳思想が一つの理念たるに止まつて、十分には實現せられなかつたにしても、それは幕末に至つて現實に大きなはたらきをするやうになると共に、明治時代の道徳思想の形成についておのづからなる準備とも基礎ともなり、またはその有力な資料となつてゐることは、次篇に於いて詳しく考へるであらう。昔の平安朝の文學から導き出された武士道に對する反抗思想は、それが當時の實生活に根據をもたないものである點に於(554)いて、却つてかゝるはたらきをもたないものであつた。
 
 君臣關係と共に當時の社會構成の一大要素となつてゐたものは家族制度であつて、「わだつみの神の少女にたづさはりあるだに家は戀ひしかりきや」、「蝸牛なれだに家はもたりけり何時まで旅にふる身なるらん」(以上木下幸文)、父祖傳來の家、おのれの生れた家、子どもの時からつゞいてゐる家、が無くては人の生活は空虚なものとせられてゐた。「お家の寶物」が淨瑠璃歌舞伎や草双紙の趣向に無くてはならぬものとなつてゐたのは、それがために人が死んだり苦しんだりしても無理がないと思はれてゐたほど、思想の上に於いてかゝることが容認せられてゐたからであつて、それはまた家を重んずる習慣から派生したことである。(家寶といふ觀念に骨董の愛玩癖や傳來を尊ぶ思想や秘藏主義やの種々の分子が混合してゐることは勿論であり、また事實としては、淨瑠璃などに語られてゐるやうなことは殆ど無かつたであらう。)ところが家を構成するものは第一に親子である。「親はこの世の油の光り親がござらにや光り無い」、「親が片親ござらぬ故に人もあなづりや身もやせる」、「こはや恐ろし他人と闇みは親と月夜はいつもよい」、俚謠にもかういふものがあるので、それは多くは少年の感懷であらうが、そこに彼等の眞情がある。「親の異見と茄子の花は千に一つもむだが無い」といふやうなのは教訓のためのであらうが、親の重んぜられもし依頼せられもしたことは、これでもわかる。一般の状態として、親は子の親であるのみならず家長でもあり師でもあり、子の「人」となるのが親の力であることは、いふまでもない。「麥は搗きよから臼は立てよから※[女+息]はしうとのならひから」、※[女+息]にとつてはしうとはこの點に於いても親と同じであるとせられた。しかし親は親であると共に家長であるが、家長であれば(555)家を維持し或は家の地位を高め名聲を墜さないやうにする責任があるので、それがためには時に愛子をも見はなさねばならぬ場合が生ずる。生活の基礎たる財産は家のものとして考へられてゐるから、それを保護するためには子を勘當する必要も起つて來る。財産のためにかういふことをするほどであるから、家を維持するためには子女を犧牲にすることすらもある。さうしてそれが子の孝行の一つの姿とせられた。これもまた文學の好材料とせられてゐる。
 かういふ思想が、孝を道徳の根本とする儒教思想によつて支持せられたことは、いふまでもない。儒者の講説が物語の形をとつたともいふべき讀本を見るがよい。馬琴は繼母の意を迎へるために懷姙中なる無辜の妻を離別した「孝子」角太のことを敍してゐる(八犬傳六の五)。京傳は父を贖ふ金を得んがために夫ある懷姙の女が墮胎して身を遊女に賣らうとする「孝女」香晒(本朝醉菩提一)、貧に迫つて母を養ふために子を殺さうとする「孝子」南餘兵衛(双蝶記五)、の話を作つてゐるではないか。「子は再び得べし親は再び得べからず」だからであるといふ。父の仇を報ぜんためには可憐の妹が死に臨んでの哀願も顧みるべきではなく(八犬傳三の五)、親を養ふためには戀する女の如きは初めから問題にはならぬ(本朝醉菩提八)。「親子は一世の縁」といふ室町時代からの俚諺が、原意とは全く違つて、孝行を数へる理由として用ゐられてゐるのも、この故である(弓張月前篇四)。のみならず、かゝる孝行の裏面に如何なる虚僞が含まれてゐても、それは孝行の關するところではないらしい(上記雙蝶記)。さて孝心は善人には本具の性である。だから五六歳の幼兒が故なく父に惡まれて笞うたれる杖の下から廻らぬ舌で詫びごとをいふのは、孝心深きために親を慕うてのことであるといふ(八犬傳六の五)。「三千里外獨遊人、夢斷殘宵月一輪、思親又識親思我、不夢妻孥夢二親、」(西肥客中佐藤一齋)といふのも同じ考であつて、それは作者が妻孥を輕しとし二親を重しとする「孝子」(556)だからである。
 さて「孝子」たる佐藤一齋が二親を夢に見るのに不思議は無からうが、故らに「不夢妻孥」の四字をそれに加ふる必要がどこにあるか。見たことを詠ずるのは當然であるが、見ないことをわざ/\見ないといふには、それに特殊の理由が無くてはならぬ。さすればそれは、作者の夢がシナ式道徳思想に符合することを述べて、儒者たるに恥ぢないことをみづから得たりとしたもの、と解する外はあるまい。或は一歩進んで、そこに矯飾の分子のあることを推測しても大なる誤りではなからう。が、矯飾を要するのは、かゝる孝行の觀念に不自然な點があるからであつて、それは故らめいたこの作者の態度それ自身が示してゐるところである。だから讀本の作者も衷心から上記の如き孝子に同情してゐたかどうか、甚だ疑はしい。雙蝶記が南餘兵衛の母をして孫を生かすために自殺の決心をさせたのは、單に趣向のためのみではないかも知れぬ。三馬の吃又平に、主人のために子を穀さうとするのを老母が代つて自殺した話があるが、これは子の愛のために親が身を殺すといふ、淨瑠璃などに例の多い主題の變形であるのを見るがよい。いひかへると、親に對する孝を力説するシナ的道徳思想に對し、力を極めて子に對する愛情を強調する昔からの國文學に共通な思想が、こゝに現はれてゐるのであらう。さうしてそれは取りも直さず、シナ式孝行の觀念に對する自然の人情の反抗でなければならぬ。
 子に對する愛情は淨瑠璃文學に於いて濃厚に措寫せられてゐるので、義理のつらさも武士のあはれさも子ゆゑに思ひ知られることになつてゐる場合が甚だ多い。「子ならで親は泣かぬもの」(曲輪日記)といふ警句もある。俳諧に於いては一茶が力をこめてそれをいつてゐて、おのが子に對する全幅の愛も極めて率直に披瀝せられてゐる。子を失つ(557)た悲しみが「とんぼつりけふはどこまでいつたやら」の優婉なれども痛切な千代の句となつたことは、だれでも知つてゐる。歌人とても同樣で、火事にあつても「かゝりけるをりにつけても春の野の燒野のきゞす身をば思はず」(橘枝直)といふ。女の子を亡くした時の涙にみちた景樹の日記には、小にくらしいほどな平生の才氣換發に似もやらず、測々として人を動かす歌が多い。葬の夜の雨の音をきいては「夜たゞふる時雨の雨にぬれとほり小松が下に獨りをるらむ」といひ、日數を經ても「追ひしきて取りかへすべきものならば黄泉平坂道は無くとも」とかこたれる(かるかや集)。同じ場合の痛々しい情を詠じたものは諸家の集に散見してゐる。さすがに漢詩人も子を思ふ情に於いて變りは無い。「迎春今歳多心緒、西憶阿孃東憶兒、」(元日山陽)を、前に擧げた一齋の作に對照するがよい。子を憶ふ情は母を憶ふ情の妨げにはならぬではないか。子を得た喜びや子を失つた悲しみもしば/\詩の上に現はれてゐる。「掌中一相珠無價、頻喚嘉名試嘔唖、勿怪阿翁老還忙、口吹風車手弄瓦、」(鵬齋)、孫ではあるがその情は子と同じであらう。さすがの鵬齋も酒ばかりでは生きてゐられなかつたのである。柳澤※[さんずい+其]園が親の子を思ふ心を誠の至れるものとしたのは、眞實である(雲萍雜志)。
 人生の事實として子を愛する情が親を思ふ心よりも強い、といふ考のあることは、既に前篇にも述べておいた。「親ゆゑに迷うては出ぬ物狂ひ」(柳樽初篇)ともいはれてゐる。「親は子というてたづねもするが親をたづねる子は稀な」といふ俚謠もある。學者にも「情之所感、有謠於子而不足於親、有謠於男女而不足於君臣、」といひ「子之喪父母、雖至厚、而未甞敢不勉、」といつた三浦梅園(敢語)もある。梅園は人情の趨くところをそのまゝ道徳的に正當視したのではないが、無條件に儒教式道徳觀に迫從しないところに、儒者としてはめづらしい識見がある。シナ人はこ(558)の事實を道徳的に許すべからざるものとして、強ひてそれに反對する教を立てたのであるから、そこに無理ができたのである。「衣きよと母の使や秋のくれ」(几董)の句に人の子の母を思ふ情の美しく現はれてゐることを否むものはあるまいが、それは即ち母の子を思ふ情から生れたことではないか。「忠と孝とに敷島の大和魂潔き」(八犬傳九の一)と道徳的に取扱はれた大和魂の内容も、馬琴輩が口にする限り、それはやはりシナ思想から來た紙上道徳に過ぎないものである.
 だから儒教式孝行思想に對する自然の人情の反抗は、已むを得ざるものである。世間學者氣質(卷一)に三年の喪を皮肉り、浮世床(初篇上)に二十四孝の氷わりを茶化してあるのを、見るがよい。必しも儒教道徳の孝の教に反抗していつたのではないが、親仁形氣(卷二)に親を勘當しようといふ話が作られてゐ、世間猿(卷二)に親が子をいぢめる物語があり、黄表統の這奇的見勢物語(京傳)に「何ぞといふと息子の錢かねを取つてかう/\鳴く」猩々隱居を出してゐる類もある。姑の※[女+息]いびりは川柳の好題目となつたばかりでなく、「※[女+息]をかはゆがれ※[女+息]こそかゝれ娘他國の人の※[女+息]」といはれ、或は「盆々々は今日明日ばかりあさては※[女+息]の萎れ草」といひ「向ふのお山に何やら光る、月か星か夜ばひ星か、月でもないが星でもないが、姑ごぜの眠が光る/\、」とも歌はれ(甲子夜話續篇卷六四)、一般に※[女+息]に對する同情は深い。現實には、親や姑の權威を絶對のものとして承認してゐるばかりではないのである。人情本の作者は、戀に對する親の容喙をさへ認めまいとしてゐる(英對暖語八)。歴史的に馴致せられた家族制度から來てゐる風習や思想にも、やはり人情の自然に背反する點があるからである。
 親子の關係と共に家族道徳に於いて重要なのは夫妻の間がらであるが、武士の家族生活の風習として妻が夫に服從(559)すべきものとせられ、儒教思想もまたこの風習の身方になつてゐることは、いふまでもない。一方では父子兄弟の天合たるに對し夫妻は人合であるとして、この間がらを輕んずるやうな態度を取りつゝ、他方では妻に永久の服從を要求するのが儒教の道徳思想である。さてその人合は子を生ませるためであつて、固より情のためではない(夢想兵衛、綟手摺昔木偶)。だから「子孫のために已むを得ずば妾にてことたりなん」といふものもある(八犬傳五の三)。女を妾とするのが、その女の人格を認めないものであることはいふまでもないが、人格を認めない女との接觸は、男にとつては、事實上、性慾の滿足を求めるに過ぎない。両性の結合に愛情を認めないのであるから、これは當然であるが、道徳的意義を附加しようとして却つてそれを無くする儒教思想の一例はこゝにもある。だから夫妻の間とてもそれを維ぐものは愛情ではなくて理義であり、忠義の狗とはなるとも恩愛の奴とはならぬといふ(朝夷巡島記五の一、六の二)。流謫の夫を慕つて異郷に趨きその刑死を知つて自殺したといふ女の話を敍するに當り、烈婦としてそれを讃美しながら、夫を思ふ情をそこに認めない漢詩人のあるのを見るがよい(大槻磐溪)。さて夫妻の夫妻たるのが冷やかな理義の故であるとすれば、さうじて妻の夫に對する服從が永久のものとせられるとすれば、事情の如何を問はず寡婦離婦の再嫁を非とするのは、自然の勢である。巴を義盛の妻としながらそれは單なる名義に過ぎないとした朝夷巡島記の着想には、この貞操觀が現はれてゐるのであらう。
 しかし文字の上で學ばれた儒教思想は固より當時の現實の道徳觀ではない。淨瑠璃や歌舞伎に於いて情人の相呼ぶに夫を以てし妻を以てするのは、家族制度の世の中だからではあるが、それはやがて夫妻が情によつて結ばれるものであることを承認してゐるものである。「隔てぬ中にも夫婦は義理」(大友眞鳥)といはれてもゐるが、それは一般の(560)武士の思想がこゝにも現はれてゐるからであつて、儒教的道徳思想の冷やかな理義とは違ふ。
 娘節用の小三が、妾ではあるが「子を生ませる」具ではないと共に、その自殺がいはゆる「烈婦」としてではなくして、切なる情のためであるのを見るがよい。寫實小説に現はれてゐる夫妻關係には、書物の中から出て來た儒教思想の受賣的説法よりは却つて人の眞情が現はれてゐる。儒教式の道學先生は夫妻の愛情に道徳的慣値を認めず、強ひて賤しむべきものとしてそれを抑へようとしたために、極めて不自然な教が作られたのであるが、それは一つはシナ人の家庭生活に於いて女の勢力が強くまた妻に純潔でないものが少なくなかつたからでもあるらしく、このことは歴史上の事實や小説などの上からも推測せられる。このことについては我が國の風習が遙かに優つてゐる。當時の家庭生活に種々の缺陷があつたと考へ、夫妻の間がらも不平等であつたといふ、今人の非難には、一應の理由があるとするにせよ、教養ある社會に於いては、事實上、妻が純潔であり、夫のためにあらん限りの力を盡して事に當つたことは、夫妻の結合を永久的のものと考へる限り、幾分の條件を附すれば世界に對して誇つてもよい美風であらう。また夫妻の地位及びその日常の行動についていふと、平民の生活に於いても、妻の地位は必しも低くはなく、「舟は帆まかせ帆は舵まかせ内のしんしよはかゝまかせ」、家政のきりもりは概ね妻の任務とせられ、またよくそれが果たされたことは、明かな事實である。前篇にも考へておいた如く、我が國の夫妻の關係を男尊女卑の一語で蔽ひ去るのは、大なる誤りである。妻としては何ごとにつけても夫を本位として行動するのではあるが、それは夫から輕視せられまたは抑壓を加へられてゐるからではなく、またさういふ感じをもつてゐるからでもなく、妻たるものの衷情の發露でもあり、妻みづからそれを自己の任務としてもゐることを、知らねばならぬ。或はまた日常の生活に於いてはみづから謙(561)抑しみづから節制することが人の道であることを、妻は信じてゐたのである。さうしてそれが事ある場合に毅然として守るべきところを守り敢然として爲すべきことを爲す強烈な精神と相伴ふものであることを、疑はなかつたのである。教養ある武士の妻に於いては、このことがその行動によつて實證せられてゐる。だからこの點に關して一般人が妻を夫の隷屬視する儒教道徳の教を承認しないのは、當然である。なほ妻の貞操について一言するならば、美しい愛情の自然の發現としての貞操は、勿論、賞讃せられ、また不幸にして夫を失つた場合に寡婦としての生活を守るものが嘆美せられたことも、事實であるが、しかし強ひてその再嫁を不徳としたやうなことは無い。戯文ではあるが風來は「飛んだ噂の評」でそれを是認してゐる。離別せられた女についてはなほさらであつて、儒者としても、「苟峻其義以待人、則其説愈美而愈將多怨曠焉、」といひ、離婦をして新に配偶を求めしめるのが「保人情之道」だといつた、梅園があるではないか。女の再嫁を不徳とする儒教道徳を表面上實行しようとしたため、却つて寡婦掠奪などの陋習を馴致した朝鮮の状態を知るものは、梅園の言の理あるを認むるに躊躇しないであらう。
 ところが、國學者の間には更に夫婦關係の根本について、儒教思想は固よりのこと、當時の家族本位の婚姻の風習に反對するものも現はれて來た。それは宣長の戀愛至上説から來る自然の歸結であつて、萩原廣道も、婚姻は戀によつて成るべきものであり、互に知らざるものを親などの計らひで強ひて配偶とするのは天地自然の理にそむくといひ、平安朝の風習を讃美してゐる(源語評釋)。「思ひ思はれ添ふのは縁よ親の添はすは縁ぢやない」。俚謠にもかういふものがあるのを見ると、かゝる思想は必しも平安朝文學に淵源があるには限らず、むしろ人生の自然の欲求から出たものと解するのが當つてゐようか。なほ戀愛結婚を提唱したのではないが、堀景山が、五倫のうちで夫婦の間がらほ(562)ど實情の深切なものは無く、親子の間よりも一倍である、これが人情の本原である(不盡言〕、といつてゐることをここに附記しておかう。儒者にもかういふ見解のあることは、上に引いた「情之所感、……有餘於男女、」といふ梅園の言と共に、注意すべきであり、さうして二つともに、夫妻關係をどうして成立させるかといふ側面から見ると、おのづから戀愛結婚説に通ずるところがある。これもまた人の自然の欲求と現實の生活とをすなほに見たために思ひ得たものと解せられる。さうして夫妻の關係をかう見ることになると、西川如見がいつてゐる如く一夫一婦の習慣を讃美するのも當然である(百姓嚢)。後にいふ安藤昌益も、その由來は明かでないが、同じ意見を述べてゐる。しかし戀愛結婚の主張の如きは、當時の地位あり教養ある社會に於いては實現しがたいことであり、學者の抽象的な理説として、または民衆の間、特に農村、に於ける青年男女の心情の現はれとして、却つてそれに意味がある。たゞ後者が教養の無いものの放縱なる行爲を導き出す場合には、そこから顰蹙すべき風俗の形成せられる虞れがある。
 婚姻の成立について上記の如き意見の生ずるほどであるから、もう一歩進んで、當時の家族制度そのものに對する不滿の聲が微かながらに聞えて來るのも、無理ではない。「心合はざれば親子兄弟も仇敵の如く、心が合へば四海みな兄分ともたり若衆ともなる、」(風來の根無草)といひ、それを當然のこととする考さへ生じてゐるではたいか。「四角なる浮世の蚊帳はしまひけり」(隱居辨他有)といつて隱居して自由の身になるのを喜び、「世帶を忰に渡し浮世を樂にしたいことして遊ばん」(親仁形氣二)といふのも、家族制度が人生のすべてを支配するに足らぬことを示してゐる。この制度に伴ふ長上の尊崇についても、反抗的態度は少なくなく(親仁形氣など〕、特に老人はしば/\不評判を招いてゐる(也有の歎老辭、通笑の憎口返答返、など)。「何ごとも知らぬ翁のさとじこりたれもあはれといふ人の無き」(563)ともいはれ、「何事も聞えひがめて老の身のことたしかなる思はくもなし」とも歌はれてゐる。「老ぬれば松の葉さへもおのづから打すげみたる面影にして」(以上大隈言道)に至つては、老そのものに對する嫌厭の情さへもそこに見えてゐるではないか。たゞ男に對する女の反抗は殆ど見えないやうであるが、妻としては夫に服從するのが習はしであるにせよ、母としては滿分の愛をその子の上に注いでそこに彼等みづから女の生命を見出し得る上に、子に對しては父と同じ權威を有つてゐるので、彼等はよし夫から幾らかの節制をうけるにせよ、それをこの一面で緩和し或は放散することができたのである。のみならず通常の場合に於いては、表面の形式はともかくも、事實の上では妻は夫に對して友たり内助者たる地位にあるのであり、特にはたらいて生活せねばならぬ平民の社會にあつては、上にいつた如く妻は家の内に於いても世間に對しても重要の地位を有し盛な活動をするのが常であつて、學者が説くやうな絶對的服從を強要せられたのではないから、それに對して甚しき不滿を感じなかつたのも、無理ではない。勿論例外はあるが、例外をいへば夫が妻に苦しめられつゝそれを忍んでゐた場合も少なくない。江戸時代の人妻が甚しき抑壓を夫からうけてゐたやうに思ふのは、儒者またはその影響を蒙つてゐる道學先生の紙上の教訓によつて誤られたところがあらう。女子についての儒教道徳を説いたものである「女大學」は決して實社會に於ける妻の地位を示してはゐないことを、忘れてはならぬ。道學先生は往々夫が妻に心のひかれることを非難したが、それは非難せられただけ妻に權威のあつたことを證するものである。人の妻の上に加へられる何等かの壓迫があつたとするならば、それは、夫からよりはむしろ姑からであり、全體からいふと家族制度からである。人の妻が涙がちに日を送らねばならぬことがあつたならば、それは夫妻關係から生ずる夫の態度によるよりは、家族に於ける彼女の地位によることが多かつたのである。(564)婿養子の場合には夫に權威の無いのが普通の状態であつたことを、考へるがよい。
 
 家族道徳に關する以上の考説は、概言すると前篇に述べたところを反覆したもののやうであるが、家族生活そのものが變化したのではないから、おのづからかうなつたのである。たゞこのころの文學及び學者の言説に現はれてゐることによつて、幾分の補説を試みたに過ぎない。その主要なるものは、當時の知識人によつて宣傳せられた儒教の道徳説に對する異議もしくは一種の反抗であつて、これはむしろ異國の思想に對する現實の生活の肯定である。さてこの現實の家族生活には、今日から見ると種々の缺陷はあるが、當時の社會構成には適應するところの多いものであり、それと共にまた現實の生活と人々の心情行動とがその社會構成をおのづから緩和もし調節もしてゐるのみならず、それによつてこの缺陷が補はれてもゐる。隱居の習慣が武士の社會構成に適應してゐると共に、家族制度の窮屈さを調節してゐるが如きは、その一例である。さうしてかういふ家族生活によつて當時の社會が動き文化も進み、さうしてそれが明治時代の新しい世を現出する素地とも、おのづからなる準備とも、なつたのである。
 
(565)     第二十章 戀愛觀及び自然觀
 
 夫妻間の道徳に言及した著者は、それに次いで戀愛の問題に一瞥を與へねばならぬ。戀愛と自然界の鑑賞とは昔からの國文學の二大主題であつて、その戀は人生の永遠なる事實であり、自然の風光も古今の間に變化は無いが、それに對する人々の態度は時勢と共に推移する。著者が毎篇この二問題を反覆してゐるのも、それがためである。同じ江戸時代でも前後の間に幾らかの差異が生じてゐることを考へねばならぬ。
 
 元禄の文學に現はれてゐる戀は熾烈であり放縱であり、また甚しく肉感的であつた。澁面つくつた道學先生の説法は、それに對して何等の權威をも示すことができなかつた。このころになつても、淨瑠璃や款舞伎の戀は概してその氣分を繼承してゐるが、しかし情死の文藝も禁止せられた。摸倣と踏襲との外にない文藝は、新奇を求めるために、むりな趣向を設けねばならなくなつた。それに寫された戀が生ぬるくなつたり或は遊戯的に取扱はれたりするやうになつたのは、こゝに一原因があると共に、全體としての人心の萎靡も、率直な生活をすることが困難になつて來た社會状態も、おのづからそれを助けた。かゝる情勢の下に於いて偏狹な儒學思想が文藝を動かしたのも、また自然の勢であつて、それが讀本や草双紙の戀愛觀に現はれた。これは既に上に述べたことであるが、讀本の戀について更に一二の例を擧げるならば、京傳の櫻姫全傳では、宗雄が父の勘氣を赦された時、情人に對する離別の情をみづから抑へ、「私の愛情にひかれて遲滯せんは不孝なり」といつて、匆卒として國に歸つてしまつた。優曇華物語(四上)の弓兒(566)は、戀はあだごゝろであるが父の讐を報ぜんがために男を頼むはまごゝろだ、といつてゐる。稻妻表紙(五下)の山三郎は葛城に對し「露ばかりもあだめきたることをいはず」してその「たぐひまれなる女」であることを讃美し、その死後には「子孫なきは不孝なれば」とて八重垣を妻としてゐる。近松の傾城反魂香には遊女遠山の強烈なる戀を寫してあり、女はそれがために幽靈にまでなつて現はれてゐるが、稻妻表紙の遠山にはさういふ情熱が無く、かの怪異も惡念から出てゐることにしてある。馬琴の信乃が「大丈夫たらんもの戀々として女子に生涯を愆られんや」(八犬傳三の二)といつて、可憐の濱路を平然として毒手に委ねたことは、いふまでもない。種彦の綟手摺昔木偶が、西鶴の一代男にも見える金のない男の吉野にあつた物語を一轉し、金あるに強ひて金なきを裝はせ、色と財とを以てせずして心を以てせんといはせてゐるのも、同じ思想の傾向である。
 八犬傳の信乃は濱路をすてて去るに臨み、「女子は凡て水性にて寄るにも早く移るにも早かり」といつて、女の頼むべからざることを説いてゐる。が、女は啻に頼むべからざるものであるのみならず、實に人を迷はせるものであるとせられた。墨田川梅柳新書は龜菊を楊貴妃に擬してゐるが、八犬傳の玉梓もその性質は同じである。種彦の淺間嶽面影草紙の瞿麥姫は、色を以て夫の心を蕩かし權勢を得ようとしたとある。同じ作に年の若い處女が父の仇を討たうとして「色を以てたぶらかさば討得ざることはよもあらじ」といつてゐるに至つては、驚く外は無い。女性をかう見た時、戀愛が全く價値を失ふのは當然である。しかしこれは決して當時の現實の女性の觀察から來たことではない。楊貴妃の物語の如く、女色に溺れて政を亂し國を失つたといふ説話は、シナには例の多いことであつて、それに歴史的事實としてどれだけの眞實があるかはしばらく措き、かゝる思想が存在したことは事實である。さうしてそれにはシ(567)ナの女性の現實の状態に何ほどかの由来があるに違ひない。ところが我が國ではさういふことは認められぬ。それにもかゝはらず馬琴輩がかういふ物語を作つたのは、たゞ文字に現はれたシナ思想の受賣りに過ぎないのである。女を頼み難いとする信乃の言に反して「男心は秋の空」といふ俚諺もあるではないか。近松は遊女にさへも豐かな人間性を與へ武士的氣風を具へさせたのに、馬琴ではさういふ世話淨瑠璃の女主人公が悉く道徳上の罪人とせられてゐるのを見るがよい(夢想兵衛)。これは一々儒教式の形式道徳をあてはめたのではあるが、その根柢には一般に女性を惡人視する思想が存在してゐる。
 小説ばかりではない。詩佛の如き詩人ですらも文君を詠じて「琴聲一曲夜私奔、此事郷人猶愧聞、但爲相如乘駟馬、不妨今日晝文君、」といつてゐる。星巖が織女謠を作つて餘吾湖上の天女物語を説き「贈芍採蘭聖所戒、天上人間豈異途、」と譏つたのも、同じ考へかたであるが、戀よりも駟馬に乘ることを重しとしないだけ、詩佛の文君評よりはましかも知れぬ。磐溪が桶公讀讖文圖に題して「艶妻弄簧舌、妖賊逞姦謀、」といひ、旭莊が義貞を詠じて「宴安失機會、耽色豈英雄、堂々源中將、應愧小楠公、」といつたのも、三位局や勾當内侍を楊貴妃にしたのである。(太平記の物語がそも/\シナ思想で潤色もしくは造作せられたものらしい。)樂翁が源語の卷々をよんだ歌に「紫のはつもとゆひの色と香に迷ふこの身を結びこめつゝ」、「ゆふ顔のあだなる露のそれよりも脆き心の亂れをぞ見る」、の類があるのを見るがよい。上田秋成さへも平安朝の戀愛生活を難じてゐる(伊勢物語古意序)。だから古人でも崇敬すべきものには好色の名を負はせたくないので、業平の如きは「唯道馬卿尤好色、誰知劉向本忠君、」(旭莊)といはれ、「外戚擁幼主、太陽屡失光、誰圖寒山裡、踏雪訪親王、親王賢且長、空唱白雲章、堪憐在中將、贏得風流名、」(東湖)といはれてゐ(568)る。「袖ふれし交野の櫻小野の雪よろづ代ふともなほ匂ふらん」(有功)もまた同じ態度であつて、つとめて昔男のまめな方面を拾ひ出さうとしたのである。兼好が師直の艶書を書いたのは足利家の内亂を起させて南朝の利益を計るためであつた、などといふのはそれに一歩を進めたものであり(春湊浪話)、讀本や草双紙の作者が戀を政略とした一半の意味とその思想を同じくしてゐる。
 しかし戀愛の否定が人生の事實に背く限り、かゝる考に權威のあるはずが無い。文藝に於いても淨瑠璃歌舞伎は依然として戀を語り戀を演じてゐる。「死んだる娘に不義あれど、戀にはゆるし有明の……」(蘆屋道滿大内鑑)と、世間的道徳律に背くことさへも許さるべきものとせられたではないか。江戸の文學でも讀本や草双紙にあきたらずして人情本が現はれ、「世の中に迷ふといふが實意」(梅見ぶね)なることを主張したものがあるのを見るがよい。歌人は昔ながらに戀を歌ひ、俳人すらも往々婉曲な情詩を作つてゐる。知識人に於いても、宣長一派の國學者が戀愛を讃美したことは、いふまでもなからう。漢詩人とても上に記したやうなもののみではない。「燈暗琵琶強試弾、楚囚自作楚歌看、可憐蝴蝶眞情趣、一觸春風戀牡丹、」(千手山陽)、また「共誓銀河不倒流、一年一度尚千秋、人間初月深窓夕、脈々相思望女牛、」(銀河詞鐵兜)のやうな作のあるのでも、それは知られる。この山陽の詩を駿臺雜話に見える鳩巣の重衡論と對照するがよい(前篇第十七章參照)。戀歌や昔の戀物語を題材とした詩の作られたことは、既に述べた(第十三章參照)。
 勿論、戀よりもむしろ性慾として両性の關係を取扱つてゐた、さうしてそれをまじめな嚴肅な問題とするよりもむしろ滑稽的に觀察してゐた、西鶴などの態度を繼承する浮世草子もあり、江戸の文學にも同じ傾向を有するものがあ(569)るが、それは性慾の點に於いて放縱になり易い武士の生活の反映である。和譯太郎の妾氣質に於いて、龍女の贈つた玉手箱が性慾的な效果を有つものとせられて、昔の浦島の神韻縹渺たる物語が全く性質をかへてゐ、膝栗毛の女に關する話があれほどに劣等であり、また洒落本に於ける「武左」が性慾の外に何物をも認められてゐないのを、見るがよい。その洒落本や黄表紙に於いて心中が滑稽化せられたのも、間接ながらこゝに一つの由來がある(京傳予志の申、江戸生艶気樺燒)。單なる性慾の奴隷として人を觀る時に、それを滑稽視する態度の生ずるのは、一面觀として理由の無いことではない。儒者の見解にも、或はむしろ「看他世上青衿士、多是狹斜惡少年、」と村田春海に譏られた自家の閲歴が、助けをなしてゐるかも知れぬ。歴史的事實として、徳川幕府の後宮から、かゝるところに生じがちな美しいロマンスが少しも聞えて來ず、却つて繪島事件の如きが起つてゐるのも、やはりこのことに關係が無いといはれぬ。少くとも當時の世間に、それを材料としてロマンスを作り出す氣分の無かつたことは、明かであらう。田舍源氏がこの點に於いて如何に殺風景であるかを見るがよい。讀本や草双紙に於いて戀が常に政略の道具とせられてゐるのは、戀を戀としまいといふ道徳觀上の理由もあり、計略で生きてゐる武士の思想にも由來があるが、さういふ話のともかくも作り得られまた讀まれ得たのは、やはり戀を戀としてよりも性慾の現はれとして見たからである。しかしよし性慾にせよ、それが人生の根本的な嚴肅なる事實である以上、文學の重要な主題ともなり材料ともなるべきものであることは、いふまでもない。たゞ當時の文學の取扱ひかたが輕浮であり外面的であるために、讀者をして性慾そのものを卑しましめ、道學先生をして顔をしかめさせたのであり、そこにさういふ取扱ひかたをさせた現實の風俗の反映と、外面的に事物を視る當時の考へかたとがある。けれども性慾の尊重すべきことは事實であるから、儒者の間にも強ひ(570)て矯飾の言をなしてそれを罪惡視しようとのみは考へないものが生じて來た。「飲食男女の欲」といふ語を用ゐながら、孟子に一轉語を下して、生々已まざらしむるための天賦といつた淡窓の説(義府)をきくがよい。蘭學者や國學者に至つてはなほさらであつて、司馬江漢が春波棲筆記に述べたところもそれであり、宣長の思想とても同樣に見なさるべきところがある。「戀は生物自然の道にして人力の禁むべきところにあらず」(源語評釋)といつた廣道の「戀」も、主として性慾の發現としての意義に於いてであるらしい。
 しかし當時に於いても、戀が單なる性慾に始終するものと考へられてゐなかつたことは明かである。その終局の問題は常に「添ふ添はぬ」にあつたではないか。遊女ですらも「何が何でもあの人さんに添うて苦勞がしてみたい」(潮來風)といひ「いつか廓を離れてほんに、ほんの女夫といはるゝならば、今は昔の語り草、」(長唄昔し草)といふ。「苦勞がして見たい」戀は固よりうぶな處女の戀ではないが、かゝる戀も一時的の享樂のためではなく、そこに一生の問題のかゝつてゐることが知られる。その上に「添ふに添はれぬ惡縁を思ひ合うたが互の因果」(妹脊山)、それから身をも世をも失はねばならぬ悲劇が生ずるのみならず、絶望的の情熱が燃え上がることにもなるので、情死の習慣が後までも無くならないのは、一つはこれがためでもある。さうしてそれには武士風の意氣地も加はつてゐるので、「君とねやるか五千石取るか何の五千石君とねよ」と歌はれた話の眞の事情は何であつたにしても、世間からはかう見られたのである。享保の政府が情死を禁止しようとしたのは、かゝることの流行を憂へた官憲の心理として、全く理由の無いことではないにせよ、戰國武士の氣風を復興させようとした政府が、その武士の氣風から生れた情死を止めようとし、特に武士風の義理と死を恐れざる氣象とを強調した心中ものの淨瑠璃を禁じたのは、甚しき矛盾といは(571)ねばならず、そこに武士氣質の尊尚と儒教思想との混和から生じた享保政治の精神の破綻がある。「妾身任君殺、妾身任君活、妾有阿郎在、妾心不可奪、」このころに作られたらしい高尾の物語に現はれてゐる戀の意氣地も、情死と變るところはないが、それはまた死を以て君臣の情誼を全うする武士の意氣地である。「葉隱」に戀と武士の君を思ふ情とは同じだといつた宗祇の言といふものの記してあることを、參考すべきである。橘守部も女に對する情も君父に對する誠も同一であるといつたが、これは正しい見かたである(神風問答)。業平に君を思ふ情があつたならば、それは少くとも戀にうき身をやつした業平と別人のことではないはずである。道學先生はシナ思想から來た女性に對する偏見があるのと、戀といふものを理解しないのと、更にまた忠孝の如き道徳を單に理智の上の問題として見、その理智と情とを背反するものと考へ、さうして情が人の生活の核心であり根本であること、また人のいろ/\の心情行爲は一つの人格の現はれであることを、知らないのとのために、人生に對する正當な見解を立てることができなかつた。しかし一般の思想としては、遊女にも意地を立てることが尚ばれ(吉原楊枝)、女藝者のせ界さへも「意地と情けの深川や」と唄はれてゐた。梅ごよみの如き人情本にもこの種の女の意地は寫されてゐる。それは事實として當時に存在したといふよりも、むしろ理念として尊尚せられたといふべきではあらうが、斷えず情海の波瀾に身をもまれてゐる彼等には、戰爭が武士に意氣地を磨かせたと同じ意味に於いて、おのづから一種のさういふ氣風が養はれた氣味も無いではなからう。
 
 が、さすがに時勢とて女の戀も弱くなり生ぬるくなつた。「思ふに添はで思はぬに添ふも縁なりやしようことが無(572)い」(めりやす禿だち〕といふあきらめは、元禄の時代にも無いではなかつたが、「よしや世のなか恨むは愚痴よ移り變るは世の習ひ」(潮來風)に至つては、あまりに意地が無さすぎるではないか。娘節用の小三の弱々しい態度については既に述べたが、それには世間的道義の前に自己の地位を恥づる情もある。俗曲俗謠や人情本にわが戀を我れみづから「迷」と稱してゐるのも、一つは同じ理由から、一つはそこに理智によつて抑へ難き心のやるせなさがあるからでもあるが、全體としてやはり一種の弱窮みを感じてゐるからに違ひない。一人の男に對する幾人かの女の間にいくらかの嫉妬はあつても、決して男を獨占しようとはしない人情本の「色」の世界を見るがよい。「女房もちとて惚れまいものか女房さらせてわしがなる」(潮來考)といふものも無いではないが、少くとも江戸人はそれを「野暮」と考へたであらう。江戸人ばかりではたい。「本妻妾」で葛藤の解決せられることは上方の淨瑠璃に於いて既にその例が開かれてゐる。
 けれども、かうなると男に對する情もまた移り易いのが自然の勢である。人情本に「戀は因果」といひ「前生よりの定數」といふ思想のあるのも、馬琴が戀を否認する口實としたのとは違ひ、またそこから身を失ふやうな悲劇を發生せしめる淨瑠璃式の思想とも違つて、我を輕んじ我が情を輕んじ、堅く自己を守らうとしない無節操な心もちが、そこに宿つてゐる。わが身がわが思ひに任せず、必しも移り氣からではないが境遇の誘ふまゝにおのづから心も移り、もとの男に思ひは殘りながら新しく近づくものの情にもほだされ、それでゐてまた昔の男に心がひかれ、幾度びか同じやうな去就をくりかへしてゐる英對煖語のお柳のやうな女が、あるではないか。お柳は男の危難を救ふために身を賣り、さうしていやおうなく運び去られた新しい境地から別樣の氣分を導き來つたのではあるが、本來この身賣りは、(573)妻は夫のために如何なる犧牲をもはらはねばならぬといふ道徳觀と、身は汚しても心は汚さぬといふ一種の奇怪な、よしその考を考として是認するにしても、身と心とは分離して存立し得るものでなく、境遇によつて心もちの變化するのも當然であるから、事實に於いて不可能な、貞操觀とに、由來があるものの、女は必しもそれによつて永久の別離を覺悟するでもなかつたほど、男との關係を輕く見てゐたのである。かういふやうにそのをり/\の境遇に支配せられてゆくのは、昔の平安朝の女の戀愛生活と似かよつた心もちであつて、何れも爛熟した文化の裡に生活するものの頽廢的氣分であるが、たゞその間にも義理を思ひ恩を思ふ考の加はつてゐるのが、昔の女には見られない徳川の世の特色である。その義理も恩も多くは「黄いろな光る餌」(梅ごよみ四の八)に由來するのであるが、これもまた君臣關係の基礎の一つが利益にあるのと同樣である。以上は女の男に對する態度についていつたのであるが、男は女に對して深い執着の無い場合が多い。人情本の男主人公に至つては、如何なる女にも愛せられんとする丹次郎がその標本であり、心は惹かれながら女の去就を大なる問題とせず、わが女の他し男に從ひ去るを快よげに許してやる宗次郎の如きが、むしろ「わけのわかつた人」として賞讃せられたらしい。固よりこれらは處世に巧みな、一體に熱情の無い、手輕くものごとを解決してゆく、江戸人のことであり、市井の人情ではあるが、そこに一般の時勢の影響もまた認められよう。蘆屋の少女の物語について「今は身のうき鳥とこそなりにけれ競はで共にみつべきものを」(筑波子家集)と死んだ後の男の心をよんだのを見ると、江戸の女が男の戀を如何に生ぬるく見てゐたかがわかる。萬葉人の一本氣な、全身をうちこんでの戀は、少くとも江戸人には理解せられなかつたのである。
 同じく輕い氣分によつて両性の關係に特殊の情趣を帶ばしめるものに、一種の遊戯的態度がある。さうしてそれは、(574)享樂の具となるべく定められた特殊の女に對する場合に於いて、特に著しい。それは本來、戀愛と稱すべきものではなからう。しかし單なる性慾の滿足を追求するのではないのみならず、また單なる遊戯でもない。自己をあひてに没入するが如き戀、身をも世をも燒き盡すが如き情熱、がそこに無いことは勿論ながら、さすがに關心の事であり、むしろ傷心の事である。それは異性に對する場合に自然に生ずることでもあると共に、女を掌上に弄すべき可憐なものとして取扱ふ點に於いて、すべての美しいもの小さいものに對する愛着がそこにある。シナ人のいはゆる風流罪過には、少くとも文字に現はれた點に於いて、かゝる氣分が存在する。漢詩人の詩に見える情趣がそれに似てゐることは勿論であつて、多くの艶詞にはみなそれが含まれてゐる。多情多恨といはれる心生活に於いては、かくの如き體驗の幾つかが印象せられてゐるのであらう。たゞ道學思想に氣がねをしてゐた當時の詩人には、自家の閲歴として直接にそれを表出することを避ける氣味があつたので、さういふ情味を詠じた詩は甚だ少いが、後年の成島柳北などには少からずこの種の作がある。但しこの情趣は、現實に遠ざかつて詩に近づく點に於いて、また現實の生活としてはかゝる氣分にもなほ全く離れることのできない幾らかの傷心事が遠く消え去つて、美しい情緒のみが夢の如くに殘される點に於いて、過去の追懐か、然らざれば第三者としての傍觀的態度をもつて自己を眺める時かに、却つてよくそれが現はれるともいはれよう。星巖が「曾抛※[君/巾]※[尸/(行人偏+支)]著僧衣、脱了僧裝又幾霜、猶夢當年行樂地、緑尊紅妓紫遊※[革+橿の旁]、」(自題衣緇小影)といつたのもその例である。この作者に壯時烟花の失があつたといふ五山堂詩話の記載を參考すれば、この詩の情趣はおのづから解せられる。「七十四橋潮程還、佳期恰及艶陽天、多情垂柳多情水、水送船來柳繋船、」(新斥繁昌記)の類の竹枝體の作も、かくの如き自家心中の閲歴をそこに投影して始めて興趣が湧くのである。もつとも漢詩(575)に於いては、漢語に翻譯するために感情の表出が間接になるのと、漢語もしくは漢詩に固有な情味がそれに加はるとのため、現實を去ることます/\遠くなつてゐるので、この遊戯的氣分は一層濃かに見えるのではあるが、それは單に用語の上のことのみではない。
 さてかういふ氣分には一種の輕い抒情詩的情趣があるけれども、眞劍味が無い。「あふは順、あひ難きは逆、順は戀の本情、逆は戀の風致、」(石原正明の年々隨筆)、さま/”\の波瀾があればこそといふ歌人の思想に存する戀とすら違つたところがある。況や戀には免れ難き幾多の戯曲的葛藤の如きは、すべてこの氣分の關せざるものである。事實として異性に對する態度が全くそれから離れ得るかどうかは別問題として、少くともさう看ようとするのである。然るにこゝにまたそれとは趣きを異にした別樣の遊戯的態度があつて、これはむしろかゝる入りくんだ葛藤そのものを遊戯として體驗しようとするのである。洒落本などの「色」の世界は即ちそれではないか。好色は河豚を食ふが如し、毒があれどもうまい、食はざるも愚、食ふも愚である、といふ(仕懸文庫跋)。食はざる愚はそれに處する道のあることを知らないのであつて、食ふ愚はその道を知らないのであらう。その道は即ち遊戯としてそれを見ることである。「だますは商賣、だまさるゝは慰み、」(吉原楊枝)と觀ずることである。しかし單なる遊戯は固より興味が無い。だから一方に於いては「まことが無くばおもしろくもなんともなし」(夜年の茶漬序)といふ。遊女がよひの極致は「あそび」と「まこと」とが不即不離の關係で絡みあつてゐるところにある(同上)。假面と眞情と遊戯と愛着との幾重の葛藤に巧みに身を處して、互に他を征服せんとする一種の戰闘に勝利を占めようとし、情を情として或る程度まで味ひながら、人の情をも我が情をも輕く弄ばうとする、危險な遊戯である。誤つて河豚の毒を喫着することなくば幸で(576)ある、といはねばならぬ。「やぼならかうしたうきめは見まい」(めりやす無間の鐘)。「通」を以てみづから任ずるものは往々この失敗を演ずる。 江戸人のいはゆる「通」については後にいはうと思ふ。たゞ遊里に於ける通人は、或はいくらかの黄金を以て、或はいさゝかの才能を以て、或はまた自己の優越を示すべきその他の何等かの方法を以て、遊女を壓せんとする。しかし壓せんとするのは求むるところがあるからであつて、みづから大なるを示すものは實はみづから小にしてゐることを語るものである。この弱點は即ち他の輕侮と翻弄とを招く所以であるので、洒落本の材料とたる滑稽がこゝから生ずる。齷齪として他の愛を求めんとする「通」が、元禄の昔の「粹」と趣きを異にする所以はこゝにある。さうしてそこにやはり時勢の變化の反映がある。傾城禁短氣の「色道」と吉原楊枝の青樓の「悟道」とを比べてみても、幾分かこの間の消息がわかるであらう。
 遊里に於ける「色ごと」もまた必しも戀ではない。しかし「慾の色ごと、義理の色ごと、」の外に「眞の色ごと」があるとすれば(吉原楊枝)、その間に戀と名づくべきものが無いとはいはれぬ。男からいへばそれは固より通人のしごとではない。同時にまた「まこと」を「あそび」とする巧みな遊戯でもない。それはもはや蕩児と遊女との關係ではなくして人と人との抱合である。事實に於いてかゝる戀があつたかどうかは知らぬ。たゞ女からいへば「明烏」の哀調に幾夜半の涙を濺ぐことを惜しまなかつた遊女には、あるべきこととしてかゝる境地が尚慕せられたではあらう。彼等も固より人である。「地金は娘氣」とみづから稱した梅ごよみの歌妓とは趣きのちがふところもあらうが、人たるに於いて同じである。良家の子女の懸がやゝもすれば罪惡視せられたこのころに於いて、かゝる世界にかゝる情味の(577)あることは、むしろ當然であるともいはれよう。
 
 目を轉じて自然界に對する翫賞の態度を一瞥しよう。名所舊蹟の巡遊や花鳥風月の翫賞が、依然として行はれてゐることはいふまでもないが、國學の興隆、擬古文學の流行、は一層それを盛にした氣味がある。名所舊蹟の巡遊の多くは、たゞ名所舊蹟であることが一種の知識的興味を誘ふにとゞまるのであつて、宣長の菅笠日記の如く、その大部分が舊蹟や古語の考證に過ぎないやうな紀行の作られたのも、この故である。山河のみ空しく留つて古を偲ぶべき何のかたみも遺らないのが多く、狹い日本のうちのこととてその山河の形勢も互に似かよつてゐ、風土人情にも大なる差異のない故でもあるが、或はまたあまりに見なれ聞きなれて、新しく心を動かすべき何等の刺戟もそこから起らない故でもあらうが、一つは見るものからのことでもある。太平の民はたゞ行樂のために、花をみ月をながめんがために、或はむしろ紀行を書き歌を作らんがために、遊覽の故に出るのだからである。濱臣の遊京漫録の如きは、考證の無い代りに旅とは關係の少い歌ばかりが書きつらねてあり、旅そのものについては殆ど記載が無いといつてよいほどのものではないか。
 さてその花月もまた依然たる昔ながらの花月であつて、而もその翫賞が書物の上の知識もしくは因襲によつて養はれた一つの遊戯である。村田了阿の花鳥日記などを見ても、そのことは知られよう。春秋の優劣といふ古風な問題が人々の注意に上つたのもこの故であるが、その判定もまた全く遊戯的であるのを見るがよい。春花の散るのは惜しいが次いで來る夏もおもしろい、秋はてぬれば冬枯れのながめに何の興かある、といひ、「そこをしもあはれとぞ思ふ秋(578)山をうべし昔ゆしぬびけらしも」(春海)と、秋をめでるにしてもそれが行樂の終りだからといふ理由を以てするではないか。さて遊戯は固より享樂のためである。「花紅葉あくまでめでし年月をたゞにすぎぬと思ひけるかな」、「花やうき月やわびしき月花のあらむ限りは世をばかこたじ」(以上千蔭)、といふやうに、月花をたゞ樂しきものとのみ見る樂天的な江戸人が春を喜ぶのは當然であらう。「枯れ渡る秋を萌え出づる春にしは此らぶるだに愚かなりけり」といつた宗武の如き境遇と地位とにあるものに於いては、なほさらである。だから春に對してその春の惱みを感じないと共に、秋に對してもたゞその美しさを見る。月に恨をよせ花に愁を託するは彼等の事ではない。多感の詩人が花にも鳥にも自己のおもかげをそこに見わが心の聲をそこに聞くのとも違ふ。萬葉の摸倣者もうぶな態度で自然と自己とを抱合させた奈良朝人の氣分を解することはできず、平安朝の歌を好むものも「物のあはれ」を花月に感ずるのではない。自然界はたゞ遊戯的愛玩の具に過ぎないのである。しかしこれは必しも江戸人ばかりではない。「春と秋と何れ戀ひぬとあらねどもかはづなくころ山吹の花」(良寛)、世すて人すらも春に心をよせてゐるのを見ると、そこに太平の樂しまれる時勢の影響もあらう。
 次に考ふべきは風景の翫賞に於けるシナ趣味がます/\弘まつて來たことである。自然界そのものについては第一に、耶馬溪が山陽によつてその勝を説かれ、妙義金洞が多くの文人の筆に上つた如く、神工鬼斧の痕をとゞめた北畫式の奇景が賞美せられるやうになつたことを、擧げねばならぬ。「君不見我豐山水無與比、乾勞坤苦極奇詭、尖峰※[直三つ]立千筍抽、激瑞逆折萬電※[馬+史]、巨巖勢如虎豹蹲、如龍胡髯如鷹觜、如牛負重兩角低、如人望遠一足※[足+支]、如行如止如相招、或嵌或平或聳峙、人家因岸忽高低、鳥道盤天遙逶※[しんにょう+麗]、……」(旭莊)はその奇景の奇を示した一標本である。雲霧變幻(579)の光景もまた喜ばれ、「霧生驀地埋幽谷、雲起無端失遠巒、佛髻帝青誰辨得、衆山恰似隔紗看、」(源琴臺)ともいはれてゐるが、これにはまた「畫家之妙全在姻雲變滅之中」(董其昌の論畫瑣言)といふ南畫の感化が認められよう。要するに文藝に現はれたシナの山水の情趣を我が國に於いて看取しようとするのであつて、睦放翁の入蜀記や范石湖の呉船録が愛讀せられたのもこの故である。その他「西州索畫終無獲、獲此天然黄大痴、」(山陽)といひ、「遠霧始銷、驚雲如涌、…畫法最奇古、」(澤元※[立心偏+豈]の岐蘇紀行)といひ、山水の愛玩がシナ畫の感化に負ふところの少なくないことは、明かである。海洋の遠望もまた人の翫賞に入つたので、山陽の「雲耶山耶呉耶越」にもそれは現はれてゐる。「北海之觀天下雄、地接靺鞨眼界空、蓬※[さんずい+悖の旁]遠自萬里外、震動坤軸起颶風、怒濤拔地立千丈、恰似雪山摩蒼穹、乍崩乍騰萬雷響、餘波打岸煙霧濛、俄頃風止天色變、時見金烏浴海中、鯨魚吹※[さんずい+勞]雲邊黒、珊瑚射浪水底紅、…」(觀海歌萩原緑野)の如きものは、事實らしからざる空想も加はつてゐるが氣象は頗る濶大である。これは直接にはシナ人から傳へられたものではないが、間接にその影響を受けてゐることは推知せられる。文士の遊歴は主として生活のためであるが、それがおのづから烟霞の癖を養ふことともなり、また別に名山大川を跋渉して足跡天下に遍き橘南谿や澤元※[立心偏+豈]の如き旅行家も出、種々の事情から各地の奇觀が世に紹介せられ、風景に對する眼界も廣くなつたのであるが、その趣味には知識の上の由來がある。彼等の紀行に誇張が多いのは、漢文に書き漢詩に作るからでもあるが、本來その見かたが書物によつて養はれたからでもあらう。しかし歌人や和學者が名所舊蹟の因襲に囚はれ、芳野龍田の花紅葉をのみ心にかけてゐたのとは違つて、ともかくも新しいところに目をつけたことは彼等の功績である。月が瀬や木曾川すらも齋藤拙堂によつて始めて世に紹介せられたではないか。その代り詩人は秋艸の花や蟲のねを愛する如き日本人の繊細な情(580)感をば多く詠じなかつた。全く無いのではなく、しば/\それが試みられてもゐるが、多くはない。詩の用語がそれに適しないからでもあるが、趣味の上の問題でもあらう。
 しかし漢詩人のかういふ趣味は、多くは一種の好奇心を滿足させるのか、または一時の快を呼ぶだけのことかである。奇を賞し變に驚くといふのは、大自然のはたらきに測り難きもののあることを知るのであつて、時として彼等も知識の上ではさういふことを考へなくもなかつたらう。彼等はまた渺茫たる海洋の大觀に接して宇宙の大なることを感じたでもあらう。が、たゞそれだけである。彼等の紀行なり詩なりを讀めば、このことはおのづから知り得られる。彼等は自己を大自然に没入したのではない。或はまた自己の心生活の象徴を對するところの自然に認め得たのでもない。この點に於いては、旅路に半生を送つた昔の西行宗祇もしくは芭蕉などが、深く自然の情味を味ひ自然のうちに自己の生命を看出したのとは、全く違ふ。もつとも西行などは旅そのものが生活であり、このころの漢詩人は奇景を觀るのが目的であるので、その間に大なる差異があるのみならず、その趣味も殆ど反對といつてよいほどであるが、それはまたおのづから自然に對する根本の態度が違ふことを意味する。漢詩人のは單に自己から離れた外界として自然を翫弄するに過ぎないのである。必しも風景ばかりではない。花鳥に對してもまた同樣であつて、いはゆる詠物の詩は故事を附會することに於いて機智を弄するにあらざれば、たゞその色をめでその聲を喜ぶのみである。沈南蘋などの流を汲んだシナ風の花鳥畫に、種々の花卉を取り合はせて一幅の中に收めた構圖のものがあるが、これは今の人の静物畫とは違つて、單に色彩の美しさを見せる外には意味が無いやうである。花鳥そのものに對する深い愛着から、花鳥の生命、花鳥に現はれた宇宙の生命、をそこに看取したものとは思はれぬ。その花鳥の名を題するに當り、清人(581)の陋習に從ひ、音通などによつて富貴に縁のある文字を用ゐるに至つては、沙汰の限りであるが、畫家の態度はそれによつても知ることができよう。
 但しシナ趣味が自然觀に及ぽした影響は別の方面にもある。それは一種の人生觀もしくは道徳觀を假託する點にあるので、梅や竹を賞し蘭や菊を愛する類がそれであるが、文人畫家が四君子と稱するのでもその意味は明かである。「此竹自生人不栽、一竿竿※[梟の木が衣]立蒼苔、除非散髪挾琴客、讀許清風闖入來、」(竹外)、「櫻雲嫋々弄春光、嗾得城中士女狂、何似幽蘭能冷澹、湘波簾外雨吹香、」(紅蘭〕、など、これに關する詩人の詠はその文人畫と共に、月並式ともいふべきほど型にはまつたものであるから、一々引用するまでもない。「一曲瑶芳入素琴、湖山人逝少知音、王妃應抱孤棲恨、澹月微雲夜々心、」(詠梅拙堂)などは、かの羅浮の物語によつて神仙思想を結合した點に少しく趣きを異にしてるるところがあるが、遙かに塵寰を超越した仙界の風姿を梅花に認めた點に於いては、同じ趣味の現はれである。また風景に於いては隱逸の思想が往々それに伴つてゐるので、その情趣は南畫にも多く現はれてゐる。「山光爽朗水光清、始信人間重晩晴、帆影搖々紅樹外、秋江歸客定淵明、」(題畫拙堂)などもその一例であるが、「隨君去到水之涯、白鳥歸飛澹暮霞、稚子俟門如古畫、梨花邨裡第三家、」(竹外)に至つては、同じ思想によつて眼前の光景を畫化し詩化してゐる。が、これもまた知識によつて養はれたものに過ぎないので、作者の興味は主としてかゝる趣味の型にあてはめて風景を見ようとする點にある。個性をもつてゐる詩人の心生活がそこに現はれてゐるのではない。
 ところがこの趣味はシナ文學並にシナ畫の知識と共に廣く世に普及し、歌人にも「すむ人は誰にかあらむ世の中の塵といふものは知らずがほなる」、「松かげの苔のむしろは琴とりて我が遊ぶべきところなりけり」(以上畫賛幸文)、(582)「あげまきがせたりの牛に尻かけて山のそば道笛ふき上る」(濱臣)、の類があり、「網すてて葦間の月をねつゝ見る舟はもて去る風ふかばふけ」(畫賛曙覽)、「松のつゆうけて墨する雲の洞硯といふも山の石くづ」、(同人)など、この日本主義者にもシナ思想の影響が著しい。但しかういふ思想がどこまで作者の心生活、作者の體驗、と交渉を有するかは問題であつて、やゝ趣きは違ふが「野渡無人舟自横」の句を「冬枯れの野川の風を身にしめてあはれや獨り渡よぶ聲」とし、海島暮天舟泊圖に「名もしらぬ沖の小島の磯まくら夕なみさわぎ秋の風ふく」(以上秋成)といふなど、不用意の間に全く原作もしくは畫面の風趣を失つてゐるものがあるのでも、それは推知せられる。シナ人の特殊の人生觀を寓した自然觀は日本人、特に江戸時代の人、には眞に體得し得られなかつたに違ひない。さすれば上に擧げた漢詩人の作が主として文字の上の興味から來てゐると考へるのも、無理ではなからう。
 だから國學者がこのシナ趣味を排斥したのも全く無意味なことではない。眞淵が梅を抑へて櫻を揚げ(梅の詞、櫻の詞)、宣長が物靜かな山林を愛せずして賑はしきところを好むといふのは(玉勝間)、自國本位の考へかたシナ思想排斥の態度が自然觀にまで適用せられたに過ぎないものであつて、趣味といふよりもむしろ理説であるが、そこに一味の眞實が無いとはいはれぬ。「これやこの見ぬもろこしの吉野山木立岩根もさまことにして」(唐畫の山水に宣長)ともいはれてゐる。特に歌は固よりのこと、詩とても、自然界に關してシナ式人生觀の明かに詠ぜられてゐるのは多くは畫賛の類であつて、實生活とは縁遠いものであることを、注意しなければならぬ。だから繪畫に於いても、日本の事物を寫さうとするものが生じたので、應擧や若冲や狙仙などがシナ式花鳥畫から一轉して寫生の風を開き、その題材に日常目睹し得るものを採つたのも、また國學者などの考とおのづから相通ずるところがある。彼等はその描い(583)た花鳥に於いて色彩の美しさと形のめでたさとを喜んだに過ぎないらしいが、構圖も比較的單純で眞にその花その鳥の風姿を寫し出さうとしたところに、花鳥そのものを愛する心もちがあり、沈南蘋式花鳥畫が主として畫面の色彩の美を求めたのとは違ふ點がある。風景とても「春?尋詩晩始還、喜看斜照未沈山、欲呼隱侶求〓和、家在櫻花爛慢間、」といひ、「夾水櫻花闘艶粧、花間有屋是誰莊、主人日向前磯釣、釣得溪魚亦帶香、」(以上茶山)、といふのが、幾らかは隱逸思想の痕迹を留めながら全體の風情は日本化してゐるのを思ふと、この詩の題せられた山水畫が、或る意味に於いて南畫を日本化したともいはるべき分子を含んでゐる、四條流の風景畫であることが想像せられ、單なるシナ式山水觀にあきたらなかつた日本人の趣味の一面が、そこに見られよう。「錦幄彫瀾豪貴家、李唐當日競粉華、東方別有櫻花在、未許渠儂王百花、」(牡丹春水)、或は「牡丹濃艶寵明皇、早被胡塵汚國香、萬古依然天上種、我櫻眞個是花王、」(佛山)、の如きも、題材が清楚な梅ではなくして濃艶な牡丹であり、特に後のには没趣味な道徳觀が加はつてはゐるが、櫻の誇りを漢詩人も有つて來たことを示すには足りるであらう。司馬江漢は風景の國自慢は世界のことを知らぬからだといつて笑つてゐるが(春波樓筆記)、それに一理はあるものの、自然界の情趣は風土によつて違ひがあり、それを賞でる氣分も同じでないから、日本人が日本に特殊な風物を愛するのは、當然である。
 説いてこゝに至れぽ、茶山などが目前の小光景に無限の情趣を發見し、田園の風物を精細に寫し出したことが、邦人の自然觀に於いて一新境地を開拓したものであることは、一層明かになるであらう(第十三章參照)。それは單にシナ式風景を美しとする知識の拘束を放下したのみではなく、また人事に背いて自然に親しむといふ特殊の人生觀を離脱したのみではなく、人間的情味を以て自己と自己の生活とを抱擁する自然の風光をつゝみ、人生と自然との美しい(584)交錯と融和とを認めたものである。さうして、それには、春風馬堤曲の如きものを作つた蕪村及び彼の一派の俳諧に現はれてゐる自然觀の一面と、おのづから相通ずるところもある(第九章參照)。
 俳諧が一面に古典的花鳥風月觀を繼承しつゝ、他面に於いて卑俗とせられたものにも詩趣を發見し、特に一種の滑稽的態度を以てそれを取扱ふ點に特色がある、といふことは前篇に述べておいた。「馴れて出る鼠のつらや小夜ぎぬた」(太祇)の如きもその一例であつて、「腹動く蛙にうつる夕日かな」(闌更)にも輕い滑稽が伴つてゐる。浮世繪師の自然を取扱つたもの、例へば歌麿の繪本蟲撰み、百千鳥、なども、その材料をいはゆる卑俗なものに採つた點に於いて、これと思想上の關聯があり、北齋漫畫にはその滑稽的な見かたのこれと似かよつたものがある。そのスケッチ風の略畫の手法もまた俳諧と幾分の共通點がないでもないが、それがまたおのづから自然に對する態度をも示してゐる。寫實的ではあるが、手輕くそれを取扱つてゐると共に、一種の親しみと懷かしみとがそこにあふれてゐる。この點に於いては一茶の蝸牛や蛙の取扱ひかたもそれに似よつてゐるといはれよう(第十章參照)。應擧や若冲やの花鳥は、はでやかにまた莊重に寫されてゐる代りに、浮世繪師の略筆に成つた草花や蟲魚の如き親しみが無い。文藝を日常生活に近づけた俳諧や浮世繪の特色がこゝにあると共に、それが古典やシナ文藝の因襲的趣味を有たない一般人の自然観たる所以も、またこゝにある。貧しい裏店の縁さきにもさゝやかな草花の鉢植の置かれてゐる江戸人の生活は、恰もよく上記の浮世繪の風情を示してゐるではないか。もしそれ田舍に於いては「春風や三人乘りのひとり馬」、「春風やおまんが布のなりに吹く」(以上一茶)、到るところに自然と日常生活との抱合が俳句に寫し出されてゐる。
 燕村一派の俳諧に艶麗な美しい情趣の現はれてゐるものが多い、といふことは前に述べた(第九章參照)。これは自(585)然界に對しても同樣であつて、「山霧の梢に透る朝日かな」、「菜の花に春ゆく水の光かな」(以上召波)、などの眩しい明るい日光、「紫に夜は明けかゝる春の海」(几董)の曉の色、などが嘆美せられてゐる。紫は蕪村にも大江丸にも用ゐられたが、それは自然の色としてよりはむしろ人工の場合に一層艶かである。だから「曙の紫の幕や春の風」(蕪村)といふ。枕の冊子の語をかりて來てはゐるが、この曙は紫の冠詞であらう。春風にふかれてゐる片町のさらさの色にも紫がまじつてゐたらしい。蕪村などの句に人事趣味の勝つてゐることはこの點から見ても當然であつて、「のうれんに東風ふく伊勢の出店かな」の如く市街のながめをさへ一種の風景として見るやうになる。北齋や廣重が風景畫として都市を畫いたのは、こゝに先蹤があるともいへよう。否、時代を潮つて考へると、それは談林の俳諧に既にその前驅があるといつてもよい(前篇第十九章參照)。これは俳諧が平民文藝として、特に都市の情趣を題材としたものがその中にある點に於いて、浮世繪と共通の性質を有つてゐるからであるが、俳諧に於いては古典やシナ文學の知識の影響を受けることが多いために、その方面に十分の力を伸ばすことができなかつたのを、浮世繪がそこに驀進したのである。さうしてこの浮世繪に西洋畫もしくは西洋の版畫の影響のあるのを見ると、オランダ人の與へた知識が自然觀の上にも過去の因襲から日本人の眼を解放させる一誘因となつたことがわかる。純粹の自然界についても空に漂ふ雲を描いたり水に映る影を寫したりした點に、西洋畫を見習つた新しみがある。文學ではさういふものに目をとめた先例が無いではないが、繪畫ではこれまで無かつたことである。が、さういふ局部的のことよりも、如何なる風景を捕へるかといふ見かたがシナ畫や大和繪の型から全く離れてゐるので、それの最も著しいのは、自然界と民衆の日常生活との結合せられた點にある。
(586) 名祈圖繪から一轉した北齋の隅田川兩岸一覽や廣重の江戸百景などが、江戸の市民の日常生活の背景となつてゐるところ、もしくは彼等の行樂の地、に於いて、從來の風景畫家の夢想だもしなかつた新しい情趣を發見し、それをあの有名な版畫の上に描き出したことは、今さらいふまでもなく、その藝術史上の重要なる功績が、尚古思想やシナ式風雅主義によつて隔離せられてゐた自然界と民衆生活とを結合した點にあることも、また明かであらう。その意味に於いて昔の大和繪の復活といひ得られる點もあるが、實は新しい態度である。東海道中五十三次の畫かれたのも、いはゆる「道中」であるからのこととすれば、それはその間に於ける人間生活そのものを風景として見るのか、または人間生活の背景としての、もしくは人間生活を背景としての、自然の措寫かでなくてはならぬ。東海道といはずして特に五十三次といひ、宿場々々がその題材となり、少くとも目標となつてゐるところに、意味がある。さてこれらの風景畫を概觀すると、北齋は自然界を人間生活の背景として見る傾きがあり、山水を寫すにも人物もしくは人工物を前景として奇拔な構圖をする癖があるので、そこに自然界を玩弄する氣味も見え、風景そのものよりも奇矯な見かたを誇るやうな態度がある。品位の乏しい感のあるのもそのためであらう。縱横自在な筆致と奇思湧くが如き構圖とがおのづから然らしめたといふ事情もあらうが、根本は彼の自然觀にある。江戸人たる彼は、おちついて自然界に自己を没入することはできなかつたに違ひない。空や雲にも紅を使つて、單純ではあるが花やかな色彩を施すことを好み、時には土佐繪風の雲を描くなど、何ごとにも便宜的な手法を用ゐてゐるのは、奔逸ではあるが定まつた癖のある筆つきと共に、彼の風景畫が頗る主觀的であり、むしろ氣まゝなものであることを示してゐる。廣重は北齋とは違つて風景そのものを寫してゐる。山水には點景として人物を添へるのであり、市街や建築物などを描いても、それを風景と(587)して見る。さうしてその態度は概していふと寫實的である。それだけ廣重は自然界を尊重してゐるが、しかし彼の風景畫が人間生活を含んでゐるのみならず、純粹な自然界を寫してもその背後に、もしくはそれをつゝむ雰圍氣として、人間生活が存在することは、その題材の上からも明かである。その上に彼の作品には、北齋とは違つた意義に於いて、やはり人工的要素が著しく目立つ。彼が墨や藍を主調とした僅々二三色の單純なる配合によつて色彩の上におちついた調子を出してゐることは、嘆稱すべきものであるが、しかしそれは畫面の色調であつて必しも實景の色調ではないと同じく、その色調の現はしてゐる氣分が果して彼自身の風景に對する氣分をさながらに示してゐるかどうかは、頗る疑はしい。少くとも著者は、木版印刷の便宜法がそれに重大なる關係を有することを、想像するものである。同じく便宜的手法を用ゐるにしても北齋とは異なつた色調をとつた點に於いて、彼の嗜好が見えることはいふまでもないが、その嗜好は主として技巧の上のことであつて、風景に對する氣気分ではないのではあるまいか。夜景を多く畫いたのも、彼が都會の夜の情趣に心からのなつかしみを有つてゐたといふよりも、むしろ夜景を畫いてそこに特殊の技巧的效果を得ることに興じたのではあるまいか。廣重とても、何等かの變化のある廣い風景を取扱つてゐる場合が少なくないので、それには倭繪やシナ畫からの因襲もはたらいてゐようが、やはり遠近法などを適用しようとする技巧上の理由もあつたのではなからうか。さうしてまたそれと共に、自然界の見かたが外面的だからでもあらう。靜寂な森林とか池水とか、單調ではあるが見るものによつて神秘な感のあるものは、彼には解せられなかつたやうである。一もとの樹木一枝の花に大自然の神秘を見るといふ態度が無い。狂歌を好み戯名を有つてゐた彼であることをも考へねばならず、また文政天保時代の江戸人の一般の氣風をもその背景として見忘れてはならぬ。歌麿を中心とする最盛期(588)の人物畫に於いても、最も興趣の深いのは版畫であつて、濃厚な着色と繁縟な筆とを用ゐた肉筆畫ではない。これもまた彫刻及び印刷の技術に制限せられたのが却つて好い效果を擧げたのである。廣重の風景畫を考へるについても、この技術上の問題が大切であらう。
 自然界と人生との抱合は、狹斜の巷に於いて別樣の趣きを呈してゐる。「春雨にしつぽりぬるゝ鶯の羽風に匂ふ梅が香」や、「淺くとも清き流れの燕子花、飛んで行き來の編笠を、覗いて來たか濡れ燕、」は、いふまでもなく、春の花も秋の月も、沖に浮ぶ鴎も空を飛ぶ郭公も、みな脂粉の氣を帶びてゐるのが俗曲の情趣である。俳句が往々端唄などに取られるのも、かういふ風に利用し得られるからである。「聞く人のあればこそなけ閑古鳥」と大江丸はいつたが、こゝでは月も花も全く狹斜の風物となつてしまつた。國貞の五十三次に於いて自然界の光景が遠く背後に押しやられてゐるのみならず、艶麗なる婦女の姿のみが不相應に幅をきかせてゐて、風景畫としての性質さへも全く失はれてゐるもののあるのは、風景畫としてまた浮世繪としての壞頽を示すものであつて、人工的文化の爛熟の極に達した天保時代の一面の氣風がそこに現はれてゐるのであり、さうしてそこに、やはりこの俗曲の情調と相通ずるところがある。花鳥の色をもねをも戀と見また戀と聞いたのは萬葉の昔からのことであるが、こゝではその花も鳥も野に咲き梢に鳴く自然の花鳥ではないことを、知らねばならぬ。
 
(589)     第二十一章 人生觀人間観及び處世觀
 
 人生觀人間觀もしくは處世觀とも稱すべきものについても、元録前後に比べて幾らかの變遷が認められる。いはゆる學問の流行につれて知識人の人間觀人生觀には、書物の上の知識として受入れられた儒教及びその他のシナ思想に由來するものが、重要の分子となつてゐ、その傍にはまた古典時代からの因襲的觀念も遺存してゐるが、後者には間接に佛教の影響がある。さういふ知識から來た分子の著しく目立つことが、既にこの時代の一特色を示すものであるが、しかしそれが眞に實生活を指導する力を有する場合に於いては、それは實は當時の實社會實生活から自然に馴致せられたものであつて、たゞ書物から學んだ言辭でそれを表現したのみのことである。もしまた然らざる場合に於いては、それはたゞ空しき言辭の羅列に過ぎないから、それに反抗する思想がそれに對して生じ、もしくは別の思想がそれと共に存在する。さうしてさういふ思想の多くは、知識社會の範圍に入らない方面に於いて現はれてゐる。この間の交渉を著者は次の如くに觀察する。
 
 江戸時代の社會状態が一般に人をして現世に安住する思想を抱かしめた、といふことは前篇に述べた。この思想の傾向は、同じく現世の生活を究竟のものとする儒教によつて、知識の上から支持せられる。だから當時の知識人が佛教的超現世主義を排斥し、從つてまたその根柢をなす無常觀を承認しなかつたのは、自然のことである。「假の世とこの世をいはゞ君の親の惠みはいかゞ人に答へむ」(定信)といふのは、主としてそれを道徳的立場から見たものである。(590)さうしてこの點に於いては、儒教に反抗して起つた國學者とても同樣である。「神代より松は緑に雪白し誰れ常なしといひはじめけん」(枝直)、「常ならぬ世を歎くこそ愚かなれ移り變るは世の中の道」(貞丈)、或は世に於いて常住の一面を認め、或は常なきを道として常あるを求むるの愚を笑つた。だから生死についても「命ある限りは生きて死して後何になりともならばなりなん」(貞丈)、人は人たる限り人として生きよといふ。現世を超越した境界は全く彼等の問はぬところである。篤胤もまた生老病死は人として本來離れられないものであるから、それを出離しようとするのは至愚であるといつてゐる(出定笑語)。國學者が出家を難じて父母妻子を棄てることの非なるを痛論したのも、畢竟同じところに歸着するので、家族生活を人生の本質と見たからである(葛花、古學要、出走笑語、など)。「心なき身にもあはれと泣きすがる兒には涙のかゝらざりきや」(曙覽)、西行が人情を解せず人生を解せざるものとして、彼等の目に映じたのを見るがよい。
 平安朝末の悲觀的風潮が當時の貴族文化の壞頽に伴ふ特殊の現象であるとすれば、江戸時代に於いて西行の解せられないのは當然である。しかし「我はもよ終りなるべしいざ兒ども近くよりませよく見て死なん」(泊※[さんずい+百]筆記所載平高保)。死に臨んで子を思ふのが人の至情であるとすれば、子ある身の死出の旅路に一抹の不安があることは疑があるまい。この歌が禅僧の口まねめいた世のつねの辭世にあきたらずして作られたといふのを見ても、それは明かである。子に對するばかりではない。「思ふこと一つも神につとめあへず今日やまかるかあたらこの世を」(篤胤)、或は「水無月の有明月夜つく/”\と思へば惜しきこの世なりけり」(景樹)、惜しまるゝはこの世ではないか。「よみの國思はばなどかうしとてもあたらこの世を思ひすつべき」といひ、「願はくば花の下にて千代も經んそのきさらぎの盛りながら(591)に」(以上宣長)といふに至つては、明かに長壽を希求するのであるが、長壽を希求するのは即ち死を厭ふことに外ならぬ。宣長のこの歌は、或は古典の知識により或は故らに西行に反對した、一片の理説に過ぎないものではあるが、死を忌み生に就かうとする欲求だけは、そこにもいひ現はされてゐる。しかし、よみの國が終にゆくべきところであり千代の齡の保ち難きことが明かである以上、この欲求の空しく拒まれねばならぬところに、悲哀と苦痛とが無くてはならぬ。父母妻子の愛をすてるのを難ずるもよいが、父母妻子の愛の全くし難いのが人生の事實ではないか。無常が世の常道であるといふのは理智の示すところであるが、それはたゞ事實を事實とするだけであつて、それに處する何等の指針をも與へるものではない。死後の問題は問題としないにしても、死そのものを等閑に看過しようとする貞丈の言の如きは、むしろ野狐禅者流の口吻に近いではないか。宣長などは、或は悲しみを悲しみ苦しみを苦しめといふのでもあらう。そこに人生を有りのまゝに味はうとする一種の態度がある。しかし人はそれに滿足せずして悲しみと苦しみとを避けようとする。無常の人生に常住の何ものかを求めようとするのが、人生の奥秘に存する已み難き欲求ではないか。是に於いてか釋迦は出家した。西行も出家した。彼等は一面の意味に於いては、生を欲求するがために生をすてたのである。それがこの欲求に應ずる正當の、或は唯一の、道であるといふのではないが、その動機がここにあることは認められねばならぬ。然るに江戸時代の知識人はそれを認めなかつた。彼等が佛教思想を排斥したのは、人生そのものを肯定する點に於いて意味があるけれども、人生の欲求とその欲求の充たされない事實との矛盾について深く考へなかつたところに、思慮としては淺薄な點がある。或はむしろ長壽を欲することを口にしながら、この自己内心の欲求が痛切でなかつたのではあるまいか。彼等が生死の問題を自己の現實の生活、その内的體驗、に即(592)して解釋しようとせず、一般的の知識をあてはめることによつて滿足してゐるげに見えるのは、強い生の欲求を感じなかつたからではあるまいか。何ごとについても意欲の弱い彼等であることを考へるがよい(後文參照)。
 かう考へると、このころには往々自己の死を遊戯的に眺めてゐたもののあることが思ひ出される。「食へば減る眠れば覺める世の中にちと珍らしく死ぬも慰み」(徳和歌後萬載集)の如きは、禅僧的辭世の常套思想を狂歌式によんだだけのことであるが、葬式のまねをした自墮落先生、會葬者を玩んだ鶴屋南北、臨終の際に「しにぬるをわか」とだじやれた大通の一人(仮名世説、言狂作書、十八大通)、などに至つては、死者みづから死を遊戯視したものといはねばならぬ。が、死を遊戯視することは即ち生を遊戯視することである。生を遊戯視するものは眞に深く生を欲求するものではない。後にいふやうに、何ごとをも表面的刹那的に取扱ひ、その場その場をその時々の心もちになつて氣輕く受け流してゆく江戸人に於いて、生死の問題がかう見られるのは無理ではないが、そこにやはり、まじめに考へ深く思惟することを好まず、どうせなるやうになるのだとしてなるがまゝに身を任せ、おもしろをかしく心をもつてゆかうとする、思想の傾向が見える。固定してゐる世の中に於いては、人の意志によつて世を動かし身を立ててゆくことができないから、おのづからさういふ意思を弱めることになるが、意志の強くないものはおのづから深い思索をせず、生をも死をも輕く見ようとする。さうして世が平和であり、生そのものに甚しい苦痛や不安の無いことが、またそれを助ける事情ともなつてゐる。生の苦痛を深く味ふものに於いて初めて生の欲求が切實に感ぜられる、といふ一面の事實があるからである。「生れ來れる世のまに/\萬の事を思ひのどめばあへなんものを」(手習ひにものに書きつけたる詞眞淵)といふ力の無い樂觀思想の根據はこゝにある。
(593) かういふ態度から見ると、「花に死なん願ひは慾のかゞみかな」(白雄)、西行の願ひもこと/”\しすぎるではないか。「西行は死に損うて袷かな」に現はれてゐる蕪村眼底の西行が、西行自身の西行でないことも、また明かである。「ふぐ汁の我れ生きてゐるねざめかな」(蕪村)、「ふぐ食はぬ人さへもまた夢なれや」(成美)、生死をかう觀ずればそれに深い執着も嫌惡も無くなる。たゞ「死なで止みぬいたづらものよ暮の春」(几董)、「生きて世にねざめ嬉しき時雨かな」(召波)、生ある間は生の享受を樂しとする點に於いて、生死一如と觀ずる禅僧の思想と違ふところを看取するを要する。そこにこのころの消極的享樂主義があるのではなからうか。
 生死が大なる問題でないとすれば.、死後はなほさら念とするに足らぬ。生きてゐる人にとつてはそこに何等の神秘も無い。だから「地獄をも恐れぬ上は佛にも諂はぬ身はとにもかくにも」(貞丈)といふ。これには理智の上から佛教思想に反對する意味も加はつてゐて、それはまた死後の世界を説くことが佛教の本質であると考へたからでもあるが、それだけにまた儒教思想との連繋がある。「地獄なし極樂も無し我も無したゞあるものは人と萬物」(夢の代)に至つては、「我もなし」の一句に儒教から跳出した點があり、末の二句には或は蘭學から來た思想の痕跡があらうかとも思はれるが、その現世主義と一種の合理主義とはやはり儒教思想と一致する。「かみほとけ化けものも無し世の中に奇妙不思議のことはなほ無し」(同上)とさへいつてゐるではないか。司馬江漢の見解もまたほゞこれと同じである(春波樓筆記)。生れたのは神佛の力でないから死んでも佛を頼むには及ばぬ、自身是佛であるからこの身を正しくする外は無い、といつたといふ某の乞食の言(歌俳百人選)は、やゝ禅宗臭味道學臭味を帶びてはゐるが、やはりこれらの考と共通の點がある。種々の方面の種々の考が一樣にこゝに歸着してゐるとすれば、そこにやはり時代の傾向がある(594)と見なければならぬ。現世の生活に安住してゐる世の中に於いては、これは當然である。近松半二が獨判断(言狂作書所載)に、生死の問題は、儒でも佛でも神でも畢竟知れぬに歸する、知れぬことに心を惱ましてそれがために「錢一文でも費すは眼前の損なり、神にも佛にもよらずさはらず、たゞ商人ならば商、百姓ならば農作、の世渡りを精出して、食ひたいもの食うて死ぬるが末代までの得と知るべし、」といつてゐるのは、最もよくこの現世主義を大坂人的に道破したものである。
 かう考へて來ると、知識人によつて佛数が冷淡に取扱はれると共に、時代の思想の傾向を最もよく代表する都會人が、一方では迷信に囚はれながら、他方に於いて寺院や法會や宗教上の年中行事やを遊樂の方便とし、もしくはそれを茶化してゐるのも、無理はない。地獄の滑稽化は、前篇に述べた元禄太平記などの系統に屬する風來の根無草から靜軒の江戸繁昌記まで、しば/\反覆せられてゐるが、阿彌陀も「如來をして食ふ身」と思へば「錢なき衆生は度し難し」と説かねばならず(菩提樹の辨)、千手觀音は千本の手を損料で貸し(大悲千録本)、地藏尊も寺の和尚に信用が置けないので、みづから勸化に出ねばならぬやうになつてゐたのである(世上洒落見繪圖)。これは勿論、僧徒が佛教を營利の具としてゐたがためではあるが、それが營利の具となり得たのは、一つは一般に佛教が遊樂のために利用せられたからでもあるので、むかし寺院の存立した一半の理由が文化の中心である點にあつたと同じく、このころにはそれが民衆娯樂の場となつてゐたところに、大なる意味がある。「佛も人に助けられる世の中」は必しも「しやれた」天明の大通時代には限らない。歌人が釋教を詠じて「幾すぢと別れし法の水上も雪のみ山の雫なりけり」(濱臣)などといひ、毫末も宗教的感情がそれに見えないのも、一つは歌人の因襲的態度でもあるが、やはり宗教的信仰の厚(595)くないからでもある。世の習慣とて剃髪する老人も多いが、それとても「法のためおろすにもあらず黒髪の長からぬ世を厭ふまでなり」(五十槻掻葉集高久胤)とすれば、宣長が田中道麻呂の剃髪に對していつたやうに憤慨するにも及ぶまい(家集)。佛像の崇拜が一般人に於いては祈祷の對象としてに過ぎず、佛教の信仰から出たものではないこと、眞宗の如き淨土教の信者に於いても、淨土の欣求と日常の生活との間には殆ど交渉が無いといつてもよいことは、昔からこのころまで變らない事實であつて、かういふ意味での佛教は當時にも廣く行はれてゐたことはいふまでもないが、たゞそれが知識人には思想としての勢力を失つてゐたのである。
 生死の問題について神道は深く關するところが無い。一般の信仰に於いては神はたゞ現世の生活に關する祈祷の對象であり、生きてゐるものの神である。さうして神社もまた多くは寺院と同樣、民衆娯樂のために利用せられた。もしそれ「ほんに二人がその中は、どうした魔性の神さんが、結ばさんした縁ぢややら、」(常盤津燕烏故郷軒)といひ、「ふみのさきめの口紅も、外へ移さぬ心とは、神々さんも、……とうに承知であろけれど、」(通言總籬)といふに至つては、「神々さん」が狹斜の巷に引き下されて、馴れ/\しく取扱はれたことを示すものである。そこに神々の民衆化があると共に、少くともかういふ社會に對しては、その威嚴の峻烈でなかつたことがそれによつて知られるのである。都鄙到るところの、特に都會地に數の多い、素姓もわからぬ小さい神祠などが、民間信仰の對象として極めて親しげに取扱はれてゐることも、考へあはせられる。知識人からは淫祠として斥けられるが、實をいふと堂々たる神社もかういふものも、信仰の對象としての性質または信者の主觀的感情に於いては、大なる違ひは無い。佛や菩薩やまたはインドの神々もほゞそれと同じであり、江戸に於いては蒟蒻閻魔豆腐地藏などの名で呼ばれてゐるもののあるこ(596)とによつても、それに對する民衆の氣分の知られる一面がある。道ばたの鼻かけ地藏も田舍人の日常生活には親しいものである。福利を祈る意義での信仰は勿論あるが、それが手輕に近しげに取扱はれてゐるところに興味がある。觀音さんや辨天さんに至つては、啻に馴々しげであるのみならず、往々脂粉の氣をさへ帶びて民衆の目に映ずる。神も佛もすべてが世間的になつてゐる點に、このころの特色がある。
 いふことはやゝ横みちにそれたが、知識人に宗教的信仰の深くなかつたことは、疑ひがあるまい。しかし彼等とても全く超人間の力を認めないでゐられたらうか。儒教には天といひ命といふ觀念がある。それは人の如き情意を有する神もしくはその力ではなくして、むしろ自然のはたらきまたは理法とでも稱すべきものではあるが、なほ微かながらに情意らしいものの痕跡がそこに認められなくもない。一方に於いては天も命も、人智の測るべからず人力の如何ともすべからざる或るものであつて、人はそれに支配せられるのであるが、超自然の神秘な力を認めまいとする儒教思想に於いては、それを徹底させることができないので、かういふ曖昧な觀念となつたのである。さて自然のはたらきまたは理法として見れば、天は人智によつて理解せらるべきものであるのみならず、儒教はそれを道徳的に取扱ひ、善惡の行爲が禍福の應報となつて現はれるとするが、專實に於いてはその應報が實現せられないから、そこに不可解の何ものかを認めねばならず、力盡きて天を呼ぶ場合が生じ、人事を盡して天命をまつといふ考も起り、天命に自然のはたらき自然の理法を超越した力を附與しなければならなくなる。たゞ儒教に於いては、血統によつて相續せられる家を個人の生命の延長として考へ、父祖と子孫とを通じた長い時間に於いてこの道徳的應報が行はれるとして、矛盾の幾らかを緩和しようとするのであるが、それもまた事實には一致しないものである。馬琴が一方に於いて個人に(597)道徳的責任の全部を負はせながら「禍福得失は人力を以てよくし難く凡智を以て揣るべからず」(八犬傳二の二)とか、「人の命は天にあり」(同上)とか、いふ語を常に反覆してゐるのは、この儒教思想によつたものである。「人間萬事塞翁の馬」といひ「禍福は糾へる繩の如し」といひ、八犬傳の玉梓の怨靈に由來する八犬士が里見の忠臣たる英雄となつた如く、人生には凡慮の測り難い神秘があつて、それがいはゆる天機であるといふのは、彼が人の運命を支配する神靈怪異の力を極度に誇張してゐることと共に、儒教思想とは反對な、少くとも別樣な、シナ思想によつたのであるが、しかし人力を超越した天または命を信ずる以上、儒教思想の根柢にかゝる考を展開し出すべき萌芽のあることは明かであつて、それはむしろすべての人類に共通な、人の生活に於いて避くべからざる内心の要求であらう。さうしてそれは因果應報觀とは根本的に背反するものであると共に、文學に於ける勸懲主義の否定とならねばならぬ。
 しかし馬琴は、この儒教思想とは性質を異にした佛教の因果觀をも採用してゐる。いはゆる三世因果の説は、儒教が現世の父祖と子孫との間に於いて求めた道徳的應報を、現世を超越した過去世と未來世との關係に於いて認めたものとして考へられようが、インド人の思想はシナ人のとは違ふ。善惡の行爲に禍福の應報があるとする儒教の因果説が、行爲そのものについては自由の意志の存在を假定しなくてはならぬのに、佛教の思想では、一切が過去の業因によつて決定せられてゐるのである。馬琴が戀を免れ難い運命としたのは、過去世ではなくして祖先にその由來を歸した點にシナ思想の潤色が施されてはゐるが、恰も俗曲や俗謠の到るところで發見せられる如き通俗化した意義での「いんぐわ」(因果)が自己の意志を否定してゐると同樣、このインド思想の影響としなければならぬ。もつとも馬琴のこの考は直接に佛典などから出たのではなくして、かの神靈怪異の譚を世俗的知識から取つたのと共に、やはり民(598)間の思想から得たのであらう。
 宣長などが人の意思と智能とを否定して一切を神のはからひに歸したことも、またこゝで考へておかねばならぬ。宣長は儒教の天命説を非とし、天は死物であるといつて、それに代へるに神を以てしたのであるから、その思想の由來はやはり儒教にあるが、しかし天の性質が煩る曖昧なのに反し、神は明かに人の如き情意を有つてゐる。たゞ宣長のいふ神のはからひは、宇宙の太初に於いて神がすべてを規定しておいたといふのか、または時々の神の意志によつて世が動かされ人が動かされてゆくといふのか、明かでないのみならず、それは神が氣まぐれにはたらくといふのか、または何等かの道徳的理法によつて動くといふのか、それもわからない。このことの考へかた如何によつては、人にとつては一種の決定論ともなり、また神にとつては神の上に神を支配する何ものかがあり、從つて世を支配するものは神よりもむしろ儒教の天に近いものにもなり得るのであるが、宣長はそこまで細かくは考へなかつたであらう。神を祭つて神を喜ばせよといつてゐることから推測すると、神の意志は時々の人の態度で變つてゆくものと思つてゐたらしくもあるが、ナホビの神は究竟マガツヒの神に勝つといつてゐるところを見ると、一定の理法が神を支配してゐるやうに考へてゐたらしくもある。しかしまた神のはからひであるべき人生の善惡禍福は、馬琴の一面の思想と同じやうに、互に錯綜してゐるものとし、シナ人の考へた如き確かな應報は無いといつてゐるのによると、少くとも人にはさういふ理法のあることがわからず、從つて人からいふと理法の無いのと同じことにもなる。或はまた場合によつては人事を盡して、天命ではないが、神のはからひに任せよと、シナ思想に類似したことをさへいつてゐる。要するにすべてが曖昧である。
(599) 天命にせよ過去の業因にせよまたは神のはからひにせよ、當時の學者の論議は多く文字の上の閑詮索であつて、必しも彼等の體驗から生み出されたことではないが、知識としてもかゝる知識の受入れられたことは、民衆の實生活と全く無關係ではない。當時の社會状態が人をして自己の意志を否定させる傾向があり、それが世界觀人生観の上に反映した、といふことは既に考へたところである。人の魂は天より授かつたものといふ思想(心學早染草、天道浮世出星操)も、本來はシナに淵源のある全く違つたことでありながら、魂のはたらきは人の思ふまゝにならぬといふ考をそこから導き出して來ると、畢竟同じところに歸着するので、これもまたインド思想の民衆化した「いんぐわ」の語と同樣に、民衆の知識となつてゐたものであらう。さうしてそこに一般人の思想がある。かう考へると、當時の世の中の一面には、人をして人力の限りあること、或は人力の本來存せざること、を思はせる事情もあつたことになるが、たゞそこから悲觀思想が展開せられたり、超人間の大なる力に依頼しようとする強い宗教的信仰が發芽したりすることは無い。馬琴などが運命を説いても、それは外から加つて來るものであつて、自己のもつてゐる宿命ではなく、從つて人生を壓する堪へ難き重荷として、脱せんとして脱する能はざる人生の桎梏として、絶大の痛苦をそこに感ずるやうなものではない。これには、一方にかの應報觀があつてこの運命觀と曖昧な妥協をしてゐる故もあり、またこの考が文字の上の知識に由來してゐて、自己の切實な體驗から出たものでないといふ事情もあらうが、根本はやはり時代の一般の思想的傾向にある。神の力も運命も深刻には考へられず、むしろ氣輕な「あきらめ」もしくは小さい安心をそこに見いださうとするのが、このころの考へかたの特色であつて、一般民衆の間では特にそれが著しい。淨土教の信仰に於いてすら「ともかくもあなたまかせの年の暮」(一茶)には、阿彌陀に一任した身の心安さがある。神は人(600)力の如何ともすべからざるところであるといふ考には、神のことは神に任せよ、わが關するところにあらず、といふ思想が伴ひ得るのである。さうしてそこに人は人にて足るといふ考の結合せらるべき契機が存在する。
 かういつて來ると、國學者の主張がおのづから想起せられる。何ごとも神のはからひであるとする宣長の見解によれば、人が何ごとを思ひ何ごとをするのも、それがおのづから神意の現はれでなければならず、その外に思ひやうもしやうも無いことにならうから、それは結局、特に神に依頼する必要も無く神あるを思ふ必要すらも無くなるわけである。もつともこれは彼の思想の論理上の歸結がかうなるといふのみであつて、彼みづからさういふ明かな見解を有つてゐたのではないが、しかし彼の樂觀思想には本來かういふ傾向があるともいはれよう。智力を排斥し道徳意識を無視するかゝる考へかたは、かうして宗教をも否認することになる。神の力は廣大にして人智は極めて小なるものであると説いたが、あまりにそれを廣大にしたため、そこから却つて人が神の力に依頼する宗教的心情の根本を無くすることになつたのである。もつとも宣長に於いては神といつても人であり、神の力といつても人の力の大なるものであるから、そこからも宗教は否認せられることにならう。が、宣長のかういふ考はシナ思想を非難するために甚しく誇張せられたものであるから、それに深い意味は無いともいへる。たゞそれには江戸時代の思想に通有な傾向が見えはするので、當時の知識人は、今人が宗教の本質と考へてゐるやうな神による救濟を要求しなかつたのである。神の力の現はれるのは死後の生に關するもの、從つて主なる關心が個人にかゝはるもの、に於いてのみのことではなく、現世の生活、即ち社會的な、また子孫によつて次第に進展してゆく永遠の、生活、に於いてであることが考へられるであらうが、江戸時代の知識人にあつてはそれは人の責務であり道徳の力であるとせられてゐた。實は神といふもの(601)が人の心情の要請が客觀化せられたものであると同じく、宗教とても現實の生活の要請がさういふ形をとつたものである。宣長の思想は根本的にはこれとは全く違つてゐるが、論理上、宗教の否認せられることになる點に於いて、一脈のつながりが無いでもなからう。
 しかしそれよりも注意すべをは、宣長が儒教思想に反對して情の權威を強調したことであつて、その情には人としての本能、肉體的の欲求、も含まれてゐる。ところで上にいつた堀景山や三浦梅園やまたは富士谷御杖の思想は、おのづから宣長のこの意見と連繋があるが、たゞ宣長とは違つて、文字上の知識から來たことではなく、現實の生活から出たものである。このころになるとかういふことが學者によつて公言せられるやうになつた。さうしてそれは人をどこまでも現實の人として見るところに、思想上の重要の意義がある。
 人の肉體的欲求を重要視するのは人に動物的の要素があることを認めるものであるが、しかし人は動物ではなくして人であるといふのが、一般の考へかたであつて、梅園などの思想にも、やはりそれがある。西川如見が人は萬物の靈であるといふ自負を失つてはならぬといつてゐるのも(町人嚢)、またその例であつて、こゝには却つて儒教思想と一致するところがある。如見はかくいふと共に、すべての人は本質的には平等であるといふことと、人はみなそれ/\に獨自の存在であり、「我が身以前に我が身なく、我が身以後に我が身なし、」といふこととを、説いてゐる、(同上及び同底拂)。人の平等觀は多くの學者のいつてゐることであつて、輕き土民百姓も百萬石の大名も人として變りは無いとか(栗山上封)、天子將軍より非人乞食に至るまでみな人であが、天子も我等も同じものだとか(春波樓筆記)、または天子も人、庶人も人、聖も人、我も人、であるとか(江戸繁昌記三篇自序)、いふやうなのが、その例である。(602)しかしこれらは、賢愚能不能徳不徳などの別がその間にあることを否定するものではなく、まして政治的社會的または經濟的意義に於いての平等を主張したものでないことはなほさらである。貴賤尊卑貧富の違ひの如きは、いふまでもなく肯定せられてゐる。從つてかゝる平等觀は當時の社會構成や政治制度に反抗する意義をもつてゐるものではない。平等といふのは人の人たる本質に於いてのことであり、そこから道徳的に、何人もみづから人たる誇りをもつと共に、同じく人であるから身分などが違つても他を輕んずべきでない、といふことを導を出して來るのである。しかし人がみなそれ/\に獨自のものであるといふことは、多く説かれてゐないやうであり、學者などの講説に於いてはむしろそれに反して人はみな同じ人であるべきもののやうにいはれてゐるが、事實に於いては、少くとも暗黙の間にそれが認められてゐるに違ひないことは、人々の性質なり行動なりが現にそれ/\特異のところをもつてゐることからも、知り得られよう。たゞ當時の社會に於いては、概していふとその特異性が徴弱であつたことは推測せられるので、それの強いものは世に容れられない場合が多かつたであらう。かう考へると問題は人間觀から一轉して處世觀に移らねばならぬ。
 當時の人々の處世觀は社會生活の状態から種々の影響をうけてゐる。固定した社會に單調な生活をしてゐるものが早熟早老の傾向のあることは、生理心理的に自然な現象であつて、刺戟が乏しく活動することも少いため、早く一定の型にはめこまれ、早く人となり早く老衰する。十五で元服して大人の地位を得るのが習慣であるから、子どもにも大人らしさを要求すると共に、大人をして早く老を以てみづから居らしめる。「齡も四十の老近く、頻りに懷舊感慨の(603)情に忍びず、」(旅賦也有)と、四十未滿にして既に過去をのみ追懷してゐるもののあるのを見るがよい。星巖の「我亦挈室走天涯、不成一事※[髪の友が丐]欲※[白+番]、今日見汝老途旅、乃知世亦有同科、」(駱駝歎)といつたのが三十五歳の時であるのを思ふと、あまりの老人氣どりに驚かれるではないか。もつともこれらは病なきに呻吟する類であつて、老人ぶるのを誇りとする風習から來た矯飾でもあらうが、しかしさういふ風習の存在したことが、當時の人心の傾向を語るものである。同じ人が「夫君四十五、老去奈春何、」(春日雜興)といつた時には、もはや事實、老人の心もちであつたらう。さてかういふ氣風は、衣食に身を勞する必要の無いものをして早く人事を謝して風月に遊ぶを欲せしめるものであるが、それは業務にかゝづらふことを卑しむ風習、當時の家族制度から自然に發生した隱居制、などと互に因果の關係をもつてをり、またシナ的道徳思想と結合しては、子に要求するに父母を遊食せしめることを以てするものである。世をかせぐは四十五までといふことが西鶴の永代藏にも見えてゐた。今日には奇怪に感ぜられるかゝる氣風や習慣やの存在し得たのは、事業の無い、人の活動を要しない、固定した社會だからである。しかしあまりに早く老いこむことは、人の自然の欲求に反する。人は長へに若からんことを欲し、またその性質と境遇とによつては年たけてもなほ老境に入らぬものがある。「百までは三十九年花の春」と大江丸はいつた.乙由は年老いた後まで遊里劇場に出入して氣を若く持つことをつとめたといふ(俳家奇人傳)。「若き人にまじりてうれし年忘れ」(几董)も、また老の身の若返つた心もちをみづから喜んだのであらう。「皆人は吾を老翁といふ、世の人は吾を翁といふ、よしゑやし老翁ともいへ、よしゑやし翁ともいへ、黒髪は未だ白けず、白き齒は黒くもならず、足すらも未だなえず、口すらもやまず物いふ、」といひ、翁と呼ばれるのを平賀元義が憤慨したのも、必しも幕末の時勢に興奮してゐたためばかりではあるまい。(604)「僅かにもたゞ一めぐりめぐり來し六十路は人の老の數かは」(言道)はたれかの賀の時の歌ではあるが、思想としてはこゝにいつたことと一つのつながりがあらう。隱居した老人が息子のせわをやくのも、姑が嫁をいびるのも、一面の意味に於いては、彼等になほ若い氣分があり、若いものを、競爭のあひてとする心もちがあるからであつて、強ひて人を老いこませる風習と人の自然の欲求との矛盾がこゝにある。「若竹やさも嬉しげに嬉しげに」、「嬉しいか垣の小竹も若盛」、或はまた「わやわやと若い同士か歸る雁」、若盛りの讃美は必しも一茶のみの心もちではなからうが、既に若盛りを讃美すれば老いてもなほ若やがんことを求むるのが當然である。
 變革を好まない保守主義もまた固定した社會に於いて特に強みられた思想であつて、何時も同じやうな状態に慣れたものは、その慣れた氣分の動揺を恐れ、新しい刺戟を受けることの不安に堪へないのである。生れて來た世の中に安住すべきものであると眞淵がいひ、國の政は從來の習慣を守るべきものであつて、よし幾らかの缺點はあつてもそれを改革するのはよろしくない、と宣長や安齋がいひ(玉くしげ、安齋隨筆)、政治は先例によつでするのが國風だ、と藤井高尚がいつたのは(松の落葉)、儒者の改革論に對する反感もあり、特に宣長のは、すべてが神の意によつて成り立つてゐるから人力を以て動かし得べきものでない、といふ彼の根本思想とも關係があるが、その眞の由來は實はこの社會状態にある。人が生きてゐる限り、生きようとする欲望の強い限り(何等かの方法で習慣や制度のはたらきを緩和し、何等かの方面にそのぬけ道を作つてゆくことのあるのも、事實であつて、かういふ意味からいふと宣長などの見解に一味の眞實はあるが、それは大局を動かさないでも何とかして補はれてゆくほどの小さい缺陷の場合であるのみならず、彼の思想はさういふところから來たものではなく、むしろ現状に滿足してゐるからである。二宮尊徳(605)が家法を改めぬことを力説したのは違つた意味からのことではあるが、分を守れといふその教に於いて、現在の社會的秩序を是認しそれに順應することをいつてゐるのと參照すれば、この二人の考は畢竟伺じところに歸着することが知られる。道徳を説く場合でも多くは同じ態度がとられた。心學を講ずるものが己れを空しくして世の制度習慣を守るべきことを教へたのも、やはりこゝに一由來があらう。宣長の道徳觀も、既に考へた如く、それと同じである。一般の氣風としても、第二章に述べた如く新規の企てが多く非難せられたのを見るがよい。寛政や天保の改革が或は一部人士の嘲笑を買ひ或は世間に喜ばれなかつたのも、こゝに幾らかの原因があり、開國論の攻撃せられたことにも、やはりこの感情が潜んでゐる。從つてかういふ世の中に立つて身を處してゆくには、事なかれ主義無爲主義を執るのが便である。
 が、これもまた何かしないではゐられない人の本性に背く。だから、たまには秋成の如く「私」の尊ぶべきことを主張するものがある(膽大小心録)。「私」の主張は即ち我の主張、新奇の主張、ではないか。戯言ではあるが「自身の工夫ばかりにて師匠無ければ口傳も無」く「今まで用ゐぬ」ものを用ゐて「一天下に名を顯はす」ことを讃嘆した源内の思想にも、同じ考がある(放屁論)。源内はまた世のため人のためになるこ上をしようとすれば山師と罵られるといひ、智慧のないものがあるものを譏るには山師といふ外は無いともいつてゐるが、智慧で世を動かさうとするのは宣長の食間順應説と正反對であるのを見るがよい。「かゝる時何とせん里のこまものや伯樂も無し小づかひも無し」、世間に目のないことを憤慨するのも、目に立つ行の喜ばれない世の中に敢て事をしようとするからであるが、敢て事をしようとするのは即ち人の本具の欲求である。しかしその欲求が抑へられてゐる世の中であるから、源内の如く世(606)を愚にしてその愚なる世に我が優越を示さうとする態度も生じ、或は強ひて矯激の行をするやうにもなる。
 しかし思想としてはともかくも、事實に於いては意を枉げても世に順はねば生きてゆかれぬことの多いのが、當時の状態であつた。固定した社會では個人の自由も個性の權威も認められないのが常だからである。「しなはねばならぬうき世や竹の雪」(千代)といふのは必しも女のみのことではない。地位があり俸禄を受けてゐるものに於いては、それから生ずる精神的の壓迫を感ずる場合があり、或は無理解な上官に對し、或は氣まかせな或は利害關係に本づいた世評に對して、御無理御尤でなくてはその地位を保ちかねるやうにも思はれてゐた。一般的には自己を主張せずみづから謙抑することが美徳とせられてゐたが、あひての人物やことがらによつては、少くとも自己の心情に於いて、それを道徳的の節制と見なしがたいことが起る。是に於いてか、少しく氣概のあるもの世に迎合することのできないものは、世に容れられず世に用ゐられずして「久かたの雨もる宿の板びさしいたくも世にはあはぬ我かな」(幸文)といはねばならぬ。しかし世にある限り世を離れることはできないが、官なきものは官を求めず官あるものは官をすてれば、官界特有の壓迫だけは脱れ得る。だから「浪人の心やすさは、……主人といふむだもなく、知行といふ飯粒が足の裏にひつ付かず、行きたいところをかけ巡り、いやなところは茶にしてしまふ、せめては一生我が身體を自由にするが儲けなり、」(放屁論)といふ反抗思想、※[足+石]婦傳やお千代傳に現はれてゐる如き考も生ずる。源内が世を罵るのは實は世に干むる所があるからでもあらうから、そのいふところを一々正面から受取ることはできないが、かういふ考も思想としては存在すべき理由がある。「大菊よ繩目の恥を思はずや」、「樂々と寝て咲にけり名なし菊」(共に一茶)、もやはり自由の讃美ではないか。「づぶぬれの大名を見る炬燵かな」(同上)も「無官無禄自由身」(鵬齋)といふその(607)自由の身の氣樂さを誇つたものであるのを見るがよい。旗本の嫡子が官禄に望みなくして茶漬みせを始めたといふ話もある(寶暦現來集)。詳しい事情はわからず、單にそれだけのことであるかどうかも知られないが、少くとも世間でさう解釋したところに時代の思想の一面が覗はれる。また自由を求めるために隱居しようとするものがあるといふことは、前にも述べた。いづれにしても「交れば世にむつかしや薄勿織」(召波)であつて、そのむつかしいのも束縛の加へられるがためであることは、いふまでもない。しかしこれは決して世を退避しようとする隱遁趣味ではなく、むしろ自由な心もちで思ひのまゝに世を渡らうと希求するものであることを、忘れてはならぬ。
 
 世には順はねばならぬ.しかし自我は立てたい。是に於いてか、世に順應しつゝ世を動かさぬ限りに於いて自我を立てねばならぬ。或は表面で世に順應しっゝ裏面で自我を立てねばならぬ。人々の思想が、利己主義、享樂主義となり、或は種々の畸形を取つて世に現はれるのは、こゝにも一原因がある。
 身分の高下のやかましい社會に我を立てるには、何よりもその高い身分にならねばならぬ。世と共に世を新にしてゆくことができない固定した世に於いて我が力を伸ばすには、我が身のために何等かの利益を求める外は無い。名利の慾は是に於いてかその威を逞しくする。事業に興味を有せずしてたゞ地位をのみ求め、しごとをするためでなくして金錢を得んがために働くのは、これがためである。「花もそれ月も名利の外になし」(大江丸)とも「花盛り山は名利の境かな」(完來)ともいはれてゐるではないか。さうして地位が往々金錢によつて得られ、また金錢を得る手段ともなることを思ふと、畢竟は「金が敵の世の中」であり、地獄に落ちるまでも無間の鐘はつかねばならぬ。しかし名(608)利の追求には爭ひが生ずる。「甘からばさぞおらが露人の露」、或はまた「きり/”\す三疋よれば喧嘩かな」(一茶)ではないか。ところが爭ひとなれば詐僞も謀略もそれに伴はねばならず、かゝる世に交つてはすなほに身を持つことのむつかしいのは自然の勢であり、「人里に植うれば曲る野菊かな」(一茶)ともいはれねばならぬ。さてかういふ名利の慾と共に必ず存在するものは快樂の追求であつて、一方には名を干め利を射ることに特殊の興味を有するものもあると共に、名利が快樂を得る手段とせられる場合が甚だ多い。金々先生榮華夢、金銀先生再寢夢、の作られたのはこれがためであつて、それに奸惡の伴ふこともまたこれらの作によつて示されてゐる。
 かゝる名利の慾の少しく横みちへ外れたものがいはゆる「通」である。通とは畢竟、自己の優越を示して人を壓せんとするものであつて、そこに一種の虚榮心があり、高慢齋行脚日記の書かれたのもこの故である。通の一大要件たる「しやれ」の動機がやはりこの小さい虚榮心にあるのを見るかよい。「かうでもないあゝでもなと、むしやうにしやれ/\て」(世上洒落見繪圖)、「ひねつた」工夫にうき身をやつすのは、それによつて我が優越を人に示すために外ならぬ。言語上のしやれとても意外な趣向によつて人をあつといはせる外には、何の意味も無いが、前に述べた如く自己の死に際し葬儀に際して戯謔を弄するのも、やはりこゝに一つの動機がある。通人の一條件たる人に先だつて流行に順應するのも、また同じ心理から來てゐるととを考へるがよい。たゞこの通やしやれに於ける自己の優越は、決してまじめな、正當な、人にも世にも重大の關係のある、ことについてではなくして、輕い、些末な、下らない、點にある。從つてそれは何人にも尊敬の念や嘆美の情を起させず、むしろ滑稽視せられるのであるが、それにもかゝはらずかういふことの行はれるのは、固定した世の中、まじめに事業のできない世の中、に於いて自我を立てようとする(609)からである。たゞ俗物は彼等の虚名に壓倒せられ、ためにするところのあるものは彼等によつて利を得んとする。だから彼等は、或はa齋の「十八大通」に見える文魚の如く落ちぶれてもその虚名を維持せんとし、或は甲子夜話(卷八)に載せてぁる杏雨の逸話の如く金錢の力を以てその名を得ようとする。金錢の力を利用するのは、金錢萬能の世の中に於いて自己の面目を張らうとするものの常套手段であるが、通人の由來が一種の享樂生活にあり、それには金錢を費さねば太らぬことを思へば、通と金錢との間に特殊の關係のあることが知られよう。從つてまた一方では金錢を得んとする欲望が彼等に生ずるので「大通にして不善をなす」「景清」の多く(景清百人一首)、小さな利慾の念が通人に伴つてゐるのも(蛇蛻青大通)、無理ではなく、金で面目を張るものが地位を壓倒すれば金の前に拜跪するのも、當然である。通とは畢竟名利の慾の「ひねつた」ものに過ぎない。
 しかしかくの如き生活は少しく心あるものの顰蹙するところであり、またみづから敢てするを欲せざるところである。或はまた正しく身を拝するものは、かゝる世に立つことによつて幾多の慘敗に逢ひ、失望と苦痛とを味はねばならぬ。そこで、利を得る十分の手腕を有ち主人のためにその力を揮つた後、みづからはそれをすてて僧になつた、といふ商家の手代も現はれる(雲萍雜志)。名を求むるの愚なるを論じたものが多く(春波樓筆記など)、また「人の世の富は草葉に置く露の風をまつまの光なりけり」(蘆庵)といふ觀察のあることは、固よりである。これは事業はたゞ名利のためであるといふ考から來るのであつて、事業そのものに興味が無く、またそれを尊重もしない社會、公共生活の、無い世の中、としては當然のことである。けれども人の世にある間、すべての事業から離れることはできない。是に於いてか何等かの隱れ家を求めることになる。その第一は花月に心を遊ばせることであつて、「風雅を知らぬ人(610)は如何にして世を過すぞ」(獨寐)と柳澤※[さんずい+其]園のいつたのは、これがためである。「月花に身を任せてぞ過すべき世のことわざはさもあらばあれ」(春海)、或は「月に遊ぶおのが世はありみなし蟹」(無腸)、風月を以て世事人事を緩和するものと見るのである。「花も見つ月をも賞でつ世の中にあるかひ無しといふは誰が言」(直好)、花月を愛し得るものにして始めて生きがひがある、といふものさへもあるではないか。「徒らに過ぐる月日もおもしろし花見てばかり暮されぬ世は」(蜀山)にも、同じ考が潜んでゐる。「花もさき紅葉もそめて春秋を常にとゞむるわだつみの宮」(春海)、海神の宮が浦島の子の誘はれて行つたやうな意味での歎樂郷ではなくして、花月の天地とせられたのも、この思想の反映である。しかし仙郷ならぬ限り花月は常に賞でられるものではない。是に於いてか第二の隱れ家が求められる。
 それは即ち醉郷である。「我家雖無錢、有酒可以顛、神仙在志適、志適貧也仙、」(鵬齋)、仙郷も他に求めるには及ばぬとせられた。この思想を最も痛快に歌つたものは同じ人の新春醉歌であつて、「人間醉時勝醒時、醒時畢竟何所爲、往古來今昔如夢、何物爲黠何物癡、伯夷盗跖同一丘、東陵西陵墓累々、身後聲名三春花、生前輸羸一局棊、百年料知非長久、壽夭天貧富屬天剖、窮有定命何足泣、生自有分不須厚、我視渺茫宇宙間、醉郷之外無足取、十緡典却禦臘衣、一罎換得迎春酒、飲之酣歌付悠々、飲之醉笑大開口、人生快樂如此足、文章何須垂不朽、請聽新春第一歌、醉人之言君記否」(同上)、朗々吟じ去るところ「關東第一風顛生」の面目が躍如としてゐる。歌にはシナ人の口まねらしい點もあるが、それのみではあるまい。「人生行樂耳、不飲復何如、」、酒の飲めない星巖がこんなことをいつたのは興がさめるが、さういふ型にはまつた思想のあつたのでも、醉郷が詩人の遊ぶところとせられたことが知られる。さて鵬齋(611)は醉郷を選ぶに當つて「山林厭寂寞、市井惡囂塵、」といつてゐるが、シナ式山林隱逸の思想もまた、少くとも思想としては存在してゐたので、これが第三の隱れ家である。事實「樵蹊不與世間通、高臥東山異謝公、占得烟霞吾已老、清風鶴唳白雲中、」(梅園)といひ「墻東避世對頑山、閑是閑非總不關、目送岫雲卷舒外、倦禽遙認暮林還、」(拙齋)といひ、諸侯の徴辟に應ぜざるものが辭をそれに假るものもあつた。更に一歩すゝむと、世に處し人に交るのがうるさいといふので、乞食になつた富商の子もあつたといふ(只今お笑草)。これがもし事實だとすれば第四の隱れ家としてこの境界を擧げねばならぬ。如何にしてさうなつたかはわからぬが、いはゆる文雅を解する乞食もまゝあつたらしく、禅語めいた辭世などをも遺したやうであるから(歌俳百人選、近世畸人傳、兎園小説、巷街贅説)、この話も全くの虚傳ではないかも知れぬ。
 けれども花月は常にあるものでなく、醉もまた何時かは醒めねばならぬ。「人嬉し京の眞中に冬ごもり」(曉臺)といふのが人生の事實ならば、純醉な隱遁生活の遂げ難いことをもまた考へねばならぬ。「露の身の一人とほると書く柱」(一茶)、諸國行脚の俳人もその行脚の生活の寂しさに堪へず、「柴の戸の冬の夕の寂しさをうきよの人にいかで語らむ」(良寛)、世捨人も孤獨の感が深いではないか。のみならず、茶山がいつたやうに隱者にも活計を要する以上、世にあるのと大差は無い(筆のすさび)。前に擧げたやうな詩を作つた拙齋も、はる/”\江戸の官儒をそゝのかして異學の禁などをやらせたではないか。(拙齋が儒者である限り、さうして當時を道の行はれる見こみの無い世としない限り、隱遁を欲するのは矛盾である。)よしまた隱遁が徹底して行はれ得べきものであるとしても、それは特殊の境遇にゐるものについてのことであつて、廣く行はるべき處世の道でないことはいふまでもなく、「商人與官吏、滔々皆俗(612)營、俗營寧可陋、人事所以成、」(茶山)といふのがあたりまへである。生活がもし俗であるとするならば人生はすべて俗であり、俗の外に人生は無いではないか。乞食になるに至つては初めから論外であらう。
 隱れ家は究竟、隱れ家の用をなさぬ。人みなの名利を爭ふ世に立つてそれに伍するを快しとしないのとは違つて、思ふに任せぬ世に身の憂きを悟つての古典的隱遁思想に於いても、これは同樣である。かういふ隱遁思想の根本が一種の滑極的利己主義にあることは、平安朝の昔と同じであるが、しかしこのころには事實としてかゝる風習があつたらしくはない。「世の中のうきに逢はずば心ゆく野べの庵にすまひせましや」(蘆庵)などには幾らかその意味があるにしても、歌人としての知識的興味がかういふ表現法をとらせたものであることをも、考へねばならぬ。「山に入る人のためしはならはねどうき世の道にまどひてぞ來し」(秋成)も同樣であるが、これは山に入るのでないことを明かにことわつてゐる。たゞ思想として見る時かゝる隱遁のあり得べきことが考へられたのであるが、それと同時にその遂け難きこともまた知られてゐた。「のがれんと思ひし道の暗ければもとの憂き世に有明の月」といふ歌を風來も引いてゐる(志道軒傳)。しかしかゝる境地にあつてもやはり生きてゆかねばならぬので、蘆庵も秋成も歌を賣り文を賣つて衣食したではないか。シナ式隱逸思想で漁者や樵者を見たのとは違つて「大方もうきたる世とは思へども釣するあまの業ぞ悲しき」(幸文)といひ、「山賤のわたらひ見れば園原のふせやの里もうきよなりけり」(秋成)といひ、そこに苦しい生活があるとせられたのを見るがよい。まして知識あるものは眞の世捨人ですら「世の中にかゝはらぬ身と思へども暮るゝは惜しきものにぞありける」と世情に心を動かし、「から衣たちてもゐても術ぞ無き海人のかるもの思ひ亂れて」(以上良寛)と、何ごとにか思ひを惱まさなくてはならたかつた。のみならず「我が宿をこゝにもがなと都(613)人いひのみいひて住まぬ山里」(言道)、隱遁は概ね文字の上の遊戯に過ぎない。更にまた「いくばくのうさにもあらぬ世の中をすべなきまでに歎きつるかな」、「大御代はいとさばかりもなきものを世をうがりたる人癖ぞかし」(以上言道)、ともいはれてゐる。世をうしといふのが實は眞情ではないのではないか。宣長が山林よりは都の賑はしきを好むといつたのは、例の理説であるが、「世のうきことは遁れ住む、柴の編戸にさすがまた、あらしの音の身にしみて、都こひしき山の奥、」といふのも、かう考へて來ると無意味ではなく、「山里を一日都に出でしかば歸りて更に住みうかりけり」(井上文雄)といふのにも理由がある。人はやはり人として生活しなければたらないのである。
 是に於いてか更に別樣の處世觀がなければならぬ。その一つは世にありながら名利を求めず貧賤に處して晏如たることである。俳諧師などの逸話に例の多い貧乏物語は、彼等自身の行動に於いても故らめいた矯飾があり、話の上にも眞僞の明かでない場合が多いから、且らく問題外に置くこととして、別に「樂しみはあき米櫃に米いでき今一月はよしといふ時」、「樂しみは錢なくなりてわび居るに人の來りて錢くれし時」(以上曙覽)、といふ境界がある。僅かばかりの米と錢とを得た時の無上の喜びが、やがてその缺乏に苦しむ場合の多いことを示してゐ、そればかりのものをすら無きに苦しみ得たるを樂しとする點に、饒かな人間味の存することが知られると共に、榮達と利益とを求めない心安さが認められる。さてかういふ態度の根柢にはかの鵬齋が「窮有定命何足泣、生自有分不須厚、」といつたやうな、固定した社會から自然に發生した思想があるので、「身のほどや落穗拾ふも小歌ぶし」(曉臺)、そこに小さな安心がある。「目でたさも中くらゐなりおらが春」(一茶)の一種の滿足も、「飯粒で紙衣の破れふたぎけり」(蕪村)の樂天觀も」こゝから生ずるのであらう。が、それは個人についての安心に過ぎないので、社會的眼孔から見れば、利己主義(614)の世に對して何等の救濟にも改善にもならない。世に處する一つの態度たるを失はないにしても、世そのものをよくする點からいへばそれに大なる價値は無い。だからこれもまた一種の消極的利己主義に外ならないのである。
 のみならず貧は苦しい。債鬼に責められては「さかしらに貧しきよしといひしかど今日としなればこゝらすべなし」(幸文貧窮百首)といはねばならぬ。年の關はよし「こされずにこす」にしても「かにかくに疎くぞ人のなりにける貧しきばかり悲しきはなし」(同上)、貧の苦しさはたゞ貧なるばかりではない。これは固より世に望みある人のことであるが、資の苦しさは何人でも同じである。だからその苦しさを苦しく思はないためには、別に何等かの頼むところ、または慰めるところ、が無くてはならぬ。頼むところのあるものは「痩せ我慢」をする。痩せ我慢は世に對する一種の敵愾心でもあり、武士風の面目の維持でもあり、物に屈しない忍耐でもあるが、それには自己に頼むところの何物かが無くてはならぬのである。或はまた「樂しみは稀に魚煮て兒等みながうまし/\といひて食ふ時」(曙覽)、「親も子も打そゝろひてそば湯さへ霰ふる夜はあはれにぞ飲む」(言道)、一家團欒の樂しみには貧も苦も忘れ果つる時があらう。「はへ笑へ二つになるぞ今日からは」と「一人前の雜煮膳」をすゑた一茶の子煩惱にも、やはり同じ心もちがあつたであらう。しかし痩せ我慢にもほどがあり、兒等に食はせるものが無い場合が無いともいへぬ。「世の中は苦しと思へば苦しきにいでや樂しく思ひくらさむ」(幸文)と、心から氣樂に過ごさうといふのも一つの安心法ではあるが、それとても饑を凌ぐたよりにはなりかねる。だから貧に安んずるといふのは程度の問題であつて、極言すれば畢竟甚しき貧苦を體驗しないものの贅澤に過ぎない。
 かう考へて來ると問題はおのづから逆轉して、如何に世に立つべきかといふことに還らねばならぬ。少くとも食ふ(615)ために人は世に交らはればならぬからである。是に於いてか、或るものは利己主義を眞向にふりかざして生活の戰場に馳せ參ずる。然らざるものは世のならはしに從ひつゝ何とかしてその日/\を甚しき苦痛なしに送らうとする。「櫻川春ゆく水のながらへて心のどかに世を渡らばや」(諸平)の類は、名利に心をいらだてないことを示してゐると共に、心のどかに世を渡り得べき身分のもののいふことであるが、「世の中をいたくなわびそ白雪のふりにし木にも花はさきけり」(幸文)、貧は苦しいが貧を脱し得る時もあらうと、窮境に在つても必しも甚しく悲觀しないのが、當時の思想の傾向であつた。世に處するについても「紅の塵のうちにも住みつべし心の風のとはに拂はば」(蘆庵)と觀ずれば、心を濁さずして生計にたづさはることができないとも限るまい。さすればよし身に憂きことがあるにしても「片山の山べうつゆふうらせばく誰かこの世を行き背くらむ」(眞淵)、隱遁などする必要は少しも無く、「我が身こそ何とも思はね妻子どものうしてふなべにうきこの世かな」(言道)、うしといふのも考の無いもののいふことであるとせられる。或はまた「嬉しきも憂きも湧き出づる水のごと共に流れて止らざりけり」(蘆庵)といひ「彼是といふも當座ぞ雪佛」(一茶)といふのが、現實の人の心であるかも知れず、一歩を進めて「時事只從天意長、榮枯不用苦悲傷、自非風雨翻梅盡、安得催花到海棠、」(寛齋)と觀ずることもできる。「ほんに浮世は味なもの」(壇浦兜軍記)といふのも、「油斷のならぬ」世の中ながら「おもしろをかしい」(赤烏帽子都氣質)とながめられるのも、同じ考からであらう。ところがかういふ心もちになれば「我が園のいさゝむら竹いさゝかは嬉しきふしもある世なりけり」(依平)と思はれぬこともなく、また自己本位の感情ながら「さま/”\にありふる人の世の中を思へば安きこの身なりけり」(濱臣)も、見やうによつては一種の感謝の聲とも聞き得られる。「老を山へすてし世もあるに紙衣かな」(蕪村)にも同じ感情が(616)現はれてゐるではないか。さうしてかゝる考へかたの奥には、やはり固定した社會から生れた一種の運命觀がある。さうしてそれが一轉すれば「思へども思ふかひこそなしの實の世はなる方にまかせはててむ」(直好)といふ氣分にもなるのであるが、この歌に於いても、思ふかひのない世をかこつよりも、なるに任せる心輕さが表にあらはれてゐるのを見るがよい。要するに、世は世間なみの生活をしてゆけば何とかして暮らしてゆかれるもの、と思はれてゐたのである.
 しかしこの氣輕な心もちは、ともすれば世を遊戯視する態度ともなる。「何ごとも運次第よ」といひ「一生は風次第」といふ「浮世床」の鬢公や「四十八癖」のうはきものの言は、このふまじめな世間觀の率直なる告白であるが、それは即ち自己と自己の操守及び努力とを認めないもの、換言すれば人の責任をも道義をも無視するものではないか。既に我から我をふまじめにする。世がふまじめに見えるのは自然の勢であつて、康煕帝が書いたといふ「天地間一番戯場」の語がしきりにもてはやされ、それが「天地の間もまた一つの化物屋敷」(四方のとめかす所載百鬼夜狂集序)と翻案せられたのも、これがためである。是に於いてか「いざさらばまろめしゆきと身をなして浮世の中をころげありかん」(蜀山)といふ態度が生ずる。この態度には圓轉滑脱、世の風向き次第に身をもつてゆく、といふ悧巧な處世法が含まれてゐるので、天明には天明式に寛政になれぽまた寛政式に世を渡つて、凝滯するところの無かつた作者自身の行動がそれを示してゐるらしくも思はれるが、それは即ち身をも世をも輕く見るからのことでもある。彌次郎兵衛喜多八が「獨身のきさんじ」、「旅のきさんじ」、如何な失敗をしても何等の苦痛なく、平然として笑ひ平然として興じ、同じ失敗を斷えまなく繰返してゆくのも、同じことである。膝栗毛の粉本となつたらしい東海道名所記の樂阿彌(617)に、身を一段の高析に置いて自ら嘲り世を嘲る氣分のあつたのとは違ひ、これは身を世と同じ低い地位に置いて、身をも世をもおもしろをかしく茶化してゆくのであり、かれには一味の不平があり眞率の氣があるのに、これは世に對して何等の考も無い市井ののらくらものであるのを見るがよい。沼津の宿で旅費をとられ「坊主にでもなりたい」とふさぎこんだことはあるが、金さへできればそれも忽ち忘れはて、再びもとの杢阿彌になつてしまふ。こゝにもまたその時々でだらしなく心もちの變つてゆくところに、頽廢的なのらくらもの的氣分がある。さうしてこの「坊主」が、實は「けふよりはころり坊主になりひさご人にかゝりて世を渡らばや」(一話一言所載明阿)、やはり自己を有しない一種ののらくらものなのである。何ごとをしてもしただけの效果がなく、またする場合も少い、固定した社會にまじめな事業欲が起らず、何をしてもそれは畢竟食つてゆくための、もしくは名利を得るための、しわざに過ぎないとすれば、かういふ處世觀の生ずるのは自然の勢であらう。
 かう觀察して來ると、かゝる遊戯的態度の根柢がやはり利己主義乃至享樂主義であることに氣がつく。何ごとも「ほんの一時のがれ」であるとすれば「錢金も無けりや情もねえ」といはねばならず、「ちつともよけいに樂をした、獨り身ほど樂なものはねえ、」といふのも、無理ではない(四十八癖)。「浮世をぐつと薄色に呑みこんでゐる」(辰巳婦言)といふのは、恐らくは這裡の消息に通じてゐることであらう。「人間一生盧生が夢、樂しみ僅か二十年、ナソレお近いうちに、」(同上序)といふ享樂思想は、是に於いてか世に行はれるのである。勿論かういふ態度は、特殊の頽廢的空氣が漲つてゐる江戸に於いて最も著しいので、それを以てすべてを蔽ひ去ることはできない。「わびて世にふるやの軒の繩すだれ朽ちはつるまでかゝるべしやは」(景樹)といひ、「浪よする入江の蘆のしたにのみ朽ちはてぬべ(618)き我が世かなしも」(幸文)といひ、功名心は地方人に於いて特に盛である。それがために彼等は續々都會に出てその才能をあらはさうとし、學問も文藝も商業も工業も、それによつて成りたちそれによつて發達したのである。我が力を伸ばすには廣い都會に於いてするを要するのみならず、未だ得ざるものを得んとするには都會の生活を領略するを要する。功名心の一半はこの都會生活に對するあこがれに由來するので、それは都會人自身の有たぬところである。しかし彼等の事業の動機は多くは身を立てるためであるから、どこまでも固定した世の調子を亂さない範圍に於いて、その世の調子に順應してゆかねばならぬ。さうしてその功名心にもおのづから限りがあり、或る程度の名聲を得、地位を得、財貨を得れば、それで滿足する。だから根本の思想に於いては江戸人と大差があるのではない。
 しかしこれまでいつて來たことは、文字に現はれてゐるものについての觀察である。人がみなかういふ態度で世に處してゐるとは必しもいはれぬ。しば/\述べた如く、武士には武士的氣象を失はず堅實にそれを守つてゐるものが少なくないので、武士の社會はそれによつてその紀綱が維持せられ、國民の間に於けるその精神的權威も保たれてゐる。學者にはその任務としての學問の研究に身を捧げてゐるものがある。藝術家にはわき目もふらずその藝術に精進してゐるものがある。農民の主なるものはよくその勞苦に堪へて耕作を勉めてゐる。いかなる人にも精神的肉體的または物質的のいろ/\の苦勞はあるが、苦勞してこそ始めて「人」になれるといふのが、當時の一般の考へかたであつて、「苦勞しまいなら人にやなれぬ」といふ俚謠もある。苦勞に堪へ苦勞を克服してゆくところに「人」となる鍛錬があり、それによつて剛毅の氣象も養はれ人間的情味も解せられることを、當時の人はその體驗から覺つてゐたのである。のみならず、その苦勞にはおのづからなる樂しみの伴ふことをも知つてゐた。國民の多數はかくして日夕その(619)職業に努力し、且つその間に於けるかゝる樂しみを樂しんでゐる。如何にして世に處すべきかといふやうなことを考へてみる餘裕もなく必要も無いのである。
 
 要するに、人はみな當時の世の中に滿足し、然らざれぽ世はかゝるものと覺悟し、さうしてその世にあつて我が生を營み、そこに幾分の名と利とを得んことを望み、或は何とかして平穩に日を送らうとしたのである。學者も詩人も多くはこの態度を肯定してゐる。よし何ほどかの不平があるにしても、決してこの世を住み難きところとはしなかつた。一茶の如きは故郷を嫌ひ人を嫌ひ人の世を嫌ひ、「故郷や近よる人を切る芒」、「ゆくな雁どつこも茨の憂世ぞや」、「山清水人のゆきゝに濁りけり」、といひ、また「人の世や直にはふらぬ春の雨」の如く人の世にはすべてが曲るといふ意義の句を多く作り、「苦の娑婆や花が開けば開くとて」のやうな苦觀思想をさへ時には述べてゐるが、それは彼の思想の一面に過ぎないのであつて、孤獨の寂しさに堪へず、親子夫妻の愛に饑ゑ、子どもを愛し隣人を愛し動物を愛し、「君が代の大飯食うて櫻かな」と太平を謳歌してゐた彼は、決して根本からの厭世家ではない。だから「芽出しから人さす草は無かりけり」といひ、「葎からあんな蝴蝶の生れけり」といひ、人の本性に和らかき愛を認め、醜いものにも美しさを看取することを忘れなかつた。彼にとつては、人の世の曲りくねつたのは後天的に養はれたことに過ぎない。彼が徹底的に世を嫌ひ人を嫌ふことができないのは、これがためであるが、事實は人も世も彼の如く純眞でなかつたため、彼は未だ人の世に汚されざる子どもを愛し動物を愛し、或は人の世に交渉の少い我が家と寂しき孤獨とに安慰を求めたのである。「塵の身のふはり/\と花の春」の如きも、やはりこの矛盾に處する一の態度に外ならぬ。(620)何れにしても人間的もしくは世間的生活に對する否定ではない。彌陀を信じて來世のことは「あなた任せ」にしてゐても、この世を穢土としたのではないことは、勿論である。
 かう考へると、上に述べたやうに妻子をすてた西行が非難せられ、一家團欒が無上の幸福とせられたのも、また子を失つても悲しくないといふ考へ方を江漢の排斥したのも、當時の思想からいへば當然であり、宣長などが情の權威を宣揚したのももつともである。佛数的苦觀も禅僧的無關心の態度も、また少しく趣きは違ふが老莊思想も、決して尊尚せられなかつた。老子を喜んでも、それを保命の教とするよりはむしろ用世の術として見ようとする傾きがあるではないか(淡窓の折玄)。人間生活、世間的生活、を肯定する點に於いて儒教思想が容認せられても、その人情に遠いところのあることが喜ばれなかつたのは、無理ではない。ところがこの考は人生に何等かの歡樂のあることを認めるものであつて、見る人によつては悲しくもあるべき花月を偏に樂しと見たのも、隱遁思想の不評判なのも、その根本はこゝにある。さうしてそれは、當時の社會に幾多の缺陷があり病弊があり、そこから不健全な利己主義や享樂思想が生れて來たにせよ、概觀すれば、その間に於ける生活に甚しき苦痛が無く、世に順應してゆきだにすれば、何とかして世が渡つてゆかれたからのことである。「かくばかりめでたく見ゆる世の中を羨しくや覗く月かげ」(蜀山)が古歌の悲觀思想を全く變へてゐるのを見るがよい。「安國の安らけき世に生れあひて安けくてあれば物思ひもなし」(宣長)、または「徒らに身は老いぬともかくばかり憂きことも無き世をば恨みじ」、「天の下しづけかる世にあへる身は更に深山の奥も求めじ」(以上千蔭)、そこにともかくも太平の世相があり、その太平の樂しみを享受する氣分があるではないか。「既作太平人、又對太平春、太平人共樂、不問賤兼貧、」(河口靜齋)ともいはれてゐる。「古の聖の御代の(621)ためしにも思ひ比べむ時はこの時」(春海)といひ、「み熊野のみ崎の汐の一方に下りもはてぬ世にこそありけれ」(諸平)といひ、儒者の口癖にする世の澆季といふ觀念に反對するもののあるのも、この故であつて、宣長にも同じ思想はあつたし、守部も世は衰ふるものにあらずと明かにいひ(神風問答)、隆正もまた「天地興りてより以來、今の日本の如き盛なることはあらず、」といつた(本學擧要)。もつともこれらは、或は江戸人の、或は衣食に窮しない地位にあるものの、いふことに過ぎない、とも見られようが、上に考へた如く一般に當時の日本人が世に對し自己の生活について悲觀的な氣分を抱かず大なる痛苦をも感じてゐなかつたことは、事實である。地方によつては貧農などに甚しき窮乏の境にあるものも少なくなかつたが、彼等みづからはそれについて殆ど何等の明かな考をも有たなかつたであらう。もし何ほどかの所思があつたとするならば、それは何とかして生きてゆかうとする欲求と漠然たる運命觀とに過ぎなかつたのではあるまいか。社會的に考へても、さういふ方面から人を動かし世を動かすやうな不平や反抗は現はれて來なかつた。
 しかし世に對するかういふ滿足感は、現状を打破して新境地を開いてゆかうといふ意氣と熱情とを國民に抱かせない。現實の生活に大なる不滿があればこそ、それを超越した現地を現實生活そのもののうちから思想の上で作り上げ、それを實現しようといふ意気と努力の念と事業欲とを起させるのであるが、それが無ければかういふ考も生じない。だから江戸人は江戸を以て天下第一の樂土と信じ(近頃島巡り、浮世風呂、など)、國學者の輩は我が國を以て世界最上の國と思ひ、和莊兵衛も夢想兵衛もその巡歴した空想國土に於いて日本より好い國を見出さなかつた。事實、日常の生活の固定した社會が生んだ世間順應主義、運命觀、並に公共生活が無いところからも來る自己本位の生活觀も、(622)またこの態度を助ける。不平のあるものもまたたゞすねものとなつて世外に立つのみであつて、新しい世界を開いてゆかうと努力するのではない。不平とは現在の社會そのものを肯定した上で、その社會に自己の容れられないことを憤るのであるから、自己が容れられればそれで滿足するのみならず、却つてその社會に幅をきかして得意がるのである。現在の社會を否認するのではない。要するに世を澆季と感じないと共に、新しいせ界を未來に開いてゆかうともしないのである。だから現在を超越した新しい生活にあこがれる心もちの文學の上に現はれてゐないのも、當然である。現在の社會を破壞しようとするやうな革命思想の見えないことは、いふまでもない。
 
 けれども人はたゞ平和を求め安逸を求めるばかりではない。第三章に述べた如く、あまりの無事あまりの安逸は人をして倦怠の情を超させる。人は長くかくの如き境地にあるに堪へぬ。さうしてそこから何ごとかをしようとする衝動が生ずる。特に田舍人に於いてさうである。正當な活動の行はれない世の中では、強ひて事を起してそれによつて自己の存在をみづから意識しようとさへする。或はまた行動すべきことが無いために感情が激越にはせる、といふ事情もある。明かに意識はしないまでも、社會的抑壓が人をして悶々の情に堪へざらしめる、といふこともあらう。固定した社會の重苦しい空氣は人の神經を異常に興奮させる。さうしてその間にはいつとなく世に對する反抗の情も涵養せられる。物質的欲望の滿足に滿足することができず、或は官能的享樂に耽溺することのできないものは、鬱勃の氣のやり場が無い。いはゆる悲憤の情、梗概の氣は、かくの如くにして多感の士の胸裡に※[酉+發]酵するのである。悲憤も梗概も、畢竟抑壓せられてゐるものがその抑壓を排せんとして排する能はざるところから生ずる、苦悶と焦躁とに過(623)ぎないからである。高山彦九郎などの行動にはこの種の心理が潜んでゐる、といふことは既に上に一言しておいた。さうしてかういふ興奮状態は、往々人を驅つて奇矯な行動に出でしむる。蒲生君平が山陵をたづねあぐんだ時、足利尊氏の墓に逢着してそれをさん/”\に鞭うつたといふ話(蒲の花がたみ)は、それが個人的に現はれたものであるが、時にはそれが世間的に勃發する。大鹽平八郎の騷ぎもそれであるが、公共生活の無い、從つて多數人の組織的行動が許されない、世に於いては特にさうであつて、人心の動搖し初めた幕末になると、それが盛に行はれ、いはゆる「志士」がそこに飛躍する。梗概家が多く處士であることも、この點に於いて意味がある。たゞそれが世に現はれるには何等かの機會がある。さうしてまた時代の思潮がそれに何等かの思想上の色彩を附與する。天明時代の彦九郎に太平記的尊王の感懷を抱かせたのはその一例であるが、彼等梗概の士の思想が常に政治の方面に向ひ、その政治思想とても名分論などの抽象的問題が主となつてゐて、国民生活の現實の状態に直接の關係のあるものが少いのは、やはりシナ思想の影響と、知識人が現實の自己の生活に不滿を抱いてゐなかつたとの、故であらう。
 幕政の彌縫策が幾度か失敗してその彌縫が漸次むつかしくなり、邊警がしきりに傳はつて人心が動搖して來た時代は、恰も好し、長い間發せんとして發する能はず次第に鬱積して來たかういふ感情の爆發に、好機會を與へたものである。尊王論や攘夷論の形をとつて現はれた「志士」の運動の眞の意味は、主としてこゝにある。「男兒四方志、何用守蓬蒿、」運動の動機は男兒四方の志にあるのであつて、思想はむしろ旗幟を與へたに過ぎない。勿論、思想は思想としてそれが發生すべき理由はあり、またその思想が世を動かしてゆくのでもあるが、こゝでは個人の心理についていふのである。さうして人が蓬蒿を守ることのできない世の中になつたのは、一つは強ひて蓬蒿の間に押しこめておい(624)た抑壓の力がそろ/\ゆるんで來たからでもある。さうなると、そこに事功欲が伴ふ。「蛟龍得雲雨、非復池中物、奈何風塵寰、徒使英雄屈、」或はまた「剛偏狂愚天所賦、流離未忍没我眞、如追閙熱銷奇骨、恐作尋常一樣人、」といふのを見るがよい。「薄才綿力慕江湖、名利抛來胸裡無、猶有雄心未磨盡、案頭日閲五洲圖、」「五洲圖畫孰繙之、定遠奇功何物施、韜略時平無所用、蓬蒿幾處屈男児、」(以上東湖)。鬱勃の氣は虹の如くに五洲に向つて吐きかけられ、定速の功業がそこに追慕せられる。「行盡山河萬里險、欲臨滄溟叱長鯨、時平男児空憤慨、誰追飛將青史名、」(松陰)もまた同じ感慨ではないか。夢の如き空想であるが、たゞそれは何時のまにか何等かの形を具へた希望となり欲求となり、また何時のまにかしなければならぬ責務と感ぜられても來る。しかし事は往々志と違ひ世は思ふまゝに動いてくれぬ。是に於いてか酒を被つて悲歌せぎるを得ぬ。「柳暗花明野水濱、風光日夜動吟身、一樽如不澆胸臆、萬斛春愁惱殺人、」(東湖)、醉郷に眠つて浮世を悠々に付し「人生快樂如此足」とした鵬齋とは、杯裡の興さへも全く趣きを異にしてゐる。のみならず、彼等を驅つてこゝに至らしめたのが時勢であり、それにはまた特殊の時事問題があるとすれば、彼等の感慨は單に彼等自身のことたるには止まらぬ。「邦家隆替非偶然、人生得喪豈徒事、」(同上)、事はみな邦家の隆替に關する。彼等の旗幟は單なる旗幟ではない。と共にそれはもはや冷靜なる時務策ではなくなつて、一種の情熱が加はつてゐる。だから「双行浪々憂時涙、一片耿々報國心、」(同上)といふ。たゞ憂國の涙はやがて我が磊塊に濺ぐ杯酒でもあることを忘れてはたらぬ。が、かうなると情の激するところ身をも家をもすてねばならぬ。「憂國憂時不恤身、狂言信受上官瞋、」(象山)、平和の世とは處世の用意もおのづから違つて來る。「狂夫未必不思家、爲國忘家何用嗟、中宵夢斷家何在、夜雨短蓬泊浪華、」(吉田松陰)、多感の遊子は家を忘れはせぬが、家を思ふの情はやがて國を思(625)ふの情となり、國を思ふの情は却つて家を忘れしむるに至るのである。
 これは固より極めて少數のものの心情である。一般人は時事にも國家にも無頓着であり或は鈍感である。それは彼等の現實の生活に直接の交渉の無いことだからである。けれども同じ世の中には同じ氣分を懷くものがある。先覺の士が立つてこれを麾けば、それに應ずるものは東西南北に集り起る。その間には衷心世を憂ふるものもある。事功欲に驅られるものもある。或はまた機に乘じて名聲を博し或は何等かの利を得ようとするものもある。事の何たるを解せず漫りに人後に追隨して狂奔するものもある。權力の強壓が加へられるやうになると、それに對する反抗心も生ずる。冒險の快を貪らんとする特殊の心理もはたらく。名譽心もそれによつて一層強く刺戟せられる。或はまた彼等の間に競爭心も生ずる。黨派心も起る。さうしてそれがまた彼等を興奮させる。轉じては利慾の爭ひともなる。名を公にかりて私をなさんとするものも多くなる。それらのもの、それらの心理が、互にはせちがひ互に入り亂れて、一代の空氣を動搖させる。天下は是に於いてか多事となるのである。
 
(626)    第二十二章 政治思想
 
 外交問題のために、もしくはそれに刺戟せられて、人心が動揺しても、徳川幕府の存立を否認しようといふやうな考は、容易には起らなかつた。井伊直弼の武斷的高壓政治が行はれなかつたならば、民間の反幕府的感情もあの時あれほど急激には煽られなかつたらう。勿論、今日から囘想すると、封建制度も武士本位の社會組織も、世界の形勢とそれに動かされて急速に囘轉して來た時代の變化とに對應して日本の國家の獨立を維持してゆくためには、長く維持せらるべきものではなかつたから、かういふ制度の上に立つてゐる徳川幕府の運命も、またおのづから窮まるところがあつたには違ひない。また權力に服從してゐたものは、その權力の弛むと共に反抗の態度をとる、といふ事情もあつたらう。が、さうなつてもなほ多數人が急激に幕府政治を破壊しようとしたとのみ見ることはできぬ。況やさういふ問題の起らなかつた時に於いてをやである。 世にはいはゆる尊王論を以て直ちに反幕府思想であるが如く考へてゐるものもあるらしい。もしさうとすれば、それは大なる誤りである。幕末に於ける尊王論の中心をなしてゐた水戸派の思想が、幕府政治の存在を基礎としてその上に築かれたものであることは、既に説いた。尊王思想の鼓吹者たる國學者も、またみな徳川氏の謳歌者であつて、眞淵は「下野や神のしづめし二荒山ふたゝびとだに御代は動かじ」といひ、常に「二荒の宮にうしはきます大神」を讃美し、「神とも聖とも無窮の御心」と家康の故に隨喜してゐる(家集、歌體約言跋、學びのあげつろひ)。宣長もまた「東照る御神尊し天皇をいつきまつらす御いさを見れば」といひ、「東照る神の命の安國としづめましける御代は萬(627)代」といひ、水戸人と同じく家康を尊王家として仰ぎ見、またその太平の世を開いた功績を稱揚してゐるのみならず、徳川氏の權力を國學的見地から正當視して、天下の民は「東照神御祖命御代々の大將軍家へアマテラス大御神の預けさせ給へる民」であるから、家康はじめ歴代將軍の掟は即ち「アマテラス大御神の御定の掟」である、といつてゐる(玉鉾百首、玉くしげ、臣道)。篤胤とても「我輩に至るまで太平の御徳化を蒙つて」ゐるのは「東照大神宮の御恩」であると、ありがたがつてゐる(古道大意)。枝直の「八月十五夜月を見て詠める歌」(あづま歌)、春海の「雨岡が二荒山に詣づるを送る長歌」(琴後集)、守部の「江戸をよめる長歌」など、江戸人もしくは江戸にゐるものが徳川氏を謳歌したことは、いふまでもない。伴信友が天皇の武將に萬事を委任して穩かに世をしろしめす現在の状態を上代にも優れる世の姿としてゐるのも(宇知都志麻)、また徳川氏の讃美である。京の景樹も「來て見れば東ぞ花の都鳥昔のことは問はずやあらまし」、「武蔵野は青人草も夏深し今さく御代の花のかげ見ん」(東路の記)といひ、土佐の雅澄も「わが君の御代よろづよに神さぴて榮えぞゆかむこれの新宮」と、主家の繁榮を東照宮の恩惠に歸してゐるではないか(東照宮神幸之時作歌)。岡本保孝が今の時勢に於いて復古をいふべきにあらずといひ(難波江)、宣長及び隆正が外國の君主と對立する將軍の存在は皇室の尊嚴を示すものだといつたこと(馭戎慨言、本學擧要)、なども參考せられる。國學者の思想の一面に倒幕論の展開せらるべき種子は存在するから、世が騷がしくなり幕府の權威がうすれた後には、彼等の末流に倒幕論者が現はれるやうになつたが、それは時勢の變化のためである。儒者に於いては勿論であつて、勤王家の魁の如くいはれてゐる山陽すらも、日本外史に於いて織豐二氏を徳川氏の前記とし區々たる新田を正記としたことについて「可惜阿諛名、千歳磨不滅、」(小野湖山)と後人に難ぜられてゐるほど、徳川の天下の覆へる(628)ことを夢想だもしてゐなかつたから、幕府を倒さねばならぬなどと考へてゐなかつたことは、明かである。いはゆる幕末梗概家の一人である藤森弘庵も「天命一旦歸眞人、仁風披拂三百春、」(毀佛鑄錢歌)と家康を嘆稱してゐたではないか。西洋の知識を根擧として時事を論じた本多利明も家康とそれによつて開かれた治平の世とを讃美してゐる。幕府が權力を失ふ、または幕府の權力を破壞しなければならぬ、といふやうなことは、その權力の事實上ゆるぎ出した幕末騷亂の際までは、殆ど何人の思想にも上らなかつたのである。尊王思想が倒幕思想でなかつたことは、これだけでもわかる。
 それはそのはずである。「薫風和氣滿山川、四海昇平二百年、東照神恩同蓋載、農安田畝賈安※[纏の旁+こざと]、」(錦城)、よし弊害があるにせよ、缺陷があるにせよ、またその由來に如何なるむりがあつたにせよ、ともかくも太平の世が徳川氏によつて開かれ徳川氏によつて保たれてゐるではないか。上に引いたことのある日本風俗備考の著者も、日本の如く平和の長く續いてゐる國は世界のどこにも無い、といつて驚嘆してゐるが、それが徳川氏の力であることは明かな事實である。「松蔭にねて食ふ六十餘州かな」(一茶)は、必しも時の權力者に對する諂諛の言とのみ見ることはできぬ。一般の民衆はその日常生活について、必しも徳川氏に對して特殊の恩恵を感じてゐるのではない(第十九章參照)。しかし知識あるものの思慮に於いて、太平の現象を徳川氏の力に歸するのはむりのないことであつて、前章に述べた如く多數人が太平に滿足してゐるとすれば、それが徳川氏に對する謳歌となるのも自然である。言論の不自由な世に於いて、權力者に對する反抗の情が文字の上に現はれず、意識して或はせずして、時世に順應する言をなす傾向のあることも、また明かであるが、事實、一般民衆は徳川氏に對して、特殊の恩惠を感じないと同じく、何等の怨恨をも抱い(629)てはゐず、從つて幕府を倒さうとする意思をも有つてゐない。昔は戰國的感情から徳川氏に不平であつた一二の外樣大名があつたにせよ、またよしその感情は機會があれば復活すべきものであるにせよ、長い平和の年月はおのづから次第にそれを銷磨させ或は緩和させたのでもあるから、これは平和の世に於いては問題になることでない。その他の武士には固よりさしたる不平が無い。旗下の士がいはゆる陪臣に對して一種の優越感を抱いてゐるのは、一つは大名よりも地位の高い將軍に直屬してゐるためでもあるが、また徳川氏の將軍であることに誇りをもつてゐるからでもある。平民特に農民の生活を脅威する武士や官吏の暴横、制度や組織の缺陷も、また直接に徳川氏の權力に疑を挟む理由とはならぬ。それは政權の掌握者が何人であるかの問題ではないからである。さういふ弊害が積つてゆけば、それがおのづから徳川氏に對する不平とならないでもなからうし、現に名主官藏のやうな言をなしたものもあるが(第三章參照)、それは一般民衆の聲ではない。特に日本全體からいふと、直接に民衆と接觸するものは諸大名であるから、民政の不平は、直轄領の外は、直接に徳川氏に對するものではないのである。商工の輩に至つてはむしろ徳川氏の讃美者である。江戸つ子が江戸つ子であることを誇つてゐることは、いふまでもない。だから少くとも太平のつゞいてゐる間は、學者や詩人の徳川氏を謳歌するのが必しも表面の矯飾のみでないことを信ぜねばならぬ。勿論、國學者や歌人には心理的にも泰平の徳澤に浴してゐることに滿足する資質がある。歌よみであり平安朝文學によつて養ひ得た趣味にひたつてゐる彼等には、世に對する不滿も無く、世を改革せんとする意氣も無い。また宣長などの言にはその根柢に人爲の改革を非とする彼の特殊の思想があるが、さういふ思想の生じたことが、事實、徳川幕府そのものの存否などを論ずる必要の無い世の中であつたことを、示すものである。
(630) しかしこゝに承久建武以來の傳統的反武家思想が別に存在する。民間人に於いてはそれが書物の中から汲取られ、特に太平記などの詩的感情によつて刺戟せられたことが多いが、またシナ式名分論にょつても支持せられてゐる。むかし武家と權を爭つた公家の子孫であり、またその地位を繼承してゐる當時の公家が、それに動かされ易いことは自然の勢であつて、この思想の鼓吹者は直接間接に公家と連絡を有つてゐる。山崎神道と儒教思想とを結合した講義で公家を説いた竹内式部が、公家が學問を勵み徳を養へばおのづから武家政治は廢せられて公家一統の世になる時が來る、といつたといふ話は、世によく傳へられてゐるが、これは世が武家政治に移らなかつた前の公家政治の復活を夢想するものであると共に、その論據が一系の皇室を我が國の特色として考へる神道にある以上、彼の思想の根柢には、さういふ公家の政治が即ち皇室の政治である、といふ考の存在することが明かである。この考が、皇室と、武家に對する意義での、むしろ武家を敵とする意義での、公家とを混同したものであり、公家政治も武家政治も皇室を戴く點に於いては何等の差異が無いこと、幕府政治も攝關政治も、またそれより前に種々の形に於いて現はれた貴族政治も、皇室に對する關係に於いては同一であること、を忘れたものであることは、前篇に既に説いておいた(前篇第二十章參照)。大原幽學が昔の攝政大臣も頼朝以來の武家もみな皇室を守護したといつてゐるのは、確説である。然るに武家のみを叛逆者の如くに見、或はそれを敵視するのは、武家に權勢を奪はれたと考へる、その實、彼等みづから力を失つた、公家の私情であつて、彼等の言説が承久建武以來の傳統的思想である所以は、こゝにある。
 柳子新論に現はれてゐる山縣大貳の思想は、この點に於いて明白でないところがあるが、平安朝以前の制度文物を尚慕して「東夷」の鄙俗を卑しみ武人の陋習を惡み、いはゆる「冠冕之政」を是として「軍國之制」を非とする精神(631)が通篇に盗れてゐ、「我東方之政、壽治之後、吾無取也、」といひ、當時を「衰亂之國」に擬して「君臣二其志、禄位二其本、」にするものとしてゐるのを見れば、彼に武家政治を喜ばない情のあつたことは推測せられる。松宮觀山が「當今君委於臣而不疑、臣奉於君而不貳、向背何論之有、」といひ、また當時の幕府政治が實は皇室を泰山の安きに置く所以であると論じて、彼に反對してゐるのも、この故であらう(柳子新論跋及び附録)。大貳の思想の由來が竹内式部と同樣な公武反目の古い因襲的觀念にあることは、明かである。高山彦九郎に至つては悲歌梗概の奇土、太平記を讀んで感憤したといふのでも、その情の向ふところはおのづから知られる。幽谷の評にいふ彼の「尊王而賤覇」(祭高山處士文)も、實は皇室と公家貴族とを混同したところから生じた、公家に對する同情と武家に對する反感とに外ならぬ。蒲生君平もまた「有源頼朝者出、…假名忠義、欺罔朝廷、擧天下之兵馬與其衆心、皆以爲私有矣、則王室之失勢、自是而始、」(今書)といふところに、承久建武的の思想と歴史の眞相を理解しないために生じた謬見とが認められる。(前に述べた如く神皇正統記などが頼朝の功を賞揚してゐるのと對照するがよい。)「鎌倉源氏跡、千古動雄風、今登姦臣墓、荊棘幾囘春、」といひ、「鶴岡祀固僭、嗟吾不欲觀、」といふのは、恐らくは江戸と日光とにもあてはまるものと考へてゐたのであらう。君平はまた常に昔の令の制度を讃美し、それが文字どほり行はれてゐたものの如く思つてゐたが、彼がもしそれを當時にも行はれ得べきものとして考へてゐたならば、そこにもまた幕府政治を否認する思想が潜んでゐたものとも見られよう。しかしこの點は明かでない。たゞこれらの諸家は何れも昔の状態を甚しく美化して見てゐたので、それは或は現在の武家政治に對して反感を抱いてゐたからであり、或は勢力の無い當時の公家に同情したからでもあり、また或は歴史に暗くして上代政治の眞相を知らなかつたからでもある。
(632) ところが、大貳でも君平でも、その上代崇拜の根柢には儒教の禮樂制度説があり、また彼等の反幕府感情はシナ式名分論によつて助けられてゐる。彼等は國民生活の現實の状態から幕府政治を倒さねぼならぬといふ主張を導いて來たのではない。柳子新論は時弊に論及し、今書や不恤緯は一層具體的に時務策を述べてゐるが、その言は必しも幕府政治の否認とはなつてゐない。いひかへると、政權を公家貴族の手に移すことによつて時弊が直ちに救濟せられるやうには説かれてゐないのである.大貳や君平は令の制度を復興すればそれによつて世が黄金世界になると考へてゐたかも知れぬ。さうして公家に政權を與へればこの制度が復興せられると思つてゐたかも知れぬ。けれどもその公家に如何にして政權を與ふべきか或はかゝることが專實上可能であるか、といふ具體的な問題には、全く觸れてゐない。徳を修めれば民が歸服するといふ簡單な儒教政治學の公式が現實の政權の推移を解釋するに足らぬことは、勿論であるが、さりとて承久建武の役を再演して平地に波瀾を起すやうなことができるはずもない。のみならず、君平に於いてはその時務策を講ずる場會には、やはり現在の幕府政治の下にあることを前提としてゐるではないか。今日から囘想すると、封建制度も武士本位の社會組織も事實に於いて漸次腐蝕しつゝあつたし、その上に建てられた幕府の權力もまた事實に於いて衰運に向つてゐたとも解せられよう。しかし當時の國民の生活は公家が權力を有つてゐた時代とは違ふ。千年の歴史を形成した國民の生活の發展が、覺むれば跡なき盧生のかりねの夢であつて、世は實は依然たる平安朝の昔であつた、としない以上、公家政治の囘復がどうしてできようぞ。公家政治の復活を夢想するのは、武家政治が如何にして生じ徳川氏の政權が如何なる過程を經て成立したかの歴史を解せざるのみならず、國民の生活は歴史的に變化して來たものであり、變化して來たものは變化しない前の状態にそれを復原させることができないもので(633)あることを、思はないものである。實は禮樂制度を設ければいつでも太平の世が現出するといふ儒教政治學の公式が、やはり同じ考へかたの上に立つものである。幕府は何時かは倒れねばならぬかも知れぬ。倒れるのは勢であつて、勢を支配するものは國民の現實の要求である。その要求が強烈にまた具體的に現はれない以上、幕府は存立する。國民の生活と無關係な公家の因襲的な感情や空疎な儒教的思想などの、動かし得るところでない。(大貳の意見はすべて儒教思想に本づいてゐるから、理論的にはおのづから放伐思想を是認することになるが、それは當時の情勢には關係の無いことである。)
 たゞ幕府を倒さうとする現實の要求が國民の間に生じて來ると*、書物の間から得て來た知識がそれを是認する理論を供給する。世を動かさうとする人々の興奮した氣分、もしくは形勢の轉化に伴うて動搖する人心には、因襲的の感情もはたらきかける。懷古的な詩人の空想もそれを刺戟する。幕府政治の起らない前の世の中が美しい幻影となつて目の前に現はれ、それがあこがれの的となる。その上、公家といふ宮廷の式部官もしくは宮内官には、彼等にありがちな心理がはたらいて、それが政府たる幕府を牽制したり壓迫したりする。何等かの意圖を藏してゐる野心家が彼等を利用し煽動する。世の動亂に乘じて三百年前の戰國的態度に立ち歸り長い間鎭靜してゐた徳川氏に對する不滿の情をわれから復活させた「雄藩」が、彼等と結託する。國民の要求を踏み臺にして權力を掴み取らうとするものは、幕府を倒すために都合のよい辭柄をあらん限り利用する。けれども國民の要求は現實の要求である。それは、世界の大勢に刺戟せられて鞏固なる國民の統一を成就するには、特に朝廷の名に五つて幕府を牽制しようとするものの生じた當時の情勢に於いては、どうしても政權の所在を明かにする必要があり、さうしてそれには直接に皇室を戴く何等か(634)の政治形態を定めねばならぬ、といふことである。それは決して武家と對立する意味に於いての公家の支配下に國民を置かうとするのではない。明治の新たる政治形態が果して國民の期待する如きものであつたか否かは別問題として、それが昔の公家政治の復活でなかつたことだけは事實が明證してゐる。神祇官や太政官や、その他、制度の上ではいはゆる復古が幾分か行はれたので、それは大貳や君平の思想に脈絡のあるものではあらうが、しかし實權を握り實務を執つたものは決して公家ではなかつた。大政維新は果して承久や建武の役ではなかつたのである。(その代りその實行には元龜天正式の戰國的手段が用ゐられてゐる。)さうして昔の公家政府の上に安泰であられ、その後の武家政府の上に一層安泰であられた我が皇室は、新しい、斷えず動搖してゐた、但し常にいはゆる藩閥の手によつて組織せられた、維新以後の政府の上にありながら、國民から無上の尊敬を受けられ、國民の精神的結合の象徴とも中心ともなられた。政治形態の如何にかゝはらず、政權の掌握者が何人であるにかゝはらず、國民は常に皇室を奉戴してゐる。公家政治の復活の夢想は全く破られたのみならず、いはゆる公家貴族の勢力の消長の如きは皇室に於いて何の意味も無いものであることが、それによつて明かにせられたのである。
 だから公家政治の復活といふ意味に於いて徳川幕府の存在を否認する思想が、當時に於いても世に容れられなかつたのは當然である。松宮觀山が上記の如き見解を抱き、また太田錦城が「王室家」といふものを難じて東照宮を天照大神と並べ稱したなどは(梧窓漫筆)、江戸にゐたものの言であるからだとしても、上方の竹山の逸史の思想、または筑紫人たる梅園が「天子垂拱、幕府攝政、」の事實をむしろ幕府政治肯定の立場から讃美し(贅語)、萬里が既に述べた如く幕府政治は皇室の御ために却つてめでたいことであるといひ、また旭莊が「君臣今古尊卑定、相將東西王覇分、(635)国勢元宜薄湯武、時情誰敢賤桓文、」と、尊王思想を懷きつゝ幕府の存在を是認したのを見るがよい。シナ思想から脱却することのできない當時の學者は王覇といふャうな文字を用ゐる外は無かつたが、幕府の存立が決して皇室を傷けるものでないといふことは、多くの學者の一致した意見であつた。蘭學者たる本多利明もまた、一系連綿たる皇室を仰景すると共に幕府政治を謳歌してゐる(經世秘策)。幕府政治を是認する意味での尊王論には何人も異議が無かつたので、それは上記の諸家の説によつても明かであるが、幕府の存立と皇室が幕府の上に在すこととが矛盾するものとは、決して思はれてゐなかつた。政權の本源が皇室にあるとすることは勿論ながら、國學者は幕府を「天皇の遠の御門」として(第十五章參照)、儒者は「攝天子之政」(幽谷の正名論)するものとして解釋してゐたのである。早く素行が武家事記(武本の章)に於いて「朝廷に代りて萬機の事を管領せしむることわりなり」といひ、淺見※[糸+〓]齋が將軍は天子の御名代として民に臨んでゐるものだ、といつてゐるのと、同じである。幕末になると、幕府は朝廷の御委任によつて政權を行ふものだといふ考が公式に認められたので、政權奉還といふ語が維新の際に用ゐられたのも、そのためである。しかしこれは幕府政治を動かないものとしてのことであるから、いはゆる幕末の擾亂時代になると、この解釋に從はないものが起り、君平が頼朝を評した如く朝廷を欺罔して兵馬の權を奪つたものとして、皇室の叛臣として、徳川氏を見る説が勢を得て來る。それは家康が勅命を奉じて天下を平定したやうに解釋し、徳川氏を皇室の忠臣と見ようとした平和の時代の主なる思想と、正反對であるのを考へるがよい。歴史的事實の解釋としては兩方ともに正鵠に中つてゐないが、或は現在の制度を是認するために、或はそれを變革しようとするために、おのづからこの二つの相反した見解が生じたのである。が、かういふ變化のあるのは、根本に於いて世襲的將軍を首長とする幕府(636)政治といふものが、長い国家の歴史からいへば、勢の馴致した一時的の制度だからである.さて平和の時代に幕府政治が永久のものと考へられたのは、その幕政の權威がまだ疑はれなかつたからであるが、前に述べた觀山や萬里の思想は、かの蕃山の意見と共に、幕府の存否にかゝはらず注意を要することである。幕末のいはゆる尊王論が、徳川氏のもつてゐる權力をその徳川氏から奪つてそれをそのまゝ皇室がもたれるやうにする、といふ主張であるならば、それには多くの危險が伏在することを知らねばならぬ。このことについては次篇に於いて詳説するであらう。
 しかし幕府政治を是認する意義に於いての尊王論の主張者にも、制度の運用に關して特殊の要求をするものがあつた。その一つは幕府は武によつて政刑を行つてゐるから朝廷は文教禮樂を任とすべしといふ考であつて(東潜夫論)、それは蕃山の説と同じであるが、儒者の教化政治主義からいふと政刑と禮樂との出處を異にするのは解し薙いことであり、それが實行せらるべきことかどうかはなほさら疑問である。竹山や栗山にも武家の武に對して公家は文を主とすべしといふ意見があるが、これは天下に臨む文教の義ではなくして公家自身の任務、むしろその修養、としての考らしい(書牘、近衛家に上る書)。また定信の諌鼓鳥や竹山の草茅危言に、家網以來行はれなくたつた將軍上洛の儀を復興せよといふ考があり、東潜夫論にも同じことをいふと共に、將軍が攝政關白を兼ねよと説いてゐるのは、政權の本源の皇室にあることを儀禮の上または名義の上で明かにせよ、といふのである。竹山が六位以下の位階を復し公家風の衣冠を武家も用ゐよといつてゐるのは、やはり儒教思想から來た白石式の禮文主義と同じであるが、これもまた畢竟、武家の權力の皇室から出てゐることを禮文の上で示せといふことになる。幕府の權力を十分に是認しまたはそれを永久に樹立させようとするものがかう考へたのを見ると、徂徠春臺のころに比べて一般の意向の變つて來たこと(637)が知られる。
 のみならず、皇室に關する多年の因襲には幾多の遺憾の點があり、古禮の廢れたこと、行幸などの全く行はれないこと、皇族御出家の風習、御料の僅少に過ぎること、歴代の山陵の荒廢してゐること、將軍の上洛參内が行はれなくなつたこと、などがそれであるとせられた。宮廷の經費は固より豐富ではなかつたけれども、その多寡を幕府のと比較して見るやうな考へかたは、宮廷の經費と政府のとが全く性質を異にするものであることを思はないものであらう。のみならず、世間では實状をよく知らなかつた點もあるので、宮廷に關する幕府の支出がかなりに多かつたことは、勝安房も説いてゐる(吹塵録)。皇居の造營及びその他の臨時の費用がすべて幕府の特殊の負擔であつたことは、いふまでもない。けれども外觀の上から見ても「比叡の山上りて見れば九重の數の足らはぬことぞかなしき」(君平)の感を懷いてゐたものも少なくなかつたであらう。後になつても「巍々佛殿表神京、金碧煌々塗血成、囘首翻憑路人問、春雲何虚鳳凰城、」(過六條有感拙堂)といふものがあり、かの「半空湧出兩浮圖、更有伽藍俯九衢、十二帝陵低不見、黒風白雨滿南都、」(竹外)にも、同じやうな感慨が籠つてゐる。拙堂の詩には佛教に對する反感も加はつてゐ、建築の樣式の全く異なつてゐることをも顧慮してゐないのであるが、少くとも皇居が壯麗を缺いてゐると思はれたことは、明かである。君平が山陵の荒廢を慨したのも畢竟同じであつて、「帝室衰微久」の歎にはこのことが少からぬ關係を有つてゐる。だからこれらについては世間にも種々の改革意見が現はれたので、竹山が即位の禮を復興し御諡號を上り、行幸のあるやうにし、親王出家の習慣をやめ、皇女降嫁の例を開け、といひ、萬里が全國から貢租を上つて御料に充てよといつたなどは、その例である(草茅危言、東潜夫論)。錦城が、薄禄の公家に秩禄を増せと論じたことも、こゝ(638)に附記してよからう(桐窓漫筆)。幕府の局に當つた定信もまた御料増額の必要を述べたが(諫鼓鳥)、皇居造營に於ける彼の態度も、またこの一般の要求にかなつてゐた。幕末擾亂の際になつて、將軍が上洛參内したり御料を増加し山陵を修理したりしたのも、その由來はこゝにあるが、それはもはや幕府の權力が安定を失つた時のことである。むしろ幕府の權力の疑はれるやうになつた時にこのことの行はれたのが、時勢の趨向を示すものとして、意味のあることなのである。
 しかしまたともかくも京は京であつて、「國といふ國のもなかの都にて見し世こひしき月の影かな」(知紀)といはれ、皇居は皇居であつて、或は「朱雀青龍稱四神、瑞雲遙認是楓宸、太平有象無人頌、只詠名山與美人、」(竹外)と、洋々たる太平の象がそこに認められ、或は「秋烟如水繞宮墻、輦路無塵午夜涼、滴落月中珠樹露、有人天上按霓裳、」(鐵兜)と、人間ならぬ天上の世界がそこに仰がれた。宮廷は政治に關係が無く、その意味で俗界を超越した地位にあるために、美化せられて國民の眼に映じ、さうしてまた、そこに上代文化の遺風が保有せられてゐることによつて、更に詩化せられて時人の心情に宿る。蕪村の句に歴史的感情の美しい雰圍氣に包まれた宮廷及び公家貴族の幻影がさまざまに寫し出されてゐることは、既に述べた。同じく宮廷を仰景するにしても、いはゆる梗概の土の如く悲憤の涙に眼を曇らせてゐるものばかりではなかつたのである。「橿原の大宮どころ、あはれ/\荒れにけるかな、あはれあはれ跡もなきかな、跡はしも無しといへども、大君のあとはます/\、松の葉の榮え給ひて、玉敷の平の宮に、宮どころ定め給へば、ふりし世の大宮どころ、跡なしと今は歎かじ、その跡どころ、」(知紀)と歌つたのも、おのづから一つの見解である。古を慕ひ今を歎ずるのみが皇室を讃美する所以ではない。さうしてかの御火葬の風習を道徳上の罪(639)惡が行はれた如くに憤慨したり、シナ風の御諡號の復舊を非常の盛事として喜んだりするのは、佛教に對する反感やシナ思想の尊重がその背景になつてゐるのであるが、梗概の士の梗概には往々かくの如き分子が混在してゐることをも忘れてはならぬ。
 それと共に、徳川氏に對してもみづから抑制することを勸めるものが起つた。日光廟を空宮にして建築物は立ち腐れ次第やけ失せ次第にせよ、といつた履軒の説には抑佛の意味もあるが、主として恭儉のためであり(年成録)、萬里もその壯麗に過ぎることを難じた(東潜夫論)。定信すらも修繕費の節約を説いてゐる(諫鼓鳥)。それと共に、昔の島田幽也と同じく豐國廟の復興を主張したものに萬里があつて、徳川氏は豐臣氏を徳とせねばならぬといひ(東潜夫論)、錦城もまたその荒廢を歎じてゐる(梧窓漫筆)。「君不見整頓乾坤有數公、提挈同成太平功、……如何俗儒小人腹、希世偏要罵織豐、」(山陽)。徳川氏に阿諛してそれを尊大ならしめるのみが徳川氏を永遠ならしむる所以ではない、みづから抑制することを知らざれば徳川氏もまた必しも長久を保し難い、といふ考が漠然ながら生じたのである。弱者には同情が集まり強者には反感が湧くからである。
 
 然らば幕府の現實の政治に對する國民の感想はどうかといふに、それが常に國民に悦服せられてゐたとはいひ難く、また將軍が常に國民に嘆稱せられてゐたともいはれない。時々の政局に當るものが何時も國民に信任せられてゐたのでないことは、勿論である。學者などは一種の固定した知識を標準として政治を論じ、またその述作に於いては幕府に對して相當の、もしくは諂諛に近い、敬意を表してゐるのであり、シナ人が南朝以前の帝王には如何なる批判をも(640)加へるにかゝはらず、時の王朝については、暗君庸主にも最大級の道徳的讃詞を加へる例を、徳川氏に對しても適用しようとしたほどであつたが、一般の民衆の感情は必しもそれと同じではなく、學者が口を極めて賞讃した享保寛政の政にも少からざる不滿足を示したものもあるし、當局の爲政者に對してはいふまでもなく、將軍に向つても、頗る無遠慮な批評を加へ、往々思ひきつた嘲笑を浴せかけてゐることは、斷えず世に現はれる落首などによつて知ることができる。落首の類が必しも深い意味があり確乎たる識見があつて時事を批判したものでないことは、既に述べたが、少くともさういふ落首を作りまたそれに興ずる民衆の心もちに於いて、當時の國民の幕府及びその政治に對する態度の一面が見られる場合もあるので、專制政治の世の中に於いて、存外に氣樂な、權力に※[立心偏+習]服しない、ところの民衆にあつたことが、それによつて知られる。それに對して神經質な爲政者が時々氣まぐれな禁止令を出しても、さしたるきゝめがなく、何時のまにかそれが緩んでゆくところに一種の妙諦がある。それは多くの禁止令が三日法度であり、また勢威ある當局者のその勢威が長く續かず、循環的に政治の方針の變化してゆくことが、おのづから國民に對する權力の抑壓を緩和し、さうしてその變化には漠然たる民心の向背がはたらいてゐるのと、同じである。國民が天下太平を謳歌し得たのは、このことにも幾分の關係が無いではなからう。
 しかし國家の治安を維持することが主なる任務であつた政府、本來武斷主義によつて立つてゐた幕府の當局者は、おのづから政府の命令に絶對の權威があり、それによつて何ごとでもなし得られると考へるやうになり、特にいはゆる學問があり儒教の政治思想を文字によつて供給せられたものに於いては、その文字のまゝに民を教化し得るとさへ思つたらしい。政府の財政難を如何にして切りぬけるかといふ、當面の問題にのみ没頭してゐる現實政治家はそれほ(641)どでないが、風俗を敦厚にするといふやうなことを考へてゐる理想主義的政治家に於いては、特にそれが甚しい。だから定信は「世の人を心の如くなさばやの心にうきもおふとこそきけ」(あさぢ)といつた。「世の人を心の如くなさばやの心」が專制主義であることはいふまでもない。「君子は國を憂ふる心あるべし國を憂ふる語あるべからず」(婆心録)といふのも、林子平を罰したのも、または「自己の見識を以て」事物を論ずるを非としたのも(立教館令條)、異學の禁を行つたのも、畢竟尭は同じところに歸着する。(異學の禁は直接には聖堂の問題であるが、間接には世間に對してのはたらきがある。)吉宗も忠邦もその精神はみなこれと同じであつて、儉約令とか、出版物や劇場の取縮令とかが、武士の家政救濟や徳川氏の權威の擁護やまたは人心の固定策や、種々の事情から時々の當局者によつてしば/\發せられたけれども、多くは勵行せられないものであるのに、これらの理想主義的政治家の出た時に限つてそれを徹底させようとし、特にその道徳的意味に重きをおいたのも、同じ考からである。國を治むるは小鮮を烹るが如しとか「障りにならぬ蜘の巣などは取り盡すべからず」(定信の壁書といふもの)とかいふ考もあるが、それも實は意のまゝに世を支配しようとするからであつて、これはたゞ實行の上の手ごころを示したものに外ならぬ。
 かゝる考が文字の上の教といふもので人を導き得ると思ふ普通の儒者によつて賞讃せられたのは、當然であつて、名分を正しくすれば天下が治まるといふのも、畢竟同じ考へかたである。風俗の壞亂は奢侈の故で奢侈は名教の頽廢から來る、といふのが儒者の口癖である。異學の禁の如きは徂徠學に反感を有する西山拙齋などの机上の空論に由來があるではないか。水越の風俗矯正策は柳子新論などの説を實行したものともいへる。儒者ではないが二宮尊徳の如きも、また上の力で下を導くことをいつてもゐる(語録)。儒教の勵樂制度主義教化政治主義に反對した眞淵が、民は(642)愚であり上に在る少數者のみ賢であるのがよく、在上者は武力を以て民に威を示すがよいと説き(國意考)、列國對峙の時には王道よりは覇道が適するといひまた古のシナの刑名家に似た思想をその一面にもつてもゐた青陵が、政治は智士が愚民を使ふもののやうに説いてゐる(前識談、善中談)、などは、これとは全く違つた考ながら、專制的な點に於いてはおのづから相通ずるところがある。教化政治主義も實は、民は愚にして王者は賢なりといふ假定の下に立てられたものだからである。もつとも青陵は或る場合には、今は民が士大夫よりも巧捷智慧であるから、由らしむべく知らしむべからずとはいはれない、ともいつてゐるが、理想的の政治は上記の言の如きところにあると考へてゐたのではあるまいか。著者不明の經濟隨筆といふものに、下問を恥ぢずといふことがあるが問はれるものが智者であるには限らぬ、愚者にも千慮の一得はあらうが、それは九百九十九まで取るに足らぬ考であることを示すものだ、と書いてゐるのは、少しく見當はづれの點がありながら、智者とはいひかねる多數人のいふところが必しも用ゐらるべきではない、といふ事實を語つてゐる點に意味はあるので、專制政治思想の一つの根據はこゝにあるのであらうか。たゞ在上者とても必しも智者ではないから、そこからかういふ專制政治の破綻が生ずる。のみならず、定信などの思想統一策や、蘭書の弘通を抑制し外国の形勢を傳へることを禁止する類の人心固定策は、その目的のためには大した效果が無かつたにしても、その方法は、事實上、民を愚にすることになるものであつた。或はまた幕府が惡貨を鑄造するに當り、瑕金をなくするとか極印を統一するとかいふ虚僞の辭柄を設けた如く、法令の上で往々國民を欺瞞してゐるのは、教化主義とは關係がないが、民を愚にしたものであることはそれと同じである。後に外國問題が起つてからは幕府はしば/\この種の欺瞞の言をなしたので、ペリの來た時に和の一字は封じて置いて戰備を修め志氣を激勵せよ(643)といつた水戸の齊昭の如きも、また同じ意味に於いて民を愚にする政治家であつたといつてもよからう。勿論、これには武士風の政略思想のはたらいてゐる場合もあり、また如何なる國家にあつても政局に當るものには機密を守ることの必要があつて、國民の間に事理を解しないものが少なくなかつた當時に於いては、特にこのことが顧慮せられねばならなかつたでもあらうから、幕末紛擾の際に於ける當局者のかういふ言を偏に欺瞞として責めるのは、却つて當らないことがあるかも知れぬ。けれどもことがらによつては、いふものの志向ときくものの感じとの齟齬から、思ひもよらぬ事態のそれによつて生起する危險があることを、知らねばならぬ。平時に於いて民を愚にした態度が、どこまでも非難せらるべきであることは、いふまでもない。
 しかし民は必しも愚かなものばかりではなかつた。これらの理想主義的政治家の政策が十分に效果を擧げ得なかつた理由の一つはこゝにある。彼等の行はうとしたことは現實の國民生活の要求から出たものではなくして、文字の間から生れて來たものに過ぎないからである。彼等の心事は美しかつたにしても、彼等の思想と政策とは誤つてゐた。命令すれば民が服從すると思ふのみならず、民は低級な物質的生活に滿足するもの、何等の娯樂も安慰もなくてゐられるもの、與へられた思想の中に安住し得られるもの、と思ふのが根本の誤りであつて、それは主として儒書妄信の結果である。だから彼等自身にその主張に反するやうなことをしなければならぬのも、當然である。彼等は幕府の傳統的政策として人心の固定をつとめ、「仕來りに違」ふことを非とし(立教館令條)、何事にも新規を嫌ひ、「書物草紙の類……新規に仕立候義無用」(享保六年の令)といひ、甚しきは「書物類古來より有來通にて事濟候聞、自今新規に作出申間數候」(寛政二年の令)といふ、今日から見ればむしろ滑稽な法令を出してもゐるが、その實、彼等の政策(644)は「自己の見識を以て」「しきたり」を破るものであつた。吉宗の政治が「權現樣の御大法」に背いたものとして考へられもしたことは、既に説いた(第一章參照)。定信の異學の禁に於いても、「朱學の義は慶長以來御代々御信用の御事」といふ政府の聲明が事實に背いてゐることは明かであるので、冢田大峰の杭議にも見える如く、家康は學問に於いて極めて自由であつたから(武士文學の時代第三篇第六章參照)、これも全くの新政である。新規なことを民間でするのはいけないが政府でするのはよい、といふところに專制主義があるかも知れぬが、思想としてはどこまでも矛盾といはねばならぬ。
 だから公平な學者はかういふ政策には謳歌しない。學問が一局に偏すべからざることを主張しては「三代多聖人、六朝富釋氏、詩客至唐盛、道學從宋始、元氣互縮盈、百彙應時起、如何當局徒、沾々獨自是、鐘鳴漏盡時、亦不免人毀、」(旭莊)といひ、酷烈な風俗矯正策に對しては「維時嚴新令、械※[木+(丑/一)]路相望、吏艮多跼蹐、邏卒自蒼黄、夜街寂無語、風鐸獨丁當、居人体嘆息、自古有弛張、」(淡窓)と三日法度たることを豫言したものもある。林子平が世間から奇士として稱讃せられたのを見れば、彼に加へた刑罰には何の權威もなかつたではないか。國民が罪としないものを政府が罪としても、それは却つて世人の同情をその人に歸せしむるのみである。文藝の抑壓が文藝そのものを抑壓する效果を奏せずして、却つてそれを邪路に走らしめた傾きのあることは、既に述べた。さうしてこれらは何れも彼等政治家の悟り得なかつたところである。文藝のみでなく、かういふ專制政治が、或は人をして「心否口唯々」たらしめ、或は何様かの反抗思想を抱かしめ、また或は思想の自由を失つたがために、その欲望を物質的官能的の享樂に向けさせるものであることを、彼等は知らず、敢て民を教化するとみづから稱してゐた。それほどに彼等の思想は幼稚(645)であつたのである。もつとも田沼時代大御所時代のあまりにも放縱な士風に對しては、國を憂ふるものは何等かの方法によつてそれを矯正することを思はねばならなかつたのであるが、それには別にその途があり、またかゝることについて政府のなし得るところにはおのづから限度のあるべきことが、考へらるべきであつた。或はまた後になつて幕府を苦しめた攘夷論の流行は、偏固にして頑冥な儒者の思想に主なる由來があり、西洋諸國の東方侵略の形勢に刺戟せられたのでもあるが、海外の事情を國民に知らせることを怠りもしくは好まなかつた寛政以來の政府の態度にも、幾らかのかゝはりのあることは、その時代の當局者のかけても思ひよらぬところであつたらう。
 さて專制政治家の民に臨む手段は賞罰であるが、賞罰は利害を以て人を誘ふものである。だからそれは文學上の勸懲主義が眞の道徳を進めてゆく所以でないと同樣、政策として最も低級のものであるのみならず、それによつて爲政者の目的を達することはむつかしい。儒教的教化主義の實行ともいふべき孝行の奨勵が、官を欺いて賞を得んとするものを生じたのも、不思議ではない(有徳院實記附録)。こゝにもまた教化主義の自家矛盾がある。君主が臣下を率ゐる道は名利を以て人心を收攬するにある、とせられたことはいふまでもなく、賢君と稱せられるものの用意は主としてそこにあり(肥後物語)、刑名家の説くところも同じことである(青陵の善中談)。人が名利を欲する限り、この用意は已むを得ないことであり、或はむしろ當然のこと必要なことでもあらうが、それにしてもそれを誘ふ目標が人間生活の、もしくは當時の國民生活の、自然の要求から出たものでなくてはならぬ。然らざればそれは徒らに人心を悪化せしめるに過ぎないのみならず、畢竟無效に歸するのである。
 理想主義的政治家の態度は上記の如きものであるから、その政治の根本には政府の思ふやうな型に國民をはめこま(646)うといふ思想があるが、それが極端にはせると、ともすれば政府の政策を遂行するためには國民の生活を輕視する場合さへ生じないにも限らぬ。對外關係に於いてこのことがよく現はれてゐるので、ロシヤの使節ラクスマンに對する囘答に、漂流民は國民として認めないから送還は無用である、といふやうな口氣をもらし、モリソン一件の風説のあつた時の評定所の決議が、國策を立てるには「賤民の存亡」を念とする必要が無いといふのであり、次いで清蘭二國からの外は漂流民を受取るなと令するほどであつた。これは次章にいふ「朝廷歴世之法」を維持するためには少数の國民の安危などに重きをおき雜い、といふ考から來てゐる。外圍に對して國民の利益を保護するといふ思想の無かつたことは、徳川幕府の初めからのことであつて(武士文學の時代第三篇第二章參照)、それは國際關係といふものが殆ど無く、國と國との對立といふことが意識せられなかつた故でもあり、鎖國の世にはなほさらさういふ考が發達しなかつたのでもあるが、政治思想から觀ると、上記の點に一つの理由があらう。幕府にもし外國に對して日本の國民を保護する用意があつたならば、斷えず生ずる漂流民を適當に處置するためにも、外國からの勸誘をまたず、みづから進んで附近の諸國と交渉を開き、それに對して親善な関係を結ばねばならなかつたらうに、鎖國制度をどこまでも守つてゆかうとした幕府には、さういふことを思ふ遑が無かつたのである。しかしかうはいふものの、幕府の如何なる當局者も國民の生活を無視し得るものではなく、特に理想主義的政治家は一面に於いては、儒教思想にも助けられて、國民生活の安定に意を注いだことは、いふまでもない。國民を彼等の思ふやうな型にはめこまうとしたのも、彼等の心情としては、實はそれがためであつた。その施設の是非と效果の如何とは別の問題として、彼等に民を思ふ心情のあつたことだけは忘れてはならぬ。
(647) なほ一言すべきは、當時の政治家が政治を君臣主從といふやうな私的關係と同一視してゐることである.全體の政治形態が君臣關係を樞軸として成立してゐる世に於いては、當然のことでもあるが、彼等の政治上の施設が、情誼で維がれてゐる君臣主從の狹い範圍のうちでは、或る程度まで效果のあることであつても、廣く國民をあひてとしては成績の擧がらないものが多い。儉約の如きもその一例であり、下を惠むといふいはゆる仁政にもその意味がある。君主の仁惠は、君主によつて生存することが明かに意識せられ日常生活に於いて直接に君主の恩惠を感じ得るものに對して、始めて意義がある。治國と齊家とを理論上同一視する儒教の仁政思想もまたこれに似たところがあるが、それは固より紙上の空論に過ぎない。
 
 さて幾度か企てられた理想主義的政治家の改革は、今日から囘顧すれば、畢竟、封建の政治制度と武士本位の社會組織とから來る缺陷と弊害とに對するものであつたと考へられるが、それがまた幾たびか失敗に歸したのも、この制度この組織の上に立つてそれを維持しなければならなかつたからである。いひかへると、本來できないことをしようとしたためにむりな方策を取つたからである。が、改革をしなければならぬ必要から見ると、これらの改革は極めて姑息なものであり、民間の學者が唱道したほどなことすらも、できなかつた。今その民間の論議の最も主要なる點を下に述べ、世人が當時の政弊を如何に考へ如何にしてそれを改めようとしたかを、瞥見しておかう。この民間の論議は、蕃山に始まり鳩巣徂徠春臺などがそれを承け、元禄享保の間に於いて既に世に現はれたのであつて(前篇第二十三章參照〕、いはゆる柳澤時代の社會状態が彼等を刺戟したのである。享保改革の後には暫く聲を潜めたやうであつた(648)が、田沼時代の世の中は再びそれを喚び起す機縁となり、寛政の改革は更にそれを誘發した氣味があつた。それから後には積弊がます/\人の目について來たのと、他方では對外問題が超つたのとのため、かゝる論議はいよ/\盛になつた。しかし儒者のいふところはほゞ同じことであつて、要するに蕃山鳩巣徂徠などの所説に少しづつの潤色を加へたものに過ぎない。固定した世の中には改革案もまた因襲的である。
 第一に人の注意に上つたのは封建制度に關することであつて、それには大名の財政の窮迫を緩和するために、大名もしくは彼等の家族を江戸に置く習慣と參覲制とを改革することが主なる問題となり、次にいふ一般武士の土着がそれに關聯して考へられてゐた。その最も直截なのは大名及び采地のある旗本の江戸住ひをやめよといふ君平の今書に見える説であるが、彼等の家族を國もとに住はせよといふ竹山の草茅危言などの、また家臣の家族を國もとに置けといふ杉田玄白の野叟獨語などの、意見もある。國君みづから江戸に定住せよといふ淡窓の迂言の説は參覲制度の廢止論であるが、この制度については、定信の諫鼓鳥にも往復の費用を省くための意見があり、その度數と期間とを少くする詳しい案が草茅危言に見え、野叟獨語にも吉宗の時の如くせよといつてもあるし、時は少しく後れるが、松本斗機藏の獻芹微衷にもこれに關する説がある。信淵の宇内混同秘策にも竹山に似た參覲制の意見があるが、彼の考には、後にいふやうに、空想的な傾向があるから、これは且らく別問題とする。なほ草茅危言や萬里の東潜夫論には大名國替の廢止論があるが、栗山の上封にも大名困窮の原因としてそれを擧げてある。大名の財政救治策としては、また林子平の上書などの説の如き國産藩營の問題があり、履軒の安良滿保志に見える如く、商人から金を借りることをやめさせるために幕府からそれを貸せ、といふことを主張するものもある。前者はそれを實行した諸藩もあるが、正司考(649)※[示+其]の經濟問答秘録の如く、民情に通ぜず實務に疎い武士がそれに當ると却つて弊害が多い、といふ反對論もある。後者にもまた、朝川善庵の濟時七策の如く、借りることは商人からでも官からでも畢竟同じだといふ説、新宮涼庭の「破れ家のつゞくり話」の如く、よき銀主は誠實に大名の財政せわするものだといふ考もある。次に封建制度の上に立つてゐる幕府の權力を鞏固にする方策として、東潜夫論が公領を江戸及び大坂の附近に集中せよといつてゐるのは、天保改革の際の水越の計畫と同じであるのが注意をひく。宇内混同秘策に大名は大國でも二十萬石以下にせよといつてゐるのも同樣の理由からであるが、これにもまた實現性が薄い。
 第二に武士の制度については、何よりも土着制が殆どすべての論者によつて主張せられ、上にも擧げた竹山、玄白、淡窓、萬里、信淵、などは勿論、子平の海國兵談にも、大原小金音の北地危言にも、君平の今書にも、また山陽の通語にも、下つては會澤の新論や下學邇言にも、藤森弘庵の芻言にも、または武元正恆の勸農策にも、方法や程度や或はまたその理由とするところにこそ違ひはあるが、そのことについては殆どみな見る所を同じうしてゐる。もつとも全面的に土着を支持することを躊躇するものもあるので、「齋庭の穗」の著者は、すべての武士の土着は實行ができないから、少數のものを期限つきで農村に住はせよといひ、古賀精里は、土着した武士は驕恣にして村民の妨げにならうから、それを抑へるものがなくてはならぬといひ、正司考※[示+其]も精里と同じ理由から土着説に反對してゐる。土着が行はれるとしても、武士の身分によつてその状態は一樣ではないはずであつて、采地を有するほどのものがその采地に土着すれば、それはおのづから大地主の地位を得ると共に、その地の農民を半ば政治的性質をもつ一種の被支配者とすることにならう。信淵が、旗本に采地を與へることを罷めて藏米給與にするがよい、農民が領主の誅求をうけな(650)いやうにするにはこれが第一である、といつてゐるのは(物價餘論)、このことに注意したのであらうか。また俸禄を給せられてゐるものの土着はみづから農耕を營むことになるが、勞働には貧民などを使役することができるにせよ、給與する耕地がどこにあるのか、また土着した武士の官吏としての職務を如何にして行はせるのか、これらのことについても種々の意見は出てゐるが、机上の考案は必しも實現し得られるには限らず、そこに大きな問題がある。また土着説の理由としても、大名の財政の窮乏を救ふと共に一般武士の生計を安定させるためとするもの、農民教導の任を農村に住はせた武士に負はせようとするもの、強兵の方法として考へるもの、兵農の分離しなかつた昔の状態に復歸させようとするもの、などがある。農民を教導させるといふのは武士を士と見る儒家の思想から來てゐるらしく、土着を一種の農兵制度の實現として、または兵農未分の状態への復歸として、考へるのは、當時の武士を單なる武人としてのみ見、文官としての任務がそれにあることを考へないものであらうから、これらの意味での土着説には、封建制武士制の根本に關する問題が伏在する。何れにしても土着には利のあることのみが考へられてゐるが、利のあるところには必ず害の伴ふのがすべて制度といふものの本質ともいふべきことであるから、土着によつて得るところと失ふところとの何れが大きいかは、それを實行しない前には豫想し難いといはねばならぬ。さうして.そこに土着説の缺陷の一つがある。或はまた土着とまではゆかずとも武士の生計を助けるために彼等に産業をさせよといふ考もあり、林子平の上書にも宣長の玉くしげにもそれを説いてあるが、これもまたそれを實行した諸藩がある。青陵が喩民談に於いて士が貧を誇ることを不智不忠だと罵つたことも、參考せられよう。なほ栗山が上封で世禄の弊をいひ、草茅危言に世禄低減案を立て、青陵の萬屋談及び善中談に世禄を少くして役料を多くせよといひ、井上四明の經濟十二論に(651)禄は一代限りにせよと論じ、履軒の年成禄、蟠桃の夢の代、に嗣なきものは家を斷絶させよといひ、また他姓養子を非としたのも、一つは人材登用のためであるが、一つはやはり幕府や大名の財政を裕かにしようとするのである。年成録などの意見は幕府の初期の制度に復原させようとするのであるが、それが改められたのは武士の生活の不安を除くためであつたことを、これらの論者は考へてみなかつたのであらうか。四明が門地や身分にかゝはらず養子を許せといつたのは、この點ではそれらとは正反對の考であるが、その目的はやはり人材登用にある。
 しかしこれらの改革案が何れも封建制や武士制そのものを動搖させるものであることは、上に考へたところによつても、また蕃山徂徠などの説について前篇に述べておいたことからも、知られる。從つて改革案に對するこの意味での反對論も現はれたので、大名の江戸住居については、茶山が筆のすさびに於いてそれを是認してゐ、武士の土着制は、梧窓漫筆に見える錦城の鉢植武士論によつて反對せられ、武士の産業も定信の訓諭とは矛盾してゐるし(第十九章參照)、養子制限論は梅園が贅語で難じてゐる。戰國的因襲思想、從つてまた封建制と武士制とその上に立つ徳川氏の權力とを維持しようとすれば、これらの改革案には容易く同意することのできないのが、當然であらう。徳川初世の制度は、その時代の情勢に於いて必要であつたからさう定められたのであり、永久不變の法として立てられたものではない、と君平は今書でいつてゐるが、徳川氏の權力の根本に關するものについては、さう簡單にいひ難いものがあることは、參覲制及び諸侯の江戸在住制を改めた後の幕末の状態によつても知られる。それは世上の動搖につれて戰國的割據思想の復活した時勢の故でもあるが、この制度の本質にかゝはることでもある。
 是に於いてか問題は他の方面に向はねばならぬ。儉約論の反覆せられる理由はこゝにあるので、時事を論ずるもの(652)の殆どすべては、このことをいつてゐるが、大名の生活を簡素にせよといふのもその一つであり、制度としては、栗山の上封や東潜夫論などの説の如く、身分に伴ふ等差を定めよといふのも、また主として儉約のためである。いはゆる勝手の立てなほしを實行した名君賢臣は、事實、儉約から出發したのであり、履軒の華胥國物語の思想もその根本はこゝにある。商人が勢力を有つてゐて天下の利をその手に收め、從つて彼等が奢侈を縱にすること、武家の財政が彼等によつて支配せられることは、経世論者の一般に慨歎するところであるが、商人があるからこそ日本全國の經濟が成りたち、封建制度武士制度もそれによつて維持せられてゐるから、これはむりな話である。青陵が稽古談で町人を苦しめて嬉しがるのは極々の愚計であり貧政である、といつてゐるのは、穏當な考である。また都市に人口の集中することも武家の生活を脅すものとして嫌忌せられ、※[草がんむり/(さんずい+位)]戸大華の建議にも、四明の經濟論にも、君平の不恤緯にも、または會澤の新論にも、一樣に農民が都會に出ることの弊害を論じてゐる。これもまた徂徠以來の見解であり、幕府も時々政令を發してそれを實現させようとしたけれども、前篇にも述べた如く曾て行はれたことが無い。ところがこのことは次にいふ農民問題と關係がある。
 武家と共に農民が困窮し農村が荒廢することも、また人の注意をひいてゐた。その救濟法について最も普通な考は、栗山の上封などに見える如く徴税官の態度を改めることであつて、既に述べた如く、直轄領については、いはゆる「地方」のことを記したものに、徴税の任に當るものの心得として、農民の利害を考慮し民心の離背しないやうにすることが説かれてもゐ、事實、代官などにも民衆の保護に意を用ゐたものがあつたし、諸藩に於いても同樣であつたが、財政の窮迫のために聚斂に重きをおくやうになつたのと、下級徴税官に威福を弄して私欲を充さうとするものが少な(653)くなかつたのとで、農民が困厄に陷つたことも、また事實であるから、そこでかういふことが論議せられたのである。このことに關聯して毛見と定免との長短得失がしば/\問題となり、多くは下級官吏の横暴を防ぐために定免がよいとせられてゐるが、しかし定免は富農には利になるが貧農には損になるといふ説、定免は勤勉で收穫を多くしたものには利益があるが毛見ではさういふものは貢租が重くなるので却つて損を招くといふ考もあり、またどちらでも方法次第であるともいはれ、意見は一致してゐない。村役人に年貢の高を定めて上申させそれに從ふがよい、といふ武元正恆が勸農策で説いた考案もあるが、これは領主の違ふ農村の錯綜してゐる當時では實行しがたいことであつたらう。かういふことが問題となつた根本は、農民に對する徴税が苛重だからであるが、それについてはかの家康の語として傳へられてゐる「死なぬやうに生きぬやうに」といふことが想起せられる。このころではそれを、百姓は生活が容易になると怠惰に流れて農事を厭ひ困窮すれば離散するので、何れにしても農村が荒廢するから、さうならぬやうにといふ意義である、と解したものもあるが(昇平夜話など)、蟠桃はこの有名な語を政の大體を得たりと評しつゝ、昔と今とは時勢が違ふから今は生き過ぎるやうにせよといつた方がよいほどだと説いてゐる(夢の代)。これは農民に困窮者の多いところがあるからのことであらうが、年貢を輕くするのは必しも農民を救ふ道ではなく、却つて惰農を多くすることになるので、さういふ國は困窮する、と信淵のいつてゐるのは(物價餘論)、百姓は愚かなもので目の前のことしか考へないといふのと、後にいふやうに救濟の方法について別に方案があるのとの、ためであるらしい。なほ農民の生活については種々の問題があり、賛否の意見の入りまじつてゐた新田開發の是非もその一つであるが、一々それをいふにも及ぶまい。
(654) ところが農民の取扱ひかたについての當時の經世家の考には、その根柢に、農民はどこまでも農民としてその家業を守りみづから耕してみづから衣食し、その他のしごとに關與すべきでない、といふ思想があるので、百姓が商業などに手を出したり農村に商人が店舗を設けたりすることを非とする考、また社會的秩序として商工を卑しんで農を尊ぶべきだといふ主張、とも達路がある。百姓が商業を營むのは、一つは富農がその財をかゝる方面に用ゐてます/\富を蓄へんとするためでもあるが、一つは農業のみでは生活ができかねるためでもあるし、農村に商店のできるのも貨幣經濟の行はれる時代には自然の傾向であるので、それらには經濟上の複雜な事情があるから、かう簡單には考へられない。しかしかういふ意見は、農家が國民の大多數を占めそのはたらきによつて封建制度も武士の社會も維持せられ、また職業が世襲を原則とする現實の状態から、おのづから生じたものであると共に、いはゆる四民の區別とその間の秩序とを動かぬものとし農を國の本とする思想を有する、儒學の知識によつて助けられたのでもあらう。また社會的秩序として農を重んずるといつても、その生活が貧困であれば、かゝることに大きな意味の無いことも、考へねばならぬ。さすれば、現實の問題としては貧農の無いやうにすることが何よりも重要なのであつた。そこで問題は如何にして貧農を無くすべきかであるが、貧農のあるのは富農があるのと互に因果の關係があることを考へると、それは即ち如何にして貧富を平均さすべきかといふことになる。農民の貧窮は遊惰奢侈から生ずることが多いが、一たび貧富の差が生ずるとその差が次第に甚しくなるのも自然の傾向であり、富者の土地兼併がそれに伴つて行はれる。從つて貧富の懸隔を無くする方法として均田が考へられ、このころの經世を講ずるものにはそれに關する論議が少なくない。しかし富農の所有田とても彼等が蓄へ得た資力によつて購つたものであるから、官府の權力(655)でそれを没收するが如きことはすべきでないとせられ(履軒の均田茅議及び華胥國物語、武元正恆の勸農策、幽谷の勸農或間、など)、限田といふこともそこから考へられて來る。富民のために貧民が生ずるとするにしても、強ひて富民をつぶさうとするのは誤りだ、ともいはれてゐる(大月履齋の燕居偶筆)。均田限田の實現の方法についてもいろいろの案があるが、一々いふにも及ぶまい。信淵も豪農大商などの兼併した耕地を悉く買上げて貧農に分配せよといつてゐるが(物價餘論)、しかし彼は如何にして買上げ如何にして分配するかの方法を説いてはゐないようである。或はまた一種の新井田法めいたものも提唱せられ(茶山の冬の日影)、限民名田法といふことを主張したものもある(君平の今書)。これらは何れも民間人の論策であるが、細川家藤堂家または鍋島家で田地所有の状態の更新を行つたことについては上に述べておいた。しかし法令によつてかゝる制度を設けても、それが永續するか、またそれが有效にはたらくか、は問題であつて、幕府の下した土地の賣買や分配の禁止令が實行せられなかつたことは、これもまた既に言及したところである。この禁止を非とするもののあつたことも(民間省要など)、參考せられよう。履軒は、田地はもと/\民のものではなく、國主が民に貸して耕作させるのであるから、賣買などすべき性質のものでない、といつてゐるが(安良滿保志)、かういふ理論が實生活の上に何のはたらきをもしないことは、いふまでもなからう。だから貧富の差の生ずるのはむしろ世の常埋であるとして、農民の土地所有欲を抑止することになる均田の法に反對するものもあつた(正司考※[示+其])。なほ貧民の救濟は富民による義捐金の供出によることが希望せられるが、それとても強制的に徴發すべきではない(本居宣長の秘本玉くしげ)とも、遊惰奢侈のために貧窮したものは救濟するに及ばぬ(幽谷の封事)とも、いはれてゐるのは、或は人のおのづからなる同情と道義心とに信頼をかけ、或は産を治めるのは自己の(656)責務であることと自己の生活について他に依頼する情を起させるのはよくないこととを示したものとして、注目に値する。或はまた貧農の貧を加へてゆくのは借金のためであるから、民間相互の貸借を禁じて必要の場合には官から貸與せよといふ主張もあるが(勸農策、遠山景賢の利權論)、これは大名に對して幕府から官金を貸與せよといふのと同じ考へかたである。農民生活の安定または凶歳などに備へるために社會的施設の必要なことも考慮せられてゐるので、シナの書物からその知識を得た常平倉、社倉、または義倉、などの名によるものがその例であるが、社倉もしくはそれに類するものを配下の農民を指導して作らせた代官のあつたことは、上に一言したし、饑饉の際の救恤に充てるために私人が發起して加盟者を募つた話もある(甲子夜話續篇)。
 さて均田限田などを實行しようとすれば官府の命令によらねばなるまいが、上にも一言した如く農民が商業を營んだり商人が農村に店舗を設けることを非とするについても、それを官府の命令で禁止すべきことが考へられてゐるのは、何ごとも官府の權力によつて行はれるものとするからであり、官權の強い時代の思想である。たゞ生活の自然の要求から生じたことについては禁令の實行せられない場合があるから、事がらによつては「上より令すれば民の不利なり」とする意見も生じ、凶歳の處置を郷村の長者に一任せよと説いたものもあり(成島道筑の東方農準解)、上にいつた如く現にそれを實行した例もある。武元正恆の貢租の額を村役人に定めさせよといふ説にも、同じ考へかたがその根柢にあるのであらう。庄屋などを村民に選任させるところのあるのも、自治の方式が好結果を來した事實があつたからのことと見なされる。曾て田中丘隅が直參五人陪臣五人僧侶五人諸國の農民十五人商家十人を登用して民情を視察し民政に參與させることを提議してゐたのは(民間省要)、これらとは別の意味のことであるが、これも單に衆庶(657)の聲を聞くといふのみではなく、民政に經驗のあるこの著者が、事を處するに當つて民間人の頼むに足ることを知つてゐたからの、考案ではなからうか。徳川氏の治下に於いても官府の力のみが重んぜられたのではなかつたと推測せられる。
 こゝまで考へて來たところで、佐藤信淵、二宮尊徳、大原幽學、などの意見または事業を考へる機會を得たやうである。これらは單に意見を述べたのみではなく、或は窮迫した大名の勝手のたてなほしに參與し、或は荒廢した農村の裡に身を投じてその復活を計畫し、さうしてそれを實行したのである。從つて武士についても農民についても勤儉を要求し、この意味で經濟の根據を道徳に置いた。勤儉が大名の窮迫した財政を打開する道であり、農家農村の竪實な生活を樹立する基礎である、といふのである。信淵は耕さずして食ひ織らずして衣る富裕者、特に僧侶と、從來のしきたりに拘泥して百姓の困苦を顧みない武士と、を激しく非難するが、それと共に百姓は愚なもので舊習になづんだり一時の安逸を貪つたりするのが常であるから、これに勤勉力行の道を教へねばならぬといふ(農政本論など)。尊徳が勤儉を武士にも農民にも行はせみづからもそれを實踐したことは、いふまでもないが、その思想的根據としては、人は自然の状態に放任すべきではなく、人としての力を揮ひよく艱苦にうち克つて人としての任務を盡すことによつて、自然の状態を改めねばならぬ、といふ考があるので、例へば旱魃とか豪雨による洪水とかは自然のはたらきであるが、その害を人力によつて防ぐのが人の任務であり、農民が勤儉努力して耕作するのも治水植林を行ふのも、その一つであるとせられる。根本的にいふと農業そのものが本來人の力を自然の上に加へるものであるから、この考は正當である。幽學が耕地整理を行ひ農家の住宅の組みかへを行つたことにも、人の力によつて自然の状態を改めた意味(658)が含まれてゐる。それと共に、人は孤立してゐるものではなく多數人の協力によつて生活するものであることが考へられ、そこから一種の社會的施設が案出せられまた實行せられた。信淵の救助講、それを大規模に行ふものとしての泉源法、並に貧民救濟のための廣濟館の設立、尊徳の助貸法及び報徳金の考案、幽學の先祖株の積みたて法、何れも大まかにいふと共濟組合めいたはたらきをするもの、もしくはそれを導き出したものであつて、それにはシナの社倉義倉などから示唆せられたところがあるかも知れぬが、その方法は勤儉を行ふことと密接につながるものであつた。さうしてこれらの組合が純然たる民衆の事業として企畫せられ經營せられるものであるところに、大きな意味がある。信淵の如きは、農民が商業に手を出すことのみでなく、一人にして他の業を兼ねることを官命で禁じ、すべての産業を一民一業と定めよといひ、更に進んで商工の業はすべて政府の經營にせよとさへ主張し、生産業の振興、即ちいはゆる開物、は國の任務であるともいつてゐるが(垂統秘録、復古法、など)、それでありながら、いはゆる泉源法についてはかう考へてゐる。尊徳も、その分度の説の一面の意義として、當時の政治的社會的秩序を重んじ、人の生活の根本を分相應といふことに置いてゐるにかゝはらず、村民の投票によつて彼等のうちの勤儉善良なるものを指定しそれを表旌して村民の嚮ふところを知らせよといつてゐるほどに、民衆の意向を重んじた。尊徳の案出した助貸法や報徳金の方法が上記の如きものであつたのは、自然であらう。これらもまた江戸時代に於ける一種の自治思想の現はれとして見られる。
 信淵も尊徳も幽學も、當時の封建制度武士制度に伴つて生じたその弊害としての、大名の貧困と農村の荒廢とに對する救濟または復活の道を考案し實行したのであるが、その主なる方向は人の心術態度行動を改めてゆかうとすると(659)ころにあり、このことに關する限りに於いては、制度の變革をば考慮しなかつた。そこに彼等の思想の現實的であると共に道徳的である理由がある。上に述べた學者の見解の中には制度の改革に重點を置いたものがあつて、それは封建制度武士制度の存續を肯定する限り、實現のできない考案であると共に、人の意志と努力とを輕視する傾向がおのづからそれに伴ふを免れなかつた。尊徳などの意圖したところはそれとは違つてゐたのである。人の生活は制度によつて支配せられるのみでなく、その根本は人みづからにあることを、彼等は理解してゐたのである。ところが、時代はやゝ前に溯るが、かの安藤昌益がこれらとは全く違つた政治思想社會思想を懷いてゐたことが、近年に至つて世に知られた。そこでその思想を一瞥する必要がある。昌益の著作の遺存するものを全部讀むことができないために、著者の觀察は不十分なところの多いものであるが、讀み得た限りに於いては大なる誤りは無からうと思ふ。
 昌益は、人は穀類によつて生きてゐるものであるから、人はみな農耕してみづから食物を作るべきだと考へ、耕さずして食ふ政治的權力者や、武士や、商工業者や、文字書物を弄する儒者や僧侶などの如き遊民、の存在する制度習俗を、口を極めて非難した。農民の生産した食物を食ひ農民によつて養はれてゐながら、却つて農民の生命を奪ふものがこれらの輩である、といふのである。彼の住んでゐた東北地方の農民に生活に苦しむものの多いのを見て、かういふ考を起したものと推測せられる。さうしてその考の上に立つて、農民は直耕直織安衣安食無慾無亂であり自然の子であり、遠い上代はかゝる民衆のみの存在した自然の世であつたのに、政治的權力者が出てその權力を振ひ豪奢な生活をしようとするために、學問や文藝を興し書物を作り道といふものを説いてから、この自然の状態が崩れて、種々の政治上社會上の制度が設けられ兵亂も生じて、農民が現在の如き状態に迫ひつめられた、といふ思想を構成するこ(660)とになつたらしい。この自然の世の考は、昌益がシナの書物をかなり讀んでゐたことから推測すると、莊子などの書に見える、道家がその思想を假託した、上代觀を、殆どそのまゝ取つたもののやうであり、政治的權力者についての考は、彼の時代に流行してゐた徂徠の説に從つて儒教を解し、さうしてそれを逆用して道を作つたといふ聖人を攻撃したものである(こゝに國學者との類似がある)。この考へかたは道家や佛家にも適用せられたが、特に儒教の攻撃に力を用ゐたのは、それが彼の時代の政治制度社會組織の理論的支柱であるやうに思つたからのことらしい。當時の日本と昔のシナとを混同または同一視してゐた、といつてもよからう。彼はかう考へてそこからまた、我が國の上代は上記の意義での自然の世であつたのに、シナやインドの文物を取入れたことによつてそれが破壞せられた、といふ考を導き出した(こゝでも國學者との類似がある)。かゝる考の根柢には、農民をどこまでも純良なものとすると共に、人は衣食だにできればそれでよいとし、すべての學問も文藝も商工業も無用のものとして、文化を否定する思想があり、貨幣經濟をも否認してゐるが、これは實は、當時の農民の心理をもその生活の現實の状態をも深く察知しないものである。のみならず、人の生活を個人的にのみ見て、その社會性を認めない傾向さへもあるやうに解せられ、その側面では人の生活の道徳性が看過せられてゐるらしい。昌益が人と人との關係に於いて重んじたのは一夫一婦によつて成りたつ両性の結合であつて、そこに父祖から子孫に及ぶ縱のつながりを含めた家族といふ一小社會の存在を考へてゐたが、それも性慾のことが中心になつてゐるらしいので(こゝにも國學者や神道者の見解との類似がある)、自然を尊尚し人は自然に從ふべきものであるといふ彼の根本思想と、連路のあることであらう。從つて家族よりも廣い範圍の社會的集團は、殆ど考慮せられてゐなかつたのではあるまいか。農民もしくは農耕を重視しても、集團として(661)の農村の生活には注意を向けなかつたやうに見える。大きい政治的集團である國についても、萬人は一人であるから(同じく人であるからといふ意義か)、何人を王とし何人を民とせんや、といふやうな抽象的なことはいつてゐるが、日本の國が現實の存在として如何にして成りたち如何なるはたらきをしでゐるかといふことを、具體的には考へてゐないらしい。王といひ民といふ、日本にはあてはまらない、シナ風のことばづかひをしてゐることからも、さう思はれる。現代的意義に於いての國家といふやうな概念はもたなかつたであらうが、シナ思想によつて天下といふ語を用ゐてゐる場合のあることから考へると、日本がその天下の意義での一つの國であることだけは知つてゐたはずであるのに、それにづいていつてゐることはかういふ性質のものであつた。しかしそれはともかくもとして、世の中を被抑壓者たる農民とそれに對する抑壓者との關係としてのみ考へ、またそこから被抑壓者のために抑壓者を排撃することをのみ主張してゐたやうに見えるのは、彼が現實の世のさまをも人の生活をも理解してゐなかつたからのことと解せられる。國家にも社會にも多方面のはたらきがあり、人と人との關係も複雜なものであることに、注意しなかつたのである。人はみな同じであるといふのも、人の境遇なり能力なり志向なりがそれ/\違つてゐる明かな事實を無視して、構成せられたもののやうである。
 さて昌益は、上にいつた如き今の世の状態を改めて上代の自然の世に復原さすべきであるが、それは容易なことでなくまたその實現には長年月を要するから、さし當つては、武士には勿論のこと、商工業者にもその他の遊民にも、みな農耕をさせるべきだといひ、武士の農民化については政治機構の縮小によつてそれができるやうに説いてもゐるらしいが、如何なる方法でそれを實現するか、當時の農村の状態でそれが可能であるか、またそれで人がみな滿足し(662)得られ國民生活が成りたち得るか、農民すらもその生活が維持し得られるか、或はまた農民身身がそれを欲するか、といふやうなことは、考へられてゐないのではあるまいか。強ひてさういふことをしてもそれはぢきに崩れるのではないか、といふやうなことは、なほさら考へてもみなかつたらしい。農民をも農耕をも、それを外部から見て概念的に取扱つてゐるのみで、具體的な農民自身の生活態度生活感情生活意欲を體驗することをしなかつた、またはそれができなかつた、ためにかうなつたのであらう。根本的にいふと、政治上社會上文化上のあらゆるはたらきを農民に對する抑壓としてのみ見るのが、實は農民生活そのものを解しないからのことであり、上記の如き變革を行はうとするのも、當時の政治制度と社會組織と民衆の生活状態とが如何にして生じたかの歴史的由來を少しも顧慮しないからのことである。上代には自然の世があつたといふのも、權力着が出たためにその世が崩れたといふのも、歴史的事實を探求せずして、一二の書物の記載や一部の儒者の言説を盲信したものであり、特に儒家の思想を當時の政治と社會との支柱となつてゐる理論であるかの如く考へてゐるのも、上に考へておいた如く全く事實に背いたことである。儒教思想が徳川の世の政治制度や社會組織と一致しないものであることは、しば/\言及したとほりであつて、たゞ儒者のうちに漠然さう考へるものがあつたのみのことだからである。要するに昌益の思想は、彼みづからの公言したところとは反對に、多く書物の間から得て來たものであるので、彼の思想に通達した聖人が出れば、上代の自然の世に復歸することができるといつてゐるのも、聖人が出ればすぐに古の道が行はれると説く儒者の思想を、そのまゝ繼承したに過ぎない。かゝる思想は、古の聖人の世といふものは儒者の主張の上代に假託せられたものであることと、人の生活も世の中のありさまもすべて歴史的に推移して來たものであることとに、氣がつかないところから生じたもので(663)あるが、昌益が權力者が出たために自然の世が崩れたと思つたのも、何故に自然の世に於いてかゝる權力者が出るやうになつたかを考へてみなかつたからである點に、同じ過誤がある。從つて彼の主張したところは事實に基礎を置かない一種の空想であつて、現實性をもたないものである。もう一歩進んでいふならば、昔の自然の世に權力者が出たと同じやうに、今自然の世に復歸させてもその間からまた權力者が生じないとどうして保證せられるか。思想の上で文化を否定しても現實に於いて文化を絶滅することが果してできるか、よしできるとするにしてもそのあとで人がまた文化を作り出さないとどうして保證せられるか。或はまた現實の状態にたちかへつていふと、農民の生活についても、自然の災害を防ぎ耕作の方法を改良し收穫を多くすることによつてそれを豐かにする、といふやうなことには思ひ及ばず、自然のはたらきに對して、人の欲求と能力と任務とを重んずる、といふやうな考はもつてゐなかつたらしい。武力や商工業を用の無いものとするやうな見解が、世界の列國に對して日本の獨立を全くすることの要求せられるやうになつた後年の情勢に於いて、全く無意味のものになつたことは、いふまでもあるまい。
 なほ昌益は彼みづから一家の世界觀人生観をもつてゐる如くいつてゐるが、それもまた實はシナ思想に由來するところの多いものである。五行説を何につけても附會してゐることからも、それは知られる。さうしてかゝる性質の獨斷的な理論を現實の事態に適用しようとすれば、牽強附會の辯に陷ることを免れず、從つてそれは必しも彼の主張の思想的根據となつてゐるものではないから、こゝではそれには言及しないことにする。たゞ一言したいのは、昌益の主張とその行動とには一致しないところがあるやうに見えることであつて、當時の學問を有害無益のものとしながら漢文めかした文章で著作をしたことも、その一つである。昌益はまたオランダに關する知識を得ようとし幾らかはそ(664)れを得たやうにいはれてゐるが、そのことと上に記した彼の主張との間にどういふつながりがあるのか、明かでない。彼がもしオランダの國情と航海貿易に從事するオランダ人の生活とに興味をもつてゐたとするならば、それは彼の主張とはむしろ背反するものではなからうか。昌益の思想を知るにはこのことをも考へねばなるまい。ついでにいふ。國土はみな本來人民のものであつたといふ考を昌益がもつてゐたやうに見なし、更に一歩を進めて人民主權と土地共有との思想の萌芽をそこに看取しようとするやうな説は、用語の誤解から來た臆測ではなからうか。例へば天下は天が衆人に與へたものであるといふやうないひかたに於ける天下は土地のことではなく、また衆人は今日いひなれてゐるやうな政治的意義での、即ち治者に對する被治者としての、人民のことではない。これは天下は天下の天下なりといふやうなシナ思想から來てゐる言ではなからうか。もしさうならば、それによつて上記のやうな臆測はしがたからう。昌益の思想、その農民本位の考へかた、但し第三者の地位にゐて農民を見てゐること、武士を叨りに權威を弄し奢侈を縱にするものとして非難し、またその土着を主張すること、商工業を無用視すること、佛教の僧侶を遊民とすること、個人的關係から生じたものながら武士に對する一種の反感から人の平等を叫ぶこと、など、何れも彼の時代に多く行はれてゐたものであり、儒學や佛教を罵倒したのも、國學者が儒學を儒家が佛教を排斥したのを一まとめにしたに過ぎず、たゞそれが學派的の偏執でなく、すべての学問を無益有害のものとし、また農民を害するものとしてそれを非難しただけのことである。時流から超出した特異の見解といふべきものは、殆どそれに認めがたいやうである。
 
 かういふ考へかたに反し、積極的に産業を起して富の増加を圖るべきだといふ主張もある。儉約は個人としてはよ(665)いことであるが、一國(封建諸侯の國)としては貨財が多く生産せられ廣く國内にゆき渡ることが必要であるといつて、農民に種々の副業を營ませその生産品を國外に賣り出すがよい、といふ仁井田好古が富國存念書でいつてゐることも、その一つである。しかしその規模を大にして日本全國の富を増大しようといふのが、西洋の知識を有つてゐる方面から現はれた新しい經世策である。その第一は經世秘策を書いた本多利明であつて、鑛山の採掘を盛にし、海國たる我が國の地位を利用して海運業を興し、海外貿易を營み、蝦夷地及び附近の地域島嶼を開拓することを主張し、また河川改修や新田開發などの、いはゆる「開業」を力説した。焔硝の製造を大聲疾呼してゐるのは少しく奇であるが、それもこれらの開業を實行するために必要だからである。かうして彼は東洋の日本を西洋のイギリスに對立させ、この二國を世界の二大國としようとしたのである。次には佐藤信淵があつて、彼が家學たる農政から出立して盛に「開物」即ち生産業の振興を唱道し、内海の干拓や蝦夷地の開拓及び海外貿易の開始を主張したことは、周知の事實であり、その要領は垂統秘録や經濟要録などに見えてゐる。
 こゝに注意すべきは、蝦夷の地が非常な富源を有する如く考へられたことであつて、子平の三國通覧にはそこに豐富な金鑛がある如く説いてあり(この説の誤りは平秩東作の※[草がんむり/辛]野茗談に於いて指摘せられてゐる)、利明が寛政年間の作らしい經世秘策に於いて、中央の江戸及び南京の大坂と共に、そこに北京ともいふべき都府を建てることを主張し、文化のころに書かれたらしい西域物語に於いては、一歩進んでカムチャツカに本都を遷すことを説いてゐるのも、やはり經濟的意味に於いて蝦夷を重要視したからである。信淵もまた父祖以來の關係からこゝに注目し、文政年間の著である經濟要録には、蝦夷が開拓せらるれば皇國の隆盛期して待つべしといつてゐる。ロシヤ人の南下が天下の耳目(666)を聳動した時代、外國としてはロシヤが最も注意せられた時代、だからのことでもあるが、一つは新に人の知識に入つた未開の地方に對しておのづから生ずる好奇心と、冒險的意味を含んだ一種の期待とが、かういふ幻影を畫き出したのでもあらう。
 次に考ふべきは商權を國家の手に收めねばならぬといふ主張であつて、利明は口を極めて商人が渡海運漕交易の利を占めてゐることを難じ、米の賣買を政府の管理とせよといひ、海運及び貿易の官營をも説いた。信淵もまた互市貿易は勿論、天下の萬貨を官に統括すべきことを唱へ、それを復古法と稱した。東潜夫論の著者もまた、國内だけのことではあるが、大船を製造し海運を官營とせよといつてゐるのを見ると、商人が利益を獨占することを非とするのは、經世家通有の思想であつたらしい。後年佐久間象山なども類似の説を唱へた(海防八策)。もつともこれは政府の權力もしくは能力を過大視する因襲思想からも來てゐるらしく、信淵のやかましい六事府八民の案に至つては、すべての産業を政府の直營、もしくは少くとも直接の監督、の下に行はせる主旨のやうである。商人の勢力を有する現實の状態が如何に識者の注意をひいたかが、これによつて知られる。
 利明の考は西洋から得た知識に本づいてゐるだけに、陳套な儒者の説とは全く見地を異にした新經世論であり、信淵もまた同じ思想の系統に屬する頗る大規模の經濟策であるが、蝦夷開拓はともかくもとして、その經綸の根本たる海國的經濟論對外貿易論は、少くとも百五六十年間引續いて來た鎖國制を改めねばならず、同時に幕府の對大名策に大なる影響を與へるものである點に於いて、儒者の説の何れよりも遙かに大なる政治上の變革の主張である。國を富まさうとすれば、鎖國制は勿論のこと、その他の制度をも變革しなければならぬ、といふことを示したのがこの主張(667)に存する重大の意味なのである。民力の伸長と制度との矛盾はこゝでも暴露せられたので、富國の策が講じ難くかゝる考が實行し難かつた理由もまたこゝにある。但し利明には我が國の政治形態を改める意は無かつたらしく、どこまでも將軍を首長とした封建制度武士本位の政治形態の下に於いての、むしろそれを維持するがための、經綸策ではあるが、その經綸策の實行はおのづからこれらの制度の變革を導き出すものであることを、彼は思ひつかなかつたらしい。封建制度が河川改修新田開發の事業の妨げとなることをいつてはゐるが、さりとてそのためにこの制度を變革するやうなことは考へてゐなかつた。特に信淵の主張は、その三臺六府二京十四省(地方區劃)の制度が、我が國の古代の令やシナの官制に淵源を有する、さうしてそれに幾分の西洋から得た知識をも加へた、一種の空想案たるのみならず、それを如何なる政治形態の下に於いて行はうとするのかが、甚だ曖昧である。混同秘策に於いては、徳川氏の存在は認められてゐず、政權は皇室に歸してゐる如く説かれてゐるやうであるが、しかし封建制度は依然として存續する如く見え、それでありながら諸國に國司を置いて諸侯を統括させるやうに書いてもあるし、また軍隊はすべて募兵制によることにしてある。何れにしても當時の政治形態を根本的に覆へさねばできないことであるが、如何にしてそれを覆へし得るかは問題外に置かれてゐる。だから彼等の經綸策は、今から見れば當時の時弊を救濟するに於いて重要な意味のあるものであり、また後年の政治上の變革と新しい國策とに對する一種の豫言として見らるべきものを含んでもゐながら、彼等の時に於ける彼等自身の思想として觀ると、やゝ空中樓閣の如き感じがある。信淵が一々精細な官制案を立ててゐるのも、一つは多くの儒者の机上の考案が、直ちに實行せられるもののやうに細かく思ひつきを述べてあるのと、同じ心理の現はれでもあるが、一つはまた本來空想的傾向のある立案だからでもある。だから彼(668)等には、その方策が非常の變革をあらゆる方面に齎らすものであるにかゝはらず、毫も時勢に反抗するやうな態度が無く、革命的氣分の如きはそれには全く認められぬ。あの如き大變革が容易に成就し得べきものの如く考へ、甚だ平靜に説きなしてゐる。さうしてそれはやはり、彼等の考案が主として書物の中から抽き出されたものである故ではなからうか。利明の蝦夷開拓説の根據をなす科學的地理的知識が頗る不完全であつたことは既に述べたが(第十七章參照)、その他の「開発」に關する諸案件についても、また恐らくは同じ憾みがあらう。信淵についてもまた同じことがいはれよう。かういふ考案が直ちに現實の問題となり難かつたのは、怪しむに足らぬ。
 のみならず、利明などに於いても、やはり因襲思想を脱却し得なかつた點がある。儒者の改革論は如何に農民に同情してゐても、第三者の目で農民を見てゐると共に、何ごとにつけてもその處置を官府に要求してゐる。これは民を治めることを政の本旨とし、民はどこまでも官命に從ふべきものとする儒者に於いては、當然の考であらう。利明などに於いてもこのことは同樣であつて、利明が農民の困窮に對して滿腔の同情をよせ、經世秘策の第一篇はそこから出發してゐるにかゝはらず、やはりその根柢に儒教的仁政思想が存在する。信淵の見解にシナ思想が強くはたらいてゐることはその論著を見れば明かであるが、かの空想的官制案に於ける教化臺の名の如きも儒教的である。實行家たる尊徳や幽學は儒者として身を立てたものでないだけに、この點では頗る趣きを異にしてゐるが、それでもともすれば農民を受動的地位に置いてみる場合が無いでもない。たゞ直接に農民に接觸してゐた代官または庄屋などの任務をもつてゐたもののうちには、却つて身を農民の地位に置いて農民のために憂慮し畫策するところのあつた特志者がある。
(669) さて利明などの意見は西洋から得た知識に本づいてゐるのみならず、いはゆる西力東漸の形勢に刺戟せられて形成せられたのでもあるが、文化ころからの時務策には直接間接にその意味の含まれてゐないものは無く、同じく武家の窮乏を論じ農民の困厄を説くにしても、主として對外的見地からせられてゐるものが多い。或はむしろ對外問題がかかる時務策の研究を喚起したのであつて、國内の經濟問題が西洋諸國の東方侵略に對する反抗の意を帶びて取扱はれることになつた。次章にいふやうに、人を見れば敵と思ふ武士氣質は、對外關係をすぐに敵對關係戰爭關係として考へさせるのであるから、それについて富國強兵が第一に人の考慮に上り、從つて對外聞題は取りも直さず窮乏せる武家や國民を如何にすべきかの内政改革問題となるのである。不恤緯が開卷第一に、尊王室、富諸侯、樂百姓、の三策を擧げたのを見るがよい。しかし改革の方策にも富國強兵の術にも、何等の新案は出ない。だからそれは畢竟、蕃山徂徠以來の同じ問題が對外關係のために新しい刺戟を受けて反覆して提出せられたに過ぎないものであつて、いはゆるアメリカ使節の渡來以後に參覲制の改正や武士土着が事新しく論議せられ、後には參覲制や大名の家族の江戸住ひが事實ゆるめられて、そのために大名の制御ができなくなり、幕府滅亡の氣運を早めるやうになるのも、この故である。たゞ當面の問題が主として對外的國防に集中せられるがため、大名の財政救濟は考へられるが、貧農の生活問題などは却つて閑却せられるやうになる。國民の一部分のことだからでもあるが、それよりも切迫した日本の國家の存亡に關する大問題が目前にあるからである。
 國防としての軍備の充實策については、こゝに一言を要することがある。それは西洋兵制の採用といふことが問題(670)になり、さうしてそれが行はれゝばおのづから、封建制と武士制との根本を動かしてゆくことについてである。西洋の法による海軍の設立は早く北地危言などによつて唱へられたが、信淵に於いてはそれが上記の海國的經濟策と關聯して考へられ、海運事業と海軍とは離るべからざるものとせられてゐる。東潜夫論、蒲生君平の形勢論、松本斗機藏の獻芹微衷、などは、主として國防の上から戰艦の建造を説きながら、やはり海運にそれを利用しようとし、開國説に傾いてゐる古賀※[人偏+同]庵の海防臆測も、當時なほ攘夷論者であつた佐久間象山の海防八策、極端な攘夷主義者たる會澤安の新論、なども、船艦建造には一樣に賛成した。陸軍についても、國防のために西洋式砲術や兵制を學ぶ必要の感ぜられたことは、いふまでもない。本來戰國時代からの因襲として存在し、政府としては内亂防禦または鎭壓のためと思はれてゐた軍備が、外國に對する國防の必要から考慮せられることになり、軍備の性質に一大變化を來したのである。しかし封建制度である限り、對外國防の充實は諸藩の武備の整頓と強化とによらねばならぬが、戰國割據の遺制がそのまゝ繼承せられ、その精神も全く滅亡してはゐない封建制度の下に於いては、軍備が對外的のものとのみはなり得ないので、諸大名が各自に軍隊を有することは、對外的のものとして最も必要な兵制の統一ができないと共に、大名に附與するに幕府に反對する實力を以てすることになり、むしろ幕府の敵國を多く作ることになるのであつて、こゝに封建制度が新しい時代の要求に適しない事實が現はれて來た。(事實、維新の際には諸藩の軍備が内亂に利用せられた。)新式海陸軍の編制が武士制度と矛盾することも、また明かな事實である。世襲的武士を本位とする制度のある限り、軍備には武士みづから當らねばならぬが、その武士の階級組織や精神やは新しい武器船艦を用ゐる新しい海陸軍の成立とは相容れぬものであり、戰國時代の軍政主義から繼承せられてゐる、官吏がすべて武士であるといふ(671)制度もまた維持し難くなる。しかしこれらは、現實にさういふ海陸軍を編制する際までは、痛切に感知せられないことであるから、學者の議論のみが行はれてゐる時代には、そこまでは考へられなかつた。(文久二年の軍制改革の調査委員舍に於いては明かにこのことが承認せられた。)たゞ天保の末から弘化嘉永の交になると、沿海防禦の必要がさし迫つて感ぜられ、それがために土着兵もしくは農兵の設置が幕府や大名によつて現實に計畫せられ、蕃山以來の改革論者が斷えず提唱して來たことが全く別の動機から實行せられねばならぬことになると共に、それによつて傳統的武士制度の一角の崩壞する端緒が開かれるやうになるのである。
 しかし西洋式海陸軍の設置については反對論もある。山陽の通語に短兵接戰を可としたなどは、時が早いから且らく別問題として、海防問題のやかましくなつた後にも、羽倉簡堂の海防私策や舊式軍學者たる山鹿素水の海防全策などには、西洋の制は我が國に適しないといふやうな考が見え、特に簡堂は、銃には火繩銃が睦戰には隊伍を立てないがよく、水戰には小舟がよい、とさへいつてゐる。簡堂の説を難じてゐる大槻磐溪すら、獻芹微衷では頗る半呑半吐の説を述べてゐる。なほ守舊論者の考には我が長を以て彼の短に乘ぜよといふ一種の國民性保持論があるので、藤森天山の海防備論は、西洋の兵は「士」ではなく隊伍操練法は士の廉恥心を害する、といふ理由から反對説を唱へてゐるが、武士を士と見る儒者の考からはかういはねばなるまい。「船をのるわざ得たりとも、火を放つわざ得たりとも、人ごとに身もたなしらず、い向はゞ恐るべしやも、」(詠外事歌隆正)といひ「嗚呼武夫一箇氣、戰器兵械不足用、」(玉池吟社集所載源弘軒)といふものさへあつたではないか。一方では銃砲の力を讃美してゐる磐溪に「任他火砲轟天響、引之於陸一撃擠、當其衝突短兵接、使彼砲車不遑提、」(擬日本刀歌)の作のあるのも怪しむに足らぬ。「刀鋒是鋭無如(672)我、火器之精在佛郎、武備全成吾所望、請君舍短取其長、」(星巖)の無意味な折衷説は當時に於いてはむしろ穩當の見とせられたのであらう。武士制度によつて養はれた武士の氣風は、西洋の兵制を取入れ從つて武士制度そのものを廢止するやうになつても、決して無くなりはせず、それによつて却つて西洋の兵制が生かされることは、明治年間の海陸軍によつて實證せられた。農民などでも新兵制の組織に入ることによつてこの氣風をうけつぐのである。しかし幕末の守舊論者にはさういふことは考へられなかつた。「聖賢有作順風氣、不敢後天存結繩、底事世間村學究、東方日出尚然燈、」(象山)、國民性なり國民の長所なりをかゝることに認め、日出でて後なほ燈を燃してゐるものがこの時にあつたのは、後の時代の状態から考へても驚くには及ばぬ。たゞ國家經營の現實的要求は、事實上かゝる守舊主義者の所説を反證しつゝ世を進めてゆくのであつて、知識あるものの知識も世と共にまた進んでゆく。これはたゞ兵制ばかりのことではない。西洋の文物を學ばうとする幕末十餘年間の旺盛なる文化運動は、かくの如くにして展開せられるのである。
 
(673)     第二十三章 對外思想
 
 家光の時に邦人の海外渡航とポルトガル船の來航とを禁止したのは、必しも永久の制度としていはゆる鎖國の國是を定めたのではなかつたらう。幕府の法令のすべてがさうである如く、速い未來のことは初めから當局者の考慮に入つてゐなかつたので、それはたゞ當時の状態に於いて、さういふ政策をとることの必要を感じたまでであつたらう。延寶元(一六七三)年にイギリスの東インド商會の船が來て貿易の許可を請うた時、長崎の役人は頗る懇切にそれを待遇し、貿易の許可を幕府から得ることが全く不可能ではない、と思つてゐたらしい。幕府からの指令は不許可となつたが、それは當時のイギリスとポルトガルとの王室間に存在した姻戚關係や、イギリスとオランダとが商業上の競爭者であり特にその時には兩者が戰爭状態にあつたことやが、累をなしたのではあるまいか(ケムペルの日本史のイギリス語譯本の第二卷の附録に見える當時の使節の報告及び通航一覽)。本來キリシタン禁遏の一手段としてポルトガル船の來航を禁じたのであるから、その主旨の知られてゐた間は、一切の外國船を峻拒しようとしなかつたのは、當然である。もつともキリシタンを危險視する思想は後までも無くならず、吉宗が蘭學の道を開いてやつた時にも、このことについての顧慮はあつたし、彼が海外渡航の禁を解くやうなことに思ひ到らなかつたことにも、その根柢にこの思想があつたに違ひない。けれども貿易を求めて來た國がキリシタンの名で知られてゐたロオマのパッパの權力下にある宗派と關係のあるものかさうでないかの辨別は、しようとすればできたのであらう。
 しかし年を經て當初の精神が忘れられると共に、社會が固定し舊慣が重んぜられ、かりそめの先例でも先例である(674)ためにそれが固守せられるといふ世の中になると、深き理由なしにいはゆる鎮國が動かすべからざる祖法と考へられ、さうしてそれを是認する理由が案出せられる。對外思想が禁教の問題から一轉して貿易を主として考へるやうになつたことは、前篇(第二章)に述べておいたが、金銀や銅の海外に輸出せられるのを見ては、我が有用の品を以て外國無用の物に代へるのが貿易であるといふ考が起り、「不識膏腴竭、唯供心目娯、」(華夷互市圖古賀清里)といはれ、その點から鎖國の良制なることを主張することにもなつた。この考は偏狹な儒者ばかりではなく、早く新井白石にもそれがあり(折り焚く柴)、青木昆陽もさう説いてゐた(經濟纂要)。長崎の警察の職務が主として拔荷の防遏であつた時代の意見である。ケムペルが日本史の附録に於いて日本の鎖國の是認し得られる理由を述べた一章が、鎖國論の名で翻譯せられたのも、主としてかういふ思想に共鳴するからであつた。しかし三輪執齋などの如く必しもこの見解に賛同しない學者もあつたし、中井竹山や山片蟠挑もこの考には反對してゐるが、しかし鎖國制度に異議をもつてゐるのではなく、西洋の知識を多く受入れてゐた蟠桃すら、貿易の問題とは別に、邦人が海外に行かず外人が我が國に來て西洋の文物を傳へることを、國の誇りとして讃美した。國學者が長崎貿易を朝貢と名づけて得意げであつたのは、シナ人の態度をまねたものではあるが、一つはやはり同じ理由からであつたらう。なほ鎖國の結果として外人に接する場合が無いため、夷狄としてそれを非人類視するシナ思想、もしくはそれに由來のある國學者の思想、に惑はされるものが、このころになつて多くなり、それが鎖國制度を正當視する一理由ともなつた。シナ思想に於いて夷狄を輕侮するのは、その夷狄と交通を絶つ意味のことではなく、却つてそれを服從させそれを包攝しようとするのであり、またそれは江戸時代の鎖國制度の原因となつた海外の勢力の侵略を恐れる氣分とは反對の心もちであるが、當時の儒者(675)はそのことを解せずして、夷狄觀を鎖國制度と結合して考へようとしたのである。鎖國の世に生れ鎖國の國に育つた當時の儒者には、江戸時代初期の儒者がもつてゐたやうな四海同胞の觀念などは、全く失はれてゐた。しかし「石火矢に春ゆく船の行くへかな」(大江丸)と大砲の音も長閑に聞く世の中には、それで事なく濟んでゐたのである。ところが安永天明のころに、一方では蘭學が行はれて西洋の事情が少しづゝ知られ、他方では蝦夷地に於けるロシヤ人南下の形勢が人の注意をひくやうになると、對外思想に新しい色彩がついて來た。一つは世界列國民間の交通貿易が自然の状態であることを知らせ、他は直ちに國防の問題を惹き起させたのである。ロシヤ人が北部千島を占領したのは、事實としては、必しも日本の領土を侵略しようとしたのではない。蝦夷地は半ば化外に置かれ、全權が松前に委任せられてゐたが、いはゆる請負制度の下に漁利を得ようとするものが漸次その行動の範圍を奥の方に擴げていつた結果として、今の北海道の沿海地方の全部をその手に收めた上に、カラフトと千島との方面に進出しかけた時が、恰もロシヤ人の北方から南下して來た時とほゞ同じころであつたので、日本にもロシヤにも屬しないその地方の蝦夷人の住地を、日本人は南からロシヤ人は北から占領してゆく形になり、この二勢力が千島に於いては既に日本人の勢力範圍に入つてゐたウルップ及びエトロフの北方で、またカラフトではその中部の或る地域で、衝突したのである。けれども、一つはロシヤの東方經略の形勢が蘭學者によつて傳へられてゐたのと、一つはカラフトにも千島にも自然的境界が無く、またカラフトの主なる地域と千島の全部との住民が日本の領民と同じ蝦夷であるのと、今一つは武士の習ひとして人を見れば敵と思つて警戒する傾きがあるのと、これらの事情のために、日本人の目にはロシヤは我が北門を窺※[穴/兪]するものとして映じた。三國通覽圖説を著したころの林子平は、蝦夷地の政治的地位についてかなり曖昧(676)な書きかたをしてゐるが、日本が今に於いて確乎たる處置をしなければ蝦夷地の金山はロシヤに取られる虞れがある、と明言してゐるのは、かゝる情勢のためであらう。さうなると、内地近く海上に出漁するいはゆる黒船の帆影が、恰も探偵か斥候かである如き感を、日本人に與へた。子平が海國兵談に於いて國防の急を論じ、また江戸附近に防備の無いことを痛論したのも、この故である。江戸の日本橋より唐オランダまで境なしの水路なり、といふ有名の言は江戸灣防備のためにいつたことであつて、外國船は長崎にのみ來るものと思つてゐる世人を警醒したのである。幕府が寛政三年に發布した異船取扱ひ方の訓令は、すべての異國船を敵と見ての用意を示したものではないか。文化の初年に通商の開始を要求するために來朝したロシヤの使節レサノフの一行に對し、蜀山からは國威を發揚したと評せられ(尺牘)、蟠桃からも同じく讃美せられながら、司馬江漢からは極めて「非禮」の待遇、甚だ「失敬不遜」の囘答、と攻撃せられた(春波樓筆記)やうな處置をしたのも、歸還漂流民を訊問するに當つて敵國に捕虜となつたものにでも對するやうな取扱ひをしたのも、また奉使日本紀行の記者をして日本人の猜疑深きを笑はしめたのも、かゝる思想からであるが、この考は「赤狄情難測、紅夷信未傳、」(淡窓)と邦人を不安にしたイギリスのオランダ植民地占領、それに關聯したイギリス船長崎入港事件、また千島方面に於けるロシヤ人の暴動によつて、一層強められた。蒲生君平の不恤緯、大槻磐水の捕影問答、古賀※[人偏+同]庵の海防臆測及び擬極論時事封事、などの現はれたのも、また平山行藏が上著して「夷狄者非人類」といつたのも、みなこの前後のことである。
 蝦夷地を收公し幕府の手で開拓事業を起したのも、また主として國防のためであつた。「朝宗一日歸中土、守衛千秋備外夷、爲報毛人嚴鎖鑰、北門便是鄂羅斯、」(淡窓)。中井履軒は蝦夷地を不毛のまゝに放置せよといつて(年成録、(677)邊策)、馬場正通に駁撃せられたが(邊策發矇)、それも國防の眼で見たのである。本多利明の蝦夷開拓論は別に經濟上の理由があるが、それでも棄て置けば異國に歸するといつてゐる(西域物語)。「君が代の外なる海の上なれば如何なる波の立つも知られず」(兒山紀成)、北門はかくの如くに危ぶまれたのである。警戒を要するは固よりロシヤ人ばかりではない。イギリスもまた油斷ができないと思はれてゐた(捕影問答)。のみならずシナもまた恐れられ(海國兵談、不恤緯、西洋列國史略附録防海策)、朝鮮さへも危險視せられた(防海策)。外國は何れも敵として見られたのである。定信の婆心録に、家康や家光が明を心もとなく思つたといふ話の引用せられたのは、怪しむに足らぬ。
 かういふ思想が一般に行はれてゐた時に、鎖國思想がます/\固められたのも無理はない。レサノフに對し通商の要求を峻拒した理由が、キリシタンを問題とせずして鎖國制度を動かすべからざる「朝廷歴世の法」とし、また貿易が「海外無價のものを得て我が國有用の貸を失はん」といふ點にあつたならば、それは上に述べた鎖國是認の主旨が公式に採用せられたことを示すものであつて、延寶元年のイギリスに對する囘答とはその精神が違つてゐることを、注意しなければならぬ。一般の外國人に對する意味に於いての攘夷論といふほどなものは現はれなかつたけれども、平山行藏や蒲生君平のいふところは、後の攘夷論者の口吻と同じである。のみならず、幕府がロシヤの使節に對する命令的態度が、既に彼を夷狄視したものであつて、それはオランダの商人に對する長い間の習慣から養はれたものであるが、シナ的また國學者的思想にも一つの由來があらう。けれどもまた一方には貿易許容論者も生じてゐた。三國通覽補遺の著者がカムチャッカに於けるロシヤ人との交易を主張したのは、政略上の理由もあるが、杉田玄白が交易許容論(野叟獨語)は、ロシヤ人に我が國を奪ふ野謀があるのではなく、世界共通の習慣によつて平和な通商を求める(678)のであるから、我が國はそれに應ずべきである、といふので、平和な人道的見地から來てゐる。馬場正通も有無交易は天下の常理であると論じた(邊策發矇)。松前奉行が公文書に於いて對ロシヤ貿易開始の意見を幕府に具申したのも、レサノフによつて示された要求の正當たるを承認したからのことらしい。また司馬江漢はロシヤとの交易は米價を高くして武家を保護するためにもなるといひ、經濟上からそれを主張した(春波樓筆記)。古賀※[人偏+同]庵もまたレサノフに對する通商拒絶を失計とし、和親論を唱へたが、たゞそれに武備を講ずるためであるといふ理由をつけたところに、當時の幕府の處置とそれを是認する一部の世論とを顧慮しなければならなかつた、時勢の趨向が見られようか。(擬極論時事封事、答千住某問書。以上は對ロシヤ問題についてのことであり、それにはカムチャッカ方面へ我が船を出さうといふものもあつたが、多くはロシヤ船の來航をオランダ船の如く許すといふ消極的のものであつた。ところが、利明や信淵の貿易立國策はこれらとは違つて、我が國から進んで世界萬國に航海し大に通商貿易の利を開かうといふ大規模な考であつて、國を富強にする術はこの外にないとした(經世秘策、西域物語、防海策、など)。要するに貿易許容論の主旨は一樣でなく、中には例の武士氣質から來た考もあるが、それにしても鎖國の規制に拘泥しなくなつたのは、直接にロシヤ人から交渉を受けるやうになつた時勢と、西洋から得た知識との故である。
 けれども、世界的通商貿易の大策を唱道した利明も信淵も、一方ではまた海外征討論者であつた。或はむしろ通商政策がこの征討論と絡みあつてゐた、といふべきであらう。この主張は西洋諸國の東洋に對する侵略的行動に刺戟せられて生じた一種の對抗的感情のおのづからなる發露でもあるが、それが當時に受入れられたのは、一つはやはり武士の思想に適合したからでもある。封建制度の下にあつて他の藩國に對し自國の勢威を強めようとする戰國的氣分の(679)なほその胸臆に潜在せる武士が、その氣分を一國としての日本の外國に對する態度に轉化させるのは、自然の趨向である.利明が日本の附近にある無主の島々を征服せよといつてゐるのは、經濟上の意義を主とした植民政策としてのことであるが(經世秘策、西域物語、防海策)、信淵はその空想的新制度の提唱に關聯して、東方アジヤの大陸及び南洋諸島の征服を主張し、その策源地及び出兵の道筋なども考へて、いはゆる宇内混同の白日夢を描き出してゐる(宇内混同秘策)。※[人偏+同]庵の答千住某問書に、オオストラリヤを征服して海外の根據地とし、オランダと同盟してロンドンを破り、更に東に向つてロシヤを討たん、といふ「衙餅の放談」を載せてあるのを見ると、ロシヤ事件に對する反撥がかゝる放談ともなつて現はれたことが想像せられる。東潜夫論にもルスン征服論が述べてあるではないか。かうなると、それはもはや平和な通商貿易論を飛び離れた一種の攘夷論、漢の武帝や唐の太宗を想起させる夷狄征服論であるが、それは幕末の島津齊彬、橋本左内、などの東亞經略論にも一脈の連繋があることを思ふと、思想史上、全く閑却すべきものではない。
 ところが信淵のこの思想の根柢には、日本は世界の宗國であり世界はすべて日本に服屬すべきものである、といふ國學者的空想のあることは、彼が天柱説及び天地鎔造化育論の著者であることからも、推測せられる。早く宣長がその馭戎慨言に於いて、上代に韓地が服屬したといふことをひどく誇張して解しさうしてそれを喜んだり、秀吉の朝鮮役を讃美したりしたのは、これがためであつて、それを繼承した篤胤は征夷大將軍の「夷」は世界萬國のことであるといひ(伊吹おろし)、また「大君に神のよさせる戎國のはては御國の御馬飼の國」ともいつてゐる。守部もまた國學者的見地から蘭學の流行を外國服屬の階梯だと考へた(神風問答)。宣長は明かに鎖國制を讃美し(馭戎慨言)、篤胤(680)も同樣であつたが(古道大意など)、外國征服には二人とも狂喜してゐた。その間に矛盾があるやうであるが、これは彼等の時勢順應の考と世界に對する日本本位の思想とが十分に融合せられてゐないからのことであり、從つてその外國征服論は徒らに遠い過去の夢を追ふのか、または紙上の空論たるに過ぎないかであつた。國學者の國自慢も日本本位主義も本來文字の土のことであつて、初めから現實の問題とは關係がないから、對外思想とてもまた同樣である。水戸人が「宇内至專天日嗣、須令萬國仰皇朝、」(藤田幽谷)と詠じたのも、またその類である。
 しかし國學者の思想は別としても、外國の勢力に接觸して自國の地位を省み、延いて武力的國威の發揚に想ひ到り、外國征服論の形に於いてそれが現はれるのは、武士の世の中には自然の勢である。だから「思ふぞよ新羅百濟の國までも我が日の本の波かけし世を」(定信)といひ、「願復神功舊、叩頭稱外藩、」(淡窓)といふ氣分は、當時に於いてかなり世に廣がつてゐたらしい。豐公の外征もまた稱讃の的となり「天の下拂ひ清めて四の海の外さへ照らす豐國の神」(秋成)と歌はれ「故國將星落、班軍事可嗟、洋々鴨緑水、誰復問支那、」(淡窓)とも詠ぜられたが、前代に於いてそれが甚しく非難せられ、近いころでも一方では梅園が飽くことなき慾の故として誚り(梅園叢書)、杏坪が「無復一毫利後昆」(※[獣偏+蝦の旁]精行)と評し去つたこともあるのに對照して、時勢の變遷を見るべきである(前篇第二十三章參照)。秀吉の外征は固より彼一人の戰國的功名心から出たことであるけれども、それを國家的事業ででもあるかの如く見ようとするのが、このころから始まつた考である。利明の秀吉讃美にもまたその氣分があらう。義經の蝦夷に逃れたといふ話が殆ど史實の如く考へられ、それが更に一歩進んで「廷尉剏國七百年」(鵬齋)といはれ、義經が蝦夷に國を建てた如く誇張せられたのも、やはり同じ思想の反映であらう。蝦夷地經營に關する享和二年の幕府の訓令に、蝦夷人(681)に日本語を使はせるやうにし日本人は決して蝦夷語を用ゐるなといふことがあるが、これもかの秀吉の語として傳へられてゐることに淵源のある國學者的日本本位思想の發現であつて、上記の秀吉讃美論と互に參照すべきものであらう。かういふ態度で蝦夷人の同化のできるはずの無いことは、いふまでもない。(義經が蝦夷に逃れたといふ話は、室町時代の「御曹子島渡り」などに源を發したのでもあらうか、江戸時代の中ごろには既に世に存在したらしい。英雄を徒死させたくないといふ感情と一種の好奇心とは、かくの如き物語を世に流行せしめたのである。白石も蝦夷志で、蝦夷人の祭る神は義經であつてその地の東部に生時の住趾もあるといつてゐるが、元文年間に書かれた蝦夷行記といふものに、蝦夷人が義經を神として崇拜することも無く、辨慶に關する話も浮いたことであるが、淨瑠璃にそのことが語られてゐる、といつてあるのを見ると、蝦夷人の間に傳誦せられてゐた敍事詩中の英雄を、日本人は義經主從のことと思つたらしい。石楠堂隨筆に見える近藤守重の話によつて考へても、さう思はれる。ところが、明和年間の作である源内の淨瑠璃源氏大草紙には義經に蝦夷を征服させてゐ、常山棲筆餘にも事實らしく書かれ、少し後の谷川士清の鋸屑譚には加羅布登に祠があるとして金の將軍に附會してある。さうしてそれが蝦夷問題のやかましくなるにつれて漸次もてはやされ、對外經略の思想によつて潤色せられるやうになつたのであらう。利明も義經の蝦夷地に入つた話を信じてゐたらしい。)
 かういふ時勢になると、人の眼界がおのづから廣くなつて海外に及ぷ。間宮林藏の滿洲探検はいふまでもない*。外國に對する特殊の意見を有たない詩人ですらも、時には海外に想をはこぶことがある。地理は當つてゐないが、「餞日認醫無閭山、望空指俄羅斯天、曾聞滿洲隣山丹、※[禾+氏]疑島外濤無邊、」(逢某使歸蝦夷因記其話)といひ「鰈海雲腥靺鞨雨、(683)蟹郷月黒任那天、」(航海列佐渡)といふ鵬齋の作を見るがよい。或はまたことにつけをりにふれて、特に外國に對する意味での國自慢が流行する。唐人酒宴の圖に「少名彦神のはじめし御酒ぞとも知らでゑらぎて酒みつぎすも」と題し、元日富士山を見て「日の本の不二の高ねに霞みそめて八十から國も春や立つらむ」(以上栗田土滿)といふなど、國學者の口くせながら、現實に對外問題の起つた時にそれが強調せられるのは、怪しむに足らぬ。「蠻舶行天下、看過幾萬山、何縁特畫此、應爲甲人寰、」(題紅夷畫富士茶山)、その畫が果してオランダ人の描いたものかどうかは知らぬが、茶山が世界に向つて富士を誇らうとしたことはこれでも知られる。風景の國自慢は國學者に限らず、またシナに對してばかりではなくなつた。
 が、世界の形勢はまだ急激に切迫しては來なかつた。文化の末から文政にかけてはロシヤとの紛擾もかたついて、蝦夷地は松前に還され、ときたま捕鯨船の帆影が見え、大津の濱や寶島の上陸事件があつても、無鐵砲な異船打拂令(文政八年)で海上は静かになつたやうに思はれるほどであつた。「磐石巍然放※[火+貢]臺、波濤日打不曾頽、太平時節却無用、付與閑人看月來、」(詩佛)、海防問題もどこかに消えてしまつた。「北指※[口+渦の旁]蘭船、南觀甌越船、樓窓※[まだれ/槿の旁]數尺、臥※[門/規]萬國天、互市居貨物、倉庫觀駢※[門/眞]、一竿出樹※[木+少]、時見彩旗翻、」(山陽)、長崎の風もまた長閑にふいてゐるではないか。現に山陽は荷蘭船行に於いて防備の嚴に過ぐるのを嘲笑してゐる。星巖もまた同じところで、「時清不見窺※[穴/兪]者、夷往蠻來二百年、」と歌つた。長崎は依然としてシナやオランダの珍貸の集まるところ、詩人に竹枝の材料を供するところ、風流の天地、絃歌の世界、である。山陽が佛朗王歌に於いてナポレオンの窮兵※[黒+賣]武を譏つたのも、無理ではない。「方今五洲休奪攘」、せ界は長へに太平と觀ぜられたのである。かういふ見地からは、昔の秀吉もまたナポレオンと同(683)じに考へられるので、山陽の詠史には秀吉についてその外征を讃めたことが無い。日本樂府の※[如/手]鞋奴を見るがよい。勿論、一方では信淵の宇内混同秘策や會澤の新論が恰もこのころに書かれてゐるし、「征韓諸將陷王宮、豈與曩時海賊同、恨不長驅向燕薊、早教西土仰東風、」(幽谷)と詠じたものもあるが、他方にはかゝる空氣の存在したことをも否むわけにはゆかぬ。さうしてその混同秘策の空想的なことや、大津濱事件の刺戟もあつたらしく頗る激越な調子を帶びてゐる新論の歸結が「今夫欲開不拔之業、宜立其大經、而明夏夷之邪正也、」(第五長計篇)といふ、實は甚だのんきなものである點に、やはり太平の氣象の一面が反映してゐるともいはばいはれよう。「醜虜窺※[穴/兪]既有年、廟堂何事尚恬然、」(幽谷)と憤慨するものばかりではなかつた。
 
 ところが天保の中ごろになると、對外問題が再びやかましくなつた。モリソン一件について高野長英や渡邊※[華の草がんむりが山]山は、「非法の御取扱」といはねばならぬ打拂令の實行が國家の大患となる虞れのあることを論じた(夢物語、愼機論)。實は人ではない船のモリソン號が漂流人を送つて來ながら「打拂」の應酬を受けてその親和の使命を果さずに歸帆した後のことであつた。それから間もなく鴉片戰爭の話が傳へられた。「邇來太猖獗者英賊、心如饑狼貪無極、蠶過殆遍歐羅巴、南向欲呑支那國、」(竹堂)。爪牙の我が國に及ぶのもほどがあるまいと考へられた。問題は三十年前のロシヤから一轉してイギリスとなつたのである。天保の末には、日本は舊習を一變して世界と交通するのが得策である、といふオランダの國王からの公式の忠告さへも來た。形勢はいよ/\切迫した。もはや白日夢を語つてゐる時節ではなくなつたのである。
(684) この形勢が當時の武士に如何なる衝動を與へたかは、いふまでもない。丈政年間の大津濱事件についての囘天詩史の記事を讀むものは、それを以て外國の國家的政策の發現ででもあるかの如く速斷して、邊海を窺※[穴/兪]する醜虜の傲慢無禮と憤慨し、神州の正氣を伸ばすために彼等を鏖殺しようとした、水戸の武士のあることを知るであらう。高橋作左衛門の建議に本づいたといふ打拂令は、異船の行動を邊海窺※[穴/兪]の賊と見たのではなく、捕鯨船の行動と國家の政策とを別のものとして考へてゐたのではあるが、小うるさい醜虜をよせつけないやうにするために、見當り次第打ち拂へ、といふのであつて、そこにもやはり外國人を夷狄視する考と武力を以てそれに對する武士的態度とがある。(打拂といふ語はもとは密商船取締に關する享保年間の法令に用ゐられたものである。)人種または風俗習慣の甚しく異なる異民族を劣等視し夷狄視するのは、昔からの多くの文化民族に共通な偏見であつて、これは當時の西洋人にも、勿論、存在したのであり、彼等がそのいはゆる未開民族に接するに當つて往々暴力と譎詐とを用ゐたことも、また明白な事實であつて、東方侵略の迹がよくそれを示してるる。日本人が西夷を國を奪はんとするものと見たのは、必しも武士の猜疑心からばかりではなく、かういふ事實に刺戟せられたためである。信淵が天保初年の著である實武一家言に於いて、西洋諸國は我が國を併呑する野心を有つてゐる、と説いてゐるのも、同じ考からであらう。鴉片戰爭の如きも、よし長い間のシナの政府の無智と傲岸とがそれを導いたにせよ、直接の動機から見れば、如何にしてもイギリスの不徳義と横暴とを薇ふことはできぬ。私人の行爲としても日本の近海に來た捕鯨船の船員の中には亂暴をはたらくものが無いでもなかつた。だから、日本の武士のこの態度は、決して理由の無いことではない。しかし他の方面から見ると、當時の日本人の考は、世界の大勢をも西洋諸國の現實の状態をも知らず、國家競爭の他の一面に於いて(685)平和の交通が列國民の間に行はれてゐること、我が國に對しても漂流民の救助や送還が眞の好意から出てゐることを、理解しなかつたところからも來てゐるのであつて、それにはしば/\述べた如き戰國以來の武士氣質もしくは武士の因襲的偏見に本づいてゐるところがある。世間の對外論のみならず幕府が異船に出合はないやうに沖乘りをするなと船員に命じ、または文政の打拂令を改めて寛政の舊に復したなども、畢竟は外船を敵と見た上での事なかれ主義に外ならぬ。だから鴉片戰爭の報知はかういふ對外論にその實證を提供したやうなものであり、日本人をしてます/\警戒の眼を以て西洋諸國の行動を注視する必要を感ぜしめたと共に、國防論が絶叫せられるやうになつた。うか/\してゐるとシナの覆轍をふまないにも限らぬ、と懸念せられたのである。この考はおのづからすべての外國及び外國人を敵視することにもなるが、特に水戸の齊昭の如きは、オランダ國王の忠告を見て、同じ穴の狐であるから油斷はならぬ、甘言で籠絡する計略に違ひない、といひ、贈物の中にも日本人を迷はす邪教の道具が入つてゐるだらうと邪推し、以後は「清夷蘭狄」とても長崎の外は一切寄せつけるなと論じ、更に一歩進んで、韓使の來聘について「鮮夷」も心は英佛に化せられてゐるかも知れないから、使人の一行に地理要害を探偵せられる虞れがあるといひ、アメリカから送還せられた土佐の萬次郎を反間だらうといふやうになつた。齊昭ばかりではない。海防論を高唱してゐる佐久間象山が、このころ常に英人の奸計といふやうな語を用ゐてゐるのも同じ考であり、筒井政憲の意見書に、異船の近海測量は、他人の城池の高低深淺を測ると同じであるといつてゐるのでも、武士氣質から出た彼等の思想は知られよう。シイボルト事件とても、學術の研究といふことには思ひ及ばず、一種の間諜行爲をしたものとして彼を視たために、起つたのである。後に象山や吉田松陰がアメリカにゆかうとしたのも、その主旨は敵國の形勢を知らうとするた(686)めであつた。人を敵と見る武士の心理はこれらの言説に遺憾なく現はれてゐるので、漂流民送還や貿易開始の要求やの平和的使命に對し、劍を拔いてそれを待たうとする不可思議の態度はこゝから生じたのである。
 かういふ考から見ると、和親は即ち降伏である。「から人の常食らふちふしゝじもの膝折りふせしことの拙さ」(詠外事歌隆正)。戰に敗れて南京條約を結んだシナ人の如何に腑がひなく感ぜられたことか。だから日本人は「かへりみず打ちてしやまんへならべて千ふねよすともうちてしやまん」(同上)、一意攘夷の外は無い。海防がやかましく論議せられ、軍艦製造論が盛になり、新式砲術の研究が流行したのは、これがためであるが、またそれとは別に、蠻夷畏るゝに足らず我に恃むべきものありと論ずるものもあつた(例へば齋藤拙堂の海防策の類)。恃むところは何かといふと、日本刀である。「汝不問日本刀之利甲萬國、水斬蛟龍陸象犀、何況狗鼠腥羶輩、頭斷不待噬其臍、咄何爲者英機黎佛蘭西、」(擬日本刀歌磐溪)といひ、「精爽如神氣似霜、朱鞘白柄丈餘長、何時酣戰黄沙上、百萬夷蠻付一槍、」(槍東湖)ともいつてゐるではないか。のみならず、日本人には義氣があり勇氣がありいはゆる大和魂があるといふ。大津濱事件の時に藤森弘庵が義※[魚+章]行を作つたのは、※[魚+章]にも攘夷の意氣があつたことを示したものである。「敷島の大和こゝろを人問はゞ外國人の肝をひしがん」(隆正)と、大和ごころも攘夷思想に化したではないか。「鳥の跡も横ばしりする夷らがすぐなる國に向ふべきかは」(千種有功)といひ「草も木も守る皇國のあら磯にかゝるもあはれ沖つ白浪」(八田知紀)といはれもした。そればかりではない。「欧羅ぶね科戸の風の海ふかば蓋し打ち見て怖んものかも」(題多帆船圖象山)、神風さへも想起せられたのである。西洋諸國の東洋侵略に刺戟せられて、武士的氣象が振興せられると共に、國家の獨立を思ひ自國の尊嚴を思ふ國民的心情が昂進するのは、當然であり、それにつれて一部人士の(687)間に神國思想の復活して來るのも、當時に於いては自然の勢であつたらう。敵國がまぢかに迫つてゐることを感ずれば、蒙古襲來の昔が想起せられるのも、むりでは無いからである。前篇に述べた如く江戸時代の前半期に「神風」の語が強い響きを國民に與へなかつたとは違つて、このころになるとかういふ歌が作られるのである。しかし、この語の用ゐられるのは主として詞藻の上のことであるので、それは曾てロシヤ問題の喧しかつたころの川柳に「奥の手は伊勢から風の神が來る」といふ句を作つたものがあり、後に磐溪が「弘安神風何足恃」といつたことからも、推測せられる。西洋諸國の活動を胡元の再來かとは思つたが(巷街贅説、通航一覽)、眞に恃むべきは武力であること、颱風が神威を示したことになつたのも實は鎌倉幕府の防衛計畫と武士の奮戰との故であつたことを、このころの識者は知つてゐたに違ひない。(太平記に現はれてゐる思想とは正反對である。「武士文學の時代」第一篇第六章參照。)神風を神風として信じてゐたものは、橘守部などの如き一部の國學者に過ぎなかつたであらう。
 さて當時の形勢に於いて神國思想の復活が考へられるほどならば、水戸の齋昭の弘道館記に見える如く「攘夷」と「尊王」とが相伴つて人の思慮に上るのも、必しも怪むには足りないであらう。「細戈勇武縁天賦、鼓舞尤當乘衆怒、赫々神明垂統邦、寧容寸壤※[月+壇の旁]※[さんずい+于]、」(會澤安)といふのもその一つの現はれであるが、「幾代典章防異教、千年正朔奉王春、」(弘庵)の思想もこゝから生じ、また「皇統連綿萬々春、普天率土淨無塵、若開津港容妖鰐、不免同爲左袵人、」(星巖)といふ考ともなる。文字についていふと「外攘夷夷狄、内尊天子、」(漢書刑法志)と評せられた管仲が想起せられたのでもあらう。しかし一般的にいふと、對外的に國家の權威の守持を思ふことがその國家を統治せられる皇室の尊崇と結びつくことは、心理的にも自然である。さうしてまたそれには、武士が封建列國の間に於けるそれ/\の藩(688)國の君主に對してもつてゐる感情を、外國に對する我が國といふ意識の強くなつて來た時代になつて、日本全國の統治者であられる皇室に移入し、それによつていはゆる尊王の念を一層強めた、といふ意味もあらうか。勿論、國威の守持は攘夷によるには限らぬが、水戸人の思想に於いてはこの二つは離して考へることのできないものであつた。
 攘夷思想はまたおのづから海外征服論を誘致する。「版圖遠※[譚の旁]任那外、不許醜虜問通津、」(弘庵)といふのもこの思想からであるが、「鵬際晴開九萬天、無人之島定何邊、」(竹外〕といひ「海角清風捲瘴烟、鎔空點米或蕃船、」(星巖)といひ、海上の眺望にも穩かならぬ氣分が伴ふ時代では、「絶海連檣十萬兵、雄心落々壓胡城、三更夢覺幽窓下、唯有秋聲似雨聲、」(東湖)とイギリス征伐の夢をも見、「何當神兵拂胡虜、黒龍江邊建牙幢、」(同上)とロシヤ攻略の幻影が目に浮ぶのもむりではなく、「不虚生世丈夫志、海外欲張吉國威、砲隊騎軍談握奇、堅城巨艦策相依、」(象山)と、指すところなき海外雄飛の空想も畫かれる。水戸の齋昭の蝦夷地經略の企圖は固より海外征服ではないが、守るものはおのづから攻めねばならぬ勢を促すものであることは、彼も知つてゐたのであらう。「胡歌一曲數行涙、猶唱源家古豫州、」(竹堂)はやがて「黒龍江口途窮處、憑弔當年源九郎、」(鷲津毅堂)の思想を導くものである。「海域寒柝月生潮、波際連檣影動搖、從此五千三百里、北辰直下建銅標、」(松前城下作長尾秋水)と詠じたものもある。秀吉の外征にはもはや何人も異論を唱へるものが無くなり「秦皇漢武同雄略、瑣々休論得失問、」(安積艮齋)といひ、「一勞而久逸、其功何可置、後代實籍斯、長絶胡虜※[豈+見]、」(青山延壽)と讃美せられる。濱田屋兵衛や山田長政も好んで歌人や詩人の詠に上り、屋兵衝は「大灣の首長とらへて目の前に日本人のしわざ見せきつ」(曙覽)といはれ、長政には「區々領略琉球國、大笑鎮西源八郎、」(佛山)の讃美が加へられた。或はまた琉球使の來朝を見て「遺恨千秋尚未消、鵬程(689)無際海遙々、如教藩祖志全就、今日并觀呂宋朝、」(磐溪)ともいはれた。磐溪の佛蘭王詞が「年生威武遍西洋、青史長留赫々光、一自功名歸大帝、無人艶説歴山王、」といひ、山陽とは正反對な態度になつてゐるのも、或は時勢の反映であるかも知れぬ。が、これらの攘夷や海外征服の思想は、國家經綸の策といふよりはむしろ一種の感情の發露である。靜思して得たことではなくして激した餘りの發作的叫喚である。後になると攘夷論が人心を引き立てるための政略として唱へられるやうな傾向も生じて來るが、このころにはまださういふ考は無かつたらしい。
 事實、兵を用ゐるには兵が無くてはならぬ。二百五十年の太平は士氣を銷盡して人はみな柔懦になつたといふ(例へば江戸繁昌記)。もしそれが眞ならば、世を擧げて柔懦な國民に如何にして攘夷ができるか。勿論、これは一面の觀察に過ぎぬ。既に述べた如く、西力東漸の形勢が今まで眠つてゐた精神を武士に覺醒させた他の一面もあつて、心ある武士は憂國の情にみづから知らずして興奮してゐる。たゞ新しい情勢に對應するだけの軍備が無い。さうして軍備は一朝にしてできるものではない。攘夷論が國家經綸の策として空疎であることは、この一事でもわかる。海外征服に至つてはいふまでもない。是に於いてか「壇然置天下於必死之地、然後防禦之策可得而施也、」(新論)といふ考が起る。「ことふねの筒石弓の音すなり今や浦人ゆめ覺ますらん」(象山)にも同じ思想が潜んでゐる。が、待てしばし、問題はこゝにある。何がために日本はこんな乾坤一擲の大賭博をしなければならぬか。敵國外慮のあるに當つて國を守り敵を防ぐのは、獨立の國家としての當然の任務である。國際間の侵略的競爭が激しい世には、進んで取らずんば退いて守ることもできないといふ場合も無いではなく、それがためには、海外征討の擧に出なければならぬことも起らう。或は場合により見やうによつては、國民の功名心の發現として、それの許さるべき理由があるかも知れぬ。け(690)れども敵あらざるに強ひて敵を作るは愚ではなからうか。西洋各國はこの時に於いて果して敵意を日本に示したのであるか。彼等を敵と見るのはたゞ疑心暗鬼の影に過ぎないのではないか。彼等の東方侵略の跡が當時の日本人をしてかゝる疑心を抱かせたことには、十分の理由がある。それに對してはどこまでも警戒をしなければならぬ.軍備を整へねばならぬことは、いふまでもない。しかし直接に我が國に向つて敵意を示さない限り、漫りに彼等を敵視するのは、啻によしなき猜疑であるのみならず、また甚しき恐怖心の現はれではないか。彼等の行動は彼等自身の利益のためであつたが、我が國の不利を計つたのではない。交通貿易の要求は固より世界人として自然の希望である。彼等のいふところをすなほに受入れたならば、大道坦々として前途に開け、何のこともなく事は解決せられたではないか。もつともこれは後からの考である。當時に於いては、それだけの見とほしをつけることはむつかしかつたでもあらう。或はまた當時に於いては、西洋諸國の東洋侵略に對杭する意味に於いての海外征討論、例へば本多利明の曾て唱へたやうな主張、に特殊の價値があるともいへよう。けれどもそれには、第一に、鎖國攘夷の考とは正反對な海外植民政策をとらねばならず、第二にその目ざすところが直接には西洋諸國ではないはずである。攘夷論者が鎖國の状態を保持しようとしながら當時の西洋諸國を敵視することに、どれだけの意味があるか。
 是に於いてか別の考が無ければならぬ。文化年間に於けるロシヤ貿易開始論は實行せられずして止んだが、松本斗機藏は天保の中ごろになつて再びそれを主張し、またイギリスとの通商を復活すべきことを説いた(獻芹微衷)。これには千島の全部が本來日本の領土であつた如く考へてそれを囘復するための考や、または國防的見解や、が加はつてゐるらしいが、ともかくも故なくして外國を畏怖するを非とし、隣好を修むることを是認するに傾いてゐる。モリソ(691)ン問題に關する夢物語は、漂流民送還の人道的なることと打拂の非道なることとを説き、愼機論は日本のみ國を鎖して世界交通の紡げをするといふ外人の見解を假設した點に於いて、この二書に潜在する世界的精神がおぼろげながら覗ひ知られる。打拂令を廢した天保十三年の異船取扱令に「萬國〔二字傍点〕に被對候御仕置」の語の見えるのは、不知不識の間にかういふ考が當局者を動かした故かも知れぬ。「萬國」の二字は破天荒の文字である。この二書が全體として含糊模稜た言議であり、西洋諸國の利慾とか貪婪とかいふ月並的の見解もしくは文字の加はつてゐるのは、當時に於いては已むを得なかつたことであらう。また反語に富んだ夢々物語の眞意には捕捉し難い點もあるが、その中に世界交通の文化的意味が認められてゐるのは、特筆すべきことであり、さうして、無謀の打拂は國難を招く所以だ、と考へた愼機論などと同じ憂慮も暗示せられてゐる。これは嘉永の初めの攘夷思想に對して「滿清覆轍現在斯」といつた磐溪の思想と同じ考である。鴉片戰爭の速い由來の一つがシナ政府の驕傲頑冥な態度にあり、後のペリの使命に幾らかの武力的威嚇手段の含まれてゐたのがやはり日本の政府が世界の形勢を知らなかつたためであることを考へると、當時に於ける彼等の杞憂は必しも杞憂のみではなかつたかも知れぬ。シナの覆轍をふみはせぬかの憂慮が上にいつたのとは別の意義でせられたのである。もつとも事實としては、日本に開國を要求するに當つて、どの國も武力を用ゐはしなかつた。日本は一寸の土地も外國に奪はれはしなかつた。これにはいろ/\の事情のあることが考へられるので、軍艦を派遣して威力を示しながら、平和的に辛抱づよくまた懇切に日本の政府を説得して開國を應諾させたアメリカが、列國の指導的地位にあつたことも、その一つであるが、根本的には、日本が遠い昔からの嚴然たる獨立國であり、當時に於いては武人政府の下に武人たる三百諸侯が統一せられてゐる國であるのみならず、その武人が特殊の武士的氣(692)象を具へ、ヨウロッパ諸國の東方侵略に憤懣して死を以て國を守らんとする意氣があり、さうしてまた特異な高度の文化をもつてゐる國であることを、世界が認めてゐた、といふことが、その主なるものであつたらうと推測せられる。アジヤの地域に於いて西洋のどの國からも侵略せられなかつた國は、日本のみであることを、思ふべきである。(朝鮮は獨立國ではなかつたから、こゝでは問題にしない。)しかしこれもまた後から考へ得られたことであるので、西洋の諸國が我が國に對して如何なる態度をとるかの知られなかつた當時に於いては、上記の如き杞憂にも一應の理由が無いでもたかつたらう。たゞそれもまた一種の恐怖心の現はれとして見ようとすれば見られるところのあるものであることを、忘れてはならぬ。またかういふ意見をもつてゐるものでも、あひての國によつてその好惡に幾らかの違ひのある場合もあるので、かの磐溪の如きは、イギリスには反感を抱きながら、隣好の修めざるべからざるを説き、また有無相通ずるは世界の大勢であることを論じて、ロシヤとの通商を開くべきことを主張してゐる(獻芹微衷)。その聲は微弱でありその見解は區々であつたけれども、世界の形勢を覗ひ知つたものは概ね開國の意見を有つてゐたらしい。
 しかしこの聲は容易には俗耳に入り得なかつた。長い間の固定した社會に住みなれて守舊的傾向の強くなつてゐる國民は、新しい氣運に乘じて薪しい世界に歩み出すことの不安と危惧とに堪へなかつた、といふ理由もあらう。のみならず開國論者とても、國家の前途について確乎たる自信と積極的經綸策とがあつたらしくは見えない。昔の本多利明の如く經濟的見地から外國貿易の利益に着眼したものすら、どれだけあつたか。二宮尊徳が外國貿易は當然のことであるといひ、彼の實行した方法によつて國を富ましてゆくこととそれとを結合して考へたのは、むしろ異例であつた。從つて開國論の所説には迫力が乏しい。鎖國論や攘夷説の流行したのは、實は知識人の多數が外國貿易の利を知(693)らず、貿易は賤しき商賈の業であつて、國民にとつては損害であるとのみ思つたところに、その一つの理由のあつたことを考へるがよい。攘夷論が感情的である如く、開國論もまた多くは抽象的な国際道義または人道主義の主張に過ぎず、もしくは當面の政策としてそれを取扱ふのみであつたので、そこに攘夷論者から怯懦として難ぜられた理由がある。しかし從來外國貿易によつて利益を得てゐたものは、新しいあひてが現はれてもそれから直ちに同じ利益を得ようとする。幕府が弘化年間に琉球の開港を許すことにしたのは、一種の形勢緩和策からでもあつたらうが、島津齊彬に於いてはそれとは違つた考をもつてゐたに違ひない。
 齊彬ばかりではない。外國貿易に從事してゐた商人もまた、恐らくは新しい國々との通商によつて多く利を得んことを望んでゐたのであらう。特殊の利益を期待するものばかりではない。文政の大津濱事件の時、その地の漁夫は捕鯨船の船員と互に親しく往來親和したといふ。さうして政府で異國人を讐敵の如く取扱はれるのは何故であるか解し難いといつてゐたといふ(甲子夜話)。外國船に救はれた漂流人がみな外人の懇情を感謝してゐることは、いふまでもない。(漂流民を送還するために來た外國船に打拂令を適用した日本の官憲の態度と對照するがよい。)虚心に相接する時、四海同胞の情はおのづからにして湧く。文化の北海騷ぎの時の高田屋嘉兵衛とロシヤ人との交歡を知る者は、國家の權力を背景にしてゐる紛爭の際にも、人としての親しき握手が行はれ得べきことを、悟つたであらう。攘夷思想の如きは一般民衆の間に發生し得べきはずがない。それはたゞシナの書物によつて養はれた謬見に囚はれてゐる知識人、もしくは特殊な戰國的氣風を繼承してゐる武人、に於いてのみ見られるものであり、さうして彼等をしてかくの如く偏固ならしめ、世界に向つて日本を開放してゐた家康時代の思想と反對の考を抱かせるに至つたのは、長い間(694)の鎖國の故である。だから現實に外人と接觸するやうになると、よしその外人の行動を喜ばないものが生ずるにしても、攘夷思想はおのづから消滅しなければならぬ。象山や隆正が攘夷論者から一轉して開國論者となつたのを見るがよい。竹堂の鴉片始末を評した時には鎖國を讃美してゐた拙堂も、後にはその説を變じたらしい(鐵研齋※[車+酋]軒書目解題)。有爲の氣に富んではゐたが思想の上では守舊的傾向の強かつた水戸の齊昭も、開國を認めなかつたのではなく、幕府の權威を示すことに於いて甚しく頑強であつた井伊直弼は、一方に於いては西洋の文物に對し偏狹な排斥的態度を棄て得なかつたが、他方に於いては嘉永の末から既に外夷拒絶論者ではなかつたし、幕府の當局者としては堀田時代に定められた開國の大方針に從ひ更にそれを推進した。要するに、少しく識見のあるものは概ね鎖國論から開國論への轉化を閲歴してゐる。さうしてそれによつて幕末十五年間の西洋文物學習を標幟とする文化運動が行はれたのである。鎖國時代にその鎖國制を正當視しようとして案出せられた種々の言説は、それと共にその威力を失ふこと、恰も封建制や武士制の是認論と同樣であり(第十四章參照)、さうして新時代にはまたその時代と相應ずる新理論がうち立てられるやうになるのである。
 しかし攘夷にせよ開國にせよ、我が國が國家として新に世界に對して立つに當つては、何よりも國家の鞏固なる統一が必要である。對外問題に刺戟せられて國民は始めて我が國が一つの國であることを痛切に感知した。ところがこの時になつてもなほその形式が保たれ、死灰の再び燃えないにも限らない虞れのある、戰國的割據の精神と、またそれに伴つてゐる封建制度と武士制度とは、到底この國家統一の要求と相容れることのできないものではないか。憂は外にあらずして内にある。「海岸のボン/\より内々のボン/\」が案ぜられると考へたものは、夢々物語の著者ばか(695)りではない。幾多の内政改革論が主としてこの對外問題に刺戟せられて生じたことは既に述べた。尊王と攘夷との結合せられたのもまたこゝに一つの意味があるが、いはゆる志士の活動が安政の初めから既に開鎖の論を超越した内政問題に向つて集中せられ、井伊直弼の抑壓もまたこれがために行はれたのであり、後の安藤信正の政策も松平慶永の施設も、すべてが國内の安定のために案出せられたものであることを、考へるがよい。對外問題によつて内政改革論は煽られたが、その外交が内政問題によつて常に牽制せられたことも注意を要する。世界の大勢に面接するに當つて開鎖の爭ひはもはや問題ではなくなつた。問題は外にあらずして内にあつた。今日から見ても、封建制と武士制と幕府政治とその下に二世紀年の長年月を過ごして來た國民の生活とが、對外問題が起つてから如何に變化し、さうしてそれによつて國民の思想が如何に展開せられて來たかが、當時の日本を考へるについての主要の問題であり、さうしてそれがまた次篇で取扱はるべき最初の問題でもある。
 
(723)【文學に現はれたる】國民思想の研究 四 補記
ニ一頁  二行 この問題について、〔佐賀及び津〕の頭記がある。
三〇頁 一五行 以下、〔村八分といふ風習もまた村民が一種の司法權をもつてゐたことを示すものである。〕の補記がある。
三二頁  八行 〔會津の保科の行つた均田法〕の頭記がある。
四三頁 一五行 〔阿部正精〕を加へる。
四七頁  五行 以下、〔村八分といふことはさういふものに對して行はれるのが常である。〕と補入する。
五一頁  六行 以下、〔これは百姓一揆に對する幕府の態度からも推測せられるので、一揆そのことは政治的秩序を紊す不法の行動として、その首領や煽動者を嚴罰に處するけれども、百姓の希望や請願をば行政處置として許容する場合が多く、それと共に、百姓をしてかゝる行動を起さしめた領主を、治民の法を辨じないものとして、罰する例もまゝあつたのは、百姓一揆を政治形態や社會組織そのものに對する破壞運動とは認めなかつたからだと解せられよう。〕の補記がある。
六四頁  七行 以下、〔人の心情にはいろ/\の部面があると共に、人の生活もまたさま/”\であり、かくして世は成り立つてゆくのである。〕の補記がある。
七三頁 一六行 この問題について、〔幕末の志士浪人輩の行動もこれと關係がある。〕の頭記がある。
七七頁  四行 この問題について、〔かゝる状態が幕末の政治に及ぼした害毒、高山彦九郎の徒もその心情はこれと同じ〕の頭記がある。
九五頁  三行 <水戸や長州や松代>の次に、〔や佐賀など〕を補入する。
(724)二七二頁 一五行 <さういふ事賓>の前に、〔俳句の態度からいふと、〕を加へる。
二七七頁 一六行 こゝに、〔これもまた太平の氣象〕の頭記がある。
三八一頁  四行 〔これは明治時代のこと、別の例を擧げるべし〕の脚註がある。
四〇八頁  三行 <宇宙と宇宙問のあらゆる事物>の次に、〔特に人間生活、〕を補入する。
四〇八頁  八行 この問題について、〔自然界の現象と人間生活とを同一原則の下に置き、事物の客觀的存在の法則と人の欲求または道徳上の規範とを同視するのは、シナ人の考へ方である。〕の頭記がある。
四〇九頁  二行 段落につづいて次の一節を加へる。〔これらは、或は人を現實の人として、また心生活のすぺての方面から、見たものであり、或は人の生活の社會性を重んじたものであり、また或は人の本質がその意欲と行動とにあることを認めたものであつて、これらは何れも第三章や第十三章の結末に考へたところと関聯を有するものである。〕
四三一頁  八行 この問題について、〔天理と人道とを、性と道とを、同一視するのはシナ思想の通相である。徂來はこの考に反對し、道は自然の存在でも人の性でもなく古の聖人の作つたものとしたが、宣長はこの點ではおのづから徂來から離れたことになる。〕の頭記がある。
四三七頁  二行 <神>の次に、〔(太陽)〕を補入する。
四四七頁 一五行 この問題について、〔これもシナ思想に由來がある〕の頭記がある。
四五二頁 一六行 以下、<かゝる權力者の間に競爭の行はれる場合もあつたが、それは皇室の地位をおのづから安固にする事情ともなつた、といふことも、或はまた>を、〔一系の皇室はおのづから傳統的文化の中心となり兵亂が起つても甚しき破壞が行はれず、それが一層皇室尊尚の念を高めた、といふことも、〕となほす。
四五三頁 一六行 以下、〔或はまた、古くから親しい關係の續いてゐるものごとに對しては、人はおのづから深い愛著を生じ、(725)その愛著がまたそれを長く續かせるのでもあると共に、長く續いて來たことによつてそれに特殊の美しさが生じ、從つてその美しさを傷けまいとする心情が養はれる。要するにさういふものごとは歳月のたつと共に自己の生活に融けこみまたは滲みこみ、自己と一體になり自己のうちの存在となつて來る。皇室と國民との關係はてうどさういふものである、といふことも、國學者は考へなかつた。〕の補記がある。
四八一頁  五行 <ふしもあるが>を、〔ふしもあらうかと考へられるが〕となほす。
四九五頁  九行 <それと同じ語>を、〔その語尾にアの母音を加へたシナ、もしくはシン〕となほす。
五〇一頁 一一行 <蘭學によつて與へられた知識>を、〔蘭學者系統のものによつて與へられた知識〕となほす。
五〇二頁 一一行 以下、〔なほ彼のヤソ敦に關する知識がもし利瑪竇などから來てゐるとするならば、それは天つ神または造物主をゴットまたはゴートとしたのとは傳來の徑路を異にするものであり、從つて中世的ヤソ教といはゆる新教との區別を知らなかつたことになるが、彼のヤソ教の知識はそれほど貧弱なものであつたらしい。なほ〕の補入がある。
六三三頁  七行 この問題について、〔これは國家の新しい統一の要求から出てゐる〕の頭記がある。
六八一頁 一四行 以下、〔近藤重藏の千島での事業も注意せられねばならぬ。〕の補入がある。
〔2020年10月13日(火)午後4時53分、入力終了〕