津田左右吉全集別巻第一、岩波書店、526頁、3800円、1966.2.26(89.1.24.2p)
(2) 神代史の新しい研究
(3) 序
神話を神話として研究するのは、人文發達の徑路を原ねる上から、甚だ興味の深いことであるが、一國民の神話を解釋して、之に反映してゐる國民本來の思想を開明するのは、歴史の研究の立場から、面白くもあり、又た等閑に附しておけない主要なる題目である。自分はかういふ見地から、東洋諸民族の神話や傳説について、できるだけの解釋を施し、隨つて我が神代史を構成してゐる神話に對しても、同じ試みを行つた。其の結果は、全體としては、まだ、發表したことが無いけれども、部分的には從來屡々世に問うたことがある。友人の津田左右吉君は日本の神話の熱心なる研究者の一人である。津田君は我が國の思想史を研究する上から、また此の問題を明かにしようとして、久しき以前から獨特の見解を有つてゐたから、何にかの機會があると、神典の解釋が自分との間に論議の對象となつて、啓發する所が頗る多かつた。しかし、近ごろになつて、議論に議論を重ねた未、ふたりの見解には尠なからぬ相違があつて、其の信ずる所が互に固く、到底調和の見こみの立たないことを發見した。尤も、議論の全體が一から十まで相容れないといふのではない。神代史が我が皇室の由來を説明する爲めに作られた政治的の意義を含んだものであるといふことは、當初から一致してゐた意見であつた。けれども神典に書き下された首尾一貫せる神話が、どうしてさういふ形式と内容とを具ふるに至つたか。神話の一部を構成する我等の祖先の思想としての宇宙觀が、どういふものであつたか。是等の論點は、互に見る所が違つてゐて、殊に神話の全體を貫通する我が國體に關する精神の觀察につい(4)ては、ふたりの間に大なる懸隔があつたから、度々の論難も、最終の合致點を見出すには何等の效がなかつた。しかし、學問の研究は他人の反對説が出なければ容易に進歩するものでない。學者が一つの説を立てた時には、必ず其の背後に反對説のあることを豫想せねばならぬ。而して其の反對説は別個の學説として充分之を尊重すべきである。彼れ自身は之に依つて啓發せられ、學界が亦た其の利益を蒙るのである。自分は平生かういふ考を有つてゐるから、津田君と神話論を戰はす度びに、其の反對説を歡迎したのであるが、今度其れが一册の書物に纏められて、學界に提供せられる樣になつたのは、單に自分一個の關係のみではなく、弘く學界の慶事として、衷心之を喜ばざるを得ない。眞摯なる學術的研鑽の結果は決して筐底に秘せらるべきでないから、自分は本書の刊行に對して深く賛意を表し、久しく論議を戰はした關係から、ありの儘なる一言を卷頭に記るすこととした。斯界の學者が此の論者に接するに及んで多大の利益を享けることは自分の確信する所である。
大正二年九月
白鳥庫吉
(5) 四、五年も前の話である。或る時、記紀の神代の卷の解釋について二、三の卑見を述べて、白鳥先生の批評を仰いだことがある。ところが、先生の説は根本的に僕の考とは違つてゐる點があるので、そこになると、まるで話が合はない。幾度も論議を重ねてゐるうちに、先生の説によつて發明した點が多かつたにも拘はらず、僕はどうしても自説を棄てることができなかつた。其の話は、それなりで、何時のまにか濟んでしまつたが、雜誌「東亞之光」(明治四十三年七月號)に載せられた先生の論文「倭女王卑彌呼考」中の天照大神に論及せられた一節は少しくこれに關係のあるものである。さて、昨年から僕は或る著作にとりかゝつたが、其の中で神代史を論じなければならぬことになつた。筆を執ると共に更に研究を新たにしてみると、前年とは多少考のちがつて來た點もあり、前説の非なるを覺つたこともあるが、大體に於いてやはり同一の結論に到着したのである。それで、根本の思想に於いては、依然として前説を維持する外は無いと信じ、その主旨によつて神代史論一章を書き終つた。ところが、今年の春の未になつて、偶然の機會から、其の話を先生にしたのが始まりで、また論議の花がさいた。さうして、それによつて先生の説の出立點と其の過程とが前よりも明瞭に僕の頭に映ずるやうになつたと共に、僕は僕として、やはり同じところに立ちどまつてゐるより仕方がないと思つた。そこで、僕は自説の立脚地を明かにするために、僕の研究の過程を書きつゞつて、それによつて、更に先生及び此の問題に興味を有つてゐる一、二學友の批評を仰がうとしたのが、新たに此の一篇を起草した因縁である。五月九日、先生が東洋協會調査部で「神典の解釋」といふ講話をせられた其の翌日から書きはじめて、(6)今、てうど擱筆したところである。文中、自説を確かめるために種々の異なつた見解を假設して、それに對する駁論を試みた場合が多いが、その中には先生と論議を重ねる間に暗示を得たのが尠なくない。それから、卑見そのものが、種々の點に於いて、平生、教を受けてゐる先生の啓發を蒙つてゐることはいふまでもない。
大正二年六月五日
津田左右吉
此の一小論文は上記のやうな事情の下に書いたものであるから、書き上げるとすぐに、先づ白鳥先生の一閲を乞うた。先生は詳細にそれを讀まれた上、説の分れる點、また最初から考の立て方が異なつてゐる點を明示せられ、かう論じて來ると、もはや、調和の餘地も無いやうだから、君は君の説を維持するより外は無からうと話された。そこで、僕は、私の貧弱な頭から生まれた此の未熟の研究には素より幾多の缺點があるに違ひないが、今日の私としてはどうも此の考を動かしかねるから、まあ、さういふことに致しませうと答へたのである。さて、これを書きはじめた時には、必ずしも、すぐに公にしようとも思つてゐなかつたが、書いてゐるうちにだん/\世に出して見る氣になり、書き上げてから、その話を先生にしたところが、先生は直ちに賛成の意を表せられた。それで、いよ/\發表のことに決めたのである。稿本を印刷に附するに當つて、右の始末をありのまゝに記し、故に、あらためて先生に對し衷心よりの敬意を捧げる。
(7) 大正二年八月
左右吉 またしるす
(9) 目次
緒論
一 神代史の性質と、それが作られた時代………………………………………一五
二 研究についての二、三の用意…………………………………………………二四
第一章 神代史の分解
一 總説………………………………………………………………………………三四
二 遊離分子の除去
三 神代史の骨子となつてゐる物語
イ 國土が生まれた物語…………………………………………………………四二
ロ 日月二神とスサノヲとが生まれた物語……………………………………四三
ハ スサノヲの高天原上り、并びに日神の岩戸がくれの物語………………五〇
ニ オホナムチと日孫降臨との物語……………………………………………五三
(10) ホ 概括……………………………………………………………………六〇
第二章 神代史の構成
一 三つの中心點…………………………………………………………………六一
イ 國土と日神とが年まれた物語……………………………………………六一
ロ 出雲の物語の歴史的基礎…………………………………………………六七
ハ オホナムチの國ゆづりと日孫降臨との物語……………………………七八
ニ スサノヲの物語……………………………………………………………八一
ホ 三つの中心點の綜合………………………………………………………八四
二 構成の順序と中心思想………………………………………………………八六
イ 三段の順序…………………………………………………………………八六
ロ 血族主義……………………………………………………………………八九
第三章 神代史の變化と發達
一 物語の變化と潤飾……………………………………………………………九九
二 神の分化……………………………………………………………………一〇五
(11) 三 記紀の關係……………………………………………………………一一八
第四章 神代史に現はれてゐる上代思想
一 國體に關する思想…………………………………………………………一二二
二 人生觀及び批界觀…………………………………………………………一二五
三 支那思想の影響……………………………………………………………一三七
第五章 神代史の性質と、それが作られた時代
一 神代史の性質………………………………………………………………一四四
二 神代史の作られた時代……………………………………………………一四九
附録……………………………………………………………………………………一五三
索引
(13) 神代史の新しい研究
記紀によつて傳はつてゐる我が神代史の解釋については、古來、種々の見解があつた。昔の神道家は、それに宗教的・哲學的、または道徳的觀念が含まれてゐるものと考へ、佛教または儒教の教義學説によつてそれを解釋しようとしたので、北畠親房も、一條兼良も、又た、かの山崎闇齋の徒も、皆な此の仲間といつてよい。かういふ見解によると神代史には著しく神秘的色彩がついて來るが、新井白石に至つて、神は人なりと唱へて此の見解を排し、比喩や寓言によつていひ現はされた上代歴史と見なして、人事的解釋をそれに加へようと試みた。ところが、本居宣長の國學では更に一轉して、超人間たる神々の不可思議な行爲の記録として文字のまゝにそれを信用しようとした。白石や、宣長の見解も、其の當時では、それ/\新しい考であつて、舊來の謬見を破るに功があり、特に宣長の誠實にして該博なる考證は神代史の研究に一新生面を開いて、永く後人を稗益するものではあるが、彼等の見解は、もはや、今人には用ゐられなくなつたといつてよからう。今日では神代史を、大體、歴史的事實に基づいた傳説と見なすのが普通の考であるらしく、例へばオホクニヌシの國讓りを日向系・出雲系二勢力の爭闘史が傳説化せられたものとして解釋してゐる(これは白石の態度とは少しちがつてゐる)。ところが、一方では、近代の此較神話學の見地から、それを取り扱はうとする新しい見解も現はれて來た。神代史の解釋には此の二樣の見方があるが、其の研究の結果は、今日の(14)ところ、相互に無關係であるらしい。歴史的傳説として見るものも、神代史の全部を事實に基づいた傳説と見なすのではあるまいから、かういふ見地に立つ者は、歴史的事實に基づいた傳説と認める部分と、然らざる部分とを明かに撰り分け、同時に、後の方の部分に如何なる意義があるかを解説しなければならぬ。が、それがまだ十分にはできてゐないやうに見うける。又た、神話學者といふ側の人々も、神代史に含まれてゐる個々の物語に關する研究を試みるのみで、神代史全體の組織、其の精神、ならびにかゝる物語と歴史的事實との關係について、明瞭な解釋を與へてはゐない。從つて神代史を、全體として、いかに解釋すべきかといふ問題に就いては、まだ何等のまとまつた考が學界に提供せられてゐないといつてよからう。たゞ最近に至つて白鳥先生によつて唱へられた一新説がある(大正二年五月九日、東洋協會調査部講話)。それは、神代史は皇室の尊嚴を明かにするために、或る時代に、或る人が思を構へて作つた物語であるといふので、先生は其の構想と、其の根柢になつてゐる精神とを極めて巧妙に説いてゐられる。僕は神話學者でも無く、又た上代史を專攻するものでも無いが、平生、私に研究に志してゐる國民思想史上の一題目として、神代史についても、多少の意見を有つてゐるので、それが、從來普通に行はれてゐる見解とは頗る其の趣を異にしてゐるし、白鳥先生の新説には、其の大體の見方に於いて、ほゞ一致してゐるに拘はらず、其の構想と精神とに就いては、よほど、ちがつてゐる點があるから、こゝに卑説の概要を述べてみたいと思ふ。
(15) 緒論
一 神代史の性質と、それが作られた時代
神代史の性質は、其の内容を研究してからでなくては、明かに知ることはできないが、順序として、豫め一と通りの觀察をして置く必要がある。
神代史が事實を傳へた歴史で無いことは今さらいふまでもあるまい。今日のわれ/\がさう見るのみでなく、記紀の編者が既にさう考へてゐたのである。書紀には最初の二卷、即ちウガヤフキアヘズ以前の物語に特に神代の名をつけてある。神代とは、人間の代で無いといふ意味であらうから、神代の物語は人間の歴史ではなからう。古事記には書物の上に別段さういふ名はつけて無いが、編述の體裁が神武天皇以後とは全く違つてゐる。のみならず、記紀共に同時代に作られたものであるから、同じ物語については、同じ考を、兩方の編者が有つてゐたのであらう。また神代の物語は、だれが讀んでも、實際の人事で無いことがすぐわかるやうに書かれてある。勿論、神武天皇以後の物語も、決して其のまゝに歴史的事實とは見られないが、大體に於いて人事らしく書かれてあるから、神代卷とは全く性質が違ふ。これは、記紀の編者が神武天皇以後と所謂神代との間に截然たる區別があるものと考へてゐたからである。言(16)を換へていふと、神代の物語は歴史的傳説として傳はつたもので無く、作り物語であるといふことを示してゐるのである。もし傳説として傳はつてゐたものならば、それを特別に神代とする必要がないはずである。神代の物語は皇室の祖先の物語であるが、もしそれが實際の傳説であるならば、ウガヤフキアヘズ以前も神武天皇以後も同じことでなくてはならぬ。それを違つたものとしたのは、何か、そこに區別をつけなければならない理由があるからのことで、其の理由は神が實在の人物で無い如く、神代史も人間の歴史では無いといふことより外にはあるまい。但し其のうちに、いくらか歴史的事實の反映が含まれてゐないとはいはれぬ。けれども、さういふ部分にしても、作者は歴史的傳説として書きとめたものでは無く、或る傳説を材料として物語を作つたのであらう。
なほ此の意味を明かにする爲に、記紀に見える神武天皇以後の記事の性質を一應吟味して置かう。少し横道へ外れるやうではあるが、後に本論に入つてからも此の點に觸れることが起らうから、簡單にいふことにする。書紀の年代のあてにならぬことは今さらいふまでもないが、神武天皇東征の物語にしても、景行天皇及びヤマトタケルの命の東征西伐、または神功皇后の新羅遠征物語にしても、傳説的色彩が相應に濃く出てゐることは誰の目にも見えるであらう。第一、神武天皇東征の記事をよむと、人物の名が、ウサツヒコ、ウサツヒメとか、エシキ、オトシキとか、またはトミヒコとかいふやうな地名そのまゝのものか、さもなくば、ニギハヤビ(ミカハヤビ、ヒハヤビなどいふ神代史中の神と同じ意味)とか、ナガスネヒコとかいふやうに普通名詞と見なければならぬものが多く、又た、久米部の祖先をオホクメとしたやうに、後世の部族の稱呼を人格化して作つたことの明かなものもある。八史烏の話などはいふまでもなく作り物語である。ヤマトタケルの命の西伐東征についても、ほゞこれと同じやうなことがいはれるのみならず、(17)其の蝦夷征伐、并びに書紀に見える景行天皇西國巡幸なども、單に東國と筑紫との地理を一通り述べた外には、地名、其の他、事物の起源を説いた物語のみであつて、事實を傳へたものとしては、あまりに内容がなさすぎる。神功皇后の新羅征伐に至つては神の教のこと、仲哀天皇の西方を望むも國土見えずと仰せられたこと、または新羅討平の有樣、すべてが空想の物語である。要するにこれらの物語は、其の主人公に實在の人物らしい個人性の面影がなく、事蹟にも、或る人の、或る場合の行爲になくてはならぬ特殊性が無い。それから記紀の此の物語に見える歌などは、そこに記されてあるやうな場合によまれたもので無いのが多い。例へば記の神武天皇の宇多の大饗の場合の御製としてある「宇陀の高城に鴫わなはる」の歌は、其の思想が戰陣の場合に何の關係がないのみならず「宇陀の高城に鴫わな張る、わがまつや、鴫はさやらず、いすくはし、くぢら、さやる」といふのと其のあとの「前妻《コナミ》が魚《ナ》乞はさば」云々といふのとは、まるで意味の聯賂が無い。これは書紀に來目歌としてあるのを見ると、後世の久米部の間に行はれてゐた俗謠であつたのが、偶々「宇陀」の語があるところから、こゝに附會せられたので、而も二つの謠が混合せられたのであらう。又たヤマトタケルの「倭は國のまほろば、たゝなつく青垣山、こもれる、大和しうるはし」の歌は現に「青垣山こもれる倭」を睹た時の詠でなければならず、「命の全けん人は、たゝみごも、平群の山の、くまがしが葉を、うづにさせ、その子」も「はしけやし、わぎへの方よ、雲ゐたちくも」も決して旅路にゐて家郷を懷うた作ではない。書紀にはこれを一首にまとめて景行天皇の御製としてあるが、一首としてはなほさら無意味である。又た歌の形式からいつても、前の「宇陀の高城に」の歌についてゐる「エー、シヤコシヤ」とか、ヤマトタケルの「尾張に、直に向へる、尾津の崎なる一つ松、アセヲ、一つ松、人にありせば、太刀佩けましを、衣きせましを、アセヲ」の「アセヲ」(18)とかいふハヤシ詞はこれらの歌が民謠であつたことを示すものらしく、其の他、神武天皇の卷にある「さゐ川よ、雲立ちわたり、畝火山、木の葉さやぎぬ、風吹かんとす」などの短歌が萬葉調ともいふべき後世の樣式であること、または連歌の起源といふのでやかましいヤマトタケルと火燒の翁との新治筑波の唱和が平談俗語であつて、決して歌として誦し傳へらるべき性質のもので無いことは、いふまでもあるまい。だから、これらの歌は決して、神武天皇や景行天皇の時代から傳へられたものでは無い。尤も歌などは物語の興味を深くするために後世になつて附け加へたものだとも見られ、現に、大體、歴史的事實の記録と考へてよい比較的後世の場合でも、同じやうなものが多く混交してゐる、むしろ、實際その時に詠んだもので無いものばかりといつてもよいくらゐであるから、それのみでは物語そのものの眞否を疑ふ理由にはならぬやうであるが、前に述べた通り、物語そのものが事實らしく見えないのを見ると、物語の作られたのも、歌の附會せられたのとあまり時代が違つてゐないのでは無いかと思はれる。
然らば、此の時代の傳説は實際世に存在しなかつたのかといふに、さうは思はれない。應神・仁徳ころから書記の術がそろ/\行はれ、所謂東西の史部が出來たとすれば、やはり、其の頃から古傳説もぼつ/\文字に寫されるやうになつたであらう。さうして、其の頃には韓地征討は、なほ新しい事實であつたのである。又た韓地經略は、地理的關係からいつても、皇室の威力が九州にゆき渡つたことと密接の關係があつたものに違ひないから、熊襲征伐の如きも、あまり遠くない事變として、其の頃に知られてゐたであらう。魏志倭人傳によると、應神天皇(支那の東晉の初め頃らしい)時代より凡そ百餘年前には、九州は大和の朝廷と何等の政治的關係の無かつたものらしいから、皇室の九州征討は必ず其の後で無ければならぬ。この點から見ても、熊襲征伐が當時に於いて、近い世の事實として人の記臆に(19)遺つてゐたことが察せられる(魏志倭人傳の倭女王が九州地方の一君主であることは、白鳥先生の「倭女王卑彌呼考」に於いて詳しく考證せられてある)。だから、少なくとも、神功皇后の新羅遠征、ヤマトタケルの熊襲討伐の物語によつて今に傳へられてゐることについては、其の物語の根柢にある歴史的事實が其の事件を距たること遠からぬ時代に記録せられてゐたものと見なければならぬ。熊襲討伐の事實がさうであるならば、蝦夷經略も同じ樣に見てよからう。また、時間の上からいつても、百年や二百年間の大事變は文字の無い時代に於いて口碑として傳はるのは普通のことである。大和に都せられた皇室の威力が應神天皇ごろの状態と考へられるほどに廣くゆき渡るまでには相應の歳月がかゝつたではあらう。が、記紀に於いて各地經略の時代としてある崇神朝から仲哀朝までは五代であるから、其の間の年數を那珂通世などの説に從つて一代三十年、合計凡そ百五十年くらゐに見つもると、それ程の時代の大事變が傳説として應神朝ごろに遺ってゐない筈は無い。だから、崇神朝以後の事蹟は、それが初めて記録に上るまでの間に種々に傳説化せられてもゐたであらうし、また記紀に見えるやうな物語の編述せられた場合に多くの潤色がそれに加へられ、或は、ある方針によつて整理按排せられたでもあらうが、其の根柢に歴史的事實のあることは疑ひが無からう。さすれば、これら、數代の間に行はれた國家經略の發端と見るべき神武天皇東征物語についても(それにはよほど神話的分子が勝つてはゐるが)、亦た同樣の觀察ができよう。まづ大和を征服し、次に所謂四道將軍の經略となり、次にヤマトタケルの東征西伐となり、次に地方國造の配置となり、更に一歩進んで神功皇后の韓地經略となるのは、順序があまり整然しすぎてゐるし、また大體から見て、長い間に幾度も起つた事件が或る人物の下に集中せられた樣子も見えるが、何れにしても、歴史的事實から生じた傳説が、其の基礎になつてゐるには違ひない。
(20) かういふやうに、神武天皇以後に關する記紀の記事は、それを其のまゝに事實として視ることができないにしても、其の根柢には歴史的事實があるものであり、また全然事實と認められない説話が混淆してゐるにしても、其の大筋は事實から生じた傳説がもとになつてゐる。しかし神代史は其の間にいくらか歴史的事實の反映が含まれてゐるにしても、其の全體の結構が空想から成り立つてゐるのであるから、これとは性質がちがふのである。
さて、神代の卷が作り物語であるとすると、其の作られた時代が問題になるが、これも内容を研究した上でなければ知ることができない。たゞ傳説からできた歴史があつて、それとは別に作られ、さうして其の上に加へられた神代史だとすると、少なくとも書記の術が行はれて建國以來の記録が一と通りできた後のものであることに疑は無からう。又た、かういふやうに傳説以上に溯つて、或る物語を作らうとするのは、よほど智識の發達した後のことであり、その智識の進歩には支那の學問の刺戟があつたのであらうから、此の點から考へても、あまり古いことで無いことがわからう。だから、應神・仁徳二朝から多少の年月を經た後、即ち、いかに早くも雄略天皇の頃からのこととしなければなるまい。しかし、書紀に於いて多くの異説が見えてゐること、さうして、古事記が天武天皇の時に稗田阿禮の訓んだ古書によつて編纂せられたものであつて、其の時、既に異説が尠なくなかつたこと、また、其の古書が、博識なる阿禮が特別に研究しなければ訓めなくなつてゐたほどであること、古事記の神の名などの書きかたが幼稚であることなどを考へると、これらの書物の作られたのは、天武天皇の時代からはよほど前のことであつたに違ひない。記の序文にわからないとしてあるクサカを「日下」とかき、タラシを「帶」と書いた理由は、白鳥先生によれば韓語で説明(21)が出來るさうであるが、さうすれば、これは歸化した百濟人、即ち史部などの手になつたものであらう。これらの語は神代史には見えないが、「日下」は、人の代になつても最も神話的分子の多い神武天皇の物語に見えるから、神代史の中にもまた同じ時代に同じ歸化人の手によつて文字に寫されたものがあらう。さうして歸化人も、子孫相傳へて多く時代が經つうちには、故國の語を忘れてしまふから、こんな事き方をしたのは、歸化の後あまり遠い時代のことではあるまい。また文權が一らさういふものの手にあつたのは、少なくとも推古天皇以後のことでは無い。かう考へると神代史の物語の一と通り作られた時代はほゞ見當がついて來る。まづ大體、かう假定して置いて、なほ詳しいことは本論を終つて後に再び研究してみよう。
序に一言して置く。宣長が古事記傳をかいてから古事記の由來について一種の僻見が世に行はれてゐる。それは此の書の序文に「姓稗田名阿禮、年是二十八、爲人聰明、度v目誦v口、拂v耳勒v心、即勅2語阿禮1、令v誦2習帝皇日繼及先代舊辭1」とあるのを、禮祀は漢文で書いてある古書を國語に誦みなほし、書物を離れてそれを暗誦したものと解し、太安萬侶は、またそれを阿禮の口から聽いて文字に書きうつしたものと見るのである。これは宣長が「舊辭」の「辭」を言語のことと思つたからであるが、第一、古事記以前の書き方が純粹な漢文のみであつたとは何の根據もない臆斷である。現に祝詞のやうな書き方があつたでは無いか。また、漢文でかいた書紀の本文にさへ、ところ/”\國語でよませてあるところがあるでは無いか。だから阿禮のよんだものが、よし、宣長の説のやうに漢文であつて、彼はそれを國語にかへして口に唱へたとしたところが、その國語を文字に寫さずに暗誦してゐる必要(22)はどこにも無い。また、古事記を見ても、それが全部國語として誦みうかべられたものとは見えず、漢文のまゝで一向差支の無い場所が多く、また、系圖のやうなところは別に國語として誦むべき必要も無いのである(宣長が全體にわたつて所謂古訓をそれにつけた苦心と、また其の古訓の正鵠に中つてゐることとは、實に感歎の外は無いが、古事記そのものは、本來、盡く、あのやうにして訓まなければならぬものでは無からう)。それから、太安萬侶の事業は序文に「詔2臣安萬侶1、撰2録稗田阿禮所誦之勅語舊辭1、以獻上者、謹2隨詔旨1、子細採※[手偏+庶]、然上古之時、言意並朴、敷v文構v句、於v字即難、已因v訓述者、詞不v逮v心、全以v音連者、事趣更長、是以、今或一句之中、交2用音訓1、或一事之内、全以v訓録、…亦於2姓日下1、謂2玖沙河1、於2名帶字1、謂2多羅斯1、如此之類、隨v本不v改、」とあるのを見ても、耳にきいたことをかき寫したので無く、直接に古事記録を材料として取り扱つてゐることが明かである。宣長は古事記が純粹の漢文で無く、國語で寫された部分が尠なくないのを見て、それに重きを置いたから、かういふ考が起つたのであつて、そこに彼の見識もあり、功績もあるのであるけれども、あまり重く見すぎて、却つて古事記そのものの性質を誤解するやうになつたのである。全體、此の序文の意味は、第一に、天武天皇が、諸家に傳はつてゐる古書の記載が區々であり、また誤謬も多いから、それらを取捨整頓して正確なる帝紀舊辭を撰定しようために、先づ其の材料として、阿禮に種々の古書記録の訓み方を研究させられたことをいひ、第二に、阿禮の研究は出來たけれども、時運未だ至らずして、帝紀舊辭の撰定が着手せられずにしまつたのを、今の天皇が、天武の遺志を繼いで再び其の業を起さうとせられるについて、安萬侶は、阿禮が訓み方を研究した多くの古書について、此の古事記を撰述したことをいつたのである。古書は多くあつても、それが十分によめなくなつてゐるから、天武(23)天皇は阿禮にそれを訓ませられたのである。古記録は、はじめ多く漢文であつたらうが、それにしても、或は音を借り、或は意義によつて漢字に寫された固有名詞が多い。又た固有名詞を漢字に寫す法が發達すると、國語で無ければ意味のあらはれないことについては、なるべく國語を其のまゝに寫すやうな無理な工夫が出來、歌なども文字にかゝれ、古事記の所々に散見するやうな國語の敍事文も行はれて來たに違ひない。さうして其の寫し方は、初めは、百濟人が彼の地で既に行つた方法を適用したのであらうが、本來無理な仕事であるのみならず、其の寫し方も一定する譯にはゆかないから、書く人は書いても、他人がそれを解することは甚だむつかしく、時代を隔てた後世からそれを訓むことは、猶さら容易でない。恰も萬葉が後世にわからなくなつたと同樣である。阿禮はそれをよんで、仙覺が萬葉に訓をつけたやうに、古書に訓をつけたのである。「誦習」の二字はかういふ意味と見る外は無い。漢字で國語を寫したのであるから、字を見たのでは意味がわからない、即ち聲に出して誦まなければならないから、誦の字を用ゐたのであらう。「度目誦口、拂耳勒心」とは博覽強記といふことで、暗誦に長じてゐるといふのでは無い。「本辭」といひ、「舊辭」とある「辭」も耳にきく言語といふ意味ではなく、目に見る文字に寫された物語をさすものであることは、常に帝紀と本辭、または舊辭とを對稱してゐるのでも知られ、また、天武紀(十年の條)に「記定帝紀及上古諸事」とある「上古諸事」が、此の本辭、または舊辭に當るのでもわかる(上に引いた文中「勅語舊辭」とあるのはどうも意味をなさぬ語のやうである。「勅語」は「帝紀」などの誤ではなからうか)。古記録の訓みにくかつたことは、それを、なるべく原文のまゝに採らうとした古事記の國語で寫された場所を見ても推測せられ、また記紀の何れにも、訓み方を註記してあるところが多いのでもわかる。書紀の材料となつたものにも、こん(24)なものが多かつたであらうが、「一書曰」として引いてあるものが、大體、本文と同じ體裁の漢文になつてゐるのは、編者が改訂を加へたので、必ずしも原文のまゝを載せたのでないからであらう。古事記の性質はこれで明かになつたらうと思ふが、世間では阿禮の口誦といふことから、更に一歩を進め、我が上代に於いて、傳誦せらるやうに一定の詞章を具へた物語が書物以外にあつたと考へてゐるものもあるらしい。けれども、古事記の材料にそんなもののなかつたことは、序文が明かに示してゐるし、またそんな傳誦の行はれた形跡は毫も文獻の上に認めることが出來ない。便利な漢字が用ゐられ、すべてが記録として世に傳へられる時に、何を苦しんで故らに口うつしの傳誦などをする必要があつたらう(今から見れば、漢字が不便であり、また國語を寫すに不適當な文字であることはいふまでもないけれども、全く文字の無かつた國民が漢字を得た便利は、どれほどであつたらう)。語部といふものがあつたといふ説もあるが、姓氏録に天語連といふ氏があり、出雲風土記に語臣といふ名稱が一寸見えるほか、古書に、一向所見が無く、また、この天語達も語臣も何をしたものか少しもわからないので、それが、※[ヱに濁点]ダを暗誦して傳へたブアアマンのやうな家であつたと考へるべき理由は何處にも無い。勿論、多少の口碑は何時の世でもあるもので、また民間説話などもあつたことに疑ひは無いが、それらは決して詞章を具へたものでは無い。また、それのみによつて、古事記が作られるやうな、まとまつた物語では無い。
二 研究についての二、三の用意
(25) 本論に入る前に、なほ一つ、いつて置きたいことがある。それは、古事記と書紀と傳のちがふところ、并びに書紀の中に「一書曰」として擧げてある多くの異説を、どう取り扱はうかといふことであつて、神代史を論ずるについて、先づ定めて置かねばならぬ問題である。宣長のやうに一切古事記を標準にすれば面倒は無いが、それは公平な態度ではあるまい。古事記は和銅五年に成り、書紀は養老四年に出來上がつたから、其の中間僅かに七年の月日があるばかり、特に書紀の撰述には、いかに少なくとも、四、五年はかゝつたであらうと思はれるから、其の編纂は、遲くとも古事記のできた後、まもなく着手せられたのであらう。してみれば書紀に引用してある多くの 「一書」は古事記編纂以前からあつたもので、記の編者の目にもふれてゐたに相違ないが、古事記がそれら多くの異説中、一を取つて其の他を捨てたのは、如何なる見識によつたのであるか、又た書紀が一を本文にとり、其の餘を「一書曰」として載せたのは、如何なる標準によつたのであるか、今日からは判りかねるが、二書の取捨が絶對的に正當だと思はれる理由がない限り、今日から古傳説を取り扱ふには、多くの異説を公平に觀察しなければならぬ。さうして、それには、多くの異説に共通の點のみをとつて、ちがつた分子を取り除けるのが、一般の用意としては、最も穩當な方法である。のみならず、一の物語があつて、それから種々の變形ができたとすれば、其の多くの異説に共通する分子が、物語の原形、もしくは原形に存在した要素であると見られるから、成るべく原形に溯つて古傳説を見ようとするには、かうする外は無いのである。次に其の二、三の例を擧げてみよう。
一 最初に現はれたとせられてゐる神の名稱及び順序、并びに其の現はれた場所については書紀に七説あつて、其の一つが古事記と同じである。さて七説中、共通の神はタニトコタチ(クニソコタチ)であるから、此の神は少な(26)くとも、これら異説が多く出來た以前の物語にあつたものと見なければならぬ。けれども、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの三神と、それが高天原に現はれたとする話とは、古事記と、それに密接の關係があるらしい書紀の「一書」とに見えるばかり、即ち七説中のたゞ一つであるから、これを神代史の要素として見ることはできない。また神代史が種々の變形を生じた前から、あつたものと見ることもできない(書紀の「一書」には、古事記と、大體、同じ説のものが一つあることを注意しなければならぬ)。
二 日、月、スサノヲ三神生産の状態にも異説がある。記にはイザナギが左右の目と鼻とを洗つた時、紀の「一書」には、同じ神が左右の手に鏡を持ち、又た首を廻らして顧みた時、といふことになつてゐるが、紀の本文と、其の一書とには、それが二神の間の尋常な生殖で、日月は同時に、スサノヲは之と少しく時を異にして生まれ、其の間にヒルコの生産が介まれてゐることになつてゐる。此の諸説に共通の要素は、日月二神は同時に同樣にして生まれ、スサノヲは、それと少しく趣を異にして同じ場合に生まれたといふことと、もし日月二神に左右の位置が聯想せられた場合には、日は左、月は右になつてゐるといふこととである。
三 日月二神とスサノヲとの領土の分掌にも異説が多い。それを擧げると左表のやうになる。
日 神 月 神 ス サノヲ
高 天 原 夜の食國 海 原 (記 )
高 天 原 日に配す 海 原 (紀「一書」)
天 上 日に配す (紀 本 文)
(27) 天 地 天 地 根 の 國 (紀「一書」)
高 天 原 海 原 天下【但しこれを治らさず】 (紀「一書」)
これで見ると日神の高天原統治には異論が無く、月神も最後の一説の外は、みな、日と共に天を治めるものとしてある(夜の食國を治らすといふのは日に配して天のことを治らすといふと同じ意味であらう)。それで日月二神は、大體上、一致してゐるが、最も異説が多く何の統一も無いのはスサノヲである。もつとも、それは、どの説でも、大抵、後に根の國へ謫せられることになつてゐるけれども、初めから根の國の主とせられてゐる説はたつた一つしかない。 四 日神とスサノヲとが高天原で子を生む時の劔と玉との關係も諸説區々である。それを表示すると次のやうになる。
「日 神………劔――女
スサノヲ………玉――男」(記及び紀本文)ィ
「日 神………玉――女
スサノヲ………劔――男(紀「一書」)ロ
「日 神………劔――女
スサノヲ………玉――男」(紀「一書」、三種)ハ
〔日神とスサノヲとの間に交差する傍線あり、以下二例も同じ。三例目には破線部の横に――がある、入力者注〕
(――は品物と所有主との關係及び其の品物と生まれた子の性との關係。……は子を生む時に持つた品物)。
(28) これを見ると、劔と玉とによつて子が生まれたといふことだけは物語の原形式であると思はれるが、劔と玉との所有主や、それから生まれた子どもの男女の性については、どれが原形だか判斷ができない。從つて、例へば、其の中の一説たる古事記の説のみを取つて、物語の要素として論ずることはできない。又た二神が品物をとりかへるのと、取りかへないのとの二説があるが、とりかへない方の説でも、其のうちの二書には、スサノヲの生んだ男を日神の子にしたとある。殘りの一書には、さういふ話は無いが、男の子の名が、やはり、諸説に日神の子となつてゐるマサヤ・アカツ・カチハヤビ・アメノオシホネであるから、これは、それを日神の子にしたといふ記事の脱漏したものと見てよからう。さすれば、生む品物なり、生まれた子なり、どちらかに於いてスサノヲのものを日神のものにしたといふ點は諸説共通の要素である。
五 前項の場合の誓言にある生む子の男女と心の正邪との關係にもまた異説がある。紀の本文も、四つの「一書」も、悉く、男ならば正しき心、女ならば邪な心となつてゐる。けれども、記には、誓約の時には何ともいつて無いが、生まれた後に、女なれば心清しとあるから、紀の諸説とはすべて矛盾してゐる。しかし、紀の三説(ハ)と記とは、結局、何れもスサノヲが正しき心であるといふことに一致してゐる。記と紀の三説とが男女の性と心の正邪との關係を反對にしてゐるに拘はらず結果の同一なのは、品物をかへないのと、かへるとの相違から來てゐる。紀の本文と一書(ロ)とは結局に批判が無いが、スサノヲの生んだ子の名にマサヤ・アカツ・カチハヤビといふ語があるのは、スサノヲが勝つたといふ思想と關係があるに違ひないから、畢竟、スサノヲが誓約にかつた、即ち正しき心であるといふことだけは、諸説が一致してゐるものと見なければならぬ。だから、これは物語の原形であつた要素(29)だと認められる。
六 オホナムチは、記にはスサノヲの五世の孫としてあるが、紀には其の子としてある。けれどもスサノヲの血統であることには何れも一致してゐる。 かういふ例は、なほ、他にもあるが、一々それをこゝで列擧するには及ぶまいから、それが問題となつた時に論ずることにする。さて、異説中の共通な點のみを取つて、ちがつた點を捨てるといふことは、あまりに器械的の方法らしくも見えるが、其の間に取捨を加へる標準の無い場合には、これより他にしかたが無い。但し、ある問題について矛盾した説どものある場合に、それに關係した記紀共通の記載、または神代史の他の部分から、動かすべからざる準則を歸納し得るならば、それによつて、取捨の判斷をしなければならぬことは、いふまでも無い。例へば、前に擧げたスサノヲの誓約の場合に、記には、女を得たれば心きよしとあるけれども、スサノヲは、「物實」こそ日神の玉であれ、男を生んだのであるから「女を得た」といふ筈が無く、又たスサノヲがわれ勝つたとて、勝ちさびにすさびたとあるのと、生んだ男神の名に、マサヤ・アカツ・カチハヤビといふ語のあるのとの間には、關係が無くてはならぬから、記の説の作者も、スサノヲが生んだのは男と認めてゐたに違ひない。だから、記の、女なれば心きよしとあるのは、物語固有の觀念では無く、男ならば心正しとしてある紀の諸書の方が本來の思想であると判斷ができる。なほ、イザナギ・イザナミ二神の國土生産の場合に女が先に唱へたのが不吉であつたこと、ヨミの國へいつたものが、イザナギでなくてイザナミであること、などを參照すると、女を生む方が、男を生むよりも心清き證據だといふ思想はありさうで無いから、此の點からも、記の説の取るべからざることが推斷せられよう(記の説は、多分、品物をとりかへ(30)たために生じた混淆で、女の生まれた「物實」がスサノヲの所有品であつたことと、スサノヲが正しき心であつたといふ物語の本來の着想とを結びつけようとして、かういふ變形が出來たのであらう。これはたゞ異説を取捨する一例を擧げたのみであるから、他の場合については、本論に於いて述べることにしよう)。
また、或る一事にのみ載せられてゐて他の書に見えないことは、神代史の原形には無かつたものとするのが穩當である。例へばイザナミのヨミの國へ往つたこと、并びにイザナギがそれを訪ねていつた後、ヨモツヒラ坂で爭ひのあつたこと、又た、筑紫の日向の橘の小門のみそぎなどは、記とそれに關係のあるらしい紀の「一書」とにあるのみで、紀の本文にも採られてゐず、其の他の「一書」にも見えてゐない。又た、オホナムチ兄弟の爭ひの物語も記にばかりあつて紀には無い。これらは、書紀の材料となつた諸書にあつたものが何等かの理由によつて採擇せられなかつたのであるといふ立證ができない限りは、少なくとも、それを神代史の骨子として見ないのが着實のしかたであらう。
但し、これも、一概にさうばかりきめることはできないので、一方に或る物語が缺けてゐても、それは、なくてはならない物語が省かれたものと見るべき場合もある。例へば、記に見えるヨミと出雲并びにオホナムチとの關係の物語は、書紀の本文には出てゐないが、これが爲に出雲及びオホナムチの神代史上の位置が二書によつてまるでちがつて來るから、綿密に研究して見なければならぬ。まづ、記ではイザナミの神がヨミにいつた話があつて、ヨモツヒラ坂を出雲のイフヤ坂とすると同時に、其の神の山陵を出雲と伯耆との堺のヒバの山としてあるが、これでみると、ヨミと出雲とは、どうやら混淆せられてゐるやうに見え、少なくとも出雲とヨミとの間に特殊の關係が有ることになつてゐる。それから、スサノヲは妣の國、根の堅洲國へゆきたいといふことになり、高天原の騷ぎの後に出雲に下つた(31)のである。それから出雲でタシイナダ姫を妻にして、オホナムチなどの父祖となつたのであるが、別段出雲からヨミへいつたといふ話はない。ところがオホナムチの話になると、それが既にヨミにゐて、オホナムチがそこにいつた時、女のスセリヒメを妻として與へた。出雲とヨミとは一層混淆して來たのである。のみならず、スサノヲの方からいへば、本來ヨミの國は現の國と相容れざる敵國であり、又た其の國のものは現し國へは來られない筈であるのに、スセリヒメを現の國にやり、間接に婿のオホナムチの現し國の經營を助けてゐる(現し國とヨミとの關係は後事に詳しく説かう)。又たオホナムチからいへば、ウツシクニダマといふ異名さへあつて、現し國の主でありながら、ヨミにゐる神の女を妻にして其の助けをかりてゐる。ヨミと現し國の出雲とは、こゝでも混淆してゐる。かう考へて來ると、スサノヲの出雲に下つたのが即ちヨミへ來たので、オホナムチは初めからヨミの系統として生まれたらしく見える。まして、それが、スセリヒメを妻にした以上は、なほさらヨミとの關係が深くなつてくる。但し、之が爲にスサノヲのヨミが眞のヨミで無く、オホナムチの現も眞の現でなく、二神は一身で矛盾した二つの世界に跨がつてゐるやうに見えて來る。が、かういふ話があつてこそ、ヨミにゆくには是非とも出雲にゆかねばならず、またヨミと日孫降臨の一幕の大立物たるオホナムチとの間に特殊の關係もできるので、スサノヲのヨミにゆくべく定められたことが神代史上、甚だ意味の深いことになる。しかし、紀の本文では、全くそれと違つた組織になつてゐる。これによると、イザナミもヨミにいつたことが無く、また出雲にも葬られない。從つて、スサノヲも妣の國へゆきたいといつたことは無く、たゞ根の國へ放逐せられたのみである。さうして、スサノヲが高天原から追放せられて出雲に下り、そこで、イナダヒメと結婚して、オホナムチを生み、それからヨミにいつたのである。出雲とヨミとは全く區別せられてゐる。即ち(32)出雲に滯留してオホナムチの父となつたことは、まだヨミにゆかない前の途中の出來事で、全く現の國のことである。ヨミにゆくにしては、少々のんき過ぎる旅路であつて、スカの宮ではヨミにゆくことをすら忘れてゐたらしいほどであるが、話はさうなつてゐる。それから、オホナムチもヨミへたづねていつたことも無く、ヨミにゐる神の女を妻にしたことも無いから、此の神は全然ヨミには關係のない純粹の現し國の神である。だから、此の物語では現し國とヨミとは何の關係も無いことになつてゐるのである。これは、現し國とヨミとの根本觀念に適合してゐることで、現し國の神たるオホナムチにとつては甚だ幸ひのことであるが、其の代り、スサノヲは何のためにヨミにゆくのやら一向理由が無い。たゞ生まれて泣いて、ヨミにやられたといふまでで、肝心の子のオホナムチすらヨミには没交渉である。また、それが出雲に下つたのは、此の、縁の薄いオホナムチを生むには必要であつたけれども、ヨミにゆくには關係のないことである。ヨミの觀念が始めから無ければ兎も角もであるが、紀にもスサノヲがヨミへゆくことにせられ、さうして、出雲に來たとせられた以上は、出雲及びオホナムチと∃ミとの關係が無くては物語の筋が立たない。だから、これは紀の編者が、故あつて、それだけを採らなかつたものと見るが妥當であらう。なほ詳しくは其の問題に入つた時に説くことにしよう。
それから、一書にのみあつても、それが他の部分と矛盾しない場合、もしくは他の部分の意義を一層明瞭にする場合には、それを取つて立論の助けとしなければならぬ。特に、上代人の思想があらはれてゐるものは、物語そのものを神代史の骨子とすることはできないけれども、その中に現はれてゐる思想をば取らなければならぬ。それは、恰も、祝詞なり、萬葉なり、其の他の文學から、上代人の思想を歸納して來て、神代史解釋の栞とすると同樣である。例へ(33)ばヨモツヒラ坂の爭ひの物語は、上代人のヨミに對する觀念を明瞭にあらはしてゐるものであるから、神代史を論ずる場合にそれをよそにすることはできないのである。
(34) 第一章 神代史の分解
一 總説
神代史の結構を概觀すると、大體、左記のやうな筋になつてゐる。
(一) 國土のまだできない前に神々が現はれたこと。
(二) イザナギ、イザナミ二神が大八島を生むこと。
(三) 同じ神から、日月二神、及びスサノヲの命の生まれること、并びに日月二神が高天原へ上げられること(記と紀の「一書」とには、此の前に、イザナミが崩じて∃ミの國にゆき、イザナギがそれを訪ねていつたこと、又たヨモツヒラ坂で二神の爭ひのあつた物語がある)。
(四) スサノヲが高天原へ上つて行くこと、そこで日神と誓約して子を生むこと、并びに日神の岩戸がくれのこと。
(五) スサノヲが高天原を追はれて出雲に下り、簸の川上で、八頭蛇をきつて、クシイナダヒメと結婚すること。其の子孫がオホナムチであること。
(六) 日孫降臨について、オホナムチが國をゆづること(記と紀の「一書」とには、この前に、オホナムチがスクナヒ(35)コナと共に國土を經營する物語がある。又た、記にはオホナムチについて、兄弟の爭ひ、スサノヲの女スセリヒメとの結婚、などの物語がある)。
(七) 日孫の高千穗降臨。
(八) ニヽギの命とヤマツミの女との結婚、井びにホヽデミの命の生まれること(記と紀の「一書」とには、イハナガヒメについて咒詛の話がある)。
(九) ホヽデミの命兄弟の爭ひ、并びにホヽデミの命がワダツミの宮に往つてトヨタマヒメと結婚したこと、ウガヤフキアヘズの命の生まれること。
神代史の大筋は、ざつと、こんなものである。さて、これを見ると、其の中には全體の結構に於いてさしたる必要がなく、取り除けても差支のない遊離分子のあることに氣がつくであらう。神代史の結構を知るには、先づこの遊離分子をぬき去つてかゝらねばならぬ。
二 遊離分子の除去
記にのみあつて紀に無い物語は神代史の骨子として認めない方がよいといふことは前にも述べて置いたが、なほ、其の物語の内容を吟味すると、いよ/\それを取り除けて見なければならぬことがわかる。其の第一は、(三)に附記して置いたヨミの國の物語であるが、其の話を採つてゐない紀の本文を讀んでも前後の聯絡には何の故障も無い。後に(36)スサノヲが「はゝの國」へゆきたいといつたとしてある記と、それに關係のあるらしい紀の「一書」とでは、イザナミのヨミにいつてゐることだけは必要であるけれども、それすらも、スサノヲがヨミへいつてからイザナミとの間に何の交渉も起つてはゐないから、其の間の關係は、ほんの外部的のものである。其の他の傳ではスサノヲが「はゝの國」へゆきたいといつたといふ話の無いところを見ると、これは、イザナミをヨミにゐるものとしたために作り添へられたものらしい。まして、イザナギのヨミ訪問、ヨモツヒラ坂の爭ひなどは、記に於いても、全然、神代史の本筋とは關係のない一つの插話となつてゐる。又た、イザナミはイザナギと共に國土萬物の父母である。其のイザナギが此の國の神としてとゞまつてゐるのに、イザナミのみがヨミに行かなければならぬ理由はどこにも無い。むしろ生産の神たるイザナミが死の國にゆくといふのが本來イザナミの國土生産といふ觀念に矛盾してゐる。だから、此の物語は、二神の國土生産の物語に、本來、附隨してゐたものでは無からう。なほ考へると、死せる妻を地下の國へ訪ねてゆく夫の物語は、かのオルフォイスの名で歐洲に知られてゐるもので、「見る勿れ」といふ禁制を破つたために夫妻の永久の別離となつた點までもイザナギの物語とそれとが同じ形式である。日本と希臘とを結びつけて考へると思ふと、突飛のやうであるが、この話の精神は夫妻の愛情と生死の限界との矛盾を説いたもので、何れの國民にも共通な感情を示したものであるから、二國に限つて出來た話ではなく、多くの國民に存在してゐた一種の民間説話であらう。後にもいふつもりであるが、神代史にも、神武天皇以後の記紀の記事にも、多くの民間説話があみこまれてゐるから、これも其の一つであつて、それがイザナギ、イザナミの名をかりてこゝに結びつけられたものであらう。だから、本筋に無關係の插話として全體の組織から遊離してゐるのは當然である。但し、この物語でヨミを特に出雲に關係があ(37)るやうにしたのは、他の物語と聯絡をとつたためである。また、それに關聯してゐるヨモツヒラ坂の物語は、本來ヨミ訪問の民間説話に結びついてゐたもので無く、上代人の人生觀を示すために附加せられたものであらう。さうして、それが上代人の思想を知る上に就いて至大の價値のあることはいふまでも無い。更にいつて置く。記と、それに關係のあるらしい紀の「一書」とに、日月二神などの生産がイザナミのヨミ訪問の後になつてゐること、又た、それが尋常の生産で無いやうになつてゐることは、此の插話をあみこんだが爲めに生じた變形であつて、神代史の原形では紀の本文の如く、國土生産の後、直ぐに、二神から尋常に生まれたことになつてゐたのであらう。ヨミの國の插話を除けば、自然にさうなるのである。(又た記によると、イザナギは日神の生まれない前にヨミに往つたのであるが、其のヨミが暗かつたのを見ると、此の國は明るかつたに違ひないから、日の無い前に此の國が明るいといふ矛盾が生ずる。これも此の物語が、神代史の本筋に關係のないものをもつて來て插話とした一證であらう)。
第二は、(六)に附記して置いたオホナムチ兄弟の爭ひの物語であるが、これも、兄弟の爭ひに正直な弟が勝利を得るといふ點に於いては、(九)のホヽデミの命の話、また記の應神天皇の卷に見える秋山のしたび男、春山のかすみ男の話と同じことで、特にオホナムチのヨミの國ゆきは、異郷に行つて妻を得、其の助力によつて事をなすといふ點に於いては、全くホヽデミのワダツミの宮ゆきと同一形式である。さうして、其の何れにも動物との關係や、多少の道徳的意義やを含んでゐるのが、一層民間説話の性貿を強める。又た種々の迫害に逢ひ、それをきりぬけて妻を伴ひかへるといふ點に於いては、男女が反對の位置にはなつてゐるが、エロスとサイケとの話も思ひ出される。何れも民間説話としての性質を具へてゐる。だから、此の詰も、ぬき去つて差支の無い插話に過ぎない。但し、オホナムチの往つた(38)ところをヨミとし、妻をスサノヲの女とした點は、此の物語が神代史の他の部分と聯路のあるところで、この話のある記と、無い紀とで、オホナムチの位置に、多少、樣子がちがつてくることは前にいつた通りである。けれども、話其のものはあつても無くても差支のないものである。
第三は、(八)に附記して置いたイハナガヒメの咒詛の話である。これは他に比較すべきものがあるかどうか知らないが、美人と醜婦とを對照して醜婦の優つてゐることをいつたところに一味の道徳的意義があり、又た、それによつて人生の盛りの短いことを説いた點など、物語の性質は、民間説話としてありさうなことである。但し、記には天神のみ子の生命がこれから短くなつたとしてあるが、紀の「一書」には、それが世人短折の縁となつてゐる。もし此の物語を民間説話だとすれば、其のもとの話は世人短折といふことであつたらうが、それがニヽギに結びつけられたので、天神のみ子となつたのであらう。或は、こゝで、神と人との區別を説き、此の國土へ降つた日孫以後を死といふもののある人間とするために特に此の話をニヽギに結びつけたのかとも思はれるが、高天原の神が長生不死であるといふ思想はどこにも見えないから、そんな意味は無いのであらう(なほ、このことは後にいはう)。兎も角も此の物語は紀の本文の如く、無くてもすむ遊離分子である。
以上の三項は記にのみある物語についてのことであるが、既に、記に、さういふ例があるならば、記紀共通の記載にも同じやうな遊離分子があるのでは無からうか。と考へると(五)(八)(九)の三條がそれらしい。
先づ、(五)の簸の川上の話はスサノヲが出雲に下つたといふことと、オホナムチの祖先になつたといふこととの外は、前後の物語に何等の關係も無いことである。さうして、此の怪物を退治して、その犧牲とならうとした少女と結婚す(39)るといふ話は、世界に例の多い民間説話で、我が國でも今昔物語に「美作國神依獵師謀止生贄語」として出てゐるし、馬琴の朝夷巡島記にも同じ形式の物語を利用してゐたと記憶する。また、スフィンクスを退治したエヂプスの話もこれに類似してゐる。だから、これは、神代史の大筋からぬき去つてよいものである。但し、それをスサノヲに結びつけたのは、この物語がスサノヲの性質をあらはすに都合のよいためでは無いかと思はれないでも無いが、八束髯生ふるまで泣きいさちるやんちやもののスサノヲと、此の英雄的戀物語との間に、さしたる緊密の關係も認められないから、さうとも思はれない(スサノヲの性質は後に詳しくいはう)。
次に(八)のニヽギに關する物語は女君が一夜にして姙んだのを怪しむといふことと、火の中で子を生んだといふこととである。前のは神武天皇にも、雄略天皇にも傳へられたことであつて、一夫多妻の習慣の反映であらうし、後のは探湯と同じやうな思想から來たので、これも日孫にのみ限られたことでは無いから、何れも世間にありふれた話であつたらう。
最後に(九)のホヽデミ兄弟の爭ひとワダツミの宮の物語とは、前に述べたオホナムチの話と同一であり、特にワダツミの宮は、浦島の物語などに見える異郷滯留の説話と外形が似てゐて、この點からも民間説話の特質が具はつてゐる。さて(八)(九)の物語で神代史の筋に關係のあるのは、たゞニヽギ以下三代の系統だけである(ワダツミの宮の物語にも、イザナギのヨミの國の物語にも「我を見る勿れ」といふ禁制を破つた爲に夫妻の別離を來すことになつてゐる。三輪山物語にも、後の浦島物語にも、ほゞ似たことがある。これは説話學者の所謂 Taboo であつて、民間説話通有の形式である。Taboo は人間と動物もしくは其の他の非人類とを同一視した思想が一段の進歩を遂げた時代に、其の間の相違(40)を自覚したところから起つたのでは無からうか)。
以上の數項は民間説話が神代史中の神々と結びつけられて、神代史に織り込まれたことをいつたのであるが、かういふことは、神代史のみならず、神武天皇以後の傳説にもあるので、かの三輪山の物語(崇神天皇の卷)、肥長姫の話(垂仁天皇の卷)、または前に述べた春山の霞男、秋山のしたび男の話なども、同樣な民間説話で、それが神代史に織り込まれなかつたのは、たゞ偶然のことに過ぎない。三輪山物語と同形式の話は、姓氏録にも、肥前風土記にもあり、少し變形したのが常陸風土記にも見えるのみならず、三國遺事、萱甄傳にも、蛇が蚯蚓となつてゐるのみで同じ形式のものが見えるから、朝鮮にもあつた説話である(神代史中の物語を民間説話として解釋を試みた、まとまつた著作には高木敏雄氏の比較神話學がある。多分、それが、かういふ研究の最初の企であつたらうと思ふから、特にこゝに記して置く)。
次には、民間説話で無い遊離分子がある。それは(一)の、國土のできない前に現はれた神々であつて、これは、其の神々の數や、名稱などが傳によつて區々になつてゐるけれども、その性質が事物の起源、または發生の状態、或は國土萬有の統一的原理といふやうな抽象的觀念であること、竝びに、それが神代史に於いて何のはたらきをもしてゐないことについては、諸説がみな一致してゐる。たゞタカミムスビはヨロヅハタ・トヨアキツシヒメ(或はタクハタチチヒメ)の父として、日孫降臨の際に高天原で日神と共に現はれ、又た記には同じ神がオモヒガネの父ともせられてゐるし、カミムスビも記にはスクナヒコナの父とせられてゐるが「獨神隱身」といふ觀念と、子があるといふこととは矛盾するから、この話は、此の神の固有の性質が忘れられた後にできた神代史の一變形であらう。特に日孫の降臨と、(41)タカミムスビとは、本來、無關係のことである。だから、此等の神々を取り除けても神代史は何等の影響も蒙らない。また記にはイザナギ、イザナミ二神の國土生産が天つ神の命をうけてのこととなつてゐるから、二神の前に所謂天つ神が無くてはならないけれども、これは記のみの傳で、其の他の諸説には少しも見えてゐない思想であるから、最初の三神を高天原にあるものとした記獨特のくみたてから生じた一變形であらう。さうして、かういふ風に諸説の間に一致點がなく、また、その神々が神代史に於いて何のはたらきをもしてゐないのは、それが神代史の原形には存在しなかつた證據であらう。なほ、事物の起源をかういふ抽象的觀念で説明しようとするのと、イザナギ、イザナミ二神の生殖として説かうとするのとは、まるでちがつた態度であり、また、國稚くして浮脂の如き時に葦牙の如く萌えあがるものによつて神の生まれるといふのは、植物の萌芽する状態などにおもひよせて事物の起源を説かうとするので、前の二つの思想とも、また、ちがつてゐるから、此の點から見ても、此等の神々が神代史の大筋と相互に無關係のものであることが知られよう。
三 神代史の骨子となつてゐる物語
以上の遊離分子を取り除けて見ると、神代史の大綱は(二)(三)(四)(六)(七)、即ちイザナギ、イザナミ二神が國土を生み、次に日月二神とスサノヲとを生んだこと、日神が高天原に送り上げられた後、スサノヲがそこへ行つてあばれたので、日神の岩戸がくれといふ騷ぎが起つたこと、スサノヲが出雲に下り、オホナムチが其の血統に生まれたこと、其のオ(42)ホナムチが國をゆづつたので、日孫の降下となつたこと、これだけになつてしまふ。さて、此の神代史には如何なる意義があるであらうか。先づそれに含まれてゐる一々の物語を研究してみなければならぬ。
イ 國土が生まれた物語
第一は(二)のイザナギ、イザナミ二神が國土を生んだといふ物語であるが、これを讀んで何よりも先に氣のつくことは、國土を生むといふ思想が甚だ不自然な、無理な考だといふことである。あらゆる現象を人事で解決しようとするのは上代人通有の思想ではあるが、國を生むといふやうな不自然なことは上代人の自然の想像から出たのではなく、特殊なる考慮の下に作られた物語と思はれる。これは、いかに上代人でも無理と感じたものらしく、記に國々島々に人らしい名をつけてあるのも、この無理に氣がついて、國土と生むといふ思想とを調和しようとしたためであらう。けれども、これも記のみの傳へであるから國土生産物語の原形とは思はれず、よし、さうであつたにしても、國土の生まれたことは否まれない。單に國土の起源を説かうといふのならば、いくらも考へ方があつたであらうし、現に、「國稚くしてくらげなすたゞよへる」とか、海水をかきなした矛の雫が凝つて島となつたとか、生殖とは無關係な思想が其の傍に存在してゐる。しかるに、故らにかういふ不自然な物語をつくつたのは何故であらうか。其の解釋は後に讓るとして、たゞこゝに明かにして置かねばならぬことは、生まれた國土の意義であるが、共の國土の名を見ると、大八島をはじめ全く我が國家の領土に限られてゐる。これは、この物語が廣く土地の起源を説くためではなく、たゞわが皇室の下に政治的に統一せられてゐる國家の本源を説くためのものであるといふ證據であらう。神代史の形成せ(43)られた時には、韓半島は勿論、支那とも交通が開けてゐた時であらうから、土地の起源を説かうとするならば、當時の人に知られてゐる、あらゆる土地をそこに網羅した筈であるのに、外國の名が少しも現はれてゐないのは、此の物語の目的が本來國家の起源を説かうとしたためと見なければならぬ。記紀のどの傳にも、二神が人を生んだとも國民を生んだともいふことがまるで無いが、これも、一つは此の物語が國家の政治的權力の起源を説明するのが目的であるから、ひろく人類の創造といふ問題には初めから觸れてゐないのであり、又た政治的に國土といへば既に一種の抽象的觀念になつてゐて、國民を具體的に思ひ浮かべないからでもあらう(記には、ヨモツヒラ坂でイザナギが一日に千五百の産屋をたてるといつたといふ話があるが、これは一日に千人を殺すといふイザナミの言葉に對していつたものであつて、人をはじめて生むといふことでは無い)。
ロ 日月二神とスサノヲとが生まれた物語
(三)の日月二神が生まれた物語はいろ/\の方面から研究して見なければならぬ。第一、日月二神がイザナギ、イザナミ二神から生まれたといふこと。それが國土の生まれた後であること、又た地上に生まれたこと。次に二神と同時にスサノヲが生まれたといふこと。
第一、日月二神がイザナギ、イザナミ二神から生まれたといふことの意味を考へるについては、先づ日月二神の性質を明かにして置かねばならぬ。この物語で、日神月神が同時に生まれてはゐるが、月神は神代史中、殆ど何のはたらきをもしてゐないのを見ると、此の物語の本旨は日神の生産にあるので、月神はたゞおつきあひに出されたまでで(44)あることが推察せられる。さて、日神は此の場合、如何なる性質のものであらうか。それは勿論太陽の神で、太陽は光明の源泉たる尊き精靈として原始時代から宗教的に崇敬せられてゐたであらうから、神代史でも單にかういふ宗教的崇拜の對象として取り扱はれてゐるものとも見られる。しかし、風の神にせよ、水の神にせよ、宗教的崇拜の對象たる神に其の宗教的意義に關係ある何等の物語が神代史に現はれてゐないのに、獨り太陽の神のみがこゝに現はれてゐるのは、よしそれが最も大切な神であるにせよ、少しく不自然であらう。それならば日神は太陽といふ自然現象が詩的想像によつて人格化せられたものかといふに、さうも見られない。神代史中、天體に關する説話は(後にいふやうに)日月二神の晝夜分掌を説いたものが紀の「一書」にあるばかり、其の他には、何人も目につく日の出没、月の盈缺すらも話頭に上つてゐない。日月の外に蒼天をかざる美しい星の如きも、神代史には邪神カヾセヲとして、其の名が紀の「一書」に出てゐるのみである(星を邪神と見た理由は後に述べよう)。神代史の上のみならず、上代人は、一體に、天界の現象には注意しなかつたらしく、すべての文學を通じて、天界の自然現象を取り扱つたものが極めて少ない。上代人に暦の智識が皆無であつたのも、日月星辰の運行について天體の觀察をしなかつた爲であらう。だから、日神を自然現象としての太陽神とのみ見ることはむづかしい。それならば何かといふと、日神は皇室の祖先とせられ、さうして、後に段々説明してゆく如く、神代史上、皇祖神としての外は何のはたらきをもしてゐないのを見ると、それが初めから單に天地を照らす太陽神としてではなく、皇祖神として取り扱はれてゐることが明かであらう。從つて其の生まれるといふことも此の意味で説かなければならぬ。さすれば紀の本文に、天下の主たるものを生むと明記してあるのは、よくこの思想をあらはしたものであらう。即ちイザナギ、イザナミから生まれたのは太陽そのものでも(45)純粹の太陽神でも無くて、皇祖神たる日神である。皇祖神としては人格を具へた神であるから、それが生殖作用によつて生まれた神の子とせられるのに無理は無い。しかし、皇祖としての日神は最高無上の神である筈なのに、何故に其の上に父母があるのだらうか。日神に父母があるならば、皇祖は日神では無くて其の父母の神であるべき筈であるのに、それが日神とせられてゐるのは何故であらうか。茲に神代史の重要な問題がある。
次に、日神が最高の神であるならば、最初に生まれてよささうなものであるのに、それが國土の生まれた後で生まれてゐるのは何故であらうか。又た、日神は太陽を象つたものであるから、天上で生まれてよささうなものであるのに、それが地上で生まれて、後に天に送り上げられたといふのは何故であらうか。これら多くの不自然な構想があるのを見ると、そこにも何か特殊の理由があるに違ひない(日神の地上に生まれたのは、太陽が朝毎に地から上るのを表象したものとして説明することが出來ないでも無からうが、日神は前に述べた如く、單純の太陽神では無くして、皇祖神であり、又た、かう見ると、一方で、夕毎に地下に入ることの考がなければならぬけれども、さういふ思想の痕跡は少しも見えてゐないから、此の解釋は不可能である。また記と紀の「一書」とには日神が西方の筑紫で生まれたことになつてゐるから、此の傳では生まれた土地の方位からも、さうは解せられない)。
さて、日の神と月の神とは同時に同樣に生まれたのであるが、それと同じ場合に少しく趣を異にしてスサノヲが生まれてゐる。月は日に次いだ天上の光明であるから、日月二神が同じやうにして生まれたといふのに不思議は無いが、それとまるで無關係なスサノヲが多少樣子が變つてゐるとはいへ、同じ場合に生まれてゐるのは少し合點がしにくい。どうも、スサノヲが日月二神と并んでゐるのは不自然であつて、そこに結構上の無理があるやうに思はれる。前に擧(46)げた三神の領土分治の表を見ると、日神の高天原統治には諸説みな異論がなく、月神が日に配して天を統治すといふのにもほゞ一致してゐるけれども、スサノヲだけには何の統一も無いのであるが、これは本來スサノヲがこゝへ入るべき性質のもので無いからではあるまいか。
なほよく此の場合に於ける日月二神の位置を考へるに、もと/\それは天にある日と月とからおもひついた話であるから、二神は地上に生まれたとはいへ、天上にゐなければならぬ。前に掲げて置いた表を通覽すると、紀の本文に二神を天上に送り上げたとある如く、大體二神が共に天上にあることになつてゐる。だから、もし二神の間に分掌があるならば、それは晝と夜との區別でなくてはならぬ。記に、日神は高天原、月神は夜の食國を治らすとあるが、これは、日神は高天原にゐて晝を、月神は同じく高天原にゐて夜を、支配するといふ意味であらう。紀の本文と「一書」とに日を天上、月を日に配すとあるのを見ても、二神が同じ地位に置かれたことが知られ、又た日月の晝夜を照らす實際からいつても、さうなくてはならないのである。紀の「一書」に月神を海原にあてた説を除く外は、記紀すべて此の解釋に一致する。ところが、紀の本文にも、二つの「一書」にも、月神はたゞ日神に配すとか、又は日神と同じく天地を照臨すとかあつて、晝夜の分掌といふ話は無く、又た、前にも述べた如く、月神は神代史上、何のはたらきも無い神で、たゞ日神のひき合ひに出されたのみであるのを見ると、この物語は晝夜分掌といふやうなことに重きを置いてゐるのではなく、其の主旨はたゞ地上で生まれた二神を天に上せるといふだけのことであつて、更に一歩を進めていふと、畢竟は日神を高天原に上せるといふのが、物語の精神であり、月神は例のつき合ひまでに持ち出されたのであることが察せられる。晝夜の關係については、別に、紀の「一書」に日神と月神とが一日一夜隔て離れて住む(47)といふ話が一つあるが、其の他には、天界の現象を説明するやうな物語は一向に見當らないから、こゝでも矢張り、それをいふのが目的では無いと見なければならぬ。神代史は日神を地上に生まれたとしたけれども、その話を日が天上にある事實と調和させるには、それを高天原に上せなければならないから、此の話が作られたのである。たゞ記にも日神に「所知高天原」とあり、紀にも「授以天上事」などとあるから、これによると、高天原といふ一世界を限つて日神の領分としてあるやうに見える。が、天を領分としたといふと、此の國土は日神の勢力範圍では無いことになる。けれども、本來、此の話は日の天にある事實を據として作られたものに違ひなく、さうして、日は地上を照らすものとして見られてゐるから、國土を日神の勢力範圍外に置くのは此の事實に背くのである。のみならず、日神は常に皇祖神たる性質を有つてゐるのであつて、皇室は此の國土の君主であるから、此の點からみても、この話は、日神の領分を國土から離れた天としたのでは無く、たゞそれを天上に上せた、即ち其の居所を高天原に定めたといふ意味であるとしなければなるまい。もし、此の物語の主旨が日月二神の領分を定めるつもりで、それを高天原としたのであるならば、必然、こゝに此の國土が何人かの所領として擧げられねばならないが、それが、前に除外例として置いた紀の「一書」に見える外は、どの説にも出てゐない(それさへも、スサノヲは事實に於いて天下を治らさずとある)。さすれば、記紀に高天原が日神等の領分らしく書いてあるのは文飾に過ぎないのであらう。現に紀には天下の主たるものを生まうとして日神を生んだとあるから、天上に送り上げたのは、そこから天下を統治させる意味だとより考へられない。又た、後に日神が、華原中國はわが子孫の君主たるべき地なりとして日孫を此の國に降臨させたのは、日神自身が生まれた時から此の國土の主であつたからだとしなければ、其の理由が立たない。即ち、日神を高天原に上(48)げたことと、後に其の子孫が此の國に降ることとは矛盾するものでは無い筈である。たゞ、この時の日神の詔勅には、どの傳でも、我が子孫といふ意味の語があつて「我」とはいつてない。これは、日そのものが今なほ常に天上に嚴存するから、此の事實と皇室を日神の子孫とする思想とを結び合はせようとした爲に生じた考で、日神は高天原に止まり、其の子孫が此の國土に降つたことにしたのであらう。けれども、日孫の位は天つ日嗣といふ語の如く、日神から繼承したものであるから、日神自身、既に此の國土の主であつたと見なければならないのである。
それで、以上述べた如く、此の物語に於いては日月の晝夜分掌といふ意味も極めて輕く、又た話の主旨が領土分治といふ點で無いとすると、スサノヲがこゝに仲間入りをするのは、益々、不自然なことになつて來る。諸説に、スサノヲの領土を、或は海原とし、或は根の國とし、或は何處にも割り當ててないのは、本來、仲間入りをすべき者で無いものが割り込んで來たので、あてがひ場所に困つたからの混雜であらう。否、寧ろ、領土分掌でないのを、スサノヲがわきから入りこんで來たために強ひてさういふ風にしたからであらう。だから紀の「一書」では、それが爲めに日月二神の位置まで動搖して來て、月神は海原を領分とし、スサノヲが危く天下の主にさせられようとしたのである。スサノヲの領土とせられたものを一々しらべてみると、第一は海であるが、海原からオノコロ島が出來たともいひ、記にはワダツミの神をイザナギの子としてあり、神代史を通じて海原を此の國土に對して獨立したものと見てゐるところは一つも無く、また事實からいつても海原は土地と同じく日月の光をうけてゐるのであるから、日月二神に對してスサノヲが海原を領有するといふのはこれらの思想と事實とに矛盾するものである。次に根の國であるが、根の國はヨミの國・死の國で、イザナギの生の國とは反對の位置に立つ國であるから(このことは後に詳説しよう)、イザナ(49)ギがスサノヲをそこへ(放逐するのはよいが)封ずるといふ理由がない。のみならず、神代史全體を通覽してスサノヲが根の國の主であると認められる如き記事はどこにも無い。だから、スサノヲの領土が、根の國であるといふのも無理である(これは根の國に逐ひやられたといふ話から轉じた一變形であらう)。最後に、スサノヲが天下にあてられて、日神が高天原、月神が海原といふことになつたのは、天と海とを日月にわりあてる分掌そのことが既に無意味である。月神と海原とは、或は潮の干滿と月との關係から來たものかと思へないでも無いが、それを高天原を治める日に對して月の領分とするのは、日月の光そのものの性質に背いてゐる。即ち、この分け方では、晝の支配者に對する、夜の支配者が無くなるのである。のみならず、これは天下(國土)と海原とを獨立のものとして考へない神代史全體の思想にも調和しないから、これもまた無理である(スサノヲの領土が天下とせられたことについては、別の理由もある。後に延べよう)。だから、これらは、みな窮餘の策として、いゝかげんな割り宛てをしたもので、實は紀の本文のやうにスサノヲには何の領地も與へないのが當然である。否、本來、こゝは領土の分掌をかれこれいふべき場所ではないのである。更にいひかへて見れば、スサノヲが日月二神と同列に入つて來たのが、抑々まちがひなのである。記に日月二神の生産をイザナギが目をあらつた時とし、紀の一書に鏡を持つた時としたのは、光明の神として自然のことであるが、スサノヲを鼻を洗つた時とし、または、ふりかへつた時としたのは、いかにもこじつけである。これもスサノヲが本來、風來の神であるからでは無からうか。然らば、何故にかういふ性質のちがつたスサノヲが日月二神と同じ位置に入り込んで來たか。これには何か特別の理由が無くてはならぬ。が、其の理由はなほ次々の物語を研究して見なければわからない。
(50) ハ スサノヲの高天原上り、并びに日神の岩戸がくれの物語
次には(四)の、スサノヲが高天原に上つた物語、并びに日神の岩戸がくれの一段が來るが、此の物語の意味を領解するには、先づスサノヲの性質を明かにしなければならぬ。或る人は、スサノヲが日神に反抗したといふので、それを暴風雨の神として解釋してゐるが、これには賛成が出來ない。それは、我が國の上代人が天界の觀察をしなかつたと同じく、空界についても一向興味をひかなかつたらしく、神代史に於いても晴雨の變化、雲の徂徠などの天候に關する自然現象に關係のありげな説話は少しも無く、又た神代史のみならず、祝詞などをみても、雨の神・雲の神などが無い。さすがに海國民で、潮の干満については潮滿玉・潮干玉の説話が出來てゐるが、空界に關する物語は皆無である(たゞ山城風土記に見える、ワキイカツチが屋を裂き破つて天に上つたといふ話は雷に關係があるらしいが、この物語の主なる部分は記の神武天皇の卷に見えるオホモノヌシと同じ民間説話である。たゞイカツチといふ言語から雷に聯想せられて天に上つたといふ話ができたので、雷そのものが主題となつてゐるのではない)。だから、スサノヲの日神に反抗したといふ物語に限つて空界の現象に關係のあるものとは、見られないのである。即ち此の場合、日神も單純な太陽神でなく、スサノヲも太陽の光を妨げる神では無いのである。或は又た、スサノヲの暴行がもとになつて日神の岩戸がくれがあつたから、それを夜の勢力として見ようといふ考があるかも知れない。なるほど日が陰れて世界が闇となつたこと、岩戸の前に曉を呼ぶ長鳴鳥をなかせたこと、并びに禍と惡とが夜から起ると信ぜられた當時の思想などから考へると、さうも見られないことはないやうであるが、晝夜の交代にはスサノヲの如く特に恐しい勢を以(52)て太陽に反抗する力があるので無く、又た岩戸がくれの物語では、スサノヲが來たために高天原が暗くなつたのでも無ければ、其の去つたがために明るくなつたのでも無いから、それでは此の説話を解くことも、スサノヲの性質を説明することも出來ない。或は又た、スサノヲは「青山を枯山なす泣き枯らし、河海は悉く泣き乾す」といふので、それが爲に「惡神の音、狹蠅《サバヘ》なす皆滿ち、萬物の妖、悉く發る」とあり、又た「國内人民をして多く夭折せしむ」とも「性殘害を好む」ともあるのであるから、それを宗教的に見て、禍の神とも見れば見られさうであるが、神代史を通觀しても、祝詞などを考へても、上代の宗教思想に於いて、日神に對抗するほどの大なる惡神があつたとは思はれないから、其の起源は宗教的信仰でもあるまい。
以上は上代人の一般の思想から考へたことであるが、なほ神代史の結構からいつて、スサノヲが根の國にゆくべく定められたといふ點から、それをヨミの國の性質を具へてゐるものと見られないかといふに、これもまた覺束ない。第一、スサノヲのヨミが前に述べて置いたやうに甚だ曖昧である。記の説によると、スサノヲのヨミは眞のヨミで無く、紀の方に從ふとスサノヲのヨミにゆくことは無意味であつて、どちらにしても、スサノヲがヨミの性質を具へて居るといふ證據にはならないのである。或は、スサノヲの「八束髯、胸に見るまで泣きいさちる」といふのを死を哀しむ號泣と聯想せられないかといふに、第一、スサノヲのヨミが甚だのんきなヨミであつて、決して泣くべきもので無く、またこの語は出雲風土記にアヂスキタカヒコネを「ひげ八束生ふるまで晝夜なきまして辭通はず」とし、垂仁天皇の皇子のホムチワケ王を紀に「髯鬚八掬にして猶ほ泣くこと兒の如し」といひ、記に「八拳鬚心前に至るまで、まこととはず」とあると同じ意味で、小兒のやうにやんちやであるといふことである(それで無ければ八束髯云々の語(52)が無意義になる)。又た、泣くことを忌むのには、記に「瑞穗の國はいたくさやぎてありけり」とあり、出雲國造神賀詞に「晝はさばへなすみなわき」とあり、又た大祓祝詞に「語とひし岩根、樹立、草のかきは」とあるやうに、騷がしいのを嫌つた思想もあらう。だから、これは決して死とかヨミとかに關係のあることでは無く、それが爲に妖起るとしたのは、たゞ誇張した形容に過ぎない。要するに、スサノヲはそれ自身にヨミの性質を有つてゐるのでは無く、それがヨミと關係のあるのは單に外部的のものである。むしろヨミの名が此の神に結びつけられただけのことである(このことはなほ後に説明しよう)。 以上スサノヲの性質を説明しようと試みた四つの説が何れも不成功に終つたとすれば、スサノヲはどう解釋すべきものであらうか。高天原に於いて日神に對する此の神の擧動を見ると、たゞやんちやもの、あばれものといふに過ぎない。名稱のスサノヲといふのが既にあばれるといふ意味らしい。又た前に述べた如く、八握髯生ふるまで泣きいさちるといふのも同じ性質をいひあらはしたものである。さうして、此の神に惡意邪心の無いことは、かの誓約をして子を生んだ時に明かになつてゐる。あまりの亂暴が日神を岩戸にかくれなければならぬまで怒らせたけれど、本來惡神では無い(紀の一書に「性好殘害」などとあるのは、漢文口調の誇張であらう)。スサノヲの性質については、たゞ、これだけのことが知られるのみで、それ以上何の記事も無いから、記事どほりに解釋すれば、スサノヲは、たゞあばれるといふしわざをさせるために作りまうけられたと考へなければならぬ。さて、スサノヲがかういふ神であるとして、次に此の場合の日神であるが、それも前に述べた如く、單純な太陽神として見ることが出來ないとすれば、やはり皇祖神として取り扱はれてゐるとしなければならぬ。さすれば、高天原にスサノヲが上つて行つた時の物語は、全(53)く皇祖神に對する何等かの觀念を表象したものと見るべきものであらう。たゞ、皇祖神が天上の日神とせられてあるから、日神が岩戸にかくれた場合に高天原が暗くなるといふことになり、從つて、それが夜に聯想せられて、長鳴鳥などがつれ出されたのである。又た、それがために萬の妖が起るともせられたのであるが、これは夜に對する恐怖の情から來てゐるもので上代人の思想の反映である(このことは後にいはう)。かう見れば、前に擧げたスサノヲに關する四つの説の根據とするところは何れも自然に解釋せられるのである。然らば、其の皇室に對する觀念は何であるか。また何のために、スサノヲをあばれものとしながらわざ/\それに惡意のないことを證明したか、また其の生んだ子を日神の繼嗣と定めたのか、これが、此の物語についての疑問である。さうして更に一段を溯ると、何のためにわざ/\こんなあばれものを作り出してあるか。さうして何故にそれが根の國・ヨミの國へやられることにしてあるか。又た、上にも述べた如く、記によると、スサノヲに關係あるヨミはヨミの根本觀念と矛盾したものであるが、何故にこんな矛盾が生じたか。これらも同時に起る疑問である。
ニ オホナムチと日孫降臨との物語
そこで次の(六)に移つてオホナムチの物語を研究してみる。先づオホナムチの名稱から考へると、これには多くの名があつて、記にはオホクニヌシ、ウツシクニダマ、ヤチホコ、アシハラノシコヲ等の異名があるとせられ、紀の「一書」にはオホモノヌシ、オホクニダマも同じ神としてある(記にもオホモノヌシは、オホナムチに關係の深い神、オホクニダマはオホナムチと同じくスサノヲの子孫となつてゐる。また出雲國造神賀詞にも、オホモノヌシはオホナムチ(54)の和魂とある)。然るに、こゝに注意すべきことは、主としてオホクニヌシの名を用ゐたものは記ばかりであつて、紀にはすべてオホナムチとして現はれてゐることである。もつとも、記と關係のあるらしい紀の「一事」にはオホクニヌシの名が出てゐるが、其の代り、クニツクリ・オホナムチとして、オホナムチの上に特に「國作り」の語が冠せてある。又た、出雲風土記にも、播磨風土記にも、出雲國造神賀詞にも、其の他、萬葉の歌などにも、オホクニヌシの名はまるで見えず、さうして何れも國作りの大神をオホナムチとしてある。これで見ると國作りといふことは、オホナムチに附屬してゐる性質であるのに、記のよりどころとなつた書物のみには、この性質を人格化して別にオホクニヌシといふ名を作つてあつたことと想像せられる。オホクニヌシの名が後世までも一般に行はれなかつたことは、延喜式の神名帳に「大國主西神社」といふのが、攝津國に、たつた一つあるのみで、其の外には、此の名のついた神社が無いのでも推察せられる。
然らば其の他の名はどうか。便宜上、まづオホモノヌシを考へてみるに崇神天皇の時に此の神を祭つたとあるが、記紀の記事を見ると、それは純粹な宗教上の意味らしい。此の神をオホナムチの別名とした書紀すら、こゝには特にオホモノヌシとしてあつて、オホナムチとは書いてない。記に「海を光して、より來れを神」とあるのを見ても、紀の「一書」や出雲國造神賀詞に、それをオホナムチの幸魂・奇魂、または和魂としてあるのを見ても、それが人格を具へたオホナムチとは違つて、一種の精靈らしい感じがする。又た記紀の崇神天皇の卷、并びに雄略紀によれば、それが蛇神崇拜と結合せられてゐることがわかる。かう考へると、オホモノヌシは上代人の宗教的に崇拜してゐた民間信仰の神であつたことが察せられる。次に、オホクニダマは神名帳によると、諸國に其の神社があつて、其の中には(55)河内國魂・尾張大國魂・淡海國魂などのやうに、それ/\の國名を冠したのがあり、崇神紀にも倭大國魂の名があるから、國々で、各々其の國の主たる神を祀つたもので、大國魂といふ一の神を各地で祀つたのでは無いことがわかる。だから、これも、本來、民間崇拜の神であつて、オホナムチの別名では無い。してみると、オホナムチの別名とせられてゐるオホモノヌシ、オホクニダマは何れも、本來、獨立の神であつたのが、神代史に於いてオホクニヌシに結合せられたものである。記にオホモノヌシをオホナムチと密接な關係があるやうにしながら、其の別名とまでしなかつたのは、此の過程の中途にある一説であらう。又た、書紀の神代卷ではオホクニダマとオホモノヌシとを同じ神としながら、同じ書紀の崇神紀では全く別の神となつてゐるなども、本來、一神でなかつた證據である。特に、神名帳ではオホモノヌシ、オホナムチ、オホクニダマは明かに區別せられてゐるから、混合せられたのは神代史の上だけのことで、實際の民間崇拜には關係がない。
次に、ウツシクニダマ、ヤチホコ、アシハラノシコヲの三つであるが、これは別に獨立の神と考へらるべき理由が無いから、オホナムチの別名に違ひない。だから、その意味を知るには、本名のオホナムチの性質を明かにしなければならぬ。神代史に見えるオホナムチの特質は國作りといふことであるが、それは神代史にみえるばかりでなく、風土記にも萬葉にもあり、又た續日本紀寶龜九年の條に大隅の海中にオホナムチの神が島を造つたとあるのも、此の思想から來たのであらう。また此の神は、記と紀の「一書」とによると、スクナヒコナの助をかりて國をつくつたのであるが、神代史以外の傳説でも、多くスクナヒコナと一所に現はれてゐるので、萬葉にも二神が常に連稱せられてゐ、播磨風土記の或る揚所では、オホナムチ・スクナヒコネといふ一神にさへなつてゐる(オホクニヌシの名を主に用ゐ(56)てゐる古事記でもスクナヒコナに對する時には特にオホナムチとしてある)。さうして二神は、屡々石の崇拜と結合せられてゐて、神名帳には能登にオホナムチ・像石神社、スクナヒコ神・像石神社の名があり、文徳實録、齊衡三年の條にも石の神が我はオホナモチ・スクナヒコなりと託宣したといふ記事がある。かういふやうにオホナムチは國作りの神とせられ、又たスクナヒコナと連稱せられてゐるが、これは神代史がもとになつて、それから世に弘まつたのか、又は、本來、さういふ信仰が民間にあつたのを神代史が採用したのか、研究すべき問題である。續紀以下の國史はもとより、萬葉の歌も、大體、神代史のできた後のものであり、又た風土記も必ずしも實際各地方に行はれてゐた傳説を忠賓に集めたものとは見えず、机の上で作つたらしい話が多く、むしろ大部分が實際の民間傳説で無いといつてよいほどであるから、この神は神代史に於いて始めて作られたとする方が穩當らしくはある。けれども、一概にさう斷定するわけにもゆかない。出雲の大社はオホナムチを祀つたものであるが、建築學者の説によると、其の社の建築は我が國最古の樣式であるとのことである。して見れば、それはよほど古代から存在してゐたものとしなければならぬ。播磨風土記に伊和の大神として此の神があるが、これも上代から祀られてゐたのではあるまいか。又た、出雲國造神賀詞にも、紀の「一書」にも、此の神が顯事を天孫に讓つて自らは幽事神事を治めるとあるが、これも本來オホナムチが宗教的に信仰せられてゐたために、それと調和するやうに作られた物語であらう。紀の「一書」に、此の神が療病禁厭の道を定めたといふ傳が見えてゐるが、これも民間信仰的性質を帶びてゐる。さすれば、この神も、實際に、民間に崇拜せられてゐた神であつたのを、神代史が何かの便宜上採用したのではあるまいか。オホクニダマや、オホモノヌシが民間信仰の神であつたことを思ひ合せても、さう見た方が穩當である。たゞ、それが民間信仰に於い(57)て國つくりといふやうな性質をもつてゐたかどうかは少しく疑はしい。國つくりといふやうなことは、よしそれが漠然たる意味であるにしても、あまりに概念的であるから、これは多分神代史に於いて初めて與へられた性質で、國ゆづりの物語から派生したものであらう。さうして、國ゆづりの物語にあらはれてゐる政治的意義はオホナムチに固有なる觀念ではなかつたのであらう。然らば、何故にオホナムチにかういふ意味が加へられたか。これが神代史上の一問題である(紀の本文には、オホナムチに國作りといふ稱號もつけてなく、またスクナヒコナと共に國土を經營するといふ話もない。從つてオホナムチはたゞ國ゆづりの時に現はれるばかりである。が、既に國ゆづりをする以上は、それが國の主であつたことは明かである。のみならず、國ゆづりの場合に矛をタケミカツチなどに授けて「吾れ此の矛を以て率ね治功あり、天孫此の矛を用ゐて國を治めなば必ず平安なるべし」といつたとあるから、やはり國作りの神として認められてゐたことは疑ひが無い)。
さて既に、此の神が國ゆづりの神とせられた以上は、オホクニヌシの名が出來たのは當然のことで、それが現の國の主であるから、ウツシクニダマともいはれ、名稱上の類似からオホクニダマと結びつけられたのも無理でない(ウツシクニダマは、記によるとスサノヲのつけた名であるから、ヨミに對していふ稱呼である。なほ後にいはう)。また一國の首長として多少の武威を要した上代に於いて、オホクニヌシにヤチホコまたはアシハラノシコヲの嚴めしい名がつけられたのも怪しむに足らぬ。それは恰も日神が高天原に於いて武裝をしたり、日孫降臨の際、タケミカツチ、フツヌシなどの武勇の神が高天原から降りて來て、劔を以てオホクニヌシの一派を脅嚇したりしたのと同樣の思想である。上に引いたオホナムチの言から見ても、上代人は日孫が矛を以て世を治めたといふ思想を有つてゐたことが知ら(58)れる(序にいつて置く。タケミカツチは、記によるとアメノヲハバリの子、紀によるとミカハヤビの孫ヒハヤビの子であり、又たフツヌシはイハサク、ネサクの孫、イハツヽヲ、イハツヽメの子で、共にイザナギがカグツチを斬つた時の刀、又は其の時の血の子孫である。日孫は劔と血とを以てオホナムチを征服したのである)。
ところが神代史には此のオホナムチについて三つの矛盾した思想がある。其の第一は、前にスサノヲに關して述べて置いた如く、現の國を作り、現の國の主たるオホナムチがヨミと特殊の關係のある出雲で、ヨミの神のスサノヲの子孫として生まれ、また其の女を妻にして其の力をかりてゐることである。但し、これは記の説による場合に限ることであるが、紀によつてみても、スサノヲがヨミにゆくべく定められてゐることは明かであるから、現の國の主が、故らに、さういふ運命を有つてゐる神を父にしてゐるといふことは、矛盾とまでゆかないにしても、少なくとも結構の上に於いて無理である。のみならず、前にも既にいつて置いた如く、スサノヲがヨミにやられるとした以上、オホナムチがヨミと關係が無いのでは、スサノヲをヨミへやつた效果がなく、何のためにそんなことをしたか、無意味であるから、紀のとつた材料にも、やはり記と同樣の結構になつてゐたであらうと思はれる。但し、出雲がヨミとなるなどは、あまり現在の事實に矛盾するから、紀の編者は、それを採らず、單にスサノヲがヨミへやられたといふことをのみ用ゐたのではあるまいか。して見れば、紀の方でも、實は記と同じ矛盾を有つてゐるのである。そこで、此の矛盾、此の無理はオホナムチの方から來るか、スサノヲの方から來るかといふと、オホナムチは國つくりの神とせられ、オホクニヌシ、オホクニダマの異名さへあつて、それが本質として現の國の神であることに疑ひは無いから、スサノヲをそれに結びつけたことが矛盾と無理との原因であるといはなければならぬ。出雲とヨミとの關係についても、(59)本來、現の國の物語であるから、ヨミを出雲に結びつける必要があつたのでは無く、出雲をヨミにする必要があつたのであらう。神代史は、なぜ、こんなことをしたのであらうか。
それから第二は、オホナムチは宗教的に信仰せられてゐる神で、いはゞ民衆の幸福の神であるのに、一方では、それが日孫降臨の場合に荒ぶる神として取り扱はれ、螢火の光る神、蠅聲なす邪神の首領と目せられてゐることである。が、これも矛盾の由來はオホナムチを荒ぶる神とした方にある。オホナムチは本質として民衆の幸福の神である。それを荒ぶる神にしたのは、オホナムチのオホナムチたる性質についてではなく、たゞ日孫の領有すべき國土を領有してゐるといふ點にあるので、外部から強ひて荒ぶる神にしたのに過ぎない。神代史全體の結構からいへば日神の系統が主人公であるから、それに服從しないのは荒ぶる神としてよいとしても、それならば、何故に荒ぶる神を、民衆を幸にしようとして勞らいた神としたか。またそれに、オホナムチ、オホクニヌシ、オホクニダマといふやうな美名をつけたか。高天原であばれた神は、あばれる神、即ちスサノヲといふすさまじい名であるのに、此の國で荒ぶる神とせられたオホナムチは美しい名ばかりを有つてゐるでは無いか。こゝに解釋を要すべき問題がある。
しかし、更に一歩を溯つて考へるとオホナムチが此の國土を領有するといふことが既に神代史の根本思想と矛盾してゐる。上に述べた如く、此の國土が日神の勢力の下にあるものならば、日神の外に此の國の主人があるべき筈が無いでは無いか。これが第三の矛盾である。
最後に(七)の日孫降臨の物語は意味が明瞭であつて、別に問題が無い。日神が皇祖であるならば、日神の後裔が此の國土に降臨するといふ物語は無くてはならないのである。しかし、神代史全體の結構からいふと、最初に地上の神た(60)る二神が此の國土を造り、さうして此の國土の君主と定められた日神が、其の子として、同じく此の國土で生まれながら、一旦それが天に上つて、それから更に其の子孫を此の國土に降さなければならないといふのは、甚だ迂遠な經過であることを注意しなければならぬ。
ホ 概括
以上、神代史の骨子となつてゐる物語について、疑問は疑問としながら、一々其の意義を考へて來たが、それを通覽すると、神代史を組織してゐる主なる物語は、すべて日神と、其の子孫と、即ち皇祖を中心としてゐるので、どの物語にもそれ/\政治的意義のあることが知られる。だから、神代史は自然現象を神話として取り扱つたものでも無ければ、宗教的信仰を象徴的にいひ現はしたものでもなく、また、宇宙の開發、人類の創造といふやうな事物の起源を説明しようとしたものでも無い。其のうちに、多少の宗教的分子などが結びつけられてはゐるが、それは物語の中心思想では無いのである。神代史ができ上がつた時とあまり遠く隔たつてゐない時代に作られたらしい祝詞を見ても、大殿祭・大祓詞・出雲國造神賀詞などに、劈頭先づ皇室の本源と由來とを極めて莊重に述べてあるが、これらは祭祀が國家の儀式であるからのこととはいへ、機に乘じ、折にふれて、皇室の由來を世に示さうとする特別の意志の潜んでゐることは明かである。同じ時勢の下に作られたと見なすべき神代史に同じ精神が存在するのは當然であらう。然らば其の政治的意義とは何であらうか。それは一旦分解した物語どもを更に組み立てて、其の間の關係を見ると明かにわかつて來る。
(61) 第二章 神代史の構成
一 三つの中心鮎
神代史の物語は、大體、三つの中心點から成り立つてゐる。即ち、始めに、(い)イザナギ、イザナミ二神が國土と國土を支配する日神とを生んだ、といふことがあり、終りに、(は)日神の子孫が高天原から此の國に降るについて、其の前に此の國土の主であつたオホナムチに迫つて國をゆづらせたといふことがあり、さうして、其の中間に、(ろ)スサノヲが高天原であばれて放逐せられたといふことが插まれてゐるのである。此の(ろ)は、スサノヲが日神の兄弟であるとして(い)に結びつけられ、其の子孫がオホナムチであるとして(は)と接合せられてゐるが、前に述べた如く、スサノヲを日神に結びつけるにも無理があり、オホクニヌシと接合するにも、現し國とヨミとの關係に於いて、矛盾がある。のみならず、(ろ)自身に於いて、日神の同胞でありながら其の命を用ゐないこと、現の神でありながら、ヨミへやられることに無理がある。又た、(い)は二神が國を生むといふことにも、國を生んだ後、地上で日を生むといふことにも無理があり、日神の親でありながら、皇祖神とせられてゐないといふことにも矛盾がある。それから、(は)はオホナムチを荒ぶる神とする點に矛盾があるのみならず、オホナムチが國土を領有したといふことが(い)の精神と矛盾してゐる。何(62)故にこんな無理や矛盾が生じたかといふことを明かにするためには、いま一應、此の三段の一々について其の意義を研究してみなければならぬ。
イ 國土と日神とが生まれた物語
第一段に於いて、日神が單純な太陽神としてでは無く、皇祖神として取り扱はれてゐることは、前に述べて置いた。多くの上代國民と同じやうに、我が國民も太陽を、光明の源として、宗教的に崇拜してゐたのであらうから、それを皇室の祖先に結びつけることは當然である。けれども、本來、天上にある日神と此の國土の君主たる皇室とを結合するのであるから、何等かの方法によつて其の間に聯絡をつけなければならぬ。日神の後裔が天から此の國に降りて來たとすれば一と通りの由來は説明ができるが、それだけでは、何故に降りて來なければならぬか、其の根本の理由がわからぬから、もう一段溯つて、其の本源に於いて日神と國土とを結合させなければならぬのである。其の聯絡にはいろ/\の方法があらう。ところが、神代史に於いては、日神を國土と同じくイザナギ、イザナミ二神から生まれたとして、同一父母から生まれた同一血族だとしたのである。
さて、日神は、單に太陽神としては、上代人の思想に於いて完全に人格化せられてゐたか、どうか疑問であるが、一面、皇祖神としては既に人格を具へてゐるから、それを神の子とするに於いて、さしたる無理もない。けれども、國土が子として生まれるといふのはいかにも無理である。神代史が其の無理を敢てして、かういふ説明をしたのは、生むといふことに特に重きを置いたからであらう。然らば何故に生むといふことがそれほど重んぜられたか。上代人(63)の思想に於いて其の理由を索めると、子を生むといふことから生ずる親子・血族の關係をすべての人事の中心とし、社會組織の紀綱としてゐた祖先崇拜・族制制度の反映がそこに現はれたものとする外は無い。一體、日神を皇祖神とする觀念が既に此の思想から來てゐるので、太陽を皇室に結びつけるには、必ずしも、それを祖先とするには限らないのである。それを祖先としたのは、即ち國土が二神から生まれたとするのと同じ意味である。
血族關係が上代人の社會人事を律する中心觀念であるとしても、單に土地と太陽との起源を生殖作用によつて説明しようといふのならば、それを別々の神の子としてもよく、又た特に天上の太陽は天上で生まれたことにするのが自然であらう。けれども、前にいつて置いた如く、こゝでいふ國は單なる土地では無くして政治的に結合せられてゐる國土のことであり、又た日神は其の國土の君主たる皇祖神であつて、此の二つの關係の起源を説明するのが物語の主旨であるから、それが血統上離れてゐては何にもならない。そこで國土と日神とは同じくイザナギ、イザナミ二神の子とせられたのである。日神が國土の後に生まれたのも此の理由から来るので、國が無くして君主があるべき筈がないからである(紀の本文には「吾れ已に大八洲國及び山川草木を生めり、何ぞ天下の主たる者を生まざらんや」とあつて、明かに此の意味を述べてある)。イザナギ、イザナミの職分が國を生むといふことになつてゐるのも此の故で、國を生むのが職分であるから先づ國土を生んで、次に其の統治者を生むのが順序である。又た、二神はどこまでも國土の神、地上の神であるから、其の子たる日神は地上で生まれなければならぬのである。だから、皇祖神たる最高の神も決して天外遠きところから來たもので無くして、此の國土で、國土と共に、同一の國土の神から生まれて、其の間に血族關係があるといふのが、神代史の此の物語の精神である。それがために最高の日神にもなほ其の親があること(64)になつたのである。イザナギ、イザナミ二神が日神の親でありながら皇祖神とせられず、皇祖神はどこまでも日神とせられてゐる理由は、これで解釋ができよう。日神が皇祖神であるといふ觀念が先づあつて、其の日神の本源を説くために二神が案出せられたので、二神の生殖といふ思想が基になつてそれから日神の生まれるといふ話が出來たのでは無いからである。たゞ日神を地上で生まれたとするのはどうしても無理には違ひないが、それは、もと/\太陽崇拜と、祖先崇拜すなはち血族主義との異なつた二思想を結合した結果であるから仕方がない。さうして、この地上で生まれたといふ話そのものが、太陽崇拜が祖先崇拜の背後に隱れ、もしくは其の從たるものとなつてゐて、表面に見える思想は祖先崇拜が主になつてゐることを示すものである。それは、國家に於ける皇室の位置を血族關係で説明しようとするのが、神代史の根本的精神であるからのことと見なければならぬ。さうして、それは祖先崇拜・族制制度の時代に自然に起る思想であると共に、其の思想を神代史の基礎的精神としたのは、當時の社會に於いて最も適當な態度であつたのである(太陽のみならず、一般に宗教的崇拜の對象であつた神々が、血族關係をつけられて家々の祖先とせられる傾向がある。これは後にいはう)。
イザナギ、イザナミ二神は後にいふ天つ神でも國つ神でもなく、此の國土の神である(天つ神・國つ神は日神が高天原にゐることになつてから生じた區別で、相對の名稱である)。此の二神は國土をつくりかためて國土に居り、國土にかくれたので、其の行動は始終この國土の外に出ない。國土の無い時に現はれた神であるから、其の初めの位置は茫漠としてゐるが、高天原から降りたのでは無い。記によると天神の命をうけて國土をつくり堅めたことになつてゐるが、天神の命をうけたといふことは天神であつたといふことではない。特に記の卷頭を見ると、それが決(65)して高天原の神とせられてゐないことが明かである。この書では、最初の三神は高天原の神となつてゐるけれども、其の次のくらげなすたゞよへる國に葦芽のごと萌え騰るものによつて生まれたとあるウマシ・アシカビ・ヒコヂは、勿論、高天原の神で無い(それを別天神としてあるのは此の神の性質に矛盾してゐる)。その次々の神は所在が明かで無いが、ウヒヂニ、スヒヂニ、ツヌグヒ、イクヾヒ等、何れも土地または地上のものに關係がある名稱であるから、高天原の神とはせられない。イザナギ、イザナミもこれら一群の最終に列してゐるから、高天原の神で無いことが推察せられる。天の浮橋の上に立つとあるが、此の浮橋に冠らせてある「天」といふ語が高天原といふ意味でなく、たゞ美稱であることは、そこから矛を下して海水をかきなしたといふのでも明かである(「天」を美稱として用ゐることは後にいはう)。國土を生んでから後はいふまでもなく、國土の神であつて、記のヨモツヒラ坂の爭ひにイザナミがイザナギに對し、「汝の國の人草」云々といつたとあるのでも、記に於いて、イザナギが此の國の神とせられてゐることがわかる。また鎭火祭祝詞にイザナミのことを「あがなせ(イザナギ)の命は上つ國をしろしめすべし、あれは下つ國をしろしめさんとて石かくり給」といつてあるが、上つ國は、其の次にイザナミが此の國で火の神を生んだことを「なせの命のしろしめす上つ國に心さがなき子を生み置きて來ぬ」といつてあるから、地上の國である。從つて、こゝでもイザナギは地上の國の神とせられてゐる。それから、紀の本文には二神が高天原の神らしく見える記事は少しもない。記と關係のあるらしい「一書」に、天神が二神に向つて國土の生産を命ずる時「宜汝往循之」といつたとあるから、これによると二神の故郷は高天原らしく見えるけれども、これは記の天神云々から轉じた漢文口調の文飾である。たゞ別の「一事」に、たつた一つ、二神が高天原に坐して矛をもつてオノコロ島をかきなし(66)たとあるのがあるが、高天原から矛を下ろして海水をかきなすといふ記事自身が矛盾した意義を含んでゐるから、これは取るに足らぬ。多分、天の浮橋が高天原に變化したのであらう。以上、記紀の文面に於いて二神が高天原の神とせられてゐないことを證明したのであるが、なほ前に述べた神代史の精神から考へると、日神はイザナギ、イザナミ二神の子として、國土の生まれた後に、生まれなければならぬ筈であるけれども、もし、二神が高天原の神であるならば、それが天上に歸つて、それから日神を生んでも差支は無い。日神にはむしろ其の方が自然である。國土の統治者として國土と共に二神の子であれば、それで血族主義を以つて國家と皇祖との關係を説明しようとする目的は達せられるから、其の生まれた場所を必ずしも地上にしなくてもよいのである。然るに、それを地上で生まれたとしたのは、其の事が、とりもなほさず、二神が高天原の神とせられてゐないことを示すものである。後に論じようと思ふが、本來高天原といふ思想は日神の居所として生じたものであるから、物語に於いても、日神が天に上げられて後、始めてそれが意味のあるものとなつてゐる。記の卷頭に天神を置いたのは、此の思想に矛盾してゐるが、それは前にもいつて置いた如く、此の物語と無關係な別種の思想であり、又た其の高天原はたゞ蒼天といふ意味であつて、日神の居所たる高天原といふ世界のことでは無い(これは後に詳しくいはう)。だから、同じ記に二神が天神の命をうけて國をつくりかためたといふのは、最初に高天原の三神を置いたために生じた一變形である。
日神はかういふやうにして、此の國土に生まれたけれども、前にも述べた如く、もと/\日は天上にあるもので、其の事實に調和させるにはそれを天上に置かねばならぬから、日神の高天原に迭り上げられるといふ話が出來た。こ(67)れが爲に、何時かは地上に其の子孫を降すべき運命を有つてゐる日神が一旦は地上から天上に上らなければならぬことになつて、其の間の徑路が甚だ迂遠になるのである。さて日神は天に上されたけれども、其の勢威が此の國土に及ぶものであることはいふまでも無い。但し太陽神としては、もとより、それでよいが、皇祖神としては、後になつて少しく不都合が出來る。それは前にもいつて置いた如く、此の國土も日神の勢力の下にあるものならば、日神の外に此の國の主人がある筈がないのに、日孫降臨以前に於いてオホナムチがそれを領有してゐたといふ矛盾である。そこで次には、(は)の日孫降臨物語の性質を吟味しなければならぬ。が、其の前に此の物語と歴史的事實との關係を研究しておく必要がある。
ロ 出雲の物語の歴史的基礎
オホナムチの國ゆづりの物語は、從來、一般に歴史的事實の傳説化せられたものと認められ、出雲は其の勢力の根據地と見なされてゐる。が、これは果してさうであらうか。もしさうとすれば、其の物語の半面である日孫降臨も、やはり、其の根柢に歴史的事寛があるものとしなければならぬが、果してさうであらうか。研究を要する問題である。
まづ出雲が歴史時代に於いて如何なる位置を國家に占めてゐるかといふに、杵築の神宮が特殊の崇拜をうけてゐることと、出雲國造が一般の國造とは違つた待遇をうけてゐることとの他には、別に目につくほどの特異な點も無いが、此の二點に輕視すべからざる意味がある。第一、杵築の神宮はオホナムチを祀つてあるが、オホナムチが宗教的の神だとすると、それは出雲ばかりにある筈はなく、現に播磨には伊和の大神として祀られてゐることが風土記にも見え(68)る。だから杵築のみが特別に重んぜられてゐるのは、單にそれがオホナムチの神たるが放では無くして、杵築、もしくは出雲といふ土地に何かの意味があるからであらう。第二に、出雲國造は、それが如何なる家柄であるにせよ、國造として古代の地方的君主の後裔であつたには違ひない。さうして、熊野大神が其の氏神として信じられてゐたのであらう(熊野神社の祭神を宣長などはスサノヲの命といつてゐるけれども、さう見るべき明證は何も無く、たゞ神賀詞にイザナギの日眞名子とあり、又たそれをオホナムチと列べて其の上に擧げてあるから、イザナギの子でオホナムチの父神たるスサノヲであるといふのみである。けれども、神賀詞には明かに「熊野大神|櫛御氣野《クシミケヌ》命」とあつて、スサノヲにクシミケヌの別名があるといふ話はどこにも見えず、又た其の上にカブロギの語が冠せてあるのも、その神賀詞を唱へる出雲國造の祖先といふ意味と解するのが自然である。だから、これは眞淵のいつた如く、國造の祖先神タケミクマノウシと見た方が妥當であらう。ミクマノウシをイザナギの子とするのは紀の説とは違ふけれども、神の系統はいろ/\に作られてあるから、それに拘泥する必要はない。熊野の位置も、國府の近傍であつて、國府の位置は古の國造の住地と關係があるのであらう)。さて、國造はどこにもあるが、出雲國造が其の間に特異な地位を有つてゐるのは、やはり、出雲の土地に何かの意味があるからではあるまいか。さうして、其の意味は、もし神代史の國ゆづりの物語に歴史的事實の根據があるものとすれば、直ぐに解釋ができる。けれども、神代史の出雲に關する物語には其のまゝに歴史的事實と見ることのできるものが一つも無い。それを思ふと、須磨に光言辞の遺跡があるやうに、出雲國造も、杵築の宮も、神代史が作られてから特殊の意味がつけられたので、其の前には、尋常一樣の國造、尋常一樣の神社であつたかも知れない。出雲といふ僻地が大なる勢力の根據地として不適當であることも、この觀察をたす(69)ける。けれども、かう見ると、第一、神代史に於いて何故に日孫に服從しない勢力を故らに作つて、それを又た故らにオホナムチとしたのであらうか。日孫に服從しない神を故らに作るのも細工に過ぎてゐるが、それはよいとしても、さういふ政治的叛逆の意味を含んでゐる神に、民間に信仰の篤いオホナムチを結びつけるのは矛盾ではあるまいか。さういふ矛盾を敢てした理由がわからぬ。もつとも、これは國ゆづりの物語に歴史的基礎があるものとしても同樣に考へ得ることで、日孫に服從しないものに結びつけるならば、惡神・邪神でよからうに、わざ/\民衆に崇敬せられてゐるオホナムチをそれにあてるのは不合理だともいはれよう。此の疑問に對しては、或は神代史を通じて一種の調和的精神が流れてゐるので、スサノヲも、あばれものではあるが、心は清く正しき神となつてゐるし、オホナムチも服從した後は幽事を治めて日孫を守ることになつてゐ、又たスサノヲの子は日神の子にせられ、オホナムチの系統に屬するホトタヽライスヽキヒメは神武天皇の皇后であり、ホヽデミとトヨタマヒメとの夫妻は別離に終つたが、其の子はこの國土に留められて姨のタマヨリヒメと結婚してゐる。荒ぶる神として日孫に服從しなかつたものを惡神としないのは同一精神から來てゐるとも考へられる。或は又た、物語の一方の主人公が日孫であるから、それに對する國つ神も立派な神で無くてはならないといふ理由があるかとも考へられる。何れも多少薄弱な氣味はあるが、こんな風に説かれないでも無い。
しかし第二の疑問として、これを全然空想の物語だとすると、其の服從しない神の住地を何故に出雲としたのか、それがわからない。出雲がヨミの國とせられてゐるのを思ふと、ヨミはくらい國であるから、大和から見て日の入る方の出雲をそれに擬てたのでは無からうかといふ疑もあるが、よし出雲をヨミとすることが神代史の原形に存してゐ(70)た思想だとしても、西方として出雲を考へるのが自然であるか、どうか、頗る覺束ない話である。西方といへば先づ直ちに筑紫を聯想するのが自然である。また大和から出雲へゆくには、北方の丹波を經てゆくのと西方の山陽道から北折してゆくのと二つの途があつたらしい。記の垂仁天皇の卷に出雲へゆく三つの口が擧げてあつて、邪良戸・大阪戸・木戸としてあるが、那良戸は奈良口、即ち北方で丹波路へかゝるもの、大阪戸・木戸は葛城方面と紀の川方面とから西へ出て、難波から山陽道へ出るものであらう。さうして播磨風土記の出雲のアホの神が三山の爭を仲裁するために大和へ行かうとして揖保郡まで來たといふ話を見ると、山陽道にかゝる道は播磨方面から北へ折れたのであらう(同じ卷に紀伊から播磨を通つて因幡へ出る道筋のあつたことも見える)。或はスサノヲの簸の川上、鳥髪の里の物語は、備中または備後地方から北へ分れ伯耆の西南境を經て出雲の仁多郡に入る途(出雲風土記の東南道につゞくもの)が主要なる道筋であつたといふ事實を暗示するものとも見られる。此の交通路の何れによるにもせよ、大和から出雲へゆくには半ば北方に向つて進まねばならぬから、大和の人はそれを單純に西方とは思つてゐなかつたらう。其の上、ヨミと日の入る方向との聯想はたしかで無い。ヨミの根本觀念は死の國で、其の位置は地下であるから、闇いところではあるが、西方では無い。上代人が朝日夕日をうけることを好んだことについては後にいふつもりであるが、落日と死とを聯想したことは見えない。朝日夕日の現象、又た其の方向などが現とヨミとの觀念と聯結せられなかつたことは、現の世の光である日神が西方の筑紫で生まれたといふ物語さへ出來たのでもわからう。だから、此の見解には何の根據もないのである(日神が筑紫で生まれたといふ物語は、神武天皇東征物語によつて傳はつてゐる皇室の筑紫起源傳説が基礎になつて、それに調和させようとして作られたのであらうから、此の話そのものにはさして大なる價(71)値は無いけれども、西方とヨミとが普通に聯想せられる習慣があつたならば、かういふ話のできる筈が無いのである)。
或は又た想像を逞しくして、何か出雲に特殊の關係のあるものが、其の家系を貴くしようとして、つくり出したのではあるまいかと考へてみる。出雲國造がオホナムチの子孫で無くして、ホヒの後裔となつてゐること、神賀詞が、オホナムチを稱へるよりは國造の祖先の功業をあらはす方が主らしく見えることなどを考へると、かういふ疑に、まんざら、理由が無いでもないやうに見える。しかし、神代史は、後にいふやうに、中央政府に於いて作られたものと見なければならぬが、族制制度によつて中央政府の權力を有つてゐるものが定まつてゐた時、地方的首長が初めから中央政府を動かして、こんな物語を作らせたとは考へられず、又た出雲に於いて作られた物語を神代史が採用したと考へるにしても、それが一寸した插話ならば兎に角、此の物語は神代史の根幹であつて、神代史を作るといふことは、即ち此の物語をつくるといふことであるといつてもよいほどのものであるから、それが一私人の手になつたものを其のまゝに採るといふことはありさうで無く、又た、さうすると神代史の作られたより前に此の物語が無くてはならぬが、それも事實らしくない。ホヒのオホナムチ勸誘が記紀に於いては不成功となつてゐるに拘はらず、神賀詞には成功となつてゐるのも、出雲に於いて神代史の物語を改刪したと見るのが穩當であらう。だから此の見解もまた不合理である。
以上述べたところで、神代史上の出雲の物語を全然空想の所産とすべき理由は成り立たないことがわからう。然らば、それとは反對に、或る場合に皇室に服從しなかつた勢力が出雲にあつたといふことが歴史上、許容せられ得べきことか、どうかと考へてみるに、さういふ事實があつたとして一向差支が無いのである。勿論、日孫降臨は空想の物(72)語であるから、其の場合の出來ごとでは無い(これまで一部の人々の考へてゐた如く、日孫降臨を筑紫遷都とも名づけらるべき事實と見ると、一歩を進めて、高天原を皇室の發群地として地上の何處かに擬てねばならぬことになり、從って、それを海外へでも、もつてゆかなければならぬが、それは何の根據もない妄想である。又た此の物語を事實とすれば、單に地理上の形勢から見ても辻褄の合はない話である。出雲を退讓させて筑紫へ遷都する理由はあるまい)。然らば何時のことかといふと、皇室の勢力が大和に据ゑられた時のことと見ればよいのである。しかし其の理由を述べる前に、いま一歩を岐路にふみ入れて皇室の筑紫起源傳説を吟味してみなければならぬ。
我が皇室の發祥地は筑紫とせられてゐる。ところが、神代史に見える日孫降臨の物語を文字のまゝに考へると、それが歴史的事實で無いことはいふまでもなく、ホヽデミ以下の二代についての物語も、上に述べた如く、みな民間説話をこれらの神々に結びつけたものであつて、一つも歴史的事實から生じた傳説と見るべきものは無い。ヤマツミ、ワダツミも無論、實在の人物とは見られない。たゞ隼人の話がそれに關聯して出てゐるが、ホノスセリによつて隼人歌舞の起源を説明したのを見ると、ホヽデミに對する其の服從は熊襲隼人が皇室に降服したことを思ひよせたものであつて、それが後世、隼人の服從した以後に作られた物語であることが推察せられる。だから、これらの物語はすべて實際に古代から傳へられたものとは思はれない。
それからまた、今の日向に太古の皇都があつたといふ話も容易には信じられない。歴史上からいへば、今の日向・大隅・薩摩は九州に於いて最も遲く開けた土地で、又た後々まで皇室に服從しなかつた所謂襲の國であつた。又た地(73)理上からいへば、海にも陸にも交通の極めて不便な位置であり、其の上、豐饒な平野もなく、上代に於いて大なる勢力をもつてゐたものの根據地としては何一つ其の資格が無い。一體、今の日向がさう呼ばれたのが何時からのことかと考へて見るに、景行紀の日向は明かに今の地であるから、此の記事の作られた頃には既に其の名があつたらうが、その時代は、やはり、わからない(この記事もまた其のまゝに歴史的事實と認められないことは、上に述べて置いた通りである)。けれども、其の記事によつて見ても、日向地方が襲の勢力範圍であつたことは疑はれないから、日向の名の定まつたのは熊襲の服從した後でなくてはならぬ。記の國土生成の段の筑紫四面に筑紫・豐・肥・熊曾とあつて日向のないのを見ると、この文の書かれた時には國名としての今の日向はまだなかつたので、其の作者は此の土地を熊曾の内に含ませて置いたのであらう(この區分については種々の説があるやうであるが、畢竟、肥の國にタケヒムカヒの名があつて、そのヒムカヒが國の日向と同じ文字であるから、そこに混淆誤脱があるだらうといふ推測に過ぎない。けれども、その疑ひは日向といふ國の出來た後に起る考で、よく此の分類法を見ると、地勢上からも、歴史上からも、毫も不合理の點のないことがわからう。即ち四面のうちの筑紫は今の九州の北面、即ち筑前・筑後、豐は其の東北面、即ち豊前・豊後、肥は其の西北面で主として肥前地方、さうして肥後の南部、日向及び薩隅が所謂熊曾である。熊曾を一面とする以上、其の一部分たる今の日向を別に一面とすべき理由がない。肥の國のヒムカヒがもし「日向ひ」の意味ならば、それは肥前の西海に面するところから起つたのであらう)。だから、太古の皇都が今の日向にあつたといふ傳説があつたとは名稱の上からも信じられない。但し傳説の記者が古傳説の地理を考證した上で、それが後の日向國であると判定して、さう書いたのならば格別だが、地理が明かに知られるほどの傳説ならば、それと共に多くの歴(74)史的事實が傳はつてゐなければならぬ。けれども、一向、さういふものが無いから、かうは思はれぬ。たゞ隼人の話などがそれに關聯して作られたのを見ると、記紀の材料となつたものには、それを今の日向と解してゐるのがあつたらしいけれども、それは記の筑紫四面の記事に矛盾するから、後の變形であつて、本來、神代史の原形に於いてさうなってゐたのではあるまい。今の日向が熊襲の勢力範圍であつたことは歴史的事實として知られてゐたことであるから、はじめて神代史の作られた時、そこに神代の皇都が擬せられたとは考へられないのである。それから、ニヽギの都せられたといふ「朝日の直さす國、夕日の日照る國」は龍田風神祭祝詞に「吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日陰るゝ處」とあり、播磨風土記に、「朝夕、日の隱れぬ地に墓を造る」とあると同じく、快活にして光明を愛する我が國民の趣味にかなつた理想的國土を言ひあらはしたものである。だから神代史の原形に日向の語があつたにしても、それは此の思想から來たのであつて、日神の子孫の都せらるべき地には恰好の名として用ゐられたのではなからうか。筑紫四面の名に皆な「日」の語がつけられ、特に肥國には「日向」の文字さへ見えるのを見ると、神代史に於いて此の名がある一箇所に定められたのでは無いことが想像せられる(かの高千穗も本來は高峰といふ意味の普通名詞であつたらうと思はれる)。なほ又た、今の日向に古墳の多いのを、皇都に關係のあるものとして考へる學者もあるやうであるが、考古學上、それと熊襲との關係を否定すべき確證が無い以上、此の論は立つまい。古の熊襲地方に於いて日向以外に同樣樣の古墳があるか無いかを十分に精査した上でなければ、日向にのみ古墳が多いといふことすらも斷言は出來ない。さうして、これについて今日の考古學は日向皇都論の根據となるべき何等の資料をも提供してゐないのである。
以上の所説を総括してみると、皇都が日向にあつたといふのは普通に考へられてゐるやうに明白のことでは無い。(75)けれども、それが筑紫地方にあつたことだけは、別に疑を容れなければならぬ理由が無い。さうして、もし、それを狹義の筑紫と解するならば、上代に於いて最も文化の發達してゐたところ、また瀬戸内海によつて東方との交通が極めて便利であつたところとして、皇室の發祥地には恰好の土地であつたのである。さうして、かういふ土地から起つて、瀬戸内海の南岸及び、其の東方の大和地方を征討平定するといふことは、上代の形勢に於いて、あり得べからざることでは無いのである。或は、皇室の筑紫起源説は、皇祖を日神としたために日孫降臨の物語をつくる必要があり、それが爲めに降臨の場所を大和からは距離の遠い筑紫、特に人にあまり知られない秘密國たる今の日向地方に置いたのでは無いかといふ疑も起らぬでは無いけれども、「日向」の原義が今の日向で無いとすれば、此の疑の大半は打ち滑されるのみならず、筑紫起源説を否定しなければならぬ明確の證據が無い以上、それまでに斷定することは出來ない。さうして、緒論に述べておいた如く、記紀の上代の記事は歴史的事實から生じた傳説、もしくはそれを材料として按排構成したものだとすれば、神武天皇東征物語の基礎として、少なくとも皇室が筑紫から起つて東方を平定せられたといふだけの傳説はあつたものと見るのが穩當であらう。
然らば皇室の大和を平定せられなかつた前の大和地方、并びに内海沿岸の状態はどんなであつたらうか。後の有樣からいつても、魏志倭人傳に小君主が多くあつたと記してある九州地方の状態から類推しても、地方的首長が各地に割據してゐたに違ひない。さうして、かの倭人傳にこれら小君主が女王卑彌呼に服屬してゐたとあることなどから推察しても、それらの小君主の間には、時に、多少頭角を露はした優勢のものがあつて、其の威力を附近の小君主ども(76)の上に及ぼしてゐたであらうと想像せられる。大和にも、さういふ大君主がゐたのでは無かつたらうか。皇室が筑紫から移つて新たに都を奠められた土地としては、青垣山めぐれる大和は、海にも遠く、交通の便も少なく、決して恰好の土地ではない。その不適當な土地を都とせられたのは何故か。兵略上の理由かといふに、四方の青垣山を城廓と頼むやうな大規模な作戦は上代に無かつたのであり、また皇居に城廓があつたことは少しも上代の傳説に見えてゐないから、さうとは思はれない。さすれば、そこに有力な君主があつて、皇室がそれを放逐もしくは征服せられたために、おのづから、舊君主に代つて其の地を占められたものと見るべきではなからうか。もしさう考へたならば、其の舊君主の行くへはどうなつたらうか。全く絶滅したのか、または服從して何處かへ退いたのか。
さて、こゝまで考へて來て、前に立ちもどつて見ると、神代史には皇室に服從しなかつた一勢力が出雲にあつたとしてある。それは日孫降臨の時となつてゐるが、此の物語の主旨は出雲の勢力が皇室に國土を奉つたといふのであり、さうして、皇室が皇室として我が國に君臨せられるのは大和奠都にはじまるのであるから、もしこの國土退讓の物語に何等かの歴史的事實が潜んでゐるならば、それは神武東征物語として傳説化せられてゐる大和征服の場合であると見なければならぬ。紀に神武天皇の皇后ヒメタヽライスヽ姫をコトシロヌシの女とし、記には同じ位置のホトタヽライスヽキ姫をオホモノヌシの女としてあるのは、よし、そのことが何等かの歴史的事實の反映として見られるほどのことでないにもせよ、物語の作者が皇室と出雲の勢力との間に密接の關係があると考へたからのことであり、又た記紀の何れにも、神武天皇東征の時、天皇が或る夜、日神が葦原中國を平定しようためタケミカツチを下さうとせられたことを夢に見られたといふ話があるが、此のことは神代史に見えるオホナムチ國ゆづりの際の話であるから、神代(77)史の作者もしくは神武東征物語の記者が神武東征と日孫降臨との二つの物語の間に深い因縁があると考へてゐたことが知られる。これらを見ると、出雲の退讓を大和奠都の時のことと考へるのは傳説の上からも意味のあることになる。さすれば、上に述べた如く、大和奠都以前に其の地を占有してゐて、皇室に征服せられたものは、即ち此の出雲の勢力であつて、それが皇室に降附した後、大和を避けて出雲に退いたのではあるまいか。かう考へると、出雲のやうな僻地が大なる勢力の根據地にはふさはしくないといふ非難も免れることが出來、また國を讓つて退避したといふ話にもよく適合する。さうして、それが出雲まで退いたのは、本來大和を中心として、四方の小君主の上に多少の威力を及ぼしてゐた優勢のものであつて、山陰地方も、其の勢力範圍であつた故ではなからうか。記には景行天皇の時ヤマトタケルがイヅモタケルを討平したといふ話があるが、ヤマトタケルの名が大和皇室の勢力を表象し、クマソタケルの名が熊襲を代表する詞となつてゐると同じく、イヅモタケルの名は、出雲にゐて皇室に服從しなかつた勢力のあつたことを示してゐるもので、出雲が大和奠都の後もなほ皇室の一敵國であつた事實を示すものであらう。して見れば、所謂四道將軍の傳説なども、其のうちには山陰・山陽方面に於ける出雲勢力の討平が傳説化せられたものがあるかも知れない。出雲の勢力は相應に長い間皇室に服從しない一種の勢力として人の記臆に殘つてゐたのであらう。上に出雲の勢力が歴史的事實として存在したといふ假定が許容せられるといつたのは、かういふ事情からである。垂仁天皇の皇子に杵築の神の祟があつたといふ話なども、神もあらうに、わざ/\大和に遠い出雲の神としてあるのが何か意味ありげに思はれる。其の他、大和にて崇信せられてゐるオホモノヌシがオホナムチと結合せられてゐるのは、民間信仰の對象としてのオホナムチにオホモノヌシを結合しただけのことで、また出雲國造神賀詞及び神名帳に見える如(78)く、大和に祀られてあるコトシロヌシ、アヂシキタカヒコネなどがオホナムチの子となつてゐること、出雲風土記にあるやうに、大和葛城の賀茂の社(アヂシキタカヒコネ)の神戸が出雲の意宇郡にあることなどは、神代史の作られた後、それに附會して作られた關係と見られないでも無いが、見やうによつては出雲と大和との間に何か由縁があるのを暗示するやうにも思はれる。
以上の説を約言すると、上代に於いて皇室に服從しなかつた出雲の一勢力があつたことは事實らしく、さうして、それは、もと大和地方に占據して附近に勢力を振つてゐたものであつたが、皇都が大和に集められた時、其の兵威に敵しかねで降服し、出雲に退避したものと解せられるといふのである。だから神代史の國ゆづりの一段は此の傳説を材料として作られたものと見るのが妥當であらう。また出雲國造は、多分、此の出雲勢力の後裔であらうが、家名をよくするため、其の祖先の名をホヒの命としたのであらう。
ハ オホナムチの國ゆづりと日孫降臨との物語
オホナムチの國ゆづりの物語に、出雲の勢力の皇室に服從したといふ歴史的基礎があるとすれば、次に研究すべきことは、何故にそれが神武天皇の大和奠都、即ち建國の物語のうちに編み込まれずして別に神代史中の一節とせられてゐるかといふことであるが、それは日孫降臨の物語を作るに必要であつたからで、日孫降臨は皇祖を日神としたところから生ずる必然の結果である。日神はもと/\皇祖神として現はれたのであるから、其の子孫が此の國に降臨するといふ一段が無くてはならず、それには物語として降臨の有樣を花やかにする必要があるのを幸ひに、出雲勢力の(79)服從をこゝに結びつけて、日孫降臨の神話を大和奠都といふ歴史的事實の象徴としたのである。
次には、神代史に於いて此の傳説を日孫降臨の物語に結びつけるについて、何故に出雲の勢力をオホナムチの名によつて表はしたかといふ疑問が起るが、それは、此の神が上代から出雲に祀られて民間に崇敬のあつい神であつたから、神代史の作られない前から出雲の政治的勢力と結びつけられてゐて、それが傳説として一般に知られてゐたのではあるまいか。大和の朝廷に於いて、皇祖として日神を崇敬せられ、または皇都の所在地たる大和のオホクニダマ(オホナムチの別名とはせられないオホクニダマ)を信仰せられたと同じやうに、出裏では其の土地の有力な神のオホナムチを崇敬して自己の政治的勢力に一種の宗教的威嚴を加へようとしたとは、容易に想像せられることである。或は、神代史に於いて出雲の勢力を表はすに特に其の土地の有名な神の名をかり用ゐたのかも知れない。皇室に服從しなかつたものに、さういふ信仰の篤い神を結びつけるのはをかしいといふ疑問が起らぬでもないが、これには出雲傳説に歴史的基礎のないものとして考へた場合に述べて置いたと同樣の解釋が出來ないでもないから、さう見ても差支は無からう。何れにしてもオホナムチが民間に崇敬の篤い神である以上、物語に於いて其の性質が民衆の幸福の神とせらるべきことはいふまでもない。また國ゆづりをする以上、それが國の主であり、國の主であれば國作りの神とせられるのも當然であつて、從つてオホナムチに國作りといふ美稱を冠せられると共に、別にオホクニヌシ、ウツシクニダマ等の名がつけられ、またはオホクニダマと結合せられたのであらう。かうしてオホナムチに本來無關係な政治的意義が附加せられたのである。たゞ、オホナムチの國作りといふ話は、始めて國ゆづりの物語の作られた時から、あつたものかどうかはわからぬ。前に述べた如く、書紀の本文に其の話のあつたことを豫想せねばならぬ記事があるに拘(80)はらず、それが明記せられてゐないのは、其の資料となつたものに此の話の無いものがあつたためではあるまいか。もし此の臆測の如く、それが國ゆづり物語の原形には無かつたものであるとすれば、はじめの作者はたゞオホナムチの名だけを採つたのかも知れない。但し、それにしても、オホナムチが宗教的に信じられてゐる神といふことは知つてゐたであらう。さて、かういふ譯で出雲勢力を代表すべき神はオホナムチとせられたが、しかし、皇室に服從せざる點に於いては、たゞ此の點のみに於いては、荒ぶる神とせられた。これは出雲勢力の歴史的事實から來たことであるから仕方がない。即ち民衆の幸福の神が荒ぶる神とせられるといふ矛盾は、オホナムチに對する民間信仰と、皇室に對する出雲の政治的關係とを結合したがために生じたのである。
これで、國ゆづりの物語の含んでゐる矛盾の理由は解決せられたが、上に述べた(い)の物語に對する矛盾は依然として解けない。即ち、(い)に於いては日神が高天原から此の國土を支配することになつてゐるのに、此の國土には別に國の主としてオホナムチがあるといふ矛盾があるのである。けれども國ゆづりは嚴然たる事實であるから、奈何ともすることが出來ない。もし神代史が全然作者の空想であつて、其の間に歴史的根據のあるものが無いならば、かういふ矛盾なしに物語が作られたであらう。即ち、初めからオホナムチの勢力を作り出さずにすんだのであらう。しかし傳説を基礎として作られた國史の上に冠せる神代史であるから、同じく傳説によつて人の知つてゐる明白なる事實を抂げるわけにはゆかぬ。だから此の矛盾は皇祖を日神とする思想と歴史的事實とを結合したがために生じたものである。この矛盾は到底取り除けることの出來ないものであるが、しかし、何とか其の間に多少の融和は出來てゐないだらうか。そこで(ろ)の物語を考へてみる。
(81) ニ スサノヲの物語
くりかへしていふが、スサノヲの神代史上の位置には三つの重要な點がある。第一は、此の神が日神の同胞として生まれながら、高天原で日神のいふことをきかずあばれまはつたこと、第二は、それがオホナムチの父祖であること、第三には、スサノヲが此の國土の神たるイザナギ、イザナミの子として此の國土に生まれてゐるから、やはり、此の國土に屬する神であるのに、それが特にヨミにやられてゐることである。此の第三の問題については、現の國の神をわざ/\ヨミにやるのであるから、そこに何かの意味があるに違ひない。更に考へると、神代史はすべて此の國土のことを取り扱つてゐるから、ヨミに用はない。用のないヨミへスサノヲをやるのであるから、ます/\そこに特別の意味がなくてはならぬ。
さて、オホナムチとスサノヲとを比較すると、一は天孫に服從しなかつたので荒ぶる神とせられ、他は日神の前であばれまはつたので、其の名もスサノヲである。一は國を讓つて退避し、他は罪せられて放逐せられ、又た、一は國ゆづりの後、幽事を治めて長く日孫を護ることを誓つたのみならず、其の孫女(または女)は日孫の系統の神武天皇の皇后となり、他は其の子を日神に上つて其の嫡子とした。其の間に著しき類似がある。即ちスサノヲは、オホナムチと同じ性質を具へ、同じ行動をしてゐる。さて作者の腦裡に立ち入つて考へると、此の性質行動の類似は決して偶然にできたことではなからう。さうして、國ゆづりの物語に歴史的事實の根柢があるとする以上、オホナムチがもとになつて、スサノヲはそれから作られたものと考へるのは無理ではあるまい。かういふやうに、スサノヲの性質が本來(82)オホナムチと關係のあるものならば、スサノヲの神のつくられたのは、オホナムチの父祖とするためであつた、と思はれる。即ち、オホナムチに父祖が必要になつたためにそれと同性質の神たるスサノヲを作つたのである。然らば、何故にかういふ父祖を作り設ける必要があつたかといふと、それはオホナムチが日孫に服從する前に國土を占領してゐた因由を説くためであつたのであらう。それは、一方に於いて、スサノヲが日神の兄弟であり、日神と同じくイザナギ、イザナミ二神の子であるとせられてゐるから、其の子孫たるオホナムチが日神の統治の下にあるべき此の國土を一時占有したのも、まんざら理由の無いことでは無いやうに見えて來るので、作者の意志がこゝにあつたらしく思はれるからである。して見れば、スサノヲを日神の同胞にしたのも、やはり此の目的のためであると推測せられる。又た日神の生まれた物語からいつても、日神の君臨すべき國土をオホナムチが理由なくして領有してゐるのでは、日神を國土の主として生ませた精神が徴底しないから、さういふことのあり得べき事情を作らねばならぬ。それには、スサノヲといふ仲介者があるのは甚だ都合がよいのである。スサノヲが日神と共に生まれてゐるのに結構上の無理があるといつて置いたが、それはかういふ事情から生じた已むを得ざる成り行きであつたのである。即ち、オホナムチの父祖たるスサノヲを何等かの方法によつて日神に結びつけねばならなかつたので、それがために血族關係とし同胞とする方法をとつたのである。以上の考説を概括していふと、オホナムチが國土を領有した理由を説かうとしても、それをすぐに日神に結びつけることができないから、別にオホナムチの分身ともいふべきスサノヲを作り設けて、それを日神の同胞としたといふのである。かうすれば、日神とオホナムチとの間接の關係によつて後者の國土領有が寛恕せられるのみでなく、中間に立つてゐるスサノヲの行動によつて、それに歴史的由來がつき、成り行きがよほど自(83)然らしくなつて來るのである。但し、オホナムチの分身たるスサノヲを作るにしても、必ずしも、その問の關係を血統で繼がれたものとしなくてもよいやうであるが、それをさうしたのは、スサノヲと日神との關係を同胞としたと共に、何れも血族關係を以て皇祖の位置を説明しようとする神代史の根本精神から來てゐるのである。しかし、かうしたところで、スサノヲの子孫が此の國土を有すべき理由は何も無いから、畢竟、矛盾は依然として存するのであるが、たゞ是がために、オホナムチは外部から起つた叛逆人でも無く、根柢からの日孫の敵でも無いことになつて、日神の此の國土に對する權威が一層確かめられることになつたのである。それと同時に、スサノヲが、あばれものでありながら心は正しく清しとせられ、其の子を日神の子とせられたことの意味も一層強くなつて、神代史の調和的精神が著しくあらはれることになつたのである。
スサノヲといふ神が、オホナムチの父として現はれまたそれが日神の兄弟とせられた事情は、これで知られたが、スサノヲがヨミにやられた理由はまだわからぬ。しかし、オホナムチは立派な現の神であるけれども日孫の權威に服從しない荒ぶる神といふ點に宗教的意味を附けていへば、現の國の主たる光明の神の反抗者であつて、おのづからヨミの觀念と聯結せられる。又たスサノヲ自身には、本來、夜の性質も、ヨミの性質も、あるので無いけれど、彼のために日神が岩戸にかくれて、世がくらくなつたのであるから、彼の行動はおのづから明るき晝に對する夜、光ある現に反對するヨミと聯想せられる。物語の作者は此の聯想を利用して日神及び其の系統に對する反抗者をヨミに追ひやつたのではあるまいか。皇祖が現の國の光の神たる日神であることを宗教的に明かにするには、自然、其れに服從しないものを現の敵たるヨミのものにしなければならないのである(物語の上ではスサノヲは初めからヨミへゆくべく(84)定められてゐたので、高天原の騷ぎは、其の後のことになつてゐるが、それは、スサノヲをヨミへやるといふことが作者の腦裡に定まつた上の話のしぐみである。今こゝに説くのは本來スサノヲをヨミへやるものとした根柢の理由であるから、それとは別問題である)。この考がもし誤らないものとすれば、スサノヲがヨミにやられたことはいふまでもなく、オホナムチがヨミの系統となり、出雲がヨミと混淆せられたのは當然である。けれども、出雲は、本來、出雲であり、オホナムチはもとより現の國たる此の國土の主であつて、それは毫も動かすことの出來ぬ事實であるから、それがヨミに結びつけられたのは、たゞ表面だけ、即ち外部的關係のみのことである。だから、其のヨミは眞のヨミでなく、たゞ∃ミの名がつけられたのみであるといふ曖昧な結果となり、又た現の國の神たるオホナムチがヨミの系統に屬するといふ矛盾も生じたのである(又た、かういふ關係で日孫と國土の主たるオホナムチと、并びに日神とオホナムチの父祖たるスサノヲとが、現とヨミとの對此と聯想せられたため、かの領土分掌に關して、スサノヲがヨミにやられながら、一方で天下の主と見られるやうなことも生じたので、ヨミと現の世界の國土とが奇怪な混淆を來たしたのである)。
さてスサノヲのヨミについての此の説明と、前に述べたスサノヲと日神との關係についての説明とを綜合して、それを約言すると、(ろ)は、(い)と(は)とを結合するために作られたものであるから、(い)との結合點にも、(は)との連接點にも、無理と矛盾とが出來たといふのである。
ホ 三つの中心點の綜合
(85) 以上の考説がもし理由のあるものであつたならば、前に述べた種々の問題が盡く解釋せられると共に、神代史の根本思想が其の間に自から闡明せられたことと思ふ。即ち神代史は皇祖を日神とするといふ思想が中心となつてゐて、それを一方に於いて大和奠都・出雲退讓の歴史的事實と結合するために、日孫降臨及びオホナムチ國ゆづりの物語が出來、一方に於いて、それを國家に於ける皇室の位置と調和させるためにイザナギ、イザナミ二神の國土及び日神生産の物語が出來たのである。さうして、その二つを聯結するためにスサノヲの物語が作られたのである。だから、一口にいへば神代史は皇室の由來を説いたものである。たゞそれを説くにはいろ/\の思想が入用であつた。即ち、皇祖を日神とする思想は太陽崇拜と祖先崇拜との結合であり、國土と日神との生産は祖先崇拜・血族主義を以て國家と皇室との關係を解決しようとするのであり、出雲の勢力に關して、オホナムチに對する民間信仰と歴史的事實とが現はれ、スサノヲについてヨミの觀念が結びつけられてゐる。郎ち血族主義・祖先崇拜と、太陽及びオホナムチなどの宗教的崇拜と、并びに、現とヨミとの對比に現はれてゐる一種の宗教的人生觀とがあつて、其の種々なる結合によつて一部の神代史が成り立つてゐるのである。さうして、かういふ性質の異なつた思想が結合せちれてゐるから、其の間に矛盾が出來たのであるが、其の矛盾を調和しようとして、更に他の思想を持ち出して來た觀がある。即ち、前に述べた如く、祖先崇拜と太陽崇拜とを結合したがために、國土が生まれたり、日神が地上で生まれたり、皇祖神にも父母があつたりする無理が出來、太陽崇拜と歴史的事實とを結合したがためオホナムチの國土領有が無理なことになり、また民間信仰と歴史的事實とを結合したために民衆の幸福の神が荒ぶる神となる矛盾が出來たのであるが、日神についての觀念と出雲に關する歴史的事實とが矛盾するから、或はスサノヲといふ神を作り、或は新たにヨミといふ(86)思想を捉へて來たけれども、之が爲に却つてヨミにゆくべき神が日神と共に生まれるといふ無理が出來、またヨミの觀念と歴史的事實とが結びついて、現の國がヨミの系統に入るといふ矛盾が出來たのである。しかし、かういつて來ると、神代史はいかにも思想の混雜したもののやうであるが、歴史的事實は動かすべからざるものであり、ヨミの觀念は、ほんの附屬物であるから、主なる思想はたゞ血族主義(祖先崇拜)と宗教的信仰(太陽崇拜、其の他の民間信仰)との二要素に過ぎないので、しかも全體の組織の上から見ると、宗教的信仰は背後に潜んで、血族主義が表に現はれてゐる。即ち日神も皇祖神としてのみ取り扱はれ、ヨミにやられたスサノヲも、オホナムチも、イザナギ、イザナミ二神の後裔となつてゐる。又た種々の矛盾が日神を皇祖としたところから生じてゐると共に、それらの矛盾を調和するにも、やはり血族關係で結びつけてゐるのを見ると、神代史を貫通する思想は血族主義・祖先崇拜であることが知られよう。だから、種々の矛盾をば包含しながら、全體に於いて一貫した脈絡が血族主義によつて成り立つてゐるのである。さうして、それはなほ神代史發達の徑路を見ると、一層、明かになるであらう。
二 構成の順序と中心思想
イ 三段の順序
以上、まづ、神代史を分解して、それを組織してゐる一々の物語とし、つぎに其の物語の研究から歸納して得た思(87)想によつて、再びそれを綜合して全體を組織してみたのであるが、その間におのづから神代史の形成せられた順序が暗示せられたことと思ふ。日神を皇祖とすることはすべての物語に通ずる根本思想であり、また、單純な、さうして、上代に生じ易い考であるから、これは最初に定められたに違ひない。なほ、これは、皇位を天つ日嗣といひ、天皇を「日のみ子」といふことが一般に行はれてゐるのでもわかる。さて、それに直接に聯結せられてゐるのは、一方で日神の起源、即ち國土日月の生産物語、他方では日神と現在の皇室との關係、即ち日孫降臨の物語であるが、神代史の目的が、前に述べた如く、現在の皇室の由來を説くのであるならば、先づ後の方を作らなければならぬ。のみならず、神代史を歴史の最初に冠せるに就いては、それを實際に傳はつてゐる建國の物語に接績するやうにしなければならぬ。さうして、日神と現在の皇室との關係が日孫降臨によつて説明せらるれば、それだけで、既に一通り皇室の由來はわかるわけである(國土日月の生産だけでは日神と現在の皇室との關係がわからず、また其の物語が歴史に接續しない)。だから日神の觀念の出來た上は、それと同時に、或はそれに引き績いて先づ日孫降臨の物語が出來たに違ひない(第一段)。日孫降臨が一般に建國の基礎、皇位のはじめとして考へられてゐたことは、出雲國造神賀詞はいふまでもなく、大祓をはじめ、大殿祭・鎭火祭・鎭御魂齋戸祭・遷却祟神祭等の祝詞に何れも、皇御孫の命が高天原から降臨せられたことを擧げ、又た宣命にも神龜元年、聖武天皇即位の時のをはじめ、其の他にも、同じことが見えてゐるのでわかる。これでみると、皇位の起源をいふ時には祝詞でも宣命でもイザナギ、イザナミ二神まで溯らずに、必ず日孫降臨をいふのであるが、これらは神代史の作られた後のものとはいへ、天つ日嗣と稱せられる皇位のはじまりは日神の子孫の降臨で説明がつき、それだけで滿足せられ、またそれが何人にも承認せられ得べきことであつたからであらう。(88)だから、神代史の作にも、最初にこのことが案出せられたと見なければならぬ(鎭火祭祝詞のみにはイザナギ、イザナミ二神のことが出てゐるが、これは火の神のことをいふについて、イザナミをひき出したので、皇位の起源についていつたのではない)。しかし、日孫降臨では日神もしくは其の血統と國土とが對立してゐるやうで、日神の觀念にも背き、また日神が皇祖であるといふことを具體的に示したのみで日神の皇祖たるべき理由が明かでないから、それを明かにするために、かの國土日月生産の物語が作られたのであらう(第二段)。けれども、日孫の降臨と國土日月の生産との間には、矛盾が出來たから、そこでスサノヲの物語が案出せられた(第三段)。このスサノヲの物語が後から附加せられたといふことは、前に述べた如く、日神との關係についても、オホナムチとの聯絡についても、無理や矛盾があつて、強ひて首尾を前後の物語に接合したやうに見えるのみならず、生まれる時に、或は日月二神とヒルコを隔て、或は鼻からとか、ふりかへつた時とか、日月二神とはよほど趣を異にしてゐて、いかにも外部から無理に附け加へたやうに見えること、其の子のオシホミヽが何のはたらきをもしてゐないこと、又た、ヨミの觀念が前後に無關係な思想であること、などから推知することが出來よう(オシホミヽが初めからあつたならば、高千穗降臨を其の子のニヽギとしなければならぬ理由は少しも無い。オシホミヽに爲すべき事業が別にあるならばさうする必要もあらうけれども、この神は名ばかりの神である。だから神代史の最初の形ではニヽギが日神の子であつたのではなからうか。さうして、スサノヲの物語が附け加へられてから、オシホミヽができたため、それが孫になつたのではなからうか。日神とニヽギとの間に無爲の神のオシホミヽが介まつてゐるのは、かうでも考へなければ説明ができない)。
神代史は大體、かういふ三段の順序を經て成り立つたものらしいが、其の一段毎についていつても、また多少發達(89)の徑路が見られる。例へば日孫降臨の物語についても、物語の精神はオホナムチの退讓にあるのであるから、此の神に國作りといふ名を與へ、國土經營の神とすることは必要な條件ではない。だから、最初は紀の本文の如く、たゞ日神の血統に對する國土の神、即ち天つ神に對する國つ神といふだけであつたかも知れない。又た國土日月の生産に就いても、月神を加へたのは後のことであつて、はじめて作られた時は日神のみであつたかも知れない。またスサノヲの話でも、最初はすさびの神として高天原の騷ぎのこと、并びにそれをオホナムチの父祖、日神の弟として出雲に下るといふことだけであつて、ヨミの思想はあとで附け加へられたのかも知れない。月神もヨミも物語に缺くべからざる要素では無くして、むしろ餘計ものである(既にヨミといふ思想がスサノヲに加へられた以上は、オホナムチとヨミとの間にも關係が無くてはヨミが無意味になるから、前に述べた如く、紀の本文のやうでは甚だ物足らぬ感じがするけれども、はじめからヨミの觀念が無ければ、無いまゝで物語に何の缺陷も生じない)。
さて、上記三段の順序は一人の作者の心理的經過か、又は、時代を追うて或る歳月の間に漸次積み重ねられたものかといふと、結構に無理があり、物語の精神に矛盾のあるのを見ると、それが一人の作者の頭腦で作られたとするよりは、歳月を經て附け加へられたと見る方が妥當であらう。但し、それと一段毎に見える物語發達の經路とが、時間上、どんな關係であつたかは、わからない。
ロ 血族主義
上に遽べて來た構成の順序を見ると、神代史の發達に於いて漸次血統主義が重んぜられてゆくことがわかる。日孫(90)降臨物語の原形に於いては日神及び其の後裔とオホナムチとは相對した二勢力で、其の間に血族上の關係は無く、又た其の物語の材料となつた民間信仰に於いても太陽崇拜とオホナムチ崇拜とは全く別のものであつた。然るに、日神と國土との關係の起源を説くに至つて血統主義が用ゐられ、スサノヲが現はれてからは日神とオホナムチとの間にも血族關係が成り立つた。それで神代史の骨幹が血統で維がれたのみならず、民間信仰の對象であつた神々も皇祖の血統とせられて、民間宗教と國家の統治權との結合が血族主義で説明せられたのである。さうして、これは古事記によつて傳はつてゐるものに於いて一層明かにあらはれてゐる。
紀の國土生産の段を見ると、イザナギ、イザナミ二神が國土を生んでから單に、海を生み、川を生み、山を生み、木の祖、草の祖を生むとなつてゐるが、記には、そのとき生まれたのが山野河海、火水風土の種々の神となつてゐて神々の名が列擧せられてゐるのみならず、橘小門の御祓の場合にも、マガツヒ、ナホビ、または海の神など、多くの神が生まれ、スサノヲの系統にも土の神、農業の神、竈の神などがある。紀に山川河海を生むとあるのは國土生産といふ思想から派生したもので、其の國土の上の自然地理的現象を列擧したに過ぎないのであらう。木の祖クヽノチ、草の祖カヤヌヒメの名はあるが、これも木と草とを人格化したものである。記の方にそれがみな神になつてゐるのは、大八島に一々人らしい名をつけたと同じく、一體に神話的分子に富んでゐる此の書の傾向かとも思はれるが、なほよく考へるに、其のうちのヤマツミ、ワダツミ、ミクマリなどは山の神、海の神、水の神などとして民間に崇拝せられてゐた神らしく、また他の場合に衢の神、竈の神、オホトシの神、ワカトシの神などのあるのを見ると、多くの神のうちには物語の作者の腦裡から生み出された神が尠なからずあるにせよ、當時、實際に信仰せられてゐた神々をこゝ(91)に編み込んだ形跡のあることは疑が無からう。或は民間信仰に於いては單に風の神、火の神、乃至、水の神、土の神で、別に名の無かつたのを、作者がこと/”\しくシナツヒコ、カグツチ、ハヤアキツヒコ、ハニヤスヒコなどの名をつけたのもあらう。或は延喜式神名帳に「葛木の水分《ミクマリ》」「吉野の水分」「宇多の水分」などとある如く、各地のミクマリで祀られてゐた神々から一つのミクマリの神を抽象して來たのもあらう。何れにしても、民間で信仰せられてゐた神々である。
記紀等によつて推測せられる上代の民間信仰は至つて幼稚なもので、出雲國造神賀詞に「晝は五月蠅なす、みなわき、夜は火瓮《ホベ》なす神あり、石ね、木の立、青き水沫も言きく」とあるやうに、山川河海、到る所に精靈が遍滿してゐると考へてゐたらしく、上に述べた如く動物崇拜の一現象たる蛇神もあり、石の崇拜もあつたくらゐである。だから、或る山、或る川、或る森、或る池等の多少神秘な感じを起させるやうな場所、または灌漑などのために農業に利用せられるやうなところにそれ/\神があるとして、それを祀つたので、其の神は、まだ、一般的性質を與へられてゐないのが多かつたらう。前に擧げたミクマリの神も、一のミクマリの神といふのがあつてそれを各地で祀つたのでは無く、各地のミクマリでそれ/\そこの神を祀つたのであり、有名なミワのオホモノヌシなども、オホモノヌシといふ神をミワで祀つたのでは無く、ミワ山の神をオホモノヌシと名づけたのであらう。またもし、太陽とか、或は海とかいふやうな、何人も一樣に目につく著しいものについては、一般的に太陽神、海の神などがあつたであらうが、それもたゞそこに漠然と一種の精靈があると考へたのみで、一々其の神のはたらきや性質について明かな觀念をもつてゐたのではなかつたらう。だから、それらの神々は完全に人格化せられてゐなかつたものらしい。從つて、神代史の物(92)語で、それが兎も角も人格あるものとなり、又た男女の性さへもついてゐるのは物語作者の考案であると見なければならぬ。
ところで、さういふ神が、みな、イザナギ、イザナミ二神の子として、または其の後裔として生まれてゐるのは何故かといふと、それは作者に、民間信仰の神を血族關係に織り込まう、一歩を進めていはば、それを皇祖の血統としようといふ考があつたからのことであらう。古事記では、日神のみならず、オホナムチのみならず、宗教的に崇拜せられてゐたあらゆる神は悉く皇祖と同一血族になつてゐるのである。これらの多くの神々は神代史に於いて何のはたらきをもせず、從つて、何の物語にも關係の無いのが多いから、それを故らに神代史に載せる必要があるとすれば、それは、たゞ、さういふ神々が二神の子孫であつて、皇祖と血族關係を有つてゐることを示すより外、なにもないのである。もしまた、そのうちに神代史に於いて何等かのはたらきをしてゐる神があるとしても、それは本來、神の性質とは無關係のことで、たゞ神代史上の物語に其の名が結びつけられたまでである。日神が皇祖とせられ、オホナムチが出雲の勢力とせられたのが既に、神に固有でない性質の附け加へられたものであるが、さういふ神代史の根本で無いものでも、例へばオホヤマツミとワダツミとが、ニヽギの命、ホヽデミの命の舅とせられてゐる如き、たゞ山神、海神といふので、一はコノハナサクヤヒメの父にせられ、一は海神の宮の主人公にせられたのみであつて、それらは本來の神としてのはたらきでは無いのである。だから、宗教的意味でこれらの神々が神代史に載せられたのでは無い。又た、カグツチの肢體に多くのヤマツミが生まれるとか、または農耕に關係のあるらしい種々の神がスサノヲの系統に生まれるとかいふやうに、神々の間の血統關係が無意味であつたり、或は生まれた場合と其の神の性質とが無關係(93)であつたりするのは、神の性質から自然に想像せられた血族關係では無くして、強ひてさういふ關係を構成しようとしたものであることを示してゐる。
神代史の此の態度は、上代人の家系に關する思想と風習とを考へると、一層明かに了解せられよう。先づ、當時の社會に於いて各氏族が其の祖先神をどういふものにしてゐるかといふに、其のうちには上に述べた宗教的信仰の對象たる神がある。記によると、ワダツミの神が阿曇連の祖となつてゐ、また其の崇神天皇の卷には、オホモノヌシの子孫にオホタヽネコがあつて、それを三輪君、鴨君の祖としてある。ワダツミの神、オホモノヌシの神に子孫のあるべき筈は無いから、これは勿論附會である(序に一言して置く。從來一部の國史家には、すべての神社を氏族の祖先神と見て、其の神を祭つてある神社の分布によつて、其の氏族の地理的關係を推斷しようとする傾がある。祖先崇拜・族制組織の社會であるから、祖先神のあることは勿論であつて、從つて、かういふ推論法を適用して差支の無い場合もあるが、神はすべてが祖先神でないといふこと、即ち祖先崇拜と同時に、宗教的信仰の對象たる神があることを注意しなければならぬ)。次には祖先神を神代史に於いて作られた神々に附會した氏族も多い。例へば、かの高天原で日神とスサノヲとの誓約によつて生まれたアメノホヒ、アマツヒコネが多くの氏族の祖先とせられ、ホヽデミの命の兄弟のホデリが隼人の君の祖とせられてゐる類である。これらは一と通り神代史が作られてから、或る氏族が、其のうちの神に祖先を附會したのもあらうし、又た物語の作者が、話のはこびに都合のよいため、其のうちの神を或る氏族に結びつけたのもあらう。中臣・齋部の祖とせられてゐるアメノコヤネ、フトダマの如く、全く空想的に作り出され(94)たものは此の部類に屬すべきものであらう。玉作連の祖をタマノオヤとし、または久米連の祖をアマツクメとしたなども其の例で、これらは氏族の職掌、または業務の名が其のまゝ神の名にせられてゐるのである。さて、何故に祖先神としてかういふ附會が行はれたかといふと、それは一般氏族が各々其の家格を貴くしようとしたからである。家柄を貴くするために銘々勝手の系譜を作ることは、後世に於いては、普通の習慣であり、又たそれが爲に家々の間に家系の爭論の起ることも珍しくないが、允恭紀に探湯を以て氏姓を正したとあるのは、其のことの歴史的事實としての眞否如何は兎に角、かういふ事情が上代にもあつたといふことを示すものである。
此の如き習慣は、族制組織の社會に於いて、免るべからざる自然の傾向ではあるが、其の族制で社會が成立してゐる以上、系譜は國家の綱紀、貴賤尊卑の分れるところであるから、政府は其の混亂を放置するわけにはゆかぬ。そこで、允恭紀にあるやうな考も起つたのであらうが、それよりも大切なこと、又た效果のあることは、政府で一定の系譜を作ることである。古事記の序文に、天武天皇が「諸家之所v賚帝紀及本辭、既違2正實1、」多加2虚僞1、當2今之時1、不v改2其失1。未v經2幾年1。其旨欲v滅」と仰せられて「撰2録帝紀1、討2覈舊辭1、削v僞定v實、欲v流2後葉1」といふ御計畫があつたとあるが、其の帝紀といふのが「勅2語阿禮1、令v誦2習帝皇日繼及先代舊辭1」とある帝皇日繼、即ち皇室系譜に當ることは、本辭または舊辭といふのが、こゝに先代舊辭とあつて同じやうにいひつらねてあるのでわかる。ところで、諸家の傳へてゐる帝紀、即ち皇室の系譜に虚僞が多いとあるが、皇室の系譜が家によつて違つたものになつてゐるのは、即ち諸家が其の祖先を、都合のよいやうに、皇室と結びつけて、其の家格を貴くしようとしたからであらう。それでなくては、家々の系圖こそ勝手に作られもしようが、皇室の系譜まで種々に改刪せられる筈が無いの(95)である。だから、皇室では一定の系譜を作つて諸家の謬妄を正し、一般氏族と皇室との系譜上の關係、印ち血族關係を明かにしなければならぬやうになつた。さうしなくては諸家の間に於ける皇室の位置が正されないからである。天武天皇の御志は即ちこゝにあつたのである。それで、其の御遺志がもとになつて作られた古事記を見ると、全篇の主旨は皇室の系譜を明かにするにあることが明かにわかる。神代は且く措き、神武天皇以後に於いても、御歴代の記事の始めに必ず系譜が詳細に記されてあつて、それから分れた各氏族との關係が一々註記してある。特に仁賢天皇以後の卷々はたゞ此の系譜のみであつて、其の外には何の記事も無い。これを見ると、古事記の撰述は舊辭(歴史的物語)を傳へるよりも帝紀(皇室の系譜)を正しくするのが主なる目的であつたと推斷せられる。しかし、これは必ずしも古事記に始まつたことではなく、家系の問題が一般の注意に上り、其の間に於いて皇室の位置を明かにする必要が感じられた時からのことであらう。姓氏録の序文によると、天智天皇の時の庚午年籍も、矢張りこれに關係があるらしい。また推古天皇の朝に編纂せられたといふ「天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記」は、よし、その體裁に紀傳體の支那の正史からおもひついた點があるにせよ、其の内容は主として皇室及び百八十伴緒等の系譜であつたらうと思はれる。この伴造・國造等の本記は、實際どれだけに出來てゐたものか、又た公民本記などといふものが果して作り得らるゝものであつたか、少々疑はしい廉もあるが、兎に角、多くの伴造・國造について列傳體にそれ/\の家の事蹟などを書かうとしたとて、四、五の有力なる家の外は書くべきことも傳はつてゐなかつたらうし、よし多少あつたにしても、さういふものがすべての伴造・國造について出來ることでもない。しかし、系譜ならば、諸家に作られてあるものを探るにしても、新たに組み立てるにしても、一般氏族を通じてそれ/\の家に關したものを作るこ(96)とは出來る。それが、古事記とか書紀とかいふまとまつた名がつけられずして、天皇記から公民本記まで、別々になつてゐるところを見ても、さう解釋せられる。だから、これも政府に於いて皇室を中心とした一定の系譜を作るのが目的であつたので、普通にいふ意味の國史編纂ではなかつたに違ひない。
さて、帝皇の日繼がこれほど大切なものであつたならば、神代史の組織に於いても、またそれが中心思想になつた筈である。そこで古事記の神代の卷を見ると、前に説いた如く、神代史の骨組みが血族關係で出來てゐ、國土と其の
統治者たる日神との關係も血族關係で説かれてゐるのみならず、宗教的信仰の對象である神々も悉く皇室と同一系統の血族とせられてゐる。さうして、其の宗教的に崇拜せられてゐる神々、及びイザナギ、イザナミ二神の後裔として、神代史に現はれる神々が氏族の祖先神になつてゐる。これは、一方で多くの氏族が其の家格を貴くするため自ら其の祖先神を皇室に結びつけようとしたと共に、おのづから、さういふ一般の思想を背景とした神代史の作者が皇室を以てあらゆる氏族の宗家と考へたからである。そこで、出來上がつた神代史を見ると、國土と其の上のあらゆる氏族とは、其の統治者たる日神と共に齊しくイザナギ、イザナミ二神の後裔となり、人のみならず、山川河海草木と、其の精靈とも、また共に二神から生まれたこととなり、此の大八島國も、其の上にある神も人も、共に日神の後裔たる皇室を中心とし宗家とする一大血族となつたのである。こゝで皇祖神たる最高の神、日神にも父母があるといふ物語が意味の深いものとなると共に、イザナギ、イザナミ二神の生殖神話で神代史を開いた結構が極めて大切なものとなる。即ちこの生殖神話から開かれた血族關係によつて、すべての國土神人が統一せられたのである。前に述べた如く、神代史の原形には無かつたものらしいタカミムスビ、カミムスビにも子孫が出來、又た後の變形らしいヨミの國の物語(97)によれば、ヨミさへもイザナミが其の神となつて血族關係に織り込まれてゐる。これを見ても、上代人の思想の傾向が察せられ、同時に、さういふ思想を背景にしてゐる上代人の中心思想が血族關係であることも、愈々明かになる(かのアメノコヤネ、フトダマ、イシゴリドメ、タマノオヤ、アメノオシヒ、アマツクメ、等有名なる氏族の祖先は、記には明かに説いて無いが、姓氏録によると、多く、タカミムスビ、カミムスビの裔としてあつて、アメノコヤネは紀の一書に、コヽトムスビの子とある。これはタカミムスビ、カミムスビなどの現はれた後の附會であつて、この二神はイザナギ、イザナミ二神とは別な神であるけれども、矢張り皇室を助け、或はその姻戚となつてゐるのであるから、それを祖先とするのは、廣い意味でやはり、皇室を宗家とするのである)。
以上は主として記によつて説を立てたのであるが、紀の方ではそれと少しく趣がちがふ。これには、神代史にも宗教的に信仰せられた神の名を擧げてないし、系譜も無いではないが、それよりも、むしろ、歴史として、記の序文にいふ本辭または舊辭を傳へるのが主になつてゐるらしい。これは紀が支那正史の本紀に倣つて、歴史または實録として撰述せられたものであつて、記の、系譜を主とするのとは本來の目的が違つてゐるから、自然、さうなつたのであらう。紀に二神が草木山川河海を生むとあつて、それが神になつてゐないのも此の故であらう。だから、紀の本文に神の系圖が少ないとて、それが古事記に於いてはじめて作られたものとは見られない。國土と日神との關係を、血族主義によつて説いただけでは、皇室の位置の由來を明かにするには足りるけれども、半ば抽象的理論である。一歩を進めて、現實のあらゆる氏族が悉く皇室と同一血族であつて、其の祖先が皇室と同じく、イザナギ、イザナミの後裔(98)であるとするに至つて、始めて、皇室と氏族との關係が具體的になる。國土日神生産の物語はこゝまで擴充せられて、はじめて其の精神が徹底するのである。さうして、この發展は作者からいつても自然の徑路であり、周圍の社會からいつても必要のことであるから、國土日神生産の物語の作られてから引きつゞいて出來た物語であらう。
(99) 第三章 神代史の變化と發達
一 物語の變北と潤飾
皇室の由來と、家々に對する其の位置とを説明する神代史としては、上に述べたところで其の要領が盡きてゐる。又た實際、神代史の骨子はそれだけである。しかし、思想の發達につれて事物に新解釋を施さうとし、或は物語を興味多くしようとするために、又た或は傳誦の間に自然に變化が生じ、或は家によつて自家に都合のよい添削をしたりしたために、それに種々の異分子が加はり、又た變形が生じた。記紀の神代史がさういふ變形の生じた後に編纂せられたものであることはいふまでも無い。
スサノヲの簸の川上の物語とか、または筑紫に於けるニヽギ、ホヽデミ二代の物語とかは記紀の何れにも通有のものであつて、特に筑紫の二代の話は、皇室の筑紫起源傳説に結合するために日孫降臨の場所を筑紫としたところから、それと大和奠都との間につなぎにつかはれてゐるものであるが、ウガヤフキアヘズについて何の物語も無いやうに、これも是非とも必要なものでは無い。特に物語そのものは上にも述べた如く民間説話であつて、又た主なる人物はヤマツミ、ワダツミ共に民間信仰の對象たる神であり、コノハナサクヤヒメ、トヨタマヒメは、何れも山神・海神の女(100)として、山と海とを美しく飾る花と玉とから作られた空想人物の名であり、何れも此の二代の神々と内部的關係の無いものである。だから、それは、割合に早く附加せられたものかも知れないが、やはり神代史の骨子が出來上がつた後の潤飾と見なすべきものであらう(二代の神を山と海とに配したのは、皇室が山海を并有するといふやうな思想を寓したのでは無いかとも思はれるが、山海は、いふまでも無く、日孫の領土たる中つ國のものであるから、この話にそんな意味を含めるにも及ぶまい。たゞヤマツミもワダツミも、共にイザナギ、イザナミ二神の子であつて、本來、皇祖とは血族關係がある上に、またそれが二代の姻戚となつて、血縁が一層深くなつてゐるのは、神代史の血族關係を以てすべてを解かうといふ精神がこゝにも現はれてゐると見なければならぬ)。
次に、後から附加せられた異分子の最も大切なのはイザナギ、イザナミ以前の神々である。神代史が説明しようと企てた皇室の由來は、二神の生殖神話で、其の第一原因まで説明せられたけれども、それは、どこまでも大八島國のことにとゞまるのである。イザナギ、イザナミは世界の土地の全體を生んだのでも無く、宇宙萬物の父母でもなく、どこまでも日本國と、其の統治者との本源なのである。しかし、智識の進歩すると共に、單に國家の由來を説くのでは滿足ができず、ひろく土地そのものの起源、もしくは、宇宙萬物の由來に就いての説明がほしくなる。或は同じ國土の起源についても、生殖といふやうな説明では物足りなくて、何か哲理的解釋が欲しくなる。國稚くしてくらげの如く漂へりといひ、葦芽の如く萌え上るものありといふのは之に應じた最初の説明で、更に一歩進むと、クニノトコタチといひ、アメノミナカヌシといひ、或はムスビの神といひ、國土の統一的原理、天地の主宰者、或は萬物發生の作用といふやうな觀念を擬人した神が作られて來るやうになつたのである。これらの抽象的觀念は、多分、支那思想(101)の刺戟をうけた後に出來たものであらう。かういふ思想と二神の生殖によつて國土日月が生まれるといふ考とは、智識の程度も、解釋の態度も、まるで異なつてゐるものであることはいふまでも無い。のみならず、ムスビといふ觀念、アメノミナカヌシ、またはクニノトコタチ、または事物發生の状態を象つたものらしいツヌグヒ、イクグヒなどといふいろ/\の觀念は相互に獨立したもので、其の間に何の關係も無いから、これらは人々がおもひ/\に考へ出して、おもひ/\に附け加へたものであつて、はじめから記紀の如くに集められまたは排列せられてゐたのではあるまい。異説の多いのも此の故であらう。但し何れも、天地萬有の本源を説くために作られたのであるから、それが神代史の卷頭に冠せてあつたことは疑ひが無い。從つて、作られた順序からいへば最後の神が、最初に現はれることになつてゐる。其の最後に附け加へられたといふことは、その神々が神代史の結構に何の關係も無いのでもわかる。
イザナミのヨミの物語が插話として編み込まれたのも、また、政治的に皇室の由來を説くだけでは滿足せず、生死といふやうな人類一般の問題についての説明が神代史に欲しくなつたからであらう。イザナギのヨミにたづねて行つたといふ話は民間説話であるが、ヨモツヒラ坂の爭ひはそれと離して見ることが出來、離して見ると、それは生死の爭ひ、現とヨミとの爭ひの物語であつて、人が死の力に勝つことの出來ないと共に、生殖の力が、死よりも旺盛に活らくことを説いたものである。この物語は神代史の中心思想とは何の關係も無いもので、たゞそれをイザナギ、イザナミに結びつけただけであるが、イザナミをヨミにやることが生殖の神たる原性質に背くにも拘はらず、さういふ風にしたのは、イザナギに人類の生殖力を結合するのが、自然であると共に、それを一方で、ヨミ訪問、夫妻別離といふ民間説話に結びつけたからであらう。オホナムチがスクナヒコナと共に、療病醫藥の法を定めたといふ話も、オホ(102)ナムチが、宗教的に信仰せられた神である固有の性質に關係の深いこととはいへ、神代史上の人物としては日孫に國をゆづるといふ役目だけに用ゐられてゐるのに、かういふ話の附け加へられたのは、やはり皇室の由來を説くためにつくられた神代史を、多少、一般民衆に近づけようとする自然の傾向から來た點もあらう。出雲などについて多くの民間説話が結びつけられたのも、單に物語としての興味を多くするためばかりでは無く、矢はり、同じ意味があつたのではあるまいか。但し、これらは記と紀の一書とに載つてゐるばかりのものであるから、僅少の傳へにのみ添附せられてゐたものであらう。即ち、神代史を一般人類として、または民衆として、意義あるものとしようとした或る特殊なる人々の希望から出たものであつて、それが一般には認められなかつたものであらう。
さて、かういふやうに新しい神なり物語なりが加へられると、それと從來の物語とを結合するために、更に新しい物語が作られ、または物語に變形が出來る。スサノヲのヨミが出雲になつてゐたから、イザナミのヨミも出雲方面にせられたが、其のイザナミがヨミに行つたとせられたから、こんどはスサノヲのヨミへゆくのが、批の國へゆきたいといふことになつて來た。又たイザナミがヨミへゆくことになつたについて、火の神にやかれたといふ話もできたのである。或はタカミムスビ、カミムスビの神が出來たから、タカミムスビは日孫降臨の際にオシホミヽの舅として高天原ではたらくことになり、又たオモヒガネの父ともせられ、カミムスビもスクナヒコナの父とせられた。スサノヲが、妣の國にいつた後にイザナミと何の關係も起らないのを見ると、妣の國といふことは物語の上では無意味であり、又た獨神隱身のムスビの神に子のあるのは矛盾であるから、これらの物語が後人の附け加へたものであることは明かである。
(103) これらは、神代史の結構にこそ關係の無いことながら、神代史の發達に於いては重大の意味のあるものであるが、それ程の意味も無い部分的の變形も尠なくない。其の第一は新智識が輸入せられたために起つたことで、トヨタマヒメのワニが紀には龍となつてゐる類である。これは明かに支那思想の影響である。ワダツミの宮が記では海上であるのに紀には海底となつてゐるのも、これから思ふと、やはり、同一の事情から來た變形であらう。白鳥先生は記の巻頭の五柱の別天神、神世七代の排列が支那的であると説いてゐられる。記にホヒの命がオホクニヌシに媚びつきて三年まで歸らなかつたといふ三の數、記に關係のあるらしい紀の「一書」にサルダヒコのことを鼻の長さ七咫、背の長さ七尺とある七の數も支那的であらう。其の他、イザナミの肢體に神が生まれたといふ化生の物語も、高木敏雄氏(比較神話學)の説の如く或は支那傳來の思想かも知れない。日月と左右の眼との關係も實際、支那に其の前例があつて、元中記に「北方有鐘山焉、山上有石焉、首如人首、左目爲日、右目爲月、開左目爲晝、開右目爲夜、」とあるのなどは同一の思想である。だから、これは二神をイザナミ崩後の子とした變形に於いて支那説を假用したのかも知れない。第二に神の系譜などに於いては、或る家の都合のよいやうに改刪したところもある筈であるが、これは痕跡が明瞭で無い。たゞ齋部と久米との祖先神が中臣・大伴と同じ位置になつてゐるのには多少の疑義がある。久米部は大伴家持の喩族歌(萬葉巻二十)を見ても、姓氏録及び古語拾遺によつて見ても、大伴の配下のものらしく、齋部も、古語拾遺の主張するが如く、中臣と同等の家であつたかどうか、頗る疑はしい。其の名稱からいつても、中臣は宮廷の重臣らしく、齋部はたゞ祭祀に從事するものらしい。記紀にも齋部は首、久米は直とあつて、中臣・大件の連とはカバネも違つてゐる。此の間に何か家格に關する造作の跡があるのでは無からうか。久米氏の祖組がアマツクメ、オホクメなど(104)となつてゐるのも、大伴氏などの例とは同じでない。さて、第三に、かういふ物語の性質として、或る特殊の意味なしに傳誦の間に變形の生ずる例は極めて多く、記紀の諸書に少しづつの差異のある大部分はそれであらう。
また、部分的の添加については、第一に、特殊の目的を以てつくられたものがある。例へばサルダヒコを伊勢に住まはせたのは神宮の位置の由來を説くためであらう。第二には、物語を潤飾して興味を深くすることで、記に歌が多く作り添へてあるなどは其の最も著しいものである。又た神代史全體の上からいへば、簸の川上の物語や、筑紫の二代の物語や、オホナムチ兄弟の爭ひなどは、物語全體がかういふ意味で附け加へられたものといつてよからう。第三に、或る事物、または習慣・俚諺等の起源の説明が物語に附加せられてゐる。海鼠の口のさけてゐること、隼人の歌舞、雉のひたつかひといふやうなことについての話が其の例である。これはどこの國でも作り物語には例の多いことで、我が國では竹取物語などにも多くあるが、神代だけにそれを結びつけるには都合がよい。第四には、地名及び人名を説明する物語の多いこ上である。記にはスサノヲの「八雲たつ」の歌から出雲の名が起つたとある。或は同じ神が「心すが/\し」といつたので須賀の名ができたとある。又たホトタヽライスヽキヒメの名の由來が神武天皇の卷に見える。地名を説明する物語は神代史のみならず、記紀の所々に見えてゐるし、風土記の物語の大半はこれである(こんな傳説が實際あれほど多く、一々の土地にあつたとは思はれないから、風土記の物語も、神代史などのと同樣、机上の製作であらう)。さうして、これは殆ど皆な言語の類似を種につかつたものである(以上の第二・第三・第四等は必ずしも後世の添加ばかりでは無く、はじめから物語に附屬してゐたものもあらう。本來、作り物語であるから、興味のあるやうに作るのは當り前である。けれども、また、いくらでも後から附け加へらるべきものである)。第五に、(105)これと同じやうな言語上の錯誤から新しい物語が作られることがあるので、スサノヲがイナダヒメを櫛にしてみづらにさしたといふのは、クシイナダヒメの名に冠せられてゐる美稱のクシが櫛となつて作られたのであらう(記には借字で櫛名田此賣とかいてある)。アハの國をオホゲツヒメといふなども、アハを食物の粟としてのことであらう。スクナヒコナが「手の俣よりくきし子」となつてゐるのも、神の名から小さいことを聯想したのらしい。我が國民は上代から特に言語上の遊戯を好んだのであるから、かういふ物語が多い筈である。特に神の名についても、同じ徑路から來た變化があるから、それをこゝでいつて置かう。
二 神の分化
神代史、特に古事記のそれには、何の物語もなく何のはたらきも無い神の名が多く載せられてゐるが、それには前に述べた如く自然界の精靈として低級なる宗教的信仰の對象であつたものと、又た神代史の卷頭に現はれてゐる抽象的觀念の神との二種類がある。ところが、これらの神々には、同じ自然物を表はしまたは同じ觀念を示す同種類・同性貿の神の二つ以上ある場合が甚だ多い。けれども、原始的思想で、同じ自然物の精靈を幾樣にも見てゐたとは思はれず、又た抽象的觀念が神となつたのならば一つの觀念に一つの神があればよいのであるから、同じ性質の神が幾つもあるといふことには、其の裡面に發達の歴史が含まれてゐなければならぬ。即ち民間信仰としての神、もしくは初めて作られた神から今の神代史に見える神々となるまでに、神の進化があつたと見なければならぬのである。さうし(106)て、それは神々の名稱から證明することが出來よう。神代史を見ると、タカミムスビ、カミムスビ(神名帳にイクムスビ、タルムスビがある)、ウヒヂニ、スヒヂニ、ツヌグヒ、イクヾヒ、アメノミクマリ、クニノミクマリ、アメノサツチ、クニノサツチ、イハサク、ネサク、ミカハヤビ、ヒハヤビ、ヤソマガツヒ、オホマガツヒ、カミナホビ、オホナホビ、などのやうに、同じ名に「タカ」「カミ」、「イク」「タル」、「アメノ」「クニノ」、「ミカ」「ヒ」、「カミ」「オホ」、などの美稱的形容詞を冠せたものが多い。ところが、タカミムスビとカミムスビと、二つの神があるけれど、其の基礎になつてゐる觀念は「ムスビ」であり、カミナホビ、オホナホビの二神も其の屬性は「ナホビ」であつて、何れにも二神として區別せられなければならぬ特質がない。さうして、タカ、カミ、オホは單に美稱たるに過ぎない。これは、初めから二つの神であつたのでは無くして、もとは一つの神であつたのが分身したことを示すものでは無からうか。すべての神々が一々此の徑路を踏んで來たものとはいはれないので、既にかういふ例が開かれた後に作られた神には、初めから一つの名に異なつた美稱の冠せられた同性質の二神として現はれたのもあらうが、其の淵源に溯ると、かういふ發達の歴史があつたものと見られる。それならば、どうしてこんな歴史が出來たかといふに、先づ注意すべきことは、此の性質の同一な二つの神は、記にも常につゞけて書かれてあるが、それをよみつゞけると一種の疊語になることである。ところで、延喜式の祝詞や、古事記の國語で書かれた部分を見ると、明妙《アカルタヘ》、照妙《テルタヘ》、荒妙《アラタヘ》、和妙《ニギタヘ》といひ、生井《イクヰ》、榮井《サカヰ》、津長井《ツナガヰ》といひ、奇魂《クシミタマ》、幸魂《サキミタマ》といひ、淤煩鉤《オホヂ》、須々鉤《スヽヂ》、貧鉤《マヂ》、宇流鉤《ウルヂ》といふやうな一つの詞に異なつた音の形容詞を冠せて疊語とする例が甚だ多く、たまには生太刀・生弓のやうに、同一形容詞に異なつた名詞をつけて、同じやうな形式を作るのも見える。文章となつたものでも「八束穗の伊加志穗に」とか、「天津祝詞の太祝詞」とか、(107)「神直備大直備に」とか、又た長い例では「朝の御霧、夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津邊に居る大船を舳解き放ち、艫解き放ち」とか、「荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の鹽の八百會」とかいふやうなのが多い。この「朝風夕風」とか、または「和魂、荒魂」とか、「高山の末、短山の末」といふやうな例を見ると、かういふ語のつゞけ方は反對の觀念を對稱させたやうにも思はれるが、實は語を疊ねるのが主意であることは、前に擧げた多くの場合に、同一觀念を繰り返してゐるのでわかる。明と照と、奇と幸と、大と神と、高と神と、天と國と、生と足と、豐と建と、みな同じやうな美稱であつて、其の間に對稱の意味は無く、たゞ語を更へたまでである。上代人はかういふやうに、ひどく疊語を好んだものである。さて、此の習慣と神の名の疊語的になつてゐるのとの間には關係が無いとはいはれまい。さすれば、一つの神の二つに分身する傾向は、もと一つの神に異なつた美稱を冠せて、それを連稱したところから生じ、それが或る場合に分離して、全然二つの神となつてしまつたのではあるまいか。これが、一つの神から他の神を分出させ、または同性質の二神の作られた原因であらう。記にイクタマ・サキタマといふ神があり、紀にイハサク・ネサクといふ神を載せ、延喜式の神名帳には、イクシマ・タルシマ、又たイククニ・サククニダマといふ名がある。アメニギシ・クニニギシ・アマツヒコ・ホノニヽギ、コトカツ・クニカツ・ナガサなども其の例といつてよい。又た記にはトヨフツとタケフツと、クシイハマドとトヨイハマドと、アメノヲハヾリとイツノヲハヾりとを、各々一神の二名としてある。これらは疊語がまだ分離せぬ場合、または分離しかけた例であつて、それがもう一歩を進めると、タカミムスビ、カミムスビ、アメノトコタチ、クニノトコタチ、ツヌグヒ、イクヾヒ、イザナギ、イザナミなどのやうに、全く獨立の二神に分れてしまふ其の變化の中間にあるを示すものである。紀のイハサク・ネサクが記には(108)イハサクとネサクとの二神になつてゐたり、御門祭の祝詞に「カミナホビ、オホナホビに」と副詞的に用ゐてある語がカミナホビ、オホナホビの二神になつてゐたりするのでも、それがわかる。紀にミカハヤビの子をヒハヤビとしてあるなども同じ思想の傾向から來てゐる。かういふ風に神の分身は言語上から來たものが多い。其の外にも、ワダツミの神、ツヽノヲの命を三柱づつに分け、ヤマツミの神、イカツチの神を八つづつにしたやうに、神の性質・居所などから分類を試みたものもあるが、此の例はあまり多くない。
神が分身すると共に、一方では、それに男女の性がついて來た。神代史に見える神々には多く性が示されてあるが、十分に人格化せられてゐなかつたらしい自然物の精靈にも、又た抽象的觀念にも、性のある筈がないから、これも、歴史的發達の結果であらう。それは、かういふ神々が一方では民間説話に結合せられ、他方では溯先崇拜の習慣に基づく死者の神格化と混合して、次第に人格を與へられるやうになり、性の觀念が神に附屬するやうになつたのである。ところが、これも矢張り分化的方法によつて出來たので、自然物の精靈なり、抽象的觀念なり、ある一つの神があつて、それに性を示す詞を附け加へて、二つの神にしたのである。アキツヒコ、アキツヒメ、カナヤマヒコ、カナヤマヒメ、ハニヤスヒコ、ハニヤスヒメなどが其の例で、「ヒコ」「ヒメ」といふ性を示す詞を除けば、男も女も同じ名である。男女二神にはなつてゐるが、神の性質は一つしかない。だから、アキツヒコ、アキツヒメは書紀にはたゞ一つのアキツヒになつてゐる。又た、前に述べた一つの神の分身を其のまゝ兩性に配合したのもある。ウヒヂニ、妹スヒヂニ、ツヌグヒ、妹イクヾヒのやうなのが其の例で、かうなつて見ると、配偶らしいけれども、これらの神々は本來疊語の作用で一神から二分したものであるから、其の神の性質にも、名稱にも、性の區別があるのではなく、妹とい(109)ふ語を一方に冠せて無意味に性をつけ加へたのに過ぎない。イザナギ、イザナミも此の例で、アワナギ、アワナミ、ツラナギ、ツラナミと同じく、本來その名にも性質にも、性の意味が無かつたのではあるまいか。アワナギ、ツラナギ等はアメノミクマリ、クニノミクマリなどと同時に生まれてゐるから、「アメ」「クニ」に性の意味が無いと同じく、これにも性は示されてゐないのであらう。さうして、これらが皆な河海に關する神であつて、イザナギ、イザナミも海水をかきなして島を得てゐるのを見ると、其の類似は單に名稱のみでは無い。宣長が古事記傳に於いて、この關係をほのめかしてゐるのはおもしろいと思ふ。
疊語から來た神の分身及び人格化のために生じた性の表示は、ほゞ以上の如き徑路によつたのであるが、其の外に上代の風俗の反映もあらう。それはウヂノワキイラツコの妹をウヂノワキイラツメといふ樣に、兄妹を同じ名に性を示す語を添へて呼ぶこと、又た、オホウス、コウス、イナヒノオホイラツメ、イナヒノワカイラツメ、オホケ、ヲケ、ウマシ・ウチノスクネ、タケ・ウチノスタネのやうに、同じ名に長幼を示す詞または異なつた形容詞を冠せて兄弟姉妹を稱へる例が上代に甚だ多いからである。
かういふやうにして神の名は漸次増加して來たが、それは神の屬性や、はたらきやが、分殊して來たために、それに相應する神が現はれたのではなく、たゞ言語が分れたのみであるから、神そのものの性質には何も加はつたところが無い。畢竟、名のみあつて實のない神の數が多く現はれたに過ぎないのである。神の名は多く出來たけれども、其の神に何等の特質がなく、何等のはたらきも無いのである。
(110) 序に一問題を提出して置く。それは、日神が通常女性とせられてゐるが、初めから、さうであつたかどうかといふことである。本來民間崇拜の對象たる太陽神としては他の自然物の精靈と同じく、十分に人格化せられてゐなかつたらうから、從つて、それに性もついてゐなかつたらう。ヤマツミ、ワダツミ、みな性がない。だから、日神にもし性があるとすれば、それは太陽神が完全に人格化せられた後、即ち皇祖神として考へられ、神代史の主人公とせられた後であらう。ところが、神代史全體の思想から見ると、日神は男性の地位に置かれてゐるやうに見える。日神はイザナギの神が左の目を洗つた時に、月神は右の目を洗つた時に生まれたとある(紀の「一書」には、日神はイザナギの神が左に白銅鏡を持つた時、月神は右にそれを持つた時に生まれたことになつてゐる)が、イザナギ、イザナミ二神の國土生産には男神は左より、女神は右より柱を旋つたのである(紀の「一書」には初め女神が左から旋つて不吉であつたから、改めて男神が左から旋つたとなつてゐる)。これでみると、上代人は左と男性とを聯想したらしいから、日神も男性の位置にあるのである。また、スサノヲと子を生む時の誓約に、男を生まば心正し、女を生まば邪なりとあるが、日神が女神ならば、こんな誓約があらうとは思はれない。これと同じく、神代史には一般に男尊女卑の觀念があるが、皇祖神として貴きこと比ひなき日神を女性とするのは、此の點から見ても、神代史全體の思想と矛盾してゐるのでは無からうか。日神が生殖によらずして子を生むことになつてゐるのも、女性で無い日神に子を生ませたからの窮策ではあるまいか。日神が女性であるならば、かういふ話はできなからう。が、それよりも、もつと大切なことは、日神の神代史上に於ける根本的性質が皇祖神であるのに、祖先を女性とするのは族制制度の基礎的精神と矛盾することである。母系時代といふやうな社會で無い以上、男性を祖先とするのが當然である。それから、皇祖神の固有の性質は、(111)いふまでもなく、政治的統治者であつて、記紀の何れにも其の意味が明記してあるが、統治者、即ち君主といふ觀念は、通常の場合、女性と聯想せられるもので無い。これら種々の點から考へて日神は女性では無かつたらしい。さて、かう考へて古事記を見ると、どこにも女性らしい特色がない。いかめしい武裝は、勿論、男の姿である。「御髪を解かして御美豆羅に纏く」を女子の男裝と解釋する説があるが、これは神功紀に「武内宿禰令三軍悉令推結」とあると同じである。又た日神がスサノヲに對する語に「なせの命」とあるのが女性らしいといふ説もあらうが、「せ」の語が男子相互の間にも稱へられた例の多いことは、宣長が明かに考證してゐる。其の他「忌服屋に坐まして神御衣を織らしむ」を女性的のしごとと解する論もあらうが、これは「大嘗をきこしめす殿」と同じく日神を神と見て、其の祭祀に必要なる種々の道具を并べたので、日神が女性であるから特に衣を織らせたのではない。もしさう考へるならば「營田之阿」は何と見るか。田を作るのは女性の業ではあるまい。要するに日神に關する古事記の記載には少しも日神の女神らしい特徴が見えてゐない。しかし、書紀の本文にそれを女性としてあるのを見ると、書紀編纂の前から、既に女性と考へられてゐたことは明かであらうから、記の筆者も、また同じやうに女性と見てゐたのかも知れない。記に限つて子を生む誓約に「女なれば心清し」となつてゐる理由は前に述べて置いたが、或はこのことを考へての改作では無いかとも疑へば疑はれる。けれども、日神を女性とするのは上に述べたやうに記紀の多くの記事と矛盾するから、これは後世になつて生じた變化であるとしなければなるまい。或は日神の祭主が昔から女性であるのが、其の女神たることに關係のあるやうに考へる説もあるが、男神にも女子をつけ、女神にも男子をつける例があるから、これは話にならぬ(神功紀の日神「ワカヒメ」「コトシロヌシ」の三神を祭る記事は其の好例であつて、男神コトシロヌシの神(112)を女性長媛に祀らせ、女神ワカヒメに男性、海上五十狹茅をつけてある)。或は又たオホヒルメの「メ」が明かに女性たるを示してゐるのでは無いかといふ説もあらう。けれども、神の命名法の例を見るに、女性を示す語は大抵「ヒメ」であつて「メ」といふのは極めて少ない。古事記に見えるミヅハノメ、ウズメ、イツノメ、ワカサナメ、ナツノメ等の「メ」が果して女の義ならば、僅かにこれくらゐのものである。神武天皇以後の皇族にも「イラツメ」といふ稱のついてゐるのはあるが、單に「メ」といふのは一人も無い。又た普通名詞にしても、織女とか、醜女とか、猿女とかいふ語はあるが、高貴の人を指す場合には「メ」といふ語はつかはないやうである。こゝに擧げた神でもミヅハノメ、ウズメ等、何れも貴からぬ神である。だから、最高の神たる日神をヒルメといひさうに思はれない。また、神または人の女性たるを示すために、名詞の下にすぐに「メ」の語をつける例がないやうに思ふ。オリメ、シコメ、皆、其の女の性質・職業等をあらはす形容詞、または形容詞的に用ゐた動詞を「メ」に冠せたのであつて、オリ、またはシコといふものがあつて、それを女性としたのではない。猿女の意義が文字通り、猿の意味ならば、これも猿を女性としたのでは無く、猿の如き女といふ意であらう。さうして、もし名詞をうけて其のものを女と見る場合には「ノ」の字を插むのが通例のやうである(「ヲ」といふ稱も之と同じである。男性の神に「ヲ」とあるのは、やはり、貴くない神、むくつけき神で、其の用法も「メ」と全く同一である。ヤギハヤヲ、スサノヲ、ツヽノヲ、普通名詞としてシコヲの類。又た例へばタヂカラヲは力のある男といふ意味で「タヂカラ」といふ神を男性としたのではない)。これらの例から見れば、ヒルメの「メ」が、女の義でないことが推察せられよう。一方にツクヨ・ミがあつて之に對するヒル・メであるから「メ」は「ミ」と同じ語でヒル(晝)とツクヨ(月夜)とに於ける二大光明に對し「メ」または「ミ」を附け(113)加へて擬人したのではあるまいか。いふまでもなくツクヨミは「ツクヨ」に「ミ」をつけたのであつて、月とヨミ即ち闇とを連ねた語では無い。月と闇とは矛盾した觀念であるから、それを一所にする筈は無く、月神が目によつて生まれたといふのも、鏡によつて生まれたといふのも、光明を豫想した物語であるから、月も夜の光として考へられたので、闇とは思はれてゐないのである。或はヒルに對するものはヨルであるから、ヒル・メに對するものがあるならばヨル・メであつてツクヨミでは無い筈だといふ論もあるかも知れないが、これは、本來、晝夜といふ觀念が基礎になつて、それを支配する神の名を定めたのではなく、日と月とを光の神として其の名をつけたのであるから、日のてらす時のヒル、月のてらす時のツクヨを對稱させるのが當然なのである。だから、ツクヨミは「ツクヨ」に「ミ」を附け加へた名であることに疑ひはなからう。さすれば「ミ」は獨立の一語である。ヤシマジヌミといふ神を一書にはヤシマジヌとしてあるのを見ても、「ミ」といふ語の性質が知られる。「ミ」といふ語の意義如何にかゝはらず、「ミ」といふ語があつて、それが神の名に附け加へられてあるといふ事實は動かすことが出來ぬ。さうして「ミ」と「メ」とが互に通ふ音であるならば、眞淵がいつてゐる如く、ツクヨミに對するヒルメの「ミ」と「メ」とが同じ意味であると推論するのは無理ではあるまい(記にナツノメの神はナツタカツヒの神の一名としてある。同じ場所にアキヒメといふのもあるから、この「メ」は女の意らしいが、さうすると夏の日を女と見たやうにきこえる。しかし、ナツノメは、オホトシの神の裔、ワカトシの神の妹で農作と關係があるのを見ると、稻の實のるさまなどから夏といふのに女性的意義を寓したものらしい。さうして夏を夏の太陽と聯想して、ナツノメをナツタカツヒに結びつけたので、夏の太陽を女性としたのではない。又た記にはワカヒルメ(稚晝目)といふ神があるが、これは例の言語上の關係で「オ(114)ホヒルメ」から派生したものであつて、直接に太陽とは關係がなからう。其の派生は「オホヒルメ」が人格を具へた後、又た多分、女性と考へられた後のことであらう。又た書紀にはワカヒメ(稚日女)といふ神があるが一方にワカヒコ(稚彦)といふ神もあるから、ワカヒメは稚姫で、記のワカヒルメはそれが稚日女といふやうな文字に寫されてゐたために、それから轉訛したのかも知れない)。
然らば何故に女性で無かつた曰神が女神とせられるやうになつたかといふと、それは文字上の錯誤から來たものではあるまいか。即ちヒルメを「日※[靈の巫が女]」などと借字で書いたのがもとになつて、それが女性と見なされてしまつたのであるまいか。ムスビを産巣日と書くやうに、語の意義とは無關係な文字をあてることはめづらしくないからである。現にツクヨミも「月讀」または「月弓」と書かれてあるから、ヒルメをはじめ「日※[靈の巫が女]」と書いたのも同じやうな借字であつて、※[靈の巫が女]を女の義に用ゐるつもりでは無かつたのであらう。イシゴリドメも普通に女性と見られてゐるが、鏡作りで、しかも、イシゴリドメといふ名が女性であるのは怪しい。トメは、宣長が指摘してゐる如く、男性の名に例が多いから、これも、實は男性であつたのが、或は石礙姥などと書かれたところから女性にせられたのでは無からうか。さすれば、ヒルメも同樣に見られよう。或は單純に言語上の錯誤として、ヒルメの「メ」の原意義が忘れられて、それを女の義に解するやうになつた爲めと、解せられないでも無からう。但し、前にいつた如く、神の名にも、人の名にもメの語をつけるのは貴くない場合が例であるとすれば、最高の神の日神の名にある「メ」を女の意味に解するといふのは不合理であるともいはれよう。けれども、これははじめて名をつける時の考慮を要する場合とはちがつて、もと/\不用意の間に起る錯誤から生じた意味の混淆であるから、此の非難は當つてゐるとも思はれない(昔、徂徠は(115)日神はもと男性であつたのが、推古天皇の時から女性にせられたのだらうといつてゐる。例の徂徠式の空疎な論で別に確かな根據があるのでは無いが、參考のために附記して置く)。
更に日神が神代史上、女性でなければならぬ理由があるかといふに、それが一向に見つからぬ。たゞ一つ、白鳥先生によつて唱へられた巫女説がある。それは、我が國の上代に於いて神を祭り、または神人の媒介をするのは主として女性であつて、それが社會上に勢力を占めてゐたものであると説いて、魏志倭人傳に女王卑彌呼が 「事鬼道能惑衆」とあること、肥前・豐後の二風土記、及び景行紀・神功紀に見える九州女酋のこと、并びに神功紀の神憑りの記事を證とし、さて記紀に日神が神を祭つたことが見えてゐるから、日神の女性とせられたのは此の風習の反映であるといふのである。けれども、第一、我が國の上代に於いて、巫女が、一般に、又た、男子の祝部に比して特に、重んぜられてゐたといふことが事實として疑はしい。巫女といふやうなものはあつたらう。しかし、それが社會上に大なる勢力を占めてゐたとは思はれぬ。魏志倭人傳の卑彌呼も「事鬼道能惑衆」が故に國人から擁立せられたとばかりは解釋することができぬ。卑彌呼の死後、國が亂れた時、其の宗女が立つたので治平に歸したとあるのを見ても、卑彌呼は宗教的理由よりは血統上の關係から王になつたらしい。我が國上代の風習から考へても、さうあるべき筈である。又た、景行紀・神功紀、并びに豐後・肥前の二風土記に見える九州の女酋どものことも、これらの記事が本來傳説的色彩に富んだものであることから考へると、實際にそれほど女酋があつたのか疑はしく、中には八女及び孃子山など、明かに例の地名説明の傳説と見るべきものがある。よし、女酋といふやうなものが或る場合に一、二あつたにせよ、それに宗教的意義があるとしなければならぬ理由は無い。もし宗教的意義があるとすれば、それは、九州のみに限らず、(116)又た景行・神功の時に限らず、もつと他の場合、他の地方にも見えなくてはならぬのに、そんな傳説は一つも無い。それから、神憑りといふことも女には限らないので、垂仁紀・天武紀には、男にかゝつたことが見えてゐる。又た記紀を通覽したところでは、女巫よりも男の祝の方が多い。次に祖先神を祀るのは家長の任務であつて、氏の上たるものが祖先を祭る記事は書紀の所々に見えてゐるのみならず、オホモノヌシといふやうな純粹に宗教的の神さへも、其の子孫とせられてゐる大田田根子に祀られてゐるのは、宗教的の神が祖先神とせられると共に、其の祭祀も覡祝よりは家長の任務として一般に認められてゐたことを示すもので、これは族制制度の社會に於いて當然の状態である。だから、よし巫女が社會上に大なる勢力があつたことがあるにせよ、それは記紀に傳はらない古い時代のことであらうから、それで記紀に見える時代の思想を論ずることはむづかしい。神代史の上にも、巫女といふやうなものの面影は少しも現はれてゐない。それから、第二に日神は神代史上、最高の神であつて、此の日神の祀をうける神は無い。記紀の高天原の段にある「聞2看大嘗1之殿」「坐2忌服屋1而令v織2神御衣1」(以上、記)、「天照大神當2新嘗1時」「天照大神方織2神衣1、居2斎服殿1」(以上、紀本文)、「稚日女尊坐2于齋服殿1兩織2神之御服1」(紀「一書」)など、何れも大嘗(新嘗)及び神衣の主は分明に日神自身であつて、大といひ神といふのは、日神の衣食に對する尊稱である(これらの語は記紀の記者が日神についていふ語であつて、日神が他の神についていふ語ではない)。だから、これによつて日神が他の神を祭つたものとは解せられぬ。以上の二理由があるとすれば、神を祀る神として日神を女性と見ることは無理では無からうか。日神の性を定めるには、日神の日神たる特質によらなければならぬが、前々から述べて來た如く、日神の神代史上の位置は皇祖神であり、其の宗教的性質は太陽から來てゐるので、神を祭る女性といふやうな觀念は(117)その何れにも結びつけやうが無いやうに思はれる。祖先崇拜・血族主義を以て一貫してゐる神代史には、さういふ思想の容れられる餘地がないのでは無からうか(日神は無論、空想の神である。だから日神がそれよりも高い神を祭るといふことがあるとすれば、それは神代史の作者、または其の作られた時代の人々が、日神よりも高い神があつて、日神がそれを祭らねばならぬ位置であり、また祭るべき理由があると思つてゐたからのこととしなくてはならぬ。然るに神代史を通覽しても、毫もさういふことが發見せられない)。
日神が女性で無くてはならぬ理由が無いならば、やはり、それを、男性的位置にあるもの、少なくとも無性の神とするのが當然であらう(民間信仰としての太陽神は前にいつた如く、精靈とは見なされてゐたであらうが、性をつけられるほどに人格化せられてはゐなかつたのであらう。しかし、假にそれが女性とせられてゐたので、神代史が其の習慣に從つたものかと考へて見るに、それならば何故に日神生産の記事に於いて女の位置たる右にそれを擬てなかつたのか、其の理由がどうしてもわからない。又た太陽を女性と見るのは、多くの民族の習慣から考へても、例の少ないことである。二、三の例は無いではないが、それには、何か特殊の事情があるのでは無からうかと思ふ。印度のアスヰン、希臘のアウロラなどは朝日子の美しい姿を女性と見たのであつて、太陽の一般的性質をいつたのでは無い。ところで我が上代では太陽にさういふ詩的想像は加へられてゐない。或は太陽の光の萬物を生育する點を女性的の慈愛と見たのでは無いかとも思へば思はれるが、太陽の光が萬物を生育するのは人々の直接に感じることであつても、それを慈愛とし、更に其の慈愛を女性的にするのは智識の媒介を經た上のことであるから、此の考は、上代人にとつては、それよりも、もつと直接な明るい光に對して男性的の壯美を感ずる情をうち消すほどの力はあるまい。又た我が國の(118)氣候風土に於いて特に太陽の光を女性的と見るべき理由も無いやうである)。
三 記紀の關係
神話の發達を述べた序に記紀の相違について一言して置きたい。上に説いて來たところによると、後世に附加せられた分子は記の方に多い。抽象的觀念の神にしても、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビなどは其の最も進んだものである。又た民間説話的物語も記の方に多い。ヨモツヒラ坂の爭ひのやうな話もある。オホナムチ、スクナヒコナの國作りの物語もある。又た明かに後世に附加せられたと見なければならぬ歌も澤山ある。紀の「一書」でも、記と密接の關係があるらしいもの一つに限つてそれらが述べてある。さすれば、古事記の材料となつたものは決して神代史の最初の形で無いのみならず、それには、紀の本文のよりどころとなつたもの、また其の多くの「一書」よりも後代に潤飾せられたものが尠なくないといはねばならぬ。但し、書紀の本文とても、又た決して、ふるい形では無い。特に、神代卷の下卷の方は少しく上卷とはちがつて、上卷に出てゐないタカミムスビの神があり、オホヤマツミ、ワダツミがあり、又たオホナムチの一名ウツシクニダマの名もある。上卷の方で探らなかつたものを採つてゐる。して見れば、上卷の方では割合に多く取捨を加へたに反し、下巻の方になると、その撰擇がゆるんで來たのである。上に述べて置いた如く、上卷に於いてスサノヲをヨミにやつた以上、オホナムチ及び出雲とヨミとの關係はなくてはならぬものであるのに、それが無いのは取捨をし過ぎたのか、し足らなかつたのか、どちらかの爲めに中途半端(119)のものになつたのであらう。だから紀の材料となつたものには後世に新しくできたものもあつたに違ひない。たゞ紀がそれに取捨を加へて割合に簡單なものとしたのは、或は、さういふ簡單なもの、即ち割合に原形に近いものが材料のうちにあつて、それによつたものでは無からうかといふ疑が生ずる。もとより記と紀とは編纂の目的が違つてゐるから、從つて材料を取捨する標準も違つたのではあらうが、記は諸材料を混融して一となし、紀にはそれが別々に擧げてあるから、紀のうちには割合に舊い形の面影が殘つてゐるもののあることを注意しなければならぬ。日月二神生産の物語などは紀の方が記よりも純粹であつて、よほど原形に近いものと思はれる。但し、それにしても、強ひて漢文にしたがために、眞意を失つてゐる點もあらうから、それも忘れてはならぬ。
記の神代の卷に見える長短種々の歌が後世の作であることは古人も既に説いてゐたやうに思ふ。ヤチホコの神ヌナカハヒメ、スセリヒメの歌とせられてゐるものは、それがほゞ整頓した五七調をなしてゐるのを見ても、修辭的技巧が萬葉の長歌と殆ど同じ程度に進んでゐるのを見ても、よほど後代の作でなくてはならぬ。けれども、それが記に採られるまでに多少時日があつたことは、歌に混淆や誤傳があるのでもわかる。ヌナカハヒメの歌といふものは、上半と「青山に日が隱らば」以下とは全く意味の續かないものであつて、「ことのかたりごとも、こをば」といふハヤシめいた詞が中間にあるのを見ても、もとは二首であつたことが推測せられる。特に「たぐつぬの白きたゞむき、沫雪のわかやる胸を」云々は女の樣子を敍したものに違ひなく、從つて、これは女に對する男の歌でなくてはならぬ。スセリヒメの歌といふのにも同じ句があつて、やはり、其の前半の男に對する女の情をよんだものとは意味がつゞかず、語調もちがふ。これらは或る歌、もしくは其の一部分が他の歌と結びついたものであつて、ヤチ(120)ホコの歌が繼體紀に勾大兄皇子の歌として記されてあるものと似てゐるところのあるのも、同じ理由かも知れない。これらの歌と雄略天皇の卷の「まきむくの日代の宮は」といふ采女の歌とは技巧も似てゐるし、結末に「ことのかたりごとも、こをば」といふ語がついてゐるのも同じであり、またスセリヒメの歌と「倭の此の高市」といふ同じ卷の皇后の歌とは共に「豐御酒奉らせ」といふ、やはり、ハヤシめいた詞がついてゐるから、同じ時代の作かとも思はれるが、雄略天皇の卷のが、そも/\其の時代のものでは無い(それは歌の内容と其の場合とが一致してゐないのでもわかる)。これらの歌は、其のハヤシや、雄略天皇の卷のが天語歌としてあることやから考へても、謠ひものとして作られたものらしいが、民謠としては後世まで無形式な、且つ純粹に抒情的なものが多いのに、これらは上にもいつた如く、形式がよほど整頓してゐる上に、多少敍事詩的分子のあるものであるから、普通の民謠とは性質がちがふ。五七といふやうな音敷の上のリズムが單調にくりかへされる外に何等の形式の無いもので、これだけ長い歌が實際に歌はれたといふことは、よほど疑はしいが、もし假にあつたとすれば、それは民謠のやうな自然の曲節で歌はれたのでは無く、特別の作曲を經たものであらう。さうしてかういふ作曲が行はれ、また其の題材からいつても神代の故事などが詠ぜられたのは、よほど文化の進んだ時代でなくてはならぬから、歌としても、樂曲としても、支那文學にある歌行などの智識があり、又た、支那樂がいくらか入つた後の作であらうと思はれる。だから、大よそ、大化改新前後のものであらう。また、タカヒメ(シタテルヒメ)の歌には「天なるや、おとたなばた」云々といふ語があるが、これは支那傳説の天上の織女の思想に基づいたものらしい。神代の物語に「天衣織女」といふ語はあるが、それは日神の營田などと同じく、ある特殊の場合を想像したもので、此の歌に見える如き天上の織女(121)といふ一般的觀念とは違ふ。だから、これも、相應に支那思想の入つた後のものであらう。其の外に萬葉調ともいふべき短歌があるが、三十一音の形式の定まつたのも、あまり古いことでは無ささうであつて、やはり支那文學の刺戟をうけてからのことであらう。記の神代の卷にこれらの歌が採られてゐるのを見れば、それが後世に添加せられた分子を多く含んでゐることが知られよう。
(122) 第四章 神代史に現はれてゐる上代思想
一 國體に關する思想
神代史の目的は皇室の由來を物語として具體的に説明するのであるから、思想を思想として抽象的に説いてはゐないけれども、其の精神が物語の上に十分に現はれてゐることは第二章に述べて置いた通りである。しかし、此の精神は單に神代史作者の考であるのみでは無く、當時の一般の思想が、おのづから、そこに表現せられてゐるのであるから、やゝ煩はしくいふやうではあるが、いま一應、上代思想として、それを述べて置かう。
上代の國家組織に於いては、少數の氏族、即ち所謂百八十伴緒が單位となつてゐるので、一般民衆はたゞこれらの氏族の部民としてのみ存在してゐて、政治的に位置を認められてはゐなかつた。だから、神代史に於いて皇室の由來を説くにしてもこれらの氏族に對する皇室の關係を明かにすればよいのである。神代史の骨子たる物語に、氏族の祖先についての話のみあつて、民衆に關しては一言半句もいひ及ぼしてないこと、又た、イザナギ、イザナミ二神も民衆を生んだといふ話がどこにも無いことには、一面に於いて、かういふ事情もあらう。しかし、當時の國家ではこれらの氏族が今日の意味でいふ國民の位置にあるのだから、理論上、皇室の氏族に對する關係は即ち皇室と國民との關(123)係なのである。さて、神代史が此の關係を如何樣に見てゐるかといふと、それは前にいつた如く、皇室をあらゆる氏族の宗家として、血族關係でそれを維いでゐるのであるが、宗家といふのは、即ち一氏族の中心點といふことである。その意味を今日の語でいふと、皇室は國民の内部にあつて、民族的結合の中心點となり國民的團結の核心となつてゐるのであつて、國民の外部から彼等に臨んでゐるのでは無い、其の間の關係は血縁で維がれた一家の親しみであつて、威力から生ずる壓服と服從とではない、といふのである。皇室の萬世一系である根本的理由はこゝにあるので、國民的團結の核心であるからこそ、國民と共に、國家と共に、永久なのである。さうして、皇室の眞の威嚴がこゝにある。これは、かの天子と人民とを天地の如く相對立してゐるものとする支那思想とは全く趣が違ふ。帝王の權力の象徴を天とし帝王が天の代理者として地上の民に臨むといふのは、天子と民衆とを、本來、上下相對して、全く懸隔した位置にあるものとし、たゞ治者と被治者といふ關係で、外部から、聯結せられてゐるものとするのである。だから民衆は何時でも天子と民衆とを維いでゐる絲を截ることができる。實際に於いて革命といふことの常に行はれたのはこれが爲めである。かういふ關係であるから、支那人の政治思想は、一面に於いて、極めて民主的であるに拘はらず、帝王の權力は極めて専制的のものとせられてゐる。天といふ語が既に専制的意味を示してゐる。我が神代史の政治思想は全くそれとは違つてゐて、皇室と多くの氏族、即ち國民とは同一父母から生まれた同胞であつて、皇室は其の同胞の宗家であるといふのだから、皇室と國民とは、本來、一體であつて、遠隔の距離から互に相對してゐるものでは無い。其の間の關係は核と肉との如く、内部的であり、從つて、本來截る能はざるもの、截るべからざるものである。だから萬世一系である。勿論、日神の居所は高天原であつた。けれども、其の身は國土に於いて國土の父母と同じ父(124)母から生まれてゐるといふのが此の思想の神髓であるから、其の高天原は、支那に於いて帝權の象徴となつてゐる天とはまるで意味が違ふ(從つて神代史の精神からいふと、支那流の觀念で天子とか君とかいふ語を皇室にあてるのは根本的に誤謬である)。これが我が神代史の國體思想である。嚴密なる歴史的事實からいへば、皇室は必ずしもあらゆる氏族と血縁があるのではない。たゞ思想の上に於いて、皇室は一般氏族に對して此の如き關係のあることを示し、一般氏族もまたそれを信じてゐたので、畢竟これは上代人が國家の政治的關係を如何に考へてゐたかといふ思想問題である。さうして、かういふ思想の生じたのは、事實に於いて我が國民が人種を同じくし、言語を同じくし、風俗習慣を同じくし、又た閲歴を同じくしてゐる同一民族であるからであり、從つて、皇室と一般氏族との間が親愛の情を以て維がれてゐるからである。
其の他、神代史に見える政治上の思想についていふと、前に述べた如く、其の全體に調和的精神の洽ねくゆきわたつてゐるのも、皇室と一般氏族との間に親和的・抱合的精神があつたからのことであらう。オホナムチの國ゆづりの段に、日孫の勢力が武威を以て國土を計平したとしてあるのは、皇室が武力を以てまつろはぬものどもを討平せられたことのある事實の反映であるから、神代史に於いても、さういふことを非認はしてゐないが、それさへも、終局に至つて、親和の精神を以て結ばれてゐるのは、當時の人心の思想として此の如き精神が存在してゐたからであらう。八百萬の神たちが神はかりにはかつて日神を輔翼したといふ物語も、事あるに當つて勢力ある氏族が協力して皇室を翼賛した歴史的事實の反映であると共に、一般氏族がそれを以て彼等の任務と思つてゐたからであらう。如何なる作者の作にも一般思想界の調子が其の背景となつてゐることはいふまでもないことで、神代史も其の通りである。
(125) しかし、神代史に現はれてゐる思想は政治上のことのみではない。上代人の人生に對する思想、少し仰山らしい言ひやうであるが、上代人の人生觀・世界觀も、また神代史によつて覗ふことができる。次にそれを述べよう。
二 人生觀及び世界觀
まづ生死の問題についての思想を吟味しよう。古事記によると、イザナミは死してヨミの國へ行つたとあるから、上代人は死者の國をヨミと稱してゐたのである。なほイザナミがヨモツヘグヒしたから、もう歸られないといふのも、死者の生に復歸すべからざることをいつたので、またそれがイザナギに對して、一日に汝の國の人草千頭を絞り殺さうといつたのも、ヨモツオホカミたる此の神が死の力となつてゐることを示すものである。それに對して、イザナギは一日に千五百の産屋を建てようといつてゐるが、イザナギはイザナミから「汝の國の人草」とよびかけられてゐるのみならず、前にも述べて置いた如く、他の點からも此の國土の神であることは明かであるから、殺さう、生ませようといふヨモツヒラ坂の爭ひは、ヨミの國と此の國との爭ひであることはいふまでもない。さうして、これが死の國に對する此の國の爭ひならば、此の國は生の國として見なされてゐるに違ひない。なほ、同じ時にイザナギは「葦原の中つ國の現しき青人草」といつてゐるが、死の勢力と爭ふ場合に「うつしき青人草」とあるのは、生きてゐる人間といふことであらう。青人草といふ語にも既に生の意味がある(「現しき」といふ語は屡亡々「青人草」の上に冠せて用ゐられてゐる。生きてゐる人間といふ觀念に離してはならぬ語らしい)。これで見ても、葦原の中つ國が現しき青人(126)草の國、即ち生きてゐる人の國であることは明かであらう。それから、同じ古事記にヨミにゐるスサノヲが此の國のオホナムチに對して、オホクニヌシとなり、又たウツシクニダマとなれといつたとあるが、これは現し國といふ語が此の國のことで、又たヨミに對する名稱であることを示すものである。ヨミの反對の觀念が此の國、又た現し國である以上、此の國、現し國は死者の反對に立つ生者の國であること勿論であらう(なほ、ウツヽといふ語の用例を考へてみるに、「現し身」は生命ある我が身といふ意、「現し世」は生ける我の生息する世、「現し心」は意識せる心の状態、夢に對する「現」も同じ意、又た、たまきはる、うち(現)とつゞく冠詞は、世、いのち、われ、にも冠せてある。凡て人生と意識と、即ち死、または夢の反對の状態がウツヽである)。神代史にいふヨミが死の國であつて、現し國、即ち此の國が生の國であるといふ對照は、極めて明瞭のことであつて、こんなに管々しくいふには及ばないけれど、此の國には生もあり、死もあるから、生の國とはいはれないではないかといふ疑もあるので、特に以上の辯を費したのである。なるほど、生まれること死ぬことは人間の常に目に見てゐる事實である。が、死ぬといふことは生が終るといふことで、死そのものの境地、もしくは、死せる者の状態ではない。だから、上代人にいはせると、死者の住む國、死そのものの境地はヨミであつて、此の國はどこまでも生者の國である。即ち此の國は死者の住むべき國ではないのであるから、此の國に死があるといふことは觀念の混淆である。しかし、こゝでこんな言葉の穿鑿をするのは何故かといふと、此の語によつていひあらはされてゐるヨモツヒラ坂の爭ひに於いて、上代人の死生觀を見ることができるからである。前にもいつた如く、此の物語は死の力に對して生の力の優つてゐることを説いたもので、生の國たる現し國に十分の信頼を置いた上代人の思想が遺憾なくあらはれてゐるのである。我々の生きてゐる現實世界に於いて死(127)ぬといふ現象に重きを置いて、生の價値なきを感ずるものもある。死あるを知りながら、生の安んずべきをも知り、避くべからざる死は死として置いて、生の力に依頼し、生の楽しみの享受に身を委ねるものもある。我が上代人は後の方であつた。死の力の抗すべからざること、恐るべきものなることをば知つてゐた(だから、ヨモツヒラ坂の話ができたのである。八つイカツチと千五百のヨミの軍とは、死に對する恐怖の念から生じた、上代人眼底の幻影である)。けれども、それと共に、死の力よりも生の力の強きことを知り、死をば死として置いて、生の與へる力を發展させようとした(ヨモツヒラ坂の爭闘の意味はこれである)。現實の世に於いて、どこまでも生の力に信頼してゐたのである。現實の人生に於いて、どこまでも生の力を認めてゐたのである。死者の國を現の國から遠く退け、現の國を生の國として見たのは、即ち此の信念があるからである。此の物語で生死の爭ひと生の力の優越とがいかにも力強くいひあらはされてゐるのでも、それがわかる。それで無ければ、死の國の神に對し、此の國の神が生の力として爭ふといふ物語の作られる筈がない。ヨミの國と此の國とを反對の位置に立たせる筈がない。それのみならず、國土神人の起源を生殖作用で説くのも、子を生んで心の正しきを證するといふ話の出來たのも、一面からいへば、生を喜ぶ思想が現はれてゐるのではあるまいか。
さて、ヨミが死の國で現し國が生の國ならば、二つの國は全く敵として相對してゐるのである。生の力は死の力よりも優つてゐるが、死の力そのものを亡ぼすことは出來ない。イザナギが爭ひに敗けて逃げ歸つたのは、此の故である。生死の二つは到底調和すべからざる別箇の境界である。すべての場合に調和的精神があふれてゐて、一たび爭つたものも調和の局を結ぶのが通例である神代史に於いて、イザナギ、イザナミの爭ひばかりは破裂のまゝに終つてゐ(128)るのは此の故である(イザナギもスサノヲをヨミへ放逐はするが、ヨミの君主として任命することはできない。生の神の權力は死の國には及ばないからであらう)。
ヨミは死の國である。死の國は、イザナギの語をかりていへばイナ、シコメキ、キタナキ國である。即ち穢の國である。だから、此の世の罪と穢とは、ヨミの國から來る。イザナギの橘の小門のアハギが原の禊祓に生まれたヤソマガツヒ、オホマガツヒの神はヨミの國の穢から成り出でたのだといふ。道饗祭祝詞に「根の國、底の國より、あらび、うとび來らんもの」とあり、大祓の祝詞には罪を根の國・底の國に放ちやるといふことがある。けれども、其のけがれと罪と禍とは現し國で祓ひすててしまふことが出來る。マガツヒの生まれた後にカミナホビ、オホナホビが生まれた。さうして、其の神の力で禍を直すことが出來る。又た大祓祝詞には罪を根の國・底の國へはらひやつた後には罪といふ罪は無くなつてしまふとある。さうして、此のヨミから來た罪と穢とをはらふに當つて現し國の力以外に何物をも頼まない。これを思ふと、上代人は、現し國は本來淨き國、正しき國であつて、たま/\穢と罪とのあるのはヨミから來たものと考へてゐたらしい。此の考は死に對する觀念から自然に發生したもので、死とすべての邪惡汚穢とを聯想すると共に、生を善美なものとしたのである。生を喜び、生を樂しみ、生の力を信じてゐた上代人の思想は、必ず、かうなくてはならぬ。
死者は地下に葬られる。此の習慣からヨミの國は地下にせられた。上に引いた鎭火祭の祝詞に、ヨミを下つ國といひ、現し國を上つ國としてあるのは之がためである。地下は太陽の光の及ばない闇いところである。從つてヨミも闇黒の國とせられてゐる。だから、イザナギがそこへいつた時、櫛に火をつけて明りをとつた。ヨミといふ語そのもの(129)がヤミ(闇黒)と關係があるらしい。從つて、現し國とヨミとは晝と夜との對此と聯想せられてゐたらしく見える。我が上代人は、上に述べて置いたやうに、光明を愛することが強かつたくらゐであるから、闇黒を惡むことも甚だしかつた。日神が岩戸にかくれた時、世は常闇となつて、萬の妖、悉く起つたとある。妖は闇夜に起るのである。だから、夜のものは一體に嫌はれてゐた。紀の「一事」には月神は惡しき神なりとある。又たアマツミカボシをも惡神とし、星の神カヾセヲも日孫にまつろはぬ邪神となつてゐる。これは、日光のかくれた夜に現はれるところから、日神にまつろはぬものとせられ、從つて、また邪神・惡神とせられたのかとも思はれるが、闇夜に妖が起るとせられたのを見ても、また、「晝はさばへなすみなわき、夜は火瓮なす光く神あり」といふやうな語のあるのを見ても、闇夜にひかるものを氣味わるく恐れたものと見る方が妥當であらう。かう考へると、ヨミを恐れるのと闇夜を恐れるのとは、其の間に自から相通ずるところがある。妖も夜から起ると共にヨミから來る。恐ろしいものはヨミと夜とにある。死は、勿論、夜と聯想せられる。明るい光の達しないところの忌はしさよ。ところで、現し國はどうかといふと、生の國は素より明るい國でなければならぬ。勿論、現し國に夜はある。それを恐ろしいと思つてゐる。けれども、くらいヨミに對して現し國の性質を考へる時にはおのづから、明るい方のみが目につく。ヨミは常住の夜であるが、現し國の夜は其の現し國の光の神たる太陽が現はれると忽ち明るくなつて、夜の影は消えてしまふ。此の光は現し國のみを照らして、ヨミには及ばない。だから、現し國を明るい國としても差支がなからう。現し國が明るい國であるといふ意味を明記してあるものは一寸見當らぬやうであるが、上代人の思想を推測すれば、さう見るのが自然であつて、我が國を「明つ島」といふなども、それに關係があるのではあるまいか(蜻※[虫+廷]島の話は、いふまでもなく、例の地名説明の物(130)語であるから、アキツの意味は「明つ」であらう)。
かういふやうに上代人は、現し國をよき國としてそれに滿足し、現實の人生に安住して、其の外に何等の、思慕し仰景するところが無かつた。たゞ、こゝに高天原といふ語があつて、神代史に於いては、天上に一種の世界を假想してゐるから、これに現世を超絶した天國といふやうな意味があるのではなからうか。もしさうとすれば、上代人も現實の人生以上の或る状態を想像してゐたとも見られよう。地下に∃ミの國あり、天上にもそれに對する世界があるのは自然では無いかといふ疑がある。しかし、記紀を熟讀すれば、我が上代人の思想に就いて、さういふ疑問は起るまいと思ふ。神代史に於いて高天原といふ語を用ゐてあるのは、一は單に目に見える天、即ち高いところをさす場合で、地に對していふのである。「高天原に千木高しり、底つ岩根に宮柱太しり立て」といふやうなのが其の例である。これは、今の論には關係がない。次には日神の居所としていふので、これは葦原の中つ國に對しての語である。日神と月神とが中つ國で生まれて高天原に上げられた。日神の高天原へスサノヲが上つていつたので騷ぎが起つた。日孫が高天原から高千穗へ降つた。高天原に關する物語はこれだけであつて、其の外に何も無い。さうして、其の高天原は何の場合でも日神の居所としてより外に何の意味もない。高天原を日神の居所として神話が作られたから、天の香山もでき、天の安の河もでき、或は天の高市も出來て、そこに一つの國が現はれたけれども、これは、日神が物語の主人公であるから、それについて物語を作る必要上、起つたことに過ぎない。即ち、高天原に國があるからそこに日神を置いたのでなく、日神が高天原にゐるから、そこに國が出來たのである(それでなければ、日神の居所といふことの外(131)に高天原が無意味である筈が無い)。たゞ、記には最初の三神が高天原に成り出でたとあり、又た、祝詞などには「高天原に神留ります、皇親、神漏岐、神漏美」といふ語がある。けれども、記の三神は前にもいつた如く、本來、神代史の思想とは別種の觀念である。さうして、それが抽象的理論から生まれた神であるのみならず、神代史の物語に於いて曾てあらはれたことがないのを見ると、其の成り出でた高天原はたゞ高い天といふ意味であることが推測せられる。特にアメノミナカヌシのゐる所は、神そのものの觀念からいつても、仰ぎ見られる蒼天であることがわかる。ただ、ムスビの神は、性質が少し變つて、高天原の世界に現はれて來るが、それは日孫降臨の場合に日神をたすけたのみであるから、其の場合の高天原は、勿論、日神の居所である。又た、皇祖神カムロギ、カムロミの居所が高天原としてあるのは日神を皇祖としたところから派生した思想であつて、而も此の場合の皇祖神は既に皇祖としてある以上、精靈として見られたものらしいから、其の高天原も、物語に見える高天原の國ではなくて、やはり、高い天として考へられてゐたのであらう。高天原に神のゐるのは神代の昔のみのことである。要するに、高天原を一つの世界としてあるのはたゞ日神の居所といふ意味のみである。
なほ、上代人一般の思想からいつても天そのものを崇敬の目的とはしてゐなかつたらしい。現に、星は邪神とせられ、月さへも惡神とせられてゐる傳説があるではないか。尊ばれたのは獨り光明の源たる日神のみであつて、其の日神が皇祖神とせられたのである。さうして、皇位を「天つ日嗣」といひ、天皇を「高光る日の御子」といひ、又た、ニヽギ、ホヽデミ、ウガヤフキアヘズの三神に皆な「天つ日高」といふ形容詞がついてゐ、或は中つ國に大倭日高見國といふ名があるのは、皇室に就いても國土についても、天上に關してたゞ日をのみ中心として考へてゐた上代思想(132)を示すものである。此の場合に「天」といふのはたゞ「日」の形容詞として用ゐられたのみで、其の他に意味は無い。「日」といふ觀念の伴はない 「天」を上代人がいかに見てゐたかといふことは、神の名のアメノトコタチ、クニノトコタチ、アメノミクマリ、クニノミクマリなどに「天」と「國」とが、毫未も貴賤尊卑の意味を含むことなく用ゐられてゐるのでもわかる。すべて「アメノ」といふ詞は、他の「タニノ」「タカ」「カミ」「イク」「タル」などのやうに美稱的形容詞として用ゐられてゐるが、アメが美稱である如く、クニも美稱である。これらは皆な日を崇敬し、日神の居所として始めて天を崇敬したことを示すものでは無からうか。かゝる思想を背景として作られた高天原の世界が、たゞ、日神の居所としてのみ意味のあることは當然である。
更に考へる。高天原に神のあつたのは神代の昔のことである。高天原の神々は皇室はじめ諸家の祖先であつて、その神々は皆な地上に降りて來てしまつた。それより後、高天原は空虚である。少なくとも、此の國土にとつては空虚と同樣である。日神の生まれた時には天地相去ること遠からずして、天柱を以て神を天上に上げることができた(紀本文)。其のころ、天地を維いでゐた柱は今は横たはつて地にある(播磨風土記・丹後風土記)。これは高天原が此の國と没交渉になつたことをいつたのである。高千穗降臨の後は高天原へいつたものも無く、高天原から來たものも無いでは無いか。高天原が神代、即ち祖先の世にのみあつて、當時に無いとすれば、それが皇祖日神の居所としてのみ作られてゐたことは明かであらう。高天原は、ヨミの國の如く、此の國と并んで現に存在するものでは無いのである。
又た、高天原と此の國との關係を見る。前に述べた如く、日神は高天原にゐて此の國を統治するのであるから、神代の昔、高天原に世界はあつても、それは此の國と分離せられてゐたものではない。もし高天原の世界と此の國の世(133)界とが拜存して別々の領域となつてゐたのならば、日月二神の領土が高天原に定められると共に、此の國の主も定められなければならなかつたのに、さうはせられなかつた。高天原は要するに此の國を照らす日神の皇都たるに過ぎない。
次に、高天原の世界は日神の居所として始めて作り出され、また、日孫降臨と共に消え去つたにもせよ、其の世界に何か特殊の性質が與へられたのではないかと考へるに、高天原の世界は此の國土と全然同一で、何等の特質が無い。そこには忌はしい闇夜もある。月神は夜の食國を統治すといはれ、日神と月神と一日一夜離れて住むともいはれてゐる。日神が岩戸にかくれると高天原はくらくなるではないか。そこには悲しむべき死もある。日神の神衣を織つてゐた天衣縫女はホトを梭につかれて死に、アマツクニダマの子、アメワカヒコは矢に中つて死んだでは無いか。そこには邪惡災禍もある。日神が岩戸にかくれた時、萬の妖悉く發るとあるでは無いか。そこには戰闘もある。スサノヲに對しては日神も武裝をしなければならず、オホナムチを服從させるには日神の威を以てしても、なほ劔と血との力をかりなければならなかつたでは無いか。神の力も決して絶對では無い。日神すらも岩戸にかくれなければならなかつたでは無いか。高天原は此の國土と違つた何等の特色も無いのである。
高天原の性質は、右に述べたところで明瞭である。約言すると、それは葦原の中つ國の統治者、皇祖神たる日神、の皇都である。高天原の世界は、其の地名に、大和の皇都附近で有名な香山や高市をそつくり適用してあると同じく、皇祖神の居所として、此の國土、むしろ大和の状態を其のまゝにあてはめてあるのである。即ち皇都を地上から天上に移したのである。白石式の學者が高天原を地上の皇都と見たのも、さう見ることが出來るやうになつてゐるからで、(134)高天原の文字の代りに皇都の字をあてがへば、高天原と葦原の中つ國との關係が、其のまゝに、皇都と全國との關係となつて、何の支障も生じないのである。日神を皇祖神としてのみ取り扱つてゐる神代史に於いて、高天原を皇都の意味に用ゐてゐるのは當然である。だから、高天原はヨミとか、現し國とかいふやうな、人生問題から來てゐるものとは全く性質が連つて、たゞ政治的のものである。實際、神代史に於いても、高天原の語は葦原中つ國に對して用ゐられてゐるのみで、現し國、またはヨミの對稱とせられてゐるところは何處にも無い(「中つ國」といふ語は大祓詞に「四方の國中と大倭日高見之國」とあると同じことで、四方の國の中央にある國といふ意であらう。これも人生問題には關係がない)。さうして、現し國とヨミとの觀念は上代人一般の思想であるけれども、高天原はたゞ神代史の作者が其の物語を作るについて案出したものに過ぎない。高天原が現し國を超絶した特殊の世界で無いことは、これで明かであらう。たゞ、高天原なる日神は現し國、即ち生の國のもので、ヨミ、即ち死の國とは全然隔離してゐることは、恰も天地を照らす太陽が地下に關係の無いと同樣であり、又た、天つ神も國つ神と共に現の國の神であることはいふまでもない。
序に一言する。紀のオホナムチの國ゆづりの段と、出雲國造神賀詞とに顯事幽事と對此した語がある。紀には、天神はオホナムチに對して、「汝がしらす顯露の事は皇孫治らすべく、汝は神事を治らすべし」といひ、オホナムチはそれに答へて、「吾がしらす顯露の事は皇孫治らすべし、吾は退いて幽事を治らさん」といつたとある。又た神賀詞にはオホナムチに「大八島國の現事、顯事をことさらしむ」とある。この幽事は神事と同じく、又た現事も此の場合では顯事と同義であるが、紀には、此の次に天神がオホナムチにいつた語に、「八十萬神を率ゐて皇孫を奉護せ(135)よ」とあり、神賀詞にも、オホナムチが其の和魂、又た其の子などを大和に坐させて、皇孫の近き守りの神とするといふことがあるのを見ると、顯事は政治的、幽事は宗教的といふ意味であることが明かである。即ちオホナムチは政權を皇孫に上つて、神として冥々の間に皇孫を擁護するといふのである。これは現とヨミと、または高天原と中つ國との關係とは性質のちがつたことで、いはゞ國家の統治に於ける政治と祭祀との二面を述べたものであるが、語が似てゐるから、附記して置く。
上代人が此の如く人生に安んじ、現し國をよき國としてゐたのは、簡易な生活を營んでゐた自然人の單純なる人生觀であつて、自己と其の周圍との矛盾を深く感知しない時代に普通の状態ではあらうが、我が國民に於いては社會状態や自然現象の上から、特に、さういふ思想を強めた傾もあらう。風土が温和豐饒で、適當に勞作すれば適當な報酬を得ることができ、人口の少ない時代にあつては生存競爭も起らず、又た國民がみな同一民族であつて、其の間に爭闘の起ることも少なく、絶海の孤島にあるから異民族の侵入もうけず、概して平和な生活を營んでゐた國民は、此の國土に滿足し、また此の人生に滿足してゐたに違ひない。だから、實際上、此の國土の外に、新郷土を求めるやうな必要が生じないと同じく、思想界に於いても、現世以上の何物かを要求するやうな考は起らなかつたのである。たゞ、彼等は何人も逢着すべき事實として死を怖れてゐた。そこで死の國を想像し、すべての邪悪汚穢の源を其の國に歸した。彼等はすべての妖の潜むところとして夜を嫌つた。けれども、免るべからざる死を免れようとして長生不死を希求したのではない。恐ろしい闇夜も、朝日の光に消えて跡なく、死の國より來る罪も穢も、清き水にて名殘なく洗ひ(136)滌がれるのを喜んでゐたのである。だから、地上を照らす明るい日光と花崗岩の上を流れる清列の水とが彼等の健康と喜悦との源で、やがて又た、其の生命の源であつたので、彼等は其の日の照らすところ、其の水の流れるところに安住してゐたのである。
上代人の宗教に、概して、陰鬱幽闇の氣の無いのも、同じ思想から來てゐる。彼等の神は人に幸を下すやさしい神であつて、恐ろしい、意地のわるい、神では無い。邪神もあり惡神もあり、野にも山にもいろ/\なものはあるが、それは一寸人間を邪魔するくらゐのものであつて、祓へば祓ひ去られるものである。惡魔といふやうな考は、勿論ない。又た、自然界に對しても、それを人力の抗敵すべからざる大威力を有つてゐるものとも考へず、杳冥にして測るべからざる神秘なものとも思つてゐなかつた。神代史に於いては、人が自然から造られたのでなく、國土萬有の自然物が却つて人から作られてゐるでは無いか。支那人のやうに、天地自然の理法といふものによつて人間を支配しようとしなかつたのは、一つは智識の發達しなかつた故でもあるが、全體の考へ方が人間本位であるからでもあらう。日本のやうな温和な風土、特に中國以西の、山も海も小さく、やさしい眺に富んだ地方では、人を壓迫するやうな自然の現象が無いので、おのづから、こんな風になつたのであらう。また人事についても、希臘人のやうに脱することのできない運命の重荷に壓せられてゐるとは思はなかつた。前に擧げた種々の物語に於いて、兄弟の爭ひもあり、夫妻の別離もある。但し、終局には調和を來すのが常であるのを見ると、禍は永久に人の世を詛ふ惡魔ではないのである。
しかしながら、切實に生の苦痛を味はないものは、また、眞に生の款樂を領することができぬ。眞に生の歡樂を知らぬものは人生に對して強い執着が無く、從つて、人生を高くし、深くし、大きくしようとする憧憬と熱情とが乏し (137)い。また從つて、人生の爲にする奮闘と努力との念が薄い。さうして、ともすれば、平凡なる滿足主義、淺薄なる現在主義となる。我が上代人にかういふ缺鮎が無かつたかどうかは、後の歴史がそれを試驗する。
けれども上代人とても、決して現し國を圓滿完全なものとは思つてゐなかつた。だから、イザナギはヨミにいつた時、イザナミに對して、「吾と汝と作れりし國、未だ作り竟へずあり」といひ、スタナヒコナはオホナムチが、「われらの作れる國、善く成れりと謂はんか」といつたに對して「成れる所もあり、成らざる所もあり」といつたのである。現し國は決して完全に作り上げられたのではない。然らば、不完全な國は何時の代も其のまゝであらうか。イザナギ、イザナミ二神は初めて國を生まうとした時、失敗したが、過を改めて再び試みた時、大八島が生まれた。物は初めから滿足には出來ない。不完全な國を完全にしようと努め、古の神の作り竟へざりしところを作り竟へんことは、其の神の子孫たる現在、并びに未來の國民の責務である。上代人はかう考へてゐた。たゞ、彼等が不完全と認めたのは主として國家社會の表面に見える制度や文化の點にあつたらしい。だから、彼等は外國の制度文物を學んで我が國を改造しようと努めた。神の造つたのが不十分であるといふ思想も、やはり、人生そのものの問題ではないのである。
三 支那思想の影響
上代思想に論及した序にいひ添へて置きたいことは支那思想の影響である。その一寸した反映が神代史の一插話にも見えてゐるのみならず、記紀の他の部分、并びに記紀の編纂と同じ頃に作られた萬葉の歌にも、前節に述べた思想(138)とはよほど違つた支那思想が現はれてゐるから、是非、こゝにそれを附言する必要がある。
記と紀の「一書」とに、スクナヒコナは國土の經營を竟へてからトコヨに往つたとあるが、トコヨといふ語は、記の岩戸がくれの段に、日神が岩戸にかくれて、天地が闇くなつたことを「トコヨユク」といつてある如く、常夜の義である。だから、もし常夜の國があるならば、それはヨミである。けれども、スクナヒコナが、ヨミへゆくべき因縁は無いから、これは別の意義でなくてはならぬ。文字には常世と書いてあるが、もし、此の文字のやうな意味だとすると、それは人生の常住不滅なる國、即ち不死の國といふのであらう。常世が此の國以外にある國の名ならば、此の國に無い特質が此の名にあらはれてゐるのであらうから、さう見るより外はない。記の雄略天皇の卷に「あぐらゐの神のみ手もち弾く琴に舞する少女常世にもかも」とあり、顯宗紀にある壽詞にも「わが常世」といふ語があり、又た皇極紀に見える常世の神は、それを祈ると老者も若くなるとあるが、これらのトコヨには少なくとも常住または長壽といふ意がある。ところが、垂仁紀のタヂマモリが往つたといふ常世の國は神仙の秘區とあり、雄略紀の浦島の子のいつた蓬莱を昔からトコヨと訓んでゐるのを見ると、トコヨが記紀に於いて既に支部の神仙説にいふ長生不死の義に用ゐられてゐることが明かであるから、スクナヒコナのトコヨも此の意味か、もしくは、それから脱化したものと思はれる。けれども、スクナヒコナの性質にも、事業にも、毫も神仙の面影はなく、神代史の他の部分にもそんな形跡は少しも見えないから、これは原義のまゝに用ゐられたのではあるまい。タヂマモリのトコヨも、浦島のトコヨも共に海上もしくは海を隔てたところにあるから、トコヨは不老不死の仙郷といふ原義を離れて、單に海上遠き國といふ意義に用ゐられ、さうしてスクナヒコナに適用せられたのであらう。スクナヒコナが海上に去つたといふのは、オホ(139)モノヌシが海上を光らして來たといふのと同じく、出雲の地理的位置から聯想せられたので、外に意義があるとは思はれない(海外にトコヨの國を置いたのは、支那との交通によつて珍寶奇財が輸入せられるやうになつた實際的事情が一因となつてゐるかも知れない。タヂマモリの物語はそれを暗示するやうにも見える。タヂマモリは、從來、普通に歴史的事實の傳説化せられたものと見なされてゐるが、果してさうか、疑はしい。物語そのものに一つも歴史的事實と見なさるべきことがなく、トキジクノカグノミの名も不老不死の觀念から來てゐるらしいではないか。尤も、常陸風土記に「常陸國者……所謂水陸之府藏、物産之膏腴、古人曰常世之國、蓋疑此地、」とあるから、トコヨの國を海外とばかり思つてゐたのでないことは明かであるが、それが富める國、よい國といふ意味に用ゐられたこと、并びに長生不死といふ原義を離れて用ゐられる例のあつたことは此の文でも知られる)。
スクナヒコナのトコヨはこれで解決ができたが、この思想またはこれに關係ある支那思想が、神代史には毫も採られてゐないのに、風土記の類にも、又たタヂマモリや、浦島の物語として、書紀にも入つてゐることは注意しなければならぬ。タヂマモリ、浦島の物語は、勿論、後世の産物であらうから、垂仁もしくは雄略の時代に神仙郷の思想があつたとはいはれないが、皇極紀のトコヨの神に長壽の意味があるとすれば、其の頃には此の思想が入つてゐたであらう。隋唐と交通するやうになつて、神仙説が入つて來たといふのは疑を要しないことである。のみならず、もう一歩進んで考へると、南北朝ころに盛んに行はれてゐた神仙譚は、もつと前から、我が國へ入つてゐたのかも知れない。雄略ごろの南朝(呉)との交通は單に仙女ならぬ織女・衣縫女の輸入のみでは無かつたらう。さすれば、其の思想が神代史に毫も見えないのは、神代史の作られた時、それがまだ我が國に同化せられずして外來のものであるといふこと(140)が明かに知られてゐたからではあるまいか。神代史は欽明以後に幾多の潤飾が行はれたであらうと思はれるに、佛教思想の片影も現はれてゐないのを考へ合はせると、さう見る外はあるまい。しかし、記紀の編纂せられた頃、風土記のつくられた頃には、それがひろがりもし同化もして、浦島などのいろ/\の物語となつたのであらう。
此の思想と神代史に見える上代思想との差異は、形式のよく似てゐるホヽデミの物語と浦島のそれとを比較すればすぐにわかる。ホヽデミの往つた海神の宮は現し國の一部で、日孫の領土と異なる點は何も無く、トヨタマ姫との結婚にも特殊の意味は無い。又た、例の禁制を破つた行爲から姫との別離は起つたが、「赤玉は緒さへ光れど、白玉の君がよそひし貴くありけり」と歌ひ、「沖つ島、鴨どく島にわがいねし妹は忘れじ、よのこと/\に」と答へ、纏綿たる情緒は二人の間につながれてゐるのみならず、姫の子は命の位を繼ぎ、其の妹タマヨリ姫は其の子の妻となつて、海神の國は日孫の國と永へに結合せられたのである。浦島の子の常世の國は之に反して、人の漫りに覗ふを許されざる不老不死の國、人の世を超絶した歡樂の郷である。玉匣によつて僅かに維がれた一絲の仙縁も、其の匣が開かれて立ちのぼる白雲が常世べにたなびくと共に、忽ち斷絶してしまつて、神女の國は長く人の眼に閉されたのである。「立ちはしり、叫び袖ふり、こいまろび、あしずり」しても及ぶところでない。常世の國は人の世ならぬ神仙の郷であつた。上代人の夢にも想はなかつた超現世の國であつたのである。さうして、「老いもせず、死にもせずして、ながき世に」神女との歎會を遂げることのできた浦島の子を羨み、それをすてて故郷に歸つた浦島の子を世の中のしれものとしてあはれんだのは、人の世に滿足せずして現し國に超絶せる神仙郷を憧憬したのであつて、前節に述べた上代思想とは大いに趣を異にしてゐる。此の物語はリップ・ワン・ヰンクルや、述異記に見える王質爛柯の話やに似た時間短縮の(141)思想と、ヱヌスベルグのやうな歡樂郷の思想とを兼ねた劉阮天台の物語に似た説話であつて、その歡樂郷を不老不死の神仙郷としたのは、不老不死の思想と時間短縮の想像とが密接な關係があり、又た神仙郷が肉慾的なる歡樂郷とせられてゐたからであらう。
神仙説の起源は古く戰國時代にあるらしく、天下が亂れて兵馬が息まず、人みな生をよくせずといはれた其の時に老莊などが講じた明哲保身の道と、鄒衍などに見えるやうな世界組織の想像と、古代から存在する動物崇拜などの思想とが結合して、人生の短きを歎じてそれを超絶した何等かの境地を得ようとする慾望に刺戟を與へ、人の身ながら不朽の生を享けて盡くる期なき生の歡楽を九州の外に求めようといふ考を起させたのである。それが天國とか來世とかいふ人生を離れた境地を仰景するのでは無く、人生のまゝに不朽ならんとする希望、即ち肉體の不老不死を求めようとするのは、どこまでも物質世界を離れることのできない支那人特有の國民性が現はれてゐるのであらう。秦より漢に至り、天下が統一せられて世が平和に歸すると共に、人生飽くなき慾望は益々強くなつて、或は蓬莱瀛洲に不死の靈藥を索め、或は崑崙弱水に神仙に逢はんと夢みるものが多くなり、又た武帝の西域交通は未知の境土に對する好奇心を一層刺戟して益々神仙説の流行を盛んにんたらしい。ところが、佛教の傳來してから後は其の思想とも結合して、神仙の境を得んがための修業が教へられ、戦國時代の古に虚無恬淡の説を唱へた老子が其の教祖とせられて、宗教めいた道教が成り立つた。かく神仙説が一方に於いて嚴肅の氣を帶びた修道教となると共に、他方に於いては、それが淫蕩なる肉的歡樂を希求する思想ともなつて遊仙窟に見えるやうな温柔郷が神仙の棲家として考へられることにもなつた。長生不死といふ觀念は、本來、絶ゆる期なき人生の享樂を仰慕するところか(142)ら起つたのであるから、長生の方法として肉的快樂を斥け、恬淡虚無の域に身を遊ばせるといふ修業の道が發達すると共に、其の享樂を人生の根柢に存する性慾の滿足として見るやうになつたのは自然の徑路である。我が國では修道教としての神仙説は一向に行はれず、また山上憶良の「令反惑情歌」(萬葉集、卷五)に見えるやうに、其の思想も排斥せられたが、歎樂希求の方面に發達した神仙説は、ひどくもてはやされたので、浦島物語の外に、吉野山の柘媛の物語もできてゐたのみならず、懷風藻や萬葉集を見ると到る處にその思想がある。當時の人が朝々暮々陽臺の下に仙雲の分れゆくを恨み、洛浦の畔に芙※[草がんむり/渠]の緑波を出づるを懷しんだのは、神仙説を弄ぶにつけても、現し世の人世を卑しとして、それを脱離するがためでは無く、現し世にあつては限りある歡樂が、限りなく享受せられる神仙郷を仰慕したので、やはり、我が國民固有の思想がそこに見える。だから、彼等の神仙郷は質に於いて現し國と違ふのではなく、たゞ量に於いて差があるのみである。既に人生の快樂そのものの享受を希求してゐるのならば、修道教としての神仙説が行はれなかつたのは當然である。
超現世の歡樂郷を説いたのでは無いが、丹後風土記の此沼山傳説、近江風土記にあつたらしい伊香の小江の物語などに天女が鳥に化つて天降つたといふ物語も、人界を超絶した天上界の存在を示してゐる點が、神仙説と同じく、我が國固有のものではない。吉野の柘媛も羽衣をきて天に飛び去つたといふから、多分これらの物語と同一形式のものであつたらう。白鳥の女に化することは世界に例の多い民間説話であつて、支那には洞冥記に見え、鳥の化した女と結婚する話は捜神記や元中記に見える豫章新喩縣の説話にあつて、これは神仙説の特有とはいはれないが、天上の仙(143)女が誤つて人間に謫落し來つたといふのと、仙女と人間との契が永續しないこととが、神仙説と關係のある點である。後の竹取物語もこの系統から生まれたのである。さて、この天上界は下土とは異なつた世界で、そこの仙女は、本來、人間と結びつくことの出來ない尊いものであり、又た、それは高天原の如く神代の昔にのみあつた世界では無くて、いま現にあるのであるから、神代史に見える高天原とは全く性質の違つたものであることはすぐにわからう。實際、これらの傳説に於いて、どこにも、天上界を高天原と稱した例は無く、また神代史に見える高天原の神々をこれに結びつけたところも無いのは、風土記などの作者が、神代史とこれらの物語とが全く無關係のものであることを知つてゐたからであらう(常陸風土記に見える白鳥郷の物語は天女が人間と契を結んだといふことは無いが、やはり此の形式の話の變形であらう。風土記全體の文章や、中に神仙・天人などの文字があることから見ても、さう考へられる。ヤマトタケルの靈が白鳥に化して昇天したといふのも、死者が地下の國へゆくと思はれてゐた我が國固有の思想では無い)。これらを思ふと神代史に採られてゐる民間説話は、よしそのうちに外國から傳來したものがあるにせよ、神仙説、または、それに關係ある支那思想の着色をうけてゐないものか、さなくば、傳來の間にそれが失はれたもので、風土記などに見えるものとは輸入せられた時期が違つてゐるのであらうか。
(144) 第五章 神代史の性質と、それが作られた時代
一 神代史の性質
神代史の内容を一通り研究したから、もとへ立ち戻つて、神代史の性質と、其の作られた時代とを更に明かにして置かう。
神代史は皇室の由來を説くために作られた物語である。從つて、其の作者も宮廷の人であつたらう。だから、其のうちには出雲服屬・大和奠都の歴史的事實を基礎として作られた物語があり、また種々の民間説話も結びつけられてゐるが、全體として見ると、それは決して國民的傳説でも無ければ、國民的敍事詩の類でも無い。即ち國民的感情・國民的精神の結晶したものでは無いのである。神々にも國民的英雄神といふやうな面影のあるのは一つも無い。しかし、これは神代史に於いてのみいふべきことで無く、本來、我が上代の國民には、語るに足るべき國民的傳説などは無かつたのである。前章にもいつた如く、上代人は大陸から隔絶してゐる孤島國民であるのと、温和な風土に住んでゐる農業の民で、生活が容易であつたのとのため、周圍の異民族との交渉が極めて尠なく、從つて、外國に對する國民的運動が起らず、國内に於いても、國民が同一民族であるが爲め、民族間の爭ひといふやうなことも無いから、從(145)つて戰爭も少なく、又た日常生活の上からいつても、農業の民であるから、市民的・密集的生活をすることが無いので、小規模の公共的活動をすることも無かつた。だから、國民的公共事業として語り傳へるほどの事件も起らず、國民的英雄として國民的精神の表現と見られるやうな人物も生まれず、又た國民的感情の涵養せられることも無かつたのである。韓地に對する多少の經綸も、本來、國民的勢力の發展といふやうな性質のものでは無くして、たゞ中央政府の外交政策から來たものであり、從つて其の局に當るものも、中央政府にゐる二、三の氏族のみであつて、國造などの地方的首長が協同して活動したといふやうな樣子すらもない。即ち國民的事業で無かつたのである(だから、對韓經略は失敗に經つた)。内地に於いても、地方的首長の間の戰爭があつたといふやうな形跡は一向に見えない。かういふ國民に、國民的傳説や國民的敍事詩の出來る筈は無いのである。だから、神代史に於いても、さういふ分子のありやうが無い。神代史に現はれる神々及び其の行動に國民としての閲歴の面影が見えないのは當然である。たゞ、スサノヲが新羅にいつたといふ物語のみは對韓經略の反映が一閃の光を神代史にあらはしてゐるものであらうが、それとても何等の内容の無いものである。此の物語も後世に附け加へられたものであつて、新羅に行つた神をスサノヲとしたのは、出雲と新羅との地理的關係から來たのであらう。出雲風土記に見える國引の話にも新羅を引いて來たことになつてゐるが、これも出雲と新羅との間に歴史的關係があつてそれから出來た話では無く、たゞ海を隔てて相對してゐるといふ地理的現象によつただけのことであらう。同時に越の國、また佐伎・農波(?)などいふ國を引いたので、それが推知せられる。又た實際、出雲と新羅との間に特殊の關係のあつた形跡は史上に見えてゐない(韓國伊太※[氏/一]神社といふのが、神名帳によると、出雲にいくつもあるが、播磨風土記にも伊太代の神といふ同じ名の神が見えてゐて、(146)神功皇后征韓の役に御船の前に坐した神だとある。けれども、其の語義や、由來やがわからないうちは、これについて何ともいはれない)。さうして、スサノヲの新羅物語に何の感情もこもつてゐないことと、事業にも人物にもよらずして單に地理的關係によつて、それが作られたこととは、對外的經略の面影の宿つてゐる、たつた一つの此の物語も、國民的精神の現はれたものとして見られない理由である。かういふ風だから、神代史には地方的の神といふものも無い。オホナムチは出雲の神であるが、神代史中の人物としては出雲の地方神では無く、日孫に服從しなかつた神として其の住地が出雲にせられてゐるに過ぎない。ホノスセリも隼人の祖とはなつてゐるが、襲の國の地方神としてはたらいてゐるのでは無い。だから、國民全體の閲歴が神に表象せられてゐないのみならず、地方的にもさういふ性質の神が無いのである。また、ヨモツヒラ坂の物語や、スクナヒコナの話などは、人類もしくは民衆には關係があるが、國民的行動には交渉が無い。さうして、かういふ物語すらも神代史の結構から遊離してゐる插話である。神代史が政治的意味のあるものであるに拘はらず、國民的運動の反映がそれに見えないといふことは、神代史の性質を考へるについても、上代國民の状態を知るについても、注意すべき點といはなければならぬ。
更に神代といふ觀念の由來を考へると、神代史の性質もおのづから知れる。全體、上代人の神は宗教的に崇拜せられてゐた精靈と、死者、即ち祖先の靈との二つであつたらしく、前のは、其の間に多少動物崇拜のやうなものも交つてゐたであらうが、多くは目に見えず、形を具へてゐないものであり、從つて十分に人格化せられてはゐず、後のは祖先であるから、形は見えないが、生きてゐた時と同じ人格を具へてゐる。ところが、前のについては、三輪山物語のやうに民間説話と結びつけられたものの外には、神として、何の物語もできてゐない。後のは、祖先がこの世に遺(147)した行爲が物語として傳はつてゐたであらうが、それは事實の傳説である。かういふ神々に詩的想像が加へられて神話が成り立つほどの程度に、上代人の文化は進んでゐなかつたのである。或は、自然現象が詩化せられて神が生まれ、神話が作られるほどにもなつてゐなかつた。ところへ支那の學問が入つて來て、皇室の周圍にゐる貴族の智識が特殊の進歩をした。政治上の必要から皇室の由來を説くために神代史の作られることになつたのは、恰も此の時であつたのである。そこで、宮廷にゐる神代史の作者は祖先神の觀念を基礎とし、いくらか祖先の行爲の傳説を材料として、其の神の時代、即ち神代を作り、そこに皇祖神と諸家の祖先神とを活動させた。祖先の時代であるから神代は昔の話である。また祖先は過去の人であるから、神に人間を超絶した性質も能力もなく、勿論、人と異なつた形體も無い。神の世界は人間の世界そのまゝである。高天原があつて、そこへ往復しても、神に翼もなければ、羽衣も無い。天つ神にも國つ神と違つた特性は何も無いのである。前に述べて置いた如く、高天原は本來、天の世界といふ思想があつて作られたのでは無く、皇祖を日神としたので、其の居所を地上にすることができないため、しかたなく、高天原の國を作つたのであるから、其の國も、其の國の神も、人の世界であり、人である。しかし、日神に於いて最もよく現はれてゐる如く、神代史の祖先神は事實上の祖先ではなく、空想上の祖先であつて、それには、一方に於いて宗教的に崇拜せられてゐる神を適用したのが多い。だから、純粹なる宗教的の神としては、現に存在する精靈であるけれども、神代史に現はれては、やはり、祖先として取り扱はれ、過ぎ去つた遠き世の神となつてゐる。こゝで神の觀念が少し混雜して來たので、例へば日神は皇祖神として過去の世の神でありながら、太陽神としては現在天上に輝くといふ矛盾が起つたから、日孫降臨といふことにして、其の矛盾をぼかしたのであるが、多くの場合には民間信仰の神が(148)目に見えない精靈であるから、恰も祖先神の靈が今の世に存在すると同じやうにそれを考へることができるので、さしたる困難が起らずに濟むのである。こんな風で、神代史の神代は國民詩人の想像からおのづからに生まれ出た生きた神の世界で無く、或る特殊の企圖により、宮廷の識者が祖先の傳説と宗教的信仰とを材料として故らに作つた影の世界である。
神代がかうして作られたものとすれば、そこに宗教的信仰の利用せられた點はあり、又た、それに結びつけられた插話に、多少、上代人の人生觀が現はれてゐるとはいへ、神代そのものは決して國民の人世觀や世界觀の表象として見るべきものでは無い。支那の神仙界は人間の或る慾望の反映である。印度の神も、希臘の神の世界も、或は宗教心、或は人生觀の具體的表現である。從つて、その神の世界は常に人の世界と共にあり、神は人と并び存し、人生を精神的に支配するものである。我が神代史の神代は、それとは全く性質がちがつて、現實の人生とは何の關係も無い遠い昔のものである(實際、宗教的に信仰せられてゐる神があつても、それは神代とは關係のない本來の精靈としてのことである)。神代史が記紀以後に何の發展をもしなくなつてしまつたのも此の故であらう。萬葉以後の文學に於いても、神代史上の神は一向現はれて來ない。これは支那の神仙譚や、佛教と共に入つて來た物語やにけおされた氣味もあらうが、神代とそこにゐる神とが、眞に國民生活と密接の關係のあるものであつたならば、それが新來の思想によつて、新しい解釋がせられ、或は其の性質に新しい變化が行はれつゝ、絶えず文藝の題材となつて發展してゆかなければならぬが、少しもさういふ樣子がないのである。神仙譚も佛教の物語も、多少國民化せられながら、少しも神代史とは融和せられずに、獨立して發達してゆき、さうして、神代といふものには神秘の扉が堅く閉されてしまつたのである。
(149) 神代史の文學的價値があまり高くないのも、また此の故である。其の作者は詩人ではなくして學者ともいはるべきものである。其の作は詩的想像から生まれたのでなくして、智識によつて組み立てられたものである。祖先、または祖先の世といふ抽象的な觀念がもとになつて作られた神であり神代であるから、神に内容が乏しく、從つて神々の性質にも特色が甚だ少ない。容貌とか、服裝とかいふやうなことの描寫も殆ど無い。日月二神についても、月が日につぐ光であるといふことの外には、神として何の差異も現はれてゐないのを見ても、全體の樣子がわかる。種々の插話があり、民間説話が結びつけられたりしてゐるので、多少潤澤はついて來たけれども、神代史そのものは要するに物語の筋書たるに過ぎないのである。
二 神代史の作られた時代
記紀に見えるやうな神代史が一時に出來上がつたものでないことは、上に述べて來たところで明かであらう。其の種々の變形や、小部分の添加増補は記紀の編纂せられる時近くまで行はれたことを想像しなければならず、また神代史の骨子たる部分すら、時代を追うて積み重ねられたものらしい。だから、一口に神代史が何時作られたかといふのは妥當ないひやうでは無いが、こゝでは後世の變形は且らく論外に置き、其の骨子たる物語の作られた時代が、ほゞ、何時ごろであつたらうかといふ推測を試みるつもりである。
神代史の中心思想は日神を皇祖神とすることであるが、皇祖神が日神であるといふ思想があれば、日孫降臨の物語(150)は何等かの形に於いて現はれなければならぬ。だから、日神が皇祖神として祀られた時と、日孫降臨の物語が作られた時とは、あまり、時代が隔たつてゐないと見なければなるまい。さて、書紀が事實の記録として信ぜらるべき時代の初めは、紀年からいつても、記載せられてゐる事件からいつても、また文字の術がよほど習熟せられてゐたといふ社會の事情からいつても、雄略天皇より遲くはあるまい。ところが、其の雄略紀の三年には栲幡《タクハタ》皇女が伊勢の齋宮であったことが見えてゐる。しかし、これには神怪の分子が混じてゐるから、それを取らないとしても、繼體紀の元年に荳角《サヽケ》皇女が同じ位置にあつたことが見えてゐるから、雄略天皇の頃にも、齋宮はあつたらうと思はれる。さうして、齋宮は皇室に於いて伊勢大神宮を皇祖たる日神として祀られたからのことであらうから、遲くとも、雄略天皇・繼體天皇の時代には、日神が皇祖神として、世に知られてゐたに違ひない。從つて、日孫降臨の物語も、此の頃にはできてゐたであらうと思はれる。もつともあまり人智の幼稚な時代ならば、日神が皇祖神であるといふだけで、それについて、何等の説明も要らなかつたかも知れないが、既に支那の學問も多少入つてゐて、政治的にも、韓地の經營に苦心してゐた頃の思想としては、日神と現在の皇室の地位との間に何かの聯絡が無くては承知ができなかつたらう。だから、日神が皇祖神とせられたことは、よし、ずつと古代からのことであつたにせよ、少なくとも、繼體天皇ころには、その信念と現在の事實とを調和させる日孫降臨の物語ができなくてはならぬ。
次に神代史に於いて皇室に對するものは百八十伴緒の氏族であつて、一般民衆の面影は少しも現はれてゐない。然るに、支那的政治思想の採用せられた聖徳太子の新政では、公民といふ語もつくられてゐる。よし、其の語が無くとも、既に支那風の政治思想がある以上、人民といふ考が生じなくてはならぬ。大化改新以後はいふまでもない。また、(151)神代史では、カバネ以外に階級の觀念が無いが、聖徳太子の時には、氏族としての階級の外に冠位といふやうな個人としての階級がつくられた。これは神代史の主なる物語が純然たる族制制度であつた時代、即ち推古天皇以前の作である證據ではなからうか。
又た神代史に於いては中臣と大伴・物部とは、文武全く職掌を異にし、位置を異にしてゐて、日孫降臨の場合にも、大伴は中臣などの所謂五伴緒の仲間には入つてゐない。然るに大伴氏は雄略天皇ころから、中臣・物部は欽明天皇ころから、相并んで大政に參與してゐて、其の間に顧著なる區別がなくなつた。尤も大伴などは、奈良朝ころまでも、其の本職が武臣として信ぜられてゐたほどであるから、全く其の固有の位置が忘れられてしまつたのではないが、事實、明瞭な區別は其の間になくなつてゐる。從つて、神代史はかういふ状態になつてから、あまり長く年月を經た後の作ではなからうと思はれる。
最後には、神代史の主なる物語に支那思想が入つてゐないことで、これは智識ある社會が著しく支那思想に感化せられた聖徳太子時代以後の作で無い一證ではあるまいか。
これらの事實は、よし、それが明確に神代史の作られた時代を示すものでないにもせよ、大よその見當をつける助にはなるであらう。即ち、それによつて、早いものは雄略天皇ころ、遲いものでも繼體天皇及び欽明天皇の前後にできたもので、欽明天皇ころには、一と通り神代史の骨子ができ上がつてゐたものと推測してもよからうではないか。
更に當時の事情から見るに、雄略天皇・繼體天皇の頃は湊學が漸次行はれ歸化人も多くなつて、幾分か思想に動搖が生じたと共に、韓地經瀛などに伴つて、氏族にもいくらか盛衰が起り、允恭紀に見えるやうな家格の爭ひも其の頃(152)にはあつたらう。その上に顯宗・仁賢・繼體の三代が傍系から入つて大統を繼がせられるといふやうに、皇室にも容易ならぬ事件があつた。神代史の製作が、もし實際の政治上に何かの必要があつたこととすれば、此の頃は、恰も、其の時では無かつたらうか。八百萬神が神はかりにはかつて日神を翼賛したといふ物語は、諸家が合議協力して、顯宗天皇・繼體天皇を迎立したやうな状態を暗示してゐるやうに見られないこともない。日神が皇祖神として祀られたことは、もつと、古くからのことであり、日孫降臨の物語も、或はこれよりも、早く出來てゐたかと思はれるが、血族主義を以て國土と日神との起源を説き、あらゆる諸氏族をイザナギ、イザナミの二神の子孫として統一するといふ物語の作られたのを、大體、繼體天皇・欽明天皇前後と見るのは此の點からも別に故障があるまいと思ふ。さうして、それは緒論に於いて神代史の外形の上から假定したところとも一致する。
神代史の骨子は繼體天皇・欽明天皇前後に一と通り作られてゐたものとしても、それが今の形になつたのは後世の潤飾が多く加はつたのであり、また、イザナギ、イザナミ以前の神々などは、それよりも後に附加せられたものであらう。さうしてまた、これらの神々、例へばタカミムスビなどを日孫降臨の物語に結びつけるやうなことも、其の後に行はれたのであるが、その時代などは一々推測することができない。
(153) 附録
補遺
スサノヲの簸の川上の物語について(三八頁參照)
スサノヲが八頭蛇を退治した時、其の蛇から取り出したといふ叢雲の劔が三種の神器の一つになつてゐるので、此の話が神代史の結構上意味のあることのやうに見えるかも知れない。しかし、鏡も劔も玉も上代人の尊重した器物であるから神器とせられたので、遷却祟神祭祝詞に「見明すものと鏡、翫ぶ物と玉、射放つものと弓矢、打ちきるものと太刀」とあるのが、よく上代人のこれらの器物に對する觀念を現はしてゐる。だから、スサノヲと劔との間にも特別の意義が含んでゐるとは思はれない。劔を蛇から取り出したのは、たゞ、スサノヲの勇ましい行から派生した物語で、それを神器の由來としたのみであらう。日孫降臨の物語にある鏡についての日神の語も、やはり、鏡の効用から生じた考で、別に意味は無い。昔の神道家などが神器に道徳的意味を附會したことの誤りは、今さらいふまでもあるまいが、玉の如きは、曲玉・管玉などの種々の形をしたものを所謂みすまるとして緒にとほし、それを頸や腕にかけ(154)るのであるから、それに、例へば、仁といふやうな道徳的觀念の聯想せられる筈が無い。これは上代人の用ゐた玉の實物を知らないで、たゞ玉といふ文字から支那人のいふ玉のことと考へ違ひをしたために起つた説であらう。玉は上にも引いた祝詞の語の如く、翫ぶ物、即ち裝飾としての貴重品たるに過ぎないのである。玉がさうであるならば鏡も劔も同樣であらう。このことは本文(第一章第二節、遊離分子の除去の條)にいひ漏らしたから、こゝで補つて置く。
祝詞について(六〇頁參照)
延喜式に見える祝詞の作られた時代については、眞淵・宣長などにも既に其の説があるが、宣長もいつてゐる如く、多少の改訂が時々加へられて來た形跡もあるから、其の中の或る一つについても、それを何の時代の作だと推斷することは容易で無い。大體からいふと、其の最も古いものでも、神代史の一と通り作られた後の作であることは明かであり、また、これだけの文辭がつゞられ、これだけに儀式ばつたことが行はれたのは相應に文化の發達した後、また、朝廷の儀式も整つた後のことであらう。しかし大殿祭の祝詞は其の中に見える建築法から考へると、宮殿建築が佛寺建築の影響をうけて新しくなつたらしく思はれる時代から、あまり後のものとは見えず、大祓のにも、宣長の説の如く、古い言葉づかひがあり、其の他、多くの祝詞に見える思想風俗が純粹に國民的のものであつて、支那文化の影響を受けてゐる痕跡の無いのを見ると(神事であるから、古風を失はないやうにした點もあらうが)、其の中の古いものは、少なくとも大化改新以前に出來たものがもとになつてゐるだらうと思はれる。けれども、本文に、神代史の作られたとあまり時代が隔たつてゐないやうに書いてあるのは、少しく書き方が疎漏である。校正の際、氣がついたから、(155)卑見をこゝに一言して置く。
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神武天皇の御製といふ歌(一七頁)
宇陀の高城に鴫わな張る、我がまつや、鴫はさやらず、いすくはし、くぢら、さやる、前妻《コナミ》が、な乞はさば、たちそばの實の、なけくを、こきしひゑね、後妻《ウハナリ》が、な乞はさば、いちさかき實のおほけくを、こきだひゑね、えゝ、しやごしや、こはいのごふぞ、あゝ、しやごしや。(古事記)。附言。「くぢら」は鯨ではあるまい。鴫のあみにかゝるのだから鳥の一種であらう。それを鯨とするのは「わに」を鰐と思ふのと好一對の誤りであらう。
イザナギのヨミの國ゆき(三五−三六頁)
イザナミは國土を生み山川河海の神を生んだ後、火の神を生んだために、ほとをやかれてヨミの國へ行つた。イザナギがそこへたづねていつて、二人で作つた國はまだ作り竟へないのだから、もう一度還つてほしいといふ。イザナミは、もはやヨミのものを食つたから還られないのだけれども、兎も角もヨミの神に相談しませう、たゞ私を視て下さるなと答へる。男神はそつと燭火をつけて覗いて見ると恐ろしい有樣である。驚いて逃げて帰ると、女神は怒つてヨミの軍をつれて後から追つかけて來る。ヨモツヒラ坂で二神の間に爭ひが起る。女神はいふ。あなたの國の人を一(156)日に千人づつ絞り殺しますぞ。男神は答へる。おれの國では一日に千五百の産屋をたてる。イザナギはやつと穢い國を逃げて帰つた。(古事記)
オルフォイス(三六頁)
オルフォイスの妻ユウリデスが死んで地下の國へいつた。オルフォイスは戀ひしくてたまらず、死の國の王のプルトオのところへ往つて、もう一度、妻をこの世へ還してくれと頼んだ。鳥獣もきゝほれ、木石も立つて舞ふといふほどの樂の名手であるから、其の樂のねでプルトオの心を動かし、遂に其の許可を得た。但し、歸りつくまでは後からついてゆく妻をふりかへつて見てはならぬといふ條件づきであつた。オルフォイスは大いに喜んで妻をつれて出かけたが、もう一足で死の國を離れるといふ間際に、思はず、ふりかへつて見た。もう迫ひつかない。妻はこの世の人になることができなかつた。(希臘の傳説)
オホナムチのヨミの國ゆき(三七頁)
オホナムチは多くの兄弟にいぢめられて根の國にいつた。そこでスサノヲの女のスセリヒメを妻にした。スサノヲはオホナムチを蛇の室へ入れたり、呉公や蜂の室へ入れたり、または野の中に落ちた矢を拾はせにやつて其の野に火をつけたりしていろ/\に苦しめた。オホナムチはスサノヲの弓矢をとり出し、女をつれて現し國へ逃げ出した。スサノヲはそれをヨモツヒラ坂まで追つかけて來て、其の弓矢で兄弟を追ひふせ、オホクニヌシとなり、ウツシクニダ(157)マとなつて國を作れ、さうしてスセリヒメを妻にせよと言ひ渡した。オホナムチは教の通りにして兄弟をうち從へた。(古事記)
ホヽデミのワダツミの宮ゆき(三七頁)
山幸あるホヽデミの命が海幸ある兄のホデリの命にすゝめられ、兄の鈎をもつて釣に出たが、魚は釣れずに鈎を失つた。それから兄にいぢめられ、シホツチの神のすゝめるまゝに海の上遠くワダツミの神の宮へいつた。そこで神の女のトヨタマヒメを妻にして三年の月日を送つた。さうして、失つた鈎を取り戻し、潮乾玉・潮滿玉を贈られて歸つた。その玉の妙用で兄の命を降參させることができた。(古事記)
秋山のしたび男、春山のかすみ男(三七頁)
出石少女といふ女があつた。秋山のしたび男といふ男が弟の春山の霞男に向つて、お前が、見ごと、あの女を手に入れたら、身のたけほどの酒がめに酒を入れて、それから、なんでもありつたけのものをやらうといつた。霞男は藤づるで織つた着ものと弓矢とをお母さんからもらつて女のところにいつた。着物も弓矢もみんな美しい藤の花になつた。女は喜んだ。霞男はめでたく女を妻として一人の子を生ませた。兄は弟を妬んで約束の賭をやらない。母は兄を呪詛した。したび男は八年の間、痩せ枯らびて苦しんだ。(古事記、應仁天皇の卷)
(158) エロスとサイケ(三七頁)
美の女神ヰイナスを妬ませた人の處女のサイケが愛の神エロスの妻となつたといふ物語。神の託宣によつて山の巓に置かれた此の處女が和い西風の手にのせられて人里離れた森の中の美しい宮殿に伴はれ、そこに住んで夜のみ訪れる愛の神を迎へたこと、サイケを妬んでゐる二人の姉の教唆に好奇心を煽られ、堅い禁制を破つて、或る夜、燭火の明りに、そつと男神の美しい姿をぬすみ見たこと、思はずこぼした熱い油の一滴に神は目をさまして、忽ち白い翼をひろげて飛び去つたことなどは誰も知つてゐる。可憐の魔女は神にすてられて野山にさすらひの身となつたが、セレスの神の教に從ひ、ヰイナスの宮殿にいつて宥を乞うた。女神の怒は解けずして處女はいろ/\の難行を命ぜられた。めちやくちやになつてゐる穀物を揃へさせられたり、羊の背にある金色の毛をとらせられたりしたが、蟻に助けられたり、川の神に教へられたりして都合よくそれを仕おほすと、最後に「美」をもらふ使として地下の死の國にやられた。首尾よく使命を果した歸り途に、またも好奇心が湧いて、美といふものの入つてゐるはずの箱をそつと明けて見ると、死の國の「眠」が中から出て、とりついた。處女は前後不覺に横たはつてゐたのを、エロスが來て「眠」を箱の中に入れ、例の鏃を輕くあてて、サイケの目を覺まさせた。サイケはそれから男神に助けられ、遂に神々の許を得て其の妻となり、神の列に入つたといふことである。(アプレイウスの物語)
コノハナサクヤ姫とイハナガ姫(三八頁)
(159) オホヤマツミの女に、イハナガ姫とコノハナサクヤ姫との姉妹があつた。姉は醜いが妹は美しい。オホヤマツミがニヽギの命をもてなすために二人の女をすゝめたところが、命は柿を嫌つて妹を妻にした。オホヤマツミは大いに恥ぢて、神の御子をば石の如く長へに、花の如く榮えよと祈つて二人をすゝめたのに、妹ばかりを寵愛せられるのでは、其の生命は花の如く短からうといつた。(古事記)
美作國神依獵師謀止生贄語(三九頁)
美作の國の中參高野といふ神の祭には年々、一人の處女を生贄に供へる。神體は猿と蛇とである。或る年の生贄に名ざされた娘に折節東國から來てゐた獵師が語らひついた。祭の日、娘と見せて獵師が生贄の櫃に入つて舁がれていつた。神殿の内に置かれて今や猿どもが其の蓋を開けようとする時、磨ぎすました刀をふるつて、一所に入つてゐた二匹の犬と共に躍り出た。犬は多くの猿を※[口+敢]ひ殺す。獵猟師は一番の猿を俎の上に抑へつけた。猿は恐れて憫を乞うた。生煮えの習慣はそれからおやめになつて、獵猟師はめでたく娘と夫婦になつた。(今昔物語卷二十六、第七。次の章に出てゐる「飛騨國猿神止生贄語」も似よつた話である。)
スフィンクス(三九頁)
テエベの街道に獅身人首の怪物スフィンクスが現はれて途行く人に謎をかける。さうしてそれを解くことの出來ないものはみんな殺してしまふ。エヂプスといふ男がその謎を解いた。怪物は漸恨して死んだ。寡婦であつた時の女王(160)がエヂプスと結婚した。(希臘の古傳説)
三輪山物語(四〇頁)
ヤマトトヽ姫のところに晝は姿を見せないで夜のみ通つて來る男があつた。姫はある夜、男に向つて一度もお顔を見たことがないから明日の朝はこゝにゐて美しいお姿を見せて下されといふ。男は、尤だ、明日はお前の櫛筺の中に入つてゐよう、が驚いてはいけないよといふ。怪しみながら姫は其の櫛筐を明けてみると小さな美しい蛇がゐた。姫は思はず聲を出して叫んだ。蛇は忽ち人の形になつて、空を踏んで三諸山へいつてしまつた。姫は自殺した。男はオホモノヌシの神であつたのである。(崇神紀)
イクタマヨリ姫といふ美人があつた。夜な/\容姿端麗な男が通つて來るが、誰だかわからない。或る夜、絲卷の麻いとを針にとほして、それを男の衣服のすそにさしておいた。朝起きて見ると戸のかぎ穴から其の絲が外へとほつてゐる。それをたよつていつて見るとさきは三輪山の神社の中に入つてゐた。絲卷に麻の残りが三輪だけあつたから其の山を三輪といふやうになつた。(古事記、崇神天皇の卷)
肥長姫(四〇頁)
垂仁天皇の皇子が出雲の國で、一夜、肥長姫にあはれた。姫は蛇であつたので驚いて逃げ出されると海の上から追つかけて來た。(古事記、垂仁天皇の卷)
(161) 弟日姫(四〇頁)
大伴狭手彦にわかれた弟日姫のところに狹手彦によく似た男が通ふやうになつた。夜きては曉早く歸るので、不思議でならない。麻いとをきものの襴につけて置いてそのあとをつけていつたら、山の上の招邊へ出た。見ると大蛇がねてゐる。從者のしらせによつて一族のものがいつて見たら蛇も姫もゐない。池の底に人の屍骸があつた。(肥前風土記、佐嘉郡褶振峯の條)
奴賀姫(四〇頁)
奴賀姫といふ女のところに夜ばかり通つて來る男があつた。ほどなく懷姙したが、生まれた子は小蛇であつた。女は子に向つて、人の家で長く養ふことが出來ないから父のところへいつてくれよと頼んだ。蛇は承知したが、だれか一人ついて來いといふ。此の家は自分と兄さんとばかりだからだれもついていくものは無いといふ。蛇は怒つて、伯父を殺すのだといつて天に昇る。女は驚いて瓮を抛りつけた。蛇は昇天ができなくなつて哺時臥といふ山にとまつた。(常陸風土記、那賀郡茨城里の條)
甄萱の父(四〇頁)
光州に金持ちがあつた。其のむすめのところに紫の衣を着た男が夜毎に通つて來た。女は父の教へに從つて、ある(162)夜、絲をつけた針を男の衣にさして置いた。朝になつて其の絲をたよつてゆくと、かきねの下にゐる大きな蚯蚓の腰にその針がさしてあつた。それが後百濟王となつた甄萱の父である。(三國遺事、甄萱傳)
國土のできない前の神(四〇頁)
アメノミナカヌシ。タカミムスビ。カミムスビ。ウマシアシカビヒコヂ。アメノトコタチ。クニノトコタチ。トヨクモヌシ(以上、獨身隱身)。
ウヒヂニ。(イモ)スヒヂニ。 ツヌグヒ。(イモ)イクグヒ。 オホトノヂ。(イモ)オホトノべ。 オモダル。(イモ)アヤカシコネ。 イザナギ。(イモ)イザナミ。 (古事記)
クニノトコタチ。クニノサツチ。トヨクムヌ(以上純男)。 ウヒヂニ。 スヒヂニ。. オホトノヂ。オホトマベ。 オモタル。カシコネ。 イザナギ。イザナミ。 (書紀本文)
賀茂のワキイカツチ(五〇頁)
賀茂のタケツヌミの命の女のタマヨリ姫が瀬見の小川で丹塗の矢をひろつて來て床の上に置いた。それから懷姙して男の子を生んだ。子が大きくなつてからタケツヌミの神が酒宴を開いて、其の子に向ひ、お前の父と思ふ人に此の(163)酒を飲ませよといつて杯を擧げたら、屋根をつき破つて天に昇つていつた。此の神は賀茂のワキイカツチの命である。(山城風土記)
倭女王卑彌呼(一一五頁)
其國本亦以2男子1爲v王、住七八十年、倭國亂、相攻伐、歴v年、乃共立2一女子1爲v王、名曰2卑彌呼1、事2鬼道1、能惑v衆、年已長大、無2夫婿1、有v男-弟、佐治v國、自v爲v王以來、少v有2見者1、以2婢千人1自侍、唯有2男子一人1、給2飲食1、傳v辭、出2入居處1、……卑彌呼……死……更立2男王1、國中不v服、更相謀殺、……復立2卑彌呼宗女壹與年十三1、爲v王、國中遂定。(魏志倭人傳)
九州の女酋(一一五頁)
かみかし姫、速見《ハヤミ》の邑の速《ハヤ》つ姫、八女《ヤメ》の國の八女つ姫。八女の國の名は姫から起つた。(以上、景行紀)。
五馬山の五馬媛、速つ媛。速見郡は速つ媛の國といふのを訛つたのである。(以上、豊後風土記)
佐嘉郡の大山田女、狹山田女。(この女は賢《サカ》し女である。それから佐嘉郡の名が起つた。)
孃子山の八十女、賀周《カス》の里のみるかし姫、速來《ハヤク》村の速來つ姫。(以上、肥前風土記)
たぶらつ姫。(神功紀)
(164) ヤチホコの神の歌(二九頁)
八千矛の、神の命は、八島國、妻|覓《マ》ぎかねて、遠々し、越《コシ》の國に、賢《サカ》し女《メ》を、ありと聞こして、麗《クハ》し女を、ありと聞こして、さよばひに、あり立たし、よばひに、あり通はせ、太刀が緒も、未だ解かずて、襲《オソヒ》をも、未だ解かねば、處女の、鳴《ナ》すや板戸を、押《オ》そふらひ、我が立たせれば、ひこづらひ、わが立たせれば、青山に、鵺は鳴き、さ野《ヌ》つ鳥、雉はどよむ、庭つ鳥、鷄《カケ》は鳴く、うれたくも、鳴くなる鳥か、此の鳥も、うち病めこせね。いしたふや、天馳《アマハ》せ使。ことの、語り言も、こをば。(古事記)
ヌナカハ姫の歌(一一九頁)
八千矛の、神の命、ぬえ草の、女にしあれば、わが心、浦渚《ウラス》の鳥ぞ、今こそは、千鳥にあらめ、後は、平和《ナドリ》にあらむを、命は、な死せ給ひそ。いしたふや、天馳せ使。事の語り言も、こをば。青山に、日が隱らば、ぬば玉の、夜は出でなむ、朝日の、咲み榮え來て、たくづぬの、白き腕《タヾムキ》、沫雪の若《ワ》かやる胸を、そだたき、叩きまながり、ま玉手、玉手さしまき、股長に、寢《イ》はなさむを、あやに、な戀ひきこし、八千矛の、神の命。ことの、語り言も、こをば。(古事記)
スセリ姫の歌(一二〇頁)
(165) 八千矛の、神の命や、吾《ア》が大國主、汝《ナ》こそは、男《ヲ》に坐せば、打ち見る、島のさき/”\、かき見る、磯の崎おちず、若草の、妻もたせらめ、吾《ア》はもよ、女《メ》にしあれば、汝をきて、夫《ヲ》は無し、汝をきて、夫《ツマ》は無し、あや垣の、ふはやが下に、むし衾《ブスマ》、にこやが下に、栲《タク》衾、さやぐが下に、沫雪の、若かやる胸を、たくづぬの、白き腕、そだたき、叩きまながり、ま玉手、玉手さしぬき、股長に、寢をしなせ。豐御酒《トヨミキ》、奉らせ。(古事記)
勾《マガリ》大兄皇子の歌(一二〇頁)
八島國、妻覓きかねて、春日の、かすがの國に、麗《クハ》し女を、ありと聞きて、よろし女を、ありと聞きて、まきさく、檜の板戸を、押し開き、われ入りまし、あととり、つまとりして、枕とり、つまとりして、妹が手を我にまかしめ、わが手をば、妹にまかしめ、まさ木づら、たゝきあざはり、しゝくしろ、熟寢《ウマイネ》しとに、庭つ鳥、鷄《カケ》は鳴くなり、野《ヌ》つ鳥、雉はどよむ、麗《ハ》しけくも、未だ言はずて、明けにけり我妹《ワギモ》。(繼體紀、七年の條)
采女の歌(一二〇頁)
まき向の、日代の宮は、朝日の、日照る宮、夕日の、日がける宮、竹の根の、根だる宮、木の根の、根ばふ宮、やほによし、いきづきの宮、ま木さく、檜の御門、新嘗星に、生ひ立てる、百《モヽ》足る槻《ツキ》が枝は、上《ホ》つ枝は、天を覆《オ》へり、中つ枝は、あづまを覆へり、下《シヅ》枝は、鄙を覆へり、上つ枝の、枝の末葉《ウラバ》は、中つ枝に、落ちふらばへ、中つ枝の、枝の末葉は、下《シモ》つ枝に、落ちふらばへ、下《シヅ》枝の枝の末葉は、あり衣《キヌ》の、三重の子が、捧《サヽ》がせる、瑞玉杯《ミヅタマウキニ》に、浮きし脂、(166)落ちなづさひ、水《ミナ》こをろ/\に、こしも、あやにかしこし、高光る日の御子。ことの、語り言も、こをば。(古事記、雄略天皇の卷)
雄略天皇の皇后の御製といふ歌(一二〇頁)
倭の、此の高市に、小高《コダカ》る、市のつかさ、新嘗屋に、生ひ立てる、葉廣、ゆつま椿、其が葉の、廣りいまし、其の花の、照りいます、高光る、日の御子に、豐御酒、奉らせ。ことの、語り言も、こをば。(同上)
シタテル姫の歌(一二〇頁)
天なるや、おとたなばたの、うながせる、玉のみすまる、みすまるに、穴玉はや、み谷、二たわたらす、あぢしきたかひこねの神ぞや。(古事記)
リップ・ワン・ヰンクル(一四〇頁)
ハドソン灣の近邊に和蘭人の足跡がまだ遺つてゐた英領時代の話である。カアツキル山の麓の小村に、リップ・ワン・ヰンクルといふ人の好い農夫があつた。或る時、鐵砲をかついで山へ往つた。日の暮近くなつたので、そろ/\歸らうとすると、だしぬけに自分の名を呼ぶ聲がする。昔の和蘭風の衣ものをきて酒樽を重さうにかついで上つて來る見なれない男がある。それが手傳つて呉れといふのらしかつた。少し、いやな心持はしたものの、矢つぱり親切に(167)手傳つて險阻な坂を登つてゆくと、山で圍まれてゐる、一寸した廣場に出た。そこには和蘭の古い繪からぬけ出したやうな變な樣子をした男の一群が、黙つて、むづかしい顔をして、懸命に球技げをしてゐた。リップも黙つて側から見てゐたが、酒のあるのに氣がついて、こつそり、それを飲んだ。さうして、いつのまにか醉つてねてしまつた。目をさますと心持ちのよい朝である。一晩ねたのかと思つて、あたりを見まはすと、昨日はじめて變な男に逢つたところである。少し不思議になつて、なほよく見ると、鐵砲はわきにあるが臺身はぼろ/\に腐つて、さびた金物が落ちてゐる。立ちあがると足もとがたしかでない。其の足をひきずつて昨夜のところへ往つて見ると、場所はそれらしいが、木は大きくなり、草はしげつて、人のゐたらしい樣子もない。途方にくれて山を下り、里に歸つて見ると、知らぬ顔が不思議さうにながめては通る。氣がついて見ると、自分の髯が足まで屆くほど長くなつてゐた。やつと家へかへつて見ると、壞れかけたあばらやに人影もない。近所では共和黨だ民主黨だといつて騷いでゐる。リップが山へ入つて往方がわからなくなつてから二十年の後で、世はもう北米合衆國となつてゐたのである。(ワシントン・アアビング)
王質爛柯(一四〇頁)
晋の時、王質といふ男が木を伐りに石室山に入つた。數人の童子が棊をやつたり、歌を歌つたりしてゐた。それを觀たり聽いたりしてゐると、童子が棗の核のやうなものをくれた。それを口に含んでゐたら饑くもならなかつた。しばらくして童子がもう歸つたらよからうといふから、氣がついてみると、持つてゐた斧の柄がいつの間にか腐つてゐ(168)た。里に歸つてみたら、知つてゐるものは誰もゐなかつた。(述異記)
ヱヌスベルグ(一四一頁)
ワルトブルグに近いチユウリンジアの山の名。そこに美の神・愛の神たるヰイナスが多くのニムフと共に住まつてゐるといふ歡樂郷。一度そこへ入つた男は再びこの世に出られないとのこと。有名なタンホイゼルの物語がある。
劉阮天台(一四一頁)
劉晨・阮肇の二人が天台山に藥を探りに入つた。道がわからなくなつて、まごついてゐると溪川へ出た。見ると杯が流れて來る。人里が遠くないと思つて谷を渉り嶺をこえて往くと、二人の美人に逢つた。美人は劉阮を懷かしげによびかけて其の家につれて往つた。宮殿調度、此の世のものでは無い。美酒嘉肴まためでたき限りである。數千の美人がどこからか來て歌舞管絃して興をたすける。お婿さんの來たお祝ひだといふのである。十五日ほどして客は歸らうとしたが、ひきとめられた。それから半年たつた。時はいつも春のこゝろよさである。が、花鳥の色につけ音につけて故郷戀ひしくなり、とう/\辭して歸つた。故郷に來てみると人にも景色にも見覺えが無い。いろ/\きゝたゞして七代目の孫の代であることがわかつた。先祖が山へ入つて往方知れずになつてしまつたといふ昔話があるといふことである。たよるところの無い故郷では仕方が無いから、また女の家へ歸らうと思つて山路を尋ねても道がわからなくなつてしまつた。女は仙女で、山の奥の棲家は仙界であつたのである。(續齊諧記)
(169) 柘媛(一四二頁)
美稻《ウマシネ》といふ男が吉野川で魚梁を打つてゐた。川上から流れて來た柘の枝を拾ひ上げたら、それが忽ち仙女となつた。美稻はそれと契を結んだ。女は後に羽衣をきて飛んでいつた。(柘媛の話はよくわからないが、萬葉巻三に見える柘媛を詠んだ歌、懷風藻中の詩、續日本後紀卷十九に見える興福寺僧の獻上した長歌、等を綜合して見ると、大體こんな風の話であつたらしい。)
此沼山の天女(一四二頁)
丹後の國丹波の郡の比沼山の頂上に麻奈井といふ池がある。八人の天女たちがそこに下りて來て水を浴びてゐた。ワナサ爺さん・ワナサ婆さんといふ夫婦がそつと其の中の一人の衣をかくした。水の中から出ることもならずにかくれてゐたこの女は仕方なく夫婦のすゝめるまゝに其の子となつて養はれた。酒を上手につくつたので其のおかげで老夫婦は金持ちになつた。十餘年の後、夫婦はそれを逐ひ出した。女は天を仰いで歎じたが故郷に歸ることは出來ない。泣く/\竹野の郡、船木の里、奈具の村にさすらひついてそこに留まつた。この村に祀つてあるトヨウカノメの命がそれである。(丹後風土記)
(170) 伊香の小江の天女(一四二頁)
近江の國、伊香の郡、與胡の郷の伊香の小江にあつたといふ昔話。八羽の白鳥が天から降りて來て水の中で遊んでゐた。よく見ると天女である。イカトミといふ男が白い犬をやつて其のうちの一人の衣をぬすませた。七人の天女は天に昇つていつたが、一人だけは天衣をぬすまれて飛ぶことが出來ない。しかたが無くイカトミの妻になつて、男女四人の子を生んだ。それが伊香連の先祖である。女は後に天衣を見つけ出してそれを衣て天へ歸つていつた。(帝王編年記)
漢の武帝の見た天女(一四二頁)
漢の武帝が、或る日の夕、東の空を見てゐると青い雲がふは/\浮いて來た。二羽の白鳥が其のなかから現はれて臺の上に降りた、と思ふといつのまにか二人の神女に化つて歌ひつ舞ひつした。(洞冥記)
豫章の天女(一四二頁)
六、七羽の鳥が毛衣を脱いで美しい女に化つて田の中で遊んでゐた。ある男がそつと其の毛衣の一つをかくした。女どもはもとの鳥になつて飛んでいつたが、毛衣をとられた一人だけはとりのこされた。男は其の女を妻にして三人の女の子を生ませた。ずつと後で、女は毛衣のありかを知つてそれを衣て飛んでいつた。それからまた毛衣を持つて(171)迎へに來て、むすめたちをつれていつてしまつた。豫章新喩縣といふところの話である。(元中記・捜神記)
白鳥の郷(一四三頁)
白鳥が天から飛んで來て乙女となつた。石を積み堤を築いて池を作らうとして、幾月かゝつても、でき上がらない。しまひにとう/\天へ昇つていつてしまつた。其のあとを白鳥の郷といふ。(常陸風土記、香島郡の條)
(175) 古事記及び日本書紀の新研究
(177) 例言
一 此の書に述べたことは、數年前から著者の有つてゐた考であるが、昨年から今年にかけ、早稻田大學の史學科に於いて之に關する講義を試みたのを機會として、此の一卷にまとめ、世に公にすることにしたのである。
一 此の書の内容は、記紀の一般的性質と、其の神武天皇以後仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分と、に對する研究である。從つて「古事記及び日本書紀の新研究」といふ題號は、やゝ不適當のやうであるが、内容を精密に表はすことが困難であるから、しばらく斯う名づけて置いたのである。
一 所謂神代史は、記紀の研究に於いて重要なる部分となるべきものであるが、之に就いては著者の舊者「神代史の新しい研究」があるため、此の書からは除外した。此の舊著は、其の後の研究によつて改訂を加へねばならぬところが多いのと、印刷上の誤植が甚だ多いのとのため、今は絶版のまゝにしてあるが、他日全部を通じて書き直した上で、再版すべき希望を有つてゐる。但し、此の書でも、總論、第五章及び第六章などのうちの數節に於いて、神代といふ觀念、並びに神代史の性質を論じ、舊著よりも一歩を進めた觀察を試みた。また所々に、舊著に述べたところとは異なつた新見解を提出した(例へば、此の書の第六章によつて、舊著第二章第一節の所説の一部分は訂正せられねばならぬ)。なほ、記紀全體の性質に關しては、舊著にも緒論に於いて極めて簡單な考を述べて置いたが、此の書の總論では、それを詳説した上に、重要なる改訂を施した點もある。それから、此の書の研究の範圍を何故に仲哀天皇(及び(178)神功皇后)以前に限つたかといふことは、緒論の第五節に述べたやうな理由からである。
一 此の書の目的とするところは、全體としての記紀の性質の研究、及び其れに記載せられてゐる種々の物語の批判であつて、上代史そのものの考説では無い。記紀を上代史の資料として取り扱ふには、先づそれが如何なる意味に於いて可能であり、またそれに幾何の價値があるか、を明かにしてかゝらねばならず、それには記紀の内容の一々についての批判を要する、といふのが著者の見解である。ところが著者の狹い見聞によれば、此の重要なる事業が世間には寧ろ閑却せられてゐはしまいか、と疑はれる。例へば、上代のエミシに對する經略を考へるに當つて、日本書紀のヤマトタケルの命の物語を初めから無條件で歴史的事實の記載と見なし、物語そのものに對する何等の批判をも試みず、それと古事記の物語との間に大なる差異があること、從つて其の差異に如何なる意味、如何なる由來があるか、といふことをすら深くは考慮しないのが、一般の状態ではあるまいか、と思はれる。が、著者はそれに反して、此の物語をエミシ經略史の資料として取り扱ふ前に、まづ物語そのものに嚴密なる批判を下し、又た何故に記紀の間に差異があるか、其の差異が何事を語るかを、明かにしてかゝらねばならぬ、と考へる。其の他の種々の物語に於いても同樣である。著者の批判の當否は兎も角もとして、此の態度は記紀を上代史の資料として用ゐる場合には、是非とも取らなくてはならぬものであると信ずる。著者が淺學をも願みず、敢て此の書を公にする微意はこゝにある。
一 總論の第二節のうちに述べた韓半島の形勢に關する觀察は、一般東洋史家の研究の結果によつた點が多く、必ずしも著者一個の見解では無い。また魏志倭人傳の解釋に於いて、邪馬臺國が今の九州の北部に位する一地方でなければならぬといふことについては、白鳥教授の「倭女王卑彌呼考」(東亞の光、明治四十三年六−七月號所載)を參照せ(179)られたい。
一 第五章の宗教思想に關する考説の一部分には、著者が曾て「郷土研究」(大正三年第三−四號)の誌上に載せた論文と同じ意味を述べ、まゝ章句をも襲用したところがあることを、ことわつて置く。
一 上代の固有名詞は、漢字によつて生ずる思想の混亂を避けるため、すべて片假名で書いて置いた。しかし、特殊の必要ある場合、もしくは、あまりに普通に知られてゐるもの、また國郡制置以後の地名などは、漢字を用ゐたので、其の間に多少の混雜が生じてゐるかも知れぬ。
一 此の書は、前に述べたやうな偶然の事情に刺戟せられて筆をとつたのであるが、それがために著者の豫定の計畫に狂ひを生じ、「【文學に現はれたる】我が國民思想の研究」の績稿を起すことを遲延せしめた。しかし、遠からずして「平民文學の時代」の下巻の述作に從事するを得る時期が來るであらう。 大正八年四月
津田左右吉
印刷の出來上がつた後になつて本文の不備に心づいたことの二、三を、「補訂」として巻末に附記して置いた。讀者の看過せられないことを希望する。七月 著者
(118) 目次
総論
一 研究の目的及び其の方法………………………………………………一九一
記紀の性質に關する疑問――批判の必要――其の二方法…………一九一−一九三
本文研究の第一の用意―― 誤れる合理主義――新井白石・本居宣長、及び近代諸學者の神代史の解釋――其の批評――解――の方法――民間説話として――上代人の思想及び風習の理解――神話として――記紀の構想……………………………一九三−二〇一
外國の史料――考古學的知識――人種及び民族上の問題……………二〇一−二〇三
我々の民族と支那人及び韓人との交渉…………………………………二〇四
漢史に見える倭――ツクシ人と樂浪・帶方との交通――邪馬臺國――漢史の記載と記紀の上代史との没交渉――韓半島の形勢――我(182)が國と百濟との關係――ヤマトの朝廷のツクシ統一と東方亞細亞の大勢――新羅………………………………二〇四−二一一
三 文字の傳來と古事の傳承…………………………………………………二一二
文字の傳來――口碑――ツクシの文化と文字――語部の問題――俗説の謬妄――語部の性質に關する臆説……………………………………………………………二一二−二二〇
四 記紀の由來性質及び二書の差異…………………………………………二二一
大安萬侶の古事記の序文と其の解説――帝紀と舊辭との性質――推古朝撰修の天皇記國記及び諸本記――帝紀と舊辭とが書籍であること――其の撰述者――其の最初の編纂の説き――修補の時期――帝紀と舊辭との混亂せる事情――官府の撰修に伴ふ缺陷――阿禮の誦習の意義――國史撰定の準備事業――安萬侶の撰録の意義――宣長の誤謬…………………………………………………………………………………………………二二一−二三七
國史撰定の企圖と其の經過――書紀の撰録――記紀の比較――書紀の功過…………………………………………………………………………………………………二三七−二四二
五 記紀の記事の時代的差異…………………………………………………二四三
(183) 舊辭に於ける仲哀天皇以前と應神天皇以後との差異――帝紀に於いて――時代の推定せらるべき時期――此の書の研究の範圍……………………………二四三−二四八
第一章 新羅征討の物語
一 物語の批判…………………………………………………………………二四九
物語の諸要素――記紀の比較――征訂の動機、クマソの問題−寶の國――海外に國の無いこと――親征・進軍路・都城進撃のこと――新羅の降伏・誓約・貢獻のこと――百濟及び高句麗の問題――宗教的思想――民間説話的分子……………………二四九−二六三
物語に現はれたる歴史的事實――新羅壓服の時期如何――百濟服屬の時期――加羅の關係――親征の問題――魏志の倭女王卑彌呼に關する大和人の解釋――物語形成の時期――書紀の物語の潤色せられた時期――高句麗との交渉……………………二六三−二七四
二 加羅の問題…………………………………………………………………二七五
新羅威壓の眞理由如何――加羅――崇神紀・垂仁紀に於ける加羅人來朝の物語と其の批判………………………………………………………………………………二七五−二八○
(184) 新羅に關する其の他の物語………………………………………二八一
アメノヒボコの物語と其の批判――ヒボコの物語に於ける扶餘の傳説――スサノヲの命及びイタケルの命の新羅物語と其の批判――姓氏録の記事と其の批判…二八一−二九二
第二章 クマソ征討の物語
一 ヤマトタケルの命に關する物語……………………………………………二九三
物語の要素――記紀の比較――其の批判――イヅモタケルに關する物語……………………………………………………………………………………………………二九三−二九八
記紀に現はれてゐるクマソ………………………………………………二九九
古事記大八島生成の物語に於けるクマソ――ツクシ、ヒ、トヨ三國――ヒムカとクマソ――物語と事實――國の意義――クマソの名義――書紀に見えるソ――クマ――クマソの名の由來………………………………………………………………………二九九−三一〇
景行天皇に關する物語……………………………………………………三一一
巡幸の御道筋――豐前豐後地方の土蜘蛛征服――クマソの平定――肥後筑後地方の土蜘蛛征服――物語の批判――地理上の錯誤――地(185)名説話――人名――支那思想――歌謠………………………………………………………………………………三一一−三一九
物語の中心思想――物語に於けるクマソの勢力範圍――クマソの名の由來――歴史上のクマソ――其の中心地域――クマソ平定の時期…………………………三一九−三三〇
クマソ物語に於ける記紀の此較――物語形成の時期…………………三三〇−三三二
附録一 風土記の記載について
文章について風土記と書紀との對照――撰録の時期――説話の内容に於いて書紀もしくは其の史料たる舊辭との關係――舊辭に基づきたる物語――出雲風土記の國引説話――風土記に存する歴史的事實……………………………………………………三三三−三四一
附録二 土蜘蛛について…………………………………………………………三四一
記紀に見える土蜘蛛――風土記の土蜘蛛――土蜘蛛の名の意義――土蜘蛛と女性…………………………………………………………………………………………三四二−三四八
第三章 東國及びエミシに關する物語
一 古事記の物語………………………………………………………………三四九
ヤマトタケルの命の東方十二道綏撫――其の意義――物語の批判――宗教的思想――東國の政治的地位………………………………………………………………三四九−三五三
(186) 書紀の物語……………………………………………………………三五四
古事記との差異――エミシの問題――物語の批判――支那思想――物語形成の時期――國郡制置、越の三分…………………………………………………………三五四−三六一
物語に於けるエミシ、ヒタカミの國と陸奥國――歴史上のエミシ經略――大化以後の陸奥國――大化以前の道の奥――ヒタカミの國――風土記及び祝詞のヒタカミ――タカの水門――天武朝前後の時勢の反映としての物語……………………………三六一−三七二
書紀のエミシに關する記載――其の批判――エミシに對する態度の變遷――景行天皇巡幸の物語………………………………………………………………………三七二−三七七
第四章 皇子分封の物語
一 氏姓及び系譜………………………………………………………………三七八
景行朝の皇子分封――氏姓の混亂――氏姓に關する記紀の記載の矛盾と其の批判――古語拾遺及び姓氏録の記載−記紀の系譜の不一致――國造縣主について――系譜制定の事情−舊事紀の國造本紀に對する批判…………………………………………三七八−三八九(187) 上代の家族生活………………………………………………………三九〇
家族制度に關する疑問――結婚の風習――近親結婚に關する附近諸民族の状態――母系時代の痕跡、母子の關係――女性の地位――父系相續――近親結婚の馴致せられた事情――totemism に關する問題…………………………………………………三九〇−三九九
家族制度の不整頓――氏と家族關係――カバネの間題――平民社會に於ける風習…………………………………………………………………………………………三九九−四〇六
第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語
一 神の祭祀……………………………………………………………………四〇七
記紀の記載――其の比較――神婚譚――蛇と神………………………四〇七−四一一
神としての惡靈――死者に對する恐怖――モノイミ、taboo ――ミソギ、祓、惡靈に對する magic ――延喜式の神社――神としての精靈――物品と神――精靈と惡靈、神の祟りと祟る神――種々のmagic ――人身の犧牲――穀物について――神に對する供物――支那人の風習――神の居所、ヒモロギ――神の祭祀と部族生活――死者(188)に對する思想の變遷………………………………………………………………………四一一−四三○
政治と宗教、君主と巫祝及び神――多神教的傾向――天界及び空界の神――人文神――神と人格――神と邪神――神の祭祀と個人――死者は神で無い――祖先は神で無い――靈魂上天の思想の無いこと――人身の犠牲に對する反對思想――上代の宗教思想に含まれてゐる發達の諸階級――神に統制の無いこと―― totemism の問題……四三〇−四四三
皇室の宗教的地位――神として、邪神斥攘の任務――巫祝として、皇室と祭祀……………………………………………………………………………………………四四三−四四五
皇室と世襲的政治組織に於ける諸氏族との結合――祖先と神代――神代の意義――祖先神の觀念――神代史上の神と民間信仰の神――神代史に於ける神の血統的關係と宗教的意義――神代史の政治的意義――民間信仰に吸収せられた神代史上の神――祖先神に於いて――祖先神と宗教的信仰――ミワの祭祀の物語の意義…………………四四六−四五九
ワニに就いて――ワニの四條件――海蛇説……………………………四五九−四六二
傳説的物語…………………………………………………………………四六三
ミワの神の神婚物語――ホムチワケの皇子の物語――タヂマモリの(189)物語――常世國と神仙郷――船舶、調貢の起源の物語――土偶の物語――所謂四道將軍の物語……………………………………………………………………………………………四六三−四七〇
第六章 神武天皇東征の物語
一 東征の物語…………………………………………………………………四七一
進軍路に關する記紀の比較――其の批判――物語の原形――事實と見なし難い點――ヤマト平定以後の物語――御稱號のイハレに關する疑問――御名について…四七一−四七八
ヒムカに關する問題――タカチホ、カサヽの碕――ヒムカの地理的・歴史的地位――物語の宗教的意義、君主と神………………………………………………四七九――四八四
神代と人代………………………………………………………………四八五
神代と上代――神代と人代……………………………………………四八五――四八七
結論
記紀の記載の差異と物語の變化――記紀共通の記載についての變化潤色――記紀の物語と國家經營の順序――記紀の物語の資料――後世の事實、民間説話、風俗――應神天皇以後の物語――外來の知識(190)と實際生活………………………………四八八−四九五
記紀の物語は民族の歴史では無い――民族問題に對する俗説の謬妄――記紀の物語の精神と其の價値………………………………………………………………四九五−四九九
附録
三國史記の新羅本紀について…………………………………………………五〇〇
新羅紀に見える倭――三世紀以前の新羅――建國説話――領土擴張の記事――支那的政治道徳の思想――新羅紀の資料――國王の世系年紀――倭に關する記事――王室の祖先に關する東方諸國の説話――新羅紀と日本書紀……………………………五〇〇−五一一
補訂…………………………………………………………………………………五一二
索引
(191) 総論
一 研究の目的及び其の方法
古事記と日本書紀とは、種々の方面に向つて種々の研究の材料を我々に供給する。我が國の上代の政治史は勿論、社會制度や、風俗習慣や、宗教及び道徳に關する思想や、一口にいふと内外兩面に於ける我が上代の民族生活と、其の發達の有樣とを考へるには、是非とも此の二書を綿密にしらべなければならぬ。しかし、さういふ研究に入らない前に、先づ吟味して置くべきことは、記紀の記載(書紀に於いては、主として古事記と相照應する時代の部分)は一體どういふ性質のものか、それは歴史であるかどうか、もし歴史だとすれば、それはどこまで事實として信用すべきものか、もし又た歴史で無いとすれば、それは何であるか、或は又たそれに現はれてゐる風俗や思想は何の時代のこととして見るべきものか、といふ問題である。此の點を明かにしてかゝらなければ、記紀の記載を基礎にしての考察は甚だ空疎なものになつてしまふ。
何故にこんな問題が起るかといふに、記紀、特に其の神代の部は、其の記載が普通の意味でいふ歴史としては取り扱ひ難いもの、實在の人間の行爲または事蹟を記録したものとしては信用し難いものだからである。我々の日常經驗(192)から觀れば、人間の行爲や事蹟として不合理な物語が多いからである。なほ神代ならぬ上代の部分にも、同じ性質の記事や物語が含まれてゐるのみならず、一見したところでは別に不思議とも感じられないことながら、細かく考へると甚だ不合理な、事實らしからぬ、記載が少なくない。これは一々例證などを擧げるまでも無く、周知のことである。ところが、さういふものが何時の間にか歴史的事實と認むべき記事に移つてゆき、或はまた事實らしいことと絡みあつてゐる。だから記紀の記載については、どこまでが事實で、どこまでが事實で無いか、其の限界を明かにし、また事實と認むべき部分と然らざる部分とを、ふるひわけて見なければならぬ。一口にいへば、記紀の記載は批判を要する。さういふ批判を嚴密に加へた上でなければ、記紀といふものは歴史的研究の材料とすることが出來ない。ところが我が學界では、まだそれが十分に行はれてゐないやうである。此の書が、もし幾分なりとも其の缺點を補ふ用に立つならば、著者の仕事は全くむだではあるまい。
さて記紀の批判は、第一に、記紀の本文そのものの研究によつてせられねばならぬ。第二には、別の方面から得た確實な知識によつてせられねばならぬ。第一の方法は、或る記事、或る物語につき、其の本文を分析して一々細かくそれを觀察し、さうして或は其の分析した各部分を交互對照し、または他の記事と比較して、其の間に矛盾や背反が無いかを調べ、もしあるならば、それが如何にして生じたかといふことを考察し、又た文章に於いて他の書物に由來のあるものはそれを檢索して、それと言ひ現はされたる事柄との關係を明かにし、或はまた記紀の全體にわたつて多くの記事、多くの物語を綜合的に觀察し、それによつて、問題とせられてゐる記事や物語の精神のあるところを達觀するのであつて、種々の記事・説話の性質と意味と價値とは、これらの方法によつて知られるのである。さうして同(193)じ時代のことまたは同じ物語が、記紀の二書に於いて種々の違つた形を取つて現はれてゐることが、大いに此の研究を助ける。此の兩方を比較對照することによつて、或は物語の發展し變化してゆく經路が推測せられ、或は其の間から物語の精神を看取することが出來るのである。又た同じ記紀(特に書紀)のうちでも、其の本文を見れば、大體に於いて歴史として信ずべき部分(即ち後世の部分)と、然らざる部分(即ち上代及び神代の部分)とのあることがわかるが、それはおのづから前者をして後者を判斷する一つの標準たらしめるのである。が、これは實は第二の方法に入つたのであつて、例へば支那や朝鮮牛島の文獻によつて得た確實な歴史上の知識、または明白な考古學上の知識をもとにして、それと關係のある記紀の紀載を批判するやうなのが、即ちそれである。さうして此の二つの方法は互に助け合ふべきものであるから、我々は其の兩方面を併せ用ゐなければならぬ。
なほもう少し此のことを敷演して置かうと思ふが、第一の方法に於いては、先づ何よりも本文を、其のことばのまゝ文字のまゝに、誠實に讀み取ることが必要である。初めから一種の成心を以てそれに臨み、或る特殊の獨斷的臆見を以てそれを取り扱ふやうなことは、注意して避けねばならぬ。記者の思想は其のことば其の文字によつて寫されてゐるのであるから、それをありのまゝに讀まなければ、物語の眞意義を知ることが出來ぬ。神が島を生まれたとあるならば、其の通りに見る外は無い。神が高天原に往つたり來たりせられたとあるならば、其のとほりに天に上つたり天から下りたりせられたことと思はなければならぬ。地下のヨミの國、海底のワダツミの神の宮ゐも、文字のまゝの地下の國、海底の宮ゐであり、草木がものをいふとあるならば、それは其の通りに草木がものをいふことであり、ヤマタヲロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や鳥である。埴土で舟を作つたとあれば、其の舟はどこまでも土で作つた(194)ものでなければならぬ。或は又たウガヤフキアヘズの命の御母がワニであり、イナヒの命が海に入つてサヒモチの神(ワニ)になられたとあるならば、それもまた文字通りに、或る神はワニの子で或る命はワニになられたのであり、ヤマトタケルの命が荒ぶる神を和平せられたとあるならば、それはどこまでも神に對することであつて、人に對することでは無く、大小の魚が神功皇后の御船を負うて海を渡つたとあるならば、これもまたやはり其の通りのことでなくてはならぬ。然るに世間には今日もなほ往々、高天原とは我々の民族の故郷たる海外の何處かの地方のことであると考へ、ニヽギの命のヒムカに降臨せられたといふのは、其の故郷から此の國へ我々の民族の祖先が移住して來たこと、もしくはそれに關係のあることである、と思ふものがあり、さういふ考から天孫民族といふやうな名さへ作られてゐる。さうして其の天孫民族に對して出雲民族といふ名もできてゐるが、これは天孫降臨に先だつてオホクニヌシの命が國ゆづりをせられた、といふ話の解釋から來てゐる。或はまた、コシのヤマタヲロチといふのは、異民族たるエミシを指したものだとも説かれてゐる。なほ民族や人種の問題とはしないでも、神が島々を生まれたといふのは、國土を經營せられたことだといひ、高天原もヨミの國も又たワダツミの神の宮ゐも、どこかの土地のことであり、荒ぶる神があるとか草木がものをいふとかいふのは、反抗者賊徒が騷擾することだと説き、イナヒの命が海に入られたといふのは、海外にゆかれたことだと考へられてゐる。けれども、本文には少しもそんな意味は現はれてゐず、何處にもそんなことは書いて無い。それをかう説くのは、一種の成心、一種の獨斷的臆見を以て、本文を勝手に引きなほして讀むのである。
ところで、なぜこんな附會説が生ずるかといふと、それは一つは、記紀の神代の物語や上代の記載は、我が國の開(195)闢以來の話とせられてゐるところから、それを或は我々の民族の起源や由來を説いたものと速斷し、或は國家創業の際に於ける政治的經營の物語と臆斷したためでもあらう。が、それよりももつと根本的な理由は、これらの物語の内容が不合理な、事實らしからぬことであるからである。徳川時代の學者などは、一種の淺薄なる支那式合理主義から、事實で無いもの不合理なものは、虚僞であり妄誕であつて、何等の價値の無いものと考へ、さうしてまた一種の尚古主義から、崇嚴なる記紀の記載の如きは、勿論、虚僞や妄誕であるべき筈が無いから、それは事實を記したもので無くてはならぬと推斷し、從つて其の不合理な物語の裏面に潜む合理的な事實があり、虚僞妄誕に似た説話に包まれてゐる眞の事實が無ければならぬ、と臆測したのである。さうしてそれがために、新井白石の如く、不合理な物語を強ひて合理的に解釋しようとし、事實と認め難いものに於いて無理に事實を看取しようとして、甚だしき牽強附會の説をなすに至つたのである。之に反して本居宣長の如きは、古事記の記載を一々文字通りに事實と見なしたのであるが、それとても歴史的事實をそこに認めようとする點に於いて、やはり事實で無ければ價値が無いといふ思想を有つてゐたことが窺はれ、また人間のこととしては不合理であるが神のこととしては事實であるといふ點に於いて、人間については白石と同じやうな合理主義を抱いてゐたことが知られる。宣長の思想の根柢に存在する一種の自然主義からも、さう考へねばならなかつたらう。さて今日記紀を讀む人には、宣長の態度を繼承するものはあるまいが、其の所説に於いて必ずしも白石と同じで無いにせよ、なほ彼の先蹤に(意識して或はせずして)追從するものが少なくないやうである。
然らばかういふ態度をとる人に、合理的の事實が如何にして不合理の物語として現はれてゐるかと聞くと、一つの(196)解釋は、それは譬喩の言を以て故らに作り設けたのだといふのである。白石の考の一部にはかういふ思想があつたらしく、彼が神は人なりといふ假定説を捻出し來つたのも、其の作り設けた譬喩の言から眞實の意味を見出さうとしたためであらう。それからいま一つの解釋は、事實の物語が傳誦の間におのづからかゝる色彩を帶びて來た、一口にいふと事實が説話化せられたのだ、といふのであつて、今日ではかういふ考を有つてゐる人が多いやうである。しかし、何故に事實をありのまゝに語らないで、故らに奇異の言を作り設けて不合理な物語としたのであるか。神が人であるならば、何故に神といふ觀念、神の代といふ思想があるのか。これは白石一流の思想では解釋し難き問題である。また記紀のかういふ物語を、事實の説話化せられたものとして、すべてが解釋せられるか、例へば、葦牙の如く萌えあがるものによつて神が生まれたとあり、最初にアメノミナカヌシの神の如きがあるといふやうなことは、如何なる事實の説話化せられたものであるか、といふと、それは何とも説かれてゐない。しかし、それだけは事實の基礎が無いといふのならば、何故に他の物語に限つて事實の説話化せられたものであるといふのか。甚だ不徴底な考へ方である。さうして譬喩であるといふにしても、説話化であるといふにしても、その譬喩その説話が不合理な形になつてゐるとすれば、少なくとも人間にさういふ不合理な思想があること、或はさういふ思想の生ずる心理作用が人間に存すること、を許さねばならぬ。が、それならば、何故に最初から不合理な話を不合理な話として許すことが出來ないのか。かう考へて來ると、此の種の浅薄なる合理主義が自家矛盾によつて自滅しなければならぬことがわからう。
然らば我々は、かういふ不合理な話を如何に考ふべきであるか。それは別にむつかしいことでも無い。第一には、そこに民間説話の如きものがあることを認めるのである。人の思想は文化の發達の程度によつて違ふものであつて、(197)決して一樣で無い。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭があつて、それは恰も、今日の小兒の心理と大人のとの間に差異があると同じことである。民間説話などは、さういふ未開人の心理、未開時代の思想によつて作られたものであるから、今日の思想から見れば不合理なことが多いが、しかし未開人の心理に於いては、それが合理的と考へられてゐた。鳥や獣や草や木がものをいふとせられたり、人間と同じやうに取り扱はれてゐたり、人間が動物の子であるとせられたりするのは、今日の人にとつては極めて不合理であるが、未開人の心理に於いては合理的であつたのである。けれどもそれは未開人の心理上の事實であつて、實際上の事實では無い。上代でも、草や木が物をいひ鳥や獣が人類を生む事實はあり得ない。たゞ未開人がさう思つてゐたといふことが事實である。だから我々は、さういふ話をきいてそこに實際上の事實を求めずして、心理上の事實を看取すべきである。さうして如何なる心理に於いてさういふ觀念が生じたかを研究すべきである。然るにそれを考へずして、草木がものをいふとあるのは民衆の騷擾することだといふやうに解釋するのは、未開人の心理を知らないため、強ひて今人の思想でそれを合理的に取り扱はうとするのであつて、未開人の思想から生まれた物語を正當に理解する所以ではあるまい。
また人の思想は、其の時代の風習、其の時代の種々の社會の状態によつて作り出される。從つて、さういふ状態さういふ風習の無くなつた後世に於いて、上代の風習また其の風習から作り出された物語を見ると、不思議に思はれ不合理と考へられる。が、民間説話にはかういふものがある。蛇が毎年處女をとりに來るといふ話がある。蛇を神としてゐた一種の信仰、處女を犧牲として神に供へるといふ風習、の無くなつた時代または民族から見ると、此の話は甚だ了解し難いが、それが行はれてゐた社會の話として見れば、別に不思議は無い。だから我々は、歴史の傳はつてゐ(198)ない悠遠なる昔の風習や社會状態を研究し、それによつて古い物語の精神を理解すべきである。ところが、それを理解しないで、蛇とは異民族のことだとか賊軍のことだとかいふのは、全然見當ちがひの觀察ではあるまいか。
勿論、記紀に現はれてゐる時代の我々の民族生活が、上記の二條に述べたやうな未開の状態であつた、といふのでは無い。たゞ我々の民族とても、極めて幼稚な時代を經過したものであるから、さういふ遠い過去に作られ、其の時代から傳へられてゐる民間説話などが、記紀の物語の書かれたころにも存在し、さうしてそれに採用せられ編入せられた、と認められ得るのであつて、同樣の現象は何れの開明國民に於いても見ることが出來る。のみならず、記紀の時代とても、一方には遙かに進んだ思想がありながら、他方にはなは甚だ幼稚な信仰などが遺存し、文化の進むに伴つて新たに發達した風俗がありながら、ずつと未開の時代の儀式や習慣などが(其の意味は變つてゐても)なほ行はれてゐるのである。このことは、なほ後章に至つて言及する場合があらう。
次には、人の思想の發達した後に於いて生じた詩的想像の産物が古い物語に少なくないことを、注意しなければならぬ。神話といふものには、多かれ少なかれ此の分子が含まれてゐる。天上の世界とか地下の國とかの話は、其の根柢に宗教思想なども潜在してゐるであらうが、それが物語となつて現はれるのは、此の種の想像の力によるのである。事實としてはあり得べからざる、日常經驗から見れば不合理な、空想世界がかうして造り出されることは、後世とても同樣であつて、普通にロオマンスといふものには凡て此の性質がある。人間の内生活に於いて本質的に存在してゐるロオマンチックな精神の表出として、何時の世にもさういふ物語が作られる。それを一々事實と見て、高天原は實は海外の某地方のことだ、などと考へるのが無意味であることは、いふまでも無からう。
(199) 以上は神話や民間説話の一々についてのことであるが、もしさういふやうな物語が、一つの大なる組織に編み上げられる場合には、そこに何等かの意圖がはたらいてゐることを看取しなければならぬ。支那の堯舜から禹湯文武に至る長い物語は、支那人の政治道徳の思想によつて構成せられてゐるから、それが爲に事實とは考へられないことが多く現はれてゐる。それを思はずして、あの古代史を一々事實と見ようとすれば、牽強附會に陷ることはいふまでも無い。記紀の物語は必ずしもそれと同視すべきものでは無いかも知らぬが、上代の政治家の國家觀・政治觀がそこに反映してゐないとも限らず、從つてそれがために、事實らしくない不合理なことが現はれてゐないともいはれなからう。此のことについてはなほ後にいふつもりであるが、こゝには先づ、さういふことがあり得べきものとして豫漁想せられることを假定し、さういふ場合には、我々は其の語るところに如何なる事實があるかと尋ねるよりは、寧ろそこに如何なる思想が現はれてゐるかを研究すべきである、といふことを注意して置くのである。かういふ性質の物語は、物語そのものこそ事實を記した歴史では無いが、それに現はれてゐる精神なり思想なりは嚴然たる歴史上の事實であつて、國民の歴史に取つては重大なる意義のあるものである。
だから、我々は今日の我々の日常經驗に背いてゐる、不合理な、事實らしからぬ話を讀むに當つて、其の本文を強ひて合理的な物語に引き直して看るべきでは無く、其の本文を其のまゝに讀んで、さうして、さういふ物語が人間の如何なる心理から生じたか、何故にさういふものが世に存在するか、如何にしてそれらが作られたか、又た如何にしてそれが記紀に現はれるやうになつたかを考へ、本文のまゝで其の意味を研究すべきである。
たゞ記紀の物語のやうなものが記紀ばかりにあると思つてゐた時代、また思想の發達や變化といふことがわからず、(200)人の思想は何時でも同じものと思つてゐた時代、從つてまた未開人・上代人の思想を理解することの出來なかつた時代の學者、例へば白石のやうな人が、さういふ特殊の物語を特殊のもので無く解釋し、後人の日常經驗に背馳してゐる説話を、さうで無いやうに理解しようとしたのは、無理の無いことではある。神は人なりとか神代は人代なりとかいふのは、一つはこゝから生じた窮策であつた。しかし今日では人の知識が廣くなつた。記紀の物語に含まれてゐるやうな説話は、世界いたるところにあることがわかり、人の思想が一般文化と共に發達するものであることが知られ、上代人に比較すべき未開民族の風俗習慣や其の心生活も了解せられ、また多くの國、多くの民族に於いて、上代の歴史として傳へられてゐるものが如何にして結構せられたか、といふことも知れ渡つて來た。從つて我々は、さういふ知識の助けを假りて、或は上代人の思想を理解し、或は物語の作者の意のあるところを推測し、それによつて記紀の説話、記紀の全體の結構の意味を知ることが出來るやうになつたのである。もはや白石のやうな窮策を取る必要は無くなつたのである。(徳川時代の學者でも、猿や兎がものをいふやうな童話などを知つてゐた筈であるが、それは子ども相手の卑俗なものであつて、尊嚴なる神典の記載とは同一視すべきで無い、と思つてゐた。漢學者などは幾らか支那の説話などを知つてゐたであらうが、多くはそれを荒唐不經の談として顧みず、神代の物語と對照して考へるやうなことをしなかつたのである。たゞ和學者の中でも村田春海の如く、宣長の説に反して神代の物語を一々事實と見ないもの、富士谷御杖の如く、特殊の研究の結果、神代史に後人の手になつた部分がある、とするもののあつたことは、注意すべき現象である。天野信景が鹽尻に於いて、神代史に上古の野俗が現はれてゐると説いてゐるなどは、當時の神道者の説に反對したのではあるが、これ亦た其の着眼を推賞しなければならぬ。)
(201) 之を要するに、記紀の記載には事實らしからぬ物語が多いが、それがためにそれらの物語が無價値であるのでは、決して無い。事實で無くとも、寧ろ事實で無いがために却つて、それに特殊の價値がある。それは實際上の事實では無いが、思想上の事實、もしくは心理上の事實である。記紀の物語をかう觀察して、初めて眞の研究の門に入ることが出來るのである。
それから第二の方法についても一言して置きたい。外國の書物によつて日本の書物を批判するといふことを不快に思ふやうな、昔の國學者一流の偏狹な思想は、もはや世間にもあるまいと思ふが、それでもなほ一種の無意味な因襲から、記紀に書いてあるからといふので、何となくそれが事實らしいやうに感ずるものが無いともいへぬ。けれども史料の批判は民族の自他内外によつて標準の變るものでは無いから、こんな謬想は固よりきれいに取り去つてしまはねばならぬ。のみならず、自國の記録には、無意識の間に、もしくは何等かの特殊の目的を以て、種々の修飾の加へられる例の少なくないことをも考へねばならぬ。
こゝで一言して置きたいことは、記紀の物語を解釋するに當つて、文獻の外の知識、例へば考古學上の知識などを假りることである。文獻の記載が曖昧な、または疑はしい場合に、考古學の知識によつてそれを批判することには固より異論は無い。が、それは考古學を考古學として獨立に研究した上の知識で無くてはならぬ。考古學が文獻上の知識を材料とすることは、勿論あらうが、其の文獻は史料として確實なもので無くてはなるまい。ところが、記紀の神代や上代の部のやうな、歴史であるか何であるかすら不明な、嚴密な批判を加へてみなければ其の記載を歴史として取り扱ふことの出來ない文獻は、其のまゝでは考古學の材料にはならぬ。從つて記紀の記載が嚴正なる批判によつて(202)歴史的事實たることの承認せられた上で無くては、記紀の外に參考すべき文獻が無いやうな事物を取り扱ふ考古學の研究は、一ら遺跡や遺物そのものによらなければなるまい。さういふ風に記紀から離れて研究した考古學の結論にして、始めて記紀の批判を助けることが出來る。然るに、もしそれに反して、まだ批判を經ない記紀の記載に、よい加減の意味をつけ加へ、其の助けによつて作り上げられた考古學めいた知識があるとすれば、それは考古學としての本領を傷つけるものであると同時に、また決して記紀の批判の助けとなる資格の無いものである。記紀の研究の方からいふと、其の批判の準據としようと思ふ考古學が逆に記紀を用ゐてゐたのでは、何にもならぬのである。
人種とか民族とかいふ方面の知識に於いても、また同樣である。人種や民族の移動が文獻によつて知られることもあるが、さういふ文獻の無い場合には、それを研究するにはおのづから特殊の方法がある。いふまでも無いことであるが、それは即ち主として比較解剖學・比較言語學の力により、それに加ふるに其の民族の存立の基礎をなす生活上の根本條件、民族の特別に關係の深い種々の心理的現象の研究を以てすべきものである。さういふ方法によつて研究せられた人種や民族に關する學術的知識が、もし、我が國の上代に種々の異人種・異民族がゐて其の地理的分布がどんな状態であつたかといふことを、確實に證明した上に於いて、記紀の記載をそれらの異人種・異民族の行動の記録として見、それが凡ての點に於いて互に符合し、無理の無い比定ができることを認め得た場合、さうして又た、其の人種上の差別が、記紀の記載に現はれ得る如き近い世に於いて存在したことの、明かに知られた場合には、記紀の記載は、或はさういふ風に解釋してもよいかも知らぬ(事實上それが不可能であることは、言語の一つだけでも到底かゝる解釋を容れる餘地が無いことによつて、明かではあるが)。さうして又た、さういふ解釋をする場合には、民族や人(203)種の行動が何故に其のまゝに傳へられずして、記紀の物語のやうな形をとつたか、といふことについて、十分の説明をしなければならぬ(是もまた不可能のことであらう)。又たよし萬一それができるにしても、さういふ人種や民族に關する知識は、全然記紀の記載から離れた獨立の研究によつて得た結論で無くてはならぬ。これは恰も前に考古學について述べたと同樣である。もし然らずして、一種獨斷的臆見を以て記紀の或る部分に勝手な意味をつけ加へ、それによつて、例へば天孫人種とか出雲民族とかいふものを成り立たせようとするならば、それは何等學術的價値の無いことである。のみならず、假に前に述べたやうな條件の下に於いて、記紀の記載を人種や民族の行動として解釋することの許される場合があるにしても、それは記紀の唯一の解釋法では無い。記紀の本文を文字通りに讀めば、毫もそんな意味は無いのであるから、記紀には又た別の、或はそれよりも正當な、解釋法があることを拒むことは出來ない。
しかし、記紀は我が國で書かれたものでは最古の文獻であるが、それに先だつて我々の民族のことを記載した文獻は他の國にあるかも知れぬ。是に於いてか、支那の文獻を考へる必要が生ずる。さうしてそれはまた、記紀を批判するに當つて必要な文獻上の知識が、何處にあるかを知る方便にもなる。文獻で無くとも、我々の民族の遺跡に存在する支那の製品によつて、過去の歴史の何事かが推測せられる場合が多く、それが間接に記紀の批判の助けになるものであることはいふまでも無い。が、それを考へるには、上代に於ける我々の民族と支那人との交渉を知らねばならぬ。(202)歴史的事實たることの承認せられた上で無くては、記紀の外に參考すべき文獻が無いやうな事物を取り扱ふ考古學の研究は、一ら遺跡や遺物そのものによらなければなるまい。さういふ風に記紀から離れて研究した考古學の結論にして、始めて記紀の批判を助けることが出來る。然るに、もしそれに反して、まだ批判を經ない記紀の記載に、よい加減の意味をつけ加へ、其の助けによつて作り上げられた考古學めいた知識があるとすれば、それは考古學としての本領を傷つけるものであると同時に、また決して記紀の批判の助けとなる資格の無いものである。記紀の研究の方からいふと、其の批判の準據としようと思ふ考古學が逆に記紀を用ゐてゐたのでは、何にもならぬのである。
人種とか民族とかいふ方面の知識に於いても、また同樣である。人種や民族の移動が文獻によつて知られることもあるが、さういふ文獻の無い場合には、それを研究するにはおのづから特殊の方法がある。いふまでも無いことであるが、それは即ち主として比較解剖學・比較言語學の力により、それに加ふるに其の民族の存立の基礎をなす生活上の根本條件、民族の特別に關係の深い種々の心理的現象の研究を以てすべきものである。さういふ方法によつて研究せられた人種や民族に關する學術的知識が、もし、我が國の上代に種々の異人種・異民族がゐて其の地理的分布がどんな状態であつたかといふことを、確實に證明した上に於いて、記紀の記載をそれらの異人種・異民族の行動の記録として見、それが凡ての點に於いて互に符合し、無理の無い比定ができることを認め得た場合、さうして又た、其の人種上の差別が、記紀の記載に現はれ得る如き近い世に於いて存在したことの、明かに知られた場合には、記紀の記載は、或はさういふ風に解釋してもよいかも知らぬ(事實上それが不可能であることは、言語の一つだけでも到底かゝる解釋を容れる餘地が無いことによつて、明かではあるが)。さうして又た、さういふ解釋をする場合には、民族や人(203)種の行動が何故に其のまゝに傳へられずして、記紀の物語のやうな形をとつたか、といふことについて、十分の説明をしなければならぬ(是もまた不可能のことであらう)。又たよし萬一それができるにしても、さういふ人種や民族に關する知識は、全然記紀の記載から離れた獨立の研究によつて得た結論で無くてはならぬ。これは恰も前に考古學について述べたと同樣である。もし然らずして、一種獨斷的臆見を以て記紀の或る部分に勝手な意味をつけ加へ、それによつて、例へば天孫人種とか出雲民族とかいふものを成り立たせようとするならば、それは何等學術的價値の無いことである。のみならず、假に前に述べたやうな條件の下に於いて、記紀の記載を人種や民族の行動として解釋することの許される場合があるにしても、それは記紀の唯一の解釋法では無い。記紀の本文を文字通りに讀めば、毫もそんな意味は無いのであるから、記紀には又た別の、或はそれよりも正當な、解釋法があることを拒むことは出來ない。
しかし、記紀は我が國で書かれたものでは最古の文獻であるが、それに先だつて我々の民族のことを記載した文獻は他の國にあるかも知れぬ。是に於いてか、支那の文獻を考へる必要が生ずる。さうしてそれはまた、記紀を批判するに當つて必要な文獻上の知識が、何處にあるかを知る方便にもなる。文獻で無くとも、我々の民族の遺跡に存在する支那の製品によつて、過去の歴史の何事かが推測せられる場合が多く、それが間接に記紀の批判の助けになるものであることはいふまでも無い。が、それを考へるには、上代に於ける我々の民族と支那人との交渉を知らねばならぬ。
(204) 二 我々の民族と支那人及び韓人との交渉
支那の典籍に「倭」といふ民族の、名が出てゐて、それが我々の民族を指す稱呼として用ゐられてゐることは、いふまでも無い。さて其の名の現はれてゐる古いところを調べて見ると、山海經に見える「倭屬燕」はよく人の引用するものであるが、此の書は撰述の時代も不明であるし、書中の記載で事實らしく見えることも、それだけでは信用しかねるものであるから、且らく論外に置かねばならぬ。其の他、後漢時代に作られた王充の論衡にも、周初のこととして倭人貢獻の記事があるが、かういふ風に所謂四夷の來朝もしくは貢獻を上代の帝王に假托することは、支那人の癖であるから、これも歴史的事實として見ることはむつかしい。さすれば、後漢書(卷一)光武帝紀の中元二年(57 A.D.)の條に「東夷倭奴國王遣使奉獻」とあるのが、今日に傳はつてゐる典籍に於いては、確實なものとして取り扱ひ得る倭の記事の初見であらう。其の次に倭に關する記事の頗る詳密に現はれてゐるのが魏志の倭人傳で、それによつて三世紀の中ごろに於ける倭の状態、並びに其の風俗習慣等を知ることが出來る。奴國といふのもそれに見える。後漢書の東夷傳の中にも倭傳があるが、これは大てい魏志のを取つたものである上に、それを讀み誤つた點もあつて、讀立の價値は乏しい。それから晉書にも倭の記事がある。
さて晉書以前の史籍に支那と交通したやう書いてある「倭」が、我がツクシ地方の住民であるといふことは、魏志倭人傳に詳述せられてゐる地理的記載によつて知られるので、もはや疑ひを容れざる學界の定説と見てよからう(も(205)つとも、これにも世間に異論が無いでは無い)。徳川時代に筑前の志賀の海濱から發見した「漠委奴國王印」とある金印も、また其の一證である。此の文は漢の委(倭)の奴の國王の印とよむべきもので、「奴」は日本書紀などに見える「儺」即ち今の那珂郡地方を指したものであるといふことは、三宅米吉氏によつて提出せられてから學界の定説となつてゐる。後漢書の記事が奴の國王の最初の朝貢を示すものであるかどうかは、やゝ不明であるが、よしそれが最初のものであるとしても、もつと前からツクシ地方の土豪等が、當時朝鮮半島の西北部(ほゞ今の平安南北道、黄海・京畿兩道、及び忠清北道の忠州方面)を管治してゐた漢の樂浪郡と交通をしてゐたことは、推測しなければならぬ。漢の都まで使節を遣はすには、それよりも前に可なりの親しみを樂浪郡に有つてゐた、と考へるのが自然だからである。さすれば、魏志倭人傳に「漢時有朝見者、今使譯所通三十國、」と書いてあるのを、よほど控へめに解釋しても、前漢時代(202 B.C.−7 A.D.)の未ごろからツクシ人がぼつ/\樂浪に交通し初めた、と考へるに差支は無からう。後漢書東夷傳に「自武帝滅朝鮮、使譯通於漢者三十許國、」とある使譯云々は、魏志の此の文を誤解して綴つたものらしいが、武帝が朝鮮を滅ぼしてから倭人が漢に通じた、といふのは(編者の推測かち出たこととは思はれるが)然るべき事情である。倭人が漢と通ずるのは、漢が樂浪郡を朝鮮の故地に置いてから、即ち 109 B.C.の後と見るのが當然だからである(古朝鮮時代に既に通交してゐたかどうかは不明である)。さうして、魏志に見える如く魏の時代(220−264 A.D.)に邪馬臺(今の筑後の山門郡)の女王卑彌呼の使者が帶方郡を經由して洛陽に赴き、又た魏の使が詔書・印綬を齎して邪午臺に來る程であり、今使譯通ずるもの三十國といはれたところを見ると、後漢時代(25−220 A.D.)を通じて樂浪(後には帶方)に交通するツクシの土豪は可なりに多く、それが魏の時まで引き續いてゐたものに違ひない(三世紀の(206)初めに樂浪郡の南部、即ちほゞ今の京畿・黄海二道及び忠州方面の地域は、帶方郡となつて獨立し、倭人の交通は此の帶方郡の所管に移つた)。さて魏の使の初めて來たのは正始元年(240 A.D.)であつて、其の時は特殊な政治的意味は無かつたやうであるし、一體に貢獻とか朝貢とか支那で稱せられることも、通常の場合には何等かの財貨を得るのが目的であつたらうが、正始八年にはやゝ政治的意味のある交渉が生じてゐる。それは、邪馬臺國が狗奴國と衝突したために、其の事情を帶方郡に訴へ、郡の太守が官吏を邪馬臺に派遣して告喩させた、といふことである。小國分立して互に勢を爭ふ時には、思想上に何等かの權威を有する後援者を得ることが、其の間に利を得る好方便であるから、邪馬臺も此の意味で帶方郡の威を假りようとしたのかも知れぬ。さすれば、是に似たことが前にも無かつたとはいはれぬ。文化國として諸國が一般に崇敬してゐる支那に親しいといふことは、政治的勢力の上に於いても、少なくとも是だけの利益はあつたらう。さて晉書によれば、此の邪馬臺は晉の武帝の泰始(265−274)の初めまで朝貢をしてゐたらしい。しかし晉書に見えるのは洛陽の都に使節の往つたことであるから、帶方郡に對する倭の交通はそれで終つたのでは無く、樂浪・帶方が滅亡した時、即ち四世紀の初めまでは依然として繼續せられた、と見るのが妥當であらう。(本文に邪馬臺國を筑後の山門郡としたことについては、史學雜誌第二一篇第一二號所載、橋本増吉氏の「邪馬臺國及び卑彌呼に就て」を參照せられたい。)
ところが、支那の文獻に見えるこれらの記載は、古事記や書紀によつて傳へられてゐる我が上代の物語とは、何等の接觸點を有せず、全く交渉の無いものである(宋書以下の史籍に見える倭は、同じく倭と記されてゐても、それは記紀の所傳と對照し得るものであるから、其の性質が違ふ)。實際、魏志によると、三世紀に於いてツクシ地方は政治上、(207)それよりも東方の勢力に服屬してゐないことが明かであり、さうして此の状態は、溯つては少なくとも後漢時代、即ち一・二世紀に於いて、また下つては少なくとも、邪馬臺の勢力が晉に貢獻を繼續してゐた時、即ち三世紀の終りに近い頃まで、同樣であつたと推測せられ、其の推測を妨げる何物も無いのであるから、此の地方は三世紀以前に於いては、ヤマトの朝廷によつて統一せられた國家の組織に入つてゐなかつたと見なければならず、さうしてそれは、かういふ支那の文獻の記載と記紀の物語とが互に没交渉である、といふ事實と相應ずるものである。さて、支那の文獻が記紀の所傳とは全く獨立してゐて、而もそれが大體確實なものだとすれば、其の記載は記紀の批判に於いて有力なる一資料となるものであることが知られる。のみならず、記紀の性質を之によつて知ることもできる。詳しくいふと、記紀の上代の物語は我々の民族の上代史では無い、もつと一般的にいふと、記紀は民族の起源や由來やを説いたものでは無い、といふことがわかるのである。我々の民族の重要なる一部分を形づくるツクシ人の上代の歴史が、毫も記紀に現はれてゐないからである。
さて、上に述べたやうなツクシ地方の我が民族のことを書いた支那の文獻は、何時作られたものかといふに、魏志は魏の亡びて間も無い晉初に編纂せられたものであり、特に倭人傳の主要なる記事は魏人がツクシに來た時の見聞録によつたものに違ひなく、又た後漢書の編纂は魏志よりもずつと後の宋代(五世紀)であるが、本紀は勿論事件のあつた當時の記録に基づいた史書によつたものである。ところが記紀は、今日に傳はつてゐる我が國の文獻では最古のものであるものの、其の撰述年代は、一つは和銅五年(712)、一つは養老四(720)であつて、共に八世紀に入つてからのことである。しかし其のうちには、それよりもずつと古い時代の材料が採られてゐることは、いふまでも無い。其の(208)最古の材料が何時ごろのものであるかは、研究を要する問題であるが、如何に古くとも、文字の術が我がヤマト朝廷に於いて用やられるやうになつてからであることは、疑ひが無い。さて其の時期は百濟から文字の傳へられた後であるが、それが何時であるかは攷究を要する。さうしてそれには、百濟が我が國と交通し初めた時代を考へねばならぬ。
ところが、こゝでも魏志の韓傳が役に立つ。それによると、魏の時代、即ち朝鮮半島の西北部に樂浪・帶方の二郡があつた時代には、其の南部は馬韓(ほゞ今の忠清・全羅地方)・辰韓(ほゞ今の慶尚北道地方)・弁韓(ほゞ今の慶尚南道、地方)の三集團に分かれてゐて、馬韓に七五十四國、辰弁二韓には各々十二國あつたといふ。百濟(伯濟)は此の馬韓の一國たるに過ぎなかつた。一國といつても、馬韓に五十四國もあるといふ語と「大國萬餘家小國數千家」といふ記事とから推測すれば、如何に大國と見ても萬餘家の一部落に過ぎなかつたらう。又た辰韓の一國には斯盧があつて、それが即ち新羅(土地は今の慶州。文字は梁書に斯羅といふ字が見え、書紀の繼體天皇紀七年の條にも同じ字がある。三國史記にある徐那伐の徐那も同じ語であらう)であるが、これも十二國の一つに過ぎず、其の大きさは、辰韓諸國が「大國四五千家小國六七百家」だとあるので、ほゞ想像せられる(倭人傳に末盧、即ち松浦は四千餘戸、伊都、即ち怡土は千餘戸、奴、即ち儺は二萬餘戸、邪馬臺、即ち山門は七萬餘戸、とあるのを參照するがよい)。又た弁韓の一國に狗邪國があつて、それがツクシ・帶方間の航路の中繼地點、ツクシ舟の停泊所であつたが、それは即ち後に加羅(三國史記には伽落・駕洛・加良・加耶・伽耶などともあり、隋書には迦羅とも見え、績日本紀天平寶字二年の條には賀羅と書いてあり、垂仁紀の意富加羅も同じである)として我が國に知られた今の金海府である。さて晉書を見ると、武帝(265−289)の鴇に馬韓・辰韓貢獻の記事があるから、此の状態は三世紀の終りまでは同樣であつたと想像せられる。
(209) ところで、此の時代の百濟の位置がどこであつたかは明かにわからぬが、四世紀の中ごろになると、それが漢城、即ち今の漢江の南の廣州を首府とする大國となつて、馬韓の全地域を領有してゐる上に、もとの帶方郡の一部分、即ちほゞ今の京畿道の大部分をも占領してゐたことは、半島の歴史の研究の結果、明かになつてゐる。さうして其の頃には、樂浪郡及び帶方郡の北部は高句麗の領土になつてゐたので、百濟は此の高句麗と衝突した。四世紀の初めに、晉が其の領土の北部を鮮卑などの異民族に奪はれ、樂浪・帶方との聯絡を斷たれたので、二郡の維持が困難になつたに乘じ、高句麗が鴨緑江の谿谷から出て來て其の地の大部分を占領し、南邊の一部は百濟の有に歸したのである。さうして、百濟の王室が高句麗人と同じ民族であるといふ傳説が信ぜられるならば、それが百濟に君臨するやうになつたのは、絡浪・帶方の覆滅、高句麗の南下といふ大動搖に伴つた一事件であらうから、此の事實と、前に述べた大勢とを綜合して考へれば、百濟がかういふ風に勢力を得た時期は、四世紀に入つて多少の時日を經てからのことであらう。三國史記の上代の部分は歴史として信ぜられないものであるが、百濟紀に於いては、近肖古王(375年歿)の時からの記載はほゞ眞實と見られ、さうして百濟が高句麗と衝突したといふ記事が、初めて此の王の紀に見え、また百濟が北漢山(今の京城)に都を遷したのも此の王の時だといふ話がある(この遷都の説は誤りであるが、此の話の根柢には、百濟が漢江の流域、即ち帶方郡の南部を領有したといふ事實があるのであらう)。百濟の地位と領土との固まつたのが四世紀の中ごろだ、といつたのは之がためである。ところが、百濟の我が國に交通したのもまた此の王の時であつて、古事記の應神天皇の卷に照古王といふ文字で出てゐるのが、即ちそれである。三國史記によれば此の王の在位は三十年であつて、これは其のまゝに信用すべきものかどうか明かで無いが、歿年の375年であることは疑ひが無か(210)らうから、此の交通の始まつたのは、ほゞ四世紀の後年に入つてからのことであらう。
しかし百濟の我が國に交通したのは、我がヤマト朝廷の威力が韓半島に及んだことと關係が無くてはならず、それはまた、我がツクシ地方の少なくとも北部、即ち半島に對する交通路に當る地方がヤマト朝廷に統一せられたことと、伴はなければならぬ。ツクシの北部が歸服しない間は、地理上の事由からヤマト朝廷は決して半島に手を出すことが出來なかつたに違ひないからである。さて既に述べた如く、少なくとも三世紀の終りに近いころまで、ツクシ地方はヤマト朝廷と政治的關係が無かつたとすれば、それが(少なくとも其の北部が)ヤマト朝廷に歸服したのは、如何に早くとも三世紀の終りでなければならず、さうして晉書に見える倭人貢獻の最終の記事は、必ずしもツクシの土豪が帶方に交通したことの最終であつたとはいひ難く、從つて又た彼等が獨立してゐた状態の終りであるとは考へられないから、此の變動は四世紀に入つてからのことかと思はれる。さうして、それには多少の年月が費されたであらうから、それは恰も半島の大動搖とほゞ同時であつたと見なければならぬ。これは一方では、百濟が近肖古王の時に我が大和朝廷と交通したことの可能であることを示すものであると共に、他方では此の百濟との交通の行はれたことが、大和朝廷がツクシ(の少なくとも北部)を統一せられた時期を考定する有力な標準となることを示すものである。言ひかへれば、ツクシ地方が我が國家組織に入つたのは、百濟の馬韓統一、帶方占領と同じく、ほゞ四世紀の前年のうちに行はれたものであることが、其の百濟の近肖古王がヤマト朝廷と交通したといふ事蹟によつて、推測せられるのである。
ところが、これと同じ時代に於いて新羅の辰韓統一も亦た行はれたらしい。三世紀に於いて新羅が辰韓十二國中の一國たるに過ぎなかつたことは、前に述べた通りであり、我々の民族に對しても、弁韓の狗邪國が中間にあり、なほ(211)或は他の辰韓の國が狗邪國と新羅との中間にあつたかも知れぬから、直接には何等の交渉の起るべき形勢では無かつた。新羅の名は或はツクシ人が聞き知つてゐたかも知らぬが、特別の關係が生ずべき状態では無かつた。ツクシ舟はイキ、ツシマを經て狗邪へゆき、そこから半島の沿岸をぬつて遠く帶方の海濱、即ち今の仁川灣方面へ往復したのであるから、其の道に當る弁韓・馬韓地方の國々には、多少の交渉が生じたでもあらうが、何の目ざすあても無い東北方の海へは、艫さきを向けなかつたであらうから、新羅などは全く縁の無いところであつたらう。三世紀の新羅はこんな一小部落であつたが、四世紀の後半になると、辰韓地方は新羅に統一せられてゐたらしい樣子が、半島の歴史に於いて知られる。さすれば、其の統一は百濟の馬韓統一とほゞ同じ時代、從つてまた我がヤマト朝廷のツクシ領有とも餘り隔たつてゐない頃のことであつたらう。要するに、四世紀の初めから始まつた支那の北部に於ける鮮卑の活動が半島の大混亂を誘致して、其の結果、半島に於いては高句麗・百濟・新羅の三國鼎立の形勢を現出し、之と同時に我がヤマト朝廷もツクシの北部を領有し、更に半島と直接の交渉を生ずるやうになつたのである。さうして、ツクシの土豪は三百餘年間、樂浪・帶方に交通して、魏志倭人傳の示すが如く、政治上にも幾分の交渉を有つてゐたのであるから、二郡の覆滅は何等かの影響を彼等の上に及ぼしたに違ひなく、ヤマトの朝廷のツクシ領有も、それと何程かの關係があつたかも知れぬ。明らさまにいへば、二郡の覆滅はツクシの土豪をして、從來多少の頼みとしてゐたところ、一種の思想上の權威として仰ぎ見てゐたところを、失はせたのであるから、それがヤマトの朝廷の活動を便ならしめたのかも知れぬ。話はやゝ横みちに外れたが、序であるから半島の形勢の變北を説いて置く。後になつて此の一節を回想する必要が起るであらう。
(212) 三 文字の傳來と古事の傳承
前節に述べた如く、百濟のヤマト朝廷と交通し初めた時代が、四世紀の後半の或る時期であるとすれば、百濟人によつて文字の傳へられたのも、また同じ頃から後で無くてはならぬ。從つて我がヤマト朝廷で作られた最古の文獻は、如何に早くとも、四世紀の後半から後に出來たものであらう。魏志の倭人傳に主なる材料を供給した魏人のツクシに來た時より約百年の後、奴の國の使が洛陽にいつた記事のある時から三百五十年も後である。支那の典籍の光によつて明け初めた我々の民族の歴史の始めが、我が國の文獻によつて開かれる歴史の始めより古いといふことは、これで知られよう。もつとも、文字を用ゐることは此の時から始まつたけれども、それを用ゐて記された事柄には、人の記憶に存し口碑によつて傳へられた前代の事蹟が幾らかはあらう、といふ想像を拒むことはできないから、古い時代ほど朧げでもあり、訛傳も多くなつてゐながら、或る時間を經た昔のことの幾らかが、かういふ風にして文獻に現はれてゐないとはいはれぬ。けれども、其の口碑は歴史といふには餘りに不精確である。暦の知識の無い時代であるから、年數なども勿論、確かには傳へられなからう。又た口碑といふものの性質として、事件の前後の順序が混亂したり、事件そのことの物語が精密で無かつたり、傳承の間に變化したりすることをも忘れてはならぬ。のみならず、さういふ口碑の存在する期間にも限りがあるので、甚だしく古い昔へ溯らせることはむつかしい。文字の無い時代、特に文化の程度の低い時代に於いて、口碑によつて遠い昔の事實が(よし混亂したり朧げであつたりするにせよ)年代記的に(213)まとまつて言ひ傳へられてゐたといふことは、多くの民族に於いて其の實例を求めることが困難ではあるまいか。近い世の状態を見ても、民間に斷片的の口碑は往々存在するが、まとまつた傳記や歴史は傳へられてゐないのが普通である。さうして其の斷片的の口碑も、やゝ古いことは直接間接に文獻の力を假りてゐる。文字の無い時代には比較的口碑が長く保たれるといふ事情もあるか知らぬが、それとても知識の程度が低く思想が粗笨である場合には、早くそれらが忘れられたり混亂したりするといふことをも考へねばならず、第一、さういふ幼稚な社會では、過去の事實を事實として後に傳へようといふやうな意圖があるらしくは無い。自分等の事業を後世に傳へようとか、祖先の事蹟を忘れずに記憶しようとかいふ意圖は、社會の組織が鞏固になり文化の程度も進んだ時代に於いて、始めて生ずるものである。民間説話といふやうなものは、長く口から口へと傳へられるが、それは上代人の心理の或る状態が具體的に物語となつて現はれたものであるために、すべての人が自分等の思想の反映として、深い興味をそれに對して有するからである。固より事實のいひ傳へといふべきものでは無く、口碑とは全く性質が違ふ(口碑が説話化せられ、または兩者が混合することはある)。だから我が國の上代に於いても、大體同樣に考へねばならぬ。さすれば、我々の民族の歴史が支那の文獻の光によつて明け初めるといふことは、疑ひの無いことであらう。さうして單に此の點から見ても、記紀の上代の物語は我々の民族の上代史で無いといふことはわかる。
但し以上の考は、百濟人によつて書記の術が始めて傳へられたといふ假定の上に立つてのことであるから、それに反對の見解があれば問題は別に生ずる。例へば、ツクシ地方には長い間の支那との交通の結果、文字が既に輸入せられ用ゐられてゐて、それがヤマトにも傳はつてゐたのでは無いか、といふやうな疑ひも起らぬには限らぬ。三百餘年(214)の間も續いたツクシの土豪と樂浪・帶方との交通が、支那の工藝品を可なり多くツクシに輸入させたことは疑ひが無い。今日我が國に發見せられる漢鏡などは、かうしてツクシ舟の將來したものであらう。後には傳はらぬが、絹などは最も多く輸入せられたであらう。さうしてこれほどの長い間の交通であるから、ツクシ人は單に工藝品をもつて來たのみならず、多少は其の製作法、工藝上の技術をも學んだであらう。魏志によると、三世紀には既に蠶桑紡織の術が行はれてゐた。もつともこれは、此の間に學ばれたものかどうか明かで無いが、「宮室樓觀、城柵嚴設、」といふやうな建築法(此の語は誇大せられたものではあらうが)、「大作冢、經百餘歩、」といふやうな墳墓の築造などは、支那の風習を摸倣したものと推測せられる。しかし、文字が行はれてゐたと思はれるやうな證跡は見えない。文字があれば支那人は必ずそれに注目したに違ひないから、倭人傳にもそのことが記されさうなものであるのに、毫もそんな記事は無い。のみならず、魏略に「其俗、不知正歳四時、但記春耕秋收、爲年紀、」といつてあるのを見ると、麿の知識の無かつたことが知られると共に、文字の用ゐられなかつたことが想像せられる。支那の文字が用ゐらるれば、おのつからそれに伴ふ知識が傳へられねばならず、さすれば簡單な年月を記載するぐらゐの知識が無いことは無い筈である。國王の印や詔書を支那の政府から與へられはしたが、それが直ちに、文字を學び又た用ゐようとする欲望を刺戟するもので無いことは、例へば滿洲方面の古來の民族の状態を見ても推測せられる。魏の使が來て「以檄告諭」とあるが、これは文字の知識の無いものにも詔書を與へると同樣、必ずしもそれを解し得ることを豫想したのでは無からう。よし多少の文字を解し得た一、二の好事家があつたにせよ、實用的に文字が用ゐられたとは推測せられぬ。全體に支那の文物に接したとはいふものの、それから受けた影響は大したものでは無かつたらう。其の支那の風をまねて(215)築いた墳墓に於いても、今日絡浪や帶方の故地に遺つてゐる古墳の如き壯麗なものは、一つも九州に見られないでは無いか。魏志に見えてゐる日常生活の状態や思想に於いては、記紀その他の我が國の文獻に記されてゐて我々の民族固有のものと考へられることと殆ど同じであつて、支那文化の影響をうけてゐた如き形跡は全く認めることが出來ない。だから、支那から受け入れたものは、工藝品と少しばかりの技術とだけであつて、それは瀬戸内海の航路によつて轉々して東の方にも傳はつたであらうが、文字の術に至つては、早くツクシからヤマト方面にも傳はつてゐたとは考へられぬ。
文字が古くから用ゐられてゐないといふことは、是でわかつたとして、いま一つ起るべき問題は、文字の用ゐられなかつた前に、單なる口碑や傳説があるばかりでは無く、何等かの特殊の風習なり制度なりがあつて、それによつて古事が傳へられたのでは無いかといふ疑ひである。さて我が民族の上代に、傳誦すべき敍事詩のやうなものはあつたらしい形跡が毫も見えない(「【文學に現はれたる】我が國民思想の研究」貴族文學の時代、序論第二章參照)。が、世間では往々、上代に「語部」といふものがあつて、それが古事を語り傳へてゐたやうに、考へられてもゐるらしいから、それについて一應の觀察をして置かねばならぬ。さて語部といふものは記紀などには、勿論、載つてゐないが、正倉院文書(大日本古文書一・二)の大寶二年の美濃の戸籍、天平十一年の出雲の大税賑給歴名帳に、其の名が見えてゐる。しかし其の職掌については、今日に傳はつてゐる奈良朝以前の典籍には所見が無く、たゞ平安朝になつてから出來た「儀式」の大嘗會の卯日の條に始めてそれが現はれてゐる。それは「伴佐伯宿禰各一人、率語部十五人、亦入就位、奏古詞、」といふのである。延喜式の同じ條にも同じことが書いてあるが、別に「物部、門部、語部者、左右衛門府九月上旬申官、(216)預令量程參集、……語部、美濃八人、丹波二人、丹後二人、但馬七人、因幡三人、出雲四人、淡路二人、」とある。語部といふのは、物部・門部と同樣、大嘗會の前に臨時に諸國から人數を定めて召集せられ、門部と同樣、門衛のことを司る伴宿禰・佐伯宿禰の支配に屬し、卯の日の儀式に於いて古詞を奏する役目をつとめるのである。此の物部・門部などは、皇居もしくは宮門の衛兵を呼ぶ昔の名であつたが、唐制が摸倣せられてからそれがなくなり、大嘗會のやうな古い儀式を行ふ場合にのみ其の名を用ゐ、それに充てる人間は臨時に地方から召集したのであらう。さすれば語部もまた同じやうに考へてよからう。(前に述べた正倉院文書によると、美濃や出雲には語部の部民がゐたらしい。丹波・丹後なども多分同樣であつたらうから、召集せられる地方には昔からの歴史的由來があるのであらう。)其の名稱から見ても、制度の上に唐風を摸倣した前から存在したものらしい。
次に其の「古詞」とは何かといふに、これは吉野の國栖、楢の笛工が古風を奏し、悠紀の國司に屬する歌人が國風を奏した後で、奏せられるものであるから、それらが昔からの遺風であると同樣、これもまたさうであつたらう。けれども其の内容は全くわからず、從つて、上代に於いて語部といふ特殊の部民があつて古事を語り傳へてゐた其の遺風である、といふやうなことを想像させるには、何等の手がかりも無い。それよりも寧ろ、吉野の國栖や悠紀・主基の國人が歌舞を奏する如く、或る特殊の宮廷の儀式か祭祀かまたは饗宴かの場合に、何事をか演奏するものであつた、と推測する方が自然である。さうしてそれにはまた、例へば出雲國造が神賀詞を奏し、中臣や齋部が祝詞を讀むやうに、或る一定の詞章があつて、それを讀んだのでは無いかとも考へられる。けれども、祝詞などの詞章が後世に遺存してゐるに拘はらず、語部の「古詞」として明かに傳はつてゐるものが少しも無く、語部といふものの存在したこと(217)すら多く所見が無いとすれば、それは餘り重要なことでは無かつたらしい。大嘗會の場合から考へても、吉野の國栖の歌笛や國々の風俗歌と同じ程度のものであつたらう。文字の無かつた時代にさういふものがあり、それによつて上代の事蹟が語り傳へられた、といふやうな重要なものであつたならば、記紀の上代の物語のどこかに其の名ぐらゐは出てゐてもよささうなことであり、また文字の用ゐられた後にもそれが續いてゐたとすれば、一方に史部の名が屡々記載せられてゐるに對しても、此の名が出なければならぬやうに思はれる。さうして古事記の序文などを見ても、古事がかういふやうな方法によつて傳へられたとは、當時の人は全るで考へてゐなかつたらしい。更に大きく考へれば、文字の無かつた時代の我が民族の文化及び思想上の状態が、さういふものを要求し若しくは生み出すほどに、進んでゐたかどうか、甚だ疑はしく、又た、文字の用ゐられるやうになつてからそんなものが出來たとは、猶さら信じ難い。
なほ、天武紀(十二年の條)に語造、出雲風土記に語臣といふ姓氏があり、新撰姓氏録(卷十四)にも天語連といふのがあつて、語部とゆかりがありさうにも思はれ、特に出雲の語臣は、其の國に語部の部民があつたことからも、さう考へられるが、これも亦たたゞ名ばかり記されてゐるから、何事もわからない(元正紀、養老三年の條の海語連も天語連であらうか)。もし臆測をするならば、此の天語連と古事記の雄略天皇の卷に見える「天語歌」とを結びつけ、從つて此の天語歌と酷似した長歌で神代の卷に記載せられてゐる所謂「神語」(オホクニヌシの神とヌナカハヒメとの應酬の歌)をそれと同樣に考へ、天語連は、宮廷の饗宴の際などにこんな歌でも演奏する職掌を有つてゐたものかと思はれる。(天語歌が饗宴の餘興として歌はれたことは、雄略天皇の卷の物語から明かに知られるし、「豐御酒たてまつらせ」といふ詞からも推測せられる。神代の卷の「神語」の一つにも同じ詞があるのみならず、酒杯を擧げて歌はれたとも(218)書いてある。歌の内容もそれにふさはしいものである。雄略天皇の卷には、それが御酒宴の時に新作せられたやうに書いてあるが、これは固より物語としての結構であつて、酒間にこれらの歌を歌つてゐた後世の習慣が、そこに反映してゐるのである。これらの歌が甚だしく古いもので無いこと、またそれに混亂のあることは「神代史の新しい研究」第三章、または「【文學に現はれたる】我が國民思想の研究」貴族文學の時代、序説第二章に述べて置いた。恐らくは推古朝前後の作であつて、それが傳誦の間に混亂してゐたのを、次にいふ舊辭の潤色の如何なる場合にか加へられたものであつて、其の時期も決して早くはあるまい。これらの歌を載せてゐない書紀は、それがまだ加へられなかつた頃の舊辭に據つたものらしい。)さうして、此の天語連が果して語部と關係のあるものであつたならば、語部といふものは、支那の文化がよほど入つて來て宮廷の儀禮などもそろ/\整ひかけて來たころに、半ば儀式として、半ば餘興として、かういふものを演奏するために設けられたのであらう。さすれば、後まで其の形骸が遺存して、國栖の歌笛や國々の風俗歌と同樣に取り扱はれた、と考へるに不都合は無い。歌を「古詞」といふのも、それを奏するものを語部といふのも、やゝ穩當で無い稱呼のやうに思はれるが、既に古事記の神代の卷にはあの長歌を「神語」といつてゐるから、それでも差支は無からう。
或は又たかうも考へられる。それは、神語といふのは本來、神の語であつて、天語連も語部もそれを語るものであつたが、或る時代から神の歌として製作せられたものがある爲に、おのづからそれをも歌ふやうになり、其の歌には特に天語歌といふ(やゝ耳ざはりな熟語である)名がつけられ、またそれを神語ともいふやうになつたので、語部の本務は別にあつたと見るのである。然らば、其の本務として語られた神語は何かといふに、それは純粹に宗教的起源を(219)有するもので、神(神代史上の神で無く、信仰の上の神)に代つて演べる神の語ではあるまいか。神語といふ語は、書紀や續紀に於いては種々の意味に用ゐられてゐるが(古事記傳卷十一に其の例が列擧してある)、其の原義は神自身の語といふのであらうし、實際この意味の用例がある。さて祭祀のやうな儀式の場合に、巫覡または神の代表者となつたもの、或は神に扮したものが、神の語として何事かを語るといふやうなことは、世界に例のある風習の一つであるから、我が上代の民間の祭祀にもそんな習慣があつて、それがかういふことの淵源となつたかも知れぬ。即ち朝廷の儀禮の整頓と共に、それが儀式化せられ、其の詞章も一定し、語部といふ専門家も生じたのである。(かの大祓の詞なども、やはり同じやうなところに由來してゐはしないかと思ふ。大祓の詞は、神の前に神に對して述べる他の祝詞とは違ふ。他の多くの祝詞は、支那の祭祀の儀式を摸したので無いかと思はれるが、これはさうではあるまい。)姓氏録によると、天語連は祭祀を掌つてゐたイミベ氏の祖のフトダマの命に關係が深く、又た阿波のイミベの祖とせられてゐるヒワシの命を遠祖と稱してゐるが、これも故あることかも知れぬ。しかし、此の考は今のところ、たゞ一つの臆説たるに過ぎない。
此の二つの考は何れにしても、平安朝ごろになると、語部そのものが事實上なくなつてゐると共に、其の語る詞(または歌)もくづれてしまひ、形ばかりに何かが殘つてゐたのであらう。所謂「古詞」が今に傳はらないのも此の故であらう。さて上記の臆説の當否は兎も角もとして、語部が上代に古事を語り傳へたものであるといふ徴證が少しも無い、といふことだけは斷言し得るところである。
かう考へて來ると、文字の無い前に於いては、尋常一樣の口碑傳説によつて昔のことが傳へられた、と見る外は無(220)からう。さて上にも述べた如く、最も早く考へたところで四世紀の終末ごろに、文字の術がそろ/\我が國に行はれ初めたのであるが、それから後、かういふ風の口碑傳説も、少しは文字に寫されるやうになつたでもあらう。さうして、それが長い間に、或は失はれもしたであらうし、或は意識的に、或は無意識的に、行はれた種々の變改を經由し、又た或は特殊の意圖によつて構成せられた物語のうちに按排せられ編み込まれたでもあらうが、兎に角種々の程度に於いての改變をうけながら後に傳はつて、間接に記紀の材料となつたことが無いでも無からう。それならば、其の記紀はどうして作られたか。これが次の問題である。
(221) 四 記紀の由來性質及び二書の差異
古事記の性質と由來とについては、卷頭に撰者たる大安萬侶の序文があつて、其の中に明記してあるから、第一にそれを讀んで見なければならぬ。その重要の部分はかういふのである。
天皇詔之、朕聞、諸家之所賚帝紀及本辭、既違正實、多加虚僞、當今之時不改其失、未經幾年、其旨欲滅、斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉、故惟、撰録帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉、時有舎人、姓稗田、名阿禮、年是廿八、爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心、即勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭、然運移世異、未行其事矣、伏惟、皇帝陛下、……於焉惜舊辭之誤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭、以獻上者、謹隨詔旨、子細採※[手偏+庶]、然上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難、已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長、是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録、即辭理〓見、以注明、意況易解、更非注、亦於姓日下、謂玖沙※[言+可]、於名帶字、謂多羅斯、如此之類、隨本不改、
此の文の最初の天皇は天武天皇のことで、中ごろにある皇帝は元明天皇である。これで見ると、古事記は元明天皇の勅を奉じて太安萬侶の撰録したものであるが、其の直接の材料は、稗田阿禮の誦み習つた帝皇の日繼及び先代の舊辭である。さうして、阿禮のそれを誦み習つたのは、天武天皇の詔を奉じたのであつて、天武天皇は、諸家の傳へてゐる帝紀本辭(または舊辭)が區々になつてゐて誤謬も多いから、それを討覈して正説を定めよう、といふ御考から、(222)先づ其の準備として、阿禮に命じて帝皇の日繼及び先代の舊辭を誦み習はさせられたのである(後にいふやうに、此の阿禮の誦んだのは宮廷に傳へられたものかとも思はれる)。天武天皇の此の勅命は、何時のことであつたか不明であるが、天武紀十年三月の條に「詔川島皇子、忍壁皇子、……大山中臣連大島、大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事、大島、子首、親執筆以録焉、」とあるのは、必ずそれと關係があるに違ひない。さて、此の序文の中で先づ注意すべきことは、(1)諸家に帝紀及び本辭(舊辭)が傳へられてゐたこと、(2)此の諸家の傳へ有つてゐるものは、それに檢覈を加へて正説を一定しなければならぬほどに、其の内容が區々になつてゐ、誤謬・虚僞とすべきことが混入してゐたこと、(3)官府の權威を以て定説を作る計畫であつたこと、(4)阿禮が古記録を誦習したこと、此の誦習は成就したけれども、正説を定めるといふ官府の事業は成就しなかつたこと、(5)安萬侶は其の阿禮の誦習したものによつて此の古事記を撰録し、直接に古記録、即ち所謂帝紀本辭を取り扱つたこと、などである。
第一に、諸家が帝紀及び本辭を傳へ有つてゐるといふことであるが、先づ此の帝紀及び本辭といふ語に注意するを要する。此の序文の中にも、帝紀本辭と達稱してゐる外に、帝紀舊辭とも帝皇日繼先代舊辭とも先紀舊辭ともあり、又た上に引いた天武紀の記事には「帝紀及上古諸事」とあるのを見ると、帝紀と帝皇日繼とは同意義であつて先紀もそれと同じであるらしく思はれ、又た本辭・舊辭・先代舊辭はみな同じものであつて、其の内容は上古諸事と稱すべきものであることが推知せられる。さすれば、帝紀は帝皇日繼であるから、皇室御歴代の御系譜及び皇位繼承のことを記したものである。又た本辭は舊辭とも先代舊辭ともいはれ、上古諸事のことであるから、上代の種々の物語の記載せられたものを指すのであり、さうして「本」といひ、「舊」といひ、「上古」といふところから見ると、それは近い(223)代のことを書いたものでは無い、といふことが推測せられる。思ふに神代史や、神武天皇の東征、ヤマトタケルの命の西征東伐、または神功皇后の征韓の物語などは、其の主要なものであつたらう。かういふ帝紀と本辭とが昔から傳はつてゐたのである。古事記を通覽すると、最も重きを置いて詳密に記してあるのは、歴代の天皇の御系譜であつて、仁賢天皇以後にはたゞそればかりが書いてあり、さうして、種々の物語のあるのは、神代と神武天皇と崇神天皇以後顯宗天皇以前とだけである(繼體天皇の卷に一ヶ條だけ磐井の叛亂の記事のあるのは例外と見てよからう)。さうして是は、阿禮の誦んだ帝皇日繼(帝紀)と先代舊辭(舊辭または本辭)とによつて撰録したといふのであるから、所謂帝紀と舊辭(本辭)との意味もこれから推測せられ、舊辭が上古諸事であることも、おのづから明かになるであらう。さうして前章に述べた如く、もし口碑傳説によつておぼろげに傳はつてゐた四世紀以前の物語が幾らかあつたとすれば、それも間接に、さうして又た種々の變改を經ながら、此のうちに編み込まれてゐたのであらう。
但し帝紀については多少の疑問もある。それは、例の聖徳太子と蘇我馬子とが撰録したといふもの、詳しくいふと推古天皇紀の二十八年の條に「皇太子嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部并公民等本記、」とある天皇記以下の諸本記は、其の名稱から見ると、支那の所謂正史の體裁を學んで作られたものらしくも思はれ、從つて天皇記は本紀に當り、國記以下は世家列傳等に當るやうにも想像せられ、それから推してこゝに帝紀とか帝皇日繼とかいつてあるのは、即ちかう考へた場合の天皇記のやうなもの、言ひかへると、かの本紀めいたものかと思はれないでもないからである。(推古紀には「記」の字を用ゐてあるが、それにしても「本記」は「本紀」に縁があるに違ひない。「紀」の字になつてゐる本もあるといふが、皇極紀四年の條にも「記」とあるから、「記」でよいかと思ふ。現に(224)古事記とか次にいふやうに國造記とかいふ書名もある。但し帝紀とあり、やはり次に述べるやうに帝王本紀などといふ名もあるから、記と紀とは大した區別なしに用ゐられたらしい。)しかし天皇記以下の諸本記とても、よしそれが所謂紀傳體の支那の歴史から暗示を得て編纂せられたとしたところが、又たよし本紀といふ名を學んだとしたところが、必ずしも其の通りに模倣しようとしたとは限らないであらうし、實際、紀傳體の歴史に無くてはならぬ志表のやうなものがあつたらしくも無いから、さう一概に推測することは出來ぬ。が、それは兎も角もとして、帝紀は帝紀で別に考察するを要する。さうして、帝紀の外に舊辭または本辭といふものがあることを思ひ、それに、當時の政治組織及び社會制度の上に於いて、家系が特に重んぜられた事實と、後の(かの支那の本紀に倣つて作られたに違ない)日本書紀にも系圖のみが特別に附いてゐることとを考へ合はせると、所謂帝紀は支那の歴史の本紀らしいものでは無くして、たゞ皇室の御系譜及びそれと離るべからざる皇位繼承のことを記したに止まるものであるらしい。帝紀を帝皇日繼といふことからも、さう見なければなるまい。欽明紀二年の條の分註に「帝王本紀」といふ名が見えるが、これもまた即ち帝紀で、やはり御系譜のことではあるまいか。さすればかの推古朝に作られたといふ天皇記も、やはりそれと同じであつて、國記以下のものもまた諸家の系譜では無かつたらうか。後にいふやうに、續日本紀文武天皇の卷に國造記といふものがあつて、それが系譜だけのものらしいことをも參考するがよい。さうして神代の物語、または上古歴代の天皇の御事蹟、或は皇族の御行動などに關する物語、即ち所謂上古諸事は、本辭もしくは舊辭の名によつて、別に取り扱はれてゐたのであらう。
ところで、此の帝紀本辭が文字に寫されたものであることは「所賚」といふ語からでも推知せられる。本辭といふ(225)名は、口で傳誦せられてゐるものででもあるかのやうに聞こえるか知れぬが、文字に寫されたものでも辭といつて差支が無からう。此の辭が「ことば」を主にしていつてゐるので無いことは、本辭または舊辭の内容が上古諸事であること、それが「辭」といふ文字を用ゐて無い帝紀と並び稱せられてゐること、また此の序文全體の主意から見て明かである。さて、かういふものが文字に寫されてゐることは、應神天皇の時代以後漢字が漸次用ゐられて來たことからも、推古朝時代に作られた立派な漢文の今に遺つてゐることからも、また漢字を用ゐて國語を寫す方法のいろ/\に案出せられてゐることからも、疑ひは無い。漢字で幾らか國語を寫さうとし、漢文ならぬ文章を綴つてゐたことは、法隆寺金堂の藥師像の光後の銘によつても知ることができる。祝詞に至つては純粹の國文といふべきものであつて、大殿祭のなどは、宮殿が掘つ立て小屋式、繩結び式であることを示す其の内容の上から見て、餘ほど古いものであるらしい。其の他、大祓のにしても、龍田風神祭のにしても、又た析年祭のにしでも、其の主要部分は可なりに古く作られたものらしい形跡がある。(古事記の序文を讀んでゐる場合であるから、序にいつて置くが、此の文の前には省略して置いたところの中に「御紫宸而徳被馬蹄之所極、坐玄扈而化照船頭之所逮、」とある馬蹄船頭の對句は、祈年祭の祝詞に「皇神の見はるかします四方の國は、……青海原は棹柁干さず、舟の艫の至り留まる極み、大海原に舟滿ちつゞけて、陸より往く道は荷の緒ゆひ堅めて、磐根木の根ふみさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道のひまなく立ちつゞけて、」とあるところから來たのではあるまいか。馬と船との對照は必ずしも此の祝詞の文には限らないのであるが、皇化の及ぶところを示すのに此の二つを持ち出して來て、其の至る限りといふやうにいふのは、此の祝詞特有の思想であらう。もしさうとすれば、此の祝詞は少なくとも此の序文の書かれた時よりも前に行はれてゐたもので(226)ある。)又た古事記などの歌の寫し方も、古くからの慣習に從つたのであらう。既に文字が用ゐられる以上、何等かの方法によつて國語をそれで寫さうとするのは、自然の要求であるのみならず、我が國の漢字の用法は、もと百濟人から學んだものであるが、其の百濟の本國に於いても、やはり漢字で百濟語、少なくとも百濟の固有名詞を寫してゐたのであるから、其の方法もおのづから我が國に傳へられたに違ひない。かういふやうにして、漢字を以て寫した國語によつて、又た或は漢文によつて、或は此の二つを交へる方法によつて、書かれた上代の皇室の御系譜なり、或は其の他の種々の事蹟なり説話なりが、典籍となつて世に存在してゐたのであらう。推古朝に作られたといふ天皇記・國記等は、さういふものを材料としたのであらう。だから、皇極紀四年の條に見える如く、蘇我氏滅亡の際に國記の外それが皆な燒失したとしても、其の材料となつた舊記は、いくらも世に殘つてゐたに違ひなく、「諸家所賚」とあるのが即ちそれである。またもし前に述べた如く、かの天皇記などが單に御系譜の類であつて、舊辭は別にあつたとすれば、それは固より燒失したわけでは無い。(序にいふ。推古紀に見える諸記が果して悉く出來上がつてゐたかどうかは、疑問である。名稱からいつても、國造本記の外にある國記の主題は何であるか不明であり、公民本記といふやうなものも、出來得るものかどうか、頗る覺束ない。)
さて、帝紀の原本が官府で撰定せられたものであることは、其の性質上おのづから推測せられることであるが、本辭(舊辭)とても、諸家でめい/\に又た自由に、言ひ傳へや見聞を書き記したといふやうなものでは決して無く、或る時期に於いて、或る權威を有するものの手によつて、編述せられたものに違ひない。勿論、後年になつてそれが種々に、また幾度も、變改せられ、從つて幾樣かの異本が出來て、それが諸家に傳へられてゐたのではあるが、其のも(227)とは一つであつたらう。といふのは、其の舊辭によつて撰録せられた古事記の種々の物語が、前に述べた如く、顯宗天皇以前に限られ、さうして同じやうな物語の見える時代は、書紀に於いてもほゞ同樣であるのと、多少の出入はあり異同はあつても、其のもとは一つであつたらうと考へられるほど、それが類似してゐるとの故である。書紀を通覽すると、やはり雄略天皇乃至顯宗天皇ごろまでは古事記と同樣な、主として歴代の天皇及び皇族の御行動、御事蹟としての物語が大部分を占めてゐるが、繼體天皇のころからは急に記事の性質が一變して、さういふ物語とは性質の違ふ政治上の出來事が、頗る精細に載せてある。雄略紀・顯宗紀ころまでの記事は、記録といふよりは寧ろ文筆的述作と目すべきものが主になつてゐて、從つて歌謠の類も豐富であるが、繼體紀あたりからはほゞ記録風の書き方になり、物語や歌謠などは殆ど無くなつてゐる。もつとも是は大體の觀察であつて、書紀に於いては、古事記に物語が無くなつてゐる武烈天皇・繼體天皇時代にも、戀愛譚や歌などがあり、それより前の部分にも政治的事件の記録は無いことは無いが、概していふと、此のころが書紀の記事の變りめになつてゐることは爭はれない。さうして其の前後に於ける多少の出入は、後人の手が加へられたために生じたことであらう。だから此のころまでの種々な物語は一度び或る時代に於いて官府者の手によつて述作せられたものらしく、多分それが舊辭または本辭の名で(絶えず人々によつて變改が加へられつゝ)後に傳へられ、宮廷にもまた諸家にも(種々の異本となつて)存在したのであらう。古事記に記載せられてゐる物語があれだけで終つてゐるのは、其のためと思はれる。其の述作の時代はもとより明かには知られないが、古事記に物語のあるのが雄略天皇乃至顯宗天皇ころまでであるのを見ると、其の時から程遠からぬ後、郎ち繼體朝・欽明朝ごろに一と通りはまとめられてゐたのであらう。が、其の物語の全體を通じて散見する歌謠に、萬葉(228)集中のものと大差の無い、よほど發達した形式のものの少なくないことなどから見ると、少しづつの變改が屡々行はれたことは別として、或る時期に、全體に渉つて大に潤色の加へられたことがあるらしく、それは或は、天皇記などの作られたといふ推古朝ごろのことでは無からうか。世には氣運といふものがあつて、同じやうなことはほゞ同じ時代に行はれるものだからである。
なほ、古事記の皇室の御系譜が推古天皇で經つてゐるのも、阿禮の取り扱つた帝紀がそこまでであつたからであらうから、これもやはり推古天皇の後、まもない頃に編纂せられたものかと思はれるが、更に臆測を進めるならば、これも亦た蕾箭と同樣、纏體朝・欽明朝ごろに一度びまとめられてゐたのを、後になつて其のあとの部分を迫補したの
かと考へられる。それは、舊辭と帝紀との最初の編述がほゞ同じ頃であつたらうと思はれること、古事記の終りの方の御系譜ばかり記してあるのは如何にも片わの感があつて、後に附け加へたものとして見るにふさはしいこと、其の部分には、或は武烈天皇の卷及び敏達天皇の卷以下の如く、前例に無く御治世の年數が擧げてあつたり、安閑天皇の卷及び同じく敏達天皇の卷以下の如く、寶算の記載が缺けてゐたり、仁賢天皇・武烈天皇・宣化天皇・欽明天皇の卷の如く、寶算も御陵の所在も書いて無かつたり、種々の點に於いて前の方とは筆法が違ひ、全體に書き方がやゝ疎漫なやうに見えること、などの故である。もつとも御治世の年數が見えるのは顯宗天皇の卷からであり、清寧天皇の卷にも寶算や御陵の所在が脱ちてゐるから、顯宗天皇の卷で劃然たる區別をすることは出來ないが、大體この邊が、帝紀と見なすべき方面に於いても、古事記の記事の變り目である。
さて第二には、諸家の有する帝紀舊辭が區々であるといふことであるが、是には、前に述べた欽明紀の分註に「帝(229)王本紀、多有古字、撰集之人、屡經變易、後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟參差、」とあるやうな事情から來たものもあらう。が、單にかうして生じた誤謬のみでは無く、又た自然に生じた訛傳があるとか、異聞が記録せられてゐるとか、いふのみでも無く、官府または諸家に於いて故意に改作した點も多かつたであらう。此の改作には、知識の發達、支那思想の流行につれて、古事に新思想を加へ或は新解釋を施す、といふやうな主意から來る場合もあつたらう。例へば古事記には紀年が明かになつてゐないが、分註としてところ/”\に天皇の崩御の年の干支と月日とが見える。これは書紀とは殆ど全く違つてゐるのであるから、多分、書紀に於いて紀年の定められた前に、同じ企て同じ試みが何人かの手によつて行はれた、其の名殘では無からうか。もしさうとすれば、それは帝紀の最初の編述の際では無く、それよりも後のことであらう。といふのは、後世に附加せられたものと見るべき終りの方の部分まで、それが見えるからである。帝紀の原形に於いてかういふものが無かつたことは、年代記的に物語を排列しない全體の體裁の上からも、推測せられる。だから是は、帝紀の年代の餘りに漠然たるをあきたらなく思つて、それを細かく擬定しようとしたところから生じた後人の所爲らしい。神代史に於いてはかういふ傾向が著しく見え、神々の名などにも、一度び神代の物語が出來上がつた後に添加せられた、と見るべきものがあり、それがまた更に變化するといふやうな場合もあつて、記紀の直接の材料となつたものには、原形を距たることの頗る遠い、また互に矛盾してゐる、分子が含まれ、幾度も手の入つた形跡が明かに知られる。古事記の神代の卷の最初に現はれる三神などは、それが他の多くの神々よりはよほど高い程度の知識の所産であることが推測せられる點、また神代史の全體の結構から遊離してゐる點から見て、最初から神代史に現はれてゐた神で無いことがわかるが、それが獨神隱身とせられてゐる(230)に拘はらず、子があるやうになつてゐるのは、また其の後の變化に違ひないから、かういふ變改の經路を示す好例證である(「神代史の新しい研究」第一章第二節の終末、第三章第一節、參照)。
が、改作は單にかういふ事情からばかりでは無く、家々に於いて其の家格を尊くしようとか、祖先を立派にしようとかいふ動機から出たのも、少なくなかつたらう。系圖を製造し、紙上の祖先を作ることは、昔も後世と變らなかつたに違ひないからである。允恭天皇の時に姓氏の混亂を正されたといふ話があるのも、かういふ事實の反映であつて、或は領地等の物質的利益のためから、或は一種の名譽心から、種々の造作を家々の系圖に加へたであらう。特に身分の卑い、系圖のわからぬものが、身を立て地位を得たやうな場合に、かういふことが行はれたらうといふことは、後世の状態からも類推せられる。さうしてこれは、諸家の祖先が神代の諸神及び歴代の皇族とせられてゐる以上、諸家の系圖の造作はおのづから皇室の御系圖、もしくは其の御事蹟、または神代の物語に於いて、種々の混亂を生ずることになるのである。あらゆる諸家を皇室、もしくは思想上に於いて皇室と同樣にせられてゐる神代史の神々、の後裔とすることは、家柄によつて社會が秩序づけられるやうになつて來るに從つて、自然に生じた趨向でもあり、またそれが、皇室を中心として園家を統一するに便利な方法でもあつたけれども、それだけ又た弊害も生じて、諸家はそれ/\自分の家を、なるべく皇室もしくは神々に近づけようとするやうになり、從つて自分の家に都合のよいやうな祖先をこしらへて、それを皇室や神々に結びつけようとしたらしいのである(なほこのことは、後に姓氏の話をする場合にいふことにする)。此の點だけについて考へると、宮廷に傳へられたのは、諸家に存在するものよりは比較的原の形に近いものであつた、と推測せらるべき一面の理由がある(勿論、此の點に於いてすら後人の手が入つてゐないとはい(231)ひ難い。其の他のことに於いては猶さらである)。
第三は、官府の權威を以て正説を定めることであるが、實をいふと、よしそれが出來上がつたにしても、かういふ方法で果して眞の正説が定められたかどうか、即ち歴史的事實を明かにするやうに舊記の批判が出來たものかどうかは、今日から保證の限りでは無い。後になつて完成したものではあるが、日本書紀に於いて所謂壬申の亂が如何に取り扱はれ、天武天皇御即位の事情が如何に敍述せられてゐるかを知るものは、ずつと上代のことに就いても、官府がそれを撰修する場合に於いては、何等かの意圖がそれに加へられないといふことを確信しかねよう。又たかの書紀の紀年が故意に造作せられたものであるといふことは、今さら説くまでも無い學界の定説であつて、それも特殊の目的があつてのことと見なければならぬが、既にさういふ明白な事實がある以上、それと同じ考が書紀の撰修より前の撰修者に於いて、又た紀年の他の事柄に就いて、決して起らなかつたとは斷言しかねよう。諸家の系譜についても續紀の文武天皇大寶二年の條に「詔定諸國々造之氏、其名具國造記、」とあつて、これも國造の祖先を皇室もしくは神々に結びつけようとする一般の要求に從ひつゝ、官府の力でそれを定めたのであらうが、さういふものが歴史的事實を正しく示したものとして認められるかどうかは、いふまでもあるまい。
第四は、阿禮が帝紀舊辭を誦習したといふことであるが、此の誦習とはどういふ意味であらうか。上に述べた如く、帝紀舊辭は書籍となつてゐるものであるから、阿禮は其の書籍を取り扱つたのである。しかし、阿禮はそれを批判し討覈して新たなる帝紀舊辭を撰録したのでは無い。それは、本文に「未行其事」とあるので明かである。この行はれなかつたといふ「其事」は、從來世に存在する帝紀舊辭を討覈して其の僞を削り實を定め正しいものを新しく撰録し(232)ようといふ事業を指したのであつて、序文の「然運移世異」云々の句は直ちに「欲流後葉」に接續するものである。「其事」が阿禮の誦習をいふので無いことは、此の誦習は立派にできてゐるので明かである。安萬侶は後に、彼の誦んだところから此の古事記を撰録したのであるから、これは疑ひが無い。さうして、阿禮の仕事は濟んだが目的の事業は行はれなかつた、といふのであるから、阿禮の誦習は正しい記録を新しく撰録するための準備であつた、と見なければならぬ。また實際、削僞定實の大事業は阿禮一人の手で出來ることでは無かつたらう。だから、若し臆見を加へるならば、かの川島皇子等に命ぜられたのが此の事業であつて、阿禮の誦習は其の準備の一つであつたのでは無からうか。川島皇子等が何れだけのことをしたのか、わからないが、それはまとまらずに中止せられたらしいので、「未行其事」は即ちそれを指したものかと考へられる。
さて既に古書があり、さうしてそれから新しいものを撰録するので無いとすれば、阿禮のすべき事は、古書そのものをどうかすることで無ければならぬが、それに「誦習」の語が用ゐられてゐるのを見ると、古書の誦めないところを誦み明らめる、といふより外に考へやうが無い。實際、古書には例の漢字で國語を寫したところも多かつたであらうし、少なくとも固有名詞等はみなさうであつたに違ひなく、さうしてそれは、全く言語の性質が違ふ支那語の表象である漢字を以て國語を寫す、といふ無理なことをしてゐる上に、其の寫し方は可なり勝手次第であり、時代と記者とによつて種々になつてゐたであらうから、時を經た後になつて他のものが見ると、解し難く讀み難いところが多かつたに違ひない。此の古事記を見てもそれは類推せられるので、我々は、古人が讀み方を傳へ若しくは考へて置いてくれたからこそすら/\と讀み得るが、然らざれば、非常な努力で研究しなければなか/\判らない。さうして、阿(233)禮の前に提出せられた古記録が同じやうにわかり難かつたことは、上に引用した序文の末尾の方を見ても想像せられるので、「辭理〓見」といふべきことが甚だ多かつたらう。安萬侶が寫し難いとしたことは、即ちまた古書の解し難い所以であつて、其の古書のうちには、ほゞ此の古事記と大差の無いやうな書きざまのものがあつたらう。或は寧ろそれが多かつたであらう。漢文で書いものも或はあつたらうが、それにしても固有名詞を誦み明らめるだけでも可なり困難な仕事であつたらう。前に引いた「帝王本紀、多有古字、」といふ「古字」は、此の序文に書いてある日下とか帶とかいふ字のやうに、古人がさう書いて置いたけれども、何故であるかが今は判らなくなつてゐるものをいふらしく、さういふ文字が多くては、人名や地名のよめないものが澤山あつたらう。だから、それを誦み明らめるには「爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心、」といはれた如く、頭がよくて博聞強記で、種々の比較研究なども出來る人を要したのであらう。彼の事業は、恰も仙覺が萬葉をよみ宣長が古事記を訓んだと、同じ性質のことであつたに違ひない。誦習とは即ちこのことである。「誦」とはあるが、それが古書を見て其のよみ方を解すること、即ち今日でも普通に「よめる」「よめぬ」といふ其の「よむ」といふ意味であることは「度目誦口」(書物を見ればそれをよむ)とあるのでも知られる。是は「拂耳勒心」に對する句であつて、一は知識に富んで理解力のあることを見る方につけていひ、一は記憶に長じてゐることを聞く方につけていひ、「聰明」の二字を具體的に説明したのである。「誦」といふのは、文字に寫してあることを口に出して誦むからのことと考へられる。安萬侶は「辭理〓見、以註明、」といひ、實際本文に於いて訓み方を註記してゐるが、茲にも阿禮の效績が現はれてゐるのである。(序にいふ。こゝの文を宣長は「以註明意、況易解更非註、」と句讀をつけてゐるが、これは誤りである。こゝは「辭理〓見」と「意況易解」と、又た「以註明」と「更非(234)註」とが、それ/\對になつてゐるので、宣長のやうに訓んでは、それが壞れてしまふのみならず、「況」の字の意味が適切で無い。「況」は譬況といふ熟字にも用ゐられてゐるから、「意況」も意義といふ程のことであらう。)なほ阿禮がかうして誦み明らめた帝紀と舊辭とは、諸家に傳へられてゐる種々の異本全體のことか、または特殊の由來のある一本のみのことか、といふ問題が起るが、それはおのづから次の問題に關係して來る。
第五には、安萬侶の事業であるが、それは、阿禮が訓み方を研究し解説して置いた古書、即ち帝紀舊辭を渉獵して、それによつて此の一篇の古事記を撰録したことである。「撰録」といふ語が、たゞ耳に聞いた話を筆記するとか、目に見た文を謄寫するとか、いふ意味で無いことは明かである。だから古事記の撰録は、阿禮の誦んだものが或る一つの帝皇日繼及び先代舊辭であるとすれば、帝紀と舊辭と別々になつてゐたのを一篇の古事記にまとめ、また其の讀み難く解し難いところを書き改め、或は注を施すやうなことをいふのであらうし、もし又た、阿禮が諸家に傳はつてゐる帝紀と舊辭との多くの異本を解説して置いたのならば、それらの種々の異本を調べ、それに見える諸説を取捨撰擇して、それから別に一家の言をたてることをいふのであらうし、此の二つの中のどちらかで無くてはならぬ。が、此の撰録に費された月日が甚だ短くして、僅々四月あまりであることから考へると、それは多分前者であり、文章なども大抵はもとの書物のまゝにして置いて、阿禮の研究によつて始めて明かになつたところをわかるやうに書きかへ、或は文字をもとのまゝにして注解を加へたのであるらしい。「子細採※[手偏+庶]」とあるのも、かう考へると適切に解せられるやうである。もしさうとすれば、阿禮の誦んだのは多分宮廷に傳はつてゐる一本ででもあつたらうと思はれる。諸家には種々の異本があるが宮廷にも一本があるので、削僞定實の大事業を行ふ準備として、天武天皇は先づそれを阿禮に(235)誦み明らめさせられたのであらう。(書紀の神代の卷に「一書曰」として種々の異説が擧げてあり、神武紀以後にもやはり分註として「一書」の説が引いてあるが、それが即ち多くの異本であつたらう。また神代紀には、此の多くの「一書」のうちに、大體古事記と同じものがあることは、何人も知つてゐるところであらう。)さすれば古事記の撰録は、本來元明天皇の「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、」といふ御志、即ち區々であり眞僞雜揉してゐる在來の諸説を討覈して一つの定説を作らう、といふ御考から出たことではあるが、安萬侶の事業でそれが成就したのでは無く、これもやはり一つの準備事業に過ぎなかつたらう(このことはなほ後にいはう)。なほ安萬侶が直接に古書を取り扱つたことは前に掲げた序文の「上古之時」から「隨本不改」までの數行によつて毫未の疑ひを容れない。「已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長、」は明かに古書のことであり、日下・帶、の文字についていふ「本」も古書のことである。
たゞこ1で一つ解し難いのは、序文に「稗田阿禮所謂之勅語舊辭」とある「勅語舊辭」の一句である。文字のまゝによめば勅語と舊辭との意であらうが、「勅語」は「舊辭」に對すべきことでは無い。さうして「舊辭」は上に擧げた如く常に「帝紀」「先紀」「帝皇日繼」に對して用ゐられてゐるから、此の「勅語」もやはり「帝紀」などの誤りでは無からうか。阿禮の誦んだのは「帝皇日繼及先代舊辭」であつて「勅語」では無く、行文の上から見ても、「阿禮所謂之……舊辭」は「令誦習帝皇日繼及先代舊辭」を承けて、それに應ずるもので無くてはならぬからである。なほ古事記は書紀とは違ひ、上に述べた如く所謂「帝皇日繼」に特に意を用ゐてあつて、其の記すところは主として皇室の御系譜であり、それに歴代の天皇及び皇族の御行動としての物語が加はつてゐるのみであつて、末の方へゆくとたゞ御系圖のみになつてゐる程であるから、安萬侶の取り扱つた阿禮の解説には「帝皇日繼」即ち「帝紀」が重きをなして(236)ゐた筈であり、從つて茲にも「舊辭」と共に其の名が現はれてゐなければなるまいと思ふ。上文にも「勅語阿禮」といふ一句があつて此の「勅語」といふ熟字も、一般の慣例から見ると少しく變であるが、此の時代の漢文には(書紀の本文を見ても知られる如く)種々の特殊な文字の用法があるから、これはよいとして、「勅語舊辭」の語はどうも意味をなさぬやうである。もし強ひて解釋すれば、舊辭の種々の異本のうちで「阿禮に誦めと勅命せられた舊辭」といふ意とでも見るのであるが、甚だ穩かで無い。
以上の序文の解釋で古事記の由來と其の性質とは、おのづから了解せられたことと思ふ。たゞこゝで一言して置きたいことは、此の考は古事記の解釋の權威として世に重んぜられてゐる本居宣長の説とは根本的に違つてゐる、といふことである。宣長は、舊來の書籍はみな漢文であつたから、阿禮はそれを國語に誦みなほし、文字を離れて口に誦みうかべたのであるが、もう一歩進んで考へると、それは天武天皇御みづから古記を討覈して正説を定められた上、國語を以てそれを阿禮に口授して誦み習はさせ、暗誦させられたのであらう、さうして安萬侶はそれを阿禮の口から聞いて、其のまゝに筆録したのだ、と解釋してゐる。詳細は古事記傳を見ればわかるから、こゝには述べないでもよからう。宣長は、歌や祝詞は國語を寫してあるが、其の他のものはみな漢文であつた、といふが、既に歌や祝詞を國語で書かうとしたことを承認するならば、何故に其の他のことについてそれを拒否するのか。また彼は舊辭の「辭」の字に目をつけて、是は「ことば」に重きを置いてあることを示すものである、といつてゐるやうであるが、それならば帝紀は「ことば」によらなくてもよかつたといふのか。また「辭」の字をかう解釋すると、舊來の書物が皆な漢文であつたといふ彼の説とは矛盾しはすまいか。いふまでも無く、舊辭は書物として昔から傳はつてゐるものの稱呼(237)である。それから彼は「未行其事」の「其事」を、阿禮が暗誦してゐることばを文字に寫すだけのことのやうに説いてゐ、削僞定實の業は天武天皇御自身が既に行はれて、其の新定のことばを阿禮が暗誦してゐたのだ、と考へてゐるが、それならば元明天皇の御思召として「惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、」と書いてあるのは、どういふことか。天武天皇が既に正説を定められたならば、元明天皇の御思すとしてこんなことが書かれる筈は、無からうでは無いか。なほ又た、文字が既に盛んに用ゐられ、純粹の國語をさへ漢字で書いてゐる世の中に、何を苦しんで長い間阿禮に暗誦させて置く必要があるか。何時死ぬかも知れない人間の、而もたつた一人の阿禮の記憶に、畏くも天武天皇おんみづから削定せられた貴重この上もなき、又た唯一無二の帝紀舊辭を、何故に委托して置いたであらうか。暗誦してゐることばを文字に寫すぐらゐは何でも無いことであるのに、何故に、それを實行しなかつたのか。阿禮とても其のくらゐのことは、しさうなものではなかつたらうか。宣長の説ではこれらの點が甚だ曖昧である。彼は我が國の事は國語でいひ現はさねばならぬことを知り、漢文風の文飾の多い書紀に較べて古事記を尊重したので、それは眞に彼の卓見であるが、餘り古事記をえらいものに考へすぎたため、おのづからあゝいふ解釋をするやうになつたのであらう。(古事記の記載を天武天皇の勅語と考へることは、白石の思想に於いて既に存在してゐたが、彼は別段それを強く説いたのでは無い。白石遺文、巻上參照。)
さて安萬侶が古事記を撰んだのは、直接には元明天皇の、間接には天武天皇の、御遺志を奉じたのではあるが、それでかの削僞定實の大事業が成就したのかといふと、さうでは無いらしい。諸家の異本にはまだ手を觸れて無いらしいからである。だから是は恰も阿禮の誦習と同じく準備事業の一つであつたらう。從つてそれによつて、川島皇子等(238)を主として大規模の史局を開かれた主旨が達せられ、諸家をして悉くそれを奉じさせるほどの權威がつけられたとは考へ難い。事實、古事記は、よし勅旨を奉じてのこととはいへ、また其の準據が比較的出所の正しいものであるとはいへ、畢鞏一私人の撰録であり、またそれは帝紀舊辭の最初の述作の儘であるとも考へられず、其の上に、家々に傳へてゐる古記が區々であつた程に、それには家々の直接の利害關係が絡まつてゐるものでもあるから、古事記の一家言には服從しかねる家もあつたらう(ずつと後のことではあるが、齋部廣成が古語拾遺を著したことをも參照するがよい)。だから時の政府は、天武天皇の御遺志を遂げ、元明天皇の聖旨を貫徹するために、廣く諸家の有する帝紀舊辭を討覈して權威のあるものを撰定する必要がある。其の上に古事記は、單に帝皇日繼及び先代舊辭を維ぎ合はせたものであつて、時代も神代及び上代に限られてゐ、舊辭の内容は天皇及び皇族の、特に其の大半は私生活としての、御物語であるし、首尾貫通した、また廣く天下の形勢や政治上の事件を記録した、國史といふべきものでは無い。(いふまでも無いことであるが、古事記の「古」は安萬侶の時代からの古であつて、今日からの古では無い。古事記に書いてあることは、帝紀としては安萬侶の時からは約百年前の推古朝までのことであり、舊辭としては少なくとも二百餘年前の顯宗朝のことまでである。)だから一方では、多くの古記、種々の異本を考覈して、其の中から辨別取捨をし、或は、阿禮の誦んだものには存在しない材料をも取つて古事記の缺點を補ひ、一方では、近い世の記録をも材料として、立派な國史を作らうといふ考は、自然に生じなければならぬ。特に鋭意支那の文物を學び、支那の官府の事業を摸倣しようとしてゐた當時の朝廷では、其の意味に於いても、支那風の正史らしいものを作らうといふ企圖が、必ず起らねばならぬ。或はずつと前から、さういふ希望はあつたであらう。川島皇子等を主とした史局の事業は、或はそ(239)こまでゆくつもりであつたかも知れず、もつと遠く溯つて推測すれば、聖徳太子等の撰修にもさういふ漠然たる下心があつたかと、想像せられなくも無からう。しかし、それにはそれで種々の困難があつて、是までは容易に實現せられなかつたらしい。さういふ事業に於いて先づ逢着すべき、皇室の御系譜や神代・上代の物語やの討覈撰定だけでも、上に述べたやうな事情から考へると、頗る困難なことであつて、川島皇子等の着手したことが何時となく中止の姿になつたやうに見えるのも、或はこの邊から起つたことかも知れぬ。また如何ほどまで支那風の正史を學ばうか、といふやうな撰修の方針についても種々の議論があつたらうし、時によつて朝廷内の思潮に幾らかづつの變化もあつたであらうから、それらも一層この修史の事業を困難にしたのであらう。是は固よりほんの想像譚に過ぎないが、かういふ事情は有り得べきことと考へる。
が、一方では必要上、他方では政府の體面上、何時までもすてて置くわけにはゆかぬ。古事記の獻上せられた和銅五年から二年の後に、國史撰修の業が始まつたのは此の故であらう。續紀の和銅七年二月の條に「詔從六位上紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、令撰國史、」とあるのが即ちそれである。古事記の撰録は其の準備の一つではあつたが、また或はそれを促した一事情ともなつたであらう。此の紀清人等の事業はどうなつたか明かでないが、續紀を見ると、それから六年の後の元正天皇養老四年五月の條に「先是、一品舎人親王、奉勅修日本紀、至是功成、奏上紀三十卷、系圖一卷、」とあるから、それは、編輯員などにも多少の變化はあり、撰修の方針にも何等かの動搖があつたかも知れぬが、大體は引き續いて行はれ、何時からか舎人親王を(恐らくは名譽上の)総裁に仰ぐことになり、さうして養老四年に至つて、それが遂に出來上がつたらしい。それが即ち今日我々の前にある日本書紀である(但し系圖は傳はつてゐない)。(240)これは「帝紀」及び「上古諸事」をむ包含した上に、上代のことでも政治上の事件を加へ、近世の事實は固より漏らさず(百濟の記録が其の有力なる材料になつてゐる)、兎も角も首尾貫通した國史の形を具へたものであり、さうしてそれが、官府の力で出來ただけに、大なる獻威を有するやうになつた。 ところが此の日本書紀を見ると、同じ上代や神代の部に於いても、古事記とは餘ほど趣がちがつてゐる。其の主要なる點を擧げてみると、(1)古事記の文章は、漢字を用ゐてはあるが漢文にはなつてゐない一種特殊の書き方であるのに、書紀のは、時々變なところはあるものの、大體は純粹の漢文になつてゐて、成語や熟字をも多く用ゐてゐる。(2)古事記の材料も支那思想がよはど行はれてから書かれたものであらうから、そこに支那思想の痕跡が可なり著しく見えてゐるが、書紀はすべてが甚だしく支那化せられ、到るところ支那思想を以て潤色せられてゐる。神代紀の卷頭に准南子などの文をそつくり持つて來たり、書紀集解に比較してあるやうに、雄略天皇の勅語が隋の高祖の勅語そのままであるやうな、甚だしいことさへある。(3)古事記には明かになつてゐない紀年が、書紀には神武天皇以後、精密に記されてゐる。(4)古事記は或る一本のみに從つたのであるが、書紀は諸本を討覈し取捨して新しく一つの成文を作り、參考として舊來の諸説をも列べ擧げてある(特に神代の物語に於いてさうである)。(5)上代についても、古事記には無い昔の物語が書紀にはある。(6)同じ事がらでも記紀の間に種々の差異があり、歴代天皇の寶算なども隨分違つてゐる。これらは一見すればわかることでもあり、また先人が既に説いてゐることでもあるから、今さらくだ/\しくいふにも及ぶまい。實例は本文を研究してゆくうちにおのづから明かになる。
さて、書紀がこれらの點に於いて古事記と異なるのは、古事記の準據となつた帝紀舊辭には存在しない材料をも含(241)んでゐる種々の異本を採用した故もあるに違ひなく、(4)(5)(6)の如きは大部分そのためであらうと思ふ。けれどもまた、書紀の編者の意見に出たことも少なくないので、(1)(2)(3)の多くは、恐らくは此の部類に屬すべきものであり、(6)の中にも亦たそれがあるらしい。もつとも(1)についていふと、近い世の史料は初めから漢文で書かれてゐたらしく、書紀の編者はたゞそれを其のまゝに、或は多少の潤色を加へて、採ればよいのであるから、書紀の編者の手によつて漢文とせられたのは、神代や上代の部に多かつたであらう(かういふ部分にも、純粹の漢文で書かれた材料が幾らかあつたかも知れぬが)。從つてまた(2)も、材料のうちから既に存在してゐた場合があるかも知れぬ。また(3)についても、書紀より前にさういふ試みの行はれたらしい形跡のあることは、前に述べた通りであるが、書紀の紀年は多分、書紀の編者の手に成つたものであらう(紀年のことはなほ後にいはう)。
此のうちで、(4)(5)(6)は、古傳の種々の變形を知る上に於いて、極めて重要のことであつて、それらの異説を比較研究することによつて、我々は古傳の發達の徑路を推考し、從つて、上代の官府者の思想の變遷を跡づけることが出來る。よく比較してみると、古事記の説よりも却つて原形に近いと思はれるものが、書紀の中に認められることもある。だから古事記が漢文で無いからとて、すべてが書紀の説よりも古いとか正しいとか、または毫も支那思想を交へない固有の説話であるとか、速斷することは出來ない。のみならず、かういふ異説を多く知ることによつて、其の間から事實の眞相を發見する關鍵を掴み出せないにも限らない。古事記だけではそれが出來ないのであるから、これは書紀の我々に與へる大なる賜である。以上は神代や上代の物語についての話であるが、それより後のことについては、書紀が無くては何もわからないことは勿論である。それから(1)(2)(3)は、それによつて事實が蔽はれてゐるから、明らさ(242)まに上代の思想を傳へるものとしては、書紀は古事記より劣つてゐる。しかし、古事記とても事實の記録としては信じ難いことが多いから、それは畢竟、程度の差異である。さうして支那思想の着色などは、今日の知識を以て觀察すれば、すぐに剥ぎ去ることが出來るものであり、それを剥ぎ去れば、上代の思想は瑩然として光を放つ。また紀年の造作なども、今人を欺くには足らないものである。だから知識の發達しない時代に於いては、書紀のかういふ點が人を誤らせたことはあるが、今日に於いては最早さういふ虞れは無く、却つてこんな着色をしたり造作をしたりしたことが、當時の思想の一つの表象として、我々に思想史上の好材料を供給してくれるのである。
さて、こゝに述べた古事記と書紀との比較は、實は本文の研究を進めるに從つておのづからわかつてゆくもの、若しくは本文の研究をすまして後に明かになるものであるから、今こゝでそれを述べるのは、少しく順序を誤つてゐるやうであるが、前もつて一と通りの概念を得て置く方が便利であるから、これだけの説明を試みて置くのである。さうして、此の大體の觀察と一々の本文の研究の結果とが符合するかどうかは、後に至つて知られるであらう。
(243) 五 記紀の記事の時代的差異
前節は記紀の由來と其の大體の性質とを述べたのであるが、愈々本文に入るに先だつて、いま少し、二書に採録せられた所謂帝紀舊辭を觀察して置かうと思ふ。さうしてそれはおのづから、此の書の研究の範圍と方法とを定める所以ともなるのである。
先づ舊辭として考ふべきものを見ると、古事記の方では、神武天皇以後に於いて、仲哀天皇以前と應神天皇以後とが頗る其の趣を異にしてゐる。仲哀天皇より前の物語は、神武天皇東征は勿論、ヤマトタケルの命のクマソや東方の話にせよ、また新羅遠征にせよ、其の物語の語りぶりは、天皇や皇族の御行動を敍するのであつて、興味の中心もまたそこにあるのであるが、其の事がらは天下の形勢に關係がある。崇神朝の神を祭られた話にも、政治的意味が含まれてゐる。ところが、應神天皇以後のは、或は戀愛譚、或は皇族間の種々の人事關係、或は遊獵の物語等であつて、政治的意味は全く無く、さうして政治的もしくは公的意義のある記載は、百濟照古王の貢獻(應神天皇の卷)、藏官の任命(履仲天皇の卷)、新羅王の貢獻、姓氏の規定(允恭天皇の卷)、呉人の來朝(雄略天皇の卷)など、僅々三、四項に過ぎず、又たそれは物語とはなつてゐない簡單な記事であつて、幾多の興味ある物語の系列の中に調子はづれに插入せられてゐるのである。書紀の方でも、物語に於いてはほゞ同樣である。たゞ書紀は全體を通じて政治的・公的意味を有する記載(それが歴史的事實であるかどうかは別問題であるが)を其の間の所々に配置してゐるから、注意しないで(244)見ると、此の區別がぼかされて目に映ずる。
次には、これらの物語の語りぶりが、やはり同じころを境として大體、區別せられる。古事記の仲哀天皇以前のは概して説話的色彩が強く、宗教的思想、または幼稚な心理の表現もそれに伴つてゐて、全體の調子が事實を語るといふ風では無く、又た事實らしからぬ不合理のことが多く加味せられてゐる。ヤタガラスやツチグモのことは勿論であるが、例のミワの神、またはホムチワケの命の物語は、全體が説話的であり、ヤマトタケルの命や神功皇后の遠征の物語にも、それに類似したことが多い。けれども、應神天皇以後のには(遠い昔のこととして此の天皇の卷に記してあるアメノヒボコ及びそれに關係したハルヤマノカスミヲトコ、アキヤマノシタビヲトコの話、また雄略天皇の卷にあるヒトコトヌシの神の話などの外には)さういふことが無い。それらの多くの話が歴史的事實であるか無いかは兎も角もとして、話そのものに不合理な分子や説話的色彩は少ない。書紀に於いてもほゞ同樣である。なほ、叛逆者などを稱してツチグモといふのも、宗教的思想の發現たる「荒ぶる神」を和平するといふやうな話も、應神天皇以後には見えないことである。
.それから古事記に於いて帝紀と考ふべきものを見ると、第一に歴代の天皇の御名の書き方が、やはり應神天皇ごろから變つてゐる。カムヤマトイハレヒコの命(神武天皇)、カムヌナカハミヽの命(綏靖天皇)の如く、カミといふ尊稱を冠し、又た此の後の方の例やシキツヒコタマデミの命(安寧天皇)の如くミヽまたはミといふ(神代史の神々に例のある)尊稱のついてゐるもの、オホヤマトヒコスキトモの命(懿徳天皇)、オホヤマトタラシヒコクニオシビトの命(孝安天皇)の如く、オホヤマトの語を冠したもの、オホタラシヒコオシロワケの天皇(景行天皇)、ワカタラシヒコの天皇(245)(成務天皇)、タラシナカツヒコの天皇(仲哀天皇)の如く、御名そのものが美稱であるもの、上に擧げたシキツヒコタマデミの命の如く、地名を冠してあつてもそれに美稱が聯ねてあるもの等、仲哀天皇以前のは、すべてが堂々としてゐて、美稱尊稱が幾つも重ねられ、威嚴がある(意味の明かに判らぬのもあるが、是だけのことは間違ひがあるまい)。さうしてこれは恰も、アマツヒタカヒコホノニヽギの命、アマツヒタカヒコホヽデミの命、などといふ神々の御名と、大差の無いものである。然るに、ホムダワケの命(應神天皇)、オホサヾキの命(仁徳天皇)、イザホワケの命(履仲天皇)になると、さういふ美稱尊稱は無くなつてゐる。但し後のヒロクニオシタケカナヒの命(安閑天皇)、タケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、アメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)の時代以後には、却つて特殊の尊稱が史上に現はれるが、これは一つは國家組織の漸次整頓するに伴つて、また一つはだん/\に輸入せられる支那思想に刺戟せられて、朝廷の尊嚴が加はつ士來たことを示すものであつて、天皇としての尊稱はかういふ風でありながら、皇子としての御稱號は、例へばトヨミケカシギヤヒメの命(推古天皇)のヌカタベ、オキナガタラシヒヒロヌカの命(舒明天皇)のタムラの如く、別にあつたのであるが、仲哀天皇以前には、さういふ御名前が見えない。さうして、欽明天皇前後の時代になつてかういふ尊稱を上る風習の生じてゐることは、仲哀天皇以前の帝紀の記述せられた時代を知る上に於いて、一つの重要なる暗示を與へるものであらう。(序にいふ。古事記には、神武天皇の卷以後、皇子は一般に命と書いてあるが、開化天皇の卷に王としてある場合が一つあり、垂仁天皇の卷からは漸次その例が多くなり、仁徳天皇の卷以後は、天皇もしくは皇后で無ければ命とせず、其の他は凡て王と書くことになつてゐる。これには何か意味があるかどうか、臆測は加へられないでも無いが、それは後に至つておのづから暗示せられるであらう。書紀の方では、(246)垂仁紀以前は皇子を尊または命とかき、景行紀以後は、ヤマトタケルの尊などは例外として、一般には皇子と書いてあるやうであるが、此の區別は、それがもし書紀の編者のしわざであるとすれば、深く考へるには及ばぬことかも知れぬ。また古事記には、景行・成務・仲哀の三朝と、ずつと後の欽明・崇唆二朝との卷に限つて、其の天皇を某の命とせずに天皇と書いてあるが、これには別に意味は無からう。寧ろ傳寫の際に生じた誤りかと考へられる。御系譜のところには何れも命としてある。)
次に皇族また臣下の名も、古いところは趣が異ふ。例へばニギハヤビ、ウマシマデ、オホキビツヒコ、ワカヒコタケキビツヒコ、タケハニヤスヒコ、トヨキイリヒコ、クシミカタなどの如く、ニギ、ウマシ、オホ、ワカ、タケ、トヨ、クシなど、神代の神々と同じやうな美稱を冠したもの(特にニギハヤビなどはミカハヤビ、ヒハヤビと同じやうな名である)、ヒコサメマ、ヒコイナコシワケの如く、ヒコといふ語を冠してあるもの、クハシヒメ、ウツシコヲの如く、名そのものが美稱もしくは尊稱であるもの、サホヒコ、サホヒメ、ハニヤスヒコ、ハニヤスヒメの如く、地名に(特にヤマトヒコ、ヤマトヒメ、キビツヒコ、タヂマモリなどの場合は、廣い地名に)ヒコまたはヒメといふ語を加へて、其のまゝ名として用ゐられてゐるもの、また此のサホヒコ、サホヒメや、ヤサカイリヒコ、ヤサカイリヒメなどの如く、兄弟姉妹親子が、ヒコ、ヒメといふ性を示す語によつて區別せられるのみで、同じ名であり、或はそれがオホヒコ、スクナヒコ、オホマタ、コマタの如く、對稱的・連稱的になつてゐるもの、などが甚だ多く、大體からいふと、神代史の神々の名と同じ方法によつてできてゐる(「神代史の新しい研究」第三章第二節參照)。が、かういふことは、應神天皇以後の卷になると餘り見えない。さうして應神天皇ごろから後に屡々現はれ、一般に上代の慣例であつたらしく(247)思はれる動物の名をとつたもの、例へばネトリ、メドリ、ハヤブサ、ツク、シビ、ワニのやうなのは、仲哀天皇以前には殆ど見えてゐない(たゞ、開化天皇の妃の一人にワシヒメといふのがあり、垂仁天皇の卷にはオホタカといふものが見えてゐるが、書紀には兩方とも無い)。地名を冠して呼ぶことは後にもあるが、それはウヂのワキイラツコ、スミノエのナカツミコ、ヤタのワキイラツメといふやうに、其の人の住所を示すためであることが明かであつて、地名そのものが名になつてゐるのでは無く、またそれに甚だしく廣い地名は冠せられてゐない。一般臣下に於いても、後には地名が氏の名にはなつてゐるが、人の名としては用ゐられないのが通例である。勿論これらのことは、仲哀天皇の卷と應神天皇の卷とで、劃然とした區別がつけられるとはいひ難いかも知らぬが、大體、此の邊が變りめになつてゐる。さうしてこれらのことは、書紀に於いてもほゞ同樣である。
さて上記の事實は、其の理由が何處にあるにせよ、記紀の記載が、概していふと、ほゞ仲哀天皇と應神天皇との間あたりに於いて一界線を有することを、示すものである。(古事記に見える歴代天皇の御年齡に就いて、應神天皇の一百三十歳、雄略天皇の一百二十四歳などといふ記事もあつて、それは、景行天皇・成務天皇、またはそれより前の御歴代のと、同樣に見られるものであるが、かういふ、他の記載と聯絡の無い、遊離性を帶びてゐる記事は、深く顧慮するを要しないものである。)さうして應神天皇の朝に文字が傳へられ、從つて記録の術も幼稚ながらそろ/\行はれ初めた、と想像せらるべき理由があるとすれば、此の事實もまた故なきことでは無からう。なほいま一つ是に關聯して述べて置くべきことは、年代のほゞ推知し得られるのは應神天皇以後である、といふことである。應神天皇以後の紀年については既に諸家の説があつて、故吉田東伍氏の日韓古史斷には頗る精細な擬定が表示せられてゐるが、細節(248)に至つては必ずしも其の説の確實なるを保證し難い點があるに拘はらず、應神天皇の朝が四世紀の後半にあるといふことは、上に説いたところによつても知られる如く、動かすべからざる事實であらう。しかし、仲哀天皇以前の御歴代については、全く其の時代を知ることが出來ないといふより外は無からうと思ふ。書紀の紀年の價値は今さらいふまでも無く、記紀に列擧してある上代の天皇の寶算も、二書の記載が全く一致してゐないこと、其の記載の内容、また數字が精密に記載せられてゐるといふ其のことから見て、初めから考察の外に置くべきものであることは、勿論であらう。それから、仲哀天皇・成務天皇及び崇神天皇の崩御の年として古事記の分註に記してある干支及び月日も、支那の紀年の法及び暦の知識の無かつた時代のこととしては、信じ難いものである。三世紀に於いては、三百年來支那と交通してゐたツクシ人ですらも、暦の知識を有つてゐなかつたことが、魏志に明記せられてゐて、それを疑ふべき理由は無い(古事記の此の註記は、應神天皇以後に於いても書紀の記載とは殆ど皆な一致してゐない)。だから此の點に於いても(記紀の記載そのものからいふのでは無いが)亦た、應神天皇以後と仲哀天皇以前とは趣を異にしてゐる。
かういふ事情であるから、此の研究に於いては主なる問題を仲哀天皇以前に限らうと思ふ。さうして、其の最後の仲哀天皇に關する物語は、應神天皇以後の比較的確實らしく思はれる記載と密接の交渉があるのと、新羅征討といふ外國關係のことであつて、外部から得た知識で批判を助けることが出來る便宜があるのとのため、先づそれから手をつけ、次第に逆行して上代の物語に進まうと思ふ。
(249) 第一章 新羅征討の物語
一 物語の批判
神功皇后の新羅征討の物語は、古事記でも書紀でも大體は一致してゐる。此の物語の主なる要素は、古事記によると、(1)新羅征討の起源がクマソ征伐の計畫せられてゐる際であつたこと、それが神の教であること、(2)新羅が金銀珍寶の國とせられ、征討の動機をこゝに置いてあること、(3)新羅の國のあるといふことが人に知られてゐなかつたこと(仲哀天皇は、高いところに登つて西の方を見ても、海ばかりで國は無いから、神の教は信じ難い、と仰せられたとある)、(4)訣c后の親征(明かには書いてないが、新羅の都城まで進軍せられたやうに見える。といふのは「其の御杖を新羅の國主の門につきたて給ひき」とあるからである)、新羅王が降服して長く調貢を怠らないと誓つたこと、其の國を御馬飼と定められたといふこと、(5)新羅と同時に百濟も歸服したこと、などであり、なほ、(6)宗教的精神が全體の物語を貫通してゐて、神の教、神の祭で始終してゐる。此の戰役の初めに始めて名を現はしたといふウハツヽノヲ、ナ力ツヽノヲ、ソコツヽノヲ、即ち所謂スミノエの三神も新羅の國の守護神として祀られてゐる。それから、(7)物語の語りぶりは、海の魚が船を負うて渡つたとか、波が新羅の國の半分まで押しあがつたとかいふやうに、説話的色彩の(250)強いことはいふまでもない。石を裳の腰にはさんで出産期を延ばさせられた、といふやうな話も附加せられてゐるが、これは寧ろ(6)に關聯して考ふべきものであらう。
書紀の方では、前に擧げた(1)の意味が一層強くせられてゐて、新羅が服屬すればクマソも自然に平定する、といふ神の教になつてゐ、從つて神教を信ぜられなかつた仲哀天皇は、強ひてクマソを征伐せられたことになつてゐる。言ひかへると、根本問題は新羅よりも寧ろクマソにあるやうになつてゐるのである。それから、天皇崩御の後、新羅遠征の前に、皇后も軍を遣はしてクマソを撃たせ、又た親らノトリタの村のクマワシを平げ、ヤマトの縣の土蜘蛛タブラツヒメを誅伐せられ、さうして一旦カシヒの宮に還られたことになつてゐる。次に、(3)についても、外征の軍を出すことに決めてから、また人を海上に出して、西の方に國があるかどうかを看せさせられた、といふ記事がある。それから、(4)の親征の場合に於いて、新羅王の降服は、皇后がまだ舟にゐられて、上陸もせられない前のこととしてあるが、其の後、上陸して都城へ進軍せられたらしく見える(降服の記事には阿利那禮河云々の誓詞が載つてゐる)。また新羅王の門に立てられたのは、杖で無くして矛である。なほ新羅王波沙寐錦の名が出てゐる上に、其の臣、微叱己知波珍干岐が質となつて來たことがある。(5)に關しては、百濟・高麗の二國王がみづから我が軍の營外に來て降服した、としてある。なほ分註として引いてある「一書」の説には、新羅王の名を宇流助富利智干とし、又た「一書」には、新羅王を捕虜にして海邊で斬殺したので、其の妻が新羅の宰として留まつてゐた邦人を殺した、といふ復讐譚があり、それがために「天皇」が震怒あらせられて、新羅の討滅を企てられ、軍船が海を蔽うて進んだので、新羅人がかの王の妻を殺して謝罪した、といふ話が附け加へてある。其の他は大體に於いて、古事記と大なる違ひはないが、(251)一體に漢文流の文飾が多いことは、いふまでもあるまい。新羅討ち入りの記事に「封重寶府庫、收圖籍文書、」とあるなどは、其の最も甚だしいものである。
そこで、先づ(1)について考へて見るが、古事記では、新羅征討の問題がクマソ征伐の計畫の際に起つたといふのみで、書紀のやうに、クマソの平定そのことと關係があるやうには、明記せられてゐない。ところが書紀でも、新羅が降附した後になつて、若しくは其の結果として、クマソの歸服したやうな話はまるで無いから、そこが甚だ變である。つまり最初の問題の結末がついてゐない。根本の問題が解決せられずに消えてしまつてゐる。のみならず却つて、皇后が外征の前にわざ/\クマソ征討軍を遣はされたやうになつてゐるのは、一層をかしい。新羅が降服すればクマソも自然に平ぐ、といふ神教と此の話とは齟齬してゐる。神教を奉じて外征の役を起されるならば、其の前にクマソ征討軍を出されるのは、神教に背くものである。なほ(3)について、海外に國があるといふ明白な神教があるに拘はらず、またそれを奉じて外征のことを決せられたに拘はらず、海の外に國があるかどうかを看せさせられたといふのも、之と同樣に奇怪な話である。神教が基礎になつてゐる此の物語、特に神教を信ぜられなかつたために仲哀天皇が崩御あらせられた、といふ話のある此の物語としては、皇后のこれらの態度は、其の根本の思想に矛盾することである。だから、此の二ヶ條は後人の附け加へたもので、物語の原形には無かつたのであらう。古事記はこれらの點に於いて、筋が徹つてゐる。たゞクマソ征討が有耶無耶に消えてしまつてゐることは同じであるが、それは新羅征伐とはおのづから別問題である。なほ書紀の説に於いて、皇后(此の時はカシヒの宮にゐられたらしい)が征討せさせられたとしてあるクマソは、「遣吉備臣祖鴨別、令撃熊襲國、未經浹辰、而自服焉、」とあつて、甚だ手輕に降服したやうでもあり、(152)又たミカサ(筑前御笠郡)、ヤス(筑前夜須郡)、ヤマト(筑後山門郡)地方を親征せられたといふ記事が其の次にあるため、此のクマソは普通にクマソとして知られてゐる今の日向・大隅方面のものでは無く、筑前・筑後地方のものだらう、といふ説もあるが、文面の上からさう見なければならぬ理由は少しも無く、ミカサ、ヤス、ヤマト地方の親征に對し、これには特にキビの臣を派遣せられたやうに書いてある點から見ても、やはり遠方のこととして、此の物語の記者は考へてゐたに違ひない。のみならず、記紀の全體を通じて、クマソが二つの地方にあつたやうに解せられる記事は、一つも無い。だから、これは取るに足らぬ説である。未經浹辰云々は、文字のために文字を弄した漢文流の文飾か、但しは原の物語に無い話を插入したために生じた混雜である。さて、クマソの話が後人の添加したものであるとすれば、ミカサ、ヤス、ヤマトの親征も亦た、物語の原形には無かつたものらしく察せられる。何を措いても外征しなければならぬ、といふのが神教を基礎とした物語の精神だからである。かう考へて來ると、物語の原形は、古事記の如く、たゞクマソ征討の計畫中に此の問題が起つた、といふだけのことであつたらう。
次には(2)の新羅が寶の國であるといふ話である。古事記には、神託の條に「金銀をはじめて目のかゞやく種々の珍寶、其の國にさはある」とあり、書紀には「寶國」とも「眼炎之金銀彩色、多在其國、」ともあり、また降伏の條には、書紀に「賚金銀彩色及綾羅※[糸+兼]絹、載于八十艘船、令從官軍、」と見える。ところが、外國は大抵の場合に金銀の國、寶の國として書紀には寫されてゐるので、新羅に限つてのことでも無く、また此の物語のみのことでも無い。例へば、神代紀の上に引いてある「一書」には「韓郷之島、是有金銀、」とあり、顯宗紀元年の條には「金銀蕃國」とあり、繼體紀六年の條には「海表金銀之國、高麗百濟新羅任那、」と見える。神功紀五十一年の條に「百濟國……玩好珍物、先(253)所未有、」とあり、繼體紀七年の條に「伴陂國……獻珍寶」とあるのも、茲に附記してよからう。欽明紀二十三年の條に、オホトモノサテヒコが高麗王の宮に攻め込んだ時のことを記して「盡得珍寶※[貝+化]賂」といつてゐるのは、特殊の事變の場合ではあるが、着眼點の珍寶にあることを注意するがよい(この高麗王宮の話については後に批評を加へよう)。一體、海外を金銀珍寶の國とする考は、樂浪・帶方に交通して支那の工藝品を輸入してゐたツクシ人以來の考ではあらうが、ヤマトの朝廷の外國觀が、それから直接に繼承せられたかどうかは、疑はしい。樂浪・帶方の覆滅とそれに伴ふ半島の變動とは、ツクシ舟の帶方方面に對する渡航を一時斷絶させたらうと思はれ、さうして百濟とヤマト朝廷との交渉は(帶方とツクシ人との長い間の交通が歴史的由來をなし、實際また、さういふことの記憶によつて誘發せられたでもあらうが)、全く新たに起されたものである。さて其の百濟は、帶方の故地を領有して、其の地の支那人を臣民とし、また或る點まで其の文化を繼承したらうと想像せられるから、ヤマト人の目に映じた百濟は、早くから珍寶の國であつたかも知れないが、新羅が初めからそれと同樣に見なされてゐたかどうかは、問題である。が、新羅の状態は時代によつて違ふから、これは新羅の初めて我が國に交渉を生じたのは何時であるか、といふ問題から解決してかゝらねばならぬ。しかし、これは便宜上、後に述べることにする。
それから(3)の問題であるが、海の外に國のあることが知られなかつた、といふ話は勿論、事實で無い。外征の役を起すに當つて、其の相手の國の有る無しがわかつてゐない、といふやうなことのあるべき筈が無い。又た、既に総論の第二節に述べた如く、ツクシ人は少なくとも一世紀から四世紀の初めまで約三百餘年間、樂浪もしくは帶方と交通し、加羅方面の事情にも通じてゐたのであつて、それは既にツクシ方面を國家組織の中に編み込んだ以上、ヤマトの(152)又たミカサ(筑前御笠郡)、ヤス(筑前夜須郡)、ヤマト(筑後山門郡)地方を親征せられたといふ記事が其の次にあるため、此のクマソは普通にクマソとして知られてゐる今の日向・大隅方面のものでは無く、筑前・筑後地方のものだらう、といふ説もあるが、文面の上からさう見なければならぬ理由は少しも無く、ミカサ、ヤス、ヤマト地方の親征に對し、これには特にキビの臣を派遣せられたやうに書いてある點から見ても、やはり遠方のこととして、此の物語の記者は考へてゐたに違ひない。のみならず、記紀の全體を通じて、クマソが二つの地方にあつたやうに解せられる記事は、一つも無い。だから、これは取るに足らぬ説である。未經浹辰云々は、文字のために文字を弄した漢文流の文飾か、但しは原の物語に無い話を插入したために生じた混雜である。さて、クマソの話が後人の添加したものであるとすれば、ミカサ、ヤス、ヤマトの親征も亦た、物語の原形には無かつたものらしく察せられる。何を措いても外征しなければならぬ、といふのが神教を基礎とした物語の精神だからである。かう考へて來ると、物語の原形は、古事記の如く、たゞクマソ征討の計畫中に此の問題が起つた、といふだけのことであつたらう。
次には(2)の新羅が寶の國であるといふ話である。古事記には、神託の條に「金銀をはじめて目のかゞやく種々の珍寶、其の國にさはある」とあり、書紀には「寶國」とも「眼炎之金銀彩色、多在其國、」ともあり、また降伏の條には、書紀に「賚金銀彩色及綾羅※[糸+兼]絹、載于八十艘船、令從官軍、」と見える。ところが、外國は大抵の場合に金銀の國、寶の國として書紀には寫されてゐるので、新羅に限つてのことでも無く、また此の物語のみのことでも無い。例へば、神代紀の上に引いてある「一書」には「韓郷之島、是有金銀、」とあり、顯宗紀元年の條には「金銀蕃國」とあり、繼體紀六年の條には「海表金銀之國、高麗百濟新羅任那、」と見える。神功紀五十一年の條に「百濟國……玩好珍物、先(253)所未有、」とあり、繼體紀七年の條に「伴陂國……獻珍寶」とあるのも、茲に附記してよからう。欽明紀二十三年の條に、オホトモノサテヒコが高麗王の宮に攻め込んだ時のことを記して「盡得珍寶※[貝+化]賂」といつてゐるのは、特殊の事變の場合ではあるが、着眼點の珍寶にあることを注意するがよい(この高麗王宮の話については後に批評を加へよう)。一體、海外を金銀珍寶の國とする考は、樂浪・帶方に交通して支那の工藝品を輸入してゐたツクシ人以來の考ではあらうが、ヤマトの朝廷の外國觀が、それから直接に繼承せられたかどうかは、疑はしい。樂浪・帶方の覆滅とそれに伴ふ半島の變動とは、ツクシ舟の帶方方面に對する渡航を一時斷絶させたらうと思はれ、さうして百濟とヤマト朝廷との交渉は(帶方とツクシ人との長い間の交通が歴史的由來をなし、實際また、さういふことの記憶によつて誘發せられたでもあらうが)、全く新たに起されたものである。さて其の百濟は、帶方の故地を領有して、其の地の支那人を臣民とし、また或る點まで其の文化を繼承したらうと想像せられるから、ヤマト人の目に映じた百濟は、早くから珍寶の國であつたかも知れないが、新羅が初めからそれと同樣に見なされてゐたかどうかは、問題である。が、新羅の状態は時代によつて違ふから、これは新羅の初めて我が國に交渉を生じたのは何時であるか、といふ問題から解決してかゝらねばならぬ。しかし、これは便宜上、後に述べることにする。
それから(3)の問題であるが、海の外に國のあることが知られなかつた、といふ話は勿論、事實で無い。外征の役を起すに當つて、其の相手の國の有る無しがわかつてゐない、といふやうなことのあるべき筈が無い。又た、既に総論の第二節に述べた如く、ツクシ人は少なくとも一世紀から四世紀の初めまで約三百餘年間、樂浪もしくは帶方と交通し、加羅方面の事情にも通じてゐたのであつて、それは既にツクシ方面を國家組織の中に編み込んだ以上、ヤマトの(256)勢力の維持のためであるから、もし此の物語のやうな新羅遠征が、歴史的事件として見るべきものであるならば、加羅はそれに何等かの關係があつた筈である(然るに此の物語に加羅の名の全く現はれないのは甚だ奇怪なことであるが、このことは後にいはう)。要するに、此の物語の進軍路が前に想像したやうなものであるならば、それは事實としてあるべからざることである。
それから此の物語によると、我が軍が新羅の都城まで押しよせたやうに(ぼんやりながら)想像せられるが、これについては、歴史的事實の明かにわかる時代に於いては、我が軍が幾度も新羅と戰ひながら、一度も都城まで進んだことが無い、といふことを考へねばならぬ。好太王の碑に「倭人滿國境、潰破城池、」とあるから、可なり優勢な我が軍が新羅の國内に攻め込んでゐたらしい事例はあるが、此の場合とても國都まで入つたかどうかは、此の文面ではわからぬ。たゞ三國史記(卷四十五、昔于老傳)に、曾て倭國の使臣葛那古が來聘した時、于老が倭王について無禮の言を放つたので、倭將于道朱君といふものが兵を率ゐて來り討ち、于老を焚殺した、其の後、倭國の大臣が來聘した時、故の于老の妻がそれを紿いて焚殺し、前年の怨を報じた、倭人大いに忿つて、また來つて金城を攻めた、といふ話がある。此の話は、前に述べた書紀に引いてある「一書」の説とよく似てゐて、たゞそれには新羅王とあるのが、これには野弗邯(即ち伊伐※[にすい+食]、新羅の爵位の最高位)たる于老となつてゐる點が違ふ。全く史料を異にしてゐる二書の記載が、これ程に類似してゐる上に、于道朱君も葛郡古も日本人の名として聞こえるやうであるから、此の話には何等かの事實の基礎があるらしい(別の「一書」に新羅王の名を于流助富利智干としてあるのは、即ち于老のことで、それを王としたのは我が國の記録の誇張かとも思はれる。)ところが三國史記には、此の于道朱君の來討の際に國王が出でて(257)柚村といふところに居つたとある。大體が事實に基づいてゐるらしい話の中にあるから、これもやはり同樣であつて、日本軍が都城を攻撃したために難を避けたのではあるまいか、と考へられる(柚村といふところは不明であるが)。して見ると、少なくとも或る場合に、日本軍が都城もしくは其の附近まで進んだことはあつたかも知れぬ(三國史記には此の事件を沾解尼師今及び味鄒尼師今の時としてあるが、是は疑はしい。このことは後にいはう)。又た次に述べるやうに、新羅が我が國に質を送り、又た何程かの調貢を上つたことは、事實らしいが、さうしなければならぬほどに新羅が屈服したのならば、此の點から見ても、或る場合に都城附近まで日本軍に攻め込まれたことがあつたらしく、考へられぬでは無い。さすれば、歴史的事實の明かな時代にさういふことの無かつたのは、後にいふやうに、半島の形勢の變化から、我が國の勢力の衰へたためかも知れぬ。しかし、もとより確實にさうと推斷するほどの徴證は無い(三國史記には屡々我が軍が金城に入つたやうに書いてあるが、このことについては後に延べよう)。
なほ此の物語に於いて、杖を國王の門に衝き立てられたといふのは、もとよりお噺に過ぎず、書紀がそれを矛に改めた上、「其矛今猶樹于新羅王之門也」と附言してゐるのは、説話としての發展した形であつて、一双事實らしく無い。新羅からいへば、恥辱の記念を何時まで皇城の前に殘して置く筈は、無いのである。後にいふやうに、新羅は決して我が國に心服してゐたのでは無いから、猶さらのことである(此の杖または矛をつきさすといふことは、神代史にアメノトリフネ、タケミカヅチの二神が出雲のイナサの小濱に降つて、劔を浪の穗にさしたててオホクニヌシの神に服從を迫つた、といふのと同じ思想である)。なほ新羅を御馬飼と定められたといふのは、其の國を卑しんだ名であつて、押す略紀八年の條に、高麗軍が新羅に駐屯して新羅人を典馬(于麻柯※[田+比])とした、とあるのが日本人の思想で構造したも(258)のであると同樣、これも事實として考ふべきことでは無い。馬かひ牛かひが賤者の仕事として考へられてゐたことは、古事記の安康天皇の卷の未にも見えてゐる。
次には、新羅王が降伏して永久に朝貢するといふ誓をした、といふことであるが、前に述べた昔于老の譚や、次にいふやうに人質が來たことなどから考へると、何等かの形式に於いて貢物を上つたことは、事實であらう。書紀には新羅入貢の記事がこれから後も時々現はれてゐて、任那府滅亡の後も同樣であり、古事記の允恭天皇の卷にも、調貢使金波鎭漢紀武の名さへ見えてゐるから、神功紀六十二年、仁徳紀十七年・五十三年等(此の紀年は信ぜられないが)の條に見える如く、屡々闕貢して督促せられるやうなことがありながら、大體に於いて、それがずつと後までも繼續してゐたのであらう。新羅は常に我が國に反抗し、漸次任那府の屬國を蠶食するやうになつたのではあるが、一方で反抗しながら一方でかういふ態度を取つてゐたのも、一種の外交政略として、巧妙な仕方であつたかも知れぬ。但し書紀に「八十船之調」とあるのは例の誇張であらう。古事記の允恭天皇の卷にも調貢船八十一艘とあり、また仁徳紀にも允恭紀にも八十艘といふ語が見えるが、仁徳紀のは調絹一千四百六十疋、允恭紀のは種々樂人八十といふのと共に、事實らしくない記事である。八十は恐らくは多數の義で、それもまた誇張であらう。
なほ書紀には、新羅王の誓詞に阿利那禮河の名が出てゐる。阿利那禮の那禮は、一時百濟の都であつた熊津(今の忠清道公州)の土言たる久麻那利(雄略紀)の那利と同じで、河水の義であるらしい(熊津城は熊津、即ち熊川の畔にあつたから此の名を得たので、三國史記卷二十七、百濟威徳王元年の條には、熊川城とも書いてある。また同書卷二十六、東城王十三年の條には、熊川の水が溢れて王都の二百餘家を漂没したとある。熊川は今の錦江である。繼體紀にも熊(259)川の名があつて、昔からクマナレと訓んでゐるが、是は今の慶尚南道の熊川らしい)。さすれば、阿利那禮は阿利河であらうが、それは何の河を指したものであらうか。好大王碑には今の京城附近の漢江のことを阿利水と書いてあるが、もし書紀の阿利那禮がやはり漢江だとすると、此の地方が新羅の領土に入つたのは、眞興王の時、我が國では欽明天皇の御宇であるから、それよりもずつと前に、新羅王がこんな外國の河水を云々する筈はない。それならば何の河かといふと、あゝいふ誓詞に上るほどであるとすれば、大河で無くてはなるまい。さうして新羅の領土でさういふ河は洛東江より外に無い(阿利といふ語の意義は著者には判らぬが、かう考へる外は無い)。が、さうすると日本人が洛東江を知つてゐたとしなければならぬ。新羅王が日本人に對して誓ふのであるから、日本人も新羅人も熟知してゐる河で無くてはならぬからである。さすれば、新羅遠征は此の物語の如く東海から直ちに都城に攻め込んだのでは無く、洛東江方面、即ち梁山方面から進撃した、としなければならぬ。從つてこゝに矛盾が生ずる。此の河水の名を擧げたことは、此の物語の中心思想と背反するものである。だからこれは、物語としても後人の添加であつて、原の形には無かつたものであらう。さうしてかういふ後人の添加が事實の記録と見られないことは勿論である。或は又た阿利水は漢江のことであるが、日本人はたゞそれを漠然半島の大河の名として記憶してゐたので、それをこゝに適用したのかも知れぬ(好太王碑によれば日本人は漢江で高句禮腰軍と戰つてゐるから、此の河の名は知つてゐる筈である)。もしさうならば作り物語なることはいよ/\明かである。(阿利那禮を鴨緑江と解釋するものがある。伴信友あたりから始まつたことらしいが、これは全然無稽の説である。鴨緑江の名は支那では隋唐時代になつて始めて聞こえたのであるが、日本人は其の頃でも、そんな河の知識を有つてゐたかどうか、甚だ疑はしい。よし有つてゐたにしても、高句(260)麗人からの傳聞に過ぎなからうから、新羅に關する物語にそれを適用したとは思はれぬ。)
また新羅王波沙寐錦は、王としては三國史記などに見えない名である。「波沙寐」は多分新羅の爵位の第四級「波珍」(上にいつた寐叱許知波珍干岐の「波珍」、古事記允恭天皇の卷の波鎭漢紀武の「波鎭」)で、「錦」は上記の干岐(欽明紀などに例の多い旱岐)の「岐」また漢紀武の「紀武」に當る尊稱では無からうか。さすれば、これは後人の附會であつて、本來王の名として聞こえてゐたのでは無からう。但し、質として我が國に來たといふ寐叱許知は、三國史記(卷三、實聖尼師今の條)に質となつて倭に行つたとある未斯欣らしいから、これも史料を異にしてゐる彼我の二つの歴史に同じことが見えるところから判斷して、或る場合にあつた事實と考へられる(彌至己知といふ新羅人の名は、朝貢使として欽明紀二十一年の條にも見えるが、それとこれとは全く無關係であらう)。なほ三國史記(卷四十五、朴堤上傳)に、朴堤上が倭に赴き詭計を用ゐて未斯欣を伴ひ來り、海中の山島から本國に逃れさせたこと、此の詭計が發覺して堤上が倭人に焚殺せられたこと、が見えるが、これは神功紀五年の條に、新羅の使として來朝した汗禮斯伐毛麻利叱智、富羅母智等が、質となつてゐた寐叱許知を伴ひ歸つて、對馬から本國に逃れさせたので、三人の使者を焚殺した、とあるのと同じことらしいから、微叱許知が未斯欣であることは愈々確實であらう(朴堤上は一に毛永といふとある。書紀に見える伐毛麻利叱智とゆかりありげにも思はれる)。但し、此の話を神功皇后親征の物語に結びつけたのが妥當であるかどうかは、後に述べよう。
次には(5)の百濟が同時に歸服したといふ話であるが、百濟が近肖古王の時から(一面東晉に朝貢しつゝ一面)我が國に依頼し(或は我が國を利用し)てゐたことは、前にも述べた如く事實である。但し、それが新羅の降伏と同時であつ(261)た、とは考へ難い。多少の隔たりが其の間になければならぬ。(神功紀四十六年の條に、百濟が初めて我が國に使を出さうとして卓淳國に來たが、海路遠く交通困難と聞いて一時引きかへすことにした、といふ記事がある。此のことの實否は兎も角もとして、百濟がそれよりも前に新羅と同時に歸服したといふのは、書紀に於いては此の記事と矛盾する。是も例の書紀自身の結構上の破綻である。)又た高禮も同時に歸服した如く書いてゐる書紀の説は、言ふまでも無く事實では無い。高句麗は、我が國が百濟を保護し初めた後、好太王が398年ごろに※[さんずい+歳](江原道地方の住民)を服屬させるまでは、新羅と接觸せず、また百濟と高句麗とは互に敵國であるから、かういふことの起る筈が無い。實際、高句麗が我が國と敵對の地位に立つてゐたことは、後にいふ通りである。高麗・百濟二國王が親ら營外に來て歸服したといふに至つては、勿論、例の具體的に事柄を述べるを要するお話の形式に過ぎない。此の點に於いては、古事記の方が事實らしく書いてあるといはねばならぬ。
なほ(6)についても、前に述べたやうに、海外に國のあることが知られなかつた、といふことが事實でない以上、其の觀念を基礎にした神教の物語が實際の話で無いことは明かである(神の教によつて事を行ふといふのも、神が人に憑つて託宣するといふのも、上代の宗教思想としては事實であつて、かういふ話もそれが爲に作られたのではあるが、こゝの神教の話は事實あつたことでは無い、といはねばならぬ)。それからスミノエの神(即ちウハツヽノヲ、ナカツヽノヲ、ソコツヽノヲの三神)を國守神として新羅に鎭め祭られた、といふのも事實としてあり得べきことかどうか、疑はしい。欽明紀十六年の條に、雄略天皇の時、百濟の衰亡を救ふために邦を建てた神を屈請した、といふ話があり、それは我が國の神を百濟の王都熊津に於いて祭つたことらしいから、是もそれに准らへて見るべきものかとも考へら(262)れる。(序にいふ。百濟に神を祀つたのは高句麗に其の首府の漢城、即ち今の京畿道廣州を取られて、都を熊津に遷した時のことであらう。さうして、雄略紀に熊津を※[さんずい+文]洲王に賜ふと書いてあるのも、かういふ思想から來たものであらう。熊津は本來百濟の領土であるから、雄略紀の此の記事は事實で無い。)しかし、百濟は長い間我が國に援けられてゐた上に、危急存亡の場合でもあるから、それに對して何事をも命ぜられたのであるが、新たに征服したばかりの新羅に於いて、かういふことができたとも思はれぬ。寧ろ、後世に行はれた百濟の實例が、新羅征討の昔物語に於いて、あゝいふ話を作らせたのでは無いか、と想像せられる。といふのは、段々述べて來たやうに、此の物語全體の調子が説話的になつてゐるからである。或はまた一般的に考へて、上代の信仰が此の話となつて現はれてゐるのだ、とも解釋せられる。例へば顯宗紀三年の條に、日の神・月の神を祀るに對馬人・壹岐人を以てした、といふ記事があるが、これは對韓航路の停泊地として韓地經略上、二島が重んぜられたことを示すと同時に、それを宗教的思想から取り扱つてゐる上代人の風習を、あらはしてゐるものである。神代史に於いてムナカタの君の祀る神がアメノヤスノカハラの誓約の時に生まれたタキリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメの三神であるとしてあるのも、恐らくは韓地經略が重要視せられ、從つて海外に往復することが頻繁であつた時代の思想であらう(ムナカタの神と外國航路との關係は、應神紀四十一年の條にも見えてゐる)。なほ神を祭ることは此の場合のみの話では無く、神武天皇の物語にも、崇神天皇の物語にも、又た景行天皇の物語にもあることで、いはゞ凡ての上代の物語に共通な思想であるが、海外經略といふ特殊の大事件だけに、此の物語に於いては、それが一層濃厚に現はれてゐるのであらう。さうしてかういふ種々の物語に共通の思想の現はれた物語が、歴史的事實として解すべきものであるかどうかは、それら種々の物語の性質を(263)研究した上に於いて判定せらるべきものであるから、それは次々の章に於いて論究してゆくこととする。又た例の、石を腰にはさんで産期を延ばさせられたといふ話は、民間に行はれてゐた風習が、こゝに現はれたものであらうから、これは廣く世界の諸民族にわたり、石に關する民間信仰などを吟味して、比較的研究をすべきものである。此の話が歴史的事實であるかどうかは、勿論、言ふに及ばぬことである。なほ(7)については、いふまでもあるまい。
かう考へて來ると、此の物語に於ける書紀の記載には、後人の添加したところ(クマソ平定についての神教、皇后のクマソ征伐、阿利那麗河の名を擧げた新羅王の誓詞、高麗の服從等)が頗る多いけれども、それと共にまた、古事記には採られなかつた事實の痕跡(新羅人の復讐譚及び微叱許知に關する話等)がある、といふこと、古事記は物語の原形に近いものであるが、それとても歴史的事實そのまゝでは無い、といふことが知られる。それならば、どれだけが事實であるかといふと、對韓經略の初めに於いて我が國が一時新羅を壓服したこと、并びに其れに伴つた事件として、百濟が我が國に依頼するやうになつたこと、がそれである。なほ或る場合に我が軍が新羅の都城まで攻め入つたといふことも、或は事實であつたらうが、其の進軍路は、多分、加羅を根據として草羅城方面から陸路東北に向つたのであらう。しかし、此の新羅に對する武力的威壓の行はれたのが何時のことであるかは、判然しない。たゞ、百濟と我が國との關係から其の大體の見當がつくに過ぎないのである。
さて、百濟が我が國の保護を得ようとしたのが近肖古王(375年歿)の時であることは、古事記の應神天皇の卷及び神功紀の四十六年及び五十五年の條に、其の王の名が出てゐることによつて知られるから、その時期は遅くとも375(264)年の前で無くてはならぬ。(書紀に背古王とあるのが肖古王の誤りであることは、古人も既に述べてゐる通りである。また古事記應神天皇の卷には照古王とあり、欽明紀二年の條及び新撰姓氏録には速古王とある。それから、古事記には應神天皇の卷に照古王の名が出てゐながら、書紀には神功紀に既に貴須・枕流二王の代となつてゐるやうに書いてあるが、これは例の年代を引きのばしたために生じた混亂であるから、應神天皇の御宇の少なくとも初めは肖古王の時代と見るのが穩當である。)もし更に臆測を加へるならば、神功紀四十六年の條に、甲子年七月中に百濟の使者が始めて我が國に來ようとして卓淳國(加羅の西方、今の漆原及び馬山浦附近か)に來たとあつて、故に甲子といふ干支を擧げたのは、他に例の無い書きかたであることを見ると、何か根據がありさうであるから、此の記事には何等かの事實が含まれてゐるかと思はれ、さうして六十二年の條に引いてゐる百濟記に、王午といふ干支が出てゐることから類推して、此の記事の甲子もまた百濟の記録から出たのでは無いかと考へられる。(茲に我が國のことを「貴國」と書いてあるが、是も百濟記として屡々引用せられてゐる場合の慣例である。なほ百濟の記録が書紀編纂の際に有力な材料となつたことは、繼體紀末尾の分註でも判るが、同紀七年の條、欽明紀四・五・六年などの各條の本文には、百濟の記録を其の儘に採つたらしいところさへある。神功紀に見える貴須王・枕流王・辰斯王などの即位の記事も、百濟の史料から出たものであらう。だから、書紀の本文に百濟記などから寫し取られた文字があることは、疑ふことはできまい。)さてこゝの甲子といふ干支が百濟記などから來たものとすれば、百濟に於いては(其の首府が帶方の故地にあることから考へると、そこの漢人の一部が百濟の民となつて、自分等の文物を百濟の用に供したであらうから)早くから暦法も行はれ記録の術もあつたに違ひなく、さうして書紀の諸所に分註として引いてある百濟記の記事は、概して(265)いふと事實を傳へてゐるらしく、神功紀六十二年の條のも沙至此跪といふ名があつて、それが我が國の史料とは全く關係なく、而も實在の人物たるソツヒコを寫したものと思はれる程であるから、これらの干支も全く無根のことではあるまい。ずつと昔のことならば、うつかり信用は出來ないが、肖古王以後の話で、而も我が國と關係があることを記し、さうして我が國にも傳へられた書であるから、よし事實については多少の誤謬や誇張もあり、場合によつては故意の造作を加へて無いとも限るまいが、紀年を捏造するやうなことは無からう。從つて、百濟が始めて我が國の保護を得ようとしたことは、364年の甲子の年では無かつたらうかとも考へられる。(こ1の本文にも文飾は勿論あり、全體がお噺めいてもゐるが、百濟が始めて我が國に交通するに當つて、先づ加羅方面の我が官憲に交渉を開かうとしたといふのは寧ろ當然のことであらうから、卓淳云々といふことも全く縁のないことでは無からう。なほ六十二年の條の壬午は382年であらう。)百濟は此の時はまだ勢が盛んであつて、其の首府も漢城にあり、屡々進撃的態度で北隣の高句麗と戰つてゐたほどであるが、其の高句麗が實は大敵であつて、それに對しては大いに戒心を要するのであり、又た東には新羅が控へてゐて、それとも衝突すべき形勢であつたから、新たに韓地の一角に勢力を樹てた我が國に對して、交を通じようとしたのであらう。晉書(卷九、簡文帝本紀)によると、それより八年の後(晉の咸安二年、372)には、東晉にも朝貢をはじめてゐるが、百濟の地位はこれでも推測せられる。
ところで、百濟がかういふ態度を取つて我が國に歸向したのは、我が國の勢力が百濟に知られてからのことに違ひないから、新羅の服從は其の前(多分それから餘り遠くは隔たらない前)のことであつたらう。三國史記の新羅紀には、丁度前にいつた364年に當るやうになつてゐる奈勿尼師今九年の夏四月にかけて、倭兵大至といふ記事があるが、附(266)録に於いて述べる如く、新羅紀の此の時代の部分は、まだ十分に信用しかねるものであるから、これを證據にするわけにはゆかぬ。或は又た、百濟の我が國に依頼するやうになつたのは、必ずしも新羅の服從に刺戟せられたのでは無くして、我が國が加羅を保護してゐるといふ事實の、百濟に知られたためかも知れぬ。加羅の保護は、次にいふやうに、新羅の壓迫に對するためではあつたらうが、その事が直ちに我が軍の新羅攻撃を意味するのでは無く、我が國と新羅との交戰は、それよりはやゝ後れて行はれたのかも知れないからである。前にも述べた如く、新羅に兵を出すには、其の根據地として加羅が味方になつてゐなくてはならぬ。が、我が國が加羅の保護を始めたのと新羅に對する交戰とは、甚だしく隔たつてはゐなかつたらう。好太王の碑文には「倭以辛卯年(391)來渡海、破百殘………羅、以爲臣民、」とあつて「羅」の上には「新」の字があつたやうに思はれ、また「己亥(399)…新羅遣使白王云、倭人滿其國境、潰城池、以奴客爲民、」とも書いてあつて、是によると、此のころ我が軍が大いに新羅に威壓を加へたことが知られるが、是は必ずしも此の時に始まつたわけではあるまい。書紀の方でも、新羅征討は屡々行はれたやうに書いてあつて(神功紀四十九年・六二年の條、應神紀十六年の條)、その紀年などは信用し難いが、將軍の名まで明記してあることから考へると、事實に基づいた話らしい。しかし、新羅に對する我が國の威力は、直接には好太王の碑文に見える庚子の年(400)の戰役(高句麗軍が新羅を助けて我が軍を討ち退け、任那・加羅まで追撃したこと)によつて大いに衰へ、間接には甲辰の年(404)の漢江方面に於ける戰役(我が軍が百濟の北邊たる漢江の下流域から進んで高句麗を攻撃し、却つて大いに高句麗軍に破られたこと)によつて更に弱められたに違ひない。これから後は、我が國は大いに新羅を壓することが出來なくなつたので、仁徳紀十七年の條に見える新羅の闕貢といふことも、さういふ事情から生じた事(267)實の反映であらう。だから、我が軍が大いに新羅を壓服したのはそれより前の話で、ほゞ370年の前後(百濟の肖古王の晩年)から400年の頃までの間のことらしい。
かういふやうに、我が國の新羅に對して加へた武力的威壓は、三十餘年間に渉つて幾度か行はれた戰役によつてのことであるとすれば、神功皇后征討の物語の裏面には此の長い間の事實が潜在してゐる、と見るべきであらう。さうして書紀の微叱許知の話や、註記してある「一書」の新羅王の妻の復讐譚といふやうなものは、其の間の何の時にか起つた一、二の事件が傳説として遺り、後にそれが文字に寫されたのであつて、固より最初の征討の場合とのみ解すべきものではない。かの復讐譚に「天皇」とあることなども、此の點から解釋すべきものであらう。書紀の編者がそれをこゝに結びつけ或はこゝに註記したのは、物語を事實と見て、征討が一度に行はれたと考へたからのことらしい。復讐譚の如きは、其の話自身に於いて、既に戰役が幾度かあつたことを示してゐる。又た皇后の親征物語の外に二、三囘書紀に現はれてゐる新羅征討の記事は、何か別に據るところがあつたので、歴史的事實のおもかげは却つてこゝにあるかも知れぬ。序にいふが、未斯欣(微叱許知)が貿となつて我が國に來たことを、三國史記には實聖尼師今の元年(402)としてあるが、是は怪しい。といふのは、此の年は上に述べた如く、我が軍が高句麗軍のために新羅から撃退せられて大いに勢威を墮した庚子の役のすぐ後だからである。だから是は、それよりも幾らか前のことで無くてはなるまい。また三國史記に、かの于老の物語に見える事件の起りを沾解尼師今の時としてあるのは、勿論、事實で無い。沾解尼師今といふのは三世紀の中ごろの王としてあるが、こんな時代に我が國と新羅との交渉が無かつたことは、前に述べた通りであり、また附録に於いて述べるやうに、新羅紀の此の時代の部分は、凡て後人の造作だからである。(268)だから、これは後の事實を前に溯らせてあてはめたものである。
以上の考説で、四世紀の後半の或る時期に於いて、我が國が新羅に對し武力的威壓を加へたといふことが事實である、といふことは判つた。それならば、此の物語の大筋をなしてゐる皇后の親征といふことは、歴史的事實であるかどうかといふに、それはむつかしい問題である。たゞ上に試みた研究の結果によれば、皇后の御行動として語られてゐる此の物語の種々の説話が、何れも其のまゝに事實として認め難いものである、といふことは疑ひが無い。最初の神教に關すること、征討の經過、新羅の王城に杖をたてられたこと、例の石の物語、また前には述べなかつたがタマシマの里の年魚の物語などが、皆なそれである。(古事記には此の年魚の話を四月のこととしてあつて、それが後世の思想であることは、宣長が古事記傳に説いてゐる通りである。但し著者は、後の思想で昔のことを書いたものだといふ彼の解釋には從はないで、説話そのものが後に作られた證據として此の語を考へる。かういふ話は事物の起源を説明する物語として、例の多いものである。)また書紀にのみ見えるクマソ其の他の征討、髪を分けられたこと、海上に出て國の有無を看せさせられたこと、なども事實で無いことは同樣である。(書紀では、年魚の話がマツラの地名の由來を説明する物語となつてゐるが、これはミカサ、ヤス、ウミなどの話と共に、記紀や風土記の常例となつてゐる説話であつて、事實では無い。このことはなほ後章に述べよう。)それから、歴史的事實の明白に知られる時代になつて、一度も韓地に對する天皇の親征といふことが無かつた、といふ事實も參考しなければならぬ。(雄略紀九年の條によると、其のとき天皇には新羅親征の御恩召があつたが、神の戒によつて實行せられなかつたといふ。さうして、其の親征の御志といふのも、果して韓地まで渡られる御考であつたかどうかは不明である。後の齊明天皇も、百濟に對す(269)る救援軍を派遣するに當つて、ツクシまで本營を進められたのみである。)
なほ一般的に考へると、此の物語の含まれてゐる帝紀舊辭が、はじめて文字に寫された時には、既に我が國に關する支那人の著書が傳はつてゐた筈であり、從つて倭女王卑彌呼に關する魏志の記事が知られてゐたであらうと思はれる。さて古事記を見ると、例へば大倭豐秋津島といふ如く、我が國を「倭」の字で寫してゐるが、これは古くからの因襲であらうと想像せられる。「倭」は本來、支那人が我がツクシ地方の住民を呼ぶために用ゐた文字であつて、晉初まで其の意味で使はれてゐたのであるが、百濟人も、其の領土に加へた帶方郡の支那人から此の倭人に關する知識をうけついでやはりそれを襲用し、さうして、當時ヤマトの朝廷の下にほゞ統一せられてゐる我が國民全體の稱呼としたものらしい。昔ツクシ人に接した記憶を有つてゐるものが新しいヤマトの朝廷の代表者に交つても、同じ言語を用ゐ同じ容貌風姿を有することを知つては、同じくそれを「倭」と呼ぶに何等の疑を懷かなかつたであらう。實をいふと、ツクシ地方の少なくとも北部がヤマトの朝廷を戴く政治組織に入つたことは、晉初、即ちツクシの邪馬臺國が晉に交通してゐた時代と、百濟が我が國に交渉を生じた時代との、中間に行はれたのであるが、さういふ事情は、百濟人も支那人もよく知らなかつたのであらうから、昔の倭を當時の倭そのまゝのものとして、彼等は考へてゐたに違ひない。從つて、百濟人によつて漢字の知識を傳へられたヤマト人は、文字を用ゐた最初から「倭」の字を我が國の名として用ゐたのであらう。ところで、倭人の事蹟として支那の典籍の上に最も著しく記されてゐるのは、倭の女王國として知られてゐる昔の邪馬臺の卑彌呼のことであるが、ヤマトの朝廷を中心としてゐる知識社會には、其の事實は全く知られてゐなかつたのであらうから、支那人の著書によつてそれが始めて新しく彼等の知識に入つたところで、其の女(270)王國によつて代表せられてゐるが如き觀のある「倭」の字が今の國號として用ゐられることを、別に不思議とは思はなかつたらう。魏志のヤマト(邪馬臺)と彼等の生活してゐるヤマトとが同名であるといふことも、また此の文字の使用に對して何等の疑惑を起させなかつた一理由であつて、彼等は此の「倭」の稱呼が本來ツクシを指したものであることを、正しく解し得なかつたのであらう。なほ(此の物語の形を成してから、ずつと後のことではあるが)、書紀の紀年に於いて、神功皇后を丁度魏の時代に當るやうにしたことには、書紀の編者に何かの考があつたのであらう。
さて前に述べた如く、此の物語に於いて其の基礎となつた歴史的事實のあることは明かであるが、物語を其のまゝに事實の記録とは見られないとすれば、それは何の時代に如何にして形成せられたものであらうか、といふに、古事記の物語が、神の教とか、海の外に國が見えないとか、魚が舟を背負つていつたとか、或は波が新羅の國に押し上げたとか、又は杖を新羅王の門に立てられたとか、いふやうに、全體の調子が説話的であること、長い間に幾度も行はれたらしい交戰が一つの物語となつて現はれてゐるといふ形跡のあること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが全然物語から省かれてゐること、などを考へると、これは餘ほど後になつて(恐らくは新羅征討の眞の事情が忘れられた頃に)、形成せられたものらしい。進軍路の曖昧なことも此の故であつて、海からすぐに都城に進まれたやうに見えるのは、たゞ海外の國の征伐といふ漠然たる概念から作られたからであらう。カシヒの宮でのこととすれば北方で無ければならぬ新羅が、神教に於いて西方の國となつてゐるのも、ヤマトにゐて考へた話だからに違ひない。ヤマトから新羅にゆくには、西方のツクシを經由するからである。新羅を寶の國、金銀の國としてゐるのも、新羅の文化が發達して調貢品が立派になつた時代の思想であらう。さうして新羅に文化の發達しかけたのは、大體、智澄・(271)法興二王の治世(六世紀の初期、ほゞ我が繼體天皇の御宇に當る)ごろからのことであらうから、此の話の形成せられた時代も、ほゞ推測ができる。なほ大體から考へても、我が保護國であり、或は屬領である加羅(任那)もしくは百濟の經略に關する物語が無くして、却つて敵國である新羅についてかういふ物語があるのは、一つは實際新羅と交戰した事實があるからであるが、一つは新羅の制御が困難となつて、それに力を費すことが最も多く、對韓問題といへば主として對新羅問題である、と考へられる程にそれが厄介でもあり、重要事でもあつた時代に、構想せられたものとも思はれる。さうしてかういふ形勢は、雄略天皇(五世紀の中ごろ以後、新羅の慈悲王の時代)以後に於いて最も著しくなつたことである。かう考へると、前に述べた如く、スミノエの神を新羅に祭らせられたといふ話が、碓略天皇のとき百濟に我が國の神を祀らせたといふ事實の反映では無いか、といふ臆測も理由ありげに感ぜられる。但し古事記では高麗の名が少しも此の物語に現はれてゐないが、それは此の物語が高句麗のまだ我が國に交通しなかつた時代に形成せられた一證として、見ることが出來るかも知れぬ(高句麗の我が國に交通し始めたのは、次にいふやうに欽明天皇の末年である)。
また書紀のは、一面に支那思想を加へ、一面に物語を誇張して、あゝいふものが作り上げられたのである。神教に於いて、新羅が服從すればクマソもおのづから平定する、とあるのは、新羅とクマソとの間に何か關係があつたらしく物語られてゐるやうにも見えるが、もしさうとすれば、繼體天皇の時イハヰがツクシによつて新羅と聯絡を通じた、といふやうな事實が材料を供給したのかも知れぬ。それから阿利那禮の話は、新羅方面の大河として邦人に熟知せられてゐる河の名を借りて、此の物語に結びつけたのであつて、それが物語の本意と矛盾するのも此の故である。また(272)高麗の服從したといふ話は、高句麗が我が國と交通するやうになつてから、添加せられたことらしく、それは欽明天皇以後のことであらう。
高句魔朝貢の記事は、書紀では欽明天皇三十一年(570)が初見であるが、此の時は高句麗が其の南邊の領土たる漢江の流域を失つた陽原王の七年(百濟聖明王の二十九年、新羅眞興王の十二年、我が欽明天皇の十二年、551)から二十年の後であつて、百濟の關係から今まで我が國と敵對の地位にあつた高句麗が、態度を改めなくてはならぬやうになつた時である。應神紀七年・二十八年の條、仁徳紀十二年・五十八年の條に見える高麗朝貢の記事は、半島の形勢から見れば勿論のこと、記事そのものの内容から考へても事實らしく無い。應神紀二十八年の條に見える高麗の表文に「日本國」の文字のあるのが第一に事實で無い證據であつて、此の時代に高句麗が我が國を倭と稱してゐたことは、好太王の碑文でも明かである。のみならず「日本國」といふ名稱がこんなに昔から用ゐられたらしくは無い。次に仁徳紀十二年の、高麗人が鐵盾・鐵的を上つたのをイクハ(的)の臣の祖タテヒト(盾人)の宿禰が射通したといふのは、其の事柄が怪しいのみならず、人名からいつても架空譚らしく、恐らくはイクハのトタ(的戸田)の宿禰の名稱の起原を説明する物語に過ぎないのであらう。又た同紀五十八年の記事は、呉が同時に朝貢したやうにしてあることが甚だ怪しい。我が國と呉(南朝)との交通は、宋書の記事から考へると、履仲天皇ごろからであるらしく、よしそれより前にあつたにしても、呉から使節などの來たやうな樣子は無ささうだからである。なほ應神紀三十七年の條にも、高麗を經由して呉に使をやり、工女を求めさせたやうに書いてあるが、南方支那との交通は、東晉以來常に南朝に朝貢してゐる上に我が國と最も密接の關係のある百濟を介してゐる筈であるから、これは事實(273)で無からう。なほこゝに呉から來た工女を、エヒメ、オトヒメ、クレハトリ、アナ(ヤ)ハトリの四人としてあるが、これは雄略紀十四年の條に全く同じ名が見えてゐて、やはり呉から來たものとしてある。雄略天皇の時の南方支那との交通は事實であるから、應神紀のは、それを其のまゝに借りて來たのであらう。但しこれらの四人の名は實在の人物らしくないので、後章に詳説するやうに、上代の文獻に例の多い連稱的の名稱である。應神紀に嚮導者としてある高麗人、クレハ、クレシも同樣であり、仁賢紀六年の條に、高麗に工匠を求めて、スルキ、ヌルキの二人を獻らしめたといふのも、同じことである。さすれば、應仁紀七年の條の高麗人來朝の記事も、百濟人・任那人・新羅人、とあらゆる韓人の國を列擧した爲に、其の上に高麗人を加へたに過ぎなからう(欽明紀元年にも同樣の記事があるが、是もまた同じ考からの造作と見なすべきものである)。なほ朝貢では無いが、欽明紀二十三年(562)の條に見える、オホトモノサテヒコが兵を率ゐ、百濟の計を用ゐて高麗を討ち、王宮に攻め込んで珍寶を鹵獲した、といふ話も事實らしくない。此の年は新羅が漢江の下流域全部を占領した眞興王の十四年(553)から十年の後で、百濟と高句麗との間には新羅の廣い領土が存在してゐるから、かういふことは出來ない筈である。もつとも、分註として引用してある一本には、このことを十一年にかけ、高麗王陽香(或は※[禾/田])を比津留都に逐ひ却けたとあるが、十一年(550)ならば、百濟が舊都の漢城及び高句麗南邊の重鎭である南平壤(北漢山、即ち今の京城)を攻め落として一度そこを占領した、といふ有名の事件があつた年の前年で、三國史記によると、百濟が高句麗の道薩城(今の忠州方面にあつたらしい)を取り、翌年の大發展の端緒を開いた年である(このことについては、朝鮮歴史地理第一卷第六、眞興王征服地域考を參考せられたい)。しかし、道薩城はさほど大した場所でも無いから、サテヒコの事件は、彼が十(274)二年の漢城及び南平壌政略に關係したといふことであつて、紀年に一年の誤りがあるのかも知れぬ。たゞ比津留都といふ土地は判らない。又た當時の高句麗王は陽原王と追稱せられた人で、名は平城(周書には成とある。城の字と同じ音を寫したのであらう)であるから、茲に陽香とあるのは少しく變である。或は、此の記事は陽原王の稱號が知られた後に書いたもので、香は原の誤りかとも考へられる。二十三年のころの國王は、平原王といはれた陽成(周書には湯とある。陽の字とどちらかゞ誤りであらう)であるが、事件そのことから考へて、どうも此の時分らしくは無い。しかし何れにしても、當時平壤(今の平壤)にあつた筈の王宮に攻め込んだやうに書いてあるのは、甚だしき誇張であつて、これは事實では無い。高麗に關する書紀の書き方には、概してかういふ傾があるから、餘談に渉るけれども附言して置くのである。それから敏達紀元年の卷に、高麗の上書が烏羽に書いてあつたといふ話も、事實らしくない。我が國に何事かを要求する時に當つて、こんな兒戯に類した詭計を用ゐる筈は無からう。
(275) 二 加羅の問題
以上は神功皇后の新羅征討として記紀に記されてゐる物語の批判であつて、此の批判が正しいとすれば、我が國が、四世紀の後半に於ける或る時期に、兵力を以て新羅を壓服した、といふことは歴史的事實であるが、しかし其の軍事的行動が如何にして起されたかといふ説明は、物語の上に現はれてゐない。たゞ總論の第二節に述べたやうな韓地の形勢からの推測として、また前にもいつた如く、新羅に對して軍事的行動を起したと考へる以上は、是非とも豫想しなければならぬ地理上・兵略上の事情として、其の前に我が國の勢力が加羅(任那)に樹立せられたに違ひない、と信ぜられる。新羅に對する武力的威壓といふやうなことが、理由なく又た意味なくして行はれたのではなからうが、新羅の發展が直接に我が國の勢力と衝突したといふやうなことは、地理の上からも想像せられないことであり、またそれほど國際關係が緊張してゐたとも思はれないのと、歴史的事賓の明白な時代に於ける對新羅政策は、皆な任那府の勢力の維持のためであるのと、を併せ考へると、どうしても衝突の原因が加羅になければならぬ。從つて其の間の形勢は、新羅が辰韓を統一して更に弁韓地方に其の力を伸ばさうとして來た場合に於いて、弁韓諸國には、其の中心となり若しくは其の首領となつて弁韓を統一し、さうして新羅に對抗するだけの力のあるものが無かつたので、新羅の壓迫に堪へないやうな地位に陷つたため、新しくツクシ地方を統一して其の勢の加羅地方にも知れ渡つた我が國、昔から關係の深いツクシ人の服屬した我が國、に後援を求め、我が國は何等かの機縁からそれに應じて加羅を保護した(276)のでは無いかと想像せられる。(ツクシと加羅との交通は、樂浪・帶方が滅びてからも、依然引き續いて行はれてゐたであらうから、我が國の事情は加羅人にも知られてゐたであらう。なほ古くからの交通状態によつて臆測を加へれば、加羅にはツクシ人の在留者があつて、それが我が國の對韓政策に何等かの機縁を作つたかも知れぬ。臆測は如何樣にも加へられるから、それは論外としても、ツクシ人と加羅との關係がよほど密接なものであつたことだけは、確實であらう。)全體、我が國が半島に政治的經略の手を伸ばしたのは、頗る突飛な話でもあり、國民の實生活、また其の文化の程度から見れば不相應なことでもあつて、幾何もなくしてそれが拔き差しのならぬ窮境に陷つたのも、無理のない成行であらうから、最初にさういふ行きがかりを生じた事情にも、甚だ解し難い點がある。或は昔の帶方通ひをしたツクシ人の夢を趁うて一種の文化的衝動に驅られた、といふやうなことが、遠因の一つになつてゐはしないかとも思はれるが、初めから百濟方面に交通を試みた形跡も無いから、それも覺束ない。さればとて帝國主義的精神の發現と見るには種々の困難がある。が、それは兎も角もとして、半島の方からいふと、前記の如き形勢が我が國の行動を誘致したことは、ほゞ疑ひがあるまい。加羅ばかりで無く其の附近の諸國、即ち弁韓の大部分が任那府の隷屬となつたことも、また此の臆測を助ける。さうして、新羅が辰韓を統一したのは四世紀の前年であらうから、此の形勢は同世紀の中ごろ、即ち350年の前後に於いて生じたものと考へられるが、此の推測は最初の新羅征討の時期が370年の前後では無かつたらうか、といつた前述の臆測と符合するのである。
ところが、書紀には神功紀の四十九年になつて「平定比自※[火+木]、南加羅、喙國、安羅、多羅、卓淳、加羅七國、」といふ記事があつて、加羅は新羅征討の後になつて我が國に隷屬したやうに書いてある(比自※[火+木]は今の昌寧、南加羅は洛東江(277)口の左岸、喙は比自※[火+木]の南の靈山地方、安羅は今の咸安、多羅は其の南の班城方面かと思はれ、卓淳は加羅と安羅との中間、今の漆原地方らしい。朝鮮歴史地理第一卷第七、任那疆域考參照)。けれども、これは任那府に服屬した諸國を一列に擧げたのであつて、加羅が此のとき治めて我が國に歸服したのではあるまい。現に其の前の四十六年の紀によると、卓淳が當時既に我が國と何等かの關係を有つてゐるやうに見える。書紀の此の邊の紀年は、勿論、從ひ難いものであり、又たそれに繋げて記してある事件の順序なども、必ずしも其のまゝ信用すべきものでは無からうが、書紀の記載そのものにかういふ矛盾があるのであるから、加羅のことも四十九年の記事のみによることは出來ない。ところがまた、加羅については、崇神紀及び垂仁紀に、其の國人の蘇那曷叱知といふものが來朝した、といふ話があり、姓氏録卷三、吉田連の條には、其の時シホノリツヒコを遣して任那の宰とした、といふことが書いてあるが、これはどういふものであらうか、研究する必要がある。
さて記紀の物語に於いて、崇神天皇・垂仁天皇の二朝は仲哀天皇の朝より四、五代の前となつてゐるから、しばらくそれを實際の年代にあてはめて考へてみると、新羅征討が始めて行はれた四世紀の中ごろよりもほゞ百餘年の前、即ち三世紀の中ごろ、もしくはそれよりも前とせらるべきものであらう。ところが、此の頃はツクシの邪馬臺に卑彌呼がゐた時代、もしくはそれよりも前で、ツクシがまだ我が國家組織に入らない時である。ツクシ舟が加羅を經由して帶方郡と往來してゐた時である。加羅の知つてゐる倭はツクシの諸國であつた時代である。かういふ時に加羅人が特殊の使命を帶びてヤマトに來たとは思はれぬ。それから話の内容であるが、朝廷から赤絹一百疋を賜はつたといふのも、それを新羅人が道で奪ひ取つたといふのも、事實とは考へられぬ。此のころのヤマトの文化状態として、絹が豐(278)富であつたとは信じ難い。魏志によれば、三世紀の頃にツクシ人が蠶桑の業を知つてゐたのであるから、ヤマト地方でも絹が作られてゐたかも知れぬが、よしそれにしても、雄略朝に至つて始めて蠶桑の業が大いに興るまでは、極めて微々たるものであり、一般に和栲・荒栲の衣を着てゐたといふでは無いか。それから、當時の新羅は慶州地方の一小部落に過ぎないので、加羅とは土地も隔たつてゐるから、此の下賜品を奪ふといふこともありさうで無い。
なほ書紀の分註として引用してある一書には、加羅國の王子のツヌガアラシ(一名于斯岐阿利叱智干岐)といふ額に角の生へたものが、越のツヌガ(ツルガ)に來た、それは初めアナト(馬關海峽)に來たのであるが、そこのものに障へられて内海に入ることが出來なかつたから、遠く日本海を東に迂囘してツヌガに來たのである、垂仁天皇は先帝崇神天皇の御名ミマキを加羅の國號にせよと仰せられた、といふ話がある。ツヌガアラシといふ名も角の生へた人といふのも、ツヌガの地名から作られたものであることはいふまでも無からう。(ツヌガの地名については、古事記の仲哀天皇の卷の未の方に別の説話がある。かういふことが種々に試みられたのである。なほ後章を參照せられたい。)馬關海峽から内海へ入られなかつたとて遠くツルガに來た、といふのも事實とは思はれぬ。其の間にいくらでも上陸地點はある。(アナトで阻へられて内海に入られなかつたといふことは、次にいふアメノヒボコがナニハでとめられて上陸が出來なかつた、といふのと同じ思想であつて、世人周知の公道から離れた方面にある物語の舞臺と此の公道とを、結びつける必要から生じたものである。)それからミマナの名稱の由來も、やはり例の地名説明の説話であらう。また姓氏録のシホノリツヒコは其の名稱から見ても、海外渡航といふことを擬人して作つた空想の人物に違ひない。だから、これらの説話は一つも歴史的事實として見ることが出來ない。要するにこれは、ミマナの名稱を説くために加(279)羅の服屬をミマキ天皇の時代に結びつけようとして、構想せられたものであらう。ミマナは任那の字で寫されてゐるが、それは好太王の碑にも見えてゐるから、韓地で用ゐはじめた文字であり、從つて此の名も本來彼の地にあつたものに違ひない。今日に傳はつてゐる漢韓の典籍にはあまり使つて無く、たゞ三國史記(卷四十六)の強首傳にあるのが目につくのみであるが、實際世に行はれてゐたものであることは、好太王の碑を見ても明かである。此の名の由來、またそれと加羅との關係は明かで無いが、好太王の碑にも三國史記にも、任那加羅または任那加良と書いてあるのを見ると、加羅よりは廣い地方名らしく思はれる。
また新羅が絹を奪つたといふ話は、新羅と加羅との爭闘の由來を説くために作つて、それをミマナの地名説話に結合したので、絹の生産が豐富になつた雄略朝以後の作であらう。それからツヌガの話は、此の方面が外人來朝の地となつてからの製作に違ひなく、それは欽明朝に於ける高句麗人來朝以後のことである。加羅人や百濟人は固より新羅人とても、此の方面から往來するといふことは、地理上不自然な話であつて、また歴史的事實の明かに知られる時代に於いて、事實上そんな例は一度も無い。(延喜式の神名帳によると、越前國敦賀郡に白城神社・信露貴彦神社があつて、それが音の上から見て新羅人と何か關係があるのでは無からうか、從つて、新羅人が古く海を渡つて此の方面に來住したことがあるのでは無からうか、といふやうな考が起るかも知れないが、第一の推測が既に甚だ不確實である。新羅は姓氏録には新良貴、出雲風土記には志羅紀と書いてあるが、それを白城のやうに所謂訓を借りた例、またラをロとした例は我が國では一つも無い。又たよし萬々一さういふ推測が可能であるにせよ、新羅人が我が國の所々に住むやうになつたことは、後代に於いて幾らも起り得た事情であるから、此の地方と新羅の本國との直接の交渉を此の(280)點から想像すべき根據は、此の記載のどこにも無い。)さて此の話は古事記の方には見えないから、其の準據となつた舊辭には無かつたのであらう。さうしてそれが、記紀に共通な新羅征討物語に於いて、海外に國が有るか無いか判らぬといふ話のあるのと、矛盾してゐることを思ふと、これは、かの物語よりもずつと後に作られたものであることが、推測せられる。
(281) 三 新羅に關する其の他の物語
なほこゝに説いて置くべきことは、神功皇后の征討物語よりも前のこととして記紀に記されてゐる新羅の話である。其の一つは、古事記では應神天皇の卷に昔のこととして記され、書紀には垂仁紀三年の條に見え、播磨風土記には神代のことになつてゐる、新羅の王子アメノヒボコの來朝物語である。これについては第一に、新羅の王子が來朝するといふやうなことが、三世紀もしくは其の前に於いては、事實として有り得べからざる話である、といふことを考へねばならぬ。それは屡々述べたやうな韓地の形勢と、ヤマトの朝廷の勢力の及んでゐる範圍とから、すぐに歸納せられることである。(播磨風土記揖保郡の條にはヒボコを韓國から來たとしてある。釋日本紀に引いてある筑前風土記の怡土郡の條には、高麗の意呂山に天降つたものとしてある。高句麗人としては猶さらこんな昔に我が國に來るべき筈が無い。此の筑前風土記の説はよほど後世に作られたことであらう。)第二には、アメノヒボコが新羅人の名らしく無いことである。歴史的事實として明白な時代の記紀の記事は固より、其の他の説話に於いても、新羅人は決してこんな日本語の名稱を以て記されてはゐない。
第三には、彼が持つて來たといふ所謂神寶に、新羅のものらしい特色が無いことである。古事記に見える浪ふるひれ、浪きるひれ、風ふるひれ、風きるひれは、神代の卷のホヽデミの命の説話に見える潮みつ玉、潮ひる玉と同じ思想の産物であり、其のいひ表はし方も奥つ鏡、邊つ鏡と共に、上代の文獻に例の極めて多い二つづつの連稱法である(282)(一種のmagicとして用ゐられる「ひれ」についても、神代の卷のオホクニヌシの神の説話に、蛇のひれ蜈蚣蜂のひれといふことがある)。だからこれらは何れも異國的のものでは無い。書紀には、玉や刀や桙や鏡や、又た如何なるものか一寸わかりかねる熊神籬といふものがあつて、玉や刀や桙は、名ばかりでは、どんなものか判りかねるが、神籬といふのは其の名から見ても、明かに日本人の思想から作り出されたものである。もつとも、或る時代に於いて出石に神寶とせられたものがあつたことは事實であらうし、又たそれが何等かの點に於いて多少の特色を有つてゐたかも知れぬ。けれども、古事記と書紀とが全く違つたものを數へ擧げてゐるのを見ると、それが實際外國から持つて來たものとして、明かに人に知られてゐたもので無いことは勿論、果して實在の神寶を指してゐるかどうかも不明である。實在のものを指したのならば、こんなにひどく違つて傳へられるといふことは無い筈であらう。もし臆測を加へるならば、其の神寶の主なるものが特殊の矛であつたので、ヒボコの名はそこから出たものかも知れないと思はれ、從つて其の矛の無い古事記の説は後の變形かとも考へられるが、これは確實にいふことは出來ぬ。よしそれにしても、其の變化はよほど早い時分のことであらう。古事記に數を八つとしてあるに對し、書紀の本文には七つとなつてゐるのは、支那思想のゆき渡つた後に生じた變化らしく、此の點からいへば書紀の方が新しい形であるが、數と品物の内容とは別々に考へられるから、矛のある方が新しいとはいはれぬ。紀の分註に引いてある一書には數が八つになつてゐて、本文のとは羽太玉が反對の觀念の葉細珠になつてゐる外に、膽狹淺太刀といふものが加はつてゐるが、これも古事記とは違ふ(葉細珠は羽太玉と連稱せらるべきものであるから、これは片われづつが二つの傳へに現はれてゐるのである)。又た同じ垂仁紀の八十八年の條には、數が六つしか無くて肝心の矛が見えない。何れにしても神寶として(283)記紀に記載せられてゐるものは、確實に或る時代の現在の神寶を指してゐるとは考へ難い。それからまた、それがよし外國傳來のものであるとしても、甚だしく古い時代に新羅人が持つて來たものとすべき徴證は、どこにも無い。或るものを神聖にし尊くするために其の起原や由來を古代に置くことは、普通の慣例であることをも考へねばならぬ。(神寶といふ觀念もよほど後世の思想であるが、是は後になつて添加せられた語とも見られるから、深く拘泥するには及ぶまい。)序にいふ。垂仁紀八十八年の條の末尾に、ヒボコ來朝の時のことが別に書いてあるのは、三年の本文と重複してゐて、少しく變である。
それから第四には、ヒボコの來朝した由來として古事記に載せてある物語である。それは、ヒボコが赤玉から化生した女を妻としてゐたが、其の妻が我が國に逃げて來たので、其の後を追うて來た、といふことである。ところが是と同じ話は、書紀に引用してある一書では、前に述べたツヌガアラシのこととなつてゐて、たゞ赤玉が白玉と變つてゐるのみである。かういふ同じ話が全く違つた甲乙二人のことになつてゐるのは、甲のことが乙のことに轉化して傳へられたとするよりは、本來話そのものは甲にも乙にも關係の無い獨立のものであつたのを、或は甲に結合し或は乙に附會したもの、と考へる方が合理的である。興味は話そのものにあつて、甲のこととしても乙のこととしても差支の無いものだからである。(同じやうな例は他にもあるので、民間説話らしい三輪山物語が、古事記ではイクタマヨリヒメに、書紀ではヤマトトヽヒモヽソヒメに結びつけられ、古事記ではヤマトタケルの命が伊勢で詠まれたとしてある歌が、書紀では景行天皇のヒムカでの御製となつてゐ、一夜云々といふ話が神代史にも雄略紀にも見える類がそれである。)ところが此の話は韓地傳來のものらしい。といふのは、古事記の話では玉は或る女の生んだもので、其の女(284)の晝ねをしてゐる時に、日光にほとを照らされて姙んだのだ、といふことであるが、これは有名な高句麗の祖先の傳説から轉じたものらしいからである(書紀には此のことは出てゐないが、それは省略せられたものであらう)。 さて此の話の變化して來た徑路を原ねてゆくと、第一は王充(後漢の人)の論衡(卷二、吉驗篇)に見え、魏志の扶餘傳に引いてある魏略にも其のまゝに採つてある、扶餘王の祖先の話であつて、それには、※[壹の豆が(石/木)]離國の國王の侍婢が※[奚+隹]子ほどな大さの氣が天から下りて來たのに感じて姙んで子を生んだとある。ところが扶餘から出た高句麗王の祖先の物語はそれと少し變つてゐる。それは魏書の高句麗傳の記事であつて、扶餘王が河伯の女を宮中に閉ぢこめて置いたら、其の女が日に照らされて姙み、一卵を生んだ。其の卵の殻を破つて出た男の子が即ち高句麗王の祖先だ、といふのである。三國史記の高句麗紀には、祖先の物語がよほど複雜になつてゐるが、其の主要なる分子となつてゐる此の話は少しも違はない。好太王の碑にも卵の話は簡單に書いてある。さてこれらの話の記されてゐる書物の時代の順序から考へると、魏書の高句麗の話は、論衡または魏略に見える扶餘の話から變化したものであつて、物語の發達の徑路は、※[奚+隹]子の如き氣によつて姙んだのが卵を生むことになり、天から氣の下りて來たのが日光に照らされることになつたものとすべきやうであるが、話そのものから見ると、論衡や魏略のは支那人の思想によつて變改せられたので、本來の扶餘の傳説は却つて魏書のやうなものであり、高句麗では扶餘に於いて行はれてゐたものを其のまゝ承け繼いで、自國のことにしたのでは無からうかと思ふ。※[奚+隹]子の如き氣といひ、氣が天から下りるといふのは、餘ほど話が抽象化せられたので、それよりも卵を生むといひ日光に照らされたといふ方が具體的であつて、未開人の心理には適切である。しかしそれは何れにしても、ヒボコに結合せられた前記の話で、卵が玉になつてゐ、生まれた子が男でなくて女であ(285)るだけは、高句麗の傳説と違ふが、それはかういふ話の變化としては普通のことであり、又た日光に照らされたことは全く同じである。(照らされたところをほととしたのは、日本に來てからの變化であらう。二神生殖の神話、イザナミの命がカグツチを生まれた時の話、アメノウズメの命の天の石屋戸の前での話、オホゲツヒメの命の身に穀物が生り出でたといふ話、神武天皇の卷のセヤタヽラヒメの話、崇神紀のヤマトトヽヒモヽソヒメの命の話、などに此の語もしくはそれに當る語のあるのを參考するがよい。)だから高句麗の話とヒボコの物語との間には、必ず關係が無くてはならぬ。さすれば、どういふ道筋で此の高句麗の話が我が國に傳はつたかといふと、百濟は高句麗と同じく扶餘から出たのであるから、此の傳説もまた高句麗と同樣、百濟に傳はつてゐたに違ひない。百濟に傳はつてゐれば我が國に傳はるのは當然であつて、可なり古い時からそれが知られてゐたであらう。續紀(卷四十)の延暦九年七月の條に見える、歸化人の子孫たる百濟王仁貞等が祖先のことを奏上してゐる表文中にも、此の話が書いてある。卵のことはそこには出てゐないが、「日神降靈」とある以上は、其の話が知られてゐたに違ひない(但し此の表文の系圖などは信用し難い)。だから何の時にか其の話が、新羅または韓から來たといふヒボコ、または加羅人だといふツヌガアラシに、結びつけられたのであらう。古事記にも胥紀にも、此の話に關聯して牛のことが出てゐるが、これも韓地傳來の物語としては興味がある。我が國の牛は韓から傳へられたもので、其の名も韓語であることを思ふと、韓と牛とは聯想し易かつたらうと思はれる。續紀(卷三十八)延暦四年六月の條に見える阿智王(阿知使主)の話にも、神牛の教によつて帶方に移住したといふことがあるから、參考するがよい。兎も角も、滿洲の眞ん中の扶餘の話が上代の日本にまで傳はつてゐるといふのは、面白い事實といはねばならぬ(扶餘の本土は北流松花江に流入する伊通河の流域である)。序(286)にいふが、三國史記の新羅紀には、やはり上代のこととして、其の國王(始祖赫居世及び脱解尼師今)が卵から生まれた話がある。これも多分扶餘の傳説から來たのであらうが、肝心の日光の話は無い。さうしてこれは、傳説として古く新羅へ傳はつてゐたのでは無く、恐らくは後世になつて支那の書物から其の話を知り、さうして其の一部分を採つて上代の國王の物語としたのであらう。新羅紀の全體の作り方からさう考へられる(附録、新羅本紀の批判、參照)。
餘事ではあるが、高麗朝に作られた三國遺事(卷一)に、東海の濱に住んでゐた延烏郎といふものが、巖(又は魚)に乘つて日本に行き、王となつたのを、其の妻細烏女が後を慕つて同じく巖に乘つて夫のところへいつた、二人は日月の精であつたので、之がために新羅は暗黒になつた、新羅人が驚いて二人を迎ひにいつたが、細烏女の織つた※[糸+肖]で天を祭ればよいといはれたので、其の通りにしたら、日月が舊の如く現はれた、其の祭天のところが迎日縣だ、といふ物語がある。迎日縣の地名説話で、日といふところから日本にも附會したのであらう。迎日縣の名が高麗朝に始まつてゐるところから考へると、此の物語の作られた時代もほゞ知られる。ヒボコの話と少しく似てゐるところがあるが、全體から見て支那思想から出たものらしく、勿論ヒボコの物語とは何の因縁も無い。
なほ、ヒボコの妻はナニハのヒメコソ神社に祀つてあるといふ。此の神社は肥前風土記によると肥前基肄郡にもあるが、そこにはヒボコの話は無い。書紀に見える「一書」には、豐後國前郡にもあるとしてあつて、それはやはりヒボコの妻としてある。これは風土記にも神名帳にも見えぬが、やはりどこかにあつたことと思はれる。要するに諸所にあるものであつて、本來ヒボコの話とは關係の無いものであらうが、ナニハのはそれがヒメといはれてゐるのと、韓地に對する航路の發着點たる地にあるのとのため、物語に結合せられたのであらう。豐前のヒメコソ神社は、其の(287)名の同じであるところから、後になつて此の話をひきつけたものらしい。後章にいふやうに、神社には、もと人を祀つたもので無いのが、後に段々いろ/\の家や氏族に結びつけられてゆく例がある。又た古事記に、ヒボコがナニハで障へられたためタヂマに廻つて上陸したとあるのも、地理上怪しい話である。書紀に引用せられた「一書」には、ハリマに上陸してそれからウヂ河を溯り、アフミ、ワカサ等を經てタヂマに落ちついたとしてあるが、此の國々を經めぐるといふことは、古事記の垂仁天皇の卷に、ヤマノベノオホタカといふものが鵠を迫ひ歩いて、ハリマ、イナバ、タニハ、タヂマ、チカツアフミ、ミヌ、ヲハリ、シナヌ、コシの諸國を經めぐつたとあり、書紀には、景行天皇がツクシの各地を巡幸せられたやうに記してあり、また記紀の何れにも、ヤマトタケルの命が東方の諸國を巡歴せられたといふ話のあるのと同樣、ヤマトにゐるものが知識の上に於いて地方を想ひ浮かべるところから生じた思想の所産である。特に此のヒボコの通つた路は、古事記仲哀天皇の卷の末の方に、タケウチノスクネが太子を奉じ、アフミ、ワカサを經てコシの道の口のツヌガにいつて宮を作つた、とあるのと同じやうな道筋である。さうして此の仲哀天皇の卷の道順も、ミヌ、ヲハリ、シナヌといふ垂仁天皇の卷のも、地理上甚だ變であるが、これは頭の中で強ひて多くの國を經過させようとしたがために起つた混亂であらう。なほヒボコのは、ヤマノベノオホタカの話や、書紀のヤマトタケルの東巡の物語と共に、國郡制定以後の考で作られ、もしくは改作せられたのでは無いかと思ふが、このことは後章に述べることにしよう。それから同じ書に、近江の陶人がヒボコの從者の子孫だとあるのは、歸化人か何かがそこにゐたのをヒボコに結合したまでのことであらう。系圖の製作は昔から勝手に行つたものである。これもまた後に述べる機會があらう。之を要するに、ヒボコの物語には一つも事實として考へらるべきことが無い。
(288) 次にいふべき新羅の物語は、スサノヲの命が新羅に往復せられたといふ、書紀の神代の卷に引いてある二つの「一書」の説である。これは古事記には勿論、書紀の本文にも、また多くの「一書」にも見えてゐないことであるから、單に此の點から見ても、それが一般には承認せられてゐない物語であつて、從つてずつと後の添加であることが推測せられる。さて其の一つは、命が高天原を逐はれて新羅の國にゆき、曾尸茂梨の處に居られたが、そこが好ましくなかつたので、埴土で舟を作つてイヅモのヒの河上にあるトリカミの峯に到着せられた、といふので、それから例のヤマタヲロチの物語になるのである。ところが此の新羅の話は、命が根の國にゆかうとせられたといふ神代史全體の組織と精神とには無關係な、寧ろ矛盾するものである。なは神代史の根本思想からいふと、我が國の内だけで凡ての話がまとまるやうにしてあるから、此の鮎に於いても此の物語は調子外れである。だからこれは、神代史が出來上がつてから後に添加せられた話に違ひない。又た土舟の話も、舟が山についたやうにいつてあるのも、無理に作つた噺であることはいふまでも無い。さうして土舟を案出したのは、此の話に關聯して、スサノヲの命の子のイタケルの命が天から持つて降られた樹種を、カラ國(韓國)には植ゑずして我が國に播かれた、といふことがあつて、韓地には木が無いやうにしてあるからのことではあるまいか。埴土を以て舟を作るといふことは、勿論、實際にあり得べきことでは無く、かち/\山の狸の泥舟と同じフィクションである。埴を木の舟に塗つたのだとか、埴で間隙をうめたのだとかいふのは、事實としてそれを解釋しようとするために生じた考であつて、書紀には明かに埴土を以て舟を作ると書いてあるから、話の上では船體そのものが土でなくてはならぬ。また舟が山についたのは、昔からあるヒの川上の物語に結びつける必要があつたからであらう。
(289) 以上は話の内容からの批評であるが、一般半島の形勢から見ても、三世紀以前の古い時代に於いて新羅が我が國に知られるやうな國でなかつたことは、前にも述べた通りである。だから此の話はずつと後世の製作で、新羅經略の歴史的事實から生まれたもの、むしろ新羅の制御の困難になつた時代に、其の新羅を遠い昔の神代から我が國に關係があるものとして説かうといふ意圖から、作られたものであらう(高句麗が神功皇后の時から服屬してゐたやうに書いた書紀、もしくは其の史料となつたもの、の編者の意圖と參照するがよい)。通俗には、スサノヲの命の新羅に關する説話が、上代に於いてイヅモと新羅との間に交渉があつたことを暗示するものであるやうに、考へられてゐるらしいが、それが新羅の形勢に於いて不可能であるのみならず、事實の明かに知られる時代に於いて、我が民族と韓地との交通は常にツクシ方面を本據とし、もしくはそこを經由したのであつて、ツクシ人は勿論、瀬戸内海方面から出かけるにも、後世の如く馬關海峽からの直航にすらよらず、古くからの航路により、又た航海術の幼稚な時代の常として渟泊地を成るべく多くする必要もあるため、マツラから舟出してイキ、ツシマを經由したこと、さうしてこれについては、魏志の記載と應神天皇以後の國史上の記載とが一致してゐること、並びにイヅモと韓地との直接の交渉が殆ど史上に見えないことからも、また此の通俗の考を肯定することは出來ない。延喜式神名帳の出雲の部に韓國伊太※[氏/一]神社といふのが幾つもあつて、それも、此の地と韓國との間に古い關係のあることを暗示する材料のやうに思はれるかも知れないが、此の神社が出雲風土記に一つも見えてゐないといふ一事でも、それが此の風土記の作られた天平時代以後に於いて、新しく祭られたものであること、從つて上代の状態とは關係の無いものであることが、推測せられる。なほ此の神は、伊太※[氏/一]和氣(伊豆加茂郡)、伊多太(山城愛宕郡)、伊達(丹波桑田郡、紀伊名草郡)、印達(播磨揖保郡)、(290)射楯(同飾磨郡)などの文字で現はれてゐる諸所の神社と比照し、なほ播磨風土記(餝磨郡因達里の條)の伊太代の神の記事を參照すべきものであり、韓國の稱呼についても、韓神(宮内省)、辛國神社(河内志紀郡)、辛國息長大姫大目命(豐前田川郡)、などを參考すべきものであらう。何れにしても、それによつてイヅモと韓地との直接の交渉を推すべきものでは無い。また此の物語に見える曾尸茂梨といふところは、新羅の土地として我が國にも知られてゐたであらうが、それが何處であるかは判らぬ。後の牛頭州、即ち今の春川だらうといふやうな説は、名の上からの附會である。春川が新羅の領土になつたのは文武王(661−681)の時、即ち高句麗滅亡の後でもあり、またあんな僻遠の地の名は、其の時代になつても、恐らくは我が國にはよく聞こえてゐなかつたであらう。曾尸茂梨といふ地が何處にあつても、それは問題で無いが、俗間にやかましくいはれてゐるから、一言して置くのである。なほスサノヲの命が神代史上の神である以上、それに結びつけられたこれらの話も、歴史的事實としては始めから考へることが出來ないのであるが、かういふ話の性質を吟味することが、スサノヲの命が神話に於いて活動せられる神であつて、人で無いことを證する一法でもある。
次にもう一つは記事が甚だ曖昧であるが、意を以て補足してみると、命がカラクニの島にゆかれて種々の樹木を作られ、それから熊成の峯に居られたといふのであつて、其の後に根の國にゆかれたとして、神代史の本筋に結びつけてある。又たイタケルの命が木の種を分布せられたのでキの國に渡し奉つた、といふ話が附け加へてあるが、是は前の物語にも見える。此の樹木の話が事實で無いことは勿論であるが、かういふ神話は、青山如枯山泣枯といふスサノヲの命の本質、また其の運命である根の國の觀念と矛盾してゐる。さうしてこれは、支那人が種々の人文的現象の起(291)源を昔の帝王の製作に歸したのと同樣の思想で、やはりずつと後世に作られた話であらう。此の話には單にカラクニとあつて新羅とは無いが、それが新羅を指すものであることは、前の話から自然に推測せられる。それからスサノヲの命と木材との關係は、カラクニの島から船舶(浮寶)となり、船舶から木材となつたのであらう。さうして木材とキの國との關係は、ヤマト附近で最も有名な熊野の山林から着想したものであらう。キの國は即ち木の國で、そこから皇居造營の木材を採つたことは、古語拾遺にも見えてゐる。前の話に、キの國に坐す神はイタケルの神だとあるのも、此の關係から出た思想に違ひない。それから、熊成峯はどこのことをいつたのか明かにわからぬが、クマナリの名で最もよく我が國民に知られてゐるのは百濟の都府であるから、作者はそれを頭の中に入れてゐたのかも知れぬ。なほこゝに韓とあるのは、初めからカラとよませたものらしいが、カラは本來加羅國を指したので、それを廣く韓地の總稱として用ゐたのは、加羅を屬國とした後、多少の時日を經てからのことであらう。此の點から見ても、此の話は甚だしく古いものでないことが知られる。さて、前に述べたやうに、神功皇后の新羅征討の物語には、海に出てみても國が無いといふ話があるのを見ると、上に記した幾つもの新羅に關する説話は、加羅人來朝の物語と同樣、新羅征討物語の出來たよりも後に作られたものであるらしい。
最後に、記紀には見えない話であるが、姓氏録第五卷、新良貴氏の條に、新羅國王の祖先は神武天皇の御兄弟のイナヒの命だ、としてある話がある。記紀の何れにも出てゐないで、ずつと後に編纂せられた姓氏録にあるといふことが、既に此の話の餘り古くないことを暗示してゐる。多分、神武紀に此の命が海に身を投ぜられたといふことがあるので、それを海外にゆかれたことに取りなし、さうしてそこから發展した物語であつて、新良貴氏といふものが、其(292)の祖先を皇族に托して家格を尊くしようといふ動機から出たことであり、恐らくは記紀の編纂せられた後、奈良朝ごろに作られた話であらう。(イナヒの命のことは、古事記には妣の國にゆかれたとあり、書紀には母が海神だからといふので海に入られたとあるから、其の意味は分明である。即ち海中に入られたことであつて、海外の國にゆかれたのでは無い。)新羅が古く知られてゐなかつたことは、たび/\繰り返したから、もはやいふには及ぶまい。宣長は古事記傳(卷三十四)に於いて、三國史記の新羅紀に脱解尼師今が倭國の東北一千里である多婆郷國に生まれたものとしてある記事を引いて、かういふことのありさうなやうなことをいつてゐるが、三國史記のこれらの記事が歴史的事實の記録で無いことは、附録に於いて述べる通りである。
以上の研究で、神功皇后新羅征討物語の性質、また上代の新羅に關する種々の物語の史料としての價値は、ほゞ判明したことと信ずる。ところが此の征討の由來がクマソ征伐の時にあるとすれば、其のクマソとは何であらうか。そこで次の問題に轉ずる。
(293) 第二章 クマソ征討の物語
一 ヤマトタケルの命に關する物語
クマソに關する説話で最もよく人に知られてゐるものは、いふまでもなく、ヤマトタケルの命がクマソタケルを誅せられたといふ物語である。此の話は記紀の記載がほゞ同樣であつて、(1)ヤマトタケルの命が女裝して宴席にまぎれ込み、そこでクマソタケルを殺されたといふこと、(2)クマソタケルが命の武勇を讃美して、ヤマトタケルといふ稱號を上つたといふことは、兩方とも一致してゐる。たゞ古事記にはクマソタケルを兄弟二人としてあるのに、書紀では一人とし、古事記にはタケルの名が無いのに、書紀にはトリイシカヤといふ名が出てゐる上に、またカハカミノタケルともいふとしてある。それから、命の着られた女のきものはヤマトヒメの命からもらはれたものである、といふ古事記の話が書紀には見えない代りに、弓の上手なものをつれて行かれた、といふ書紀の物語は古事記には無い。しかしこれらの小異は、物語の中心思想には大した影響の無いことである。たゞ古事記では、ヤマトタケルの命の御行動がクマソ征討の全體であるのに、書紀では、其の前に景行天皇親征の物語があつて、それが詳しく記されてゐるから、ヤマトタケルの命の御事業は比較的輕いものになつてゐるので、こゝに記紀の間に存する一大差異が見える。
(294) さて此の話について、記紀のどれが原形であるかと考へて見るに、第一に坂逆者を二人とすることは、例へば神武天皇東征の話に見えるエウカシ、オトウカシや、エシキ、オトシキなどの如く、古い物語の通例であつて、書紀でも、景行天皇親征の時のソの國の酋長をアツカヤ、セカヤとし、其の女にイチフカヤ、イチカヤの二人があるやうにしてある。同じ時のクマの酋長はエクマ、オトクマであり、アソにはアソツヒコ、アソツヒメがある。またヤマトタケルの命に降服したエミシの酋長は、シマツカミ、クニツカミとして書紀に記してある。其の他、常陸風土記のヤサカシ、ヤツクシ、キツヒコ、キツヒメ、肥前風土記のウチサル、ウナサル、オホミヽ、タルミ、など、風土記にも例は多い。或は兄弟とし、或は男女とし、また或は二人の間の關係が明かでは無いけれども、兄弟男女を連稱すると同じやうな語調で連稱せられるやうに出來てゐる、といふ差異はあるが、二人としてあることは同じである。さうしてこれはタカミムスビ、カミムスビ、イザナギ、イザナミ、アハナギ、アハナミ、カミナホビ、オホナホビ、オホマガツヒ、ヤソマガツヒ、イクタマ、サキタマ、イハサク、ネサクなどの例でも知られる如く、神々の名に於いて常に見るところであり、又た後の物語でも、外國人を呼ぶ場合にすら前に述べた如くクレハ、クレシ、スルキ、ヌルキ、エヒメ、オトヒメ、アヤハトリ、クレハトリの類があつて、上代の日本人の趣味から來てゐたことらしい。もつとも、叛逆者が何時でも二人に限られてゐるのでは無いので、神武天皇の物語のナガスネヒコのやうに一人である場合もあるが、兎も角も二人連稱せられてゐることが多く、さうして其の由來が上代人の趣味にあるとすれば、クマソタケルの場合に於いても、古事記の方が原形であらうと推測せられる。但し古事記でも、こゝではクマソタケル兄弟二人とあるのみで、二人別々の名は出てゐないが、オトタケルといふ稱呼があるから、エタケルと連稱し得るのであらう。なほ、書紀に(295)クマソの酋長をトリイシカヤとしてあるのは、後にいふ景行天皇親征の物語のアツカヤ、セカヤ、其の二女のイチフカヤ、イチカヤと聯絡がありさうであつて、特にトリイシカヤのイシカヤはイチカヤと同語らしい。カヤといふ語の意義は兎も角もとして、これだけの事實は注意を要する(アツカヤ、セカヤのアツとセとは勿論、對照的の意義を含んでゐる)。
それから第二に、かういふ酋長の名は、神武紀に見えるトミヒコとか、エウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、ウサツヒコ、ウサツヒメ、とかいふ例の如く、トミ、ウカシ、シキ、ウサなどの地名を其のまゝに取つてあるのが古い物語の通例であつて、特殊な固有名詞のあるのは一歩進んだ形式と思はれるから、此の點に於いても、單にクマソタケルといふ名になつてゐる古事記の方が原形らしい(書紀でも、後にいふやうに、景行天皇親征の物語には此の例が多い)。第三に、女裝せられた其の衣裳がヤマトヒメの命から貰はれたものであるといふのは、女裝の由來を説明するのであるが、弓の達人をつれてゆかれたといふのは、物語の中心觀念になつてゐる女裝して敵に近づき劍で刺し殺すといふのとは、何の關係も無い、否むしろ矛盾した話であるから、これは後から附け加へた贅物であることがわかる。だから、こゝでも古事記の方が古い形である。(但し、ヤマトヒメ云々の話は無くてもよいことである。特にヤマトヒメの命は伊勢にゐられたといふのであるから、ヤマトタケルの命がそれに會はれるといふのは、東征の場合には自然であるが、西伐の話には不自然である。だから是は多分、東方征討の場合に、同じ命から劍と火打ちぶくろとを貰つて行かれた、といふ話から思ひついて附加せられたことらしい。)
さて此の物語の女裝云々は固よりお噺である。ヤマトの朝廷から遠路わざ/\皇子を派遣せられる、といふ物語の(296)精神から見ても、クマソは大なる勢力を西方に有つてゐたものとして、物語の記者の頭にも映じてゐたに違ない。さういふ大勢力が、こんな兒戯に類することで打ち破られるものではあるまい。(書紀にはヤマトタケルの命の風采を「幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉、」と書いてあるが、かういふ皇子の童女姿を書紀の編者はどうして想像したであらうか。もつとも是は、女裝の物語の出來た後に於いて、支那風の勇士の形容語を無意味に附會したのみのことで、女裝の物語そのものを批判する用には立たぬが、あまり好笑しいから附記して置く。書紀の支那風の文飾は大抵こんなものである。)一體にかういふ英雄の説話は、其の基礎にはよし多人數の力によつて行はれた大きい歴史的事實があるにしても、其の事實を其のまゝに一人の行爲として語つたものでは無く、事實に基づきながら、それから離れた概念を一人の英雄の行動に托して作つたのが、普通である。だから、かういふ話が出來るのである。それから、クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、お噺であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語のすぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同樣のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者、イヅモの勇者に對してヤマトの勇者といふ意味であり、それがヤマト朝廷の物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでも無からう(皇子の御本名はヲウスの命とある)。さうして此のクマソタケル、イヅモタケルは、上に述べたやうな地名を其のまゝに人名とした一例であつて、實在の人物の名とは考へられない。實在の人物ならば、こんな名がある筈は無いから、これは物語を組み立てる必要上、それ/\の土地の勢力を擬人し、或は土地から思ひついて人間を作つたのである。さうしてそれは、よし實際そこに何かの勢力があつた場合にしても、時と處とを隔てて、即ち後世になつて又たヤマトの朝廷に於いて、物語製作者の頭から生まれたこととしなければならぬ。だから此(297)の物語もまた、決して其のまゝに歴史的事實として見ることは出來ないものである。
なほこゝで附言して置きたいことは、古事記に、ヤマトタケルの命がクマソの征討を終へてからイヅモに迂囘し、イヅモタケルを誅伐せられた、といふ話のあることである。其の話はクマソ征伐の時の女裝と同じやうな詭計が主となつてゐるので、命が豫め作つて置いた木刀を佩いてゐられて、それを或る時にイヅモタケルの刀と取りかへ、さうして其の刀で敵を仆されたといふのである。ところが此の話は、書紀には崇神天皇の時の、イヅモの臣の遠祖のフルネと其の弟のイヒイリネとの間の出來ごととしてある(崇神紀六十年の條)。兩方ともイヅモに關係はあるが、一つの話が全く別の場合、別の人間のこととなつてゐるのは、かの玉(または石)から女の生まれたといふ話が、ヒボコとツヌガアラシと兩方に結びつけられたと同樣であつて、興味の中心は話そのものにあり、さうしてそれは本來獨立のものであつたらう。古事記の材料となつた舊辭では、ヤマトタケルの命が東西の反抗者を征討せられた、といふ話があるために、其の命に同じやうな役目をもう一つ附け加へ、また其の西方のがクマソタケルといふ名によつて示されてゐるために、それに相應ずるやうに、イヅモタケルの名を以てイヅモの勢力を代表させ、それを、同じいひ表はし方の名を有せられるヤマトタケルの命が征討せられたやうにしたのであつて、一種の類想から構成せられたものらしい。皇族にも地方の豪族にも、某タケルといふ稱呼が名のやうになつてゐるのは、記紀の二書に於いて、此の場合に限るからである(書紀の方のが古事記の話の作られたよりも後に出來たものかどうかはわからない)。イヅモに一種の勢力があつて、それがヤマトの朝廷に十分服從してゐなかつたため、屡々それに對する征討が行はれたことは、此の物語の裏面に潜在する事實らしいが、以上述べたことから考へると、此の話は其のまゝに事實では無からう。それから山(298)の神、河の神、穴門の神を平定せられたといふことがあるが、これについては別に後章に述べよう。
ヤマトタケルの命のクマソ征討も、物語に現はれてゐるところは事實で無いが、しかし朝廷に服從しないクマソといふ勢力があり、或る時代に多少の兵力を以てそれを平定せられたことは事實らしい。ヤマトタケルの命の物語は、それを一英雄の行動として作つた話であらう。しかし其のクマソとは一體何であらうか。
(299) 二 記紀に現はれてゐるクマソ
記紀に見えるクマソの記事で最初に人の目につくものは、古事記の神代の卷のオホヤシマ生成の段に、ツクシ(廣義にいふ。即ち所謂九州全部)の島は身が一つで面が四つあり、其の四つはツクシ(狹義にいふ)の國、トヨ國、ヒの國、クマソの國だ、としてある話である。さて此の四國には、他の島々の例の如く一々擬人せられた名が附いてゐて、ツクシの國はシラヒワケ、トヨ國はトヨヒワケ、ヒの國はタケヒムカヒトヨタジヒネワケ、またクマソの國はタケヒワケとなつてゐるが、是について世間に問題になつてゐることがある。それは、ヒの國の名が他の三國とやゝ趣を異にしてゐて、而も其のうちにヒムカヒの語があるところから、こゝの本文に混亂があつて、ヒムカ(日向)の國が脱けてゐるのだらう、といふ説のあることである。が、面四つとある以上は、特に其の前のイヨのフタナの島が身が一つで面が四つあるといふ記事を承けて「此島亦身一而有面四」とある以上は、其の四の數に合ふやうに考へねばならぬから、仮にタケヒムカヒトヨクジヒネワケの名には何等かの混亂があるとしても、それがためにクマソの國の外に別にヒムカの國が擧げてあつたとすることは出來まい。ところで、四面のうちツクシ(狹義)は大體、今の筑前筑後、トヨは豐前豐後、とは肥前肥後であらう。
トヨの中心は後にいふやうに今の豐前仲津郡にあつたらしいから、トヨ國といふのも本來は豐前方面が主であつたらう。またヒの國は、もとは肥前方面のことでは無かつたらうか。肥前と肥後とは中間に筑後が介まつてゐて、(300)それが自然的に一國として、または一地方名の下に、呼ばれてゐたといふことは頗る疑はしいからである。一つの國といふ觀念もしくは一地方としての名稱は、通常陸地つゞきの場合に於いて生ずる。だから、今の肥前と肥後とを一國としたのは、恐らくは國郡制置の際の人爲的方法であつたらう。さうして、もし早くからヒの國としてヤマト人に知られたのが今の肥前と肥後とのどちらであつたかといふと、それは地理上ヤマト人に早く接觸してゐた點からも、京に近いことからも、前者と見るのが妥富であらう。一方にトヨ國がツクシに連接してその東にある以上、ヒの國はそれに對してツクシの西につゞいてゐる、と見るのは當然であらう。特に肥前は上代に於いて對外航路の發着地となつてゐたマツラ地方を含んでゐて、極めて重要な地域であるから、そこがヒの國としてツクシから特別に取り扱はれたと考へるのは、無理で無からう。繼體紀に、イハヰがツクシ、ヒ、トヨの三國に據つて新羅と氣脈を通じたとあるが、其のヒも對韓航路の要津マツラの存在する肥前であらう。もつとも肥前肥後が肥の一國とせられたのは、其の前から肥後地方をもとの國の名で呼んでゐたからであらうが、それは肥前がヒと呼ばれたとは別のことで、また後のことではあるまいか。もし又たヒといふ名が肥前か肥後かの一方にのみあつて、一から他に及ぼされたのであると見るならば、それは前者から後者に擴められることはあつても、其の反對の場合を考へることはむつかしくはあるまいか。なほ國の名にある「前」「後」の意味は道の口、道の後で、ヤマトの京からの公道の通過する順序であるが、筑前の方から肥後にゆくには、やはり筑後を通るのが自然ではあるまいか。肥前を經由し海を渡つてゆくこともあつたではあらうし、此の間の海上の交通は古くから、盛んに行はれてもゐたであらうが、公道として特にそれを選ぶのは不自然ではあるまいか。だから、こゝにも人爲の跡が見える。宣長は古事記傳に於いて、(301)ヒの國の本國を肥後としてゐるが、それは、後にいふやうな書紀の地名説話を絶對に信用してゐるからであつて、著者は寧ろそれとは反對に考へる。なほ次々にいふところを參照せられたい。しかし古事記の此の物語では、さういふ古い意味でいつてゐるのではなく、やはり前に述べたやうな考であらう。それは後にいふやうに、此の物語の書かれたのが此較的後世であるからである。
さてツクシ(狹義)、トヨ、ヒの三國は、廣義のツクシの北半をなすものであるから、残りの一つのクマソは其の南半をなすもの、即ち今の日向・大隅・薩摩地方に當るのであらう。北部が三國とせられ南部が一國と見られてゐるといふのは、不平均な話ではあるが、實際の行政區劃としても、國郡制置の後まで、今の日向・大隅・薩摩三國は日向の一國であつた。大隅國が日向國から分立したのは和銅六年であつて、これは、續日本紀(卷六、元明紀)の同年四月の條に「割日向國肝坏、贈於、大隅、姶羅四郡、始置大隅國、」とあるので明白である。薩摩の日向國から分れたのはやゝ明確を缺いてゐるが、同じく續紀(卷一、文武紀)の大寶二年(和鋼六年よりは十一年前)四月の條に「筑紫七國」といふことがあつて、七國は兩筑・兩豐・兩肥の六國と日向とでなければならぬから、此の時までは薩摩地方がまだ日向國の一部であつたらしい。ところが同紀には、此の年の八月に薩摩のハヤトの叛亂があつて、それに對する征討が行はれたといふ話があり、其の十月の條に「唱更國司」云々といふ記事が見えるから、薩摩地方は此の征討の結果として、ハヤトの國の名の下に日向國から分立したのであらう。また、行政區劃としてで無く、漠然たる地方名として考へても、今の大隅・薩摩地方がヒムカといふ廣い名に含まれてゐたことは、多分國郡制置以前からのことであらうと思はれる。確證は無いけれども、國郡制置の時に定められた行政區劃の名稱は、其の前からの習慣によつたもの(302)であらうと想像せられる。(書紀の神代卷に「筑紫日向可愛之山陵」「日向吾平山上陵」とあり、神武紀には「日向國吾田邑吾平津媛」とあつて、普通に解説せられてゐる如く、エ(可愛)もアタ(吾田)も今の薩摩の地方にあり、アヒラ(吾平)は前に引用した大隅の姶羅郡だとすれば、これらの記事の書かれた時には、少なくともヤマトの朝廷に於いては、薩隅地方をヒムカの總稱の下に呼んでゐたらしいが、其の書かれた時期が判然しないから、それを證據とはしかねる。これらの文句は古事記にも、古事記とほゞ同樣な記載を有する書紀の「一書」にも、見えないが、薩摩・大隅が日向から分立したのは大寶・和銅年間であるから、其の後に行はれた書紀の編纂の際に、新たにかう書いたのではなく、其の史料となつたものに既に存在してゐたのであらう。しかし、其の史料が國郡制置の前に書かれたと、見なさねばならぬ理由も無いやうである。)さすれば、神代史の國土生成の物語に於いて、廣義のツクシの南半をクマソの國の汎稱の下に一括して呼んだといふことは、必ずしも怪しむに足らぬ。
但しこゝに考ふべき問題は、此の「クマソの國」といふのは實際世間で用ゐられてゐた名稱か、または物語の上だけのことか、といふことである。ツクシ(廣義)に四面があるといふ思想は、クマソが服從し其處がヤマトの朝廷によつて統治せられる國家組織に入つてからのことに違ひないが、さうなつてからもなほ、クマソの國といふ名が實際に用ゐられてゐたであらうか。クマソといふ稱呼が、ヒとかトヨとか狹義のツクシとかいふ名と同樣に取り扱はれた例は、他には見えないやうであり、また古事記の神代の卷に於いても、ヒムカといふ名は所謂天孫降臨の話などに於いて現はれて來るが、クマソの國といふことはこゝばかりである。一體、此のツクシに四面があるといふ話は、古事記だけのことであつて、書紀にも多くの「一書」にも見えないのであるから、此の話は初めからの舊辭にあつたのでは(303)無く、後になつて何人かの手によつて増補せられたものが、阿禮の誦んだ舊辭にのみ現はれてゐたのであらう。單にツクシの島を生むといふよりも、話が精密になつてゐるだけ、一歩進んだ思想の所産であることが知られる。さうして、ヒムカの名の神代史に見えることは、記紀の何れに於いても共通であるから、これは初めから神代の物語にあつたことであらう。さすれば、クマソの國をヒの國やトヨ國と同樣に視るのは、其のクマソといふ勢力の亡びてから久しい後に記述せられた物語の上だけのことではあるまいか。もしさうとすれば、實際のクマソの範圍を考へるには、此の物語を其のまゝに適用するわけにはゆかぬかも知れぬ。
しかし、それはそれとして置いて、次にクマソの國といふ其の「國」の語が如何なる意義に用ゐられてゐるかを、一應考へて見ねばならぬ。先づ他の三國について見るに、國郡制定の前に於いては、所謂クニノミヤツコ(國造)の支配してゐるクニ(國)があるが、これは、アガタヌシ(縣主)の管治してゐるアガタ(縣)や、イナギ(稻置)とかワケ(別)とかいふ名稱の領主を有する小區劃と相並んで、互に獨立してゐたものであり、其の區域も狹いのが常であるから、ツクシ(廣義)が四つに分かれるといふ意味での「國」が、國造の「國」で無いことは疑ひがあるまい。さすれば、それは廣い地方を總稱する漠然たる名稱であつて、必ずしも政治的もしくは行政的の意味を有つてゐないものとしなければなるまい。例へば、一方にウサの國造(神武紀卷首)がありながら、其のウサがトヨ國のウサ(古事記、神武天皇の卷の卷首)とも記されてゐるのを見ると、此のトヨ國は、ウサの國造の領地であるウサの國をも含んでゐる、廉い地方の汎稱であることが知られよう。さうして別にトヨ國の直が豐前國の仲津郡中臣村にゐたやうに書いてある豐後風土記の記載が、よし事實を傳へたものであるとしても、此のトヨ國の直の管治するトヨ國の區域は狹いものであつて、(304)例へばウサの國造の領地などをば含んではゐなかつたらう。ツクシのイトの縣(仲哀紀八年の條、古事記にはイトの村とある)や、ナの縣(同上)は、ツクシ(狹義)の中であつて、それらの縣は、ずつと後まで存在してゐたであらうに、別にツクシの國造イハヰがあるのも、それらの縣主と相並んでゐる國造の領地としてのツクシ(狹義のツクシよりもつと狹いもの)が、イトやナの外にあると共に、ツクシ(狹義)がイトやナの縣を含む廣い地方名であることを示すものであらう。これは恰も、古事記、垂仁天皇の卷に見えるヲハリの國のミヌの別のヲハリの國と、同記景行天皇の卷にあるヲハリの國造のヲハリの國との關係と、同一である。また、メツラ(マツラ)の國といふ語が神功紀に見えるが、此の國は後に肥前國の管内になつたことから考へると、ヒの國に含まれてゐたかと思はれる(古事記の仲哀天皇の卷には「ツクシのマツラの縣」とあるが、これは新羅からの還幸の記事であるから、ツクシは廣義に用ゐられてゐるものと見られる)。
トヨ、ツクシ(狹義)といふ汎稱の起源は或は、トヨ國の直、ツクシの國造の領地たる小さい土地の名から起つたかも知れぬが、よくはわからぬ。(ツクシの國造の本地は、人文地理上の形勢から見て後の筑前方面ではあらうと思ふが、延喜式の神名帳に見える筑紫神社の所在地であるかどうかは、明かで無い。イハヰのゐた土地も史上には見えてゐない。筑後風土記に上妻郡の石人のあるところを彼の墓としてあるのも疑はしい。またヒの國については其の本地を知るたよりが無い。古事記の神武天皇の卷にヒの君があり、欽明紀七年の條にも同じ名が見えるが、それが何處にゐたものか不明であり、また此の記事が肥後をもヒといふやうになつた後に書かれたものならば、其のヒが肥前の方か肥後の方かすらもよくわからぬ。肥前風土記にも、ヒの君について肥後方面に關係のある物語がある(305)が、それとても肥後にゐたものとのみは解し難いやうである。)また、此の狹義のツクシとかヒまたはトヨとかいふ名が何時から用ゐられたかも不明であるが、もし想像を許されるならば、それらの地方が我が國家組織に入つてからのことではあるまいか。それよりも前からあつたならば、魏志にも見えさうなものであるのに、見えてゐない。またツクシを廣義に用ゐたのは、ヤマトの朝廷がクマソ方面をも平定せられた後のことらしい。
さて、ツクシ、トヨ、ヒ、などの名が、やゝ廣い地方の漠然たる名稱として用ゐられてゐたことは、以上の考説で明かであらう。既に漠然たる名稱だとすれば、其の區域は必ずしも明確では無かつたに違ひない(從つて、國郡制定後のツクシ即ち筑前筑後、トヨ即ち豐前豐後、ヒ即ち肥前肥後といふ三國の區劃によつて、それより前にツクシ、トヨ、ヒ、と呼ばれてゐた地域を精密に推し當てることは、恐らくは妥當では無からう)。またすべての土地がかういふ名稱で區分せられてゐたと見るべきものでも無からう(だから、トヨ國が主として豐前地方、ヒが肥前方面であつて、豐後や肥後にはさういふ廣い地方名が無かつたとしても、怪しむには足らぬ)。古事記の物語の記者はたゞ世問に漠然用ゐられてゐる地方名を漠然取つて、それが地方的區劃の名ででもあるやうに、文字の上だけで書きなしたに過ぎなからう。かう考へて來ると、これらの三國と同樣に取り扱はれてゐるクマソの國も、やはり漠然たる意味で用ゐたまでのことであらう。言ひかへると、物語の記者も明確なる境域などを考へてはゐなかつたに違ひない。だから此の鮎から見ても、此の話でクマソに關するたしかな概念は得られない。たゞ、廣義のツクシの南半がクマソと何樣かの因縁を有つてゐる、といふことをそれによつて推測し得られるだけのことである。そこで今度は方面をかへて、クマソといふ名の由來を考へて見る。
(306) まづ記紀を調べてみると、書紀の神代の卷の所謂天孫降臨の條に「襲之高千穗峯」といふことがある。「一書」として引いてあるものには「襲之高千穗※[木+患]日二上峯天浮橋」とも「襲之高千穗添山峯」ともある。高千穗が何を指すにせよ、單に「襲」即ちソといふ地名があつたことはこれで推測せられる。又た景行紀に見える天皇の巡幸記事の中にも「朕聞之、襲國有厚鹿文※[しんにょう+乍]鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、」とも「悉平襲國」ともある。さうして此のソの平定は、天皇がヒムカの國にゐらせられてのこととしてある(こゝにヒムカの國とあることについては後にいふつもりであるが、こゝではたゞ此のソが後のヒムカの國、即ち今の日向・大隅・薩摩方面にあるといふ本文の地理的記載を引用するまでである)。だから、書紀の神代史や景行天皇巡幸の物語が書かれた時には、ソといふ名でヤマトの朝廷に知られてゐた土地があつたことは明かである。但し景行紀の「襲國」は「悉平襲國」が「殺熊襲梟帥」の結果となつてゐ、又た上文にある「討熊襲」に照應するものであることを思ふと、「熊襲」と同じ意味に使つてあるから、是は或は熊襲國の「熊」が脱ちたのかも知れず、既に集解の著者はさう決めてゐる。が、「熊襲國有厚鹿文※[しんにょう+乍]鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、」といふのは文章としては極めて拙い。それから此の物語に於いて、ソとある二つの場合には何れも下に「國」の字がついてゐて、クマソとある時には何時もそれが無い(もつとも、次のヤマトタケルの命の物語及び神功紀には「熊襲國」とあつて、それを誤りだと推すべき理由は無いから、このことは強い論據にはならぬ)。が、それは兎も角もとして、同じ景行紀の皇子の御名を列擧してある條にも、ヒムカのカミナガオホタネといふ妃の所生としてヒムカのソツヒコの皇子の御名、又た別の妃としてソのタケヒメといふ名を記してゐて、此のソも(景行天皇に關したことであるところから考へると)、地名のソから來たものであらうから、書紀の此の巡幸物語の記者は此の場合にもクマ(307)ソといはずしてソといはないには限らぬ。だから或は「脱熊字」とすべきものかも知らぬが、さうかたつけるだけの十分な理由は無い(何故にソとクマソとが同じ意義に用ゐられてゐるかは後の問題として)。なほ古事記には、神代の卷にも景行天皇の卷にも、單にソとしてあるところは一つも無く、古事記とほゞ同樣の記載を有する書紀の「一書」にも、タカチホをソにあるとは書いて無い。又た景行天皇の妃や皇子にも、共に引用した名は古事記には全く見えてゐない。だから以上の話は凡て書紀に於いてのことである。
さて、此のソは何處かといふと、ずつと後の續紀(卷五、元明紀)の和鋼三年のところに「日向隼人曾君」云々といふ記事があつて、此の「曾」は即ち「襲」であることが推察せられるが、さうすると前に述べた大隅分國の記事の贈於が即ちそれに當るらしい。ところが、肥前風土記の卷首や豐後風土記の日田郡の條に、オホタラシヒコ(景行)天皇の征討せられたクマソを球磨贈於、または玖磨※[口+贈]唹と書いてある(釋日本紀、卷十に引いてある肥後風土記にも球磨贈唹とあるが、此の風土記の茲に見える部分は、景行天皇と諡號が書いてあつたり、文章も記事も肥前風土記の卷首と酷似してゐたりするところから見れば、後人の作で、肥前風土記を少し書き直したものであらう)。これを見ると、これらの風土記の書かれた奈良朝時代には、クマソのソは日向の贈於だと考へられてゐたやうであるが、これは多分昔から承け襲がれた習慣であらう。播磨風土記、印南郡のところには久麻曾とあつて、此の曾の字は前に引いた續紀の記事にも見え、やはり贈於のことである。クマソのソはほゞ是でわかつた。(此の贈於郡が今の※[口+贈]唹郡では無く、霧島山の西に當る姶良郡地方である、といふことは、故吉田東伍氏の地名辭書の大隅の部に説いてある。)
然らばクマは何かといふと、前に引いた風土記どもに球磨(または玖磨)贈於とつゞけてある「球磨」が、贈於の北(308)につゞいてゐる今の肥後の南部、球磨川の流域の地名として、用ゐられてゐる文字であることを思ふと、風土記の作者はクマソのクマを此の土地の名として考へてゐたらしく、さうしてそれは、やはりソについて述べたと同樣、上代からの思想がうけつがれたものと思はれる。景行紀に、天皇がソを平げられた後、コユからヒナモリを經てクマの縣にゆかれ、それからアシキタへ出られた、といふ話があつて、其のクマには熊襲の「熊」の字があててあるが、それが、やはり同じ今の肥後の球磨郡であることは、此の道筋から推測せられる(ヒナモリは延喜式兵部省の卷の驛傳の條に見えてゐるが、前後の驛名から考へると、地名辭書に今の西諸縣郡小林附近としてあるのは、動かぬ擬定であらう)。クマは一般にソと結びつけて考へられ或は呼ばれてゐたほど、互に接近したところらしい。ソの上にクマが加へられてあるところから、それはソに對する形容詞だといふ考があつて、宣長は古事記傳(卷五)に於いて此の説を主張し、勇猛の意を現はしたものだといつてゐる。仲哀紀にクマワニ、神功紀にクマワシといふ人名があつて、此のクマはワニ、ワシの形容詞らしくも見え、神代紀の「一書」にトヨタマヒメが八尋の大熊鰐になられたと書いてもあるから、此の説も一應は證據がありさうに見えるが、ソは地名であるから、其の上に強いといふ形容詞を加へることは肯ひ難い。さうして、オホタカ(古事記、垂仁天皇の卷)とか、オシクマ(同、仲哀天皇の卷)とか、ハヤブサ(同、仁徳天皇の卷)とかいふやうに、動物の名を人につけることは上代人の一般の風習であるから、クマワニ、クマワシも、動物の名を二つ重ねてつけたものと考へる方が、妥富であらう。(神代紀の「大熊鰐」には多少の疑ひもある。これは他に例の無い書き方であるのみならず、同じ書のすぐ前のところには「大鰐」と書いたのがあるからである。)なほ地名にクマといふ語のついてゐるところは所々にあつて、特に九州には甚だ多いが、それは或は地形地貌などに於いて何か共通(309)の點があるのかも知れぬ。それを考へるのは、種々の點から興味のあることであるが、しかしそれはこゝでの問題では無い。(延喜式の兵部省の驛傳馬の條に、日向國の救麻といふのが見えるが、あまり知られないところであるから、クマソのクマはこゝではあるまい。)
さて、クマとソとが結合して、クマソといふ一つの名らしくヤマトの朝廷で用ゐられたのは、現にクマやソに交渉のあつた時代には、此の二つは別々の土地もしくは別々の勢力として考へられてゐたのが、事變の遠く消え去つた後、其の話が傳説化せられるに當つて、一つに結びつけられたのでは無いか、とも考へられる。書紀にクマとソとが同意義に用ゐられてゐるのも、かういふところから來た混亂かも知れぬ。が、其の反對にクマソといふ名が早くからツクシ方面に行はれてゐて、ヤマトの朝廷ではそれを其のまゝに繼承したのであり、ソとクマとが別の土地もしくは別の勢力であるといふことは、後に此の地方がヤマト朝廷に歸服してから明かになつたものとも考へられるから、一概に決めてしまふ訣にはゆかぬ。もし後者であるとすれば、クマソといふ名の出來たのは、或る時期に於いてクマとソとが最も密接なる關係を有つてゐたからのことであらう。「アルサス、ロレイン」といつたり、「むくり、こくり」といったりするやうに、同一の事情の下にある隣接地、或は共同にはたらいた二つの勢力を連稱することは、怪しむに足るまい。更に一歩を進めて考へると、此の二つは、其の中の一つが全く亡びたか、または他に服屬したか、何樣かの關係に於いて、一つの政治的勢力に結合せられてゐたのかも知れない。
さて、クマソの名義の由來に關する上記の二案の可否は、且らく後まはしにして、此の名によつて示される勢力は、單にクマとソとの地方に限られてゐたかといふに、それが上代に於いてあれ程に名高い、さうして此の方面に於いて(310)ヤマトの朝廷に服從しないものの代表者である如く、傳へられてゐたことから考へると、もつと廣い地域に其の威力を及ぼしてゐたらしく思はれる。其の状態については種々に想像せられるが、魏志によつて三世紀ごろの状態を見ると、クマソの附近にも幾多の小君主土豪が割據してゐて、さうして恰も邪馬臺の卑彌呼の如く、其の上に君臨してゐたものがあつたでもあらうから、ヤマトの朝廷が初めて此の地方と直接もしくは間接に接觸を生じた時(早くとも四世紀に入つてから)には、クマソ、または其の中心勢力となつてゐたクマもしくはソが、丁度さういふ地位にゐたかとも想像せられる。卑彌呼のころにそれに對抗してゐたといふ狗奴國が、此の時まで存續してゐたとすれば、それは或は此の勢力であつたかも知れぬ。狗奴といふ名がどこかの土地に明かに擬定せられない以上、斷言はしかねるが、さう推測せられないでは無い。
それならば、クマソの勢力の及んでゐた範圍はどれほどであつたらうか、といふ問題が生ずる。ところが、書紀の景行天皇のツクシ巡幸、クマソ征討の物語に於いては、クマソの勢力を(古事記のオホヤシマ生成の段のクマソの國と同樣)ほゞ後の日向國、即ち今の日向・大隅・薩摩地方と見てゐるらしい。しかし此の物語は批判を要するものであるから、其の批判を經ずして物語を其のまゝに事實と見ることは出來ない。そこで次には其の物語を檢べて見る。
(311) 三 景行天皇に關する物語
先づ巡幸の御道筋を考へて見る。天皇はスハウ(周防)のサハ(今の佐波郡)の行宮から諸將を派遣して、トヨ國の諸豪を綏服討伐せしめられた。シツ山(今日のどこか明かにわからぬ)の附近にゐるらしいカミカシヒメは逸早く歸順した。ウサ川(今の驛館川であらう)のハナタリ、ミケ川(今の山國川であらう)のミヽタリ、タカハ川(遠賀川一支流の上流で田川郡を流れるものであらう)のアサハギ、及びミドリノ川(不明)のツチヲリヰヲリといふ土豪は、誅伐せられた。それから、天皇は豐前國のナガヲに赴かせられた。ナガヲはミヤコだとあるから、今の京都郡であらう。次にオホキタにゆかれ、次にハヤミにゆかれた。
茲に疑問がある。地理上の順序からいふと、ハヤミが前でオホキタは後でなければならぬ。本文には「到碩田國、其地形廣大亦麗、因名碩田也、到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長、……自奉迎之、」とある。ハヤミがオホキタの一部分であるならば、これでも地理に合はないことも無いが、他の例から考へてさうは思はれぬ。(前に豐前國とあり、後に日向國・筑紫後國などとある「國」は國郡制定後の行政區劃であつて、こゝのオホキタ(碩田)の國、または後のソの國、アソの國、ヤメの國などの「國」はそれとは違ふ。國郡制定前に國とあり邑とあるも、其の間に必ずしも從屬的關係は無い。)のみならず、同じく「到」の字を用ゐてあることから見ても、さう解稱するのは無理である(此の物語には、次ぎ/\の駐蹕地にゆかれることを、順路に從つてみな「到」としてある)。だから是は、物語の道順に(312)地理上の誤りがあると見る方が妥當であらう。豐後風土記の景行天皇巡幸に關する物語には、書紀の文を其のまゝ取つてあるに拘はらず、ハヤツヒメの奉迎を大分(即ち碩田)郡の南の海部郡でのこととし、また天皇が、スハウのサハから海路すぐに海部郡に向はれたやうになつてゐるが、記事は速見郡の條下に書いてゐる上に、ハヤミの地名の由來としてハヤツヒメの名を用ゐてゐて、甚だ曖昧である。これは、風土記だけに書紀の地理の誤謬に氣がついて、それをごまかさうとしたために、却つて一層の混雜を來たしたのではあるまいか。もつとも、風土記の大分郡の條には、ミヤコの行宮から大分郡に行幸せられたやうに書いてあつて、そこは書紀と同樣であるが、日田郡の條には、天皇がツクシ巡幸の御歸路に筑後から此の郡に入られたやうにしてあるから、風土記の記者はオホキタの巡幸を其の時のことにしようとしたのかも知れぬ。が、それにしても混亂は免れぬ。或は又たそれほどの統一した考もなしに、漫然と書いたものかも知れぬ。なほハヤツヒメの奏上に、「此山」に石窟があつて、そこに土蜘蛛がゐるとあつて、「此山」の「此」は文章の上からはハヤミと解しなければならぬが、後文によると、それはイナバ川附近らしい。イナバ川は次にいふやうにナホイリ地方にあるから、こゝにも地理の混亂がある。又た風土記には「山」の字が無いだけで他は同じであるから「此」は海部郡としなければなるまい。いよ/\變である。(支那の所謂正史に於いては、史料となつた一つの記録を勝手に節略したり、又た種々の史料の文章を不用意に維ぎ合はせたりしたために、指すところの無い代名詞が現はれたり、聯絡のしどろな文章が出來上がつたりする例が少なくないが、書紀にはそれが無いやうであるから、此處の文章の意味の混亂も、さういふやうなことから來てゐるとは思はれない。)
それから進んでタタミといふ所に行宮を設け、ツバキの市で兵器を作つて、イナバ川附近のチタで石室の土蜘蛛を(313)討伐し、進んでネギ野といふところの土蜘蛛を討平せられた。ネギ野はナホイリの縣にあると書いてある。クタミは書紀には來田見と書いてあるが、風土記直入郡の條には球覃とあり、郡(郡家の意であらう)の北としてある。又は朽網とも書いてある。球覃峯といふのもあつて、それは郡南とあるが、「南」は「北」の誤であらう。今の大船(または大仙)山がそれであることは、火山としてある記事から證明せられる。又たイナバ川は今も其の名があつて、大野川の一支川の上流であり、クタミの南を流れてゐる。ネギ野は風土記に、郡の南の柏原郷の南にあると見えるから、クタミからイナバ川を經て南にあるやうになつてゐる書紀の記載に合ふ。なほネギ野征討の時、天皇が一旦退いてキバラに歸られたとあるが、今もクタミの南にキバルといふところがあるから、是も地理上の順序が實際に適つてゐる。但し書紀によれば、ツバキの市はクタミとイナバ川との中間である、と見るのが自然であり、チタはイナバ川の畔としてあるのに、風土記には直入郡の東方にある大野郡に此の二つを入れて、並びに郡の南にあると書いてあるから、クタミともイナバ川とも餘ほどの距離があつて、こゝに、書紀の記載と實際の地理との第二の齟齬がある。これは或は、風土記の錯簡であつて、ツバキの市もチタも本來は直入郡の條にあつたものだらうといふ説もあるが、古く釋日本紀に引いてあるのもやはり斯うなつてゐるのみならず、此の二つを除くと大野郡の記事は網磯野一つになり、おまけに其の記事の書き出しが「同天皇」云々となつてゐて、それは海石榴市及び血田の條の「昔者纏向日代宮御宇天皇」に應ずるもので無ければならぬから、これを錯簡と見ることはむつかしからう。さうして、吉田氏の地名辭書によると、鎌倉時代の文書に、大野郡に屬する緒方庄の内に智田といふ名が見える、とのことであるから、これが昔のチタの名殘りでは無からうか。ツバキの市はいま不明であるが、昔は實際あつた名であらう(大和の初瀬の附近にも同じ名の(314)ところがあつて、萬葉などにも見えてゐる。市のたつたところだとすれば、可なり交通の便のよいところであつたらう)。著者は土地の所在に關しては風土記の方が信用すべきものと思ふから、書紀の物語には地理上の錯誤があると斷定する。なほ書紀には、天皇が初め賊を討たうとしてカシハヲの大野に宿られた時のこととして、大きな石を柏の葉の如くふみ上げられたから、其の石をホミシといふ、といふ話があるが、風土記には、蹶石(フミシであらう)野を柏原郷の中にあるとしてある。書紀の記事では何處のことか判然しないが、此の賊がネギ野の土蜘蛛をいふのであるならば、風土記の記載と必ずしも矛盾しない。フミシ野はネギ野の北にあるべき筈だからである。(風土記の記事については後に概論するつもりである。)
話は段々面倒になつて來たが、こゝで本筋に立ち戻つていふと、天皇はそれからヒムカの國に入られ、そこで敷ヶ月を費して、クマソもしくはソの國を平定せられた。此の時の行宮、所謂タカヤの宮の所在地が今日の日向地方であるといふことは、豐後方面からすぐにそこに進まれたといふことと、クマソもしくはソの平定の後、コユの縣に行幸せられたといふこととで、明かである。さてコユの縣では、日の出る方に向いてゐるといふので、ヒムカ(日向)といふ國名を始めて定められたといふ。
それから再び出立せられて、先づヒナモリを經てクマの縣へゆかれた。此の道筋は上に述べた通りであるから、今の西諸縣郡の野尻川の谿谷から(多分、薩摩へ流れる眞幸川の上流域を經て)、肥後の球磨郡、人吉地方へ出られた、といふのであらう。さて、こゝまではよいが、其のさきにいつて第三の地理上の錯誤が現はれる。それは、クマの縣の經略を終られた後に「自海路泊於葦北小島」と書いてあることである。此の葦北小島は、此のとき清水が湧き出た(315)ので天皇がミヅシマといふ名を與へられた、といふ話があるから、球磨川の河口にあつてアシキタの北端をなす水島であらう。さすれば、クマから球磨川の河口へ出られたといふのであるが、其の間を海路によられる筈が無い。特にクマに到着せられたのは甲子で、それから其の地の經略があつて、壬申に海路から出かけられたとしてある(行文が曖昧であるから、壬申は水島着御の日と解釋すべきものかも知れぬ)から、此の間の日數は極めて少ない。從つて物語の記者は、クマから何處かの陸路を經由して、水島よりも南方のアシキタの海岸に出られ、そこから海路水島にゆかれたと考へたのでは無く、クマがすぐに海に面してゐるやうに思つてゐたらしい。だからこれも、物語の地理と實際とが齟齬してゐるものと見なければならぬ。
それから、暗夜海路を進んでヤツシロへ上陸せられたが、此のとき人の焚かない不思議な火を目標にして進まれたので、ヒの國といふ名を與へられたといふ話がある(此の火は海上から見えた陸上の火であつて、海上の火では無い)。それからタカク(高來)に渡り、又たタマキナ(玉名)に渡り、それからずつと内地へ入つてアソの國へ行き、また立ちかへつて海に近い筑後のミケ(三池)へ出、それから東へ進んでヤメ(八女)、イクハ(浮羽)にゆかれたといふので、ここで巡幸の話は終つてゐる。
さて此の物語は、果して其のまゝに事實として見るべきものであらうか。それについて第一に考ふべきことは、前に述べた如く地理上の錯誤の多いことである。これは、此の物語が事實の記録として信じ難いことの一つである。事實の記録に於いても誤謬は有り勝ちであるが、これは少しく誤りが多すぎる。第二に、此の物語を構成する種々の説話は、主として地名を説明するために作られたものである。土地が廣いといふオホキタ、ツバキの木で兵器を作つた(316)といふツバキの市、土蜘蛛が誅伐せられた時に血が流れたからだといふチタ、石をふみ飛ばされたホミシ、日の出の方に向ふヒムカの國、水のわき出るミヅシマ、火の見えたヒの國、アソツヒコ、アソツヒメがゐるからといふアソ、大きい木があるといふミケ、ヤメツヒメがゐるからといふヤメ、盞を忘れたからといふイクハ等、巡幸の道筋の主要なる土地に皆な此の地名説話がある(豐後風土記は、上に述べた如くハヤミにもかういふ説話を結びつけてゐる)。ヒムカといふのも、コユの縣のどこかにさういふ地名のあることがヤマトの朝廷にも知られてゐたので、例の音聲の類似から「日に向ふ」といふ説明をそれに加へたのであらう。さうして此の種の説話を除けば、物語の大部分が空虚になる。此の地名説話が事實と見なすべきもので無いことは、少しく古今東西の地名に關する傳説を覗ひ知つたものの、何人も首骨するところであらう。(前章に述べた神功紀の、御笠が風にふみ墮されたからカサだの、御心が安まつたからヤスだの、又た皇子を生まれたからウミだのといふのも、之と同じである。またツヌガやミマナの説話についても、前に述べて置いた。)さうしてヒの國の名の起源について、肥前風土記に、空から火が下りて來たからだ、といふ全く別の話のあるのは、前に述べた如くツヌガに二つの物語があり、又た肥前風土記の佐嘉郡の名の説明に二つの話を擧げてゐると同樣、一つの地名に種々の説話が作られ得ることを示すものであり、又た大木の物語が同じく肥前風土記に佐嘉郡の名の説明として用ゐられてゐるのは、チタと同じ話が神武紀のウダのチハラにも適用せられ、神功紀のヤスと同じ説明が出雲風土記の安來郷に用ゐられてゐるやうな例と共に、一つの説話が所々の土地に結合せられ得ることを示すものである。(釋日本紀、卷八に引いてある播磨風土記にも、明石驛家駒手御井について同じやうな大木傳説があるが、これは地名説話として用ゐられてゐるかどうか、引用してあるだけのところでは不明である。古事記、仁(317)徳天皇の卷の大木の話も地名には結びつけて無い。なほ序にいふが、神功紀に見えるカサの地名の説話と似た話が、姓氏録卷五に於いては笠朝臣の氏の名の起源として用ゐてある。地名の起源を説くのも、人の名や家の名の起源を説くのも、同じ心理から出てゐる。)かう考へて來ると、前に地理上の錯誤があるといつた中の第二は、ツバキの市とチタとの名が、丁度あゝいふ説話を作つて戰爭の物語に插入するに都合がよかつたため、深く僻地の地理の賓際を考へずに、ヤマトの朝廷の物語記者が机の上で、クタミやイナバ川に結びつけたから起つたことだらう、と思はれる。
第三には、人名に地名を其のまゝ用ゐたもののあることである。ハヤミのハヤツヒメ、ヒナモリのエヒナモリ、オトヒナモリ、クマのエクマ、オトクマ、アソのアソツヒコ、アソツヒメ、ヤメのヤメツヒメ、などがそれであつて、ハヤツヒメ、アソツヒコ、アソツヒメ、ヤメツヒメ、などは人名から地名が起つたといふ説話とは反對に、事實は地名が人名のもとであり、さうして斯ういふ人名は、勿論、實在の人物の名とは思はれぬ。モロアガタの君のイヅミヒメといふ名も、應神天皇の妃としてヒムカのイヅミのナガヒメといふのがあることから考へると、やはり地名から作つたのであらう。だからこれらの人名はヤマトの朝廷に知られてゐる有名な土地について、物語を作るために案出せられたものと考へられる。それが各地に都合よく行き渡つてゐるのも、此の故であらう。それから、こゝに擧げた例でも見られる如く、人名には二人づつ連稱せられるやうに出來てゐるものが多い。これは地名から作つたもののみで無く、其の他の場合でも同樣であつて、クマソにアツカヤ、セカヤの二人の酋長があり、其れにイチフカヤ、イチカヤの二女があるといふなどは、其の最もよい例である。此の二女の父が二人の酋長のどちらであるか、わからないところに、二人づつの人間のあるといふことが主なる着想であつて、父子の關係などは顧慮せられなかつたことが見ら(318)れる。さうして斯ういふ人間は歴史上の存在で無くして、思想の所産と見なければならぬ。ハナタリ、ミヽタリといふやうなのもあつて、全く所を異にして其の間に何等の關係の無い二人の酋長に、こんな名のつけられたのが、事實でないことを示してゐる。ツチヲリヰヲリ(タチヲリヰヲリ?)といふのは一人の名になつてゐるが、これは二人に分化する可能性を有つてゐる(「神代史の新しい研究」第三章第二節參照)。神武紀に、カタヰまたカタヽチといふ地名のあることをも參照するがよい。もつとも、ハヤミヒメのやうに一人のもの、ウチサル、ヤタ、クニマロのやうに三人あつて連稱することの出來ないもの、もあるが、少なくとも其の多數が達稱するを得べき名を有する二人であるといふことは、かういふ人間が實在のもので無いことの證據であらう。
なほ第四には、多く兵を動かさば百姓の害であるといふので、鋒刃の威を假らずしてクマソを平げようとせられたといふ話、クマソの酋長の二女を陽に寵し、姉の方のイチフカヤの計を用ゐて酋長を殺させて置きながら、其の女の不孝を惡んで之を誅せられたといふ話が、支那思想であることを考へねばならぬ。また第五には、ヒムカでヤマトを憶うて詠ませられたといふ歌が、古事記ではヤマトタケルの命のイセでの詠として載せられ、而もそれが決して遠方にゐて故郷を思ふ歌とは見えぬこと、また決して一首の歌として見るべきものでないことを、注意しなければならぬ。これは本來無關係な歌が、甲の話にも乙の話にも結びつけられる一例であつて、古事記の仁徳天皇の卷に見える歌が、丹後風土記で浦島物語に適用せられてゐる、と同じやうなことである(「神代史の新しい研究」緒論第一節、及び「文學に現はれたる我が國民思想の研究、貴族文學の時代」序論第二節、參照)。
かう考へて來れば、此の物語を構成する種々の説話は、決して事實の記録で無いことが知られよう。さう思へば、(319)トヨ國のミヤコに行宮が設けられたといふのも、ミヤコの地名から起つた話であるらしい。ナガヲの縣の名が別にあるが、此の縣が即ちミヤコであるとは限られず、二者のさすところに範圍の廣狹があるとも解せられる(ミヤコといふ語は皇都といふ意味には限らぬ。一體に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考へねばならぬ)。
ところで、此の物語の本旨は一體どこにあるだらうかといふと、物語の最初に「熊襲反之、不朝貢、」といひ出してあること、特に「議討熊襲」と筆を起こし、「悉平襲國」と結んで、クマソ(もしくはソ)の征伐の記事には別段の注意がしてあること、また豐前・豐後地方に於ける幾多の土豪に對する經略は、十二年の九月・十月の二ヶ月間とせられ、肥後・筑後地方の豪族征伐として、ヒナモリから出立してイクハにゆかれるまでの時日も、十八年の三月から八月までの六ヶ月間になつてゐるのに、クマソの平定は十二年の十二月から十三年の五月までかゝり、クマソの征討、及び其の地方の綏撫と密接の關係があるべきヒムカの國の御滯在が、十二年の十一月から十八年の三月までの長年月とせられてゐることを考へると、此の物語の中心觀念はクマソの征伐であることがわかる。然るに其の征伐の方法は、女の詭計を用ゐて醉つてゐる間にクマソの酋長を殺した、といふのであつて、それもヤマトタケルの命のクマソ征討物語と同工異曲であり、前者は後者から轉轄化したものとして説明することが出來る。決して事實らしくは無い。又たヒムカの國の行宮のタカヤの宮の名は、書紀の神代卷に見えるホヽデミの命の御陵の名のタカヤ山と同じであるが、これも、記者の腦裡に於いて此の二者の間に一種の聯想があつたのではあるまいか(タカヤ山については後章にいはう)。
然らば此の物語に於いて、クマソ其のものはどう見られてゐるか、どれだけの勢力を有つてゐたものとしてあるかといふに、天皇が、ヒムカの國に入られてから其の征討に着手せられ、それを平げられてから、ヒムカの國造の祖を(320)生んだミハカシヒメを妃とせられたといふ話を思ひ、さうしてそれに、やはりクマソ平定の後コユの縣に於いてヒムカの國名を與へられたとしてあることを參照すると、今の日向地方、少なくともコユ、モロアガタ方面はクマソに屬してゐたやうに物語の記者は考へてゐたのであらう。もつとも書紀の文面だけでは必ずしも斯う解釋しなくてもよいので、ヒムカの國は征討の策源地とせられたのみであつて、クマソの領土では無く、さうしてそれは前から既に朝廷に歸服してゐたのだ、といへばいはれないことも無い。けれども物語の記者の精神から推測すると、これはクマソを考へるに當つて、最先に又た力強く、ヒムカの觀念が現はれて來たことを示すものであつて、それは即ちヒムカを昔のクマソの地と思つてゐたからであらう。さうして、神功皇后の新羅遠征にしてもヤマトタケルの命のエミシ征服にしても、みな其の本國、其の領土の内に進まれたやうに物語られてゐるのは、かゝる場合の作者の思想の傾向を見るに足るものであらう。さうして、ソの名稱の起源が後に大隅國に入つた贈於郡地方であるとすれば、又た其の大隅地方が後までも日向國の一部であつたとすれば、それらのことも記者の頭にはあつたであらうから、此の物語ではクマソが、少なくとも今の日向・大隅地方の諸豪族を統治する、可なりの大勢力としてあることが推測せられる。かう考へて、豐前の南部及び豐後地方にミタリ、ハナタリ、ツチヲリヰヲリ、アヲ、シロ、ウチサル、ヤタ、クニマロ等の幾多の土蜘蛛がゐ、肥後及び筑後の南部地方にはツヽラ、アソツヒコ、アソツヒメ、ヤメ等の幾多の土豪があつて、それ/\獨立の勢力を有し、而も其の多くは反抗者とせられてゐるのに、此の廣い日向・大隅地方には、ヒナモリ、モロアガタの酋長の名があるのみで、それも初めから服從者として取り扱はれてゐることを思ふと、此の地方はクマソといふ一つの勢力として、物語の記者の頭に映じてゐたことが推測せられる。(事實は、此の方面にもクマソタケル(321)に服從してゐる幾多の小首長があつたでもあらうが、こゝでいふのは物語の記者の思想のことである。もつとも物語にも「クマソのヤソタケル」といふ語はあるが、これは神武紀にも「シキのヤソタケル」とあると同樣、酋長の同類が多いといふ意味であつて、酋長に屬する地方的小君主が多いといふやうなことでは無く、また特殊の事實に基づいた觀念を表はすものでは無くして、物語としての通有の語である。)また薩摩の地方も、恐らくはクマソに含まれたものとして見てゐたであらう。といふのは、クマソ征討の前後に天皇が豐前の南部、豐後・肥後・筑後地方を巡幸し、諸所を經略平定せられるやうにしてあるのに、大隅・薩摩地方がそれに漏れてゐるのは、クマソの征討に其の方面の平定が含まれてゐると見られるからである。ところが斯ういつて來ると、おのづから再び前に述べたソの國の問題に逢着しなければならぬ。それは此の物語ではクマソの經略の外にクマの征服があるからである。上文には混雜を避けるために、便宜上、本文の示す如くクマソとソとをやゝ曖昧な態度で同一視して述べて來たが、茲に至つて再びそれを明確にしなければならなくなつた。さうして、それは又たおのづから、前にクマソの名義の由來について述べた二案の可否といふことに關聯を生ずる。
さて書紀の「襲」と書いてあるのが、もし「熊襲」の誤りで無いとすれば、ソはクマソと全く同じ意味に用ゐられてゐるのであるから、物語の記者はクマソとソとを同一視してゐたのであらう。けれども、ソの平定とは別にクマの經略をも書いてゐるのは、それと矛盾するやうである。そこで、是はどう解釋すべきものかと考へて見なければならぬ。此のソとクマとの並立が、もし假に古い史料から間接に傳へられたことだとすれば、事實上ソとクマとは別のものとして經略せられ、後にそれが傳説化せられるやうになつて、クマソといふ汎稱に結合せられたのだ、と考へ得な(322)くはなく、さうして、書紀もしくは其の直接の史料となつたものに於いては、此の傳説的稱呼と歴史的の名稱とが記者の腦裡で混同せられたために、クマソとソとを或る場合に同一視したのであらう、と思へば思はれる。が、單にソと書いてあるところが古事記の方には一つも無いといふことは、此の名の物語に現はれたのが寧ろ新しいことを暗示するものだ、ともいへばいはれるし、又た書紀に見えるクマとソとの有樣が、其の地方の經略が實際に行はれた時の状態として傳へられたものならば、クマは一小地方的勢力であつて、ソと連稱せらるべき程のものとも思はれぬから、此の考にはどうも受け取り難い點がある。それよりも、クマソといふ名が古くから聞き傳へられてゐた名であつて、それが後までも襲用せられ、ヤマトタケルの命の物語もそれによつて作られた、と見る方が適切であり、書紀の史料となつたものが、景行天皇の物語に於いて別にクマの經略を書いたのは、さういふ土地を知つてゐたために、所々の土蜘蛛平定の物語を作つたと同じやうに、頭の中で考へ出されたことであり、ソの國といふ名もやはり同じ事情から偶然クマソ征討の物語にまぎれ込み、クマソとソとが混同して取り扱はれるやうになつたもの、と見るべきであらう。
或は又た、クマとソとに限らず、一體に此の方面には多くの小君主があり、ヤマトの朝廷は漸次それらを經略したのであつて、クマソといふやうな名は、たゞさういふことの行はれたといふ傳説に基づいて、一つの征討物語を作るに當り、それらのうちのクマとソとの名前を取つて、机の上で作つたものでは無からうか、といふ疑ひも起り得る。クマソといふ名が物語にのみ現はれてゐること、クマとソとを結合してクマソといふことが、實際の稱呼としては、やゝ奇異に感ぜられないでも無いといふこと、などもそれを助ける。けれども、此の地方の住民がハヤトとして後までも特別に取り扱はれてゐたこと、上代の物語にあれほど有名であること、また後にいふやうに此の地方の經略の時(323)期が比較的新しく考へられること、從つてそれには餘ほど頑強な抵抗力があつたと推測せられること、などから考へると、其の地方が政治的勢力として一團結をしてゐたことは事實らしいから、それを呼ぶ實際の名稱は何かあつたであらうと思はれ、さうしてそれがあるのに、別に新しく机上で製作する必要は無かつたらうから、クマソはやはり傳説的に古くから用ゐられた稱呼として解釋する方が、妥當であらう。
さてかう考へて來ると、物語の上に於いて一つの勢力として現はれてゐるクマソは、實際やはり一つの大勢力として附近の諸豪族を統轄してゐたものであつたらう。さうして或る時期に於いてヤマトの朝廷がそれに對する經略を行つたことも、事實として考へてよからう。もつとも、其のクマソの勢力の範圍がどこまでであつたかといふことは、單に此の物語の上に現はれてゐることだけで決める訣にはゆくまい。物語は畢竟物語だからである。前に述べたやうにクマソ征討の外にクマ經略が語られてゐるのでも、物語の示すところを其のまゝに事實と見ることの出來ないことはわからう。しかしクマソが廣義のツクシの南部であることは、すべての形勢から推測して疑ひが無からうし、クマとソとが前に述べたやうな土地であることも確かであらうから、此のことと、國郡制定の後までも今の日向・大隅・薩摩が一國として取り扱はれてゐた事實とを參照して考へると、大體に於いて物語の示すところが是認せられさうである。さすれば、古事記のオホヤシマ生成の段に於いて、クマソの國の名をトヨやヒや狹義のツクシと同樣に取り扱つてゐることが、物語の上だけの話であるにせよ、クマソといふ名によつて示される土地が、ほゞ今の日向・大隅・薩摩方面を含むもののやうになつてゐることは、一般に承認せられてゐる概念であつて、それは即ち昔の歴史的事實に基礎があるのでは無からうか。(此の物語に於いてクマソの園が擧げてある以上、別にヒムカの國のあるべからざ(324)ることは、此の點からも明かであらう。)
たゞクマ地方が、名稱の上から見て、クマソの勢力に從屬してゐたとすれば、肥後の南部もまた其の範圍に入るべきものであらう。從つて、今の肥後の全體が朝廷に服從したのは、クマソの勢力の破壞せられた後のことと見なければなるまい。肥後方面に對しては、ツクシから近い土地でもあり、海上交通の便利もあつて、今の日向地方よりは比較的早く經略の手が伸びてゐたではあらうが、同じ海岸つゞきの薩摩まで及んでゐないとすれば、クマソの勢力は此の方面に於いても、可なりに強い抵抗力を示してゐたのでは無からうか。物語に於いて、クマソ親征の前後に豐後・肥後地方を主として其の附近を巡幸し、所々の土豪を征討または綏撫せられるやうにしてあるのは、これらの地域が、兎もすれば朝廷に服從しない土豪のすみかとして、或る時期に朝廷から考へられてゐたことを示すものでは無からうか、とも思はれるが、もしさうとすれば、其のうちにはクマソの勢力と何等かの聯絡のあつたものがあるかも知れぬ、と考へられぬでも無い。しかし此の巡幸區域中には筑後もあり豐前もあるので、それらの地方の朝廷に對する地位は、ほゞ筑前や肥前方面と一樣であつたことが、地理上の形勢からも推察せられ、從つて此の物語の書かれた時に於いて、特に其の地方に反抗者のあつたやうな記憶が強く遺つてゐたらしくも見えないから、これは物語の記者の構想から出たことであらう。もつとも、巡幸區域が豐前の北部や筑前や肥前を除いてある點に、廣義のツクシに於いて其の北部を中部以南とは區別して取り扱つてゐる記者の意圖は覗はれ、さうしてそれは、大觀すれば實際の形勢から來てゐることでもあらうが、物語に現はれる區域によつて的確に分界線が劃せられるのではあるまい。特に此の物語は古事記には見えないことであつて、後にいふやうに、可なり後世に撰述せられたものらしいから、なほさら斯う考へられる。(325)韓地經略の行はれてゐた時代に於いて、其の大切な根據地であるツクシの北部を側面もしくは背後から直ちに脅かされるやうな状態に、筑後附近を放置してあつたとは思はれない。だから、これはクマソの勢力を考へる場合には、深く顧慮すべきことでは無からう。
それから、此のクマソの勢力の根據がどこであつたかは、容易に判斷しかねる。クマソといふ名は本來クマとソとから起つたので、其の名がツクシ方面に傳へられた始めには實際クマまたはソが勢力の中心であつたらうが、勢力の消長はかゝる豪族の間にもあつたらうから、其の名は同じくクマソと呼ばれてゐても、實際の勢力の及ぶところ、或は其の中心點は、時によつて變動が無いともいへない。さうして、クマソの平定と密接の關係のあるヒムカについて、其の地名説明の説話がコユに結びつけてあり、國郡制置の後の日向の國府がコユにあり、其の前に國造のゐたところも(ヒムカの地名説話と後の國府の所在とから考へて)、多分同じコユであつたらしく思はれ、またモロアガタの君イヅミヒメの名が見え、後に仁徳天皇がモロアガタの君の女のカミナガヒメを妃とせられたとあるやうに、コユとモロアガタとが、或はヒムカの中心とせられ、或はヤマトの朝廷にもよく知られてゐる地名らしく物語に現はれてゐるのを思ふと、クマソ經略の當時に於ける實際の中心は、寧ろコユ、モロアガタ地方では無かつたらうかとも臆測せられる。物語に於いてコユやモロアガタが如何に取り扱はれてゐるかは、必ずしも深く拘泥するに足らず、又た勿論、有力な證據とはならないのであるが、後の事實から推してかう考へられるのである。特に交通上の地理的形勢と古今の事蹟とによつて見ると、ソの地方、即ち今の大隅方面の經略がもし實際に行はれたならば、それは肥後方面から進むのが順路であるやうに思はれ、平時に於ける行政上の交通系統もやはり同樣であらうと思ふが、後までも其の大隅・(326)薩摩方面の政治的中心が却つて東方の日向にあり、物語に於いても日向が重要視せられてゐるのは、此の自然の状態に背くものであるから、それには何か特殊の理由が無くてはなるまい。さうしてそれは、やはり或る時代に於いて日向が大なる勢力の根據地であつたからでは無からうか。(序にいふが、ヒムカの國造が、物語に於いてクマソの勢力範圍と考へられてゐたほど、廣い區域に政治的勢力を及ぼしてゐたかどうかは、不明である。普通には、國造の領地はそんなに廣いものでは無い。ヒムカは例へばヒムカのソのタカチホといふ場合の如く、廣い地方の名として稱せられ、また國造の冒す名ともなつてゐたが、それは恰も地方名としてのツクシ、トヨなどと、國造の領土としてのツクシ、トヨなどとの範圍が違ふと、同樣であつたらう。現に地方名としてはヒムカに包含せられてゐた筈のモロアガタ、ソなどに君といふ首長があつたことは、前に引用した書紀または續紀の本文で知られる。元明紀の曾君といふのも、國郡制定前の地位に伴ふ稱呼が遺つてゐたのであらう。たゞ邊裔の地方だけに、國造とても特殊の權力を多くの小首長の上に有つてゐたかも知れぬ。)
然らば、其のクマソの平定は何時ごろのことかといふと、これは到底明かにはわからなからう。たゞ大體から考へて、如何に早くとも四世紀以後であることは疑ひが無いが、記紀などに於いて明證は求められぬ。書紀の記載に於いてほゞ事實として承認することの出來る時代になつてからの、清寧紀の四年の條に「蝦夷隼人並内附」とあるが、此の記事は、支那の所謂正史に於いて外夷の來朝を記す場合の筆法と、全く同じであるのみならず、ハヤトをエミシと並べて書いてある點から見ても、事實の記録であるかどうか甚だ疑はしく、證據とするには躊躇しなければならぬ。欽明紀元年及び齊明紀元年の條にも、同じやうな記事があるが、齊明紀の方には同じ年に來朝したエミシのことが月(327)日を明かにして詳しく書いてあるのに、其の外に別にかういふ曖昧な記事が單に其の年のこととして出てゐるのは、益々其の史料としての價値を疑はせる所以である。だからこれらの記事は且らく論外として置かねばならぬ。(ハヤトとクマソとの關係はやゝ曖昧であるが、前に引いた如く「日向隼人曾君」といふ明文もあるから、クマソの名稱の一由來である贈於郡の地方の住民も、やはりハヤトと稱せられてゐたに違ひない。ハヤトはハヤヒトで、暴れものの義であらうから、是はクマソ地方の住民を一般に呼んだ名では無からうか。今の大隅の地たる贈於郡のものがハヤトといはれたのを見ると、同じくソの勢力に屬し、或る時期には其の中心となつてゐたかも知れぬ今の日向地方の民も、さう呼ばれてよい筈である。それが薩摩地方の民に特殊な名稱のやうになつたのは、日向方面のものは漸次歸順して行つたのに、薩摩地方のものが後までも舊態を保つてゐたからでは無からうか。いひ換へると、ハヤトの範圍が漸次奥の方へ狹められて行つたのでは無からうか。)
しかし、こゝに注意すべきは、神代の物語にヒムカの名が出てゐることである。書紀の方には「ヒムカのソのタカチホ」といふやうな語も見えてゐて、是は明かにヒムカといふ名がソよりも廣い地方名として用ゐられるやうになつてから書かれたものに違ひないが、此の語のあるものは比較的後世の手が入つてゐるらしく思はれるから、且らく別問題としても、天孫がヒムカに降臨あらせられたといふ話は、記紀の何れにも共通な物語であり、神代史の骨子をなすものであることから考へても、神代史といふものが記述せられた最初から存在してゐることであらう。ところが、ヒムカはクマソが歸服してから後に用ゐられた名であらう。後のヒムカの國がまだクマソと呼ばれる勢力に屬してゐた時代に、こんな國名がある筈は無い。書紀がヒムカの國造の祖を景行天皇の皇子とし(このことは古事記にも見え(328)る)、ヒムカの名が天皇の御命名であるとしたのは、例の地名説明の物語であつて、歴史的事實とは認められないが、それをクマソ平定の後のこととしたのは、極めて自然である。さて著者が「神代史の新しい研究」に於いて曾て述べたやうに、神代史が六世紀の初めごろには一通り作られてゐたものとすれば、それにヒムカの語の出てゐることから見て、クマソの征服はそれより前であることが知られる。實はこんな迂曲な考へ方をするまでも無く、此の書の總論第四節に説いた如く、帝紀舊辭そのものの最初の編述がやはり同じころであるとすれば、物語としてそれに現はれてゐるクマソの服從が、それより前のことであり、物語として衆人の前に提出せられ得るだけに、事實そのことの經過が人の記憶に確かでなくなつてゐるほど、可なりの時代を經過した昔のことである、といふことは明白であるが、特に神代史について見ても、またヒムカといふやうな特殊の名稱の上から見ても、かう説くことが出來るのである。
次にいま一つ參考に資すべきものは、宋書の倭國傳に見える昇明二年(478)の倭國王武の上表に「自昔祖禰躬※[手偏+鐶の旁]甲冑、跋渉山川、不遑寧處、東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡海平海北九十五國、」とあることである。此の文は、我が國の勢威を張揚するために大袈裟に書いてあるのであるから、それを直ちに事實と見ることはむつかしいが、兎も角もかういふ文の書かれたのは、昔の或る時代にはまだ服屬してゐなかつた西方の衆夷が、此のころには既にほゞ歸服してゐたからであらう。さうして、それは即ち所謂クマソに當るものでは無からうか。毛人云々とあつたとて、事實上、エミシ全部が服屬したので無いことは勿論であり、またそれは必ずしも文字通りに中央政府自身で大征討を行つたものと見なくてもよいのであらうから、それと同じやうに書いてある西方の衆夷についても、かう推測することは確實な考へ方とはいはれないが、奥の知れないエミシと限りのあるクマソ方面とは、すべてに於いてヤマトの朝(329)廷に與へる感じが違ふから、書き方は似てゐても事實に違ひがあると考へるのも、全くの無理では無からう。さて此の昇明二年は我が押す略天皇の時代に當るらしい。(こゝに衆夷とあるのは必ずしも異民族といふ意味では無い。次章に説くやうに、漢文流の文飾のために地方人のことを夷と稱することは、我が同じ民族に對しても行はれた。ましてこれは支那人に誇示するための文であるから、そのつもりで見なければならぬ。)
これらのことから考へると、五世紀の中ごろには、物語でクマソといはれてゐる地方は大體ヤマトの朝廷に歸服してゐた、と見て差支が無からうか。四世紀の後半に於いて、既にツクシの北部を根據として韓地に手を出すやうになつた以上、其の南部が何時までも放置してあつたとは思はれない。もつとも、北部の領有と同じ四世紀の前半に既に南部をも經略した、と想像せられなくも無からうが、北部の經略については、上代の物語に全然その痕跡が無く、クマソ征討のみが際立つて現はれてゐるのを見ると、其の間には大なる區別があるものとして、世間にも考へられてゐ、物語の記者の頭にも映じてゐたらしい。かの古事記に見えるオホヤシマ生成物語のツクシ四面の話に於いて、ヒムカといはずしてクマソと稱してあるのも、そこが一種特別の地として見られてゐたからであり、さうしてそれは、其の服屬が比較的新しいことであつたからであらうと考へられる。だから、それは北部三國の領有の後多少の時間を隔ててのこと、言ひかへれば四世紀の終り乃至五世紀の前半のころに於いて行はれたことではあるまいか。宋書に見える上表に於いて、現になほ反抗してゐるエミシ、經営の困難になつて來た韓地(海北)と並べて、西夷を挙げてあるのも、其の服屬がなほ記者の記憶に強い印象として存在してゐたからではあるまいか。かの新羅征討の由來をクマソ征伐の計畫に結びつけてある古事記の物語に、其のクマソ問題の結末がついてゐず、甚だ不徹底であるのも、一つは後にい(330)ふやうに物語そのものが變改を經てゐる故かとも思はれるが、一つはそれが事實で無いからでもあらうか。書紀の記載、特に神功皇后がクマソを平定せられたやうにしてある説話が事實でないことは、勿論である。もつとも事實としてのクマソの平定は、必ずしも一時に行はれたのでは無からうし、最も僻遠の地である薩摩地方は、五世紀ごろに於いても十分に歸服してゐたか、疑はしく無いでも無いので、國郡制定の後までも、よほど特殊の状態であつたことは、書紀や續紀の種々の記載から想像せられ、大寶年間にも叛亂が起つたほどであるが、今の日向・大隅・肥後方面を統治してゐる朝廷の勢力は漸次そこにも及んでいつたことと思はれ、いつしかヒムカの地方名の内にも包含せられるやうになつたであらう(姓氏録第十三卷に、允恭天皇のとき薩摩國を征せられたことが見えるが、眞僞明かで無い)。
クマソに關する著者の所見は、これまで述べて來たところによつて、ほゞ其の意を悉した。そこで最初に立ちもどり、記紀の物語について一言して置くが、ヤマトタケルの命のと景行天皇のとは、共に所謂諸家の賚したところの舊辭のどれかによつて傳はつたのであらうが、景行天皇の物語は古事記には全く見えずして書紀のみにあるのであるから、阿禮の誦んだ舊辭には無かつたのである。これは、景行天皇の物語が一般には承認せられてゐなかつたものであることを示すものであるが、此の事實と、ヤマトタケルの命の物語は話が單純で古い物語らしく、又た前にも述べたやうにイチフカヤのクマソタケル暗殺がヤマトタケルの命の話から脱化したもののやうに見えることとから見ると、此の方は後に作られた話らしい。恐らくはヤマトタケルの命の物語を二重にしたのであらう(これには次の章に説く東夷巡幸の物語を參照するがよい)。但し古事記にも書紀と同じく、ヒムカのミハカシヒメを景行天皇の妃として、又たトヨクニワケの王をヒムカの國造の祖として、擧げてゐて、このことは天皇の親征物語と密接の關係があるらしく(331)思はれるから、古事記に採られた帝紀も、多分この物語の形を成した後に於いて増補せられたものであらう、と想像せられる。(概していふと、古事記の準據となつた帝紀は、同時に取り扱はれた舊辭よりも後の潤色が加はつてゐるらしく、さうしてこのことは、帝紀の方が舊辭よりも後の時代を含んでゐることからも是認せられる。なほ後にも此の例を擧げる場合があらう。)
然るにヤマトタケルの命の話には、記紀ともにヒムカの國の名も出てゐず、クマソがどこであるかも説いて無く、極めて漠然としてゐるが、それは恰も前章に述べた新羅征伐の話と同樣、實際の征伐の行はれたよりも程經た後に於いて、クマソ征伐といふ單純な概念を本にして作られたからのことであらう。が、それではあまりに茫漠としてゐる。景行天皇の物語の精細なる年代記的述作は是に於いてか生まれたのではあるまいか。しかし、此の物語の形を成した時代がさまで新しいことでは無く、遅くとも國郡制定(七世紀の中ごろ)以前であることは、オホキタの國、アソの國、ミケの國、ヤメの縣、などといふ地名が用ゐられてゐるのでもわかる。豐前國・筑紫後國などとあるのは、恐らくは後人の添加したのか、または書きかへたのであらう(書紀の國名の書き方は極めて亂雜である。後章にそれを話さう)。けれども、ヤツシロに於いてヒの國の名の起源が説明せられてゐるのを見ると、少なくとも此の話の出來たのは、今の肥後の地方をも一般にヒの國と稱するやうになつた後であるらしい。クマソの酋長の女の妹の方のイチカヤをヒの國造に賜はるといふ話も、ヒがクマソから遠からぬところとして考へられた故らしく、從つてこれも肥後がヒと呼ばれてからの思想である。肥後がヒの汎稱の下に呼ばれたのは何時からのことか明かで無いが、敏達紀十二年(583)の條に火葦北國造といふことがあるから、それよりも前ではあらうと想像せられる。(但し、何故に肥後地方がヒの汎稱(332)の下に呼ばれるやうになつたかは、明かで無い。或は、そこにヒといふ地名があつたからでもあらうか。和名抄の肥伊郷がそれかとも思はれるが、此の名が古いものかどうかは、やはりわかりかねる。肥前風土記には八代の火邑といふことがあるが、同じ話が、風土記の根據となつてゐる書紀の物語では、豐村と書いてあつて、豐はトヨの音を寫したものであらうと思ふから、これも物語によつて改めたのでは無からうか。書紀の話はヒの國の名の説明であつて、村の名には關係が無いが、風土記は村の名にも此の話を結びつけようとしたものらしい。だから、果してヒといふ地名が古くからあつたかどうかは不明である。たゞ肥後地方をヒといふことが、肥前の方のヒとは別の由來を有するのであらう、とだけは想像せられる。さうして、兩方ともヒといふ名であるために、國郡制置の際に肥の一國とせられ、後また肥前・肥後に分けられたのではあるまいか。なほ附言して置くが、肥前風土記に國名の起源を肥後の八代に求めてあるのは、書紀の話がそこにあつたからであつて、書物の上から來たことに過ぎない。またそれに「肥前國者、本與肥後國、合爲一國、」とあるのは、國郡制置以後のことであらう。それより前のこととしては無意味である。)
(333) 附録一 風土記の記載について
景行紀に見える天皇巡幸の物語は、文字のまゝに歴史的事實として見ることが出來ない、といふ上記の説に對しては、風土記にも同樣の記事があつて、それは其の土地に傳へられた話を記したものであるから、此のことは事實と認めなくてはならぬ、といふ反對論もあらうから、こゝに風土記に關する一般的考説を附記して置かうと思ふ。
先づ景行紀と同じ事柄を記してある豐後風土記の文を見ると、文章が殆ど同じである。例へばツバキの市について兩方を比較すると(本文は書紀の文、風土記のは傍點を附して置いたところが無い代りに、括弧の中に入れて置いた文字がある)、「採〔傍点〕(伐)海石榴樹、作椎爲兵、因〔傍点〕(即)簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛、而破于稻葉川上、悉〔七字傍点〕(誅)殺其黨、血流〔二字傍点〕(流血)至踝、故時人、其作海石榴〔三字傍点〕椎之處、曰海石榴市、亦血流〔三字傍点〕(流血)之處、曰血田也、」といふやうになる。禰疑野・蹶石野・速見郡などの條も同じ程度に似てゐる。それから肥前風土記にも同じ例があつて、卷首の火の國の名を説明したところには景行紀と、松浦郡の條には神功紀と、殆ど同じ文章があり、又た筑前風土記(釋日本紀所引)にも、仲哀紀と同じところがある。さてこれらの文については、書紀と風土記との間に必ず直接の關係が無くてはならぬが、それならば、どちらが本であつたらうか、といふ問題がそこに生ずる。書紀の完成したのは養老四年(720)であり、風土記の録上を命ぜられたのは、それより七年前の和鋼六年(713)であるから、一寸考へると、風土記の方が一般に早く出來てゐるやうに見えるが、風土記が盡く命令の出た其の年すぐに作られた、と考ふべき理由は決(334)して無いので、現に出雲風土記は天平五年(733)にできたことが明記せられてゐる。また其の出雲風土記に、靈龜元年(715)の式によつて「里」を改めて「郷」とするといふことがあり、其の式といふのは全國に對して發布せられたものに違ひないから、やはり「里」が無くして「郷」のみ用ゐられてゐる豐後風土記及び肥前風土記は、早くとも靈龜元年以後の作で無くてはならず、和銅六年から此の年まで既に少なくとも二年を經過してゐる。さうしてかの出雲風土記の例があるとすれば、この二つもまた養老四年以後の編纂かも知れぬ。だから前に擧げた問題については、書紀が風土記の文を採つた、とばかり斷定すべきものではない。
以上は文章の類似したものについてのことであるが、文章上の關係はなくとも、物語の上に於いて書紀の記載と關係のあるものは、常陸・播磨及び出雲のに於いて見られる。この中で、常陸・播磨の二つには「里」の字が用ゐてあるから、靈龜元年以前、即ち和銅六、七年ごろに作られたものと考へられ、從つて文章の上に於いて書紀と密接の關係のないのは當然である。しかし、風土記撰録の命令の出たよりも前に古事記が作られ、又たそれよりも前かち所謂舊辭が世に存在してゐたから、これについても、風土記がさういふ舊辭から材料を得なかつたといはれぬ。が、かういつただけでは何等決定的の判斷が出來ないから、次に風土記に見える物語の一般的性質を考察して見よう。
風土記に見える古事は、其の性質からいふと、例の地名説話が殆ど全部を占めてゐる。さて一般に、地名説話といふものが歴史的事實を示すもので無い、といふことは固よりであるが、説話として見ても、そんなに到るところ一々かういふ説話が其の土地にいひ傳へられてゐたとは考へ難い(たまにはあるにしても)。だから、それは多分風土記録上の命令に「山川原野名號所由」といふ一項があるため、出來るだけ多くそれを案出したものと思はれる。既にそれ(335)が風土記の編者の考案になつたものとすれば、書紀にある物語には此の地名の説明がなくて、風土記の同じ物語にそれが見える場合、例へば豐後風土記がネギノの名を説明して、景行天皇が兵を勞はれたからだ、といつてゐるやうなのは、書紀のネギノの記載に基づいて、これだけのことを附加したものと見るのが妥當である。同じやうな説明を多く試みてゐる書紀の編者が、この場合だけ風土記のそれを取らなかつた、とは考へ難いからである。
それから風土記のかういふ説話そのものに於いて、書紀または其の材料となつた舊辭には全く見えないけれども、而もそれと聯絡がなくてはならぬものがあるが、これも亦た風土記が書紀または其の材料となつた舊辭に基づいて作つた、と認めねばならぬ。例へば豐後風土記の、景行天皇が筑後の生葉郡から日田郡へ行幸せられた、といふやうな話は、イクハ(生薬)までの記事のある書紀をもととして、それに接續するやうに巡幸の區域を廣くしたと見るべきものであり、肥前風土記に、同じく景行天皇が肥前の所々に巡幸せられたやうにしてあるのも、書紀のツクシ巡幸記事から出てゐるのであらう。又た例へば常陸風土記の行方郡の條に、ヤマトタケル天皇と皇后タチバナヒメとが會合せられたことを記し(久慈郡の條にヤマトタケル天皇の皇后とあるのも亦たタチバナヒメであらう。此の二つは何れも「逢ふ」といふ語を利用したアフガとアヒカとの地名説明である)、また多珂郡にも此の姫の物語があるが、これも所謂舊辭に於いて走水の海に入られたとあるタチバナヒメを、こゝで復活させたのであり、命の遺跡が信太・行方方面にあるとしたのも、また景行天皇が此の方面に巡幸せられたやうにしたのも、此の舊辭の記載が本になつてゐるに違ひない。「古老相傳舊聞異事」が無くては命令の條件が缺けるから、なるべく多くそれを書き現はさうとするのであるが、それ程の歴史も無く録するに足るべき民間説話も少ない、さりとて純粹の想像譚も作りかねる、といふ場合に、(336)憑據を成史に求めてそれを敷衍するのは自然の方法である。常陸風土記が何かの物語を記す時に必ず「古老曰」の一句を冠し、豐後・肥前のに必ず「昔者」の二字を着けてあり、出雲のにも往々「古老傳曰」と書いてあるのも、此の命令を文字通りに遵奉したのであつて、編者の意のあるところは是に由つても知ることが出來る。
のみならず何の風土記も、古事をいふ時は大てい着想が決まつてゐて、一定の範圍を出てゐない。豐後のは景行天皇、肥前のはそれと神功皇后と、常陸のはヤマトタケルの命、また出雲のは勿論スサノヲの命、オホクニヌシの命の物語が基礎であり、播磨のは出雲と大和方面との中間にある其の位置から、やはり出雲と聯絡のある話、またはアメノヒボコなどの話であつて、要するに其の地方に關する書紀の記載と没交渉な話は、極めて僅少の除外例とすべきものである。さうしてこれは、風土記の作者の用意が、實際の見聞を記すといふよりは、書物によつて机上で考案することにあつたことを示すものである。もし實際地方々々に傳へられてゐたことを風土記の編者が取つたならば、かういふことは無い筈である。なほ此の推測は、それらの物語の一半の意味をなす地名の説明が、やはり机上の製作であることによつて、一層たしかめられる。更に一般的に考へれば、所謂古蹟や遺趾が書物によつて新たに作り出される例の、後世になつても甚だ多いこと、歴史を有することを誇りとする一種の地方的感情が特にそれを刺戟すること、などをも參照するがよい。
それから物語そのものの内容を見ると、風土記のは書紀のよりも、説話として發展した形を有つてゐるのが常である。例へば、仲哀紀八年の條のイトの縣主のイトテが天皇を奉迎したといふ話と、筑前風土記の同じ物語とを比べると、文字までがほゞ同じでありながら、風土記のはイトテがアメノヒボコの裔だといふことが加はつてゐる(イトテの(337)名は地名のイトから作られたのであらう)。また神功紀の卷首の、石を腰に插まれたといふ話と、筑前風土記の同じ物語とを比べてみると、書紀には全く見えてゐない石の大きさや重量まで書いてあつて、而もそれが二つとなつてゐるが、それは到底、腰に插まれたとして初めから想像せらるべきものでは無いから、これは物語の原形には無かつたものと認められ、從つて書紀の方を原形もしくはそれに近いものとしなければならぬ。景行紀四十年の條のヤマトタケルの命がミヤス姫の家にクサナギの劔を置かれたといふ話と、尾張風土記の桑の木にかけて置かれた劔が光を放つたといふのとを此べ、又た仁徳紀三十八年の條の鹿の夢物語と、攝津風土記の夢野の鹿の話とを比べると、風土記の方がよほど複雜になつてゐて、それが書紀に見えるやうな話から發展したものであることは、疑ひがあるまい。さすればこれらも、風土記のは其の土地に傳はつてゐた物語では無くして、書紀または其の史料となつた舊辭が本になつて作られてゐることがわかる。かう考へて來ると、單に是だけでも、例へば伊勢風土記のアメノヒワケの命が神武天皇東征の際に其の勅を奉じてイセツヒコを平定したといふ話、山城風土記のカモノタケツヌミの命(姓氏録を參照するとヤタガラスである)がタカチホから神武天皇の先導をしたといふ話なども、神武紀もしくは古來の舊辭を本にして構想したものであることが、類推せられる。神武天皇東征の話の主旨はヤマトの征討であつて、物語の全體の輪廓、また總ての結構がそれで成り立つてゐ、其の外には何の方面に向つても一歩も出てゐないから、伊勢風土記の話は後世の添加と見なさねばならぬ。ヤタガラスは古事記の説では固より純粹の烏であり、また吉野に於いて始めて現はれたものであるから、それが物語の原形に違ひない。しかし書紀では既にそれが葛野の縣主(?)の祖先とせられてゐる。山城風土記や姓氏録の話は、更にそれを發展させたものであらう(なほ神武天皇の物語については後章に述べよう)。
(338) かういふやうに、風土記に見える古事には大てい準據があつて、それが中央政府で述作せられた舊辭、またはそれをもとにして編纂せられた書紀であることを思ふと、文章の上に於いても書紀と密接の關係のあるものは、やはり風土記の方が書紀から採つたものと見、從つて豐後や肥前のは書紀編纂の後に作られたものとするのが、妥當であらう。肥前風土記が火の國の名について二つの説を擧げてゐて、其のうちの一つが景行紀と殆ど同じ文章であるのは、かう考へると自然に解釋せられるが、其の徑路を反對に見ることは甚だ不自然である。書紀が其の編纂よりも前に出來てゐる常陸や播磨の風土記から、文章は勿論、物語そのものをも採つたやうな形跡の無いことも、此の推定を助ける。なほ書紀は一定の方針で舊辭を書きかへたらしく、神代史に於いて、古事記もしくは其の原本と見える「一書」の文が悉く漢文になつてゐるのも、其の故かと思はれるから、此の點からも風土記の文を書紀が其のまゝに取つたとは考へ難い。(風土記よりも書紀よりも前に出來てゐた書物があつて、此の二書は同じく其の文を取つたのだ、と見られないことも無いが、よしそれにしても、其の書は中央政府で作られた舊辭、もしくはそれによつて書かれたものであることが、上に述べたところから推測せられる。のみならず、文章に就いてはいま述べた如く、書紀がさういふものを其のまゝ取つたらしくは無いから、此の考は成り立ち難からう。)
それから、物語の根本は書紀や古事記の記載と關係がありながら物語そのものはそれと直接の交渉の無いものはどうかといふに、これも概して机上の製作らしい。其の最も著しき例として出雲風土記の國引の話を見るに、これはキツキの御崎、サタの國(今の秋鹿半島)、クラミの國(島根都)、ミホの埼を、シラキ(新羅)のみ崎、サキの國、良波(?)の國、コシのツヽのみ崎から、それ/\引いて來たといふ話であつて、それが地形から考へ出された物語であること(339)は疑ひがない。けれども、それが眼に見た上の感じに基づいたことではなくして、智力で構想せられたものであることは、新羅もコシも、また北門とあるのみで何處か不明のサキも良波も、物語のいふやうに海の彼方に見ることが出來ないところであること、並びに此の話の土地が出雲の海岸の殆ど全部を包含してゐて、頭の中で無くては綜合することの出來ない廣い地方であることから、明かに推斷せられる。さうして斯ういふ性質の話は、實際その土地の人の間に行はれてゐたものとは考へ難い。コシの話などは、コシ地方との間に交通があり其の土地の人が來住してゐた、といふやうな事實があつて、それが斯ういふ形に於いて傳説として現はれたのでは無からうか、といふ疑ひもあらうが、話の精神は(順次に北海の海濱を列擧した點から見ても、また、其の時に用ゐた※[木+戈]がサヒメ山だとか、引きよせた綱がソノの長濱だとか、ヨミの島だとか、いつてゐることから見ても知られる如く)地形の説明であるから、さうは考へ難い。コシ方面との交通があつたことは事實であらうし、作者もそれが頭に入つてゐたので、此の話が作られたのかも知れないが、話そのものはさういふ事實を象徴したものとは思はれない。歴史的事實の明かに知られる上代に於いて、新羅と出雲との間に直接の航路があつたといふ形跡が毫も見えないのに、新羅がこゝに引き出されてゐるといふことも、またそれを證明する一材料である。シラキのみ崎などといふ、漠然たる、又た實際どこにもあてはめられない、名稱の用ゐられてゐるのも、それが全然空想の所産である一證であらう。だから此の話は机上の製作と見なければならぬ。(新羅のことは、或は神代史に於けるスサノヲの命の新羅の話をもとにして、作られたのかも知れない。それから「良波」は、栗田寛の標註古風土記には「農波」の誤としてヌナミと訓んであるが、四つの國の三つが志羅紀、佐伎、高志之都々と書いてあつて、皆な音の仮名であるから、「波」ばかりをナミとよむのは疑はしい。但しラ行(340)の音を以て始まる語を我々の民族は用ゐなかつたから、「良」の字には誤りがあらう。さて此の良波とサキとがもし空想の名でなくば、出雲の東方に當る日本海岸のどこかを指したのでは無からうか。コシを引き出したことからも、さう考へられる。但しツヽノミサキはどこか判らぬ。またコシがもし果して普通に考へられてゐる如く「越」の意であるならば、それはヤマトの朝廷から名づけられた汎い地方名であつて、後になつては地勢上さう呼ぶことの出來ない地方の人にも用ゐられるやうにはなつたらうが、本來イヅモ人の呼んだ名では無い筈である。コシの意味はなほ考究を要するが、昔ロオマ人が今のフランス地方を Transalpina といつたやうな例もあることから見ても、かういふ解釋は必ずしも不可能で無く、特にそれが甚だしく廣い區域を指す名であつたことを思ふと、本來の固有名詞としては考へがたいやうである。)其の他なほ風土記の物語に、ウヤツベ、ヤムヤヒコ、ヤヌワカヒメ(出雲風土記)、キビツヒコ、キビツヒメ、イセツヒコ、イセツヒメ(播磨風土記)、キツヒコ、キッヒメ(常陸風土記)、シヌカオク、シヌカオミ(豐後風土記)の如く、地名から作られた人名、特に其の中の二人づつの連稱になつてゐるものは(常陸風土記のヤサカシ、ヤツクシ、肥前風土記のオホミヽ、タリミヽなどと同樣)、前にも述べた如く到底實在の人物とは思はれず、從つて其の話が事實から生じた傳説とは考へ難い。
之を要するに、風土記の古傳の大多數は、書紀または昔からあつた舊辭から發展したものであり、然らざるものも多くは机上の製作であつて、地方の傳説では無い。さうして此のことは、文化が中央から地方に及んでいつたこと、中央に於いても古い物語を記す場合に、事實を有りのまゝに寫さうとはしなかつたこと、政府の法令すら事實から遠ざかつた空文のあること、などによつて知られる此の時代の一般の思潮からも肯定せられる筈であり、常陸風土記の(341)如く、支那式の修辭を好み、また都人士の間に行はれた和歌の體を學んだ歌を作り、またはそれを引用してゐるもののあることも、それを證する。(常陸風土記に「風俗」とか「風俗諺」とかあるのは、漢文に對する日本語といふ意味であつて、俚諺といふのでは無い。香島郡の條には「俗曰」として祝詞にある章句と殆ど同じものさへ見えてゐる。)だから、かういふ風土記には概して史料としての價値が無い。但し、舊辭はよほど古くから世に知られてゐたのであるから、それがもとになつて作られた地方的傳説があり、それを風土記が採つた、といふやうなことも幾らかは無いでも無からう。それから、例へば常陸風土記の孝徳天皇の朝に多珂石城の二郡が置かれたとか、豐後風土記の天武天皇の朝に五馬山に温泉が湧出したとかいふやうな、近世のことでもあり、何等の傳説的色彩を帶びてもゐない記事は、歴史的事實として信ずべきものであらう。が、此の例は極めて少ない。なほ風土記の最も趣味ある物語は、例へば常陸のや豐後のにある白鳥の物語、常陸の筑波山と富士山との物語、童女松原の話、播磨の大人の話、其の他、逸文の傳はつてゐる丹後の奈具社、近江の伊香小江などの民間説話的物語であつて、常陸・播磨・出雲のには可なりにそれがあるやうに見える。かういふものが上代思想の反映として、貴重な傳説であることは勿論であるが、事實で無いこともまた勿論であり、豐後の白鳥傳説のやうにそれを景行天皇の時としたのも(恰も浦島の子の神仙譚を雄略天皇の朝に結びつけたと同樣)、年代記としては固より意味の無いことである。
(342) 附録二 土蜘蛛について
景行紀のツクシ巡幸物語を考へ、また風土記の價値を論じた序に、これらの物語に見えるツチグモ(土蜘蛛)の性質について一言して置かう。
古事記に土蜘蛛の名の見えてゐるのは、神武天皇東征の場合であつて、土蜘蛛八十タケルがオサカの大室にゐて誅伐せられた、といふ話がある。書紀の此の話には土蜘蛛といふ名は出てゐないが、同じ東征の場合にソフのニヒキトベ、ワニのコセハフリ、ホソミのヰハフリ、の三處の土蜘蛛、及びタカヲハリの土蜘蛛が、やはり誅伐せられたとある。此の土蜘蛛の主要なる觀念が、皇命に服從しないものといふことであり、又たそれが集團の名では無く個人の稱呼であることは、此の文によつて知ることが出來る。其の外に書紀に見えるのは、景行紀の「有2土蜘蛛、住其石窟、一曰青、一曰白」「有三土蜘蛛、一曰打※[獣偏+爰]、二曰八田、三曰國摩侶、」といふ二條と、神功紀の「轉至山門縣、誅土蜘蛛田油津媛、」といふ一條とであるが、前に延べた如く、それが皇命に服せずして誅戮せられたことを思ふと、やはり此の觀念に適合する。個人を指してゐることもまた此の文で明瞭である。
次に、風土記には此の名が所々に現はれてゐるから、それを一括して示すと、先づ肥前風土記には「肥後國益城郡朝來名峯、有土蜘蛛打猴頸猴二人〔二字右○〕、帥徒衆一百八十餘人、拒捍皇命不肯降伏〔八字右○〕、」(卷首)、「有土蜘蛛大山田女狹山田女二女子〔三字右○〕、」(佐嘉郡)、「此村有土蜘蛛、造堡隱之、不從皇命〔四字右○〕、日本武尊巡幸之日、皆悉誅之〔二字右○〕、」(小城郡)、「有土蜘蛛、名曰(343)海松橿媛…纏向日代宵御宇天皇巡國之時…誅滅、」(松浦郡)、「有土蜘蛛、名曰大身、拒皇命不肯降伏〔七字右○〕、」(同上)、「第一島名小近、土蜘蛛大耳居之、第二島名大近、土蜘蛛垂耳居、…天皇勅且令誅殺〔三字右○〕、…垂恩赦放、」(同上)、「土蜘蛛八十女又有此山頂、常捍皇命不骨降伏〔八字右○〕、」(杵島郡)、「有土蜘蛛三人〔二字右○〕【兄名大白、次名、中白、弟名小白】此人等造堡隱居、拒皇命不骨降服〔七字右○〕、」(藤津郡)、「勅陪從神代直、遣此郡速來村、捕土蜘蛛、」(彼杵郡)、「有土蜘蛛、名曰浮穴沫媛、捍皇命甚無稽〔六字右○〕、即誅之、」(同上)、「有土蜘蛛、名欝此袁麻呂、」(同上)とあり、豐後風土記には景行紀と同じものの外に、「有土蜘昧之堡、不用石、築以土、」(日田郡)、「有土蜘蛛名、曰五馬媛、」(同上)、「有土蜘蛛、名曰|小竹鹿奥《シヌカオク》、小竹鹿臣《シヌカオミ》、此土蜘蛛二人〔二字右○〕、」(大野郡)とある。また常陸風土記には「昔在國巣【俗語都知久母、又云夜都賀波岐】山之佐伯、野之佐伯、普置掘土窟、常居穴、有人來則入窟而竄之、其人去更出郊而以遊之、狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、彌阻風俗、…或曰、山之佐伯、野之佐伯、自爲賊長〔二字右○〕、引率徒衆、横行國中、」(茨城郡)とあり、攝津風土記には「宇禰備能可志婆良能御宇天皇世、僞者土蛛【此人恆居穴中、故賜賤號曰土蛛】」と見え、陸奥風土記(古風土記逸文所引)には「有八土蜘蛛〔四字右○〕、一曰黒鷲、二曰神衣媛、三曰草野灰、四曰保々吉灰、五曰阿邪爾邪媛、六日栲猪、七曰神石萱、八曰狹磯石、各有族、而屯於八處石室、此八處、皆要害之地、因不順上命〔四字右○〕、」云々とあり、日向風土記には「天津彦火々瓊々尊……天降於日向之高千穗二上峯時、天暗冥、晝夜不明、……於茲有土蜘蛛、名曰大鉗小鉗、二人〔二字右○〕奏言皇孫尊、以尊御手拔稻千穗爲籾、投散四方、必得開晴、于時如大鉗等所奏、……即天開晴、日光照光、」とある。此の中で、肥前風土記のオホヤマダメ、サヤマダメ、ウツヒヲマロと、豐後風土記のイツマヒメ、シヌカオク、シヌカオミと、又た日向風土記のオホハシ、ヲハシとだけは、或は荒ぶる神を和め、或は皇室に服事したものとせられ、または事蹟が全く記してないが、其の他は皆な皇命に服しないものである。それから、此の名が個(344)人の稱であることについては、一つの除外例も無い。此の故に、最初に提出して置いた土蜘蛛の觀念は、二つとも間違ひがないといつてよからう(肥前・豐後・日向の風土記に見える三つの除外例は、變形として認め得られる)。
なほ土蜘蛛に關する記紀や風土記の記事を見ると、古事記にはオサカの土蜘蛛に尾があると書いてある。書紀はタカヲハリの土蜘蛛について「其爲人也、身短兩手足長、與保儒相類、皇軍結葛網而掩襲、殺之、」といつてゐる。又た常陸風土記には、ツチグモの一名をヤツカハギといふとあり、越後風土記に「越國有人、名八掬脛、【其脛長八掬、多力太強、是出雲之後也、】とある「出雲」が「土雲」(古事記及び常陸風土記にも此の字が用ゐてある)の誤りならば、こゝにもやはり同じ思想が示されてゐる。かういつて來ると、かのナガスネヒコもやはり土蜘蛛として考へられてゐたのでは無いかと思はれる。ナガスネヒコはトミヒコともいはれてゐるが、是はトミといふ地名から作られた名であつて、恰もウサツヒコとかアソツヒコとかいふのと同じことであり、神武紀にもエシキ、オトシキなどの例が多いから、初めはトミヒコといつたのであつて、後にナガスネヒコの名も出來たのであらう(神武紀に、ナガスネが邑の本號でトミは鳥のトビの轉訛だとあるのは、例の地名説明のために作つた話である)。要するに土蜘蛛は手足の長い蜘蛛のやうな人間だといふことである。しかし土蜘蛛が人間を指してゐることは明かであるから、手足の長いといふことは、勿論、お話であり、從つてかういふ蜘蛛に似た形から土蜘蛛の名が出たのでは無くして、土蜘蛛の名から此のお話が作られたものであることは、いふまでも無い。
次に古事記には、土蜘蛛が室の中にゐたやうに書いてあり(書紀には皇軍が室を造つてそこへ誘ひ入れたやうにしてあるが、これは物語の發展した形式である)、景行紀にもアヲ、シロの土蜘蛛は石窟にあるとしてある。それから、(345)常陸風土記・攝津風土記にも前に引いた如く穴居のことが見える。なほ常陸風土記の茨城郡の條にはクズを土蜘蛛と同じ意義に用ゐてゐるが、行方郡の條には彼等が穴を掘つて堡を造るとしてある。けれども、肥前風土記や豐後風土記に於いては、土蜘蛛が土窟または石窟にゐるといふ話は(アヲ、シロの話の外には)無く、或は「造堡隱居」といひ、或は「堡不用石、築以土、」といひ、石壘・土壘のやうなものを作つてゐたらしく書いてあるところさへあり、また多くの黨類を有してゐるものもあること、すべてが地方的土豪らしく見えること、などから見ても、それが穴居してゐたとは考へ難い。特に九州の土豪の住居は、三世紀に於いて既に「樓觀城柵嚴設」とさへいはれてゐる程であつて、現にかう書かれた女王卑彌呼の舊址と思はれるヤマトにも、土蜘蛛のタブラツヒメがゐたとせられてゐるでは無いか。だから、これも土蜘蛛の名から導き出された物語であると推斷しなければならぬ。
然らば、これらの説話の由來をなす土蜘蛛の名には如何なる意味があるか、何故に皇命に服しないものを土蜘蛛といつたかといふに、それは多分朝廷で皇命に從はない地方の酋長を賤んで呼んだ名であつて、エミシの語に蝦夷(または蝦※[虫+夷])といふ文字を適用したのも、之と同じ思想の現はれであらう。支那人が周圍の民族を蠻狄と呼んでそれを動物視し、蠕々といふやうな文字をさへ用ゐた、と類似したことらしく、或はそれを學んだのでは無いかとさへ思はれる。もつとも人の名としては動物の名をつけることもあり、エミシといふのもあり、奈良朝になつても虫麻呂といふやうなのもあるほどであるから、蜘蛛といつても賤しむ意味には聞こえなかつたのでは無いか、といふ疑ひも起るが、此の名のつけ方などは古い風俗であり、土蜘蛛と稱したり蝦夷と書いたりすることは、支那の文字に熟してゐる知識社會のものの仕事であつて、而も土蜘蛛の如きは實際には用ゐられない、物語の上だけの話であるから、二者相戻らな(346)いで並び行はれたのであらう。少しく趣は違ふが、馬飼は賤しめられながら馬子といふ名のあることをも、參照するがよい。古事記には尾のある土蜘蛛と書いてあつて、蜘蛛に尾のあるのは可笑しいが、これも人類で無いといふところから來たことらしい。なほ風土記に書いてある如く、九州についても關東についても、同じ名を用ゐて同じやうな性質のものを稱してゐるのは、中央政府の慣例に從つたからであらうが、其の慣例は昔話にのみ現はれるものであつて、記紀は勿論のこと、風土記に於いてもまた、土蜘蛛の話は何れも昔のこととしてある。記紀のどこにも、歴史的事實として明白なる時代の地方の叛逆者には、決してこんな名が用ゐて無く、風土記にも編纂當時のこととしては、一度も此の名が現はれない。だから更に一歩を進めて考へると、それは本來、所謂舊辭の記者の頭から出て、其の舊辭にのみ用ゐられたことであつて、實際世に行はれた名では無かつたらう。風土記の作者はたゞ書物の上から此の名を採つて來てそれを用ゐたに過ぎない。一體に、此の名が歴史的事實の記載には現はれずして物語にのみ見えること、其の名が多く例の連稱的になつてゐること、歴史的事實としての反抗者がエミシであるべき陸奥の風土記にもそれが見えることなどは、土蜘蛛の名の意味と由來とを知るべき好材料であらう。(序にいふが、古事記には吉野のクズの祖を、尾があつて巖を押しわけて出て來たものとしてあつて、それはオサカの土蜘蛛と同じやうな書きざまであるから、この事に於いても、常陸風土記と同樣、二者を同視してゐるらしい。たゞ吉野のクズは初めから服從者として取り扱はれてゐるが、これは或は後に變化した形かも知れぬ。地方的酋長たることは全く同じである。前に述べた肥前・豐後などの風土記に見える叛逆者で無い土蜘蛛も、叛逆者といふ觀念が且らく影を隱して、地方的酋長といふ意味が表に現はれたものと考へられる。なほ常陸風土記に佐伯といふ名が土蜘蛛に關聯して出てゐるが、これも個人を指す稱(347)呼となつてゐることは「自爲賊長」の語で明かである。佐伯といふ稱呼が何ものを指すかは、著者にまだ確定した見解が無いが、仁徳紀三十八年の條によると佐伯部は獵人らしい。各地に置かれたエミシを佐伯部の管理としたのも、それが狩獵に長じてゐる故であつたらうか。)
なほ茲に附言すべきは、前に引用した書紀や風土記の文に見える如く、ツクシ地方の土蜘蛛として女の名の多く現はれてゐることであつて、これは何故かといふ疑問が生ずる。なほ土蜘蛛とは記して無いが、肥前風土記(彼杵郡)にハヤキツヒメ、豐後風土記(日田郡)にヒサツヒメの名が出てゐる。しかし、これは必ずしもツクシ方面に限つた訣では無いので、山賊としては常陸風土記(新治郡)にもアブラオキツヒメといふがあり、前に引いた如く陸奥風土記にも女の土蜘蛛があることにしてある。又た神としては、各地方の支配者として、出雲風土記(秋鹿郡)にアキカヒメ、播磨風土記(讃容郡の條、及び釋紀所引逸文)にヒロヒメ、及び國造イハサカヒメなどがある。其の他、男女が對稱せられてゐる場合は所々に其の例が多く、土豪としても常陸風土記(行方郡・那珂郡)にキツヒコ、キツヒメ、ヌガヒコ、ヌガヒメ、播磨風土記(印南郡・餝磨郡・揖保郡)にキビツヒコ、キビツヒメ、アカヒコ、アカヒメ、イセツヒコ、イセツヒメ、イハタヒコ、イハタヒメの類があつて、これは九州地方のアソツヒコ、アソツヒメなどと全く同じである。なほ神代史の山野河海などの神に女神が多く、古事記の島々生成の物語にも國や島の名に女性の名がついてゐるのがあり、延喜式の神名帳を見ても(人格を具へた祭神は極めて少ないが、其のうちで)、女性の神の數が男性のにさまで劣らないやうであつて、土蜘蛛に女のあることはこれらの事實を參照して研究すべきものであらう(このことは後文に於いて言及する場合があらう)。又たヤメツヒメの如きは、ヤメの地名説話として女性たるを要するし、物語として(348)みれば、女の出ることが興味を深からしめるものであることは、勿論である。たゞ書紀と現存の風土記とだけで考へると、九州方面に女の土蜘蛛を比較的多くしてあるやうに見えるけれども、それは畢竟、偶然のことに過ぎなからう。或はまた、土蜘蛛として征討せられた物語が他の方面に少ないからのことかも知れぬ。
(349) 第三章 東國及びエミシに關する物語
一 古事記の物語
ヤマトタケルの命には、西方のクマソ征討と並んで東方經略の物語がある。これは古事記によると「東方十二道の荒ぶる神、また、まつろはぬ人ども」を平定せよとの勅命によつてのことであつて、「軍衆をも賜はず」、たゞミスキトモミヽタケヒコを副へて遣はされたのである。其の行程は何人も熟知してゐる如く、先づ伊勢神宮を拜してヤマトヒメの命から草薙の劔を賜はり、ヲハリを經て東に進まれたのであるが、サガムの國では例のヤキツの物語があり、ハシリミヅの海ではタチバナヒメ入水の説話がある。それから、悉く「あらぶるエミシども」及び「山河のあらぶる神ども」を平げ、歸路にはアシガラを經てカヒに入られたのであるが、それより前にツクバを通過せられたことが、カヒのサカヲリの宮での有名な連歌でわかる。アシガラでは例のアヅマハヤの話がある。さてシナヌを經てヲハリに還られ、そこでミヤズヒメとの物語があり、草薙の劔をそこに置かれた。それからイブキに赴かれて病を得、タギ、ミヘを經てノボヌに到つて薨ぜられた。なほアシガラではそこの神が白鹿となつて現はれ、イブキではやはり神の化つたといふ白猪に逢はれ、薨後には八尋の白千鳥となつて飛行せられたといふ話がある。ヤキツ、アヅマはもとより、(350)ヰサメの清水、タギ、ミヘについての地名説話があることは、いふまでも無い。
さて、此の勅命にある東方十二道といふのは、どこ/\を指したものか明かで無いが、その命を奉じて經過せられた地方が、ほゞ後の東海道の全體及び東山道の信濃以西に當るのであるから、東方十二道の大體の範圍は想像せられる。たゞ、ヤマトタケルの命はエミシをも此のとき征討せられたやうにしてあつて、其のエミシはどこにゐるのか不明であり、たゞ前に述べた道順から考へて、ツクバよりも北方にあることだけが想像せられるのみであるが、これは異民族であるから東方十二道の中には含まれてゐなからう。此の語は崇神天皇の卷にも見えてゐて、タケヌナカハの命を「東方十二道に遣はし」、タニハとコシとに遣はされた人々と同じく「其のまつろはぬ人ども」を平定させられたとある。さすれば東方十二道は、タニハ(多分、今の山陰道方面といふ意であらう)及びコシ(後の北陸道方面)と同樣に考へられてゐたことがわかり、從つてそれが、エミシの如き異民族の住地を含まぬことが推測せられる(此の崇神天皇の時のは、書紀には北陸・東海・西道・タニハの四道となつてゐて、タケヌナカハの命の擔任は東海と書いてある)。さうして、ヤマトタケルの命の場合の使命も此の時のと同じであることが、上に引いた古事記の文によつて知られる(たゞ崇神天皇の時には「荒ぶる神」といふことが見えない)。だから、ヤマトタケルの命の經略は(次にいふ宗教的意味は且らく別として)内地の民、即ち我々の民族に對するものであつて、一口にいふと地方民の綏撫といふやうな意味であることが知られ、異民族たるエミシの平定は其のついでに行はれたに過ぎず、主要なる目的とせられてゐないことがわかる。ヤキツやアシガラやイブキやに於いて、種々の物語があるに拘はらず、エミシに對しては何の話も無く、其の地理的位置すら明かになつてゐないのも、一つは此の故であらう。(351) ところで、此の物語は歴史的事實であるかどうかといふに、其の内容はやはり其のまゝには事實として認め難いことが多い。地名説話はいふまでも無く、民間説話めいた白鳥の物語が、何れも事實らしくないことはいふまでも無からう。また特に注意すべきは種々の宗教的分子を含んだ説話であるが、これも歴史的事實とは認められない。「あらぶる神」または「ちはやぶる神」といふ語は、政治的反逆者に對する譬喩的の名稱では無くして、宗教思想の發現として見るべきものであり、それは、遷却祟神祭祀詞に、所謂祟神が「あらぶる神」とせられてゐるのでも知られる。なほ肥前風土記、基肄郡・佐嘉郡・神崎郡の條に見える「あらぶる神」、播磨風土記揖保郡の條の人を殺す神や、筑後風土記の「人の命つくしの神」などのことを參照するがよい。クマソ征討の話に山河の神、穴門の神などとあるのも、これと同樣である。さうして皇子が此の荒ぶる神を平定せられたといふのは、天孫降臨の際に同じことが行はれたとか、岩根木のたち草のかきはの物をいふのが止んだとか、または星の神アマツミカボシが服從しなかつたとか、いふのと同樣、皇室を神と見るところから來る宗教思想が、物語として現はれたものであらう。イブキ山やアシガラの阪で神が現はれてゐるのも、かう解釋しなければ全く説明が出來ない。(ヤキツの物語に、沼の中に「ちはやぶる神」がゐると書いてあるのを、沼はヌで野の借字だらうと説いてゐるものがあるが、これは神を人と思つたからのことで、此の宗教的意味を領解しないために生じたのである。神は水の底にも火の中にも何處にでも住んでゐる。)さて政治的反逆者は、此の物語に於いて分明に「まつろはぬ人」と書いてあつて、「あらぶる神」とは區別せられてゐるのであるが、其の二つがこゝに結合せられてゐるのは、朝廷の政治的地位と宗教的使命とが一の力として現はれる、といふ思想に基づいてゐる。しかしこれは思想上のことであるから、事實として明らさまには見られない。だから斯ういふ(352)物語は、歴史的事實の明かに知られる時代になつては記紀にも無くなつてゐる。いひかへると、事實の記録としてでは無く、物語としてのみ文獻に現はれるのである(なほ此の宗教思想については、後章に詳説するつもりである)。それから、サカヲリの宮での例の連歌の話、又た所謂國しぬびの歌の物語が事實譚で無いことも、また疑ひがあるまい(「【文學に現はれたる】我が國民思想の研究」貴族文學の時代、序説第二章參照)。また火燒の翁をアヅマの國造とせられたとあるが、そんな國造が事實上あつたらしくは見えぬ。國造の領土がもつと狹い範圍であることは、いふまでもなからう。
だから此の物語は、例の東國經略といふ漠然たる概念を基礎にして、それから作つた話をヤマトタケルの命に結びつけたのであつて、それは多分クマソ征討の物語と對立せしめるためであり、さうしてそれは東方、特にアヅマ方面が、クマソの汎稱によつて代表せられてゐるツクシの南部とほゞ同じやうに、ヤマトの朝廷には視られてゐたからであらう。(序にいふ。此の物語にサガムのヤキツと書いてあるが、ヤキツは今の駿河の燒津、即ち益頭らしいから、この書き方には地理上の混亂がある。これは記者の腦裡の土地が相摸方面であつたのに、ヤキツの所在が明確に意識せられてゐなかつたからか、または誤つて相摸だと思つたからか、どちらかの偶然の事情から、かういふ書き方をしたのであらう。「さがむの小野にもゆる火の」といふ歌を結びつけたのでも、作者が相摸の土地を胸臆に描き出してゐたことは明かである。今の駿河地方まで昔はサガムといはれてゐたといふやうなことは、自然地理上の形勢からも考ふべからざることである。さうして、此の時の事件を相摸地方としたのは、此の物語の基礎的概念として、アヅマの地方を特殊の一區域としてゐる考があつたからではあるまいか。)かう考へると、此の物語の形を成したのはクマソ征討の話と同時であるらしい。崇神天皇の卷にも同じ東方十二道綏撫の話のあるのは、古事記全體の結構からいふと重複(353)してゐるやうであるが、それはタニハ、コシ(及び後にいふやうにキビ)の經略と共に内地綏撫といふ一つの概念に含まれてゐることであり、これはクマソ征討に對しての話であるから、おのづから別の組み立てに屬する。なほこゝの東方十二道といふ語は、かういふ物語としてはあまり明確に過ぎてゐる。孝徳紀二年の條に東方八道の語があつて、其の八道は八國のことらしいから、こゝの十二道も十二國の義かと思はれるが、國郡制定以前にかういふ數へ方をするのも穩かで無い。だから此の十二道の三字は、物語の形成せられたよりはずつと後に附け加へられた語では無からうか。崇神天皇の卷のも、コシ、タニハに對して、かう稱するのは權衡を失してゐるやうである。しかし何れにしても、それがエミシを含んでゐないことは、物語そのものから推知せられる。
以上は古事記の物語についての觀察であるが、書紀の方では大いに趣がちがつてゐる。
(354) 二 書紀の物語
書紀ではヤマトタケルの命の東征の意味が、古事記とはよほど變つてゐて、其の主なる目的がエミシの征討となつてゐる。景行紀四十年の條に先づエミシの叛いたことを記し、ヤマトタケルの命に下された勅命にエミシの状を詳述してあり、ノボヌで薨去せられる前にエミシの俘虜を神宮に獻ぜられたとあるなど、物語の始終がエミシのことになつてゐるし、又た此の征討の動機として、二十七年の條にタケウチノスクネのヒタカミの國、即ちエミシの國についての上奏が見え、さうしてヤマトタケルの命は其のヒタカミの國を征服せられたやうになつてゐる。だから、古事記で東海・東山方面の綏撫が主なる目的となつてゐるとは違つて、これではエミシ征討の往還路として東國を通過せられたことになる。エミシ降伏の場合に一場の物語があり、後にいふやうに、そこへゆかれた道筋の記されてゐるのも、此の故であらう。要するに、古事記ではたゞ漠然とエミシ征服の一事が東方經略の物語に附載せられてゐるに過ぎないのに、書紀ではエミシを特に一般東國の背景から浮き上がらせ、其の征討を主なる物語に發展させてゐるのである。それから御歸路も古事記とは違つてゐて、常陸から(どこを經由せられたか不明であるが)甲斐に入り、更にそこを出て(路順からいふと甚だ無理な方向をとつて)武藏・上野を迂囘し、それから信濃に入り美濃に出られることにし、別にキビノタケヒコのコシ巡察をさへ附け加へてある。さうして、此の道順の變化に伴つて、アヅマハヤの物語がアシガラからウスヒに移され、白鹿の話は信濃の阪に變つてゐる上に、白狗が命を導いて美濃に出たといふことが加へら(355)れてゐる。なほイブキの猪も蛇になつてゐる。それから、命の薨去の後に景行天皇が其の平定せられた國々を巡幸せられるといふ物語があるが、これは天皇のクマソ親征と同樣、古事記にはまるで無い話である。但し、クマソ親征の場合の如き詳しい物語は無く、御道筋も伊勢から轉じて東海に入り、それから上總國に至り、海路からアハの水門を渡られたとあるのみであり、肝心のヒタカミの國のことなどは全く見えない。
さて書紀の此の物語が、古事記の準據となつた舊辭がもとになつて、それから發展したものであることは疑ひが無い。すべてが複雜になつてゐる上に、エミシ征討が主なる觀念となつてゐながら、それとは關係の無い、むしろエミシの征討を主とする物語の調子を弱める、ヤキツやハシリミヅやイブキの話などが依然として存在してゐること、御歸路の道順が甚だ不自然になつてゐること、並びに白鹿の物語に白狗が現はれて來たことなどは、其の證であつて、書紀の物語は古事記の話に新しい思想、新しい説話を附加したものであることは明かである。エミシの俘虜を獻ぜられたといふ話なども、命が二、三の從者を從へて諸國を巡歴せられたといふ大體の筋に矛盾してゐるが、是も附加物だからである(古事記には明かに「軍衆も賜はず」と書いてあるが、書紀でも例のヤキツの話などは、兵を率ゐて賊と戰はれたので無く、古事記と同じく命一人での御はたらきとなつてゐる。さうして斯ういふ巡行によつて、後になつて五ヶ國に分置せられるやうな多くの俘虜を得られ、又たそれをつれてあるかれる筈が無い)。從つて、物語としての性質、または史料としての價値も古事記のと異なるところは無く、物語が發展してゐるだけ、それよりも一層事實に遠いといはねばならぬ。エミシの首長をシマツカミ、クニツカミとしてあるなども、其の證であつて、これは日本語である上に、例の連稱的に二人としていひつゞけたのである。勿論ヤマトの政府がエミシに對して何等かの行動を取つ(356)たことは或はあらうが、かういふ物語は、或る特娩の場合の或る事件を譬喩的に言ひ現はしたのでは無く、エミシの歸服といふ漠然たる概念から作られたものと見るのが、妥當である。で無ければ、エミシの實際の首長の名が傳へられずして、こんな名になつてゐる理由が無い。或る場合にエミシの俘虜を五ヶ國に分置せられたといふやうなことも事實であらうが、こゝの話はそれを取つてヤマトタケルの命の物語に結びつけたものである。
なほ、書紀の此の物語が其のまゝに事實として認め難いといふことは、物語が著しく支那思想によつて潤色せられてゐるのでもわかる。事件の起るよりもずつと前のタケウチノスクネの上奏に「東夷之中、有日高見國〔九字右○〕、其國人、男女並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷〔五字右○〕、亦土地沃壤而曠之、撃可取也、」とあり、又たヤマトタケルの命の遣遣せられる時の勅命に「其東夷〔二字右○〕也、識性暴強、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盗略、亦山有邪神、郊有姦鬼、遮衢塞徑、多令苦人、其東夷之中、蝦夷是尤強焉〔十字右○〕、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住※[木+巣]、衣毛飲血、昆弟粕疑、登山如飛禽、行草如走獣、承恩則忘、見怨必報、是以箭藏頭髻、刀佩衣中、或聚黨類、而犯邊界、或伺農桑、以略人民、撃則隱草、迫則入山、故往古以來、未染王化、」とあるが、これで見ると、エミシは東夷の一部分であつて、エミシの外に東夷と稱せられる強暴なものがあつたやうである。さうして此の事件があつたといふ年の最初の記事に「東夷多叛、邊境騷動、」とあり、それを承けて「東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉坂、屡略人民、」といつてあるのを考へると、東夷は東國の住民を指す稱呼のやうである。ところが、エミシの外に實際こんな「夷」が東國にあつたであらうか。東國では我々の民族が直ちにエミシと接觸してゐて、其の間に別の異民族があつたといふやうな形跡は全く無いから、エミシで無い東國の住民は我々の同民族であらうが、それが果してこんな状態であつたらうか。甚だ怪しい(357)といはねばならぬ。が、此の文が、支那人の夷狄觀を書物の中から探し出して來て羅列したやうに見えること、特にエミシについて「男女交居、父子無別、」といふのが、道なきものを夷とする支那的道徳思想であり、「冬則宿穴、夏則住※[木+巣]、」といふのも、支那人の夷狄に對する一般的概念であつて、エミシの風俗とは考へ難いこと、並びに「持斧鉞以授日本武尊」といひ、「察汝爲人也、……力能扛鼎、猛如雷電、」といひ「示之以威、懷之以徳、不煩兵甲、自令臣順、」といひ、「借天皇之威、往臨其境、示以徳教、」といひ、前後の文がみな支那人の成語を用ゐた支那思想であること、又たヤマトタケルの命に關しても、死ねとて我を東國に遣はし給ふと患ひ泣きして出かけられた、といふ古事記の話とは、反對に、威風堂々と出發せられてゐるのが、やはり同じ思想に淵源があることなどを考へ合はせると、これは實際「東夷」と稱すべきものがあつたのでは無くして、文章の上で支那めかさうとするために斯ういふ文字を用ゐたのであることが、推測せられる。なほ「村之無長、邑之勿首、」などの無政府的状態は、トヨキイリヒコの命に東國を治めしめられた、といふ垂仁紀の記事に矛盾するが、これは二つとも別々に舊辭に潤色を施した爲に生じた結果であらう。それどころで無い。實際、皇子の東國巡歴を敍する場合には、少しもそんな夷狄の地を通過せられたやうな樣子を見せないでは無いか。なほ書紀のかういふ筆法は、崇神紀十一年の條の「四道將軍、以平戎夷之状奏焉、」にも例があるので、こゝでは東海も西道もタニハも皆な戎夷とせられてしまつてゐる。ありもせぬ戎夷を文字の上に作つて置いたのである。
然らば、此の物語は何時こんな風に開展せられ潤色せられたかといふと、茲に先づ注意すべきは、此の物語に見える土地が皆な國郡制定以後の國名によつて示されてゐることである。第一、陸奥國といふ名さへ現はれてゐるが、其(358)の他でも、駿河・相摸・上總・常陸・甲斐・武藏・上野・信濃・美濃・近江・伊勢など、皆な後世の行政區劃の名稱である。古事記でも、ヲハリの國、サガムの國、シナヌの國、またはカヒ、などの名は出てゐるが、これらは古くから稱へられてゐたものらしく、又たタマクラベとかタギとかいふ地名がそれと同じやうに取り扱はれてゐるのを見ても、これらの國名は國郡制定以後の行政區劃の名では無く、國造などによつて知られてゐた古い名稱であることが知られる(シナヌの國造、カヒの國造、ヲハリの國造の名は古事記に見える)。けれども、書紀には規則正しくすべてを國名で示してゐるので、「近江膽吹山」といひ「移伊勢而到尾津」といふなど、一々の地名にも國名を冠せてあり、又た武藏・上野・美濃など何の出來事も無い土地でも、通過せられた地方の國名を擧げてあるのを見ると、書紀の此の物語が、行政區劃としての國名が定められた後に、書かれたものであることは明かであらう。たゞそれが、昔からあつた物語について、地名に關したことだけを新しい行政區劃によつて書き改めたのみであるか、または其の時、物語其のものに變改が加へられたのであるか、は問題であるが、同じ景行紀のツクシ巡幸の傳説には、地名がオホキタの國、ソの國、アソの國、コユの縣、などといふ國郡制定より前の稱呼で寫されてゐるから、一方に斯ういふものがあつて、他方に此の物語のやうな風のものがあるとすれば、さうしてまた、此の物語の基礎となつた古事記の記載には、みな古い稱呼が用ゐてあるとすれば、景行天皇西幸物語や古事記の話は、國郡制定の前から存在してゐる物語で、此の物語は其の後に新たに修補せられたものと推測するのが、當然であらう。
もつともツクシ巡幸の話にも、豐前國のナガヲの縣、筑紫後國のミケ(別のところにはミケの國とある)などといふ名もあつて、此の豐前國や筑紫後國は國郡制定以後の名らしく思はれるが、其の時分にナガヲの縣とかミケの國とか(359)いふ稱呼は無い筈であるから、これは後に附け加へたものと見てよからう。なほ書紀の國名の書き方は極めて亂雜であつて、其の一、二の例を擧げると、繼體紀・安閑紀・宣化紀等に火の國とあるのに、神功紀に既に火前國の名が見え、敏達紀・舒明紀は勿論、天武紀にも吉備國とあるのに、安閑紀には備後、欽明紀には備前の名が出てゐ、同じ名でも宣化紀には火國とも肥國とも書き、孝徳紀に上毛野、齊明紀に科野、天智紀に淡海とあるのに、推古紀には上野・近江、孝徳紀には信濃とある。甚だしきは崇峻紀・推古紀に攝津國といふのが見える。此の物語に關係のあることでは、推古紀に既に陸奥國の名が出てゐる。國名ばかりで無く、繼體紀に丹波國桑田郡、欽明紀に山背國紀伊郡とあるなど、郡名が古いところにも現はれてゐる。これらの文字のうちには、傳寫の間に書き誤られたのもあらうし、又は何人かの加へた傍註などが本文となつたやうなのも無いでは無からうが、兎も角も古い時代のことにも、往々國郡制定の後、もしくは所謂好字を用ゐるやうになつてからの國名や文字が用ゐられてゐることは、書紀の編纂せられた時からのことであつたらう。さうして此の新しい名稱もしくは文字を用ゐた場合と、昔からの稱呼に從つた場合とについては、何等の定則も約束も無いやうである(例へば安閑紀二年の條に、火國、播磨國、備後國、婀娜國、紀國、近江國、上毛野國などと列記してあるのを見るがよい)。が、きれ/”\の記事で、編者もうつかり新しい名を用ゐたり、又た後人の書き誤りや本文で無いものの※[手偏+讒の旁]入も起り易かつたり、するやうな場合のは別として、此の物語のやうに全體が新しい行政區劃の名になつてゐる上に、巡歴の道筋がそれによつて示され、また小さい地名をいふ時は必ず其の上に國名を示してあるやうな場合は、昔からある物語を取つて書紀の編者が土地に關する點だけを書き改めた、とは考へ難い。
然らば、古事記に見えるやうな話を改作して此の物語としたのは、國郡制定後の何時であるかといふに、此の物語(360)に「越」が國名として取り扱はれてゐることを考へると、まだ越が一國とせられてゐた時代であることが察せられる。越が分れた時代も明瞭で無いが、續紀、文武天皇元年十二月の條には「賜越後蝦狄物」といふ記事が見え、其の後には越といふ名が出て來ないのに、書紀の持統天皇十年三月の條には「越度島蝦夷」といふことがあり、同じく三年、二年、天武天皇十一年の條にも、やはり越とある。もつとも、これらは單に越とあるのみで越國とは書いて無いから、行政區劃としては越後などが分置せられた後でも、舊慣に從つて越の汎稱を用ゐたのでは無いか、と疑へば疑はれるが、天智天皇七年の紀には「越國獻燃土與燃水」とあり、齊明天皇五年には「授道奥與越國司位各二階」とあり、其の前年には阿部比羅夫を「越國守」と明確に記してあるから、少なくとも此の頃までは越が國名であつて、まだ越後などが分れてゐなかつたに違ない。ところが、其の齊明紀五年にも「饗陸奥與越蝦夷」とあり、ずつと前の孝徳天皇四年の紀にも「越與信濃之民」といふ語があつて、行政區劃としての國でありながら國といふ字が無いのを考へると、天武・持統二朝に越とあるのも、通稱では無くしてやはり國名だらうと思はれる。さすれば、越後などが越から分置せられたのは、持統天皇の十年から文武天皇元年までの間となるが、文武天皇元年は即ち持統天皇十一年であるから、此の分置の時機は二年足らずの間に限定せられる訣である。何となく短かすぎるやうではあるが、別に反證は無ささうである(筑紫國の名が持統紀の四年まで見えてゐて、文武紀二年から筑前國が現はれ、天武紀十一年まで吉備國とあつて、やはり文武紀二年には備前備中の名が見え、其の後は吉備國の稱が無くなつてゐることを、參照するがよい)。さすれば、書紀に採られた此の物語は、大化の國郡制置から持統朝までの間に記されたものと推斷せられよう。(美濃・信濃などといふ文字は、越國のなほ存在してゐた時分にこれらの國名に用ゐられたのでは無からうが、これは書(361)紀編纂の際に書き改めたものとして、解釋することができる。但し越といふ國は其のころにはもはや無いのであるから、書きかへることは出來なかつたのであらう。前に述べた如く、國名の書き方は不規則であるけれども、越についてはそれが越前・越中・越後に分れるまでは、變つた書き方がして無く、分れてからは越國といふ名が無いのであるから、これだけについては斯ういふ推論ができる。)
以上は物語の書き方の上からの推測であるが、それは其の内容と一致するであらうか。それを判定するには、物語のエミシの状態と歴史的事實として知られてゐるエミシ經略の形勢とを、對照して見なければならぬ。そこで先づ物語のエミシは何處にゐたのかと考へるに、書紀の本文には「從上總、轉入陸奥國、時大鏡懸於王船、從海路、廻於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境、蝦夷賊首島津神國津神等、屯於竹水門、而欲距、然……面縛服罪、放免其罪、……蝦夷既平、自日高見國還之、西南歴常陸、至甲斐國、」とある。此の文では、エミシとヒタカミの國との關係がやゝ不明のやうであるが、前に引いたタケウチノスクネの上奏によると、ヒタカミの國の住民が即ちエミシである。さて、其のヒタカミの國は常陸の東北にあるとしてあるが、それと陸奥國との關係については、本文の記載が甚だ曖昧である。そこでなほよく本文を見ると、ヒタカミにゆかれたといふ道筋が二樣に解釋せられる。それは「轉入陸奥國」の一句は實際陸奥國に入られたことで、「時大鏡懸於王船」以下の數句は、其の陸奥國から更に進んでエミシの境、即ちヒタカミの國にゆかれたことである、とも見られ、又た「入陸奥國」は先づ方向を示したのであり、航海の記事は上總から陸奥にゆく道すぢを述べたものであつて「至蝦夷境」が即ち實際陸奥國の某地轉に入られたことをいふのである、とも解せられるからである。さうして第一の解釋に從へば、ヒタカミの國は睦奥國の北にあることになり、第二の解釋によ(362)ればヒタカミの國が即ち陸奥の國であるか、またはそれと或る状態に於いて交雜してゐるか、といふことになる。さて此の二つの解釋のうちで、上總から海路陸奥まで航行するといふことは、當時の交通の状態から見ると、實際にあつたらしくは思はれず、從つて物語としても一寸起りさうにない考であるから、第一の解釋に從はねばならぬやうでもあるが、「從上總轉入〔二字右○〕陸奥國」の語が、陸路を通過して順次陸奥國まで北進せられたこととしては適切で無く、今まで東進せられた方向を北に轉じ、陸奥を指して進まれた、と解する方が轉の字にも妥富であるやうに聞こえ、又た文勢からいふと、「時〔右○〕大境懸於王船」云々の語も、「蝦夷既平、自日高見國還之、」を承けて直ちに「西南歴常陸」云々とあるのも、此の第二の解釋を助けるやうに見える(轉の字の用例は「自甲斐北轉、歴武藏上野、」の句にも見える)。何れにしても徹底しない解釋である。たゞ實際に無い航路を物語に用ゐることは、第一章に述べたツヌガアラシやアメノヒボコの例もあるから、これは大した難にはならぬのみならず、甲斐から武藏上野を經て信濃に入られたといふ無理な道筋を作つたことから考へると、此の物語には、皇子が東國の國々をすべて一と通り通過せられたやうに仕組まう、といふ精神が根柢にあるらしく、從つて歸路に通過せられた常陸を往路にもゆかれたことにするのは、都合がわるいと考へ、故らに海路としたのでは無いかとも思はれる(もつとも道順はどうでも作られるけれども、古事記に見えるやうな前からの説話が既にあつてそれを修補するのであるから、さう勝手に改めることも出來なかつたらう。だから下野は組み込まれなかつた)。さすれば、第二の解釋の方が寧ろ妥當に近いかと思はれる。が、さうするとヒタカミの國と陸奥國との關係が前に述べたやうになるが、それでよからうか。それを考へるには、陸奥國の状態とヒタカミの國といふ觀念とを、一々吟味してかゝらねばならぬ。
(363) 便宜上まづ陸奥國を考へてみるに、かういふ國が大化の時、一般國郡の制置と共に建てられたものであることは、先づ論の無いことであらう。さて其の頃の陸奥國の管區は明瞭で無いが、兎も角も一國として立ち得るだけの廣さと相應の住民とを有つてゐたことと考へられる。續紀、文武天皇慶雲四年の條に、陸奥國信太郡の生玉五百足といふものが齊明天皇の朝の百濟戰役に從軍したといふ話が見えてゐるが、此の信太郡を故吉田氏の地名辭書に、大槻氏の説を引いて、信夫郡の誤りだとしてあるのは、もつとものことである。單に文字の上からいつても、陸奥の志太郡は何時でも「志」と書いてあつて「信」とはしてない。さうして「信」の字は信夫や信濃などの例から見てもシの假名として用ゐられたらしくは見えない(常陸の信太郡を普通にシダと訓ませてあるのは、少しく奇であるが、仙覺の萬葉鈔に引いてある常陸風土記の地名説話に幡垂の國といふ話が出てゐるから、これはやはりシダであつて、例外と見なすべきものらしい。丹波、讃岐、など、一體に語尾がnになつてゐる文字は、何れも母韻をつけてナニヌネノの何れかに用ゐるのが通例である)。さて、信夫郡のものが齊明朝の海外征討軍に編入せられてゐたとすれば、其の地方は建置の初めから陸奥國の管内であつたであらう。それから、齊明紀の元年の條に「饗……東蝦夷〔三字右○〕九十五人……仍授柵養蝦夷九人……冠…二階」と見え、四年の條にも「蝦夷二百餘、詣闕朝獻、饗賜贍給、有加於常、仍授柵養蝦夷二人位一階、」とあるが、此の柵養蝦夷は、持統紀三年の條に、陸奥の優嗜曇郡の城養蝦夷脂利古男といふものが沙門となつた、といふ話のあるものであつて、其の優嗜曇は吉田氏に從へば、ウキタミ即ち和銅五年に陸奥から出羽へ移管せられた置賜郡である(柵養の文字が音を寫したもので固有名詞であることは、それがこれらの記事に於いて、津輕とか渟代とかいふ地名と同樣に取り扱はれてゐるのでも知られる)。さうしてこれらの零碎な記事と、同じ齊明紀五年の條に「饗(364)陸奥〔二字右○〕與越蝦夷」とあり「授道奥與越國司位各二階」ともあることとを、參照して推察すると、花々しい遠征などこそ無けれ、陸奥方面のエミシに對する經略も齊明朝の前後には着々と行はれ、西方に於いては、此のとき既に今の置賜地方まで其の力が及んでゐたらしく、從つて陸奥國の管區が當時ほゞ今の岩代地方を含んでゐたことが想像せられる(持統朝には、置賜の邊になほエミシが住んではゐるものの、郡の置かれるまでになつてゐたのである)。たゞ海岸方面については、明かな證跡が史上には見えない。
ところが、養老二年に會津・信夫・曰理、以南が陸奥國から割かれて、石背・石城二國が分置せられ、さうして此の時は既に最上・置賜が出羽に移された後であることを思ふと、これらの地方を除けてもなほ一國として陸奥國が成り立ちさうであつたと考へられるから、養老時代には陸奥國の範圍は大體、後の宮城郡附近の地方に及んでゐたらしい。しかし分置せられた石城・石背が程なく陸奥の一部として復舊せられたのは、其の地方が除かれたのでは實際一國として、特にエミシ經略の衝に當つて立つてゆくには、餘りに陸奥が弱小であつたからのことであらうから、宮城郡あたりより北の方までも包含してはゐなかつたらう、と考へられる。宮城郡附近までといふのは、大體の地勢と、續紀に見える延麿八年八月の詔勅に「牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、加美、黒川等一十箇郡、與賊接居、」とあるのでも知られる如く、後までも黒川郡以北がやゝ特別に考へられてゐたこととを、參照しての臆測であるが、黒川郡以北はよほど後までも半ば夷地であつたから、大體の見當は違ふまいと思ふ。ところが、和銅六年に丹取郡が新たに建てられ、養老五年に苅田郡が柴田郡から分置せられたことを、養老二年の石背石城分置に參照して考へると、此の方面の開拓が進んだのは此の頃のことらしい。もつとも、和銅二年に樣子の一向わからない巨勢麻(365)呂の征討の記事が史上に見えるのみで、此の方面に大征討の行はれた形跡は無いが、大勢上かう觀察せられる。これらの點を綜合して推測するに、大化以後持統朝以前の陸奥國は、後に一度分置せられた石城石背地方が、其の大部分でもあり主要な地方でもあつたので、其の西北には置賜邊の夷族が隷屬してゐ、東北には(遠く考へたところで)後の名取郡・宮城郡邊が、やはり半ばエミシの地ながらに、ぼんやり加はつてゐたくらゐのものであつたらう。
以上は後の状態から溯つて推測を試みたものであるが、次に前の時代から考へて見たらばどうかといふに、これは材料が無いので、あまり確實なことはいはれない。古事記に國造・縣主などの祖先が記してあるのを見ると、東北地方ではカミツケヌ、シモツケヌ、ウバラキ、ヒタチのナカ、道の奥のイハキの名が見えるが、道の奥のイハキは即ち後の石城郡(大化の初めには常陸の多珂郡に含まれてゐた)地方であらう。これらの國造は、斯ういふ系譜の作られた時には現存してゐたのであつて、其の作られたのは、所謂帝紀舊辭が一と通り形を成した時(総論第四節に述べたところによると、繼體朝乃至欽明朝ごろ、即ち六世紀の前半)もしくはそれより後に違ひないから、大化の國郡制置からあまり遠い前のことではなからう(このことについては後章にも述べようと思ふ)。ところが、此の國造のうちにイハキが道の奥としてあるのを見ると、其のころには、後の石城郡地方より奥には、まだ國造として.朝廷に知られてゐるほどの豪族がゐなかつたのではあるまいか。我々の民族そのものは、もつと北の方にも住んでゐたでもあらうが、それがまだ朝廷から國造として承認せられるやうなものによつて統治せられるほど、確實な行政系統に編入せられてはゐなかつた、と思はれる。古事記に國造などが悉く列擧せられてゐるとはいはれないので、邊境に於いても北陸の方面では、コシのトナミ(今の越中礪波)より東にあるものは見當らず、常陸地方でも、風土記にも見えてゐて實際存在し(366)たらしいタカの國造も擧げてない程であるから、單に國造の名の見える地方を以て我々の民族の住地の限りと考へることは、勿論、できないが、イハキに冠せられてゐる「道の奥」は語のまゝの道の奥の義であつて、後の道奥または陸奥といふ國名の由來がそこにあるものの、此の時はまだ後世のやうに廣い範圍を有つてゐる行政區劃の名では無かつたから、其の頃の朝廷からは石城郡附近が大體、東北の極と考へられてゐたらしく思はれ、我々の民族の殖民がそれより北方に甚だしく遠くは進んでゐなかつたらうと考へられる。もつともこれは海道方面のことであつて、山道方面については何の證跡も無いが、兩方面に大した差異は無からう。何れかといへば、海道方面が山道方面よりは前進してゐたかと思ふ。(古事記には別に道の尻のキヘといふ名が出てゐて、道の尻は道の奥と同じ意義であるらしいが、これは位置が明かで無い。常陸風土記によると、後の多珂郡と石城郡とを含んでゐたタカの國の道の後が、石城郡の苦麻であつたといふが、其の道の口が助河であつたとあるところから見ると、常陸風土記の道の後はタカの國のはてといふことであつて、内地のはてといふ意味では無く、又た單に道の尻のキヘとあるのを、常陸から進む道の尻と限つて見ることも出來ないから、それを風土記の道の後に擬てるには多少の危險がある。)
さて石城郡附近が大化の前の或る時期に道の奥であつたとすると、大化の時その北方に陸奥國が新たに置かれたのは、其の時までに北邊の開拓が多少進歩もし、又た今までは放任せられてゐたものが行政組織の中に編入せられもして、實際の道の奥が石城よりも北に移つてゐたからのことと考へられる。(石城郡は後に陸奥國へ移されたが、大化の頃は常陸國の所管であつたらしい。これは常陸風土記の文面からも、又た後に菊多郡が常陸國から石城國に移された事例からも、推測せられる。)大化より前の或る時代に於いて道の奥と稱せられたイハキが、國郡制置の際に常陸國に(367)入つて、其の北方に陸奥國が置かれたのと、其の陸奥國の主要なる地域であつた地方が、一時のこととはいへ、養老になつて石城・石背の二國となり、其の北方が陸奥國になつたのとは、同じやうな關係で、一段々々と我々の民族の勢力の北進していつた形跡が、そこに見えるのではあるまいか。けれども、道の奥のイハキの名の用ゐられた時代と大化とが甚だしく距たつてゐないとすると、大化の時イハキの北方に於いて新たに建てられた陸奥國の範圍も、亦たひどく廣くはなかつたであらうから、齊明朝前後に多少經略の手が擴げられたにしても、其の北邊が遠くとも今の陸前の南部にあつて、そこがまだ半ば夷地であつたらう、といふ上記の臆測は、此の點から見ても大なる間違ひは無からうと思ふ。(序にいつて置くが、世間では往々上代のことを考へる材料として、舊事記の國造本紀を用ゐるけれども、著者はそれを取らぬ。このことは次章に述べよう。)
次にヒタカミの國に移るが、これは國とはあるものの行政區劃の名で無いことは、いふまでも無い。書紀の文勢から見ると、それが廣いエミシの住地のやうであり、或は寧ろエミシの住地全體の名であるが如くにも感ぜられるが、此のヒタカミといふ名は、實際エミシの住地のどこかにある地名からでも起つたものであらうか、又は別の意味から内地人のつけたものであらうか、これが問題である。さて、もし地名から起つたものとすれげ、それは内地に接近してゐる地方に、さういふ名の土地があつたものとしなければならぬ。或は多少の距離はあるにしても、大部落の所在地などで、それがエミシの住地の總稱として用ゐられるだけの特殊な價値のある土地として、エミシから傳聞したものでなくてはならぬ。然るに、もしさういふ土地が實際あつたならば、奈良朝から平安朝の初めへかけて斷え間なく行はれたエミシの征討に關する國史の記事に、それが現はれなくてはならぬのに、一度も此の名の見えたことが無い。(368)是は如何にも奇怪のことである。延喜式の神名帳を見ると、日高見神社といふのが桃生郡にあるが、これは内地人によつて祭られたもので、さうしてそれは、此の地方の拓殖が進んで内地人の移住するものが多くなつてから、即ち大體、天平寶字時代から後のことであらうから、國史に見える日高見の名をとつてつけたものとも見られる。香取伊豆乃御子神社とか鹿島御子神社とかいふのがあるのでも、さう類推せられよう。從つて是は此の地方が前からヒタカミと呼ばれてゐたといふ證據にはならぬ。河の名のキタカミ(北上)がヒタカミだらうといふ説もあるが、「日」の音はfまたはpであつて、kと轉化し易いhであつたとは思はれないから、此の臆測は音韻の上からも成り立つまい。また延暦十六年に屬紀の出來上がつた時の上表に「仁被渤海之北、貊種歸心、威振日河之東、毛狄屏息、」とある日河が日高見河の略稱である、といふ論もあるが、これはむしろ、膽澤方面の蝦夷征討が行はれた時の延暦八年九月の宣命に見える日上乃湊を指したもの、とするのが適切であらう。當時反抗した蝦夷の主力は河東にあつたので、此の宣命と同年六月及び七月の戰闘の記事とを綜合して見ると、其の河の主要なる渡津が此の日上乃湊であつたらしいからである。此の河は膽澤方面の北上川ではあらうが、日上は「湊」とあることから考へても、其の渡頭に當る地名であつて、河の全流の名では無からう(日上はヒカミであらう。「乃」の字が特に其の下に加へられてあるのを見ても、其の字の入れて無い日上がヒノカミと訓むべきもので無いことが推測せられる)。かう考へて來ると、ヒタカミといふ名は史上に一度も出て來たことが無く、從つて、さういふ地名が實際どこかにあつたものとは思はれない。さすれば此の名は、何か意味があつて内地人のつけたものとしなければなるまい。
一體ヒタカミといふ國名は、此のエミシに關係あるものの外に、常陸風土記信太部の條に「此地本日高見國也」と(369)見え、延喜式の大祓の祝詞や遷却祟神祭祝詞にも「大倭日高見國」といふのがある。常陸風土記の日高見國は、「本」云々とあるのを見ると、當時實際には行はれてゐない、從つてまた實際の地名とは關係の無い、名であることが知られる。何故にかういふことをいつたのかは不明であるが、かういふ説の出るのは、ヒタカミの名が、常陸から遠からぬ北方にあるエミシの國として、實際に聞こえてゐなかつたからに違ひない。次に、祝詞のは一種の佳名または美稱であつて、實際の國名で無いことは明かである(これらの祝詞は作られた時代が確かに知られないが、大化改新の前のものであらう)。さて、ヒタカミの國といふ名の用ゐられてゐる他のすべての場合に於いて、それが實際の地名で無いとすれば、エミシの住地としてのヒタカミも、亦た同じく空想上の名稱だらうと思はれる。さうして、大倭のは日神の御裔であらせられる歴代天皇の皇都の地たる大倭にふさはしい美稱であり、エミシのは其の土地が、(大倭から考へて)東の極であるから、日の出る方向によつた聯想から來たものであつて、それを用ゐる心理に相違はあるものの、同じく日に關係のある語では無からうか。ニヽギの命以後の三代の御名に、何れも「アマツヒタカ」の尊稱が上についてゐることをも、參照しなければならぬ。前に述べた如く、ヒタカミの國に關するタケウチノスクネの上奏としてあるものも、またヤマトタケルの命に下された勅命としてあるものも、書紀の文章はすべてエミシの實際を述べたもので無いこと、又た此の物語に見えるエミシの酋長が、シマツカミ、クニツカミといふ空想上の名稱であることを考へると、此のヒタカミの國もやはり實際の地名で無いと見た方が、全體の調子にもかなつてゐる。特にヒタカミの國に關する書紀の記事の文勢によると、それはエミシの住地の總稱であるが如くも感ぜられるが、エミシは一つの國と見られるものでなく、又た實際さう見た例も無い。民族として總稱する場合にはエミシの名があるが、其の外に土地ま(370)たは政治的勢力として、ヒタカミの國といふやうな大きい名前のある筈が無からう。此の名が大和人の假に名づけたものであるといふことは、此の點からも推考せられる。さうしてそれが此の物語にのみ現はれてゐるのを見ると、それは實際、世に用ゐられた名稱では無く、物語の上に於いてのみ現はれたものに違ひない。
さて、ヒタカミの國が空想上の名であるとすれば、それは本來、位置なり範圍なりの判然としてゐるものでは無いから、それが常陸に接してすぐ其の東北にあるやうに見えたり、さうで無いやうに見えたり、又たそれと陸奥國との關係が曖昧であつたり、するのは當然である。實際の行政區劃の名と漠然たる空想上の名稱とを結びつけたのであるから、記者自身に於いても、其の間の關係が明瞭に意識せられてゐなかつたであらう。しかし、此の物語の作られた時代が、果して前に述べた如く大化以後、持統朝以前であるとすれば、一般に考へてエミシの住地、印ち空想上のヒタカミの國を陸奥國の北に置くことは、勿論、差支が無く、また陸奥國に隷屬してゐながらエミシの住地である地方が其の内にあるとすれば、ヒタカミの國と陸奥國とが混同して考へられたとしても、亦た間違ひでは無い。要するに、ヒタカミの國は陸奥方面のエミシの國なのである。さすれば、かの道筋についても、陸奥國から出發し海路北進してヒタカミの國にゆかれたとすれば、それでもよく、又た上總からすぐに海路をとつて陸奥國内の或る地點に上陸せられたので、そこがヒタカミの國だとしても、其の邊がエミシの地である以上は、これまた支障の無い解釋である。さうして更に一歩を進めて具體的に考へるならば、物語の記者の腦裡にあつたタカの水門の位置によつて、此のことが都合よく説明せられる。タカの水門は、第一の解釋に從へば陸奥國の北方でなくてはならず、第二の解釋によれば陸奥國の内にあるエミシの住地にあることになる。さすれば、それは後に多賀として知られてゐる地方であらう。此の(371)地方は前にも述べた如く陸奥國の北邊に當つてゐて、當時なほ概してエミシの住地であり、或る意味に於いてエミシの南境でありながら、しかし陸奥國に隷屬してゐる部分かと思はれるからである。(序にいふ。玉浦や葦浦は、第一の解釋によれば、陸奥國の或る地點から多賀までの海岸にある筈であり、第二の解釋によれば、上總から多賀までの間にあればよいことになつて、是は文面の解釋次第で大なる差異が生ずるが、どちらにしても其の位置を擬定することは殆ど不可能である。同じやうな名稱が今日あるにしても、それは後世に始まつたことかも知れず、また玉浦とか葦浦とかいふやうなのは、同じ名稱が所々に有り勝ちだからである。)さてかういふやうに、書紀の道筋の記事をどう解釋するにしても、タカの水門は畢竟同じところに歸着するが、しかし、寧ろそれほど、全體としてヒタカミの國と陸奥國との關係は曖昧である。
話が積みちに入つたやうであるが、以上述べて來た間におのづから、此の物語の内容が大化以後、持統朝以前の陸奥國方面の状態と、都合よく一致することが知られた筈である。それよりも前、例へば石城郡地方が道の奥として考へられてゐた時代のこととしては、此の物語は全く解釋することが出來なくなる。第一、さういふ場合には常陸國の北に陸奥國の置き場所が無いでは無いか(常陸といふ國名は、よし後の追書であるとしても、其の指すところは後の常陸國の地方であらうが、石城郡は常陸國の北境に接してゐる)。またエミシの住地としてヒタカミの國といふやうな空想上の名が用ゐられたのも、それが、非常な遠方の、或は新しく國として置かれはしたが、まだ異民族の住地として一般に考へられてゐる、東のはての陸奥國の方の、人の耳にも熟しない地方であるからであつて、上代からよく世間に知られてゐる常陸に接近した土地に對しては、こんな名が用ゐられなかつたらう。(大倭や、常陸の信太郡につい(372)ては、それを用ゐる心理がこれとは違つてゐる。彼は佳名美稱として用ゐるのであるが、夷として考へてゐるエミシに對するこれは、單に地理上の觀念から來てゐる。)だから此の物語が國郡制置以後、持統朝以前に作られたものであらう、といふ上文の推定は、内容の上からも是認せられるであらう。それは或は、天武天皇の朝に川島皇子等を首長として開かれた史局の仕事では無かつたらうか。
然らば、古事記に見えるやうな話が、何故に此の時代に於いてこんな風に改められたかといふと、それは即ち、エミシの經略が政府の大問題になつてゐた齊明朝以後の時勢の致すところであらう。史上に著しく現はれてゐる此の時代のエミシ征討は、越の國の方面の所謂北蝦夷(蝦狄)に對するものであるが、東方に於いても決して無爲でなかつたことは、上に述べた通りである。かゝる時勢に於いて、ヤマトタケルの命の東征物語が發展してエミシ征討となつたのは、無理のないことである。さうして、それが越方面を主とした物語にならなかつたのは、本來東方十二道の綏撫といふ傳説が基になつてゐるからであらうが、しかし當時の人がエミシを考へるに當つて、越の方面を閑却することは出來ないから、此の物語にはキビノタケヒコの越分遣といふ一事が附け加へられてある。物語に於いてコシの方面は事實の如く重んぜられてはゐないが、それは物語に時代の反映があるといふことを妨げるものでは無い。當時の事實そのものが物語に加へられたといふのでは無くして、思想の上に於いてエミシが重く見られてゐるといふのである。
以上述べたところで、ヤマトタケルの命のエミシ征討といふ、書紀の物語に對する著者の考説はほゞ悉されてゐる。たゞエミシ經略の状態を考へるに當り、書紀の皇極紀以前に散見するエミシの記事を顧慮しなかつたことについて、一言を附加して置きたい。これらの記事の最初のは、景行紀五十六年の條に見えるミモロワケの王の征討であるが、(373)これはエミシの酋長がアシフリベ、オホハフリベ、トホツクラヲベ、などといふ日本語になつてゐるのみならず、「盡獻其地」などとありながら、それが何處のことか、また戰爭が何處で行はれたか、全るで書いてない。次は應神紀三年の條の「東蝦夷悉朝貢」とある記事であるが、「悉」の字は奇怪である。其の次には、仁徳紀五十五年の條のタミチの征討があるが、これはイシの湊で戰死したといふことがあるけれども、其の位置はわからず、其の上にタミチの墓から大蛇が出てエミシを食ひ殺したといふ妖怪譚がある。(イシの湊は常陸の多賀郡のであらうといひ、又はずつと北方の陸前石卷であらうといひ、史家の間に種々の説がある。記者の腦裡にかういふ名のあるどこかの土地があつたには違ひないが、しかし書紀に其の位置を推測すべき何等の記載の無い此の土地を、單に今日の地名と似てゐるといふところから、それに擬定するのは危險である。のみならず多賀郡のは湊といふべきところらしくも無く、石卷は書紀編纂の當時に於いて知られてゐた名であるかどうか、疑はしい。又たミナトといふ語からいふと、それは必ずしも海濱には限らないのでは無からうか。上に引用した日上の湊の「湊」もミナトの語を寫したのであらうが、それは河の渡津である。タミチの物語にも海濱らしい樣子は少しも見えぬ。)それから清寧紀四年の條及び欽明紀元年の條に「蝦夷隼人並内附」または「蝦夷隼人並率衆歸附」といふ漠然たる記事があり、次には敏達紀の十年に、數千の蝦夷が邊境に寇したから、其の酋長のアヤカスといふものを召しよせて詰責したれば、ハツセの河の中に入りミモロ山に向つて服從を誓つた、といふ話がある。これも何處のもの、何處のことだかわからず、誓約の有樣などもヤマト地方の住民の習慣らしく、異民族たるエミシのしたこととしては甚だ奇異である。其の次は、舒明紀九年の條のカミツケヌの君カタナがエミシを討つたことであるが、これも戰地は何處とも書いて無い。なほ皇極紀元年の條にはコシの邊(374)のエミシが數千人内附したといふ記事があるが、これは陸奥國方面とは關係が無い。其の他、間接にエミシと關係のある記事には、崇峻紀二年の條の東山・東海・北陸道に人を派して國境を觀察せしめたといふこと、推古紀三十五年の條の陸奥國で※[獣偏+各]が人に化つて歌をうたつたといふ話などがある。
さてこれらの諸條を通覽するに、事實の記録としては、第一に、イシの湊の名が出てゐる一ヶ條を除けば、地理の記載の全く無いことが不思議である(特に景行紀・應神紀のは、エミシの征討もしくは其の服從といふ漠然たる概念から案出せられたものであることが、其の記載から明かに推測せられる)。第二には、其の多くに事實らしからぬ話の伴つてゐるのが奇怪である(特に推古紀の記事の如きは陸奥國の名のあるのが既にをかしい)。だから、これらの記事はうつかり信用の出來ないものといはねばならぬ。著者が上文に於いてそれを參考しなかつたのは、此の故である。否、參考しようとしても、しやうのないものだと思つたのである。なほ姓氏録(卷十一)には、中臣志斐連の條に雄略天皇のとき東夷を征討せられたといふことがあるが、一體に此の書の記事は他に證據の無い限り信用しかねるものであるから、且らく論外に置く。
かう考へて來ると、一つの疑問が生ずる。大化以後にはエミシに關する記事が頻々として史上に現はれて來るのに、其の前にはそれが極めて乏しく、其の乏しいものが皆なこんな風のものだとすれば、それは何故であらうか。(1)大化からエミシの日本人に對する態度が急にかはつたのか、(2)政府のエミシに對する態度が突然變化したのか、以上二つの何れでも無ければ、(3)大化の前のことは史料がまるで無かつたのか、此の外には出なからう。ところが、民族競爭の大勢から見れば、(1)とは思はれぬ。また韓地の交渉に關する史料などが兎も角も幾らかあつたのに、エミシについ(375)てのみそれが亡くなつたとは考へ難いから、(3)でもあるまい。もつとも書紀の韓地に關する記事は、百濟の史料から取つたものが可なり多いらしいが、そればかりではあるまいから、それに比べるとエミシに關するものが餘りに少なすぎる。せめては確實な記事の一つや二つはあつてもよささうなものでは無いか。さすれば、(2)の故としなければならぬのではあるまいか。是に於いてか著者は、エミシに對する民族的活動は、大化改新の前までは大體、地方人に放任してあつたので、深く政府の關與するところで無かつたのではあるまいかと想像する。エミシに對する民族的活動は、國家の組織がまだ出來ない前からのことであつて、中央政府が成立した後も大體は其の状態が繼續せられ、さうして東國人は政府の保護を頼まず、自分の力で徐々にエミシを壓迫して、其の生活の舞臺を擴げて行つたのであらう。政府からいふと、所謂クマソの平定は地方的豪族をして朝廷に歸服せしめたのであつた。韓地との交渉は初めから政府の、寧ろ政府だけの、事業であつた。政府は其の權力を我々の民族の間に確立し、韓地に於いて一たび得た其の勢力を維持すればよかつたので、政府としては、初めから深い交渉の無い異民族たるエミシに對しては、みづから進んで積極的の行動を取るやうなことを、しなかつたのではあるまいか。神代史に於いてもエミシ、もしくはエミシの住地に關することは全く現はれてゐず、二神の國土生成の物語に於いても、それは全然除外せられ、もしくは閑却せられてゐるが、これも中央政府に於いて異民族たるエミシに重きを置かなかつたからではあるまいか。エミシの經略が中央政府の一大事業であり、それがために精神を勞することが多かつたならば、何等かの反映が神代史や上代の物語の上にも現はれさうなものであるのに、それがヤマトタケルの命の東方巡察の物語に於いて極めて輕く附記せられてゐるのみであるのは、事實上さういふ經略が行はれなかつたからではあるまいか。新羅親征、クマソ討伐の話は立派(376)に作られてゐ、後には神代史にも新羅の面影が現はれて來るのに此べて、エミシの物語の一つも無いのは、此の故では無からうか。しかし、大化の改新は一朝にして中央集權の制を定め、舊來地方的土豪(所謂國造など)の手に委ねてあつた總ての權力を、政府に收めてしまつた。是に於いてか、從來は東國の人民、または其の地方的首長たる土豪の事業であつたエミシに對する活動も、おのづから政府の手に移らねばならぬ。ところが政府の事業となれば、其の規模もおのづから大きくなり、其の力もまた強くならねばならぬ。さうしてそれは却つて往々エミシの反抗を激成する所以ともなる。大化以後急にエミシの經略の活溌になり、奈良朝に至つてそれが寧ろ困難になつた事情は、かう考へれば自然に理解せられるやうである。勿論、昔とても政府が全くエミシを閑却してゐたのでは無く、何等かの場合に、それに對して多少の威力を用ゐたことが無いでは無かつたらうし、タミチとかカミツケヌのカタナとかの話は、何か根據のある傳説であるかも知れない。また東國の土豪等から俘虜としたエミシの獻上を受納したやうなことも、屡々あつたらう。前章に引用した宋書の記事に見える上表中の毛人云々も、こんなところから出てゐるかも知れない。けれども、それは大化以後の態度とは大なる差異があるのでは無からうか。古事記に見えるヤマトタケルの命の物語は、内地の綏撫が主であつて、エミシのことは附けたりになつてゐること、書紀の物語に於いてそれが一變し、エミシの征討が主要の題目になつたことは、恰もよく此の變化に應ずるものでは無からうか。
最後に、書紀の景行天皇東國巡幸の物語は、ヤマトタケルの命の物語を二重にしたものであらうといふことを一言して置く。前章に述べた如く、クマソについても天皇巡幸の物語が加はつてゐることを、參照するがよい。たゞそれが彼に詳にして是に略なるのは、ヤマトタケルの命の物語がクマソについては甚だ粗であるのに、東國に於いては頗(377)る密であるからであらう。
(378) 第四章 皇子分封の物語
一 氏姓及び系譜
ヤマトタケルの命の物語を考へたについて、おのづから聯想せられることは、景行天皇の時に其の多くの皇子を、諸國の國造・縣主・別・稻置、などとして分封せられた、といふ物語である。此のことについては、古事記にも書紀にもほゞ同樣の記載があるので、天皇の皇子が八十王あるうち、成務天皇とヤマトタケルの命とイホキノイリヒコの命との外の七十七王が、皆な地方に出られたといふのである。なほこれに關聯して、成務天皇の時に國造や縣主を定められたといふ話も、記紀の兩方に見える。なほ古事記には、神代の卷にも神武天皇から景行天皇までの間の多くの卷々にも、所謂伴造國造として總稱すべき諸家の祖先として、神々及び皇族の御名が擧げてある。さてこれらの話は、一體どういふ意味のものであらうか。著者は先づ氏姓に關する一般的考察を試み、それから後に、國造・縣主等の祖先について簡單なる批評を下してみようと思ふ。
氏姓に關して先づ想ひ出されるのは、上代に於いて其の混亂を正すに骨が折れたといふことである。家々で其の氏姓を尊くしようとしてゐたといふことは、既に緒論第四節で概説して置いたが、もう少しそれを述べて見ると、たれ(379)でも知つてゐる如く、允恭天皇の時にアマカシが岡にクカベをすゑて氏姓の混亂を正された、といふことが記紀の何れにも見えてゐる。此のことが正確なる歴史的事實であるかどうかは別問題として、氏姓を政府の力で一定しなければならぬやうな事情があり、また諸家が勝手に種々の氏姓を稱してゐたことは、此の話のあるのでも知られる。孝徳紀三年の條に見える詔勅に「頃者始於神名天皇名々、或別爲臣連之氏、或別爲造等之色、由是率土民心、固執彼此、深生我汝、各守名々、又拙弱臣連伴造國造、以彼爲姓、神名王名、逐自心之所歸、妄付前々處々、爰以神名王名、爲人賂物之故、入他奴婢、穢※[さんずい+于]清名、」といふ一節のあるのも、また氏姓の重んぜられるがために、そこに種々の弊害が生じ、一方では家々が種々の手段で「神名王名」を冒し、それによつて我が家を貴くしようとしてゐると共に、他方ではそれを惡用するやうにもなり、名實相忤ふことの多くなつたことを示すものであつて、それは必ずしも孝徳天皇の時に始まつたことでは無いに違ひない。諸家の有つてゐる帝紀舊辭に誤りが多いのも、こゝに一大原因があらうと推測せられる程である。さて此の混亂の状態は、記紀などの表面にはあまり著しく現はれてはゐないが、細かく觀察すると、そこに多少の例證が發見せられる。
第一に、記紀の間に矛盾のある場合がある。例へば古事記では、神代史の天孫降臨のところにも神武天皇の卷にも、オホトモ氏の祖のアメノオシヒの命及びミチノオミの命と、クメ氏の祖のアマツクメの命及びオホクメの命とは、對等の地位にあり同樣の任務を帶びてゐるやうにしてあるが、書紀では、神代卷の「一書」にも神武紀にも、クメ部はオホトモ氏の配下に屬してゐることになつてゐて、アマツクメの命などの名もない。なほ雄略紀(二年の條)にも、後の大伴家持の喩族歌(萬葉、卷二十)にも、クメ部がオホトモ氏の配下に屬してゐることが見える。これらの記載と、(380)オホトモ氏の家格が連でクメ氏の家が直であることとを、考へ合せると、此の間から二家の勢力爭ひの消息が窺はれるやうに感ぜられる(古事記の景行天皇の卷に、クメの直の祖のナヽツカハギが、ヤマトタケルの命の東方綏撫の際に、膳夫となつて隨行した、といふ話がある。オホトモ氏と對立してゐる立派な家柄としては、ふさはしくないことである)。また、古事記の神代の卷の天の安の河原の話には、ナカトミ氏の祖アメノコヤネの命とイミベ氏の祖フトダマの命とが、同じ地位にあるやうになつてゐるのに、書紀の二つの「一書」に於いては、主なる地位に立つてゐるのはアメノコヤネの命ばかりであつて、フトダマの命は、カヾミツクリやタマツクリの祖と同樣な、從屬的地位に置かれてゐる(たゞ一つの「一書」には此の二神がほゞ同樣に取り扱はれてゐる)。是にもナカトミ、イミベ兩氏の間に於ける何等かの家格上の抗爭が潜んでゐるらしく、ナカトミ氏が連でイミベ氏が首であること、イミベ氏では、ずつと後になつても古語拾遺を書かなければならないほど、ナカトミ氏に對する不平、乃至反抗心があつたこと、を參考しなければならぬ。
此の二つの場合について、古事記の記載と書紀のと、どちらの方がもとの話であるかといふことは、輕々しく判斷しかねる問題であるが、雄略紀の記事などから見ると、クメ部がオホトモ氏の配下であつたことは古い時代の事實らしく、アマツ夕メの命といひオホクメの命といふやうな祖先神の名も、クメ部の名の人格化であつて、恐らくは、一般に神代史のまとめられたよりも、ずつと後になつて作られたものであらう。またイミベ氏も、ナカトミ氏より下級の家であつたのでは無からうか。イミベは名稱もカヾミツクリベなどと同じやうにできてゐて、單に祭祀に與かるに過ぎないものらしく、ナカトミ(ナカツオミ?)とは本來の地位が違ふのであらう。が、それは何れにしても、クメや(381)イミベに關する記紀の記載に、かういふ差異のあることは事實である。
次には、記紀そのものに於いて、系譜と其の系譜に現はれる神なり人なりに關する記載との、矛盾する場合がある。例へば神武紀に於いて、ヤタガラスを純粹の烏としてゐながら「葛野主殿縣主(縣主殿主?)部」を其の苗裔としてゐる。ヤタガラスが烏であることは、古事記にも書紀にも明記せられてゐるのみならず、それが神のはからひとして天から下されたといふ話からも、また此のあたりの物語の全體を貫いてゐる一種の宗教的精神からも、疑ひは無いので、それは多分、日神の御裔たる天皇を導きまゐらせるといふ思想から、曉の鳥として考へ出されたのであらう(太陽と烏とを結びつけることは支那にもあるが、此の話は必ずしもそれによつたものとはしなくてもよからう)。ところが、それを葛野の縣主の祖先として見るのは、明かに此の物語の精神と矛盾してゐる。だから、これは後人のしわざに違ひない。それからタカミムスビの神、カミムスビの神などが、所謂獨神隱身であるのに、それを父祖とする神もしくは家があるといふのも、亦た明かにこれらの神の根本觀念に矛盾してゐる。ワタツミの神は海の神であるのに、それをアヅミの連の祖神だといふのも、同樣である。だから、これらは家々の祖先を所謂帝紀舊辭に現はれてゐる神々としようとする動機から生じた矛盾である、と推考しなければならぬ。
記紀の他の書物に見える系譜に至つては、猶更である。古語拾遺には、ナカトミ氏の祖アメノコヤネの命をカミムスビの神の子としてあるが、アメノコヤネの命は書紀の神代の卷の「一書」にはコトムスビの子とあり、姓氏録(卷十一)にはツハヤムスビの命の三世の孫としてある。ツハヤムスビの命は記紀にも其の他にも全く見えず、コトムスビもたゞ一度しか現はれないから、此の二つの系譜が一致するものか、または全く別のものか、不明であるが、何れに(382)しても古語拾遺とは違ふ。また古語拾遺には、オホトモ氏の祖アメノオシヒの命をタカミムスビの神の子としてあるのに、姓氏録(卷十二・十四及び十九)には五世孫ともある。それから、クメ氏の祖は同じ姓氏録(卷十二及び十四)に、タカミムスビの神の後とも、カミムスビの神の裔ともしてある。さうしてこれらのことは、記紀には(コトムスビの名の外は)一切見えない話である。なほ、イミベ氏の祖のフトダマの命がタカミムスビの神の子であるといふこと(古語拾遺、姓氏録卷十四)も、記紀には無い。これらの諸氏は、社會的にも政治的にも最も重要な地位を有つてゐる家であるから、もし其の系譜が公認せられてゐたものであるならば、帝紀もしくは舊辭に記載せられてゐない筈は無く、從つて記紀によつて傳へられなくてはならぬのに、それが全く見えないこと、また其の多くがこんな有樣で相互に齟齬してゐることを知るのは、やがて系譜そのものの價値を判斷することになるのであらう。
其の他、一體に姓氏録には皇別にも神別にも、記紀等には少しも現はれない神や祖先の名が多く見え、世數なども明かに記載せられてゐるが、それは記紀に見えないといふ點からばかりで無く、文字の無い時代に於いてそれほど精密な系譜がどうして傳へられたかといふことが既に問題である。もつと根本的にいふと、諸家が悉く皇別・神別の二に包含せられてゐる、といふことに特殊の意味があるのである。前に述べた如く、或る家々の祖先とせられてゐる神代史上の神には、其の神代史の所説に於いてすら、祖先といふ觀念とは矛盾する性質のものがある。なほ之に關しては、蕃別とせられてゐる漢韓の歸化人が、殆ど皆な其の祖先を帝王としてゐることをも、參照するがよい。其の蕃別に於いて坂上氏が、書紀に應神天皇の朝に來歸したとある、其の祖阿知使主を後漢の靈帝の子孫とした上に、漢の祚が魏に遷つた際に帶方に移住したものとしてゐるなどは、後世に造作したことが明白である(續日本紀卷三十八、延暦(383)四年六月の條、及び日本後紀卷二十一、弘仁二年五月の條、參照)。漢魏祚をかへた際(三世紀の初め)に生きてゐたものが、應神天皇の朝(四世紀の後半)に來歸する筈が無い(書紀の紀年によるにしても年代が合はない)。だから是は、もし彼の漢人であることが事實であるならば、もと帶方郡の住民であつたものが、百濟の治下に歸し、それがまた新しい郷土を我が國に求めて來歸したのでもあらうか。固より名家の裔であつたのでは無い。此の一例は、歸化人の系圖が事實に背いてゐる、といふことを推測するに十分であらう。さうしてそれは必ずしも蕃別の家に限らないので、彼等のしわざは寧ろ諸家の一般の氣風に順應したまでのことであらう。(かう考へて來ると、姓氏録などの記載に歴史的事實として取り扱ひ難いものの多いことは、おのづから知られよう。) 之を要するに、諸家は勝手に祖先神の名を作り、恣に事實を構造したので、それがために其の系譜が記紀の記載と齟齬し矛盾するやうになつたのである。さうしてそれが、各々其の家を貴くするためであり、又た其の貴いのが皇別であり神別である點にあることは、いふまでも無い。さて以上は、帝紀舊辭が既に一度び定められた後に於いて、それに基づきながらそれとは離れて家々の系譜を作つた、といふ話であるが、それが果して事實であるとすれば、帝紀舊辭のまだ定められない前に於いても、また同樣であることがおのづから推知せられる。さうして帝紀舊辭の編述せられた時の材料には、さういふ諸家の説が含まれてゐることを、否むわけにはゆくまい。さうしてそれは神代史に於いて、諸家の祖先は勿論、民間に信仰せられてゐる山川河海草木等のあらゆる神々をも、みな二神を祖とする一大血族系統に組織してあることと、おのづから相應ずるものであつて、これは諸家の希望がこゝにあると共に、政府の政策がまたそこにあつたことを示すものである(「神代史の新しい研究」第二章第二節參照)。さうしてこれと同じ事情(384)が、また諸家をして一度び定められた帝紀舊辭にも種々の變改を加へしめる原因となつたことは、總論に於いて述べた通りである。
かう考へて來ると、記紀の帝紀舊辭に見える系譜そのものにも、互に齟齬する點のあることが、おのづから領解せられよう。例へば古事記に諸家の祖先として其の家の名の擧げてあるヒコヤヰの命(神武天皇の卷)、シキツヒコの命(安寧天皇の卷)、タギシヒコの命(懿徳天皇の卷)、ヒコサシカタワケの命(孝靈天皇の卷)、オホナカツヒコの命、オチワケの王、イカタラシヒコの王、イハツクワケの王(以上、垂仁天皇の卷)などは、古事記にはあるが書紀には見えぬ(シキツヒコの命、タギシヒコの命は、書紀の「一書曰」としてある註記には出てゐる。また、オホナカツヒコの命、イカタラシヒコの王は、書紀には、オホナカツヒメの命、イカタラシヒメの命となつてゐる)。其の反對に、イナセイリヒコの皇子、タケクニコリワケの皇子、ヒムカノソツヒコの皇子、クニチワケの皇子(以上、景行紀)は、書紀のみにあつて古事記には無い。かういふやうに、多くの家々の祖先として記紀の一方に記されながら、他の一方には全然其の名が見えないといふことは、啻に所謂帝紀の混亂を示すのみで無く、それを祖先とする諸家の系譜の信用を動かすことになるのである。それから、カムクシの王(景行天皇の卷)が、古事記ではキの國のサカベのアビコ、ウダのサカベの祖としてあるのに書紀にはサヌキの國造の祖となつてゐるやうに、同じ名でありながら其の後であるといふ家が違つてゐる場合もあり、古事記ではヒコフツオシノマコトの命がタケウチノスクネの父となつてゐるのに(孝元天皇の卷)、書紀には祖父としてあつて、別にヤヌシオシヲタケヲコヽロの命といふ父の名が擧げてある(孝元紀・景行紀)など、系譜の一致しない例もある。さうして、記紀にかういふことがあるのは、其の史料となつた帝紀舊辭に於い(385)て、既に系譜が區々であつたからに違ひない。さうしてそれは、前に述べたやうな事情から來てゐることと推測せられる。
さて、一般に氏姓と其の系譜とが、かういふ性質のものであるとすれば、國造・縣主などに於いても、またそれが同樣で無ければならぬ。カモの縣主がヤタガラスを祖先とし、而もそれをカミムスビの神の孫とするが如きは(姓氏録、卷十六)、其の意圖が甚だ明かである。それから出雲國造神賀詞に於いて、其の國造の祖とせられてゐるアメノホヒの命が、オホクニヌシの命の所謂國ゆづりに關して、功勞があつたやうにいつてあるのは、同じ神がオホクニヌシの命に媚びついて使命に背いた、とある記紀の神代の卷の所説とは明かに矛盾するものであるから、これはよほど後になつて、國造の家で其の家に都合のよいやうな變改を加へた結果らしいが、かういふやうな意圖は、一般國造の系譜を記す上にも現はれてゐないとはいはれまい。此のイヅモの國造は、第二章に述べた古事記の景行天皇の卷に見えるイヅモタケルの物語、また垂仁紀のイヅモノフリネが誅せられた話などに於いて、ほのかに覗ひ知ることの出來る其の地位から考へると、それは古來イヅモに勢力を有つてゐた地方的君主、即ち土豪の家らしい。イヅモノフリネは、イヅモの臣の遠祖ともあり、タケヒテル(タケヒナトリ、アメノヒナトリ、古事記のタケヒラトリ)の命の將來した神寶の保管者ともあるから、タケヒラトリの命の子孫であるといふイヅモの國造として、考へられてゐることは明かである。イヅモタケルも、其の名から考へると、イヅモの首長として物語の記者の腦裡に描かれてゐたに違ひないから、それを實際の状態にあてはめれば、やはり國造より外に比擬すべきものが無い。かういふやうに、國造が一方では反抗者らしく取り扱はれながら、他方では天つ神の裔となつてゐるところに、イヅモの勢力の歴史的事實と神代史など(386)の意圖との關係が、推知せられよう。更に考へると、イヅモの國造の祖のアメノホヒの命がオホクニヌシの命に媚びついたといふ話にも、否むしろ國ゆづりの物語そのものにも、國造の家の朝廷に對する關係が現はれてゐるのであらうが、國ゆづりの話の主人公がオホクニヌシの命といふ特殊の神となつてゐて、國造の祖先とはして無く、國造は、其のオホクニヌシの命をして天孫に國を獻らせるやうに高天の原から派遣せられた、アメノホヒの命の裔とせられてゐるところに、神代史の微妙なる意味がある。明らさまにいふと、かういふ結構によつて、イヅモの土豪が神代史の血族系統に編み込まれてゐるのである。さうして紀の「一書」の説また神賀詞に見える如く、國造がオホクニヌシの神の祭主となつてゐるのは、國造家が遠い昔から地方的君主として有つてゐた宗教的權威を、其のまゝに承認しつゝ、それを神代史と結びつけられ得るやうに説明したものであらう(君主の宗教的意義については後にいはう)。
さて、これはイヅモの國造についてのことであるが、同じやうな意圖がはたらいてゐることは、其の他の國造の系譜に於いてもまた想像せられる。たゞイヅモほどに重要な地位でなく、またそれに關する特殊の物語が無いために、此の間の消息が明かに知られないまでである。古事記(神武天皇の卷)に、アソの君がカムヤヰミヽの命の後としてあるのに、景行紀には、アソツヒコ、アソツヒメの名が、それとは關係なく現はれてゐ、古事記のヤマトタケルの命の東方綏撫の物語には、サガムの國造を反逆者の如く記し、また古事記(神武天皇の卷)には、ヒの君の祖をカムヤヰミヽの命としてあるのに、景行紀には、天皇の御子トヨトワケの皇子の裔であるといふヒの國の別があり(又た同じ紀の筑紫巡幸の條にはヒの國造といふものがある)、それから古事記(開化天皇の卷)には、オホタムサカの王の子孫としてタヂマの國造が出てゐるのに、別にアメノヒボコの後であるといふタヂマモリの名が、記紀の何れにも見えるなどは、(387)單に文面からいふと、必ずしも矛盾するとか齟齬するとか評し難いにもせよ、全體の精神なり物語の主意なりからいふと、頗る徹底しない話であつて、一々の物語を語る場合には、一般の國造が悉く皇別(もしくは神別)である、といふ思想を忘れてゐたかの如く觀察せられ、從つて其の思想が特殊の意圖から生まれたものであることが推測せられる(筑紫風土記にイトの縣主をアメノヒボコの苗裔としてあるのも、また此の思想とは矛盾する)。
大局から考へてみても、皇室を中心とする國家組織が出來上がらなかつた時代、またそれが我々の民族の全體に及ばなかつた時代から、各地方を分領してゐたらしい多くの地方的君主、即ち土豪が、悉く滅亡してしまつたとは信じ難いことである。だから全國の國造・縣主・別・稻置等が、すべて所謂皇別・神別の家のみであるといふのは、國家の政治的秩序が定まつた後に於いて、これらの諸家を思想上かの血族組織に編入しようといふ企圖、また諸家が各々其の家を貴くしようとする考から、神の名や皇族の御名を取つて其の祖先と定め、或は新たに神などの名を作り出したためである、と見なければならぬ。なほ上に述べた一般民族の状態からも、また系圖を製作する後世の習慣からも、此の推測は確かめられようし、總論に述べた如く、文武天皇の朝に國造の氏が一定せられたといふのも、亦たこゝから起つたことに違ひない。さうしてかういふ造作は、帝紀舊辭の一度び記し定められてから後のことと思はれる。何か準據が無ければならぬからである。中央政府にゐて重要な地位にある家々や、イヅモの國造の如き特殊の歴史のあるものの祖先については、帝紀舊辭の記定せられる前に於いて、既にそれが定められたであらうが、其の他の一般の國造・縣主等、即ち地方的豪族等はそれとは違つて、國家の形成そのことに關係することが少ないから、其の祖先の名などは、一度び中央政府の記録が出來上がつた後に於いて、それに基づいて作るより外は無かつたらう。コシの國(388)に深い關係のあるアベの臣の祖先を、崇神天皇の時コシに遣はされたといふオホヒコの命とし(孝元紀)、ヤマトタケルの命が俘虜とせられたといふエミシの管治者サヘキの直の祖を、景行天皇の皇子イナセイリヒコの命とした(姓氏録、卷五)などは、作者の心理がよく窺はれるやうである。(孝元紀にはオホヒコの命の裔としてアベの臣の他にコシの國造といふ家があるが、コシのやうな廣い地域の國造といふのは、前章に述べたアヅマの國造と同樣、實際あつたものとは思はれぬ。またイナセイリヒコの命が、書紀のみにあつて古事記に見えない名であることは、前に述べて置いた。)
かう考へて來ると、かの舊事紀の國造本紀などが歴史的事實の記録として信用し難いものであることは、改めていふまでも無からう。國造本紀は僞書たる舊事紀の一部たる點に於いて、既に權威の低いものであり、特に山背の國造に並んで山城の國造があり、西の方では大隅・薩摩、東の方では伊久・染羽・浮田・信夫・白河など、後世の國名・郡名を其のまゝに取つて作つたことの推知せられるものがあることは、一層その信用を薄めるものである。勿論、舊事紀の他の部分が記紀などに基づいて作られた如く、國造本紀にも何かの據りどころはあつたであらう(ウバラキの國造の祖をタケヒコの命とすることなどは、常陸風土記の説と合つてゐるから、和銅のころ既に何かの書に記されてゐた話らしい)。けれども、それに據りどころがあるといふこと、もしくはそれが古いものであるといふことは、其の内容が歴史的事實として見るべきものであるといふことでは無い。準據となつたものが歴史的事實の記載で無いかも知れぬからである。だから國造本紀の價値は、其の記載そのものの批判によつて定めらるべきものであるが、上に述べたところは即ちそれに適用せらるべきものであらう。なほ國造本紀は、例へば出雲國造がアメノホヒの命からのこ(389)とでは無くして、其の十一世の孫ウカツクヌからとしてあるやうに、其の地位に姶めて置かれたものを、大抵は其の家の祖先とはせずして、幾代かの子孫としてゐるが、これは國造を、悉く或る時代に政府から任命せられたもののやうに記さうとしたからであらう。こゝにも造作の痕が見られる。だから、國造本紀などによつて地方の豪族の系圖を考へたり、氏族の地方的分布などを推測したりすることは、初めから無意味のしわざであらう。
以上の考説で、景行天皇の皇子七十七王が諸國に分封せられたといふ話の史料としての價値も、おのづから了解せられよう。八十王といふ「八十」も、例の多數といふ意味に用ゐられる語であることを考へねばならぬ。また、記紀の例として皇子の御名が一々列擧せられてゐるのに、此の場合に限つて所謂「記に入らざる」皇子が數多く坐すといふことにも、理由があらう。それから、成務天皇の朝の物語は、景行天皇の卷の記事から生ずる自然の結果である。
(390) 二 上代の家族生活
諸氏族の祖先に關する記紀の記載については、上文に於いて略々著者の意のあるところを述べ了つたのであるが、かういふやうに祖先を貴くしようとするのは、即ち現在の生活の根據である家の地位を高めようとするのであつて、それは即ち社會に尊卑の階級が定められてゐるからのこと、いひかへれば最も尊貴なる地位にあらせられる皇室の權威が國民全體の上に確立してゐるからのこと、更に他の語でいふと國家組織が出來上がつてゐるからのことではあるけれども、その尊卑の地位が家によつて定められてゐるのは、一般の社會に於いて家を重んずる風習があり、從つてまた家族制度が成り立つてゐるからでもあるとしなければならぬ。が、此の風習は我々の民族に於いて、國家組織のまだ出來上がらない前から、既に鞏固となつてゐたものであらうか、もしさうとすれば家々の祖先を重んずる風習なども、さういふ昔から既に存在したのではあるまいか、といふやうな問題が起こるので、その解決如何は上文の考説にも幾分の影響を及ぼすものであるから、茲にそれについての一、二の管見を附記して置かうと思ふ。
家族生活の状態を考へるには、先づ其の基礎である結婚の風習を明かにせねばならぬが、何人も知つてゐる如く、記紀に現はれてゐるところから見ると、上代人が一夫多妻主義であり、所謂妻どひの習慣を有し、近親結婚・血族結婚を行つてゐたことは推測せられる。一夫多妻のことはいふまでも無い。男が女の家にかよふといふことも、古事記の神武天皇の卷のイスケヨリヒメの話、雄略天皇の卷のヲドヒメの話、または應神天皇の卷に見えるイヅシヲトメの(391)物語、或は書紀の允恭紀のソトホリヒメの話などに現はれてゐるし、神代史のコノハナサクヤヒメまたトヨタマヒメの話にも、古事記の崇神天皇の卷に見えるイクタマヨリヒメとミワの神との物語にも、それが見える。クシイナダヒメのスカの宮にも其の兩親のアシナヅチ、テナヅチが宮のつかさとしてゐたといふ話であるから、やはり此の部類に入れてよからう。かういふ物語が數多く記紀に存在するのは、女が家にゐて男の通つて來るのをまつ、といふことが上代の實際の風俗であつたからであつて、それは萬葉に見える奈良朝ころの風俗がやはり同じであつたことからも確かめられる。のみならず、ずつと後の平安朝までも、これは持續せられたのである。さてこれは、一夫多妻の風習と最もよく適合するものであるが、いま一つの注意すべき風習である近親結婚も、亦たこれと關聯してゐるらしい。
近親結婚もまた例證を擧げる必要の無いほど明かなことであつて、可なり後までも此のことは行はれてゐる。たゞ同母兄弟姉妹の間だけは禁じられてゐることが、古事記允恭天皇の卷のカルの皇子の物語で知られ、又た親子間のが罪とせられてゐることは、大祓の祝詞にも見えてゐて、これはいふまでも無いことであるが、其の他には何等の制限も無く、伯叔父母と姪甥との間などは無論のこと、異母兄妹の結婚すらも普通のことであつて、聖徳太子が異母兄妹の間に生まれられたことは、熟知せられてゐる事實である。此の風習は世界に例の無いことでは無いが、概していふと、近親な同族間の結婚を許さない方が(少なくとも文化が或る程度に發達した社會では)、普通の習慣である。東洋に於いても、同姓を娶らずといふ支那民族は勿論のこと、未開の域にあるモンゴル民族・トングウス民族なども同樣であつて、女眞人の如きものに於いても其の規定の頗る嚴重であつたことが、金史などの記載によつて知られる。朝鮮でも扶餘種に屬する昔の高句麗人などは、多分同じであつたらうと思はれる。魏志の※[さんずい+歳]傳に同姓と婚せずとあるが、(392)※[さんずい+歳]は高句麗と同人種らしい。(たゞ、新羅の王室には叔父姪の間とか叔母甥の間とかいふ同族の結婚の行はれてゐたことが三國史記の新羅紀に見えてゐ、高麗の王室にも同族結婚の例が少なくない。異母兄妹間のは新羅紀には現はれてゐないやうであるが、高麗史にはある。同族結婚は、多分韓人の風習に於いて許されてゐたことであらう。百濟の王室は高句麗と同種族であるから、それは行はれなかつたらうと思はれるが、民間ではやはり有つたのでは無からうか。)さて、近親結婚を許さないのが、多くの文化民族に普通の例であるとすれば、我々の上代の風習に於いて、それが一般の習慣であつたのは何故であらうか。それには何か特殊の由來があるのであらうか。或はさういふ風習の行はれてゐた時代の我々の民族は、極めて未開の状態にあつたものと見なすべきであらうか。
ところで茲に一つ考ふべきは、同姓を娶らぬ支那人も、母方のものならば、可なりの近親と結婚しても非禮とはせられなかつたらしく、異姓の血族を娶つた例が史上にも見えてゐることである(漢の惠帝は母の呂后の姪、即ち從妹を皇后にしてゐる)。契丹人や女眞人にも同樣の例のあることが、遼金の史によつて知られる(遼太祖・金睿宗)。さて、同姓を娶らずといふ風習の作られたころの支那人などに於いては、勿論、父系相續によつて家が成立し、姓は其の家を示す名であるから、此の風習は近親結婚の排斥では無くして、父系によつて成立する同族間の結婚の拒否である。同姓を娶らぬといふことは、必ずしも一般に近親結婚・血族結婚を禁ずるといふ意味で無いことが、これで知られる。此の禁制の由來や理由が何であるか、といふことは別問題として、事實として斯ういふことがある。さうしてそこに肝要な意味があるのでは無からうかと思ふ。(後世の支那人は、同姓といふことを極めて廣く、從つてまた形式的に名稱の上からばかり考へてゐて、殆どそれが無意義になつてゐるが、これは例の支那人の形式主義・名稱主義によつて(393)馴致せられたのであらう。初めにはもつと意義のあつたことに違ひない。もつとも學者の解釋などは後世の思想からそれを見たのであつて、本來の意義とは必ずしも一致しない。これは周代から既にさうである。)かう考へて來ると、母系をのみ認めて父系を顧みない社會で、父方の近親と結婚することがあつても、それは根本に於いては、父系の場合に母方の近親と結婚することと同一精神から來てゐるのではあるまいか。さうして、もしさういふ場合に於いて、母方の近親間の結婚が禁ぜられてゐることがあつたならば、それは母系の意味に於いての同姓を娶らざるものであるといふことも出來よう。さうして是は、異族結婚の風習を有する母系の社會に於いて、實際行はれてゐることである。ところで我が上代の近親結婚は、父方と母方とを問はず、一樣に許されてゐたのである。異母兄妹すらも結婚するのであるから、父方の近親はいふまでも無いが、トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメの話などに現はれてゐるところを見ると、母方の近親とも結婚し得たのである。もつとも、異母兄妹の結婚が多いに反して、異父兄妹のそれは記紀には見えないやうであるが、これは或はさういふ事例が實際に無かつたためかも知れぬ。さて此の風習は系統を父母の何れかに認めることと、何か關係があるのであらうか。
そこで、我々の民族の上代に於いて、母子の關係と父子のそれとが如何なる状態にあつたか、と考へて見るに、子が父とは離れて母の許で成長するといふことは、記紀の所々に見えてゐるので、これは妻が夫と別居してゐて其の通つて來るのをまつといふ風習の社會に於いては、自然の状態であらう。古事記の應神天皇の卷のハルヤマノカスミヲトコ、アキヤマノシタビヲトコの物語は、母が子の後見者であることを示す好例證であるが、古事記の所々に「御祖」(ミオヤ)と書いてあるのが必ず母のことであり、又た垂仁天皇の卷に、凡て子の名は必ず母がつけるものだといふ話(394)があることなども、またそれを證するものと見られる(たゞ神代の卷にカミムスビミオヤの命とある一條だけは、ミオヤといふ語を母といふ意味で無く使つた例であるが、カミムスビの命はタカミムスビの命に對して、女性的地位に置かれてあるやうに見える)。イモセといふ稱呼が夫妻にも兄妹にも共通に用ゐられてゐたのも、夫妻は同棲しないで兄妹は(父と離れて)母の家に同居してゐるから、其の間に混亂の生ずる虞れが無かつた、といふ時代の習慣から來てゐるのではあるまいか。またシキの縣主の女の御子がシキツヒコの命(安寧天皇の卷)、ハニヤスヒメの子がハニヤスヒコ(孝元天皇の卷)、サホのオホクラミトメの子がサホヒコ、サホヒメ(開化天皇の卷)、アザミのイリヒメの子がアザミツヒメ(垂仁天皇の卷)、としてあるなども、母子同居の習慣の反映ではあるまいか。カスガのヒツマの臣の女の子がカスガノヤマダノイラツメ(欽明天皇の卷)、マンダの連の女の子がマンダのオホイラツメ(繼體紀)と記してある例もある。もつとも是には、後にいふやうに反對の例も多いから、すべてが斯うだとはいはれぬが、かの歴代の皇居が一々所在を異にしてゐるのが、もし先人の既に説いてゐる如く、御即位以前の御住所が其のまゝに皇居とせられるからであるとすれば、それは御父子もしくは御兄弟が常に別居あらせられたことを示すものであり(このことは、例へばウヂのワキイラツコ、ヤマシロのオホエの皇子といふやうに、皇族の御稱號に多く地名が用ゐられてゐることからも知られる)、さうしてそれによつて、もし一般社會に父子別居の風のあつたことを推測することが出來るならば、それはやはり母の家に子どもが生長した、といふ習慣に由來するものでは無からうか。よし當時に於いて母子同居が一般に行はれてゐたので無いにせよ、遠からぬ過去にさういふ風習があつて、それから生じた父子別居の因襲が持續せられてゐるものである、とは考へられよう。
(395) さて右に述べたやうな状態は、文獻に見えてゐる上代の我が民族生活に於いて、母親が頗る重要の地位を占めてゐたことを示すものであるが、それは即ち所謂母系時代の風習もしくは思想の痕跡として、認むべきものでは無からうか。女を家々の「祖」として古事記に書いてあるのも(例へば、綏靖天皇の卷にシキの縣主の祖カハマタヒメとあり、景行天皇の卷にヲハリの國造の祖ミヤズヒメとある類)、やはり稱呼の上に、さういふ古い習慣の遺つてゐるのでは無からうか。前に説いたことのあるやうに、神々にも土蜘蛛といふやうなものにも、女性の名が多く現はれること、魏志に見える卑彌呼の如き女性の君主が實際にあつたことも、やはり是と關係があるのでは無からうか。けれども當時の社會が實際、母系によつて支配せられたといふのでは無く、また母權が行はれてゐたといふのでも無い。社會を組織してゐる家々の系統が男系であることはいふまでも無く、家長もまた男子であり、祖先も同じく男性である。だから一方では、結婚の状態や親子の關係などに上記のやうな風習があつたと同時に、それとは反對の傾向も亦た現はれてゐる。つまどひの慣習が一般に行はれてゐるけれども、嫡妻ともいふべき女は或る時期に夫の家に伴はれ、夫と同棲するやうになるらしい。サホヒメの命が兄のサホヒコのところへ逃れて行かれたといふ話(古事記、垂仁天皇の卷)、ヨミの國のスセリヒメがオホクニヌシの神の妻となり、夫に伴はれて現し國に來られたといふ物語(神代の卷)などは、さういふ習慣のあつたことを暗示するものでは無からうか。從つて、父子の同居する場合もあるので、ヤサカのイリヒコの命の女をヤサカのイリヒメといふとあるなども、さういふ事實の反映では無からうか(古事記、景行天皇の卷)。之を要するに、文獻に見える我が上代では、既に父系によつて支配せられる世の中であり、父の權力も發達しつゝあるに拘はらず、なほ母の重んぜられてゐた舊時代の遺習が、或は風俗そのものの上に、或は實際の風俗を離れた思想(396)の上に、なほ幾らかづつ存在してゐる、といふ状態であつたらしい。イザナギの命とイザナミの命との物語、女神が先づ言を出されたがために「生めりし子ふさはず」、改めて男神が先づ言を出されて、はじめて國を生まれた、といふのは、恰も此の状態を象徴するものであつて、母の權力が父に移りつゝあり、父の權力の漸く確立せんとしつゝあることを、暗示してゐるのでは無からうか。
さて斯う考へて來て、それを上に述べたところに對照して見ると、我が上代に父方母方の何れの近親とも結婚したのは、父方の近親と結婚することが普通であつた母系時代の習慣が遺つてゐるところへ、母方の近親と結婚し得る父系時代の新習慣も行はれて、其の二つが共存し、終にそれが混同したのではあるまいか。親子同胞間の性交を罪とし母子を共に犯すことを禁じてゐる以上は、それだけなりとも、既に婚姻上の制度が定められてゐるのであるから、近親結婚の風習とても、決して所謂亂婚では無く、又た甚だしき未開時代の遺習といふべきものでも無く、何等かの社會制度に由來してゐると考へるのは、全くの妄想ではあるまい。(Frazer が母系時代と父系時代との過渡期に同胞兄妹間の結婚の風習を生ずることがある、といつてゐるのは、全く別の問題ではあるが、或る制度の變革期に於いて變態が現はれることは、考へ得られなくはない。Adonis Attis Osilis、三九六−七頁參照。)さて此の考は、我々の民族の間に行はれてゐた近親結婚の由來についての、一臆説に過ぎないものであつて、著者自身も更に今後の研究を期してゐるのであるが、それは兎も角もとして、異母兄妹の結婚の如きは、彼等が各々其の母と共に別居してゐて、兄妹としての感じを有つてゐないといふことが、普通に考へられてゐる如く、實際上、有力の事情であつたらう。平安朝貴族の風習の如きは、かういふ古い時代から連續してゐるものであると共に、彼等の特殊の生活状態によつて一層盛(397)んに行はれ、或る意味に於いての頽廢的傾向を示すものであるが、かういふ事情はやはり同じであつたらう。(新羅の近親結婚については、上代の一般の風俗がよく知られないために、事情が判らないが、近世までも男が女の家に通ふ習慣のあつたらしい痕跡が、燃藜室記述別編の婚禮の條にある世宗の勅語にも見えてゐるから、一體に兩性間の關係に於いて、我が上代と同じやうなことがあつたのではあるまいか。但し此の風俗上の類似は、必ずしも人種の同一を示すものとして考ふべきものでは無からう。一人種もしくは一民族が同じ風習を有つてゐるとはいはれようが、同じ風習を有するものが一人種もしくは一民族であるとはいはれないからである。又た支那でも、母系時代の痕跡が「姓」の字の上にも見られさうである。)
序に一言する。近時の學者間には、異部族結婚(exogamy)の習慣が totemism に關聯した事實として、一般に認められてゐるやうであつて、其の totemism が凡ての民族の經過して來た階段であるやうに、考へる學者も多い。ところで本文に述べたやうな、母系の社會では父方の近親と、父系の社會では母方の近親と、結婚し得られるといふ事實は、tottemic exogamy の上からも説明し得られることであるらしい。しかし、アウストラリヤ人やアフリカ人や、又はアメリカの印度人の間に存在する totemic exogamy の如き、特殊な、又た可なり複雜な場合もある部族組織が、果して遠い過去の未開時代に一般に行はれたものであるかどうかは、問題ではあるまいか。又た異部族結婚と totemism との結合も、本質的のものであるかどうか、是も問題であつて、Frazer の如きは明かに兩者を區別して考へてゐる(Totemism and Exogamy, 第一卷一六二頁)。のみならず、totemism そのものが、果して凡ての民族が經過して來たものと考ふべきであらうか、それが既に問題である。種々の幼稚な時代の遺習を可なり多く傳へ有(398)つてゐる我々の民族に於いても、さういふ經歴があつたことを推測するに足る直接の材料は、あまり無いやうである。動物を父母とすることについては、母としてはトヨタマヒメ(神代の卷)、父としてはミワの神(崇神天皇の卷)の物語があり、また動物を人の名とすることは、前にも述べた如く上代に其の例が甚だ多い。動物を父母とする民間説話は、世界的に廣布せられてゐるものであつて、それは或は totemism の行はれてゐる社會に於いて始めて作られたものとも考へられ、またトヨタマヒメの話の如く形を見てはならぬといふことがあり、ミワの神の如く形を見せないといふ話があり、さうしてそれが破られたため夫妻の永久の別離が來たといふのは、totem の觀念の無くなつた時代の思想を以てそれを觀たところかち、生じたものかとも思はれる。しかしこれは他の解釋を拒むほどに確かなことでも無いので、例へば、産蓐にある婦人に對する taboo が多くの未開民族に於いて守られたことであつて、我が國に特別の産屋を設ける習慣があり、産の穢れといふ思想のあるのも、それに由來があらうと思ふから、トヨタマヒメの物語は此の taboo を示すのが主意であるかも知れぬ。或は又た、これらの話の動物がワニもしくは蛇であつて、後章に説くやうに、共に神として見られてゐるものであることを思ふと、物語の由來は、例へば神に對する結婚、または神に身を捧げる、といふやうな一種の宗教思想にあるのかも知れぬ。また人に動物の名をつけることも、個人的 totem に關係のあるもの、從つて totem の名が部族の名から一轉して人の名になつたもの、と見られないでも無からうが、これとても不確實である。それから丹後・近江などの風土記に見える、白鳥を妻にした話、またはオホクニヌシの神とスセリヒメとの物語(神代の卷)なども、世界的のものであるが、學者は或は前者を totemism に由來してゐるやうに説き(Frazer,Dying god,一二五−三一頁)、或は後者を異部族結婚の風習から生(399)まれたものとしてゐる(Lang,Custom and Myth,一〇二頁)。が、これにもなほ研究の餘地はあらう。支那もしくは其の附近の民族に於いても、また totemism の痕跡を發見することは容易でないかも知れぬ。動物を人類視し、或は人類を動物視したやうな説話は到るところにあるが、それを一々考へてみると種々の由來があるらしいから、これだけの事實で直ちにそれを totemism に結びつけるのは、早計ではあるまいか。古事記に見える蛤を蛤貝姫といふやうなことも、別の意味があらうし、次章に述べるやうに、動物に精靈が憑るとしてそれを神と見るところからも、動物を人類視する思想は導かれよう。それから、totemism そのものの遺風で無くとも、それと本質的に離るべからざる關係が無くてはならぬやうな風習の痕跡があるかどうか、と考へてみるに、これは totemism の解釋次第で種々に見られる。例へば Jevons のやうに、野獣の家畜化をも野生植物の農作化をも、皆な totemism と關係させて考へるものから見れば、あらゆる文化民族はみな totemism の時代を經過したことになるが(Introduction to the History of Religion)、かういふ考そのものが、果して肯定せられ得るものであらうか。疑ひを挾む餘地は十分にある。畢竟、今日の程度に於いては、此の點に決定的の判斷をすることが困難ではあるまいか。少なくとも著者の乏しい知識に於いては、それに就いて多く語ることを躊躇しなければならぬ。だから、結婚の風習を考へるについても、しばらく此の方面の問題との接觸を避けて置く。本文に、父系の場合には母方の近親とは結婚しても怪しまれぬといふ事例を擧げ、さうしてその類想から母系の場合に反對の現象のあるべきことを推測しながら、其の理由を述べないのは甚だ不徹底であるが、著者は今それより上には進めないのである。以上述べたやうな結婚の状態であるとすれば、記紀によつて語られてゐる上代に於いて、父の權力がまだ十分に發(400)達せず、家族制度がまだ整つてゐなかつたことはおのづから推測せられる。夫妻、從つてまた父子が、同じ家に住んでゐないといふ習慣が、少なくとも一半の事實として存在するだけでも、家族の結合が十分鞏固で無いことは知られよう。財産相續の状態などはよく判らないが、皇位が概して皇長子には傳へられてゐないやうになつてゐることから類推すると、一般社會に於いても、家族生活の發達につれておのづから生ずる長子相續の制度がまだ成り立つてゐなかつたらうと考へられる。兄弟事を爭ふ場合に弟が勝つて兄が敗けるといふことは、かの山の幸・海の幸の物語にも、アキヤマノシタビヲトコ、ハルヤマノカスミヲトコの話(古事記、應神天皇の卷)にも、見えてゐるが、これは民間説話としては世界に廣布せられてゐるものであるから、それをすぐに特殊なる我々の民俗の反映として見ることはむつかしからうけれども、カムヤヰミヽの命とタケヌナカハミヽの命と(古事記、神武天皇の卷)、トヨキの命とイクメの命と(崇神紀)、またはオホウスの命とヲウスの命との話(景行紀)などは、やはり上代の風習の、もしくはそれから生まれた思想の、表現と考へてよからう。さすればこゝにも長子が重んぜられる程に家族制度の固定しない有樣が見える(かの世界的の説話も、やはり其の根抵には同じ由來があるかも知れぬ)。なほ、かの古事記の神武天皇の卷及び開化天皇の卷に見える、イスケヨリヒメの命及びイガカシコメの命についての物語が、もし庶母、即ち亡父の妻を我が妻とすることの行はれた風俗の反映であるならば、これもまた家族制度の發達しないことを示すものであらう(これもまた社會組織の幼稚な民族の風習として、其の例が世界に少なくないから、廣くさういふ事例と參照して、其の由來や意義を研究すべきものである。なほ、亡兄の妻、または亡妻の妹を妻とするやうな習慣が、あつたかどうかは明かで無いが、多分あつたらうと思はれる。また同胞の姉妹を二人ながら妻とすることも珍しくは無かつたらしく、さ(401)ういふ習慣の反映と見るべき事例が古事記の孝靈天皇及び垂仁天皇の卷に見える。もつとも是等のことは、さうするのが通則であるといふのでは無くして、さういふことをもなし得るといふに過ぎないのではある)。また父母をも、それより前の祖先をも共にオヤといひ、子をも孫をも一般にコといふやうに、家族に關する言語の分化が不十分であるのも(前に述べたイモセが兄妹にも夫妻にも用ゐられたことと共に)家族制の不完全なる證據と見て、差支が無からう。
それから又た上代に於いては、家の名、郎ち氏姓といふものが、十分に發達してゐなかつたらしい。當時「氏」の字をあててあるウヂといふ語があつたが、それは、概していふと、ソガとかヘグリとかいふやうな地名か、ナカトミとかイミベとかいふやうな地位職業を示す名稱か、またはワカザクラベとかカルベとかいふやうな所謂名代の部名か、の三つであるが、第一の地名は實際の住所を示すものであるらしいから、一族兄弟でも、住所が違へば氏の名は別々になる。事實であるかどうかは別問題として、ウチの人とせられてゐるらしいタケウチノスクネの子ども等が、ハタ、コセ、ソガ、ヘグリ、などに分れてゐて、其の地名をそれ/\の氏の名とするやうになれば、もはやウチノスクネを祖とする彼等一族の族名、即ち氏の名は無くなり、其の中でまた、例へばソガ氏のものがカハベ、タナカ、タカムコ、ヲハリダ、などの土地に分住してそれ/\の地名を冒す氏が出來れば、彼等に共通のソガといふ氏の名もまた無くなつた訣である(古事記、孝元天皇の卷參照)。よし實際は彼等の間に何等かの結合があつたにしても、それを示す名稱は無い。後世では、本來は地名であつたものも、一たび氏の名となつた以上は、住所を變へてもそれを襲用し、また家が多く分かれても本の氏の名は依然として保存せられるが、上記のやうな場合にはそれが認められないやうである。皇族にや地名による御稱號のあつたことは前に述べた通りであるが、それも世襲では無いやうに見える。地方の豪族、(402)即ち國造・縣主なども皆な地名を釋してゐるので、其の外に氏といふものは無いのである。姓氏録などを見ても、同じ祖先を有する諸家の間に全體としての氏の名があつたやうには見えぬ。もつとも是は寧ろ、其の祖先が文字上の祖先であるといふことの一徴證として見るべきもの、即ち縁もゆかりも無い家々が、文書の上に於いてのみ共同の祖先を有するやうになつてゐる故であると、解釋すべきものかも知らぬが、それにしても、さういふ系譜の作られたことが、實際の風俗の反映として考へられよう。
それから第二の、職業や政府に於ける地位やによる氏の名は、一方では政府の權威が確立し、それによつて社會が秩序づけられるに至つて、始めて生じたものであること、從つて中央政府の成り立たない前から、存在したもので無いことを證すると共に、他方には、それが必ずしも血族的關係を示すものとは限らない、といふ推測を下すべき理由がある。例へば、イミベの氏を冒すものが諸國にあるが、それは名稱から見ても、各地方に於いて神の祭祀を行ふ一種の僧侶階級の名であつて、其の間に血統上の聯絡があつたとも思はれぬ。イミベ氏自身がさう考へてゐたことは、古語拾遺の巻頭に阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢等のイミベの祖先を、イミベ氏の祖だといふフトダマの命の配下とはしてゐるが、子孫とはしてゐないのでも知られる。姓氏録(卷十四)でも、阿波のイミベの祖といふアメノヒワシの命をカミムスビの神の後としてゐて、タカミムスビの神の子であるといふフトダマの命とは、血統上の關係がないやうに書いてゐる。政治的秩序が全國にゆき渡つたため、中央政府に於いて祭祀の職にあるものが、各地方の同職業のものを管治するやうになり、齊しくイミベ氏を冒させたらしいけれども、もとより一つの家では無いのである。これは一例であるが、其の他に於いてもやはり同樣のことが多からう。後に作られた系譜の上に於いては同族のやうにな(403)つてゐながら、本來は何等血族的の關係が無くして、職業上の關係、または其の部民を管治する行政上の地位の上から、同じ氏を稱したに過ぎないものが多かつたに違ひない。
なほ第三の、名代の部名を氏とするものは、其の部民を管治する地位にある家柄であらうが、其の部民は皆な同じ名を冒してゐるらしいから、これは其の間に血族上の關係の無いものであることが明かであらう。さうしてかういふ氏は、いふまでも無く、國家組織が出來上がつた後に設けられたのである。さうして、此の第二第三の部類に屬するものの如く、政治的意味を帶びてゐる氏の名が多いことは、氏が必ずしも血族を示す名で無いことを語ると共に、國家が成立した時に於いて、家族制度が十分發達してゐなかつたことを證するものといはねばならぬ。第一の部類のだけは、國家が成立しない前からの風習であつたらうが、それが必ずしも族名で無いことはやはり同一である。だから氏といふ文字をあててあるウヂは、此の文字の示す意味とは同じで無いといはねばならず、それは即ち氏の字の表はす如き概念が無く語が無かつたからであつて、それだけ家族制度が發達してゐなかつたのである。さうして、諸家が皆な皇別・神別の何れかに屬してゐて、其の祖先の多くが記紀に見えてゐることは、實際の祖先が忘れられてゐたためであると共に、家といふものを政治的秩序に順應させようとしたからであつて、それもまた、家族生活がまだ堅實で無かつたことを示すと同時に、政治的秩序の固定が家族制の發達を促したことを語るものであらう。
こゝに附言して置くべきは、カバネのことである。カバネといふ語の語原などは且らく措き、一般にはそれが所謂伴造・國造の家格を示す稱號、即ち臣・連・首・直、または縣主・稻置などの類として考へられてゐるやうであるが、記紀の記載を見ると、必ずしもさうばかりでは無い。第一に、ヒメダの君といふ姓を賜ふ(古事記、履仲天皇の卷)、(404)トヽリの造といふ姓を賜ふ(垂仁紀二十三年の條)、モノヽベのナガマイの連の本姓を改めてワカザクラベの造といふ(履仲紀三年の條)、チヒサコベの連といふ姓を賜ふ(雄略紀六年の條)、などとある「姓」はカバネであらうから、カバネは氏と其の家柄の稱號とを連ねていふ場合に用ゐられてゐる。第二に、ウヅマサといふ姓を賜ふ(同十五年の條)とあるのは、單に氏の名のことであり、續紀(卷十八、天平勝寶三年の條)に見える雀部朝臣眞人の上言に「遂絶骨名之緒、永爲無源之民、」とある骨名も同樣である。それから第三に、國造の姓を貶して稻置といふ(允恭紀二年の條)とあるのは、單に家格を指す稱號であり、天武天皇の定められた有名な八姓も、また此の意味で用ゐてある。これらの三つの用語例は、宣長が古事記傳(卷三十九)に述べてゐる解釋とよく一致する。これによつて見ると、カバネの用ゐ方に變遷があるらしく、それは、本來はウヂと同じ意味を示す語であつたのが、それが家柄を表はす稱號と連稱する場合にも用ゐられ、終には本來の意味を失つて、家柄の稱呼として考へられるやうになつたのでは無からうか。もし果してさうとすれば、こゝにも家格の尊卑を重んずる思想が窺はれる。さうして、ウヂが前に述べた如く必ずしも血統關係を示してゐないとすれば、同じものを指してゐるカバネも、やはり同樣であつたのではあるまいか。同じ意味を示す語が二つあるのは奇異なやうであるが、何れかの一つは外來語、または外國の名稱を取つて國語をそれに充てたのでは無からうか。(新羅の「骨」とカバネとの間に何かの關係がありはせぬか、といふことは三國史記を見たものの氣がつくところであるが、新羅の「骨」がカバネと同意義であるかどうか。これらについては、著者はまだ明かな意見を有つてゐない。)かう考へて來ると、上代には血族といふことを示す語も明瞭には無かつたらしく、カバネに「姓」の字をあてたのも妥當とは言ひ難からう。血統を示すよりも、家を示すよりも、家格を示す方が、上代人には(405)切要であつたのである。
さて家族生活に關する以上の考説は、主として記紀の記載によつたものであるが、それは上流社會・治者階級のことであつて、多數人の状態はそれと違ふのではあるまいか、といふ疑問が起らぬとも限らぬ。が、さうらしくは見えぬ。大日本古文書卷一・二に採録せられてゐる大寶乃至天平ごろの戸籍の斷片を調べて見ると、家族制度の頗る幼稚な状態を、そこに發見することが出來るやうである。勿論戸主は男である。又た子は勿論父親の氏を繼いでゐる。それから妻は夫の家にゐる。富家では妾が男の家に入つてゐる例も少なくない。が、妻は必ず生家の氏を稱してゐるのは、女の家がなほ重きを置かれてゐるからではあるまいか。それから、戸主のむすめや姉妹などの丁年以上の婦人が、多く其の家にゐること、さういふ婦人の生んだ子が母の家にゐながら他の氏を稱してゐることは、男が女の家に通つて子を生ませ、其の女は固より生ませた子も(子は男の氏を冒しながら)共に女の生家に生活してゐる、といふ風習があつたことを示すものでは無からうか。さうして是は、さういふ妻子の生活が、經濟上に於いて妻の生家によつて維持せられてゐることを、示すものでは無からうか。一體に當時は、一戸主に屬する家族の數が甚だ多く、二、三十人、三、四十人に及んでゐるものもあるが、其の一原因は、やはりかういふ事情から馴致せられてゐる點にあるのでは無からうか。(これらの家族は、すべてが一つ屋根の下に雜居してゐたのでは無いらしく、下總地方のには、一戸主の下に數家の別戸があるやうに記してあつて、それは他の地方でも同樣であつたらうが、經濟的には戸主がそれを維持してゐたのであらう。寄口また寄人といふものがあることからも、それは推せられる。此の寄人にも自家の女と他家の男との間に出來た子があるらしい。)さうしてそれを、一方に於いて妻が夫の家に入つてゐるといふ事實に、對照して考(406)へると、そこに一夫多妻の現象が認められるのでは無からうか。血族結婚のことは、妻の血族關係を記して無い戸籍面ではよくわからぬが、一般に歌垣とか※[女+燿の旁]歌とかいふ風習があつたとすれば、同族間の結婚が特に禁ぜられてゐたとは思はれぬ。それから、戸主は必ずしも父の長子では無いらしく、家族の中に戸主の兄の見える場合がある。また氏姓のことを考へると、氏の如くに用ゐられてゐる某部といふ稱號は、大化改新以前に其の家の隷屬してゐた部曲の名であるらしいから、それは本來氏といふべきものでは無く、また同じ部名を冒してゐるものの間に、血統的關係があつたのでも無からう。さうして、其の外に家の名といふものが無いとすれば、一般民衆の間にもまた、氏姓といふものが無かつたことが推測せられる。「國造族」といふやうなことが、某部といふ稱呼と同じ場合に用ゐられてゐるのも、また同じ理由であらう。これらのことについては、一々その例證を擧げるのは甚だ煩雜であるから、それを省略するが、上に擧げた戸籍を通覽すればすぐにわかる話である。
之を要するに、我が國家の形成せられた頃に於いては、家族制度が漸次發達しつゝあるものの、まだ幼稚であつたのである。悠久な昔に totemism が行はれてゐたかどうかは別問題として、兎も角も幼稚な部族的結合の時代は、我々の民族にもあつたであらうが、それが長い歴史を經た後、やゝ廣い政治的結合を形づくるやうになり、更に進んで終に全民族が一つの國家に組織せられるやうになつたけれども、社會組織はまだ頗る散漫であつたのである。なほ此のことは、宗教思想の上に於いて祖先崇拜の習慣の形成せられてゆく状態と、相應ずるものであるが、それはおのづから崇神・垂仁二朝の物語として記紀に記されてゐることに關係するから、章を改めてそれに論及しよう。
(407) 第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語
一 神の祭祀
崇神天皇・垂仁天皇の二朝に就いては記紀に種々の記載があるが、第一に注意せられることは祭祀である。古事記には、崇神天皇の時に疫病が流行して死するものが多かつたが、一夜の御夢にオホモノヌシの神が現はれて、これは我がこゝろからであるから、オホタヽネコといふものを以て我れを祭らせられるならば、それが止んで國が平になるであらう、といふことを告げたので其の通りにせられた、とある。オホタヽネユは此の神の玄孫だといふことであり、それについて例のオホモノヌシの神とイクタマヨリヒメとの神婚譚、如ち普通にミワ山物語として知られてゐる話がある。書紀にもほゞ同樣な記事があるが、たゞ其のことの動機について「當朕世、數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、」といふ詔をのせ、それに支那的政治思想を含ませてある。それから、一度び神の託宣に從つてオホモノヌシの神を祭られたけれども效驗が無かつたから、更に神の教を得んと祈られた時にかの夢のつげがあつた、としてあつて、話が複雜になつてゐる上に、其の教に從はれるならば國が平になるのみならず、海外の國がおのづから歸伏する、といふことが加はつてゐる。またオホタヽネコは神の玄孫では無くして子になつてゐるし、神婚の説話はオホタヽネコ(408)には關係の無い別の物語となつて別の條に記されてゐる。さうして、其のオホタヽネコに父のオホモノヌシの神を祭らせられた外に、ヤマトの直の祖ナガヲイチにヤマトのオホクニダマの神を祭らせられたとある。が、書紀は此のことの前に別に、トヨスキイリヒメの命をしてアマテラス大神をカサヌヒの邑に祭らせ、ヌナキイリヒメの命をしてヤマトのオホクニダマの神を祭らせられたことをいひ、其の動機として「百姓流離、或有背坂、其勢難以徳治之、」といふ、これも支那思想を含んだ記事を載せてゐる。さうしてそれをうけて、垂仁天皇の朝にヤマトヒメの命をしてアマテラス大神をイセにまつらせられたことを記してゐる。古事記にはこれらの物語は無いが、トヨスキヒメ(トヨスキイリヒメ)の命とヤマトヒメの命とがイセ大神宮拜祭の任に當られたことは、崇神天皇の卷と垂仁天皇の卷とに記されてゐる。
そこで先づ考ふべきことは記紀二書の比較であるが、オホモノヌシの神の祭祀については書紀の方が發達した形を有つてゐる。支那思想は固より書紀一流の文字上の潤色であつて、始めには上に引いた如く災害云々といふむつかしげな道徳的意味を述べてありながら「恐朝無善政」に應ずることは少しも事件の經過の上に現はれず、終りになつては、原の物語のまゝにたゞ「疫病始息」といつてゐるのでも、其の形跡がわかり、また海外のこともミマナ使來朝の物語を此の天皇の時に附會したため、それに應ずるやうにしたのであらうが、祭祀そのことの經過が複雜になつてゐるのは、物語そのものの發展として見なければなるまい。それから、皇女の大神官拜祭のことだけは古事記にも見えてゐるから、其の材料となつた舊辭には載つてゐなかつたらうが、帝紀の方には記されてゐたに違ひない(第二章第三節、ヒムカのミハカシヒメ及びトヨタニワケの王について記紀の差異と古事記の資料とを説いたところ參照)。但し(409)トヨスキイリヒメの命について「拜祭伊勢大神之宮也」とあるのは、ヤマトのカサヌヒで祭られたとある書紀の記載とは齟齬する。またヤマトヒメの命についても、大神鎭座の地を求めて近江美濃を巡歴せられた、といふ書紀の話は古事記には全く無く、書紀に「一云」として註記してあるシキ鎭座の話も、本文の記事とは違ふ。重要なる大神拜祭の經過が、かう種々に記載せられてゐるのである。なほずつと後に作られた古語拾遺には、是について記紀の何れにも見えないことがある。詳しくいふと、古事記には見えない話であるが、書紀には、大神とヤマトのオホクニダマの神とは、從來宮中に祭つてあつたのを、崇神天皇の時「畏其神勢、共住不安、」の故に、上記の如く別の場所で祭らせられた、とあるが、古語拾遺にはもつと具體的に、此の時、イミベ氏に鏡劔摸造のことを命ぜられた、とある。此の摸造の話は、一方に神代史の神器の由來の物語、崇神朝・垂仁朝及び景行朝に於ける神宮奉祀、草薙劔のことがあり、他方に神器を御歴代に傳へられる事實がある以上、無くてはなるまいが、記紀にはそれが見えないのである。もつとも、神器の由來の物語は書紀の本文には見えないから、其の本になつた舊辭には無かつたかも知れぬ。是は古事記と、大體それと同じ記事のある書紀の「一重曰」とにのみ出てゐるので、書紀の別の「一書」には鏡のことばかりが見える(古語拾遺では、鏡劔が主であつて、それに「矛玉自從」としてある)。が、神宮奉祀のことは崇神紀・垂仁紀に明記せられ、劔の話はそこに無いけれども景行紀には見えてゐる。さて神器の由來の物語は、天位と共に神器を傳へられる事實と密接の關係があらうが、古事記には此の事實は書いてない。書紀の御即位の記事などに神器のことの見えるのは、繼體紀に「上天子鏡劔璽符」とあるのが初めであるらしく、次には宣化紀に「上劔鏡」とあり、明確な記録としては持統紀に「奉上神璽劔鏡」と出てゐる。但し、允恭紀には「上天皇之璽」とも「捧天皇之璽符」ともあり、推(410)古紀・舒明紀には「天皇之璽印」の語がある。璽符などは支那の成語である。(序にいふが、古語拾遺の物語には、書紀の紀載を採つてそれを補綴した上に、イミベ氏の功業を示すことを書き加へたところが多い。)
さて書紀の神婚譚によると、オホモノヌシの神は蛇の形を現じたといふことであるが、古事記にはそれが明記して無い。但し雄略紀(七年の條)にも、天皇がミモロの岳の神の形を見そなはさうとせられた時、或る人が蛇を其の山で捉へて來て御覽に入れたといふ話がある。此の話のミモロ岳は、イカツチの岳の名から考へると、ミワのでは無くアスカのであらうが、註によると、それがやはりオホモノヌシの神とも考へられてゐたらしい。(アスカの神の名は延喜式の神名帳にも記して無い。出雲國造神賀詞のカヤナルミの神のことは、後にいふやうに民間信仰とは別の話である。ミワのオホモノヌシの神も同樣で、書紀の神代の卷の「一書」には、此の神をオホクニヌシの神と同一であるやうに記してあり、出雲國造神賀詞にもミモロの山の神はオホナムチの神即ちオホクニヌシの神の和魂としてあるが、それは神代史の上のことで、實際の信仰に於いては必ずしもそれと一致してゐない。此のことはなほ後にいはう。)さて、ミモロの岳をイカツチの岳とせられたとあるのは、蛇をイカツチといつたからである。イカツは「嚴つ」で、チはヲロチやミヅチのチと同じ語である。雷の字はあて字に過ぎない。(古事記の神代の卷のヨミの國の段に八つイカツチとあるのも、また蛇のことであらう。墳墓、もしくはそこに葬られてゐる屍體、もしくは死者の靈魂と、蛇との聯想は、世界的のことである。)兎も角も蛇が神とせられたことは、此の雄略紀の話でもわかるから、ミワの山の神もまた同樣であつたと考へるに無理は無からう。
もつとも、神婚の話はこゝに限らない物語であるから、それだけで此の神を蛇とするわけにはゆかず、又た古事記(411)の神武天皇の卷には、此の神が丹塗矢になつて女に婚つたといふ話もあるが、常陸風土記の那賀郡の條及び肥前風土記の佐嘉郡の條にも、こゝの神婚譚に似た話があつて、それが皆な蛇であるから、此の種の物語は神を蛇とするところに特色があるので、それがミモロ山に結びつけられたのも、此の山の神が蛇とせられてゐたからであらう。丹塗矢の物語は山城風土記にも似た話があつて、それがホノイカツチ(火雷)の神だといはれ、其の子はカモノワキイカツチの命だといはれてゐるが、このイカツチも本來は雷では無くやはり蛇であつたらう。さうして、同じく丹塗矢で同じく神婚の物語である古事記のと、此の風土記のとは、同一説話の少しく形をかへたものと見なければならぬ。さすれば丹塗矢となつたといふ話に於いても、ミワのオホモノヌシの神はやはり蛇と考へられてゐたらしい。丹塗矢は蛇の變形であらう。(神が蛇となつて人間の女に婚するといふことは他の民族にも例がある。frazer,Adonis Attis Osiris,七一頁參照。三國遺事の甄萱傳によると、同じ話が朝鮮では蚯蚓となつてゐるが、これも蛇の變形らしい。古事記の神代卷にはミワの神を、海原を光して來た神とあり、書紀の「一書」にはそれをオホナムチの神の幸魂奇魂として、やはり同じことが書いてあるが、これには古事記の垂仁天皇の卷に、ヒナガヒメが蛇となり海原を照らして追ひ來る、とあるのを參照するがよい。)さて、かういふ神がオホタヽネコといふ子孫を有するといふことは、勿論、事實とは認められない説話であるが、それには如何なる意味があるのであらうか。また皇室に於いてそれを祀らせられるといふことは、如何なる意味であらうか、それを知るには、一と通り上代の神の性質を考へて置く必要がある。
文獻に現はれてゐる上代の神には、いろ/\の種類があるが、其の中の極めて幼稚な人心の所産と認むべきものか(412)ら述べて見ると、先づ出雲國造神賀詞に「晝はさ蠅なすみな沸き、夜はほべなす光る神あり、石根、木の立、青き水沫も言問」ふとあるのを、擧げねばならぬ。古事記の岩戸がくれの段の「萬の神の音なひは、さばへなす皆なわき、萬の妖こと/”\に發」るといふのも、之に應ずるものである。さうして此の、晝はわき騷ぎ夜は光る神といふのは、恐ろしい神、人の害をなす神であることが、これらの文からも、またそれが邪神(書紀、卷二卷首)、或は荒ぶる神(遷却祟神祭祝詞等)とせられてゐることからも明かであつて、特に夜光る神が恐れられたことは、星の神が邪神カヾセヲ(書紀)、惡神アマツミカボシ(同「一書」)とせられてゐるのを見ても、想像せられる。暗夜を恐れ暗夜に光るものを恐れることは、幼稚な人間の心理としては普通のことであつて、今日でも子どもらに於いて一般に認められる。言問ふといふ「石根、木の立、青き水沫」、または「石根、木の立、草のかきは」(遷却祟神祭・大殿祭、また大祓の祝詞、常陸風土記、香島郡の條)も「さばへな」して「みな沸」くといふ神の類であらう。こゝにはそれを神とはいつて無いが、後にいふやうに、木も草も石も水も一般にみな神とせられてゐるからである。
さて此の騒ぐ神、光る神は何か形のあるものと思はれてゐたか、または形の無い精靈 spirit として考へられてゐたか、やゝ不明であるが、木草も物をいふ神であると思はれたこと、蛇が海原を光して來たといはれてゐること、などから推測すると、やはり何かの形を有つてゐるものともせられてゐたらしい。すべての物を生きてゐるものとし、而も何等かの點に於いて超人間的の力を有するものとして、それを神と稱したのである。或は、其の生きてゐるものに物質と精靈との區別を認めない程度の思想であり、木も草も聳てる石も流るゝ水も、または蛇も蟲も、其のものがすぐに精靈だと思はれてゐた幼稚な信念の痕跡であるかも知れぬ。が一方では、形の無い、または形を離れ得る精靈の(413)存在をも信じてゐたらしいことは、次にいふやうに、道饗祭の祝詞などを見てもわかるし、特に音とか光とかは、形なくして而も何ものかの存在を示すものとして考へられるのであるから、それによつて認められる神は、即ち遊離してゐる、または遊離し得る、無形の精靈でもあつたらう。
ところが、これらの精靈は、それが人を災するものとして人に恐れられてゐる點から見れば、evil spirit であり、demon である。あらゆる草木禽獣は、それが直ちに恐るべき精靈であり、また到るところの山河には氣味の悪い精靈が遍滿してゐて、或はそれが草木や禽獣に憑つてゐるのである。さうしてそれらが、或は光を放ち、或は聲を出すのである。平安朝のころまで行はれてゐた風俗に、旅行をする場合にはぬさ袋を携へて道々ところ/”\の神々にぬさを手向ける、といふことがあるが、それは即ち此の信仰から生じた習慣の持續せられてゐたものであらう。ヤマトタケルの命の物語のイブキの白猪(或は蛇)、ヤキツの沼の神、或はまた山の神、海の神、穴門の神、總稱して荒ぶる神といふのも亦た此の類である。それから大祓の祝詞に、昆蟲の災、高津神の災、高津鳥の災といふことがあるが、これも、地に這ふ蟲や空を飛ぶ鳥を其のまゝに恐ろしい神と見、或は空中に人を災する精靈があると思つたことを示すものである。蛇の類が叢の間に出没隱見して、逸早く這ひありく状態から、又た鳥や羽のある蟲が電の如く影の如くに飛び過ぎる有樣から、精靈またはそれが宿つてゐるものとして恐れられることは、未開人に普通の状態である。なほ蛇については、常陸風土記、行方郡の條のヤトの神の話を參照するがよい。高津神も宣長などの説いた如く雷のことでは無く、形のある、或は形の無い精靈であらう。なほ、海に於いてはワニも此の種の精靈と思はれたのではあるまいか。ワニは人に噛みつく恐ろしいものであつて(出雲風土記、意宇郡の條)、それが神とせられてゐるのは、やはり(414)demon として考へられたところに遠い由來があるらしい(ワニは海蛇であらうと思ふが、このことは後に詳説しよう)。それから御門祭や道饗祭の祝詞に、門や衢に「うとびあらび來」るものが一ぱいあるといふのも、遊離してゐる demon 的精靈に違ひない。ところがこれらのことは、今日の人類學者・宗教學者等が概ね認めてゐる未開人の宗教思想と、一致してゐる。文獻に現はれてゐる我々の民族の上代にも、かういふ幼稚な思想が、其の心生活の一隅に遺存してゐたのである。
此の信仰は、死者に對する上代人の思想とも相應ずる。古事記のヨミの國の物語の一半は、即ちそれを示すものであつて、屍體が腐つて蛆がたかつてゐて、そこに恐ろしいイカツチがゐる、ヨモツシコメが追つかけて來、續いて死者そのものが追つかけて來る、それを防ぐために大きな石をヨモツヒラ坂にすゑる、といふのである。是は話に仕組まれてゐるのであるから、思想が多少混雜してゐるが、其の根柢には屍體そのものに對する恐怖、屍體そのものに一種の demon 的精靈が存在すると見る考がある。イカツチ(蛇)は即ちその demon であり精靈である。さうして其のイカツチのゐる屍體自身が生きてゐるものを追つかけて來るといふ點に、此の屍體、此の demon が人及び人の世に災をなすものである、といふ思想が窺はれるので、人を殺すのも其の所爲であるといふ。しかし此の demon は形の無いものとしても考へられたので、それは、やがて死者の靈魂をいふのであらう。すべての邪神の本源は死者のゐる下界にあるといふのが、即ちそれを示すものである(大祓及び道饗祭祝詞)。所謂根の國・底の國から荒び來る demon があり精靈があるといふのは、死者の靈魂が人の世に現はれて人を害するといふ思想、少なくともそれから派生した思想、に違ひない。が、それは必ずしも屍體と、直接の關係のあるものでは無く、屍體から遊離して何時までも存在(415)するものらしい。さうして、これらのことも、また今日に知られてゐる一般未開人の心理状態に適合するものであり、種々の民族に於いて同一もしくは類似の思想が存在する。
さてかういふやうな思想を有つてゐるものが、其の demon を如何にして防ぎ、其の齎す災を如何にして避けるか、といふと、其の一つは、彼等もしくはそれに關係のあるものに接觸しないやうにする消極的態度である。接觸すればそれに憑かれる虞れがあるからである。死者があればそれを避け、其の家を避け、又た其の死者の一族を避ける。死者に接觸したものは家でも人でも demon の憑いてゐるもの、demon 的性質を帶びてゐるもの、だからである。イザナギの神がヨミの國から歸られた時、投げすてられた衣服などに、種々の神が生まれたとあるが、それは衣服などに取り憑いてゐた demon が現はれたのであらう。(此の話は、ずつと思想の進歩した後の所産でもあり、またそれに種々の思想が混合してもゐるために、生まれたといふ神にも種々あるが、それは本來の意義では demon であつて、ワヅラヒノウシの神などの惡神が生まれた、といふ思想の淵源が茲にあることと思ふ。)さうしてかういふことから、死者に縁故のあるものをして一定の期間、他人と隔離させる風習が生ずる。死の穢れといふ思想、イミといふ習慣はこゝに由來する。死者の住んだ家を去つて他のところに移るといふのも、喪屋を作るといふのも、亦た同じ思想の發現である。(支那人の間に特殊の發達をした服喪の習慣も、其の本來の意義は茲にあるのであらう。支那人は、文化の發達と共にそれに特殊の道徳的意義を加へ、終に全く其の原始的性質を没却して了つた。)子を産んだ婦人、月經時の婦人が穢れたものとして隔離せられるのもそれと同樣で、死とは違ふが死と同じやうな不可思議な人生の現象に對して、そこに demon 的勢力のはたらきを認めたところから起つたことらしい。産屋を設けるのも此の故であり、其の産屋に男(416)の近づくのを禁ずることは、かのトヨタマ姫の物語にも現はれてゐる。それから、神としての demon に對しても亦た同樣であつて、神の氣を受けないためにそれと接觸することを避け、接觸したものを隔離する。齋戒の原始的意義はこれであらう。神に對しても死及び其の他の穢れに對しても、共にイムといふ語を用ゐるが、それは即ち此のことであつて、近代の人類學者がポリネシヤ語から借りて來た taboo といふ語で指す事柄が、ほゞそれにあてはまる。其の二は、積極的に demon を防ぎまたは攘ひ去ることである。死者に對しては種々の方法があるので、墓の上に石を置くこと(古事記に見えるヨモツヒラ坂の千引の石)なども、死者または demon をして人の世に歸らせないやうにするためだ、といふ解釋がある。また死の穢れを去るためには、水に入つてみそぎをする(魏志伽倭人傳、古事記タチバナの小門のみそぎの段)。後にいふやうな水の精靈の力によつて、死から生ずる惡い精靈を剋殺するのであらう。是も世界に例の多いことであつて、それによつて恐ろしい demon の脅威から自由になる。(死の穢れに對する taboo は此の儀式によつて解除せられるのである。其の他の「ものいみ」の解除についても、何等かの儀式があつたらうと思はれる。)後に大祓として發達した儀式の速い起源も、畢竟は同じところにあるのであつて、それは所謂「祓へつもの」に demon 的精靈を移し負はせて、それを此の國の外、此の世の外に攘ひやるのである。ヘブライ人の山羊追放やギリシャ人の pharmakos(Harrison,Prolegomena to the Study of Greek Religion,九五−一〇六頁參照)などの由來をも參照するがよい。支那人の追儺も其の根柢に同じ心理がある。demon はそれに接觸するものにうつる、といふのが上代人の思想であるから、「祓へつもの」といふことも生ずるのである。これらは所謂 magic の一種であるが、magic を以て demon を防ぎまたは攘ふといふことも、未開人一般の風習である。かの旅ゆく人がぬさを異郷の神に(417)獻ずるといふのも、本來は一種の magic 的性質を有するものでは無かつたらうか(magic の意味は現時の人類學者の用語例による)。
以上は記紀などに見える上代人の宗教思想の一面であつて、それは極めて悠遠なる太古から、其のまゝに、或は他の發達した思想に混合し、又たそれによつて多少の變改を蒙りながら、なほ繼承せられてゐるものであらう。しかし其の傍には、やはり非常に遠い昔から別の傾向も生じてゐて、それがまた後に傳へられてゐる。一般に原始人が氣味の惡い、怖ろしい、人間にとつては敵である demon のみを外界に認めてゐて、親しむべく味方になるべき神を認めず、死者に對してもそれを恐れてばかりゐて、故人をなつかしむ情のない時代があつたかどうか。此の點に關する種々の考へ方はいま茲に顧慮してゐる遑が無いが、兎も角も或る時代に於いて前者の傍に後者の存在することは、疑ひがあるまい。それが即ち後世まで崇拜せられる神の淵源である。延喜式の神名帳(大體は天平ごろに存在してゐたものと同じであることが出雲風土記によつて知られ、古語拾遺にも、天平年間に始めて神帳を作つたといふ記事がある)を見ると、全國到るところに多くの神社があつて、其の敷は三千餘座に上つてゐるが、出雲風土記に見える神社と延喜式の同國のとを比べると、前者は遙かに後者より多く、二倍以上にもなつてゐるから、神祇官の帳簿に載せられない他の諸國の神社も亦た出雲風土記の記載と同じ程度に於いて多かつたらしく、都鄙村落の到るところに神社が遍在してゐたのである。さて、此の多數の神社は一體なにを祭つてあるのかといふと、それは極めて遠い昔から傳へられた幼稚な信仰の對象たる神々であるらしい。
これらの神社の多くは、其の名が所在地の地名、または山とか河とか森とか原とか坂とか井とかいふ場所の状態で(418)あつて、祭神の名のあるのは極めて少ない。一方に祭神の名のあるものがありながら、他方にそれのないものが多いのは、實際、祭神の明かになつてゐないものが多かつたからであらう。杵築大社とか鹿島神宮とかいふやうに、祭神が明かであつても其の神の名の記されて無いものもあるから、一概にはいへないが、かういふのは數に於いて少なからうし、また其の祭神の名は後世になつて定められたものらしい(後文參照)。特に大木神社・御木神社・大槻神社・小槻神社、などといふ木に因んだ名稱のあるのは、樹木崇拜の現象であり、石神社・石立神社などは巖石崇拜の痕跡を示すものであらう。大木を神とすることは「みぬさとる三輪の祝がいはふ杉」(萬葉、卷七)といはれ、「天飛ぶや輕の社のいはひ槻」(同上、卷十一)、「かみなびの三諸の山にいはふ杉」(同上、卷十三)などと歌はれた如く、奈良朝ころまでも存在した風習であるのみならず、今日もなほ民間に行はれてゐるし、又た石を神とし或は石に折ることは、出雲風土記(楯縫郡の條)・播磨風土記(揖保郡の條)・肥前風土記(佐嘉郡の條)にも見えてゐるから、これも上代の信仰である。これらは本來、木や石そのものを神としたのであらうが、肥前風土記(佐嘉郡の條)に山が神となつてゐるのを思ふと、神名帳の神社に、山や河や森や井そのものの、神とせられてゐるものも少なくないことが想像せられる。勿論それは一歩進むと、木や石や山や河に精靈がゐるといふ思想にもなるので、山の神・河の神といふのは多くはそれであらうし、ヤマトタケルの命のアシガラの物語にあるやうに、さういふ神が動物の形に化つて現はれることもある。かう考へて來ると、神社の數の多いことは怪しむに足るまい。神社は石や木や山や森や川や海や、もしくはそれに宿る精靈を、其の所々で祭つた極めて遠い昔からの習慣が、有史時代に繼承せられたものだからである。
さて山川木石そのものは動かぬものであるから、それに關する神社の位置はおのづから定まつてゐる。しかし精靈(419)として見れば、それは到るところに遍滿し、どこにでも遊行し、または自由に動物などの形にもなるものであるが、木ぶかい山や森、底知れぬ淵、流れ出る清水、或は人のゆきかふ道の衢、さういふ特に人の心を動かす場所は、神の住み家として考へられ易く、また次にいふやうに、それに對する禮拜の儀式が行はれるやうになると、それがために或る場所を要するので、おのづからそれが一定し、從つて神の居所も定められるやうになつたのであらう。ずつと後世になると、そこに社殿を建てるやうになるのであるが、それは神が人格を具へるやうになつてからのことであつて、單なる精靈として見られた太古には、別にさういふものも無かつたらう。ところで、神名帳の神社がかういふ太古の状態の繼承せられたものであるとすれば、それに特殊の人格のある祭神が無く、また地名や其の土地の有樣などを名稱にしてあることも當然である。神名帳には、後にいふやうに、後世の思想によつて變改せられた分子もあり、風土記などに見える神も種々の説話に結合せられてゐるが、其れを篩ひ去つて本來の面目を現はし、原の意味を考へれば、かういふ性質のものである。
なほ刀が、或はアメノオハヾリの神(古事記、神代の卷)、或はフツの神(同、神武天皇の卷)とせられ、玉がミクラダナの神(同、神代の卷)とせられてゐるやうに、物品が神とせられたのも、やはりそれに精靈があるといふ考からのことで、古い思想の名殘であらう。これらの神の名はずつと後世に作られたのであるが、それを神とすることは決して新しく起つたことではあるまい。かのシホミツダマ、シホヒルダマ、カゼフルヒレ、カゼキルヒレなどに於いて現はれてゐる如く、物品に或る力を與へる思想も、やはり之と關係のある古い信仰らしい。後世に神寶と稱せられるものなども、本來は神寶では無くして神そのものでは無かつたらうか。劔も鏡も玉も共に神自身とせられてゐたのを考(420)へ合はせるがよい。それを御靈代などと解釋するのは、極めて新しい時代の思想である。
しかしこれらの神は demonでも惡神邪神でも無い。形のあるものが其のまゝに精靈であり、或はその中に精靈が存在し、または遊離する精靈がそこに憑るといふ、極めて幼稚な思想の所産ではあるが、其の性質は必ずしも人に災し人を害するものでは無いのである。かういふ神がどうして生ずるやうになつたか、といふ問題には、種々の考へ方もあらうが、事實としてそれには、實質に於いて前段に述べた demon と差異の無いものがあることは、木も草も石も水沫も一方では demon たる邪神ながら、他方では demon ならぬ神であるのを見ても知られる。古事記の神代の卷のサルダヒコの命の話に、底どく御魂、つぶ立つ御魂、沫さく御魂、といふことがあつて、これは海の水のそれ/\の状態を精靈の現はれと見なした古い思想の遺物であらうが、それは言問ふといふ青き水沫の demon 的精靈とは性質を異にしながら、同じく水の沫立つ状態に於いて認め得たのである(古事記にはこれらの御魂をサルダヒコの命のこととしてあるが、それは物語としての着想に過ぎない)。また夜光るものは恐ろしい精靈でもあるが、オホナムチの神の魂が海を光して來たといふ話は、同じ光るものが demon ならぬ神としても見られたことを示すものである(此の話の魂といふのは、人間の靈魂では無い。オホナムチの神は固より神であつて人では無い)。それから、神名帳の所々に見えるオカミの神社は蛇を祭つたものであらうし、かのミワ山も同樣であるが、其の蛇も一方では demon とせられてゐながら、こゝでは必ずしもさうでは無い。怖ろしいワニもまた海の神である(肥前風土記、佐嘉郡の條)。同一物、同一程度の幼稚な思想の所産が、或は demon とせられ、或は然らざる神とせられてゐるのは、多分その間に發達の階段があるので、それが共存するのは、後の階段に上つた後にも前の階段の思想が遺つてゐるからであらう。兩方と(421)もカミといふので、名稱も同一であることが、やはり其の一證ではあるまいか。またかういふ神も時に祟ることがあるのは、一つは其の古い性質が頭を出すためでもあらう。いひかへると demon 的性質が神にも遺存するのである。かのミワの神の祟は、其の神が更に進んだ思想の所産である他の要素を加へ又たそれが人格化せられてゐる場合のことではあるが、それが祟るといふのは、もつと低級の神であつた時代から持續せられたことであらう。宗教思想が幼稚であればあるだけ、恐怖の情が前に立つのであつて、神に對しても其の怒を和らげ祟を避けることが、主なる務とせられるのである。しかし、demon 即ち邪神惡神は別に獨立しても存在してゐるので、祟る神といふのも荒ぶる神といふのも世の中にある。(祟る神が、かの言問ふ石根本の立草のかきはの類であることは、遷却祟神祭の祝詞によつて明かである。晝はさばへなす皆な沸き夜は火瓮なす光る神も、やはり其の仲間であらう。但し祟る神に對しても、祝詞に見えるやうな態度は、後世の思想によつて變化せられたものである。)
さて、demon は怖れられるのみで崇拜はせられないが、此の神は漸次崇拜の對象となつて來たらしい。既にそれを超人問的勢力と認め、さうして又たそれが必ずしも人間の敵で無いとすれば、一方ではそれに對してなほ恐怖の情を抱き、其の祟をさけるやうに勉めると共に、他方ではそれに依頼しようとする念を生ずるのは、自然のことであり、從つて神は、少なくとも其の一面に於いて人生の保護者となるので、それに對する崇拜の情がこゝから起るべきものだからである。但し其の崇拜が最初如何なる儀式によつて行はれたかは明かで無い。が、茲に一、二の注意すべきことがある。demon 即ち恐ろしい精靈を防ぎまたは攘ふについて magic 的儀式が行はれたとすれば、これらの神に對してもまた同じやうなことがあつたでは無からうか。一般に未開人が種々の magic を重んじ、又た思想上それと關係(422)の深い taboo を種々の方面に於いて守つたことは、人類學者などの研究で明かになつてゐるが、我々の民族の過去に於いてもまた同樣では無かつたらうか。古事記の神代の卷に、大神が天の岩戸に隱れられた時、神々が長鳴鳥を鳴かせウズメの命に踊らせたといふ話がある。長鳴鳥をなかせたのは日の出る朝に擬したのであるから、これは日蝕などの場合に行はれた magic の古い習慣もしくは其の記憶が、物語となつてこゝに插入もしくは適用せられたのでは無からうか。女の踊るのも太陽を動かせようとする magic かも知れぬ。それから國土生成の物語に、先づ柱をたてて二神がそれを左右からめぐられたといふ話があるが、これも何かの儀式、もしくはそれに由來する風習の反映では無からうか。龍田風神祭の祝詞に見える天の御柱・國の御柱の名を始めとして、神名帳の國柱・天椅立・高桙・八桙など、柱またはそれに似た形のものを名としてゐる神社が所々にあるが、二神の物語から考へると、柱は本來、神または神の表象では無いらしい。それを歐洲諸民族に例の多い may pole などに比照するのは早計かも知れぬが、何かの magic 的儀式の痕跡を示す一例であつて、男女が其のまはりを踊りまはつたといふやうな風習があつたのではあるまいか。(序にいふ。此の物語の柱は往々、八尋殿の柱として説かれるやうであるが、柱が八尋殿には關係の無い全く別の物であることは、古事記の本文を讀めば明かである。)なほ、かの歌垣とか※[女+燿の旁]歌とかいふ風習も、後には單に其の名の示す如きものとなつてゐるが、其の遠い由來はやはり同じやうな儀式にあるのでは無からうか。未開人の多數會合することは、大てい宗教的もしくは magic 的儀式の場合に限ることが、一般の状態であるらしい。
一體 magic の根本觀念の一つは、人間の一定の行爲が他の人間、神、もしくは其の他の萬有に一定の影響を及ぼすといふことにあるのであるが、magic の如く有意的にそれを行ふ場合で無くとも、同じ心理は種々の状態に於いて人(423)間と其の周圍との關係を規定する。神功紀元年の條に見える、二社の祝の合葬(アツナヒの罪)のために晝が暗く夜のやうになつた、といふのも其の例である。またもつと廣くいふと上代の有名な風俗であるクカダチとか、神武紀に見える水に浮くと浮かぬとで事の成否を知るとか、或はまた一般にいふ卜筮とかも、其の根本の思想は之と密接の關係がある(支那人の間に特殊の發達をした天人感應説・休徴説などの淵源も、やはり茲にある)。それから魏志倭人傳に見える、ツクシ舟が航海の安全を期するために乘組員の一人に嚴肅な齋戒をさせる、といふのも、やはり magic と思想上同一根柢を有する taboo の一種である。かういふ風に、種々の magic 的行爲またはそれに關係のある思想が、上代に一般に存在してゐることから考へても、上に述べたやうな習慣を magic 的儀式の遺風として見るに差支は無からう。さてかういふ儀式そのものの意味は必ずしも神の崇拜とは關係が無く、一面からいふと、むしろそれとは相反する性質のものであるが、それが神の崇拜に結合せられ混淆せられることは、かの柱と神社との關係によつて見ても知られる。のみならず、他の一面からいふと、此の二つの間には密接の關係がある。著者はこゝでも magic と宗教との交渉に關する諸種の學説には觸れないで置くが、一方では magic の對象となる如何なるものにも皆な精靈があるので、magic は其の精靈に對して行ふものであると同時に、他方では神即ち精靈も、やはり或る意味では人間と同じやうな生物である點に於いて、神と人とが相互に magic 的感應の可能性を有するのであるから、兩者を全然區別して考へることは出來まい。水に入つて穢れを去るのも、もしそれが水の精靈の力であるとすれば、それは神の力によつて行はれるものである。
しかし、magic 的意義もしくは起源を有する儀式に於いて、最も重要なるものであり、また多くの民族を通じて行(424)はれてゐるものでありながら、我々の民族には其の痕跡の發見し難いものは、動物を犠牲にする sacrifice である。(動物の血を濺ぎ、或はそれを飲み肉を食ふことは、其の血に存在する精靈の作用により、或は血肉そのものを身に受け入れることによつて、其の動物と人間と、もしくは此の二つと神との間に特殊の關係が生ずるといふ點に於いて magic 的意義がある。動物そのものが神である場合も同樣である。)是は我々の民族が食用の家畜を有たなかつたこと、牧畜生活を經過した形跡の無いこと、に關係があるのであらう。が、狩獵を盛んに行ひながら、野獣を犧牲として用ゐることのあつたらしい樣子も見えない。隣のアイヌの熊祭のやうな風習が、何ものかについて行はれたらしい證跡も無い。是も亦た生活の基本が農業にあつたからであらう。しかし、人間を犧牲にすることはあつたらしいから、それと動物の犧牲との關係は、なほよく研究すべき問題であらう。人間の犧牲の行はれたことは、蛇が年々少女を食ひに來るといふ神代史の物語によつても知られるので、是は少女を蛇神に捧げる儀式が行はれてゐたため、もしくはさういふことが記憶せられ、或は傳説として存在してゐたためであらう。古事記の此の物語にある「年々」の語に注意しなければならず、今昔物語卷二十六の同樣な話をも參照するがよい。それが殆ど世界的の事例であることはいふまでも無からう。(神代史の説話には、例へば劔を蛇から得たといふやうな、他の分子も含まれてゐるが、こゝには少女に關する點だけを取り離して考へるのである。)もつとも、少女を神に供へることは、神を和めるといふ意味であらうが、それは思想が變化した後のことで、其の起源はやはり magic 的意義を有するものであつたことを推測しても、差支があるまい(其の magic が、少女を神の妻とすることの結果として考へられる生殖作用にあるかどうかは、問題であるが、少女の名がクシイナダ姫であること、生殖作用と穀物の豐熟とが聯想せられ得ることを考へると、或はさう(425)いふ意味であつたかも知れぬ。今昔物語の話で、女性が處女たるを要するとしてあることをも考へねばならぬ。それから、農業民族としては宗教も magic も主として豐稔の希求に基づくのが當然である)。なほ、仁徳紀十年の條に見える人柱の傳説も、人を以て河の神を祭るとはあるが、實は magic として説くべきものであらう。それからやはり magic 的儀式たる大祓の祓へつものに奴婢を出すことが、天武紀十年の條に見え、延喜式には人像を擧げてゐるが、これは、ずつと古い昔に人間を犧牲にした遺風が、形をかへて現はれてゐるのでは無からうか。祓へつものは、大祓の祝詞によると河に流すべきものである。天武天皇のころに奴婢を殺したのではあるまいから、一方で人形を用ゐると共に、他方ではたゞ人間を儀式的に並べて置くことになつたのであらう(延喜式臨時祭の部の羅城の御贖物に、奴婢八人とあるのも、同樣である。)肥前風土記(佐嘉郡の條)に、荒ぶる神を和めるために人形馬形を作つて祀るといふことがあるが、これも人身犧牲から轉じて來たものではあるまいか。なほスサノヲの命の物語に、髪をきり爪を剥がすといふことがあるのも、此の意味で説明すべきものでは無からうか。(祓へつものは、後には贖罪の意義で所有物を提供することにも用ゐられるやうになつたが、これは後世の、又た派生的の思想であつて、本來の意義ではあるまい。)
人間を犧牲とすることも、農業民に於いては、主として穀物の豐稔を希求するためであつたらうと思はれるが、穀物そのものを用ゐる magic 的儀式もまたあつたのではあるまいか。祈年祭の祝詞などに初穗を神に供へるといふことがあつて、それは感謝の表徴即ち一種の報酬の意味であるが、かういふ考は新しい思想であつて、他の民族の事例から考へると、其の遠い起源は別の意味を有する儀式であつたのではあるまいか。(穀物も動物と同じく、其のもの自身が精靈であり神であるといふことは、未開人の間に廣く行はれてゐる信念らしい。神武紀にイツノウカノメといふ(426)名のあるのは、さういふ思想の痕跡かも知れぬ。)我が上代の風俗に於いて、神に供へたものを如何に處置するかといふことは明かで無いやうに思ふが、後世の朝廷の祭祀には、其の後に、むしろ其の儀式の一として、饗宴があり歌舞が行はれる例であつて、それは祭祀に與かるものが供物(少なくとも其の一部分)を賜はつてそれを飲食したところに、由來するのでは無からうか。さすれば其の遠い淵源は一種の sacrament にあり、從つてそれが一種の sacrifice めいた儀式に伴つてゐたことを、推測せられなくも無からうか。新嘗祭として後に傳はつてゐる風習の起源は、恐らくは茲にあるのであらう。
しかし、精靈即ち神も生きてゐるものであるとすれば、人と同じく欲望を有し、感情を有し、或は又た飲食を要するのであるから、一方では magic 的起源を有する犧牲の儀式を行ふと共に、他方では同じ動物なり穀物なりを精靈に捧げ供する、といふ思想の生ずるのは自然のことである。特に恐怖の情を以て萬有に對し、ともすれば到るところに遍滿する神の怒を買ひはせぬかと、危ぶんでゐるものにとつては、供物を捧げて其の怒を和げ、其の喜を求めねばならぬ。犧牲のことは我が民族に於いて行はれたかどうか、問題であるが、此の方は後世まで存在する思想であつて、かのミワの神の話の如く、神を祀るは主として此の意味からのことであり、さうしてそれは極めて遠い昔からの因襲であらう。大殿祭の祝詞などにも此の思想は見えるが、同じく延喜式に載つてゐる山口祭・鎭地祭、または造遣唐使舶木靈並山神祭といふやうな祭の遠い由來も、多分、木をきり地を掘るに當つて、其の木や木の生へてゐる山やまたは土地やの精靈を慰め和めて、其の怒を招かないやうにするところにあつたらう。かういふ類例から考へると、祈年祭といふやうな儀式の起源も、實は耕作するに先だつて、其の土地の、或は穀物自身の、精靈の怒らないやうにする(427)ためでは無かつたらうか。
序にいふ。祈年祭の祝詞に白猪白馬白鶏をミトシの神に供へるといふことがあり、古語拾遺にも同樣の話があるので、これは太古にこれらの家畜を犧牲にした遺習では無からうか、といふ疑ひも生ずるが、他には全く例の無いことである上に、馬はよほど後世に支那から輸入せられたものであり、猪も豚のことであらうから、やはり我が民族に固有のものとは思はれぬ。(馬が三世紀ごろの倭に無かつたことは、魏志に見えてゐる。猪が豚であることは、儀式の祈年祭の條に明記してあることによつて知られるのみならず、馬も鷄も共に野生のもので無いことからも推測せられる。)だから、祭祀にこれらの動物を用ゐることは、後になつて歸化した漢人などから学ばれたのであらう。古語拾遺の之に關係した物語に、牛の宍を田人に食はせたといふことがあるが、これも漢人の風習に違ひない。皇極紀元年の條に「殺牛馬祭諸社神」とあり、日本靈異記(卷中)に「依漢神祟殺牛而祭」といふ話があり、また桓武紀延暦十年の條に「殺牛祭漢神」といふ記事があるのを見ると、歸化人から傳へられた支那式祭祀の法が、時々また所々に行はれたことがわかる。漢人自身が祠を立てて祭祀を行つたことは、古語拾遺の他の條にも見えてゐる。さうして、大祓にも東西文部を關與させたほどであるから、朝廷の儀式にも漢人の風習の取り入れられたことが想像せられる。但し宮廷の儀式に於いては、馬も猪も殺したのでは無からう。又た古語拾遺の話に於いて、牛の宍を忌んだやうにしてあるのは、支那的風習に對する日本人の態度の一面を示すものであらう。たゞ馬や猪に特に白色を擇んだことは、一般的にいふと支那の古い祭祀の儀式を書いたものなどには見當らぬやうであるが、それは五行思想などによつて種々に潤色せられてゐるからであつて、民間の習慣としては、さういふことがあつたかも知れぬ。(428)禮記檀弓欝に殷人は白色を尚び牲にも白を用ゐるといふことがあつて、それは事實としては信じ難いが、白色を尚ぶ思想が支那人の思想のどこかにあつたことは推せられる。一種の magic として白犬を殺すことが風俗通に見え、白※[奚+隹]白犬を食はぬといふことが捜神記にあることをも考へるがよい。祭祀ならぬ場合に白馬を刑することは、史上にも見えてゐるし、異民族ではあるが契丹人などが白馬を犧牲に用ゐたことは、遼史に明記してある。白は純清の色として尚ばれる理由がある。さすれば白い色もやはり漢人の風尚に從つたのではあるまいか。或は白鹿白猪などを神と觀る日本の風習が、それに移つたのかも知れぬ(上に記したヤマトタケルの命の物語參照)。それは何れにしても、馬を祭祀に用ゐることがずつと後に始まつた儀式だ、といふ解釋を妨げるものでは無い。なほ古語拾遺の此の話に、男莖の形云々といふことがあるが、これは却つて古い習慣ではあるまいか。人間の生殖作用と穀物の發生結實とを聯想することは、これ亦た廣い世界の事例である。
話は横みちに入つたが、神に對してかういふ儀式が行はれるやうになると、おのづから其の場所が定められるやうになる。神の住み家の定まるのは、一つは之がためであらう。但し其の場所は木ぶかい山や森が最も多かつたらしく、神の憑るところとしても樹木が最も多く選ばれたらしいことは、ヒモロ木の名からも想像せられる。これも世界的の風習であるが、樹木の多い國土に住んでゐる我々の民族には、特にふさはしい思想であらう。賢木に鏡劔や幣をつけるのも、もとは賢木そのもの、またはそれに憑つてゐる精靈に、それらの物を捧げる意味であつたらしい。(書紀の神代の卷の「一書」にイハサカといふ語があつて、橘守部はそれをイハヒサカキの略稱と説いてゐるが、これは輕率に賛成しかねる。しかし宣長の如く磐境をイハキと讀むのも牽強であらう。此の語は或は神聖なる境域を指す名かも知(429)れぬが、もしさうとしても、それは石で造つたといふ意味では無く、「天のイハクラ」などと同樣、イハは永久を意味し崇嚴を意味する形容詞であらう。もつとも古事記神代の卷の石室にゐたといふイツノヲハヾりの神の話や、萬葉卷三の「オホナムチスクナヒコナの坐しけむしつの石室は幾世經ぬらむ」の歌に見える如く、石室などが神の住み家と考へられることもあるが、それは特殊の場合である。)なほ、かういふやうに神の住み家たる神聖の場所が定められてはゆくが、神は必ずしもそこばかりにあるのでは無いので、到るところにイハヒベをすゑて神を祭り(神武紀、古事記崇神天皇の卷)、旅ゆく時はところ/”\で幣をたむけることが行はれ、また海原の邊にも沖にも舟の舳にも艫にも、神はあるとせられてゐる(萬葉卷五・十二・十三・十九等に見える歌)。これは、精靈が到るところに遍滿するといふ古い信仰が、何時までも持續せられてゐるのであらう。
ところが、幼稚な時代では宗教も magic もそれについての儀式も、すべて個人的のもので無く部族全體に關することである、といふ人類學者や宗教學者等の觀察は、我々の民族にも適用ができるやうである。前に述べた種々の taboo の如きは、明かに全體のために或る個人の行爲を束縛するのである。犧牲を用ゐる種々の儀式には部民全體が與かるのであらう。人間の犧牲に至つては、勿論全體のために個人を殺すのである。大祓といふやうな儀式はいふまでも無く全體の問題である。アツナヒの罪のために世界が暗くなつたといふのも、個人の行動が全體の不幸を來たすがために罪とせられたのである。巫祝などの職掌は之がために生じたので、それは部族全體のために、宗教的もしくは magic 的の儀式を行ひ、或は託宣などの方式によつて神人の媒介者たる地位に立つのである。
神をかう考へて來れば、それに伴つて死者に對する態度もまた進み、一方ではそれを怖れながら、他方では(少なく(430)とも近親のに對しては)それを人間らしく生きてゐるものとして、生前と同樣な親しみを感じ、また demon ならぬ靈魂の存在を認めるやうにもなるのであらう。墳墓に副葬品を安置すること、死者に奉仕するといふ意味で殉死の行はれることも、これに關係があるので、從つて他界の觀念が發生する。ヨミの國があつてそこに死者が生活するといふ考は、屍體そのものを怖れるのとは違つてゐるので、それよりも進んだ思想である。ヨミにはヨミの食物がある(ヨモツヘグヒ)といふ點に於いて、古事記のヨミの國の物語に此の思想が含まれてゐることは、いふまでも無からう。
さてかういふ神の觀念は、極めて遠い昔から極めて長い年月の間、大體は持續せられて、記紀によつて覗ひ知られる上代にまで及んでゐたらしい。但し其の間、徐々に種々の變化を經過したことは、いふまでも無からう。其のうちでも特に注意すべきは政治組織との關係である。部族の政治組織が發達し、君主の地位が明確になるに從つて、それに宗教的性質が附與せられ、或は巫祝の如き宗教的職務と君主の地位とが結合せられ、或は一に伴つて他の生ずるのが、多く世界に見るところの状態であるが、我々の民族に於いてもまた同樣では無かつたらうか。かの卑彌呼が鬼道を以て民に臨んだといふ魏志の記載は、少なくとも其の一例、もしくはさういふ古い風習の遺つてゐる一例では無からうか。我々の民族が幾多の小君主に分治せられてゐた太古に於いて、多分かういふ状態があつたらうといふことは、後世の事實から推測せられる(後文參照)。ところがさうなると、一歩を轉じて君主自身が神として崇拜せられるやうになるのは、怪しむに足らぬ。是もまた世界に例の多い現象であつて、君主は神を祭る職務を有し、神人の媒介者たる地位にあると共に、またみづから神であるとせられる。祭政一致といふ、多くの民族が一度は經過して來たといつてもよいほどな風習が、即ちそこから生ずるので、神を祭ることと君主に仕へることとが一つに歸するのである。マ(431)ツリといふ國語が兩方に適用せられるのも、實は此の故である。(マツルといふ語は下から上に對していふことである。だからマツリゴトといふのも本來は君主に仕へるといふ意であつて、君主が民に臨むといふのではあるまい。從つて嚴密にいふと、政の字をそれにあてるのは妥當でない。)さて、祭祀は本來部族全體のことであるから、君主の宗教的職務もまた同樣であることは、いふまでもあるまい。
のみならず、文化の發達するに從つて、これから後にも新しい性質の神が發生し、または昔からの神が性質をかへて來る。其の第一は、多神教的傾向の生ずることである。前に述べた階段では、神はそれを崇拜するものにとつては萬能の神であつて、何事につけてもそれを祭り其の力をかりようとしたのである。勿論、神に折ることは實生活上の問題、いひかへれば食ふことにあるのであるから、農業民族に於いて其の最も主要なるものは、穀物の豐熟とそれに關係の深い雨や風のことである。從つてあらゆる神は皆な農業神であるやうにも見える。此の思想も後まで遺つてゐるので、例へば祈年祭の祝詞に、穀物豐作の祈願が縣の神にも山口の神にも水分の神にも御門の神にも捧げられてゐるのは、農民の目には山の神も水の神も御門の神も無く、神はたゞ彼等の全生活のため農作のための神であつた、其の思想の反映であらう。今日でも村々の鎭守の神は、祭神の何であるに拘はらず、皆な同一に崇拜せられ、あらゆることについての加護がそれに祈られてゐる。太古でも川の精靈が水のみを、森の神が樹木のみを、支配するので無く、むしろ萬能の神が川や森に憑つてゐるのである。ところが、人間の思想が分化すると共に、或は風の神、或は海の神といふやうな特殊の神が現はれて來る。龍田の神は祝詞に於いて風の神とせられてゐるが、天の御柱・國の御柱といふ名に風神の意味は無いから、これは本來さういふ特殊の神では無かつたのが、何かの場合から風の神として崇拜せ(432)られるやうになつたのであらう。さうして風の神となると、それは其の場所との關係がやゝ薄らいで、一般的性質を帶びて來る筈である。スミノエの神が海神とせられたのも、スミノエの地方神が航海者に崇拝せられたため、海を支配する神に進化したのでは無からうか。(ワニが海の神として考へられたのは、それよりもずつと古い思想であるらしいが、これは海を支配する神といふのでは無くして、蛇が山や森にゐる精靈であると同樣に、海にゐる精靈なのである。)かういふやうにして、精靈が萬能の神で無くなつて特殊の職掌を有する神になると共に、或る場所を離れた一般的の神となり、全體から見ると一種の多神教的傾向を生じて來るのである。
天界もしくは空界の神が生まれたのも、また此の階段に於いてのことではあるまいか。天界及び空界の現象は、あらゆるところから仰ぎ見られあらゆる地方に同樣の關係を有するもの、或る場所に固着しないものだからである。しかし我々の民族に於いては、雲や雨の神も無く星も月も神とせられてゐない。前に述べた如く、星は demon として見られ、空には災をなす高津神があつて、さういふ幼稚な考が後までも遺つてゐる。たゞ、ホノイカツチ(火雷)の神といふのが神名帳に見えるが、これも多分雷鳴電光を恐れたからのことであらう。さうして空中の現象でも、恐怖の情を刺戟するもののみが神として認められたことは、やはり思想のまだ發達しないことを示すものであらう。農業民族であるに拘はらず、雲や雨の神が無く、雨を求むるやうな場合にも多分地上の處々の神に折り、または magic 的儀式によつたのであらう。石に雨乞ひすることは、肥前風土記(神埼郡の條)にも見え、「我が岡のオカミにいひて零らしめし雪のくだけしそこにちりけむ」(萬葉、卷二)といふ歌もある。これらは、天界や空界に關する知識が殆ど絶無であることと共に、有史の初めに於ける我々の民族の文化の状態、また其のころの宗教思想を知るに於いて、看過すべから(433)ざることである。たゞ太陽のみは神として崇拜せられたのである。さうして其の禮拜にも何等かの儀式があり、土地によつては其の場所も定められてゐたのでは無からうか。特に東海に面して朝日の光の先づ照らす地方、例へば伊勢の如き土地には、太陽神に對する祭祀が際立つて行はれ、また其の場所があつたのでは無からうか。
第二には、神の職掌が分化するに伴つて、人文神の發生することである。思想の幼稚な時代にかういふ神の無かつたことは勿論であるが、鎭火祭祝詞を見ると、火が人間生活に有用なるものとして人文的に考へられるよりも、物を燃燒し破壞する物理的勢力として怖れられ、其の點に於いて神とせられてゐたこと、また其の思想がずつと後までも傳へられたことが知られる。例のカグツチの神の話も、此の思想の所産であらう。ところが、古事記には竈の神のあることが記されてゐて、それはやはり火の神であらうと思はれるから、何時のまにかさういふ神が生じたものと見える。また神名帳にはオホトシ神社といふのが所々にあるが、オホトシの神は祈年祭の祝詞にも古事記にも見えてゐて、明かに農業神である。古事記には此の神の外にミトシの神、ワカトシの神、オホツチの神といふ名も出てゐるが、これも畢竟は同じ性質の神が種々の名で崇拜せられてゐたのを、其の間に血統關係をつけるために、並べ立てられたのであらう。なほ記紀に見えるオホゲツヒメの命、トヨウケヒメの命なども穀物の神で、神名帳にあるホヅミ、トヨツミなどといふ名の神も同樣であらう。其の他、ナハシロとかトシシロとかいふ名の神社も見える。しかし、かういふ神があるに拘はらず、上に述べた如く、山の神や水の神に對しても同じやうに稔を祈つたのは、オホトシ、ミトシなどの農業神が後出の神であつて、ずつと前にはどの神にも穀物の豐饒を祈つてゐたといふ證據である。太陽神も其の崇拜は、主として農業の上に及ぼす温かさと光との恩惠を感ずる故であらうから、半ば人文的性質を有してゐる。古(434)事記のナツタカツヒの神なども、やはり同じ意味に於いて崇拜せられた太陽神では無からうか。農業民族としての人文神が、まづ農業に關する方面に於いて生ずるのは、當然である。さて既に人文神が生じたとすれば、一方に自然神ともいふべき山の神・野の神などが生ずるのも、當然の傾向かと思ふが、しかし、それはあまり發達するには至らなかつたので、神名帳などを見ても、さういふ意味の神は發見し難い。記紀に見えるこれらの神は、知識の所産である神代史上の神であつて、民間信仰の對象では無い。民間信仰としては、あまりに抽象的である。
第三は、人格を具へた神の現はれて來たことであつて、かの君主と神との結合もまた之と關係があらう。これは何の神と指してはいひ難いが、神代史に於いて神が皆な人格を具へてゐることを思ふと、さういふ傾向は民間信仰に於いても徐々に萌しはじめてゐた、と考へるのが當然であらう。もつとも、それとても極めて漠然たるものであつて、從つて性の區別なども無かつたかと思はれる。たゞ神代史に穀物の神をオホゲツヒメの命、またはトヨウケヒメの命などとして、女性としてあるが、これは他の民族の思想から類推し、または農業と女性との關係から考へると、或は民間信仰に於いて既に存在したことかとも思はれる。支那思想の影響では無からうし、何等の根據なくして神代史に現はれたとも解し難いやうである。また舊來の神も、一方では概してなほ依然たる精靈として考へられながら、他方では、幾分か人間と同じやうな形を具へたものと思はれるやうになり初めたのであらう。神に對して供へものをするといふ思想も、神が人格を具へるやうになつて一層明かになつたのでは無からうか。社會制度としては君主に租税を上ることもそれを助けたであらうが、それもやはり神に人格を認めてゐるからである。また神の物といふ觀念も、これによつて強くなり、それに對する taboo に特殊の意味が生ずる。それから、荒ぶる神を和めるといふ考も、其の神(435)が人格を具へるに至つて、一層著しくなつたのでは無からうか。遷却祟神祭の祝詞に見える祟る神に對する態度は、それを人格のある神としてのことであるらしく、大祓の祝詞でも本來の magic 的儀式の性質が、神のはたらきの加はることによつて、よほど變化してゐるが、其の神はやはり人格を有する神である。これらも民間信仰に於いて既にさうなつてゐたのであらう。
概していふと、極めて幼稚な時代には、一般の生物は勿論、無生物をも或る點に於いて人と同じやうに生きてゐるものと考へると共に、人をも草木禽獣と大差の無いやうに思つたので、人の精靈も動植物の精靈も同じやうに見てゐたのであるが、思想が進歩して人間の特殊の性質を自覺するやうになると、神にも自分等の面影を認めようとするに至るのは、自然の傾向である。神話はかういふ時代に至つて始めて發生すべきものであらう。常陸風土記のツクバの山の神の話は、其の神がツクバの山そのものでないことは勿論、單なる山の精靈でも無くして、山を支配する、もしくは山にゐる、人格ある神である。ヤマトタケルの命のイブキの物語で、白猪が神のつかひであるといふのも、白猪そのものを神と見たとは違つて、イブキの山の神が別にあることを示すものであるが、それはやはり人格を有するものと解釋すべきであらう。山の神といふだけでは、それを人格の無い精靈と見なしても解けるが、動物を使として有するといふのは、その神に人格を認めたものとする方が妥當であらう。
さてかうなると、人生の保護者としての神の性質が、いよ/\明かになつて來る。從つてそれは、人生に災害を加へる demon とは正反對の地位に立つ。正しい神が、邪神あらぶる神を平定しまたは斥攘するといふ思想は、こゝから生ずる。大祓の祝詞に、神の力によつて罪と穢れとが祓はれるやうになつてゐるのも、かういふ神が、昔ながらの(436) demon 的勢力を打破することを示すものであらう。さうして、宗教の上のかういふ思想は、社會判度が漸次發達するにつれ、衆人に害を加へるものを罪人として罰するといふ習慣と、相伴ひまた相抱合して生ずるのである。スサノヲの命の高天原追放の物語を參照するがよい。社會的制裁が宗教的權威によつて行はれると共に、それが神々の間の關係にも反映してゐるのである。なほ、穢れに對する taboo と神または神聖なるものに對する taboo とが、分離して考へられるのも、此の程度の宗教思想に於いてのことではあるまいか。しかし人生を保護する神とても、人格を具へてゐる以上、人と同じく怒ることもあり喜ぶこともある。怒れば人に祟る。是に於いてか供物を捧げて神を祭り、それを和める必要が生ずるのである。
それから、神の崇拜が個人的に行はれるといふことも、また茲に記して置いてよいかも知れぬ。「わが宿にみもろを立てゝ枕べに齋瓮をすゑ」(萬葉、卷三)、また、「庭中のあすはの神に小柴さし我はいはゝむ歸り來までに」(同、卷二十)とあるやうに、家の中でもどこでもヒモロギを設けイグシを立てて神を祭るといふのも、可なり古くからのことであらう。しかし、此のヒモロギもイグシも、本來は一部落が共同して行つた祭祀の方式であるらしいことは、其のものの由來や性質から推考せられる。それを個人的に行ふことの出來る手輕なものにしたのは、公衆的の儀式を小さく摸倣したのであらう。犧牲が變じて供物になれば、これもまた小規模に個人的に行ひ得るやうになる。さうしてかういふ變遷は、文化の進歩に伴つて個人の禍福の觀念が強くなり、從つて宗教心に個人的色彩が加はつて來るからであらう。序にいふが、祭祀が個人的に行はれても、家として神を祭る儀式、また家の保護神といふ如き觀念があつたかどうかは、文獻の上には徴證が見えないやうである。家族生活の重要なる事がら、例へば出生とか婚姻とかについて(437)宗教的儀式があつたかどうかも、明かで無いが、後の風習から推測すると、婚姻についてはさういふことが無ささうに思はれる。それまでに家族制が發達してゐなかつたらう。
神の觀念がかういふ風に發達すれば、死者に對する態度もおのづから變化して來る。死者の靈魂が存在するのみならず、それが人間として生活してゐるらしく考へられ、他界の觀念が一層發達すると共に、死んだ父母などの靈魂が其の生時と同じく、自分と親しいもののやうに思はれて來る(古事記のスサノヲの命とスセリヒメとの物語には、此の思想が微かに現はれてゐるのでは無からうか)。特に政治組織が發達し、又た戰戦爭などが行はれて、それがために民衆の畏敬を受ける君主などが現はれると、死後にも其の面かげがありしまゝの姿で民の記憶に遺ると共に、上に述べたやうに、一方では君主が神と考へられる以上、死後もまた生前と同樣に神として崇拜せられるのは、自然の趨向であらう。神名帳に御祖組神社としてあるもの、また某彦・某姫の神社などといふのが、もし古い時代からさういひ傳へられたものならば、それは或はかういふ種類の神、即ち昔の地方的君主を祭つたものかも知れぬ。しかし、一般に死者を神として祭つたといふ證跡は、見えないやうである。死者に食物などを供することはあつたらうが、それは死者を生前と同樣に考へてのことである。生前に神で無かつたものが、死によつて一躍して神になつたから、それに供物を捧げるのでは無い。死者を生前と同樣に見ること、死者が他界に於いて生活するといふ思想は、むしろ死者に超人間的の力を認めないものであり、從つてそれが神とはせられないことを示すものである。萬葉の歌(例へば卷二、高市皇子薨去の時の人麿の作)には殯宮を神宮といふなど、死者を神と見たらしい文字があるが、これは後世になつて(後にいふやうに祖先神といふ觀念が作られてから)起つた思想であらう。古事記には、イザナミの命について「神ざりまし(438)ぬ」といふ語を用ゐてあるが、是は「神集ひ」「神はかり」などと同樣、神のことであるから神の語をつけたに過ぎない、といふ宣長の説(古事記傳、卷五)が適切の解釋であらう。其の上に死の國・ヨミの國を穢れと邪惡との源泉とする思想は、後までも甚だ有力なものであるから、一方では生前と同樣な親近の情が死後にも持續せられる傾向があるに拘はらず、死者を神として崇拜することは、此の點からも妨げられる(少し趣は違つてゐるが、古事記に見えるヨモツカミといふ神も、實際の信仰としては此の世の神として祭られた樣子が無い)。一體に死者に對して有する感情は、死の記憶の新しい場合に於いて存在するのが常であるから、自然かういふ状態になるのである。
死者が神とせられないとすれば、祖先もまた同樣であらう。祖先は遠い昔の死者だからである。のみならず、死者を生きてゐる如く考へ、それに對して尊敬親愛の念を生ずるといふことについても、それはやはり死の記憶の新しい、又た親子といふやうな近い間柄に於いてのことであるから、祖先といふやうな考すらも幼稚な人間の心理には起り難かつたらう。從つて祖先を神として崇拜するやうな思想は、單純には發達しなかつたらう。たゞ上に述べたやうに死者に物を供へるといふやうなことが、もし記憶から消え去つた遠い昔の祖先に對して行はれたならば、それが神に對する儀式に類似するところから、祖先を神に擬するやうな考が馴致せられたかも知れぬが、元來さういふ習慣があつたかどうか甚だ疑はしい。(陵墓を祭る後世の習慣は、祖先神の觀念の確立した後のことで、またそれには支那思想の影響もあらう。)それよりも大切なのは社會的方面のことであつて、家族制度が漸次發達して、家によつて社會的地位が定まるやうになると、さういふ方面から祖先といふ觀念が發達し、重要視せられて來るのである。さうして其の家族制度は、有史の初めに於いて既に發達の途中にはあつたが、まだ十分鞏固にはなつてゐなかつた、といふことは前(439)に述べた通りである。
序に一言して置くが、死者の靈魂が天に上るといふ思想は、よほど後までも我々の民族には無かつたらしい。ヤマトタケルの命が白鳥になつて飛んでゆかれたとあつても、天上に昇られたとは見えない。古事記に「天かけりて飛びいましぬ」とあるのは、空を飛んでゆかれたといふのであつて、天にゆかれたといふのでは無い。書紀に「高翔上天」とあるのは、支那思想で潤色したものであらう。(序にいふが、常陸や丹後や近江の風土記に見える白鳥物語に、童女が天から來たとあるのも支那思想であらう。傳説そのものは固有のものでも、かういふところに支那思想が混入してゐる。)是は一體に天界といふものが思想の外にあつたこととも關係があらうが、宗教思想としても天上といふことは殆ど考へられなかつた。神代史の高天原も民間信仰の表象では無い。祝詞などに見える高天原の神は、神代史から派生したものか、但しは山や河に神があると同じく高いところにも神があるといふ意味かに過ぎないので、ヨミの國が地下にあるやうに、天界といふ特殊の世界があるのでは無い。靈魂上天の思想の無かつたのは、此の點から見ても當然であらう。たゞ萬葉の歌になると屡々さういふ思想が現はれるが、これは支那思想の影響である。
文化の發達は祭祀その他の儀式の上にも、種々の影響を及ぼす。道徳思想の發達につれて、人間を犧牲にすることに反對する思想が生じたことなどは、其の著しい例であつて、かのスサノヲの命のヤマタヲロチ退治の物語によつて、それが知られよう。殉死についてもまた、人の代りに塑像を用ゐるやうになつたといふ物語に、同じ傾向が認められる(埴輪の由來についての垂仁紀の物語は、事實を傳へたものとは認め難いが、かういふ物語の作られたことによつて、殉死を非とする思想のあつたことを知ることが出來る。)人間を祓へつものにしたことがありはせぬか、といふ上記(440)の臆説にもし根據があるとするならば、其の代りに人形を用ゐるやうになつたのも、また之と同じことである。其の大祓も本來の意味は、罪を祓ふといふよりは生活のため、穀物の豐作を期待するためなどの、magic 的儀式では無かつたらうかと考へられるが、もしさうとすれば、それが罪を祓ふことになつたのも大なる進歩である(もつとも、罪と穢とが同一視せられ、罪が祓ひ得べきものとせられてゐるのは、道徳的觀念の幼稚であつたことを示すものではあるが)。また其の大祓が、古事記の仲哀天皇の卷に見えるやうに、神を和める作用をなすものとして解せられるやうにもなつた。
さて以上は、記紀その他の文獻に於いて、神の觀念及びそれに關係のある思想や風習に種々の異分子が認められる、といふ事實を出立點として、其の間に發達の階級があることを推測し、近時の人類學者・比較宗教學者等の研究の結果に參照して、試みに其の徑路をたどつて見たのである。頗る粗大な考説であるのみならず、本來僅少な文獻上の徴證にのみよつたものであるから、其の間に幾多の故障があるべきことは勿論であるが、著者は今日に於いては略々かういふ觀察をしてゐる。ところが是で見ると、我々の民族の有史時代の初めには、極めて幼稚な時代に始まつて其の後に經過した歴史的發達の幾階段に於ける、種々の思想の併存してゐることが知られる。從つて、全體から見て神にもそれに對する態度にも、幾多の調和し難い現象があるのみならず、一の儀式、一の物語にも、往々矛盾した觀念を含んでゐる、といふ理由がそれによつて解釋せられよう。例へば、大祓には magic 的儀式の思想と、神が罪過を祓ひ淨めるといふ考とが結合せられてゐ、ヨミの國の物語には屍體に對する恐怖心と他界の觀念とが混淆してゐる。又たヤマトタケルの命のイブキ山の物語に、白猪を神の使と思はれたのが實は神みづからであつたとあるのも、動物その(441)ものを神とする思想と、神を人格を有するものとする一歩進んだ考とが、抱合せられてゐるのである。さうして、斯ういふやうに原始的ともいふべき思想が(多少の變化を經つゝも)可なりに發達したものの傍に存在するのは、一つは宗教そのものの保守的性質にもよることであるが、一つは我々の民族が早くから此の孤島に住んでゐて、あまり異民族と接觸せず、生活の上にも大なる混亂や動搖が無かつたためでもあらう。また、原始時代の demon に對する恐怖心が其のまゝに存在してゐながら、それが惡魔といふやうなものにも發達せず、或は其の他の形に於いて恐ろしい人生の敵ともならず、幼稚な状態にとゞまつてゐ、さうして神の力によつて、かの岩ね木のたち草のかきはの言問ふのも言やめる、と考へるやうになつたのは、比較的温和な輕快な風土で、異民族との競爭も尠なく、日常の生活が自然界からも社會的事情からも壓迫せられることが少なかつた故でもあらう。
かういふ風に、昔ながらの古い信仰がなほ存在してゐる程であるから、一方に多少進んだ神が現はれたにしても、其の數は極めて少なく、全體から見ると、なほ一般に幼稚の域にあるを免れなかつた。神の多數は、依然として其の祀られてゐる場所々々の神である。從つて、それは狹い地方的の神であつて民族全體の神では無い。又た神の性質からいつても、多くの神はやはり皆な同じやうに萬能の神であつて、それに特殊性が無い。だから、廣く見ると所々に種々の神があるけれども、其の間に優劣尊卑もなければ、又た相互に何等の關係も無く、めい/\孤立してゐる。從つて神々のうちに最高最貴の神、主なる神といふやうなものも無い。太陽神といふ天上の神があつても、それが地上の神々の上に立つてそれを支配するのでは無い。或は又た、天とか空とか地とかにそれ/\神の領域があり、そこに特殊の神がある、といふやうなことも想像せられてゐないのである。それから又た他の民族の例を見ると、其の日常(442)生活に最も關係の深い神、例へば農業國民ならば穀物の神とか農業の神とかいふものに、多くの自然的勢力または人文的性質が結びつけられて、それがあらゆる世界人事を支配する神に進化してゆくことがあるけれども、我が上代にはさういふ傾向も無かつたらしい。前に述べた如く農業の神が現はれても、農事を支配するのは此の神ばかりでないのみならず、農業に密接の關係のある事柄が、全く別の神に祈られてゐる。農業に關する自然現象を支配する力も、一つの農業神には結びつけられないで、別々に存在してゐるのである。太陽神などは其の性質上、農業神に結びつけられさうなものであり、又た農業國民たる民族生活の上から、それが進化して最高の神になりさうなものであるのに、さういふ樣子は一向に見えない。これは自然界を統一的に見るといふまでに思想が進歩してゐなかつたためであつて、取りもなほさず文化の程度がなほ低かつたことを示すものであらう。
序に一言する。上文の考察は、文獻を基礎としたために、其の上に徴證の認め難い問題、例へば Jevons でも Wundt でも Durkheim などでも、宗教思想發達の徑路に於いて凡ての民族が經過したものとし、宗教史を解繹する一大關鍵としてゐる totemism の問題などには、一切接觸しなかつたのである。全體からいつても、社會的方面に於ける totemism の痕跡を我が國に認めることが輕率になし難いと同じく、宗教的方面に於いてもまた同樣であると思ふから、其の存在を豫想して立論することは、少なくとも今日の著者に於いては、避けて置きたいのである。宗教史を研究するといふよりも、文獻に見える宗教思想を解説するといふ著者の態度に於いては、猶さらのことである。(なほ近代諸家の学説は大體に於いて同じ方向に進みつゝあるに拘はらず、其の間に幾多の相容れざる觀察や考説があり、さうしてそれが材料の如何に關係する點もあるのであるから、我々の民族の宗教思想を解釋するに(443)當つては、彼等の考説の取るべきを取ると共に、それに拘束せられないことが必要であり、それはまたおのづから新材料を斯の學に寄與する所以でもある。それから、著者は上文に於いて、思想の混雜を避けるため、往々意義が曖昧になり易いやうに思はれる animis mとか、naturism とか、fetishism とか、又は新しく現はれた preanimism とか、いふやうな術語を用ゐないやうにしたことを附言して置く。)
我々の民族が我が皇室の下に政治的に統一せられたのは、宗教思想が上記の如き状態にあつた頃である。だから、皇室は一面では政治上の君主に坐すと共に、他面では宗教的に神たる地位にあらせられた。天皇は「現人神」(景行紀、ヤマトタケルの命のエミシ征討の條、雄略紀四年の條)または「現つ神」(出雲國造神賀詞、續紀に見える多くの宣命)であらせられた。仲哀紀に、イトの縣主が五百枝の賢木をぬき取り鏡や玉や劔をそれに掛けて天皇に獻つたとあるが、これはいふまでも無く、神に物を捧げる方式である。新嘗祭や神今食も古い習慣であるらしく、又たそれは民間の風習に由來はあらうが、宮廷の儀式となつた上は、新穀を神がきこしめされると同じ意味に於いて、天皇御みづからきこしめされる、といふ意味が加はつてゐはしないかと思ふ。天皇は太陽神の御子孫ではあらせられるが、また寧ろ太陽神それみづからであらせられた、ともいはれる。だからニヽギの命以後の三神は皆な「アマツヒタカヒコ」の御稱號を有せられたとある。神器を同殿に安置せられたといふ物語も、亦た天皇御みづから神であらせられたといふ思想から來てゐる。書紀の神代の卷の「一書」に、天孫降臨の場合に、タカミムスビの神が天つヒモロギ天つイハサカを起し立てゝ吾孫のために齋ひまつらんと仰せられた、とあるのも、天孫を神とする思想から生まれたのであらう。神武紀のウツシイハヒといふのも、齋主を臣下に命ぜられ天皇親らイツベの祖を嘗めさせられることから考へると、天皇(444)御自身を神としての儀式であらうと思はれる。「大君は神にしませは天雲の雷の上に庵せるかも」(萬葉、卷三)といふのも、單純なる詩的譬喩の言では無くして、こゝに由來のある思想の發現と見なされよう。さて天皇が神であらせられるならば、荒ぶる神を平定せられるのは、即ち神たる天皇の御任務である(人間の保護神は人間に災をなす demon を斥攘する)。神が坐まさねば荒ぶる神が跋扈する。晝はさばへなす皆な沸き、夜は火瓮なす光る神が其の凶威を逞しくする。神が現はれ給へば萬の妖がみな消え去る。是は大神の石戸がくれの物語の示すところである。ニヽギの命の降臨せられる前には、オホクニヌシの命などの荒ぶる神が騒いでゐた。ニヽギの命が降臨せられると共に、それが平和に歸した。所謂「荒ぶる神たちを、神はらひにはらひ、神なごしになごし給ひて、言問ひし石ね木の立ち草のかきはも語りやめて」、皇御孫の命は天降られたのである(遷却祟神祭祀詞)。これは神代史にも、大祓・大殿祭などの祝詞にも、また出雲國造神賀詞にも、見えてゐることであつて、神代史の眼目をなす宗教的意味はこゝにある。また後にいふやうに、神武天皇は荒ぶる神がヤマトに満ちてゐたのを、討平せられたといふ。景行天皇がヤマトタケルの命に命じて山河の荒ぶる神を和平せさせられた、といふ話も同じ思想であつて、これらは何れも、神としての皇室の任務を全うせられたことを述べた物語である。これらの物語は、かういふ意味で解釋しなければならぬ(但し、儀式は事實に行はれたが物語は思想の所産であることは勿論である)。
しかし、天皇は神自身でゐらせられると共に、また最高の巫祝として神を祀り、神人の媒介者たる地位に立たせられる。此の意味に於いての種々の儀式が後までも存在してゐることは、いふまでも無い。神功皇后の新羅征討の物語に、神が皇后によつて託宣せられたとあるのも、同じ思想から來てゐよう(皇后は天皇と同樣に考へられる)。又た神(445)の祟ることがあれば、それを祭つて其の怒を和められねばならぬのである。全體からいふと、仲哀天皇・神功皇后の物語は神の教と祭祀とで始終してゐ、神武天皇の物語にもそれがあるが、此の章で説かうとした崇神天皇・垂仁天皇の神に關する種々の物語も、まだ其の例に外ならぬのである。同殿に安置せられたといふ神器を別の湯所に於いて奉祀せられたといふ物語も、また皇室が神であらせられることと神を祭る職務を有せられることとの、二面の地位から生じたのである。神として最も光輝ある太陽神が皇祖神とせられたのは、此の意義と皇祖(過去の天皇)が現在の天皇と同じく神にて坐すといふ思想とが、結合せられたのである。ナカトミ、イミベ、ハフリベの朝廷に存在するのは此の祭祀の務に服するためであることは、いふまでも無い。
ところが、皇室の宗教上の地位は本來民衆全體のために生じたものである。だから、全國民のために大祓をせられる。全國民のために穀物の豐饒を折られる(特に、皇室の神事の最も大切なることは此の點にある)。全國民のために祟る神を遷し却はれる。荒ぶる神を和平せられるのも、また全國民のためである。崇神天皇の物語に、全國民の災害を除くためにミワの神を祭られ、または大神やヤマトのオホタニダマの神を祭られたといふ物語も、之と同一精神から出たものであることは勿論である。後に全國の神社が朝廷の神祇官に屬するやうになつたのも、亦た此の思想の繼承せられたものである(皇室の信仰せられた佛教が國教とせられたのも、こゝに由來があらう)。
崇神天皇が神を祭らせられた、といふ話の意味はこれで解釋せられた。垂仁天皇の祭神の物語の意味も、おのづから其の間に明かにせられたと思ふ。然らば、ミワの神を祭るに當つて、其の子孫であるといふオホタヽネコにそれを命ぜられた、といふことはどうか。これについてはなほ數言を費さねばならぬ。
(446) 記紀に現はれてゐる我々の民族の上代に於いては、家族的生活の風習がまだ固定してゐない状態にありながら、漸次その方面に進んでゆく道程にあつた、といふことは前に述べて置いた。家族制度には、おのづから社會的地位の世襲が伴ふ。國家統一の前に於ける地方的小君主も、後の状態から推測すると大體は世襲であつたらう(魏志倭人傳の邪馬臺國の記事では、其の王位の繼承が世襲であつたかどうか、やゝ不明の點もあるが、卑彌呼の後に擬せられた所謂男王が同族で無いといふ證跡の見えない以上、さうして宗女が後をついだとある以上、やはり世襲であつたと解するのが穩當らしい)。ところが、國家が統一せられて、廣い社會を系統立て組織立てねばならぬやうになると、其の骨ぐみが此の世襲制によつて形成せられるのは、自然の順序であらう。詳しくいふと、世襲的皇室の下に世襲的地位を有する諸氏族が生じ、昔からの地方的君主も新たに其の組織に入つて、國造・縣主などと稱せられる世襲的地位を得たのである。家族といふ思想や世襲の制度は、是に至つて愈々發達しなければならぬ。ところがかうなると、皇室は單に政治的に君主であらせられ、宗教的には神にて坐すといふばかりで無く、此の廣い世襲的政治組織・社會組織に於いて、其の骨ぐみの本幹たり中心たる地位にあらせられる、といふ新しい思想が生ずる。それと同時に、臣下に於いても、屡々述べたやうに、現在の政治的また社會的地位は家によつて定まり、其の家は祖先から繼承せられたものであるから、其の家柄を尊くするために祖先を尊くする必要が生じ、さうして其の尊いのは、いふまでもなく皇室に親近であるといふ點にあるのであるが、本來家といふ觀念から生じた問題であるから、其の親近なることは、即ち血統上、其の家が皇室の支流であるといふ考になる。此の二つの思想が結合せられると、皇室の御祖先が即ち諸氏族の祖先であるといふことになり、皇室は諸氏族の総本家として彼等の中心となり彼等を統括せられる、といふ考になる。(447)天皇の御稱號がスメラミコト即ち「統べるミコト」であるのも此の故であつて、それは皇室が諸氏族を一つに維いでそれをしめくゝる地位にあらせられる、といふのであり、現人神または現つ神といふ御稱號とは全然別箇の意味から來てゐる。時勢の進歩に應じ、政治状態の變化に伴つて、皇室の地位に新解釋が生じたのである。
さて、此の皇室と諸氏族との主要なる結合は、所謂神代に行はれたことになつてゐるが、全體、神代といふ觀念が如何にして生じたかといふと、それは皇室の宗教的地位に對する從來の思想から來たことであつて、皇室は神にて坐し、從つて皇祖は神にて坐すから、其の皇祖の御代は神の代であるといふのである。一口にいふと、神代といふことの中心觀念は皇祖神の代といふことである。天皇は現人神にて坐すけれども、それは現實の人間世界にゐらせられる。だから、そこに神代といふ觀念は發生しない。此の現實界を離れた遠い過去である皇祖神の代にして、始めて人界を超絶した神代といふ觀念が適用せられるのである。換言すれば、神にて坐す天皇の「現人」たる要素を觀念の上に於いて分離した純粹の「神」を、現實には見ることが出來ずして觀念の上にのみ表象し得る遠い過去の皇祖神に於いて認め、其の代を神代と稱したのである。神代は固より歴史上の存在では無くして、觀念上の存在である。神の世界は必ずしも過去の時代にそれを置くには限らず、人間界と並存する靈の世界を認めることも出來る筈であるが、本來我が國の神代史といふものが、民衆の間に自然に發達した思想をまとめたものでは無く、政治上・社會上の特殊なる觀念を托するための意圖から出たものであつて、其の思想上の根據は神の崇拜に關係があつても、神代史そのものの精神は現實界の問題にあり、政治體系・社會組織の由來を擬歴史的に説明する點にあるのであるから、それがために生じた神の世界の觀念も、またそれに適するやうに、過去に置かれなくてはならぬのである。神が萬物を作る、即ち萬(448)物の始源が神にあるといふ一種の思索(多分、支那の學問の知識、もしくは其の刺戟によつて得たもの)も、また神の代を昔に置く助けとなつたであらうが、それは主なる事情では無からう。
其の上に、我々の民族の上代では、上に述べた如く多くの神々の間に何等の統制もなく關係も無くして、宗教的意味に於いて神の世界が組織せられるだけの資質を有つてゐず、從つてそれが自然に發生するまでに進んでゐなかつた。だから、神代といふ觀念の形成せられた時には、宗教的崇拜の對象であつた神々は、却つて神代史の政治的・社會的意味を有する精神によつて統制をうけ、それに從屬することになつた。詳しくいふと、皇室が最も尊貴なる地位に坐すと同じく、神としての皇祖もまた有らゆる神のうちで最も尊貴なる神にて坐すのであるから、諸氏族の祖先を皇祖神とする思想をそれに及ぼし、あらゆる神々は皆な皇祖神の子孫である、とせられたのである。しかし之がために、皇祖神の御代は宗教的に崇拜せられてゐる神々の生まれた代であるとせられ、神代といふ意味は益々強められた。實際に民間で崇拜せられてゐる神々は、現に存在するのであつて、過去の存在である祖先といふ觀念には適合しないから、そこに一種の矛盾があるやうであるが、皇室の宗教的地位から生ずる皇祖神の觀念が、此の二つを結合するに足りたであらう。神代といふ觀念はかうして生じたのである。神代史の中心觀念が、かういふ意味で皇室と諸氏族及び宗教上の神々とを一の大なる血族系統に祖織するにある、といふことは著者の曾て説いたところである(「神代史の新しい研究」第二章)。
諸家の祖先神といふ觀念はかういふ思想から生じたものらしく、祖先を神代に置いたから、換言すると祖先が神代にゐたから、それを神といふのである。だから嚴密にいふと、それは神を祖先としたのであつて、祖先を神としたの(449)では無い。祖先が所謂人代となつてからの皇族である場合には、神と稱せられないのも此の故であつて、所謂神別・皇別の區別がそこに生ずる。從つてそれは、祖先崇拜といふ宗教思想の發現といふよりも、寧ろ現實の政治的また社會的地位に其の基礎があるのである。祖先神の觀念が貴族にのみあつて一般平民に無いのも、此の故であり、又た有力な家々の祖先神の神代史上の地位が、遠く其の家の現在の地位の反映であるのを見ても、それが知られよう。なほ、所謂祖先神は思想上の祖先であつて必ずしも血統上の祖先では無いが、此の點から見ても、祖先神の觀念を單純に祖先崇拜から生まれたものとするのは、不穩當であらう。上にも述べた如く、一體に家族生活に於ける宗教的儀式が無く、或は少なくとも重要視せられず、家の保護神といふ觀念などもあつたらしい明證が無いとすれば、純粹の宗教的思想から祖先神の發達しないのも、當然ではあるまいか。さて此の祖先神は、それが神と稱せられるために、おのづから宗教上の神に對する普通の儀式を以て祀られるやうにもなつてゆくが、さうなるにはなるだけの徑路があるらしい。其のことを考へるには、神代史上の神々と民間信仰の對象たる神々との關係及び交渉を知る必要があるから、話は又た少しく横みちに入る。
神代史に民間信仰の神が祖み込まれてあることは、前に述べた通りであつて、實例をいふと、前に述べた海神としてのスミノエの神、人文神としてのオホトシ、ミトシ、ワカトシ、オホツチの神などがそれである。ミワのオホモノヌシの神がオホナムチの神の和魂とせられてゐるのも、其の例であらうか(但しこれは、神代史の一度出來上がつた後に、オホナムチの神をミワの神に結びつけたのかも知れぬ)。しかし、神代史は支那の學問などの入つて知識の進歩した時代に、官府で撰述せられただけに、新しい神が多くそれに現はれてゐる。民間信仰では、所々の水分の精靈とし(450)て其の地/\のミクマリの神があつたのに、神代史では、特殊の土地を離れて一般的性質を有するミクマリの神がある。又た山や海や野や湊や、それらの地上の自然現象に相應した山の神・海の神・野の神・水門の神があり、または山・海の種々の状態に應ずる八柱のヤマツミの神、ウハツヽノヲ、ナカツヽノヲ、ソコツヽノヲの三柱のワタツミの神の名が現はれてゐるが、これらも民間宗教では、特殊な土地で其の處の精靈を神として祀るに過ぎなかつたのを、神代史では一般的性質を具へた自然神となつてゐるのである。木の神・草の神といふやうなのも、此の類に屬すべきものであつて、民間宗教ではかういふ抽象的のものはない(民間信仰で十分發達しなかつた自然神は、是に至つて神代史上に現はれたのである)。それからまた、太陽神は元來民間崇拜の對象であつたらうが、神代史に於いてはそれが皇祖神である。イヅモのキヅキの神も、其の土地の神として民間に信仰せられてゐたのであらうと思ふが、もしさうならば、これは寧ろ本來の宗教的性質を離れた一種の英雄神として、特に天孫に對しては荒ぶる神として、神代史上に活躍してゐる、其の名も天つ神に對する國つ神の意味で、オホクニヌシの神とせられた。これらは民間信仰に根據がありながら、それとは性質を異にして神代史に見える神々である。
しかし、神代史で重要なはたらきをせられる神々は、民間信仰とは關係なく、神代史に於いて始めて現はれたものらしい。スサノヲの命、オホナムチ、スクナヒコナの神の如きは、即ちそれであつて、これらの神には宗教的崇拜の對象たるべき性質が無い(オホナムチの神はオホクニヌシの神と結合せられてはゐるが、本來は別の神であつたらう。オホナムチの神はスクナヒコナの神と連稱せられてゐる鮎から見ても、それが神代史上の神であることが、推測せられる)。それから、アメノミナカヌシの神、タカミムスビ、カミムスビの神、または、アメノトコタチ、クニノトコタチ(451)の神などが、思想のよほど發達した後に於いて、知識階級の腦裡に現はれた神であり、一種の概念に神の名をつけたものであることは、いふまでもあるまい。
從つて、神代史の上だけに現はれる神々は、後までも實際の民間信仰とは離れて存在する。神名帳の神々が神代史の神々と多くは没交渉であるを見るがよい。一般的性質を帶びた山の神・野の神が神代史に現はれても、實際の崇拜は元のまゝに或る山・或る野の、其の場所々々の神に對して行はれるのである。神代史に載せられたからとて、其の神を全國民が信仰するのでも無く、又た神代史上の主要な神でも、各地の民が齊しくそれを最上の神として崇拜したのでも無い。朝廷の神祇官ですら、タカミムスビ、カミムスビの神が八座の中にあつて、他の神たちと同樣に祀られ、神代史の最初に現はれるやうな特殊の地位がそれに認められないのを見ても、此のことが知られよう。又た神功紀に、日の神を他の神々と同時に祀つた話があるが、此の神が他の神に比して特別に高貴な地位であるやうにも見えぬ。又たアメノミナカヌシの神といふやうなのは、知識の上から概念として作られたのみであるから、何等の信仰的内容を有つてゐない。從つて實際、民間に於いては、宇宙を主宰する神として、信じられてゐたのでは無いのである。太陽神が皇祖神である結果として、皇祖神と最も親しい神々は天つ神とせられ、從つてそれに對する國つ神といふ稱呼も出來たが、これも神代史の物語の上のことであつて、實際の宗教的信仰には何等の關係が無い。
なほ、神代史上の神々は、皇祖神及び家々の祖先神の物語に於いて現はれたのであるから、何れも人格を具へてゐ、從つて多くは男女の性をも有つてゐる。(古くからあつた民間崇拜の神々も、こゝに編入せられると明かに人格を具へて來る。しかし、それに性を有たないのが多いのは、たゞ名稱を列擧せられるのみで活動をしないから、性の區別を(452)する必要が無いからであらう。)アメノミナカヌシの神といふやうな、概念から作られた神も、獨神隱身といふ特殊の性質をあてがはれ、同じ條件を有するタカミムスビ、カミムスビの神は、何時しか普通の神となつてそれ/\に子が有るのを見ても、神代史に於いて神が人格を具へなくてはならぬ、とせられたことが知られよう。さうして、かういふ神々が皇祖神を中心とする一條の絲に維がれて、其の間に血族關係が生じた。しかし、神々の間の關係は單に血統で維がれてゐるといふだけであるから、其の結びつけ方は、宗教的思想から見れば甚だ意義の少ないものである。全體からいつても、我々の民族の古い時代に於いては、本來支那人の如く政治を家族的に見、從つて君主を家長と見る考は無く、君主は人間ならぬ神であると思つてゐたのであり、又た神を父と稱するヘブライ人とも同じで無く、神と人との間を家族的關係になぞらへることは無かつたのであるから、神代史の新精神は固有の宗教思想とは十分に一致しないものである。たゞ民族全體が一つの國家組織に入り、また家によつて社會が祖み立てられる、といふ新趨勢がかういふ新思想を産出したのであるから、これは宗教そのものとはいつまでも交渉の淺いものである。だから、國家組織を家族的結合として取り扱ふことも、官府の態度もしくは知識上の問題たるに止まつて、實生活に深くねざしてゐる民族的感情では無いと共に、官府でも一方では、昔ながらの宗教思想によつて、上に述べたやうな種々の儀式を行つてゐたのである。
一言附加して置くが、皇室が諸氏族の宗家であらせられるといふ神代史の觀念は、天子を民の父母とする支那思想とは違ふ。政治組織を家族的に取り扱ふ點に類似はあるが、一は世に多くの氏族があるものとし、それを基礎として、皇室と彼等との間に血統的關係があるとするのであり、他は天子の治める天下を大なる一つの家族と見て、(453)父母と同樣な道徳的責任を君主に負はせるところに、其の特色があるので、父母といふのは譬喩的稱呼である。後者は奈良朝時代になると、支那の學問の流行につれて多く文字の上に現はれて來るが、六世紀ごろの思想によつて書かれた神代史などの舊辭には、まだそれが現はれてゐない。皇室を神とする古來の思想とは違ふ新思想が、神代史に生じてはゐるが、此の新思想は我々の民族特有のものである。國家の政治に家族的意義を有たせるといふことが、不注意に考へると、支那思想に類似するやうにも思はれるから、特にこれだけのことをいつて置くのである。序にいふが、雄略紀二十三年の條に「義乃君臣、情兼父子、」とあるのは、支那傳來の思想であるのみならず、書紀集解の著者が指摘してゐる如く、此の語を含んでゐる文章は、隋書高祖本紀(仁壽三年及び四年の條)に見えてゐる高祖の勅語を、殆ど其のまゝに取つて補綴したものであつて、此の語もまた固より其のうちにある。
かういふやうに、神代史上の神と民間信仰の對象とは必ずしも一致せず、從つて神代史は宗教思想の表現としては寧ろ意味の少ないものであるが、これは神代史の編述の動機が、主として政治的意義にあるからでもあり、またそれが中央政府に於ける、さうして幾分か支那の學問の知識を背景に有つてゐる、特殊の知識階級の間に生まれたものであるからでもある。勿論それに實際の宗教思想も含まれてはゐるが、其の物語や神々のすべてを民間の信仰として取り扱ふことは出來ない。それには知識の所産もあり、支那思想から脱化したものもある。神代史に於いて重要なる地位を有する高天原が、既に宗教的意義の殆ど無いものである。内なる生命、實際の生活と知識との乖離といふ、我々の民族の文化史を一貫してゐる現象は、既に神代史にも現はれてゐる。從つてまた、神代史によつて實際の宗教思想が進歩する、といふやうなことが少ないのも、當然であらう。
(454) けれども、既に神代史が一定せられ、それが權威のあるものとせられると、其の影響は何等かの方面に於いて漸次民間信仰にも及んで來る。さうしてそれは、神代史上の神が或る場所に於いて祭られ、または或る場所で從來祭られてゐた神が神代史上の神の名をとる、といふ形に於いて現はれて來るのである。信仰そのものは變らないが神の名が變つて來るのである。神名帳に見える所々の神社に、神代史に始めて現はれた神の名が時々見えるのは、即ち其の結果である。かの能登にある大名持像石神社・少彦名像石神社などは、もとはたゞの石の崇拜で、其の石には名もつけられてゐなかつたのが、神代史上のオホナムチ、スクナヒコナの神の名を冒すやうになつたのであらう。かういふ痕跡の明かで無いものにも、同樣の進歩があつたことを想像するのは、無理ではあるまい。ミワのオホモノヌシの神がオホナムチの神と結合せられたのも、或は此の例であらう。またカツラキのカモ、ウナデ、アスカ等の祭神がアヂスキタカヒコネの神、コトシロヌシの神、カヤナルミの神としてあるのも、同じことであつて、これらの神社も、本來は遠い昔から、其の場所々々の精靈を神として祭る儀式を行つたところであつたらう。これらのヤマトの神社が、神代史上オホクニヌシの神の系統に屬する神々を祭つたやうになつてゐること、また東國のカシマ、カトリ等の神社がタケミカツチの神、フツヌシの神(?)といふ神代史上の武神になつてゐることなどには、何等かの政治上の意味もあつたのであらうと思はれるが、さういふ特殊の事情の無いのも多からう。一例をいふと、山城の水渡の神社はトヨタマヒメの命を祭つたものだといふが(山城風土記逸文)、それは水に縁のある神社であるから、神代史上の海神の女である此の命の名を適用したに過ぎなからう。
さて、神代史上の神々が民間崇拜の對象たる神社に結合せられることになると、神代史に見える祖先神についても、(455)同じことが行はれるのは怪しむに足らぬ。例へば、山城のカモには古くから其の土地の神社があつたであらうが、其の祭神がカモの縣主の祖先神タケツヌミの命とせられたのは、ずつと後のことであらう。タケツヌミの命の名は記紀の神代史には見えてゐないが、風土記や姓氏録には神代の神としてある。(カモの縣主は、國家の統一せられる前に於いては、今の山城地方の小君主として、上に述べたやうな政治的また宗教的の地位を兼有してゐたものかも知れぬ。さすればカモの神と縣主の家とは、さういふ時代から密接の關係があつたかも知れず、從つて神が縣主の祖先とせられたことも古い時代からの話かも知れぬが、それが神代史と關係のある神となつたのは、新しいことに違ひない。)明白には指摘せられないが、かういふ例は他にもあるのであらう。次にいふやうに、國々のクニダマの神社といふのも、其の地方の豪族の祖先神(神代史との關係は兎も角もとして)とせられたのでは無いかと思はれる。序にいふが山城風土記に、カモのタケツヌミの命は、大和のカツラキの峯から山城のヲカダ(相楽郡)のカモを經て愛宕郡のカモに來たとあるが、カツラキの峯は前に述べたカモであらうから、これはカモといふ地名の同一なところから、所々のカモを結びつけたものであらう。カモといふ名は諸國にあつて、中にも土佐のカモは大和のカモのアヂスキタカヒコネの命と結びつけられてゐる(績紀卷二十五、古事記傳卷十一、參照)。之を思ふと、地名が同一であるため祭神が同一であるやうにせられ、もしそれが何の家かの祖先神とせられてゐる場合ならば、同じ名の土地にある神社が同じ氏族の祖先神とせられないにも限らぬ。神社の名の同一であることによつて、其の土地に同じ氏族が住んでゐたやうに考へ、同じ名の神社の所在地をたづねて氏族の分布を知らうとする学者もあるらしいが、それは恐らくは本末を顛倒してゐるのであらう。かういふ例は記紀の物語にもあるので、書紀の「一書」に於いてスサノヲの命が紀伊に縁のあるやう(456)にしてあるのは、出雲に於いてスサノヲの命の宮があつたとせられてゐるクマヌといふ地名が紀伊にもあるために、起つたことであらう。同一の地名が所々にあるべきことはいふまでも無い。
ところが、本來、宗教的崇拜の對象である神は、それ/\の儀式を以て祭られるのであるから、それに結びつけられた祖先神は、即ち此の祭を受けることになる。祖先神は茲に至つて宗教化せられたといつてよい。これは恐らくは、神代史が實際の宗教思想に與へた殆ど唯一の影響であらうが、しかしそれとても、民間信仰に結合せられたからのことである。單に祖先神といふだけの概念では、宗教的崇拜の内容を伴はないのであるから、それに對する祭祀の習慣を其の概念から發したものとするよりも、かう考へた方が妥當ではあるまいか。さうしてそれが實際に行はれるのは、家といふもの、從つて祖先神に、實生活上の要求が托せられてゐるといふ事實があるからである。ところが、かういふことが廣く行はれるやうになると、一般に祖先神が宗教的崇拜を受けるやうになるので、獨立した祖先神の神社も建設せられる。アメノコヤネの命(春日神社の一祭神)が祀られ、フトダマの命の神社(神名帳、大和國高市郡)が建てられたのは、其の例であつて、これはよほど後のことであらう。もつとも是には、家族制度が益々整頓してゆくといふ社會上の現象も助けになつたことは勿論であり、又た歸化した支那人が其の固有の風俗に從つて祖先を祭つたことからも、幾分の影響を受けたのでは無からうかと考へられる。(神名帳の大和國高市郡の部に見える呉津彦神社は、呉人を祭つたのでは無からうか。支那人が祭つた神のことについては、伴信友の考證が蕃神考にある)。さてかうなると、神代史に關係の無い祖先も、やはり神と稱せられることになり、從つて宗教的崇拜を受けるやうにもなつてゆくのであらう。又た、一方には、祝といふものが嚴存しながら、それを用ゐずして、家長が祖先神の祭祀を行ふといふ、(457)奈良朝時代には一般に行はれたらしい習慣も、これから開かれたのであらう。(しかし此の時代になつても、死者を一般に神としたかどうかは問題である。神とせられた祖先は、死者もしくは其の靈魂とはおのづから別の觀念になつてゐる。上代の支那人の祭つた祖先は「人死曰鬼」(禮記、祭法篇)といふ其の鬼、即ち死者の靈魂であつて、喪葬の儀式と吉祭、即ち宗廟の祭との間に、人爲的に區劃をつけなければならなかつた理由も、茲にあるのであるが、我々の民族の上代に於ける祖先神の觀念は、それとは違つてゐたらしい。祖先神は人では無い神であつて、近く死んだ父祖の靈魂との聯絡は密接で無い。今日から考へると、周室が后稷を祭つたといふやうな事例は、實際の祖先で無く説話の上に於いて祖先とせられたものを祭つたのであるが、所謂昭穆の順序によつて近い父祖から順次幾代かの前に及ぼしてゆく祖先とそれとの間には、同じく宗廟の祭として儀式の上に於いても聯絡がある。我々の民族にはそれが無かつたやうである。だから、支那人の風習がよし幾らかの影響を上代の祖先崇拜に及ぼしたにせよ、それは單に外形上のことに過ぎない。)
オホタヽネコを探し出して、其の祖先神たるミワのオホモノヌシの神を祭らせられた、といふ物語は、かういふ習慣の反映である。其のオホモノヌシの神も、ミワ山の精靈たる蛇神が人格を具へた神になり、神代史上のオホナムチの神に結合せられ、さうして又た更に、それがオホタヽネコの祖先神とせられたのである。これは例の神婚説話が媒介をなしてゐるのかも知れぬが、祖先神が宗教上の神に結びつけられることは、上に述べたやうな事情から所々に行はれてゐたとすれば、神婚説話は却つて此の神が祖先神とせられた後に、結合せられたものと思はれる。それから書紀に、ヤマトのオホクニダマの神を祭らせられたとあるヤマトの直の祖ナガヲイチといふのは、オホタヽネコの話か(458)ら類推し、またヤマトの直といふ姓から考へると、オホクニダマの神を其の祖先神としてゐるのでは無からうか。オホクニダマの神は、古事記にはオホクニヌシの神の子とし、書紀の「一書」には其の一名としてあるが、神名帳を見ると此の名は國々に多いのであるから、其の國の魂といふ意味であつて、一種の地方神であらう。神の性質から見ると、あまり古くから祭られてゐる神では無いかも知らぬが、神代史に始めて現はれたのを國々に祭つたのではなく、神代史のオホクニダマの神は、却つて國々のオホクニダマの神から抽象せられたものであらう。
以上の考説は餘りわき道に入りすぎた嫌はあるが、ミワの神の祭祀の物語が可なり後世の思想であることは、これで知られたであらう。さうしてそれと同時に、祖先を重んずる風習が國家の統一せられた状態に於いて著しく發達して來たこと、祖先神の觀念が國家の政治的祖織が成立した後、それに順應するために生じたものであることが、わかつたであらう。祖先崇拜といふことは、有史の初めからあつたらしくは見えぬ。オホタヽネコがわざ/\索ね出されたといふ話によつても、此の話の作られた時には、まだ家長が祖先を祭る習慣の確立してゐなかつたことが推測せられようでは無いか。さうして是は、家族制度に關して前章に述べたところと、おのづから適合するものである。
なほ、神の性質を説いた序に一言して置きたいことは、神は畢竟宗敦心の反映であつて、文化の發達、思想の進歩、または社會状態の變化に伴つて、其の性質が動いてゆくのであるから、有史以後に於いても後世の神の觀念は上代のとは同じで無い、上に述べたところは、人の記憶にも遺らぬ極めて悠遠な太古の時代からの、歴史的由來を原ねたのであつて、後世の神の性質が此の通りであるといふのでは無い、といふことである。人類の進歩、從つて宗教思想の進歩といふことを否定せぬ限り、上代の神が幼稚な思想の所産であることを拒むことは出來ぬ。同じ神社の祭神が變(459)つてゆくことも例の多い話であるが、此の點から考へると、これも決して無意味では無いのである。但し、我々の民族に於いては、後世までも古い思想や習慣が餘り變化せずに傳はつてゐることをも忘れてはならぬ。
附記 ワニについて
記紀などに見えるワニが何であるかといふことについては、既に諸家の説があるやうであるが、著者は下の如く考へる。宗教思想に關係があることであるから、こゝに附記するのである。
まづ記紀のワニに關する記載を見るに、第一に注意すべきは、トヨタマ姫の物語に於いて、それが陸に上り得べきものとして想像せられてゐるから、事實、陸に上つても生きてゐるものであるべきこと、並びに其の姿態を古事記及び書紀の「一書」に「匍匐委蛇」または「匍匐透※[しんにょう+施の旁]」と形容してあるから、形が細長くしてうね/\してゐるものであるべきことである。なほ出雲風土記意宇郡の條に、ワニが濱で遊んでゐた小兒に噛みついたといふ話があるが、これも、上陸し得べきものとして考へられてゐたことを、示すものである。(此の出雲風土記の話の全體が事實で無いことは、神の力によつて百餘のワニが一のワニを圍繞して來た、といふやうな話でも知られる。だから、ワニの腹中に小兒の一脛があつたといふことも、誇張の物語であらう。ワニが何ものでもあれ、日本の沿海にゐる動物で小兒の一脛を噛みきるものがある、といふことが既に怪しい。けれども、此の話を上記の記紀の物語と參照して見ると、ワニが少なくとも陸上でも生きてゐるものであることは、事實であらう。)又たワニの大さを一尋とか八尋とか書いてあるが、此の語も長いものに最もふさはしい形容である。これによつて考へると、ワニは鰻か蛇かのやうなもので無くてはならぬ。第二には、古事記のホヽデミの命の物語に、海神がワニに向つて命を「な恐こませまつりそ」と戒めてゐ(460)ることから考へると、人に恐れられたものであることがわかる。古事記のオホクニヌシの命に關する物語で、ワニが兎を捕へて其の衣を剥いだといふ話があり、また前の出雲風土記の物語があることからも、同樣の推測ができるので、ワニは多分人にかみつくものであらうと思ふ。ホヽデミの命が小刀を頸につけて返されたから、後までもワニをサヒモチの神といふとあるのも、噛みついて人を傷つけるからのことに違ひない。刀が頭部にあるといふことを注意しなければならぬ(サヒは刀物のことである)。それから第三には、海神の女でウガヤフキアヘズの命の御母であるトヨタマ姫がワニであること、神武天皇の御兄君のイナヒの命が海に入つてサヒモチの神となられたといふこと、並びにコトシロヌシの神が八尋ワニになつて女に通はれたといふこと、また肥前風土記(佐嘉郡の條)にワニを海神と稱し、大小の魚がそれに從つてゐるとしてあることなどから考へると、これは神として見られてゐたものである。なほ第四として、例のトヨタマ姫や上記のコトシロヌシの神の話は固より、肥前風土記の話にも、ワニは御物語の主人公とせられてゐることを、注意しなければならぬ。出雲風土記(仁多郡の條)にもやはりワニの戀愛譚がある。
さてかういふ性質を具へてゐるものが海にあるかといふと、それは海蛇の外に該當すべきものが見當らぬ。第一の條件には無論それが適合する。また海蛇は人にかみつくもので、漁夫は大いにそれを恐れてゐるといふから、第二の條件にも合ふ。恐れられるものは神とせられるから、第三の條件にも背かぬ。のみならず、蛇の形や性質からも靈的のものとせられるにふさはしい。海蛇に對する信仰は、昔の希臘にも今の未開人の間にも其の例がある(Frazer,Dyiug god,八四頁。Tylor,Primitive culture,第二卷三一〇頁、參照)。またアラビヤには sea-demon を母とする部族があつて、其の母について、トヨタマ姫に似た話もある(Robertson Smith,Religion of Semite,五〇頁)といふが、これ(461)も海蛇ではあるまいか。demon が蛇であるのは普通の例だからである。さうしてそれには、一般に神もしくは demon とせられてゐる陸上の蛇の聯想が、助けをなしてゐるかも知れぬ。古事記の垂仁天皇の卷の、ヒナガ姫が蛇となつて海上を光して來た、といふ話によつて見ても、海と陸上の蛇の觀念との結合が可能であることは證せられよう。もしさうとすれば、やはり陸上の蛇との類似から、ミワ山物語の如き性質の神婚譚がそれに結びつけられることも、また自然の傾向である。だから、海蛇は第四の條件をもまた具備するものといはねばならぬ(ワニはトヨタマ姫の如く女でもあり、コトシロヌシの神や肥前風土記の場合の如く男でもある。陸上の蛇もまたヒナガ姫の如く女でもあり、オホモノヌシの神の如く男でもある)。なほ、ワニに鰐の字を充てたのは固より杜撰なことではあるが、何かの點に於いて類似を認め得たからだ、と推測することは無理では無く、さうしてそれは、第一の陸上でも生きてゐるべきことと、第二の人を傷つけることとの、二點にあるのでは無からうか。たゞ一つ、出雲風土記の戀愛物語ではワニが海から遠い仁多郡の川に上つて來たやうに書いてあつて、それは海蛇としては少しく不適當であるが、本來物語であるから、海から川に上つたぐらゐの想像をすることは差支が無からう。或はこれも、陸上の蛇の聯想が助けをなしたのかも知れぬ。それから、海蛇には八尋といふやうな大きいものは無いといふことであるが、これは物語としての誇張であり、また八は數字の八でも無いから、八尋ワニは一尋ワニに對してたゞ大小のワニといふだけのことである。上記の物語に於いても大きくなければならぬ理由は一つも無い。川に上るなどは寧ろ小さいものが適當である。或は八尋ワニの如きは思想上、大きいワニのあることを想像したのだ、としても解釋はできる(今日でも漁夫は大きい海蛇のあることを信じてゐるといふが、しかしそれは何かを錯認したのであつて、實際は大きいものは無いといふことである)。(462)ワニが海蛇であるといふ考は、久しい前から著者の有つてゐたところであるが、今もやはり此の考を動かさないでゐる。だから、それが魚のサメであるといふ説に對しては、なほ疑ひを懷いてゐる。サメは上記の諸條件のうち單に第二の一つに適合するに過ぎないのみならず、第一とは明かに矛盾してゐる。さうして此の第一の條件は、記紀のワニに關する物語に於いて最も大切なものである。また第三についても、海蛇は陸上の蛇と同じく、其のもの自身に於いて靈的に取り扱はるべき性質を有つてゐるのに、サメにはさういふ資格が尠ない(陸上の動物で神とせられるのは蛇には限らぬが、蛇が其の主なるものであり、又た最も普遍な信仰であつて、それは蛇そのものの特性から來てゐる)。さうして第四は第三から派生したものである。なほサメが河に上ることは説話としても作り難からうし、出雲風土記の海産物を擧げてあるところに、ワニとサメとを別々に書いてあることをも考へねばならぬ。サヒとサメとの音聲上の類似は認められ、又た魚のサメといふ名が刀物の名のサヒから來たものだとしても、それと同樣、海蛇がサヒモチと呼ばれることに異議は無い筈である。後世に海蛇がワニともサヒモチともいはれなくなつたのは、宗教思想の變化に伴つて、それが尊敬せられなくなつたからでは無からうか。又た物の名の變化することは珍しくは無いので、鈴蟲と松蟲とが互に交代したやうな例さへある(本文に述べた海蛇のことは高橋堅氏の教示による)。
(463) 二 傳説的物語
崇神天皇・垂仁天皇の二朝には、前節に述べた祭祀に關聯して二、三の傳説的物語がある。其の一つは、記紀の何れにもある崇神朝の例のミワ山物語である。これは、全體としてはミワの地名説話になつてゐるが、物語そのものは本來ミワとは關係の無い民間説話である。それは既にいつて置いた如く、此の話が世界的に廣く行はれてゐる形式のものだからである。古事記自身に於ても、垂仁天皇の卷のヒナガ姫の物語、神武天皇の卷のセヤタヽラの姫の話などは、其の變形であつて、特に後のは同じく男をオホモノヌシの神としてあることから見ると、蛇を丹塗矢にかへて、此の話を略説したに過ぎないものらしい(男をコトシロヌシの神とし、女の名をタマクシヒメとしての話が、書紀の方にあるが、これもオホモノヌシの神とコトシロヌシの神との關係から見れば、同じ話の變形したものを更に略説したのであらう)。なほ山城・肥前・常陸等の風土記に、同じ話または其の變形があることも、前に説いた通りである。さて記紀の二つを比較すると、古事記には肝心の夫妻の別離の物語が無いから、書紀の方が全き形を具へてゐるのであらう(但し箸のことは別の話の結びつけられたものと思はれる)。此の話が歴史的事實で無いことは、いふまでも無い。古事記に見える垂仁朝の、ホムチワケの皇子の一夜あはれたヒナガ姫が蛇であつた、といふ物語も同樣である。
第二には、これも記紀の兩方にある垂仁朝のホムチワケの皇子の物語である。此の皇子は八束髯胸前に至るまで口をきかれなかつたが、鵠のなくねを聞いて始めて聲を出されたので、その鳥を取りに人を遣はされた。其の人はキ、(464)ハリマ、イナバ、タニハ、タヂマ、チカツアフミ、ミヌ、ヲハリ、シナヌを順次に迫ひ廻して、最後にコシの國で其れを捕へて來た。けれども皇子はイヅモの大神の祟があつたので、其の大神を拜祭せられるまでは口をきかれなかつた。是は古事記の方の記事で、其のあとにヒナガ姫の話が結びつけられてゐる。書紀の方では話が少し變つてゐて、初め鵠のねをきかれた時に言を出されたため、其の鳥を捕へて獻上せよといふ勅命があり、イヅモ(またはタヂマ)でそれを捕へた、といふのであつて、イヅモの神のことは全く見えない。書紀の方が話の原形に近く、古事記の方はそれから發展したものであらう。古事記の鳥を迫ひまはした國々は悉く國郡制置以後の國名であるから、大化の後に手を加へたものらしい。なほ諸國巡歴といふ思想については第一章第三節に述べて置いたところを參照せられたい。また八束髯生ふるまで言問はさぬといふことは、出雲風土記の仁多郡の條に、似た話がある。鵠の物語はさういふ話の一形式であらう。
次には、宗教的意味は無いけれども、やはり記紀の何れにも見える物語がある。それは、垂仁朝にタヂマモリが海路トコヨの國にいつて、トキジクノカクノコノミを將つて來た、といふことである。書紀には、此のトコヨの國を説明して「神仙秘區」といひ、其の道程を記して「萬里蹈浪、遙度弱水、」と書いてあるが、これは明白に支那の神仙思想である。特に神仙郷たる蓬莱山は海中にあるとせられてゐるから、海に浮かんでゆくとするには最も適當してゐる(但しこゝに弱水とあるのは、西方の神仙郷たる崑崙に關係のある名を取つて來て、無意義に結合したのみである)。古事記にはこんな文字が無いが、其の思想はやはり同一であることが、トコヨの語から推測せられる。トコヨは常世、即ち長生不死の國といふ意味だからである。「わきも子は常世の國に住みけらし昔見しより若えましにけり」(萬葉、(465)卷四)。「君をまつ松浦のうらのをとめ子は常世の國のあまをとめかも」(同上、卷五)。トコヨの國が、萬葉時代には一般に神仙郷の意味に用ゐられてゐたのみならず、雄略紀に「到蓬莱山、歴覩仙衆、」とある浦島の子についても、丹後風土記に「常世べに雲立ちわたる水の江の浦島の子がこともちわたる」の歌が載せてある。トコヨが神仙郷を指してゐることは疑ひがあるまい。さすれば、タヂマモリの物語もかういふ支那思想の所産であるとするに、異議は無からう。トキジクノカクノコノミも不老不死の觀念に因縁のある語らしい。多分、空想の果物であつて、古事記に橘だと註記してあるのは、後人の加へた解釋であらう。事實どこかの外國へいつたのならば、其の土地の名の記されない筈は無く、また其の土地が何處であるにせよ、突然一囘のみ交渉があつて何等の連路ある行動が其の前後に無い筈も無い。タヂマから出帆し得べき方面にあつて、當時に於いて事實上交通のあるべき國は、朝鮮牛島の外には無からうが、朝鮮は曾てトコヨといふやうな名で記されたことが無い。のみならず、上代に於いてタヂマ方面から海外に交通したやうなことは、歴史的事實として明白な例が無い。だから是は歴史的事實の記載とは思はれず、浦島物語と同じやうな空想譚であらう。
なほ、トコヨといふ名は皇極紀(三年の條)に見えてゐて、それは蟲を常世の神と稱したといふことであるが、これも其の功徳が「貧人致富、老人還少、」といふのであるから、やはり不老不死の意から來てゐるらしい。また常陸風土記(卷首)にもあるが、これは美稱であつて、不老不死の意味は無くなつてゐながら、やはり神仙郷の觀念から來てゐるに違ひない(此の書が甚だしく支那思想で潤色せられてゐることを考へるがよい)。それから、古事記の神代の卷に、スクナヒコナの命を「度于常世國」としてあるが、これは其の意味が一轉して神仙といふ分子が無くなり、たゞ海上(466)の國といふ觀念のみが残つたのであらう。なほ神武紀には、ミケイリヌの命が母も姨も海神であるのに何故に浪が起るかといつて、其の浪をふんで常世の國にゆかれた、といふ話があるが、これも海に入られたといふことを其處に國があるやうに書きなした物語であつて、やはり海中の國といふ觀念を常世の國といふ語で表はしたのである。此の話は、イナヒの命が海に入つてサヒモチの神となられたといふことから類推しても、海中に身を投ぜられたといふ意味であることは、明かである。また、姓氏録(卷二十一)に、常世連を燕國王公孫淵の後としてあるのも、トコヨを外國の意味と思つての話であらう。かういふ歸化人の系譜が、歴史的事實として信用ができぬものであることは、上に述べて置いた。トコヨは本來は常夜の意であつたのが、神仙思想の入ると共に音の同一な點から常世とせられ、神仙郷に擬せられたのである。序にいふが、古事記とても支那思想の影響を受けてゐるところは、所々にある(「神代史の新しい研究」第三章第一節參照)。
なほ書紀には、崇神天皇の時に始めて船を造つたやうに書いてあり「海邊之民、由無船以甚苦歩運、其令諸國、俾造船舶、」といふ詔が載せてあるが、船がこれまで無かつた筈は勿論ないから、これは事物の起源を此の天皇の物語に結びつけて説いたのである。(多分支那の古史の摸倣であらう。もし此の記事を船が少かつたから造船を奬勵したのだとか、新しい製造法を教へたのだとか、説くものがあるならば、それは神代史の埴土を以て舟を作るとあるのを解して、埴で木を塗つたのだとか何處かを填めたのだとかいふのと同樣、例の牽強なる合理的解釋の試みであつて「始造船舶」とあり「以埴土作舟」とある一點の疑ひも無い明文を勝手に改作するものである。)なほ記紀の何れにも、此の天皇の御代に男女調貢の法を定められたとあるが、我々の民族が一つの國家に統一せられなかつた時代とても、君主(467)の存在する以上、何等かの調貢が無い筈は無く、さうして所謂「男の弓端の調、女の手未の調」は特殊の租税制度とも見えないから、これも亦た「はつ國しらしゝ」と釋へまつる天皇の物語に、調貢の起源を附會したまでのことである。
かう考へて來ると、垂仁天皇の朝にノミノスクネの建言によつて殉死の代りに土偶を墓に樹てるやうになつた、といふ物語の眞否もほゞ推測せられる。これは書紀だけの話であつて、古事記には、此の朝に土師部を定められたといふことと、陵に人垣を立てることが始まつたといふことが、見えるのみである。さて、墓に人形を立てることが殉死に代へるためであつたといふことは、前節に述べたやうな宗教思想發達の徑路から見ると、有り得べきことでもあり、また後人がさう考へたことにも理由はあるが、書紀の此の前後の記事の性質から類推し、又た古事記の記載との關係から考へると、ノミノスクネの物語が歴史的事實であらうとは思はれぬ。ノミノスクネの話は別としても、人形を立てることの起源が此の朝にあるといふことが、やはり始めて船舶を造るといふことと同樣の思想から來てゐるのではあるまいか。なほ此のことは、考古学の方面に於いて、記紀の記載とは關係が無く、何等かの研究があらうと思ふ。
次に考へねばならぬことは、崇神天皇の時に、コシと東方十二道とにオホビコの命と其の子のタケヌナカハワケの命とを遣はして「まつろはぬ人ども」を平定せしめ、またタニハにもヒコイマスの王を派して、クガミヽノミカサといふものを殺させられた、といふ古事記の記事である。書紀には、北陸、東海、西道、タニハの四方に將軍を派遣せられたとあつて、北陸は古事記のコシ、東海は東方十二道に當るが、西道は書紀に於いて始めて現はれたもので、其の將軍はキビツヒコとせられ、タニハに遣はされたのも、タニハノミチヌシの命といふ名になつてゐる。古事記に三方のみあつて、西道の一つが缺けてゐることについては、孝靈天皇の卷にオホキビツヒコの命とワカタケキビツヒコ(468)の命とに命じ、ハリマを道の口としてキビの國をことむけさせられた、といふ話があることを考へねばならぬ。書紀の同じ天皇の條には此の物語が無く、さうして崇神紀に西道の將軍をキビツヒコとしてあることを思ふと、これは書紀が、古事記のキビ平定の話を崇神朝の物語に結びつけて、四道としたのか、但しは、話の原形では書紀の説の如く四道としてあつたのが、古事記に於いてキビの討平をキビツヒコの命の名の現はれてゐる孝靈天皇の卷にもつていつたために、崇神朝の物語には三方だけ殘つたのか、どちらかであらう。記紀の大體の性質から見ると、前の方らしくも思はれるが、古事記の綏靖天皇から開化天皇までの卷々は、御系譜のみであつて物語の無いのが例であるから、孝靈天皇の卷に限つてキビ平定の話のあるのは怪しい。また崇神天皇の卷の記事についても、第三章に述べた如く東方十二道の語がよはど後に作られたものらしいこと、次にいふやうにアヒヅの地名説話が新しいものであることを考へると、古事記の崇神天皇の卷の此の物語には、可なり後世の潤色が加はつてゐるに違ないから、書紀の材料になつたものの方が、却つて話の原形に近いかも知れぬ。古事記がタニハに限つて特に叛逆者の人名を擧げたのも、後人のしわざと見る方が適切であらう。書紀にタニハ方面の將軍をタニハノミチヌシの命としてあるのも、キビ方面がキビツヒコの命である類例から考へると、やはり舊い形では無からうか。古事記によると、タニハのヒコタヽスミチノウシの王といふのがあつて、ヒコイマスの王は其の父君であるが、書紀には此の系譜は書いて無い。それから書紀ではキビツヒコが皇族であるかどうか不明であるが、孝靈紀のヒコイサセリヒコの命の分註に、其の一名をキビツヒコの命としてあるから、此のキビツヒコもそれを指すのかも知れぬ。しかし此の註は書紀の文例から考へると、別の史料から取つたものであつて、書紀の主として據としたものには無かつたのであらう(ワカタケヒコの命をキビの臣の始祖(469)としてあることからも、さう思はれる)。系譜と物語と十分一致しない點があるが、タニハ方面の將軍はタニハノミチヌシの命、キビ方面のはキビツヒコの命であるとすれば、物語の記者の思想は明瞭に了解せられる。
さて四道は今の北陸・東海、及び東山、山陰、山陽の諸道に當るので、ヤマトの京からの主要なる方向を悉く包含してゐるのであるが、かういふ風に系統的に行はれた大計畫に於いて、毫も實行の模樣を敍してゐないことは、此の物語の性質を知る上に於いて大切な點である。古事記にはイヅミ、クスバ、ハフリソノ、アヒヅ、などの地名説話を載せてゐるが、これは例によつて例の如きものである。特にアヒヅはコシと東方とに遣はされた二將軍の會合せられたところだといふのであるから、今の岩代の會津であらうが、此の方面に經略の手の伸ばされたのは、第三章に説いた如く、ほゞ大化のころであらうから、此の名が始めて京人に聞こえたのも同じ時代であつたらう。アヒヅの話の書かれた時代はこれで推測することが出來る。序にいふが、書紀には崇神朝に、トヨキの命が東國に赴かれた、といふことがある。これは古事記には無い話であるが、同じ命をカミツケヌ氏、シモツケヌ氏の祖先としてあるから、阿禮の誦んだ帝紀は此の物語の書かれた後に加筆せられたものであらう。このことは第二章に述べたヒムカのミハカシヒメと景行天皇巡幸の物語との關係と同じであり、此の章の初めに述べたトヨスキイリヒメの命、ヤマトヒメの命と、書紀のみにある此の二皇女の物語との關係も、之に準じて考ふべきであらう。なほ此のことについては、トヨキの命が外に出てイクメの命が大統を承けさせられた、といふ崇神紀(四十八年の條)の物語と、オホタラシヒコの命とイニシキの命とについての垂仁紀(三十年の條)の話とが、同工異曲ともいふべきものであることを參照するがよい。景行紀(五十五年の條)の、ヒコサシマの王を東山道十五國の都督とせられたといふのは、トヨキの命の物語の引きつゞき(470)であるが、東山道云々は勿論後世で無くては考へつかぬ名稱である。これは古事記には見えてゐない。
(471) 第六章 神武天皇東征の物語
一 東征の物語
開化天皇以前綏靖天皇以後については、古事記にも書紀にも歴代の御系譜が記されてゐるのみであつて、何等の物語が無い。所謂帝紀のみがあつて、舊辭が無いのである。崇神天皇の卷以下には、上に述べて來たやうな物語があり、神武天皇の卷にも所謂東征に關する種々の説話が傳へられてゐるに拘はらず、其の中間の此の長い間が殆ど白紙であるといふことは、讀者をして甚だ奇異な感じを起させる。さうして其の僅少の記載に於いても、記紀の間に一致しない點があるのみならず、歴代天皇の寶算などは殆ど全部が齟齬してゐるといつてよい。これは何故であるかといふことは、記紀の性質を知る上に於いて重大な問題であるが、それは且らく後に讓つて置いて、こゝでは直ぐに神武天皇に關する物語の考察に移る。
神武天皇に關する物語も、また記紀の間に種々の差異がある。先づ進軍路について見るに、ヒムカ(今の日向地方、このことは後にいはう)から出立せられ、ウサを經てヲカダに赴かせられ、そこから瀬戸内海に入り、アキ、キビ等の行宮に少しづつ滯在あらせられた、といふことは記紀共に同じであるが、行宮の名稱や御滯在の期間等は一樣で無い。(472)古事記にヲカダとあるのも書紀にはヲカ(筑前遠賀郡)とある。さて古事記では、キビからナニハまでの航路に於いて、ハヤスヒの門を通過せられたやうに書いてあるが、書紀では、それをヒムカとウサとの間のこととしてある。ハヤスヒは豐後・伊豫間の有名な海峡に違ひないから、古事記の記載には地理上の錯誤がある。さて古事記には、ナニハを經てアヲクモのシラカタの津に御船を泊められた時、ヤマトのトミのナガスネヒコが逆撃をしようとしたので、クサカのタデ津に上陸してそれと交戰せられたが、不利であつた、日神の御子として日に向つて戰ふのはよくないから、日を背に負つて進むやうにしなければならぬ、といふことになつて、チヌの海、ヲの水門を經てクマヌに赴かせられたとある。ナニハとチヌの海以下とは明かであるが、シラカタの津とタデ津とは、これだけではわかりかねる。ところが書紀では、ナニハから河を溯つてクサカのシラカタの津にゆかせられ、それから陸路タツタを經てヤマトに入らうとせられたが、路が險隘であつたため、轉じてイコマ越えに向はうとせられた、そこをナガスネヒコが逆撃したので、クサカのタデツに退軍せられ、それからチヌの海を經てクマヌ方面に赴かせられた、といふことになつてゐる。 次に、クマヌからの進軍路については、記紀共に明かになつてゐないが、古事記によると、ヤタガラスの嚮導によつてヨシヌ河の河尻に出られ、それから途次アタの鵜養の祖だといふニヘモツノコ、ヨシヌの首の祖だといふヰヒカ、ヨシヌのクズの祖だといふイハオシワケノコの降伏を順次に受けて、ウダのウカシにゆかせられた、といふのであるから、十津川の流域を經て賀名生方面から五條地方に出、そこからヨシヌ河の谿谷を東進し、其の上流域から轉じて宇陀郡に入らせられた、といふのらしい。書紀の方では、クマヌからすぐにウダにゆかせられ、ヨシヌ河方面へはウダから別に行幸せられたやうになつてゐ、クマヌ、ウダ間の御行路は追跡することが出來ない。次にウダから後のこ(473)とは、古事記ではたゞオサカを經てシキに入らせられたことが知られるのみであつて、肝心のナガスネヒコを撃たせられたことも明記して無いが、書紀では、進軍路は同じことながら、其の間に種々の出來事があつたやうに記してあり、ナガスネヒコの最期のことも詳説してある。なほ書紀には、ソフ、カツラキ方面の土蜘蛛を征討せられたことがあるが、これは古事記には見えない。
さて、記紀の間に存する上記の差異は、大體に於いて書紀の方が後世の潤色を經たものである、として解釋せられよう。最初のクサカ方面からの進軍の模樣が、古事記より細説せられてゐることも、ウダから特にヨシヌ河に行幸せられたとあることも、畢竟これがためであつて、特にイハレの地名説話が、前後の記事と聯絡が無く、調子外れのところに出てゐるなどは、別の材料を不用意に結びつけたからであらう。後にいふやうに、此の征討に絡まつてゐる物語が、書紀に於いてすべて複雜になつてゐるのも、やはり同じ事情から來てゐる。しかし、古事記の方が全く物語の原形を保つてゐる、とばかりは考へられぬ。何人も知つてゐなければならぬハヤスヒの門の所在にあんな錯誤のあることも、古事記の記載が何人かの手によつて變改を加へられたためであらうと思はれるが、ナガスネヒコの誅伐が書いてないのは、一層その疑ひを深めるものである。此の物語に於いて、ヤマトの平定が主としてトミのナガスネヒコの征服にあるとせられてゐることは、話の始終によつて明かである。特に書紀に於いては、東征の主旨を示された勅語に於いて、ニギハヤビの命のことが説いてあるが、此の命がナガスネヒコの妹を妻としてゐるもので、其の服從によつてヤマトが平定せられたといふことは、記紀の何れにも記されてある。だから、此の説話の原形に於いては、必ずナガスネヒコの誅伐が語られてゐなくてはなるまい。それを缺いてゐる古事記の記載は、何等かの場合にそれが遺(474)脱したものであらう。(しかし書紀のナガスネヒコの最期の物語はあまりに迂曲な、又た複雜な話であるから、これも原形であるらしくは見えぬ。)それから、第四章に述べた如く、古事記がオホクメの命をミチノオミの命と同等に見なしたのも、此の物語の原形では無からう。
のみならず、ナニハを通過せられてから後、チヌの海に出られるまでの進軍路の記載も、古事記はあまりに曖昧である。これは、日に向つて戰ふのは良くないといふのが、此の物語の骨幹をなすクマヌ迂回策の動機であるから、ナニハから東進せられたので無くてはならず、さうして書紀の記載は丁度よくそれにあてはまるのである。だから此の點に於いても、書紀の方がよく作者の思想を表はしてゐる。(書紀にナニハから河を溯られたとあるのは、大和川へ入られたので、その川によつて河内の東境、イコマ山の西方のクサカ方面へ出られ、それからイコマ山即ち今の闇峠を越えてヤマトに入らうとせられたが、そこでナガスネヒコの軍と交戰せられた、といふのである。ナガスネヒコは、ヤマトの西境で防がうとしたやうに考へられてゐたに違ひない。これは、昔の大和川の流れと古事記の雄略天皇の卷や萬葉の歌にも見えるクサカ江の存在とを考へると、自然に解釋せられることであつて、此の鮎に關しては、著者は飯田武郷の書紀通釋、吉田氏の地名辭書の考説に從ふのである。シラカタの津とタデ津との所在は不明であるが、共に大和川かクサカ江かの渡津であつた地名に違ひない。又たナニハからクサカを經てヤマトに入るのは、昔一般に用ゐられた通路であつたらしい。萬葉卷八、草香山歌「おしてるなにはをすぎて、うちなびく草香の山を、ゆふぐれにわがこえ來れば……」參照。)但し、タツタ路が險隘であつたからイコマ越えにかゝられた、といふやうな書紀の記載は、ナニハからクサカを通過する地理上の順序からいつても、すなほに思ひ浮かぶことでは無ささうであるから、こ(475)れは後の潤色と見なすべきものであらう。かう考へて來ると、古事記と書紀とは、其のもとになつた物語から二樣に、或は二つの方向に、發展しもしくは變改せられたものである、といふことが推測せられる。
しかし此の原の話に於いても、それが一々事實を語つてゐるものであるとは思はれぬ。大和川やクサカ江の水で大軍を進めることが出來たとも思はれず、また後世にもさういふ例があつたことを聞かぬ。またヤマトに攻め込むにクマヌを迂回するといふことも、甚だむつかしい話であつて、そんな方面からの攻撃に對しては、ヤマトに根據を有するものの防禦力は、西面に於けるよりも幾層か強大であるべき筈である。もつとも、これには神力の加護があつたといふ話であるが、神の話は固より人間界のことでは無い。ヤタガラスや金色の鵄の物語も亦た、勿論その例であるが、後者は書紀にのみあつて古事記には見えてゐないことから考へると、恐らくは前者の分身であつて、其の現はれたのは、書紀もしくはそれに採られた史料が始めてであらう。
なほ記紀に共通な點について見ても、ヤマト征服がナガスネヒコの防禦で始まり、其の敗亡で終つてゐて、ヤマトの勢力は即ちナガスネヒコの勢力と見なすべきものであるに拘はらず、所々のタケルや土蜘蛛は彼に服屬してゐたものらしくは見えず、物語の上ではヤマトに何等の統一が無いやうになつてゐるのは、不徹底な話であつて、事實譚としては疑はしいことである。のみならず、此の物語は例の地名説話で充たされてゐる。(序にいふが、書紀には例のアキヅ即ち蜻蛉に附會したアキツシマの地名説話があるが、これは記紀の何れにも見える雄略天皇の卷のアキツ野の説話と同じ着想であつて、別にいふまでも無いことである。たゞ可笑しいのは、宣長が此の説話を事實と信じたため、秋津島を「アキヅシマ」と訓んだことである。津島、大綿津見神、大山津見神、高津宮などの津を何れも「ツ」とし(476)ながら秋津島の津に限つて「ヅ」と訓んだのは、古事記の假名の用法が極めて嚴密であるといふことを力をこめて説いてゐる彼のしわざとしては、甚だ滑稽である。地名説話は音の類似によつて附會するので、精密に一致するを要しないことは、他の場合を見れば明かである。)又たウカシのエウカシ、オトウカシ、シキのエシキ、オトシキ、トミのトミヒコ、さては書紀にのみ出るナクサトベ、ニシキトベなど、人名には、地名を其のまゝ取つてつけたものがある。(トミの名がトビの轉訛だといふ書紀の話は、勿論、地名説話であつて、ナガスネヒコをトミヒコといつてゐるのとは矛盾する。此の地名説話は、ナガスネヒコの話の一通り出來上がつた後に附け加へられたものであらう。)ニギハヤビの命の名が、神代史に於いて血が石にたばしりついて成り出でたとせられてゐる、ミカハヤビ、ヒハヤビなどの神の名と同一に取り扱はるべきものであることも、また明白である。又た漁夫であるから二ヘモツノコだといひ、石を押し分けて出たからイハオシワケノコだといふ話などは、それが實在の人物で無いことを語るものであり、尾のある人といふのが事實で無いことも勿論である(これは、本文に國つ神とあることからみても、神であつて人では無いことが明かである。なほ尾のある人といふことについては、土蜘蛛に關する考察を參照せられたい)。それから、茲に記されてゐる多くの歌が、かゝる場合によんだものでも無く、甚だしく古いものでも無いといふことは、著者が曾て説いたところである(「神代史の新しい研究」緒論第一節、「文學に現はれたる我が國民思想の研究」貴族文学の時代、序説第二章)。ところが、かういふ神異の話や地名説話や歌物語やを取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語は内容の少ない輪郭だけになる。さうして、其の輪郭の主要なる線を形づくるクマヌ迂回のことが、前に述べたやうな性質のものである。
(477) ヤマト平定以後の物語に於いても、記紀の間に一致しない點がある。ホトタヽライスヽキヒメ(ヒメタヽライスケヨリヒメ)の父君をオホモノヌシの神としたり、コトシロヌシの神としたり、するぐらゐの差異、また古事記には書紀に無い歌物語があつて、其の代りに書紀には古事記に無い國名説明の説話がある、といふやうなことは大した問題にはならぬが、それよりも大切なことでも、御系譜に於いて皇子のヒコヤヰの命が、古事記にはあつて書紀には無く、書紀に見える論功行賞の話は古事記には無い(ウツヒコがヤマトの國造の祖だといふことだけは、別のところにある)。それにも關係のある話であるが、前にも述べた如く、オホトモ氏とクメ部との關係が記と紀とに於いて違つてゐるし、書紀にはヤタガラスが人間として取り扱はれてゐる。なほ、最も重要なこととして考へられてゐるトミの山の祭祀も、書紀だけの話である。これらは何れも、記紀に現はれるまでの間に於いて、帝紀舊辭に種々の變改が加へられ、もしくは書紀編纂の際に潤色が施されたことを示すものであるが、記紀に共通のことで疑問の存するのは、カムヤマトイハレヒコの命といふ御稱號にイハレの地名がありながら、物語に於いてそこに何等の大切な出來ごとも無く、そこと何等重要の關係も見えないことである。皇居は記紀ともにウネビのカシハラとしてあり、御陵もウネビ山の北または東北としてあつて、イハレには因縁が無い。このことは、宣長(古事記傳、卷十七)も既に疑問として提出して置いたことであるが、或はこゝにもまた舊辭に重要なる變改の加へられた痕跡が認められるのでは無からうか。イハレが御稱號とせられたのは、そこが天皇の物語に於いて最も肝要な場所であるからであり、從つてそれについての何かの説話があつたであらうから、記紀によつて傳へられた今の物語には、其の御稱號のみが殘つて、それに關する説話が消え失せ、或はそれに代つて他のものが現はれたのでは無いか、と疑ふのは、必ずしも妄想ではあるまい。
(478) それから天皇の御名についても記紀に種々の異説があつて、古事記にはワカミケヌの命、またはトヨミケヌの命とし、書紀の「一書」にはサヌの命とあるが、古事記でも別に御兄弟としてミケヌの命があり、書紀の本文及び多くの「一書」にもミケヌの命またはミケイリヌの命が天皇の外に記され、又たワカミケヌの命が御兄弟の名になつてゐる「一書」もある。ところが、ワカ、トヨは美稱であるから、古事記の説では御兄弟と全く御同名といふことになり、又たそれを書紀の方に參照すると、一つの御名が天皇にも御兄弟にも種々に轉用せられてゐることが判る(ミケイリヌのイリも御名そのもので無いことが、崇神天皇の卷にトヨスキイリヒメをトヨスキヒメとも書いてあるので知られる)。なほ出雲國造神賀詞にクマヌの大神の名をクシミケヌの命としてあることをも一考するがよい(クシもまたワカ、トヨと同じ美稱であつて、名そのものでは無い)。なほ神武紀の卷首に御名をヒコホヽデミと書いてあるのも、問題である。これは古事記には全く無いことであるが、神代紀の終りの二つの「一書」にイハレヒコホヽデミの命といふ御名があるのは、神武天皇のことらしい。これは後になつて生じたことか、但しは却つて古い話であるか、研究を要する。
また書紀には、御即位の記事に天皇をハツクニシラス天皇と稱してあるが、崇神天皇をやはりハツクニシラス天皇としてあるのも、注意を要する。既に神武天皇がゐらせられる以上、崇神天皇をかう稱することには、説明が無くてはならぬ。或はこゝにも物語の發達の歴史があるかも知れぬ。(崇神天皇をかう稱することは、古事記にも書紀にも共通である。神武天皇については、古事記には特に此の語は擧げて無いが、ハツクニシラス天皇で坐すことは物語自身の示すところである。なほ孝徳紀三年の條にも「始治國皇祖」といふ語があるが、これは指すところが明かで無い。)
(479) それのみで無い。此の物語の根本思想たる東征そのことの話にも、幾多の疑問がある。第一、天皇はヒムカから出發あらせられたといふのであるが、これは一體どういふことであらうか。古事記によると、それまではタカチホの宮にゐらせられたとあるが、これは神代史の物語からの引きつゞきであつて、其の神代史に於いて、ホヽデミの命がタカチホの宮にゐらせられた、とあるのである。此の命の御陵もまた、タカチホ山の西にあるとしてある。ニヽギの命はタカチホの峯に降られたのであるから、それからずつと同じ宮にゐらせられたとすれば、話は極めて自然である。然るに茲に一つの疑問が、古事記に、ニヽギの命のタカチホ降臨の話を承けてすぐ「於是詔之、此地者、向韓國眞來通笠沙之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也、故此地甚吉地、」と書いてあることから生ずる。此の文の「向韓國」云々の數字が解し難いので、宣長はそれを書紀の本文に「背宍之空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之碕矣……皇孫就而留住、」とあり、多くの「一書」にも同じ意味の記事があるのに參照し、「詔之此地者」の五字は「笠沙之御前而」の下にあつたのが錯置せられたので、「向」は「膂宍」の誤りだらうといつてゐる。これは理由の無いことでは無いが、さうするとニヽギの命の宮はタカチホでは無くして、カサヽ(笠沙)といふところだといふことになる。カサヽの所在は古事記だけでは明瞭で無いが、書紀にはアタとあり、古事記にもそこであはせられた女の名をカムアタツヒメとしてあるから、やはり書紀と同樣に解してよいのであらう。ホデリの命が隼人アタの君の祖とせられ(書紀には、古事記のホデリの命に當るホノスソリの命を、アタの君ヲバシの祖としてある)、神武天皇の卷にも、アタのヲバシの君の妹アヒラヒメを娶らせられたとあるから、アタは種々の點に於いて皇祖と關係の深い土地とせられてゐる。
さて、タカチホは古事記にはヒムカにあるとせられ、書紀にも(本文にも「一書」にも)ヒムカのソにあるとせられ(480)てゐるから、今の霧島山に擬せられてゐたのであらうし、又たアタは今の薩摩の阿多地方にあてて考へられてゐたのであらう。カサヽの碕は此定すべきところが判らぬが、アタもしくは其の附近らしい。朝日のたゞさす國、夕日の日照る國とあるのを、阿多地方の實際の地形に對照して考へると、東西に海を有して南方に突出してゐる岬などが最も適當してゐるやうにも思はれるが、必ずしもさう見る必要は無く、文字通りに讀めば、少しくうち開いた土地ならば何處でも此の語にあてはまる。のみならず、古事記の雄略天皇の卷の采女の歌、龍田の風神祭の祝詞などにも同じ意味の語があつて、それは上代人の土地に對する一種の理想を現はしたものと考へられるから、これはカサヽの碕を考へるに當つては、深く拘泥する必要の無いことであらう。そこでニヽギの命の宮として物語に見える地は精密には比定ができないが、アタ地方の極めて僻陬の地であるとせられてゐることは知られ、從つてタカチホとそことの距離が遠いといふこともわかる。と同時に、ニヽギの命がタカチホに降られ、ホヽデミの命以後タカチホの宮にゐらせられたとあるのに、其の中間に於いてカサヽに宮を建てられたといふ話が、頗る奇異に感ぜられる。それから書紀には、ホヽデミの命以後の宮の所在は全く書いて無いが、其の代りに、ニヽギの命の御陵がヒムカのエにあり、ホヽデミの命のがタカヤ山にあり、ウガヤフキアヘズの命のがアヒラ山にあるとしてあつて、前後の二つは古事記には全く見えてゐず、中の一つは古事記と違つてゐる。(エとアヒラとは今の薩摩と大隅とにある地名と同じである。又たタカヤ山の名は他に所見が無いやうである。)かういふ記紀の相違は何故に生じたのであらうか。特に、神武天皇以後の御歴代については、必ず御陵の所在として記された土地のある古事記に於いて、ニヽギの命にもウガヤフキアヘズの命にも、御陵の記載が無いのは、何故であらうか。これも疑問であらう。なほ、古事記に見えるアタのヲバシの君の妹アヒラ(481)ヒメは、書紀にはアヒラツヒメとあるから、アヒラは地名らしいが、アヒラとして普通に知られてゐるのは今の大隅にあるから、それとアタとは近からぬ距離がある。これもどういふものであらうか。
以上はヒムカに關する記紀の記載そのものについての考察であるが、これらの點から見ると、或は物語に變化發達の歴史があるのでは無いかと推測せられ、或は物語の編述者の腦裡に於ける地理的知識が實際的で無かつたのではあるまいかと思はれる。特にカサヽの宮の物語の如きは、タカチホ降臨のこととタカチホの宮のこととを聯結して見る場合に生ずる單純にして自然な印象とは、調子が合はないものであり、ホデリ(ホノスソリ)の命の後裔とせられ、宮門を護つて狗吠をするといふ隼人の部落のアタの君が、外戚たる地位に置かれたことも、其の物語自身に矛盾した思想を含んでゐるやうに見え、またタカチホとアタと、アタとアヒラとの結合も、實踐から得た地理的知識に基づいたとしては、ふさはしからぬ性質のものである。
が、それは兎も角もとして、單に我が皇室の發祥地がヒムカであるといふことに對しても、第二章に述べた如く後世までクマソとして知られ、逆賊の占據地として見られ、長い間國家組織に加はつてゐなかつた今日の日向・大隅・薩摩地方、またかういふ未開地、物質の供給も不十分で文化の發達もひどく後れてゐる僻陬の地、所謂ソシシの空國が、どうして皇室の發祥地であり得たか、といふ疑問があるのである。(景行朝のクマソ平定の物語に、そこが曾て皇都の所在地であつたことを想起せしめるやうな文字が毫末も見えず、たゞ叛徒のゐるところ逆賊の據るところとせられてゐるのも、奇異といへば奇異で無いことも無い。あの物語を書きとめた人の頭には、さういふことが思ひ浮かばなかつたものと見える。これも何故であらうか。宋書に見える所謂倭王の上書にも「西」は單に「衆夷」とせられて(482)ゐるが、これは且らく問はずに置かう。)其の上に、ヒムカから一足飛びにヤマト征討となつて、其の中間地方の經略が全然物語に現はれてゐないのは、どういふものであらうか。懸軍萬里ともいふべき遠征が、如何にして行はれたであらうか。こゝにもまた重大な疑問が無くてはならぬ。ヒムカに關する神武天皇の卷の物語を歴史として見る時には、これらの困難なる問題に明解を與へねばなるまい。其の他、ツクシのヲカダの宮に一年、アキのタケリの宮に七年、またキビのタカシマの宮に八年坐した、といふやうな年數などが、記録の無い時代にどうして傳へられたか、といふやうな疑問もあるが、これらはそも/\末の話である。
なほ總論の第二節に述べた如く、三世紀以前に於いては、ツクシ地方は幾多の小獨立國に分れてゐて、今の中國以東との間に政治的關係の無かつたことが推測せられるが、記紀の東征物語が此の事實と適合するかどうかも、重大な問題である。
しかし、神武天皇の物語に對しては、他の方面からの觀察をも要する。それは何かといふと、上文に人間界のことで無いといつて置いた神異の物語から見るのである。天皇は一々、日の神の御子、または天つ神の御子として記してある。天皇に服從したウサツヒコ、ウサツヒメや、ニヘモツノコや、ヰヒカや、イハオシワケノコは、國つ神である。(國つ神は天つ神に對する稱呼であつて、やはり神であり、神代史のオホクニヌシの神が國つ神であると同じことである。オホクニヌシといふ神の名も、此の意味でつけられたのであらう。)神の服從を受けさせられるのは、神でなくてはならぬ。さうして反抗者にも、ナガスネヒコの如き人類ばかりで無く、荒ぶる神が多い。クマヌにも荒ぶる神がある。クマヌからヤマトの方に進まうとせられた時にも、荒ぶる神が奥の方に多いからヤタガラスを遣はして嚮導させ(483)よう、といふ神の教がある。ニギハヤビの命も、天つ神ながら荒ぶる神であつたらう(オホクニヌシの命が、スサノヲの御子たる神でありながら又た荒ぶる神であると、同じことである)。だから、ヤマトの平定した時には「荒ぶる神たちを言むけやはし、まつろはぬ人どもを攘ひ平げ給」うたとある(これも亦た、ニヽギの命の降臨に先だつて、オホクニヌシの命などの荒ぶる神をことむけ、言問ひし岩ね木の立ち草のかきはを言やめさせられた、といふのと同じことである。タカクラジの夢物語によつて、オホクニヌシの命の平定の時のことが聯想せられてゐるのも、此の故であらう)。だから、此の物語の(少なくとも一半の)意味は、神にて坐す天皇の宗教的地位から邪神を平定斥攘あらせられた、といふ點にある(第五章第一節參照)。
さて、天つ神の御子は即ち日の神の御子であるから、日の昇る方に向つて戰はせられるのがよくないことは勿論であるのみならず、其の御故郷は天にあつては高天原であり、地にあつては日の出づる方に向ふ國でなくてはならず、其の宮は「朝日のたゞさす國、夕日の日てる國」に無くてはならぬ。日の神御みづからの出生地が、そも/\日に向ふといふヒムカで無くてはならなかつたのである(イザナギの命のみそぎの段參照。此の話のヒムカのタチバナのヲドは、明かに某の地に擬しては無いが、ヒムカは國名のヒムカから來てゐるのであらう)。たゞ、天皇は神にて坐すと共に政治上の君主にてもあらせられるので、此の宗教的思想が即ち國家建設の政治的物語となつたのである。政治は人界のことであり人の代のことであつて、神の代のこと神の世界のことでは無いが、天皇は神であらせられると同時に人にても坐すのであるから、皇祖を中心とする神の代の物語にも政治的意味があり、皇室の君臨せられる人の代の話にも宗教的意義があるのである。特に神武天皇の物語は、人の代の話ながら神の代に近いとせられてゐるだけに、(484)宗教的分子が多い。まつろはぬ人と共にあらぶる神があつて、それを平定斥攘せられたのは之がためである(第三章第一節に述べたヤマトタケルの命の使命、參照)。
然らば神の代と人の代とは、どうして區別せられるか。問題はこゝで一歩を轉ずる。
(485) 二 神代と人代
「神代」といふのは「上代」といふこととは全然別箇の概念である。是は、人類發達の歴史を少しでも知つてゐるものには、いふまでも無い明白の話であらう。民族の、或は人類の、連續せる歴史的發達の徑路に於いて、何處に人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を溯つて上代にゆく時、いつまで行つても人の代は依然たる人の代であつて、神の代にはならぬ。神代が觀念上の存在であつて歴史上の存在で無いことは、これだけ考へても容易に了解せられよう。今日の知識から見てさうであるのみで無く、我々の溯先とても單に「昔の代」を「神代」と呼んだのでは無い。神の代といふ觀念そのものの存在することが、神の代が人の代とは違ふといふことを明かに示してゐる。神が人で無いとすれば、昔の代、昔の人の代を神代と名づける筈が無く、神の代が昔の人の代ならば、神の代といふ特殊の觀念の生ずる筈が無い。
記紀に見える神代の觀念が如何にして發生したかといふことは、既に前章に述べて置いた。神代は思想の上で遠い過去に置かれた皇祖神の代である。さて神の代は人の代で無いから、そこに活動するものは神であつて人では無い。神には人が反映してゐるが、神は人を超絶してゐる。だから神代の物語には、神代といふ觀念を創造した時代の、政治上・社會上及び思想上の状態が反映せられてもゐるし、其の大筋は、特秩の意圖を以て當時の人の知識の力によつて、構成せられたものであるが、固より人間界の物語では無い。其の材料としては、神話とも見なすべき物語の外に、(486)種々の民間説話や一、二の英雌傳説めいたものなどが用ゐられ、編み込まれてゐるが、それに現はれる人物もまた其の本質として、人間性を超越してゐる。從つて、神代に於ける神々の行動は、人間としては爲し得べからざること、人間としてみれば不合理のことである(此の不合理の、人間としては爲し得べからざる行動に充ちてゐるだけでも、神代が歴史的存在で無いことは明白である)。しかし神代は思想上過去に置かれてゐるのであるから、それを人の代の、即ち歴史的に存在する過去の、何れの時期かに連結しなければならぬ。此の連結は、神と人と、觀念上の存在と事實上の存在と、の別箇のものを接合するのであるから、形式の上では、其の間に劃然たる限界が生ずる。即ち神代と人代との區別ができる。さて、何事を以て神代の終りとし人代の始めとしたかといふと、それはヤマト奠都の物語を以てしたのである。即ち思想の上に於いて、ヤマトが中心となつて國家が統一せられてゐる現在の政治的状態の始まつた時を定め、それを人代の始めと見なしたのである。さうして、それが思想上の話であるといふことは、もしヤマト奠都が其の前に都のあつたところから遷されたことであるとするならば、さうして其の事實が世に傳へられてゐたとするならば、それは後にヤマトからヤマシロに遷され、京都から東京に遷された場合と同樣、其の前も後も連續した一つの歴史即ち人間界のこととして、人の記憶に遺り人の思想に存在した筈であつて、從つて、それを神代と人代との境界とし、劃然たる區別を其の前後につけようといふ考が起るまい、といふことから明かに推知せられよう。人の代の出來ごとは人の代のことであつて、神の代のことでは無く、神の代のこととすることは出來ぬ。しかし、神代と人代との區別がつくことは、外形の上の話であつて、内容の上に於いては、其の間の境界のぼかされることが必要である。然らざれば、神代を過去に置いて神代史を外觀上擬似歴史として示さうとする主旨に背く。だから、神代の終り(487)の部分に人代的要素を加へると共に、人代の始めの部分には神代的着色を施し、交互に幾分の融合をさせねばならぬ。さうして、現人神であらせられる皇室の地位は、其の皇室の御祖先を中心とする物語の上に於いて、おのづから神人兩界の區別を緩和することになる。天孫降臨の後なほ神代が續いてゐるのは前者であつて、ヒムカに於ける物語は恰もそれに當り、神武天皇以後の物語にもなほ神々が現はれてゐるのは後者の故であつて、仲哀天皇以前の話がほゞそれに屬する。神武天皇から仲哀天皇までの物語に人間の行動と見なし難いことが多いのは、一つは之がためである。さうして、それがほゞ仲哀天皇以前であるのは、記録の無い時代であつて、實際上、其の頃の歴史的事實があまりよく傳へられてゐなかつたといふことが、恰好の事情となつてもゐるらしい。(なほ、ヤマト奠都を人代の始めとしたことは、神代といふ觀念に政治的意義が基礎になつてゐること、言ひかへれば、神代が政治的君主にて坐す皇室の御祖先たる皇祖神の代であるといふこと、の一證でもある。)
(488) 結論
著者は前數章に於いて、記紀に記されてゐる仲哀天皇以前の時代に關する主要なる物語を、一々點檢した。其の結果は讀者の既に知悉せられる通りである。
著者が此の書に於いて述べようとしたことは、ほゞ是で終つてゐる。たゞ前各章は一々の物語を一々に研究したので、其の間の聯絡がとれてゐないといふ憾があるから、茲で全體を通じての簡單なる觀察を試み、それを以て此の書の結論としようと思ふ。
先づ第一にいふべきことは、記紀の記載の差異から推測し得られる物語の變化である。記紀には、御歴代の天皇の寶算といふやうな單純な數字すら、互に一致してゐないことが甚だ多いが、それを比較して見ると、かういふ差異を生じたのは訛傳や偶然の過誤の故と見なすべきものでは無く、全然別の數となつてゐるのである。例へば四十五と八十四(綏靖天皇の卷)、四十九と五十七(安寧天皇の卷)といふやうな數字がそれである。さうして、それと同樣なことは、既に述べた如く種々の物語に於いても現はれてゐる。肝心の系譜に於いても、さういふ變化を經過した痕跡が見えること、紀年の法が書紀に於いて一定せられる前に、幾度も作り試みられたらしく、其の一つが古事記に遺つてゐるといふことも、既に説いて置いた。これらの事實は、所謂帝紀舊辭が今の古事記と書紀とになつて現はれるまでの(489)間に、いろ/\の考を有つてゐるいろ/\の人の手が、幾度もそれに加へられてゐることを、證明するものである。從つて、大體に於いては古事記の方が書紀よりも原形に近いと認められ得るに拘はらず、其の古事記にも後の潤色が少なからず含まれてゐる上に、場合によつては書紀の方に却つて原形が發見せられることもあつて、其の關係は頗る複雜してゐる。大體に於いて古事記に歌謠の多いこと、又た其の神代史に説話や神々の名の多く出てゐることなども、後世の潤色を多く經てゐる一證であらう。
次には、記紀に共通な點に於いても、最初の帝紀舊辭とは頗る趣を異にしてゐる點があつたらしい。仲哀天皇のクマソ征伐が新羅征伐に轉じてから、クマソそのものに對する問題が何等の解決を見ずして雲散霧消してゐたり、前章に述べた如くハツクニシラス天皇といふことが崇神天皇の卷に見えたりするやうに、全體を通觀すると、筋のとほらぬものになつてゐる點があるのも、或はこれが一原因ではあるまいか。綏靖天皇から開化天皇までの間に、物語が一つも無いといふことも、其の間と崇神天皇以後また神武天皇の卷との本になつたものが、同じ時に書かれてゐない故かも知れぬ。或はまた、記紀によつて傳はつてゐる帝紀と舊辭とが、別々に編纂せられ修整せられた故かも知れぬ。特に書紀に於いては、景行天皇のクマソ平定の話に、そこが昔の皇都の所在地とせられてゐるやうな氣分の毫も見えなかつたり、神代に舟のことを記しながら崇神紀に始めて船舶を作るといつたり、仲哀天皇の時に海外に國のあることがわからなかつたやうに書いてありながら、神代紀にも崇神紀にも新羅や加羅に對する交通の物語を載せたり、相互に齟齬し矛盾する話があることなどは、或る物語の記述、またはそれに對する變改が、前後に聯絡なく行はれたことを語るものであつて、本來は首尾貫通してゐたらうと思はれる舊辭などが、幾度も施された種々の添刪のために、(490)今のやうな形になつたのであらう。書紀の方は附加物が多いだけ、さういふ點が著しく目に立つ。だから、かういふ變改を歴たもの、後人の潤色が加へられたものを、其のまゝに事實の記載として取り扱ふことは勿論、最初の帝紀舊辭として見ることすら、出來ないのである。
なほ、書紀に見える種々の物語を通覽すると、其の間に類似の着想が屡々反覆せられてゐることに氣がつく。クマソ征討にも東國經略にも、景行天皇とヤマトタケルの命とが一度づつ行つてゐられる。クマソの酋長を訣伐せられた方法も、景行天皇の時とヤマトタケルの命の時と酷似してゐる。ツヌガアラシとタヂマモリとは、同じやうに時の天皇の崩御と前後して來朝、もしくは歸朝してゐる。垂仁天皇の皇位繼承が定められた事情と景行天皇のそれとも、同工異曲であり、ヤタガラスと金鵄とも共に靈鳥である。古事記に於いても、神代史のコノハナサクヤヒメの物語と垂仁天皇の卷のサホヒメの物語とは、皇子が火の中で生まれられたといふ點が似てゐる(後の話ではあるが、雄略紀の一夜あひて云々といふ話も、神代史に同じことがある)。神武天皇のヤマト征討と、神代史のオホクニヌシの命の平定との間に、思想上密接の關係があることは、既に述べて置いた。其の他、記紀の何れにも各地巡歴といふ話が屡々現はれてゐ、兄弟の並んで現はれる場合に其の大部分は、兄が羸弱もしくは惡逆であつて失敗に終り、弟が強健順良で成功してゐ、ミワ山物語の如き同じ民間説話が所々に結びつけられ、似たやうな地名説話が到るところに用ゐられ、人名を地名から作り兄弟男女を連稱することが、一般に行はれてゐるなど、其の間には上代の風俗の反映と見るべきものもあらうが、物語の上では大てい着想が定まつてゐることを示すものとして、差支が無からう。これらもまた、事實の有りのまゝなる記録としてはふさはしく無いことである。
(491) 其の上、神武天皇から仲哀天皇までの物語を大觀すると、國家經略の順序が甚だ整然としてゐる。第一にヤマト奠都の話があり、次に崇神・垂仁兩朝の内地の綏撫があり、次が景行朝のクマソ及び東國に對する經略となり、それから成務朝にかけて皇族の地方分遣と國縣の區劃制定とが行はれ、最後の仲哀朝に至つて對外問題が起る。近きより遠きに、内より外に及ぼされた有樣が、一絲紊れずといふ状態である。これも事實の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさはしいことの一つである(この點から見ても、書紀が垂仁朝に加羅の服屬物語を結びつけたのは、後人の潤色であることが知られる)。 これらの點を、上に詳説した一々の物語の批判に參照して見れば、記紀の上代の部に含まれてゐる種々の説話を歴史的事實の記録として其のまゝに認めることが、今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう。さうしてこれはおのづから、著者が總論の第三節に於いて概説して置いたことを、立證するものである。記録の術も無く、前言往行を後に傳へるための特殊の制度も無かつた昔の事磧が、あれほどに精細に且つ具體的に知られる筈が無い。書紀が年代記的に物語を排列したことは、言ふまでも無く、遙かに後代のしわざであつて、此の點に於いては、古事記の方が比較的最初の舊辭のおもかげを傳へてゐるらしいが、しかしそれとても、口碑によつて傳へられた話を記録したものとして受け取り難い點の多いことは、著者の試みた物語そのものの研究によつて明かである。
然らば、記紀の物語は何を材料として編述せられたかといふと、其の一つは後世の事實である。書紀に於いてはそれが特に著しく、神功皇后の時に高句麗が從屬したとか、景行朝に陸奥の國方面のエミシに對する遠征が行はれたとか、崇神朝に加羅が歸服したとか、いふ類がみなそれであるが、同じやうなことは記紀共通の物語に於いてもいふこ(492)とが出來る。クマソの服從が四世紀の終りか五世紀の初めかであらうといふ第二章の考説が是認せられるならば、それを景行天皇の物語に結びつけたのは、其の最も著しき例である。東國經略も可なり後まで行はれてゐたことらしく、鹿島などの祭神が神代史上の武神とせられたのも、それに關係があらうと思はれるが、もしさうとすれば、それは神代史の出來た後のことであり、從つて、其の頃まで東方綏撫の事業が引きつゞいてゐたのであつて、ヤマトタケルの命の物語やタケヌナカハワケの命の話は、其の反映として認められよう。新羅遠征の物語を仲哀天皇の朝としたのも、或はかういふ仲間に入れてよいことかも知れぬ。事實としては應神天皇の朝以後に幾度も行はれたことらしいからである。イヅモの勢力の反抗も、それが後人に強い印象を遺してゐ、朝廷の儀式にも其の特殊なる服從の表示が現はれてゐることから考へると、やはり餘ほどの後世まで引きつゞいてゐたことでは無からうかと思ふが、もしさうとすれば、古事記の垂仁天皇・景行天皇の卷、または垂仁紀などのイヅモに關する物語は、神代史のオホクニヌシの神の話と共に、それから構想せられたのであらう。古事記の應神天皇以後の卷々に於いて當然なくてはならぬ韓地經略、東方綏撫、クマソ征討、もしくはイヅモ平定などの物語が、全く姿を消してゐることからも、これらの推測に理由のあることが知られるので、それは畢竟、後の事實を上代に移して物語としたがため、實際行はれた時代には、それが空虚になつたのではあるまいか。總論に於いて述べた如く、古事記の應神天皇以後の卷々には、政治的意義を有する物語が殆ど無く、歌物語・戀物語などばかりになつてゐるのは、こゝに一つの理由があるのでは無からうか。もつとも仲哀天皇以前の物語とても、後の事實を其のまゝに上代に移して記したといふのでは無く、それを説話として結構したために、事實譚とは全く異なつた形になつてゐるが、これは最初に舊辭の編纂せられた時に、應神天皇以後のこと(493)についてすらあまり史料が無かつたからでもあらうから、古事記の應神朝以後の卷々に政治的事業に關する記事の無いのも、一半の理由はこゝにあらう。同じ時代について、書紀には對外事業の幾らかが見えるが、これには百濟の記録から採つたところが少なくないやうである。史料の貧弱であつたことはこれでも知られる。さて第二は、民間説話またはそれに類似の物語であつて、ミワ山の物語とか靈魂が鳥になつて飛んだとかいふやうなのは、皆なそれであり、玉から人が生まれたといふやうなのも、之に屬する。それから第三には、ありふれた當時の出來事や風俗などであつて、戀物語とか兄弟の爭つた話とかいふのは、多分さういふところに由來があるのであらう。これら種々の材料を前に述べたやうな意圖を以て聯結したのが、記紀の上代の記事ではあるまいか。
序にいふが、應神天皇以後の卷々にも、其のまゝに事實として認め難い物語は少なくないので、其のうちの歌物語などは、やはりよほど後世に作られたものが多いらしい(「文学に現はれたる我が國民思想の研究」貴族文學の時代、第一篇第二章、參照)。また支那思想によつて作られもしくは潤色せられた話もあつて、仁徳天皇の卷などには、それが著しく目につく。それから、履仲紀のワカザクラの宮の名の起源を説いた話などは、かの地名説話などと同樣な性質のものであるが、かういふ例のあるのを見ても、全體の記事の性質が推測せられる。書紀の紀年などは勿論信用し難い。しかし履仲天皇から急に御在位の年數が減少してゐるなどは、理由の無いことでは無く、此のころからはおひ/\確實な史料も存在するやうになつたのであらう。だから、仲哀天皇と應神天皇との間に劃然たる分界線を置くことは、妥當では無からうが、總論第五節に述べて置いた如き理由によつて、大體、このころに一つの段落があると見ることは、差支が無からう。
(494) 記紀の上代に關する記載の性質は、ほゞかういふものであるから、それによつて、我々の民族全體を包括する國家が、如何なる事情、如何なる經路によつて形成せられたか、といふことを明瞭に知ることは出來ない。其の起源が悠遠の昔にあるヤマトの朝廷の勢力の發展の状態についても、一々の的確なる事情が記紀に於いて傳へられてはゐないのである。もつと溯つていふと、記紀の物語の準據になつてゐる所謂舊辭の編纂の時に於いて、既にさうであつたらう。それ故にこそ舊辭の編者は、其の缺陷を補ひ其の空虚を充たすために、上記の如き方法によつて、種々の物語を古い時代に結びつけ、或はあてはめたのである。ツクシ地方の經略は四世紀の前半で無くてはならぬから、此較的新しい事實であるに拘はらず、其の事蹟がまるで傳はつてゐないのを見ても、上代に關する史料の如何に乏しかつたかが推測せられる。
しかし、舊辭のはじめて編述せられたころには、外國の文化の影響もまだ少なく、一般の風俗や思想にも、それより前に比べて大なる變化があつたらしくも見えないから、物語そのものは必ずしも古い世の事實の記録では無いけれども、それに含まれてゐる思想や、現はれてゐる風俗などは、編述當時の状態の反映ではあるものの、やはり其のまゝで四世紀もしくは三世紀よりも前に當る古い時代のと、大差が無いものと見てよからう。古事記にも支那思想の影響は可なりに著しく見えるが、かういふ文字によつてのみ得た外來の知識は、深く人間の内的生命、其の實際生活を動かすものでは無く、また其の文字上の知識を有つてゐるものも、社會の一隅に存するのみであるから、廣い社會の風俗や國民の思想感情は、それに拘はらず、昔ながらの姿を維持してゐたのである。だから、文字の上に現はれてゐる多少の支那思想は、國民の實生活や風俗や思想やの寫されてゐる物語そのものの内容とは、容易に甄別せられ、そ(495)れから容易にふるひ去られる遊離的のものである。書紀に於いてすら大體は同じ状態である。
なほ此の結論に於いて繰り返していつて置くべきことは、皇祖神の御代であるといふ神代の物語を頭に戴いて、それから順次、人の代の話に下つてゐる記紀の記載は、皇室(もしくは皇室によつて統一せられた國家)の起源と由來とを説いたものであつて、我々の民族の歴史を語つてゐるのでは無い、といふことである。國家の起源は民族の由來とは同じで無いからである。これは上に述べた神代史の性質からも明かに推斷せられるが、所謂「帝皇日繼、先代舊辭を確實にするために編纂せられたといふ記紀の由來から見ても、同樣である。此の點に於いて比較的帝紀舊辭の原の姿を傳へてゐる古事記の記載が、神武天皇の卷以後に於いて、皇室の御系譜と天皇及び皇族の御行動としての物語とのみであることを考へるがよい。神代史の性質も、此のことから類推することが出來る。なほ上に述べた如く、我々の民族の歴史に於いて重大なる事實であるツクシ地方の君主と漢人との交通が、毫も記紀に現はれてゐず、またエミシとの民族的衝突も、舊辭の原形に於いては殆ど話題に上つてゐない、といふことも、記紀、從つて其の本原である舊辭が民族の歴史を語らうとしたもので無い一證であらう。また此の皇室もしくは國家の起源を説いた記紀の物語に於いて、國家の内部に於ける民族的競爭といふやうな思想の痕跡が少しも見えてゐないのは、一方からいふと、最初に帝紀舊辭の編述せられた時に於いて、國家が昔から一つの民族(少なくとも當時に於いては一つの民族として見らるべきもの)によつて成り立つてゐた、と考へられてゐた一つの證據ともなるであらう。もし國家が一の民族、もしくは其の帝王が他の民族を征服すること、によつて成立した、といふやうな場合ならば、民族の興亡もしくは其の勢力の消長が國家の建設と密接の關係を有するのであり、又たそ(496)れから生ずる民族間の反目や抗爭は、決して短日月の間に氣消え去つてしまふべきものでは無く、また其の記憶が容易に無くなるものでも無いから、建國の物語にも、さういふことが何等かの思想となつて現はるべき筈であるが、それが全く見えない。言語や容貌や生活状態や信仰や風習やの、異なつてゐる多くの民族が、國家の内にあり、さうして、それらを統御することに努力し苦心したのならば、よし記紀の物語が中央政府で作られたものであるにせよ、其の反映が何等かの形に於いて多くの説話の上に現はれなくてはならぬが、それが無いのである。それは、即ち舊辭編纂の當時に於いて、民族が一つであつて、民族的反抗もしくは競爭といふやうなものが無かつた有力の證據である。(記紀ばかりで無く、一體に文獻によつて知ることのできる上代人の心理に於いて、激しい民族競爭の行はれた記憶が殘つてゐるやうな形跡、或は異民族が數多く互に接觸し衝突してゐる場合に生ずるやうな特殊の現象を、認めることは出來ない。異民族が新しく來住することによつて惹き起される民族動搖の空氣の見えないことは、勿論である。)
これは記紀の物語の全體の上からの觀察、または其の精神から見たことであるが、其の一々の記載について考へても、例へば、不用意に世人の口にしてゐる如き出雲民族とか天孫民族とかいふ、有力なる異民族が對抗してゐたやうな形跡は、毫も見えない。人種もしくは民族の異同を研究するには、おのづから其の方法があるといふことは、此の著の最初に於いて述べた通りであるが、少なくとも記紀の物語に現はれる時代のことに關しては、其のうちの言語の問題について、記紀からも多少の資料を供給することが出來る。民族の異同の一大特徴が言語にあることはいふまでも無いが、イヅモとツクシまたはヤマト地方との住民、もしくは治者階級と被治者階級とが、異なつた言語を用ゐてゐたといふやうなことには、何等の徴證が無い。記紀に見える神々の名でも、人の名でも、皆な同一言語によつて表(497)はされてゐるでは無いか。勿論、記紀の物語は中央政府で書かれたものではあるが、さういふ名稱などはイヅモ人にも、またイヅモ人を實際に知つてゐる一般の人々にも、承認せられることで無くてはならぬから、イヅモ人が特殊の言語を用ゐる異民族であつたならば、こんな名が書かれまたは作られる筈が無い。新羅人の名が國語で書いて無いことを參考するがよい(エミシの首長を、島つ神國つ神と書いたなどとは性質がちがふ)。一民族の言語が他の民族に同化せられるといふことはあるにしても、それは文化の上、または政治的勢力の上に於いて甚だしい懸隔があり、而も兩民族が雜居もしくは雜婚してゐて、劣等民族が優等民族の言語を用ゐなければならぬ程に、其の日常生活が相互に離るべからざる關係を有する場合のことである。のみならず、それにしても極めて長い年月を要する。だから、さうなつた時代には、最早それ/\の民族が地方的に獨立の勢力を有することは出來なくなつてゐる。記紀の物語に現はれてゐる時代に於いて、民族としての地方的勢力があつたと考へることは、單に此の點から見たのみでも、不合理である。もし又た、一の民族が他の民族を征服するといふ場合に、其の二民族が既に同一言語を用ゐてゐるといふやうなことを考へるならば、それは其の考自身が既に矛盾した觀念を含んでゐる、といはなければならぬ。同一の言語を用ゐるやうになれば、もはや異民族としてそれを取り扱ふことは出來ないからである。或は又た、記紀に見える言語などは既に民族の混同した後のものであるが、その言語によつて語られてゐる物語はまだそれが獨立してゐた時代の話である、といふやうな考があるかも知れぬが、それも甚だむつかしいことであるのみならず、記紀の物語のかゝれた時にそんな古いことが傳へられてゐたとすることも、不可能であらう。民族の混同には、甚だ長い時間を要するからである。これは言語だけの話であるが、上代人の間に於いて、其の内生活に就いても、または外部に現はれてゐる(498)生活状態についても、果して民族を異にしてゐると見なければならぬだけの相違のあることが、一體、何處に發見せられるであらうか。我々の民族のうちには、或は遠い昔の何の時かに於いて混合した異人種もしくは異民族の分子があるのかも知れぬ。解剖學者や言語學者にはそれに關する研究があるのであらう。けれどもそれは記紀の語るところでは無い。のみならず、少なくとも言語などの上からは、さういふ民族的混合が記紀の物語に現はれる時代に行はれたもので無いことを、記紀は主張する。著者は今こゝで我々の民族や人種のことを論ずるのでは無いから、それについての考を各方面から仔細に述べる餘裕は無い。たゞ記紀の性質を明かにするために、記紀によつて考へ得べきことを一言し、記紀には決して、天孫民族とか出雲民族とかいふやうな異民族があつてそれが衝突した、といふやうな觀念の無いことを、説いて置くまでである。
要するに、記紀を其の語るがまゝに解釋する以上、民族の起源とか由來とかいふやうなことに關する思想を、そこに發見することは出來ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び國家の起源が、我々の民族の由來とは全く別のこととして、考へられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根據となつてゐる最初の帝紀舊辭は、六世紀の初めごろの我が國の社會状態に基づき當時の官府者の思想を以て皇室の由來を説き、またいくらかの傳説や四世紀の終りごろからそろ/\世に遺しはじめられた記録やを材料として、近い世の皇室の御事跡を語つたものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。さうして、其の中でも特に上代の部分は、約二世紀の長い間に幾樣の考を以て、幾度も潤色せられ變改せられて、今に遺つてゐる記紀の記載となつたのである。だから、其の種々の物語なども文字のまゝに歴史的事實の記録として認めることの出來ない點が多いが、しかし、それに見え(499)てゐる思想や風俗が、物語の形成せられた時代の嚴然たる歴史的事實であることは勿論、全體の結構の上にも、それを貫通してゐる精神の上にも、當時の人の政治觀・國家覿が明瞭に現はれてゐるのであるから、上代の國家組織の根本精神を表現したものとして、それが無上の價値を有する一大寶典であることはいふまでも無く、從つて、それに含まれてゐる一々の物語が實際に起つた事件の經過を其のまゝに記したものでないといふことは、毫も此の點に於ける記紀の價値を減損するものでは無い。記紀の上代の物語は歴史では無くして寧ろ詩である。さうして詩は歴史よりも却つてよく國民の内生活を語るものである。これが此の書に於いて、著者の反覆證明しようとした根本思想である。
(500) 附録
三國史記の新羅本紀について
朝鮮牛島の古史として高麗朝に編纂せられた三國史記、特に其の新羅紀の上代の部分には、所謂倭もしくは倭人に關する記事が頗る豐富に含まれてゐる。從つてそれらの記事は、記紀と相俟つて我が上代史を闡明すべき貴重なる史料である如く、思はれてゐたことがある。しかし一體に三國史記の上代の部分が歴史的事實の記載として認め難いといふことは、東方亞細亞の歴史を研究した現代の学者の間には、もはや異論の無いことであるから、倭に關するこれらの記事もまた同樣、史料としては價値の無いものと見なければならぬ。たゞ何故にそれが信用し難いかといふことをまとめて説いたものが、まだ見當らぬやうであるから、こゝに新羅紀について其の大要を述べ、讀者の參考に供しようと思ふ。
韓地に關する確實な文獻は、現存のものでは、魏志の韓傳とそれに引用せられてゐる魏略とが初めであつて、それによつて、三世紀の状態が知られ、並びにやゝ溯つて、一、二世紀ごろの大體の樣子が想像せられる。其の詳細をこゝで述べる遑は無いが、三世紀に於いて、新羅は辰韓十二國中の一國に過ぎない一小部落であつて、而も半島に於ける(501)當時の文化の中心であつた樂浪・帶方からは最も遠い東南隅の今の慶州の地にあり、其の文化の程度の低かつたことも想像せられる。一、二世紀に於いては猶さらであつたらう。馬韓も郡に近い北部にのみはやゝ支那的文化が及んでゐるやうに、魏志に書いてあるが、これは地理上の事情から來てゐるのであらう。さすれば、辰韓の文化は概して馬韓より劣り、新羅は辰韓中でもまた劣つてゐたことと思はれる。辰韓と樂浪郡との間に交渉のあつたことは、魏略にも見えてゐるが、それは辰韓の西北部、即ち樂浪郡(後の帶方郡の部分)と接觸してゐた地方、いひかへれば、今の尚州・咸昌方面のことであらう。さうしてそれにしても、辰韓の全體を通じて支那の文化の影響があまり現はれなかつたことが、魏志によつて推測せられる。然るに、新羅紀は其の最初の國王(居西干)を赫居世といふものとし、建國の年を前漢の宣帝の五鳳元年(57 B.C.)としてゐる。さうして、それから後の年代記がずつと出來てゐる。是が既に甚だ怪しいことであつて、こんな年代記が後に傳はるくらゐならば、一、二世紀に於いて支那の文化は、よほど深く新羅に植ゑつけられてゐなければならず、從つて辰韓の他の諸國も同樣でなければならぬ。更に廣くいふと、三韓全體がほゞ同じ程度の文化を有つてゐなければならぬ。韓地全體の文化がそれほどに開けてゐたならば、支那もしくは樂浪の支那人との交渉がよほど密接でなければならず、從つて、支那の史籍に韓地の記事が多く現はれてゐなければならぬが、そんな形跡は少しも無い。のみならず、それほどの文化を有するものとしては、政治上の状態があまりに幼稚である。
しかし、これはやゝ漠然たる話であるから、且らく論じないこととして、さて所謂赫居世が如何にして新羅を建てたか、それより前の状態はどうであつたかといふと、新羅紀はそれを明かに説いてゐない。たゞ、朝鮮の遺民が六村を(502)形成してゐたといふ記事があつて、其の六村は地名から考へると、王城(即ち今の慶州)の地であるらしく、儒理尼師今の紀の示すところによると、それは後の所謂六部の起源とせられてゐるらしいから、新羅の基礎は此の六村であつたといふのであらう。(梁書の新羅傳に「固有六啄評」とあるから、新羅の本地に六部があつたといふことは事實であらう。しかし、それが新羅紀の所謂六村であるかどうかは、他に徴證が燕いやうである。)さて茲にいふ朝鮮は、衛滿に仆された箕氏のか、武帝に滅ぼされた衛氏のか判らぬが、何れにしても、其の遺民は支那人だと見なければならぬ。さすれば、新羅は支那人を基礎としたものとしなければならぬ。けれども、赫居世の姓の朴も居西干といふ其の號も、辰韓人の語だとしてあるのみならず、新羅人もしくは其の中心になつてゐるものが支那人であるらしい樣子は、すべての點に於いて見えない。これが甚だ不思議である。なほ、儒理尼師今の時に六村を六部として一々姓を作つたといふが、それが支那人ならば既に姓がある筈であり、さうして其の姓は支那人の思想からいふと、決して變更すべからざるものである。だから、此の話には自家矛盾がある。もつとも、全體として辰韓人が秦人、即ち支那人であるといふ説が魏志に見えてゐるが、これは辰韓人が衛氏の朝鮮の民、即ち支那人に逢つて「其語非韓人」といつたといふ魏略の記事に矛盾するのみならず、廣い辰韓の全體が支那人であるならば、魏志などのいふやうにそれが樂浪郡から夷狄として取り扱はれる筈が無いから、此處にも自家矛盾がある。一體に支那人は、例の中國思想から、所謂四方の夷狄の祖先を自分等の同民族だといひたがる癖があるので、匈奴は夏后氏の裔だといひ、倭人をも夏后氏小康の子孫らしく書いてゐる。辰韓秦人説も、辰と秦との音の類似から、同じやうな附會をしたに過ぎない。特に外國に移住したものを秦人とすることは、秦の暴政を記憶してゐる支那人には、甚だ起り易い考である。桃源の民をも秦人だといふ(503)では無いか。衛氏の朝鮮の遺民二千餘戸が一時辰韓の一地方に移住したことがある、といふ話は魏略に見えるが、それは悉く樂浪郡に復歸したとあるし、辰韓もしくは辰國は、此の僅少な支那人の動止には關係なく、嚴として存在してゐたのである。(新羅紀にも秦人來住の記事は見えるが、これには辰韓も雜居したとある。又た新羅紀には、かの六村を辰韓の六部といふともあつて、六部は辰韓全體を六分したもののやうにも書いてゐるが、それは所在地の地名にも、後の六部、即ち六姓の話にも矛盾してゐる。)だから、新羅人もしくは辰韓人が支那人であるといふ説は、事實では無い。なほ、此の建國の始祖赫居世は卵から出たものだといふが、これも事實で無いことは勿論である。さすれば、建國の説話が既にあらゆる點鮎から信じ難い。
次に、建國の後に於ける領土の範圍、及び其の擴張の状態に關する新羅紀の記載を考へるに、赫居世(57 B.C.−4A.D.)及び南解次々雄(4−24A.D.)の時から、樂浪郡の兵が來攻したことを初めとして、其の後も屡々樂浪郡との交渉を記してゐ、儒理尼師今(24−57)の時には華麗・不耐(共に今の皆鏡道の南部)の二縣人が北境を侵したとあり、脱解尼師今(57−80)の時から、屡々百濟と今の忠清北道方面で衝突したといひ(この地理的關係は、朝鮮歴史地理第一卷第九、羅濟境界考を參考せられたい)、又た同じころ加耶(加羅)とも黄山河(洛東江の下流)で衝突したとあり、祗摩尼師今(112−134)の時には、靺鞨(三國史記では今の江原道地方の住民を指してゐる。朝鮮歴史地理第一卷第四、好太王征服地域考參照)が來攻し、其の衝突地點が漢江の上流地域であつたらしく書いてあるから、もしこれが事實であるならば、其の領土は國初から、少なくとも今の慶南北道全部及び洛東江下流の東北方を包含してゐたもの、としなければならぬ。が、これは明かに三世紀に於いて新羅が辰韓十二國中の一國であつた、とある魏志の記載に矛盾してゐる。(504)其の上、百濟といふ國は其の存在すら此のころにはまだ明かで無く、よしあつたにしても馬韓の一小部落に過ぎなかつたに違ひない。さうして、樂浪郡の存在した間は忠清北道の主要部分は其の郡の域内にあつたから(朝鮮歴史地理第一卷第二、三韓疆域考參照)、そこで百濟と衝突する筈も無い。また、江原道方面のものが敵である間に、皆鏡道方面のものが北邊を侵すことは出來ないかち、華麗・不耐の邊寇は靺鞨の來攻と矛盾する。なほ、此のとき貊國が新羅の味方をしたやうに書いてあるが、貊は鴨緑江方面の民族を呼ぶ名であるから、これも全然虚僞である。助賁尼師今(230−247)の時に高句麗兵が北邊を侵し、沾解尼師今(247−261)の時にそれと和を結んだといふのも、之と同樣であつて、此のころに高句麗が新羅と交渉を生ずべき筈の無いことは、勿論である。もつとも、儒理尼師今の時に樂浪が高句麗に滅ぼされたとあるが、これは基臨尼師今の時に樂浪・帶方が歸服したとあるに矛盾した記事である上に、兩方とも明かに事實に背いてゐる(総論第二節參照)。それから、婆裟尼師今(80−112)の時に音汁伐(今の興海方面)を討ち、悉直(今の三渉)・押督(今の慶山)が降り、また比只(國史の比自※[火+木]、即ち今の昌寧?)、草八(今の草谿)を併せ、伐休尼師今(184−196)の時には召文國(今の義城)を伐ち、助賁尼師今の時に甘文國(今の開寧)を平げたとあるが、これもまた僞志の記載に背反するのみならず、早くから樂浪や百濟や所謂靺鞨やと衝突したといふ新羅紀自身の記事とも矛盾する。これらの地方が領土内に無くては、樂浪や百濟や所謂靺鞨やと衝突する筈が無いからである。なほ、婆婆尼師今の時には古※[こざと+施の旁]郡(今の晉州、或は安東?)、儒禮尼師今(284−298)の時には多沙那(今の河東)が貢獻し、又た婆娑尼師今が古所夫里郡(今の全羅北道古阜)に巡幸し、阿達羅尼師今(154−184)が漢水に出動し、基臨尼師今(298−310)が牛頭州(今の江原道春川)に至り、實聖尼師今(402−417)の時に平壤州(南平壤、即ち今の京城)に大橋を架した(505)とあるなど、六、七世紀になつて初めて新羅の領土に入つた地方を早くから有つてゐたやうに、書いてあることさへある(京城附近の漢江流域を新羅が取つたのは六世紀で、晉州・河東などのある慶尚南道の西部、即ち昔の任那日本府の領土の西部や、春川が新羅に入つたのは、七世紀である)。さうして、眞に新羅が辰韓地方を統一した時代であるべき四世紀の前半に當る訖解尼師今(310−356)時代には、毫もそんな樣子が見えてゐない。以上の所説を綜合して見ると、新羅紀の上代の部に見える外國關係や領土に關する記事は、總て事實で無いことがわかる。
然らば、其の他の方面ではどうかといふに、王室に關する記事に於いては、前に述べた赫居世の卵の話(これは朴氏といふ名の説明になつてゐる)の外に、脱解についても似た物語(これは脱解の名の説明に結合せられてゐる)があり、金氏及び※[奚+隹]林の名の説明として、鷄鳴を聞いて金※[木+賣]を得たといふ話、瓠を腰に繋いで倭から海を渡つて來た瓠公といふものの話などがあるが、これらが事實で無いことは勿論である。それから政治については、王に徳があり民が道を知つてゐたから、倭人や樂浪人が兵を率ゐて來たけれども、敢て侵さずに歸つたとか、南韓に聖人が出たといふので東沃沮の使者が來貢したとか、人の災を幸とするは不仁だといつて敵國王の死を弔したとか(赫居世の時)、鰥寡孤獨老病のものを給養したから、隣國の百姓が多く來歸したとか(儒理の時)、儒理と脱解とが王位を相讓つたとか、または民に農桑を勸めたとか、蝗害吉があつたので王が山川を祭つたら豐稔になつたとか(婆娑の時)、人を勞するを不可として宮室を作らなかつたとか(味鄒の時)、かういふ支那思想での理想的君主があり、理想的政治が行はれたやうな記事がある。最も甚だしきは、南解次々雄が漁鉤を業としてゐた脱解の賢なるを聞いて女を以てそれに妻はせ、登庸して政事を委任し、儒理尼師今が我が子を措いてそれに位を傳へたといふ、堯舜禅讓の譚を殆ど其のまゝに摸寫した話(506)さへある。さうして、それらが皆な事實らしく無いことは勿論である。こんな風であるから、嘉禾が生じたといふやうな祥瑞の記事のあるのも怪しむに足らぬ(婆娑・伐休・助賁の時)。龍が見えたといふことも屡々あるが、是も支那思想の所産であることは、いふまでも無い。なほ前に述べたやうに、山川を祭るとか、基臨尼師今の時に太白山を望祭したとかいふのも、支那的の政治宗教思想であつて、韓人の風習では無い。
然らば、かういふ新羅紀の記事は如何にして作られたかといふと、第一には支那の史籍から借りて來たもの、もしくはそれに基づいて拔出したものがある。かの六村を朝鮮の遺民としたのは、多分前に述べた魏略の記事、如ち衛氏の朝鮮の遺民が一時辰韓に來てゐた、といふ話から出たことであつで、それを辰韓の六部ともいふとしたのは、魏略に辰韓のこととしてあるからであらう。支那人が所謂夷狄を中國人の裔としたのとは違ひ、新羅人が自分等の祖先を支那人としたのは、不思議なやうでもあるが、拓跋魏が其の祖先を黄帝としたと同じく、思想上、支那を本位としてゐるものにとつては當然であらう。又た辰韓に秦人が來たといふのは、勿論、魏志を採つたのである。また前には引かなかつたが、南解の時、北溟人が田を耕して得た※[さんずい+歳]王の印を獻じたとあるのも、※[さんずい+歳]王の印のことを書いてゐる魏志の扶餘傳に出所があるらしい。華麗・不耐二縣とか東沃沮とかいふ名も、勿論、支那の史籍から出てゐる。が、なほ一歩進んで考へると、魏志の東沃沮傳に「不耐、華麗、沃沮、請縣皆爲侯國、」と列記してあるところから來たのかも知れぬ。卵の傳説も亦たかの魏志の扶餘傳に附記せられてゐる魏略の記事から脱化したのであらう。それから、樂浪郡の來攻などが事實で燕いことは勿論であるが、樂浪郡といふ名はやはり書物から得たものに違ひない。又た、婆娑尼師今及び伐休尼師今の時に、麥連岐または嘉禾が出來、奈解尼師今の時に死者が復活した、といふ記事のある南新(507)縣は、晉書に初めて見える帶方郡の屬縣の名を借りて來たものらしい。自國に史料が無い場合に支那の史籍の記事を借りて來て、それに何事をか附會するのは、支那の文化系統に屬する附近諸民族に於いて、自然に採るところの方法であつて、遼史の如きも其の例である(滿鮮地理歴史研究報告第五、遼の制度の二重體系、附録一、參照)。第二には、後世の状態を昔からのこととし、または後の事蹟に基づいて構想したものがあつて、前に述べた領土のこと、高句麗や百濟や加耶に關する關係などがそれである。特に外國關係については、以上のこつの方法によつて、あらゆる附近の民族または國土の名を列擧したものであることが、想像せられる。第三に、政治道徳に關する思想の所産が支那の經典から出てゐることは、いふまでも無からう。 かう考へて來ると、全體の紀年や歴代の國王の世系もまた虚構であることが推測せられる。特に赫居世の建國を甲子の年(57B.C,)としたのは、干支の始を揃へたのであつて、此の甲子の四月に即位して次の甲子の年(4A,D.)の三月に歿したやうにし、其の在位を精密に滿六十年としたのも、同じ思想から派生したものらしい。さうして其の甲子を57B.C.にしたのは37B.C.に始祖東明の即位を置いた高句麗、18B.C.に始祖温祚の即位を置いた百濟の建國の年よりも古くしよう、といふ意圖から出たものではあるまいか。(高句麗紀・百濟紀に見える二國の物語が何時作られたかは明かで無いが、此の點から見ても、それに新羅人の手が加はつてゐはしまいかと思はれる。三國の建國がほぼ二十年づつを隔てて殆ど同じ時代とせられたのは、そこに偶然ならぬ作意が見えるやうである。)歴代の國王の在位年數などにも、ほゞ定數があつて、一と二と三と四との組み合はせの外に出てゐず、それによつて作者の心理が覗はれるやうであるが、あまりに詮索に過ぎるかと思ふから、こゝには略して置く。
(508) ところが斯ういふ記事を除けば、新羅紀の上代の部は殆ど空虚になつて了つて、殘るところは倭に關するもののみである。が、新羅紀全體の性質が上述の如きものであるとすれば、其の倭に關する記事の價値も、亦おのづから類推せられる。第一に、倭人が多く王城の東方なる海岸から來攻した如く記してあるが、これは第一章に於いて説いたと同じ理由によつて、事實としては肯はれないことである。さうして、四世紀の後半から五世紀にかけて、我が國が加耶を根據として新羅に當つた、といふ明白な事件が殆ど現はれてゐないのは、益々倭人に關する記事の採るに足らぬことを示すものであつて、多くの戰爭譚は眞事實の忘れられた後になつて、空中に結撰せられたものであらう。なほ、訖解尼師今の時に、倭國王が婚を請うたから臣下の女を送つたとか、辭するに女既に嫁せるを以てしたとか、いふ記事があるが、これは歴代の支那の帝室と所謂夷狄との間に行はれた斯ういふ關係の記事を、其のまゝ史籍の上から借りて來たものであることは、いふまでも無い。それから、阿達羅尼師今(154−184)の時に、倭の女王卑彌呼が來聘したとあるのも、例の魏志から來たのに違ひないが、年代が合はないのは作者の杜撰であらう。また脱解尼師今は、倭國の東北一千里にある多婆邪國の王が、女國王の女を娶つて生ませた卵から出た、といふのであるが、女國は勿論、魏志の邪馬臺の女王國から出たものであつて、魏志には當時女王卑彌呼がゐたため、便宜上女王國としてあつたのを、こゝでは女國といふ國名にしてしまつたのである。多婆邪國の名の由來はわからぬが、東北一千里としたのは、魏志に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、」とあるところから來てゐるらしい。全體、倭といふやうな文字を用ゐることが、既に新羅人が支那の史籍を讀んだ後のしわざである。
新羅紀の上代の部に於ける倭に關する記事が、史料として價値の無いものであることは、これでも知られよう。其(509)の戰爭の記事は、畢竟四世紀の後半以後に於いて、絶えず我が國に抗敵してゐた、といふ事實に基づいて構想せられたものらしく、それは恰も舊くから屡々百濟と戰を交へたやうに書いてあるのと同じであり、又た實際に無い戰爭を虚構した點に於いては、樂浪郡に關する記事と同樣である。のみならず、眞に戰爭の行はれた時代のことにも、確實らしい具體的の記事は多く見當らぬ。一、二事實の片影が殘つてゐるものが無いではないにせよ、それすらも年代などは勝手なところに插入せられてゐるものがある。たゞ、慈悲麻立干(458−479)の時に※[插の旁+欠]良城方面で倭と戰つたとあるのは、事實であらう。又た、脱解なり瓠公なりの賢王賢臣を、敵國たる倭人もしくはそれに關係のあるものとしてあるのは、少しく奇怪のやうであるが、これも倭といふものが新羅人に最も強大な印象を與へてゐるからのことであつて、本來は敵であるものが、或る場合に其の敵であるといふ觀念の内容が意識せられずして印象の強さのみが殘り、それが別の方面に結びついたのである。支那的思想、また新羅紀全體の態度から考へると、都城が敵軍に陷つたとか、國王が外國人だとかいふことは、もしそれが事實であつたならば、寧ろ史上から削り去られるのが普通であるのに、それをわざ/\載せてゐるのは、そこにかういふ心理があることを證するものである。我が國の神話や上代の説話に於いて、味方たり屬國たる百濟よりも加羅よりも、却つて敢國たる新羅の方が多く現はれてゐるのも、一面に於いては是に似た心理に由來があらう。のみならず、かうひどく倭に惱まされながら、或は徳を以て、或は武力を以て、常にそれに討ち克つたとしたところに、作者の特殊の意圖があるかも知れぬ。
新羅紀の上代の部に對する批判は、必ずしも是で悉されたのでは無いが、倭人に關する記載の採るに足らぬことを證明するには、これで十分だと思ふ。さうして大體からいふと、前に述べた如く、實聖尼師今(402−417)のころにも(510)明白に虚構と見なすべき記事があるのであるから、其の前の奈勿尼師今(356−402)のころ、印ち我が軍が初めて新羅を壓したと推測せらるべき時代の記事も、他の確實なる史料の記載に照應すべきもので無い限りは、うつかり信用が出來ない。
さて一般に、或る國、或る王朝の上代史が、事實に基づいておのづから生じた傳説を書きとめたものに限らず、特殊の意圖に基づいた構想によつて形成せられたものがあるといふことは、此の新羅紀の一例でもわからう。支那の各朝の祖先の話、邊外から起つた魏や遼や金や元の國初の記事、又た朝鮮に於いては高麗朝や李朝の祖先の物語も同樣であつて、史上に現はれてゐるところは何れも造作に出でたものである。三國史記の高句麗紀・百濟紀は勿論のことである。(遼室の祖先の記事については、前に述べた「遼の制度の二重體系」附録一に説いて置いた。李朝の祖先に關しては、池内宏氏の精細なる研究が東洋學報第五卷第二・三號に出てゐるし、著者も曾て朝鮮歴史地理第二卷第十九章に於いて一言して置いたことがある。)
しかし、かうして作られた新羅紀の出來榮えは、甚だ粗末なものであり、何等の生氣も光彩も無いものである。あまりに甚だしく支那化せられ形式化せられて、新羅人に特殊な思想も感情も全く痕跡をとゞめてゐない。勿論、これはずつと後の高麗朝に編纂せられたものではあるが、其の史料となつた新羅人の述作に於いても、やはり似たものでは無かつたらうか。よし支那思想の潤色が濃厚であつても、又た漢文で書いてあつても、我が日本書紀をそれに比べると、霄壤の差がある。境遇の馴致したところか、民族性の現はれたところか、兎も角も半島人の知識階級は憫れむべき支那思想の奴隷であつた。何れの國民の上代史に於いても、其の一要素となつてゐるものは種々の説話であつて、(511)そこに其の國民の特殊なる思想や感情や生活状態などが現はれてゐるのであるが、これも新羅紀に於いては極めて貧弱であつて、而も新羅人の思想から出た特色が無い。赫居世にも脱解にも卵が用ゐられ、其の脱解にも※[奚+隹]林の閼智にも金※[木+賣]が用ゐられ、又た赫居世にも瓠公にも同じく瓠が出て來るなども、如何にも智慧がなささうに見えるでは無いか。
(512) 補訂
二一五頁、一行 「壯麗なものは」を「壯麗なもの、特に文字のある磚を用ゐた類のは」に改める。樂浪・帶方の古墳については、朝鮮総督府編纂朝鮮古蹟圖譜第一册を參照せられたい。
二六七頁、七行 「此の點から解釋すべきものであらう」を、「或は此の點から解釋すべきものかも知れぬ」に改める。「天皇」の二字が茲に現はれてゐることについては種々の解釋を容れる餘地があらうし、またそれには、此の復讐譚の記載せられてゐる一書の作られた時代が何時か、特に神功皇后の征討物語の形成せられたより前か後か、といふことを考へる必要もあらう(此の書の文章は書紀の編者が書きかへたのであらうが、書物は勿論、昔から傳はつてゐたものである)。
二八四頁 卵生の傳説は支那にもあつて、博物志・述異記などに徐偃王のこととして載せてある。それから、異常の出生であるがために棄てられた子が、鳥獣にも害せられなかつたので取り上げられた、といふことが高句麗の祖先の話にあるが、これも周の祖先だといふ后稷の傳説に見えてゐる。けれども、高句麗の物語がそれらに關係があると推斷すべき理由は無ささうである。獨立して所々に發生し得べきものとも考へられ、また卵生傳説は却つて支那の方が何處かからの輸入物であるかも知れないと思はれる。高句麗の物語の一特色は、日光によつて娠んだといふ點にあるが、著者の狹い見聞では、其の類例が支那にあることをまだ知らぬ。
(513) 三〇八頁、一四−一五行 熊鰐の字は別のところ(神代紀、上の未の方)にも見えてゐて、やはり八尋とあるから、大きいワニをいふのらしい。他に例が無いと書いたのは著者の粗漏であつた。だから、此のクマは古事記の雄略天皇の卷の歌のうちにあるハビロクマカシなどと同樣の意味で用ゐたものであらう。
三四五頁、五行 「穴居してゐた」を「穴居してゐたものとして記者の思想に存在した」に改める。
三九一頁、一五行 金史などに同姓とあるのは同部族のことで、それは必ずしも血統上の同族には限らなからうと思ふ。同部族間で嫁娶しなかつた女眞人は、其の風習が恰も不娶同姓といふ支那人の套語を適用するに都合がよかつたので、それをかう書くやうになつたのではあるまいか。支那人の同姓といふことにも研究すべき問題はあるが、それは且らく別として、本文の書きかたが少しく粗笨であつたから、これだけのことを附記して置く。
四〇四頁、一五行 カバネの語に「姓」の字をあてたことは、此の語の意味をどう解釋するにしても妥富で無いが、しかし臣とか連とかいふ家格を表はす稱號としては特に不適當である。だから、最初に此の字を適用したのは、カバネがかういふ意味には用ゐられてゐなかつた時代のことではあるまいか。著者は、カバネの原意義がウヂと同樣であつたらうといふ推測の確かめられる一材料として、此の字を見たいと思ふ。「氏」と「姓」とは通常ほゞ同意義に用ゐられるものだからである。
四三三頁、三行 太陽崇拜が行はれてゐたことは、神代史の中心思想が太陽神であることから見ても疑ひは無からうし、また古事記のナツタカヒの神などは、何かの意味に於いての太陽神らしく思はれ、さうしてそれは民間崇拜に基礎があるだらうと推測せられる。が、祝詞などにも太陽神を祭る場合のものは無く、米の豐熟を祈るについて太陽に(514)最も關係の深かるべき祈年祭のにも、此の神のことは見えない。また神名帳にも、特に太陽神を祀つたらしく考へられる神社は無いやうである(山城宇治郡・大和添上郡・近江犬上郡などに、日向神社といふのがあつて、文字を見ると太陽に何か關係がありさうでもあるが、此の日といふ文字に意味があるかどうか、よしあるにしても、それが太陽崇拜と何か聯絡があるかどうかは、明かでない)。萬葉などにも太陽を祭ることは無い。これは何故であらうか。太陽神は神代史の上では皇祖神であるから、太陽崇拜は即て皇祖神の祭祀となり、從つて、朝廷に於いて太陽神に對する特殊の儀禮の無いのは、當然のことかも知れぬが、民間崇拜としては、もう少し其の形跡が文獻の上にも現はれてゐてよささうなものである。だから、こゝに多少の問題が遺つてゐる。
四三四頁、二−五行 上文(四三一頁)に述べた風の神や海の神も、やはり一般的意味を有する自然神であるが、それは龍田とか墨の江とかの神として、實際民間に崇拜せられてゐるのに、同じ意義での山の神・森の神といふやうなものの崇拜が見えず、某の山、某の森、または某の川、といふ特定の場所の精靈たるに止まつてゐるのは、天界や空界やまたは蒼茫たる海洋は、一つの現象として見られるのに、地上の現象はさうで無いからではあるまいか。
四三六頁、一五行 四三六頁に引用した萬葉の歌に見えるアスハの神は、家の保護神らしく見られなくもないかと思はれるが、此の神の名の意義が不明であるから、一概にさうは推斷しかねる。祈年祭の祝詞の文意から考へると、家屋に關係のある神かも知れぬが、それをすぐに家族生活の保護神と見ることには、なほ躊躇しなければならぬ。又た竈神の如きも、家の保護神として考へられたやうな證據は無ささうである。
四四四頁、六−八行 私生活に於いて神を祭ることが屡々見えてゐる萬葉の歌にも、祖先を祭るやうな習慣は現はれ(515)てゐないやうである。例の大伴家持の喩族歌にも、祖先以來の家風とか家の精神とかいふものは強調せられてゐるが、祖先を神として崇拜するやうな意味は無い。萬葉に無いからとて實際に無かつたと、單純にいふことは出來ないが、一方に於いて、事ある場合に神に祈り神を祀ることが甚だ多く歌はれてゐながら、祖先に折り祖先を祀ることの見えないのは、注意を要する。
追加
二三三頁、三−四行 「書きざまのもの」「書いたもの」は、「書きざまのところ」「書いたところ」とした方が、後にいはうとする主旨から見ると、穩當であらう。
三九二頁、三行 本文には書き漏らしたが、高麗の光宗が異母妹を后としてゐることが、高麗史(卷八十八)、后妃傳に見えてゐる。これは學友池内宏君の注意によつて知ることを得たのである。
三九六頁、一−三行 此の神話は、或は支那思想と固有の風習との衝突を示すものとしても解釋はできるかも知れぬ。
四四二頁、一行 「例へば」から「いふもの」までの二十六字は、抹殺して置く。
四四四頁、六行 オホクニヌシの神は、政治的には天つ神に反抗した國つ神であると共に、宗教的には正しい神に對する邪神であり、荒ぶる神であつて、此の兩性質を兼有することは、政治的には君主であらせられると共に宗教的には神にて坐す皇祖神の地位に、照應するものである。また荒ぶる神は、民間信仰としては、概して evil spirit であり人格の無い demon であるが、それがオホクニヌシの神の如き人格を有する神となつて現はれるのは、政治的意義を有する神代史の物語の上だからである。記紀の天孫降臨に先だつオホクニヌシの神服從の物語にも、また遷却祟神祭(516)祝詞・出雲國造神賀詞などにも、此の純粹に宗教的意義の荒ぶる神と物語の上のオホクニヌシの神とが、曖昧な筆法で混淆して記載せられてゐるのは、此の故である。
四七六頁、一〇行 神話の上では神が皆な人格を具へてゐる。神代はかういふ神の活動する代であつて、そこに現はれるものは皆な神である。天つ神も國つ神も皆な神である。さて神武天皇の物語は神代のことでは無いが、天皇はもとより天つ神の御子であらせられ、神であらせられる。だから、それに對するものとして國つ神の觀念が提出せられる。いひかへると、是は人を神と稱したのでは無くして、神を人らしく取り扱つたのである。本文に「人」とあるのと、人代になつてからの話であるのとのため、「神であつて人では無い」といふ説明がやゝ奇異に感ぜられはしまいかと思ふから、一言して置く。なほ四八六−七頁を參照せられたい。
〔編集後記より。『神代史の新しい研究』(大正二年、二枚堂書店)、『古事記及び日本書紀の新研究』(大正八年、洛陽堂)。『古事記及び日本書紀の新研究』は改訂を加へられ、『神代史の研究』と同じ年に『古事記及日本書紀の研究』と名を改めて岩波書店から刊行された。この改訂の主要な意味は、家族生活と宗教思想とに關する章節を除いたことに示されている。以上要点。〕
〔2020年11月7日(土)夜7時35分、入力終了〕