萬葉集新講(改訂版)、次田潤、成美堂書店、659頁、6円50銭、1925.3.1改訂版(1931.2.1.10版)〔入力者注、国歌大観番号を付した。〕
 
(1)     序
 
 萬葉集が紀記二典とともに、我が國の最も貴重すべき古典であることは、いふまでもない。之を繙けば、直ちに千年以前の昔に返つて、我等の祖先の心持になり得るのである。奈良の舊都に遊んで、古い堂塔や、古い美術品を見るよりも、一層懷かしい親しい感じが湧くのである。その中には技巧詩人の作つた技巧詩もあるが、作者不知の國民詩が、最も面白いものである。とにかく、萬葉集は將來幾千萬年の後までも、日本人の讀まなければならぬもの、永世不朽の寶物である。一時全く棄てられてをつたこの書の研究が、近世の學者の手によつて、だんだんと進められてきたのは、誠に喜ばしいことである。今また東京帝國大學國文科出身の次田君が、卒業後多年の研究を積んで、この新講を(2)成されたのは、萬葉の研究史上、更に一歩を進めたもので、學界の一慶事といはなければならぬ。喜びの餘り一言を記して君におくる。
  大正十年一月二十日
             芳賀矢一
 
(1)     改訂版緒言
 
 本書は嘗て教職を奉じてゐた神宮皇學館や第七高等學校などで、萬葉集を講ずる傍書いた草案を基として講述したものである。歌は略解及び古義の訓を原據とし、これに仙覺抄・代匠記・考・槻落葉・燈・小琴・檜嬬手・註疏・美夫君志・新考等の異説を參酌して改訂を加へたものを本文として、掲げたのである。講義は解澤口語譯批評の三段に分つて述べたのであるが、解釋と批評には、前記の諸註を、參照すると共に、歴史地理宗教土俗考、古言語等の史的科學の智識に基いて、舊説を批判し且つ私考を述べ、なほ歌の背景となつてゐる、上代文化の一端に就いて説明する事に努めたのである。若し此の小著にして、聊かでも從來の研究の足らざる所を補ふ事が出來たならば、本懷の至りである。
 此の一書の初版は大正十年六月に出版したのであるが、一昨年九月一日(2)の大震火に紙型を燒失したので、此の度改版するに當つて面目を一新する事を得たのは、著者として大に喜ぶ所である。之を初版に比較するならば、前に講じ洩した歌を加へ、又解釋批評は元より、圖版索引等に増補修正を施した所が少くないのである。ただ紙數を減じたのは、さまではと思つた歌を割愛したのと、活字の組方の緊縮を計つた爲とに因るものである。
 此の改訂版に講じた歌の數は、短歌六百五首、長歌八十九首、旋頭歌十八首、合計七百十二首であつて、集中の傑作又は歴史的に著名な歌は、殆ど洩れなく講義したつもりである。なほ作としては優秀なものでなくても、特殊の興味のある東歌や防人の詠なども、比較的多く採つたのである。
 卷頭に掲げた各種の圖版は、有益な參考資料となるであらうと思つたので、此の度一部分は優秀なものと取換へ、なほ新に二三を増加したのである。大和の遺跡寫眞の多くは、嘗て其の地を周遊した時豫定して置い(3)て、後日友人の指導の下に、寫眞師をして撮影させたものであるが、其の他は友人の寄贈にかゝるものである、
 本書の爲に同情を寄せられた人が少くない。別けても懇切な序文を賜うた恩師芳賀矢一先生、研究上種々の便宜を計られた吉田賢龍先生、装幀の意匠並に口繪を贈られた友人阪谷良之進君、寫眞の撮影又は轉載について、特に厚意を寄せられた神木亮・辰巳利文の兩君に、篤く感謝の意を表するものである。
                 東京市外目白臺下の假寓にて
  大正十四年一月十三日                 著者
 
(1)     口繪圖版解説  附裝幀圖樣解説
 
圖版第一 飛鳥地方遠望
   天香具山の南方から飛鳥の古京を遠望した寫眞である。近くの雜木の繁つてゐる岡が雷丘で、其の直ぐ背後に顔を覗けてゐるのが甘橿丘である。昔允恭天皇の御時に深湯を行つて姓氏の混亂を正された古跡は、此の甘橿丘の麓にある。雷丘の麓に見える堤は飛鳥川で、其の左手の村落は、飛鳥の清御原宮の遺跡である。飛鳥村の背面の山には岡寺があり、雷丘と飛鳥村の間からは、遠く島宮の址を遺す島庄、及び聖徳太子の遺跡と稱せられる橘寺を望む事が出來る。
 
圖版第二 藤原宮址より天香具山を望む
   近く左方に見える森は、持統文武二朝の皇居であつた藤原宮の舊跡で、今なほ千三百年前の古瓦の破片が散在して居る。正面に望む松の生ひ繁れる山は天香具山で、其の麓の人家は高殿である。山麓の中央には啼澤森が見え、山の後方には談山神社のある多武峯が遠望せられる。多武峯の左手に見えるのは音羽山である。
 
圖版第三 天香具山より畝傍山を望む
   眼下に見える村は木之下で、其の向ふに見る近き森は別所森で、遠き森は垂仁天皇の御代に曙立王が宇氣比を行はれたと(2)云ふ鷺栖森である。左方に眺める圓滿な姿の山は畝傍山で、神武天皇御陵は右手の麓に見え、橿原神宮は左方の麓にある。畝傍山の背後に遠く屹立する峻嶺は葛城金剛であつて、其の右手に稍近く見えるのは、大來皇女が「妹背と吾見む」と詠まれた二上山である。なほ畝傍山の前方から別所森の後方にかけて、飛鳥川の堤が見え隱れしてゐる。
 
圖版第四 初瀬川を隔てて初瀬地方を望む  (辰巳利文氏「萬葉古蹟寫眞集」に據る)
   初瀬川を隔てて左手に現はれてゐるのは三輪山の一部で、中央に遠望するのは初潮山であた。「隱口の泊瀬の里」は此の山の麓で、其所に有名な長谷寺がある。又右手に近く望む岡の麓には、雄略天皇の朝倉宮址があり、今も此の地方に朝倉村の名を遺して居る。
 
圖版第五第六 吉野川上流宮瀧 其一・其二
   此の二葉は吉野川上流の中莊村字営瀧の地であつて、其一は上流を望み、其二は下流を眺めた寫眞である。古へ從駕の宮人が舟遊を催したのは恐らく此の處であらう。其一の寫眞に見える淵の窮まる所は、上古は瀧をなしてゐた處であると云はれてゐる。淵の右上に聳えて嶺は中山で、左手のが「瀧の上の御舟の山」と歌はれた峯である。吉野宮址は此の御舟山の左方に當るのである。其二の寫眞に於て、左手に吉野川に注ぐ細流が白く見えてゐるのは、喜佐谷から流れて來た所謂象小川の水であつて、象山は此の水源地である。遠景の山の左上を今もいはくら〔四字傍点〕と呼んでゐるが、是は「石倉の小野ゆ秋津に立ち渡る雲にしもあれや時をし待たむ」と歌はれた地であらうと云ふ。(辰巳利文氏の解説に據る)
 
(3)圖版第七 其一 春日野の若草山
   萬葉歌人が若菜を摘んで遊び暮した春日野の一部を偲ぶべき所である。古への春日野は、此の若草山の麓から猿澤池のあたりまでを稱したのである。若草山は中古の歌に「春日野の若草山」と歌はれた處で、今は三笠山と呼んで居る。萬葉に御蓋山と歌はれたのはこれとは別の山で、それは圖版第十二に見えてゐる。若草山で春の初めに枯草を燒く習慣が今なほ保存せられてゐるのは、ゆかしい限りである。
 
      其二 三輪山及び大神神社  (辰巳利文氏「萬葉集古蹟寫眞集」に據る)
   正面に望むのが三輪山で、其の麓の欝蒼たる森林は、大物主神を祀る大神神社の鎭座する所である。集中に屡歌はれてゐる「三輪の神杉」は此の社の神木である。山の左方に姿の一部を現はして居るのは卷向山で、弓月嶽と歌はれてゐるのは、此の嶺の名である。又萬葉集に「あなしの山」若しくは「あなしの川」と歌はれた穴師は、今も其の麓の里の名に遺つて居る。
 
圖版第八 領巾振山及び虹松原
   佐用媛が領巾を振つて悲しい別を告げたと云ひ傳へられてゐる領巾振山を、唐津公園から眺めた景色である。前面に横たはる芝生で蔽はれた山が領巾振山で、其の左方の麓に唐津灣に沿うて長く延びて居るのは、白沙青松の好風景で名を知られた虹松原である。山の前方に見える人家は唐津に連なる滿島で、其の右手から前面にかけて幅廣く流れてゐるのは松浦(4)川である。名高い玉島川は領巾振山の向ふを流れてゐるので、此所からは數里を隔てて居る。
 
圖版第九 墨江浦の夕景
   有名な浦島傳説の傳はつてゐる丹後の墨江浦の景色で、秋の落日が日本海を眞赤に染めてゐる夕方に寫した寫眞である。手前の岸は俗に釣溜と呼び、左方の島には蛭子神社があり、右方の福島には綿津見の乙女を祀る福島神社といふのがある。正面の海は即ち日本海で、淺茂湖は前面の入江に注いで居る。
 
園版第十 佐保川堤より生駒山を望む    阪谷良之進氏畫
   中央に遠く連なる道路は奈良平野を東西に貫くもので、平城京の三條通に當るのである。正面に眺む嶺は生駒山で、其の左肩は飛火岡である。其の前方に樹木の繁る丘があるのは、垂仁天皇の御陵で、完全な瓢形を成して居る。御陵の背後に見える連山は矢田山の一部。右方の村落は都跡村で、秋篠の里はその後方に當る。
 
園版第十一 恭仁京の遺跡         阪谷良之進氏畫
   高麗山にある海住山寺の傍から恭仁京の古跡を眼下に見た景色である。中央に屹立するは鹿背山で、其の前を貫流するのは木津川、即ち古への泉川であつて、川向には離宮が設けられてゐた。眼下に散在する村落は瓶原村で、こゝに國分寺址がある。此の邊一帶が昔の布當原で、恭仁京は此所に造られたのである。左方に當つて遠く七分の姿を現はしてゐるのは(5)春日山の北面であつて、それと鹿背山との中間には、遙かに吉野連山を見る事が出來る。鹿背山の背面に雲かと見える遠山は金剛葛城及び二上山で、其の前方に低く連なる山は奈良山である。なほ奈良山と二上山の間に描かれてゐるのは、矢田山の一部である。此の畫は著者が嘗て此の地方の舊跡を訪づれた時、同行した阪谷氏が描いたものである。折しも夏の夕日が葛城山に傾いて、遠く郡山の市街や藥師寺の塔、さては畝火山にかけての大和平野の一部が、手に取るやうに眺め渡された。此の畫は著者にとつては思出の多い曾遊の好記念である。
 
圖版第十二 秋の春日山          阪卷良之進氏畫
   奈良市高畝の裏から望んだ春日山の秋景色である。正面に見える欝蒼とした山は御蓋山で、其の背後に聳える藍青色の嶺は春日山である。又御蓋山の左手に見える芝生で敝はれた山は春日野の若草山、即ち三笠山であつて、春日山の右に連なつてゐるのは高圓山である。前方に斷續してゐる築土の崩れは、春日神社の舊社家の屋敷跡であるが、霜枯れた秋草の上に遊ぶ神鹿と共に、何となく廢都の哀愁をそゝるものがある。
 
裝幀圖樣                 阪谷良之進氏作
   正倉院御物中の蘇芳地金銀繪箱と稱する小箱の、蓋の表面に描かれたはなくひ鳥〔五字傍点〕を採り、これに多少の意匠を施したものである。圖樣文字ともに阪谷良之進氏の手に成つたものである。
 
(18)挿入圖畫
 地圖
  唐津附近……………………………………二八二
  網野附近……………………………………三九九
  福岡附近……………………………………五五三
 植物圖
  かね……………………………………………二五
  むらさき………………………………………二五
  にはとこ(やまたづ)………………………八一
  あしび………………………………………一一六
  はまゆふ……………………………………二四六
  あかめがしは(ひさぎ)…………………三〇九
  をけら………………………………………五〇九
  かたかご……………………………………六〇三
  ほほがしは…………………………………六一一
 器物圖
  環状柄頭の一例……………………………一四四
  さしば………………………………………五六一
  玉箒…………………………………………六五八
附録
  語釋索引
  參考書目
  皇室御系圖
  藤原氏系圖
  大伴氏系圖
  飛鳥京附近地圖 附、吉野山中宮瀧附近
  平城京地圖 附、恭仁京附近
  越中の一部及び石見の一部地圖
目次 終
 
(1)萬葉集新講 改訂版
               文學士 次田潤 著
 
   萬葉集 卷一
 
○一・二の卷は十一十二十三の諸卷と共に、萬葉の前期を代表する卷である。後者が作者未詳の民謠集であるに對して、前者は宮廷歌人の作を集めたもので、謂はば後の勅撰集にあたるものである。眞淵はこの二つの卷を、古き大宮風の歌と云つて、頗る尊書したのである。この二つの卷は作者不明の三四首を除く外は、すべて時代も記されてゐて、編次も他の卷に比して、よほど整頓して居る。なほ一の卷は全部雜歌である。
 
   雜歌
 
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代《ハツセアサクラノミヤニアメノシタンロシメシシスメラミコトノミヨ》
 
   天皇御製歌
 
(2)1 籠《こ》もよ み籠持ち ふぐしもよ みふぐし持ち 此の岡に 菜《な》摘《つ》ます兒《こ》 家聞かな 名《な》告《の》らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて わこそませ われこそは告《の》らめ 家をも名をも
 籠毛與。美籠母乳。布久思毛與。美夫君志持。此岳爾。菜採須兒。家吉閑。名告沙根。虚見津。山跡乃國者。押捺戸手。吾許曾居。師吉名倍手。吾己曾座。我許背齒告目。家乎毛名雄毛。
 
【釋】○「雜歌」の部には行幸・遊宴・狩獵・旅行・其の他種々の場合に詠まれた歌が收めてある。○「泊瀬朝倉宮御宇天皇」は雄略天皇を申す。朝倉宮は大和磯城郡朝倉村黒崎の地に在つた。卷一卷二等に時代を記すのに、宮の名を以てしてあるのは、上代の宮城は天皇御一代限りであつて、次の御代には別に地を卜して、新宮を御造營になるのが常例となつてゐたから、何宮の時代と云へば、自ら時代が明かであつたのである。尤も藤原宮以後は支那の制に倣つて、大規模の帝都を御經營になるやうになつたから、漸次帝都が固定するやうになつたのである。○「籠もよ」の「籠」は「かご」のこと。「籠」の訓は代匠記にカタミ(竪間の轉)、考・略解・檜嬬手等にはカタマと訓んで居る。此の二訓は日本書紀の、彦火火出見尊の海宮遊幸の神話に出てゐる「無目籠」の訓によつたのである。併し宣長が云つたやうに、籠を常にカタマと云つたと心得るのは誤である。何となれば、右の無目籠は船であつて、隙間のない目のこんだ籠の義であるから、特にカタマと訓んだのである。併し一般の籠はコと呼んだ證には、古事記應神天皇の條に「八目(3)之荒籠」といふがあり、又集中に籠の意の語に、假名で「故」と書いた例があり、なほ地名に鳥籠《トコ》の山といふもあるから、この場合も古義・美夫君志等の説に従つて、コと訓むのが穩當である。次に「も」「よ」は共に感動の助詞である。(下の「ふぐしもよ」の「もよ」も同じ。)○「み籠」「みふぐし」の「み」は愛でる意味の接頭語である。○「ふぐし」は掘串の義で、菜を掘り取るとき用ゐるヘラのやうなものを云ふ。○「菜摘ます兒」の「す」は敬語の意(又は親愛の意)を添へる副語尾で、主として四段活用の動詞の未然形の下に接する。活用は左行四段の動詞と同じ活用、即ち「さ」「し」「す」「す」「せ」と活用する。この語形は萬葉の頃には頗る頻繁に用ゐられたが、平安朝になつてからは全く廢れた。○「家聞かな」の「な」は希望の意を添へる助詞で、動詞の未然形に附く。○「名告らさね」は名を告れよと云ふ意。「ね」は希求の意を表はす助詞で、「な」と同じく動詞の未然形を承ける。「告らさ」の「さ」は前に述べた敬語法の副語尾である。さて上代の風俗では、夫と定めた男でないと、女が名を告げることはしなかつたのである。名を告れといふ歌が上古に多い譯がこれで知れる。○「そらみつ」は大和の枕詞。一體枕詞の語義には未詳のものが少くない。それは上古には夫々語義が判然としてゐて、一の修飾語として使用せられたのであらうが、漸次時代を經るに從つて、同じ音の語に轉々して冠するやうになり、單に語呂のために云ひ續けるものが多くなつたから、自ら解釋し難いものとなつたのが多いのである。さて「そらみつ」の語義については、從來日本書紀の、饒速日命が天の磐船に乘つて空を翔けて居たとき、大和の國土を見下ろして、山河の美しい地として、天降りなされたといふ神話によつて、天から見た大和の意で懸けるのであると解釋されてゐたが、(契沖・眞淵等)此の神話は寧ろこの枕詞から生じた、一種の説明神話であるやうに思はれるから、この枕詞の起原と云ふことは出來ない。それよりも守部がソソリ滿ツ山の意で、大和は青山四周の地であるから、その地形から云ひかけたのである、と云つて(4)ゐるのは參考になる。此の外同じく地形から見て、空滿つ山戸の義に解く説もある。○「やまと」はこゝでは大和一國でなく、廣く知し召す天の下を指し給うたのである。○「おしなべて」「しきなべて」は同じやうな意の句を對に置いたのである。即ち「おしなべて」は押し並べてといふので、すつと押し亙して天下を知しめす意に用ゐられてゐる。又「しきなべて」は敷き並べてといふ意で、「敷く」は「太敷きます」などのやうに知し召す義である。○「われこそは告らめ云々」は少女に家が聞きたい名を云へと仰せられても、恥ぢらつて口を開かなかつたので、天皇は更に「朕こそ先づ家をも名をも告げ知らせよう、朕は天下を知し召す君であるぞ」と仰せられたのである。この所の二句は「そらみつ」の上に置き換へて見ると意味がよく通じる。○此の歌は二段から成つてある。即ち「家聞かな名告らさね」までが第一段で、それ以下は第二段である。
【譯】籠を持ちふぐしを手にして、この岡で若菜を摘んで居るそこなるいとしい少女子よ。そなたは誰の子であるか、家が聞きたい、又そなたの名を聞かせてくれ。かく申す吾は、この天下をずつと廣く治めてゐるその人だよ。そなたが名を打開けないから、先づこの朕から先に家をも名をもかく告け知らせるのだ。早く名を云つてお仕舞ひよ。
【評】絶倫の御體力と剛毅の御氣象とを有たせられたと傳へられてゐら雄略天皇が、その半面に豊かな文雅の趣味を有たせられたことは、記紀に見える御製によつて、之を知ることが出來るが、萬葉卷頭のこの御製の如きは、特に優雅な御性格が窺ひ得られるのである。即ち長閑な大和の野邊に、威風堂々たる天皇が、狩か何かのお還りがけに可憐な少女の前に立たせられて、戯にその名をお尋ねになつてゐる光景が、簡古な語句の上に活躍してゐるやうである。
(5)春満の僻案抄に、雄略天皇の御製は記紀に多く載つてゐるに拘らず、萬葉に僅かに此一首を收めたのは、此の御製が傑出してゐる爲ではなく、國史に漏れたのを遺憾に思つて、特に此の集に收めたのであらうと云つてゐる。又守部の稜威言別に、此の御製は古事記にある、赤猪子の物語の一部ではなからうかと言つてゐる。古事記を見ると赤猪子の物語の外になほ、天皇が春日に行幸せられる道で一少女にお出會ひになつた時、其の少女が岡邊に逃げ隱れたので、一首の歌をお詠みになつた事が見えてゐる。赤猪子の物語といひ、春日の少女の話といひ、共に萬葉の此の御製の趣に似た點があるのは、もと同一根源から分出した物語ではなからうか。而して赤猪于の物語は就中、其の古物語の主要部分を保有するものであるらしく思はれるのである。
 本歌は古來難訓で名高いものであつた。右に示した訓は、古來幾多の學者の研究を經て、かくの如く訓《よ》まれるやうになつたのである。試みに右の新訓を古訓と比較したならば、二者の間に大なる相違のあることを知るであらう。今古訓の一例として、元暦校本(奥書に「元暦元年六月九日以或人校合了右近權少將」とある)の朱點を掲げて見ると
  籠竜與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳爾菜採須兒家吉閑名告紗根虚見津山跡乃固者押奈戸手吾許曾居師告名倍手吾己曾座我許背齒告目家呼毛名雄母《コケコ(ロ)ロモチフクシモヨミフクシモチコノヲカニナツムスコイヘキケナツケサネソラミツヤマトノクニハヲシナベテワレコソヲラシツケナベテワレコソヲラメワレコソハセナニハツゲメイヘヲモナヲモ》
とあつて、兩訓の相違點は八九個所もあることを知るであらう。以下新訓の出所を説明しよう。先づ初の二句「籠毛與美籠母乳」をコモヨミコモチと訓んだのは仙覺で、「菜採須兒」をナツマスコと改めたのは小琴の説、次の「家吉閑」をイヘキカナと訓んだのは美夫君志の訓、其の次の「名告沙根」をナノラサネと改めたのは代匠記、又「吾許曾居師」の句を「居」で切つて「吾許曾居《ワレコソヲレ》」と訓み、次の句の「告」を「吉」の誤として「師吉名倍手《シキナベテ》」と改(6)めたのは小琴の説であり、なほ「我許(者)背齒告目」を從來二句と見てゐたのを一句と見て、「我許背齒告目《ワレコソハノラメ》」と改めたのは新考の訓である。仙覺律師が古訓を評して「句不v得2其意1朦朧綿々如v對2夕霧1」と歎思したのは、今を去る六百七十年の昔であるが、かゝる不完全な舊訓が、其の後多くの學者の研究によつて、右に述べたやうに訓まれるやうになつた事を思ふと、吾人は此等の學者の努力を感謝せずには居られない。
 
  高市崗本《タケチヲカモト》宮御宇天皇代
 
   天皇登2香具山1望國《クニミ》之時御製歌
 
2 大和には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》 登り立ち 國見《くにみ》をすれば 國原《くにばら》は 煙《けぶり》立《た》ち立つ 海原《うなばら》は かまめたちたつ うまし國ぞ あきつしま 大和の國は
 
 山常庭。村山有等。取與呂布。天之香具山。騰立。國見乎爲者。國原波。煙立龍。海原波。加萬目立多都。※[立心偏+可]怜國曾。蜻島。八間跡能國者。
 
【譯】○「崗本宮」は所謂飛鳥の地で、其の位置は普通今の大和高市郡高市村の岡であるといはれてゐるが、喜田博士の説(7)では飛鳥村大字雷の東方であるといふことである。此所に都された天皇は第三十四代の舒明天皇で、前の雄略天皇からは十三代を隔てゝゐる。○「香具山」は大和國磯城郡香久山村にある。所謂大和三山の一で、萬葉歌人には最も馴染の深い岡である。小高い山ではあるが、大和平野に在るので、四周の眺望が佳いのである。○「國見」といふは普通民情視察のために、山上かち國土を視ることを云ふが、又單に見晴して樂しむことをもいふ。こゝは後の場合である。なほ國見は天皇に限らず臣下にも用ゐた例がある。○「大和」これは大和一國を指すのである。○「群山」は群れる山。○「あれど」の下には「其の中にも」といふやうな語を置いて見ると意味がよく通じる。○「とりよろふ」の「とり」は接頭語。「よろふ」は契沖の説に、物が足り具はることをいふので、大和には山が幾らもあるが、その中にもこの山は峯谷草木すべて面白く具はつてゐる山であるとし、譽めて宣うたのであるとしてゐるが、(考・略解・古義・註疎・美夫君志等同説)守部は説を異にして、此の山の周圖に佳い眺望を備へてゐることを云つたので、鎧といふのもこれと同じ語義に屬するものであると云つてゐる。思ふに「よろふ」は「寄る」と關係のある語で、「よそふ」(粧ふ)と同類の語であらう。○「天の香具山」の讀み方は、古事記の歌に阿米能迦具夜麻《アメノカグヤマ》とあるから、アマでなくアメとよむべきである。「天の」と云つたのは集中五個所ある。其の一に「天降付《アモリツク》天《アメ》の芳來山《カグヤマ》」とあるやうに、此の山は天から降つて來たといふ傳説があるので、「天の」を附けたのであらう。伊豫風土記に「伊豫郡自2郡家1以東北在2天山1。倭在2天加具山1。自v天天降時二分而以片端者天2降於倭國1。以片端者天2降於此土1」とある。さて此の句の下には述語が省いてある。又次の句の上には、「その山に」といふやうな語を置いて見るべき所である。○「國原」の「國」は一區域の地を云つたので、こゝでは周圍の平野を指すのである。又原はすべて廣い場所をいふので、野原・河原・海原の原や人體の腹など皆同じ意味である。○「煙立ち立つ」の本文「煙立龍」の「龍」は一本に「籠」とあるので、考は之を採つて、(8)コメと訓んでゐるが、(元暦校本には「龍」とある)これは「龍」の方が正しいやうである。何となれば次の句に「かまめたちたつ」とあつて、それに對する調もよく、又意義から見ても、煙が立ち籠めてゐては眺望を妨げることになる。なほ煙はケブリと讀むがよい。ケムリといふのは後のことである。さて此の煙について、雅澄は卷十三に「煙立つ春の日暮らし」とあるのを見ると、霞のことを云つたのであらうと云ひ、契沖・守部・木村博士等は炊煙が立つて民が賑はつてあるさまであると云ひ、眞淵は煙にしても霞にしても、兎に角遠望の景を云つたので、漢詩にいふ烟山・烟樹などの趣であると云つてゐる。今は炊煙と見ておく。○「海原」は香具山の麓にあつた埴安池を云つたのである。今其の跡も不明になつたが、昔は大きな池があつたと見える。埴安といふは山麓の古い地名で、それを池の名にも呼んだのである。古くは池も湖も海も均しくウミと云つたのである。○「かまめたちたつ」は?が頻りに飛び立つて遊んでゐるといふ意。○「うまし國ぞ」の本文「※[立心偏+可]怜國曾」の訓に種々の説がある。元暦校本の朱點にオモシロキクニゾとあつて、代匠記・檜嬬手・註疏等は同樣に訓んで居るが、考には神代紀に「可怜小汀《ウマシヲバマ》」とあるのを引いて、ウマシクニゾと訓んで居る。(燈・古義・美夫君志・新考等はこれに從つてある)今考の説によつて前の如く訓んだのである。なほ本文に「※[立心偏+可]怜」とあるのは。宣長が云つたやぅに、「怜」の篇を上の「可」にも及ぼして「※[立心偏+可]怜」と書いたので、神代紀の「可怜」と同訓に用ゐたものに相違ない。「うまし」は上代では味ばかりでなく、廣く見る事聞く事等にも用ゐたのである。こゝの語形は其の語幹を直ちに「國」の修飾語に置いたので、平安朝以後であると、ウマシキ國といふべき所である。又「ぞ」は確實に指示する助詞である。そこで此の一句はまことに結構な國だぞと云ふ意となる。○「あきつしま」は大和の枕詞。その起原について、神武紀に天皇が腋上?間丘《ワキガミノホホマノヲカ》から國見をなさつた時、大和の國原が蜻蛉《アキソ》(トンボ)臀?《トナメ》(交尾)してゐるやうに見えた、とあるに依るのだと云ふことが、古い註釋書には説いてあるが、(9)これは「あきつ」が蜻蛉と同音の詞である所から、「あきつしま」の起原を説明する爲に言ひ傳へた、一種の説明神話と見べきものである。「あきつしま」はもと大和國葛城の室の地古明であつたのが、孝安天皇の皇居の地となつて以來著名になつて、やがて秋津島が大和に冠する枕詞ともなつたので、其の起原は恰も、欽明天皇の都となつた磯城島が、大和の枕詞となつて、敷島之大和の稱が起つたのと同じ譯である。(大日本地名辭書による)
【譯】大和には幾らも山があるが、其の中でも形のとゝのつた山は天の香具山である。その香具山に登つて見渡すと、四方の國土には炊煙が頻りと立ち登つてゐるのが見え、目の下の埴安池の鏡のやうな水面には、彼方此方に?が飛び群れてゐるのが見える。さても大和の國はよい國である。
【評】「うまし國大和」は實に當時の理想郷であつたのである。代々遷都の事はあつたけれども、概して大和の地以外にはあまり遷都されなかつたのもこれが爲であらう。神武天皇の御東征も、大和へ行かれるのが當初からの御計畫であつたわけでなく、こゝまで御東征があつて、この青山四周の美しい平野を御覽になつて、こゝを帝都の地とお定めになつたのであらうといふ説があるが、首肯すべき所がある。右の御製の中で最も光彩を發つてゐる部分は、「國原は」以下の四句である。古事記の應神天皇の條に、天皇が宇遲野に立つて、葛野を遠望し給うて歌はせられた、「千葉の葛野を見れば百千足る家庭《やには》も見ゆ國の秀《ほ》も見ゆ」といふ御製があるが、右の「國原は」云々の趣と似てゐて、日毎に開け行く國土の賑はしさが想像せられる。次の「海原は」云々は殊に佳い句である。
 
   天皇遊2獵内野1之時|中皇命《ナカチヒメノミコト》使2間人連老獻1歌
 
(10)3 やすみしし わご大君の あしたには 取り撫で給ひ ゆふべには い寄せ立たしし 御執《みとらし》の 梓《あづさ》の弓の なが筈《はず》の 音《おと》すなり 朝獵に 今立たすらし 夕獵に 今立たすらし 御執《みとらし》の 梓の弓の なが筈の 音すなり
 
 八隅知之。我大王乃。朝庭。取撫賜。夕庭。伊縁立之。御執乃。梓弓之。奈加弭乃。音爲奈利。朝獵爾。今立須良思。暮獵爾。今他田渚良之。御執。梓能弓之。奈加弭乃。吾爲奈里。
 
【釋】○「天皇」は前歌と同じく舒明天皇。○「内野《ウチヌ》」は今日の大和宇智郡の野で當時御狩場であつた。○「中皇命」は古義に「命」は「女」の字の誤であると云つてゐる。舒明天皇の皇女で、後に孝徳天皇の皇后にお立ちになつた間人《ハシウド》皇后である。○此の歌の作者が皇女であるか問人老であるか疑問である。代匠記には、皇女の歌であるならば御歌とあるべきであるのに、それがない所を見ると問人老の代作であると云ひ、(眞淵・守部・雅澄等之に從ふ)木村博士は、「御」の字のないのは天皇に對して殊更に省いたのである、と云つて皇女の作としてある。今前説によつて、皇女の意を承つて代作したものと見て釋くことにする。○「やすみしし」は君の枕詞である。その語義に就いて、契沖は八方を知しめす君といひかけたので、ヤスミシラシのラを略したのであると云ひ、雅澄は安み知らすと云ふ意で、ラを省(11)いてそれを歌ひ切つて、シシと云つたのであると云つてゐる。其の他諸説があるが何れも首肯し難い。思ふに「やすみ」は安見の字義の通りで、(「安」は形容詞の語幹で、「見」と云ふ體言を修飾してゐる。)「しし」は佐行變格活用の語尾「せ」に、敬語法の副語尾の「す」が附いたもので、ヤスミセス(「神さびせす」「旅宿りせす》」の類である。)といふのが元來の形である。それがミの母音イの同化作用によつて、セがシとなつてヤスミシシとなつたものであると思ふ。○「間人老」は中皇命の御乳母の一族の者であらうと云はれて居る。○「わご大君」のワゴはワガの音の轉化したものである。これも今説明したと同じく、音の同化作用によるのである。即ちオホギミのオの音の同化作用が、ワガのガに及んで、ワゴとなつたのである。尤も大君の上にある我を、「和我《ワガ》」と假名で書いてある所が一二個所あることはある。併し其の他は總べて、「和期」若くは「和己」と書いてあるから、この場合もワゴと訓むのが穩當である。○「い寄せたたしし」(伊縁立之)を古義には、イヨリタタシシと訓んで、天皇が躬ら其の弓の邊りにお立ち寄りなさる意に釋いてゐるが、これは穩かでない。此の句は考の訓のやうに、イヨセタタシシと訓むべきであつて、その句頭のイは接頭語で、最後のシは過去の助動詞であつて、その上のシは例の敬語法の副語尾である。而してこの副語尾は、四段の動詞には未然形に連るが、下二段の動詞には、ア音の下に接するのであるから、タタシとなるのである。從つてこの句の意は、夕には壁か何かに寄せ立て給うた弓をといふ意になる。○「御執の」は「執る」といふ動詞に敬語法のスを添へ、なほ語頭にミといふ接頭語を冠らせたので、御手に執り給ふ意である。これと同類の句に、御佩《ミハカシ》の劔といふのがある。なほ弓劔衣の敬稱をそれ/”\「みとらし」「みはかし」「みけし」といふのは、この連語が名詞となつたのである。○「梓の弓」の「梓」に就いて諸説があつて、或は今いふキササゲ、(カハラヒサギとも云ふ)の事であるといひ、或はアカメガシハであるともいふが、理學博士白井光太郎氏は、甲信地方に多く産するミヅメ一名(12)ヨグソミネバリといふ樺木科の樹で、今も秩父地方ではアヅサと云つてゐることを考證し、田中芳男氏は、伊勢の神宮の家に傳へられてゐる、古代の弓材に就いて取り調べた結果は、やはり白井博士の説の通りであつたと云つてゐる。○「なが筈」は代匠記にある通り、筈の長い弓である。何の爲に長く造つたものか明かでないが、田安宗武の玉函叢説には、玉や鈴を掛ける爲であると云ひ、美夫君志には獣などを突き止める爲であらうと云ふ。今も正倉院の御物中に、長筈の梓弓がある。小琴に「奈加弭」の「加」を「留」の誤として、鈴を掛けて鳴るやうにしたものであると云つてゐるのは從ひ難い。○「朝獵に……夕獵に」この歌は朝獵にお出ましの時に詠んで奉つたものであることは、次の反歌で知れる。然るに「夕獵」と云つたのは如何といふに、これは古義に云つてゐる通り、前に「あしたには……ゆふべには……」といふ對句があるから、それと照應させるために、こゝに「夕獵」云々の一句を添へたのである。○なほこの歌は中皇女が何處に居られる場合であるかといふに、古義に弓弦の音が後宮に聞えて來たのであると云つてゐるが、崗本宮と宇智野とは數里を距てゝゐるのであるから、獵場の弓の響が後宮に聞える筈はない。これは新考の説の通り、宇智野に行宮があつて、中皇女はそこに滯在して居られるものと見て釋くべきであらう。又一説には、皇女が皇居に留つてゐて、遙かに御狩場の光景を胸に想ひ浮べて居られる趣を歌つたのであると云ふ。
【譯】わが大君が或は御手に執り撫でなさり、或は御側に零せ立てなされて、朝夕離さず大事にしていらせられる梓の弓の音が聞える。あれはこれから獵にお出でなされる爲に、下ならしをしていらせられるのらしい。誠にお勇ましいことである。
【評】「朝獵に……夕獵に……」の繰返しがある上に、「御執の梓の弓の」も繰り返してあるので、獵にお出かけになる時に、頻りと弦打を遊ばされてゐる光景が、調子の上に活躍してゐるのが面白い。萬葉の歌には、内容と調子とかぴ(13)つたり融合してゐるのが多い事に、意を留むべきである。
 
   反歌
 
4 たまきはる うちの大野《おほぬ》に 馬|並《な》めて 朝ふますらむ その草深野《くさふかぬ》
 
 玉刻春。内乃大野爾。馬數而。朝布麻須等六。其草深野。
 
【釋】○「反歌」をカヘシウタ、ミジカウタ、タンカ、ハンカなど樣々に讀んでゐるが、元來長歌は漢詩の一體の賦に擬したもので、反歌は賦の一篇の總括を述べた反辭に擬したものに相違ないから、音でハンカと讀むべきであらう。(代匠詑及び美夫君志の説)さて反歌は反辭と同じく、長歌の内容を總括したり、或は長歌に詠み洩したことを歌つたものである。○「たまきはる」冠辭考の説によれば魂極ると云ふ義で、人が生まれてから長らへる限りを遙かにかけていふ語で、生きて居るうちといふ意で、「内」にかけて枕詞とし、轉じては「世」「いのち」等にも冠するのである。○「並めて」は並べて。○「朝ふます」の「す」は例の敬語法である。○「野」をヌといふのは古語である。併し奈良朝の末頃にはノとなつた。
【譯】今頃は群臣を從へて、あの廣い宇智野に朝獵を催していらつしやるであらう、あの草の深い野で。
【評】記紀の神代卷を見ると、農業に關する神話の外に、海に關する傳説が少くない。これはわが民族が最初海岸に住んでゐて、半漁半農の生活を營んでゐたことを證するものであらう。それが神武天皇以後になると、段々平野を求めて内地に移るやうになり、專ら農業を營むやうになつてから、海洋に關係した物語が稀になつて、之に代るに山野の狩に關する物語が多くなつて來た。即ち元來尚武の氣象に富んでゐた上代人は、耕作の暇には山に入つて、盛(14)に狩を行つたもので、其の證は遺物の上にも存してゐるが、記紀や萬葉によつても之を知ることが出來る。右の歌の如きは、さういふ狩の盛に行はれた上代の生活を彷彿させるものである。殊に反歌は當時の狩の壯快な光景が、眼前に展開して來る思がする。
 
(初版5、6あり、近代デジタルで見られる、以下同)
 
  後崗本宮御宇天皇代
 
   額田王《ヌカダノオホキミ》歌
 
8 にぎた津《づ》に 船乘《ふなのり》せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕き出《い》でな
 
 熟田津爾。舶乘世武登。月待者。潮毛可奈比沼。今者許藝乞菜。
 
【釋】○「後崗本宮御宇天皇」は齊明天皇をいふ。「後」とあるのはこれより前に、舒明天皇が同じ飛鳥岡本宮に都し給うた故である。○「額田王」は鏡王の女で鏡女王(鎌足の妻)の妹、天武天皇の妃となつて、十市皇女を生んだ人である。集中有數の女流作家である。(古は男王た女王もたゞ王と云つた例がある。)○「にぎた津」は今の伊豫の三津濱あたりの古名であると云はれてゐるけれども、昔の船着場は温泉に近い處であつたので、今は全く陸地となつてゐるのである。この事はなほ後に詳しく述べる機會がある。さて齊明夫皇紀に「七年春正月丁酉朔壬寅御船西征。始就2于海路1。庚戊御船泊2于伊豫熟田津石湯宮1。」とある。これは當時新羅が唐の後援を得て百濟を滅ぼしたので、我が國は百濟の遺臣を援けて、その再興を計る爲に、中大兄皇子(後の天智天皇)は齊明天皇を奉じて筑紫にお下りになり、遠征の軍を督せられたのである。この歌はその御西下の一行中にあつた女王が、備前の大伯《おほく》津(今日の牛窓港であ(15)る。オホクの名は備前邑久郡に遺つてゐる。)から伊豫熟田津に渡らうとする時の作である。○「潮もかなひぬ」は舟に乘るに都合がよくなつた意である。さてこの句には「も」があるので、月の出たことが言外に示されるのである。○「乞菜」は略解にはコナと讀み、古義には田中道麿の説によつて、「弖菜」の誤としてテナと讀んでゐるが、御杖や守部等の説によつてイデナと讀むのがよい。「乞」をイデと訓んだ例がある。「な」は冀望の意をあらはす助詞。
【譯】熟田津をさして船を乘り出さうと用意をして、やがて出る筈の月を待つてゐると、いよ/\月も出て來たのみならず、潮もおだやかに和ぎ渡つて、誠に好い工合となつた。さあ、これから船を漕ぎ出さうではないか。
【評】海面が和ぎわたつて、月が白い光を長く波の上に投げてゐる光景が、あり/\と眼前に浮んで來るやうな心地がする。女流の作とは思はれないほど雄大な歌である。
 
   中大兄《ナカノオホエ》 三山歌一首
 
13 香久山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相あらそひき 神代より かくなるらし 古《いにしへ》も しかなれこそ 現身《うつそみ》も妻を あらそふらしき
 
 高山波。雪根火雄男志等。耳梨與。相諍競伎。神代從。如此爾有良之。古昔母。然爾有許曾。虚蝉毛嬬乎。相挌良思吉。
 
【譯】○「三山」は香久山耳梨山及び畝火山を云ふ。大和平野に鼎の足のやうに三ケ所に在る山で、飛鳥川がその間を流(16)れてゐる。三山に挾まれた地域は藤原京の遺蹟で、其の東南の地は飛鳥の京の在つた處である。○この歌は眞淵が述べたやうに、三山をお詠みになつたのでなく、播磨國の印南野に行かれた時、其の國の神阜《かみをか》といふ處に傳へられてゐる、三山に關係のある傳説を思ひ出し給うて歌はれたものである。其の傳説といふは、昔この三山が妻爭をしてゐた時、出雲國の阿菩《あぼ》大神が之を諫止する爲に、播磨の神阜まで來た時、既にかの三山は和睦してゐるといふことを耳にしたので、遂にこの地に鎭まり給うたといふのである。(播磨風土記)さてこの歌は、中大兄皇子が御弟の大海人皇子(後の天武天皇)と額田女王をお爭ひになつた頃、右の三山の古傳説を思ひ浮べなされてお詠みになつたものと察せられる。○「高山」をカグヤマと訓むのは、「高」の字音をとつたのである。○「畝火を愛しと」は畝火山が女山で、それを香久山が愛してと云ふ意である。契沖は畝火を男山とし、他の二山を女山として、この句を雄々しき畝火と解釋したが、守部や木下幸文などは畝火を女山としてゐる。これが穩當である。○「相あらそひき」これまでが第一段。○「現身」を契沖は今の世と解き、古義には現世の身と解いてゐるが、これは吾々人間もといふ意で、神代もといふに對して仰せられたものと見るがよい。(新考の説)
【譯】古大和三山の香久山は、女山の畝火山を愛して、男山の耳梨と妻爭をしたと云ふことだ。戀といふことには神代にもそんな爭があつたのである。況や吾々人間にして、妻を爭ふのは尤もなことだ。
【評】後に壬申の亂の一原因にもなつた、皇子の愛の御爭について、深い歎息をお洩しになつた歌である。この事は後に講ずる「茜草さす」「柴草の」の歌を見て一層明かになるであらう。なほ三山の妻爭ひは陸中にも傳へられて居る。即ち南部富士と呼ばれる岩手山は、その近くの姫神山と夫婦の山であつたのを、早池峰《ハヤチネ》山が奪つたので、今もこの三山は仲が惡くて、早池峰と姫神とが晴れると必ず岩手が曇り、岩手と姫神とが晴れると、きつと早池峰に雲がか(17)かると云はれてゐる。(「日本傳説集」による)
 
   反歌
 
14 香久山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に來《こ》し 印南國原《いなみくにはら》
 
 高山與。耳梨山與。相之時。立見爾來之。伊奈美國波良。
 
【釋】○「あひし時」の「あひ」は「逢ふ」といふ意義ではなくて、相闘ふ意である。書紀の歌にも「貴人《うまびと》は貴人どち、賤奴《やいつこ》はも賤奴どち、いざあは〔二字右○〕な……」とある、その「あふ」も戰ふ意である。○「立ちて見に來し」の主格が省かれてゐる。これは「出雲の阿菩大神が」である。○「印南國原」は阿菩大神が山爭を諫めようとして、東上の途中に留つた野である。風土紀の本文によると、阿菩大神が來り留つた神阜は、揖保郡にあるので印南郡ではない。併しこの歌は皇子が印南郡まで往かせられて、この國に傳つてゐる古傳説を思ひ出して、お詠みになつたものであらうから、地理上の細かな穿鑿は不必要である。印南野は萬葉には屡現はれて來る地名である。南東は明石川に起り、北西は賀古川に至る、方三里許りの野をいつたのである。
【譯】香久山と耳梨山とが、畝火山をわが妻にしようとして戰つた時、出雲の阿菩大神が立つて見に來られた所だといふ、印面野はこゝである。
 
15 わたつみの 豐旗雲に 入日さし 今宵の月夜 あきらけくこそ
 
 渡津海乃。豊旗雲爾。伊理比沙之。今夜乃月夜。清明己曾。
 
(18)【釋】○此の歌は左註に「右一首今案不v似2反歌1也。但舊本以2此歌1載2於反歌1。故今猶載v此歟。云々」とあるやうに、前の長歌の反歌ではない。眞淵はこの歌を右の長歌の作者である中大兄皇子が、印南の海岸に行かれた時の歌であらうと云つてゐるが、それも何の證據もないことである。又作者も誰であるか分らない。○「わたつみ」は海を云ふ。ワタは「渡る」と關係のある語である。海の主宰神を綿津見神といふは、ワタを掌る神といふ意であるが、轉じてはその神の名を以て海を指すやうになつたのである。○「豊旗雲」の「豊」は「豊葦原」「豊御酒」などの「豊」と同じで、大なるもの、美しいもの、などの意を表はす接頭語である。「旗」は雲のたなびいてゐる形を云つたのである。○「入日さし」は入日の光が照ること。○「月夜」をツクヨといふのは、ツの音の同化作用によつて、キがクとなつた爲である。「月夜」の「夜」は輕く添へた語で、ただ月を云ふ。○「あきらけくこそ」(清明己曾)の訓は眞淵の説によつたのである。古義には「明」を「照」の誤として、キヨクテリコソと訓んでゐる。「こそ」は文の終止に用ゐられた場合には、希望を表はすのである、此の「こそ」は古くは用言として用ゐられたので、今も島根縣の方言に殘つてゐて、何々して呉れと云ふ意に用ひられてゐる。
【譯】海上遙かに廣く長くたなびいてゐる雨上りの雲に、赤い夕陽がさしてゐる。どうか今宵の月は明く照り渡つて呉れ。(日の入りが良いから、今宵は晴れ渡るであらう。)
【評】「海」「雲」「入日」「月」と、かなり多くの材料が用ゐられてゐるに係らず、總べてが大切な位置を占めてゐて、少しの弛みがなく、雄大な内容に相應はしい雄渾の調が、一首の力となつてゐるのが、この作の勝れて居る所である。
 
  近江大津宮御宇天皇代
 
(19)   天皇詔2内大臣藤原朝臣1競2憐春山萬花之艶秋山千葉之彩1時額田王以v歌判v之歌
 
16 冬ごもり 春さりくれば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉《もみぢ》をば 取りでぞしぬぶ 青きをば おきてぞなげく そこしたぬし 秋山ぞわれは
 
 冬木成。春去來者。不喧有之。鳥毛來鳴奴。不開有之。花毛佐家禮杼。山乎茂。入而毛不取。草深。執手母不見。秋山乃。木葉乎見而者。黄葉乎婆。取而曾思奴布。青乎者。置而曾歎久。曾許之恨之。秋山吾者。
 
【釋】○「近江大津宮御宇天皇」は天智天皇。大津宮のことは下の人麿が大津の舊都を過ぎて詠んだ長歌の所で述べる。○「内大臣」は藤原の鎌足。○此の作は春の色々の花と秋の美しい紅葉と、何れが勝つてゐるかを群臣に御下問のあつた時、額田女王が答へられた歌である。○語釋に先つて、本歌の文字に就いて少しく説明しておくことがある。弟一句の「冬木成」は類聚古集に「冬木盛」とある。「成」は「盛」の略書であらう。第八句の「入而毛不取」を小琴に「入而毛不見」と改めてゐるが、古義に大神景井の説として、「取」は「聽」の誤であると云つて改めてゐる。この歌は花と(20)紅葉とについて詠んだのであるから、鳥について歌はずともよいのであるから、元のまゝでも意味はよく通じるのである。次に「恨之」を小琴に「怜之」の誤として、オモシロシとよんでゐるが、古義には同じく「怜之」と改めて、タヌシとよんでゐる。今古義の説に從ふ。以下語釋に入る。○「冬ごもり」は春の枕詞である。生物はすべて冬季は籠つてゐて、春になると張り出るから、ハルに云ひかけたのである。○「春さりくれば」は春になるとと云ふ意である。サリクレバはシアリ來レバの約音で、シは指示する意味のある助詞である。○「鳥も來鳴きぬ」の「ぬ」は完了の助動詞であるが、こゝは調の上から輕く添へたまでである。○「山をしみ」は山が茂つてゐる故にと云ふ意である。後に講ずる歌にシモト(「楚樹」を宛ててある。叢の意)シミサブ(茂り榮える意)シミミ(露などの茂くおくさまを云ふ)などがあり、又一方にシミと同じ系統の語と思はれるものに、「染む」「締む」「占む」(何れも集中する意がある)等がある。此等を見るとシは一の古い用言の語根であつて、それに接尾語の「み」(形容詞の語幹について副詞を作る)が添うて、シミといふ語が出來たのであらうと思ふ。○「秋山の」の上には、これに反してといふ語を補つて見ると明白になる。○「黄葉」はモミ(紅絹)といふ名詞に對するモミヅといふ動詞の名詞形で、もみぢ葉の事である。集中にモミヂに「紅葉」の字をあてた例は一二に過ぎず、大抵「黄葉」と書いてある。○「しぬぶ」はこゝでは賞美する意。○「おきてぞなけく」は手にとるに忍びずして、枝においたまゝ賞すること。○「そこし」はそれがと云ふ意。「し」は指示する意の助詞であることは既に述べた。○「秋山ぞわれは」(秋山吾者)の句に眞淵は「曾」を補つてゐるが、宣長は原文のまゝをアキヤマワレハとよんでゐる。何れでも意は同じで、秋山を私は面白いと思ふと云ふのである。
【譯】春になると、これまで鳴かなかつた鳥も鳴き出し、含んでゐた花も咲きはするが、春は兎角木が繁つてゐるので、山に登つて花を手折ることもせず、又草が深いので、花を手に取つても見ない。然るに秋の山の木々の葉を見る時(21)には美しい紅葉を手にしては賞し、青い葉は枝ながら眺めて美しいものだと思ふ。さう云ふわけだから、私は秋山が勝れてゐると思ふのである。
【評】僻案抄に此の歌を評して、額田王は婦人の身であるから、春山に花は咲くけれども、草木が茂つてゐるので分け入つて見る事も、手折る事も出來ないから、春山に對しては恨が多い意を叙べ、次で秋山は分け入るに易く、手折り易いから、秋山に心が引かれる事を叙べたのである。併し秋山とても絶對に恨が無いわけではなく、秋山の紅葉の中にもなほ染めあへぬ枝もあるから、手折らずして差置く恨があるが、春山に較べれば、さまでの恨ではないから、秋山を春山よりも勝るものと判じたのが、面白い所であると言つてある。是は「青きをばおきてぞなけく」の解釋を異にしてあるのであるが、其の作者の心に深く立ち入つて考察した批評の態度は參考になるから、爰に其の概要を掲げたのである。春秋の擾劣を關はせることは、古くから支那に行はれた遊であつて、それを模倣してわが國にも行はれたのであるが、物にあらはれたのはこの歌が最初である。これより後には、花と紅葉、若しくは鶯と郭公などの優劣を競はせた例が見えてゐる。貫之の歌にも「春秋におもひみだれてわきかねつ時につけつゝうつる心は」(拾遺集)といふのがある。
 
   額田王下2近江國1時作歌
 
17 うま酒《ざけ》 三輪の山 青丹よし 奈良の山の 山のまに い隱るまで 道のくま い積るまでに (22)つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を こころなく 雲の 隱さふべしや
 
 味酒。三輪乃山。青丹吉。奈良能山乃。山際。伊隱萬代。道隅。伊積流萬代爾。委曲毛。見管行武雄。數數毛。見放武八萬雄。情無。雲乃。隱障倍之也。
 
【譯】○題辭の下に流布本に、「井戸王即和歌」とあるが、古義の説に從つて今削つておく。○この歌は飛鳥から近江の大津に遷都のあつた時、額田王が飛鳥を去つて行く道中での作である。○「うま酒」は三輪の枕詞である。ミワは日本紀私記に「神酒【和語云2美和1】」とあるやうに酒をいひ、又酒を釀す甕《みか》をも云ふ。(酒盛をミワモリと云つた例もある)うま酒がミワにかゝる理由はこれで明かである。○「三輪の山」は三諸山《ミモロヤマ》ともいふ。大和磯城郡三輪町の東方にある。全山緑樹に覆はれた圓滿な形の山である。その西南の麓(櫻井線三輪驛から東三町ばかりの處)に名高い官幣大社|大神《オホミワ》神社がある。大國主命が自らの和魂をこの山に鎭めて、皇室の近き守護神となることを誓はれたのが起りで、神代以來この山を神體として祀つてある。○「青丹よし」は奈良の枕詞。「よし」は「よ」と「し」と二つの助詞で、「よ」は呼びかけていひ、「し」は指示する意を添へるのであるが、青丹について種々の説がある。從來重きを置かれてゐる説は、昔奈良山から繪具の青丹を産したので、産物を以て枕詞としたのであるといふ説であるが、長井金風氏は楢の果實は青くて玉のやうであるから「青瓊」と云つたのであると云つてゐる。○「奈良の山」は春日山から西北に連る一體の小高い山彙をいふので、今の郡山街道即ち歌姫越が昔の奈良山越であつた。そこから三輪山までは直徑五里で、中間は平野であるから、何等眼を遮るものはないが、奈良山を越えると三輪山は見えなくなるのである。○「山のまに」(山際)を舊訓にヤマアヒニ又はヤマノハニと訓んでゐるが、代匠記にヤマノマニと訓んで以來、多くの註釋書(23)に皆さう訓んでゐる。「山際」は集中十數箇所にあつて、ただ一所にだけ「山間」を用ゐてある。「際」は物と物との間、又は「ほとり」といふ意義の字であるから、「山際」も「山間」も字義は同じである。縱つて訓はヤマノマとよんで、山の間と釋くがよい。考にこの句の下に「從」を補つてゐるが、「從」を補はずに助詞の「に」を置いて訓むべきである。(「註疏」及「美夫君志」による)○「い隱るまで」の「い」は接頭語。「隱る」は四段に活用してゐたから、イカクルマデとなるので、イカクルルマデとは云はない。○「道のくま」のクマは曲り目をいふ。通つて來た道が遠くなつて、多くの曲り角が後になつて行くことを、「道の隈い積る」と云つたのである。○「見つつ行かむを」は「行かむ山を」とあるべき所であるが、下に「見さけむ山を」とあるから、山を省いたのである。○「見さけむ山を」の「さく」は集中に「放」「離」などの字を訓んである。「ふりさけ見る」の「さく」と同じで、遠くへ目を放つて見ることである。○「雲の」は三音の句である。三音句は古歌には例のあることである。○「隱さふべしや」は隱すことがあるべきであらうかといふ意。「隱さふ」は「隱す」に動作の繼續の意を表はす副語尾の「ふ」の附いたものである。參考語を擧げて見れば、「語る」に對する「語らふ」、「呼ぶ」に對する「呼ばふ」、「散る」に對する「散らふ」等の如きが幾らもある。
【譯】明け暮れ眺めたあの三輪山が、奈良の山の間にすつかり隱れてしまふまでは、遠く道を行くまでよく/\眺め、屡振り返つて見たい山だのに、それを無情にも、あんなに早く雲が隱してしまふのだ。さても名殘惜しいことだ。
【評】なつかしい故郷の山をふりかへり/\して、名殘惜しげに立ち去る作者の感情が、いかにも女らしく優しく歌はれてゐる。此の作者の綿々として盡きぬ恨が、一首の調となつてゐる所を味ふべきである。
 
   反歌
 
(24)18 三輪山を しかも隱すか 雲だにも 情《こころ》あらなむ 隱さふべしや
 三輪山乎。然毛隱賀。雪谷裳。情有南武。可苦佐布倍思哉。
 
【釋】○「雲だにも」はせめて雲になりとの意。○「情あらなむ」(情有南武)の「武」は流布本に「畝」とあるが、今類聚古集によつて訂正した。「なむ」は希望の助詞。
【譯】三輪山を、もうあんなに隱して了ふことか。誠に恨めしいことだ。せめて雲になりと情があつて欲しい。あんなに無情にかくすべきであらうか。
【評】訴へるやうな、かこつやうな調子が流れてゐる歌である。
 
   天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌
 
20 あかねさす 紫野行き しめ野ゆき 野守《ぬもり》は見ずや 君が袖振る
 
 茜草指。武良前野逝。標野行。野守者不見哉。君之袖布流。
 
【釋】書紀の天智天皇の七年の條に、「五月五日。天皇縱獵2於蒲生野1。于v時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉從焉。」とある。これによると、天智天皇が近江の蒲生郡の野に遊獵なされた時、一行に加はつてゐた額田女王が、皇太弟の大海人皇子に對つて詠まれた作である。額田女王は初め大海人皇子の妃となつて、十市皇女を生み、後に天智天皇に召されて入内した人であるが、この歌は入内後の作である。○「あかね」(茜草)は一名アカネカヅラとも云つて、日蔭の雜草の中などに生える方莖中空の蔓草である。葉は節毎に四枚づつ附き、花は淡黄色で總状花に屬し眞夏に開く。根は膨らんでゐて色は紅黄色を帶びて美しい。その根から取つた色で染めたのが茜染めで、既に上古から行はれて(25)居る。アカネサスといふ枕詞もこれから出たのである。「さす」は色のさし出ることである。この枕詞は「日」「晝」「紫」「照る」などに冠する。○「紫野」は紫草の生えてゐる野のこと。紫草は高さ二尺ばかりに達する野生の草で、莖にも葉にも毛茸がある。葉は長楕圓形で、花は白色で夏に莖の頂に咲く。これもその根が紫色を帶びてゐるので、紫草の名を得たのである。昔は之を染料に用ゐたのである。武藏野の一本といつたのもこれである。○「しめ野」は御獵のため占めておかれる野のこと。即ちこゝでは蒲生野である。○「紫野」と「しめ野」とは同じ野を異つた詞で云つたのである。○「野守」は野の番人。○「袖振る」は親愛の情をあらはすしるしで、別れる時とか人を招く時とかにする所作である。昔の袖は後世の袂のやうに、幅の廣いものでなく筒袖であるが、その肩行が手よりも長く作つてあつたので之を振ることが出來たのである。○この歌は「しめ野」や「野守」に寓意があると見るのと、無いと見るのと二つの解釋がある。略解や小琴には寓意はないと云つてゐるが、檜嬬手には野守は天皇を指したのであると云ひ、古義には野守は女王の警護の者どもを指したのであると見てゐる。又美夫君志には標野は官女達の中で、かねて皇子が心をかけて居られるその女を指し、多くの官女の群れてゐる紫野や標野を、かなたこなたと戯れ給ふさまを、嫉妬して詠まれたものと解し、野守を女王自らとしてゐる。なほ新(26)考には野守をたゞ傍人と見てある。かやうに種々の見方があるが、今は新考の説のやうに周圍の人を野守と云つたものと見て釋くことにする。
【譯】紫草の生えてゐる御獵の御料地を行きながら、なつかしい君が、頻りと私に向つて袖をお振りなさるが、人目につくではありませんか。心苦しいことで御座います。
【評】「あかねさす紫」と云つて色を重ね、「紫野行きしめ野行き」と云つて野を繰り返へした修辭が、おのづから頻りに振る袖の運動を想はせるのが面白いと思ふ。なほ四五句の句法もこの場合は、あたりを憚る心を強く表はして居るやうに思はれる。とにかく巧みな歌ひ振りである。
 
   皇太子答御歌
 
21 紫の にほへる妹《いも》を にくくあらば 人妻ゆゑに われ戀ひめやも
 
 紫草能。爾保敝類妹乎。爾苦久有者。人嬬故爾。吾戀目八方。
 
【釋】○「皇太子」は大海人皇子。○「紫の」は額田女王の歌に「紫野」とあるから、それを受けたのである。こゝは「にほへる妹」の枕詞で、「にほへる妹」とは紫の匂へる如く美しい妹といふ意である。○「人妻ゆゑに」は人の妻なるものを。○「戀ひめやも」の「や」は反語で「も」は感動の助詞。
【譯】紫草の色のやうに美しい御身を、にくい人だと思ふならば、人妻と定つてゐる御身であるのを、どうしてこんなに慕ふものか。
【評】これらが壬申の亂の一原因となつたのである。女王の御子十市皇女は、後に大友皇子の妃となられたが、父君と(27)夫の君との御仲違について深く心痛されたと見えて、此の次の題辭に「十市皇女參2赴伊勢神宮1時云々」とあつて、(この皇女が齋宮となられたことは史に見えてゐないから、)伊勢へ赴かれたのも、多分御仲違について祈願の旨があつたのであらう云はれてゐる。
 
  明日香清御原宮御宇天皇代
 
   天皇御製歌
 
25 み吉野《よしぬ》の 耳我《みみが》の嶺に 時なくぞ 雪は降りける ひまなくぞ 雨は降りける 其の雪の 時なきがごと 其の雨の ひまなきがごと 隈《くま》も落ちず 思ひつつぞ來る 其の山道を
 
 三芳野之。耳我嶺爾。時無曾。雪者落家留。間無曾。雨者零計類。其雪乃。時無如。其雨乃。間無如。隈毛不落。思乍叙來。其山道乎。
 
【釋】○「明日香清御原宮御宇天皇」は天武天皇。○この御製は天皇がまだ皇太弟であつた頃の御歌である。元來天智天皇には御子に大友皇子があつて、大臣等もこの皇子に心を寄せてゐたので、自然皇太弟の大海人皇子(即ち後の天武天皇)は不安を感じられて、遂に位を辭し吉野に遁世されて、時の到來するのをお待ちになつたのである。この(28)御製はその吉野への道中でお詠みになつたものであらうといふのが、春滿季吟以後多くの學者の意見である。併しそれは斷言することは出來ないので、現に古義や新考は吉野山に在らせられた頃、或る女の許へお通ひじなつた時の御製であらうと云つてゐるのである。併し今は前説によつて釋くことにする。○「耳我の嶺」の訓は考の説によつたのである。守部・雅澄等は「嶺」の下に「嶽」の一字を補つて、耳我嶺嶽《ミカネノタケ》とよんでゐる。さて耳我の嶺は吉野山中の峯の名に相違ないが、今の何れの峯であるか不明である。眞淵・守部・雅澄等は金峯山のことであると云つてゐる。(「大和志料」に耳我の嶺は吉野郡國巣村大字|窪垣内《クボガイト》に在ると記してあるけれども、何れの山か詳かでない。)○「時なくぞ」は絶えずといふ意。○「隈も落ちず」は道の隈の漏れることなくといふ意。○「思ひつつぞ來る」の「來る」を略解には「來し」と訓んでゐる。今は古義の訓によつたので、意味も古義に「行くの意」と見てゐるのが穩當と思ふ。
【譯】吉野の耳我の嶺は高いので、雪は絶間なく降り、雨はひまなく降つてゐる。その雪と雨の絶えず降つてゐるやうに、止む時もなく深い物思に沈んで、この道の隈々を幾つも曲り曲つて、山道を分けて行くことである。
【評】對句によつて調の上に物思の深いさまが表はれ、雪と雨の叙景によつて、寒い冬の日に山路を辿つて行かせられる光景が、あり/\と想像せられて感慨の深い御歌である。僻案抄に「此御製は、句ととのひ、體そなはりて、首尾も滯る所なく、長歌の本とすべくすぐれたる御歌也」と云つてゐる。
 
  天皇幸2于吉野宮1時御製歌
 
27 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よくみつ
 
 淑人乃。良跡吉見而。好常言師。芳野吉見與。良人四來三。
 
(29)【釋】○「吉野」と云つて萬葉に屡歌はれてゐるのは、後の所謂花の吉野山でなく、六田から二里半許り吉野川を溯つた中莊村大字宮瀧の地である。そこは山水の勝地で、應神天皇の朝に始めて離宮を置かれ、雄略天皇の時にも行幸があり、その後齊明・天武・持統・文武・元正・聖武の諸帝の行幸のあつた事が歴史に見えてゐる。離宮を營まれた事は、聖武天皇の頃までゞ廢せられたやうである。天武天皇は皇太弟の時代に、かつて此の地にお籠りになつた事は、前の御製にもある通りであるが、この歌は天皇の八年五月に行幸のあつた時(書紀に見えてゐる)の御製であるらしい。○この御製は頭韻が蹈んである。○「よき人」は貴い人若しくは勝れた人といふ意で、天皇若しくは賢臣などを指す語である。こゝでは誰をお指しになつたものか詳かでないが、恐らく最初この地の佳景を紹介した古人を指し給うたものであらう。○結句の「良人四來三」を契沖・眞淵はヨキヒトヨキミと訓んで、よき人よ君の意とし、そのヨキヒトを契沖は皇后皇子を始め御供の人々を指して仰せられたものとし、眞淵はヨキヒトも君も共に從駕の臣を指されたのであると云つたが、春滿・宣長・守部・雅澄等はヨキヒトヨクミと訓んで、ヨキヒトを御供の人とし、ヨクミをよく見よの意に釋いてゐる。併しこれは荷田御風の説(略解に引いてある)によつて、ヨキヒトヨクミツと訓んで、始めの三句に歌はせられたことを、繰り返へし仰せられたものと見るのがよいやうである。(註疏・美夫君志・新考等これによる。)
【譯】古の賢い人が、如何にも佳い處であると、よく見て云つたその吉野をよく見よ。いかにも佳い所ではないか、古の賢い人はよく見たものである。
 
  藤原宮御宇天皇代
 
(30)   天皇御製歌
 
28 春過ぎて 夏來るらし 白妙《しろたへ》の 衣乾したり 天の香具山
 
 春過而。夏來良之。白妙能。衣乾有。天之香來山。
 
【釋】○「藤原宮御宇天皇」は持統天皇である。天皇は天武天皇の皇后で、天智天皇の第二皇女である。○「白妙」の「たへ」(栲)は織物の總稱であるが、今もハブタヘと云ふ語にタヘが遺つて居る。「しろたへ」と云つたら、穀(今の楮《カウゾ》)の皮の繊維で織つた、白い艶のある布をいふ。當時木綿は未だない頃で、麻・栲《タヘ》・絹等を衣服の料として用ゐたのであるが、栲は殊に普通に用ゐられたから、「しろたへの」が衣の枕詞となつてゐる。併しこの場合は古義の説のやうに、枕詞でなく衣の修飾語と見るべきであらう。後に講ずる歌に、喪服を荒妙の衣(麻の衣)といつた例があるが、こゝは恰もそれと同類の詞である。當時衣服は主として白衣であつた。○「衣乾したり」は衣が乾してあるといふ意。契沖の説に、春まで着てゐた着物を仕舞ふ爲、又これから用ゐる着物を物から取り出して濕氣を乾かさうため、民家に乾物をしてゐるのを御覽になつて、時節の移り行つた事を感じ給うたのであると云つてある。併し衣を乾かす目的までを穿鑿する必要はない。青々と茂つた香具山を背景として白い衣が、強い初夏の日光に照らされてゐるのを御覽になつて、夏らしい氣分を直覺的に感じ給うたものと見るべきであらう。○「藤原宮」は香具山の西北にあたる鴨公村大字高殿の邊に在つたのであるから、皇居から民家の白衣を乾してあるさまは、手にとるやうに近く見えたのである。
【譯】まだ春であると思つてゐたのに、何時の間に夏になつたのであらうか、香具山のあたりの民家に、着物を乾してゐるのが、如何にも夏らしく白く光つて見える。
(31)【評】この御製を新古今に「春すぎて夏來にけらし白妙の衣乾すてふ天の香具山」と改めて載せてゐるが、これでは實景實感を離れてしまひ、高古素朴の情趣がなくなてしまふことなる。私が嘗て大和の舊跡を遍歴して、藤原宮の跡に立つた時、恰も天の香具山の麓の民家に乾してゐた白衣が、眞夏の強い日光に照射されてゐのを遠望して、此の御製の趣をしみ/”\味ひ得た事を、今も思ひ浮べるのである。
 
   過2近江荒都1時柿本朝臣人麿作歌
 
29 たまだすき 畝火の山の 橿原の 日知《ひじり》の御世ゆ あれましし 神のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天の下 知しめししを そらにみつ 大和をおきて 青丹よし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天《あま》ざかる 鄙《ひな》にはあれど いははしの 近江《あふみ》の國の さざなみの 大津の宮に 天の下 知しめしけむ (32)すめろぎの 神のみことの 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと云へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霞《き》れる ももしきの 大宮處 見れば悲しも
 
 玉手次。 畝火之山乃。橿原乃。日知之御世從。阿禮座師。神之盡。樛木乃。彌繼嗣爾。天下。所知食之乎。天爾滿。倭乎置而。青丹吉。平山乎越。何方。御念食可。天離。夷者雖有。石走。淡路國乃。樂浪乃。大津宮爾。天下。所知食兼。天皇之。神之御言能。大宮者。此間等雖聞。大殿者。此間等雖云。春草之。茂生有。霞立。春日之霧流。百磯城之。大宮處。見者悲毛。
 
【釋】○「近江荒郡」は近江律令によつて史上に名高い大津宮のことである。大津に都を遷されたのは天智天皇の六年で、壬申の亂に近江の軍が敗れて、全く荒廢に歸したのは、遷都の後僅か四五年を經たばかりである。從來帝都は神武天皇以來多くは大和の國内にあつて、大和以外に遷都のあつた例は、二三度あつたばかりである。然るに天智天皇は大なる拘負を抱かせられてゐたやうであるから、或は豪族の多い飛鳥の地をお避けになる爲であるか、或は三韓や唐の船の出入する、難波津に便利な地に都せられる必要があつたのか、或はまた東國に對する政策の爲であつたのか、兎に角思ひ切つて遠く、大津の遷都を御實行になつたのである。大津は單に湖上の要津といふだけでなく、東北二道の咽喉で、兼ねて水陸の要路であつたので、當時帝都として好位置であつたのであらう。然し當時はこの遷都に反對する者が多かつたので、遷都の非を諷した童謠が頻りに起り、時には放火さへ行はれたのである。かくて天皇は十年の十二月に崩御になり、その後は壬申の亂を見るやうになつて、亂後大海人皇子はまたもとの飛鳥に(33)お歸になつて、淨御原に都をお定めになつたのである。大津宮の位置について喜田博士の説に、「大津宮の位置は今の大津市では無くて、これより遠く北の方辛崎に近い滋賀村なる滋賀里の地であつた。是は天皇が都を此に定められた翌年に、宮城の西北の山に崇福寺を營んだといふ記事から推定する事が出來る。崇福寺は大津京荒廢の後も猶ほ久しく保有されて、恐らくは平安朝の末頃までも儼然として維持されたものゝ樣に思はれる。今も猶ほその礎石の一部は完全に保有され、最近に碑を立てゝ其の場所を表彰することゝなつた。」(「帝都」より)とある。さてこの歌は都が再び飛鳥に復せられてから、十數年を經た後、多情多恨の人麿が、壬申の亂後全く荒廢に歸した宮城の址を見て、無量の感慨に打たれて歌つたものである。○「柿本人麿」の博は詳かでない。持統文武兩朝に仕へ、駕に從うて紀伊伊勢吉野に赴き、又近江の舊都を訪ひ、石見筑紫に赴任し、晩年石見で歿したことは作歌によつて知れてゐる。人麿は萬葉前期(即ち藤原朝)を代表する一流の歌人であるが、歴史にその事積の見えてゐないのは、官位の低い人であつた爲であらう。大和添上郡柿本町及び北葛城郡新庄村大字柿本に、柿本神社又は柿本寺といふがあつて、彼の出生地と傳へられてゐるが信じ難い。又石見國美濃郡小野村大字戸田にも、柿本神社といふがあつて誕生地と云はれてゐる。集中に人麿作として載せられた歌數は、長歌十六首短歌六十餘首あるが、外に人麿歌集に出づと註したものが、長歌二首短歌旋頭歌合せて三百餘首ある。併し後者は彼の作であるか否かは疑はしいものである。○「たまだすき」は畝火の枕詞。(既出)今日畝傍に「玉だすき」といふ菓子を賣つてゐる。これは奈良の枕詞の「青丹よし」を名とした菓子を賣つてゐるのと同じ思ひ付きである。○「畝火山」は大和三山の一で、三つの中では最も高い。○「檀原の日知の御世」は神武天皇の御代をいふ。「日知」は天皇を云ふ。天つ日繼を知し召す意であるといはれてゐる。○「御世ゆ」の「ゆ」は「より」と同じ。萬葉時代に、は「より」と同じ助詞に「ゆ」「ゆり」「よ」「より」の四つがあつた。(34)○「あれましし」の「ある」は生まる又、現はれる意である。○「神のことごと」は歴代の天皇をいふ。上代では天皇を現つ神として尊崇したのである。○「樛の木の」は「つぎつぎ」の枕詞。これはツガの音からツギに云ひかけたのである。「樛」は栂とも書く。我が國の中部及南部の深山に自生する松杉科の常緑喬木で、幹の高さ三四丈、葉は扁平の線形で、先端は二つに割れてゐる。夏花を開き、後マツカサに似た卵状毬果を結ぶ。材は良材で建築器具等に用ゐられる。異名にオホツガ・ツガノキ・トガノキ・トガマツ・ホンツガ等がある。○「いやつぎつぎに」の下に、大和に都してと云ふ意を補つて見るとよく通じる。○「そらみつ」は大和の枕詞。(既出)○「青丹よし」は奈良の枕詞。(既出)○「奈良山」(既出)○「いかさまに思ほしめせか」は下の「天の下知しめしけむ」に係る句である。この句の意は、天皇の思し召す所を畏れかしこんで、わざと推察の限りでないやうに云つたのである。○「天ざかる」は天の遠退く意で、遠く都から隔つてゐる所と云ふので、鄙に云ひかけて枕詞としたのである。○「鄙」は田舍の意で大津の地を指したのである。「鄙にはあれどは田舍ではあるが、帝都として適當な地と思し召してといふ意である。守部は郡から遠く離れた田舍ではあるけれども、實は間近い隣國の近江の國と云ひ續けたのであると云ひ、又古義には大神景井の説によつて、本文の「夷者雖有」に「不」を補つて、ヒナニハアラネドと訓んでゐるが、此等は餘り考へ過ぎて却て穩當を缺いでゐる。○「さざなみの」は大津の枕詞。「さざなみ」は今の滋賀郡の古名で、(今滋賀村に大字漣といふ名が殘つてゐる。)その内にある地名の枕詞として用ゐられる。例へば滋賀にかけ又比良山にも冠する。○「すめろぎ」はスメラギともスベラギともいふ。天下を統べ治める君といふ意で、天皇をいふ。こゝは天智天皇を申すのである。○「神のみこと」は天皇を尊んでいふので「みこと」(命)は尊稱である。○「春草の茂く生ひたる」は下の「大宮處」を修飾する句。○「霞立つ春日の霧れる」も下の「大宮處」の修飾句であるが、「霞五つ」は春日の修飾語になつてゐる。(35)「霧る」は霞むことを云ふ。○「ももしきの」大宮の枕詞。多くの岩を以て堅固に築き上げた大宮といふ意である。喜田博士の説に、「八」は必ずしも八ツでなく、澤山と云ふ意であつて、ヤシキ(屋敷)といふのは、宮殿の周りに多くの石をめぐらしたものをいふのであるが、それが普通の人民の家に濫用されるやうになつてから、天皇の御所は更に大きく、モモシキ(百敷)の大宮と云つたのであると。(「尾參遠郷土史論」八二頁)○「大宮處見れば悲しも」の句について、當時宮殿が現存してゐたと見る説があるけれども、歴史家の説では遷都後間もなく大藏省が燒け、十年にも再び大藏省が炎上して、遂に宮城も烏有に歸し、天皇はその翌月に崩御遊ばされたのである、といふことであるから、壬申の亂の前に、既に靡墟となつてゐたものと見るべきである。
【譯】畝火の山の傍の橿原の宮で、天下をお治め遊ばされた神武天皇の御代以來、お生まれ遊ばした歴代の天皇はつぎつぎに大和の國に郡を置いて、天下の政治を御覽なされたのに、如何なる叡慮のあられたことか、吾々微臣には分らないが、その大和を後にして奈良山を越えて遠い田舍ではあるが、近江の大津を最も適當な處として、都をそこにお定めになつて、天下をお治めになつた天皇の大宮は、こゝだと聞いてゐるが、大殿はこゝだと人も云ふけれども、あたりには春草が生え繁つて其の跡さへなく、霞の立つ春の日もぼつと霞んで、人影もない大宮處を見れば、どうにも悲しさに堪へられないことである。
【評】萬葉集に挽歌(哀傷の歌)の多いことゝ、皇室をたゝへ、帝都を讃し、古京を悲しむ作の多いことは、特色として著しく目立つことである。これは何に基くか、それには種々の理由もあらうが、當時の國民思想が一般に、著しく現實主義であつて、生を愛し現世を樂しむといふ念が特に強かつた爲に、彼等にとつては、衰亡とか死滅とかいふことが人生最大の悲哀として、深く情緒を動かしたに相違ない。これが挽歌の特に多い理由であらうと思ふ。次に(36)皇室又は帝都に關する作の多いのは、當時の國民が、天皇は神にましますといふ信念に基いて、皇室をこの世に於て最も尊嚴なるものとし、最大の尊敬を拂つて仕へてゐたからであつて、古京に對して感慨の涙を濺いでゐるのは、大なるもの盛なるものゝ衰亡に對する哀愁から起るのであつて、これは現實主義と皇室崇敬の至情とからまつて、起り來るものゝやうに思はれる。而して此等の思想を最もよく代表した歌人は、人麿であつたやうである。即ち人麿は元來多感の歌人であつたから、叙景よりも抒情が得意であつた。又抒情の中でも挽歌が最も多く(特に皇族の崩去を哀悼した作が多い。)又皇室や皇居や古京に關する作も隨分多い。さういふ特色から見ると、この長歌の如きは、人麿の代表的作物の一と謂つてよいと思ふ。即ち英邁なる天智天皇の偉業は、崩御と共に中絶し、絶大の抱負を抱かせられて御經營になつた帝都は、僅か四年にして、皇室至大の亂後忽ち廢墟となつて、琵琶湖畔の春草茂き所に、只礎を留めるのみであると云ふやうな、悲哀な光景に對しては懷古の情に堪へず、又偉大なるものゝ推移興亡に對する無量の感慨が起つて、一氣に詠んだのがこの歌である。さう思つてこの作を讀むと、「大宮はこゝと聞けども」以下の句調の如きは、よく彼の情緒の高調に達したことを示してゐて、誦む者の心を大に動かすものがあるやうに思ふ。
 
   反歌
 
30 さざなみの 滋賀《しが》の辛崎 幸《さき》くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ
 
 樂浪之。思賀乃辛崎。雖幸有。大宮人之。船麻知兼津。
 
【澤】○「滋賀の辛崎」は八景の一の辛崎である。このあたりは都のあつた頃は、湖上交通の要津であつた。○「幸く」は恙(36)なくの意。上にカラサキとあるのを受けてサキクと云つたので調が面白く響く。○「舟待ちかねつ」の「かぬ」は不得の意で、舟を待つてゐてもその甲斐のないこと。
【譯】大宮人が常に舟を寄せた滋賀の辛崎は、昔ながらにあるが、併しいつまで待つても、大宮人の舟を待ちうけることは永久なくなつてしまつた。
 
31 樂浪《さざなみ》の 滋賀《しが》の大輪田《おほわだ》 淀《よど》むとも 昔の人に またも逢はめやも
 
 左散難彌乃。志我能大和太。與杼六友。昔人二。亦母相目八毛。
 
【釋】○「大輪田」は一に輪田ともいつて、唐崎あたりを云つたものらしく、そこは年々泥沙が堆積して、今日は全く一變してゐるが、昔は草津へ航路があつた所である。○「またも逢はめやも」の「や」は反語で「も」は感動の助詞。
【譯】大宮人が度々舟を浮べた滋賀の大輪田は、昔ながらに水が淀んで、如何にも人を待ち顔であるが、昔の人に再び逢ふことが出來ようか、とても出來ないのだ。
 
   幸2于吉野宮1之時柿本朝臣人麿作歌
 
36 やすみしし わご大君の 聞しをす 天の下に 國はしも さはにあれども 山川《やまかは》の 清き河内《かふち》と (38)御心を 吉野の國の 花散らふ 秋津《あきつ》の野邊《ぬべ》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》きませば ももしきの 大宮人は 船《ふね》並《な》めて 朝川わたり 船競《ふなぎほ》ひ 夕川わたる この川の 絶ゆることなく 此の山の いや高からし いはばしる 瀧のみやこは 見れど飽かぬかも
 
 八隈知之。吾大王之。所聞食。天下爾。國者思毛。澤二雖有。山川之。清河内跡。御心乎。吉野乃國之。花散相。秋津乃野邊爾。宮柱。太敷座波。百磯城乃。大宮人者。船並※[氏/一]。旦川渡。舟競。夕河渡。此川乃。絶事奈久。此山乃。彌高良之。珠水激。瀧之宮子波。見禮跡不飽可聞。
 
【釋】○「吉野宮」は前に述べた宮瀧である。そこは吉野川が兩岸の岩にせかれて、急湍となつてゐるので、山水の景色がよい。「いはばしる瀧の都」と云つたのもその景色である。○書紀を見ると、持統天皇の三年から十一年まで、毎年こゝに行幸があつたことが記されてゐる。この歌はその行幸の時、駕に從つて行つた時献つた歌である。○「やすみしし」は大君の枕詞。(既出)○「聞しをす」は「きこしめす」と同じで、天下を治め給ふこと。○「國」は此所では一區域の地を指してゐるのである。○「しも」は二つの助詞の重なつたもので、「し」は例の指示する意の助詞で、「も」は感動の助詞である。○「さは」は多くといふ意。○「河内」は川が曲折してゐて、三面水にかこまれた地をいふ。ここは下の秋津野をいふのである。○「御心を吉野」は御心を寄せ給ふといふ意で、吉野に云ひ掛けたのである。○「花散らふ」は「花散る」に「ふ」が附いたのであつて、散ることの繼續的の意である。○「秋津の野邊」は川上の小野とも(39)いふ。宮瀧の地をいふ。「野邊」の邊は「ゆふべ」「山べ」の「べ」と同じく接尾語で意味はない。○「宮柱太敷きませば」は離宮にましますことをいふ。古事記や祝詞などに「底つ岩根に宮柱太しり高天原に氷木高しり」といふ詞が、屡用ゐられてゐるのと同じく、一語一語に意味はなく、たゞ天皇のまします所のさまを稱へていふ常套語である。「敷く」は「知る」「占む」と同じ語根から分出した語で領する意で、皇居としてお住みになることをいひ、「太」は柱について云つたのでなく、「高知る」「廣敷く」などの「高」「廣」の類で、稱詞として添へた接頭語である。○「船並めて朝川渡り」は次の「船競ひ夕川わたる」と對に置いたので、朝夕の宮仕のさまを叙したのである。○「いや高からし」はこの山の如くいよ/\榮え給ふことであらうといふ意である。○「いはばしる」は石の上を水が走り流れる意で、瀧の枕詞である。○「みやこ」は宮所《みやこ》の意。
【譯】わが大君がお治めになつてゐるこの天下に、國は多くあるけれども、山と川との景色の清い河内として、特に御心をお寄せになつてゐるこの吉野の、花の頻りに散る秋津の野に、嚴しい宮殿をお構へになつてゐると、大宮人は舟を並べ先を競うて、朝に夕に川を渡つてお仕へ申上げてゐる。その川の絶えることのない通り、又この山のいよいよ高く榮え行く通り、永久榮えるであらうこの瀧の宮居は、いつまで見ても見飽く事のない、誠に佳い所である。
【評】遊幸や宴飲に侍して、應詔の詩賦を奉ることは支那の風であつて、之を摸倣した作が懷風藻に幾らも見えてゐる。その應詔の詠詩の風はやがて和歌にも試みられたので、この長歌並に反歌の如きも、全くそれに擬したものに相違ない。この歌は謹嚴莊重な調で、堂々と歌つた所が如何にも勝れてゐる。山と川とによつて聖徳をたゝへたのは、論語の「知者樂v水。仁者樂v山。」の思想に倣つたものである。
 
(40)   反歌
 
37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑《とこなめ》の 絶ゆることなく またかへり見む
 
 雖見飽奴。吉野乃河之。常滑乃。絶事無久。復還見牟。
 
【釋】○「常滑」の解に種々の説がある。(イ)永久滑かに水の流れること。(ロ)川の中の床石に水苔のやうな滑かなものがつくのをいふ。(ハ)川床には水苔が生えて常に滑かであるから、永久の意に用ゐたのである。(ニ)頂の平な岩が並んでゐるのをいふ。此等が主な説であるが、思ふにトコナメは床滑の意で、(ロ)の説のやうに川の床に生える水苔で、「の」は「の如く」の意であらう。
【譯】見飽きのしないこの吉野の川の底に生える水苔のやぅに、絶えることなく伺度も還り來て、永遠に君にお仕へ申したいものだ。
 
38 やすみしし わご大君 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川 たぎつ河内《かふち》に 高殿を 高知りまして 登り立ち 國見をすれば たたなつく 青垣山《あをがきやま》の 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る貢《みつぎ》と 春べは 花かざし持ち (41)秋立てば 紅葉《もみぢ》かざせり 遊副川《ゆふかは》の 神も 大御食《おほみけ》に 仕《つか》へまつると 上つ瀬に 鵜川《うがは》をたて 下つ瀬に 小網《さで》さし渡し 山川も よりて仕《つか》ふる 神の御代かも
 
 安見知之。吾大王。神長柄。神佐備世須登。芳野川。多藝津河内爾。高殿乎。高知座而。上立。國見乎爲波。疊有。青垣山。山神乃。奉御調等。春部者。花挿頭持。秋立者。黄葉頭刺理。遊副川之。神母。大御食爾。仕奉等。上瀬爾。鵜川乎立。下瀬爾。小網刺渡。山川母。依※[氏/一]奉流。神乃御代鴨。
 
【釋】○この歌は前の長歌と同じ時の作である。○「神ながら」は天皇は現《アキ》つ神であるからと云ふ意。ナガラのナはノと同じ意の助詞で、カラは故といふ意の古い副詞で、口語のカラはその名殘である。このカラは上に助詞を伴うて、ナガラ・ノカラ・ガカラ・ツカラなどの如き連語を作るのである。(「奈良朝文法史」三五六頁及四三九頁參照)○「神さびせす」は神らしく振舞ひ給ふとてといふ意である。「さぷ」は「處女さぶ」「翁さぶ」などの「さぶ」で、專らそれらしい振舞をする意の接尾語である。又終りの「せす」は「爲《ス》」といふ動詞に敬語の助動詞「す」の添うた形である。即ちこの句は、天皇が神としての行動を遊ばすことをいふので、下の「高殿を高知りまして云々」の句を起す前提である。○「たぎつ河内」は水が岩に激して急湍となつてゐる河内、即ち宮瀧の風景をいつたのである。○「高殿を高知りまして」は高殿を宮居としてお住みになること。「高殿」と云つたから、「知る」といふ動詞に同じ「高」といふ接頭語を添へて調を整へたのである。「高知る」の意は前の長歌の所で述べた通りである。○「たゝなつく」は眞淵の説によつて(42)本文の「有」を「付」の誤としてかく訓んだのである。(古義には「有」を「著」の誤として同じくタタナツクとよんでゐる。)その意義は眞淵の説には、疊《たゝなは》り着《つ》く山といふ意であると云ふ。即ち山が重なりあつてゐる形容で、下の「青垣山」の枕詞となつてゐるのである。○「青垣山」は青い垣をめぐらしたやうな山脈のこと。○「山神」は山を掌る神即ち大山津見神をいふ。○「奉る」は「献る」「祭る」などいふ意味から轉じては、動詞の下につく敬語の助動詞ともなる。こゝは献る意味に用ゐられてゐるが、下の句の「仕へ奉る」の「奉る」は助動詞である。○「春べ」の「べ」は接尾語で只春の事。○「花かざし持ち」は山上に花の咲くことを云つたのであるが、恰も山の神がそれを天皇に捧げ奉つてゐるやうに見なしたのである。○「遊副川」は吉野川の上流の古名であらう。○「大御食」の「大御」は敬語の接頭語。「食《ケ》」は食物の古語。「大御食に」は御食の御料としてといふ意。○「鵜川を立て」の解釋に二つの説がある。第一説は小琴の説で、(「燈」「檜嬬手」「古義」も同説)「鵜川」とは鵜に魚をとらせる事で、其の鵜川をする人を立たせることを「立て」と云つたのであると云ふのである。第二説は木村博士の説で(「新考」も同説)前に講じた長歌の「朝獵に今立たすらし云々」の句及び下に講ずる「御獵立たしし」などは、御獵を催することで、御獵に人を立たせることではない、こゝもそれと同じで、其の鵜で魚をとる事をさして云つたのであると云つて、「立つ」の意義を下の四つに區別してある。即ち(一)出で立つ意(二)人を立たせる意(三)物を据ゑる意。「高杯に盛り机に立てゝ〔三字右○〕母に奉りつや」(卷十七)のやうな場合(四)催する意。(「美夫君志」卷一下二八頁)尤も井上博士は「朝がりに今立たすらし」の「立たす」は、「に」があるから出で立つ意で、「御獵立たしし」とは別であるとして居られる。思ふに「立つ」といふ語に「催す」といふ意義があつたか否かは疑問である。併し「据ゑる」といふ意に用ゐた例は幾らもあるので、タテマツル(奉)の語源も「立て祭る」であつて、供物を据ゑ並べて祭ることであるらしいから、こゝの句もそれと同じわけで、鵜漁のできる川(43)を備へ設ける意と解したら、穩當であらうと思ふ。而して「御獵立たしし」は「朝獵に今立たすらし」と共に出で立つ意と見てよからうと思ふ。○「小網さし渡し」の「小網」は和名抄に「佐天、網如2箕形1狹v後廣v前者也」とある。新井白石は狹手の義であると云つてゐる。今も手網のことをサデと云一ふ地方がある。小網をさし渡して魚を捕るのは、宮仕の人がする事であるけれども、それを川の神が仕へ奉ると云つたのである。○「上つ瀬」「下つ瀬」はたゞ對にしたまでゞある。○「山川もよりて仕ふる云々」はかくの如く山の神も川の神も歸依し奉つて、大宮人と共にお仕へ申上げる貴い神の御代であるといふので、初めに天皇を現つ神とたゝへてゐるから、結びをそれと照應させて、げに神の御代であると歌ひ收めたのである。
【譯】わが大君は現つ御神であるから、神のわざをあそばさうとして、吉野川の水の激して流れてゐる景色の佳い河内に、高殿を高くお構へになつて、その高殿にお登りになつて國見を遊ばすと、重なり合つてゐる四方の、青い山のその山の神が献る物として、春は美しい花を挿頭して捧げ奉り、秋になると美しい紅葉を挿頭して奉る。又遊副川の神も御食の料にさし上げようとして、上の方の瀬に鵜川を設け、下の瀬には小網をさし渡し、山の神も川の神も御威光になびいてお仕へ申上げる、げに神の御代であることだ。
【評】前の長歌は大宮人が競うてお仕へ申してゐるさまをのべて、離宮をたゝへたのであるが、この長歌は山川の神までが、依りなびき奉つてお仕へ申上げてゐることを叙べて、御稜威の畏こさをたゝへたのである。彼と並べて見て興味のある歌となつてゐる。
 
   反歌
 
(44)39 山川も よりて仕ふる 神《かむ》ながら たぎつ河内《かふち》に 船出せすかも
 
 山川毛。因而奉流。神長柄。多藝津河内爾。船出爲加母。
 
【譯】山川の神も歸依して仕へ奉るわが大君は、景色の佳い河内に、貴くも現つ神として、舟をお浮べになつてゐる。まことに貴いことである。
 
   當麻眞人麻呂《タキマノマヒトマロ》妻作歌
 
43 わがせこは いづく行くらむ 沖つ藻の 名張《なばり》の山を 今日か越ゆらむ
 
 吾勢枯波。何所行良武。己津物。隱乃山乎。今日香越等六。
 
【釋】○この歌は當麻眞人麻呂の妻が、旅に出てゐる夫の上を思ひやつて詠んだのである。○「せこ」は男を貴んで呼ぶ稱で、兄弟夫婦の間に用ひられ、又友人の間にも用ひられた例がある。こゝは妻が夫を指したのである。「せこ」は又單に「せ」といふこともある。○「沖つ藻の」(本文の「己」は「起」の略字)は名張の枕詞。古くナパル(隱るといふ意)といふ動詞があつた。そこで名張の枕詞に、水の下に沈んでゐて見えない藻といふ「沖つ藻」をいひかけたのである。○「名張山」は伊賀にある。昔大和から伊勢に行くには伊賀を通つたのである。選釋に「偶然ではあるが、其の場所が隱れるといふ名張の山であるだけに、何となく暗いやうな感じが有つて、此の歌の感情が深く思はれる」とある。○「今日か」の「か」は疑問の助詞。○この歌は古義にある通り、上に何所を行つてあるであらうかと詠んで、下にさて日數をかぞへて見ると、今日は名張山を越えてゐるのであらうと詠んだのである。燈の説に、此の作は往路を思ひやつて詠んだものとも見えるけれども、歸路の事を歌つたものと見る方が、待ちわびた情が切に聞えるやう(45)であると云つてゐる。參考までに掲げておく。
【評】旅といふことが多くの危險と苦勞を伴なつてゐた古のことであるから、留守居の妻の心使ひは、今日の人の想像以上である。この歌はその當時の人の心になつてよんで見なくては同感が起らぬ。古今集の「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ」(よみ人知らず)と内容の相似た所がある。
 
   輕皇子宿2于安騎野《アキノヌ》1時柿本朝臣人麿作歌
 
45 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子《みこ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 太敷《ふとし》かす 都を置きて こもりくの 泊瀬《はつせ》の山は 眞木《まき》立つ 荒山道《あらやまみち》を 岩がねの しもとおしなべ 坂鳥《さかどり》の 朝越えまして たまかぎる 夕《ゆふ》さり來れば み雪ふる 阿騎《あき》の大野《おほぬ》に はたすすき しのをおしなべ 草枕 旅やどりせす (46)いにしへ思ひて
 
 八隅知之。吾大王。高照。日之皇子。神長柄。神佐備世須登。太敷爲。京乎置而。隱口乃。泊瀬山者。眞木立。荒山道乎。石根。楚樹押靡。坂鳥乃。朝越座而。玉限。夕去來者。三雪落。阿騎乃大野爾。旗須爲寸。四能乎押靡。草枕。多日夜取世須。古昔念而。
 
【釋】○「輕皇子」は天武天皇の皇子草壁皇子の第二王で、後の文武天皇である。○「安騎野」は大和國宇陀郡の西部の野の古名、○この歌は輕皇子が父君(草壁皇子)の薨ぜられた後、生前に屡獵を催された安騎野を慕つて、そこに行つて旅宿りをなされた時、人麿が隨從してよんだ歌である。○「やすみしし」(既出)○「高照らす」は「天照らす」と同じ意で「日」の枕詞。○「日の皇子」は日の大神の御子の意で、天皇又は皇子を指していふ。こゝは皇子をいふ。○「神ながら云々」の句は既に講じた。この句は前には天皇に用ゐてあつたが、こゝではそれを皇子に用ゐてゐる。○「都を置きて」は都をあとにして、又は都を出てといふ意。○「こもりくの」は泊瀬の枕詞。泊瀬山は大和磯城郡初潮町(長谷寺のある所)の後方の山であるが、こゝでは初瀬から宇陀郡へ越す山道をさして云つたのである。さて「こもりくの」といふ枕詞の意義に就いては、普通泊瀬の地が四周山で圍まれてゐる故、隱國《コモリク》若くは隱口《コモリク》の意で云ひかけたのであると云ひ、或は木盛處《コモリク》の意でかけたのであるとも云つてゐる。併しこゝに此と系統を異にした説がある。即ち荒木田久毛の説に、コモリクは隱城の義で、隱城は墓のことであつて、人が終《ハ》てる處であるから、泊瀬にかけたのだと云ふのである。泊瀬といふ地名が陵墓の地といふ義であることは、小山田與清も述べた所であるが、なほ近頃山本信哉氏も同じやうな説を述べてゐる。即ち泊瀬は元來船の着く瀬のことであるが、轉じては陵墓にも用ゐたので、船代(死者を收めた石棺で、中には船形のもある。)を藏める石槨をハツセともいつたものらしい。從つてこの枕詞も隱口の意であつて、石槨に入る入口の羨道を指したものであると云つてゐる。(「東亞の光」)以上の諸説を見るに、地勢から云ひかけたものと思はれるが、元來泊瀬の地には陵墓が多く、其の地名の起原もそれと關係がある(47)やうにも思はれ、且つ常陸風土記には陵墓の意味の泊瀬に、「こもりくの」と云ふ枕詞を用ゐた例が見えて居るから、最後の説によほど道理があるやうに思はれる。○「眞木」の「眞」は眞金(鐡)・眞虫(蝮)・眞神(狼)・眞綿等の「眞」と同じで、「まことの」「勝れた」「恐るべき」等の意を添へる接頭語である。よつて眞木は建築材料として最も勝れた檜を指すのである。併し「眞木立つ荒山道」などと歌つたのは必ずしも檜に限らず、杉なども指したものであらう。遠目には檜と杉は似て見えるから、それらの林を指してマキと云つたのである。○「荒山」は人氣のない深い山。○「岩が根」は岩根と同じ。「根」は接尾語。○「楚樹《シモト》」は草木の叢を云ふ。シは前に「山をしみ」の語釋の所で説明したやうに、茂るといふ意の古語の語幹で、モトは「根」或は「下」の義の名詞である。この二つが熟合してシモトとなつたので、其の熟合の仕方は「白き石」がシライシとなり「高き山」がタカヤマとなると同じである。なほ書紀に「茂林《シモトハラ》」又「弱木林《シモトハラ》」といふ語があるのを參考すべきである。○「おしなべ」は叢を押し分けて。○「坂鳥の」は「朝越え」の枕詞。朝鳥が山を越えて餌をあさりに出かけるからである。○「たまかぎる」(玉限)は夕の枕詞。「玉限」を舊訓にはタマキハル、代匠記にはカゲロフノと訓み、考には「玉蜻」の誤としてカギロヒノと訓んで居る。この枕詞については伴信友の玉蜻考(比古婆衣卷四)雅鐙の玉蜻考(枕詞解附録)及び木村博士の玉蜻考及補正(美夫君志別記附録)等に考証が見えて居るが、要するに雅澄の説によつて、タマカギルと訓むのが穩當であるらしい。從來「玉限」「玉蜻」と「蜻火」「炎」とを一つに見たのは誤である。即ち雅澄は前者はタマカギルで、後者はカギロヒと訓むべき事を明かにし、タマカギルは枕詞であつて、「磐垣淵《イハカキフチ》」「髣髴《ホノカ》」「眞一目《タヾヒトメ》」等にかゝつてゐるが、カギロヒは名詞であつて、「炎立《カギロヒノタツ》」「蜻火之燎流荒野《カギロヒモユルアラヌ》」の如く用ゐられ、又枕詞としては、「炎乃春爾之成者《カギロヒノハルニシナレバ》」のやうに用ゐられて居ることを述べ、なほ「玉蜻」「珠蜻」等をタマカギルと訓むべき證として、卷十一の「玉垣入風所見《タマカキルホノカニミエテ》」び靈異記の「多萬可岐留波呂可邇美縁弖《タマカギルハロカニミエテ》」を擧(48)げて居る。而してその語義に就いて、タマは美しく透き徹るむのをいふ語で、カギはR《カガヤ》く意であるから、淵にかけて枕詞とし、又夕陽は澄んで明くRくから夕にかけ、又珠玉のほのかに光りRく意から、「髣髴《ホノカ》」「直一目《タヾヒトメ》」などに懸けたのであると云つて居る。(木村博士は、タマは石又は磐などの中に在るものであるから、玉Rる磐とつゞけたのか、或は玉は水中から出るから、淵に云ひ懸けたのであらうと云つて居る。)○「夕さりくれば」は夕になるとの意。「夕さり」は「夕しあり」の約つたので、「し」は指示する意の助詞で、「あり」は存在の動詞である。○「み雪ふる」は當日雪が降つたのではなく、この野で雪の降る中を、鷹狩など催されたことを想ひ浮べて、かう歌つたのであると守部は云つて居る。○「はたすすき」は薄のこと。「はた」は旗で、その穗が高く抽け出た形が、旗に似てゐるからかう呼ぶのだとも云ひ、又|皮薄《ハタスヽキ》(皮は膚と同義である。檜皮《ヒハタ》といふ例もある。)の義で、穗が葉で包まれて生ずるから、かういふのであると云ふ眞淵の説もある。○「はたすすきしの」の解釋に種々の説がある。今主なものを擧げれば、(一)はたすすきのしなひを云ふ。(考)(二)はたすすきと小竹《シヌ》を云ふ。(燈)(三)はたすすきの幹《ガラ》を云ふ。小竹は細竹のみでなく薄葦の幹をも廣くいふ。(古事記傳)(四)「はたすすき」は「しぬ」の枕詞である。(註疎)此等の説の中では古事記傳の説が穩富と思ふから、今暫くそれに從つておく。なほ木村博士は「四能」にシヌの音があると云つて居られるけれども、下に乎《ヲ》があるから好音法の上からは、シノと訓む方がよいと思ふ。○「草枕」は「旅」の枕詞である。上古には旅宿がなかつたので、草を結んで枕とし野宿をしたから、此の枕詞を生じたのである。○「旅やどりせす」の「せす」は「す」の敬語法。○「いにしへ思ひて」は父君の御獵のあとをお慕ひなされてと云ふ意。
【譯】私がお仕へ申して居る日の皇子は、神であるから神の振舞をなさらうとして、住み給ふ都の地をあとにして、泊瀬の山の眞木の生ひ茂る荒い山道の、岩に生え茂つてゐる灌木の叢を押し分けなされて、朝早く山越をなさり、夕(49)になるとあの阿騎の廣野に、叢を押し靡かせてそこに旅宿をなされる。父君が獵を催されて昔の事をお慕ひなさつて。
 
   短歌
 
46 阿騎《あき》の野《ぬ》に やどる旅人 うちなびき 寐《い》もぬらめやも 古へ思ふに
 
 阿騎乃野爾。宿旅人。打靡。寐毛宿良目八方。古部念爾。
 
【釋】○「短歌」は長歌に對して三十一音の歌をいふ名であるが、又反歌をかく稱へたのである。○「うちなびき」は草木の靡いてゐるやうに、手足を延べて打解けて寢る樣を云ふ。○「寐《い》もぬらめやも」の「やも」は反語。昔は寐ることを「いをぬる」と云つた。「い」は名詞で「ぬる」はその動作をあらはす語である。それ故この句は、どうして打ちくつろいで寐られようぞといふ意になる。
【譯】阿騎の野に旅寢をするお伴の人々も、どうして打ちくつろいで寐られようぞ、昔の事が偲ばれて。
 
47 眞草《まぐさ》刈る 荒野《あらぬ》にはあれど もみぢ葉の 過ぎにし君が 形見とぞ來《こ》し
 
 眞草苅。荒野二者雖有。黄葉。過去君之。形見跡曾來師。
 
【釋】○「眞草」の「眞」は接頭語である。後世「秣」をいふけれども、こゝは野草の義である。○「眞草苅る荒野」は「眞木立つ荒山道」と云ふのと同類で、そこに行つて草を苅り採る者の外に用のない荒野と云ふ意である。○「もみぢ葉の」は紅葉の散るやうに、此の世を去るといふ意で、「過ぎにし」の枕詞に置いたのである。○「君」は草壁皇子を指す。(50)○「形見とぞ來し」の「と」は「とて」の意で、「ぞ」は係の助詞。
 
【譯】こゝは草を苅る外には、來る所でない荒野であるけれども、おかくれになつた先君の形見と思つて、參つたのである。
 
48 ひむがしの 野《ぬ》にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月《つき》傾《かたぶ》きぬ
 
 東。野炎。立所見而。反見爲者。月西渡。
 
【釋】○「かぎろひ」は後世は專ら陽炎を云ふが、當時は廣く光を指していつたのである。從つて民家の燒境火がぼツと赤く立つのや、夜の明方に東の空が薄赤く染まるのなどをもいつたのである。こゝは最後の意である。燈や檜嬬手に前者の意と見て、早朝民家に燒く火が、ほのかに見えたのを云つたとしてゐるのはよくない。○「かへり見すれば」は顧みればである。「かへり見る」といふ動詞の名詞形に、「す」といふ動詞を添へた形である。
【譯】朝早く目覺めて東の空を見ると、天はぼツと染まつて、夜もやがて明けようとする模樣であるが、さて頭をめぐらして西の空を見ると、月は西山に傾いてゐる。
【評】夜がまさに明け始めようとする時の壯觀が、遺憾なく描き出されて居ろ許りでなく、その雄大な光景に對して、作者が感じて居る氣分までが、言外に響いて居るのがよい。人麿の詩才を十分に發揮した作である。此の歌は舊訓に「東野炎立所見而反見爲者月西渡《アヅマノノケブリノタテルトコロミテカヘリミスレバツキカタブキヌ》」とあつたのを、契沖が初の二句をハルノ野ノカゲロフタテルと改め、更に眞淵に至つて、前記の訓の如く訓んだのである。萬葉學上眞淵の功績の大であることは、この一事でも分る。
 
(51)49 日並知《ひなめし》の 皇子《みこ》の命《みこと》の 馬なめて  御獵《みかり》立《た》たしし 時は來むかふ
 
 日雙斯。皇子命乃。馬副而。御獵立師斯。時者來向。
 
【釋】○「日雙斯皇子」は續日本紀に日並知皇子と記してある。草壁皇子の諡である。この皇子は坐前持統天皇を補佐し奉つた功があるから、天皇と相並んで天下を知しめした皇子といふ意で、この尊號を奉つたのである。○「馬なめて」は御供の人々と共に馬を並べて。○「御獵立たしし」は御獵に出で立ち給うたといふ意。「立たし」は「立つ」の敬語法で、最後の「し」は過去を表はす助動詞。○「時は來むかふ」は時を主にして云つたので、その時節がやつて來たといふ意である。獵は冬から春の初めまで行ふ。
【譯】日並知の皇子が群臣と馬を並べて、獵に出で立ち給うた時節がやつて來た。
【評】右の長歌と四首の短歌とは連作となつてゐるのである。先づ長歌に草壁皇子を偲び奉つて、荒山に旅宿をなされる道中のことを叙し、短歌には其の夜のさまから、夜の明方の光景を順次に歌ひ、最後に獵の好時節となつて、いよ/\皇子を追悼する情の切なるものゝあることを述べてゐるので、頗る結構の妙を得てゐる。
 
   藤原宮之役民作歌
 
50 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒妙の 藤原がうへに 食國を めし給はむと (52)御あらかは 高知らさむと 神《かむ》ながら 思ほすなへに 天地《あめつち》も よりてあれこそ いははしの 近江《あふみ》の國の 衣手《ころもて》の 田上山《たなかみやま》の 眞木《まき》さく 檜のつまでを もののふの 八十宇治川《やそうぢかは》に 玉藻なす 浮べ流せれ そを取ると 騷《さわ》ぐ御民《みたみ》も 家忘れ 身もたな知らず 鴨《かも》じもの 水に浮きゐて わがつくる 日の御門に 知らぬ國より 巨勢路《こせぢ》より 我が國は 常世《とこよ》にならむ 文《ふみ》負《お》へる 神《あやしき》龜《かめ》も 新代《あらたよ》と いづみの川に 持ち越せる 眞木《まき》のつまでを 百足《ももた》らず 筏《いかだ》につくり (53)のぼすらむ いそはく見れば 神《かむ》ながらならし
 
 八隅知之。吾大王。高照。日之皇子。荒妙乃。藤原我宇倍爾。食國乎。賣之賜牟登。都宮者。高所知武等。神長柄。所念奈戸二。天地毛。縁而有許曾。 磐走。淡海乃國之。衣手能。田上山之。眞木佐苦。檜乃嬬手乎。物乃布能。八十氏河爾。玉藻成。浮倍流禮。其乎取登。散和久御民毛。家忘。身毛多奈不知。鴨自物。水爾浮居而。吾作。日之御門爾。不知國依。巨勢道從。我國者。常世爾成牟。圖負留。神龜毛。新代登。泉乃河爾。持越流。眞木乃都麻手乎。百不足。五十日太爾作。泝須良牟。伊蘇波久見者。神隨爾有之。
 
【釋】○題詞は藤原の宮の御造營の際、夫役《ブヤク》に立つた民が詠んだ歌といふ意味である。守部はこの題辭には言葉が足らない、よろしく「擬d造2藤原宮之1役民u作歌」とでもあるべきであると云つてゐる。此の歌は役民の作でなく、名ある歌人が役民の作に擬したものであらうと、宣長も云つてゐる。○「藤原宮」は持統天皇の四年に起工し、同八年十二月に清御原宮から遷都せられたのである。藤原京の區域は次に講ずる、「藤原宮御井歌」によつて、大體が了解せられるやうに、大和三山の間に在つたので、今日の畝傍の御陵が西の京極であつたといふことである。そして宮城は支那の長安京に則つて營まれたといふから、從來の宮城に比べると、遙かに大規模のものとなつたのである。その位置については、歴史家の間に二三の説があるが、高市郡鴨公村大字高殿の附近とふのが、最も確かな説とされてゐる。今日もその附近には、大宮・宮ノ口・宮所・南城殿《ミナミノキド》・北條殿・孫殿等の地名が存してゐるのは有力な證である。今は鴨公小學校の前に小さな森があつて、そこを宮址と稱してゐるが、そのあたり一面に古代の瓦の破片が散在してゐる。さて藤原宮は和銅四年に失火があつて全く廢墟となるまで、其の間十六年間存在してゐたのである。(地圖並に寫眞版參照)○藤原宮の御造營に用ゐられた材木の運搬の道筋は、この歌で知れろやうに、先づ近江の田上山《タナガミヤマ》から伐り出した材木を、山谷の大戸川《ダイドガハ》に浮べ、それを瀬田川(下流は宇治川)に流し、木津川と合する地點、即ち八幡の附近から方向をかへて木津川を泝し、木津(音から材木集散地であつたから木津の名があるのである。)あたりから陸に引き揚げて奈良に送り、佐保川を利用して藤原京に運んだものらしい。この道筋はこの歌の解釋上必要な事であるから、説明しておくのである。玉勝間卷十三にこの道筋を、宇治川から泉川に持ち越し、そこで筏に作り難(54)波の海に出し、紀(ノ)川を泝せて巨勢路から藤原の地に送つたやうに解してゐるのは、非常な迂回であつて、到底信じられない。○初の四句は既に出た詞である。○「日の皇子」はこゝでは天皇を申す。○「荒妙の」は藤原の枕詞。祝詞の文に「和妙荒妙《ニギタヘアラタヘ》」といふ語がある。布目の細かいのと荒いのとで妙を區別したのである。藤の繊維で織り上げた布は荒いから、「荒妙の藤」と云ひかけたのである。○「藤原がうへに」は藤原のほとりにといふ意。○「食國をめし給はむと」の「をす」は食するの意。「めし」は「見る」といふ語に敬語の副語尾の「す」を添へたもので、御覽になることである。さて「をす」「めす」(其の他「聞かす」「知らす」の類も同じ。)等は、身にとり入れ給ふ動作であるが、それから轉じては、天下を治め給ふ意にも用ゐたのである。なほ此等の詞を重ねて、「しろしめす」「きこしめす」「きこしをす」などとも云つた。○「御あらか」は御在所《ミアリカ》の意で宮殿である。○「食國を」以下四句は二句づゝの對になつてゐる。○「高知らさむ」の「高」は尊敬の意を添へる接頭語で、「知らす」は治める意。○「神ながら思ほすなへに」は既に前に講じた通り、天皇が現津御神としてお考へになるにつれてといふ意。「なへに」は從來「並べに」の意であると云はれてゐたが、奈良朝文法史には「な」はミナゾコ(水の底)ヌナト(瓊の音)などの「な」と、名詞「へ」(邊の意)との熟合したものであると説明してある。さてこの句は下の「天地もよりてあれこそ」とあるのに對してゐるのである。○「天地もよりてあれこそ」は天地の神々も天皇に歸依し奉つて居るからといふ意で、更に以下の句にそのことを倶體的に叙べて行くのである。この「こそ」に對する結びは下の「流せれ」であるが、そこを切らずして次へ歌ひ續けたのである。古義にこの句の結びは、最後の句の「神ながらならし」であると述べてあるけれども、新考に神のわざは材木を天然の力によつて流し下す所までゞ、それ以後は人力によるのであるから、「浮べ流せれ」で結びとなつてゐるのである、と説いてゐるのが穩當である。○「いははしの」は近江の枕詞。(既出)○「衣手の」は田上山の枕詞。手の音(55)が田に通じるから云ひかけたのである。○「田上山」は近江の栗太《クリタ》郡上田上・下田上二村の地、即ち勢田川の支流|大戸川《ダイドガハ》の兩岸一帶の山を云つたのである。昔は森林で蔽はれてゐたのであるが、濫伐の結果今は一面に禿山となつて、水晶の良いのが出るので名高い。大戸川も今は水が涸れて、舟や筏を通じることは出來なくなつてゐるが、森のあつた當時は材木の運搬には、必ず利用せられた事と思はれる。○「眞木さく」は「檜のつまで」の枕詞。眞木は檜のこと。檜を斧で析《サ》いて造つた用材といふ意でかけたのである。即ち造り方から云ひかけたのである。○「檜のつまで」は稜《カド》のある荒作りの檜材のこと。「つま」は稜《カド》のことで、「て」は材料をいふ。○「もののふ」のは「八十宇治川」の枕詞で、「八十宇治」は「八十氏」の意から宇治に云け掛けてあるのであるから、「もののふの八十」までが宇治川の序となつてゐると云つてよい。「もののふ」はもと武を以て仕へてゐる朝臣のことであるが、その數の多いために「八十伴緒《ヤソトモノヲ》にかけ、武臣には多くの氏姓がある所から、「八十氏」にもかけるのである。(又直ちに「もののふの氏」とも云ふ事がある。)○「玉藻なす」は浮ぶの枕詞。「玉」は美稱の接頭語で、「なす」は名詞又は用言に附いて、「の如き」といふ意を添へて、一の修飾句を造るのである。○「浮べ流せれ」の「れ」は完了の助動詞「り」の已然形である。奈良朝の文法では、條件法の句を受ける時に、「ば」「ど」「ども」の如き助詞を置かずともよかつたのである。即ちこの句は「浮べ流せれば」といふのと同じで、「浮べて流すと」といふ意である。○「そを取ると」はその流れて來た材木を取らうとしての意。それは何處でする業であるか、歌には表はれてゐないが、下に泉の川(今の木津川)とあるので、宇治川から支流の泉の川の方へ移す時の事であることが分る。○「御民」は臣民を大御寶《オホミタカラ》と云つたのと同じく、天皇を主にして云つた語で、天皇の人民といふ意である。○「身もたな知らす」の「たな」について、從來明かな説明を與へた人がない。今集中に見えてゐる用例をあげて見れば、「身もたな知らず」に對する肯定の形に、「身をたな知りて」と(56)いふのがある。又これも同じ「たな」であらうと思はれるものに、「たな露らふ」「たな曇る」などがある。此等を見ると「たな」は「全く」といふやうな意を添へる接頭語であるやうである。○「鴨じもの」は「水に浮き居て」の枕詞。「じもの」は集中に幾らも現はれて來るから、此の際聊か説明して置かう。先づ「じもの」の附いた語例を擧げると「猪《シン》じもの」「犬じもの」「鵜《ウ》じもの」「男じもの」「露じもの」などがある。この「じもの」の意義を代匠記に「と云ふものの如く」、冠辭孝に「なるもの」「と云ふもの」、倭訓栞に「其のさまに」、歴朝詔詞解に「それがやうに」と解いてある。又此等と異つた側の説では、犬?隨筆には意味を強める爲に添へた詞とし、古義も同じくたゞ輕く添へた詞で、別に重い意味はないと云つてゐる。而して其の語源については、本居大平は状之《ザマノ》の音の變化したものだと云ひ、間宮永好(犬?隨筆の著者)は「しも」「の」共に意を強める助詞であるとしてゐるが、山田孝雄氏の日本文法論(七〇二頁)には「じ」は「時じく」「我れじく」の「じく」(如くの意で、「じく」「しぎ」と活用して已然形はない。)であつて状態を示して名詞を形容詞の資格に變ずる一の接尾語である。そしてその「じ」から直ちに名詞の「もの」に熟合して「何じもの」となつたのであると説いてある。この説はよほど根據があるので先づ確かであるやうである。この説によると意味は「の如きもの」となるが、「鴨じもの」などは鴨の如くと云ふ意味と見るべきである。又時には「其のもの」「なるもの」の意、若しくは單に意味を強める一種の接尾語と見るべき場合もある。古義に引いてゐるやうに、「白雪仕物往來乍《ユキジモノキカヨヒツツ》」(卷三)、又宣命にある「太上天皇大前爾恐古士物進退匍匐廻保理《オホマヘニカシコジモノシジマヒハヒモトホリ》」のやうな場合は、接尾語と見なさなければならないやうである。○「水に浮きゐて」は以下九句を隔てゝ「いづみの川に」に續くのであつて、其の中間の九句は「いづみ川」の序である。○「わがつくる日の御門に知らぬ國より」この三句は又「巨勢路」の序となつてゐる。吾々人民がかうして、御造營のことにお仕へしてゐる天皇の御殿に、異國も聖徳をお慕ひ申して歸依して來るといふ意で、「依(57)り來〔右○〕」を「巨〔右○〕勢」に云ひかけて序としたのである。即ち此の序は天皇の御代を祝する意の詞を特に選んだのである。○「巨勢路」は和名抄に高市郡巨勢郷とあるその巨勢で、大和から紀伊に通ずる道路に沿うてゐる。今の高市郡の西南部から南葛城郡の東部に亙る地方である。○「我が國は常世にならむ云々」の意は、我が國は永久に榮え行くといふ瑞文を背に負うた靈龜も、この新しい御代を祝し奉つて出ると云ふ意で、「出づ」に「泉川」を云ひかけて序としたのである。○「文負へる神龜」は昔支那の禹王の時、瑞文を負うた龜が洛水に出たと傳へられてゐるから、その故事を借りたのである。或は新考に云ふやうに、持統天皇の御代の初めに、巨勢路から神龜が出たのかも知れない。○「新代」の訓はアラタヨがよい。久老の説に「惜」はアタラシで「新」はアラタシである、「新」をアタラシといふのは、平安朝になつてから訛つたのであると云つてある。「新代」は古く衰へた代に對する新しい盛んな代といふ意で、現代をたゝへて云つたのである。○「いづみの川」は山背川とも云つた。今の木津川である。水泉《イヅミ》郷(後に都を置かれた恭仁京の地)といふ川沿ひの郷名から取つた名である。源は伊賀に出て名張川を合せて西に流れ、八幡あたりで淀川に出會つてゐる。その淀川に落ち合ふ處で、材木を取り集めて木津川の方へ運んだものである。○「眞木のつまでを」は前の「檜のつまでをの句があまり遙かに隔つて來たから、茲に再びそれを繰り返へしたのである。○「百足らず」は「五十《イ》」「八十《ヤソ》」などに係る枕詞。こゝではイカダにかけてある。百に足らぬ五十といふ意で掛けたのである。○「のぼす」は泉川を泝すこと。○「いそはく」は爭ひつとめること。「いそはく」は「いそふ」(爭ふ)に其の事を指す意の語尾の「く」が附いたのである。「いそはく見れば」と云つたのを以て見ると、この歌の作者は、木津川が淀川に合する處に在つて詠んだものと思はれる。○「神ながらならし」は、いかにも天皇は神であらせられるから、かくまで天地の神も依りてお仕へ申し、萬民も勞を忘れてかくまでいそしむのである、と云つて歌ひ終つたのである。
(58)【譯】わが大君なる日の御子が、藤原に於て天下を知し召し、其所に宮城を御造營にならうと、神として考へ遊ばすにつれて、天地の神々までも、御心を寄せて居られるから、近江國の田上山から伐り出した、荒造りの材木を宇治川に流すと神々の力で材木は流れ下る。其の材木を泉川の方へ泝らせる爲に、取り拾はうとして騷ぐ御民も、これまた家を忘れ身も顧みずして水に這入つて、――人民どもが、御造營申上げてゐる宮城に、異國までも御稜威を慕つて依り來ると云ふ、其の言葉に通ふ巨勢路から、我が國は永遠に榮え行くといふ、芽出たい文字を負うた珍らしい龜が、この新しい御代を壽ぎ奉つて出る、其の出るといふ言葉に通ふ――泉の川に持ち運んで來たその材木を、筏に組んで川を泝せようとする、民の勤勞のさまを見ると、げに天皇は神でいらせれゝばこそと思ふことである。
【評】藤原宮の工事の大規模であつたこと、又工事に多くの日數を費したことは、續日本紀を見て知ることが出來るが、又一方に於て、法隆寺その他飛鳥時代の古い寺院建築を見ると、柱と云ひ扉と云ひ組み物といひ、今日内地に到底求め得られぬ、大きな檜の材木が用ゐられてゐる。これから推すと藤原宮の建築の壯嚴なものでつたことが、推察せられるのである。その堂々たる建築に用ゐられた巨大な材木が、如何にして運ばれたかといふことは、此の歌によつて之を知ることが出來る。作者の名は元より分らないが、皇室に對する敬虔の情の深い所、又一氣呵成に歌ひ去つてゐる所などから見ると、歌に長じた朝臣の作であらうと思はれる。
 
   從2明日香宮1遷2居藤原宮1之後志貴皇子御作歌
 
51 たわやめの 袖《そで》吹きかへす あすか風 都を遠み いたづらに吹く
 
 ?女乃。袖吹反。明日香風。京都乎遠見。無用爾布久。
 
(59)【釋】○「明日香宮」は飛鳥淨御原宮のこと。淨御原宮は新京の藤原宮からは、東南僅かに十數町を隔てた地で、天武天皇の御世から持統天皇の初年にかけて、都のあつた所である。その位置は喜田博士の説によれば、飛鳥村大字雷と飛鳥との中間であらうと云ふことである。○「志貴皇子」は天智天皇の皇子で光仁天皇の御父である。○「たわやめ」は女のことであるが、こゝでは宮女をさしてある。○「あすか風は」飛鳥の地を吹く風といふ意。「佐保風」「伊香保風」の類と同じ云ひ方である。○「都を遠み」は郡が遠いのでといふ意。「み」は形容詞の語幹について、副詞を作る接尾語である。藤原宮は飛鳥に續いた地であるから、實際は近距離なのである。
【譯】これまで都であつた時は、多くの宮女の美しい袖を吹いた飛鳥の風も、今は郡が遠くへ遷されたので、空しく吹いてゐる。いかにも物淋しくなつたことだ。
【評】「手弱女の袖吹きかへす」の句で、明日香京の榮えてゐた當時の華やかな光景が偲ばれ、「いたづらに吹く」の句に至つて、さびれ行く舊都の樣が感じられる。
 
   藤原宮御井歌
 
52 やすみしし わご大君 高照らす 日の御子 荒妙《あらたへ》の 藤井《ふぢゐ》が原に 大御門《おほみかど》 始め拾ひて 埴安《はにやす》の 堤《つつみ》の上《うへ》に あり立たし 見《め》し給へば (60)やまとの 青香具山《あをかぐやま》は 日の經《たて》の 大御門《おほみかど》に 春山と しみさび立てり 畝火《うねび》の この瑞山《みづやま》は 日の緯《よこ》の 大御門《おほみかど》に 瑞山《みづやま》と 山さびいます 耳成《みみなし》の 青すが山は そともの 大御門に よろしなへ 神《かむ》さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天《あめ》の御かげ 天知《あめし》るや 日の御かげの 水こそは とこしへならめ 御井《みゐ》の眞清水《ましみづ》
 
 八隅知之。和期大王。高照。日之皇子。麁妙乃。藤井我原爾。大御門。始賜而。埴安乃。提上爾。在立之。見之賜者。日本乃。青香具山者。日經乃。大御門爾。春山跡。之美佐備立有。畝火乃。此美豆山者。日緯能。大御門爾。彌豆山跡。山佐備伊座。耳爲之。青菅山者。背友乃。大御門爾。宜名倍。神佐備立有。名細。吉野乃山者。影友乃。大御門從。雲居爾曾。遠久有家留。高知也。天之御蔭。天知也。日御影乃。水許曾波。常爾有米。御井之清水。
 
【釋】○「藤原宮御井」は何處にあつたのか今明かでない。井といふも今日のやうな井筒で圍んだ井ではなく、清水の涌く泉のことである。上代では清淨な火と水を貴んだのであつて、不淨な火や穢れた水で煮たものを、決して口にし(61)なかつたことは、記紀や風土記にも散見するし、神社の儀式にも遺つてゐる。今も伊勢の外宮の裏手に御井といふのがあつて、鄭重に齋ひ祭つてある。古傳によれば、その井水はもと天孫が降臨せられる時、高天原の水を持つて來られて、高千穗宮の御井に加へられ、その御井の水は丹波を經て、只今の外宮の御井にも加へられたとのことである。これによつて見ると、上古に清泉が貴重なものとせられてゐたことが分る。上代では清水の涌く處を探ねて住家を構へたのであるから、この藤原宮の御井も、御料の水を汲んだ處なので、かうして歌にも歌はれたのであらうと思ふ。○初めの五句は既に講じた。○「藤井が原」は藤原のことである。藤原といふ名は、藤井が原の略であらうと、眞淵・宣長等は云つてゐる。その藤井は或はこゝに歌つてある御井であらう。○「埴安の堤」は藤原宮の東方にある香具山の麓にあつた埴安池の堤である。○「あり立たし」の「し」は敬語の副語尾であるが、「あり」は存在の意味をあらはす動詞から轉じて、「あり通ふ」「あり來」「あり待つ」のやうに、或る状態を繼續し又は反復する意を添へる爲の接頭語となつたものである。○「見し」の「し」は敬語の副語尾。○「日の經」「日の緯」「そとも」「かげとも」はこの順序で東・西・北・南を指す語である。成務天皇紀に、「隨2阡陌1以定2邑里1。因以2東西1爲2日縱《ヒノタテ》1。南北爲2日横《ヒノヨコ》1。山|陽《ミナミ》曰2影面《カゲトモ》1。山|陰《キタ》曰2背面《ソトモ》1」とあるが、この歌ではこの四つの名稱を以て四方を呼んだのである。即ち「日の經」は東西を云ふのであるが、それを東とし、「日の緯」は南北をいふのであるが、それを西に當てたものと見なくては實地に合はない。古義に、歌は詞を主とするものであるから、強ひて方角の名稱に拘泥して解すべきでないと云つてゐる。○「春山」は小琴に「青山」の誤であると云つてゐる。意味からいふと如何にもさうあるべき所である。○「しみさび立てり」は「繁みさび立てり」の意。「しみ」「さぶ」については前に述べた。「しみさぶ」はこゝでは茂り榮える意である。○「瑞山」の「瑞」は「瑞穗の國」の「瑞」と同じで、木が若々しく榮えてゐる山のこと。○「山さびいます」は山を神(62)として云つたので、山の榮え行く意。○「青すが山」は青くすが/\しい山。○「よろしなへ」は丁度よい工合にの意。「なへ」については、前に「思ほすなへに」の語釋の條で説明しておいたが、こゝは輕く添へた接尾語と見るべきである。○「名ぐはし」は好い名の附いてゐるといふ意。「くはし」は「くはし女」(美女)「くはし馬《マ》」(駿馬)などによつて分るやうに、立派といふ意の形容詞である。○「雲居にぞ遠くありける」新考に「この吉野山をも、前出三山の如くほめたゝふるかと思へば、思ひもかけずクモ井ニゾトホネクアリケルといへるが、平凡ならでめでたきなり。」とある。○「高知るや」は「天」の枕詞、「知る」は治める意。○「天知るや」は日の枕詞。○「天の御かげ」「日の御かげの」は祝詞の「皇御孫命《スメラミコト》の瑞の御舍《ミアラカ》を仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隱《カク》りまして、四方の國を安國と平けく知しめし、云々」の詞によつたのである。併しこの歌の右二句の解釋については種々説がある。契沖は高き天の影、日の影も映る水であるから、其の天の久しい通り、又日のあらん限り、永久に澄み行く眞清水といふ意と解き、眞淵は天のお蔭日のお蔭によつて、湧き出る清水といふ意と見、略解・古義・註疎等には、天つ日の影の映る清水の意と解し、守部は天つ水のそひ加はつて、大御壽と共に永久なる井の意であるとし、古義に引用してゐる一説、及び美夫君志・新考・久米幹文の説(犬?隨筆にある)等によれば、天の御蔭とかくります、瑞の御舍の水といふ意に見て、雨や日を覆ひ奉るための御殿の水と釋いてある。此等を見渡すに、句の續き柄から見ても、引用句の原義から見ても、最後の説が穩當である。
【評】わが日の御子なる大君は、藤井が原に宮殿を御造營になつて、その近くに在る埴安池の堤の上にお立ちになつて、四方を御覽になると、青い香具山が近く東の御門に面して茂り立ち、畝火の茂り榮えてゐる山は、西の御門に對つて瑞々しく立つて居る。又耳成の青いすが/\しい山は、北面の御門に丁度よく神々しい姿で立ち、名も好い吉野(63)の山は、これは南の御門から、ずつと遠くの空に見えてゐる。かういふ眺望も佳く、四方の山がそれ/”\の御門の守護をしてゐる、貴い藤原の宮の――天の覆ひ日の覆ひとして、立派にお構へになつてゐる、壯嚴なる宮殿の御井の水は、いつまでも涸れることなくあることであらう。そして其の清水の涸れる時がないやうに、この御殿も永久お榮えになるのである。
【評】御井についての叙述は、最後の七句に過ぎない。而も其の七句の初めの四句は、各枕詞を有する對句であるから、御井についての眞の叙述は、最後の二三句に過ぎないと謂つてもよい。誠に思ひ切つて大膽な結構を試みたものである。而して右の七句より前の長い句は、總て藤原宮の四方の雄大な眺望と、四面の御門を守護してゐる山々の雄姿とを、巧みな對句を以て叙べてあるのである。即ちこの歌の大部分は、藤原宮の賛詞と壽詞とである。この長い前提があるので、御井の叙述は簡潔に結ばれ得るのであつて、其の結構の爲に、一首が如何にも壯嚴に感じられるのである。確かに名手の作であらうが、作者の名は傳つてゐない。守部は人麿の作に相違ないと云つてゐる。なほ此の作は表面は御井の歌であるけれども、其の實は御井をほめたゝへて、新京を壽ぎ奉つたものである。
 
   短歌
 
53 藤原の 大宮《おほみや》仕《つか》へ あれつがむ 處女《をとめ》がともは ともしきろかも
 
 藤原之。大宮都加倍。安禮衝哉。處女之友者。乏吉呂賀聞。
 
【釋】○「安禮衝哉」の「哉」を宣長は「武」の誤としたが、木村博士は「哉」をムと訓むべき例は集中にあると云つてゐる。「ある」には生まれると顯はれると二つの意義がある。從つてこの句の解も、二樣の釋き方があるのであるが、何れ(64)にしても、この場合の「ある」は輕く添へた語で、主要の意義は「つぐ」の方にあるのである。即ちこの句の意義は、次々に來て宮仕を繼ぐ處女達といふので、其の裏に御代の長久を壽ぎ奉る意味を含めたものである。○「ともしきろかも」流布本に「之吉召賀聞」とあるが、類聚古集に「之吉呂賀聞」とある。其の「之」は「乏」の誤であらう。下にも、「紀人ともしも」といふ句がある。さて「ともし」は「乏し」の意から轉じて、「羨まし」といふ意に用ゐられたのである。次に「ろかも」の「かも」は感動の助詞で平安朝の「かな」にあたる。「ろ」は餘情を添へたり、語調を整へたりする時に添へる助詞で、形容詞の連體形か體言の下かに附く。
【譯】藤原の宮の宮仕を、これから後次々に繼いで行く官女達の身の上は、實に羨ましいことだ。
【評】契沖や眞淵は、この歌は右の長歌の反歌ではなからうと云つてゐるけれども、燈に述べてゐるやうにやはり反歌である。即ち右の長歌では宮殿の周圍を叙し、御井を賛したのであるが、此の反歌では其の宮殿に永く奉仕する女官を羨んで、その裏に宮殿の長久を祝する意を籠めたのである。
 
   大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸2于紀伊國1時歌
 
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見つつしぬばな 巨勢の春野《はるぬ》を
 
 巨勢山之。列例椿。都良都良爾。見乍思奈。許湍乃春野乎。
    右一首|坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
【釋】○「大寶元年」は文武天皇の御代。これまでの歌は何宮御宇天皇代といふやうに、天皇の御代を以て時代を示したのであるが、これ以下卷末に至るまでは年號を以て記してある。○「太上天皇」は持統天皇。○「巨勢山」は藤原京か(65)ら紀伊に行く道にある巨勢の山。(既出)○「つら/\椿」は植ゑ列ねられた椿。○初めの二句は「つら/\に」の序。○「つら/\に」はつく/”\と。○「見つつしぬばな」の「しぬぶ」は心に深く思ふ意。「な」は動詞の未然形に接して願望の意を表はす助詞。○此の歌を春の歌と見る説と、秋のものとする説とある。古義(新考も同樣)には題詞の秋九月とあるのを誤として春の歌とし、眼前に椿の花さへ咲きにほふ巨勢野を見て、詠んだものと見てあるが、代匠記考等は秋の歌とし、秋の野を見て、これが椿の咲く春であつたらどんなに美しい眺であらうと、春景色を偲ぶ意に見てある。今は後説によつて釋くことにする。次に初めの二句の序の意味を下にも掛けて、椿の咲く春の景色と解する説と、(代匠記・考・檜嬬手・美夫君志等)二句を純然たる序と見て、椿には關係のないものとする説(註疏・新考等)とがある。今前説による。
【譯】あゝよい景色だ。ゆつくり眺めて行かう。これが椿の咲き滿ちた春であつたら、この巨勢野はどんなに美しい眺であらう、その春景色を今偲びたい。
【評】椿はその實から椿油が採れるので、古くから諸處に栽培したのである。海石榴市などには路傍に椿の並木を作つてゐたのであるが、巨勢にも澤山植ゑたものと思はれる。
 
   二年壬寅太上天皇幸2參河國1時歌
 
 引馬野《ひくまぬ》に にほふ榛原《はぎはら》 入り亂り 衣にほはせ 旅のしるしに
 
57 引馬野爾。仁保布棒原。入亂。衣爾保波勢。多鼻能知師爾。
   右一首|長忌寸奥麿《ナガノイミキオキマロ》
 
(66)【釋】○「二年」は大寶二年。○「太上天皇」は持統天皇。○「引馬野」は遠江濱松市の北にある曳馬村に、その名が殘つて居る。昔の引馬野は濱松の西に連つてゐる三方ケ原から曳馬村にかけての一體の野の名であつた。今はこの邊に萩はなくなつてある。○題詞に「參河國に幸す」とあるのに、遠江の歌が詠まれてゐるのは、眞淵の説によれば、行幸の先發として下つた官人が、所用のため引馬野を過ぎたのであらうと云ふことである。續紀によると、大寶二年十月十日大和を御出發になり、十一月十八日に還御遊ばされた事が記されてゐるが、中間に記事の闕けた所があつて參河に御到着の前後のことは洩れてゐる。從つて、引馬野までも行幸があつたのか、又官人だけがそこへ行つたのか、その邊の事は詳かでない。○「榛」はハギと訓んで萩とする説が正しい。從來諸説があつて紛らはしいから別項で詳説する。○「亂り」は當時は四段に用ゐた。後に二段に活用する動詞で、當時匹段に用ゐられた例は幾らもある。例へば「忘ら〔二字傍点〕む」「とど〔二字傍点〕みかね」の如だである。○「しるし」は記念の意。○「奥麿」の傳は未詳。
【譯】引馬野に萩の礼が咲きにほうて居る。さあ人々よ野に入り亂れて、衣に花を摺つて、旅の記念としよう。
【評】「旅のしすしに衣を匂はせ」と云つた即興が頗る優美である。萩の花が廣い野に咲き滿ちた光景も偲ばれて面白い。前に講じた藤原宮に關する作や、此等の諸國御巡幸の歌などから察するに、持統天皇は女帝とは思はれないほど偉大にましましたのである。
 △榛と萩について
 「榛」の訓にハギとハリと二説があり、其の解釋に各に萩とする説とハンノ木(古名ハリ)と見る説とあるので、從來説が四つに分れてゐて、明確な説明を與へたものがないから、聊かこゝに説明をして置かう。從來の説の中で萩説に就ては、弘訓の眞榛問答・木村博士の美夫君志別記等を、又ハンノ木説については、槻落葉別記・古事記傳・古(67)義品物解等を參照するがよい。萩(集中假名のほか「芽」又は「芽子」を宛てゝゐる。)は集中に詠まれた度數は花の第一位を占めて居るが、榛(針又は假名を用ゐたのもある。)を詠んだものは、十二三首に過ぎない。榛の字は元來はハンノ木の事であつて、古名をハリと云つた。ハンノ木は樺木科に屬する落葉喬木で、葉も花も栗のに似て、花は雌雄同株で一二月頃開き、實は杉の實に似てゐる。生長の早い木であるから、伐つて薪とし、又畦などに植ゑ列ねたものは、横木を架けて稻千に使用する。昔はその皮若しくは實を染料に用ゐたので、書紀に「榛摺衣《ハリズリノコロモ》」又大嘗會式に「榛監摺《ハリアヒズリ》」等の語が見えて居る。然るに萩にも「花摺衣」といつて、衣に花や葉の色を摺つたものであるから、この二者の區別がまぎらはしくなるのである。しかのみならず一方榛の字を用ゐた歌の方に、引馬野の歌の如く、美觀を詠んだものがあり、又卷三に「白菅の眞野の榛原手折りて行かな」等があつて、萩を詠んだものらしく思はれるので、いよ/\兩者の區別に迷ふのである。併し植物學上の智識を以て此等の歌を觀る時は、決して混同する憂はないのである。今二者を區別する主要なる點をあげれば、第一萩は灌木であるが、ハンノ木は喬木である。次に萩は乾燥した砂地に適するが、ハンノ木は之に反して、田畑若くは水邊の濕地を好む木である。第三に萩はその花や葉を取つて、直ちに衣に摺ると色が付くが、ハンノ木は其の皮を※[者/火]た汁で衣を染めるのである。此等の三點から觀ると、かの古事記雄略天皇卷に見えてゐる榛は、字義の通りハンノ木であることは、天皇がその樹上にお登りになつた事によつて知れ、又これをハリと呼んだことは、其の時の御製によつて知れる。然るに萬葉に見えてゐる榛は、總べて萩の意に用ゐられたもので、ハンノ木ではない。美夫君志別記によれば、リとキとは相通じる音であるから、山振を山吹に用ゐたと同じく、榛を萩に宛てたものに相違ない。榛が萩であることは、この歌に「にほふ榛原入り亂り」とあるのを見ても明かである。何となればハンノ木は喬木であるから、(68)分け入るとは云へない。又ハンノ木の葉は衣に摺つても色は附かない。その他卷三には前に擧げた通り、榛を手折ると詠み、又同卷に「行くさ來さ君こそ見らめ眞野の榛原」と云ふやうに、花を愛でた歌のあるのを見ても、榛は萩であることが明かである。ハンノ木の花は、殆ど人が知つてゐないほど、見所のない花である。なほ卷七卷十六等に、墨江の岸の榛を詠んでゐるが、此等は立地の關係上、萩の好適地であつて、ハンノ木のあるべき處ではないのである。最後に卷七に「時ならぬまだらの衣着ほしきか衣針原時にあらねども」とあるのも、若しこれがハンノ木ならば、何時でもよいわけであるから、「時にあらねども」とは云はれない。故にこれも萩のことである。こゝに針原と云つたのは、衣を張るといふ意で云ひ下した關係から、特にハリハラと詠んだのである。(美夫君志の説)なほ萩を束國方言ではハリと詠んだ例が卷十四にある。即ち「伊香保ろのそひの波里波良」の如き句が二首に見えてゐて、一首は摺り着ける意に詠んである。此等はハギの訛であるから、榛を常にハリと詠む證據にはならない。以上の説明によつて、集中の榛は總べてハギと詠んで、萩と解するのが正しことが知れよう。
 
   舍人娘子《トネリノイラツメ》從駕作歌
 
61 大夫の さつ矢たばさみ 立ち向ひ 射る的形は 見るにさやけし
 
 大夫之。得物失手挿。立向。射流圓方波。見爾清潔之。
 
【釋】○この歌も前の歌と同じ行幸の時、舍人娘子がよんだ歌である。舍人娘子の傳は未詳。娘子は郎子《イラツコ》に對する語である。宣長の説に、イラはイロセ(伊呂兄)イロト(伊呂弟)等のイロ、又入彦・入姫のイリと同義で、親愛の意を以て呼ぶ語であると云つてゐるが、谷川士清はイラは色の義で、年の若い意であると云つてゐる。集中郎女の字を用ゐ(69)たのが多いが、舍人娘子のやうに、娘子と書いた所もある。○「さつ矢」の「さつ」は古事記にある「海幸山幸《ウミサチヤマサチ》」の幸で獲物のこと。「さつ矢」といへば獵に用ゐる矢である。○「たばさみ」手挿みの意で手に持つこと。○初句から「射る」までは「的形」の序である。○「的形」は的形浦で伊勢國多氣郡の濱邊の古名である。伊勢風土記には、浦の地形が的の形になつてゐるやうに記してあるが、今は地形が大いに變つてゐる。○「さやけし」は清くさつぱりとしてゐること。
【譯】的形の浦は、見てまことにさつぱりとした佳い浦である。
【評】この歌のやうに、三句以上に渉る長い序を置くことは、此の集に澤山ある。その序には内容があつて、その意味が歌の本意を助けて、一首が情趣の深いものとなつてゐるのが多い。この歌などは、的形といふ地名に基いて序を置いたのではあるが、序から起る心持と、その的形浦に對した時の作者の心持とが、一致してゐるのであつて、謂はば序がこの歌の生命である。
 
   山上臣憶良在2大唐1時憶2本郷1作歌
 
63 いざ子ども 早くやまとへ 大伴の 御津の濱松 待ちこひぬらむ
 
 去來子等。早日本邊。大伴乃。御津乃濱松。待戀奴良武。
 
【釋】○「山上憶良」は藤原朝から奈良朝にかけての歌人である」齊明天皇の六年に生れたが壯年時代の事は傳はつてゐない。文武天皇の大寶元年正月に、粟田眞人が遣唐大使として入唐するとき、憶良は四十二で遣唐少録となつて唐に渡り、三年半許りたつて、慶雲元年七月に歸朝した。彼はそれまで無官の人であつたと見えて、續妃に「無位山(70)於憶良爲2少録1」と記されてゐる。其の後元正天皇の靈龜二年に伯耆守となり、養老五年には東宮の侍候となり、晩年には大伴旅人の下官として筑前守となり、僻鄙の地に數年を送る間に妻子に先立たれ、(この頃の歌が卷五の一卷となつて傳はつてゐる)聖武天皇の天平五年六月七十四で歿した。歌の才に於ては人麿に次ぐべく、赤人よりは寧ろ上にあるものと云はれてゐる。この歌は憶良が唐に居る頃詠んだのである。○「子ども」は同行の部下を指したのである。○第二句を舊訓にハヤヒノモトヘ又はハヤクヤマトヘと訓み、略解にハヤモヤマトヘ古義にハヤヤマトヘニとしてゐる。今ハヤクヤマトヘと訓んでおく。○「大伴の御津」は難波津である。難波津といふうちにも、「住吉の津」と「大伴の御津」とあつた。「大伴の」は枕詞である。大伴は西成郡|雄伴《ヲトモ》郷の地で、御津はその内にあつて、今日の大阪の長堀・道頓堀のあたりに當るらしいと云ふことである。廣い地名を枕詞に置くことは屡あることで、大津の枕詞に「さざなみの」を置くのもこれと同じ關係である。大津とか三津とかは諸所にあつた名であるから、上に枕詞を置いて區別したのである。○「濱松待ち戀ひぬらむ」の裏面には、家人が待つてゐるであらうといふ意を含めてあるのである。
【譯】さあ人々よ、早く日本へ歸らうではないか。大伴の御津の濱松も、さだめし吾々を待ちわびてゐるであらう。
【評】航海術も造船術も極めて幼稚であつた當時にあつては、外國に渡る困難と危險とは、吾々の想像の及ばない所であつたであらうから、それだけ家人の心痛も甚しく、外國にある者の心遣も大したものであつたに相違ない。大伴の御津は、云はば今の横濱といふ格の處で、外國へ行く船は皆そこで纜を解いたのであつた。入唐使の一行が彼の地にあつて、なつかしい大伴の御津の名を耳にした時は、家人と訣別した時の光景などが眼前に浮んで來て、定めし慕郷の念に堪へなかつたことであらう。さう思つてこの歌を誦むと、憶良やその周圍の人々がその時懷いた感情(71)が察せられて哀れである。
 
   慶雲三年丙午幸2難波宮1時志貴皇子御作歌
 
64 葦邊行く 鴨の羽がひに 霜ふりて 寒きゆふべは 大和し思ほゆ
 
 葦邊行。鴨之羽我比爾。霜零而。寒暮夕。和之所念。
 
【釋】○「難波宮」は孝徳天皇が大化の新政を行はせられた、難波長柄の豊崎宮(今の西成郡豊崎村の長柄の地)である。此の宮は孝徳天皇白雉二年十二月に遷都せられた處で、支那長安京に倣つて造營せられた最初の都であつたが、飛鳥の勢力が有勢になつた爲か、五年の後(齊明天皇の二年)再び元の飛鳥の地に復舊せられたのである。併しそれ以後も難波の宮は離宮として、歴代行幸のあつたことは、集中の歌によつて知ることができる。この歌も即ち其の一である。○「志貴皇子」は天智天皇の皇子。(前出)○「羽がひ」は羽合の義で兩翼のこと。○「霜ふりて」は實際霜が白く置いたのを御覽になつたのでなく、只寒いといふ感じから出た想像である。
【譯】旅に出てゐると兎角家が戀しいものだが、このやうに葦邊を飛んで行く鴨の翼にまで、霜がふる程寒い夕には、いよ/\大和の家が戀しくなる。
【評】難波江は葦の多い處であつた。そして難波宮からは、寒い葦原に鴨が群れ飛んでゐたのがよく見えたのである。その景と情とがいかにもよく寫し出されてゐる。
 
(初版65、71、76、77あり)
 
   和銅三年庚戍春三月從2藤原宮1遷2于寧樂宮1時御輿停2長屋原《ナガヤノハラ》1※[しんにょう+向]望2古郷1御作歌
(72)78 飛鳥《とぶとり》の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ
 
 飛鳥。明日香能里乎。置而伊奈婆。君之當者。不所見香聞安良武。
 
《釋〕○「長屋原」は大和山邊郡朝和村字長原である。○作者について宣長の説に、この御製は持統天皇が飛鳥から藤原へ遷都せられた時のものを傳へ誤つて、題辭に和銅三年としたのであらうと云つて居る。併しこの説の誤であることは、長屋原が奈良と藤原京との間に在るといふ、地理上の關係によつて明白になる。美夫君志には此の御製が新古今集※[羈の馬が奇]旅の部に「和銅三年三月藤原の宮より奈良の都にうつらせ給ひける時元明天皇御歌」として載せてあるのを據として、元明天皇の御製としてある。今この説に從ふ。○元明天皇は文武天皇の御母で、文武天皇が藤原宮で崩御せられて後、位に即かせられたのである。○「飛鳥の」は明日香の枕詞。その意義に就いて種々の説があつて、未だ定説はない。冠辭考に、これは「白鳥の鷺坂山」「天飛ぶや輕路池《カリヂノイケ》」の類で、「飛鳥のあすか」とかけたのである、「あすか」と云ふ名の鳥は今はないが、多分「いすか」はアスカの訛であらうと云つてゐる。又古義には、飛鳥の足輕といふ意からかけたので、シをスに通はせてアスカにかけたのであると云ひ、新釋にはアスカのアを隔ててス(巣)に懸けたのであると云つてゐる。(飛鳥と書いて之をアスカと讀むのは、春日をカスガと讀むのと同じで、枕詞をその下に來る語の訓で讀んだのである。)○「置きていなば」は後に殘して行つたならば。○「君があたり」の君は誰を指して仰せられたのか詳かでないが、多分舊都に居られる皇族のお方であらうと思ふ。此の一首は即ち、舊都に殘つてゐる具のお方にお贈りになつた御製である。
【譯】明日香を後にして寧樂に行つでしまつたならば、君が住むあたりは見ることが出來なくなるであらう。誠に名殘惜しいことである。
(73)【評】飛鳥の地は、推古天皇が都を置かせられて以來、一百年の間帝都の地(難波宮大津宮等を除いて)であつたので、藤原宮といふも、つまり飛鳥の地續きである。然るに種々の御事情の爲に、飛鳥地方を永久に去つて、寧樂に遷都せられる事になつたのであるから、舊都に別れる名殘惜しさはさこそと思はれる。當時新都の繁榮を計られるため、又古京を思ひ切らせる爲に、飛鳥に長く居た百官の邸宅や、藤原氏の氏寺の興福寺を始めとし、元興寺・法興寺等の大寺を、續々寧樂に移さしめられることになつたといふことであるから、舊都を立ち去るに忍びなかつた人の多かつたことが推察せられる。それらの人の作は集中に散見してゐる。次に講ずる長歌も、舊都を去ることの出來ない事情の人が詠んだ作である。
 
   從2藤原京1遷2于寧樂宮1時歌
 
79 おほ君の みこと畏み にぎびにし 家をさかりて こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて わが行く川の 川隈《かはぐま》の 八十隈《やそくま》おちず よろづたび 顧みしつつ 玉桙の 道行き暮らし 青によし 寧樂の都の (74)佐保川《さほがは》に い行き至りて 我が寢たる 衣の上《うへ》ゆ 朝づくよ さやかに見れば たへのほに 夜の霜ふり 磐床《いはどこ》と 川の氷《ひ》こごり 冱《さ》ゆる夜を いこふことなく 通ひつつ 造れる家に 千代までに いまさむ君と 吾も通はむ
 
 天皇乃。御命畏美。柔備爾之。家乎擇。隱國乃。泊瀬乃川爾。※[舟+共]浮而。吾行河乃。川隈之。八十阿不落、萬段。顧爲乍。玉桙乃。道行晩。青丹吉。楢乃京師乃。佐保川爾。伊去至而。我宿有。衣乃上從。朝月夜。清爾見者。栲乃穗爾。夜之霜落。磐床等。川上水凝。冷夜乎。息言無久。通乍。作家爾。千代二手來。座多公與。吾毛通武。
 
【釋】○「天皇」はスメロギとよむのが正當であるけれども、當今の天皇を申上げるのであるから、オホギミと讀むがよからう。(槻落葉別記の説)○「みこと畏み」は遷都の勅を畏まり奉じて。○「にぎぴにし」は「にぎぶ」といふ動詞に過去完了の助動詞「にし」が附いたのである。「にぎぷ」の「にぎ」は「和拷《ニギタヘ》」「和草《ニコグサ》」「にこやか」「にぎはふ」などの「にき」「にこ」と同じ語根から分出したもので、柔軟・平和・殷賑などの意義を有つてゐる。「にぎぶ」はこれから出た動詞であつて、「荒ぶ」の反對の語である。こゝでは「なじむ」といふ意で、久しく住み慣れた意である。○「家乎擇《イヘヲモサカリ》」を考に「家毛放」の誤としてゐるが、又考の一説に、「擇」は「釋」の誤であらうかと云ふ。今は「擇」を「釋」の誤として、(「釋」の字義は「放」である。)イヘヲサカリテと訓んでおく。藤原の家を後にしてと云ふのである。○「こもりくの」は泊瀬の枕詞。(既出)○「泊瀬川」は磯城郡の東北から發して、泊瀬三輪を過ぎて北に流れ、生駒郡に入つて佐保川と合(75)し、西に流れて大和川となつてゐる。○「舟浮けて」は、泊瀬山から伐り出した材木を運搬するのである。「八十隈」は「道の隈」(既出)と同じ類で、川の曲折毎にの意。○「おちず」は殘らず。○「玉桙の」は道の枕詞。冠辭考に玉桙の刃《ミ》といふのを道にかけたのであると云つてゐる。○「道行き暮らし」を考に、陸に上つて行くやうに釋いてゐるのはよくない。代匠記の説の通り、佐保川を行つて日が暮れたことを云ふのである。○「青によし」は寧樂の枕詞。(既出)○「佐保川」は源を春日山に發し、佐保山の麓を過ぎて郡山の東を南流して大和川に出る。今は川幅三間許りになつて、平素は水も涸れてゐるが、當時は舟を通じることが出來るほどの川であつたと見える。○「い行き」の「い」は接頭語。○「寢たる」は寢てゐると云ふ意。○「衣の上ゆ」は夜舟中に寢て翌朝覺めて、着て寢てゐる衣から首を出して見ればと云ふ意。この句は「見れば」にかゝるのである。○「朝づくよ」は在明月である。「月夜《ツクヨ》」の「夜」は輕く添へた語である。○「さやかに見れば」は月光ではつきりあたりを見ればといふ意。○「たへのほに」の「たへ」(栲)は楮の皮の繊維で織つた白い布。(既出)「ほ」は草木の穗に限らず、何でも著しく表面に表はれるものを云ふ。「に」は「の如く」の意。從つてこの句は、白栲の色のやうに白々といふ意で、下の句の霜が眞白に降り敷いてゐるさまの形容である。○「磐床と云々」は川の氷が岩床となつて張ること。「と」はとなつての意。○「通ひつつ」は舊都から寧樂の新京まで、夜も息ふことなく通ひながらの意。この通ふは一夜のことでなく、幾夜にもかけて云つたのである。○「二手」をマデと訓んだのは兩手を眞手《マデ》と云ふからである。○「千代二手來座多公與」を考に「來」を「爾」に改め「多」を「牟」に改めて、チヨマデニイマサムキミトと訓んでゐる。意義から見ると考の説のやうに改めなくてはならぬ。○此の長歌には反歌があるが今は省いておく。
【譯】大君の勅命を畏まつて、久しく住み慣れた帝都の家を離れ、泊瀬川に舟を浮けて漕ぎ行く川の隈々で、幾度かふ(76)りかへつては、名殘を惜しみつゝ行くうちに日は暮れて、やがて寧樂の都を流れる佐保川に行き、自分の寢てゐる夜着の上から、在明月の光にはつきり見ると、白栲の色の白々としてあるやうに、夜の間に置いた霜が白く見え、川には岩床のやうに、氷が一面に張りつめてゐる寒い夜も、休むことなく通ひながら造つたこの家に、千代までも變ることなく、お住みなされるわが君をお慕ひ甲上げて、自分も今より永く通つてお仕へ申したい。
【評】此の歌は最初に勅命のまゝに人々が新京に居所を移すことから歌ひ起し、藤原から寧樂まで通ふ道筋を叙し、次に冬の寒い日も厭はず通つて造つた勞苦を云ひ、最後に家が出來上つて、その新宅を祝ぐ詞を以て結んだものである。守部は「通ひつゝ作れる家」とあるから、此の作者は木工頭で、作つた家は高貴の方のであらうと云つてゐる。上古では建築が終ると、親族知人を招いて、新室を祝ぐ爲に室壽《ムロホギ》の宴を張る風があつた。此の作はさういふ場合の歌であらうと思ふ。次に此の歌を誦んで特に感を深うすることは、滄桑の變の著しいことである。泊瀬川といひ佐保川といひ、今日は何れも川幅僅かに二三間に過ぎない細流で、しかも川床が高くなつてゐるが、當時はよほど川身も廣く、水量も舟を通ずるに十分であつたと見える。なほ當時は高圓山を始め、佐保山佐紀山の如きも今と異つて、春日山と同樣に、欝蒼たる森林で蔽はれてゐたものと思はれる。從つて高圓山の紅葉、佐保川の千鳥、佐妃山の櫻、生駒山の鹿の聲等、四時の風物が頻りに歌人の情緒を動かしたのも偶然でなく、平城京裏は四周の雄大な風光に富んでゐたと共に、花鳥風月の優美な景趣をも備へてゐたことが、想像せられるのである。
 
(初版80あり)
 
   和銅五年壬子夏四月遣2長田《ナガタ》王于伊勢|齋宮《イツキノミヤ》1時|山邊御井《ヤマノベノミヰ》作歌
 
(77)81 山邊《やまのべ》の 御井《みゐ》を見がてり 神風《かむかぜ》の 伊勢處女《いせをとめ》ども 相見つるかも
 
 山邊乃。御井乎見我※[氏/一]利。神風乃。伊勢處女等。相見鶴鴨。
 
〔釋]○「長田王」は天武天皇の皇孫で、長親王の御子である。○「伊勢齋宮」は伊勢大神宮に奉侍し給ふ内親王(齋王)の坐ます宮をいふ。○「山邊の御井」は卷十三に「山邊の五十師《イシ》の御井」とあるのと同じで、伊勢鈴鹿郡山邊村にある。石藥師村から六七即の處で、今も古跡を存して居る。委しいことは「玉かつま」卷三にある。○「見がてり」は「見がてら」といふのと同じ。「がてら」といふ用例も集中に見えて居る。○「神風の」は伊勢の枕詞。昔伊勢國を領してゐた伊勢津彦が、其の國土を神武天皇にお讓り申して、其の地を去るに當つて、或夜大風を起し、大浪を立てゝ信濃に赴いたと云ふ憶説によつて、「神風の伊勢國」といふ語が起つたと云ふ事が、伊勢風土記逸文に見えてゐる。なほ卷二にある高市皇子尊城上殯宮の時に、人麿の詠んだ長歌の中に、伊勢神宮から神風が吹いたことが見えてゐるのも參考すべきである。○「伊勢處女」は泊瀬處女《ハツセヲトメ》・菟原處女《ウナヒヲトメ》の類で、その土地の處女をいふ。風俗の異つた伊勢の處女をめづらしく偲ばれたのであらうとも云ひ、又美しい處女であつたのだとも云ふ。○「相見つるかも」は逢つたことであるといふ意。
【譯】山邊のり御井を見ようと思つて來たのに、思ひもかけず、美しい伊勢處女等に逢つたことである。
【評】選釋に「極めて簡單であるが、山里の泉のもとで、風俗も變つた地方の美しい少女を見て詠んだといふ一首の趣が、感じが深く思はれる。殊に自分はこの御井に近き鈴鹿郡石樂師村に生まれ、母の生家の神戸に赴くとき、幼時しば/\此の御井の傍を過ぎたので、此の歌をよむと甲斐川の流を隔てゝ、遠くあなたに伊勢の海まで見はるかさるゝ山かげの御井のあたりの眺望と共に、今は荒れはてたその井のもとに、奈良朝の貴族と伊勢の國の里少女とが、(78)相對した景色までが心にゑがかれて、殊に感が深いのである」と記してある。
 
82 うらさぶる 心さまねし ひさかたの あめのしぐれの 流らふ見れば
 
 浦佐夫流。情佐麻禰之。久堅乃。天之四具禮能。流相見者。
 
【釋】此の歌には端詞がない。前歌と同じ作者の歌と見る説がある。○「うらさぶる」の「うら」は、表に對する裏と同じ系統の語で、「うらむ」(恨む)「うらめし」(怨めし)「うらやすし」(心安し)「うらぶる(心詑る)などの「うら」と同じく、「心」の義である。「さぶ」は「すさぶ」の略で荒ぶの義。それが形容詞となると「さぶし」となる。「うらぶる」は心の慰む方のない意である。○「さまねし」の「さ」は接頭語で、「まねし」は「あまねし」の頭音の脱落したものである。意味は繁く多いことであるが、上の句との關係からは、頻りに寂しい情がつのる意になる。○「ひさかたの」は天の枕詞。久堅の字義の通り、天は永劫ゆるがぬものといふ意味でかけたのであらうと云ふ。又天に關係のあるもの、例へば「空」「光」「雨」「月」等の枕詞にもなる。(一説に天は瓠形《ヒサゴガタ》であるといふ上代人の觀念から置いたといひ、又日差す方の義で冠らせたのだとも云ふ。)○「あめのしぐれ」は天から降る時雨の義。○「流らふ」は「流る」といふ動詞に、繼續の意を表はす副語尾の「ふ」が附いたもので、「流る」は降る意である。
【譯】時雨の降りつづくのを見て居ると、さらでも寂しい旅のうれひが、益々繁くなるばかりである。
 
83 わたの底 沖つ白浪 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む
 
 海底。奥津白浪。立田山。何時鹿越奈武。妹之當見武。
 
(79)【釋】○左註に「右二首今案不v似2御井所1v作若疑當時誦2之古歌1歟」とある。○「わたの底云々」は海の底の深いといふ意から沖に云ひ續けたので、沖の白浪立つと云つて、次の立田山に云ひかけたのである。從つてこの二句は立田山の序である。○「立田山」は大和生駒郡の信貴山の南に連る一體の山で、河内の堅上村に跨る山越をいふ。そこの山を越し河内を經て、難波に出る道が立田越で、集中に屡歌はれてゐる。○「妹があたり見む」はその山から妹が家のあたりが見えると云ふ意のやうに聞えるけれども、美夫君志にある通り、必ずしも見えずとも、慕はしい妹の家の方を遙かに望んで詠んだものと見てよい。
【譯】いつになつたら龍田山を越えて、なつかしい妹の家のあたりを見ることが出來るであらうか。誠に待ち遠いことである。
【評】左註にあるやぅに、以上二首は御井で詠まれたものとは思はれない。又長田王の歌であるかどうかそれも不明である。後の二首の作者を長田王と見る人も種々説をなして、「うらさぶる」の歌は時雨の降る頃の作であるから、四月から秋まで伊勢に在つて詠まれたものであつて、「わたの底」の歌はその歸途の詠であるといひ、或は二首共に御井より外の地で、同時に詠まれたものであらうとも云つてゐる。要するに端詞がないから何れとも定め難い。
 
卷一 終
 
(80)萬葉集 卷二
 
○此の卷は前半は相聞の歌で、後半は挽歌である。その各が時代順に排列せられてゐることは、卷一と同様である。
 
  相聞
 
 難波高津宮御宇天皇代
 
   磐姫《イハノヒメ》皇后思2天皇1御作歌四首
 
85 君がゆき け長くなりぬ 山たづの 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
 
 君之行。氣長成奴。山多都乃。迎加將行。待爾可將待。
 
【釋】○「相聞」は考にアヒキコエ、古義にシタシミウタと訓んであるが、犬鷄隨筆及び美夫君志に、萬葉の大須本に(奥書に「正中二年四月廿日以2藤大納言爲世卿本1書寫訖云々」とある。)相聞《サウモン》と假字が振つてあるのを證として、古くから音で讀んだのであると云つてゐる。此の説によつて今サウモンと讀む。相聞は後の勅撰集の「戀」に當るのであるけれども、それより範圍が廣い。即ち男女の贈答に限らず、親子・兄弟・姉妹・朋友等の間の歌も含まれてある。○「高津宮」は仁徳天皇の宮で、今の大阪城のあたりに在つたと云ふことである。○「磐姫皇后」は仁徳天皇の皇后。こゝに講じる四首の御歌により、又記紀に傳ふる所によつて見るに、頗る情熱的のお方であつたやうである。此の歌以下四首は連作である。○「君がゆき」の「ゆき」は行くといふ動詞の連體形からなつた名詞である。天皇が何れへか行(81)幸されてゐることをいつたのである。動詞から名詞を造ることは、當時は比較的自由に行はれたのである。○「け長く」は日永く、即ち日數を經ること。「け」は「長きけ」「け並べて」の「け」と同じで 長は來經《キヘ》の約つたものであると云つてゐるがこの説は穩當でない。なほ此の「け」と同じものであらうと思はれるのは、集中に見えてゐる「あさにけに」の「け」である。「あさにひに」「ひにひに」等の類語が集中にあるが、此等から推して考へると、「けに」は「日に」の義であつて、從來説明せられてゐたやうに「異に」若しくは「暮に」の義とするのは穩かでないやうに思ふ。○「山たづの」(山多都禰)を從來ヤマタヅネと訓んで、山を尋ねてといふ意味に釋いたのであるが、美夫君志によつてヤマタヅノと訓んで、「迎ふ」の枕詞と見るのがよい。加納諸平の説によると、「山たづ」は山に生えてゐるタヅノ木である。タヅノ木は接骨木《ニハトコ》の一名で、一に又ミヤツコとも云ふ。その葉は楝《センダン》の葉のやうに、羽状複葉であつて、小さな葉が相對して左右に並んでゐる上に、その又羽状複葉の一枚々々が對生してゐるから、「迎ふ」の枕詞に置かれたのは至極妙を得てゐる。○「迎へか行かむ」は迎へに行かうかの意。(新考にはムカヒカユカムと訓んで、此方から行き向ふ意に釋いてある。)○「待ちにか持たむ」は「待ちに待たむか」と云ふのと同じで、「待ちに待つ」は「涙を落しに落す」と同じ語形で、或る動作がひたすら行はれる意である。
【譯】君がお出ましなされてから、よほど日數を經たことである。お迎へに行かうか、それともお待ち申して居らうか、(82)早くお歸りなさればよいに。
【評】お迎に行かうかお待ち申さうかと、心を定めかねた御歌ではあるが、結句によつてお待ち申してゐなくてはなるまいと、諦らめて歌つてあるので、切な思ひがよく表はれてゐる。古事記には第四・五の句が、「迎へを行かむ待つには待たじ」となつて、輕大郎女《カルノオホイラツメ》(衣通皇女)が伊豫に流された御兄の、木梨輕太子をお慕ひなさつての歌となつてゐる。相似たこの二つの歌について種々の説がある。眞淵はこの集のは誤入であるとして集から之を除いてゐるが、美夫君志には偶然の暗合としてある。又新考には古事記の記事が正しいのか、本集の傳が正しいのか、それは輕々しく判斷することはできないと云つてある。
 
86 かがくばかり 戀ひつつあらずは 高山の 磐根しまきて 死なましものを
 
 如此許。戀乍不有者。高山之。磐根四卷手。死奈麻死物乎。
 
【釋】○「あらずは」の「ずは」は否定の助動詞の下に、假設條件法の助詞が添うた形である。從つて意味はかうしてゐないでそれよりはと云ふ意となる。○「高山の」の「高」は輕く添へた語で、只山といふのと同じである。○「磐根」は岩のこと。「根」は接尾語。○「し」は意味を強める助詞、○「まきて」は枕としての意。「枕」といふ名詞は此の「まく」といふ動詞から出たのであるが、更に枕といふ名詞を活用させて、「まくらく」といふ新しい動詞が出來て、集中にも屡用ゐられてゐる。○「まし」は非現實的の動作を假想する助動詞である。(未來の推量とししても用ゐられることは勿論である。)○「ものを」は餘情を含めて結ぶ時に用ゐられる。「を」は感動の意を添へる助詞である。
【譯】このやうに戀しく思ひ續けてゐないで、いつそのこと山の岩を枕として、倒死をしてしまはう。
(83)【評】「磐根しまきて」を考に、葬られるさまをかく云つたのであると云つてあるけれども、こゝは言葉通りに解した方がよいと思ふ。磐を枕に死ぬると云ふことは、野山に行き倒れて死ぬることで、さうした慘めな死を遂げるのは、死の中の最も苦しいものに相違ないが、それでもまだ待ちわぶる苦しさよりはましであるといふので、熱烈な情がよく表はれてゐるのである。
 
87 ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
 
 在管裳。君乎者將待。打靡。吾黒髪爾。霜乃置萬代日。
 
【釋】○「ありつつも」は生きながらへてと云ふ意。○「打ち靡く」は黒髪にか1る修飾語。○「霜のおくまでに」は黒髪が白くなるまで、即ち年を經るまで。
【譯】いや/\死ぬることはやめて、かうして生きながらへて、長い黒髪が白くなるまでも、君のお歸りをお待ち申して居らう。
【評】前の歌では寧ろ死んだ方がよいとまで思はれたのであるが、思ひ直して年を經るまでも待たうと決心されたのである。この歌の解釋に二説ある。考・檜嬬手・美夫君志なでは右のやうに釋いてゐるが、略解・古義等は庭などにお立ちになつて、夜の霜が白く黒髪に置くまでも待たうといふやうに釋いてある。どちらにも釋かれるやうである。
 
88 秋の田の 穗の上《へ》に霧《きら》ふ 朝霞 いづへのかたに わが戀やまむ
 
 秋之田。穗上爾霧相。朝霞。何時邊乃方二。我戀將息。
 
(84)【釋】○「霧ふ」は「霧《き》る」といふ動詞に副語尾の「ふ」が附いたもので、露《き》る(霧が空を立ちこめる意)といふ作用の繼續的の意義を表はす。○「朝霞」中古以後は春は霞秋は露と季節によつて用ゐ分けられてゐるが、當時は秋にも霞と云ふ語を用ゐたのである。○「いづへのかた」は何れの方。○「わが戀やまむ」を新考に、「將息」は「將遣」の誤字ではなからうか、集中に思を遣ると云つた例の多いのを見ると、こゝもヤラムとあるべきものゝやうに思はれるとある。併し今はもとのまゝにしておく。
【譯】秋の田の稲穗の上に立ちこめてゐる朝霧は消え去るであらうが、わが心に立ちこめてゐる戀は何方へ晴らさうか、霧は晴れても心の晴れやうがない。
【評】廣々とした田の面などに、霧が立ちこめてゐるのを眺めれば、誰しも心が陰欝になるものである。皇后はさういふ光景を眺めながら、此の歌をお詠みになつたに相違ない。さて以上四首は萬葉を通じての最古の歌である。
 
  近江大津宮御宇天皇代
 
   内大臣藤原卿|娉《ヨバヒ》2鏡女王1時鏡女王贈2内大臣1歌一首
 
94 玉櫛笥《たまくしげ》 おほふをやすみ あけて行かば 君が名はあれど あが名し惜しも
 
 玉匣。覆平安美。開而行者。君名者雖有。吾名之惜毛。
 
【釋】○「近江大津宮御宇天皇」は天智天皇。(既出)○「藤原卿」は藤原鎌足。○「娉《ヨバヒ》」は妻問ひのこと。○「鏡女王」は額田女王の姉君で、鎌足の嫡室となつた人。○「玉櫛笥」の「玉」は美稱の接頭語、「櫛笥」は婦人の假粧道具を容れる箱、笥《け》はすべて容器をいふ。例へば桶は麻笥(績《ウ》んだ麻《ヲ》を容れるもの)土器《カハラケ》は瓦笥の義である。櫛笥には蓋があつて開ける(85)やうになつてゐるから、「あけ」「ふた」等の枕詞に用ゐる。此所では蓋をするのも開けるのも易いと云ふ意から、「玉櫛笥おほふをやすみ」を「あけ」の序に置いたのである。○「あけて行かば」は夜が明けてお歸りになると。○「君が名はあれど」は君の名の立つのは、男であるから堪へられもしようがと云ふ意。○「あが名し惜しも」は私は女であるから、名の立つのが口惜しいと云ふ意。
【譯】「もう間もなく夜が明けるやうだから、明けてから歸りませう。」「いえ夜が明けてからお歸りになると、浮名が立ちます。あなたは男だから何とも思はれますまいが、私は女の事でありますから、名の立つのが口惜しうございます。どうか早くお歸り下さいませ。」
【評】とやかくと言ひ騷がれるのを心苦しく思つた女心を詠んだ作は、集中に幾らもあるが、これは如何にも貴族的な上品な歌である。
 
   内大臣藤原卿娶2采女《ウネメ》安見兒《ヤスミコ》1時作歌一首
 
95 われはもや 安見兒《ヤスミコ》得たり 皆人の 得がてにすとふ 安見兒得たり
 
 吾者毛也。安見兒得有。皆人乃。得難爾爲云。安見兒衣多利。
 
【釋】○「藤原卿」は鎌足。○「采女《ウネメ》」は上代に諸國の郡領以上の者の姉妹や娘の、容姿の端麗なものを宮中に召して、主上の御饌に仕へさせた官女である。采女の字は支那から借りたので、采は采擇の義である。ウネメは垂髪女《ウナヰメ》の義であるといふ説がある。○「安見兒」は采女の名。○「もや」は感動の助詞の「も」と「や」の重つたもの。○「得がて」は得難の意。ガテはガタシの語幹のガタで、一種の接尾語であると云はれてゐるが、山田氏はカツ(重ねてカツガツと(86)なれば辛うじてと云ふ意となる。)と云ふ下二段の動詞の活用形であつて、意義は「がたし」「かぬ」と相通じるものであると云つてゐる。(「奈良朝文法史」一一二頁)
【津】多くの者が思ひを掛けてゐた、あの安見兒をとう/\自分が手に入れることが出來た。あれほど皆が手に入れかねてゐたあの安見兒を。
【評】調子が如何にも小躍りして、喜んでゐるやうに響いて來る。包み切れぬうれしさを其の儘素直に詠んだ古雅な歌である。
 
  明日香清御原宮御宇天皇代
 
   天皇賜2藤原夫人1御歌一首
 
103 わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくはのち
 
 吾里爾。大雪落有。大原乃。古爾之郷爾。落卷者後。
 
【釋】○「明日香清御原宮御宇天皇代」は天武天皇の御代。○「天皇」は天武天皇。○「藤原夫人」は鎌足の女氷上娘《ヒカミノイラツメ》か、又は其の妹の五百重娘《イホヘノイラツメ》かである。共に召されて夫人となつた人である。大寶令の制によれば、皇后の下に妃二員夫人三員嬪四員があつて、夫人は三位以上の者の女を選ばれることになつてゐた。○「わが里」は皇居の地、即ち淨御原。○「大原」は今の高市郡飛鳥村大字|小原《オホハラ》である。小原に村社大原神社といふがあつて、その社地は鎌足の第址であると傳へられてゐる。先年までその邊りに、大織冠産湯の井といふものが保存されてゐた。この御製は夫人が大原の實家に下りて居た頃に、お詠みになつたのである。○「古りにし里」について古事記傳に、天皇がまだ皇太子で(87)あつた頃、大原の婦人の家にお通ひになつたことがあるので、かく申されたのであらうと云つてゐるけれども、卷十一にも「大原のふりにし里」と歌つてあるから、以前に榮えてゐて當時はさびれた處となつたので、かう仰せられたものと見るが穩當である。(檜嬬手・新考・選釋等の説)○「降らまく」の「まぅ」は「見まくほし」「われに語らく」「夜の深けぬらく」などの「らく」と同じで、降らん事はといふ意である。從來この語形は、加行延言と云はれてゐたのであるが、(他に適當な名稱がないから、以下暫く加行延言と稱へることにする)金澤博士は、形容詞と動詞とがまだ分離しない以前に存在した、一種の古い活用語尾であると云ひ、山田孝雄氏はクは語尾でなく、代名詞の「こゝ」「そこ」の「こ」で、場所を指す接辭である云ふ。而して其の意義に就いて、金澤博士は名詞法又は副詞法とし、山田氏は空間的に指示するは勿論、思想上にも或る點を指示するもので、その點はといふ意であると云つてゐる。
【譯】都には今日は初雪しかも大雪が降つた。お前の居る大原は、さびれた里であるから、定めし雪の降るのも都よりか後れるであらう。
【評】大原は淨御原からは近いのであるから、同じく雪が降つて居るに相違ないのである。それを都より後れて降るであらうと仰せられたのは、戯れてお詠みになつたもので、其の諧謔が如何にも面白い。
 
   藤原夫人奉v和歌一首
 
104 わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけの そこに散りけむ
 
 吾崗之。於可美爾言而。令落。雪之摧之。彼所爾塵家武。
 
【釋】○「おかみ」は龍神をいふ。神代妃に高※[靈の巫が龍]《タカオカミ》闇※[靈の巫が龍]《クラオカミ》といふのがある。前者は空にある龍神で雨を降らし、後者は谷底(88)にあつて水を掌る神である。京都府下愛宕郡鞍馬の官幣中社貴船神社の祭神は闇※[靈の巫が龍]神で、昔から雨乞で名高い社である。參考の爲に掲げて置く。○「くだけ」は「碎く」といふ動詞の名詞形で、碎片のこと。
【譯】私の居ります里の山の龍神に云ひつけて、降らせました大雪の餘波で、少しばかり都に降つたのでございませう。それを大雪が降つたと思し召すのは、可笑しいことでございます。
【評】天皇の諧謔に對して、その反對に出て答へた機智が面白い。
 
  藤原宮御宇天皇代
   大津皇子竊下2於伊勢神宮1上來時|大伯皇女《オホクノヒメミコ》御作歌
 
105 わが背子を 大和へやると さ夜更けて あかとき露に 吾が立ち濡れし
 
 吾勢枯乎。倭邊遣登。佐夜深而。?鳴露爾。吾立所霑之。
 
【釋】○「藤原宮御宇天皇代」は持統天皇の御代。○「大津皇子」は天武天皇の第三皇子で、大伯皇女(大來皇女とも書いてある)の同母弟である。幼少の頃から聰明で、詩文の才にも長じて居られたので、御叔母天智天皇に深く愛せられて、皇女山邊女王を妃に賜はつた。天武天皇の十二年以後政務を聽いて居られたが、朱鳥元年に天皇が崩御せられた時、反を謀つて捕へられ、死を賜はつたのである。時に年二十四であつた。伊勢に下られたのは陰謀の成就を祈られる旁、齋宮なる御姉君大伯皇女に胸中を打ち明け、名殘の對面をせられる積りであつたのであらう。○「背子」は男子を貴んで呼ぶ語。(既出)○「大和へやると」の「と」は後の「とて」に當る場合で、下に述語を省いた形である。○「さ夜」の「さ」は接頭語で意味はない。○「あかとき」は明時の義で、後のアカツキである。○「吾が」は主語の(89)格に用ゐられてゐる。後世ならばワレといふべき所である。
【譯】わが弟君を大和へ歸し遣るとて、別を惜しんでゐる中に、何時しか夜も更けけて、明け方の冷たい露が野に下りて、しつとりと私は濡れたことである。
 
106 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越えなむ
 
 二人行杼。去過難寸。秋山乎。如何君之。獨越武。
 
【釋】○「行き過ぎがたき」と云つたのは、秋の山道は、とかく物心細く淋しい故である。○「いかにか」は檜嬬手及び新考の訓によつたのである。從來イカデカと讀んだのであるが、當時はイカデ・イカガといふ語は未だ用ゐられなかつたのである。(「奈良朝文法史」二五七頁參照)○「なむ」は完了の助動詞の「ぬ」の未然形の「な」に、未來の助動詞の「む」の重つたもので、「何々せんと欲す」といふやうな意味を表はすことになる。
【譯】二人連れだつて行つてさへ、隨分淋しい秋の山道を、どんなにして弟の君は、只一人越えて行かれるだらうか、誠に氣懸りでならぬ。
【評】胸中に大事を企てゝ居られることを、姉君も御存じであつたのであらう。如何にもたゞならぬ惜別の情が二首の上に溢れてゐて、悲しい響がする。其の後大津皇子の陰謀は暴露して、死を賜うたのであるが、皇子の死後に大伯皇女が京に上つて、弟君の死を悲しんで詠まれた四首の作が下に見えてゐる。
 
  大津皇子贈2石川郎女《イシカハノイラツメ》1御歌一首
 
(90)107 足引の 山の雫に 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに
 
 足日木乃。山之四附二。妹待跡。吾立所沾。山之四附二。
 
【釋】○「石川郎女」の傳未詳。○「足引の」山の枕詞。(「尾《ヲ》の上《ヘ》」「八峯《ヤツヲ》」「木の間」「岩根」「嵐」等にも冠する。)契沖は山はあへぎながら足を曳いて登るから、足引のといひかけるのであるといひ、宣長は足引城《アシビキキ》の義で、山が裾を長く引いてゐる地域を指すのであると云つてゐる。○「山の雫に」此の句は四句に係るのである。
【譯】山の木の下に立つて待ちわびてゐたら、木の葉からしたゝる雫にすつかり濡れたことだ。そんなに待たせておいて、來なかつたそなたの心が恨めしい。
【評】木の葉の雫に濡れそぼつのも厭はずに待つてゐた心を察せず、無情にも逢ひに來てくれなかつた心を恨んだのである。山の雫に立ち濡れたといふ情景が、素朴な萬葉時代の特色を示してゐる。この作を古今集の「久しくもなりにけるかな住の江のまつは苦しき物にぞありける」などに比べて見て、歌風の變遷を知るべきである。
 
   石川郎女奉v和歌一首
 
108 あを待つと 君が濡れけむ あしびきの 山の雫に ならましものを
 
 吾乎待跡。君之沾計武。足日木能。山之四附二。成益物乎。
 
【譯】妾をお待ちになつてゐてお濡れなさつた、その山の雫になりたかつたと思ひます。そしたらあなたにお逢ひすることが出來ましたのに。そんな事とは知らないで、家で待つてゐましたのが恨めしうございます。
【評】すかさず答へた所が巧みである。氣の利いた返歌である。
 
(91)   舍人《トネリ》皇子御歌一首
 
117 ますらをや。片戀せむと 嘆けども 醜のますらを。なほ戀ひにけり
 
 大夫哉。片戀將爲跡。嘆友。鬼乃益卜雄。尚戀二家里。
 
【釋】○「舍人皇子」は天武天皇の第五皇于。○「ますらをや」の「や」は反語の助詞で、下の「片戀せむ」の下において見るべき語である。○「醜のますらを」は皇子自らを云はれた語である。醜《シコ》はみにくいもの、或は惡むべきものに冠する語である。
【譯】自分は益荒雄である。見つともない片戀なんぞしてはならぬぞと、自ら心を制してもついそれを忘れて、この惡むべき男がやつぱり片戀をしてゐるのだ。自分ながら意氣地のないのにあきれてしまふ。
【評】當時は氏族制度が嚴格に行はれてゐたから、祖先崇敬の精神が盛であり、その結果功名心が盛であつて、家名を汚すことは男子の最大の恥辱とされてゐた。その時代の精神が戀の歌にも現はれてあるのが面白い。以下にもこの類歌は幾らもある。
 
   三方沙彌《ミカタノサミ》娶2園臣生羽《ソノノオミイクハ》之女1未v經2幾時1臥v病作歌三首
 
123 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 このごろ見ぬに かかげつらむか (三方沙彌)
 
 多氣婆奴禮。多香根者長寸。妹之髪。比來不見爾。掻入津良武香。
 
【釋】○「三方沙彌」の三方は氏、沙彌は梵語で、始めて落飾した者を云ふ。○「園臣生羽」の傳未詳。○「作歌三首」の「作」は「時」の誤であらうと、略解に云つてゐる。○「たけばぬれ」の「たく」は髪を揚げること。「ぬる」はヌル/\と(92)髪が解け下ることを云ふ。當時女は十四五歳までは振分髪で、髷を結ばないでゐたのである。その垂れた髪を揚げても、まだ短いのでスル/\と解け下るといふ意である。○「かかげ」(掻入)を代匠記にカキレと訓み、略解に宣長の説として、「入」を「上」の誤としてカキアゲと訓んでゐる。又守部は「入」を「上」に改めてタガネと訓んだ。今宣長守部等の説によつて、「入」を「上」の誤として、カカゲと訓むことにする。
【譯】髪をとり揚げて結ばうとしても、スル/\とすべつて結べない、さりとて振分髪では、餘り長過ぎたあの妹の髪も、暫く見ない間にもう掻き上けて綺麗に結んでゐるであらう。
【評】上代は夫が妻の家に通つたのである。この作者は若い振分髪の妻を娶つて、その家に通つてゐたのであるが、病のために久しく行くこともできず、その後もう髪を結ぶやうになつたであらうと、妻を慕つて詠んだ作である。「たけばぬれたかねな長き妹が髪」と云つたので、うひ/\しい妻の姿が眼前に見えて來る。
 
124 人みなは 今は長しと たけと云へど 君が見し髪 亂れたりとも (元娘子)
 
 人皆者。今波長跡。多計登雖言。君之見師髪。亂有等母。
 
【釋】○これは妻が答へた歌である。○「今は長しと」」の「と」はトテの意。當時はトの下にテを置く語法はまだなかつた。○「たけと」の「と」は普通のトで、指示する意の助詞である。
【譯】此の頃は髪も延びたので、もう振分髪では似合はない、早く髪を揚げたらよからうと、皆が申しますけれども、あなたに初めてお逢ひしました時の姿を變へるに忍びませんから、たとへ髪が亂れて見苦しからうとも、この儘にして再びお逢ひする日を待つてゐませう。
(93)【評】如何にも可憐な感情がよまれてゐる。古義に、昔は女の振分髪は夫たる者が始めて結んでやるのであつて、此の贈歌は他の夫たるべき男が定まつて、もう髪を揚げたであらうと云ふので、答へた歌の方は、否他の男に見えるやうな事は決してない、と云ふ意味であると釋いてある。夫に髪を揚げて貰ふといふ例歌もあるが、併し必ずしもさうでないことを證する例歌もあるから、今は右のやうに釋いておく。
 
125 橘の 蔭ふむ道の やちまたに ものをぞ思ふ いもにあはずて (三方沙彌)
 
 橘之。蔭履路乃。八衢爾。物乎曾思。妹爾不相而。
 
【釋】○これは再び沙彌から贈つた作である。○「橘の蔭ふむ道の」は「やちまた」の序であるが、この序が頗る佳い。當時都大路や町端れの市などには、往還の人を憩はせたり、果實を採つたりする爲に、街路樹を植ゑたのである。例へば「海柘榴市《ツバイチ》」や「阿斗《アト》の桑市《クハイチ》」などは、その名によつて知れるやうに、椿や桑を植ゑたものであるが、「餌香《ヱガ》の市」は「餌香市の橘」と云つてゐるから橘を殖ゑたのである。なほ序ながら大寶令によれば、市は午時に集まり、日没前に大鼓を相圖に散ずる事になつてゐたのである。○「やちまた」は彌道股《ヤチマタ》の義である。方々へ岐れてゐる辻のこと。ここではそれを、彼方此方に樣々の物思をすることに云ひ掛けたのである。
【譯】久しく妻に逢はないので、かれこれと種々の物思に暮してゐることである。
【評】明るい日に照らされて、十字街路の並木の橘が、濃い影を地上に投げてゐて、その樹の蔭には、諸方の部落から集まつて來た男女が行きつもどりつして、市場は非常に賑はつてゐる。そんな光景が今病床に居る作者の頭に浮んでゐるのである。
 
(94)   柿本朝臣人麿從2石見國1別v妻上來時歌二首並短歌
 
131 石見の海《み》 角《つぬ》の浦回《うらみ》を 浦なしと 人こそ見らめ 潟《かた》なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無《な》けども よしゑやし 潟は無けども いさなとり 海邊《うみべ》をさして 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 浪こそ來寄せ 波のむた かよりかくより 玉藻なす よりねし妹を 露じもの 置きてし來れば この道の やそくま毎に よろづたび 顧みすれど いや遠《とほ》に 里はさかりぬ (95)いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひしなえて しぬぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
 
 石見乃海。角乃浦囘乎。浦無等。人社見良目。滷無等。人社見良目。能咲八師。浦者無友。縱畫屋師。滷者無鞆。鯨魚取。海邊乎指而。和多豆乃。荒磯乃上爾。香青生。玉藻息津藻。朝羽振。風社依米。夕羽振流。浪社來縁。浪之共。彼縁此依。玉藻成。依宿之妹乎。露霜乃。置而之來者。此道乃。八十隈毎。萬段。顧爲騰。彌遠爾。里者放奴。益高爾。山毛越來奴。夏草之。念之奈要而。志怒布良武。妹之門將見。靡此山。
 
【釋】○「從2石見國1別v妻上來時」は如何なる場合の作であるか、人麿の傳が詳かでない爲に一切不明である。彼が若い頃郷里の石見を出て上京し、官に仕へたこと、文武天皇の末年に石見に歸つて國府の廳に仕へ、その地で歿したことは、大體推定せられるのである。この歌は彼が最初郷里を出る時の作であるか、又其の後一時歸郷してゐて再び上京する時のものであるか、その邊の事は詳かでない。○「角の浦」は以前の都農郷、即ち今の那賀郡都農・都野津・二宮村あたりの海岸をいつたのである。此の地は人麿が住んだ處で、晩年に出仕した國府(那賀郡濱田町から一里餘の、上國府・下國府・國分の三村が、昔の國府の在つた村である。)から東三四里の處である。○「浦囘」の「み」には「めぐり」又は「ほとり」の意がある。「浦囘」の「囘」の訓には種々の説がある。先づ舊訓にはワとあつて、契沖・眞淵・千蔭・御杖等はこの訓によつてゐる。次は宣長の説でマと讀み、第三は久老・守部・雅澄等の説でミと讀み、最後に木村博士は、此等の諸訓は畢竟同じ語の音の轉化したものであると論じてゐる。今は第三説によつてミと讀むことにする。(圖書刊行本古義第一の二二二頁參照)○「浦」は和名抄に「浦、和名宇良、大川旁曲渚、船隱v風所也」とある。即ち入江若くは湊の義である。○「潟」は洲のことで、潮の滿干によつて隱現する處を云ふが、又浦と同じく入江の事にもなる。こゝは洲のことである。○「社」をコソと訓んだのは義訓であつて、神社は願事を祈願する所であるから、乞の字義のコソにあてたのである。○「見らめ」は中古文法ならば、「見るらめ」といふべきであるが、奈良朝文(96)法では終止形の語尾の「る」を添へずして、直ちに「べし」「らむ」「らし」「とも」などに續けて、「見べし」「見らむ」「見とも」などと云つたのである。○「よしゑやし」の「ゑ」は形容詞の終止形に接して感動を表はす助詞で、下に「やし」といふ感動の助詞を伴うて、強い感情を表はすことになる。この句はよしまゝよといふ意である。○「浦は無けども」の「無け」は「無かり」の「無か」の音の轉じたものである。○「いさなとり」は海の枕詞。「いさな」は鯨の古語であつて、鯨捕る海といひ續けたのであると云ふのが冠辭考の説である。異説をあげれば守部は鯨《イサナ》は借字で、只すなどりする海(「い」は接頭語と」見る)といふ意であると云ひ、古義に引いてゐる一説には、磯菜採りの義であると云つてゐる。併しイサナトリは誘魚捕りの意であるといふ説があるが、これが正しいと思ふ。漁火《イサリビ》・漁場《イサナ》のイサはアサルとともに、「誘ふ」と」いふ語と同根の語であつて、魚を誘ひ寄せて捕るといふ意である。○「和多豆」は江川《ゴウノカハ》の河口の東岸にある渡津である。○「荒磯の上に」のアリソはアライソの音の省約で、「上に」はほとりにの意である。○「か青」のカは接頭語。○「朝はふる」の「朝」は下の「夕」と對にしたまでゞある。「はふる」は羽振るといふ意で、鳥の羽ばたき〔四字傍点〕する事である。日本紀神代卷に眞名鹿《マナカ》の皮を全剥《ウツハギ》に剥ぎて、天の羽鞴《ハブキ》を作つたと云ふ事がある。羽鞴《ハブキ》は今日のフイゴであるが、これとハフルといふ動詞は同じ系統の語である。要するに煽《アフ》るといふ意である。○「寄せめ」は舊訓にヨラメとあるが、今略解の説に從つてヨセメと讀む事にする。○「來寄せ」は舊訓にキヨレとあるが、古義にキヨセとしある。「寄す」は玉藻沖つ藻を寄せる意であるから古義の訓がよい。○「波のむた」は其の波の打寄せると共にの意である。「むた」は共にの意の副詞で、上に助詞の「の」を伴ふのが常である。○「かよりかくより」はあちらに寄りこちらに寄るといふ意。藻の打ち靡く樣を云つたのである。○「いさなとり」以下十三句は石見の海岸の景色を叙べて來て、「よりねし妹」の序としたのである。○「よりねし妹」は寄り添うて寢た妻。○「露じもの」は置くの枕詞。(97)(霜は借字である)「じもの」は前に「鴨じもの」の解の時述べて置いた。「露霜」を一の名詞と見る説がある。露霜といふのは露と霜とではなく、露が霜になりかけた時の薄霜の事である。○「いや高に」は「いや遠に」と對にしたのである。さていや高とあるのは、妻の住む里を出て山路にさしかゝつた爲に、地形が段々高くなつて行くことを云つたのである。○「夏草の」は「しなえ」の枕詞。○「思ひしなえて」は思ひに堪へずして、夏草の萎えてゐるやうに弱つてゐる事。○「妹が門」は妹が家といふのを、印象を明かにするために、「門」と云つたのである。(新考の説)この妹の家は都農の里であることは、或本歌として戴せられた長歌に、「わが妻の子が、夏草のおもひしなえて、なげくらむつぬの里〔四字傍点〕見む、靡けこの山。」とあるので知れる。○「靡く」はここでは丈の高い山が崩れて、横に低く延びる意である。○「この山」は眼前に横たはつてゐる山を指してゐる。
【譯】石見の觀の津農の海岸は屈曲がなくて、舟を寄せる浦もなく、又遠淺の瀉もない、いやな處だと人は思ふであらう。併し浦は無くても、又瀉は無くても、自分にとつては誠によい處であつた。(愛する妻と樂しく住むことが出來たから)其の海岸には、沖の方から和多津の荒い磯邊に、眞青な美しい藻や沖に生える美しい藻を、朝に夕に吹き寄せる風や、打ち寄せる浪が寄せて來るので、誠に岸が面白い。その浪と共に、あちらに寄つたりこちらに寄つたりする玉藻のやうに、自分に寄り添うて寢た、いとしい妻を後に殘して來たので、この道中の幾度となく來る曲り目毎に、あとを振り返つて名殘を惜しみ/\してゐる中に、なつかしい里は次第に遠退《トホノ》いてしまつた。そして山道は一歩一歩と高くなつて來た。あの里では、定めしわが妻も萎れ返る夏草のやうに、弱り切つて自分を慕つて居るであらう。そのいとしい妻の家が見たい。オイそこの前に立ち塞つてゐる山よ、靡き伏して呉れ。目の家が今一度見えるやうに。
(98)【評】石見の海岸は地圖で見ても、屈曲のない荒磯續きである。それを人麿も先づ述べてゐる。それでも愛する妻と住んで居ると、何處よりも住みよい處と思はれたと云ふのは人情である。女を玉藻に譬へることは、人麿が常に用ゐた修辭であるが、こゝのは景色も藻も活躍してゐるので、殊に面白く感じられる。最後の「なびけこの山」は、切な感情を一句に歌ひ放つたもので、古來有名な句である。
 
   反歌
 
132 石見のや 高角山《たかつぬやま》の 木の間より わが振る袖を 妹見つらむか
 
 石見乃也。 高角山乃。 木際從。我振袖乎。 妹見都良武香。
 
【釋】○「石見のや」の「や」は餘情を添へる助詞。○「高角山」を美濃郡高津村の縣社柿本神社(俗に高角社と云ふ)の在る高角山とする説の誤であることは、石見の學者藤井宗雄の著「石見國名跡考」に詳論してある。こゝの高角山は長歌にあつた都農の山で、今は島星山と云つてゐる。「高角」の「高」は添へた詞である。○「木の間より」を「わが振る袖」にかけて釋くのと、「妹見つらむか」にかけて見るのと二説ある。余は直ちに次の句の「わが振る袖」に云ひつゞけたものと見る。即ち高角山の木の間から、人麿が振つてゐる袖を、門に出て見送つてゐる妻が見たであらうかと云ふのである。
【譯】石見國の都農の山の木の間から、名殘を惜しんで自分が袖を振つてゐるのを、門に立つてゐる妻が、それと見たであらうか。
【評】長歌には專ら自分の悲しみを叙べたから、この反歌には自己を景中に描き出して、見送る妻の胸中を思ひ遣つて(99)詠んだのである。松の木の間から白い袖の飜るのが、あざやかに見えて來るやうである。
 
133 小竹《ささ》の葉は み山もさやに さやげども われは妹|思《も》ふ わかれ來ぬれば
 
 小竹之葉者。三山毛清爾。亂友。吾者妹思。別來禮婆。
 
【釋】○これも同じく反歌である。○「さやに」はサア/\鳴るさまを云ふ。○「さやげども」の訓は、守部及び木村博士の説によつたのである。舊訓にはミダレドモと訓み、眞淵や千蔭は、サワゲドモと訓んでゐる。これは美夫君志に云つてある通り、サヤニに對する調の上から、サヤゲドモと訓むべきである。
【譯】妻に別れて山路を來ると」、笹原を吹き過ぎる風が、小竹をサア/\鳴らして誠に騷がしい。併しその音に紛れもぜず、わが心はひたすら妻を思ひつゞけることである。
【評】初めの三句に、笹の茂つてゐる山路を辿る寂しさが寫されてゐて感じが深い。
 
135 つぬさはふ 石見の海の ことさへぐ からの崎《さき》なる いくりにぞ 深海松《ふかみる》生ふる ありそにぞ 玉藻は佳ふる 玉藻なす 靡き寐し兒を 深海松の 深めて思《も》へど (100)さ寐し夜は 幾らもあらず はふつたの 別れし來れば きもむかふ 心を痛み 思ひつつ 顧みすれど 大船の わたりの山の もみぢ葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上《やかみ》の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隱ろひ來れば あまづたふ 入日さしぬれ ますらをと 思へる吾も しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ
 
 角障經。石見之海乃。言佐敝久。辛乃埼有。伊久里爾曾。深海松生流。荒磯爾曾。玉藻者生流。玉藻成。靡寐之兒乎。深海松乃。深目手思騰。左宿夜者。幾毛不有。延都多乃。別之來者。肝向。心乎痛。念乍。顧爲騰。大舟之。渡乃山之。黄葉乃。散之亂爾。妹袖。清爾毛不見。嬬隱有。屋上乃山乃。自雲間。渡相月乃。雖惜。隱比來者。天傳。入日刺奴禮。大夫跡。念有吾毛。敷妙乃。衣袖者。通而沾奴。
 
【譯】○「つぬさはふ」は枕詞。冠辭考にツヌ・ツタ・ツナは相通の音で、ツヌサハフは蘿這石《ツタハフイハ》といひ續けたので、サは接頭語であると云つてゐる。又金澤博士は上代の建築にあつては、葛・蔓の類を綱の代りに用ゐたから、集中に石綱をイハツタと訓み、又反對に石葛をイハツナと訓んであるのであると言はれた。(「言語の研究と古代の文化」六〇頁參照)○「ことさへぐ」は言語の意味は通じないで、只噪しく聞えるといふ意で、「唐《カラ》」「百濟《クダラ》」などに冠して枕詞とす(101)る。○「からの埼」は石見風土記に「可良島秀2海中1。因v之可良埼(ト)云。度(リ)半里。」とある地で、渡津から東方十里許りの、邇摩郡|宅野《タクノ》村の海上に辛島といふがあるから、昔その海濱の出鼻を辛埼と云つたものらしい。辛島は韓國曾富理神(五十猛神ともいふ、素盞嗚尊の御子である。)が韓國からの歸途、上陸せられた地であるといはれ、宅野村附近にはこの神に關する傳説地が幾らもある。○「いくり」は海中の石をいふ。釋日本紀に「句離《クリ》謂v石也。伊助語也。」とある。○「深海松」は深い所に生える海松《ミル》といふ意。海松は水松とも書く。「ミルメ」「ウミマツ」「ミルブサ」「ウキミル」等の名もある。海岸の岩に附著してゐる緑色の、六七寸位の大さの藻である。枝が次々に岐れ出てゐるからウミマツともいふので、その枝の先が少しふくらんでゐるから、ミルブサともいふのである。○「玉藻は生ふる」までは序である。○「玉なす」は玉藻の如く。○「さ寐し夜」の「さ」は接頭語。○「幾ら」の訓を古義にイクダとしてゐる。集中には何れにも云つた例がある。○「はふつたの」は「別れ」の枕詞。這ふ蔓草がかなたこなたに別れる故云ひかけたのである。○「きもむかふ」は心の枕詞。肝は内臓をいふので、ムカフはその内臓が相對つて蟠つてゐるさまを云つたのである。昔は心の働は肝から起るものと思つたのである。○「大船の」は「渡り」の枕詞。大船で渡るといふ意である。○「わたりの山」は渡津の近傍の山。○「散りのまがひに」は散るまぎれにといふ意で、黄葉が散つて眼を遮ることをいふ。○「さやにも」はさやかにもと同じ。○「妻ごもる」は屋上山の枕詞。妻とこもる屋といふ意で續けたのである。○「屋上の山」は渡津から江(ノ)川に沿うて、一里許り上流に行つた所にある室上山の事。「屋上の山の」の「の」は新考に「爾」の誤であらうと云つてゐる。○「雲間より渡らふ月の」は「惜し」をいふ爲の序である。○「渡らふ」はワタルにフの附いたもの。○「隱ろひ」はカクルにフの附いたもの。○「あまづたふ」は天路をつたつて行くといふ意で日の枕詞。○「入日さしぬれ」は入日の淋しい光が射して來ると云ふ意。「さしぬれ」の下には後の語法ならば、(102)「ば」のあるべき所である。○「しきたへの」は衣の枕詞。「しきたへ」は寢床に敷く妙であるから、夜の衣にかけ、轉じては衣・袖・床・枕などにもかけて枕詞とする。○「通りて濡れぬ」は涙のために袖の中まで濡れたといふ意である。
【譯】石見の海の辛ノ埼にある、海中の石に深海松が生え、その荒い磯に美しい藻が生える。その美しい藻のやうに靡き寄つて寢た妻を、深海松の名の通り深く思つてゐても、共に寢た夜は何許もなくして、別れて來たので如何にも悲しく、思ひに惱んで妻の方を顧みるけれども、渡津の山の紅葉が散りまぎらすので、妻が別を惜しんで振つてゐる袖もはつきりと見えず、――屋上山に雲間を行く月が隱れるのが惜しいやうに、――名殘惜しくも妻の家がとう/\隱れてしまふと、やがてあたりには入日が淋しくさして來て、淋しさをそゝるので、平素は大丈夫ぞと思つてゐる私も、衣の袖が濡れ透るほどに泣いたことである。
【評】海の玉藻を歌ひ、山の紅葉を叙べ、入日を寫し、景色と感情とがもつれ合つてゐて、哀別離苦の悲しみが、美しく又哀れに歌はれてゐる。例によつてこれも終りが殊に巧みである。
 
   反歌二首
 
136 青駒の あがきをはやみ 雲ゐにぞ 妹があたりを 過ぎて來にける
 
 青駒之。足掻乎速。雲居曾。妹之當乎。過而來計類。
 
【釋】○「青駒」は倭名抄に「青白雜毛馬也」とある。○「あがき」は馬の足の運びを云ふ。地を掻くやうにするからである。○「はやみ」は速いために。○「雲ゐ」は大空の意であるが、此所は遠くといふ意。○「過ぎて來にける」は距離の遠ざかつたことをいつたのである。
(103)【譯】自分の乘つてゐる青駒が足どり速く歩くので、暫く名殘を惜しまうと思つてゐた妻のあたりを、早くも遙かに隔つて來たことだ。
 
137 秋山に 落つるもみぢ葉 しまらくは な散り亂れそ 妹があたり見む
 
 秋山爾。落黄葉。須臾者。勿散亂曾。妹之當將見。
 
【釋】○「しまらく」は略解の訓で、美夫君志・新考にもさう讀んである。(舊訓シバラク、古義の訓はシマシク。)集中に「思麻良久」「之麻思」「思末志久」などの例があるが、シバラクといふ假名は見えない。○「な散り亂れそ」の「亂れ」を考・檜嬬手・古義・美夫君志等にミダリと訓んであるが、自動詞のミダルは上代にも二段に活用したのであるから、ミダレの方が正しい。(新考による)
【譯】妻のあたりを見て名殘を惜しみたいと思ふから、秋の山に散り亂れるもみぢ葉よ、暫く私の目を遮らないやうにしてくれよ。
 
   柿本朝臣人麿妻|依羅娘子《ヨサミノイラツメ》與2人麿1相別歌一首
 
140 な思ひそと 君はいへども あはむ時 いつと知りでか わが戀ひざらむ
 
 勿念跡。君者雖言。相時。何時跡知而加。吾不戀有牟。
 
【釋】○人麿の嫡妻で都に居たのが、兒を遺して死んだことは、この卷の末の人麿の作によつて知れるが、この依羅娘子はそれより後に迎へた後妻で、又京に居たといふことは、同人が人麿の死を悲しんだ時に歌つた作(是もこの卷(104)の末にある)によつて知る事ができる。從つてこの歌は人麿が京を出て、石見へ下る時の歌らしく思はれる。人麿の妻については、考の別記の二に委しく述べてある。
【譯】そんなに歎くに及ばんと慰めて下さるけれども、あなたが何時上つていらつしやるといふ日も分らないことですから、どうして戀しう思はないで居られませぅ。
 
   挽歌
 
  後崗本宮御宇天皇代
 
   有間皇子自傷結2松枝1歌二首
 
141 磐代《いはしろ》の、濱松が枝《え》を 引き結び まさきくあらば またかへり見む
 
 磐白乃。濱松之枝乎。引結。眞幸有者。亦還見武。
 
【釋】○「挽歌」は支那で柩を挽く時うたふ歌をいふが、それを借りて、哀傷の歌の部類の名としたのである。これは音でバンカと讀むがよい。○「後崗本宮御宇天皇」は齊明天皇。○「有間皇子」は孝徳天皇の皇子である。齊明天皇の四年十月に、天皇が紀伊の牟婁《ムロ》の温泉(西牟婁郡湯崎)に行幸中、奸臣蘇我|赤兄《アカエ》の爲に謀られ、反を企てられた事が顯はれ、紀伊に召されて藤白坂(海草郡内海村にある。和歌山から有田へ越える峠。)で絞殺されたのである。この御歌は皇子が牟婁の行在所へ行かれる途中、日高郡の海岸を過ぎて、その磯馴松の枝を結んで、罪を赦されて、再び無事にこの地を過ぎる事が出來るやうにと、呪をして詠まれた歌である。上代には木の枝や草の莖などを結んで置いて、再び見るまでそれが解けずにあれば事が成り、解けてあれば事は成就しないものと占ふ風習があつたのであ(105)る。○「濱松が枝を云々」今も岩代に一老松があつて、土地の人は結松と稱へてゐる。○「まさきく」は幸ひに、又は無事にといふ意。「ま」は接頭語。
【譯】かうして岩代の濱邊の松の枝を引き結んで、しるしをつけておく。幸ひに申開きが立つて、無事であることが出來たら、また還り來てこの松を見るであらう。
 
142 家にあれば 笥《け》に盛る飯《いひ》を 草枕 旅にしあれば 椎《しひ》の葉に盛る
 
 家有者。笥爾盛飯乎。草枕。旅爾之有者。椎之葉爾盛。
 
【釋】○是も前の御歌と由じ時の作である。○「笥」は食物を盛る器。○「草枕」は旅の枕詞。昔は旅にあつては草を引き結んで枕として野宿をしたから、草枕する旅といひ續けたのである。○「椎の葉」は榊の葉のやうなものであるから、一枚の藥では飯を盛つても、何程も盛れるものではない。椎の小枝を折り敷くか、掌の上に葉を何枚も敷いて、その上に盛つたのであらう。
【譯】家に居れば笥に盛つて食べる飯を、今はかうした旅にあることであるから、椎の葉に盛つて食べることだ。
【評】この歌は昔の宿屋もない頃の、旅の苦しさを語るものとして、人のよく知つてゐる歌であるが、只旅の苦しさを歌つたのでなく、右に述べた通り、悲痛を極めた旅での作であることを知らねばならぬ。
 
  近江大津宮御宇天皇代
 
   天皇聖躬不豫之時|大后《オホキサキ》奉御歌一首
 
(106)147 あまの原 ふりさけ見れば 大君の 御壽《みいのち》は長く 天足《あまた》らしたり
 
 天原。振放見者。大王乃。御壽者長久。天足有。
 
【釋】○「近江大津宮御宇天皇」は天智天皇。○「聖躬」は天皇の大御身。○「不豫」は御悩。天皇は即位の十年九月から御不例で、その年の十二月に崩御になつた。○「大后」は天智天皇の皇后をいふ。古人大兄皇子の皇女倭姫王である。○四五の句を舊訓にオホミイノチハナガクテタレリ、又一訓にミイノチハナガクアマタラシタリとある。小琴・略解・檜嬬手・古義等この後の訓によつてゐる。今もそれに從つたのである。○この歌の解に二説ある。一は天の遠く久しい通り、御壽も無窮であらうと云ふ意に釋き、(契沖・眞淵・千蔭・雅澄等この説)一は「天の原」を御殿の尾上と見て、「御壽は長く云々」を其の屋上に千尋繩をうちはへて、長く結び垂れてあるその繩のやうに、御壽も長久にまします意に釋くので、これは守部の説で、美夫君志もそれによつてゐる。これは前説の方がまきつて居る。
【譯】廣々とした大空を仰いで見ますと、わが君の御壽は、恰も天が示してゐます通り、永遠無窮であらせられることは疑ひはございません。
【評】聊かも御不豫のことを仰せられず、必然御平癒になるべきことを、天によせて詠まれたのが、如何にも皇后の御歌にふさはしく、又強い信念もよく現はれてゐる。
 
   一書曰近江天皇聖體不豫御病急時太后奉獻御歌一首
 
148 青旗の こはたの上を 通ふとは 目には見ゆれど ただにあはぬかも
 
 青旗乃。木旗能上乎。賀欲布跡羽。目爾者雖視。直爾不相香裳。
 
(107)【釋】○「一書曰云々」は眞淵の云つやうに、こゝに御歌が一首あつたのが脱けて、「青旗の」の歌の端辭には別に「天皇崩時大后御作歌」とあつたものらしい。○一二の句の意義が從來よく分つてゐない。契沖は「青旗の」を木幡の枕詞として、神さり給うた天皇の神靈が、御陵のある山城の山科に近い木幡を過ぎて、大津の宮の空に通はせ給ふ意に釋いてゐるが、仙覺は常陸風土記に「葬具(ノ)儀《ヨソホヒ》赤旗青旗|交《コモ/”\》雜(フ)云々」とあるのを引いて、殯宮(喪屋のこと)に樹てた青旗と見、眞淵は青旗は白旗であるとし、木幡を小幡の誤とし、ヲハタと訓んでヲは接頭語で、アヲハタノヲハタと重ねて云つた古歌の一の修辞であると云つてゐる。今青旗の小旗の意と見ておく。喪葬令に「親王一品幡四百竿二品幡三百竿云々」とあるので、旗を澤山樹てたことは分るが、色のことは記されてゐない。○「ただに」は直接に。
【譯】青旗の小旗の上を、御魂は天がけり給ふやうに目には見えるけれども、直接にお逢ひすることが出來ないのが誠に悲しい。
【評】空を仰げば、小旗の上を御魂が天がけり給ふやうに見えるといふのが、幽明處を異にした悲愴の情を、最も切實に現はしてゐる。
 
   天皇崩時婦人作歌一首
 
150 うつせみし 神にたへねば さかりゐて 朝なげく君 離りゐて 吾が戀ふる君 玉ならば 手にまき持ちて (108)衣ならば 脱ぐ時もなく 吾が戀ひむ 君ぞ應日《きぞ》の夜 夢に見えつる
 
 空蝉師。神爾不勝者。離居而。朝嘆君。放居而。吾戀君。玉有者。手爾卷持而。衣有者。脱時毛無。吾戀。君曾伎賊乃夜。夢所見鶴。
 
【釋】○「天皇」は同じく天智天皇。○「婦人」は官女。○「うつせみ」はウツシミの轉じたので、生きてゐる身をいふ。○「し」は指示する意の助詞。○「神にたへねば」の神は天つ神となり給うた天皇を指す。「たへねば」は及ばれぬ意。○「朝なげく君」は、考に「昨日の夜夢に見えつる」によつて見ると、この歌は翌朝詠んだものであるから、「朝なげく」と歌つたのであると云てゐるが、新考に「朝」は「吾」の誤であらうと云つてゐる。下に「離りゐて吾が戀ふる君」とあるのと、對句にしたものと見ると、新考の説は尤もと思はれる。○「昨日《キゾ》」は「キヅ」「コゾ」ともいつた。昨日又は昨夜の意。○「夢《イメ》」は寐見《イメ》の義である。ユメは此のイメの轉訛した語である。
【譯】この世にながらへて、ある吾々は、神樣とおなりになつたわが君には、到底及ばぬ身であるから、遠く離れてゐてひたすらお歎き申上げ、又お慕ひ申して居るのであるが、若しもこの君が玉であつたら手に纒きつけ、衣であつたら脱ぐ時もなく身につけてゐように、それほどお慕ひ申上げてゐるその君が、昨日の夜ふと夢にありありとお見えになつたので、いよ/\戀しく思ひ奉ることである。
【評】玉ならば衣ならばの譬喩は、當時の常套語であるが、冒頭と結句とが恨を長からしめてゐる。さてこの作を見て直ちに感じられることは、死者に對す感情が、今日と餘程相違してゐることである。當時の國民、殊に上流の人々は、支那の思想や印度の宗教に接して、それらから多大の影響を受けて、思想もよほど變化してゐたやうであるけ(109)れども、未だ國民固有の現世主義を失つてゐなかつた。即ち上代人は、肉體には別に靈が存在してゐて、その靈が永久肉體を離れるのが死であると信じてゐた。而してその靈は現世を離れるものでなく、自由に空を天翔つて、吾々と親しい關係にあるものと信じてゐた。それ故死者を葬るときの感情も、單に居所が永久に隔てられたことを悲しんでゐたやうである。これが挽歌を通じての一般の思想であつたことは、以下講ずる歌によつて、之を明かにすることが出來るであらう。
 
   大后御歌一首
 
153 いさなとり 近江《あふみ》の海を 沖さけて 漕ぎ來る船 邊《へ》つきて 漕ぎ來る船 沖つ櫂《かい》 いたくなはねそ 邊つ櫂 いたくなはねそ 若草の つまの思ふ鳥立つ
 
 鯨魚取。淡海乃海乎。奥放而。榜來船。邊附而。榜來船。奥津加伊。痛勿波禰曾。邊津加伊。痛莫波禰曾。若草乃。嬬之念鳥立。
 
【釋】○「大后御歌」は前歌と同じ時の皇后の御歌である。○「いさなとり」は海の枕詞であるが、こゝは轉じて「あふみ」(近江)にかゝつてゐる。○「沖さけて」は沖の方へ遠ざかつてといふ意で、下の「邊つきて云々」と對句になつてゐる。「さく」は離れる意の古義で、四段にも下二段にも活用してゐる。四段として用ゐればこゝはサキテとなる。○「邊つきて」は岸に沿うて。○「沖つ櫂」は沖を漕ぐ舟の櫂をいふ。櫂《カイ》は中古文にいふ楫《カヂ》のことで、今の櫂《カイ》や櫓《ロ》の類を廣く
 
    (110)稱へたのである。○「若草の」は妻の枕詞。春崩え出る若草は人に愛でられるから、愛づる妻といひかけたのである。(守部は若草が二葉相對して生ずるから、夫婦《ツマ》に云ひかけたのであると云つてゐる。)○「つま」は衣の褄と同義語で二つ相對してゐるものをいふ。從つて夫婦の何れをもツマと呼んだのである。こゝは天皇を指したのである。宣長は「つま」の下に、「命《ミコト》」が落ちたのであらうと云つてゐる。
【譯】近江の湖を遠く沖を漕いで行く舟よ、強く櫂を撥ねるな。又岸に沿うて近く漕ぎ過ぎる舟よ、その櫂をひどく撥ねるな。あそこに遊んで居るあの水鳥は、お慕ひ申してゐる君が御覽になつて、常に御心をお晴らしになつてゐた鳥である。その鳥が音に驚いて飛び去るであらうから。
【評】大津の宮から、湖水に水禽が群れてゐるのを眺めてお詠みになつたのであらう。綿々として盡きざる悲しみが、繰り返へされた語句の上に、しみじみと歌はれてゐるのが哀れである。
 
   從2山科《ヤマシナ》御陵1退散之時額田王作歌一首
 
155 やすみしし わご大君の かしこきや 御陵《みはか》つかふる 山科《やましな》の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 畫はも 日のことごと 音《ね》のみを 泣きつつありてや (111)ももしきの 大宮人は 行きわかれなむ
 
 八隅知之。和期大王之。恐也。御陵奉仕流。山科乃。鏡山爾。夜者毛。夜之盡。晝者母。日之盡。哭耳呼。泣乍在而哉。百磯城乃。大宮人者。去別南。
 
【釋】○「山科御陵」は天智天皇の御陵で、山城國宇治郡山科村にある。○「退散之時」とは御陵に葬り奉つてから一年の後、御陵の側に奉仕してゐた近臣が退散する時のこと。○「かしこきや」は畏多き御陵とつゞくのである。「や」は餘情を添へる助詞。○「御陵つかふる」は御陵に仕へ奉るといふ意である。古義に山陵造營の意に釋いてゐるのはよくない。昔は御陵をミハカと呼んだ。○「夜はも」「晝はも」の「も」は感動の助詞。○「夜のことごと」「日のことごと」の「ことごと」は限りの意で、終夜・終日の意である。○「音のみを」の「のみ」は、物を一つに限る意の助詞である。(「のみ」には此の外にも用法があるが、それは後に説明する。)「音を泣く」とは音に泣くと同じで、聲を出して泣く事をいふ ○「ももしきの」は大宮人の枕詞。(既出)○「行きわかれなむ」は「別れ行きなむ」と」いふのと同じである。「なむ」は未來完了の助動詞で、口語の「してしまはう」にあたる。此の下には、上の「泣きつつありてや」の「や」を移して見るべき所である。即ち期が滿ちたので、一同退散してしまふことかと」いふ意になる。
【譯】申すも畏れ多いわが大君の御陵にお仕へ申して、この山科の鏡山に、終日終夜聲をあげて歎き悲しんで居る中に、早くも一同退散の期が來て、大宮人はお別れ申して立ち去つてしまふことか、名殘惜しいことである。
【評】作者額田女王は天智天皇の愛を一身に集めた人である。空しき御陵に奉侍する悲しい日數が夢のやぅに過ぎて、いよ/\退散となつて、又ひときは悲哀の情が起つたのである。徒然草に「人の亡き跡ばかり悲しきは無し。中陰の程山里などに移ろひて、便り惡しく狹き所にあまたあひゐて、後のわざども營みあへる心あわただし。日數の早く過ぐる程ぞ物にも似ぬ。果の日はいと情無う、互にいふ事もなく、我賢げに物引きしたため、散り/\に行きあ(112)がれぬ。……」と兼好が書いた心持は、古今を通じて變らぬ人情である。
 
  明日香清御原宮御宇天皇代
 
   天皇崩之時大后御作歌一首
 
159 やすみしし わご大君の 夕されば 見《め》し給ふらし 明けくれば 問ひ給ふらし 神岳《かみをか》の 山の紅葉を 今日もかも 問ひ給はまし 明日もかも 見《め》し給はまし その山を ふりさけ見つつ 夕されば あやに悲しみ 明けくれば うらさび暮らし 荒妙《あらたへ》の 衣の袖は ひる時もなし
 
 八隅知之。我大王之。暮去者。召賜良之。明來者。問賜良志。神岳乃。山之黄葉乎。今日毛鴨。問給麻思。明日毛鴨。召賜萬旨。其山乎。振放見乍。暮去者。綾哀。明來者。裏佐備晩。荒妙乃。衣之袖者。乾時文無。
 
【釋】○「明日香清御原宮」は天武天皇の宮號。○「天皇」は天武天皇。○「大后」は皇后で、後の持統天皇である。○「見《め》し給ふらし」の「見し」は、「見る」に敬語の副語尾の「す」の添うた「めす」が原形で、意は御覽になること。「らし」は推(113)量の助動詞であるが、こゝはそれでは通じない。小琴に常の「らし」とは意味が變つてゐて、何となく心得にくい云ひ方だるといひ、古義には、この「らし」は常の「らし」とは異つて、「めし給へりし」「問ひ給へりし」といふ意であると云つてゐる。兎に角この「らし」はなほ研究を要する助動詞である。今は過去の推量として解いておく。○「問ひ給ふらし」は、はや紅葉したか否かを御下問になること。○「神岳」は飛鳥村大字雷にある小さな岡の雷丘《イカヅチノヲカ》の事である。集中に三諸之神奈備山《ミムロノカムナビヤマ》とも神名備乃三諸山《カムナビノミモロヤマ》とも詠んでゐる。雄略天皇が小子部螺〓《チイサコベノスガル》をして、雷神を捕へさせられた處(この事は日本書紀にある)と傳へられてゐる。今は全山すべて櫟が茂つてゐるが、昔は紅葉もあり、又椿や馬醉木《アシビ》などもあつたので、それらの景色を詠んだ作が集中に見えて居る。○「今日もかも問ひ給はまし」の「かも」は感動の助詞で、「まし」は假想の助動詞である。從つてこの句の意は、もし天皇がこの世におはしますなら、今日あたりは紅葉のことを、御下問になるであらうにと云ふのである。(守部はその神岳の黄葉を、今年は御魂となつて、今日あたりは訪ひ給ふであらうか、明日あたりは見給ふであらうかと思ふと、といふのであると釋いて居る。これも一説である。)○「ふりさけ見つつ」は遙かに仰ぎ見て。○「あやに」は「あゝ」「あな」等の感動詞と同系統の歎く聲から出來た副詞で、頗る又は極めての意である。○「うらさび」は心が欝結する意。「うら」は心。○「荒妙の」は枕詞にもなるが、こゝは次の衣の修飾語となつて、喪服のことを云つてある。喪服は麻藤などで織つた荒い布で作るのである。
【譯】わが君が朝に夕に御覽になり、又お尋ねになつた神岳の山の紅葉を、もし今も此の世におはしますなら、今日あたりは御下問にもならうに、明日あたりは御覽になるであらうに、その思出の種となる神岳を仰ぎ見て、夕になるとひどく悲しく、朝になると泌々淋しく感ずるので、喪服の袖は乾く間もないことである。
(114)【評】この御歌は、先に講じた天智天皇の崩御を哀悼して皇后が詠ませられた、「いさなとり近江のうみ」といふ御歌と好一對である。前のは湖上の水禽によせての作、これは山の紅葉に對しての作であつて、思想が似てゐるのみならず形式に於ても、同じ詞や句を疊んで、綿々たる情緒が叙べてある所も相似てゐる。
 
  藤原宮御宇天皇代
 
   大津皇子薨之後|大來《オホク》皇女從2伊勢齋宮1上v京之時御歌二首
 
163 神風《かむかぜ》の 伊勢の國にも あらましを 何しか來けむ 君もあらなくに
 
 神風乃。伊勢能國爾母。有益乎。奈何可來計武。君毛不有爾。
 
【釋】○「藤原宮御宇天皇」は持統天皇。○「大津皇子」は天武天皇の皇子で、朱鳥元年十月二日御謀反のことが顯はれて、翌三日に死を賜うた事は前に述べた。この御歌はその薨後に同母の姉君の大來皇女が、伊勢の齋宮から上京なさつてお詠みになつたものである。○「神風の」は伊勢の枕詞。(既出)○「まし」は假想の助動詞。○「何しか」の「し」は意味を強める助詞。○「あらなくに」は、あらぬ事にの意。「なく」は「ぬ」の加行延言。
【譯】なつかしい弟君は既に此の世の人でないのに、何故遙々と上つて來たことであらうか、こんなことと知つてゐたら、上つて來るのではなかつたのに。
 
164 見まくほり わがする君も あらなくに 何しか來けむ 馬疲るるに
 
 欲見。吾爲君毛。不有爾。奈何可來計武。馬疲爾。
 
(115)【釋】○始めの二句は、わが見んと欲するといふ意。○「馬疲るるに」この頃の旅には專ら馬を用ゐたのである。
【譯】逢ひたい/\と思つてゐた弟君もいまさぬに、何しに來たのであらうか。長い旅とて馬も疲れるのに。
 
   移2葬大津皇子屍於葛城二上山1之時大來皇女哀傷御作歌二首
 
165 うつそみの 人なる吾や 明日《あす》よりは 二上山を いもせとわが見む
 
 宇都曾見乃。人爾有吾哉。從明日者。二上山乎。弟世登吾將見。
 
【釋】○「移葬」は今まで殯宮《アラキノミヤ》(アラキは宣長の説によれば新城の義で、死者を葬るまで棺に收めて、臨時に葬つておく喪屋のこと。)に收めてあつた柩を、陵墓に移して本葬すること。○「二上山」は北葛城郡當麻村の西北に在つて、御墓は山頂の二上神社の東にある。○「うつそみの人」は現身の人即ち生きてゐる者。○「いもせ」は此所では兄弟の義。昔は男から女をイモといひ、女から男をセと云つた。從つてイモセは夫婦・兄弟・姉妹のことである。二上山は其の名が示してゐるやうに、峰が二つに分れてゐて、一を男嶺と云ひ一を女嶺と云ふ。此所に「いもせ」と歌つたのは、其の峰の二つ並んでゐるのに寄せたのである。
【譯】あとに生き殘つた私は、明日からはこの二上山を、兄弟と思つて見ねばならぬことか。悲しい事になつた。
 
166 磯の上《うへ》に生ふる馬醉木《あしび》を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
 
 磯乃於爾。生流馬醉木乎。手折目杼。令視倍吉君之。衣常不言爾。
 
【釋】「磯」は池・川・海などの波打ち際のこと。○「馬醉木」は古訓にツツジとあるが、眞淵はアシビと訓んで木瓜のこととし、(千蔭・守部等同説)雅澄はアシビと讀んで、俗に云ふアセボの木で土佐でアセミ・アセビなどともいふと云(116)ひ、木村博士は集中に假名書きでアシビとあるのは、木瓜の事であるが、馬醉木はそれとは別で、アセミ漢名※[木+浸の旁]木俗に云ふアセボであると云つてゐる。假名書きのアシビと馬醉木とは同一物と見て少しも不都合がないのみならず、現に馬醉木は畿内地方の山地には廣く分布してゐるし、殊に奈良公園には到る處に生ひ茂つて、三四月の花季には、夜などは雪の降つたやうに見えるほどであるから、萬葉に屡現はれてゐるのも當然のことと思はれる。さて馬醉木は有毒植物であつて、馬が食べると醉つたやうになると云ふので、此の漢名を得たのである。高さ四五尺になり、葉は四五枚づつ集まつて一所に着き、其の中心から一寸許りの總状花が垂れ下つて、黄白色の袋状の花が附く。(圖版に示したものは、奈良公園の「あしび」の開花を阪谷良之進氏が寫生したものである。奈良ではこの花を「ばちこ」と呼んでゐる。○「ありといはなくに」の「いふ」は輕く添へた詞。あるのでもないのにといふ意。
【譯】 この磯のほとりに生えてゐる馬醉木に、美しい花が咲いてゐる。この花を手折りたいと思ふけれども、お見せ(117)すべき弟君があるのでもないのに、手折つても何の甲斐もないことである。
【評】 以上の四首を、この卷の相聞の部にあつた「わがせこを」「二人行けど」の二首と一所に並べて見ると、一篇の哀史を讀む心地がする。
 
   日並皇子尊殯宮《ヒナメシノミコノミコトアラキノミヤ》之時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
167 天地《あめつち》の はじめの時し ひさかたの 天《あめ》の河原に 八百萬《やほよろづ》 千萬神《ちよろづがみ》の 神集《かむつど》ひ 集《つど》ひいまして 神《かむ》はかり はかりし時に 天照《あまて》らす 日女之命《ひるめのみこと》 天《あめ》をば 知しめすと 葦原の 瑞穗の國を 天地《あめつち》の よりあひの極み 知しめす 神の命《みこと》と 天雲《あまぐも》の 八重かき分けて 神降《かむくだ》し いませまつりし (118)高照《たかて》らす 日の皇子《みこ》は 飛鳥《あすか》の 淨見の宮に 神ながら 太敷《ふとし》きまして すめろぎの 敷きます國と 天の原 岩門《いはと》を開き 神上《かむあが》り 上《あが》りいましぬ わご大君 皇子《みこ》の命の 天の下 知しめしせば 春花の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の たたはしけむと 天の下 四方《よも》の人の 大船《おほぶね》の 思ひたのみて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 眞弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱 太敷きいまし 御あらかを 高知りまして 朝毎に 御言《みこと》問はさず (119)月日の まねくなりぬれ そこ故に 皇子《みこ》の宮人 行方《ゆくへ》知らずも
 
 天地之。初時之。久堅之。天河原爾。八百萬。千萬神之。神集。集座而。神分。分之時爾。天照。日女之命。天乎波。所知食登。葦原乃。水穗之國乎。天地之。依相之極。所知行。神命等。天雲之。八重掻別而。神下。座奉之。高照。日之皇子波。飛鳥之。淨之宮爾。神隨。太布座而。天皇之。數座國等。天原。石門乎開。神上。上座奴。吾王。皇子之命乃。天下。所知食世者。春花之。貴在等。望月之。滿波之計武跡。天下。四方之人乃。大船之。思憑而。天水。仰而待爾。何方爾。御念食可。由緒母無。眞弓乃崗爾。宮柱。太布座。御在香乎。高知座而。明言爾。御言不御問。日月之。數多成塗。其故。皇子之宮人。行方不知毛。
 
【釋】○「日並皇子」は天武天皇の皇子、草壁皇太子の尊稱である。諡號を岡宮天皇と申してゐる。この皇子の薨じられたのは持統天皇の三年四月で、御陵はこの長歌にある通り、大和高市郡坂合村大字眞弓岡に在る。岡宮天皇陵と云ふ。○「殯宮之時」は本葬を營むまで假に喪屋に收めておいて、朝夕饌膳を供し、又近臣の仕侍する間をいふ。上代に於ける天皇の殯宮は、葬儀の準備や山陵の經營等の爲に、一年を期としたものであるが、漸次薄葬の風が行はれるやうになつてからは、殯宮の期間も短くなつて、數十日若しくは數日となつたのである。而して孝徳天皇の大化二年には、「凡王以下乃至2應民1不v得v營v殯」といふ制が出てゐるが、元明天皇の頃から天皇の殯宮も廢せられることになつたのである。○「天地の」以下この歌の半ば過ぎまでは、古事記や祝詞の文章によつて歌つたものである。○「天の河原」は天の安の河原の事。○「八百萬」は數の多い事をいつたのである。○「神集ひ」の「神」は神の行爲につける接頭語。○「神はかりはかりし時に」は祝詞の句に、「神議りに議り賜ひて」などあると同じで、神々が議定なされたこと。○「天照らす日女之命」は天照大御神のこと。○「天をば知しめすと」は、伊邪那岐命が御頸珠を天照大御神にお授けになつて、「汝が命は高天原をしらせ」と仰せになつたことを指してゐるので、「知しめすと」は、知しめすとての意で、高天原は天照大御神が御主宰遊ばされることになつたので、此の國土の主宰者としてはといつて、以下の句を敍して來るのである。○「葦原の瑞總の國」は四方海をめぐらし、海邊には葦の茂つた、瑞々しい稻穗の(120)豊穣する國土といふ意で、我が國を指して呼んだ古名である。○「天地のよりあひの極み」は天地開闢に始まつたこの天地が、再び寄り合ふ末の時といふので、未來永遠の意。○「神の命と」はこの瑞穗國を知しめす神として、天降り遊ばされた皇孫の瓊々杵命を申す。「と」は「とて」の義。○「天雲の八重かき分けて」古事記に天孫降臨の状を記して、「天の八重棚雲を押し分けて稜威《イツ》の道分《チワ》き道分《チワ》きて」とある。空にたなびいて幾重にも重なる雲を押し分けて、道を開いて天降り給ふ事。○「神降しいませまつりし」は考・略解等に「神降り」とあるが此は天つ神が天孫をお下しになるので、下の「いませまつりし」に掛かる語であるから、「天降し」でなくてはならぬ。(新考による)天降りなさしめ給ふ義。最後の「し」は過去を表はす助詞である。○第一句から「いませまつりし」まで二十四句は、次の「高照らす日の皇子」の序と見るべきもので、自然こゝまでが第一段となつてゐるのである。これと同じ形式の長い序を用ゐた例は、下に講ずる高市皇子尊城上殯宮之時の歌にもあるので、人麿が得意とする形式である。○「高照らす日の皇子《みこ》」は上からの句の續き工合からいへば、瓊々杵命でなくてはならぬが、下の句への關係から見るとし、明かに現代の天皇を申上げてゐるのである。こゝの句の解釋については守部が、初句から「神降しいませまつりし」までは、專ら瓊々杵命の降臨の状を述べたのであるが、それを直ちに「日の皇子」に云ひ移したので、至極巧妙であると云つてゐる。兎に角日の御子とは、もと瓊々杵尊を申上げるのであるけれども、その御子孫で皇統を嗣がせらるゝ歴代の天皇をも同じ語で稱へ、又皇子方も同じ詞で稱へてゐるのであるから、此の句の日の皇子は、下の句に對しては現代の天皇を指してあるのである。それ故こゝは「その御子孫なる今の日の皇子は」といふ意味に解くべきである。然るにこの日の皇子について二説あつて、契沖・宣長・干蔭・木村博士等は日並皇子の御事とし、眞淵・雅澄・井上博士等は天武天皇としてゐる。今後説に從つて解かうと思ふ。○「神ながら太敷きまして」は現人神として天下をお治め(121)遊ばしてゐたのにとの意。「太」は敬稱の接頭語である。○「すめろぎの敷きます國と云々」こゝのすめろぎは代々の天皇を申上げてゐるので、天皇は崩御になれば、すべて天の原をさしてお上りになるものと信じてゐたので、「すめろぎの敷きます國と、天の原岩戸を開き、神上り上りいましぬ」と云つたのである。先きの日の皇子を日並皇子とする説の方では、こゝの句を、この國土は今の天皇(持統天皇)の御治めになるべき國としてと解く所が、いかにも不穩當である。○「岩戸を開き」の「開」を小琴には「閇」の誤字で、タテテとよむべきであると云つてゐる。そのまゝでも通じるから、誤字とするにも及ぶまい。この句はかの神代傳説にある天の岩窟の段によつたのであることは明かであるが、山本信哉氏の説に(東亞の光「祭祀の起原」を見よ)天岩窟の段は上古の高貴の方の崩御のときの状を物語る説話が、あの所に混入したので、この歌もやはり天皇の崩御を、天の石戸を閉ぢて御籠りになつたもののやうに云つたのであると云ふ。○「神上り上りいましぬ」で句が切れてゐる。こゝまでを第二段と見てよからう。○「わご大君」以下は日並皇子の事を述べたのである。○「天の下知しめしせば」は天皇の御位を繼がせられて、天下をお治めになつたらと云ふ意。○「春花の」は「貴からむと」の枕詞で、春の花の愛でたく美しいやうにの意でいひ掛けたのである。下の「望月の」も同樣。○「たたはしけむ」は滿ち足る意。「たたはし」は「湛へる」と同じ系統の語で、缺くることなく具はることをいつたのである。○「大船の」は下の「たのみ」の枕詞。海を渡る人が大船を頼みに思ふ意から掛けたのである。天下の者が皇子を頼みに思ひ奉つてゐたこと。○「思ひたのみて」の「思ふ」は輕く添へた語で、たゞ「たのむ」と云ふのと同じである。この「思ふ」は「うら悲し」「うら淋し」などの「うら」(心の意)と同じく、精神上の作用を述べる語の上に添へる一の接頭語である。○「天つ水」は雨のことであるが、これは下の「仰ぎて待つ」の枕詞である。○「いかさまに思ほしめせか」はどういふお考であつたやらの意。○「つれもなき」は縁もない。○「みあらか」(122)は御在所《ミアリカ》即ち宮殿のことであるが、此所は殯宮をさしてゐる。○「宮柱太敷きまして云々」これも古事記や祝詞の書き振りによつたのである。井上博士の説に「太敷きまして」は本文に「太布座」とあるが、「座」は「立」の誤であつて、「宮柱」は「立て」の補語であると云ふ。今は元のまゝにしておく。○「朝毎に御言問はさず」は代匠記や古義に日毎にの義としてゐるが、美夫君志には朝には限らないことではあるが、伺候する人は兎角早朝に參つて、仰言を承るものであるから、かういふのであらうと云ふ。この説がよい。○「まねくなりぬれ」は日數を重ねたのでの意。「なりぬれ」は「なりぬれば」の意である。○「皇子の宮人云々」は皇子の殯宮にお仕へ申上げてゐる舍人等が、それ/”\退散して了へば、これからはお仕へ申上げる宮もないことであるから、行方も知らぬことだと歎いたのである。
【譯】天地の始まつた時に、天の安の河原に八百萬の神樣達がお集まりになつて、神の會議をお開きになつた時、天照大御神は天上を御主宰遊ばされるといふ事に定まつてゐるから、この葦原の瑞穗國をば、天地が再び合するその時までも、永遠に知しめすべきお方として、幾重にも重なつてゐる天雲を押分け/\なさつて、國土へお降しになつた皇孫の、御裔《みすゑ》であらせられる天武天皇は、飛鳥の清見原の宮に現つ神としてましましたのに、遂におかくれになつて天皇のお治めになるべき國として、天の原の岩戸を開いて、天にお上りになつて了つた。さてわが大君なるこの皇子の命が御代をお繼ぎ遊ばされたならば、春咲く花のやうに、どんなにか御立派であらせられるであらう、又滿月のやうに、どんなに滿足なことであらうと、天下中の民草が頼みにして、仰いでお待ち申上げてゐたのに、その甲斐もなく、どういふ思召のあつたことかおかくれになつて、縁もない眞弓の岡に立派な宮をお構へになり、宮殿を高くお建てになつて、それへお入りになつたので、人々は朝毎に伺候してゐても、仰せ出されることもなく、悲しく淋しい心持で日を送つてゐると、追々月日も重なつて、皇子の宮人どもはこゝを退散して了ふ日が來たが、(123)これからは何處にお仕へするといふあてもなく、誠に悲しいことである。
【評】人麿は祝詞や古事記の語句を借りて、壯重な歌をよんだ人であるが、この歌などは開闢の事から説き起してゐるので、いかにも雄大である。薨去になつた皇子を、恰もこの世に財ますお方のやうに歌つてゐるのが、いかにも悲しく聞えるが、これは當時の人の、死に對する思想の一面を現はしてゐるのである。
 
   反歌二首
 
168 ひさかたの 天《あめ》見る如く 仰ぎ見し 皇子《みこ》の御門の 荒れまく惜しも
 
 久堅乃。天見如久。仰見之。皇子乃御門之。荒卷惜毛。
 
【釋】○「天見る如く云々」は御殿を眺めることを云つたのである。○「皇子の御門」は所謂島の宮である。今の高市郡高市村大字|島庄《シマノシヤウ》にあつたと傳へられてゐる。この地は最初蘇我馬子が邸宅を營んだ所で、支那式の造園法によつて池を掘り、飛鳥川の水を通はせ、池中に中島即ち島を築いたので、當時馬子を島大臣《シマノオホオミ》と呼んだ。(日本書紀)これが島の地名の起原となつて、島庄から橘にかけて廣く島と稱へられてゐたのである。天武天皇紀によればこの地に別宮を置かせられ、(即ち島(ノ)宮である)屡行幸のあつたことが見え、崩御の後は日並皇子が岡宮からお移りになつて、三年間政務をお執りになつたのである。なほ次に講ずる島(ノ)宮の歌によつて、庭園の有樣が大體推察せられる。
【譯】天を仰ぎ見るやうに今まで仰ぎ見たこの宮が、これから段々荒れて行くのは誠に惜しいことである。
【評】上代人は死の汚穢に觸れる事を極度に忌んだのである。從つて死者を出した住居は直ちに住み捨てゝ、荒れるにまかせたのである。集中に貴人の歿後、其の宮殿の荒れるのを惜しんだ作が多いのはこれが爲である。
 
(124)169 あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の 夜渡る月の 隱らく惜しも
 
 茜刺。日者雖照有。烏玉之。夜渡月之。隱良久惜毛。
 
【釋】○「あかねさす」は「日」の枕詞(前出)○「日」は天皇を譬へてゐる。○「ぬば玉の」は「夜」の枕詞。「ぬば玉」(射干玉)はヒアフギ(一名カラスアフギ)の實で、色が眞黒であるから、「黒」の枕詞に用ゐられ、轉じて「髪」「夜」「夢」「月」等にも掛ける。ヒアフといふのは、其の葉が檜扇を擴げたやうに、劔状葉が何枚も一所から擴つて出るから附けた名であるが、ヌバタマといつたのは何故であるか明かでない。眞淵は野眞玉《ヌマタマ》の義と云ひ、宣長は野羽玉《ヌバタマ》の義で、葉が羽のやうに擴つてゐるから名づけたのであると云つてゐる。○「夜渡る月」は夜空を照しながら渡る月の意。月は皇太子を譬へてゐる。
【譯】日にもお譬へ申すべき天子樣は、天下をお治めになつてゐるのに、皇太子樣が西の山に隱れる月のやうに、おかくれになつたのが悲しい。
【評】右の二首は相似た句法の作であつて、いづれも堪へ難い悲歎の情を、恰も溜息を洩らすやうな調子で歌つてゐるのが哀れである。
 
   皇子尊宮|舍人《トネリ》等慟傷作歌十一首
 
171 高光る わが日の皇子《みこ》の 萬代に 國知さまし 島の宮はも
 
 高光。我日皇子乃。萬代爾。國所知麻之。島宮婆母。
 
【釋】○「舍人」は中務省にもあるが、こゝのは東宮職員の舍人である。大寶令に東宮の舍人六百人とある。トネリの語(125)義は確かには分らぬが、殿居又は殿侍の義であらう。近侍して御用を伺ふほか、分番で宿直をしたり、お出ましの時は御伴などをする官人である。○「高光る」は枕詞。(既出)○「まし」は假想の助動詞であるから、もし皇太子が御在世であつたら云々遊ばさうものをの意となる。そしてこの「まし」は下の句に續いてゐるのである。○「はも」は感動の助詞。
【譯】わが皇子が御在世であつたら、萬代までも天下をお治めになる筈であつた、其の皇子が住み給うた島の宮のこのさびしさよ。
 
174 よそに見し 眞弓《まゆみ》の岡も 君ませば とこつ御門と とのゐするかも
 
 外爾見之。檀乃岡毛。君座者。常都御門跡。侍宿爲鴨。
 
【釋】○「とこつ御門と」は永久まします宮としての意。○「とのゐ」は宿直の意。
【譯】皇子のましました時は、よそに見過してゐたこの眞弓の岡も、今はおかくれになつてゐる山だから、永久のまします所として、かうして宿直を致すことである。さても思ひ設けぬ悲しいことになつた。
 
176 天地と 共にをへむと 思ひつつ 仕へまつりし 心たがひぬ
 
 天地與。共將終登。念乍。奉仕之。情違奴。
 
【釋】○「天地と共にをへむ」を略解・檜嬬手・美夫君志等に、皇子が天地と共にましますものと思ふといふ意味に解釋してゐるが、下の句の意味から考へると、註疏・新考・選釋に、天地と共に久しく仕へ奉らうと思ふ意に解釋してゐるのが穩當だと思ふ。「をへむ」は天地の終るとき奉仕も終るの意。
(126)【譯】天地のあらん限り、永久にお仕へ申上げたいと思つてゐた事が、すつかり相違してしまつて誠に悲しい事だ。
 
177 朝日照る 佐太《さた》の岡邊に 群れゐつつ 吾が泣く涙 やむ時もなし
 
 朝日弖流。佐太乃岡邊爾。群居乍。吾等哭涙。息時毛無。
 
【釋】○「佐太の岡」は高市郡越智岡村大字佐田の地方にある一帶の丘陵をいふ。この丘陵は郡の中央西南部に延びてゐて、眞弓丘・越智丘などいふは、皆その丘續きの名である。
【譯】朝日のさす佐田の岡に集まてゐて、吾々が泣くこの涙は、いつまでも乾かないことだ。
 
178 みたたしし 島を見る時 にはたづみ 流るる涙 とめぞかねつる
 
 御立爲之。島乎見時。庭多泉。流涙。止曾金鶴。
 
【釋】○「みたたしし」は「立ちし」の敬語で、終の「し」は過去の助動詞である。○「島」は宮の池にある中島である。○「にはたづみ」は庭にたまつて流れる雨水のことであるが、こゝは「流るゝ」の枕詞。
【譯】皇子が屡お立ちになつて、景色を御覽になつてゐた、池の中島を見るにつけても、とめどなく涙がこほれることだ。
 
179 橘の 島の宮には 飽かねかも 佐田《さた》の岡邊に とのゐしに行く
 
 橘之。島宮爾者。不飽鴨。佐田乃岡邊爾。侍宿爲爾往。
 
【釋】○田道間守《タヂマモリ》か垂仁天皇の勅命を奉じて、常世國から持ち歸つたと傳へられる橘樹が、島の地に繁殖してゐたので、(127)島を「橘の島」といつたのである。今島庄の西に大字橘といふがあり、そこに名高い橘寺があるのは、皆この橘樹に因んだ名である。併し今はこの邊に橘樹はない。○「飽かねかも」は飽かねばにやの意。「ね」の下には「ば」を補つて見ると意がよく通じる。
【譯】橘の島の宮にお仕へ申上げただけでは、飽き足らないのであるか、佐田の岡へも、これまで仕慣れない宿直をしに行くことだ。
【評】これは舍人等が、佐田の眞弓岡の殯宮に移つて行くときの悲しみを詠んだたのである。悲しさを表面に歌つてゐないのが、却つて哀れを深からしめてゐる。
 
182 とくら立て 飼ひし雁《たか》の子 巣立ちなば 眞弓《まゆみ》の岡に 飛びかへり來《こ》ね
 
 鳥〓立。飼之雁乃兒。栖立去者。檀崗爾。飛反來年。
 
【釋】○「とくら」は鳥座の義で、鳥屋《トヤ》のこと。集中に「鳥垣」「鳥座」等を用ゐてある。○「雁の于」の解釋に二説ある。契沖は鷹の古字の※[ヽ/雁]を雁と誤つたのであると云つて、御獵の御料として鷹の子を飼つておかれたのである、雁の子ならば鳥屋に入れておく必要はないと云つて居る。(古義・新考同説)次にはこれも契沖の一説及び眞淵の説に、カルカモ(夏鴨ともいふ)の子であると云つてゐる。(略解・檜嬬手・美夫君志同説)鴨の于を鳥屋に入れるについては、守部は鼬や狐等に捕られないやうにする爲であると云つてゐる。思ふにこの鳥は狩獵に使ふ爲のものでなく、支那式の庭園を營まれた島宮のことであるから、賞翫の目的で飼はれたものであらう。從つて鴨の類でなく、鷹であるやうに思はれる。加之契沖も云つたやうに、もしこれが鴨であるなら、その池を立ち去るなと詠むべきであるのに、「眞(128)弓岡に飛びかへり來ね」と云つてゐるのを以て見ると、いよ/\鷹の子と見る方が穩當である。○「飛びかへり」を古義に、幾度も飛び通ふ意に釋き、木村博士は反と變とは相通じる語であるとして、トビカヘリコネと訓んでゐる。今は漸く古義に從つて置く。
【譯】皇子が鳥屋をお立てになつて飼つて置かれた鷹の子よ、大きくなつて巣立をしたら、眞弓の岡へ飛び通うて皇子をお慰め申せよ。
 
184 東《ひむがし》の 瀧の御門に さもらへど 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 召すこともなし
 
 東乃。多藝能御門爾。雖伺侍。昨日毛今日毛。召言毛無。
 
【釋】○「東の瀧の御門」は飛鳥川から引いた水が、島(ノ)宮の池(名を勾池《マガリノイケ》といふ)に落ちる處にある御殿、即ち後の泉殿のやうなものである。前にも述べた通り、この庭は支那式の造園法によつて造られたもので、中古の寢殿造の庭と同じ形式のものであつたのである。而して引水の落口は池の東にあるのが法式となつてゐるのである。「東の」と歌つたのはそれが爲である。○「召すこともなし」は代匠記に召し給ふ御言もなしと釋いてゐるが、古義・美夫君志には、召し給ふ事もなしと釋いてゐる。これは後説がよい。
【譯】東の水の落口にある御殿に、昨日も今日も侍つて居るけれども、ついぞお召しになることもなく、誠に淋しことである。
【評】平素と何一つ變らぬ御殿に侍してゐて、ふと悲しい薨去のことも忘れたとき、しみ/”\と感じた寂しさを歌つたのである。遣る瀬ない悲しさと寂しさとが、身に泌みわたる歌である。
 
(129)185 水傳ふ 磯の浦回《うらみ》の 岩躑躅《いはつつじ》 むく咲く道を また見なむかも
 
 水傳。磯乃浦回乃。石乍自。木丘開道乎。又將見鴨。
 
【釋】○「水傳ふ磯は」川水を引いて庭の池を流れるやうにしたその池の岸をいふ。○「浦回」は池の岸のめぐり。浦は海に限らず、川にも池にも云つたのである。○「岩躑躅」は岩の間にあるツツジで、品種の名ではない。○「むく咲く」の「むく」は枝葉の繁つてゐる樣をいふ古い形容詞であつて、モク・モシ・モキと活用したのである。○「また見なむかも」は反語で、また見ることはあるまいの意。
【譯】水がさらさら流れ行く島のめぐりの岩間の躑躅が、茂く咲いて美しいこの道を、もう二度と眺めることは出來ないのだと思ふと、名殘が惜しまれる。
 
189 朝日照る 島の御門に おほほしく 人音《ひとおと》もせねば まうら悲しも
 
 旦日照。島乃御門爾。欝悒。人音毛不爲者。眞浦悲毛。
 
【釋】○「朝日照る」は實際朝日が明く照つてゐるのであらうが、宮の枕詞に「うちひさす」(美日指)と云ふと同じく、宮の美しく見えるさまを含めてあるのである。○「おほほしく」は欝陶しいこと。朝日は照つてゐても人の心はしめり勝で陰氣なことをいふ。○「まうら悲しも」の「ま」は接頭語で、「も」は感動の助詞。
【譯】朝日の照る島の御所も、君がおかくれになつたので如何にも陰氣で、人の氣はひさへしないから誠に悲しい。
【評】この歌を誦むと、舍人等が侍してゐる薄暗い部屋の隅々から、寂しさ悲しさが湧いて來るやうな感がする。
 
(130)192 朝日照る 佐田《さた》の岡邊に 鳴く鳥の 夜鳴きかはらふ この年頃を
 
 朝日照。佐太乃岡邊爾。鳴鳥之。夜鳴變布。此年己呂乎。
 
【釋】○「朝日照る」と云つたのは、佐田の丘は島宮から西に當るので、朝日がまともに照らすからである。○「夜鳴きかはらふ」實際鳥の鳴く聲と見る説と、舍人の泣く聲を譬へたものと見る説とある。考には舍人を譬へたものと見て、上の三句を序として居る。そして下の句を、泣きながら侍宿の交替をするものとし解してゐるが、(略解・檜嬬手・新考等同説)代匠記には凶鳥の鳴く聲と見て、この年頃凶鳥の夜泣をするのは、かゝる變事のある前兆であつたのだといふ意に解してゐる。(美夫君志同説)なほ古義には「鳴烏之」は「鳴鳥毛」の誤であらうと云つて、鳥もこの年頃は悲しみに堪へかねて、夜々鳴きかへり鳴きかへりする意に釋き、井上博士は「變布」を「度布」の誤とし、夜毎に鳴いて此の年頃を渡る意と見てゐる。余は歌の詞その儘に釋いた方がよいと思ふ。○「かはらふ」は「かはる」の繼續的の意である。○結句の「を」は「よ」と同じく感動の助詞である。年頃と云つたのは、殯宮に侍してゐる間の月日を云つたのである。
【譯】朝日がまともに照らす佐田の丘に鳴く烏の夜聲が、この頃は以前と變つて悲しく聞えることである。
【評】晝となく夜となく、愴然とした寂しさの中に、日を送つてゐる舍人の面目が思ひ浮べられる。以上十一首は何れも眞情が溢れてゐて、吾々の心を大に動かすものがある。舍人等にかくまで深く哀悼された皇子は、どんなお方であつたかと云ふことまで、思はせられる歌である。
 
     明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮《アスカノヒメミコキノベノアラキノミヤ》之時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
(131)196 飛ぶ鳥の 明日香《あすか》の河の 上つ瀬に いははし渡し 下つ瀬に うちはし渡す いははしに 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる うちはしに 生ひををれる 川藻もぞ 枯るればはゆる 何しかも わご大君の 立たせば 玉藻の如く ころぶせば 川藻の如く 靡かひし よろしき君が 朝宮を 忘れ給ふや 夕宮を そむき給ふや うつそみと 思ひし時に 春べは 花折りかざし 秋たてば もみぢ葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れどもあかず (132)もち月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 いでまして 遊び給ひし みけむかふ きのべの宮を 常宮《とこみや》と 定め給ひて あぢさはふ めごとも絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえどりの 片戀しつつ 朝鳥の かよはす君が 夏草の 思ひしなえて ゆふづつの か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば なぐさむる こころもあらず そこ故に すべ知らましや 音のみも 名のみも絶えず あめつちの いや遠長《とほなが》く しぬびゆかむ 御名にかかせる 明日香河 萬代までに (133)はしきやし わご大君の 形見にここを
 
 飛鳥。明日香乃河之。上瀬。石橋渡。下瀬。打橋渡。石橋。生靡留。玉藻毛叙。絶者生流。打橋。生乎爲禮流。川藻毛叙。干者波由流。何然毛。吾王乃。立者。玉藻之如。許呂臥者。川藻之如久。靡相之。宜君之。朝宮乎。忘賜哉。夕宮乎。背賜哉。宇都曾臣跡。念之時。春部者。花折挿頭。秋立者。黄葉挿頭。敷妙之。袖携。鏡成。雖見不厭。三五月之。益目頬染。所念之。君與時時。幸而。遊賜之。御食向。木※[瓦+缶]之宮乎。當宮跡。定賜。味澤相。目辭毛絶奴。然有鴨。綾爾隣。宿兄鳥之。片戀爲乍。朝鳥。往來爲君之。夏草乃。念之萎而。夕星之。彼往此去。大船。猶預不定見者。遣悶流。情毛不在。其故。 爲便知之也。音耳母。名耳毛不絶。天地之。彌遠長久。思將往。御名爾懸世流。明日香河。及萬代。(133)早布屋師。吾王乃。形見何此焉。
 
【釋】○「明日香皇女」は天智天皇の皇女で、忍坂部皇子の妃。文武天皇の四年四月に薨去された。御名は明日香川に因んだものである。此の歌にもさう歌つてある。○「木※[瓦+缶]」は集中に他に「城上」と記されてゐる。今の北葛城郡馬見村大字大塚の城上岡がそれである。○「飛ぶ鳥の」枕詞。(前出)○「いははし」は川の中に石を並べ置いて、其の上を蹈んで渡るやうにしたのを云ふ。今も朝鮮の川には到る處にある。○「うちはし」は假に板などを架けて橋としたものを云ふ。○「生ひををれる」生ひ撓む意。ヲヲルは「とをむ」「たわむ」と同じ系統の語のトヲヲ(タワワともいふ)から出てゐる。○「枯るればはゆる」までが第一段である。以上は第二段以下に、皇女が玉藻のやうに、夫君に靡き添うて居られたことを云ふ爲の準備であると共に、川藻は枯れても再び生えるが、皇女は薨去になつて再びお歸りにならぬことを裏に含めてゐるのである。「玉藻もぞ」「川藻もぞ」の「も」が、その意の含まれてゐることを示してゐる。○「何しかも」は「朝宮を云々」に係るのである。○「大君」は皇女。○「立たせば」この句は「立たせば玉藻の如くなびかひ」の意で、その次の句と對になつて居る。○「ころぶせば」は轉び臥せばの意。○「靡かひし」は「靡く」の波行延言の「靡かふ」に、過去の助詞「き」の附いた形である。○「よろしき君」は足りとゝのつた君の意。この君を皇女と見る説と、忍坂部皇子と見る説とある。余は皇女と見たい。○「朝宮を云々」の朝宮夕宮は句を對にしたので、朝夕に意味はない。この宮は上の君を皇女と見れば、朝夕の宮仕もと釋くべきであるが、皇女皇子何れにしても、朝夕まします宮と見てよい。「や」は疑問の助詞。この句で第二段が終る。○「うつそみと思ひし時」の「うつそみ」は「うつせみ」と同じで、此の世にましました時と」いふ意。「思ふ」はたゞ輕く添へた語。○「春べ」はたゞ春をいふ。この句から(134)以下は、皇女の御在世に遊ばされた野山の御遊のさまを追懷して叙べたのである。○「しきたへの」は袖の枕詞。(前出)○「袖たづさはり」は袖を連ねてといふ意。「たづさはる」は「たづさふ」(携ふ)といふ動作を人と共にする意を表はす。○「鏡なす」は「見る」の枕詞。○「もち月の」は十五夜の月は人が愛でるものであるから、「愛づらし」の枕詞に置いたのである。○「いやめづらしみ」はいよ/\愛でたがること。「み」については既に説明しておいた。この句は下の「おもほしし」の修飾語である。○「君と時々」の君は皇子である。○「みけむかふ」は御食《ミケ》に對ふ酒《キ》の意で城上《キノベ》の枕詞としたのである。○「あぢさはふ」は眞淵の説によれば「あぢさは經《フ》」の義、即ち味鴨《アヂガモ》の數多群れて經行くといふ意で、群《ムレ》の約言のメにかけ、又夜も飛ぶものであるからヨルの枕詞にもなるのである。○「めごと」を考に相見る事の意とし、古義にメコトと訓んで、目と辭と二つの意に見て、まのあたり會つて語らふ意と釋いて居る。今考の説による。さてこゝで第三段が終る。○「しかれかも」は「然あればかも」の「ば」を略した形である。それ故かの意。この句は一本に「所己乎之毛」とある。眞淵・守部・雅澄等はそれをとつて、ソコヲシモと訓んでゐる。これならばそれがといふ意になる。○「あやに悲しみ」は誠に悲しく思し召されてといふ意。これから皐皇子の御上を叙するのである。○「ぬえどりの」は片戀の枕詞。※[空+鳥]《ヌエ》は梟の一種でその鳴聲が悲しく聞えるので、「うらなく」「のどよふ」などに掛け、轉じては片戀にもかけるのである。○「片戀しつつ」は一本の「片戀爲乍」によつたのである。本文に「片戀嬬」とあるのは次の句への續き工合がよくない。皇女に先立たれ給うた皇子は獨り戀しく思し召してといふ意。○「朝鳥の」は朝塒を立つ鳥が餌をあさり往くやうにといふ意で、「通はす」にかゝる枕詞となつてゐる。○「かよはす」は皇子が皇女の御墓に適ひ給ふこと。○「ゆふづつの」は次の句の枕詞。「ゆふづつ」は和名抄に「兼名苑云、太白星。一云、長庚。暮見2於西1爲2長庚1。此間云2由不都都1」とある。夕日につゞいて見える星の義であるといふ。金星即ち俗にいふ(135)宵の明星である。この星は暮には早く西天に見え、夜の間に振りかはつて、朝は東天に輝くから、「か行きかく行き」に掛けたのである。○「大船の」はゆつたりと海上をたゞよふ大船の如くといふ意で、「たゆたふ」の枕詞である。○「たゆたふ」は同じ處にぐづ/\して居る事。○「なぐさむるこころもあらず」の本文「遣悶流」の訓を、代匠記・考・美夫君志等にオモヒヤルと訓み、檜嬬手にナグサモルとしてゐるが、宣長の訓によつてナグサムルと訓むがよい。集中假名書の例にもナグサムルとある。この句の意は皇子が御墓にお參りになるお姿を見ると、我々さへ心の晴らしやうがなく悲しいといふのである。これで第四段が終つた。この段は專ら皇子の御上を歌つたのである。○「そこ故にすべ知らましや」の句に就いて、宣長は「せんすべ知らに」とか「せんすべをなみ」とかあるべき所であると云つてゐるが、この儘でも意は通じる。最後の「や」は反語の助詞で、それ故に如何とも仕樣がないからと云ふ意である。○「音のみも名のみも」の「のみ」はヲ格の代理をしてゐる助詞である。(「のみ」はこの外ニ格の代理に立つたり、主格や修飾語の下にも附くことがある)○「御名にかかせる」は御名に懸けさせられてゐる明日香川の意。「かかせる」は「懸ける」の敬語法である。○「はしきやし」は「はしきよし」「はしけやし」とも云ふ。「はし」(形容詞)はいとほし〔四字傍点〕と云ふ意で、「や」「し」は助詞。お美しく可愛らしい意。○「形見にここを」(本文に「形見何」とあるのは「形見荷」の誤であらうといふ宣長の説による。)此の明日香川を形見にしようと云ふ意。以上が第五段である。この最後の所は、初めに歌つた明日香川のことを再び出して來て、一語の結としたのである。なほ以上の如く五段に分けたのは、佐々木博士の説によつたのであるが、守部は右の第二段までを第一段とし、第三段を第二段とし、それ以下を第三段として居る。
【譯】明日香川の上の瀬には石橋を渡し、下の瀬には假橋が渡してある。その石橋に生えて、水のまに/\打ち靡いて(136)ゐる玉藻も、絶えると新しいのが生え、又假橋に附いてゐる川藻も、枯れると又生えるのであるが、わが皇女の君はその美しい藻のやうに、お立ちになるとなよ/\とお美しく、お寢みになるとその藻のやうに靡き添うて、御夫婦の御仲の睦じくおありになつたそのお美しい皇女が、朝夕住みならし給うた御殿を、お見棄てになつてしまつたのは何故であらうか。この世にいらせられた時は、春は野にお出ましになつて花の枝をおかざしになり、秋が來ると紅葉をおかざしになづて、互に袖を連ねていつまでも見飽きもなさらず、愛でいつくしみ合うていらせられた夫の君と、折々お出ましになつてお遊びになつたあの城上の宮を、今は永久の御殿とお定めになつて、御夫婦の御契も空しく絶え果てゝしまつた。その故かまことに悲しく思し召して、空しく片思ひをなさりつゝ、御墓にお通ひになる皇子の君は、まるで夏の日に萎えてゐる草のやうにしをれ返つて、彼方此方ととぼ/\とお歩きになつてゐるお姿をお見受け申すと、私共もお氣の毒でたまらないが、どうしてよいか仕方もないから、せめては皇女の御名前なりとも、いつまでもお偲び申上けたい。その御名につけていらせられる明日香川はいつまでも、お可愛いわが皇女の君の形見と致しませう。
【評】この歌も技巧を極め、情緒の痛切なのを以て名高い作である。構造は前に講じた、石見の國から妻に別れて京へ上る時の長歌と似てゐる。人麿の得意な歌ひ振りであらう。初めの飛鳥川の叙景も見るやうであるが、その玉藻を借りて、美しかつた皇女の譬喩とした所もよいが、生え代つて絶えることのない藻には、人の命のはかない所もほのめかしてあつて悲しく響くのである。そして最後に皇女の御名となつてゐる飛鳥川を、永久記念と見ようと結んだのも、最初の叙景と照應して面白い。なほ忍坂部皇子の御歎の様を挿入してあるのも、感慨を探からしめてゐる。この忍坂部皇子の御墓に通はせられる所を叙べたのと同一筆法が、この前にある同じ人麿の作の、河島皇子の薨去(137)の時、其の妃泊瀬部皇女に獻つ歌(本書には省略した)の中にもある。即ち泊瀬部皇女が朝露に玉裳をおぬらしになりながら、越智野にある河畠皇子の御墓に詣でられる事が歌つてあるのである。それについて眞淵は、その長歌の端詞に「柿本朝臣人麻呂獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌云々」とある、その忍坂部皇子の五字は、この長歌の端詞にあるべきものの誤入であるから、前の端詞から五字を削りそれをこの長歌の端詞に入れて「明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時柿本朝臣人麻呂獻忍坂部皇子歌云々」とあるべきであると云つて訂正してゐる。さう訂正することには躊躇しなければならぬが、この歌はいかにも忍坂部皇子に獻つたものであらうと思はれる。
 
   短歌一首
 
197 明日香川 しがらみ渡し せかませば 流るる水も のどにかあらまし
 
 明日香川。四我良美渡之。塞益者。進留水母。能杼爾賀有萬思。
 
【釋】○「しがらみ」(※[竹/册]は「しがらむ」(からみつくの意)といふ動詞から出來た名詞で、水をせきとめる爲に川に杭を打ちわたして、横に竹や木などをからませたものをいふ。○「せかませば」は「せく」といふ動詞に、「まし」といふ假想を表はす助動詞がつき、それを「ば」といふ條件法の助詞で承けたのである。「まし」が假定條件に用ゐられると、その下には假想の意味を表はす詞を置くのが普通である。此の歌の最後の「のどにかあらまし〔二字右○〕」は即ちそれである。○「流るる水も」の「も」には明日香皇女のことを含めてゐるのである。○「のどに」は「のどかに」と同じで、「靜かに」「ゆつたりと」などの意をあらはす副詞。
【譯】明日香川も※[竹/册]をかけ渡して水を堰きとめたならば、流れる水でもゆつくり流れるであらうに。皇女をお引き留め(138)することの出來なかつたのは殘念でたまらない。
 
(初版198あり)
 
   高市皇子尊|城上《キノベ》殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
199 かけまくも ゆゆしきかも いはまくも あやに畏き 明日香の 眞神《まがみ》の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神《かむ》さぶと 岩隱《いはがく》ります やすみしし わご大君の 聞しめす そともの國の 眞木《まき》立つ 不破山《ふはやま》越えて 高麗劔《こまつるぎ》 利射見《わざみ》が原の かり宮に あもりいまして 天《あめ》の下《した》 治めたまひ をす國を 定めたまふと 鳥が鳴く あづまの國の(139) 御軍士《みいくさ》を 召し給ひて ちはやぶる 人をやはせと まつろはぬ 國を治めと 皇子《みこ》ながら 任《ま》けたまへば 大御身《おほみみ》に 太刀《たち》とり帶《は》かし 大御手に 弓とり持たし 御軍士《みいくさ》を あともひ給ひ ととのふる 鼓《つづみ》の音《おと》は 雷《いかづち》の 聲と聞くまで 吹きなせる 小角《くだ》の音も 敵《あだ》見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 旗のなびきはふゆごもり 春さりくれば 野毎《ぬごと》に つきてある火の 風のむた 靡くがごとく とりもたる 弓弭《ゆはず》のさわぎ み雪降る 冬の林に (140)つむじかも い卷き渡ると 思ふまで 聞きのかしこく 引き放つ 矢のしげけく 大雪の みだれて來《きた》れ まつろはず 立ち向ひしも 露じもの 消《け》なば消《け》ぬべく 行く鳥の 爭ふはしに 度會《わたらひ》の いつきの宮ゆ 神風《かむかぜ》に い吹きまどはし 天雲を 日の目も見せず 常闇《とこやみ》に おほひ給ひて しづめてし 瑞穗の國を 神《かむ》ながら 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 奏《まを》したまへば 萬代に 然《しか》しもあらむと 木綿花《ゆふばな》の 榮ゆる時に わご大君 皇子《みこ》の御門を (141)神宮《かむみや》に 裝《よそ》ひまつりて つかはしし 御門《みかど》の人も 白妙の 麻衣《あさごろも》着《き》て 埴安《はにやす》の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿《しし》じもの い這ひ臥しつつ ぬばたまの 夕《ゆうべ》になれば 大殿を ふりさけ見つつ 鶉《うづら》なす い這ひもとほり さもらへど さもらひかねて 春鳥の さまよひぬれば 歎きも 未だ過ぎぬに 思ひも 未だ盡きねば 言《こと》さへぐ 百濟《くだら》の原ゆ 神《かむ》はふり 葬《はふ》りいまして あさもよし 城上《きのべ》の宮を 常宮《とこみや》と 定めまつりて 神《かむ》ながら しづまりましぬ (142)然れども わご大君の 萬代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思《も》へや 天《あめ》のごと ふりさけ見つつ たまだすき 懸けてしぬばむ 畏かれども
 
 挂文。忌之伎鴨。言久母。綾爾畏伎。明日香乃。眞神之原爾。久竪能。天津御門乎。懼母。定賜而。神佐扶跡。磐隱座。八隅知之。吾大王乃。所聞見爲。背友乃國之。眞木立。不破山越而。狛劔。和射見我原乃。行宮爾。安母理座而。天下。治賜。食國乎。定賜等。鳥之鳴。吾妻乃國之。御軍士乎。喚賜而。千磐破。人乎和爲跡。不奉仕。國乎治跡。皇子隨。任賜者。大御身爾。大刀取帶之。大御手爾。弓取持之。御軍士乎。安騰毛比賜。齊流。皷之吾者。雷之。聲登聞麻低。吹響流。小角乃音母。敵見有。虎可叫吼登。諸人之。恊流麻低爾。指擧有。幡之靡者。冬木成。春去來者。野毎。著而有火之。風之共。靡如久。取持流。弓波受乃驟。三雪落。冬乃林爾。飄可毛。伊卷渡等。念麻低。聞之恐久。引放。箭繁計久。大雪乃。亂而來禮。不奉仕。立向之毛。露霜之。消者消倍久。去鳥乃。相競端爾。渡會乃。齋宮從。神風爾。伊吹惑之。天雲乎。日之目毛不令見。常闇爾。覆賜而。定之。水穗之國乎。神隨。太敷座而。八隅知之。吾大王之。天下。申賜者。萬代。然之毛將有登。木綿花乃。榮時爾。吾大王。皇子之御門乎。神宮爾。裝束奉而。遣使。御門之人毛。白妙乃。麻衣著。埴安乃。御門之原爾。赤根刺。日之盡。鹿自物。伊波比伏管。烏玉能。暮爾至者。大殿乎。振放見乍。鶉成。伊波比廻。雖侍侯。佐母良比不得天。春鳥之。佐麻欲比奴禮者。嘆毛。未過爾。憶毛。未盡者。言左敝久。百濟之原從。神葬。葬伊座而。朝毛吉。木上宮乎。常宮等。高之奉而。神隨。安定座奴。雖然。吾大王之。萬代跡。所念食而。作良志之。香來山之宮。萬代爾。過牟登念哉。天之如。振放見乍。玉手次。懸而將偲。恐有騰文。
 
【釋】○「高市皇子」は天武天皇の皇子で、草壁皇子大津皇子等の異母兄弟である。壬申の亂に軍を率ゐて大功を立てられたことは、この長歌に歌つてある。草壁皇子は天武天皇の十年に皇太子に立たれ、持統天皇の御代にもなほ引續いて皇太子の位に居られたが、天皇の三年に薨じられたので、この高市皇子がその後を繼いで皇太子に立たれ、四年には大政大臣に任ぜられて、政務をお執りになつてゐたのであるが、十年七月に御年三十で薨じられたのである。御墓は北葛城郡大垣内の三立山に在る。○此の長歌は萬葉集中最大長篇であつて、一首二段百四十九句から成つてゐる。是の第一段は八十七句まで、即ち「おほひ給ひてしづめてし」までで、第二段はそれ以下六十二句である。而して其の第一段には皇子の壬申の亂に於ける勲功を歌つて、第二段に對する長い序としてゐるのである。從つてこの歌は第二段が本體であるけれども、却つて序の方が遙かに長いと云ふ、一種大膽な結構を試みたものである事を、豫め注意しておかねばならぬ。○「かけまくも」は「かけむ」の加行延言に、「も」といふ助詞の附いたもので、意味は口にかけて云ふのもといふ意である。眞淵が心にかけてお慕ひ申すのも、といふやうに釋いたのは穩當でない。此(143)の句の意味は下の「言はまくも云々」と同じである。○「ゆゆしきかも」の「ゆゆし」(忌々し)は恐れ憚られる意と厭ふべき意と二つあるが、此所は前の意である。この句も次の「あやにかしこき」と同じやうな意味である。○「あやにかしこき」は誠に恐れ多いと」の意。○「眞神の原に」これ以下七句は、契沖・眞淵等が云つた通り、天武天皇の山陵の事を叙したのである。(千蔭・守部・雅澄等同じ)「眞神の原」は天武天皇の山陵のある處を指したのであるが、崇唆天皇紀に「始作2法興寺此地1。名2飛鳥眞神原1。亦名2飛鳥苫田1。」とある。これに依れば、今日の飛鳥村大字飛鳥の法興寺址、即ち飛鳥大佛のある附近の野を指すやうである。然るに天武持統兩天皇の合葬陵なる檜大内陵は、高市村大字野口にあるのであるから、飛鳥の眞神の原からは、遙かに西の方に當ることになつて、實地に合はないことになる。喜田博士は天武天皇の淨御原宮の所在地を、飛鳥の眞神原と認めて居られるのであるが、この長歌の初めの句を、天武天皇の山陵を述べたものとする説を非として、天皇が眞神原に郡を奠め給うた事を叙したものと論じて居られる。(「帝都」七八頁)この説によれば、「神さぶと岩隱ります」といふ句は、今は神となり給うた故帝と云ふ意の挿入句と解釋すべきである。今後説によつて釋く。○「天つ御門」は天つ神となり給うた天皇の宮と云ふ意で、幽冥の宮を云つたのである。○「神さぶ」は既に述べたやうに、神として行爲をなされる意で、下の「岩隱ります」を修飾した語である。○「岩隱ります」は契沖の云つたやうに、岩戸に收めて葬り奉つた事を、天皇を主にして岩戸に籠り給ふやうに云つたのである。「隱る」は古く四段に活用した。さてこの句は切れてゐるのでなく、次に續いて大君に掛つてゐるのである。○「わご大君は」天武天皇である。この句までは天武天皇の御上を申したので、劈頭の「かけまくも云々の」四句も、この天皇のことを云ふ爲に先づ置いた句である。○「そともの國」は美濃を指したのである。大和から北にあつて多くの山の背面にあるからである。「そとも」は山の北をいふ。さてこの句から以下は壬申の亂を叙す(144)るのである。○「眞木立つ」は立派な樹の立ち茂つてゐるといふ意である。眞木は檜を指す事が多いが、此所などは必ずしもそれと定めたのではない。檜杉の類を指したのである。○「不破山越えて」は美濃の不破山を越えさせられたことをいふ。考にもある通り、天皇は初め吉野をお出ましになり、伊勢の桑名におはしたが、高市皇子のおすゝめによつて、東に美濃の野上の行宮へ行幸になつたのである。○「高麗劔」はワといふ音にかける枕詞で、下の和射見が原(今日の地名にはこの名が傳はつてゐないが、關ケ原であるとしいふ事である)にかけたのである。他に「わが心」にかけた例もある。この枕詞について契沖が、「唐土の劍には柄《ツカ》のかしらに鐶がついてゐるから、高麗の劔にも鐶をつけたものと見える、鐶のたぐひをもワといふから、和射見と續けたのである」と云つてゐる。なほ高橋健自氏の「考古學」に「環頭大刀はまた狛劍《コマツルギ》といふ。從來コマツルギといふ語については、色々の臆説があるけれども、今日は考古學上から立派に解決がつく。……實際上古の大刀の中に、環状の柄頭のあるものが屡ある。さうして見ると、ワは輪の意で、狛劍といふ劍は何所かに、輪状のものがあつたと見える。まして東大寺獻物帳に、高麗樣太刀といふのが擧げてあつて、その註に環頭とあるから、その輪は柄頭に該當することが明瞭である。」と云つて、下總の猿島で發掘せられた環頭の繪が擧げてある。(圖版參照)「鏡と劔と玉」の第百一圖には、種々の環頭大刀の模本の繪があるからそれらを參照されたい。○「かり宮にあもりいまして」の「あもり」は天降《アマオ》りの略音で行宮にお下りになつてといふこと。天皇や皇太子は現つ神であるから、田舍にお下りになることを「あもり」と云つたのである。さてこゝの句について考に、高市皇子は和射見におはして、(145)近江の敵におあたりになり、天皇は野上の行宮におはしたので、その野上から度々和射見へ行幸があつて、軍の事を聞し召したことが紀に見えてゐる、ここはそれを簡單に歌つたのであると云つてゐる。なほ此の時天武天皇は、未だ天皇ではないのであるけれども、この歌にはこの時から天皇と見奉つてよんであるのである。○「をす國を定めたまふと」は天下を平定あそばさうとしての義。○「鳥が鳴く」は「あづま」の枕詞。その意味について冠辭考に、※[奚+隹]は夜の明ける時鳴くから、鷄が鳴く明《アカ》とつゞけて、「あづま」の「あ」に掛けたのであるといつてゐる。又古義には「※[奚+隹]が鳴いてゐる、わが夫《ツマ》よ起きよ」といつて、妻が夫を起す語からいひつゞけたのであらうといつてゐる。○「ちはやぶる」のチは稜威と關係のある語である。雷《イカヅチ》・蛟《ミヅチ》・武御雷神《タケミカヅチノカミ》等のチと同じで、威力の猛しい意がある。次のハヤは迅速の意で、最後のブルは「宮ぷ」「荒ぶ」等の「ぶ」の活用であつて、樣子を表はす接尾語である。從つて此の語は「荒ぶる神」の枕詞となり、後に一般の「神」にかけ、又轉じては「社《ヤシロ》」にも「人」にもかゝつてゐる。併し此所は枕詞でなく、人の修飾語となつてゐるのである。即ち官軍に抵抗する威力の猛しい人の意である。○「やはせ」は歸順させる事。(和すといふ義)○「まつろはぬ」は天皇に順ひ奉らぬ意。○「皇子ながら」は皇子の御身分でといふ意。さてこれから以下は高市皇子の事を申すのである。○「任け」は委ぬる意。○「あともひ」の原形はアトモフで率ゐる事である。○「ととのふる」は呼び集める事。○「吹きなせる」は「吹き鳴らせる」の「ら」を省いたのである。○「小角」は和名抄征戰具に「兼名苑注云、角、揚氏漢語抄云、大角、波良乃布江。小角、久太乃布江。木出2胡中1、或云、呉越以象2龍吟1也。」とあるからクダとよむのである。ハラノフエ(大角)は今いふホラガヒのことであらうが、クダノフエは明瞭でない。或は管笛の意で細長い笛であらうといふ説がある。下の句に「敵見たる虎か吼ゆると云々」とあるのを見ると、クダもやはりホラガヒの類か、今日の喇叭のやうな音のする笛に相違ない。○「虎か吼ゆる」の「か」は疑問の(146)助詞で、句の下において見るべきもの。○「ささげたる旗の靡き」は高く差し上げてゐる旗の風に靡いてゐるさま。令義解に「幡者旌旗惣名也。將軍所v載《タツル》曰2〓幡1、隊長所v載曰2隊幡1、兵士所v載曰軍幡1也。」とある。これで種々の旗を立てたことが分り、又旌旗の數も夥しいものであつたことがわかる。○「ふゆごもり」は春の枕詞。(既出)○「野毎につきてある火の」は春は野に火を放つて燒くからかう云つたので、旗の夥しく靡いてゐるのを形容したのである。眞淵は旗を火に譬へたのは赤旗であるからであると云つてゐる。○「とりもたる」は手に持つて居るといふ意。○「弓弭のさわぎ」は弓弭の調《ミツギ》の類で、弭は輕く添へた語で只弓の意と見てよい。弓を射る時の弦音を云ふ。○「つむじ」吹き卷く風。○「い卷き」の「い」は接頭語。○「聞きのかしこく」の「聞き」は連用形を以て名詞にしたので、聞える音の恐ろしきよといふ意。○「矢のしげけく」の「しげけく」はシゲクのカ行延言で、矢の繁きことはといふ意。○「大雪の亂れて來れ」は大雪の如く亂れて來ればの意で、「來れ」は後の文法ならば、「ば」を下に添へる所である。以上長々と句を重ねて、官軍の勢あたるべからざる樣を述べたのである。○「まつろはず立ち向ひしも」は敵の方を云つたのであるが、「も」といふ助詞は下の「霜じもの消なは消ぬべく云々」の句を、敵の方もと受ける爲に置いたので、官軍が必死と戰ふは元より、敵も必死となつて戰ふといつたのである。○「霜じもの」は「消」の枕詞。○「消なば消ぬべく」は死をも物ともせずにといふこと。○「行く鳥の」は「爭ふ」の枕詞である。考にある通り、群つて飛ぶ鳥が先を爭ふやうにといふので、「爭ふ」にかけたので、「爭ふ」は兩軍相爭ふことである。○「はし」は物と物との間のことで、やがて端のことにもなり、轉じては橋にもなるのであるが,こゝは間《アヒダ》の義である。○「度會」は伊勢の度會で、度會は今は郡名となつてゐる。○「いつきの宮」は齋き祀れる宮の義で、皇太神宮をいふ。○「神風に」は「神風にて」の意。神風の吹いたことは、歴史には記されてゐない。歴史に見えないことがかうして歌に遺つてゐるのが面白い。○「い(147)吹き惑はし」は敵軍を吹き惑はすことである。「い」は例の接頭語であるが、考・略解等に息吹の義としたのはよくない。○「天雲を云々」は本文に「大雲乎」とあるのを、代匠記に「天雲乎」の誤としてゐるのに從つたのである。意は太陽の光も見えないほど眞暗に覆ふこと。○「日の目」は「妹が目を見む」といふのと同じ言ひ方で、日の光のことである。○「しづめてし」はかうして大御神が御平定遊ばされた瑞穗の國と、下へつゞくのであるが、既に説明したやうにこれまでが序であつて、この句が弟一段の終である。しかしそれを切らすして直ちに、第二段の最初に表はれて來る「瑞穗の國」の修飾句としたのであつて、歌は一續きになつてゐるのである。○「神ながら太敷きまして云々」このあたりは、前に述べておいた天武持統兩朝にかけての、草壁皇子並に高市皇子の大政を執り給うたことをいつたのであるが、複雜な事を簡單に歌つたので、語句の上に多少誤解を生じ易い恐がある。先づ「天の下|奏《まを》し給へば」は政に關して奏上し、勅命を受けて執行する事で、高市皇子の執政のことを云つたことは明かであるが、その上の句に「神ながら云々」と「やすみししわご大君」と二つ、同じ樣な意味の句が重ねてあるので疑を生ずるのである。代匠記には「神ながら」は天武天皇の事で、「わご大君」は持統天皇の事とし、美夫君志には「神ながら」は天武天皇より持統天皇までを申すのであるとし、「わご大君」は代匠記と同じに見てある。其の他考・檜嬬手・古義等も大體この説であつて、兎に角神ながら以下五句を、天皇の御上としてゐるのである。これと異つた意見は、宣長の古事記傳(全集第三。一九三二頁)にこの所の句を引いて、「わご大君」を高市皇子とし、又註疏も同樣に見てゐるのである。今この二説を比較するに、後説の方が穩當なやうである。併し「神ながら云々」は美夫君志にある通り、天武持統兩朝のことを簡單に云つたものと見なくては、その上との接續上穩かでないと思ふ。○「木綿花の」は「榮ゆ」の枕詞。木綿《ユフ》は白木綿《シラユフ》とも白和幣《シラニギテ》(テはタヘの約)とも云ふ。穀《カヂ》即ち楮《カウゾ》(紙麻《カミソ》の義)の皮の繊維で織つた純白の布を云ふ。從つて「し(148)ろたへ」も、又これから後に現はれて來る栲《タク》も、畢竟|木綿《ユフ》と同じく、穀の皮を原料とするものである。尤もタヘは織布であるが、ユフとタクとは原料の緒のことにもなる。例へば「しらかづく木綿とりつけて」とあるのは緒であるが、「木綿疊手向けて」は布である。又|栲衾《タクブスマ》・栲領巾《タクヒレ》等のタクは布で、栲綱《タクツヌ》・栲※[糸+世]《タクナハ》等のタクは緒である。なほタクとユフとの間の區別について云へば、ユフは祭祀の時に呼ぶ名で、(狩谷掖齋ば齋縷《ユオ》の義と解いてゐる。)タクは普通の場合の名稱である。以上の語は以下にも屡々現はれるから、今序を以て説明したのである。木綿花はその布で造つた花、即ち造花である。從つて散ることもないから、「榮ゆ」にいひかけるのである。○「わご大君云々」は高市皇子のおかくれになつた事を云ふのである。○「神宮に裝ひまつりて」は薨じ給うて神とならせられたので、その御所を神宮として模樣換へをすること。○「白妙の麻衣着て」は舍人達が白い喪服を着る意である。○「埴安の御門の原」は下に香具山の宮とある、その宮の邊りをさして御門の原と云つたので、皇子の御所のあたりの事。○「あかねさす」は日の枕詞(既出)○「鹿じもの」は「いはひもとほり」の枕詞。シシは廣く野獣をいふ。神代紀に獣をシシと訓み、古事記に猪鹿《シシ》(眞淵の訓)と云ふ語がある。猪をヰノシシ、鹿をカノシシ、羚羊(かもしか)をカマシシと云ふのも、この廣義のシシと云ふ語が下に附いてゐるのである。獵の獲物は鹿や猪が主であるから、古事記に猪鹿の字をシシと訓んだのである。「じもの」は「鴨じもの」の所で説明しておいた。○「い這ひもとほり」は這ひ廻ることLで、膝を折りかゞめて敬意を表してゐるさま。○「ぬばたまの」は夕の枕詞。○「大殿」は皇子の御所即ち香具山の宮。○「鶉なす」は鶉の如くの意で「はひ」の枕詞。鶉は野をはひまはるからである。○「さもらへど」は皇于の大殿に侍して居れど。○「さもらひかねて」は侍するに堪へずしての意。本文は元「不得者」とあるので、舊訓にエネバとあつたのを、小琴に「者」を「天」の誤としてカネテと訓んでゐる。小琴の訓がよい。○「春鳥の」は下の「さまよふ」の枕詞。「さまよふ」は呻吟(149)すること(歎くこと)である。新撰字鏡に「呻」に左萬與不又は奈介久の訓があり、又名義抄に「吟」にサマヨフの訓がある。○「思ひも未だ盡きねば」は上の句と對にしたので、「ねば」は「ぬに」の意である。○「言さへぐ」は百濟の枕詞。(既出)○「百濟の原」は大和北葛城郡百濟村大字百濟の地である。そこを流れてゐる川を百濟川と云ひ、そこに舒明天皇が營ませられた宮を百濟宮といひ、又百濟大寺といふ大寺もあつたのである。此の地はもと歸化した百濟人の居た所であるから、此等の名が附いたのである。さて百濟原は香具山宮から城上に行く途中にあるから、御葬列がこの原を御通過になることを云つたのである。それ故「ゆ」は新考にも云つてある通り、經て〔二字傍点〕といふ意に見るのである。○「神はふり」の「神」は皇子の御葬儀であるから添へたのである。「はふり」は名詞で葬送のこと。「放《はふ》る」といふ動詞と關係のある語である。○「はふりいまして」を考・美夫君志に葬り往《ゆ》きましての意に解いてゐるが、新考に「葬り」は他動詞であるから、「いまして」と續けては聞えぬ心地がする、イマセテと訓むべきか、(犬?隨筆に同説のあるを引いて)又は本文の「伊座而」は「奉而」の誤で、ハフリマツリテであらうかと云つてゐる。元來イマスは「在り」又は「居り」の意の敬語動詞となり、又「行く」若しくは「來る」の意の敬語動詞にもなる。又自他について云へば、自他の何れにも用ゐられる。卷十五に「人國に君をいませて〔四字右○〕いつまでかあが戀ひをらむ時の知らなく」とあるが、そのイマセテは他動である。さてこの句は下に「常宮と定めまつり」とあつて、人々を主體として歌つてあるから、ここは人々が皇子を葬りやり奉つてと云ふのであるに相違ない。從つて訓は、新考の説のやうに他動として、イマセテと訓むべきである。○「あさもよし」は城上の枕詞。「よし」は「あをによし」又は「玉藻よし」の「よし」と同じで助詞である。「あさも」は麻裳であらう。紀の國は麻の産地である所から、この枕詞は紀の國にかけるのであるが、(古義には宮地春樹の説として、麻裳着るといふ意味から、紀の國に掛けたのであると云つてゐる。)ここは轉じて城上に(150)掛けたのである。○「定めまつりて云々」これは本文に「高之奉而」とあるのを、小琴に「高之」を「定」の誤として、サダメと訓んだのに從つたのである。「定め」は人々が定めたのであつて、下の句の「しづまりましぬ」は「皇子が」である。○「神ながらしづまりましぬ」は神として鎭座ましましたといふ意。第二段はこの所で一度切れて、これ以下は結となつてゐるのである。○「わご大君」は高市皇子。○「萬代に過ぎむと思へや」の「や」は反語の助詞で、「思ふ」は輕く添へた語である。永久失せることはありはしないと云ふ意である。新考にこの句の上に「萬代と」といふ語があつて、この句に又同じく「萬代に」と出したのは、わざと重ねたので、「萬代にましまさうと思し召して、宮をお作りになつた皇子はおなくなりになつたけれど、其の宮は萬代まで失せることはあるまい。」といふ意であると解釋してある。○「玉だすき」は「かけ」の枕詞。玉襷を掛けると云ふ意で枕詞となつたのである。玉は美稱である。○「懸けてしぬばむ」は心にかけて慕ひ奉らうの意。○「かしこかれども」は畏れ多いことではあるがといふ意。
【譯】吾々が言葉にかけて申上げ奉るのは憚るべきことであり、又吾々がかう申しては恐れ多いことであるが、明日香の眞神の原に、永久の宮居をお定めになつて、今では神樣になつておしまひになつてゐる、あの大君(天武天皇)がお治めになつてゐた、北方の立派な樹の生ひ茂つてゐる不破の山をお越えになり、和射見が原の行宮に行幸遊ばされて、天下を御平定になり、國中を御鎭めにならうとして、東國の軍兵をお召しになつて、勢猛く反抗する人達を平定せよ、歸順しない國々を鎭定せよと、皇子であらせられる高市皇子に、軍のことを御委ねになると、皇子は御身に大刀を帶び給ひ、御手に弓をお執り遊ばして、軍勢をお率ゐなされて御出陣になると、集合の合圖にたゝく陣太鼓の音は、さながら百雷の轟くやうで、人々の膽を寒からしめ、おし立てゝ行く旗の打靡くさまは、春になると草を燒くために、野毎に放つあの野火が、風のまに/\靡くそれの如くに見え、人々が手に手に持つて居る弓の鳴(151)る音は、恰も雪の降りしきる寒林枯木を、旋風が吹き渡るやうに恐ろしく聞え、放つ矢の繁さは、恰も大雪が卍巴と降り亂れるやうに飛び交ふと、反抗してゐた敵も、今を限りに必死となつて、入り亂れ闘つてゐる最中、不思議や伊勢の齋《イツキ》の宮から吹き起つた神風は、敵を吹き惑はし、天雲を吹きひろげて、日の光も見せぬまでに、世界を常闇に化しておしまひになつて、御平定下さつたこの日本國を、天皇(天武持統兩帝)は現つ御神としてお治めになつてゐて、わが高市皇子が天下の政務を奏上遊ばされていらつしやるので、永遠にかうしていらせられることと思はれ、あれほどお榮えになつていらつしやつたのに、あらう事か、俄かに皇子の御殿を神の宮に裝ひ奉り、常々召し使はれて居た人々は、喪服に着換へて、埴安池の畔の御殿のある原に日の暮れるまで、鹿か何かのやうに這ひ伏してお仕へ申し、夕が來ると御殿を仰ぎ見ては、鶉のやうにうろ/\してお仕へ申してはゐるが、伺候してゐるにゐられず、歎息の聲を放つてゐると、愁嘆もまだ終らないのに、哀悼の情も未だ盡きないのに、はや百濟の原を通つて御葬儀をとり行ひ奉り、城上の宮を永久の御所と御定めになつて、皇子はとうとう神樣となつて、その内にお鎭りになつておしまひになつた。然しながらわが大君が、永遠の御所と思し召して御造營になつた香具山の御殿は、永久に滅びよう筈はないから、せめては此の御殿を、大空を仰ぎ見るやうに、御形見と思つて仰ぎ奉つて、恐れ多いことではあるが、皇子の事を心にかけてお慕ひ申上げよう。
【評】この歌の前半は叙事詩で、後半は抒情詩である。後半に於て、いつまでも榮え給ふものと信じ奉つてゐた皇子が神去りまして、俄かに御葬儀を行ふやうになつたことを、印象的に實際の有樣を述べた所など、まことに巧みなもので、後半だけでも立派な作であるが、皇子の偉勲鴻業をたたへるために、全篇の過半を割いて壬申の亂の有樣を叙べてゐる、前半の思想の雄大なる譬喩、並に調の莊重なる、これは又廣く世界の古文學中に類例を見出し難い(152)傑作である。この雄篇を有することは、我々國民の永き光榮であると謂はねばならぬ。
 
   短歌二首
 
200 ひさかたの 天《あめ》知《しら》しぬる 君故に 月日《つきひ》も知らに 戀ひ渡るかも
 
 久堅之。天所知流。君故爾。日月毛不知。戀渡鴨。
 
【釋】○「天知しぬる」は神となり給うて、天を知し召していらつしやるといふ意で、薨じ給うたことをいつたのである。○「君故に」を小琴に君なるものをの意と見てゐる。○「月日も知らに」は月日の過ぎ行くのも知らずにの意。「に」は打消の助動詞で「ず」と同じに用ゐられる。打消の「ぬ」は此の「に」の活用である。即ち此の助詞はナ・ニ・ヌ・ネと活用したのである。而して萬葉時代には、此の「に」とズ・ヌ・ネと活用する「ず」とが並び用ゐられたのである。
【譯】神となつて天にお上りになつた皇子であるのに、月日のたつのも覺えず、ひたすらお慕ひ申上けることである。
 
201 埴安の 池の堤の 隱沼《こもりぬ》の 行方を知らに 舍人はまどふ
 
 埴安乃。池之堤之。隱沼乃。去方乎不知。舍人者迷惑。
 
【釋】○「埴安の池の堤の隱沼の」は「行方を知らに」の序であるが、その序の意味がよく通じない。眞淵は堤にこもつて水が流れないことであると云ひ、守部は「こもりぬ」に二種の意義がある、一は草木の葉などに埋もれて水の見えぬを云ひ、今一つはこの歌のやうに、堤に包みこめられて水のゆく方のないのを云ふと云つてゐるが、雅澄は守部の前説と同じく、草などに覆はれてゐる沼のことであると云つてゐる。なほ新考に、「普通の池の水隈にはあらで、(153)池水の堤を決して沼を成せるなるべし、其の池の水はいづ方へぬくるにか知られねばユクヘヲシラニの序とせるなり。」とあるが、なほ研究の餘地がある。○「知らに」の「に」は打消の助詞。
【譯】皇子に離れまゐらせたので、仕へ奉る所もなく、まどうてゐる舍人の哀れさよ。
 
   柿本朝臣人麿妻死之後流血哀慟作歌二首並短歌
 
207 天《あま》飛ぶや 輕《かる》の路《みち》は 吾妹子《わぎもこ》が 里《さち》にしあれば ねもごろに 見まくほしけど やまず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さねかづら 後《のち》も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵《いはがきぶち》の こもりのみ 戀ひつつあるに わたる日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲がくるごと 沖つ藻の 靡きし妹は (154)もみぢ葉の 過ぎていにきと 玉づさの 使のいへば あづさ弓 音に聞きつつ 言はむすべ せむすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば わが戀ふる 千重の一重も なぐさむる こころもありやと わぎもこが やまず出で見し 輕の市に わが立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の 聲も聞えず たまぼこの 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべを無《な》み、妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
 
 天飛也。輕路者。吾妹兒之。里爾思有者。懃。欲見騰。不止行者。人目乎多見。眞根久往者。人應知見。狹根葛。後毛將相等。大船之。思憑而。玉蜻。磐垣淵之。隱耳。戀管在爾。度日乃。晩去之如。照月乃。雲隱如。奥津藻之。名延之妹者。黄葉乃。過伊去等。玉梓之。使乃言者。梓弓。聲爾聞而。將言爲便。世武爲便不知。聲耳乎。聞而有不得者。吾戀。千重之一隔毛。遣悶流。情毛有八等。吾妹子之。不止出見之。輕市爾。吾立聞者。玉手次。畝火乃山爾。喧鳥之。音母不所聞。玉桙。道行人毛。獨谷。似之不去者。爲便乎無見。妹之名喚而。袖曾振鶴。
 
【釋】○これは人麿が密かに通つてゐた妻の死を悲しんだ歌で、二首の中後の一篇は嫡妻の死に對する歌であるらしい。それについて考に、二篇は各別々に端詞のあつた筈であるのが亂れたのであると云つて、前篇の題辭を「柿本朝臣(155)人麻呂所竊通娘子死之時悲傷作歌」とし、後篇の題辭を「柿本朝臣人麻呂妻之死後悲傷作歌」としてゐる。元よりこれは私見であるから、かう訂正するわけには行かないが、端詞の不備といふことは明かである。○「天飛ぶや」は輕の枕詞。代匠記に「天とぶ雁」といふ意で、云ひ掛けたのであると云ふ。○「輕」は大和高市郡|白橿《シラカシ》村の東部大字大輕・和田・石川・五條野あたりの總名で、そこに輕市といつて市の立つ邑があつたのである。○「輕の路」を古義に輕といふ地の道路はといふ意に解いてゐるが、新考にこれは輕に通ふ路のことである、それ故「輕は吾妹子の里にしあれば……其の道を止まず行かば人目を多み云々」といふべきを簡單に云つたので、路は下にある二つの「行かば」と相應じてゐるのであると解いてゐる。この説がよい。○「見まくほしけど」は見たいと思ふけれどもの意。○「人目を多み」は人目が多い故にの意。○「まねく」は「まねし」といふ形容詞の副詞形である。「まねし」は繁く又は數多といふ意。こゝは度々の義。○「さねかづら」(南五味子)はビナンカヅラとも云ふ。葉は樒《シキミ》に似て青く、秋の未に裏だけが紫赤色に變色するので美しい。實は南天のやうに赤い。樹に長く這ひまとふものであるから、廻り合ふ意で「後もあはむ」の枕詞としたのである。○「大船の」は枕詞。(前出)○「玉かぎる岩垣淵の」は「こもり」の序で「玉かぎる」は「岩垣淵」の枕詞である。この枕詞は既に釋いた。○「こもりのみ」は家に籠つてばかりゐてといふ意。この「のみ」はそれと限るやうな意を添へて、修飾句を作るのである。○「わたる日の云々」の四句は下の「靡きし妹は」の下に移して見ると意味が明かになる。○「もみぢ葉の」枕詞。(前出)○「たまづさの」は使《ツカヒ》の枕詞。宣長の説に、上代は梓の木に玉を着けたのを使者のしるしに持つて行つたので、かう云ふのだと云つてゐるが、昔は一般に人に贈物を持たせてやる時、木の枝に附けてやる風があつたから、手紙も梓の枝などに結びつけたものであらう。從つてこの枕詞は元「たより」にかゝつたのが、轉じて使者にもかゝるやうになつたのである。○「梓弓」は音の枕詞。弓を發てば音がするから(156)である。この音は使の言を指したのである。○「千重の一重」はわが戀ふる心の千重にも茂く重なつてゐる其の一重なりともの意。即ち深き戀の幾分なりともといふのである。○「なぐさむるこころもありやと」は小琴にココロモアレヤと訓んで、心もあれがしと希ふ意とし解いて、「や」を餘情を添へる助詞としてゐるが、古義の説に從つて前のやうに訓んで、その意義も古義の説のやうに「心もありやせむ」の意と見るのが穩當である。即ち幾分なりとも慰める方もありはしないかと思つてといふ意である。○「やまず出で見し」は妻が常に出て見た市の意。○「玉だすき」以下三句は聲の序である。○「畝火の山に云々」は人麿は今畝火の山の麓に立つて、遙かに南方の輕市を望んでゐるのである。畝火山から輕までは十數町で達する。○「聲も聞えず」は妻の聲も聞こえずの意。聲は本文に「音」とあるが、上を序と見れば音は妻の聲の意でなくてはならぬから、コエと訓むがよい。(古義の説)○「玉桙の」は枕詞。(前出)○「似てし行かねば」は輕市を指して行く人を見ても、一人も妻に似た者がないからといふ意。「し」は指示する意の助詞。○「袖ぞ振りつる」は悲しい別れを告げるしるである。
【譯】輕はわが妻の里であるから、輕へ行く道はよく/\見たいと思ふが、始終行つたら人目にも付かう、度々行つたら人もそれと知るであらう、どうせ後に逢ふのだと、大丈夫に思つて思ひを心にひめて獨り焦れてゐると、海の藻のやうに自分に寄り添うて寢たあの妻は、夕日が山に這入るやうに、月が雲の間にかくれるやうに、逝つてしまつたといふことを、使が來て告げたので、その知らせを聞いて何とも云ひやうもなく、どうしてよいやら分らないので、たゞ話に聞いただけで、ぢつとしては居られないので、自分の深く戀するこの情が、幾らかでも慰められはしないかと思つて、妻が常に出ては眺めた輕の市に、自分が立つて耳をすまして見ても、(畝火の山には鳥は鳴いてゐても)ありし妻の聲は聞くことも出來ず、又ぞろ/\と道を往き來する人一人として、妻に似たものは通らないで、(157)(似た声を聞き似た姿を見ることも出來ずして、この儘別れねばならぬことかと思ふと、)もはや萬事休すで、如何ともしやうもないから、あたりかまはず妻の名を呼んで、袖を振つて歸つて來たのである。
【評】突然の死の通知を受けて、立つても居てもゐられず、或は市へ行く村人の中に似た聲も聞え、似た姿も見えはせぬかと出掛けて見ても、その甲斐もなく、はかない別れをしてしまつたといふ、何たる悲痛ぞ。終りに名を呼んで袖を振つたといふのは、感情の高調に達したのであつて、かの「妹が門見む靡けこの山」と好一對の名句である。叙景はたゞ一部に歌はれてゐるだけであるけれども、畝火山の麓に立つて、遙かに輕の賑ひを見てゐる人麿の姿までが見えるやうであつて、光景が明かに目前に描き出されて來るのがよい。
 
   短歌二首
 
208 秋山の 黄葉《もみぢ》を茂み まどひぬる 妹を求めむ、山道知らずも
 
 秋山之。黄葉乎茂。迷流。妹乎將求。山道不知母。
 
【譯】秋山の紅葉があまり茂つてゐるので、出る道を迷つてゐる妻を、どうかして尋ねて行きたいが、どこにどうして居るのやら、その山道を知らないのが悲しい。
 
209 もみぢ葉の 散りぬるなへに 玉梓《たまづさ》の 使を見れば 逢ひし日思ほゆ
 
 黄葉之。落去奈倍爾。玉梓之。使乎見者。相日所思。
 
【釋】○「なへに」は「つれて」又は「つけて」の意。(既出)
【譯】紅葉の散る昨今、あはれ妻の死を告げる使が來たのを見ると、恰もこれと同じ頃に、かつて迎への使が來て、自(158)分が逢ひに行つたあの日のことが思ひ出されて悲しい。
 
210 うつせみと 思ひし時に たづさひて わが二人見し 走出《はしりで》の 堤《つつみ》に立てる 槻《つき》の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世の中を そむきし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野《あらぬ》に しろたへの 天領巾《あまひれ》がくり 鳥じもの 朝《あさ》たちいまして 入日なす 隱れにしかば わぎもこが 形見に置ける 緑子《みどりご》の 乞ひ泣く毎に とり與ふ 物し無ければ 男《をとこ》じもの 腋挾《わきばさ》み持ち (159)吾妹子と 二人《ふたり》わが寢し 枕つく 妻屋のうちに 晝はも うらさびくらし 夜《よる》はも 息《いき》づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 戀ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽易《はがひ》の山に わが戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根《いはね》さくみて なづみ來し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば
 
 打蝉等。念之時爾。取持而。吾二人見之。※[走+多]出之。堤爾立有。槻木之。己知碁智乃枝之。春葉之。茂之如久。念有之。妹者雖有。憑有之。兒等爾者雖有。世間乎。背之不得者。蜻火之。燎流荒野爾。白妙之。天領巾隱。鳥自物。朝立伊麻之※[氏/一]。入日成。隱去之鹿齒。吾妹子之。形見爾置。若兒乃。乞泣毎。取與。物之無者。烏徳自物。腋挾持。吾妹子與。二人吾宿之。枕付。嬬屋之内爾。昼羽裳。浦不樂晩之。夜者裳。氣衝明之。嘆友。世武爲便不知爾。戀友。相囚乎無見。大鳥。羽易乃山爾。吾戀流。妹者伊座等。人之云者。石根左久見手。名積來之。吉雲曾無寸。打蝉跡。念之妹之。珠蜻。髣髴谷裳。不見思者。
 
【釋】○「うつせみと思ひし時に」は妻が此の世にながらへてゐた時といふ意。「思ふ」といふ動詞は輕く添へた語。○「たづさひて」は本文に「取持而」とある。これを舊訓ではトリモチテとよんだのであるが、考・略解・古義等にタヅサヘテと訓んでゐる。余は美夫君志・新考の説に從つて、上の樣によむがよいと思ふ。併し美夫君志に「たづさはりて」の約つたのであると云つてゐるのはよくない。「たづさふ」は四段に活用するから「て」に接續するときは、その連用形(160)を以てしてタヅサヒテとなるのである。妻を伴つてといふ意である。○「走出の」は小走りして行き着く所の意で、程近いといふ意。○「槻の木」の形態は「けやき」と全く同じで、材で見るほかは區別は立たない。枝も葉も茂るものである。古はこれで弓を作つた。○「こちごち」は二つものがある時に、一方をコチと指し、又一方のをコチと指していふ語で、一本の樹から差し出てゐる四方の枝を云つたのである。○「茂きが如く」は新考にある通り、下の「思へりし」と「たのめりし」とに並び係るので、つまり「思ひたのめりし」といふべきのを二つに分けたのである。○「子ら」は妹と同じ。○「そむきし得ねば」の「し」は助詞。生者必滅の世の道理に背くことは出來ないからといふ意。○「かぎろひ」は陽炎で長閑な春日に野にちら/\立つもの。「もゆる」の枕詞である。○「白妙の」は枕詞。下の領巾にかかつてゐる。○「天領巾がくり」について諸説があつて、未だ確かなことが分つてゐない。代匠記に「秋風の吹きただよはす白雲はたなばたつめの天つ領巾かも」(卷十)とあるによつて、「白雲がくれ」といふ意であらうと云ひ、(考も同説)略解に引いてゐる宣長の説には、領巾は柩の前後左右に立てゝ持つて行く葬送の旗をいふとある。又檜嬬手の説には、領巾と書いてあるのは借字で天蓋の類をいふので柩を覆ふ蓋であらう、すべてヒラ/\するものをヒレといふのであると云ふ。なほ古義には柩の周圍に立てて行く歩障(行列を蔽うて行く白布の帷幄)のさまを領巾に見なして云つたので、天つ領巾といふのは天人が天路を往來する領巾といふ意味で、こゝは葬式を天に上るものと見なして云つたのであると云つて居る。此等の諸説を批判するに就いては、領巾といふ物の如何なるものであるかを明らかにして置かねばならぬ。領巾は上代に婦人が衣服の襟にかけて、前に垂れてゐた幅の狹い布であつて、その幅の廣さ長さは種々あつて、一定してゐなかつたやうであるが、兎に角ひら/\させてゐたものであつたと想像せられる。もと之を振つて害虫などを拂ひのけたものであると云はれて居るが、後には装飾のために懸けたので、松浦(161)佐用媛が別を惜しんで領巾を振つたと云ふ傳説があるから、そんな時にも用ゐたのである。それ故ヒレといふ名も恐らく魚の鰭と同じ系統の語であらうと思はれる。從つて天つ領巾も守部の説のやうに、領巾はヒラ/\するものを廣く稱する名で、こゝなどは襟にかける領巾でなく、天蓋などを指して云つたものと思はれるのである。是はなほ研究を要する事である。今は守部の説に從つて、眞白い天蓋の中に隱れての意とし見て置く。「かくり」は四段活用の連用形である。○「鳥じもの」は鳥のやうにの意で「朝立ち云々」の枕詞である。「じもの」は既に説明しておいた。○「朝立ちいまして」の「います」は「行く」の意の敬語の動詞である。○「入日なす」は「隱る」の枕詞。○「緑子」は乳飲み兒のこと。髪の色が緑色を帶びてゐるから緑兒といふのだと云はれてゐるけれども、恐らくは緑は若葉などの聯想から來てゐるのであらう。○「乞ひ泣く」は乳などを求めて泣く意である。○「男じもの」は男のやうにでなくこゝは男なる者、若しくは男その者の意。○「腋挾み持ち」は腋の下にかき抱くこと。○「枕つく」は「妻屋」の枕詞。冠辭孝に枕を附け並べて寢るから、さういつたのであると云つてゐる。○「妻屋」は夫婦の寢る部屋。○「晝はも」の「も」は感動の助詞。○「うらさびくらし」は心を痛めて日を暮すこと。○「息づき明かし」は歎息の息をつきながら夜をあかすこと。○「大鳥の」は大きな鳥といふ意で、下の羽易山の羽にかけて枕詞としたのである。○「羽易山」は今の何山であるか明かでない。卷十に「春日なる羽買の山ゆ」といふ歌もあるから、高圓山・三笠山・若草山などの何れかを指した名稱であつたかと思はれる。大和志料には「春日山……三峰あり。一を本宮《ホング》嶽又浮雲峯と云ひ、一を水屋《ミヅヤ》嶺又は羽買《ハカヒ》山と云ひ、一を高峯又|香山《カンセン》と云ふ。」とある。又若草・春日・高圓の三峯の總稱であると云ふ説もある。○「石根さくみて」は岩石を蹈み分けて行くこと。「さくむ」は「さぐくむ」とも云ふ。○「なづみ來し」の「なづむ」は歩行が困難ではかどらないことを云ふ。即ち行きなやむといふ意である。○「よけくもぞなき」の「よけく」は「よし」とい(162)ふ形容詞の所謂加行延言で、よい事と云ふ意である。「もぞ」は二つの助詞の重なつたもの。句の意は甲斐のない意である。この句は終の「見えぬ思へば」の下へ廻はして釋くと明瞭である。○「たまかぎる」は「ほのかに」の枕詞。(前出)○「見えぬ思へば」の「思ふ」は輕く添へた語である。
【譯】妻が此の世に居た時に互に手を執つて二人で見た、門に近い堤の上の槻の木の、あちらにもこちらにも差し出てゐる枝に、春の葉が茂つてゐるやうに、茂く思ひ頼みにしてゐた妻であるのに、死といふ世の中の理には背くことが出來ないから、陽炎のもえる荒野に、眞白い天蓋に覆はれて、鳥のやうに朝家を出て、入日のやうに隱れてしまつたので、わが妻が形見に遺して行つた幼兒が、物を求めて泣く度に與へる物としてもないから、男ながらも見を腋にかき抱いて、妻と二人で寢た部屋の内に這入つて、心を痛めながら日を暮し、歎息の聲を放ちながら夜を明かして歎くけれども、如何ともしやうもなく、戀ひ慕つても逢ふことは出來ないので、羽易山にわが戀ひする妻がゐると人が云ふから、岩の多い道を行きなやみながら尋ねて來たが、此の世にゐると思つた妻が、ほのかにも見えないので、かうして苦しんで來た甲斐もなく、誠に悲しいことである。
【評】此の歌の冒頭の四句は、先に講じた同じ作者の、明日香皇女を哀悼した作の中に、「うつそみと、思ひし時に、春べは、花折りかざし、秋たてば、もみぢ葉かざし、しきたへの、袖たづさはり、云々」と歌つたのと同一の内容を、簡短に叙したものである。門に近い堤の上の槻の木を序に用ゐたのは、いつもながらの手法であるが、是によつて作者の門前の光景が鮮かに描かれてゐるので面白い。妻に死なれて、泣く兒を擁して歎く所は、古今を通じて變らぬ悲劇である。人言を信じて羽易山を尋ねて行く所は、前の歌の輕の市に出て見たのと同じ着想であるが、やはり切な情がよく現はれてゐる。
 
(163)   短歌
 
211 去年《こぞ》見てし 秋の月夜《つくよ》は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる
 
 去年見而之。秋乃月夜者。雖照。相見之妹者。彌年放。
 
【釋】○「いや年さかる」はいよ/\年が遠ざかり行くこと。
【譯】去年の秋共に眺めた月は、去年に變らす照して居るけれども、共に見た妻はだん/\と遠ざかつて行くばかりである。
【評】これは翌年によんだ歌である。月に對して深い悲しみが今更の如く浮んだのである。結句は殊に悲しく淋しい感を起させる。此の次になほ短歌が一首あるがそれは省いた。
 
   吉備津采女死時柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
217 秋山の したべる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひませか たくなはの 長き命を 露こそは あしたに置きて ゆふべは 消ゆといへ 霧こそは 夕に立ちて あしたは 失《う》すといへ (164)梓弓 音聞く吾も おほに見し 事くやしきを しきたへの 手枕《たまくら》まきて 劔刀《つるぎたち》 身に添へ寢けむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 思ひてぬらむ 悔しみか 思ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごとや 夕霧のごとや
 
 秋山。下部留妹。奈用竹乃。騰遠依子等者。何方爾。念居可。栲※[糸+世]之。長命乎。露己曾婆。朝爾置而。夕者。消等言。霧己曾婆。夕立而。明者。失等言。梓弓。音聞吾母。髣髴見之。事悔敷乎。布栲乃。手枕纏而。劔刀。身二副寐價牟。若草。其嬬子者。不怜彌可。念而寐良武。悔彌可。念戀良武。時不在。過去子等我。朝露乃如也。夕霧乃如也。
 
【釋】○題辭の「吉備津釆女」は宣長の説に、次の反歌に志我津子《シガツノコ》とも凡津子《オホツノコ》とも詠んであるから、近江の志我の津から出た釆女(釆女はその出身地の名で呼ぶ例となつてゐた。)であることが明かであるから、吉備は志我の誤であらうと云つてゐる。○「秋山の」は秋山の如くの意で、「したぶる」にかゝる枕詞である。○「したぶる」はシタブといふ上二段の動詞である。宣長は古事記の秋山之下氷壯夫《アキヤマノシタビヲトコ》の解に、シタビはアシタビ(朝日)の義で、シタブルと云ふも同じで、秋山の木のもみぢに匂ふさまが、朝東天が色づくやうであるから云ふのであるといつてゐるが、(美夫君志・新考これによる。) 眞淵はシタベルは萎で《シナベル》、秋の木の葉はしなび枯れる頃色付くものであるからさう云ふので、もみぢすることを云ひ、それを妹の紅顔に譬へたのであると云つてゐる。(谷川士清同説)シタブは集中に「したび山」とも用ゐ、又「秋山のしたびが下に鳴く鳥の」の如くにも用ゐてゐる。とにかく木の葉が色付く意である。○「なよ(165)竹の」はなよ/\とした竹のやうにといふ意で、「たわむ」といふ意の「とをよる」に云ひかけた枕詞である。○「とをよる子ら」はたをやかに靡く女の意で、しなやかな姿の女を云ふ。トヲはトヲム・タワムなどのトヲ・タワと同じで、撓むことをいふ。「子ら」の「ら」は接尾語で、「子」は妹と同義。○「いかさまに思ひませか」の訓は古義によつたのである。舊訓にイカサマニオモヒヲリテカ、略解にはイカサマニオモヒヲレカとある。○「たくなはの」は「長き」の枕詞。(既出)○「長き命を」の下に句が脱けてゐるのではないかと云ふ説があるが、こゝは云ひさして次の句に移つたものと見てよい。○「ゆふべは」(夕者)「あしたは」(明者)は古義の訓によつた。舊訓には「ユフベニハ」「アシタニハ」とある。○「消ゆといへ」「失すといへ」の訓は略解によつた。舊訓に「キエヌトイヘ」「ウセヌトイヘ」、考に「ケヌルトイヘ」「ウセヌトイヘ」とある。○「梓弓」は「音」の枕詞。○「音聞く」は釆女の死んだことを話に聞いた意。○「おほに見し」は何時でも見えると思つておほよそに(疎かに)見過して置いた意。○「しきたへの」は「枕」にかゝる枕詞。(既出)○「手枕まきて」は手を枕にして。○「劔刀」は身に佩くものであるから、「身に添ふ」にかけて枕詞としたのである。○「若草の」は「つま」の枕詞。若草を愛でる意から愛づる妻に云ひかけ、轉じては同音の夫《ツマ》にもかけるのである。○「つまの子」は女の夫を云ふ。○「さぶしみか云々」はさびしく思つてゐることであらうとしいふ意。「さぶしみ」は「思ふ」にかゝる副詞句で「か」は疑問の助詞。○「悔しみか云々」の二句は契沖が一本によつて補つた句である。○「時ならず」は女が若死をしたことを云ふ。○「過ぎにし子らが」の「が」(我)をカ(「かな」の意)の誤であらうと古義に云つてゐるけれども、もとのまゝでも通じる。「過ぎにし」は死んでしまつたことを云ふ。○「朝露のごとや云々」は前に「露こそは云々」「霧こそは云々」と歌つた句に應じてゐるのである。宣長は「如也」の「也」を漢文の焉の字と同じく只添へた字と見てゴトと訓んだが、(古義・新考はこれによる。)今はもとのまゝにして置く。「や」は感動(166)の助詞である。
【譯】秋の山のやうに美しい紅顔の女であり、又なよ竹のやうにしなやかな姿の女は、何と思うてか長かるべき命であるのに、――露ならば朝において夕には消えるといひ、霧ならば夕に立つて朝には失せるといふけれども、人はそんなに脆くはない筈だのに、――あのうら若い女が逝つたと話に聞いた自分でさへ、生前におろそかに見ておいたことが悔しいのに、まして手枕を交して身に添へて寢たその夫なる人は、どんなにか淋しく思つて寢ることであらう、どんなにか悔しく思つて焦れてゐることであらう。まだ死ぬる時ではないのに、思ひがけなく死んでしまつた女は、あのはかないためしに引かれる朝露のやうに、又夕霧のやうに、はかなくも哀れなことである。
 
   短歌二首
 
 ささなみの 志我津《しがつ》の子らが まかりにし 川瀬の道を 見ればさぶしも
 
 樂浪之。志我津子等何。罷道之。川瀬道。見者不怜毛。
 
【釋】○「ささなみの」は志我津子の枕詞。○「まかりにし」(罷道之)は舊訓にユクミチノ、考にマカリヂノとあるが、小琴に「道」を「邇」の誤として上のやぅに訓んでゐる。
【譯】志我津の子が葬られて行つた、川瀬を渡つて行く道を見ると、いかにも悲しい心になる。
 
 そらかぞふ 大津の子らが あひし日に おほに見しかば 今ぞ悔しき
 
 天數。凡津子之。相日。於保爾見敷者。今叙悔。
 
【釋】○「そらかぞふ」(天數)は檜嬬手にササナミノと訓んで「按ずるに佛説の天數にて、兜卒の三十三を思へるなるべ(167)し、さらば三三並ぶ意にて、三三並《ササナミ》とよまする義訓なるべし。」と云ひ、又古義には天數は樂數《ササナミ》などの誤字であらうといつてゐるが、冠辭考にはソラカゾフ(略解・美夫君志これによる。)と訓んで、おほよそに數へる意で、「おほつ」に掛けたのであらうと云つてゐる。今は冠辭考の説によつておく。但しソラカゾフは胸算用のことで、おぼつかないからオホに云ひかけたのであらうと思ふ。○「あひし日に」は考の訓によつた。(萬訓にアヒシヒヲとある。)「子らがあひし日」は子に逢ひし日の意である。「子らに」といふべき所を「子らが」といふのは古い語法である。
【譯】志我の大津の釆女に生前逢つた時、別に心にも留めて見なかつたが、今となつて思へば、おろそかに見過したのが殘念である。
【評】名高い美人の釆女が若くしてこの世を去つたのを、泌々惜しがつてゐる。大津の舊都に對すると同じ氣分になつて、釆女の死を悲しんでゐる所に、多感な人麿の性格が見える。反歌の第一首に、葬列の過ぎたあとを思ひ浮べて悲しんでゐる所も巧みである。
 
   讃峽|狹※[山/令]《サミ》島視2石中死人1柿本朝臣人麿作歌一首並短歌
 
 玉藻もよし 讃岐の國は 國がらか 見れども飽かぬ 神がらか ここだ貴き 天地《あめつち》 日月と共に 足り行かむ 神のみ面《おも》と つぎて來し 那珂《なか》の湊ゆ (168)船浮けて 吾が漕ぎ來れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき浪立ち 邊《へ》見れば 白浪さわぐ いさなとり 海をかしこみ 行く船の 梶引きをりて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狹※[山/令]《さみ》の島の 荒磯回《ありそみ》に いほりて見れば 浪の音《と》の しげき濱邊を しきたへの 枕になして 荒床に ころぶす君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 來ても問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか戀ふらむ はしき妻らは
 
 玉藻吉。讃岐國者。國柄加。雖見不飽。神柄加。幾許貴寸。天地。日月與共。滿將行。神乃御面跡。次來。中乃水門從。船浮而。吾榜來者。時風。雪居爾吹爾。奥見者。跡位浪立。邊見者。白浪散動。鯨魚取。海乎恐。行船乃。梶引折而。彼此之。島者雖多。名細之。狹岑之島乃。荒磯面爾。廬作而見者。浪音乃。茂濱邊乎。敷妙乃。枕爾爲而。荒床。自伏君之。家知者。往而毛將告。妻知者。來毛問益乎。玉桙之。道太爾不知。欝悒久。待加戀良武。愛伎妻等者。
 
【釋】○「狹岑畠」は仲多度郡に屬する沙彌島で、多度津の沖にある鹽飽《シワク》諸島の中の與島《ヨシマ》の屬島であつて、長さ十町横三(169)町許りの島である。○「玉藻よし」は讃岐の枕詞。この海濱に海藻の良いのが採れるので、此の枕詞を得たのである。「よし」は「青丹よし」の「よし」と同じく助詞である。○「國がらか」の「がら」は「人がら」「品がら」などいふ「がら」で、位格身分等を表はす接尾語で、次の「か」は疑問の助詞である。○「神からか云々」上代の人は國土に神靈があると考へてゐたのである。神とあるは即ち國の靈を指したので、「國がらか」の「國」はその實體を指してゐるのである。○「ここだ」は「どんなにか」「甚だしく」「たくさん」などいふ意の副詞。○「足り行かむ神のみ面」といふは古事記の國生みの段に、伊邪那美命が淡道島をお生みになつた次に、「伊豫之二名島《イヨノフタナノシマ》を生み給ひき。この島は身一つにして面四つあり。面海に名あり。故《カレ》伊豫國を愛比賣《エヒメ》と謂ひ、讃岐國を飯依比古《イヒヨリヒコ》と謂ひ、粟國を大宜都比賣《オホゲツヒメ》と謂ひ、土佐國を建依別《タケヨリワケ》と謂ふ。」とあるのによつて歌つたのである。即ち讃岐國は四面の一であるから「神のみ面」といつたので「足り行かむ」といふのは、月日の立つと共に段々榮え行き開け行く意である。○「つぎて來し」はさう云ひ傳へて來たとしいふ意で、こゝまでは讃岐の國をほめたゝへて來て、次にはその立派な讃岐の那珂の湊から船を出してと、人麿の旅路を叙したのである。○「那珂の湊」は古の那珂郡(今は多度郡と合併せられて、仲多度郡となつてゐる。)の湊であらう。今の中津は其の名を傳へてゐる。○「時つ風」は潮時の風、即ち潮が滿ちると共に吹き起る風。○「しき浪」は繋き浪のこと。「しき」は「しきり」「しげし」などの「しき」と同じである。○「いさなとり」は海の枕詞。(既出)○「梶ひきをりて」は櫓をたわませて漕ぐこと。「をる」は「ををる」の略音で撓む意である。○「名ぐはし」はその名まで好い所のと云ふ意。○「荒磯回《アリソミ》」は本文に「荒磯面」とあるのを、考に「面」を「回」の誤とし、それ以後の註釋書は多くこれに從つてゐる。荒磯のまはりである。然し美夫君志にはもとの「面」のまゝとしてアリソモとよみ、荒磯のおもての意としてゐる。○「いほりて」は庵しての意。○「しきたへの」は「枕」の枕詞。(既出)○「荒床」の荒は人氣のな(170)い處の意で、床といふは死人の廣たはつてゐる處を指したのである。○「ころぶす」は横臥する意。(既出)○「おほほしく」は「おほほし」としいふ形容詞で、「おぼおぼし」と同じである。はつきりしないこと、又覺束ないことを云ふ。○「はしき」は「愛しき」で、いとしいと云ふ意。○この歌の主意は「浪の音のしげき濱邊を」の句以下に歌つてあるので、それより前はその死人を發見するまでの旅路を歌つたのである。
【譯】讃岐國は國がらがよいのであるか見飽くことがない。又神がらがよいのか至つて貴く感じられる。天地日月と共にいよいよ榮え行く神の御面と、古へから云ひ傳へて來た此のよい國の、那珂の湊から舟を出して漕いで來ると、折よく潮時の風が空を吹くので、沖を遙かに見ると繁き波が立ち、海岸を見やれば白波が濱に打ち寄せて騷いでゐる。かうなると海が恐ろしいので、舟の櫓を引き撓ませる程に、力一杯に漕いで行くと、彼方此方に散らばつてゐる島は多いが、その中で名もよい狹岑の島の、荒磯のまはりに庵を結んでその邊りを見ると、浪の音が頻りに聞える濱邊を枕にして、荒濱を床に臥してゐる人が居た。この人の家を知つてゐれば、行つて家人に告げように、又妻なる人がかうと知つたら、尋ねて來るであらうに、その道さへ知らす覺束なく思ひながら、待ち焦れて居ることであらう、其のいとしい妻は。
【評】多情多感な人麿は、行斃れを見ても同情の涙を濺いだのである。當時旅客の中には、饑餓の爲や病苦のために、かういふ死を遂げる者も隨分多かつたことであらう。主意を歌ふ前に、長々と國土を稱へ、海路の光景を叙することは、この歌人の常にとるやり方であるが、此の場合にはこれが至つて大切なものとなつてゐる。即ち荒い浪路を凌いで島づたひに漕いで行つて、とある濱邊にふと屍のあるのを發見する所で、吾々も歌人と共に驚かされる。そして背景が明かに歌はれてゐるので、死者に對する同情も起り、自然その家人の上をも思はしめられるのである。
 
(171)   反歌二首
 
221 妻もあらば 摘みてたげまし 沙彌《さみ》の山 野《ぬ》のへのうはぎ 過ぎにけらずや
 
 妻毛有者。採而多宜麻之。佐美乃山。野上乃宇波疑。過去計良受也。
 
【釋】○この歌の解釋に二説ある。一は考・古義・新考等の説で、此の説によれば「たげまし」の「たげ」は「たぐ」といふ動詞で食ふこと。雄略紀に共食者《アヒタケヒト》といふ語があり、又皇極紀に「米だにも多礙《タゲ》て通らせかまししのをぢ」といふ例がある。此等によつて「たぐ」は食ふとしいふ動詞であることが分る。「うはぎ」は「おはぎ」ともいふ。今いふヨメナのこと。そこで一首の意を、屍の傍にあるよめ菜〔三字傍点〕の盛を過ぎてゐるのを見て、もし妻が居たら、此の菜を摘み取つて食はせたであらう、と云ふ意に解くのである。○今一説は略解に引いた宣長の説に始まつて、略解・檜嬬手・美夫君志等これによつてゐるのである。この説では「採みて」の本文に「採而」とあるのをトリテとよみ、(美夫君志はツミテ)「たぐ」を「髪たぐ」といふときの「たぐ」の意、即ち揚げる意に解して、屍をとりあげる意に解き、下の句を屍をとり上げる人なしに、時を過したことを譬へたのであると見るのである。今は前説によつて解く。
【譯】妻なる人が居合はせたならば、沙彌の山の野邊に生ひ茂つてゐる、このよめ菜〔三字傍点〕を摘み取つて食はせたであらうに(さうしたら餓死することもなかつたであらう。)そのよめ菜〔三字傍点〕が、もうこんなに摘むべき時を過ぎてしまつたではないか。
 
222 沖つ波 きよる荒磯《ありそ》を しきたへの 枕とまきで なせる君かも
 
 奧波。來依荒磯乎。色妙乃。枕等卷而。奈世流君香聞。
 
(172)【釋】○「まきて」枕としての意。○「なせる」は「なす」に「り」の附いた形で、その「なす」は「寢《ヌ》」の敬語法である。
【譯】沖の浪がどし/\寄せて來る荒磯を枕として、寢てゐる君のいたはしさよ。
 
   梯本朝臣人麿在2石見國1臨v死時自傷作歌一首
 
223 鴨山《かもやま》の 盤根《いはね》しまける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
 
 鴨山之。磐根之卷有。吾乎鴨。不知等妹之。待乍將有。
 
【釋】○「鴨山」は今地名に遺つてゐない。その位置に三説がある。(一)那賀郡|神村《カムラ》の山とする説。(吉田東伍博士)(二)美濃郡高津村の港口にあつた鴨島を云つたので、此の島は後一條天皇の御代に。海嘯の爲に海中に没入したと」云ふ説。(「石見八重葎」「石見海底廼伊久里」等の説。)(三)那賀郡濱田町の舊城山を今龜山と呼ぶのは、即ち古の鴨山の訛つたものであるとする説。(石見の學者藤井宗雄の説)以上三説中、友人神木亮氏は第三説を隱當とし、この地は國府からは一里餘も西にあるけれども、國府附近の良港として古は官人の清遊地であり、又別莊なども設けられた處であらうと云つてゐる。○「知らにと」は知らぬこととての意。「に」は否定の助動詞で、それに「と」といふ助詞を附けて次の句の副詞句としたのである。
【譯】鴨山の岩を枕に死に瀕してゐるのを、それとも知らないでわが妻は、自分の歸る日をいつか/\と待ち焦れて居るであらう。
【評】讃岐の沙彌島で見知らぬ旅人が斃れてゐるのを見て、深い同情を寄せた人麿も、それと同じ運命に遭つて、都を遠く離れた石見の海邊に臥して、妻の悲歎を思ひやりながら、哀れな最期を逐げたのである。但しこゝに磐根しま(173)ける〔六字傍点〕とあるのは、海邊の草庵中に臥してゐることを云つたのであらうが、この一句によつて、その周圍の荒凉たる様が現はれてゐて哀である。
 
   靈龜元年歳次2乙卯1秋九月志貴親王薨時作歌一首並短歌
 
230 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢たばさみ 立ち向ふ 高圓《たかまと》山に 春野《はるぬ》燒く 野火《ぬび》と見るまで 燃ゆる火を 如何にと問へば 玉桙の 道來る人の 泣く涙 ひさめに降れば 白妙の 衣ひづちて 立ちとまり 吾に語らく 何しかも もとな言へる 聞けば ねのみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き すめろぎの 神の御子の いでましの 手火《たび》の光ぞ (174)ここだ照りたる
 
 梓弓。手取持而。大夫之。得物矢手挿。立向。高圓山爾。春野燒。野火登見左右。燎火乎。何如問者。玉桙之。道來人乃。泣涙。霈霖爾落者。白妙之。衣※[泥/土]漬而。立留。吾爾語久。何鴨。本名言。聞者。泣耳師所哭。語者。心曾痛。天皇之。神之御子之。御駕之。手火之光曾。幾許照而有。
 
【釋】○「志貴親王」といふ御名の皇子は同時代に二人ある。即ち天智天皇の皇子に施基《シキ》皇子があり、天武天皇の皇子にも磯城《シキ》皇子がある。施基皇子は續紀によれば、「靈龜二年八月甲寅薨」とあつて、この題辭とは相違し、磯城皇子の薨去の年月は續紀に見えてゐない。眞淵は題辭の元年を二年の誤とし、木村博士は題辭の方を正しい年と定めて施基皇子とし、契沖・雅澄等は續紀に薨去の年月の見えてゐない磯城皇子の方の歌であるとして居る。今高圓山の東方十四五町の處に施基皇子の陵(春日宮天皇陵といふ)があり 又高圓山の麓に施基皇子の尾上宮址と云ふのが傳はつてゐるのは、この歌の内容とよく一致するやうであるから、余は施基皇子の薨去の時の作とする説が正しいと思ふ。○此の歌は左註に「笠金村歌集出」とある。○初めの五句は高圓山の序。○「さつ矢」は獵に用ゐる矢。○「たばさみ」は手に挿み持つ意。○「高圓山」春日山の南に連なる山。高圓の圓《マト》を的《マト》と見て序を云ひ掛けたのである。○「ひさめに降れば」はその人が涙を大雨のやうに流すさまである。「ひさめ」は大雨のことで、書紀に「大雨」「甚雨」等の文字をヒサメと訓んである。語源は直雨《ヒタアメ》であらう。○「衣ひづち」は涙で衣が濡れる意。新考にある通り「泣く涙ひさめに降れば白妙の衣ひづちて」の四句は挿入句であつて、「道來る人の」は次の句の「立ちとまり」へ續くのである。○「語らく」は語ることにはといふ意で、以下その答である。古義に「語らく」は句を隔てゝ「すめろぎの云々」へ續くので、その中間の六句はわが上を悔いて云つたのであると云つてゐるのは隱當でない。これは最後までが答の詞である。○「もとな」は中古語の「心もとなし」と關係のある語で、氣がかりな、又は待ち遠くて心がせかれる意の副詞である。○「ねのみし泣かゆ」は聲を立てゝ泣かれるの意。「のみ」は「を」と同義。「ゆ」は中古語の「る」と同じ。○「心ぞ痛き」(175)は心が苦しいといふ意。○「いでまし」は御葬儀をいつたのである。○「手火」は葬送の時人々が手に持つてゐる炬火をいふ。當時の葬送は夜中に行はれ、炬火・幡・楯等を持つ者が行列をして從つたのである。これは先年行はせられた先帝の御大葬を拜しても、推察することが出來る。○「ここだ」は數多の意。
【譯】高圓山に(今は秋であるから野を燒く時ではないのに、)恰も春の野を燒く野火と見える程、澤山燃えて居る火を、あれは何かと道を來る人に問ふと、其の人は大雨のやうに零れる涙で濡れそぼちながら、立ち留つて私に答へて云ふには、「何故思ひやりもない事をお尋ねになるか。さういふことを聞かれると悲しくなつて、聲を立てて泣かれる。又かういふ次第だと話さうとすれば、胸が痛む許りだ。あの夥しく燃えてゐる火は、施基の皇子の御葬送の御伴の人々が、手に手に持つてゐる松明の火である。」と語つた事である。
【評】人麿の長歌は略一定の形式によつて歌はれてゐて、變化に乏しいといふ嫌があるが、この歌はよほど趣を異にした形式を持つてゐる。先づ松明の盛に燃えてゐる野べを背景として、深い悲しみを抱いて、夜道をとぼ/\とやつて來る人を描き出して、その人と作者との問答によつて、親王の薨去を悲しむ情を印象深く歌つたのであつて、構想に異彩があり、情と景と相俟つて、誦む者を作者と同じ悲しみの中に引き入れる強い力を持つてゐる。
 
   短歌二首
 
231 高圓《たかまと》の 野邊《ぬべ》の秋芽子《あきはぎ》 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
 
 高圓之。野邊乃秋芽子。徒。開香將散。見人無爾。
 
【釋】○「高圓の野邊」にはこの皇子の宮があつたのである。○「咲きか散るらむ」は「咲き散るらむか」の意である。「いた(176)づらに」はこの「咲き」に掛つてゐるのである。
【譯】今は皇子がいらせられぬから、高圓の野べの秋萩も見る人もなく、徒らに咲いては散ることであらう。
 
232 御笠山 野邊行く道は こきだくも しじに荒れたるか 久《ひさ》にあらなくに
 
 御笠山。野邊往道者。己伎太雲。繁荒有可。久爾有勿國。
 
【釋】○「御笠山」は春日神社の背後の山で、(今は嫩草山の一名を三笠山と云ふが、それとは別である。)高圓の宮にお仕へ申した人々が常に往來した所である。○「こきだくも」「しじに」は同じやうな語を重ねたのである。「こきだく」は許多といふ意の形容詞の副詞形で、「しじに」は「繁く」の意の副詞である。但し繁くといふのは荒れやうのひどいことである。○「久にあらなくに」は薨去あそばしてから未だ日も淺いのにの意。
【譯】御笠山の野邊を往き來する道は、(是まで荒れると云ふことはなかつたのに、此の頃通ふこともなくなつたので、)ひどく荒れたことである。まだ薨去あそばされてから多くの日も經ないのに。
 
卷二 終
 
(177)  萬葉集 卷三
 
○この卷には雜歌・譬喩歌・挽歌の三種が收めてある。時代は藤原宮時代から寧樂朝の天平年間に及んで居る。作者の名は記載せられてゐるのが多い。此の集に特に人麿・赤人・憶良・家持等の代表的歌人の作の多いことは注意すべき事である。
 
  雜歌
 
   天皇御2遊|雷岳《イカヅチノヲカ》1之時柿本朝臣人麿作歌一首
 
235 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも
 
 皇者。神二四座者。天雲之。雷之上爾。廬爲流鴨。
 
【釋】○「天皇」は持統天皇。○「雷岳」(既出)○「天雲の雷の上」を古義に天上の雷の上の意に釋いてゐる。併し「天雲の」は新考の説に從つて雷の枕詞と見る方がよい。雷は山の名であるが、それを雷そのものゝ上にと云つて、常人のなし難いことを、天皇は神であるからなされるのであると歌つたのである。○「いほりせす」は離宮にましますの意。檜嬬手に「爲流」を「爲須」の誤として居るが、今は元のまゝにして置いた。
【譯】天皇は現つ御神でいらつしやるから、恐ろしい雷の名に通ふ雷の上に、假宮を營ませてお宿りになつてゐるのである。
(178)【評】上代人が天皇を現つ神と仰ぎ奉つてお仕へ申してゐた感情が、率直に且つ敬虔の態度で歌はれて居る。さすがに人麿だと思はれるやうな歌ひ振りである。
 
   天皇賜2志斐嫗《シヒノオミナ》1御歌一首
 
236 否と云へど 強ふる志斐のが 強語《しひがた》り この頃開かずて 吾戀ひにけり
 
 不備跡雖云。強流志斐能我。強語。比者不聞而。朕戀爾家里。
 
【釋】○「天皇」は持統天皇である。○「志斐」は姓。この嫗は話好きの老婆であつたと見える。○「志斐のが」の「の」は餘情を添へる爲に挿入した助詞である。(「奈良朝文法史」三〇七頁參照)卷十四の東歌に「日の暮に碓氷の山を越ゆる日は勢奈能我《せなのが》(夫《せな》のが)袖もさやに振らしつ」とある。その「せなのが」の「の」もこれと同じ助詞である。○「聞かずて」は聞かずしての意。
【譯】もう聞くのは厭だといつても、強ひて聞かせたあの志斐の嫗の無理強ひの話も、暫く聞かないので戀しくなつた。
【評】この老婆の姓がたま/\志斐といふのであつたから、第二第三の句に同音を繰り返へしてお詠みになつたのであつて、諧謔の歌として誠に面白い。
 
   志斐嫗奉v和歌一首
 
237 否といへど 語れ語れと 詔《の》らせこそ、志斐いは申せ 強語《しひごと》とのる
 
 不聽雖謂。話禮話禮常。詔許曾。志斐伊波奏。強話登言。
 
【釋】○右の御製に答へ奉つた歌である。○「詔らせこそ」は詔らせばこその意。○「志斐いは」の「い」は契沖・宣長・守部(179)等が云つたやうに、一種の助詞である。語法上の意義については奈良朝文法史に、主格を示す助詞であると云つてゐる。(同書三一一頁−三二四頁參照)用例を擧げれば、卷四に「紀の關守|い〔右○〕留めてむかも」「一日だに君|い〔右○〕し泣くは」等かある。○結句の上に「それを」といふ語を補つて見ると意味が明かになる。
【譯】いやお話し申上げますまいと申しましても、語れ/\と仰せになりますから、申上げるのでございます。それを強語りと仰せになりますのは、ちと心得られませぬ。
【評】これも適當な諧謔を以て、すかさずお答へ申したのが而白い。
 
   長忌寸意吉《ナガノイミキオキ》麿應v詔歌一首
 
238 大宮の うちまで聞ゆ 網引《あびぎ》すと 網子《あこ》ととのふる 海人《あま》の呼聲
 
 大宮之。内二手所聞。網引爲跡。網子調流。海人之呼聲。
 
【釋】○作者の傳は不明。この歌は右と同じ天皇が、難波豊崎の宮へ行幸せられた時の歌である。難波豊崎の宮の事は既に述べた。○「網引すと」の「と」は目的を表はす助詞で、句の意は網を引かうとしてといふのである。○「網子」は網を引く者。「子」は田子・舟子・馬子などの「子」である。○「ととのふる」は呼び集めること。(既出)○「海人」と「網子」とは同じやうなものであるが、網子に對して用ゐた海人は、幾らか頭になつて指揮する者をいふのである。(新考による)
【譯】網を引かうとして、網子を呼び集める海人の呼聲が、大宮の内まで聞えて參ります。面白いでは御座いませんか。
【評】大和平野に住み馴れた大宮人にとつては、海濱の漁村の樣が如何にも珍らしかつたのである。大宮の内までも海(180)人の呼聲が聞えたといふので、簡素な上代の大宮のさまが推察せられる。
 
   長皇子《ナガノミコ》遊2獵|獵路地《カリヂノイケ》1之時柿本朝臣人麿作歌
 
240 ひさかたの 天《あめ》行く月を 綱にさし わご大君は きぬがさにせり
 
 久竪之。天歸月乎。綱爾刺。我大王者。蓋爾爲有。
 
【釋】○「長皇子」は天武天皇の皇子。○「獵路池」は磯城郡多武峯村大字|鹿路《ロクロ》あたりにあつた。鹿路は多武峯を經て吉野山に行く道であつて、當時獵路小野と呼ばれた處である。○「ひさかたの」は天の枕詞。(既出)○「綱にさし」は綱で通しての意。○「きぬがさ」(華蓋)は絹張りの長柄の傘で、貴人にさしかけるものであるが、傾き易いので左右に綱を通して、兩方へ引張つて行くものである。儀制令に「凡蓋皇太子紫表蘇芳裏頂及四角覆v錦垂v總。親王紫大|纈《ユハタ》。一位深緑。三位已上紺云々」とある。○「きぬがさにせり」は蓋としていらつしやるといふ意。略解・古義等に蓋を月に見なして詠んだのであるといつてゐるが、是は槻落葉・檜嬬手・新考等の説のやうに、獵場で日が暮れて月が出たので、その月を蓋に見立てゝ歌つたのである。○此の歌は長歌の反歌である。今長歌を省く。
【譯】御獵場で日が暮れて、丁度よい工合に月が出た。我が大君はその月に綱を通して、蓋にしていらつしやる。さても貴い御樣子である。
【評】この歌も前に講じた「大君は神にしませば」の作と同じやうに、常人と異る現つ神にましますが故にと云ふ思想に基いてゐるのである。月を蓋に見立てた着想はさすがに勝れてゐる。
 
(181)   柿本朝臣人麿覊旅歌四首
 
250 玉藻苅る 敏馬《みぬめ》を過ぎて 夏草の 野島《ぬじま》が埼に 舟近づきぬ
 
 珠藻苅。敏馬乎過。夏草之。野島之埼爾。舟近著奴。
 
【釋】○「玉藻苅る」は海・島・川などにかゝる枕詞で、又それ等の固有名詞にもかゝるのであるが、こゝは修飾句と見てよい。○「敏馬」は攝津西灘村の地で、大阪から神戸をさして行く途中の海濱を云ふのである。○「夏草の」は野島の「野」に云ひかけた枕詞。○「野島が埼」は淡路の北端の野島村の地である。淡路の南方の海上に沼島《ヌジマ》といふ島があつて、集中にも詠まれてゐるが、それとは別である。○この歌は大和を立つて西國へ下る時の作であらう。
【譯】美しい藻を苅る敏馬の浦を漕ぎ過ぎて、淡路の野島の埼がもう程近くなつて來た。
【評】たゞ路筋を説明したやうな、平明な歌と見えるかも知れないが、よく味つて見ると、何となく舟中の人が眺めてゐる景色や、それに對する作者の氣持が、思ひ浮べられるやうな歌である。これは人麿の作風に限つたことではなく、謂はば萬葉集を通じての歌風である。當時の歌人は事象をあるがまゝに率直に歌つたので、苟も事實以外實感以上のことを歌はなかつた。それが爲に當時の歌は、内容は單純であり、幼稚であつたに拘らず、不朽の生命を有つてゐて、吾々の心を動かす力を豊かに具へてゐるのである。萬葉の價値の一は實にこの點にあるのである。
 
251 淡路の 野島の崎の 濱風に 妹が結びし 紐吹きかへす
 
 粟路之。野島之前乃。濱風爾。妹之結。紐吹返。
 
【釋】○「濱風に」は「濱風に吹かれて心淋しく立つてゐるとその濱風が」といふやうな意味に見るべきである。濱風が紐(182)を吹きかへすのではあるが、「濱風の」といはずして「濱風に」と」いつたのは、味ふべき所であると古義にも云つてゐる。○「妹が結びし紐」は上衣についてゐる紐を、家を出る時妻が結んでやるのが、當時の習であつたらしい。その紐は家に歸つて、妻が解いてくれるまで解かなかつた事も、集中に歌はれてゐるのでわかる。
【譯】淡路の野島の崎の濱風に吹かれて、心細い思をしながら立つてゐると、その潮風が、家を出る時妻が結んでくれた紐を、心なく吹きなぶるので、泌々と家が戀しくなつた。
〔評〕旅衣の紐をひら/\させながら、大和の方を遙かに見渡してゐる人麿の孤影が、長く沙上に映つてゐる様に思はれる。さて此所で當時の旅行の有樣を少しく述べて置きたい。一體上代の旅行は、吾々の想像以上苦しいものであつたに相違ない。遣唐使や留學生などの長途の航海の苦勞は、云ふまでもないことであるが、(このことは後に更に説くことがある)國内の旅行について云つても、陸の旅にあつては、道路が不完全であり、宿屋の設備もなかつたから、草を枕として星の光を仰ぎながら、野宿をする夜が多く、海上にあつては、風浪の靜まる日を待つて、磯を廻り岬を越えて、泊々に梶を枕に夜を明したのである。さういふ不便な時代にあつては、一般に旅を厭ふ風習があつたのは當然である。併し種々の事情の爲に、已むを得ず旅に出る必要があつた。例へば地方にあつては、防人や夫役に召されて都に上る者や、筑紫に下る者があり、又交易の爲に物品を擔うて、都邑に出る行商も多かつた。又帝都にあつては、皇室の巡幸や貴族の入湯遊樂等に隨從して、旅行をすることもあり、或は地方官となつて、任國への往還や任地の巡察等の爲に旅行する者もあつて、當時の人はかなり頻繁に旅行をした事と思はれる。集中の歌によつて見ると、それらの旅人は、道すがら至る處の峠に祭られてある社に、幣を手向けて道中の平安を祈り、留守居の妻は、これも床邊に齋瓮を据ゑて、夫の安全を日夜祈つてゐたのである。さういふ苦勞の多い旅路にある人(183)の胸中には、自ら心細さ氣遣はしさがあり、家人を慕ふ情も切であつたから、山川の佳景や海上の壯觀に接しても之を客觀的の態度で歌ふことは少く、叙景中に胸中の哀愁を託した作が多かつた。此等が萬葉の叙景の特色として、著しく目立つことである。以下講ずる歌に、この類のものが頻繁に現はれて來るであらう。
 
253 印南野《いなみぬ》も 行き過ぎがてに 思へれば 心戀しき 可古《かこ》の島見ゆ
 
 稻日野毛。去過勝爾。思有者。心戀敷。可古能島所見。
 
【釋】○「印南野は」イナビともイナミとも云つた。播磨國印南郡から賀古郡にかけての野、即ち明石から西の加古川あたり一體の野をいつたのである。○「行き過ぎがてに」は行き過ぎ難くといふ意。「がて」は既に述べた。○「思へれば」は「思へるに」と同じ意。この場合の「ば」は口語の「のに」の意味を表はしてゐる。なほ「思へれ」といふ形は、動詞の「思ふ」と「あり」との熟合した「思へり」の既然形である。これでこの句の意味も明瞭になる。○「心戀しき」の「心」は輕く見てよい。○「可古の島」は久老の説に、阿古の誤であらう、阿古は攝津の地名であつて、それに吾兒の意を含めてゐるのであるといつてゐるが、普通の解釋では、可古といふ播磨の浦の島の名としてゐる。さて可古島といふ島は今日の地名に殘つてゐない。加古川の加古はこの島と關係があるやうに思はれる。行嚢抄には、加古川の川口にある洲であらうと云つてゐる。なほ加古は「彼子」を懸けたので、戀しい人に思を寄せたものと解する説がある。
【譯】印南野の景色も面白く、行き過ぎ難く思つてゐると、彼方にまたなつかしい可古の島までが見えて來た。
【評】一歩々々心を牽く美しい景色が展開して來る、瀬戸内海の風景をよんだのである。
 
(184)255 天《あま》ざかる 鄙《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 戀ひ來れば 明石の門《と》より 倭島《やまとしま》見ゆ
 
 天離。夷之長道從。戀來者。自明門。倭島所見。
 
【釋】○「天ざかる」は鄙の枕詞。(既出)○「長道ゆ」の「ゆ」は「より」の意でなく「を」の義である。○「戀ひ來れば」は西國から都へ上る時と見る説と、(代匠記・考・略解・檜嬬手等)都から西へ下る時と見る説(古義)とある。前に講じた歌は總べて西下の途上の作であるから、是も同じ時の作であらうと見れば、西へ下る時の歌となるが、併し詞書に單に覊旅歌とあるのであるから、歸京の時の作と見ても不都合はないのである。今は東上の時の作として置く。○「明石の門」は明石海峽である。門は水の出入する處即ち瀬戸である。○「倭島」は海上から大和の國土を指して云つたのである。大和國を大和島根とも大倭秋津洲とも云つてゐる。島は必ずしも水をめぐらしてある島のみをいふのでなく、一區割の地をも云ひ、又海上から陸地を指しても云つたのである。(今讃岐に倭島といふ小島があつて、この歌の倭島はそれを指したのであると云ふ説もあるが、是はこの歌に附會したのであつて、後に講ずる赤人の歌「和歌の浦に潮滿ち來れば潟を無み〔四字右○〕葦邊をさして鶴鳴き渡る」によつて、和歌の浦に片男波といふ名所が出來たのと同じ譯である。
【譯】遠い田舍の路を家郷を慕ひながら上つて來ると、明石の瀬戸から遙かになつかしい大和の方が見え出した。
 
   柿本朝臣人麻呂從2近江國1上來時至2宇治河邊1作歌一首
 
264 もののふの 八十宇治河《やそうぢかは》の あじろ木に いさよふ波の ゆくへ知らずも
 
 物乃部能。八十氏河乃。阿白木爾。不知代經浪乃。去邊白不母。
 
(185)【釋】○「もののふの八十」は八十氏から宇治川に云ひかけた序詞である。(既出)○「あじろ」は網代で、川瀬に杭を打つて、それに竹を編んで作つた簗《ヤナ》のやうなものをかけておいて、魚を捕るやうに仕掛けたものを云ふ。「あじろ木」は水上に現はれてゐるその杭をいふ。日本文明史話に異説が見えてゐる。即ちアジロは屋代《ヤシロ》や苗代《ナハシロ》と併せて考ふべき語で、シロは自分の場所として占有する意であつて、網は廣義にあつては漁具の總名で、   臥《イリ》や簗《ヤナ》の類を廣く指す語である、從つてアジロは特占の漁場の意であると云ふ。さて宇治川の網代は朝廷に貢る氷魚《ヒヲ》を捕るためのもので、延喜式に「山城近江國氷魚網代各一處。其氷魚始2九月1迄2十二月三十日1貢v之」とある。○「いさよふ」は水が堰かれて、暫くそこにためらふ意。○「ゆくへ知らずも」はその暫くためらふ水が、すぐに流れて行つて、行方知れずなるのを、はかないものだと歎じたのである。「も」は感動の助詞。
【譯】宇治川に仕掛けてある網代木に堰かれて、暫くためらふ水が、すぐに流れ去つて行方知れずなるのが、如何にもはかないことだ。
【評】契沖以來、この歌は人生の無常を詠んだものであると解釋せられてゐたのであるが、雅澄はこれに反對して、ただ水の流れ去る樣の面白さを詠んだのであると云つてゐる。併し歌の趣から見ても、又多感な人麿の性格から推しても、たゞ面白いと眺めたものとは思はれない。殊に端詞を信ずるならば、近江の荒都を見ての歸るさであるから、尚更無常(それは心ずしも佛教思想の感化ではない)を感じたものと見るのが穩當であると思ふ。「もののふの八十宇治河の」と、ゆるやかに歌つて來て、結句の「ゆくへ知らずも」に、感歎の情を集注してゐる所がいかにもよい。寂しい心持を起させる歌である。
 
(186)   長(ノ)忌寸奥麻呂歌一首
 
265 苦しくも 降り來る雨か 三輪が崎 佐野《さぬ》のわたりに 家もあらなくに
 
 苦毛。零來雨可。神之埼。狹野乃渡爾。家裳不有國。
 
【釋】○「降り來る雨か」の「か」は感歎の助詞。○「三輪が崎」は紀伊國|東牟婁《ヒガシムロ》郡新宮の南一里許りの海岸にある村で、そのあたりに佐野といふ村落がある。○「わたり」は舟で渡る所。○「あらなくに」はあらぬにの意。
【譯】どうも雨がひどく降ることだ。三輪が崎の佐野の渡し場には、雨宿りをする家が一軒もないのに。
【評】昔の旅行の苦しさが惡ひやられる歌である。この歌を本歌にとつて定家の詠んだ「駒とめて袖うちはらふ蔭もなし佐野のわたりの雪の夕暮」は有名な歌である。併し此の集のは如何にも實情が流露してゐるが、定家のは巧みに作り上けた跡が見える。
 
   柿本朝臣人麿歌一首
 
266 近江《あふみ》の海 夕浪千鳥 汝《な》が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ
 
 淡海乃侮。夕浪千鳥。汝鳴者。情毛思努爾。古所念。
 
【釋】○「近江の海」は琵琶湖。○「夕浪千鳥」は夕陽が赤々と輝いてゐる浪の上に、亂れて鳴き立つ千鳥といふことを、簡單な語で巧みに表はしたのである。これは作者の造語であるが、さすがに人麿である。○「心もしぬに」は愁ひ萎えてといふ意。○「いにしへ」は大津の宮の往時のことを指してあるのであらう。
【譯】(荒ればてた大津の都の跡を見て、悲しみに堪へられないのに、)夕日の赤く照つてゐる湖水の浪の上を飛び立つ(187)千鳥よ。汝の其の鳴く音を聞くと、いよ/\心がしをれて、古のことが思はれてならない。
【評】情景ともに兼ね備はつて、無限の感慨が溢れてゐる上に、一首の調子が實によい。人麿の代表作の一である。
 
   高市連黒人覊旅歌四首
 
270 旅にして 物戀ひしきに 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船 沖に漕ぐ見ゆ
 
 客爲而。物戀敷爾。山下。赤乃曾保船。奥榜所見。
 
【釋】○「高市黒人」は持統天皇の御代の人であるが傳は未詳。集中有數の叙景歌人である。○「旅にして」は旅にての意。○「山下の」(古訓ヤマモトノ)を仙覺は地名とし、契沖は磯邊の山もとから、そほ舟が沖に漕ぎ行く意に解いてゐるが、何れも穩當でない。宣長は「山したび」の意で、秋の山が赤く染まる意から、赤にかけた枕詞であると云つてゐる。(この説は小琴及び古事記傳にある。)語義についてはなほ研究を要するが、兎に角枕詞である。○「赤《あけ》のそほ船」は卷十三に「さ丹塗りの小舟」卷十六に「赤ら小舟」など見えてゐると同じで、赤《あけ》はアカシの語幹のアカの轉訛で、それに「の」を添へて修飾語としたものである。次の「そほ」は赤土で丹のことである。槻落葉別記に、赤く塗つた船は官船のしるしで、流罪の人を乘せる船は黄色に塗つたことを考證してある。又吉田東伍氏は丹塗りの船は、赤く塗り立てる目的の外に、小さい穴や隙間を塞ぐために土を塗り込めたのであらうと云つてゐる。(「日本文明史話」三五九頁」)こゝは都の方を指して漕ぎ歸る官船を見て羨ましく思つたのである。○「沖に」は沖の方をの意。
【譯】旅にゐてとかく戀しさに堪へられない折から、都をさして歸る丹塗りの船が、沖の方を漕いで行くのが見える。
【評】地方官の仕が果てゝ都へ還るのを見て羨んだ作であらう。印象のあざやかな感じの深い歌である。
 
(188)271 櫻田へ 鶴《たづ》鳴き渡る あゆち潟 潮干にけらし 鶴《たづ》鳴きわたる
 
 櫻田部。鶴鳴渡。年魚市方。腰干二家良進。鶴鳴渡。
 
【釋】○「櫻田」は尾張愛知郡作良のあたり田である。作良はもとの作良卿の地で、熱田から東南の鳴海に行く中間にある。今そこの笠寺村に櫻と呼ぶ村落がある。○「あゆち潟」は今の熱田新田である。今はこの邊一體に陸地となつてしまつたが、上古は潟であつたのである。作良からは西にあたる。この「あゆち」は今は郡名及縣名となつてゐる。○この歌の解釋に二三の説がある。第一説はあゆち潟〔四字傍点〕から東方の作良へ鶴が鳴いて行くと見るので、これは古義の説。第二説は鶴が作良の方へ行くのは第一説と同じであるが、その鶴の鳴き渡る聲を聞いて、あゆち潟〔四字傍点〕の潮干を知り、そこを作者が渡つて行くことが出來るやうになつたことを喜んだのであると釋くので、これは守部の説。第三説は作者は作良からなほ東の方に居て、作良の方へ行く鶴を見て、あれはあゆち〔三字傍点〕の干潟を指して行くのらしいと推量したものと見るので、これは大日本地名辭書及び新考の説である。今は第三説に從つておく。
【譯】作良の田の方へ頻りに鶴が飛んで行く。あゆち潟〔四字傍点〕が潮干がしたのであらう、あんなに鶴が飛んで行くのは。
【評】調が頗るよい。「鶴鳴きわたる」を繰り返したので、頻りに群をなして飛んで行くさまが、自ら眼前に浮んで來るのである。愛すべき歌である。
 
272 四極山《しはつやま》 うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎかくる 棚無小舟《たななしをぶね》
 
 四極山。打越見者。笠縫之。島榜隱。棚無小舟。
 
【釋】○「四極山」は三河・攝津・豐後の三箇國に其の名がある。宣長は攝津説を唱へてゐる。即ち四極山は住吉から喜連《キレン》(189)村に行く間にある低い岡で、(今それらしいものはない)笠縫島は深江(今の南新開莊村)の地であつて、往古はこの邊は川が幾筋にも流れてゐて、其の中に島があつたのであると云つてゐる。(「古事記傳」)然し契沖の説に、この歌の前には尾張國の歌があり、後には近江の作が載せてあるから、この四極山は三河國|幡豆《ハヅ》郡の磯泊《シハト》郷の山を指したものに相違ない、そして笠縫島はその沖の島の名であらうと云つてゐる。(「勝地吐懷篇」)恐らくこれは契沖の云つたやうに、三河の地名であらうと思ふ。○「棚無小舟」は大船にあるやうな※[木+世]《セガイ》)舟の左右兩側にある棚の樣な板)の附いてゐない舟、即ち小舟を云ふ。
【譯】四極山を越えながら見てゐると、笠縫の島蔭に漕ぎかくれて行く小舟が見える。
【評】自己の境遇から、手頼りなささうな小舟が、島蔭に漕ぎかくれるのを見て、一層寂しさ心細さを感じたのである。旅人の心持が一首の調子のうちに流れてゐる。此の歌は古今集の大歌所御歌の中に出てゐる。
 
273 磯の崎 漕ぎたみ行けば 近江の湖《み》 八十《やそ》の湊に 鶴さはに鳴く
 
 磯前。榜手回行者。近江海。八十之湊爾。鵠佐波二鳴。
 
【釋】○「磯の崎」近江の坂田郡入江村に大字磯といふ所がある、それであらう。彦根に近い。○「漕ぎたみ行けば」は漕ぎめぐつて行くの意。○「八十の湊」は代匠記・考・古義・註疏・新考等に多くの湊と解いてゐるが、略解に引用してゐる説に八坂《ハツサカ》村といふ處がそれであるといひ、檜嬬手に卷七に「近江《あふみ》の海《うみ》湊八十あり」などいふのとは異なつて、必ず一つの地名である、湖中の湊毎に鳴く鶴を、一度に聞くことは出來ないと云つて地名とし、その地名は行嚢抄に、「坂田郡磯崎村から少し行くと八十湊と云ふがある、それが八坂《ハツサカ》村と訛つてゐる」と云つてゐるから、それであらう(190)と云ふ。余は最後の説がよいと思ふ。八坂の磯から西南二里(彦根から一里)の湖岸にある。
【譯】磯の崎を漕ぎめぐつて行くと、八十の湊のあたりに、鶴が澤山に鳴いゐるのが聞える。
【評】一篇の爽快な叙景詩である。「漕ぎたみ行けば」は何でもない句のやうであるが、此の場合は頗る味ひがある。
 
   春日藏首老《カスガノクラビトオユ》歌一首
 
284 燒津邊《やきつべ》に わが行きしかば 駿河なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に あひし兒等《こら》はも
 
 燒津邊。吾去鹿齒。駿河奈流。阿倍乃市道爾。相之兒等羽裳。
 
【釋】○「春日藏首老」は懷風藻に從五位下常陸介春日老とあるのと同じ人であらう。僧辨基の還俗して後の名である。○「燒津邊」は燒津地方の意。燒津は日本武尊の故事で名高い駿河の燒津である。○「阿倍の市道は」安倍の國府の市で、阿倍川の東にある靜岡の地がそれである。市道は阿倍の市に連ふ道。○「兒等」は單複何れにも用ゐる。女子をさしていふ。○「はも」は感動の助詞。
【譯】燒津地方へ自分が行つた時に、駿河の阿倍の市に行く道で逢つた、あの美しい少女が忘れられない。(その後どうしてゐるであらうか。)
【評】この歌は旅路でふと逢つた少女の面影が忘れられないので、後になつて詠んだ作である。「あひし兒等はも」に深い感情が流れてゐる。單純なやうで實は内容の深い歌である。
 
   幸2志賀1時|石上《イソノカミ》卿作歌一首
 
(191)287 ここにして 家やもいづく 白雪の たなびく山を 越えて來にけり
 
 此間爲而。家八方何處。白雪乃。棚引山乎。超而來二家里。
 
【釋】○端詞の志賀の行幸は何時の事であるか、又作者の名は誰であるか不明であるが、古義には續紀に元正天皇養老元年に近江へ行幸の事が見えてゐるから、その時の歌であらう、さうすれば乙麻呂卿の歌であると云つてゐる。又槻落葉及び檜嬬手には續紀大寶二年の條によつて、持統天皇が美濃國へ行幸せられた時、近江へもお廻りになつたのであらう、そして作者は乙麻呂卿の父、麻呂公であらうと云つてゐる。○「ここにして」はここにてと同じ。○「家やもいづく」の「家」は都のわが家のことで、「やも」は疑問の助詞の「や」と感動の助詞の「も」の重なつたもの。
【譯】ここまで來て見ると、わが家のある都はどこらであらう。思へばあの白雲のた靡いてゐる山を越えて、遙々と來たことである。
【評】「白雲のたなびく山を」の二句に、遠い旅路にある作者の周圖と心持とが、哀れに描き出されてゐる。
 
   田口益人大夫《タグチノマスヒトノマヘツギミ》任2上野國司1時至2駿河國淨見埼1作歌二首
 
296 廬原《いほはら》の 清見が崎の 見穗《みほ》の浦の ゆたけき見つつ 物思もなし
 
 廬原乃。清見之埼乃。見穗乃浦乃。寛見乍。 物念毛奈信。
 
【釋】○「田口益人」は文武天皇の頃から元正天皇の頃までの朝臣。○「廬原の清見が崎の見穗の浦」は駿河の廬原郡(今はイハラと云ふ)の清見が崎の三保の浦で、淨見崎は興津の西の崎で、三保の浦は今の清水港の舊名である。○「ゆたけき」は「ゆたけし」といふ形容詞の連體形で、波がゆた/\とゆれてゐるさま。○「清見が崎の」は作者の立つ處を(192)示すので、そこから前に三保浦が見晴されるのである。新考に「崎の」は「さきゆ」の誤ではあるまいかとあるが、いかにもと思はれる。
【釋】廬原の清見が崎に立つて、三保の浦に波がゆた/\とゆるやかに打つてゐる、美しい景色を見てゐると、旅の心細さも何も忘れて仕舞ふことである。
【評】任國の上野へは前途なほ遠い駿河路を辿つて行く時、興津から三保の松原にかけての、あの美しい風景に接しては、旅の憂さも忘れざるを得なかつたであらう。前の歌と云ひこの歌と云ひ、古人が旅路にあつて經驗した、種々の心持が偲ばれて無限の趣味がある。
 
297 畫見れど 飽かぬ田子の浦 大君の みことかしこみ 夜見つるかも
 
 晝見騰。 不飽田兒浦。大王之。命恐。夜見鶴鴨。
 
【釋】○「田子の浦」は清見崎から東に續いてゐる浦で、これも景色の佳い處である。○「みことかしこみ」は君命の畏さにの意。
【譯】晝見てさへ見飽きのしない田子の浦を、君命を奉じて行く旅のこととて、夜見て行くことである。
【評】かゝる佳景を夜通るのは惜しいと云ふのでなく、勅命を奉じて急ぎ下る旅のこととて、世の常の旅とは異つた經驗もすることであるといふのである。當時の人の君命を重んじた心がゆかしく思はれる。
 
   中納言安倍廣庭卿歌一首
 
(193)302 子等が家道《いへぢ》 ややま遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競《きほ》ひあへむかも
 
 兒等之家道。差間遠烏。野干玉乃。夜渡月爾。競敢六鴨。
 
【釋】○「安部廣庭」は右大臣御主人の子、天平四年に七十四で歿した。○「子等が家道」は妹の家に行く道の意。○「ややま遠きを」はただ餘程遠いのにといふ意。○「ぬばたまの」は夜の枕詞。(既出)○「夜渡る月」は空を行く月のこと。○「競ひあへむかも」は月が入るのと自分が家に行き着くのと、先を競ひ得られようかの意。
【譯】妹が家路はまだ餘程遠いのだが、傾きかけてゐるあの月が、山に入らぬ間に行きつくことが出來るであらうか、どうも月とは競爭ができないやうだ。
【評】月はずん/\西へ行く。足は疲れて夜路は一向はかどらない。それに家へはまだ相當に道程がある。夜の明けぬうちにと、讀者の心も共に急がれるやうな作である。
 
   柿本朝臣人麿下2筑紫國1時海路作歌一首
 
304 大君の 遠のみかどと あり通《がよ》ふ 島門《しまと》を見れば 神代し思ほゆ
 
 大王之。遠乃朝庭跡。蟻通。島門乎見者。神代之所念。
 
【釋】○「遠のみかどと」は遠い所に在る政を行ふ役所としての意。此所では太宰府を指したのである。最後の「と」は目標を示す助詞で、下に用言が省いてあるものと心得ふべき所で、「とて」又は「として」と云ふと同じ意である。○「あり通ふ」は現在ばかりでなく、遠き以前から通ふ意。○「あり」は繼續の意を添へる接頭語である。○「島門」は島々の間の舟の通ひ路をいふ。○「神代し思ほゆ」瀬戸内海に散在する島を見て、かの神代に伊邪那岐・伊邪那美二神が、(194)國土を舘み給うた神話を思ひ浮べたのである。
【譯】大君の政を執り行ふ遠き役所として通つて行く道中に、横たはる島々の通ひ路を見渡すと、それらの島々や海を創造し給うた神代の事がしのばれる。
【評】瀬戸内海を航行する時、送り迎へる幾多の島々や舟路を眺めやつて、二神の國生みの神代に思ひを走せた作である。「大君の遠のみかど」と歌ひ出して、「神代し思ほゆ」と結んだ此の一首には、嚴肅な感が流れてゐるやうに思ふ。
 
   門部王詠2東市之樹1作歌一首
 
310 ひむがしの 市の植木の 木垂《こだ》るまで 逢はず久しみ うべ戀ひにけり
 
 東。市之殖木乃。木足左右。不相久美。宇倍戀爾家利。
 
【釋】○「門部王」は後に姓を大原眞人と賜はつた人で、天平十四年に卒した。○「ひむがしの市の植木」といふは東の市の大路に植ゑ並べてある木のこと。平城京の市について關野工學博士の説に、「平城京に東西二市の區劃ありしことは、續日本紀に天平十三年八月、平城の二市を恭仁京に遷せしことを載せ、又天平神護元年四月米價の踴貴せるを以て、左右京の穀各一千石を、東西に糶せしことを記したれば明かなるべし。(中略)其の位置は平安京の如く明かならざれども、東市は辰市村大字杏に小字辰市あれば、其の附近なるべく、西市は郡山町大字九條に田市と稱する地あれば、其の附近なるべし。されば東西市は八條の内にありし者の如し」とある。(「平城京及大内裏考」−東京帝國大學紀要工科第三册)市の植木の事は既に述べた。○「木垂」は老木の枝が下に垂れるのをいふ。○「逢はす久しみ」は逢はずして久しく經た故にの意である。○「うべ戀ひにけり」はかく戀しく思ふもうべなるかなの意。
(195)【譯】東の市の大路の若木の並木が老木となつて、枝が垂れ下るまでも、久しく逢はなかつたのであるから、こんなに戀しく思ふのも尤もなことである。
【評】逢へない戀の歌であるが、序の並木が、久しい間といふ觀念を婉曲に、且つ美しく説明してゐる。
 
   波多朝臣少足《ハタノアソミヲタリ》歌一首
 
314 さざれ波 磯こせぢなる 能登瀬川《のとせがは》 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに
 
 小浪。磯越道有。能登湍河。音之清左。多藝通瀬毎爾。
 
【釋】○「少足」の傳未詳。○「さざれ浪」はさざ波のことで、磯を打ち越すといふ意で、巨勢にいひかけたのである。即ち初めから磯までが巨勢の序である。○「巨勢路」は大和から紀伊へ越す通路にあたる。(既出)○「能登瀬川」は巨勢の山から流れ出てゐる重阪《ヘサカ》川(蘇我川となり大和川に入る)のことであらう。
【譯】巨勢路にある能登瀬川の瀬毎に、さあ/\と水音を立てゝ流れる、あの川瀬の音のいさぎよさよ。
【評】音調がよくて、恰も川瀬のせゝらぎを耳にするやうな感を與へるのは、サ行音が配置せられてゐる爲である。この歌の如きは、この調を生命とするものである。
 
   山部宿禰赤人望2不盡山1歌一首並短歌
 
317 天地《あめつち》の わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき (196)駿河なる 富士の高嶺《たかね》を 天《あま》の原 ふりさけ見れば 渡る日の かげもかくろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪はふりける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は
 
 天地之。分時從。神佐備而。高貴寸。駿河有。布士能高嶺乎。天原。振放見者。度日之。陰毛隱比。照月乃。光毛不見。白雲母。伊去波伐加利。時自久曾。雪者落家留。語告。言繼將往。不盡能高嶺者。
 
【釋】○「山部赤人」の傳は詳かでない。集中の作によると、聖武天皇の朝に仕へた下級の官吏であつたらしい。神龜元年には行幸のお供をして紀伊に行き、天平年間には吉野離宮に陪從して、勅によつて歌を獻じ、又伊豫の温泉に浴し、辛埼・敏馬浦等にも遊び、又東國にも旅行して富士を詠んでゐる。(茲に講ずる歌がそれである。)家持が越中に在る時、同族の池主に與へた書中に、「幼年未v逕2山柿之門1」とあるその山柿は、山上憶良と柿本人磨とではなからうかといふ論もあるが、山はやはり赤人であらうと思ふ。今日の批評眼から見れば、憶良の伎倆は赤人の上にあることには、誰しも異存はなからうが、赤人の歌風は一體に優婉であつて、萬葉前期の雄健素朴な歌風と、平安朝の優美繊弱な古今風との中間に屬するものであつて、如何にも天平歌人に悦ばれたものらしく思はれる。貫之が古今集序に「また山部赤人といふ人ありけり。歌に奇く妙なりけり。人麿は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麿が下に立たむこと難くなむありける」と云つたのを見ても、この推察の無理ならぬことが知れよう。兎に角赤人は萬(197)葉後期の前半期を代表する宮廷歌人であつたのである。○「天地のわかれし時ゆ」は天と地と始めて分れた開闢の時から。○「かむさびて」はかうがうしくてといふ意。(既出)○「天の原ふりさけ見れば」は空に仰ぎ見ればの意である。(既出)○「かげもかくろひ」は日の光もかくれてといふ意。「かげ」は「ひかげ」即ち光のこと。「かくろひ」は「かくり」の延言で、繼續的の意義を表はす語形であるから、この句の意味は、日の光が富士の大きな姿に遮られて、ずつと隱れてしまふ意になる。○「い行きはばかり」は行きかねてゐるといふ意で、雲も山の尊嚴を犯さぬやうに近づきかねて、中天に遠ざかつてかゝつてゐること。「い」は接頭語である。○「時じく」は非時若くは不時の字を訓ませてゐる。何時といふ定まりもなくの意。(又時候はづれの意にもなる)トキジク・トキジキと活用した形蹟がある。○「語りつぎ言ひつぎ行かむ」の意義を代匠記には「將來も此の山の事は言ひつゞけむとなり」といひ、考には「吾が行く道の先々に語りつぎ云ひつぎなんと云ふなり」といひ、古義には「末の代にも未だ見ぬ人にも語り傳へ言ひ繼ぎゆかむとなり」と云つてゐる。代匠記の説に對して新考に、永久不滅の山を後の世に語り繼ぐのは不理合であるから、同時の人の未だ見ぬ人に語りつぐといふ意に解くべきであると云ふ。今新考の説に從つて釋く。
【釋】天と地と始めて分れた時から、かうがうしく高く貴い姿をして、屹立してゐる駿河にある富士の高嶺を、大空に仰いで見ると、空を行く日の光も山に隱れてしまひ、夜照る月の光も山のために見えなくなる。又白雲さへも山に近づきかねて中天にかゝり、頂上には時の見さかひもなく、雲が眞白に降つてゐる。この崇高なる富士の高嶺のさまを、未だ見ない人に普く語り傳へたいものである。
【評】天地開闢の時以來と歌ひ起して、先づ時間的に莊重な感を與へ、「渡る日の」以下の八句で、空間的に姿の高く且つ大きいことを述べ、終りの三句で人々に普く語り傳へようといつて結んである。結構修辭共に巧みで、思想が頗(198)る崇高であつて、叙景詩人としての赤人の手腕を示した作である。守部は「白雲もい行きはばかり」の下に、「飛ぶ鳥も飛びも登らず」といふ句があつたのではあるまいかと云つてゐる。これは次に講ずる作者未詳の富士の長歌に右の句があるのでさう思つたのであらうが、こゝは「時じくぞ雪はふりける」といふ二句が下にあるから、山の高いさまを叙した雲の句と、この二句とで事は足るのであつて、必ずしも鳥の句を要しないのである。
 
   反歌
 
318 田兒《たご》の浦ゆ 打出《うちい》でて見れば 眞白にぞ 富士の高嶺に 雪はふりける
 
 田兒之浦從。打出而見者。眞白衣。不盡能高嶺爾。雪者零家留。
 
【釋】○「田兒の浦ゆ打出でて見れば」の「打」は接頭語。考にこの二句を「打出て田兒の浦より見ればと心得べし」といひ略解に「田兒の浦より東へうち出て見ればといふ意」といひ、古義に「田兒の浦より沖の方へといふ意なり」といつてゐるが、槻落葉及び檜嬬手に、「ゆ」を「に」の意に見て、只田兒の浦に出て見ればといふ意に見てゐる。この説がよいと思ふ。○「雪はふりける」は雪が降つてゐるといふ意。
【譯】田兒の浦に出て見ると、青空にそびえてゐる富士の高嶺に、雪が眞白に降り積つてゐるのが見える。
【評】契沖が古今の絶唱と嘆稱した歌である。兎に角富士を詠じた多くの歌は、これほど大きく自然に歌はれてゐない。仰ぎ見た時の感じが素朴に表はされてゐるので、無限の味ひがあるのである。初めの字餘りの悠々迫らざる口調が頗るよい。
 
   詠2不盡山1歌一首並短歌
 
(199)319 なまよみの 甲斐の國 うちよする駿河の國と こちごちの 國のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひもかね 名づけも知らに くすしくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の つつめる湖《うみ》ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日《ひ》の本《もと》の やまとの國の 鎭めとも います神かも 寶とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は (200)(見れど飽かぬかも
 
 
 奈麻余美乃。甲斐乃國。打縁流。駿河能國與。己知其智乃。國之三中從。出立有。不盡能高嶺者。天雲毛。伊去波伐加利。飛鳥母。翔毛不上。燎火乎。雪以滅。落雪乎。火用消通都。言不得。名不知。靈母。座神香聞。石花海跡。名付而有毛。彼山之。堤有海曾。不盡河跡。人之渡毛。其山乃。水乃當烏。日本之。山跡國乃。鎭十方。座神可聞。寶十方。成有山可聞。駿河有。不盡能高峯者。雖見不飽香聞。
 
【釋】○「なまよみの」は甲斐の枕詞。なまよみの意味について代匠記に、生吉貝《ナマヨミノカヒ》といふ意であらうか、鰒・榮螺《サザエ》等は生で賞味するからであるといひ、古義にも生善肉《ナマヨミ》の意であるとしてゐる。なほ冠辭考には生弓《ナマユミ》の轉じたので、生木の弓は反《カヘ》るといふ意でかけたのであるといひ、守部もこれに從つてゐる。其の他弓に作る生木を産する甲斐の意といひ、薄暗《ナマヤミ》の峽《カヒ》の意といひ種々の説がある。○「うちよする」は駿河の枕詞。その意義についても種々の説がある。仙覺抄に、浪のよする洲といふことから、スにいひかけたのであるといひ、檜嬬手に浪の打ち寄するするどき川とつづけたのであるといひ、古義に引いてゐる大神景井の説では、駿河國には急流があつて、地をゆするやぅに轟くといふ義から、打動動河國《ウチユスルユスルリカハノクニ》とつづけたのであらうと云つてゐる。○「こちごちの」は雙方の義。(既出)○「み中ゆ」は國の眞中にといふ意。「ゆ」は必ずしも「より」の意でないこと)は、前の「田兒の浦ゆ」の「ゆ」によつても知れる。○「出で立てる」の「出で」は輕く添へた詞である。○「燃ゆる火を云々」は當時噴火してゐたのである。○「くすしくも」は本文に「靈母」と」あつて、考・略解等にアヤシクモとよみ、槻落葉・古義・註疏・新考等にクスシクモとよんゐる。今後説による。意は靈妙にも。○「います神かも」上代の人はすぐれた山を神として尊んだのである。甲斐と駿河とにある淺間神社は、後世は祭神を木花開耶姫命としてゐるが、もとは自然崇拜の宗教心から山の靈を祀つたのである。○「せの海」の本文は「石花海」とある。石花は貝の名のセを借りたのである。せの海〔三字傍点〕を代匠記・考・略解等に鳴澤のことであると云つてゐるが、守部は富士の八湖の一で、鳴澤ではないと云つてゐる。これは元より著しい八湖の一でなくてはならぬ。然らば八湖のうちの何れであるかといふに、新考によれば今の西湖・精進湖を指したので、こ(201)の二湖は貞觀六年の噴火の時に分れたので、それまでは一つの湖であつた。西湖の西の字は、萬葉にセとよませた例があるから、もとせの海〔三字傍点〕と云つたのを、甲斐の人がニシノウミと訓みあやまり(これは甲斐國人名取繁樹の説とし間宮永好が犬鷄隨筆に掲げてゐる説)それを今は更にセイコと云つてゐるのであると。○「富士川と」の「と」は、とての意。○「水のたぎちぞ」の「たぎち」は、「たぎつ」といふ動詞の名詞形で水のさかまくこと。○「日の本のやまとの國」の「日の本の」は「やまとの國」の枕詞である。かくいひ續けた例は、この歌と續後紀にある興福寺の僧の詠んだ長歌に、「日の本の野馬臺《ヤマト》の國を…日の本の倭の國は……」とあるのと、二つあるのみであるといふことである。日本といふ國名は外國と交通するやうになつてから設けた名で、孝徳天皇の御代に始まつてゐる。從つて「日の本の」といふ枕詞もこの國名から出たのであらうと思はれる。○「鎭めとも」は國土鎭護の意。
【譯】甲斐の國と駿河の國と、兩方の國の眞中に屹立してゐる富士の高嶺は、空を自由に飛び行く雲さへ、行きはばかる山であり、空を思ふまゝに翔る鳥さへ、飛びのぼることを敢てしない山である。その山の頂では、燃える火を降る雪で消し、降る雪を吐く火で消すといふやうに、火と雪と互に闘つてゐて、何とも云ひやうもなく、形容の語も知らぬ程靈妙なる神山である。せの湖〔三字傍点〕と云ふ大きな湖も、この山が抱へてゐる湖である。富士川と云つて人が渡る大河も、この山の水のたぎり落ちる流である。誠にこの山は、わが國の鎭守の神でもあり、國の寶ともなつてゐる山である。眞に駿河の富士の高嶺は、いつまで眺めても飽くといふことのない山である。
【評】初めの數句は赤人の作に似た所があるが、「燃ゆる火を」以下四句で、頂上の壯觀を叙し更に進んで、裾に抱かれた湖と、麓を流れる富士川の激流とを述べたのは、赤人の作以上に出でた觀がある。なほ山の偉力を驚嘆して神といひ、鎭護の神とも國の寶とも稱へた所は、上代の人の思想が窺はれて面白い。兎に角富士を歌つた古今の傑作とい(202)ふ評は過言でない。
 
   反歌
 
320 富士の嶺《ね》に ふりおける雪は みな月の 十五日《もち》に消《け》ぬれば その夜ふりけり
 
 不盡嶺爾。零置雪者。六月。十五日消者。其夜布里家利。
 
【釋】○「みな月」は六月。○「十五日」を「もち」といふのは、滿月をモチヅキといふのが轉じたので、モチはモチノ日の略である。守部はモチは滿の義で、月の盈ちる極みの意であると云つてゐる。
【譯】富士の嶺に降り積つてゐる雪は、さすがに夏の眞盛りの六月十五日には、一旦消えるけれども、その夜また降り積つて、もとのやうに眞白くなるのだ。
【評】長歌に歌つた頂上の偉觀を、他の方面から歌つたので、暑さの眞盛りに一度消えても、其の夜また降り積るといふのは、つまり一年中雪が消えない壯觀を巧みにいひ廻したのである。
 
321 富士の嶺《ね》を 高みかしこみ 天雲も い行きはばかり たなびくものを
 
 布土能嶺乎。高見恐見。天雲毛。伊去羽計。田菜引物緒。
 
【釋】○「ものを」の「を」は感動の助詞である。「ものを」は「なるよ」といふのと同じ。
【譯】富士の嶺があまり高いので畏れかしこんで、空を行く雲も遠慮して、山の中程にた靡いてゐる。さても尊い山である。
(203)【評】これは高いことを嘆賞したのである。「天雲もい行きはばかり」の句は、前の長歌にもあり、又赤人の長歌にもあるので、それらを見て來た眼には、平凡の感が起るであらうが、併しこの一首だけ引き離して見ると、決して平凡な句ではない。さてこの無名の作三首を、藤井高尚は赤人の作であると云ひ、(「歌のしるべ」に見ゆ)佐々木博士は萬葉集の左注に「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以v類載v此」とあるのは、恐らく右三首云々の誤りであつて、三首とも蟲麿の作と見るのが穩當であると云はれた。(「和歌史の研究」五六頁)蟲麿については後に述べる。
 
   山部宿禰赤人至2伊豫温泉1作歌一首並短歌
 
322 すめろぎの 神の命《みこと》の 敷きます 國のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の よろしき國と こごしかも 伊豫の高嶺の 伊佐庭《いさには》の 岡に立たして 歌思ひ 辭《こと》思はしし み湯の上《へ》の 樹村《こむら》を見れば おみの木も 生《お》ひ繼ぎにけり 鳴く鳥の 聲もかはらず (204)遠き代に かむさび行かむ いでましどころ
 
 皇祖神之。神乃御言乃。敷座。國之盡。湯者霜。左波爾雖在。島山之。宜國跡。極此疑。伊豫能高嶺乃。射狹庭乃。崗爾立之而。歌思。辭思爲師。三湯之上乃。樹村乎見者。臣木毛。生繼爾家里。鳴鳥之。音毛不更。遐代爾。神左備將往。行幸處。
 
【釋】○この歌は赤人が伊豫の道後の温泉に行つた時の作である。道後の温泉は有馬温泉などと共に、上代から有名な所であつた。伊豫風土記によるに、古くは景行天皇と仲哀天皇の行幸があり、稍下つて聖徳太子の行啓があつて、温泉の碑文をお撰びになり、(碑は傳つてゐないが碑文は釋日本紀にある。)次で舒明天皇も行幸遊ばされたが、その時は宮の前の椹《ムクノキ》と臣《オミ》の木とに、班鳩《イカルガ》と此米《シメ》鳥とが鳴いてゐたので、稻穂を懸けて養はしめ給ひ、歌をお歌ひになつた。なほ下つては齊明天皇の行幸があつたので、(額田王の「にぎた津に船乘せむと」といふ歌はこの時の作である。)前後五度の行幸啓があつたのである。此の歌の中には、舒明天皇の行幸の時のこと、並びに聖徳太子の行啓の時の故事を追慕して歌つた所があるから、これだけの事を前以て述べて置くのである。○「すめろぎの」は歴代の天皇を指してある。○「國のこと/”\」は日本國中の意。○「湯はしも」の「しも」は二つの助詞で、「湯は」といふのを強く指したのである。○「島山」は伊豫の國を指したのである。(槻落葉や古義に、四國の事といつてゐるのは穩當でない。)新考にこの句の上に「この伊豫國をしも」といふ語を補つて見よとある。○「よろしき國と」は景色の整つてゐる國とての意。○「こごしかも」は險しいかなといふ意。この句は次へ掛つて、伊豫の高嶺を修飾してゐるのである。○「伊豫の高嶺」は槻落葉に西村重波の説といつて石槌山のこととし、檜嬬手・古義共にこれに依つてゐるが、地理の關係からいへば、道後の附近の山脈を指したものに相違ない。即ち次の伊佐庭の岡のある山々をいつたのである。○「伊佐庭」は伊豫風土記に「立2湯(ノ)岡(ノ)側碑文1處謂2伊社爾波《イザニハ》》1者。當土諸人等其碑文欲v見而|伊社那比來因《イザナヒキケルニヨリテ》謂2伊社爾波1也。」とあるから、碑文の在つた處である。然しそれが今の何處であるか詳かでない。古義に延喜式神名帳に(205)伊豫國温泉郡伊佐爾波神社湯神社」とある其の處であると云つて、今の温泉の東方にある湯月八幡並びに湯神社(湯月八幡は伊佐爾波神社のことである。之を古義に湯神社としてゐるのは誤である。)の位置をそれと定めてゐるけれども、松山中學の桑原達雄氏の報ずる所によると、「上代の温泉は今の處より少しく離れた、鷺谷《サギタニ》にあつたのが、地震の爲に湮没したので、其處にあつた湯神社も今の處に移されたのであると傳へてゐるから、今の湯神社の位置によつて伊佐庭を決定する事は出來ない。思ふに現今遣後公園の地は、昔時|温泉館《ユノタチ》の在つた處であるらしく、又湯月八幡も社傳によれば、もと其處にあつたといふことであるから、伊佐庭も今の公園地にあたるものゝやうに思はれる」と云つてゐる。さて「伊佐庭の岡に立たして云々」は聖徳太子の故事を歌つたのである。○「歌思ひ辭思はしし」は聖徳太于が歌や碑文を思ひめぐらし給うたこと。○「み湯の上」は温泉のあたりの意。○「樹村」は樹の茂つてゐる森。○「おみの木」は仙覺抄・代匠記等にモミ(樅)の木であるといつてゐる。これはかの舒明天皇の故事を偲んで詠んだのである。○「鳴く鳥」は班鳩と此米。○「遠き代に云々」は永遠にいよ/\神々しくなり行くであらうの意。
【譯】天子樣の知ろしめし給ふこの日本の國中に、温泉は幾箇所もあるけれども、特にこの伊豫の國は、島山の景色の美しい處として、險しい伊豫の高嶺の山つづきにある伊佐庭の岡に、聖徳太子がお立ちになつて、歌や碑文を思ひめぐらされたといふ、み湯の森を見上げると、舒明天皇が行幸遊ばした時にあつたと云ふ樅の木も、若木が生ひ繼いでゐる。そして其の木に留つて鳴いたといふ鳥の聲も、昔に變らずに鳴いてゐる。かうしてこの行幸の地は、永遠に神々しくあることであらう。
【評】赤人は叙景詩人であつた。この作の如きは、作者が人麿であつたら、大津の荒都で歌つたやうに、深い懷古の情が歌はれたであらうが、作者が赤人だけに、これをも叙景的に歌つてゐる。赤人のこの特色は、次に講ずる神岳に(206)登つてよんだ長歌にも同樣に表はれてゐる。さて此の歌は五度まで行幸啓があつたと云ふ歴史的背景に對して、莊嚴なる感を抱いて歌つたものである。
 
   反歌
 
323 ももしきの 大宮人の 饒田津《にぎたづ》に 船乘《ななの》りしけむ 年の知らなく
 
 百式紀乃。大宮人之。飽田津爾。船乘將爲。年之不知久。
 
【釋】○「ももしきの」は大宮の枕詞。(既出)○「饒田津」は今の三津濱の古名であると稱せられてゐるが、桑原達雄氏の報ずる所によると、このあたりは地形の變があつたので、昔の港は温泉とさまで距れてゐなかつたことは確かである。現に温泉の附近(西方)にある御幸寺山(五帝行宮址と云ひ傳へてゐる處)には、昔時潮が寄せてゐたと云ひ傳へられ、又蠣殻の附著した岩を、その山から發見したこともあるさうである。○「年の知らなく」は幾年經たか知れないことだと云ふ意である。○この歌は既に述べた通り、齊明天皇の行幸の時を追懷して、それ以來幾年を經たことか年數も知れぬ程であると歌つたのである。赤人は聖武天皇の御代の人であるから、齊明天皇の時代からは六七十年を經てゐる。
【譯】昔齊明天皇の行幸の時に、御伴の大宮人が饒田津に船を乘り出したといふが、それは隨分古いことであつて、それ以來何年經たことか、年數さへ知れない。
 
   登2神岳1山部宿禰赤人作歌一首並短歌
 
(207)324 三諸《みもろ》の 神名備《かむなび》山に 五百枝《いほえ》さし 繁《しじ》に生ひたる つがの木の いやつぎつぎに 玉葛《たまかづら》 絶ゆることなく ありつつも 止《や》まず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほじろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴《たづ》は亂れ 夕霧に かはづはさわぐ 見るごとに 音のみし泣かゆ 古思へば
 
 三諸乃。神名備山爾。五百枝刺。繁生有。都賀乃樹乃。彌繼嗣爾。玉葛。絶事無。在管裳。不止將通。明日香能。舊京師者。山高三。河登保志呂之。春日者。山四見容之。秋夜者。河四清之。旦雲二。多頭羽亂。夕霧丹。河津者驟。毎見。哭耳所泣。古思者。
 
【釋】○「神岳」は前に述べて置いた雷岳である。此の歌の最初に、「三諸の神名備山」といつてゐるのは神岳のことで、一に神名備之三諸山とも云つた。單に三諸山と呼ぶ山は他に幾つもある。例へば磯城郡の三輪山も三諸山、又生駒郡の龍田にある神南山《カムナビヤマ》も三室山と云つてゐるが、神名備之三諸山といふのは神岳に限るのである。さて神名備山といふのは、大和のみならず山城にもある。神名備とは神の森といふ意で、昔神を祀つた森をいふのである。又三諸(208)山のミムロ(又ミモロともいふ)といふのは御室の義で、上代には陵墓に於て祭祀を營なんだので、神を祭る山をかう呼ぶのである。神名備山や三諸山が各地にあるのも當然なわけである。○さてこの長歌は、赤人が飛鳥の神岳(雷岳)に登つて、天武天皇の郡であつた淨見原宮の往時を偲び、古郡の荒れて行くことを嘆じた作である。○「つがの木の」は下の句の「つぎつぎ」の枕詞。最初の句から是までは、眼に映じたものを以て、つがの木〔四字傍点〕を云ひ起したので、つがの木〔四字傍点〕までの五句が序となつてゐる。○「玉葛」は「絶ゆることなく」の枕詞。かづらは長く這ひ纏うてゐるからである。○「ありつつも」は生き長らへてといふ意。○「やまず通はむ」は絶えず通ひたいといふ意。○「明日香の古き都」は飛鳥の淨見原宮である。○「山高み」は山が高くしてといふ意。二の句を古義・註疏・新考に、神岳の高い事を云つたやうに説いてあるけれども、神岳は小高い丘であつて、決して高いとは云へない。(たとへ誇張したとしても)飛鳥の地にあつては、西に遠く金剛・葛城が高く聳えてゐるが、それまで行かずとも、東に近く多武峯山彙があり、それから南にかけて、高取壺坂から吉野の連山が屏風を廻したやうに見え、又西には甘檮丘つゞきの、野口五條野あたりの丘陵が、指呼の間にあるのであるから、此所はそれらの山々を指したものに相違ない。○「川とほじろし」の川は飛鳥川である。「とほじろし」は遠く著しい意で、どこまでも明瞭に見えてゐる川のさまを云つたのである。○「山し見がほし」の「し」は例の助詞で、「見がほし」は山の景色が美しいので常に見たいとの意。○「川しさやけし」は川の景色が清くさつぱりしてゐること。○「かはづ」は田の中などに居る蛙でなく、鳴聲の好い河鹿《カジカ》のことである。だから集中の「かはづ」は、悉く清い川瀬に詠んである。(槻落葉別記參照)今は飛鳥川は水が涸れて河鹿もゐなくなつたが、吉野山中や伊勢の五十鈴川などには澤山に居る。○「見るごとに云々」は見る景色の美しいのにつけても、この舊都の荒れ行くのが惜しまれると云ふのである。
(209)【譯】三諸の神名備山に、枝の茂つた栂《ツガ》の木が生ひ茂つてゐるが、その栂の名の通り、つぎ/\に絶えることなく、いつまでもかうして長らへて、常に遊びに來たいと思ふこの飛鳥の古い郡は、見渡す山々が高くて、川が遠くまではつきりと見渡され、春の日は遠くの山がまことに美しく、いつまでも眺めてゐたいほどであり、秋の夜は飛鳥川の川瀬の音がさやかに聞え、朝雲をかすめて鶴が亂れ飛ぶのも見え、夕霧のこめてゐる川邊に、河鹿が鳴きさわぐのも聞える。かういふ美しい景色を來て見る毎に、この古い郡の盛であつた頃が思はれ、時の立つにつれて、追々と荒れ行くのが惜しくて、聲を立てて泣かずには居られぬ。
【評】これは赤人の代表的の作である。前半は人麿の作風を指事して、生氣を缺いでゐるが、後半は叙景歌人としての赤人の詩才を、最もよく發揮したものである。即ち「川とほじろし」「山し見がほし」「川しさやけし」と、二句目毎で歌ひ切つた遵勁な句法は、雄大な對景をさながらに傳へる響であつて、莊大にして優美な飛鳥の古京の山川風物と、作者の心とが溶け合つて、自ら流れ出たものである。この自然と隔合した氣分で、高く澄み切つた歌を歌ふのが、赤人の手腕であつたのである。守部はこの長歌と、前に講じた伊豫の温泉で詠んだ作とを、赤人の傑作としてゐる。
 
   反歌
 
325 飛鳥川 かはよど去らず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 戀にあらなくに
 
 明日香河。川余藤不去。立霧乃。念應過。孤悲爾不有國。
 
【譯】初から「立つ霧の」までは景色を叙べて序としたのである。これを古義・註疏には「過ぐ」の序とし、考・略解には戀の序としてゐる。これは後説がよい。飛鳥川の淀みの上に常に立つてゐる川霧のやうにといふ意で、止む時とては(210)ない戀の序に置いたのである。○「おもひ過ぐ」は新考に「一時おもひてやむといふこと」とおぼゆ」とある。一時的の意である。○「戀」は舊郡の戀である。
【譯】飛鳥川の川淀にはいつも霧が立つてゐるが、その霧と同じで、私が舊都を慕ふ情は、つひぞ念頭から消えたといふことがない。
【評】川淀にぢつとかゝつて、晴れたことのない霧を序に置いたので、作者の心持が明白に表はれてゐる。この序の霧は象徴といつてもよいのである。
 
   太宰少貳小野|老《オユ》朝臣歌一首
 
328 青丹よし 寧樂の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり
 
 育丹吉。寧樂乃京師者。咲花乃。薫如。今盛有。
 
【釋】○「小野老」は續紀によるとし、天平九年六月に卒した人であるから、奈良の極盛時代即ち所謂天平時代の文化を見た人である。
【譯】奈良の都は咲き盛つてゐる花のやうに、今や全盛の時である。
【評】平城京の極盛期に會つて、當代を謳歌した名高い作である。平明な歌であるが、溢れるばかりの滿足と喜悦が一首に流れてゐる。
 
   沙彌滿誓《サミノマンセイ》詠v綿歌一首
 
(211)336 しらぬひ 築紫《つくし》の綿《わた》は 身につけて 未《いま》だは着《き》ねど あたたけく見ゆ
 
 白縫。筑紫乃綿者。身著而。未者伎禰杼。暖所見。
 
【釋】○「沙彌滿譬」は俗名を笠朝臣麻呂と云ふ。沙彌は梵語で沙門と同じ。養老五年太上天皇(元明天皇)の爲に出家し七年に筑紫の觀世音寺(太宰府の附近にあつた)を建てられるにつき、其の地に遣はされて、其の寺の別當となつた人である。○「しらぬひ」は筑紫の枕詞である。天草の海上に見える不知火が枕詞となつたやうに思はれるけれども、不知火は古い文獻には見えてゐない。契沖や眞淵等の説によれば、景行天皇紀に天皇が火の國(今の肥前肥後)に行幸のあつた時、暗夜で舟を着けることができなかつた、其の時遙かに何の火とも知れない火を御覽になつて、船頭に火を指して行けと仰せられて、無事に御上陸になつたと云ふことが見えて居る、その故事に基くのであると云ふ。又古義には白野火を著けるといふ意から筑《ツク》に云ひかけたのか、又は記紀に筑紫の古名を白日別と云つてゐるから、それと關係のある語であらうと云つてゐる。要するにこの語源はなほ不朋である。○「筑紫の綿」は太宰府から年々宮中に獻つた綿であらう。續紀の神護景雲の條に、「三年三月乙未、始毎年運2太宰府綿二十萬噸1輸2京庫1」とある。綿はもと印度の産で、それが支那を經てわが國にも傳へられたのである。○「あたたけく」はアタタケシの連用形で、後のアタタカクと云ふのと同じ。この類の形容詞の古形を例示すれば、「あきらけく」「つらけく」「憂けく」「速《すむ》やけく」等がある。
【譯】筑紫から來る綿といふものは、未だ身につけて着ては見ないが、如何にも暖かさうに見える。
【評】綿を始めて見た時の感じが、素直に歌はれてゐて面白い。この歌によると、當時綿は太宰府に輪人せられ、そこから宮中に獻納せられたもので、未だ一般の者は用ゐてゐなかつたのである。
 
(212)   山上臣憶良罷v宴歌一首
 
337 憶良《おくら》らは 今はまからむ 子泣くらむ その彼《か》の母《はは》も 吾《あ》を待《ま》つらむぞ
 
 憶良等者。今者將罷。子將哭。其彼母毛。吾乎將待曾。
 
【釋】○この歌は憶良が宴會から歸る時に、戯に詠んだものである。○「憶良ら」の「ら」は語調の爲に添へた助詞で、複數の接尾語ではない。○「その彼の母も」を槻落葉にソモソノハハモと訓み、檜嬬手に「彼」を「兒」の誤としてソノコノハハモと訓み、古義に類聚抄に「彼」の字が「子」とあると云つて、ソノコノハハもとよんで居る。今はもとのまゝにしておく。
【譯】憶良はもうお先へ失禮しよう。子供が私を慕つて泣いて居るだらう、又その子供の母も私を待つてゐませうから。
【評】憶良が家庭生活を悦樂した人であることは、卷五の彼の作によつて窺はれるのであるが、その人となりはこの一首にもよく現はれてゐる。宴席を出て行く彼の面目が活躍してゐるやうな歌である。
 
   太宰帥大伴卿讃v酒歌十三首
 
338 しるしなき 物を思はずは一|杯《つき》の 濁れる酒を 飲むべくあらし
 
 驗無。物乎不念者。一坏乃。濁酒乎。可飲有良師。
 
【釋】○「太宰帥大伴卿」は家持の父の旅人である。大伴氏の祖先については、後に述べる機會があるから、今はただ旅人の略傳を記して置かう。旅人の父大納言贈從二位安麿は和銅七年に薨じたが、その年彼は左將軍を拜してゐた。その翌年靈龜元年に中務卿、養老二年に中納言を兼ね、四年には隼人征討の持節大將軍を命ぜられ、聖武天皇の神(213)龜元年正月、正三位に叙せられて太宰帥となつて筑紫に下つたが、七年間その地にあつて、天平二年十月に大納言に任ぜられて歸京し、翌三年從二位に叙せられ、その七年に薨じた。集中に見えてゐる旅人の作は、太宰府に在る頃のもので、晩年の作のみである。旅人が太宰府に在る頃、山上憶良はその部下といふ關係で、親しく往來してゐたのであるが、その頃家持も父に伴はれて筑紫に下つてゐたから、憶良をよく知つてゐた筈である。憶良の歌には漢詩文の影響が著しく認められるが、旅人も亦漢文學の造詣が深く、その作歌の上に、支那印度の思想の影響を受けてゐた事も注意すべきである。○「しるしなき」は無益な。○「思はずは」は思はずにそれよりはの意。(既出)○「一坏の濁れる酒」は一ぱいのドブロクの事。坏《ツキ》は皿を深くしたやうな土器で、酒を盛るのを酒坏《サカツキ》と云ひ、高い脚の附いたのを高坏と云ふ。高坏は菜や魚などを盛るのである。○「飲むべくあらし」は考にノムベカルラシとあるが、集中に假名で「安良之」又は「安流良之」とあるから、アラシ又はアルラシと訓むがよい。
【譯】つまらない物思ひに耽つてゐないで、寧ろ一ぱいの濁酒に我を忘れる方がましだ。
【評】この讃酒の歌を、印度支那思想の模倣に過ぎないと見るのは皮相の見である。守部は此等の歌を、酒に託して儒佛を譏つたものであると云つてゐる。(檜嬬手)如何にもさうであらう。當時新しがる一部の人士の間には、極端なる儒佛思想の實行者もあつたことは、卷五の憶良の歌を見ても分る。即ち此の十三首の歌は、それらの生儒者や似而非佛家に對して、支那の故事や經文の句などを借りて、嘲笑の矢を發つたものと見るのが正當な解釋であらう。そして右の一首に、一坏の濁酒に氣を晴らすに如かずと云つたのは、樂天洒落なそして現世主義の國民性を發揮したものである。
 
(214)339 酒の名を 聖《ひじり》とおほせし 古《いにし》への 大《おほ》き聖《ひじり》の 言《こと》のよろしさ
 
 酒名乎。聖跡負師。古昔。大聖之。言乃宜左。
 
【釋】○「聖とおほせし」は酒に聖と云ふ名を負はせたと云ふ意。「聖」は聖天子を始め、賢人有徳の僧、其の他學藝に長じた者を指す語である。酒を聖人と呼んだ故事は、魏書に「太祖禁v酒而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1爲2賢者1。以2清酒1爲2聖人1。」とある。白酒は即ち濁酒である。○「大き聖」は酒を聖人と稱へた人を指したのである。
【譯】酒のことを聖人と云つた、古の大聖人の語は、至極よく出來てゐる。
 
340 古《いにし》への 七《なな》の賢《さか》しき 人たちも 欲《ほ》りせしものは 酒にしあらし
 
 古之。七賢。人等毛。欲爲物者。洒西有良師。
 
【釋】○「七の賢しき」は晋の竹林の七賢人、即ち※[禾+(尤/山)]康・阮藉・山濤・劉伶・阮咸・向秀・王戎を云ふ。サカシキは從來カシコキと訓んでゐたが、今は古義の訓に從つたのである。
【譯】皆が尊敬してゐるあの晋の七賢人だちも、頻りに欲しがつたのはこの酒であらう。
 
341 賢《さか》しみと 物いふよりは 酒飲みで 醉《ゑ》ひなきするし まさりたるらし
 
 賢跡。物言從者。洒飲而。醉哭爲師。益有良之。
 
【釋】○「賢しみと」は從來カシコシトとよんでゐたが、これも古義の訓によつて、サカシミトと訓むがよい。「さかしみ」は賢こぶつてと云ふ意で、「と」は副詞に接して状態を表はす助詞である。
【譯】賢こがつて下らない事を云ふよりは、酒を飲んで醉泣をする方が、よつぽどましだらう。
 
(215)342 言はむすべ せむすべ知らに 極りて 貴きものは 酒にしあらし
 
 將言爲便。將爲便不知。極。貴物者。洒西有良之。
 
【釋】○「知らに」の「に」は打消の助動詞である。
【譯】いはうにも言ひやうもなく、何とも仕樣もなく、極めて貴いものは酒であらう。
 
343 なかなかに 人とあらずは 酒壺《さかつぼ》に なりてしがも 酒に染みなむ
 
 中中二。人跡不有者。酒壺二。成而師鴨。酒二染嘗。
 
【釋】○「人とあらずは」は、人であるよりはと云ふ意。○「酒壺になりてしがも」は略解に引いてある通り、呉書(呉志とあるは誤)にある、鄭泉の故事によつたのである。即ち鄭泉が死に臨んで、自分の屍は陶家の裏に埋めてくれ、土に化して後、幸に取られて酒壺となつたら、酒に染みて居る事が出來るからと云つたと云ふ話がある。「てし」は過去完了の助動詞で、「がも」は願望をあらはす助詞である。過去に云つたのは強い願望を表はす語法である。
【譯】いつそ人間であるよりは、酒壺になりたいものだ。そしたらいつでも、酒に染みて居られよう。
 
344 あなみにく さかしらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿《さる》にかも似む
 
 痛醜。賢良乎爲跡。酒不飲。人乎熟見者。猿二鴨似。
 
【釋】○「さかしらをすと」は賢こぶらうとしての意。「さかしら」の「ら」は「赤羅小舶《アカラヲブネ》」の「ら」と同じ接尾語で、形容詞の語幹に附いて名詞を造るのである。○四五句の訓は代匠記によつた。考・略解等には、人ヲヨク見レバ猿ニカモ似(216)ルと訓んである。
【譯】見つともないものだ。賢こぶらうとして、酒を飲まない人をよく見たら、小賢しい猿に似て居らう。
【評】酒を讃仰する心持から、其の美味を解しない人の小賢しい態度を、思ひ切つて罵詈してゐる。
 
345 價なき 寶といふとも 一坏《ひとつき》の 濁れる酒に 豈まさらめや
 
 價無。寶跡言十方。一坏乃。濁酒爾。豈益目八。
 
【釋】○「價なき寶」は法華經の謂はゆる「無價寶珠」で、價の量り難いほど貴い寶の義。○結句を新考に類聚古集の「豈益目八方」によつて、アニマサメヤモと訓んである。何れでも意味は同じである。「や」は反語。
【譯】無價の寶といふほどの貴重な寶も、一の杯濁酒にどうして勝らう。
【評】これや次の歌などは漢文の直譯めいた句調である。かういふ格調の上から見ても、此等の作は兎に角集中で異採を發つてゐる。
 
346 夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心をやるに 豈しかめやも
 
 夜光。玉跡言十方。酒飲而。情乎遣爾。豈若目八方。
 
【釋】○「夜光る玉」は支那の歴史や傳説に屡見えてゐる。例へば史記には隋公祝陽が蛇を助けた報で、蛇から夜光の玉を得たことが見え、戰國策にも楚王が秦王に夜光璧を獻じた故事を載せ、又述異記には南海から夜光の玉を得たことが見えてある。○「心をやる」は氣を晴らす意。
(217)【譯】酒にます寶はない。あの夜光る玉と云ふ立派な寶でも、酒を飲んで氣を晴らす樂しみには及ぶものではない。
 
347 世の中の 遊びの道に 樂《たぬ》しきは 醉《ゑ》ひなきするに あるべかるらし
 
 世間之。遊道爾。冷者。醉哭爲爾。可有良師。
 
【釋】○「遊びの道に」は種々の遊の道の中での意。○「樂しきは」(冷者)は槻落葉・小琴に「冷」を「怜」の誤として、タヌシキハと訓んでゐる。今それによつたのである。
【譯】世間に面白い遊び方も隨分多いが、就中樂しいものは、醉泣きするといふことであらう。
 
348 この世にし 樂《たぬ》しくあらば 來む世には 蟲に鳥にも 吾はなりなむ
 
 今代爾之。樂有者。來生者。蟲爾鳥爾毛。吾羽成奈武。
 
【譯】この世さへ酒を飲んで愉快に過したならば、來世は蟲に生れようが鳥にならうが、ちつとも苦しうない。
 
【評】これはやたらに未來世を怖れてゐる佛徒を罵つてゐるので、自分は飽くまで現世を悦樂する者であると云ふのである。此の歌や次の作を見ると單に酒を讃美したものとは思はれぬ。
 
349 生けるもの 遂にも死ねる ものなれば この世なる間は 樂しくをあらな
 
 生者。遂毛死。物爾有者。今生在間者。樂乎有名。
 
【釋】○「生けるもの」(生者)の訓に、イケルヒト(代匠記・槻落葉・略解の一訓)ウマルレバ(略解・古義)等諸説があるが、今は考の訓によつておく。○「ものなれば」はものにあればの意。○「この世なる間」はこの世にある間の意。○「た(218)ぬしくを」の「を」は感動の助詞。○「あらな」の「な」は冀望の意を表はす助詞。
【譯】生きてゐる者はどうせ一度は死ぬるのであるから、この世にながらへてゐる間は、酒を飲んで愉快に暮したいものだ。
 
350 もだをりて さかしらするは 酒飲みで醉泣《ゑひなき》するに なほ及《し》かずけり
 
 黙然居而。賢良爲者。飲酒而。醉泣爲爾。尚不如來。
 
【釋】○第一句を舊訓にタダニヰテ、考にモダシテヰテとあるが、槻落葉によつてモダヲリテと訓むがよい。(宣長・守部・雅澄等同説)モダはムダで徒又は空の意。黙つてゐてといふ意である。○「及かすけり」の「けり」は斷定するやうな云ひ方であつて、否定の助動詞を承けた例は集中に幾らしある。
【譯】黙つてゐて賢こぶつてゐる人は、寧ろ酒を飲んで醉泣をする人に劣つてゐるのだ。
【評】この歌は超然主義をとつて、俗界の人々を馬鹿にしたやうな眼で見てゐる、一部の學者を罵つたものであらう。要するに以上十三首は、半可通の學者に對して、辛辣なる諷嘲を試みたものとして見るべきであつて、酒好きの旅人が、ただ一場の諧謔として詠んだものとのみ解することは出來ないやうである。
 
   沙彌滿誓《サミノマンセイ》歌一首
 
351 世の中を 何に譬へむ あさびらき 漕ぎにし船の 跡なきごとし
 
 世間乎。何物爾將譬。旦開。榜去師船之。跡無如。
 
(219)【釋】○「あさびらき」は朝開いて出て行く意で、朝船が港出をすることである。卷十五に「あさびらき漕ぎ出てくれば武庫の浦の潮干の潟に鶴が聲すも」といふ歌がある。平安朝になつてから、之をアサボラケと訛つて、屡歌に用ゐてゐるが、それだとほの/”\と夜の明け行くことになつて、これとは別の意味になる。この集にはアサボラケといふ語はない。○「漕ぎにし」は漕ぎ往にしの意。イニシのイを省いたのである。○「跡無如」は代匠記・考・略解等に、アトナキガゴトとよんでゐるが、久老はアトナキゴトシとよみ、雅澄もそれによつてゐる。ゴトはゴトシの幹語で、それを述語に用ゐた例も集中にあるから、右二訓は何れに從つてもよいのである。
【譯】世の中の無常を何に譬へたらよからうか。まあ云つて見れば、湊にとまつてゐた船が、朝になつて船出をして漕いで行つたあとに、何も殘らないと同じである。
【評】この歌の譬喩はまことに巧である。大船が朝霧のかゝつた靜かな水面に長い尾を引きながら、すべるやうに出て行つたあとは、湊が急に廣くなつたやうで、どの邊にあの船が泊つてゐたのか、その位置さへ分らなくなる。その時船の泊つてゐたことを思ふと、まるで夢のやうな感がするものである。拾遺集には「朝ぼらけ漕ぎゆく舟の跡の白浪」として載せてゐる。これでは今述べたやうな景が、よほど害はれるやうに思ふ。
 
   山部宿禰赤人歌一首
 
358 武庫の浦を 漕ぎたむ小舟 粟島を そがひに見つつ 乏しき小舟
 
 武庫浦乎。榜轉小舟。粟島矣。背爾見乍。乏小舟。
 
【釋】○「武庫の浦」は攝津の武庫川から和田岬に至る間の浦を云ふ。○「漕ぎたむ」は漕ぎ廻る。○「粟島」は代匠記・考(220)等に阿波國としてあるが、仙覺抄に讃岐國屋島の北方にある島と云ひ、大日本地名辭書に繪島又は大和島(一名大繪島)の別名であらうかといつてゐる。地理の上から考へると、武庫の浦に近い島でなくてはならない。淡路の屬島の何れかの名であらう。○「そがひ」は背面。○「乏しき小舟」を槻落葉・古義・註疏等に、赤人は西に下るものとして其の道すがら反對に粟島を後にして、大和の方へ上つて行く舟のあるのを見て、羨ましく思つたのであると釋いてゐるが、檜嬬手・新考には粟島をうしろにして、面白い景色を恣にしてゐる、船中の人を羨んだのであると解釋してある。何れにも釋かれると思ふが、今は後説に從つておく。
【譯】武庫の浦づたひに漕ぎ廻るあの小舟よ。粟島を背にして、美しい景色を恣にして行く、あの小舟の羨ましさよ。
【評】小舟を二度まで繰り返したのが、作者の心持を強く表はす刀となつてゐる。
 
   笠胡臣金村鹽津山作歌一首
 
364 大夫《ますらを》の 弓末《ゆすゑ》振り起し 射つる矢を 後見む人は 語り繼ぐがね
 
 大夫之。弓上振起。射都流矢乎。後將見人者。語繼金。
 
【釋】○「笠金村」は赤人と同時代の人で、集中有數の歌人であるが、その傳は詳かでない。○「鹽津山」は近江伊香郡鹽津郷(今の鹽津村永原村に當る)の山を云つたのである。そこは琵琶湖の北岸で、山は高く水は深い處で、付生島を前に控へてゐる。古くから北陸道への通路に當つてゐるから、金村も北國への道すがら、この處を通過したのであらう。○「がね」に似た助詞に「がに」がある。今二つを併せて釋いて置かう。「がに」「がね」は何れも二つの助詞の重なつたものであつて、「がに」は「の爲に」の意、「がね」は願望の意を表はすのである。元來「が」には指示の意味が(221)あり、「に」は目的を表はし、「ね」は冀望を表はす語であるから、それらが重なつて結果は、上のやうな意味を表はす事になるのである。(「奈良朝文法史」四四〇頁參照)
【譯】この所を通過した記念に、丈夫なる私が、弓末を振り立てゝ射ておくこの矢を、後に見る人は強い弓を引いたものだと、末の世までも語り傳へて呉れよ。
【評】想も調もよく丈夫振りを發挿した作である。四五の句が功名を重んじた、當時の思想をよく現してゐる。
 
   石上《イソノカミ》大夫歌一首
 
368 大船に 眞梶しじぬき 大君の みことかしこみ 磯廻《いそみ》するかも
 
 大船二。眞梶繁貰。大王之。御命恐。礒廻爲鴨。
 
【釋】○「石上大夫」は左註に「古今案(ニ)石上朝臣乙麻呂任2越前國守1蓋此大夫歟」とある。又久老は續紀に「天平十六年九月石上朝臣乙麻呂爲2西海道使1」とあるから、この歌はその時の作であると云つてゐる。右は參考までに記しておく。○「眞梶」の「眞」は按頭語。梶は既に述べた。○「しじぬき」は繁く貫くの意で、船の左右に澤山の楫を附けること。○「磯廻」は磯廻りをすること。即ち岸に沿うて漕いで行くこと」である。久老・守部の説に、舶がかり〔四字傍点〕することであると云つてゐるのはよくない。
【譯】君命のかしこさに、船に澤山櫓をとりつけて、せツせと漕いで磯めぐりをするのである。
 
   和《コタヘ》歌一首
 
(222)369 もののふの 臣《おみ》のをとこは 大君の まけのまにまに 聞くとふものぞ
 
 物部乃。臣之壯士者。大王。任乃隨意。聞跡云物曾。
 
【釋】○「和歌」は右の歌に和《コタ》へた歌。即ち船中の一人が和した歌である。○「もののふ」は武臣のことであるけれども、又廣く朝廷に仕へてゐる人々をも指す。こゝは廷臣の意。○「臣のをとこ」は「臣のをみな」に對する語で大夫のこと。○「まけ」は任の意。○「聞くとふものぞ」の「とふ」は古義にいつてゐる通り、輕く添へた語であつて、「聞くものだ」といふ意。
【譯】朝廷に仕へ奉る丈夫たるものは、大君の任命のまゝに、よく大命を奉じてお仕へ申すべきものぞ。(よしや航海は苦しくとも、何事も勅命を尊んでお仕へ申さなくてはならぬ。)
【評】皇室を尊崇し、ひたすら君命を重んじた、上代の人の美しい至情が、右の二首によく表はれてゐる。
 
   湯原王芳野作歌一首
 
375 吉野なる 夏實《なつみ》の河の 川淀に 鴨ぞ鳴くなる 山陰にして
 
 吉野爾有。夏實之河乃。川余杼爾。鴨曾鳴成。山影爾之※[氏/一]。
 
【釋】○「湯原王」は天智天皇の皇子の施基《シキ》親王の御子、湯原親王である。○「吉野なる」は吉野にある。○「夏實の川」は吉野川の上流の名。吉野郡國巣村大字菜摘(宮瀧の東)のあたりで夏實川と呼ぶ。○「山陰にして」は山陰にての意。
【譯】吉野の夏實の川の清らかな川淀で、鴨が鳴いてゐる。あの山蔭の處で。
【評】山青く水清き吉野の奥の、清爽な景趣を巧みに歌つてゐる。
 
(223)   湯原王宴席歌一首
 
377 青山の 嶺の白雲 朝にけに 常に見れども めづらしわぎみ
 
 青山之。嶺之白雲。朝爾食爾。恒見杼毛。目頬四吾君。
 
【釋】○「青山の嶺の白雲」は序詞。青々と木の茂つてゐる山に、白雲がた靡いてゐる美しい景色がいかにも面白いので、いつまで眺めても見飽かぬ樣にといふ意。○「朝にけに」は「朝に日に」で、毎日の意。
【譯】青い山の嶺にきはやかに懸つてある白雲の景色を、見飽くことがないやうに、毎日いつも/\見てゐても、我が君は飽くといふことのない、親しまれるお方である。
【評】この歌の生命はその序にある。いつまでも相對してゐたいと思ふ感情が、清麗な序の景趣によつて、情味の盡きないものとなつてゐる。
 
   大伴坂上(ノ)郎女《イラツメ》祭v神歌一首
 
379 ひさかたの 天の原より あれ來《きた》る 神の命《みこと》 奥山の 榊の枝に しらかつく 木綿《ゆふ》とりつけて 齋瓮《いはひべ》を いはひ掘り掘ゑ 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》にぬき垂り (224)ししじもの 膝《ひざ》折りふせ たわやめの おすひ取りかけ かくだにも 吾はこひなむ 君に逢はぬかも
 
 久堅之。天原從。生來。神之命。奥山乃。賢木之枝爾。白香付。木綿取付而。齋戸乎。忌穿居。竹玉乎。繁爾貫垂。十六自物。膝折伏。手弱女之。押日取懸。如此谷裳。吾者祈奈牟。君爾不相可聞。
 
【釋】○「大伴坂上郎女」は大納言安麿の女で旅人の妹である。初め穗積皇子に嫁し、其の薨後藤原不比等の室となり、その死後又大伴宿奈麿の妻となつて、田村大孃と坂上大孃とを産んだ。集中名ある女流歌人の一人である。○「ひさかたの」は天の枕詞。(既出)○「あれ來る」は顯はれ來る意。即ちこの國上に出て來ることである。「ある」は「生る」「顯る」の何れの意にもなる。○「神の命」は大伴氏の遠祖|天忍日命《アメノオシヒノミコト》を指してゐる。二の句の下には助詞の「よ」を置いて見ると」明白になる。○「奥山の榊」は人の蹈んだことのない、清い處に生えてゐる榊の意。榊は榮木の義で、上古にあつては一定の樹でなく、常盤木を以て神靈の宿る所とし、それを立てゝ祭祀を行つたのである。それが何時頃からか今の榊になつたのである。その間に或は樒《シキミ》を用ゐたり、橿を用ゐた事もあつたのである。○「しらかつく」は冠辭考に、木綿《ユフ》の枕詞で、木綿は白髪に似てゐるから云ひかけたのであると云ひ、(考には別の意見を載せてゐる)本居大平はシラカは白紙のことで、木綿に取り添へて用ゐたので、枕詞ではないと云つてゐる。白紙を用ゐたといふ説には從ひ難いが、白髪に似てゐるから枕詞とすると云ふ説も如何かと思はれる。なほ研究して見たい。○「木綿」は白和幣《シラニギテ》のこと(既出)○「齋瓮」は忌み清めた瓮、即ち祭祀に用ゐる食である。瓮《ヘ》は鍋《ナベ》(菜瓮の義)釣瓶《ツルベ》(釣る瓮の義)のへ〔右○〕と同じで容器を云ふ。齋瓮には土器もあり又陶器もある。形は瓶のやうに深いのもあれば、皿のやうに淺いのもある。こゝには掘り据ゑとあるから、丈の高い深い瓮の事である。○「竹玉」は玉を竹に着けたものだと云(225)ひ、或は竹を切つて管玉のやうに造つたものだとも云つてゐるが、高橋健自氏の説によれば、竹玉は管玉の起原でもと竹で造つたのが段々進歩して來て、緑色の碧玉岩で作るやうになつたもので、萬葉の竹玉は管玉或は臼玉(管玉の短いもの)の類であらうと云ふことである。(「鏡と釼と玉」參照)○「繁にぬきたり」は齋瓮に飾り着けたのである。上代の遺物に玉を着けた器物が幾らも出て來る。「しじに」は玉を繁くと云ふ意。「垂り」は垂らす意。當時は「垂る」を四段に活用させたのである。○「ししじもの」の「しし」は猪や鹿の如き獣をいふ。野獣のやうにの意で、「膝折りふせ」の枕詞としたのである。○「たわやめの」は作者自身を指す。○「おすひ」は衣服の上に着る「かつぎ」で、頭から着て裾まである長い着物である。昔は男女ともに用ゐたやうである。○「かくだにも」の「だに」は「かく」(副詞)を強める爲に添へたのである。從つてこれほどまでもと云ふ意になる。○「こひなむ」の「なむ」は祈るといふ義の「のむ」の音の変化したものである。「こひのむ」は請ひ祈る意である。○「君に逢はぬかも」は槻落葉の説によつて訓んだのである。(舊訓は「君に逢はじかも」とある。)君に逢はぬことかなの意で、上に「然るに」といふやうな語を置いて見るとよく通じる。○此の長歌には反歌が附いてゐるが今は省いておく。
【譯】天孫降臨の際に、高天原からこの國土に天降つてお出でになつた、我が遠つ祖の神よ。奥山の榊の枝に木綿をつけ、齋み淨めた土器を庭に掘り据ゑ、それに竹玉を澤山緒に通したのを飾りつけて、鹿のやうに膝を折り屈めて、この手弱女がおすひ〔三字傍点〕を引き被つて、かくまでもお祈りをいたします。どうぞあの君に逢へますやうに。
【評】この歌によつて、上代の神を祀る風俗がよく分る。歌としての價値は兎に角、風俗史の資料として見て面白いと思ふ。當時朝廷や神社で行はれた祭典は、頗る鄭重なものであつたであらうが、家庭で行つた祭も、なほ清淨と善美とを極めたものであつた。遺物によつて見ると、齋瓮には驚くべき精巧なものがあり、それに纒き付けた玉も、(226)數百の美玉を連ねたものがあつて、それ等は祭の度毎に、新しく造つたものらしく思はれる。
 
   筑紫娘子贈2行旅1歌一首
 
381 家|思《も》ふと 心進むな 風まもり よくしていませ 荒きその路
 
 思家登。情進莫。風侯。好爲而伊麻世。荒其路。
 
【釋】○「筑紫娘子云々」は筑紫の或る乙女が大和の方へ行く人に贈つた歌。○「家思ふと」は家を思ふとての意。○「心進むな」の「進む」は「すさむ」と同じで、家郷を慕ふあまりに波風を恐れず、強ひて船を乘り出すやうな事をするなといふ意。○「風まもり」は順風を待ち伺うて。○「よくして」は古義に御無事にと云ふ意と見てゐるが、註疏には危難のないやうによく見計らつてと云ふ意に釋き、又新考には「よくして」を上に續けて、よく風待をしてと釋いてある。新考の説がよい。○「いませ」は行き給へ。
【譯】家を慕ふあまりに、冒險なことをなさるな、天候をよく伺つていらつしやい。あの波風の荒い海のことでございますから。
【評】不安な波路を凌いで歸る、都の人を送る鄙の乙女の細やかな心遣ひが、可憐に歌はれてゐる。
 
   覊旅歌一首並短歌
 
388 わたつみは あやしきものか 淡路島《あはぢしま》 中《なか》に立ておきて (227)白浪を 伊與《いよ》にめぐらし ゐまち月 明石の門《と》ゆは 夕されば 潮を滿たしめ 明けされば 潮を干しむ 潮さゐの 浪をかしこみ 淡路島 磯がくりゐて いつしかも この夜の明けむと さもらふに 寢《い》のねがてねば 瀧の上の 淺野《あさぬ》の雉《きぎし》 明けぬとし 立ちとよむらし いざ子ども あへて漕ぎ出《で》む にはも靜けし
 
 海若者。靈寸物香。淡路島。中爾立置而。白浪乎。伊與爾回之。座待月。開乃門從者。暮去者。鹽乎令滿。明去者。鹽乎令干。鹽左爲能。浪乎恐美。淡路島。礒隱居而。何時鴨。此夜乃將明跡。侍候爾。寢乃不勝宿者。瀧上乃。淺野之雉。開去歳。立動良之。率兒等。安倍而榜出牟。爾波母之頭氣輔師
 
【釋】○「わたつみ」はこゝでは海のこと。○「あやしきものか」は靈妙なるものかなの意。「か」は感動の助詞。○「伊與」は古事記に伊豫之二名島《イヨノフタナノシマ》とあるのと同じで、四國のこと。○「ゐまち月」は座待月の意で、十八夜の月を云ふ。明石の枕詞である。代匠記にこの歌を詠んだ時が恰も十八夜であつたのであらうと云つてゐる。○「明けされば」は朝になるとの意。○「潮さゐ」は潮が騷ぎ鳴ること。この句までは明石海峽から播磨潟にかけての海上のさまを叙したので、これ以下は作者の身上に轉じて行くのである。○「いつしかも」は何時になつたらといふ意。「し」「かも」は助詞。○「さもらふ」は待ち伺ふ意。○「寢のねがてねば」はよく寢られないのでといふ意。「寢をぬる」「がてぬ」の解(228)は前に出てゐる。○「瀧の上」は瀧の邊り。今淺野村から十町許りの溪間に、高さ五丈の瀧があつて、紅葉瀧と呼んで居る。○「淺野」は前に出てゐた野島崎に續いてある村である。○「明けぬとし」は明けぬとての意。「し」は助詞。○「子ども」は舟子どもを指したのである。○「には」は海面。
【譯】海といふものはいかにも靈妙なものである。あの大きな淡路島を海の眞中に立てて、白浪を四國の方にずつとめぐらし、明石の海峽からは、夕方になると潮を滿たせ、朝が來ると潮を干させる。其の鳴り騷ぐ潮の恐ろしさに、淡路島の磯邊に隱れてゐて、いつになつたらこの夜が明けるだらうかと待つてゐると、何となく心も落ちつかずして寢入ることも出來ないでゐると、やがて瀧の邊の淺野の雉が鳴き出した。あれは夜が明けたと云つて鳴き騷ぐのであらう。さあ舟子どもよ、思ひ切つて漕ぎ出さうではないか、幸ひ今海上も靜かである。
【評】作者は四國を出て、淡路島の西海岸に沿うて、明石海峽のほとりまで來て、波を恐れて磯に舟を繋ぎ、一夜をそこで明かしたのである。初めの十二句には、上代人の眼に映じた海洋の壯觀が寫され、それより以下には、當時の渡海の困難があり/\と詠まれてゐる。景も情も共に巧みによまれた作である。
 
   反歌
 
389 島づたひ 敏馬《みぬめ》の埼を 漕ぎためば 大和こひしく 鶴《たづ》さはに鳴く
 
 島傳。敏馬乃埼乎。許藝廻者。日本戀久。鶴左波爾鳴。
 
【釋】○「島づたひ」について考に、淡路から敏馬(攝律武庫郡|都賀濱《トガハマ》村・都賀野村あたりの古名)へ行くには島はないから、恐らくは淡路島を傳つて行くことであらうと云ひ、新考には敏馬の附近には島がないから、或は野島の埼を敏(229)馬の埼と誤つたのであらうと云つてゐる。○「漕ぎためば」の「たむ」はめぐる意。
【譯】島々を傳ひながら敏馬の埼を漕ぎめぐつて行くと、故郷の戀しさをそゝるやうに、鶴が澤山に鳴いて通る。
【評】舟足のおそいのをもどかしく思ひながら、浦傳ひをしてゐると、たま/\群をなして鳴き渡る鶴の聲を耳にしたので、いよ/\大和の戀しさが募つたと云ふので、誠に旅情さもあらうと思ひやられる作である。
 
    譬喩歌
 
   金明軍《コンノミヤウグン》歌一首
 
394 標《しめ》ゆひて わが定めてし 住吉《すみのえ》の 濱の小松は 後もわが松
 
 印結而。我定羲之。住吉乃。濱乃小松者。後毛吾松。
 
【釋】○「譬喩歌」は主想を歌の表面に表はさずして、物に託し詠んだ歌の一體である。長歌が詩の六義の一の賦に擬したものらしく思はれると同じく、これも六義の一の比に擬した名目らしい。○「金明軍」は旅人の部下である。朝鮮から歸化した人か、又はその子孫であらう。○「標ゆひて」は標繩を張る事。標繩を張るのはわが物といふことを示す上代の風習である。「しめ」は領有の意の動詞のシムから成つた名詞である。今日神社に張つてある標繩や、正月に軒毎に吊る標飾は、上代の家の周圍にめぐらした標繩の遺風である。○「わが定めてし」は自分がわが物と定めて置いたといふ意。羲之をテシと訓んだのは、支那の書家王羲之が手師《テシ》であると云ふ所から宛てたので、義訓である。○「住吉」は攝津の住吉である。こゝは大伴の御津が繁榮しない以前の要津であつた。○「濱の小松」は女を譬へたのである。
(230)【譯】標繩を張つて自分のものと定めて置いた、住吉の濱邊の姫小松は、行末いつまでも自分のものである。
 
   笠郎女《カサノイラツメ》贈2大仲宿禰家持1歌一首
 
396 みちのくの 眞野《まぬ》のかや原 遠けども 面影にして 見ゆとふものを
 
 陸奥之。眞野乃草原。雖遠。面影爲而。所見云物乎。
 
【釋】○「笠郎女」は前に説明した沙彌滿誓の在俗の時の女であるか、或は笠金村の女であらうと云はれてゐる。もし滿誓の女とすれば、彼が筑紫の觀世音寺の別當であつた頃に、父に伴はれてかの地に下り、大伴家持に愛せられたものと思はれる。集中に家持との贈答の歌が澤山ある。○「大伴家持」の略傳をこゝに述べて置かう。家持は旅人の晩年の子で、父に伴はれて太宰府に下つてゐたこともある。始め内舍人に召され、天平十八年六月に越中守となつて任地に赴き、天平勝寶六年兵部少輔として召し還され、續いて山陰道巡察使となり、天平寶字元年に兵部大輔、同二年に因幡守等を經て、延暦二年には中納言に進み、三年には持節征東將軍となり、四年に薨じた。此の間聖武・孝謙・淳仁・稱徳・光仁の五朝に歴事してゐる。當時藤原氏の權威が日に盛んであつて、大伴氏は常に壓迫せられてゐたので、家持は大氏民の家運の挽回のために、常に努めてあたやうであるが、遂に如何ともすることは出來なかつた。
 家持は不幸にも死後二十餘日で、大伴繼人及び仲良等が中納言大伴種繼を殺した時、家持がその陰謀に關係があるといふことを讒言された爲に、名を除かれ子息の永主は隱岐に流されたのであるが、それは間もなく無實のことが知れて、父子ともに赦された。この集に見えてゐる家持の作の、年代の記されてゐる最初のものは、天平八年九月で、天平寶字三年正月一日の作が最後のもので、この集の最後の年月となつてゐる。それ以後二十餘年の間、家(231)持の作が傳はつてゐないのは遺憾である。家持は元來多情多感の歌人であり、且つ美貌の人であつたらしいので、愛人がよほど多かつた。笠女郎・坂上大孃・大神女郎・山口女王・傘采女・紀釆女・河内百枝娘子・粟田娘子・阿部女郎・平群氏女郎等と贈答した歌が集中に多く見えてゐる。然し越中に行つてから此等の女性にも離れ愛弟の死に遭ひ、自分も重病に苦しんだので、歌風は全く一變して了つた。即ちそれ以後の歌には人生の無常を歌つたり、苦境の人に同情を寄せた作が多くなり、又忠君愛國の至情を叙べたり、大伴氏の一族を鞭撻するやうな作が主となつてゐる。○「眞野」は磐城國相馬郡眞野郷、今の眞野村上眞野村鹿島村にあたる。○「かや」は神代紀に「草」「草葉」和名抄に「萱」を訓んである。古事記に「鵜の羽をもて葺草《カヤ》とす」とあるやうに、茅・菅・薄・葦・荻等すべて屋根を葺くに用ゐる草を總稱した語である。後には萱が葺草として最も普通に用ゐられたから、カヤの名を獨占するやうになつた。こゝの「かや原」は簿や萱な、どの生え茂つて居る荒野を云つたのである。○「遠けども」は後の語法の「遠けれども」にあたる。○「面影にして」は面影にと云ふ意。「して」は輕く添へた語である。○「見ゆとふものを」は見ゆと云ふものをの意。「ものを」は餘情を含めて結んだのである。
【譯】陸奥の國の眞野の萱原は隨分遠くであつても、一度よく見た景色は思ひ浮べれば、眼前にあり/\と見えて來ると申します。
【評】第二句までを宣長が遠しの序と見てゐるのはよくない。新考には陸奥の眞野の萱原の遠い處すら、面影に見えるものだと云ふ、人口に膾炙してゐた本歌があつたのであらうと云ふ。併しこの歌は、當時の人が遠い處として聞いてゐた、眞野の萱原を譬喩にして、かく近くに居りながら、姿が面影にも立たないのは、如何なるわけであらうかと云ふので、疎々しくなつた男に對する怨を、極めて婉曲に詠んだものと見るべきであらう。
 
(232)   娘子報2佐伯宿禰赤麿1贈歌一首
 
404 ちはやぶる 神の社し なかりせば 春日の野《ぬ》べに 粟まかましを
 
 千磐破。神之社四。無有世伐。春日之野邊。粟種益乎。
 
【釋】○「佐伯赤麿」の傳は未詳。○「ちはやぶる」は神の枕詞。(既出)○「粟」には逢ふ意を含めたのであると云ふ事が、仙覺抄以後多くの註釋書に記してある。果してさうであるか否かは斷言はできない。種々に解釋されるのがこの歌の面白い所である。
【譯】春日野に粟を蒔きたいのだが、そこには貴い神社があるので、どうにもしやうがない。
 
    挽歌
 
   過2勝鹿眞間娘子《カツシカノママノヲトメ》墓1時山部宿禰赤人作歌一首並短歌
 
431 いにしへに ありけむ人の しづはたの 帶解きかへて ふせ屋立て 妻どひしけむ 勝鹿の 眞間《まま》の手兒名《てこな》が おくつきを こことは聞けど 眞木の葉や 茂りたるらむ 松が根や 速く久しき 言《こと》のみも 名のみも吾は (233)忘らえなくに
 
 古昔。有家武人之。倭文幡乃。帶解替而。廬屋立。妻問爲家武。勝牡鹿乃。眞間之手兒名之。奥槨乎。此間登波聞杼。眞木葉哉。茂有良武。松之根也。遠久寸。言耳毛。名耳母吾者。不所忘。
 
【釋】○「勝鹿眞間娘子墓」は下總國東葛飾郡眞間村の眞間川の岸(國府臺の高地)にある。○「いにしへにありけむ人」は眞間の娘子に言ひ寄つた男を云ふ。○「しづはた」は倭文《シヅ》の織物のこと。倭文は線を織り合した文樣であつて、その線には横縞もあれば縱縞もある。又縱横の縞を交叉した市松模樣のもあつた。○「帶解きかへて」を考に男女帶を解きかはして寢ることであると釋いてある。併しさう云ふ意味に解くと、代匠記にも云つてゐるやうに、定まつた男があつたやうに聞える。然るに卷九の同じ手兒名を歌つた作を見ると、誰にも靡かなかつたのであるから、前記の解釋は隱當でない。思ふにその男が身裝をしようとして、美しい倭文織の帶を新に締めてと云ふ意味に解かねばならぬ。即ち「解きかへ」と云ふのは、その男が自分の古い帶を解きすてゝ、倭文の帶を締めてと云ふのである。○「ふせ屋立て」は考に妻どひの枕詞としてゐるが、是は略解に云つてゐるやぅに、ふせ屋を建ての意で、ふせ屋は伏廬と云ふのと同じで、棟の低い小屋のことである。上代では妻を迎へるときには、新たに家を造つたのである。後世新婦のことを新造と云ふのはこの古い習俗が、言語の上に遺つてゐるのである。○「妻どひ」は妻を求めることで、結婚を申込む意であるが、又男女相違ふ意にもなる。こゝは結婚を申出ることである。○「おくつき」は宣長の説によれば奥津城の意で城《キ》は圍ひをした一定の場所をいふ。即ち墓のことである。○「眞木」は既に述べた通り、良材の取れる樹のことで、檜や杉などを指すのである。なほこゝに「眞木の葉」とあるが、葉はたゞ輕く添へた語で、眞木の茂つてゐることを云つたのである。葉を添へることは屡ある。榊のことを榊葉といふもこの類である。○「松が根や遠く久しき」の解には種々の説がある。代匠記には松の根が末遠く延びてゐるやうに、娘子の時代は遠く久しい前(234)の事であるからと云ふ意に見、考・略解は老木の松の根が這ひわたつてゐて、墓をかくしてゐる意に釋き、宣長は「也」を「之」の誤として、「松が根や」は遠く久しきの序であると云つてゐる。何れも隱當でない。思ふにこの句は、前の句の「眞木の葉や茂りたるらむ」と對に置いたのであるから、「松が根」の「根」は「眞木の葉」の「葉」と同じく意味は輕い。松が老いてゐることを云つて、遠い過去の事を聞かせ、從つて墓も所在の明かでないことを述べたものと見るべきである。○「言のみも名のみも」を從來、古來語り傳へた話のみにても、又娘子の名のみにてもの意に釋いてゐるが、この「のみ」は前にも度々あつたやうに、客語の下に添うたのであつて、「を」と同じに見てよい。○「忘 らえなくに」は忘れることが出來ないことだと云ふ意である。「え」は後の「る」にあたる助詞。
【譯】昔男が倭文織の帶を新たに締めかへ、新しい伏屋を造つて云ひ寄つたと云ふ、かの勝鹿の眞間の手兒名の墓を、この處だとは聞くが、眞木が繁つてゐる爲であるか、松の根が這ひはびこるほどに、永い年月を經た爲であるか、定かにそれとも分らない。併し自分はゆかしいあの物語を、又手兒名といふその名前を、到底忘れることが出來ないのである。
【評】「おくつきをこゝとは聞けど」以下の句は既に契沖が云つたやうに、人麿の近江の荒都の詠の、「大宮はここと聞けども云々」のあの句法によつたものと思はれる。さて赤人がわざ/\この地に立ち寄つて、手兒名の墓を弔つた點から考へると、この傳説は當時よほど名高いものであつたのであらう。今も眞間の繼橋の近傍にその祠があるが、これは文龜元年にその地の弘法寺の日與といふ僧が、靈夢によつて建立したものであつて、後世婦人の安産や小兒の疱瘡を祈るやうな土俗を生じて居る。
 
   反歌
 
(235)432 吾も見つ 人にも告げむ 勝鹿の 眞間の手兒名が おくつきどころ
 
 吾毛見都。人爾毛將告。勝牡鹿之。間間能手兒名之。奥津城處。
 
【釋】○「おくつきどころ」は墓のある處、即ち墓所。
【譯】名高い勝鹿の眞間の手兒名の、墓場のさまを自分も見ることが出來た。この有樣を人々にも話して聞かせたいものだ。
 
433 勝鹿の 眞間の入江に 打ち靡く 玉藻苅りけむ 手兒名し思ほゆ
 
 勝牡鹿乃。眞眞乃入江爾。打靡。玉藻苅兼。手兒名志所念。
 
【釋】○三四の句の解釋に兩説ある。第一説はウチナビクと訓んで、打ち靡く玉藻を苅つた手兒名の美しい姿が偲ばれるといふ意に見るのである。第二説はウチナビキと訓んで、娘子が入江に身を投けたことを云つたものと解くのである。この兩説は代匠記に見えてゐて、槻落葉・古義・註疏・新考等は前説により、考・略解は後説によつてゐる。卷九に見えてある手兒名の歌には、水を汲んだ姿を詠んであるから、今は第一説によつて釋いて置かう。即ち入江の玉藻を見て、それを苅つた手兒名の姿を偲んだものと見るのである。
【譯】勝鹿の眞間の入江に、水のまに/\靡いてゐる美しい藻を苅り取つた、古の手兒名の姿が思はれる。
 
   天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴卿向v京上v道之時作歌二首
 
(236)446 わぎもこが 見し鞆浦《とものうら》の むろの木は 常世《とこよ》にあれど 見し人ぞなき
 
 吾妹子之。見師鞆浦之。天木春樹者。常世有跡。見之人曽奈吉。
 
【釋】○この二首は旅人が大納言に任ぜられて、筑紫から上京する時の作であるが、その妻大伴郎女が筑紫で前年に死んだことを悲しんでゐる。○「鞆浦」は備後の鞆である。○「むろの木」はネズといつて杉に似た山地に生育する樹で漢名を杜松といふ。中國ではムロと云ひ美濃ではムロスギといふ。ムロは實群《ミムレ》の義であらうといふ。實が澤山につく木である。鞆のむろの木は大木で、當時名高かつたのであらう。卷十五にも詠まれてゐる。○「常世」は永久の意。○「見し人」は筑紫へ下る時に伴つた妻を指すのである。
【譯】わが妻が嘗て眺めた鞆の浦のむろの木は、いつまでも変らないであるけれども、その妻は早やこの世の人でないのが悲しい。
 
449 妹《いも》と來《こ》し 敏馬《みぬめ》の埼《さき》を かへるさに ひとりし見れば 涙ぐましも
 
 與妹來之。敏馬能埼乎。還左爾。獨而見者。涕具末之毛。
 
【釋】○「敏馬」は前に出てゐる。○「かへるさ」の「さ」は「ゆくさくさ」の「さ」と同じで、動詞の終止形に接して名詞を作る接尾語である。○「涙ぐまし」は「涙ぐむ」といふ動詞に對する形容詞で、涙を催する意である。「ぐむ」は「芽ぐむ」「水ぐむ」などのグムと同じで、催す又は含む意をあらはす接尾語である。なほこのグムは「ふくむ」「くくむ」「こもる」「こむ」などと同じ語根を有してゐる。
【譯】嘗て妻と二人で過ぎた、この敏馬の埼を還りに獨りで通ると、悲しさに涙ぐましくなる。
 
(237)   還2入故郷家1即作歌二首
 
451 人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり
 
 人毛奈吉。空家者。草枕。旅爾益而。辛苦有家理。
 
【譯】人もゐない空しい家に歸つて見ると、旅にある時とは増して苦しい思をすることだ。
 
453 わぎもこが 植ゑし梅の木 見る毎に 心むせつつ 涙し流る
 
 吾妹子之。殖之梅樹。毎見。情咽都追。涕之流。
 
【釋】○「心むせつつ」は心にむせびてといふ意。
【譯〕亡き妻が庭に植ゑておいた梅の木を見るたびに、悲しさが胸にこみ上げて來て、涙がはら/\と零れる。
【評】當時旅人は六十五歳の老人であつて、氣力も衰へてゐた時で、最近に愛妻を喪つた悲嘆と落膽とを、見る物毎に深く感じたものと見える。以上四首は何れも人を動かす哀れな作である。
 
   七年乙亥大伴坂上郎女悲2嘆尼理願死去1作歌一首並短歌
 
460 たくづぬの 新羅《しらぎ》の國ゆ 人|言《ごと》を よしと聞かして 問ひさくる うからはらから 無き國に 渡り來まして (238)すめろぎの しきます國に うちひさす 都しみみに 里家は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保の山邊に なく兒なす 慕ひ來まして しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ いまししものを 生けるもの 死ぬちふことに のがろえぬ ものにしあれば たのめりし 人のことごと くさまくら 旅なるほどに 佐保川を 朝川わたり 春日野を そがひに見つつ 足引の 山邊を指して くらやみと 隱りましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに (239)たもとほり ただ一人して 白たへの 衣手ほさず 嘆きつつ 吾が泣く涙 有間山 雲居たなびき 雨に降りきや
 
 栲角乃。新羅國從。人事乎。吉跡所聞而。問放流。親族兄弟。無國爾。渡來座而。大皇之。敷座國爾。打日指。京思美彌爾。里家者。左波爾雖在。何方爾。念鷄目鴨。都禮毛奈吉。佐保乃山邊爾。哭兒成。慕來座而。布細乃。宅乎毛造。荒玉乃。年緒長久。住乍。座之物乎。生者。死云事爾。不免。物爾之有者。憑有之。人乃盡。草枕。客有間爾。佐保河乎。朝川渡。春日野乎。背向爾見乍。足氷木乃。山邊乎指而。晩闇跡。隱益去禮。將言爲便。將爲須敝不知爾。徘徊。直獨而。白細之。衣袖不干。嘆乍。吾泣涙。有間山。雲居輕引。雨爾零寸八。
 
【釋】○「七年乙亥云々」左註によると、尼理願は新羅から來て歸化した人である。そして大伴旅人卿の佐保の家に長く寄寓してゐて、天平七年に病歿したのである。其の頃大伴安麿(旅人の父)の妻石川命婦が、有馬の温泉に湯治に行つてゐた爲に、その喪に會ふ事が出來なかつたので、留守をしてゐた娘の坂上郎女(旅人の妹)が、葬儀を營んだ後、この歌を詠んで、温泉に居る母に送つたのである。○「たくづぬの」は新羅の枕詞。栲で作つた綱は白いから、シラギに言ひ懸けたのである。○「人言をよしと」は人の言葉を信じての意。(略解・古義・註疏等は「よし」の意を好い國の意に解いてゐるが、新考に「ヨシとあるが果して皇國の形容ならば、人ゴトニヨシトキカシテとあらざるべからず。今の如く人ゴトヲとあるには、ヨシは人言の形容と認めざるべからず。されば人ノ言ヲゲニモトキキ給ヒテといふ意とすべし。」とある。今之に從つておく。○「聞かして」の「し」は例の敬語法の副語尾。○「問ひさくる」は考にある通り問ひやる意であろ。「さく」は「放《さ》く」で「思ひやる」「見やる」のやる〔二字傍点〕に當る。○「うからはらから」は親族兄弟。○「うちひさす」は「宮」又は「都」にかゝる枕詞。代匠記に宮殿の構造は高いから、内に日がさす宮と云ひつゞけたのだと云ひ、冠辭考に麗しき日のさす宮とつゞけたのだと云つてゐる。後説に從ふべきであらう。○「都しみみに」は(240)都に繁くの意。○「さは」は澤山。○「つれもなき」は集中に「由緒母無」「所由無」等の文字をあててゐる。縁故のないと云ふ意。○「佐保の山邊」は大伴安麿の家のある處。○「なく兒なす」は泣く兒が母を慕ふやうにと云ふ意で、慕ふの枕詞である。○「しきたへの」は家の枕詞。袖・床・枕などに懸かる事は既に述べた所であるが、更に轉じて家にも冠するのである。○「あらたまの」は年の枕詞。轉じて「月日」「來經《きへ》」「一夜」などにも懸かる。語の意義について諸説がある。一二を擧げれば、富士谷成章は荒玉の砥《ト》と云ひかけたのであると云つてゐる。即ち掘り出したまゝの玉は砥にかけて磨くからであると云ふのである。宣長は新新間《アラタアラタマ》と云ふことで、年月が移り行く間としいふ意から、年に懸けたのであると云つて居る。併し何れも隱當でない。アラタは「新」「改む」などのアラタと同じであらうと思ふが、マが疑問である。マは宣命の「大命らまと」又中古文の「懲りずまに」「逢はずまに」などのマで、「まゝに」と云ふ意を添へる副詞の接尾語であると云ふ説がある。もしさうであれば、あらたまり行く所のと云ふ意で年に懸かつたものと解すべきである。○「年の緒」は年の連續のこと。緒は「玉の緒」「生《いき》の緒」などの「緒」と同じである。○「住まひ」は「住む」の延言。○「生けるもの」(生者)を代匠記・考・槻落葉・略解等にイケルヒトとよみ、古義・註疏にはウマルレバとよんでゐるが、舊訓のまゝにイケルモノとよむ方がよい。○「のがろえぬ」(不免)を代匠記にはマヌカレヌとよみ、(略解も同じ)考にマヌカレヌとノガロエヌと二訓を擧げ、槻落葉に卷五「令反惑情歌」の「遁路得奴兄弟親族《のがろえぬはらからうから》、遁路得奴老見幼兒《のがろえぬおいみいとけみ》。」とあるのを引いてノガロエヌとよんでゐる。(古義・註疏等これによる。)今この訓によつたのである。○「たのめりし人の云々」は石川命婦等を指して云ふ。○「佐保川を」から「隱りましぬれ」までは葬送のことを云つたのである。○「朝川わたり」は朝に川を渡つて葬送すること。○「くらやみと」は小琴の訓で、舊訓はユフヤミとよんでゐる。何れでもよいと思ふ。「くらやみと隱りましぬれ」は山に埋葬してしまつたこと。「ぬれ」(241)は後の語法ならば「ぬれば」と云ふべき所である。○「知らに」の「に」は打消の助動詞。○「たもとほり」の「た」は接頭語。「もとほり」は徘徊する意。○「白たへの」は衣の枕詞。○「有間山」の下に「に」を置いて見ると明かになる。○「雲居」は空のことであるが、こゝでは只雲のことである。恰も田居が田舍のことにもなり、又田のことにもなると同じである。○「雨に」の「に」は「と」と云ふに同じ。
【譯】新羅の國から人の言ふ所を信じて、たづねて呉れる親戚や兄弟のない、この他國に渡つて入らつしやつて、我が大君がお治めになつてゐる國の都には、人家が賑々しく稠密してゐるけれどもそこに住まないで、どういふ考であつたのか、縁故もない淋しい佐保の山の、大伴の家を慕つて來られて、そこに家を造り、永い年月の間住んで居られたのに、生者必滅の道理は遁れられないものだから、たよりに思つてゐた人々が皆旅をしてゐる間に、朝佐保川を越え春日野を後に見て、山をさして出て行つてしまひ、暗闇のやうに姿を隱してしまはれたから、私は悲しくて何とも云ひやうもなく、どうしてよいか途方に暮れて、唯一人袂を濡して愁嘆してゐるこの涙が、母上の入らつしやる有馬山には、雲がた靡いて雨となつて降りましたか。
【評】この尼は布教のために來て歸化したのであらう。大伴家の人々に深く慕はれ、且つ愛せられてゐたことが、この歌によく表はれてゐる。當時はかういふ歸化人が幾らもあつたのである。この歌は平明な語句を用ゐて、長からぬ句の中によほど細かい叙述をなし、而も作者のやさしい感情が十分に溢れてゐる。終りの數句は殊に才藻の豊かな作者の技倆をよく發揮してゐる。
 
   反歌
 
(242)461 留《とど》め得ぬ 命《いのち》にしあれば 敷妙《しきたへ》の 家ゆは出でて 雲隱《くもがく》りにき
 
 留不得。壽爾之在者。敷細乃。家從者出而。雲隱去寸。
 
【釋】○「敷妙の」は家の枕詞。○「家ゆ」は家をの義。○「雲隱りにき」は死んだことを云つたのである。
【譯】到底留めることのできない壽命であつたから、遂に家を出て姿を隱してしまはれた。悲しい事である。
 
   十一年己卯夏六月大伴宿禰家持悲2傷亡妾1作歌一首
 
462 今よりは 秋風寒く 吹きなむを 如何にか獨り 長き夜を寢む
 
 從今者。秋風寒。將吹烏。如何獨。長夜乎將宿。
 
【釋】○「十一年云々」天平十一年六月に、家持の妻が幼児を遺して死んだ時によんだ歌である。天平十一年は家持が内舍人を拜命した翌年のことである。内舍人は文武天皇の御時に始めて置かれた官で、權官の子弟で二十一歳以上の者を探用したのである。從つて妻に死別れた時の家持の年齡も、二十歳を餘り超えてゐない頃である事がわかる。この妻は家持の嫡妻坂上大孃ではなく、それより前の妻であつて、結婚して間もなく亡くなつたことと思はれる。○「秋風寒く」とあるから六月の末頃で、もう夜寒を覺える頃であつたのである。妻を喪つた作者には、秋風も別して身に泌むものであつたのである。○「如何にか」の「か」は反語。
【譯】これからはそろ/\秋風が吹いて來るだらうに、この夜長を只獨りどうして明かさうか。
 
   悲緒未v息更作歌三首
 
(243)470 かくのみに ありけるものを 妹も吾も 千歳の如く 頼みたりけり
 
 如是耳。有家留物乎。妹毛吾毛。如千歳。憑有來。
 
【釋】○家持が悲嘆の情未だ息まずして、更に詠んだ作である。○「かくのみ」の「のみ」は「かく」を強く聞かせるために添へた助詞である。
【譯】斯くばかりはかなく別れねばならないのであつたのに、さうとは夢にも知らずして、千歳も共にながらへるもののやうに、自分も妻も頼み合つてゐたことである。
【評】「妹も吾も」が哀れを殊に深からしめる詞である。此の歌を始め下の二首を誦むと、青春の血に燃えてゐた若々しい、家持の面目を想像することが出來る。
 
473 佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思《おもひ》出で 泣かぬ日はなし
 
 佐保山爾。多奈引霞。毎見。妹乎思出。不泣日者無。
 
【釋】○「佐保山」は妻を葬つた山。○「霞」は春のものであるけれども、萬葉には秋の霧を霞とも云つたのである。この霞は多くの註釋書に云つてある通り、火葬の煙を思ひ出すと云ふのであらう。○「思出」は代匠記にオモヒイデテ、略解・註疏にオモヒデテ、槻落葉・古義・新考等にはオモヒデとよんでゐる。ヒイテと同じ音が重なるから、略してオモヒデとよむがよからう。
【譯】いとしい妻を葬つた佐保山に、霧のかゝつてゐるのを見るたびに、妻のことを思ひ出して泣かない日はない。
 
(244)474 昔こそ よそにも見しか 吾妹子《わぎもこ》が おくつきと思《も》へば はしき佐保山
 
 昔許曾。外爾毛見之加。吾妹子之。奥槨常念者。波之吉佐寶山。
 
【釋】○「見しか」の「か」は感動の助詞。○「おくつき」はこゝでは墓のある處の意。○「はしき」は愛すべき。
【譯】あの佐保山も以前は何とも思つてゐなかつたのだが、今は吾が懷しい妻の墓のある所であると思ふと、愛すべき山である。
 
   十六年甲申春二月|安積《アサカ》皇子薨之時内舍人大伴宿禰家持作歌一首
 
477 あしびきの、山さへひかり 咲く花の 散りぬる如き 吾が大君かも
 
 足檜木乃。山左倍光。咲花乃。散去如寸。吾王香聞。
 
【釋】○「十六年」は天平十六年である。○「安積皇子」は聖武天皇の皇子。○「山さへひかり」山までも照り映えるほどにの意。
【譯】春の山が照り映える程に、咲き匂うてゐた萬朶の櫻が、一夜の中に散つてしまつたやうに、若く榮えましました我が君が、はかなくも薨じ給うた悲しさよ。
【評】右は長短歌六首の中の一首である。「二月三日作歌」と附記してある。折しも山に咲き滿ちてゐた櫻を見ながら詠んだ作であらう。譬喩が頗る適切である。
 
卷三 終
 
(245)  萬葉集卷四
 
○卷四は全部相聞集である。始めの方には萬葉の前期の歌人の作が載せてあるが、大部分は天平期の歌人の作である。而して特に注意を牽くのは、後半を占めてゐる家持の初期の戀歌である。
 
     相聞
 
   額田王思2近江天皇1作歌一首
 
488 君待つと わが戀ひをれば わがやどの 簾《すだれ》動かし 秋の風吹く
 
 君待登。吾戀居者。我屋戸之。簾動之。秋風吹。
 
【釋】○「近江天皇」は天智天皇。○「君待つと」の「と」は目的をあらはす助詞。○「簾動かし云々」を古義に、人を待つて居る時に風が吹いて來るのは、その人が來る前兆であるといふ諺があつたのであると云つてゐるが、必ずしもさういふ諺があつたものと見ずとも、餘念なく待つて居るとき、たま/\秋風が簾を動かしたので、待人の來たのではないかと驚かされた意味に見てよい。
【譯】君のお出でを待つて心にお慕ひ申上げて居ると、たま/\秋風が吹いて來て、それかとばかり簾を吹き動かしたことである。
(246)【評】心に期して待つてゐるとし、何でもない物音がその人の足音のやうに聞きなされたり、ふと目についたものが、その人かと見えたりするものである。この歌はその微妙な心理状態をよんだもので、感じの深い歌である。いつもながらこの女王の作は巧みである。
 
   柿本朝臣人麻呂歌三首
 
496 三熊野《みくまぬ》の 浦の濱木綿《はまゆふ》 百重《ももへ》なす 心は思《も》へど ただに逢はぬかも
 
 三熊野之。浦乃濱木綿。百重成。心者雖念。直不相鴨。
 
【釋】○「三熊野」の「み」は接頭語。紀伊の熊野である。○「濱木綿」はハマオモトとも濱芭蕉ともいふ。紀伊土佐等の暖國の海岸に生ずる常緑草本である。高さ二尺許りで、葉は幾重にも重なつて莖を包んでゐるので、「百重」の序に置いたのである。○「百重なす」は幾枚も重なつて居るやうにの意。○「ただに」は直接に。
【譯】熊野の浦に生える濱木綿の葉が、幾枚も重なつて居るやうに繁く思つては居るけれども、直接に逢ふことができないのが悲しい。
【評】序の見立が如何にも氣が利いてゐる。結句の字餘りも詠歎の情をよく傳へてゐる。
 
(247)497 いにしへに ありけむ人も わが如《ごと》か 妹に戀ひつつ いねがてにけも
 
 古爾。有兼人毛。如吾歟。妹爾戀乍。宿不勝家牟。
 
【釋】○「いにしへにありけむ人」は別に誰と指す人があるのではない。○「如か」は如くにかの意。○結句の「がて」は「難し」と關係のある動詞で、何々するに堪へずの意。「に」は完了の助動詞。
【譯】これは自分許りではない。昔の人も自分のやうに女を戀して、夜の目もねられないほどの、物思をしたことであらう。
【評】自己を離れて、廣く古の人までも、同じ物思に苦悶したのであると思ひ直して、自らを慰めてゐるのである。それが爲此の歌は、只戀心の苦しさを叙べたのと異つて、哀れに悲しいものとなつてゐる。
 
498 今のみの わざにはあらず いにしへの 人ぞまさりて 音《ね》にさへ泣きし
 
 今耳之。行事庭不有。古。人曾益而。哭左倍鳴四。
 
【釋】○結句を略解にナキサヘナキシと訓んだのはよくない。ネニナクは聲を上げて泣く意である。
【譯】今時の者許りが、かういふ戀の苦しみを經驗するのではない。古の人は吾々に増して、聲を上けてまで泣いたのである。
【評】前の作よりも更に一歩を進めて歌つたのである。「音にさへ泣きし」の句に至つては、自分を慰めるより寧ろそれによつて、強い力をさへ感じてゐるやうに聞える。人麿は皇室に關する作には、好んで天地開闢の事から歌ひ起して、歴史的聯想によつて、壯嚴な感を起させてゐるが、その歌ひ振りは戀歌にも現はれてゐるのである。即ちこの(248)二首の歌の如きは、恰も戀を古往今來人間たるものゝ、遁れることの出來ない運命であるやうに歌つてゐるので、如何にじ眞劍味のある莊重な作となつゐる。
 
   柿本朝臣人麻呂歌二首
 
501 をとめらが 袖ふる山の 瑞垣《みづがき》の 久しき時ゆ 思ひき吾は
 
 未通女等之。袖振山乃。水垣之。久時從。憶寸吾者。
 
【釋】○初めの三句は「久しき時」の序。其の中又「をとめらが袖」までは「ふる」の序である。○「ふる山」は大和國山邊郡丹波市町大字布留で、こゝに官幣大社|石上《イソノカミ》神社がある。この神社は神武天皇が大和へ討つてお入りになる時、武甕雷神が高倉下《タカクラジ》なる者をして、天皇に奉らしめられたと云ふ布都御魂《フツノミタマ》の神劍や其の他の霧劍を祀つて、皇軍鐘護の神とせられたもので、神武天皇の御代の創建にかゝる古社である。古い社である上に名も布留であるから、こゝも古いといふ意を含めて詠んだのである。○「瑞垣」は社の神殿の周圍に設けてある垣をいふ。「瑞」は瑞穗《ミヅホ》・瑞宮《ミヅノミアラカ》などのミヅで、若く榮えてゐるものや、美しいものを稱へる語である。
 
502 夏野行く 牡鹿《をじか》の角《つぬ》の つかの間も 妹が心を 忘れて思《も》へや
 
 夏野去。小牡鹿之角乃。束間毛。妹之心乎。忘而念哉。
 
【釋】○二句までは序である。牡鹿の角は春の初めに落ちて生え替るものであるから、夏には角が至つて短いのである。それを「束の間」に云ひ懸けたのである。○「忘れて思へや」の「思ふ」は輕く添へた語である。「や」は反語。
【譯】私は隨分久しい以前から思ひ染めてゐたのです。この頃始まつた淺い戀ではありません。
(249)【譯】夏の野を行くあの牡鹿の角は短いものだが、その短い間も、妹のやさしい心を忘れはしない。
【評】右二首は、人麿の修辭上の技倆を十分に現はした作であつて、何れも序がさわやかな美しい感を、讀者に與へるのが尊いのである。萬葉には序を生命とする作が多い。
 
   安部女郎《アベノイラツメ》歌二首
 
505 今更に 何をか思はむ うちなびき 心は君に よりにしものを
 
 今更。何乎可將念。打靡。情者君爾。縁爾之物乎。
 
【釋】○「安部女郎」は阿倍女郎とあるのと同じ人であらう。傳は未詳。○「うちなびき」は「よる」にかゝる語である。
【譯】今更何をかれこれと思ひ煩ひませう。もう私の心はすつかりあなたに靡いてしまつてゐますのに。
 
506 わがせこは ものな思ひそ 事しあらば 火にも水にも 吾なけなくに
 
 吾背子波。物莫念。事之有者。火爾毛水爾毛。吾莫七國。
 
【釋】○「火にも水にも」の句の次には語が省略してある。たとひ火に入り水に入るやうなことがあらうとも、と云ふやうな意である。○「吾なけなくに」は二重の打消を用ゐたので、「吾なからなくに」の意である。
【譯】あなたは何も御案じなさる事はありません。何か事がありましたら、たとひ火の中水の中でも厭はない所の、私があるではありませんか。
【評】二人の秘密が露はれて、男が多少躊躇の色を見せた時の歌らしく思はれる。身も魂も投げ出した強烈な感情を示(250)した作である。
 
   阿倍女郎歌一昔
 
514 わがせこが 着《け》せる衣の 針目おちず 入りにけらしな わが心さへ
 
 吾背子之。盖世流衣之。針目不落。入爾家良之(奈)。我情副。
 
【釋】○「着せる」は「着る」の敬語法で、着給ふ意。○「針目おちず」は針目の一つも洩れずと云ふ意。○第四句の終りには「奈」が落ちたのであらう。(代匠記)「けらし」は「けるらし」で、「な」は感動の助詞。
【譯】わが君が召していらつしやる着物の針目毎に、私の心が入つてゐる爲でありませう、かうしてお別れ申して居りましても、心はちつとも君を離れてゐません。
【評】「着せる衣」とあるのは、恐らく作者が眞心をこめて縫つて贈つた着物であらう。前の作と違つて、女らしいやさしさを見るべき歌である。
   藤阪|宇合《ウマカヒ》大夫遷v任上v京時常陸娘子贈歌一首
 
521 庭に立ち 麻を苅りほし しきしぬぶ 東女《あづまをみな》 忘れたまふな
 
 庭立。麻乎刈干。布慕。東女乎。忘賜名。
 
【釋】○これは宇合が常陸國守(養老三年赴任)の任を終へて上京するに際して、その國で愛してゐた或る娘子が贈つた歌。○一二句はシキの序である。庭に立つて麻を刈つて干して敷くといふ意でかゝつたのである。「苅り」は輕く見(251)てよい。○「しきしぬぶ」は頻りに慕ふ意。○「東女」は娘子自らをいふ。
【譯】庭に立つて苅つた麻を干して敷く、その敷くとしいふ詞の通り、頻りにお慕ひ申してゐる、この東女のあることをお忘れ下さいますな。
【評】序を作者の生活状態を叙したものと見る説と、ただ自ら卑下して賤女のやうに云つたまでであると解する説とある。余は單に序として用ゐたので、作者と關係のない事であらうと思ふ。
 
   大伴坂上郎女和歌三首
 
525 佐保川の さざれ踏み渡り ぬば玉の 黒駒《くろま》の來《く》る夜《よ》は 年にもあらぬか
 
 狹穗河之。小石踐渡。夜干玉之。黒馬之來夜者。年爾母有糠。
 
【釋】○「大伴坂上郎女」は流布本に大伴郎女とある。今左註によつて坂上の二字を補つたのである。○「和歌」とあるのは、藤原麻呂に答へた歌である。○「さざれ」は細石《サザレイシ》・細波《サザレナミ》・細萩《サザレハギ》などのやうに、小さい或は細い意味を涼へる接頭語であるが、こゝは「さざれ石」の略と見るべきである。○「ぬば玉の」は黒の枕詞。(既出)○「黒駒の來る夜は」を舊訓にコマノクルヨハと訓み、小琴にコマに黒駒の字を宛てたのは字音を借りたので、ウメを鳥梅と書いたのと同類であると云つてある。併し代匠記にある通り、「ぬば玉の」と云ふ枕詞との關係上、クロマとよまねばならぬと思ふ。(古義にはクロマノクヨハとよんで、來を只クと訓んでゐるのはよくない。)○「年にもあらぬか」は、せめて一年に一度でもよいから、變らないやうに來れといふ意である。古義に、年中いつも來れといふ意に釋いたのはよくない。
(252)【譯】佐保川の沙礫を踏んで黒馬が來る夜は、年に一度でもよいから、變らないやうにあつて欲しい。
【評】訪ひ來る人の道すがらの樣が、眼前にはつきりと浮んで來るやうな歌。
 
526 千鳥鳴く 佐保の川瀬の さざれ波 やむ時もなし わが戀ふらくは
 
 千鳥鳴。佐保乃河瀬之。小浪。止時毛無。吾戀者。
    右郎女者。佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穗積皇子1。被v寵無v儔。而皇子薨之後時。藤原麻呂大夫娉2之郎女1焉。郎女家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也。
【釋】○「さざれ波」は小さい波。初の三句は序。○「戀ふらくは」は戀ふる事はの意。
【譯】千鳥の鳴く佐保川の川瀬に、小波がやむ時なく打つてゐるやうに、君を戀しく思ふ情は、いつちてもやむ時はありません。
【評】序によつて、作者の住居から程近い佐保川の、寒い河原の光景が思ひ浮べられる。調もすぐれてゐる。
 
527 來むといふも 來ぬ時あるを 來じといふを 來むとは待たじ 來じといふものを
 
 將來云毛。不來時有乎。不來云乎。將來常者不待。不來云物乎。
 
【譯】來ると云つて置いても來ない時もあるのだもの、況や來ないと云ふのを、來ると思つて待ち受ける事はすまい。來ないといつたのだもの。
【評】卷一の「よき人のよしとよく見て」の歌と高じく、頭韻法によつて各句の初めに、「來る」と云ふ動詞を置いたので(253)ある。此等は技巧を弄んだ歌ではあるが、後世の同類の歌が眞面目を缺いでゐるのとは相異して、眞情が十分に表れてゐる。
 
   大伴|宿奈麿《スケナマロ》宿禰歌一首
 
532 うちひさす 宮に行く兒《こ》を まかなしみ 留《と》むれば苦し やればすべなし
 
 打日指。宮爾行兒乎。眞悲見。留者苦。聽去者爲便無。
 
【釋】○「大伴宿奈麻呂」は大伴安麻呂の第三子で、旅人とは異母兄弟である。○「うちひさす」は宮の枕詞。(既出)○「宮に行く兒」は宮仕に出る乙女。續紀に「養老三年備後守正五位下管2安周防二國1」とあるから、其の頃その國から女子を奉つた時の歌であらう、と云ふのが考の説である。○「まかなしみ」の「ま」は接頭語。「かなし」は「いとし」或は「かはゆし」としいふ意。「み」は「さに」の意を添へる接尾語である。それ故「まかなしみ」はかはゆさに〔五字傍点〕の意である。○「留むれば苦し云々」を古義にトドムハクルシ、ヤルハスベナシと讀んであるが、やはりもとの訓でよいと思ふ。
【譯】宮仕に行くこの乙女が可愛いので、國に留めたくはあるが、留め置くことは苦しい。さうかと云つて都へやるにはやられぬ。どうしたらよいか迷ふことである。
【評】萬葉考にある通り、この少女は地方の郡司か何かの娘であつて、この度釆女となつて、宮仕に行くことになつたのであらう。そしてこの少女は、かねて作者に愛せられてゐたのである。
 
   太宰帥大伴卿贈3大貳|丹比縣守《タヂヒノアガタモリ》卿遷2任民部卿1歌一首
 
(254)555 君がため かみし待酒《まちざけ》 安《やす》の野《ぬ》に ひとりや飲まむ 友なしにして
 
 爲君。釀之待酒。安野爾。獨哉將飲。友無二思手。
 
【釋】○「かみし待酒」は人を待ち受ける時に釀しておく酒。「かむ」は「かもす」の古語。○「安の野」は筑前朝倉郡安野村の地。新考にある通り、この地に旅人の山莊などがあつたのであらう。○「友なしにして」は友無しにてと同じ。
【譯】君を待ちうけて釀しておいたこの待酒は、釀した甲斐もなく、別れた後はこの安の野で、只一人淋しく飲まねばならぬことか、獨りぼつちで。
【評】その待酒が友を思ひ出す種となることを、今から悲しんで歌つてゐる。友情の厚い歌である。
 
   太宰帥大伴卿被v任2大納言1臨2入v京之時1府官人等餞2卿筑前國|蘆城《アシキ》驛家1歌一首
 
571 月夜《つくよ》よし 川音《かはのと》清し いざここに 行くも行かぬも 遊びて行かむ
 
 月夜吉。河音清之。率此間。行毛不去毛。遊而將歸。
    右一首防人佑大伴四綱
 
【釋】○「蘆城」は筑前國筑紫郡御笠村の阿志岐の地である。○「月夜」は月のこと。(既出)○「川音」は舊訓カハヲトとあるが、古義にカハト、略解にカハノトとある。今略解の訓によつた。○「行くも」は旅人をさす。○「行かぬも」は官人等をさす。○「防人佑」はサキモリノスケと讀む。防人は西海道の要所を守る兵士で、それを支配する役所を防人司と云つて、太宰府に屬してゐた。その職員に正・佑・令・史等があつた。防人のことはなほ後に述べる。
(255)【譯】幸ひと月も良く、川瀬の音もさやかに聞える。さあ此所で、旅立つ人も見送る吾々も、ゆつくり遊んで名殘を惜しまうではないか。
【評】夜もいつしか更けて、月も澄み渡るし、月光の流れる清い川瀬の音も澄み切つて響く。かう云ふ光景を前にして、惜別の情に堪へぬ人々のさまが、眼前に浮ぶ歌である。
 
   大納言大伴卿和歌一首
 
574 ここに在りて 筑紫やいづく 白雲の たなびく山の かたにしあるらし
 
 此間在而。筑紫也何處。白雲乃。棚引山之。方西有良思。
 
【釋】○この歌は筑紫に居た沙彌滿誓から贈られた歌に答へたものである。○「ここに在りて」は「ここで」といふ意。
【譯】○此處では筑紫はどちらの方角に當るであらうか。思ふにあの白雲がた靡いてゐる、遙か彼方の山の方に當るらしい。
【評】この歌も「白雲のたなびく山の」と眼前の光景を捉へたのが勝れてゐる。
 
   笠女郎《カサノイラツメ》贈2大伴宿禰家持1歌五首
 
593 君に戀ひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下《した》に 立ち嘆きつる
 
 君爾戀。痛毛爲便無見。楢山之。小松下爾。立嘆鴨。
 
【譯】○「いたたすべなみ」は「いともせん方なさに」の意。「いたも」の「いた」は「いたし」(甚し)の語幹であつて、「いと)」(256)と同根語である。○「小松が下に」を考に、小松とあるからその下に立ち寄ることはできない筈である、モトとよむべきであると云つてゐる。(略解・古義も之に從つてゐる。)併し小松と云ふのは必ずしも小さい松ではない。若松といふのと同じである。又小は音調のためにも附けるから、舊訓の通りシタと訓んでおいてよい。○「嘆きつる」(嘆鴨)は一本の嘆鶴によつて訓んだのである。
【譯】君を慕つて遣る瀬なさに、奈良山の小松の下にただ一人立つて、溜息をついたことである。
【評】小松の下に云々とあるので、作者がその背景と共に、美しいものとなつて浮んで來る。
 
596 八百日《やほか》行く 濱の抄《まなこ》も わが戀に 豈まさらじか 沖つ島守
 
 八百日往。濱之沙毛。吾戀二。豈不益歟。奥島守。
 
【釋】○「八百日行く」は多くの日數を經て歩み行くほどの長い濱といふ意。○「沙」はマサゴ・スナゴ・マナゴ・イサゴなど種々に讀まれるが、集中に眞名兒・麻奈胡・愛子などと書いた例があるからマナゴと訓むがよい。○「豈まさらじか」の豈は「いかで」「何として」の意で、下に「む」「らむ」などが來るのが普通であるけれども、萬葉にはこの場合のやうに、打消の助動詞で應じたものがある。從つて「豈」はこゝでは「恐らくは」としいふ意である。最後の「か」は疑問の助詞。島守に對つて「まさるまいが、さうではないか」と問ふ意である。○「沖つ島守」は沖の島の守人といふ意であるが、(島守の類に山守・野守などがある。)こゝでは假りに島に島守が居るものとして、問ひかけてよんだのである。
【譯】多くの日數をかけて行くほどの、際涯もなく遠く續いてゐる濱邊の眞砂の數も、恐らくは自分の戀の繁げさにはまさるまい。さうでないか沖の島守よ。
(257)【評】濱の眞砂は後世屡用ゐられる譬喩であるが「八百日行く濱の沙も」と歌つたので、云ひ知れぬ心細さが表はれてゐて感が深い。
 
602 夕《ゆふ》されば 物思ひまさる 見し人の 言《こと》問《と》ふ姿 面影《おもかげ》にして
 
 暮去者。物念益。見之人乃。言問爲形。面景爲而。
 
【釋】○「夕されば」は夕になると。○「言問ふ姿」を考にコトトハスサマと訓んでゐるが、代匠記にコトトフスガタとよんでゐる。(古義も同じ)今それによる。物を言ふ樣子をいふ。○「面影にして」の「して」は存在の意味で、面影に立つと云ふ意。
【譯】灯ともし頃になると、(心をまぎらすすべもなく)兎角物思ひがまして來る。あの人の物を言ふときの姿が、はつきりと面影に立つて。
【評】ありふれた内容の歌であるけれども、「言問ふ姿面影にして」と云つたので、作者の面目が明かに浮んで來るやうな感じがする。
 
603 思ふにし 死にするものに あらませば 千度ぞ吾は 死にかへらまし
 
 念西。死爲物爾。有麻世波。千遍曾吾者。死變益。
 
【釋】○「思ふにし」は物思ひにといふ意。「し」は助詞。○「死にする」は「死ぬ」の連用形から體言を作つて、それに「す」を添へて、佐行變格の動詞の「死にす」を作つたのである。(「欲りす」「舊りす」はこの類)意味は「死す」と同じ。○「あらませば」の「ませ」は假想の助動詞。○「死にかへらまし」は死を繰り返へす意。
(258)【譯】若し思ひ迫つて死ぬものであつたら、千度も私は死にかはや/\することであらう。
 
604 劍太刀《つるぎたち》 身にとりそふと 夢《いめ》に見つ 何のしるしぞも 君に逢はむため
 
 劔太刀。身爾取副常。夢見津。何如之怪曾毛。君爾相爲。
 
【釋】○「劍太刀」を考に枕詞と云つてゐるのは誤つてゐる。男子の身に帶びる劍太刀を、身に着ける夢を見たと云ふのである。○「しるし」を考にサガとよみ、古義にはシルシとよんでゐる。前兆の意であるからシルシとしよむがよい。
【譯】劍太刀を身につけるやうな夢を見た。これは何の前兆であるか。それは君に逢はう爲なのである。
【評】自問自答をして自ら慰めてゐるのである。劍を身に着ける夢は、男に逢へる前兆だといはれてゐるに對して、鏡を手にする夢を見ると、女に逢へる前兆であるとしいはれてゐたのである。古今六帖に「打ち靡き獨し寢ればます鏡とると夢見つ妹に逢はむかも」と云ふのがある。
 
608 相思《あひおも》はぬ 人を思ふは 大寺《おほでら》の 餓鬼《がき》のしりへに 額《ぬか》づく如し
 
 不相念。人乎思者。大寺之。餓鬼之後爾。額衝如。
 
【釋】○「餓鬼の云々」の餓鬼について、仙覺抄及び代匠記によつて説明すれば、昔大寺には慳貪の惡報を示すために堂の後の方に、餓鬼の佛を据ゑて置いたのである。それを何のことか知らない者が、佛と同樣に禮拜すると云ふ滑稽もあつたのである。こゝに餓鬼のしりへとあるのは、禮拜の驗のないその餓鬼の、しかも尻の方から拜むと云ふので、いよ/\效驗のないことを云つたのである。
(259)【譯】相手が何とも思つてくれないのに、獨り焦れてゐるのは、大寺にあるあの餓鬼佛に、尻の方から頭を下げてゐるのと同じで、何の驗もないことである。
【評】餓鬼の譬喩が適切でもあり、又皮肉でもある。以上の歌を見渡すと、家持に對してよほどの愛を注いでゐたのであるが、遂に成功しなかつたものと見える。そして笠女郎の作は二十四首あるのに、(今は其の中五首を講じた)此に對する家持の返歌は二首あるのみである。これによつても、この戀が如何なる性質のものであつたかが知れるやうに思はれる。
 
   湯原王贈2娘子1歌一首
 
632 目には見て 手には取らえぬ 月のうちの 桂《かつら》のごとき 妹をいかにせむ
 
 目二破見而。手二破不所取。月内之。楓如。妹乎奈何責。
 
【釋】○「湯原王」(既出) ○「取らえぬ」は後の語法の「取られぬ」。○「月のうちの桂」は兼名苑に「月中有v河。河上有v桂高五百丈。」とある。この故事によつたのである。和名抄に楓を乎加豆良《ヲカツラ》、桂を女加豆良《メカツラ》と訓んでゐるから、楓はカツラとよむべきである。但し此所に詠まれたカツラは傳説の大木であつて、後の文學に現はれてゐる加茂祭の「かつら」などとは別である。○この歌は父母に妨げられて、逢ふことの出來ない女に贈つたものである。
【譯】目には見てゐても、手に取ることの出來ない、あの月中の桂のやうな妹は、どうにもしやうのないものだ。
【評】貫之の「逢ふことは雲ゐはるかになる神の音に聞きつつ戀ひわたるかな」と似た内容の歌であるが、これよりか遙かに眞率な作である。
 
(260)   大伴坂上郎女歌二首
 
651 ひさかたの 天《あめ》の露霜《つゆじも》 おきにけり 家なる人も 待ち戀ひぬらむ
 
 久堅乃。天露霜。置二家里。宅有人毛。待戀奴濫。
 
【釋】○「ひさかたの」枕詞。○「天の露霜」の「天の」は、天から降るものにつける詞。露霜は眞白い霜としいふ程でなく、露がやゝ霜となりかけたもの、即ち薄霜をいふ。○「家なる人」は都に殘して居る二人の娘を指したのである。なほ委しく云へば、坂上娘女の兄旅人が、太宰帥となつて筑紫に下つたのは神龜元年であるが、たま/\娘女は夫の宿奈麿と疎々しくなつてゐたので、思ひ立つて田村大孃と坂上大孃との二人の娘を家に殘して、兄の任地に下つたのである。その時二人の娘の年は幾つ位であつたか明かでないが、後に坂上大孃の夫となつた家持が、當時六七歳であつたから、これから推すと二人とも幼少であつたことは明かである。この事は次の歌の解釋にも關係のあることであるから、序に述べておくのである。○「人も」は自分が娘を戀しく思ふやうに娘もの意。
【譯】もはや冷たい簿霜が置く時が來た。家に居る娘も自分が戀しがつて居るやうに、さぞ自分を慕つて待ち焦れて居ることであらう。
 
652 玉守《たまもり》に 玉はさづけて かつがつも 枕と吾は いざふたりねむ
 
 玉主爾。珠者授而。勝且毛。枕與吾者。率二將宿。
 
【釋】○「玉王」を考・略解にタマヌシと訓んでゐるが、舊訓にタマモリとあつて、契沖・宣長・雅澄等も同じくタマモリと讀んでゐる。○「玉守」は留守居の者を云ひ、玉は娘を譬へたのである。契沖は玉守を婿の家持・駿河麿の二人と(261)し、考・略解・古義に駿河麿としてゐるが、余は娘のまだ幼い時と見て、上の如く釋きたいと思ふ。○「かつがつ」は不十分ながら、或は辛うじての意で、口語に云ふマア/\・マズ/\に當る。これを宣長が、玉守の上に置いて釋いたのはよくない。(古義も同じ)これは「枕とわれはいざ二人ねむ」といふ句を修飾した副詞である。○「枕と吾は云々」は、今まで家に居た時は、娘の添寢をしたのであるが、旅に出たので枕と唯二人寢ると云つたのである。
【譯】可愛い娘共を手離して、旅に出たことだから、まあ/\しかたはない、さあ今晩は枕と二人で寢よう。
【評】右二首には世の母のやさしい情が哀れに歌はれてゐる。殊に後の歌は幼兒を殘して來た母が、手枕に慣れた腕を置き所もなく感じて、遠くに寢てゐる娘の上を泌々思ひやつた感情が、悲しく歌はれてゐて、誦む者を深く動かす作である。
 
   大伴坂上郎女歌一首
 
688 青山を 横ぎる雲の いちじろく われと笑《ゑ》まして 人に知らゆな
 
 青山乎。横〓雲之。灼然。吾共咲爲而。人二所知名。
 
【釋】○初の二句は序。○「われと」笑まして」は略解に云つてゐる通り、吾に對ひて笑みてと云ふ意である。
【譯】青い山の前を眞白い雲が横ぎるときのやうに、際立つて笑を洩して、人にそれと悟られぬやうにして下さい。
【評】序の叙景が鮮やかな、そして爽かな感を起させる。美しい戀の歌である。
 
   廣河女王歌二首
 
(262)694 戀草を 力車《ちからぐるま》に 七車《ななくるま》 積みて戀ふらく わが心から
 
 戀草呼。力車二。七車。積而戀良苦。吾心柄。
 
〔釋]○「広河女王」は天武天皇の第五皇子穗積皇于の御孫である。○「戀草」は茂き戀を譬へたものである。○「力車」は今日いふ大八車。○「戀らく」は「戀することだ」といふ意。○「わが心から」それもわが心から思ひ始めてといふ意。
【譯】自分は今戀草を七車も積んで、重荷に苦しんでゐるやうに、戀の苦しさに堪へられないのである。思へばそれも吾が心から求めたことで仕方がない。
 
695 戀は今は あらじと吾は 思へるを いづくの戀ぞ 攫《つか》みかかれる
 
 戀者今葉。不有當吾羽。念乎。何處戀其。附見繋有。
 
【譯】樣々の戀を仕盡して、今は戀といふものは最早ないと思つてゐたのに、何處に殘つてゐた戀か、我が身に攫みかかつたことだ。
【評】諧謔をまじへた戀歌として面白い作である。かういふ種類の戀歌は萬葉以後には見當らない。
 
   豐前國娘子|大宅女《オホヤケメ》歌一首
 
709 夕闇《ゆふやみ》は 道たづたづし 月待ちて いませ吾が背子《せこ》 その間にも見む
 
 夕闇者。路多豆多頭四。待月而。行吾背子。其間爾母將見。
 
【釋】○「大宅女」の傳は未詳。○「夕闇」は「よひやみ」と云ふと同じ。月がおそく出る宵の間をいふ。○「たづたづし」は(263)「たどたどし」と同じ。覺束ないさまをいふ。○「いませ」は行き給への意。
 
【譯】こんな暗がりは道がとぼ/\と歩きにくう御座います。もうすぐ月が出ますから、月を待つていらつしやい。その間なりとも、かうしてお姿を見たう御座います、吾が君よ。
【評】別れを情しんでゐる女の可憐な心ばかりか、其の姿までがあり/\と眼前に浮び出るやうな歌である。
 
   安都扉《あとのとびら》娘子歌一首
 
710 み空行く 月の光に ただ一目 相見し人の 夢《いめ》にし見ゆる
 
 三空去。月之光二。直一目。相三師人之。夢四所見。
 
【釋】○「安部扉娘子」の傳不詳。
【譯】空を渡る月の光で、ただ一目お逢ひしたあの人が、夢に見えたことだ。
【評】月下にただ一目逢つた人の面影を深く心に抱いて、それを放すまいとしてゐる乙女心がよく詠まれてゐる。
 
   丹波大女《タニハノオホメ》郎子歌二首
 
711 鴨鳥《かもどり》の 遊ぶこの池に 木の葉散りて 浮べる心 吾が思はなくに
 
 鴨鳥之。遊此池爾。木葉落而。浮心。吾不念國。
 
【釋】○「丹波大女郎子」の「女」の字は類聚古集によつて補つた。この作者の傳も未詳。○初の三句は「浮べる心」の序。○「浮べる心」は浮いた心即ち眞實のない心。○「思はなくに」は思はぬにの意。「思ふ」は輕く添へた語。
(264)【譯】鴨の遊んで居るこの池に、木の葉が散つて浮んでゐるやうな、浮いた心を私は持つてはゐないのに、誠が通らないのが口惜しい。
【評】序は眼前の景物を借りたのであるが、それが如何にも適切に、且つ安らかに取り扱はれてあるのが巧みである。
 
712 うまざけを 三輪《みわ》のはふりが いはふ杉 手觸れし罪か 君にあひがたき
 
 味酒呼。三輪之祝我。思杉。手觸之罪歟。君二遇難寸。
 
【釋】○「うまざけを」は三輪の枕詞。(既出)○「三輪」は三輪の大神《オホミワ》神社のこと。(既出)○「はふり」(祝)は類聚三代格に「諸社有v祝。專主2祭事1。至2于禰宜1有v職無v務。」とある。專ら祭の事を掌る者を云ふ。ハフリとは禰宜が、ネグ(願ふ義)から出たやうに、ハフル(禍を祓ふ意)から出たのであらうと云ひ、又一説に羽振の意で、袖を振つて舞ひ、神意を慰める意であるともいふ。なほ喜田博士は、動物を殺すことをホフルとしいふが、ホフルはハフリと同語で、神主が上古に犧牲たる動物を屠つて供へたからである。祝詞に「毛麁物《ケノアラモノ》・毛柔物《ケノニゴモノ》・鰭廣物《ジャタノヒロモノ》・鰭狹物《ハタノサモノ》」とあつて、佛法が行はれる以前は、鳥獣魚介の類を忌む事なく、神に捧げたのであると云はれた。(「民族と歴史」二ノ一)○「いはふ杉」は神木として齋《いは》ひ祀つてある杉。
【譯】三輪の社の祝《ハフリ》が忌み清めて祀つてゐる神杉に、誤つて手を觸れたことがあつて、その神罰を蒙つてゐるのであらうか、こんなに君に逢へないのは。
 
   大伴宿禰家持贈2娘子1歌一首
 
(265)715 千鳥鳴く 佐保の川門《かはと》の 清き瀬を 馬うち渡し いつか通はむ
 
 千鳥鳴。佐保乃河門之。清瀬乎。馬打和多思。何時將通。
 
【釋】○「川門」は川の渡り場を云ふ。○「うち渡し」のうちは接頭語。古義に鞭を打つてと釋いてゐるのは穩かでない。當時は旅行の場合はいふまでもなく、稍距離のある所に行くのには、馬に乘つたものである。、
【譯】千鳥の鳴く佐保川の渡り場の、あの清い川瀬を馬で渡つて、いつ通ふやうになれるであうか。
【評】靜かな夜、清い川瀬の音は澄み渡つて、あちこちに鳴く千鳥の聲も近く聞える。そこを馬で渡つて行く作者の姿が、はつきり想ひ浮べられるやうな歌である。
 
   大伴宿禰家持贈2坂上家|大孃《オホイラツメ》1歌一首
 
728 人もなき 國もあらぬか 吾妹子と たづさひ行きて たぐひて居らむ
 
 人毛無。國母有糠。吾妹兒與。携行而。副而將座。
 
【釋】○「坂上大孃」は家持の叔母坂上郎女の女で、家持にとつては最初の愛人であつて、又最後の戀人であつた。家持には多くの愛人があつたけれども、最後にはこの大孃を妻としたのである。○「あらぬか」はあれかしと願ふ意である。「ぬ」は打消の助動詞で、「か」は疑問の助詞である。「か」は打消の助詞の下に用ゐられた時は、疑問から轉じて冀望の意を表はすのである。○「たづさひ行きて」は手をとりかはして。○「たぐひて居らむ」は並んで居らうといふ意である。
【驛】あの口のうるさい人間が居ない國、さう云ふ處が無いものかなあ。若しあるならば、いとしい妹と手をとりかは(266)して行つて、二人並んで居らうに。
【評】「人も無き國」を空想に描いて歌つてあるので、寂しいしめやかな歎きを泌々と感じさせる。
 
   大伴坂上大孃贈2大伴宿禰家持1歌一首
 
731 わが名はも 千名《ちな》の五百名《いほな》に 立ちぬとも 君が名立てば 惜しみこそ泣け
 
 吾名者毛。千名之五百名爾。雖立。君之名立者。惜社泣。
 
【釋】○「吾が名はも」の「も」は感動の助詞。○「千名の五百名に」は古義に、いろ/\に云ひさわかれて、千度五百度名が立つことLであると云つてゐる。種々樣々に浮名のたつことである。
【譯】私は如何に樣々な浮名が立つても、ちつとも厭ひはしませぬが、あなたの名が立つたから、あなたの爲に惜しんで泣くのであります。
 
   又家持和2坂上大孃1歌一首
 
736 月夜《つくよ》には 門《かど》に出で立ち 夕占《ゆふけ》問ひ 足卜《あうら》をぞせし 行かまくを欲《ほ》り
 
 月夜爾波。門爾出立。夕占問。足卜乎曾爲之。行乎欲焉。
 
【釋】○「夕占問ひ」は辻占に問ふこと。夕占《ユフケ》は集中にユフウラともある。ユフケは夕氣の義で、ケは氣色即ち樣子の意であると云ふ。代匠記拾遺及び伴信友の正卜考(信友全集卷二に收む)によると、夕方四辻に出て往來の人の言を聽いて、其の言によつて成否を判斷するのであると云ふ。○「足卜」は正卜考によれば、俗に兒童がするやうに、先づ(267)一定の距離を定めておいて、左右の足を一方を吉一方を凶と定めて、吉凶の語を足に合せて唱へながら歩いて行つて、最後に蹈み止まつた時の語を以て、凶か吉かを定めるのであると云ふ。
【譯】月の明るい宵には、今夜行つたら逢へるかどうか、それを判斷するために、外へ出て辻占を試みたり、足卜をしたりして、獨り心をくだいてゐます。御身に逢ひたさに。
【評】この三十一文字を展開したら、遠き世の美しい戀物語となるであらう。上代人は專ら神意に從つて行動したから何事を決するにも、先づ之を占に問うたのである。太占《フトマニ》と龜卜(支那傳來のもの)とは、主として朝廷で行はれた神事であつたらしく、民間にあつては夕占《ユフケ》・路行占《ミチユキウラ》・石卜《イシウラ》・足卜《アウラ》等の簡單な卜法が種々行はれたのである。
 
   在2久邇《クニ》京1思d留2寧藥宅1坂上大孃上大伴宿禰家持作歌一首
 
765 ひとへ山 へなれるものを 月夜《つくよ》よみ 門《かど》に出で立ち 妹か待つらむ
 
 一隔山。重成物乎。月夜好見。門爾出立。妹可將待。
 
【釋】○「久邇京」は山城國相樂郡恭仁の地で、聖武天皇の十二年にこゝに都を遷されたのである。この歌は恭仁の新京に居て、奈良に留めて置いた坂上大孃を慕つて詠んだのである。○「ひとへ山」久邇と寧樂との間には、春日山が横たはつて居る。○「へなれるものを」は隔たれるのに。「へなる」は「隔たる」の古語。四段活用の動詞。○「妹か待つらむ」の「か」は疑問の助詞。
【譯】こゝから奈良は山を一重隔てゝあるのだけれど、今宵の月の明かさに、もしや私が尋ねて來るかと思つて、門に出て待つて居るであらう。
(268)【評】恭仁の京から奈良に行くには、木津川を渡つて奈良山を越えるのであるが、さほど遠くはない。併し何處までも一つ色に照らす月の夜には、つく/\寂しさが湧いて來たのである。家持が此の歌を詠んで贈つた時、官女の藤原郎女が大孃の心を思ひやつて、次の歌を和してゐる。
   路遠み來じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
 
卷四 終
 
(269)   萬葉集卷五
 
○この卷は集中異彩のある一卷として注目せられてゐる。即ち他の卷と趣を異にする所は、大體が神龜天平の歌壇を代表する、旅人と憶良の集であると云ふことであるが、なほ歌に長い漢文の序が附いて居るのも特色の一である。從來憶良の手に成つたものと考へられてゐた序並びに作にして、實は旅人の作であるらしいものが多い。此の事は武田祐吉氏の「上代國文學の研究」に考證が見えてゐる。旅人は漢詩文に長じ、憶良も唐に渡つた人で、漢文學の造詣が深かつたのである。
 
  雜歌
   令v反2惑情1歌一首並序
 
 或有v人知v敬2父母1。忘2於侍養1。不v顧2妻子1。輕2於脱履(ヨリモ)1。自稱2畏俗先生1。意氣雖v揚2青雲之上1。身體猶在2塵俗之中1。未v驗2修行得道之聖1。葢是亡2命山澤1之民。所以《ソレユヱ》指2示三綱1更開2五教1。遺《オクル》v之以v歌。令v反2其惑1。歌曰。
 
【釋】○「知敬父母」の「知」は「不」の誤であらう。(古義)○「忘2於侍養1」の「忘」は「怠」の誤であらう。(新考の説)○「畏俗先生」の「畏」は「異」の誤でなからうかと契沖は云つてゐる。○「三綱」は君臣父子夫婦の道。○「五教」は父義・母慈・兄友・弟恭・子孝を云ふ。○「歌(270)曰」これと次の歌とは憶良の作である。
 
800 父母を 見ればたふとし 妻子《めこ》見れば めぐしうつくし 〔のがろえぬ はらからうから のがろえぬ 老いみいはけみ 友垣の こと間ひかはす〕 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行方知らねば うけぐつを ぬぎつる如く ふみぬぎて 行くちふ人は 岩木より なりでし人か 汝《な》が名のらさね 天《あめ》へ行かば 汝《な》がまにまに 地《つち》ならば 大君《おほきみ》います この照らす 日月の下《した》は 天雲の むかふす極み  谷ぐくの さわたる極み きこしをす 國のまほらぞ かにかくに ほしきまにまに (271)しかにはあらじか
 
 父母乎。美禮婆多布斗斯。妻子美禮婆。米具斯宇都久志。〔遁路得奴。兄弟親族。遁路得奴。老見幼見。朋友乃。言問交。〕余能奈迦波。加久叙許等和理。母智騰利乃。可可良波志母與。由久弊斯良禰婆。宇既具都遠。奴伎都流其等久。布美奴伎提。由久智布比等波。伊波紀欲利。奈利提志比等迦。奈何名能良佐禰。阿米弊由迦婆。奈何麻爾麻爾。都智奈良婆。大王伊麻周。許能提羅周。日月能斯多波。阿麻久毛能。牟迦夫周伎波美。多爾具久能。佐和多流伎波美。企許斯遠周。久爾能麻保良叙。可爾迦久爾。保志伎麻爾麻爾。斯可爾波阿羅慈迦。
 
【釋】○「めぐし」は「めぐむ」と同じ系統の形容詞で、「いとほし」と云ふ意。○「うつくし」は「いつくし」と同じで、「かはゆし」と云ふ意。古義に初句から是までは父母妻子のことを歌つたので、序の「不v敬2父母1不v顧2妻子1」といふに當る所であると云つてゐる。即ち三綱の中の二綱をあげたので、君臣の道については終りの方に歌つてある。○「のがろえぬ」以下六句二十二字は拾穂本にある。契沖の云つたやうに、こゝは右の六句の如き句があるべき所のやうに思はれるけれども、この六句が果して原文であるか否か疑はしい。或は後人が補つたものであらう。それ故今は之に括弧を施しておいた。○「もち鳥」は黐にかゝつた鳥。「かからはし」の枕詞である。○「かからはしもよ」は「かからはし」と云ふ形容詞に、感動の助詞「も」「よ」を附けたのである。「かからはし」は拘泥或は系累の意で、とかく手足纒ひになるものだといふ意。○「行方知らねば」はさらばと云つて人間はこの系累の多い世の中を振り切つて、行くべき所もないからといふ意。代匠記に此の句の上に一句落ちたのであらうと云ひ、古義には波夜可夜乃《ハヤカハノ》と」いふ五言を補つて居る。併し上の如く解くときは、必ずしも脱句があると見なくてもよい。新考に此の句の上に、シカシといふ語を加へ、下にイカニセムといふ語を入れて心得ふべき所であると云ひ、なほ「案ずるに此の長歌は三段より成れる異體の長歌なり。即ちユクヘシラネバまでが一段、ナガ名ノラサネまでが一段、アメヘユカバ以下が一段にて、各段の未に七言の句を重ねたるなり。さればユクヘシラネバの上に、脱句あるにあらず。」とある。○「うけぐつ」は穿ち破れたる沓、即ち穿き古るしの沓。穴のあくことを古く「うぐ」と云つたのである。○「ぬぎつる」は「ぬぎうつる」が約つたのであらう。「棄つ」の古語を「うつ」といつたのである。○「ふみぬぎて」は踏み脱ぎて。○「行く(272)ちふ人は」の「ちふ」は「といふ」の音が約つたのである。○「なりでし」は生《ナ》り出しの意。○「汝が名のらさね」はあなたの名を仰しやいといふ意。「のらす」は告げるといふ語の敬語で「ね」は希求の意の助詞。○「天へ行かば」は天に昇るならば。○「地ならば云々」は土地に住んで居る以上は、大君がいらつしやるから、自分の思ふまゝにはならぬと云ふ意。○「天雲のむかふす極み」は祈年祭の祝詞に「皇神の見霽《ミハルカ》します四方の國は、天の壁立《カキタ》つ極み、國の退立《ソキタ》つ限り、青雲の靄《タナビ》く極み、白雲の墜坐《オリヰ》向伏《ムカブ》す限り、云々」とあるのによつたので、遠い所を見ると、空の雲が低く垂れてゐるやうに見えるから、向伏すと云つたのである。「向伏す」は遠き空にある雲が、こちらに向つて伏して居るやうに見える状をいつたのである。○「谷ぐくのさわたる極み」も祈年祭の祝詞に「皇神の敷きます島の八十島は、谷蟆《タニグク》の狹度《サワタ》る極み」とあるによつたのである。「谷ぐく」は蟾蜍《ヒキガヘル》のこと。「さ度る」の「さ」は接頭語。ひきがへるが行く土地の果までといふのは、如何に狹い谷の隅々までもといふ意である。○「國のまほらぞ」の「まほら」は記紀に「まほらま」「まほろば」ともある。「まほら」について略解に「ま〔右○〕は眞にてほむる詞。ほ〔右○〕はすべて物につゝまれこもりたる事をいふ古語也。ら〔右○〕は助辭也。されば日本紀私記にも、奥區也といへり。」とあるが古義には、國之眞含等《クニノマホラ》といふこと」(かこまれこもれる處といふ意)であるが、此所はただ輕く國といふ事を、記紀に用ゐられた古語によつて文《アヤ》なして云つたのであると云ひ、新考にはクニノマホラは元來國の中央といふことであるけれども、こゝは廣義に用ゐたので、支那人が自國を中國といふのと同義であると云つてゐる。余は思ふに、「まほら」の「ま」は接頭語、「ら」は名詞に屡附く接尾語であり、「ほ」は秀の義で、著しく目に立つものを指す言葉で、(稻の穗・舟の帆・波の穗などを參考するがよい)此所では、人の住むに適した美しい國土の義であると考へる。記紀の應神天皇卷に「ちばの葛野《かづぬ》を見れば百千足る家庭《やには》も見ゆ國の秀〔三字傍点〕も見ゆ」とあるのを參考すべきである。さて三綱の中の殘りの一つ(君臣の逍)はこ(273)こに説かれてゐるのである。○「かにかくに」兎に角にの意。○「しかにはあらじか」はさうではあるまい、と云ふ意を問ひ掛けの形で云つたのである。(前に「豈まさらじか」と去ふ句があつたが、此の「か」もあれと同じである。)
【譯】父母を見ると尊い心か起り、妻子を見るといとしく可愛ゆい情が起る。世の中はかうあるのが道理である。黐にかゝつた鳥のやうに、とかくそれらが手足纒ひになるものである。さうかと云つて人間は、この煩はしい世の中を振り切つて、行くべき所はない筈であるのに、恰も弊履を脱ぎ棄てるやぅに、此等の者を振り棄てゝ行くと云ふ人は、岩か木からでも生まれ出た人であるのか、その名を名乘つて見よ。若し天へでも昇るなら、それはお前の思ふまゝになるであらう。然し地上に居る以上は、此の國土には大君がましますから、さう勝手な振舞はできない。この日月の照して居る天が下は、雲が遙か彼方の空に垂れて見えるその遠き果てまでも、又蝦蟇が歩いて行く隅々までも、殘る處なく、大君が君臨し給ふ所の結構な國土であるのだ。兎にも角にも汝の欲するまゝに行つて、それでよいものか、さうではあるまい。
【評】明治の初めに、西洋の物質文明の移植に多忙であつた時、極端な歐化主義が唱へられたやうに、奈良朝の當時佛教や儒教の影響を受けて、極端な外來思想の心醉者を生じたことは、旅人の讃酒飲(卷三)によつても知られるのである。この長歌は、さういふ時代に老莊の學説などにかぶれて、世を拗ねて俗界を超脱することを高尚だとし、其の結果現實生活を卑しめ、人倫常道をさへ顧みない者が多かつたのを慨歎して、彼等に三綱五常を示して、(三綱五常は儒教の道であるけれども、我が固有の遺徳と一致する所があるから、憶良は之を指示して、)誤れる外來思想から目醒めしめ、本心に立ち返らしめようとしたのである。時代の思想が窺はれ、作者が愛國詩人であつたことも知られて、極めて興味ある歌である。
 
(274)   反歌
 
801 久方の 天路《あまぢ》は遠し なほなほに家にかへりて なりをしまさに
 
 比佐迦多能。阿麻遲波等保斯。奈保奈保爾。 伊弊爾可弊制提。 奈利乎斯麻位爾。
 
【釋】○「久方の」は天の枕詞。○「大路」は天へ昇る道。○「なほなほに」は「直人《ナホビト》」「なはなほし」などいふ「なほ」を重ねた副詞で、「すなほに」又は「世間並に」の意である。○「なりをしまさに」は家業《ナリ》をはげみ給への意。「に」は「ね」と同じく希求の意味の助詞である。略解及び新考に爾《ニ》は禰《ネ》の誤であらうと云つたけれども誤ではない。
【譯】天へ昇つたら思ふまゝに振舞へるけれども、その天へ昇る路は遠いから、やはり世間並に家に歸つて家業を勵むがよい。
 
   思2子等1歌一首並序
 
 釋迦如來金口正説。等思2衆生1如2羅〓羅《ラゴラ》1。又説。愛無v過v子。至極大聖尚有2愛v子之心1。況乎世間蒼生誰不v愛v子乎。
 
【釋】○「金口」は釋迦金身といふから、その口を金口といふのである。○「羅〓羅」は繹迦の子。
 
802 瓜|食《は》めば 子供おもほゆ 栗はめば ましてしぬばゆ いづくより 來たりしものぞ まなかひに もとな懸りて(275) やすいしなさぬ
 
 宇利波米婆。胡藤母意母保由。久利汲米婆。麻斯提斯農波由。伊豆久欲利。枳多利斯物能曾。麻奈迦比爾。母等奈可可利提。夜周伊斯奈佐農。
 
【釋】○「いづくより云々」は如何なる宿世の因縁で、何處から生まれ來た者であるかといふ意。○「まなかひ」は眼之交の義で眼の前といふ意。○「もとな」は心もとなしの意。(既出)○「やすいしなさぬ」の「やすい」は安眠、「し」は助詞、「なさぬ」の「なさ」の原形は「なす」で、「寢《ヌ》」に副語尾の「す」を添へたのである。古くは寢ることを「寢《イ》をぬる」といひ、その反對を「いもねず」といつたのである。さて「す」は敬語法の副語尾であるが、こゝは單に寢られぬと」いふ意に見てよい。
【譯】瓜を食べると、この瓜を食べさせたらと思つて、先づ小供の事が思ひ出され、栗を食べるとまして子供の事が思ひ出される。一體子供といふものは、どう云ふ因縁で吾々の子となつて來たものであらうか。かうして離れてゐると、やたらに眼の前にその姿がちらついて、夜の目も寢られぬことである。
【評】この歌は憶良が筑紫に在る時、國に殘した愛子を慕つて詠んだ作であらう。温かい情の人としての憶良の面目を示してゐる作である。卒直にして古拙ともいふべき歌ひ振りは、彼の持色とする所である。
 
   反歌
 
803 しろがねも 黄金《くがね》も玉も なにせむに まされる寶 子にしかめやも
 
 銀母。金母玉母。奈爾世武爾。麻佐禮留多可良。古爾斯迦米夜母。
 
【釋】○「黄金」は古義に、卷十八「賀2陸奥國出v金詔書1歌」に久我禰《クガネ》と假名で記されてあるのを證として、クガネとよ(276)んでゐる。○「なにせむに」は新考にイカニセム爲ニの意で、下にタカラトセムと云ふやぅな語を省いた形であると釋いてある。何にならうぞといふ意である。○「子にしかめやも」の「も」は感動の助詞で、「しかめや」は反語。
【譯】銀も黄金も珠も何にならうぞ、子にまさる寶が世にあらうか。
【評】子寶を詠んだ名高い歌で、人が屡引用する歌である。
 
     梅花歌並序
  天平二年正月十三日|萃《アツマル》2于帥老之宅1。申2宴會1也。于v時初春令月。氣淑風和。梅披2鏡前之粉1。蘭馨2珮後之香1。加以《シカノミナラズ》曙嶺移v雲。松掛v蘿而傾v蓋。夕岫結v霧。鳥對v〓而迷v林。庭舞2新蝶1。空歸2故雁1。於v是蓋v天坐v地。促《ススメテ》v膝飛v觴。忘2言一室之裏1。開2衿煙霞之外1。淡然自放。快然自足。若非2翰苑1。何以|※[手偏+慮]《ノべン》v情。請紀2落梅之篇1。古今夫何異矣。宜d賦2園梅1聊成c短詠u。
 
【釋】○「帥老」は旅人のことである。さて帥老を尊稱と見れば、この序の作者は憶良であると見えるが、(契沖は憶良の作であらうといひ、雅澄・木村博士・井上博士・佐々木博士等同説。)之を自ら稱した語と見れば、旅人の作といふことになる。(芳賀博士武田祐吉氏等はこの説。)余は旅人の作であらうと恩ふ。○「梅」はもと支那から傳へられた花である。太宰府は唐との交通も頻繁であつたから、梅もよほど早く移植せられたものと察せられる。歌會の物に見えたのは、恐らく是が最初であらう。○梅花歌はもと三十二首あるのであるが、今は其の中の四首だけ論ずる。
 
(277)822 わが園《その》に 梅の花散る ひさかたの 天《あめ》より雪の 流れ來るかも 主人
 
 和何則能爾。宇米能波奈知流。比佐可多能。阿米欲里由吉能。那何列久流加母。
 
【釋】○「ひさかたの」は「天」の枕詞。○「流れ來る」は降り來る意。「流る」は古くは「降る」「散る」の意に用ゐた。○「主人」は旅人である。
【譯】わが園の梅の花が頻りに散る。天から雪が降つて來るかと疑はれる。
 
825 梅の花 咲きたる園《その》の 青柳《あをやざ》を かづらにしつつ 遊びくらさな 少監土氏百村
 
 烏梅能波奈。佐岐多流曾能能。阿乎夜疑遠。加豆良爾志都都。阿素※[田+比]久良佐奈。
 
【釋】○「咲きたる」は咲いてゐると云ふ意。○「かづらにしつつ」はかづら〔三字傍点〕にししての意。「かづら」は一種の髪飾である。「かづら」は髪連の義である。上代には蔓草などを頭に卷きつけて、髪の亂れを防ぎ且つ髪飾としたのである。「柳のかづら」は柳の枝をわがねて頭に卷くのである。(上古は蔓草《カヅラ》を用ゐたので、その名がやがて髪飾のことになり、なほ後には轉じてカモジにもなり、更に俳優が頭に載せる假髪《カツラ》のことにもなつたのである。)○「遊びくらさな」の「な」は希望の助詞。○「少藍《マツリゴトヒト》」は太宰府の官名で、大貳小貳の下に置かれたものである。
【譯】梅の花の咲いてゐる園の青柳を鬘《カツラ》につけて、終日樂しく遊びたいものである。
【評】他の人々が梅の花を歌つたから、單調を破る爲に園の青柳を歌つたのである。即興の作として見て興味が深い。
 
829 梅の花 咲きて散りなば さくら花 つぎて咲くべく なりにてあらずや
 
 烏梅能波奈。佐企弖知理奈婆。佐久良婆那。都伎弖佐久倍久。奈利爾弖阿良受也。 藥師張氏|福子《サキコ》   
 
(278)【釋】○「なりにてあらずや」の「にて」は、時の助動詞が二つ重なつたものであつて、「に」の原形は「ぬ」で、「て」の原形は「つ」である。「にてあらずや」は後の語形では、「て」と「あり」が複合して、「にたらずや」となるのである。なるではないかといふ意。後に然るべきことを確信していふ語法である。○「藥師」は醫師。
【譯】梅の花が散つてしまつたなら、それに續いて櫻が咲くばかりになつてゐるではないか。
【評】花の應接に遑のない、のどかな春のよろこばしい氣分が流れてゐる。
 
846 霞立つ 永き春日を かざせれど いや懷《なつか》しき 梅の花かも
 
 可須美多都。那我岐波流卑乎。可謝勢例杼。伊野那都可子岐。烏梅能波那可毛。 小野氏|淡理《アハマロ》
 
【譯】霞が立つてのどかに永い春の日を、終日かざして遊んでも厭くといふことなく、ます/\なつかしくなるこの梅の花の美しさよ。
 
   後追和梅歌一首
 
852 梅の花 夢《いめ》に語らく みやびたる 花とあれ思《も》ふ 酒に浮べこそ
 
 烏梅能波奈。伊米爾加多良久。美也備多流。波奈等阿例母布。左氣爾于可倍許曾。
 
【釋】○「後追和梅歌」前の梅花宴の時の歌に、後に追つて和した歌である。○「語らく」は語ることにはといふ意。○「みやびたる」は雅致のある意。○「こそ」は希望の意を表はす助詞。○もと四首あるが今其の中の一首だけを講ずる。
【譯】梅の花が夢に現はれて來て語ることには、自分は雅趣に富んだ花だと思ふ。どうか杯に浮べて賞でて貰ひたい。
(279)【評】花の精が夢に現はれて來て、人に物語をすると云ふ傳説は支那にはいくらもある。この歌の如きも恐らくは支那文學の影響を受けた作であらう。これより前に梧桐日本琴の歌があつて、琴が夢に現はれて來るといふ趣向が歌はれてゐるのも同類の作である。この歌の作者について、契沖は未詳とし、雅澄・木村博士・佐々木博士等は憶良とし、井上通泰博士・武田祐吉氏等は旅人としてゐる。梅花歌序の作者を旅人と見れば、此の歌も旅人の作と見なければならぬ。
 
 
     遊2於松浦河1序
  余以暫往2松浦之縣1逍遥。聊臨2玉島之潭1遊覽。忽値2釣v魚女子等1也。花容無v雙。光儀無v匹。開2柳葉於眉中1。發2桃花於頬上1。意氣凌v雲 風流絶v世。僕問曰。誰郷誰家兒等。若疑神仙者乎。娘等皆咲答曰。兒等者漁夫之舍兒。草庵之微者。無v郷無v家。何足2稱云《ナヲノルニ》1。唯性便v水。復心樂v山。或臨2洛浦1。而徒羨2王魚1。乍臥2巫峽1。以空望2烟霞1。今以3邂逅相2遇貴客1。不v勝2感應1。轍陳2〓曲1。而今而後豈可v非2偕老1哉。下官對曰。唯唯。敬奉2芳命1。于v時日落2山西1。驪馬將v去。逐申2懷抱1。因贈2詠歌1曰。
 
【釋】○「松浦河」は今は玉島川といふ。筑前の浮嶽の南に發し、西に流れて濱崎に至つて海に注いでゐる。長さ四里ばかりの川である。今松浦川と云つて、唐津の東方にある虹松原の南から海に入つてゐる稍大きな川があるが、それは古名を久利川と呼んだので昔の松浦川とは別の川である。○「玉島」は松浦川(今の玉島川)あたりの古名。○「洛浦」と「巫峽」は共に支那の神仙談にある地名で、仙女の居る處。○「王魚」の王は何かの誤字であらう。略解には巨の誤寫ではないかと云つてゐる。○「驪馬」は黒馬。○此(280)の序並びに歌の作者を代匠記には旅人とし、古義には憶良としてゐる。井上博士や武田氏は旅人説を採用してゐる。
 
853 あさりする 海人《あま》の子供と 人はいへど 見るに知らえぬ うまびとの子と
 
 阿佐里須流。阿末能古等母等。比得波伊倍騰。美流爾之良延奴。有麻必等前古等。
 
【釋】○「人はいへど」の人は魚を釣る娘子等を指す。○「知らえぬ」は後の語法の「知られぬ」と同じ。○「うまびと」は家柄のよい人の意。ウマはウマシクニ(美國)のウマシの語幹で、ウマザケ(甘酒)ウマイヒ(甘飯)ウマゴリ(旨織)などの如く、善いもの「・しいもの・貴いもの等の意を表はす。○この贈答も空想で詠んだものである。
【譯】漁りをする海人の子であるとあなたは云ふけれども、一目見て良家の娘さんだといふことが分る。
 
   答詩曰
 
854 玉島の この川上に 家はあれど 君をやさしみ あらはさずありき
 
 多麻之末能。許能可波加美爾。伊返波阿禮騰。吉美乎夜佐之美。阿良波佐受阿利吉。
 
【釋】○「君をやさしみ」は君が耻かしさに。(他に射して氣耻かしさを感ずる意。)
【譯】玉島川のこの上流の方に、私の家はありますけれども、あなたが耻かしいので、あらはさないで居りました。
【評】玉島川の流域は今も鮎を産し、下流には白魚が捕れるので名高い。古事記に傳へてゐる所によれば、昔神功皇后が此の川に於て、御裳の糸に飯粒をつけて、鮎を釣り給うたと云ふ。其の地に近年まで垂綸石(俗に紫石と呼ぶ)と稱する石を傳へてゐた。萬葉の此の卷に
  たらしひめ神のみことの魚《な》つらすとみ立たしせりし石を誰見き
(281)と歌つてゐるのは、即ち此の垂綸石を歌つたものである。神功皇后の此の傳説と萬葉の玉島川の仙女の物語とは、共に其の根源を民間傳説に發したものであらうと思ふ。右に掲げた序文は、支那の神仙潭から著しい影響を受けてゐるが、兎に角後の物語の源泉とも云ふべきもので、頗る興味がある。(拙著「古事記新講」百四十二段參照)
 
      詠2領巾麾嶺《ヒレフリノネ》1歌一首
   大伴|佐提比古郎子《サデヒコノイラツコ》。特被2朝命1。奉2使藩國1。艤v棹|言《コヽニ》歸《ユキ》。稍(ク)赴2滄波1。妾也|松浦佐用嬪面《マツラサヨヒメ》。嗟2此別易1。歎2彼會難1。即登2高山之嶺1。遙望2離去之船1。悵然斷v肝。黯然銷v魂。遂脱2領巾1麾v之。傍者莫v不2流涕1。因號2此山1曰2領巾麾之嶺1也。乃作v欲曰。
 
【釋】○「領巾麾嶺」は今は鏡山と云つて唐津の東一里にある。麓に白沙青松の虹松原を控へて唐津灣に臨み、眺望が頗る佳い。山の頂は稍平らで、裾がゆるやかに延びて姿が極めて圓滿である。全山芝草で覆はれ頂上に一本の老松がある。そこが佐用姫が領巾を振つた處であると云ひ傳へてゐる。なほ山の麓の松浦川(玉島川とは別である)の中に形の美しい石があつて、そこに佐用媛が山から飛び下りたといふ口碑もある。○「大伴佐提比古」は大伴金村の子で、宣化天皇の御代に三韓に渡り、任那を助けて新羅を討ち、又欽明天皇の朝には數萬の兵を率ゐて高麗を討ち、王城に突入して大功を立てた人である。妻の佐用媛が領巾を振つたのは、肥前風土記によれば、宣化天皇の御代の事になつてゐる。尤も名は乙等比賣とある。○さて契沖はこの序並びに歌は旅人の作であると云つてゐる。此の説に從ふべきであらう。東滿・千蔭・雅澄等は憶良の作としゐる。)
 
871 とほつ人 松浦佐用媛《まつらさよひめ》 つまごひに 領巾《ひれ》振りしより 負へる山の名
 
 得保都必等。麻通良佐用比米。都麻胡非爾。比例布利之用利。於返流夜麻能奈。
 
(282)【釋】○「とほつ人」は旅などに出て遠くに居る人の意。家の者がそれを待つと云ふ意で、マツにかゝる枕詞となる。こゝは松浦佐用媛に冠してある。○「つまごひ」は夫を戀ふ意。
【譯】松浦の佐用媛が夫を戀ひ慕うて、領巾を振つたといふことからついた山の名である。
【評】狹手彦が高麗の都城を攻落して大功を立てたと同じ年に、新羅の討伐に赴いた調伊企儺《ツギノイキナ》は敵に捕はれて、「新羅王わが尻を食へ」と叫んで斬り殺され、日本男子の本領を發揮し、その妻の大葉子も捕はれて、「から國の城《き》の邊《べ》に立ちて大葉子は領巾振らすも日本へ向きて」と歌つて、聞く者が盡く泣いたと云ふことが傳へられてゐる。佐用媛の悲壯な物語は恐らく附會傳説であらうけれども、征韓の史實にはこの物語に似た劇的事實が少くなかつたであらう。佐用媛の話は支那の望夫石の傳説と結び付いて、後の文學にも屡々現はれて、頗る有名であるのは、事實が如何にも悲壯であるが爲であることは勿論であるが、一面には松浦灣といふ景勝の地がその背景となつてゐて、いよ/\趣味を深からしめて居るからである。
 
   聊布2私懷1歌一首
 
(283)880 あまざかる ひなに五年《いつとせ》 すまひつつ 都の手ぶり 忘らえにけり
 
 阿麻社迦留。比奈爾伊都等世。周麻比都都。美夜故能提夫利。和周良延爾家利。
    天平二年十二月六日筑前國司山上憶良謹上
 
【釋】○「あまざかる」は「ひな」の枕詞。(前出)○「すまひ」は「すむ」に繼續の意の「ふ」の添うたもの。○「手ぶり」は風俗の意。○「忘らえ」は「忘られ」と同じ意。○「けり」は「き」と「あり」との複合語であつて回顧の意があるから、感動的の意を含めていふときに用ゐられる。
【譯】遠い筑紫に五年も住んでゐるので、優美な郡の風俗も忘れてしまつたことだ。
【評】憶良が死んだのは天平五年であるから、この歌は晩年の作である。國司の任期は四年であるけれども、何かの都合で延期せられたのである。老體を以て長い年月の田舍生活は、いかにも心淋しいものであつたので、郡が頻りに戀しくなつたものと思はれる。さう思つてこの歌を見ると、一種いふべからざる哀れな響がする。なほこの頃の憶良の作に、「わが盛りいたくくだちぬ雲に飛ぶ樂|食《は》むともまたをちめやも」といふのがある。
 
   貧窮問答歌一首並短歌
 
892 風まじり 雨ふる夜の 雨まじり 雪ふる夜は すべもなく 寒くしあれば 堅鹽《かたしほ》を 取りつづしろひ (284)糟湯酒《かすゆざけ》 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髯《ひげ》かき撫でて あれを置きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引きかがふり 布《ぬの》かた衣《ぎぬ》 ありのことごと 着そへども 寒き夜すらを わよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑさむからむ 妻子《めこ》どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝《な》が世は渡る
 天地《あめつち》は 廣しといへど あがためは 狹《せば》くやなりぬる 日月は あかしといへど あがためは 照りや給はぬ(285) 人皆か 吾《われ》のみやしかる わくらばに 人とはあるを ひとなみに あれもなれるを 綿もなき 布かた衣《ぎぬ》の 海松《みる》のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け ふせ庵の まげ庵のうちに 眞土《ひたつち》に 藁解き敷きて 父母は まくらの方《かた》に 妻子《めこ》どもは あとの方《かた》に 圍《かく》みゐて 憂ひさまよひ かまどには 煙《けぶり》ふき立てず こしきには 蜘蛛《くも》の巣《す》かきて 飯《いひ》かしぐ ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短きものを 端《はし》きると 言へるが如く しもと取る 里《さと》をさが聲は (286)ねやどまで 來立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道
 
 風雜。雨布流欲乃。雨雜。雪布流欲波。爲部母奈久。寒之安禮婆。堅鹽乎。取都豆之呂比。糟湯酒。宇知須須呂比弖。之波夫可比。鼻※[田+比]之※[田+比]之爾。志可登阿良農。比宜可伎撫而。安禮乎於伎弖。人者安良自等。富己呂倍騰。寒之安禮婆。麻被。引可賀布利。布可多衣。安里能許等其等。伎曾倍騰毛。寒夜須良乎。和禮欲利母。貧人乃。父母波。飢寒良牟。妻子等波。乞弖泣良牟。此時者。伊可爾之都都可。汝代者和多流。
 天地者。比呂之等伊倍杼。安我多米波。狹也奈里奴流。日月波。安可之等伊倍騰。安我多米波。照哉多麻波奴。人皆可。吾耳也之可流。和久良婆爾。比等等波安流乎。比等奈美爾。安禮母作乎。綿毛奈伎。布可多衣乃。美留乃其等。和和氣佐我禮流。可可布能尾。肩爾打懸。布勢伊保能。麻宜伊保乃内爾。直土爾。藁解敷而。父母波。枕乃可多爾。妻子等母波。足乃方爾。圍居而。憂吟。可麻度柔播。火氣布伎多弖受。許之伎爾波。久毛能須可伎弖。飯炊。事毛和須禮提。奴延鳥乃。能杼與比居爾。伊等乃伎提。短物乎。端伎流等。云之如。楚取。五十戸良我許惠波。寢屋度麻低。來立呼比奴。可久婆可里。須部奈伎物能可。世間乃道。
 
【釋】○「貧窮問答歌」は貧困に迫つてゐる下民のさまを、問答體に詠んだのである。歌の前半は問で、後半はその答になつてゐる。○「風まじり雨ふる夜の」は吹き降りの夜のこと。「の」はニシテの意。○「雨まじり雪ふる夜」は霙《ミゾレ》の降る夜のこと。風まじり以下の四句は、風吹き雨まじりに雪の降る夜の事を云つたのである。○「すべもなく」は寒さを防ぐすべもなくといふ意。○「堅鹽」は和名抄に「陶隱居曰鹽有2九種1。白鹽和名阿和之保、人常所v食也。崔禹食經云、石鹽一名白鹽、又有2黒鹽1【余廉反、之保、日本紀私記云、堅鹽、岐多之」とある。即ちこゝの堅鹽は、一にキタシともいふので、沙状の鹽と違つて固形のものを云ふのであつて、下等な鹽である。大和物語に「かたいしほさかなにして酒をのませて」とあるのも、この鹽を肴にした事である。日本文明史話によれば、今でこそ鹽は安價であるが、上代にあつては貴重なものであつた。大寶令に米六斗然らされば鹽三斗を上納すべし、といふことが見えて居るのを見るとし、當時米は鹽の半分の價であつたことが知れる。蓋し※[者/火]鹽法が未熟であつた爲であらうとしいふことである。これによつて貧民が堅鹽を甞めたわけも明かになる。○「取りつづしろひ」の「つづしろひ」は「つづしり」の所謂延言で、其の動作を繰り返す意味になる。「取り」は接頭語で、「つづしる」は少しづつ食ふ意。○「糟湯酒」は酒の糟を水で溶いて煮たもの。○「うちすすろひ」は啜り啜りする意。「うち」は接頭語。「すすろひ」は「すする」の所謂延言であることは「つづしろひ」と同じ。○「しはぷかひ」は咳《シハブ》くの延言。○「鼻びしびしに」の「びしびし」は鼻を鳴らす音で、「に」は古事記に「鹽(287)こをろこをろに〔右○〕」「ぬなともゆらに〔右○〕」などある「に」と同じで、形状を表はす副詞的修飾語を作る助詞である。それ故此の歌に於ては鼻の塞つたのをフンフン鳴らしてと云ふ意で、下に鳴らすといふ叙述語を省いたものと見るべきである。○「ほころへ」は「ほころ」の延言。○「寒くし」の「し」は助詞。○「かがふる」は被るの古語。○「布かた衣」は布で仕立てた袖無しの短い羽織。布《ヌノ》は麻・苧の類を糸に縒つて織つた織物のこと。○「ありのことごと」は有りだけ。○「著そへども」は著襲《キソ》ふ義で」重ね着てもの意。○「夜すら」の「すら」は一事を指示して、他を類推せしめる意味の助詞。○「飢ゑさむからむ」の「飢」の字を考に、「肌」の誤としてゐるが、もとのまゝでよい。飢ゑ且つ寒からむの意である。○「乞ひて」は食と暖を乞ひてと云ふ意。○「汝《ナ》が世は渡る」までは問の歌である。この末の二句は七七で結び、下の答の歌の末も、亦同じく七七で結んである。「汝」は上の句にある「われよりも貧しき人」を指すのである。○「天地《アメツチ》は」以下は答である。○「わくらばに」はたまさかに又はたま/\の意。○「人とはあるを」は代匠記・古義等に述べてある通り、佛説によつたので、人に生まれて來る事は難いことであるのに、たま/\生を人間界に享けたことを云ふのである。○「あれもなれるを」の「なれる」は本文に「作乎」とあつて、舊訓にツクルヲとし耕作する意に解釋してゐるが、(代匠記・古義同樣)略解にナレルヲと訓み、生まれたるをの意に解いたのが穩當である。○「梅松《ミル》」は既に説明した。○「わわけさがれる」の「わわく」は破れ亂れる意。○「かがふ」は襤褸《ボロ》の事。袖中抄に「顯昭云【中略】世俗に、きりぎりすは、つづりさせかかは〔三字傍点〕ひろほんと鳴くといへり。かかはとは、きぬ布のやれて何にすべくもなきをいふ也。」とあるから、一に「かかは」とも云ふのである。「かがふのみ」の「のみ」は「を」と」同じ格を表はす助詞。(既出)○「ふせ庵」は伏小屋のこと。「の」は「にして」の意。○「まげ庵」は傾いた小屋のことで、伏庵のしかも柱など傾いた小屋のことを、二つにしてかう言つたのである。考にまげ庵は木や竹又は蘆などを折りまげて作つた賤が屋で(288)ある、と解釋してゐるのは從ひ難い。○「眞土」は俗にいふ「つちべた」「ぢべた」のこと。「眞《ヒタ》」は「ひたすら」「ひた使」「ひた走り」「ひた濡れ」などの「ひた」と同じ接頭語で專らの意。平安朝の未頃でさへ、「東路の埴生《はにふ》の小屋のいぶせきに故郷いかに戀しかるらむ」と歌つてゐるから、奈良朝の頃に筑紫の片田舍の人が、床の張つてない家に住んだのは不思議はない。○「あと」は足處《アト》の義で足の方の事。○「さまよひ」は呻吟の意。○「こしき」(甑)は飯を蒸して炊ぐ蒸籠《セイロウ》のこと。○「蜘蛛の巣かきて」の「かきて」は「かく」の連用形である。「かく」は後世上二段に活用するが、古くは四段に活用したのである。さて「かく」の意義は「あぐらをかく〔二字傍点〕」」といふときの「かく」に名殘を留めてゐるやうに、組む意又は編む意の古語である。○「ぬえ鳥の」は「のどよひ」の枕詞。(既出)○「のどよひ」は「のどよふ」の活用形で、喉から咽ぶやうにうめく事。○「いとのきて」以下四句は同じ卷の沈痾自哀文に「諺曰痛瘡灌v鹽。短材截v端」とあるのを見れば、當時さう云ふ諺があつたのであらう。「いとのきて」は「いとのく」と云ふ動詞から造つた副詞であつて、いとどしく即ち甚しくの意である。○「しもと」は笞。罪人をうつ刑杖。○「里をさ」は村長の事である。「村」は古く「郷」と云つたが、その前は「里」と呼んでゐた。大寶令に五十戸を一里とし、里毎に里長《サトヲサ》一人を置いたことが見えてゐる。本文に「五十戸長」と書いたわけはこれで明かである。○「ねやど」は寢屋處《ネヤド》で「ふしど」と同じ。○「來立ち呼ばひぬ」は租税を責めはたる爲に、里長が手に笞を執つて來て、大聲で呼びたてることである。○「すべなし」はせんすべなしの意で、仕方のない意。○「世の中の道」は渡世の道。
【譯】風まじりに雨が降り霙の降る夜は、仕方のない程寒いから、堅鹽を少しづつ噛り、糟湯酒を啜り/\して、頻りに咳をしながら、鼻をクン/\鳴らして、十分にもない髯を撫でながら、自分ほど偉い者はあるまいと誇つてはゐても、何しろ寒くてたまらないので、麻の蒲團を引被り、布の袖無をありたけ出して重着をしても、まだ/\寒い(189)夜であるのに、自分よりもつと貧しい人の父母は、飢ゑ且つ寒いことであらう。其の又妻や子供は、物が食べたい寒くてたまらぬと云つて、泣いて居るであらう。かういふ時はどうして世を渡つて居るか。
天地は廣いといふが、自分の爲には狹くなつてゐるのであらうか。月日は明るい筈だのに、自分の爲にはお照りなさらぬも同然。世の中の人は一般にかうなのか、それとも自分だけがかうなのか。吾々はたまさか人間となつて、人並にかうして人間界に生を享けて居るのに、何の因果か、綿もない布の袖無の、海松のやうに破れさがつてゐる襤褸を肩に引かけて、低いしかも傾いた小屋の内の、土べたに藁を解いて敷き、父母は自分の枕の方に寢させ、妻や子供は足の方へ寢させると云ふやうに、家族の者を自分の周圍に置いて悲しみ歎き、竈も燒き付けず、甑も暫く使はないから、蜘蛛の巣がかゝつて居るといふ始末で、もう飯を炊く事も忘れて、咽び泣きをして居る所へ、非常に短い物の其の又端を切り棄てると諺にもある樣に、笞を携へた里長が、寢てある處へ來て呼び立てるのである。一體世渡りと云ふものは、かうも仕方のないものなのであらうか。
【評】富士谷御杖の北邊隨筆に、この長歌のことを論じて次の如く云つてゐる。問の方は父母妻子もない弧獨の貧人の身の上を叙したもので、答の方は父母妻子のある貧人の苦境を歌つたのである。そしてこの貧人二人は、何れも貧窮に泣く者であるけれども、就中父母も妻子もある者の苦境は、一層慘めなものであると云ふことを示して、かゝる貧苦に陷らぬやうに、平素の用意が必要であるといふ事を教へる爲に之を歌つて、人を諌めたものであらうと云つて居る。併しこの歌は考にも述べてあるやうに、その未に「山上憶良頓首謹上」とあつて、太宰帥大伴旅人卿に贈つた作である。して見れば、憶良が筑前の國守であつた時の作であつて、その前半には作者自身を叙し、後半には下民の困窮の樣を詠んで、上司の執政上の參考に資したいといふ希望を抱いてゐたものと見るのが、正當な解釋の(290)やうに思はれる。さて此の歌は憶良の作中の傑作であり、又萬葉集中の傑作の一である。人麿が感情を音樂的な歌詞と調とで歌つて、直ちに人の胸中深く泌み込ませようとしたのに對して、憶良は寧ろ眼前の事實を精細に叙して讀者の眼前に事實を活躍させ、それによつて深い感動を起さうとするのが特色である。此の作は殊にさういふ彼の特徴を、明示してゐるのである。前半に憶良自身の周圍と人となりが、はつきりと歌はれてゐるのも興味が深い。
 
   反歌
 
893 世の中を うしとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
 
 世間乎。宇之等夜佐之等。於母倍杼母。飛立可彌都。鳥爾之阿良禰婆。
    山上憶良頓首謹上
 
【譯】かうして世を渡るのはいかにもつらくもあり、又耻かしくも思ふけれども、さらばと云つて翅のある鳥でないから、飛び去ることも出來ないことである。
 
   好去好來歌一首反歌二首
 
894 神代より 言ひつてけらく そらみつ やまとの國は 皇神《すめがみ》の いつくしき國 言靈《ことだま》の さきはふ國と(291) 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 滿ちてはあれども 高光る 日の御朝廷《みかど》 神《かむ》ながら 愛《め》での盛りに 天の下 奏《まを》し給ひし 家の子と 選び絵ひて 大御言《おほみこと》 戴き持ちて 唐《もろこし》の 遠き境に 遣はされ まかりいませ 海原の 邊《へ》にも沖にも 神《かむ》づまり うしはきいます もろもろの 大御神たち 船《ふな》の舳《へ》に 導きまをし 天地《あめつち》の 大御神たち やまとの 大國靈《おほくにみたま》 ひさかたの あまの御空ゆ (292)あまがけり 見渡し給ひ 事をはり 還らむ日には また更に 大御神たち 船《ふな》の舳《へ》に 御手打ち掛けて 墨繩《すなは》を はへたる如く あてかをし 智可《ちか》の岬より 大伴の 御津の濱びに ただ泊《はて》に み船は泊《は》てむ つつみなく さきくいまして はや歸りませ
 
神代欲理。云傳久良久。虚見津。倭國者。皇神能。伊都久志吉國。言霊能。佐吉播布國等。加多利繼。伊比都賀繼計理。今世能。人母許等期等。目前爾。見在知在。人佐播爾。滿弖播阿禮等母。高光。日御朝庭。神奈我良。愛能盛爾。天下。奏多麻比志。家子等。撰多麻比天。勅旨。戴持弖。唐能。遠境爾。都加播佐禮。麻加利伊麻勢。宇奈原能。邊爾母奥爾母。神豆麻利。宇志播吉伊麻須。諸能。大御神等。船舳爾 。道引麻遠志。天地能。大御神等。倭。大國霊。久堅能。阿麻能見虚喩。阿麻賀氣利。見渡多麻比。事了。還日者。又更。大御神等。船舳爾。御手打掛弖。墨繩遠。播倍多留期等久。阿庭可遠志。智可能岬欲利。大伴。御津濱備爾。多太泊爾。美船播將泊。都都美無久。佐伎久伊麻志弖。速歸坐勢。
 
【釋】○「好去好來歌」は天平五年の春に憶良が、遣唐大使多治比眞人廣成に餞した歌である。「好去好來」は歌の末句に「さきくいまして、はや歸りませ」とあると同じ意味で、「好」はさきく〔三字傍点〕の意である。○「言ひつてけらく」は言ひ傳へけるはの意。「けらく」は「ける」の所謂加行延言で、「けるは」といふと同じ云ひ方。○「そらみつ」は「やまと」の枕詞。(既出)○「いつくしき國」は嚴《イツク》しき國の意。即ち神威のいかめしい國と云ふこと。新考に本文「伊都久志吉」とあるのは、「吉」は或は「武」の誤であらうか、さすれば神々の愛し給ふ國といふ意であらうと云つてゐる。これは參考のために引いておく。○「言靈のさきはふ國は」卷十三に「言靈のたすくる國」とあるのと同じ意味である。言靈とは言語の上に宿る神靈のこと。上代の人は言語の妙用を神靈の力に歸して、言靈を信じたのである。而して言靈のさきは(293)ふ國と云ふのは、言語によつて幸福を祈願すれば、必ずその言葉通り幸福が授けられる國と云ふ意であつて、言語の靈の助ける國といふ意に外ならぬ。さて此の二句は下に「諸の大御神たち云々」をいふ爲に、先づかういつて置くのである。○「言ひ繼がひけり」の「繼がひ」は「繼ぎ」に例の「ふ」の添うたもの。○「見たり知りたり」は略解の説の通り、見て知つて居るといふ意。○「高光る」は日の枕詞。○「日の御朝廷」は「天皇が」といふ意。この主語に對する述語は下の「選び給ひて」である。○「愛《メ》での盛りに」は賞し給ふ餘りにの意。多治比眞人廣成は左大臣丹治比眞人島といふ人の子孫であると云ふ關係から、殊更に功臣の子孫といふ點で、廣成を大使に選び給うた事を云ふのである。それ故この副詞句は下の「選び給ひて」に係るのである。○「天の下奏し給ひし云々」は左大臣眞人島のことを云つたのである。○「戴き持ちて」の主格は廣成であるが、それは省かれてゐる。○「まかりいませ」の下には「ば」のあるものとして解かねばならぬ。「います」は行くの敬語動詞である。○「海原の」から以下十六句は往路のことを歌つてゐる。○「神づまりは」鎭り座すこと」。○「うしはき」は主となつてそこを治める意。ウシは主の義、ハクは「佩く」と關係のある語でわが物とする意。○「舳」は船首のこと。○「導きまをし」の本文「道引麻志遠」とあるのを、略解・古義に一本によつて「麻遠志」と改めてゐる。今それに從つたのである。○「やまとの大國靈」この上に「殊に」といふ語を置いて見るべき所である。大和國靈神は、大和の國土鎭護の神である。○「ひさかたの」は「あま」の枕詞。○「あまがけり」は神靈が天を飛び翔けて、人々を護り給ふ意。○「事をはり」以下は歸路のさまである。○「墨繩」は大工が板などに直線を引くとき用ゐる具。○「はへたる如く」の「はへ」は長く延ばす意。原形は「はふ」。○「あてかをし」は一本「庭《テ》」が「遲《チ》」となつてゐると云ふ。何れにしても意味が分らない。宣長は智可の枕詞であらう、而してアチカは音の同じ智可に云ひかけたので、(ミヨシノノヨシといふ類)ヲシはヨシ(アヲニヨシの類)といふのと同じ助詞であ(294)らうと云つてゐる。又雅澄はアヂの棲むといふ意であらうかと云つてゐる。なほよく考へて見たい。○「智可」は平戸五島を云つたのである。五島列島中に小値嘉島・遠知駕島の名が遺つてゐる。往時遣唐使の船が泊つたのは、五島の中の福江島の西北端、三井樂《ミヰクラ》であると云はれて居る。そこに立ち寄つて薪水を積んだ上、天候を伺うて出帆したのである。○「大伴の御津の濱」は難波津である。(既出)「濱び」は濱邊。○「ただ泊に」は直泊の義で、道寄りもせずすぐに湊に入ること。この句は下の「御船は泊てむ」の副詞的修飾句である。○「つつみなく」は「つつがなく」と同じ。無事の意。ツツミは恙又は愼の意で、疾病・禍・物忌等を指すのである。宣長は罪《ツミ》はこのツツミの約つた語であると云つてゐる。
【譯】神代から言ひ傳へて居ることに、この日本の國は神威のいかめしい國であり、言靈の助け給ふ國であると、語り繼ぎ言ひ繼ぎして來た。その事は今の人は悉く目の前に見て、よく知つて居るのである。遣唐使の任に堪へ得る人は澤山あるけれども、大君が功臣を愛し給ふ餘りに、政務の輔弼の任に在つた者の子孫といふので、特に君を拔擢遊ばされて、此の度いよ/\勅命を奉戴して、唐の異郷に遣はされて出發なされると、海岸にも沖にも、主宰神として鎭まります諸の神達は、船の舳に立つて導き給ひ、天神地祇殊に大和の守護神たる大國御魂神は、大空を天翔つて、海原をずつと見渡して、船をお守り遊ばされる。さていよ/\任務が終つて還る日には、又更に大御神たちが、船の舳に大御手をお掛けなされてお守りになり、御船は墨繩を引張つたやうに、智可島の岬から難波津をさして、眞直に泊るであらう。どうか恙なく元氣であつて、速くお歸りなさい。
 
   反歌
 
(295)895 大伴の 御津の松原 かき掃《は》きて われ立ち待たむ はや歸りませ
 
 大伴。御津松原。可吉掃弖。和禮立待。速歸坐勢。
 
【譯】大伴の御津の松原を掃き清めて、立つて待つてゐますから、速くお歸りなさい。
 
896 難波津に 御船はてぬと 聞えこば 紐《ひも》解《と》きさけて 立ち走《はし》りせむ
 
 難波津爾。美舶泊農等。吉許延許婆。紐解佐氣弖。多知婆志利勢武。
    天平五年三月一日。良宅對面。獻三日。山上憶良謹上。大唐大使卿記室。
 
【釋】○「紐解きさけて」は衣の紐を解き放つたまゝでと云ふので、形振《ナリフリ》かまはずといふ意である。○「立ち走り」は急ぎ出迎へる意。新考に「案ずるに紐トキサケテは上着をぬぐ事にて、タチバシリは今いふ奔走なり。されば今は上着ヲヌギステテ、奴僕ト共ニ奔走セムといへるなり。」とある。併し紐解きさけて云々の詞だけでは、さう解釋するわけに行かないやうに思ふ。○「良宅」は憶良の家。○「獻三日」は略解に、朔日にこの歌を詠んで、之を大使に示したのが三日であつたのであらうと云つてゐる。○「記室」は新考に今いふ秘書であると云ふ。
【譯】難波津に御船が着いたと云ふことが、都へ聞えて來たならば、紐を解きはなしたまゝ、天手古舞をして出迎へませう。
【評】佛教と唐の文明の輸入のために、多くの留學生や學問僧を載せた鼎が、萬死を冒して渡唐することは、孝徳天皇の白雉四年に始まり、それ以來歴朝少くも一回、多きは三回(天智天皇朝)までも派遣せられたのであるが、その一行が不完全な船に分乘して、渡航するに當つては、或は風浪の難に遭つて魚腹に葬られ、或は異郷に漂流して、十(296)年二十年の歳月を其處で過すといふやうな事も屡であつた。さういふ危險の多い長途の旅に出る遣唐使の一行は、海上に浮んだならば、只祖國の神靈の加護を信じて、只管これに祈願するより外はなかつたのである。長歌に神々の擁護を繰り返へし歌つてゐるのも、全くこの意味に外ならぬ。作者憶良は今は七十を超えた高齡であるが、これより三十年程前に、遣唐少録として入唐した人であるだけに、廣成等に對する同情も深かつたのである。なほこの廣成は天平五年四月に難波を出發し、翌年十月に任を畢へて歸朝の途に上つたが、不幸にして海上で暴風に遭ひ、四つの船がちり/”\に吹き流され、廣成の船には十九年間留學してゐた吉備眞備も同乘してゐたが、薩南の種子島に漂著した。その他の船は或は再び唐に流れ着いたのもあるが、録事平群廣成等百十五人を乘せてゐた船は、崑崙國に流れ着いて禁錮せられ、唐の人に救はれて一旦唐に歸り、天平十一年に歸送についたが、この時再び惡風に遭つて出雲に漂流したのである。當時の遣唐使には、右の如き危險と艱難とが伴つてゐたことを念頭において、この歌を誦むことが肝要である。
 
   戀2男子名|古日《フルヒ》1歌三首
 
904 世の人の 貴み願ふ 七種《ななくさ》の 寶も吾は 何せむに わが中の 産まれ出でたる 白玉の わが子古日は 明星《あかぼし》の 明くる旦《あした》は (297)敷栲《しきたへ》の 床の邊去らず 立てれども 居れども共に 戯れ 夕星《ゆふづつ》の 夕《ゆふ》になれば いざ寢よと 手をたづさはり 父母も うへはなさかり 三枝《さきくさ》の 中にを寢むと うつくしく 其《し》が語らへば 何時《いつ》しかも 人となり出でて あしけくも よけくも見むと 大船の 思ひたのむに 思はぬに 横しま風の にはかにも おほひ來ぬれば せむすべの たどきを知らに 白妙《しろたへ》の 襷《たすき》をかけ まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 あふぎこひのみ 國つ神 伏して額《ぬか》づき かからずも かかりも (298)神のまにまにと 立ちあがり わがこひのめど しましくも よけくはなしに やゝやゝに かたちくづほり 朝なさな 言ふことやみ たまきはる 命たえぬれ 立ちをどり 足すりさけび 伏し仰ぎ 胸うち嘆き 手に持《も》たる あが兒飛ばしつ 世の中の道
 
 世人之。貴慕。七種之。寶毛我波。何爲。和我中能。産禮出有。白玉之。吾子古日者。明星之。開朝者。敷多倍乃。登許能邊佐良受。立禮杼毛。居禮杼毛登母爾。戯禮。夕星乃。由布弊爾奈禮婆。伊射禰余登。手乎多豆佐波里。父母毛。表者奈佐我利。三枝之。中爾乎禰牟登。愛久。志我可多良倍婆。何時可毛。比等等奈理伊弖天。安志家口毛。與家久母見武登。大船乃。於毛比多能無爾。於毛波奴爾。横風乃。爾布敷可爾布敷可爾。覆來禮婆。世武須便乃。多杼伎乎之良爾。志路多倍乃。多須吉乎可氣。麻蘇鏡。弖爾登利毛知弖。天神。阿布藝許比乃美。地祇。布之弖額拜。可加良受毛。可賀利毛。神乃末爾麻爾等。立阿射里。我例乞能米登。須臾毛。余家久波奈之爾。漸漸。可多知都久保里。朝朝。伊布許等夜美。霊剋。伊乃知多延奴禮。立乎杼利。足須里佐家婢。伏仰。武禰宇知奈氣吉。手爾持流。安我古登婆之都。世間之道。
 
【釋】○「戀男子名古日歌」は憶良の男の子の古日の死んだ後、之を慕つて歌つた作。○「貴み願ふ」は貴み得んと願ふといふ意。○「七種の寶」は佛法の七寶で、金・銀・瑠璃・〓〓・瑪瑙・珊瑚・琥珀をいふ。(異説があつて一二差違がある。)○「何せむに」は何にする爲にの意。古義にはこの句の下に一句脱落して居ると云つて、「ねがひほりせむ」といふ一句を試みに挿入して居る。○「わが中の」は「わが子」へ續けて見るべき所と古義には云ひ、考にはこの句の上に「かなしき妹と」といふやうな句の脱ちたものとし、新考には「中の」は「中に」の誤であらうと言つて居る。要するに原文のまゝでは少しく穩かでないが、猥りに訂正すべきでないから、今は古義の説によつておく。○「白玉の」は兒を愛する心から、玉に譬へて云つたのである。今でも玉のやうなと云ふ。○「明星《アカボシ》の」は「明く」の枕詞。曉に輝くから冠したのであらうが、音の上からも同音が重なつて面白く響く。さてアカボシは金星の事で、和名抄に「兼名苑云、
(299)歳星、一名明星、阿加保之」とある。下に「ゆふづつ」といつてあるのも是と同じで、今日俗に宵の明里又は曉の明星と云ふのがそれである。○「敷妙の」は床の枕詞。(既出)○「居れおも共に」の下に文字が脱ちて居るかも知れない。考には「比留波母、牟郡禮」の七字を入れ、略解は一句半脱落があると云ひ、古義には「可伎奈泥弖言問《カキナデテコトトヒ》」の七字を入れて居る。要するに下に「戯れ」とあるから、何かそれに續くべき句なり語なりがなくてはならぬ。○「夕星《ユフヅツ》の」は「夕」の枕詞。金星は夕方に早く光るから、夕にかけるのである。○「手をたづさはり」の「たづさはり」は「たづさふ」(携)と同じ意の動詞「たづさはる」の活用した形である。手を携へてといふ意。○「うへはなさかり」(表者奈佐我利)を考に「遠〔右○〕者奈佐柯〔右○〕利」と改めてトホクハナサカリと訓み、新考には「遠〔右○〕奈佐我利」の誤としてトホクナサカリと訓んでゐる。余は元のまゝにウヘハナサカリとよんでよいと思ふ。ウヘは前に「荒妙の藤原がうへに」とあつた其のウヘと同じで、ホトリの意である。○「三枝の」は中の枕詞。三枝《サキクサ》(音便でサイグサともいふ)は檜であるといひ、イカリサウの事であるといひ、三椏《ミツマタ》であると云ひ、種々の説があるが、奈良の率川坐大神御子神《イサカハニマスオホミワミコ》社及び漢國神《カンガウ》社で行はれる三枝祭《サイグサマツリ》と云ふがあつて、令義解に「以2三枝(ノ)華1飾2酒樽1祭。故曰2三枝1也。」とあつて、其の三枝は三輪山に生ずる山百合(花莖の先端が三つに分れて、三輪の白花がつき、瓣の心に沿うて赤い斑點のあるものに限る。)を用ゐてゐる。是は元來率川神社の祭神の一柱である、伊須計與利比賣《イスケヨリヒメ》命に捧げるものであると云はれてゐる。これによれば三枝《サキグサ》は、眞淵の云つたやうに山百合の古名である。○「中にを寢む」の「を」は感動の助詞。○「うつくしく」は「いつくし」と同じで愛らしくの意。○「其《シ》」は代名詞の第三人柄で「それ」と同じ。○「あしけくも云々」は惡しき事も善き事もの意。「けく」は例の加行延言。○「大船の」は「たのみ」の枕詞。(既出)○「横しま風」の訓は代匠記による。邪風の意。○「にはかにも」の本文は「爾母布敷可爾布敷可爾」とある。代匠記は一本によつて終りの四字を衍字とし、上(300)に「爾波」を加へ「可」を其の下に書き換へて、ニハカニモシクシクと訓んでゐるが、宣長は終りの四字を削り、始めの「爾母」は下にあるべきものが亂れて上に置かれたので、その次の「布敷」は「爾波」の誤であると云つて、「爾波可爾母《ニハカニモ》」と改めて居る。兎に角錯簡があるらしい。今は宣長の説に從つて置く。○「たどき」は「たづき」と同じ。方便のこと。○「白妙の」は襷の枕詞。これより以下神を祭るさまを叙して居る。上代は神や貴人の御膳に仕へる者は襷を掛けたのである。○「まそ鏡」は眞澄鏡の義でよく磨いた鏡。昔神を祀るには榊に鏡を掛けたのである。○「こひのみ」は乞ひ祷《の》みの意。「のむ」は「いのる」の古語。○「かからずも」は神の惠にかゝらすもの意。○「まにまにと」の次に又脱句があるといふ説がある。考にこゝに七言の句がある筈であるが、この儘でも意味が通じるから別に補はないと云つて居る。又古義には此の下に「吉惠天地乃」の五字を補ひ、下の「仁」を徐いて、カカリモヨシヱ、アメツチノ神ノマニマトと訓んで居る。○「しましくも」は暫しもの意。シバシを古くシマシと云つた。○「やゝやゝに」は漸次。○「かたちくづほり」の「くづ」の本文の「都久」は、代匠記及び考によつて、「久都」と改めて訓む。容の衰へ行くことを云ふ。「くづほる」は頽《クヅ》れる意。○「朝なさな」は朝な朝なの略。毎朝といふ意。○「言ふことやみ」は言葉も出なくなること。○「たまきはる」は命の枕詞。(既出)○「たえぬれ」は絶えぬればの意。○「立ちをどり云々」は大に歎くさまを叙べたものである。○「手に持たる」は上に「白玉のわが子」といつたから、こゝに持つと云つたのである。○「飛ばしつ」は前に「横しま風の」と云つたのに對する語である。○「世の中の道」は、世間の無常といふ道理は如何とも仕方のないものである、と歎息して結んだのである。(一句で歌を結ぶことは、人麿の長歌に屡用ゐられた形式である。)
【譯】世の中の人が、誰しも大切に思ひ、手に入れたいと願ふかの七つの寶も、自分には何にならうぞ。夫婦の中の玉(301)のやうないとし子の古日は、朝は寢床のあたりを去らず、立つても坐つても自分に戯れかゝり、夕になると「さあ寢よう」といつて、自分の手を執つて「お父さんもお母さんも、私の傍を離れてはいやだ、眞中に寢るんだ」と可愛くその兒が云ふにつけ、何時になつたら大きくなつて、惡いことも善いことも行先が見える事かと、將來を樂しみにして待つて居たのに、思ひもよらぬ邪風が遽かに襲うて來たので、如何とも仕樣がないから、かう云ふ時は神におすがりするより外はないと思つて、白襷を掛け澄み切つた鏡を持つて、天神地祇を仰いでは祈り、伏しては額づいて、神樣のお助に與つても與れなくても、一切を神樣の御心にお任せ申し、立つても坐つても居られぬほどに、あせつてお祈り申したけれど其の驗はなく、暫くも快方には向はずして、段々と衰弱してしまひ、一日/\と言葉も出なくなつて、遂に息が絶えてしまつたので、躍り上つたりぢだんだを踏んだり、天を仰いだり地に臥したりして、胸をたゝいて歎き、とう/\手中の玉と謂ふべき、大切な/\わが兒を失つてしまつた。かういふ悲しいことが世の中の常なのであらうか。
【評】例によつて總てが人の胸に泌み入る力を有する叙事的抒情詩である。前に釋いた子を思ふ歌をよみ、この歌をよむ時、子煩悩の作者の面目があり/\と想像せられる。
 
   反歌
 
905 若ければ 道行き知らじ まひはせむ したべの使《つかひ》 負《お》ひて通らせ
 
 和可家禮婆。道行之良士。末比波世武。之多敝乃使。於比弖登保良世。
 
【釋】○「まひはせむ」の「まひ」は「まひなひ」のマイと同じ。謝禮として贈る物。(賄賂ではない)○「したべ」は冥土。「し(302)たべの使」は古義に冥官の使と云つてゐる。○「通らせ」は「通る」の敬語の「通らす」の命令形である。
【譯】この子は稚いから冥土の道を知るまい。お禮はするからどうか冥土の使よ、この子を背負つて通らしてやつて下さい。
【評】幼兒をただ獨り、黄泉の旅路に出しやる父の心はいかにもかうあらう。哀れな歌である。
 
906 布施《ふせ》おきて 吾は乞ひのむ あざむかず ただにゐ行きて 天路《あまぢ》知らしめ
 
 布施於吉弖。吾波許比能武。阿射無加受。多太爾率去弖。阿麻治思良之米。
    右一首作者未v詳。但以3裁v歌之體似2於山上之操1載2此次1焉。
【釋】○「布施」の布は普、施は捨の義で、一切衆生を愛愍するために散ずる財をいふ。こゝでは佛に奉る物のこと。○「右一首云々」の註は後人が加へたものに相違ない。略解に「「此卷憶良の家集と見ゆれば、自らの名書かざりし所も有べし」とある。併しこれは佐々木博士(「和歌史の研究」−萬葉集第五卷論)及び井上通泰博士(「新考」卷五附録)が云つて居られるやうに、家持が萬葉集を編纂するに當つて、この歌(長歌及び短歌二首)を得て追加したものと見るのが正統であらう。○「山上之操」の操は調の意である。
【譯】お布施を澤山にお供へして私は乞ひ祈ります。どうか欺かないで、眞直に天へ連れて行つて、道を案内してやつて下さい。
 
卷五 終
 
(303)  萬葉集 卷六
 
○卷六は全部雜歌であつて、養老七年から天平十六年に至るまでの作が收めてある。從來家持の集めた卷であらうと云はれて居る。卷中には笠金村・山部赤人・大伴旅人・同家持・同坂上郎女等の勝れた作が多く、又卷末には田邊福麿歌集中の歌二十一首が收めてある。金村赤人福麿等の叙景歌は、殊に異彩を發つてゐる。
 
  雜歌
 
   養老七年癸亥夏五月幸2于芳野離宮1時笠朝臣金村作歌一首並短歌
 
907 瀧の上の 御舟の山に 瑞枝《みづゑ》さし 繁《しじ》に生ひたる つがの木の いやつぎつぎに 萬代に かくし知らさむ 三芳野の 蜻蛉《あきつ》の宮は 神《かむ》がらか 貴かるらむ 國がらか 見がほしからむ 山川を 清みさやけみ (304)うべし神代ゆ 定めけらしも
 
 瀧上之。御舟乃山爾。水枝指。四時爾生有。刀我乃樹能。彌繼嗣爾。萬代。如是二二知三。三芳野之。蜻蛉乃宮者。神柄香。貴將有。國柄鹿。見欲將有。山川乎。清清。諾之神代從。定家良思母。
 
【釋】○「養老七年」は元正天皇の御代の年號。この年五月に元正天皇が、芳野の宮に行幸遊ばされた時、笠朝臣金村が隨從して詠んだ歌。○「瀧」は宮瀧の地。○「上」はほとり〔三字傍点〕の意。(既出)○「御舟の山」は宮瀧の南方にある山で、遠くから見ると船の形に見える山であると云ふ。○「瑞枝」はみづ/\しい枝で、若枝のこと。○「つがの木の」は「つぎつぎ」の枕詞であるが、(既出)上の句から序になつて居る。○「かくし」の「し」は助詞。○「蜻蛉の宮」は宮瀧のこと。宮瀧のあたりを蜻蛉野と云つたのである。(既出)○「神がら」「國がら」は前に出てゐる。○「見がほしからむ」は「見まはしかるらむ」の意。「美はし」「なつかし」などいふと同じ意味の語である。この句は上にある「か」といふ疑問の助詞に對する結となつてゐる。○「山川を」は山と川との意。○「清みさやけみ」は其の次の句との續きの工合が穩かでない。略解や古義に云つて居るやうに、一句脱けてゐるやうである。古義には「大宮と」又は「常宮《トツミヤ》と」などがあるべき所であると云つて居る。
【譯】瀧のほとりの御船山に若々しい枝がさして、繁く生ひ育つて居る栂《ツガ》の木のその名の通りに、次々に萬代までもかうしてお住み遊ばさるべき、三吉野の蜻蛉の離宮は、鎭まる神がらが貴いのであらうか、土地柄がうるはしいのであらうか、山や川がいかにも清くさはやかである。神代以來こゝを離宮とお定めになつたのも、誠に御尤である。
【評】この種の歌は、人麿によつて大體一定の型が作られてしまつたやうである。この作の「つがの木のいやつぎつぎ」といひ、「神がら云々」「國がら云々」と云ふが如きは、人麿が用ゐた語句を蹈襲したものであるが、なほ着想に於ても、人麿以上に出る事が出來なかつたやうである。
 
(305)   反歌
 
908 としのはに かくも見てしが 三吉野の 清き河内《かふち》の たぎつ白波
 
 毎年。如是裳見牡鹿。三吉野乃。清河内之。多藝津白波。
 
【釋】○「としのはに」は年毎に。○「見てしが」は「見てき」に希望の助詞の「が」が接した形である。「てき」は過去完丁の助動詞であるが、この場合は「見る」といふ動作の完了を希望する意義となるのである。古義に「か」を清みて讀むべしと云つて居るのは誤つて居る。○「たぎつ白波」は激流のこと。「たぎる」といふ語は「湯がたぎる」など云つて、今日も用ゐられてゐる。
【譯】毎年かうして見たいものである。この三吉野の清い河内の、たぎつ瀬の白波の景色を。
 
909 山高み 白木綿花《しらゆふばな》に 落ちたぎつ 瀧《たぎ》の河内は 見れど飽かぬかも
 
 山高三。白木綿花。落多藝追。瀧之河内者。雖見不飽香聞。
 
【釋】○「白木綿花」は木綿《ゆふ》で作つた造花。(既出)下にも「初瀬女が造るゆふ花三芳野の瀧の水沫に吹きにけらずや」といふ歌がある。
【譯】山が高いので、自然流れ落ちる水が岩石にせかれて、眞白い造花のやうにたぎる、瀧の河内のこの清い景色は、いつまで見ても飽くことがない。
 
   神龜元年甲子冬十月五日幸2于紀伊國1時山部宿禰赤人作歌一首並短歌
 
(306)917 やすみしし わご大君の 外《と》つ宮と 仕へまつれる 雜賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪さわぎ 潮ひれば 玉藻苅りつつ 神代より しかぞ尊き 玉津島山
 
 安見知之。和期大王之。常宮等。仕奉流。左日鹿野由。背上爾所見。奧島。 清波瀲爾。風吹者。白浪左和伎。潮干者。玉藻苅管。神代從。然曾尊吉。玉津島夜麻。
 
【釋】○「神龜元年」は聖武天皇の元年。その十月五日に紀伊に行幸があり、諸所を巡幸遊ばされて、二十三日紀伊を御立ちになつて、遷幸せられたことが聖武天皇紀に見えてある。○「外つ宮」は離宮。「と」は「として」の意。「常」はトツの借字である。○「雜賀野」は和歌の浦の西に連なる雜賀村の邊りを云ふ。○「そがひ」は集中に「背向」と書いてある。後方・背面の意。○「沖つ島」は結句に玉津島山とあるのと同じものである。今の和歌浦の妹背山であると云ふ。
【譯】わが大君の離宮として、吾々がお仕へ申してゐる雜賀野から、うしろの方に見える沖つ島の清い渚には、風が吹くと眞白い浪が寄せては碎け、潮が于ると海人が出て美しい藻を刈る。遠き神代以來このやうに尊い所である、この玉津島は。
【評】「清き渚に」以下五句に、玉津島の清い景色が活躍してゐる。なほ「神代よりしかぞ尊き」と歌つたので、雖宮に近い玉津島が、如何にも神々しいものとなつてゐる。
 
(307)   反歌
 
919 和歌の浦に 潮滿ちくれば 潟《かた》を無《な》み 葦邊《あしべ》をさして 鶴《たづ》鳴き渡る
 
 若浦爾。鹽滿來者。滷乎無美。葦邊乎指天。多頭鳴渡。
 
【釋】○「潟を無み」は干潟がない故にの意。今は名所の名につけて和歌浦に「片男波」と云ふ所があるが、是は後世此の歌から附會したのである。
【譯】和歌の浦に潮が滿ちて來ると、おり立つべき干潟がなくなるから、葦の生えてあるあたりをさして、鶴が鳴いて行く。
【評】これは集中の秀逸の一である。潮が滿ちて來て白い洲がだん/\無くなると、渚に遊んでゐた白い鶴の一群がさつと飛んで、青い葦原をさして移り行くといふ清く快い景色が、あり/\と眼前に動くやうである。赤人の客觀的なこの歌と、人麿の主觀的な「近江の海夕浪千鳥」の歌とを比較して、二大歌聖の特色を知る事が出來る。
 
   神龜二年乙丑夏五月幸2于芳野離宮1時笠朝臣金村作歌
 
920 足引の 御山もさやに 落ちたぎつ 芳野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上邊《かみべ》には 千鳥しば鳴き 下邊《しもべ》には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も (308)をちこちに しじにしあれば 見る毎に あやに乏しみ 玉かづら 絶ゆることなく 萬代に かくしもがもと あめつちの 神をぞ祈る かしこかれども
 
 足引之。御山毛清。落多藝都。芳野河之。河瀬乃。浮乎見者。上邊者。千鳥數鳴。下邊者。河津都麻喚。百磯城乃。大宮人毛。越乞爾。思自仁思有者。毎見。文丹乏。王葛。絶事無。萬代爾。如是霜願跡。天地之。神乎曾祷。恐有等毛。
 
【釋】○「足引の」は枕詞。○「さやに」はざあ/\と音のする形容。○「かはず」は河鹿の事。(既出)○「ももしきの」「玉かづら」は共に枕詞。(前出)○「萬代にかくしもがもと」はいつまでもかうして、天皇のお伴をして通ひたいとの意。
【譯】山に響くほどざあ/\とたぎり落ちる、芳野川の清い川瀬を見渡すと、上手の瀬では千鳥が頻りに鳴き、下手の瀬では河鹿が妻を呼んでゐる。宮仕への人々もあちらこちらに澤山おり立つてゐるのも綺麗であり、見る毎にいかにも美くしいので、萬代までも絶えずお伴をして通ひたいと、天地の神々に祈るのである。畏れ多いけれども。
【評】清き川瀬には千鳥と河鹿の聲を聞き、岸には群れて遊ぶ從駕の宮人があると云ふ所に、吉野離宮の光景が明白に浮んで來て、清爽の感が起る。此の長歌には反歌が二首あるが今之を省略した。
 
   山部宿禰赤人作歌二首
 
924 三吉野の 象山《きさやま》のまの 木末《こぬれ》には ここだも騒ぐ 鳥の聲かも
 
 三吉野乃。象山際乃。木末爾波。幾許毛散和口。鳥之聲可聞。
 
(309)【釋】○此の歌は次の一首と共に長歌の反歌であるが、長歌は省いて短歌だけを講じる事にする。○「象山」は吉野の宮の近くを流れる、象《キサ》の小川《ヲカハ》といふ溪流(青根峯から出て吉野川に入る)に沿うて居る山の名である。象山といひ象の小川といふ地名は、今の國栖大字喜佐谷に其の名を遺して居る。○「象山のま」は象山の間の意。(既出)○「木末」は梢。コヌレは木《コ》の末《ウレ》の約つたもの。○「ここだ」は「ここだく」と同じ。多く又は甚しくといふ意。
【譯】三吉野の象山の間の梢には、數知れぬ多くの小鳥が鳴き騷いで居ることだ。
【評】川瀬のせゝらぎを打ち消すほどに、鳴き響く小鳥の聲を聞く幽邃な山蔭の様である。此の歌などは一度誦むと、いつまでも忘れられぬなつかしさを有つてゐる。
 
925 ぬば玉の 夜のふけ行けば ひさ木|生《お》ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く
 
 烏玉之。夜乃深去者。久木生留。清河原爾。知鳥數鳴。
 
【釋】○「ぬば玉の」は枕詞。○「ひさ木」(楸)は荒れた山地や溪流のほとり若しくは野火の燒跡等に、殆ど雜草同様に自生する落葉喬木で、幹の高さは普通五六尺で、時には二丈位に達する。葉は對生し、形は桐の葉に似てゐて長い葉柄がある。嫩葉と葉柄は共に美しい紅色を帶びてゐるので、アカメガシハ・アカガシハ・アカメギリ等と呼ばれる。花は夏開き、雌雄同株で雄花は五六寸の穗状をなし、雌花には花瓣がない。
【譯】夜がだん/\と深けて行くと、楸の生えてゐる清い川原に、千鳥が(310)しきりに鳴くのである。
【評】吉野の山奥で、深夜に咽ぶが如き川瀬の昔を聞き、又頻りに鳴く千鳥の聲に耳を傾けるといふは、何といふ詩興ぞ。「和歌の浦に」の作と共に、赤人の傑作に數ふべきもの。
 
   山部宿禰赤人作歌一首並短歌
 
938 やすみしし わご大君の 神《かむ》ながら 高知らしぬる 稻見野《いなみぬ》の 大海《おほうみ》の原の あらたへの 藤江の浦に 鮪《しび》釣ると 海人《あま》船亂れ 鹽燒くと 人ぞさはなる 浦をよみ うべも釣《つ》りはす 濱をよみ うべも鹽やく ありがよひ 御覽《めさく》もしるし 清き白濱
 
 八隅知之。吾大王乃。神隨。高所知流。稻見野能。大海乃原笑。荒妙。藤江乃浦爾。鮪釣等。海人船散動。鹽燒等。人曾左波爾有。浦乎吉美。宇倍毛釣者爲。濱乎吉美。諾毛鹽燒。蟻徃來。御覽母知師。清白濱。
 
【釋】○「稻見野」は播磨國印南郡の野。(前出)○「大海の原」を古義に海原と見たのはよくない。大日本地名辭書及び新考に、和名抄にある明石郡邑美郷(訓於布美)とある地であるとしてゐる。この説がよい。邑美は明石郡岩岡清水及び金崎村あたりの古名である。○「あらたへの」は藤江の枕詞。(前出)○「藤江」流布本に「藤井」とあるは誤である。(311)藤江は昔の葛江《フヂエ》郷の地、即ち今の明石郡林崎村及び大久保村の地である。○「鮪」はマグロの大なるもの。○「ありがよひ」は常に通ふ意。(前出)○「御覽《メサク》もしるし」のメサクはミルの敬語のメスの加行延言である。意は見給ふこと。考にミマスとし訓んでゐるのはよくない。○「白濱」古義に白浪の著しく寄する濱の意に釋いたのはよくない。新考の説の如く、白砂の濱と見るべきである。
【譯】わが大君が神にましますまゝに治め給へる、印南野の海に沿うてゐる藤江の浦には、鮪を釣らうとして海人の船が澤山に亂れてゐ、濱邊には鹽を燒くとて、人が澤山に群れて居る。浦がよいのでかうして釣をするのであり、濱がよいのでかくも鹽を燒くのである。常にお通ひになつて御覽になるのも御尤ものことと思はれる。さても美しいこの清い白濱よ。
【評】當時稻見野に離宮があつたのであらう。吉野山中の宮瀧の、靜かな寂しい景色と異つて、打ち開いた明るい海邊の賑ひが、簡單な詞で巧みに歌はれてゐる。
 
   反歌
 
939 沖つ波 邊波《へなみ》しづけみ いざりすと 藤江の浦に 船ぞさわげる
 
 奥浪。邊波安美。射去爲登。藤江乃浦爾。船曾動流。
 
【譯】沖の波も岸の波も靜かなので、漁をしようと、藤江の浦に海人の船がさわいでゐる。
【評】都の歌人の作に、海人の生活を詠んだものが多いのは、大和平野に住んだ彼等の目には、漁村の有樣が珍らしかつた爲である。此の反歌は三首中の一首である。
 
(312)   四年壬申藤原|宇合《ウマカヒ》卿遣2西海道節度使1之時高橋連蟲麿作歌一首並短歌
 
971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は いほへ山 い行きさくみ あた守る 筑紫《つくし》に至り 山のそま 野のそき見よと 伴《とも》の部《べ》を 分《あか》ち遣はし 山彦《やまびこ》の 應《こた》へむきはみ たにぐくの さわたる極み 國がたを 見《め》し給ひて 冬ごもり 春さり行かば 飛ぶ鳥の 早く來まさね 龍田路の 岡邊の路に につつじの にほはむ時の 櫻花 咲きなむ時に 山たづの 迎へまゐでむ(313) 君が來まさば
 
 白雲乃。龍田山乃。露霜爾。色附時丹。打超而。客行公者。五百隔山。伊去割見。賊守。筑紫爾至。山乃曾伎。野之衣寸見世常。伴部乎。班遣之。山彦乃。將應極。谷潜乃。狹渡極。國方乎。見之賜而。冬木成。春去行者。飛鳥乃。早御來。龍田道之。岳邊乃路爾。丹管士乃。將薫時能。櫻花。將開時爾。山多頭能。迎參出六。公之來益者。
 
【釋】○「四年壬申云々」續日本紀によれば、天平四年八月に藤原房前を東海・東山二道の節度使に、多治比縣守を山陰道の節度使に、宇合を西海道の節度使に任ぜられたのである。節度使は諸道にあつて兵士官船を檢閲したり、征討の事などに當つたものである。○「高橋蟲麿」の傳は詳かでないが、この長歌の題辭によつて、天平頃の歌人であつて、技倆に於て赤人金村等と比肩すべき有數の歌人であつた事が分る。巧みに古語を使つて簡勤な調を歌つてあるが、特に彼の非凡の才を認めしめるのは、東國傳説その他多くの物語を歌つて異彩を發つてゐる事である。集中諸所に「高橋蟲麿歌集中出」とあるが、その家集は今は傳つてゐない。○「白雲の」は「立つ」の意から「龍田」にかけた枕詞。龍田路を經て任地に赴くのである。○「露霜」は薄霜である。(既出)都を出發すゐ時が秋であつたから、かう歌つたのである。○「いほへ山」は幾重にも重なつてゐる山。○「い行きさくみ」の「い」は接頭語。「さくむ」は「さぐくむ」と同じで踏み分ける意。○「あた守る」は外國から攻め來る賊徒の防衛に當ること。當時筑紫が外國に浸される憂のあつたことは、防人を遣はされたり、水城を築かれたことを見ても明かである。○「山のそき」の「そき」は「そく」(放・離の意)と云ふ動詞の名詞形で、地の遠き果の意。○「伴の部」は節度使の部下の兵士を指す。○「分ち」を古義にアカチとよんである。○「山彦の云々」は山野の果までをいふ。「たにぐくのさわたる極み」は祝詞の文によつたのである。(既出)○「國がた」は國状。○「見《メ》し」は「見る」の敬語。○「冬ごもり」は春の枕詞。(既出)○「飛ぶ鳥の」は「早」の枕詞。○「早く來まさね」(早御來)は從來訓がまち/\になつて居る。代匠記にはハヤクミキタリ、考にはハヤキマシナム、略解にはハヤクヰマサネ、古義には「御」を「却」の誤としてハヤカヘリコネと訓んである。新考には下の(314)「來益盆《キマサバ》」と照應する句であるから、略解の訓に從ふべきだと云ふ。今新考の説に從ふ。○「龍田路の」以下は歸路のさまを叙したのである。○「山たづの」は「迎へ」の枕詞。(既出)
【譯】龍田の山が冷たい霜のために色づく此の頃に、山を越えて旅立たれる君は、遙かの山路を踏み分けて、防備の任にあたる筑紫に行かれたならば、山のはて野のはてまでも、殘る處なく見よと屬僚を派遣し、自らは山彦の響く果までも蝦蟆の行く隅々までも、國土の状況を視察なさつて、來年の春が來たならば早くお歸りなさい。お歸りの節は春の事とて、龍田越の岡邊の路には、眞赤な躑躅が吹き勾ひ、櫻花も咲きほこる時にお迎へにまゐりませう。
 
   反歌一首
 
972 千萬《ちよろづ》の 軍《いくさ》なりとも 言擧《ことあげ》せず とりて來《き》ぬべき 男《をのこ》とぞ思《おも》ふ
 
 千萬乃。軍奈利友。言擧不爲。取而可來。男常曾念。
 
【釋】○「軍」は軍勢。○「言あせず」は言葉に出してとやかくと噪ぎ立てないこと。「言擧」は漢語の揚言にあたる。この語は記紀にも見え、又十三卷にも「瑞穗の國は言擧せぬ國」と歌つてある。○「とりて來ぬべき」は敵を征伐して來るといふ意。「とる」は殺す意である。今「猫が鼠をとる」といふやうな場合に遺つてゐる。○「男」を代匠記にはマラスヲと讀むべきかと云ひ、略解にはヲノコと讀み、考・古義・新考にはヲトコと讀んである。ヲ′トコはヲトメに對する語であつて、ヲは少壯者の美稱で、「こ」「め」は「ひこ」「ひめ」「むすこ」「むすめ」の「こ」「め」と同じく性を區別する接辭である。而してヲノコはメノコに對する語で、「を」「め」はヤモヲ(鰥夫)マモメ(寡婦)ヲヒ(甥)メヒ(姪)の「を」「め」のやうに、性を區別する接辭で、「こ」はセコ(脊子)イモコ(妹子)のやうに、人を表はし又は人を貴んで(315)添へる接辭である。從つてこの歌の「男」はヲノコとよむのが穩當である。下に講ずる「士やも」の「士」の訓も同じ。
【譯】たとひ千萬の敵兵が襲うて來ても、とやかく噪ぎ立てず、容易に征伐して歸つて來る、たのもしい丈夫だと信じてゐる。
【評】長歌には龍田山の春秋の美しい景色を叙し、任地に於ける勞を思ひやつてゐるが、反歌には宇合卿の雄々しい風姿を述べて、之を激勵してゐる。この二首を通じて遠征の士を送るにふさはしい作となつて居る。蟲麿の歌才を見るべき作である。
 
   天皇賜2酒節度使卿等1御歌一首並短歌
 
973 をなす國の 遠《とほ》の朝廷《みかど》に 汝等《いましら》が かくまかりなば 平らけく 吾は遊ばむ 手抱《たうだ》きて 吾はいまさむ 天皇《すめら》朕《わが》 うづの御手もち かき撫でぞ ねぎ給ふ うち撫でぞ ねぎ給ふ かへり來む日 あひ飲まむ酒《き》ぞ この豐御酒は
 
 食國。遠乃御朝庭爾。汝等之。如是退去者。平久。吾者將遊。毛抱而。我者將御在。天皇朕。宇頭乃御手以。掻撫曾。禰宜賜。打撫曾。禰宜賜。將還來日。相飲酒曾。此豐御酒者。
 
(316)【釋】○「天皇」は聖武天皇。○「節度使卿等」は前に述べた房前・縣守・宇合等である。○「速の朝廷」は邊鄙にある官廳のことで、鎭守府や太宰府などを指す。○「手抱《タウダ》きて」は代匠記(考・略解も)にタムダキテとよみ、古義にテウダキテとよみ、新考にタウダキテと訓んである。抱《イダ》くは腕纏《ウデマ》くの意で、ウダクとも云つた例が靈異記に見え、古事記下卷にも「宇多岐《ウダキ》」といふ名詞があり、又「宇多岐かしこみ」と」いふ語も見え、萬葉十四卷にはムダクといつた例もある。此等から見るとタウダキといふべきもののやうに思はれる。意は手を拱くこと。○「天皇《スメラ》朕《ワガ》」は天皇なる朕の意。○「うづの御手」の「うづ」は神代記に「珍、此云2于圖1」とある。又祈年祭の祝詞にも「宇豆能|幣帛《みてぐら》」とある。珍貴若しくは尊嚴なる意である。天皇御躬ら「うづの御手」と仰せられたのは、神聖にして侵すべからざる、最高の御位にあらせられて仰せられた御言葉である。○「ねぎ給ふ」は勞《ネギラ》ひ給ふといふ意。○「かき撫で」「うち撫で」の「かき」「うち」は接頭語。「撫で」と」あるのはいつくしみ憐み給ふ意である。撫でるのは愛憐のしるしであるからである。文武天皇御即位の時の宜命にも、「天の下の公民《オホミタカラ》を惠み賜ひ撫で〔二字右○〕賜はむとなも神ながら思召《オモホシメ》さくと」とある。○「あひ飲まむ酒ぞ」は今此所に賜ふ所のこの御酒は、任を終へて無事に還り來る時に、又相共に飲むその御酒であると云ふ意。○「豊御酒」の「豊」は美稱の接頭語。「豊葦原」「豊明節會」などの「豊」と同じ。
【譯】わが治めて居る國の遠き境にある役所に、汝等がかうして行つてくれるならば、心を安うして遊ばう。手を拱いて暮らさう。天皇として朕は、この貴い大御手を以て汝等を撫でて勞ふぞ。こゝに賜ふこの御酒は、任を終へて歸る日に、重ねて共に飲むべき酒であるぞ。
【評】奈良朝の最盛時代に君臨し給うた聖武天皇の御製として、如何にもふさはしい雄大にして莊重なる調が響く。終りの三句には、必ず無事に任を果して歸る者として、激勵し給ふ御心がよく表はれてゐる。
 
(317)   反歌一首
 
974 ますらをの 行くとふ道ぞ おほろかに 思ひて行くな 丈夫《ますらを》の件《とも》
 
 大夫之。去跡云道曾。凡可爾。念而行勿。大夫之伴。
 
【釋】○「行くとふ道ぞ」は「行くといふ道ぞ」を約めたのである。「道」は古事記傳に、或る目的を以て行く事を云ふ、漢文にいふ此行などの行の字義にあたると云つてゐる。新考にこの二句を解して、「大丈夫ナラデハ果シ難シトイフ任ゾ」とある。○「おほろかには「おぼろ」と關係のある語である。おぼろげに・並々に・尋常になどいふ意味である。
【釋】大丈夫たるものに限つて任せられて行く重い任であるぞ。並大抵に思つて行くな、わが丈夫の輩よ。
【評】大命を帶びて僻地に赴く將軍の勞苦を思し召して、親しく宴を賜ふさへあるに、深き御慈悲をこめさせられた、右の御製をさへ賜はつたのであるから、彼等節度使は定めし感泣したであらう。この御製を拜誦する吾等は今更ながら、義は則ち君臣にして情は猶ほ父子の如き、特殊なるわが君臣關係について感を深うするのである。
 
   山上臣憶良沈v痾之時歌一首
 
978 をのこやも 空しかるべき 萬代に 語りつぐべき 名は立てずして
 
 士也母。空應有。萬代爾。語續可。名者不立之而。
    右一首。山上憶良臣沈痾之時。藤原朝臣八束。使2河邊朝臣東人1令v問2所v疾之状1。於v是憶良臣報語已畢。有v須v拭涕悲嘆口2吟此歌1。
 
【釋】○「をのこやも」の「や」は反語の助詞で、「も」は感動の助詞。「士」は前に説明した通りヲノコと訓むがよい。○第(318)五句の「不立」を考・略解にはタタズシテと訓んでゐるが、これは他動詞であるからタテズがよい。
【釋】男子たるものが、萬代までも語り傳へるやうに、名を立てずして空しく死んでなるものか。
【評】臣子の常道を鼓吹し、子を慕ふ歌をよみ、貧民の窮状に同情した憶良は、重病の床に横たはつて、自分の歩いて來た道に、大なる足蹟を印してゐないことを知つて歎じて居る。彼は正に氣慨ある愛國的詩人であつた。
 
   大伴坂上郎女與d姪家持從2佐保1還c歸西宅u歌一首
 
979 わが背子《せこ》が 着《け》る衣《きぬ》薄し 佐保風は いたくな吹きそ 家に至るまで
 
 吾背子我。著衣薄。佐保風者。疾莫吹。及家左右。
 
【釋】○「姪」はヲヒ。普通姪はメヒで甥はヲヒと讀むのであるが、姪は玉篇に「昆弟(ノ)子之稱」とあつて、男女に通じて用ゐられるのである。○「着《ケ》る」は「着《キ》る」といふ動詞の連用形の「き」に「あり」が添うて、イアの音の中間母音のエを生じてケリとなつたのである。○「佐保風」は佐保の里を吹く風のこと。(飛鳥風・泊瀬風の類。)
【譯】わが君が着てゐる着物はいかにも薄い。さぞ寒からうから、佐保の風はひどく吹くなよ、家に歸り着くまでは。
【評】女らしいやさしい思遣りが歌はれてゐる。
 
   大伴坂上郎女月歌二首
 
982 ぬば玉の 夜霧の立ちて おほほしく 照れる月夜《つくよ》の 見れば悲しさ
 
 烏玉乃。夜霧立而。不清。照有月夜乃。見者悲沙。
 
(319)【釋】○「ぬば玉の」は枕詞。○「おほほしく」は「おほおほしく」と同じ。朦朧として居るさま。○「月夜」は只月の事。○「見れば悲しさ」の「悲しさ」は形容詞の語幹に接尾語の「さ」が添うて名詞となつたものである。從つて「見れば」は古義に「初句の上にめぐらして心得べし。見者《ミレバ》を隔て月夜の悲しさと續く意なり。」とある如く、「悲しさ」だけに掛る語ではないのである。さうするとこの歌の構造は「秋風にたなびく雲のたえまより洩れ出づる月の影のさやけさ」と全く同じであつて、「悲しさ」は悲しきことよといふ意味の句である。(山田孝雄氏「日本文法論」一二二七−一二三八頁參照)
【譯】夜霧が立ちこめて、ほんやりと照つて居る月のあの悲しさよ。
【評】夜霧を透して心細く悲しく照る月を詠んだ歌である。此の歌を誦んでゐると、自然に泣きたいやうな氣分に引き入れられる。
 
983 山の端《は》の ささらえ男 天の原 とわたる光 見らくしよしも
 
 山葉。左佐良榎壯子。天原。門度光。見良久之好藻。
 
【釋】○「ささらえ男」の「ささら」は「ささ」に音調を添へる助詞の「ら」が附いたもので、「細やか」「小さい」などの意がある。「え男」は愛男の意。それ故この句は愛すべき美しい男といふ意で、月を賞でていつたのである。後にはこの語が月の異名となつてゐる。○「とわたる」は瀬戸などを渡ることであるが、こゝでは天を渡る意である。○「見らくしよしも」の「見らく」は見る事といふ意。「し」と「も」は助詞。
【譯】山の端から出て來た美しいお月樣が、空を渡るのは快いものである。
(320)【評】右の二首は後の勅撰集時代には見出し得ない特色のある作である。此等の歌によつて、坂上郎女が天才的氣分と豊艶なる才藻の所有者であつたことが判る。
 
   市原王宴祷2父安貴王1歌一首
 
988 春草は 後はうつろふ 巖《いはほ》なす 常磐《ときは》にいませ 貴き吾君《わぎみ》
 
 春草者。後波落易。巖成。常磐爾座。貴吾君。
 
【釋】○「安貴王」は施基親王(天智天皇の皇子)の御孫で、春日王の御子。○「うつろふ」(落易)は代匠記に「春草」を「春花」の誤と見て、チリヤスシと訓み、古義には「春草」を元のまゝにして、チリヤスシと訓んでゐる。今略解の説に從つて右の如く訓んだのである。○「常磐」は「とこいは」の義で永久不變の意。○「吾君《ワギミ》」はワギモコ(吾妹子)と同じやうに、代名詞の「わ」が助詞を介せずして直ちに名詞に接したのである。
【譯】美しい春草は秋が來れば枯れてしまひます。さういふものとちがつて、どうか巖のやうにいつ/\までも變らずましませ、わが貴い父君よ。
【評】歌も巧みであり、眞情も溢れてゐる。型にはまつた後の賀の歌とは全く類を異にしてゐる。
 
   大伴宿禰家持初月歌一首
 
994 ふりさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引《まよびき》 思ほゆるかも
 
 振仰而。若月見者。一目見之。人之眉引。所念可聞。
(321)【釋】○「初月」は三日月。○「ふりさけて」は遠くを見ることをいふ。(既出)從つてこの句は下の「見る」にかゝるのである。○「眉引」は眉毛を剃つて痕に黛で描いた三ケ月形の引眉を云ふ。○「思ほゆ」は「思はる」と同じ意。
【譯】空に掛つて居る三日月を遙かに見やると、只一度逢つた人の、あの引眉の恰好が思ひ出される。
【評】空に輝く半月を仰いで、一目見た女の蛾眉の美しかつた形を、記憶から呼び起して、なつかしんでゐる優美な歌である。
 
   六年甲戍|海犬養《アマノイヌカヒ》宿禰岡麿應v詔歌一首
 
996 御民われ 生けるしるしあり 天地《あめつち》の 榮ゆる時に 逢へらく思へば
 
 御民吾。生有驗在。天地之。榮時爾。相樂念者。
 
【釋】○「六年」は天平六年。○「岡麿」の傳は未詳。○「御民われ」は天皇を主として云つたので、天皇の臣民たる我といふ意である。○「生けるしるしあり」は生きてゐる甲斐があるといふ意。○「天地の」は天下といふことであるが、それを天地と云つたので感じは更に大きくなつてゐる。○「逢へらく」は「逢へる」の延言。逢へる事をの意。
【譯】天皇の御民たる私は、泌み/\と生き甲斐があると思ふことである。この天地の繁榮を極めてゐる時に、生まれ合つたことを思ふと。
【評】天平時代は支那では唐の玄宗皇帝の時代にあたる。その頃わが國からは頻繁に、遣唐使や留學生を送つて、佛教を中心とする支那や印度の新文明の輸入に努めた時であり、加之新羅の入貢、渤海國の來貢もあつて、皇威は遠き外國にも輝き渡つた時である。さういふ聖代に生まれた作者は、現代文明を謳歌すると共に、皇室の恩澤に浴して(322)居ることを深く感謝して、この歌を詠んだものである。昭代を頌稱した傑作である。
 
   春三月幸2于難波宮1之時歌一首
 
1001 丈夫《ますらを》は 御獵に立たし 少女等は 赤裳すそ引く 清き濱びを
 
 大夫者。御獵爾立之。未通女等者。赤裳須素引。清濱備乎。
    右一首山部宿禰赤人作
 
【釋】○「春三月」は天平六年。○「御獵」天皇の御遊獵であるから「御」をつけたので、其の下の「立たし」は立つの敬語法であるが、これは丈夫に對して丁寧に云つたのである。
【譯】男子たちは御獵の御伴をし、官女たちは清い濱邊に、赤い裳の裾を曳いて樂しく遊んでゐる。
【評】彩色畫を見るやうな鮮かな光景である。當時の行幸に從つた男女の者共の行樂のさまを、遺憾なく描き出してゐるやうに思ふ。
 
   ※[木+安]作村主益人《クラツクリノスグリマスヒト》歌一首
 
1004 思ほえず 來ませる君を 佐保川の かはづ聞かせず かへしつるかも
 
 不所念。來座君乎。佐保川乃。河蝦不令聞。還都流香聞。
    右内匠寮大屬※[木+安]作村主益人。聊設2飲饌1以饗2長官|佐爲《サヰ》王1。未v及2日斜1。王既還歸。於v時益人怜2惜v不厭之歸1。仍作2l此歡1。
 
(323)【釋】○「益人」の傳は未詳。○「佐爲王」は橘諸兄の弟に當る。
【譯】思ひがけなくめづらしくお出で下さつたのに、佐保川で啼くあの河鹿の聲もお聞かせしないで、お歸し申したのが心殘りであります。
 
   市原王悲2獨子1歌一首
 
1007 言《こと》問はぬ 木すら妹《いも》と兄《せ》 ありとふを ただ獨子に あるが苦しさ
 
 不言問。木尚妹與兄。有云乎。直獨子爾。有之苦者。
 
【釋】○「言問はぬ」は物を云はぬといふ意。○「ありとふを」は「ありといふを」と同じ。○「ただ獨子」は王の御子について云つたのでなく、新考の説の通り、兄弟のないことを云つたのである。○「あるが苦しさ」は三一九頁に講じた「見れば悲しさ」と同じ語形。
【譯】物を云はぬ木でさへ兄弟があると云ふのに、自分は獨子に生まれたのが淋しく悲しい。
 
   冬十一月左大臣葛城王等賜2姓橘氏1之時御製歌一首
 
1009 橘は 實さへ花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉《とこは》の樹
 
 摘花者。實左倍花左倍。其葉左倍。枝爾霜雖降。益常葉之樹。
 
【釋】○「冬十一月」は天平八年。○「葛城王」は橘諸兄のこと。橘の姓は母の三千代が、天武天皇の御代に内命婦として仕へてゐた頃、賜はつたものである。三千代は敏達天皇の玄孫美奴王に嫁して、葛城王と佐爲王とを生み、美奴王(324)の薨後は藤原不比等の後妻となつて、光明皇后をお生みした夫人である。○「枝」を古義にエと訓んだのは音調を害するやうである。○「いや」はいよ/\。○「常葉」は常磐と同じで永久不變の意。○葛城王がその弟佐爲王と共に臣箱に下つて、橘の姓を繼ぐことを奏請せられた時の上表が、續日本紀に掲げられてゐる。その文中に「葛城親母贈從一位縣犬養橘宿禰。上歴2淨御原朝廷1下逮2藤原大宮1。事v君致v命。移v孝爲v忠。夙夜忘v勞。累代竭v力。和銅元年十一月二十一日。供2奉擧v國大嘗1。二十五日御宴。天皇擧2患誠之至1賜2浮杯之橘1。勅曰。橘者果子之長。上人所v好。柯《エダ》凌2霜雪1而繁茂。葉經2寒暑1而不v彫《シボマ》。與2珠玉1共競v光。交2金銀1以|逾《イヨ/\》美。是以汝姓者賜2橘宿禰1也。而今無2繼副者1。恐失2明昭1。」とある。これによつて橘氏の由來が明かになるが、なほ此の御製は右の勅命によつてお詠みになつたことが分る。○この歌は聖武天皇の御製とも云ひ、或は太上天皇即ち元正天皇の御製とも云はれて居る。
【譯】橘はその實も花も、又その葉も衰へることのない樹で、その枝に霜の置く時でも、少しも衰へず盆榮える芽出たい樹である。
【評】「さへ」が三度重ねてあるので、調が美しくなつてゐる上に、結句の言ひ放つたやぅな句調が如何にも力がある。天皇の御製にふさはしい。
 
   十年戊寅|元興寺《グワンゴウジ》之僧自嘆歌一首
 
1018 白珠は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 吾し知れらば 知らずともよし
 
 白球者。人爾不所知。不知友縱。雖不知。吾之知有者。不知友任意。
(325)    右一首或云。元興寺僧獨覺多智。未v有2顯聞1。衆諸狎侮。因此僧作2此歌1。自嘆2身才1也。
 
【釋】○「十年」は天平十年。○「元興寺」は佛法始めて興るといふ意で、法興寺の別名である。この寺は平城七大寺の一で、もと崇峻天皇の元年に、厩戸皇子が馬子と共に高市郡飛鳥の地に創立せられたものであるが、養老二年に奈良の猿澤池の南に移され、池を隔てゝ北の興福寺と相對して、互に勢力を爭うた寺である。この二大寺は法相宗で、何れも四町四方の境域を占めてゐた大寺であつたが、後世荒廢に歸してしまつた。殊に元興寺は、安政六年に火災のため燒失した五重塔の礎石を僅かに遺して居るのみで、寺域は今はすべて民家となつてしまつてゐる。○この歌の作者はさういふ有名な大寺の僧であるが、併し名は傳つてゐない。○「白珠」は自分を譬へたのである。○この歌は五七七五七七の旋頭歌である。
【譯】こゝに立派な白珠があつて、人に知られないでゐる。人は知らなくてもよい。自分で眞價を知つてさへ居れば、人は知つて呉れなくてもよいのだ。
【評】三たび「知らずとも」を繰り返へした所に、俗流に反抗した態度があらはれ、又一首の調の上に強い自信と氣慨が流れてゐるやうである。旋頭歌中の佳作である。
 
   十六年甲申春正月十一日登2活道《イクヂ》岡1集2一株松下1飲歌一首
 
1042 一つ松 幾代か經ぬる 吹く風の 聲の澄めるは 年深みかも
 
 一松。幾代可歴流。吹風乃。聲之清者。年深香聞。
    右一首市原王作
 
(326)【釋】○「活道岡」山城相樂郡西和束村大字白栖の東方の山を指したのである。當時の都であつた恭仁(後に詳しく述べる)から、布當《フタギ》川(今の和束川)を一里半許り溯つた處にある。○「一つ松」は一本松。○第四句を新考にコヱノキヨキハと訓んでゐる。○「年深みかも」は年久しく經ぬればかもの意。句の構造は、年ヲ深ム(深ムは四段の動詞)に助詞のカモの添うたものである。
【譯】この一本松は一體幾代を經たのであらう。吹き來る風にあたつて鳴る聲が澄んで聞えるのは、年を久しく經てゐる爲であらうか。
【評】枝を吹き鳴らす風の聲に耳を傾けたといふのが、いかにも非凡である。萬葉時代の歌人は、すべて自然の音に對して、特に敏感であつたやうである。集中に鳥虫の聲は元より、川瀬の響や木の葉の音などを聞いて、感情を叙べた作が頗る多い。これは直接天然に親しむ機會の多い生活を營んでゐた爲であらうと思ふ。
 
   傷2惜寧樂京荒墟1作歌二首
 
1045 世の中を 常なきものと 今ぞ知る 奈良の都の うつろふ見れば
 
 世間乎。常無物跡。今曾知。平城京師之。移徙見者。
 
【釋】○「寧樂京荒墟」恭仁遷都の後の事である。○「うつろふ」は變る意から轉じて、荒れ行く意となる。
【譯】世の中のもの皆無常であると云ふことを、今明かに知ることが出來た。あの盛であつた奈良の都が、かくまで荒れたのを見て。
【評】「咲く花のにほふが如く今盛りなり」と歌はれた奈良の都が、急に舊都となつて、日々荒れて行くことは、當時の(327)市民にとつては、云ひやうのない悲哀であつたである。その心が右の一首によく現はれて居る。
 
   悲2寧樂故京郷1作歌一首並短歌
 
1047 やすみしし わご大君の たかしかす 日本《やまと》の國は すめろぎの 神の御代より 敷きませる 國にしあれば あれまさむ 御子のつぎつぎ 天の下 知ろしめさむと 八百よろづ 千年をかねて 定めけむ 平城《なら》の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野邊に さくら花 このくれがくり かほ鳥は まなくしば鳴き 露霜の 秋さりくれば 射駒山《いこまやま》 とぶひが岡に 萩の枝《え》を しがらみ散らし さ牡鹿は 妻呼びとよめ (328)山見れば 山もみがほし 里見れば 里も住みよし もののふの 八十とものをの うちはへて 里なみ敷けば 天地の よりあひの極み よろづ世に 榮え行かむと 思ひにし 大宮すらを たのめりし 寧藥《なら》の都を 新世《あらたよ》の 事にしあれば 大君の ひきのまにまに 春花の 遷ろひかはり むら鳥の 朝たち行けば さすたけの 大宮人の 蹈みならし 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも
 
 八隅知之。吾大主乃。高敷爲。日本國者。皇祖乃。神之御代自。敷座流。國爾之有者。阿禮將座。御子之嗣繼。天下。所知座跡。八百萬。千年矣兼而。定家牟。平城京師者。炎乃。春爾之成者。春日山。御笠之野邊爾。櫻花。木晩?。貌鳥者。間無數鳴。露霜乃。秋去來者。射鉤山。飛火賀嵬丹。芽乃伎乎。石辛見散之。狹男牡鹿者。妻呼令動。山見者。山裳見貌石。里見者。里裳住吉。物負之。八十伴緒乃。打經 而。里並敷者。天地乃。依會限。萬世丹。榮將往迹。思煎石。大宮尚矣。恃有之。名良乃京矣。新世乃。事爾之有者。皇之。引乃眞爾眞荷。春花乃。遷日易。村鳥乃。旦立徃者。刺竹之。大宮人能。蹈平之。通之道者。馬裳不行。人裳徃莫者。荒爾異類香聞。
 
【釋】○「故京郷」は一本に京の字がない。○「たかしかす」は「たかしらす」「ふとしかす」などと同義。○「あれまさむ」は生まれ給はむの意。○「八百よろづ千年をかねて」は永遠の後をかけてと云ふ意。○「かぎろひの」は陽炎のもえる春と(329)云ふ意で、春の枕詞に置いたのである。○「さくら花云々」は「かほ鳥」の修飾句。○「このくれがくり」は木蔭にかくれてといふ意。「くれ」は「暮」「暗」の義で、蔭のことである。「かくり」は四段活用。(既出) ○「かほ鳥」について種々の説がある。かほ花と同じく、ただ美しい鳥のことであるともいひ、翡翠ともいひ、雉の雄であるとも云つてゐるが、仙覺が云つたやうに、カホは其の鳴聲であつて、カンコ鳥即ちカツコウドリのことであらうと思ふ。(眞淵は今カツポ鳥といふもので、喚子鳴のことであると云つてゐる。喚子鳥は即ちカンコ鳥のことである。豊田氏は阿波の山間に、鶫《ツグミ》科に屬する川烏をカホドリと呼んでゐるから、こゝも川烏のことであると云つてゐる。○「露霜の」は秋の枕詞。露霜は霜になりかけの露のことで、露霜の置く秋といふ意で冠したのである。○「射鉤山」は一本に射駒とあつて、舊訓にイコマヤマとある。併し契沖・眞淵・宣長・雅澄等は生駒山とは別の山であるとして、眞淵はヤツリヤマ、(新考も同訓)宣長は射鉤を羽飼の誤寫として、春日の羽買山のことゝしてゐる。この山は次の句の「とぶひが岡」の位置によつて決定することである。○「とぶひが岡」は烽火を擧げる山のことである。其の位置について契沖は續日本紀元明天皇和銅五年正月の條礫に、「壬辰廢2河内國高安烽1。始置2高見烽及大倭國春日烽1。以通2平城1也。」とあるのを引いて、高見烽は何國とも記されてゐないが、恐らく河内であらう、而して春日烽とあるのは、古今集に「春日野の飛火の野守出でて見よ」と歌はれたその處で、春日野に射鉤山もあつたのであらうと云つてゐる。次に雅澄もこれと同説を唱へて、古今集に歌はれた飛火野は鹿野苑《ロクヤヲン》の東にあつたと云つてゐる。(大和志に「烽火山者在2鹿野苑東1」とある。)鹿野苑は奈良市の南高圓山の西の麓にある。然るに此所に、右の飛火岡は春日烽でなく高見烽を指したのであると云ふ説がある。即ち河内名所圖會の生駒山(生駒は大和と河円の境に跨つてゐる。)の條を見ると、續紀に高見烽とあるのは、暗峠《クラガリタウゲ》(奈良から生駒を越えて大阪に出る通路で、生駒山の南麓を通つてゐる。)の(330)北にある高見山のことであつて、萬葉に歌はれてゐるのもこれであると云つてゐる。(豊田氏の新釋も同説。)生駒山は今の奈良市街からは二三里も距れてゐるけれども、昔の西の京からは極近いのであるから、平城京の叙景にそれを歌つたのは少しも不思議はない。(口繪參照)今この説に從つて、生鉤山は射駒山の誤で、今の生駒山のこととして、「とぶひが岡」はその山の南の高見山の烽火を揚ける處を歌つたものと解釋しておく。○「しがらみ散らし」はしがらみて散らすと去ふ意である。「しがらむ」は名詞になるとシガラミとなる。即ち柴や竹などを押し撓めて搦ませる事をシガラムといふのであるが、此所の意義は茂つた萩の枝の中に立ち入つて、小枝をしがませること、即ち茂つた枝をおし撓める意に用ゐたのである。○「妻呼びとよめ」は妻を呼ぶ聲を響かせる意。○「みがほし」は見ておもしろい意。○「里」は人の住んでゐる處をいふ。孝徳天皇紀に「凡五十戸爲v里」、又集中に「五十戸」をサトと訓んでゐる。(前に講じた貧窮問答歌にある。)○「もののふ」は「八十とものを」の枕詞。(既出)○「八十とものを」は多くの朝臣をいふ。元來トモノヲは部族の長をいふのである。氏族制度が嚴格に行はれた時代にあつては、氏長が中心となつて、その氏の部族の人々を率ゐて朝廷に仕へたのである。その一團の首長を伴の緒と云つたのである。○「うちはへて」の原形は「うちはふ」で「うち」は接頭語。「はふ」は延の意で長く引くことである。從つて「うちはへて」は際限もなく、又はどこまでもといふ意となる。○「里なみ敷けば」は里を並べ敷く意で、人家を並べ構へること。○「敷く」は地を占める意である。○「天地の云々」の句は前に卷二にも述べておいたやうに、天地が相合ふまでと云ふことで、天地の在らん限りの意である。○「大宮すらを」の「すら」は主語を強める助詞。(既出)○「新世《アラタヨ》」(前出)考に御代の始めの意と釋き、古義に移り行く世の習の意としてゐるが、既に説明した通り、現代をたゝへた語で、立派な盛んな御代の意と見るがよい。○「ひきのまにまに」は天皇が引き連れて行き給ふにつれて。○「春花の」は「うつろ(331)ふ」の枕詞。○「遷ろひかはり」は新京へと遷り行くこと。○「むら鳥の」は塒に居た群鳥が朝立つと云ふので、「朝たつ」に冠して枕詞としたのである。○「朝たち行けば」の「朝」は「むら鳥の」の關係で置いたので、たゞ平城を立ち去る意である。○「さすたけの」大宮の枕詞。(宮の外に君にも舍人《トネリ》にも冠する。)「さすたけ」の意義について冠辭考や古義等に説があるけれども、附會した説で信ずるに足らない。谷川士清の説に、儀式帳に「五百枝刺竹田の國」と見えてゐるから、刺竹《サスタケ》は枝葉のさし茂つた竹といふ意であらう、と云つてゐるのは注意すべき説である。(倭訓栞)この説によれば、枝葉のさし茂る竹といふ意から宮にも君にも掛け、轉じては大宮に仕へてゐる舍人にも掛るやぅになつたものと思はれる○「蹈みならし」は蹈み平《ナ》らす意。○恭仁京に遷都のあつたのは、聖武天皇の天平十二年十二月で平城遷都の年から三十年を經てゐる。其の後天平十六年には、再び恭仁から難波に遷され、更に近江の信樂宮に遷り、引續きもとの平城に遷幸せられたのは、天平十七年の五月である。この歌は天平十二年の未、急激に恭仁遷都が決行せられた後の作である。なほ右の如く頻繁に遷都が行はれたのは、藤橘兩氏の勢力爭ひが原因となつたので、最初恭仁に遷都のあつたのは、藤原廣嗣が橘諸兄に對する不滿の爲に、太宰府に於て兵を擧げたのを機會に、諸兄が遷都のことを奏請したのに因るのである。さういふ次第であつたから、平城京に未練のあつた者は、新京に留まつてゐたと見えて、閏三月には五位以上の者は勝手に平城に住む事を許されず、又現に平城に居る者は、即日悉く新京に移れと云ふ嚴命が下つて居る。○卷末の註によれば、この長歌以下卷の終までの歌は、總べて田邊福麿の作である。福麿は天平二十一年に左大臣橘諸兄の便として、家持を越中に訪づれた事が、卷十八に見えて居る。當時造酒司令史を奉じてゐた事が記されてゐるから、位置の高くなかつた人であつたのである。併し歌は中々巧みであつて、家持等と共に萬葉末期の代表的作家であつた。今は傳はつてゐないが、自分で集めたと思はれる家集も(332)あつたやうである。
【譯】わが大君が治め給ふ所の日本國は、皇祖の神の御代以來、お治めになつてゐる國であるから、お生まれ遊ばされる世々の御子が、つぎ/\に天下に君臨ましまさうとして、幾千萬年の後までかけて、都と定められた平城の郡は、春になると春日の三笠山の麓の野原に、咲いた櫻の枝に貌鳥がかくれて、ひまなく鳴き頻り、秋が來ると生駒山の飛火が岡に、萩の枝を靡け散らす牡鹿の、妻を呼ぶ聲がそこらに響き、山を見れば山も面白く、里を見れば里も住みよいので、文武百官はそこらぢうに人家を並べ造るので、天地のあらん限り萬代までも、榮え行くであらうと思つてゐた大宮所であるのに、またあれほど頼みにしてゐた平城の都であるのに、盛大な御代のこととて、大君が引連れて行かせられるまゝに、皆々新京をさして移り行くので、今まで大宮人が蹈み平らした都大路は、今は人も馬も通らなくなつて、荒れ果てゝしまつたことである。
 
   反歌二首
 
1048 たちかはり 古き都と なりぬれば 道のしば草 長く生ひにけり
 
 立易。古京跡。成者。道之志婆草。長生爾異梨。
 
【釋】○「たちかはり」はうち變るといふ意で、「たち」は接頭語。○「しば草」は雜草のこと。「しば」は繁葉の意である。
【譯】榮えてゐた都が替つてしまつて舊都となつたから、道の雜草が思ふまゝに生ひのびて、ひどく荒れてゐる。
 
1049 なづきにし 奈良の都の 荒れ行けば 出で立つごとに なげきしまさる
 
 名付西。奈良乃京之。荒行者。出立毎爾。嘆思益。
(333)【釋】○「なづきにし」は「馴着きにし」といふ意で、住みなれた意。○「出で立つごとに」は外に立ち出て見る毎にの意。
【譯】長らく住み慣れた奈良の都が荒れて行くので、道に立ち出て見るたびに歎きがまして來る。
【評】奈良の市街を西へ舊一條大路を二十町許り行くと、田の中に小高い芝地がある。それが平城宮の大極殿の址であつて、附近にはなほ龍尾道の跡や、十二堂・朝集堂・小安殿等の遺跡が散在し、瓦の破片が散らばり、掘りかへされた礎石の痕などもあつて、見るからに懷古の情に禁へざるものがある。近く北に連る佐保・佐紀の丘陵を背にして大極殿址に立つと、東に緑色濃き春日山や、若草の色淺き三笠山等一體の山々が、東大寺の屋根や興福寺の塔の聳ゆる奈良の市街の背景を描き、遠く南に走つてなだらかな姿の三輪山に至つて盡きてゐる。更に眼を西に轉ずると矢田の山丘が長く延びて、その背後に生駒山が著しく聳え、これも遠く南方に延びて葛城金剛の峻嶺に連つてゐる。この三面の連山で圍まれた廣漠たる平野は、即ち平城京の舊跡であつて、束西二三里の幅を保つて長く南へ展開し、正面に遠く雲かとまがふ吉野連峰に至るまで、五六里の沃野が雙眸の中に入る。この雄大な地形は、所謂「四禽圖に叶ひ三山鎭を作《ナ》し龜筮並び從ふ」(【○元明天皇奠都の詔勅中の一句】)所の、海内無雙の帝都の地であつたことが、誰にも首肯せられるのであるが、それと同時に、近くの都跡村の茅屋から縷々立ち上る淡煙を見、又近く往きかふ大阪行の電車の響や、遠近の村落から聞えてくる長閑な※[奚+隹]犬の聲を耳にする時は、福麿が千二百年前に、日毎に荒れ行く舊都のさまを見て歎じたとは、自ら異つた別種の哀愁が、頻りに胸に湧き起るのである。
 
   讃2久邇《クニ》新京1歌一首並短歌
 
(334)1050 現《あき》つ神 わご大君の 天の下 八島の中に 國はしも 多くあれども 里《さと》はしも さはにあれども 山並《やまなみ》の よろしき國と 川並の 立ち合ふ里と 山城の 鹿背山《かせやま》のまに 宮柱 太敷き立てて 高知らす 布當《ふたぎ》の宮は 川近み 瀬の音《と》ぞ清き 山近み 鳥が音《ね》とよむ 秋されば 山もとどろに さ牡鹿は 妻呼びとよめ 春されば 岡邊もしじに 巖には 花咲きををり あなあはれ ふたぎの原 いと貴ふと 大宮どころ うべしこそ 我ご大君は (335)君のまに 聞こし給ひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも
 
 明津神。吾皇之。天下。八島之中爾。國者霜。多雖有。里者霜。澤爾雖有。山並之。宜國跡。川次之。立合郷跡。山代乃。鹿背山際爾。宮柱。太敷奉。高知爲。布當乃宮者。河近見。湍音叙清。山近見。鳥賀鳴慟。秋去者。山裳動響爾。左男鹿者。妻呼令響。春去者。岡邉裳繁爾。巖者。花開乎呼理。痛※[立心偏+可]怜。布當乃原。甚貴。大宮處。諾己曾。吾大王者。君之隨。所聞賜而。刺竹乃。大宮此跡。定異等霜。
 
【釋】○本歌を講ずるに先つて、大體恭仁京の地埋を説明して置くことが必要であらうと思ふ。恭仁京は天平十二年十二月から、同十六年二月に至る四ケ年餘の帝都であつて、今の山城國相樂郡|瓶原《ミカノハラ》村の地がその舊跡である。朔原村と、木津川を隔てゝ南にある加茂村とは、昔岡田と稱した地で、夙に元明天皇の和銅元年に、岡田離宮に行幸せられたことが見えてゐる。先づ關西本線の加茂驛で下車し、大字舶屋を北に七八町行くと木津川に出る。恭仁大橋を渡つて北に十四五町行くと、瓶原村大字|例幣《レイヘイ》に達する。續紀に、恭仁の大極殿を天平十八年九月に國分寺に施人せられたことが記してあるが、その國分寺址は例幣にある村役場の地で、そこに今も大きな礎石が三四個ある。又役場の東隣に、七重塔址と云ふがあつて、そこには礎石が殆ど完全に保存せられてゐる。又役場の北に大字|登大内《ノボリオホチ》といふ處がある。即ちこの附近が昔の恭仁大宮の位置である。又當時は木津川を隔てゝ、南の加茂村に瓶原離宮があつたので、天平十四年八月には、宮城以南大路の西頭とその離宮との間に、大橋を架けたのである。さて恭仁宮の地はかの雄大な藤原平城などに比べると、遙かに狹い處である。先づ恭仁京の北には、近く三上山一帶の山が長く延び、西南に木津の流を隔てゝ鹿背山がある。南は木津川を隔てて稍遠く春日山の北面を望み、山脈は東に延びて笠置山に連つてゐる。この歌に布當《フタギ》宮、反歌に布當野とあるのは、恭仁宮の地を指したので、布當川は今の和束《ワヅカ》川のことで、恭仁大橋の少しく上流の處で木津川に合流してゐる、長さ五里許りの支流である。此等の山々に圍まれた平野が(336)恭仁京の地で、喜田博士の説によれば、西は鹿背山から、更に西方木津町上狛村あたりにも及んでゐたといふ事である。併し恭仁宮の造營は僅か三年で中止せられたのであるから、恭仁京の計畫は大であつたとしても、十分に手を延ばす暇はなかつたことと思はれる。恭仁は以上述べたやうな地形であるから、帝都の地としては平城よりもよほど遜色があつたのであるが、青山四周の地である上に、木津の清流が中央を流れてゐるので、景色は頗る佳かつたのである。殊に木津川の水利を得たこと」は、當時遷都の一理由とせられたことと思はれる。(口繪參照)○「わご大君」の下には「しろしめす」といふ語を補つて見ると明瞭になる。○「山並」は連山。鹿背山一帶の山を指してゐる。○「川並」は幾條もある川のこと。こゝでは泉川(木津川)とそれに流れ込む布當川を指すのである。○「立ち合ふ里」はそれらの川の合流する里といふこと。「立ち」は接頭語。○「鹿背山のまに」は鹿背山のほとりにいふ意。鹿背山は泉川に臨んでゐる。この山を境に以東を左京とし、以西を右京とせられたものであると云ふことである。○「太敷き立て」は本文「太敷奉」とあつて、考に之をフトシキタテとよんでゐる。こゝはさう讀まねばならぬ所であるが、「奉」は誤字であるかも知れない。古義にはフトシキマツリと讀んでゐるが、これでは句の意味が通じない。○「布當の宮」は恭仁の宮のこと。○「とよむ」は響きわたること。「とよむ」は自動詞のときは四段に活用するが、他動詞のときは下二段に活用する。下に「とよめ」とあるのは他動であつて、「とよもす」「とよます」の意である。○「とどろに」は轟くやうにといふ意。○「花吹きををり」は萬朶の花が咲くこと。「ををり」は枝の撓む意。○「あなあはれ」は考にアナニヤシ、略解にアナニヤシ又はアナアハレとし、古義にアナオモシロと讀み、新考にウマシクニゾに倣つてアナウマシと讀んである。アナアハレと讀むがよいと思ふ。○「うべしこそ」はげに尤もであるといふ意。○「君のまに」は君とましますまゝにといふ意で、「神ながら」といふのと同じ意。考にはキミガマニとよみ、新考には神隨《カムナガラ》の(337)誤字ではなからうかとある。「君のまに」は少し穩かでないが、今は元のまゝにして置く。○「聞かし給ひて」は山川の景色のよい處といふことを聞き給ひてといふ意。○「さす竹の」は大宮の枕詞。(既出)
【譯】現世の神なるわが大君が、知し召す天の下大八洲の中に、立派な國は多くあるが、又住むによい里は多くあるが、特に山々のたゝずまひのよい國として、又川の流の合する清い里として、山城の鹿背山のほとりに、宮柱を立派にお据ゑになつて、知し召す布當の宮は、川が近いので瀬の音がさやかに聞え、山が近いので鳥の聲がよく響いて來る。秋になれば山も響き渡るばかり、牡鹿が妻を呼び立てゝ鳴き、春になれば岡邊も茂く巖に花が咲き滿ちる。ああ美しい布當の原よ。あゝ貴いこの大宮處よ。道理でわが大君は、君とましますまゝに、こゝを立派な處とお聞きになつて、大宮處とお定めになつたのである。
【評】一語の無駄もなく、平明な語を以てよく新京の美しい天地と風物とを歌つてゐる。歌の技倆は赤人にも劣らぬ。
 
   反歌
 
1052 山高く 川の瀬清し 百世《ももよ》まで 神しみ行かむ 大宮所
 
 山高來。川乃湍清石。百世左右。神之味將徃。大宮所。
 
【釋】○「山高く」は本文に「弓高來」とあるが、略解に枝直の説を引いて、「弓」を「山」の誤寫としてゐる。今その説によつて改めた。○「神しみ」は「神さび」と同じ。
【譯】山が高く聳え川の瀬が清い所であつて、何百年までも神々しく榮え行くべき大宮處の樣である。
 
(338)   難波宮作歌一首並短歌
 
1062 やすみしし わご大君の あり通ふ 難波の宮は いさなとり 海かたづきて 玉ひろふ 濱邊をちかみ 朝はふる 浪の音《と》さわぎ 夕なぎに 櫂《かぢ》の音《と》きこゆ あかときの 寐覺《ねざめ》にきけば わたつみの 潮干のむた 浦渚《うらす》には 千鳥妻呼び 葦邊には 鶴《たづ》鳴きとよむ 見る人の 語《かた》りにすれば 聞く人の 見まくほりする みけむかふ 味原《あぢふ》の宮は 見れど飽かぬかも
 
 安見知之。吾大王乃。在通。名庭乃宮者。不知魚取。海片就而。玉拾。濱邊乎近見。朝羽振。波之聲※[足+參]。夕薙丹。櫂合之聲所聆。曉之。寐覺爾聞者。海石之。鹽干乃共。※[さんずい+内]渚爾波。千鳥妻呼。葭部爾波。鶴鳴動。視人乃。語丹爲者。聞人之。視卷欲爲。御食向。味原宮者。雖見不飽香聞。
 
【釋】○「難波宮」に郡を遷されたのは天平十六年春正月十一日である。遷都の動機は、橘氏の勢力を挫くための、藤原氏の策に出たものであるといはれて居る。かくて翌十七年春正月には、また/\山城の紫香樂に遷都があつたのである。○「あり通ふ」は常に通ふ意。(既出)從來離宮として屡行幸などもあつた所であるから、「あり通ふ」と云つ(339)たのである。○「いさなとり」は海の枕詞。(既出)○「海かたづきて」は海片附くの義で、海に寄つて居る意。○「朝はふる」は朝に打ち寄せる意。(既出)○「わたつみの」(海石之)の「石」は「若」の誤であらうと云ふ略解の説に從ふ。○「潮干のむた」は潮干と共に。○「語りにすれば」は話に傳へる事。○「みけむかふ」は御食《ミケ》向ふの義で、枕詞として食物の名にかけ、又轉じて味といふ意から、「あぢふ」「あはぢ」等にもかける。(既出) ○「味原の宮」は和名抄に東生郡味原郷とある地で、宮址は今明かでない。大日本地名辭書には、鶴橋村の小橋《ヲバセ》あたりであらうと云つてゐる。なほ同書に、當時の大宮は玉造(仁徳天皇の御時の宮もこの地にあつた。今の大阪城にあたる。)にあつて、味原宮は離宮であつたであらうと云つてゐる。
【譯】わが大君が宮城としてお通ひ遊ばされる難波の宮は、海に寄つてゐて、珠を拾ふ濱邊が近いので、朝打ち寄せる浪の響も聞え、夕和ぎに櫂の昔も聞えて來る。又曉の寐覺に聞くと、潮の干ると共に、浦の渚に千鳥が妻を呼び、葦原には鶴が鳴き噪ぐ。かういふ景色の面白い處であると、人々が話にすると、それを聞く人は頻りに見たいと希ふ所のこの味原の宮は、いつまで眺めても飽くことがない。
 
   反歌二首
 
1063 あり通《がよ》ふ 難波の宮は 海近み あま少女らが 乘れる船見ゆ
 
 有通。難波乃宮者。海近見。漁童女等之。乘船所見。
 
【譯】たえず通つてお仕へする難波の宮は、海が近いので、海人の少女が乘り出してゐる船が見える。
【評】海に近い靜かな難波の宮の有樣が、はつきり想ひ浮べられるやうな歌である。なほこの歌には眼に映じた所を叙(340)し、次の歌には耳にする鶴の聲を歌つてゐるのは、反歌として頗る面白い。
 
1064 潮干れば 葦邊にさわぐ あし鶴《たづ》の 妻よぶ聲は 宮もとどろに
 
 鹽干者。葦邊爾※[足+參]。白鶴乃。妻呼音者。宮毛動響二。
    右八首田邊福麿之歌集中出也
 
【釋】○第三句の「白鶴」を考に引いてゐる昌保の説に「百鶴」の誤と云つてゐるが、今は古義の説によつてアシタヅと訓んでおく。○「右八首」原本には二十一首あるが、今其の中の傑出した八首を講じた。
【譯】潮が于ると葦原の中で騷ぐ鶴の、自分の妻を呼び立てる聲が、宮に響き渡るほど聞えて來る。
【評】眞淵が新採百首の部門中に、特に「古京」と「皇居」とを設けたのは、集中にこの題の歌が多い爲であるが、福麿は正にそれを得意に詠んだ歌人である。以上講じた八首の作を見るに、歌風は人麿と赤人の中間を行つたものらしく、叙景を主として歌つてゐるうちに、何處か鋭敏な感情が表れてゐて、上品なそしてなつかしい歌となつてゐる。彼の作はなほ卷九及卷十八にも見えてゐる。
 
卷六 終
 
(341)萬葉集 卷七
 
 ○この卷に收められた歌は比較的古い調のもので、總てが作者未詳である。部類は雜歌譬喩歌挽歌の三種に分たれてゐる。
 
    雜歌
 
   詠v天
 
1068 天《あめ》の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隱る見ゆ
 
 天海丹。雲之波立。月船。星之林丹。榜隱所見。
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
【釋】○青い空を海にたとへ、流れる雲を波と見たから、月を船といひ、多くの里の群を林といつたのである。○「月」を古義に半月として居るけれども、必ずしも半月と見なくてもよからうと思ふ。月を船にたとへた歌はこれより下に「春日なる三笠の山に月の船出づ」、又卷十に「天の海に月の船浮け」等がある。○「星の林」といふ一句は、海や波に對して一致を缺くやうに思はれる。併しこれは只星の群の義であるのを、「天の海」「雲の波」「月の船」と歌ひ來つた修辭の關係から「星の林」と云つたので、風景としてまとまらないものとなつたのは、已むを得ぬ事であらう。
【譯】廣々とした天の海に、頻りに白い雲の波が立つてゐて、月の船が星の林の中へ漕ぎ穩れるのが見える。
(342)【評】思想が雄大で譬喩が面白い。併し理智によつて作り上げられた作であるから、再讀して見て感動性の缺けてゐる事に氣がつく。この歌以下に何を詠ずとあるのを見ると、當時既に題詠が行はれたことが分る。
 
   詠v月
 
1069 常は曾《かつ》て 思はぬものを この月の 過ぎかくれまく 惜しき宵かも
 
 常者曾。不念物乎。此月之。過匿卷。惜夕香裳。
 
【釋】○「曾て」は更にの意。○「かくれまく」はかくれることがの意。○古義に述べてある通り、宴席などでの即興の作であらう。
【譯】平素はさうは思はないのに、今宵に限つて、この月がずん/\過ぎ去るのが誠に惜しまれてならぬ。さて良い月夜である。
【評】澄み切つた月を、いつまでも眺め入つてゐる人の姿が、目に浮んで來るやうである。なほ次の二首もこれと似た情趣を詠んでゐる。
 
1072 明日《あす》の夕《よひ》 照らむ月夜《つくよ》は 片寄《かたよ》りに 今宵によりて 夜長からなむ
 
 明日之夕。將照月夜者。片囚爾。今夜爾因而。夜長有。
 
【釋】○「夕」は初夜に限らず古くは一夜の事にも用ゐたのである。○「片寄り」は一方へ片寄る意。○「なむ」は冀望の意を表はす助詞。
(343)【譯】あゝ良い月だ。ついでのことに、明日の夜に照る月も今夜に片寄つて、二夜の長さも照つてほしいものである。
【評】珍客と酒を酌んでゐる夜に詠んだものとして見ると、殊に情趣が深い。
 
1081 ぬば玉の 夜わたる月を おもしろみ 吾が居《を》る袖に 露ぞ置きにける
 
 鳥玉之。夜渡月乎。※[立心偏+可]怜。吾居袖爾。露曾置爾鷄類。
 
【釋】○「ぬば玉の」は夜の枕詞。○「吾が居る袖」はわが眺めつゝ居る袖にの意。
【譯】夜を照り渡る月が餘り面白いので、時を忘れて眺め入つてゐると、いつしか夜も深けて、袖にしつとりと露が宿つてゐた。
【評】月に全心を投げかけて眺め入つてゐた人が、ふと我に歸つた時に詠んだ作である。以上講じた三首の月の歌を見ると、何れも作者の心が月に集中されて居るのを認める。自然に對しても人事に對しても、純眞であり眞率であつた事が、萬葉歌人の特色であり又長所であつたのである。
 
1082 水底《みなぞこ》の 玉さへさやに 見ゆべくも 照る月夜かも 夜の深け行けば
 
 水底之。玉障清。可見裳。照月夜鴨。夜之深去者。
 
【釋】○「さやに」は略解の訓である。代匠記・考及び古義はキヨクとよんでゐる。何れでも意味は通じるが、上にサヘがあるからサヤの方が音調がよい上に、サヤは明か又は清くの意味の語で、却つて面白く聞えるやうである。
【譯】夜がだん/\深け行くにつれて、月がいよ/\澄み渡つて來て、水底に沈んでゐる珠までが、はつきり見えるかと思はれる。
(344)【評】初めの三句が何となく神秘的氣分に引入れるやうな感がする。珠は勿論假想したものであらう。
 
1085 妹があたり わが袖振らむ 木の間より 出で來る月に 雲なたなびき
 
 妹之當。吾袖將振。木間從。出來月爾。雲莫棚引。
 
【釋】○「妹があたり」は略解の説の通り、妹があたりに向ひてといふ意である。○「木の問より」は木の間より妹の家の方に向つて袖を振るといふのであかから、この句は第二句に續くのである。略解や古義に第二句で切つて、妹が木の間から見るといふやうに釋いたのはよくない。又新考に三句までは、卷二の人麿の歌「石見のや高つぬ山の木の間よりわがふる袖を妹見つらむか」といふのを本歌に取つて、二句までを序に置いたのであると見てあるが、序と見る説には從ひ難い。
【譯】木の間から妹のあたりに向つて袖を振らうと思ふ。今山の端から出る月の面に、雲よたなびくなよ。
【評】此の歌を讀むと、美しい月の夜に、山路を行く白衣の人があつて、松の蔭から麓の里を振り返り/\してゐる樣が、繪のやうに浮んで來る。
 
1086 靫《ゆぎ》かくる とものを廣き 大伴に 國榮えむと 月は照るらし
 
 靫懸流。伴雄廣伎。大伴爾。國將榮常。月者照良思。
 
【釋】○「靫」は弓笥《ユゲ》で矢を盛る器、即ち箙《エビラ》のこと。○「靫かくるとものを」は、祝詞に「靫負伴男劔佩伴男《ユギオフトモノヲツルギハクトモノヲ》」などあつて武官をいふ。「とものを」は部族を統べる首長。(既出)大伴氏の遠祖天忍日命は天孫降臨の時、天の石靫を取り負ひ(345)頭槌《クブツチ》の太刀を取り佩き、天の梔弓《ハヂユミ》を取り持ち、天の眞※[鹿/兒]矢《マカゴヤ》を手挾んで御先導の任にあたり、其の後曾孫道臣命は神武天皇里御東征の時、武勲を立てた將軍として名高い。大伴氏はさういふ祖先の關係から代々武官として仕へ、其の子孫は多くの氏族に別れたが、皆武臣であるから「とものを廣き大伴」と云つたのである。廣きは數の多いこと。○「大伴に」眞淵は大伴氏の居所であるか、或は大伴氏は宮門を守る氏であるから、衛門府などを云つたのであらうと解し、略解・古義・選釋・新釋等はこの第二説に從つてゐるが、上田秋成はこの大伴を「大伴の三津」「大伴の高師」など云ふその大伴郷の事で、大伴氏の領國をいつたのであると云ふ。(「冠辭考續貂」)新考は大伴を秋成の説と同じに釋き、初の二句を序とし、國は即ち大伴の國を云つたので、その國は必ずしも一國のことでなく、一郡一郷をも指したのであると釋いてある。今秋成及び新考の説によつて釋く。さて「大伴に」は一句隔てゝ「月は照るらし」に懸るのである。○「國榮えむと云々」は領土に隈なく照る月を見て、自家の繁榮を思つて祝賀の意を詠んだのである。
【譯】靫をかけて仕へ奉る武臣の家柄なる、わが大伴の領土に、限なき月が照り渡つて居るのは、わが氏族が永遠に榮え行くしるしである。
【評】名門の大伴氏が抱負を高唱した作で、雄渾の調と云ふべきである。
 
   詠v雲
 
1088 あしびきの 山河の瀬の なるなべに 弓月が嶽に 雲たちわたる
 
 足引之。山河之瀬之。響苗爾。弓月高。雲立渡。
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
(346)【釋】○「なるなべに」は鳴るままにの意。○「弓月が嶽」は卷向山(三輪山の北にある)の峯である。
【譯】山から落ちて來る川瀬の響が、ざあ/\と激しく鳴り出したかと思ふと、かの弓月が獄には、白い雲がむら/\涌き立つて、盛に雨が降つてゐる樣子だ。
【評】「あしびきの」と歌ひ起して、[の」で連ねられた初の二句のゆるやかに流れて來た調子が、三四の句になつて、強い聲調に轉じ、更に五句目に至つて、特に刀を籠めた詞で結んである。此の聲調をたどつて見る時、此の一首の内容は、個々の語の上にあらずして、此の調の上に流れてゐる事を認めるのである。これが實に萬葉調の一特色である。既に講じた人麿や赤人の傑作、例へば「東の野にかぎろひの」「淡路の野島の崎の」や、「み吉野の象山の間の」「ぬば玉の夜の更け行けば」等が、均しくこの格調に屬してゐる事に注意すべきである。
 
1089 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ海に 立てる白雲
 
 大海爾。島毛不在爾。海原。絶塔浪爾。立有白雲。
 
【釋】○「たゆたふ」はゆた/\とただよふさま。○此の歌も雲を詠んだのである。
【譯】廣い/\海原に島影一つなく、見渡す限りゆた/\と浪が搖れてゐて、そのはての方に白い雲が浮いてゐる。
【評】壯大な海上の景色が歌つてあるが、心細いやうな感じが現れてゐるのは、例の旅情が胸に充ちてゐるからであらう。この歌には左註に「古一首伊勢從駕作」とあつて、作者の名は記してない。
 
   詠v山
 
(347)1096 いにしへの 事は知らぬを わが見ても 久しくなりぬ 天《あめ》の香具山
 
 昔者之。事波不知乎。我見而毛。久成奴。天之香具山。
 
【釋】○「知らぬを」は知らないがの意。○「久しくなりぬ」は香具山に松の樹などが生ひ茂つてゐるのを見ていつたのである。
【譯】遠い昔の事は知らないが、自分が見て以來でも、あの天の香具山は隨分年數を經たものだ。
【評】天の香具山は神話にも屡見えてゐる山であつて、古くから最もよく知られた山であるが、其の山に生ひ茂つてゐる木は、作者が幼い時に見た時既に蒼然と茂つてゐたのである。「いにしへの事は知らぬを」と歌ひ起した一首の上に、山の永遠性に對する神秘の感がよく表はれてゐる。
 
1102 大君の 御笠の山の 帶にせる 細谷川の 音のさやけさ
 
 大王之。御笠山之。帶爾爲流。細谷川之。音乃清也。
 
【釋】○「大君の」は御笠の枕詞。冠辭考に、大君に綱にさし、た御蓋をかざし奉るろから、かく云ひ續けるのであらうと云つてゐる。○「御笠山」は春日にある。○「帶にせる」は山の腰を流れてゐる川のことを云つたのである。○「細谷川」は固有名詞ではない。
【譯】御笠山の腰のあたりを帶のやうに、サラ/\と流れ下る細い谷川の水音のあの心地よさ。
【評】一句置きにオの音が句頭にある上に、一體に音調がいかにも水の音のやうに響いてゐる。水の昔を愛するのは上代の趣味である。この歌は仁明天皇の大嘗祭の時、主基に當つた備中國の歌として、初め二句を「眞金ふく吉備の(348)中山」と改めて奉つてゐる。
 
1109 さひのくま 檜隈《ひのくま》川の 瀬をはやみ 君が手取らば ことよせむかも
 
 佐檜乃熊。檜隈川之。瀬乎早。君之手取者。將縁言毳。
 
【釋】○「さひのくま」の「さ」は接頭語。この二句は「み吉野の吉野の山」としいふのと同じく、「檜隈」と同音を重ねて枕詞としたのである。檜隈川は大和の高市郡にある。源を高取山に發し、初め高取川と1いひ、阪谷村に流れて檜前川と云ひ、眞弓岡の東を流れて眞弓川の名を得、白橿村の見瀬を經て久米に行くと久米川と呼ばれる。重阪《ヘサカ》川に入るまで長さ僅かに三里許りの川であるが、飛鳥川と共に萬葉歌人には最も關係の深い流である。○結句を考にコトヨセムカモとよみ、(古義も同訓)略解にはヨセイハムカモと讀んでゐる。考の訓がよい。「ことよす」はかこつけること。(「ことよる」といふときは云ひ寄ることで、言寄妻《コトヨセヅマ》といふ語もある。)
【譯】檜隈川を渡るとき瀬があまり早いので、足が危いからとて君の字を取つて渡つたならば、彼是と噂を立てられることであらう。
【評】俚謠めいた美しい歌である。「よしの」に「み」を添へて「みよしのの」と云ひ、「ひのくま」に「さ」を添へて「さひのくま」と云つて、吉野や檜隈の枕詞とする時は、美しい音調が流れる。接頭語の微妙な效用に法意すべきである。
 
   詠v蘿
 
1120 みよしぬの 青根が峯《たけ》の こけむしろ 誰か織りけむ 經緯《たてぬき》なしに
 
 三芳野之。青根我峯之。蘿席。誰將織。經緯無二。
(349)【釋】○「青根が峯」は吉野山中の金峰山の北に並ぶ嶺で、青根は青嶺の義である。「峯」を古義にタケと訓んでゐる。ミネと訓む時はアヲネのネと同音が重なるからである。○「こけむしろ」は青い苔を席に見立てたのである。○「なしに」は今口語に云ふのと同義で、なくしての意。
【譯】吉野山中の青根が峯の苔は、一體誰が織りなした席であらうか。經も緯もなしに、あんな美しい席が能くも織れたものである。
【評】嶺一面に生えてゐる千古の苔を見渡して、天工の妙を讃美した歌である。
 
   思2故郷1
 
1125 清き瀬に 千鳥妻呼び 山のまに 霞立つらむ 神南備《かむなび》の里
 
 清湍爾。千鳥妻喚。山際爾。霞立良武。甘南備乃里。
 
【釋】○「清き瀬」は飛鳥川である。○「山のま」は山のほとり。○「神南備の里」は古義に飛鳥の里のことゝあるが、恐らく龍田であらう。神南備については前に説明しておいた。
【譯】今頃はあの清い龍田川の瀬には、千鳥の妻を呼ぶ聲が聞え、山のほとりには霞も立つてゐることであらう。神南備のわが故郷が偲ばれる。
【評】平城京に遷都された時新京に移つた人が、故郷を偲んで詠んだ歌であらう。
 
   詠2和琴1
 
(350)1129 琴取れば 嘆《なげき》先立つ 蓋《けだ》しくも 琴の下樋《したひ》に 妻やこもれる
 
 琴取者。嘆先立。蓋毛。琴之下樋爾。嬬哉匿有。
 
【釋】○「蓋しくも」は「蓋し」と同じ。「蓋しく」に助詞の「も」が添うた形であつて、「蓋し」は當時形容詞のやうに活用したのである。意味は「或は」「もしや」である。○「下樋」は琴の胴のうらを云ふ。○妻を喪つた人の作であらう。
【譯】不思議な事に琴を取り上げると先づ嘆息か洩れる。もしや琴の胴の下に妻が籠つてゐるせいではなからうか。
【評】思出の多い琴を弾いた時の作であらう。何となく古代の神秘的な物語を聞くやうな悲しい歌である。
 
   山背作
 
1138 宇治川を 船渡せをと 呼ばへども 聞えざるらし ※[楫+戈]《かぢ》の音《と》もせず
 
 氏河乎。船令渡呼跡。雖喚。不所聞有之。※[楫+戈]音毛不爲。
 
【釋】○「舟渡せを」の「を」は感動の助詞であることは度々云つた。「よ」といふのと同じである。○「呼ばへ」は「呼ぶ」の連續的の意である。○結句の「せず」を新考にセヌと讀んでセヌハの意としてゐるが、今は普通の解釋に從つた。
【譯】宇治川に來て「オーイ渡守よ渡してくれい」と大聲で呼んでも/\、一向漕いで來る楫の音もしないのは、向岸が遠いので聞えないらしい。
【評】心細い寂しい氣分に引き入れられるやうな歌である。四五句の倒置法が此の場合に於ては、作者の心を明瞭に傳へてゐる。
 
(351)   攝津作
 
1140 しなが鳥 猪名野《ゐなぬ》を來れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿はなくして
 
 志長鳥。居名野乎來者。有間山。夕霧立。宿者無爲。
 
【釋】○「しなが鳥」は枕詞。冠辭考にシナガドリば息長鳥《シナガトリ》の義で鳰《ニホ》(かいつむり)のこと、此の鳥は雌雄睦じく並んで居るから率《ヰ》にかけ、轉じて猪名野にもかけるのであると云つて居る。○「猪名野」は攝津の猪名川に沿うてある地方の(豊島・河邊の二郡)古名。○「有間山」について大日本地名辭書に「有馬山は郡中の總稱なれば何處と眼底し難し。攝津志湯山に擬するは非なり。又古歌を按ずるに、有馬山は猪名野に詠み合す。即ち猪名野に向へる羽束山・名鹽山・生瀬山・船坂山など、六甲山の北に接續する嶺をいふものの如し。」とある。
【譯】廣々とした猪名野をトボ/\とやつて來ると、早や日も暮れかけて、彼方に見える有間山に夕霧が立ちこめて來た。而も自分は宿るべき家も尋ねあてずして、誠に心細いことである。
【評】卷三にある「苦しくも降り來る雨か三輪が崎」の歌と同じく、上代の旅の苦痛が想ひやられる歌である。四五の二句に作者の心持が集中されてゐる。
 
1160 難波潟 潮干に立ちて 見渡せば 淡路の島に 鶴《たづ》渡る見ゆ
 
 難波方。鹽干丹立而。見渡者。淡路島爾。多豆渡所見。
 
【譯】難波の浦の潮干潟に下り立つて向ふを見渡すと、淡路島の方へ鶴の群が鳴いて行くのが見える。
【評】美しい繪を見るやうな歌であつて、而も動的に描寫せられてゐるのが巧みである。
 
(352)   羈旅作
 
1161 家さかり 旅にしあれば 秋風の 寒きゆふべに 雁鳴きわたる
 
 離家。旅西在者。秋風。寒暮丹。鴈喧渡。
 
【譯】家を遠く離れて旅に居ると、秋風が寒く吹く暮方に、空高く雁が連ねて鳴いて行くのが聞えて、いとど淋しさを覺えしめる。
【評】旅の愁に加ふるに、荒涼たゐ秋の夕の淋しさを泌々と感じた人の作である。第三句以下が印象の強い佳句である。
 
1165 夕なぎに、あさりする鶴《たづ》 潮滿てば 沖浪高み おのが妻呼ぶ
 
 暮名寸爾。求食爲鶴。鹽滿者。奥浪高三。己妻喚。
 
【譯】風の和《な》いだ夕方に、洲に出て餌をあさつてゐた鶴が、滿潮時になつて、沖の浪が高く打ち出したのに驚いて、己が妻を呼び連れて、磯邊を指して歸つて來る。
【評】時の經過するにつれて光景が変化する内容を、簡明な語句の間に巧みに活寫してゐる。鶴の聲を妻を呼ぶ聲と聞いたのは、云ふまでもなく、旅人が自分の感情からさう聞いてゐるのである。下にも「あさりすと磯に住む鶴明け行けば濱風寒みおの妻呼ぶも」といふのがある。
 
1168 今日もかも 沖つ玉藻は 白浪の 八重折をが上に 亂れてあらむ
 
 今日毛可母。奥津玉藻者。白浪之。八重折之於丹。亂而將有。
 
(353)【釋】○「八重折る」は立つ波が幾重にもたゝみかけて崩れる意。○「亂れてあらむ」は亂れてあるらむの意。昨日海上で見たさまを偲んで詠んだのである。
【譯】今日もまた昨日のやうに、沖の美しい藻が、幾重にも崩れかゝつてゐる白浪の上に、亂れ漂うて居るであらう。
【評】上代人の自然に對する美觀は、未だ幼稚であつて、一般に色や香や運動や音などの、特に注意を引くものゝ上にあつたらしい。玉藻の漂ふさまを詠んだのが多いのはこれが爲であらう。前卷に見えてゐた「沖つ島荒磯の玉藻」の歌もこれと似て、玉藻の美を愛でた作であつた。
 
1170 ささなみの 連庫山《なみくらやま》に 雲ゐれば 雨ぞ降るちふ かへり來《こ》わがせ
 
 佐左浪乃。連庫山爾。雲居者。雨曾零智否。反來吾背。
 
【釋】○「ささなみの」は枕詞。連庫山は樂浪《さざなみ》(滋賀郡あたりの古名)と云ふ廣い地名の内にあるから掛けたのである。(既出)○「連庫山」は近江滋賀郡にある狹々波山《さざなみやま》の古名であらう。○この歌は連庫山の見えるあたりの家に、留守居をして居る妻が詠んだものらしい。
【譯】あの連庫山に雲が掛ると、きつと雨になると云ふが、如何にも降りさうになつて來た。どうぞ良人が早くお歸りになればよい。
【評】眞情が流露してゐて、いかにも人を動かす作である。
 
1176 夏麻《なつそ》引く 海上《うなかみ》潟の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず
 
 夏麻引。海上滷乃。奥津洲爾。鳥者簀竹跡。君者音文不爲。
 
(354)【釋】○「夏麻引く」は枕詞。畑の麻は六月に根引するから、夏麻を引く畝《うね》といひつづけ、それを海上にも掛けたのであると云ふ説があるが、(「冠辭考」)これは夏麻を引いてそれを績《う》むといふ意から、ウの音のある海上にかけたのであらうと思ふ。○「海上潟」は上總にも下總にもある。或はあのあたり一體の海を指したのであらう。「上菟上《カミツウナカミノ》國造|下菟上《シモツウナカミノ》國造」と古事記にあるのも、このあたりの地を指したのである。(契沖及び間宮永好は上總の海上潟と定めてゐる)○「すだく」は考に「すゝみさけぶなり」とあるのはよくない。略解に集まる意と云つてゐるのが正しい。この語が鳴くといふ意になつたのは後世のことであるけれども、集まるといへば自ら鳴くことも含まれてゐるから、古義の説のやうに集まつてさわいでゐる意に釋くべきであらう。○「君」を代匠記及び新考には故郷に居る妻とし、略解・古義には旅にある男を指したものとし、なほ古義は作者を海上潟の女としてゐる。今前説によつて海上潟を旅する男の作と見て釋く。○「音もせず」は聲の聞えない意である。轉じては音信の來ない意にもなる。
【譯】海上潟の沖の方にある洲には、鳥が澤山集まつて騷いで居るが、故郷に殘して來た君の聲を聞くことは出來ない。まことに氣掛りなことである。
【評】四句までに歌つた背景が、不安の念を抱きながら、遠く旅する作者の感情を、あはれ深からしめてゐる。
 
1177 若狹なる 三方《みかた》の海の 濱清み い行きかへらひ 見れど飽かぬかも
 
 若狹在。三方之海之。濱清美。伊徃變良比。見跡不飽可聞。
 
【釋】○「三方の海」は若狹國三方郡にある淡水湖の三方湖。○「い行き」の「い」は接頭語。○「かへらひ」は「歸る」に副語尾の「ふ」が附いたもので、動作の反復して行はれる意を表はす。
(355)【譯】若狹にある三方の湖畔が清いので、幾度となく行きつ戻りつして見るけれぢ、いつまで見ても飽かぬ眺である。
【評】その清い風景に、心を浸した態度で詠んでゐるので、なつかしさを感じさせる作となつてゐる。
 
1193 夫《せ》の山に ただに向へる妹の山 ことゆるせやも 打橋《うちはし》わたす
 
 勢能山爾。直向。妹之山。事聽屋毛。打橋渡。
    右一首者藤原卿作未v審2年月1
 
【釋】○妹山背山は相似た二つの山が並んでゐるので與へた名で、歌枕として名高いのは、紀伊國伊都郡笠田村と大和國吉野郡上市の東方とにある。前者は紀(ノ)川を挾んで、北に背山南に妹山があり 後者は吉野川を中央にして北に妹山南に背山がある。此の卷の「人ならば母のまな子ぞあさもよし木の川の邊の妹と背の山」は紀伊の歌であるが、ここは何れであるか分らない。○「ただに向へる」はさし向ひになつてゐること。○「ことゆるせやも」は背の山の云ひ寄つた言を聽き入れる意。「や」は疑問の助詞。○「打橋」は假に架け渡した板橋。
【譯】背山とさし向ひになつてある妹山は、背山の云ふことを聽き入れたのであらうか、打橋が架けてある。
【評】山に靈を認めてゐた、當時の人の心になつてこの歌を誦むと、愛すべき歌であることが知れる。
 
1203 磯《いそ》の上《へ》に 爪木《つまき》折り燒《た》き 汝《な》がためと 吾がかづき來《こ》し 沖つ白玉
 
 礒上爾。爪木折燒。爲汝等。吾潜來之。奥津白玉。
 
【釋】○「爪木」は爪先で折り取つた小枝の義で、薪にする小枝を云ふ。○「かづく」は水を潜ること。「かづき來し」は潜(356)き取り來しの意。○「白玉」はここでは眞珠のこと。
【譯】磯邊に薪木を折り焚いて、身を暖めなどして、あなたの爲に水中を潜つて、やうやく沖から取つて來た眞珠であります。
【評】初の二句には、海人が水から上つて來て焚火をするさまを詠んであるが、これは勿論作者自らの上を云つたのでなく、人に物を贈るとき勿體をつける上代の風習から、かう云つたのである。
 
1206 沖つ波 邊《へ》つ藻まきもち 寄せ來とも 君にまされる 玉寄せめやも
 
 奥津波。部都藻纒持。依來十方。君爾益有。玉將縁八方。
 
【釋】○「邊つ藻」は海邊に生ずる藻。○「寄せめやも」の「や」は反語。○「此の歌の初めの二句は一云として、「おきつ浪邊つ浪しくしく寄り來とも」とある。(新考に、一云の方が隱當であると云つてゐる。)
【譯】沖の浪が海邊の藻をまき寄せて來ても、その藻と共にあの君にました、美しい珠を寄せることはない。
 
1225 小夜深けて 夜中《よなか》の方に おほほしく 呼びし舟人 はてにけむかも
 
 狹夜深而。夜中乃方爾。欝之苦。呼之舟人。泊兼鴨。
 
【釋】○「夜中」を契沖は字義の通りに解し、宣長は「度中《トナカ》」の誤として門中(港の入口の海上)の義としてゐるが、古義に或人の説として、近江高島郡の地のヨナカとしてゐる。初句に「小夜深けて」とあるから、夜中頃の意と見ると重複になる。しかのみならず卷九に「たびなれば三更《よなか》をさして照る月の高島山にかくらく惜しも」と歌つてゐるから地名(357)に相違ない。大日本地名辭書によれば、高島郡の今津であらうと云ふ事である。○「おほほしく」はおほろげに、若しくは陰氣にの意。○「はつ」は舟の泊ること。
【譯】夜深けて夜中の方に、おぼつかなく舟人の呼ぶ聲が聞えてゐたが、やがて其の聲も止んでしまつたのは、もうあの舟人は、どこかに舟がかりをしたのであらう。
 
1228 風早《かざはや》の 三穗の浦廻《うらみ》を 漕ぐ舟の 船人さわぐ 浪立つらしも
 
 風早之。三穗乃浦廻乎。榜舟之。船人動。浪立良下。
 
【釋】○「風早の三穗の浦」は紀伊國日高郡三尾浦の古名。風早は三穗浦あたりの廣い地名(今は傳はらず)である。この歌では地名の外に、風の早いと云ふ意味も自ら通ふので面白いのである。
【譯】風の吹き荒れる三穗浦の、險惡な海を漕ぎ廻る船の船頭が、頻りに噪ぎ立てゝ居る聲が聞える。定めし荒い浪が立つてゐるのであらう。
【評】謡曲の「羽衣」に引かれてゐるので人の能く知つてゐる作である。卷十四にある「葛飾のままの浦廻を漕ぐ舟の舟人さわぐ浪立つらしも」は此の歌とよく似てゐる。
 
1231 あまぎらひ ひかた吹くらし みづぐきの をかの水門《みなと》に 波立ちわたる
 
 天霧相。日方吹羅之。水莖之。崗水門爾。波立渡。
 
【釋】○「あまぎらひ」は空の曇る事。「きらひ」は「きる」に繼續の意を表はす「ふ」の添うたものであるが、「きる」は露と(358)關係のある語で、霧の立つ意又は曇ることをいふ。○「ひかた」は日方の義であらう。午後太陽の方向から吹く風、即ち西南又は南の風を云ふ。倭訓栞に「夕日の空に吹くを舟人の語にも『ひかたよひよわり』といふ。晩に其方より吹くは強きものながら、暮過ぐる程に必ずよわる也といへり。」とある。○「みづぐきの」は岡の枕詞。宣長の説にミヅグキはみづ/\しい莖の意で、稚《ワカ》といふ意でワカに近い音のヲカに懸かつたのであると云つてゐるが(「玉勝間」)これは眞淵の云つたやうに、筑前の遠賀郡の水莖の崗を指したので、崗の湊は即ち遠賀川(遠賀の名は崗と關係がある。)の川口の蘆屋の地である。而して水莖は崗の東に沿うてゐる洞《クキ》の海から出た枕詞で、恰も「さざなみの」が滋賀や大津の枕詞となり、「大伴の」が御津の枕詞となつたのと同樣の枕詞であらう。洞の海は若松港を人口として、八幡から西の方折尾にかけて深く灣入してゐて、其の形は恰も洞穴(山の洞穴を古語でクキと云ふ)に似てゐるので、其の名を得たものらしい。從つてこの枕詞は筑前の崗に限らず、近江の岡にもかけられてゐる。古今集の大歌所の歌に「水莖の岡のやかたに妹とあれとねてのあさけの霜のふりはも」とあるが、この水莖の岡は近江の蒲生郡八幡町の西の岡山の地で、その西岸は洞の海と同じく、湖水が深く灣入してゐる。なほ「水莖の」は後には地名でなく、一般に岡にかゝるやぅになつてゐる。○「水門」は水の出入する門戸の義で、海にあつては多くは河口がそれである。昔の舟は河口に碇泊したのである。
【譯】空が曇つて強い南風《ヒカタ》が吹くらしい、あの遠賀《ヲカ》の湊に波が一面に白く立つてゐる。
 
1233 をとめらが 織る機《はた》のへを 眞櫛《まぐし》もて かかげたく島 波間より見ゆ
 
 未通女等之。織機上乎。眞櫛用。掻上栲島。波間從所見。
 
(359)【釋】○初句から「かかげ」までは「たく島」の序。○「かかげたく」は掻き上げたくで、「たく」は「髪をたく」などと云つて掻き上げる意である。○「たく島」は肥前の平戸島と大島の間に横たはつてゐる度島である。
【譯】遠くにある栲島が、ゆら/\と搖れてゐる浪の間から見えてゐる。
【評】選釋に「この歌の面白味は一にこの序にある。而してこの序の面白みは更にまた、機織る時の運動が波の間にたゆたつて、島の見えつ隱れつする景色に、自ら通つてゐるところにあることを看過してはならぬ。」とある。
 
1235 波高し いかに梶取 水鳥の 浮寢やすべき なほや漕ぐべき
 
 浪高之。奈何梶取。水鳥之。浮宿也應爲。猶哉可榜。
 
【釋]○「梶取」は船頭。○「水鳥の」は浮寢の枕詞。
【譯】おい船頭よ、だん/\波が高くなつて來たぞ。今夜はこゝらで舟を止めて寢ようか、それとも波を凌いでもつと漕いで行くか、どつちにしたものだらう。
【評】船頭に訊ねてゐる言葉によつて、波に飜弄せられてゐる弧舟のさまと共に、作者の心持がよく現はれてゐる。
 
   問答
 
1251 佐保川に 鳴くなる千鳥 何しかも 川原をしぬび ぃや川|上《のぼ》る
 
 佐保河爾。鳴成智鳥。何師鴨。川原乎思努比。益河上。
 
【譯】佐保川に鳴いてゐる千鳥よ。お前は何故そんなに川原を慕つて、川上の方へ上つてばかり行くのか。
 
(360)1252 人こそは おほにもいはめ 我がここだ しぬぶ川原を しめ結ふなゆめ
 
 人社者。意保爾毛言目。我幾許。師奴布川原乎。標結勿謹。
    右二首詠v鳥
 
【釋】○「おほにもいはめ」の「おほ」はおほよその意。○「ここだ」は大変に。○「しめ結ふ」は場所を限るために繩を張る事。「しめ」は標繩である。○「ゆめ」は強く制止する意の副詞。決してといふ意。○この歌は前歌に答へたのである。
【譯】人はよい加減に思つて居らうが、私にはこれほど慕はしい川原であるから、決して勝手に繩張りなどして、邪魔をしてはいけない。
【評】考にこの問答歌は、佐保川に沿うて他の女の許に行く男を、千鳥にたとへてよんだもので、問は女のよんだ歌、答は男の歌であるといひ、代匠記・略解には前の歌は千鳥に問ふのであり、後のは千鳥に代つて答へた歌であると云つてゐる。考の説のやうに、人事が含まれてゐるかも知れないが、千鳥の上に就いての歌として見ても、中々面白い作である。
 
   臨時
 
1257 道の邊の 草深百合《くさふかゆり》の 花ゑみに 笑《ゑ》みしがからに 妻といふべしや
 
 道邊之。草深由利乃。花咲爾。咲之柄二。妻常可云也。
 
【釋】○「臨時」は折に觸れての作。○「草深百合」は草の茂つた中に咲いてゐる百合。○初めの二句は序。○「花ゑみには花が咲くやうに笑を洩すこと。○第四句を略解・古義にヱマシシカラニと訓んでゐるが、新考の訓のヱミシガカ(361)ラニがよい。「がから」は「神ながら」の解釋の時に述べておいたやうに、故といふ意の「から」に、助詞の「が」の附いた形である。笑みし故にの意である。
【譯】道傍の草叢の中に美しく咲く百合の花のやぅに、私に對つて美しい笑顔を見せたからと云つて、それだけのことで、あの女はもう私のものだと云つてよいものだらうか。
【評】一目見た笑顔を胸に抱いて、多少躊躇しながら未來をかけて、窃かに喜んだ心が直接に詠まれてゐる。微笑を禁じ得ない作である。
 
1263 あかときと 夜烏鳴けど この山上《をか》の 木末《こぬれ》が上は 未だ靜けし
 
 曉跡。夜烏雖鳴。此山上之。 本末之於者。未靜之。
 
【釋】○「あかとき」は夜明。○「夜烏鳴けど」は代匠記に「遊仙窟云、可v憎病鵠夜半驚v人。」を引いてゐる。○「山上」の訓は考・古義にヲカ代匠記・略解に、ミネとある。新撰字鏡を見るに「※[土+丘]」「陵」の字に乎加の訓を擧げ、「※[山+堯]」に「山高危峻之貌。太加志又美禰」、又「※[山+喬]」の下に「平山高也、山鋭而高也、秀也、美禰也」とあるから、ヲカは小高い山でミネは高く嶮しい山を云ふのである。尚ほヲカとミネの語源を考へて見るに、ヲは、峰上《ヲノヘ》・向峰《ムカツヲ》・八峰《ヤツヲ》などの峰《ヲ》で、嶺《ミネ》に對して山の低い處を云ひ、カは處の義であるから、ヲカは小高い處といふが本義で、廣くは普通の山をさすことにもなるのである。次にミネのミは接頭語、ネは高嶺《タカネ》・富士嶺《フジノネ》のネで、高い嶺をいふのである。從つて高く屹立した山を、ミネといひ、普通の山はヲカといふべきものであることが明かである。○この歌は其の内容から推し量つて、女子の作であるらしく思はれる。
(362)【譯】いかにも曉を告げる夜烏の越えが聞えます。併しこの山の梢に寐てゐる鳥は、まだちつとも鳴きは致しません。まだ/\お歸りになる時刻ではございません。
【評】曉に別れを惜しんでゐる男女の姿、又その二人の間に交された對話までが、あり/\と想像せられるやうな歌である。
 
   旋頭歌
 
1281 君がため 手力《たぢから》疲れ 織りたる衣《きぬ》を 春さらば いかなる色に 摺りでばよけむ
 
 君爲。手力勞。織在衣服斜。春去。何何。摺者吉。
 
【釋】○本文の「織在衣服|斜〔右○〕、春去、何|何〔右○〕」の「斜」は「料」、「何」は「色」の誤であらうと云ふのが宣長の説である。今それに從つて訂正した。新考には「何何」は何花の誤で、イカナルハナニとよむべきであると云ふ。○「衣《きぬ》」は衣服の料の意で織物を云ふ。○「摺る」は白い織物に草花などを摺りつけて模樣をつけること。○「てば」の「て」は完了の助動詞の「つ」の未然形で、「ば」は假定法の句を承ける接續の助詞である。從つてこの一句の意味は、「摺つたならば」となる。○これより六首は人麿集に出づと註せられたもの。
【譯】君に着せようと思つて、手の疲れるほど働いて織り上げたこの着物を、色々の花の咲く春になつたら、どう云ふ色に染めつけたらよからうか。
 
(363)1285 春日《はるひ》すら 田に立ち疲る 君はかなしも 若草の 妻なき君が 田に立ち疲る
 
 春日尚。田立羸。公哀。若草。※[女+麗]無公。田立羸。
 
【釋】○「若草の」は若草の如く若く愛しきわが妻といふ意で云ひかけた枕詞。
【譯】この日永の春さへ、終日あんなに田に下り立つて働いてゐる人は可愛さうである。手助けをして呉れる妻がないので、あんなに獨りで働いてゐる。
【評】右の二首は、上代人の生活を直接に歌つてゐるので興味がある。後の大宮人の作には、決して見當らぬ所である。かうした詠歌の態度は、後世の民謠に傳へられて、これに類した歌謠が多い。
 
1288 水門《みなと》の 葦《あし》の末葉《うらは》を 誰か手折りし わが背子が 振る袖見むと 吾ぞ手折りし
 
 水門。葦末葉。誰手折。吾背子。振手見。我手折。
 
【釋】○初めの二句は舊訓にミナトナル、アシノスヱハヲとあるのを、代匠記の説に從つて右の如く訓んだのである。○「末葉」は先の方の葉を云ふ。○「水門」は河水の流れ出る門口、即ち川口の船泊りをする所を云ふ。○「振る袖」の本文は「振手」とあるが、略解に「振」の下に「衣」が落ちたのであらうと云つてゐる。前記の訓は新考の説によつたのである。○この歌は自問自答である。
(364)【譯】港の岸に生えてゐるこの葦の末葉を 誰がこんなに手折つたのか。それは舟出する私の良人が、名殘を惜しんで袖を振る姿をよく見ようと思つて、私が手折つたのであります。
【評】俗謠にありさうな情趣の豐かな歌である。旋頭歌はもと五七五の片歌を二つ重ねて成つたものである。その片歌は普通問答の時に歌はれたものであるから、之を重ねて成つた旋頭歌も、自ら問答式の形式を多く保有してゐるのである。
 
1290 海《わた》の底 沖つ玉藻の なのりその花 妹と吾と ここにしありと なのりその花
 
 海底。奥玉藻之。名乘曾花。妹與吾。此何有跡。莫語之花。
 
【釋】○「海の底」は沖の枕詞。○「なのりその花」はホダハラ(穗俵の義)俗にいふホンダハラのことである。ナノリソといふは漢名莫鳴菜とあるのをナナリソと讀み、それを更にナノリソと呼ぶやうになつたのであらうと云ふ。(古義品物解)この歌ではその告げる勿れと云ふ名を結句に云ひかけたのである。○五句の本文の「何」を代匠記に、「荷」の誤であらうと云ひ、木村博士は「何」「荷」は通じて用ゐられるから、「何」をニと訓んでよいと云つてゐる。さてこの訓は略解に從つたのである。(他書の訓はココニアリト)
【譯】岸に打ち上げられてゐる、美しい藻のなのりそ〔四字傍点〕の花よ。お前の名に背かず、妹と吾と此所に忍びかくれて居ることを、決して人に告げてはいけないよ。
(365)【評】これも俗謠めいた歌である。なのりその花〔六字傍点〕を用ゐた技巧も音調も面白い。
 
1291 この岡に 草刈るわらは しかな刈りそね ありつつも 君が來まさむ 御秣《みまくさ》にせむ
 此崗。草苅小子。然苅。有乍。君來座。御馬草爲。
 
【釋】○「わらは」(小子)の訓に、ワラハ・オノコ・コドモの三説あるが、今舊訓に從つた。和名抄に「童、和名和良波、未v冠之稱也。………童男童女也。」とある。○「ありつつも」はそのまゝにしておくこと。古義に、「君」にかけて絶えず來る意に釋いたのはよくない。
【譯】この岡に來て草を苅る于供よ、そんなに皆苅り取つてお呉れでないぞ。そのまゝに置いて、わが待つ君が召してお越しなさる馬に、食べさせる秣にしようから。
【評】來るべき愛人を待つてゐる女が、感情を直接に歌はずして、その家の周圍を詠んだので、景もあり情もあつて、頗る面白い作となつてゐる。
 
1293 あられ降り 遠つあふみの 吾跡川楊《あどかはやなぎ》 苅れども またも生《お》ふちふ あど川楊
 
 丸雪降。遠江。吾跡川楊。雖苅。亦生云。余跡川楊。
(366)    右六首柿本朝臣人麿之歌集出
 
【釋】○「あられ降り」はトホの枕詞。此の枕詞はカシマ・キシミなどにも冠した例がある。キシミはカシマに近い音であるから、語調の上から冠するやうになつたのであらうが、カシマは降る音のやかましい意からかけたのであり、トホにかけたのも同じく音《オト》の意からトにかけたのか、或は戸打つの意でトホツにかけたのであらう。古義には飛び打つといふ意で、トホツに云ひかけたのであらうと云つてゐる。○「遠つあふみ」は近つ淡海に對する遠つ淡海のときは、今の遠江の事であるが、こゝは「あど川」が近江であるから、近江のうちの都から遠い部分を指したものに相違ない。○「吾跡川」(安曇川)近江國高島郡にある。一名を船木川又は朽木川と云ふ。朽木谷の奥から發源し、支流を合せて北流すること八里許りで、朽木市場の邊で東に折れ、三里半程流れて舶木崎から湖水に出てゐる。○「苅れどもまたも生ふちふ」は思ひ捨てられぬ戀が、又しても目覺める情を裏に含めたのである。
【譯】遠つ近江の安曇川の川楊は、苅り取つても又芽が出るといふが、私の心もその安曇川の川楊と同じである。
 
1295 春日なる 御笠の山に 月の船出づ みやびをの 飲む盃に 影に見えつつ
 
 春日在。三笠乃山二。月船出。遊士之。飲酒杯爾。陰爾所見管。
 
【釋】○「みやびを」は風流才士即ち粹人の意。
【譯】春日の御笠山から月の船が大空にずつと出て來た。しかも粹人が飲んである盃に、さやかなる影を映しながら上(367)つて來たぞ。
【評】○何處がと云つて説明は出來ないが、如何にも情味の盡きない歌である。宴席の即興であらう。
 
     譬喩歌
 
   寄v玉
 
1317 わたの底 しづく白玉 風吹きて 海は荒るとも 取らずばやまじ
 
 海底。沈白玉。風吹而。海者雖荒。不取者不止。
 
【釋】○「しづく」は沈む意であるが、特に水中に沈んでゐる玉や石などに就いて云ふ詞である。語源について、古義に石著《シツク》であると云つてゐる。下にも石著をシヅクと訓んだ例がある。
【譯】海の底に沈んでゐる白玉は、よしやどんなに風が荒れようとも、どうでも取らねばならぬと思つてゐる。
【評】親などに防げられて逢はれぬ女を、水中の玉に譬へた歌は他に幾らもある。(直ぐ次にも二三首並んでゐる)併し右に講じた一首には、其の結句に強い決心が見えてゐて、緊張した心がよく現はれてゐる。
 
   寄v草
 
1336 冬ごもり 春の大野《おほぬ》を 燒く人は 燒きたらぬかも わが心燒く
 
 冬隱。春乃大野乎。燒人者。燒不足香文。吾情熾。
 
【釋】○「冬ごもり」は枕詞。○「たらぬ」を略解にアカヌ、古義にタラネと訓んでゐる。タラネならば「足らねばかも」と(368)云ふ意となる。何れでもよい。○「わが心燒く」は思ひに胸を焦がすをいふ。
 
【譯】春になると廣い野に火をつけて枯草を燒く人は、燒き足らないのか、この私に物思ひをさせて胸を燒くのである。
【評】闇夜に赤く燒え行く野火を見ると、何となく悲しい氣分に襲はれるものである。作者はそれを見ながら歌つたのかも知れぬ。いかにも悲しい聲が洩れてゐる。譬喩歌には比較的佳作が少いのであるが、この作などは特に目に立つてよい歌である。
 
 月草に 衣は摺らむ 朝露に 濡れての後は うつろひぬとも
 
1351 月草爾。衣者將摺。朝露爾。所沾而後者。徙去友。
 
【釋】○これも草に寄せた作である。○「月草」は鴨頭草である。露草とも螢草とも云ふ。夏から秋にかけて碧色の花の開く草。朝開くから露草といふのであらう。摺るとよく色が附くのでツキクサともいふのである。○「濡れての後云々」は摺りつけ衣は濡れると色が褪めるから、かう云つたのである。心變りすることを譬へてあることは云ふまでもない。略解にこの句をヌレテノチニハと訓んでゐる。
【譯】露草のあの花は好い色である。衣はあの花で摺らう。たとへ朝露に濡れてからは色が褪めてもかまはない。
【評】心變りを花の色のうつろふことに譬へた歌は、集中に幾らもあるが、この作は可憐な露草の花に譬へたので、如何にも艶な趣が感じられる。
 
   寄v雷
 
(369)1369 天雪に 近く光りて。 鳴る神の 見ればかしこく 見ねば悲しも
 
 天雲。近光而。響神之。見者恐。不見者悲毛。
 
【釋】○初の三句は序で譬喩をよんでゐる。鳴る神は貴人を譬へたのである。○「かしこく」の訓は新考による。
【譯】私がお慕ひ申してゐる君は身分の貴い方である。恰も雲の中で近く光つて鳴り出す雷のやうに、目の前に見れば恐れ憚られてならぬが、さりとて見ずに居るのはいかにも悲しい。どうすればよいのたらう。
 
   挽歌
 
1411 さきはひの いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹が聲を聞く
 
 福。何有人香。黒髪之。白成左右。妹之音乎聞。
 
【譯】どう云ふ幸福な人であらうか、あんなに黒髪が白くなるまでも、妻と睦まじく語りながら、幸ひな日を送つてゐるのは。
【評】早く愛妻を喪つた人がよんだのである。眞淵翁は「此の歌さしてしらべのよきにもあらず、ただに見てはめでつべき歌ならねど、まことのまことゝ云ふはかゝる類を云ふなり。」と云つてゐる。眞實の叫びほど人を動かすものはない。
 
卷七 終
 
(370)   萬葉集卷八
 
○卷八は雜歌と相聞の集であるが、それを四季に分けてあるから、總てで八つの部類に分たれてゐる。時代の古いのは舒明天皇の御製の如きもあるが、大多數は寧樂の時代のものである。作者の名は殆どすべて記されてゐる。
 
  春雜歌
 
   志貴皇子|懽《ヨロコビ》(ノ)御歌一首
 
1418 石《いは》ばしる 垂水《たるみ》の上の さわらびの 萠え出づる春に なりにけるかも
 
 石激。垂見之上乃。左和良妣乃。毛要出春爾。成來鴨。
 
【釋】○「志貴皇子」は天智天皇の皇子施基皇子であらう。○「石ばしる」は「たるみ」の枕詞。石の上を走り流れるといふ意で、垂水にかけたのである。○「垂水」は代匠記・考・略解・古義等に攝津豐島郡の地名としてゐるが、地名としないで仙覺抄に云つてゐる通り、垂れ落ちる水即ち瀧と見るがよい。○「上」はほとり。○「さわらび」の「さ」は接頭語で、蕨である。
【譯】寒い冬もいつしか過ぎて、つめたい瀧のほとりにも早や蕨が萠え出る、樂しい春になつたことである。
【評】代匠記・考・略解等に述べてゐるやうに、果して時を得給うた時の御歌であるか否かは明かでないが、調といひ景といひ、いかにも春を迎へた喜悦の情が溢れてある歌である。
 
(371)   駿河|釆女《ウネメ》歌一首
 
1420 沫雪《あわゆき》か はだれに降ると 見るまでに 流らへ散るは 何の花ぞも
 
 沫雪香。薄太禮爾零登。見左右二。流倍散波。何物花其毛。
 
【釋】○「沫雪か」の「か」は疑問の助詞。○「はだれに」は「はだらに」と」もいふ。マバラニ又はマダラニの意である。ばらばらに崩れ散ることを古語にハララクといふ。ハダラニ・ハダレニは、ハララニといふ語から轉じたのであらうと思ふ。沫雪をハダレと云ふのはハダレユキを略したのである。霜にもハダレシモと云ふことがある。(荒木田久老の信浪漫録、間宮永好の犬鷄隨筆、及び古義にハダレの説が見えてゐるが何れも穩かでない。)○「流らへ散る」は降り散ること。「流る」は「降る」の意である。(既出)○「何の花ぞも」は代匠記に「白く咲けるは何の花ぞも」と古今集に詠んでゐるのと同じく、梅の散つたのであるといふことは知りながら、知らず顔に問うたのであると云つてゐる。
【譯】春の沫雪がばら/\に降るのかと思はれるやうに、散つて來るのは、あれは何の花であらうか。
【評】何でもない歌のやうであるがよく味つて見ると、初春の庭のさまがあり/\と浮んで來る。「何の花ぞも」と云つた所に、春色に對する浮かれ心が表はれてゐる。
 
   尾張|連《ムラジ》歌一首
 
1422 うち靡く 春|來《きた》るらし 山《やま》の間《ま》の 遠き木末《こぬれ》の 咲き行く見れば
 
 打靡。春來良之。山際。遠木末乃。開往見者。
 
【釋】○「尾張連」の名は傳はつてゐない。○「うち靡く」は春の枕詞。この枕詞は初め「髪」「草」などにかけたのである(372)が、轉じては草木が若くなよ/\として靡く春といふ意味で、「春」にもかけたのである。(冠辭考)○「遠き木末」を新考には、木の先端が咲き出したのを云つたので、一樹について云つたのであると見てあるけれども、古義の説のやうに、花の木が次々に咲いて行く意に見るべきであらう。
【譯】山の間の遠くの梢が、奥の方へだん/\咲いて行くのを見渡すと、いよ/\春がやつて來たらしい。
【評】靜かな山里に美しい春が來たさまが、一幅の繪のやうに歌はれてゐる。四五の句に春のおとづれがはつきりと意識されてゐるのがよい。卷十に「うちなびく春さり來らし山のまの遠きこぬれの咲き行く見れば」と云ふ歌があるのは、此の作と大同小異である。
 
   山部宿禰赤人歌三首
 
1424 春の野《ぬ》に すみれ摘みにと 來《こ》し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜ねにける
 
 春野爾。須美禮採爾等。來師吾曾。野乎奈都可之美。一夜宿二來。
 
【釋】○「すみれ」は菫でなく蓮華草(紫雲英)であると云ふ景樹の説もあるが、確かな證がない以上、菫としておくべきであらう。略解に菫を摘むのは、衣に摺る料であらうと云ふ。
【譯】菫を摘みに來たのであるが、春の野邊の景色があまり面白いので、歸ることも忘れて、一夜をそこで明かしたことである。
【評】自然を愛した赤人が、風流三昧に入つての即興である。「一夜ねにける」は野宿をしたのでなく、菫咲く春の野の家に宿つたのであるか、或は若草を茵にごろりと寢て、泌々春色を賞してゐるうちに、何時しか日も暮方になつて(373)ゐたのを興じて、かう云つたのであらう。
 
1426 わが背子《せこ》に、見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば
 
 吾勢子爾。令見常念之。梅花。其十方不所見。雪乃零有者。
 
【釋】○「背子」は男子を親んで呼ぶ語であつて、夫婦の間に限らず、男と男の間にも用ゐられた例が、集中に見えてゐる。こゝは赤人が友を指したのであらう。(或は赤人が女の作に擬して詠んだのかも知れない。)○「降れれば」は「降れり」に「ば」が添うた形。
【譯】わが友に見せようと思つてゐた梅の花に、今朝は雪が眞白に積もつたので、どれが花やら見分けがつかないやうになつた。
【評】景中に情があつて、如何にも情趣の豐かな歌である。
 
1427 あすよりは 若菜つまむと しめし野《ぬ》に 昨日もけふも 雪はふりつつ
 
 從明日者。春菜將採跡。標之野爾。昨日毛今日毛。雪波布利管。
 
【釋】○「若菜」を古義・新考にはハルナと訓んでゐる。これは舊訓のワカナがよい。○「しめし野」は標繩を張つたのでなく、ただ若菜を摘まうと心に豫定しておいた野の意である。
【譯】もう明日あたりから若菜を摘まうと、豫定しておいた野に、つめたい雪が昨日も降り、今日もまた降ることだ。
【評】これも情景を兼ねた美しい作である。冬の名殘の寒空と、若草の萠え出る初春の野邊との對比によつて、冬から(374)春に移り行く過渡期の光景が美しく描き出され、之に對する人の心は、「明日よりは若菜つまむと」の句によつて、巧みに歌はれてゐる。
 
   厚見王歌一首
 
1435 かはづ鳴く 甘南備《かむなび》川に かげ見えて 今や咲くらむ 山吹の花
 
 河津鳴。甘南備河爾。陰所見。今哉開良武。山振乃花。
 
【釋】○「甘南備川」は大和生駒郡神南備山の麓を流れる川、即ち龍田川のことであらう。○「かげ見えて」は水に花の影が映つて。○この歌は故郷の甘南備川の景色を思ひ出してよんだのである。
【譯】今頃は定めし河鹿の鳴く甘南備川の水に、美しい影をうつして、山吹の花が吹いてゐることであらう。
【評】平明な語句を以て、清麗な春景色か鮮かに詠まれてゐる。後の山吹の歌にはこれを本歌に取つたのが多い。「逢坂の關の清水に影見えて今やひくらん望月の駒」(貫之)といふ歌も、右の歌に多少の技巧を添へた作であることを知つたならば、萬葉を貴ばない者はなからうと眞淵は云つて居る。
 
   大伴宿禰家持※[(貝+貝)/鳥]歌一首
 
1441 うちきらし 雪は降りつつ しかすがに 吾家《わぎへ》の園《その》に 鶯鳴くも
 
 打霧之。雪者零乍。然爲我二。吾宅乃苑爾。※[(貝+貝)/鳥]鳴裳。
 
【釋】○「うちきらし」の「うち」は接頭語。「きらす」はキル(露と同系の語で霧の立つこと又は曇ること)と云ふ自動詞に(375)對する他動詞で四段に活用する。キラスのスは佐行變格の動詞であるが、之を添へると他動になる例は幾らもある。例へば「暮る」に對する「暮らす」、「冷ゆ」に封する「冷やす」、「生く」に對する「生かす」の如きがそれである。即ち「うちきらす」は空を霞ませる意である。○「しかすがに」はシカスルカラニの略音で「しかしながら」の意。○「吾家《ワギヘ》」はワガイヘの約音。
【譯】空を曇らせて雪は頻りに降つてゐるけれども、併しわが家の園には、もう鶯が來て春の歌を歌つてゐる。
【評】初めの二句に叙べた背景が、早春の氣分をよく現はしてゐて、この歌に生氣を與へてゐる。
 
   高田女王歌一首
 
1444 山吹の 咲きたる野邊の 壺菫《つぼすみれ》 この春の雨に 盛りなりけり
 
 山振之。咲有野邊乃。都保須美禮。此春之雨爾。盛奈里鷄利。
 
【釋】○「高田女王」は註に「高安王之女也」とある。傳未詳。○「壺菫」を代匠記に、菫の花の下の方に壺の如きものがある故かういふのだよいひ、略解に含んでゐるやうな花であるから、つぼすみれ〔五字傍点〕といふのであらうと云つてゐるが、たゞの菫でなく別種の花であらう。植物考に「菫菜《ツボスミレ》(又壺菫)は隨所の原野路傍などに自生せる草にして、繊弱なる地上莖は其の高さ五六寸に及び、多數群がり生ず。……花は四月頃より八九月頃まで咲きつゞけ、他の董類の花に似たれど、白色又は淡紫色にして距は甚だ短し。もとより容の愛らしきものには相違なけれども、『すみれ』に比ぶれば花の形も小さく、何としなく品下りて、氣高き風情をそなへず。されど春の野に咲き出でて、又喜べる少女等に摘まるゝ所のものなり。」とある。
 
(376)【譯】美しい山吹が咲き誇つてゐる野邊の壺菫が、この暖い春雨に濡れて、今しも眞盛りである。
【評】闌な春の野邊の景色が、繪畫的に歌はれて居る。第四句の字餘りが長閑な情趣を添へてゐる。
 
  春相聞
 
   笠女郎贈2大伴家持1歌一首
 
1451 水鳥の 鴨の羽色《はいろ》の 春山の おぼつかなくも 思ほゆるかも
 
 水鳥之。鴨乃羽色乃。春山乃。於保束無毛。所念可聞。
 
【釋】○「笠女郎」(既出)○三句までは序で、その又二句までは春山の序。而して「水鳥の」は又鴨の枕詞である。「春山の」を「おぼつかなくも」に云ひかけたのは、草木の茂つた春の山を、物思ひの爲に晴れ/\しない胸中に譬へたのである。(一説に春山の霞んだのを云ふ。)○「おほつかなくも」は判然としない意。又心もとなき意。
【譯】鴨の羽色のやうな青々と茂つた春の山が鬱陶しいやうに、思ひの爲に心が結ぼれて、晴らしやうがありません。
【評】戀歌は相手の心を感動させるだけの力がなくてはならぬ。然るにその内容は元來單純なものであるから、歌は千篇一律になり易いのである。そこで歌人は自分の身邊を如何にも哀れに叙して、人の心を動かすか、或は修飾に苦心して相手を感動させるのである。この作の如きは、序の鴨の羽色といふ美しい色彩が、頗る勝れた見付け所である。併し元來技巧的な作であるから、感動力は乏しい。
 
   藤原朝臣廣嗣櫻花贈2娘子1歌一首
 
(377)1456 この花の 一瓣《ひとよ》のうちに 百種《ももくさの》 言《こと》ぞ籠れる おほろかにすな
 
 此花乃。一與能内爾。百種乃。言曾隱有。於保呂可爾爲莫。
 
【釋】○「藤原朝臣廣嗣」は宇合の長子。○「一瓣」は一|片《ヒラ》のこと。○「おほろか」は朧ろけ又は踈かの義。
【譯】こゝに參らせるこの花には、その一瓣のうちにでも、言ひたい事の種々の言葉がこめてあります。どうか踈かに見ないで、よく/\私の心を酌んで下さい。
 
  夏雜歌
 
   大伴家持|晩蝉《ヒグラシ》歌一首
 
1479 こもりのみ 居ればいぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 來鳴く茅蜩《ひぐらし》
 
 隱耳。居者鬱悒。奈具左武登。出立聞者。來鳴日晩。
 
【釋】○「いぶせみ」は氣の晴れないこと。○「茅蜩」は夏から秋の初めにかけて、夕方によく鳴く蝉の一種。鳴聲によつて俗にカナ/\ゼミとも云ふ。
【譯】家にばかり引籠つて居ると、いかにも心が結ぼれてならぬから、或は氣が晴れはせぬかと思つて、外に出て立つてゐると、そこには茅蜩が來て淋しい聲で鳴き出した。
【評】勝れた内容を持ちながら、人麿や赤人の作のやうに、格調から來る感動力に缺けてゐるのは惜しい事である。
 
   大伴|書持《フミモチ》歌一首
 
(378)1480 わが宿に 月おし照れり ほととぎす こころあらば今宵 來鳴きとよもせ
 
 我屋戸爾。月押照有。霍公鳥。心有今夜。來鳴令響。
 
【釋】○「大伴書持」は傳未詳。家持の弟であると云ふ。○「月おし照れり」は月がおしなべて照ること。○「こころあらば今宵」は考の訓であつて、新考もそれによつてゐる。今その訓による。舊訓の如く、ココロアル今宵と」訓む時には、情趣のある今宵といふ意になる。○「鳴きとよもせ」は鳴き響かせよといふ意。
【譯】今しも庭に月が一面に照り渡つてゐる。時鳥よ情趣を解する心があるならば、今宵來て鳴きひびかせて呉れよ。
【評】藝術的氣分の漲つた作である。此の次に同じ作者の「我が宿の花橘にほととぎす今こそ鳴かめ友にあへる時」といふのがある。これと併せて考へると、右の歌も友と酒宴を催してゐる宵の即興であるらしい。
 
   大伴家持霍公鳥歌一首
 
1494 夏山の 木末《こぬれ》のしげに ほととぎす 鳴きとよむなる 聲の遙けさ
 
 夏山之。木末乃繁爾。霍公鳥。鳴響奈流。聲之遙佐。
 
【釋】○「しげに」(繁爾)は槻落葉及び新考の訓によつた。代匠記・古義にはシジニとあるが、シジニは副詞である。シゲは名詞であつて、意味はシゲミと同じである。シゲニの語例は卷十八に「之氣爾」とある。
【譯】夏山の梢の青葉の繁つてゐるあたりで、頻りに鳴いてゐるあの時鳥の聲の遠さよ。
【評】初夏の自然に心が溶けて行つた氣分で歌つてゐる。此の氣分を表現した作が家持には特に多い。
 
(379)  夏相聞
 
   大伴坂上郎女歌一首
 
1500 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ戀は 苦しきものを
 
 夏野乃。繁見丹開有。姫百合乃。不所知戀者。苦物乎。
 
【釋】○「繁み」は名詞、繁つた處。○「姫百合」(山丹)は小形の百合で花に黄と赤とある。○三句までは序。○最後の「を」は感動の助詞。
【譯】夏の野の茂りの中に埋もれて咲いてゐる姫百合ではありませんが、思ふ人に知られずに、獨り心の中で慕つてゐるのは、隨分苦しいものでございます。
【評】譬喩が美しく又氣が利いて居る。女らしく若々しい氣分の豐かな作である。
 
  秋雜歌
 
   崗本天皇御製歌一首
 
1511 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿の 今宵は鳴かず いねにけらしも
 
 暮去者。小倉乃山爾。鳴鹿之。今夜波不鳴。寢宿家良思母。
 
【釋】○「崗本天皇」舒明天皇。○「小倉山」は卷九に「龍田の山の瀧の上の小鞍嶺」とある、その小倉山のことであらう。(380)(略解による。)小倉山といふは、樹の生ひ茂つた山といふ義と見えて、諸處にその名がある。○「けらし」は「けるらし」の略。
【譯】夕方になると必ず小倉山で鳴いた鹿が、今宵鳴かないのは、あれはもう妻を得て寢たのであらう。
【評】第四句まで讀んで來て、第五句に移つた時、言ひ知れぬ感興が涌く。
 
   穗積皇子御歌一首
 
1513 今朝《けさ》のあさけ 雁が音聞きつ 春日山 もみぢにけらし 我が心痛し
 
 今朝之旦開。雁之鳴聞都。春日山。黄葉家良思。吾情痛之。
 
【釋】○「穗積皇子」は天武天皇の第五皇子。○「あさけ」は朝明の義で曉。○「雁が音」は雁の鳴く聲。○「心痛し」は胸痛しとも云つてゐる。悲しいことを云ふ。
【譯】今朝の夜明け方に、雁が鳴き渡るのを耳にしたが、もう春日山も色づいたことであらう。あゝ淋しい秋が心を痛ましめることである。
【評】支那文學の影響の見える作である。
 
   山上臣憶良詠2秋野花1二首
 
1537 秋の野に 咲きたる花を および折り かき數ふれば 七種《ななくさ》の花  其一
 
 秋野爾。咲有花乎。指折。可伎數者。七種花。
 
(381)【釋】○「および」は指のこと。和名抄に「和名由比、俗云2於與比1」とある。○「かき數ふれば」の「かき」は接頭語。
【譯】秋の野に咲いてゐる花を、指を折つて數へて見れば、七いろある。
 
1538 萩が花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 又藤袴 朝顔の花  其二
 
 芽之花。乎花葛花。瞿麥之花。姫部志。又藤袴。朝貌之花。
 
【釋】○この歌は旋頭歌である。○「尾花」は薄の穗に出たのを云ふ。○「藤袴」は野生の草で莖は三尺許りで、莖も葉も紫色を帶び、花は淡紫色の筒形で、莖の頂に群つて咲く。花の形が袴に似てゐるのでこの名を得たのである。葉に芳香があるので歌に香を詠むことが多い。○「朝顔」については牽牛花・木槿・旋花・桔梗等種々の説がある。今普通「あさがほ」と云へば牽牛花であるけれども、牽牛花は平安朝の初頃、藥種として支那から輸入せられたもので、固有の花でないことは、既に一般に認められてゐる。元來「あさがほ」は朝美しく咲く花を稱する語であつて、桔梗・牽牛花・木槿等何れも朝顔と呼ばれたやうである。貝原益軒の大和本草や古義品物解には、木槿であると云つてゐるが、木槿はもと支那から傳へられた物であるし、又之を野の花に數へるのは、他の六つの花との調和を破るやうである。次に岡村尚謙の説に旋花《ヒルガホ》としてゐるが、これは古書にその證のないことであるから信じ難い。然らば殘るものは桔梗であるが、この花は我が國の花としては、是非とも數へらるべきものであるから、この歌の「あさがほ」を桔梗と見る説(藤井高尚高田與清等の説)は、至極隱當のやうである。なほ新撰字鏡に「桔梗、阿佐加保、又云岡止々支」とあるのも參考とすべきである。
【譯】それは萩の花・尾花・葛の花・撫子・女郎花、それから藤袴と朝顔の花である。
(382)【評】歌としては何でもないのであるが、秋の七種の花を數へた最初のものとして名高い歌である。花の種類を七種擧げたのは、支那思想に基くものに相違ないが、元來この七草の花は我が國土全體に分布してゐて、到る處の秋を飾つてゐるのみならず、淡泊を愛する國民の趣味によく適合してある爲に、廣く國民の趣味を支配して來たのである。
 
   太宰帥大伴卿歌一首
 
1542 わが岡の 秋萩の花 風をいたみ 散るべくなりぬ 見む人もがも
 
 吾岳之。秋茅花。風乎痛。可落成。將見人裳欲得。
 
【釋】○此は大伴旅人の歌である。○「風をいたみ」は風が甚だしさにの意。「いたみ」は「いたし」と」いふ形容詞の語幹に、接尾語の「み」の附いたものである。
【譯】自分の住んで居る家のほとりの岡邊の秋萩は、風が強いのでもう散りさうになつた。獨りで見てゐるのは惜しいものだ。誰か見に來る人があればよいに。
【評】女の許に贈つた歌のやうである。さて萬葉集に規はれて來る花の中で、度數の最も多いのは萩の花である。後世花といへば、やがて櫻の事と思はれたほどに絶愛せられた櫻は、萬葉にはさほど多く詠まれてゐない。何故に萩がかくまで愛せられたかと云ふに、大和平野は至る處に萩が咲くと云ふ地理的關係もあらうが、それよりも、萩が露を含み風に零れる可憐な風情が、當時の人々の趣味に適つたに相違ない。古今集以後の歌人が支那文學の影響を受けて、優美にして典雅な趣味に傾いたのに反して、萬葉歌人は專ら野趣を愛し、淡泊瀟洒な趣を好んだことは、總べての作の上に現れてあるが、特に萩について其の特色をよく示して居るやうである。
 
(383)   湯原王蟋蟀歌一首
 
1552 夕づく夜 心もしぬに 白露の 置くこの庭に 蟋蟀《こほろぎ》鳴くも
 
 暮月夜。心毛思努爾。白露乃。置此庭爾。蟋蟀鳴毛。
 
【釋】○「湯原王」は施基親王の御子。○「夕づく夜」は夕月の照る暮方。○「心もしぬに」は心もしをれて。
【譯】夕月の光がかすかに流れる暮方に、心もうち萎れるばかりに、一面に白い露を置いてゐるこの庭で、蟋蟀が鳴き出して哀れを感じさせることだ。
【評】夕月・白露・蟲の聲と、秋の夕の哀れはこの一首に盡くされてゐる。萬葉歌人は、水や風の音、鳥や蟲の聲など、すべて物の音に對して特に感興を起したやうである、これは自然に親しむ事の出來た、當時の生活状態から養はれた趣味であらうと思ふ。
 
   安貴王歌一首
 
1555 秋立ちて 幾日《いくか》もあらねば この寢ぬる あさけの風は 袂寒しも
 
 秋立而。幾日毛不有者。此宿流。朝開之風者。手本寒母。
 
【釋】○「安貴王」は施基皇子の孫にあたる。○「あらねば」はあらぬにの意。○「この寢ぬる云々」は寢た夜のこの明方といふ意。
【譯】秋になつてから、まだ何程も立にないのに、早やこの夜の明け方の風が、袂に寒くあたることである。
 
(384)   忌部|首《オビト》黒麻呂歌一首
 
1556 秋田苅る 假庵《かりほ》も未だ 壞《こぼ》たねば 雁が音寒し 霜もおきぬがに
 
 秋田苅。借廬毛未。壞者。雁鳴寒。霜毛置奴我二。
 
【釋】○「忌部黒麻呂」の名は續紀に出てゐるが、傳は詳かでない。○「ねば」は「ぬに」と由じ意。○「がに」は「の」に類する「が」と、目的を表はす助詞の「に」の重なつたもので、「が爲に」の意である。
【譯】秋田の稻を苅り取つてまだ日も立たず、假小屋も其の億にしてあるのに、はや霜が白くおくやうになつた爲に雁の聲がいかにも寒く聞える。
【評】晩秋の田野の情趣が印象的に歌はれてゐる。結句が殊にすぐれてゐる。
 
   日置《ヘキ・ヒキ》長枝《ナガエ》娘子歌一首
 
1564 秋づけば 尾花が上に 置く露の 消《け》ぬべくも吾《わ》は 思ほゆるかも
 
 秋付者。尾花我上爾。置露乃。應消毛吾者。所念香聞。
 
【釋】○「日置長枝娘子」の傳は未詳。○「秋づけば」の「つく」は「朝づく日」「夕づく日」の「つく」と同じで、秋の季節になることを云ふ。○第三句までは序。
【譯】秋になると尾花の上に置く白露のやうに、私は淋しさに消え入るやうに思はれる。
【評】如何にも弱い調で歌つてあるので、作者の心を哀れに思はせる。此の歌は相聞の部に入れられるべきものが、紛れてこゝに收められたものらしい。第四句の「吾は」のやうな代名詞は、古今集以後の歌には用ゐないのが普通であ(385)るが、上代には省いてゐない。代名詞を省くのは、發表を婉曲にしようとする、修辭法から起つたことであらう。
 
   藤原朝臣八束歌一首
 
1571 春日野に しぐれ降る見ゆ 明日よりは 黄葉《もみぢ》かざさむ 高圓《たかまと》の山
 
 春日野爾。鐘禮零所見。明日從者。黄葉頭刺牟。高圓乃山。
 
【釋】○「藤原八束」は房前の第三子。○「黄葉かざさむ」は高圓山の色づくことを擬人して言つたのである。○「高圓山」は春日山の南にある。
【譯】春日野に時雨が降りそゝいでゐるのが見える。あの雨で明日あたりは、高圓山が美しく色づくことであらう。
【評】「しぐれ降る見ゆ」のやうに、目に映じてゐる事象を、直接に詠む歌ひ振りも、萬葉の一特色である。
 
   橘朝臣奈良麿結2集宴1歌
 
1583 もみぢ葉を 散らす時雨に 濡れて來て 君が黄葉を かざしつるかも
 
 黄葉乎。令落鐘禮爾。所沾而來而。君之黄葉乎。挿頭鶴鴨。
    右一首久米女王
 
【釋】○「橘奈良麿」は諸兄の長子。○「君が黄索」は君が庭の黄葉と云ふ意。○「久米女王」の傳は詳かでないが、續日本紀聖武天皇の卷にその名が見えてゐる。
【譯】黄葉を誘ふ時雨の中を濡れながら訪ねて來て、殊に美しい君の庭の黄葉を、かうして挿頭にさすのはうれしいこ(386)とであります。
【評】即興の歌であらうが、感情の深い作である。「君が黄葉」の「君が」といふ詞に注意すべきである。
 
   大伴宿禰家持秋歌二首
 
1597 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露置けり
 
 秋野爾。開流秋芽子。秋風爾。靡流上爾。秋露置有。
 
【譯】秋の野邊に咲き盛つてある萩が、秋風のために押し靡けられて、其の上に白露が一面に宿つてゐるのが誠に面白い。
【評】秋と云ふ語を三つの句の句頭に重ね、なほ第二句の中にも置いてゐるに拘らず、わざとらしくない所が巧みである。併しもと/\技巧を弄した作であるから、印象が殘らないといふ憾がある。
 
1598 さ牡鹿の 朝たつ野邊の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露
 
 棹牡鹿之。朝立野邊乃。秋芽子爾。玉跡見左右。置有白露。
    右天平十五年癸未秋八月見2物色1作
 
【釋】○「朝たつ」は鹿が夜間萩の間に臥してゐて、朝になつて立ち出ること。
【譯】牡鹿が朝になつて立ち出る野邊の秋萩の上には、玉ではないかと思はれるほど、美しい白露が置いて居る。
【評】觀念語が多過ぎて、説明的になつてゐるのは、家持の作ばかりではなく、萬葉末期の一般の歌風である。
 
(387)  秋相聞
 
   大伴田村大孃與2坂上大孃1歌一首
 
1622 わが宿の 秋の萩咲く 夕影に 今も見てしが 妹が姿を
 
 吾屋戸乃。秋之芽于開。夕影爾。今毛見師香。妹之光儀乎。
 
【釋】大伴田村大孃と坂上大嬢は坂上郎女の女である。姉の名は父の宿奈麻呂の邸のあつた、田村の里の名によつたので、妹の方の名は母の家のあつた佐保の坂上によつたのである。○「夕影」は夕方にさす光をいふ。○「見てしが」の「が」は冀望をあらはす助詞。
【譯】わが庭に秋萩が美しく咲いた。この夕つ方にさきに逢つた時のやぅに、今も妹のあの艶な姿をこの花に添へて見たいものである。
【評】淋しい秋の夕暮に秋の花を見るにつけて、ふと妹の事を思ひ出でて、泌々と戀しくなつた情が、美しく又やさしく歌はれてゐる。見る物毎に妹を思つた心は、次の「わが宿に匂ふ鷄冠木《かへるで》(楓)見る毎に妹を懸けつゝ戀ひぬ日はなし」にも歌はれゐる。
 
  冬雜歌
 
  若櫻部《ワカサクラベ》朝臣|君足《キミタリ》雪歌一首
 
(388)1643 天霧《あまき》らし 雪も降ぬか いちじろく この櫟柴《いつしば》に 降らまくを見む
 
 天霧之。雪毛零奴可。灼然。此五柴爾。零卷乎將見。
 
【釋】○「若櫻部君足」の傳は未詳。(履中天皇紀に、三年長眞膽連本姓を稚櫻部造と改めたことが見えてゐる。)○「天霧らし」は雲や霧がかゝつて空を掻き曇らすこと。(既出)○「降らぬか」は降れかしと願ふ意である。○「いちじろく」は「いちじるし」と同じ。○「櫟柴」を古義に五十津莱草《イツシバ》の義で、繁つた莱草原《シバハラ》の事であると云つてゐるが、考に櫟柴《イチシバ》(チヒの音が約つてチとなつたもの。)とししてゐる。今考の説によつて櫟《イチヒ》の柴としておく。柴は雜木を云ふが、こゝは只添へた語である。さて櫟はイチヒガシ又はイチガシとも云つて、樫に類した常緑喬木で、花も實も樫に似てゐる。(古義の説に從つて、繁き芝原と釋く説も捨て難い。)
【譯】空を掻き曇らせて、雪が降つて來ればよい。さうしたらはつきりと目立つて、この櫟《イチヒ》の木に白雪の降り積るのが見えて面白からう。
【評】イチヂロク、コノイツシバニの音調が面白い。常緑樹の葉に降り積る白雪は、いかにも心地よい鮮かな景色を思はせる。かう云ふ景趣は萬葉歌人が最も愛した所である。
 
  冬相聞
 
   紀(ノ)少鹿《ヲシカ》(ノ)女郎歌一首
 
1661 ひさかたの 月夜《つくよ》を清み 梅の花 心に咲きて わが思《も》へる君
 
 久方乃。月夜乎清美。梅花。心開而。吾念有公。
(389)【釋】○「紀少鹿女郎」は紀(ノ)鹿人の女で、春日王の御子安貴王の室である。○「心に咲きて」の訓は舊訓に心ヒラケテとあるが、古義には右の如く訓んである。意は恰も月の下に梅の花が咲いてゐるやうに、心も喜びに咲き匂うてといふのである。
【譯】この月の清さに、梅の花が白く咲き匂うてゐますが、その梅の花のやうに、私の心も喜びに咲き匂うて、お慕ひ申すわが君よ。
【評】清い月光を浴びて來る人を待ちわびた作者の姿は、正に月下に咲く白梅の花のやうであつたことを思はせる。氣高く又ゆかしい情緒の流れてゐる作である。
 
卷八 終
 
(390)萬葉集 卷九
 
○卷九には長短合せて百四十八首の歌が收めてあるが、その中百二首は雜歌で、殘りは相聞と挽歌とである。時代は古いのは雄略天皇の御歌があるが、下つて天平年間に及んでゐる。作者未詳の作も多いが、左註に柿木人麿集・高橋蟲麿集・田邊福麿集等の古歌集に出てゐるとし記してあるのが多い。
 
  雜歌
 
   崗本宮御宇天皇幸2紀伊國1時歌二首
 
1665 妹がため われ玉拾ふ 沖邊なる 玉よせ持ち來《こ》 沖つ白浪
 
 爲妹。吾玉拾。奥邊有。王縁持來。奥津白浪。
 
【釋】○「天皇」は舒明天皇。契沖の説に、舒明紀には紀伊に行幸のあつた事が見えない。或は後岡本宮の誤ではなからうか。齊明天皇が紀伊の温泉へ行幸になつた事は、紀に見えてゐると云つて居る。○二首とも作者未詳。
【譯】妻のため玉を拾つて行きたい。沖の方に在る美しい玉を打ち寄せてくれよ、沖の白浪よ。
 
1666 朝霧に 濡れにし衣 干さずして ひとりや君が 山道越ゆらむ
 
 朝霧爾。沾爾之衣。不干而。一哉君之。山道將越。
 
(391)【釋】○前の歌は從駕の人が詠んだのであるが、此は留守居の妻が詠んだ歌である。
【譯】朝露のためにしつとりと濡れた、冷たい旅衣を干すこともなく、只一人夫の君は山道を越えて居られるであらう。
【評】二首を並べて見る時、夫婦の間の温い感情が、なつかしく感じられる。
 
   宇治河作歌一首
 
1699 巨椋《おほくら》の 入江とよむなり いめ人の 伏見が田井に 雁渡るらし
 
 巨椋乃。入江響奈理。射目人乃。伏見何田井爾。雁渡良之。
 
【釋】○「巨椋の入江」山城國久世郡の北部にあつて、伏見と淀の間に横た王はつてゐる入江。おぐらの池ともいふ。○「いめ人の」は伏見の枕詞。いめ人は狩の射手のこと。(いめ〔二字傍点〕は射部の義)射手が伏しかくれて獣を窺ふから、伏見にかかるのである。(契沖の説)○「田井」はただ田の面のことである。「井」は雲井の井と同じく接尾語。
【譯】巨椋の入江が響き渡つてゐる。伏見の田の面を、今しも雁が鳴いて行くのであらう。
【評】靜かな夜に湖面に響き渡る雁の聲を聞いて詠んだのである。いかにも萬葉振を發揮した雄渾の調である。
 
   獻2弓削皇子1歌一首
 
1701 さ夜中と 夜は更けぬらし 雁がねの 聞ゆる空に 月渡る見ゆ
 
 佐宵中等。夜者深去良斯。雁音。所聞空。月渡見。
 
【釋】○「弓削皇子」は天武天皇の皇子。
(392)【譯】もう夜も更けて夜中頃となつたのであらう。雁が鳴き渡る空に、月が高く澄んでゐるのが見える。
【評】四五の句が動的に詠まれてゐるので、實感がはつきりと現はれてゐる。
 
   幸2芳野離宮1時歌一首
 
1714 落ちたぎち 流るる水の 岩に觸《ふ》り よどめる淀に 月の影見ゆ
 
 落多藝知。流水之。磐觸。與杼賣類與杼爾。月影所見。
 
【釋】○「觸り」は後ならば下二段に活用するから「解れ」といふべき所であるが、當時は四段に活用してゐた。○第三句と第四句とは、別の所のさまを叙べてゐるのである。
【譯】さかまき流れる水が岩に觸れて飛び散るかと思へば、一方には静かに水を湛へて淀をなし、其のよどみの上に、月影がさやかに映つてゐる。
 
   槐本歌一首
 
1715 さざなみの 比良山風の 海吹けば 釣りする海人の 袖かへる見ゆ
 
 樂波之。平山風之。海吹者。釣爲海人之。袂變所見。
 
【釋】○「槐本」は新考に柿本の誤で、柿本人麿の氏だけを書いたのである、下にも山上憶良・春日老・高市黒人などの歌を、山上歌・春日歌・高市歌と書いてあると述べてゐる。○「さざなみの」は比良山の枕詞。(前出)
【譯】比良の山颪が湖上を吹くと、釣をしてゐる海人の袂が、ひら/\飜るのが見える。
(393)
【評】光景が活躍してゐる。「袖かへる見ゆ」が印象の鮮かな句である。新考の説の如く、人麿の作らしく思はれる。
 
   詠2上總|末珠名娘子《スヱノタマナノオトメ》1一首並短歌
 
1738 しなが鳥 安房《あは》につぎたる 梓弓 末《すゑ》の珠名は 胸別《むなわけ》の 廣き吾妹《わぎも》 腰細の すがる娘子《をとめ》の その姿《かほ》の きらきらしきに 花のごと 笑《ゑ》みて立てれば 玉桙の 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門《かど》に至りぬ さしならぶ 隣《となり》の君は あらかじめ おの妻《づま》離《か》れて 乞はなくに 鎰《かぎ》さへ奉《まつ》る 人の皆 かく迷《まど》へれば うちしなひ よりてぞ妹は たはれてありける
 
 水長鳥。安房爾繼有。梓弓。末乃珠名者。胸別之。廣吾妹。腰細之。須輕娘子之。其姿之。端正爾。如花。咲而立者。玉桙乃。道行人者。己行。道者不去而。不召爾。門至奴。指並。隣之君者。預。己妻離而。不乞爾。鎰左倍奉。人乃皆。如是迷有者。容艶。縁而曾妹者。多波禮弖有家留。
 
(394)【釋】○「上總の末」はもとの周淮《スヱ》郡今の君津郡の地。○「珠名」は娘子の名。○「しなが鳥」は枕詞。「しなが鳥」は息長《シナガ》鳥の義で鳰《ニホ》(カイツムリ)のこと。水中を長く潜つて浮き出た時長い息をするので、嗚呼の語に似た安房に掛けたのである。(冠辭考の説)○「安房につぎたる」は安房に續いてゐる末の意。○「梓弓」は枕詞。弓の末といふことから地名にかけたのである。○「胸別」は胸間とい意。上代は胸の廣いのを美人としたのである。○「すがる」はサソリの古名であることは、代匠記及び古義の品物解に詳しく述べてある。一名|似俄蜂《ジガバチ》とも腰細ともいふ。八分許りの黒い昆虫で腰が至つて細い。家に來て竹や葦などの中に巣食うて、蜘蛛などを捕つて食べる虫である。○「かほ」は顔でなく姿の意である。カホはオモテの義で、古くは面貌にも容姿にも用ゐたのである。○「端正」は書紀にキラキラシと訓み、靈異記にも「端正、岐良岐良志」とあるから、キラキラシと訓むがよい。意味は宛てた漢字の字義の通り、端麗といふ意。○「玉桙の」は枕詞。○「乞はなくに云々」は鎰は家で大切な物であるが、それをさへ娘子に與へて、家政を任せて妻としようといふ心底を示すと云ふのである。○「容艶《ウチシナヒ》」の訓は略解に引いてゐる宣長の説に從つたのである。舊訓にはカホヨキニとある。ウチシナフ(打撓ふ)のウチは接頭語で、シナフは枝などのたわむ意である。從つてこの語はしなだれかかると云ふ意になる。○「よりてぞ」は其の男により添うてといふ意。
【譯】安房と地續きの末の珠名は、胸幅が所く腰がすがるのやうに細い、姿のよい女であるが、その姿が美しいのに、花のやうに笑をたゝへて立つてゐると、道を通る人はその美貌に心が引かれて、行くべき道も打ち忘れて、呼ばれもしないのに女の門にやつて來る。又軒を並べてゐる隣の男は、豫め自分の妻を離別して、求めもしないのに鎰まで差出して、家政をまかせようとする。こんなに人が皆迷つてしまつたので、珠名はしなやかに寄り靡いて、浮かれ遊んだのであつた。
(395)〔評〕 伊勢物語などにあるやうな戀物語であるが、これは妖艶の中にどことなく野趣を帶びてあるのが、古めかしくて面白い。集中叙事詩中の名篇である。佐々木博士の説によれば、この歌以下筑波嶺の※[女+燿の旁]歌會の歌に至る二十三首(本書にはその中十二首を講じる)は、叙事詩人高橋蟲麿の作であらうと云ふことである。
 
   反歌
 
1739 金門《かなど》にし 人の來立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてぞ逢ひける
 
 金門爾之。人乃來立者。夜中母。身者田菜不知。出曾相來。
 
【釋】○「金門」は古事記傳に「金門とは金物を繁く打ちて堅くする故に云ふか、又古へはみながら金を押したるにもあるべし。」とある。併し「金」は堅固の意ではなからうか。これはなほ研究を要する。○「たな知らず」すつかり打ち忘れての意(「たな」は既出)
【譯】門の所に人が來て立つと1、たとへ夜中であつても、身をもうち忘れて出て逢つたのである。
 
   詠2水江《ミヅノエ》浦島(ノ)子1一首並短歌
 
1740 春の日の 霞める時に 墨《すみ》の江の 岸に出でゐて 釣船の たゆたふ見れば いにしへの 事ぞおもほゆる (396)水の江の 浦島の子が 鰹《かつを》釣《つ》り 鯛釣りほこり 七日《なぬか》まで 家にも來ずて 海界《うなさか》を 過ぎて漕ぎ行くに わたつみの 神のをとめに たまさかに い漕ぎむかひ 相かたらひ 言《こと》なりしかば かき結び 常世《とこよ》に至り わたつみの 神の宮の 内《うち》の重《へ》の たへなる殿に たづさはり 二人入りゐて 老いもせず 死にもせずして とこしへに ありけるものを 世の中の かたくな人の わぎも子に 告《の》りて語らく 須臾《しまらく》は 家に歸りて 父母に ことをも告《の》らひ 明日のごと 吾《あれ》は來なむと(397) 言ひければ 妹がいへらく 常世邊《とこよべ》に またかへり來て 今のごと あはむとならば この篋《くしげ》 開《ひら》くなゆめと そこらくに 堅めしことを すみの江に 歸り來りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出《い》でて 三年のほどに 垣もなく 家うせめやも この筥《はこ》を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉くしげ 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世邊《とこよべ》に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ (398)たちまちに 心|消《け》うせぬ わかかりし 肌も皺《しわ》みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆりゆりは 息さへ絶えて 後《のち》つひに 命死にける 水の江の 浦島の子が 家《いへ》どころ見ゆ
 
 春日之。霞時爾。墨吉之。岸爾出居而。釣船之。得乎良布見者。古之。事曾所念。水江之。浦島兒之。竪魚釣。鯛釣矜。及七日。家爾毛不來而。海界乎。過而榜行爾。海若。神之女爾。邂爾。伊許藝※[走+多]。相誂良比。言成之賀婆。加吉結。常代爾至。海若。神之宮乃。内隔之。細有殿爾。携。二人入居而。老目不爲。死不爲而。永世爾。有家留物乎。世間之。愚人之。吾妹兒爾。告而語久。須臾者。家歸而。父母爾。事毛告良比。如明日。吾者來南登。言家禮婆。妹之答久。常世邊爾。復變來而。如今。將相跡奈良婆。此篋。開勿勤常。曾己良久爾。竪目師事乎。墨吉爾。還來而。家見跡。宅毛見金手。里見跡。里毛見金手。恠常。所許爾念久。從家出而。三歳之間爾。墻毛無。家滅目八跡。此筥乎。開而見手齒。如本來。家者將有登。玉篋。小披爾。白雲之。自箱出而。常世邊。棚引去者。立走。叫袖振。反側。足受利四管。頓。情消失奴。若有之。皮毛皺奴。黒有之。髪毛白斑奴。由奈由奈波。氣左倍絶而。後遂。壽死祁流。水江之。浦島子之。家地見。
 
【釋】○「水江浦島子」の水江は地名で浦島は名、子は男子の名に添へる接尾語である。他の端詞の例によると、浦島子の下に歌の字があるべきである。浦島の傳説は日本書紀・續日本後紀・丹後風土記・本朝神仙傳・浦島子傳等に見えてゐる有名な話で、謠曲にも謠はれ、舞踊にも仕組まれ、童話ともなつて人口に膾炙して居る。なほ詳しいことは後に述べよう。この歌は九十三句の長篇であるが、初めから「いにしへの事ぞ思ほゆる」まで八句は序で、それ以下が傳説になつて居るのである。○「水江」は丹後|竹野《タカノ》郡|網野《アミノ》町の東西にある淡水湖の古名で、「墨(ノ)江」はその海濱に沿うた浦の名である。今網野町を中に挾んで、東に小濱池(離湖とも云ふ周圍一里十九町東西八町南北四町)があり、西に淺茂湖(川續海《カツミ》とも云ふ周圍二十五町東西六町南北五町)がある。上古はこの二湖は一つであつたものらしい。今この二湖は何れも、細い川によつて澄(ノ)江浦に注いでゐる。浦島傳説の傳へられてゐる澄(ノ)江は、淺茂湖の方である。淺茂湖は福田川の水を入れ二町餘りの川となつて、淺茂川港に注いでゐるが、もとは稍大きな湖水であつたのが、福田川から運んで來る土砂の爲に、漸次埋められて今の如く小くなつたものらしい。口碑によれば、浦島が龍(399)宮へ行つたといふのは、淺茂湖から澄(ノ)江浦に出る口即ち淺茂川港の釣留《ツンダメ》といふ處で、そこは前に福島といふ一小島を控へて、澄(ノ)江浦第一の勝景である。(寫眞版參照)福島の上には松が五六株あつて、そこに綿積《ワダツミ》乙女と常世比女《トコヨヒメ》神を祀つた小祠がある。又網野字大口に網野神社(式内社で一に浦島大明神ともいふ)があつて、住吉大神と水江浦島とを、祀つてゐるのは、云ふまでもなくこの傳説に基くものである。なほ網野宇大將軍に、銚子山と稱する一大車塚がある。丹波道主命の墓とも云ひ、又其の父なる日子坐命《ヒコイマスノミコト》(開化天皇の皇子)の陵であるとも云ひ傳へてゐるが、浦島はその子孫であつて、この地の長者として尊敬せられてゐたものであると傳へられて居る。澄(ノ)江附近は一體に風景絶佳の處で、右に述べた小濱池は月夜の美觀で名が聞え、澄(ノ)江は落日を以て勝れてゐるが、なほ日本海に面した海濱では、琴引濱・太皷濱なども勝地として名高い。浦島傳説が澄(ノ)江に傳へられてゐるのも、決して偶然ではないと思ふ。○「たゆたふ」の本文は「得乎良布」とあつて、古訓にトヲラフと訓んだのを、考は「乎」を「本」の誤として「得本良布《トホラフ》」と改め、其の意義は略解に師の説として、「通る」を延べた語で、釣船が漕ぎ通るのを云つたのであると云つてゐる。又本居大平は「得乎」を「手湯」の誤とし、「手湯多布《タユタフ》」とよんで居る。(略解に載す)今大平の説に從つておく。「たゆたふ」は搖れ漂ふ意。○「鰹釣。鯛釣りほこり」は「鰹釣りほこり鯛釣りほこり」の意。「ほこる」は得意になる意。○「海界」は舊訓にウミキハ、考にウミベタと訓んであるが、古事記傳(一〇〇九頁)にウナサカと訓んである。今宣(400)長の訓に從つて訓んだのである。「うなさか」は海の堺といふので海のはての事。○「たまさかに」は偶然に。○「言なりしば」は事の成就する事。言と事は語源に於て一致してゐる。○「かき結び」の「かき」は接頭語。夫婦の契を結ぶを云ふ。○「常世」は永久不変の世界といふ意で、(「常」は「常磐」「常處女」などの「常」と同じ。)海を隔てた不老不死の樂土を想像して云つたのである。○「内の重」は多くの門を入つた最も奥の處を云ふ。宮城では九重の御門の外を外重《トノヘ》といひ、御門の内を内重《ウチノヘ》と云ふ。卷三に「外の重に立ちさもらひ内の重につかへまつりて」と」ある。こゝはその内の重になぞらへて云つたのである。○「たへなる殿」は善美を極めた殿。「たへ」は極めて勝れたものをいふ。○「たづさはり」は互に手を執り連れだつこと。○「かたくな人」(愚人)は舊訓シレタルヒト、略解の一訓ウルケキヒト、古義の訓カタクナヒトとある。今古義による。愚人とは浦島子を指したのである。○「わぎも子」は海神の少女をさす。○「告《ノ》る」は人に物を云ひ聞かすこと」。○「須臾」は舊訓にシバラクとあるが、集中に「之麻思久《シマシク》」又は「思麻良久《シマラク》」と」あるから、この何れかに訓むべきである。○「常世邊」の「ベ」は「山べ」、「野べ」の「ベ」と同じく接尾語。○「篋《クシゲ》」は櫛笥《クシゲ》で化粧道具を入れる筥であるが、此所では小筥である。○「そこらく」は「そこばく」(若干)と同じ。くれぐれもの意。○「すみの江に歸り來りて」日本後紀の淳和天皇の天長二年の條に「今年浦島子歸v郷。雄略天皇御宇入海至v今三百四十七年也。」とある。○「見かね」は見得ずしての意。○「あやしみと」」は怪しさに。○「見てば」は見たならばといふ意。(文法上の説明は三六二頁參照)○「玉くしげ」の「玉」は美稱。玉手筥と云ふと同じ。○「こいまろぶ」ころげまろぶ事。「こい」は伏すの古語である。記に「輾轉」萬葉に「展轉」又は「反側」をコイマロビと訓んであるのを見て、意義は明かである。○「ゆりゆり」本文に「由奈由奈波《ユナユナハ》」とあつて、契沖ははて/\はの意であらうといひ、略解には「由」は「與」と通ふので、夜な/\であるといつてゐるが、古義に或る説として「由李由李波」の誤とし、ユリユリは後々《ノチ/\》(401)の意であると云つてゐる。今最後の説に從つて釋いておく。ユリ(從)は後のヨリに當る語で、それを重ねてユリユリといふ語が出來たのである。○「家どころ見ゆ」の「家どころ」は大宮處奥津城處の類で家の在つた處の意である。此の一句は占義に述べてある通り、初めの「たゆたふ見れば」に對する結びとなつてゐる。先に述べた網野の銚子山の東麓に、浦島の家の跡と傳へてゐる處がある。(勿論後世生じた傳説地である。)
【譯】春の霞んでゐる時に、墨の江の岸に出て、釣舟が波にゆられて居るのを見ると、古い物語が思ひ出される。水江の浦島子が鰹釣りや鯛釣りに、餘り獲物が多く捕れたので得意になつて、七日までも家に歸つても來ないで、海のはてをずん/\漕いで行くと、ゆくりなくも海神の少女に漕ぎ逢ひ、互に語り合つて事が成り、夫婦の契を結んで、その少女の住む常世の國に行つて、海神の宮の大奥の善美を極めた御殿に連れだつて二人入り、老といふ事も知らず、死といふ事も恐れる事なく、永い間住んで居られたものを、世にも愚なこの浦島は、その妻なる女に語つて云ふには、暫く家に歸つて父母にかくと語つて、すぐに明日にでも歸つて來ようと。するとその女が、この常世の國に再び歸つて來て、今のやうに連れ立つて暮らさうと思ふなら、この筥を決してお開きなさるなと、くれぐれも云ひ含めて渡したのに、いよ/\墨の江に歸つて來ると、そこには自分の家も見えず、里も見えないので、これは不思議と思つて、そこでつら/\思ふに、自分が家を出て僅か三年の間であるのに、こんなに垣もなくなり、家もなくなるといふことがある筈でない。この筥を開けて見たら、家も必ず元の通りにあるであらうと、その筥を少し開けると、忽ち白い雲が其の中から出て、常世の國の方へずつと棚引いたので、これはしまつたと走り廻り、白雲を呼び返さうとして、大聲で叫び袖を打振つたが、それも何の甲斐もなかつたので、臥し轉ろがつり足ずりをして、忽ち心も消えてしまひ、あの若かつた肌には皺が出來、黒かつた髪も眞白くなり、はては息も絶えて死んで(402)しまつた。その浦島子の家のあつた里が、あれあそこに見える。
【評】霞のかゝつた長閑な海上を見渡しながら、神秘的な古傳説を思ふと云ふ序は、以下の物語を呼び起すのに適切であり、又自然である。而して最後に「浦島の子が家どころ見ゆ」と歌ひ終つたのも巧みである。又「老いもせず死にもせずして、とこしへにありけるものを」と云ひ、又「この篋ひらくなゆめと、そこらくに堅めし事を」といつて暗に作者は、浦島が再び浮世に歸つて來たことを、惜しんでゐる心をほのめかしてゐるのも面白い。次に浦島傳説そのものに就いて云ふならば、風土記の羽衣傳説、竹取物語の赫耶姫傳説、及び古事記の彦火々出見命の海宮遊幸説話などと共に、我が古傳説中の異彩であるが、就中この浦島傳説と海宮遊幸神話とは、双壁とすべきものであり、又此の二者は類似點の多い所からいへば、同一系統に屬する姉妹篇をなすものと謂つてよい。試みにその類似點の著しい所を擧げれば、(イ)海の彼方に樂土があるといふ信仰に基くこと、(ロ)海神の女と人間の結婚が成立すること、
(ハ)人間には知らしむべからざる神界の秘密のあること、(ニ)その秘密を知らうとして、永久神界と絶縁した事等であるが、これらの諸點を見るに、浦島傳説の方が遙かに内容を複雜にして、神秘的興味を増加して居ることは、一々指示するまでもないことであらう。次に諸書に傳へられて居る同じ浦島傳説を通覧するに、記述の最も詳細なのは丹後風土記であるが、惜しいかな支那思想の影響が著しい。例へば浦島が釣りに出て三日三夜を經て、一魚も獲ずして五色の龜を獲たが、それが化して仙女となり、浦島を伴つて蓬莱山に行くといふことになつて居るが、その五色の龜と云ひ、蓬莱山といひ、支那傳説中のものであることは云ふまでもない。なほ結構の上から見ても、風土記のは修飾の痕が歴々としてゐて、而も失敗に陷つてゐる。一例を擧げれば、浦島を容姿秀麗な風流土とし、又仙女が笑を湛へて彼の愛を求めると云ひ、更にそれを承けて、浦島が仙女を慕ふあまりに、筥を開くに至つたと云ふが(403)如きである。又叙説の前後矛盾して居る所もある。例へば天上の仙女が浦島を連れて天に登らずして、海中の博大島に行くかと思へば、筥から立ち上る白雲が蒼天をさして飛び去ると云ふが如きである。然るにこの長歌の叙述は極めて自然であつて、外來思想の影響もなく、技巧めいた痕もないと云ふ點から見ると、確かに本來の形を最もよく保存してゐるものと謂つてよい。
 
   反歌
 
1741 常世《とこよ》べに 住むべきものを 劔太刀《つるぎたち》 しが心から おそやこの君
 
 常世邊。可住物乎。劔刀。己之心柄。於曾也是君。
 
【釋】○「劍太刀」は心の枕詞。心は掌をタナゴコロ(手之心の義)といふ樣に、物の中央又は何かに包まれてゐる中身をいふ。從つて刀の柄の中に入る所を心(後の中子《ナカゴ》)といふから、「心」の枕詞に置いたのである。(契沖の説を補説す)○「しが心」は其が心。「し」は「そ」と同じ代名詞。○「おそ」は鈍き意。痴鈍を云ふ。
【譯】常世の國にその儘住んで居られるものを、わが心から取り返しのつかない事をした、愚かな人だ。
 
   見2河内大橋|獨去娘子《ヒトリユクヲトメ》1歌一首並短歌
 
1742 しなてる 片足羽川《かたしはかは》の さ丹塗《にぬり》の 大橋の上《へ》ゆ くれなゐの 赤裳すそ引き 山藍《やまゐ》もち 摺《す》れる衣《きぬ》着て (404)だひとり いわたらす兒は 若草の つまかあるらむ 橿《かし》の實《み》の 獨りか寢《ぬ》らむ 問はまくの ほしき我妹《わぎも》が 家の知らなく
 
 級照。片足羽河之。左丹塗。大橋之上從。紅。赤裳數十引。山藍用。摺衣服而。直獨。伊渡爲兒者。若草乃。夫香有良武。橿實之。獨歟將宿。問卷乃。欲我妹之。家乃不知。
 
【釋】○「河内大橋」は片足羽川の河内《カフチ》に架つてゐる大橋。○「娘子」の下には「作」の字があるべき所である。○「しなてる」は片足羽川の枕詞。冠辭考に級立《シナタ》てると云ふ義で、物の片寄つてゐることから、「片」に懸つたのだとあるが、古義には嫋《シナ》やかな状をいふ語で、人の肩は自由に屈伸するから、カタにつゞけたのであると云つてゐる。余はシナダル(撓垂)といふ意から云ひかけたものと思ふ。○「片足羽川」の「片足羽」は河内國の地名で、後に片鹽と云つたのがそれで、今の中河内郡堅上・竪下の二村の古名である。其處は大和の方から龍田越えをして、河内平野に出た處でそこを流れる川を片足羽川と云つたのである。河内志には大和川の支流の石川(河内の南方から北流して道明寺村で大和川に入る)の舊名としてゐるが、それは片鹽の地に關係がない川であるから、恐らくそれではあるまい。大日本地名辭書には、大和川を其の地方で稱へた別名とし、大橋は大和川の北岸竪下村大字|安堂《アンダウ》から、西岸の南河内郡道明寺村大字船橋に架けられた橋であらう、と云つてゐるのが確かなやうである。道明寺に大字國府(舊名|餌香市《ヱガイチ》)といふがあつて、もと國府の廳のあつた處であるから、大橋も多分國府の近くの右の位置に架けられたものであらう。そして河内大橋といつたのは、こゝは大和川と支流の石川とが落ち合ふ所で、所謂|河内《カフチ》をなしてゐるから、當(405)時河内大橋と呼んだものであると思はれる。この橋は既に古く雄略天皇紀にも見えてゐる。○「さ丹塗」の「さ」は接頭語。○「上ゆ」は上をの意で下の「いわたらす」に掛つてゐる。○「山藍《やまゐ》はヤマアヰの略である。日の當らない陰地に生える野生の藍である。その汁を搾り採つて、青色の染料に用ゐたのである。○「いわたらす兒」「い」は接頭語。「す」は敬語の副語尾。「兒」は少女を指す。○「若草の」は枕詞。○「橿の實の」も枕詞。橿の實は栗などゝ異つて、椀状の苞に一個づゝの實が包まれてゐるから、「獨」といふ語にかけたのである。○「家の知らなく」は家を知らないことだといふ意。いかにもして家を知りたい心を含めて云つてゐる。
【譯】片足羽川の丹塗の大橋の上を、赤い裳の裾を曳いて、山藍で摺つた着物を着て、たつた獨りで渡つて行く少女は、夫を持つてゐるのであらうか。それとも獨寢をする身であらうか。尋ねて見たい女であるが、その家を知らないのが遺憾である。
【評】この歌は片足羽川に、さ丹塗りの立派な大橋が架けられた當時に、其の橋を渡つて詠んだ作であらう。それは兎に角としして、清い流の上に長く横たへられた丹塗の橋を、青い衣に赤裳を長く曳いて行く少女が、繪のやうに美しく、又印象も鮮かに描き出されてゐる。事柄も情趣もすべて萬葉の特色を持つてゐる作である。
 
   反歌
 
1743 大橋の つめに家あらば ま悲《がな》しく ひとり行く兒に 宿かさましを
 
 大橋之。頭爾家有者。心悲久。獨去兒爾。屋戸借申尾。
 
【釋】○「つめ」の本文「頭」を舊訓にホトリ、考に「ベ」、略解にツメと訓んでゐる。ツメと訓むがよい。橋詰のこと。○「ま(406)悲し」は舊訓ココロイタク、代匠記にウラガナシク、略解にマガナシク(古義も同じ)とある。「ま悲し」の「ま」は「眞白《マシロ》」「眞幸《マサキ》く」などの眞と同じ接頭語。「ま悲し」はかはゆい〔四字傍点〕、或はいとほし〔四字傍点〕と云ふ意。此の語は下の「ひとり行く兒」に掛けて釋くべきである。
【譯】大橋の橋詰にわが家があつたなら、いとほしくも夕暮にただ獨りで行くこの少女に、宿を借してやらうものを。
 
   詠2霍公鳥1一首並短歌
 
1755 うぐひすの 生卵《かひこ》の中に ほととぎす 獨り生まれて しが父に 似ては鳴かず しが母に 似ては鳴かず うの花の 咲きたる野邊《ぬべ》ゆ 飛びかへり 來鳴き響《とよも》し 橘の 花を居散《ゐち》らし ひねもすに 鳴けど聞きよし まひはせむ 遠くな行きそ わが宿の 花たちばなに 住み渡り鳴け
 
 ※[(貝+貝)/鳥]之。生卵乃中爾。霍公鳥。獨所生而。己父爾。似而者不鳴。己母爾。似而者不鳴。宇能花乃。開有野邊從。飛翻。來鳴令響。橘之。花乎居令散。終日。雖喧聞吉。幣者將爲。遐莫去。吾屋戸之。花橘爾。住度鳥。
(407)【釋】○生卵《カヒコ》のカヒは卵のこと。コは接尾語である。さて杜鵑は自分の産んだ卵を鶯の巣に入れて置いて、鶯に孵化哺育の勞を託する習性をもつてゐる鳥である。然るに杜鵑の雛は、鷺の雛の殆ど二倍に近い體を有つてゐる上に、尻を動かして鶯の雛をその巣から突き出して、自分獨り鶯の哺育を受けるのである。尤も杜鵑の或種のものは巣を營んで、自ら雛を育てるさうである。(川口孫次郎民著「杜鵑研究」による。)○「しが父に」此の父も下の母も鶯を指したのである。○「うの花」は空木《ウツギ》の花。夏白色の五瓣の花を開く灌木で、至る所の野に生えてゐる。國文學にあつては杜鵑と卯の花又は橘の花とは、古くから離るべからざる關係が結ばれてゐる。○「飛びかへり」の「かへり」は還りではなく飜る意である。○「まひはせむ」は禮物を贈ること。(既出)○「住み渡り鳴け」は、略解に住みわたれで語を切つて、鳥は杜鵑を指して呼びかけたのであると云つてゐるが、古義には鳥を鳴の誤として、スミワタリナケと訓んでゐる。今古義による。
【譯】杜鵑は鶯の卵の中に混つて獨り生まれて、その父に似ても鳴かず、又その母に似ても鳴かず、卯の花の咲き滿ちてゐる野邊を、飛び翔けて來ては鳴き響かせ、橘にとまつては、其の花を踏み散らし、終日鳴きつづけてゐても面白く聞かれる。お禮をするから、遠く飛んで行かないで、どうかわが庭の花橘に住み着いて鳴きつづけてくれ。
 
   反歌
 
1756 かき霧らし 雨の降る夜を 時鳥 鳴きて行くなり あはれその鳥
 
 掻霧之。雨零夜乎。霍公鳥。鳴而去成。※[立心偏+可]怜其鳥。
 
【釋】○「かき霧らし」は「天霧らし」と同じで、かき曇らす意。○「あはれ」はおもしろしといふ意。
(408)【譯】空をかき曇らして雨の降る夜であるのに、時鳥が鳴いて行くが、誠におもしろい鳥である。
【評】雲間から洩れて來るただ一聲を聞くために、明けやすき夏の夜を待ち明かした平安歌人と異つて、卯の花のこぼれる野、花橘の香る庭、至る處に鳴き渡る杜鵑を詠んだのが面白い。反歌に雨の夜を詠んだのも、長歌と相俟つて趣が深い。
 
   登2筑波山1歌一首並短歌
 
1757 くさまくら 旅の憂を なぐさもる こともあらむと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る しづくの田井に 雁がねも 寒く來鳴きぬ 新治《にひばり》の 騰波《とば》の淡海《あふみ》も 秋風に 白浪立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに 思ひ積み來し 憂はやみぬ
 
 草枕。客之憂乎。名草漏。事毛有武跡。筑波嶺爾。登而見者。尾花落。師付之田井爾。雁泣毛。寒來喧奴。新治乃。鳥羽能淡海毛。秋風爾。白浪立奴。筑波嶺乃。吉久乎見者。長氣爾。念積來之。憂者息沼。
 
【釋】○「なぐさもる」は「なぐさむる」の轉訛である。○「こともあらむと」(事毛有武跡)古義に有武を有哉の誤として、(409)アレヤと訓んでゐる。暫くもとのまゝにしておく。○「しづく」は筑波山の麓にある志筑郷。○「新治」は郡名。○「騰波の淡海」は常陸風土記の筑波郡の條に、「郡西十里在2騰波江1【長二千九百歩廣一千五百歩」とある。此の湖は後世埋没してしまつた。○「來鳴きぬ」「立ちぬ」は「來なく」「立つ」と云ふのを、調の爲にかういつたのである。(新考の説)○「長きけ」の「け」は「け長く」「け並べて」等の「け」で、日又は時の意。(八一頁參照)長い月日に心に積もつたと云ふ意。
【譯】旅のわびしさを晴らす事にもならうかと思つて、筑波山に登つて見ると、その麓の尾花の散る志筑《シヅク》の田の面に、雁が來て寒い聲で鳴いてゐ、新治の騰波の湖も、秋風に吹かれて白い波を立てゝゐる。筑波山のこの景色の佳いのを見ると、長い間に積もつてゐた旅の物思ひは、すつかり晴れてしまつた事だ。
【評】「尾花散る」以下八句が如何にも印象のあざやかな句で、秋の澄んだ空を通して、高い所から廣く麓を見晴らした時の感じが活々と歌はれてゐる。「雁がねも寒く來鳴きぬ」などはいつまでも忘れられぬ佳句である。
 
   反歌
 
1758 筑波嶺の 裾廻《すそみ》の田井に 秋田苅る 妹がりやらむ 黄葉手折らな
 
 筑波嶺乃。須蘇廻乃田井爾。秋田苅。妹許將遣。黄葉手折奈。
 
【譯】筑波山の山裾の田に出て、稻を苅つてゐるあの娘に遣る爲に、美しい黄葉を手折らう。
【評】長歌の叙景に助けられて、この人事が盡きぬ面白さを感じさせる。
 
   登2筑波嶺1爲2※[女+燿の旁]歌會《カガヒ》1日作歌一首並短歌
 
(410)1759 鷲《わし》のすむ 筑波の山の 裳羽服津《もはきづ》の その津の上に あともひて 處女《をとめ》をとこの 行きつどひ かがふかがひに 人妻に 吾もあはむ わが妻に 人も言問《ことと》へ この山を うしはく神の むかしより いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ こともとがむな
 
鷲住。筑波乃山之。裳羽服津乃。其津乃上爾。率而。未通女壯士之。往集。加賀布※[女+燿の旁]歌爾。他妻爾。吾毛交牟。吾妻爾。他毛言問。此山乎。牛掃神之。從來。不禁行事叙。今日耳者。目串毛勿見。事毛咎莫。
 
【釋】○「筑波嶺」は關東平野に屹立する名山で、その峰は二つに分れてゐる。西のを男體山といひ、東のを女體山といふ。男峰には筑波大神を祀り、女峰には筑波女神を祀つてゐる。その二峰の間を御幸原といひ、男體山から流れ下る川は陽成院の御製に「つくばねの峰より落つる」と見えたみなの川〔四字傍点〕である。今山腹の筑波町に筑波神社がある。※[女+燿の旁]歌の古俗はこの男峰女峰に由來するものらしい。○「※[女+燿の旁]歌《カガヒ》」のことは常陸風土記に見えて居る。春秋に日を定めて、若い男女が打連れて筑波山に登り、酒食を共にし歌を詠みかはして嬉戯し、又求婚の媒とするのである。都ではこれを歌垣と云つて、市で行つたのである。※[女+燿の旁]歌の字は韓詩外傳に「※[女+燿の旁]歌蠻人歌也」とあるのによつたのであるといふことである。書紀には歌垣又は歌場の字を用ゐてあるが、釋日本紀に歌場は「男女集會詠2和歌1契2交接1之所也」とあ(411)る。カガヒは歌垣に對する東國の俗語であると云はれてゐるが、その語源については種々の説がある。宣長はカグレアヒの約つたので、カグルは求婚の意の古語であると云ひ、(古事記傳)高田與清は嚇呼の意で、聲を擧げて歌ひ合ふさまを云ふのであると云ひ、(松屋筆記)眞淵と士清はカケアフ(掛合)の意であると云つて居る。○「裳羽服津」は筑波山中の地名であるらしいが今は明かでない。○「あともひて」は相率ゐての意。○「かがふ」は※[女+燿の旁]歌すること。○「交牟」を舊訓にカヨハム、考にマギナム、略解にマジラム、古義にアハムと訓んである。今古義の訓によつた。○「言問へ」は言葉をかける事で、女に逢ふ意である。○「うしはく神」は筑波嶺を主宰してゐる神。○「むかしより」略解にはハジメヨリ、古義にはイニシヘヨと訓んでゐるが、今は舊訓によを。○「いさめぬわざ」は禁じてゐないわざといふ意。○「めぐしもな見そ」を代匠記に見苦しくも見るなと釋き、(略解同説)考・古義には卷五の令v反2惑情1歌にある「めぐしうつくし」(いとしく可愛ゆいといふ意。)の「めぐし」と同じ意に見てゐる。これは後説の方がよい。併し古義に人妻を自分が言問ひかはしても、よそに見て可愛さうだと思ふな、ろ云ふやうに釋いてゐるのは隱當でない。この句は自分の妻が、他の男と言葉をかはしても、それを私のためにいとほしとは思ふなと云ふ意である。從つて次の句は自分が人妻と問ひかはすとも、咎めるなといふ意に釋くべきである。○「こともとがむな」は言葉にも咎むなといふので、「こと」は前の句の「な見そ」に對して置いた語である。
【譯】鷲の住む筑波の上の、裳羽服津のその津の邊に、誘ひあつて男や女が集つて來て、歌ひかはす歌垣には、他人の妻に自分も逢はう、自分の妻に他の男も言葉を掛けよ。この山を主宰し給ふ神が、もとからこの事は禁じ給はぬことなのである。今日ばかりは、私の妻に人が言葉をかけても可愛さうとは見てくれるな。又自分が人妻と言ひかはしても、咎め立てしてくれるな。
 
(412)   反歌
 
1760 をのこ神に 雲たちのぼり しぐれふり 濡れ通るとも 吾かへらめや
 
 男神爾。雲立登。斯具禮零。沾通友。吾將反哉。
    右件歌者高橋連蟲麿歌集中出
 
【釋】○「をのこ神」は筑波嶺の二峰の一の男體山を云ふ。○「吾かへらめや」は假令雨が降らうとも、面白いこの歌垣をやめて歸れるものかといふ意。○「右件歌者云々」の歌の範圍が不明である。佐々木博士は詠2上總末珠名娘子1歌以下これまでを指したものと解釋して居られる。新考も同説。(三九五頁參照)
【譯】男體山に雲が立ち登つて、時雨が降つて來て衣は濡れ通つても、この面白い歌垣を止めて歸れるものか。
【評】武烈天皇がまだ皇太子であらせられた頃、海石榴市《ツバイチ》の歌場にお立ちになつて、大臣|平群眞鳥《ヘグリノマトリ》の子|鮪《シビ》と、物部麁鹿火大連《モノノベノアラカビノオホムラジ》の女|影媛《カゲヒメ》をお爭ひになつたことが、記紀に見えて居るが、これが歌垣の物に見えた最初である。歌垣は地方にあつては山上で行つたものらしく、筑波嶺の他に攝津風土記の歌垣山、肥前風土記の杵島岳《キノシマダケ》等が有名である。この歌垣は後世の盆踊にその遺風を傳へて、上代と同じく淫靡の風が近頃までも存してゐた。(九州の或地方には今なほ月に一回雜婚が許されてゐる。)續妃によると聖武天皇の天平六年二月に、朱雀門に出御になつて、歌垣を御覽になつたことが見えて居る。その時は男女二百四十餘人を召され、五品以上の大宮人も加はり、都の男女も見物に出かけたと記されて居る。又稱徳天皇の寶龜元年三月には、河内の博多川(石川の古名)に於て、男女二百三十人を召されて、歌垣を行はせられた事が見えてゐるが、その時は青摺の細布衣を着、長い赤紐を垂れ、男女相並んで列を分けて徐々に進み、「少女等に男立ち添ひ蹈みならす西の都は萬世の宮」又「淵も瀬も清くさやけし博多川千歳(413)を待ちて澄める川かも」といふやうな歌をうたひ、歌曲毎に袂を擧げて踊つたことが記されてゐる。此等は民間のものと異つて、頗る華美なものであつたやうである。稱徳天皇は當時惠美押勝の亂や僧道鏡の事などがあつて、大に御心を悩まして居られたので、御靜養のために河内の離宮に行幸があつたのであるから、博多川の歌垣は、御慰の爲に行つたことは云ふまでもない。かくの如くに、もと民間で行はれた歌垣が、奈良朝の頃には珍らしいものとして、宮廷の遊樂の一となつたのである。併し寶龜以後は、宮廷の歌垣のことが歴史に見えてゐない。
 
  相聞
 
   石河大夫《イシカハノマヘツギミ》遷v任上v京時播磨娘子贈歌一首
 
1777 君なくば なぞ身《み》装《よそ》はむ 櫛笥《くしげ》なる 黄楊《つげ》の小櫛も 取らむとも思はず
 
 君無者。奈何身將装飾。匣有。黄楊之小梳毛。將取跡毛不念。
 
【釋】○「石河大夫」は名は君子。奈良朝の人である。○此の歌は石川大夫が、播磨守から京官に轉任を命ぜられて上京する時、播磨の或る女が別を惜しんで詠んだのである。
【譯】あなたが去つておしまひになつたら、何のために身を装ひませう。櫛笥の中の黄楊の櫛も、手に取らうとは思ひません。
【評】一途に愛する純な感情が貴く感じられる。
 
   天平五年癸酉遣唐使舶發2難波1入v海之時親母贈v子歌一首並短歌
 
(414)17090 秋萩を 妻どふ鹿《か》こそ 一人子を 持《も》たりと言へ 鹿兒《かこ》じもの 吾《あ》が獨子の 草枕 族にし行けば 竹玉《たかだま》を しじに貫《ぬ》き垂《た》り 齋瓮《いはひべ》に 木綿《ゆふ》取りしでてい はひつつ 吾《あ》が思《も》ふ吾子《あご》 眞幸《まさき》くありこそ
 
 秋芽子乎。妻問鹿許曾。一子二子。持有跡五十戸。鹿兒自物。吾獨子之。草枕。客二師往者。竹珠乎。密貫垂。齋戸爾。木綿取四手而。忌日管。吾思吾子。眞好去有欲得。
 
【釋】○天平五年に遣唐使を乘せた船が難波の江を出るときに、一行中の一人の母が、子を見送つて詠んだ歌である。○「秋萩を妻どふ鹿」とは、鹿は萩の花に馴れ親しむものであるから、さう云つたのである。○「一子二子」を舊訓にヒトツゴフタツゴと訓み、考に「一子二」で切り、「子」を次の句頭に置いて、ヒトツゴニ、コモタリトイヘと訓んでゐるが、古義に今村樂の説と云つて、二子を乎の誤とし、「一子乎《ヒトリゴヲ》」とよんでゐる。今それに從つた。鹿は兒を一匹だけ生むものである。○「鹿兒じもの」は鹿の子のやうに。「じもの」は前に度々見えてゐる。○「竹玉」「齋瓮」は二二四頁を見よ。○「しじに貫き垂り」は玉を繁く緒に貫いて垂らすと云ふこと。○「いはふ」は忌むと云ふ語の延言で忌み愼んで祭る意。○「眞幸く」は幸にの意。「眞」は「眞悲しみ」の眞と同じく接頭語。○「ありこそ」の「こそ」は願望をあらはす助詞。この時は用言の連用形を承けるのである。
【譯】秋萩を花妻として訪ふ鹿は、一人子を持つてゐると云ふが、その鹿の子のやうな私の獨子が、遠い旅路に出掛け(415)ることだから、竹玉を澤山に貫いて頸に垂らし、御酒を盛つた齋瓮には木綿を取掛けて、神樣をお祭り申して、わが慕ふ愛子が、どうか恙くあるやうにと、お祈りを致すことである。
 
   反歌
 
1791 旅人の やどりせむ野に 霜ふらば わが子はぐくめ 天の鶴群《たづむら》
 
 客人之。宿將爲野爾。霜降者。吾子羽裹。天乃鶴群。
 
【釋】○「旅人」は一行の人々を廣く指したので、下にわが子と云つて、別に愛子の上を思うてゐる。○「はぐくむ」は羽含むの義で、鳥が翼で雛を覆ひ育てることを云ふ。○「天の」は空を飛ぶ鶴といふ意で添へたのである。
【譯】あの旅人が旅寢をする野に寒い霜がふるならば、どうぞ我が子を羽で覆ひかばつてやつてくれよ、空を群れ飛ぶ鶴よ。
【評】長歌には鹿の子に比すべき、わが獨子のために旅の安全を祈る至情を歌ひ、反歌には子を愛する情の深いと云ふ鶴に託するに、夜寒の旅寢を羽ぐくむ事を以てしてゐる。何れも切々人の胸に泌みこむものがある。殊にこの遣唐使の一行が、その歸途漂流の難に遭つた事を思ふと、(二九五頁參照)この母子の間に起つた悲劇が想像せられる。なほこの一行中の一人の妻が詠んだ長歌が、卷十九にあるが、それは本書には省いた。
 
  挽歌
 
   詠2勝鹿眞間娘子《カツシカノママノヲトメ》1歌一首並短歌
 
(416)1807 鳥が鳴く あづまの國に いにしへに ありける事と 今までに 絶えず言ひ來る 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の手兒奈《てこな》が 麻衣《あさきぬ》に 青衿《あをえり》つけ ひたさ麻《を》を 裳には織り着て 髪だにも 掻きは梳《けづ》らず 履《くつ》をだに はかずありけど 錦綾《にしきあや》の 中《なか》につつめる いはひ兒《ご》も 妹にしかめや 望月《もちづき》の たれる面輪《おもわ》に 花のごと 笑《ゑ》みて立てれば 夏蟲の 火に入るがごと 水門入《みなとい》りに 船漕ぐ如く よりかぐれ 人の言ふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 浪の音の さわぐ湊の(417) おくつきに 妹がこやせる 遠き代に ありける事を 昨日《きのふ》しも 見けむがごとも 思ほゆるかも
 
 鷄鳴。吾妻乃國爾。古昔爾。有家留事登。至今。不絶言來。勝牡鹿乃。眞間乃手兒奈我。麻衣爾。青衿著。直佐麻乎。裳者織服而。髪谷母。掻者不梳。履乎谷。不着雖行。錦綾之。中丹裹有。齋兒毛。妹爾將及哉。望月之。滿有面輪二。如花。咲而立有者。夏蟲乃。入火之如。水門入爾。船己具如久。歸香具禮。人乃言時。幾時毛。不生物乎。何爲跡歟。身乎田名知而。浪音乃。驟湊之。奥津城爾。妹之臥勢流。遠代爾。有家類事乎。昨日霜。將見我其登毛。所念可聞。
 
【釋】○勝鹿眞間娘子の歌は既に卷三にも見えてゐたが、なほこの後に卷十四にも二首ある。○「鳥が鳴く」は「あづま」の枕詞。(既出)○「青衿」を舊訓にアヲフスマ、代匠記にアヲクビ、考及び略解にアヲオビと訓み、古義に契沖の説としてアヲエリとある。衿をフスマとよんだのは、衾の字と同じ字義と見たのであらうが、クビとよんだのは釋名に「衿、【青領、古呂毛乃比】、頸也、所2以擁1v鷄也。」とあるによつたので、オビと云ふ訓は和名抄に「衿、【音襟、和名比岐於比、】小帶也。」とあるによつたのである。今訓は古義に引いてある契沖の説に從ひ、其の意義は襟と見ておく。○「ひたさ麻」の「ひた」は眞土《ヒタツチ》・眞紅《ヒタクレナヰ》などの「ひた」と同じで、ひたすらといふ義を添へる接頭語。又「さ」は「さ牡鹿」「さ夜中」等の「さ」と同じで、音調を添へる爲の接頭語。○「はかずありけど」は代匠記・考・略解共にハカズユケドモと訓んでゐるが、今古義の訓によつたのである。○「中につつめる」を古義の訓には「中にくくめる」と訓んでゐる。暫く舊訓によつておく。○「いはひ兒」は大切にかしづく兒。○「望月の」は圓滿具足の面輸をいふ爲の枕詞。○「夏蟲の云々」は娘子に云ひ寄る事を譬へてゐる。○「水門入りに云々」は港に入る舟が先を競ふやうに、娘子に近づかうとすることをいふ。○「よりかぐれ」については種々の説がある。先づ訓について云はば、舊訓にユキカクレとあるが、考・古事記傳・(宣長全集二四六六頁)略解等にはヨリカグレとし、古義には「具禮」を「賀比」の誤とし、ユキカガヒと訓んでゐる。次に意義に就ては何れの説も、※[女+燿の旁]歌《カガヒ》と關係のある語と見てゐるのであつて、眞淵はヨリカケと同じで、互に心意を寄せか(418)ける意であると云ひ、宣長は妻を呼ばふことの古語であらうと云つてゐる。要するに語源が明かでないので、判然と意義を知ることが出來ない。今は宣長の説によつて、娘子を挑み合ふ意と見て置かう。○「いくばくも」以下三句を代匠記・略解に、娘子の心を云つたものとしてゐるが、これは作者の心と見る方がよい。○「たな知る」の「たな」は既に説明したやうに、語義を強く表はす爲の接頭語らしい。○「何すとか」の「か」は「たな知りて」の下に置きかへて見ると明かになる。○「こやす」は臥すの古語。「こやせる」は「臥す」の敬語法で、葬られてるることを云つたのである。○「昨日しも」の「しも」は助詞。○この歌以下卷未に至るまでの五首は、左註によれば高橋蟲麿の作である。
【譯】吾妻の國に昔あつた事で、今日まで絶えず言ひ傳へてる葛飾の眞間の手兒奈が、麻で作つた衣に青い襟をつけ、荒い麻で織つた裳を着て、髪も梳ることもせず、履さへ穿かないで歩くけれども、錦や綾の中に包まれて、大切にかしづかれる愛子も、この女に到底及びはしない。滿月のやぅに足りとゝのうた面ざしに、花のやぅに笑を湛へて立つて居ると、夏虫が火を戀しがるやうに、又港に入る船が先を爭ふやうに、人々が競うて挑みあひ言ひ寄つた時に、幾らも生きられる生命でないのに、何と身を心得たのであらうか、浪の打ち寄せる港の墓場に、かの妹は永遠の床に臥したのである。それは遠い昔にあつた事であるけれども、今來て見てさへ、昨日あつたことのやうに思はれることである。
【評】卷三に出てゐた赤人の手兒奈の歌には、言ひ寄つた男のさまが歌はれてゐたが、この長歌には娘子が賤しい身分であるに拘らず、天性の美貌を持つてゐた爲に、多くの男子を惱殺した事が、委しく歌はれてゐる。又赤人の作には墓場の荒廢したさまが詠まれてゐたが、この歌には娘子が言ひ寄つた男に靡かずして死んだと云ふ、哀れな最期が詳かにしてある。二首を併せ見ると、この古傳説がよほど明瞭になるやうである。
 
(419)   反歌
 
1808 葛飾の 眞間の井見れば 立ちならし 水汲ましけむ 手兒名し思ほゆ
 
 勝牡鹿之。眞間之井見者。立平之。水※[手偏+邑]家牟。手兒名之所念。
 
【譯】葛飾の眞間の井を見ると、昔この邊に立ち馴れて、度々水を汲んだであらう所の、手兒名のことが思はれる。
【評】眞間の里に、手兒名が汲んだ井として、眞間の井の名で呼ばれたのがあつたのを見て、此の歌を詠んだのであらう。
 
   見2菟原處女《ウナヒヲトメ》墓1歌一首並短歌
 
1809 葦屋の 菟名負處女《うなひをとめ》が 八年兒《やとせご》の かたおひの時ゆ をばなりの 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず うつ木綿《ゆふ》の 籠りて居れば 見てしがと いぶせむ時の 垣ほなす 人のとふ時 茅渟壯士《ちぬをとこ》 菟原壯士《うなひをとこ》の 伏屋《ふせや》たき すすし競《きほ》ひて 相よばひ しける時に (420)燒太刀の たがみおしねり 白眞弓《しらまゆみ》 靫《ゆぎ》取《と》り負《お》ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 吾妹子が 母に語らく 倭文手纒《しづたまき》 賤しき吾《わ》が故《ゆゑ》 ますらをの 爭《あらそ》ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや しじくしろ 黄泉《よみ》に待たむと 隱沼《こもりぬ》の したばへおきて 打ち嘆き 妹が去《い》ぬれば 茅渟壯士 其の夜|夢《いめ》に見 とりつづき 追ひ行きければ おくれたる 菟原壯士い 天《あめ》あふぎ 叫びおらび ※[足+昆]地《あしずり》し 牙《き》がみたけびて もころをに 負けてはあらじと かき佩《は》きの 小劔《をたち》取り佩き (421)ところづら 尋《と》め行きければ 親族《やから》どち い行き集《つど》ひて 永き代に しるしにせむと 遠き代に 語り繼がむと 處女墓《をとめづか》 中に造り置き 壯士墓《をとこづか》 こなたかなたに 造り置ける 故由《ゆゑよし》聞きて 知らねども 新喪《にひも》のごとも 音泣《ねな》きつるかも
 
 葦屋之。菟名負處女之。八年兒之。片生乃時從。小放爾。髪多久麻庭爾。並居。家爾毛不所見。虚木綿乃。?而座坐者。見而師香跡。悒憤時之。垣廬成。人之誂時。智奴壯士。宇奈比壯士乃。廬八燎。須洒師競。相結婚。爲家類時者。燒太刀乃。手預押禰利。白檀弓。靫取負而。入水。火爾毛將入跡。立向。競時爾。吾妹子之。母爾語久。倭文手纒。賤吾之故。丈夫之。荒爭見者。雖生。應合有哉。宍串呂。黄泉爾將待跡。隱沼乃。下延置而。打嘆。妹之去者。血沼壯士。其夜夢見。取次寸。追去祁禮婆。後有。菟原壯士伊。仰天。叫於良妣。※[足+昆]地。牙喫建怒而。如己男爾。負而者不有跡。懸佩之。小劍取佩。冬※[草がんむり/叙]蕷都良。尋去祁禮婆。親族共。射歸集。永代爾。標將爲跡。遐代爾。語將繼常。處女墓。中爾造置。壯士墓。此方彼方二。造置有。故縁聞而。雖不知。新裳之如毛。哭泣鶴鴨。
 
【釋】○「葦屋」は攝津國武庫山麓にあつて、海に沿うてゐる一帶の地の古名で、菟名負《ウナヒ》は其の中の狹い地名であつたのである。○「かたおひ」(片生)は「かたなり」ともいふ。まだ十分に生育してゐないこと。○「をばなり」の「を」は接頭語。「はなり」は振分髪又は振分髪の童女を云ふ。本文に「小放爾」とあるが、その「爾」は次句の「髪たくまでに」との關係から見れば、「乎」又は「乃」の誤であるらしい。即ちこの二句は振分髪をかき上げて結ぶ年になるまでと云ふ意である。○「髪たく」は髪を取り上げる意。○「うつ木綿の」は枕詞。その語義に就いて種々の説があるが、雅澄の説によると、木綿は苧木綿《ヲユフ》の事で、丸く内をうつろに卷きつけたものであるから、「こもり」に懸けたのであらうと云ふ。○「見てしがと」は見たいものだといふ意。「てしが」の意義は二一五頁に述べた。○「いぶせむ時の」の「いぶせ(422)む」は心が結ぼれて氣の晴れないこと。「時の」は時にしての意。○「垣ほなす」は垣のやうに。「ほ」は接尾語。○「茅渟壯士」は茅渟の里の男。「茅渟」は後の和泉國の古名。○「伏屋たき」は枕詞。伏屋で火を燒くときは煤が出來るから、「すすし」に掛けたのである。○「すすし競ひ」は進み競ひの意で、われ劣らじと競ふ意。○「よばひ」は「呼び」の延言である。結婚又は將婚を當ててゐる例を見て意味が分る通り、妻に得ようとして、挑む事を云ふ。○「燒大刀」は火で燒いてよく鍛へて作つた大刀。○「たがみ」(「手預」の「預」は「穎」の誤であると云ひ、又「頭」の誤であるともいふ。)は刀の柄《ツカ》のこと。○「おしねり」はおしひねること。○「白眞弓」は白木の弓(「ま」は接頭語)で、射る・引く・張る・靫など、すべて弓に縁のある語にかける枕詞。○「倭文手纏」は賤しの枕詞。「倭文」は借字で賤《シヅ》の意、「手纒」は手に纒く玉で、賤の手纒は下品なものであるから、「賤し」(又は「數ならぬ」)にかけるのであるといふのが古義の説である。○「しじくしろ」はヨミ或はウマイネの枕詞。その語義について種々の説があるが、冠辭考には繁釧の義とし、繁は鈴を多く着けるのをいふので、それを賞める意味からヨミにもウマシにも云ひ懸けるのであるといつてゐる。釧に鈴のついたのがあつた事は、遺物によつて明かである。○「隱沼の」は「下」の枕詞。語義は明かである。○「したばへおきて」は古事記傳に(宣長全集二一三九頁)從v下延乍《シタヨハヘツツ》の義で、シタヨはしのび隱してすることを云ひ、ハヘは心をかけて妻聘ひするをいふとある。余は思ふにシタはシタヨでなくただ下であつて、「延へ」を修飾する語であらう。即ち表面にあらはさず心の中でする動作を表はす爲の語で、「延へ」は慕ふことを云つたのである。從つてこの動詞の原形はシタパフである。○「妹が去ぬれば」は處女が黄泉に行つたので。○「菟原壯士い」の「い」は主格を示す接尾語。(この「い」を次の句頭に置いて、この句をウナヒヲトコモとよみ、次の句をイアフギテと訓む説もある。この時のイは動詞のアフグの接頭語となる。)○「おらぶ」は號叫すること。今も關西の方言に遺つてゐる。○「※[足+昆]地」(423)を考に「?地」の語としてアシフミシと訓み、清水濱臣は「※[足+昆]地《アシズリ》」とよみ、古義には「?地」の誤としてツチニフシと訓んでゐる。今は濱臣の訓によることにした。○「牙がむ」は牙を?むことで、はぎしりすることをいふ。○「たけぶ」は叫ぶこと。○「もころをに」は己にひとしい男といふ意。「もころ」は如しの義、從つて「もころを」は如2自己1男の義である。○「ところづら」は尋ね行くの枕詞。「ところづら」(冬薯蕷葛)は野老《トコロ》のことである。ヤマノイモに似たもので、冬にも葉が青々と出てあるから、それを尋ねて薯を掘り取るのである。從つて「たづね」にかゝるのである。(「古事記傳」「古義品物解」參照)○「尋め行きければ」は略解の訓。代匠記・古義にはタヅネユケレバとある。○「親族どち」は彼等三人の縁者の者共。○「處女墓」の墓を古義にはハカと訓んでゐる。處女墓は求女塚と云つて、今も攝津武庫郡に存してゐる。何れも前方後圓の古墳で、周圍は八十間許りあつて、三段に築き上げられてゐる。今東の方の塚から云へば、第一のは御影町の東北の呉田にあつて西面し、第二のはそれから約十五町ほど西方の、住吉村大字|東明《トウミヤウ》にあつて南面し、第三のは更にそれから二十町許り離れて、西灘村大字|味泥《ミドロ》にあつて、これは東に向つてゐる。近頃阪神電車が敷設せられた時、第一の塚は壞たれて畑となり、第二の塚は一部分削られ、第三のものは私人の所有地となつて、洋館が建つてゐる。此等の古塚は右のやうな位置に配置せられて、而も二つの塚が中央の塚に向つてゐるので、後に菟原處女の傳説をこれに附曾するやうになつたのであつて、實は上代の身分ある人の塚であるといふことは、疑ふべからざる事になつてゐる。
【譯】葦屋の菟原處女は、八つ兒のまだ極幼い時から、振分髪を結び上げるまで、並んでゐる隣人にも顔を見られず、ただ内に籠つて許り居ると、それを見たいものだと慕はしさに氣が晴れない人々が、人垣を作つて近づいた時に、茅渟の男と菟原の男とが、頻りに競うて挑み合ひ、太刀の柄を撫で、靫を背に負うて、この處女を手に入れる爲に(424)は、水の中にも這入らう、火の中にでも飛び込まうと、立ち向つて爭うた時、この處女が母に語るには、いとも賤しい妾のために、男子があんなに爭ふのを見るとし、生きてゐても到底逢ふことは出來ない、いつそあの世で待つて、ゐませうと云つて、下心に慕ひながら、打ち嘆いてこの世を去つてしまつたので、茅渟の男はその夜夢にそれを見て、續いて跡を追うて去つてしまつた。すると後に殘された菟原男は、天を仰いで叫び悲しみ、地だんだを踏んで齒ぎしりして、悲痛の聲をあげ、自分と同じやうな男に負けてなるものかと、常に身に帶びてゐた大刀を佩いて、是も亦跡を追うて世を去つたので、親族の者共か集まつて來て、そこに永久の標を立て、末代までも語り繼ぐやうにしようと、處女塚を眞中にこしらへ、男塚をその兩側に造つて置いた。自分は今そのいはれを聞いて、知らぬ昔のことではあるけれども、つい此の頃の喪に逢つたやうに感じて、聲を立てゝ泣きたくなるのである。
【評】これは西洋の騎士の戀物語の中にでもありさうなローマンスである。先に講じた眞間の手兒奈の物語と好一對をなすものであるが、あれよりも内容が復雜であつて、一篇の劇詩をなしてゐる。
 
   反歌
 
1810 葦の屋の うなひ處女の おくつきを 往來《ゆきく》と見れば 音のみし泣かゆ
 
 葦屋之。宇奈比處女之。奥槨乎。往來跡見者。哭耳之所泣。
 
【譯】葦の屋のうなひ處女の墓を往き來に見ると、聲を出して泣きたくなるのである。
 
1811 墓《つか》の上《へ》の 木《こ》の枝《え》靡けり 聞くがごと 茅渟男にし よりにけらしも
 
 墓上之。木枝靡有。如聞。陳努壯士爾之。依倍家良信母。
(425)    右五首高橋連蟲麿之歌集中出
 
【釋】○「依倍家良信母《ヨリニケラシモ》」の「倍」は「仁」の誤であらう。○卷十九にこの處女の墓を詠んだ歌があるが、それによれば、塚の上に植ゑてある木は黄楊《ツゲ》である。
【譯】墓の上の木の枝が一方へ靡いて居る。話に聞いて居るやうに、處女の心は茅渟男の方に靡いてゐたのであらう。
【評】葦屋處女に似た物語には、前に眞間の手兒名の歌があつたが、なほ卷十六には、二人の男に慕はれた櫻兒、三人の男に思を寄せられた縵兒などの悲しい戀物語がある。一人の女子に對して、二人三人の男が愛を爭うた爲に、其の女が苦悶に陷つて、遂に死を以て之を解決したといふ筋の物語が、かくまで多く歌はれてゐるのは、當時さういふ戀愛悲劇が屡起つて、それが民衆の同情を集めた結果であらうと思ふ。
 さて作者高橋蟲麿の傳は詳かでなく、其の作にして名が記されて居るのは、西海道節度使藤原宇合卿に贈つた作があるのみであつて、其の他の多くの作は、「高橋蟲麿歌集中出」と註してあるのは、不思議に堪へないのである。彼の歌集中に出づと註せられた歌の中には、水江浦島子や、眞間手兒名や、末珠名や、河内大橋を獨り行く娘子を詠んだ歌の如く、當時の物語を歌つたものが多く、何れも彼ならでは企て難い特色を發揮してゐる。蟲麿は物語を得意とした集中唯一の大家であつて、萬葉時代の物語は彼によつて異彩を發つてゐるのである。
 
卷九 終
 
(426)萬葉集 卷十
 
○この卷は卷八と同じく、雜歌と相聞とを各四季に分けてある。二三の長歌と旋頭歌を除くほかは、すべて短歌である。又全部の歌が時代も作者も未詳である。眞淵がこの卷とし卷七とを同一撰者の手になつた、一類の選集と見なしてゐるやうに、大體古い調の歌である。
 
  春雜歌
 
1810 ひさかたの 天《あめ》の香具山 この夕《ゆふべ》 霞たなびく 春立つらしも
 
 久方之。天芳山。此夕。霞霏薇。春立下。
 
【譯】天の香具山を見ると、今日は夕霞が長閑にたなびいてゐる。もはや春が來たのであらう。
【評】久方の天の香具山と歌ひ出した所に、先づ悠長な情緒が流れて來るが、次に神代の昔から名高い香具山を歌つたのが、いかにも長閑な春の氣分とよく調和してゐる。下に「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は來ぬらし」といふ歌があるが、それも相似た趣で、古杉と春とがよく調和してゐるのである。
 
1815 子らが手を 卷向《まきむく》山に 春されば 木の葉しぬぎて 霞たなびく
 
 子等我手乎。卷向山丹。春去者。木葉凌而。霞霏※[雨/微]。
 
(427)【釋】○「子らが手を」は卷向山の枕詞。女の手を枕とするといふ意で、マクといふ動詞を卷向に云ひ掛けたのである。○「卷向山」(既出)。○「木の葉しぬぎて」は木の葉を押し分けて霞が立ちこめる意であるが、葉は輕く添へた語でただ木と見てよい。
【譯】春が來ると、卷向山には、葉の茂つた樹を押し分けて、一面に霞が懸かる。
【評】「子らが手を」といふ枕詞が、此の場合は特に陽氣な快感を與へる。「木の葉しぬぎて」の如き表現は、後の歌に見る事を得ぬ力の籠つた句である。
 
1816 かぎろひの 夕さりくれば さつびとの 弓月《ゆづき》が嶽《たけ》に 霞たなびく
 
 玉蜻。夕去來者。佐豆人之。弓月我高荷。霞霏※[雨/微]。
 
【釋】○「かぎろひの」は夕の枕詞。「かぎろひ」は既に説明したやうに、入日の爲に空の赤く染まるのを云ふ。○「さつびとも」は弓月が嶽の枕詞。獵人が手にする弓といふ意で云ひかけたのである。○「弓月が嶽」は卷向山の峰である。(既出)○霞は朝夕は殊に目に立つものである。
【譯】夕方になると、弓月嶽に霞がかゝつて來るのが、いかにも長閑である。
【評】二箇所に用ゐられた枕詞が、ゆつたりとした感を與へる。調子の上に感動力が潜んでゐる所から考へると、左註にある通り、人麿の作であるかと思はれる。
 
1818 子らが名に かけのよろしき 朝妻《あさづま》の かた山岸に 霞たなびく
 
 子等名丹。關之宜。朝妻之。片山木之爾。霞多奈引。
(428)    右柿本朝臣人麿歌集出
 
【釋】○「かけのよろしき」は女の名にかけて稱へるのもよいと云ふ意で、次に朝妻を云ふために置いた序である。○「朝妻」は人目を憚ることなく朝まで逢ふ妻。(夜妻に對する語である。)こゝはそれを同じ名の地名に云ひかけたのである。朝妻は大和國南葛城郡葛城村大字朝妻で、金剛山の東の麓にある。○「かた山岸」は山の斷崖をいふ。
【譯】春になると朝妻の里の崖にも霞がかゝつて、長閑な景色になる。
【評】序の心持と叙景とが縺れ合つて、春を喜んだ感情が爽かに響いて來る。
 
   詠v鳥
 
1820 梅の花 咲ける岡邊に 家居《いへを》れば ともしくもあらず 鶯の聲
 
 梅花。開有崗邊爾。家居者。乏毛不有。※[(貝+貝)/鳥]之音。
 
【釋】○「家居れば」は家居すればの意。○「ともし」は少き意。
【譯】梅の花が咲き薫つてゐる岡に住んで居ると、鶯の聲は絶えず聞くことができて、まことに樂しい。
【評】のどかな春を享樂する氣分にひたつて詠んだ歌である。
 
1821 春霞 流るるなへに 青柳の 枝くひ持ちて 鶯鳴くも
 
 春霞。流共爾。青柳之。枝啄持而。※[(貝+貝)/鳥]鳴毛。
 
【譯】春霞が靡き動く折しも、青柳の枝を啄へ持つて、長閑に鶯が啼いてゐる。
(429)【評】「春霞流る」と云ふので、霞がゆるやかに動いて行く樣が描かれ、「枝くひ持ちて」と云ふので、輕快に身を飜へして、枝から枝に飛びかふ鶯が、枝をついばんで見たりするさまが活寫されてゐる。すべて動的に歌はれてゐるので印象があざやかである。
 
1824 ふゆごもり 春さり來らし 足引の 山にも野《ぬ》にも 鶯鳴くも
 
 冬隱。春去來之。足比木乃。山二文野二文。※[(貝+貝)/鳥]鳴裳。
 
【譯】まだ冬だ冬だと思つてゐたのに、もう春になつたのだらう、あんなに山にも野にも鶯が啼いてゐる。
【評】「山にも野にも」の一句を味ふべきである。
 
   詠v雪
 
1839 君がため 山田の澤に ゑぐつむと 雪消《ゆきげ》の水に 裳のすそ濡れぬ
 
 爲君。山田之澤。惠具採跡。雪消之水爾。裳裾所沾。
 
【釋】○女の歌である。○「ゑぐ」は東國ではヨゴといふが、土佐ではヱグといふ。葉は藺に似て小さく、葉のもとは赤黒い色の毛のやうなもので包まれ、球根は慈姑に似て白く、味は少しゑぐいのでヱグと呼ばれてゐるのであると云ふ。(考の別記による)併し舊説に芹の事とし、新考も之に從つてゐる。(「摘む」とあるから芹かとも思はれる。)
【譯】山田の水溜に下りてゑぐを摘まうとして、雪解けの冷たい水に、裳の裾を濡しました。こんなに寒い思をいたしたのも、あなたの爲なればこそ。
(430)【評】試みにこの作を本歌とした、「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」と比較したならば、萬葉と古今との間の歌風の相違を、明かに知ることが出來るであらう。
 
1840 梅が枝に 鳴きてうつろふ 鶯の 羽白妙に あわ雪ぞ降る
 
 梅枝爾。鳴而移徙。※[(貝+貝)/鳥]之。翼白妙爾。沫雪曾落。
 
【釋】○「白妙」は白木綿《しらゆふ》の布を云ふのであるが、轉じては只白い意にも用ゐる。この場合は眞白の意である。
【譯】梅の枝をあちらこちらと飛びかうて囁く鶯の羽に、眞白く淡雪がふりかゝつてゐる。
【評】鶯の枝移りは見るからに快いのに、春の雪がちら/\降りかゝるといふので、早春の輕い氣分が美しく歌はれてゐる。
 
   詠v霞
 
1843 きのふこそ 年ははてしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり
 
 昨日社。年者極之賀。春霞。春日山爾。速立爾來。
 
【譯】年の暮れたのは昨日のことのやうに思はれるのに、はや春日の山に春霞が立つて、樂しい春が來た。
【評】これまで講じた早春の歌を見るに、樣々の境地にあつて春を喜び迎へた人々の心が、如何にも自然に歌はれてゐる。何れも平明な辭句を用ゐて、ありふれた景趣を直叙したのであるが、餘韻嫋々として愛すべき作となつてゐるのは、深く自然を愛し、飽くまで天然と親しんだ人の、眞實の聲であるからである。
 
(431)   詠v柳
 
1847 淺緑 染め懸けたりと 見るまでに 春の柳は 萠えにけるかも
 
 淺緑。染懸有跡。見左右二。春楊者。目生來鴨。
 
【譯】淺緑に糸を染めて懸けたのかと見まがふまでに、春の柳が青い芽を吹いたことである。
【評】古今集の中にありさうな、優美な繊細な歌である。遍昭の「あさみどり絲よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」は、此の歌から思ひついた作ではなからうか。
 
1850 朝なさな 吾が見る柳 うぐひすの 來ゐて鳴くべき 森に早なれ
 
 朝旦。吾見柳。※[(貝+貝)/鳥]之。來居而應鳴。森爾早奈禮。
 
【釋】○「朝なさな」は毎朝。○「森」若木の柳が延びて、枝が繁く生するのを云ふ。
【譯】毎朝眺めてゐる此の若木の柳が成長して、こんもりと枝が茂つて、それに鶯が來て鳴くやうに、早くなつてくれたらよいに。
【評】一本の若柳の上に、作者の全心が注がれてゐる。この態度で歌を詠むことが肝要な事である。
 
   詠v花
 
1861 能登川《のとがは》の 水底《みなぞこ》さへに 照るまでに 三笠の山は 咲きにけるかも
 
 能登河之。水底并爾。光及爾。三笠之山者。咲來鴨。
 
(432)【釋】○「能登川」は奈良の高圓山と御蓋山との間を流れてゐる。○「咲きにけるかも」は櫻であらう。
【譯】能登川の川底までも匂ふほど、御蓋の山は花盛りである。
【評】見渡した繪のやうな春色と、明るい氣分とがあざやかに現はれてゐる。
 
1869 春雨に あらそひかねて わが宿の さくらの花は 咲きそめにけり
 
 春雨爾。相爭不勝而。吾屋前之。櫻花者。開始爾家里。
 
【釋】○「春雨に云々」は春雨が花の咲くのを促し、花はまだ咲くまいとして爭つてゐるさまを云ふ。(考の説による)即ち他の花より、多少遲れて咲きそめた花を詠んだのである。
【譯】暖い春雨に促されても、咲くまいと爭うてゐた我が庭の櫻も、季節に背く事が出來ずして、遂に吹きそめた事だ。
 
1873 いつしかも この夜のあけむ 鶯の 木づたひ散らす 梅の花見む
 
 何時鴨。此夜之將明。※[(貝+貝)/鳥]之。木傳落。梅花將見。
 
【釋】○「いつしかも云々」は早く此の夜が明けたらよいと願ふ意。
【譯】此の夜の明けるのが待たれるわい。鶯が梅の木を飛びかうて、花を頻りに散らす、樂しい景色を早く見たい。
【評】これも前の「朝なさな」の作と同じやうに、庭の春色に心を集中して詠んだ、其の態度が貴いと思ふ。
 
   詠v月
 
(433)1875 春されば 木のくれ多み 夕月夜 おぼつかなしも 山かげにして
 
 春去者。許能暮多。夕月夜。欝束無裳。山陰爾指天。
 
【釋】○「木のくれ多み」の原文は「紀之許能暮之」となつてゐる。今新考によつて改めた。
【譯】春になるとどの木も皆芽が萠えて、兎角木蔭が多いものだのに、殊に山蔭にゐて、ぼんやり照る夕月を見るのは、如何にも氣の晴れないものである。
【評】特殊の境地にある作者の氣分が漂つてゐる歌である。
 
   詠v煙
 
1879 春日野に 煙立つ見ゆ 少女らし 春野のうはぎ 摘みで※[者/火]らしも
 
 春日野爾。煙立所見。※[女+感]嬬等四。春野之宇佐語芽子。採而煮良思文。
 
【譯】春日野に長閑な煙が立つのが見える。あれは少女等が野のよめなを摘んで、煮て居るのであらう。
【評】春日野煙・少女・うはぎ、と次々に繰り出された光景が、如何にも長閑で美しい。「春野のうはぎ摘みて煮らしも」といふやうな着眼は、萬葉でなければ見出されない。
 
   野遊
 
1883 ももしきの 大宮人は いとまあれや 梅をかざして ここに集《つど》へる
 
 百礒城之。大宮人者。暇有也。梅乎挿頭而。此間集有。
 
(434)【釋】○第三句の「や」は疑問の助詞。疑問の助詞の「や」が、己然形に接するときは、反語になるのであるけれども、上に「あり」が來る時は、ただの疑問になるのである。なほ結句の「集へる」は「や」に對する結であるから、連體形となつて居るのである。○新古今集には四五の句を「櫻かざして今日も暮しつ」と改め、赤人の歌として載せてある。
【譯】太平の御代のこととて、自然大宮人は暇があるからであらう、皆々梅の花を挿頭して、此の野邊に集うて樂しい宴を催して居る。
【評】天平時代の梅花の宴の華やかな光景が、言外に活躍してゐる作である。卷七にある「ももしきの大宮人のまかりでて遊ぶこよひの月のさやけさ」と並べて味ふべき作である。
 
  春相聞
 
1892 春山の 霧にまどへる 鶯も われにまさりて 物思はめや
 
 春山。霧惑在。※[(貝+貝)/鳥]。我益。物念哉。
 
【譯】春の山で霞の中に迷つてゐる鶯は、さぞ欝陶しいことであらうが、それとても自分が物思をして、氣の晴れないでゐるのにまさるとは思はれない。
【評】「露にまどへる」の一句がこの一首の生命である。
 
1894 霞たつ 春の永き日 戀ひ暮し 夜の深け行きて 妹にあへるかも
 
 霞發。春永日。戀暮。夜深去。妹相鴨。
 
(435)【譯】霞にこめられた春の日永を、終日慕ひ暮して、夜もまた隨分深けてから、やう/\君に逢つたことである。
【評】結句の字餘りが、溢れる喜悦の情を深からしめて居る。萬葉には量後の一句に力をこめた作が多い。
 
   寄v霞
 
1914 戀ひつつも 今日は暮しつ 霞たつ 明日の春日を 如何に暮さむ
 
 戀乍毛。今日者暮都。霞立。明日之春日乎。如何將晩。
 
【譯】戀しさに胸を焦しながらも、今日はどうやら一日が立つたが、霞かこめて如何にも氣の晴れない明日の日永を、どうして暮したらよいか知ら。
【評】「霞たつ」の一句が退屈な、むすぼれた心持を有り/\と寫し出してゐる。
 
  寄v雨
 
1917 春雨に 衣はいたく 通らめや 七日《なぬか》しふらば 七夜來じとや
 
 春雨爾。衣甚。將通哉。七日四零者。七夜不來哉。
 
【釋】○此の歌はすぐ前にある、「今更に吾はいゆかじ春雨のこころを人の知らざらなくに」の返歌である。(此の歌の「吾」は原文に「君」となつて居るが、宣長の説によつて、「吾」の誤と見るべきである。)
【譯】この春雨に衣は濕つても、濡れ透るやうなことはありません。もしこれ位の雨を恐れてお出でにならんのであれば、この雨が七日も續いたら、七夜もお出でにならないのでせうか。
【評】四五の句が殊に勝れてゐる。
 
(436)   詠v鳥
 
1942 ほととぎす 鳴く聲聞くや 卯の花の 咲き散る岡に 葛《くず》引く少女
 
 霍公鳥。鳴音聞哉。宇能花乃。聞落岳爾。田草引※[女+感]嬬。
 
【譯】眞白い卯の花が頻りにこぼれ散つてゐる岡で、葛根を引いて居る少女よ、汝もあのほととぎすの啼く聲を開いてゐるか。(○「田草」は「田葛」の誤であるといふ説による)
【評】葛引く少女を畫中に描き出して問ひかけてゐる。美しく又情趣に富んだ作である。
 
1949 ほととぎす 今朝《けさ》のあさけに 鳴きつるは 君聞きけむか 朝寢《あさい》かねけむ
 
 霍公鳥。今朝之且明爾。鳴都流波。君將聞可。朝宿疑將寢。
 
【譯】今朝の明方に時鳥が啼いたが、あのよい聲を君もお聞きになつたであらうか、それとも朝寢をしておしまひなさつたであらうか。
【評】目覺め勝ちな夜を過した女の面目が、あり/\と想ひ浮べられる。愛すべき歌である。
 
1952 この夜らの おぼつかなきに ほととぎす 鳴くなる聲の 音《おと》のはるけさ
 
 今夜乃。於保束無荷。霍公鳥。喧奈流聲之。音乃遙左。
 
【釋】○「この夜ら」の「ら」は語調をとゝのへる爲に添へた接尾語。「野」を「野ら」といふ類である。
 
(437)【譯】月もなく如何にも欝陶しい今宵に啼いて通る、あのほととぎすの聲の遠さよ。
【評】これは前の「春されば木のくれ多み」の歌と相似て、氣分をよく現した作である。
 
1953 五月山《さつきやま》 卯《う》の花月夜《はなづくよ》 ほととぎす 聞けども飽かず また鳴かぬかも
 
 五月山。宇能花月夜。霍公鳥。雖聞不飽。又鳴鴨。
 
【釋】○「五月山」は五月頃の山。○「卯の花月夜」は略解に、卯の花の咲き滿ちてゐるさまを月に見立てゝ云ふ語であると云ひ、古義には卯の花に白く月がさしたのを云ふと解してゐる。今後説による。
【譯】五月頃に、山の卯の花に月が眞白にさしてゐる明るい夜に、鳴いて通る時鳥の聲は幾ら聞いても飽かない。どうかもつと鳴いてくれるとよいが。
 
  秋雜歌
 
   七夕《ナヌカノヨヒ》
 
2013 天の川 みこもり草の 秋風に なびくを見れば 時は來ぬらし
 
 天漢。水陰草。金風。靡見者。時來之。
    右柿本朝臣人麿歌集出
 
【釋】○「みこもり草」は舊訓にミヅカゲゲサとあるが、考にミヅクマゲサと訓んで、水ぎはの草と解してゐる。これは(438)古義の訓のミコモリ草がよい。半ば水に没してゐる草のことである。○織女星になつて詠んだ歌である。
【譯】天の川の水の中に半ばかくれてゐる草が、秋風に吹かれて靡いてゐるのを見ると、もはや彦星樣が逢ひにお出でなさる時が來たらしい。
 
2041 秋風の 吹きただよはす 白雲は たなばたつめの 天つ領巾《ひれ》かも
 
 秋風。吹漂蕩。白雲者。織女之。天津領巾毳。
 
【譯】秋風に吹かれて靡いてゐるあの白雲は、機女のかけてゐる領巾がゆれてゐるのではあるまいか。
 
2065 足玉《あしだま》も 手玉《ただま》もゆらに 織るはたを 君が御衣《みけし》に 縫ひあへむかも
 
 足玉母。手珠毛由良爾。織旗乎。公之御衣爾。縫將堪可聞。
 
【釋】○「足玉も手玉も云々」上代には頸・手首・足首などに丸玉や勾玉を貫いたのを纒いて、(一重のが多いが、時としては二重にも三重にも)装飾としたのである。足玉・手玉はそれを云ふ。○「ゆらに」はゆら/\と搖れて鳴るさま。○「御衣《ミケシ》」は御執《ミトラシ》・御佩《ミハカシ》と同じやうな構造の語で、「着る」といふ動詞の敬語法の「着《ケ》す」から出來た名詞である。
【譯】足玉も手玉もゆら/\とゆらめかして織るこの布を、君がお見えになるまでに、御召物に縫ひあげることが出來ようか。
 
2082 天の川 河門《かはと》八十《やそ》あり いづくにか 君が御船を 吾が待ち居らむ
 
 天漢。河門八十有。何爾可。君之三船乎。吾待將居。
(439)【釋】○「河門」は河の渡場を云ふ。○「吾が」は主格に用ゐられてゐる。
【譯】天の川には渡場が幾らもある。何處をお渡りになるものとして、君の御船をお待ち申して居らうか。
【評】卷十には百首に近い七夕の歌が收めてある。それらの作を見て、萬葉歌人がこの優美な支那傳説を、如何によろこんだかが伺はれる。以上講じたのは其の中の秀逸四首である。
 
   詠v花
 
2102 このゆふべ 秋風吹きぬ 白露に あらそふ萩の 明日咲かむ見む
 
 此暮。秋風吹奴。白露爾。荒爭芽于之。明日將咲見。
 
【釋】○「白露にあらそふ萩」は前に「春雨に爭ひかねて」とあつたのと同じく、露は花を咲かせようと促し、花は含んで居らうとして、久しく爭ふ意である。(四三二頁參照)
【譯】今宵冷しい秋風が音づれて來た。吹かせようと誘ふ白露に爭うて合んでゐた萩も、もう咲くであらうから、それを早く見に行きたいものだ。
 
2103 秋風は 冷しくなりぬ、馬|並《な》めて いざ野に行かな 萩の花見に
 
 秋風。冷成奴。馬並而。去來於野行奈。芽子花見爾。
 
【譯】秋風が冷しく吹きわたるやうになつた。さあ人々よ、馬を並べて野に遊びに行かうではないか、美しい萩の花を見に。
(440)【評】馬を並べて萩を見に行くといふのが、如何にも奈良朝らしい。
 
2109 我が宿の 萩のうれ長し 秋風の 吹きなむ時に 咲かむと思ひて
 
 我屋前之。芽子之若末長。秋風之。吹南時爾。將開跡思手。
 
【譯】わが庭の萩の枝の末が、此の頃めつきり長くなつた。やがて秋風が吹いたら、立派に吹かうと思つて、その用意をしてゐるのだ。
【評】萩を歌つたのではあるが、此の萩の上には、やがて來るべき樂しい秋を待つてゐる作者の心が、託されてゐるのである。「萩のうれ長し」は寫生風の佳い句である。
 
2110 人皆は 萩を秋といふ よしわれは 尾花がうれを 秋とはいはむ
 
 人皆者。芽子乎秋云。縱吾等者。乎花之末乎。秋跡者將言。
 
【釋】○「尾花がうれ」新考に、「をばな」といつて足るべきのを、「をばながうれ」と云つたのは、尾花は穗先の蘇芳色が、殊に目を牽くからであると云ふ。
【譯】皆人は秋色は萩にありといふ。併し自分は尾花を以て秋草の王と云はう。
【評】一般に春よりも秋を好み、梅櫻の色香よりも萩尾花の風情を愛した、萬葉歌人の趣味を代表する歌である。
 
   詠v鴈
 
2128 秋風に 大和へ越ゆる かりがねは いや遠ざかる 雲がくりつつ
 
 秋風爾。山跡部越。鴈鳴者。射矢遠放。雲隱筒。
 
(441)【譯】秋風が吹くにつれて、大和の方へ山を飛び越えて行く雁は、雲の中にかくれて段々遠くへ行つてしまふ。
【評】旅にあつて詠んだ歌ではなからうか。故郷の空をさして消えゆく雁の昔に、耳を澄ましてゐる作者の心が想像せられる。平明な歌であるが含蓄がある。
 
   詠2蟋蟀1
 
2159 かげ草の 生ひたる宿の 夕影に 鳴くこほろぎは 聞けどあかぬかも
 
 影草乃。生有屋外之。暮陰爾。鳴蟋蟀者。雖聞不足可聞。
 
【釋】○「かげ草」は物蔭に生えてゐる草。○「夕影」は入日がぼんやり照らす光。
【譯】蔭草の生え茂つてゐる我が宿で、薄い入日の光を浴びて、しめやかに啼く蟋蟀の聲は、いつまで聞いても飽くことがない。
【評】これと同じやうな趣を詠んだ作は集中に少くないが、何度出逢つても佳い歌だといふ感が起る。
 
2160 庭草に 村雨ふりて こほろぎの 鳴く聲聞けば 秋づきにけり
 
 庭草爾。村雨落而。蟋蟀之。鳴音聞者。秋付爾家里。
 
【譯】庭に茂つてゐる草の上に村雨が降りそゝいで、蟋蟀が靜かに鳴き出すのを聞くと、いかにも秋になつたことが感じられる。
【評】右二首は虫の音に作者の心が溶けて行つて、秋のさびしさを泌々と味はつてゐる時の作である。
 
(442)   詠v河
 
2222 夕さらず かはづ鳴くなる 三輪川の 清き瀬の音《と》を 聞かくしよしも
 
 暮不去。河蝦鳴成。三和河之。清瀬音乎。聞師吉毛。
 
【譯】夕毎に河鹿の聲の聞える三輪川の、さやかな瀬の音を聞くのはうれしいものだ。
【評】此の歌を誦むと、宵毎に河鹿の聲と川瀬のせゝらぎとに耳を澄ました上代人の靜かな生活が、あり/\と思ひ浮べられる。此等は生活から來るものであるから、後人の模倣を許さぬものである。
 
   詠v月
 
2227 思はぬに しぐれの雨は 降りたれど 天雲《あまぐも》はれて 月夜《つくよ》さやけし
 
 不念爾。四具禮乃雨者。零有跡。天雲霽而。月夜清烏。
 
【釋】○この歌は二三一四五と句を置き換へて見ると意味が明かになる。
【譯】時雨が降つてゐたのに、いつの間に霽れたのか、天雲はすつかり消えて、案外にも月がさやかに輝いてゐる。
【評】「思はぬに」と歌ひ始めて、「月夜さやけし」と結んだ句法が、雨後の月夜に驚いた心を自然に表はしてゐる。
 
2229 白露を 玉になしたる なが月の 在明の月夜《つくよ》 見れど飽かぬかも
 
 白露乎。玉作有。九月。在明之月夜。雖見不飽可聞。
 
【譯】白露を玉にして見せてゐる九月の布明月は、いつまで見ても見飽きのせぬ光景である。
(443)【評】清爽の感が胸に充ちる思がする歌である。「見れど飽かぬかも」は萬葉歌人の常套語であるが、此の場合の如きは此の語に限るやうな感がする。
 
  秋相聞
 
2240 たぞかれと 我をな問ひそ なが月の 露にぬれつつ 君待つ吾を
 
 誰彼。我莫問。九月。露沾乍。君持吾。
 
【譯】あそこに立つてゐるのは誰であるかと見咎めてくれるな。九月頃の茂く置く露に沾れるのも厭はずして、野に立つて思ふ戀人を待つてゐる、哀れな私であるから。
【評】自己を景中に描き出してゐるので、感情を哀れ深からしめてゐる。「我をな問ひそ」は新考の説のやぅに、第三者に對つて云つた詞と見るべきである。
 
   寄v月
 
2298 君に戀ひ しなえうらぶれ わが居れば 秋風吹きて 月傾きぬ
 
 於君戀。之奈要浦觸。吾居者。秋風吹而。月斜烏。
 
【釋】○「しなえ」は萎《シナ》ふで、口語の「しなびる」と同じ。草木が生氣を失つて弱る意の語を、人が物思に首を垂れるさまに用ゐたのである。○「うらぶれ」は心《ウラ》わぶるの意で、心中のわびしさをいふ。
【譯】君の戀しさに思ひしをれて、しよげかへつて居ると、夜も深け秋の風が寒く身に泌みて、月は山の端に近づいて(444)來た。
【評】作者の境地と歎きが泌々と感じられる。女の作であらう。如何にも細く弱い響を傳へてゐる。
 
  喩譬歌
 
2309 祝部等《はふりら》が いはふ社《やしろ》の もみぢ葉も 標繩《しめなは》越えて 散るとふものを
 
 祝部等之。齋經社之。黄葉毛。標繩越而。落云物乎。
 
【釋】○「祝部」は神官。(既出)○「いはふ」は齋み清めて祭る意。○この歌は親が守つてゐる少女などを慕つてゐる男の作と見えると、略解にいつてゐる。
【譯】神主が齋み清めて、おごそかに祀つてゐる社の境内のもみぢ葉でも、風が吹けば注連繩を越えて、散つて來るといふではないか。
【評】譬喩がまことに適切で妙を得てゐる。
 
  冬雜歌
 
2314 卷向《まきむく》の 檜原《ひはら》もいまだ 雲ゐねば 小松がうれゆ 沫雪ながる
 
 卷向之。檜原毛未。雲居者。子松之末由。沫雪流。
 
【釋】○「卷向の檜原」は大和國磯城郡卷向山の南の檜原山の事で、三輪山に連つてゐる。○「ねば」は「ぬに」と同じ意。○「小松」はただ松のこと。(二五六頁參照)
(445)【譯】卷向の檜原山には、まだちつとも雲がかゝつてゐないのに、その麓の里の松の梢には、沫雪がちら/\降りかゝつて來る。
 
2315 あしびきの 山道も知らず 白橿《しらかし》の 枝もとををに 雪の降れれば
 
 足引。山道不知。白杜※[木+戈]。枝母等乎乎爾。雪落者。
    右柿本朝臣人麿歌集出也。
 
【釋】○「白杜※[木+戈]」の「杜〓」は「〓〓」の誤であらうといふことである。(眞淵及宣長の説)〓〓はカシで、船を繋ぐ※[木+戈]又は棹をいふ。こゝはその訓を借りたのである。白橿は細葉橿のことで、葉の細く小さい一種の橿で、材の色が白いから白橿といふ。○「とををに」は撓むほどに。○「山道もシラズ、シラカシの」は音調が面白い。
【譯】白橿の枝もたわむほどに、ひどく雪が降つてゐるので、どう山路を辿つてよいかわからないことだ。
【評】雪の野を歩いて來て、これから山路にさしかからうとする旅人が、暫し橿の老木の蔭に、雪を避けてゐて歌つたもののやうに思はれる。
 
   詠2黄葉1
 
2331 矢田《やた》の野の 漢茅《あさぢ》色づく 有乳山《あらちやま》 峰の沫雪 寒く降るらし
 
 八田乃野之。淺茅色付。有乳山。峰之沫雪。寒零良之。
 
【釋】○「矢田」は大和生駒郡矢田村の地。郡山町の西に當る。○「有乳山」は越前の敦賀郡|愛發《アラチ》村大字山中と、近江高島(446)郡|劍熊《ケンノクマ》村の間の山路で、今七里半越と云ふ。○この歌は大和の矢田に居る妻が、北國へ旅をしてゐる夫の上を思ひやつて詠んだものらしい。
【譯】矢田のまばらな茅萱の原が、黄ばんで冬らしくなつた。あの有乳山には、もう沫雪が降りかゝつて寒いことであらう。
【評】末枯れた野邊の淺茅と峯の淡雪とが、大和と北國の、初冬の景色の相違を巧みに描き出してゐる。これより前に「わが門の淺茅色づくよなばりの浪柴の野の黄葉ちるらし」と云ふ歌がある。相似た歌である。
 
  冬相聞
 
   寄v霜
 
2336 はなはだも 夜深けてな行き 道の邊の ゆ笹がうへに 霜のふる夜を
 
 甚毛。夜深勿行。道邊之。湯小竹之於爾。霜降夜烏。
 
【釋】○「な行き」は平安朝の語法では「な行きそ」といふべき所である。○「ゆ笹」は古事記に見えてゐる「ゆつ磐村」「ゆつ香木《かつら》」の「ゆ」と同じく、繁き笹の意である。「ゆ」は五百《イホ》の約であるといはれてゐる。
【譯】こんなに夜更けてからお歸りなさいますな。(いつそ明けるのを待つてお歸りなさいまし)道のほとりに茂る小笹の上に、霜が白く置いて寒い夜でありますから。
【評】その女の言葉を聞くやうな歌であつて、やさしい思ひやりがよく現はれてゐる。
 
(447)  寄v雪
 
2343 わがせこが 言《こと》うつくしみ 出でて行かば 裳ひきしるけむ 雪なふりそね
 
 吾背子之。言愛美。出去者。裳引將知。雪勿零。
 
【譯】わが慕ふ君のお言葉のうれしさに出て行つたならば、裳を引いて歩いた跡が、はつきり殘るであらうから、どうかこの雪は降らないでゐてくれ。
【評】情中に景を叔した艶かしい作である。右の訓釋は代匠記に從つたのであるが、新考には、第三句を「出行煮」、第四句を「裳下將沾」の誤として、イデユクニモノスソヌレムと訓んである。この説に從へば意義は全く異つて來るのである。併しかくの如く原文を改める事は如何かと思ふ。
 
2347 あま小舟《をぶね》 泊瀬《はつせ》の山に 降る雪の けながく戀し 君が音《おと》ぞする
 
 海小船。泊瀬乃山爾。落雪之。消長戀師。 君之音曾爲流。
 
【釋】○「あま小舟」は泊瀬の枕詞。舟が泊てる意で云ひかけたのである。○初めから三句までは序。雪の消える意を「け」に云ひかけたのである。○「けながく」は日永くで久しくの意。(前出)○結句の「音」を略解は音信の意とし、古義に馬か車などの皆と解してゐる。今は古義の説に從つておく。
【譯】この雪にも拘らず、久しく戀ひ續けてゐた君が、お出でなさるらしい馬の音がする。
【評】序詞には背景が寫されてゐ、結句には胸中の喜悦が躍り出てゐる。
 
卷十 終
 
(448)萬葉集 卷十一
 
○この卷と次の十二の卷とは、「古今相聞往來歌類」と標記せられた姉妹篇であつて、少數の旋頭歌を除けば、すべて短歌である。眞淵はこの二卷を古萬葉集の一部と見なして尊重し、これを四卷と五卷の位置に置き替へ、なほ作の時代について、古いのは舒明天皇の御代から天武天皇の御時に及び、新しいのは藤原寧樂の朝の作であると言つて居る。此等の作はすべて作者名の傳はつてゐない、謂はは當時の民謠集と見るべきものであつて、大宮人の歌に見ることの出來ない興味のある歌である。
 
  旋頭歌
 
2351 新室《にひむろ》の 壁草《かべくさ》苅《か》りに いまし給はね 草のごと よりあふ少女は 君がまにまに
 
 新室。壁草刈邇。御座給根。草如。依逢未通女者。公隨。
 
【釋】○「新室」は新に建てた家のことし。室《ムロ》は室屋《ムロヤ》とも云つて太古の穴居時代の住居をいつたのであるが、後に建築物を營むやうになつても、なほ言葉はもとの儘で用ゐられたのである。○「壁草」は壁を造る爲の草をいふ。延喜式に大嘗宮(悠紀殿・主基殿)の構造を記して、「並以2黒木及草1構、葺2壁蔀1以v草云々」とあり、又先年行はせられた大嘗(449)祭の神殿の結構を見るも、四周の壁は土で塗らるゝやうなことはなく、只近江表をあてられ、又周圍には六尺の高さの柴垣を廻らされたやうに承つてゐる。此等から推して考へると、上代の建築には、壁土を塗るといふやうなことは未だ行はれないで、壁や垣の類は草や柴で造つたものであることが知れる。從つてこゝの壁草も、倭訓栞や略解に述べてゐるやうな、土に混ぜるスサの料にするものではない。仙覺・契沖等は、壁は垣のことで、壁草は家の周圍にめぐらす垣を造る爲の柴草であると云つてゐるが、壁は垣でなく、やはり室内の壁のことである。○「いまし給はね」の「います」は「來る」の敬語で、「ね」は希望の助詞である。○「よりあふ少女」の解に諸説がある。仙覺は苅り取る手のまに/\苅らるゝやうに、よりあふ少女の意と釋き、契沖は其の草が靡くやうに、心を寄せて居る少女と釋き、孝には草が茂く生えて居るやうに、多くの少女のよりあふ意と見、古義は草のより合ひ靡く如く、容姿のしなやかに美しい少女のことであると云つて居る。今契沖の説によつて釋く。但し少女は複數と見るのである。
【譯】新たに營む私の家の壁草を苅りに、お出で下さい。苅り取る草が靡くやうに、あなたに靡きあふ少女等は、どれなりとも思召のまゝに差上げませう。
 
2352 新室を 蹈みしづむ子が 手玉《ただま》鳴らすも 玉のごと 照らせる君を 内へと申せ
 
 新室。蹈靜子之。手玉鳴裳。玉如。所照公乎。内等白世。
 
【釋】○これは前歌と併せて連作となつて居る。○「蹈しづむ子」新室の柱を地に建てる時、地を蹈んで柱を鎭める人(450)即ち地固めをする人をいふ。上代の建築は柱を地に掘り立てたのである。大殿祭の祝詞に「堀竪多留柱《ホリカタメタルハシラ》云々」とあるのを參考すべきである。○「手玉」は腕に纏く玉飾。○「内へと申せ」は父がその娘に云ふ詞である。
【譯】この新室の柱を蹈み固める人が、手玉を鳴らしてお出でになつたぞ。その玉のやうに輝く美しい君を、内へお入りなさいと申せよ。
【評】右の二首を續けて誦んで見ると、簡素な上代の建築のさまや結婚の風俗などが、父の言葉を通してあり/\と窺はれる。内容も調もよほど古びてゐる。新考に右の二首に就いて、「これは新室造を促す歌にて、主意は上三句にありて、下三句は副物に過ぎず。即ち前の歌は草といふ語を取り、後の歌は玉といふ語を取りて、若き男女のめで喜びぬべき事を云へるのみ。」と述べてある。前の歌は新考の如く見る事も出來ようが、後の歌をさう見るのは無理である。やはり從來の解釋によつて、右の如く講ずべきものであらう。
 
2353 長谷《はつせ》の ゆ槻《つき》がもとに あがかくせる妻 あかねさし 照れる月夜《つくよ》に 人見てむかも
 
 長谷。弓槻下。吾隱在妻。赤根刺。照光月夜邇。人見點鴨。
 
【釋】○「ゆ槻」の「ゆ」は五百《イホ》の約である。(既出)古事記上卷の湯津香木《ユツカツラ》と同類の語で、枝葉の茂つた槻のこと。槻は欅と同じ。○「あかねさし」は「照る」の枕詞。(前出)
【譯】長谷の山の枝の繁つてゐる槻の老木の下の隱家に、隱して置いたわが忍妻を、この明く照る月夜に、誰か見つけ(451)はしないだらうか、いかにも氣が揉めてならぬ。
【評】戀の歌ながらも凄味を帶びてゐる。事柄が劇的で、誦む者の想像の力によつて、内容が幾らでも發展して來るやうに思はれる。
 
2354 丈夫《ますらを》の 思ひみだれて かくせるその妻 天地《あめつち》に 通り照るとも あらはれめやも
 
 健男之。念亂而。隱在其妻。天地。通雖光。所顯目八方。
    右四首柿本朝臣人麿之歌集出
 
【釋】○これは前歌と聯絡のある作である。○第二句は「一云思多鷄備※[氏/一]」とある。「思ひたけぶ」はたけく思ふ、即ち勢ひこむことである。○「通り照ると」も」は月光が何物をも透り渡るほど照らうともの意。
【譯】苟も丈夫たる自分が、いろ/\に考へた末、忍ばせておいた妻だもの、たとへ天地に透り渡るほど強く月が照らうとも、容易に見あらはされる事があるものか。
【評】「天地に照り通ると」もが雄渾な力の籠つた句であつて、作者の非凡な手腕を思はしめる。右二首は連作のやうである。かういふ内容の歌は萬葉時代の人でなくてはとても詠めるものではない。
 
2364 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》のすげきに 入り通ひ來ね たらちねの 母が問はさば (452)風とまをさむ
 
 玉垂。小簾之寸鷄吉仁。入通來根。足乳根之。母我問者。風跡將申。
 
【釋】○「玉垂の」は枕詞。玉を貫いて垂れる緒といふ意で、ヲにかけたのである。○「小簾」の「小」は接頭語で只|簾《スダレ》のこと。○「すけき」は透間のこと」。「透き」をスゲキといつたのである。スゲキは「繁き」をシゲケキ、「暑き」をアツケキ「安き」をヤスケキと云ふと同じ類の語法である。スゲキはこゝでは名詞法である。「に」は古義に「從《ユ》」の誤ではなからうかと云つてある。○「たらちねの」は母の枕詞。冠辭考にタラチは赤子を養ひ日足らす意で、そのヒを省きシをチに通はせ、その下にネといふ讃詞の接尾語を添へたものであると解したが、宣長の説に「足らし」は讃める詞で、「ね」は尊稱の接尾語であると云つてあるのが穩當である。(古事記傳)○「問はさば」は問ひ給はばの意。「問はさ」は「間ふ」の敬語法の「問はす」の未然形である。○この歌は「古歌集中出」と註せられた五首の中の一である。
【譯】私の部屋の簾の透間からそつと通つていらつしやい。若しそれでも母が聞きとがめましたら、あれは風の音ですと云ひませう。
【評】これも古色を帶びた、民謠めいた面白い歌である。
 
  正述心緒
 
2368 たらちねの 母が手はなれ かくばかり すべなき事は 未だせなくに
 
 垂乳根乃。母之手放。如是許。無爲便事者。末爲國。
 
【釋】○「正述心緒」は譬喩などを用ゐずして、直ちに感情を吐露した歌を指した部類の名である。○第二句は契沖の訓(453)によつた。略解にはハハガ手カレテとある。○「すべなき事」は何とも仕樣のないこと。○少女の初戀を詠んだのである。○この歌から「遠妻のふりさけ見つつ」まで十一首は、「柿本人麿之歌集出」と註せられた百四十九首中のものである。
【譯】母の膝を離れて以來、かういふせん方のない物思は未だしたことがない。
【評】その表現の形式が如何にも婉曲であるのが、可憐な少女の初戀を歌ふのに相應《フサ》はしい。
 
2375 吾ゆのち うまれむ人は わが如く 戀ひする道に あひこすなゆめ
 
 吾以後。所生人。如我。戀爲遺。相與勿湯目。
 
【釋】○「あひこすな」の「こす」について諸説がある。即ち考には願ふ意であるといひ、古義にはコソの轉じたコスであつて、希望を表はす助詞であると云ひ、山田孝雄氏は下二段の古い動詞で、其の意味は「おこす」(「おこす」は「こす」に「お」の添うたもの)と同じであると云ふ。(「奈良朝文法史」一一三頁)元來この語は、コスの外にコセといふ形がある。例へば「この鳥も打ちやめ許世〔二字右○〕ね」(古事記)「よどむことなくあり巨勢〔二字右○〕ぬかも」(萬葉卷二)「いでわが駒はやく行きこせ〔二字右○〕」(催馬樂)の如きである。此等によつて、「る」「れ」の添はつた活用形は存してゐないけれども、一種の古い動詞であつたことは推定して差支ない。而して今島根縣の方言にゴセ(命令形)といふのがあつて、「呉れ」と云ふ意に用ゐられてゐるのは、恐らくこのコセの名殘であらう。又萬葉時代に希求の意の助詞にコソとしいふのがある。此のコセから出たものらしい。此等によつて「こせ」「こす」の意を推すことが出來る。
【譯】自分はもう戀の苦しみを十分に經驗した。惡いことは言はない、私より後に生まれる人は、私のやうに戀といふ(454)苦しみを、決して嘗めないやうにするがよい。
【評】自己の苦惱から更に進んで、廣く人間の苦悶に及んであるので、此の作が偉大な力を有つものとなつて居る。老大家の作らしい。
 
2382 うちひさす 宮道を人は 滿ちて行けど わが思《も》ふ君は ただ一人のみ
 
 打日刺。宮道人。雖滿行。吾念公。正一人。
 
【釋】○「うちひさす」は宮の枕詞。(既出)○「宮道を云々」は都大路を宮人が澤山に通るけれどもの意。
【譯】美しい都大路を、大宮人が澤山にお通りになるけれども、私のお慕ひ申してゐる人は、その中にたつた一人あるきりである。
【評】繁栄を極めた奈良の大路を背景にして、女の純な愛が美しく歌はれてゐる。
 
2386 巖すら 行きとほるべき ますらをも 戀とふことは 後《のち》悔《く》いにけり
 
 石尚。行應通。建男。戀云事。後悔在。
 
【譯】大磐石でさへも押開いて通るほどの、雄々しい大丈夫たる自分ではあるけれども、戀といふものゝ心苦しさを經驗して、後悔をしてゐることだ。
【評】前に講じた「ますらをの思ひみだれて」の歌といひ、又この作といひ、男々しい氣象を半面に強く歌つてゐるのは、此の頃の國民性を表はしてゐて愉快である。一體にこの頃の歌には、男子の作と女子の作との區別の明白なのが多(455)い。それは感情を率直に歌ふからであり、情緒の動きが直ちに調子となつて表現されてゐるからである。
 
2395 行けど行けど 逢はぬ妹ゆゑ ひさかたの 天《あめ》の露霜に 濡れにけるかも
 
 行行。不相妹故。久方。天露霜。沾在裁。
 
【釋】○これは死んだ女を慕つて詠んだものであらう。○新考に第一句を、「待待」の誤としして、「待てど待てど」と改めてゐる。誤と見る必要のない所のやうに思ふ。
【譯】どこまで行つても到底逢へない女であるのに、もしや逢へるかと思つて、夜道をトボ/\と歩いてゐる中に、冷たい薄霜に着物がしつとり濡れたことだ。
【評】遣る瀬のない追恨の情景が調となつて細く長く流れてゐる。下に「戀ふる事心遣りかね出でて行けば山も川をも知らす來にけり」とあるが、それに似て遙かに哀れな歌である。
 
  寄物陳思
 
2419 天地《あめつち》と いふ名の絶えて あらばこそ 汝《いまし》と吾と 逢ふことやまめ
 
 天地。言名絶。有。汝吾。相事止。
 
【釋】○天地に寄せた作である。○初めの二句は天地といふ名が無くなつてしまつたならばと云ふので、天地のあらん限りといふのと同じである。
【譯】もしもこの天地が滅びる時があつたら、その時はお前と私の戀も終りとなるであらうが、それのない限り二人の(456)契は變るものでないのだ。
【評】強い意氣を莊重に歌つたものである。初めの三句が張りつめた氣分を力強く現はしてゐる。
 
2420 月見れば 國は同じぞ 山へだて うつくし妹が へなりたるかも
 
 月見。國同。山隔。愛妹。隔有鴨。
 
【釋】○「同じ」は古語ではオヤジ(卷十七に「心は於夜自たぐへれど」といふ例がある)と云つたやうであるから、さう訓むがよいと古義に云つてゐる。併しオナジといつた例もあるから、今はオナジと訓んでおく。○第三句の訓は新考に從つた。○「へなる」は「へだたる」の古語。
【譯】月を仰いで見ると、妹も自分も同じ國に住んで、この同じ月光に照らされてゐるのだと云ふことを感じる。それを間に山が横たはつてゐる爲に、かうしていとしい妹にも隔てられてゐるのである。
【評】「月見れば國は同じぞ」とそれ以下の句との照應が、哀れを感じさせる。月を仰いで思ふにまかせぬ人の世を歎じた作である。
 
2436 大船の 香取《かとり》の海に いかりおろし いかなる人か 物|思《も》はざらむ
 
 大船。香取海。慍下。何人。物不念有。
 
【釋】○「大船の」枕詞」大船の※[楫+戈]取《かとり》といふ意で云ひつづけたのである。○「香取の海」は下總にもあり近江にもある。近江のならば、「高島の香取の浦」と歌はれた處である。(後の高島郡|勝野《カチノ》)○「いかりおろし」までは下の「いかなる」を云ふためにおいた序である。
(457)【譯】香取の海に碇をおろしたやうに、いかなる人が安らかに、何の物思もせずにあるのであらう。(自分はこんなに物思に苦しんでゐるが。)
【評】序の譬喩が適切である上に、イカリをイカナルに言ひかけた音調もよい。
 
2442 大土《おほつち》も 採れば盡くれど 世の中に 盡きせぬものは 戀にしありけり
 
 大土。採雖盡。世中。盡不得物。戀在。
 
【譯】この大地の土は採り盡せぬものであるが、それでもいつかは採り盡す期が來るであらう。之に反して世の中に、到底盡きる時のないものは戀である。
【評】「大土も採らば盡きめど」の譬喩がいかにも大きく、又強い感じを與へる。
 
2456 ぬば玉の 黒髪山の 山菅《やますげ》に 小雨《こさめ》ふりしき しくしく思ほゆ
 
 烏玉。黒髪山。山草。小雨零敷。益益所思。
 
【釋】○四句までは序。○「黒髪山」所在未詳とされてゐた山である。仙覺抄に下野にあると記してゐるのは、日光の男體山(一名黒髪山)を指したのであらうが、これは誤である。黒髪山は奈良市外の佐保山の一峯で、今も其の名で呼ばれ、山上に黒髪神社がある。(辰己利文氏の説) ○「山菅」の本文「山草」を、考に「山菅」と」改めてゐる。山菅は小野蘭山の説によれば、ヤブラン(ジヤウガヒゲとも呼ぶ)である。ヤブランは濕つた山地に自生する百合科の常緑草で、葉も根も蘭に似てゐる。初夏に花莖が抽出て、南天の大さの黒色の實が群つて着く。○「ふりしき」は降り頻る(458)意である。
【譯】黒髪山に茂つてある山菅の上に、小雨がしと/\降りそゝいで、その葉が一層茂く見えるやうに、自分も頻りに戀しさが募ることである。
【評】この歌の妙はその序にある。「ぬば玉の黒髪山」の語感と、雨に濡れた山菅の實感とが、何物よりも作者の戀のしげさを適切に物語つてゐる。
 
2460 遠妻の ふりさけ見つつ しぬぶらむ この月の面《おも》に 雲なたなびき
 
 遠妻。振仰見。偲。是月面。雲勿棚引。
    以前十一首柿本朝臣人麿之歌集出
 
【譯】遠い郷里に居る妻が仰ぎ見て、私を慕つて居るであらうから、この月の面を、雲よ、立ちかくさないやうにして呉れよ。
【評】先の「月見れば」と相似た情緒を歌つた作である。以上十一首は果して人麿の作であるか否かは疑問であるが、何れも人の心の奥底に觸れた作で、老手の詠である事はあらそはれない。
 
  正述心緒
 
2527 誰ぞこの わが宿に來呼ぶ たらちねの 母にころばえ 物|思《も》ふわれを
 
 誰此乃。吾屋戸來喚。足千根。母爾所嘖。物思吾呼。
(459)【釋】○「たらちねの」は枕詞。○「ころばえ」は「ころぷ」に受身の助動詞の「ゆ」が添うた形である。「ころぶ」は聲を勵まして叱責する意である。神武天皇紀に「詰嘖」をタケビコロブと訓んである。
【譯】わが家に來て、そんなに大聲で呼び立てるのは誰であるか。自分の戀は顯はれて、母に責めさいなまれて、物思に苦しんでゐる私だのに。
【評】その場の光景があり/\と描き出されてゐるのが面白い。野趣のある歌である。
 
2546 思はぬに いたらば妹が うれしみと 笑まむ眉引《まよひき》 思ほゆるかも
 
 不念丹。到者妹之。歡三跡。咲牟眉曳。所思鴨。
 
【釋】○「思はぬに」は思ひ掛けなく。○「うれしみと」はうれしさにの意で、副詞句である。○「眉引」は黛で描いた眉をいふ。(三二一參照)
【譯】今宵思ひがけなく行つたならば、妻がよろこんで笑むであらうが、その引眉の恰好が今あり/\と思ひ浮べられる。
【評】前に「待つらむに至らば妹がうれしみと笑まむ姿を行きてはや見む」といふのがあるが、それよりも印象があざやかである。
 
2554 逢ひ見ては 面かくさるる ものからに つぎて見まくの ほしき君かも
 
 對面者。面隱流。物柄爾。繼而見卷能。欲公毳。
 
【譯】直接にお目に掛ると耻づかしくて、兎角顔をかくしたくなるのに、逢はないでゐると慕はしくなつて、お逢ひし(460)たいと切に思ふ君であることだ。
【評】うひ/\しい少女の姿が浮んで來る歌である。
 
2571 ますらをは 友のさわぎに 慰もる 心もあらむを 我ぞ苦しき
 
 大夫波。友之驂爾。名草溢。心毛將有。我衣苦寸。
 
【譯】男子は同じく物思に苦しむと云つても、友と交つてあれば賑やかで、とかく慰められるであらうが、女の身はさうは行かず、獨り戀の苦しさに悩んでゐなければならぬ。
【評】右の三首には、如何にも女らしい可憐な情緒が、艶かしく歌はれてゐる。
 
2582 あぢきなく 何のたはこと 今更に わらはごとする 老人にして
 
 小豆奈九。何枉言。今更。小童言爲流。老人二四手。
 
【釋】○「あぢきなく」は投にも立たぬ・つまらない・面白くもない等の意。○「何枉言」の「枉」は「狂」の誤であらう。「たはこと」はたはけた言の意。此の句の末には「ぞ」があるものとして解くべきである。○「老人にして」は自分は老人で(461)あつてといふ意。○老人が言ひ寄つたのを詈つた女の作である。(代匠記の第二説による)
【譯】考へて御覽なさい、御自分はもう年を取つたよいお爺さんだのに、年の甲斐もなく今更若やいで、戀しいの何のと、つまらない子供めいたことがよくも云へたものだ。老人のくせに。
【評】考・略解・古義等には、これを老人自らの上を詠んだ作と見て、年甲斐もない戀をしてゐるのを、耻ぢた歌であると解釋してゐる。
 
  寄物陳思
 
2640 梓弓 引きみ弛べみ 來ずば來ず 來ばぞそをなど 來ずば來ばそを
 
 梓弓。引見弛見。不來者不來。來者其其乎奈何。不來者來者其乎。
 
【釋】○弓に寄せた歌である。○第二句は引いたり弛めたりといふ意。(心の一向に定まらないことを譬へてゐる)○第三・四句の意味は、來ないのならは來ないでよい。又來うといふなら來べきであるが、それをどうした事であるか、弓を引くともなく、弛めるともなく、一向定まらぬやうに、埒の明かないことだと責めてゐるのである。○結句は 三・四の句の意を繰り返してゐるのであつて、來ないならばそれを知りたいし、又來るといふなら、それを明かに知りたいと云ふのである。
【譯】來ないのならば來ないがよい、又來る積りならばもう來る筈であるのに、どうしたことか、弓を引いたり弛めたりするやうに、一向どちらとも定まらないのは、いかにも人を悩ませ顔な仕打である。
【評】同音を繰り返して、多少遊戯的技巧を弄してゐるので、感情は淺くなつてゐるが、兎に角面白い歌である。
 
(462)2642 ともし火の かげにかがよふ うつせみの 妹がゑまひし 面影に見ゆ
 
 燈之。陰爾蚊蛾欲布。虚蝉之。妹蛾咲状思。面影爾所見。
 
【釋】○「かがよふ」は輝く意。○「うつせみの」は現身《ウツシミ》で、もと命《イノチ》・世・人・身等にかゝる枕詞であるが、こゝは枕詞でなく、現實の妹の姿を云つたのである。○「ゑまひ」は「笑む」の波行延言から作られた名詞で、笑顔のこと。○この一首は燈火に寄せた作で、女と離れてゐて、逢つた夜の面影を想ひ浮べて詠んたのである。
【譯】燈火の火影に差向いて輝いてゐた妹の笑顔が、今眼前にあり/\と見えて來る。
【評】前に講じた「笑まむ眉引」と似た艶な歌である。
 
2644 小墾田《をはりだ》の 坂田の橋の くづれなば 桁《けた》より行かむ な戀ひそわぎも
 
 小墾田之。板田乃橋之。壞者。從桁將去。莫戀吾妹。
 
【釋】山○「小墾田」は推古天皇の宮址の地で、飛鳥の一部である。今の飛鳥村大字豐浦及び白橿村大字和田の一部にあたる。古い郡の地であるから、この歌の詠まれた頃は故郷となつてゐたのである。下に橋の壞れることを詠んでゐるのもその爲である。○「板田」は考に一本によつて坂田と改め、略解・古義も同樣に坂田とし、用明天皇紀の二年に坂田寺の名が見えてゐるのは、即ちこの坂田であると云つてゐる。○二の一首は橋に寄せた歌である。
【譯】小墾田の坂田の橋が古くなつて、壞れてしまつたらば、その橋桁を渡つても行かうから、つまらない物思をするでないぞ。
【評】この歌に詠まれた坂田の橋は、後には歌枕となつて屡々詠まれてゐる。一例を擧げれば、土御門院御製に「小墾田(463)の宮の古道いかならむ絶えにし後は夢のうきはし」(「續古今」)とある。
 
2648 かにかくに ものは思はず 飛騨人の うつ墨繩の ただ一道《ひとみち》に
 
 云云。物者不念。斐太人乃。打墨繩之。直一道二。
 
【釋】○三四の句は「ただ一道に」の序である。飛騨は山林の多い所であるから、大寶令にも庸調を免ぜられて、その代りに匠丁を交替勤番で召して、宮中の造營修繕等の任にあたらせることになつてゐた事が見え、古來名匠も多く出たのである。○この作は木匠に寄せた作である。
【譯】とやかくとつまらない物思をしないで、唯一筋にあなたを頼みに思つてゐます。
 
2651 難波人 葦火たく屋の すしてあれど 己が妻こそ 常《とこ》めづらしき
 
 難波人。葦火燒屋之。酢四手雖有。己妻許増。常目頬次吉。
 
【釋】○これは火に寄せて歌つたのである。○初めの二句は序。○「すしてあれど」は煤けてゐるけれどといふ意。○結句は「こそ」に對する結びであるから、「めづらしけれ」となるべきやうであるが、當時は形容詞の已然形がまだ無かつた時代であつて、すべて連體形で結んだのである。
【譯】難波の人が葦を焚くので、其の家は煤けてゐるが、その伏屋のやうに、自分の妻も古びて煙けてゐるけれども、いつまでも可愛いものである。
【評】その序が何となく作者の面目を想はせるのが面白い。素朴な愛すべき歌である。
 
(464)2653 馬の音《と》の とどともすれば 松蔭に 出でてぞ見つる けだし君かも
 
 馬音之。跡杼登毛爲者。松陰爾。出曾見鶴。若君香跡。
 
【釋】○馬に寄せた作である。○「とど」はトドロクのトドで、轟くさまをいふ。馬の蹄の音である。
【譯】馬の蹄の音が鳴り響いて來ると、若しや君が來たのではないかと思つて、路傍の松の下に走り出て見たことであります。
【評】「松蔭に」の二句がその女の所作と周圍とをはつきり描き出してゐる。
 
2659 爭《あらそ》へば 神もにくます よしゑやし よそふる君が にくからなくに
 
 爭者。神毛惡爲。縱咲八師。世副流君之。惡有莫君爾。
 
【釋】○「爭へば」は二人の仲を云ひ現はされたのを否定的に云ひ爭ふ意。○「にくます」は「にくむ」の敬語法。○「よしゑやし」よいかなの意。(前出)○「よそふ」はなぞらへる、比べる、又は擬する意。○「にくからなくに」は憎いのでない故にの意。
【譯】そんな事はないと云ひ爭つたならば、僞を云ふことになるから、神樣も定めしお憎みなさるであらう。よしまゝよ人があの君を戀人になぞらへても、決して憎いお方ではないのだから、もう爭はずに置かう。
【評】かなり複雜な心持を巧みに歌つてゐる。勝れた作である。
 
2679 窓越しに 月おし照りて 足引の あらし吹く夜は 君をしぞ思ふ
 
 窓越爾。月臨照而。足檜乃。下風吹夜者。公乎之其念。
 
(465)【釋】○これは風に寄せて詠んだ歌である。○「足引の」は山の枕詞であるが、轉じて山おろしの「あらし」にもかゝつたのである。○肌寒い夜に愛人を戀しく思ふ情を述べた作である。
【譯】窓の外には月光が一面に流れてゐて、この嵐の吹き荒む寒い夜は、切に君のことが思はれる。
【評】夜寒に妻を思ひ、夕日を仰いで戀人を偲ぶ意を詠んだ歌は、集中に幾らもあるが、この作の勝れてゐる點は、初めの二句の印象的な又第四句の感覺的な叙景にある。
 
2753 浪間より 見ゆる小島の 濱久木《はまひさぎ》 久しくなりぬ 君に逢はずして
 
 浪間從。所見小島之。濱久木。久成奴。君爾不相四手。
 
【釋】○「濱久木」について考に、久木は潮風の強く當る島に生えるものとも思はれないから、殯久木は別種の木であらうと云つてゐる。併し久木の實は荒地や砂原などに飛んで行つて、よく成育する木であるから、濱に生えた久木と見てよいと思ふ。久木は楸で「赤めがしは」である。(既出)○第三句までは序。
【譯】遙かに浪間から見える沖の小島に生えてゐる、濱の久木のその名の通り、久しく君に逢はないことである。
【評】此の歌い生命は其の序にある。此の序だけを引離して見ても、勝れた叙景になつてゐる。
 
2798 伊勢の海人《あま》の 朝な夕なに かづくとふ 鰒《あはび》の貝の 片思ひにして
 
 伊勢乃白水郎之。朝魚夕菜爾。潜云。鰒貝之。獨念荷指天。
 
【釋】○「朝な夕な」の「な」は「朝なさな」の「な」と同じく、餘情の意を添へる助詞である。これを契沖宣長等が、菜の義(466)と見て、朝食の菜夕食の菜と釋いたのはよくない。○四句までは序。○この歌は貝に寄せた作である。
【譯】伊勢の海人が、朝夕に水を潜つて採るといふ鰒貝のやうに、片思をしてゐるのは誠につまらないことである。
 
2802 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながき長夜を ひとりかも寢む
 
 足日木乃。山鳥之尾乃。四垂尾乃。長永夜乎。一鴨將宿。
 
【釋】○この歌は「思へども思ひもかねつ足引の山鳥の尾の長き此の夜を」の或本歌として掲げられたものである。併し眞淵の説にあるやうに、元來別の歌であつたらしく思はれる。○「しだり尾」は垂れてゐる尾。シダルは下垂の意。○初めから三句までは序。○第四句を舊訓にナガナガシヨと訓んでゐるが、今宣長の訓によつたのである。(詞の玉緒)
【譯】戀しさに明かしかねる此の長い長夜を、獨寢をすることだ。
【評】この歌は人麿の作として、拾遺集(百人一首にも)に入れられてゐるが、作者は元より未詳である。秋の夜永を待ち侘びる人の怨が、長い物の譬喩を重ねた長い序の上に、調子となつてしみ/”\と歌はれてゐる所が巧みである。
 
  譬喩
 
2831 みさごゐる 渚《す》に居《ゐ》る船の 夕潮を 待つらむよりは 吾こそまされ
 
 水沙兒居。渚座船之。夕鹽乎。將待從者。吾社益。
    右一首寄v船喩v思
(467)【釋】○「みさごゐる」はミサゴが群れてゐるといふ意から、磯又は洲にかけて枕詞となるのである。「みさご」は水邊に居る猛禽類である。○「渚に居る」は舟が渚に坐つて居ること。○第二句の「居」の訓は、代匠記によつた。
【譯】潮が干た洲の上に坐つてゐる舟が舟出をしようとして、夕潮の滿ちるのを待ちわびて居る、その待ち遠さよりも私がずつとまさつて、待ち焦れてゐるのである。
【評】序は男の態度を譬へたのであるが、如何にももどかしい感が適切に現はされて居る。此の種の作の秀逸である。
 
卷十一 終
 
(468)萬葉集 卷十二
 
○この卷については既に前卷の初めに略述しておいた。
 
  寄物陳思
 
2855 新墾《にひはり》の 今つくる道 さやかにも 聞きにけるかも 妹が上《うへ》のことを
 
 新治。今作路。清。聞鴨。妹於事矣。
    右一首柿本朝巨人麿之歌集出
 
【釋】○路に寄せた作で初めの二句は序である。○「新墾」は新たに開墾した地。「はる」は地を掘りかへす意。○「今つくる遺」は新たに作つた道。草原を切り開いて新たに造つた道は目立つものであるから、「さやか」に云ひかけて序としたのである。
【譯】新たに開墾して作つた道がはつきりしてゐるやうに、はつきりと妹の身の上の安らかなことを聞いたので、誠にうれしいことである。
【評】序が明るくさわやかな感を起させるが、それが歌はんとする内容と融合して、作者の心持をよく現はしてゐる。
 
  正述心緒
 
(469)2866 人妻に。言ふは誰《た》がこと さ衣の この紐解けと いふは誰がこと
 
 人妻爾。言者誰事。酢衣乃。此紐解跡。言者孰言。
 
【釋】○これは女の作である。人妻とは自らを指してゐるのである。○「誰がこと」は「誰が言」で、誰がいふ言葉ぞといふ意である。○「さ衣」の「さ」は接頭語。○結句に「言ふは誰がこと」を繰り返したのは、深く咎めて云つてゐるのである。
【譯】それは夫のある私に言ふべき言葉でせうか。この着物の紐を解けとは、一體誰がいふ言葉でありますか、人妻に向つていふべき言葉ではありますまい。
【評】一首の強い調子が如何にもよく作者の心を傳へてゐる。前に講じた「あぢきなく何のたはこと云々」の作と共に、特殊な内容の歌として注意せられる。
 
2875 天地に 少し至らぬ ますらをと 思ひし吾や 雄心《をごころ》もなき
 
 天地爾。少不至。大夫跡。思之吾耶。雄心毛無寸。
 
【譯】わが意氣はかの廣大無邊の天地に比べては、少しく劣るが、其の他は物とも思つてゐない大丈夫たる吾も、どうしたことか、戀に對しては雄々しい元氣がなくなつた。
【評】戀の道には迷つても男子の本願を忘れず、丈夫の意氣を示してゐるのが萬葉歌人の特色であつて、これより前にも同樣の作が多かつたが、これより以下にもなほ幾らもある。下にある「ますらをのさとき心も今はなし戀のやつこに吾は死ぬべし」も其の一例である。
 
(470)2912 人の見て こと咎めせぬ 夢《いめ》に吾《あれ》 今宵《こよひ》いたらむ 宿さすなゆめ
 
 人見而。事害目不爲。夢爾吾。今夜將至。屋戸閉勿勤。
 
【釋】○「こと咎め」は言に咎むの意。○「宿」は屋戸《ヤド》の義で家の戸である。○代匠記に引いてあるやうに、遊仙窟の「今宵莫v閉v戸。夢裏向2渠遊1。」によつてよんだのであらう。下にもこれと似た歌がある。
【譯】人が見てやかましく咎め立てせぬやうに、今宵は夢路を通つて行かうから、決して家の戸をさゝないやうにして下さい。
 
2916 玉かつま 逢はむと云ふは 誰なるか あへる時さへ 面《おも》かくしする
 
 玉勝間。相登云者。誰有香。相有時左倍。面隱爲。
 
【釋】○「玉かつま」は「逢ふ」の枕詞。「かつま」は籠。(二頁參照)蓋があつて身と合ふやうに出來てゐるから「逢ふ」にかけたのである。(冠辭孝)○第二句を新考にアハムトイヒシハと訓んでゐる。○これは女の許に通つて行つた男がそこで詠んだ作である。
【譯】逢はうと云つたのは誰であつたらう。約束の通り逢ひに來た私であるのに、そんなに顔を隱してばかり居るのはどうしたわけだらう。
【評】前卷に講じた「逢ひ見ては面かくさるるものからに繼ぎて見まくのほしき君かも」と歌つた女を思はしめる。あれにもこれにも、可憐な少女の羞耻心があり/\と浮び出てゐる。
 
(471)2917 うつつにか 妹が來ませる 夢《いめ》にかも われかまどへる 戀のしげきに
 
 寤香。妹之來座有。夢可毛。吾香惑流。戀之繁爾。
 
【譯】これは親に妻が來てゐるのであるか、それとも餘り戀ひ慕つてゐた爲に、夢にわが心が惑うて居るのだらうか、餘りのうれしさにどうも現とは信じられない。
【評】不意に女が來たのを喜んで詠んだものである。古今集の「君や來しわれや行きけむ思ほえず夢か現か寢てかさめてか」といふ歌と似た作である。なほ右の歌の四五の二句に似た次の如き作が十一卷にある。
    夢にだに何かも見えぬ見ゆれども吾かもまどふ戀のしげきに
 
2925 緑兒の ためこそ乳母《おも》は 求むとふ 乳《ち》飲めや君が おも求むらむ
 
 緑兒之。爲社乳母者。求云。乳飲哉君之。於毛求覽。
 
【釋】○「緑兒」は嬰兒のこと。(前出)○「おも」は母のことにもなるが、乳母のことにもなる。こゝは乳母である。○この歌は年下の男に思をかけられた女が、それを避けようとして、諧謔の中にその意志を云ひ遣つたものとも見え、又自分を棄てゝ他の年上の女の許に通ふ男を恨んで、冷笑的に云ひ送つた作とも見える。略解・新考には、男が乳母と稱して、妾を納れた事を聞いて、前の女が妬んで詠んだのであると解してある。なほ次の歌は同じ女が、同じ時に詠んだ一聯の作である。
【譯】赤坊の爲に乳母といふものは求めるものです、それのに年をとつた女を、頻りにお召しなさものは、一體あなたが乳をお飲みなきるのでせうか。
 
(472)2926 悔しくも 老いにけるかも 我がせこが 求むる乳母《おも》に 行かましものを
 
 悔毛。老爾來鴨。我背子之。求流乳母爾。行益物乎。
 
【釋】》○「悔しくも老いにけるかも」とはこの歌が年下の男に對する作と見れば、自分は既に中年を過ぎて、乳母にも間に合はない年であると云ふのである。又もし年上の女の許に通ふ男に對する歌と見れば、その年上の女を冷笑してわざと、自分が年老いた乳母にもなれないと云つたものであると解せられる。
【譯】悔しいことに年をとつた事である。私がも少し若ければ、君がお求めになつてゐる乳母になりと參らうものを。
【評】右の二首は滑稽の中に皮肉な諷刺を含む興味ある作である。萬葉集でなくては見出されない歌である。
 
  寄物陳思
 
2967 年の經ば 見つつしぬべと 妹がいひし 衣《ころも》の縫目 見ればかなしも
 
 年之經者。見管偲登。妹之言思。衣乃縫目。見者哀裳。
 
【譯】別れて後年月を經たならば、之を形見に見て思ひ出してくれと云つて、あれが縫つてくれたこの衣の縫目を見ると、戀しさは慰められもせず悲しくてならぬ。
【評】これと同じ内容の作は集中に三四首あるが、この歌には特に寂しい追恨の情が泌々と歌はれてゐるので、目立つのである。
 
2979 まそ鏡 ただめに君を 見てばこそ 命にむかふ わが戀やまめ
 
 眞十鏡。直目爾君乎。見者許増。命對。吾戀止目。
 
(473)【釋】○「まそ鏡」は鏡を見るといふ意から「見る」にかけた枕詞である。○「ただめ」は直目で直接に見ること。○「見てば」は見たならばといふ意。○「命にむかふ」は命にかけてといふ意。
【譯】命にかけてまでも深く思つてゐるこの戀は、一度直接に逢つたならばやむであらうが、さうでなくば戀死に死ぬほかはないのである。
 
2991 たらちねの 母が飼ふ蠶《こ》》の 繭《まよ》ごもり いぶせくもあるか 妹に逢はずて
 
 垂乳根之。母我養蠶乃。眉隱。馬聲蜂音石花蜘※[虫+厨]荒鹿。 異母二不相而。
 
【釋】○第三句までは「いぶせく」の序。○この歌は蠶に寄せて詠んだのである。
【譯】母が飼つてある蠶が、繭の中に籠つてゐると同樣で、妹に逢はないので、心が晴れないことである。
【評】「馬聲」をイ「蜂音」をブと訓ませたのは共に戯書であつて、その鳴聲を借りたのであり、「石花」をセ(貝の名)「蜘※[虫+厨]」をクモに用ゐたのは、動物の名を借りたのである。此等の文字の使用法を見ると、當時贈答の歌には、書き方の上にもよほど技巧を示さうとしたことが分る。
 
3004 ひさかたの 天つみ空に 照れる日の 失せなむ日こそ 吾が戀やまめ
 
 久堅之。天水虚爾。照日之。將失日社。吾戀止目。
 
【譯】あの大空に照り輝いてゐる太陽のなくなる日がやがて、私の戀の止む日である。(太陽が失せる日のない限り、自分の戀の止む時はない。)
【評】前卷の「天地といふ名の絶えてあらばこそ」と相似て、強烈な意氣を示した作である。新考に第三句の照日は類聚(474)古集に照月となつて居り、且つ此の歌の前後の作が寄月の歌であるから、日は月の誤であらうと云つて、テルツキノと訓んである。何れにしても意に變りはない。
 
3041 朝なさな 草の上《へ》白く おく露の 消《け》なば共にと いひし君はも
 
 朝旦。草上白。置露乃。消者共跡。云師君者毛。
 
【釋】○「朝なさな」はアサナアサナの略で、毎朝といふ意。○第三句までは「消なば共に」の序である。「消なば共に」は死なは共に死なうといふ意。○「はも」は感動の助詞。○この歌は深く契りかはした仲が絶えてから、時を經て詠み送つた作である。
【譯】後れたり先つたりして嘆くことのないやうに、死ぬるなら諸共に死なうと、あれほど深く契りかはしたあのお方は、今は何處にどうして居られるやら。
【評】朝、庭の草葉に繁く宿つてゐる白露を眺めながら詠んだのであらう。あはれな歌である。
 
3056 妹が門《かど》 行き過ぎかねて 草結ぶ 風吹き解くな またかへり見む
 
 妹門。去過不得而。草結。風吹解勿。又將顧。
 
【釋】○「草結ぶ」は當時行はれた一種の呪で、草の莖と莖とを結んでおいて、後日行つて見て、それが解けて居ると事の成就しないしるしであり、解けずにあれば事の成るしるしであると判じたのである。(一〇四頁「磐代の濱松が枝を」の歌參照)○結句は一云には「ただに逢ふまでに」と)ある。
(475)【譯】妹の家の前を素通りをするに堪へないで、門前の草を引結んでおく。風よこの草を吹き解くなよ、また來て見るから。
【評】草を結んで立ち去つた呪が興味のあることであるが、風吹き解くなと云つたのも面白い。上代に行はれた俗信はいさゝかの事でも、今から考へると情趣の豐なものに感じられる。卷十一に次の如き歌がある。
    あしびきの名に負ふ山菅《やますげ》推し伏せて君し結ばば逢はざらめやも
 
3096 馬柵《うませ》越しに 麥はむ駒の のらゆれど なほし戀ふらく しぬびかねつも
 
 ??越爾。麥咋駒之。雖詈。猶戀久。思不勝烏。
 
【釋】○「馬柵」は舊訓にマセとあるのを、考に卷十四の「久敝胡之爾《クベゴシニ》麥はむ駒の」といふ歌を引いてクベと訓み、略解・古義にはウマセと訓んでゐる。なほ略解に、「ウマセは馬塞の義で、小木で柵を造るから拒?の字を宛てたので、卷十四に宇麻勢胡之《ウマセゴシ》云々とあるが、又同卷に久敝胡之爾《クベゴシニ》云々ともあるから、クベと訓んでよい。クベは籬を俗にクネといふ、そのクネとクベとは同じで、物を隔てる意の語である。又和名抄に籬を末世《マセ》とも訓んでゐる。こゝは田家の厩に近い庭で麥を干してゐるのを、馬が柵から頭を延して、之を喰べて叱られる事を、父母に咎められる意に譬へたのである」と云つて居る。○「のる」は罵るの古語。
【譯】柵の上から首をのばして麥を食む駒が、幾度叱られても懲りないやうに、叱られても/\戀しさに堪へないで、やはり慕ひ參らすことである。
【評】村孃の戀がその周圍と共に、素樸に詠まれてゐるのが面白い。
 
(476)3097 さひのくま 檜隈川《ひのくまがは》に 馬《こま》とめて 馬に水かへ われよそに見む
 
 左檜隈。檜隈河爾。駐馬。馬爾水令飲。吾外將見。
 
【釋】○「さひのくま云々」は同じ詞を重ねて枕詞とし、且つ調を緩かにしたのである。(三四八頁參照)○「馬とめて」略解にはコマトメテと訓み、古義にはウマトドメと訓んでゐる。○「水かへ」は水を飲ませること。「かふ」は飼ふの意であるが、又飼畜に物を飲食させろ事にもなる。○この歌は飽かずして別れる男を見送る女の作である。
【譯】檜隈川に暫く馬を駐めて、水をお飲ませなさいまし。飽かずしてお別れ申す君のお姿を、その間なりともよそながら見たうございますから。
【評】歸りを急ぐ男が乘つてゐる馬のそばに立ち添うて、訴へてゐる樣が見えて來るやうな歌である。「われよそに見む」の一句にその女のつゝましやかな態度が見える。古今集の大歌所の歌に「ささのくまひのくま川に駒としめてしばし水かへ影をだに見む」とあるのは、此の歌が變つて傳へられたのである。
 
3100 思はぬを 思ふといはば まとり住む 雲梯《うなで》の森の 神し知らさむ
 
 不想乎。想常云者。眞鳥住。卯名手乃杜之。神思將御知。
 
【釋】○「まとり住む」は雲梯の枕詞。顯昭の説に、マドリは鵜で、それをウナデのウに云ひかけたのであるとあるが、(「袖中抄」卷二)又或説に、眞鳥は河鵜に對する海鵜を云つたので、海に棲む鵜であるから、眞鳥棲む海といひかけたのであるともいふ。(「仙覺抄」の押紙にあつた説)冠辭考には眞鳥を鷲のことゝし、雲梯の社の森が木深い爲に、鷲も棲んだのであると云ひ、冠辭孝續貂(上田秋成著)には、倭姫世記に鶴を眞鳥といつたのを引いて鶴の事とし、(477)折口信夫氏はこの説によつて、鶴が海邊に居るからウナにかけたのであると云つてゐる。○「雲梯」は大和國高市郡雲梯村にある。出雲國造神賀詞に「事代主命の御魂を雲梯にませ」とあるやうに、大國主命の御子事代主命の神靈の鎭り給ふ所である。この歌に特に雲梯の神を出したのは、祭神事代主命は、言《コト》を治《シ》る神であるからであると雅澄は云つてゐる。○「知らさむ」新考に、知し召して罸し給はむの意であると解してある。
【譯】あなたを思つて居ないのに、心を僞つて思つてゐますと申さうならば、雲梯の森にまします神樣が御承知になつて居るから、決してお許しにはなりません。
【評】心の正明を發表するに當つて、何よりも先づ神に對つて誓ふ事が行はれた。これは特に正直を愛する神の前に於ては、すべての人の心が明く清くあつた、上代の宗教心から來てゐるのである。集中の戀の歌に  度神が引合に出されてゐるのは、全くこの思想に基くものであるが、又一面には、戀愛は人の至情であるから、神は戀を守りこそすれ、之を害するものでないと信じられてゐたからでもある。さういふ譯であるから、此の歌と同じ内容の作は、集中に幾らもある。次に掲げる二首の如きは、この歌と相似たものである。
    思はぬを思ふといはば大野なる三笠の森の神し知らさむ
    思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑禮左變
(最後の歌の結句は訓が詳かでない。)
 
  問答歌
 
3101 紫は 灰さすものぞ 海石榴市《つばいち》の やその衢《ちまた》に あへる子や誰
 
 紫者。灰指物曾。海石榴市之。八十街爾。相兒哉誰。
 
(478)【釋】○「紫は灰さすものぞ」は海石榴市の序である。紫草の根で物を染めるには、色のさめない爲に、椿の灰を入れるのでかく云ひつづけたのである。○「海石榴市」は今の磯城郡三輪村大字金屋に屬してゐる。今日は全く荒村となつてしまつてゐるが、この市の名は古く武烈天皇紀にも見え、其の後離宮を置かれた事もあつたのである。
【譯】海石榴市の賑やかな四辻で出逢つた、この美しい少女は誰であるか、名が聞きたい。
 
3102 たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか
 
 足千根乃。母之召名乎。雖白。道行人乎。孰跡知而可。
    右二首
 
【釋】○「母が呼ぶ名」は作者自らの名である。上代の風俗として、女は夫と定めた男でなくては、自分の名を告げることを忌んだのである。○「誰と知りてか」此の句の終には、「申さむ」の如き語が有るべき所である。
【譯】母が呼ぶ私の名を申上けてもよろしいけれど、ただ通りかゝりの、誰とも知らない人には申し上げられません。
【評】いかなる男が問ひ、いかなる女が答へたのであるかは、勿論知る由もないが、上下貴賤の別なく集うて、物品の交易もし、戀歌の贈答もした市中で行はれた一小事件が、この二首によつて遠い後の世まで傳へられてゐるのは、思へば興味の盡きないことである。眞淵は「此の贈歌の序のいひなしの風流《ミヤビ》ておもしろく、和歌《コタヘウタ》の有ふる事のまゝにいひてあはれに、且二首ともに調のうるはしさなど、飛鳥岡本宮の始の頃の歌なり。歌はかくこそ有るべきなれ。」と云つてゐる。
 
  羈旅發思
 
(479)3153 み雪ふる 越《こし》の大山 行き過ぎて いづれの日にか わが里を見む
 
 三雪零。越乃大山。行過而。何日可。我里乎將見。
 
【稱】○「越の大山」はいづれの山か明かでない。和名抄に越前國大野郡大山郷と越中國|婦負《メヒ》郡大山郷とがある。ここに詠まれた大山はこの二つのうちか、或は白山か何かの山を指したのであらう。○この歌はその國に官命を帶びて下つてゐた人が、任を終へて上京しようとする時の作らしい。
【譯】雪が眞白に降り積つてゐる、越の國の大山を遙々後に見すてゝ、何日になつたらわが故郷を見る事ができようか。
 
3154 いでわが駒 早く行きこそ まつち山 待つらむ妹を 行きてはや見む
 
 乞吾駒。早去欲。亦打山。將待妹乎。去而速見牟。
 
【釋】○「こそ」は願望を表はす助詞。「行きこそ」は「行けかし」と云ふと同じである。○「まつち山」は紀伊と大和の國境にある。紀伊に地方官として滯在してゐた人が、大和へ歸る道すがらで詠んだのであらう。
【譯】いざわが駒よ、早く行つてくれ、この眞土山を越えて、待ち焦れてゐる妻の顔が早く見たい。
【評】一首の調子が作者の心を活躍させてゐる。此の歌は催馬樂の「我駒」の歌詞となつて、口々に謠はれたのである。催馬樂には「こそ」が「こせ」となつてゐる。
 
  悲別歌
 
3184 草枕 旅行く君を 人目多み 袖振らずして あまた悔しも
 
 草枕。客去君乎。人目多。袖不振爲而。安萬田悔毛。
 
(480)【譯】旅に立つて久しく逢はれない君であるのに、見送るとき、人目を憚つて、つい袖を振らずにしまつたのが、いかにも悔しいことである。
 
 春日なる 三笠の山に ゐる雲を 出で見るごとに 君をしぞ思ふ
 
 春日在。三笠之山爾。居雪乎。出見毎。君乎之曾念。
 
【譯】夫の君が旅に立つ時に見えてゐたと同じやうに、春日の三笠山に雲がかゝつてゐるのを出て見ると、いつも君のことを思ひ出して、慕ひ參らすことである。
【評】右の二首は人に見せる爲に詠んだ歌でなくして、歌はずにはゐられないで詠んだ歌である。何れも迹に恨を長く引いてるる悲しい歌である。
 
卷十二 終
 
(481)萬葉集 卷十三
 
○この卷は卷十六と共に、集中で特色ある卷として古來注意せられてゐる。部類は雜歌・相聞・問答・譬喩・挽歌の五目に分けてあつて、概して古い時代(藤原朝以前の作と思はれるものが少くない)の作であるが、總て作者の名は傳はつてゐない。此等の歌は卷一卷二に收められてゐた、奈良朝以前の大宮人の歌と同時代の、庶民の作として頗る趣味のあるものである。眞淵が私見によつて、この卷を第三卷目に置いたのも尤もと思はれる。卷中最も趣味のあるのは、高古な調を帶びてゐる短篇の長歌である。
 
  雜歌
 
3221 三諸《みもろ》は 人の守《も》る山 もとべは 馬醉木《あしび》花さき すゑべは 椿花さく うらぐはし山ぞ 泣く兒守る山
 
 三諸者。人之守山。本邊者。馬醉木花開。末邊方。椿花開。浦妙山曾。泣兒守山。
 
【釋】○「三諸は飛鳥の神南備山(雷岳)であらう。○「守る山」は人が目を離さず目守《マモ》る山の意。○「もとべ」は麓。「べ」は接尾語。○「すゑべ」は頂上。○「うらぐはし」は美しい又は愛らしい意。(前出) ○「泣く兒守る山」は「三諸は人の守る山」に應ずる句である。古義の解によれば、泣く兒は守る山をいふために置いたので、泣く兒守る山といひ懸けたものであり、泣く兒守るといふは、幼兒の泣くのを母が慰め守る意である。
(482)【譯】三諸は人が常に大切に守つてゐる山である。その麓には馬醉木の花が咲き、其の頂には椿の花が咲いて、まことに美しい山である。それは泣く兒を守るやうに、人が目を離さずして見守つてゐる山である。
【評】これは單に山を詠んだものではないやうである。人の守る山といふ所に、寓意の歌であることがよく表はれてゐる。佐々木博士は山は人妻を譬へて言つたものとし、末句をその人妻には既に子があつて、その泣く兒を大切に守つてゐる人妻と見て居られる。さう見るとし寓意のある面白い作となるやぅである。
 
3239 近江《あふみ》の海《み》 泊《とまり》八十《やそ》あり 八十島の 島の崎ざき あり立てる 花橘の ほつ枝《え》に もちひきかけ 中つ枝に いかるがかけ 下枝《しづえ》に しめをかけ しが母を 取らくを知らに しが父を 取らくを知らに いそばひをるよ いかるがとしめと
 
 近江之海。泊八十有。八十島之。島之埼邪伎。安利立有。花橘乎。仲枝爾。毛知引懸。仲枝爾。伊加流我懸。下枝爾。此米乎懸。己之母乎。取久乎不知。己之父乎。取久乎思良爾。伊蘇婆比座與。伊加流我等此米登。
 
【釋】○「泊八十あり」は卷七に同樣の句がある。○「八十島」の島は島嶼でなく、水中に突き出てある洲のことである。(日本紀に「洲」又は「渚」をシマと訓んである。)○「あり立てる」は生ひ立つてゐること。この「あり」は繼續又は反復(483)の意を添へる接尾語で、「あり通ふ」「あり待つ」「ありわたる」などの「あり」と同じである。(古義に玉勝間にアリキヌを、鮮かな絹と釋いてゐるのを引いて、橘の實の照る事を云つたのである、と解いてゐるのはよくない。)○「花橘の」原文の「乎」は「之」の誤であらう。(新考による) ○「ほつ枝」は上の枝。秀《ホ》つ枝の義。○「もち」は鳥を捕るための黐。○「いかるが」は斑鳩、俗に豆まはしと云ふ。○「しめ」は斑鳩に似た小鳥。(斑鳩としめ〔二字傍点〕を囮《ヲトリ》に使ふのである)○「いそばひをる」の「い」は接頭語。「そばふ」は馴れ戯れること。○此の歌に見えてゐるやうな小鳥を捕る方法は、今でも地方には行はれてゐる。
【譯】近江の湖に多くの湊がある。その湊を形造つてある半島の岬々に生ひ立つてゐる花橘の、その上の枝に黐を引き中の枝に斑鳩をかけ、下の枝にしめ〔二字傍点〕をかけ、それを媒鳥《ヲトリ》として、その父鳥母鳥を捕らうとしてゐるとは知らずして馴れ遊んでゐる。危いことだ斑鳩としめ〔二字傍点〕は。
【評】第二句に「泊八十あり」と云つて、次に「八十島」と受け、更に「島の崎々」と歌つた句調が、糸を繰り出すやうで面白く、「ほつ枝に」以下六句と「しが母を」以下四句が、何れも一句づゝの長對句となつて、同じ調を繰り返してゐるのが音樂的の響を傳へ、結句を斑鳩としめ〔二字傍点〕で結んだのも巧である。さて此の歌は大友皇子が軍の準備をして居られた時の事を、諷したのであらうと云ふ説が、考・古義等に見えてゐる。
 
3242 ももしね 美濃《みぬ》の國の 高ぎたの くくりの宮に 日向《ひむか》ひに 行き靡かくを ありと聞きで わが通路の (484)奧吉蘇山《おきそやま》 美濃《みぬ》の山 靡けと 人はふめども かくよれと 人は衝《つ》けども 心なき山の 奥吉蘇山 美濃《みぬ》の山
 
 百岐年。三野之國之。高北之。八十一隣之宮爾。日向爾。行靡闕矣。有登聞而。吾通道之。奥十山。三野之山。靡得。人雖跡。如此依等。人雖衝。無意山之。奥礒山。三野之山。
 
【釋】○「百岐年」は舊訓にモモクキネとあつて、契沖は百岫嶺《モモクキネ》の義で山の多き意と云ひ、眞淵は百詩年《モモシネ》の誤として、同じ卷に「百小竹《モモシヌ》のみぬの王《オホキミ》」とある、その百小竹と同じで、多くのしなえたる草で造つた蓑といふ意で、美濃の枕詞としたのだと云ひ、雅澄は百傳布《モモツタフ》の誤として、多くの處を傳ひ行く御野と云ふ意でかけた枕詞だと云つてゐる。猥りに文字を改めるのは穩かでないから、今は木村博士の字音辨證によつて、百岐年《モモシネ》と訓み、その意は眞淵の説に從つて置く。○「高ぎた」は枕詞と見る説もあるが、代匠詑・古義に「くくりの宮」あたりの地名と見てゐる説がよいと思ふ。吉田東伍博士はこの地方の高原をいつたので、高き區分《キタ》の意であると云ふ。(「大日本地名辭喜」)○「くくりの宮」は泳宮と話す。美濃國可兒郡久久利村に景行天皇の行宮のあつた泳宮址がある。この所の「くくりの宮」は泳宮のあつた里を指すのである。○「日向ひに」は文字通り日に向つてといふ意。(契沖は西を云ふかと云ひ、眞淵はヒムガシニと訓んで東にの意とし、雅澄は「日月爾」の誤としてツキニヒニと訓んでゐる。)○「行き靡かくを」は歩く姿のたをやかな意で、美人の行くさまを云ふ。古義は「行麻死里矣《ユカマシサトヲ》」の誤としてゐる。○「奥吉蘇山」は大日本地名辭書に「大吉蘇山は吉蘇の山々を總べて指したるならん。三代實録に吉蘇・小吉蘇二村とあるを見れば、南なるを吉蘇(485)村とし、北なるを小吉蘇とし、其の南の吉蘇山を特に奥十山《オキソヤマ》とも云へるが如し。今も中木曾《ナカキソ》山・風越山と云ふは讀書《ヨミカキ》大桑の二村の山を指す古の奥十山か。(再考オキソのオは別に義理あるにあらず。發聲の穏便にて自然に添りたるに過ぎず。奥もしくは大の心にあらずと知るべし。)」とある。○「美濃の山」は別に一の山の名ではない。そのあたりの山を指したのである。○「靡け」は卷二の人麿の作にある「妹が門見む靡けこの山」と同樣の語。○「人」は作者自分である。
【譯】美濃の國の高ぎたの泳宮の地に、朝日に向つてしなやかに、歩いて行く美しい女があると噂に聞いて、自分が通ふその道に、邪魔をしてゐる吉蘇の山や美濃の山に、靡けといつて足を以て蹈んで見ても、又傍に寄れといつて手で衝いて見ても、動かうともしないのは、誠に無情な山である。
【評】通路に屹立する山々を無情な山だと云つた所から見ると、或は戀の通路を塞ぎとめる人を寓してゐるのかも知れない。この歌は内容の古雅であることは勿論、四言句六言句を混へ、五言句を重ねて「おきそみぬの山」と歌つたあたりを見ると、藤原朝以前の古調であるやうに思はれる。眞淵は小治田宮(推古朝)よりも以前の歌かと言つてゐる。
 
3243 處女《をとめ》らが 麻筒《をけ》に垂れたる 續苧《うみを》なす 長門《ながと》の浦に 朝なぎに 滿ち來る潮の 夕なぎに 寄り來る波の その潮の いやますますに その浪の いやしくしくに (486)わぎもこに 戀ひつつ來れば 阿胡《あご》の海の 荒磯《ありそ》のうへに 濱菜つむ あま處女等が うながせる 領巾《ひれ》も照るがに 手に卷ける 玉もゆららに しろたへの 袖ふる見えつ 相思ふらしも
 
 處女等之。麻笥垂有。續麻成。長門之浦丹。朝奈祇爾。滿來鹽之。夕奈祇爾。依來波乃。彼鹽乃。伊夜益舛二。彼浪乃。伊夜敷布二。吾妹子爾。戀乍來者。阿胡之海之。荒磯之於二。濱菜採。海部處女等。纓有。領巾文光蟹。手二卷流。玉毛湯良羅爾。白栲乃。袖振所見津。相思羅霜。
 
【釋】○第三句までは長門の浦に掛けた序。第二・三の句の意は、緒をうんで桶に長く垂らすこと。桶は緒《ヲ》を容れる笥《ケ》の義。「うむ」は緒を細く割いて、長く縒り合せて糸にするを云ふ。○「しくしく」は重々で頻りにの意。○「戀ひつつ來れば」考や略解には歸京の途にあるものとし、新考には地方に下る途と見てある。○「阿胡の海」を長門の萩灣の古名とする説があるが、こゝの長門浦は安藝國の倉橋島の南の長門浦(卷十五に見ゆ)であるから、阿胡は今の安藝郡の阿賀ではないかと思ふ。○「うなぐ」は頸にかける意。○「照るがに」は照り輝くばかりにの意。(「がに」三八四頁參照)○「ゆららに」ゆらゆらと。○「相思ふらしも」は彼等海士少女も、その夫を慕つてゐるのである。あれを見るにつけても自分も妻が戀しいといふ意である。(略解や古義の説はよくない。)
【譯】少女等が麻を績んで、桶に長く垂れるといふ、その言葉に通ふ長門の浦には、朝なぎ夕なぎに浪が寄せて來るが、その浪のやうにいやましにいやしげく、我が妻を慕ひながら船路を來ると、阿胡の海の荒い磯のほとりに、藻を採(487)つてゐる海人少女等が、頭に懸けてゐる領巾も輝いて見えるほど、又その手に纒いてゐる玉がゆれるほどに、沖の舟に向つて、袖を振り動かしてゐるのが見える。彼等も夫を思ひ焦れてゐるのであらう。それを見るにつけても、ます/\わが妻が戀しくなつて來る。
【評】序も面白く、「朝なぎに」以下の八句の對句に至つては、景趣が調と共に美しく動いてゐるが、終りの海人處女が袖を振つてゐる姿も、畫を見るやうに美しく、且つ鮮かに浮び出てゐる。なほ結句に作者の深い感情を込めてゐる所は、人麿の手法に似てゐる。一體に繪畫的に歌はれてゐるのが、この作の特色である。
 
   反歌
 
3244 阿胡の海の 荒磯《ありそ》の上の さざれ波 吾が戀ふらくは やむ時もなし
 
 阿胡乃海之。荒礒之上之。小浪。吾戀者。息時毛無。
 
【釋】○初めの三句は序である。○第四第五の句と同一の語句は集中に其の例が多い。
【譯】阿胡の海の荒い磯邊に寄せて來る小波が、小止みなく寄せるやうに、わが戀しさは止む時がない。
 
3245 天橋《あまばし》も 長くもがも 高山《たかやま》も 高くもがも月よみの もたるをち水 い取り來て 君にまつりて (488)をちえしむもの
 
 天橋文。長雲鴨。高山文。高雲鴨。月夜見乃。持越有水。伊取來而。公奉而。越得之早物。
 
【釋】○「天橋」は天へ昇るための橋。○「がも」は希求をあらはす助詞。○「高山も云々」はこれも天へ昇るために、高くあれがしとし希つてゐるのである。○「月よみの」は月夜見尊が月の主宰神である所から、月のことを云ふのである。 (「つきよみ男」とも云ふ。)○「もたる」は持ちたるの約。○「をち水」は飲めば若返る水である。「をつ」は元に返る意の動詞で、年齡に限らない。集中に「ゆめ花散るないやをちに咲け」などの例がある。さて二の句は舊訓にモチコセルとあつたが、久老が「持有越水」を「持有越水」の誤として、モタルヲチ水と訓んだのである。反歌を見てヲチ水でなければならぬことが分る。月の水といふは契沖も云つたやうに、佛教傳説から來てゐるものと思はれる。○「い取り來て」の「い」は接頭語。○「君にまつりて」は君に奉りてである。この君とあるのは大君であるか、主人であるかそれとも夫であるか、兎に角老いた人である。○「をちえしむもの」はをち得しめん物をの意。(「越得之早物」の「早」を牟の誤として、ヲチエシムモノと訓んだ久老の説による。)
【譯】天に通ずる橋がもつと長くあつてほしい。雲を凌ぐ山ももつと高くあつてほしい。あのお月樣が持つてゐると云ふ、若返る水を取つて來て、わが君に奉つて、傾く御齡を若返らせ奉りたい。
【評】月世界にありと云ふ不老不死の水を奉りたいといふ思想は、ただ上代人の幼稚な考とのみ見過してはならぬ。作者はその不可能な希望をも遂げたいといふ、切實な態度で詠んでゐるのである。それを了解しないとこの歌に表はれてゐる作者の眞情を、酌むことは出來ないであらう。此の次の長歌には、沼名河の底にある玉を君に奉つて、若返らし奉りたいと歌つてゐる。
 
(489)   反歌
 
3246 天《あめ》なるや 日月《ひつき》の如く わがもへる 君が日にけに 老ゆらく惜しも
 
 天有哉。月日如。君思布。公之日異。老落惜毛。
 
【釋】○「日月の如く」古義によつて、「月日」はヒツキと訓むがよい。日月を仰ぐやうにの意。○「日にけに」は日々にと同じ。「け」は日の義。(前出)
【譯】天に輝く月や日のやうに、仰いでゐるわが君が、日に日に老い行き給ふのか惜しまれてならぬ。
【評】君を日月に譬へてゐるのを見ると、此の君は高貴の人を指したものらしく思はれる。
 
  相聞
 
3248 敷島の やまとの國に 人さはに 滿ちてあれども 藤浪の 思ひまつはり 若草の 思ひつきにし 君が目に 戀ひやあかさむ 長きこの夜を
 
 式島之。山跡之土丹。人多。滿而雖有。藤浪乃。思纒。若草乃。思就西。君自二。戀八將明。長此夜乎。
 
【釋】○「敷島の」は「やまと」の枕詞。欽明天皇が大和の磯城島金刺宮《シキシマノカナサシノミヤ》をお營みになつてから、磯城島といふ名が大和の別名になり、更に我が國の總名にもなり、又一方では大和の枕詞にも用ゐられたのである。磯城島の名は今の磯城郡|城島《シキシマ》村に遺つてゐる。金澤博士の説によれば、シキは都城の義で、そのシには住む意があり、キには城の意が(490)ある。又シマもシキと大同小異の語で、シはシキのシと同じで、マは間で場所の義である。それ故敷島はもと、都城又は住所の意義の語であるといふことである。(「國語の研究」)○「藤浪の」は「まつはる」の枕詞。藤かづらが物にからまるから云ひ掛けたのである。○「若草の」は「つく」の枕詞。生えつくといふ意で掛けたのであらうと古義に云つてゐる。○「君が目に」(「自」は元暦校本に目とある。契沖も目の誤としてゐる。)は「君が目を」と云ふのと同じである。君を戀ふといふべきを、君に戀ふといつたのと同じ語法である。目は古義の説によれば、此方の目に見えるもの、即ち容儀《スガタ》のことである。
【譯】日本國中に人は澤山に充ち滿ちてゐるけれども、特にわが心に纒ひつき、心に泌みついてゐるいとしい君の姿を見ることもなく、長いこの夜を空しく焦れ明かすことか。
 
   反歌
 
3249 敷島の やまとの國に 人ふたり ありとし思《も》はば 何か歎かむ
 
 式島乃。山跡乃土丹。人二。有年念者。難可將嗟。
 
【譯】わが深く愛する人が、天下に二人あるものならば、どうしてかうまで歎かう。一人よりない人であるから、かくの如く深くも思ひ歎くのである。
【評】長歌も、反歌も情緒の纒綿たる作である。反歌は卷十一の「うち日さす宮路を人はみちて行けど」の歌と相似た心を歌つたものである。
 
   柿本朝臣人麿歌集歌曰
 
(491)3253 葦原の 瑞穗の國は 神ながら 言《こと》あげせぬ國 しかれども 言擧《ことあげ》ぞわがする ことさきく まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯浪《ありそなみ》 ありても見むと 五百重波《いほへなみ》 千重浪しきに 言あげする吾
 
 葦原。水穗國者。神在隨。事擧不爲國。雖然。辭擧叙吾爲。言幸。 眞福座跡。恙無。福座者。荒礒浪。有毛見登。百重波。千重浪敷爾。言上爲吾。
 
【釋】○「神ながら」は葦原の瑞穗國は、神意ながらの直く正しき國といふ意である。○「言あげせぬ」前出。○「ことさきく」は何事も幸に。(考には言葉の幸くの意に解してゐる。)○「つつみなく」は恙なく。(既出)○「荒磯浪」は「あり」の枕詞。○「ありても見む」はながらへても見むの意。○「五百重波」の「五」は略解によつて補つた。○「千重浪しきに」は千重浪のやうに重くの義。○結句を古義にコトアゲゾアガスルと訓んでゐる。
【譯】豐葦原の瑞穗の國は、神意の儘に直く正しい國であるが故に、何事があつてもとやかくと言ひ噪ぐ必要の無い國である。然し私は君の爲には敢て言ひ噪ぐのである。即ち何事も都合よく幸福にいらつしやるやうに、又恙なく平らかに在られて、私もいつまでも永らへてゐて、また相見たいものと祈ればこそ、五百重にも千重にも打ち寄せて來る浪のやうに、茂くも言擧するのである。
 
   反歌
 
(492)3254 敷島の やまとの國は 言靈《ことだま》の 助くる國ぞ まさきくありこそ
 
 志貴島。倭國者。事靈之。所佐國叙。眞福與具。
 
【譯】わが國は言葉の神靈が助ける國であるのだ。自分がかくまで祈る言葉の通りに、どうか幸であるやうに。
【評】如何なる場合の作であるか、知ることは出來ないけれども、恐らく海を越えて遠くへ旅立つ、親しい友に贈つた作であらう。言擧げせぬ國といひ、言靈の助くる國といふ信仰の上に立つて、親友の上を深く思ふ友情が、泌々と歌はれてある。
 
3268 みもろの 神奈備山ゆ とのぐもり 雨は降り來ぬ 雨《あま》ぎらひ 風さへ吹きぬ 大口の 眞神の原ゆ 思《しぬ》びつつ 歸りにし人 家にいたりきや
 
 三諸之。神奈備山從。登能陰。雨者落來奴。雨霧相。風左倍吹奴。大口乃。眞神之原從。思管。還爾之人。家爾到伎也。
 
【釋】○「みもろの神奈備山」は神岳のこと」。(既出)○「とのぐもり」は「たなぐもり」と」同じ(既出)。○「雨ぎらひ」は「天ぎらひ」とは別で、風が吹くために雨が霧となることを云つたのである。○「大口の」は眞神の枕詞。狼を眞神と云ふから、狼の口の大きな意から懸けたのである。○「眞神の原」(既出)「原ゆ」の「ゆ」は「を經て」の意。男が飛鳥の崗本の宮あたりの女の家を出て、眞神の原を過ぎて彼方へ歸るものと見える。○「思びつつ」は慕ひながらといふ意。
【譯】三諸の神奈備山から掻き曇つて雨が降つて來、霧雨が降つて風まで加はつて來た。あの廣々とした眞神の原を過(493)ぎて、私を思ひながら歸つて行かれたあの人は、もう家にお着きになつたであらうか。
【評】風まじりに雨の降る日の光景が、四句の上に巧みに歌はれてゐる上に、大口の眞神の原といふ語感から起る荒凉たる廣野に、偲びつゝ行く戀人を點出して、その身の上を案じてゐる所が、讀者に深い感動を與へる。この長歌には反歌があるが、今之を省いた。
 
3270 さし燒かむ 小屋のしき屋に かきうてむ 破薦《やれこも》を敷きて うち折らむ しこのしき手を さしかへて ぬらむ君ゆゑ あかねさす 晝はしみらに ぬば玉の 夜はすがらに この床の ひしと鳴るまで なげきつるかも
 
 刺將燒。少屋之四忌屋爾。掻將棄。破薦乎敷而。所掻將折。鬼之四忌手乎。指易而。將宿君故。赤根刺。晝者終爾。野干玉之。夜者須柄爾。此床乃。比師跡鳴左右。嘆鶴鴨。
 
【釋】○一・三・五の句の「さし」「かき」「うち」は何れも接頭語。○「さし燒かむ小屋」とは燒き棄てたいやうな見苦しい小屋の意。「しき屋」の「しき」(下の「しき手」の「しき」も同じ。)は「しこ」の末音の轉じたもので醜の義。○「うち折らむしこのしき手」はうち折りたいやうな痩せた、極々見苦しい手といふ意。原文の「所」は古義に從つて衍字と見、「掻」は元暦校本によつて、悋の誤字と見るのである。○「さしかへ」は互に手をさし交して。○「あかねさす」は晝の枕詞。○「ぬば玉の」は夜の枕詞。○「しみら」の訓は同じ卷に「日者之彌良爾《ヒルハシミラニ》」とあるによる。「しみみ」(茂く)といふ(494)と同じ。○「すがら」は「日すがら」「夜すがら」などの「すがら」で、悉く若しくは終りまでの意を表はす接尾語。○「ひしと鳴る」の「ひし」は床のひしめくこと。
【譯】火を附けて燒いてしまひたい樣な、見つともない伏屋の中に、放り棄てたいやうな破薦を敷いて、へし折つてやりたいやうな、見苦しい痩腕をさし交して、お寢なさる者のために、此の私は晝も止む時なく、夜も夜通し、この床がひし/\と鳴るほど、輾轉反側して焦れ歎くことである。
【評】この歌は女の作であることは明かであるが、如何なる場合の歌であるかに就いて諸説がある。契沖は身分のある女が、賤しい男を戀うて詠んだのであると云ひ、眞淵はしたゝかに罵つてゐる所から見ると、女に代つて男子が詠んだ作であらうと云つてゐるが、古義に引いてゐる谷眞潮の説では、自分から進んで持つた夫が、他の賤しい婦人の許に通ひ染めたのを、恨んでゐるのであると見てゐる。前半の數句にあらゆる憎惡の念が表はれてあるあたりから見ると、最後の説が穩當であるやうである。併し相手の女を賤しい婦人と見るのは如何であらう。これは新考の説の如く、男があだし女の許に通ふのを妬んで、其の女の家と薦と手とを、ひどくけなしたものであると見ろべきであらう。
 
   反歌
 
3271 わが心 燒くも吾なり はしきやし 君に戀ふるも わが心から
 
 我情。燒毛吾有。愛八師。君爾戀毛。我之心柄。
 
【釋】○「はしきやし」は「はしきよし」と同じ。「はしき」は最愛の意。「や」「よ」は共に感動の助詞で、「し」は意味を強(495)める助詞。
【譯】かくまでわが心を焦すのも、人のするわざではなく、自ら情の火で燒くのであり、いとしい君をかくまで慕ふのも他人のせいではない。これ亦わが心ゆゑである。
 
3280 わが背子《せこ》は 待てど來まさず 天《あま》の原 ふりさけ見れば ぬば玉の 夜もふけにけり さ夜ふけて 嵐の吹けば 立ちとまり 待つわが袖に 降る雪は 凍りわたりぬ 今更に 君來まさめや さなかづら 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて み袖もち、床うち拂ひ うつつには 君には逢はじ 夢にだに 逢ふと見えこそ 天《あま》の足夜《たりよ》に
 
 妾背兒者。雖待不來益。天原。振左氣見者。黒玉之。夜毛深去來。左夜深而。荒風乃吹者。立留。待吾袖爾。零雪者。凍渡奴。今更。公來座哉。左奈葛葛。後毛相得。名草武類。心乎持而。三袖持。床打拂。卯管庭。君爾波不相。夢谷。相跡所見社。天之足夜于。
 
(496)【釋】○「さなかづら」は「さねかづら」と同じ。「逢ふ」の枕詞。○「み袖」の「み」は接頭語。○「床うち拂ひ」は考に、思ふ人が夢に通つて來ることを祈る爲に、齋み拂ふのであると云つてゐる。○「逢ふとし見えこそ」の「こそ」は希求の意の助詞。○「天の足夜」を古義に全夜(終夜)の意に解き、新考には「足日」の例の如く、けつこうな夜の意としてある。併しこれは代匠記の説の通り、長い夜のことである。卷二に「御命は長く天足らしたり」とあるのも、これと同じで長い意でああ。○この歌の反歌は省く。
【譯】私の慕つてゐる君は、待ちに待つてゐてもいらつしやらない。大空を見やると、もう夜も深けた。夜も深けて嵐が寒く吹いて來るので、外に立つて待つてゐるわが袂に降りかゝる雪は、凍りついてしまつた。今はもう君の來る望も絶えた。まゝよ後日に逢ふことにしようと、自ら心を慰めて内に入つて、袖で床を拂ひ清めて、現では逢へまいから、せめては逢つた夢を見たいものである、この長い冬の夜に。
【評】平明な語句を用ゐて、少しのゆるみがなく、而も景を盡し情を極めて、切々人の肺腑を刺す哀れさが溢れてゐる。女流作中の一異彩たるを失はない。
 
3299 〔こもりくの 泊瀬の川の〕 見渡しに 妹らは立たし この方に 吾は立ちて 思ふ空 安からなくに なげく空 やすからなくに さ丹塗《にぬ》りの 小舟《をぶね》もがも (497)玉まきの 小楫《をかい》もがも 漕ぎ渡りつつも 相語らめを
 
 〔己母理久乃。 波都世乃加波乃。〕 見渡爾。妹等者立志。是方爾。吾者立而。思虚。不安國。嘆虚。不安國。左丹漆之。小舟毛鴨。玉纒之。小※[楫+戈]毛鴨。榜渡乍毛。相語妻遠。
 
【釋】○「こもりくの」初めの二句は左註に或本歌頭句云として「己母埋久乃。波郡世乃加波乃。乎知可多爾。伊母良波多多志。己乃加多爾。和禮波多知※[氏/一]。」とあるのによつて、之を補つたのである。○「見渡しに」は見渡す彼方の岸。○「妹ら」の「ら」は語調を添へる爲の接尾語。○「立たし」は立つの敬語。○「思ふ空」は「旅の空」「足も空」などと同じく、何となく心の落着かない事をいふ。戀しい人と」川を隔てゝゐるのを嘆くのである。○「さ丹塗り」の「さ」は接頭語。「丹塗りの小舟」は、一八七頁の「赤《アケ》のそほ舶」と同じ。但しここは官船でなく、それに準へて云つた美稱であると久老は云つて居る。○「小舟」「小楫」の「小」は小さいといふ意でなく、一の接頭語である。○「がも」は希望の意を添へる助詞。○「相語らめを」の「を」は感動の意を添へる助詞。
【譯】泊瀬川の彼方の岸に妻は立つてゐ、此方の岸に自分は立つてゐて、戀しさに心も落ち着かず、嘆かしさに堪へ切れないで、丹塗の舟があつたらと思ひ、玉で飾つた美しい楫があつたらと思ふ。それがあつたら、この川を渡つて度々逢ふのだが。
【評】内容は俚謠によく見る平凡なものであるが、丹塗。り小舟と玉纒きの小楫が、情景を美化してゐて面白い。「思ふ空」以下の四句と、「さ丹塗りの」以下四句とは、卷八の憶良の七夕歌の中にも見えてゐる。此の歌と「何れがもと」であるか詳かでないが、恐らくは此の作の方が本歌であらう。
 
3300 おしてる 難波の埼に 引きのぼる 赤《あけ》のそほ舟 (498)そほ舟に 綱とりかけ ひこづらひ ありなみすれど いひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ 言はれにしわが身
 
 忍照。難波乃埼爾。引登。赤曾朋舟。曾朋舟爾。綱取繋。引豆良比。有雙雖爲。曰豆良賓。有雙雖爲。有雙不得叙。所言西我身。
 
【釋】○「おしてる」は難波の枕詞。その解釋に種々の説があるけれども、久老の槻落葉別記の説が最もよい。即ちオシテルは「月押照有《ツキオシテレリ》」の押照と同じ意で、大和越又は河内越の道すがら、山上から難波の海を遠望した時、海面が一面に白く光つて見えるのを云つたのであると解するのである。但し久老が和庭《ナギニハ》(平穩な海面を庭といふ)の意で、難波に掛けたのであらうと云つて居るのは從ひ難い。恰も「葦が散る」が難波の枕詞となつたやうに、實景を以て難波に掛けたものと見るべきである。○「難波の埼に」の「に」は「ゆ」と云ふとし同じ。○「赤のそほ舟」赤く塗つた舟。(既出)○「綱とりかけ」までの六句は「引く」の序である。○「ひこづらひ」は引くことを云ふ。長いものを引くことを「引きずる」又は「ひこじる」といひ、その動作を交互に若しくは繼續的にすることを「引きじらひ」又は「ひこじろひ」といふ。さて引くと云つたのは序から云ひ下したのであるが、その意味について古義に、人が彼だといひ、否さうではないこれだといひ爭ふことである、と云つてゐるのが最も當を得て居るやうに思ふ。即ちこの「引く」は氣を引くなどいふのと同じ類の語であらうと思ふ。○「ありなみすれどのナミを靡ける意に釋き、(萬葉集卷十三疑條)或はアリナミを在並びの意に解してゐるが(考)、宣長はあり否みといふ意で、人が云ひ立てるのを、否といひ爭ふことであると云つてゐる。これは宣長の説が正しい。「あり」は絶えずといふ意を添へる接頭語。○「いひづらひ」は前の「ひこづらひ」と同じ語形で、意は「あげつらふ」と同じ。互に云ひ爭ふことである。
(499)【譯】難波の崎を都の方へ上つて行く、あの赤く塗つた舟を、舟子が綱をつけて引くやうに、頻りに私の思ふ人を、これかあれかと氣を引いても、いつも否定してはゐるが、又とやかくと云ひ噪がれても、いやそんなことはないと、いつも云ひ爭うてはゐるが、遂に云ひ消すことが出來ないで、あの人との關係をすつかり云ひ顯はされてしまつたことである。
【評】眞淵がこの歌を評して、「古への歌の中にしもよくよみしにて、言厚く雅にして面白し。」と云つたのは適評である。人の噂を取消さうとして、到底取消し得なかつた心勞を、難波の埼を引いて上る舟に譬へた序が、いかにも適切であるが、なほ同じ詞を繰り返したり、二句對を置いた古雅な形式の上に、浮名の立つのを恐れてゐた作者の純朴な心が、表はれてゐるのも面白い。
 
  問答
 
3314 つぎねふ 山城路《やましろぢ》を 人づまの 馬より行くに おのづまの 歩行《かち》より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心しいたし たらちねの 母の形見と 吾が持たる まそみ鏡に 蜻領巾《あきつひれ》 おひなめ持ちて (500)馬買へわが夫《せ》
 
 次嶺經。山背道乎。人都末乃。馬從行爾。己夫之。歩從行者。毎見。哭耳之所泣。曾許思爾。心之痛之。垂乳根乃。母之形見跡。吾持有。眞十見鏡爾。蜻領巾。負並持而。馬替吾背。
 
【釋】○「つぎねふ」は山城の枕詞。その意義について諸説かある。冠辭考によれば、大和から山城へ行くには、多く連つてゐる嶺を經て行くからかけたのだと云つてゐるが、古義には續木根生の義で、連つてゐる木原の山代(代は苗代の代と同じ意。)といふ意とし、又新釋にはつぎね草(福井久藏氏の説に、今いふ二人靜《フタリシヅカ》であると。)の生える山城の義であるとある。○「人づま」は人の良人。○「馬より」は馬にての意。「より」は後の「にて」に當る。下の「歩行より」の「より」も同じ。○「そこ」は場所を指す代名詞の中稱であるが、同時に又思想上のことにも用ゐたので、こゝなどはその事と云ふ意である。○「心し」の「し」は助詞。○「たらちねの」は母の枕詞。(既出)○「ますみ鏡」は眞鐙の鏡のことで、よく澄んだ鏡。「ま」は接頭語。○「蜻領巾《アキツヒレ》」は蜻蛉の羽のやうに、薄くて美しい領巾のこと。卷三には「あきつ羽の袖」といふ例がある。○「おひなめ持ちて」考・略解には並べ負ひ持ちてと解いてゐるが、宮地春樹の説に、「おひ」はおひ錢のことで、鏡だけでは馬の價に足らないから、それに領巾を添へて出す意であると云ひ、宣長はおひ〔二字傍点〕は價のことで、鏡と領巾とを並べて馬の價に出す意であると云つてゐる。(共に古義に引いてゐる。)余は春樹の説に從つて、鏡を主とし領巾を副へて馬と替へよと云ふ意に見たい。
【譯】山城路を通ふのに、人の夫は皆馬に乘つて行くのに、わが夫の君は歩いてお行きになるのを見る度に、聲を立てて泣きたくなり、それを思ふと胸も張り裂ける思がします。母の形見として、妾が大切に持つてゐるこの美しい鏡に蜻蛉の羽のやうな、この領巾を添へて持つて行つて、馬をお買ひなさいまし、わが夫の君よ。
【評】かの名高い山内一豐の夫人の話と同一美談であるが、この婦人の名は傳らずして、その歌だけがかうして永久に(501)傳へられたのが哀れである。歌の趣から見ると、その夫は大和から山城に通ふ商人らしい。新考に「此歌どもも亦文人の綺語のみ。眞に無名の賤女賤夫の作れるなりと思はむはおそし」とある。參考の爲に掲げて置く。
 
  反歌
 
3315 泉川 渡瀬《わたりせ》深み 吾が背子が 旅行き衣 すそぬれむかも
 
 泉河。渡瀬深見。吾世古我。旅行衣。蒙沾鴨。
 
【釋】○「泉川」は木津川の古名。○結句は眞淵の説に從つて「蒙」を「裳」の誤として、右に掲げたやうに、訓んだのである。
【譯】泉川の渡り場の瀬が深いので、わがいとしい夫の旅衣の裾が濡れるであらう。是非にも馬を求めて差上げねばならぬ。
 
3317 馬買はば 妹|歩行《かち》ならむ よしゑやし 石は踏むとも 吾《あ》は二人行かむ
 
 馬替者。妹歩行將有。縱惠八子。石者雖履。吾二行。
 
【釋】○これは夫が妻に答へた歌である。○「妹歩行ならむ」とは妻と二人で旅をする時のことを云つたのである。○「よしゑやし」はよしまゝよの意。(前出)○新考に此の反歌には長歌があつたのが脱ちたのであらうといふ。
【譯】さうして馬を買つたら、私が一人行く時はよいが、お前を連れて旅をする時、お前を歩行で行かせなくてはならぬ。よしまゝよ、石を踏むのも厭ひはしない、自分は歩いて御身と二人で行かうと思ふ。
 
  挽歌
 
(502)3327 百小竹《ももしぬ》の 三野《みぬ》の王《おほきみ》 西の厩《うまや》 立てて飼ふ駒 東《ひむがし》の厩 立てて飼ふ駒 草こそは 取りで飼ひなめ 水こそは 汲みで飼ひなめ 何しかも あしげの馬の いばえ立ちつる
 
 百小竹之。三野王。金厩。立而飼駒。角厩。立而飼駒。草社者。取而飼旱。水社者。※[手偏+邑]而飼旱。何然。大分青馬之。鳴立鶴。
 
【釋】○「百小竹の」はミヌにかゝる枕詞。前に四八三頁の歌に、「百岐年《モモシネ》美濃の國」とあつたが、あれと同じ意味で掛けたのである。○「三野王」は三野王がの意。三野王は美濃王又は美努王と書いてある。諸兄卿の父で、和銅元年五月に薨じた。○「金厩」は西《にし》の厩《うまや》と」よむ。支那の五行説によると金は西に當るからである。○「角厩」は東《ひむがし》の厩《うまや》と」よむ。五聲を四方に配するとし、角は東にあたるからである。○「飼旱」は舊訓にカヘカニとあるが穩かでない。今は宣長の説に從つて、「旱」を「嘗」の誤としてカヒナメと訓んでおく。意は馬の主は薨じられたけれども、今も草や水が欲しければ取つて與へようものを、何故にそんなに鳴くかといふのである。馬に至るまで王の薨去を悲しんでゐる樣を叙して、作者の悲嘆の情を間接に歌つてゐるのである。○「大分青馬」は舊訓にアシゲノウマとあるが、考にマシロノコマ、略解の訓にヒタヲノコマとある。これは舊訓の方がよい。白の毛に黒又は青の差毛のある馬を云ふのである。大分青馬をあてたのも、青の差毛を云つたものと思はれる。○「いばゆ」は和名抄に「嘶【以波由俗云伊奈奈久】馬鳴也。」とある。「たつ」は接尾語である。「いばえ立つ」は盛に嘶く意である。○此の長歌の反歌は省く。
(503)【譯】三野王が西の厩を建ててお飼ひなされ、東の厩を建ててお飼ひなされてゐる馬よ。草が欲しければ、取つて食べさせよう、水が飲みたければ、汲んで飲ませよう。それを何でそんなに、葦毛の馬は嘶き立てるのであるか。
【評】自己の悲嘆を直叙せずして、主なき馬が、常と異つて、物も食べず、變な聲で頻りに嘶いてゐるのを怪しんでゐるので、却つて悲しさが深く強く現はれてゐる。卷二の日雙皇子の薨去を悲しんだ歌の中に「佐太の岡邊に鳴く鳥の夜鳴きかはらふ」とあつたが、それとこれとは相似た趣を捉へた作である。
 
3332 高山と 海こそは 山ながら かくも現《うつ》くし 海ながら しかも直《ただ》ならめ 人は あだものぞ うつせみの世人
 
 高山與。海社者。山隨。如此毛現。海隨。然直有目。人者。花物曾。空蝉與人。
 
【釋】○「山ながら」は既に「神ながら」「國がら」の所で説明したやうに、「山−な−から」で「山柄が」又は「山故に」の意。○「現くし」は形容詞で、常磐に變らず在る意。○「直ならめ」はただにあらむの意。常に變らずに在ること。新考には「直」を「毛」の誤として、此の句を「しかもあらめ」とし訓んである。○「花物」は流布本に「充物」とあるが、今元暦校本によつて、「充」を「花」の誤と見て訂正した。舊訓及び考にアダモノ、古義はハナモノと訓んである。古義の解によれば、「物のはかなく咲くかと見れば、やがて散り失するやうなる事を云ふ古の稱なり。」とあるが、穩かでない。(504)暫くアダモノとよんで、はかなき物の意と釋いて置く。○「うつせみ」は「世」にかゝる枕詞。(既出)
【譯】高く聳えてゐる山は、山柄でかくも永久に世に在るのであり、海も海がらで、かうも變らずに存在するのであらう。それのに人は頼みがひのない、はかないものだ。この世に生を享けてゐる人は、さてもはかないものである。
【評】簡素な詞を以て、此の世に逃れられぬ死といふ悲しい運命のあることを、泌み/”\と嘆いてゐる所を味ふべきである。眞淵は例の尚古趣味の眼で之を評して、「言少くして心たけたるいひなしなり。後の言多く心つたなきをおもひ合すべし。」と言つてゐる。
 
卷十三 終
 
(505)萬葉集 卷十四
 
○この卷に收められた二百三十首の短歌は所謂東歌《アヅマウタ》である、東歌は大宮振りに對する東國の民謠であつて、支那印度の文化に縁の遠い東國人の、野趣に富んだ素朴な情緒が歌はれてゐるのが頗る趣味がある。又これを語學の方面から見るならば、上代の東國方言に表はれた特殊の音韻や文法などを研究することが出來て、頗る有盆な資料となるのである。併し爰に聊か注意を要することは、此等の中には地方官などが任國に下つてゐる間に詠んだ東歌らしからぬ作や、東國に旅行した京人が、わざと東國訛で詠んだらしいものがあり、又中には古歌集中の東國に關係のあるものを、誰かの手によつて拾集したらしいのもあると云ふ事である。佐々木博士の説によれば何何國歌と註したものよりも、雜歌として收められてゐる作の方に、却つて眞に東人の作と思はれるものが多く、又卷十四は東國に關する多くの歌をよんだ高橋蟲麿によつて、輯録せられたものではなからうかと云ふ事である。
 
  東歌
 
3350 筑波嶺の にひぐはまよの きぬはあれど 君がみけしし あやに着ほしも
 
 波波禰乃。爾比具波麻欲能。伎奴波安禮杼。伎美我美家思志。安夜爾伎保思母。
 
【釋】○「にひぐはまよ」の解釋に二説ある。一は契沖の説で、春の桑の若葉で飼つた蠶の繭とするのであつて、他の一説は仙覺抄以來、考・古義等の説く所で、春の始めに飼つた春蠶《ハルコ》(夏蠶《ナツコ》に對していふ)から取つた糸と見るのである。(506)併し和名抄を見ると、絹糸を吐く蠶とは別に桑繭といふのを掲げて、「唐韻〓【音象久波万由】桑上繭【即桑蠶也】」とある。この久波萬由は即ちこゝにある「くはまよ」である。さて「くはまゆ」は野蠶《クハコ》(家蠶《カイコ》を桑子《クハコ》としいふのとは別物である)のことで、俗には山繭といひ、又桑に宿る害蟲であるから蠶蟲《カヒコムシ》ともいふ。この蟲の繭からも糸を取るが、質が粗惡である。○「みけし」は「着る」といふ敬語動詞の「けす」の名詞形の「けし」に、接頭語の「み」を附けだ語で、御衣の意。○「みけし」の次の「し」は助詞。○「あやに」は誠に、又はわけもなくといふ意。
【譯】筑波山から採つた新しい山繭の糸で造つた、着物は持つてゐるけれども、あのお方の美しいお召物がやたらに着て見たい。
【評】京から地方に下つて居た宮人の、服装の美しいのを見て、土民が詠んだ歌であらう。何と云ふことなく、面白い歌である。當時の東國人の生活の一面も窺はれる。
 
3351 筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも かなしき子ろが にぬほさるかも
 
 筑波禰爾。由伎可母布良留。伊奈乎可母。加奈思吉兒呂我。爾努保佐流可母。
 
【釋】○「降らる」は「降れる」と同じ。○「いなをかも」は古義に否か諾《ヲ》か(「も」は感動の助詞)の意と見てあるけれども、「を」「かも」は共に感動の助詞である。○「かなしき子ろ」はいとししい女のこと。「子ろ」は「子ら」と同じく「ろ」は接尾語。○「にぬほさる」は布《ヌノ》干《ホ》せるの意。○左註に以上二首は常陸國の歌とある。
【譯】筑波山に雪が降つてゐるのであらうか。否さうてはあるまい、あのいとしい女が白い布を晒してゐるのであらう。
【評】筑紫山麓に行はれた美しい民謠である。
 
(507)  相聞
 
3359 駿河の海 おしべに生《お》ふる 濱つづら いましをたのみ 母にたがひぬ
 
 駿河能宇美。於思敞爾於布流。波麻都豆夜。伊麻思乎多能美。波播爾多我比奴。
 
【釋】○「おしべ」は下に「おすひ」とあるのと同じで、磯邊の東國訛である。○「濱つづら」(「夜」は「良」の誤)は濱邊に這ひ擴つてゐる葛。契沖は青葛(防己《アヲヅヅラ》」であらうと云つてゐる。濱葛が這つてゐるやうに、長く絶えないやうにと契つた詞を頼んでといふ意で、下の「たのみ」に言ひつづけた序である。○此の歌は左註に駿河の人の作とある。
【譯】駿河の海の磯邊に這ひ擴つてゐる濱葛の樣に、いつまでも絶えないやうにと、仰しやつたあなたの詞を頼んで、母が折角他の人にめあはせようとした、その心に背いてしひました。
【評】この歌を讀んでゐると、その少女を中心に、老母と若い二人の男との間に起つた、戯曲的のいきさつを想像することが出來て興味が深い。
 
3365 鎌倉の みこしの崎の 岩くえの 君がくゆべき 心は持たじ
 
 可麻久良乃。美胡之能佐吉能。伊波久叡乃。伎美我久由倍伎。己許呂波母多自
 
【釋》○これより以下二首は相模の國の歌。○「みこしの崎」は仙覺抄に「今の腰越をいひけるとなん申す。昔も石のよはくて崩れけるにや。」とある。即ち今の稻村ケ崎の古名である。○「くえ」は崩《ク》え。三句までは「悔ゆ」に云ひかた序である。
【譯】後になつて君がお悔いなさるやうな、そんな淺い心は決して持ちは致しません。
 
(508)3368 足がりの とひの河内《かふち》に 出づる湯の よにもたよらに 子ろがいはなくに
 
 阿之我利能。刀比能可布知爾。伊豆流湯能。余爾母多欲良爾。故呂何伊波奈久爾。
 
【釋】○「足がり」は足柄の訛。○「とひの河内」は土肥河内で、今の湯河原温泉の在る地。「河内」は川に挾まれた地をいふ。○第三句までは序。○「よに」を代匠記・考等に代を經てもと解釋してゐるのは、「よ」を世の意と見たので誤である。これは「よにうれしげに」「よにもかなし」などの「よに」で、「殊の外に」「實に」などの意の副詞である。○「たよらに」を代匠記や考に、絶えるやうにの意と解き、宣長は丈夫に(確かに)といふ意と釋いて、次の一句を妹の心の確かでないのを危んでよんだのだといひ、古義はたつぷりといふ意で、温泉については湯の滿ち湛へて寛かな意にいひ、下に對してはゆた/\として、彼にもよらず此にもよらず、心の定まらぬ意に言ひつづけたのであるといつてゐる。古義の説がよいと思ふ。
【譯】非常におぼつかないことのやうに、妹が言つたのでもないのに、行末のことが案じられてならないのは、どうしたことであらうか。
【評】障りの多い戀に悩んである男が、何といふ理由はなく、時に不安におそはれて、自ら慰めて詠んだ歌である。調子がいかにも弱く寂しい。
 
3373 多摩川に さらすてづくり さらさらに なにぞこの子の ここだかなしき
 
 多麻河泊爾。左良須※[氏/一]豆久利。佐良佐良爾。奈仁曾許能兒乃。己許太可奈之伎。
 
【釋】○これと次の歌とは武藏國の歌。○「てづくり」は何でも自家の用に供する爲に造つたものを云ふ。こゝでは手織(509)布のこと。○第二句までは「さらさら」に言ひかけた序。○「さらさらに」は「更に」を重ねた副詞で、「重ねて」又は「殊更に」の意。
【譯】多摩川の清い流で、手織の布を晒すといふ其の言葉の通り、殊更にこの女が、どうしてかくまで可愛いのであらうか。
【評】調子が川の流のやうに流暢であり、一圖に思ひ込んだ戀の情も強く且つ泌み/\と歌はれてゐて、情味の盡きない作である。
 
3376 こひしけば 袖も振らむを 武藏野の うけらが花の 色にづなゆめ
 
 古非思家波。素※[氏/一]毛布良武乎。牟射志野乃。宇家良我波奈乃。伊呂爾豆奈由米。
 
【釋】○「こひしけば」は「こひしければ」の「けれ」が「け」となつたのである。○「うけらが花」は色をいふために置いたのである。「うけら」は「をけら」ともいふ。山に自生する菊科の草で、莖は二三尺の高さで、秋になると薊《アザミ》に似た形の薄黄色の花が開くが、又薄紫のや赤い花のもある。花は「をけらが花の咲きながら開けぬ事のいぶせきに」(俊頼)と歌はれてある通り、開いても半開の形をしてゐるものである。○三四句は「色にづな」に懸る序である。さて此の歌は男の作である。
(510)【譯】ひどく戀しい時は、袖を振つて愛の合圖をしよう。武藏野に咲くあのうけらの花のやうに、あらはに容子に表して、人に氣付かれるやうなことのないやうになさい。
 
3386 にほどりの 葛飾早稻《かづしかわせ》を にへすとも そのかなしきを 外《と》に立てめやも
 
 爾保杼里能。可豆思加和世乎。爾倍須登毛。曾能可奈之伎乎。刀爾多※[氏/一]米也母。
 
【釋】○これと次の歌とは下總國の歌である。○「にほどり」は鳰で巧みに水中を潜るから、「かづく」の枕詞になり、又「かづく」と同じ音の葛飾にもかかるのである。○「葛飾」は今も郡名にある。○「にへす」は「新饗《ニヒナヘ》す」の義で始めて新穀を食ふ行事である。上代にあつては、農村の組織は共同耕作であつて、一村の者は恰も一家族のやうにして耕耘のことに當つたのである。從つて收穫が終れば、先づその初穗を鎭守の社に供へて、神の恩惠を感謝し、その後始めて各戸に又は村の中心となるべき家に集まつて、豐年を祝するといふやうな民間の新嘗祭が、朝廷のそれと同じく鄭重に營まれたのである。「にへす」とはその年中行事をとり行ふことを云ふ。○「そのかなしき」はかのいとしい男の意である。○此の歌によると、新嘗の夜には忌み愼んで、門を鎖して人を入れなかつたのである。
【譯】葛飾の早稻田の稻を刈り取つて、新嘗を營んでゐる大切な時であつても、あのいとしい人が來られたならば、外に立たせはしない。きつと内へお入れ申すであらう。
【評】民間で行ふ神聖な新嘗の祭の夜を背景として、切實な戀を憚る所なく發表した情味の深い歌である。眞淵の名高い歌の「にほ鳥のかつしか早稻のにひしぼりくみつつ居れば月傾きぬ」は、この初めの二句を巧みに襲用した佳作である。
 
(511)3387 足《あ》の音《おと》せず 行かむ駒もが 葛飾《かつしか》の 眞間《まま》の繼橋《つぎはし》 やまず通はむ
 
 安能於登世受。由可牟古馬母我。可都思加乃。麻末乃都藝波思。夜麻受可欲波牟。
 
【釋】○「眞間」葛飾の里の名である。(既出)○「繼橋」とは稍廣い川の眞中に二本の柱を立てて、それに横木を結びつけその横木へ向岸からも此方からも、板を架けておく假橋をいふ。今下總の國府臺に眞間の繼橋といつて、二三間許りの小川に架けた橋に、その名を標記してゐる。これはもとより後人の附會である。
【譯】足音をさせないで行く馬があつたらと思ふ。そしたら,それに乘つて、あの眞間の繼橋をそつと渡つて、絶えず妹の家に通はうものを。
【評】何となく馬が躍つて出て來るやうな調子があるのが面白い。
 
3393 筑波嶺の をてもこのもに もりべすゑ 母は守《も》れども 魂《たま》ぞあひにける
 
 筑波禰乃。乎※[氏/一]毛許能母爾。毛利敝須惠。波播己毛禮杼母。多麻曾阿比爾家留。
 
【釋】○これは常陸國の歌。○「をても」は彼面のこと。遠《ヲ》ちの面の意。○「もりべすゑ」は守部据ゑの義で、獵をするとき獣を待ち伏せするために見張を立たせること。この句までは次に「守る」をいふための序。○「波播己母禮杼母」の第三字目は「可《カ》」の誤であるといひ(考)、又「巴《ハ》」の誤であらうともいふ。(古義に或説として引く。)後の説によつて訓んでおぐ。○「魂ぞあひにける」は心の相あふこと。即ち互に慕ふやうになることである。此の歌は女が詠んだのである。
【譯】獵をするとき、彼方此方に守部を立たせて張番をすると同じで、母は私を大切に守つてゐても、心と心とが合つ(512)て、かうして思ひ思はれる仲となつてしまつた。
 
3399 信濃路《しなぬぢ》は いまのはり道 かりばねに 足ふましむな くつはけわがせ
 
 信濃道者。伊麻能波里美知。可里婆禰爾。安思布麻之牟奈。久都波氣和我世。
 
【釋】○これと次のとは信濃國の歌。○「いまのはり道」の「いま」は「新來《イマキ》」「新參《イママヰリ》」などの「いま」の意。「はり道」は開墾した道。(前出「新墾《ニヒバリ》」參照)○「かりばね」は竹や木の切株。新考に苅生根の義であると云ふ。○「足ふましむな」は足で暗んで怪我をし給ふなと云ふ意。新考に元暦校本によつて、「牟奈」を「奈牟」の誤と見てある。これに從へば意義が多少變るのである。
【譯】信濃路はこの頃切り開いたばかりの新しい道でございます、どうか切株をお踏みなさらないやうに、ぜひ履を召していらつしやい、わが君よ。
【評】こゝに歌はれた信濃路は、所謂木曾路である。この路は木曾川に沿うて越後に出る國道であつて、十二年の歳月を費して、文武天皇の大寶二年に開通したのである。この道路を背景として、當時の或る女が歌つた可憐な情緒が、今に遺つてゐるのが頗る興味のあることである。
 
3400 信濃なる 千曲《ちくま》の川の さざれしも 君しふみてば 玉と拾はむ
 
 信濃奈流。知具麻能河泊能。左射禮之母。伎彌之布美※[氏/一]婆。多麻等比呂波牟。
 
【釋】○「千曲川」は筑摩・千阿・知隈などとも書く。信濃川の上流である。○「さざれし」は細石《サザレイシ》。○「ふみてば」は踐んだ(513)ならばと云ふ意。○「玉と」は玉としての意。○これは女の作である。
【譯】千曲川原にどつさりある小石でも、最愛の君が足でお踐みなさつたならば、美しい玉と思つて拾ひ取りませう。
【評】その情人を心の底から愛してゐる作者の情緒が、結句によつて美化されてゐる。
 
3421 伊香保嶺《いかほね》に 神な鳴りそね わがへには 故はなけども 子らによりでぞ
 
 伊香保禰爾。可未奈那里曾禰。和我倍爾波。由惠波奈家杼母。兒良爾與里※[氏/一]曾。
 
【釋】○「わがへ」はわが上で、自分の身の上の意。○古義にこれは男が女を伴なつて、伊香保のあたりを行く時の作であらうと云つてゐる。伊香保嶺は伊香保温泉のある山であるが、古は廣く黒髪山・舟尾山・二ッ嶽・水澤山あたりまで總べてを含めてゐた。間宮永好の犬※[奚+隹]隨筆には、此の伊香保嶺は榛名山を指したものであると云ふ。○これは上野國の歌の一である。
【譯】伊香保の嶺に鳴り響く雷よ、どうか鳴らないでゐてくれ、自分は別に何とも思はないけれども、この妻がたいそう恐ろしがるから。
 
3423 かみつけぬ 伊香保の嶺ろに ふろ雪《よき》の 行き過ぎがてぬ いもが家のあたり
 
 可美都氣努。伊可抱乃禰呂爾。布路與伎能。遊吉須宜可提奴。伊毛賀伊敝乃安多里。
 
【釋】○「嶺ろ」の「ろ」は接尾語。○「ふろ雪」は降る雪。○第三句までは序。ヨキの音から類似の音のユキに云ひかけたのである。この序がいかにも行き過ぎがたい意を適切にあらはしてゐる。○これも上野國の歌の一。
【譯】上野の伊香保の嶺に降り積む雪の、ユキといふ言葉通りに、行き過ぎる事の、さても苦しい妹の家のあたりよ。
(514)【評】序に、險しい山路に降り積んだ雪の中を行く困難を詠んだのが、立ち寄らずして行き過ぎ難い感じを、甚だ適切に言ひ現はしてゐる。
 
  譬喩歌
 
3437 みちのくの あだたら眞弓 はじきおきて せらしめきなば つらはかめかも
 
 美知乃久能。安太多良末由美。波自伎於伎※[氏/一]。西良思馬伎那婆。都良波可馬可毛。
 
【釋】○これは陸奥の歌。○「あだたら眞弓」は奥州の安太多良(磐城の安達太郎山)より出る眞弓。○「はじきおきて」は弓弦の切れたまま、弓を彈き置いての意。○「せらしめ」は「そらしめ」の訛である。○「きなば」は置きなば。○「つらはかめかも」は弦が着けられようかの意。「つら」は弦の古語。○「かも」の「か」は反語で、「も」は感動の助詞。○上古の弓は木を丸く削つたまゝの、所謂丸木弓である。○新考に此の歌は男の作で、女が久しく逢はない場合に詠み贈つたのであると云ふ。
【譯】陸奥の安大多良の弓の弦の切れたまま、弓を反《そら》せておいたならば、弦をとり着けることが出來はしない。それと同じく、中の絶えたまゝで放つて置いたならば、もと通りになることは出來ないであらう。
【評】その聲調がいかにも東國人の「だみ聲」を聞くやうである。
 
  雜歌
 
(515)3438 つむが野に 鈴が音《おと》きこゆ かむしだの 殿のなかちしとがりすらしも
 
 都武賀野爾。須受我於等伎許由。可牟思太能。等能乃奈可知帥。登我里須良思母。
 
【釋】○これより以下の歌には國名が記してない。○「つむが野」「かむしだ」は共に駿河の地名である。「かむしだ」は「上志太」と書くらしい。志太郡といふのが今もある。都武生野の名は今傳はつてゐないけれども、此の郡内に屬する野であらう。○「鈴が音」は考に鷹の尾鐸《ヲスズ》の音とある。○「殿」は國の守・介以下郡領などをいふ。○「なかち」は中ち子で、次男を云ふ。其の下の「し」は助詞。○「とがり」は鷹を使つて小鳥を狩る事で鷹獵をいふ。卷十九に「初鷹狩《ハツトガリ》」の語が見えてゐる。
【譯】つむが野に鷹の尾につけた鈴の音が聞えて來る。たぶん上志太の殿の中の若且郡が、鷹獵をなさるのであらう。
 
3440 この川に 朝菜洗ふ子 汝《なれ》も我《あれ》も よちをぞ持てる いで子たばりね
 
 詐乃河泊爾。安佐奈安良布兒。奈禮毛安禮毛。余知乎曾母※[氏/一]流。伊低兒多婆里爾。
 
【釋】○「朝菜」は朝の食事のための菜。菜は野菜や魚などを廣く指す詞であるが、こゝは野菜であらう。○「よち」は同じ年頃の子をいふ。語源はよく分らない。○「いで子」の「子」は朝菜洗ふ子(母親)の娘である。○「たばりね」は賜はれよの意。「ね」は希求の助詞。本文の「爾」は禰の略書であらう。
【譯】この川に出て朝菜を洗つて居られる人よ、あなたも私も丁度同じ年頃の子供を持つてゐます。どうかその娘さんを倅の嫁に下さるまいか。
【評】川のほとりに出て、菜を洗つてゐる母親と、その向ふ岸にこれも同じやうに菜を洗ひに來てゐる男とが、子供の(516)縁談について話してゐる、長閑な朝の光景が活躍してゐる。如何にも平和な上代のさまが偲ばれる歌である。新考に「よち」を若き男の意とし、結句の「兒」を曾の誤として、「我も汝と同じく若き男を持てる、それに食はせまほしければ、其の菜を分ち賜へといへるならむ」と解して、女同志の間に詠まれた歌と見てある。一説として參考の爲に引いて置く。
 
3452 おもしろき 野《ぬ》をばな燒きそ 古草に 新草まじり 生ひばおふるがに
 
 於毛思路伎。野乎婆奈夜吉曾。布流久左爾。仁比久佐麻自利。於非波於布流我爾。
 
【釋】○第二句は此の野をばの意。○「生ひばおふるがに」は生えるにまかせて置かうからと云ふ意。「がに」は「が爲に」の意である。
【譯】趣のある此の野を燒いてくれるな。去年の枯草の中に、春の若草が萠え交つて、生えるにまかせて置かうと思ふから。
【評】古草の中に若草が萠え始めた頃の、野邊の春色になつかしい興味を見出して詠んだ歌である。古今集にも「春日野はけふはな燒きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」とあるやうに、昔は春の初に古草を燒く風習があつたのである。三四の句は佳い句である。上田秋成は此の二句を取つて、「高圓の野邊見にくれば、新草に古草まじり鶯鳴くも」と歌つてゐる。
 
  相聞
 
(517)3459 稻けば かがるあが手を こよひもか 殿のわく子が とりてなげかむ
 
 伊禰都氣波。可加流安我手乎。許余比毛可。等能乃和久胡我。等里※[氏/一]奈氣可武。
 
【釋】○「稻つけば」は籾を臼で舂いて米にすることである。○「かがる」はあかがり〔四字傍点〕のきれること。○「殿のわく子」は殿の若君をいふ。殿のことは先に説明した。○この作者は田舍の少女で、地方官の子息と契り交はしてゐたものと見える。
【譯】今宵も殿の若君が入らつしやつて、籾を舂いてこんなにあかがりの切れてゐる手を取つて御覽になつたら、手荒い業をしてゐることを、さぞお歎きなさるであらう、誠に羞かしい事である。
【評】野趣に滿ちた可憐な歌である。身分の相違から來る哀れな心遣か可憐である。
 
3460 誰《たれ》ぞこの 屋《や》の戸おそぶる にふなみに わがせをやりて いはふこの戸を
 
 多禮曾許能。屋能戸於曾夫流。爾布奈未爾。和家世乎夜里※[氏/一]。伊波布許能戸乎。
 
【釋】○「屋の戸おそぶる」は家の戸を押し振るの意。「振る」は樣子を表はし、又は動作を繰り返す意を表はす接尾語。○「にふなみ」は新嘗。○「わがせをやりて云々」は村長の宅などに村人が集まつて、新嘗の祭を行つてゐるのであらう。○「いはふ」は齋《イハ》ふの意で、忌み愼しんで神を祀ること、又は單に忌み守ること。こゝは後の意である。
【譯】新嘗の祭をしにわが夫を外に出して、忌み愼しんで留守居をしてゐるこの家に來て、戸を押したりするのは一體誰であるか。
【評】兩夫にまみえない貞女と、夫の不在を知つて、人妻に云ひ寄らうとする多情漢とを、戸の内外に立たせた、古代(518)の新嘗の夜の光景が、一場の劇のやうに眼前に浮んで來る。先に講じた「にほ鳥の葛飾早稻を」の作と相似た情趣を詠んだ歌である。
 
3491 柳こそ 伐れば生えすれ 世の人の 戀に死なむを いかにせよとぞ
 
 楊奈疑許曾。伎禮婆伴要須禮。余能比等乃。古非爾思奈武乎。伊可爾世余等曾。
 
【釋】○「柳こそ云々」は柳は生長の早い木で、切つても/\年々芽を出すものであるがの意。○「世の人」は作者自らを云つたのである。○新考に結句の「曾」は「香」の誤であらうと云ふ。
【譯】柳は切つても切つても、株から新しい芽を出すものであるが、それとは違つて、人間は一度死んだら再び生まれて來る事の出來ないものである。そのあたら一生を、自分は今戀死をするほどに深くあの方を慕つてゐるのに、情《つれ》ないあの人は、少しも顧みて下さらないのは、どう思し召して居られるのであらうか。
 
3506 新室《にひむろ》の こどきに至れば はたすすき 穗に出《で》し君が 見えぬこの頃
 
 爾比牟路能。許騰伎爾伊多禮婆。波太須酒伎。穗爾※[氏/一]之伎美我。見延奴己能許呂。
 
【釋】○「こどき」を契沖は蠶時と釋き、眞淵は言祷《ごとぷき》と解した。今は前説に從つて釋くことにする。○「はたすすき」は「穗に出し」の枕詞。○「穗に出し君」は相思ふ心を打ち明けた君の意。
【譯】新しく建てた蠶室に籠つて、蠶を飼ふ忙しい時になつたので、心を打ち明けた君も、この頃は一向お見えなさらない。
 
(519)3515 あがおもの 忘れむしだは 國はぶり 嶺《ね》に立つ雲を 見つつしぬばせ
 
 阿我於毛乃。和須禮牟之太波。久爾波布利。禰爾多都久毛乎。見都追之努波西。
 
【釋】○「忘れむしだは」は忘れかけた時はと云ふ意である。「しだ」は關西方言の「行キシナ」「歸リシナ」等のシナと同じ詞で、云々しかゝる時と云ふ意である。○「國はぶり」を契沖は國溢《クニハフリ》で、國中に滿ちてゐる峯の義と云ひ、眞淵は國を遠く放れてゐる意と見、略解には雲が國に溢るゝほど擴つてゐる意と釋いてゐる。略解の説に從つて國溢り、即ち土地一面に擴がつての意に解するがよい。○「嶺に立つ雲」は嶺にかゝる雲。○この歌は遠い國へ行く夫に與へた、妻の作であらうと古義に云つてゐる。或は防人の妻の歌であるかも知れない。
【譯】遠い國へいらつしやつて年月を經ますと、自然私の顔をお忘れなさる時もありませう、その時は一面に擴がつて嶺にかかる白雲を、せめても私と思し召して、それを眺めてお忍び下さい。
【評】この下に「おもがたの忘れむしだは大野ろにたなびく雲を見つゝしぬばむ」といふ歌がある。相似た心持を歌つた作である。
 
3521 烏とふ おほをそ鳥の まさでにも 來まさぬ君を ころくとぞ鳴く
 
 可良須等布。於保乎曾杼里能。麻左低爾毛。伐麻左奴伎美乎。許呂久等曾奈久。
 
【釋】○「烏とふ」は烏と云ふ。○「おほをそ鳥」は大|虚言《ウソ》つき鳥。○「まさて」は眞實《マサテ》。「ま」は接頭語で、「さて」は「定む」と關係のある語である。即ち「まさで」は確かにの意。○「ころく」は子等來の意を、その鳴聲に託したのである。この「子」は男を親しんで呼ぶ詞である。○諧謔を以てよみ贈つた歌である。
(520)【譯】本統に君がお見えになつたのでもないのに、子等來《コロク》/\と鳴く烏は、いま/\しい大うそつきの鳥である。
 
3528 水鳥の 立たむよそひに 妹のらに もの言はず來にて 思ひかねつも
 
 水都等利乃。多多武與曾比爾。伊母能良爾。毛乃伊波受伎爾※[氏/一]。於毛比可禰都毛。
 
【釋】○「水鳥の」は「立つ」の枕詞。○「よそひ」は旅の支度をすること。○「妹のらに」は「妹らに」と同じ。新考に、ノはセナ・イモナ・兒ナのナと同じく、ラはロに等しい助詞であると釋いてある。
【譯】旅に立つ準備で忙しかつたので、ろく/\妻と話もせず出發して、物思ひに堪へられないことだ。
 
  防人歌
 
3570 葦《あし》の葉に 夕霧立ちて 鴨《かも》が音《ね》の さむきゆふべし 汝《な》をばしぬばむ
 
 安之能葉爾。由布宜利多知※[氏/一]。可母我鳴乃。左牟伎由布敝思。奈乎波思奴波牟。
 
【釋】○「防人」はサキモリと讀む。崎守の義で、西海道の要所を守る兵士である。東國即ち遠江品の以東(以前は坂東以東であつた)の所謂東人の壯丁を、三年交替で太宰府に召し、そこから更に邊要の地に遣はして、外敵の防備に備へたものである。特に東國人を擇んだわけは、彼等は蝦夷の影響を受けて、素撲にして勇敢な氣質を有つてゐた爲である。「防人歌」とはそれらの防人が、故郷を出る時、又は筑紫へ行く途中などで詠んだ作を云ふ。○この歌は防人となつて行く男が、その妻によんで與へた作である。
【譯】水邊の葦原に夕霧が立つて、鴨の聲が聞えて寒さが身に泌む夕は、お前のことがさぞ偲ばれるであらう。
【評】眞淵が「東にもかくよむ人も有けり」と云つたやうに、巧みで且つ感情の深い作である。
 
(521)3571 おの妻を 人のさとに置き おほほしく 見つつぞ來ぬる この道のあひだ
 
 於能豆麻乎。比登乃左刀爾於吉。於保保思久。見都都曾伎奴流。許能美知乃安比太。
 
【釋】○「人のさとに置き」を考に、他の里に隱して置いた妹をおぼつかなく思ふのであるといひ、古義に作者は筑紫に居るので、吾が家に留め置くことを、人の里と云つたのてあると云つてゐる。古義の説がよい。
【譯】わが妻を遠い故郷に置いて來たので、まるで氣が拔けたやうになつて、この長い旅路の間を、美しい景色にもろくろく目をとめずに過ぎたことだ。
 
卷十四 終
 
(522)萬葉集 卷十五
 
○此の卷の歌數は二百八首であつて、之を明かに二部に分つことが出來る。即ち初めの百四十五首は、新羅へ遣はされた使節の往還の詠であつて、悲壯な別離の歌を始め、途上で詠んだ海洋の壯觀、悲痛な望郷の詠、及び一行中の一人なる雪連宅滿が、壹岐で病歿した時の哀悼の作等であり、後の六十三首は、中臣宅守と茅上娘子との間の哀れな贈答の歌である。此等は天平の盛時の作で、萬葉末期に屬する作として注意すべきものである。
 
   天平八年丙子夏六月遣2使新羅國1之時使人等各悲v別贈答及海路之上慟v情陳v思作歌並當v所誦詠之古歌
○續紀に「天平八年四月丙寅、遣2新羅1使阿倍朝臣繼麻呂等拜朝。九年正月辛丑、遣2新羅1使大判官從六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大藏忌寸麻呂等入v京。大使從五位下阿倍朝臣繼麻呂泊2津島1卒。副使從六位下大伴宿禰三中染v病不v得v入v京。」とある。大使は長官で、副使・大判官・小判官といふ順序に、其の下に諸役が置かれたのである。
 
3578 武庫の浦の 入江の渚鳥《すどり》 はぐくもる 君をはなれて 戀に死ぬべし
 
 武庫能浦乃。伊里江能渚鳥。羽具久毛流。伐美乎波奈禮弖。古非爾之奴倍之。
 
【釋】○一行中の一人の妻が別を悲しんで詠んだ作である。○「武庫の浦」は兵庫の古名で使人の船出をする所。○「渚鳥」は洲に居る鳥で、何鳥と定まつてはゐない。○「はぐくもる」は「はぐくまる」と同じ。
(523)【譯】武庫の浦の入江に居る鳥が、母の翼に包まれて大切に育てられてゐる樣に、愛護せられてゐたわが夫に別れて、自分は戀死をすることであらう。
【評】以下五首一々に評することはしないが、生別やがて死別とならぬとも限らぬ危險の多い旅路に、夫を出しやる妻の心、或は戀しい人を留め置いて、蒼海萬里の長い海路を凌いで、知らぬ國に渡らんとする夫の心が、さま/”\に悲しく歌はれてゐて、讀む者をして泣かしめるものがある。
 
3580 君が行く 海邊《うみべ》の宿に 霧立たば あがたち歎く いきと知りませ
 
 君之由久。海邊乃夜杼爾。寄里多多婆。安我多知奈氣久。伊伎等之理麻勢。
 
【釋】わが夫の君よ、君が行き給ふ海邊の旅宿りに、霧が立ちこめましたならば、それは家に殘されてゐる妻が、戀しさに堪へられずして、溜息をついてゐる息であると思し召せ。
 
3581 秋さらば あひ見むものを 何しかも 霧に立つべく 歎きしまさむ
 
 秋佐良婆。安比見牟毛能乎。奈爾之可母。奇里爾多都倍久。奈氣伎之麻左牟。
 
【釋】○これは右の妻の歌に答へて、なぐさめた作である。○「秋さらば云々」は、夏六月に出發して、その年の秋には還つて來る豫定であつたのである。(併し實際は明年の春に還つてゐる。)
【譯】秋になつたら、互に顔を見ることが出來るのに、どうしてそんなに息が霧に立つほど、悲しむことがあらうぞ。
 
3582 大船を あるみに出し います君 つつむことなく はやかへりませ
 
 大船乎。安流美爾伊多之。伊麻須君。都追牟許等奈久。波也可敝里麻勢。
 
(524)【釋】○「あるみ」は荒海。○「います」は「行く」の敬語。○「つつむことなく」は恙なく。○これは妻の贈つた歌。
【譯】大船を荒海に漕ぎ出していらつしやるわが夫の君よ、恙なくおはして早くお歸り下さい。
 
3583 まさきくと 妹がいははば 沖つ波 千重に立つとも さはりあらめやも
 
 眞幸而。伊毛我伊波伴伐。於伎都奈美。知敝爾多都等母。佐波里安良米也母。
 
【釋】○「まさきく|と〔右○〕」は古義に引いてゐる或説に、「而」を「與」の誤であるとする説に從つたのである。○「いはふ」は齋み清めて平安を祈る意。
【譯】いとしい妻が齋み愼しんで、懇に無事を祈つてゐてくれたならば、沖の波が千重に立つても、ちつとの障りもありはせぬ。
 
3586 わが故に おもひな痩せそ 秋風の 吹かむその月 あはむもの故
 
 和我由惠爾。於毛比奈夜勢曾。秋風能。布可武曾能都奇。安波牟母能由惠。
 
【譯】自分を慕ふために、思ひに痩せるやうなことをしてくれるな。秋風が吹く頃になつたら、やがて歸つて來て逢ふのだから。
 
3595 あさびらき 漕ぎ出《で》て來れば 武庫の浦の 潮干の潟に たづが聲すも
 
 安佐妣良伎。許藝弖天久禮婆。牟故能宇良能。之保非能可多爾。多豆我許惠須毛。
 
【釋】○これは使人が海路にあつて詠んだ作である。○「あさびらき」は朝船を出すこと」。(既出)○「漕ぎ出て云々」は難(525)波津を出て、武庫の浦にさしかゝつたのである。
【譯】朝船を乘り出して、武庫の浦を漕いで行くと、潮干してゐる潟に鶴の聲がして、旅情をそゝることである。
 
3599 月《つく》よみの 光を清み 神島《かみしま》の 磯回《いそみ》の浦ゆ 船出すわれは
 
 月余美能。比可里乎伎欲美。神島乃。伊素未乃宇良由。船出須和禮波。
 
【釋】○「神島」は備中の西部にある島で、今はカウノシマと呼んでゐる。○「磯回の浦」は神島の磯めぐり。
【譯】月の光があまり明るいから、神島の磯邊から船を出して、自分は夜船を漕いで行くのである。
【評】海面の和いだ時には、夜でも舟を漕いだのである。月の光をたどりながら、西を指して漕ぎ行く遊子の旅情が哀れである。
 
   安藝國長門島舶泊磯邊作歌一首
 
3618 山川《やまかは》の 清き川瀬に 遊べども 奈良の都は 忘れかねつも
 
 夜麻何泊能。伎欲吉可波世爾。安蘇倍杼母。奈良能美夜古波。和須禮可禰都母。
 
【釋】○「長門島」は今日の倉橋島である。○「かぬ」は「かね」の活用で、「がたし」と同系の語である。
【譯】山から流れ落ちるこの清い川瀬に遊んでも、少しも心は慰められる事なく、やはり奈良の都は忘れることが出來ない。
【評】「咲く花の匂ふが如く今盛りなり」と謳はれた當時の都の人々にとつては、如何なる佳景も到底旅情を慰めるには(526)足らなかつたであらう。前にも「海原を八十島がくり來ぬれども奈良の都は忘れかねつも」といふ歌がある。
 
   從2長門浦1舶出之夜仰2觀月光1作歌三首
 
3622 月よみの 光を清み 夕なぎに かこの聲呼び 浦み漕ぐかも
 
 月余美乃。比可里乎伎欲美。由布奈義爾。加古能古惠欲妣。宇良未許具可母。
 
【釋】○「長門浦」は安藝の倉橋島の南方の本浦《ホンウラ》の舊名。○「かこ」は舟をあやつる者、即ち舟子のこと。集中には多く水手の字をあてゝある。○「聲呼び」は大聲で呼び立てること。
【譯】月の光がさやかに照るので、夕なぎを幸ひと、舟子どもが大聲で呼び立てながら、浦のあたりを漕ぎ廻つてゐる。
 
3623 山のはに 月傾けば いざりする あまのともし火 沖になづさふ
 
 山乃波爾。月可多夫氣婆。伊射里須流。安麻能等毛之備。於伎爾奈都佐布。
 
【釋】○「山のは」山の端。即ち空と山の界を云ふ。○「なづさふ」は「馴《ナ》つく」といふ意にも用ゐるが、水に關しては「浮ぶ」「漬《ツ》く」「ただよふ」等の意となる。
【譯】山の端に月が傾くと、漁をする海士のいざり火が、沖の方にあちらこちらにただよふのが見えて、心細い感じがする。
 
3624 われのみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖べのかたに ※[楫+戈]のおとすなり
 
 和禮乃未夜。欲布禰波許具登。於毛敝禮婆。於伎敝能可多爾。可治能於等須奈里。
 
(527)【譯】自分ばかりがかうして夜船を漕いでゐるのかと思つてゐると、沖の方にも同じやうに、船を漕ぐ人があると見えて、※[楫+戈]の音が聞える。
【評】以上三首は平坦な歌であるが、實景を望んでの作であるから、誦む者をして、自らその景中の人とならしめ、作者と同じ情緒に引き入れる力を有つてゐる。
 
   過2大島鳴門《オホシマノナルト》1而經2再宿《フタヨ》1之後追作歌一首
 
3638 これやこの 名におふ鳴門の うづしほに 玉藻かるとふ 海人少女ども
 
 巨禮也己能。名爾於布奈流門能。宇頭之保爾。多麻毛可流登布。布麻乎等女杼毛。
    右一首田邊秋庭
 
【釋】○「大島鳴門」は周防の柳井津の東方に横たはる屋代島(大島)と、陸地の間の海狹の大畠瀬戸をいふ。阿波の鳴門と共に名高い瀬戸である。○「これやこの」は「これこそかの」で、委しくいへば、かねて聞き及んだのは即ちこれであると云ふ意である。○「名におふ」は名に負ふで、名の實に背かぬこと、即ちさすがに名高いほどあつての意である。○「うづしほ」は潮の渦卷。○「田邊秋庭」の傳未詳。
【譯】なるほどこれが、さすがに名の聞えた恐ろしい渦卷の中に下りて、玉藻を刈ると云ふあの勇ましいわざをする海人少女たちだな。
【評】かよわい女の身で、荒い潮を潜るやうな業を營んでゐるのを見て、都人が驚いたのである。
 
(528)   佐婆《サバ》海中忽遭2逆風漲浪1。漂流經v宿《ヒトヨ》而後幸得2順風1到2着豐前國下毛郡分間浦1於v是追2怛《オソレテ》艱難1悽悵作歌二首
 
3648 海原の 沖邊にともし いざる火は あかしてともせ 大和島見む
 
 宇奈波良能。於伎敝爾等毛之。伊射流火波。安可之弖登母世。夜麻登思麻見無。
 
【釋】》○「佐婆海」は周防の三田尻の前あたりの海。今も郡名を佐波といふ。○「分間」は萬間浦の誤てあらうと云ふことである。(「豐前志」)。「萬問」は豐前下毛郡間間埼のあたり。○「あかしてともせ」を考には明くともせの意に釋き、代匠記・古義には夜を明かしてともせの意に釋いてゐる。何れにも解せられるが、今は前説による。
【譯】沖の方で漁る漁人の漁火を、もつと明くともせよ、その光で戀しい大和の國を見ようから。
 
3651 ぬば玉の 夜渡る月は はやも出でぬかも 海原の 八十島のうへゆ 妹があたり見む
 
 奴波多麻能。欲和多流月者。波夜毛伊弖奴香文。宇奈波良能。夜蘇之麻能宇倍由。伊毛我安多里見牟。
 
【釋】夜を照らし行く月は、早く出ないかなア、海上の島々の上から、遙か彼方の妻のあたりを眺めたいものだ。
 
   海邊望v月作歌三首
 
3665 妹を思ひ いのねらえぬに あかときの 朝霧ごもり かりがねぞ啼く
 
 伊母乎於毛比。伊能禰良延奴爾。安可等吉能。安左宜理其問理。可里我禰曾奈久。
 
(529)【譯】妻を慕つて夜の目もねられないのに、曉になつて立ちこめた朝露の中で、雁が鳴いて戀しさをそゝるわい。
【評】第三句以下の叙景が、旅人の心を悲しく曇らせてゐる。
 
3666 ゆふされば 秋風さむし わぎもこが 解き洗ひごろも 行きてはや着む
 
 由布佐禮婆。安伎可是佐牟思。和伎母故我。等伎安良比其呂母。由伎弖波也伎牟。
 
【譯】夕方になると、秋風が肌に泌みて寒い。家の妻が自分に着せようと思つて、解いて洗濯しておいてくれた着物を早く歸つて看たいものだ。
【評】「解き洗ひごろも」の一句に、家に在る妻をあざやかに描き出してゐる。
 
3667 わが旅は 久しくあらし このあが着《け》る 妹が衣《ころも》の あかつく見れば
 
 和我多妣波。比左思久安良思。許能安我家流。伊毛我許呂母能。阿可都久見禮婆。
 
【譯】自分の旅もよほど久しく經たらしい。自分が下に着てゐる妻の形見の着物に、こんなに垢がついたのを見ると。
 
  到2筑前國志麻郡之|韓亭《カラノトマリ》1舶泊經2三日1於v時夜月之光皎皎流照|奄《タチマチ》對2此華1旅情悽噎陳2心緒1聊以栽歌
 
3670 唐《から》どまり 能許《のこ》の浦浪 立たぬ日は あれども家に こひぬ日はなし
 
 可良等麻里。能許乃宇良奈美。多多奴日波。安禮杼母伊敝爾。古非奴日者奈之。
 
【釋】○「韓亭《カラドマリ》」(唐泊)は筑前糸島郡小田村大字宮浦附近で、福岡灣口の西岸の地である。昔こゝに外國人を宿泊せしめ(530)る館が設けられてゐたものと見える。○「能許の浦」は韓亭の東方、福岡灣口の中央に横たはる、殘島《ノコジマ》あたりの浦をいふ。(五五三頁の地圖を見よ)
【譯】唐泊の沖の能許の浦に、浪の立たない日はあるけれども、私が家を戀しく思はない日は一日もない。
 
   引津(ノ)亭《トマリ》舶泊之夜作歌一首
 
3676 天飛ぶや 雁を使に 得てしがも 奈良の都に ことづけやらむ
 
 安麻等夫也。可里乎都可比爾。衣弖之可母。奈良能彌夜古爾。詐登都礙夜良武。
 
【釋】○「引津」は筑前國志摩郡|可也《カヤ》山下の漁村の名。今日の小富士村あたりかと云ふ。○作者は左註に大判官とある。名は傳はつてゐない。
【譯】どうかして空を飛ぶ雁をわが使に得たいものだ、そしたら郡に居ろ家人に、思ふことを言傳《コトヅテ》しように。
 
   肥前國松浦郡狛島亭舶泊之夜遙望2海浪1慟2旅心1作歌
 
3687 足引の 山飛び越ゆる かりがねは 都に行かば 妹に逢ひて來ね
 
 安思必寄能。山等妣古由留。可里我禰婆。美也故爾由加波。伊毛爾安比弖許禰。
 
【釋】○「狛島」は柏島の誤であらうと云ふことである。柏島は即ち神集《カシワ》島である。○作者は未詳。
【譯】山を飛び越えて行く雁よ、せめてお前なりと都に行つたら、わが妻に逢つて安否を見て來てくれ。
【評】以上三首は何れも苦勞の多い海路にあつて、遠く家人を思つた感の深い作である。旅情いかにもと思はれる。
 
(531)   中臣朝臣宅守與2狹野茅土娘子1贈答歌
 
○目録には「中臣朝臣宅守娶2藏部女1嫂2狹野茅上娘子1之時。勅斷2流罪1配2越前國1也。於是夫婦相嘆易v別離1v會。各陳2慟情1贈答歌六十三首。」とある。これによつて思ふに、中臣|宅守《ヤカモリ》が藏部女《クラベメ》といふ妻がありながら、狹野茅上《サヌノチガミ》娘子(古寺に官女であらうと云つてゐる。)を戀した爲に、罪に問はれて越前に流された時、互に詠みかはした作である。今十二首を講じる。
 
3724 君が行く 道のながてを 繰りたたね 燒きほろぼさむ 天《あか》の火もがも
 
 君我由久。道乃奈我※[氏/一]乎。久里多多禰。也伎保呂煩散牟。安米能火宅我母。
 
【釋】○「ながて」は長道。「て」は「行手〔右△〕」「なはて〔右△〕」(畷)などの「て」と同じで道のこと。○「繰りたたね」は繰り寄せて疊む意。○道を焚き亡ぼすとは、道を無くしたいといふ願を強く表したのである。○これは娘子の歌。
【譯】あなたが流されて、遙々と遠い國へいらつしやるその長い行手を、一所に寄せ疊んで、燒いてしまふ靈火があつたらよいにと思ひます。
【評】燃え上る情熱の聲である。
 
3726 この頃は 戀ひつつもあらむ たまくしげ 明けてをちより すべなかるべし
 
 己能許呂波。古非都追母安良牟。多麻久之氣。安氣弖乎知欲利。須辨奈可流倍思。
 
【釋】○これも娘子の作。○「たまくしげ」枕詞。○「をち」は以後の意。明日別れて後の意。
【譯】明日はいよ/\別れなければならぬと思ふと、戀しくはありますが、それでもまだ近くにゐるのですから、幾ら(532)か戀しさを忍ぶこともできます。明けて悲しい別をしたならば、それより後は、何ともしやうのない悲しい思をすることでせう。
【評】別れた後の恨みは、道の長手よりも長いであらう。深い哀愁を感ぜしめる作である。
 
3727 塵泥《ちりひぢ》の 數にもあらぬ われ故に 思ひわぶらむ 妹が悲しさ
 
 知里比治能。可受爾母安良奴。和禮由惠爾。於毛比和夫良牟。伊母我可奈思佐。
 
【釋】○以下二首は宅守が途上で詠んだもの。
【譯】罪を被つて流されて行くこの身は、塵埃や泥土と同樣、物の數でもないのに、そのわれ故にいとしい妹が悲しい思をしてゐると思ふと、悲しくてならぬ。
 
3730 かしこみと 告《の》らずありしを み越路《こしぢ》の たむけに立ちて 妹が名|告《の》りつ
 
 加思故美等。能良受安里思手。美故之治能。多武氣爾多知弖。伊毛我名能里都。
 
【釋】○「かしこみと云々」は勅勘をかしこみて、妹が戀しいとも人には云はなかつたがと云ふ意。○「み越路」の「み」は接頭語。○「たむけ」は手向で、今日いふ峠である。其處で神に幣を手向けて、道中の平安を祈るからさういふのである。この手向山は越前に入る国境の山であらう。
【譯】勅勘を畏れかしこみて、妹のことを人にも告げずにゐたが、いよ/\越路の峠を打ち越える時に、思はず妹の名を口に出してしまつた。
(533)【評】女に劣らぬ情熱はありながら、周圍を顧みるだけの自制力を有してある所に、女性と異つた感情が表れてゐて、それが一種の悲哀を感じさせる。
 
3733 わぎも子が 形見のころも なかりせば 何物もてか 命つがまし
 
 和伎毛故我。可多美能許呂母。奈可里世波。奈爾毛能母※[氏/一]加。伊能知都我麻之。
 
【釋】○これより以下の三首は宅寺が配所で詠んだもの。
【譯】わが妻が形見にせよと云つて、贈つてくれた衣があるから、せめて慰みにそれを見て、悲しさ戀しさが輕くなるのだが、若しこれでもなかつたならば、それこそ戀死に死ぬるよりほかはないのだ。
 
3740 天地《あめつち》の 神なきものに あらばこそ 我《あ》が思《も》ふ妹に 逢はず死にせめ
 
 安米都知能。可未奈伎毛能爾。安良婆許曾。安我毛布伊毛爾。安波受思仁世米。
 
【譯】哀れと思し召して下さる、天つ神國つ神が世にないものであつたら、戀死するほど思つてゐるその甲斐もなく、この妹に逢へないで、自分は焦れ死をしてしまふであらう。
 
3742 あはむ日を その日と知らず とこやみに いづれの日まで あれ戀ひ居らむ
 
 安波牟日乎。其日等之良受。等許也未爾。伊豆禮能日麻弖。安禮古非乎良牟。
 
【譯】いつになつたら逢へると云ふあてもなく、かうしてまで常闇の中に居るやうな思をして、いつまで戀ひこがれてゐるのだらうか。
 
(534)3745 命あらば 逢ふこともあらむ わが故に はたな思ひそ 命だにへば
 
 伊能知安良婆。安布許登母安良牟。和我由惠爾。波太奈於毛比曾。伊能知多爾敝波。
 
【釋】○以下五首は娘子の詠。○「はた」はやはり〔三字傍点〕、又はさし當つて〔五字傍点〕といふ意。○接續詞の時は或は〔二字傍点〕といふ意になるが、ここは副詞である。)古義に、もと心には欲しないが、外にしやうもなく、止むなくするといふ意であると説明してゐる。○「命だにへば」は命さへながらへてゐたらの意。○これは宅守の贈つた「わぎもこに戀ふるに吾はたまきはる短き命も惜しけくもなし」に答へた歌であらう。
【譯】お互に命さへ永らへてゐましたなら、再び逢ふことが出來るに相違ありません。だから今さしあたつては、私の爲にそんな苦しい物思をなさいますな。
【評】慰め且つ勵した作である。「命からば」で始まつて「命だにへば」で結ばれた格調に注意すべきである。
 
3750 天地の そこひのうらに あが如く 君に戀ふらむ 人はさねあらじ
 
 安米都知乃。曾許比能字良爾。安我其等久。伎美爾故布良牟。比等波左禰安良自。
 
【釋】○「そこひ」は「そきへ」の轉訛である。「天雲のそきへの極み」「天雲のそくへの極み」など云ふ句は祝詞や萬葉に屡見えてゐる。「そきへ」の「そき」は「退《ソ》く」「放《サ》く」と同義であつて、底《ソコ》もこれと關係がある。而して「へ」は邊の義であるから、「そきへ」「そこひ」は天地の至り極まる果の處を指すのである。○「うら」は裏で内の意。○「さね」は「實」の意でまことにといふ意の副詞。
【譯】天地のはて/\まで尋ねて見ても、私のやうにあなたをお慕ひ申してゐる人は、眞に二人とはありますまい。
 
(535)3767 たましひは あした夕《ゆうべ》に たまふれど あが胸痛し 戀のしげきに
 
 多麻之比波。安之多由布敝爾。多麻布禮杼。安我牟禰伊多之。古非能之氣吉爾。
 
【釋】○第三句までの意を略解に、あなたの魂を私の身に添へてゐて下さるけれどもの意に見てゐるが、古義に嚴水の説として、第一句を魂をばの意と見て、第三句を鎭魂の祭の祈祷をすることであるとしてゐる。これは嚴水の説がよい。天武天皇紀に、招魂をミタマフリと訓んでゐるのも、このタマフルと同じで、語源は魂觸りの義であらう。上代の人は人間の靈魂は、肉體を離れて別に存在するものと信じ、その靈魂は知らず識らずの間に、外界に遊行するものと信じてゐた。(記紀の神代卷に、大國主命の和魂が海上を照らして來たことが記してある。)そこでその靈魂を體内に鎭める爲に、昔は鎭魂祭《タマシヅメノマツリ》を行つたのである。令義解に「召2復離遊之魂魄1、令v鎭2身體之中府1、故曰2鎭魂1」とある。從つてこゝも戀しさの鎭まるやうに、鎭塊の祈祷をする意に見るべきである。
【譯】朝に夕に鎭魂の祈祷を致しますけれども、その效果もなく、私の胸中は戀の烈しさに苦しみ通しであります。
 
3772 歸りける 人來れりと いひしかば ほとほとしきに 君かと思ひて
 
 可敝里家流。比等伎多禮里等。伊比之可婆。保登保登之吉爾。君香登於毛比弖。
 
【釋】續紀によれば、天平十二年六月に大赦があつて、流人の穗積朝臣老等五人は召し還されて京に歸つたが、中臣宅守は赦されなかつたことが見えてゐる。この歌はその時娘子が悲しんで詠んだものであらう。○「ほとほとしきに」はネトンド(殆)のホトを重ねたものを、形容詞的に活用させたのである。
【譯】赦されて召し還された人が、京に上つて來られたと人が申しましたので、それでは君もお歸りになつたのかと思(536)て、うれしさの餘りに、殆ど死ぬるほどの思をいたしました。
 
3774 わが背子が 歸り來まさむ 時のため 命殘さむ 忘れ給ふな
 
 和我世故我。可反里吉麻佐武。等伎能多米。伊能知能己佐牟。和須禮多麻布奈。
 
【譯】わが夫の君がお歸りになる時の爲にとて、絶えようとする私の命を繋いでおきます、どうぞ私をお忘れなさいますな。
【評】「命殘さむ」の一句がいかにも哀れである。
 
卷十五 終
 
(537)萬葉集 卷十六
 
○此の卷に收められた歌は百四首であつて、これも前卷のやぅに、大體二部に分つことが出來る。即ち前半數は平安朝の伊勢物語や大和物語と類を同じうするもので、傳説又は物語に伴ふ歌であり、後半は後の撰集に見る所の、俳諧體の歌に相當するもので、種々の滑稽趣味を歌つたものである。なほ卷末に東歌に類した民謠が收めてある。兎に角卷十六は集中で異彩を發つてゐる一卷である。
 
  有2由縁1並雜歌
 
3807 安積山《あさかやま》 かげさへ見ゆる 山の井の 淺き心を あが思《も》はなくに
 
 安積香山。影副所見。山井之。淺心乎。吾念莫國。
    右歌傳云。葛城王遣2于陸奥國1之時。國司祗承緩怠異甚。於v時王意不v悦。怒色顯v面。雖v設2飲饌1。不v肯2宴樂1。於v是有2前釆女風流娘子1。左手捧v觴。右手持v水。撃2之王膝1。而詠2此歌1。爾乃王意解脱。樂2飲終日1。
 
【釋】○歌を講ずるに先つて、左註に就いて説明して置く。○「葛城王」は橘諸兄でなく、天武天皇紀に見えてゐる同名別人であらうと云ふ。(契沖・眞淵等の説)○「右手持v水云々」を宣長は王の膝に水をうちそゝぐ意に解してゐるが、水は酒のことである。同じ卷に「味飯于水爾釀成《ウマイヒヲミヅニカモナシ》」と歌つてゐるのも酒である。「撃つ」は抔と瓶子とを膝に打ち當てる(538)ことである。○左註の大意は昔葛城王が奥州へお下りになつた時、その國の國守の※[疑の旁が欠]款待が不行屆であつた爲に、王は不興に思召し、顔に怒の色をお顯しになつて、盃を手にしようとなさらなかつた。その時以前に都に出て、釆女を勤めてゐた氣の利いた娘子があつて、早速左の手に盃を執り、右手に酒を捧げて、それでお膝を拍つて、この歌を詠んだので、忽ちお怒が解けて、終日樂しく酒を召し上つたと云ふ。○「安積山」は岩代國安積郡にある。○「山の井」は清水の湧き出る泉。「山の井の」までの三句は「淺き」の序であるが、安積山はその近傍の山であるので、その名から次に「淺く」を云ひ續けたのである。○四五句は、淺くおろそかに私は思ひ參らすのではないのにといふ意。
【譯】安積山の影まではつきりと映つてゐる、この泉の淺いやうに、淺くおろそかに私は思ひは致しませんのに、なぜ不興に渡らせられますか。
【評】古今集の序文に「難波津の歌はみかどのおほんはじめなり。安積山の言の葉は釆女の戯よりよみて、この二歌は歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。」とあつて、この歌は古くから名高いことは、人のよく知る所である。
 
   戀2夫君1歌一首並短歌
 
3811 さにづらふ 君がみことと 玉づさの 使も來ねば 思ひやむ 吾が身一つぞ ちはやぶる 神にもなおほせ (539)うらべませ 龜もな燒きそ こほしくに いたき吾が身ぞ いちじろく 身に泌みとほり むらさもの 心碎けて 死なむ命 にはかになりぬ 今更に 君か吾《あ》を呼ぶ たらちねの 母のみことか もも足らず 八十《やそ》のちまたに 夕占《ゆふけ》にも 卜《うら》にもぞ間ふ 死ぬべき吾《あ》が故
 
 佐耳通良布。君之三言等。玉梓乃。使毛不來者。憶病。吾身一曾。千磐破。神爾毛莫負。卜部座。龜毛莫燒曾。戀之久爾。痛吾身曾。伊知白苦。身爾染保里。村肝乃。心碎而。將死命。爾波可爾成奴。今更。君可吾乎喚。足千根乃。母之御事歟。百不足。八十乃衢爾。夕占爾毛。卜爾毛曾問。應死吾之故。
 
【釋】○この歌にも傳説が附いてゐる。昔一人の娘子があつて、その夫と久しい年月の間逢はないでゐるうちに、戀しさのあまりに病の床に就いた。それからは日に/\痩せ衰へ行くばかりであつたが、もはや命も危くなつたとき、母が使をやつてその夫を喚び寄せた。やがて夫が來たのを見て、娘子は涙に咽びながら、この歌をよんで、間もなく息が絶えてしまつたと云ふ。(下に掲げてある左註を見よ。) ○「さにづらふ」は君・妹・少女・紅葉・色・紐などにかかる枕詞。「さ」は接頭語であるが、「に」は丹で赤色の土、(繪具に用ゐた)「つらふ」を冠辭考には著くの意といひ、古義には其のさまをいふ語であると云つてゐる。「づらふ」はもと「づる」に副語尾の「ふ」が添うたもので、「づる」は「じる」と同じく、又「ぶる」と其の意義を同じくして、有樣を表はす接尾語である。古事記の八千矛神の歌に「引こ(540)じらふ」「押そぶらふ」などあるのも、此の「じる」「ぶる」が附いたものである。即ち「さにづらふ」の意は紅色ににほふことで、顔の色目の美しいことを云ふのである。○「君がみことと」は戀しい君の御言葉であるぞと云つての意。○「玉づさの」は「使」の枕詞。(既出)○「ちはやぶる」は「神」の枕詞。(既出)○「神にもなおはせ」は神がさうおさせになるのだと云ひ負はすなといふ意。○「うらべませ」は古義の訓で、同書に卜部を招待してといふ意と釋いてゐる。卜部は卜占を掌る人。舊訓にはウラベスヱとある。○「龜もな燒きそ」は龜を灼いて卜術を行ふこともするなといふ意。龜卜は支那から傳はつた占である。○「こほしくに」戀しさの爲に。○「身に泌みとほり」は戀しさが骨身に泌み通る事。○「むらきもの」は心の枕詞。(既出)○「にはかになりぬ」は危くなつた意。○「たらちねの」は母の枕詞。(既出)○「もも足らず」は「八十」の枕詞。(既出)○「夕占にも卜にもぞ問ふ」は何とかして命をとりとめる方法はないかと思つて、衢に立つて辻占に問ひ、或は龜卜に問ひなどする事。さてこの辻占や龜卜に問ふのは、誰がする業であるかといふに、略解には母がするものゝやうに釋いてあるが、古義には夫又は母が枕上に在つて、絶え入らうとしてゐる娘子を喚び返さうとし、親族兄弟などが、占卜にかけなどしてゐるさまであると釋いてある。これは古義の説がよい。○「死ぬべき吾が故」はもはや命の助からぬ吾なるものをといふ意。
【譯】戀しい夫の君のお言葉であるぞと云つて、使が來るといふこともなく、全くお使りさへなくて、わが身一つに深い物思をしてゐる自分である。それを何かの祟のために、神樣がさうおさせになるもののやうに云ひなして下さるな。又卜部を招いて、龜を燒いて占つたりするやうなこともしないで下さい。夫戀しさの爲に、心を痛めて苦しんでゐる私である。その深い思がはつきりと、自分の身に泌み込んで、われと心を千々に碎いて、命も今は危くなつたのである。それを今更夫の君が來て、自分の命を喚び返さうとして、頻に名をお呼びなきるのか。それともあの(541)聲は、母上が呼んでいらつしやるのであるか。又人々は心配して、こゝやかしこで辻占を問うたり、卜にかけたりして噪いで居る。どんなにしても生きはしない自分であるのに。
【評】佐々木博士はこの男といふのは、母に隱してあつた情夫であつて、女の今はの際に迫つて、さすがに母も哀れと思つて、かの男を呼び寄せ、共に枕邊に立つて慰めたのであらうと云はれたが、如何にもさう解する事が出來る。當時の多くの女が、戀に對しては比較的自由であり、又大膽であつたに反して、この女は恰も江戸時代の女性のやうに、戀を深く胸中に秘めて、その物思の爲に死に瀕するまで、己が心を周圍の者に知らせなかつたつゝましやかさが、誦む者の感情を大いに動かすものとなつてゐる。なほ句がとかく切れ/\になつてゐるのも、呼吸の切迫した人の口から出る自然の調のやうで、哀れに聞える。
 
   反歌
 
3812 卜部《うらべ》をも 八十《やそ》の衢《ちまた》も うら問《と》へど 君をあひ見む たどき知らずも
 
 卜部乎毛。八十乃衢毛。占雖問。君乎相見。多時不知毛。
    右傳云。時有2娘子1。姓車持氏也。其夫久逕2年序1。不v作2往來1。于v時娘子。係戀傷v心。沈2臥痾疹1。痩羸日異。忽臨2泉路1。於v是遣v使。喚2其夫君1來。而乃歔欷流涕。口2號斯歌1。登時《スナハチ》逝没也。
 
【譯】卜部を招いても、八十の衢に人を立たせて辻占を問うて見ても、(蘇生るといふ兆はないことだから)戀しい君を相見るたのみは到底ないのである。
【評〕この長歌並に反歌は、いふまでもなく右に掲げてある物語に伴ふ歌であつて、これは其の少女が詠んだのではな(542)く、或る歌人が此の物語に基いて作つた歌であらうと思ふ。此の卷に收めてある此等の物語は、やがて平安朝になつて盛に行はれた、歌を中心とする歌物語の先驅である。
 
   穗積親王御歌一首
 
3816 家にありし 櫃《ひつ》に※[金+巣]《かぎ》さし 藏《をさ》めてし 戀の奴《やつこ》の つかみかかりて
 
 家爾有之。櫃爾※[金+巣]刺。藏而師。戀乃奴之。束見懸而。
    右歌一種。穗積親王宴飲之日。酒酣之時好誦2斯歌1。以爲2恒賞1也。
 
【釋】○これは穗積親王が酒宴の席で、醉がめぐつて來た時いつも興じて謠つた歌である。○「※[金+巣]」は和名抄に「藏乃賀岐」とあるから、カギと訓むがよい。今いふ錠である。昔は鍵も錠も共にカギと云つたやうである。眞淵は卷二十に「牟浪他麻乃久留爾久枳作之加多米等之《ムラタマノクルニクギサシカタメトシ》」(防人の歌)とあるから、こゝもクギと訓むがよいと云つたけれども、クギは恐らくカギの東國訛であらう。○「奴《やつこ》」は家之子《ヤツコ》の義で奴婢をいひ、轉じては人を罵つて云ふ時にも用ゐる。ここは戀を擬人して罵つたのである。○「つかみかかりて」はつかみかゝつて吾を惱すことだといふ意。
【譯】家にある櫃に入れて、錠を下ろして置いた戀の奴めが、どうして飛び出したものか、掴みかゝてまたしてもこの身を惱すのだ。困つたものだ。
【評】これより以下十數首は滑稽趣味を詠んだ作であるが、何れも生活上の活きた事象に基いた、機智・奇想・誇張・錯誤等を巧みに詠んだ作であつて、わが滑稽文學に光彩を發つものと云ふべきである。かの古今集以後の俳諧歌が單に辭句の上の洒落を弄して、内容に何の可笑味も含まれてゐなかつたのとは正に相反して、日常の言葉を直ちに歌(543)としたものらしく、而も着想が氣が利いてゐて、文學的價値の高い滑稽味を有つてゐる所が勝れてゐる。
 
   長忌寸意吉《ナカノイミキオキ》麻呂歌二首
 
3824 さしなべに 湯わかせ子ども 櫟津《いちひつ》の 檜橋《ひばし》より來む 狐《きつ》にあむさむ
 
 刺名倍爾。湯和可世子等。櫟津乃。檜橋從來許武。狐爾安牟佐武。
    右一種傳云。一時衆集宴飲也。於v時夜漏三更。所2聞《キコユ》狐聲1。爾乃衆諸誘2奥麿《オキマロ》1曰。關2此饌具雜器狐聲河橋等物1。但作v歌者。即應v聲作2此歌1也。
 
【釋】○この歌は、或時人々が夜宴を張つた時、夜が更けてから狐の聲が聲えたので、人々が奥麿《オキマロ》に、その座にあつた種々の器物に、狐の聲や河橋などを取り交へて、一首の歌を詠めと云つたときの作である。○「さしなべ」は和名抄に銚子を「佐之奈閇俗云2佐須奈閇1」とあつて、「温器也」とある。又新撰字鏡に鍋及び※[金+奄]を佐須奈戸とよんでゐる。思ふに※[金+間]鍋若しくは銚子のことであつて、「さす」は注ぐ意である。注ぐ口の附いてゐる※[金+間]鍋であらう。○「櫟津」は代匠記に古事記應神天皇御製に「伊知比韋能和邇佐能邇《イナヒヰノワニサノニ》云々」又允恭紀にも「到2倭(ノ)春日1食2于櫟井(ノ)上1」などある。その土地であらうと云ふ。○「檜橋は」これも代匠記に、櫟津に渡してある檜で作つた橋であるといふ。○「狐《キツ》」はキツネの古言。○「あむさむ」は沿ぶせむ。
【譯】※[金+間]鍋に湯をわかしておけ女達よ。櫟津の檜橋を通つて來る、あの狐に沿ぶせてやらう。
【評】奇想天外といふべき歌である。これ以下の滑稽趣味の歌は、何れも材料が豐富で、用語が自由で、趣向が奇拔で確かに國文學中の異彩である。
 
(544)   詠2酢醤蒜鯛水葱1歌》
 
3829 醤酢《ひしほす》に 蒜《ひる》つきかてて 鯛もがも 吾にな見せそ 水葱《なぎ》のあつもの
 
 醤酢爾。蒜都伎合而。鯛願。吾爾勿所見。水葱乃煮物。
 
【釋】○これも前の歌と同じ時の作であらう。○「ひしほ」は今の醤油である。○蒜は「にんにく」の類。○「つきかて」はつきまぜること。「かつ」は交ぜ合はす意。○「水葱」は「こなぎ」(鴨舌草)とも「ささなぎ」ともいふ。田や澤などに生える四五寸ほどの水草で、葉は葵の葉に似て長い葉柄がついてゐる。秋の初に紫色の五瓣の花が咲く。昔は羮にして供御にも奉つたのであるが、今は花を賞觀するだけである。
【譯】酢醤油につき交ぜた蒜の和物《アヘモノ》に、鯛の膾がたべたい。自分は水葱の羮なんかは見るのもいやだ。
【評】當時の食饌を知るべき無二の好資料である。
 
   獻2新田部親王1歌一首
 
3835 勝間田《かつまた》の 池は吾知る 蓮《はちす》なし しかいふ君が 鬚《ひげ》なきごとし
 
 勝間田之。池者我知。蓮無。然言君之。鬚無如之。
   右或有v人聞v之曰。新田部親王。出2遊于堵裡1。御2見勝間田之池1。感2緒御心之中1。還v自2彼池1。不v忍2憐愛1。於v時語2婦人1曰。今日遊行。見2勝間田池1。水影濤濤。蓮花灼灼。可憐斷腸不v可2得言1。爾乃婦人作2此戯歌1。專輙吟詠也。
 
【釋】○「新田部親王」は天武天皇の皇子。○「勝間田池」は生駒郡|都跡《ミヤト》村大字六條砂村に在る。○これは或人の話に、新(545)田部皇子が、勝間田池を御覽になつてからお還りになつて、其の景色を忘れ難く思し召し、侍女に今日勝間田の池を見て來たが、小波に映ずる蓮の花が、誠に美しかつたとお話しになると、その女が羨ましく思つて、戯によんだ歌である。○清輔の「袋草紙」卷三に、三井寺の勝觀法師が、この親王は大鬚の方であつたのを戯れて、鬚なきがごとしと詠んだのであると云つたことが見えてゐる。
【譯】勝間田の池は私よく存じてゐます。蓮は一本も在りません。さう仰つしやる君のお顔に、お髪がないと同じやうに。
【評】正岡子規は此の歌を評して次のやうに述べてゐる。「其の實池には蓮多くあり、其の人には鬚多くあるを反對にいへる所、滑稽にして面白し。此の歌の第二句「池は吾知る」とあるは、「池は蓮なし」といふべき其の中へ「吾知る」の一句を挿入したる所、最も巧なる言葉づかひなり。後世の歌、此の變化を知らざるがために單調に墮ち了れり。」
 
   謗2侫人1歌一首
 
3836 奈良山の 兒手柏《このてかしは》の ふたおもに かにもかくにも ねじけ人のとも
 
 奈良山乃。兒手柏之。兩面爾。左毛右毛。侫人之友。
    右歌一首博士|消奈行文《セナノユキフミ》大夫作之
 
【釋】○心のねぢけた人を誹つた歌。作者の「消奈行文」は明經博士で、元正朝から聖武朝にかけての人である。○「兒手柏」の何物であるかに就いて三説ある。顯昭の袖中抄には、オホトチ即ち女郎花の一種で、白い花の咲く男郎花の異名であるといひ、仙覺抄には開きかけの柏の葉といひ、貝原益軒は側柏《コノテカシハ》(松杉科の植物で、生垣などにする。)(546)であると云つてゐる。思ふに児手柏といふ名は、契沖が云つたやうに、柏の若葉が幼兒の掌に似てゐる所から得たので(男郎花の異名も葉の形から出たのである。)表と裏の區別が立たないから、兩面の序に用ゐたものと見える。(側柏の葉も兩面同じ色である。)契沖は、柏の若葉が風に吹かれて、裏表打返へされる所から、ねぢけ人につづけたのであると云つてゐる。○「ふたおもに」は一本に「兩面《フタオモテ》」とある。この句までは序。○「ねぢけ人」を宣長は「こびびと」とよんでゐる。
【譯】奈良山にある柏の若葉に兩面あるやうに、どちらから見ても、とにかくねぢけた人たちである。
【評]兒手柏が適切な見附物であるが、一首の調が氣品を具へてゐるのもよい。
 
   池田朝臣|嗤《アザケル》2大神《オホミワ》朝臣|奥守《オキモリ》1歌一首
 
3840 寺寺の 女餓鬼《めがき》まをさく 大神《おほみわ》の 男餓鬼《をがき》たばりて 其の子うまはむ
 
 寺寺之。女餓鬼申久。大神乃。男餓鬼被給而。其子將播。
 
【釋】○「池田朝臣」は名を眞枚《マヒラ》といふ。萬葉の末期の人。○「餓鬼」は痩せてゐるから、奥守の痩せてゐるのに譬へたのである。○「たばりて」は賜はりてで、夫に貰つてといふ意。○「うまはむ」は「うまふ」(蕃殖すること)に「む」を添へた形で、産まうといふ意。
【譯】方々の寺の痩せた女餓鬼が申すことには、丁度痩せた同士であるから、あの大神の男餓鬼を自分の夫に迎へて、その子を産んで見たい。
【評】「其の子うまはむ」の一句が如何にも辛辣である。
 
(547)   大神朝臣奥守報嗤歌一首
 
3841 佛造る まそほ足らずば 水たまる 池田のあそが 鼻の上《へ》を掘れ
 
 佛造。眞朱不足者。水渟。池田乃阿曾我。鼻上乎穿禮。
 
【釋】○前の歌に答へた作である。これも寺に關係のある佛師に寄せてよんでゐる。「池田朝臣」は赤鼻を持つてゐた人と見える。○「まそほ」の「ま」は接頭語で、「そほ」は赤土。○「水たまる」は池田の枕詞。○「あそ」は吾兄《アセ》で、人を親しみ且つ敬していふ時に添へる語。「朝臣」もこれから出てゐるので、吾兄臣《アセオミ》の約である。
【譯】佛像を造るときに朱が足らなかつたら、池田の君のあの赤い鼻の上を掘り取つたらよい。
【評】この兩人は親密な間柄であつたのであらう。何の憚る所もなく思ひ切つて揶揄つてゐる。二首ともその機智が頗る面白い。なほ次にこれに類した無邪氣な滑稽歌がある。
 
   獻嗤v僧歌一首
 
3846 法師らが 鬚《ひげ》の剃杭《そりぐひ》 馬つなぎ いたくな引きそ 法師泣かまし
 
 法師等之。鬢乃剃杭。馬繋。痛勿引曾。僧半甘。
 
【釋】○昔は俗人は鬚を剃らないで、法師だけが剃つたのである。この法師は鬚が濃くて、剃つたあとに生えそめた毛が青々と見えたので、それを杭に譬へてよんだのである。○結句を契沖はナカラカモと訓んで、半にならうといふ意に見たが、雅澄はナカラカムと訓んで、鬚を引拔いて、僧の顔の半を傷ひ缺くであらうと釋いてゐる。此は松岡調(明治三十七年歿)の説によつて、ナカマシと訓むがよい、甘《アマシ》のアを省いてマシとよむのである。
(548)【譯】坊さんの髪の剃株に馬を繋いで、餘りひどく引つばるな、可愛相に坊さんが泣くだらう。
 
   法師報歌一首
 
3847 檀越《だんをち》や しかもな言ひそ さとをさらが、えつきはたらば 汝《なれ》もなかまし
 
 檀越也。然勿言。※[氏/一]戸等我。課役徴者。汝毛半甘。
 
【釋】○「檀越」は檀那といふのと同じで梵語の音譯である。今いふ檀家のことで、施主の義である。○「※[氏/一]戸等我」を考に、「※[氏/一]」は一本に「良」とあるによつてイヘヲサラガと訓み、宣長は、「戸長等我《イヘヲサラガ》」の誤であらうと云ひ、雅澄は「五十戸良等我《サトヲサラガ》」と改めてゐる。○「えつき」は課税のこと。役《エダチ》と調《ミツギ》とを合せて「えつき」と云ふ。○「はたる」は催促すること。又責め徴すること。○法師には課税がないから、返歌に里長が税を催促したら、汝も泣くであらうと揶揄したのである。○結句の訓は前のと同じく、松岡調の説によつた。(雅澄はナカラカムと訓んで、財産の半分を損ふであらうと釋いてゐる。)
【譯】檀家の人よ、人のことをかれこれ云ふものでない。お前さんも里長が來て、租税を督促したら泣く癖に。
【評】互に思ふ存分揶揄し、辛辣に評して放笑してゐるのが面白い。右の二首には世相の一部を窺ふことが出來る。
 
3852 いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ねこそ 海は潮干て 山は枯れすれ
 
 鯨魚取。海哉死爲流。山哉死爲流。死許曾。海者潮干而。山者枯爲禮。
 
(549)【釋】○これには題詞がない。作者未詳。○「いさなとり」は枕詞。○「死にする」は死ぬると同じ。○この歌は契沖がいふに、正報の人身等は無常であると、人は誰しも思つてゐるが、依報の山海は常住の物のやうに信じてゐる。けれどもそれも亦、常住のものでないことを知らせたのであると。なほ註によると、この作は河原寺(飛鳥京の三大寺の一で、今も飛鳥に形ばかり遺つて居る弘福寺のこと)の堂中にあつた、倭琴に記されてゐたものの一であると、云ひ傳へてゐる。
【譯】あゝ無常なものだ。あの海が死ぬるか、あの又山が死ぬるか、そんなことはないと思つてゐたが、よく/\考へて見ると、それらにも死といふことがあればこそ、あのやうに海には潮が干るし、山には枯れるといふことがあるのである。して見ればこの世の中には、一として常住のものはありはしない。
 
   嗤2咲痩人1歌二首
 
3853 石麻呂《いしまろ》に 吾もの申す 夏痩に よしといふ物ぞ むなぎとりめせ
 
 石麻呂爾。吾物申。夏痩爾。吉跡云物曾。武奈伎取食。
 
【釋】○この二首は左註によると、「吉田の石麿といつた人があつた。その體質がたいそう痩せた人であつて、幾ら食べても飢ゑた人のやうな樣子をしてゐので、大伴家持がこの歌をよんで揶揄つたのである」と。○「むなぎ」は鰻である。今も土用に鰻を食べると、夏痩をしないと云つてゐる。
【譯】石麻呂さんに申し上けます。あなたは大層痩せこけていらつしやるが、夏痩によいと申す鰻を捕つて召し上れよ。
 
(550)3854 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた むなぎを取ると 川に流るな
 
 痩痩母。生有者將在乎。波多也波多。武奈伎乎漁取跡。河爾流勿。
    右有3吉田連老字曰2石麻呂1。所謂仁教之子也。其老爲v人體甚痩。雖2多喫飲1。形似2飢饉1。因v此大伴宿禰家持卿作2斯歌1以爲2戯咲1也。
 
【釋】○「痩す/\も」は痩せながらも。○「はたやはた」は「はた」を重ねたのである。「はた」は副詞的の接續詞で、上を飜へして下を起す意味がある。種々の意になるが、こゝでは「さはなくて」又は「それとかはつて」の意である。
【譯】幾ら痩せこけてゐても、生きてあれば結構だのに、夏痩に利く鰻を捕らうとして、却つて川に流れてしまつてはなりませんぞ。
 
   高宮王詠2數種物1歌一首
 
3856 婆羅門《ばらもん》の 作れる小田を 食む烏 まなぶた腫《は》れて 幡幢《はたほこ》に居り
 
 婆羅門乃。作有流小田乎。喫烏。瞼腫而。幡幢爾居。
 
【釋】○「高宮王」の傳は未詳。○「婆羅門」は印度の四姓の一のそれとは別で、婆羅門僧正である。僧正は釋|菩提仙那《ボヂセナ》と云つて、南印度迦毘羅衛國の人であるが、海路から支那に渡り、途中出遭つた林邑の佛哲(林邑の八樂を傳へた人)と共に、天平八年七月に我が國に渡來した人である。當時我が國で名高かつた高僧行基は、この二名僧の來ることを知つて、聖武天皇の勅許を得て、難波津に出迎へ、奈良の大安寺に住ませたのであるが、かの天平勝寶元年の冬に行はれた、東大寺大佛の開眼供養の時には、僧正は詔を承けて開眼導師となつたのである。この僧正は實に我が(551)國に渡來した最初の天竺僧であつて、大佛鑄造を始め、當時の佛教の上に多大の智識を與へた高僧である。この歌は恐らくは大佛供養の時のさまを詠んだものであらう。なほ「作れる小田」とあるに就いては、選釋に引いてある高楠博士の説によれば、僧正の本國は農業の盛な處であるから、稻作りの道も心得て、日本に來てからも寺領を耕作し、文人にも作らせたであらうといふことである。○「まなぶた」は目の葢の義。「まなぶた腫れて」とあるのは、考に罸を受けて腫れてといふ意であるといひ、契沖は烏はまなぶたの腫れたやうに見えるものである、と云つてゐるのを合せ考へて見るに、寺陵の米を食べた罸であんなに瞼が腫れてあると詠んだものと思はれる。○「幡幢《ハタボコ》」は旗鉾の意であるが、普通の旗鉾は祭禮の時に立てゝ歩くものをいふが、こゝは開眼供養の時に建てた法幢の事である。法幢としいふのは、高い竿の先に寶殊又は龍頭を置いて、(寶珠の着いてゐるのを幢といひ、龍頭の着いてゐるのを幡といつて、兩者を區別する事もある)それに良い美しい綏帛を垂れたものを云ふ。元來大佛は金堂の苗の庭に立つて禮拜したものである。從つて庭に幾丈もある莊嚴な幡幢を、何百本となく立てた事が想像される。
【譯】尊い婆羅門僧正が作つてゐる田の稻を食ひ荒した烏は、その罰を受けて腫れた瞼を持つて、あの法幢の先にとまつてゐる。
【評】大佛開眼は空前の盛儀てあつたのであるが、それを歌つた作は、集中にこの一首があるのみである。さう云ふ意味に於て、特に注意すべき歌である。
 
3858 この頃の 我が戀力 記《しる》し集《つ》め 功《くう》に申さば 五位の冠《かがぶり》
 
 比來之。吾戀力。記集。功爾申者。五位乃冠。
 
(552)【釋】○これと次の歌とは作者未詳の戀の歌である。○「戀力」は戀のための心勞をいふ。○「記し集め」は物に記して集めてといふ意である。集めをツメとよんだのは雅澄の説。アの音を省く例は屡ある。○「功に申さば」は勲功として官に申し出たならばといふ意。昔は文功武勲、即ち今日と反封で勲は武官に功は文官に用ゐた。○「冠」は位のことである。推古天皇の御代に始めて、大織冠以下十二階の冠位が定められた時、位に應じて夫々冠が定まつてゐたのであるが、大寶令が制定せられてからその制度が改正せられ、冠を賜はる事は廢せられたのである。併し言語の上では、やはり位のことを冠《カガブリ》といつてゐたのである。
【譯】近頃の私の戀の爲に苦勞してゐる次第を、一々書き立てゝ功勞として朝廷へ申し出たならば、きつと五位ぐらゐは賜はるに相違ない。
 
3859 この頃の 我が戀力 たばらずば 京《みさと》づかさに 出でて訴《うた》へむ
 
 頃者之。吾戀力。不給者。京兆爾。出而將訴。
 
【釋】○前の軟を承けた連作である。○「たばらずば」はその賞を賜はらずばの意。○「京《ミサト》づかさ」は京職の事。和名抄に「左京職【比多利乃美佐止豆加佐】右京職【美帰乃美佐止豆加佐】」とある。京師を中央の大路から左右に二分して、各に京職があつて庶政を掌つたのである。都《ミヤコ》は廣く、京《ミサト》は京師のことで狹く指すのであると宣長は云つてゐる。○「訴《ウタ》ふ」は後は音便によつてウツタフと云つた。
【譯】この頃の私の戀の勲功に對して、何の恩賞も賜はらなかつたら、京職の官廳へ出頭して、其の旨を訴へようと思つてゐる。
 
(553)   筑前國|志賀白水郎《シカノアマ》歌五首
 
3860 大君の 遣《つかは》さなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る
 
 王之。不遣爾。情進爾。行之荒雄良。奥爾袖振。
 
【釋】○以下五首(もと十首ある)の歌の由來は左註に詳記してあるが、今その大要を述べよう。聖武天皇の神龜年間のことである、筑前宗像郡の百姓宗形部津麿といふ者が、年々太宰府から對馬へ送るべき二千石の粮米運送の番に當つたが、津麿は既に年をとつてゐて、到底其の任に堪へられさうもないので、粕屋郡志賀村の海人の荒雄といふ者に代理を頼んだ。この男は義狹心を起して、快くそれを承諾して船を乘り出したが、急ち暴風雨が襲うて來て船は沈み彼も溺れてしまつた。それを遺された妻子が聞いて、悲歎にくれてこの歌を詠んだといふことが傳へられてゐる。○「志賀」は筑前粕屋郡志賀島村である。福岡灣の東北一帶を抱いてゐる長い半島の端であつて、白砂青松の海ノ中道によ(554)つて、僅かに陸地と連續してゐる。○「さかしらに」は賢ぶつてといふ意であるが、こゝは義狹心を出すこと、即ちきほひ込む意である。○「荒雄ら」の「ら」は複數の接尾語でなく、ただ音調のために添へた助詞である。○「沖に袖振る」は沖で別れのしるしに袖を振ることであるが、これは荒雄が溺死したことを云つたのである。
【譯】大君の詔ならそれは致方もないが、さうでないのに侠氣を出して行つた荒雄が、可愛さうにも浪に溺れて別れのしるしに袖を振つてゐる。
【評】「沖に袖振る」は水に溺れた事を婉曲に云ふと同時に、悲しい別を印象的に歌つたのである。
 
3861 荒雄らを 來むか來じかと 飯《いひ》盛りて 門《かど》に出で立ち 待てど來まさず
 
 荒雄良乎。將來可。不來可等。飯盛而。門爾出立。雖待不來座。
 
【釋】○これは荒雄の妻の心になつて詠んだのである。
【譯】荒雄はもう歸つて來さうなものだと思つて、飯まで盛つて門に出て、立つて待つて居るけれども歸つて來ない。
【評】「飯盛りて門に出で立ち」の二句に、待ちわびてゐる妻の樣子が鮮かに寫されてゐる。
 
3865 荒雄らは 妻子《めこ》のなりをば 思はずろ 年の八歳《やとせ》を 待てど來まさず
 
 荒雄良者。妻子之産業乎婆。不念呂。年之八歳乎。待騰來不座。
 
【釋】○「なり」は生業《ナリハヒ》のこと。○「思はずろ」は氣にしないのだらうという意。「ろ」は感動の助詞で、東歌に度々用ゐられて居る。○「八歳」は多くの年月の意。
【譯】荒雄は妻子の生業のことは、少しも氣にかけないのだらう、何年待つても歸つて來ない。
 
(555)3866 沖つ鳥 鴨といふ船の 歸り來《こ》ば 也良《やら》の埼守 《さきもり》 早く告げこそ
 
 奥鳥。鴨云船之。還來者。也良之埼守。早告許曾。
 
【釋】○「沖つ鳥」は鴨の枕詞。○「鴨といふ船」は荒雄が乘つて行つた船の名である。水上をよく走る意でつけたものと思はれる。○「也良」は筑前早良郡殘島の北端の荒崎であらう。○「告げこそ」の「こそ」は希望の助詞。
【譯】もしか鴨といふ船が沖から還つて來たら、早速そのことを知らせて呉れ、也良の岬の埼守よ。
 
3869 大船に 小船《をぶね》ひきそへ かづくとも 志賀の荒雄に かづき逢はめやも
 
 大舶爾。小船引副。可豆久登毛。志賀乃荒雄爾。潜將相八方。
    右以(フニ)》神龜年中。太宰府差2筑前國宗像郡之百姓宗形部津麻呂1。充2對馬送v粮舶(ノ)※[手偏+施の旁]師《カヂトリ》1也。于v時津麻呂。詣2於|滓屋《カスヤ》郡志賀村白水郎荒雄之許1語曰。僕有2小事1。若疑不v許歟。荒雄答曰。走雖v異v郡。同v船日久。志篤2兄弟1。在2於殉死1豈復辭哉。津麻呂曰。府官差v僕充2對馬送v粮舶※[手偏+施の旁]師1。容齒衰老。不v堪2海路1。故來祗候。願垂2相替1矣。於v是荒雄許諾。遂從2彼事1。自2肥前國松浦縣|美彌良久《ミミラク》埼1發v舶。直射2對馬1渡v海。登時《スナハチ》忽天暗冥。暴風交v雨。竟無2順風1。沈2没海中1焉。因v斯妻子等。不v勝2恃慕1。裁2作此歌1。或云。筑前國守山上憶良臣。悲2感妻子之傷1。述v志而作2此歌1。
 
【釋】○「對馬送粮」とあるのは、對馬に居る島司や防人の爲に、粮米として二千石を船で送ることである。この事は主税式に見えてゐる。○「走雖v異v郡」の「走」は卑下していふ自稱で、僕と同じ。○「美彌良久」は南松浦郡福江島の西北端にある三井樂村で、昔時遣唐使の船が寄泊する所であつた。所謂値嘉岬はこゝである。
(556)【譯】もう到底還つて來る見込はない。たとへ大船に小船までも添へて、多くの人を乘せてやつて水をもぐらせても、沈んだ志賀の荒雄を尋ねあてることは出來ない。
【評】以上の五首を順序に誦んで見ると、先づ始めには死んだものとは信じられずして待つて居る、家人の種々の心を歌ひ、それから日數を重ねるに從つて、段々絶望的になり、遂に最後の一首に至つて、その屍體さへも見ることが出來なくなつたことを歌つてゐる。一首づつを見ても面白いが、連作として見るとき最も興味がある。作者は誰とも分らないが、左註には時の筑前守であつた、山上憶良の作であらうと言はれてゐると記してある。
 
3872 わが門の 榎《え》の實《み》守《も》りはむ 百千鳥 千鳥は來れど 君ぞ來まさぬ
 
 吾門之。榎實毛利喫。百千鳥。千鳥者雖來。君曾不來座。
 
【釋】○「守りはむ」は枝を離れずに食むこと。○「百千鳥」は多くの小鳥である。下の「千鳥」も同じ。
【譯】門前の榎の實を食み荒らす小鳥は、幾らとなくやつて來るけれども、自分が待ちこがれてゐる人は、一向にお見えなさらないので誠に淋しい。
【評】第三句までに門前の光景を叙べておいて、それをいかにも自然に言ひ下して、自己の境地を歌つた所に、技巧らしからぬ技巧があり、調も亦頗る快く響いて來る。
 
3875 琴酒を 押垂小野《おしたれをぬ》ゆ 出づる水 ぬるくは出でず(557) ましみづの 心もけやに 思ほゆる 音のすくなき 道に逢はぬかも すくなきよ 道に逢はさば いろ著《け》せる 菅笠小笠 吾がうなげる 珠の七つを 取り替へも 申さむものを すくなき 道にあはぬかも
 
 琴洒乎。押垂小野從。出流水。奴流久波不出。寒水之。心毛計夜爾。所念。音之少寸。道爾相奴鴨。少寸四。道爾相左婆。伊呂雅世流。菅笠小笠。吾宇奈雅流。珠乃七條。取替毛。將申物乎。少寸。道爾相奴鴨。
 
【釋】○「琴酒を」代匠記に、琴は押へるものであり、酒は垂れるものであるから、押垂に云ひ掛けたのであるといふ。又考には、琴を美の誤字としてウマザケヲと訓んでゐる。暫く代匠記の説に從つて置く。○「垂押小野」の押垂は地名であるらしいが今詳かでない。○「出づる水」その野に名高い冷泉があつたのであらう。○「ぬるくは出です」の「ぬるく」は神代紀に「下瀬是|太弱《ハナハダヌルシ》」とあるのと同じく、「ゆるく」の意である。○「ましみづの」(寒水之)を舊訓にヒヤミヅノ、考にシミヅノ、略解にシミヅノ又はサムキミモヒノと訓んであるが、今は古義の訓に從つた。○「心もけやに」の「けやに」は「さやに」とし同義でいさぎよくの意。眞淵は計を斜の誤字として、ココロモサヤニと訓んでゐる。此の句は「ましみづの」から直ちに續く意ではなく、心も潔く覺ゆる清水の音の少きと云ふ意で、次の句へ續いてゐるのである。○「音のすくなき」は人音物音の少き意で、見る人も居ない閑靜な處を云ふのである。從つて「思ほゆる」までは此の句の「音の」をいふ爲の序である。○「逢はぬかも」は逢はないかなあと云ふ意で、どうか逢へばよい(558)と希ふ意である。○「すくなきよ」は上の「音のすくなき」を承けて繰り返したので、「よ」は「や」と同じく感動の助詞である。○「逢はさば」の「逢はす」は「逢ふ」の敬語動詞である。○「いろ著せる」は親愛なる妹が着てゐるといふ意。「いろ」は伊呂兄《いろせ》・伊呂弟《いろと》・伊呂妹《いろも》などのイロであり、又|郎子《いらつこ》・郎女《いらつめ》・入彦《いりひこ》・入姫《いりひめ》などのイラ・イリと語根の同じ語であつて、親愛の義である。「著せる」は「著る」の敬語動詞の「著す」に「あり」が複合したものである。○「菅笠小笠」は菅の小笠といふと同じ。二つの笠ではない。○「うなげる」の「うなぐ」は「うなじ」(項)から出た動詞で頸に懸ける意。「うなげる」は「うなぐ」に「あり」が複合したのであつて、頸に懸けてゐるといふ意になる。○「珠の七つを」數多の珠をの意。○「取り替へも云々」自分の珠と女の菅笠とを互に交換して、愛の形見としようといふのである。○「すくなき云々」は前の句を再び繰り返して切な感情を現はしたのである。
【譯】琴を押し酒を垂れるといふ、良い名の押垂野に涌き出る水の緩くは出でず、滾々と迸り出るその清水を見れば心も潔く覺えるが、其の清水が音も立てず涌くやうに、人音もせぬ閑靜な此の道で、あのいとしい女に出逢へばよいに。此の靜かな道で出逢ふならば、あれが着てゐる菅の小笠と、自分が懸けてゐる數々の玉を連ねた首飾とを、愛のしるしに取り交はさうものを。此の人目の少い道でどうぞ出逢へばよいになあ。
【評】此の作は「道に逢はぬかも」で終つてゐる二節から成る、問答式の形式によつた長歌である。第一節の序に歌つた景趣が清爽の感を與へ、人氣のせぬ靜かな野道を思ひ浮べさせて快く響くが、第二節に於て其の靜かな道に愛人を描き出して、形見の取換へをしようといふ美しい感情を歌ひ出してゐるのは、景趣と相俟つて、汲めども盡きぬ情趣がある。野趣のみる美しい戀の歌として注意すべき作である。
 
(559)   能登國歌一首
 
3880 加島嶺《かしまね》の つくゑの島の しただみを い拾ひ持ち來て 石《いし》持ち つつきはふり 早川に 洗ひそそぎ 辛鹽に ここと揉み 高坏《たかつき》に盛り 机《つくゑ》に立てて 母にまつりつや めづこのとじ 父にまつりつや みめづこのとじ
 
 所聞多禰乃。机之島能。小螺乎。伊拾持來而。石以。都追伎破夫利。早川爾。洗濯。辛鹽爾。古胡登毛美。高杯爾盛。机爾立而。母爾奉都也。目豆兒乃負。父爾獻都也。身女兒乃負。
 
【釋】○「加島嶺」は眞淵の説に、「所聞多」は喧《カシマ》しと」いふ意の義訓であつて、加島であると云ふ説に從ふ。今の七尾あたりを古へは加島郷と云つたから、その濱にある山を加島嶺といつたので、下に「つくゑの島」とあるのは、七尾港の中にある島の名と見える。○「したたみ」は「きさご」又は「きしやご」といふ。殻の形は蝸牛に似て小さく、色は淡青色で美しい模樣がある。○「い拾ひ」の「い」は接頭語。○「つつきはふり」は突き破ること。「つつき」は今いふつッつくの意で、「はふり」は破ること」。○「早川」は流れの早い川。○「ここと揉み」の「ここと」は揉み洗ふ音の形容である。○「高坏」は脚の付いた食物を盛る器。○「机」は坏居《ツキスヱ》の義で、今云つた坏を戴せる案、即ち食卓のやうな物である。○「立てて」は獻つる事である。かの敬語の「たてまつる」も、もと立て奉るの意で、物を參らす事である。從つて下に、「まつりつや」とあるのも、差上けたかといふ意である。○「めづこのとじ」の「とじ」(負)は舊訓にマケと訓み、(560)仙覺は設の義としたが、契沖は和名抄に「劉向列女傳云古語老母爲v負云々【和名度之云々】」とあるのを引いてトジと訓み、この語は古くは處女にも用ゐられたことLは、卷四に坂上郎女がその大孃を、「我が子の刀自」と云つた例を見ても知れると云つてゐる。今この説による。次に「めづこ」の解は、考には愛子とし、古義には女つ兒としてゐる。これは考の説がよい。次の句の「みめづこのとじ」の「み」は美稱の接頭語で、句の意はこの句と同じである。これを契沖がみめよき兒と釋いたのは穩かでない。
【譯】加島嶺の前に見える、机の島の細螺を拾ひ取つて來て、石で殻を突つき破り、その肉を水のよく流れる清い川で洗ひ濯いで、鹽でよく揉んで高坏に盛り、食卓にのせて母上に差上けたか、又父上にも差上げたか、愛《いと》しい娘子よ。
【評】これは上代の民謠として面白い作である。なほこの歌の前には同じ能登國の歌が二首あるが、いづれも調子に特殊の趣のある古民謠である。
 
   越中國歌三首
 
3882 澁谷《しぶたに》の 二上山《ふたがみやま》に 鷲《わし》ぞ子《こ》産《む》とふ 指羽《さしば》にも 君がみために 鷲ぞ子むとふ
 
 澁溪乃。二上山爾。鷲曾子産跡云。指羽爾毛。君之御爲爾。鷲曾子生跡云。
 
【釋】○「澁谷」は越中國氷見郡太田村の海岸で、二上山の東北の麓にあたる。○「二上山」は射水郡にある。伏木町の西一里で、高岡市から近く見える。高さ八九百八許りの山であるが、姿が美しいので、集中に屡詠まれてゐる。卷十(561)七に家持の「二上山賦」がある。○「子むとふ」は「子うむといふ」の音を省いたのである。○「指者」(翳)は鷲の羽又は絹を張つた團扇の如き形のものに、一丈許りの長い柄を着けたもので、御即位朝賀等の大儀の時、龍顔にかざし奉る具である。大翳・申翳・小翳の三種あつて、何れも左右各三枚づつ九枚を用ゐる制であつた。これは支那から傳へられた器物である。
【譯】澁谷に聳えてゐる二上山に、鷲が子を産むといふ。それは翳の御料にもなるやうにと、君の御爲に産むのだといふことである。
【評】昔此の國から鷲の羽を貢進した事があつたのであらう。翳といふ優雅なものを出して來たので、鷲の棲む二上山が美化されてゐる。古雅な歌である。
 
3883 彌彦《いやひこ》の おのれ神《かむ》さび 青雲の たなびく日すら 小雨《こさめ》そぼ降る
 
 伊夜彦。於能禮神佐備。青雲乃。田名引日良。※[雨/沐]曾保零。
 
【釋】○「彌彦」は越後平野の西方、日本海の岸に近く聳つ秀嶺で、高さは二千尺ある。山中に國幣中社伊夜比古神社がある。越後の一宮である。こゝは山を直ちに神として歌つたのである。○「おのれ神さび」は一本に「安奈爾可武佐備《アナニカムサビ》」とあつて、考はそれによつてゐる。「おのれ」は主語であるから、この句の意は自分が神々しいのでといふ意である。○「青雲」は晴れ渡つた蒼空を云つたのである。○「小雨」は和名抄に「細雨、小雨也、和名古佐女」とある。○「そ(562)ぼ降る」はソボ/\降ること。
【譯】あの彌彦山はそれ自身が、いかにも神々しく、古色蒼然とした山であるから、晴れ切つた日でさへ、山中には小雨がしよぼ/\と降つてゐる。
【評】高い山には、いつでも霧雨を含んでゐるものであるが、それを神山のせいであると信じて、敬虔の情を以て眺めた所に、上代の人の心がよく表はれてゐる。越中國の歌の中に彌彦山が詠まれてゐるのは、契沖の説では、大寶二年に越中の四郡を割いて、越後國に屬させたことが、續紀に見えてゐるから、この歌は大寶二年以前に詠んたものであらうと云つてゐる。
 
3884 彌彦の 神ふもとに 今日らもか 鹿《か》の伏《こや》すらむ 皮のきぬ著て 角つけながら
 
 伊夜彦乃。神乃布本。今日良毛加。鹿乃伏良武。皮服著而。角附奈我良。
 
【釋】○「神のふもとに」の神は即ち山である。○「今日らもか」の「ら」は助詞で、「か」は疑問の助詞である。此の「か」は次の句の「らむ」の下に移して見ると」意味が明かになる。○「伏すらむ」代匠記にフスラム、考及び略解にコヤスラム、古義にフセルラムと」訓んでゐる。○第五と六の句を代匠記以下の三註には、「皮ノキヌキテ角ツキナガラ」と訓んでゐるのを、古義には「皮ゴロモキテ角ツケナガラ」と改めてゐる。後世專ら下二段に活用した動詞で、古く四段に活用し、又は四段と二段と兩樣に活用した例は集中に幾らもあるから、「附け」も當時四段二段共通に活用したものゝ(563)やうに思はれる。
【譯】彌彦の神山の麓に、今日も鹿が伏してゐるであらう。身には皮の衣を着て、頭には長い角を附けながら。
【評】此の歌は五七五七七七の音から成つてある。所謂佛足石體歌である。考に四五の二句に就いて「山のいと寒きを思ひてよめる類か」と云つてゐる。或はさういふ意味であるか知れぬが、記紀の傳説に、山の神が猪鹿熊などの形に化けて現はれた例があるから、此の場合も鹿を山の神の使者《つかはしめ》と見て、擬人したものと見る事が出來る。さう見ると始めて此の一首に、山を神秘なものと見た上代人の心持が、よく表はれて來るやうに思ふ。
 
   乞食者詠二首
 
3885 いとこ なせの君 居り居りて ものにい行くと 韓國《からくに》の 虎とふ神を 生捕《いけどり》に 八頭《やつ》とり持ち來 その皮を 疊にさし 八重疊 平群《へぐり》の山に 四月《うづき》と 五月《さつき》のほどに 藥獵《くすりがり》 つかふる時に あしびきの この片山に ふたつ立つ 櫟《いちひ》がもとに (564)あづさ弓 八《や》つたばさみ ひめかぶら やつたばさみ ししまつと わが居る時に さ牡鹿の 來立ち嘆かく たちまちに 吾《わ》は死ぬべし おほ君に 吾は仕へむ わが角《つぬ》は 御笠のはやし 吾が耳は 御墨の坩《つぼ》 吾が目らは ますみの鏡 わが爪は み弓の弓弭《ゆはず》 わが毛らは み筆のはやし 吾が皮は 御箱の皮に わが肉《しし》は み膾《なます》はやし わが肝《きも》も み膾はやし 吾がみぎは みしほのはやし 老いはてぬ 吾が身一つに 七重花咲く 八重花さくと 申しはやさね 申しはやさね
 
伊刀古。名兄乃君。居居而。物爾伊行跡(波)。韓國乃。虎云神乎。生取爾。八頭取持來。其皮乎。多多彌爾刺。八重疊。平群乃山爾。四月與。五月間爾蘭。藥獵。仕流時爾。足引乃。此片山爾。二立。伊智比何本爾。梓弓。八多婆佐彌。比米加夫良。八多婆左彌。宍待跡。吾居時爾。 佐男鹿乃。來立(來)嘆久。頓爾。吾可死。王爾。吾仕牟。吾角者。御笠乃波夜詩。吾耳者。御墨坩。吾目良波。眞墨乃鏡。吾爪者。御弓之弓波受。吾毛等者。御筆波夜斯。吾皮者。御箱皮爾。吾宍者。御奈麻須波夜志。吾伎毛母。御奈麻須波夜之。吾美義波。御鹽乃波夜之。耆矣奴。吾身一爾。七重花佐久。八重花生跡。白賞尼。白賞尼。
(565)    古歌一首爲v鹿述v痛作v之也
 
【釋】○「乞食者詠」とあるのは乞食が詠んだ歌といふのでなく、乞食が門に立つて、食を乞ふ時に歌つた古歌で、實はある歌人の作であらうと云はれて居る。○「いとこ」はいとし子の義で、古くは人を親愛して呼ぶときに用ゐた。古事記にも「いとこやのいもの命」といふ語がある。○「なせ」(汝兄)は男を親しみ敬していふ語。宣長は下に「居り居りて」とあるのを見ると、こゝでは妻が夫を指して云つたのであると解釋してゐる。○「居り居りて」は共に長く住んでの意。○「虎とふ神」上代の人は虎や狼などを神と呼んだ。○「疊にさし」までの十句は序である。この序に歌つてある内容は、恐らくは當時周く知られてゐた物語であつたのであらうが、今傳はつてゐない。○「八重疊」枕詞。古義の説に、これは平群の「へ」にかけた枕詞であつて、「へ」は二重・三重・八重などいふ「へ」であるといつてゐる。○「平群」は大和國生駒郡生駒村あたりの古名で、その地方は山地である。○「藥獵」鹿の若角(鹿茸《ロクジヨク》を取つて藥用にする故、夏の鹿狩を藥獵といふのである。一名夏獵ともいつた。○「櫟」前出。○「八つたばさみ」は狩人が多くの弓を手に持つこと。○「ひめかぷら」を眞淵は姫鏑の義で、小さな鏑矢であると釋き、宣長は樋目鏑の義で、孔を長く樋に掘つた鏑矢であると云つてゐる。今は前説に從つておく。○、「しし」は鹿猪等を廣く指す語であるが、こゝでは鹿をさしてゐる。○「わが居る時に」の「わが」は藥獵に仕へてゐる人。○「たちまちに」は「ぢきに」「やがて」の意。○「御笠」は柄のついた葢笠であらう。○「はやし」は考に榮《ハエ》あらしめる義であると云つてゐる。此の「はやし」は書紀に掲げてある室壽詞に、「取擧ぐる棟梁《うつばり》は此家長の御心の林《はやし》なり」とある、其の「はやし」と同じ意である。なほ「能の囃《ハヤシ》」「もてはやす」などのハヤシもこれと同義である。さて笠のはやしといふは、笠の頂に鹿の角を附けて、飾とすることであらう。○「御墨の坩」は墨斗(和名抄に須美都保とある)のことで、大工道具の墨壺のやうな物をいふ。(566)鹿の耳は形がそれに似てゐるからかう云つたのである。○「目ら」の「ら」は例の助詞である。○「ますみ」は眞澄の意で「眞」は接頭語。○「弓弭」は弓の末端にあつて、角や金で作つたのである。○「み筆のはやし」は毛を御筆の料とすること。下の「み膾はやし」もこれと同じく、材料にすることを云つたのである。○「みぎ」は幹の義で骨であるといひ、又反芻をニゲカムと云つたから、吐き出したものをいふのであるといひ、種々の説があるが、字鏡を見るに「※[月+玄]【下年反平肚也。牛百葉。三介又三野】」とあるから、「美義」は多分「三介」と同じものであらう。而して※[月+玄]の字義は字書によるに、牛の胃袋又は胃の厚肉をいふとあるから、こゝは鹿の胃袋を細く切つて、醢に造ることを云つたものと思はれる。○「みしほ」は「ししびしほ」の略である。和名抄に「醢【之之比之保】」とある。肉醤即ち今日いふ「しほから」である。○「老いはてぬ吾が身云々」の意は、老い果てゝ何の益にも立たない身も、かうして何から何まで御用に立つて、七重にも八重にも花の咲くやうな、幸に逢ふことになると悦ぶ意である。○「申しはやさね」の「はやす」も前に云つた「もてはやす」と同義の語で、朝廷に奏しはやし給へといふ意。
【譯】いとしい夫の君が、これまで共々に一所に住んでゐたのに、物へ參ると云つて、三韓に棲む虎と云ふ恐ろしい獣を、生捕にして八頭捕へて來て、その皮を疊に拵へ、それを八重に敷くと云ふ言葉に通ふ、平群の山に、四月と五月頃行ひ給ふ藥獵にお仕へ申して、片山里に二本立つてゐる櫟の下で、多くの梓弓を取持ち、獣を射る多くの鏑矢を手挾んで、鹿を待伏せしてゐる時に、一匹の牡鹿がやつて來て歎いて申すに、「私もやがて射られて死ぬるで御座いませう。その時はこの身を大君の御用に捧げませう。先づ私の角は御笠の飾に、耳は御墨壺に、目は澄み切つた御鏡に、又爪は御弓の筈に、毛は御筆の料に、皮は御箱を張る皮に、さうして肉と肝とは切つて御膾に、胃袋も御鹽辛の料に供へ奉りませう。かうして老い果てたこの身一つが、捨てる所なく何から何までお役に立ちますれば、七(567)重にも八重にも花が咲くと云ふ譯で、誠に光榮に存じますと申しましたと、ほめ囃して載きたいのでございます。」と云つたことである。
【評】鹿は上代の狩に於て主なる獲物であつて、藥狩は宮中で催される御狩であつた。此の歌は狩場を引擧げて歸つて來た射部の者共が、宮中の夜宴に侍つて、酒を飲みつつ歌つたものであるやうに思はれる。然るに題解に乞食者詠とあるは何故であらうか。從來の解釋では、乞食が人の門前に立つて、食を乞ふ時に歌つたものであらうと考へられたのであるが、茲に參考となるのは喜田博士の意見である。博士の説によれば、我が國民の常食は飯即ち米麥粟稗黍等で、孰れも農民の手で作られた物であつて、それに添へて食ふ肉類菜疏等はサイ(添への義)である。而して主食物の穀物は最も重ぜられ、之を生産する者は農民であり、副食物を供給する者は漁師や狩人である。從つて漁師や狩人は主食物を農民に乞はねばならなかつたから、彼等はやがて乞食と呼ばれたのである。即ち上代では民衆を二大別して、王食物を生産する農民即ち公民と、其の食物を乞うて活きて行く、乞食即ち非公民とに分けたのである。而して萬葉の乞食者詠二首は、其の一は狩人を歌つたもの、他の一は漁師を歌つたものであらうと説かれた。(「歴史地理」四十四卷三號「日本農民史」參照)これは參考すべき意見であるが、但し爰に乞食者詠とあるのは、乞食(博士の所謂漁師や狩人)が作つたのではなく、乞食者の歌に擬して或歌人が詠んだものであらうと思ふのである。
 
3886 おしてるや 難波の小江《をえ》に 庵《いほ》つくり なまりて居る 葦蟹《あしがに》を 大君召すと 何せむに 吾《あ》を召すらめや (568)明らけく あは知ることを  歌人と わを召すらめや 笛吹きと わを召すらめや 琴彈きと わを召すらめや かもかくも みこと受けむと 今日今日と 飛鳥にいたり 立ちたれど おきなに到り つかねども つくぬに到り ひむがしの 中の御門ゆ まゐり來て みこと受くれば 馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻繩はぐれ あしびきの この片山の もむにれを 五百枝《いほえ》はぎたり 天てるや 日のけに干し さひづるや からうすに舂《つ》き 庭に立つ すりうすに舂き おしてるや 難波の小江の(569) はつたれを 辛く垂りきて 陶人《すゑびと》の 作れる瓶《かめ》を 今日行きで あす取り持ちき わが目らに 鹽ぬり給ひ もちはやすも もちはやすも
 
 忍照八。難波乃小江爾。蘆作。難麻理弖居。葦河爾乎。王召跡。何爲牟爾。吾乎召良米夜。明久。吾知事乎。歌人跡。和乎召良米夜。笛吹跡。和乎召良米夜。琴引跡。和乎召良米夜。彼此毛。令受牟等。今日今日跡。飛鳥爾到。雖立。置勿爾到。雖不策。都久怒爾到。東。中門由。參納來弖。命受例婆。馬爾己曾。布毛太志可久物。牛爾己曾。鼻繩波久例。足引乃。此片山乃。毛武爾禮乎。五百枝波伎垂。天光夜。日乃異爾干。佐比豆留夜。辛碓爾舂。庭立。碓子爾舂。忍光八。難波乃小江乃。始垂乎。辛久垂來弖。陶人乃。所作瓶乎。今日徃。明日取持來。吾目良爾。鹽漆給。時賞毛。時賞毛。
    古歌一首爲v蟹述v痛作v之也
 
【釋】○「おしてるや」は枕詞。(既出)○「小江」の小は、「小山田」「小野」などの「小」と同じく、一の接頭語である。○「なまりて」は隱れて。「隱る」の古言を「なまる」「なばる」などと云つた。○「葦蟹」の解に諸説がある。仙覺は、足音などを聞くと、直ちに走り去る海濱などに居る白い蟹であると云ひ、契沖の説では、葦原蟹(蟹の一種の名)とし、古義に引いた今村樂の説によると、葦は借字で求食蟹《アサリガニ》の義である、かの葦鶴《アシタヅ》の葦もこれと同じであると云ふ。併し略解にもある通り、「あしたづ」「あし鴨」のやうに、葦のある處によく住んでゐる所から、「葦」といふ語を添へたものと見るのが穩當であらう。○「なにせむに」は何の爲にといふ意。○「明らけく云々」は何の能もない自分であることは明白に知つてゐるのにの意。○「歌人」は謠ひ手のこと。「歌人」「笛吹」は共に蟹が抱を吐くさまを面白く見て云つたのである。○「琴彈」は蟹の爪の長い所から云つたのである。○「今日今日と」は飛鳥を云ふための序。○「飛鳥に到り」此の地名が歌はれてゐるのは、この歌が飛鳥地方に帝都の在つた時代の作であらうと思はれる。○「立ちたれど」は「おきな」を云ふための序。「おきな」は飛鳥の内の地名であらうと云ふことである。宣長は何かの誤字で(570)あらうと云つた。(古義には立を置の誤とし、上に不の一字を加へてオカネドモと訓んでゐる。)○「つかねども」はこれも「つく」の序。○「つくぬ」も地名であらうが今は詳かでない。考に大和の桃花鳥野《ツキヌ》であると云つてゐる。○「中の御門ゆ」は皇居の東の眞中の御門からと云ふ意。○「ふもだし」代匠記に絆《ホダシ》であると云ひ、古義には今いふ犢鼻褌を「ふんどし」と云ふのもこの語を訛つたのであらうと云つてゐる。兎に角馬を牽くために首にかけた綱のことである。○「鼻繩」は牛縻《ハナヅラ》即ち牛の鼻にかける綱のことである。字鏡及和名抄に縻を波奈豆良と訓んである。○「はぐ」は「着け合はす」「接《ツ》ける」などの意を有する動詞。○「もむにれ」を契沖は百楡《モモニレ》と釋き、眞淵は樅楡《モミニレ》、略解には樅に似た楡と釋いてゐる。今契沖の説に從ふ。○「五百枝はぎたり」は皮を多く剥ぎ垂れること。楡は粗皮を剥ぎ取り、其の下の白皮を採つて日に干し、臼でついて粉にしたものを食用に供し、又楡餅といつて餅にも作つたものである。なほ之を供御にも奉つたことは、延喜式にも見えてゐる。さてこの句から以下を、楡の白皮を臼で舂いて粉にする樣と見るのと、楡の白皮を粉にする如くに、蟹を臼で舂くことを云つたものと見るのと兩説がある。眞淵は後説を唱へて、木の皮を剥ぐ如く蟹の手足をはぎ取るのであると釋いたが、契沖は前説を唱へて、昔は楡の粉に鹽を合せて蟹を漬けて、蟹《カニ》の醢《シシヒシホ》を造つたのであると云ふ。千蔭もこの最後の説に從つて、三代實録の「攝津國蟹|胥《シシヒシホ》。陸奥(ノ)國鹿(ノ)※[月+昔]。莫3以爲v贄奉2御膳1。」を引いてゐる。右の蟹醢の製法は明瞭に記されたものはないけども、この歌の句法から見ると、契沖の説に從ふべきものと思ふ。○「天てるや」は枕詞。○「日のけ」は日の氣。○「さひづるや」は下の「からうす」の「から」にかゝる枕詞。「さひづる」は「さへづる」(囀る)と同じで、鳥の囀ること、又それから轉じては聞き分け難いことを言ふ事にもなる。故に言語の通じない韓といふ意でカラウスに懸けたのである。○「からうす」は今日も「からうす」といつて、足で蹈んで穀類を舂く臼があるが、それと同じである。和名抄を見ると、碓を賀良(571)宇須と訓み、「踏舂具也」とある。この語は宇津保や源氏にも見えてゐる。「から」は唐でなく、「からさを」(連枷)「からかさ」(傘)「からくり」(機關)などの「から」で、機械組織になつてゐるものを指す語である。○「庭に立つ」は「すりうす」の枕詞。○「すりうす」の本文の「碓子」は「磑子」の誤であるといふ宣長の説による。磑は和名抄に「磨※[龍/石]也、和名須利宇須。」とある。今の「たううす」のことである。○「はつたれ」は始鹽で、代匠記に殊に辛き鹽を云ふと云ひ、略解に鹽の始めて垂れた良い鹽をいふのであると云つてゐる。○「陶人」は陶器を造る工人。○「今日行きてあす取り持ち來」は急いで鹽漬にすることを云つたのである。即ち今日行つて陶工に誂へて、やがて翌日持つて歸つてといふのである。○「もちはやすも」は宣長及び雅澄の訓である。舊訓はマウサモ、眞淵は「時」を「聞」の誤であると」して、マヲシハヤサモと訓んでゐる。(眞淵は此の上の句を「鹽ぬりたべと」と訓んでゐる。)
【譯】難波江に庵を結んで隱れてゐる葦蟹を、大君がお召しになるといふが、何の爲に私をお召しなさるのだらうか。何の役にも立たない私であることは明かであるのだが、私が泡を吐くから、歌手としてお召しになるのだらうか。それとも笛吹とししてお召しになるのだらうか。或は又私が爪を持つてゐるから、琴彈にでもしようとして、お召しになるのたらうか。兎に角勅命を拜しようと思つて、飛鳥に行き、つく野に行つて、東の方の中の御門から參内して仰言を承ると、馬には絆をかけ、牛には鼻綱をつけて繋くが、馬でも牛でもない私を取り籠めておいて、邊鄙な山に生える楡の木の多くの枝の白皮を剥ぎ取つて、それを天日に乾かし、から臼で舂き、磨臼にかけて粉にし、難波江の初垂の辛い鹽を垂らして來て、陶工の處へ行つて、瓶を今日誂へて、早や明日は持つて來て、その瓶に橡粉と私を一所に入れて、私の目に辛い鹽をお塗りなさつて、うまい/\と仰しやつて御賞味下さる。
【評】古事記應神天皇の段を見ると、天皇が丸邇の比布禮臣の女、矢河枝比賣の家に行幸になつた時、矢河枝比賣が献(572)つた御酒盞を手にして、御製を詠ませられた事が見えてゐて、其の御製の中に「此の蟹や何處の蟹百傳ふ角鹿の蟹……」といふ句がある。蟹が供御に上つた事は、之を見ても明かである。右の一首も亦蟹を詠む歌に擬して作られたものであらうと思ふ。さて右二首の長歌は、鹿や蟹に同情してその苦痛を詠んであるけれども、唯可愛さうだといふのでなく、辱くも皇居に召されて種々の物に使はれ、又その肉は供御にさへ上る光榮を擔ふといふ事は、如何なる苦痛をも慰むるに足る事で、彼等は寧ろ死して餘榮ありと思つてゐるであらう、といふ意味が歌はれてゐる。これは何事も皇室中心であつた、國民精神の一端を示してゐるのである。なほ之を風俗史又は文明史の上から見るならば、上代の食物の一斑が窺はれて頗る面白い歌である。
 
卷十六 終
 
(573)萬葉集 卷十七
 
○卷十七以下卷二十に至る四卷は、大體家持の手に成つた大伴家の(特に家持の)集であつて、作はすべて年月の順序に載せられてゐて、一の歌日記の體をなしてゐる。
 
   追2和太宰之時梅花1新歌一首
 
3906 みそのふの 百木《ももき》の梅の 散る花の 天《あめ》に飛びあがり 雪と降りけむ
 
 御苑布能。百木乃宇梅乃。落花之。安米爾登妣安我里。雪等敷里家牟。
    右天平十二年十一月九日大伴宿禰家持作
 
【釋】○「追和云々」は卷五に、天平二年正月十三日に大宰府の旅人卿の邸で、梅花宴を催したときの作が。三十二首見えてゐるが、これはその中の旅人の作、「わが園に梅の花散る久方の天より雪のながれ來るかも」に和した歌である。○「みそのふ」は太宰府の苑である。
【譯】御苑に咲いた數多の梅花が散つて、大空へ舞ひ上り、それが雪となつて降つたのでありませう。
 
   十六年四月五日獨居2平城《ナラ》故宅1作歌一首
 
3921 かきつばた 衣《きぬ》に摺りつけ 益荒男の きそひ狩する 月はきにけり
 
 加吉都播多。衣爾須里都氣。麻須良雄乃。服曾比獵須流。月者伎爾家里。
 
(574)【釋】○これは家持の作。六首の中の一首てある。○「かきつばた」は燕子花。花の色は紫碧色のが多い。○「きぬ」は絹の織物をいひ、轉じては衣服にも用ゐられる。こゝは衣服。○「きそひ狩する」の解に二説ある。一は先を競うて狩るのであると見るので、仙覺・契沖・眞淵・士清等はこの説を唱へてゐる。他の一説は契沖が競狩を着粧《キヨソ》ふといふ意につづけたのであるといふ説に基いて、宣長は競狩ではなく、服装《キヨソ》うて狩をするのを云ふと云つてゐる。今は前説に從つて釋かうと思ふ。さてこゝの狩は藥狩即ち鹿狩である。
【譯】燕子花の花を着物に摺り着けて、男達が競符をする樂しい月が來た。
【評】紫の花摺り衣を着飾つて、草深い夏野をたのしげに走り行く、當時の狩場の壯觀が偲ばれる。
 
   天平十八年正月。白雪多|零《フリ》。積v地數寸也。於v時左大臣橘卿。率2大納言藤原豐成朝臣及諸王諸臣等1。參2入太上天皇御在所1【中宮兩院】供奉掃v雪。於v是降v詔大臣參議並諸王者。令v侍2于大殿上1。諸卿大夫等者。令v侍2于南細殿1。而則賜v酒肆宴。勅曰。汝諸王卿等。聊賦2此雪1。各奏2其歌1。
 
   左大臣橘宿禰應v詔歌一首
 
3922 ふる雪の 白髪《しろかみ》までに 大君に つかへまつれば 貴くもあるか
 
 布流由吉乃。之路髪麻泥爾。大皇爾。都可倍麻都禮婆。貴久母安流香。
 
【釋】○「ふる雪の」は景物を借りて、白髪の枕詞としたのである。○「大君」は元明天皇。
【譯】今日降り積りました雪のやうに、白髪を頂くまで永らへて、わが大君に御奉公申し上げてゐれば、かうして大御酒を頂戴致す光榮に浴することも出來て、誠に辱い事でございます。
(575)【評】莊重謹嚴な調がこの場合の作として相應しい。殊に結句の字餘りには力が籠つてゐる。
 
   紀朝臣清人應v詔歌一首
 
3923 天《あめ》の下 すでにおほひて 降る雪の 光を見れば 貴くもあるか
 
 天下。須泥爾於保比底。布流雪乃。比加里乎見禮婆。多敷刀久母安流香。
 
【釋】○これも同じ時の作である。○「紀清人」は國史編述の命を拜したこともあり、又文章博士にもなつた人である。○「すでに」は全く〔二字傍点〕若しくは悉く〔二字傍点〕の意。
【譯】天下にあまねく降り積つた雪のやうに、隅々までも輝き渡る御稜威を仰ぎ見ますれば、まことに辱いことでございます。
 
   大伴宿禰家持應v詔歌一首
 
3926 大宮の 内にも外《と》にも 光るまで 降れる白雪 見れど飽かぬかも
 
 大宮之。宇知爾毛刀爾毛。比賀流麻泥。零類白雪。見禮杼安可奴香聞。
 
【釋】○この歌も同じ時に奉つた作である。○第四句の「類」はもと「須」となつてゐたが、考の説に從つて改めた。
【譯】宮城の内にも外にも、一面に光り輝くまで積みましたこの白雪の光景は、いつまで眺めても飽きません。
 
   平群《ヘグリ》氏女郎贈2越中守大伴宿禰家持1歌三首
 
(576)3934 なかなかに 死なば安けむ 君が目を 見ず久ならば すべなかるべし
 
 奈加奈可爾。之奈婆夜須家牟。伎美我目乎。美受比佐奈良婆。須敝奈可流倍思。
 
【釋】○此の女郎の作は十二首あるのであるが、今は其の中の三首を講ずる。○「目を見ず」は直接に逢はないことをいふ。○「久ならば」は久しくならばの意。「久《ヒサ》」はヒサシの語幹で、それに助詞の「に」を添へた「久に」といふ副詞に、動詞の「あり」を添へた語形である。○「平郡女郎」の傳は未詳。
【譯】いつそ死んだら、その方が苦勞がなくてよいでせう。かうして何時までもお逢ひしないで、苦しい思をしてゐるのは、どうにも仕樣がありません。
 
3940 萬代と 心はとけて わがせこが 抓《つ》みし手見つつ しのびかねつも
 
 餘呂豆代等。許己呂波刀氣底。和我世古我。都美之手見都追。志乃備加禰都母。
 
【釋】○第一句の「等」第四句の「手」は共に元暦校本によつて改めた。○「萬代と」は萬代までもといふ意。○「心はとけて」は打ち解けた意である。○「抓みし手」は男が抓《つめ》つた手といふ意。抓るのは憎んですることもあるが、こゝは打ち解けた間で戯れにするのである。略解にこれは愛のしるしであると云つてゐる。
【譯】萬代までもと心は打ち解けて、戯れに君がお抓りなさつたその手をうち眺めて、やるせない戀しさを感ずることであります。
【評】なまめかしい情緒を歌つた作である。古い時代の歌とは思はれないほどに、微妙な心理を詠んでゐる。
 
(577)3942 松の花 花かずにしも わがせこが 思へらなくに もとな咲きつつ
 
 麻都能波奈。花可受爾之毛。和我勢故我。於母敝良奈久爾。母登奈佐吉都追。
    右伴三首歌者時々寄2便使1來贈非v在2一度所v送也。
 
【釋】○「松の花」は俗に「みどり」と云ふ。春の末頃に粒状の花が群をなして咲き花粉を散らす。別に花といふほどのものでなく、見所もないものである。○「もとな」は徒らにの意。
【譯】丁度見所のないあの松のみどり〔三字傍点〕のやうに、物の數とも私を思し召してはいらつしやらないのに、徒らに咲き出てむだな戀をすることであります。
【評】松の花の譬喩がすぐれた見付けものである。
 
   八月七日夜集2于守大伴宿禰家持館1宴歌
 
3944 女郎花 咲きたる野邊を 行きめぐり 君を思《おも》ひ出《で》 たもとほり來ぬ
 
 乎美奈敝之。佐伎多流野邊乎。由伎米具利。吉美乎念出。多母登保里伎奴。
    右一首掾大伴宿禰池主作
 
【釋】○「君を思ひ出」の君は家持を指す。君と共に來なかつたことを口惜しく思ひ出ての意。○「たもとほる」はあちらこちら徘徊すること。○此の席で詠んだ家持の作に「秋の田の穗むき見がてりわが背子がふさ手折りける女郎花かも」とあるから、池主も道で女郎花を手折つて持つて來た事が判る。
【譯】女郎花の咲き滿ちた野を遊び廻つて、この美しい秋景色を、君と共に見ることの出來ないことを殘念に思ひなが(578)ら、あちこちさまようて、手折つて來たその女郎花である。
 
3947 けさのあさけ 秋風寒し 遠つ人 雁が來鳴かむ 時近みかも
 
 氣佐能安佐氣。秋風左牟之。登保都比等。加里我來鳴牟。等伎知可美香物。
    右一首守大伴宿禰家持作
 
【釋】○「あさけ」は夜の明方。○「遠つ人」は遠方にある人の義であるが、その人を待つと云ふ意から「待つ」の枕詞になり、又遠き人の便りを持ち來る故事によつて、雁の枕詞にもなる。この場合は枕詞である。古義には言葉通りの意に見て、雁の修飾語であるとしてゐる。
【譯】今朝の夜明け方に吹き渡る秋風が、そぞろに肌寒く感じられた。もう追々雁が鳴き渡る季節が近いのである。
 
3954 馬|並《な》めて いざうち行かな 澁谷《しぶたに》の 清き磯廻《いそみ》に 寄する浪見に
 
 馬並底。伊射宇知由可奈。思夫多爾能。伎欲吉伊蘇未爾。與須流奈彌見爾。
    右一首守大伴宿禰家持
 
【譯】馬を並べてさあ一緒に遊びに行かうではないか。あの澁谷の清い濱邊に、打ち寄せる浪の面白い景色を見に。
【評】以上講じた主客の唱和を讀むと、其の夜の樂しい團欒のさまが思ひやられる。
 
   二上山賦一首
 
3985 射水川《いみづがは》 い行きめぐれる 玉くしげ 二上山《ふたがみやま》は (579)春花の 咲ける盛りに 秋の葉の 匂へる時に 出で立ちて ふりさけ見れば 神がらや そこば貴き 山がらや 見がほしからむ すめがみの 裾廻《すそみ》の山の 澁谷の さきの荒磯《ありそ》に 朝なぎに 寄する白浪 夕なぎに 滿ち來る潮の いやましに 絶ゆることなく 古へゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに かけて偲ばめ
 
 伊美都河泊。伊由伎米具禮流。多麻久之氣。布多我美山者。波流波奈乃。佐氣流左加利爾。安吉乃葉乃。爾保弊流等伎爾。出立底。布里佐氣見禮婆。可牟加良夜。曾許婆多敷刀伎。夜麻可良夜。見我保之加良武。須賣加未能。須蘇未乃夜麻能。之夫多爾能。佐吉乃安里蘇爾。阿佐奈藝爾。餘須流之良奈美。由敷奈藝爾。美知久流之保能。伊夜麻之爾。多由流許登奈久。伊爾之弊由。伊麻乃乎都豆爾。可久之許曾。見流比登其等爾。加氣底之努波米。
    右三月三十日依v興作v之大伴宿禰家持
 
【釋】○「二上山」の位置は既に述べておいた。この卷には立山賦といふのがある。二上山と立山と並べて歌つてゐる所を以て見ると、今いふ二上山でなくて、もつと大きな山でなければならぬと云ふ説もあるが、兎に角今日もその山の名が殘つてゐるし、澁谷も今その麓にあるから、今の二上山と見てよからう。○「賦」は長歌と同じ。長歌といは(580)ずして賦といつたのは、漢詩の模倣である。○「射水川」庄川《シヤウガハ》ともいふ。古名は一に雄神《ヲカミ》川といつた。○「玉くしげ」はフタ(蓋)の枕詞。○「そこば」は若干・許多の意。○「すめがみ」は「すべら神」と同じで、神を尊んでいふ。○「すべ」「すめ」は統べ治める意である。さて神とは二上山を指す。○「裾廻の山」は裾廻りの山で、二上山の麓にある澁谷をいふ。○「今のをつつに」の「をつつ」は「うつつ」と同じ。現在の世を云ふ。○「かけて」を考に「此の山に上つ代いはれありしなるべし。其のいにしへをしぬぶといふなり。」とあるが、これは「思ひをかける」「心にかける」などいふ時の「かけて」と同じ意である。○反歌二首があるが今之を省く。
【譯】射水川が流れめぐつてゐる二上山は、春の花の咲き盛る時に、又秋の木の葉の色づく時に、外に出て仰いで見ると、神がらのためであるか誠に貴く、山がらのよいせいであるか、いつまでも見飽きがしない佳い姿の山である。この神の山の麓にある澁谷の崎の磯邊には、朝凪に打ち寄せる白浪、夕凪に満ち來る夕汐のやうに、いつまでも絶えることなく、太古から現在の世まで、かうして見る人は誰も/\心にかけて、忘れ得ぬ美しい山である。
【評】家持の頃は既に長歌の時代を過ぎ去つてゐたのである。彼の作に限らず、天平時代の歌人は一般に短歌に秀でてゐた。即ち三十一字詩のみが専ら歌はれる時代がやがて來ることを、明白に語る時代が來てゐたのである。此の歌の如きも、萬葉前朋の長歌の形式と思想を模倣したに過ぎないものであつて、新しい格調もなければ、目立つやうな着想を見出すことも出來ない。
 
   新河郡渡2延槻《ハヒツキ》河1時作歌二首
 
(581)4024 立山《たちやま》の 雪とくらしも 延槻《はひつき》の 河の渡瀬《わたりせ》 あぶみつかすも
 
 多知夜麻乃。由吉之久良之毛。波比都奇能。可波能和多理瀬。安夫美都加須毛。
    右件歌詞者。依2春出擧1。巡2行諸郡1。當時所v屬v目作v之。大伴宿禰家持。
 
【釋】○「延槻珂」は中新川《ナカニヒカハ》郡に屬し、立山の北の大日嶽に發して、西北に流れて海に入つてゐる。○「雪とくらしも」は眞淵の説に、「由吉|之〔右△〕」の「之」は「止」の誤であらうと云ふ。今此の説に從つて訓む。宣長は原文のままにユキシクラシモと訓んで、「し」は助詞で、「くらしも」は「消ゆらしも」の約言であると云つてゐる。
【譯】立山に降り積つてゐた雪が、もう解けるらしい。延槻河のこの渡りの瀬の水が深くなつて、乘つてゐる馬の鐙が水に浸つてこんなに濡れる。
【評】この前に礪波郡|雄神《ヲカミ》川の邊で詠んだ、同じ家持の作に
    雄神川くれなゐ匂ふをとめらし葦附《あしつき》取ると瀬に立たすらし
といふのがある。作者にとつては、右に講じた歌と共に、北國の任に當つた當時の紀念とすべき作であつたであらう。(葦附は水藻の名である)
 
卷十七 終
 
(582)萬葉集 卷十八
 
○この卷は家持が越中國在任中に書き集めた集で、天平二十一年三月から天平勝寶二年二月に至る、僅か一個年間の集である、
 
   太上皇御2在於難波宮1之時歌三首
 
   左大臣橘宿禰歌一首
 
4056 堀江には 玉敷かましを 大君の 御舟漕がむと かねて知りせば
 
 保里江爾波。多麻之可麻之乎。大皇乎。美敷禰許我牟登。可年弖之里勢婆。
    右件歌者御船泝v江遊宴之日左大臣奏。
 
【釋】○「太上皇」は元正天皇(女帝)。○作者は諸兄。○「堀江」は難波堀江で、今の大阪の道頓堀から長堀にかけての間にあたる。○「大君の」の「の」は原文に乎となつてゐる。契沖は「の」に通ずる「を」であるといひ、考には「之」の誤としてゐる。今は後説に從つておく。
【譯】大君が舟に召して、難波堀江を泝つていらつしやるといふことを、豫め知つてゐましたら、玉を敷いてお待ち申し上げませうのに。
 
   河内女王歌一首
 
(583)4059 たちばなの 下照《したて》る庭に 殿立てて さかみづきいます わが大君かも
 
 多知婆奈能。之多泥流爾波爾。等能多弖天。佐可彌亘伎伊麻須。和我於保伎美可母。
 
【釋】○「河内女王」は高市皇子の御女。○この歌と次の歌とは、共に左註によつて分る通り、橘卿の邸宅で御宴のあつた時の席上での詠である。橘を歌つてゐるのは、橘氏の繁榮を祝する意を含めてゐるのである。○「下照る」は橘の實の色が地上に映ずる意。○「さかみづく」は酒宴を催すこと。その語源は宣長の説に、「みづく」は水漬で酒に漬《ツカ》ることか、又は酒の語源は榮《サカ》であるから、榮水飽《サカミヅアク》の義で酒を飽くほど飲む意であらうと云つてゐる。(「古事記傳」一四三二頁)思ふにこれは宣長の第一説の通り、酒に漬ることで、大に酒を飲むこと、即ち酒びたりになることから酒宴を張る意になつたものと思はれる。
【譯】橘の實の色がぱツと輝き渡る庭に、高殿を建てて盛な御宴をお催しになつてゐる、わが大君の尊さよ。
 
   粟田女王歌一首
 
4060 月待ちて 家には行かむ わがさせる あから橘 かげに見えつつ
 
 都奇麻知弖。伊敝爾波由可牟。和我佐世流。安加良多知婆奈。可氣爾見要都追。
    右件歌者在2於左大臣橋卿之宅肆宴1奏歌也
 
【釋】○「粟田女王」の名は續記にも見えてゐるが、傳は未詳。○「あから橘」は赤らんだ橘の實のことである。久老の説に、この次の歌に「夏の夜は」とあるのを以て見れば、この作は橋の花の咲いてゐるのをよんだものである。從つてこの句の意は、花の白く明らかなのを云つたのであると云ひ、古義もこの説に從つてゐる。併し橘の實は花の咲く(584)頃もなほ、枝に殘つてゐるものであるから、夏の歌であつても實は詠まれるのである。
【譯】月の出るのを待つて家に歸りませう。私が挿頭にさしてゐる、この赤らんだ實のついた橘の影が、うつるのを見ながら、歸りたうございますから。
【評】此所には省いたけれども、此の時の天皇の御製は「橘の殿のたちばなやつ代にもあれは忘れじこのたちばなを」と云ふのであつた。御製といひ、奏上の作といひ、何れも平和な氣に滿ちた君臣和合の夜宴を髣髴させるのである。殊に橘にかけての作によつて、當時藤原氏を壓倒してゐた橘氏の勢力が、偲ばれるやうである。二人の女王が隨從せられたのは、天皇が女帝であらせられたからである。
 
   射水郡驛館之屋柱題著歌一首
 
4065 朝びらき 入江こぐなる ※[楫+戈]の音の つばらつばらに 吾家《わぎへ》し思ほゆ
 
 安佐妣良伎。伊里江許具奈流。可治能於登乃。都波良都婆良爾。吾家之於母保由。
    右一首山上臣作不v審v名。或云。憶良大夫之男。但其正名未v詳也。
 
【釋】○「射水郡驛館云々」古義に、射水郡驛館は和名抄の布西《フセ》郷、即ち布勢驛であらうと云ふ。旅客が旅宿の柱に紀念の詞を書き留める風習は、後の文學には屡見えてゐるが、この歌は物に見えた最古のものであらう。○「あさびらき」明け方に舟出をするを云ふ。○「入江」驛館の所在地を布勢とすれば、此の入江は布勢湖、即ち今の十二町渇である。○「※[楫+戈]の音の」初めから此の句までは、眼前の景物を捉へて、「つばらつばらに」の序としたのである。※[楫+戈]が水に觸れて鳴る音がツバラツバラといふやうに聞えるので、言ひ掛けたのである。○「つばら」は「つまびらか」と同じ(585)意で、之を重ねた「づばらつばらに」は、一層切な意を現はすのである。○「吾家」をワギヘといふのは、ワガイヘのイを省いたのである。
【譯】朝舟を乘り出して、入江を漕いで行く舟が※[楫+戈]の音を立ててゐるが、其の音に似たツバラといふ言葉の通り、つくづくと我が家が戀しいわい。
【評】湖上を立ちこめた朝霞の中を、淋しい音を立てて漕ぎ行く孤舟に對して、遠く思ひを故郷に馳せつつ詠んた歌である。深い感歎が溢れてゐる。序から「つばらつばらに」に言ひ下した調子に、言ひ知れぬ味がある。
 
   賀2陸奥國出v金詔書1歌一首並短歌
 
4094 あしはらの 瑞穗の國を あまくだり しらしめしける すめろぎの 神のみことの 御代かさね 天の日繼と しらしくる 君の御代御代 しきませる 四方の國には 山河を 廣みあつみと たてまつる 御調寶《みつぎたから》は かぞへえず 盡しもかねつ しかれども わが大君の (586)諸人を いざなひ給ひ よき事を 始め給ひて 黄金《くがね》かも 樂しけくあらむと 思ほして した悩ますに ※[奚+隹]《とり》が鳴く あづまの國の 陸奧《みちのく》の 小田なる山に 黄金《くがね》ありと 奏《まう》し給へれ 御心を あきらめ給ひ 天地の 神あひうづなひ すめろぎの 御靈《みたま》たすけて 遠き代に なかりし事を わが御代に 顯はしてあれば 御食國《みをすくには》は 榮えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴雄《やそとものを》を まつろへの むけのまにまに 老人《おいびと》も 女《め》のわらはこも しが願ふ 心だらひに (587)撫で給ひ 治め給へば ここをしも あやに貴み うれしけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖《かむおや》の その名をば 大來目主《おほくめぬし》と おひ持ちて つかへしつかさ 海行かば みづく屍 山行かば 草むす屍 大君の へにこそ死なめ かへりみは せじとことだて ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる おやの子どもぞ 大伴と 佐伯《さへき》の氏は 人のおやの 立つることだて 人の子は おやの名絶たず 大君に まつろふものと いひつげる ことのつかさぞ (588)梓弓 手にとりもちて 劔太刀 腰にとり佩き 朝まもり 夕のまもりに 大君の 御門のまもり 吾をおきて 又人はあらじと いやたて おもひしまさる 大君の 御言《みこと》のさきの 聞けば貴み
 
 葦原能。美豆保國乎。安麻久太利。之良志賣之家流。須賣品伎能。神乃美許等能。御代可佐禰。天乃日嗣等。之良志久流。伎美能御代御代。之伎麻世流。四方國爾波。山河乎。比呂美安都美等。多弖麻豆流。御調寶波。可蘇倍衣受。都久之毛可禰都。之加禮騰母。吾大王能。毛呂比登乎。伊射奈比多麻比。善事乎。波自米多麻比弖。久我禰可毛。多能之氣久安良牟登。於母保之弖。之多奈夜麻須爾。鷄鳴。東國能。 美知能久乃。小田在山爾。金有等。麻宇之多麻敝禮。御心乎。安吉良米多麻比。天地乃。神安比字豆奈比。皇御祖乃。御靈多須氣弖。遠代爾。可可里之許登乎。朕御世爾。安良波之弖安禮婆。御食國波。左可延牟物能等。可牟奈我良。於毛保之賣之弖。毛能乃布能。八十伴雄乎。麻都呂倍乃。牟氣乃麻爾麻爾。老人毛。女童兒毛。之我願。心太良比爾。撫賜。治賜姿。許己乎之母。安夜爾多敷刀美。宇禮之家久。伊余與於母比弖。大伴能。遠都神祖乃。其名乎婆。大來目主登。於比母知弖。都加倍之官。海行者。美都久屍。山行者。草牟須屍。大皇乃。敝爾許曾死米。可弊里見波。勢自等許等太弖。丈夫乃。伎欲吉彼名乎。伊爾之敝欲。伊麻乃乎追通爾。奈我佐敝流。於夜能子等毛曾。大伴等。佐伯氏者。人祖乃。立流辭立。人子者。祖名不絶。大君爾。麻都呂布物能等。伊比都雅流。許等能都可佐曾。梓弓。手爾等里母知弖。劔大刀。許之爾等里波伎。安佐麻毛利。由布能麻毛利爾。大王能。三門乃麻毛利。和禮乎於吉弖。且比等波安良自等。伊夜多弖。於毛比之麻左流。大皇乃。御言能左吉乃。聞者貴美。
 
【釋】○聖武天皇が大毘盧遮那佛鑄造の大事業を天下に御發表になつたのは、天平十五年十月で、それから天下の富を傾け、三四年の歳月を費して漸く御造營になつたのが、即ち東大寺の大佛である。然るにこの大佛には、塗料にすべき練金一萬四百餘兩を要するのであつたが、それが足らなかつたので、御心を惱ませられてゐた際、天平二十一年の二月に、陸奥の小田郡から黄金九百兩を獻つた。天皇はこれを大に喜び給うて、これ全く如來の感應によるものであるとせられて、四月に年號を天平感寶と改められ、大神宮をはじめ、畿内七道の諸社に奉幣して之を御奉告になり、なほ皇后皇子以下百官を率ゐ給うて、東大寺に行幸遊ばされ、左大臣橘諸兄をして、佛前に御悦をお告げになり、次で諸王群臣にも詔を賜ひ、獻金に關係した人々をはじめ、群臣に位を賜はつたのである。(大佛の前で諸兄が讀んだ宣命、並に群臣に賜はつた詔勅は、宣長の歴朝詔詞解に講じてある。――全集第五)其の時越中に在つた大伴家持も恩命に與つて、從五位下から從五位上に進められたので、遙かに之を賀し奉つたのが、この長歌と短(589)歌とである。○「瑞穗の國」の「の」は本文にはないが補つて訓んだのである。○「すめろぎの神のみこと」は瓊々杵尊を指す。○「御代かさね云々」は「天つ日繼と御代重ねしらしめし來る君の御代々々」の意。○「山河を廣みあつみと」の「廣み」は河について云ひ、「あつみ」は山について云つたのである。「あつみ」は淺しの反對で、山の奥深いこと。この句以下二三句は、諸國から奉る貢物の豐かなことを稱へてゐる。○「よき事を始め給ひて」古義にある通り、大佛鑄造のことを云つたのである。○「黄金かも樂しけくあらむ」は大佛鑄造のために用ふべき黄金が出たら、さぞ滿足な事であらうと思し召しての意。○「した惱ますに」は下心に苦心していらせられること。○「小田郡」は今の陸前の遠田《トホダ》郡であつて、元涌谷《モトワクヤ》村大字涌谷字|黄金迫《コガネハザマ》といふ處に、黄金山神社といふのがある。それが當時黄金を産した遺跡である。そこは四面青山で圍まれ、溪流があり老松古杉が生ひ茂つてゐて、いかにも砂金などの出た處らしいと云ふことである。然るに芭蕉の「おくの細道」にも「こがね花咲くと」よみて奉りたる金華山海上に見渡し」とあるやうに、後世牡鹿郡の金華山をその遺跡とするのは家持の歌(この次に講じる反歌)から附會した説である事は、古人の考證に見えてゐる。○「奏し給へれ」は下に「ば」を加へて見るべき所で、奏上すればの意。○「あきらめ給ひ」は惱み給ふ御心を晴らし給ふ意。古義にこの句の下に「思し召すやうは」といふ語を加へて見るべき所であるといふ。○「天地の神あひうづなひ」は天神地祇が天皇の祈願を承け納れ給ふこと」。「うづなふ」の語源は、宣長の説に「うづ」は「うづの御手」「うづの幣帛《ミテグラ》」などの「うづ」で珍貴の義、即ち麗しくめでたき意の語。又「なふ」は活用語尾で、「商ふ」「いざなふ」「諾《ウベ》なふ」などの「なふ」と同じであると云つてゐる。(歴朝詔詞解)○「すめろぎの」は先々の代々の天皇を申す。○「なかりし事」は本文「可〔右△〕可里之許等」の「可」を「奈」の誤とする眞淵の説に從つて改めたのである。○「榮えむものと」は古義に黄金が多くなつて國家が富み榮えるといふのでなく、大佛を鑄造してその佛の加護によつて、天下が繁榮に赴くこ(590)とであると解いてゐる通りである。○「まつろへの」は皇威に歸服せしめられんとの意。「まつろふ」は紀に「歸順」又は「和順」を訓み、萬葉に「奉」をよんでゐる。○「むけのまにまに」は上の句から續けて解いて見れば、歸服せしめようとの仕向けのまゝにといふ意味である。○「しが願ふ」の「し」は其《ソレ》の意。○「心だらひに」は心に足る程即ち滿足するやうにの意。○「撫で給ひ」の「撫で」は愛で慈むさまである。從つて愛憐の御心をかけさせられる事を云ふ。○「治め給へば」の「治む」の意は宣長の説に、凡て治め給ふといふ語は廣い語で、吉凶何れにもあれそれを處理し給ふことで、官に任じ給ふ事も、刑罰に當て給ふ事も、共に治むといふのであると云つてゐる(歴朝詔詞解)。こゝでは仁政を施し給ふ意である。○「ここをしも」はこれをの義で、その御惠のこと。○「うれしけく云々」は大伴佐伯の者共も、今回位階を進められたことを含めて云つてあるのである。○「大伴の」以下は大伴氏の先祖の勲功を述べたのである。大伴氏の遠祖は天忍日《アメノオシヒ》命で、天孫降臨の際には大來目部《オホクメベ》を率ゐて軍功を立て、その後神武天皇の御東征の時には、その後裔道臣命(即ち日臣命)が同じく大來目部を引率して、戰功を奏したことは名高いことである。○「大來目主」とは大來目部を率ゐてゐたから附けられた名である。○「つかさ」は長官又官人の義から轉じては官府にもなり、又職掌にもなる。こゝは職掌の意である。この句は「つかへしつかさぞ」の意である。○「海行かば云々」この句から「かへりみはせじ」までは大伴家に先祖から傳へ來つた宣言で、先に云つた天平感寶元年四月に群臣に賜はつた宣命の中にもある。即ち「又大伴佐伯の宿禰は常も云ふ如く、天皇《スメラ》が朝《ミカド》守《マモ》り仕へ奉《マツ》る事、顧《カヘリ》みなき人等《ヒトドモ》にあれば、汝《イマシ》たちの祖《オヤ》どもの云ひ來らく、海行かはみづく屍、山行かば草むす屍、王《オホキミ》のへにこそ死なめ、のどには死なじ、といひ來る人等《ドモ》となも聞召《キコシメ》す。云々」と仰せられてゐる。○「みづく屍」は水に漬《ツカ》る屍で、屍を水につける事。○「草むす屍」は屍を草の生えるに委すこと。○「へにこそ」はほとりにと云ふ意。○「ことだて」は常人と異つた事をすること、(異立つ(591)の意)即ち特殊の志を把持するの意。○「いにしへよ」の「よ」は「より」と同じ。○「をつつに」は「現に」で現在にの意。○「ながさへる」は「ながす」に繼續の意の副語尾の添うた「ながさふ」に、「あり」が複合した「ながさへり」である。○「おやの子どもぞ」は先祖の子孫であるぞ。○「佐伯氏」は雄略天皇の朝の大伴家の人、室屋大連の代に別れた、其の子の談《カタリ》(ノ)連の末である。(系圖參照)○「人のおやの」「人の子は」の「人の」は共に輕く添へた語。「先祖の」「子孫は」の意である。○「こと」のつかさ」は特殊の職にある者ぞの意。○「朝まもり」「夕のまもり」は朝夕の宮廷の守護の任に當る事。大伴佐伯の二氏は門部を率ゐて朝廷を護衛したのであるが、それが中古以降に及んで六衛府の職掌となつたのである。○「いやたて」は彌立《イヤタテ》で、上にあつた異立といふを受けたので、いよ/\わが家の主義を立てること。○「おもひしまさる」はそれを思うていよ/\心の勇む意。○「御言のさき」は御惠を施し、臣等を幸ならしめ給ふ詔のこと。宣命の中に大伴佐伯二氏の男女に位を授け給ふ旨を、仰せられたことを指してゐるのである。
【譯】豐葦原の瑞穗國を、高夫原から天降つて治め給うた皇孫瓊々杵尊以來、天つ日繼を次々にお讓り承けなされる歴代の天皇が、治め給ふ四方の國は、山は深く河は廣いので、自然獻る貢物はとても數へ盡すことが出來ない。然るにわが大君が、群臣百僚を率ゐ給ひ、大業をお始めなさつて、この上黄金が出たらどんなに滿足なことであらうと思し召して、大御心を悩ましていらつしやる時に、幸なるかな東の國の陸奥の小田郡の山に、黄金があるといふことを奏聞に達したので、大御心をお晴しになつて、是は畢竟天地の神々が朕の望をお容れなされ、又皇祖皇宗の御靈も朕の大業をお助けになつて、それで前代に例のない事を、わが御代にお顯はしになつたのであるから、わが天下はこれよりますます繁榮に赴くのだと、神ながら思し召して、文武百官を歸服せしめようとのお仕向けの通りに、老人も婦女子も、それらが願ふ心の滿足するやうに慈愛し給ひ、仁政を施し給ふので、萬民はこの事を誠に貴いこ(592)とに思ひ、いよ/\うれしいことに思ふにつけても、わが大伴一族はその遠い先祖は、名を大來目主と云つて、朝廷にお仕へ申した武官の家である。又海を行くなら屍を水にひたし、山を行くなら屍を野に晒して、草の生えるに任せろことも意とせず、常に身命を捧げて大君のほとりに死なう、わが身を顧るやうなことはすまいと、特に意を竪めてゐる丈夫の潔いその名を、昔から現代まで傳へて來た子孫であるぞ。大伴と佐伯の二氏は、先祖の立てた志を繼ぎ、その子孫は先祖の名を斷たないやうに、大君にお仕へ申す者と、言ひ繼いでゐる特殊の職にあるのであるぞ。それ故吾々は、梓弓を手に執り持ち、劔太刀を腰に佩いて、朝夕の朝廷の守護にお仕へする者としては、吾々を措いては他に人はあるまいと、いよ/\志を堅く持つて、いよ/\覺悟を極めることである。この度賜うた大君の詔勅の慈愛に滿ちた御趣旨を承るに及んで、辱く思ふにつけて。
【評】此の歌の前半は聖武天皇の大佛鑄造の事から、黄金を産したことに及び、群臣に詔書を賜ひ、廣く恩賞のあつた事を叙べ、後半に神代以來の武將たる自家の勲功と抱負とを歌ひ、最後にこの度聖恩に浴した辱さを思うて、いよいよ自己の責任の重きを感じた次第を歌つてゐる。かくの如く内容は頗る壯嚴な事實であるに拘らず、修辭も句法も平凡であつて、散文のやうになつてゐるのは、如何にも惜しい氣がする。さて大佛鑄造は奈良朝の一大事業であつた。然るに世には、大佛鑄造の爲に巨萬の富を消費し、又造立の後東大寺を始め諸大寺へ、莫大な墾田を寄進せられたが爲に、財政の困窮を告げ、寺領の爭を生ずるに至つた事などを擧げて、崇佛の弊であると非難する人は多いが、その崇佛の大精神を理解してゐる人は案外に少いやうである。當時東大寺法華寺を始め、大寺の建立や諸國に國分寺を置かしめられたのは、すべて廣大無邊の佛力によつて、國家の安穩と萬民の幸福とを祈願せらるゝ、大御心から出てゐるのである。そのことはこの長歌にも歌はれてゐるが、又天平十五年十月並に天平感寶元年四月の詔(593)勅等によつて、明かに之を拜察することが出來るのである。今序を以てこの事を記しておく。
 
   反歌三首
 
4095 ますらをの 心おもほゆ おほ君の みことの幸《さき》を 聞けば貴み
 
 丈夫能。許己呂於毛保由。於保伎美能。美許登能佐吉乎。聞者多布刀美。
 
【譯】大丈夫としての覺悟を一層極めることである、この度深い惠をお與へになる辱い詔を承る貴さに。
 
4096 大伴の 遠《とほ》つ神祖《かむおや》の おくつきは しるく標《しめ》立て 人の知るべく
 
 大伴能。等保追可牟於夜能。於久都奇波。之流久之米多底。比等能之流倍久。
 
【釋】○「標《しめ》」は一地域を區劃して、それに領有の標をめぐらしておくその標《シルシ》を云ふ。從つて「しめたて」は墓所を高く築くことである。(石の墓表などを建てるのは後の風である。)
【譯】わが大伴氏の祖神の塚は、それとあまねく世の人が知るやうに、著しく築き上けて置けよ。
 
4097 すめろぎの 御代榮えむと 東《あづま》なる 陸奥山《みちのくやま》に くがね花咲く
 
 須賣呂伎能。御代佐可延牟等。阿頭麻奈流。美知能久夜麻爾。金花佐久。
    天平感寶元年五月十二日。於2越中國守館1大伴宿禰家持作v之。
【譯】わが大君がお治めになつてゐる御代が、いよ/\繁榮に赴くしるしとして、東國の陸奥の山に、黄金の花が咲き(594)出たことである。
【評】平明な辭句を用ゐて、何のこともなく歌つてあるやうであるが、調が莊重で内容にふさはしい。
 
   教2喩|史生《フミヒト》尾張|少咋《ヲクヒ》1歌一首
 
4109 くれなゐは うつろふものぞ つるばみの なれにし衣《きぬ》に なほしかめやも
 
 久禮奈爲波。宇都呂布母能曾。都流波美能。奈禮爾之伎奴爾。奈保之可米夜母。
    右五月十五日守大伴宿禰家持作之
 
【釋】○「教喩史生云々」家持の部下で、史生の官を奉じてゐた尾張少咋といふ者が、妻を棄てゝ遊女と懇になつてゐたのを誡めた歌である。今端詞と長歌を省いて、その反歌一首だけを講じる。○「くれなゐ」は遊女を譬へてゐる。○「つるばみ」は團栗《ドングリ》の木の古名(櫟《クヌギ》の異名)、「つるはみの衣」といふのは、團栗の煎汁で染めた橡染の衣の事である。賤民の衣料にするものである。こゝでは妻を譬へてある。
【譯】紅といふ色は美しいが、併し兎角さめ易い色である。やはり橡染の馴れた衣にしくものはないのだ。
【評】紅と橡とを對比した譬喩が適切である。調が勁健であつて、自ら力の籠つて居るのも内容に相應しい。
 
   橘歌一首並短歌
 
4111 かけまくも あやにかしこし すめろぎの 神の大御世に (595)田道間守《たぢまもり》 常世《とこよ》にわたり 八矛《やほこ》たち まゐで來し時 時じくの 香《かぐ》の果實《このみ》を かしこくも 遺《のこ》したまへれ 國も狹《せ》に 生《お》ひ立ち榮え 春されば 孫枝《ひこえ》萠《も》いつつ ほととぎす 鳴く五月《さつき》には 初花を 枝に手折《たを》りて をとめらに つとにも遣《や》りみ 白妙《しろたへ》の 袖にもこきれ かぐはしみ おきて枯らしみ あゆる實《み》は 玉にぬきつつ 手にまきて 見れども飽かず 秋づけば 時雨《しぐれ》の雨降り あしびきの 山の木未《こぬれ》は くれなゐに にほひ散れども たちばなの なれる其の實は ひた照りに いや見がほしく (596)み雪ふる 冬に至れば 霜おけども その葉も枯れず 常磐《ときは》なす いやさかはえに しかれこそ 神の御世より よろしなへ この橘を ときじくの かぐの果實《このみ》と 名づけけらしも
 
 可氣麻久母。安夜爾加之古思。皇神祖能。可見能大御世爾。田道間守。常世爾和多利。夜保許毛知。麻爲泥許之登吉。時支能。香久乃菓子乎。可之古久母。能許之多麻敝禮。國毛勢爾。於非多知左加延。波流左禮婆。孫枝毛伊都追。保登等藝須。奈久五月爾波。波都婆奈乎。延太爾多乎理弖。乎登女良爾。都刀爾母夜里美。之路多倍能。蘇泥爾毛古伎禮。香具播之美。於枳弖可良之美。安由流實波。多麻爾奴伎都追。手爾麻吉弖。見禮騰毛安加受。秋豆氣婆。之具禮能雨零。阿之比寄能。夜麻能許奴禮波。久禮奈爲爾。仁保比知禮止毛。多知波奈能。成流其實者。比太照爾。伊夜見我保之久。美由伎布流。冬爾伊多禮波。霜於氣騰母。其葉毛可禮受。常磐奈須。 伊夜佐加波延爾。之可禮許曾。神乃御代欲理。與呂之奈倍。此橘乎。等伎自久能。可久能木實等。名附家良之母。
 
【釋】○「橘」は柑子《カウジ》のことで、大體密柑に似てゐる。幹は高さ一二丈に達し、枝には刺がある。六月頃芳香を放つ白色の五辨花を開き、果實は黄味の勝つた橙色で、皮は滑かで艶があり、味は密柑より酸味が強い。○「すめろぎの云々」は垂仁天皇の御代の話で、次に詳しく述べる。○「田道間守」は日本に歸化した新羅の王子|天日桙《アメノヒボコ》の後裔であると傳へられてゐる。古事記垂仁天皇の條に次の記事がある。「又|天皇すめらみこと》三宅(ノ)連等の祖《おや》名は多遲摩毛理を常世の國に遣はして、非時《ときじく》の香木實《かぐのこのみ》を求めしめ給ひき。故《かれ》多遲摩毛理遂に其の國に到りて其の木實を採りて、縵八縵《かげやかげ》・矛八矛《ほこやほこ》を持ちてまゐ來つる間、天皇は既《はや》く崩《かむあが》りましぬ。こゝに多遲摩毛理、縵四縵矛四矛を分けて大后《おほきさき》に獻り、縵四縵矛四矛を天皇の御陵《みはか》の戸に獻りて、其の木實を※[敬/手]《ささ》げて叫び哭《おら》びて、常世の國のときじくの香木實を持ちてまゐのぼりて侍《さむら》ふと白《まを》して、遂に叫哭《おら》び死《し》にき。其のときじくの香木實はこれ今の橘なり。」とある。橘の名は人名の田道間守から出たのであらうと云はれてゐる。○「常世」は海外を指した語であるが、同じ傳説を書いた書紀の文に「是常世(597)國。則神仙秘區。俗非v訪v臻。」とあるから、支那の神仙談にいふ蓬莱山とも云ふべき、空想の國を指したのである。宣長は多遲摩毛理の祖先の國の新羅のことであらうと云ひ、白井博士の説では、橘の分布の上から見れば、朝鮮の南部か或は濟州島であらうと云ふ。其の他支那の江南の地であるとする説もある。○「八矛」は前に掲げた古事記の文中に見えてゐる「縵八縵矛八矛」のその「八矛」である。宣長の説では「縵」は蔭の義で、蔭が出來る枝即ち葉のついてゐる枝を云つたので、「矛」は稍長く手折つた枝の葉を扱き落して、果實だけ殘してある橘のことであると云つて居る。「八」は多くの意である。○「麻爲泥許之」の下に「登布」の二字が落ちたのであると古義に云つてゐるが、(なほ古義の説ではその下の「登吉」は次の句の初に置くのである。)これは「登吉」で切つて、次の句の「時支能」は契沖の説によつて、「時支久能」の「久」が落ちたものと見る説がよい。○「時じく」は果實が年中枝についてゐるから云つたのである。○「香木實」は香細しき木の實の意。○「遺したまへれ」の下には、「ば」のあるものと見て釋くべきである。○「國も狹に」は土地も狹いほどにの意。當時橋を道路や庭園に植ゑたことは、集中に幾らも歌はれてゐる。前に講じた歌にも、「橘の蔭ふむ道の八衢に」といふのがあつた。○「孫枝」は蘖で枝から出る小枝をいふ。○「萠いつつ」は萌えつつ。○「枝に手折りて」は花を枝のまゝ手折ること。○「つとにも遣りみ」は土産にも遣つたりといふ意。この「み」は下の「枯らしみ」の「み」と相對してゐるので、何々にもしたり、又何々にもするといふ意になつてゐる。○「袖にもこきれ」は花を袂にも扱《コ》き入れること)。○「かぐはしみ」は香細しさにといふ意。○「おきて枯らしみ」はその花を取るのが惜しいので、その儘枝において枯しもするといふ意。○「あゆる實」は熟した果實。「あゆ」は熟する意である。○「玉にぬきつつ」其の實を玉のやうに緒に貫いての意。○「くれなゐに」は紅葉の赤いのをいふ。○「ひた照りに」は直照りの意で、眞赤に照り輝くこと。○「常磐なす」はとこしへなる磐の如くといふ意で、次の「いや榮え」(598)の句を修飾してゐる。○「いやさかはえ」は彌榮えの意である。○「しかれこそ」は、しかあればこその意。○「神の御世」は前の垂仁天皇の御代のこと。○「よろしなへ」はよろしく叶ふ意で、こゝでは宜《ウベ》なるかなの意に釋いてよい。
【譯】申すのも勿體ない皇祖の神の御代に、田道間守が常世國に渡つて行つて、數多の枝を持つて參つたと云ふ、四季絶えない香しい果實を、恐多くも後世にお傳へになつたので、今では國土も狹いほど繁り榮え、春になると孫枝が崩え出で、杜鵑が鳴く五月には、その初花を枝ながら手折つて、少女等に土産に遣りもし、袂に扱き入れて持て歸り、又香をめでゝ枝においたまゝで枯らしもし、其の熟した實は珠として緒に貫いて、手に纏きつけて見るけれども見飽きもせず、秋が更けて時雨が降り、山の梢は皆紅に色づいて散つて行くけれども、橘の樹になつてゐるその實は、眞赤に照り輝いて、いよ/\美事であり、雪の降る冬になると、霜は結んでもその葉は枯れず、常磐のやうにいよ/\榮える。さういふ樹だから、神の御代以來、この橘を時じくの果實と名づけたのも尤も至極である。
 
   反歌一首
 
4112 橘は 花にも實にも 見つれども いや時じくに 猶し見がほし
 
 橘波。花爾毛實爾母。美都禮騰母。移夜時自久爾。奈保之見我保之。
    閏五月二十三日大伴宿禰家持作之
 
【譯】橘は花で見、實で見ても、それでも飽き足らないで、いよ/\年中見たいと思ふことである。
【評】橘は「江南種v橘江北爲v枳。」の語で知られるやうに、南方支那が其の本場であつて、南鮮を經て我が國に移されたのは可成古い事である。上代から外來の珍果として庭にも殖ゑ、市の並木にもなつて、其の花の香を賞し、其の(599)實を愛頑したのである。爲を我が國に傳へたといはれる田道間守は、古傳説中に見える天日桙の玄孫であるとせられてゐるが、田道間は但馬であつて、此の國に住んだ歸化人の子孫であらうと考へられる。此の人が常世國に渡つて橘を持ち歸つたといふのは、支那神仙譚の影響を受けて生じた、一の傳説であらうから、常世域は神仙國を指したものとし見てよい。なほ此の傳説に就いては、拙著「古事記新講」百十六段の評を參照してもらひたい。
 
   天平感寶元年閏五月六日以來起2小旱1百姓(ノ)田畝稍有2凋色1也至2于六月朔日1忽見2雨雲之氣1仍作v雲歌一首
 
4123 この見ゆる 雲ほびこりて とのぐもり 雨も降らぬか 心だらひに
 
 許能美由流。久毛保妣許里弖。等能具毛理。安米毛布良奴可。許已呂太良比爾。
    右一首六月一日晩頭守大伴宿禰家持作之
 
【釋】○これは長歌の反歌である。(長歌は割愛した)○「ほびこり」ははびこり〔四字傍点〕と同じ。○「とのぐもり」は「たなぐもる」と同じ。ずつと一面に曇ること。○「降らぬか」の「か」は冀望の助詞。○「心だらひに」は心行くばかり、即ち滿足するほどの意。
【譯】やあ雲が見えて來たぞ、どうかこの雲がずつと擴り、一天を掻き曇らして、心行くほど雨が降つてくれたらよいがなあ。
 
   賀2雨落1歌一首
 
(600)4124 わがほりし 雨は降り來ぬ かくしあらば ことあげせずとも としは榮えむ
 
 和我保里之。安米波布里伎奴。可久之安良波。許登安氣世受杼母。登思波佐可延牟。
    右一首同月四日大伴宿禰家持作之
 
【釋】○これはいよ/\雨が降つたので、三日後に詠んだ作である。○「ほりし」は欲せしの意。○「とし」は「祈年祭《トシコヒノマツリ》」の「年」と同じで、祈年祭の祝詞などに奥津御年《オキツミトシ》とあるのと同じく、稻のことである。
【譯】待ち焦れてゐた雨は、この通り降つて來た。これならもうかれこれと言ひさわがずとも、稻は豐かに實るに相違ない。
 
卷十八終
 
(601)萬葉集 卷十九
 
○此の卷は天平勝寶二年三月から、同五年二月に至る三年間に、家持が書き記しておいた集であつて、大部分は越中在任中のものであるが、卷末の一部分は、歸京以後に書き收めたものである。多くは家持がその交友と贈答した作であるが、中には當時傳へ聞いた古歌もある。作者の名を載せてゐないのは、皆家持の作である事が卷末に記してある。
 
   天平勝寶二年三月一日之暮眺2矚春苑桃李花1作歌二首
 
4139 春の苑《その》 くれなゐにほふ 桃の花 下照《したて》る道に 出で立つ少女
 
 春苑。紅爾保布。桃花。下照道爾。出立※[女+感]嬬。
 
【譯】紅色に咲き匂ふ桃の花が、ぱつと地上を赤く染めてゐる春の苑に、今しも艶な少女が立つてゐて、春色といひ少女といひ、いかにも美しい眺である。
【評】人を醉はせるほどの濃艶な春色である。併し徒らに名詞を列べ立てた爲に、格調の美を缺き、全く漢詩の直譯めいた作となつたのは惜しい事である。
 
4140 わが園の 李《すもも》の花か 庭に散る はだれの未だ 殘りたるかも
 
 吾園之。李花可。庭爾落。波太禮能末。遺有可母。
 
(602)【釋】○「その」は背野の義である。(新井白石の説)。屋前の栽込を前栽といふに對して、菜園・花木園・鳥獣苑などを總稱する語である。こゝでは李の殖ゑてある園である。○「庭」は和名抄に「屋前也」とある。庭はすべて平坦な處をいふ。家の庭は屋前の平地を云ふのである。園と區別されてゐる事に注意せねばならぬ。○「はだれ」は斑雪又は沫雪。
【譯】あの白く見えるのは、あれは園の李の花が庭に散つてゐるのであらうか、それとも春の沫雪が消えずに殘つてゐるのであらうか。
【評】卷八にある「あわ雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも」(駿河釆女作歌)と同じ内容の作であるが、これも格調に於て大に劣るものである。
 
   二日攀2柳黛《ヤナギ》1思2京師1歌一首
 
4142 春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路思ほゆ
 
 春日爾。張流柳乎。取持而。見者京之。大路所思。
 
【釋】○「はれる柳」は芽をふいた柳。○當時の都大路には柳の並木などがあつたのである。
【譯】うらゝかな春の日に、青い芽をふいた柳の枝を手にすると、あの都の街路樹の柳のさまが、あり/\と眼の前に浮んで來る。
 
   攀2折堅香子草花1歌一首
 
(603)4143 もののふの 八十の少女が 汲みまがふ 寺井のうへの かたかごの花
 
 物部能。八十乃※[女+感]嬬等之。※[手偏+邑]亂。寺井之於乃。堅香子之花。
 
【釋】○「緊香子《カタカゴ》」は山慈姑《カタクリ》のことである。葉は「ぎぼうし」に似て、春のはじめに葉と葉の間から四五寸の茎が伸びて、その先に姫百合の花に似た、紫色の六瓣花が首を傾けて咲く。根からは片栗粉が採れる。○「もののふの」は枕詞。○「汲みまがふ」は多くの少女が來て温雜して酌みあふ意。○「寺井」を代匠記に越中の國府にある井の名であらうと云ひ、略解にはただ寺の井か又地名であると云つてゐる。今はある寺の井と見ておく。○「うへ」はほとりの意。○この歌は可憐な堅香子の花と、そこに集まつてゐる愛らしい少女との對照をよんだのである。
【譯】多くの少女が來て、互に水を汲みあふ寺の井のほとりに咲き匂ふ、この竪香子の花の美しさよ。
【評】山寺の井のほとりの春色が鮮かに浮んで來る。そしてどこかなつかしい野趣のある歌である。
 
   夜裏聞2千鳥喧1歌一首
 
4146 夜くだちに、ねざめて居れば 川瀬とめ 心もしぬに 鳴く千鳥かも
 
 夜具多知爾。寢覺而居者。河瀬尋。情毛之奴爾。鳴知等理賀毛。
 
(604)【釋】○「夜くだち」は夜降の義で、夜が更けての意。○「とめ」は尋ね求めて。○「心もしぬに」は聞く人の心を痛ましめての意である。
【譯】夜が更けて目をさましてゐると、川瀬を尋ねて、人の心をしほ/\とさせるほど、千鳥が淋しい聲で鳴いてゐるのが聞える。
【評】これは家持が得意とする情景を詠んだもので、氣分がよく出てゐる作である。
 
   聞2曉鳴雉1歌一首
 
4149 あしびきの 八峯《やつを》の雉《きぎし》 鳴きとよむ あさけの霞 見れば悲しも
 
 足引之。八峯之雉。鳴響。朝開之霞。見者可奈之母。
 
【釋】○「八峯」は多くの峯を云ふ。○「悲し」は身に泌みて感ずる事をいふ語であるから、喜怒哀樂何れにもいふ。こゝは氣の晴れない悲しい心持をいふのである。
【譯】諸所の山で雉が啼きさわぐ明け方に、ずつと霞がかゝつてゐるのを見れば、欝陶しく悲しい心持になる。
 
   遙聞2泝v江船人唱1歌一首
 
4150 朝床《あさどこ》に 聞けば遙けし 射水川《いみづがは》 朝漕ぎしつつ 歌ふ船人
 
 朝床爾。聞者遙之。射水河。朝己藝思都追。唱船人。
 
【譯】朝早く目さめて床に臥したまゝ、耳を澄ましてゐると、射水川を漕いで行く船人の歌が、遙かに聞えて來るのが(605)淋しい。
【評】右の三首は作者が越中にわび住をしてゐた頃、感傷的な氣分で歌つた作である。なほ次に講ずる詠2白大鷹1歌や、本書には省いたが、同じ頃詠んだ悲2世間無常1歌の如きも同じ心の所産である。
 
   八日詠2白大鷹1歌一首並短歌
 
4154 あしびきの 山坂越えて 行きかへる 年のを長く しなざかる 越《こし》にし住めば 大君の しきます國は 都をも ここもおやじと 心には 思ふものから 語りさけ 見さくる人目 ともしみと 思ひし繁し そこ故に 心なぐやと 秋づけば 萩咲き匂ふ 石瀬野《いはせぬ》に 馬たぎ行きて をちこちに 鳥踏み立て (606)白塗《しらぬり》の 小鈴《をすず》もゆらに あはせやり 振りさけ見つつ いきどほる 心のうちを 思ひのべ うれしびながら 枕つく 妻屋のうちに 鳥座《とくら》ゆひ 据ゑてぞわが飼ふ 眞白斑《ましらふ》の鷹
 
 安志比奇能。山坂超而。去更。年緒奈我久。科坂在。故志爾之須米婆。大王之。敷座國者。京師乎母。此間毛於夜自等。心爾波。念毛能可良。語左氣。見左久流人眼。乏等。於毛比志繁。曾己由惠爾。情祭具也等。秋附婆。芽子開爾保布。石瀬野爾。馬太伎由吉※[氏/一]。乎知許知爾。鳥布美立。白塗之。小鈴宅由良爾。安波勢也里。布里左氣見都追。伊伎騰保流。 許己呂能宇知乎。思延。宇禮之備奈我良。枕附。都麻屋之内爾。鳥座由比。須惠※[氏/一]曾我飼。眞白部乃多可。
 
【釋】○初の二句は、都を遠く離れた越中に赴任したことを云つて、「行き」を云ひ起す序としたのである。○「年の緒長く」は年の連續を緒に譬へたので、多くの年を迎へ送ること。○「しなざかる」の「しな」は「萎ふ」「撓ふ」「級《シナ》」「階段《シナ》」などの「しな」であり、「さかる」は退る又は離るの義であるから、坂を幾つも隔てゝゐる意で、「越」の枕詞としたのである。○「おやじ」はオナジの古語。○「石瀬野」は越中の上新川《カミニヒカハ》郡東岩瀬町(冨山の附近)あたりで、神通川の東岸の野をいふ。○「馬たぎ」は馬の手綱を掻い繰る意。「たぐ」はたぐる事。○「白塗の小鈴」は銀で造つた鈴を云ふ。鷹の行先を知るために、足に著けたのである。鐵・銅・金などの小節もある。仁徳天皇紀に、酒君が鷹の尾に小鈴をつけて獻つたことが見えて居る。○「小鈴もゆらに」の「ゆら」は「ゆらぐ」(動搖する意)の「ゆら」と同じで、轉じては緒に貫いた玉や鈴などが搖れて音を發する事をも云ふのである。さて「も」は助詞ともいひ(古義)、又「眞」と同じで接頭語であるともいひ、(略解・倭訓栞)又宣長は萬葉卷十の「足玉も手玉もゆらに織る機を」の如きは明かに助詞で(607)あつて、萬葉のはすべて助詞であるが、記紀に「玉の緒もゆらに」「瓊響※[王+倉]々《ヌナトモユラニ》」などあるのは助詞ではなく、或は眞の意であるかと思ふが、マをモといつた例は未だ發見しないと云つてゐる。(「古事記傳」−全集三六五頁)こゝは助詞と見るべきであらう。○「あはせやり」は鷹を放つて、小鳥に合せやること。○「いきどほる」は天治本新撰字鏡の訓に、「伊支止保留、又伊太美宇禮不」、「伊支止保呂志、又伊太牟、又禰太志」とある。此等によつて其の意が明かである。即ち氣の晴れない事である。○「うれしびながら」はうれしい故にの意である。「ながら」は「神ながら」の「ながら」と同じ。○「枕つく」は「つまや」の枕詞。(既出)○「妻屋」は夫妻の籠り寢る室。○「鳥座《トクラ》」はトヤ(鳥屋)の事。(既出)○「眞白斑の鷹」の「眞」は接頭語。白のまだらの鷹をいふ。
【譯】幾多の山坂を越えて來て、郡から遠く離れた越の國に、移り行く年月永く住んでゐると、都もこゝも同じく大君が治め給ふ國であると、心には思つてゐても、何しろ共に語り、互に見かはす人も少い事とて、兎角物思が多い。そこでこの鬱陶しい心が、慰められはしないかと思つて、秋になると、萩の咲き匂ふ岩瀬野へと馬を馳せて、あちらこちらに鳥を追ひ立て、それらを捕らせる爲に、鷹をはなつと、足につけた銀の鈴をゆら/\と鳴らして追ひ馳けて行く。それを遠く見やれば、鬱結した心も晴れて、まことにうれしい思がするから、その鷹狩のためにとて、閨戸の内に鳥屋を造つて、その中に私が飼つてゐる、この白い斑入の鷹は、さても愛すべき鳥である。
 
   反歌
 
4155 やかたをの 眞白の鷹を やどに据ゑ かき撫で見つつ 飼はくしよしも
 
 欠形尾乃。麻之路能鷹乎。屋戸爾須惠。可伎奈泥見都追。飼久之余志毛。
 
(608)【釋】○「やかたを」は袖中抄第九に二説引いてゐる。一は顯昭の説で、「屋の棟のやうにさがりふに切りたるをいふ」とあり、一は奥義抄(綺語抄・童蒙抄も同じ)の説で、「尾のふの矢の羽のやうにさがりふに切りたる鷹なり」とある。とにかく八字形の斑の尾のことである。○「飼はく」は飼ふ事はの意。
【譯】矢形の斑のある尾を持つてゐる白鷹を部屋置いて、撫で慈みながら飼つてゐるのは誠に樂しいものだ。
【評】作としては價値の高いものではない。併し卷十七に「思3放逸《ソラセル》鷹1夢見|感悦《ヨロコビ》作歌」といふ長歌一首と反歌四首とがあるが、それと云ひこの作といひ、家持が鷹狩によつて氣を晴らしてゐたこと、又その鷹を深く愛してゐたことなどが窺はれて、家持の生活の一端を知る事が出來て興味がある。
 
   慕v振2勇士之名1歌一首並短歌
 
4164 ちちのみの 父のみこと ははそばの、母のみこと おほろかに 心つくして 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空しくあるべき 梓弓 末ふりおこし 投矢《なぐや》もち 千尋射わたし 劔太刀 腰にとり佩き (609)足引の 八つ峰《を》ふみ越え さしまくる こころさやらず 後の代の 語りつぐべく 名を立つべしも
 
 知智乃實乃。父能美許等。波播蘇葉乃。母能美己等。於保呂可爾。情盡而。念良牟。其子奈禮夜母。丈夫夜。無奈之久可在。梓弓。須惠布理於許之。投矢毛知。千尋射和多之。劔刀。許思爾等理波伎。安之比奇能。八峰布美越。左之麻久流。情不障。後代乃。可多利都具倍久。名乎多都倍志母。
 
【釋】○「ちちのみの」は音調から父にかけた枕詞。駿河相模地方では鍛杏樹を「ちちの木」、其の實を「ちちの實」と云つてゐる。此の樹は古くなると、樹皮に乳房状の突起が出來るから、この名を得たのであるといふ。駿河の淺間神社の境内に銀杏の老樹があつて、土地の婦人が乳を祈る風習がある。○「ははそばの」も音の關係から母にかけた枕詞である○「ははそ」は和名抄に「柞」の字を訓み、新撰字鏡(天治本)には「楢【天紹反堅木也。波波會乃木又奈良乃木。】「又「※[木+列]【閭制反※[木+而]也崩也波波曾乃木也】」などが見えてゐる。今の何木であるか明かでないが、楢・?・櫟などの總稱か、又はそれらの何れかの一名であるらしい。さて「ははそば」は柞葉である。柞の紅葉は中古の歌には頻繁に現はれてゐる。○「おほろか」は「疎か」と同じ意で、よい加減にの意。○「その子なれやも」の「や」は反語。その子は家持自らを指してゐる。○「投失」は遠くへ遣る矢のこと。(前出「なぐるさ」參照)○「さしまくる」の「さし」は接頭語、「まくる」は任《マク》の義で、政府から任ぜられたこと。○「こころ」は精神即ち官の任命の趣旨。○「さやらず」は滯らず。
【譯】この身は一體父母が並々に思つてゐる子であらうか。一通りならず心を碎いて、育て上けた丈夫であるから、空しく一生を送つてはならない。武官の家の子として恥づかしくないやうに、弓を振り立て矢を執つて、千尋の遠き處も射わたし、劍太刀を腰にとり佩き、峰を幾つも越えて、官の任じ給うた御趣旨に違はず、後の世まで永く語り傳へられるほどの、名を立てなくてはならぬ。
 
(610)   反歌
 
4165 ますらをは 名をし立つべし 後の代に 聞きつぐ人も 語りつぐがね
 
 丈夫者。名乎之立倍之。後代爾。聞繼人毛。可多里都具我禰。
    右二首追2和山上憶良臣1作歌
 
【譯】丈夫たる者はよろしく名を立つべきである。後世聞き繼ぐ人々も語り傳へて行つて、永くその名の傳はるやうに。
【評】この二首は左註にもある通り、憶良の作「丈夫は名をし立つべし後の世に語りつぐべき名は立たずして」(卷六)に和した歌である。かれと云ひこれと云ひ、共に莊重なる詞と雄渾なる想とによつて、上代武將の本領を遺憾なく發揮してゐる。
 
   十二日遊2覽|布勢水海《フセノミヅウミ》1船泊2於多※[示+古]灣《タゴノウラニ》望2見藤花1述v懷作歌
 
4199 藤浪の 蔭なる海の 底清み しづく石をも 玉とぞ吾《われ》見る
 
 藤奈美能。影成海之。底清美。之都久石乎毛。珠等曾吾見流。
    守大伴宿禰家持
 
【釋】○「布勢湖」は越中氷見郡にある。今は十二町潟(一名氷見潟)と云ふ。東の方に口があつて富山灣に注いでゐる。○「多※[示+古]の浦」は氷見郡宮田村に屬す。氷見町の南一里にあつて、今は布勢湖から一里も離れてゐるけれども、古は宮田村あたりまで湖であつたのである。○「藤浪」は藤のこと。語源は藤靡で、蔓がしなひ靡く故さう云ふのである(611)と云はれてゐる。○「蔭なる」は藤の蔭にあるといふ意。○「しづく」は沈着の義で、水中に沈んでゐるものが、透いて見えるのをいふ。○此の歌は四首の中の一首である。
【譯】藤の花の蔭にある湖の底が餘り清いので、花の映じてゐる水を透かして、下に沈んである石までが珠かと見えて美しい。
【評】春の麗しい光にきらめく紫色の小波、澄み切つた水の底に見える碧色の石、それらが繪のやうに歌はれてゐる。萬葉も末期になると、色彩に對する觀察が大に進んだやうである。
 
   見v攀2折|保寶葉《ホホガシハ》1歌一首
 
4204 わがせこが 棒げて持《も》たる ほほがしは 恰も似るか 青ききぬがさ
 
 吾勢故我。捧而持流。保寶我之婆。安多可毛似加。青蓋。
    講師僧惠行
 
【釋】○「ほほがしは」は今いふ「ほほの木」(厚朴)である。山に生ずる喬木で、葉は橢圓形で、長さが一尺以上もある。その表が緑で、裏が白く粉を振りかけたやうに見えるのが、他の木の葉と異つて見所がある。幾枚もの葉が枝の先端に一所に着いてゐ(612)るのが、恰も傘をひろけた恰好である。初夏に直徑五六寸の薄黄色を帶びた白い花が咲くが、香が高い。○「きぬがさ」は一八〇頁參照。○「講師」は僧の職名。寺の事務を掌るために、官から任命せられて諸國に下つたのである。○「惠行」の傳は未詳。
【譯】あなたが手に捧げてゐるその厚朴の葉は、丁度青い蓋《キヌガサ》に似てまことに美しい。
【評】表と裏と色の異つた大きな厚朴の葉は、嘗際美しいものである。それを手にして賞したといふことも、面白いことであるし、それを又蓋のやうだと歌つたのも、頗る趣味がある。
 
 大殿の このもとほりの 雪な蹈みそね しばしばも 降らざる雪ぞ 山のみに ふりし雪ぞ ゆめよるな 人や な蹈みそね雪は
 
4227 大殿之。此廻之。雪莫蹈禰。數毛。不零雪曾。山耳爾。零之雪曾。由米縁勿。人哉。莫履禰雪者。
 
【釋】○作者は左註にある。○「このもとほり」は此の廻で、このまはりの意。○「よるな」は雪のほとりに寄るなと制する意。
【譯】大殿のまはりに面白く降つた、この雪を蹈んではならないぞ。かういふ雪は度々降るといふわけでない。これまで山にだけは度々降つたが、こゝには珍らしく降つたのだ。人々よ決して立ち寄つて、蹈み穢してはならないぞ。(613)この清い雪を。
【評】句法に於て異彩を發つてゐる。多分古歌の格調を模倣した作であらう。
 
   反歌一首
 
4228 ありつつも めし給はむぞ 大殿の 此のもとほりの 雪なふみそね
 
 有都都毛。御見多麻波牟曾。大殿乃。此母等保里能。雪奈布美曾禰。
    右二首歌者。三形沙彌承2贈左大臣藤原北卿之語1作誦之也。聞v之傳者笠朝臣子君。復後傳續者。越中國掾久米朝臣廣繩是也。
 
【釋】○「ありつつも」は在るがまゝにしておくこと。○「めし給ふ」は御覽になるの意。(左大臣が見給ふ意)○「三形沙彌」は九一頁にある。○「北卿」は北家の房前卿である。○「北卿之語を承く」とは左大臣が珍らしぐ降つた雪だ、蹈み穢さないでいつまでも眺めたいと言つた、その語を承けてといふ意であらう。
【譯】このまゝに置いて、樂しく御覽になる雪だぞ、大殿のまはりの此の清い雪を、暗み穢してはならないぞ。
 
   太政大臣藤原家之|縣犬養命婦《アガタノイヌカヒノヒメトネ》奉2天皇1歌一首
 
4235 天雲を ほろに蹈みあたし 鳴る神も 今日にまさりて かしこけめやも
 
 天雲乎。富呂爾布美安多之。鳴神毛。今日爾益而。可之古家米也母。
    右一首傳誦掾久米朝臣廣繩也
 
(614)【釋】○「太政大臣」は贈太政大臣藤原不比等。○「縣犬養命婦」は不比等の後妻で、橘犬養東人の女光明皇后の御母で、名は三千代といふ。宮中に仕へて内命歸となつてゐた人。○「天皇」は何天皇を指してゐるかは明かでない。三千代は元明・元正・聖武の三朝に仕へた人である。○「ほろに蹈みあたし」は略解に引いた宣長の説に、ホロは古事記に「如沫雪蹶散《アワユキナスクヱハララカシ》」とあるそのハララと同じで、アタシは散らす意である、從つて此の句は只、雷の勢を強く云つた詞であると云つてゐる。此の句の解には種々の説があるが、是が最も穩當である。考や倭訓栞などには、ホロは響く音であるミ云つてゐるけれども、ホロホロ(こぼれ散るさま)ボロボロ(小さく裂け破れるさま)ホロリ(涙のこぼれるさま)ホロログ(ばら/\になる)ボロ(襤褸)ホドロ(斑)ホドバシル(飛び散る)ホドク(分け解く)などから推して考へると、どうしてもばら/\に散らすさまを云ふ語である。次にアタシを宣長は散らす意であると云つたけれども、其の語源は説明してゐない。仙覺・契沖等はワタシ(渡し)の音の変化したものと見てゐる。要するにこの句は、バラ/\に蹈み散らす意である。
【譯】空の雲をばら/\に蹈み散らして、轟き渡る雷は恐ろしい物でございますが、それでも現つ御神にまします、我が大君の大前にまかり出て、恐れかしこむ今日のかしこさには、まさりは致しませぬ。
【評】卷三に見えた人麿の作、「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」と共に、上代の人の主上に對する敬虔の情がよく表はれてゐる。
 
   春日祭v神之日藤原太后御作一首即賜2入唐大便藤原朝臣清河1
 
(615)4240 大船に 眞※[楫+戈]しじぬき この吾子《あご》を 唐國《からくに》へやる いはへ神たち
 
 大船爾。 眞梶繁貫。此吾子乎。韓國邊遣。伊波敝神多智。
 
【釋】○「春日祭v神」は遣唐使の平安を祈るために、祭典を擧げたことを云ふのである。○「藤原太后」は光明皇后。○「清河」は皇后の御甥で房前の第四子である。○「吾子」は我が子、又は親しい間柄の人を親しんで呼ぶ語。○「いはふ」は守護する意。
【譯】大きな船に※[楫+戈]を澤山につけて、このいとしい甥を唐國へ遣るのである。どうか神々も無事に任を終へて歸るやうに、お守り下さいませ。
【評】續日本紀を播くと、藤原清河は天平勝寶四年に出發したが、途中逆風に遭つて、唐の南邊驩州といふ處に漂着し、土人に襲はれて僅かに身を以て免れたのである。彼はその後、十何年の間歸朝することが出來なかつたのであるが、其の間朝廷ではその忠誠を思し召して、累りに官位を進められ、光仁天皇の寶龜六年には、遣唐使に書を託して、努めて共に歸朝するやうにとの、優渥なる詔を賜はつたのであるが、それも空しくなつて、彼は遂に異國の土となつてしまつたのである。かくて寶龜十年には從二位を贈られた。彼の出發に際して、御伯母の光明皇后が、右の如き慈愛に滿ちた御歌を賜うたことを思ひ、又その後の朝廷の御心遣ひを思ふとき、吾々は一篇の悲劇を讀む心地がして、多くの人が悲しんだ其の心に同情せざるを得ぬのである。
 
   阿倍朝臣老人遣v唐時奉v母悲v別歌一首
 
(616)4247 天雲の そきへの極み 吾が思《も》へる 君に別れむ 日近くなりぬ
 
 天雲能。曾伎敝能伎波美。吾念有。伎美爾將別。日近成奴。
    右件歌者傳誦之人。越中|大目高安倉人種麻呂《オホキフミヒトタカヤスクラヒトタネマロ》是也。但年月次者。隨2聞之時1載2於此1焉。
 
【釋】○「そきへ」は退方《ソキヘ》の義で、遠く離れた彼方。○初めから三句までの意を代匠記に、天の限りなきが如く、限りなく思へるわが君の意とし、略解に天地の間に滿ち渡るほど思へる君の意と解いたが、古義には天雲の遠く離れてゐるはてに、遠く別れ行くべき日の意としてゐる。今古義の説によつて釋く。
【譯】空にかゝつてゐる雲が、遠く遙かに浮んでたるそのはてに、私か慕つてゐる母上にお別れして、行くべき日がいよ/\近くなりました。悲しい事でございます。
 
   以2七月十七日1遷2任少納言1仍作2悲v別之歌1贈2貽朝集使掾久米朝臣廣繩之館1一首
既滿2六載之期1忽値2遷替之運1。於v是別v舊之悽。心中鬱結。拭v※[さんずい+帝]之袖。何以能旱。因作2悲歌二首1(今一首を省く)式遺2莫忘之志1。其詞曰
 
4249 岩勢野《いはせぬ》に 秋萩しぬぎ 馬|並《な》めて 始鷹狩《はつとがり》だに せずや別れむ
 
 伊波世野爾。秋芽子之努藝。馬並。始贋獵太爾。不爲哉將別。
    右八月四日贈之
 
【釋】○家持が越中に下つたのは天平十八年七月で、今少納言に任ぜられて京に上るのは、勝寶三年八月であるから、(617)其の間五年になる。(足掛け六年になるから六載とある)この歌は京に上るに當つて、越中に下つてゐた久米廣繩と別を惜しんでよんだ二首の中の一首である。
【譯】岩勢野に秋萩を押し分けて、共に馬を並べて始鷹狩を催する日さへ待たずして、惜しい別をしなければならぬ。
【評】鷹狩のことを云つてゐる所に、武將の雄々しさが偲ばれる。なほ鷹狩に鬱結した情を晴らしてゐた、家持の長歌を思ひ浮べると、北國から歸京する時の名殘惜しさが、この歌に最も適切に歌はれてゐるやうに思はれる。
 
   壬申年之亂平定以後歌二首
 
4260 大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田ゐを 都となしつ
 
 皇者。神爾之座者。赤駒之。腹婆布田爲乎。京都跡奈之都。
    右一首大將軍贈右大臣大伴卿作
 
【釋】○「壬申年云々」は壬申の亂の平定後、天武天皇が飛鳥の淨見原宮を營ませられた時の歌。○「はらばふ」は匍匐することであるけれども、こゝでは馬が「まが」などを曳いて、ゆる/\田の中を往來するさまを云ふのである。○「田ゐ」はただ田のこと。○「大伴卿」は御行である。
【譯】大君は現つ神でいらつしやるから、これまで赤駒がのろのろしてゐた田を變じて、玉敷の都となされたことだ。
 
4261 大君は 神にしませば 水鳥の すだくみぬまを 都となしつ
 
 大王者。神爾之座者。水鳥乃。須太久水奴麻乎。皇部常成都。
(618)    作者未v詳
    右件二首天平勝寶四年二月二日聞v之即載2於茲1也
 
【釋】》○「すだく」は集中に「多集」を宛ててゐる。群集すること。○「みぬま」は水沼即ち澤である。
【譯】大君は神にましますから、これまで水禽が群れ遊んでゐた澤を、賑はしい都に變へておしまひになつた。
【評】右の二首は、眼前の變化を驚異の眼で見ると共に、現つ神である所の天皇の、絶大の稜威を仰ぎ奉つて歌つたのである。
 
   閏三月於2衛門督大伴|古慈悲《コジヒ》宿禰家1餞2之入唐副使同胡麻呂《コマロ》宿禰等1歌一首
 
4262 唐國《からくに》に 行きたらはして 歸り來む ますらたけをに 御酒《みき》たてまつる
 
 韓國爾。由伎多良波之※[氏/一]。可敝里許牟。麻須良多家乎爾。美伎多※[氏/一]麻都流。
    右一首多治比眞人|贋主《タカヌシ》壽2副使大伴胡麻呂宿禰1也
 
【釋】○「閏三月」は天平寶字四年の事である。○「大伴古慈悲」は壬申の亂に功のあつた大伴吹負の孫で、祖父麻呂の子である。○「入唐副使大伴胡麻呂」は旅人の姪である。彼が入唐の時の大使は藤原清河で、今一人の副使は吉備眞備であつた。胡麻呂と眞備は六年に無事に歸朝した。○「行きたらはして」は行き滿足《タラハシ》の義で、行つて任務を滯なく終へると。
【譯】唐國へ渡つて行つて、大任を滯なく終へてお歸りなさるべき丈夫に、謹んで酒を獻じます。どうか無事にお歸り(619)なさるやうに。
【評】調が悠々として迫らず、いかにも莊重に響く。結句が殊に佳い。
 
   勅2從四位上|高麗《コマ》朝臣|福信《フクシヌ》1遣2於難波1賜2酒肴入唐使藤原朝臣清河等1御歌一首
 
4264 そらみつ 大和の國は 水のへは 地《つち》行く如く 船《ふね》のへは 床に居《を》る如《ごと》 大神の いはへる國ぞ 四つの船 ふなのへ並べ 平らけく はや渡り來て かへりごと 奏《まを》さむ日に 相飲まむ酒《き》ぞ この豐御酒は
 
 處見都。山跡乃國波。水上波。地徃如久。船上波。床座如。大神乃。鎭在國曾。四舶。舶能倍奈良倍。平安。早渡來而。還事。奏日爾。相飲酒曾。斯豐御酒者。
    右發2遣勅使1並賜v酒樂宴之日月未v得2詳審1也
 
【釋】○「高麗福信」は本姓を背奈といつたが、後に高麗朝臣又更に高倉朝臣の姓を賜はつた。武藏國高麗郡の人で、其の祖父は高勾麗から歸化して、武藏に住んだ福徳である。○「藤原朝臣清河等」は大使の清河副使の胡麻呂及び眞備等である。○「水のへ」は水上。○「四つの船」は遣唐使の大使・副使・判官・主典の四人が、四艘の船に別々に乘つて(620)行くから、その船を云ふのである。海上で遭難の憂がある爲、かうして分乘したのである。○「かへりごと」は復命。○「相飲まむ酒ぞ云々」は卷六の聖武天皇が、酒を節度使に賜ふ時の御製の未句と殆ど同じである。○此の長歌にはなほ反歌一首あるが、今之を省く。
【譯】わが日本國は、水の上は恰も地上を行くと同じやうに、又船の上は恰も床に坐つてゐると同じやぅに、神々が安全に守護し給ふ國であるぞ。それ故汝等は、四つの船の舳を並べて、平安に唐國に渡つて、早速任務を終へて國に還り、復命をする日の來ることは、期して待つべしである。其のめでたい日に、再び相酌んで飲むべき御酒であるぞ、今日こゝに賜はするこの大御酒は。
【評】遣唐使の使命や渡航の困難などについては、既に卷五で述べたのであるが、其の一行の人員は、少くも二百名、多い時は五百五十名もあつたので、朝廷としても此等を派遣せられることは、一大事であつたに相違ない。この御製はよく彼等を激勵し、又慰撫し給ふ御意が十分窺はれるのである。時の天皇は孝謙天皇(女帝)であつた。
 
   二十五日|新嘗會肆宴《ニヒナヘマツリノトヨノアカリ》應v詔歌四首
 
4273 天地と 相榮えむと 大宮を つかへまつれば 貴くうれしき
 
 天地與。相左可延牟等。大宮乎。都可倍麻都禮婆。貴久宇禮之伎。
    右一首大納言巨勢朝臣
 
【釋】○「二十五日新嘗會」は天平勝寶四年十一月の新嘗祭の事で、御一世一度の大嘗祭ではない。○「大宮」は新嘗祭を行ひ給ふために、新に造營せしめられた神殿である。新嘗と大嘗とを區別して行はれるやうになつたのは、何時頃(621)からであるか明かでないが、天武天皇の御即位の二年に行はせられた大嘗祭の式典などは、區別が稍明かに立てられたのである。併し區別と云ふも、今日のやうな大差のあつたものでなく、よほど相似たもので、白酒黒酒を奉ることは勿論(次に歌つてある)、神殿などもお營みになつたのである。○「肆宴」は豐明節會の事で、群臣に酒を賜ふのである。○「巨勢朝臣」は奈底麻呂《ナデマロ》のこと。神祇伯造宮卿を奉じてゐた人である。
【譯】天地と共に遠く久しく御代のお榮えなさるやうにと、新嘗の祭を行はせられる神殿の御造榮に仕へ奉れば、貴くもあり歡ばしい極みでもある。
 
4274 天《あめ》にはも 五百《いほ》つ綱はふ 萬代に 國しらさむと 五百つ綱はふ
 
 天爾波母。五百都綱波布。萬代爾。國所知牟等。五百都都奈波布。
    右一首式部卿石川|年足《トシタリ》朝臣
 
【釋】○「天にはも五百つ綱はふ」の意を眞淵は、新嘗宮の周圍にめぐらした長い注連繩のことで、その綱の長いのを以て、萬世までの譬に用ゐたのであると云ひ、宣長は「天」とは新嘗宮の屋根の上方を云ふので、その上方を結ひ固めた長い繩を、五百つ綱といつたのである、神代紀に「千尋の栲繩を以て結ひて百八十紐とせむ」とあるのを見て五百つ綱の意が明かである、結び固のた繩の事を「延へ」といつたのは、萬代をいはん爲であると云つてゐる。これは宣長の説がよいやうである。要するに上古の建築には、釘を用ゐることなく、所謂黒木の材を葛などで結ひ固めて造つたのである。新甞の神殿は上古の形式によるのであるから、長い綱を引き延へて、柱・衍・梁などを結ひ固める故五百つ綱と云つたものと見える。綱は結べば切つてしまふわけであるけれども、結ぶときの動作を以て、「延へ」と(622)歌つたのである。○「石川年足」は武内宿禰の子宗我石川宿禰十世の孫、石川石足朝臣の長子である。
【譯】神殿の屋根は良い綱を引き延《ハ》へて結ひ固めてある。あれは萬代までも國をお治めなさるべき、めでたい御世のしるしである。
 
4275 天地と 久しきまでに 萬代に 仕へまつらむ 黒酒《くろき》白酒《しろき》を
 
 天地與。久萬※[氏/一]。萬代爾。都可倍麻都良牟。黒酒自酒乎。
    右一首從三位文屋|智奴麻呂《チヌマロ》眞人
 
【釋】○「黒酒白酒」は上古に常用した酒であらうが、今日その製法は明かでない。古くは何れにも藥灰を加へて造つたと云ふが延喜造酒式を見ると、醴酒(あまざけ)を白酒といひ、久佐木(俗に臭桐といふ、葉に臭氣がある。)の灰を加へたのを黒酒といふとある。併し後世更に變遷して、白酒は普通の酒で、黒酒には黒胡麻の粉を加へることになつた。○「文屋智奴麻呂」は天武天皇の皇子の一品|長《ナガ》親王の御子で、孝謙天皇の天平勝寶四年に文屋眞人の姓を賜はつた人である。
【譯】天地と共に長く久しく萬代までに、黒酒白酒の大御酒を造つてお仕へ申さう。
 
4276 島山に 照れる橘 うずに挿し 仕へまつらな まへつきみたち
 
 島山爾。照在橘。宇受爾左之。仕奉者。卿大夫等。
    右一首|右大辨《ミギノオホキオホトモヒ》藤原|八束《ヤツカ》朝臣
 
(623)【釋】○「島山」は考に、大内の御池の島山(島の築山)であらうと云ふ。(略解・古義同説)○「照れる」は熟して赤々としてゐること。○「うず」(髻華)は上古の髪師の鬘《カヅラ》(葛などを鉢卷のやうに卷きつけたもの)から変遷したもので、後の挿頭《カザシ》の花である。萬葉に柳や日蔭葛《ヒカゲノカヅラ》などを用ゐたことが見え、古事記の景行天皇卷にある倭建命の御歌に、「平群の山のくま檮《カシ》が葉を髻華《ウズ》に挿せその子」といふのがあるから、草木の小枝を頭に挿す風があつたのである。此所の髻華も上代のこの遺風によるものである。さてこれが後の大嘗祭に於て、冠に挿す種々の造花に變遷してゐる。即ち大嘗宮の神門の外掖に、威儀の本位に就く官人などが、冠の巾子《コジ》(髻を容れる部分)の前方に、心葉《ココロハ》と云つて金屬製の造花を挿し、冠の兩側には日蔭蔓《ヒカゲノカヅラ》といつて、白・崩黄・紅等の色糸を組んで、左右に八筋乃至十二筋垂れ、又大饗の時には挿頭花《カザシノハナ》と云つて、心葉と同じやうに金屬製の種々の造花を、天皇は御冠の巾子の前面左方にお挿しになり、臣下は主上から當日賜はつて、冠の前面右方に挿すのであるが、此等の心葉・日蔭蔓・挿頭花等は、いづれも上代に草木の枝を冠に挿した遺風である。○「まへつ君」は君前に伺候する侍臣。○第四句の「者」は「名」の誤であらう。
【譯】中島に立つてゐる橘の、實の赤らんで美しく輝いてゐる枝を頂戴して、髻華に挿して仕へ奉らう近侍の人々よ。
【評】新嘗祭は神代ながらの森嚴崇高な古式に則つて行はせられる、神人相感の大禮であり、饗宴は君民交驩の盛典であつて、二者共に瑞穗の國固有の大典である。この祭祀によつて、横には君民一體の信念を固うし、縱には祖先の神々と現世の君臣との結合が行はれるのであつて、實にわが國體の美を發揮する所以である。さういふ至重な祭典に臨んでは、國民の忠誠の情が最も強く表はれるのである。この四首の歌を講ずるに當つて、特に思ひ起すのは、先年吾々が仰ぎ見た、大正の大嘗祭並に大饗の盛儀である。
 
(624)   五年正月四日於2治部少輔|石上《イソノカミ》朝臣|宅嗣《イヘツグ》家1宴歌一首
 
4284 新しき 年のはじめに 思ふどち い群れて居れば うれしくもあるか
 
 新。年始爾。思共。伊牟禮※[氏/一]乎禮婆。宇禮之久母安流可。
    右一首|大膳大夫道祖王《オホイカシハデノツカサノカミフナドノオホキミ》
 
【釋】○「石上朝臣宅嗣」は石上乙麻呂の子で、淡海三船と共に漢詩文に長じてゐた人である。○「い群れて」の「い」は接頭語。○「道祖王」は天武天皇の御孫で新田部親王の御子。○これは三首の中の一首である。
【譯】新しい年の初めに、心の合つた者同志が集まつて、宴を催すのはうれしいものだ。
【評】平明な作であるが、凡手の及ばぬ歌である。和氣が堂に滿ちてゐるやうな感がする。
 
   二十三日依v興作歌二首
 
4290 春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも
 
 春野爾。霞多奈妣伎。宇良悲。許能暮影爾。鶯奈久母。
 
【釋】○「二十三日」は五年二月の事である。○作者は家持。以下の二首も同樣。
【譯】春の野に霞がかゝつてゐて、折しも日は入方になつて、薄い日影を流してゐる時、夕陽の中でさびしく鶯の鳴くのを聞くと、何とはなしに哀愁が涌いて來る。
 
4291 わが宿の いささ村竹 吹く風の 音のかそけき このゆふべかも
 
 和我屋度能。伊佐左村竹。布久風能。於等能可蘇氣伎。許能由布敝可母。
(625)【釋】○「いさゝ村竹」は仙覺抄に「いさゝかにかろくして風になびきやすきむら竹」と解き、考・略解に「い」は接頭語「さ」は「いささか」「ささやか」などの「さ」で、小群竹の意と云つてゐるが、古義に五十竹葉群竹《イササムラタケ》の義で、卷十に「道のべの湯小竹《ユササ》(五百竹葉《ユササ》の義)の上に」とあると同じく、葉の繁つた群竹であると解してゐる。今古義の説に依つて解く。竹《ササ》は葉の觸れて鳴る音から得た名である。○「かそけき」はかすかなる意。
【譯】わが庭の葉の繁つてゐる群竹に、そよ/\と吹き渡る風がおとづれて、かすかに音の聞える此の夕方のさびしさ
 
   二十五日作歌一首
 
4292 うらうらに 照れる春日に 雲雀《ひばり》あがり 心悲しも ひとりし思へば
 
 宇良宇良爾。照流春日爾。比婆理安我里。情悲毛。比登里志於母倍婆。
    春日遲遲。〓〓《ヒバリ》正啼。悽悵之意非v歌難v撥耳。仍作2此歌1式展2締緒1。但此卷中。不v稱2作者名字1。徒録2年月所處起1者。皆大伴宿禰家持裁作歌詞也。
 
【譯】うららかに照り渡る春日を浴びて、雲雀が鳴きながらだん/\高く上つて行く。それを只ひとり物思ひに耽りながら聞いてゐると、何となく哀愁が胸に起つて來る。
【評】右三首は何れも、卷十九にあつた「夜くだちに」以下三首と同じく、家持の感傷的な一面をよく表してゐる作である。貴公子の作らしい、清麗とでもいふべき歌風である。
 
卷十九 終
 
(626)萬葉集 卷二十
 
○この卷は卷十九に續いて、天平勝寶五年五月から天平寶字三年の正月一日に至る、五年半の間に家持が手記した集である。家持が傳へ聞いた古歌や、宴席での作や、其の他時々の歌を載せてゐるが中にも、著しく吾々の目を牽くのは、天平勝寶七年二月に交替して、筑紫に下る新防人の詠んだ多くの短歌である。
 
   七夕歌一首
 
4309 秋風に なびく川邊《かはび》の にこぐさの にこよかにしも 思ほゆるかも
 
 秋風爾。奈妣久可波備能。爾故具佐能。爾古餘可爾之母。於毛保由流香母。
    右大伴宿禰家持獨仰2天漢1作v之
 
【釋】○初の三句は「にこよかに」をいふ爲の序である。○「にこぐさ」をカホバナ(旋花)の一名であるとする説があるけれども、恐らく一定の花ではなからう。卷十一に「葦垣の中のにこぐさにこやかに我とゑまして人に知らゆな」と歌つた例もある。倭訓栞に柔草の義であると云つてゐるのが正しいやうである。○「にこよかに」は「にこやかに」と同じでニコ/\すること。○これは牽牛星の心になつて歌つたのである。○八首の作中の一である。
【譯】めづらしく今宵は織女に逢ふのだと思ふと、いかにも嬉しいので、ニコ/\と微笑を催すことである。
【評】上品なそしてさわやかな感じのする歌である。
 
(627)4315 宮人の 袖つけごろも 秋萩に にほひよろしき 高圓《たかまと》の宮
 
 宮人乃。 蘇泥都氣其呂母。 安伎波疑爾。仁保比與呂之伎。多加麻刀能美夜。
 
【釋】○作者は家持。○「袖つけごろも」は奥袖の先に更に端袖《ハタソデ》を付けて、幅を廣くした衣服。○「にほひよろしき」は衣に萩の花が映じて美しい意。○「高圓の宮」は聖武天皇の離宮で、春日の高圓山尾上宮の事である。
【譯】宮仕人が着飾つてゐる長い袖の衣に、秋野の萩が映ずろ高圓の離宮の美しさよ。
 
4316 たかまとの 宮の裾廻《すそみ》の 野《ぬ》つかさに 今咲けるらむ 女郎花はも
 
 多可麻刀能。宮乃須蘇未乃。努都可佐爾。伊麻左家流良武。乎美奈弊之波母。
    右歌二首兵部少輔大伴宿禰家持。獨憶2秋野1聊述2拙懷1作v之。
【釋】○「裾廻」は山麓の廻りをいふ。○「野つかさ」は「岸のつかさ」「山のつかさ」の類で、野中の小高い處。○「はも」は感動の助詞。
【譯】高圓山の離宮の麓のまはりの野中の丘には、もう女郎花が咲いてゐるであらう、あの美しい女郎花よ。
【評】右二首は天平時代の大宮人が最も愛した、秋野の景趣をよく代表して居るやうである。作風は例によつて繪畫的で美しい。
 
   天平勝寶七歳乙未二月|相替《アヒカヘテ》遣2筑紫諸國1防人《サキモリ》等歌
 
4322 わが妻は いたく戀ひらし 飲む水に かごさへ見えて よに忘られず
 
 和我都麻波。伊多久古比良之。乃牟美豆爾。加其佐倍美曳弖。余爾和須良禮受。
(628)    右一首|主悵丁麁玉郡若倭部身麿《フミヒトノヨボロアラタマノコホリワカヤマトベノムマロ》
 
【釋】○「防人」(前出)。○「戀ひらし」は「戀ふらし」の東國訛である。○「かご」は「かげ」の東國訛。水に映つた自分の顔を見て、ふと妻の面影を思ひ浮べたのである。○「よに」は決して・呉々も・殊の外等の意の副詞。○「主帳」は郡の役の名で、今の郡書記のやうなもの。丁《ヨボロ》とは二十歳から六十歳までの男子で、公用に使役せられる者をいふ。主帳丁は主帳の下に使はれてゐる壯丁である。○「麁玉郡」は遠江國の郡名。
【譯】妻がひどく自分を慕つてゐるらしい。今自分が飲まうとしてゐる清水に、その顔が見えて、どうにも忘れることが出來ない。
 
4323 時どきの 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲きでこずけむ
 
 等伎騰吉乃。波奈波佐家登母。奈爾須禮曾。波波登布波奈乃。佐吉泥己受祁牟。
    右一首防人山名郡|丈部眞麿《ハセツカベノママロ》
 
【釋】○「母とふ花」を、考に母子草のことであるといひ、古義に花の如く愛する母の意であると云ひ、又代匠記・略解には花の事を上に云つた關係から、母のことをかう云つたのであると解してゐる。併し詞のまゝに見て、母といふ名の付いてゐる花と見ることも出來る。○「山名郡」は遠江の郡名。
【譯】旅にあつても、時節に應じて絶えず、色々の花が咲き續くが、どうしてなつかしい母といふ花は、咲き出ないのであらうか。せめてさういふ名の花なりとも、咲いたらと思ふ。
 
(629)4325 父母も 花にもがもや 草まくら 旅は行くとも ささごて行かむ
 
 知知波波母。波奈爾母我毛夜。久佐麻久良。多妣波由久等母。佐佐己弖由加牟。
    右一首|佐野郡《サヤノコホリ》丈部黒當
 
【釋】○「がもや」の「が」は希望の助詞で、「もや」は感動の助詞。○「ささごて」は「ささげて」の東國訛。○「佐野郡」は遠江の郡名。○「黒當」の讀方は未詳。
【譯】なつかしい父母は花であつたらよいに、花ならば旅路を行くにも手に捧げて行かうに。
 
4328 おほ君の みことかしこみ 磯にふり うのはら渡る 父母を置きて
 
 於保吉美能。美許等可之古美。伊蘇爾布理。宇乃波良和多流。知知波波乎於伎弖。
    右一首|助丁《スケノヨボロ》丈部造人麿
 
【釋】○「磯にふり」の解釋は區々である。契沖は磯に袖を振つて、父母に別を告げる意と見てゐるが、諸成は磯にはふれ〔三字傍点〕(はなれる意)と同じであると云ひ、雅澄は磯に船が觸れる意であると云つてゐる。今は雅澄の説によつて解いておく。「觸る」は當時四段活用に用ゐられたのである。○「うのはら」は海原。○「助丁」は正丁の階級であらう。下に上丁・火丁などが見えてゐる。
【譯】大君の勅命を奉じて、なつかしい父母を家に遺して來て、かうして磯の岩に觸れて、恐ろしい海を渡つて行くのである。
 
(630)4329 八十國《やそくに》は 難波につどひ 船《ふな》かざり あがせむ日ろを 見も人もがも
 
 夜蘇久爾波。那爾波爾都度比。布奈可射里。安我世武比呂乎。美毛比等母我母。
    右一首|足下郡上丁《アシガラノシモノコホリカミツヨホロ》丹比部國人
 
【釋】○「八十國」は諸國の丁の意。○「船かざり」は船を艤すること。○「日ろ」の「ろ」は接尾辭。○「見も」は「見む」と同じ。○「足下郡」は相模の郡名。
【譯】諸國の防人が難波津に集まつて、我々共がかうして舶装をしてゐる、この盛な日を見てくれる人があればよいと思ふ。
【評】防人の歌はすべて素朴である。東國方言を使つて、いかにも無器用な歌ひかたではあるが、感情を直接に歌つてゐるので生氣がある。歌の内容が幼稚であるのは、專門歌人の作でない爲でもあるが、一面には東國の文化が、未だ進んでゐなかつた事を示すものである。
 
   追痛2防人悲v別之心1作歌一首並短歌
 
4331 すめろぎの 遠《とほ》の朝廷《みかど》と しらぬひ 筑紫の國は あだまもる おさへの城《き》ぞと きこしをす 四方の國には 人さはに 滿ちてはあれど 鳥がなく あづまをのこは (631)出でむかひ かへりみせずて 勇みたる たけき軍卒《いくさ》と ねぎ給ひ まけのまにまに たらちねの 母が目かれて 若草の 妻をもまかず あらたまの 月日よみつつ 葦《あし》が散る 難波のみつに 大船に まかいしじぬき 朝なぎに かこととのへ ゆふ潮に かぢひきをり あどもひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみ まさきくも 早く至りて 大君の 勅《みこと》のまにま ますらをの 心を持ちて ありめぐり 事しをはらば つつまはず 歸り來ませと 齋瓮《いはひべ》を 床邊《とこべ》に据ゑて(632) 白妙の 袖をりかへし ぬばたまの 黒髪敷きて 永きけを 待ちかも戀ひむ はしき妻らは
 
 天皇乃。等保能朝廷等。之良奴日。筑紫國波。安多麻毛流。於佐倍乃城曾等。聞食。四方國爾波。比等佐波爾。美知弖波安禮杼。登利我奈久。安豆麻乎能故波。伊田牟可比。加弊里見世受弖。伊佐美多流。多家吉軍卒等。禰疑多麻比。麻氣乃麻爾麻爾。多良知禰乃。波波我目可禮弖。若草能。都麻乎母麻可受。安良多麻能。月日餘美都都。安之我知流。難波能美津爾。大船爾。末加伊之自奴伎。安佐奈藝爾。可故等登能倍。由布思保爾。可知比伎乎里。安騰母比弖。許藝由久伎美波。奈美乃間乎。伊由伎佐具久美。麻佐吉久母。波夜久伊多里弖。大王乃。美許等能麻爾末。麻須良男乃。許己呂乎母知弖。安里米具里。事之乎波良婆。都都麻波受。可敝理伎麻勢登。伊波比倍乎。等許敝爾須惠弖。之路多倍能。蘇田遠利加敝之。奴婆多麻乃。久路加美之伎弖。奈我伎氣遠。麻知可母恋牟。波之伎都麻良波。
 
【釋】○これは家持の作である。○「遠の朝廷」前出。○「しらぬひ」は筑紫の枕詞。(前出)○「あだまもる」は敵目守《アダマモ》るの義。○「おさへ」は防備又は守護の意。○「城《キ》」は「國語の研究」に「國語で城を訓じてキといふのは、塹壕を穿ち、又は疊壁を廻らし、或は位置を丘陵などの上に選びて、防備とするよりの名で、牧《ムマキ》・塹《ホリキ》・柵《カキ》・陵《ミササキ》などのキも、亦この意味である。」と解いてある。○「鳥がなく」は「あづま」の枕詞(前出)。○「あづまをのこ云々」東國の武士の武勇に秀でてゐたことは、軍記物語に屡見えてゐるが、古くから有名なものであつたことが、此の歌を見ても明白である。なほ續紀に見えてゐる、景雲三年の勅の中にも、「この東人《あづまびと》は常に曰く、額《ぬか》には箭は立つとも、背には箭は立てじと云ひて、君を一つ心を持ちて護るものぞ。此の心知わて汝仕へと、勅《の》りたまひし大御言を忘れず、斯くの樣さとりて東の國々の人等《ひととも》、謹まり仕へ奉れ。」とある。○「ねぎ給ひ」は勞《ネギ》らひ給ふこと。○「まけ」は任の義で、任にまからするを「まく」といふ。○「たらちねの」は枕詞(前出)。○「目かれて」は目離《メカ》れての意。遠く別れて見《マミ》える事のない意。○「若草の」枕詞(前出)。○「まかず」の「まく」は纒くの意で「妹が手を纒《マ》く」などといふと同じ意である。○「あらたまの」は枕詞(前出)。○「月日よみつつ」の「よみ」は數へる意。○「葦が散る」は難波の枕詞。葦の花が浦風に散る意から掛けたのである。○「まかいしじぬき」は眞榜繁貫《マカイシジヌキ》の意。○「かこととのへ」は水夫を呼び集へること。○「かぢひきをり」は船をやる※[楫+戈]をたわませて漕ぐこと。○「あどもひ」は率ゐて。○「い行きさぐくみ」の「い」は接頭語。「さ(633)ぐくむ」は「さくむ」と同じで、浮きつ沈みつして行くことを云ふ。○「まさきく」は眞幸《マサキ》く(前出)。○「ありめぐり」の「あり」は「あり通《ガヨ》ひ」の「あり」と同じで、反復又は繼續の意を添へる接頭語。○「つつまはず」は恙《ツツミ》なくと同意。○「齋瓮」は神を祭るとき用ゐる瓮(前出)。○「白妙の」は枕詞。○「袖をりかへし」「黒髪敷きて」はかうして寢ると、夢に良人を見るといふ俗信があつたのである。○「ぬばたまの」は黒髪の枕詞。(前出)○「永きけ」は永き月日。○「はしき」は最愛しい意。
【譯】大君の邊土の役所であゑ筑紫の國は、外敵を監視し防禦するための要塞として、お治めになつてゐる日本國中に人はたくさんに滿ちてゐるけれども、特に東國の男子は、敵に對抗して後を顧みることをせず、勇み立つ健氣な軍人であると仰しやつて、躬らねぎらひ給ひ、任に赴かしめられるにまかせて、彼等は母の目を遠く離れ、妻にも別れて、月日を數へながら難波の御津に大船を浮べ、それに櫓をどつさり取り付け、朝凪に水夫を呼び集め、夕の滿潮に櫓を引き撓めて、相率ゐて漕いで行く防人達は、波の間を凌いで無事に早く彼地に到著して、天皇の勅命のままに、丈夫たる武き心をもつて諸處を巡察し、任を終つたならば、恙なく還つて入つしやいと、齋瓮を床の邊に据ゑて神に平穩を祈り、夫を夢に見るために、袖を折り返し黒髪を敷き寢て、長い月日をさぞ待ち焦れてゐることであらう、其のいとしい妻等は。
【評】此の歌は憶良の「好去好來歌」を模倣したもので、かの作の中の語句を引用した所もある。散文的であつて、さして巧みとは言はれないが、防人の舟出の前後が委しく述べてあるのは參考になる。終の四五句は一寸目を牽く佳い句である。
 
(634)   反歌
 
4332 ますらをの 靫《ゆぎ》とり負ひて 出でて行けば 別を惜しみ歎きけむ妻
 
 麻須良男能。由伎等里於比弖。伊田弖由氣婆。和可禮乎乎之美。奈氣伎家牟都麻。
 
【譯】丈夫たる夫が靫を負うて出て行くと、其の妻は別を惜しんで歎いたであらう。
【評】「靫とり負ひて」の一句に防人の首途の姿が明かに寫されてゐる。
 
4333 とりが鳴く あづま男《をのこ》の 妻わかれ 悲しくありけむ 年の緒ながみ
 
 等里我奈久。安豆麻乎等故能。都麻和可禮。可奈之久安里家牟。等之能乎奈我美。
    右二月八日兵部少輔大伴宿禰家持
 
【譯】東國男子が妻に別れて行くにつけても、長い月日の間逢へないことであるから、さぞ悲しい思をしたであらう。
 
4337 水鳥の たちのいそぎに 父母に ものはずけにて 今ぞくやしき
 
 美豆等利乃。多知能已蘇伎爾。父母爾。毛能波須價爾弖。已麻叙久夜志伎。
    右一首上丁|有度部《ウトベ》牛磨
 
【釋】○「水鳥の」は「たち」の枕詞。水鳥は物に驚いて急に飛び立つからである。○「ものはずけにて」は物言はず來にてである。「に」は完了の助動詞。
【譯】出發の間際には、何かと取り急いで、ゆつくりと父母と名殘の物語もせずに立つてしまつたのが、今となつては悔しくてならぬ。
 
(635)4342 まけ柱 ほめて造れる 殿のごと いませ母刀自 おめかはりせず
 
 麻氣婆之良。寶米弖豆久禮留。等乃能其等。已麻勢波波刀自。於米如波利勢受。
    右一首坂田部|首麿《オビトマロ》
 
【釋】○「まけ柱」は眞木柱。○「ほめて造れる云々」は祝言を唱へて造る意。顯宗天皇紀に、室壽《ムロホギ》の御詞が見えてゐる。最初の一二節を掲げて見れば、「築き立つる稚室葛根《ワカムロツナネ》、築き立つる柱は此の家長《イヘキミ》の御心の鎭《シヅメ》なり。取擧ぐる棟梁《ウツバリ》は此の家長の御心のはやしなり。云々」とある。上代には家を新築する時には、壽詞を唱へる風俗があつたのである。○「刀自」五五九頁を見よ。○「おめかはり」は面變り。
【譯】壽詞を唱へて、檜の柱を建てて堅固に造つた殿が、永久動かないやうに、わが母君は面變りもせず、ますますお元氣でいらつしやい。
 
4346 父母が かしらかき撫で さくあれて いひし言葉ぞ 忘れかねつる
 
 知如波波我。可之良加伎奈弖。佐久安禮天。伊比之古度婆曾。和須禮加禰津流。
    右一首|丈部《ハセツカベ》稻麿
 
【釋】○「さくあれて」は幸くあれとの意。
【譯】家を出る時、父母が自分の頭を撫でて、どうぞ無事でゐてくれと仰しやつたお言葉が、耳に殘つて忘れることが出來ない。
【評】右の三首には防人等の、父母に對する至情が歌はれてゐて、とり/”\に哀れが深い。
 
(636)4349 百隈《ももくま》の 道は來にしを またさらに 八十島すぎて わかれか行かむ
 
 毛母久麻能。美知波紀爾志乎。麻多佐良爾。夜蘇志麻須義弖。和加例加由可牟。
    右一首助丁|刑部直三野《オサカベノアタヘミヌ》
 
【釋】○初の二句は難波津までの陸路のことを云ひ、下半は筑紫に至るまでの、海路を歌つたのである。
【譯】郷里を立つて遠い道をこゝまで來たが、更にこれから數多の島を送り迎へて、遠い國へ別れて行く事であるか。さても心細い旅路をする事だ。
 
4352 道のべの 荊《うまら》のうれに はほ豆の からまる君を はかれか行かむ
 
 美知乃倍乃。宇萬良能宇禮爾。波保麻米乃。可良麻流伎美乎。波可禮加由加牟。
    右一首|天羽《アマハ》郡上丁丈部鳥
 
【釋】○「荊のうれ」荊《イバラ》の末。○「はほ豆の」は這ひ纒つてゐる豆のやうにといふ意で、是までは「からまる」の序である。代匠記に和名抄に「〓豆(和名、阿知萬女)籬上豆也」とあるのを引いて、それを云つたのであると云つてゐるが、これはただ野生の豆科の蔓草を云つたものと見てよい。○「はかれ」はワカレの訛言である(宣長の説)。考にはハガルと同じで、離れる意であると云つてゐる。○「天羽郡」は上總の郡名。
【譯】道ばたの荊の先にからまつてゐる豆の蔓のやうに「自分にとりついて歎く妻から別れて行くことか。
【評】序が如何にも鮮かに、作者の周圍と感情を説明してゐる。
 
(637)356 わが母の 袖もち撫でて わがからに 泣きし心を 忘らえぬかも
 
 和我波波能。蘇弖母知奈弖※[氏/一]。和我可良爾。奈伎之許己呂乎。和須良延努可毛。
    右一首山邊郡上丁物部|乎刀良《ヲトラ》
 
【釋】○「わがからに」は吾故に。○「上邊郡」は上總。○「乎刀良」は一本に手刀良となつてゐる。
【譯】私の母が袖で撫でて、私のために別を惜しんで泣いてくれた、あの心はいつまでも忘れることができない。
 
4357 蘆垣の くまどに立ちて わぎもこが 袖もしほほに 泣きしぞもはゆ
 
 阿之可伎能。久麻刀爾多知弖。和藝毛古我。蘇弖毛志保保爾。奈伎志曾母波由。
    右一首市原郡上丁刑部直|千國《チクニ》
 
【釋】○「くまそ」は隅處の意。妻が人目を憚つて垣にかくれて見送るさまである。○「しほほに」はしほ/\との意。(仙覺の説)。○「もはゆ」は「思はゆ」である。○「市原郡」は上總の郡名。
【譯】蘆の垣の曲角に立ち隱れて、自分を見送るいとししい妻が、袖もしほたれて泣いてゐた姿が、面影に立つて消える時とてはない。
 
4363 難波津に 御船おろすゑ 八十※[楫+戈]《やそか》ぬき 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ
 
 奈爾波都爾。美布禰於呂須惠。夜蘇加奴伎。伊麻波許伎奴等。伊母爾都氣許曾。
    右一首|茨城郡若舍人部廣足《ウバラキノコホリワカトネリベノヒロタリ》
 
【釋】○「おろすゑ」は下し据ゑ。○「八十※[楫+戈]ぬき」は多くの※[楫+戈]を取り付けての意。卷十二に「八十梶懸《ヤソカカケ》」とよんだ例があ(638)る。○「こそ」は冀望を表はす助詞。○「茨城郡」は常陸。
【譯】難波津に御船を浮べて、それに多くの※[楫+戈]を取り付けて、勇ましく今漕いで出たと云ふことを、家の妻に告げてもらひたい。
 
4370 あられふり、鹿島の神を 祈りつつ すめらみくさに 吾は來にしを
 
 阿良例布理。可志麻能可美乎。伊能利都都。須米良美久佐爾。和例波伎爾之乎。
    右一首|那賀郡《ナカノコホリ》上丁大舍入部千文
 
【釋】○「あられふり」は鹿島の枕詞。霰が降る音のかしましといふ意で、懸けたのである。(契沖・雅澄等の説」)○「鹿島の神」は今の官幣大社鹿島神宮である。祭神は武甕槌神で、國家鎭護の武神である。○「すめらみくさ」は皇御軍の義。「すめら」は天皇に關する物事につける接頭語。○「那賀郡」は常陸。
【譯】鹿島の大神に武運長久の祈願をこめて、皇御軍に加はつて來たこの身である。どうでも武勲を立てて歸らねばならぬ。
 
4373 今日よりは かへりみなくて おほ君の 醜《しこ》の御楯《みたて》と 出で立つ吾は
 
 祁布與利波。可敝里見奈久弖。意富伎美乃。之許乃美多弖等。伊※[泥/土]多都和例波。
    右一首火長|今奉部與曾布《イママツリベノヨソフ》
 
【釋】○「醜」は惡み罵る意の接頭語であるが、轉じては自己を卑下する時にも用ゐられる。○「御楯」は天皇の爲に敵を防ぐ身であるから、楯に譬へて云つたのである。○「火長」は檢非違使の配下の役で、衛門府の衛士を選拔して任じ、(639)たものである。大寶令の軍隊編制法によると、兵士十人を一火といひ、その長を火頭と云つた、此の火長もそれと同じであらう。
【譯】今日からは家も身も顧みることなく、ひたすらに天皇の御爲に、この賤しい身を御楯に獻げ奉つて、自分は出發するのである。
【評】皇軍に對する至忠の赤誠を遺憾なく發揮してゐる。次の作と共に、防人の中にもかゝる勝れた歌を詠む者がゐるかと、驚かされるほどの名歌である。
 
4374 天地の 神を祈りて さつ矢ぬき 筑紫のしまを 指していく吾は
 
 阿米都知乃。可美乎伊乃里弖。佐郡夜奴伎。都久之乃之麻乎。佐之弖伊久和例波。
    右一首火長|大田部荒耳《オホタベノアラミミ》
 
【釋】○「さつ矢ぬき」は幸矢貫きの意。靱《ユギ》・胡※[竹/録]《ヤナグヒ》などに矢を貫き入れて持つから、貫くと云つたのである。(宣長の説)○「筑紫のしま」は筑紫の國と同じ。
【譯】天神地祇に武運長久を祈つて、幸ある矢を澤山靫に挿して、筑紫に向つて自分は出で立つのである。
【評】右の三首は心から勇み立つて行くその人の態度が、はつきり見えて來るやうな調で歌つてある。如何にも力の籠つた雄々しい歌である。
 
4375 松のけの なみたる見れば いは人の 吾をみおくると 立たりしもころ
 
 麻都能氣乃。奈美多流美禮婆。伊波妣等乃。和例乎美於久流等。多多理之母己呂。
(640)    右一首火長物部眞島
 
【釋】○「松のけの」は松の木の。○「なみたる」は並んである。○「いは人」は「家人《イヘヒト》」の訛。岩《イハ》・家《イヘ》・庵《イホ》は同一語根から分出した語である。太古に石室に住んだ時代があつたので、岩と家とが同義語となつてゐるのである。○「立たりしもころ」は立てりしが如しの意。神代紀に「若」をモコロと訓んでゐる。如しの意である。(既出「もころを」參考)
【譯】松の木がずらりと並んでゐるのを見ると、家人が自分を見送らうとして、門前に出て立つてゐた姿を見るやうな氣がする。
【評】家人のことを片時も忘れ得ない防人の眼には、松の並木も人と見えたのである。いかにも哀れな歌である。
 
4380 難波門《なにはと》を 漕ぎ出《で》て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく
 
 奈爾波刀乎。己岐※[泥/土]弖美醴婆。可美佐夫流。伊古麻多可禰爾。久毛曾多奈妣久。
    右一首|梁田郡《ヤナタノコホリ》上丁大田部三成
 
【釋】○「神さぶる」はかうがうしい意。又古色を帶びて森嚴なる意。「さぶる」の「さ」は接頭語で、「ぶる」は「田舍び」「大人び」などの「び」の活用である。○「生駒高嶺」は大和と河内の境にある生駒山。故郷に遠ざかるばかりでなく、京に近い生駒山さへ、雲間に隱れるのを歎いたのである。○「梁田郡」は下野國。
【譯】難波の水門《ミナト》を漕ぎ出て見渡すと、かうがうしく聳えてゐた生駒の嶺にさへ、ずつと白雲がかゝつて、都の空も隔つてしまふ。
【評】廣い海に浮び出てあたりを見まはした時、心細い感が更に迫つて來たのである。その心持も眺めてゐる景色も、(641)共にはつきりと浮んで來る歌である。
 
4384 あかときの かはたれ時に、島《しま》かげを 漕ぎにし船の たづき知らずも
 
 阿加等伎乃。加波多例等枳爾。之麻加枳乎。己枳爾之布禰乃。他都枳之良受母。
    右一首助丁海上郡海上(ノ)國造他田日奉直得大理《クニノミヤツコイケダノヒマツリノアタヘトコタリ》
 
【釋】○「あかとき」はアカツキと同じ。○「かはたれ時」は彼は誰時の義で、一に「たそがれ時」(誰ぞ彼時の意)ともいふ。人の顔の見分けのつかない薄暗い時を云ふ。但し「たそがれ時」の方はいつとなく夕方だけに用ゐる慣例を生じた。○「たづき」は「たより」「よるべ」「たのみ」の意。○「海上郡山」は下總の郡名。○「他田」は池田の誤寫であらうと云はれてゐる。
【譯】曉のまだほの暗い時に、島かげを漕いで行つたあの船のたよりなさよ。
【評】自分が船出をする時の心持を豫想して詠んだのである。あゝ心細いことだといふ觀念が一首に流れてゐる。
 
4385 行《ゆ》こさきに 浪《なみ》な音《と》ゑらひ しるべには 子をら妻をら 置きてらも來ぬ
 
 由古作枳爾。奈美奈等惠良比。志流敝爾波。古乎等都麻乎等。於枳弖等母枳奴。
    右一首|葛餝《カツシカ》郡|私部石島《ササキベノイソシマ》
 
【釋】○「行こさき」は行先即ち行手のこと。○「浪な音」は浪の音。○「ゑらひ」は契沖の説によれば、ユラヒと同じで、ゆれるの意であるといふ。古事記の天岩戸の段を見ると、「歡喜咲樂《ヨロコビエラグ》」といふ語があり、又萬葉十九の豐明宴に侍して詠んだ歌の中に、「ゑらゑらに」の語がある。此のヱラヱラはゲラゲラ笑ふ意で、ヱラグは其の動詞である。そこ(942)で余は思ふに、此所のヱラヒはヱラグ・ヱラヱラと同一語根から分出した語で、音の噪ぐ意であらうと考へる。○「しるべ」は後邊《シリベ》。○第四五句の「ら」は助詞である。(古義はこの「ら」をトと訓んで、ゾに似て輕い助詞であると云つてゐる。)○「葛餝郡」は下總。
【譯】行手には恐ろしい浪の音が鳴り響いて居り、後にはかはゆい妻や子を置いて來て物思をすることだ。
 
4388 旅とへど 眞旅になりぬ 家の妹《も》が 著せしころもに 垢づきにかり
 
 多妣等弊等。麻多妣爾奈理奴。以弊乃母加。枳世之己呂母爾。阿加都枳爾迦理。
    右一首|占部虫麿《ウラベノムジマロ》
 
【釋】○「旅とへど」は旅と云へどのイ音を省いたのである。○「かり」は「けり」を訛つたのである。○この歌の前に下總千葉郡の人の作が掲げてあるから、この作者も同郡の人であらう。
【譯】旅も旅、いよ/\まことの旅になつたのだ。妻が家を出る時、着せてくれた旅衣に、もうこんなに垢がついた。
 
4393 おほ君の みことにされば 父母を 齋瓮《いはひべ》と置きて まゐで來にしを
 
 於保伎美能。美許等爾作例波。知知波波乎。以波比弊等於釈弖。麻爲弖枳爾之乎。
    右一首|結城郡雀部廣島《ユフキノコホリササキベノヒロシマ》
 
【釋】○「みことにされば」の「されば」は「しあれば」の約。○「齋瓮と置きて」は齋瓮のやうに、大切に齋ひ置いてといふ意。○「まゐで來にしを」は參出來にしをで、「を」は「よ」と同じく感動の助詞。古義に「ものを」の意としてゐるのはよくない。
(643)【譯】遠い旅路に赴くのは如何にも心苦しいけれども、貴く畏多い大君の勅命であるから、父母を齋瓮のやうに大切に留め置いて來たことである。
 
   爲《ナリテ》2防人情1陳v思作歌一首並短歌
 
4398 大君の みことかしこみ 妻わかれ 悲しくはあれど ますらをの 心ふり起し とりよそひ 門出をすれば たらちねの 母かき撫で 若草の 妻はとりつき 平らけく 我はいははむ まさきくて 早還り來と まそでもち 涙をのごひ むせびつつ 言問ひすれば 群鳥の 出で立ちがてに とどこほり 顧みしつつ いや遠に 國を來はなれ いや高に 山を越え過ぎ (644)蘆《あし》が散る 難波に來居《きゐ》て ゆふ潮に 船を浮けすゑ 朝なぎに 舳《へ》向け漕がむと さもらふと わが居る時に 春霞 島廻《しまみ》に立ちて 鶴《たづ》が音《ね》の 悲しく鳴けば はろばろに 家を思ひで 負征矢《おひそや》の そよと鳴るまで 歎きつるかも
 
 大王乃。美己等可之古美。都麻和可禮。可奈之久波安禮特。丈夫。情布里於許之。等里與曾比。門出乎須禮婆。多良知禰乃。波波可伎余※[泥/土]。若草乃。都麻波等里都吉。平久。和禮波伊波波牟。好去而。早還來等。麻蘇※[泥/土]毛知。奈美太乎能其比。牟世比都都。言語須禮婆。群鳥乃。伊※[泥/土]多知加弖爾。等騰己保理。可弊里美之都都。伊也等保爾。國乎伎波奈例。伊夜多可爾。山乎故要須疑。安之我知流。難波爾伎爲弖。由布之保爾。船乎宇氣須惠。安佐奈義爾。倍牟氣許我牟等。佐毛良布等。和我乎流等伎爾。春霞。之麻未爾多知弖。多頭我禰乃。悲鳴婆。波呂波呂爾。伊弊乎於毛比※[泥/土]。於比曾箭乃。曾與等奈流麻※[泥/土]。奈氣吉都流香母。
 
【釋】○「とりよそひ」は旅の装束をすること。○「平らけく我はいははむ」は、防人に行く人の無事ならんことを祈つて居らうと云ふ意である。古義に平かならんことをの意であるならば、「平久等《タヒラケクト》」となくては詞が足らないと云つて、己が心を平かにして、誠を盡して祈る意であると云つたのはよくない。ケクは既に説明した通り、コトの意を有つてゐるのであるから、こゝはケクヲといふべきであるが、そのヲを省いて調をととのへたものと見るべきである。○「まそで」の「眞《ま》」は接頭語。○「言問ひぬれば」は物語る意。○「群鳥の」は下の句に掛る枕詞。○「とどこほり」は滯の義でためらふの意。○「蘆が散る」は難波の枕詞(前出)。○「さもらふ」は日和を待ち伺ふこと。○「島廻《しまみ》」の本文は「之麻米」とあるが、「米」は「未」の誤てあらう。○「思ひで」は思出での意。○「負征矢」は背に負うた征矢。征矢は戰(645)場で用ゐる矢のこと。語源を傍訓栞には殺矢の義と云ひ、伊勢貞丈は「そびら矢」の略といひ、或説には直矢《スグヤ》の略の轉じたもので、雁股・尖矢《トガリヤ》などに對する名であるともいふ。(貞丈雜記頭書)○「そよと鳴るまで」の「そよ」は鳴る音の形容などに用ゐられる。こゝでは背に負うた征矢が、さくりあげて泣く時、すれて鳴ることを云つたのであるから、次に「そよ」と云つて音調を調へたのである。
【譯】大君の勅命を畏れかしこんで、妻と別れるのが悲しくはあるが、雄々しい心を奮ひ起して、旅の装束を整へ、いよ/\首途をすると、母は背を撫で妻は袖にとりついて、吾等は御身の無事を齋ひ祈つて居らうから、無事で早く還つて來いと云つて、袖で涙を拭ひ、咽び泣きながら別を告げるので、自分は出發する男氣もなくなり、行きなやんで後を振り返りながら、段々遠く國を離れ、段々高く山を越えて來て、蘆の花の散る難波の入江に着いて、夕潮に船を浮け、朝凪に舳先を行手に向けて、漕ぎ出すに都合のよい日和の來るのを伺ひ待つてゐると、折しも春霞がぼつと島のあたりを立ちこめ、其の中で鶴がいかにも悲しみをそゝるやうに鳴くので、自分も遙々と家のことが思ひやられて、背に負うた征矢がすれて、そよと鳴るほど肩をさくり上げて泣いたことだ。
【評】多くの防人が首途するに當つては、さま/”\の物思もあり悲しみもあらうが、一般の心情はこの長歌によつて、よく代表せられてゐるやうに思はれる。後半殊に春霞以下の九句が最も巧みで、讀者の心を引きつける力がある。
 
   反歌
 
4399 うな原に 霞たなびき 鶴《たづ》が音《ね》の 悲しき宵《よひ》は 國方《くにへ》し思ほゆ
 
 宇奈波良爾。霞多奈妣伎。多頭我禰乃。可奈之伎與比波。久爾弊之於毛保由。
 
(646)【譯】広い海の面に霞がかゝつて、氣が滅入るやうな時、しかも鶴が悲しい聲で鳴いてゐるのを聞く夜は、國の方が頻りに偲ばれる。
 
4400 家思ふ 寐《い》をねずをれば 鶴が鳴く 蘆邊も見えず はるの霞に
 
 伊弊於毛負等。伊乎禰受乎禮婆。多頭我奈久。安之弊毛美要受。波流乃可須美爾。
    右十九日兵部少輔大伴宿禰家持作之
 
【釋】家のことが偲ばれて、夜もろく/\寢ないでゐると、鶴が悲しい聲で鳴くが、その鶴が群れてゐる蘆邊も、春霞がこめて一向見えない。まして遠い故郷の空は、こゝからは見やることも出來ないので、誠に心細く悲しい。
 
4401 からごろも 裾にとりつき 泣く子らを 置きでぞ來ねや 母《おも》なしにして
 
 可良己呂茂。須曾爾等里都伎。奈苦古良乎。意伎弖曾伎怒也。意母奈之爾志弖。
    右一首國造少縣|他田《ヲサダ》舍人大島
 
【釋】○「からころも」は裾の枕詞。○「來ぬや」は來ぬるよの意。○「母なしにして」は母なしにての意。上の子は自分の小供で、この母は即ち其の小供の母で、今は此の世に居ない人である。
【譯】自分が首途をする時、着物の裾に取りすがつて泣く、可愛い兒を家に留めて來た事だ。しかもあの兒は母の無いみなし兒なのだ。
【評】何たる悲壯な別離であらう。涙なくしては讀まれない歌である。
 
(647)4417 あか駒を 山野《やまぬ》にはがし とりかにて 多摩《たま》の横山 かしゆかやらむ
 
 阿加胡麻乎。夜麻努爾波賀志。刀里加爾弖。多麻乃余許夜麻。加志由加也良牟。
    右一首|豐島《トシマ》郡上丁|椋椅部荒虫《クラハシベノアラムシ》之妻|宇遲部黒女《ウヂベノクロメ》
 
【釋】○「はがし」は放しの東國訛。○「とりかにて」は野に放ち飼にした駒を、取り得ずしてといふ意。○「多摩の横山」は夫が越えて行く山で、多摩の里に横たはつてゐる山。○「かしゆかやらむ」の「かし」は歩行《カチ》のことで、歩行にて夫を遣ることを悔しと思ふ意である。「ゆ」は「より」と同じじ意であるが、こゝでは「にて」の意である。○「豐島郡」は武藏の郡名。
【譯】赤駒を今日は野に放ちやつてしまつたので、急に連れ歸ることも出來ないから、夫の首途にも間に合はない。嗚呼あの多摩の横山を、歩行で行かせ申すのがいかにも悔しい。
【評】當時の女の作に屡見受けられる、やさしい思ひやりが泌々と歌はれてゐる。述べたい感情は胸に充ちてゐても、それを發表するだけの技倆を有たないと云ふやうな調子の歌である。
 
4419 家《いは》ろには 葦火《あしふ》たけども 住みよけを 筑紫《つくし》にいたりて 戀ふしけ思《も》はも
 
 伊波呂爾波。安之布多氣騰母。須美與氣乎。都久之爾伊多里※[氏/一]。古布志氣毛波母。
    右一首|橘樹郡《タチバナノコホリ》上丁物部|眞根《マネ》
 
【釋】○「家ろ」の「ろ」は助詞。○「葦火《あしふ》」はアシビの東國訛である。○第三句は「住みよきを」といふと同じ。○第五句は「戀しく思はむ」と同じ。○「橘樹郡」は武藏國。
(648)【譯】自分の家では、葦を折りくべて焚く貧しい住居でも、住みよいのであるが、筑紫へ行つたらどんなにか、其の家が戀しく思はれるだらう。
【評】「葦火たけども」の一句が、東國の埴土の小屋のさまを描き出して妙である。
 
4420 草まくら 旅の丸寢《まるね》の 紐絶えば あが手とつけろ これの針《はる》持《も》し
 
 久佐麻久良。多妣乃麻流禰乃。比毛多要婆。安我弖等都氣呂。許禮乃波流母志。
    右一首妻|椋椅部弟《クラハシベノオトメ》女
 
【釋】○「丸寢《まるね》」は帶をも解かず、着のみ着のまゝで寢ること。○「これの針《はる》持《も》し」はこの針を持ちてといふ意。
【譯】旅の空に丸寢をして、もしや着物の紐が切れましたならば、この針で御自分にお附けなさい。
【評】防人の妻の可憐を極めた心遣ひを、哀れに思はしめる作である。
 
4425 防人《さきもり》に 行くは誰が夫《せ》と 問ふ人を 見るがともしさ 物思《ものも》ひもせず
 
 佐伎母利爾。由久波多我世登。刀布比登乎。美流我登毛之佐。毛乃母比毛世受。
 
【釋】○作者は不明であるが、或る防人の妻の歌であるらしい。その妻が自分の夫の首途を見送つてゐると、路傍の人があれは誰の夫かと云つて、噂をしてゐるのを聞いて詠んだ作と見える。
【譯】「あの男はこれから防人となつて行く所らしいが、一體誰の夫なのか。」と云つて。路傍に立つて見てゐる人が、何の物思もなく氣樂に話してゐるのを聞くと、いかにもその人の境遇が羨ましくてならぬ。
(649)【評】防人の首途を見送る里人の中に、いかにも人事のやうに噂してゐものを聞きつけた妻の心が、淋しく且つ悲しく歌はれてゐる。この作の如き、何等の伎巧もない野婦の歌であるが、自然に流れ出た聲であるが爲に、強く人の肺腑に泌み入る力が具つてゐる。以上で防人の歌は終つた。
 
   八月十三日在2内(ノ)南(ノ)安殿《ヤスミトノ》1肆宴歌二首
 
4452 少女等が 玉裳裾ひく この庭に 秋風吹きで 花は散りつつ
 
 乎等賣良我。多麻毛須蘇婢久。許能爾波爾。安伎可是不吉弖。波奈波知里都都。
    右一首内匠頭兼播磨守正四位下|安宿《アスカベ》王奏之
 
【釋】○「内南安殿」は小安殿(大極殿の後房)のことであらうと云ふことである。(日本書紀通證)天武紀に内安殿の他に外安殿の名も見えてゐる。○「安宿王」は高市皇子の御孫左大臣長屋王の御子で、御母は不比等の女である。○「花」は萩の花であらう。
【譯】官女等が美しい裳を曳いて、行きつもどりつする此の宮庭に、秋風がおとづれて、美しく咲いてゐる秋の花が頻りにこぼれてゐるのが美しい。
 
4453 あき風の 吹きこき敷ける はなの庭 清き月夜《つくよ》に 見れど飽かぬかも
 
 安吉加是能。布伎古吉之家流。波奈能爾波。伎欲伎都久欲仁。美禮杼安賀奴香母。
    右一首兵部少輔從五位上大伴宿禰家持(未秦)
 
(650)【釋】○右の歌と同じ宴に侍して家持の詠んだ作。○「吹きこき敷ける」は風が吹いて、花を扱き散らす意。
【譯】秋風が吹いて、頻りに花を扱き散らす禁庭を、澄み渡つた月夜に見渡してゐると、いつまで見ても飽かぬ佳い眺である。
【評】右二首は禁庭の秋色をたゝへた優美な作である。これまで講じた東人の作を去つて、これらの歌に接すると、恰も田舍の旅を終へて、花の郡に歸つたやうな感がする。
 
   喩v族《ヤカラヲサトス》歌一首並短歌
 
4465 ひさかたの 天の戸聞き 高千穗の 嶽に天降《あも》りし すめろぎの 神の御代より 櫨弓《はじゆみ》を 手握《たにぎ》りもたし 眞鹿兒矢《まかごや》を たばさみそへて 大久米の ますら猛雄を さきにたて 靫《ゆき》とり負《おほ》せ 山河を 岩根さくみて ふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ (651)まつろへぬ 人をも和《やは》し 掃き清め 仕へまつりて あきつ洲《しま》 大和の國の 橿原の 畝傍の宮に 宮ばしら 太領《ふとし》り立てて 天の下 知らしめしける すめろぎの 天の日嗣と つぎて來る 君の御代御代 かくさはぬ あかき心を すめらべに 極《きは》めつくして 仕へ來る 祖《おや》のつかさと ことだてて さづけ給へる 生《うみ》の子の いやつぎつぎに 見る人の 語りつぎでて 聞く人の 鑑《かがみ》にせむを あたらしき 清きその名ぞ おほろかに 心思ひて 無實言《むなごと》も おやの名|斷《た》つな (652)大伴の 氏と名に負へる ますらをの伴
 
 比左加多能。安麻能刀比良伎。多可知保乃。多氣爾阿毛理之。須賣呂伎能。可未能御代欲利。波自由美乎。多爾藝利母多之。麻可胡也乎。多波左美蘇倍弖。於保久米能。麻須良多祁乎乎。佐吉爾多弖。由伎登利於保世。山河乎。伊波禰左久美弖。布美等保利。久爾麻藝之都都。知波夜夫流。神乎許等牟氣。麻都呂倍奴。比等乎母夜波之。波吉伎欲米。都可倍麻都里弖。安吉豆之萬。夜萬登能久爾乃。可之婆良能。宇禰備乃宮爾。美也婆之良。布刀之利多弖※[氏/一]。安米能之多。之良志賣之祁流。須賣呂伎能。安麻能日繼等。都藝弖久流。伎美能御代御代。加久佐波奴。安加吉許己呂乎。須賣良弊爾。伎波米都久之弖。都加倍久流。於夜能都可佐等。許等太弖※[氏/一]。佐豆氣多麻敝流。宇美乃古能。伊也都藝都岐爾。美流比等乃。可多里都藝弖※[氏/一]。伎久比等能。可我見爾世武乎。安多良之伎。吉用伎曾乃名曾。於煩呂加爾。己許呂於母比弖。牟奈許等母。於夜乃名多都奈。大伴乃。宇治等名爾於敝流。麻須良予能等母。
 
【釋】○「喩族歌」は家持の一門である大伴古慈悲(祖父麿の子)が、罪を得て官職を解かれたとき、自分の一族の中から罪人を出したことを慷慨して、一族に喩す意を述べた作である。反歌の終にある註によれば、三船の讒言に因るものと記されてゐるが、續紀によれば「八年(天平勝寶)五月癸亥。出雲國守從四位上大伴宿禰古慈悲。内竪淡海眞人三船。坐d誹2謗朝廷1。無c人臣之禮u。禁2於左右衛士府1。丙寅詔並放免。」とあつて、三船は古慈悲と共に罪を得たことになつてゐる。而して古慈悲は土佐國に流され、天平寶龜元年十一月に本位從四位上に復せられてゐる。○「天の戸」は「天の岩戸」といふのと同じである。日本書紀に天孫降臨の状を述べて、「皇孫《スメミマ》乃離2天磐座《アメノイハクラ》1且|排2分《オシワケ》天八雲《アメノヤヘクモ》1稜威之遺別道別《イツノチワキニチワキ》。而|天2降《アモリマシキ》於|日向襲之高千穗峰《ヒムカノソノタカチホノタケ》1矣。」と記してある。○「すめろぎ」はこゝでは天孫の邇々藝命を申す。○「櫨弓」は槻弓《ツキユミ》・梓弓《アヅサユミ》の類で、櫨(俗にハゼと云ふ、今も九州には多くある木である。)で作つた弓である。○「手握りもたし」の「もたし」は持つの敬語。○「眞鹿兒矢」と云ふは鳥獣を射る小矢に對して、鹿猪などを射る大きな矢を云ふ。「眞鹿兒」の「眞」は接頭語で、鹿兒は鹿のことである。鹿を鹿兒といふのは、馬を駒《コマ》とも云ふのと同類の語である。眞鹿兒は弓にも付けて、眞鹿兒弓といふ。(書紀に見えてゐる)前の櫨弓は材料からつけた名稱であるが、眞鹿兒矢は用途から得た名である。○「大久米の云々」は天孫降臨の時、大伴氏の遠祖天忍日命が、大來目部を率ゐて天孫の先導をつとめた事を云つたのである。書紀一書の降臨の條に、「于時大伴(ノ)連(ノ)遠祖天忍日命。帥2來目部遠祖天樓津大來目1背負2天磐靱《アメノイハユギ》1。臂著2稜威高鞆《イツノタカトモ》1手捉2天梔子弓《アメノハジユミ》天羽羽矢《アメノハバヤ》及副2持|八目鳴鏑《ヤツメノカブラ》1。又帶2頭槌劔《カブツチノツルギ》1。而立2天孫之前1遊行降來《ユキクダリキ》。云々」とある。即ち大樓津《アメノクシツ》大來目部の事で、大伴氏が率ゐる兵士を云ふ。「天」は美稱の接頭語で、(653)「樓津」は靈異稜威《クシイツ》の義で稱詞であり、「大來目」の「大」も亦稱詞である。而して「來目」は目のクル/\した猛々しい顔付のことだともいひ、又|組《クミ》の義で軍隊のことだともいふ。併し喜田博士の説に從へば、クメは肥《クマ》人や熊襲などと關係のある西南民族の名で、來目部は其の種族を以て騙成した軍勢であると云ふ事である。○「岩根さくみて」は岩石のそば立つ道を蹈み悩んで行くこと。○「國まぎしつつ」は都とすべき處を求め歩行くこと。○「神をことむけ」は荒ぶる神々を歸順せしめる意。「ことむけ」は「事避け」「事依さす」の類で、事を向かせる意で歸服の義になる。○「まつろはぬ」は服從しない意、書紀に「歸順」をマツロフと訓んである。○「和し」は和らぎ仕へしめる意。○「仕へまつりて」此の句までは天孫降臨の際の、祖先の武勲を述べたのである。以下神武天皇の時の事に移るのであるが、來目部を率ゐて武を以て仕へた事は、天孫降臨以來常のことであるから、以上の叙事は元より神武天皇以後についても同樣であることを含めてゐるのである。(古義による)○「太領り立てて」の「太」は「高知る」「高敷く」の「高」と同じく、稱詞であるが、柱の縁語として「太」を用ゐたのである。立派な御殿を建てゝ住み給ふことを云ふのである。○「かくさはぬあかき心」は隱さぬ赤き心の意。「かくさふ」は「かくす」に例の繼續の意の副語尾がついたもの。「あかき心」は「清き心」とも「直き心」ともいひ、又此等の修飾語を重ねて「明き清き直き心」とも云ふのである。要するに至誠を指す古言である。「明き心」の反對は「きたなき心」で日本書紀に黒心・濁心・惡心などの字を用ゐてある。○「すめらべ」は皇邊《スメラベ》で、卷十八にある「大君のへにこそ死なめ」の「大君のへ」と同じ意である。○「ことだてて」は特にと云ふ意の副詞である。元來「ことだつ」といふ動詞は、特に常と異つたことをする意の語である。○「生の子」は子孫。○「語りつぎでて」(契沖は「可多里都藝豆豆《カタリヅギツツ》」の誤であらうと云つてゐる。)は次而《ツキテテ》の意で、次第々々に語り繼ぎての意。次第をツギテテと、活用《ハタラ》かせたのは、掟を活用かせてオキテテといふのと同類であると古義に説いてゐ(654)る。○「あたらしき」は惜《アタラ》しきの意。○「おほろかに」は疎略の意。(前出)○「心思ひて」の心は輕く涌へた詞。○「無實言も」のムナコトは虚言《ムナゴト》又は空言《ソラゴト》の意で、戯言若しくは嘘言の義である。よつてムナゴトモは、戯にも又は苟くもの意の副詞である。
【譯】神代の遠き昔、天の八重雲を押し開いて、日向の高千穗の嶺に降臨し給うた、天孫邇々藝命の御時から、手に櫨の弓を持ち、鹿兒矢を手挿み持つて、大久米部の雄々しい勇士を先鋒として、背に靫を負はせ、山でも河でも、岩根のつき立つてゐる險しい道を蹈みしだいて通りつつ、帝都とすべき地を求めつつ、そこらに居た荒ぶる國つ神共を歸順させ、服從しない者共をも歸服させ、國中のあらゆる不都合な者を一掃し去つて、お仕へ申したわが祖先の天忍日命以來、その子孫は大和國の橿原の畝傍宮に、立派な御殿を營ましめられて、天下をお治めになつた神武天皇の後、天つ日嗣をつぎつぎに相承け相傳へ給ふ歴代の天皇に對して、曇りのない明い眞心を盡して、君側に仕へることを世襲の官として、特に子々孫々傳へて以て、見る人聞く人すべてが、語りも傳へ龜鑑とも爲すべき、可惜清き我が家名である。この家名を疎かに思つて、苟くも祖先の名を絶やすやうなことをしてはならぬ。大伴といふ名を氏にしてゐる、吾々一門の勇士共よ。
【評】この歌は只に大伴氏の忠誠を歌つたものであるといふに止らず、皇室中心主義のわが國民一般の忠節と、家名を重じ祖先を尊ぶわが固有の國民道徳を、最もよく代表した歌として、注意すべき作である。先年新年御講書始に於て、芳賀文擧博士がこの作を進講せられた事は、世の人の記憶してゐる所であらう。
 
   反歌
 
(655)4466 敷島の 大和の國に あきらけき 名に負ふ伴の緒 心つとめよ
 之奇志麻乃。夜末等能久爾爾。安伎良氣伎。名爾於布等毛能乎。已許呂都刀米與。
 
【釋】○「敷島の」は大和の枕詞。此の大和は日本國の義。○「あきらけき」は明き清き家名の意。○「伴の緒」は大伴の一族をさして云つたのである。
【譯】我が日本國に於て、祖先以來清き名を保つて來た、わが大伴一門の者共よ、きつと忠勤を勵まねばならぬぞ。
 
4467 劔太刀 いよよとぐべし 古へゆ さやけく負ひて 來にしその名ぞ
 
 都流藝多知。伊與餘刀具倍之。伊爾之敝由。佐夜氣久於比弖。伎爾之曾乃名曾。
    右縁2淡海眞人三船讒言1。出雲守大伴古慈悲宿禰解v任。是以家持作2此歌1也。
 
【釋】○「劔太刀」は下の「とぐ」に懸かる枕詞であるが、大伴家が武將の家柄だけに、頗る勇健に響いてゐる。○「いよよとぐべし」代匠記・古義共に心を磨ぎ勵ます意としてゐるが、家名を磨いて益光彩を發揮せよと云つたものと見るべきであらう。
【譯】神代の遠い昔から清い名として、持つて來たわが大伴氏の家名を益磨いて、その光彩を天下に發揚しなければならぬ。
 
   天平寶字元年十一月十八日於2内裏1肆宴歌二首
 
4486 天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ
 
 天地乎。弖良須日月能。極奈久。阿流倍伎母能乎。奈爾加於毛波牟。
(656)    右一首皇太子御歌
 
【釋】○「天平寶字元年」は孝謙天皇御在位の最後の年である。この宴は新嘗祭であらうと云ふ説が古義に引いてある。○「何をか思はむ」は一本に「何か思はむ」とあるが、今元暦校本によつて、「乎」を加へた方の訓に從つたのである。代匠記に「是今年騷動の事有りし故なるべし」とあるのは、此の年六月に橘奈良萬呂が、反逆を企てた事が發覺した事件を指したのである。○「皇太子」は大炊王で、舍人親王の第七子である。この皇太子は御即位後廢帝となられたのである。
【譯】我が君の大御代は天地を照らす日月のやうに、無極に渡ることでございますから、今更何の物思もございません。
 
4487 いざ子ども たはわざなせそ 天地の かためし國ぞ 大和島根は
 
 伊射子等毛。多波和射奈世曾。天地能。加多米之久爾曾。夜麻登之麻禰波。
    右一首内相藤原朝臣奏之
 
【釋】○「いざ子ども」はいざ人々よといふ意であるが、その人々といふは、騷動に關係した人々を指したのであると契沖は云ひ、廣く天下の人を指したのであると、千陰は云つてゐる。何れとも見えるやうである。○「たはわざ」は戯事。○「藤原朝臣」は惠美押勝である。
【譯】人々よ、徒事をしてはならない。わが日本の國は天神地祇が固め給うた國であるから、如何なることがあつても動くものではないのだ。
【評】かく歌つた押勝が數年の後、道鏡が厚い恩寵を蒙つてゐるのを憤つて、遂に反逆を敢てし、奈良萬呂と同じ汚名(657)を國史の上に遺したことは、千歳の遺憾である。
 
4491 大《おほ》き海《うみ》の みなぞこ深く 思ひつつ 裳引きならしし 菅原の里
 
 於保吉宇美能。美奈曾己布可久。於毛比都都。毛婢伎奈良之思。須我波良能佐刀。
    右一首藤原宿奈麻呂朝臣之妻。石川女郎薄愛離別悲恨作歌也。年月未v詳。
 
【釋】○「大き海のみなぞこ」は「深く」を呼び起す爲の序。「裳曳きならしし」は、夫の宿奈麻呂と共に住んでゐた頃のことを云つたのである。契沖は作者が赤裳を引いて、夫の家に通つた意と解き、古義には夫のことを云つたのであるが、作者が女であるからかく云つたのである、と云つたのは共に穩かでない。今選釋の説によつて釋くことにする。○「菅原の里」は後に「菅原や伏見の里」と歌はれた處で、奈良の西の郊外にあたる。○「藤原宿奈麻呂」は宇合の第二子の良繼。天平十二年廣嗣の亂に座して伊豆に流されたが、十八年に赦された。
【譯】廣い海の底のやうに、深く愛してゐた夫と共に、裳を曳いて歩き馴れたあの菅原の里が、いつまでも忘れることが出來ない。
【評】やるせない追恨の情が哀れに歌はれてゐる。「裳曳きならしし」が、ありし日の艶な趣を描き出してゐる。
 
   二年春正月三日召2侍從竪子王臣等《オモトヒトチヒサワラハオホキミオミタチ》1令v侍2於内裏之東屋|垣下《ミカキノモト》1即賜2玉箒《タマハバキ》1肆宴于v時内相藤原朝臣奉v勅宣2諸王卿等1隨v堪任v意作v歌并斌v詩仍應2詔旨1各陳2心緒1作v歌賦v詩【未v得2諸人之賦詩並作歌1也】
 
(658)4493 初春の はつねのけふの 玉《たま》はばき 手に執るからに ゆらぐ玉の緒
 
 始春乃。波都禰乃家布能。多麻婆波伎。手爾等流可良爾。由良久多麻能乎。
    右一首右中辨大伴宿禰家持作。但依2大藏政1不v堪v奏v之也。
 
【釋】○「はつね」は正月初子日の事。○「玉はばき」は子の日に宮中で群臣に賜はる玉箒であるが、平安朝になつてから廢せられたやうである。これは支那の所謂「帝王躬耕。后妃親蠶。」の故事に基づいたもので、當日天皇皇后を始め親王諸王以下百官がそれ/”\辛鋤《カラスキ》と共に手に取つたものである。辛鋤は刃尖に金銀の泥で畫いた儀鋤であつて、小松曳に用ゐられたものらしく、玉箒は蠶飼屋を掃き清めろ意から出たもので、目利草《メトクサ》の枝毎に珠をつけた儀箒である。今正倉院の御物中に辛鋤も珠箒も現存してゐる。○「手に執るからに」の「からに」は「故に」又は「によつて」の意の副詞である。○「玉の緒」は玉を貫いた緒のことであるが、こゝは珠箒の枝毎に着けた玉を指すのである。此の場合の「緒」は輕く添へた詞と見るべきである。
【譯】正月の初子の日の今日しも、賜はつた玉箒を手に持つといふと、先づゆれて鳴る玉の音が誠にいさぎよく響く。
【評】「初春のはつねの」と歌ひ始めて「ゆらぐ玉の緒」で結んだ一首の聲調が流麗で、いかにもさわやかな感が起る。著者は大正九年の十二月に、正倉院曝凉拜觀の光榮を得た。無數の御物の中に一對の玉箒もあつて、それは南倉の階下に置いてあつた。俗に用ゐる箒草に似て、もつと枝が細く繁く出てゐる二尺許りの目利草を束ねたもので、把る所は美しい紫革で包んで、其の上には金絲が纒いてあつた。枝の尖毎にあつた筈の玉は、今は殆ど脱落してゐるけ(659)れども、なほ二三個の緑玉がほのかに輝いてゐるのを認めた。此の玉箒の傍には、金銀泥で唐草模樣を描いた二本の辛鋤があるが、其の一の柄には「東大寺子日献大平寶字二年正月」と記してある。即ち家持が右の歌を詠んだと同じ年の初子の日に用ゐさせられた御物であるのは、一層ゆかしい限りであり、右の玉箒も恐らく同じ日の御料となつたものであると思へば、いよいよ欽仰の念に堪へられなかつた事であつた。
 
4494 水鳥の 鴨の羽《は》の色の 青馬を 今日見る人は かぎりなしといふ
 
 水鳥乃。可毛能羽能伊呂乃。青馬乎。家布美流比等波。可藝利奈之等伊布。
    右一首爲2七日侍宴1。右中辨大伴宿禰家持預作2此歌1。但依2仁王會事1。却以2六日1於2内裏1召2諸王卿等1。賜v酒肆宴給v禄。因v斯不v奏也。
 
【釋】この歌は左註にある通り、天平寶字二年正月七日の節曾の爲に、家持が豫め詠んで置いたものであるが、仁王會(五大力菩薩を本尊とし仁王護國般若經を誦して供養し、鬼神を國外に追ひやる法會。)のために六日に繰り上げられ、青馬を牽くこともなかつたので、この作を秦することも中止したものである。○最初の二句は序である。○「青馬を云々」は平安朝以後の白馬節會のことである。公事根源に「白馬の節會をあるひは青馬の節會とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて正月七日に青馬を見れば、年中の邪氣を除くといふ本文侍るなり。」とある。○結句に「かぎりなしといふ」とあるのは、即ち人壽の無極を云つたのである。○さて青馬は新撰字鏡・和名抄共に「※[馬+總の旁]」の字を訓んでゐる。「※[馬+總の旁]」は玉篇に「青白雜毛也」とある。故に本歌にも青馬《アヲウマ》と詠んでゐるのであるが、是が平安朝の天慶天暦の間に、白馬を用ゐることに改まり、字は白馬を用ゐても、猶アヲウマと元の通り(660)に呼んだのである。青馬を白馬に改められた理由について諸説があるが、十節録に「馬性以v白爲v本。天有2白龍1地有2白馬1。是見2白馬1即年中邪氣遠去不v來。」とあつて、白馬も亦邪氣を除くもので、且得易い毛色であるから之を用ゐる事になつたのであらう、と云ふのが有力な説である。
【譯】水鳥の鴨の羽の色のやうな青馬を、今日見る人は、限りなく壽を保つものだといふことである。
【評】説明的の歌で、作としては價値に乏しいものであるが、青馬の節會の物に見えた最初の作であるから、特に講じたのである。七日の賜宴は日本書紀に「天智天皇七年春正月朔戊子。皇太子即2天皇位1。壬辰宴2群臣於内裏1。」とあるのを以て嚆矢とすべきであるが、青馬のことは見えてゐないから、これをこの節會の起源と認めるわけには行かないやうである。
 
   三年春正月一日於2因幡國廳1賜2饗國郡司等1之宴歌一首
 
4516 新しき 年のはじめの はつ春の、けふ降る雪の いやしけよごと
 
 新。年之始乃。波都波流能。家布敷流由伎能。布夜之家。餘其騰。
    古一首守大伴宿禰家持作之
 
【釋】○「因幡國廳云々」家持が因幡守に任ぜられたのは、天平寶字二年六月であるから、此の歌は其の翌年正月一日の作である。そしてこれが萬葉集の、時代の最も新しい歌となつてゐる。○「いやしけ」はいよいよ重なれといふ意。○「よごと」には壽言の意と、吉事の意とある。こゝは吉事の意。新年に雪が降るのは豐年の兆であると云ふ俗信が、既に奈良朝にも行はれてゐたのである。
(661)【譯】新しく迎へた年の初の今日しも、初春のめでたい兆として、降り積つた雪のやうに、吉き事もどし/"\積り重なつてくれ。
【評】新年早々降り積つた雪景色を眺めながら興じて詠んだ歌である。新年氣分の充ち滿ちた作である。「いやしけよごと」の調の勁健なのもよい。
         (大正十四年一月十三日改訂版校了)
 
萬葉集新講 終
  〔2016年10月11日(火)午前11時18分、入力終了〕