目次
土田杏村全集 第11巻 國文學研究
  第一章 國文學の哲學的方法         (未校正)
  第二章 御杖の言靈論            (未校正)
  第三章 言道のリアリズム          (未校正)
  後篇  萬葉集の研究            (校正終了)
土田杏村全集 第12巻 日本精神史
  第四章 上代部族集團の人文地理學的研究   (未完成)
  第九章 奈良時代前期の文化的背景      (未完成)
  第十章 萬葉時代に於ける文學と美術の理念  (未完成)
  第十一章 懐風藻と萬葉集          (未完成)
  第十二章 装飾藝出の理念と天平文化     (未完成)
  第十三章 大伴旅人             (未校正)
土田杏村全集 第13卷 文學論及び歌論
  上代の歌謠                 (未校正)
 
(全集第11卷)
       小  引
一、本卷は杏村の大著『國文學の哲學的研究』(第一書房刊行)四卷一千六百六十餘頁中から拔萃し、便宜上前篇、中篇、後篇の三つに分つて編纂收録した。
一、前篇には方法論的研究と目すべき諸雄篇を全部網羅した。如何なる研究をなすに際しても、先づ以て方法論的反省考察に心血を注ぐのが杏村の常で、自然ここに收めたいづれの章にも溌刺たる杏村の面目躍如たるを覺ゆる。誠にこれ等の諸章こそはこの種研究に於ける杏村獨自の壇塲と見るべきであつて、その示唆に富める考察の要所は眞に學界の至寶たるを感ぜしむる。
一、中篇は杏村が我が古典的作家作品を研究するに際して、その獨自の方法論を適用試煉するに最適せりとして手を著けた、俳諧文學に關する諸研究を洩れなく採擇して置いた。これによつて杏村の所謂、國文學の哲學的、精神生活的、研究方法の成果の一般と、杏村の短歌に對する主張の由來する所を明かになし得るであらう。
一、後篇は萬葉集に關する勞作を一括採擇することとした。はじめ杏村は我が古典の主要なるものを一わたり取り扱ふ意圖を特つてゐたが、中道にして世を辭した爲、その研究は自然上代に偏し、又歌謠に篤かつた感がないでもない。しかしこのため萬葉集に就ての幾多優れた力作を殘して呉れたことは誠に學界の喜とすべきであらう。
一、附録として序文二篇を採擇した。本全集掲載のこの種序文と併せ見て、杏村が意圖した研究の一般を知悉するに役立つであらう。
一、本卷と最も密接な關係をもつ杏村の諸研究は、本全集第十卷『藝術史研究』第十二卷『日本精神史』第十三卷『文學及び歌論』に収載する。(山根コ太郎)
 
(3)  目 次
扉題簽  西田幾多郎
見返畫  土 田 麥 僊
前篇 方法論的研究
序 ………………………………………………………………九
第一章 國文學の哲學的方法 ……………………………一五
第二章 御杖の言靈論    ……………………………四〇
第三章 言道のリアリズム  ……………………………六五
第四章 仲基の方法論    ……………………………九二
(4)第五章 自動詞他動詞の精神生活的發達  ………一一九
第六章 上代歌謠研究の根本方法論  ………………一四九
第七章 方言と感情  …………………………………一八一
第八章 文藝創作の辨證論的過程 ……………………二一六
 
中篇 俳諧文學の研究
 
第一章 芭蕉と一茶の進んだ道 ………………………二五五
第二章 芭蕉の連句に於ける藝術思想 ………………二七六
第三章 近代性の誕生と來山 …………………………三〇七
第四章 丈草と浪花の藝術的地位 ……………………三三〇
第五章 鬼貫のまこと説と歌學の傳統 ………………三四三
 
(5)後篇 萬葉集の研究
 
第一章 萬葉の文學的自覺と支那思想 ………………三八七
第二章 萬葉に於ける支那的語法 ……………………四一三
第三章 仙柘枝傳説原形論 ……………………………四二五
第四章 萬葉に於ける原始的歌形 ……………………四五一
第五章 萬葉に於ける句の名稱 ………………………四七五
第六章 怕物の歌 ………………………………………四八五
 
附 録
第一 國文學の哲學的研究、第二卷『文學の發生』
 卷頭の序 ………………………………………………四九五
(6)第二 國文學の哲學的研究、第四卷『文學と感情』
 卷頭の序 ………………………………………………五〇三
       (入力者注、底本のリーダーは○点である)
 
(7) 前篇 方法論的研究
 
(9)      序
 
 國文學はその研究方法に於いて何か知ら從來よりも深いものを求めてゐる。訓話註釋だけに飽き足らないで、それを包容し、それを突き拔けたものを欲してゐる。學界には既に幾つか新らしい方法の試みが動き始めてゐるのである。かうした時に私は本書によつて新らたに國文學の哲學的方法を提起し、その方法の意義を明らかにすると同時にその方法を以て研究した成果の幾分を公表して見たい。
 私は國文學の訓詁註釋的方法を輕視するものではない。國文學の目的は解釋にあることを私は信じて疑はないものである。この意味に於いては私は、印象批評的なる國文學的考察を科學的なる國文學の研究だとは考へてゐない。ただこの印象批評的考察は私の所謂哲學的方法への要求を暗示してゐる點で興味あるものだと思ふ。國文學の哲學的方法は、實證主義的研究と内面的省察(10)とを結合し、それを超越した、純然たる一の學問的方法である。それは歴史的對象として受け取られた文藝的作品を、歴史の精神生活的全内面性より解釋し、その作品の内に省みる精神生活的構造を分析して、その構造を支配する價値的諸原理の歴史哲學的意義を追究し、以て結局その作品の精神生活を記載する方法である。内なる原理を反省しつつ飽くまでも實證主義的に事實を觀察し、事實の直接に内省せしむる限りの内面的原理を直覚して決してそれを飛躍せず、以て原理に照らされて明るく、事實に基づいて荒唐無稽の想像を避ける。私は國文學の研究方法の中核に必らずかくの如き方法が成立しなければならぬと考へる。それは國文學を或る他の觀點から考察する諸方法の中の一つではない、それは國文學を國文學として取扱ふ方法の中核的部分だ。隨つて國文學の哲學的方法を國文學の經済史的研究や神話學的研究やに對比し、それと平行するものの如くに考へることは適當でない。
 從來の國文學者の中に於いてかうした方法を取つた先駆者を私は富士谷御杖に見た。彼は助詞の研究に於いてはまことに綿密なる科學的方法を取つてゐる。併し彼は常に内に省みて精神生活の全構造を追體驗することを忘れなかつたのである。彼の考察は時に荒唐無稽になつたとはいふものの、國文學の新方法への道を彼は既に開いてゐた。私はまた富永仲基の實證主義的歴史主義的方法に多大の注意を拂ふ。それは單純に實證主義的なるものではなくて、實に事實の辨證論的考察への道を創めてゐるものであつた。これら二つの方法は當然一つに結び付かなければならな(11)い。それは國文學の精神生活的考察の方法である。私は本書の最初の五章(編者註。一)に於いて、專ら國文學の方法論的考察をなし、私の所謂哲學的方法の建設に努力した。
 この哲學的、精神生活的方法による研究成果として本書(編者註。二)の取扱つたものは、主として日本文學のルネッサンス時代即ち和歌より俳句を生んだ時代の文學である。この時代の文學は、日本文學の意義を考へるものに幾多の興味深い問題を提起してゐる點で、殊にその問題の解決には哲學的方法が必要なる點で、私の方法の試煉には甚だよく適當してゐたのである。私は最近に、日本の和歌は自由律にして現代語を使用するものにならなければならぬことを主張し、舊派歌匠より多くの反對を買つた。併し私の主張が歴史的にもいかに當然のものであつたかは、これら數章の分析がおのづから實證的に立證してゐると思ふ。勿論本書はその問題を焦點としたものではないから、その問題を解決することを主として見るならば本書の記載は十分でない。私は後者に於いて次第に時代を遡り、和歌の本質をも詳論する考へである。我々は將來の日本文學を如何に建設すべきかに就いて何よりも雄渾卓拔の氣概を持たなければならない。この意味の氣概が自己のすべての生活を革命し、征服し、建設するのである。理論的考察に於いて雄大なる構想を持たないだけでなく、更に和歌の本質を歴史的に追求する事業に於いて怠惰極まりない舊派歌匠の態度を私は先づ難じたい。俳句は我々に幾多の重大なる思索問題を提起してゐる。私は本書に於いて到底そのすべてを取扱ふことは出來なかつたが、その中の最も中核的なるものの二三を(12)取扱つた。最後の二章は、また全くそれと性質の違つた問題であり、一は文法哲學的考察、他は庭園美の本質的考察を取扱つて、後者の如きは既に國文學の範圍に屬しないものであるが、共に精神科學的方法を適用したものとして本書の中に公表した。庭園美の考察は、精神科學的方法より既に精神分析學的方法の方へ移動してゐるが、私はこれら二つの方法に或る結合點の存することを考へてゐるものである。
 私は專門の國文學者ではない。併し國文學的研究の範圍へ這入つたから哲學者としての本分を失つたものだとは、考へることが出來ない。私は人間の歩みに關係のない問題を純粹の思索問題として考へることの倦怠に堪へ得ない人間である。また、人間の歩みに關係のない哲學問題が昔から何處かに存在したとも考へてはゐない。文藝家の眞劔に歩んだ道を精神科學的に追體驗するこの研究が何故哲學研究でないであらうか。私は他のために定義を求めてゐない、私自らのために定義を求めてゐる、また問題を、方法を求めてゐる。私が本書の中で取扱つた資料の殆どすべては活字本である、しかもその主たるものは誰れもがこれを入手し得、昔から多くの人により幾度取扱はれて來たか知れない書冊である。私はその平凡なる資料をもう一度私の方法により考察し直して見ることに光榮を感じた。資料の正しいものを選ぶことに就いては、私自身としては全力を盡したつもりであるが、資料の批判に詳しくない私のことだから、全冊の中でどんな大きな過誤を犯してゐるかも知れない。それらに就いては世の學者の批判に教へを仰ぎたいものである。(13)ただ某々氏藏の某々未刊書を參照しなかつたのが惡いといふ風の批評は、私としてはやはり興味ある問題であるけれども、本書の論述に關して大した卑下を感ぜしめるものではない。本書に於ける私の態度は、某々の珍書を某々の藏本中に捜索し出すことになく、あり觸れた、日本文學史上の重要なる文藝的作品をいかに考へ拔くかにあつたからである。
          昭和二年初秋
 
  (編者註。一) 本書の最初の五章とあるは、本全集第十二卷『日本精神史』第一章、精神生活と價値感情並に本卷所牧、國文學の哲學的方法より仲基の方法論に到る四章を意味する。
  (編者註。二) 本書の取扱つたものとは、本卷中篇に「俳諧文學の研究」として收めたる都合五章の論文を意味する。
 
(15)    第一章 國文學の哲學的方法    
 
    一
 
 すべての科學が最近著しく方法的になつた。或る科學の研究書の卷頭の二三章は、大抵はその學の方法論的研究によつて充たされるやうになつた。方法論的考察をしないでいきなり何等かの科學の研究に從事するものは、一個の科學者の態度として不十分であり、ただそれだけの理由を以て、その研究の成果さへも獨斷的で、價値の乏しいものであるやうに見られてゐる。その方法論的考察は、結局は哲學的考察になる。その科學が全科學に對していかなる關係的地位を占めてゐるか、隨つてその科學の認識目的は何であるか、その認識目的にふさはしい研究方法は何であるか、といふやうなことは、一つの哲學的考察である。かくしてすべての科學の根基に、その科學の方法論に就き哲學的考察が横はることとなつたのである。
(16) 然るに國文學――ここで私は日本文學を研究する學間を國文學と呼んだのである。(註一)――に就いては、珍らしくもさうした方法論的の考察に乏しい。學界といふところは個人個人の研究者で立つてゐさうに見えて、その實一つの風潮により動かされることの著しい世界であるから、その中の有力なる學者が何等かの風潮をつくらない限り他のものは容易に自分で新らしい風潮へ動いて行かない世界であるが、國文學界の中心的勢力を占めてゐるものは實際のところ今日國文學の方法論的考察をなすことに大した興味を感じてゐないのではないかと思はれる。隨つてどの國文學の著作を繙いて見ても、その最初の數章をそれの方法論的考察に費すといふ樣なことがない。私はそのことを常に大いなる遺憾事だと考へてゐる。尤も國文學者の間に方法論的考察の必要への苦悶が全然的にないのだとは私も思はない。近頃の國文學書を見れば、何か知ら從來の研究方法だけでは滿足して行けない新らしい氣分の動きは、取扱ひの全體に感じられるのであるが、その氣分の動きは理論的に體系立てられるところへまでまだ達してゐないやうに見えるのである。
 かうしたことの原因は、遠くも近くも考へ得られようが、その直接の原因の一つは、我國の大學に於ける文學部の學科編制にありはしないかと思ふ。その學科編制では、文學と美術とは截然と區別せられ、文學及び文學史は文學科へ所屬してゐるし、造形美術及び造形美術史は哲學科へ所屬してゐる。そして文學科では哲學的學科の講義を一切聞かず、哲學科では文學的學科の講義を一切聞かない。それ故に美術史を研究するものは元來哲學科の出身であつて美學の理論的研究(17)にも興味を持つに反し、文學史を研究するものは美學または哲學の考察に興味を持たず、またその考察のための準備的素養をも持ち合せてゐない。これは極めて不合理な學科編制ではあるまいか。勿論學科編制などは人爲的のものであり、研究は無限の樣式を以てなされ得るから、學科編制如何に拘らず研究者は自己の研究に必要な準備教育を受けるがよいと、理窟の上では一應言はれるでもあらうが、研究者の實際生活としては、さうしたことをなすに困難なのである。私の考へでは、文學史と美術史とが別々に研究せられるのは間違ひである。この二つは共通に藝術的制作を取扱ふ點で組合はされて一つにならなければならぬ。そしてこの一學科が若し哲學科の方で取扱はれるとしたら、「藝術思想史」といふやうな名目を取り、美學及び藝術學と密接な關係を持たなければならぬ。藝術思想史は直ちに藝術史ではないから、勿論藝術思想史の外に藝術史のあることは歡迎すべきであるけれども、これを取扱ふのは史學科の方がより〔二字傍点〕適當であらう。かくして私は、哲學に對して哲學史のある如く、美學及び藝術學に對して藝術思想史があつたとすれば、國文學者が哲學及び美學と關係することは從來以上に密のものであり、隨つて國文學自身もその基礎を方法論的に整備せしめることであらうと思ふ。造形美術史は文學史と學問の性質を元來同一ならしめてゐるものであらうが、造形美術史家はその美術史書の始めに方法論的研究を書いてゐる。その原因は專らこの學者が哲學者出身なるが故である。併し元來美學及び藝術學の研究者であるとすれば、史的研究では文學をも併せた廣義の藝術史または藝術思想史を取扱ふべき(18)であるに拘らず、僅かに造形美術史の研究を以て滿足し、文學史の研究を圏外視するといふことも奇異のことではあるまいか。
 私は前章(編者註。本全集第十二卷『日本精神史』第一章、精神生活と價値感情を指す。以下之に倣ふ)に於いて人間の精神生活及び價値感情のいかなるものであるかを一般的に考察して見た。引き續きこの章では、前章の理論を基礎にしながら幾分國文學の方法論的考察を試みることにしたい。尤も國文學の研究方法は幾通りも考へ得られようから、それらの方法のすべてを理論的に演繹し、これを體系立てることは方法論的研究として必要のものに相違ないが、今はさうしたことに力を盡さず、國文學の研究方法の中核は何處にあるか、結論の大略を豫じめいふとすれば、國文學の根基には哲學的方法がいかに必要のものであるかを考察し、推論したいのである。換言すれば、國文學の研究方法の中の最も根本的のものを明らかにしたいのである。
  (註一) 「國文學」といふ語は二た通りの意味に使はれてゐる。一つは「外國文學」に對して「日本文學」といふ意である。他はその日本文學を研究する學問の意である。後者の場合には、「國文」といふのが前者の「國文學」に相當し、「學」は「科學」を意味するのである。日本文學を單に國文と呼ぶのは適當であるまいが、私は本章の中では「國文學」を「日本文學を研究する學問」の意味で用ひたい。他の章でもそれとは違つた意味には、成る可くは「日本文學」なる語を使ひたい。
 
(19)        二
 
 國文學の仕事として學者の從來なして來たところは何であつたか。
 國文學は先づ國文學史〔四字傍点〕から區別せられてゐる。國文學史は日本文學の史的研究であるが、國文學はひと先づさうした史的研究に主點を置くものとは考へられないのであらう。そして從來の多くの國文學者が國文學に於いてなして來た仕事は、日本文學の作品を訓詁し註釋することであつた。尤も國文學の仕事を日本文學の訓詁註釋〔四字傍点〕であると呼ぶことは、或る程度に於いて國文學者の仕事に非難を加へることのやうに見える。少なくも國文學者は古文の訓詁註釋學者と呼ばれることに光榮を感じてゐない。それ程に訓詁註釋の仕事は從來の學者のなし古して來た仕事であつたし、隨つてまたその同じい仕事に携はることは創造味の乏しい仕事に考へられるのである。ただの訓詁註釋を國文學の全部の仕事だとしてはならないとする新らしい空氣の動き、古い方法への非難は既にこの時に感じられてゐる。然らば現代の國文學者のなしつつある仕事の大部分は何であるかと見て行けば、右の如き古い仕事への嫌惡にも拘らず、依然として訓詁註釋である。訓詁註釋を離れては、國文學者の仕事の範圍は餘程狹いものになるであらう。
 私はかやうに觀察して來たが、その意味は決して所謂訓詁註釋の仕事を非難しようと欲しての(20)ものではなかつた。我々の考察は先づ始めに確固たる事實の上に立たなければならぬ。國文學の認識目的や方法を考察するには、長い傳統を以て續けられて來た從來の國文學の仕事を蔑視することが出來ない。方法論の正しい批判は、依然として事實的なる古い方法の批評に出發しなければならぬのである。今若し國文學の從來の方法が訓詁註釋から離れ得ないものであつたとすれば、我々は第一にこの事實を尊重し、そのことの意味を考へなければならない。訓詁註釋それ自身は少しも非難すべきものでなく、それが直ちに國文學の認識目的の一部であるかも知れない。若しさうだとすれば、かうした訓詁註釋を非難することは國文學そのものを非難することであり、非難としてその意味をなさない。
 然らば訓詁註釋とは何であるか。それは或る文學的作品を解釋〔二字傍点〕する上の準備的の仕事であると考へられよう。訓詁註釋それ自身に意味があるのではない。さうした訓詁註釋をなすことにより、文學的作品を解釋しようといふのである。解釋は確かに我々の一つの認識的態度であるから、訓詁註釋はこの認識的態度の廻りをめぐつてそれを支持しつつあるものと見られるのである。私は今國文學のかうした認識態度を訓詁的解釋〔五字傍点〕と呼ばう。解釋はこの場合必ずしも鑑賞と一致しない。鑑賞はその作品の藝術的意味を味はふことであるが、訓詁的解釋はそれをまでなすものではない。それは專ら作品の文章に於ける意味――論理的意味――を解釋するのである。併し作品に解釋が必要だといふからには、その作品の表現は何等か普通の解釋に困難な事情を含んでゐるに相違な(21)い。その困難な事情を訓詁註釋によつて破り、表現の論理的意味を明らかならしめるのが訓詁的註釋の仕事である。今日の國文學者のなしつつある仕事の主部分はそれなのだ。然らばこの解釋に困難な事情はいかにして生起したものであるか。詩は一般に難解である。よしその用語が現代語であつたとしても、詩の解釋は一般に必ずしも容易なるものでない。詩の文章的構造は散文のそれと常に同一のものではないし、また語の省略、位置の顛倒などが頻發するが故である。この場合には訓詁的註釋は成り立たないものでない。なほ進んでは散文の現代文學といへども、これに訓詁的註釋の必要なる場合がある。その一つの場合は、それの文章的構造が特異なる時であらう。併し最も普通には、その作品の使つてゐる用語や語法などが普通に使ふそれよりも時代的に廣い範圍のものになつてゐる場合である。我々の日常使用する言語、即ち現代語の範圍を以て文章を書けば、その作品には本來は訓詁的解釋は不必要の筈である。然るに或る作家は自己の趣味により特別に廣い言語範圍を使ひ、現代的用語以外のもの、時代的に昔は使用せられたが今は殆ど使用しないといふ風のものを使用すれば、それにはどうしても訓詁的解釋が必要になつて來る。それ故にこれらの場合を一般に綜合して言へば、現代の普通用語を使つた現代的作品には訓詁的註釋は必要でないが、その用語がわざと時代的に古いとか、またその文章的構造が普通でないとかする場合に訓話的註釋は必要となるものであらう。
 併しこの第二の場合は實際は訓詁的の解釋だと見られてゐない。例へば現代詩が難解だといふ(22)時にそれを解釋する仕事は、實際は一歩を鑑賞的解釋へ進めてゐるのであり、どれだけ解釋しにくい文章的構造を持つにせよ、少なくも現代の日常用語を用ひてある限りは現代詩はそれの表現しただげの意味を以ては普通の理解力ある人に理解せられなければならぬのである。それ故に現代文學に就いて訓詁的解釋の必要なる場合は、多少に拘らずその用語が現代語の範圍を超えてゐるのである。國文學者の國文學者たる所以は古文學を解釋するところにある。現代人の用語の普通の知識を以てはその意味を解釋し得ない古典文學に就き、特別の準備を以てした知識を以て、現代人にも理解せられ得るやうな解釋を下す、それが國文學者の特別の仕事だと考へられてゐるといへば、多く誤るところはあるまい。國文學の仕事の訓詁解釋の意味はそれだ。
 併し日本文學の解釋の意味は、これ以外になほ一つある。それは一つの文學的作品に就き、主としてこれを作家の側から見、その作品の創作せられた事情、創作の動機、その作家の全作品の中に占めるその作品の地位などを明らかにする解釋の仕方である。かうした仕事をなすことによりその作品の意味は大いに明らかにせられ、隨つて我々の藝術的鑑賞も亦助けれるのである。作品の藝術的價値は單にその作品の表現に即して鑑賞せらるべきであるとしても、作家の全生活はそのいかなる一作の上にも表現せられてゐるのであるから、豫じめこの全生活を明らかにすることにより一作品の表現の理解は容易となるのである。併しこの場合には、作家の全生活が明らかにせられたからといつて、藝術的作品としての鑑賞的價値までが左右せられるのではない。換(23)言すれば、その解釋により作品の藝術的意味が説明せられたのではなく、解釋は依然として作品の論理的意味を解釋したのである。かうした解釋の仕方は特に近來の國文學者の間に盛んに行はれてゐるが、私は假りにそれを作家的解釋〔五字傍点〕と呼んで置きたい。
 併し訓詁的解釋にしても作家的解釋にしても、古典文學に就いての解釋であつてそれの艦賞でないことには互ひに何の相違もない。訓詁的解釋が時に現代文學に及ぶ如く、又はそれ以上に、作家的解釋は現代文學に及んでゐるけれども、この場合には現代文學は過去の古典文學から切り離されて作家的に解釋せられてゐるのではない。若しかく過去の古典文學から切り離されて、單獨に或る現代作家の作品が作家的に敍述解釋せられてゐるとすれば、その仕事は寧ろ文藝評論の中の一つの仕事に近付いて來るであらう。解釋せられる限りは、やはり日本文學の傳統の中に於いて、現代文學はそれの尖端に位置するものとして解釋せられてゐるのでなければならぬ。かくして私は國文學者が最も普通になしてゐる訓詁的解釋と作家的解釋と二つの方法を考察し、その何れの場合にも、次の如き事柄を前提してゐるのを見た。それはこれらの解釋が、共に解釋の對象を或る歴史的作品〔五字傍点〕として見てゐることである。國文學と國文學史との區別は、ここに於いて甚だ漠然たるものとなる。訓詁的解釋は、解釋せらるべき作品を或る歴史的作品として取扱ひ、或る時代の言語的背景の知識により解釋する。勿論それには言語的背景の知識だけでは不十分であり、それ以外にも種々の歴史的文化的背景の知識は必要であらうが、それらの知識も、すべて國(24)文學的解釋の場合なる限りは言語的背景の知識により統一せられなければならない。また作家的解釋は作家の歴史的地位、その作家に於ける或る作品の地位を明らかにしつつその作品を解釋しようといふのであるから、作品に就き作家に就き歴史的の觀察態度を取つてゐることは言ふまでもない。
 然らば解釋〔二字傍点〕といふ認識態度はいかなる性質を持つてゐるか。解釋とは、常に或る一般的のものより特殊的のものを包攝することである。文學的作品が特別の解釋を必要とする程難解であるのは、その作品の個々の部分を全體として如何に統一理解すべきかに困難してゐるのであるが、訓詁的解釋は、それらの各部分を結合して一つの纏まつた全體圖を作り上げるのだ。この場合全體的統一圖は單なる部分の總和ではなく、それらの部分の總和の背景に、部分の總和より見れば無限なるものとして望まれるところのものだ。それ故にこの全體は、いかなる部分の上にもその全體の姿を以て現はれてゐるのである。作家的解釋の場合にも、その作家の全體的歴史の立場からその作家の個々の作品や創作の動機を統一するのである。かくの如き全體圖が得られ、その全體的統一の精神によつて個々の部分が意味づけられた時、その作品は解釋せられたといふことが出來る。
 それ故に訓詁的解釋であると作家的解釋であるとを問はず、凡そ國文學に於いて何等かの作品が解釋せられたといふ時には、その作品が歴史的作品として見られ、歴史的全體觀により統合包(25)攝せられたことを意味する。作品は經済的に解釋せられたとか、政治的に解釋せられたといふのでは、その解釋は一面的であり、作品の全體に即することが出來ない。國文學の解釋は、さうした一面的見方の解釋ではなく、歴史的全體觀の解釋である。或る作品をその作品自身の全體的立場から理解する解釋である。かくの如く作品の全體をそのものの立場から殘りなしに理解する立場は、歴史的全體觀の理解でなければならぬ。國文學に於ける解釋は、その作品を歴史の全背景の中に置いて内面的無限の見方から理解する仕方である。解釋に訓詁的と作家的とを區別することも、ただその解釋の全體的立場を完全ならしめようと欲する方針の差異の現はれに過ぎず、認識の目的は共に右の如き意味の理解に外ならない。
 
     三
 
 從來なし古された訓詁註釋に對し何となき不滿が持ち起つたのは、國文學の日常取扱ふ對象が一の文藝的作品であるに拘らず、訓詁註釋は單にその作品の論理的意味を解釋するだけであり、文藝的作品を文藝的の立場から理解する態度に於いて缺如するものがあつたからである。作家的解釋の起つた動機の一つは、やはり訓詁的解釋の斯くの如き缺陷を補ふことにあつた。併し作家的解釋によつてもその缺陷は依然として完全に除去せられてゐない。ここに國文學の方法として(26)は、何等か作品の藝術的意味――單なる論理的意味に對して――を鑑賞するやうな樣式が要求せられたのである。
 然らば國文學の方法は、或る作品に就きそれの價値を品評し、甲は優れた作品であるが乙は優れてゐない作品だといふやうのことを決定するものであらうか。それならば國文學と文藝評論との間には如何なる區別が存するか。國文學は文藝評論そのものであらうか。然らば文藝評論も亦一の科學であらうか。これらはすべて新らしい問題として持ち上つて來る。併し我々の普通の判斷によつては、文藝評論は國文學と何等か違つた仕事であるやうに考へられる。國文學の仕事の中に文藝評論の仕事までが包み込まれた如く見える場合はあつたにしても、國文學はやはり國文學であつて文藝評論ではありさうにない。兩者の區別は前者が古典文學を、後者が現代文學を取扱ふといふだけのことにあるものではなく、その間にはもつと本質的の區別が存するやうに見えるのである。併し國文學の取扱ふ文藝的作品は、概ね藝術的に高い價値を持つた作品であるから、高い價値を持つた作品を凡俗の作品の中から抽出する時に、そこには既に文藝評論的態度が存しなかつたとは言へないやうに見える。この問題を前の見方に對してはいかに解釋すべきであらうか。
 私は國文學に對する右の如き要求の意味を次のやうに考へてゐる。なる程國文學の對象は文藝的件品であるから、これが論理的〔三字傍点〕意味を解釋するだけで滿足してゐては足りないであらう。我々(27)は進んでその作品の文藝的〔三字傍点〕意味を鑑賞的に理解しなければならない。眞に作品を理解するとは作品を在りのままの全體相に於いて理解することであり、作品の在りのままの全體相とは藝術的價値を持つたそのままの作品のことであるから、訓詁的解釋や作家的解釋の要求を追究しても、我々は作品の文藝的意味を鑑賞的に理解する立場へ達しなければならないであらう。この場合にも我々は、單に作品を鑑賀した我々の主觀的感銘又は印象を述べるのであれば、それは學間だといふことが出來ない。また作品の持つ價値の高下を批判し決定することに終始すれば、それも亦國文學だといはれ得ない。國文學は作品の文藝的意義を鑑賞するにしても、依然として解釋の立場を離れてならない。私はかうした解釋の仕方を假りに鑑賞的解釋〔五字傍点〕と呼ばう。鑑賞的解釋といふは、作品を鑑賞するに便宜な手引をなすこと、言はば「鑑賞的訓詁註釋」をなすこととは、またおのづからその意義を異らしめる。それは依然として作品の理解である。併しながら作品の論理的意味を理解するに滿足せず、更にそれの藝術的意味を理解するのである。論理的意味も分らないやうでは、勿論藝術的意味の分かる筈はない。けれども論理的意味を明らかにしただけでは、なほ作品の藝術的意味は明らかにせられてゐない。この解釋をなすには、文藝的作品に就いてそれの文藝的價値を批判し得る何等かの文藝評論的能力が研究者に必要とせられるであらう。ただこの批評選擇はそのままに國文學ではない。また若し文藝的意味の鑑賞は批評選擇であるより外はないといふならば、國文學に於ける批評選擇は文藝評論に於けるそれとおのづから性質を異らしめ(28)るものがある。
 國文學は作品の文藝的意味〔五字傍点〕を見つめてゐる。けれどもその見つめ方は作品の價値の高下を品隲するを目的とするものではなく、その文藝的意味によつて作品を理解するを目的とするのである。隨つて國文學の立場は、今の場合にも解釋から離れてはゐない。文藝的意味によつて作品を理解しようといふのは、作品を出來る限り在りのままの姿に於いて理解しようといふのだ。文藝的意味といふのは抽象的一般的なる藝術的價値を意味しない。その一般的なる藝術價値を含んでその作品の中に特殊化してゐる何等かの文藝的意味をいふのである。この意味の立場から作品が理解せられた時に、作品は最もよく具體的に理解せられたといふことが出來よう。それ故に、この場合の文藝的意味は、出來る限りその作品の全體的藝術意味を現はすものでなければならぬ。作品の藝術的意味はこれによつてそのすべてを盡され、統合的無限の立場によつて統一せられるものでなければならぬ。この立場は國文學の方法に本質的のものであり、訓詁的、作家的解釋はその解釋の中に包攝せられ、それに準備を提供する。鑑賞的解釋の對象は依然として歴史的なる文藝作品である。そしてこれを解釋する仕方も亦その作品を歴史の全背景の中に置いて内面的無限の見方から理解することである。ただ前の論理的理解と異るところは、この理解が價値的理解〔五字傍点〕なることだ。作品の價値的理解は、作品を何等か抽象的なる價値標準によつて判別することによつては行はれはしない。本來價値的なる歴史的生活の全體的内面性から理解するのが、眞の意味の價(29)値的理解である。
 國文學で取り扱ふ偉大なる文學的作品は、それだから國文學の文藝評論的態度により批判せられた結果偉大なる作品だと決定せられたのではない。或る特質の藝術的意味が最も強くこの作品の中に實現せられたと見られるが故に、その作品が國文學の中に占める地位は重要なのだ。それは解釋せられたのであつて批判せられたのではない。それ故に極めて常凡な作品であるに拘らず、國文學の上では重要視せられて取扱はれることが屡々ある。作家を個人的に觀察して、その作家の初期の作品が主たる時代の作品に對する或る價値的關係により重視せられることはその一つの例であるが、なほ或る文藝的傾向の進展の經過の中に常凡な一作家の占める地位が重視せられるなども他の一つの例である。かうした場合は國文學の上に珍らしくない。なほここに注意すべきことは、或る時代の文藝的作品を價値的に理解するには、現代人たる我々の持ち合せてゐる價値的標準を以てこれに向つてはならないことである。私は前の章で各時代の持つ妥當感情が、その特質の上に於いてまことに顯著な相違を示して居り、これは決して現代の妥當感情の標準によつて測定せらるべきでないことを言つた。國文學に於いて全體的價値生活として取られるものは、この意味の具象的なる妥當感情生活でなければならない。
 かくして私は國文學の任務に就き次の如く言ひたい。國文學は歴史的なる文藝作品を歴史生活の全統合的立場より價値的に解釋する學問である〔國文學は歴〜傍点〕と。
(30)
     四
 
 國文學の任務は右の如きものであるが、その方法はおのづから客觀的と主觀的〔七字傍点〕との二面に分れるであらう。我々はその興味ある方法論的對照を富永仲基と富士谷御杖とに於いて見る。仲基は飽くまで客觀的實證的方法を取るし、御杖は徹底的に主觀的價値的方法を取つた。これら二つの方法が仲基と御杖とに於いていかに交錯し、また結局それらはいかに統合せらるべきであるかは、我々に興味深い問題であるが、私はこれを後の章に於いて考察したい。
 客觀的實證的方法は、先づ對象となつた文藝作品、作家、時代等に就き、それらを一の事實〔二字傍点〕として全く實證主義的に觀察しようとする。この事實的詮索は一點の誤謬をも含まず、全く事實の在りのままを得なければならない。勿論資料は第一義的に確實なものを選び、確實性のやや疑はしいものは僅かに旁證たる價値をしか持ち得ないものと考へなければならぬ。作品の古いものは、その原文を校合することが既に一つの大きな事業となる。併しここに疑問が生起するのは、かくの如き事實を選擇する標準は一體何であるかといふことだ。事實は無限に存在する。またそれが事實として見られるのは、既に或る見方〔二字傍点〕から理解せられて居ればこそである。何等かの主觀的内面的なる方針がなければ、事實に事實としての見方もないし、また重要なる事實と重要でない事(31)實との區別も立たない。例へば或る古典の原文を校合する場合には、確實なる他の事實を根據とし、それに對比しつつ誤りなき原文を得て行くであらう。併しさうした根據に就きなほ最後の根據として我々の取るところのものは何であるか。それは我々がその古典を全的に理解してゐる、何等かの相貌〔二字傍点〕といふやうなものである。言ひ換へれば確かにその〔二字傍点〕古典らしい、その〔二字傍点〕古典らしくない、といふ全的理解から得られたその古典の内面的統一である。古典のこの内面的統一を裏切るやうなものであれば、他に如何なる事實的根據があつたにしても、我々はその事實の選擇に躊躇を感ずるであらう。然る時には、究極の事實的根據はやはり内面的統一の特色自體である。併しこの内面的統一の特色といふ如きものは、既に客觀的實證的なる事實ではなくて主觀的價値的なる方針である。それ故に我々は今や國文學の客觀的實證的方法を徹底的に遂行しようとして既に一の限界に達し、この方法の意義を完全に發揮するがためには他の主觀的價値的方法を前提しなければならなくなつた。主觀的價値的方法を離れては客觀的實證的方法も亦全く存立するを得ない、客觀的實證的事實そのものは意義を持つを得ない。併し若し後者を許容した後の前者の方法を考へるとすれば、事實そのものの認織は或る主觀的價値的意義を含むものとして現れ出でなければならぬ。然る時には、事實は仲基が考へた如く、歴史的全生活の經過の中に位置して、常に或る特定の事實に對し相對的辨證的意義を持つものとして考へられるのである。事實はそれよりも高位の全體的立場により包攝せられ、その中に地位を占める。併しこの高位の全體的立場も、(32)その立場として固定的に律せられれば既にそれ以上に高位の全體的立場により包攝せられ、その中に地位を占めることとなるのである。主觀性價値性なき事實は考へられない。隨つて歴史生活の中に何等かの相對的地位を占めない事實は考へられない。
 然らば後者の主觀的價値的方法は、全く事實から解放せられて、我々が主觀的、印象的に得た何等かの立場を根基とし、それにより作品を解釋すべきであるかと言へば、かく事實に即しない主觀的價値的解釋は既に一の學間的解釋であることが出來ない。主觀的價値的解釋は、よし主觀的内面的の性質を持つにしても、なほ精確に事實の中に實現するものでなければならぬ。御杖の解釋は、主觀的内面的に極めて深いものを持つたに拘らず、時に荒唐無稽にして據ることが出來ぬと見られた理由はそこにある。彼は事實の主觀的内面的意味を、その事實の直接に教へるところ以外に複雜に考察して、つひには事實から全然的に超越するやうの誤謬を犯すことがあつた。主觀的價値的方法は、依然として事實の上に立脚しなければならない。事實に立脚して、事實が直接に與へる限りの主觀性内面性に止まらなげればならない。
 併し我々はここに客觀的實證的方法と主觀的價値的方法との間に一の循環論法の成り立つてゐるを見るであらう。客觀的實證的方法を取らうと欲すれば、先づ事實そのものを確定しなければならないが、事實は主觀的價値的見方を離れて既に事實であることが出來ない。少なくも事實を確定し、それを根據として客觀的實證的方法を取らうとすれば、それの前提に主觀的價値的見方(33)を許容しなければならない。また逆に主觀的価値的方法を取らうとしても、全然事實を超越しての主觀的價値的見方はあり得ず、その見方は精確に事實の中に實現せられる事を予想する。併しその事實は誤謬であつてならず、實證的に十分に檢討せられたものでなければならぬから、主觀的方法はまた直ちに客觀的實證的方法を前提してゐるのである。
 かく二つの方法が互ひに他を前提しなければ成立し得ないことは、我々に何を教へてゐるものであらうか。これら二つの方法は國文學の方法としては實は結合してただ一つとなつてゐるものである。理論の上で方向を區別すればこそ客觀的主觀的と分れもしようが、實際の方法としてはかやうに區分せられ難い。方法の末梢に於いては、二つの方法を別々に適用し得るところもあらう。その中核に於いては決して截然と區別せられ得るものではない。然らば主觀的方法と客觀的方法とをただ一つに結合せしめた國文學の方法とは如何なるものであるか。それは一の直覺的方法〔五字傍点〕である。二つの方法が、互ひに他を前提しないでは成立し得なかつた時に、實はこれら二方法の結合點に一の直覚的なるものを捕へてゐたのである。循環論法が成立するといふことは、論理が行き詰まりになつたことを意味せず、論理の出發點である何等か直覺的のものを確認したことを意味する。如何なる論理も、右の根據にはかうした直覺的のものの體驗がなければならぬ。國文學の直覚的方法に於いては、事實の認識と事實を内面的に支持する原理の認識とは二元的になつてゐない、またその一より他を論理により演繹し得るものでもない。我々は何等かの事實群を(34)認識するであらう。その時おのづからそれらの事實群を内面より支持する原理を知る。それは事實の内省であつて事實よりの演繹ではない。事實を内に理解し、事實の統一點を直覺的に捕へることである。内なる原理は無限の事實に展開し得るが、有限數の或る事實群から何等かの性質を抽出しても内なる原理にはならない。内なる原理は全事實の包容者であつて、全事實よりの一面的抽象が内なる原理なのではない。何故なればこの原理は、抽象的、概念的のものではなくて、統一的、具體的のものだからである。
 それ故に國文學の解釋的方法にあつては、幾多の事實群に就き、それらの事實群を内より展開せしめた統一的具體的原理を直覺的に捕捉するのである。なほ適切に言へばその生活原理を追體驗して記述するのである。然るのち客觀的方法と主觀的方法とが方向的に確立せられ、例へば事實の實證主義的考證は綿密に進められて行く。國文學にあつては、かくの如き直覺的方法を前提しないでは實證的方法は成立するを得ない。直覺的だからその方法は非科學的だとか不精確だとかいふことはない。論理の出發點に求められる直覚は、論理を離れたものでなく、論理に即してゐる。それは想像を以て成る藝術的直覺とは違つてゐる。
 私は前章に於いて生活の右の如き内面性を精神生活〔四字傍点〕と呼んだ。併しその内面性と外的事實との關係を今の如くに理解すれば、これらの外的事實を併せた生活のすべてを、換言すれば文化を包容しての生活の内面的全體系〔十六字傍点〕を、精神生活と呼んでもよいであらう。内面的原理によつて説明せ(35)られた事實は、文化は、最早生活に外的のものではなく、そのすべてが生活の内面的統一である。生活の内面性はただ一つの原理を以て統一せられたものではない。全體の統一は統一として一つの特色を表現せしめてゐる。併しその統一せられてゐる生活の各部分も亦それぞれの樣式を以て具體的原理により統一せられてゐる。これらの具體的原理はすべて主觀的、價値的、全體的であり、或る妥當感情を中核としつつ生活に體系を與へてゐるのである。これらの各具體的原理は一人の生活、一時代の歴史生活の中に於いて常に全く矛盾したり反撥したりすることのないといふものではないから、生活自身大いなる葛藤を經驗しつつ進むのは當然のことであらう。生活の各部分とは、單に心理的に區分せられるものでなく、かくの如き具體的原理の統一體系に隨ひ區分せられたものである。國文學は、先きに論じたやうな直覚的方法を基礎としつつ、精神生活の構造を、換言すれば生活を具體的に、併しながら部分的に統一してゐる内面的諸原理〔六字傍点〕を、分析し、記載しなければならない。それは國文學の仕事の極めて重要なるものである。
 
    五
 
 かくして私は、國文學の中核的な仕事は、哲學的方法〔五字傍点〕を以てなされねばならぬと考へてゐる。國文學はなほその外に幾つかの方法を持つことが出來よう。中核的の仕事は必らず哲學的方法に(36)よつてなされねばならぬといふのである。
 生活の内面性を成立せしめる具體的原理は、單に主觀的だといふものではなくて、同時に價値的なるものである。然るにかくの如き内面的價値原理の直覚は、哲學的の性質を持たなければならぬ。精神生活の構造を分析する仕事も亦哲學的の性質を持たなげればならぬ。殊にこれらの具體的諸原理の價値的特性を明らかにする仕事は、純粹に哲學的のものでなければならぬ。國文學と哲學との交錯する國文學の中核的領域がそこにある。
 從來の國文學は、この哲學的方法を取ることが少なかつたから、その解釋は平面的である弊に陷つたのではないか。國文學の訓詁註釋に不滿を感じては、作家的解釋をなし、更に鑑賞的解釋の態度を取らうとしたことは、結局は國文學の方法がこの哲學的方法にまで進まないではゐられなかつた要求を語つてゐたものではないか。從來この哲學的方法が取られてゐなかつたために、どうしても適切な解釋の見られなかつた國文學的問題は幾つもある。例へば平安朝文學の本質的解釋の缺乏の如きがそれであるといへよう。平安朝時代は淨土教信仰の最も著しかつた時である。隨つていかなる平安朝文學の上にも、この淨土教的信仰の影響が著しく見られた。國文學者はその時、淨土教的人生觀の目を以て平安朝文學を解釋しようとするかも知れぬ。私はその方法を誤つてゐるとは思はない。併しここに注意すべきは、それ故に國文學の哲學的方法とは、淨土教信仰の佛教學的説明を細密ならしめることではないといふことである。それも決して無用の方法で(37)はない。併し哲學的方法の取つて以て分析の對象とする生活統一原理は、具體的、全體的の原理であつて、かくの如き抽象的、概念的の原理ではない。それは淨土教的信仰そのものではなくて、淨土教的信仰を生活の内容として取らないではゐられなかつた時の、生活のその具體的、全體的、價値的原理である。淨土教的信仰は生活を統一し、生活を内に包括してゐるのではなくて、生活の何等かの具體的原理が淨土教的信仰を生活内容の一部に統一し、これを自らの内に包攝したのである。幾分極端に言へば、淨土教的信仰は知識的内容であるに過ぎなかつた。それは日本に於いて流行しただけではなくて、同じ時代の支那に於いても流行したものであつた。(淨宗會編『善導大師の研究』中松本文三郎博士の論文「善導大師の傳記と其時代」七六−七七頁參照。隋代から唐代に移るに隨ひ、淨土思想の隆昌に赴いたことを論じて居られる。)我國の淨土教的信仰はそれを直輸入したのである。今若し支那の隋より唐に移つた時の宗教が淨土教であり、我國の奈良朝より平安朝に移つた時の宗教も亦淨土教であるといふならば、この推移に於ける精神生活の構造は、支那と日本と全く同一であつたと言ふべきであるか。淨土教的信仰を以て生活の統一原理であるとなす限りは、この歸結に到達しなければなるまい。私はその歸結に推服することが出來ない。平安朝時代の精神生活の特性を、私は今ここに詳敍しようとは思はないが、淨土教的信仰を平安朝時代の生活の統一原理として見ることは哲學的方法でないことを、少なくも今の機會に言つて置きたい。(註一)
(38)   (註一) 平安朝文學に就いては本書に詳しく論ずることが出來なかつたが、なほ後に公表する本書と同性質の著作の中で詳説しようと思つてゐる。
 
     六
 
 國文學的解釋には他の諸文化科學の知識を補助として借ることが大いに必要とせられてゐる。宗教學、神話學、傳説學、考古學、美術史學等の知識はその中にも重要のものである。
 これらの諸學の知識が國文學の解釋に必要なる理由は、精神生活の價値的構造に於ける内面性の平行〔六字傍点〕といふことにある。精神生活を統一する具體的原理は、言はば生活自身の構造原理であるから、この原理により統一せられて生活の各部面の美術、宗教、神話等の諸生活が成立する。それ故にこれらの諸文化生活範圍を統一する原理の内面性の間には平行が見られ、一の文化生活の内面性を支配すると同一の原理は他の文化生活の内面性をも支配するのである。我々はこの平行性を前提することによつて、國文學の解釋に、幾多の有力なる旁證を得ることが出來る。そしてこの旁證の確實性の程度は可なりに高いものだと考へられてよい。尤もこの内面性の平行の原理と共に内面性の分化〔六字傍点〕の原理もある。一の構造原理が異つた文化生活の中に現はれれば、その文化生活の價値の特異性に隨つて、構造原理はその文化生活に特有なる、或る分化形式を展開せしめ(39)るのがそれである。これら二つの原理が、或る事實の上にそれぞれどれだけの程度で支配してゐるかを正しく分析することは、ひとへに國文學者の分析的技倆に待たなければならない。
 歴史的生活を社會的生活として見るところから、國文學の解釋には政治學、經済學等の知識を借ることが亦大いに必要のものとなるが、それを考察するには先づ文學の社會性の如何なるものであるかを論じなければならぬから、今はこれを避けたい。國文學の方法は、必らずその根據に哲學的方法を持たなければならぬことだけは、以上敍説したところにより概ね明らかにせられたかと思ふ。―『國文學の哲學的研究』(昭和二年十一月)
 
 
(40)      第二章 御杖の言靈論
 
     一
 
 富士谷御杖は、我國に於いて私の最も尊敬する哲學者藝術評論家の一人だ。彼をして現代にあらしめば、恐らく彼は比類のない體驗の深さと分析の細かさとを示した哲學者であり、藝術評論家であり、古典研究者であり、以て當代第一人者の稱を恣まにしたことであらう。徳川時代の國文學者中、私の最も傾倒するものは眞淵でもなければ宣長でもない。全くのところ私は第一に指を彼に屈する。
 彼は國學者と呼ばれるには、その説くところ餘りにも哲學的に精緻だ。藝術的に深邃だ。しかしまた單純に哲學者と呼ばれるには、彼の國文の分析は餘りにも科學的に徹底したものだ。性格のかうした渾然たる統一は、何時の時代にも非常に困難のものだ。然るに御杖はその珍らしい一例を示してゐる。彼は富士谷成章の子として、本來堂上歌學の系統を繼いでゐる。隨つて彼は當(41)時の國學者として、眞にアカデミイの訓練を經て來た、紛ふ方のない一個のアカデミシアンなのであり、その學風も依然とし一のアカデミイの特色を示した。例へば彼が、語感の細かい詮索をし出すと、到底筆では書けないといひ、口づからの傳授を重んじてゐるなどがそれだ。併し私は彼の著を讀み、初めて堂上歌學のアカデミイなるものの深い意義を知り得る氣がした。いかにも御杖のやうに體驗を主とし、一語一句の語感を命とするものにあつては、アカデミイの所謂秘密傳授も意味のあることであらう。昔の所謂秘密傳授は、すべて本來かうした意味を持つてゐたものに相違ない。語法の非常にデリケエトな區別立てをするところを見ると、流石に堂上歌學の特色はここにあつたものと見える。煩瑣は必ずしもそれ自身惡いことではないのだ。御杖の研究方法のやうにしてアカデミイの煩瑣も初めて體驗一如に熔融せられ、煩瑣は煩瑣でなくなるのである。とにかく私は御杖に於いて、最もよい意味での、生かされた一個のアカデミシアンを見る。しかし彼の時代に於いて、彼の國學は最早正統派のアカデミイの地位にゐることが出來ず、却つて田舍學者である宣長等の國學がアカデミイとしての確固たる地位を建設してゐた。御杖はそれらと戰ひつつ、長い傳統を繼承した眞の意味のアカデミイの殘燈を維持しなければならなかつた。我々は御杖の論をよんで、同時に堂上歌學の從來の研究がいかなる成果にまで達してゐたものかを知ることが出來る。
 富士谷御杖は、かく正統派のアカデミイ歌學を繼承したが、しかしその主張は甚だ多くの獨創(42)を持ち、その論據は確實であり、自由であつた。その主張に何等の不消化もなく、また何等の危なつ氣もない。その言ふところは、何時も練られ切つたものだ。いかなる國文註釋家も、これだけ深い理解へは容易に達することが出來ない。事實に於いて今日『萬葉集』を理解した書としては、御杖の著『萬葉集燈』に及ぶものがない。恐らく今後もさうであらう。『萬葉集燈』は、僅かに『萬葉集』第一卷の理解を以て終つたものであるが、この書が若しも全部完成してゐたとすれば、それは何といふ偉觀であつたらうか。今日新らたに萬葉を解するものは、第一卷では常に最も多く、恐らくは、知らず識らずの間に燈の見解を取るのは、理由のないことではあるまい。(註一)彼の評論は、また同時に彼の卓越した藝術鑑識眼を示してゐる。作のよしあしを批評し、選擇する點で、彼は常に獨自の見解を出し、それは概ね誤つてゐないやうである。例へば人麿の作の中では、
 
  東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
 
を推奨して、「此歌ことに詞のいたりをきはめられたり。歌はかやうによままほしき事なり」(『萬葉集燈』古今書院版一六二頁)と言つて、その心境の深さを見通ほしてゐるかと思へば、長皇子の御作
 
  わぎも子を早見濱風やまとなる吾れ待つ椿吹かざるなゆめ
 
(43)を評しては、「この皇子の御歌、いづれもいづれも凡を出でたり。學者ねもごろに、目をも心をもとどむべし」(『萬葉集燈』二四五頁)と言つて、詩人的感覚への豊かな同感を示してゐる。私は全く、御杖の古典の理解法には心醉する。
  (註一) 御杖は「ただ四五卷を會得すとも、怜悧の人は、歌道の本意はさとらるべし」(『萬葉集燈』五一頁)と言つたが、偶然第一卷の註解だけで終ることとなつた。『萬葉集』の註釋その數頗る多いが、見識の點では御杖と橘守部とを擧げるのが殆ど近來の常識の樣になつてゐる。木村正辭博士の解釋も御杖によつたところが甚だ多い。
 富士谷御杖は、自分が思ひ諦め、自分が固く信ずるのでなければ、いかなる主張へも同感しようとはしない。彼の求めるものは常に論據であり、體驗基礎である。それ故に彼は古典を尊重するけれども、ただの意味の古典有難屋ではない。時に彼は冷酷と見えるまで嚴粛に古典を分解して進み、その眞の意味を突き止めようとする。古典の中にないものをただの一つそれに附け加へようとはしない。だから彼は、古典を尊重すると言つても、それは全く一個の自由人としての態度からなのだ。そしてこの評論の中に、いつも彼の昂然とした氣魄が見える。
 
  「傳のうち、少しもあやしく心えがたき所々は、かかる事深く尋ぬるはから心なりと見えたり。さらば聞えぬままになしおくをば、やまと心とやいはん。いとおぼつかなき事なりや。しかるに此の説を信受せる人々は、生れ得て世のすなほなる人なるが故に、げに神の御うへ(44)は知るに及ばざることと思ひてもあるなれど、成元が如きしうねく、ねぢけたるさがなるは、更に更にこれを信ずる事能はねば、宣長が説もまた受くる事能はざるなり。」(『古事紀燈』古今書院版四頁)
 
 これは御杖が宣長の『古事記傳』に於ける態度を非難したところだが、宣長らを「すなほなる人」と呼び、自らを「しうねく、ねぢけたるさがなる」と呼んだところにも、自由人として執拗に論據を究めようとする彼の態度は現はれてゐる。また、
 
  「されどもこの言靈の道世に失はれて久しきことなれば、これひとり此の阿闍梨(著者註。『萬葉代匠紀』の著者契冲阿闍梨を指す。)がとがにはあらねど、すべて有力の人の説とだにいへば、名に惑ひて取捨をもせざる事、凡庸の人のならひなるが故に、今その惑ひをおどろかしおくなり」(『古事記燈』三〇−三一頁)
 
と言つてゐるが、理由なく何人にも下らうとしない彼の氣魄は誠に氣持ちのよいものではないか。
 
    二
 
 富士谷御杖の批評の根據は、常に彼獨自の考へであるところの言靈論の上に置かれてゐる。し(45)かし彼の言霊論は、實は彼個人の創見になる一個の哲學と言ふべきものであり、歴史的には嚴密に考証せられた説だと言へない。彼は『古事記燈』の中で、契冲による言霊の解を非難し、
 
  「世人多くは此説を信じたり。然るにかの阿闍梨、その學和漢梵にひろかりしが故に、かへりてわが大御國の御てぶりは、くはしく心をもいれられざりけるにや。この説今少し心ゆかぬ也。」(『古事記燈』二九頁)
 
と言つてゐるが、言靈の眞に歴史的の意義を説いたものとしては、契沖の方が御杖よりも勝れてゐると私は考へてゐる。それ故私は今自分の理解してゐる言靈の意義を詳論しようとは思はない。御杖に聞くべきは、その根本哲學だ。古典を理解する時のその一般的方法論だ。だから我々はその術語などは言靈であつても何でもよい。突き進めた彼の根本思想を尋ねて見たいのだ。
 彼の言靈論、殊にそれから自然に演繹せられたその倒語論は、最初の間は容易に會得せられない。併しその根本主張に隨つての作品の理解を次第に讀んで行つて見ると、その思想はいかにもと會得せられて來る。後にはそれに我々は快心の笑みをさへ漏すことであらう。併し彼は、その説の一般に理解せられないことを遺憾として次のやうに書いてゐる。
 
  「されども今釋する所おそらくは信ず人世に少かるべし。もしこれを了解する人もあらば、共にわが御國ぶりを語るべき友にこそ。」(『萬葉集燈』二三二頁)
 
(46) いかに彼が寂しく孤獨な自由人の境地に立つてゐたかは、この短い述懷でも分る。
 御杖に隨へば、何等か言語を發すればそこに一面的に決定せられた或る世界が現はれ、具體的なる全生活の何れかの方面は否定せられる。まことに斷定は、肯定と同時に或る否定なのだ。だから我々は、言語によつて全的な、體驗するがままのものを現はさうとすれば、それは全くの不可能事だかも知れない。言語はつねに眞に在るものから何れへか偏局するのだ。
 
  「されども、言といふ言、言へば必らずよきにか、あしきにかかたよりて、二つを具する事能はざる物也。」(『萬葉集燈』五頁)
 
 然るに我々の眞に具體的に表現したいと思つてゐるものは、實はかく言語で表現せられたものの背景に在る。我々の理解はその中心に徹し、我々の表現はその中心より發しなければならない。この中心に徹すれば、所詮は言語も無益と言はなければなるまい。求めるところは外でなくて内だ。御杖自身の語を借れば、
 
  「いかにとなれば、もと此典、人にして説かず、神もて説き給へる主意、よろづの外樣はすべて内の活所よりうむ所なるが故に、其の活たる所を説きたまへるなれば、外樣をたのまず、中心に徹し、中心よりおこるをば眞面目とする事、わが御國ぶりなるを、ただみやびたる外(47)樣をのみたのまるるは、から國の外樣をむねとするてぶりに同じければ也。」(『萬葉集燈』七頁)
  「神さびは、もと言の用にもいたくまさる妙用ありて、本かれが中心に徹すべく、中心にだに入らば、言は無益のものならずや。」(『古事記燈』二○頁)
  「かく決定する事、ひとへに外よりも内をむねと思ふが故なれば、たとひ人はえ聞き取らずとも、神の道は直びたるに疑ひなき事をたのしむがゆゑなり。」(『古事記燈』二四頁)
 
 彼はまたこのことを、「靈を主とし、言を客として」とも言つた。藝術的作品を理解するとは、畢竟その作品の中心に徹し、作者の靈の立場から作品を振り返つて見ることだ。言語のみやぴに眞實があるのではない。内の活所に眞實があるのだ。
 然らばかく内に徹することのために、外の表現は全く無意味のものであるか。斷じてさうではない。言語の妙用は、本來簡箪に表面だけのものではないのだ。一面的に決定する言語に即して、我々はその背景に立つ全生活を理解するのだ。理解とは表現の背景にあるものを勝手に想像することではない。表現に即して、表現が表現した限りのものを直接に理解することだ。言語がなければ、内も亦ない。内によつて言語は適切に生み出されたのだ。
 
  「もと詞の表は、言外の情より出でたる物なる事、草木の根より幹、枝、花、葉の生ずるに同じ。一もとの木草、その精神はただ、根にあるをや。されば、根を知らむ事、枝葉にあり。(48)枝葉を知らむ事、根にあり。」(萬葉集燈』一九六―七頁)
 
 まことによく通つた主張だ。作品を理解するもの、作品を創作するもの、常にこの心掛けを持たなければならない。しかし我々はそこに一つの循環論法の存することを否定し得ない。「根を知らむ事、枝葉にあり。枝葉を知らむ事、根にあり」と言ふ言葉がそれだ。内に徹するに、枝葉のきつかけがなければならない。併し表現の理解には徹した内の理解が必要なのである。我々をしてこの循環論法を超躍せしめるものは、常に一の全的體驗だ。表現と根と、この聯鎖は統一的のものであつて、單純な形式論理的の包攝關係だけでは済まされない。いや、眞の包攝關係は、本來かうしたものであるべきではないか。理解の根據には、全的なる創造生活がなければならない。思惟の究竟はいつでも循環論法となるのだ。
 表現にそれだけのことを許すとすれば、言語の決定は實は複雜の構成を持つものと言はなければならぬ。言語によつて我々は何等か一面的の決定をした。併し言語の表現するものは、單純にこの決定の一面ではない。それは一面的に決定することにより、却つてそれの否定したものを指示してゐる。更に進んでは、かく一面的に斷定せられ、同時に一面的に否定せられた立場を、すべてその中に包容するところの背後の全的統一の立場を指示してゐるのだ。すべての言語は、さうした靈妙のはたらきを持つ。御杖はここに「言靈」といふ術語を使つた。
 
(49)  「されど萬葉集中にことだまとあるには、みな此の靈の字を用ひられ、しかのみならず、さきはふたすくるなどのみよまれたるは、必らず言に霊妙の物ありて、それが、わが思ふ所をたすけさきはふ心なる事明らか也。」(『古事紀燈』八頁)
  「其の言の外に生かし置きたる所の、わが所思をば言靈とはいふ也。」(『古事記燈』二一頁)
  「言靈とは、詞の外に所思の言はずして籠れる所をしろしめす神の靈を申す也と知るべし。」(『萬葉集燈』七頁〕
  「言を見て靈を説かざれば死す。殺して何にの益ぞや。」(『古事記燈』九頁)
 
 御杖の言ふやうにして見ると、言語を以て何事をか言ふは、實は殺すのである。否定するのである。有は無であり、得は失なのだ。眞に肯定せられたものは、その言語以外にある。無が有であり、失が得なのだ。言語によつて、かく始めから生かされてある所思の表現せられる、これが言靈である。だから決定の合理性は直ちに反對の不合理性を豫想し、合理性不合理性は更に直ちにその背景の全的生活である非合理性を豫想するのであるが、非合理性は、御杖によれば、合理性に對してよりも寧ろ不合理性と密接の關係を持つてゐるのだ。ここに次に述べようとする「倒語」の論據がある。
 御杖はかうした態度を取つてゐるから、當時の歌匠だちのやうに歌題を豫め定めておいて、さ(50)てそれに就き歌作することなどは、人爲的で、何の意味か彼にはさつばりわからなかつた。だから彼はその題詠を排斥して、眞に體驗に根を持つ歌作をするやうにその弟子達を指導した。これだけのことは、今から見れば極めて平凡のことだが、當時の歌壇としては、その革命も實は容易のことではなかつたと見なければなるまい。
 
  「さればすべて言靈となる所の所思は先なり。題は後なり。しかるを題を先きにし情を後にするだにあるを、その題を詠ずることとなれるは歎くべき事なり。此故に予は、つねに人に無題の歌をのみよまするなり。」(『古事記燈』二九頁〕
  「歌と、言語は、その別ありといへども、大かた、詞は、わが情を人に傳ふべき具なれば、人に傳へでかなはぬばかりの情にあらでは、歌によむべき事にあらず。題詠のはかなき、歌となるべき情にはあらざる事也。」〔『萬葉集燈』九頁)
 
 彼は、藝術に於いて生活派だ。生活の背景のない人爲的の作品は、何等の藝術美をも持つことが出來ない。
 
 
(51) 私は御杖に於いて、象徴主義の一つの典型を見つめることが出來た。象徴主義とは、結局御杖の如くに或る有限に於いて無限をあこがれることに外ならぬ。なほ進んでは或る有限に於いて他の或る有限をあこがれることでもある。華嚴の哲學では、そのことを事事無礙と呼んだ。詞は所思の正面ではない。それは詞の殺した一面だ。決定の合理性はその反對の不合理性を豫想し、これら兩者は更にその背景の非合理性を豫想するが、御杖の場合では、その全的の非合理性は寧ろ不合理性の中に現はれ、不合理性を生かすのである。一つの詞の決定が、かくしてそれとは全く反對の意味を喚び生かすことが、御杖の所謂「倒語」なのだ。人は直語によつて、却つてその所思の眞を他人へ傳へることが出來ない。倒語し、その所思を他人に察せしめることによつて、人はその所思の眞を他人へ傳へる。倒語こそは古典を一貫した精神であつた。御杖自身は、千年埋もれたその倒語の眞義を發揮して古典を解しようとするけれども、人は容易にその眞意を知つてはくれないとかこつてゐるのだ。
 
  「さればすべて古歌古文を見むには詞とせられたる限りは、そのぬしの所思の正面にはあらずと決斷して、さて見るべきなり、たとひ一言一句たりとも、あやまちは格別、かみつよの人は、おのが所思を正面にいふ事は、かつてすまじき事に思ひしとみえたり。」(『古事記燈』二六頁)
(52)  「倒語とは、わが所思の反《うら》を言とするにて、詠歌も言語もともに倒語たるべきが故に、諷、歌としもまづふたつにいひながら、倒語之用始起乎茲と更におしこめて書きたまへるもの也。大かた直言すれば、人の中心にひそめる妖氣忽ち來りて我にわざはひするを、倒語すれば、その妖氣を掃蕩する事、たとへば不遜にすればかれ我を尊ばず、謙譲にすれば、かれわれを卑しまざるが如し。」(『古事記燈』三二頁〕
  「倒語するは、所詮はいはまほしき事をつつしむなり。」(『萬葉集燈』七頁)
  「されば、たとひ至誠の實情を述ぶとも、なほ罪まぬかれざるべければ、かろがろしく言を用ふべからず。此故に、歌よむべき心得は、その情、よきにもあれ、あしきにもあれ、おのれよりいひ出でずして、その情をば、人より察し來るべく詞をつくるを、肝要なりと心うべし。」(『萬葉集燈』五−六頁)
  「予、千とせあまりかくれたる倒語の道をいふが故に、世に、これを信ぜぬ人多し。これ年比のなげき也。」(『萬葉集燈』一〇頁)
 
 かくして御杖の取るものは「すさぴ」であつて、「みやび」ではない。「わが御國倒語をこそたふとべ、詞のあやをねがふ事なし。あやのごとくみゆる、いづれもよしある事ぞかし」(『萬葉集燈』二四頁)と言つてゐる。修辭に於ける擬人法もまた、御杖によれば倒語の一つの方法だ。(53)「非情を有情になしてよむ事、古人倒語の一手段なり。」(『萬葉集燈』一一二頁)「かかるよみざま、後世倒語の道かくれてのちは、歌のやうにも思はぬ事となりにけり。口惜しき事どもなり」(同上、同頁)倒語に於いて徹底しようとする御杖の氣魄は何處までも偉きい。
 象徴主義は常に一を以て多を表現しようとする。多を一々に盡くす假無限を取らず、一に於いて全き多を補へる眞無限につくのが、象徴主義だ。「すべて、多物をしめさむには、その中の一くさをとりわくるにしかず。」(『萬葉集燈』二四頁)「すべて言ふよりは言はぬ方おもひやり無量なれば、おもしろき方のいはれぬのみならず、その方を言外とし給へる也。おもしろき方を言外とし、却てうらめしき方を詞とし給へるは、倒語の妙處、古人詞のつけざまにすぐれたる所以ぞかし。」(『萬葉集燈』七二頁)無限とは、その方向の終りが何物とも結びつく世界だ。何物をも言ひ現はす時に、表現の意味するところは深遠で不可解のものとなる。象徴主義が世から屡々難解と呼ばれる理由はそこである。併し我々はその非難の故に、我々の生活を故意に小さく決定すべきでない。「かく何れともいひ固められずして、さまざまに見ゆる、これ詞を用ふるいたりなる也。」(『萬葉集燈』三六頁)
 表現とその背景の生活との關係について、御杖が言靈から更に倒語を考へるやうになつたことは、彼の獨創的の頭脳を證するものとして、我々には興味深い。藝術美といふものは、ジムメルも考へたやうに、ただ狹義に美しいと呼んでゐるものよりはもつと高い立場だ。私は、藝術につ(54)いて表現をそれのすべてと見るから、その點では「藝術のための藝術」論者となつてゐるのだが、併しその表現は何等のニュアンスをも持たない、單に平面的、分離的のものではない。表現はその背景に非合理的なる全生活を置く。表現は無限の憧憬を持つのである。(拙著『文學論』總説第一章參照)言靈の歴史的意義については、私は御杖の見解に賛成することが出來ないけれども、併し言靈説を彼の哲學乃至藝術論として考へて見ると、その主張は私の見解と甚だよく一致してゐる。彼は區々たる表現に眼をくれないで、直ちにその作家の人格と生活との内面性へ徹しようとする。併しそれは表現を忘れてではなくて、表現に即してである。表現に即すればこそ、倒語とも言へるのである。併し表現の表面とその背景の生活とは、常にテエゼ(正)とアンチテエゼ(反)との關係になつてゐるか、或はなつてゐるべきであるか、これは餘程問題になるところだ。日本文學の鑑賞の仕方として、御杖の倒語説は確かに獨創的であり、且つ確かにそれで説明しなければならぬところもあると思ふが、その見方は餘りに狹く一面に限り過ぎたやうに私には見える。ジンテエゼ(合)はそれのシムボルとしてテエゼを選むことも出來れば、アンチテエゼを選むことも出來る。御杖は、日本文學では、アンチテエゼ即ち「影」が選ばれてゐるといふのだ。これは一般の日本文學を解する仕方としては、或は眞理に近いかも知れない。日本人は生活に含蓄を持つた民族だ。後の俳句などでは、確かに生活の影が選ばれてゐる。併し萬葉人も亦同樣に影を選んでゐたかどうかは大分疑問であらう。これは通説としては寧ろそれの反對が言はれてゐ(55)たことだ。そして日本人が影を選むやうになつたのは、後の佛教の影響だと言はれてゐた。今若し御杖の説が正しいとすれば、我々が今佛教の影響だと思つてゐたものは、實は日本人に固有の性質であつたといふことになつて、我々が今日本人の精神生活を考へるにつき、考へ直さなければならぬことは隨分多くなる。これは歴史的の問題だから、それをこの一冊の中で取扱はうとは思はない。併し一般の藝術理論として考へて見ると、私は必ずしも御杖に同感することが出來ない。シムボルはテエゼに取られてもよければ、アンチテエゼに取られてもよい。それは作家の性格によつて定められることだ。しかし何れにせよ、表現は表現だけの合理性でないことは、決して忘れられてならない。表現は藝術のすべてだが、その背景には無限の憧憬が含められてゐる。
 表現の一々につき、その内へ徹し、その作家の生活を再構成するについては、表現の科學的研究が最も確實でなければならない。その科學的研究は二つに分れる。一は、その言語句法の科學的研究であり、他は、表現一般の歴史的研究だ。前者の研究について御杖は遺憾のない見識を示した。語感や文法感の鋭い點で、恐らく御杖は前後の國學者にその匹儔を見ない。これについては、十分別に論ずるだけの價値があり、その點で御杖の功業を知つてゐる人も少なくはないのである。併し後者の歴史的研究に至つては、幾分粗になつた點がなかつたとは言へない。今ならば神話學傳説學土俗學考古學などの知識を借りて、議論にもつと高い程度の客觀性を與へるところだが、御杖にそれの出來なかつたことは寧ろ時勢の罪であつて彼自身の罪と呼ばるべきではない。(56)その缺陷を補ふ學者は他にあったのだ。(編者註。本卷前篇第四章參照)隨つて古典に對する御杖の理解は、非常に深く、常に推服すべきものであつたが、時によると牽強附會の考へ過ぎとなつたことがないとは言へなかつた。あれほど深く燈の説に附き、時には、「……この意を言外に含ませ」た歌などと、御杖の倒語説をまで知らず識らずの間に取つてゐた(木村正辭博士『萬葉歌百首講義』七頁)故木村正辭博士が、「燈には歌の意をあらぬ事に解き曲げたり。これのみならず、燈に歌の意を解するに牽強附會の説多し。ゆめ惑はさるること勿れ」(『萬葉歌百首講義』三四頁)と言ひきつたのは全く理由のないことでもなかつた。
 
     四
 
 御杖の神觀及び神話觀も亦非常に獨創的のものであり、私は深く彼の見識に推服してゐる。
 
  「しかれども、もと神といふは何物ぞや、人といふは何物ぞや。人身のうちなるがやがて神なるをや。ただ外にていへば人なり、内にていへば神なるばかりなるを、さもはるかにいはれしは、(著者註。宣長の説を批評したのである。)もとより神といふ物をば明らかにせられざりければなるべし。」(『古事記燈』一二頁)
 
 これで見ると、神の内在觀が取られてゐる。彼の考へでは神は内であり人はそれの外なのだ。(57)これよりも詳しい考察は、次の言葉の中にある。
 
  「まづ人といふは、神を身内に宿したるものの名也。神といふは、人の身内に宿りたるものをいふ也。されば神を主とするも、もと人をば要としての教なりとしるべし。此の人身中の神なに物ぞといふに、人かならず理欲の二つありて、その欲をつかさどるをば神といひ、理をつかさどるをば人といふ。」(『古事記燈』三三―三四頁)
  「ただ道理を離れたる所の人のわざ、すなはち神にてはあるぞかし。」(『古事記燈』三七頁)
  「すべて正面に口舌手足を用ふるは、その力限りあり。これを人といふなり。倒語してしかも其の正面の所思、口舌手足の用にまさるいさをの自づからなる、これを神とはいふにて、神典一部專らそこを説きたまひしもの也。」(『古事記燈』三八頁)
 
 これによれば、御杖の神觀は甚だ明瞭だ。人は單なる合理性であり、神はその背景に全的に立つ生活統一だ。「此の理欲、天地にあやかりて、理はおのづから尊く、欲はおのづからいやしきが故に、人としては理を尊とび、欲をいやしむべきことなり。されば人みな.いかにもして諸欲を御し、理を全うせむことをのみ急とす」〔『古事記燈』三四頁)と御杖自身も言つてゐるやうに、人類の本能的なる理想主義的態度はすべてを合理化しなければ已まぬ努力をする。しかし神は更にこの人類の合理的生活體系をその中へ沒入せしめて餘さない、全生活實在だ。その全生活實在(58)は、やはり「道理をはなれた」一つの進みを持つ。それは生命自身の純粹持續だ。いかなる合理性も、この非合理的な、生命自身の統一的なる進みを振り放つて行くことが出來ない。その非合理性を支配するものが、御杖の所謂神だ。いや、その生命自身が神なのだ。神こそは眞の内であつて、人は寧ろ外である。
 
  「神道とは、すべて言にいださずして人心中におもふ所をさしていふ名也と知るべし。」(『古事記燈』二八貢)
  「わが御教此神の道を盡さしむることを專らとはし給へる也。さればただこの神の道に乘りてのみゆくべきに、外樣の人事に是非をたてて、この内なる神道を凌がむとするは、末より本を制するなれば、いかでか其しるしあらん。もと神道といふは、道理をはなれておもふ所のやむことをえざる道をさしていふ名にて、この名はじめて見えたるは、日本紀難波長柄宮の御卷に惟神者《かむながらとは》、謂d隨2神道1亦自有c神道u也と註せられしこれなり。」(『古事記燈』三五頁)
  「神道とは教の名にあらず、人道に反對したる神の道をさす也。されば世に此の教をさして神道と稱するは誤なり。」(『古事記燈』三九頁)
  「神道とは、身外に出しがたき所欲をいふなり。」(『古事記燈』五二頁)
 
 神道とは、生命自身の動く「やむことをえざる」道だ。それは所謂合理性ではないが、合理性(59)の根である。合理性といふも、その働らき自身として見れば、やはり非合理性である。かく生命自身の動きは所謂合理性ではないとしても、その道理が「已むことを得ざる」點では、なほそこにより〔二字傍点〕高い意味の合理性が存すると見なければならない。天地の根源は、さうした非合理的合理性だ。何物を超越しても、その根源は超越せられない。道徳は合理的なものだとしても、眞に高い道徳は、ヒユマニティイを生かすものでないといけない。隨神道が高い意味の人間の道だ。
 
  「さればいはゆる孝悌忠信のたぐひも、その生ずる母は人欲なる事しるければ、ただ人欲をだに盡せば、孝悌忠信は、教へずして自づから生むべき也。」(『古事記燈』四一頁)
  「かへすがへす神は外體にあづからぬ物なれば、貴賤大小にかかはらず、内にして貫きたる事、神典の規模なるぞかし。しからば人とは異物かといふに、さらにしからず。ただ直をなすは人なり。倒をなすは神なる也。」(同上、四五頁)
 
 ここに於いてか彼の神觀は倒語の論としつかり結び合つた。表現が倒語として見られなければならぬといふことは、結局は、藝術的表現は合理的のものでなく、非合理的のものとして見られなければならぬといふことである。價値の立場から見れば、それは確かに藝術的價値に對し合理的のものだ。全生活がその價値的實現の中に集中してゐると見れば、それは正しく非合理的のものだ。そしてかく合理性が非合理性に於いて見られ、有限が無限に於いて見られた時に、その媒(60)介者は「象徴」となるのだ。人格を盡くすとは、天地の根源としての非合理性を盡くすことだ。
 御杖のやうな道徳觀に於いて、いつも問題となるのは、その立場が善惡を超越し、隨つて惡をさへ許すこととなるので、狹い意味の理想主義者から非難せられることだ。併し大膽なる宗教的情熱を持つものは、この非難を少しも恐れず、我れから寧ろそれを歡迎しさへする。例へば親鸞がその同じい問題にぶつかつた。『歎異鈔』は、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや惡人をや」と言つてゐる。御杖がこの問題に對する態度も亦根本的には親鸞のそれと違はない。
 
  「わざの至りは神氣なるが故に神氣をつくさするは、即ちわざの極をつくさしむるなり。ここをもて、たとひおほやけのいさめさせ給ふわざをこのむ性なりとも、さらにその害あるべからず。神氣だに極にいたればそのわざは極にいたらずして、しかも妙事を生む事自づからなるべき也。」(『古事記燈』四二頁〕
  「しかるを善に片より惡を忌みて、いかでか天地と長久を等しうすべき。」(同上、五六頁)
 
 要は人欲を盡すのである。「善に片よる」とは抽象的概念的に善となり、それに全人的非合理性の背景を缺くことだ。ヒユマニティイのない法則的善がなんで眞の意味の善であらう。惡は惡として鍛へられなければならない。抽象的善に對抗する抽象的惡はたしかにそれ自身惡だ。しかしその惡が内に徹し、神氣の極に至つたとすれば、もはやそこには通常の意味で言はれる惡はな(61)いのだ。抽象は極に至るを得ない。全的態度の中へ吸収せられるからである。「或問曰、人欲をきはめしむる事、もしおほやけの御いさめにたがへる盗博奕のたぐひをこのむ者などはいかに。それもなほ極めしめむ歟。しからばつひに命をもめさるべし。さならずとも、酒色を嗜み放蕩懶惰なるものも猶それを極めしめむ歟」(『古事記燈』四一頁)といふのは、實は「人欲を盡す」態度ではない。それは抽象的、概念的に惡を固定せしめることである。「善に片よる」如くに、「惡に片よる」ことである。「盡す」とは、その固定を打開し、「片よる」ことを破毀して、その本に歸り、「神道に乘る」ことである。流れに任せ、生々と救はれることである。そこに神への祈祷がなければならない。
 
  「ここをもてわが御をしへ善解除惡解除《よしはらひあしはらひ》はあるにて、この善惡の二祓は、すなはち神道に乘らんがための御教なれば、人はおほよそまづ此の祓をむねとすべき事なり。我はこの二祓をして、是非はすべて神の是非にしたがふ、これ隨神道なり。」(『古事記燈』四〇頁)
 
 神との結合のない惡を取るのではない。そこには「祓」といふ宗教的體驗が必要なのである。さてその「祓」の後の是非は、すべて神の是非に隨ふのである。その後の行爲が再び惡になつたとしても、それは新らたに生れた惡であり、先きの抽象的なるものの盡くされた結果としての惡ではない。「神の是非に隨ふは危ふき事にみな人思ふべけれど、ここを危からずとすること、凡(62)見に超えたる所なる也。」(『古事記燈』四〇−四一頁)宗教的眞理の範疇は、倫理的乃至論理的眞理の範疇と一緒にはならない。宗教の世界は常に「凡見に超えたる所」である。神秘である。
 御杖は歴史から神話を區別した我國最初の學者であると見られる。彼は『古事記』に關して次のやうに言つた。
 
  「此の神典、實録とみては奇怪かぎりなし。しかるに強ひて史とするは、たとへば、火をともして與へたるをふきけちたるが如し。」(『古事記燈』九頁)
  「此の上卷は、史のかたちをかりながら史にはあらねば、わが大御國の御はじめは神武帝にておはしますべきなり。」(同上、一〇頁〕
  「この故に、此の上卷のうちに説きたまへる天神は、悉く神武帝の大御身のうちなる御神氣に御名づけまししものにて、地祇はみな天下衆人の神氣なる事疑ひなき事地。此神々神武帝の大御身のうちにかくおはしまししからは、今の世のあやしき我等が身のうちとてもいかでかなからん。」(同上、一一頁〕
 
 これは非常の見識と言はなければなるまい。御杖以前誰れがかくも大膽に歴史と神話とを區別したか。また御杖以後現代に至るまでの間にだれがかくも徹底した態度で神代史を取扱つたか。神代兜を神話として取扱ふことは、今なほ一部の固陋者から國家の基礎を危うする危險思想のや(63)うに見られてゐるではないか。(註一)私は御杖の論を多とする。神話は人間の内に持つ生活からおのづから創作せられたものだ。それは神武帝によつても創作せられ、また我々民衆によつても創作せられた。神話は一人の生活の中に生きず、民衆全體の生活の中に生きてゐるものだ。御杖の見識によつてでなければ、この正しい神話觀は容易に我々の中に生れて來なかつたであらう。御杖は正しい意味に於いて最初の神話學者であつた。はじめて神話學に歴史哲學の方法論的基礎を與へた人であつた。
  (註一) 西村眞次氏は、その著『日本の神話と宗教思想』の中でいつてゐる。「小學校の児童でも今日では最早神話と歴史との差異を知つてゐる。學者の試みるやうな定義は知ってゐなくとも、何となく兩者の間にスコープの差あることを知つてゐる。それにも拘はらず、尚ほ國史の第一頁が神話を以て始まるが如きは、甚だしき時代後れ、甚だしき誤魔化しといはなければならない。……今日の急務の一つは、神話を解放することである。」〔同書、一〇―一一頁)全く同感だ。
 尤も御杖とても『古事記』の記述の全部を神話だといふのではない。その中卷以下は、實録と言靈とを相まじへて書いたものだといふのである。
 かうした見識を待つた御杖であつたから、歴史を取扱ふ場合の彼の態度も亦非常にリベラルなものであり、些かも他により拘束せられた形跡を示さない。例へば、
 
  「しかるに漢土は早く一統したが故に、それに劣らじとて日本紀の神武の御卷には、御代の(64)年數、萬をもてかぞへられたり。年數の事はいかにもあれ、漢土にきそひて何かせん。ことに漢土はさばかり帝統長からざるものを、早くひらけしとてなにかは羨むべき。さる事を論らふは、いともいとも幼き事なり。」(『古事記燈』一〇−一一頁)
  「とにかくに此帝、この御國を一統し給ひて天子となり給ひし事疑ひなく、それまではこの一國中、かの八十梟帥がたぐひのごとく、おのが力々に地を領して所々に住み、いづれを此國の主ともなくてありしなるべし。されば神武帝の御祖も、この帝の御世まではただ一方の魁首にぞおはしましけんとおぼしき也。」(同上、一一頁)
 
 現代の歴史家でさへこれだけ大膽には言へないことだ。ただ最近には神話學傳説學考古學などの眼が開けて來たために、歴史家もこれだけのことを言ひ得るやうになつた。單なる文獻の記紀をだけいぢつてゐたとすれば、今でさへ歴史家は御杖のこの見識を邪説として排棄したであらう。同樣の見識は『萬葉集燈』の方でも隨所に見られる。
 私は今や御杖の思想の中核を論評し終つた。彼は眞の意味の自由思想家であつた。またそれ故に正しい意味の日本主義者でもあつた。私は彼の思想の中に潛んでゐる幾つかの問題を考察したが、それにより私自身の中にある刻下の問題の本質をも幾分明らかにすることが出來た氣がするのである。彼は餘りに早く生れた哲人であつた。―『學苑』(大正十五年八月稿)
 
 
(65) 弟三章 言道のリアリズム
 
    一
 
  「僕《われ》かりに木偶歌と號けたる物あり。魂靈《たましひ》なくて姿も意も昔のものなり。かかる歌は千萬首よめりとも、籠にて水を汲むがごとし。當世《いま》の人のうた此籠を不v漏はすくなし。しかるに是木偶、何年せば靈《たましひ》や入りきたらん。僕《われ》つらつら田舍人のうたを見るに、木偶にて世を終る人多し。古人は師なり。吾にはあらず。吾は天保の民なり。古人にはあらず、みだりに古人を執すれば、吾身何八、何兵衛なる事を忘る。」
 
 これは大隈言道の『ひとりごち』の卷首の語だ。終世その名を爲すこともなく朽ち果てた田舍歌人の言道がこれだけ堂々たる藝術論をなしたことは殆ど奇蹟だと言つてよい。徳川時代も末期頃になると、流石に思想家の中にも徹底したポジティヴィストやリアリストやがぽつりぽつりと(66)出て來た。私はさうした卓越した思想家を幾人か數へることが出來る。併し藝術論としてこれだけ徹底したリアリズムを主張し、藝術の時代性に着眼したものは先づ言道以外になかつたと言つてよい。いや、言道以前に遡つて見ても、言道以上のリアリストは見つからない。『古今集』序以來の歌論を一々あたつて見ても、言道の歌論だけは嶄然として頭角を現はし、五指を屈してなほその一つに數へられるものだ。大隈言道は飽くまで一個の近代人だ。近代生活の先駆者だ。
 藝術は何故リアリズムでなければならないか。いや、その前に私は藝術上のリアリズムといふ言葉の意味を説明するがよささうだ。藝術の上で私は寫實主義と觀念主義とその二つの立場の何れをも容認することが出來る。そしてこれら二つの立場を止揚したものは象徴主義だと考へてゐる。併しその象徴主義の立場の上に立つて私が再び寫實主義を言ふのは、本來の立場を破る所以では決してない。象徴主義者なればこそ私は一層強く寫實主義を主張しようといふのだ。
 認識は模寫でない。それは藝術的の認識、藝術的の構成に就いても全く眞理である。藝術的作品の堕落した時は、いつでもこの幼稚な模寫説の支配してゐた時だと言つてよい。藝術的觀照の世界は、創作としても鑑賞としても、純然たる一個の構成の世界であつた。併しそこでの構成は、知識的認識の世界のそれよりももつと生き生きとし、それに於いて構成自身の生命を見つめてゐるといふ方が我々の觸れてゐるものに近い。知識的認識は、その構成の成果を平面的に、靜的に見てゐる。藝術的認識は、その構成の立體性を動的に受け取る。藝術的の世界は構成の世界だか(67)ら、純然と統一せられてゐる。いや、統一とは、眞にかうした藝術的世界の統一の相を持つものでなければならぬ。それは既に統一として意識せられぬ程統一の主觀に直接的だ。そこには反省の餘地もない。併しまた全く反省がないといふのではない。藝術的世界は意志的行爲の世界とは違つて、我々に實行的の興味を起させはしない。實行的の興味を起させないほどの作品は、作品として微力だとも言へるが、實行的の興味の起つた時、立場は最早藝術のそれから他へ動いてゐる。藝術的觀照に或る靜かな餘裕の存するに見て、それにはやはり或る直接的の反省が存すると言はなければならぬ。併しそこでは靜かな、直接的な、反省が存するとしても、反省による分裂は存しはしない。分裂すれば知識的認識になつて了ふ。藝術的世界はありのままに受け取るのだ。受け取つて望むのだ。その時芭蕉のやうに、「予が風雅は夏爐冬扇の如し」と言ふのだ。
 藝術的構成の世界は、構成は構成でも或る同質者を媒介としての抽象的構成ではない。生命そのままの構成世界だ。勿論構成は何等かの同質者との關係なしには起り得ないとも言へよう。また統一は、統一なる限り、そのすべての部分に於いて或る唯一の特色を持たなければならぬとも言へよう。併しこの構成の場合の同質者は、強ひて言へば生き生きとしてゐるといふ一つの特性だと言はなければならぬ。またこの統一の場合の特性は、統一せられた後の或る特性ではなくて、本來統一すること自身の特性だと言はなければならぬ。何處でもその生き生きとした動きから離れることが出來ない。また何處でもその統一自體から分離して他へ出ることが出來ない。藝術的(68)世界は、それだから非合理的であるがままの統一的の世界だ。合理的、抽象的のものは全然藝術の中から排斥せられるのではないが、それらが藝術的の世界の中のものとなつた時には、それらは最早合理的、抽象的のものとしては受け取られずに、非合理的の統一世界の中へ沒入せしめられたものとして受け取られなければならない。丁度大海の上に浮木が流れたやうなものだ。藝術的創作に選擇の行爲が全く慟らかないとは言へない。その選擇がなければ、作品の價値に高下もなくなるであらう。併し藝術的創作に於ける選擇は、資材の何物かを選び取り、その何物かを捨て去るといふ意味のそれではない。ただそこには生命的統一のフォオカス(焦點)に動きがあるといふ意味を以ての選擇がなければならない。統一のフォオカスは、寫眞器のフォオカスのやうに、何處へでもそれを定めることが出來る。統一作用自身へ、或は主觀へ、非常に近くそのフォオカスを定めれば、そこには世俗人によつて理解せられない未來派の或る繪畫のやうな作品が生れるであらう。またずつと主觀から遠ざければ、そこには非常に綿密な客觀的寫實を持つた、純なる所謂寫實主義の繪畫や小説が生れるであらう。もつともつと主觀から遠ざければ、哲學的思索の抽象は勿論のこととして、數學的の公式でさへも或る場合には藝術的でないとは言へない。またかやうにフォオカスを、主觀に對して直角の一平面内に求めず、主觀に對して種々の角度で歪んだ無限數の平面内に於いて求めることも可能である。その場合には、その作品の中には近來の所謂新感覚派的の措寫が現はれるかと思へば、また抽象的の議論が現はれ、一見してはフォオ(69)カスの深度の極めて不定のもののやうに見える。それでも藝術としてのアインシュテルング自身に動搖があつたのではない。知識的認識の世界に於いて幾何の世界や代數の世界が成立すると全く同じいやうに、藝術的の世界でも非常に複雜なフォオカスの世界がつくられる。そこでは負の符號を持つた世界の現はれることさへ決して珍らしくはない。(『文學論』第五章小説參照)
 或る點にフォオカスが定められたとすれば、そのフォオカスの周圍に措寫の濃淡が起る。それが選擇だ。けれどもその選擇は濃淡であつて、抽象ではない。私は今藝術的世界のフォオカスを寫眞器のそれに比論せしめたが、實際はこの比論は適切ではない。何故といふに寫眞器の場合では、器械とフォオカスとは別々のものとなつてゐるが、藝術的世界の構成では、寫眞器自身はフォオカス自身の位置にあり、フォオカス自身となつて絶えず動いてゐるからだ。だから藝術的世界は主觀によつてそこへ〔三字傍点〕作られた世界ではない、主觀がここに〔三字傍点〕作りつつある世界だ。フォオカスは點ではなくて、運動の線だ。いや、運動そのものだ。生き生きしてゐるといふことが、フォオカスを持つといふことの意味だ。絶えず統一を持つといふことが、生き生きしてゐるといふことの意味だ。
 私はよく「藝術は分らないものだ」といふ聲を聞く。いかにも此の非合理的統一の直接性の自識せられ得ないものに取つて、藝術の世界は不可解であらう。併し一旦それの自識せられ得たものに取つて、藝衛を理解することはむづかしいことでも何でもない。私は藝術的世界のかうした(70)直接性を藝術のリアリズムとして言ひ現はさうと思ふ。大隈言道の主張は、私の今言つたことを丁度そのままに高調したものだ。
 
     二
 
 私は、藝術のあらゆる形式はそれの内容から生み出されると信じてゐる。一定の形式を定め、然る後にそれへ内容を當て嵌める仕方は、既に藝術的世界の直接性を破壞する抽象主義だ。藝術的内容と呼ばれたものは、單に統一の資材となつた、或る名付け難き内容ではない。統一を離れて藝術的内容はないのだ。だからその藝術的内容自身に於いて既にそれの破壞し得られない藝術的形式がなければならない。意識せられるものはこの内容である。形式はそれに即して望まれる。若しそれ以外に藝術的形式なるものがあるとすれば、そこには統一の二重性が成立し、後の形式は抽象的選擇の形式として働らくことであらう。私はさうした意味の形式に賛成することが出來ない。勿論かうした形式の二重性も、藝術家自身の技巧の練達のために、藝術家自身によつては敢へて二重性として意識せられない場合はあり得る。併しそれはただこの技巧の練達がその二重性の意識を無意識に近く習慣づけたといふだけのことであり、理論としてはそこにやはり確固たる二重性が存するとしなければならない。藝術家目身は、屡々かうしたことについて錯誤觀を懷(71)抱するのである。私は次のやうな場合を度々經驗する。外へ出て私は自然のスケッチを描くのである。それは實に荒つ削りのものだ。技巧として甚だ拙いところが目立つ。それはとても見るに堪へないといふ氣さへする。そこで私はそれを家へ持つて歸り、それを修正するか、或はもつと丁寧に別の紙へ寫しかへようと思ふのである。併しやつて見るとどうしても旨く出來ない。どんなに骨を折つても生氣のあるものにはならない。そこで私はすつかり落膽してやはり初めの野外での作品へ歸つて來るのである。諸君はさうした經驗を持つたことはないか。また私は旅行先きから自宅へあてて、行動の亂暴な報道をする。或は長い手紙で、或は甚だ短かい葉書で。それは甚だ不自由に汽車の中で搖られて書いたり、停車場のベンチの上で時間を氣にしいしい書いたりしたものだ。が、さて歸宅した後に纏つた旅行記を書かうとして、この乱暴な書信以上に生き生きしたものの書けないのは何としたことか。諸君はさうした經驗を持つたことはないか。丁寧に草稿をつくつた演説よりも、そこでの思ひ付きを直ぐに述べたものの方が聽衆を感動させるといふのも、同じ理由から來るのであらう。グリアースンもさうしたことを言つてゐる。これらのことはすべて何を語るか。それは直接性を離れて藝術は全く成立しないといふことを我々に教へてゐるのだ。藝術のあらゆる形式も亦斷じてその直接性を失つてならない。
 
(72)    三
 
 大隈言道のリアリズムは、殆どすべて、先きに擧げた、『ひとりごち』の卷首の數言によつて言ひ現はされてゐる。藝術的作品は創作家の生活のフォオカスさながらの動きでなければならぬ。生活から少しでも遊離するか、或はそれを少しでも抽象化すれば、作品はそれの生き生きした魂を失つて、石の如く冷たいものとなる。私は先きに藝術的内容として抽象的の思惟も避けるべきではないとしたが、それはかうした抽象的の思惟が生活のフォオカスに於いて眞に動いた場合を言つたのであり、作品自身が抽象化せられてもよいと言つたのではない。他人の思想や形式が取入れられたとしても、それは眞に直接的にその作家の生活のフォオカスと共に動くことが出來ない。何故なればその思想や形式は、藝術に於いては、先きの作家の生活のフォオカスに對してだけ直接性を持つたものであり、後の作家のそれに對しては最早その直接性を持つことの出來ないものであるから。さうした思想や形式は、いつでも作家のその時の生活の統一に於いてさながらに見られたものであり、煉瓦をあちこちへ持ち運んで任意の形の建築を組み立てるといふ性質に於いて見られることが出來ない。言道が木偶歌といつたのは、藝術のその直接性を失つた抽象的作品のことだ。「姿も意も昔のもの」だと言つたのは、それの形式や内容が昔のものから抽象的(73)に借られて、それらが作家の生活のフォオカスから他へ脱してゐることだ。それにしても言道が、「古人は師なり。吾にはあらず。吾は天保の民なり。古人にはあらず。みだりに古人を執すれば、吾身、何八、何兵衛なることを忘る」と言ひ、斷然として從來の抽象的な短歌者に挑戰したのは、何といふ立派な見識であつたらうか。生命の非合理的なる構成をなす主觀は單に意識一般といふやうな、形式的な、どれにでも適用せられるやうな主觀であることが出來ない。それは全然のメエオンをもつて充實せられた、生命のフォオカスの動きと共にそれの内容も全然變つて了ふやうな生きた主觀でなければならぬ。即ちまことの意味に於いて言道の「吾」である。「天保の民」であることを措いて、藝術的創作の主觀は主觀としての意味をなさぬ。「何八、何兵衛」であることを離れて、藝術的創作の主觀は主觀としての意味をなさぬ。
 
  「意のうはべのみ大臣の如くなりてよむ歌、さぞ尊きことにてもあるべけれども、そは賈人の冠袍を着たるなり。全く眞似にて、歌舞伎を見るが如し。或る歌よみに喩して曰く、眞似ならば易き物、歌舞伎役者も菅丞相になると。まこと菅相公たらんと欲する者、俳優の如くせんや。又古歌の如き歌よまんとする者、藝の如くせんや。善人たらんと欲せば先づ心よりはじむべし。善き歌よまんと欲せば、先づ心よりはじむべし。」(『ひとりごち』)
 
 「先づ心よりはじむ」といふのは、生命のフォオカス自身が藝術の形式をつくることを言ふの(74)だ。かくして藝術の形式と内容とは、作家の生命の動くと共に常に新らしく動かなければならぬ。さうした作家を横に時代的に纏めて見れば、作品は全體としてその時代の刻印を持つであらう。また同樣に、さうした作家を縱に歴史として纏めて見れば、一つの歴史を共有するものの間に、作品はやはり全體としてその歴史の刻印を持つであらう。藝術としての傳統が排棄せられるといふのではない。傳統は傳統として、理念は理念として、動く作品の姿と意との間を貫く。ただその傳統、その理念は藝術の直接性の中に生きたものでなければならぬ。古人は古人としての直接性を持つた。今人は今人としての直接性を持たなければならぬ。今人が古人の姿と意とのあとを追うた時、今人は最早古人が古人であつた時の溌刺さを持つことが出來ない。今人が古人の如くあることは、今人が今人としてあり、古人としてはゐないことだ。
 
  「全く不v似を以て古人にちかしとす。古人によくにたるを以て古人に遠しとす。」(『ひとりごち』〕
  「すべて先哲がた、歌を詠む詠み方をのみ、とありかくあり、或は花山一條、又は萬葉がよし、古今がよし、何の時代は惡し、その代は手本にならずなどと、その詠み方をのみ云ふは、家を作るに、家はいはで、材木のみの詮議なり。」(『こぞのちり』)
 
 それだから藝術の姿はいつでも新體だ。異體だ。新體であり、異體であることが眞に正統的な(75)のである。古人の如くならうとすれば、我々は先づ新體をつくり、異體をつくらなければならぬ。藝術の創造には停止がない。勿論その新體や異體やは、眞に動く生命のフォオカスから離脱したものであつてはならない。それは新體や異體やではなくて變體である。變體はその姿や意の新らしく奇拔なためにいけないのではない。それも亦フォオカスを離脱したことに於いて一つの抽象に陷り、直接性を失つたからいけないのだ。
 
  「君の歌は新體か、古體かと云ふ時は、新體といはずして何ぞ。己れ天保の民の歌なるをや。何も今なる物を。」(『ひとりごち』)
  「わがものを詠まんとすれば異體になり、異體ならじとすれば古人のものになる。歌の難きところなり。さはれ、古人の歌をいくつ詠みたりとて、不v詠《よまざる》も同じ事なり。生涯歌なくて歌よみなるは悲しむべし。」(『こぞのちり』)
  「萬葉集より古今集頃の歌を見れば異體なり。古今集の頃より新古今集の頃を見れば又異體なり。また其世にての異體あり。世々體裁かはるは自づからの勢にて、さらではかなはぬ理なり。」(『こぞのちり』)
 
 言道の理解はよく透徹してゐる。現在でさへも歌人の多くはこれだけの見識を持つてゐない、生活の革命を持つてゐない。
 
(76)     四
 
 藝術的作品も、所詮は自分のための作品だ。他の何人に見せるための作品でもない。生命のフォオカスの動きさながらが作品の内容だ、形式だ。言道はそのことを「心よりはじむ」と言ひ、「心を種」にすると言つた。
 
  「ただ心を種にて詠むべし。その歌の善凶は詠者の知る所にあらず。」(『こぞのちり』)
  「人はよくもいへあしくもいへ、うけひきがたし。ただ耻v己《おのれにはづ》。」(『こぞのちり』)
 
 それに就いて言道は自身の面白い經驗談を書いてゐる。言道の家は、言道によると、家も狹陋であることは言ふまでもないが、併し山野の眺望についてだけは大いに誇つてよいものを持つてゐた。「山野凡そ十里餘りの眺望ありて、丑寅より未申までよく見え、橋も四つ五つ、行く人なども見え、月によく、雪によければ、隨分の美觀」であつたと言ふ。然るに言道の家を訪ふ所謂歌人達の中には、その美觀を美觀だとも言はずに歸るものがある。また日々に訪ふ客は、日々に變る美觀をこそ見なければならぬのに、その中には障子をさへ明けずに、歸るものがある。言道の樣なリアリストはとてもさうした似而非藝術家に堪へない。それらの美觀を美觀として見る生(77)命がなくて何處に藝術があるか。いや、その美觀への障子を明けようとする、生命の生き生きとした動きがなくて何處に藝術があるか。眞理にも、藝術にも、道徳にも、先づその嗜欲のおのづからなる動きがなければならぬ。PhilosophieはPhilosophierenでなければならぬ。私はその動きをエロスと呼びたい。「詩歌の事などを、あくばかり語らひて、風景を見ずして歸るはいかにぞや。」(『ひとりごち』)言道はさう言つて、この似而非歌人を笑つたのである。「山があはれなる、花がおもしろき、川がきよき、など歌にいふは、何を見てさは言ふらむ。ある人、女郎花のうつろへるを見て、今が盛ならん、などと云ひて見けり。是れも歌よむ人なりければ、己れ心のうちにをかしく、たまたま花を見れば斯の如し。吾庭の女郎花、はや實になれるを、かく言ふはなかなか風雅の目にやと言はまほしかりし。力なき事どもなり。」(『ひとりごち』)言道の言葉は、かうなると思はず激して來るのである。
 藝術の直接性として作家自身の生活に即する時に、第一に重要なことは作家が時代意識から離れないことだ。「時」――それほど強く作家の生命のフォオカスを定位するものはない。我々は作家として先づ現代人の自覚を持たなければならない。我々は古を生きるのではない、現代を生きるのだ。彼を生きるのではない、我を生きるのだ。そこに生きるのではない、ここに生きるのだ。言道の根本的の自覚は、「吾は天保の民なり」であつた。天保の民は天保の民として歌はなければならぬ。天保の民の生きた藝術意識は、既に萬葉古今の生きた藝術意識でない。今のもの(78)は今の時に於いてはつきりした時代意識を以て眺められぬかも知れない。また時には、それは美としてさへ眺められぬかも知れない。それも後世になれば、はつきりした時代意識として、個性を待つた美として眺められるのだ。眞にそれに意識的になるとは、それに無意識的となることだ。故意に意識せられたものは、藝術に於いては單なる抽象である。我の中にあるものは一つとして特異でない。意識する自身に取つて、それはすべて普遍的なるものだ。外より眺めるものに對して、それははじめてまことに特異なる、個性的なるものとなるのである。
 
  「後の世のよき事もあれど、古へのまされること又限なし。されど古への物ごとよきを思へば、今も古へにならば、何も後よりはよく見えなんか。今の新内めりやす、後世にはいと風雅らしくきこえましを、昔も雅樂と俗樂とは別のものなれば、猿がうがましなどいへることあり。」(『こぞのちり』)
 
 現在の身分職業などは、時代と同じく作家の主觀を決定する重要の要素だ。言道にして見ると、何八、何兵衛を離れた我といふものは存在しない。當時の短歌が貴族的の生活を背景としたらしい古風の姿や意を徒らに模倣してゐるのが、言道には堪へられない現實遊離と見えたのであらう。言道は先づ「歌は身分と別に引きはなつものにあらず」と言つて他の俗歌作者に宣戰した。さうだ、この場合には自ら身を何八、何兵衛と見下した言道の方が、徒らに貴族的の作風を示した他(79)の歌作者よりも、生活として遙かに貴族的なのだ。
 
「歌を咏む者は、冠を着たる心にてよむべしと云ひ教へたる人あり。これも道にとりて妨げあり。さるべき理なし。貴人は貴人、下賤は下賤、世人は世人、隱逸人は隱逸人、老、弱、男、女、皆別々に己れ相應の歌あるべければなり。」(『ひとりごち』)
  「俗人は俗を以てせずんば不v尊《たふとからず》。雅人は雅を以てせずんば不v尊。事物好惡、雅俗によつて人情反覆す。」(『ひとりごち』)
 
 かうした短歌では、ひとりその内容が現實的となるだけではなく、その形式も亦全く現實的とならなければならぬ。短歌の使用する言語は古のものではなく、現代のものでなければならぬ。
 
  「歌は幼なかれといふこと、昔よりの教あり。されど歌のみを幼なくよむにはあらじ。すべてこの幼きは人の實心なれば、今日の言語に、心を付けて聞くべし。」(『ひとりごち』)
  「漢語梵語も今は國語同前なるは、嫌ひなく歌にいふべきものながら、其の選びをせねばならぬことになりてより歌學びよくせずばいはれぬことになりたるなり。今の人の平語のごとく歌詞を自由にせずば、おのが心のままをいひいづること難かるべし。」(『こぞのちり』)
 
 これだけの常識に達するさへ困難なものは今の歌作者の中にどれだけ多いか知れないのだ。
 
(80)     五
 
 創造はいつも冒險を含む。清新はいつも時代人に異體として感じられる。それだから巧智あるものはその冒險を敢てせず、舊態に泥んで時代の賞讃を博しようと心がける。併し少しく時代を隔てて前のものを顧れば、先きに冒險異體として見られた作品こそは、正格の藝術品として永久の光りを放つのである。冒險を敢てした新體の作品が時に拙劣のものとなるは已むを得ないことだ。何故なればそれは人間に、社會に、全く新らしく拓かれて行く道であるからだ。併しその拙劣は主として技巧に於いてのことである。拙は拙でもそれに籠つてゐる精神は動いてゐる。一時の不評を敢てしてなほ動かずに居られない心こそは、藝術家に取つて唯一の眞實だ。
 
  「この木偶歌を見るに、詞心ともに昔の人の物なれば、いとあはれにめでたし。今人吾意をよむは、書物なれば、歌がらあしく、詞思ふままにならで、あるは變體となり、ことやうなる歌となる。今の新刻鰒玉集などのうち、ことやうなる歌多し。これは木偶歌よりいと劣つて見ゆれど、未熟のなすところなれば、年を經て宜しきに至るべし。かの木偶歌は、是よりもはるかに淺學にて、いまだ己が歌詠まんとする礎さへ無きなり。」(『ひとりごち』〕
 
(81) 言道のこの主張は痛烈にして人を刺すものだ。私はこれらの語を直ちに現代の歌匠諸君の前に呈したい。
 
  「已れが歌を卑しといふ人あり。下賤なればさも在るべし。又異體なりといふ人あり。さる歌もあるべし。皆未熟の致す所なれば是非もなし。然るに己が心を詠じて、古人に向はんの志ある人、此所を不v過《すぎず》して直渡《ひたわた》りする梯あらんや。」(『ひとりごち』)
 
 言道の道は眞正直だ。そのかはり世才の道としては大いに損なことに相違ない。ただその損を敢てしても眞實の道を進むより外はなかつた言道の藝術的良心には我々も力強く動かされる。俗物の眼から見れば、現代語を使つて現代生活の想と意とを歌ふのであるから、それ程容易なる作詠はないやうにも思へよう。いや、今でさへさう言つて新らしい作品を嘲笑する短歌者はある。それは深く現代の生活に味到しない人の言ふことだ。見方は淺い。我々に取つては、我々に最も近いものが實は最も遠くなつて見えて來る。模倣の一年は創造の五分間のやうに、創造の一年は模倣の一世紀のやうに、眞の藝術家に取つては感じられてゐるのだ。
 
  「つらつら思ふに、わが眞心を詠む時はいといと難く、はた昔ぶりによりて詠めば古人の如き歌出できて、其歌おのがものとは思はれず。されど其歌古へ風なれば歌にとりてはよしと見ゆる歌多く、わが心をよめばいと卑しく異樣《ことやう》なる心地して、わがものからいやしめらるる(82)を思へば、その世に似ぬ古へ風の歌よまんより、此のいやしきさま今の世に似て、しばし學びのほどにはよしといふべからんか。されど古へより代々に移り變る歌の撰集などにても、かのわがものならぬ古ぶりを其時詠みたる人もあらんを、今より見ればその時代に似げなきことも見えずして、なべて其世のよき歌のうちに入りし歌やあらんと思ひしことあり。」(『こぞのちり』)
 
     六
 
 藝術的世界の構成は選擇では惡い、フォオカスである。非合理的の統一世界さながらのものは、すべて殘りなく美だ。ただそれがどれだけ純に非合理的に構成せられてゐるかによつて、作品の美と醜との區別はつけられる。笑ひも美だ。悲しみも美だ。抽象的の論議もさながら流れるものは美だ。美に特有の感情といふものはない。すべてはただ動かなければならぬ。流れなければならぬ。そしてなほおのづから眺められなければならぬ。遊離してはならぬ。抽象してはならぬ。部分的、要素的となれば美は碎ける。統一的、全體的となれば美はいつでも澄む。私が、美はリアリムズに於いてあると言ふのもそこのことだ。
 
(83)  「三十一文字の限りあれば、自然にあらはれぬ物なる事は論もなけれど、前に云ふ自然のひとり言などは、今いはんとて、かまへていひ出づる物にもあらず。自のが誠忠よりふと出づるなれば、自然の物といふべし。其|獨言《ひとりごち》即ち咏嗟なれば、歌なり。是はこれ作り物にはあらず。ここが歌の根元なれば、其意をすてて作り物に許しては、本意を失ふなり。」(『ひとりごち』)
  「歌の道は公にて、歌は私ものなり。思慮を加へ、左右の善凶を顧みて、さて其後に、云ひ出づる物にはあらず。物に觸れ事に依りて、即座に感發する咏嘆なり。」(『ひとりごち』)
  「歌は人情をいひて別に物なし。もとより前にもいへる如く、左右を顧みて工夫する筈のものならねば、歌の道はかやうなどと云ふ事さらになし。皆人情なり。故に漢意なりとて己れが眞心ならばいかがはせむ。佛意なりとて己が心ならば避くべきにあらず。」(『ひとりごち』)
  「歌の體いろいろある物を、眞實を好むとて、唯涙ぐましく眞面目なる事ばかり云ふは偏れるなり。もとより眞面目なる心の時は、眞面目なる事をいひ、戯れたる時は戯言を云ふ事なり。」(『ひとりごち』)
  「眞面目なる歌を實情なりとて、夫にのみ偏よるべからず。此戯れは實情の外ならず。」(『ひとりごち』)
 
(84) 言道が特に嫌つてゐたことは、歌人らしくならうとして殊更に隱遁者らしくなることだ。生活の外に藝術はない。藝術は生活のさながらだ。殊更に隱遁者らしくなることが藝術家の本領だとすれば、藝術家は一つの特殊職業だ。すべての人が藝術家にならうとすれば、生活は壞滅せしめられるより外はない。言道は斷言した。「なべて歌人は隱逸家になりなんとす。歌はさる物にては無し。前にも云へるが如く、謝家は謝家、世家は世家、貴、賤、老、少、男、女、自づからわかれて己がまにまに歌あるべきなり。」(『ひとりごち』)だから言道は、「何事ぞ花見る人の長がたな」といふ去來の句には抗議を持ち出してゐる。「何ぞ花見るは隱逸者のみのわざならんや。」武士は甲冑を着て花をも見るべし、明日をも知らないもののふが、陣營などで見る花、それも亦美しい歌境だ。百姓は裸體になつて月をめづるがよい。「なべての人、如意と言ふ物などを持《も》たらんやうになりてはいかが。」「すべて風雅といふ事を隱遁家に限りたる名と思へるは、何も不v知《しらざる》の心なり。」言道の議論はいつもながら辛辣に徹底してゐる。
 すべては構へるからいけないのだ。風雅は別に風雅といふものがあると考へる時に抽象的となる。何處に風雅があらう。風雅を求めぬさながらの心が風雅なのだ。歌は湧くものでなければならぬ。呼吸するものでなければならぬ。「強ひて風雅を作り添へたるは、的切なる歌も出で來ぬ事なり。」「まこと知る時ぞ自づからの風雅心には基づきぬべき。唯歌は花月を譽めはやすものと心得たるは、まだしき程の心地なり。」(『ひとりごち』)またかうも言つてゐる。
 
(85)  「強ひて雅びをかざり僞はらば、後人に天保の御世をくらますなり。後より顧みても天保年間は如v斯《かくのごとく》ありしと、歌の趣にいちじるく見えんこそ、歌の正道にてあらまほしきわざなれ。もとより今の大御世、昔にすぐれたる事多けれぼ、僞りかざらば、たまたま眞の事あらんも、僞におちて口惜かるべし。」(『ひとりごち』)
 
 我々の自然の見方にも亦決して構へたところがあつてはならぬ。感情は固定しない。一つの事物に符號の如く附着せしめられた感情といふものはない。自然の物は、強ひて有情でもなければ、また強ひて無情でもない。概念は決定するが感情は流れてゐる。一つの概念が百たび同じく決定する場合にも、その感情は常に全く同一だとは言へないことだ。
 
  「無情の物に、心をあらせて詠むが歌の例なりと云ふ事、あらぬ教へざまなり。何ぞわざと意をあらせんや。」(『ひとりごち』)
  「有《あり》もなしも共に定まらぬが人の眞心なり。そのこころもてよみいづるが歌なるべし。(中略)
  古も今もおなじことにて、不v決《けつせざる》が本心なり。」(『こぞのちり』)
 
 概念の世界と藝術の世界との相違が、この數語の中によく言ひ現はされてゐる。
 これほど革命的であつた言道も、併し他方では歌學といふことを全く棄却したのではない。言道は、藝術に於いて一以て貫くものと、主觀と共に動くものとを區別してゐる。それ故に彼は、(86)「歌の道は公にて、歌は私ものなり」と言つた。その公の道を公にするがために、言道は藝術の直接性を高調したのである。歌は學ぶべきものである。併し學ぶとは何時までも「古歌の似せ」ばかりを作つてゐることではない。古歌の中を一貫した歌の公の道を會得し、精神の傳統へ沈潛することである。藝は新らしい境地を開くことでなければならぬ。言道が眞淵と景樹の歌論の相違を批評したところはいかにもと思はれる。眞淵は、萬葉を常に見よ、調をも心をもそれに染めよと教へるし、(『新まなび』)景樹はそれを非難して、これはゆゆしき妄論である。歌は情の行くままにひとり調べ成り、思慮を加へるべきものではないから、古へに似せる暇まを持たない、似せるのは飾つた僞りであると論じた。(『新學異見』)言道はこれら兩者の主張の何れにも偏した見方を取らうとはしなかつた。言道によれば、よし眞淵はよく似せよといつても、似せることが本來出來るものではない、だからそれはうひ學びの人に學びの本領を教へたに過ぎない。景樹はその點で歌の本質を正しく見てゐる。併しこれだけではうひ學びの人の取りつきやうもない。
 
  「景樹は歌のいかなるものといふことをいひ、眞淵は歌の學びといふことをいはれたる文なり。また眞淵の論は、歌といふものを詠み習ふ論なり。景樹は、歌の主意をいひて、學ぶことをいはず。」(『こぞのちり』)
 
 これを見ても言道の批評振りは謙虚である。それには狹い獨斷がない。
 
(87)      七
 
 私はもはや言道の藝術論の殆ど全部を語り終つたと言つてよい。藝術のリアリズムの行きつくところまで行きついたこれだけの意見が、明治時代の短歌革新よりずつと以前に主張せられてゐたことは全く驚嘆すべきであつた。
 併し言道の言つただけの主張は、今日の歌壇に於いてさへまだすつかり達せられてゐるとは言へない。いや、その殆どすべての主張が、そのまま顧みられずに殘されてゐるのである。我々は今歌壇に於いて言道の歌論を一層高く掲げなければならない。併し言道といへども時代の思想を全く超越したほどの卓見を示すことの出來なかつたのは言ふまでもない。一定の思想を生むには一定の歴史的條件が必要なのだ。今我々の新らしい歴史的事情の下では、我々は言道の主張をすらも踏み越えて更らに一歩前進しなければならない。私はさうした新らしい主張として、ここに二つの事項を言道の主張の上に補つて置きたい。その第一は、現實生活を本位とした言道の主張を一歩進めて、無産者藝術の新らしい理念を提起することだ。言道がその論をなし得なかつたのは、一に社會的構成に對する當時の見方の進んでゐなかつたことに歸せらるべきものであり、言道自身の罪ではなかつた。第二は、内容に即して形式も出來るとする言道の論を一層徹底せしめ(88)て、短歌の三十一音詩形を打破し自由詩形を取ることである。言道の時代に於いてそれだけの革命を果たし得なかつたのは少しも無理でない。現代でさへ三十一音定型律は歌作者の拔き難い迷信となつてゐるのだ。併し言道でも既にその革命への序論だけは述べてゐる。短歌のリズムに就いてさへかう言つてゐるところがある。「近世|詞《ことば》の延縮《のべちぢめ》と云ふ事あり。これも前條に同じ事にて同じくはノビチヂミと云ふべし。世々の人己れ私に詞をのべたりちぢめたりすべけんや。自づから伸びたり、縮みたりするなり。」(『ひとりごち』)十分の言ひ方だとは言へないが、言道の言はうと思つたことは、内容から自然に言葉のリズムも出て來るといふのであらう。それをさへ徹底させれば三十一音定型律は破られなければならぬ。言道の主張の全體は、もはやその方向に向つて進んでゐる。
 言道にも、歌作者としての習慣性に捕へられ、幾分誤つた考察に陷つたところがあつた。例へば彼はこれほど徹底して現實生活へ即したに拘らず、彼自身の歌作に於いてはその近體は近古何れへも亙ることとなつた。それは言葉の現實性に對する自覚の足らない仕方だと言はなければならぬ。然るに彼は、「近古の體うちまじりて出で來るぞ自づからなる」といひ、「いかさま同じ體にのみよみたき事なれど、自づからまじはるは近古に習ひたる故なり」と言つてそれを辯護さへしてゐる。それは全く正直に彼の實感を告白したものには相連ない。ただその言には幾分の反省が足りないのである。今でさへ言道と同じい誤謬を繰り返して言つてゐるものは歌作者の中に(89)少なくない。
 
      八
 
 私はこの論文の中で言道の藝術約作品、即ち短歌の價値をまで批評するつもりはなかつた。併し言道がその考察の中で言つてゐたことが、實際にその作品の上でどれだけ實現せられてゐたかを見るために、それだけの標準で、彼の作品を一瞥したい。
 大隈言道の歌境は、誰れの眼にもさう寫るであらうが、確かに斬新だ。そしていかにも寫實的だ。何れもリアリストである彼にふさはしい作品であつたと言へる。その詠ふ境地が清新だ。また日常生活的だ。それらのことはすべて彼の歌論そのものにふさはしいのである。併し私は彼の作品にもう一段の進みを希望してゐる。それは寫實の深さだ。彼れ程の革命を遂げた人にその註文は勿論無理である。併しまことの藝術を求めるものとしては、私は何處までもその希望を捨てたくない。言道の寫實はいかにも寫實に相違ない。しかしその寫實がどうも平面的なのである。わるく言へば皮一重なのだ。寫實は生命のフォオカスに於いてのものでなければらぬ。眞に動くものは平面ではなくて立體である。靜止する立體ではなくて連續する立體である。言道にはもう一段深い内面で捕へる寫實が欲しい。
 
(90)  やがてまた底あらはれてあぢきなし鼠もはめる米のしら櫃 (『草徑集』)
  うちはえてつねに成りぬる金おひめさてもうからぬ我心から (同上)
 
 これらの作品で見れば、言道の生活も相當に窮迫してゐたことがわかる。併しその生活の窮迫に對して彼は現實的にどれだけの力で反撥したであらうか。
 
  わが身こそ何とも思はねめこどものうしてふなべに憂き此世哉 (同上)
  何事もなすわざなくて長き日に日のありかをば幾度か見し (同上)
 
 これだけではどうも我々に物足りないのである。歌論の上ではあれだけ徹底した現實主義者であつた言道も、ここへ來るとやはり日本人常套の「あきらめ」の心境を持つことで滿足したらしい。我々は言道のもつと動く心が欲しかつた。併し「何事も」云々の歌は、言道の作品の中でも深い主觀味のある、既に幾分か近代人の悩みを持つたよい歌だと私は思ふ。
 私は最後に、彼の本領を最もよく發揮した二首の歌を紹介してこの一章の結びとしたい。
 
  老人は驚くばかり變る世も唯うち聞きて笑めるばかりぞ (同上)
  品高きことも願はず又の世はまた我身にぞなりて來なまし (同上)
 
 何といふ勇敢な現實主義者だ。かうなると彼のリアリズムも全く彼自身の性格の生むところだ(91)と言はなければならぬ。彼の現實感は餘りにも生活へ切實であつた。彼の現實主義はまことに彼の骨の髄へまで達して一點の空隙をも許さぬものであつた。私はオスカア・ワイルドの口吻を眞似、多少それをもぢつて言ふとすれば、次のやうに主張することも出來るであらう。現實の蔭には常に現實のみがある、現實は何等の仮面をもつけてはゐないと。言道は或る意味に於いて、徹底個人主義者であつた。彼が死に向ふまで現實の中で經驗した最高絶對の價値は、彼が彼自身であることであつた。―『學苑』(大正十五年八月稿)
 
 
 
(385)後篇 萬葉集の研究    
 
(387) 第一章 萬葉歌の文學的自覚と支那思想
 
    一
 
 『萬葉集』卷五は多くの漢文を含んでゐるから、當時我國の文化と支那の文化との間に如何なる關係があつたかを知る重要の資料であるが、その中の一篇「松浦河に遊ぶ序」は、殊に支那の小説をそのまま翻案模倣したものとして重視すべき材料であると私は考へてゐる。豫じめ分析の結論をいふならば、この序はその次に掲げられた短歌一首、「答ふる詩《うた》に曰く」一首、「蓬客等、更に贈れる歌」三首、「娘子等、更に報ふる歌」三首、「後人の追和の謌」三首を併せてすべて同一人の作品であり、全部を併せて一篇の作品をなすものである。そしてこの作者は大伴旅人だ。全篇は當時恐らくなほ生存してゐた唐の傳奇小説家張文成の『遊仙窟』を、そのままに翻案模倣したものであつた。この一篇は從來は萬葉中の傳説文學として取扱はれて來たが、右の如くその(388)翻案の原作が知られた限りは、最早傳説文學といはるべきでなく、純粹の小説である。しかもこれは我國に於いて最初に現はれた小説なのだ。私は次にそのことを詳しく證明して行つて、更にその事實を基礎としつつ日支兩文化交渉の問題を考察して見たい。
 序文から「後人の追和の謌」三首までを併せて一筋の小説であると見る理由は後に述べる。故人の作品として明らかなものは「後人の追和の謌」三首だけであつて、この三首の下には「帥老」といふ記入がある。(註一)帥老は大伴旅人であるからこの三首が旅人の作であることには疑ひがないけれども、それに先立つ歌八首と序文とには作者名がないから何人の作であるか明らかでなく、この序文の作者に就いての考證が從來は一つの仕事とせられてゐた。併しその考證がなされなければならなかつた所以は、これら全部を併せて一篇の作品と考へなかつたためであつて、これを一篇の作品と見れば序や他の歌に一々作者名を記さなかつたのは當然のことである。この序の作者はかつては山上憶良であると考へられたが、憶良ではなくて旅人であると證明したのは契沖であり、私はその證明に於ける契沖のいつもの眼識に深く敬服すると同時に、その證明の結果が別の見方から進んだ私の今の結論とも一致することを大いなる悦びとしなければならない。契沖の證明は彼の眼識を證據立てるためには重要の資料であるが、今は必要でないから省略する。
 (註一) 「帥老」の記入は『類聚古集』による。
 「松浦河に遊ぶ序」(原漢文)の全文を掲げると次の如くである。
 
(389)  「余暫く松浦の縣に往きて逍遙し、聊か玉島の潭に臨みて遊覧す。忽ち魚を釣る女子等に値《あ》へり。花容雙び無く、光儀匹無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に發《ひら》く。意氣雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕問ひけらく、誰が郷誰が家の兒等ぞ、若し疑ふらくは神仙といふ者乎。娘等皆|咲《ゑ》みて答へけらく、兒等は漁夫の舍《いへ》の兒、草庵の微しきもの、郷も無く家も無し。何ぞ稱《な》り云ふに足らむ。唯性水に便り、復《また》心山を樂しぶ。或は洛浦に臨みて徒に王魚を羨み、乍ち巫峡に臥して以て空しく烟霞を望む。今|邂逅《わくらば》に貴客に相遇ひ、感應に勝へずして、輙ち款曲を陳ぶ。而今而後《いまよりのち》豈偕老ならざる可けむや。下官對へて曰く、唯唯《をを》、敬《つつし》みて芳命を奉《うけたまは》ると。時に日山の西に落ち、※[馬+麗]馬將に去らむとす。遂に懷抱を申べ、因りて詠歌を贈りて曰く、」(應答短歌省略)
 
 この全文に使用せられた熟語の出典を綿密に考證したものは契沖である。彼は國文學に精通するだけではなく漢文學に就いても類例の乏しい蘊蓄と見識とを持つてゐたから、その出典を考證することが出來たが、その後の萬葉學者は契沖ほどの漢文學の素養を持たず、註釋に於いてはただ契沖の成績を繼承するだけであつた。契沖も右の文中の「下官對へて曰く」の「下官」といふ語に就いては、『遊仙窟』にこの語あることを言つてゐるに拘らず、全文の構想と熟語とが『遊仙窟』に據つたものであることを斷言しなかつたのは何故であらうか。或は氣附いてゐたにして(390)も契沖にして見れば餘りに分かりきつたことであるから特にそのことを記さなかつたのであらうか。
 『遊仙窟』が旅人等に讀まれたに相違ないことは、同時に同一の地の九州に任に就いてゐた憶良の文中、「遊仙窟に曰く、九泉の下の人は、一錢にだに直《あた》ひせず」とあることによつて明瞭である。(この文は『遊仙窟』には「少府謂つて曰く、兒は是れ九泉の下の人、明日外處に在つて談道せん兒は一錢にだに値ひせず」とあつて、憶良の使用する場處に適切のものではないし、意味も多少違つてゐる。憶良らがかうした漢文を引用する時には、大分の程度までペダンティックのものであつたことはこれでも分かる。)憶良の文は、天平五年に作られたものであらうから、「松浦河に遊ぶ序」が天平二年に作られたと時も場所も殆ど同一なのだ。『遊仙窟』は前にも言つた如く、初唐の傳奇小説家張文成の創作したものであり、話の筋は文成の青年時、使を河源に奉じて道中の一夜大宅に投じ、十娘五娘の二人の美女に逢つたといふ自敍風のものである。文成その旅途の一日深い谷に入つて日は晩れ馬は疲れた。直下すれば碧潭の千仞がある。古老は傳へてその地を神仙の窟となし、つねに香菓瓊枝が流れて來るといつてゐる。文成更に進むこと三日にして一女の水側に衣を洗ふに逢つた。強ひて女に願つてその家に宿泊を乞ひ、その家の主人の何人であるかを問うて崔女郎の家であることを知つた。文成その夜この女を介して崔女郎に詩を贈り、綿々の意を述べる。初めは強く拒絶せられたが、後遂に招かれて女郎に逢ひ、その夜宴飲(391)歡笑、幸福の極にいたつた。この家に二人の妙齢の美婦があり、共に早く寡婦となつてこの地に隱棲してゐるのである。一を十娘と呼び、他はその嫂であつて五娘と呼ぶ。何れも絶世の美女であるが、その宴飲の席に於ける贈答の詩は奇智縱横のものであり、その場の濃艶なる描寫と共に讀者を魅し去るに十分である。文成はその夜十娘と契りを結ぶ。すでに曉に到り、文成と美女とは別離の悲愁に勝へないが、強ひて袂を別つて文成はその道を進め、轉々苦悩の情を述べるところでこの作は終つてゐる。今この大意を先きの「松浦河に遊ぶ序」の構想と比較して見るに、讀者は餘りにもよく兩者の類似することに驚かれたであらう。この對照によつて旅人の序の構想が文成のそれに據つたことは疑はれないが、更にその使用した熟語を彼此比較して見ると、この推定は最早一點疑問の餘地のない事實となるのである。次にその用語の比較を試みよう。
 
     二
 
 序には「聊か玉島の潭に臨みて遊覧す。忽ち魚を釣る女子等に値へり」とあるが、窟ではやはり場所はさうした深谷の地となつてゐる。「直下すれば則ち碧潭千仞あり」とある。序に魚を釣る女は窟では「一女子水側に向つて衣を浣《あら》ふを見る」となつてゐる。その女子の美なることを形容しては「花容雙び無く、光儀匹無し」とあるが、窟の方では衣を浣ふ女は家の主人ではなくて(392)その外に五娘十娘があり、構想は多少複雜である。「光儀」といふ語は萬葉には到るところに使用せられた。例へば、「吾が屋戸の秋の花咲く夕影に今も見てしか妹が光儀《すがた》を」とある。窟には「若し其の光儀を見るを得ば」とあるし、また「華容婀娜、天上儔無く、玉體逶※[しんにょう+施の旁]、人間|疋《たぐひ》少なし」とある。旅人はこれに依つたものであらう。「柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に發く」と序にある典據として、契沖が『文鏡秘府論』引用するところの詩「桃花の頬に似るを訝かり、柳葉の眉の如きを笑ふ」を擧げたのは流石に契沖の博識を示したものであるが、この原詩は當時我國にも傳へられてゐたものであらうか。併しこの詩を引くまでもなく、窟には「眉上冬天柳を出だし、頬中旱地蓮を生ず」とあるし、また「翠柳眉の色を開き、紅桃※[月+僉]の新たなるを亂る」とある。旅人はこれを基礎としてその辭句を得たものであらうと思ふ。
 「意氣雲を凌ぎ、風流世に絶えたり」の「風流」といふ語が萬葉中に「みやび」と讀まれてひろく使はれてゐることは何人もの知るところである。窟にも「風流を歴訪す」と使はれてゐる。「僕問ひけらく」は窟に、「僕因つて詠じて曰く」とある。窟の文章は文成自身の自敍體風のものであることを既に述べたところであるが、序も亦同樣に自敍體風のものであり、第一人稱的には共に「僕」又は「余」といふ語を使ひ、體人的には「下官」といつてゐるのである。序に「誰が郷誰が家の兒等ぞ、若し疑ふらくは神仙といふ者乎」とあるのは、窟には「余問うて曰く、此れ誰れが家舍なるや」「此は是れ神仙の窟也」とある。また次に娘等が答へて、「兒等は漁夫の(393)舍の兒、草庵の微しきもの、郷も無く家も無し。何ぞ稱り云ふに足らむ」といつてゐるところは、窟には「女子答へて曰く、兒家堂舍賤陋にして供給單疎なり」とあり、また「室宇荒涼、家途翦弊」とある。併しその名や身分を尋ね合ふ時には、『遊仙窟』では文成も五娘十娘もながながと身の出所のよいことを語りその祖先の功名話などをするが、「松浦河に遊ぶ序」の方では、女子はその身の出所を秘して語るところなく、贈答の歌の最初のものでは、旅人は「漁《あさり》する海人《あま》の兒等《こども》と人はいへど見るに知らえぬ良人《うまびと》の子」といひ、女子は「玉島のこの川上に家はあれど君を耻《やさ》しみ顯《あら》はさずありき」といつてゐるのは、彼我その人情の差違を見るべきであらう。我國では、萬葉卷頭の雄略天皇の御製を見ても、天皇の問ひに答へて女子がその名を名乘つた歌は載せられてゐないし、また神武天皇が七人の嬢子に逢ふ御製に對しても、嬢子がその名や身分を答へた歌はない。さうしたところに我國の女子の慎しみ深さがあらはれてゐる。然るに支那の人情としては、その出身の高貴なることを誇示するのが常の態度であつた。
 「唯性水に便り、復心水を樂しぶ」と序にあるは、『論語』に「智者は水を樂しみ、仁者は山を樂しむ」とあるに據つたのだが、この語は當時大いに悦ばれたものと見えて、『懷風藻』に幾度となく現はれてゐるが、この序にも亦使用せられたのである。「或は洛浦に臨みて徒に王魚を羨み、乍ち巫峡に臥して以て空しく烟霞を望む」は、これ亦當時屡々引用せられた故事であつて、窟にも「洛川の廻雪も亦衣裳を畳ましむるに堪へ、巫峡の仙雲も未だ敢へて※[革+華]履をフげずんばあ(394)らず」とある。
 序に、「今邂逅に賓客に相遇ふ」とあるは、契沖の指摘した如く『毛詩』鄭風の「邂逅に相遇ふ。我が願ひに適へり」を引いたものだが、窟にも、「暫く公使に縁つて邂逅に相遇ふ」とあるから、恐らくそれを借りたのであらう。「下官對へて曰く、唯々、敬みて芳命を奉《うけたまは》る」と序にある中の「下官」は、契沖も氣付いた如く窟の使用する言葉であるが、この部分は窟の「下官答へて曰く、既に恩命を奉《うけたまは》る。敢へて辭遜せず」に依つたことは疑へない。「時に日山の西に落ち、※[馬+麗]馬將に去らんとす」といふ序の文は、窟の「日晩れ途遥かにして、馬疾れ人乏し」や「時に日西淵に落つ」を豫想して書いたものと見られる。
 
     三
 
 以上私はやや詳密に序と窟との文章を比較したが、その理由はひとへにかくすることにより、序がどの程度まで深か入りして窟の構想や文章を模倣したかを明らかにすることが出來ると考へたからである。この比較により、旅人のこの一文がその構想と文章のすべてに於いて、意識的に『遊仙窟』を模したことは否定せられ得ない。尤もかうした模倣は、支那のものを原本とする場合にだけ行はれたのではない。日本の長短歌に就いてもそのことは言へるのであつて、人麿の長(395)歌などは萬葉の末期に頻繁に模作せられてゐる。家持などはこの種の模作を幾つとなく書いた。例へばその「史生尾張|少咋《をくひ》を教へ喩す歌」は、憶良の「感情を反さしむる歌」を模作したものであつた。かうした時代であつたから、當時の優越した文化を持つ支那の文藝的作品を模作するは、餘りにも當然の經過であつたのだ。『遊仙窟』の中には甚だ巧妙な贈答の詩が記載せられてゐる。それ故に旅人は先づこの贈答詩の模寫をなしたかつたのである。『遊仙窟』中のすべての詩が實は張文成の創作であると同じく、この「松浦河に遊ぶ序」に連なつた一聯の短歌は、すべて旅人の創作である。そしてこの漢文序から「後人の追和の詩」までを合せたものが、實は一篇の作品を構成するのであつた。この説話には何等かの材料が存在したものであるかと考へて見るに、現に傳へられた文獻の示す限りのものではこの説話の原資料は發見せられないやうである。紀記共に松浦玉島の潭のことを記載し、その國の女人四月上旬に於いて鈎を河中に投じ年魚を捕へることの習俗と來由とを書いてはゐるが、それ以上には何の記載もない。思ふに旅人の資材としたものも僅かにそれだけの傳説であつたらう。これを松浦の玉潭に仙媛の贈答する説話としたのは、全く旅人の創作的想像の力であつた。それ故にこの一篇を傳説歌の中へ含めるのは正しい見方でなく、この一篇に於いて我々は我國の小説文學の最も古い一例を見得たといはなければならない。序の説話者を「余」「僕」或は「下官」としたのは『遊仙窟』をそのまま模したのであつて、旅人が實際かうした女子等に逢つたのではない。恐らく彼は、松浦河に遊び、年魚を釣る女子等を(396)見、神功皇后の古傳説を聞き、ここに張文成の小説を念頭に想起しつつ空想を走らせてこの一篇の小説を習作し、吉田連宜に贈つたものであらう。旅人の九州に於ける生活は寂寞と荒涼とを極めたものであつた。彼のやうな文化人は、何等かの方法を以て自らの生活を藝術化しないではゐられなかつたのだ。松浦仙媛の想像は、その生活の中から生れたものであつた。
 『遊仙窟』はかくの如く明らかに萬葉時代人の上に影響を與へてゐるが、この事實を基礎として當時の支那の小説や詩と萬葉とを比較して見れば、その影響は非常に濃密のものだといふことが分かる。「※[立心偏+可]怜」「光儀」など、窟に用ひられた語が萬葉の中に使用せられてゐることに就いては、改めて記す必要がない。萬葉時代人は女の細腰を美人の一條件としてゐるが、それも日本在來の標準ではなくて支那輸入のものらしい。『萬葉集』卷九の「上總の末の珠名娘子を詠める歌」には「周淮《すゑ》の珠名は、胸別《むなわけ》の廣き吾妹《わぎも》、腰細《こしぼそ》の※[虫+果]羸娘子《すがるをとめ》の、その姿《かほ》の端正《いつく》しけきに」と書いてゐる。併し窟は十娘の美態を形容しては「細々たる腰支は、參差として勒《いだ》かば斷へなんかを疑ふ」と書いてゐるし、『懷風藻』の左大史荊助仁の詩は「腰は楚王の細を逐ふ」と書いて、楚王の細腰を愛した『後漢書』の故事を引いてゐる。これを「すがる娘子《をとめ》」と言つたのは修辭的の妙を發揮したものであるが、『萬葉集』卷十六の竹取の翁の歌の中にも「飛び翔《かけ》るすがるの如き、腰細に取りかざらひ」とあつて、共にかくの如き漢文學趣味の多く發揮せられた傳説歌に使用せられてゐることに我々は注意すべきであらう。概して『萬葉集』中の傳説歌には支那の神仙趣味(397)の影響多く、神仙趣味がなければ恐らくは傳説歌なるものも創作せられなかつたであらうと思ふ。隨つてその種の歌には支那的修辭が多い。細腰を美女の一標準とすることは支那の影響であつて、我國在來のものでなかつたかも知れない。埴輪と初期の佛像彫刻とを比較してもその差違は著しく認められる。
 萬葉中には、眉根のかゆいのは思ふ人に逢ふ豫兆だとする習俗が、幾度となく謠はれてゐる。「暇無《いとまな》く人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも」――「眉根掻き嚔《はな》ひ紐解け待つらむや何時《いつ》かも見むと念ふ我が君」――「眉根掻き下《した》いぶかしみ思へるにいにしへ人を相見つるかも」――「いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめにつつ逢はぬ人かも」――などその例は甚だ多い。然るに『遊仙窟』にも「下官曰く、昨夜限皮※[目+閏]し、今朝好人を見る」と書いてあつて、支那にも略んど類似の習俗のあつたことが分るのである。萬葉歌人は支那のこの習俗を取つたのではないか。尤もかうした習俗は世界のいたるところで獨立に發生し易い性質のものであるから、我國にもその習俗がなかつたとは斷言出來ないが、殊に萬葉末期の歌人が頻りにこの習俗を文學に書いたのは支那文學を讀んでの影響ではなかつたか。また窟には「今宵戸を閉ざす莫れ。夢裏|渠《きみ》が邊に向はん」とあるが、これと同想の歌がまた萬葉末期の歌に多い。私はそこにも兩者の關係を考へないではゐられない。窟の中には甚だ奇智に富んだ贈答詩のあることを私は幾度も述べたが、例へば十娘と文成と圍碁を闘はすところの應答歌などは、その應酬と含意の巧妙なる、何(398)人も思はず微笑しなければならぬものである。その詩の一つに「娘子|性《ひと》と爲り圍碁を好む。人に逢へば剰《すなは》ち戯るるも尋思せず」といつてあるのは、「圍碁」を「違期」に通ぜしめたのであつて、その遊戯的であり、頻りに違期することをいつたのである。然るに萬葉末期に多い詩想の一つに、「後《ゆり》」を「百合《ゆり》」に通はせたのがある。この詩想は窟の「違期」から來たのではあるまいか。例へば卷八の「吾妹子《わぎもこ》が家の垣内《かきつ》の小百合花《さゆりばな》後《ゆり》といへるは不欲《いな》とふに似る」は窟の中の前引用の詩と全く同想のものではないか。窟を讀んだ萬葉時代の文化人が、この書に於けるやうな奇智縱横の戀愛贈答歌を詠じたくなつて想を得たのが、この「後《ゆり》」−「百合」−と「圍碁」−「違期」の對照ではなかつたか。「路の邊《べ》の草深百合《くさふかゆり》の後にとふ妹がいのちを我知らめやも」は民謠調の歌であるから、既にこの發想は民謠の中にあつたとも想像せられるが、それにしてもこの發想を民謠の中から拾ひ上げて一般に弘布せしめた趣味は、やはり支那文學の影響を受けた後のものと考へて不當でなからう。萬葉にはなほ「燈火《ともしび》の光に見ゆるさ百合花《ゆりばな》後《ゆり》も逢はむと思ひそめてき」−「さ百合花《ゆりばな》後《ゆり》も逢はむと下延《したは》ふる心しなくば今日も經めやも」など「後逢ふ」の意に使はれて「不欲《いな》」といふ遊戯的の意味に使はれてゐない歌がある。
 
      四
 
(399) 私は今『遊仙窟』を主として取り、一篇全然それを模作した旅人の「松浦河に遊ぶ序」を解剖し、更に萬葉の他の歌をこれに對比せしめて解剖した。蓋し支那文學の影響の歴然として否定出來ないものを第一の基礎として擧げ、更にその諭を進めようと思つたからである。旅人のこの一文は天平二年(七三〇年)四月か或はそれ以前に創作せられたものと見える。然る時には、天平時代の初期には既に支那文學の影響を濃厚に受けた文學が存在してゐたことになる。張文成は約六六〇年より七四〇年に生きてゐたものとすれば、旅人のこの序のつくられた時は勿論文成のまだ生存してゐた時であり、この時代に於ける我國の新文化吸收力がいかに旺盛のものであつたかを知ることが出來る。奈良遷都は紀元七一〇年であるから、旅人の右の歌より二三十年を遡れば最早藤原京時代となる。私はこの藤原京時代に生きてゐた歌人達の歌にも、依然として多くの支那的影響を見ないでゐられない。人麿の作品は、保守的な、我國本來の文藝的要求を力強く表現したものの如くに言はれてゐるけれども、私はその上にさへ濃密に支那的影響を認めようとする。要するに、私が幾度も主張して來た如く、天武持統朝頃の我國歌人の目ざましい興隆は、言はば歌謠の中より文學の獨立する自覚の結果であつて、この自覚は支那の強い影響により生じたものである。
 支那文學が我國に於いて大いに興隆し他の文學を風靡したのは、平安朝の初期であつた。併しそれ以前に一度漢文學の黄金時代が存在したのである。それは天智天皇の時代であつた。このこ(400)とを明らかに記録しでゐるのは『懷風藻』の編者である。「淡海先帝の受命に至るに及び、帝業を恢開し、皇猷を弘闡して、道乾坤に格り、功宇宙に光《あきら》かなり。既にしておもへらく、風を調へ俗を化するは文より尚《たつと》きはなく、徳を潤ほし身を光《て》らすこと孰れか學より先ならん。ここに則ち庠序を建て茂才を徴し、五禮を定め百度を興す。憲章法則規模弘遠、夐古以來未だこれ有らず。」以て當時に於ける文物の隆昌を察知することが出來よう。「是に於いて三階平煥四海殷昌、旒※[糸+廣]無爲、巌廊暇多し。旋《また》文學の士を招いて時に置醴の遊を開く。この際に當つて宸翰文を垂れ、賢臣頌を獻ず。雕章麗筆唯百篇に非ず。」この僅かの期間に、詩文學の世に殘すを得るものの創作せられる數は餘程多かつたのだ。この時代の作品に傑作も多かつたに相違ないといふことは、弘文天皇の御製が『懷風藻』中群を拔いて立派であることによつて察知せられる。若しその世運がそのままに續いたとすれば、それ以後我國には漢文學の風靡時代が來たであらう。併しこれだけ一時に隆昌を來した漢文學は、何等かの強い刺戟を我國の文學の上に與へなかつた筈はない。天智弘文兩帝につぐ天武持統諸帝の時代は、世運としては一度保守的となり舊勢力を復活せしめたやうに見えつつ、その實質としては甚だ堅實に、建設的に、支那の新文化を吸收同化した時であつた。そのことは法制その他の文化の諸相の上に見えてゐた。我國の長短歌が歌謠から脱出して文學として自律し、漢文學に對抗しての一分野を確立しつつも、その内容に於いては著しく漢文學を吸收同化したことは、時代として當然の經過であつたらう。人麿が活動したのはこの時代で(401)ある。『懷風藻』の編者は語る。「但だ時亂離を經て悉く※[火+畏]燼に從ふ。言に湮滅を念ひ、軫悼懷を傷る。これより以降、詞人間〔日が月〕出す」と。この「亂離」とは、壬申の亂である。この亂が從來の漢文學を粉碎したことはこれによつて知られる。暫時の間漢詩文は間〔日が月〕出するに過ぎなかつたが、その漢装を和装に變じたと思へる略々同内容の歌文學は、一時に隆昌を極めることとなつた。
 
     五
 
 人麿の長短歌がどうした點で支那的要素を含んでゐたかを、私は次に解剖して見よう。
 萬葉歌人は七夕を詩材として、多くの美しい歌を殘した。七夕の如きは勿論支那思想の輸入せられたものであるが、天平時代になるとこれを詩材に取つた歌は殊に多いのである。然るに卷十の「天の河安の川原に定まりて神競《こころくらべ》は時待たなくに」――の歌には「この歌一首は庚辰の年之を作れり。右、柿本人麿の歌集に出づ」と註記せられてゐる。柿本人麿の歌集に出づと書かれてゐる歌は萬葉の中に數多いが、そのすべてが人麿の作であるかどうかは疑問であらう。人麿は當時の民謠などを筆録してゐたかも知れないし、またこの人麿歌集なるものが實際に人麿の筆録したものであつたか、どういふ順序で『萬葉集』編者の手に入つたものであるか、またこの註記はずつと後に『萬葉集』に附記せられたものか、すべて知るよしの無いことであるが、私は歌から判(402)斷して、人麿歌集に出てゐるといふ歌の中には人麿自身の作でないものが含められてゐるやうに思つてゐる。何れにせよ七夕の歌が人麿歌集の中に書かれてゐるのは面白いことだと思ふ。人麿自身の作であれば言ふまでもないし、人麿が興味を感じて筆録しておいた歌であつたにしても、人麿がかうした歌に關心を持つたとは言へる。庚辰の年の作であるとはどういふ處から確かめられたものであるか知らないが、天武天皇八年(六八〇年)の作であるといふのであらうか。人麿歌集に出てゐる歌として卷七には、「天《あめ》の海に雲の波立ち月の船星の林に榜《こ》ぎ隱る見ゆ」の一首があり注意すべきものだ。敍景は繊細な感覚と想像とを以てなり、月船星林など、どう考へても日本在來の藝術的表現ではない。大體に於いて星が詩歌に謠はれることは我國では珍らしく、日本文學全體を通じて星の文學は發達しなかつた。雲と月とは幾度も詠ぜられたが、それとて天空自身の統一せられた美として詠ぜられたのではない。この歌では雲と月と星との交錯する舞臺としての天空が着眼せられてゐる。萬葉人はそれ程雄大な感じを持つてゐたといへばそれまでであるけれども、この歌は景は大きいが感じは人工的に繊細であつて大まかなものではない。雲の波、月の船、星の林などと文人風の言語遊戯が強く働らいてゐる。私はかうした歌も支那文學の影響を受けたものであると考へるのである。この歌の類歌は卷十に「天《あめ》の海に月の船浮け桂梶かけて榜《こ》ぐ見ゆ月人|壯子《をとこ》」となつてゐるが、この歌になれば純然たる支那趣味のものである。人麿歌集のそれを模した作であるとすれば、原作が支那風に見られたことは、この模作によつて察知せら(403)れよう。「ひさかたの天《あめ》行く月を網に刺しわが大王《おほきみ》は蓋《きぬがさ》にせり」――この歌は人麿の作中でも有名のものであるが、かく天空を詩材としたものは、前二首の歌と同じく支那趣味のものでないかと思ふ。ここに月を蓋にする詩想はやはり天蓋といふことから得られたものであらう。天平二年旅人の家に集まつての梅花の歌の序には「ここに天を蓋《きぬがさ》にし、地を座《しきゐ》にし」の語が見える。天蓋を豫想しなければこの歌の面白昧はなくなつてしまふ。また「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行方知らずも」――も人麿の歌として有名のものであるが、この歌の底には逝く水止まらずといふことの詩想が潛むに相違ない。天平三年旅人の死を悼む歌の後書には(卷三)「醫藥驗無く、逝く水留まらず」の語があるし、家持の「世間の無常を悲しむ歌」(卷十九)の中には、「吹く風の見えぬが如く、逝く水の止まらぬごとく、常もなく移ろふ見れば」の語がある。『懷風藻』の藤原朝臣萬里の詩にも「逝く水留まり難し」と使はれてゐる。
 人麿の使つた美しい修辭句には、支那のそれの影響だと思はれるものがかなりに多い。有名な「近江の荒都を過ぎる時」の歌には、「天離《あまざか》る夷《ひな》にはあれど、石走《いはばし》る淡海《あふみ》の國の、さざなみの大津の宮に、天の下知ろしめしけむ、天皇《すめらぎ》の神《かみ》の尊《みこと》の、大宮は此處と聞けども、大殿《おほとの》は此處と言へども、春草の茂く生ひたる〔九字傍点〕、霞立つ春日の霧れる〔九字傍点〕、百磯城《ももしき》の大宮處《おほみやどころ》、見れば悲しも」とあつて、重要な修辭法が見えるのである。「天智天皇の舊都は此處であると聞くが、今はその跡もなく荒れてゐる〔十三字傍点〕。この舊都を見ることは悲しい」といふ場合の直接的敍事句は、流麗な敍景句によつて(404)置き換へられてゐる。かく意を景によつて象徴的に表現する仕方は、紀記歌謠には絶對に見られないことであつた。文學的にはこの表現はよほど程度の進んだものである。人麿は傳説的の日本文學からこの表現を發展せしめたのではないし、また彼の天才を以て獨創的にその表現法を發見したのでもあるまい。何故なれば、この表現法こそは、當時の漢詩として何等珍らしいものではなかつたからである。かうした題の詩であれば、寧ろかうした敍景句の這入るのが詩作の一つの法則でさへあつた。例へば次に曹植の一詩を擧げる。
 
  高臺多悲風〔五字傍点〕  朝日照北林〔五字傍点〕  之子在萬里  江湖廻且深
  方舟安可極  離思故難任  孤雁飛南遊〔五字傍点〕  過庭長哀吟
  翹思慕遠人 願欲託遺音  形影忽不見〔五字右○〕  翩翩傷我心〔五字右○〕
 
 この詩は徐謙なども「起調高絶」と評してゐるやうに、(同氏著『詩詞學』一二四頁)想と景と交錯して立派な詩であるが、既に古く鍾※[山+榮]の『詩品』の中でも「骨氣奇高、詩彩華茂、情兼雅怨、體被文質」といつて推奨せられてゐる。『詩品』の文學論は私がかつて論じた如く「古今集序」の原本となつたものであるが、萬葉人が範として取つた漢詩は、『詩品』などの主張する文學論を含んでゐたものである。鍾※[山+榮]は曹植の詩の「高臺多悲風」といふやうな句を推奨して、ただこれ即目所見の詩であるといひ、古今の勝語は多く補假せず、皆な直尋に由るといつてゐる。右の(405)曹植の詩に於ける結びは「形影忽不見、翩翩傷我心」であるが、人麿の長歌のそれに匹敵する結びは「百磯城の大宮處、見れば悲しも」である。そしてこれに先立つ部分に即目所見の景を以て情を述べる美句の存在することは兩者全く同一である。『懷風藻』の中の詩でも、略々同一の境地をうたつた詩はやはり次の如き表現を持つてゐる。
 
  日月荏苒去  慈範獨依依  寂莫精禅處  俄爲積草※[土+犀]
  古樹三秋落〔五字傍点〕  寒草九月衰〔五字傍点〕  唯餘兩楊樹〔五字傍点〕  孝鳥朝夕悲〔五字傍点〕
 
 この詩は比叡山の先考の舊禅處に殘る柳樹を詠じた藤江守の詩に和した麻田連陽春の作であるが、「唯だ餘ます兩楊樹、孝鳥朝夕悲し」は結びであつて、それに先立つ部分に、「古樹三秋落、寒草九月衰」といふ即目所見の敍景句があり、景によつて情をのべてゐる。
 
    六
 
 詩歌の表現法に於いて右の如く人麿は從來の歌謠になかつた新らしい樣式を創始したが、詩歌そのものの構成に於いても彼は漢詩のそれを模して全く新らしいものをはじめた。
 人麿の歌には「吉野宮に幸せる時作れる歌」といふ風の形式のものが多い。然るにそれと同一(406)の詩題は『懷風藻』にも見え、凡そ『懷風藻』中大部分の詩はかうした遊宴の興を助けるためのものになつてゐた。藻の編者が「旋文學の士を招いて、時に置醴の遊を開く。此の際に當つて宸翰文を垂れ、賢臣頌を獻ず」と書いたのはそれであつた。人麿の歌は漢詩ではなくて長短歌であるが、依然として置醴の遊に頌を獻ずるためのものが多かつたのである。人麿は天智帝漢詩奨勵の直後に活動した歌人であり、しかもその取つて歌ふべき題材は宴遊獻頌のためのものであつたとすれば、その長歌の構成に漢詩のそれを取り來ることは當然の經過であるといへよう。私は先づ當時の漢詩がいかなる構成を持つてゐたかを見て行かう。例を『懷風藻』に取る。
 
   五言晩秋於長王宅宴
  冉冉秋云暮  瓢瓢葉已涼  西園開曲席  東閣引珪璋
  水底遊鱗戯  巖前菊氣芳  君候愛客日  霞色泛鸞觴
 
 この詩は唐の五律の正法に合した詩であるといふ。その構造を見ると、「冉冉として秋ここに暮れ、瓢瓢として葉已でに涼し」といつて先づその時の一般的時節を敍し、次に「西園曲席を開き、東閣珪璋を引く」といつて招宴の事を敍し、三轉して「水底遊鱗戯れ、巌前菊氣芳し」といひ即目所見の景を寫し、最後に「君侯愛客の日、霞色鸞觴に泛ぶ」といつて再び招宴のことに歸り、長王を讚頌しつつ詩想を結んでゐる。この構成はどの詩に就いても見られるものであり、當(407)時既に我國の漢詩人が、詩のこの構成法を會得してゐたことが分るのである。然るに人麿の吉野宮に幸せる時の歌を見ると次のやうになつてゐる。
 
   やすみしし 吾大王《わがおほきみ》の 聞《き》こし食《め》す 天の下に 國はしも 多《さは》にあれども 山川の 清き河内《かうち》と 御心《みこころ》を 吉野《よしぬ》の國の 花|散《ち》らふ 秋津の野邊《ぬべ》に 宮柱 太敷《ふとし》きませば 百磯城《ももしき》の 大宮人は 船竝《ふねな》めて 朝川渡り 船競《ふなぎほ》ひ 夕川わたる この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水|激《はし》る 瀧《たき》の宮處《みやこ》は 見れど飽かぬかも。
 
 この詩の構成を仔細に見て行くがよい。私はそこに唐の五言詩の正法がそのままに守まれてゐるのを見るのである。先づ「やすみしし吾大王」と序から始まつて「花散らふ秋津の野邊に」と敍景的となり、幸遊の一般的序言が成り立ち、次に抽象的に「宮柱太敷きませば」と幸遊のことを述べ、直ちに轉じて即目所見の敍景となり、「百磯城の大宮人は、船竝めて朝川渡り、舟競ひ夕川わたる」と寫した。さて最後に「この川の絶ゆることなく、この山のいや高知らす、水激る瀧の宮處は、見れど飽かぬかも」といつて再び幸遊のことにかへり、天皇への頌辭を述べて終るのである。この構成は決して偶然のものではないし、また人麿の天才が單獨にそれを創始したものでもなかつた。人麿の長歌は、それ以前のものに較べて全く隔時代的に構成の整頓したものになつてゐる。單に所思を直接に發表して已むといふものではなしに、文學的に端正な反省を持つ(408)てゐる。敍事の重厚と敍景の躍動と、相俟つて詩を完成した形態のものになしてゐる。人麿の長歌が文學として成功した第一の原因は、全くこの構成の整備にあつたのだ。私は彼のこの構成法を漢詩のそれから取つたものだと考へてゐる。併し彼はまた他方で我國在來の文學的構成法をも取つてゐた。それは祝詞に見られる特有の構成法である。祝詞では先きに神々の來由を長々と敍するのが常である。これは祝詞の序ではなくて、それあるが故に神々の元を露はし、祝詞の意義を發揮することの出來るものであつた。(本全集、第十二卷『日本精神史』第三章參照)次に種々の奉獻物を敍し、最後に祟りをやめ幸福を施すことの祈願を述べて祝詞は終る。第一段と第二段との中間に所願の意を述べられてゐる場合もあるが、概ぬは省略せられる。人麿は祝詞のこの構成法をも取り、漢詩に於ける第一段の一般的敍景を、祝詞に於ける神々の來由を語る第一段を以て置き換へることが多かつた。即ち彼は祝詞の第一段を、序の意味のものとして取り來つたのである。今祝詞と漢詩の構成を對照して見ると次のやうになる。
 
       祝   詞       漢   詩
 第一段  神話的敍説       一般的季節
 第二段  祈願の要旨〔五字□で圍む〕 事件の敍事
 夢三段  奉幣物の直寫      即目の敍景
(409) 第四段  祈願の結び   敍事的結び
 
 前述の如く、人麿はこの第一段の構成に就き、漢詩のそれに祝詞のそれを置き換へた點で、新らしい樣式をはじめたのである。また第二段の事件の敍事にあたる部分も簡單のものの多いのは、祝詞の場合にはこの第二段の省略せられることの多いことから來た影響であつた。かくして人麿は、支那の詩の構成樣式を我國在來の祝詞のそれと結合し、我國の長短歌に新らしい文學的自覚を與へることが出來たのである。
 人麿の使つた言葉にも、漢字の修辭から思ひついたと考へられるものが多い。「夕浪千鳥」といふ名句などはそれである。これに就いても述べなければならぬことは多いが、今は省略する。
 
      七
 
 人麿の歌以外のものにも支那思想を含むものは甚だ多い。旅人や憶良の歌に現はれた支那思想は、從來も屡々言はれて來たことであるから、改めて此處には敍説しない。傳説歌に現はれた神仙思想、その他多くの歌に現はれた老荘思想などに就いても敍説する必要はない。今は簡單に『萬葉歌』の藝術的表現の方面に於ける支那思想の影響を見て行きたい。この方面は從來多く學(410)者の注意にのぼされてゐなかつたからである。
 「何處《いづく》にか船泊《ふなはて》すらむ安禮《あれ》の崎《さき》こぎ囘《た》み行きし棚無小舟《たななしなぶね》」(卷一)――高市連黒人のこの歌は漢詩に多い詩想を取つたものであらう。在來の長短歌にはかうした想は見られなかつた。「槻無小舟」も人麿の「夕浪千鳥」と同じく、漢語風に使つた巧妙な造語である。萬葉全體にかうした巧みな漢語風の造語が多い。「さざなみの志賀の辛崎《からさき》幸《さき》くあれど大宮人《おほみやびと》の船待ちかねつ」(卷一)――これもまた漢詩に多い詩想である。赤人にも即目所見の敍景的直寫の部分に絶唱が多いが、「明日香《あすか》の舊《ふる》き京都《みやこ》は、山高み河遠白し〔七字傍点〕」など全然漢詩の趣好であり、「奥津城を此處とは聞けど、眞木の葉や茂りたるらむ〔十一字傍点〕、松が根や遠く久しき〔九字傍点〕」(卷三)は人麿の近江舊都の歌と同型の漢詩調なるものである。市原王が父安貴王を祷《ほ》ぎまつる御歌――「春草は後は散り易し〔九字傍点〕巌《いはほ》なす常磐にいませ貴き我君」(卷六)や、大伴坂上郎女の親族と宴する歌――「斯くしつつ遊び飲みこそ草木すら春は生ひつつ秋は散り行く〔十二字傍点〕」やは、やはり漢詩に多く見られた趣好を取つたものであつた。
 言葉の使ひ方にも漢詩のそれを邦文に翻訳した風のものが見られた。萬葉歌の風格には、一體にさうした翻訳文學の語調が強いのである。「石室戸《イハヤト》に立てる松の樹《き》汝《な》を見れば昔の人を相見るごとし〔十字傍点〕」(卷三)はその一例である。「吾が行きは久にはあらじ〔十一字傍点〕夢《いめ》の包淵《わだ》瀬にはならすて淵にしあらも」(卷三)――流石に漢文學に通じた旅人の作であることを思はせるものである。「行き」(411)「久《ひさ》」と名詞に使ふ仕方は珍しく、そのままを漢詩でかいた方が似つかはしい。
 韻を合せる言語的遊戯を最初から目的とした歌も見える。家持の歌――「秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露おけり」(卷八)――や、天武天皇の御製――「よき人のよしとよく見てよしと言ひしよし野よく見よよき人よく見つ」(卷一)はその言語的遊戯をなしてゐる。『懷風藻』の漢詩にも同樣の趣好が見え、「日邊瞻日本、雲裏望雲端、遠遊勞遠國、長恨苦長安」は全然支那風であるし、「夏身夏色古〔五字傍点〕、秋津秋気新〔五字傍点〕」は、萬葉に「なつみの河」「秋津の野邊」と用ひられてゐる地名を取り、巧みにその趣好を日本化したものであつた。この趣好がなほ一歩日本化すれば、家持の秋萩の歌のやうな表現が生れるのである。
 以上私は「松浦河に遊ぶ序」の確實に支那文學を模作したものに出發して、萬葉歌の藝術的表現が支那文學の刺戟によるところの多いことを論じ、普通は全く日本的のものであるやうに見られてゐる人麿の歌を分解して却つて其處にこそ漢詩の影響の多いことを言ひ、更に萬葉歌一般の表現の漢詩のそれによるものの多いことを述べて來た。中にも私の特に力説したかつたことは、人麿が漢詩の構成や着想を吸收して、よく我國の歌謠を文學的に確立することの出來た點である。我國詩歌の文學的自覚は、全くこの時に成つたと言つてよい。
 かく我國の文學は漢文學の影響を被ることの多いものであつたが、それあるが故に我國の文學に特有の精神生活的領域がなかつたと、私は論結しようと思はない。この影響の中を通して、我(412)國の精紳生活がいかなる發展をなしたかを見ることは、我々の次の考察の仕事である。
                  ―『學苑』(昭和三年八月稿)
 
 
(413)   第二章 萬葉に於ける支那的語法
 
       一
 
  可敝里家流、比等伎多禮里等、伊比之可婆、保等保登之爾吉、君香登於毛比弖。
 萬葉卷十五の右の歌は、情熱の女流歌人狹野茅上娘子《さぬのちがみいらつめ》の數ある作品の中でも卓越したものとしてよく人の口にのぼつてゐる。この歌の訓み方には古來二通りあつて、一つは――「歸りける人來れりといひしかばほとほと爲《し》にき君かと思ひて」――と訓むし、もう一つは――「歸りける人來れりといひしかば殆《ほとほ》と死にき君かと思ひて」――と訓む。明治以後はこの後の訓み方を取るものが多く、近來はそれが定説になつてゐるのだと思つてゐると、雜誌『詩歌』には最近に「爲にき」の復活説が載つてゐた。歌人として歌つて見ても、「爲にき」の方が穏當だと思ふ人もあるのだらう。併しこの歌は「死にき」と訓むが妥當であつて、「爲にき」とは決して訓めない。(414)その訓み方は、私が前章に述べてある論旨に關係の多いものがあるから、補註の意味でその理由を書いて置かう。
 この「しにき」を「爲にき」と訓む人は、「ほとほと」を歡びの餘り胸のふたふたと騒ぐ意に解してゐる。この誤解のもとをなしたものは先づ契沖であつた。契沖は欽明紀に「十三年冬十月百済聖明王獻2釋迦佛金銅像一躯1。是日天皇聞|已《をはりて》歡喜踴躍《ほとばしりたまふ》」とあるを引用して、「ほとほと」は「驚きて胸のほとばしるなり」と解した。流石に契沖でなければ思ひ付けない引用ではあるが、寧ろそれは思ひ過ごしであ少、原意はそれよりも平凡のものであつたのだ。宣長も亦「ほとばしる」は「ほとほととして走る」の意であるとし、ここは「ふたふたと爲《し》にけり」の意を持つとした。雅澄の『古義』もこの解に隨つてゐる。然るにこれを「殆ど死にき」の意に解するものは眞淵であり、それによるとここの語は「殆將死」の意を持つのである。即ち「死にき」とは言つてあるが、「死なんとしき」と解せらるべきものだとするのである。明治になつてからは大槻博士の『言海』は眞淵説を取つてゐるし、井上博士の『新考』亦「うれしさに殆死にき」といつてゐるのだと解してゐる。その外の新らしい解釋書を開いて見ても、「殆と死にき」と解してゐないものは先づないやうになつた。
 
(415)     二
 
 併しこの句がなほ時としては「ほとほと爲《し》にき」と解され、何れを選ぶかは單に藝術的の感じのよしあしによるやうに見られてゐるのはよいことだとは思へない。私は「殆と死にき」と訓むより外には仕方のない文法學的實證基礎を、次に提示して置きたい。死ぬの意であれば、「殆ど死なんとしき」と未決定的、將然的に表現しなければならぬものを、「殆と死にき」と全決定的、已然的に言つてあるところが、何となく落ちつかぬ感じを持たせ、次にまたその文法的に落ち付かない誇張が、語法として非常に新らしく藝術的に第一の見處になるといふことが、この歌に問題となるのである。「殆と」とあれば、would have been と言はなければならぬのに、單にアッファアマティヴに had been と言つたのは、何等か外國語の文脈を取つてゐるものではないかと疑ふものもあらう。ところがその疑ひが正しく中つてゐたのであり、かやうに未決定的、將然的のものをアッファアマティヴに言ふことは、奈良朝時代の一つの語法であるし、またその語法は英文を直譯することから來たに相違ないものであつた。
 「ほとばしる」の「ほと〔二字傍点〕」、「あわてふためく」の「ふた〔二字傍点〕」、「ふたふたする」の「ふた〔二字傍点〕」、みな同語原であるとする考へは面白いと思ふ。恐らくは心が突然の動搖を受けた時の氣息から來た語(416)であらう。「殆」の意の「ほとほと」も、語原を探れば共通のものになるかも知れない。併し上代文學の他の場所に「ほとほと」と書いて驚き悦んだ意を現はした例がないとすれば、ここの語だけその意に解することは頼みの少ないものである。然らば「ほとほと」を「殆」の意に解する例は他にあるかといふに、萬葉だけでも幾個所となく見られる。
 
       鳥 に 寄 す
  春さればすがるなす野のほととぎすほとほと〔四字傍点〕(保登保等)妹に逢はず來にけり。(卷十)
       帥大伴卿の歌
  吾が盛りまた變若《をち》めやもほとほと〔四字傍点〕(殆)に寧樂《なら》の京《みやこ》を見ずかなりなむ。(卷三)
  御幣帛《みぬさ》取り神の祝《はふり》が鎭齋《いは》ふ杉原薪|伐《き》りほとほとしく〔六字傍点〕(殆)に手斧取らえぬ。(卷七)
       日置長枝娘子に大伴家持の和ふる歌
  吾が家戸《やど》の一むら萩を念《おも》ふ兒に見せずほとほと〔四字傍点〕(殆)散らしつるかも。(卷八)
 
 この中「ほとほと」とはつきり訓めるのは「春されば」の歌である。あとの歌では「殆」の字を使つてあるのを「ほとほと」と訓んだのであるから、嚴密の意味では證據にならないが、「殆」の字をそれ以外に訓むことも出來さうにない。「春されば」の歌は「歸りける」の歌と用語法が全く同じい。「殆《ほとほ》と死にき」「殆《ほとほ》と妹に逢はず」これは互ひに對照して考へるによい例となるもの(417)である。この「春されば」の歌と想の全く同じいものは、『赤人集』に「夏なればすごく鳴くなる時鳥ほとほと妹に逢はで來にけり」となつても出てゐる。
 さて右の語例を此較して行くと、すべてに共通した「ほとほと」の語の使ひ方が見えるであらう。結論を先きに言へば、「殆と」によつて限定せられた動詞を、未決定的將然的に使はないで、全决定的已然的に使ふことである。このことは scarcely が not を伴はないに拘らず、意味の上で not を含むやうなイディオマティックの語法と似たものがある。「ほとほと」は、十中九分決定せられてあとの一分で助かつた場合の副詞である。「ほとほと妹に逢はず」といへば逢はなかつたやうにも聞えるが、さうではなく殆ど逢へなかつたものを辛うじて逢つた意である。「ほとほとしくに手斧取らえぬ」は、殆ど取られようとして辛うじて取られなかつた意である。「ほとほと散らしつる」は、十中九分まで散らしたが、辛うじて後の一分だけ散らずに殘されてゐる意である。「ほとほとに寧樂の都を見ず」と言へば、全然見なくなるといつて懊悩してゐるのではなく、なほ十中一分の希望を殘し、辛うじて見るに止まるであらうといつて歎いてゐるのである。この歌では「ほとほと」は「見ずかなりなむ」の「なりなむ」にかかるやうにも見えるが、さうでなくて「見ず」にかかるものであることは、前の語例を此較して分ることであらう。そして「なむ」といふ將然的の語は「なり」に附いてゐるから、「ほとほと」により直接に限定せられた「見ず」には、依然として未決定的將然的の語がついてゐない。
(418) 萬葉以外にかうした用例があるかといへば、『古事記』に「爾天皇、詔之吾殆見欺乎〔四字傍点〕。乃興軍、撃沙本比古王之時」とあるのがその一つの例であり、「吾はほとほと欺かえつるかも」と訓まれてゐるが、この訓み方は前の例に比較して、誤つてゐないと思ふ。「ほとほと欺かえつる」といつても、辛うじて欺かれなかつた意味であることは言ふまでもない。
 
     三
 
 然るに平安朝になると「ほとほと」の用語法はこれと違ひ、その語の決定してゐる動詞に未決定的、將然的の助動詞を要求するやうになつた。『後撰和歌集』卷十七の閑院の大君の歌の題詞には、「人の許より久しう心ちわづらひてほとほと死ぬべくなむ有りつると云ひて侍りければ」とある。「殆と死ぬべく」と推定の意の助動詞を附してゐるが、「べし」は元來「む」よりも確定度の強い助動詞であるから、十中九分の確定をなす「殆」の副詞には最もよく適してゐる。併し題詞には本來動搖の多いこと何れの歌集に就いても言へるものである故、この題詞を引いて證據とすることは出來ない。現に關戸氏蔵の片假字本には「ほとほとしくなんありつる」と書いて「ぬべ〔二字傍点〕」の二字を脱し、「殆しく」の意に使つてゐる。併し『藤原基俊歌集』上に「告げざらばこぞに做ひてほととぎすほとほと〔四字傍点〕山に入りやしなまし〔二字傍点〕」と假定の助動詞を使つてあるのは、「ほ(419)とほと」の異つた用法の始まつた明らかなる例だといへよう。これらの歌にほととぎすが屡々現はれてゐたのは、「ほとほと」に「ほととぎす」の「ほと〔二字傍点〕」を響かせただけのことであり、萬葉の場合でも上の句は修飾以外の意味を含まない。基俊の歌では、初めに「告げざらば〔三字傍点〕」とはつきり假定の語を使つてゐる。また雅澄も擧げた例であるが、『蜻蛉日記』には「我れならぬ人はほとほと泣きぬべく〔二字傍点〕思ひたり」と使ひ、『源氏物語』には「翁もほとほと舞ひ出でぬべき」と使つて推定の助動詞は缺かされぬものになつて來た。以て「ほとほと」の用語法の違つて來たことを知り得よう。
 「ほとほと」といふ語の論理的意義を考へれば、それの決定する動詞に推定の助動詞を伴なふのが正しいであらう。然るに萬葉時代の用語法として、この助動詞を伴はず單にアッファアマティヴの使ひ方をしたのは何故であるか。今から見てこの使ひ方は如何にも外國語的の語脈を含むやうでそれがまた甚だ清新に響くのであるが、當時としてはさうした感じを伴はなかつたものであるか。この用語法は、第一には上代國語に本來のものであつたと見ることが出來よう。併しかうした特殊な用語法は果して我が國語に固有のものであつたか。他の場合には推定の助動詞が適當に使はれてゐるのに、この場合に限りそれが省略せられるのは、上代人の耳にも異樣に響きはしなかつたか。さう考へて來ると、この用語法がいかにも外國語的に感じられるのは正しく事實に中つたのであつて、まことは漢文の初期直譯的用語法がそのままここに現はれたと見るが妥當(420)であつたのだ。私は先きに我國に於いて奈良朝時代よりもやや早く漢文の訓讀法が起つてゐたことを言つた。その訓讀の語法が如何なるものであつたかを今から知ることは極めて困難であるけれども、この「ほとほと」の語法が萬葉に殘つてゐるために、計らずもその語法の重要な特色を知ることが出來るのである。兒島獻吉郎氏の『漢文典』に「將」「未」「宜」「當」「不」「可」「豈」「焉《なんぞ》」「何《なんぞ》」「敢」等を助動詞としてある説に反對して、青木正兒氏がそれらの語を副詞であるとしたのは(同氏著『支那文學諭叢』五五八頁)正しい見方であるが、それらの語が助動詞と見誤られたのは、我國の漢文訓讀法として、意譯的に、それぞれの副詞の内包する意味を補つた助動詞を附加し、返り點を附ける時にはこれらの副詞を助動詞であるやうな形にしたからであつた。例へば「將に何々せんとす」「未だ何々ならず」「宜しく何々すべし」「當に何々すべし」と訓むのが、從來の訓み癖である。「殆」といふ語もこの用法を持つた幾つかの副詞の組に屬してゐる。そして「殆ど何々せんとす」「何々するに殆《ちか》し」と訓むのがこれまでの訓み癖である。正しく漢文的に讀めば、將、未、宜、當、殆等の副詞が物を言つてゐるから、動詞は未決定的、將然的に讀まれず、單にアッファアマティヴの意味を持つてゐるに過ぎない。即ち「未來」と言へば、「未的」に「來」であるから「來ない」意であるし、「當來」と言へば、「當的」に「來」であるから「來るべき」意である。「來」といふ動詞の意味自身が自らその意義を變へるのでなく、その上に附された副詞がこの意義變更の役目を果たすのである。かく見れば「殆死」は「殆ど死す」と訓む(421)が原語に近く、「殆ど死なんとす」は意譯した訓み方である。上代人はこれらの副詞の使ひ方を異樣に感じたであらう。併し特に文字を補ふよりも先きに、「殆死」は「殆ど死す」と訓んだものと思はれる。その訓み方が原始的で直譯的であつたからである。然るにこの生硬な使ひ方は却つて清新な感じを與へたがため、萬葉歌人達は寧ろ悦んでその用語法を取つたものであらう。旅人や家持や狹野茅上娘子のやうな才人達の歌にそれが使はれてゐるのは當然のことであるし、「春されば」の短歌、「御幣帛《みぬさ》取り」の旋頭歌も言語の遊戯をなしたものであるから、同樣の新時代的才人の詠に屬するであらう。
 「殆死」と漢文に使つた例で誰れもが知つてゐるのは、孔明の『出師表』である。それには、「幾敗北山、殆死潼關」とあるが、「幾《ほと》んど北山に敗れ」とあるは、辛うじて敗れなかつた意であるし、「殆ど潼關に死にき」とあるは、辛うじて生きた意である。これらも語のリズムの上から、「殆ど潼關に死なんとしき」とは訓まない方が美しい。茅上娘子は、この「殆死」の用語例を意識的に模したものではなかつたか。それにしても「ほとほと死にき」を茅上娘子の全く獨創的な、それあるが故にこの歌を生かした用語法と見ることは至當だと言へない。それは寧ろ萬葉歌人一般の用語法であつたのだ。だから今我々の語法によつて萬葉歌を鑑賞する味と、當時に於ける鑑賞のまことの味とは、また屡々違つてゐると見なければならぬ。この歌ではその「ほとほと」を巧みに生かしたのも巧みであるが、その用語法に獨創があつた譯でなく、「死にき」と用(422)ひたことが大袈裟で、いかにも彼女の溌剌たる才気と情熱とを發揮したものであつた。この句を激賞して「非常な句である。萬葉中獨歩のものである。そして、小生は、それを寫生の究極句であると思うてゐる」といつた歌人もある。(島木赤彦氏著『萬葉集の鑑賞及び其批評』二三七頁)その見識は高いと思ふが、若しこれに「殆死」の粉本が存したものとすれば、當時としてはこれを寫生と見ず、寧ろその應用自在の才気を賞讃したかも知れないのである。
 
     四
 
 私がこの歌の解をなした主眼は、萬葉に於ける漢文學の影響を見るにあつた。それ故このことを述べてしまへば特にその解を他の方法で證明する必要はないのであるが、なほ「ほとほと爲にき」と訓むべきでない一證として、この歌の修辭學的見方を言つて置きたい。驚き悦ぶ意に解してならない修辭學的基礎は二つある。第一に、かうした感動は過去的に表現するは適當でなく、過去的に表現すればその感動は死んでしまふ。欧洲語に於いても、その感動の場合には、破格の現在法を用ひることが文法的に容認せられてゐる。「びつくりした!」「ぴつくりしたことでした」この二つの用語法の後者が死んでゐることは、日本語に於いても同樣である。然るに、十中九分まで死んだと誇張して言ふには、その死んだことを出來るだけ確定的に言ふのが強い印象を(423)與へるから、今の歌のやうに大過去の「き」を使ふことは至當である。
 第二に、リズムの上で「ほとほと」を驚き悦ぶ意に解してならない。若しその意に解したとすれば、「ほ、と、ほ、と」の四音の何れにもアクセントが來るから、これは四分の四拍子になる然るに「しにき、きみかと、おもひて」は四分の二拍子のリズムを持つてゐる。「に」「み」「も」等nm音が、或る音の次に來れば弱められた音となるが、更に母韻を同じうする音の次に來た場合にその弱まり方は著しい。即ちshi‐ni、ki‐mi、o‐mo の語にあつては、アクセントはその前の音に來て後の音に來ない。隨つてその拍子は四分の二拍子となる。然る時には「しにき」「きみかと〔二字傍点〕」「おもひて〔二字傍点〕」のそれぞれの後半部も、前半部のリズムに牽きずられておのづから四分の二拍子となる。
 
   汝《なれ》をぞ 嫁《よめ》に欲《ほ》しと 誰《たれ》。
   あむちの こむちの 萬《よろづ》の子。
 
 これは『靈異記』に出てゐる聖武天皇時代の童謠であつて前にも引いたが、a‐mu‐chi‐no、ko‐mu‐chi‐no とあるから、亦四分の二拍子となり、この童謠は正しく四分の二拍子を以て謠はれたことが分かるのである。今の「しにき、きみかと、おもひて」は、全くそれに同じい。若しかく「しにき」以下が四分の二拍子であり、「ほとほと」だけが四分の四拍子であつて、それぞれ(424)にアクセントの來る位置も違ふとすれば、この歌の下の句は頭重もで落ち付きの惡いものになるであらう。然るに「ほとほと」を「殆」の意に解すれば、一音一音にアクセントがなく單に四分の二拍子のものとなるから、他と釣り合つて落ち付きよくなるのである。
               ―『教育學術會』―(昭和三年八月稿)
 
 
(425)  弟三章 仙柘枝傳説原形諭
 
    一
 
 『萬葉集』卷三に仙柘枝歌三首がある。當時吉野に傳承せられてゐたと想察せられる仙柘枝《やまびとのつみのえ》の傳説を取扱つた歌である。併しこの傳説の全部がいかなる構想を持つてゐたものであるかに關しては、今傳承または文獻に何等の據るべきものがなく、後の學者は『萬葉集』その他一二の文獻に散見する片言隻語を資材として、わづかにその全部を想像するに過ぎなかつた。『萬葉集』以外の資料として最も重要のものは『懷風藻』であるが、かうした漢文學資料を取り來つて國文學を解釋する點では、その功依然として契沖の右に出づるものがなく、この仙柘枝歌の正しい解釋も先づ契沖に始つたといつてよい。それ以後には、資料として何の創見もないのである。併し傳釋の想像の仕方には學者により多少の相違が見られない譯でもない。今その代表的なる想像と(426)して『代匠記』と『古義』との記載を掲げて見ると次の如きものである。
   「此歌の意を按ずるに、味稻が吉野川に魚染打て有ける時に川上より柘の枝の流れ來けるを取上げたるが、忽に變じて仙女となりて味稻と接て誘引して仙境へ皈りけるにや。漆姫控鶴擧と淡海公の作らせ給へる此意なるべし。」(『萬葉集代匠記』)
   「抑この柘枝仙媛のこと傳なければ其|詳《つばらか》なることは知べからず。大かたのありし樣をおしはかりていはば、むかし吉野の美稻といひしは、吉野川に梁を打て鮎を取て世のわたらひせし人なりけり。或時この人例の梁を打てありしに、柘の枝の流來てその梁にかかりしを、取歸て家に置たりしが、美麗き女になりて遂に夫妻のかたらひをなし、老ず死ずて共住《あひすみ》しが、遂に常世國に飛去にし、といふことのありしなりけり。」(『萬葉集古義』〕
 この二つを比較して見れば、説話の想像の仕方に幾分の相違あることが分かる。要するにこの説話は所謂白鳥處女傳説の形式に屬するものであり、その點では殆ど疑問の餘地がないけれども、契沖は大體に於いて浦島傳説風の構成のものと考へてゐるやうであるし、雅澄は白鳥處女傳説の普通の形式を以てこれを解釋してゐるやうである。一般の學者は大體『古義』のそれに類する考へを持つらしく見える。例へばなほ『略解』の記載するところを見ると、次の如くである。
 
   「さて柘枝と言へるは、古へ吉野の里女仙と成つて在りしが、同じ所に味稻と言ふ男の川(427)に梁打ちて魚取るに、其仙女柘枝と化《な》りて流れ來て其梁にとどまりぬ。男それを取りて置くに、美はしき女となりしを愛でて、相住みけるといふ事なり。此事懷風藻の詩に作れり。仁明紀の長歌にも出でたり。事長ければ略きつ。さて柘枝と化りし故に、其れを則ち仙女の名に呼べるなり。」(『萬葉集略解』)
 
 私はこれらの解釋の何れをも略々妥當のものであると考へるのである。元來乏しい資料を基礎としてその全體を想像するものであるから、全く妥當の解釋といふものは成立し得る筈がない。併しこれらの想像は何れも『懷風藻』その他を資料とすると稱しつつ、その實これらの資材の分析檢討に詳密を極めてゐないし、のみならず『懷風藻』の解釋にも多少づつ誤謬を含んでゐはしないかと思ふ。元來『慎風藻』の訓の施し方が、從來のものでは誤謬を含んでゐた。私はこの論文に於いて、『懷風藻』に施された從來の訓の誤謬を訂正し、その解釋を考へ、それを資材として柘枝仙媛傳説の全部の形が如何なるものであつたかを出來る限り科學的に考へて見たいと思ふ。勿論説話の構成は根本的に變化せられるのではないが、想像と推定の限界を明らかならしめて、全然の想像を學問的推定の中から排除するやうに努めたいのである。
 
(428)    二
 
 この傳説を解釋するための直接的資料は三つしかない。第一は、『萬葉集』の三首の歌であり、第二は『懷風藻』の中の吉野に關する詩數首、第三は『續日本後記』第十九卷に載せられてゐる興福寺の法師等の長歌一首である。私はそれらの資料を順次に掲げて考察して見よう。
 『萬葉集』には次の如く記載せられてゐる。
 
       仙柘枝《やまびとのつみのえ》の歌三首
   霰ふり吉士美が嶺を險しみと草取りかなわ妹が手を取る。
    右の一首は、或は云ふ、吉野人味稻の柘枝仙媛に與へし歌なりと。但し柘枝傳を見るにこの歌あることなし。
   この夕|柘《ツミ》のさ枝の流れ來ば梁《やな》は打たずて取らずかもあらむ。
       右一首
   古に梁打つ人の無かりせばここもあらまし柘の枝はも。
     右の一首は若宮年魚麻呂の作なり。
 
(429) この三首の歌の中第一の歌がこの説話の本來の形に關係のないものであることは、容易に看破せられる。それ故にこの歌をこの卷へ採録した人も「柘枝傳を見るにこの歌あることなし」と書いて疑問を殘したのである。併しこの歌が仙柘枝傳説に結びつけられて傳承せられる場合もあつたことは否定せられない。傳説にはかくの如き場合がいくらでもある。「吉野人味稻」は何とよむべきかといふに、「味」の字『懷風韻』には「美」とかいてあるから、「うま」とよむべきであらう。『續日本後紀』には「熊志」と書いてあるから、「稻」の字は「しね」とよむのであらう。即ちこの吉野人の名は「うましね」である。『集』と『藻』と共に「うましね」とよんであるのに、後に「くまし」とよんだのは、奈良朝時代に於ける傳承は「うましね」であつて、後多少の轉訛を生ぜしめたと見なければならぬ。また「柘枝仙媛」とあり、「柘枝傳」とあるを以て考へれば、「つみのえ」はその仙媛の名であるとしなければならぬ。さうでなければ直ちに「柘枝の傳」と書く筈はない。集のこの卷にこの歌が採取せられた頃には「柘枝傳」とも呼ばるべき文獻が存したものらしい。その傳を典據としてこの歌に疑問を殘したによつて見れば、傳はこの採取よりもかなり以前に作られたものであらう。その頃の常として傳の原文は「松浦河に遊ぶ序」の如き漢文で書かれてゐたものに相違ない。若しも浦島子の長歌の如くに長歌を以て記されてゐたものであれば、『萬葉集』の中へ採取せられなければならぬ筈である。『續日本後紀』の長歌はこの傳によつたものかどうかは推定し得ないが、既にその名を「くまし」と書いた位であるか(430)ら、恐らくその傳は仁明天皇頃には奈良に於いてさへ湮滅せしめられたのであらう。併し集へ採取する當時には、まだその傳は湮滅しなかつたものと見える。後の二首は純粹に仙柘枝に關しての後人の歌であるが、若宮年魚麻呂といふ人の傳記は不明であるから、これらの歌の作られた時代は推定せられない。
 これら二首の歌の意は次の如くである。昔の人は梁を打つたから柘の枝を得た、今は梁を打たないからよし今夕柘の枝が流れ來るともそれを取ることは出來ないであらう。(第一の歌)古へ川上に染を打つ人がなかつたとすれば、このあたりまでも柘の枝は流れ來ることであらう。(第二の歌)但し第二の歌の「ここ」は場所でなくて時間の「今」であるとも考へられる。「いにしへ」とあるに對しての「ここ」であるからその解釋の方が正しいかも知れない。傳説の解釋にはさしひびきのないことであるから、今は何れの解を取つてもよいことにして置く。
 これら二首の歌を資材として説話の構成につき想像し得ることは、味稻といふ人物が梁を打つて魚を取るを業としたこと、その味稻が柘の枝の流れ來るを拾つたこと、柘の枝と仙媛と關係の深いものであること等である。然らば柘の枝と仙媛との問にはいかなる關係が存するのであらうか。これに就いてはこ二極の想像説が立てられる。第一は、味稻がその柘枝の流れ來ることによつて上流に人あるを推定し、つひに仙媛を發見したことである。第二は、柘枝は仙媛の羽衣の如きものの變形であるとする見方であり、第三は柘枝は直ちに仙媛の變形であるとする見方である。(431)これらの想像説の何れが正しいかを決定し得る直接的の資料はどこにも存しない。その決定についてはなほ後に考察しよう。
 
     三
 
 次に我々は目を『懷風藻』の資料に轉じよう。
 最初に來るのは贈正二位太政大臣藤原朝臣史の「五言遊吉野」の詩である。そのうち柘枝仙媛の説話に關して次の記載がある。
 
   「漆姫控鶴擧。柘媛接魚通。」
 
 この訓み方は「漆姫鶴を控へて擧がり、柘媛魚に接《ちかづ》いて通ふ」であらうと思ふ。(註一)「魚」の字、原本には「莫」とある。(「魚」の誤寫とする説に今は隨つた。)漆の字は七の意であつて「漆姫」は「七姫」であると考へたのは、流石に契沖の驚くべき見識であつた。私もやはりさうであると考へる。ここに「七姫」と書かなかつた理由は次の二である。第一に、「七姫」と書くならば、後の「雲卷三舟谷。霞開八石洲」などの如くに、「柘媛」に對の數字を用ひなければならない。第二に、柘は「つみ」の木であるから、その對として「うるし」の木を意味する「漆」(432)の字がよかつたのである。併しその意味は七人の姫であつたに相違ない。七人の姫が鶴を控へて擧がるといふのは、七人の天女が羽衣をつけて天に飛び去つた意であらう。ここに鶴と用ひたのは、次の詩に「靈仙駕鶴去」などとあるやうに、正に當時の飜譯的神仙趣味を現はしたものであり、王子喬が鶴に駕して上天したのを模したものであらう。それが羽衣であつたことは、後に述べる仁明天皇紀の長歌に「ひれごろも〔五字傍点〕着て飛びにきといふ」とあることによつて知られる。「ひれごろも」は「領布衣」即ち天の羽衣である。羽衣なるが故にこれを詩的に形容して「鶴を控へて擧がる」といつたのである。擧には飛翔の意がある。次に柘媛が魚に近づいたとあるのは、魚を取る意ではなくて、川の中に浴した意であらう。魚の字を使つたのは、「鶴を控へ」に對ならしめる必要があつたからである。「通ふ」は常にこの水浴をなしたことをいふのであらう。かくしてこの詩の意は七人の天女は羽衣を着けて天に飛び去つたが、ひとり柘媛は水中に浴してゐて美稻に捕へられた意である。天女はすべてを合せて八人であつたと見なければならない。さうでなければ「擧」の字と「通」の字とが對にならない。契沖は、仙女は美稻を誘引して仙境へ歸つたといふのが「漆姫控鶴擧」の意だとしてゐるけれども、これはたしかに誤解である。七姫は飛び去つたけれども、柘枝は美稻と婚したのである。吉野川の何れかに、八つの大石が並び神聖な感じのする場所が存在したものと見える。この場所に關聯してそこには八人の天女が水浴に降下すると考へたのであらう。先きに引用した詩句の、「雲は卷く三舟の谷、霞は開く八石の洲」の(433)八石の洲はそれである。「三舟《みふね》」は萬葉にも「瀧の上の三舟の山に」などと出てゐる地名の固有名詞であるが、「八石」といふ地名はない。「洲」は後の詩に、美稻が柘媛に逢つた場所を「逢槎の洲」「月氷の洲」として書いてゐるから、それと同義であらう。
  (註一) 武田祐吉氏は『上代文學集』の中で「柘媛接りて通ずること莫し」と訓んで居られる。面白い訓み方ではあるが、それだと「控鶴擧」「接莫通」が對句にならない。また接りて通じないといふ語も意味明瞭でないと思ふ。
 白鳥處女説話の構成として、數名の天女が降下してゐたがその中の一名だけ捕へられる筋書は、他にいくらでも見られる。奈良朝時代に白鳥處女説話が各地に存したことは、『常陸風土記』に「古老の曰く、伊久米の天皇の世、白鳥有り。天より飛び來り、化して童女となり、夕に上り、朝に下る。石を摘んで池を造る」とあることによつても知られるが、その童女は一人でなかつたことは、後に「童女等唱つて曰ふ」とあることによつて知られる。八人の天女の中一人だけが捕へられた説話は、『帝王編年記』の中に引かれた、次の風土記逸文と考へられるものにもある。
 
   「古老傳へて曰く。近江の國伊香の郡與胡の郷伊香の小江、郷の南に在り。天の八女倶に白鳥となりて天より降りて、江の南の津に浴みす。時に伊香刀美西の山に在りて遥かに白鳥の其の形の奇異なるを見て、因つて若し是れ神人たらんかと疑ひ、往きて見るに實に是(434)れ神人なりき。是に伊香刀美既に感愛を生じ、還り去ることを得ず。竊かに白き犬を遣りて天の羽衣を盗み取りて弟の衣を隱しければ、天女乃ち知りて其の兄七人天上に飛び昇りき。其の弟一人飛び去ることを得ずて天つ路永く塞ぎて、即ち地民となれり。天女の浴みし浦は今神浦と謂ふ是れなり。伊香刀美と天女の弟女と室家になりて此處に居て遂に男女を生めり。男二、女二あり。兄の名は意美志留、弟の名は奈志登美、女の名は伊是理此※[口+羊]次の名は奈是理此賣といふ。此は伊香の連の先祖なり。母即ち天の羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美獨り空しき床を守り※[口+金]詠斷たず。」
 
 『類聚神祇本源』引くところの『丹後國風土記』の一節といふものにもまた同樣の構成を持つた説話がある。
  「丹波の郡の郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の里の比治の山の頂に井有り。其の名を麻奈井と云ふ。今既に沼と成れり。此の井に天女八人降り來て水を浴む。時に老夫婦有り。其の名は和奈佐老夫、和奈佐老婦と曰ふ。此の老等此の井に至りて竊かに天女の一人の衣裳を取り藏しき。即ち衣裳有る者は皆天に飛び上りぬ。但だ衣裳なき女娘一人留りて、身を水に隱して獨り懷愧居たりき。(下略)」
 柘枝仙媛の説話は甚だよくこれらの説話に似たものと考へなければならない。柘枝説話も亦風(435)土記に採録せられなければならない傳説であり、右の伊香の小江や麻奈井の傳説と同時代に傳承せられてゐたものである。他の土地に傳承せられた白鳥處女傳説に於いても、天女の數は必ずしも一人ではない。『元中記』には、「昔豫州の男子、田中六七の女人あるを見、是れ鳥なりと知らず。匍匐して往き、先づ其の毛衣を得、取つてこれを藏くす。即ち往いて諸鳥に就く。鳥各走つて毛衣に就き、これを衣《き》て飛び去る。獨り一鳥去るを得ず。男子取つて以て婦となす。三女を産めり。其母後に女をして父に問はしめて、衣積稻の下に在るを知り、これを得て衣て飛び去れり。後衣を以て三女を迎ふ。三女兒衣を得て亦飛び去れり」とある。(高木敏雄氏著『日本神話傳説の研究』の「羽衣傳説の研究」「浦島傳説の研究」參照)これと同形式の傳説は琉球朝鮮にもあるが、既に多くの人の知るところであるから、ここに記載しない。(柳田國男氏著『海南小記』の「南の島の清水」、本山桂川氏著『南島情趣』及び高橋亨氏著『朝鮮の物語集』等參照)私は『懷風藻』の詩を解釋し直ほすことによつて、天女の數が八人であり、そのうち柘枝一人が地上に取り殘されたことを推定したが、傳説の比較によつてこのことは一層確實に決定せられるのである。
 
    四
 
 我々は進んで次の詩を見よう。
 
(436)   「靈仙駕鶴去。星客乘査返。」
 
 ここに神仙的趣味を發揮したのは、その考への基礎に柘枝傳説を豫想したからであらうが、直接にはその傳説の内容を語つてゐない。「靈仙鶴に駕して去る」は王子喬の故事を取り、「星客|査《いかだ》に乘じて返る」は張騫の故事を取つたのである。
 次は從四位下左中辨兼神祇伯中臣朝臣人足の詩である。「一朝柘民に逢ふ。風波轉た曲に入り、魚鳥共に倫を成す。此の地即ち方丈、誰れか説かん桃源の賓。」とある。やはり柘媛傳説が豫想せられてゐるけれども、その内容については語るところがない。この傳説を神仙譚的に解釋して、吉野の地の神聖なる理由をそれに假托しようとする意圖がこの詩には見えてゐる。「此の地即ち方丈、誰れか説かん桃源の賓」といふのがそれである。この傾向は吉野について柘媛の故事を引くすべての詩に見えるのである。彼等詩人がその傳説を陶淵明の所謂武陵桃源風に解釋しようとしたことは、この詩によつても推定出來る。當時既に淵明の『桃花源記』は我國に傳はつてゐたのであつた。「晋の太元中、武陵の人魚を捕ふるを業と爲す。溪に縁つて行き、路の遠近を忘る。忽ち桃花林に逢ふ」といふ『桃花源記』の記載は、吉野の人美稻染を打つを以て業をなす、一日梁を打つて柘の枝の流れ來るを拾ふ、といふ柘枝説話を紳仙譚風に改釋するにどれだけ興味の多い資料であったか知れない。白鳥處女傳説はここに武陵桃源風の仙郷説話の風貌をも持つことと(437)なつた。中臣朝臣人足のもう一首の詩には「何人か淹留せざらん」の語があるけれども確實にこの傳説を豫定してゐない。
 大伴王の詩二首、その一首に「神仙の迹を訪はんと欲して、追從す吉野の潯」の語があるのはやはり傳説を指したものであるけれども、内容に就いては觸れるところがない。
 太宰大貮正四位下紀朝臣男人の詩二首、何れも材として傳説を取つてゐる。その一つには
 
   「欲訪鍾池越譚跡。留連美稻逢槎洲。」
 
とある。從來はこれを「鍾池越譚の跡を訪はんと欲して、留連美稻槎洲に逢ふ〔九字傍点〕」と訓んで來たが、これは甚だしい誤讀であつたと思ふ。私はこれを鍾池越譚の跡を訪はんと欲して、美稻|槎《うきき》に逢ふの洲に留連す〔十二字右○〕」と訓まうと思ふ。鍾池は書道即ち臨地に於ける古今の達者鍾※[謠の旁+系]の故事を言ひ、越譚は越王の船譚に堕ちた故事を言つたのである。次に「槎」は浮木《うきき》といふ字である。即ち柘の枝の流れてゐたものを意味するのである。「美稻槎に逢ふ」は、美稻が柘の枝の流れ來るを拾つた意である。「洲」は川の洲のことである。「八石の洲」「月冰の洲」とある洲である。美稻はこの洲に於いて柘媛に契つたものであらう。「留連」は『懷風藻』の中の大津皇子の御作に「壯士且留連」、巨勢多益須の詩に「文酒乍留連」、釋道慈の傳を記載するところに「明哲を歴訪し、講肆に留連す」とある如く、長くそこに停滞することを意味する。それ故にこの詩句は、巖流の(438)妙を訪はうと欲して、美稻が柘枝仙媛に逢つたと傳へられる場所に長く停留したといふ意味でなければならぬ。「留連美稻槎洲に逢ふ」といふ從來の訓み方では、全然何の事を意味するか分らなくなる。私はここに新訓の意見を提出して置きたい。(註一)この訓み方の正しいことは、第一に「欲訪鍾池越潭跡」と「留連美稻逢槎洲」とを對して見れば分る。「欲訪」は「留連」に對して各々下の全部を受ける。「鍾池越潭」は「美稻逢槎」に對し、「跡」は「洲」に對してゐる。「槎洲」とよめば、上の句も「潭跡」とよまなければなるまい。第二には、後に「月冰の洲」とあつて、この場所を「洲」と稱してゐることが明らかである。
  (註一)私はこの新訓を昨年十月の雜誌で發表した。然るに、最近に出た武田祐吉氏の『上代文學集』(本年一月發行)を見ると、全く私と同一の訓み方をしてゐられる。多分暗合であらうが、然らば從來かやうに訓んでゐた人が他にもあつたかも知れない。
 次の詩には「此地仙靈の宅、何ぞ須ひん姑射の倫」とあつて、神仙傳説によりその地を神聖の場所にしようとする努力の現はれが見える。以上二首の歌を通じて傳説の内容に觸れたところは、美稻が柘の枝の流れ來るに逢うた場所の在ることだけだ。「槎に逢ふ」といふ語を用ひたのは、『桃花源記』の「忽ち桃花林に逢ふ」に模したものであると思ふ。
 正五位下圖書頭吉田連宜の詩には、「霞は開く八石の洲」とある。前述の如く、恐らくはその逢槎の洲に特に目立つた八石が存したのであらう。正五位下陰陽頭兼皇后宮亮大津連首の詩には(439)傳説に觸れた句がない。正三位式部卿藤原朝臣宇合の詩には「天は高く槎路遠し。河は廻り桃源深し」とあつて傳説を幾分豫想するものの如くであるが、この槎はいかだであらう。從三位兵部卿兼左右大夫藤原朝臣萬里の詩では傳説を語つてゐない。次に從三位中納言丹※[土+犀]眞人廣成の詩二首には注意すべき句がそれぞれ一個所づつある。
 
   「栖心佳野域。尋問美稻津。」
 
 これは「心を佳野《よしぬ》の域に栖ましめ、美稻の津を尋ね問ふ」と訓むのであらう。(「尋問」を從來「尋いで問ふ」と訓んでゐたが、「尋ね問ふ」ではあるまいか。)「美稻の津」といふのは、美稻逢槎の場所であらう。ここに「津を尋ね問ふ」と使つたのは、やはり『桃花源記』に「後遂に津を問ふ者無し」とあつたから、それを響かせたものと見える。
 
   「美稻逢仙月冰洲」
 
 この「月冰」が『群書類從』本に「同洛」とあるは誤であつて、やはり寶永本の如く、「月冰」とあるが正しい。これは「美稻仙に逢ふ月冰の洲」と訓むのであらう。「月冰洲」を吉野の固有地名であると解する説はあたらない。「月冰」は「月下氷人」の意である。即ち句は、美稻が柘媛と婚するを得た媒介の洲を意味したのである。美稻が柘媛に婚したことは、これによつて明ら(440)かである。
 從五位下鋳錢長官高向朝臣諸足の詩には、「在昔《むかし》は魚を釣るの士、方今は鳳を留むるの公」とあつて美稻が魚を釣つたことを記し、またその神仙譚を天皇遊幸の聖事に比してゐる。「柘歌寒渚に泛ぶ」とあるは、柘媛が天に飛び去る時歌を唱つたものででもあらうか。「柘歌寒渚に泛び、霞景秋風に飄る」とあることは一種の哀調を帶ばしめてゐる。「誰れか謂ふ姑射の嶺、蹕を駐めて仙宮を望む」とある句は、やはり神仙譚的の構想である。この一首は濃厚に傳説に解れて、その地を神聖なるものとしたのである。最後に正五位下中務少輔高井連廣成の詩は、何等傳説に觸れるところがない。
 以上『懷風韻』に吉野に關しての詩として載るもの十五首中、十首は多少ながら傳説に解れ、他の五首は全然傳説に觸れないものであつた。その含む傳説の内容は既に述べた限りのものである。
 
    五
 
 我々は最後の資材として、『續日本後記』第十九卷の長歌の中の注意すべき一節を考察して見たい。それには先づ「柘の枝のよし求むれば」の句があるが、後にその傳説を記載するところを(441)見ると次の如くにある。
 
   み吉野《よしぬ》に ありし熊志《くまし》
   天つ女 來り通ひて
   その後《のち》は 譴《せめ》蒙《かが》ふりて
   ひれ衣《ごろも》 着て飛びにきといふ
   これも亦 此れの島根の
   人にこそ ありきといふなれ
 
 右の歌詞中、「熊志」は從釆の訓み方では「禰」の一字を補つて「くましね」といつてゐるが、古本の據るべきものを得るまで私は殊更に補ふことをしない。字數からいへば一字を捕ふ方がよいし、この時代の長歌としてはなるべく七音にするがよいとは思ふが、この長歌は他の個所でも正確に五七音になつてゐない。また既に「うまし」を「くまし」といつてゐる程人名には傳承の轉訛が見られる。隨つて私は人名を原本のままに「くまし」と訓んで置かうと思ふのである。次に「天つ女來り通ひて」は原本のままの訓み方であるが、從來一字を補つて「天つ女に〔右△〕來り通ひて」と訓んだのは正しくないと思ふ。浦島傳説の方でも「天つ女釣られ來りて」を「天つ女に〔右△〕釣られ來りて」と補讀してゐるが、これも正しくはない。浦島傳説の場合には、釣られるものは天(442)つ女であつて浦島ではない。天女に僞り釣られて、浦島が仙宮へ行つたといふ意であるならば、「釣られ來りて」の「來りて」は意味の分らぬものになるであらう。またここに一且仙宮へ行くことを書いたものならば、後再び「片時《ときのま》に將《ゐ》て飛び往きて」といふ筈はない。それならば二重の敍述となるであらう。ここでは「飛び往きて」といつて「來りて」とはいつてゐない。なほまたこの長歌の描寫は巧妙でなく、釣りをする浦島が天女に釣られて仙宮に行くなどと描寫するユウモアを持たないのである。隨つてこの部分は原本通りに「澄の江の淵に釣《つり》せし、皇《きみ》の民浦島の子が、天つ女釣られ來りて、紫の雲たなびけて、片時《ときのま》に將《ゐ》て飛び行きて」と讀むべきである。描寫は文法的にたどたどしいものとなり、文格は正しさを失つてゐるが、元來この長歌は漢詩の隆盛時に興福寺の僧等がやつとのことで古言を以て記し得たものであることを思はなければならぬ。その意気は壯とし珍とすべきであるが、遺憾ながら表現力はこれに伴はなかつたのである。柘枝傳説の記述のところでも同樣であつて、「天つ女來り通ひて」が正しい。天女が熊志に來り通うたのである。熊志が天女に來り通ふとは何を意味し得るか。それならば「通ひ往きて」といはなければならない。
 この長歌の柘枝傳説の記述の意味は次の如きものである。「み吉野に熊志といふ人が住んでゐた。その人に天女が來り婚して共に住んでゐたが、後譴責せられ、天の羽衣を得て飛び去つたといふ。その熊志も亦この日本人であつたのだ。」「來り通ひて」は天女が天より常に通ひ來つたと(443)いふ意ではなく、單に來り婚した意であらう。譴めを蒙つたといふのであるか、また羽衣を得て飛び去つたものは天女だけであるか或は熊志と天女とであるか、この點は重要のところであるが、歌の言葉は曖昧であつて明らかではない。然るに我々はここに計らずも萬葉の歌を考へることによつて、その解釋への端緒を得ることが出來るのである。萬葉には味稻が柘枝仙媛に與へた歌として「霰降り吉士美が嶺をさかしみと草取りかなは妹が手を取る」の一首が記されてゐた。この歌は元來は杵島曲の歌であつて當時の民謠であつたに相違ないのである。即ち『肥前風土記』に載せられてゐたといふのが元の傳來を語つてゐる。然るにこの民謠は一度は柘枝傳説の中に味稻が柘枝仙媛に與へた歌として取られたし、尚ほ他の一度は隼別の皇子が女鳥の皇女に與へたものとして取られてゐる。ここに我々は解釋の上に或るヒントを得たのである。仁徳天皇は女鳥の皇女を納れて妃となさうと欲し給うたが、皇女は却つて隼別の皇子と通じ、罪を天皇に得ることとなつた。皇后の言には「雌鳥の皇女寔に重罪に當れり」とある。天皇の軍隼別の皇子等に向つた時、皇子は皇女と共に逃げて倉橋山に騰り、「梯立の倉梯山を嶮しみと、岩掻きかねて我が手取らすも」と歌ひ給うた。杵島曲のこの一首の民謠が柘枝傳説にも取られたこと、興福寺の僧等の長歌に「譴かがふりて」の語あることを併せ考へれば、柘枝傳説にも同樣の場面があつたのではないか。この長歌は天皇の賀のために奉獻せられたものである以上、その譴責は天皇でありさうには見えない。地方の官吏などがその譴責をなしたといふのであらうか。何れにせよ説話の筋は、(444)仙媛と味稻とは最初交情むつましく生活してゐたが、後仙境の美女なることが世の風評にのぼり、なほ天女であることさへ露はれるに及んで、その筋の譴責を蒙り、相共に山を越えて遁れ、つひに羽衣を得て天に飛び去つたといふことであつたらうと思ふ。「霰降り」の歌は、この共に遁れるところに歌はれてゐたのである。羽衣を得て飛び去つたものは、先きの長歌の文法的の意だけで見れば熊志であるやうに見えるが、本來天女も飛び去つたに相違ないし、今のやうにして考へれば、仙媛味稻共に將て飛び去つたことは疑ひなく推定せられる。天女が別の羽衣を後に殘るものに與へてこれをも天上へ伴ひ行く説話は『元中記』などにも見え、それも亦説話の一種の形式である。『懷風藻』に「柘歌寒渚に泛び霞景秋風に飄る」とあることは一種の哀調を帶びたものだと先きに言つて置いたが、その「柘歌」とはこの「霰降り」の歌か或はその一聯の歌であつたらうと思ふ。『萬葉集』の柘枝傳説に「霰降り」の歌の挿入せられてゐる理由は從來明らかにせられなかつたが、かく解することによつて説明せられ得ると思ふ。(註一)
  (註一) 誰澄の『南京遺響』にいふ。「荒木田氏の云。竹取物語に、かぐや姫の此の國にありしほど、天よりひたぶるにせめてむかへとりしよしあるを思ふに、是も此國に有しに、天よりのせめを蒙りて、歸り往にきと云傳なるべし。」この解も面白いと思ふが、それでは杵島曲の歌のある意味が分らなくなる。
 
(445)       六
 
 我々が資料によつて確實に推定し得るのは以上の解剖だけである。美稻が拾つたと推定せられる柘の枝と仙媛との關係は、説話の中でも最も重要の部分でありながら、直接には如何とも決定することが出來ない。私は先きに三つの想像説を立てて置いた。第一に、美稻がこの柘枝の流れるのを見て上流に人がゐると考へたとする想像説は、『桃花源記』を典據として立てられぬこともない。何故なれば武陵の漁夫は渓を行つて桃花林に逢ひ、落英繽紛たるを怪んでその林を窮めようと欲したからである。(『遊仙窟』の構想も亦さうである。)併し柘枝がそれだけの意味のものならば、萬葉の歌にこの柘枝を拾ひ取ることを重視してある筈がない。昔梁を打つ人がなかつたとすれば、ここにも柘枝は流れ來るであらうと歌つてゐるのは、美稻がその柘枝を拾ひ取つたがために、川には流れる柘枝を永久に見得ない意味を語つてゐるのではないか。柘枝がこれ程重要のものである限り、第一の想像説は破れなければならない。然らば柘枝は羽衣であるか、或は仙媛自身であるか。これは何れとも決定の出來ないことであるが、「柘媛魚に接《ちか》づいて通ふ」とあるを以て見れば、柘媛は水中に浴してゐて、その時身を柘の枝に變へてゐたのではないか。然らばその柘枝が流れて行く時に不幸美稻の梁にかかつて捕へられたものである。かく仙女がその(446)姿を變へてゐる間に漁夫に捕へられる傳説形式は、浦島のそれにも見られるのである。これらの部分では柘枝傳説は浦島傳説に類するところを持つやうである。浦島傳説では、仙女は名を龜比賣と呼んでゐる。他の竪子が來り語るところを聞いて、「故に女娘の名は龜比賣と知る」と『丹後風土記』は書いてゐる。然らば龜比賣は仙女の名であつて、それ故に五色の龜に姿を變じてゐたのである。柘媛も亦名を「つみのえひめ」と呼び、それ故に姿を柘枝に變じて水中に浴してゐたのであらう。
 仙女が姿を柘枝に變へる想像は、どうしたところから起つたものであらうか。柘は「やまぐは」である。この葉を取つて蠶を養つたものであるから、當時にあつては、山川を遡つて屡々桑柘の枝の流れるに逢つたものであらう。仁徳天皇紀には「天皇かはぶねより、山背に幸《いで》ます。桑の木水に沿《したが》つて流る」とある。仁徳天皇は亦この流れる桑の枝を磐媛の皇后に比して「つぬさはふ磐の媛が」の歌をうたつて居られるのである。桑の枝は何等か女性を想像する機縁を持つたものと考へなければならない。想像的に言へば、第一には、養蠶が女の業なるために、桑柘の枝によつて女性を聯想しやすいのであらう。第二には「うらぐは」と云ひ、「くは」といふ語が、「うら美《ぐは》し」「美《くは》し」を聯想せしめ、隨つて女性を想像し易かつたのであらう。精神分析學的に考へても、桑柘の枝によつて女性を聯想することは不自然に見えない。
 右の如き諸分析の結果として、私は柘枝傳説の内容を次の如きものであつたと推定する。
(447)  吉野川の或る場所に常に八人の天女が降つて來て水浴をした。(『懷風藻』)
  吉野に梁を打つて魚を取ることを業とした味稻といふ男があつた。(『懷風藻』『萬葉集』)
  天女の一人柘の枝姫が姿を柘枝に變へて水中に浴してゐた時、味稻に拾ひ取られた。(『懷風藻』『萬葉集』)
  他の七人の天女は羽衣を着けて天に飛び去つた。(『懷風藻』)
  柘の枝姫は味稻と結婚した。(『懷風藻』)
  その後味稻は天女と婚することを以てその筋より譴責せられ、共に携へて遁れ出た。(『續日本後記』)
  天の羽衣を着けて天女と味稻とは天に飛び去つた。(『續日本後記』)
 これだけのことは資料から直接に推定し得る部分であり、これ以外の部分に就いて語ることは一の想像であるに過ぎない。そしてこの傳説の形式は、白鳥處女傳説に屬しながらも、内容的には從來解釋せられて來たものとは幾分違つて來たと思ふ。
 
    七
 
 『懷風藻』の中に吉野をうたつたものの大部分が柘枝傳説を書いた理由は何處にあるかといへ(448)ば、その傳説が甚だよく當時の神仙趣味を充たしたからであらう。當時の支那文學は多分に神仙譚的趣味を含んでゐた。これを模した我國の漢文學が神仙趣味を持つは當然のことである。『萬葉集』の中では「松浦河に遊ぶ序」が明らかに『遊仙窟』を模したものであつた。このことに就いては既に詳しく論じた通りである。『懷風藻』の中の釋道融の詩に「我所思兮在無漏。欲往從兮貪瞋難」云々とあるは『楚辭』の形式を模したものであるが、『楚辭』が讀まれたことは『萬葉集』の中の用語を檢しても知るを得るのである。然るに『楚辭』の中には神仙趣味あるものが多く含まれてゐる。我國の詩歌人は、我國に利用し得べき傳説があれば、直ちにこれに神仙的形式を與へて支那のそれの如き神仙譚文學を創作しようと欲した。柘枝傳説が神仙趣味を以て解せられてゐる理由はかくの如きものである。殊に直接にこの傳説と對比せられたものは、前述の如く陶淵明の『桃花源記』であつた。
 併し我々は目を『萬葉集』に轉じてその中の吉野宮に幸せる時の歌を檢するに、その内客及び内容の組み立てが、詩と長歌と甚だよく類似するに拘らず、歌の方では柘枝傳説に觸れるものを見ないのは何故であらうか。これは興味ある問題だと思ふ。詩の方でこの傳説を引いたのは、吉野を神仙の地と解しこれに神聖の根源を置いて、以て天皇遊幸の聖事と對比せしめたのである。漢詩としては當然の着想である。然るに歌の方では、この神聖の根源を日本の神話に置いてゐる。たとへば人麿は「やすみしし吾が大王《おほきみ》、神《かむ》ながら神さびせすと」と歌ひ、金村は「み芳野の蜻蛉《あきつ》(449)の宮は、神からか貴《たふ》とかるらむ、國からか見が欲しからむ、山川を清みさやけみ、うべし神世ゆ定めけらしも」と歌つてゐる。吉野の宮に關する長歌の構想はみなさうなつてゐるのである。「藤原の宮の役民の作れる歌」の中には、「我が國は常世《とこよ》にならむ、圖《ふみ》負《お》へる神龜《くすしきかめ》も、新代《あらたよ》といづみの河に」とあつて天皇の聖事を支那的に表現してゐるが、この相違は一つは宮の風貌の與へる感じからも來たものであらう。藤原の宮は支那文化を熱心に取り入れてゐる時、その支那の帝都の制に模し、我國で殆ど最初に建設した都市制帝都であるし、吉野の離宮は場所も狹隘であり、その建築なども日本的のところを多く持つたであらう。詩人として、一方では支那ばりとなり、他方では純日本ばりになり易い。しかしさうした顧慮を含めて考へたとしても、同一の吉野遊幸の詩歌にして、一方が日本建國神話趣味であるのに、他方が支那神話趣味であることは注意を要すると思ふ。私は我國の長歌に與へた支那文學の影響を甚だ大いなるものと考へてゐるものであるが、右の如き相違を見る時には、長歌と漢詩とその形式や用語の上からおのづから取る資材にも相違を來さしめたことを結論しないではゐられない。即ち漢詩では翻譯的に支那的となつたし、長歌や短歌ではなほ大いに日本的なるところを存しなければならなかつたのだ。
 柘枝説話は後間もなく文學の上からは滅亡した。『續日本後記』に現はれたのが、そのおそい現はれである。併しこの長歌も奈良朝趣味で歌はれたればこそ、その傳説を書いたのであつた。漢文學の方になると、『懷風藻』の編纂より僅かに六十四年を隔てて成つた『凌雲集』は、既に(450)この傳説を取扱つてゐない。あれ程神仙趣味に適するものとして悦んでゐた詩文學でさへさうであつた。何故かくこの傳説が文學の上から姿を潛めたかといへば、その理由は二つあつたらうと思ふ。第一は、帝都が奈良より京都へ移されたからである。第二は、文學の神話趣味が我國の文學者に適しなかつたからである。この後者の理由を顧れば、ここにも亦日本的選擇の一つの現はれが見られたといへるであらう。―『教育學術界』(昭和三年八月稿)
 
 
(451)  弟四章 萬葉に於ける原始的歌形
       ――萬葉集卷十三の歌形研究――
    一
 上代歌謠の歌形の興味深いものは多く紀記の方に殘されてゐて、『萬葉集』にはその例が少ない。隨つて歌形を研究する目的で『萬葉集』を讀めば、紀記に於けるほどの稗益を得ないかも知れない。概して言へば、萬葉にはずつと古い形式のものが少なく、古い形式のものが採擇せられてゐる場合にも、それは餘程の程度で後世風に形式を整頓修正せしめられてゐるやうに見えるのである。併しながらこの整頓修正の加へられたものも、これを紀記歌謠の形式と對照せしめれば、原形の全然知られないといふものではないし、また紀記歌謠の形式が、(紀記のものもまた一時代に於ける整頓修正の形式であつて、その全部が原形だとはいはれない。)後次第にいかやうな(452)變移を加へられてゐるかを檢する資料としては、勿論甚だ重要のものといはなければなるまい。かやうの興味深い歌形を持つものの大部分は、單なる文學ではなく、何等かの曲節に隨ひそれを謠つたところの歌謠であつたに相違ない。我々は今さうした資料を專ら『萬葉集』卷十三卷十六などに於いて見出すことが出來る。中にも卷十三には、歌形の多くの種類が提供せられてゐるから、私は今それらの個々の例に就いて、幾分かの考察を書いて見ようと思ふ。
 (1) 我國の甚だ古い時代には、各句等長の二句體歌が存在し、それが直ぐ二つ重ねられて、同樣に各句等長であるところの四句體歌が存在するといふ時代がありはしなかつたかと私は考へてゐる。そしてこのことは、大陸までを併せての一傾向であり、私は專ら大陸古代の歌謠の形式に對照してそのことをいふのだ。朝鮮の古い時代に四句體歌が存在する。それは勿論古い時代の歌謠であるから嚴密に定型的に各句等長となつてゐるものではないが、大體に於いては等長的の傾向を持つてゐた。
 然るにこの四句體歌の四句はまたそれぞれに二分せられて八句體歌となつた。新羅上代の郷歌を見ても、四句體歌より十句體歌へ發展する過渡期には八句體歌が存在したと見え、その形式のものが現に文獻の上に殘つてゐる。我國に古く四句體歌が存在したとすれば、その四句體歌より發展した八句體歌もやはり存在したと考へるのは、大して不當な推測ではないかも知れない。併し我國の歌謠では、現に文獻に殘つてゐるものを見ると、(一)奇數句を短かく偶數句を長くする傾(453)傾が優勢であり、また(二)最後には長句一句を附けて全體の句數を奇數的にする傾向が壓倒的に優勢であるから、かやうに句數を八句體のままで殘して置く傾向は、實は大陸的の傾向であつて、我が國上代歌謠の特質に從つたものだとはいはれない。隨つて、これは古代に存在した我國の四句體歌がそのままに發展した形式のものだと見るよりは、大陸で發達した八句體歌十句體歌の歌謠音樂形式が我國の歌謠音樂形式に影響を與へ、その結果としてこの歌謠音樂形式に適合するかうした形の歌謠をも殘してゐると見るのがより〔二字傍点〕適當な推測だといふ説も成り立つであらう。併し何れの場合にしても單なる推測であるにとどまり、この間題を論ずるには、萬葉の資料は適當のものではない。ただ今の場合は八句體歌は(一)極めて古い形式であり、しかも(二)何れにせよ大陸的形式の殘存物であるといへば、それでよいのである。かうした歌形のものは卷十三に存在する。
 
   三諸《みもろ》は 人の守《も》る山」
   本邊《もとべ》は 馬醉木《あしび》花|開《さ》き
   末邊《すゑべ》は 椿花開く
   うら麗《ぐは》し山ぞ 泣《な》く兒《こ》守《も》る山。」
 
 イ、私の考へでは、この歌は上代に普通に見られた一形式を追うたものであり、「守る山」が前と後とで繰り返されてゐるのだ。さうした例は、後いくつも引用しようと思ふ。そして我國の(454)上代歌謠では、最後の繰り返しの部分が發想の母核としていつも重要のものであるが、この形式ではそれに修飾的内容がいろいろと附け加はつて一つの部分が出來、なほその初めにもう一度主題への呼びかけの言葉が附いたのである。これは極めて普通に行はれた一つの樣式である。
 ロ、私がいつたやうに、多くの場合終末の繰り返しの語が寧ろ發想の母核だとすれば、(私はこのことを詳しく『文學の發生』『上代の歌謠』の中で論じてゐる。)この歌では「泣く兒守る山」の泣く子を守りすることが主題であつて、要するに子守歌の大いに修飾せられた姿のものである。そして「兒を守《も》る」ところより、「三|諸《もろ》」の「もろ」に發音聯想をし、三諸山は人の守る山だといひ、三諸山の敍景をもなしたのだと思ふ。「もる」「もろ」違ふやうであるが、古代に於けるO音とU音との相融關係を考へれば、この相融は少しも不思議でない。
 ハ、子守歌は、その後長く四句體八句體の形式を殘存せしめ、その傾向は執拗にも現在にまで及んでゐる。その點からも、この形式が子守歌であつたことは分かるであらう。但し子守歌ではなほ進んで、各句等長的傾向をそのままに後へ殘してゐるから、この歌には文學的の洗煉がなほ大いに加はつてゐると思ふ。
 ニ、併しなほ子守歌風の歌謠的形式を多分に殘存せしめてゐることは、「みもろは」「もとべは」「すゑべは」がすべて四音となり、「うらぐはしやまぞ」が八音となつてゐることでわかる。民謠には四分の二拍子に休止音を置かないものとして、かやうに四音になり易い傾向がある。
(455) ホ、井上通泰氏は、最後の句を修正し、「宜しく泣子守成人之守山の脱字としてナクコモルナスヒトノモルヤマとよむべし」とのお説をなされてゐるが、これはいけなくはないかと思ふ。何故なれば、この歌の發展して來た母核は、「泣く兒守る」にあるのだから、「泣く兒守る山」の句が變化する筈がない。「人の守る山」を母核と考へればこそ、「泣く兒守る山」を變へなければならないやうになるが、この歌では、「泣く兒守る山」が主體なのだ。そして「人の守る山」は、同じことを二度いふのが面白くないため、かやうに言ひかへたに過ぎない。契沖は、卷十一の「人の親の未通女《をとめご》居《す》ゑて守《もる》山邊《やまべ》から」を例として引き、「守山」は三諸山の一名としたけれども、「守山」は敢て三諸山に限らない。神聖なる靈山、換言すれば「タブウのある山」といふ意味で、諸方の靈山はすべて守る山であつた。「天降りつく山」と結びつけて考へることも出來ないものではないが、私はまだそこまでは考へてゐない。雅澄のやうに「山のおもしろさに人のめでて目かれずまもる山」といふ解は三諸山の宗教的意義を閑却し過ぎてゐるであらう。併し「三諸」より「見守《みも》る」と聯想して、次の句に於ける敍景的歎賞の語が出たとは、考へなければならぬやうに思ふ。
 へ、第七句が短句とならず長句となつてゐることは注目せらるべきである。これは句の形態として第二段の發展をなしたことを示したものであり、その樣式については一括して後に論じよう。
 
(456)    二
 
 (2) 右の歌と同一範疇に屬するものには、次の「譬喩歌」がある。
    階立《しなた》つ 筑摩狹額田《つくまさぬかだ》
    息長《おきなが》の 遠智《をち》の小菅《こすげ》」
    編《あ》まなくに い苅り持ち來《き》
    敷かなくに い苅り持ち來て
    置きて 吾を偲《しぬ》ばす
    息《おき》長の 遠智《をち》の小菅《こすげ》。」
 
 イ、この歌は元來「遠智の小菅」を發想の核心とする。その發想の核心にそれぞれ修飾的部分を加へて、繰り返しをなした。これは常の仕方である。そして最初に四句、次にそれを複雜にした八句を置いて、合計十二句にしたのであるが、形式の母型は四句體八句體である。
 ロ、かやうに繰り返しをなす場合には、最初を單純に「息長の遠智の小菅」とだけすればよい譯である。然るにそれに「階立つ筑摩狹額田」を附け加へたには、何等かの意味がなければなら(457)ない。この「譬喩歌」は、或る男より何等かの形式で妻といふやうな地位が與へられてゐるに拘はらず、今一向夫の愛を得て居らず、その夫の愛は他の女に移つてゐるといふやうな境遇にある女が、その境遇を歎いて作つたものであると思ふ。(勿論民謠であるからさうした作者を假定。)そこでこの「息長」にも意味があり、それは「置き長」と語をかけて、長く自分を放任すると見るべきである。さもなければ、歌の中の「置きて」といふ語が生きて來ない。「階立つ」はさうした枕詞の例が他にないから、「しなてる」の誤であらうといふ説がかなりに強いけれども、私はさうは思はない。筑摩狹額田を態々持出したのは、その田が山腹に狹く段階をなして存在することを言ひたかつたからで、「階立つ」とはかく段階的になつてゐることの意である。即ち捨てられてゐる自分と、現に愛を得てゐる女との問に、地位にけじめのあることをいつたものである。かやうに見なければ、折角譬喩歌と銘を打つたこの歌の面白さは過半取り去られて了ふ。「しな照る」の「照る」といふやうな語は、この歌には決して使はれない。「遠い」意味、「もとへもどる」意味の「をち」を瞬間的に聯想させる「遠智」といふ語を使つたところが、やはりこの歌の技巧なのだ。(歌の解釋をなすに歌形の研究が先行的に必要であることは、この歌や前の歌の解釋に於いてよく示されるであらう。)
 ハ、「息長の遠智の小菅」といふ形式は、注意すべきものである。即ち終を長長句でとめたところが、甚だ古い形式なのだ。志良宜歌の古い形式がかうなつてゐて、それが幾分か後世風に修(458)正せられた、『琴歌譜』の志良宜歌では、同じ内容でありながら長長句どめとなつてゐる。かやうに短長句でとめる例は、紀記にも割合に少ないし、萬葉ではなほ甚だ珍らしい。しかも終末の長句が、「をちの、こすげ」と三三調になつてゐるところは一層古い形式で、四分の二拍子の踏舞から發達したままの民謠では、その一小節ごとに一休止音をおき、かやうに三三調となつたであらうと思ふ。この三三調から七音の出る場合には、我國の仕方では、どの句も短長になる一つの特性を持つてゐるから、先づ三四音どめになつたであらう。それは前の歌の「泣く兒守る山」といふ形式である。奇數句に於いても最初は三音となり、次に四音となり、最後に五音が發達したやうに考へられる。この歌では、「おきて」の三音、「しなたつ」の四音、「あまなくに」「しかなくに」の五音と、すべての形式が存してゐるが、殊に「をちの、こすげ」に對し「おきて」の三音が殘つてゐるのは珍らしい。
 全體として、歌形的に見たこの歌は甚だ古い。ただこれ程譬喩を巧妙に、しかも細技巧的になすところは、單純に民謠的に民衆の中で發達した結果とばかりは、見る譯にいくまいと思ふ。隨つてこの歌そのものは、大いに文學的の修飾を加へられた後のものであるかも知れないが、ただそれに母核となつた元の歌は、極めて古い形式のものであつたらうと思ふ。或は『萬葉集』中最も古い形式をそのままに殘してゐる歌は、この歌であるといつてよいかも知れない。(歴史的に、この歌が最も古く作られたといつてゐるのではない。)奇數句歌體が壓倒的の支配をなしてゐる(459)『萬葉集』に、かうした歌や前の「泣く兒守る山」の歌やの形式が殘つてゐるのは、寧ろ甚だ珍らしいことと言はなければならない。
 (3) この歌に似た形式のものは、卷十六の「琴洒を、押垂小野《おしたるをぬ》ゆ」といふ歌である。
 
   琴酒を 押垂小野《おしたるをぬ》ゆ
   出づる水 弱《ぬる》くは出でず
   寒水《さむみづ》の 心もけやに
   念《おも》ほゆる 音の少なき
            道に逢はぬかも」
   少なきよ 道に逢はさば、
   いろげせる 菅笠小笠《すががさをがさ》
   わが頸懸《うなげ》る 珠《たま》の七條《ななつを》
   取り替へも 申さむものを
   少なき 道に逢はぬかも」
 
 この歌には、いろいろの形式が複合して來てゐるから、必ずしも右の如くにのみ整理せらるべきものではない。例へば、前半の「念ほゆる」以下は、後半と對にするならば、
 
(460)   念ほゆる 音の
   少なき 道に逢はぬかも」
 
とするが正しく、母型はそれに近いものになつてゐたかも知れない。そして「音の」「少なき」が、それぞれに一句として短かい句であつたために、いつの間にか長句のリズムに支配せられ、その中に引き入れられて二句の合した一長句になり、前半は奇數句歌體になつたかも知れない。そのことは、後半末尾との對照によつて推測せられる。かやうに偶數句歌對が奇數句歌體に進んだ場合は、甚だ多かつたことであらう。
 イ、この歌の前半は、九句、後年は十句となつてゐるが、かやうに奇數句歌と偶數句歌とが一緒になつてゐるのは珍らしい例である。併し前半も本來は十句體であつたと考へれば、少しも不思議でなくなる。
 ロ、後半の終末は、「少なき、道に逢はぬかも」となつて、短長句どめになつてゐる。
 ハ、十句といふところが大陸系的であり、殊に新羅郷歌の形式に共通的である。
 ニ、多くの歌では前半は單に感動的に呼びかけとなり、後半で内容のある説明をなして、終末をまた感動的の呼びかけにするのが古い形式であるけれども、この歌では前半で内容のある説明をなし、後半はそれを敷衍しただけの、それを除き去つても歌の姿を害さぬものになつて居り、(461)それがまたこの歌の個性である。かやうにして、歌の母型は寧ろ末尾の繰り返しにあるのが古い形式だけれども、それの發達したものでは、後半に附加的修飾的の繰り返しをつける形式も出來てゐるのだ。
 
     三
 
 (4) 八句體十句體といふやうな形式がもう一段内容を複雜にした結果、十六句體二十句體となる場合がある。しかしこれは歌謠の音樂的形式から言へば、八句體十句體より著しく性質の違つたものだとはいはれない。八句體十句體風にして書いて見ると、次のやうになる。
 
   隱口《こもりく》の泊瀬《はつせ》の國に さ結婚《よばひ》に吾が來《く》れば
   たなぐもり雪は降り來 さ曇り雨は降り來
   野《ぬ》つ鳥|雉《きぎし》とよみ 家つ鳥|鶏《かけ》も鳴く
   さ夜は明けこの夜は明けぬ 入りて且|眠《ね》むこの戸開かせ。
 
 この歌ではまた終末が長長句となつて既に新らしい形式に移つてゐるけれども、それでもなほそれらの句は三四調になつてゐる。
 
(462)   空みつ大和の國 あをによし寧山《ならやま》越《こ》えて
   山城の管木《つつき》の原 ちはやぶる宇治《うぢ》の渡《わたり》
   瀧《たぎ》の屋《や》の阿後尼《あごね》の原を 千歳に闕《か》くる事|無《な》く
   萬歳《よろづよ》に在り通《がよ》はむと 山科《やましな》の石田《いはた》の森の
   皇神《すめがみ》に幣帛《ぬさ》取り向けて 吾は越え往《ゆ》く相坂山を
 
 この歌でも末尾は長長句であり、既に新らしい形式に移つてゐる。そしてかやうに句數が多くなれば、八句體十句體より發展した十六句體、二十句體であるか、それとも單に順次に句數の殖えて行つたものが、偶然十六句二十句になつてゐるのであるか分らなくなる。歌形全體の構成を見ても何處で特に著しい段落が出來てゐるといふこともない。或はただ順次に句數を殖やして行つた結果、かうなつたと見るが正しいかも知れない。併しとにかく偶數句的に終るところは、古い形式、大陸的形式を殘してゐるものといはなければならない。
 (5) 次の歌は「泣く兒守る山」「息長の遠智の小菅」などと同樣に古い形式のものである。
 
   百岐年《ももぎね》 美濃《みぬ》の國の
   高北の 八十一隣《くくり》の宮に
   日向ひに 行きなむ宮を
(463)   ありと聞きて 吾が通|路《ち》の
   於吉蘇山《おぎそやま》 美濃《みぬ》の山」
   靡けと 人は踏めども
   斯《か》く依れと 人は衝けども
   意無《こころな》き 山の
   於吉蘇山 美濃の山。」
 
 この歌の句形も判然とせず、各句を何處で切るべきかは問題である。右のやうに句切れを取ることも出來れば、「於吉蘇山美濃の山」を一長句と見、「意無き山の」をまた一長句と見ることも出來る。さうすれば、前半は九句後半は六句となる。とにかくその一方に偶數句歌體を含むところが大陸的形式である。しかし六句體といふ場合は出來るに困難であり、四句體八句體が最も出來やすいものであるから、この後半はやはり今なしたやうに句切れを取るのが適當でないかと思ふ。
 イ、終末に短短句を取つたところが注目せらるべきである。即ち極めて原始的な四句體歌に於いて、各句等長的であつた時の名殘りをとどめるものである。
 ロ、「美濃の、國の」が三三調で古く、「百岐年《ももきね》」「靡《なび》けと」が各々四音で古い。
(464) ハ、全體の歌を始める頭句は、「百岐年《ももきね》」「靡けと」となつて、また特別に短かい。かく頭句だけが他の句よりも特別に短かいといふことは、紀記萬葉のすべてに見られる傾向であり、それはまた新羅の郷歌にも見られた傾向である。かうした傾向が大陸の東北端に、共通に行はれてゐたと見てよいものではあるまいか。
 ニ、「於吉蘇山美濃の山」を主題とし、その主題となるものを末尾に置き、かくの如き形のものを二度繰り返す、といふ形式にこの歌は據つてゐるが、かくの如き形態は、上代歌謠に普通に見られた一つの有力な形態であり、その起原はよほど古い。この形態を廣義に於いて、旋頭歌的形態〔六字傍点〕と呼んでも不當ではないであらう。それは敢へて歌謠の文學的形式だけがさうなつてゐるといふのではなくて、上代にかうした形式を生む母體となつた音樂的形式が存在したのではないかと思ふ。
 (6) これまで擧げて來た歌は、偶數句歌形式であるか、或は少なくもその一部に偶數句歌形式を含むものであつた。
 併し旋頭歌的形態には、當然奇數句歌形式のものが含まれてゐる。否寧ろまことの旋頭歌といへば、奇數句歌であるが普通なのだ。
   斧取りて 丹生《にふ》の檜山《ひやま》の
(465)   木折り來て 筏《いかだ》に作り
   二楫《まかぢ》貫《ぬ》き 磯《いそ》榜《こ》ぎ囘《た》みつつ
   島|傳《づた》ひ 見れども飽かず」
   み吉野の 瀧もとどろに
        落つる白浪。」
      反 歌
   み吉野の 瀧もとどろに
        落つる白浪」
   留りにし 妹に見せまく
        欲《ほ》しき白浪。」
 
 イ、この歌では反歌がついてゐるが、この反歌の形式によつて反歌といふものの元來の性質を知ることが出來る。先づ前の歌を見るに、長歌の形式ではあるが、なほ分析すれば八句體歌に片歌がついてゐるのだ。そしてこの全體の歌に於けるテエマは、み吉野の瀧の「白浪」であり、そのテエマが幾度か繰り返され讃歎せられた結果、この歌は出來上つたのである。初めの歌は、片歌が主となり、その主題の内容を修飾的に豊富にしたものである。
(466) ロ、反歌は旋頭歌になつてゐるが、反歌といふ語は支那的に修飾せられた語であるとしても、反歌的のものは最初から存在したものであるから、反歌としては、片歌、旋頭歌、短歌、短かい長歌の何れが來てもよい譯である。要するに初めの歌の主想に對する詠歎がそれだけで終らず、なほ繰り返し詠歎したくなつた時に、この反歌的の形態のものがあとへ幾つも附け加はり、その詠歎を長引かすのだ。また物語風に長く歌つた場合には、逆にその詠歎をコンデンスして.感激を要約し却つて印象を強くするといふ方法が行はれる。これも反歌的の部分である。
 そこで旋頭歌的形態が發達するには、紀の
 
   ぬば玉の 甲斐の黒駒」
   鞍著せば 命死なまし
        甲斐の黒駒」
 
といふ風の形式のものが先づ甚だ古い。この場合には後半の甲斐の黒駒に、内容を含んだ力點が置かれてゐるのであり、前の甲斐の黒駒は、單に詠歎的にこれに呼びかけたに過ぎない。この歌の句切れは、從來の通説では「命死なまし」にあると考へられてゐたが、決してさうでなく、第二句の「甲斐の黒駒」にあるといふことについては、かつて論じたことがある。
 同じ例は次の歌である。
 
(467)   八雲立つ 出雲八重垣」
   妻籠みに 八重垣つくる
        その八重垣を。」
 
 この歌の意味を『古事記』のいふところの如く、「初め須賀の宮作らしし時に、其地より雲立ち騰りき。故《かれ》御歌作《みうたよみ》したまふ」といふのであつて、その即興的の感歎を抒べたものだとすれば、「八雲立つ」のところに句切れがあるとしなければならない。併しながらかやうの形態は普通には存在せず、出雲八重垣が主題となり、それが旋頭歌的形態を以て繰り返されたに過ぎないのだ。隨つて最初の「八雲立つ」は出雲の修飾語だけの意味を持つものであり、『古事記』の敍説は、例によりそれに語原的傳説を附會したものであつたのだ。
 さて次に、主部分の内容が複薙となり詠歎が強くなれば、主部分のあとへその詠歎的の繰り返しをつけるやうになるのであつて、この發達は後のものである。時代が古い程、その詠歎は抒情的に長くならない。そして單純に一語の繰り返しであるに過ぎない。内容の複雜な繰り返しがついた時は、既に表現が技巧的となつた時であり、後の発達のものであることを思はせる。
 先の「落つる白浪」の歌では、詠歎をあとへ繰り返すに、先づそのままに同じ主想同じ言葉の「み吉野の瀧もとどろに落つる白浪」を繰り返して、さてそのあとへこれを多少言ひかへただけ(468)の「留りにし妹に見せまく欲しき白浪」をつけ加へた。これは片歌を反歌としたものと大して相違のない形態であるが、ただ前の歌の語をそのままに繰り返したために、旋頭歌の反歌となつたところが面白いのである。併しかやうに反歌に於いて前の歌の主想と言葉をそのままに繰り返してゐるために、この歌は反歌といふものの意味をよく語るものになつた。
 
    四
 
 (7) 旋頭歌的形態の歌には、次のやうなものもある。
 
   うち日さす 三宅《みやけ》の原ゆ
   直土《ひたつち》に 足|踏《ふ》み貫《ぬ》き
   夏草を 腰になづみ
   如何なるや 人の子ゆゑぞ
         通はすも吾子」
   諾《うべ》な諾《うべ》な 母は知らじ
   諾な諾な 父は知らじ
(469)   蜷《みな》の腸《わた》 か黒き髪に
   眞木綿《まゆふ》持ち あささ結《ゆ》ひ垂《た》り
   大和の 黄楊《つげ》の小櫛《をぐし》を
   抑《おさ》へ挿《さ》す 刺細《さすたへ》の子は
               それぞ吾が妻」
 
 イ、「通はすも吾子」「それぞ吾が妻」の二句を省けば、前半は八句體、後半は十二句體である。この歌も甚だ古い大陸的傾向を幾分か殘存せしめるものといへよう。
 ロ、「うべな、うべな、ははは、しらじ」といふやうな三三調がよく殘つてゐるところも甚だ古い。ここに三三調四句がつづいてゐるが、さうしたことは甚だ珍らしい。
 ハ、「通はすも吾子」「それぞ吾が妻」と、主題になつたものが最後に來り、二つ繰り返されるところが古い形式である。言葉は幾分違ふけれども、この二句は大體に繰り返しと見るべきものである。また前半では、「人の子ゆゑぞ」「通はすも吾子」がほぼ繰り返しになつてゐると見てよい。かくして全體の形態は、旋頭歌的であるといふことが出來る。
 (8) 右の如く旋頭歌的形態のものに於いては、歌が前半と後半とに分れるから、その二つを連ねて一首の歌だと見てもよければ、また前半後半それぞれに別の歌を構成してゐると見てもよい。(470)前半と後半とが問答的に出來、或は實際に別々の人によつて問答的に歌はれた場合にも、その前半後半を合せて一首と見てもよければ、また別のものと見てもよい。かやうにいへば甚だ不鮮明な言ひ方のやうであるが、實際は言ひ方が不鮮明なのではなく、上代に於いては歌の一首といふ觀念が明確でなかつたのだ。歌謠は民族的の生活産物である。今でこそ誰れがこの歌を作つたといふやうに表現と作家とは離すことの出來ない關係を持つが、原始的の生活では、一集團の生活が主となつてゐたので、一つの歌謠を誰れが作るといふやうな個人主義的な、また人格意識の自覚せられた態度は、發達してゐなかつたのだ。だから誰れか一人が歌つて行けば、そのあとへ他の人が歌を附け加へても一向差支へはないし、問答歌をなせば、その問答を以て一内容をなすやうにもなつたのである。かやうの作歌態度にあつては、歌の一首二首の區別がはつきりしないのは當然であつたらう。
 問答的の歌が一首であるか二首であるか分明でないといふことは、シャアマンが二以上の使ひ魔を内在せしめてをり、神懸りの状態の時にその使ひ魔の言葉を交互に口走るとすれば、その違つた使ひ魔の言葉が同一人の口から語られることによつても助けられるのである。例へばシャアマンが善惡二神を神懸らし、惡神が善神によつて征服せられつつある過程を口走つたとすれば、(かくの如き仕方は甚だ普通である。)その征服問答が、一つの統一體をなすのか別々のものをなすのか、甚だ分明でない。神話などもかやうにして語られる場合が多かつたのである。
 
(471)   玉桙《たまほこ》の 道行き人は あしひきの 山行き野《ぬ》往き
   直《ただ》海に 川往き渡り 鯨魚《いさな》取り 海道《うみぢ》に出でて
   惶《かしこ》きや 神の渡《わたり》は 吹く風も 和《のど》には吹かず
    
   立つ浪も 凡《おほ》には立たず 跡座浪《とゐなみ》の 立ち塞《さ》ふ道を
   誰が心 いとほしとかも 直《ただ》渡りけむ 直《ただ》渡りけむ。」
   鳥が音の きこゆる海に 高山を 障《へだて》になし
   沖つ藻を 枕になし ……(中略)……
   ……(中略)……世間《よのなか》ならし 世間《よのなか》ならし
 
 この歌は『萬葉集』では明らかに二首の歌として數へられてゐる。(後に「右九首」とかいてあるが、この歌を二首に數へなければ九首にならない。)併し實際は、二つの歌は内容的に一連續をなしてゐて、二首であるとは考へられない。またそのことは、この二首の歌と同一内容のものを直ぐあとに一首にして歌つてゐるのでも分かる。この歌の想を最初に出したものは、誰れであるか分らない。この卷十三の「或本の歌」の方には、「備後の國神島の濱にて、調使首、屍を見て作れる歌」とあるけれども.卷二には、「讃岐|狹岑《さみね》島に石中の死人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌」とあり、とにかく最初は何人かがこの歌想を歌つたのであるが、それが一般の感興を(472)喚んで乞食者などにより語り物のやうにして歌はれてゐたのであらう。「或本の歌」として一首になつてゐる方は、文學的に一首の形として傳承するものであるし、二首になつてゐる方は乞食者などの歌ひものになつてゐる方であらう。これが乞食者の歌ひものであつたらうといふことは、卷十六の「乞食者の詠二首」の姿や内容と比較して分かることだ。この乞食者の人では、やはり最後を「白《まを》し賞《はや》さね、白《まを》し賞《はや》さね」及び「もち賞《はや》すも、もち賞《はや》すも」と繰り返してゐるが、今の場合の「世間《よのなか》ならし、世間ならし」は、形式内容の何れより見ても、これに最もよく似るものである。乞食者などは、常にかうした社會悲劇を内容とし、聞くものをしてほろりとさせる、言はば明治時代などに流行した「一つとせぶし」のやうなものを歌つてゐたのであらうと思ふ。さてさうした語り物に於いては、何處で言葉を一旦切つても差支へない。聞くものの倦怠を避ける意味からも、何處かに小段節の出來てゐる方がよい。この歌に於いて「直《ただ》渡りけむ、直渡りけむ」があつたのは、その小段節の存在を意味したのである。して見れば乞食者はこの小段節で歌をやめることもあれば、全體を歌つていくこともあつた筈で、小段節のところで一首とすべきかどうかは、一向分明でない。その一首一首の區別の分明でないところが、かうした歌の性質なのであつた。一首のものと二首のものと、何れが原作であるかを決定することがまた從來説の分れた點であるけれども、私はそれも亦この形だけを見てゐては、何れとも決定の出來ないものだと思ふ。
 
(473)    五
 (9) 今の歌では、終末は「世間《よのなか》ならし、世間ならし」と繰り返されてゐたために、長長句を以て終る偶數句歌となつた。併しこれは、まことの意味での偶數句歌ではない。奇數句歌の終末一句がなほもう一度繰り返されたに過ぎないものだ。「葦原《あしはら》の水穂の國は」の歌の終末が「言擧《ことあげ》す吾は、言擧す吾は」となつてゐるのは、やはりその例である。
 然るにこの同語の繰り返しだけでは興味が少ないので、少しく内容の違つた語で繰り返しをなし、後には全く繰り返しでなく二句を用ひるやうになれば、結局終末は長長句を以て終るところの偶數句歌となる。そこで全體の形態は、
 
   短     長
   …………………
   短     長
   長     長」
 
となるのである。これは後の發達形態である。だから終末に長句が三つ續く形態は、古いもので(474)はない。またかやうの場合には、特に
   …………………
   短     短
   長     長」
 
として結ばうとする傾向も存在したやうである。
 さてこれまで觀察して來た偶數句歌では、よほど古い形のものでも、「椿花|開《さ》く、うら麗《ぐは》し山ぞ、泣く兒|守《も》る山、」「幣帛《ぬさ》取り向けて、吾は越え往《ゆ》く、相坂山を」と「長長長」の句でとまりになつてゐたが、これらは皆大して古くはない形態である。「長短長」だけで終る形態は古いものであるが、「息長の、遠智の小菅」だけが、さうした形態になつてゐた。
 「見渡しに、妹らは立たし」といふ歌は十四句の偶數句歌であるが、末尾は「榜《こ》ぎ渡りつつも、あひ語らめを」となつて、やはり長長句である。「蜻蛉島《あきつしま》、日本の國は」といふ歌も亦、終末は「まそ鏡、正目《ただめ》に君を、相見てばこそ、吾が戀止まめ」といふ形の偶數句歌になつてゐる。「近江の海、泊《とまり》八十《やそ》あり」といふ歌は、甚だ古い樣式の部分をも持つた偶數句歌であるけれども、これも亦終末は「己《な》が父を、捕《と》らくを知らに、いそばひ居《を》るよ、斑鳩《いかるが》とひめと」となつて長長句どめである。―『奈良文化』(昭和五年五月號)
 
(475)  第五章 萬葉に於ける句の名稱
 
    一
 
 拙著『上代の歌謠』の中で私は朝鮮の『釋均如傳』に現はれた郷歌の形式を取扱ひ、郷歌のこの形式と我が國上代歌謠の形式との間に或る關係の存在することを證明しようと努めた。新羅の郷歌は通常四句體と十句體と二種の形式を持つてゐるが、十句體の形式を持つものは、形式上初四句、中四句、終二句に分たれることが出來、殊に終二句は前の八句より確然と分離せしめられて、前八句と終二句との中間には、通常「阿耶」といふ語が挿入せられてゐた。なほこの終二句は通常は「後句」と呼ばれたものと見える。然るに『均如傳』では、この「後句」といふ語の記される代りに、「隔句」「落」「後言」などの語が記されてゐた。「隔句」「後言」その他のものは何れも一個所づつ使用せられてゐるに對して、「後句」「落句」は二個所使用せられてゐる。(476)この中「落句」なる語は支那の詩でも使へば我國の萬葉でも使つた詩學上の一術語である。隨つて私はこの「落句」を仲介として、詩歌の句名に關し支那朝鮮日本に於ける用語を此較研究することの必要を感じてゐた。以下に記すところは、右のやうな目的の下に萬葉に於ける句名を一應整理して見た結果である。
 萬葉の編著者は、萬葉歌の各句即ち五音七音の各小節をやはり「句」と呼んでゐる。それは卷一の「み吉野の、耳我の嶺《みね》に」の歌を二た通り書いて、「右句句相換れり。これに因りて重ねて載す」と記し、また卷十一の「里遠み戀ひ佗びにけり」の歌に附して「右の一首は上に柿本朝臣人麿の歌の中に見えたり。但句句相換れるを以て故に茲に載す」とあることによつても分るのである。さてそれらの句にいかなる名稱を與へてゐたかと言ふに、「頭句」「發句」「腰句」「末句」「尾句」「落句」といふやうな術語を使つてゐる。
 
     二
 
 これらの句名の中で先づ最も明確に使つてある例は、卷八の家持と尼との問答歌であらう。「尼頭句を作り、并大伴宿禰家持、尼に誂へられて末句を續ぎて和ふる歌一首」と題して「佐保川の水を塞《せ》き上げて植し田を 尼の作 苅る早飯《わさいひ》は獨なるべし 家持續ぐ」と記してある。然らばこの(477)場合には所謂上の句が頭句、下の句が末句であつて、頭句、末句は對に使はれてゐる。
 頭句はかく上の句の意に使はれてゐるけれども、すべてさうであるかといへば、「人の見て言とがめせぬ夢《いめ》にだに止《や》まず見えこそ我が戀|息《や》まむ」(卷十二)には「或本の歌頭に云ふ、人目多み直にはあらず」と註記せられてゐる。「頭」は「頭句」の意であらうが、これで見れば頭句は第一句第二句を意味するものになつてゐる。頭句が長歌に使はれた例は、「見渡しに妹らは立たし」の歌の註記であつて「或本の歌頭句に云ふ」と記された。この長歌は十四句の偶偶句歌であるが、註記の歌句はその前半の六句である。隨つてこれは略々短歌の上の句の意に匹敵するであらう。末句も亦、下の句のみを意味するかと見れば、「若の浦に袖さへぬれて忘貝拾へど妹は忘らえなくに」(卷十二)には、「或本の歌末句に云ふ、忘れかねつも」とあつて、單に第五句を意味するものになつてゐる。なほまた「足柄の箱根の山に粟蒔きて實とはなれるを逢はなくも恠《あや》し」(卷十四)の註記「或本の歌の末句にいふ、蔓《は》ふ葛の引かば依り來《こ》ね下なほなほに」では、第三句第四句第五句が末句と呼ばれてゐるが、これは下の句と呼ぶことの延長とも見ることが出來よう。
 頭句よりも頻繁に用ひられるのは「發句」といふ語である。「現にも今も見てしか夢のみに纏《ま》き宿《ぬ》と見れば苦しも」(卷十二)の註記「或本の歌、發句に云ふ、吾妹兒を」では、發句の第一句を意味する。然るに「今日もかも明日香の河の夕さらず蝦《かはづ》なく瀬の清《さや》けかるらむ」(卷三)の註記「或本の歌、發句にいふ、明日香川今もかもとな」は第一句第二句、「吾妹子に吾が戀ふらく(478)は水ならば※[竹/冊]《しがらみ》越えて行くべぐぞ思《も》ふ」(卷十一)の註記「或本の歌、發句に云ふ、相思はぬ人を思はく」も第一句第二句、「ひろ橋を馬越しかねて心のみ妹がり遣りて吾《わ》は此處《ここ》にして」(卷十四)の註記「或本の歌、發句に曰く、小林に駒を走ささげ」も第一句第二句を發句と呼んでゐる。この場合には頭句と發句との間に區別がないとも見られるが、頭句は末句に對し概して上の句を意味するものならば、發句は頭句よりも局限せられた意味で使はれ、先づ第一句第二句位までを意味して、第三句にまでは進み難いものと見ることが出來よう。
 尾句といふ語は頭句又は頭句腰句に對して用ひられたものであらう。「君待つと庭にし居れば打靡く吾が黒髪に霜ぞ置きにける」(卷十二)の註記「或本の歌、尾句に云ふ、白妙の我が衣手に霜ぞ置きにける」では、尾句は第三句第四句第五句を意味する。併し二句切れの歌では、第一句第二句が前半、第三句第四句第五句が後半になりやすいから、第一句第二句を頭句と呼べば、第三句以下を尾句と呼ばなければならぬやうになるものであらう。然るに頭句と尾句との間に腰句といふ語を介入せしめれば、この關係は變つて來なければならない。「橘の寺の長屋に吾が率宿《ゐね》し童女放髪《うなゐはなり》は髪あげつらむか」(卷十六〕の註記には「右の歌は椎野連長年が脉に曰く、それ寺家の屋は俗人の寝處にあらず。また若冠の女を※[人偏+爾]ひて放髪丱といへり。然らば則ち腹句已に放髪丱といへれば、尾句に重ねて若冠の辭を云ふべからざるをや」とあつて、そのあとに第四句第五句をいささか變形せしめた歌を、「決めて曰はく」として記してある。右の註記の中、佐佐木氏本(479)では「脉」の字は『代匠記』書入により「説」の字に、「腹句」の字は西本願寺本により「腰句」の字に改められてゐる。今はこの腹句と尾句とが問題となるのであるが、『歌經標式』などでも頭、胴、腰、尾の字は普通に使つてゐるけれども、腹の字は使つてゐないから、西本願寺本に隨ふこととする。さてこの用例では、明らかに第四句が腰旬、第五句が尾句と呼ばれてゐるのである。契沖は「腹句とは今は第四の句を指せり。第一句を頭とし、第二を胸とし、第三四を腹とし、第五句を尾とする意なるべし」と論じてゐる。いづれにせよ、實例の示す限りでは、第五句だけが尾句と呼ばれてゐた。然らば腰句とは何であるかといふに、今の實例では第四句がその名で呼ばれてゐたけれども、『歌經標式』には「第三句を腰となす」と記されてゐる。蓋し五句ある短歌では、第三句が中央句であるからこれを腰句と呼ぶのは合理的であらう。併し今の短歌では、内容上「うなゐはなり」が中間的のものになつてゐるために、必らずしも形式的に第三句を腰句といふことが出來ず、その内容にひきずられて第四句を腰句といつたものであらう。
 落句といふ語は「淺茅原小野に標《しめ》結ふ空言《むなごと》も逢はむと聞こせ戀の慰《なぐさ》に」(卷十二)の註記に「或本の歌に曰く、來むと知らしし君をし待たむ。また柿本朝臣人麿の歌集に見ゆ。然れども落句少しく異れるのみ」として記されてゐる。『人麿歌集』に見えた歌といふのは「淺茅原小野に標繩結ふ空言をいかなりといひて君をし待たむ」(卷十一)であつて、なほ卷十一には「淺茅原|假標《かりしめ》さして空言もよそりし君が辭《こと》をし待たむ」といふ歌も見えてゐる。『人麿歌集』のものと卷十二の(480)ものとを此較すれば、第四句第五句に相違があるから、落句とは第四句第五句を意味するものであらうか。然るに契沖は「下の句の心すべて替れるを然落句小異耳とは不審なり」と書いてゐるが故に、落句は第五句を意味すると考へたのであらう。落句とは元來五七言律詩の七八の二句を指すものであり、『文鏡秘府論』などもその語を使ひ、やはり實例として二句を掲げてゐる。然る場合には、新羅郷歌では十句體歌の最後の二句、これを漢譯詩に直したものでは第七句第八句になる部分を落句と呼ぶのは、いかにもふさはしい。併し我國の短歌では、最後の二句の意で第四句第五句を落句といつたか、第二句第四句第五句の七音を内容上二句に分ち、結局短歌を八句的に考へ、最後の第七句第八句即ち下の句の最後小節をこの名で呼んだか、或はなほ短歌と漢詩とを大體に比較して、最後の約四分の一、即ち短歌の第五句をこの名で呼んだか、何れとも定め難い。ただ最も穏當な使ひ方を言へば、第五句のみを落句と稱すべきであらう。『歌經標式』では「曉と鶏《とり》も鳴くなり寺寺の鐘《かね》も響《とよ》みぬ明け出でぬこの夜」の歌に就き、「七字を落句とすべきを、今八字を終の句と爲せり。故に列尾といふ」と記して、第五句のみを落句と呼んでゐる。
 
    三
 
 さて以上の如く整理して見れば、末句は大體頭句と對になつてゐるといふことが出來よう。そ(481)して極めて普通には、頭句は上の句、末句は下の句を意味する。併し勿論その用例は嚴格でない。また頭句腰句尾句が互ひに對となつた語として使はれてゐる。契沖は前述の如く、第一句を頭句、第二句を胸句、第三句第四句を腹句、第五句を尾句と呼んだが、それは第二句と第三句との間に通常句切れがあると見た結果であらう。短歌の内容を顧慮せす、純粹に形式的の使ひ方をしたものは『歌經標式』であつて、それでは「第三句を腰と爲し、以上を頭と爲し、以下を尾と爲す」と記してゐる。第三句を腰句と呼んだのは、五言律詩に於いてその中央の第三言を腰と呼んだことを演繹したものと考へられる。『文鏡秘府論』には、「腰は五字の中第三字を謂ふ」と見える。かやうに第一句第二句を頭句、第三句を腰句、第四句第五句を尾句と呼ぶのは、形式的にはいかにも整然としてゐる。なほ『歌經標式』の實例では、第一句を發句、第五句を落句と呼んである。これもまた形式的にはよく整理せられたものといふことが出來よう。なほついでながらいへば、『文鏡秘府論』でも、隔句とは第一句第三句の如く、中間に一句を隔てた兩端の句を呼ぶのであつて、『均如傳』に於ける隔句とはその意味を異ならしめるのである。
 かやうに見て行けば、形式的に整理せられた樣式としては、先づ頭句と末句とを對にして上の句下の句を意味せしめ、また次に第一句第二句を頭句、第三を腰句、第四句第五句を尾句、特にその中の第一句を發句、第五句を落句といふが便利であらう。萬葉に於いても、大體にこの傾向は見られないではない。併しながら個々の實例を見れば、必らずしもその整理せられた樣式に隨(482)はず、句々互ひに參差出入するものになつてゐるといふのは、專ら短歌の内容に拘束牽引せられたことと、短歌の各句に嚴密な句名が定められてゐなかつたこととに原因を持つものであらう。要約していへば、我々は次の如くに觀察することが出來ると思ふ。
 1、 萬葉に於ける短歌の句名としては、嚴密に定められたものがない。支那の詩の句名などを借りて來て漠然とは種々の術語を使つたが、それらは短歌の形式と内容との雙方を顧慮して大略的に呼んだに過ぎないものだ。
 2. 頭句と末句との區別は相當に明らかに現れる。然るに頭句腰句尾句の區別は甚だ曖昧であつて、殊に腰句といふ見方は不必要であるやうに見える。このことは何を語つてゐるか。歌謠としての短歌の見方よりすれば、短歌は二句四句切れとなるものであり、隨つて前二句、中二句、後一句の構造を持つものであるが、文學としての短歌は、上の句下の句の二節構造を持つものとなつて行つた。萬葉歌に於いて頭、腰、尾句の別が曖昧であり、頭句、末句の別が相當に明らかであるといふことは、萬葉歌の形式的意識が、上の句下の句的の二節構造になつてゐることを示すものと言へよう。
 3.  『均如傳』では後句落句等の名稱は確然と第七句第八句を意味するものとなり、それ以外のものを呼ぶことがなかつた。それは『均如傳』の郷歌が、謠はれる歌謠であり、隨つて歌謠の曲節が郷歌の文學的形式を限定したからである。然るに萬葉歌の句名に確然たる名稱がなかつた(483)のは、萬葉歌は既に歌謠より文學の域に進んでゐるために、歌謠の曲節よりの限定を受けず、既に文學として獨立した自由形式を持つためであるとしなければならない。短歌のこの自由形式に漢詩風の句名を適用しようとすれば、不自然のものになるのは當然のことである。ここに短歌は短歌固有の句名を用ひることが必要となつて來た。上の句下の句などの名が起つたのは、當然の傾向の追求である。
 4. 漢詩風のこれらの句名が、主として卷十二、十三、十四、十六などに使はれてゐることも亦相當に注意せられてよいことであると思ふ。さうした術語などを使ひたいものは、漢文學に達した人であると推定しなければなるまい。卷十二などは頭句發句末句尾句落句の語を便つて用例最も多岐である。隨つて以上の諸卷などは、先づ漢文學に達してゐた人が最初に撰集したものでないかと考へられるのである〔隨つてから四十七字傍点〕。
 5. かやうに句名に漢詩風のそれを通用したとすれば、同時に漢詩に於ける詩病の論を演繹して、短歌に於ける歌病の論をなしたと推定しなければならない。寶龜三年の撰といふ『歌經標式』の如きものが生れたのは當然のことであつた。恐らくかうした歌病の論は、萬葉の例より推して『歌軽標式』よりも早くから行はれてゐたと思ふ。卷十六に椎野連長年の説として註記したものの如きは、歌病論の存在したことの片鱗をそこに示したものと見ることが出來、長年のやうな人は我國に於ける歌論家の最も早く現はれた一人であると見なければなるまい。また「脉」といふ(484)字が「説」の字でなく、「脉」のままでよいものとすれば、これは『歌經標式』の如き歌論書の名であつたと考へることも出來よう。―『奈良文化』(昭和四年十一月號)
 
 
(485)      第六章 怕物の歌
 
      一
 
 『萬葉集』卷第十六の最後にある「怕《おそ》ろしき物の歌三首」は、一體如何なる内容の怕ろしさをうたつたものであらうか。先づ歌をあげて見る。
   天《あめ》なるや神樂良《ささら》の小野に茅草《ちがや》苅り草《かや》苅りばかに鶉を立つも
   奥《おき》つ國|領《うしは》く君が染屋形《しめやかた》黄染《きしめ》の屋形神の門《と》渡る
   人魂《ひとだま》のさ青《を》なる君がただ獨逢へりし雨夜《あまよ》は久しく念《おも》ほゆ
 
 これらの歌の解については從來諸説あるが、今一々ここに引用することをしない。私は今次に、それらの諸説とは多少違つた解釋の一説を述べて見たい。この歌は上代人の怕懼する精神生活を(486)うたつてゐるが、その怕懼は或る時代の上代人全體に共通の性質のものであつたか、或はまた何れかの一地方にだけ行はれてゐた怕懼の習俗であつたか、なほ或は單にその作歌者が詩人的の豊かな想像心から考へ出した怕懼であつたか、それらのことはこれと同一又は極めて類似の内容を記載した、確實の傍資料の存在しない限り、全く確定の出來ないことである。併しこの歌を聞いたものがやはり同一の怕懼を感ずるのでなければ作歌も出來ない筈であるから、たとひその内容が全く作歌者個人の想像に出たものであつたにせよ、それにはやはりその時代の民俗的な怕懼意識が基礎として存するといはなければならない。さて私は解釋について一説を述べるといつても、既にいつた如く確實な傍資料の殘存しない現在を以ては、この釋も亦單なる假説であることはいふまでもない。
 私はこれら三首の怕懼の内容は、互に全く無關係のものではなくて、何等か關聯のあるものだと考へるのである。第三の歌の内容は、細かく考へれば種々問題になるところがあるけれども、大體に於いては先づ何人にも共通に考へられる解釋があり、それが一般の説になつてゐる。即ち青い色をした人魂に雨夜ただひとり出逢つた恐ろしさを述べたものであらう。第二の歌は、これから私が假説を述べて見ようとするところのものである。從來の諸説が海を渡る船の恐ろしさを述べたとするのは恐らく誤謬であつて、これは葬式のことを述べて居り、やはり死者の恐ろしさをうたつてゐると思ふのである。第一の歌の意味は、はつきりは分らない。併しこれもやはり單(487)に、俄かに飛び立つた鶉に驚かされたといふ以上に、何等か形而上的な怕懼が直接に歌はれてゐるのだと思ふ。「神樂良《ささら》の小野」は笹のある小野であらうか、或は固有名詞であらうか。「天なるや」は、やはり「天に存在する」といふやうな意味であらう。天に存在する神樂良の小野で茅草を苅つてゐたところが、突然鶉が飛び立つて驚かされたといふからには、この野で茅草を苅ろことそのことが、既に何等か怕懼を感ずるものでなければならない。萬葉の漢字は何れもよほど嚴格に使用せられてゐるのであるが、「怕」といふ字は「驚怕」とも使つてゐるから、驚いた意味は全くないとは言へないけれども、やはりその語義は「懼」であり、「おそれる」であつて、恐怖する意味を持つのである。それ故單純に鶉に驚かされた場合には「驚」といふがよく、その「驚」が「怕」に轉じたからには、最初よりその神樂良の小野は、恐ろしい場所であつたに相違ない。その恐ろしい、無氣味な、――さうだ、この三首の恐ろしさは、みな「無氣味さ」をうたったものだ。――場所で、内心兢々としながら茅草を苅つてゐると.突然飛び立つた鶉に驚き恐れしめられたのである。この場所の茅草も、何等か恐怖に關係があるのではないかと思ふ。上代には「かや」や「ささ」は、屡々呪的の意味に使用せられてゐたやうで、文獻にその用例がある。私はこの天に存在する神樂良の小野が、やはり死者の世界と何等かの關係があるのではないかと思ふのである。その無氣味な神樂良の小野でぴくぴくしながら茅を苅つてゐる時に、足許から鶉に飛び出されたら、「そらこそ出た」といふやうな不意打の氣持で壓倒せられ、さぞかし肝のつ(488)ぶれる、無氣味なものだらうと、この作者は想像したのである。しかし神樂良の小野をどう考へたかといふ傍資料の存在しない限り、この歌の内容は、嚴密には決定せられない。
 
     二
 
 さて第二の歌である。私はこの歌の内容は、相當によく理解せられると思ふ。これは死者のことを歌つてゐる。
 「奥つ國」はオクツキと同樣意味の語であつて、單に遠いところにある國を意味するといふよりは、當然死者の行く國を意味したのである。その國を領はくといふのは、死者は既に靈となり、神のやうになつたからである。「神の門」とは、死者がその奥つ國へ渡る海を意味したので、死者の國と現實の國との中間に存在する海だから、これを「門《と》」といつたのである。古代に於いては、人が死亡すれば、その人を海上遥かのところに存在する死者の國へ送るため、死屍を舟に乘せ海へ突き出すか、或はとにかく沖合までさうして出てその後死屍を水葬にするやうなことがあったものと私は推定してゐる。そこでこの歌にかへつて見ると、この歌では死者が黄染の屋形船にのつて、海の門を渡り、奥つ國へ行くことの無氣味さを歌つたものと思ふ。尤もこの歌のつくられた頃には、實際は水葬が行はれずに、棺を舟形の輿のやうなものにのせて陸上を牽くか或は(489)擔つて歩いたかも知れないし、或はまたさうした習俗さへ全く廢棄せられて、單にかうした民間信仰だけが殘つてゐたかも知れない。單なる民間信仰と考へる方が、この歌の時代としては或は事實に近いかも知れない。
 古代に右の如き樣式の水葬の行はれたことは、『北史』と『隋書』の「倭國傳」に、我國の葬儀の模樣を記して、「葬に及び、屍を船上に置き、陸地之れを牽く。或は小輿を以てす」とあることにより明瞭である。當時の支那記録はよほど正確で、事實の在りのままを傳へてゐると思ふが、かやうの記載をこの歌に對照して考へれば、死者を舟に乘せて海上より奥つ國へ送らうといふ民間信仰民間習俗のあつたことは疑はれないと思ふ。
 神社の神體が御舟代の中に安置せられることは、既に故高橋健自博士が論じられてゐたやうに、船形の棺と關係あるものであらう。博士は仁徳帝陪塚及び新庄下の木棺が朽廢してはゐるが舟形であるらしいこと、石上神宮に存する伊勢神宮の御舟代の模造が舟形石棺と殆ど同一であつて區別せられず、國懸神社の御舟代も亦それと同形式であることをあげてゐられる。神と死者の靈とは、宗教意識の發達上最も關係の深いものである。今の歌にも「神の門」といつてあるが、それは字義通り神の門でもあればまた死者のわたる門でもあつたらう。神を祭る場所と死者を葬る場所とは、同じい地形である。「遷却祟神祭」の祝詞には、神のとどまる場所を「此地よりは、四方を見|霽《はる》かし、山川の清けき地」とあるが、『幡磨風土記』には、「朝夕日不v隱之地造v墓藏2(490)其骨1」とある。また『常陸風土記』香島之宮の條に、津の宮に舟を造つて納める記事のあるのは、津に關聯した宮である關係もあらうが、また神社と舟との關係の一端を語るものであらう。
 その船には黄土を塗つたから「黄染の屋形」といつたのであらう。しかしその黄土を何故棺船に塗つたものであるかの理由ははつきりとは分らない。『幡磨風土記』の逸文には、「新羅の國を丹浪《にふなみ》を以てことむけたまはむ」といふ神教に隨ひ、赤土を出して天の逆桙に塗り、神舟の艫舳を建て、また御舟裳及び御軍の著衣を染めた記事がある。石棺には、實際その内側の全面を赤色に塗ること、肥後の國天草郡維和村廣浦の石棺の如きものがある。それ故舟形木棺の赤を黄土又はそれに多少加工したもので黄色赤色に塗つた所謂「黄染の屋形」は、實際上代に存在したものであらうと思ふ。
 以上の如き民間習俗の背景を以てこの歌をよむ時には、その歌の内容はよく理解せられると思ふ。この習俗は或は我國の全體に行はれたものではなく、何處か一部分の地方で行はれたものであるかも知れない。そしてその習俗の由來するところは、いふまでもなく海洋に關係の多い南方文化系であつたらう。さてこれら三首の歌の中の二首までが死者のことを詠んだものであり、なほ第一の歌は天に存在する野の無氣味さを詠じたものであるとすれば、第一の歌に於ける神樂良の小野といふものも、死者が昇天した後に行く野であるかも知れない。そして現實的には、死者を廣野の中に遺棄する葬儀の樣式があつて、そのことは天の神樂良の小野に死者の靈を送ること(491)であると考へられてゐたかも知れない。もしさうであるとすれば、我國にもかうした一種の葬法があつたこととなる。(或はさうまで考へないにしても、山地の狩獵民は屡々山野で狩獵中に死亡し、そのまま死屍が山野にさらされるか或は獣に喰はれて了つたであらうから、自然にその死者に對し、かうした民間信仰が出來たかも知れない。)この場合には、死者の行く國に就いて前の水葬とは全く別の民間信仰の存在したことになるが、その民間信仰は勿論北方大陸系の狩獵民文化に關係が多い。先づはかやうの想像説も立てられるわけである。しかし言ふまでもなく第一の歌についてのこの説は全然傍資料のない想像であつて、世界にさうした葬法がある以上、我國でも極めて古くは、その位の簡單な葬法又は少なくもそれに類する民間信仰も存在しはしなかつたかと空想を走せるだけのことである。―『奈良文化』(昭和六年二月稿)
 
(495)  附録 第一
 
   國文學の哲學的研究、第二卷『文學の發生』卷頭の序
 
 本書の第一卷が、國文學に何等かの方法論的提議をなしたものとして幾分か學界に注意せられ、先輩知友及び讀者の諸氏より懇篤なる批評や忠言を受けたことは、著者の感謝に堪へないところであつた。この第二卷を公表するにあたり、それらの批評に對して劈頭幾分の所懷を述べ批評者の好意に應へることは、著者としての第一の義務であり且つ禮儀であらうと思ふ。
 第一に、著者に對して一般に他我の容認は如何にして可能であるか、理解《フエルシユテエエン》は如何にして可能であるか、と質問せられたものがあつた。私はこの質問に對して、本書の中で應答しようとは思はない。何故なれば、哲學的にかくの如く根本的なる問題は、本書の中でこれを取扱ふに適し(496)ないからである。他我の容認、理解の作用の可能が證明せられなければ、敢て國文學だけではなく、史學、倫理學、社會學の如きも亦成立するを得まい。隨つてこの種の問題を論ずることは、本書に於いてこれをなすよりも、哲學の一般理論的考察の論著に於いてこれをなす方が適當してゐる。私はその問題の考察を既に私の別の著書の中で書いてゐるから、詳細はそれの考察に譲つて置きたい。(註一)
  (註一) 拙著『現代哲學概論』、昭和三年刊、第八章、「理解と歴史」、二一五−三九頁。拙著『社會哲學』、昭和三年刊、第一部第九節、「社會概念の成立」、四三−四九頁、參照。
 第二に、私の取つた方法は一の個人的、内面的方法であり、これに對して別に社會的、外面的方法、例へば民族學的方法、社會經済史的方法の如きが成立しはしないかと批評せられたものが多くあつた。私はこの批評に勿論一部分同意したい。それは、私の如き精神科學的、内面的考察の方法に對して、何等か自然科學的方法に準ずべき外面的觀察の方法は確かに成立するを得るからである。併しこのことは精神科學的、哲學的方法が、最初から容認してゐることである。これら二つの方法は互に何の矛盾もなく、成立し得るのである。殊に私の如く從來の教養上社會科學的研究方法に慣れて來たものは、文藝的作品の考察に、大いにこの外面的觀察の方法を取りたいと考へてゐる。併し國文學の方法が解釋であり、結局は作品の上へ解釋的に歸り來るべきものであるとすれば、私はこの外面的方法には一の限界が存し、その限界を容認するところに他の内面(497)的方法が出發すると考へるのである。それは精神物理學的心理學の限界に内省心理學の出發點があるといふと、同一の論據を以てである。外面的觀察の結果は、やはり内面的全體生活よりの意義附與を得なければならない。さうでなけれぽ、文學は文學として解釋せられることがないのである。それ故に私は、外面的觀察の方法、例へば民族學的方法、社會經済史的方法の成立を容認するが、更にこの成果に内面的全體より意義を附與する精神科學的、哲學的方法を、國文學の中核的部分であると主張したい。(註二)
 併しかうした精神科學的、哲學的方法を個人的方法であると見るならば、それは誤謬である。精神科學は、最初より歴史的、社會的〔三字傍点〕現實をそれの對象とする。精神生活は、個人の生活に就いてこれを考へる如く、また社會的生活統一に就いてもこれを考へるのである。(註三〕なほここに誤解を避けるために書いて置きたいと思ふことは、「精神生活」なる語の意義であるが、この語を歴史的、社會的文化の或る狹い範圍に就いてのみ適用するならば、それは誤謬であらう。精神生活は、客觀的文化のすべてに對する。ただこの客觀的文化を體驗の内面的、全體的、統一意義に於いて考へるから、これを精神生活と呼んだのである。生活が二部分に分れて、精神生活と物質生活とになるのではない。また私の方法が、價値的解釋の方法を取るところから、作品の値打を批評するものの如くに見られてゐることもあつたが、私の意味したのは、目的的〔三字傍点〕、又は價値關係的〔三字傍点〕の意味であつて、作品を批評〔二字傍点〕する意味ではない。(註四)
(498)  (註二) 「歴史的に與へられる特徴を、我々はただ精紳生活の内面性から理解する。」(W.Dilthey、Das Wesen der Philsophie. Die Kultur der Gegenwart、T.6,、1907、S.31)
  「我々に取つて存在するものは、この内的經驗によつて成立するし、我々に取つて價値を持ち又は目的であるものは、我々の感情と我々の意志の體驗に於いてのみかく與へられる。」(W.Dilthey、Einleitung in die Geisteswissennschaften.W.Diltheys gesam. Schriften、I Bd.、 2 Aufl.、1923、S.9. )
  「併し或る廣い範圍に於いては、精神科學は自然の事實を自らの中に含み、自然の認識を基礎に持つ。」(Dilthey、op.cit.、S.14.)
  (註三) 「歴史的社會的現實をその對象とする諸科學の全體をこの書に於いては、精神科學〔四字傍点〕の名を以て稱する。」(Dilthey.op.ci.,S.4.)
   「生命統一の體系は歴史的、社會的〔三字傍点〕科學の對象となる現實である。」(Dilthey.op.cit.,S.15.)
  (註四) 「心的構造連繋は、一の目的的〔三字傍点〕の特性を持つてゐる。」(Dilthey.D.Wesenc etc.,S.32。)これに關してはリツカアトの詳密なる考察があることは一般によく知られてゐる處である。
 
 最後に、私の方法を以て在來の訓詁的方法に對し非難を發したものと見、これを推奨するものもあれば、又暗に抗議を提するものもあつたが、それは誤解であつて、前者は贔屓の引き倒しであるし、後者は的なきに發する抗議であつた。私は解釋を離れては國文學はないといつてゐる。訓詁的解釋は勿論解釋の全部ではないから、訓詁的解釋を國文學の唯一の目的とするならば勿論(499)誤謬であるが、これを解釋の一部と見、且つその根本に内面的全體性よりの意義附與の態度が存することを容認するならば、訓詁的方法は毫も非難せらるべきでない。(註五)
 併し訓詁註釋を唯一の確實なる、實證主義的なる國文學研究の仕事であると見て、我々の研究の如きは、單に國文學の上に加へた「感想」の發表であり、「研究」の名に値ひしないものであるといふならば、私はその批評者といか程でも方法論上の論議を闘はすことを辭するものではない。客觀的に確實なる方法は、實證主義的方法にのみ限るものではない。生活の全體的統一に就き、それのライトモティフを直觀して、これに隨ひ作品を理解する方法は、科學の客觀的妥當性を要求し得る、一の純然たる科學的方法であるが、この方法の客觀的妥當性を否定するは、自ら國文學に何等の方法的苦悶をも持たないがために、訓詁以外の方法の意義を知らないことに起因する。私の方法は、國文學を資材とし、これに或る社會文化科學的方法を適用して、何等かの文化史的結論を得るものとは、全然途を異にするのである。この文化科學的方法を以て國文學の訓詁的方法に換り得るものの如くに考へる文化科學者があるとすれば、私はそれに賛成しない。彼は國文學の資料に出發して、國文學以外の他の科學の結論に到達したのであるし、私は國文學の資料に出發し、歴史的、社會的、諸文化科學の知識を十分に含みながら、それらすべての見方を統合する唯一の精神生活的全體統一の立場に到り、翻つて結局國文學の資料に歸り來り、これを理解し解釋しようといふのである。その方法と目的とは全然異つてゐる。勿論私は文化科學的方(500)法を、一の方法としては非難するものでない。これによつて國文學が教へられる處は甚大であらう。國文學資料に對するその文化科學者の理解が、細末の點で誤つてゐたからといつて、その文化科學的結論を無價値のやうに言ひ、これによりその方法をさへ打破し得た如く考へる訓詁的國文學者があるとすれば、私はその人の狹量なる態度に同感し得ない。「詩人は彼の力の全體性〔七字傍点〕から創造する。」(註六〕訓詁的國文學者となつて創作したのではない。彼は一の宗教的詩人であるかも知れない。その場合、この詩人の宗教的内面生活を考察し得るだけの宗教學的教養を背景に置かないとすれば、その詩人の作品を訓詁的に解釋することさへ全然の不可能事となるではないか。(註七)訓詁的方法に感情的に執拗なる執着をなし、暗々裡に他の方法を排斥しようとする國文學者ある限りは、國文學界に黎明は望まれないであらう。資料の實證主義的觀察だけからはその實證主義的考證の確實性が論證せられず、精神科學的考察方法をそれの背後に置くことによつて却つて確實にそれの論評せられ得る好適の實例を、私は近刊する『日本美術史研究』第一卷に公表してゐるから、方法論的考察を間題とせられる人々に一顧を希ひたい。
  (註五) 「精神科學的思惟は、(中略)一のより〔二字傍点〕高い概念層に於いて止まり、内的經過を、精神的全局面に從屬してその全局面より意義を受けるところの、意義決定せられた全體として考へる。」(E.Spranger,Lebensformen.Geisteswissenschaftliche Psychologie und Ethik der Personlichkeit.3 Aufl.,1922,S.35.)
(501)  「我々が根本に置くところの方法論的假定は、次の命題を以て現はされ得る。曰くあらゆる意義附與的全體作用に於いて、意義附與作用のすべての根本形式が同時に含まれてゐる。あらゆる精神的作用に於いて、精神の全體が支配する〔あらゆるから六五字傍点〕、と。」(Spranger,op.cit.,S.35.)
  (註六) Dilthey,Das Wesen etc.,S.53/
  (註七) かうした藝術の一例に能樂がある。私はまだ能樂が藝術や宗教やの全的統一の立場から深い意味を以て解釋せられたのを見たことがない。
 
 今公表する第二卷の多くの章は、日本文學の發生を主たる對象とした。即ち本書の四分の三の分量を占める第八章までは、上代歌謠及び神話文學の發生から萬葉時代を通過して平安朝初期に至るまでの文學を略々順序的に取扱つてゐる。私の考へでは、この時代の文學は、第一にはシャマニズム思想、第二には支那思想、第三には佛教思想によつて大いに影響せられてゐると思ふが、本書はその問題を歴史的社會的文化生活の内面的全體性の立場から取扱つた。平安朝初期の密教を取扱つた章の考察は、この卷では發展してゐないが、後の卷にこれを基礎として平安朝時代の佛教を考察し、王朝文學の精神生活史的背景を明らかにしようと欲するのである。吉利支丹文學と能樂とに就いてもなほ後の卷に詳論する。文學に關係する處の多いものとして、庭園美と華道とに就いての小さい考察をもこの卷に收めた。これらの考察に於いて、私は多くの有力なる國文學者や民族學者の所説を屡々引用した。一々典據を記してゐない部分にも、さうした借用の説が(502)多い。謹んで先輩諸學者に感謝したい。上代歌謠の引用は、悉く武田祐吉氏編『續萬葉集』の所記により、(句切りは變へたところがあるが、)萬葉の引用は悉く佐佐木信綱博士編『新訓萬葉集』の所記によつたが、この點も私の感謝したいところである。本書の所論は、學説に敢て異を立ててゐる處があるけれども、私の考察が先輩諸學者に借るところの多いことは前記の如くであるから、依然として私はそれら諸學者の研究成績に對して深い敬意を拂ひたい。私は專門の國文學者でないから、資料の解釋や引用文などに斷じて過誤がないとは自ら保證し得ない。(自分だけでは注意したつもりであるが。)すべての過誤に對して諸學者及び讀者諸氏の高示を仰ぎたい。
 私のこの著は何卷まで續くか自分でも豫測出來ないが、少なくも近い時期に五六卷は刊行したいと思ふ。私はこの研究によつて、一と通り日本の主たる古典文學を取扱ひたいと考へてゐるのである。
 
  昭和三年初夏                    著 者
 
(503)附録 第二
 
    國文學の哲學的研究、第四卷『文學と感情』卷頭の 序
 
 理論的見方のない歴史研究はまことの歴史研究であるとはいへないし、歴史的觀察を背景にしない人生理論はまたまことの人生理論であるとはいはれない。この信念の上に立つ私の歴史研究や文藝美術の解釋やは、また直ちに私の人生理論を最も具體的な姿で表現せしめたものであるといつてよい。
 私は最近に『人間論』と呼ぶ一書を公刊して來たが、本書は恰かもその一書と表裏の關係を保ち、この人生理論の見方より國語國文學の解釋學的試みをなしたものである。私の考へでは、言語や文學やは單に一般的社會的の財産であるところの意味を表現するだけのものではなく、實に(504)その主體者の人間的態度そのもの、なほ内面的にいへば、その主體者の生活の背景にあつて彼の行動を全的に支配する情意活動そのものを表現するところのものだ。隨つて解釋の仕事は、その表現に即しつつ表現の背景に存する全人間的態度、全情意活動を理解し追體驗するものでなければならない。人間は必らず地位的に存在してゐる。地位的に存在するとは、その時代の社會生活の中に具體的に一つの地位を占め、主體的にその社會生活の上に働らきかけると同時に、これによつて決定せられる、相互闊係的な存在の仕方をなすことを意味する。それ故に文藝的表現は、創作者の個性を表現すると同時に、その時代の社會生活の個性をも表現するものになつてゐるであらう。文藝の解釋は、地位的の解釋でなければならない。近時我が國の國語國文學は大いなる進歩を遂げ、文獻學的に次第に整備の域に近づいて來てゐるが、図語國文學の方法論的な研究もまたやうやくその緒につかうとしてゐる。このささやかな一書の如きも、その研究の途上に何程かの寄與をなし得るものならば、著者としての幸福これに如くものはない。
 本書は私が既に續けて來た「國文學の哲學的研究」の第四卷として公刊せられるものであるが、全卷はほぼ四部分に分たれてゐる。第一部は、國語國文學の方法論的研究であり、著者の主張するやうな研究方法が如何なる基礎の上に成立し得るものであるかをここでは考察した。第二部は、その方法の上に立つての研究の成果である。著者の考察資料は、例により、何人の前にも提示せられてゐる最も普通の資料に屬する。またこれまでの三卷の例に隨ひ、國文學の範圍に屬しない(505)美術の考察をも一二その中に含ましめた。第三部は、本研究の第二卷第三卷に於いて試みられた歌形研究の續篇であるが、私の考へでは、上代歌謠の解釋には歌形研究が必らず先行しなければならぬものであり、この章ではそれの二三の例が示された。第四部では、主として上代大和に於ける日本民族の宗教意識を考察した。
 既に述べた如く私のこれらの研究には、資料として元來何の新味もない。また知識として何等か新らしい事實を學界へ提供したといふものでもない。私の語るのは、僅かに研究の方法、取扱ひの仕方だ。この立場に立つならば、本書の中には、著者の研究方法を最も具體的に示し得たと思はれるものも含まれ、私自身として自分の捨て難い愛子である感じのする章も二三ならず存在する。ただかくの如きささやかな考察が、今果して幾人の同感者を得るであらうか。著者の努力は甚だ至らぬものであるけれども、少なくも傾向としては、本書に於いて著者が試みたやうな研究の仕方こそ、やがて國語國文學の研究の上に一つの學風を建設するであらうと期待しつつ、私は本書を世の讀者に送るものである。
 
  昭和八年新春                   著 者
 
                       編纂者  山根徳太郎
 
 
土田杏村全集
    第十一卷
 國文學研究
     昭和十年十二月十日  印 刷
     昭和十年十二月十五日 發 行
          非 賣 品
 著作權者 土 田 千 代
       東京市麹町區三番町一
 刊行者 長谷川巳之吉
       東京市麹町區三番町一
 刊行所 第 一 書 房
  振替東京六四二二三
  電話九段三三四四
  
  東京市牛込區山吹町三ノ一九八
       印刷者 萩原 芳雄
       製本者 橋本 久吉
 
    第11卷、校正2005.12.17(土)午後6時43分終了、米田進
 
   (全集第12巻 日本精神史、1935.10.15)
(2)       小  引
一、本卷に採録した十九篇の諸論文は杏村の著作生治を通じて最も心血を傾倒して成就した諸篇であり、これ等によつて日本の精神生活史を闡明せんと期したのであつた。杏村がその練達せる筆を以てしてこれ等の述作をなすには頗る苦心惨澹を極め、夜を以て日に繼ぐ精勵を重ねて僅に成りしもの多く、しかも杏村はこの苦痛を克服しつつ、喜び勇んでこれ等の諸雄篇をものしたことは、如何に彼が祖國愛に燃えてゐたかの一面と、彼が學者としての高き矜持をもつてゐた面目とを認むべきである。一、これ等諸篇の大半は嘗て「國文學の哲學的研究」の名を負うて開版せられた第一卷『國文學序論』(昭和二年十一月刊)第二卷『文學の發生』(昭和三年十月刊)第三卷『上代の歌謡』(昭和四年六月刊)弟四卷『文學と感情』(昭和八年三月刊)の諸冊中に収められて公にせられたものであり、他の一半は記念論文集、講座、學術雜誌等に寄稿せられたものから成つてゐる。
一、論文排列の順序は上記國文學の哲學的研究編纂の體例を襲ひ、成稿の時期を顧慮せず、專らその取扱はれし時代の先後を考察してこれを按排することとした。ところでこれ等諸編は如上久しきに亙る時期に、種々の機會に公表せられたものであるが爲に、時に論文内容の重複せることもあつたが凡て原文通り忠實に再録することとした。尚その論文内容の取扱ふ時期の長期に亙ることより適當なる排列位置を得てゐないものもある。切に讀者の諒恕を乞ふ。
一、卷に採擇した諸諭文と最も親近な關係にある諸研究は、本金集第十卷『藝術史研究』解十一卷『國文學研究』並に第十三卷『文學論及び歌論』に収録する。
                       (山根徳太郎)
(3)    扉第簽  西田幾多郎
      見返畫  土田麥僊
 
  日本精神史
 
第一章 精神生活と價値感情……………………………………一一
  生活のみち〔二字傍点〕。人間の宗教生活。精神生活。價値感情。妥當感情。宗教的崇拝物。藝術的創造性と實用的常識性。人間の哲學。精神生治の内面的追體驗。
 
第二章 神話文學の構成とその源泉……………………………三八
  神政集團と女巫。神政集團の統一。神話の創造。神話を傳承する理由。神話の改變。シヤマニズムと神話。シヤマニズムと時代文化。日本神話の成立。琉球神話、アイヌ神話及び支那思想。
 
(4)第三章 祝詞の宗教意識とその成立………………………八四
   夢と宗教。祈願の形式。祈願の經過。神への對抗。取引意識と宗教意識。祈願の形式の五段階。神話説示。未來取引。取引的祈願。祈願又は奉献。祝詞の四類。その成立年代。
 
第四章 上代部族集團の人文地理學的研究…………………一一三
   新古同一地名の關係。部族移動の方向。磯城邑落と秋津邑落。「高山の島」。神武天皇東征の順序。山間の諸部族。磯城部族。大和平野の中心地。長髄彦本據の地。飛鳥平野附近の人文地理學的意義。
 
第五章 歌謡の形式問題と建築の形式問題…………………一三三
   形式の好みに現はれる民族性。伽藍配置樣式。百済式の源流。四天王寺と法隆寺。慶州の皇龍寺。支那に於ける四天王寺式。法隆寺樣式と支那漢六朝の樣式。法隆寺式と聖徳太子。唐式朝鮮式日本式の相互比較。大陸的均斉と日本的不均斉。歌謡の形式的好尚との比較。大社造の間取。古代住宅の間取。間取の意味。支那に於ける間取。大鳥造と住吉造。住宅より神社への過渡的樣式。日本民家の間取。神魂神社と善光寺内陣。田字形區劃と四句體歌。
 
第六章 上代文學と道徳………………………………………一六七
(5)第七章 飛鳥時代の文化的??……………………………一九七
   時代區分。磯城シマ、秋津シマ。「アスカ」の語原。仏教文化。????大藏。聖徳太子・三經義疏。仏教美術。シヤマニズム的精神生活と唯心的世界觀。
 
第八章 聖徳太子の文明批評…………………………………二一八
   雄渾達識なる文明批評眼。何故佛教を理想として神道を擧示せられざりしか。憲法の特に孝道を高調せられざりし事情。
 
第九章 奈良時代前期の文化的背景…………………………二二六
   額田王。二つの價値に對する選擇的意識。ロマンティツク・ムウヴメント。「天に雙日無く國に二王無し」。人權思想。啓蒙運動。人間的。
 
第十章 萬葉時代は於ける文學と美術の理念………………二四二
   美術と文學の理念の比較。隆昌といふことの意義。奈良朝時代の美術。奈良朝時代の文學。唐丈化影響の痕跡。萬葉の詩歌と支那文學。
 
第十一章 懷風藻と萬葉集……………………………………二七二
(6)   懷風藻を通して見た支那文化の影響。懷風藻と萬葉集の内容の比較。兩者の詩形の比戟。
 
第十二章 装飾藝術の理想と天平文化………………………二八〇
    装飾主義と構成主義。兩者の文化の相違點。弘仁期及び藤原期の藝術。陶磁工藝に於ける現はれ。天平時代の装飾工藝美術。
 
第十三章 大伴旅人……………………………………………三〇五
    九州在任以前の旅人。亡妻を憶ふ歌。望郷の歌。讃酒歌に於ける彼の生活。梅花の歌と九州歌壇の特色。傾廢の旅人の心境。
 
第十四章 平安朝初期密教文化の成立背景
   密教の曼陀羅と華嚴との理論關係。奈良朝時代に於ける華嚴宗。奈良朝時代に於ける一般民衆の宗教意識。奈良朝より平安朝初期へ。密教興隆の精神生活史的背景。密教の特質。
 
第十五章 智證大師の精神生活………………………………三六三
   御骨大師像を拜して。大師の尖頭。智證大師と慈覺大師。熾盛な意志力。黄不動畫像の風格。平安朝時代に於ける金色不動の意義。大師の學識。辯論と靈感。
 
(7)第十六章 三井寺の研究…………………………………
   結縁灌頂。金色不動明王。東密と台密。止觀業と遮那業。渡唐。山王明神と新羅明神。傳法阿闍梨位灌頂。靈夢靈感。フロイドの精神分析學。御骨大師像。三尾明神。三井と御井。
 
第十七章 『徒然草』の紳士道………………………………四〇八
   『徒然草』のイデオロギイ。紳士道の内容。平安朝時代との相違。肉體の美。精神の美。交際道。有職公事。簡素質實。小ブルジョア主義。時世よりの影響。時代人の生治態度。折衷主義の人生觀。
 
第一八章 弱法師………………………………………………四三二
   『弱法師』の作者。明と無明。施行。幽玄の意義。幽玄と花。花と寂び。散る花の意味。狂ひ。幽玄の哲學。
 
第十九章 能面の考察…………………………………………四五五
   能面と伎樂面。神作、十作。福原文三。赤鶴の作品の個性。氷見の性格。辰石衞門の型。その他の作家。三光坊。桃山時代の「天下一」。能面師の時代。世阿彌の座の面。痩男痩女の面。日本の藝術の特質。
 
 
 
 
(112)いへば、祝詞は、神話的に意識し且つ神話を創作し得る民衆の制作するものである。既に民衆が神話を創作しないやうになつた時代には、祝詞の制作も亦形式的儀禮的とならなければならない。祝詞は、文學として次第に衰頽の途をたどるより外はなかつたのである。
 四類の典型としてあげた祝詞については、ほぼ右のやうにその制作年代を考へ得るかも知れない。併し忘れてならないことは、これはそれらの祝詞の中心思想基本形式について言つてゐるのであり、現在のままの形の祝詞が今論證した時代に成立したといつてゐるのではないことである。祝詞には、なほこの四類の型に全くは屬しないものがある。それらについては制作年代を何とも考へ難い。併し既に四類の型の年代が定まつたとすれば、宗教意識發展の段階的形式を以てそれと比較し、それぞれに幾分かは制作の新古を判斷することも出來るであらう。
        −『奈良文化』(昭和五年十一月號)
 
(113)  第四章 上代部族集團の人文地理學的研究
 
    一
 
 神武天皇東征當時の大和は、いかなる樣式の統合組織をなしてゐたであらうか。この問題を考へることは、何人に取つても興味あるものであらう。
 尤も神武天皇の大和政略それ自身が、史實的に何を意味するかは、なほ一の問題である。それは神代の神話に於けると同じく、一の神話的構想に過ぎないであらうか。或はそれは、何等かの程度の變容の加へられた史實であらうか。當時の我國には大陸より續々として人種の移動が行はれてゐる。その人種移動はなほ遥かに後世にまで及び、奈良朝時代に於いても引續き相當に大規模の移住民が我國へ來てゐるのである。それ故神武天皇の御東征を以てこの人種移動の象徴と見るならば、それは史實的にも何等かの程度の眞實を語るものといふことが出來よう。大和の土地(114)には、常にこの種類の攻略が繰返されてゐたに相違ないし、天皇氏は實にその攻略に於いて最後に成功することの出來た一部族であるに相違ない。併しその大和政略は、果して神武天皇の時に一擧に行はれたものであるか。九州より大和への一時的移動は、事實としてやや唐突の感がないでもない。或ほ大和攻略は、天皇氏部族が相當に長い年代の間に成功することの出來たものであり、この部族は元來大和の一部例へば磐余の邑落にその本據を占めてゐたものであつたが、部族の傳統的確信に隨つた大和攻略の目的を、神武天皇の時にほぼ完全に果たしたものではなかつたか。かやうに考へることは或は、最も穏當の推測であるかも知れない。併し何れにせよ、紀記に於ける大和政略の記事は、その當時の大和の形勢を語る點で、我々には重要な暗示を餘へてゐると思ふ。
 神代の記事にはその地理的聞係の明らかにし難いものが少なくないけれども、神武天皇以後の記事になると、地名なども概ねその儘現在に殘存して居り、部族の動きをほぼ確實に知ることが出來る。併し紀記その他の文獻を基礎として當時の人文地理的考察を試みるには、次の如き一の方法論的警戒が必要であると思ふ。それは古代の地名と同一のものを地理的に現に或る地點に求め得たとしても、新古兩者は必ずしも同名同地點だとは斷言し得ないといふことである。私は今ここに一の廣大な平野を想像しよう。その平野は今まで全く無人の境地であつたが、或る農業部族が底へ移住して來た。この場合その部族はこの平野の全部を耕作することが出來ない。そこ
 
(未入力)
 
關係から、概ねは直ちに廣闊な平野中心に居住せず、山麓地に居住するやうである。さてこの平野の全部を假りに「やまと」と名付けたとする。然る場合には〔六字傍点〕、「やまと」はその平野の全部の名稱でもあれば、また同時にこの部族の居住地の特稱でもある〔「やまと」〜三字傍点〕。かくして同一地名は、廣狹二義に使用せられることとなる。併しなほ他の部族がその附近の平野に居住するやうになつたり、その他一般に生活關係が複雜になつたりして來れば、この部族の居住地には特別の名稱がつくやうになる。今その名を借りに「しき邑」としよう。然る場合には、「やまと」と「しき」とほ同義にも混用せられて、「やまと」は「しき」であり、「しき」はまた「やまと」である。他の平野に居住する部族がこの「やまと」を指稱する時には、「しき邑のやまと」といふが便利であらう。然るにこのやまと平野へ後に他の一層張力な部族が移動して來たため、前の「しき」部族は次第に不便の土地へ推しやられ、前の土地を新らしい部族が占居するやうになつたとする。この場合「しき」の名稱はどうなるかといふに、次ぎの二つの場合が考へられよう。
 第一には、新來の部族が舊名をその儘傳襲するといふ場合である。その時には、舊地名の位置は移動せずにその儘後代へ傳はつて來る。第二にほ、舊名は舊部族と共にその本來の土地より離れ、新らたに推しやられた或る他の、恐らくは以前よりも不便の土地の地名になるといふ場合で(116)ある。この時には、舊地名と新地名とほ、全く一致しない。この第二の場合は、次の如き場合に、甚だ混同せられやすい。それほ、これまでの不便な小土地に居住してゐた部族がその勢力を優勢ならしめたため、もつと廣い土地を攻略しその廣い土地に舊地名を適用した場合である。一般に舊地名との一致しない場合は、全體の地名の幾割かを占める筈であるけれども、なほその幾割かの中に、狹い土地の地名が廣い土地へ擴大せられた場合と、その反對に廣より狹へ萎縮した場合とが混在する爲めに、それを區別することは甚だ困難である。斯くして現在の地名の場處を以て直ちに舊地名の場處となすことには、大いなる警戒が必要であると思ふ〔斯くして〜二字傍点〕。從來の古代人文地理學的研究は、勿論これらの點を顧慮したものではあつたが、なほ警戒の上にも警戒が必要であるし、殊に廣より狹へ萎縮した場合の顧慮が少なくはなかつたかと考へられるから、我々には特別の警戒が必要であると思ふ。
 
     二
 
 私は既に、部族移動のために舊新の地名が移動することを見て來た。然るに次には一見してこれと矛盾するやうな方法論的準備を述べなければならない。それは、部族は移動しても優勢なる部族の生活する中心地點は概ね同一地であつて他へ移動しない〔部族は〜傍点〕といふことであこる。このことは、
 
(未)
 
)ではなく、生物の分布一般に適用せられるところの自然法則なのだ。だからルヰ・アガシイは早く既に、諸動物の自然的結合の相違による地表上の境界線が、人間の種々なる型の自然的境界と一致することを觀察した。そしてこのことは今もなほ一般に人文地理學者の是認するところとなつてゐる。近代になつて文明の利器が驚くべき程度に發達し、隨つて社會經済組織に著しい變化が起つたため、人間が自然に對抗する樣式は晋とは大いに異るものとなつた。人文地理學的聞係の上に顕著の變動の起ることは、當然である。併し人間がそれ程有力な機械を發明してゐない昔時に於いてほ、人間が居住地として占めるに有利であると考へる場所は、各時代を通じてほぼ一致してゐる。舊江戸幕府は沒落しても、新明治政府は同一の江戸即ち東京を政治中心にしたのがその一例であつた。
 我々ほ庭上に生えて行く雜草の地域を觀察するに、雜草は概ね年々枯死するけれども、その生生繁茂する場所は一定してゐて、殆ど變勤しないのである。隨つて庭上に生える草の種類、それぞれの種類の消長には異同があらうが、青い土地はつねに青く、植物の育ちの惑い土地はつねによく植物を育てない。古代に於ける人間の居住は、殆どこの雜草の生活の如きものであつたらう。隨つて昔時に於いて、飛行機写眞を撮影したものがあつたとすれば、數世紀を隔てて撮影したそ(118)れらの寫眞に於ける人間生住の一般的面貌の上には、幾許の變化もなかつたことと思ふ。
 狩獵を主にした石器時代人から農業を主にした石器時代人に移つた時には、人間の居住地に變化が起つたであらう。併し日本諸島には、古く狩猟だげで生活する部族が住んでゐたかどうかは疑問であつて、我々が確實に遡るを得る古代部族は、先づ一般に狩猟と農業とを併用した生活をなしてゐたやうである。(漁業についても同じことが言へる。)銅鐸、鑑鏡には、この狩猟農業併用の生活状態が明らさまに描かれて居り、その時代は先づ西紀紀元前後の数世紀と見ることが出來る。併し年代が古くなれば狩獵の分量が多く、年代が降れば農業の分量が多くなつたであらう。かくの如く生活様式の上に大いなる變動がなかつたとすれば、人間の居住するに有利な場處の條件もまた變化しないから、部族には異動があつても人間の居住する土地には殆ど異動がない。このことは、石器時代人の居住地を發掘した結果を以ても、概ね證明せられるところであり、所謂縄紋土器の發掘せられた場所の上層に所謂彌生式土器の發見せられる例は少なくない。またかうした場處には、引續き歴史時代の人間も居住してゐる。斯くして、最上層には古寺院の遺物、次層には彌生式土器遺物、最下層には縄紋式土器遺物の發見せられることは、人間の居住する場處の中心地に於ける典型的生活状態であるといつてよい。尤も生活の中の狩獵的部分と農業的部分との割合は、時代を古く遡るに随ひ、前者の分量を大ならしめるやうになつてゐるであらうし、また人間は、平和でない時には平野の地に生活しがたいといふやうな事情もあつたりして、時代
 
(未)
右の如き關係を以て接續してゐる場合も少なくはない。
 さて人間の集團が一つの平野の中に生活するやうになつたと仮定しよう。私は今大和平野の場合を考へようと思ふ。この平野に居住した部族は、勿論他の場處よりそこへ移住して來たものであらう。恐らくそこへは攝津河内の方面、紀伊方面、伊勢方面、山陰山城方面よりといふ風に、諸方より幾つかの部族が移住して來たものと考へられる。元來日本諸島は、かくの如き諸社會集團を以て小國分離の形勢をなしてゐたのである。その小國の中の或るものがほぼ他の上に優越的の地位を占めた時には、外見上の封建社會をなすが、その優越的地位は絶對的のものでなかつたとみえる。さてこの大和平野は、初めより「やまと」と名づけられてゐたものであらうが、その「やまと」平野の上に優越的地位を占めてゐた部族は、次々に交替したに相違ない。そして一つの部族が或る一所に占據し邑落をつくつてゐる時には、その邑落は「シマ」と呼ばれた。「シマ」といふ極めて古い語は、今その儘の用法で琉球に殘つてゐる。紀に於いてはシマは「邑」と譯されてゐるやうであるが、邑と譯された頃には、シマの語は滅びムラと呼ばれてゐたかも知れない。草香(ノ)邑、磐余(ノ)邑、磯城(ノ)邑、高尾張(ノ)邑、葛城(ノ)邑、築坂(ノ)邑、來目(ノ)邑、猛田(ノ)邑、などの邑は、即ちそれであつた。大和平野には、最初はそれ程多くの邑落はなかつたであらうが、次第に諸地方より諸(120)部族が移住して來るに随ひ、かやうに多くの邑落を生ぜしめたのであつた。それらの邑落、即ち社會集團には、それぞれの巫長を中心として獨立の政治及び宗教が行はれてゐる。またその邑落の中で或る一つが他のすべてを壓倒する勢力を持つてゐた時には、大和はその優勢な邑落と同視せられ、邑落の名と大和の名とが同義語となる。かくの如き語として我々は古文獻の中に「磯城島の倭の國」「あきつしまやまと」の語を見ることが出來る。秋津島の大和は、或は神武天皇攻略後の名稱であるかも知れないが、磯城島の大和の語がある以上は、磯城邑落が全大和の上に優勢的地位を持つてゐたこともあるものと推定しなければならない。また、磯城邑落秋津邑落の雙方が「やまと」の語に結びついてゐる以上、「やまと」は或る一邑落だけの固有名ではなく、最初より全大和平野を指稱する名稱であつたと考へなければならない。
 さて大和平野が諸部族により次々に占領せられたとしても、その優勢な地位にある部族の占據する中心地域は、大體に於いて同一であつたらう。これは人文地理學的に極めて一般的の見方であるが、なほそれには後詳しく述べる如く文献的に幾多の證據がある。そしてこの地域を追はれた劣勢の部族は、次第に地理的に生活に不利な場所へ駆逐せられる。その勢力の劣弱なもの程一層不利な場所へ駆逐せられるのは當然のことであつて、これらの劣弱部族の占居するのは山間地方であるが普通である。蓋し山間地方は平野少なく生活には不利であるけれども、敵の攻略を防守するには便利なるがためであつて、紀に「賊虜據るところ皆要害の地なり、故に道路絶え塞が
 
(未)
齢部族の居住は、右の如くにしてその勢力の優劣に髓ひ、またそれぞれ段階的に利不利の地域を分取するのである。センブル女史が、山には自然的保護があるため生存競爭の劣敗者が次第に難を避けてそこへ集まり來るやうになるものであつて、山地の居住者は諸方面の移住者であると言ひ、また山は海中の孤島と同様に社會的古物の博物館になると注意してゐるのは至當である。地理學者は、海の島、沙漠の島、森林の島などといふと平行して、「高山の島」といふ語をさへ使用してゐる。
 
     三
 
 さて以上の如き見方の準備を以て、神武天皇大和攻略當時の大和地域を観察するに、紀記の記載は人文地理學的に人種移動の状態を殆ど模型的に示してゐるので興味深い。
 紀記によれば、大和の平野地方には最も勢力の便勢な部族が占據してゐて、容易にはその土地を征略することが出來なかつた。また山間地方には、それよりも勢力の劣弱な部族が住んでゐて、それらは比較的容易にこれを征服することが出來た。併しこの後者の部族も、最初よりこの地に(122)生住してゐたのではなく、かつて平野地方に住んでゐたこともあるものであらう。なほそれよりも隔絶した山間地方には、もはや何等の敵對的勢力をも持たずこれを征略することを考へないでよいやうな部族も生住してゐた。紀記はこれらの部族のそれぞれの生活を、實によく描寫してゐるのである。諸部族の居住形態にかくの如き複雑の段階ある以上、神武天皇攻賂當時の大和は、そこへ人間が居住しはじめた後餘程の年代を経過せしめた時の状態にあるものと推斷しなければなるまい。
 大和の平野地域に優勢に占據してゐた部族の中心居住地は何處であつたか。この問題は興味深いものであるが、なほ考察を後へ廻さう。今は先づ大體に於いて、この優勢部族は大和の平野地方に居住してゐたものと見て行かう。神武天皇は最初この優勢部族を討伐し、一擧にその本據を奪取しようと試みられたが、この計畫は不幸にして失敗した。ここに計畫を改め、南方紀伊を廻つて大和の南部山間地方に出で、その各地に占據する小部族を征服した後、再び平野の主部を攻撃して、つひにその功を收めることが出來たのである。このことは軍略上巧妙のものであつたと思ふ。
 さて、大和の南部山間地方に現はれた時には、その經過する諸地方に種々の生活様式をなす諸部族と接觸した。熊野の荒坂(ノ)津では丹敷戸畔を誅したが、その時神は毒氣を吐き、皇軍すべて昏迷した。この丹敷戸畔は、軍隊的には抵抗力を持たないが、宗教的呪力を以て皇軍に抵抗した〔軍隊的に〜傍点〕
 
(未)
が磐石を押し分げながら出て來るのを見てゐる。この記述に現はれた風俗の意味については、今詳しく論じない。これらの生活状態は、皇軍によつてもすべて異様に感じられたものと見え、センプル女史の所謂「社會的古物の博物館」の適例をここに求め得る。これらの部族も亦それぞれ國神の祖先系譜をいふところを以て見れば、かつてはその祖先を語るに十分の優勢な地位をその祖先が占めてゐたこともあると見なければならない〔これらの部族〜傍点〕。併し今は生活に最も不利な場所に、退嬰萎縮した殘生を送つてゐるのである。その中の或るものは、染を打つて魚を取り、以て生活に資してゐる。勿論これらの部族は軍隊的の抵抗力を殆ど全然的に缺くものであつて、皇軍に對し何の抵抗をもなしてゐない〔軍隊的の〜傍点〕。
 天皇氏の軍に對し相當に有力な武力的抵抗をなしたものには、兄猾の部族と兄磯城の部族とがあつた。蒐田(ノ)縣の酋長は兄猾弟猾である。蒐田は今の宇陀盆地であらうが、小盆地に占據する部族の勢力が大和平野に占據する部族のそれよりも劣弱であることはいふまでもない。天皇は直ちにこれを攻撃せず先づこれを降伏せしめようとしたが、弟猾はその徴に應じ、兄猾は降伏をよそほひつつ謀を以て天皇の軍を壓殺しようとしな。かうした對抗に於いては、先づ敵の酋長を徴召するのが普通の仕方であつたと見える。この部族は勢力の比較的劣弱のものであつたから、こ(124)れまでも優勢な他部族より屡々さうした徴召を受げたであらう。弟猾がその徴に應じたのは、その從來の生活様式を襲うたものであつた。兄猾も普通の軍戰を以ては對抗することが出來ないから、降服をよそほひつつ謀略をなしたのである。また記によれば、忍坂の大室には尾ある土雲八十建が占據してゐて、皇軍により誅せられた。これは文化的には退化した異様の生治をなすこと先きの吉野の部族の如きものであるが、なほ武力的に剽悍な抵抗力を持つてゐたのであらう。
 
     四
 
 兄磯城弟磯城の磯城部族は、大和平野の中心地に占據した登美彦の部族に次ぐ優勢な武力を持ち、その中の兄磯城は天皇氏の軍に對し頑強な抵抗をなしたものと見える。兄猾弟猾の宇陀盆地よりも大和平野に近づいた地點に生活してゐることは、前者よりも強い抵抗力を持つてゐた事實によく匹敵するものである〔兄猾弟猾の〜傍点〕。併しこの部族の占據してゐた土地が現在の何處であるかについては、疑問が多い。この部族の一部は歸服して、天皇氏部族に関係の深い部族となり後に殘存した。併し當時に於いては、大和に於ける支配的地位に在る部族でなかつたらしい。それは登美彦の部族が平野地域に占據してゐたことや、兄猾弟猾の部族と同じく天皇により徴召せられた時、その一部分が戦争を開始せずに歸服したことやを以て推定し得るのである。併しこれ程の武力的抵抗を
 
(未)
ふ。然る場合には、「磯城島の倭の國」といふ語のある理由も肯けるであらう。磯城島の倭の國とは、磯城部族の邑落が支配的地位にある大和の國といふ意味であらう。併しこの磯城部族が實質的にも完全に歸服したのはよほど後のことであつて、崇神天皇時代には、その磯城部族との關係が特に濃厚になつてゐる。この時代には、磯城部族は大和平野の東南部に占據してゐたやうである。
 磯城部族の酋長は、磯城彦である。磯城彦といふは、登美部族の酋長を登美毘古(彦)といふに同じい。磯城には、兄磯城と弟磯城とある。兄磯城は眞の酋長であつて、弟磯城はそれに次ぐ地位を占めるものであらう。兄猾、弟猾、兄倉下、弟倉下といふ如くに、かうした體制は當時普通に行はれてゐたものと見える。さてこの磯城部族がその當時占據してゐた土地は何處であらうか。紀には、「兄磯城の軍有りて、磐余(ノ)邑に布き滿てり、」「倭の國磯城(ノ)邑に磯城の八十梟帥あり」と記載してあるが、この文の意はいかに解すべきであらうか。磐余の邑と磯城の邑とは、同一地でありさうに見えない。然るにその別々のところに占據するといふ磯城の梟賊は、名は同一であつてもそれぞれ別種の梟賊であらうか。或は紀の記載が曖昧なのであらうか。更に後にこれらの梟賊を攻撃する時の記事をみれば、やはり記事は二個所に分れてゐるから、この記載はあへて曖(126)昧のものであるとも見えない。天皇は先づ磯城彦を攻めたが、弟磯城は徴召に應じて歸服し、兄磯城との間には戦端が開かれた。この時天皇は、椎根津彦の計を用ひて、忍坂に女軍(古琉球やアイヌに於ける如き女巫隊であらうか。)を遣はし、墨坂に勁卒を送り、「菟田川の水を取り以てその炭火に灌ぎ、たまさかにその不意に出で」て大勝を博することが出來た。これらの地勢より推察するに、この場合の磯城彦の占據したのは、宇陀に隣接した磯城の邑のそれであつたやうに見える。磐余の磯城部族については、長髄彦誅服の後に簡単の記載がある。「磯城の八十梟帥彼處に屯衆ゐたり。果して天皇と大いに戰ふ。遂に皇師のために滅されぬ」とある。磯城の八十梟帥は、初めには磯城(ノ)邑にあると記せられてゐたのに、今は磐余(ノ)邑にあつて、抵抗したことになつてゐる。これはどういふ理由であるか。
 紀にかやうに二種の記載があるのは、私の考へでは、この二つの邑を磯城部族が占めてゐたといふのではなく、その何れか一方はこの部族のさきに住んだ舊地であり、その當時は部族の主部は他の一方に住んでゐたものではないかと思ふ。勿論その舊地に、同一部族の轉住しなかつた弱少部分が現に殘存してゐたと考へることは少しも差支へない。磐余の地は、神武天皇と関係が深い。天皇の御名は、神日本磐余彦天皇であるから、磐余こそは天皇の本據とし給うた土地であるとみえる。磐余彦とは、磯城彦、登美彦といふと一般の御命名の様式によつたものである。弟磯城は名は黒速、後の論功行賞にあたつては、磯城の縣主にせられた。然らば、磯城(ノ)邑は磯城部族
 
(未)
古くよりあらはれてゐる。この志紀は、或は磯城部族が大和に入る以前の舊地ではなかつたか。飛鳥は大和と河内の兩方に在るが、秋津の如きも、所謂秋津州の外に、吉野にも存在した。さうした場合兩者には部族移動による何等かの關係があると考へるべきものではないか。河内と大和とは特に関係が深く、大和の諸部族は概ねは一度河内に占據してゐた時があつたと思ふ。
 磯城部族が歸服後もなほ占據した土地が磯城郡であるとすれば、この部族と三輪山の信仰との間には、何等かの關係がありはしなかつたか。三輪山は山そのものを神體とする、極めて古い様式の崇拜對象であるが、同時に大和にある出雲部族の宗教生活の一の中心をなしたものである。天皇氏は後ながくこの地域と密接の関係を持つてゐた。神武天皇の皇后は三輪の大物主(ノ)神の系統を引くものである。安寧天皇の御名は、磯城津彦玉手看(ノ)天皇と申し奉つた。また後には崇神天皇の頃より、帝都は著しく大和の北部へ進出して、崇神天皇の磯城(ノ)宮、垂仁景行兩天皇の纏向(ノ)宮、安康天皇の石上穴穗(ノ)宮と磯城一帶の地に都せられてゐる。(石上はずつと北になるが。)私は別に祝詞を観察の資料として、磯城一帯即ち大和平野の東邊にあつた出雲部族は、この崇神天皇頃に於いて経済的にも完全に征服せられたと考へるものである。秋津州は、大日本豐秋津州の國號に殘り、天皇氏部族と關係が最も深い。「磯城州の大倭」の名は、磯城の地に政治的中心(128)のあつた崇神天皇以後のものとして考へることは不可能のものでないけれども、シマの語を使用してゐることを顧慮するならば、前に述べた如く、磯城部族が強盛であつた遙かに古い時代の名であつて、秋津州大倭の名よりも古いものと考へるが穏當ではないかと思ふ。
 
     五
 
 大和平野の中心地、即ち平野部を占據してゐた最も張力の部族は、登美毘古又は長髄彦の部族であつた。神武天皇が終始一貫して主敵と目ざしたものは實にこの部族であり、この部族との戰爭は大和攻略戰の殆ど大半を占めるといつてよかつた。この部族の社會組織は、他のものと違ひ、やや複雑になつてゐる。天皇の子饒速日命は酋長長髄彦の妹と婚し、可美眞手命を生んだ。長髄彦は、「吾れ饒速日(ノ)命を以て君となしてつかへたてまつる」と自ら稱してゐる。然らば、饒速日部族は新來の集團であつて、長髄彦の集團よりも文化的に優れてゐるが、兩者闘争の結果融和して、新來部族の長は土着部族の女と婚し、名義的文化的には饒速日命が長となるが、武力的實質的には長髄彦が長となるといふ風の集團組織をなしてゐたものではないかと思ふ。新來部族が土着部族と融和するには、この様式は屡々行はれたものであつたらう。天皇氏部族もまた頻りに土着の出雲部族と婚してゐる。(出雲部族といふも亦單一の部族ではなく、征服被征服の關係を
 
(未)
土地があつて、それはこの部族のもと占據してゐた土地の名であるか、或は今ゐる土地にもと占據してゐた他部族の命名した名であつたらう。今はこれを鳥見と呼ぶと紀には記されてゐるが、記に登美毘古(彦)とあるはその鳥見の酋長なるがためである。饒速日(ノ)命に婚した彼の妹は鳥見屋媛と呼ばれる。然らば彼の今占據する土地が鳥見と呼ばれることは明らかである。その鳥見は何れの土地であらうか。
 先づ我々は、この部族が大和に於ける最強の部族であることの理由を以て、それは大和平野の中心部を占領する部族であると推定することが出來る。さて皇軍が最初大和へ侵入を企てた時には難波より河内を經て、龍田に赴き、また途を改めて膽駒山を越えようとした。ここに孔舍衙坂の難戦が起る。龍田、生駒の地より攻撃する大和ならば、この平野のやや北寄りの中央部であつて、鳥見はまたこの部分に求められなければなるまい。今の法隆寺附近の富郷その他同様名稱の地を以てその鳥見に當てるならば、あへて不當であるやうにはみえない。後に跡見(ノ)荘、斑鳩の富の小川などといふは、何れもこの鳥見に關係した土地であらう。然るに鳥見はなほ天皇大勝の後靈畤を立てて皇祖天神を祭つた土地の名に現はれるのは何故であらうか。
 この靈畤の立てられた鳥見は、紀によれば、上つ小野の榛原、下つ小野の榛原と名づけられて(130)ゐる。榛原は今の宇陀郡の榛原であらう。然らばこの鳥見は宇陀郡に存在することとなるのである。さきの鳥見と今の鳥見とはいかなる關係を持つものであらうか。從來の解釋では、二つの鳥見をそれぞれ別の地名となす説に傾いてゐるが、私はこの鳥見を別箇の土地であるとは考へない。そして長髄彦の部族の占據してゐた平野部は、すべてその當時鳥見と呼ばれてゐたであらうと考へる。靈畤の立てられた鳥見の地は、普通に鳥見山と呼ばれてゐるが、この部分の紀の訓み方には注意が必要であると思ふ。この部分の紀の本文は、靈畤を「鳥見山の中に立つ」と訓むべきでなく「鳥見の山中に立つ」と訓むべきであらう。然る時には、鳥見は山名ではなくて鳥見と呼ばれる一帶の地域の名であり、靈畤はその地の山中に立てられたといふのである。然らば鳥見は宇陀郡附近にまで亙つた一帶の地域であらう。鳥見彦は、その廣大の地域に占據してゐたのであつた。即ち彼の部族は大和平野の北より南に至るまでをすべて占領して、東南方の山間地帶に兄磯城兄猾の部族を駆逐し、それと接觸してゐたのであつた。鳥見は紀に鵄(ノ)邑とも呼ばれ、鳥見は却つて訛稱であると記されてゐる。然らば多武又は田見、即ち今の塔の峯の如きも、この語より轉訛せられた地名ではなかつたか。
 併しこの鳥見部族の眞の本據は、その平野の中でもどの部分であつたらうか。私はその本據を、恐らくはこの平野の南部であらうと考へてゐる。それは次の如き理由を以てである。第一、一般の人文地理学的規則として、人間の生活の中心地となる部分は變動しないが、飛鳥附近の土地は
 
(未)
給ふ時「蓋し國のもなかか。みやこつくるべし。」と詔せられてゐる。その意は、大和平野の中心地域であるといふのであらう。第三、出雲系の神社はこの平野の南部に多い。それはこの南部平野が出雲部族の本據の地であつたことを示す。第四、大和平野攻略にあたり、天皇は潜かに天の香山の山巓の土を取り來らしめ、それを以て呪祭をなし給うたが、香山はこの部族の宗教的禮拜の中心をなしてゐたものであらう。第五、天皇攻略の記事に於いて、大和平野の東南瑞の攻略以後の記事は特に見あたらない。然らばこの東南端部に直ちに接して、長髄彦の本據の土地が存在したものとみなければならない。
 以上の理由を以て、私は長髄彦本據の地を、文獻には特別の記載がなくとも、飛鳥平野附近〔六字傍点〕とみるものであり、かやうにみることは人文地理學的に最も穏當のものではないかと考へるのであるが、なほこの附近の土地に特に着眼するには、別に一の地理學的の理由が存する。それは飛鳥平野の特殊な地理的位置に闊係してゐる。吉野は既に小川琢治博士が注意せられた如く、(同博士著『人文地理學研究』二六四頁参照)近畿地方の陸上交通線路に關し、特殊の位置を占める。南北朝時代に南朝が吉野を本據としたのは、この特殊の位置を利用したものであつた。吉野は北は大和平野に臨むが、東は伊勢に出て東海道に通じ、西は紀伊に出て南海西海に通じ、また別に河内に(132)出て瀬戸内海に通ずるそれぞれの交通路を持つてゐる。吉野は山地ではあるが交通路としてはその要衝の地にあたるのである。それ故に我々は神代史にその地名の現はれる紀伊、伊勢等の土地と大和との交通を考へ、なは難波より河内を經て直ちに大和平野に入る交通を考へるならば、その兩系統の交通路の結合する飛鳥附近の土地、即ち大和平野南部の土地は地理學的に特別の意義を持つて來ると考へるのである。この部分に大和文化の古い揺籃地が出來たのは當然のものであらう。神武天皇大和御攻略の記事は、偶々よくこの交通路を明示した點で貴重のものである。河内より大和平野に入る交通路は、もとより幹線であるが、この他に紀伊より大和に入る交通路が重要のものとして存したことは、この記事によつて毫も疑はれない。鳥見部族はその南部平野を本據とし、農業的に更に平野の北方へ進出しつつあつた一の強力なる部族であつたらう。龍田附近の鳥見の地名は、この北方進出に関係があつたかも知れない。また後に斑鳩地方に飛鳥文化の一中心地が建設せられたのも、その鳥見地方と關係があつたかも知れない。何れにせよ、大和文化は一旦この平野の南部を中心としたけれども、後その中心を次第に北方へ移さうとする努力を續けてゐる。これには人口増殖、平野開拓その他多くの理由が存することと思ふが、なほ一つには吉野を經由して紀伊に通ずる交通路が衰へたことも一理由であつたらう。文化の輸入系統が大洋方面よりも大陸系統を主とする時代となつては、この移動は當然のものであつた。
         −『奈良文化』(昭和六年十一月號)
 
(133)     第五章 歌謠の形式問題と建築の形式問題
 
     一
 
 歌謠の形式は、一つの國語に全く特有な、それと同一様式のものを他に全く見出し得ない性質のものであり、その民族その國語の中から必然的に産出するとは一般に考へられ易いことであるが、事實はさうでなく、歌謠の形式も亦一般文化の形式と同様に、或る一地方に起つたものは言語の相違にも拘らず他に傳播して行つてそこの歌謠の形式となるか、或は少なくもそこの歌謠の形式に大いなる影響を與へるものであることは、私が既に敍説したところにより明らかとなつたであらう。東方亞細亞の諸地方に就いて言へば、歌謡のこの形式を決定する原動力は常に支那であつた。支那の歌謠形式は極めて早くから朝鮮のそれを決定し、朝鮮のこの形式は日本及び琉球に傳播したと見える。南鮮及び日本に於いて新形式が起つたけれども、南鮮のものは直ちに支那(以下省略)
 
 
(226)     第九章 奈良時代前期の文化的背景
         ‐大化新政の展開する時代相‐
    一
 
 近江朝廷の女流歌人として不朽の傑作を『萬葉集』の上に殘したものは額田の王である。紀によれば天武天皇は初め鏡の王の女額田の姫王を娶り、十市の皇女を生み給うたといふが、その女王はまた『萬葉集』に「額田(ノ)王思2近江天皇1作歌」を殘してゐる。天智天武兩天皇の間に介在して、額田の王の生涯は、終始悲劇的に展開せられていつたやうに見える。その間の数奇な内面消息を文學的作品の上に記録するものは『萬葉集』であつた。併し奈良朝前期の士庶人は、大なり小なり額田の王と同じやうな立場に置かれて、一身の去就に困難を感じなければならなかつた
 
(未)
る力は何者のこれを支へ得るものでもなく、歴史は必然的の経過を取つて開展していつた。進歩的なるものも歴史を貴重しないのではないし、また保守的なるものも時代の打開を不必要としたのではなかつた。随つて大化の改新前後に天智天皇の取られた政策は、天武天皇の御代にも積極的に着々と實現せられてゐる。
 額田の王の作歌に、春の山の美と秋の山の美とを比較選擇した作があつて、その題には「天皇〔天智天皇〕内大臣藤原朝臣に詔して、春山の萬花の艶、秋山の千葉の彩を競はしめ給ふ時、額田王、歌を以てことはれる歌」とある。女王は兩者の美をそれぞれ公平に認識しつつも、結局は秋山の美を取ると斷定せられるのであつた。かやうに二つの情景を比較した詩歌は、勿論支那の詩の影響により作られたものであらうが、私はなほこの時代に於いて、二つの價値あるものにつき比較選擇する意識が働らき出してゐることを興味深いものに思ふ。比較には批判が必要である。またその選擇には相競ふ二つの價値に對し冷静な内面的な反省が必要であり、随つてそこには先づ人間の合理的な自覚が存しなければならない。ただ傳統の在りのままを無批判的に繼承するといふのではなくて、合理的にはつきりと、批判し、選擇しようといふのだ。記紀萬葉の文學を見ても、これ以前の歌ではさうしたラショナルな自覺意識ははつきりと起つて居らず、この歌に至(228)り初めて人間的な自覺が感じられて來る。既に先覺の中にはこの點に気付いたものもあつて、この歌の春山と秋山とを天智天皇と天武天皇とにあてつつその綿々の戀情を告白したものではないかと論じた人もあるが、私にはそこまでの象徴があるやうにも思へない。ただこの歌に於いて二つの價値の選擇意識が動いてゐることだけは、はつきりと断定してもよいものだと思ふ。結局それは、一つの歌の内面生活にとどまるものではなくて、この時代に起つてゐた時代意識の特質を語つてゐたものであらう。
 大化改新の時代的空氣は、要するに一つの大きなロマンティック・ムウヴメントであつた。これを明治維新のそれに比較することは、決して理由のないものでもないし、また近來特に時勢打開の方針を求めようとして、大化の新政を囘顧するもののあるのも無理からぬことであらう。私はかつて明治維新以後の時代的精神をナショナル・ロマンティシズムといふ語で現はしたが、大化改新當時の時代的精神もまたそれであつたといつてよい。さうしたロマンティシズムの起るには、先づ豐かな感情生活の起ることが必要である。また個人主義が起り、知的生活の起ることも、常に見る社會的の様態である。時代の展開せられるためには、社會人の理性的な生活が高められ、同時にこの合理的な個人を組織するところの社會制度が確立せられなければならない。明治維新に於けるナショナル・ロマンティシズムは、この二面を持つてゐたが、大化の新政もまたその兩面を持つてゐた。今假りに前者の方向を啓蒙〔二字傍点〕と呼び、後者の方向を?度〔二字傍点〕と呼んで置かう。孝徳天皇
 
(未)  ラショナルにその意味を知らしめようとするところにこの時代の啓蒙的な、唯理主義的な方針が現はれてゐる。また白雉の祥瑞を得たまうた時の詔の中に、「朕は惟れ虚薄《いやし》。何を以てかこれを享けむ。蓋しこれ専、扶翼《たすけ》の公卿臣連伴の造國の造等、各々丹誠を盡して制度にうけたまはり遵ふ〔十一字傍点〕に由つて致すところなり、」とあるが、國民生活が制度を規準として進められなければならないとする方針は、そこにも現はれてゐるといへよう。制度は歴史にのつとつて、同時に論理的なものでなければならない。大化新政は、その歴史と論理との大膽なる一結合であつた。この制度は、法律的には大寶令の確立、經済的には貨幣制度の制定となつて、結實せられたのである。
 
     二
 
 大化の新政は、階級的専制的な社會組織を打破して、全然自由平等的な社會組絨を建設したものだと考へるならば、それは誤謬である。随つて近來時代の打開を大化新政に求めるものには、多少の誤算も存するといつてよからう。大化新政の打破したものは、血族的な社會團體を主とした舊封建主義であり、この舊封建主義を打倒することによつて却つて個人主義的な市民的社會組(230)織は確立せられたのである。即ちそこに成立したものは、「人類社會」又は「社會的人類」ではなくて、マルクスの所謂「市民社會」と「市民的權利」とであつたのだ。それは無階級的な社會ではなくて、寧ろ新らたに経済に立脚した階級を確立せしめる社會であり、その改革は無産者的な改革ではなくて、市民的な改革であつたのだ。
 日本國家の原本的成立は、さきに上代の社會組織を論じた時に述べた如く、氏族的集團を基礎とした聯邦的な組織を以てするものであつた。日本諸島に移住して來た主部族は、何れもシャマニズム的な信仰を持ち、シヤアマンを中心として氏族的に社會集團をつくるものであつたが、この氏族集團が各地に割據したものがそれぞれの「くに」である。一つの「くに」より他の「くに」に行けば、そこには土地の區別があるだけではなくて、また實に氏族的集團の區別が存在したのだ。大和朝廷もまた最初はこの氏族集團の中の一つであつたが、他の諸氏族を軍事的政治的に支配するやうになると、日本諸島中には、大和を中心として一の聯邦的な國家組織が成立した。勿論これらの諸氏族は、根本的に人種を異にするといふものではなく、大部分は混血的に略々同一の血液を持つてゐたために、この聯邦組織も非當に強力な軍隊的勢力により達成せられたものではなかつたであらう。またそれ故に、大和朝廷により統一せられたといつても、各集団はその氏族的統治力の全部む失つたものではなかつた。ここに各地には依然として氏族集團の巨大なるも
 
(未) 舊社會は、氏族を基礎としつつも一の階級的な社會であつた。個人の姿は氏族の中に沒し、氏族的組織に於いてそれぞれの地位をしめる。併しこの集團は、所謂|共同社會《ゲマインシヤフト》であつて、共利社會《ゲゼルシヤフト》ではない。大和朝廷はこの原始的共同社會を打破し、個人を國家的共同社會の單位として確立しなければならない。それは「個人」の生活地位、生活意義の、根本的な變革である。この新らしい社會にもまた階級的地位が段階的に建てられてゐた。古い地位にあつたものが新らしい地位に移つた時に、その利害にはいかにしても大いなる變動が起らなければならない。ここに社會人の間に大いなる不安が起り、幾多の不平不満の發生するのは、當然のことである。日本の全歴史を通じて見ても、この時代は民謠の多く記録せられた時であり、その民謠は、またみな何等かの意味を諷するもののやうに解されてゐるが、これは人心の動揺を表現したものである。天變地異の記録も澤山に現はれてゐる。
 血族的共同社會を破壊して、個人に立脚した國家的共同社會を建設するためには、第一に、それらの血族的共同社會の上に立つ大和朝廷の單一的政治權力〔七字傍点〕を確立しなければならないし、第二に、個人〔二字傍点〕の地位を確立しなければならない。いかなる變革にも、その變革のスロオガンとなるものがある。明治維新に先立つ「尊皇攘夷」のスロオガンは、それの一例である。大化改新に於け(232)るこの種のスロオガンは何であるかといふに、第一には、大和朝廷の単一的政治権力を確立するためのそれであつて、一般には「天に雙日なく、國に二王なし〔十二字傍点〕」といふ言葉が使用せられてゐたと見える。土地百姓の兼併む禁じて、豪族の跋扈を壓抑する時に大和朝廷は常にこの語を用ひて居り、既に聖徳太子の憲法十七條の中にも、「十三に曰く、国司国造百姓に斂《をさめと》ること勿れ。國に二の君靡く、民に兩の主なし。率土の兆民、王を以て主となす」と見えてゐた。この時代に於いても、上宮の大娘の王が入鹿の無禮を發憤せられた時の語には「天に二の日なく、國に二の王なし」とあり、入鹿が誅せられる時には天皇の御座に轉び就き叩頭して、「當に嗣位にあれますべきは、天の子《みこ》なり。臣罪を知らず」と嘆願し、孝徳天皇の時皇太子は天皇に奏して、「天に雙の日なく、國に二の王なし。是の故に天下を兼ね併せて萬民を使ひたまふべきは、唯だ天皇のみ」と申してゐる。以て大和朝廷の信ずるところを知るべきであらう。改新後天武天皇の頃には、各血族集團の獨立的形勢もよほどの程度で壓抑せられたと見える。他の血族集團を征服する時には、その集團のシャマニズム的祭祀と結びついて集團結合の意識を宗教的に強化するにあづかつて力のあつた所謂神寶を沒收し、これを石上の神宮の寶庫内に收めてゐたが、天武天皇の三年には、「元來諸家の神府に貯《つ》める寶物は、今皆その子孫に還せ」と詔せられてゐる。またその六年東の漢の直等に詔して、「汝等が黨族《やから》は、本より七つのあしきことを犯す。是を以て、小墾田の御世(推古)より近江の朝〔天智〕に至るまで、常に汝等を謀ることを以て業《わざ》となす。今朕が世に當り
 
(未)
ば、必らず赦されざるのかぎりに入れん。」といつてゐるのは、征服せられた他氏族團體がなほ全然的に反抗を断つたのではないけれども、濫りにこれを斷滅せしめるならば、却つて物情を騒然たらしめるが故に、寧ろ威壓懐柔策を取らうとするし、またそれだけの政策を取るだけで有効であつたことを示すものであらう。
 
     三
 
 新政の第二のスロオガンは、個人の權利〔五字傍点〕を確認するためのものでなければならない。大化二年三月の詔に、「夫れ天地の間に君として、萬の民を寧宰《をさむ》ることは、獨り制《をさ》むべからず。かならず臣の翼《たすけ》をまつ」とあるのは、専制主義を排して民本主義を取らうとするの御意志であるし、同三年四月の詔に「始治國皇祖の時より、天下大同〔四字傍点〕都べて彼此といふことなし」とあるのは、今の所謂デモクラシイを意味するものでもあらう。白雉の祥瑞が現はれた時の公卿百官人の賀詞「清乎《しづか》なる徳を以て天の下をしらす」とあるものも、またやはり内容的にはデモクラシイを意味したであらう。
(234) さて以上の如き根本方針に随つた新政の内容は、第一に土地政策となつて現はれた。大化元年の詔に、「或るものは數萬頃の田を兼ね併せ、或るものは全く針さすばかりの地もなし。」「方今百姓猶ほ乏し。勢あるもの水陸を分け割きて以て私の地となし、百姓に賣り與へて年にその價を索《こ》ふ。今より以後地を賣ることを得じ。妄りに主と作つて劣弱を兼ね併すこと勿れ」とあるのは、時弊救済の政策として、避け難きものであつたらう。大化新政の第三に、「初めて戸籍計帳、班田收受の法を造る」といふのが、それの客観的の形態である。これは勿論私有財産の否定ではなくて、一種の分産主義〔四字傍点〕とでも呼ばるべきものであつた。
 戸籍の法を定めたことは、すでに個人の地位を確認したものであつたが、なほそれと同時にひろく人才登用の法を講じ、社會人の才能を進めることに努力してゐる。大化二年の詔には、「その郡司には、並に國造の性識清廉時務に堪へたる者を取つて、大領小領とせよ。強幹聰敏書算に工みなる者を主政主帳とせよ」とある。ここに個人は「血の壓抑」より脱却した自主體となることが出來たのだ。天武天皇の時にも、頻りに人才を登用しようとし、その二年には、「夫れ初めて出身せむものをば先づ大舍人に仕へしめよ。然る後にその才能を選簡《えら》みて以て當職に充てよ」と詔し、四年には、「諸の才藝あるのを簡みて、禄を給ふこと各々差あり、」五年には、庶人といへども才能の長じたものには進仕を許さうとしてゐる。いかに徹底的に個性尊重主義を實行しようと欲したかは、それらを以ても?察せられよう。
 
(未)夫に再縁した場合、前夫が後夫に在物を貪り求めることや、その他同様の弊習を幾つもあげてゐるが、それらの弊習は何れも個人的権利の考へが起つてゐなければ發生しない性質のものに属する。「率土の民の心固く彼これと執へ、深く我汝を生《な》して各々名々を守る」といふのは、血族的集團主義がその主我的個人主義を生むに至つたことを示す。大化の新政は、寧ろそれらの主我的個人主義に統制を加へたものと見らるべきであるが、またさうした主我的個人主義が起らなければ、眞のデモクラシイへの要求も發生するものではない。天武天皇の五年下野の國司奏して、國の内の百姓凶年に遇ひ、飢ゑてその子を賣らんとするものあることを報告したに對し、政府がこれを聽さなかつたのは、一つには佛教的影響でもあらうが、また當時人権思想〔四字傍点〕の勃興してゐることを見るべきであらう。
 個人の地位は確立せられたが、社會の階級的位序は勿論根本的に破壊せられたのではなくて、前述の如く、寧ろ新らたにブルジョア的社會秩序が確立せしめられたのであつた。しかもその階級主義には、一の哲學的背景さへ置かれてゐる。大化二年八月の詔に、「たづぬれば、天地陰陽にして四時をして相亂れしめず。惟ふにこれ天地萬の物を生《な》す。萬の物の内に人これ最も靈あり。最も靈あるの間に、聖、人主たり、これ以て聖主の天皇天に則り、天の下しろしめす。人の所を(236)獲むことを思ほし〔十二字傍点〕、暫も胸に廃せず」とあるのは、一の自然法的思想〔六字傍点〕といふべきである。「舊職を改め去つて新らたに百官を設け、位階を著はして官位を以て叙でたまはん」といふ新制度は、ブルジョア的法制〔八字傍点〕の完成を目標としてゐる。
 個人の間に階級支配の位序が立てられると同時に、領土の中にも都鄙の位序が立てられ、中央都市制建設の方針が確立せしめられた。大化改新の詔に、「その二に曰く、初めて京師を修め」とあるのがそれである。単一的國家政治には、政治的中心として首都の建設が必要であるし、貨幣制度の制定と共に社會經済生活は貨幣を以て統制せられるから、政治的中心は同時に一國の經済的中心ともなるであらう。
 
     四
 
 私は次に大化新政の他の一面をなした啓蒙運動の内容を観察しよう。
 この啓蒙運動の中心となつたものは、佛教である。佛教はこの時代を通じて尊崇せられ、造寺度僧は、甚だ大規模に行はれてゐる。その佛教を以ては、第一には、人間を精神的に根本より覺醒せしめ、第二には、物質的にその文化生活内容を豊富ならしめようと欲したものであつた。こ
 
(未)いても無意味な舊俗の打破は熱心に主張せられてゐた。その舊習の打破は、また國内に一の反動的勢力を醸成せしめる所以のものでもあつた。大化二年の詔には、「諸の愚俗の爲るところなり、」「此の如き舊俗一に皆|斷《や》めよ、」「是等の如き類ひ愚俗の染《なら》へるところなり。今悉く除斷《やめ》よ」などの語が見え、陋習の除斷すべきものが、一々具體的に掲げられてゐる。葬を厚くする風を禁制したなどもその一つであつて、これがためには改新者自身率先してこれを實行する勇氣を持つてゐた。天智天皇は斉明天皇と間人皇女とを小市の岡の上の陵に合葬するにあたり、群臣に、「我れ皇太后の天皇の勅り給ふところをうけたまはりしより、萬民を憂へ恤むの故に、石槨の役を起さしめず。冀ふところは永代に以て鏡誡とせよ」とのたまはせられてゐるし、藤原鎌足はその薨ずるにのぞみ天皇の親問に答へて、「臣既に不敏、當に復何をか言《まを》さん。但その葬事宜しく輕易を用ふべし」といつてゐる。 天智天皇や鎌足のかうした言葉にも見えることであるが、改新の大業にあづかつたものは、人間性〔三字傍点〕を高調し、身自ら正しくすることによつて他人をも正しくしようとする固い信念を持してゐる。これは佛教的信仰より來た人道主義的影響であらう。ここに政治は教化に外ならないとする根本的態度が取られてゐるが、この態度ははやく既に聖徳太子の憲法中に見えたものである。大(238)化二年の詔には、「凡そ治めむとするものは、若くは君如くは臣も先づ當に己れを正しくして後に他を正すべし。如し自ら正しくせずば何ぞよく人を正さん。是を以て自ら正しくせざる者は、君臣と擇ばず、乃ち殃を受くべし。豈に慎しまざらんや。汝率ひて正しくせば、孰れか敢へて正しからざらん」とあり、また「夫れ君臣と爲つて以て民を牧《やしな》ふ者は、自ら率ゐて正しくせば、孰れか直からざらん。若しくは君或は臣、心を正しくせざれば、當にその罪を受くべし。追つて悔ゆれども何ぞ及ばん」ともある。山背の大兄の王の人道主義的非戦論の態度の如きも、またおのづからこの根本的信念より派生したものであらう。
 佛教は、その人道主義の哲學として特に尊崇せられてゐる。孝徳天皇が、「佛の法を尊み、神の道を輕《あな》づりたまふ」と記されてゐるなども、やむを得なかつたものであらう。誓ひをなすにあたつても、神前に於いてせす寧ろ佛前に於いてすることが行はれた。蘇我の倉山田の麻呂は、罪なくして死するに臨み、佛殿の戸を開いて仰いで誓ひを立て「願はくば我れ生々世々君王を怨みまつらじ」といひ、誓ひ終つて自裁してゐるし、弘文天皇は内裏の西殿の織佛の像の前で五重臣と共に立つて誓盟をなし給うた。佛道の勧修は國家擁護のためのものと考へられたことは、古人の大兄の皇子が吉野に入らうとして「佛道を勧修して天皇を祐け奉らん」といひ、天武天皇が同じく吉野に入らうとして、「臣は今日出家して、陛下のために功徳を修《おこな》はんと欲ふ」とのたまは
 
(未)
作り、天智天皇の十年四月漏刻を新臺の上に置いたことは有名のものである。時間の精確なる計測こそは、人間の自然科學的経営の端緒である。倭の漢の沙門知由は指南車を献じ、黄書の造本實は水はかりを獻じた。また水碓をつくつて鐵を冶《わ》かす者が出たし、越の國からは燃える土燃える水が獻上せられた。天武天皇は天文遁甲をよくせられた。この御代に占星臺がつくられてゐる。また初めて銀を産出した。
 
     五
 
 總じて言へば、奈良時代前期は最も大規模に人間のロマンティックの活動の發現した時代であつた。前にも述べた如く、大いなる建設は、歴史と論理との正しい結合によつて行はれるものであるが、大化元年阿部の倉梯萬侶の大臣、蘇我石川の萬侶の大臣への詔に、「當に上古の聖の王の跡に遵つて〔九字傍点〕天の下を治むべし。復當に信有つて〔四字傍点〕、天の下を治むべし」とあるのは、この意味の政治理想を語つたものである。飛鳥時代には、支那文化は専ら朝鮮を經由しつつ輸入せられてゐたが、この時代には高い程度に發達した唐の文化が直接に我國に輸入せられ、我國では頻りにそ(240)の文化を吸收同化しようとした。佛教もまた主としてその唐文化の上にのつて輸入せられたのである。當時我國と同じく熱心に唐文化を吸收してゐたのは新興の新羅であり、我国と新羅とは殆ど同じやうな年代に同じやうな經営をなしてゐる。併し寧ろ我國の經營の方が新羅のそれに先んじてゐるやうな場合の多いのは、新羅は引き續いての戦争のために寧日を得ることがおそかつたためであるかも知れない。新羅にも有力な學者や僧が現はれたが、我國の唐學もよほどの程度に進められてゐたものと見える。日本の歴史的文化と唐文化とを結合せしめて、巧妙な文化形態を形成せしめたものに短歌がある。短歌が歌謠の中より文學として獨立したのはこの時代であつて、人麿、赤人の如き天才は、歴史的文化と唐丈化との結合を、民族的自覚の下に行つた人達である。人麿の長歌を見ると、その全體の形式や内容やは唐詩に準據してゐるが、またそれに祝詞の形式内容を結合してゐることは、注意せらるべきものである。
 この時代の美術が唐初のそれの風格を持つことは、自然の經過であらう。彫刻の表情を見ても、既に六朝の形式的な固苦しさから解放せられ、感情に豊かな、ロマンティックのものとなつてゐる。慈愛にみちた、親しみのあるその顏容を仰ぐものは、白鳳期の美術こそはどの期の美術にも増して人間的〔三字傍点〕だといふであらう。天平期の美術はもつと寫實的になつてゐるが、白鳳期のものは依然として形式の格正を保つてゐる。藥師寺の三尊のやうな感情に豊かな彫像でも、その形式は
 
(未)的であつて、意志をそれの外に逸脱せしめない。そこにはまことに人間〔二字傍点〕があるのでだ。時代を大きく打開するものは、先づそれより大膽なるロマンティシズムを出發せしむべき豊満な感情生活を持たなげればならないが、かく豐かな人間生活そのものとして與へられた白鳳期の美術は、天平、弘仁と進むに随ひ、ナショナリズムの力を高調して、意志的統一の様相を明確ならしめたのである。       ‐『東洋美術』特輯『日本美術史』(昭和七年七月號)
 
(242)     第十章 萬葉時代に於ける文學と美術の理念
 
    一
 
 飛鳥奈良二京時代は我国に於いて文學と美術との類ひない高躍期であつた。文學に於いては萬葉集長短歌があつてその格調の雄大典麗なること前後に匹儔するものを見ないし、美術に於いては今もなほ奈良を中心とし諸處の古寺院に散在する所謂奈良朝佛教美術があつて、永遠に美なるものの範例を殘してゐる。この時代の藝術的理念、なほこれを一般化しては生活の様式と理念に就いては、研究しなければならぬ問題が甚だ多いのである。『萬葉集』の中には飛鳥奈良二京時代よりも古い創作が含められてゐる。私は今便宜上その最古作を考察の外へ除きたい。そして美術に於いても最大の傑作を産出せしめた推古白鳳時代から天平時代に亙る期間に産出せられた歌謠だけを考察して見たい。『萬葉集』の歌謡は、元来この期間の作品を中心としたものであつて、
 
(未)
を同一にして見ると、その間には興味深い對照が成立する。
 一體一つの時代の生活を支配する理念は、その生活の方面の異るに随つてそれぞれに違ふ筈はない。文學と美術とに就いて言つても、その時代の文學に現はれてゐる理念はやはり同じやうに美術をも支配してゐるに相違ないのである。またその理念の完成せられた程度やそれを完成しようと努める生活力の強さにも、彼此大いなる相違は見られない。ただ或る時代6に於いては、生活の或る方面に大いなる力が向けられて他の方面の伸張は案外閑却せられたといふ場合はあり得ることだ。併し生活の方面が類似して居れば、さうした反對は勢ひ見られ難いものになる。奈良朝時代に於ける如く、文學と美術と、共に藝術の一領域に含めしめらるべきものが同様に前後に比類の少ない發達を示したとすれば、兩者の理念及びその完成の純否勢用に就いて大いなる相違は見られないであらう。いかにも學界の通説は理念に於けるこの平行を容認してゐる。併しなほその通説の教へる所に随へば、二つの生活方面に於ける理念のこの平行は容認せられたにせよ、その最盛期は必ずしも一致しなかつたといふのである。私は今この期附近の美術を、最も平俗に知られてゐる時代區別の言葉に随ひ推古、白鳳、天平の三期に區別しよう。然る時には、美術は天平時代に於いて最盛期に達したが、文學はそれよりも一時代前の白鳳時代(文學の方では藤原朝(244)といふ語を多く使つてゐるが)に於いて既に最高調期に達してゐたと通説は主張するのである。例へば萬葉の最高權威者佐佐木信網博士は暗示深く次のやうに書いて居られる。「萬葉集を考へると、主要なる時期として、藤原朝と天平時代とを擧げることが出來る。この二期の歌を比較すると、藤原朝にその全盛に達し、天平時代に於いては既に爛熟し、やや衰退を示してゐる。この點が、他の建築、彫刻、繪畫等の藝術に比して、異なる點があるのを感ずる。建築、彫刻、繪畫等に於いては、天平時代にその全盛に達した。豐麗圓滿にしてしかも一方に雄大なる天平の藝術は、他のいつの時代のそれも追随しがたきものがある。三月堂の不空羂索の微妙な調和、藥師寺の吉祥天女の豊麗な姿、三月堂の執金剛像の力強さ、いづれか、天平藝術の粋を語つてゐないものがあらう。この點に於いて、萬葉の歌はやや異なつてゐるのである」(博士著『萬葉漫筆』八頁)この見方は大略論としては勿論眞實のものであり、一般の人も殆んど例外なくそのやうに考へてゐるであらう。併し若し文學と美術とその間に完成の純否に時代の相違があるものとすれば、我々は進んでその理由を探索しなければならない。佐佐木博士も亦右の観察の直ちに後に、「これは、文學が人間の感情の直接の表現であつて他の藝術よりは一歩先立つて行くものではなからうか。歌に現はれた偉大なる完成が、やがて他の藝術の方に現はれてくるのではあるまいか」と言つてゐられる。博士の見方も勿論面白いものである。併し私は文學と美術とに於ける完成のこの
純否の時代相違を第一に厳密には疑問にしてゐる。『萬葉』の詩歌は果して藤原朝に於いて完成
 
(未)
いつて、『萬葉』の詩歌は藤原朝に完成したと言はれようか。また人麿の作品が『萬葉』最高の完成であるかどうかも見方によることではないか。赤人は天平時代に生きてゐたことが確實に知られてゐる。憶良も旅人も天平時代の歌人であつた。これらの歌人の價値は人麿とは比較の取れない程低いものであるか。他面また美術に就いて観察すれば、奈良朝の美術は果して天平時代に於いて完成せられたものであるか。天平には勿論偉大なる作品の多くがあるけれども、同じ見方を以て我々は推古白鳳時代にもそれに劣らぬ偉大なる作品があつたと言はなければならぬではないか。文學に於ける人麿に匹敵するものには藥師寺の三尊がある。この三尊の藝術的價値は、決して三月堂諸像のそれに劣るものではない。繪畫では白鳳時代に藥師寺の吉祥天女よりも卓越した作品と見なければならぬ法隆寺の壁畫がある。かやうに考へれば、天平時代を以て奈良朝美術の完成とすることも必ずしもあたつてゐるとは言はれない。即ち文學は白鳳時代に完成し美術は天平時代に完成したとは一概に定められないことである。すべては見方による。「完成」といふ言葉の意味を精確に限定してその見方を一面的に単純ならしめ、然る後に完否の観察を言はなければならぬことである。かくして見方を細密に分解して行けば、奈良朝に於ける文學と美術の完成は時代的に相互相違してゐたとは言はれないやうである。私は兩者の間に緊密なる平行が存し(246)たと考へてゐる。併しその見方を取るには、『萬葉集』の詩歌を支配してゐる理念の見方を厳格にすることが必要であるし、また奈良朝美術の理念をも文學に對比せしめて精確に定めることが必要である。私は次にその問題を考察して見たい。
 
     二
 
 一體文學や美術が「最高調」に達してゐたとか、「隆昌の極」を極めてゐたとか、或は「完成」してゐたとか言ふ言葉は、曖昧であつて多くの意味を含んでゐる。この意味の何れかが主として見られる處より齟齬が生ずるのである。私は最初にその漠然たる意味の語の内容を、概念的に狭く限定したい。
 第一に、それは傑作の存在〔五字傍点〕の意味を含む。連續した一系統の理念の完成の途に就き最大傑作の存在する時代位置は、即ちその藝術時代の中の最高完成期と言はれ得よう。傑作は天才によつて作られる。随つてこの見方は、その藝術時代に於ける最大天才の存在した時代位置といふことになる。第二に、それは理念の完成の意味を含んでゐる。理念は或る方向に向けられた生活の態度だ。この態度は何等かの時代位置に於いて完成すするのである。この完成は態度の完成であるから
 
(未)數量が平均的に多かつたことを意味しない。前後に比類のない最大天才が周圍より離れてただ一人存在すれば、この期を最盛期と呼ぶことも出來ようが、またその最大天才に略々劣らない力量の天才が他に超えて数多く存在する時期があつたとすれば、この期を最盛期と呼ぶことも不當ではあるまい。さて我々の言葉には右の如き三つの意味が含められてゐたとすれば、我々は同一の言葉によつて時にはその第一を意味し、時にはその第二第三を意味してゐる。また概ねは漠然とそれら三者のすべての意味を含めてゐるのである。勿論かやうに三つの意味を併せ含んで語つた時には、暗獣裡に、これら三つの意味は事實的に同一のものに歸することを許してゐるか、或は三つの意味を平均して考へようとしてゐる。併しその考へは何れも精確なるものではない。第一に、これら三つの意味は事實的に決して同一のものに歸着しない。最高の傑作が存在しても理念はまだ完成してゐないこともあれば、傑作の数量は非常に多いけれども最高の評價の與へらるべきものがその中には含められてゐないこともある。理念の完成した時に傑作の数が最も多く、また最高の評價のものもその中に存する場合は、我々の理論的要求の希ふところではあるが、事實は決してさうなつてゐないのである。第二に、これら三つの見方を平均して、大體に於いての完成期を言ふことは、漠然たる考察に於いては差支へのないことであり、又文化史的概観に於いて(248)はかうした見方を取るのが便利なこともあるが、精確な學問的考察として至當なものだとは言はれない。三者は概念の内容を全く異らしめる。その内容の違つた概念を平均せしめるとは凡そ如何なることを意味し得るものであるか。かくして奈良朝藝術の完成を諭ずる場合には、私は右の如き三つの見方を最初に明瞭に區別して置きたいのである。
 
     三
 
 『萬葉集』の歌謠によつて代表せられる奈良朝文學と、現に奈良その他に殘存する彫刻繪畫によつて一般を推察するを得る奈良朝美術とを對照考察するに、(建築はひとまづ考察の外に殘して置いて)私は先づ美術〔二字傍点〕から出發しよう。
 美術に於いては所謂天平時代と白鳳時代と、何れがそれの最盛期最完成期であつたと言へるか。第一に、最盛期最完成期といふ風の言葉の意味を最高評價の傑作の制作せられた時期と取つて考へて見たい。所謂奈良朝美術の最大傑作は天平時代にもあれば白鳳時代にもある。三月堂諸像戒壇院諸像の如きは天平時代を代表する偉大なる傑作であるが、白鳳時代には藥師寺三尊の如き絶作がある。この二時代の最大傑作に就いて我々はその何れを他より勝れたものと評價することが出來るか。私自身の好みの上よりすれば、藥師寺
 
(未)
には、いか程偏執した評價を以ても、天平は白鳳に超えるとは言ひ得ないであらう。況んや繪畫に於いては、白鳳に法隆寺の壁畫があつて、前後にその類比を持たない。かくして天平時代と白鳳時代と、その制作した作品の絶對的なる藝術價値を比較する時には、兩者に何の優劣をも律し得ないとするのが公平の見方であらう。
 然らば次にその時代の藝術を支配する理念の完成〔五字傍点〕は、白鳳から天平に向つて如何なる様相を展開せしめてゐるか。結論を先きに言ふならば、私は白鳳から天平に進んで唐式模倣の藝術的理念は次第に完成に向つて居り、その點では白鳳は依然として天平に先立つ準備期であると考へてゐるけれども、元來かうした歴史的理念に就いては完成の標準を取りにくい。歴史は永遠の未來に向つて新を創造する連續の進みであるから、一の時代は過去の理念を實現しつつ既にそれとは違つた別の理念を展望し始めてゐる。併しこの新らしい理念と雖も、それに先立つ理念とは全然無関係のものではなく、眞實は理念の一の連續として彼よりこれへと進展しつつ來たものであり、それらすべてを併せて一の理念を考へることも出來るのである。歴史的理念自身がかやうの性質のものである以上は、白鳳は白鳳の理念を持ち、天平は天平の理念を持つとも言へよう。また兩時代に就いて右の如き理念の區別を立て得ればこそ、我々は遺物に就いてその制作年代の確實な(250)記録を聞かないでも、制作時代の誤らない鑑別を下し得るのである。若しも兩時代を連續関係せしめてその理念完成の推移を考へるとすれば、かく異つた理念を連續関係せしめたことによつて、既に時代の後なる天平は時代の前なる白鳳を完成せしめたといふ見方を前提するであらう。
 白鳳に先立つ推古時代は朝鮮を通じて北魏式の佛教美術を模倣した時であつた。この期の作品は著しく形式的であり、しかもその形式は不思議に美しい精練の加へられたものであつた。推古美術の形式美はそれ自身として既に完成の域に入つたものである。然るに白鳳時代に這入つてから美術は直接に隋唐の様式を輸入し模倣し始めてゐる。ここに白鳳の美術は一方では北魏式の美しい形式を傳承しつつ、他方では唐の豐なる藝術的文化的生活内容を包容しようとした。随つてこの美術の中には比餃的に前者の傾向を強く含むものと、後者のそれに傾くものとの二大別を生ぜしめた。法隆寺の壁畫は唐式模倣の色彩の濃厚なるものであり、寧ろ印度アジャンタの窟院畫を直接に傳承した観を呈した。藥師寺の三尊はまことに完成せられた形式美を持ち、全像幾何學的なる形式線によつて構成せられてゐるが、なほその精神内容は推古よりも奔放複雑であつて、唐式を餘程多く發揮したものだと言へよう。併し何としてもこれは形式線を持つてゐて、天平の彫像とは違つたものである。それ故に私は白鳳の美術に就いて次のやうな二つの特徴を指示することが出來る。第一に、それは精練せられた形式美を持つ。薬師寺三尊の臺座の前に垂れる衣を
 
(未)期にもそれの類例を求め得ない。第二に、それは誠に豐かなる感情生活を持つのである。この適例は法隆寺の壁畫であらう。併し形式的に均整の極を示した彫像も、仔細に見ればそれと同じい豐かな感情生活を内に含む。推古佛はやはり特有な、豊かな感情生活を含むが、これはそれとも特質の違つたものだ。私は今この白鳳佛の精神生活の代表的な表現として、岡寺の所謂如意輪観音を擧げよう。この所謂如意輪観音風の姿體は既に朝鮮系統の推古的なるものだ。またその素朴な表情や口元に湛へたかすかな微笑も推古的なるものだ。併しこれに於いては最早推古式の細長の顔は求められず、その代りに圓やかな豊頬が著しい特徴となつてゐる。何物をも包容する同情的な表情も、全く白鳳期のものである。そこには推古式の神秘がない、天平式の巌容もない。まことに我々の親しみ易い精神生活の表現である。これと同じい表現は薬師寺三尊にもあれば橘夫人念持佛にもあり、また頭塔の石佛にもある。殊に橘夫人の念持佛は奔放自在な構想を持つて、生活は形式の外に溢れ出さうとしてゐる。この印度的奔放はまた薬師寺三尊、頭塔の石佛にも見られるものであるが、後の天平期のものには次第に消失せしめられて多くそのあとを止めない。
 併しこの白鳳の彫像の持つ特徴は、直ちに唐の藝術文化に由來したものであつた。随つてそれは唐文化の完成と歩調を共にして、更にそれ以上の様式のものに進展せしめられなければならな(252)かつた。推古式から唐代への推移の轉囘點に立つた白鳳期美術は、それ自身として見れば尊重すべき藝術的理念を持つてゐたけれども、文化的理念のより〔二字傍点〕高い立場から見れば、それはなほそれ以上のものに展開しなげればならなかつたのである。ここに生れたものが天平の美術であつた。私は天平の美術に就いて次のやうな三つの特徴を數へることが出來る。第一に、それは寫實的なものであつた。三月堂や戒壇院の諸像を見て知られるやうに、そこには既に白鳳期の幾何學的な形式線が消失せしめられ、その代りに寫實的な、不合理的な線が創造せられてゐるのである。生活内容が何處までも複雑に分化して行けば、幾何學的な形式線は最早その複雑さに追随して行くことが出來ない。ここにその生活内容を在りのままの複雑さに於いて表現し得る寫實的な様式を創造するのは、自然の順序であらう。天平期のものにも白鳳期の形式線や表情の名殘は全く見られないのではないが、寫實は天平美術の創作理想であつたやうに見える。第二に、それは著しく知的であり、近代的である。この點は天平美術の從來の評價に於いて多く語られなかつたものであるから、私は今ここに特にその點を高調したい。三月堂の所謂日光佛月光佛、戒壇院の四天王の表情をもう一度仔細に見つめるがよい。それは何といふ明るい近代人の知的の表情を持つものであるか。私はこの表情によつて唐の爛熟した精神的及び物質的の諸文化の内容を想像することが出來る。また急速に唐の文化を輸入してその知的生活を豊富にしようとした奈良朝時代のイン
 
(未)の中にも見えるのである。天平佛教美術の聖的な方面ばかりを高調したものは、同時にそれの著しい特徴であるこのインテリゲンチヤ的特徴を忘却した。私は天平の彫像を鎌倉の彫像に比較して、前者に明確なるインテリゲンチヤの諸特徴を観取することが出來た。天平佛が貴族的な、厳正な表情を持つて、一般に知的欲求者の禮讃の的になつてゐたことも、一面から考へれば、要するに天平佛はインテリゲンチヤの生活理念を高貴に完成せしめてゐたればこそである。第三に、それは内に國家的道義的精神を含むものであつた。三月堂諸像の端厳にして雄大なる精神は、何處までも國家的でもあれば道義的でもある。戒壇院の四天王は一層強くその特徴を持つてゐる。この特徴は奈良朝末期へ進むに随つて一層進展せしめられたものであり、我々はそこに既に天平の理念が弘仁の理念へ推移しつつあるを観取することが出來る。國家的道義的精神的特色は弘仁時代に於い〔二字傍点〕てより完全に發揮せられた。けれども天平と弘仁と、その國家的精神には幾分個性の相違が見られる。天平時代自身の中でも三月堂と唐招提寺との間に既に著しい相違が見られるのである。唐招提寺諸像に比餃すれば三月堂諸像はなほずつと情感的であり、白鳳の特色を持つ。唐招提寺の諸像は、既に餘りに國家的道義的であつて、藝術的の情感に乏しい。私はその諸像に何となく親しみ難いものを持つ。それは佛教的に國家主義の精神を主張する以上に、儒教的に道(254)義的精神を主張するものの如くにさへ見えるのである。併し天平の美術がかくも国家的道義的精神を主張したことは、時代自身の生活理念と對照して見て少しも無理のものではない。奈良朝時代は切に國家の統一を欲した時である。固定化せられた社會階級の獨占を打破し、政治的獨立性を完全に失つてゐない諸小國の對立を廃絶せしめて、大和朝廷による日本国家の一大統一を達成しようと熱心に希求したのが、奈良朝以前より平安朝初期に亙つての濃密なる時代的要求であつた。この要求は早く既に聖徳太子の文化政策に現はれてゐる。佛教特に華厳教は大和朝廷のこの國家政策に利用せられたものである。華厳微塵世界の獨立的存在を許しつつなほこの微塵世界をマクロコスモスと相即せしめ、如何なる微塵もそのマクロコスモスの理念を直接に反映せしめるとする華厳教的信仰は、小國の政治的獨立を或る程度まで容認しながら、なほそれらを統一し、それら小國を直接に表現するものとして、唯一國家を成立せしめ得るとする大和朝廷の國家政策に對し、如何に大いなる寄與をなしたものであるか。この點に関しては私はなほ後の章に詳論しようと思つてゐる。とにかく大和朝廷が佛教を國家政策の重要なる一つとして取つた理由は右の如きものであつた。天平の諸佛像が國家的道義的特色を持つたのも當然の相關関係であつた。
 私は白鳳から天平に至る美術の理念的發展を右の如くに観察してゐる。それ故に天平の理念が白鳳の理念を完成せしめたとする見方は、必ずしも厳密に正しいものではないとしても、その言
 
(未)
美術を一層完成せしめたものであらだらう。外來文化を急速に輸入しようとする知的要求に就いても亦、天平美術は白鳳美術以上に進んだものを持つてゐる。天平美術が寫實的なのは白鳳美術が形式的なのに比較して著しい相違を示してゐたとしても、元來形式的と寫實的とは程度の違ひである。如何なる美術も形式の美即ち significant form を持たない筈はないし、また如何なる形式美の美術も何程かの程度の寫實を含まない筈はない。寫實の極に達した曲線は幾何學的なる形式線の方程式を複雑のものにした極限のものとも見られよう。現に白鳳期の彫像も、推古期のそれに比較してどれだげ寫實的に奔放だか知れないのである。推古より白鳳に至るこの寫實的の精神が天平に於いて極度に發揮せられたとすれば、天平は白鳳の理念を完成せしめたとする見方は一層正しいものにならう。殊にこの寫實的精神は、天平から弘仁に至るに随つて次第に失はれ、弘仁は再び別の形式美を創造したのであるから、寫實的精神はひとまづ天平に於いて完結したのだ。理念の完成の問題は我々の考察に於いて最も重要のものであつた。私は白鳳と天平と、前に解剖した理念の幾つかの特徴を、後に文學の理念の特徴と仔細に比較して見たいと考へてゐるのであり、その企畫がこの章の考察の中心點でもある。
 最後に私は美術の隆昌とか盛期とかいふ意味を美術的傑作の数量〔八字傍点〕が他の時代に比較して多かつ(256)た意味に取つて考へて見たい。白鳳時代と天平時代と何れが果して多くの傑作を持つであらうか。この数量を精確に比較しようと思へば、二つの時代の年代的密度を先づ同一のものにしなければなるまい。併し美術によつて見たところでは、白鳳は時代が集約的であり、美術品は比較的に一點に集中してゐる。即ち白鳳期なるものは大して長い時期とは考へられないのである。これは元來白鳳期なるものが過渡的意味のものであつたからであらう。これに比較すれば天平期の時代的繼續は相當に長い。随つて天平期は白鳳期よりも多くの傑作を含まなければならない。今若し現に殘存する遺品によつて推測するならば、天平は確かに白鳳よりも多くの傑作を持つのである。大作は何れの時代にも出來たが、東大寺大佛の代表を持つ天平は更に白鳳以上に多くの大作を持つ。勿論兩時代ともに凡作をも多く制作したことであらうが、その凡作も現在の遺品によつて見れば天平期に数多い。随つて一般に佛像の制作せられたことが天平期の方に頻繁であつたと見なければならない。殊に天平時代に就いて特筆すべきことは、その時代に制作せられた彫像の個性に幾つかの種別あることだ。極めて大略に区別しても、三月堂式、新薬師寺式、唐招提寺式などは、それぞれに全然異る特色の個性である。白鳳時代の彫像には、概して斯くの如く顯著なる個性の種別を立て難い。即ちそこには大體一様の個性を持つた彫像が存するのである。これらの比較によつて想像すれば、美術品を制作する時代的エナアジイでは、天平は白鳳よりも熾盛なるも
 
(未)違ない。天平がそれに先立つ時代よりも熾烈な制作のエナアジイを持つたのは、少しも不思議のことでない。若しこのエナアジイの分量を標準として美術制作の完否を決定するならば、當然天平は白鳳を完成せしめたと言はなければなるまい。
 
     四
 
 白鳳時代から天平時代に至る美術に就いて、私は既に観察すべきだけのことを観察し終つた。次に私は右と全く同様の方法で観察を同期の文學即ち主として萬葉詩歌の上に加へて見ようと思ふ。
 第一に先づ私は白鳳と天平との兩期に就き、何れが最大の傑作〔五字傍点〕を持つかを判定したい。白鳳の持つ最大の歌人は人麿であつた。赤人は天平に入り込んで位置するし、旅人や憶良等は天平の代表的歌人である。これらの歌人に就いて何れを最高の歌聖として取るかといへば、多くの人は熟慮するまでもなく白鳳の人麿をそれだと言ふであらう。この評價は古來歌に携はるものの間の定説となつて來たのである。私も亦その見方を根低から覆さうと思ふものではない。併し若しも人(258)麿の作品を奈良朝文學の最高のものと評價するならば、何故それと全く同じい見方を以て、從來藥師寺の三尊を奈良朝美術の最高のものとして評價して來なかつたか。兩者の見方は、後に藝術の理念に就いて述べる如く、全く同じいものだと私は考へるのである。三月堂や戒壇院の諸像を禮讃するならば、同じい見方を以て赤人をも禮讃しなければなるまい。新薬師寺や法華寺の彫像が獨自の個性を以て他に卓越したものと評價せられるものならば、何故憶良や旅人や蠹麿の作品も比類のない個性を持つものとして稱揚せられないか。少なくも赤人の價値は人麿のそれに劣るものではないと私は考へるのである。それにも拘らず人麿が赤人よりも卓越したもののやうに見られた理由は、後に理念について述べる點に存する。併し人麿を赤人以上と評價する定説を無下に排斥しないとすれば、今の場合そのやうに決定して置いても考察には何の支障も生じはしない。
 然らば第二に、白鳳から天平に至る文學の理念的發展〔五字傍点〕は如何なるものであつたか。ある人は萬葉詩歌の理念は人麿時代に於いて遺憾なく完成して居り、天平時代は既にそれの爛熟頽廢に向ひつつあつた時だと観察するかも知れない。併しこの場合には最大傑作の成つたことを理念の完成と同一視してはならない。理念は生活態度の表現である。或る方向に向けられた生活態度がその方向に於ける完成をなすことと、その方向線上に於ける生活態度の何れかの一點が最高完成の藝術的表現を持つこととはおのづから別の問題である。理念の完成は必ずしも個人的のものではな
 
(未)はれなければ、理念自體は完成せしめられても、それに相應する文學の最大傑作は出現しないであらう。斯くして最大傑作の制作と理念自體の完成とは全く別の見方として厳に區別せられなければならぬのである。白鳳から天平に向ふ文學理念の進展に就き、白鳳時代を最高完成期となすのは、右の區別をなさぬものではないか。人麿の歌が『萬葉』中の最大傑作であつたとすれば、その意味は、第一に人麿の歌の中の生活が最高の完成を示したものであるか、第二に人麿の歌の形式と内容とは最高の適合を示してゐるかの何れかの場合を意味しなければならぬ。然るに第一に、歌の中に於ける人麿の生活はそれだけで完成してゐない。それは時代の藝術理念展開の一様相の上に於いて在るものだ。第二に、人麿の歌は形式と内容との渾然たる適合を示して居り、その點に於いて彼の作品は或は『萬葉集』中第一の榮譽を擔ひ得るかも知れない。そのよつて來る理由に就いては後に述べる。併し形式と内容との適合が最高の完成を示したといふことは、要するに藝術的表現〔二字傍点〕が最高の完成を示したといふ意味であり、藝術的理念〔二字傍点〕が最高の完成を示したことを意味しないのである。藝術的理念が最高の完成を示した時に藝術的表現も亦最高の完成を示せば、最も美しい作品が生れることであらうが、歴史の機會はさういふ場合ばかりを許さない。天才は概して藝術勃興の意志力の旺盛な時に生れる。即ち天才は理念の最完成期に現はれないで寧(260)ろそれに少しく先立つ時代に生れて來る。萬葉歌に於ける人麿の出現の如きもその一例ではなかつたか。
 人麿によつて代表せられる白鳳期の詩歌を、生活の極めて素朴純情なものであつたと考へることは正しくないと私は考へる。人麿の歌はもつと繊細優麗なものなのだ。この點は人麿のみならず一般に萬葉歌を考へる上に就いて、今後見方に大いなる變化を必要とするところであると私は主張したい。萬葉歌は『古今集』の歌と特質に於いて非常に違ふものであると一般に考へられてゐる。即ち『古今集』の歌はいかにも唐詩を模倣して繊細優麗なものだが、『萬葉集』の歌はそれとは違つて勁直素朴なものだといふのである。私は古今と萬葉とにそれほどひどい差違を見ようとは思はない。萬葉の歌を勁直素朴であると見るものは、要するに『萬葉集』に使はれた上代人の言語の勁直素朴な感じを主たるものと見てその内容の繊細優麗なことを見遁がしたものではないか。言語はその時代の言語から離れることが出來ない。歌ふ生活内容はおのづからそれとは別のものである。萬葉歌は生活を純眞に歌つたと見ればそれは全部的には眞でない。萬葉の歌も古今の歌の如くに、大いに知的に、遊戯的に歌つてある。ただその用語が勁直なるために、この歌の生活も亦勁直純眞なるものの如くに見られることが多いのである。私はここに萬葉歌に關して一の断定を下したい。それは萬葉歌全體を通じて理念は唐詩を模倣して生治を文化的に典麗優
 
(未)相應するものになることが出來る。
 それ故に人麿の歌の見方も從來とは著しく違つて來なければならない。第一に、彼の歌は感情生活の優雅典麗なものであり、彼はその生活態度を唐の文化生活から得てゐた。即ち彼の歌の生活は決して単純な純日本的のものではなく、唐の文化の影響を被ることの甚だ多かつたものである。随つて人麿の作品は悉く生活の必然に迫られて歌つたものではなくて、大いに人工的なる題詠風のものや遊戯的の作詠やをその中に混ぜしめてゐたのである。併し我々は彼の歌に就いて直ちに次の如き第二の特色あることを忘れてはならない。それは彼の歌が形式的に均整なものであり、表現として内容と形式とのまことに美しい適合を示したことである。私は彼の歌の均整な形式は二つの源流から來てゐると考へてゐる。一つはその形式を厳粛なる祝詞から得たことであつて、それは從來も注意せられた。人麿はさうした點でなほ餘程保守的な點を持つのである。次にはその形式を唐の五言詩から得たことである。白鳳期以前即ち上代の歌謠は大體に於いて自由の律格を持つてゐた。これを五七調の均整な詩形に統一したのは全く白鳳期に於ける人麿等の事業であつたと私は考へるのである。そしてこの事業は、人麿等が唐詩の理解者であり、唐詩の五言詩の形式をよく國語に移し得たればこそ、達成せられたのである。人麿はかうした意味で上代の(262)日本的のものと新らたに輸入せられた唐式のものとを渾然と統一融合することが出來た。人麿の歌が成功した理由はそこにあつた。即ち彼は第一に、歌の形式に於いて上代の純日本的のものを導き來つて唐詩の均整と結婚せしめることが出來た。また第二に、歌の内容の生活としては、上代の純日本的なる勁直純情的なるものと唐文化の典麗優雅なるものとを結婚せしめて、生活の保守と進歩との兩端に満足を與へることが出來た。それなればこそ人麿の歌は長く一般人に稱讃せられたのである。私は人麿の作品と藥師寺の三尊との間に大いなる類似があると考へてゐる。第一にそれは形式的なる美を持つ。第二にそれは豊かなる感情生活を持つ。この形式が寫實に流れず飽くまでも勁直なる強さを持つて幾何學的なものだといふことは、兩方の藝術に共通のものとして特に高調せられなければならない。この形式美の源流は、兩者に於いて多少の相違があらう。即ち人麿はこれを純日本的なものと唐的なものから受け、藥師寺三尊は北魏式のものと唐式のものとから受けたのである。併し何れも保守的の源流を持つたと見れば、その形式の精神は共通だと見られる。また美術に於いては、埴輪などに見られた純日本的の形式は、推古白鳳の佛教美術と全然無関係だとも考へられないのである。かく比較して行けば、白鳳期に於ける美術と文學との間には理念や表現の完成に就いて互ひに對照せらるべき密接な關係がある。
 人麿の歌が唐詩の大いなる影響を受けて成つたとする私の考へには大いなる反對が起るかも知
 
(未)風藻』から『凌雲集』や『文華秀麗集』『経国集』やに移つた時に我國の漢詩は七言詩となつたが、これは元より唐詩の風調の影響である。詩がかくて五言詩より七言詩に移つた時に、歌も亦五七調より七五調へ移つて行つた。この變化は互ひに全く無關係のものだとは見られない。第二には、人麿の歌に「吉野宮に幸せる時作れる歌」「伊勢國に幸せる時作れる歌」といふ風の形式のものの多いことである。かうした形式のものは白鳳の人麿等に始まる。それは『懐風藻』に於ける「春日宴」「從駕吉野宮」「宴新羅客」などの歌と同一形式のものである。そしてかうした詩歌は宴遊の際の文化的生活行事としてつくられたものであり、既に詩歌が遊戯的に、題詠風に制作せられたことを示してゐるのである。この文化的生活行事は唐より輸入せられたものであるし、随つて私は人麿の右の如き長短歌に眞質勁直なる生活の必然的表現を見ることが出来ない。それは表現に於いても内容に於いても他に卓越した作品であつたにせよ、その制作態度からは遊戯的分子を排斥することが出來ない。
 私はなほ人麿の歌に唐文學の影響のあつたことに就いて次のやうな證據を擧げて置きたい。それは人麿の歌と『遊仙窟』との比餃である。『遊仙潰』が奈良朝時代に傳はつて來て、我国のインテリゲンチヤに大いなる影響を與へたことは、既に憶良等の作品にも見えて何人もこれを疑は(264)ない。萬葉文字の書き方に就いては大いに『遊仙窟』の影響が見られる。また男女が遊戯的感能的なる戀情を歌によつて交換することは、上代人の風習の中になかつたとは言へないとしても、それが確實に文學的表現を持つに至つたことも亦『遊仙窟』の如き唐代文學の影響に相違ない。併し今私が擧げようと思ふ證據はそれではなくて、『遊仙窟』の末尾の一節と人麿の「石見國より妻に別れて上り來る時の歌」との比較である。後者の着想は確かに前者から得て居ると私は考へるのだ。
 『遊仙窟』は唐の文學者張文成の創作したものである。張文成は武后の時の人であるが魯迅はその生存年代を『唐書』により考證して約六六〇年より七四〇年に亙るものとした。『唐書』には、「※[族/鳥](論者註。張文成の名)下筆輙成、浮※[豐+盍]少理致、其論著率※[言+※[氏/一]]※[言+肖]蕪穢、然大行一時、晩進莫不傳記。(中略)新羅日本使至〔六字傍点〕、必出金寶購其文〔十三字傍点〕」とある。即ち日本の遣唐使や留學生が唐へ行つた時に張文成の小説を珍奇として購ひ、これを齎らし歸つたことが知られるのである。『遊仙窟』の如きもその一つであつたらう。この書は支那では久しく亡佚して傳はらず、我国で傳承せられた。張文成がこの小説を書いたのは、彼の少時であつたと魯迅は考證してゐる。その小説の筋は、彼が河源に使を奉じて行つた途中の出來事として書かれてゐるのである。然らば『遊仙窟』は張文成により三十歳以前に書かれたものだと考へられるが、然らば六九〇年には既にこの書は成ついてゐたとしなければならぬ。この年は我國では持統天皇の四年にあたる。即ち『遊仙窟』は
 
(未)ば、我國の留學者が張文成の小説を珍とした程度も推察出來るし、また留學者の至る毎に必ず〔二字傍点〕それを購つたことにより、その書を我國へ齎らし歸る毎に、我國の文人がそれを甚だ珍なるものとしたことが想察出來る。人麿の如き文人がこの文學の影響を蒙らない筈はない。彼の「石見國より妻に別れて上り來る時の歌」は『萬葉集』には持統天皇朝の作歌として擧げられてゐる。人麿はその當時新らしく傳へられた『遊仙窟』に敬服心酔したとすれば、自らも亦その中の何等かの部分を模倣した作品を創作したかつたに相違ない。かくして生れたものは右の長短歌であつたらう。私が今兩々對照して見たい部分は次の如きものである。(張文成については魯迅の著『中國小説史略』に據るところが多い。)
 下官不忍相看、忽把十娘手子而別。行至二三里、廻頭看數人猶在舊處立。余時漸々去遠、聲沈影滅、顧瞻不見、惻愴而去。行到山口、浮舟而過、夜耿々而不寐、心※[螢の上部/凡]而靡託。既悵悵於啼※[獣偏+爰]、又悽傷於別鵠。飲氣呑聲、天道人情、有別必怨、有怨必盈。去日一何短、來宵一何長。比目絶對、雙鳧失伴。日々衣寛、朝々帶緩、口上唇裂、胸間氣滿。涙瞼千行、愁腸寸断。端座横琴、涕血流襟。千思競起、百慮交侵。獨※[口+頻]眉氷結、空耿膝而長吟。(註一)
 これは主人公の張文成が十娘に別れて旅途に就き、綿々の情をその上に走らせる部分の描寫で(266)ある。十娘は絶世の美女である。文成はこれと別れて山中を行き、二三里にして頭を廻らせば、そこにはなほ十娘等が立つて文成を見送つてゐるのである。文成はその旅途に於いても十娘を想ふの情に堪へない。夜耿々として眠らず、心※[螢の上部/凡]々として據りどころを失つたのである。全文は殊に對句を多く用ひてその形式詩の如く、その情を描くこと詳密にして寧ろやや形式的に失する。
 (註一) 風土記の中、美文調の戀愛記事の部分などはやはりかうした唐の小説を模したものであらう。例へば『常陸風土記』には次の如き文がある。「便欲相語、恐人知之。避自遊場、蔭松下。※[手偏+雋]手促膝、陳懐吐憤。既釋故戀之績疹、還新歓之頻咲。于事玉露抄候、金風風節、皎々桂月照處、唳鶴之西洲。颯颯松※[風+思]吟處、度雁之東路。山寂寞兮巌泉舊、夜蕭條兮烟霜新。」云々。風土記なるものの作製せられた時代の空気を知ることが出來よう。右引用の『遊仙窟』の文中、「山口」といふ熟語があるが、『常陸風土記』には「乃至山口」とあり、祈年祭の祝詞にも、「山口坐皇神等」と侠はれてゐる。
これを人麿の次の長歌に比較すると興味深い。
 石見の海 角の浦囘《うらみ》を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚《いさな》取り 海邊をさして 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上に か青なる 玉藻|奥《おき》つ藻 朝羽振《あさはふ》る 風こそ寄せめ 夕羽振る 浪こそ來寄せ 浪の共《むた》 彼《か》より 此《か》くより 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の おきてし來れば この道の 八十隅毎《やそくまごと》に 萬《よろづ》たび かへりみすれど いや遠《とほ》に 里は放《さか》りぬ いや高《たか》に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひ萎《しな》えて
 
(未)だけ想の違ふものを全部書きうつして見よう。
   石見《いはみ》のや高角《たかつぬ》山の木《こ》の間より我が振る袖を妹見つらむか。
   小竹《ささ》の葉はみ山もさやに亂《さや》げども吾は妹おもふ別れ來ぬれば。
   青駒《あをごま》の足掻《あが》きを速《はや》み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にげる。
   秋山に落つる黄葉《もみぢば》須臾《しましく》はな散り乱れそ妹があたり見む。
 『萬葉』の中でも特に有名であり傑作である人麿のこれらの長短歌は、構想に於いていかによく先きに掲げた『遊仙窟』に似るであらうか。人麿は山路の八十隈毎に顧みするのである。彼は高角山の木の間より袖を振つて遠くその妻に別れを借むのである。山路の笹の葉は騒がしく風に鳴るが彼はひた心に妻を思ふのである。思ひ萎えてはてはこの山靡けとなげくのである。彼の妻はこの石見の鄙にあつても絶世の美女であり、彼等の交情は蜜の如くに甘かつたのである。かうした着想はいかによく『遊仙窟』に似るものであるか。張文成も人麿もかく旅地に寄り寝た妻を絶世の美女とし、その稱讃に形式的のあらゆる誇張語を便つてゐる。山路を隔てて別離の悩情を走らせる所も同想である。私はこれら二つの文學が全然無關係に生れたものだとは考へることが出來ない。當時の地方官吏はその任地に於いて一時の愛人を得たであらう。既に張文成を愛讀し(268)てゐた當時の文人達は、その時この愛人を五娘十娘と比較しはしなかつたか。『造仙窟』は一のユウトピア的記述である。随つて殊更に人の憧憬を寄せしめるものがある。唐代小説を讀んでゐたものは、その旅途の一夜假妻を得れば必ずその女を十娘と比較したであらう。人麿はその想をこの歌によつて表現した。この長短歌をよむものはまた必ず聯想によつて五娘十娘を想起したであらう。ただそれあるが故に兩者は同巣のものであつて、人麿の歌に何の光彩もないとは言へないことである。人麿の天才を以て、彼はその表現を全然張文成と異らしめてゐる。そしてこれはこれとして獨創的の想を含み、また流麗の詞藻をも持つのである。我々はそこに人麿の依然として詩聖である所以を見なければならない。今は彼の歌の價値を批評しようと思つたのではない。彼の歌が唐代の文學によつて影響せられたことの確實な證據を見得れば、それで十分なのだ。
 要するに人麿は、それ自身獨創的の構想力表現力を持つが故を以てのみ偉大であつたのではない。同時に彼は唐代文學の生活と修辭とを歌の中に取り入れ、固有の歌を形質共に新らしく生かすことが出來たればこそ一層偉大であり、當時に於いていたくも稱讃せられたのである。彼は當時に於いて一個の文化人であり、近代生活者であつた。我々は人麿の作品の評價に於いてその點を忘失してならない。人麿の作品に於けるこの藝術的理念は天平に至つて一層展開せしめられた。即ち天平の詩歌は、第一に一層人工的遊戯的となり、第二に知的となり、第三に或る部分は道義
 
(未)特徴は(白鳳時代以前のものを除外して)第一に、その感情生活の豊醇なることである。第二に、知的遊戯的に進んで行つたことである。第三に、特に強く唐代文化を模倣するものは道義的にさへ進んで行つたことである。かうした見方こそは萬葉人即ち奈良朝時代のインテリゲンチヤの生活を在りの儘に親祭したものであると私は考へてゐる。
 最後に美術との比較のために、白鳳と天平と歌作者の数〔五字傍点〕が何れに多かつたかを記して置かう。私はまだ統計的に精密に萬葉の歌を兩者に區別しその数を計量したことがない。併し何としても天平時代は白鳳時代以上に多くの歌人と歌作とを持つたであらうと観察する。
 
     五
 
 今や私はやや綿密に奈良朝時代に於ける美術と文學とのそれぞれの特徴を比較し分析することが出來た。右の比較による時には、白鳳より天平に亙る美術の發展と文學の發展とには緊密なる相應があつて、彼此齟齬するところがなかつたのである。文學は白鳳に於いて完成せられ美術は天平に於いて完成せられたとする從來の見方には、幾分の訂正が加へられなげればならぬのでは(270)ないか。若しも最大傑作の存在をいふならば、或は文學に於いては白鳳を頂點としなければならぬかも知れない。美術に於いては白鳳天平何れとも決し難い。藝術の理念の推移を言ふならば、文學も美術も共に白鳳に於いて完成してゐない。白鳳はなほ唐文化模倣の初期であり、その模倣が或る頂點へ達したのは次の天平時代であつた。なほまたその創作の数量の多かつた點でも、文學美術ともに天平は白鳳を遙に凌駕してゐたらしく見えるのである。
 右の第一點の比較に就いても亦、私は定説の如く人麿を最高とすべきであるかどうかに惑うてゐる。人麿の歌は赤人等のそれに比較すれば、なほ形式に於いて素朴であり、生活に於いて単純過ぎはしないか。なほ人麿の長歌は、形式的に無意味な、非實質的な部分を持つてゐるとも思ふ。私は或は赤人の作品こそ藝術的に眞に形質相應の最高完成を示したものではなかつたかとさへ考へるのである。ただ人麿の作品が人格的に大いなる迫力を持つことは何としても否定出來ない。この點から見れば依然として人麿は比類を絶した歌聖である。この人格の迫力の點では、美術に於いても薬師寺の三尊はやはり天平期諸像に優るものがあるやうだ。概して言へば時代文化の勃興しようとする初期には、すべてのものに雄大なる氣象が現はれる。白鳳期諸藝術がさうした人格の迫力を持つた理由はそこにあつたのではないか。一方では極度にまで大膽に因襲を打破して唐の文化を輸入するかと思へば、他方では可なりに保守的な要素に執着してゐる。その動揺が當時の文化のすべてに指摘せられる。これが政治的の表現は實に壬申の亂であつた
 
(未)私のこの論文に於いては、おのづから『萬葉集』文學の理念の新らしい見方が展開せられてゐた筈である。私は『萬葉集』と『古今集』との間に、理念の全然の相違ある如くに言ふ見方に賛成することが出來ない。『萬葉集』の精神はひたむきに勁直素朴なるものではない。それは唐の文化を模倣してもつと知的でもあればまた遊戯的なものでもあつた。『萬葉集』の中でも白鳳期以前の作品はひとまづこれを別にして観察しなげればならたい。これと『萬葉』固有のものとは形質ともに餘程違つたものである。唐文化模倣の始まらない上代のものと既にその模倣の始まつた後のもの、即ちこれを文學にして言へば、五七調定型歌の定まらない以前のものと、それの定まつた後のものとの間には著しい相違が見られる。前のものの特徴を以て後のものを蔽うてはならない。私は白鳳から天平に至る時代文化に就いては、文學に於いても唐代文化の大いなる影響を除外して観察を始めることが出來ない。これを斷定的に言へば、萬葉詩歌に就いては、それを唐詩の日を通して見る立場から私は容易に離れ得ないものである。    ‐『學苑』
 
(272)    第十一章 懐風藻と萬葉集
 
     一
 
 『萬葉』以前の歌謠から所謂萬葉時代の長歌短歌の發達するについて、支那文學の甚大の影響のあつたことは疑ひのない事實である。私の考へでは、五七音を規則正しく聯ねた定型の長歌短歌なるものは、形式的にも内容的にも、恐らくは支那文學、もつと廣い意味では支那文明の影響なしには、決してさうした發達を示さなかつたであらうと思ふ。一般に奈良時代の藝術に於げる支那文化の影響は、第一にはそれの内容に於いて、第二にはそれの形式に於いて見られてゐる。併し進んでは更に第三に、それの藝術的精神に於いて、第四にそれの藝術的技巧に於いても見られてゐるのだ。この影響のあとをたづねて見ようと思へば、言ふまでもなく直接に當時の支那文學と『萬葉集』とを比較するがよい。併しここにその仲介として、より〔二字傍点〕近い材料を我々に提供し
 
 
(未)が萬葉詩歌のうへにどれだけの影響を與へてゐるかを尋ねて見よう。但し今はその個々の作者の作品を藝術家としての内面的心境へまで立ち入つて分析せず、それに全體的概観を加へようといふのであるから、今の比較では先きに擧げた第一と第二の點、即ちその作品の内容と形式との二面についてだけを取扱ふのである。
 
     二
 
 先づ両者の内容を比較して見よう。
 『懐風藻』には「侍宴」「秋日於長王宅宴新羅客」「春日侍宴應詔」「扈從吉野宮」といふ風の題目でうたつた詩が甚だ多い。それらによつて見ると、詩を賦することは多くは宴の興を添へるためのものであつたらしい。「望雪一首」「臨水観魚一首」「山齋一首」などとあるのは、明らかに宴中とは書いてないが、宴になぞらふ興中に出來たものと見える。「遊猟一首」とあれば、遊猟の宴中にも作られたのであらう。それらを總じて見るに、詩を賦することは扈從して詔に應じ、宴に侍し、遊猟に侍して興を遣り、若しくはそれになぞらふものが多いのである。然るにこの題材の取り方はその儘に萬葉詩歌に見えてゐる。殊に人麿などに見えたさうした題材の取り方も、(274)實は當時の一つの流行を現はしたのである。このことは詩歌を作ることが既に幾分か實生活より遊離して、遊戯的となつたことを示してゐるものである。随つて人麿の作品などでも、實生活の已むに已まれぬ感懐から生れたものではなくて、多くはやはり技巧的に作つたものである。(註一)一面ではそれは、藝術的意識がそれだけ實生活の意識から獨立したことを意味してゐる。即ち萬葉人は最早歌作をすることに或る藝術的感興を持つてゐたのである。併しまたそれだけ作歌の態度も人工的となり、技巧的となることから免れる譯にはいかなかつた。
  (註一) 御杖は、人麿の吉野の宮の歌に諷諫の意が含まれてゐると言つてゐるが、これは考へ過ぎであると思ふ。そのことは、人麿の歌を『懐風藻』の中の「扈從吉野宮」の詩と比較して見れば分るのである。大體の詩想は両者に於いて同一であり、かうした場合、歌ふ内容は形式的に定まつてゐたのである。
 老荘佛の思想の影響が奈良時代に濃厚であつたことも『懐風藻』を通じて察知せられる。越智直廣江の詩に、「文藻我所難、荘老我所好、行年已過半、今更爲何勞」といふのがあるが、それによつて見れば老荘の學が當時流行したものの一つであつたことは分明であるし、その詩の内容も亦よく老荘的思想を出したものである。釋道融の詩は勿論佛教思想を現はす。それら老荘佛の思想は何れも人をして退隠的、悲観的ならしめ、これに人生観的瞑想を教へるものであつた。随つて『懐風藻』の中にも、「悲不遇」「獨坐山中」「山中」「幽棲」「歎老」「山齋言志」などいふ退隠的悲観的の思想を述べたものが可なり數多く含まれてゐる。併しそれらの詩を讀んでみ
 
(未)ない。そして表面的には「幽凄」とか「歎老」とか言つてゐても、眞にそれだけの體験を持つてゐたのではない。ただそれによつて次のことだけは論断することが出來よう。それは生活に餘裕が出來、これらの思想を藝術的に受け取り、それを樂しむだけの藝術的意識を獨立せしめたといふことである。随つて退隠も悲観も一種の道樂にしか過ぎない。なほ突込んでいへば、そんなことをでも言つて遊んだのである。それだからこれらの思想を述べるところでは、その思想の表現はすべて典型的となつてゐる。まだ個性的に、作者の生活に即するといふことがない。これらの老荘佛の思想はやはり可なり濃厚に萬葉詩歌の上へも影響してゐるものと見なければならない。併しそれらの思想も後になればなるほど、相當に深い哲學的の思索を喚び起したであらう。憶良や旅人の作品は側々として人の心に逼るものを含んでゐる。それらにあつては、借り物は借り物でも餘程よく體験的に生かされて來たものと見なければならない。
 老荘佛の思想と共に、一體に神仙的思想はこの時代によく流行してゐたのである。それはかなり深刻に流行して、民間の俗信仰をすら決定する勢力を持つてゐた。建國神話の上にさへ神仙的思想の影響は濃厚であつたことを我々は忘却してならない。老荘佛の思想でも、ひろく神仙的思想でも、生活に餘裕が出來、主観は主観で生活の中から獨立した時でなければ流行するものでな(276)い。日本の民間傳説などでも、神仙的思想によつて修飾することの出來たものは、この時に所謂文人の手により次第にさうした方向へ變化せしめられたに相違ない。柘枝傳説、浦島傳説は共にさうした變形を受けたものであらう。中にも柘枝傳説はよほどよく當時の人の神仙的趣味に適合したと見えて、『懐風藻』では東王父西王母が言はれる代りぐらゐに幾度も取扱はれてゐる。随つて萬葉詩歌もそれを取扱ふやうになつた。
 支那での年中行事の中で、當時の貴族的遊樂的趣味に適合したものは、彼等の詩材によく取り入れられてゐる。その著しいものは七夕である。『懐風藻』の中にも『萬葉集』の中にも七夕を賦詠したものは数多く含められてゐる。併しそれらの詩歌は何れも人工的技巧的であつて、我々には幾許の藝術感をも與へはしない。それにも拘らずこれらの詩歌が繰り返し幾度も作られたといふのは、それが宴樂の興を助けたからである。詩歌が遊戯的となる傾向は一層進められた。しかし同時にそれは人間の主観生活が複雑となつたために、同じ月や星を眺めても、ただ現實的の月や星でも物足らず、何等かそれを観念化し、それを幻想の世界の中のものとしなければゐられなかつたことを示すのである。邊地の役を悲しむ詩歌が『懐風藻』や『萬葉集』に多いことも、その一部は必ずや支那文學の影響である。しかしそれには単なる模倣とは見られない眞實の情を述べたものもある。これは寧ろ支那と日本とが同様の制度を取つたからの結果と昆らるぺきであらう。
 
(未)つた言葉が幾つも見られる。さうしてみれば、人麿は日本の固有思想、例へば祝詞などの思想と支那思想とを甚だよく結合する技倆を持つた作家であつたといはなければならない。『懐風藻』の中には、「朝雲指南北、夕霧正西東」とか、「一朝逢柘民」とか、「唐鳳翔臺下、周魚躍水濱」とか、「戯鳥從波散」とかいふやうな句があるが、それらは皆巧みに歌の言葉に整へられて、同様扈從の際の歌になつてゐるのである。その外、「忘歸待明月、何憂夜漏深」などいふ詩想は、月並的に詩にも歌にも使はれたとみえる。「逝矣水難留」といふやうな詩想は、甚だ巧みに變装せられて、人麿の宇治川の歌――「もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行方知らずも」――となつて現はれたものであらう。
 
     三
 
 最後に『懐風藻』と『萬葉集』と、その詩歌の形式を比較してみよう。
 萬葉時代になつて長歌と短歌と二つの有力なる定型律が出來た原因は、私の考へでは、やはり支那文學の影響であつたと思ふのである。『懐風藻』の詩は殆ど全部五言で出來てゐる。但し句(278)數は四のもの八のもの十二のものといろいろあつた。この整然たる律形は、萬葉詩歌人の頭を刺戟したに相違ない。ここに規則正しく五七音を聯ねて行く長歌及び短歌の形式を成立せしめ、その他の自由律形を排棄したのであらう。そして長歌と短歌と同じ基礎律形を持つのも理由あることである。萬葉詩歌人にしてみると、短歌は五言四句の詩に長歌は五言八句、十二句などの詩に匹敵したものであらう。支那文明の輸入によつてわが國人の先づ驚かされたものは、その整然たる形式であつた。そこでわが國人は、文化のあらゆる點でこの形式の整然たることを見習はうとつとめた。詩歌の形式もその風潮によつて整理せられたのである。
 萬葉時代に五七調が流行し、それから後に七五調の流行したことは、勿論背景の精神生活の發達に對比せしめられて考へられなければならぬことである。精神生活の變化發達は、この律形の變化の重大なる原因であつた。併し直接の刺戟としては奈良朝時代の詩が五言であり、それより後の詩が七言であつたことは當然顧慮せられなければならぬ。それは勿論語数の多少とも關係はしてゐる。しかしもつと詳しく分解してみれば、五言の詩形では、その五言が二言三言と分れて尻軽となることが重大な刺戟になつたのである。例へば『懐風藻』で「玉管吐陽氣、春色啓禁圍」とあれば、それは「玉管、吐陽気、春色、啓禁圍」といふ風の律になる。それは五七調の長歌短歌の律と全く同じいものである。然るに『文華秀麗集』などになると、單に七言の詩形になつただけではなしに、「紅顔童子、??といふ風の、尻輕の律の聯となるの
 
 
(280)    第十二章 装飾藝衛の理想と天平文化
 
    一
 
 今春東京で開催せられた佛蘭西装飾美術家協曾の展覧會を見たものは、一般に装飾美術の意義や目的に就いて何を考へたであらうか、また装飾美術に就いての世界の大勢はどの方向に進んでゐると觀察したであらうか。私は直接にこの展覧會を見ず僅かにその一端を圖録によつて窺つたに過ぎないが、この大規模の展覧會は我國の装飾美術家や一般の鑑賞家に大いなる感動を與へたに相違ないと想像してゐる。これと殆ど同時に、大阪では天平文化綜合展覧會が開催せられてゐたが、それには如何にも前の装飾美術展覧會とよい對照を示すものの如くに、天平時代の偉大なる装飾美術、即ち正倉院御物の数々の模造品が展觀せられ、世の視聽をあつめた。なほ別に正倉
 
(未)ちに天平の装飾美術を稱揚する言葉であり得るか。これと彼れとそれらの装飾美術が自らに内在せしめる美の原理が借に互ひに異るものであつたとしたら、その一方に賛成しつつ直ちにその他方に賛成し得るものであるか。一體に美術を鑑賞する場合には、人々は餘りにも無原理的となつてこれと彼れとその原理の矛盾するものを不統一に推擧しはしないか。私にはそれらのことが疑問となつたのである。
 佛蘭西装飾美術家協會がその作品を我国で展覧してくれたことは、世界の装飾美術が今一般に何を目標として進んでゐるかを我が國人に教へる啓蒙的意義から考へても、大いに感謝すべきことであつた。それは直接に建築美術の正しい目標を示してゐるが、又その原理によつて建築美術以外の諸種の装飾美術をも理想的に正しく導いてくれるものだ。然らばその装飾美術の理想とするところは何であるか。この展覧會の計畫に盡力せられた佛蘭西の文部美術省美術總長ポオル・レオン氏は雑誌『日佛藝術』に、この展覧會の簡單な紹介の辭を書いてゐられるが、その紹介はこの協會の目的とするところを卑近に語つてゐる點で注目すべきものである。レオン氏によれば、科學の研究や社會改革の新時代であつた佛蘭西の十九世紀も、獨自の装飾美術を創造することを知らなかつた。そしてこの世紀の住宅は古い歴史の數章の縮圖を示しつつ、その革新自體がすで(282)に廃棄せられた形式の範圍内で行はれたものであつた。然るに「今日の装飾美術は、もはや骨董や貴い飾物やには限られない。それは生活全體を抱擁する。」それは住宅から飛行機にまで及んで、社會の全體を内容として取り入れた。「今日の住宅は浮氣な選擇から偶然に配置せられた家具の重なり合ひではない。それは總體として出來上つてゐる、一つの美術品として組合はせられる色彩と表面と容積との調和である〔それは總體〜傍點〕。在來の装飾師が影を潜めて、綜合意匠家がこれに代つたのである。」レオン氏がかやうに觀察した装飾美術の新らしい精神は、我々から考へてもいかにも正當のものだ。この精神を換言すれば、.装飾美術が一の自律的世界を構成することである。世界が自律するためには、資材としては生活の全體が含められ、原理はその全部を蔽うて統一的でなければならぬ。資材の各個が別々の原理を主張するのではなくて、部分は常に全體の理想を表現するのでなければならぬ。装飾美術の全體が統合的に美を宿した時には、その各部分は一般の藝術品の場合と同様に、色彩と表面と容積との全體的統一に参畫して、何等かそれの部分的職務を果さなければならぬ。かやうに考へて我々はレオン氏の所説に、いや佛蘭西現代装飾美術の新潮に、賛成しなければなるまい。レオン氏はなほその紹介を續ける。「かうした厳格な原則から、疑ひもなく、一つの様式が生れた。」「然らばその特質は何であるか。美しい材料の研究、製作の完璧、部分部分を犠牲として本質に進み、装飾を犠牲として構成におもむくことである〔部分部分を〜傍点〕」と。
 
 
(未)寫であつてはならない。それが一の獨立した美術品としで我々に謠識せられるためには、その各部分は何等か本質的なるものによつて立體的に率ゐられ、構成せられなければならぬ。着眼の中心は、部分でなくてこの本質なのだ。そしてこの本質を構成的に助けない、部分の徒らなる装飾は、統一ある美術品の着眼からは無用のものでなければならぬ。かやうにして構成主義は、認識論に於ける如く装飾美術に於いても亦眞理なのだ。ここに我々は装飾美術に於いて、本質による全體的構成を取る構成主義〔四字傍点〕と、本質を缺除して部分の個別的装飾に着眼する装飾主義〔四字傍点〕との對立を見、且つその後者を捨てて前者につかなければならないが、進んで考へれば、構成主義と装飾主義とはそれぞれの時代文化が全體的に持つてゐた特質でもあつた。我々は今後或る時代の文化の意義を觀察する時に、それは構成的であつたか或ほ装飾的であつたかと考へることによつて、正しい視角を失はないでゐることが出來よう。我々の天平装飾美術は果してこれらの何れに屬すべきものであつたか。また奈良朝佛教と『萬葉集』と所謂天平の佛教美術とを包容する天平時代文化の全體的特色は、構成的と言はるべきであつたか、はた装飾的と言はるべきであったか。時代文化の意義に就いて我々はいま再批判の試みをなさなければならない。
 
(284)     二
 
 構成的と装飾的とは、時代文化の進展の二大方向としてその間に大いなる相違を持つが、その主たる相違點を我々は次の如きものと考へることが出來よう。
 第一に、構成的文化はその認識も亦構成的であるが、装飾的文化はその認識が模寫的である。装飾美術に就いて言つて見れば、その美術は全體として或る本質を表現しなければならないから、部分は単に全體の統一に於ける色彩と面と容量とを代表する役目を果すに過ぎない。これを換言すれば部分は資材的に見られずに、何等か形式的に見られなければならない。或る室の中に椅子と卓子とが置かれてゐたとすれば、その椅子と卓子とは何等かの色彩と面と容量として見られ、その色彩と面と容量とは、室全體の色彩と面と容量とに對し或る形式的の意義を持たなければならぬ。着眼するところは全體であり、本質である。今若しその椅子や卓子が竹で造られてゐたとしても、その椅子と卓子とが面白いのは資材が竹だからといふ理由であつてはならぬ。竹でなければ表現し得ない特有の色彩と面と容量とを、その椅子と卓子とが表現してゐるから面白いのである。認識が模寫的であるとは、この場合に資材としての竹自體の面白さに固執し、竹自體の持
 
(未)品の美的價値の構成要素の主たるものにしようと欲するからである。私は美術品にそれらの貴重品を使用することを無下に排斥するものではない。黄金や眞珠やは他の資材では表現出來ない特殊の色彩を持つてゐるから、その特殊の色彩が単に色彩として見られ、全體の統一的本質に参畫するならば、この装飾美術に於いて黄金や眞珠も亦形式的であり構成的であると言へよう。ただその資材が、資材の形式を以て價値づけられずに、全體の統一から遊離した資材の他の價値を持つてこの形式の價値の中に潜入しようとすることを排斥するのである。認識論に於ける模寫説は、認識とは、相對する何等かの實在をその在るがままに模寫するものだと考へてゐるが、装飾美術に於ける模寫主義も、装飾美術ほ何等かの實在を模寫し、再現するものだと考へてゐる。装飾の文様を實在的のものに借り、その實在的のものの聯想を以てこの文様の意義を完成しようとする企圖も亦模寫的である。例へば寶相華や蓮華やを文様として使ひ、寶相華や蓮華やの持つ意義を以てこの文様の意義を完成せしめるのがそれだ。寶相華や蓮華が文様に使用せられるのは一向差支へない。ただこれが装飾美術としての意義を發揮するのは、その文様の色彩や線や容量やの形式的なる調和によつてであると考へなければならぬ。だから装飾美術が構成的であるとは、換言すればそれが形式的だといふことでもある。
(286) 第二に、前のことを殆ど言ひ換へただけのことであるが、構成的文化はその時代文化の全體的統一に着眼するし、装飾的文化はそれの部分のみに潜限するものである。装飾美術に就いて言へば、卓子や椅子の持つ色彩や面や容量をどうしようかと考へるのは構成的の見方であるし、その卓子や椅子の構成する色彩や面や容量やの調和はどうであれ、その卓子の表面にどういふ彫刻をしようか、椅子の足の形状を何に似せようか、またその卓子や椅子の各部分にどんな美しい色彩を使はうか、と考へるのは、装飾的な見方である。
 第三に、構成的文化の目標は、語の正しい意味に於いて價値的であるが、装飾的文化の目標は、快楽的である。これは両者の目的を區別する重要な點だ。装飾美術について言へば、その美術がかく構成的に形式化せられるとは、その資材が残る處なしに理想に向ひ價値化せられることを意味するが、装飾的な見方にあつてはその資材は殘る處なしに理想に向はない。そして理想に向はない装飾の部分は、それ自體快楽的である。その装飾は甘く我々の感情に媚びるか、或は又材料の分量の多いことによつて我々の目を眩惑せしめるのである。かうした場合にその装飾が價値的の範圍を超えて快樂的であるかどうかを決定するには、資材によつて眩迷せしめられない正しい目を持つことが肝要だ。若しも文化といふ觀念を理想的なるものにのみ限つたとすれば、構成的文化こそはまことに文化であつて、装飾的文化は文明であるに過ぎないであらう。我々の望むも
 
(未)も動かないところに感情だけが存在する筈はない。感情とは動いた意志の主観的な状態であるから、感情は直ちに意志ではないとしても、感情の背景には必ず意志が存在しなければならぬ。換言すれば、感情としての表現の根に何等か意志的なる文化方向が存在するのである。装飾美術の場合にも、それが構成的なる限りは、この装飾は何等かその装飾の意義又は本質を持つであらう。そして装飾の各部分はこの意義又は本質に向つて集中してゐる。即ち各部分は何等か表現の方向を持つのである。これに反して装飾的なるものにあつては、各部分は全體に向ふ必要を持たない。各部分はただその部分として快樂的である。部分はただその部分の必要を充たすばかりだから、意志的なる表現の方向を持ちはしない。
 第五に、構成的文化は殘るところなく全體の理想に參畫するが、装飾的文化は到るところ餘剰的である。その装飾的なるものの存在することが全體の意義に何の寄與をもしないだけではなく、時にはそれの寄生的存在によつて全體の勢力を浪費せしめ、その統一を妨害するのである。装飾美術に就いて言へば、或る部分に不必要に細緻な文様を使用したり高貴な資材を使ひ捨てたりしてあるのは、装飾が全く餘剰的に行はれてゐる所以であり、これがために装飾美術の價値を高めはしない。寧ろそれによつて装飾美術の氣品を害する場合が多いのである。
(288) 私は構成的文化と装飾的文化との相違を右の如きものであると考へた。この相違を考察する場合概ね例を装飾美術に取つたけれども、その特徴は直ちに時代文化自體の特徴であつたのだ。装飾的文化の時代は構成的の認識を缺くから、すべてに創造的ではなくて模倣的である。また形式的に整序することが出來ないからその社會の持つ制度的構成は人爲的であり不自然に見える。人間の人格的なる價値生活から見れば何の意義もなささうな、装飾的な地位や名望が第一義的のものに尊重せられて、その装飾的の價値と眞の價値との間に逆轉が始まる。そしてかういふ社會に住むものはひたすらその生活を快楽的ならしめようとする。しかも全體の統一を犠牲としてそれの部分が快楽的となるのである。その快楽的生活を營むことの出來る階級は、全體社會の生活に取つて一の餘剰であり、それの存在は寧ろ全體社會の價値的に進む生活を妨害するであらう。社會のこの部分は意志力を缺いて文化的方向のない感情――感傷の中に耽溺してゐる。我々は歴史の中にかうした特徴を持つた時代を指摘するに難くない。例へば『榮華物語』などによつて推測せられる藤原時代の生括はかうした特徴を持つものではなかつたか。
 
(未)らう。木彫は藤原時代のそれのやうな濃密細緻な色彩を持たず、形式色彩共に概して簡素である。併しこれを形式的に見るならば、その色彩と面と容量とは誠に美しい調和を保つてゐるし先づ最初に、全像のプロポオションが立派である。それを構成する線は全體の統一を破らず、力強い。線が複雑に過ぎて部分的の興味が全體への注意を奪ふこともなければ、その部分的装飾の色彩が細巧に陷つて快楽的となることもない。概して弘仁期の彫像は形式的に整頓せられ、強い文化的意志を含んで快楽的にならない。弘仁期の彫像を鑑定する場合に最も顕著な特徴とせられる所謂翻波式の衣褶は、一面から見れば強い意志を表現するに必然的のものであらうが、また他面から觀察すれば、衣褶が装飾的にならず構成的となるためには、この彫像の形式にはこれだけ強い翻波式の緑を取らなければ、全體への均衡を保つことが出來まい。即ち翻波式の形式なるものは、元來はその彫像の形式を構成的ならしめるために生起したものである。かくして我々は弘仁期の彫像に構成的なる文化の一つの表現を見ることが出來る。
 これに對比して藤原時代末期(源平時代)の藝術の『平家納經』の如きを取つて見れば、両者の間の相違は何といふ著しいものであらうか。私はこの『平家柄經』が全然構成的でないとは言はない。併し多くの人が口を極めて稱讃するその美の部分は、果して全く構成的であるかどうか(290)を疑問とするのである。『平家納経』が一般の鑑賞者に美として訴へるところのものは寧ろ装飾的であり、その鑑賞の悦ばしい感情の中には快楽が含まれてゐるのではないか。この藤原時代末期の生活理想をなほよく表現したものには、中尊寺金色堂の藝術がある。中尊寺金色堂の藝術は、美術の研究者から従來屡々この世ならぬ美しさをたたへたものの如くに評價せられて來た。私は勿論この評價の全部を打ち消さうとは思はない。その中央須彌壇を取り圍んでの建築的構成やそれの装飾やは、やはり藤原時代特有の氣品高い、静かに澄んだ美をたたへてゐると言つてよい。併しその装飾美術を次第に細密に見て行くと、その装飾の仕方は決して単純に構成的であるとは言へない。そのよい例は※[木+斗]※[木+共]蟇股などに施された、目も眩ゆい漆塗螺鈿入の装飾である。かういふ場處の装飾に螺鈿を使用することが至當であるかどうかが既に我々には問題であらう。螺鈿そのものは資材としては美しいものであつても、この螺鈿の持つ光彩がこの建築の線と面の持つ意義を構成的に助けるかどうかは疑問でないか。殊に誰が見ても直ぐ不調和に感じられるのは蟇股の上に施された螺鈿の寶相華文樣である。蟇股は上を支へ下を抑へて力強く意志的に見えるのに、寶相華文樣は蟇股の含む意志の方向に無頓着に置かれ、或る部分では、細かく屈曲纏繞した寶相華の曲線が却つて蟇股の勁直な意志を妨害してゐる。更に螺鈿の持つ強い光彩は全部の注意を奪つて、蟇股自體の持つ線と面とへの注意を奪ふのである。この螺鈿
 
(未)樣の構成する曲線の意義にどれだけの役目を果すものであるか、更に全體の建築の持つ意義に對して何程の寄與をなすといふのであるか。建築の全體的構成にあづかる線と面とに注意しようと思へば、螺鈿の寶相華文様は餘剰であつて却つて注意を妨害するし、箇々の寶相華文様に注意しようと思へば、その螺鈿の上に作られた細線の文様は、またこれに餘剰となつてそれの注意を妨害するのである。總じてこの装飾美術には一時に統一した注意を向けることが出來ない。統一の中心は無数に分離して存在し、それらの間に関係を求めることが出來ない。
 同様の過剰装飾は中尊寺の美術の到るところに指摘せられるが、なほ今一つの著しい例は寶庫の中に藏せられる本尊臺座の装飾であらう。装飾の上に装飾を加へ、かくして底止するところを知らない臺座各部の装飾はいかにも美しいものであらうが、かく装飾を加重することによつて臺座が全體的に含む本質は幾分でも深められたかと言へば、それには何の影響もない。ただここにはそれにより奢侈的快樂的の精神が一骨濃密に表現せられたに過ぎない。最後に須彌壇の格狭間につくられた金銅打ち出しの孔雀や寶相華やを見るに、その技巧はいかにも細緻であるが、遺憾なことには孔雀と寶相華とは互ひに獨立してゐてその間に必然的の聞係がない。また最も遺憾なことには、この孔雀は餘りにも固く凝結してゐて何等溌剌たるところを持たないのである。そこ(292)には全然の意志が缺けてゐる。總じて言へば、この金色堂の藝術からは意志的なるものを求めることが出来ない。そして各々の部分は互ひに個人主義的に分離して快樂主義的であり、その放埒なる奢侈に恥づるところがない。この装飾美術の精神こそは、實に藤原時代の末期を通じて支配した時代精神でなかつたか。私はさう信ずるより外に途がない。一言以て蔽へば、藤原時代末期の時代的精神生活は装飾的であつて構成的でなかつた。
 藤原時代の有閑貴族階級が佛寺を造營すれば、我々が既に金色堂に於いて見たやうな装飾美術を以てこれを厳飾しようと欲したことは、例へば『榮華物語』の道長御堂供養の一節によつても想像することが出來る。「玉の臺」の卷を読むと、「御堂あまたに成らせ給ふままに、浄土はかくこそと見えたり。(中略)打ち連れて御堂に参りて見奉れば、西に寄りて、北南ざまに東向きに十餘間の瓦葺きの御堂あり。垂木の端々は黄金の色なり。萬づの金物みな黄金なり。御前の方の犬防は、みな黄金の漆のやうに塗りて、違ひ目ごとに螺鈿の花形をすゑて、色々の玉を入れて、上には村濃の組して網を結ばせ給へり。北南の側のかた、東の端々の扉毎に繪をかかせ給へり。上に色紙形押して詞を書かせ給へり。遙かに仰がれて見え難し。九品蓮臺の有様なり。」また次のやうにもある。「蒔繪の花机二つ三つ造りつづけさせ給ひて、上に一尺ばかりの観音立たせ給へり。白銀の多賓の塔おはします。それは佛舍利おはすべし。黄金の佛器並みすゑさせ給ひて、瑠璃の壺に唐撫子、桔梗などを挿させ給へり。匂ひいろいろに見えてめでたし。(中略)中の間
 
(未)じう香ばし。色々の花の枝など折りて奉らせ給へり。」装飾美術の理想をこの人達がどんな風に考へてゐたかは、明瞭なるものがあらう。「鳥の舞」の卷に、俳優を形容しては、「佛を見奉れば、獅子の御座より御衣のこぼれ出で給へる程いみじうなまめかしく見えさせ給ふ〔いみじう〜傍点〕」と書き、また「この佛の御うしろ東の方にまことに戸を立てたり。佛の御うしろには、御格子を短かやかにしわたして、紫の裾濃の御帳にて、泥して繪かきて、村濃の御紐したり。いみじうなまめかしう見えたり〔いみじう〜傍点〕」と書いたに見ても、美の標準は快楽的であり、餘剰的である。佛像を見て彼等はそのなまめかしさを悦んだのである。僧侶を見ても、彼等は、「御供に二十餘、三十に足らぬほどの僧どもの、かたち清げに、丈け等しく美々しきを十、二十人つづき立ちたり。このなりども様々いみじうつきづきしくして、藺鞋どもを穿きたり。色々の扇《かはほり》どもを閃めかし遣ひたるけはひ有樣、いみじうつきづきしう見えたり」(「音楽」の卷)といつて、その装飾的の美しさをのみ讃美してゐるし、納經をつくれば「經の御有様えもいはずめでたし。或は紺青を地にして黄金の泥して書きたれば、金泥の經なり。或は綾の紋に下繪をし、經の上下に繪を書き、また經の中のことどもを書き現はし、涌出品の恒沙の菩薩の涌出し、壽量品の常在靈鷲山の有様、すべていふべきにあらず。提婆品はかの籠王のかたをかき現はし、或は白銀黄金の枝に附け、言ひ續けまねびやるべ(294)きかたもなし。經とは見え給はず、さるべきものの集などを書きたらんやうに見えて〔經とは見〜傍点〕、好ましうめでたうしたり。玉の軸をし、大方七寶をもて飾れり。またかうめでたきこと見えず。經函は紫壇の函にいろいろの玉を綾の紋に入れて、黄金の筋を置口にせさせ給へり。唐の紺地の錦の小紋なるを、折立にせさせ給へり。あなめでた、同じくはかやうにしてこそ持經にし〔あなめで〜傍点〕奉らめと見えたり」(「本の雫」の卷)とある。佛經も佛經とは見えず、佛像も佛像とは見えない。そして彼等は、佛經や佛像の精神的内容に就いて語ることなく、持経としてはただかくも装飾的に美しいものが望ましいと言つたのである。構成的のものに價値を置かず装飾的のものに價値を置いた時代意識の特徴を我々は明かに認識することが出來る。
 
      四
 
 その作品が構成的であるか装飾的であるかによつて先づ最初にその價値の判別せられなければならぬことは、所謂装飾美術或は工藝美術に一般のことである。染絞の美や陶磁器の美を鑑別するに、我々はこの見方から離れてならない。染絞や陶磁器は、元來が装飾美術なるがために屡々装飾的となる誘惑から遠ざかることが出來ない。世の一般の鑑賞者も亦装飾的なるものを美であると稱讃することが多い。私は今次に陶磁器について、何が構成的であり何が装飾的であるかを
 
 支那の古陶磁器の中でよく構成的の精神により制作せられてゐるものは宋代のそれであつた。宋代の官哥汝定の四大窯を初めとしてその他のところから制作し出された陶器は、一般に多くの畫模様を持つてゐない。畫模様を持つてゐるものも極めて簡素なそれに過ぎなかつた。それ故にこの陶器への興味は、その色と光、面、容量に集中することが出來る。陶磁器にあつてはなほその焼成の硬軟が全體的美の構成要素となる。宋代の陶器はこれらの要素の何れ一つが他に超えるといふことなく、その全體的統一は澄んだ深さをたたへて、眺めれば眺める程美しいものである。均窯のやうな特殊の色彩を發揮したものでも、その色彩は決して装飾的とならず、下品でない。青磁や白磁の澄みわたつた美しさに至つては、まことに宗教的なる世界の中のものだとも言へよう。藤原時代の殿堂の美をこの世ならぬ美しさであるといふならば、青磁や白磁の美はそれとは違つた意味の同じ言葉を使つて、この世ならぬ美しさであると言ふことが出來る。彼れは、現實社會の中から個人主義的特殊階級的に絶縁して、奢侈的にこの世ならぬ装飾的の美を發揮したのであるが、これは現實を蒸華し盡してただそこに純粋清楚なる理想自體を具現したが如き、この世ならぬ構成的の美を發揮したのである。(註一)磁州窯の黒花は特有の畫模様を持つてゐるが、この模様は甚だ大がらのものであつて色も明確單純である。模様も色彩もそれ自體で獨立することがなく、構成的である。しかもこの黒花がうるほひのある意志を表現する點で、全體を一層構(296)成的ならしめてゐるのである。
  (註一) 『陶磁』第一卷第三號併載、内山省三氏論文「高麗朝陶器に就いて」は、高麗青磁の精神的の深さを考察したものとして好個の論文であり、今の場合参考となる。
 明代の陶磁器になると畫模様は宋代のそれ以上に豊富となる。併しそれらの模様の分量も、陶磁器の形や線の力を破るまでには決して豊富になつてゐない。そしてこれには明代特有の或る風格と意志とが存するのである。成化の最も豊麗な文様でさへもやはり構成的であつて全體の調和を破つてゐない。染附の単純なる美しさはこの時代に於いて最も見るべきものの一つであらう。總じて言へば明代の陶磁器は宋代のそれよりももつと意志的であり大いに動いてゐる。そして不思議なlことには、宋代のものは色彩や文様に於いて単純であるに拘らず、却つて豐かに湛へた感じを持つし、明代のものは動いて鮮巧であるに拘らず、却つて平易簡素なる感じを持つのである。何れの場合にも快楽的装飾的な餘剰を示さない。明代から清代に入ると共に、陶磁器は技巧的に精練の極致に達したが、その藝術的の氣品は寧ろ前代のものに於けるよりも乏しくなつて來た。康煕乾隆の豐麗極まりない畫模様は、その器を構成する線や面の力に打ち勝ち、注意を自らの方へ奪ひ取つた。そしてこの畫模様は装飾的に煩瑣であつて統一を缺き、快樂的の興味がそれを支配しはじめてゐる。我々は最早そこに文化を見ることが出來ない。在るものはただ文明であつた。
 私は更に目を轉じて我國の陶磁器がどういふ風に發達して行つたかを叙述すべきであるが、評
 
 
(未)言へば、我國は宋代のそれのやうな構成的な陶磁器を持たない。その代りに伊賀や信楽や古丹波のやうな特殊の風韻を帯びて構成的なるものを持つてゐた。それは我國の茶室建築が、特殊の仕方で構成的の精神を表現するのと似通つたものだと言へよう。併し我が国近世の陶磁器は一般にその畫模様に焦點を置き過ぎた。畫模様は畫模様だけで獨立して、その器の形や緑や面と必然的の関係を持たないのである。かうなると我々は陶磁器を鑑賞するに、ひとまづ畫模様は畫模様だけで獨立させてそれの意義を見なければならぬやうになる。例へば仁清がその危ふい岐路に立つてゐる。彼が蕨手の把手をつくり附けてゐるなども、模寫的の興味を働かせたものであつて、もう一歩進めば救ひ難い堕落へ行つたであらう。古九谷でも柿右衛門や鍋島でもやはりその危ふい岐路に立つてゐる。ただ僅かに古九谷は、その勁直な感じのする畫模様とあの特有の素朴單純な青と黄とが、全體として土くさい、根強い精神力を表現し、その器を構成的ならしめてゐる。
 
    五
 
 私は幾つかの装飾美術を例として擧げ、時代文化の構成的なるものと装飾的なるものとの相違をほぼ論じ盡した。私がこの考察をなしたのは、實は天平文化の本質を明らかにしたかつたので(298)ある。既に一般に評價の定まつてゐるやうに見える天平文化に就いて、我々はなほ一度再評價をなす必要がありはしないかと言つて見たかつたのである。私は勿論天平の文化を限りなく愛好するものである。奈良の古都に残る佛像や文學としての『萬葉集』を世界の驚異として珍重する點では人後に落ちない。併しこの時代の文化が構成的であつたか装飾的であつたかと問はれれば、私はそれは全部的に構成的の精神を持つものであつたとは断言し得ない。勿論天平の時代文化は、絶括的には構成的の精神を持つてゐた。第一にそれは国家生活を統一する熾烈なる要求を持つものであり、この要求は弘仁期に進んで略々その第一段の事業を完成したのである。白鳳の理念は天平に進んで一段と完成せしめられたことは、文化の諸相に就いて指摘せられる。天平の諸佛像は世界のいかなる彫刻に比較しても何等遜色のない藝術的偉大さを示してゐるのである。併し我々は同時に、この文化の中に装飾的の精神が既に可なりに濃厚に育醸せしめられてゐることを看過してはならない。構成的なるものは時代文化の理想になつても、装飾的なるものはそれであることが出來ない。随つて天平文化はその在るがままに宣揚せらるべき文化の理想ではないし、天平藝術は凡そ藝術的なるものの絶對の標準を示したものでもない。
 天平時代の諸佛像は知的貴族的なるインテリゲンチヤの表情を含むことを、私は前章に論じて置いた。即ちこの時代の生活は、盛唐の文物を輸入して貴族とさうでないものとの間に享受する物質生活の著しい相違を生ぜしめ、貴族の生活は次第にインテリゲンチヤ的なる.特徴を帯びたの
 
 
(299)じい材料を以て佛像の上に作り附けになつてゐるだけであつた。三月堂の本尊はそれとは違つて、佛像からは全く獨立した、まことに華麗な寶冠を戴いてゐるのである。この寶冠の基幹は複雑な寶相華意匠から成つてゐるが、その上には複雑豪奢な玉飾が一ばいに置かれてゐる。この寶相華は、全部銀を透彫にし、飾玉は水晶、眞珠、瑪瑙の玉を初めとして勾玉、管玉、吹玉などを惜し氣もなく便つてある。これを美術的に見るならば、寶冠は構成的である以上に既に装飾的になつて來たものと断じなければなるまい。即ちここには模寫主義的なる理想が現はれてゐるのである。藥師寺の本尊脇侍から三月堂の本尊に移る間に、換言すれば白鳳時代から天平時代へ移る間に、時代精神にこの重大なる變化が現はれてゐることを我々は看過する譯にいくまい。一般に装飾美術はその用途が装飾であるために、構成的であるか装飾的であるかの相違を明らかに示すものである。三月堂の本尊が天平を代表する幾つかの最大傑作の中へ数へられてゐる時、その寶冠は既に装飾的に堕する傾向を示したといふのも、寶冠が元來装飾美術であつたからである。それ故にこの時代に於ける純粋の工藝美術を見れば、右の傾向は一層露骨に現はれてゐた。その典型的なる作品は正倉院御物中の工藝品に就いて見られる。私は次にその三四の例を書いて見よう。(註一)
 
(300)  (註一) 次に例示しようと思ふ正倉院御物工藝品の多くは、我陶で製作せられたものでなくて、唐より輸入せられたものであらう。そのことは原田淑人氏等にょつて證明せられた。(『国華」第三十五編第四冊所載、原田氏論文「唐鏡背面の寶飾に就て」及び『佛教美術』第十一冊所載、梅原末治氏論文「欧洲に齎された二三唐の鏡に就いて」参照。)併しこれらの輸入品に就いて、それを輸入し使用してゐた時代の文牝を批評することは、或る程度まで不當でないと思ふ。唐招提寺の佛像の主たるものは唐工の制作であつたとしても、これを資材として當時の時代文化を批評することが出來よう。
 
 正倉院の五十六面ある鏡の中には、特別に大形であつて華麗な装飾の施されたものが幾面もある。螺鈿八華鏡(八角鏡)はその背面一ばいに螺鈿と琥珀とを嵌装して梅花紋や寶相華や鳥やを構圖してゐる。その技藝を見ると花瓣の底に紅色を置き、その上を薄い琥珀で覆うて底の色を透射し、以て螺鈿の美しさと對照反映するむ得るやうにしてある。七寶十二稜鏡は、全體として構成的に出來た立派な鏡であるが、鏡面は銀、鏡背は金の七寶である。詳しく言へば圓線は凡て太い金線を用ひて、その間に緑、紅、黄褐色の琺瑯を墳充し、瓣の端々の間の空地は薄板金地となつてゐる。金銀平脱八華鏡の背面は全面漆を以て填充せられ、その間に金銀の薄板に彫刻を加へて瑞鳥、小禽、胡蛛、唐草などの形をつくつたものが嵌装せられてゐる。平脱といふのはこれが美しく研ぎ出されてゐるのをいふのである。模作品によく見る紅牙撥尺は、象牙を鮮麗な紅色に染め、その上を寸毎に區劃して、一區劃毎に草花と鳥獣の細密な彫※[金+雋]を施してある。その意匠
 
 
(未)くことを知らない工藝品であらうか。そこには小禽、瑞鳥、寶相華などが思ひのままに豊かに意匠せられてゐるが、その文様を詳しく見れば、寧ろ餘りに細緻に過ぎると言はなければなるまい。またその文様は箇々的に分離せられてゐて統一的の精神を持たぬやうに見える。全體としてこれらの工藝品の含む精神は、可なりに快樂的であつて統一的の意志力を持たない。
 私は今天平時代の代表的なる装飾美術について、それの特徴を幾分考察して見た。結論的に言へば、天平時代の装飾美術は単に構成的ではなくて既に装飾的なるところへその歩を進めたものであつた。我々は天平時代の文化を観察する場合にこの事實を看過してならない。天平文化は白鳳文化の熟し過ぎたものである。天平に比較すれば白鳳は、その文化の諸相に於いてもつと構成的であつた。それ故に薬師寺の三尊が美しいのほ、それが形式的であり構成的であつたからである。人麿の長短歌が勝れてゐるのも、装飾美術の見方を擴充して言へば、構成的形式的であつて装飾的でなかつたからである。まことに人麿の長短歌は形式と内容とが互ひに過不及のない統一を持つて、特有の形式美を示すものであつた。またそれは文化的の意志力を表現して、快樂的になつてゐない。私は人麿の戀愛歌に秘められた感情を全然純情的にして遊戯的なものでないとは考へることが出來ない。彼の戀愛歌は、既に論じた如く、なほ大いに遊戯的人爲的なものであり、(302)その點では彼も亦當時の社會に於ける近代的インテリゲンチヤの一人であるに過ぎなかつたのだ。それにも拘らず彼の戀愛歌が眞率であつて遊戯的でないやうに見えるのは、全くその表現が構成的であつて装飾的でなかつたからである。私は『萬葉集』の長短歌を單純に純朴なるものだとは觀察することが出來ない。私の考へでは萬葉の長短歌は、從來殆ど定説として信ぜられたやうな純情的のものではなくて、大いに遊戯的人爲的なるものだ。殊に戀愛歌に於いてその特徴がよく現れてゐる。この戀愛はインテリゲンチヤの遊戯的な感情を主とするものである。即ち彼等の實生活と文學との間には既に多くの間隔が存するのである。總じて言へば、萬葉の長短歌は構成的でなくて装飾的である特徴を大いに含んでゐたのである。かやうに見れば、『古今集』の歌をのみ遊戯的のもののやうに責めて、『萬葉集』の歌を純情的であると擧げるのは眞を待てゐない。ただ『萬葉』の歌が『古今』の歌よりも純情的であるやうに見えるのは、その用語やリズム、即ち歌の形式が『古今』よりもずつと構成的であつて意志を含んだからである。
 一般に文化が進展する場合には、その或る時期に於いて構成的の文化が現はれる。この構成的文化はその統一の姿の上に從來なかつた或る新らしい個性を表現する。この個性がその文化の構成的なる特徴を成すのである。然るにこの文化がなほ一層進められていつても、さうした統一の新らしい個性は常に清新に造り上げられるものではないから、次代の文化は前代のその個性の或る模擬をつくるに過ぎない。音楽でいへば前のものがテエマであつて、後のものがそれのヴァリ
 
 
(未)ける文様を見れば、そのテエマは概ね狩獵文である。そして多くのものがこの狩猟文の形式に種々のヴァリエーションを作つてゐる。文様の一つの線があれば、それのヴァリエーションの最も簡易なものは、この線に平行してなほ二本の副線または色帶をつくることであらう。更にそれに次ぐヴァリエーションは、この副線又は色帶の外にそれに平行して他の副線又は色帶をつくるであらう。この方法は極めて容易なるものである。かくして成立した文樣は、所謂暈繝である。天平時代の染織の文様に暈繝が多いのは、その工藝の意圖がヴァリエーションであることを語るものであらう。この暈繝は餘りに煩瑣に進められた時に構成的の意義を失ふ。藤原時代の文樣も、ヴァリエーションの方法を取ることが多く、既に觀察した中尊寺寶庫内の金色堂本尊臺座も、そのヴァリエーションを餘りにも煩瑣に重ねて堕落し去つたものである。萬葉や古今の戀愛歌にも、いかに煩瑣にヴァリエーションが行はれてゐることか。古今以後のそれはこのヴァリエーションに終始して、全然その生命を失ふところへまで落ち込んで行つたのである。
 私はこの章に於いて古代文化の歴史を觀察の材料としたが、右の如き着眼の下に現代の文化相を觀察するならば興味のある結論が出來るかも知れない。現代我が國の文化は構成的であるか或は装飾的であるか。それが今現代生活に直面して、歴史を回顧しつつ我々の判断しなければなら(304)ぬ問題でもある。  ‐『教育學術界』(昭和三年五月稿)
 
(305)    第十三章 大伴旅人
    一 九州在任以前の旅人
 
 大伴旅人は、『萬葉集』中最も重要な歌人の一人であるが、大伴氏は上代に於いてまた最も重要な名族であり旅人はその族門を率ゐる地位にあつたから、官吏としても彼は當時に於いて甚だ高い地位を占めてゐた。彼の生年は正史に記載せられてゐないけれども、『懐風藻』にその年齡を六十七と記してあるのが正しいとすれば、その生年は天智天皇の四年であることになる。續紀に「難波(ノ)朝、右大臣大紫長徳之孫、大納言贈從二位安麻呂之第一子也」とある如く、大伴安麻呂の嫡男として生れたが、彼の父も祖父も相ついで高い官位を占めてゐた。安麻呂は萬葉に二首の佳作を残してゐる。安麻呂の兄御行も同じく高い官位にあり、萬葉に一首の歌を殘したし、旅人と同時代の大伴氏の人々の中には、安麻呂の第二子田主、第三子宿奈麻呂をはじめ歌作をなして(306)萬葉にその名をとどめてゐるものが少なくない。その中でも特に重要なのは、旅人の妹大伴坂上郎女であつて、その才藻萬葉女流歌人の中に一頭地をぬいてゐる。大伴家はなほ旅人の男に家持を、坂上郎女の女に坂上大嬢の如きを出してゐるから、文學的の素質と教養とは、濃厚にその家に傳はつてゐたと見なければならない。
 旅人の生れた土地ほ、恐らくほ飛鳥地方の故京であつたらう。彼が晩年九州より歸り、その故郷を思うて歌つた作には、神名火《かんなび》や栗栖《くるす》の小野の名が見え、なほ他の歌には「かぐ山のふりにし里」といふ言葉も見えてゐるが、これらの土地は全く同一の地域にはないにしても、共に飛鳥に近い土地であるから、彼がその死にいたるまで愛着してゐたまことの故郷は、その飛鳥藤原の故京であつたらう。しかし後帝都が平城の地に遷ると同時に、彼の邸宅もまたその新らしい都に建造せられたと見えるが、その邸宅もまた「故郷の家」とよばれてゐる。
 旅人の壮年時代の作品は、萬葉の中に残つてゐない。併しその頃の彼の閲歴は、却つて續紀の上に記録せられてゐる。和銅三年正月朔云々左將軍正五位上大伴(ノ)宿禰旅人云々とあるのが最初の記録であつて、(時に年四十六。『懐風藻』を標準とすること、以下すべて同様)四年四月從四位下、七年十一月左將軍となり、霊亀元年正月從四位上、五月中務(ノ)卿、養老二年三月中納言となり、(五十四歳)三年正月正四位下、九月山城(ノ)國の攝官となり、四年三月征隼人持節大將軍となつて、彼の九州との関係がその時に生じた。その六月には慰問の詔を賜はつたが、やがて(307)また都に帰つて來たと見えて、五年正月從三位、三月資人四人を給され、神龜元年二月には正三位を授けられた。(六十歳)併しこの時まで旅人がいかなる歌作をなしてゐたかは、知られてゐない。萬葉に殘つてゐて年代的に彼の最初の歌作と見えるものは、「暮春の月(【神龜元年歟】)芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿、勅をうけたまはりて作れる歌一首竝に短歌【いまだ奏上を經ざる歌】」として
    み吉|野《ぬ》の 芳野の宮は 山からし 貴《たふと》かるらし 川からし 清《さや》けかるらし 天地と 長く久しく 萬代に變らずあらむ いでましの宮
         反  歌
    昔見し象《きさ》の小河《をがは》を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも
とあるのがそれであるが、幸遊に供奉する歌の普通の形式を追うたといふだけの凡作であり、特別に記すまでのこともない。續紀に神龜元年三月吉野離宮行幸の記載があるから、この歌は或はその時の歌作であらうか。
 
    二 亡妻を憶ふ歌
 
 旅人ほ神龜元年より五年に至る何れかの時に太宰帥となつて九州に下つたが、それについては正史に何の記載もない。すでに齢六十をこえた彼として、この任官は寧ろ甚だしくその意に満た(308)ないものであつたらう。併し彼の父安麻呂もまたその晩年に大納言となり太宰帥となつてゐるから、この太宰帥は彼の任官の順序としてやむを得ないものであつたかも知れない。個人としての旅人にこの老年の他郷赴任は大いなる不幸であつたらうが、その不幸が彼をして今萬葉に残る幾多の絶作秀作をなさしめたことを顧れば、日本文學史として、寧ろその九州赴任こそは最も意味の深いものであつたといはれなければなるまい。萬葉を通じて見た限りでは、この時以後その死にいたるまでの僅かに数年の間に、突如として旅人に歌作の黄金時代が現はれてゐる。太宰帥として九州にあること数年、天平二年冬十一月大納言に任ぜられてやうやく故郷に歸ることが出來たけれども、翌三年七月には早くも薨去してゐるから、個人としての旅人の晩年は甚だ不幸なるものであつた。次に九州時代以後の彼の歌作に就いて幾分か詳しく述べて見よう。
 太宰帥として赴任し、そぞろに旅愁をおぼえてゐるばかりの旅人に、直ちに大いなる不幸が襲うた。それは神龜五年の初夏頃に彼の嬬大伴郎女が死去しなことである。萬葉には式部大輔|石上堅魚《いそのかみのかつを》朝臣の歌の左註に「神龜五年成辰、太宰帥大伴卿の嬬大伴郎女、病に遇ひて長逝せり。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を太宰府に遣はして、喪を弔ひ竝に物を賜ひき」とあり、(卷八)また「太宰帥大伴卿、凶問に報《こた》ふる歌一首」として、その序に「禍故重畳し、凶間|累《しきり》に集る。永く崩心の悲を懐き、獨り断腸の泣《なみだ》を流す。但《ただ》両君の大助に依りて、傾命纔に繼ぐ耳《のみ》。筆言を盡さず、古今の歎く所なり」と自ら書き、旅人の、
(309)    世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
の歌がある。(卷五)これより生涯を終へるまで旅人の歌には、つねに亡妻を偲ぶ綿々の思ひが背景をなしたが、この「世の中は」の歌はその亡妻の死の直後の作ではないかと思ふ。「禍故重畳し」とあるので見れば、旅人には當時なほ他の不幸があつたことになるが、それが何であつたかは歌作の上に現はれてゐない。「傾命纔に繼ぐ耳」といふ言葉も憐れであるが、「両君」とある二人の人は誰れであるか分らない。
 私は旅人のこの「世の中は」の歌を、彼の全作中でも絶作であると思つてゐる。彼の家はこれまでも屡々外邦の客などに接して來てゐるから、軍人の家とはいつても外來の文化を最も濃厚に受け取つてゐたやうに見える。また新羅の國の尼理願は、「遠く王化に感けて聖朝に歸化せり。時に大納言大將軍大伴卿の家に寄住み、既に数紀を経たり。ここに天平七年乙亥を以て、忽に運病に沈み、はやく泉界に赴く。」(卷三、大伴坂上郎女の歌の左註)などともあつて、彼の家には外邦の歸化尼をさへこころよくその死に至るまで寄留せしめてゐる経であるから、その家には佛教的の空氣も濃厚であつたと思はれる。その佛教的の知解をはつきりと持つてゐる旅人が、妻の死にあたつては、無常と観じて佛教的に諦めることも出來ず、世を空と知解した時、却つていよいよ悲しさを感じたと歌つてゐるのは、いかにも彼の體験の眞實に立つたものであり、彼の一個の「人間」が知識的な「知解」との間に矛盾葛藤を起してゐる率直な告白として、我々の心を強く(310)打つものがある。彼の現實主義は早くもこの歌の上に表現せられてゐる。また彼の生活では、いつでも知識的な理解が豊かに取り入れられては來るものの、その理解が體瞼的に深められた時、その體瞼的理解の限界に於いて、全感情的な人間性が躍然として全面に現はれ、知識をも含んだ全體の生活を浸透して來るのが、この歌によつてよく知られるであらう。即ち「世の中は空しきものと知る時し」といつてゐるのは、その知識的理解の限界を語るものであり、「し」の一語はその限界を表現すると同時に極限の轉向を意味するものである。さてその轉向の前面には、人間的な全感情世界が現はれ、「いよよますます悲しかりけり」を以て浸透する體瞼が、全人格を占領し、さきの知解の上をも蔽ふのである。彼の性格のこの特性を先づ知るのでなければ、彼の有名な讃酒の歌の眞義はこれを理解することが出來ないであらう。
 この歌の記載にただちに次いで、神龜五年六月二十三日と記した漢文の悼辭、同七月二十一日「筑前國守山上憶良上」と記した日本挽歌が記載せられて居り、その日本挽歌の中の反歌の内容を見れば、憶良の妻の死を悼んだもののやうに見えるが、この挽歌の對象は誰れであらうか。憶良もまた神龜三年頃に筑前守として赴任してゐるから、旅人の妻の死と全く同年同季にその妻の死んだことも考へられないものではなく、何よりその歌の内容は我が妻の死を悲しむやうに見えるものではあるが、なほこの死の年月の一致すること、旅人の歌の直ちに次にその悼辭と挽歌のあること、憶良がわざわざその歌を旅人に上つつてゐることなどを以て見れば、(なほ言へば、(311)憶良の歌には他のものの中へ自己の主體を移して歌つた感情移入の歌が多く含まれるのではなからうか。)或はこれらの文辭は、旅人の妻の死を對象にしたものであらうか。この後の推定に就くとするならば、その挽歌の中に「しらぬひ筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして、息だにも未だ息《やす》めず、年月もいまだあらねば、心ゆも思はぬ間《あひだ》に、うち靡き臥《こや》しぬれ」とあるから、旅人の九州赴任は、その妻の死に先立つ僅かの年月であることとなり、神龜四年の頃ではないかと推定せられて來る。併し憶良の挽歌を憶良自身の妻の死に對するものと見る限り、この推定は成り立たない。
 石上堅魚が勅使となつて弔問に來たことは前にも記したが、その弔問のこと畢り、驛使及び太宰府の諸卿太夫等、共に記夷城に登つて望遊するの日、堅魚が「ほととぎす來《き》鳴きとよもす卯の花の共にや來しと問はましものを」と歌つたに對して、旅人は、
    橘の花散る里のほととぎす片戀しつつ鳴く日しぞ多き
と和へてゐる。(卷八)これで見れば、彼の妻の死去は初夏又は晩春の頃であらうか。なは死去の後数旬を經た時に、
    愛し《うつく》き人の纏《ま》きてし敷細《しきたへ》の吾が手枕《たまくら》を纏《ま》く人あらめや(卷三)
といふ歌もある。これと同想一聯の歌には、後彼が京へ歸る時の歌に、
    還《かへ》るべき時にはなり來《く》京師《みやこ》にて誰《た》が袂をか吾が枕《まくら》かむ
(312)    京師《みやこ》なる荒れたる家に獨り宿《ね》ば旅に益《まさ》りて苦しかるべし
といふのもあるが、(卷三)亡妻を思ふ旅人の悲しみは永久に切々たるものである。
 
    三 望郷の歌
 
 當時太宰府を中心とした九州の地には、有力な文人官吏や風雅僧侶が來てゐたため、旅人の周圍は文雅的にそれ程蕭條たるものではなかつた。後に彼の邸で梅花の雅宴を張つてゐた時の來客を見ても、歌人としては小野老、山上憶良、大伴三依、葛井大成、沙彌滿誓、大伴百代の如きが名を連ねてゐるから、この地の雅客の有力なことは中央政府の所在地にも比肩すべきものがある。中にも山上憶良が筑前守としてあり、沙彌滿誓が観世音寺に在つたことは、彼の心緒を大いに慰めるものであつたらう。併し彼等がみな九州の地に在任することを苦痛とし、一日も速く京師に還りたいと希つてゐたことは、彼等の作品の上にも表現せられて居り、憶良晩年の望郷の歌の如きは、悲哀沈痛、同情に堪へないものがある。太宰少貮石川朝臣足人が、「さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」と歌つたに對して旅人は、
    やすみししわが大王《おほきみ》の食《をす》國は大和も何處《ここ》も同じとぞ念ふ(卷六)
と和へてゐるけれども、御杖の言葉を借れば、この歌こそは倒語したものであり、勿論彼の眞情(313)はその詞の反對であつたに相違ない。
 旅人はこの他郷にあつて齡は傾廢し、その愛妻は早くも死去したから、それ以後は何といふこともなく世間が據りどころのないものに見え、積極的に何をなし何處に赴くべきかを知らない感じがしてゐたであらう。彼の邸には妹の坂上娘女、その息の家持が彼に伴隨して來てゐるのが、いささかその情を慰めるに足るものであつたらうか。併し彼は元來温情寛大な性格の人であり、かうした場合もその属僚や家人達には、性格的に親切な態度を取つてゐたため、それらの人達に敬愛せられるところも深かつたと見える。その妻の死んだ神龜五年の冬十一月、太宰の官人等を率ゐて香椎の廟を拜し、訖つて歸る時馬を香椎の浦に駐め、
    いざ兒等《こども》香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝莱探みてむ(卷六)
と歌ひ、小野老をはじめ他の官人も歌を作つてゐるが、旅人のこの歌には、いかにもよくその屬僚等を思ふ、あたたかい、好人物的な親愛の情が見える。
 なほこの年九州の他の地にも巡遊したと見えて、隼人《はやと》の湍門《せと》を見、次田《すぎた》の温泉《ゆ》に宿つてゐるが、前者ではかつて行幸に供奉した吉野の瀧を懐ひ、後者では鳴く鶴の聲に亡妻を偲ぶ涙を新らたに流してゐる。
    隼《はや》人の湍門《せと》の磐《いはほ》も年魚《あゆ》走《はし》る芳|野《ぬ》の瀧になは及《し》かずけり
    湯の原に鳴く蘆鶴《あしたづ》は吾が如く妹に戀ふれや時分かず鳴く(卷六)
(314) 卷三に記載せられた「帥大伴卿の歌五首」は、何時の頃作られたものか分らないが、頽齢の彼としてこの望郷の眞情は同情に堪へない。
    吾が盛また變若《をち》めやもほとほとに寧樂《なら》の都を見ずかなりなむ
 我がこの頽齢を以てまたその壮年の日に若返りすることが可能であらうか、それは全く不可能のことであれば寧樂の都を見る希望も極めて稀薄のものであらうか、と彼はなげいてゐるのである。(この下の句古義などに「ほとほと」を「なりなむ」にかかるものとして解釋してゐるのは、誤謬である。「ほとほと」は漢字の「殆」であつて「ほとほと死にき」「はとほと見ず」と書くのが當時の語法であり、十中九分までそれにならうとして僅かに免れることを意味してゐるから、この場合も、「殆ど寧樂の都を見ず、僅かにそれを見る」として、「ほとほと」は「見ず」にかかるのである。)この歌の「變若」の想には、支那神仙思想の影響がある。彼はなほ、昔見た象《きさ》の小河を行きて見るためにのみ僅かにその命壽を希ひ、香具山の故郷を忘却し得ないがために萱草《わすれぐさ》を下紐に著け、やがて久しくもなく故郷へ還るが故に吉野の夢の囘淵《わだ》は瀬にならず淵のままにてあれと願ひ、淺茅原のつばらつばらに物を思へば、ただ故郷のことのみしのばれると述懐した。いかなる場合も、彼の魂の底からは、その少青年時代を經過して來た飛鳥吉野の地の生活のなつかしい追憶が消し難く、齢老年に達して彼は寧ろ少年の日の生活に還らうとしてゐるのだ。天平二年正月、彼の邸の梅花の宴の歌の後にも「員外故郷を思ふ歌兩首」として、前の歌によく似た
(315)    我が盛いたくくだちぬ雲に飛ぶ藥はむともまた變若《をち》めやも
雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾《あ》が身また變若《をち》ぬべし(卷五)
といふ歌をうたつてゐるが、これには神仙思想の影響がある。(「いやしき」を萬葉に於ける他の用例により「彌重《いやしき》」の意に解する説もあるが、「吾が身|彌重々《いやしきしき》に又|變若《をち》ぬべし」といふ解釋であるならば、「いやしき」の語が「吾が身」の修飾語になつてゐる意は穏當に説かれない。私はやはり「卑賤」の意であると思ふ。併しまた単純に自分を微少の身と見たと解するのでも意は足らない。雲に飛ぶ仙薬を食むものは、『列仙傳』に載せられたやうな貴い仙人であり、我が身の如きは及びもないが〔十三字傍点〕、その仙薬を食むより若しも一旦京師を見得るものならばその卑賤凡夫の我が身は若還るであらうとなげいたのであつて、彼の高い世俗的の官位も何もをかなぐり捨て、仙人と對照せられた凡夫卑賤〔十三字傍点〕の一個の人間に還つてゐるところに、彼の絶望的な、ただ嬰兒がその母にすがりつくやうな望郷の情が見えるのである。)梅花の歌を掲げた末尾にそれとは關係のないこの望郷の歌を掲げてゐるのは、この歌が梅花の宴に於いて作られたといふのではなく、この梅花の歌聯と松浦河に遊ぶ歌聯とを連記して京師にある彼の詞友吉田|宜《よろし》に贈つたが故に、その書翰の中に同時にこの望郷の歌を記したのであつて、萬葉はその書翰の元のままの姿を殘したのであらう。吉田宜の返歌もまた、それぞれに梅花の歌、松浦仙媛の歌に對する返歌と、遠く旅人を思ふ歌二首とより成つてゐる。
(316) なほ卷五には書翰と共に「歌詞兩首【太宰帥大伴卿】」として、同じく望郷の歌二首を掲げ、奈良の都に行きて還り來るために龍馬を今も得たしと希ひ、現《うつつ》には逢ふよしもなければ、夜の夢に繼ぎて見えよとなげいてゐる。この書翰の對手もまた京師に在住してゐる人であつた。それを作つたのは恐らくは神龜五年より天平元年に至る間のことであつたらう。またこの頃京師の方からも、彼のもとへ歌を贈る詞友はあつたと見える。丹生女王《にふのおほきみ》の歌として、太宰帥大伴卿に贈つたとある三首の歌(卷四、二首、卷八、一首)は、何時のものであるか分らないが、その中の一首には「天雲の遠隔《そきへ》の極《きはみ》遠けども」といふ詞が見えるから、その歌はやはりこの頃に贈られたものでもあらうか。またその頃(多分天平元年二月)太宰大貮であつた丹比解守《たぢひあがたもり》が民部卿に遷任せられたにも、
    君がため醸《か》みし待酒《まちざけ》やすの野に獨や飲まむ友なしにして(卷四〕
と歌つてこれを贈つてゐるが、もはや京師に還るべき望みも稀薄になつたと考へる彼の、寂寥哀愁の情は我々にもしづかにせまるものがある。作歌年代不明であるが、冬の日雪を見て京《みやこ》を憶うた歌は、
    沫雪のほどろほどろに雰《ふ》り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念《おも》ほゆるかも(卷八)
とあるが、なほ卷八に太宰帥大伴卿の歌として、さを鹿や秋萩をうたうた歌二首、梅花をうたうた歌一首もまたその作歌年代は不明である。この三首の歌に何れも「吾が岳《をか》」とあるから、太宰府に於ける彼の邸宅は丘陵の上に在つたものと見える。(多の歌を參照して考へれば、城山《きやま》或は(317)大城《おほき》の山と呼ばれるところの一部ではなかつたかと思ふ。)彼が帰任の日、「馬を水城《みづき》に駐《とど》めて、府の家を顧み望む」とあるのは、まことにその水城から彼の丘陵の邸が望見せられたものであらうか。太宰府の土地を知らない私には、何とも斷言出來ない。この頃旅人と共に太宰府に住んでゐた坂上娘女や家持やはどういふ歌をつくつたであらうか、記録には一向殘つてゐない。坂上娘女の歌は、旅人の家を出發して歸京の途につく時の歌から九州の歌は始まつてゐるし、なほ歸京の後|大城《おほき》の山を思うて作つた歌に「今もかも大城の山にほととぎす鳴き響《とよ》むらむ吾なけれども」(卷八)とあるのは、或は幾分か大伴郎女を追憶してゐるのであらうか。
 
    四 讃酒歌に於ける彼の生活
 
 旅人の歌として最もよく人に知られてゐるものは、彼の所謂譯酒歌十三首である。今その三四を例示しよう。
    酒の名を聖《ひじり》とおほせし古の大き聖の言《こと》のよろしさ
    賢《さか》しみと物いふよりは酒飲みて酔哭《ゑひなき》するしまさりたるらし
    この代にし樂《たぬ》しくあらば來《こ》む生《よ》には蟲に鳥にも吾はなりなむ
    生者《いけるもの》遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は樂《たぬ》しくをあらな(卷三)
(318) その外、験《しるし》なき物を思はず寧ろ一杯の濁れる酒を飲むべしとするもの、古の竹林の七賢も欲したるものは酒であつたとするもの、言はんすべせんすべ知らに極まりて貴いものは酒であるとするもの、人間としてあらず寧ろ酒壷としてあり酒に染《し》まうとするもの、賢《さかし》らをなすと酒飲まぬ人を見れば醜くくも猿に似るとするもの、價なき寶といふも一杯の酒にはまさらず、夜光る玉といふも酒を飲んで情《こころ》を遣るにはまさらずとするもの、世の中の遊びの中に樂しきものは酔哭であるとするもの、(この歌の訓義には數説あるが、今のところ確説をなす論據を持たない。)黙してゐて賢しらをするは酒を飲んで酔哭するに若かずとするもの、すべて十三首、飲酒の生活を讃歎してゐて實に痛快である。
 これらの歌は、一體旅人により何時頃作られたものであらうか。「太宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」と題してあるだけで、その作られた年代の記録はいづこにもなく、またこれを推定するだけの論據も存しない。併し全體の歌の姿や内容を静かに観察するにさきにあげた望郷の歌五首、即ち「吾が盛また變若《をち》めやもほとほとに寧樂の京を《みやこ》見ずかなりなむ」の一群に類似するところが多いやうに思ふ。(何れも卷三)その題に「太宰帥大伴卿」とあつたからといつて旅人がその太帥宰の官にあつた時の歌であると斷ずることは絶對的には出來ないことであらうが、旅人の歌は何れもよく整理せられて居りその歌作年代の明らかになつてゐる方であるから、これもまた旅人の他の歌の例に隨ひ、先づは彼の九州在任中の歌であるとするならば、彼の妻は赴任後間も(319)なく死歿し且つそれ以前の歌は少ないのであるから、これらの歌聯はその妻の死より京師へ還る時に至る間のもの、殊にさきの望郷の歌五首などと殆ど同期に作られたもの、なほ言へば、その望郷の歌五首に類似した「我が盛いたくくだちぬ」云々の他の望郷の歌二首が天平二年一月前後に作られたものであるとすれば、これらの讃酒歌もまた先づは天平二年一月前後に作られたものであるとするが穏當の想像ではあるまいかと思ふ。併しそれは甚だ多くの想像を前提にした推論であるから、何處までも単なる想像であつて、推定であるとはいふことが出來ない。
 さて次にこれらの讃酒歌はいかなる内容を含み、またそれを歌つた旅人の生活態度はいかなるものであつたらうか。それがまた容易には決定の出來ない問題であると思ふ。これらの歌の中には多分のユウモアを含んだものもあるとすれば、旅人は飲酒の時にそれらの歌を単なる戯歌として歌つたのであらうか。萬葉の中には、知識的の遊戯をなした所謂諧謔歌も可なり数多く含まれてゐるから、これらの歌も全くその諧謔歌でないとはいはれない。併しなほよく讀んで見るに、これらの歌の底には一種沈痛な寂寥や自棄に似たものが感じられて來るから、これを作つた旅人の氣持は決して單なる知的遊戯ではなく、望郷歌と同じい沈痛な絶望を彼は外に投げ出したものであるかも知れない。傾廢の身を以てその愛妻を失ひひたすら望郷の情に駆られてゐる彼が、その自棄絶望の生活をわづかに酒を以て慰め、瞬間的な慰樂に身をまかせてゐたと想像することは、決して全く根據のない想像であるとは言へないであらう。彼は一體その何れの生活態度を以て、(320)これらの歌をうたつたものであらうか。
 我々は先づこれらの讃酒歌が、知識的に支那の故實や佛教の知解やを含むことを注意しなければなるまい。全體的の思想を言へば、旅人は佛教の未來思想を排棄して、瞬間的な快樂を得ることに満足し、なほ進んでは、人間の欲望と感情との上に統制を加へる知識そのものの價値を蔑視して、感情の體験生活そのものの上に絶對の價値を置かうと欲するものの如くに見えてゐる。この思想は、もとより老荘の哲學の上に基礎を置くものであるが、彼のこの讃酒歌にも支那神仙思想の影響は依然として濃厚だ。それ故に我々は先づこれらの讃酒歌を以て、その老荘哲學、神仙思想の基礎の上に立つた生活主義、刹那主義、快樂主義を歌つてゐる、知識的抽象的な色彩の強い作品であると見なければなるまい。
 この點では、旅人の讃酒歌もまた當時の貴紳階級に一般的であつたイデオロギイを表現したものであり、彼に特有の思想を知識的抽象的に表現したものではなかつた。上代より奈良朝時代に入る頃に、佛教思想と平行して、老荘哲學神仙思想が、単に知識的にではなく實生活的にもまた大いに流行してゐたことは、近来次第に明らかにせられて來た。新人の文學的作品などにそれが表現せられてゐるだけではなく、美術的にもその證跡は明らかにせられるし、歴史的事實もまたその背景を以てでなければ理解せられ得ないものが少なくない。『懐風藻』なども濃厚にその思想を含んでゐるが、その中の越智直廣江の「述懐」と題する詩――「文藻我所v難、荘老我所v好(321)年已過v半 今更爲v何勞」の如きは、まさに旅人の讚酒歌を一層抽象的に主張したものであり、両者の據つて立つ基礎思想には多くの相違がない。然らば當時の貴紳級の間に何故さうした老荘哲學神仙思想が實生活的に流行してゐたかといへば、これには次の理由を考へることが出來る。第一に、それは當時の有力な支那思想であつたから、支那文化を輸入することに熱心であつた、或は支那文化の波動の外に立つことの出來なかつた日本の支配階級が、それを取り入れたのは自然の經過であつた。第二に、それが現實的な生活主義を取つてゐることは、或點では佛教の未來主義以上に、日本從來の生活哲學に合致するものであつた。(『檜嬬手』が讃酒歌を評して、「酒に託て、儒佛を譏れる也。(中略)獨やまと魂を失ひ給はざりしにこそ」といつてゐるのは、幾分か滑稽にさへ聞えるが、老荘思想が日本在來の思想と生活主義現實主義である點に於いて共通なものを持つその點を認識したものとすれば、必らずしも笑ふ譯にいかない。)佛教の未來思想でさへもその眞義は當時の人達に容易には理解せられなかつたと見えて、その未來の世界は現在の世界と一續きになつた、現實的色彩の濃厚なものとして認識せられたのだ。第三に、佛教が現實生活に於ける功利的動機より信仰せられたと同じく、神仙思想もまた生命と財産とを根據とした功利的動機より受け取られた。その功利的動機から、佛教が民間信仰的にも流布していつたと同じく、神仙思想もまた一般民間社會へ流布していつた。第四に、物質生活の上で不安がなく、安逸な快樂的な生活を送ることに自然の傾向を持つてゐる貴紳階級が、この快樂主義的瞬間主義(322)的な意志的努力と行爲の責任心とを要しない韜晦的唯美的な老荘哲學神仙思想に共鳴したのは當然のことであつた。
 かやうに見來れば、旅人が讃酒歌に於いて當時の貴紳階級に一般的であつた老荘的イデオロギイを主張したのは少しも不可思議な經過ではないが、旅人のやうに官位高くその貴紳階級の中の一巨頭であつたものが、特に強くこの傾向を持つてゐたのは、肯けることであらう。旅人の讃酒歌が、先づ第一に形式的に老荘哲學神仙思想を表現する抽象的な思想歌となつた理由は、右のやうにして解釋せられる。併し彼の讃酒歌はただそれだけのものと見ることはあたらない。彼はその知識的な理解を契機として、その知解の限界に、直ちに人間的な全情意生活の闊達な世界を展開する歌人であつた。それは我々が既に「世の中は空しきものと知る時し」の歌の作歌態度に、見て來たところのものである。この場合も我々は旅人が、その知識的抽象的な主張を包容し突破して、生活的により〔二字傍点〕深刻な世界を體験的に告白してゐることを見失つてはならない。彼は「賢《さか》しら」即ち知識そのものを究極的に否定する。何々よりは何々がまさると抽象的な思想を議論風に主張しながら、その最後に於いてはその議論を、知識一般を絶對的に否定する。そしてただそこに殘されてゐるものは「酔哭《ゑひなき》」であつた。何程哭しても哭し切れない感情の陶酔そのものであつた。「酔哭」が彼の生きる絶對世界である。
 勿論彼がその全情意的な絶對世界に入るに就いては、支那の思想書文學書に對し彼が豐かな教(323)養を持つてゐたことと共に、九州にあつて悲痛深刻な經驗を實感したことが、必然的に大いなる機縁をなしたといふことは何人にも考へられるものであるが、この讃酒歌の生活態度を考へるに就き次の二つの途を以てするならば、それは確かに誤謬であると思ふ。第一は、これらの歌に於いて彼が専ら享樂主義的な人生観を表現したとする見方であるし、第二は、それに於いて専ら彼の實生活の自棄絶望を告白したとする見方である。彼はいかにも思想的抽象的にはその享樂主義を語つてゐるが、それは知解の皮層相に於いてのことであり、眞實はさうした知識一般を否定する絶對體験の世界に這入つたのであつた。次に自棄絶望は単なる生活否定であるから、何等か積極的に捕捉した生活を持つ管はないし、また何等か抽象的な思想などを語る必要はないことであるが、彼はその自棄絶望を主たる生活として表現したのではないから、否定とは違つて絶對的に肯定する究極生活の體瞼を確固と把持してゐるし、またその老荘哲學は、この究極生活の體瞼と必然不可分の関係を持つものである。讃酒の歌に至つて彼の歌境はその性格と教養と經瞼との統一によつて達し得る限りの極限に達したのだ。
 
   五 梅花の歌と九州歌壇の特色
 
 天平元年十月七日、梧桐日本琴一面を藤原房前に贈るに際し、小説風に書いた書翰の中に二首(324)の歌を書いてゐる。(卷五)(この書翰「大伴淡等謹状」と記されてゐるので、或は「旅人」と別人でないかと疑はれたこともあるが、續紀には「多比等」とも記された箇所があり、旅人であることは疑はれない。)その書翰によれば、この琴が夢に娘子に化し、恒に君子の左琴になることを希ふ旨をいつてその歌を歌つたに對し、旅人が慰めて、やがては麗しい君の手慣の琴になるであらうといふ意味の歌を以て應へると、琴の娘子も滿足し、夢もまた覚めたといふ物語である。この書翰の内容を分析していへば、第一、全篇が小説風に構想せられてゐること、第二、歌の贈答が小説風に語られてゐること、第三、神仙思想が色濃く盛られその漢文は當時の支那文學書の文言を以て猷麗に綴られてゐることである。この様式は、また旅人の同様作品に見られる特性であつた。旅人のこの書翰に對して、次に房前の返書が記載せられてゐる。
 天平二年正月十三日には、旅人の邸に彼の雅友が集まつて、宴會を開き、園梅を賦する短詠をなした。この雅友の中に小野老、山上憶良、大伴三依、葛井大成、沙彌滿誓、大伴百代等の有力な萬葉歌人のあつたことは既に述べた如くであつて、すべて三十二人各々一首の歌を記録してゐる。盛宴雅會といはなければなるまい。その歌の漢文序はまた旅人自身の篇したものであらう。今この會に於ける旅人の歌を記して置く。
    わが苑に梅の花散るひさかたの天《あめ》より雪の流れ來るかも(卷五〕
 さてここで私が一つ注意したいことは、かやうに三十二人もの歌人が一室に會して創作したの(325)であるから、我々はそれにより当時九州地方にどんな歌風の歌が流行してゐたかの一端を知り得ることである。勿論それは雅宴の歌であるから内容の貧しい形式的の歌になるのは當然のことであるが、それでもなほ作風を全く知り得ないものではないし、またこれ程多数の歌人が言はば九州文壇的な總展観を示すことは、その一般的な歌風を観察しようとするものに取つては、絶好の機會と言はなければならないのだ。またその一般的の歌風を知るならば、専ら九州時代の作品を示す旅人の歌の風格を観察するに、最も有力な手がかりであらう。今四五の雅客の作品を示して見る。
    梅の花今咲ける如《ごと》散り過ぎす我《わ》が家《へ》の苑にありこせぬかも(小野老)
    春されば先《ま》づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(山上憶良)
    世の中は戀繁しゑや斯くしあらば梅の花にもならましものを(大伴三依)
    梅の花いま盛なり思ふどち挿頭《かざし》にしてな今さかりなり(葛井大成)
    青柳《あをやなぎ》梅との花を折りかざし飲《の》みての後は散りぬともよし(沙彌滿誓)
    梅の花|散《ち》らくは何處《いづく》しかすがにこの城の山に雪は降りつつ(大伴百代)
 これらの歌を讀んで感ずる特性は、内容が大して複雑でなく寧ろ稀薄と感ずる程に平明であること、艶麗な詞句の技巧を用ひずただ淡々としてゐること、それでゐて實生活とも離れず全く生活報告的の歌になつてゐること、抽象的概念的の感じがすること、要するに強く抒情的ではなく(326)て寧ろ散文的抽象的な歌風となつてゐることである。さうした歌風は、艶麗端正な技巧を以て抒情的に繊細の風趣を歌つた、當時の職業的な中央宮廷歌人のそれ、例へば山邊赤人の歌風と比較するならば、直ちに感じられるものであるに相違ない。然らばこの九州の文壇に、その散文的な歌風が盛行してゐた理由は何であらうか。先づ職業的な宮廷歌人と違つて、急忙な實務、しかも他郷に優雅ではない實務を持つてゐる人達の歌が散文的になるのは當然のことであらうが、なほ進んで考へれば、この九州の土地には優艶な漢詩などを讀む趣味は最早幾分か衰へて、それよりも實質的な、散文で出來てゐる諸子史傳小説を讀む趣向の方が盛行してゐたのではないであらうか。太宰府の學府へは中央政府より支那の書物を賜給したけれども、それは単に公然たるものであり、私には、九州の地へ支那の文化的産物が滔々と流入してゐたものであるに相違ない。古代の考古學的發掘品を比較しても、早くより大和と九州とにはさうした顯著な文化相の相違が見られる。またそのことを實證するものは、『萬葉集』中最も有力な漢文作家である旅人と憶良とが、共に九州に在任した人であり、その漢文の中はは、實に豊富に當時の支那散文書の詞句の引用せられてゐることであるといへよう。當時の九州歌人の作風が、散文的思想的となつた有力な理由の一つはそれでなかつたか。そして技巧的な抒情詩より離れ達意的な散文に移ることは、その生活を有閑的遊戯的ならしめず實生活的現實的ならしめることであつたから、彼等の作風は、勢ひ一見何の風雅もないやうな、散文的に生活を報告するといふ風のものになつたのではないかと思(327)ふ。
 かやうに観察して來れば、沙彌滿誓のすぐれた歌、中央には見られない珍らしい、生活報告風の淡々たる作風を以て成功した歌、 ――「しらぬひ筑紫の綿は身につげていまだは着ねど暖けく見ゆ」のやうな歌が九州に在つた理由は説明せられるであらう。なほ憶良や老や大成やの作風を比較對照することは興味あるものであるが、今は煩瑣となるから省略する。さてこの着眼を以て旅人の歌を観察するならば、彼の歌はまた直ちに、現實主義的であること、徒らに有閑的でなくて生活報告的であること、技巧的でなくて平明であること、抒情的でなくて抽象的であることなどの諸特性を持ち、彼の深刻な生活體験がそれらの諸特性を統一的によく生かしてゐることを見るであらう。
 同じ年の春彼は肥前の地を巡遊したと見えて、「松浦河に遊ぶ序」を制作した。(卷五)これはやはり漢文を以て綴つた小説的の作品であるが、その一篇の物語や主人公と松浦河の仙媛とが贈答する歌詠や、後人がこれに追和したといつて追記した歌詠やを以て成るものである。この作品について私はかつて詳しい分析を書いてゐるが、(拙著『国文學の哲學的研究』第三卷参照)要するにそれは唐の張文成の書いた『遊仙窟』の筋書を模し、我國に於いて最も早く制作せられた小説であることは、注意せらるべきものである。今は詳論を略する。
 梅花の歌と「松浦河に遊ぶ序」とは、彼にもよほど得意の作品であつたと見えて、それと望郷(328)の歌二首とを併せ、四月六日附の書翰で京師にある雅友吉田宜にこれを贈つた。宜は七月十日にこれが返事を書いてゐる。なほ旅人は「松浦河に遊ぶ序」を憶良にも贈つたものと見えて、七月十一日附の憶良の書翰と三首の歌とには、それらの名所を訪ふことの出來ない憶良の鬱結を語り、松浦佐用姫の領布《ひれ》を振つた山を見得ないこと、神功皇后が御饌料の魚を釣り給うた松浦河の磯を見た人の羨しいこと、百日を要する松浦道ならば致し方もないが今日行きて明日歸り得る近きところへも支障あつて行き得ないこと(以上三首)を述べてゐる。筑前守としての憶良にこのことは、已むを得ないものであつたらう。
 さて憶良のこの書翰を仲介として、一つの疑問が湧いて來る。それはこの書翰の直ぐ次に作者名を記さずに載せた領巾麾《ひれふり》の嶺の歌詠と漢文序とは、憶良の右三首の歌の一つに領巾麾のことのある上は、これまた實は旅人の作ではないかといふことである。このことを最初に論じたものは契沖であるが、その論據堅實、殆ど疑問の餘地を殘さないのは流石に契沖であると思ふ。太宰帥は九國二島を管するが故に旅人は肥前の領布麾嶺を見得ること、憶良は筑前守として容易には他國に赴き得ないこと、憶良の書翰によれば七月十一日以前に憶良は松浦の地に行つてゐないこと、憶良は佛教的であるが旅人は老荘的趣味を持つことなどが、その主要なる論據である。なほ附け加へていふならば、松浦河の歌に於いて後人追和の歌を附したと同じい形式を領布麾山の歌に於いても用ひてゐることは、この歌の作者を旅人とするに一の有力な論據を供するものであらう。(329)なほこの論法を拡張して、目次に「山上臣憶良、鎭懷石を詠める歌一種竝に短歌」と記したものをも、實は旅人の作ではないかと疑ふ説もあり甚だ面白い見方であるが、私はそれになほ幾分の疑念を殘したい。何故なれば、いかにも憶良の書翰に載つた三首の歌の一つは神功皇后に關した歌であるから、同じ皇后に關した鎭懐石の歌を幾分か暗示したとも見られるが、元來松浦河は皇后の釣を以て現はれてゐる土地であるし、三首の歌はすべて松浦の地をだけ取扱つてゐるとするならば、この釣についての歌がそれとは土地の違ふ鎮懐石の歌を暗示してゐるともいふ譯にいかない。なほこの鎭懐石の歌は、憶良に多い、長歌と短歌とを以て成る形式のものであり、松浦河、領布麾山の歌と序との共通形式とは全く異つてゐることは、旅人説を建設せしめるに多大の支障をなすのである。
 
    六 傾廃の旅人の心境
 
 同じ年の夏六月旅人は忽ち瘡を脚に生じ、枕席に疾苦する身となつた。ここに驛使を馳せて上表し、遺言をなすがために庶弟稻公《いなぎみ》姪|胡麻呂《こまろ》を下遣せしめることを乞うた。ここに兩人に勅して旅人の病を慰問させたが、数旬にして幸ひに平復し稻公等は歸京した。大伴百代、家持等驛使を送つて夷守《ひなもり》の驛家に至り、聊さか飲んで別れを悲しみ、歌を作つた。
(330) なほ同じ年の冬十一月頃、旅人は大納言に任ぜられ、(帥を兼ねること舊の如し)初めてなつかしい京師に歸ることの出來る身になつた。その悦びにつけても追懐に堪へないのは、この地で死去した愛妻であつたらう。恐らくは十一月、※[人偏+兼]從等は旅人とは別に海路を取つて京に向はうとし、覊旅を悲しんで歌を作つた。ハ卷十七)坂上娘女もまた十一月に旅人の家を發し、その途の各地に歌をよんでゐるが、(卷六)これは※[人偏+兼]從等と行を共にしたものであらうか。府の官人等は、筑前國蘆城の驛家に饌し、門部連石足《かどべのむらじいそたり》、麻田連陽春《あさだのむらじやす》、大伴四綱が歌を作つた。(卷四)旅人がその邸を發したのは、坂上娘女よりもおくれ十二月に入つてからである。この日馬を水城《みづき》に駐めて府の家を顧み望み、互ひに別れを悲しんだが、彼を送る府吏の中に兒島と呼ぶ遊行女歸《うかれめ》があり、この別れ易きを傷み、彼の會ひ難きを嘆いて、涕を拭ひ、自ら袖を振る歌二首をうたつたし、旅人もまた二首の歌を以てこれに和へた。その一首は次の如くである。(卷六)
    丈夫《ますらを》とおもへる吾や水莖《みづぐき》の水城《みづき》の上に涕《なみだ》のごはむ
 彼がいかにその屬僚や身邊の人達やによつて親しまれ愛せられてゐたかは、それらの贈答の歌の内容によつても知られよう。鞆浦《とものらら》を過ぎるにも、また敏馬埼《みぬめのさき》を過ぎるにも旅人は歌をよんでゐるが、何れもその亡妻を懐うて哀情の切々たるものがある。これより彼の死に至るまでの歌は何れも眞情にみち、虚飾のない生活記録の歌として『萬葉集』中の絶唱である。愛妻のない京師の家に歸つた彼は、ながく想望した生活の悦びを得ることも出來ず、一層大いなる空虚を感じて沈(331)痛のしづけさの中に身を埋めるより外はなかつた。
    人もなき空《むな》しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
    妹として二人作りし吾が山斎《しま》は木高《こだか》く繁くなりにげるかも
    吾妹子が植ゑし梅の樹見るごとにこころ咽《む》せつつ涕《なみだ》し流る(卷三)
 旅人の歸京後、沙彌滿誓が送つた歌に對し、彼も二首の歌を以て和へてゐるが、(卷四)それを見るに、かつては酔哭するばかりであつた彼の生活も、今はそれ程に感情を高揚することが出來ず、ただ沈静な寂寥の中にまことの孤獨を味はつてゐることが分るのである。それは實に激浪をくぐつて來た難破船が、今は風のない暗夜の海面を漂流して行くやうなものだ。葛井連大成も悲嘆の歌を贈つて來た。(卷四)
 天平三年正月旅人は從二位を授けられた。『懐風藻』にある「初春侍v宴」といふ題の五言詩には「從二位大納言大伴宿禰旅人」とあるから、その記載を信ずればこの年の初春宴に侍したことになるが、はつきりは斷定せられない。この老廢の歌人はその高い官位にも拘らず今や小兒の如くになつて飛鳥の故郷を追懐し、粟栖《くるす》の小野《をぬ》の萩の花も散つた頃その故郷を訪れる心組になつてゐた。(卷六)追憶の世界にのみ生きてゐる彼として、その生活はもはや終焉を告げたも同じいものである。彼の歌には、沈痛な悲しみもなく、寧ろかすかな悦びに似た色さへ浮んで來た。併しその萩の花が十分に咲き揃ふのを見ない秋七月、傾廢の身の旅人は、その故郷を訪れることも(332)なく、彼を生んだ永遠の郷土に還つていつた。「醫藥瞼なく逝く人留らず、」悲慟してその死を悲しんだ勅使や彼の身邊の※[人偏+兼]從等は、「萩が花咲きてありや」と問うた旅人の最後の微かな願望さへ遂にみたされないで終つたことに、心を傷けるばかりであつた。(卷三)
             ‐『萬葉集講座』『第一卷』(昭和八年二月)
2005年12月26日(月)12時55分、入力終了、米田進
 
 
(333)第十四章 平安朝初期密教文化の成立背景
 
     一
 
 我國の精神生活史の背景にあつて最も大いなる影響を歴史生活の上に與へてゐるものは佛教である。奈良朝から平安朝に移り一轉して鎌倉時代となる時代生活の推移の如きは、その解釋の極めて困難なるものであるが、この期間に於いて佛教は華厳宗より天台眞言の密教に進み、更に淨上欣求の他力教を生み、最後に浄土宗や禅宗の如き新興の諸宗派を勃興せしめたのであるから、この期間の時代生活の推移を正しく理解するためには、何としても佛教に於ける右の如き推移の教理的並びに精神生治史的意義を諦めることが必要である。この準備工事をなし遂げぬ限りは、例へば平安朝時代に大いに興隆した文學の意味をも正しく理解することが出來ない。
 併し奈良朝時代の佛教であつた華巌教の教理が、平安朝の初期に於いて何故一旦密教となり然
 
 
 
 
 
 
(285)上代の歌謠  (全集第13卷「文學論及び歌論」)
(287)  序
 
 上代文學の主たる部分を占めるものは歌謠であるから、私が第二卷(編者註。杏村著、國文學の哲學的研究、第二卷「文學の發生」を意味す。特に本卷所収論文「歌謠の發生及び發達」參照)に於いて文學の發生を考察する場合には、おのづから歌謠の發生に主たる力を注がなければならなかつた。私は日本の文獻を基礎とし、文獻學的に遡り得る限りの上代に遡つて、我が歌謠の發生及び發達の經過を明らかにしようとつとめたのである。
 然るに我々の眼界はなほそれ以上に擴大せられることが必要であつた。それは我國の上代歌謠を東亞上代歌謠史のより〔二字傍点〕一般的なる立場より取扱ひ、それの發生及び發達を尋究することである。併し斯くの如き方法を取ることは嚴密なる學間的方法として可能のものであるか。私は我國の歌謠と東亞上代歌謠の全面との間に何等かの關係を求め得ないかに就いて久しく考究してゐたが、(288)先づ朝鮮歌謠史特にその上代歌謠史を整理し、朝鮮上代歌謠の形態がいかなる推移をなしたかを調査した結果、その一部分の歌詩形態即ち新羅上代のそれが志良宜歌と稱せられて我國に輸入せられ、我國上代の歌謠の一形式になつてゐる確實なる事實を探索し得た。ここに私は我國の上代歌謠史を東亞上代歌謠史のより〔二字傍点〕一般的なる立場に於いて取扱ふことの可能を確證せられ、その研究の方法論的準備を得たのである。朝鮮上代歌謠の形態その發生發達を朝鮮と支那との文献によつて尋究し、以て我國上代歌謠の形態その發生發達に就き從來知られてゐた以上のものを知らうとつとめることが本書の主たる仕事であつた。殊に本書の半ばを占めた第一章は、この研究方法を方法論的に確實に基礎づけようとつとめたものであるから、全卷の中でも主たる部分を占める。斯くして私は日本朝鮮琉球の上代歌謠を一の共通的なる立場より取扱ひ、それらの形態、發生、發達及び相互の聞係に就いて一の假説を建設することが出來た。この假説の眞僞如何は、今後學界諸家の精到なる批判によつて決定せられ、且つ大いに修正せられることであらう。私自身本卷だけの敍説を以て假説の全構造を悉したとは思はないが、既にこの研究の方法論的準備をなすにさへ本卷の半ばを費した位であるから、書冊の紙幅を顧慮し、ひとまづ假説の外郭を描くにとどめて、これを世に公表することとした。私は今後、語の簡易のためにこの新假説を「東亞上代歌謠史新説」と略稱することにする。その假説の内容は第一章に略敍せられてゐるから、ここに重説しない。
(289) 私は研究に於いて徹底を欲してゐる。勿論これはすべての研究者が、本能的に欲念するところのものであらう。記紀萬葉の歌謡を其儘に整理し、順序よく排列してそれの内容を解説し、以て上代歌謠史の全幅であるとなす如きことは、私の研究的本能として堪へ難いことである。私はただ徹底を欲する。徹底とは限界を破ることである。併し勿論我々は方法論的に正常なる限界を嚴守すべく、研究は必らず資料に内在的であつて、これに超越的であつてはならない。例へば朝鮮上代歌謠史の目を以て直ちに我國上代歌謠史を取扱ふ如きは、超越的の方法であり、内在的の方法ではない。朝鮮上代歌謠と我國上代歌謠との間に何等か確實なる連鎖が見出され、その連鎖を通じて兩者の構造の歴史的共通性が證明せられた時初めて朝鮮上代歌謠史も亦我國上代歌謠史研究の内在的共通世界内の一資材となるのである。さうした點で、私は止まるべき限界の前に嚴密に止まりそれの埒外に出ないことを期してゐる。併しこの限界を超えることは、研究者に取つて已み難き一つの要求であるに相違ない。そしてこの限界を超えなければ、絶えず新らしい研究の立場は創られる譯にいかない。ここに我々は、この限界の前提となるものを新らたに吟味しなければならぬのである。この場合に我々は自らの專門とする學以外に出で、その研究に對し全くの非專門家として立つてゐる自己を見出すであらう。即ち絶えず徹底を期する研究者は、絶えず自己の未知範圍の學問の中へその足を踏み入れるのである。併しこの場合にこの非專門家の研究こそは重要の意味を持つに相違ない。何故なれぼ一つの專門家は一つの投影面をしか持たないが、(290)この非專門家は數個の投影面を統一した或る立體的の立場に立つが故である。數個の投影面を統一した立場に歴史を投影させることは、數個の投影面の上に別々に投影圖をつくることではない。歴史は非合理的、個性的、人格的の統一世界であるから、常に斯くの如き數個の投影面を統一したより〔二字傍点〕高次の立場より取扱はれなければならぬのである。それが眞に歴史的生活を再構成する所以であらう。國文學研究の究極鮎を哲學的研究に置く理由はそれである。私はその個々の研究に於いて勿論個々科學的の立場を守つてゐるが、私の研究の主眼はその個々科學の上にないから、依然として最後は哲學的研究の統一的立場に歸ることとなる。
 朝鮮上代歌謠史を整理し研究するに當り、私は朝鮮古書刊行會、朝鮮研究會、朝鮮史學會の諸種の刊本に負ふところが多かつた。また新羅郷歌、朝鮮民謠の研究の間に超つた二三の疑問に就きその方面の專門學者の高教を仰いだところがある。書中にもその事をお斷りしてあるが、それらの諸氏に對し謹しんで謝意を表したい。またこの研究の間に示された先輩友人諸氏の眷顧と讀者諸賢の後援とは、いつもながら著者をして感謝の辭なからしめるものである。
    昭和四年早春
 
(291)     第一章 序 論
    一
 「韓語言」を「からさへづり」と訓んだのは「日本書紀」であつた。「言《こと》さへぐ」を韓《がら》、百済など外國の枕詞にしたのは「萬葉集」であつた。(註一)上代人に取つて當時の朝鮮語や支那語はまつたく言騒がしい、鳥の噂りのやうにしか聞えなかつたであらう。併し當時の人々がその言さへぐ外國の文化より大いなる影響を受け、その言さへぐ外國語文學を悦び吸收してゐたことも、興味の惹かれる事實ではないか。我々は今外來思想對策といふ不思議な題目を有識者の口から絶えず聞いてゐるが、日本固有の思想外來の思想と二つのものを對立せしめ、それの利害得失を論ずることは明治以後の人達にだけ見られたものではなかつた。勿論徳川時代の學者がその諭をなしてゐた。足利鎌倉時代の人達もそれを重大な問題になしてゐた。遠く「からさへづり」「言《こと》さ(292)へぐ」の言葉を生んだ時代にも、日本人は同じ問題に悩まされてゐたのである。今のごとく外國文化の特質をほぼ公平に知り、外國語の組織を科學的に知つた時代に於いても、外國人の言語を「からさへづり」と聞くことは決して失はれてゐないし、私自身いかほど外國語の書を續み、外國語の文章を自ら書くにしても、なほ日本語を明朗、外國語を「言《こと》さへぐ」と感ずることから離れ得ない。私は搖籃の中で日本語を以て育ち、日本語の生活に於いて生きて來た。日本語は最早私の生命と共に、生命に課せられた宿命なのだ。私はいかなる達識の外國人よりもよく日本文學を味ひ得る自信を持つてゐる。またいかなる敏感な外國人も味讀し得ない日本文學のニュアンスがあると信じてゐる。日本文學の内面性に味到體感し、これを分析批判する點では、日本人自身より勝れたものは他にない。隨つて日本文學のまことの研究者は必らず日本人でなければならぬと私は確信するのである。
  (註一) 「韓語言」(からさへづり)の語は敏辰天皇紀に出てゐる。「言さへぐ」といふ枕詞の使はれた歌は、例へば萬葉集卷二に、「つぬさはふ石見の海の、言さへぐ韓の埼なる」云々、「言さへぐ百済の原ゆ、神葬りはふりいまして」云々とある。「此のけぢめをよくわきまへずば、かみつ世の言どもはとき得まじく、ましておのがいはむ言をや。ゆめゆめ我が大御國言を韓語言に混ずまじき事なり。」(御杖「北邊隨筆」卷一。)
 
 併し日本人が單に日本文學の内面に沈潛し、日本文學の特質を禮讃してゐて、それの内面性や(293)特質やを外國文學のそれと公平に比較することをなさなかつた場合には、その見方はおのづからゆゆしい一つの獨斷一つの誇張に陷ることがなかつたか。私はさうした例を徳川時代の國學者の中に幾つでも見てゐる。宜長は「皇國の言語にくらぶれば、唐の言語はいとあらき物なり」(「玉勝間」)と判斷し、その例として「罕言」といふ漢語を擧げた。彼によれば、日本語では「稀れに云ふ」と「云ふこと稀れなり」とはその心ばえ異つてゐるといふ。宣長はなほ「他の言も此たぐひ多し。すべての事皆かくの如し」と言つて支那文化を一掃したが、少なくも彼のあげた「罕言」の解は、漢文を日本語風に訓讀することに祟られた彼の思ひ違ひであり、支那語法はいかに粗であつても、「稀れに云ふ」と「云ふこと稀れなり」との心ばえの差を書き現はし得ないものではない。「遠つ神、吾《あ》が天皇《すめらぎ》の、大御繼々《おほみつぎつぎ》、限りなく千五百代を知ろしをす餘りには、言|佐敝《さへ》ぐ漢《から》、日の入る國人の、心詞しも、こき交《ま》ぜに來交《きまじ》はりつつ、物さはにのみ成《な》りもて行ければ、此國《ここ》に直かりつる人の心も、隈《くま》出《づ》る風の横しまに渡り、云ふ言の葉も衢の塵の亂れ行きて、數知らずくさぐさになん成りにたる」(「歌意考」)と書いた眞淵の考へも、偏狹でないとは言へない。日本文學を研究する人達は、その遠い源流を上代古代へまで尋ねて行くと、そこに存在するものを日本固有、日本本來の要素と信じて何の疑ふところがなかつた。またその上代古代と信ずる時代の文化の特性を宣揚すれば、それが日本固有の文化を宣揚する途であると信じて疑はなかつた。併し我々の社會生活はどんなに古く遡つたところで、その團體以外の社會團體と何の交渉もなく、全(294)く獨立に生活することの可能のものであつたらうか。なほまたいかに孤立した人敷の集團があつたとしても、苟しくも人類なる限りは何れかの本源から分岐して來たと考へなけれぼならないが、さうした場合孤立した集團はそれらの原母集團の特性と全く無關係に自らの特性を創造することが可能であつたらうか。發生的に日本民族の生活をどれだけ古く遡つて見たところで、外國文化との關係から全く絶縁せられた日本民族の特性は發見せられるものでない。また遠く遡つた或る一時代の生活を捕へて、これこそは日本人固有の生活であると斷言出來るものでない。生活は流動である、推移である。それの一横斷面はその流動の一時代に現はした相《フエエス》であるに過ぎない。文化の特性は、その流動の中を貫いて求めらるべく、その流動の決定せられた一相《フエエス》の上に求めらるべきでない。「あはれあはれ上つ代には、人の心ひたぶるに直くなんあ少ける。心しひたぶるものなれば、なす業《わざ》も少なく、事し少なければ、いふ言の葉もさはならざりけり。然かありて、心に思ふ事ある時は、言《こと》に擧げて歌ふ。こを歌といふめり。」(「歌意考」)「故《かれ》、萬葉集の歌は、凡そ丈夫《ますらを》の手振なり。」「その丈夫の道を用ひ給はず、手弱女《たをやめ》の姿をうるはしむ國振と成り、それが上に唐《から》の國ぶり行はれて、民上を畏《かしこ》まず、奸《よこ》す心の出で來《こ》し故ぞ」(「にひまなび」)と眞淵は言ふけれども、その萬葉人の生活さへ決して「ひたぶるに直く」あるものでなく、既に唐代繊巧の貴紳文學の影響を受けてゐた事實を我々は否定し得ない。またそれ以前の上代古代に遡り、転記歌謠の形態や内容やを尋ねて見たにしても「その上に外國文學との干渉關係が表現せられてゐなかつ(295)たとはどうして斷言することが出來よう。
 なほ原始人の生活に近くなれば、ひたぶるに直い性情は何れの民族にも見られ、何れの文學にも尋ぬられる性質であることが比較人類學的に實證せられるとすれば、ひたぶるに直きことを以て日本文學の本質であるとも斷じ難いではないか。私は、「凡、唐土と我國と風俗同じからずと云へども、詩と歌との道ばかりは、その道理全く同じ。」「われ詩の道を以て推して、歌の道を知れること此の如し」(「獨語」)と言つた大宰春臺の主張を決して奇矯だとは思はない。我が上代の生活に外國文化の影響の強いことは考古學的に明確に決定せられつつある。ひとり上代の文學だけがその影響の外に立つてゐたとは考へられぬことでないか。我が古代歌謠史の出發點をより〔二字傍点〕廣く東亜古代歌謠史の基礎の上に置く研究を私はまだ見てゐない。歌謠の發生を論ずるものは、我が長歌短歌の成立原因を長歌短歌の形式自體の中に尋ね行くを常とした。それ故に我が上代歌謠の本性は何時までも國粹論的に建設せられ、隣接諸國の歌謠は何の關係をも持たないものに見られて來たのである。私とて日本歌謠の他と異つた特性を信じないものではない。しかし或物の特性を決定するには、それを或物ならぬより〔二字傍点〕高い立場の上に載せることが必要である。それ故に私は、(1)考古學的6に日本上代の文化が甚だ古い時から外國文化の影響を受けてゐたことが證示せられる以上は、歌謠も亦この影響を受けてゐるとの豫想の下に、日本上代歌謠史研究を東亞上代歌謠史研究のより〔二字傍点〕一般的なる基礎の上に組み立てなければならないし、(2)日本上代歌謠の特性を(296)決定するにはやはりこれを東亜上代歌謠一般の特性の上に据ゑ置いて觀察しなければならないと考へるに至つた。併し日本上代歌謠は果して斯く東亞上代歌謠の一部を占めて研究せらるべき程の歴史的關係を後者に對し持つてゐたものであるか。この歴史的關係が發見せられない以上は、輕率に斯くの如き方法を取ることが出來ない。私はそこで私の方法を確立するためには、確かに紀記時代に於いて我國の歌謠の上に外國の歌謠の影響の加はつてゐた實證を握ることが必要である。この實證さへ得られれば、そこが研究の端初となる。我々はその接觸點を中心として研究を後代へも、また遡つて古くへも進めて行けよう。私は先づこの出發點を發見することにすべての努力を傾けたのである。が、その努力の酬いられる日がつひに來た。私は紀記時代に於いて、朝鮮歌謠が我國へ輸入せられ、その外來歌謠の歌形に合せて我國の歌謠の創作せられた實例を紀記自身により確證せられたのであつた。私は全く雀躍した。恐らくその悦びは私の今後の研究的勞作の中でも常に忘却することの出來ないそれの一つとなつて、ささやかなる私の生活史に記録せられて行くことであらうと思ふ。
 
      二
 
 私の研究は專ら歌謠の形式に向かった。歌謠をして歌謡たらしめるものは專らそれの形式だから(297)である。我が上代歌謡の形式(即ち歌形と韻律)の發生を説くには、先づ我々の呼吸を以てすることが出來よう。歌謡は謡ふものであるから、これを謡ふ呼吸によつて形式的に制限を受けない筈はない。併し呼吸だけでは歌謠の歌形や韻律は定まるものでない。一呼吸の中でどれだけの長さと數との音をも發することが出來るから、例へば句の長さにしても、一呼吸を以てどれだけの長さの句をもつくることが出來よう。呼吸を決定して歌形と韻律との基礎をつくるものは拍子でなければならぬ。呼吸に一のリズムと段節とを與へるものはその拍子だ。然らばその拍子は何によつて與へられるか。最も容易に考へられるものは我々の歩調であらう。呼吸が句の長さを大體に決定し、歩調がそれに拍子を與へるとすれば、歌謠の原始形はとにかく成立しよう。併し歩調にも緩急いろいろあるから、單に歩調といふだけでは拍子は確實に定まらない。また歩調が何故に歌謠の拍子を定めたかの根據も證明せられてゐない。ここに如何なる歩調が確かに歌謠の拍子を定めたかを、我々は事實的に確證しなければなるまい。この場合に我々の見方は最早一個人的の立脚點に安んずることが出來ず、社會生活としての立脚點へ移つてゐなければならない。何故なれば、個人的に考へれば、如何なる性質の歩調をも考へ得るときに、確實に或る一種の歩調を選定するものはその個人の生活してゐる社會生活でなければならぬからである。斯くして我々の研究方法は、個人生活的のそれより社會生活的のそれに移る。
 歩調が社會生活的に行はれる場合は何であるか。我々は先づこれを或る社會集團が行ふ蹈舞だ(298)と考へ得よう。原始人の蹈舞は歌謠を伴つてゐるが、然らば歌謠の拍子を原本的に定めたものはこの蹈舞の拍子ではなかつたか。斯樣に考へても我々はまだこの答案をその儘採用すべきではない。若しこの答案を採用するならば、斯かる場合には歌謠の拍子も定められるといふだけであり、ある社會集團の歌謠の形式が確かに斯くして定められたといふことは、この答案によつて定められるのではなかつた。それ故に我々は次に確かに或る社會集團の歌謠形式はその集團が確かに行つた蹈舞と關係を持ち、その蹈舞の拍子により決定せられてゐたといふことを社會歴史的に證明しなければならない。例へばその社會集團のシャマニズム的宗教生活は確かに蹈舞を要求してゐたし、この宗教的蹈舞の中に謠はれた歌謠の拍子は確かに蹈舞のそれにより決定せられたものであつたことを證明すれば、我々の考察は一段落を得たのであつた。即ち我々の研究方法は、個人的より社會的に進み、社會的より更に社會歴史的に進まなければならない。個人的の説明は勿論單なるラショナリズムであるが、社會的の説明も亦同樣に一のラショナリズムである。歴史は常に現實的の内容を得なければならない。現實的の内容を含むが故に、それは一囘的、個別的の現象となるのである。我々は歴史的研究を普遍的一般的のそれから、更に一囘的個別的のそれに進めなければならない。(註一)蹈舞をシャマニズムの蹈舞と見た時に、見方は初めて東亜民族史の一頁を占める歴史的意義のものとなることが出來た。また同時に斯くの如きシャマニズム的蹈舞が、或る時代にひろく東亞の諸民族の間に存在してゐたものとすれば、一民族の持つ歌謡の形式(299)の發生發達史は、この東亜諸民族のそれと共通基礎の上に立たなければならない。それが研究をまことに歴史的ならしめる所以である。我國歌謡の形式の源流を尋ねるものは、斯くして東亜上代歌謠史の一般的研究と何としても接觸しなければならぬのである。
 勿論私はこの研究を文献本位に進めることを最初から豫定してゐる。文献的研究方法は他の方法に先行しなければならない。文献的研究方法がその至るべき限界に達し、文献を以ては最早それ以前の年代へ遡ることが出來なくなつた時に、我々は初めて何等か他の科學的方法に轉じなければなるまい。文獻は或る年代で盡きたからといつて、その民族の生活史はその時を以て端初とするものではない。文献以前のその民族の生治史は、寧ろ文獻以後のそれよりも長いと考へなければならぬ。併しこの文献以前の年代の生活を科學的に研究した結果を以て文献的研究の結果を破棄することは出來ない。(特別の場合には勿論例外がある。)何故なれば、文献的研究は最も直接的であり、事實を歴史的に確實に決定するを得るからである。東亞歌謠の發生發達史に於いて、私はひとまづこの文麒的方法が達し得る限りの閾に止まる。それ以前の年代に遡る場合には、私は最早國文學の如きを研究封象にせず、一層廣汎なる民族の生活を研究の對象に取らなければならない。
  (註一)「我々は一分間に百二十乃至百二十音歩を讀むとき、最もよく詩の節奏を感ずるのであるが、之は我々の一分間の歩數と關係があるのではなからうか。換言すれば我々の歩行の調子と一致するとき、(300)歌の調子は初めてよく感ぜられるのではなからうか。」(土居光知氏著「文學序説」二九七―九八頁)土居氏はさうした根據から詩形を論じて居られるが、若しもそれが「古代歌謠の形式」が定められた歴史的〔三字傍点〕原因を言つてゐるものであるならば、如何なる性質の歩調が眞に歴史的〔三字傍点〕に古代歌謠の形式を定めたかを私は氏に質問したい。氏の詩形論に私は多大の敬意を持つが、なほ歴史の問題は歴史的に決定して欲しい氣がするのである。若しも歴史論を離れて、一般に歩行の調子はよい感じの歌の調子の基礎であるといはれるならば、詩形は一の動かない理想定型を持たなければならね事になるが、私はその論に賛成し得ない。また歩調も生活の場合に隨ひ、急迫にも緩徐にも動搖し、一定するものでない。歩調のリズムよりも生活のリズムがより〔二字傍点〕壓迫的である。また個人の生治のリズムよりも社會生活の文明のリズムがより〔二字傍点〕壓迫的である。詩のリズムはそのより〔二字傍点〕大いなるリズムをその場合場合の生活に應じて個性的に歴史的に表現するのである。
 
     三
 
 本書に於いて私の敍述したところは、その東亜上代歌謠史の立場の上に立つた日本上代歌謠史の研究であると言つてよい。上代文學としてはひとり歌謠をのみ取扱ふべきでなく、その他に祝詞や記紀文學の如きがあるけれども、主たる部分を占めるものは歌謡であるから、ひとまづ研究(301)の力點は歌謡の上に置かれる。本書は更に二つの部分に分れる。第一部は、所謂紀記時代に於いて、我國の歌謡が朝鮮のそれと關係してゐた時の干渉關係を研究し、第二部は、支那の文學と接觸して以後歌謡生活の中に文學的自覺が起り、歌謡より獨立した文學としての詩歌の成立するに至る經過を取扱ひ、支那文化との干渉關係を研究した。この第二部は既刊の第二卷(編者註。國文學の哲學的研究、夢二卷「文學の發生」を意味す)の研究に結びつくのである。
 第一部(第一章より第八章まで)はこれだけで纏つた、獨立した一つの研究である。その中でも第一章(編者註。次に收むる夢二章「紀記歌謠に於ける新羅系歌形の研究」を意味する。以下第一章とあるは本卷第二章のこと。以下これにならふ)は、この研究の着手點でもあればまた同時に主點でもある。東亜上代歌謠史の一部を占めるものとして我が上代歌謠史を研究するためには、先づ第一に、歴史的に實際に我國の上代歌謠が東亞民族の歌謠と接觸を保つてゐたことの確實なる實證を擧げなげればならぬと私は言つたが、本章に於いてそれを實證し、且つその干渉の状態を詳しく探究したのである。
 私は先づ朝鮮の上代歌謠の形態を研究した。勿論上代のそれを確定するためには、朝鮮歌謠形態史の全般を一應調査しなければならない。併し斯くの如き研究はまだ何人によつても研究しつくされてゐないから、私は最初からその未耕の野に鋤を入れなければならぬ困難に當面したのである。我が上代歌謠に匹敵する時代の歌謠として今日朝鮮の文獻に確實に殘つてゐるものは新羅(302)郷歌である。併し郷歌は我が萬葉文字と性質の同じい所謂吏道文字を以て古代朝鮮語の歌謠を寫したものであるから、その内容が知られないは勿論のこととして、この歌謠の歌形や韻律が如何なるものであるかなどに就き、今日何の確定説も起つてゐない。今や朝鮮語の專門學者はこの内容を解讀するに努力して、その研究は誠に尊敬し感謝すべき點に達してゐるが、私の考へでは先づこの郷歌の歌形韻律を定めなければ、本來歌謠である郷歌の吏道文字を誤りなく讀むことは不可能のものでないかと思ふのである。即ち歌形韻律が分れば、それを標準とし、それに適するやうに吏道文字を解讀することも出來るが、歌形韻律が分らなければ如何に解讀すべきか全くその標準を失ふ。それ故郷歌を科學的に解讀する仕事は、先づ郷歌の歌形韻律を定めることから出發しなければならない。然らばその内容も解讀出來ない郷歌の歌形をどうして決定するか。私はここに一の統計的方法を取ることにした。即ち文字數の多い句は長句、それの少ない句は短句と見る。勿論この如き方法は一首だけで觀察すれば誤謬に陷る。何首か大數計算をなせば、その平均數は必らずこの關係を表現するに相違ない。私は先づその方法を萬葉集全卷の短歌に對して試み、十首づつの平均數を取つて比較して見たが、一の例外もなく、この方法の誤らないことを確認し得た。私はなほ歌形を對照する便宜から現今の朝鮮民謠の歌形を見、郷歌よりは後の「龍飛御天歌」全部の歌に就いても同樣統計的方法の加味せられた歌形調査を試みた。これらの結果を齎らして、郷歌全部に對する統計的調査を解讀し郷歌の歌形及び韻律を科學的に定めるととが出來た(303)のである。更にその發達を歴史的に調査し、朝鮮には古くシャマニズムの蹈舞から發達した四分の二拍子、各句同長の四句體歌があり、後に十句體體歌の發達して來たことを知つた。この十句體歌は奇數句を短、偶數句を長とする傾向を持つ。私は假りにこの形態を短句長句交互排列形態と名づける。その韻律は恐らくは六八調(註一)を主とするものであり、歌謠の謠ひ樣は我が五七調と同性質のものであつたらう。さて斯くの如き形態が我が上代歌謠の中に存在するかと調べて見ると、それに直ちに匹敵する十句體歌が記では「志良宜歌《しらぎうた》」と呼ばれてゐたのである。ここに私は新羅郷歌の形式が紀記時代に我國の歌謠の一形式として採擇せられてゐる確實なるl證據を握ることが出來た。
  (註一 朝鮮語は日本語と構成が違つてゐるから、歌謠について何音或は何々調といふのは不穏當であらうが、すべて日本語を標準として言つてゐるのである。以下もすべて同樣である。
 然らば新羅郷歌は果して我國へ輸入せられ、我國の歌謠の形式になりゐたか。私はこれを證明するために、(1)新羅の歌謠は歴史的に確かに我國へ輸入せられた、(2)新羅歌謠は我國の音樂の中へ吸收同化せられ得ることが、音樂及び樂器の體制によつて證明せられる、(3)歌形及び韻律を比較して、新羅歌謠の形式は我國の歌謠のそれに吸收同化せられ得ることが證明せられる、(4)この吸收同化の確實なる文献的證據は志良宜歌である、として遺漏の少ない證明を試みることに努めた。なほ「志良宜」を「しらぎ」と訓むことの可能を證し、更に紀記、「琴歌譜」に於ける志良(304)宜歌の形態及び新羅郷歌の影響を考察した。斯くして私は志良宜歌を端初としつつ、我が上代歌謠の實際の曲節をも察知しようと努める。「琴歌譜」は私の研究ではやや後代のものであり、既に上代歌謠の實際の曲節を留めてゐないが、そのことはこの譜法と親縁の關係のある「白石道人歌曲」などと對照せられて一層明らかとなつた。
 斯くして第一章の研究は、全く確實に論證せられた(と私だけは考へる)日本朝鮮歌謠干渉の歴史的研究着手點である。
 第二章(編者註。第二章以下は遺憾ながらこの卷には一應採録を見合せた。)に於いては、我國固有系の歌謠とこの朝鮮系歌謠とが歴史的にいかなる結合を保つて奈良朝時代に這入つたかを調査した。私は先づ佛足石歌謠を研究し、神事歌に出發した我が固有系歌形が民謠の中を通過して佛足石歌體の如き形態に進んで來る經過を敍説した。朝鮮系歌謠は音樂的にこれと結合し、唐樂林邑樂の輸入後は、固有系歌謠と朝鮮系歌謠とは古體と呼ばれつつなほ本來の二句四句切れの形態を保つて平安朝に入り、次第に衰頽して行つた。
 第三章では、私は右の研究結果を擴張してより〔二字傍点〕廣汎なる立場の東亜上代歌謠史の假説を建設しようとする。この部分の考察は、だから一の假説であつて絶對的の確實度を持たない。その假説は二部分に分れるが、前半は事實として恐らくは確認せられなければならぬ性質のものに屬する。(1)朝鮮歌謠形式の展開を見ると、各句同長の四句體歌を原形として發する傾向が強いに拘らず、(305)斯く新羅に於いて短句長句交互排列形態が生れ、(2)その傾向は後漸次に衰頽しつつ今日の民謡に達し、(3)同時代に我國に形態の殆ど全く同一なる短句長句交互排列形態が存し、(4)當時の朝鮮樂器は日本の樂器の影響を受けてゐることが確證せられ、(5)志良宜歌が輸入せられた時かくも親密に融合し得るほど兩國の歌謠の曲趣は類似してゐたこと等を基礎とすれば、この短句長句交互排列形態なるものは、何としても兩國に別々に起つたものではなく、互ひに干渉關係を保ちつつ發生發達したものだと考へなければならない。これが第一の假説である。次に、短句長句交互排列形態なるものが、斯く相互關係の結果共通的に成立したものであるとすれば、それ以前の四句體歌なるものも朝鮮全土から西日本(註二)に廣く行き亙つてゐたものでないかと考へた。私は朝鮮に於ける最も原始的の四句體歌を三三調又は四四調、四分の二拍子、各句同長の形態を持つものと推定し、この形式が (1)日本の上代歌謠の中にあり、(2)日本の民謠童謠としては底力の強い傳承の力を以て今日に及び、(3)琉球の三十音歌及び「おもろ」中の同系のものにその形式を現はし、琉球歌謠の根本形式をなしてゐることをも觀察した。これが第二の假説である。併し私は第一のそれを殆ど假説だとは思はない。「三國史記」の最初の部分を讀んだものは、朝鮮史の古い部分が全く日本との干渉關係史であり、それが大半日本の古文献には現はれてゐない性質のものであることに大いなる驚異を持つたであらう。私はなほ民族史的、考古學的にも、日本と南鮮とのこの密接なる關係が確認せられてゐることを言つて旁證した。それゆゑ歌謠史の上でさうした關係(306)があつたとしても、我々は特別に驚くべきでない。併し第二の假説は、時代が遠く隔たるだけにこれを確證し得べき多くの事實を持たず、假説は依然として假説として止まるより外はない。
  (註二) ここに西日本といつたのは、日本の東都には蝦夷が住むと見て、その蝦夷を除いての西部日本をいふのである。それゆゑ東國に短句長句交互排列形態の日本語の歌が存在したとすれば、勿論これを含めての西部日本である。單に九州や中國地方を意味するのではない。後もすべて同樣である。地理學者は一般に西南日本又は南日本の語を使ふ。
 
     四
 
 第四章に於いて私は、朝鮮日本及び支那の歌謠形式を純粹の形式問題として取扱ひ、それぞれの國の歌謠の取る形式に於いて民族性の相違がいかに現はれるかを考察した。この場合私は、形式問題の考察に於いて等しく適當の資材となる建築のそれを對照資料として取つた。この研究によれば、朝鮮民族の選んで取つた形式は、全く日本と支那との中間的性質のものであつた。新羅の十句體郷歌の形式は、その中問的性質を具現するものであつた。私はなは日本最古の四區劃式なる住宅建築樣式がいかに發展したかの跡を尋ね、この樣式が民家としては今なほ底力の強い傳承力を持つ事實を、最古の歌謡形式である四句體歌が民謡童謡の中で同樣に底力の強い傳承力を(307)持つ事實と、何等か對照し得ないかと臆測した。
 第五章に於いては、現今の朝鮮民謡の形態を尋ね、その形式の由來を考察した。これにより新羅郷歌の持つ傾向を測定し得るからであつた。併しこの研究は資料が乏しいために今のところ完全を期することが出來ない。朝鮮民謠の調査も亦重要の事業として、今漸く學者の研究の端初に着いたものに過ぎない。
 第六章は、疑間の多い混本歌の形態を尋ねた。混本の字義は、本章に於いて私が解したやうのものではあるまいか。即ちそれは歌形などがまだ確然と整理せられない太古代の歌の意である。なほ近代の混本歌形態論は何れも單なるラショナリズムに過ぎなかつたことを論じ、平安朝時代には事實として如何に考へられてゐたかを尋ね、太古代に四句體歌の存在したことが當時の歌學者の間に信じられてゐた事實を觀察して、その古傳には何等かの根據があつたものでないかと考ヘた。
 第七章は、崔致遠の郷樂の詩を材料として、朝鮮より我國に輸入せられた散樂伎樂舞樂の原形を考察した。私は散樂の輸入系統及びその年代を幾分か考へ、なほ我國の舞樂の走禿は、朝鮮の束毒に當ることを考證した。
 以上私は朝鮮の歌謠と我國のそれとの關係に就いて、知り得る限りのものを探求し、日本上代歌謠史乃至東亜上代歌謠史の研究の上に、從來なかつた見方を幾分か添加しようと欲したのであ(308)る。勿論私は事實として儼然と許され得るものと、假説として暫定的に立てるものとを嚴密に區別したい。併し假説を全くなくすることは、上代研究に於いて全然の不可能事であらう。假説によつて事實を曲歪することは私の好むところでない。私も嘗つて自然科學の研究者として、解剖刀を取り試驗管を手にしたものである。今もなほ自然科學は私に取つて日常親しみを感ずるものになつてゐる。それゆゑ研究の態度としては、決して單なる想像に陷らないやうに、寧ろ遠慮なく止まるべき限界の前に止まつた積りである。確固たる事實の資料を得れば、私自身右の所説を覆して進むことは言ふまでもない。併し若しも私の推定建設した假説が何れも承認せられ得たとすれば、東亜上代歌謠史に就いては次の如き全くの新説が建設せられ得るであらう。
  「東北亞細並には、極めて古くシャマニズムの蹈舞の中から發達した三三調又は四四調、四分の二拍子、各句等長の四句體歌が存在した。朝鮮には北方から南方までこの形式が古く行き亙つてゐる。日本にも古くその形式の歌謠が存在した。この形式は恐らくは琉球民族の南下と共に琉球にも入り、そこの四句體三十音歌及び「おもろ」の最も古い形式となつた。然るにその後朝鮮の南部と日本の西部とを蔽うて、短句長句を交互に排列する新らしい歌形が起つた。併し朝鮮のものは偶數句歌體であり、日本のものは奇數句歌體である。即ち朝鮮の歌謠は、日本のそれ以上に支那の歌謠の影響を受けたのである。朝鮮ではこの歌形は漸次衰微し、一方では昔時の四句體歌の韻律原形に還元して行くし、他方では漢詩の如き形態を取(309)つて進んだ。今日の朝鮮民謡は、昔時の四句體歌の韻律を持つた、四句體歌と十句體歌とを主たるものにしてゐる。琉球ではさきの四句體歌の韻律と歌形とが歌謡の原形となつて発達し、今日に及んだ。西日本では短句長句交互排列形態が主たる歌形となつて發達した。併し昔時の四句體歌の歌形及び韻律は、民謠及び童謠のそれの中に保存せられて今日に及び、底力の強い傳承力を示す。隨つて今日の琉球の歌謠の韻律は我が民謠のそれに類似してゐる。紀記時代に於いて偶數句體の新羅郷歌の曲節が輸入せられ、それに日本語を適用した歌も生れた。上代歌謠の中の奇數句歌體は我國固有系のものに屬するし、偶數句歌體は朝鮮系のものに屬する。この二つの系統は直ちに融合を起し、日本朝鮮系歌謠といふ如き性質のものとなつて大規模の唐樂に對抗したが、漸次に衰頽し、その音樂は平安朝時代に入つて全く滅んだ。然るに他面支那文學に刺激せられ、奈良朝時代の初めに、歌謠の中に文學としての詩歌を獨立せしめる自覚が起り、文學としての長短歌と謠ふための歌謠とは一先づその袂を分つて進むことになつた。」
 私は右の如くに所説を纏めるが、これは理解の便宜上のことであり、この纏められた所説に本書の力點があるのではない。所説の展望としては斯くの如く豫想してゐるが、確實なる研究報告としては、勿論本書の第一章に私の力點が置かれてゐる。それは東亞上代歌謠史のより〔二字傍点〕廣汎なる立場に立ち、我國の上代歌謠史を研究する研究方法の可能性を證明した、新研究の着手點だから(310)である。(編者註。第七章まで梗概を記して次に直ちに第九章に及び、第八章の梗概を記してないのは原本既にこの樣になつてゐるのである。以上三節、四節に記すところと原著の各章とを對比して見るにすこし異同がある。)
 
     五
 
 第一部の研究はひとまづこれをもつて完結してゐるが、第二部の研究はこれだけで纏まつてゐない。第二巻にも一部分は書いたし、今後の卷でも幾度となくその問題に觸れようと思ふ。
 第九章は、「松浦河に遊ぶ序」と「遊仙窟」とを對照して、前者が全然後者の翻案であると觀察したのを端初として、萬葉歌の文學的自覺が起少り、歌謠の中より文學としての詩歌が獨立するには、支那文學の影響刺激の功が多かつたことを論じた。また祝詞の構成と漢詩の構成とが如何に融合せられて人麿の長歌となつたか、その他支那的の語法などが萬葉の中にいかに現はれてゐるかなどを觀察した。
 第十章は、萬葉歌の中の一首に現はれた支那的語法を、右の章の註記のつもりで書いて見た。
 第十一章は、萬葉に現はれた仙柘枝傳説の原形を論じたものである。「懷風藻」の詩を出來る限り正しく解することに努力した。萬葉に仙柘枝傳説歌として杵島曲の歌の配載せられてゐる理(311)由は、私の説のやうにすれば解し得られることとなる。総じてこの伝説歌の上に支那神仙思想の影響が強く見えてゐるが、私はその思想の消長を考へた。
 第十二章は、右の第二部にも嚴密には含まれ得ない問題であるけれども、大佛建立は奈良朝時代を通じての一大事件であるから、それの意味を考へ、この建立に宇佐八幡の關係した理由を想像する一假説を立てたのである。
 以上私は本書の中で取扱つた諸問題の概略を要説した。問題が相當多岐に亙るから、この約説によつて私が特に力説してゐる見方、その方法及び論理の推移を展望するに便利であらうと考へたからである。
 
(312)     第二章 紀記歌謠に於ける新羅系歌形の研究
 
        一
 
 紀記の現に記載してゐる歌謠が、紀記編纂當時の傳承をその儘に記載してゐるかどうかは疑問である。現存の古事記の最も古いものとして有名な眞福寺本でさへも應安の寫本であり、その原本を文永のものとして信ずるにせよ、なほ鎌倉時代の寫本であるに過ぎない。隨つて現在の紀記には幾多の改竄が加へられてゐないとは何人も保證し得ないことである。現に我々は、歌謠の記載の後に「こは何々歌なり」と註記してあるものを、後に述べる如く、概ね後世の註記であると考へてゐる。紀記歌謠は當時より後世に亙つて樂家により謠はれたものであらうから、樂家は斯く歌謠名の註記をなしたのであらうが、斯く歌謠名の註記をなした時には、同時に紀記に記載してあつた歌謠の言葉をも後の謠ひざまに改訂しなかつたとはどうして斷言出來るか。併し斯うした改竄は、先づ極瑞に甚だしくはなかつたものと信ずるより外はない。それは紀記の原本研究と(313)して、紀記の全體的研究により大體に定められることである。併し紀記編纂当時の伝承歌謡は、それ以前の長い年代の間に種々の変遷を經過したと考へなければなるまい。これらの歌謡の中には純粹に我國の祭儀の中から發達し、民謠として生長したものもあらうが、なほ或る部分には、外國の歌謠の影響が存するに相違ない。然らば紀記歌謠の中のどれだけの要素が我國に固有のものであり、他のどれだけの要素が外國の歌謠に影響せられたものであるか、外國の歌謠の影響を受けたことに就いては眞に確實の證據が存するであらうか。斯うしたこととが我々には問題となつて來るのである。外國歌謠の影響については、先づ次のことを最初に豫想してゐなければならない。
 一、歌謠は音樂に支配せられた言葉である。言葉としての詩歌が先づ存し、それが音樂的に謠はれるのではなくて、音樂的のリズムが先づ發せられ、それに件はれて言葉としての詩歌が創られ謠はれるのである。(編者註。本全集、第十一卷「國文學研究」所収の「上代歌謠研究の根本方法論」及び本卷所收の「歌謠の發生及び發達」參照)
 二、外國の、謠ふ音樂が輸入せられれば、その曲節に合せて我國の歌謠が創作せられる。
 三、輸入せられた外國の謠ふ音樂と我國在來の謠ふ音樂との間に折衷形が出來、その曲節に合せての我國の歌謠が創作せられる。
 これだけのことは先づ自然に推論せられよう。然るに、(1)我國にはシャマニズムの祭儀に伴ひ囃子を基調として起つた歌謠が本來存したとしても、(2)紀記編纂以前の上代に、外國、主として(314)朝鮮の音樂の輸入せられたことは歴史の明記するところであるから、この朝鮮歌謠の曲節に合せて何等かの歌謠が創作せられ、(3)更に兩系統の歌謠の折衷形式も生れたと考ヘることは、不當の推論であるまい。隨つて、記紀歌謠の形式を單純に我國固有のものとせず、
 一、我國固有の形式のものが存する。
 二、朝鮮歌謠系統の形式のものも存する。
 三、兩者の折衷形式も存する。
 四、これらは更に複雜した原因に支配せられ、變形せしめられてゐることがある。
としなければならない。それ故に我々は上代歌謠を研究するに當り、先づ我國固有の要素と朝鮮系統の要素とを上代歌謠形式の分析の中に析出しなければならぬのである。斯くの如き研究の道は可能であるか。
 私は右の如き豫想を最初に持ち、第一の仕事としては、朝鮮古代の歌謠の形式の如何なるものであるかを朝鮮の古文獻に就いて求めることとした。第二の仕事としては、この古文厭の記載する歌謠が眞に具體的に如何なる曲節を以て謠はれたかを推測するため、現在の朝鮮歌謠の諸曲節を調査することとしたが、この方面の調査はなほ未完であつて、諸研究者の調査の成績を今後多く拝借したいと考へてゐる。朝鮮の古文獻として私が最初に取つたものは「三國遺事」と「釋均如傳」(註一)とであつた。これらは實に朝鮮の古謠を記載する、第一に重要な資料であつて、(315)我々は問題解決のすべての手掛かりをここに置かなければならない。これらの文献は新羅の古謠の所謂郷歌即ち新羅歌を可なりに數多く包蔵するのである。
 新羅郷歌の歌形及び韻律に就いて、私の最後に到達した結論は次の如きものであつた。新羅の郷歌には、大體四句體歌と十句體歌と二種の形式がある。その四句體歌の典型的なるものは各句を等長ならしめるが、十句體歌の典型的なるものは、大體に於いて奇數句を短く偶數句を長くする傾向を持つてゐる。尤も現に文獻に見られるものでは、第五句は偶數句と等長である。その韻律は恐らくは六八調を基調とするものであつたらう。この六八調の二句の一音づつを休止音にすれば、我國の五七調と一致したものになる。現に文献によって得られた十句體郷歌の形式は右の如きものであるが、斯く奇數句と偶數句とに於いて交互に短句と長句とを取る傾向を進めれば、或は第五句をも短句とする歌形は當時に於いても成立してゐたかも知れない。今この十句體郷歌の傾向の理想として追求するところを具現すれば、次の如き形式にならう。
    短、 長、
    短、 長、
    短、 長、
    短、 長、
    短、 長。
(316) 私はこれと歌形の類似する歌謠を紀記歌謠中に求めて、全然それと一致するものを正しく一つだけ求めることが出來た。それは木梨の輕の太子の御歌「あしぴきの山田を作り」の歌である。然るに古事記はこの歌を記した後に、「これは志良宜歌なり」と詳記してゐる。「志良宜歌」は從來「シラゲウタ」と訓まれて來て、何人もその訓みを疑ひはしなかつたものである。然るに今や「志良宜歌」は「シラギウタ」即ち「新羅歌《しらぎうた》」と訓まれなければならなくなつた。古事記はこの歌を新羅の歌謠の曲節に據るものとして註記證明してゐたのである。この推論を基礎として、私は實に上代歌謠を具體的に研究することの第一歩に入ることが出來た。
  (註一) 「三國遺事」の刊本は、東京帝國大學刊本、京都帝國大學景印本、「日本大藏經」中のもの等數種あるが、私は最も後に出て校訂の最も嚴重な朝鮮史學會刊本によつた。この書は今西龍博士の校訂にかかる。「釋均如傳」にも刊本はあるが、右の朝鮮史學會刊本には、附録としてそれの全文が載せられてゐる。今はこれに據つた。最近には「朝鮮歌謠研究資料」の第一篇として市山盛雄氏の刊行せられたものもある筈だが、參照することが出來なかつた。後に引用する「三國史記」も今西龍博士校訂の朝鮮史學會本に據つた。なほ新羅郷歌に關する論文としては、雜誌「詩神」昭和三年九月號所載、市山盛雄氏論文「朝鮮の歌謠發生時代」を讀むことが出來た。
 
 私は次にその研究の方法論的順序を追うて、既に得た結果を記述して見よう。
 
(317)     二
 
 (一) 志良宜歌及びこれに對する從來の解釋〔十七字右○〕
 紀記の記載した志良宜歌は如何なるものであるか。先づ記の所載を掲げる。
   あしぴきの 山田を作り、             五、七、
   山高み 下樋《したび》を走《わし》せ、      五、七、
   下問《したと》ひに 我が間ふ妹《いも》を、    五、七、
   下泣きに 我が泣く妻《つま》を、         五、七、
   今夜《こぞ》こそは 安《やす》く膚《はだ》觸れ。 五、七。」
 若し五音及びそれに類する音數より成る句を短句、七音及びそれに類する音數より成る句を長句と呼ぶならば、(紀記歌謠の一般形式に隨ひ、)右の詩形は、
    短、長、
    短、長、
    短、長、
    短、長、
(318)    短、 長。
となる。記は右の歌の後に「此は志良宜歌なり」と註記してゐる。次に紀の所載を見ると、
   あしぴきの 山田を作り、          五、七、
   山高み 下樋《したび》を走《わし》せ、   五、七、
   下泣きに 我が泣く妻、           五、六、
   片泣きに 我が泣く妻、           五、六、
   きぞこそ 安《やす》く膚《はだ》觸れ。   四、七。」
とあり、やはり短長二句の五聯より成る十句體歌である。音數が六、八、九の三句に於て一音づつ少なくなつてゐるのは、記と異る點だ。紀には志良宜歌と呼ぶことの註記がない。なほこれらの歌は、記に於いては「阿志比紀能《あしびきの》」云々、紀に於いては「阿資臂紀能《あしびきの》」云々と寫音的に書いてあるから、その音數に就いて疑問を挿むことが出來ない。
 然るに右のものと同じ歌は「琴歌譜」にも戟つてゐる。それには數箇所に「一説に曰ふ」の註記があるが、この註記の部分を連ねて別に一つの歌をつくれば、
   あしびきの 山田を作り、          五、七、
   山田から 下樋《したび》を走《わし》せ、  五、七、
   下問ひに 我が間ふ妻、           五、六、
(319)  下泣きに 我が泣く妻、          五、六
   今夜こそ妹に 安《やす》く膚《はだ》觸れ。   七、七。」
及び
   あしびきの 山田を作少、          五、七、
   山高み 下樋を伏《ふす》せ、        五、七、
   下問ひに 我が問ふ妻、           五、六、
   片泣きに 我が泣く妻、           五、六、
   今夜《こぞ》こそ殊に 安く膚觸れ。     七、七。」
となつてゐて、詩形は十句體偶數歌ではあるが、
   短、 長、
   短、 長、
   短、 長、
   短、 長、
   長、 長。
となり、第九句の音數が紀記のものと違つて來る。このことは「琴歌譜」の筆者によつても疑問にせられたと見える。特に「今案2古事記1云、日本記之歌與2此歌1尤合2古記1。但至2許曾己曾之(320)句1、古記不v重耳〔五字傍点〕」と書いてゐる。(傍點は著者)「許曾己曾《こぞこそ》之句」云々は、この「こぞこそ」の句の部分が、「妹に」と長くならず、「今夜《こぞ》こそは安く膚觸れ」又は「きぞこそ安く膚解れ」となつてゐることを意味するのであらう。何故「琴歌譜」のものだけが特に斯く紀記の所載と異つたかは重要な點であつて、後に考察したい。「琴歌譜」はこの歌をやはり「茲良宜歌」と呼んでゐるし、またその寫音法は一音一字の「阿志比支乃《あしびきの》」といふ樣式によつて居り、その音數には疑問を挿めない。また「琴歌譜」ではこの歌を木梨の輕の太子の御歌だとは書いてゐるが、なほ細註を以て「古歌抄」といふ書を引用し、允恭天皇が衣通姫の王と寝ね給ふ時の御製だといふ一説を書いてゐる。
 この「志良宜歌」は、既に記した如く、從來は「シラゲウタ」と訓まれてゐた。記の中では宜をギと訓む例がなく、常にそれをゲと訓んで來たからである。併し右の志良宜歌の形式が新羅の郷歌の形式と全く一致する以上は、志良宜歌はシラギウタ即ち新羅歌と訓まれなければならないが、古事記の中でただここの一箇所だけをギと訓むのはなぜであるか。この理由も後に考へて見なければならない。これをシラゲ歌と訓むならば、その意味は何であるか。從來はこれを後擧歌《しりあげうた》の約まつたものと考へて疑はなかつた。宣長は「古事記傳」(三十六卷)の中で次のやうに書いてゐる。
   「志良宜歌《しらげうた》は後擧歌《しりあげうた》を切《つづ》めたる名なり。掻上《かきあげ》を、加々宜《かかげ》、指上《さしあげ》を佐々宜《ささげ》、持上《もちあげ》を母多宜《もたげ》な(321)ど云に同じ。神樂歌の譜に一|前張《さいばり》云々、各|尻上《しりあげ》、また次に薦枕靜歌云々、尻上《しりあげ》、また尻擧《しりあげ》は、三度拍子|乎《を》用留《ふる》、即榊乃|音振《ねぶり》也、などあり。なほ夷振之上歌《ひなぶりのあげうた》の下《ところ》と考へ合すべし。」(註一)
 神樂歌の尻上《しりあげ》を引いたところは流石に宣長の博識を示したものであるし、また記の同じ場所に並んで記された幾つかの歌に、夷振の上歌《あげうた》とか夷振の片下《かたおろし》とか名付けられてゐるに對しても、尻上歌と訓んだことには道理があつた。併し「持ち上げ」を「もたげ」、「指し上げ」を「ささげ」と約めると同樣に、「しりあげ」を「しらげ」と約めることは自然であるか。我々は斯うした使ひ方を他に知らないし、またこれに類似した使ひ方をも他では見てゐない。隨つてこの訓み方は、他に方法のつかなかつたための牽強であるとしか考へられない。また神樂の譜の用ひ方に「尻上」と使つてあつたとしても、獨立に尻上歌と歌名にまで使ふことが出來るか、それも疑問であらう。それらすべてを併せ考へ、私はこの場合尻上歌の約とする考へに賛成し得ない。郷歌の形式と比較した結果これを新羅歌《しらぎうた》と訓じたとすれば、すべての困難は釋然として解け、しかもその論據は確實であつて疑へないのである。
  (註一) 高野辰之博士編「日本歌謠集成」卷一に収められた「古事記歌通釋」も同一の説を取つてゐる。吉岡徳明はここでは宣長の解をそのままに引用してゐる。
 
(322)     三
 
 我々は最初に新羅の所謂郷歌の歌形の如何なるものであるかを分析し、次にこの歌形の發達を尋ね、最後にこの歌形が我國へ輸入せられて我國の歌謠となり得ることの可能性及び經過を考察して見なければならない。
 (ニ) 新羅の郷歌の形式的研究〔十一字右○〕。
  (1) 郷歌とは何か〔六字傍点〕。
 新羅には極めて古くから郷歌と呼ばれる歌謠があつた。この郷歌が原形の儘で記載せられてゐるのは朝鮮の「三國遺事」と「釋均如傳」とである。「三國遺事」は「三國史記」(高麗の金富軾が撰して西紀一一四三年に仁宗に上つたものである。)と共に朝鮮の古代史を究めるに必ず缺くことの出來ない史書であるが、高麗鱗角寺の修一然(西紀一二〇六――八九年、鎌倉時代の人)の撰したものであるから、新羅當時に謠はれた歌謠がそのまま變形せられずに記載せられてゐるかどうかは問題であらう。またこの書の古本の傳はるものは稀れであり、僅かに傳はるものは奪葉が多くて、嚴密なる對校を經たにしてもなほ原本の趣きをどれだけ傳へてゐるか凝はしいのである。しかもこの書に記載せられた郷歌は、所謂吏道を以て記してあるため、歌謠の部分の文字(323)には殊更に誤謬の多いものと最初から予想してゐなければらない。併しこの書は餘程古い時代からの郷歌を記載してゐるし、その郷歌の年代は恰も我國の記紀歌謠に匹敵するが故に、我々に取つては大いなる價値を持つた資料となるのである。次に「釋均如傳」は「三國遺事」よりも早く、王氏高麗初期に撰述せられ、僧均如の作つた郷歌十一首を收めてゐるけれども、僧均如は元來西紀九七三年即ち我が圓融帝の天延元年に卒した人であるから、既に我が藤原時代に相當し、郷歌制作の時代としては「三國遺事」のそれよりも下ることとなる。併しこの郷歌は幸ひそれの譯詩を合せ記してゐる。逐語譯ではなく漢詩は漢詩で獨立し、七言八句を以て成る故、この漢詩により直接に郷歌の意を解することは不可能であるが、なほ郷歌を解讀する第一の鍵はこの書に記載せられた郷歌とそれの譯詩であると言はなければなるまい。歌謠の形式は「三國遺事」のそれよりも「均如傳」のそれの方が、疑念の少ない仕方で書かれてゐる。但し四句體郷歌はその中に求められない。
 「郷歌」といふは漢詩に對した語であつて、我國でうたを「和歌」といふに同じい。即ち新羅語を以つて謠つた歌謠のことである。單に「歌」といつた場合も概ねこの郷歌を意味し、漢詩はこれを歌と呼ばなかつたやうである。(註一)文學文章といへば漢詩漢文を意味したから、自國語は郷語、自國語の歌謠は郷歌といつて遜抑したのである。「均如傳」には「十一首之郷歌」と書いてゐるが、また「彼土(支那のこと)之鴻儒碩徳莫解郷謠」と書いて、「郷謠」といつたところ(324)もある。併し「憑托之一源兩派、詩歌之同體異名」とか「眞草並行」とか書いてゐるから、詩と歌と互ひに平行した文學であるとは考へてゐたものであらう。「三國遺事」では、卷五、月明師の記事のところで「雖用郷歌可也」「作郷歌祭之」と書いて、十句體の歌謠を掲げてゐる。また「羅人郷歌を尚ぶもの尚し。蓋し詩頌の類か。故に往々能く天地を動かし鬼神を感ぜしむるもの一に非ず」と書いてゐて、(古今集序に似た思想を持つのも面白い。) 新羅國人の郷歌を見る目は我が國人の和歌を見るそれと餘程よく類似してゐたことが知られるのである。卷五、永才賊に逢ふ記事のところでも「釋永才は性滑稽にして物に累はされず。郷歌を善くす」と記し、その例として十句體歌を掲げてゐる。併し四句體の郷語歌謠も亦郷歌と呼ばれてゐたのである。これに就いては後に述べる。
  (註一) 「樂學軌範」の序中に成※[人偏+見]はいふ。「我國の樂に三あり。雅といひ唐といひ郷といふ。祭祀に用ひらるるものあり、朝會宴會に奏するものあり、郷黨俚語に習はすものあり。」 雅樂唐樂郷樂の中で郷樂を抑損してゐることが分かる。「芝峰類説」卷十四にいふ。「我國の歌詞は雜ふるに方言を以てす。故に中朝の樂府と比並する能はず。近世宋純鄭※[さんずい+徹の旁]の作るとこるの如き最もよし。しかも口頭に膾炙するに過ぎずして止む。惜しい哉。」やはり漢詩の價値を自國の歌謠のそれよりも高く見てゐる。魚叔權が「稗官雜記」二に於て、「歌は永言なリ、聲の清濁高下、井井條理あり混ずべからず」といひ、支那の詩と比較して「聲音の相通ぜざる豈に愧となすに足らんや」といつてゐるのは一見識である。
 
(325)       四
 
 (2) 吏道的表現と萬葉的表現とに就いて〔十六字傍点〕。
 郷歌又は郷謠は、「三國遺事」及び「釋均如傳」の中に所謂吏道《りと》を以て記された。(註一)吏道はまた吏吐、吏讀と書く。漢字の音訓を借りて朝鮮語を寫したものを言ひ、我國の萬葉假字とその樣式に於いて全く同一のことをなしてゐる。或る場所では朝鮮語をそのまま漢字の借音のみで記してゐるが、他の場所では漢語を記し朝鮮語を以て訓ませてゐることも、萬葉集と同一である。例へば萬葉では、
   志保不尼乃《しほぶねの》、弊古祖志良奈美《へこそしらなみ》、爾政志久母《にはしくも》、於不世他麻保加《おふせたまほか》、於母波弊奈久簡《おもはへなくに》 (卷二十)
と書いてゐる他方では、
  夜乎寒三《よをさむみ》、朝戸乎開《あさとをひらき》、出見者《いでみれば》、庭毛薄太良爾《にはもはだらに》、三雪落有《みゆきふりたり》。(卷十)
と書いてゐるが、同樣のことが郷歌にある。
   去隱春皆理米、毛冬居叱沙哭屋戸以憂音、阿冬音乃叱好支賜烏隱、兒史年數就音堕支行齊、目煙廻於尸七史伊衣、逢烏支惡知作乎下是、郎也慕理尸心未、行乎尸道尸、蓬次叱巷中宿尸夜音有叱下是。(「三國遺事」卷二)(註二)
(326) (註一) 魚叔權の「稗官雜記」四によると、大明律は吏文文字を用ひてその意味を解するに困難であつたから洪武二十八年(朝鮮太祖四年、西紀一三九五年)鄭道元等は薛聰の作つた吏讀を以て逐條翻譯した。名づけて直解大明律といつた。令書局印出して凡そ三吉八十八件あつたが後散亡した。叔擢の家にはその一件が家藏せられてゐたと記してある。然らばこの頃には吏道の書き方に多少固定せられた法則が傳へられてゐたものであらうか。或はまた新羅のそれとは全く違つた使ひ方をしてゐたものであらうか。東天※[車+各]の「五山説林草藁」などに吏道文字を以て書いてあるのを見ると萬葉の樣な書き方でなくて宣命の樣な書き方であり、漢語以外の郷語は宣命の如くわきへ寄せて小さく書いてある。昔の吏道も亦宣命風の書き方ではなかつたか。或はまた宣命風の書き方は吏道の後に發達したものであるか。
 (註二) 吏道を以て記された郷歌の原文には句讀點がなく、一字を空にして隔ててある。又全然隔てのないものもある。今は便宜上句讀點を加へた。以下すべて同樣である。
 
 この郷歌には少數の漢語が挿入せられてゐるかと思ふが、大部分は郷歌をそのまま寫音的に記したものであらう。文字を追うてその昔を解しようと思つても、漢字の意味からは何等の歌意をも推測することが出來ない。然るに、
    禮敬諸佛歌
  心末筆留、慕呂白乎隱、佛禮前衣、拜内乎隱、身萬隱、法界毛叱所只至去良、塵塵馬洛佛體叱刹亦、刹刹毎如遨里白乎隱、法界滿賜隱佛體、九世盡良禮爲白齊、歎曰身語意柔無疲(327)厭、此良夫沙毛叱等耶。(「釋均如傳」)
になると、その譯詩
    禮敬諸佛頌 
  以心爲筆盡空王 瞻拜唯應遍十方
  一一塵塵諸佛國 重重刹刹衆尊堂
  見聞自覺多生遠 禮敬寧辭浩劫長
  身體語言衆意業 絶無疲厭此無常
に對照して意味を考へるまでもなく、「佛體」、「法界」、「身語意業」などの字は、漢字をそのまま用ひながら鮮語を以て讀ませたことが分かる。萬葉には「吾者不服《われはきじ》」といふ風に漢文語法をそのまま使つたところもあるが、吏道に於いても「無疲厭」と書いて鮮語風に讀ませてある。寫音的に書いた場所では、一字一綴かと見れば必ずしもさうでない。新羅の第二南解王はまた「次次雄」と稱せられたが、「三國史記」卷一及び「三國遺事」卷一に、「金大問云ふ。次次雄は方言巫を謂ふなり。世人巫を以て鬼神に事へ、祭祀を尚とぶ。故にこれを畏敬し、途に尊長者を稱して慈充といふ」と書いてある。然る時には「次次雄」と「慈充」とは字數に相違があるけれども、同一語の違つた寫音字であるに過ぎない。それ故に寫音字の數を數へて歌語のシラブルの數を數へることは、全然の不可能事だと言はなければならない。
(328) 吏道を以て記された郷歌を訓み且つその意を解すをことは難事中の難事である。併し朝鮮古語の研究は近時著しく盛んになつたから、この難事業に成功するのもさはど遠い將來のことではあるまい。現にその事業が朝鮮語の有力なる專門學者の間に進められてゐることを聞くのは慶賀に堪へない。この解讀の事業はどこまでも方法的に、基礎を固く築いて進められなければなるまい。前間恭作氏はその著「籠語故語箋」の緒言に於いて、
  「朝鮮語の過去を研究するについて、その資材として朝鮮人の祖先が殘した記録は可なり古くからある。吏道といふものが發達して、それで書いたものでも第八世紀の頃にまで遡り得るやうであるが、彼等が諺文を有たなかつた時代の資料はその取扱が容易でない。漢字を借りてて書かれたものであるから、當時の語の通りに音字になほすといふだけに一廉の研究を待たぬばならぬ。それは借りた文字はその原義なり原音なりに必しも拘束せられてゐないから、今之を讀むといふのに、その字義字音の如何は寧ろ第二義的になり、主として現代の口語なり又は諺文で殘された語との間の一致、乃至は轉訛の干係をたどつてその實態を闡明するといふことになるからである。であるから私はこの研究には諺文で殘された語といふものについて今一段の考察が必要で之れが盡されて後に漢字で殘された資料の處理に移るといふのが研究の順序であり、斯くして得た結果でなければ上代の朝鮮語に對に對する解説又は論議は独斷に陷り正鵠を得ないものになると思ふ。この點よりして語原につ(329)いて從來學者の間に行はれた種々の論斷を私はいつも甚だ物足りなく感じてゐる。」
といつて居られるが、吏道文學解讀の事業が正しい方法を以てはいかに困難のことであるかは、この文によつても知るを得よう。なほこの郷歌の吏道文字を訓まうとすると、一つの重要な先決問題が前に横はる。それは郷歌の歌形の如何なるものであるかを先づ知らなげればならぬことだ。萬葉を訓んだ人は、例へば萬葉の短歌が五七五七七、合計三十一音の典型的形式を持つことを知つてゐたから、その歌形に合せて適宜に漢字を訓み得たが、郷歌の歌形が分らなかつたとすれば、我々は何を標準にしてその漢字を訓み、歌詞を整へて行くことが出來るか。然るに郷歌の歌形なるものが、第一に我々には分つてゐない。郷歌の訓讀には、ここに二重の負擔が加ヘられてゐるといへる。これらの困難を打破して朝鮮語學者の大いなる努力の酬いられる日が速かに來ることを、私は希願するものである。現代の朝鮮語に就いてさへ何等の纏まつた知識を持たない私は、吏道文學の内容を解讀することを全然斷念し、その解讀を離れてもなほ且つ科學的に誤らない研究方法を取つて郷歌の研究を進めて行きたい。
 
    五
 
 吏道の表現法を創始したものは神文王の時の碩學薛聰(註)であつたと言はれてゐるが、これ(330)に就いては確實なる證據が殘つてゐない。ただ神文王の時代には學問大いに興隆し、吏道文學を生むに最も都合のよい環境を形成せしめてゐたし、また當時これを創始するものがあつたとすれば、それは薛聰のやうな碩學でなければならぬから、吏道の創始者を彼であるといふは全然の想像であるとも言へない。併し要するに片假字の創始者を吉備眞備、平假字の創始者を僧空海であるといふに類する推測であることを免れない。私は吏道の創始は寧ろ神文王以前であつたらうと考へてゐる。抑々吏道が創始せられるには、次の如き二の事情が豫じめ存しなげればなるまい。
 1. 人名地名等の國語的なるものを、漢字を借りて寫音的に表現することが先づ起る。
 2.漢文を支那的發音を以て棒讀みせず、國譜的に飜譯しつつ讀むことが起る。
 これら二の事情が先づ起つたとすれば、その事情を結合せしめ、漢文を國語的に飜譯しつつ讀み、漢文にない國語の發音を寫音文字によつて補ふところの吏道の表現法は自然に生起しなければならないのである。
  (註一) 「新羅の文今に傳はるもの絶無、ただ元曉薛聰著はすところ一二篇のみ。予嘗つて新羅獻唐織錦五首古詩、高句麗乙支文徳贈于仲文五言四句を見るに皆な精到、當時能文の士多からずとせず。今に傳はるところ萬に一、惜しい哉。」徐居正著「筆苑雜記」卷一。
 然るに第一の事情は新羅眞興王の時代に既に起つてゐることが分かる。眞興王巡境碑と稱するものは現に三種あり、それらは昌寧碑(慶尚南道寧邑)北漢山碑(京城の北、北漢山碑峰)黄草(331)嶺碑(咸鏡南道咸鏡郡下岐川面松堂里)と稱せられてゐる。(この中黄草嶺碑に就いては疑問がかけられてゐる。)昌寧碑は眞興王二十二年(西紀五六一年)、北漢山碑は同二十九年(西紀五六八年)以後、黄草嶺碑も亦ほぼ北漢山碑と同時頃に建設せられたものと推定せられてゐるが、それらでは複雜なる人名が寫音的に記されてゐる。法興王眞興王の時代は新羅の國威も大いに揚り、法興王の十五年即ち我が繼體帝の二十二年(西紀五二八年)には佛法初めて新羅に行はれたし、眞興王の六年(欽明帝の六年、西紀五四五年)には初めて國史が撰せられた。眞興王の時代は恰も我が欽明帝の時代であり、百済の聖明王が初めて我國へ佛像と佛經とを献じた欽明帝十三年(西紀五五二年)は眞興王の十三年にあたるのである。我國でもその頃から佛教大いに興隆し諸大寺は續々として造建せられたが、それと全く同じいことが新羅に於いても見られた。熱心に支那の文化を吸收して自國の文化の程度を劃時代的に高めたのが奈良朝時代の努力であつたとすれば、新羅に於いても爾來數世紀の努力が全くそれであつたと言へるのである。我國に現に存する年代の明らかな金石文としては、法隆寺献納御物如意輪觀音像があり、その臺座框縁※[金+雋]銘の歳次丙寅年を推古帝の十四年と推測するならば我國最古の金石文の一つであることになるが、それには人名に「阿麻古」の如き寫音的表現と「高屋」の如き寫訓的表現が見える。また法隆寺金堂の薬師如來像光背の※[金+雋]銘には「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」云々と書いて明らかに吏道的の初歩表現法が見えてゐる。この佛像の「歳時丁卯年仕奉」の丁卯年は推古帝の十五年(332)(西紀六〇七年)であるから、我國では萬葉的表現の初歩的なるものは既に七世紀の初めに現はれてゐるといへよう。和歌山縣隅田八幡宮所藏鏡の銘文にある癸未の年はその年代を精確に推定するを得ないが、從來現はれた學説の中で、その年代を最もおそく考定するものに於いてさへ欽明朝以後に下るとせられず、それには「意柴沙加宮」の如き寫音的表現が見えるから、寫音的表現に到つては少なくも六世紀の中頃には明らかに現はれてゐるのである。朝鮮に於いても寫音的に人名地名などを表現する位のことならば、四五世紀頃まで遡つて不當のものだとは言はれまい。(註二)
  (註二) 我國で漢文が初めて讀まれまた書かれた年代は何時頃であるか精確には諭證し難い。併し支那の鑑鏡の我國へ輸入せられたのは餘程古い時であつたと見え、「本邦各地の上代遺蹟より出土する古鏡は、何れも支那の漢代より六朝に亙る時代の形式にして、それらの多數が圖樣、銘文等より見て彼地より舶載せられしものなること」(富岡謙藏氏著「古鏡の研究」三四三頁)が證明せられる以上は、この鑑鏡の銘文として漢文が極めて古くから輸入せられてゐたことだけは明らかである。なほ富岡氏によれば、「遣物よりすれば支那漢末三國に於ける我が文化の中心は大和にあり、支那文化の直接の影響を受けて或種の文化を形成し、六朝代に入りて地方に傳播せるものなることを見るべし」(同氏著四一二頁)とある○斯く當時に於いて大和文化が直接に支那文化の影響を受けた以上は、漢文を讀み且つ書くことも餘程古くから可能であつたと思ふ。併し眞に我國で漢文を創作したことの證せられる遺物として最も古いものは、和歌山縣隅田八幡宮に藏せられる鏡である。この鏡は支那の尚方獣文縁畫象鏡の内區の圖(333)樣を模作した一種の畫象鏡であるが、その周縁には、「癸未年八月日十六王年口弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」の銘文がある。早く既に「紀州名所図絵」に載せられたが、廣く學界に知られたのは大正三年であつて、爾來學界では熱心にそれの年代考定の試みが行はれた。この鏡の原型は魏晋以後のものと推定せられ、隨つてこの鏡の年代の上限はそれ以前に遡るを得ない。富岡氏は、第一にその銘句が支那當時の文體でなく且つ穢族の名の記されたことにより著しく朝鮮風のものなること、第二に意紫沙加宮が押坂彦人大兄皇子に對比せられること、第三に、原型の畫象鏡が魏晋以前に遡り得ないことを根據として、その年代を雄略朝以後と推定し、内藤博士の雄略朝以後恐らくは欽明朝となす説と一致せしめられた。右の銘文は純粹の漢文ではあるが、何處かに和臭のあることは蔽ひ難いし、又寫音的表現の見えることが注意せらるべきである。恐らくは法隆寺献納御物如意輪觀音像臺座銘の漢文よりは古いものであらう。右の鏡は我國漢文學史の最初に來るべき確實の資料である。故芳賀失一博士はその遺著「日本漢文學史」に於いて、(大正九年度の講義)「我が國に於ける漢文學の曙光とも見做すべきものは、推古天皇の朝に現はれてゐる」(同書三五頁)と諭ぜられ、資料としては金堂釋迦佛記、(前記の如意輪觀音像のことであらう。「古京遺文」は如意輪觀世音菩薩とし、「造像銘記」亦如意輪觀音としてゐる。併し「造像銘記」も注意してゐる如く、河内國野中寺の同形式の像は弼勒菩薩と銘記してゐるし、その他種々の點を考へ合せて、この像は彌勒菩薩であるとなすが至當である。芳賀博士が金堂釋迦佛とせられたのは何かの思ひ誤まりであらう。金堂釋迦佛の銘記は博士の引用文と異なり、推古帝の三十一年のものである。)法隆寺薬師造像紀、中宮寺天寿國曼荼羅(334)繍帳、伊豫道後温泉碑、(「釋日本記」所載)聖徳太子憲法十七條を擧げてをられる。このうち憲法十七條に就いては、「尤も日本書記を見ると、これより以前に漢文の詔があるけれども、果してこれ以前に出來たかどうかは疑はしい。」「これは純然たる漢文で、實によく出來てゐる」と言つてをられる。併し紀の憲法十七條が原文であるか紀の筆者の翻意譯文であるかは疑問である。狩谷※[木+夜]齋は、「文教温故批考」の中で、山崎美成の記述を駁し、「憲法を聖徳太子の筆なりとおもへるはたがへり。是は日本紀作者の潤色なるべし。日本紀の内、文章作者の全文を載せたるものなければ、十七條も太子の面目ならぬを知るべし。もし憲法を太子の面目とせば、神武天皇の詔をも當時の作文とせんか」と論じてゐられるが、流石に卓見と言はなければなるまい。併し私は憲法の文言思想等を味讀して、やはりこれは紀の筆者の潤色ではなく、大子の執筆せられた原文であると考へてゐる。これには太子の深い御人格がしみじみと現はれてゐるからである。なほ大子の御作と稱せられる「三經義疏」に就いては、考證が長くなるからここに敍説しない。右の諸點を考へ合せて、我國で漢文の創作せられたことは六世紀の中頃に於いては確實であり、なほ五世紀に遡り得るであらうと考へるのである。朝鮮に於ける※[人偏+方]製鏡の古いものは大體に於いて西紀紀元前後一二世紀の頃のものと推定せられるが、(梅原末治氏著「鑑鏡の研究」一二九頁)その銘文には鮮人風の特色を持つたものがまだ發見せられてゐない。併し既に※[人偏+方]製鏡があり、漢の植民地が朝鮮に存在した以上、※[人偏+方]製鏡の銘文に朝鮮的特色を持つものは存在したであらうと考へる。全體として鮮人が漢文を讀み且つ書き得た年代は、我が國人がそれを爲し得た時よりも早かつたであらう。
(335) 次に漢文を國語的に訓讀することは何時頃始まつたかといふに文献としてはやはりそれに薛聰の名が關与してゐる。薛聰以前の新羅の碩學としては、武烈文武二王の時代(西紀七世紀)に強首があつた。薛聰は新羅不覊の僧として有名であつた元曉が戒を失して生んだ子であり、生れて明鋭睿敏、博く經史に通じて新羅十賢の一人と呼ばれたが、朝鮮に於ける儒學興隆の功績は第一に彼に歸すべきものであつたから、高麗朝に至り第一に成均館文廟に從祀せられた。神文王朝即ち我が天武持統朝時代の人である。「三國史記」は「以方言讀九經、訓導後生。至今學者宗之」と書いてゐるし、「三國遺事」は「以方言通會華夷方俗物名、訓解六經文學。至今海東業明經者、傳受不絶」と書いてゐるから、漢文を國語風に訓讀することは彼の創始するものの如くに考へられて來た。新羅惠恭王の十五年、即ち我が光仁帝の寶龜十年に新羅から賀正使として來朝した金蘭孫の隨員薩仲業は即ち薛仲業であり、薛聰の子である。「三國史記」によれば「日本國眞人新羅の使薛判官に贈る詩の序」なるものが世に傳へられ、それには、「嘗つて元曉居士著はすところの金剛三昧論を覧、深く其人を見ざることを恨む。聞く、新羅の使薛は即ち是れ居士の抱孫なりと。その祖を見ずと雖もその孫に遇ふを喜ぶ。乃ち詩を作つて之れを贈る」と書いてあつたといふ。以て新羅の文物が當時手に取る如く我が國人の知る處であつたことの一端を解し得るし、薛聰の一家が不思議にも我國と密接の關係を持つてゐたことをも知るであらう。併し漢文を訓讀することが薛聰即ち我が天武持統朝(西紀七世紀の終)に始まると見るのは少しく遅くあるまい(336)か。我國では正倉院の古經に訓點を附したものがあり、その他にも同樣の例があつて、漢文の訓讀は奈良朝以前より存したと見なければならないし、(青木青兒氏著「支那文藝論叢」中「漢文直讀論」附記、同書五六二―三頁)なほ前記の法隆寺金堂薬師如來像の光背※[金+雋]銘ある以上は、漢文の訓讀は既に七世紀の初めに存したに相違ないのである。然らば新羅に於いてもこの訓讀法は、薛聰以前六世紀から七世紀にかけて既に發明せられてゐたものではあるまいか。
 
     六
 
 吏道發明の前提となる二つの事情は、我國と新羅の何れに於いても右の如くに發達した。これらの事情ある以上、それを基礎として吏道の表現法の考案せられることは一擧手一投足の勞に過ぎない。即ちその順序は次の如きものである。
 1.最初に純漢文がある。
 2.その漢文中に挿入する必要のある人名地名等を漢字を借りて寫す。これには漢字の音を借るものと意味即ち訓を借るものとある。
 3.漢字の意味即ち訓を借りて國語の人名地名等を寫すことを發展せしめ、漢字を國語風に解讀することが起る。
(337) 4. 斯く解讀せられた文章の語の順序に隨つて、國語風の不完全なる漢文を制作する。(例。法隆寺金堂薬師如來像光背鐫銘。)
 5.第四の國語風の不完全漢文に寫音寫訓の助詞、活用語などを補ふ。また漢語の部分を全然廃して、國語をそのまま寫音的寫訓的に表現する。
 右の第五の階段にあるものが普通の吏道であるけれども、なほ第四、第三の階段にあるものも吏道として役立つ。即ち吏道には、第三乃至第五の階段にある表現の文章すべてが屬する。また右は吏道についてだけ言はれることではなく、我國の高葉表現法に於いても亦全く同樣に言はれることであつた。萬葉表現法にはなほそれ以外に表現の遊戯の如きことも行はれてゐるが、その時には人々はこの表現法にも餘程よく習熟したものと見なければならない。
 斯くして吏道發達の前提となる二つの事情が存する以上は、吏道的表現法は直ちに考案せられるに相違ないものである。それゆゑ吏道的表現法は、漢文を輸入した國に於いてその輸入後間もなく考案せられたことであらう。朝鮮に漢文學の輸入せられたのは可なりに古いことであるし、漢式鏡を※[人偏+方]模した鑑鏡の銘に可なりに古い時代の漢文が發見せられる以上は、(梅原末治氏著「鑑鏡の研究」一二○頁參照。但しその漢文は鮮人の作つたものかどうかは疑問である。)漢文を制作することは餘程古くから行はれたかも知れないが、朝鮮に於いて可なり自由に漢文を制作することは先づ略々四世紀頃からであつたと推測すれば、(滿洲奉天省輯安縣に現存する高麗好太王碑は完全に(338)してしかも長文の漢文を以て記してあるが、その好太王の生存年代を四世紀頃と見て、)吏道的表現法も不完全ながら五世紀頃には發明せられてゐたかも知れない。我國では、前記の如く少なくも六世紀にこの表現法は發明せられてゐよう。ここに我國の萬葉的表現法と朝鮮の吏道的表現法との間には、歴史的になんらかの關係がありはしなかつたかといふ疑問が起る。この間題に對し、私は次の如くに考へたい。
 1.漢文は最初鑑鏡等に伴ひ、銘文として我國へ輸入せられたが、我が國人はよくこれを解讀し得なかつたであらう。
 2.純粹に漢文としてのものを我國へ輸入したのは朝鮮人であり、我國へ來朝し又は移住し來つた鮮人及び支那人は、これを解讀することを我が國人に教へた。
 3.我國の歴史的記録は久しくこれらの鮮人等の手によつて記されてゐた。その時地名人名等の國語を寫音的に表現した。このことはあへて朝鮮の發明ではなくて、漢文は元來外國の地名人名等を斯く寫音的に表現してゐた。
 4.漢文を國語風に訓讀する必要は朝鮮と我國とに於いて共に痛切に感ぜられてゐたが、この訓讀法は最初朝鮮に於いて發明せられ、我國への鮮人移入者が我國へこれを傳へたものであらう。但しこのことにはなんらの證據もなく、一の推測である。
 5. 吏道的表現法も、隨つて略々同時に朝鮮より我國へ傳へられた。但しこれも推測である。
(339) 6. 吏道的表現法の簡單なるものは朝鮮より我國へ傳へられたが、それの複雜なる発達は兩者に於いて全く別々に起った。このことは、萬葉に使用せられた漢字と郷歌に使用せられたそれとを對照比較した結果明らかにせられる。兩者の使用する寫音漢字は大體に於いて違つてゐる。
 吏道と萬葉の表現が右の如き關係を持つてゐたと推測することは、甚だしく不自然のものであるまいと私は考へるのである。斯くして吏道的表現と萬葉的表現とは、大體五六世紀頃に發達し始めたが、その最も自由に且つ頻繁に使用せられたのは、朝鮮に於いては薛聰の頃即ち七世紀の後半であつたらう。當時の新羅は熱心に唐の文化を模倣し、これに追隨しようと努めたが、同時に國民の間には國民的自覺も強く現はれてゐた。それゆゑ薛聰の如きは、漢文を自國の文化に化するために盛んにこれを訓讀してゐたものであらう。その父元曉は及び難い華嚴の達者であつたけれども、郷歌を以て民衆の教化に努めた人であり、その性格に國民的色彩が強い。當時の我國は天武持統朝であつて、その文化的事情はまた全く新羅のそれと同一であつた。天智朝漢文學隆昌の後を承けて、天武持続朝は同時に國語的自覚の起きてゐた時代である。人麿等の卓越した歌人がこの時に活躍したし、萬葉的表現も亦その時代に自由且つ頻繁に使用せられてゐたであらう。併しこの時代には、前記の如く吏道と萬葉文字とはそれぞれ別個の發達をなしてゐたものと考へられる。郷歌が萬葉の表現に類する吏道によつて表現せられてゐるから我國の萬葉集は郷歌の表現を見それを模倣したものであらうと推測するならば、それは推測の自然の順序を誤つたもので(340)あると私は思ふのである。
 
    七
 
 (3) 郷歌の歌形を研究する方法に就いて〔十六字傍点〕。
 さて我々は愈々新羅の郷歌の歌形を研究しなければならなくなつたが、朝鮮文學史研究朝鮮古語研究が漸くその緒に就いたばかりの今日に於いてそれをなすことのいかに困難であるかは、勿論想像外である。郷歌の歌形を研究することは直ちに朝鮮上代歌謠史を研究する問題に觸れるから、私はその間題をまで含めて一般に朝鮮上代歌謠の研究方法として次の順序が取られなければならぬことを主張しようと思ふ。
 1.先づ諺文によつて記された文學を研究して、諺文に現はれた限りの古い言語の意味を探索しなければならない。このことの必要は、先きに前間氏の論を引用したところでも知られよう。朝鮮では、諺文によつて記された文學でさへも、少し古くなればその意味を解するに困難となる。
 2.諺文と漢字とをまじへ記した古い文學がある。我國の漢字まじりの文章、即ち我々が今斯く書いてゐる文章がそれに比較せられよう。朝鮮では斯うした古い文學としてはたとへば「龍飛御天歌」がある。この「龍飛御天歌」の如きに就いて、漢字を以て記した言語が朝鮮語で何と訓(341)まれたかを調べる必要がある。例を我が万葉に取れば、「籠」とあるを「こ」と訓み、「蜻島」とあるを「あきつしま」と訓むが如きである。このことは必ずしも不可能の仕事ではない。萬葉を訓んだ人はみなその苦心をしたのであつた。この研究によつて、漢字の郷訓がはつきりして來る。但しこの場合には、その歌の歌形が如何なるものであるかを豫じめ定める必要があらう。例へば萬葉では「蜻島」とあるを五音で訓むことが分つてゐるから、これを「あきつしま」と訓む。何音で訓んだかを豫じめ定め得なければ、「あきしま」「あきつのしま」「あきつのみしま」などいろいろに訓むことが出來よう。「龍飛御天歌」の歌形が、八、八、四、六、八、八、四、六の歌形を持つことをさへ知れば、それに合せて歌詞を訓讀することが出來る。併し漢字と諺文とが混合して書かれた「龍飛御天歌」の歌形を豫じめどうして知ることが出來るか。ここでもまた歌形研究の困難なる問題が提出せられる。
 3.漢字と諺文とをまじへた歌謠を正しく訓むことが出來た時に、初めて吏道によつて記された歌謠の訓讀に着手する。漢語を朝鮮語でいかに訓むかは、前の第二段の研究を基礎として決定せられることである。そしてこの場合にも先づ歌形を知り、その歌形に合せて適當の語を選擇しなければならない。歌形が定まらなけれぼ、語の選擇は獨斷的となり、或る場合には訓讀の方針を全く立て得ないからである。また歌形に合せて適當の言語を選擇する時には、その選擇方法は十分實證的でなげればならない。碓澄が「萬葉集古義」に於いてなしたやうな方法は、勿論この(342)場合にも嚴密に取られなければならない。
 斯くして我々は吏道を以て記した朝鮮上代歌謠を研究するに、何としてもその先決問題として歌形を決定しなげればならなくなる。歌形が定まらなければ、殆ど研究の端初をさへ得難いと言つて過言ではない。然らば我々はその歌形を定めるに何等か科學的なる方法を見出し得ないものであるか。私はそれに就いて種々考案してゐたが、結局次の如き方法を取ることにより略々誤まるところなく目的を達し得ることを知つた。この歌形研究方法は、本書に於ける私の研究に全部の基礎をなす最も重要のものである。
 1.第一に現在の民謠に就いてそれの歌形を知らなければならない。またそれの韻律をも知らなければならない。これを我國に例示すれば、都々一の歌形が七、七、七、五の韻律によつて構成せられるものであつたとすれば、この歌形にはよつて來る何等かの源泉があつた筈であり、七音五音の韻律にも何等かの原型の存在することを豫しなければならない。歌謠の韻律は甚だ保守的のものであるから、現に行はれてゐる韻律には何等かの母型が存在するに相違なく、突然新らしい歌形と韻律とが非歴史的に出現することは先づないものである。
  結論を方法論と一緒に書くことは實際は科學的でないが、讀むものの理解の便宜上その結論を併せ記すとすれば、朝鮮現在の民謠の大部分は四句體歌十句體歌であり、その韻律は概ね四四調八音を一句としてゐる。
(343) 2. 第二に、漢字と諺文とをまじへ記した歌謡の歌形を定める。その材料としては、斯うした文學の中の最古のもの「龍飛御天歌」を取つた。「龍飛御天歌」は漢譯詩を併記してゐるから、すべて對照に便利である。この歌の歌形が八句體歌であることには、疑念の餘地がない。さて私は、その八句體歌の各句の長短及び韻律を調べるために、
 (イ)漢字と諺文とを併せての字數が各句に就いて何程であるかを調べそれの平均を取る。そして字數の多い句は、歌謠の實際の言葉に直されてもやはり長い句であると考へた。このことは萬葉に就いて方法論的に得た結論を應用したものであるが、方法論としては重要のものであるから後に詳論する。斯くして各句の長短の比率が定められた。
 (ロ)次に漢字をまじへず單に諺文のみを以て記した句の各字數を調べ、それの平均數を得る。それによつても各句の長短の比率を知る。この結果がり(イ)の結果と一致すれば、我々の方法論の確實さが證明せられる。
 (ハ)この(ロ)の結果は、また直ちに各句の實際の音數を示すこととなる。何故なればそれには漢字が一つも含まれてゐないからである。併し如何なる音數が最も多く現はれるかを檢した方が、平均數より精確であるともいへるから、この頻出度數を調べて、平均數より得た結果を訂正する。
 (ニ)諺文のみを以て成る句の諺文字數により各句の實際の音數を知れば、この結果が先きに漢字をまじへた句について句の長短を定めた結果と、比率的に一致するかを檢する。
(344) 右の如くにして彼此對照しつつ統計的結果を解讀して行けば、「龍飛御天歌」の各句の長短並びにその韻律は知られて來る。
  結果をいふ。「龍飛御天歌」は八句體歌であつて八、八、四、六、八、八、四、六の韻律を持つてゐる。
 3.最後に愈々「釋均如傳」と「三國遺事」の中の郷歌を研究する。先づ句數を定めなければならないが、郷歌も原本では大體に句切りせられてゐるから、如何なる句切りが最も多く行はれてゐるかを見る。調査の結果我々は、四句體と十句體歌との二種類が存在し、その他には二句體と見られ得るものの存する以外に、何等特殊の歌形のないことを知つた。そして一句の字數の特別に長いものは、二句の句切れが消滅し、二句の合體したものと見ることが出來る。
 4.各句の長短及びその韻律を知るには、先きに萬葉集に就いてそれの確實性の證明せられた字數計算法を取ることとする。併し四句體歌は歌數が少なくてこの大數計算の方法を適用するに便でないから、他の方法を併せ取ることとするが、その方法は後に四句體歌を論ずる時に別々に記さう。
 次に十句體歌に就いて言へば、「三國遺事」のものは句切れの湮滅したものが多いから、それの殆ど湮滅しない「釋均如傳」のものを先きに取ることとする。尤も「均如傳」の歌は「三國遺事」の歌よりも時代の新らしいものであることが忘れられてならない。この字數計算法によつて(345)各句の長短の比率を知る。
 5. 郷歌の韻律を精確に知る方法は全くない。併し既に我々は民謡及び「龍飛御天歌」によつて、その偶數句に四四調八音の長句のあることを知つてゐるから、郷歌の偶數句であつて同時に長句であるものも亦四四調八音であらうと推測することが出來る。この推測は決して獨斷でないと私は思ふ。さて郷歌の偶數長句を四四調八音だと決定すれば、4によつて得た各句の長短の比率數にこれを對照して、各句の實際の韻律を計算することが出來る。
  結果をいへば、「均如傳」の十句體郷歌は四、八、六、八、八、八、六、八、六、八の韻律を持つてゐる。
 大體に於いて私は右の方法を取り、科學的に郷歌の歌形を決定することが出來た。その細密なることに就いては、それぞれの場所で述べることにしよう。
 
    八
 
 私の方法の中で重要のことは、漢字と諺文とをまじへて書いたもの及び吏道を以て書いたものに就き、その字數を計算して、字數の多寡により句の長短を定めたことである。また更に進んでは、この方法によつて得られた各句の長短の比率を各句の實際の長さの比率と大體に一致するも(346)のと見て、その中の或る一句の音數を決定すれば、この比率を適用し他の語句の實際の音數をも計算し得るとしたことである。斯樣の方法は正當のものであるか。
 この方法の確實性は萬葉集の各句の字數に右の方法を適用して、その結果得たところを檢算することにより全く的確に證明せられた。即ち少なくも萬葉集によつて調査せられた結果では、字數の多寡は、大數計算をなせば、句の長短に一致する。またこの字數の長さの比率は、これも大數計算をなせば、句の實際の長さの比率に一致する。それ故私の取つた方法は、借りに萬葉の歌形の知れない場合、(但し各句の句切れが分つてゐたとして)これに適用して完全にそれの歌形を知り得るのである。勿論その方法は、單に一首か二首の上に適用しては有効でない。今萬葉の中から任意に二三の短歌を引用する。
  蓬莱邊《とこよべに》、可住物乎《すむべきものを》、剱刀《つるぎたち》、己之心柄《ながこころから》、於曾他是君《おそやこのきみ》(卷九)
 
  於布之毛等《おふしもと》、許乃母登夜麻乃《このもとやまの》、麻之波爾毛《ましばにも》、能良奴伊毛我名《のらぬいもがな》、可多爾伊※[氏/一]牟可母《かたにいでむかも》。(卷十四)
 その字數は、
   三、四、二、四、五。
   五、七、五、七、八。
であつて、大體
(347)   短、長、短、長、長。
になつてゐることが分る。この形のものは最も多い。が、また
  野干玉之《ぬばたまの》、夜度雁者《よわたもかりは》、鬱《おぽほしく》、幾夜乎歴而鹿《いくよをへてか》、己名乎告《おのがなをのる》。(卷十)
  泉河《いづみがは》、渡瀬深見《わたりせふかみ》、我世古我《わがせこが》、旅行衣《たびゆきごろも》、裳沾鴨《ひづちなむかも》。(卷十三)
の如きものも珍らしくなく、その字數は
   四、四、一、六、四。
   二、四、四、三、三。
といふ風になつて、句の長短を判斷するに困難のものや實際の歌の音數の逆になつたものもある。さうした歌の數も決して少ないものでない。併し統計的に平均を取る大數計算をなせば、やはりその結果は、
   短、長、短、長、長。
となつて、短長の音數の
   五、七、五、七、七。
をよく反映せしめる。萬葉全卷の實例を掲げることは煩瑣になるから、その第一卷と第二卷との短歌に就いて調査した結果を今次に記載して行かう。
 萬葉集卷一の短歌の中でその訓み方の曖昧な一首を除き、殘餘全部の短歌の各句の字數を計算(348)する。さてその十首づつを一組にして平均數を求めて見ると、結果は次の如くになる。(最後のものは十首に不足し六首の平均)
  「萬葉集」卷一短歌平均字數表(十首づつ一組にして平均)
 
組番號 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句 組番號 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句
 1  三・五 四・八 三・五 五・一 五・一  5   三・一 四・七 三・一 四・四 五・一
 2  三・三 四・六 三・九 四・七 五・二  6   三・一 四・九 三・〇 三・九 五・二
 3  三・四 五・二 三・三 四・六 五・一  7   二・八 五・三 三・〇 五・〇 五・二
 4  三・三 四・一 三・二 五・一 四・九  平均  三・二 四・八 三・三 四・七 五・一
 
 この最後の平均は全歌數を以て全字數を除した平均である。この統計結果を見るに、十首づつの各組平均に就き、第一句第三句が短かく第二句第四句第五句が長いことは明確に現はれ、一の例外的場合を示さない〔十二字傍点〕。なほ全體の平均を見れば、そのことは一層確實に現はれてゐて、短句は短句に、長句は長句にその長さを殆ど匹敵せしめる。次に同樣の方法を萬葉集卷二の全短歌の上に適用した。(最後の組は七首の平均)
(349)    「萬葉集」卷二短歌平均字數表(十首づつ一組)
 
組番號 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句 組番號 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句
 1  三・〇 四・七 三・〇 五・〇 五・三  8   三・二 四・六 二・八 四・一 四・四
 2  二・八 四・七 三・三 四・一 四・八  9   二・九 五・一 二・九 四・七 四・一
 3  三・一 五・〇 三・六 四・三 四・五  10   三・四 五・〇 三・〇 四・四 四・七
 4  三・一 四・九 三・三 四・一 五・三  11   三・四 四・九 二・八 四・五 四・六
 5  三・三 四・四 三・一 四・二 四・七  12   三・〇 四・九 二・九 四・四 四・四
 6  三・二 四・四 三・〇 四・八 四・五  平均  三・一 四・八 三・一 四・五 四・七
 7  三・一 四・八 三・二 五・〇 四・五 
 
 即ち第二卷の調査の結果を見ても、一の例外なしに〔七字傍点〕、各句の字數平均はその句の長短を示した。のみならずこの短句長句の字數表を見れば、その歌が自由詩でなくて定型詩である限りは、第一句の長さは第三句に等しく、第二句の長さは第五句第六句に等しいことを、何の疑念もなしに我我は主張し得るであらう。併し第一句第三句を第二句第五句第六句の何れかと同長に見ようとしても、表はれてゐる數が格段に相違するからそのことは可能でない。
 第一卷と第二卷とによつて得た右の結果につき、短句と長句との平均字數を求めれば次のやうになる。
(350) 第一卷 短句 三・二五   第二卷 短句 三・一〇
        長句 四・八七       長句 四・六七
 これは短歌の短句と長句との字數に於ける比率〔八字傍点〕である。然らばこの比率はまた短歌の實際の音數の比率〔五字傍点〕即ち五對七に一致してゐるであらうか。今短句の比率を五音に對應するものと假定して長句の比率に對應する音數を求めて見る。
      3.25字:4.87字=5音:X音
      3.10字:4.67字=5音:X音
 その計算の結果は、第一卷も第二卷も全く同じく七・五字となつた。即ち實際の七音よりもやや長い數字を得たが、大體の數字に於いては誤つてゐない。それ故右の數字表を基礎とし、その中の何れか一句の實際の音數を知れば、比率計算によつて他の句の實際の音數を推測することは、略々成し果される〔八字傍点〕と斷言し得るのである。
 私の取つた方法の確實性はいま全く證明せられた。私はなほさうした方法の確實なことを「龍飛御天歌」の調査の結果に於いても得たが、そのことは後に述べよう。(註一)
  (註一) 以上「萬葉集」に就いての調査は、底本を有朋堂文庫本に取つた。句切れを早く見得る便宜があつたからである。斯樣の統計では如何に不完全な底本を取つても差支へなく、底本が不完全なれば不完全なだけ却つて結果は面白い。斯く不完全であつても、大數計算をなせばやはり眞實に近い姿の得られることが證明せられるからである。
 
       九
 
 (4) 郷歌の三種の形式に就いて〔十二字傍点〕。
 郷歌には、大體二句體歌四句體歌及び十句體歌の三種の種別がある。この中でも重要な、また大部分を占めるものは四句體歌と十句體歌とであり、文献に殘された限りでは十句體歌が他に優越して多數である。併し四句體歌は、當時に於いても民謠的には優越であつたことと思ふ。以下順次これらの形式に就いて私は細論を進めたい。
 第一、二句體歌〔四字右△〕。
 二句體よりもなほ簡單な歌形を持つものに次の歌がある。
     智理多都波都波等者。
 この歌は吏道を以て記してあるが、直ちにその後にこの歌の意を釋して、「蓋言以智理國者、知而多逃、都邑將破云謂也」とある。併しこの歌は果して正しく一句體の歌であるか、或は歌の破片の如きものであるか判別出來ないから、郷歌の形式を論ずる中からひとまづ除外するより外に致し方がない。
 吏道を以て記した二句體歌もまた文獻中には一つも存しない。ただ我々が他の事情より推して(352)二句體歌であつたらうと推測し得るものが「三國遺事」卷四に二つある。その一つは僧元曉の次の歌である。
    誰許没柯斧 我斫支天柱。
 この歌に就いては次の如き疑問が浮ぶ。
 1.この歌は、元曉が風顛して街を唱ひ歩いたといふものであるから、正しい意味で歌であるかどうか。單に大聲を以て歌のやうなことを口走つてゐたのではないか。
 2.歌であるとしても既成の曲節を以て謠つたものではなく、元曉が出鱈目の節で勝手に謠ひ歩いたものではないか。隨つて二句體歌なるものが存したとは、この歌を以ては決定出來ないものではないか。
 3.吏道を以て記さず漢詩風に記してある以上、郷歌の曲節もまた二句體であるとは言ひ得ないではないか。
 これらの疑問は何れも當然起るべきものであり、それを確實に否定すべき證據は何處にもない。
併し少なくも次の如くには言へるであらう。
 1. 「三國遺事」には「風顛唱街云」と書いてあるが、「遺事」に「唱」と書いた場合はやはり歌謠であることになつてゐる。卷二「水路夫人」の條に「宜進界内民、作歌唱之〔四字傍点〕、以枚打岸」とあるのは明らかに歌謠である。また元曉は、飄逸なる場合に歌を謠ふ習癖のあつたととは、彼(353)が優人の大瓠を舞弄しその状の瑰奇なるを見て、自らも瓢を作り華嚴經の歌を作つて、千村萬落且つ歌ひ且つ舞ひ、化詠して歸つたといふことに見て明らかであらう。それ故にこの場合の唱はとにかく歌であつたには相違ない。
 2.ただこれが既成の曲節に合したものであつたかどうかは疑問である。風顛して唱ふやうのものは、元曉自身の曲節によつたかも知れない。斯く想像するが寧ろ自然であらう。併し如何なる歌唱も、その國に現に行はれる既成の曲節から全然自由に任意的であることは出來るものでない。任意に謠つたと思つてゐるものが、何時の問にか既成の曲節に據つたものとなつてゐる。それゆゑ元曉の歌によつて想像すれば、新羅の歌は二句を以て單位の意味を現はす風の樣式であつたとは言はれるであらう。元曉はこれを繰り返して歌つたけれども意味は同一であるから、歌謠としては二句だけを記録したかも知れぬ。然る時にはこの時の歌は四句體の曲節であつたとも考へられる。併し何れにせよ、(1)二句體歌なるものが存在したとは確實に證明せられないが、(2)既成の歌の曲節は、二句的に分割せしめられ得るものであつたとは推論せられる。
 3.漢詩風に譯したものが二句であるから郷歌も亦二句であつたとは言へないが、(1)次の四句體の場合に、漢譯詩の四句體なる如くに郷歌は四句體となつてゐるし、(2)「釋均如傳」に漢譯詩が八句體となつてゐるに對し、郷歌は後句を除けば八句體になつてゐる事實を基礎として、漢譯詩の二句體なる場合郷歌も亦二句體であつたらうと推論し得る。
(354) 右の考察により、我々は元曉の謠つたものは二句體の歌であつたとは考へ得るげれども、それを以て直ちに當時二句體の郷歌が存在したとは斷言することが出來ない。ただ既成の曲節は、二句を以て分割することの可能のものであつたとは言へるのである。
 我々はなほ「遺事」卷二に後百済の童謠として次の歌の記されゐるのを見る。
     可憐完山兒 失父涕連洒
 この歌は漢詩風に譯されてはゐるが、原歌はやはり二句體であり、しかもその句の長さは割合に短かかつたものであらう。それゆゑ朝鮮には、風謠風の二句體歌も存在したと言ふことが出來る。元曉はこの二句體歌の曲節によつて唱つたかどうか不明であるが、割合に短かい語句から成つた二句體歌が存在したとは言ひ得るであらう。その歌例の殘つたものが少ないから、これに關し詳しく分析することは不可能である。或は實際はこれを繰り返し謠ふことにより四句體歌の曲節にしてゐたものであるかも知れない。
 
       一〇
 
 第二、四句體歌〔四字右△〕。
 四句體の郷歌の存したことは確實に證據立てられる。「三國遺事」の中には、吏道を以て記し(355)或は漢訳詩として記した歌に四句體であると推論せられるものが幾つかある。
 一、景徳王の十九年、二日竝現し旬を挟んで滅しなかつたから、月明師を招いて散花をなし、その功徳によつて災を攘はうとした。壇を開き啓を作ることを命じた時月明師は、自分はただ國仙の徒に屬し、郷歌を解するのみであると答へたが、王は郷歌を用ひても差支へないと言つて許されたので、兜率歌を作つてこれを賦した。その歌は次の如きものであつた。
  今日此矣散花唱良巴寶白乎隱花良汝隱、直等隱心音矣命叱使以惡只、彌勒座主陪立羅良。
 この歌には直ちに漢詩の解がついてゐる。その解は、
  龍樓此日散花歌 桃送青雲一片花
  嚴重直心之所使 遠邀兜率大僊家。
 この歌が郷歌に屬することは、月明師が「郷歌を用ふと雖も可なり」と許された後に作つたことで明らかである。併し直接にはこの歌は兜率歌と呼ばれてゐる。「今俗に此れを謂つて散花歌となすは誤れり。宜しく兜率歌と云ふべし。別に散花歌あり」と「遺事」の筆者は書き添へてゐるが、それで見れば、同じく郷歌の中にも幾つか異つた曲節が存在したのである。廣くは郷歌であるが、兜率歌も散花歌もその中の一つの曲節である。兜率歌とは、この月明師の歌に兜率のことがあるから隨つて斯く命名ぜられたのであらうか。兜率天は即ち彌勒の淨土だ。この歌はいかにも彌勒淨土の思想を盛つてゐるから、それにより歌を兜率歌と呼ぶは自然のやうに見える。併(356)し景徳王の十九年は我が淳仁帝の天平寶字四年、西紀七五九年にあたるが、それより遙かに早く眞興王の時に彌勒仙花の思想がある。貴人の子弟の美なるものを擇び、粉粧して飾らしめ、歌樂遊娯してその間に民衆を教化せしめたが、これを花郎又は國仙と呼んだ。この事盛んなるに及んでは、花郎を彌勒の權化であると考へることさへ起つたのである。時は我が欽明朝より推古朝に亙る頃であつたと考ヘられるが、當時彌勒淨土の思想が新羅に盛んであつたことは、當時に於ける我國の佛教の状態とも合致して推測の出來ることである。(註一)しからば兜率歌の名を月明師の歌に發するとは言ふことが出來ない。なほ「遺事」は第三弩禮王の時に「始めて兜率歌を作る」と書いてゐるが、(卷一)この兜率をも彌勒であると見るならば、彌勒淨土思想は既に三世紀の終に存したこととなるが、彌勒に關係した經典が支那で翻譯せられたのは後漢時代からであつたにせよ、支那より高句麗に初めて佛教の傳はつたのは西紀三七二年と考へられてゐるから、弩禮王の時に彌勒淨土思想に關して兜率歌が作られたとは考へられない。然らば兜率歌といふはやはり郷語であつて兜率天に關係がなく、その語に附會せしめられて彌勤花郎や月明師の歌の説話が生れたものであらうか。斯く考へれば兜率歌といふは郷歌の中でも源流の最も古いものであり、四句體の郷歌の一種であつたと言へるのである。
  (註一) 元來當時に於ける朝鮮の佛教は、その偶像彫刻の樣式を比較しても分るやうに北魏方面のものを傳へたのであるが、北魏には彌勒の信仰が多かつた。「若し今佛教造像の上からして民間の信仰状態(357)を判斷し得とすれば、晋から隋に至る迄は各朝を通じ觀音釋迦の信仰最も篤かつたといはなければならぬ。而して之に次ぐものは彌勒である。特に北魏では彌勒の信仰は觀音釋迦よりも更らに一層盛んであつた。」松本文三郎博士著「支那佛教遺物」中所收論文「六朝時代の淨土思想」二七七――七八頁。尤も當時一般の佛教思想はなほ甚だ幼稚であつたから、淨土といへば彌陀でも彌勒でも殆ど同樣に考へられたと博士は論じてゐられる。我國では紀によれば彌勒石像は既に早く敏達天皇の十三年に百済から齎らされてゐる。推古佛に多い半伽の所謂如意輪觀音像を如意輪ではなくて彌勒であると見るならば、當時の佛像には彌勒像が如何に多くの數を占めてゐたであらうか。大屋徳城氏著「日本佛教史の研究」第一卷、九三頁。雜誌「寧樂」第二號所載、望月信成氏論文「如意輪觀音と彌勒菩薩」參照。
 
 月明師の郷歌は三句風に區切られてゐるけれども、實は四句に切るべき四句體歌であつたものが、筆寫の間に第一句と第二句とを合せしめたものであらう。句と句とが合せしめられ、二句が現に一句となつてゐる例は他の郷歌にも見られる。右の事の證は次の事實にょり示される。
 1. 句と句とが合して筆寫せられたもののあることは、「後句」といふことを意味し一般には離して記されてゐる「阿耶」或は「阿也」といふ語が歌の中の文句である如くに續けて書かれてゐることで證せられる。このことは一般に言へるが、なほ後に詳論する。
 2.月明師の歌に類する詩形のものは他にもあるが、それらは一般に四句に句切られてゐる。
 3.「解曰」として記した漢詩形のものは四句體である。
(358) 4.右の歌を字數で數へると、
  一七。一二。八。
となり、第一句は長過ぎることになるから、筆寫の際二句を合したものと見るが室當である。
 5.現在の民謠には四句體歌が多い。また「龍飛御天歌」の歌は八句體歌であるけれども、四句體歌を繰り返して二節にしたやうな形態のものである。十句體郷歌も後に述べる如く四句體歌を基礎にした歌形のものになつてゐる。これらの事實を基礎とすれば、右の歌は四句體歌であると考へなければならない。
 さて右の歌を四句體歌であるとすれば、その韻律はどうなつてゐたであらうか。第三句と第四句とは字數が割合によく似てゐる。これを八音より成るものと假定しよう。長句が八音より成ることは、民謠、「龍飛御天歌」、十句體郷歌などにより證明せられるし、彼の十句體郷歌に於いて九字又はそれに近い字數の句は八音に相應したから、この假定を立てるのである。然る時は右の歌の音數は、
   一三・六。八。八。
となるから、第一長句を二句の合したものとすれば第一句六音第二句八音計十四音であるやうに見える。即ちこの歌の韻律は、
    六、八、八、八。
(359)となつてゐるかも知れない。併しこの韻律に就いての推定は、今の場合僅かに一例に就いてなしたものであるから、確實にこの歌に適合するとはいへない。併しほぼ斯うした韻律のものも四句體歌の中に存在しはしなかつたかとだけは推定せられる。
 
     一一
 
 二、四句體の歌が郷歌と呼ばれてゐることは明瞭になつたから、次に四句體を以て成る歌をすべて郷歌として取扱はう。
 「遺事」卷四に「風謠」が記されてゐる。
   來如來如來如、來如哀反多羅、哀反多矣徒良、
   功徳修叱如良來如。
 この歌は明らかに四句を以て成るが、割合に多く音を寫した吏道として、原歌の發音や形式を察するに便である。この歌は或る語のリズムが囃子になつて全體の歌を支配してゐる如く見える。即ち同語又は形のよく類似した語に同符を附ければ、
   來如〔二字傍線〕來如〔二字傍線〕來如〔二字傍線〕
   來如〔二字傍線〕哀反〔二字右・〕多羅〔二字右△〕
(360)   哀反〔二字右・〕多矣徒良〔二字右△〕
   功徳修叱如良〔二字右△〕來如〔二字傍線〕
となる。我々はこの歌によつて一般に歌謠の發生状態を推察することが出來よう。即ち私が本書の第二卷に論じたところを以てすれば、この歌では「來如」といふ語が所謂シノッチャの慟らきをなしてゐる。一般に風謠といふ如きものには、斯くの如き形の發生をなしたものが多いのである。紀記歌謠では風謠と見られる次の歌がそれだ。
   此《こ》はや、
   御問城《みまき》 入彦《いりひこ》はや。
   御間城 入彦はや。
   己《おの》が命《を》を 竊《ぬす》み弑《し》せむと、
   後《しり》つ戸《と》よ  い行《ゆ》き違《たが》ひ、
   前《まへ》つ戸よ い行き違《たが》ひ、
   窺《うかが》はく 知《し》らにと
   御間城《みまき》 入彦《いりひこ》はや。
 この歌の歌形及び韻律は如何なるものであつたか。先づ第一句第二句第三句は同形同韻律であらう。「多良」「徒良」の如きが二音であると見られるから、第一句第二句第三句は六音より成(361)ると見られる。然る時は第四句は八音より成る。結局この歌の韻律は次の如きものでありはしなかつたか。
   二、二、二〔三字□で圍む〕    第一句
   二、二、二〔三字□で圍む〕    第二句
   二、二、二〔三字□で圍む〕    第三句
   二、二、二、二〔四字□で圍む〕  第四句
 三、「遺事」卷二の「水路夫人」の條に「衆人海を唱ふの歌」と「老人花を献ずるの歌」とが出てゐる。この中前者は七言の漢詩風に書かれてゐるし、後者は吏道を以て書かれてゐる。
     衆人唱海歌
   龜乎龜乎出水路 掠人婦女罪何極
   汝苦※[立心偏+旁]逆不出獻 入網捕掠燔之喫。
     老人献花歌
   紫布岩乎※[しんにょう+寸]希執音乎手母牛放教遣、
   吾※[月+兮]不喩慚※[月+兮]伊賜等、
   花※[月+兮]折叱可獻乎理音如。
 この後者の第一句は甚だ長く、歌は字數に於いて「一五。九。一〇」となつてゐるが、やはり(362)その第一句は、筆寫の間に第一句と第二句との合記せられたものに相當するのであらう。前者の「龜乎龜乎」の歌と殆ど同意のものは、「遺事」卷二に伽耶國の歌としても出てゐる。
    龜何龜何 首其現也
    若不現也 燔灼而喫也
 隨つてこの歌は朝鮮に可なり廣く行き亙つてゐたものと見える。「以之蹈舞」と書いてあるから、蹈舞して足を喧騒に蹈むには、この歌はその歌意が足を蹈むことに適し、一種のユウモアを含む點でも歌舞に適してゐて、歌意と聞係なく蹈舞には頻繁に使用せられたものであらう。この伽耶國の歌では、字數は或は四字或は五字となつてゐるから、必らずしも漢詩の五言詩や七言詩に模したものでなく、原歌を直譯したか、或はこのまま訂郷語を以て讀む一種の吏道の書き方を以て記した歌であつたか、何れにせよ四句體歌であつたことは明らかに證墟立てられる。
 然らば右の諸歌の韻律はどうなつてゐたか。先づ「老人獻花歌」を見る。第三句第四句は九字十字であるから、後の十句體歌の例を適用すれば、八音に相應しよう。これによつて第一長句の長さを算出すれば次の如くになる。
   一二・六。八。八。
 この第一長句はやはり第一句六音、第二句八音となつてゐるものであるか、或は第一句四音第二句八音、合計十二音となつてゐるものであるか、判然しない。Lかし何れにせよ、第一句四音、(363)第二句八音の韻律のものが當時存在したらしいことは略々推測せられよう。このことは後の十句體歌の歌形を考へると最もよく分かるのである。
 次に「衆人唱海歌」は七言漢詩であるから推測の仕方もないが、その内容の多いことで想像すれば、恐らくは   八。八。八。八。
の韻律を持つてゐたものでないかと思ふ。
 最後に「龜何龜何」の歌は、蹈舞に直ちに關係した歌であるからその歌形は重要である。即ちこの歌形の如きものが、四句體歌の中の原始形であらうと考へられるからである。私は先づこの歌を邦語に譯して見よう。
   かめ、かめ、
   首《くび》、出せ、
   出さなきや、
   燔《や》いて食《く》を。
 ほぼ斯うした歌であつたらう。その内容を見ると、各句はすべて簡單に二つの觀念から出來てゐる。「かめ―かめ」、「首――出せ」、「もし――出さぬ」、「燔いて――食ふ」、斯うした構成のものになつてゐる。然らばこの歌の各句は同じ長さの二小節から成るものであらう。このことには(364)他に幾多の旁證がある。朝鮮の歌謠は現在の民謠から「龍飛御天歌」十句體郷歌のすべてを調査して、その各句は皆なその中央より折半せられる形態を持つてゐる。隨つてこの歌の觀念は、その折半せられる二小節に封應するものに相違ない。「龜何龜何」の句がその形態を反映する。然らばその折半せられた一小節は何音より成るものであるか。私は二音三音の何れかでなければならぬと考へてゐる。何故なればこれは蹈舞に合せて謠つたものであるから、「龜何」で一方の足を附み、次の「龜何」で更に他の足を蹈んだものと推定せられるが故である。併しそれが二音であるか三音であるかは決定せられない。後の十句體歌や「龍飛御天歌」にも二音三音の何れもが現はれるから、四句體歌の時に二音三音の何れもが存在したに相違ない。何れかに決定せよといふならば私は、この歌は多分三音二小節のものであつたと考へたい。三音にすればその次に一音の休止音が出來て、蹈舞の片足をはつきりと一小節で現はすことが出來るからである。即ちその拍子は四分の二拍子である。
   2/4 ♪.四分音符♪.四分音符|♪.四分音符♪.四分音符
      か め か め      く び だ せ
 斯うした拍子になつて、その一小節が足の一蹈を現はす。また二二調であつたといふならば(365)
   2/4 ♪.四分音符♪休止符|♪.四分音符♪.休止符
      か め よ       か め よ
となつて、その一小節が足の二蹈を硯はす。何れにせよ大した相違はなく、この歌は
  二、二。二、二。二、二。二、二。
か、或は
   三、三。三、三。三、三。三、三。
の韻律を持つてゐたと推定せられる。そしてこの形式が四句體歌の原形であつたに相邁ない〔二十一字傍点〕のである。
 四、「遺事」卷二「武王」の條に記された所謂薯童謡は吏道體三句のものであるが、やはり四句體歌であらう。「遺事」卷四「心地繼祖」の條に、七言四句の漢詩體に記された歌が載つてゐる。これも四句體歌であらう。「遺事」卷一「桃花王、鼻荊郎」の條に、「時人詞を作つて曰く」として五言四句の漢詩體に記された歌謠風のものが載つてゐるけれども、「詞」とあるから歌であるかどうかは確言せられない。併し歌の如き形式を持つものであつたには相違ない。
 新羅の四句體歌としては、右にあげた數首の歌が數へられる。それらに就いて觀察せられたことを纏めていへば、
(366) 1.四句體歌は蹈舞の囃子より直ちに發達したと思ふ四分の二拍子四句より成る歌形を持ち、原始的のものでは各句の長さは同一であつた。即ち二二調四音又は三三調六音を一句とする韻律のもの四句より成つたのである。
 2.四句體歌には、個人の制作したといふものよりは、民謠風に謠はれたものが多く含まれる。併しそれはあへて文献に現はれただけのものではなく、實際に於いて四句體歌は民謠として發生し、民謠としてよく生長したのである。それは四句體歌の後の發達を調査した結果、飜つて推定せられることであつた。月明師の歌は兜率歌であつて、同時に既にあつた兜率歌に月明師の逸話を附合したものではなかつたか。
 3.四句體歌と考へられるものは既に三世紀の終に作られたと記されてゐるから、その發生は極めて古い。風謠にはこの歌形が多かつた。またシャマニズム的なる蹈舞とこの歌が聞係せしめられてゐるので見ても、その源泉の古いことが推定せられる。
 4.四句體歌の韻律は、
   (1) 四、四、四、四。
   (2) 六、六、六、六。
   (3) 八、八、八、八。
の何れかであつたが、なほ次の如き形式のものも成立してゐたであらう。
(367)  (4) 四、八、八、八。
   (5) 六、八、八、八。
 斯うした形式が成立してゐたかも知れないことは、既に個々の歌に就いて觀察した通りである。後の十句體歌の形式を見ると、この形式と共通の要素が含まれてゐるから、その推定は一層否定せられなくなる。併しその形式を原始的のものだとは言ふことが出來ない。原始的のものは、蹈舞に適するやうに各句の長さの同一なるものである。幾分不均齊となつたこの形式はやや後の發達にかかり、既にその時には十句體歌が成立してゐたことであらう。十句體歌に斯うした不均斉形態があるのだから、四句體歌がそれに引かれて右の如き形態を呈することは無理でない。
 以上私は四句體歌の形式を種々推定したが、四句體歌はその寶例が乏しいため大數的計算を確實に進めることが出來なかつた。多くは後の十句體歌やそれ以後の歌謠の形式を調査した結果に助けられて論ずるを得たのである。それ故に論證の順序としては寧ろ逆になつたが歌形としてはこの方が簡單であるから、ひとまづ讀者への便宜を考へ右のやうに敍述したのである。後に示す大數的計算は四句體歌に於ける如く不確定のものではない。また繰り返し念を押して置くが、私が四句體歌に就き字數により歌形を考察したものは、その考察歌形に正しく合せてその歌詞を訓むべきものではないといふことである。僅かに一首の場合に統計的方法を適用すれば、その結果の確實性は甚だ稀薄になるからである。
 
(368)      一二
 
 新羅の郷歌としての四句體歌を觀察したに就いて、我々がなほ注意の外に逸してならない歌が一つある。それは「三國史記」卷十三、高句麗本紀第一に出てゐる琉瑠明王の歌である。王の三年秋十月王妃松氏が薨じた。王は更に二女を娶つて以て室を繼いだが、一は禾娘といつて※[骨+鳥]川の人であり、他は雉姫といつて漢人の女であつた。二女寵を爭つて相和せず、王は涼谷に東西二宮を作つて彼女等を分ち置いた。後王箕山に佃し、七日歸らなかつたところ、二女争闘し、禾娘は雉姫を罵つて「汝は漢家の婢妾なり、何ぞ禮なきの甚しきや」と言つたから、雉姫は慙恨して遁げ歸つた。王これを聞き馬に策打つて雉姫を追うたが、姫は怒つて還らなかつた。王嘗つて樹下に憩ひ、黄鳥の飛集するを見て乃ち感じて歌うていふ。
   翩翩黄鳥 雌雄相依
   念我之獨 誰其與歸。
 この歌は「史記」と「遺事」とを通じて、鮮人の最も古い歌作である。この歌の作られたのは琉瑠王の三年よりやや後であつたとしても、右の三年は西紀前三年にあたる。歌の姿といひ内容といひ「詩經」の中にある詩に類するところ多く、郷歌であるか漢詩であるか判斷に苦しむもの(369)がある。漢が朝鮮を滅ぼしその地に樂浪、玄菟、眞番、臨屯の四郡を置いたのは西紀前一〇八年であり、爾來朝鮮の地には漢文化が顕著に弘布した。現に樂浪より發掘せられる遺物を見るものは、當時の朝鮮に於ける漢文化の程度やその純粹さやを想像することが出來よう。當時の朝鮮としては固有文化に特別の誇るべきものがなく、文化としては漢の植民地のそれだけが燦然たる光を放つてゐたものであらう。後臨屯眞番の二郡は廃せられ玄菟那は遼東に移されたから、朝鮮には樂浪の一郡のみが殘り、後に帶方郡が新設せられた。この頃新羅も高句麗もそれぞれに國を起した。樂浪は高句麗と兵を交へること屡々であつたが、西紀三十一年漢の植民地は朝鮮に於いて完全に滅亡し、それらの植民地は建設以來ともかくも四二一年間繼續してゐたのである。
 斯うした時代であるから琉瑠王の高句麗は漢文化の影響を受けたに相違なく、殊に彼は自ら漢人の女を娶つた位であつて、漢詩風のものを作り得たかも知れないのである。(註一)その歌を見ると、
 1.四言詩であるところが當時の漢詩に似る。
 2.その詩の想も形も語もよく詩經などの詩に似る。例へば、「黄鳥」は詩經によく現はれる鳥であつて、「黄鳥于飛、集于潅木、共鳴※[口+皆]※[口+皆]」、「※[目+見]※[目+見]黄鳥、載好其音」、「交交黄鳥、止于棘、誰從穆公、子車奄息」、「緜※[鸞の上/虫]黄鳥、止于丘阿」などとあるし、「翩翩」も亦「翩翩者|※[鳥+隹]《はと》、載飛載下」などとある。
(370)  (註一)高句麗が支那文化の影響を強く受けてゐたことは、好大王碑に永樂といふ元號を使ってあることでも分る。西紀第五世紀の初めから第六世紀の中頃までのものと推定せられる平安南道の鷹句麗古墳の壁畫が全く支那畫の延長であることは、改めて記すまでもなく有名の事實である。(「朝鮮古蹟圖譜」二解説參照)
 斯うした點から考へれば、この歌は直ちに原歌であつて漢詩であるとも言へよう。併しなほ仔細に考へて見れば、「史記」「遺事」に「歌曰」とある場合の歌は郷歌であつて漢詩ではない。また雉姫は漢人の女ではあるが、禾姫により「汝は漢家の婢妾である」と言はれ、慚恨して遁げ歸つた位であるから、大して教養のあつた女だとも見えない。また當時の高句麗や新羅の状態を支那の文献に就いて調べて見るに、朝鮮の地全體を通じて歌舞を好む風が盛んである。高句麗に就いてだけ言へば、「三國志」の魏志東夷傳は「其民喜歌舞、國中邑落暮夜男女群集相就歌戯」、「後漢書」の東夷傳は「暮夜輒男女群集爲倡樂」、「梁書」の諸夷傳は「其俗喜歌※[人偏+舞]、國中邑落男女毎夜群聚歌戯」、「魏書」の高句麗傳は、「其俗婬好歌舞、夜則男女群聚而戯」、「北史」の東夷傳は「好歌舞、常以十月祭天、(中略)俗多遊女、夫無常人、夜則男女群聚而戯」と書いてゐる。高句麗の俗として歌舞を好むことは特に顯著であつたと見えるのである。また當時の王宮とか王妃とかいつてもその生活は甚だ原始的のものであつたことは、琉瑠王よりも少しく後の新羅の儒理王の時、王女二人をして各々部内の女子を率ゐ、朋を分ち仙黨を造り、秋七月既望より毎日早く(371)大部の庭に集まり麻を績む競争をなして、八月望に至り負けたものは酒色をおごり歌舞百戯皆作したなどと「史記」にあるのでも分る。斯うした時代であるから、琉璃王の歌といふものも漢詩ではなくて郷歌であつたと考へるが穏當のやうである。
 黄鳥の歌が郷歌であるとすれぼ、その形式は如何なるものであつたか。漢詩と全く同じいものとすれば四句體歌であることになるが、そのことは確實には證據立てられない。ただ「遺事」にあつた歌と譯詩とが句の數に於いては相一致してゐたことを基礎として考へるならば、この歌も、四句體歌であるらしいと言ひ得るだけである。然る時には朝鮮に於ける四句體歌の源流は甚だ古く、西紀前後既に存在してゐたといふことになる。
 
    一三
 
 第三、十句體歌〔四字右△〕。
 「三國遺事」「釋均如傳」を通じて、最も普通に見るを得る郷歌は十句體歌である。殊に「均如傳」にはこの形式以外の二句體歌四句體歌は一つも存在しない。さてこの十句體歌の形式を科學的に研究するには私は次のやうな方法を取り、順次にその結果を考察して行かう。
 1.「遺事」と「均如傳」の現に記載する句切れは精確であると言へないが、全體に就き最も頻(372)繋に現はれてゐる句數を標準として、その句數を定める。なほその際十句體郷歌の歌謠の發達を顧慮參照すべきことに就いては既に述べた。
 2.各句の字數を計算し、それを基礎として各句の長短を知り、なほ進んでその韻律を調査する。このことも既に述べた。
 第一の方法に就いては、疑問の起る餘地がない。全體の歌を觀祭すれば、
 1. 全體に句切れのないものがある。併し全體の字數を數へて見ると十句體歌であつて四句體歌でないことが分る。
 2. 或る場所の句とそれに次ぐ句との間の句切れが消滅したと考へられるものもあるが、それも字數を數へると一句分よりは遙かに多く三句分よりは遙かに少ないから、本來は二句であつたと推定せられる。
 斯くして郷歌の句數の十句であることだけは疑はれない。「均如傳」の中のものは疑問の餘地なく十句體である。(一つ十二句のものがあるが、それに就いては後に述べる。)
 第二の方法の意義及び確實性に就いては、既に詳しく論じたから再敍を避ける。原本に於いて二句の間の句切れの消滅したと考へられるものは、その字數を折半して二句のそれぞれの字數とした。例へば、第二句第三句が合して十九字になつたと見られるものは、平均的に分割して第二句九・五字、第三句九・五字と計算する。この例は「遺事」に多く、「均如傳」には僅か一箇所(373)しかない。隨つて「均加傳」の統計的結果は、「遺事」のそれよりも精確に行つてゐる筈である。「遺事」では斯樣に字數を折半する個所の多い結果、各句の長短の比率が顕著に現はれないこととなつた。
 
     一四
 
 (甲) 「釋均如傳」に於ける十句體郷歌〔十三字右△〕。
 景初に「均如傳」の郷歌を取つたのは、前記の如くその郷歌の句切れが「三國遺事」のそれよりも明確なるためである。個々の歌を比較して行くと、「均如傳」の郷歌は、「三國遺事」の中のそれよりも漢語を多く含んでゐるやうに見える。
 (1) 後句に就いて〔六字傍点〕。
 最初に我々の注意に上ることは、第八句と第九句との間に、獨立した「隔句」「落句」「後句」「後言」等の語の介在することである。例を擧げれば、
   迷悟同體叱、縁起叱理良尋只見根、佛伊衆生毛叱所只、吾衣身不喩仁人音有叱下呂、修叱賜乙隱頓部叱吾衣修叱孫丁、得賜伊爲落人米無叱昆、於内人衣善陵等沙、不多喜好戸置乎理叱過。後句〔二字右・〕、伊羅擬可行等、嫉※[女+后]叱心音至刀來去。(374)皆佛體、必于化縁盡動賜乃、手乙寶非鳴良尓、世呂中止以友白乎等耶、曉皆朝于萬夜來、向屋賜戸朋知良※[門/賈の上]戸也、伊知皆矣爲米、道戸迷反群良哀呂舌、落句〔二字右・〕、吾里心音水清等、佛影不冬應爲賜下呂。
 これらの歌を比較して見れば、「後句」「落句」等の語は歌の本文ではなく、何等か郷歌を歌ふ上の術語であることがわかる。それゆゑ右の二字だけは郷歌の各句の字數からこれを除外しなければならない。
 1.「後句」「落句」の意味は何であるか。「三國遺事」には專ら「後句」の語を使つてあるから、今はこの語を使ふことにしよう。「遺事」の歌の中に、特に
   「後句亡。」
と書いたものがある。(卷五)そしてこの歌の句數は八であつて、最後の第九句第十句が亡はれたものの如く見えるのである。然る時には「後句」とは、第九句第十句を意味するものと考へられる。
 2.「均如傳」中の「隔句」「落句」「後言」といふ語もその意は「後句」といふと大いなる相違を持たないから、やはり同樣第九句第十句を意味するものと見られる。
 3.「後句」と書く位置に「阿耶」と書いたものが二つある。「遺事」の方にも「阿耶」「阿邪」「阿邪也」「阿也」と書いたものがあるから、「阿耶」とはやはり郷歌を謠ふ上の語である(375)か、或は「後句」といふ意味の郷語であらうか。(註一)
 4. 第十句の次に「歎曰」と記して、更に二句加はり、合計十二句となつたものがある。また「後言」の位置に「病吟」と書いたものがある。「病吟」は歌を謠ふ上での節廻しの指定語ではないか。「歎曰」以下も同樣の節廻しの指定語であつて、我國の記の「爲詠曰《ながめごとし》つらく」に相應するものではあるまいか。「ながめごと」は聲を長く引き、歌だとは言へないが、また單なる言葉だとも言へない。郷歌の「歎曰」も既に十句を終つた後のものであるから、その歌に附し、更らに歌に類する詠歎の言をなしたものと見れば納得せられる。「病吟」「歎曰」を斯くの如き意味のものと見れば、この位置に書き添へられた「後句」「隔句」「阿耶」等の語も、文學としての歌に就いての指定語ではなく、歌を謠ふ上での音樂上の指定語であると見られる。第九句第十句即ち「後句」は、謠ふ曲節の上で第八句より前のそれとは違つたものになるのであらう。
 5.「後句」「阿耶」等の語を特別に離して書かず、歌の中へ混じてある場所も見られるが、これは筆寫の際の誤としなければならぬ。隨つてこれらの語はたとひ第八句或は第九句の中へ書き加へられてゐたとしても、別に取り離し、歌の字數の計算の中へ加へるべきでない。
 6.「後句」又は「阿耶」と書くべき位置に、「城上人」「打心」と書いたものがある。この語は漢語であるか郷語であるかその意を解し難いが、やはり「病吟」などに類する音樂上の指定語であつて郷語であり、これを吏道で書いたものではないかと思ふ。これらの語も、歌の字數計算(376)の中へは加へない。(註二)
  (註一) 「阿耶」は「後句」といふ意味の郷語であるか、或は後に述べた如く、單に音樂上の指定語であるか、また單に斯く発音する囃子であるか、私には何れとも判斷が出來なかつた。「後句」を意味する郷語であるならば、前間氏著「龍歌故語箋」の索引にある語 Aj‐A 即ち「弟」を意味する語であらうかなどとも考へて見たが、何とも判斷はつかない。郷歌研究の権威者小倉進平氏の御教示を仰いだところ、「阿耶」は特別の意味がなく、拍子を現はす語だと思ふといふお客へを得た。
  (註二) 「城上人」「打心」の語義についても小倉氏の御教示を仰いだところ、小倉氏にも不明であつて研究中であるといふお客へを得た。佛數の和讃などで斯うして語を使つてゐないか、お心當りの人の御教示を得たい。
 
    一五
 
 (2)「均如傳」の郷歌の字數計算〔十一字傍点〕。
 さて愈々「均如傳」中十一首の郷歌の字數を計算すると、次のやうになつた。(註一)
  1  2  3  4  5  6  7  8    9  10     11  12
  四 五 四 四 三 九 九 九    七  八(歎曰)  七  八
(377)  六  九  七  八  一〇  一〇  七  八(隔句)  七  九
  五  一〇 六  九  一〇  九   七  九   (阿耶)   六  八
  四  八  九  一三 九   一一  八  一〇  落句    七  八
  五  九  八  一二 一四  一〇  八  一〇  後句    六  九
  四  九  七  九  七   九   七  一〇  後言    九  一〇
  三  九  七  一〇 七   一〇  六  九   落句    七  九
  三  一一 七  一二 一〇  九   八  一二  城上人   六  九
  四  一二 八  一〇 一〇  八   七  一一  打心    六  九
  五  一〇  [一五] 一一  九   八  八   病吟    八  一〇
  七  一一 八  八  八   九   六  九   (阿耶)   八  一〇
(平均) 四・五 九・四 七・一 九・三 九・〇 九・四 七・四 九・五 後句 七・〇 九・〇 歎曰 七  八
  (註一) 「隔句」「阿耶」等の語に括弧を附したのは、句切れを誤まりこれらの語を歌の中に書き加へてあるもの。括弧のないものは、この誤記なくこれらの語を歌の本文より離して書いてあるもの。また□を附したものは、二句が合記せられてゐるもの。平均數は小數點下一位までとし、他は四捨五入した。後も同株である。
 右の結果を見るに、第一句と第二句、第三句と第四句といふ風に順次二つづつを對照して、奇(378)數句の字數はそれに次ぐ偶數句の字數よりも必らず小さい事實に私は先づ好奇の目を注がなければならなかつた。それも僅少の相違ならば何でもないが、とにかく奇數句の四字或は七字に對して偶數句の九字は、餘りにも格段の相違である。また偶數句をそれに次ぐ奇數句と對照して見るに、この場合にも例外なしに、奇數句の字數は偶數句のそれより小さくなつてゐる。斯樣の事實を全然の偶然的結果と看過することが出來るであらうか。若しも偶然的結果であるならば、一つや二つの例外は見られなければならないのに、ただの一つの例外も現はれないのは不思議である。(この次の「三國遺事」でも全く同一の結果が得られた。)ここに私は既に萬葉の統計的結果を見て來た目を以て、この字數の現はす意義を解讀しようと努めた。
 各句の字數が斯く交互に小大の關係を持つとすれば、十句體郷歌の各句の長さもこれに對應して、交互に短長の關係を持つものではあるまいか。ただそれの例外と見るべきは第五句であつて、この句だけは偶數句と同長であるかも知れない。今は便宜上それを「稍長」と記して置かう。また第一句は、極度に字數が少ないから「最短」と書いて置く。斯く奇數句と偶數句とが一對になつて短長の形態を示すならば、順次に奇數句偶數句を以て、歌の意味の上でも對をなすものと考へなければなるまい。それ故この十句體歌を短長二句の五聯より成るものと見、歌形を書けば次のやうになる。(註二)
   四・五  九・四      最短、長、
(379)  七・一  九・三  短、長、
   九・〇  九・四      稍長、長、
   七・四  九・五      短、長、
   (阿耶)          (阿耶)
   七・〇  九・〇      短、長、
   (註二) 「歎曰」の句を省略した。ただ一首ではあるがその「歎曰」も「七・八」即ち「短、長」となつてゐる。
 
      一六
 
 (3)「龍飛御天歌」の歌形と韻律〔十一字傍点〕。
 既に得た統計的結果に對し、先づ私は今考へた如くに歌形及び韻律調査の方法を適用することが出來たけれども、誤算を出來る限り少なくするためには、なほこの歌形に類するものの後の發展を見なければならないから、ひとまづ現在の民謠と「龍飛御天歌」との歌形及び韻律を調査することにした。
 第一に、朝鮮現在の民謠を見るに、その中にはこの郷歌の如く十句體歌形を取るものが多かつ(380)た。新羅郷歌の十句體形式は、とにかく今日まで傳はつてゐたのである。その韻律を見ると、概ね次の如きものであつた。
  [四、四] [四、四]
  [四、四] [四、四]
  [四、四] [四、四]
  [四、四] [四、四]
  [四、四] [四、四]
 この韻律は新羅郷歌のそれと幾分異るものであることは一見して分かる。民謠にあつては、奇數句は特別に短くならず、偶數句と同長である。
 第二には、「龍飛御天歌」の歌形及び韻律を調査したが、この調査は餘程複雜のものになつた。「龍飛御天歌」は李朝の第四世世宗が即位二十七年(西紀一四四五年)、李朝の遠祖李安社より李朝第二世太宗の潛邸に至るまで前後六代間の事蹟を歌謠に綴り、管絃に合せて朝祭の樂歌となすために、權※[足+是]、鄭鱗趾、安止等に命じて撰進せしめたものである。全篇百二十五章、その歌を漢字と諺文とをまじへた書き方で記し、なほそれに漢譯詩を竝記してある。(註一)「龍飛御天歌」の名は、易に「時乘六龍以御天」、「飛龍在天」とあるを取り第一章に六代の王徳をたたへて「海東六龍飛ぶ」云々の意味の歌を書いたところから來てゐる。「三國遺事」や「均如傳」は高麗朝(381)の書であり、その擧げた例は少ないにせよ、とにかく新羅時代から高麗時代に入るまで存続した新羅郷歌の形態を知るには他に得難い資料である。我々は第十世紀に至るまでの歌謡の姿態を一先づそれによつて知り得るのである。高麗時代の文獻の今日に殘るものは極めて少ない。「高麗志」樂志に一は箕子朝鮮代の歌謠として「西京曲」「大同江曲」を記してあるけれども、箕子入鮮が既に疑問の事件である以上箕子代といふは信ずるに足らず、高麗時代の作品であるとは一般に推測せられることであるが、歌詞は記されて居らずその原形を知り難い。(註二)李朝に入つて我々は初めてこの龍飛御天歌を得、當時に於ける歌謠の原形を知つた。それ故我々は第十世紀頃より第十五世紀まで五世紀間の歌謠の形態を知り得ないが、新羅の郷歌より今日の民謠にいたるまでの中間形態をひとまづこれによつて知ることが出來る。尤も龍歌は朝祭の樂歌であるから、それの形式を以て當時一般の歌謠特に民謠の形式であるとなすべきではない。併しまた朝祭の樂歌であつても、當時の歌謠の形式から全く離れたものだとは勿論考へるべきでない。(註三)
  (註一) 鄭麟趾の序に曰く、「詞語の鄙拙を以て解と爲す可からず、謹んで民俗頌稱の言に採り、歌詞一首二十五章を撰して、弟づ古昔帝王の迩を敍し、次ぎに我朝祖宗の事を述ぶ。」「仍ってその歌を繹し以て解詩を作る。」内容の一斑を知ることが出來よう。
  (註二) 「獨り西京大同江の二曲有り。高麗樂意に以爲らく、箕子の時民間の詞と。然れども未だ必らず高麗人の擬作せるに非ずんばあらず。」「増補文献備考」卷百六。
(382)  (註三) 「龍飛御天歌」の底本として、私の統計は「朝鮮群書大系」本を取つた。前間恭作氏には「龍歌故語箋」の著がある。
 「紀飛御天歌」は、とにかく諺文を主として書いてあるし、諺文だけで書いた句もあるから、その各句が何音で出來てゐるかは確實に知ることが出來る。併し私はこの歌謠に對して、ひとまづ私が萬葉に就いて試みた方法を適用することとした。龍歌は百二十五章あるが、第一章は序歌第百二十五章は結びの章であるから、他のものと歌謠の形態を異らしめる。それ故統計的取扱は、この二章を除いた殘餘の百二十三章に對して試みる。龍歌は明らかに八句體の歌である。そして四句づつが殆ど同一内容を繰り返したやうな對句的のものになつてゐることは、その漢譯詩を見ても知ることが出來る。形態もそれぞれの歌に就いて四句づつ全く對になる。斯くしてこの歌形は、四句體の歌が二つ並んだ性質のものになつてゐるのである。さて漢字をまじへた儘の各句の字數を全部數へて十首づつ一組にし、平均を取るとその結果は次の如くになつた。(最後の組は三章だけの平均である。)    「龍飛御天歌」平均字數表 (十首づつ一組にして平均)
組番号 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句 第六句 第七句 第八句 
 1  六・八 七・三 四・六 五・八 七・〇 七・五 四・八 五・九
 2  七・六 七・四 四・六 五・五 八・〇 七・四 四・二 五・六
 3  七・六 七・八 四・五 六・五 七・七 七・四 四・六 六・七
 4  七・一 七・四 四・八 六・四 七・六 七・六 五・〇 六・四
 5  七・二 七・四 四・五 六・三 七・四 七・三 四・七 六・二
 6  七・〇 七・三 四・六 五・八 七・〇 七・五 四・九 六・三
 7  七・〇 七・三 四・六 五・八 七・〇 七・四 四・二 六・一
組番号 第一句 第二句 第三句 第四句 第五句 第六句 第七句 第八句
 8  七・八 七・四 四・四 五・九 八・〇 七・五 四・五 六・一
 9  七・三 七・〇 五・二 六・三 六・九 七・一 四・九 六・一
 10  七・五 七・六 四・七 六・二 七・七 七・四 四・七 六・四
 11  七・四 七・五 四・六 六・七 六・八 七・四 四・五 六・六
 12  七・一 七・一 四・五 六・三 六・八 六・八 三・〇 六・〇
 13  六・〇 七・三 三・〇 六・〇 七・〇 八・〇 三・〇 六・〇
 平均 七・二 七・四 四・六 六・二 七・三 七・四 四・五 六・二
 
 この結果を見て、我々は次の如く觀察することが出來よう。
 1. 第一句と第二句とは、全歌の平均數では第一句短、第二句長となつたが、各組の中には例外があり、その關係の逆になつたものも幾つかある。のみならずその字數の相違は、大小をいふに不適當な大いさである。隨つて我々は、第一句と第二句とを同長であると見るべきであらう。
 2.第五句と第六句とでは第五句短、第六句長となつてゐるが、その差は僅かだし、また各組の中にはその關係の逆になつたものが多いから、これも亦第五句と第六句とは同長であると見る。
 3.第一句、第二句、第五句、第六句は何れも殆ど同一の字數を持つので、同長だとするより外はない。
 4.第三句と第四句とは字數が大いに違ふから、同長とは見難い。第七句と第八句も亦同樣である。併し第三句と第七句、第四句と第八句とはそれぞれ同長と見られる。
(384) 5.第四句、第八句は、第三句、第七句よりは長いが、第一句、第二句、第五句、第六句とはかけ離れて短かいから、同長と認め難い。
 斯くして結局龍歌の歌形は次の如きものであることが分つた。
   第一句  第二句  第三句  第四句  第五句  第六句  第七句  第八句
    長    長    最短   中   長   長      最短   中
 
     一七
 
 次に各句の用ひてゐる漢字數を比較調査したが、各句必ずしも同一ではなかつた。今諺文のみを用ひて漢字を全然使用しなかつた各句のそれぞれの句數を數へて見る。
   第一句  第二句  第三句  第四句  第五句  第六句  第七句  第八句
    三一   三二   三八   七四   三〇   三九   五〇  八一
 即ち第四句と第八句とは、特に多く諺文を用ひて漢字を用ひず、第七句がそれにつぐ。
 然らば右の諺文のみを用ひた句に就いて統計を取れば、各句に於ける諺文字數は平均何程になるか。これも十句づつの組を以て調べると次のやうになる。第四句第八句第七句などは、諺文のみを用ひた句の教が多いため組の數も多くなる。(また最後の組は、集五句第七句を除いて何れも十の(385)單位に達しないものの平均である。
 
  諺文のみを用ひた句の各句平均字數表 (十句づつ平均〕
組番号 第一句  第二句  第三句  第四句  第五句  第六句  第七句  第八句
 1   七・四  七・五  四・〇  五・五  七・四  七・四  四・一  五・五
 2   七・四  七・四  四・六  六・一  七・五  七・四  四・六  六・三
 3   六・九  七・一  四・一  六・二  七・三  七・六  四・〇  六・四
 4   八・〇  七・五  三・九  五・七       七・〇  三・七  六・二
 5                  五・六            三・〇  五・六
 6                       六・二            六・二
 7                       六・二            五・九
 8                       六・二            六・〇
 9                                      六・〇
平均  八・三  七・三  四・二  五・九  七・四  七・四  三・九  六・〇
 この年均字數は、漢字のまじらない諺文のみの句の平均字數であつて、碕づほぼ公平に各句の音數を現はし、龍歌の韻律を示したものと言へよう。併しこれでは小數位の數が現はれ、實際の音數を定め難い。また平均字數だけを調べるよりも、各句に就いて如何なる數字が最も頻繁に現はれてゐるかを調査し、その結果を參照するが一層精確である。各句に就き、何字が最も多く頻出してゐるかの順位を定めた統計を作つて見る。
(386)   諺文のみの句の各字數頻出慣位表
順 位 第一句    第二句  節三句  第四句  第五句  第六句  第七句  第八句
    字數頻出度數 字・頻  字・頻  字・頻  字・頻  字・頻  字・頻  字・頻
第一位 八 一五   七 一七 四 一三 六 三四 八 一六 八 一九 三 二一 六 四五
第二位 七  八   八 一二 三 一一 五 二一 七  九 七 一二 四 一七 七 一六
第三位             五 一一 七 一八           五 一〇 五 一五
 この順位表は、直ぐ前の表の諺文のみを用ひた句の各句平均字數表の結果と概ね一致したものになつてゐる。この二つの表を比較し、更に先に述べた各句の長短比較を參照すれば、第一句、第二句、第五句、第六句は八音より成るといつて不當でないと思ふ。また右の二表に隨ひ、各句の音數は略々次の如きものであると推測せられる。
  第一句、第二句、第五句、第六句  八音
  第三句、第七句          四音
  第四句、第八句          六音
 この結果は正當であらうか。私は今右の音數を諺文のみを用ひた句の諺文字數によつて定めたが、各句の眞實の長さの比率は、漢字をまじへての各句の平均字數表によく現はれてゐる弭であるから、その表を基礎とし、右の結果を檢算することとする。先きの龍歌平均字數表に就き、長(387)句、中句、最短句の平均字數を求め、その中の長句は八音を代表するものとして、中句最短句の音數が何程になるかを求める。
 
     各 句 韻 律 表
    長  句   中  句  最 短 句
字 數 七・三三   六・二〇  四・五五
音 數 八・〇〇   六・七七  四・七九
 斯くして長句を八音、中句を六音、最短句を四音とすることは略々正當であることが明らかとなつた。尤もこの統計の結果では、中句を七音、最短句を五音とするが正當だと言へるけれども、先きの諺文のみの句の各字數頻出度數表は具體的に各句の音數を表はしてゐるから輕視することが出來ず、幾つかの表を對照して、我々はやはり長句八音、中句六音、最短句四音といふが至當であるやうに考へるのである。尤も中句と最短句とが七音と五音とになる可能性を持つことも、看過せらるべきものでない。
 右の結果、我々は全く完全に籠歌の歌形と韻律とを決定することが出來た。勿論龍歌のすべてが同一の歌形同一の韻律を持つものではなかつたが、若しそこに全體への規準となる或る定型が存在すると言ひ得るものならば、その定型は必ずや次の如きものでなければならない。
(388)   [八]    [八]
    [四]  [六]
    [八]     [八]
    [四]  [六]
これが「龍飛御天歌」の歌形及び韻律の調査結果であつた。
 
     一八
 
 (4)「均如傳」の郷歌の歌形及び韻律〔十三字傍点〕。
 右の調査結果を得た後に、我々はその目を以て翻つて「均如傳」の郷歌の統計的結果を解獨して行かう。
 1.現在の民謠の偶數句中の長句は八音である。龍歌の偶數句中の長句も亦八音である。八音は蹈舞の四分の二拍子より發達したものとして、第一に考へ得やすい音數だ。それ故に十句體郷歌の長句は八音であると觀察する。この觀察は他の例より推したものである以上、一點の疑念もなく確定的であるとは勿論いへない。併しこの推定には、十分豊かなる旁證が存するのである。歌謠の如きものには、突如として新らしい散律は起り難いからである。
(389) 2. 先きの統計的結果を見るに、(三七八‐九頁參照)偶數句中の第二句九・四字、第四句九・三字、第六句九・四字、第八句九・五字となつて、ほとんど同字數であるから、これを偶數長句とし、すべて同長のものと見ることが出來よう。第十句は九・〇字と少なくなつてゐる故、ひとまづその中より除外して置く。さて右の四句の平均字數を求め、その句の音數を八と假定してそれ以外の句の音數を計算して見る。
その結果は次の如くになつた。
  [三・八三]    [八]
  [六・〇四]    [八]
  [七・六六]    [八]
  [六・三〇]    [八]
  [五・九六]    [七・六六]
 この結果は非常に面白いものであると思ふ。我々は既に現在の民謠や龍歌の韻律に就いて知つたところを基礎としつつ、右の數字を解獨しなけれぼならない。第一句は四音であらう。民謠や籠歌の長句の八音は、祈半せられて四四調になつてゐるし、籠歌の最短句は四音であるから、この郷歌の最短句の三・八三音を四音と解するは不當でない。(なほ後の「三國遺事」での統計的結果は四・二一音、「均如傳」と「遺事」との平均は四・〇八音であつて、第一句が四音であることは爭へなくなる。なほ後の統計的結果の解讀も、一々に「遺事」での結果と對照してのもので(390)あるが、「遺事」に就いては後に述べ、順序上ここに書かない。)第三句六・〇四音、第七句六・三〇音、第九句五・九六音は共に六音と解すべきものではあるまいか。然らば龍歌の中句が六音であること、四句體歌に三三調六音のあるらしいことなどによく對應せられよう。第五句は七・六六であるから七音とすべきか八音とすべきかに惑ふところであるが、龍歌の形態を對照すればやはり八音となすべきであらう。龍歌では第三句短、第四句稍長となつた後、第五句第六句を共に長となすが故である。最後に第八句の七・六六音もやはり八音であらう。「遺事」では八・五一音となり、兩者を平均すれば、この句が八音の長句であることには略々疑ひがない。
 我々は今や初めて新羅郷歌の歌形及び韻律を、恐らくは大いなる誤りなしに知ることが出來た。吏道文字を以て記され從來は研究の端初さへ發見するに困難であるとせられたこの不可解の歌謠の歌形と韻律とを發見して、我々はいま朝鮮歌謠史の最大難關を超えたのである。今後の仕事は、この歌形を標準とし、「均如傳」の漢譯詩に據りつつ、先づ「均如傳」の郷歌を解讀することである。古代朝鮮語の專門學者のなすべき事業がそこにある。さて右の結果を圖記すれば次の如くになる。
   [四]     [八]
   [六]     [八]
   [八]     [八]
(391) [八]     [八]
   [六]     [八]
 これは美しい一つの定型的歌形ではないか。併し私はこの歌形を歌の内容から離れて全く統計的に發見したものであるから、絶對的に誤つてゐないとは主張すべきでない。これは眞實の歌形であるかさうでなければ眞實に最も近い歌形であり、若しも他の方法によつてこれよりも大いに離れた結果に達することがあつたとすれば、我々はその結果を却つて眞實でないと否定し得よう。この結果は、更に郷歌を内容的に解讀することにより細密に訂正せられなければならない。それは我々の切に希願するところである。ただしこの郷歌を語學的に讀むことのみを以ては、この歌形の大綱は破壞せらるべきでない。何故なれぼ右の如き歌形の大網が知られなければ、歌謠の内容を完全に解讀することは全然の不可能事に屬すといつてよいからである。
 
          一九
 
 (5) 四句體歌、十句體歌、龍歌、民謠の歌形的聞係〔十八字傍点〕。
 十句體郷歌の形態及び韻律は右の如くにして知られたが、この形態を龍歌、現在の民謠及び四句體歌に關係せしめて考へると、大いに興味あるものとなる。私は次にそれらの形式に於ける相(392)互の關係及びそれの意義を考へヘて見よう。
 1. 先づ第一に、十句體郷歌の最後の二句即ち所謂後句が、それに先立つ八句とは姿態の違つたものだといふことは明瞭になつた。その證據は、
 イ、先きに述べた如く、「後句亡」と書いて八句體になつたものがある。
 ロ、龍歌の形態が八句である。
 ハ、十句體郷歌の第五句第六句が八八音となつてゐることは、そこからまた新らしい形態の起つたことを示し、且つ龍歌の形態と共通であるから、四句體が二つ寄つた八句體を以てひと先づ歌形は完結すると見なければならない。
 ニ、文字の上で、第九句第十句がそれに先立つ句に類するものがある。「三國遺事」に於ける例であるが、
   君隱父也、臣隱〔六字右・〕愛賜尸母史也、民焉狂尸恨阿孩古爲賜尸知民是愛尸知古如、窟理叱大※[月+兮]生以支所音物生此※[月+兮]惡喰攴治良羅、此地※[月+兮]捨遺只於冬是去於丁、爲尸知國惡支持以、支知古如後句〔二字右△〕、君如臣多支民隱如〔八字右・〕、爲内尸等焉國惡大平恨音叱如。
   月下伊底亦、西方念丁去賜里遣〔八字右・〕、無量壽佛前乃、悩叱古音【郷音云報言也】多可攴白遣賜立、誓音深
史隱尊衣仰攴、兩手集刀花乎白良願往生願往生、慕人有如白遣立阿邪〔二字右△〕、此身遣也置賜、四十八大願成遣賜去〔十四字右・〕。
(393) 私はこれらの吏道歌を解讀し得ないが、その中に記された漢語を比較して推察する限りでは、後句即ち第九句第十句は、第一句第二句と歌意の上でよく類似するやうである。
 斯くして第九句第十句即ち後句は歌形の上でひとまづ前八句より獨立することが推測せられる。歌形がそこだげ獨立するものならば、謠ふ曲節の上でも後句は前八句と何等か異るところを持つたであらう。特に「阿耶」と書いてあることは、その曲節の相違を指示すると見られる。斯くして後句の最初の發生を考へるならば、本來八句體を以て完結したものが、囃子を附すると同じ意味から前八句の歌意の主部分を簡單に繰り返し、曲節をも亦そこから異らしめて、後句を附するやうになつたのではないか。但し「均如傳」の郷歌では後句の歌意は必ずしも前八句の主意を繰返したものになつてゐない。そのことは原歌を漢譯詩に參照して見て分かるのである。原歌にも漢語が多く含まれてゐるから、吏道を解讀し得ないにしてもこれを漢譯詩に對照することは可能であるが、斯く對照して見ると、漢譯詩の一つの纏まつた歌意は原歌の第九句第十句にまで及んでゐる。例を記せば、
     禮敬諸佛歌
  心末筆留、慕呂白乎隱、佛體前衣、拜内乎隱、身萬隱、法界毛叱所只至去良、塵塵馬洛佛體叱刹亦、刹刹毎如※[しんにょう+激の旁]里白乎隱、法界滿賜隱物體、九世盡良禮爲白齊、歎曰身語意業無疲厭〔七字右○〕、此良沙毛叱等耶。
(394)    禮敬諸佛頌(譯詩)
  以心爲筆盡空王 瞻拜唯應遍十方
  一一塵塵諸佛國 重重刹刹衆尊堂
  見聞自覚多生遠 禮敬寧辭浩劫長
  身體語言兼意業 總無疲厭〔十一字右・〕此爲常
また、
      稱讃如來歌
  今日部伊冬衣、南無佛也白孫舌良衣、無盡辯才叱海等、一念惡中湧去良、塵塵虚物叱※[しんにょう+激の旁]呂白乎隱、功徳叱身乙對爲白惡只、際于萬隱徳海※[月+兮]、間王冬留讃伊白制、隔句必只一毛叱徳置〔七字右・〕、毛等盡良白乎隱乃兮。
      稱讃如來頌(譯詩)
  遁於佛界※[聲の上/缶]丹衷 一唱南無讃梵雄
  辯海庶生三寸抄 言泉希湧兩唇中
  稱揚覺帝塵沙化 獨詠醫王刹上風
  縱未談窮一毛徳〔七字右・〕 此心眞待盡虚空
 その他何れの歌を見ても、譯詩は郷歌の第九句第十句にまで及び、今例示した前者にあつては、(395)訳詩は實に「歎曰」の第十一句第十二句にまで及んでゐる。即ち歌意は第九句第十句を含んで一つのものを構成するのである。併し右の譯詩を見るに、譯詩の第七句第八句はこれを除去しても前の六句で全く歌意をなさぬものではないから、それには幾分かの附加的意義が存すると見られよう。今日の十句體民謠に於いては、歌意はやはり第七句第八句を超えて第九句第十句にまで及ぶ。併し中には、第九句第十句を歌意の繰返しに使つてゐるものも見えるが、この形式は十句體歌の古い形態により〔二字傍点〕近いものであらう。
 新羅の十句體郷歌が我が志良宜歌に匹敵するものであつたとすれば、我々はここに我が上代歌謠の一つである志良宜歌の曲節を幾分か知り得ることとなつた。即ちこの形式の歌の第九句第十句はそれに先立つ八句より、曲節に於いて何等か異るところを持つたに相違ないといふことである。この境界の部分、即ち「阿耶」と書いたところで實際に如何なる曲節の變化を行つたか、このことは今にして知るを得ないが、現在の十句體民謠の曲節を多數に調査することにより何等か解決の曙光が輿へられはしないかといふ希望を私は全く放棄するものでない。
 
    二〇
 
 2. 前八句を龍歌及び四句體歌に比較して見ると、それらの間に密接の聞係のある事が分かる。
(396) イ、龍歌では第五句第六句は長長となつてゐたが、十句體郷歌でもその句は長長となつてゐる。籠歌では第三句第四句及び第七句第八句は短、稍長の關係即ち四六調となつてゐたが、十句體郷歌では同じ句は六八調の短長關係となつてゐる。
 斯うした點を比較して行くと、十句體郷歌の前八句は、四句づつ二組になつてゐると推測せられる。龍歌に於いては、歌意の上でも全く明確に四句づつ二組に分れてゐた。然らば十句體郷歌に於いても、その歌意は四句づつ二組に分れてゐるものではないか。勿論籠歌のやうに後の四句は前の四句と歌意の上で對になつた程のものではなからうが、(斯く對にしたことは寧ろ文學的の技巧から來たものであるから、)前四句によつて一の纏まつた歌意を成し、また次の四句で一の纏まつた歌意を成すものだとは、推定してよからう。ここに四句體歌、十句體歌、龍歌、現在の十句體民謠の形態を相互比較して見ると、次の如き興味深い聞係の成立してゐることが分かる。
  四句體郷歌(次の二行に山括弧)    十句體郷歌(次の二行に山括弧)
 [八]     [八]        [四]     [八] 
 [八]     [八]        [六]     [八]
  四句體郷歌の一種          [八]     [八](八八、下の六八に山括弧)
 [四]     [八]        [六]     [八]
 [八]     [八]        [六]     [八]
(397)  龍飛御天歌
 [八]     [八]        [八]     [八]
 [四]     [六]        [八]     [八]
 [八]     [八]        [八]     [八]
 [四]     [六]        [八]     [八]
                    [八]     [八]
  (左の八八、四六及び八八、四六に山括弧)
 
 これらの歌形を比較して重要な點は、
 イ、全體として奇數形が現はれず、常に偶數形が現はれてゐる。韻律もすべての一句が四四調又は三三調に折半せられる性質のものになつてゐる。このことは朝鮮の歌謠が四分の二拍子の蹈舞の囃子から發達して今日に到つたことを明らかに示すものである。
 ロ、第一句第二句を八八音にしようとする要求はすべてに亙つて強い。十句體郷歌では、全體に亙つて奇數句は短、偶數句は長にならうとしてゐるのに、第五句だけが長となつたのは、四句體歌に於ける本來の要求が現はれたものであらう。
 ハ、十句體郷歌になつて奇數句を短、偶數句を長にしようとする傾向の現はれたのは何故であるか。また龍歌より現在の十句體民謠にいたるに及び、この傾向が衰頽し滅亡したのは何故であるか〔十句體郷歌にな〜傍点〕。この事實は最も重要のものである。換言すれば、奇數句偶數句に就いて常に均斉形態を保(398)たうとする傾向の強い朝鮮の歌謠に於いて、その中間に奇數句偶數句の不均斉形態を生んだのは何故であるか。私はこの事實を基礎として、後章の論旨を展開しようと思ふのである。
 ニ、四句體郷歌の中に、第一句を短、第二句を長とする不均齊形態も必らず存在するであらうと私は考へてゐる。併し四句體歌の本來の形態は「かめ、かめ」の如き均齊形態であるに相違ないから、斯く奇數句偶數句を不均齊ならしめる形態は、十句體に同樣の不均齊形態を成立せしめた頃からのものであつて、後の發達にかかり、四句體歌と十句體歌と竝行して行はれた結果、相互影響したものであらう。
 ホ、以上諸種の形態を觀察するに、奇數句と偶數句とは相合して一對をなすが故に、歌意の上でも奇數句偶數句を合して一の歌意を成さしめる傾向が存在したと思ふ。
 ヘ、十句體郷歌の歌意は、前四句、中四句、終二句を以て一つの纏まりを生ぜしめてゐたものではないか。また歌の曲節としても、さうした三つの纏まりを持ちはしなかつたか。
 
    二一
 
 3.四句體歌は最も古くから存在し、十句體歌はその後に現はれてゐるとすれば、十句體歌は四句體歌の發達した形態であると考へるが穩當であらう。然るに歌形の構造を分析して見ると、(399)兩者の間に右の如き発達連鎖が確かに認められるのである。先づ韻律を見る。十句體郷歌の第一句が四音であつて長句の半ばになつてゐることは、長句が現在の民謡などと同じく四四調になつてゐることを示す。龍歌でも第三句第五句は四音である。隨つて四句體歌にもこの韻律が存在したであらう。四句體歌の韻律に四四調又は二二嗣が存在したであらうといふことは、「かめ、かめ」の歌の形態によつても推測せられたことであるが、十句體歌の韻律を以て顧みてもやはり同樣の結論に達した。また十句體歌の第三句、第七句、第九句が六音であるとすれば、三三調であるか、二二二調であるか、その何れかでなければならない。龍歌でも第四句と第八句とは六音である。然らば四句體歌にも六音は存在したことと思ふが、四句體歌に二二二調が存在したかも知れないことは、「來如來如來如」の歌によつて推測せられるし、三三調の存在は「龜何龜何」の歌によつて同樣に推測せられる。(この歌は二二調、三三調の何れとも見られるから。)その何れの場合を取るにせよ、三音の現はれは十句體歌が最初ではなく、四句體歌の時に既に存在したものであらうと思ふ。三音といふも三拍子の三音ではなく、一體止音を含む三音であつて、意味としては四音に同じい。蹈舞の場合にその一蹈を一アクセントとするならば、この一蹈より他蹈へ移るところに休止音の這入ることは、左右の足蹈を明確ならしめる所以であり、三音であることは四音であること以上に原始的であるといつてよい。十句體歌の如き不均斉形態を生み出せば、やがてその中から三拍子も生み出される。斯くして韻律的には、四句體歌にあつたものが十句體(400)歌の中に發展して來たのであつた。
 歌形としては、十句體歌が、前四句、中四句、後二句に分れることの明らかなる以上、十句體歌が四句體歌より發達することは、これ亦少しも疑はれない。併し四句體歌が二つ寄つて八句體歌になつたのではなく、四句體歌の各句が二句に切れて結局八句になつたものであらう。奇數句は短かく、偶數句は長い傾向を持つとすれば、この二句を以て歌意及び謠ひ樣の一聯を成立せしめたことと思ふが、然らば四句の内容が豊富になれば四聯八句に發展するであらう。最後の二句はその後に繰返し的の意味を以て附加せられた。斯く見れば、四句體歌が八句體歌又は十句體歌となることは自然の勢ひである。朝鮮の歌謠は四句體歌を母型とする傾向を特に強く含む。龍歌の場合には八句體歌といつても實は四句體歌が二つ寄つた形式のものであつた。十句體歌に於いても、第五句が長句となり前の四句より形式的に明らかなる分離を示したことは、また同樣傾向の現はれであると見られよう。
 斯うした形式的關係は我國の上代歌謠にも見られてゐる。五七調の歌謠に於いて、五音七音の二句は歌意に於いて概ね一聯をなすし、斯く二句を連ねて一聯をなしたものは、また二聯合して一つの纏まつた歌意をなす場合がかなりに多い。
例へば、
    たまきはる        第一句
(401)   内《うち》の朝臣《あそ》、      第二句
   汝《な》こそは          第三句
   世の長人《ながひと》。       第四句
   そらみつ             第五句
   日本《やまと》の國《くに》に、  第六句
   雁子産《かりこむ》と       第七句
   聞《き》かずや。         第八句
は、
  [たまきはる  内の朝臣、]
  〔汝こそは   世の長人。]
  [そらみつ   日本の國に、]
  [雁子産と   聞かずや。]
と、意味の上で四聯をなしてゐる。併しこの四聯もなほよく觀察すれば、
   たまきはる 内の朝臣、
   汝こそは 世の長人。(この二行□で圍む)
(402)   そらみつ  日本の國に、
   雁子産と  聞かずや。(この二行□で圍む)
と二聯をなすとも考へられる。
 朝鮮の歌謠が囃子から二句體歌になり、二句體歌から四句體歌になり、更に三轉して四句體歌から八句體を含む十句體郷歌に發達して行つた径路は、「龜何龜何」の歌と「龜乎龜乎出水路」とを比較して見て明らかである。「龜何龜何」の歌はシャマニズムの蹈舞に合せて謠つたものであるけれども、シャマニズムに關聯した内容をその中にいささかも含んでゐない。これは單に足蹈をすることの興味から起つた歌である。然らばその前には單純の囃子が存在したであらう。その囃子の中に蹈舞するそのことの觀念が入り込んで「龜何龜何」の歌になつた。
 この歌は(1)漢譯詩ではあるけれども、字數が精確に各句四言ではなく、「四、四、四、五」になつてゐること、(2)漢譯詩と原歌とは四言詩の場合大體その歌意の排列せられる順序を別にしないと考へられること、(3)この「龜何龜何」の歌と略んど同意同形式の「龜乎龜乎出水路」の歌と歌意の順序を變へないこと、等の事實を基礎として、原歌の形式と内容とをそのまま髣髴せしめるものと私は考へる。さて、
   龜何龜何
   首其現也
(403)   若不現何
   燔灼而喫也。
   〔右拙譯)
   かめかめ          第一句
   首《くび》出せ。      第二句
   出《だ》さなきや      第三句
   燔《や》いて食《く》を。  第四句
は、四句體歌ではあるけれども、意味の上でなほ内容を豊富ならしめれば、「龜乎龜乎出水路」の歌のやうな四句體歌になる。この唱海歌は、(1)併せ掲げられた「献花歌」が、吏道を以て書かれながらも、恐らくは四句體歌だと考へられる歌體を持つこと、(實際は第一句が長くなり、全體は三句體になつてゐる。)(2)四句の漢詩として譯されてゐることにより、依然として四句體歌であることは明らかであるが、(1)その内容は「龜何龜何」の歌よりも複雜なること、(2)七言詩として譯されてゐることにより、「龜何龜何」の歌よりも一句の音數の多いものであることが分る。
   龜乎龜乎出水路        第一句
   掠人婦女罪何極        第二句
   汝若※[立心偏+旁]逆不出獻 第三句
(404)  人網捕掠燔之喫。    第四句
   (右拙譯)
   かめかめ海路を出だせ。(海路は人名)        第一句
   女子《めこ》ら捕る罪は幾許《ここだく》。      第二句
   なほ荒び、まつろはざらば、             第三句
   網《あみ》入れて、燔《や》きて食はんぞ。      第四句
は、歌意の上より前の歌の發展したものと見られるが、この歌に達すれば、歌意複雜となり、歌の形式は既に八句體になつてゐる。即ち
   かめかめ          第一句
   海路を出だせ。       第二句
   女子《めこ》ら捕る     第三句
   罪は幾許《ここだく》。   第四句
   なほ荒《すさ》び、     第五句
   まつろはざらば、      第六句
   網《あみ》入れて、     第七句
   燔《や》きて食《く》はんぞ。第八句
(405)となるのである。併しまた「かめかめ、首出せ」の歌を歌意の上より見て、二句體歌であると考へることも出來る。
   [かめかめ  首出せ。]     第一句
   [出さなきや 燔いて食を。]   第二句
 四句體歌と考へられる郷歌の中で、吏道を以て記されたもの二首は、第一句と第二句との間の句切れを缺くけれども、歌意の上で第一句第二句の連結が強いために斯くなつたものであらうか。
 四句體歌がその内容を豊富ならしめ、八句體歌になつたとすれば、(1)その内容を一層緊縮させて力點を明らかにし、(2)本來の囃子的傾向を失はないために、最後に歌意の主部分を繰り返す二句を置けば、次の如き十句體歌となる。但しこれは一の典型であつて、斯くの如き歌が實際に存在したといふのではない。
   かめかめ   海路を出だせ。     第一句、第二句
   女子ら捕る  罪は幾許。       第三句、第四句
   なは荒び   まつろはざらば、    第五句、第六句
   網入れて   燔きて食はんぞ。    弟七句、第八句
  (阿耶)
   かめかめ  海路を出だせ。      第九句、第十句
(406) 4.四句體郷歌より十句體郷歌に移つた時に著しい相違をなしたものは、奇數句を短句、偶數句を長句になす傾向の起つたことである。四句體歌は中央より折半せられる傾向の韻律を持つし、またそのことは朝鮮歌謠一般に強い傾向であつた。然るに十句體歌になつて突然短句長句を交互に排列する傾向の起つたのは何故であるか。この形式は後にまた衰頽したとすれば、これには何等か重要の原因を考へなければなるまい。十句體歌は恰かも斯く短長句を交互に排列しようとする傾向と八八調の偶數的整斉形態を支持しようとする傾向との争闘干渉を表現するものになつてゐる〔十句體歌は恰〜傍点〕。それ故に大部分の句は奇數句に於いて短となつたが、第五句だけは依然として長句を支持した。併しこの定型は新羅郷歌の全歴史を通じて常に同一に止まつたものではなく、兩傾向の何れかに多く偏倚した中間的形態のものを幾つも殘留せしめてゐたものではないか。そして大體は、古いもの程奇數句を長くする傾向を多く止めてゐたものではないか。このことは「三國遺事」の十句體郷歌を分析した結果考へられることである。併し一層後になれば、奇數句はまた昔の如く長句となる。然らば「均如傳」の郷歌に達するまでの途中には、奇數句が或は七音或は八音より成るものが存在したとしても決して不都合ではない。實際にそのことは存在したに相違ないのである〔奇數句が或〜傍点〕。併しまた他面の方向を考へれば、第五句をも短句にしようと欲する傾向は存在したに相違ない。第五句が完全に短句になれば、十句體郷歌の形式は一層よく我が長歌の形式に類似して來る。今日までのところ、斯く第五句を短句にした郷歌は存在するとも見えないが、(訓み方によ(407)つてはさうなつてゐるものが現に知られてゐる郷歌の中にあるかも知れないが、)なほ若し現在の民謠の中にさうした形態が存在したとすれば、我々は、新羅時代にもさうした形態が存在したといつてよいであらう。このことは民謠をなほ數多く調査しなげれば分らないことであるけれども、私はさうした例を發見し得る希望を持つてゐる。
 斯くして私は.十句體郷歌の中にはとにかく奇數句を短かく、偶數句を長くする傾向が動いてゐたと主張したい。そして十句體郷歌の持つ傾向を典型的に具現せしめたものは、短句長句を奇數句と偶數句とに於いて交互に排列せしめた歌形であつたと考へたい。さうした形態のものを私は今後、短句長句交互排列形態〔十字右○〕と呼ばうと思ふ。それゆゑ短句長句交互排列形態は、十句體郷歌のイデエであつて、現實的に存在した歌形がすべてそれであつたと言つてゐるのではない。また今後私の調査した韻律數がよし誤つてゐたことが明らかにせられたとしても、確實なる方法によつて私の調査の訂正せられることは私の熱心に希ふところであり、よし如何に訂正せられたにせよ、私の論の主眼とするところはこの歌形のイデエであり、イデエに關してのこの觀察は決して變更せられ得ないと考へるのである。今後は敍説の内容を成るべく簡約ならしめるために、十句體郷歌の歌形をいふ場合第五句を短句と呼ぶことがあつても、それは歌形のイデエを言つたものであるから、そのことを此處に斷つて置きたい。
 
(408)     二二
 
 (6) 十句體郷歌の歌形と我が上代歌謠の歌形との關係〔二十二字傍点〕。
 新羅の十句體郷歌が既に觀察して來たやうの形式のものであつたとすれば、これと我國上代の長歌の形式とが如何によく類似するものであるかは一見して分かる。今兩者の比較を略記して置かう。
 L 短句長句を交互に排列することが兩者に同一である。
 2.長歌では最後に繰り返しの意義を持つものより發達した長句を一句置いたが、郷歌では恐らくは同樣意味のものより發達したと思ふ所謂後句二句を最後に置いてゐる。
 3.我國の長歌は五七調であるけれども新羅の郷歌の短長句は六八調である。併しこの韻律は互いに無關係のものではない。謠ふ場合には五七調も六八調も同一になつて來る。即ち五音及び七音のそれぞれ一音を長く伸ばすか、或は五音及び七音のそれぞれ次位に一休止音を置けば、直ちに六八調になる。また四分の二拍子を以て我が五七調の長歌を歌はうとすれば、さうして六八調にすることが最も簡單であつたらう。今朝鮮の八音と我國の七音とを對照すると次の如くになる。
(409) 2/4  ♪♪♪♪|♪♪♪♪|   朝鮮のもの。
  2/4  ♪♪♪♪|♪♪♪ |     我國のもの。
      ♪♪♪ |♪♪♪♪|     同じく。
      ♪♪♪♪|♪♪♪休止符|   同じく。
 それゆゑ朝鮮の六八調の韻律に隨つて我國の五七調の長歌を謠ふことは、少しも困難ではない。
 4.十句體郷歌の第一句は四音になつてゐるが、我國の長歌にもそれと同じ類例を幾つも見出し得る。また郷歌第五句が八音になつてゐるとすれば、この歌謠の曲節に合せて我國の長歌形のものを謠ふときに多少の齟齬を感ずるであらうが、郷歌の第五句は他の奇數句の如くに短かくならうとする傾向を持つし、また長歌の五音の各音を長く伸ばして謠ふことは少しも珍らしい例でなかつたから、よし郷歌の第五句の謠ひざまが他の奇數句よりも長かつたにしても、これに我が志良宜歌の如き歌形を適用することは困難でなかつたでゐらう。
 5.十句體郷歌は四句體郷歌より發達した。即ち四句體郷歌の内容が豊富となつたとき四句體歌を二つ寄せたやうの形式のものを生み、更に四句體歌の原型の二句體歌を加へて十句體歌を成立せしめた。我國の長歌や短歌も同樣にして成立したものでないかといふ推測は、ここに一の旁證を得たのである。片歌形のものが二つ寄つて旋頭歌形となり、更によく融一せられた形態の短(410)歌となつたことは、先づ疑ふを得ないものであらう。
 
    二三
 
 (7) 所謂三句六名に就いて〔十字傍点〕。
 郷歌の形式がいかなるものであつたかに關しては、實際の郷歌が幾十首か「三國遺事」と「均如傳」とに記載せられてゐる以外に文献として何等詳密の記述を持たないのである。ただ僅かに忖度の資料となる一句が「釋均如傳」の中に記されてゐる。「均如傳」の郷歌十一首は直ちに漢譯せられて「均如傳」中に併せ記されてゐるが、その譯詩の序文に漢詩と郷歌との異同が論じられてゐる。詩と歌と「一源の兩派」であり、「同體異名」「眞草並行」すべきものだなどと記してあるが、なほ次の文は注目せられなければならない。  「然而詩構唐辭、磨琢於五言七字〔四字右・〕。歌排郷語、切磋於三句六名〔四字右・〕。論聲則隔若參商、東西易辨據理則敵、如矛楯強弱難分。」
 郷歌の形式に關しては、僅かに一句の記述であるけれども、原文に誤寫のない限りその記述は絶對的の價値を持つて、他のいかなる推論もこれを排すべきでない。然らば右の文章の意味は如何なるものであるか。唐詩に就いて、唐語を「五言七字」に形式立てるといふはあたつてゐる。(411)五言排列は五言詩、七字排列は七言詩を意味するに相違ない。次に郷歌に就いては、郷語を排列して「三句六名」に形式立てるといふのであるが、その三句六名とは何を意味するか。
 l. 三句といふ限りは、とにかく郷歌の形式中に三句體のものが存しなければならない。
 2. 六名の「名」とは何であるか。唐詩の場合には「五言」といひ「七字」といひ、漢字の文字を意味したが、郷歌の場合にも、「六名」は郷語の音數を意味するのであるか。「名」には「文字」といふ語義があるから、上の「七字」に對して「六名」といつたやうに見える。六字の吏道、又は六つのシラブルを意味するのであるか。先きに郷歌の句に短句と長句とのあることを推論したが、短句と長句との何れもが六シラブルでゐるといふのであるか。上に「五言七字」と書いて、「言」と「字」とは同義になつてゐたが、然らば「三句六名」に於いても「句」と「名」とは同義に使はれて、共に句の數を意味するのであるか。何れも單なる推測であるから、推論の確實なる基礎にはならない。「六名」の解義に就いては、今の場合我々はすべての推測を中止して確實なる資料のなほ多く蒐集せられる時まで待つより外に仕方がない。(註一)
  (註一) 朝鮮の文献の中に鮮語の歌の作法又はそれの形態韻律に就いて書いてあるものは甚だ少ない。僅かに魚叔權の「稗官雜記」二に次の如く書いてあるのを見た。「歌詞の體、律詩と同じからず。律詩は上下平聲を以て平と爲し、上去入聲を以て仄と爲す。歌詞は即ち四聲各々その職とするところあり。而して仄聲相通使せず。」(「朝鮮群書大系」本、五〇六頁〕
(412) 3.三句の郷歌とは、我々が先きに觀察して來た二句體、四句體、十句體の郷歌の何れを指すのであるか。四句體歌の吏道を以て記されたものの中には、偶然か故意か第一句と第二句との結着して記された結果、三句體の形式になつたものが二首あつた。然らば「三句」の郷歌とは右のものを意味し、四句體歌は元來三句體歌であるか。併しこの「均如傳」に記された郷歌はすべて十句體歌であるとすれば、三句とは、十句體の郷歌に就いて言つたものと見るが寧ろ穏當であるまいか。
 4.十句體の郷歌に就いてこれを三句と數へることが絶對に必要であるかどうかは、我々の現に得てゐる資料では何れとも斷定出來ない。
 併し今假りにこの事が必要であつたとすれば、我々は次の如き推測説を立てることが出來るであらう。
 我々は先きに十句體郷歌と四句體及び二句體の郷歌との形式を比較研究した結果、十句體郷歌は意味の上で次の如き構成を持つものでないかと推測した。
 最短、 長
 短、  長(この二行□で圍む)   第一聯
 長、  長
 短、  長(この二行□で圍む)   第二聯
(413)  (阿耶)
  [短、  長]   第三聯
 然らば「三句」とは、これら三個の歌聯を意味するのであるまいか。そして「均如傳」に「三句」と明記せられてゐることは、結局逆に郷歌の構造が斯くの如き三つの歌聯より成ることを旁證するものであるまいか。但しこれは單なる推測である。
 
     二四
 
 5.三句六名に就いては以上の事をいふ外に最早資料はないが、十句體郷歌が三聯的構成を持つことに就いては、なほ序でに記すべきことが多い。第一には我が志良宜歌が、意味の上で正しくこの構造を持つことである。
   あしぴきの 山田を作り、
   山高み 下樋を走せ、 (この二行□で圍む)    第一聯
   下問ひに 我が問ふ妹を、
   下泣きに 我が泣く妻を、(この二行□で圍む)   第二聯
   (阿耶) (註一)
(414)  [今夜こそは 安く膚觸れ。]    第三聯
  (註一) 郷歌と同樣に、第九句と第十句との間に假りに「阿耶」を挿入した。
 6.志良宜歌が朝鮮系の曲節の歌謠であつたとすれば、我國の上代歌謠の他のものも朝鮮系のそれによつて影響せられたに相違ない。然るに新羅系の歌謠は四句體十句體の如き偶數歌體を持つに對して、我國のそれは三句體(片歌)三句二聯複合體(旋頭歌)五句體(短歌)の如き奇數歌體を持ち、我國既成の歌謠を新羅系の歌謠の曲節の中に適合せしめ難い状態にある。換言すれば、我國の歌謠は意味の上で奇數句形態を持たうとするに對して、朝鮮の歌謠の曲節の形式は偶數的であつたとすれば、我國の歌謠を朝鮮系の歌謠の曲節を以て謠ふことは、不可能ではないまでも困難のものに相違ない。併し朝鮮系の歌謠の形式を以て謠つたものは僅かに志良宜歌一つであつたとは考へることが出來ない。後に論ずる如く、志都歌の返歌といふものも志良宜歌系統のものであると思ふが、然らば志都歌の曲節にも朝鮮系の歌謠の曲節が影響を與へてゐるのである。その他幾つかのものが朝鮮系の曲節を以て謠はれたであらう。然るに何歌何歌と曲節名の註記せられてゐるものの大半は、言葉として五句體即ち短歌形式を持つのは何故であらうか。五句體のものも朝鮮系の曲節を以て謠はれ得るものであらうか。
 斯樣に考へた時、我々は奇數歌體と偶數歌體との關聯が那邊にあつたかを推測しなければならなくなる。私はそれに關し次の如き假説を考へたのである。
(415) 十句體の郷歌を三聯より成ると考へれば、その形式は、先きに述べた如く、
 第一句、第二句
 第三句、第四句 (この二行□で圍む)
 第五句、第六句
 第七句、第八句 (この二行□で圍む)
 (阿耶)
 [第九句、第十句]
となるが、これはそのまま短歌の根本形式であると言へよう。私は右の事實を基礎として、短歌形式の固定したのは朝鮮歌謠の曲節形式に影響せられたがためであるとは直ちに斷定しない。斯樣に見るのが眞であるかも知らないが、今のところその論をなすには論證の筋途は完全に整へられてゐない。併し短歌形式の歌謠を、この朝鮮系の歌謠の形式に合せて謠ふことが可能であつたことだけは、結論し得ると思ふ。短歌の形式は次の如きものである。
  [第一句、第二句]
  [第三句、第四句]
      [第五句]
(416) 我國上代の歌謠形式が多く短歌形式を持ち、朝鮮系歌謠の曲節によつて謠はれる場合にも、特に偶數歌體の形式に轉宗改作せられる必要のなかつた理由は、此處にあつたと想像せられないであらうか。
 7. 朝鮮には、古代文化の形式のそのまま殘存するものが少なくない。必ずや歌謠に就いても同一のことが言へるであらう。朝鮮現在の民謠に就いては後の章に詳論するが、既に八八調の四句體歌と十句體歌とが民謠の主たる部分を占めてゐることだけでも、我々の注意を民謠の上に注がせるに十分なるものがある。私は現在の民謠の形式及び曲節の中に、往時の新羅郷歌の形式及び曲節は必らず殘存してゐるに相違ないと信じ、朝鮮民謠の研究を重視するものである。
 金素雲氏は「朝鮮民謠の律調」(「民俗藝術」第一卷第十二號所載)の中で、
  「なほ朝鮮氏謠が他の國の何れにも影響せられず、專ら獨自の母胎に青くまれたことは、いささか自負する所で、その系統にも鮮明な區別が擧げられる。即ち、蒙古、女眞、新羅の三系統がそれで、就中純粹なは新羅の流れに由る南朝鮮一圓の民謠であらう。」
と言はれてゐる。朝鮮民謡の代表的なる一つとして氏の擧げられたものは「アリラング」であるが、これは歴史的に古く發生した民謠ではない。(註二)併しそれでも形式を見るとやはり新羅系歌謠の根本形式がそれの根本形態を作つてゐるやうに見えるのである。
  (註二) 「次に私の面白いと思ふの性、アラランの唄です。 これは極めて新らしい時代の民謡であると(417)傳へられてゐます。それは今から六十年前、李朝末期の豪傑大院君が、景福宮の復興を計画して、朝鮮八道に命じ多くの人夫を徴發しました。此時四方から召しに應じて來た各道の土民達は、各々郷土の唄を謠つてその勞苦を慰めたと申します。後年李太王は、殊の外これらの民謠を愛好せられたとかで、何時しかこの郷歌から新らたなる民謠が産出せられるに至つたのであります。」(市山氏嗣「朝鮮民謠の研究」一三三頁。清水兵三氏論文「朝鮮の郷土と民謠。」)朝鮮の民謠が語られる時にはアリラングの唄が語られない場合はないほど、この唄は有名のものである。
 
 民謠の形式と曲節とを諭ずるにアリラングの唄を擧げることは全く適切のものでないげれども、今の場合已むを得ずこの唄を掲げて形式を觀察しよう。同氏は音數を邦語に一致せしめて右の歌を邦譯してゐられるから、煩雜を避け譯歌を左に掲げる。京畿道地方のもの、
   [ムンギヨング峠     樫の木は、]
   [きぬた削るに    みな伐られる。]
    アーリラング/\、 アラリーヨー、
    アリラング    [跳ぬて遊ぼよ。]
また西道地方のもの、
   [途は遠く   夕陽《ゆふひ》も暮れるに、]
(418)   [手綱《たづな》捕へて きみは 涕《すゝ》り泣くよ。]
    アリラング/\、 アラリガナンネ、
    アリラング  [せめて峠まで。]
また江原地方のもの、
    [植ゑた豆は    實《な》らいで、]
    [アヂユカリ、柊柏《とうはく》、なぜ實《な》る。]
    アリラング/\、 アラリヨ
    アリラング オルシコ [遊んでけ。] (註三)
  (註三) 西道地方のアリラングの最後の句は、金氏の譯には修辭を顧慮して「せめてアリラング峠まで」と書いてあつたが、今は形態の方が肝要であるから、原歌の alirang kogero の順序により、「アリラングせめて峠まで」にした。
 
 これらの例によつて見れば、アリラングに於いては、囃子を除いた歌謠の本文は (1)長句二句、短句一句より成り、(2)それらの句の排列は全く郷歌と同一であり、(3)第二句と第三句とは歌意の上では連續するが、曲節の上では全然隔離せられてゐることなどの點で、新羅上代の郷歌の形式(419)に對比せしめらるべきものがある。また兩者の間に關係あることが眞實だとすれば、郷歌に於いては前八句と後句との間にアリラングの如く何等かの囃子の這入るものがあつたか、或は囃子は這入らないまでも曲節に於いて後句だけ前八句と別のものになつてゐたことが推測せられる。またアリラングの曲譜を見ると、「ムンギョング峠、樫の木は」は第一句第二句と分離せず、二句を以て一節をなしてゐるから、郷歌の場合にも短長の二句が合して單節をなしたことが推測せられよう。(註四)
  (註四) この歌形分析はアリラングの唄に對してだけのものであり、その他の民謠に對してもこれと全く同一樣式の分析を適用することが出來るといふのではない。現在の民謠に十句體のものが多いといつても、それは囃子風の句をまで含めてのものであつて、その囃子風の句の位置も一定してゐない。アリラングの唄の如きは、ひとまづ四句體の唄であるといふが至當であらうか。囃子風の句の位置などについてももう少し統一的の觀察を下し得るほどに、現在の民謠を蒐集したいものである。
 我が志良宜歌が上代に實際いかやうの曲節を以て謠はれたかは、朦ろげながらも次第に明らかになつて來た。
 
(420)    二五
 
 (乙)「三國遺事」に於ける十句體郷歌〔十三字右△〕。
 「三國遺事」に於ける郷歌は、一般に「釋均如傳」中のそれよりも制作年代の古かものである。隨つてこの記載は傳承の間に極々の變改を受けたことと思ふ。併し先きに述べた統計的方法を適用するには一向差支へない。 1.句切れなく、六十一字の吏道を以て成る一首があるが、統計の中からはこれを除外しなければならない。短句と長句との平均字數を求め、それを以てこの六十一字を除すればこの歌は後句の脱したものであることが分かる。また他の一首には、「後句亡」と書いてある。斯うした事實を基礎とすれば、古い郷歌では、既に述べた如く(1)後句即ち第九句第十句は歌意の上でも前八句より獨立し易く、隨つて前八句の歌意はそれを以てひとまづ完結し、後句は附加的の意義を持つたものであらう、(2)歌意の上で後句は前八句の主たる意味を繰り返すものであつたかも知れぬ、などの事がほぼ確實に推定せられるのである。
 2.次に統計の結果を示さう。
(421)1   2   3    4    5    6   7    8       9 10  六  一一  一〇  一〇   九   九   七   五       [一三]
  四   八    [一一九]  [二〇]    一二  八四(後句) 八  一三
                                (註一)
  五   七  一一   九    九   八   九  九阿耶    八  一〇
  五   九   八  一〇 千隱手〔三字右・〕 五  一一  六  一三阿耶也  九  一一
  五   八   六  一一   一〇    [一四]  八(阿耶)  六   九
  四   九   八   九    八    [一七]  八阿也     [一四]
  六  一四    [一六]   一一   一二  九  一一後句   九  一四
  六  一〇   九  一三   一一行尸浪〔三字右・〕 八  七世理都〔三字右・〕七 後句亡
  四    [一九]   八     [二〇]    [一六]阿耶     [二一]
 (平均)五・〇 九・五 八・九 九・七   九・二  九・三  八・二   八・六   八・〇 一〇・一
 (註一) 第二の歌に「後句」の上に「四」と書き添へてあるのは、實際は「支知古如後句」と書いてあつて、「支如古如」の所屬が不明であるから、ひとまづ除外したのである。
この結果を見るに、
五・〇  九・五    短、 長
八・九  九・七    短、 長
 九・二  九・三    短、 長
(422)   八・二  八・六    短、 長
   (阿耶)         (阿耶)
   八・〇 一〇・一    短、 長
となり、短長二句をもつて一聯を構成せしめることは、「均如傳」に於けると全く同一である。
 3.この統計的結果を解讀するに、「均如傳」に於けると全く同樣に、第五句を除いた他の奇數句はすべて偶數句よりも短かいと考へることは至當であらうか。一應奇數句とそれに對する偶數句とを比較して行くに偶數句は必らず奇數句よりも長くなつてゐる。また偶數句をそれに次ぐ奇數句に比較すれば、奇數句は必らず偶數句よりも短かい。このことは「均如傳」の結果と全く同一であつて、兩者の場合を通じただ二つの例外もなかつた。それ故奇數句は一般にそれと對になる偶數句よりも短かい〔兩者の場合〜傍点〕と觀察することは、「三國遺事」にもそのまま適用せられ得よう。また第五句が第六句と同長の長句であるらしいこと、第一句が他の短句よりもなほ一層短かいことも、「均如傳」の結果に一致してゐる。それ故「三國遺事」の郷歌の歌形は「均如傳」のそれと同一性質のものであると主張しても、決して不當だとは言はれない。ただ注意すべきことは、第三句、第五句の長さがそれに對する第四句第六句の長さよりも際立つては短かくないことである。この統計的結果を何と解讀すべきであらうか。
 イ、併しとにかく全體に於いて「均如傳」の郷歌のそれに一致してゐるから、奇數句は偶數句(423)よりも短い傾向を持つとしなければなるまい。
 ロ、今の統計的結果は、「三國遺事」のそれよりも精確であることが出來なかつた。各句の句切れの明らかでないものが多く、さうした場合單純に折半した結果を統計の中に加へた。各句の長さの差は、隨つてこの統計の中に際立つて現はれない結果を生んだものであらう。
 ハ、十句體歌は、時代の古いものはど四句體歌に近づく傾向を強く持つと見なければならない。隨つて「三國遺事」に載つてゐる郷歌の奇數句は、「均如傳」のそれよりも長さに於いて際立つて短かくないものを多く含んだかも知れない。「三國遺事」の郷歌では第三句、第七句、第九句などが長句又は長句に極めて近い長さのものになつてゐた場合があつても、私が十句體郷歌の一般的傾向として觀察した短句長句交互排列形態は棄却せらるべきでないし、またこの傾向を破る實例は必らず存在したとしなければならない。古代鮮語の知識を以て「三國遺事」の郷歌を解讀するものは、歌形に就きこれだけのことを預想して置くことが必要である。
 以上のことは斷言し得ると私は思ふ。さてこの歌形の韻律を計算して見る。第二句第四句第六句の長さが略々同一になつてゐるから、その三句の平均字數九・五を長句の八音に相當するものとして換算する。
   [四・二一]    [八]
   [七・四九]    [八]
(424) [七・七五]    [八]
  [六・九一]    [七・四五]
  [六・七四]    [八・五一]
 この結果を見ると、第一句は依然として四音と推定せられる。第五句も亦八音の長句と見るべきであらう。偶數句の第八句第十句も亦、「均如傳」などの例から推してこの位の數字ならば八音の長句と見るべきであらう。ただ疑問になるのは、第三句第七句第九句であつて、これらの句は六音、七音、八音の何れであるか判明しない。統計的結果だけで言へば七音位に見るが適當であるけれども、この郷歌に七音のりズムの現はれることは困難であるから、やはり六音の字餘りか八音の字足らずであると見るべきであらう。
 4.「釋均如傳」の統計的結果と「三國遺事」のそれとを平均すれば次の如くになる。(實際は歌數の比をも統計の中へ加算しなければならないが、このことを省略した。)
   四・八   九・五   短、 長
   八・〇   九・五   短、 長
   九・一   九・四   短、 長
   七・八   九・一   短、 長
   (阿耶)
(425)  七・五   九・六   短、 長
 この統計的結果に於いても、奇數句はそれと對になる偶數句より短かく、偶數句はそれに次ぐ奇數句より長いことには一つの例外もない。偶數句の數字は殆ど同一になつてゐるから、五句の平均九・四二字を八音と見て他の句の音數を計算すれば次の如くになる。
   [四・〇八]   [八]
   [六・七九]   [八]
   [七・七三]   [八]
   [六・四一]   [八]
   [六・三七]   [八]
大體に於いては、次の如き韻律む表現すると觀察して大いなる誤謬を持たないであらう。
   [四]      [八]
   [六]      [八]
   [八]      [八]
   [六]      [八]
   [六]      [八]
 
(426)    二六
 
 5.「三國遺事」の統計の歌の第四に、「千隱手」、第八に「行尸浪」及び「世理都」の語の書き加へられてゐるのは、實際の歌に就いて見れば次の如きものである。
  膝※[月+兮]古召※[方+尓]、二尸掌音毛乎攴内良、千手觀音叱前良中、祈以攴白屋尸置内乎多、千隱手〔三字右・〕、叱千隱目※[月+兮]、一等下叱放一等※[月+兮]除惡攴、二千萬隱吾薙、一等沙隱賜以古只内乎叱等邪阿邪也、吾艮遺知攴賜尸等焉、放冬矣用屋尸慈悲也根古。
  物叱好支栢史、秋察尸不冬爾屋攴堕米、汝於多攴齊教因隱、仰頓隱面矣改衣賜乎隱冬矣也、月羅理影攴古理因淵之叱、行尸浪〔三字右・〕、阿叱沙矣以攴如攴、兒史沙叱望阿乃、世理都〔三字右・〕、之叱逸烏隈第也。後句亡。
 これら二つの歌の形式を詳密に調べると、「千隱手」「行尸浪」「世理都」の語を除き去つても句の數には不足を來さない。それ故にこれらの語は歌を離れて何等か特別の意味を含むものではないかと考へられる。或はこれらの語は、それの上又は下の句より脱落して別の句をなす如き形態を呈したものであるかも知れないが、上代鮮語を解し得ない私は何とも判斷することが出來ない。それの前後の句の何れかより脱落したものである場合には、問題は起らない。併し若しさ(427)うでなくて独立した語であり、「均如傳」の中の「城上人」、この「遺事」の中の「阿邪也」などの如く何等か音樂上の指定語であつたとすれば、郷歌の曲節に就いて一層詳密の知識を得ることになるから、その結果は興味あるものにならう。(註一)
 (註一) 小倉進平氏にこれらの語の意味を質問したところ、氏の御意見では、これらの語は何れも「阿耶」とは全然別種類の用法に屬するものであつて、「千隱手」はその次の第五句に附き、「行尸浪」は第五句の終に附き、「世埋都」は第八句の頭に附くものと考へるといふことであつた。小倉氏は懇切にその語の發音及び音義をも教示せられたが、萬國音標文字の活字を本書に使用することの困難を思つて省略した。
 
 6.單に「後句」と書かず、「支知古如後句」と書いた場所がある。「支知古如」は第八句の終の部分がここに脱落したものであらうか。第七句十二字、第八句八字になつてゐるから、これを第八句に合するが自然のやうでもある。或は音樂上の指定語であらうか。今は何れとも定め難い。
 7. 十句體郷歌もただ一種の曲節を以て謠はれたものではなく、それに曲節の幾つかの種類があつたらしい。「安民歌」などいふ名目も見えてゐる。
 
(428)    二七
 
(三)新羅に於ける郷歌の發達〔十一字右○〕。
 新羅に於ける郷歌の形式が如何なるものであつたかに就いて、私は略々殘る處なく考察した。確實たる資料を基礎とし、單なる想像を避けて、我々の成し得る限りの確定は、ひとまづ以上の考察を以て止まらなければならない。私は次にこの所謂郷歌が歴史的に如何なる發達をなしたかを略敍したい。但し今は詩歌として見たこの郷歌の形式と内容との發達を主眼として考察するのであるから、それ以外のことには觸れないこととする。
 1.朝鮮人は元來一般に歌謠舞蹈を好愛する民族であつたと見える。支那の古い文獻記録者が鮮人の習俗を記す場合には、第一にこの事實を記載することを忘れなかつた。私は今朝鮮歌謠史の最も古い部分を觀察するために、斯うした場合に最も古い文獻として取られることを常とする「魏志」の「東夷傳」の記載を尋ねて見よう。「魏志」は晋の陳壽が西紀第三世紀の半頃に著し、(陳壽は西紀二九七年に死んでゐる)その「東夷傳」は多く「魏略」に據つたものであると考へられてゐる。「魏略」は魏人魚豢の著であるが、「魏志」の註記として屡々引用せられたところに僅かにそれの面影を殘した。陳壽も魚蒙もとにかく魏の時代には生存してゐた人であるから、(429)西紀二三世紀頃の朝鮮の事實を知るにはこれ以上に原的価値を持つたものはなく、その記載する事實にも餘程の程度の信憑を置き得る。
 「東夷傳」に就いて朝鮮民族の音樂舞蹈生活を記載した部分を悉く書き拔いて見よう。夫餘に關しては、「正月天を祭る。國中大會して連日飲食歌舞す。名づけて迎鼓といふ。この時に於いて刊獄を斷じ囚徒を解く」とある。この記事はシャマニズムに關聯して東北亞細亜民族に共通であつた民族大會の記録であるが、後に纏めて考察したい。また「道を行くに晝夜老幼となく皆歌ふ。通日聲絶えず」とあるから、餘程よく歌謠を好愛したものであらう。崔南善氏は「朝鮮は文學國でないかは知らぬが、確かに民謠國である。」「朝鮮人は劇的よりも音樂的の國民である。器樂的よりも聲樂的國民である。かるが故に、彼等の韻律の生活、詩の歴史は長くして太きを見る」(市山盛雄氏編「朝鮮民謠の研究」所載論文、崔氏「朝鮮民謠の概觀」三―四頁)と言はれてゐるが、聲樂を好むこの民族性の由來は古いものであつた。朝鮮の田舍に現在住む老婆などがいかによくそれらの民謠を傳承し謠つてゐるかに就いて、我々はその實例を幾度となく聞かされてゐる。次に高句麗に關しては、「漢の時鼓吹の技人を賜ふ」とあるから、漢代には朝鮮音樂の上に支那の音樂の影響が確かに多少ながらも存在したと見なげればならない。「その民喜んで歌舞す。國中邑落暮夜に男女羣聚して相就いて歌戯す」とあるのは、略々我國の歌垣の如きものであつたらう。「十月を以て天を祭る。國中大會す。名づげて東盟といふ。その公會衣服皆錦繍金銀以て自ら飾(430)る」は前に見た民族大會の記事である。※[さんずい+歳]に關しては、「常に十月の節を用つて天を祭る。晝夜飲食歌舞す。これを名づけて舞天となす」とある。馬韓に關しては、「常に五月を以て種を下し訖つて、鬼神を祭る。羣聚歌舞し酒を飲み、晝夜休むなし。その舞ひ數十人、倶に起つて相隨ひ、地を蹈み低昂、手足相應ず。節奏鐸舞に似ることあり。十月農功畢つて亦復この如くす。鬼神を信ず。國中各々一人を立て天神を祭ることを主どらしむ」と歌舞の模樣の記載が甚だ詳しい。最後に弁辰に關しては「俗喜んで歌舞飲酒す。瑟有り、その形筑に似たり。之れを弾く亦音曲あり」と記されてゐる。以上諸記事を綜合して觀察するに、西紀第二三世紀頃の朝鮮では、(1)民族一般に歌舞を好愛したこと、(2)暮夜男女群集して歌戯する歌垣風の俗のあつたこと、(3)何等かの樂器も存在したこと、(4)支那の樂器が輸入せられ、必ずや支那の音樂の影響をも受けたであらうといふこと、(5)國中大會があつてそこでは群集の蹈舞が行はれたことなどが、先づ何の疑ふところもなく確證せられる。(註一)
  (註一) 支那の古書の記録はその他のものを擧げても大體右の記載と重複してゐる。右の「魏志」が第一の資料となつて、それらに幾分の増補が加はつたに過ぎぬものだからである。今煩を厭はず、取扱つた年代の順序にそれらの記載の幾分を記して見ると、「後漢書」の東夷傳は、高句麗の習俗に就き、「暮夜輙ち男女群聚して倡樂をなす。好んで鬼神社稷零星を祠る。十月を以て天を祭り大會す。名づけて東盟といふ」。※[さんずい+歳]に就いても「常に十月を以て天を祭る。晝夜飲食歌舞す。これを名づけて舞天となす」。(431)三韓の馬韓に就いては、「常に五月を以て田し竟る。鬼神を祭り昼夜酒會し、群聚歌舞す。舞は輙ち數十人相隨うて地を※[足+搨の旁]み節を爲す。十月農功畢れば亦復之の如し、」辰韓については、「俗、歌舞、飲酒鼓瑟を熹しむ」と記してゐる。「梁書」の諸夷傳には、高句麗につき「その俗歌舞を喜ぶ。國中邑樂、男女夜ごとに群衆歌戯す。」「魏書」の高句麗傳には、「その俗婬にして、歌舞を好む。夜は則ち男女群聚して戯る。」「常に十月を以て天を祭る。國中大會す。その公會衣服皆錦繍、金銀以て飾となす。」「周書」の異域傳には高麗を敍して、「風俗淫を好み、以て愧となさず。遊女なるものあり、夫に常人なし。」とある。既に「賣婢」が存在したのであるが、隨つて歌謠は賣女の歌ふところであつたかも知れない。「隨書」の高麗傳には、「樂に五絃琴、篳篥、横吹、簫、鼓の屬あり。蘆を吹いて以て曲に和す。毎年初め※[さんずい+貝]水の上に聚戯す。」「婦人淫奔、俗に遊女多し、」新羅傳には「その文字甲兵、中國に同じ、」「八月十五日に至り、樂を設け、官人をして射せしむ。」「南史」の東夷傳には、高句麗に就き、「俗歌傑を喜び、國中邑落」云々、「十月を以て天を祭る」云々、「北史」の東夷傳には、高句麗に就いて、「樂に五絃琴、箏、篳篥、横吹、簫、鼓の屬」云々、「歌舞を好み、常に十月を以て天を祭る」云々、「俗に遊女多く、夫に常人なし。夜は即ち男女群聚して戯る。」百済に就いては、「鼓角、箜篌、箏、竿、※[竹/虎]笛の樂あり。」新羅に就いては「八月十五日、樂を設け、官人をして射せしむ」とある。
 
(432)    二八
 
 これらの記事の中で私が特に重視したいのは、言ふまでもなく所謂國中大會の記事である。その記事は夫餘と高句麗と馬韓とに現はれ、それそれに「迎鼓」「東盟」(註一)「舞天」の名を以て呼ばれてゐた。民族の全衆を擧げての斯うした國中大會は、一種の國民議會でもあれば、また民族的の宗教行事でもあつた。農業と關係が深かつたことは、五月種を下し終つた時又は十月農功の終つた後にそれが行はれたことで分かる。この宗教的行事では天を祭つた。シャマニズムの一の民族的行事であつたことは、「舞天」なる語が女巫を現はす今の朝鮮語のMutanと同一語であるによつても知るを得よう。民族の宗教的行事と政治的決議との一緒になつた斯うした國中大會は、後まで長く東北亞細亞諸民族の間に共通に行はれてゐたものである。(註ニ)我々はその國中大會に就いての「魏志」の記載がかなりに詳密であるために、西紀第二三世紀頃のシャマニズム的行事の内容が如何なるものであつたかを知り、同時に歌謠と舞蹈とがこれと如何なる關係を持つてゐたかをも知り得て悦ばしい。先づこの大會には民衆も出來るだげの美服を着て出席したのだ。そして宗教政治的行事と同時に酒宴を開いて一年間の收穫を祝賀した。その舞蹈では、數十人が群をなし、倶に立つて一つの列序をつくつた。「地を蹈み、低昂、手足相應ず。節奏鐸(433)舞に似ることあり」の記載は簡單のやうではあるが、その舞踏を今我々の眼前に描くことが出來よう。それは蹈舞であつた。身振りも身體を或ひは低め或は昂めるものであつた。手と足と歌とが相應じてゐた。明らかに節奏をも持つてゐたが、その節奏はこの蹈舞により決定せられたものであつたらう。鐸舞は漢の舞であるが(「文献撮録」卷五)鈴はシャマニズムに屡々用ひられる樂器であるから、それも本來はシャマニズムの舞であつたらうか。これだけのことは少しも疑はずに確かめられる。我々はこれ以前のシャマニズム的歌謠の状態を想像しようと欲すれば、最早文獻を離れて他の研究方法を取らなげればならないが、とにかく得られる限りの最古の記録としては右のものを取らなければならない。然るにこの蹈舞の記事はひとり「魏志」に就いてだけ知るを得たのでなく、それと全く同性質のものを「三國遺事」の中の伽耶建國説話に於いても見ることが出來たのだ。その記事は次の如きものであつた。
 伽耶國がまだ國家を建設せず、君臣の稱もなかつた時には、九人の酋長があり、百姓凡そ一百戸、七萬五千人を領してゐた。山野に住居し、井を鑿つて飲み、(この井戸は古代の生活の中心をなすものであつて重要である。)田を耕して生活してゐた。西紀四二年三月禊洛の日に、ゐるところの北の龜旨(峯戀の稱だと註記してある。)が異常の聲を發し衆庶を呼喚したから二三百人がそこに集會すると、人音の如きがあり、その形を隱し、その音を發して「ここに人ありや否や」といふ。九酋長等答へて、「吾徒有り、」又曰ふ、「我が在る處はいづこぞ、」對へていふ、(434)「龜旨である、」又曰ふ「皇天が我れに命じたのは、この場處に新らたに國家を建設して君后となることである。それ故に降つて來た。爾等須らく峯頂を掘り、土を撮み、(註三)「かめ、かめ」の歌を謠つて蹈舞すべし、これ大王を迎へ、歡喜※[足+勇]躍する所以である。」九千等悦んでその言の如くにしたところ、天より紫縄が下り、黄金色の六卵が降下した。この六卵の童子に化したものが六伽耶國を建設した。以上は伽耶建國説話の筋書あるが、東北アジア諸國の建國説話の構成にはこれに共通の要素を含むものが多い。(註四)
  (註一) 「東盟」といふ」語もシヤマニズムに關係した語であると見える。「魏書」の高句麗傳によれば、高句麗は朱蒙なる人によつて建國せられてゐるが、その朱蒙について一つの神話的説話が記されてゐる。然るにこの説話は朝鮮に古くから行はれてゐたと見えて、高麗好太王碑にも記きれて居り、それでは朱蒙は鄒牟と記された。また支那では王充の「諭衡」や魚豢の「魏略」に同樣の説話が、扶餘の開國者東明に關し記されてゐる。(兩者とも東明と紀す。)「三國史記」百済本紀には、百の始祖は温祚王であり、その父は鄒牟又は朱蒙であると書かれた。その他象牟、仲牟などと書いた場所もあるが、要するに東明、朱蒙、鄒牟等は同一發音の語に異つた漢字をあてたものである。宗教的と政治的と雙方の意味から民族の統治者となつてゐる人を意味したものと思ふ。内藤湖南博士は、我國の大山祇神の「つみ」、海童の「つみ」もまた同音同義であるとせられた。(同博士著「日本文化史研究」五一―五二頁)私は「すめ」といふ日本語も同系の語であらうと考へる。琉球の世の主を現はした語「ちやら」又は「ぢや(435)な」も同系の語でないか、なほ考へて見たい。長髓彦の據つた地の「鳥見」、天神を祀られた「鳥見山」、その他「とみ」といふ語は紀に多く出てゐるが、これも同系の語とは見られないであらうか。
  (註二) 「文献通考」に渤海の俗を書いて次の如くにある。「渤海の俗は毎歳時に聚會し、樂を作し、先づ歌舞をよくする者數輩に命じて前行せしめ、士女これに隨ひ、更迭し倡和し宛轉回旋し、號して蹈鎚と曰ふ。」馬韓の俗についての「魏志」の記載と比較して見ると面白い。「更迭し倡和し宛轉囘旋す」とあるので、その歌舞の摸樣も分る。奈良朝時代に我國に傳へられ盛んに行はれた支那の蹈歌なるものも、「手を連ねて歌ひ、地を※[足+搨の旁]んで以て節となす」といふのであるから、本來搨舞より發達したものであらう。この踏歌の原流はやはり北方にあつたのではないか。「芝峰類説」卷十に曰ふ。「古樂府に踏歌行あり。李白の詩に云ふ、忽聞浮上踏歌聲とこれ也。按ずるに説郛の教坊記に曰く、踏謠は北齊に出づ。その且つ歩み且つ歌ふを以て故に名づくと。」臺※[さんずい+彎]バーラン社の首取凱旋の蹈舞について田邊尚雄氏は次の如く書いてゐられる。「その首を輪の中央に据ゑて、その周圍を一同この首を眺めつつ唄ひ踊るのである。腰と足とで拍子をとりつつ面白く踊る。その足の蹈み方が幾分か木曾の踊に似た所もあるやうである。但し足を蹈む毎に腰を少し左右に徐かに曲げるのが、非常に面白く目立つて感ぜられる。」(同氏著「第一音樂紀行」五一−五二頁)私は丁度本書を書いてゐる時に、マーティン・ジョンソソ氏夫妻の撮影したアフリカ探險のフイルム Simba を見たが、黒人の雨期の初めの舞蹈、獅子狩の舞蹈等が、宛然「魏志」の記載を髣髴せしめるので奇異の感を與へられた。殊に喜雨の蹈舞は足と腰とで調子を取りつつ身體を低昂ならしめること「魏志」のそれを現實に見るやうのものであつた。南孝温の「秋(436)江冷話」にいふ。「嶺東の民俗三四五月中に擇日迎巫し、以て山神に祭り、富饒なるものは駄載し、貧者は負戴し、鬼席に陳供し、吹笙鼓瑟にて三日間連ねて醉飽したる後、始めて家に下り、人と與に賣買を行ひ、祭らざれば尺席をも人に與ふるを得ず。」これによつて見れば、市も亦シヤマニズムと共に發達したものである。歌垣と市との關係を考へるための一資料であらう。東北亜細亜の諸地方に於けるシヤマニズムと政治形式との關係に就いては、西村眞次氏著「大和時代」に詳密な、且つ示唆に富んだ記載がある。例へば第五章第四節「原始形の政治概念」參照。石川三四郎氏著「古事記神話の新研究」第十六章「岩屋戸會議の社會學的研究」參照。
  (註三) 崇拝せられる山の土は民族的信仰に深い關係を持つた。神武紀戊午の年九月の條に、椎根津彦と弟猾とが敵中に忍び入つて潛かに天の香山の巓の土を取り來つた記事がある。崇神紀にも武埴安彦の妻吾田媛が香山の土を取り領巾につつんで祈願する記事がある。
  (註四) この伽耶建國説話の展開には佛教的要素が少なからず含まれてゐるから、所謂壇君傳説と同一視してその價値を疑ふものもあるが、私は少なくも今擧げた内容のものは東北アジア地方の神話と共通要素を持つが故に、原的價値を持つたものだと考へてゐる。
 
 朝鮮に於げる歌謠とシャマニズム及び舞蹈との關係が以上の如く示された以上は、我々が、(1)發生當初の歌謠をシャマニズムに關係せしめ、(2)西紀第二三世紀頃の歌謠の節奏は蹈舞により支配せられてゐたと見ることは不當のものであるまい。勿論歌謠にはそれ以外の節奏のものが全く(437)なかつたとは決定的に言へないけれども、歌謡の或る部分が蹈舞の支配を受けてゐたことは確かであるから、我々はひとまづその見地のもとに當時の歌謠の形式を分析して行き、さて實際の歌謠形式にこの蹈舞の支配あることを證明し得たとすれぽ、逆に顧みて當時の一般の歌謠、少なくもそれの主たる部分は、形式に於いて蹈舞を反映せしめるといふことが出來よう。
 この點で私は前卷「文學の發生」で論じた歌謠發生論の有力なる證據を、古代朝鮮の歌謠によつて提出することも出來たのである。歌謠と蹈舞との關係をここまで遡り得れば、それで十分である。歌謠のリズムは何としても「魏志」の「手足相應ず」によつて示される如く、蹈舞の樣式を反映したものである。歌謠者又は巫の持つ個人的の精神リズムが蹈舞のリズム又は歌謠のりズムを決定したのではない。(註五)また歌謠はたとひ宗教的行事と關係して發達したものであるにせよ、その内容が必ずしも宗教的内容を持たないことも、伽耶建國説話に於ける「かめ、かめ」の歌により證明せられたといへよう。(註六)歌謠は依然として蹈舞の間から生れたのである。その内容は最初は囃子だけのものであつた。またその形式の原始的なるものは蹈舞の形式を反映した。この蹈舞は宗教的呪的の意義を持つが普通であり、單純に享樂だけを目的とするものではなかつた。隨つて歌謠形式は蹈舞を通じて宗教的呪的なる社會精神の支配を受けてゐる。朝鮮歌謠の形式を考へるには、私は先づ右の考察準備を置くことが出來ると思ふ。
  (註五) 前卷に對し金田一京助氏が懇切なる批評を書かれたことは感謝に堪へない。併し蹈舞が歌謠の(438)節奏を定めるとする私の説に氏が反對して、「巫女の異状意識に入つて宜べる神語こそ、平生の語調と異る異調をなしたもので、即ち「歌」の起原を成し」たと論じられたことには私は依然として賛成出來ない。(「時事新報」、四年一月九日號、及び「澁谷文學」第四卷一月號參照。)私とても蹈歌乱舞の樣式によらず極めて靜かな形式で行はれる神懸りのあることを知つてゐる。併しこの樣式のものを蹈歌乱舞の樣式によるものよりも原始的であるとせられる證據は何處にあるか。初めてシヤアマンの生ずる經過を私は前卷(編者註。全集第十二卷「日本精神史」所収論文「神話文學の構成と其の源泉」を參照)でも簡單に書いて置いた。私はフロイドの説いたオエデイプス錯綜によつて起る父殺しを基礎として巫の發生を説明し得ると思つてゐるが、このことは後の機會に譲る。(編者註。同上)巫の神語を歌謠の起原だとする説に對して、次の如くに批評したい。(1)斯くすれば再び歌謠の個人發生説へ還る。折角取つた社會發生説はどうなるか。(2)歌謠のリズムは神語のリズム、即ち個人的の精神的リズムに隨ふこととなるが、斯くの如きリズムのものが古代の歌謠の中に實證せられるか。(3)歌謠の中に蹈舞によつて支配せられた形式のあることは、文獻によつて既に證明せられた。この蹈舞は「神語」のリズムにより支配せられるとは言はれない。以上の如く言ひたい。なほ私は徒らに西洋の學者の所説を擧げて證據にしようとは思はないが、ブント、グロオセその他多くの民族心理學者、藝術社會學者の所説が大綱に於いて私の説と一致し、私の主張したところが殆んど學界の定説であることをも書き添へて置きたい。「魏志」の記載と同じい歌謠の源流は我國の文献にも見える。「古語拾遺」は、「石窟の前に誓槽を覆せ、庭燎を擧げ、俳優を作し、相與に歌ひ舞はしめむ、」「手を伸べて歌ひ舞ひ、相與に稱へて曰ふ」とあるし、紀(439)には、「火處《ホトコロ》たき、覆槽《ウケ》置きて神懸りして、」とあり、記には「天の岩屋戸に※[さんずい+于]氣《ウケ》伏せて蹈みとどろこし、神懸りして」とある。やはり蹈舞によつて神懸りがある。「おもろさうし」の第二卷十六章、第十九卷の五章も亦、民衆の手拍子によつて謠ふ眞中に領主が立ち一緒に踊つてゐる状景を謠つてゐる。
  (註六) 歌謠の用途は呪的宗教的であつてもその歌意は必ずしも呪的宗數的ではない。私は西村眞次氏が日本歡謠の原始形に就いて論じられたところには多大の敬意を持つが、日本原始歌謠に就き、それの内包的万面と形態的方面とを分けて考へられ、内包的には「原始歌謠の發達を與へたこの機を呪的宗教的思想であるといふことは否定が出來ないし、從つて歌謠の内包がそれに關するものであつたといふことも爭はれない事實である」(同氏著「日本古代社會」二五七頁)とせられたことには賛成出來ない。現在の神樂歌は勿論平安朝時代の刪定を經てゐるが、それでも大いなる部分は戀愛歌によつて占められてゐるではないか。「今傳はるところの神樂歌の中に、神祇關係のない歌を存してゐるのはもとよりの姿であらう。神前に於いて歌ふ歌は雜猥なるものに亙つてよいのである。」(武田祐吉氏著「神と神を祭る者との文學」六八頁。)天平十一年冬十月の佛前唱歌も、少しも佛教的の内容のものでなかつた。
 
 なほ朝鮮古代の歌謠が民謠的特色を強く含み、その内容に男女の戀愛を謠ふものの多かつたことを想像しても、恐らく誤謬であるまい。道を行くにも晝夜老幼となくみな歌を謠つたといふし、我國の歌垣のやうな、暮夜に於ける男女の歌舞も存在したからには、我々が斯く想像することは自然であると思ふ。
(440) 併し右の朝鮮諸民族がすべて同一の國語を使つたものでなかつたことも、豫じめ警戒すべきものである。「魏志」によると、東沃沮は「その言語句寵と大いに同じく、時々小異、」※[手偏+邑]婁は「言語夫餘句麗と同じからず、」※[さんずい+歳]は「言語法俗、大抵句麗と同じ、」州胡は「言語韓と同じからず、」辰韓は「その言語馬韓と同じからず」とある。歌謠の形式はそれぞれの言語によつてのみ定まるものであるとすれば、我々は朝鮮諸種族を一括してそれの持つ歌謠の形式を論ずることは不可能であらう。然るに若しその他の文化に就いて共通の取扱ひが出來るものであつたとすれば、歌謠の形式に就いてだけそれが出來ないとは言はれまい。「東夷傳」の中には、これらの朝鮮諸民族に竝べて倭國のことが書かれてゐる。その記事を見るに習俗に於いて先きの朝鮮諸民族に共通するところが甚だ多い。然らば言語の異る朝鮮諸民族を一括してその歌謠形式を論ずる場合に、倭人の歌謠形式をも併せて考へることは大きな文化史の目から見て不當のものであらうか。このことは後に詳論するが、今「魏志」を引合に出した序でに言つて置きたい。
 
    二九
 
 2.文献に現はれた朝鮮最古の歌は、「三國史記」に載る高句麗、琉瑠明王の黄鳥の歌である。この歌に就いての考察は前すでに詳敍したから、ここでは歴史的に必要な部分だげを述べる。こ(441)の歌は琉瑠明王の三年よりやや後の作品であるとすれば、西紀紀元前後のものと見なければならない。そしてその形式は四句體の郷歌であつたと思ふ。
 又次に文献に現はれた歌謠に閲する最も古い記録としては、「三國史記」卷一、新羅の弩禮王(儒理王)の條に、「始めて兜率歌を製す。これ歌樂の始めなり」とあり、「三國遺事」にも同じ記事が見えるが、同時に「始めて黎耜及び藏氷庫を製す。車乘を作る」とも書いてあるから、文化状態の斯うした幼稚時代に既に歌謠だけは存在したことが略々推察せられる。兜率歌に就いては前に考察したが、それは四句體郷歌であつたと考ヘられる。年代からいヘば前の琉瑠明王よりややおくれるけれども、略々同代であり、西紀紀元前後のことに屬する。また「遺事」卷二には、伽耶建國説話が載つて居り、「かめ、かめ」の歌が記載せられてゐるが、この歌が謠はれたとして記された後漢光武帝の建武十八年を幾分か信ずるならば、それは西紀四二年のことである。
 これらの記録が漠然とながらも教へる處に隨へば、西紀紀元前後には、朝鮮一帶に四句體の郷歌が存在したと推測せられる。その形式を黄鳥の歌と龜の歌とに就いて見るに、(1)各句の長さは短かく、(2)略々定型の形式を持つてゐたらしく、各句の長さは多分は不揃ひでないし、(3)句に繰り返しを含まず、各句が獨立の意味を含むことが言へる。この形式を持つた時は、歌謠も餘程發達した後のものである。即ち(1)定型的なること、(2)線り返しのないことは、發達の進んだことの證據であるし、(1)句の長さ短かく、(2)想の單純なことは、やはり發達の早い證據である。然るに(442)右の二歌にはこれら雙方の特色が見られる。全體としていかにも西紀紀元前後に作られた歌であるらしく見えるが、この形式を成立せしめるまでには、郷歌はそれ以前になほ長い期間の發達史を置いてゐる。四句體歌は、二句體歌より發達して來たかも知れない。またそれは噺子を主としたものより發達して來たであらう。龜の歌が蹈舞に使はれたに顧れば、「かめ、かめ、首出せ」と想を含む前には、常に蹈舞に拍子を合せて發する囃子だけの樣な形式の歌も存在したであらう。これらの原始的の歌を發達せしめた結果、つひに略々定型的であつて、句に繰り返しの少ない四句體歌の形式を成立せしめた理由は何であつたらうか。「始めて兜率歌を作る」といふも、斯うした確固たる四句體郷歌形式が當時に成立したことを意味するであらう。
 右の理由の第一は、やはり朝鮮民俗が早くから歌舞を好み、暮夜には男女必らず歌舞倡樂したといふ、その特殊の民族的性格にあると言はなければなるまい。斯くも歌謠を好む民族なればこそ、早く既にこれだけの形式及び内容の歌謠を生んだのである。それ故朝鮮では眞の意味で原始的な歌謠の形式と内容とを知ることが出來ない。既に知り得るものは、紀元前後に於いてさへこれだげの程度に發達した歌謠なのだ。理由の第二としては、當時に於ける支那文化の影響を考へなければなるまい。漢の植民地が朝鮮の地に建設せられたのは、西紀前一世紀餘のことであり、紀元前後には程度の甚だ進んだ漢文化が朝鮮の一角に榮えてゐた。斯うした時代には、朝鮮文化は一般に甚だ強く支那文化の影響を受けたであらう。朝鮮の文化が支那文化の影響を受けたのは(443)それよりもずつと古いことであり、周の文化も朝鮮に及んだ証跡は現に歴然と貨幣などに殘つてゐる。然る時には、朝鮮に於ける歌謠の發生は非常に古いことであるし、またその上への支那文化の影響も極めて古く、或は西紀前五世紀位のところへは遡り得るかも知れない。蹈舞より發達した朝鮮の歌謠が、四句體郷歌の原流をなす二句體歌の形式になり、更に四句體歌に發達して行くことは、それ自身の動因のみより推測せられぬことではないけれども、なほ歌謠として他の形式のものを生みまたは他の形式へ轉じて行くことを防ぎ、この四句體歌を均整的の形態に育て上げるには、支那文化の影響があつたと考へるが寧ろ穏當でないかと思ふ。支那では歌謠の定型が古いところから成立してゐたことは詩經などによつて確實に推測せられる。これも亦本來は蹈舞の如きものより發達したものではあらうが、朝鮮諸民族が歌謠生活に於いてまだ原始的のそれしか營んでゐなかつた時に、それに影響を與へるには十分なる程、支那歌謠の形式は早く均斉のものになつてゐた。(註一)
  (註一) 朝鮮の古代に於ける支那文化影響の状態は、東亜考古學の進歩と共に次第に明らかにせられた。「(前略)吾人は貨泉の存在によりてこの遺跡の一部が第一世紀若しくは第二世紀頃に構成せられたるものなりと推測するの最も自然的解釋たるを信ずるものなり。」(朝鮮總督府「大正九年度古蹟調査報告」第一冊「金海貝塚發掘調査報告」四九頁)「(前略)而して前漢武帝が四郡を置いたことから同代に北部朝鮮に支那文化の流入したことは學者の一般に認むる處であるが、同代に南鮮の内部にそれが及んだこ(444)とを疑ふ論者が少くない樣である。然しこの點に於いて上に縷延した遺物とその年代觀とからして吾々は漢の盛時に既に南鮮にも支那の製作品の齎らされたことを實物の上から考定し得ることを欣ぶと共に、遺跡の分布の上からして、甚だ不充分ではあるが、その波及の單に交通の便利な沿海地方にのみ限らず、永川や、慶州などの大陸から見て僻遠としなければならぬ地に重要な遺跡を見る點から、漢代にかく内地に流入するに於いて、それに先立つ時期の影響の可能に自ら思ひ至らしめる。右の點に就いて遺物の上の重要な資料として擧げなければならぬのは蓋し平安北道の寧邊と全羅南道の康津とに於ける明刀錢の發見であらう。」(同總督府「大正十一年度古蹟調査報告」第二冊「南朝鮮に於ける漢代の遺跡」二―三三頁)朝鮮に於ける漢代遺蹟の調査報告としては、「朝鮮古蹟圖譜」の外に、なほ同總督府の「古蹟調査特別報告」第四冊「樂浪郡時代の遺蹟」がある。濱田青陵博士はその著「百済觀音」に收められた論文「東亜文明の始源」に於いて支那文化の始源を論じ朝鮮日本に與へた影響を略説して居られるが、今日までの考古學的研究の結果を纏めて知るに便利である。博士は、支那の新石器時代は、殷墟の遺物を殷代と假定するに於いては、西紀前十五乃至二十世紀に遡り得るとし、また支那は殷時代に到つて金石併用時代から青銅器時代に入りつつあつたらしく、この青銅器時代はその後數世紀を經て周代に到りその文化の極盛に達したが、若し殿代の初めを西紀前第十八世紀とし、周の終りを同じく第三世紀とすれば、(著者註。後に引用する馬衡氏の論文と一致する。)この支那の青銅器時代は欧洲の青銅器時代とも大體一致する時代になると論じられた。朝鮮北部に就いては、「周末に至つて支那との交通のあつたことは南鮮全羅南道康津から發見せられた明刀錢が之を證據立ててゐる。是は遼東に於ける同種(445)の発見と共に、海東が次第に支那文化に浴しかけつつあつたことを告げるものに外ならない」(同書、一三五頁)と言ひ、高句麗が獨立して國を立てた時には、「その文化の形式は全く漢以後六朝の支那のそれであつて、之を多少地方化したものに外ならない」(同書、一三六頁)ことを、高句麗の古墳にある優秀な壁畫を證として論じられた。然らば周の終りを西紀前第三世紀とし、その頃には遺物的に見ても支那文化の影響があるとすれば、實際の影響は現に發見せられた遺物以前であると見られるから、可なりに優秀なる支那文化の朝鮮に於ける影響は、少なくも西紀前五世紀以前に遡り得るものでないかと思ふのである。勿論石器時代的の文化の影響は更にそれ以前に遡り得るでもあらう。これに關聯しての文献は近時可なりに多く公表せられてゐる。例へば我國九州北部を中心として限られたる地域より發見せられる銅鉾鋼剱に對し詳密なる考古學的研究を試みられた高橋健自博士は、「王莽時代鏡の嘗て伴出せざる事實より推して、古式なる銅鉾銅剱の畢竟王莽時代まで下らざるべきを察し、明刀の分布に徴して先秦文化東流の波及せしところ案外古かるべきに鑑み、これら古式銅鉾銅剱の副葬せられし絶對年代の西紀前一、二世紀の交にあるべきを覺えしめたり」(同博士著「銅鉾銅剱の研究」二三〇頁)と論じてゐられる。馬衡氏は支那の銅器時代の年代を改定して、「故言中國之銅器時代必數商周二代、その時期約千五百年(公暦紀元前一七五〇至二六〇頃)」と論じてゐられる。(「民族」第三卷第五號)近時喜田貞吉博士は遺物の比較により、銅鐸文化の遺物が近畿及びその四近に遺される以前の更に古い時代に於いて、(尤も博士はこの銅鐸を遺した民族を秦人であるとせられる。)この先秦文化は奥羽北部地方の石器時代住民にまで影響を及ばしたことを主張せられた。(「民族」第二卷第二號所載「奥羽北部の石器(446)時代文化に於ける古代支那文化の影響に就いて」)
 
     三〇
 
 3.新羅の弩禮王についての記事として「史記」卷一に、王女二人をして各々部内の女子を率ゐ、大部の庭に麻を績むことを競争せしめ、その功の多少により負者は酒食を置いて勝者に謝し、以て歌舞百戯をなした記載のあることに就いても既に述べた。このことを嘉俳と謂つた。この時負けた側の一女子が立つて舞ひ、獻じて「會蘇會蘇」といつたが、その音が哀雅であつたから、後人はその聲により歌を作つて會蘇曲といつた。「史記」のこの記事は偶々歌謠發生の起原の一端を教へるものである。噺子風のものより歌謠の發生したことは、朝鮮に於いても同樣であつた。この記事は、既に存する會蘇曲に就き發生した説話を記したものではなかつたか。
 4.歌謠の發達に就いては、その後やや長く文献に記録がない。秦が高句麗に使者を遣はし初めて佛教經文を送つたのは、四世紀の終(小獣林王の二年)であると言はれてゐるが、西紀六世紀の初めには新羅も亦佛法を行ひ、漸く新羅の興隆する時代になつた。この頃から郷歌は常に佛教と深い關係を保ちつつ發達したことが記されてゐる。尤も「遺事」は佛教的記事を多く掲げるから、郷歌についての記事も佛教關係のものが多いのであらうが、その事情を除外しても、佛教(447)の弘通がこの郷歌の弘通に結合したことは疑へない事實である。この頃から郷歌に就いての記事は當然新羅の獨占するところとなり、ここに新羅郷歌の黄金時代が始まる。
 新羅に初めて佛法の行はれたのは西紀五二八年である。五三六年には初めて年號が立てられ、五四五年には初めて國史が撰せられた。眞興王の元年は恰かも我が欽明帝の元年に相當するが、(西紀五四〇年)王は齢僅かに七歳にして即位し、功臣|異斯夫《いしふ》、居※[(さんずい+匕)/木]夫《こしちふ》等の助力を得てその版圖を大にし、領域の及ぶ處東は日本海岸より西は黄海岸、南は朝鮮海峡に達した。文教亦勃興して特に佛教の尊信せられること著しく、郷歌については花郎なるものの現はれたのがこの時代であつた。「遺事」卷三によれば、「伯父法興の志を慕ひ、一心に佛を奉じ、廣く佛寺を興し、人を度して僧尼となす。又天性風味多く神仙を尚ぶ。人家の娘子の美艶なるものを擇んで捧じて原花となし、聚徒を要《あつ》めて士を選《えら》び、之れに教ふるに孝悌忠信を以てす。亦理國の大要なり」とある。神仙を尚ぶとは、新羅に於ける一種の宗教「仙道」を尚ぶことを意味する。仙道と佛教とが我國の本地垂跡説的に次第に融合して行く傾向もその後次第に強くなつて來た。南毛娘と俊貞娘との兩花を得て衆徒三百餘人に達したが、二女娟を爭ひ相妬み、俊貞は南毛を私第に引いて強たか酒を勧め醉に至らしめ、潛かに北川中に舁ぎ去つてこれを殺した。その徒悲泣して散じたがその謀を知るものがあり、街巷の小童童謠を歌つてその尸は尋ね出され、俊貞は刑殺せられた。ここに原花を置くことは廢されたげれども、累年して王また邦國を興すには須らく先づ風月の道を以て(448)しなければならぬことを思ひ、更に令を下し、良家の美貌の男子徳行あるものを選んでこれに粉飾せしめ花郎と名づけた。徒聚また雲集して互ひに道義を磨き、悦んで歌樂し、山水に遊娯した。遠として至らざるなく、これによつてその人の邪正を知り、その善なるものを擇んで朝に薦めた。始めて薛原郎を奉じて國仙となしたが、これ花郎國仙の始めである。「史記」の引用する處に隨へば、金大問の「花郎世記」には、「賢佐忠臣、從此而秀、良將勇卒、由是而生」とあり、崔致遠の「鸞郎碑序」には、「國有玄妙之道、曰風流。設教之源、備詳仙史。實乃包含三教、接化羣生。且如入則孝於家、出則忠於國。魯司寇之旨也。處無爲之事、行不言之教。周柱史之宗也。諸惡莫作、諸善奉行。竺乾太子化也」とあるといふ。蓋し眞興王は教化の根據を人情に置き、その感情の深處から人間を陶冶して道義を振興しようと欲したものであらう。但し本來歌舞を好愛する鮮人の素質がなければ、この文化政策も成功しなかつたであらうが、政策はよく民性に投ずることが出來たのだ。眞智王の代になつては、禰勒菩薩が花郎に姿を化し世に出現するといふ思想さへ起つた。(我が敏達朝)(註一)佛教と郷歌との關係は益々密接になり、僧元曉の如きでさへ、自ら歌を作り瓠を携へ、千村萬落を歌舞して廻つた。景徳王の時(我が淳仁朝)月明師が「臣僧はただ國仙の徒に屬す、只だ郷歌を解するのみ」と答へたことも既に記載した。「遺事」卷二によれば、第四十八景文王(我が清和朝)は本來國仙であつた。憲安王、郎を召して殿中に宴した時、王問うて、「郎國仙となり四方に優遊す。何の異事を見るか」といはれたに對し、郎は美(449)行あるもの三を見ると對へ、人の上となつて人の下に謙坐するものその一、豪富あつてその衣倹易なるものその二、貴勢あつてその威を用ひないものその三と言つたから、王その賢なることを察して女を娶せ、崩ずるに及び男孫なきが故に遺詔して位をその國仙に譲つた。それが景文王である。花郎の制の永くその功を頽廃せしめなかつたことは、これによつても知られるであらう。
  (註一) 「按新羅時、取美男子粧飾之、使類聚群遊、觀其行義。名花郎。時謂郎徒、或謂國仙。如永郎述郎南郎、蓋亦是類。今俗乃謂男巫爲花郎、失其旨矣。」(「芝峰類説」卷十八。朝鮮研究會本八三頁)これによつて見れば、後世男巫を花郎といつたと見える。新羅の花郎には佛教的色彩が強いけれども、その源流に遡ればやはりシヤマニズムの色彩があると見なければならない。新羅の仙道なるものは佛教道教の何れとも全くは一致しないものである。
 
 記録は再び元へ歸るが、伽耶琴(加耶また伽耶と書く。)を新羅へ輸入したものも亦眞興王であつた。新羅の古記によれば、(「史記」卷三十二に隨ふ。)伽耶國嘉實王(或は嘉悉王)唐の樂器を見てこれを造り、樂師于勒に命じて十二曲を作らしめたが、後于勒その國將に亂れんとするを以て、樂器を携へ、新羅の眞興王に投じた。王これを受けて三人の臣を送り、以てその曲の傳を受げしめた。三人既に十一曲を傳へたが、相謂つて「これ繁にして且つ淫、以て雅正となすべからず」とし、遂に約して五曲となした。于勒初めて聞いて怒つたが、その五種の音を聞き、涙を流し、「樂しんで流せず、哀しんで悲せず、正といふべけんや」といつて嘆いた。これを王(450)前に奏した時、王は大いにその音を悦んだ。諌臣議を献じて、「加耶亡國の音取るに足らず、」といつたが、王は「加耶王淫乱にして自ら滅ぶ。樂何ぞ罪せんや」といつて聽くところなく、これを採用し新羅の樂となした。伽耶琴には河臨調、嫩竹調の二調があつて、百八十五曲を持つてゐたといふ。「史記」卷四には、「王河臨宮に駐まつてその樂を奏せしむ」とあるから、河臨調はそれに因んでの名稱であらうか。この琴は「史記」卷四には「加耶琴と名づく」とあるし、卷三十二にも伽耶琴とあるが、我國に傳へられてゐる所謂新羅琴は十二絃であるから、史記の「絃十二あり」と正しく一致し、實は伽耶琴であることが分るのである。蓋し支那の十三絃の琴を修正して十二絃琴となしたものだ。今は朝鮮ではこれを俗樂に使つてゐる。記録を資料として考へて見ると、我國へ傳へられた新羅樂の中には當然この伽耶系の音樂が傳へられたに相違なく、伽耶の原樂は樂しみも哀しみもその極に達するものであり、新羅樂はこれを訂正したにしても、なほ哀調を帶びて亡國の樂の感じのしたものであらう。新羅樂に使ふなほ一つの琴は玄琴であり、これは六絃なる點で一層和琴に似るものであるが、(和琴は六絃、)それには平調と羽調の二調がある。我國に傳へられた新羅系の樂も亦大體に於いて哀調を帶びたものであつたことは、右の記録を基礎としてほぼ推測せられるのである。(註二)
  (註二) 李朝の俗樂部の中に東京曲、會蘇曲、會樂、辛熱樂、突阿樂、枝兒樂、思内樂、笳舞、處容舞、黄昌郎舞を新羅樂として擧げてゐるこれらの曲名は概ね「三國史記」樂志にも見えるものであるが、(451)右の李朝樂は何れも昔時のものと同一物ではない。「海東雜録」卷二、金宗直の條に曰く、「著東都樂府七首、一曰會蘇曲、二曰憂息曲、三曰日鵄邊述嶺、四曰※[立心偏+刀]怛歌、五曰陽山歌、六曰碓樂、七曰黄昌郎。」(「朝鮮群書大系」本五一九頁)
 
     三一
 
 5.眞智王(西紀六世紀の後半)の時の記事として、時人鬼を避ける詞が五言四句漢詩形のものを以て「遺事」卷一に載せられてゐるが、この詞は歌であるかどうか決定的には何れとも斷じ難い。歌であるとすれば四句體歌であらう。善徳王朝(西紀七世紀)の風謠として、「來如來如來如」云々の風謠が「遺事」卷四に載つてゐて、これも四句體の郷歌である。初めて十句體の郷歌の見えるのは、孝昭王朝(我が白鳳時代)の記事に於いてである。勿論四句體歌はその後も長く續いてゐるから、この時に十句體歌が四句體歌に代つたのではない。この頃新羅は甚だ優秀なる文化を生産し、學者高僧相ついで輩出した。かの薛聰が漢文を訓讀し、吏道を發明したといはれてゐるのは、孝昭王に先立つ神文王の時代であつた。薛聰の父元曉の歌には二句體のもののあること既に述べた如くである。唐文化の輸入最も隆盛を極め、入唐して高名を博する碩學や高僧も輩出した。豊富なる生活内容を表現するものとしては、四句體歌は既に十分の形式でなかつた(452)であらう。四句體歌より十句體歌の發達した經過に就いては何等文献の徹すべきものもないが、既に「かめ、かめ、首出せ」の歌と「かめ、かめ、海路を出だせ」の歌とに就いて比較考察した如き順序を取つたものと私は思ふ。今重ねて約言すれば、
 イ、四句體歌の次ぎに、その歌意の主たる部分を囃子風に繰り返して一句加はる。
 ロ、各句の内容が複雜になつて短、長二句に分離する。
 ハ、斯くして前四句は短、長の組より成る八句となり、繰り返しの第五句は第九、第十句となつて所謂後句となる。
 孝昭王の時の記事として神笛が前王より傳へられ、玄琴と共に内庫に藏せられてゐることの記載が「遺事」卷三にある。「琴笛二寶」と書いてゐるから、樂器としては當時琴と笛とが主であつたことを知るを得よう。琴に就いては既に奈解王代の忠臣勿稽子の記事として、勿稽が髪を被り琴を荷ひ山に隱棲して世に現はれず、作歌に寄托してゐたことが記されてゐるが、時は西紀第三世紀の初めである。琴を荷つて世を遁れたのであるから、その琴の大いさの甚だしく大きくなかつたことも想像せられる。玄琴は「史記」卷三十二に引かれた新羅の古記によると次の如きものである。初め晋人七絃琴を高句麗に送つたが、麗人はその樂器たることを知つてその聲音とこれを鼓するの法を知らなかつた。新羅人その法を改易して造つたものがこの琴である。これを奏する時玄鶴來り舞うたから玄鶴琴と名付げたが、後ただ玄琴と稱するやうになつた。これに百八(453)十七曲ある。「史記」は斯樣に記してゐるから、その由來の久しいことと、それが和琴と支那琴との折衷形であることとが知られるであらう。なほ序でに新羅の樂器として「史記」卷三十二の記すところを略説するならば、新羅樂には三竹、三絃、柏板、大鼓がある。勿論これは最も發達した形のものに就き言つたものと見なければならぬ。三絃は玄琴、伽耶琴、琵琶である。新羅の琵琶はやはり郷琵琶であつて、唐制と大同小異、また新羅に始まつたものである。今李王家の雅樂に郷琵琶として殘つたものは、唐琵琶よりも少し小さく、頭部は水平に折れ曲らないで眞直に立ち、我が三味線に似てゐるが五絃を持つさうである。(田邊氏著「日本音樂の研究」二四八頁)三竹は大※[竹/今]、中※[竹/今]、小※[竹/今]であつて、唐笛を模したものであるけれども、郷三竹はやはり新羅に起つたといふ。現に李王家の雅樂に傳はる笛には唐笛と違つたものが幾つもある。斯くして新羅の樂器は、琴笛何れも支那のそれを改造したものであり、その改造は郷歌の曲節に合適せしめる上から已むを得なかつたものと考へなければならない。新羅の樂器特に玄琴、伽耶琴が共に和琴に類似して支那のそれより幾分離れてゐることは、新羅の歌の曲節と我國の歌のそれとの關係を考へる上に一つの重要なキイとなるものである。
 6.聖徳玉代(我が白鳳時代)の記事として水路夫人のことがある。純貞公の夫人水路が海に臨む岩の上に咲く躑躅を見てこれを折り取ることを欲した時、傍らに老翁があつてその花を折り歌を作つて獻つた。また海に臨む亭にあつて晝餐を取る時海龍が夫人を捕へて海に入つたが、一(454)老人あつて、衆人歌を唱ひ杖を以て岸を打てば夫人を見ることが出來ると教へ、公これに從つたところ海籠は夫人を奉じて海に出でこれを献じ還したといふ。この時の歌は共に四句體歌であるが、その衆人海を唱ふ歌が、「かめかめ水路を出せ」であり、「かめかめ、首出せ」の變形したものであることは既に幾度も記した。記録のままを信ずるならば、伽耶の歌は西紀一世紀のものであるが、これは西紀八世紀のものでゐる。伽耶のものは建國の説話に結びついてゐて、恐らくはもつと古く西紀前數世紀の頃から存在したかと思はれるが、それが多く變形せられないで少なくも七世紀以上存續してゐることは注意せられなければならない。前には建國説話に結合し、今は夫人を奪還する記事に結合したのを見ると、この歌は何れの場合も何等かシャマニズムと關係することが知られよう。
 景徳王代(西紀八世紀)の記事として、安民歌の名が見える。月明師の兜率歌の記事も亦景徳王代のものである。「史記」卷九には、王の好樂甚だしかつたが、諌奏によつて樂を停めたことが記されてゐる。既に我が平安朝に入つてより後の記事はここに省略しよう。(註一)ただ眞聖王の代(西紀九世紀の終、我が宇多帝の朝)に郷歌の修集が行はれ、「三代目」と名づけられたことは、我が萬葉集の撰集よりも遙かにおくれたものとして、注意せらるべきものであらう。(註二)
  (註一) 新羅憲康王の時、東海龍七子を率ゐて駕前に現はれ、徳を讃して歌舞したことは「三國史記」に記されてある。龍の一子駕に隨つて京に入るものを名づけて處容といつた。この歌舞は後世その曲節(455)を以て歌詞を改撰し鳳凰吟と名づけられた。成※[人偏+見]の「※[立心偏+庸]齋叢話」卷一にその歌舞の模樣が記されてゐるが、「雙鶴人五處容假面十人、皆隨行縵唱三囘」、「雙小妓排萼而出。或相向或相背、跳躍而舞。是謂動動」などとあるのを見ると、昔の處容の歌舞はシヤマニズムの歌舞の趣きを持つてゐはしなかつたかと思はせるものがある。「動動」は「高麗史」卷七十一に「動動の戯その歌詞多く頌祷の詞あり、」「芝峰類説」卷十八に「動動なるものも亦頌祷の詞」とある。
  (註二) 「三國史記」卷十一、眞聖王二年春二月の條、魏弘、大矩和尚等が郷歌を修集して「三代目」といつた記事が出てゐる。
 
   三二
 
 (四)我國上代に於ける新羅歌謠の研究〔十五字右○〕。
 新羅郷歌の歌形は本來如何なるものであつたか、またその曲節は略々如何なるものであつたか、斯くの如き形式の新羅郷歌は如何にして發生し如何なる發達の經過を取つたかに就き、私は確實なる資料を基礎として考察し得る限りのものを考察した。但しその間に絶えず日本の歌謠を顧み、それとの交渉を考察して來たから、上記の敍述によりこの郷歌と我が上代歌謠との交渉關係は、概ね既に敍説せられたといつてよい。即ち上記の敍説は、單に朝鮮上代歌謠史のそれではなくて、(456)直ちに日本上代歌謠史のそれであつたのだ。今敍説の順序として、兩者の交渉を要綱的に記載して置きたい。既に詳論した事柄に就いては敍説を省略する。
 結論的に言へば、奈良朝以前の我が上代に於いて新羅の郷歌は我國に輸入せられ、なほ單に輸入せられたに止まらず、この歌謠の曲節に合せた日本語の歌謠が生れ、ここに我が上代歌謠には日本國有の形式のものと新羅系の形式のものと二大系統を生じて相對立することとなつたが、新羅系のものも我が固有系のものと甚だよく類似してゐたから漸次に日本化せられ、奈良朝當時には新羅系のものは既に日本固有のものと見られてよい状態に達してゐたと私は考へる。このことを證明するためには、
 1.朝鮮と日本との間に一般文化史的に如何なる關係があつたか、特に音樂史的に如何なる關係があつたか。
 2.新羅の歌謠はこれに日本語の歌詞を當て嵌めることの可能のものであつたか、新羅歌謠の曲節が日本歌謠の曲節の一部として取り入れられることは音樂上可能のものであつたか。
 3.新羅歌謠の曲節が日本上代歌謠のそれとして取り入れられた確實の證跡があるか。
 以上の諸點を吟味する必要があると思ふ。これに對して私は、
 L 新羅樂は上代に我國に輸入せられて相當に弘布してゐたと考へなければならぬ。
 2.兩者の音樂及び樂器の制を比較するに、新羅樂は日本の樂器に移すことが出來、日本固有(457)樂と相近いものであつた。隨つて新羅歌謡の曲節を日本歌謡のそれとして取り入れることは可能あつた。
 3.この證跡は確實に紀記に殘つてゐる。志良宜歌がそれである。
 右の如く論ずることによつて、兩者交渉の事實を何等の疑念なく論證し得ると思ふのである。次にその順序に隨ひ各項を敍説して行かう。
 
     三三
 
 (甲) 新羅歌謠輸入の歴史的經過〔十二字右△〕。
 1.新羅と我國との交渉は、非常に古い處からあると見られてゐる。(註一)雙方の歴史的文獻の中で神話傳説的に書き記されてゐる事項を擧げても、素戔嗚の尊は朝鮮の地に來往し給うたし、新羅の王子天の日槍は我國へ歸化してゐる。新羅の脱解王は、もと多婆那國の人であり、その國は倭國の東北一千里にあると記されてゐるが、倭國を九州と見ると大和と見るとを問はず、多婆那國は我國の一部であると考へなければなるまい。(多婆那は丹波だと考へるものもある。) 新羅の始祖以來四朝に歴仕して脱解王の時大輔になつた瓠公は、もと倭人であり、はじめ瓠を腰に繋ぎ、海を渡つて新羅に來たものである。(以上二項「三國史記」)延烏郎細烏女の夫婦は東海の濱(458)に住んでゐたが、岩に粟つて日本に來り、邊邑の國人によつてそこの王及び王妃に立てられた、(「三國遺事」)(註二)これらの記戟により、その交渉の古いことが推察せられよう。蓋し古代に於いては朝鮮の南方は寧ろ日本の植民地である觀を呈し、その國人の相互來往するは元より、習俗文化に於いて共通する處の多かつたものであらう。南鮮金海貝塚の發掘結果によつて推測すれば、南鮮の地は西紀一、二世紀の時代に於いて金石併用の文化状態に止まつたが、支那文化の影響をも受けてゐた。當時の我國の文化も亦略々斯くの如きものであつたらう。併し日本の文化は單純に大陸系のもののみを以ては構成せられず、南洋系その他のものをも自らの中に含んでゐたから、當時の日本文化は全然は大陸のものと同一でなかつたが、南鮮の文化はこの日本系文化の影響をも受けたと見られる。それ故に豫じめ一の假説を置くならば、朝鮮は日本と支那との中間的地位に立ち、本來日本と共通的なる習俗文化の多くを持つけれども、支那の風俗文化の影響を受けること日本よりも早く且つ深く、その支那文化の影響を被つた習俗文化を日本に輸入して、日本文化の上に影響を及ぼしたものであつた。隨つて日本は、その日本的特色又は原始的特色をかなりに長く後に殘してゐるけれども、朝鮮では、餘程早くからその原始的特色を失ひ支那化して行き、併しなほ全體としては幾分か原始的特色を止めてゐたのである。歌謠の形式に就いても同樣のことがあり、新羅のそれは日本と支那との中間的形態のものになつてゐた。日本に輸入せられたものは、その中間的形態のものである。何れにせよ極めて古い時代には、南鮮の習俗文化(459)は日本のそれと多くの共通點を持ち、相互の交通も想像以上に多かつたと考へられる。
  (註一) 朝鮮はその歴史の全部を通じて倭寇に苦しめられてゐたから、この倭寇の船路を記すこと甚だ詳密である。この倭寇の海路を調査すれば結局上代に於ける日本朝鮮の交通路も分るのである。九州方面の航路は一々論ずるまでもない。陸奥伯耆の倭人の東海に至るものを記し、陸奥は我國の北方瑟海に近く纔に四百里のみといひ、また隱岐は欝陵島と相對し、倭船の漁採するものが至ると書いてある。鳥居龍藏博士はこの欝陵島の昔の名于山島を我が神代史の宇佐島であると言つて居られるが、(同博士著「日本周圍民族の原始宗數」一九〇頁)私も同意したい。「在海北道中」の「海の北の道中」を博士は日本海のことと解して居られるけれども、私はこれを海路の「北道」の途中の意に解したい。この神を號して「道主貴」と呼んで居る。日本より朝鮮へ渡る海路はいくつもあるが、欝陵島を經由するものを「海の北道」となしたのであらう。この神が素戔嗚尊の神話に關係してゐるのは面白いことだし、築紫水沼君等の祭神となつてゐるのも面白いことだ。倭船の朝鮮に至るは恒に清明の前後(即ち四月初旬)であつたといふ。今「三國史記」を檢するに、上代に於いて倭軍の朝鮮を侵す記事はやはり三、四、五月の候が多い。
  (註二) 「我が國人の日本に王たるものこれに止まるのみ。但だ未だその説の是非を知らず。大内の先き恐らくは或はこれに出づ。」(徐居正著「筆苑雜記」卷二、「朝鮮群書大系」本三四六頁)朝鮮と外交の事に當つてゐた大内氏の先祖と見たところは而白い。長門あたりのことだと思つたのであらう。
(460) 「三國史記」を見ると、新羅の始祖嚇居世の時より西紀五世紀に至る頃までは倭の兵の新羅を侵す記事が頻繁に現はれてゐる。「倭人兵船百餘艘を遺はし、海邊の民戸を掠む。」「倭國と好を結び、聘を交ふ。」「倭人東邊を侵す。」「倭女王卑禰乎使を遣はし來聘す。」「倭人大いに饑う。來つて食を求むるもの千餘人。」「倭人猝かに至つて金城を圍む。王親ら出でて戰ひ、賊潰走す。輕騎を遣はしこれを追撃す。殺獲一千餘級。」「倭人一禮部を襲ひ、火を縱つてこれを焼く。人一千を虜として去る。」「倭國王使を遣はし子のために婚を求む。阿※[にすい+食]急利女を以てこれに送る。」「倭國使を遣はし婚を請ふ。辭するに女既でに出でて嫁するを以てす。」「倭兵大いに至る。」「倭人來つて金城を圍む。五日解けず。」「倭國と好を通ず。奈勿王子未斯欣を以て質となす。」「倭人東邊を侵し、又南邊を侵す。奪掠一百人。」「倭人南邊を侵し、生口を掠取して去る。」「人一千を虜として去る。」「これを撃敗せしむ。殺虜二百餘人。」説――斯うした記事は相ついで現はれてゐるが、以て彼我交渉の一端を知るを得よう。倭國饑ゑて新羅に食を求めるもの一千餘人とあるから、彼我の民衆は平時にも頻繁に來往してゐたものであらう。婚を交へること、人を質とすることも行はれてゐるし、殊に新羅の一般民衆を虜として伴ひ歸つたことは注意せられなければならぬ。(註三)斯うした虜は所謂「新羅使丁《しらぎよぼろ》」になり、奴隷としての勞役に服したかも知れない。これらの新羅人が斯くも屡々一千人からの大衆を以て虜とし送られたとすれば、それらの民衆は我國の何れかの處にあつて勞働のあひだ夕暮の集ひに自國の歌謠を謠つたと想像しなければならない。性(461)歌舞を好むと書かれた朝鮮人のことであるから、これは自然の想像である。それ故新羅の所謂郷歌やその樂器の如きも、西紀紀元前後より五世紀に至る頃までには既に新羅人と共に我國に齎らされてゐたことであらう。
  (註二) 「新羅文武王は倭の侵寇を患ひ、死を誓ひ龍となり以て邦國を護り、遺命して東海水中に葬らしむ。神武王追慕して臺を築き之を望むに龍見はる。因つて利見臺と名づくと。此説荒誕にして固より信ずるに足るなし。しかも諸れを海中に葬れるは則ち史に徴す可し。于に以て王の本心は生民の爲めなるを見る也。而して倭奴の我が邊患を爲すも亦久し」。(「芝峰類説」卷十七、朝鮮研究會本五四頁)
 2.神功皇后の新羅親征以後は、相互の關係が一層密接となつて來た。ここに新羅はその文物を齎らして我國に朝貢することとなつたために、音樂の如きも公然と輸入せられた。史に明記せられてゐるものは、允恭天皇の四十二年(西紀四五三年)天皇崩じ給うたことを聞いて新羅王は驚き愁ひ、調船八十艘と種々の樂人八十人を貢し.浪速の津より飛鳥の宮まで、種々の樂器を張り、或は哭泣し、或は歌※[人偏+舞]して殯宮に參會したと記されたのが最初である。但しこの時も邦人は新羅人に就いて歌舞を學習したのでなく、彼我言語の相違より誤解を生んで新羅の使者を誤まり禁錮し、却つて彼の怨みを買つた。欽明帝の十五年、(西紀五五四年)には、百済は勅を奉じて樂人を貢し、請ひに依つて代替せしめたと紀に記されてゐる。隨つて百済樂はそれ以前より我國に貢せられ、新藤樂も亦五世紀の後半から六世紀の前半までには輸入せられてゐたと推測せられ(462)る。聖徳太子は特に三韓樂を奨勵せられたから、爾來三韓樂は朝廷及び各大寺に於いて行はれ、天武天皇の十二年(西紀六八四年)には、三足ある雀を貢した時の賀宴に於いて「小墾田の舞及び高麗百済新羅三國の樂を庭中に奏し」た。また朱鳥元年新羅の客等を饗するために川原寺の伎樂(推古帝の二十年に輸入せられたと記されてゐるもの)を筑紫に移したことも見えて、僅々七十餘年の間に外人に饗應し得る位の發達をなさしめ得たことも分かり、新羅樂發達の程度が想像せられる。後に制定せられた大寶令中の雅樂寮の樂師樂生の數を見るに、高麗樂師、百済樂師、新羅樂師共に四人づつであつて樂生は各々二十人である。印度支那樂が輸入せられるやうになると、三韓樂は次第に衰頽して、聖武帝の時には新羅樂生の數は四人になり、平安朝に入り平城帝の時には、新羅樂師の數は二人になつた。「三國史記」には新羅樂について「歌舞、舞二人。放角※[巾+僕の旁]頭、紫大袖、公襴紅※[革+呈]、鍍金※[金+誇の旁]腰帶、烏皮靴」と記してあるが、我が「令集解」には、「新羅樂師四人」を「琴師二人、舞師二人」と註してあるから、彼此相一致して上代の新羅樂には、舞師に二人琴師に二人を使ひ、琴としては所謂新羅琴即ち伽耶琴を用ひたことが想察せられる。
 正倉院に藏せられる金泥繪新羅琴二張は「献物帳」にも「金鏤新羅琴」として記されたものであるが、「雜物出入帳」によれば、弘仁十四年二月に出藏せられ、四月に他の新羅琴二張を納められたものである。十二絃でゐることは正しく「三國史記」の伽耶琴に一致し、所謂新羅琴は新羅より輸入せられたに相違ないものではあるけれども、二張あるによつて見れば、舞師二人とい(463)ふは伽耶琴だけを用ひて玄琴を用ひなかつたものであらうか。蓋し玄琴も和琴も共に六絃であるから、特別に玄琴を用ひることは必要でなかつたとも考へられる。弘仁年間に出藏したといふのであるが、平安朝初期は外國音樂の大改革の行はれた時で、隨つて新羅琴を出藏することも必要とせられたのであらうか。「文徳實録」卷二、嘉祥三年の條には「新羅人沙良熊善弾新羅琴、書主(著者註。人名)相隨傳習、遂得秘道」と見えてゐる。その後新羅樂は衰頽し、終には新羅琴の奏法さへも忘れ去られることとなつた。
 
     三四
 
 3.新羅樂の輸入より衰頽にいたるまでの明らかなる史實は右の如くであるが、特別に新羅樂と言はれる程のものでない民謠は、新羅人の來朝又は歸化と同時に、民衆的に我國の何れかの地に弘布したことであらう。新羅の使節が頻繁に來朝し、新羅の歸化人も公然と正史に記載せられてゐるのは天武持統朝頃である。「新羅の客を饗す」といふ記事は、相次いで現はれてゐる。新羅の僧の來朝して經を講ずるものもあるし、新羅の元曉の著書などを讀むものも我國にあつた。「懷風藻」には「於長王宅宴新羅客」といふ詩がいくつもあるから、文學的に新羅の使節等と交遊することさへ可能であつたと見える。天武持統朝は、我國でも文學的に大いに興隆した時であ(464)り、漢詩和歌の兩流に於いて偉大なる作家を持つてゐたが、(漢詩も天智以後衰微したとは考へられない。漢文學の智識は當時として不可缺的のものにせられた。)新羅では恰かも文武王、神文王、孝昭王等の文物興隆時代に際會し、薛聰の如きが活動して、漢詩文と郷文學との兩流は平行しつつ隆昌を極めた。この如き場合、兩者の文學が全く無關係であつたと考へることは、寧ろ不自然の推測であらう。「懷風藻」の中で「宴新羅客」の漢詩は、その詩想に於いて萬葉のそれと共通するところが多い。然らば新羅の客がその席で應酬して作つた漢詩の詩想は、新羅の郷歌のそれと共通するところが多くはなかつたか。なほ斯樣の場合、我が漢詩人はまた直ちに漢詩に合せて和歌を詠じたものであるが、文學として誇るべき和歌を持つ我が詩人達は、同樣誇るべき郷歌を持つ新羅の客句と共にそのことを語り合ひはしなかつたか。ずつと後のことではあるけれども、萬葉卷十七には、諸王卿等詔に應じて歌を作り、次によつてこれを奏した時、同じく席にあつた秦忌寸朝元は、「歌を賦するに堪へざらば麝を以て之を贖へ」と同僚に諧謔せられてゐる。「これに因りて獣止《もだ》せりき」とあるのは、歌をも作り得るがその諧謔に應じて特に沈黙したのであらうか、或は全く歌作をなし得なかつたのであらうか。秦忌寸八千島はその同じ卷に立派な歌を止めてゐる。斯くして歸化人またはその子孫の官吏となつてゐるもののある場合に、それらの人々が王卿等の歌作の宴などに參加することもあつたと考へられ、歌作をなし得るとなし得ないとに拘らず、それが新羅の歸化官吏である場合は、郷歌のことを語り或はこれを作つて謠つたで(465)あらう。郷歌は文學的にも我が官人等に全然知られなかつたとは考へられぬことである。吏道的表現と萬葉的表現との交渉がいかなるものであつたかに就いては既に述べた。
 新羅の民衆の我國に歸化するものは、天武持続朝頃に於いて特に多かつた。持統帝元年三月投化新羅人十四人を下毛野國に居らしめ、田を賜ひ稟を受けて生業に安んぜしめた。同四月、筑紫の大宰投花の新羅の僧侶及び百姓男女二十二人を献じたが、武藏國に居らしめ、田を賜ひ稟を受けて生業に安んぜしめた。四年二月歸化新羅人十二人を武藏國に居らしめ、八月歸化新羅人等を下毛野國に居らしめた。何故斯く新羅人を常に東國の地に居住せしめたかはまた一つ別の問題であるが、何れにせよ當時の東國には新羅人と言はず一般に朝鮮人の居住するもの多く、その文化はおのづから大陸的の特色を帶びてゐた。斯く東國に群居した新羅人等は、頻りにその郷歌を謠つたであらう。東國の民謠としては卓越した東歌が萬葉に數多く記録せられてゐるが、等しく民謠的特色を持つた新羅の郷歌は、その歌想に於いてまた特にその謠ふ曲節に於いて、相互交渉することがありはしなかつたか。この推測は、後に述べる或る一事と關係がある。斯くして結論的に、
 1.新羅の音樂は我が上代に確かに輸入せられ、その樂器の伽耶琴も輸入せられてゐた。
 2.推測的にではあるが、新羅の郷歌については、我が國人は文學的にも全然知るところがなかつたとは言へない。
(466) 3.同じく推測としてではあるが、新羅歌謠は歸化新羅人と共に我國の或る地方例へば東國地方などに民衆的に弘布してゐたであらう。
と言ふことが出來る。斯く上代に新羅歌謠が我國に輸入せられてゐたとすれぼ、これと日本歌謠とはいかなる關係を持つたであらうか。
 
     三五
 
 (乙) 日本音樂體系への新羅歌謠包容の可能〔十七字右△〕。
 我國へ輸入せられた外邦樂の多くは直ちに日本化せられることが出來なかつた。第一に、その曲節が我國固有のものと大いに違つてゐるし、第二に、歌詞あるものはその語が外國語であるため、直ちに邦人の理解を得る譯にはいかなかつたからである。唐樂林邑樂の如き複雜な構成を持つた音樂は容易に日本化せられることが出來ず、外邦樂たる形態を多く變化せしめないで、その儘邦樂と平行しての發達の途を取つた。邦樂も大いに外邦樂化せられ、外邦樂も自然に日本化せられて行つたのは、可なりに後のことである。然るに新羅樂は輸入せられると同時に大いなる困難なしに日本音樂體系の中に包容せられ、記紀歌謠時代に於いて既に本來日本歌謠であつたかの觀を呈しつつ同化せられて行つたと私は考へるのであるが、このことが可能なるためkは、第一(467)に、音樂的に新羅樂は日本固有の音樂と調和し易いものでなければならず、第二に、歌形の上でも同樣に兩者は調和し易いものでなければならない。然るに事實に於いて右の二條件は何れもそのまま具備せられてゐた。次にそのことを敍説しよう。
 l. 新羅樂の基調を定めるものは、これに使用せられる樂器〔二字傍点〕である。勿論樂器の制があつて然る後に歌謠の曲節がつくられるものではないけれども、我國に新羅樂の輸入せられた當時には、樂器の制はよく歌謠の曲節に適合し、兩者の間に完全なる一致が見られたに相違ない。それ故當時の音樂の曲節の如何なるものであつたかを知り難い現在に於いて、當時の音樂の制を推測するには、兩者の樂器の制を比較することが何よりも妥當のものであらう。
 當時の新羅樂に使用せられた樂器は、既に述べた如く玄琴、伽耶琴、琵琶の三絃と、大※[竹/今]、中※[竹/今]、小※[竹/今]の三竹とを主たるものとしたが、これらのすべてが支那その儘のものではなくて、何れも朝鮮の地で創始せられたものであつたことは注目せらるべきである。これによつて見るに、朝鮮樂は支那の樂器を以て全然適切には演出することの不可能なるものであつたらう。これらの樂器のうち何と何とが我國へ輸入せられたかは詳密に知られないけれども、「文徳實録」「令集解」その他の記載を「三國史記」に對照した限りでは、既に記述した如く、伽耶琴が輸入せられてゐたことだけは疑へない。
 然らば當時に於ける我國の樂器には如何なる種類があつたかといふに、和琴がその主たるもの(468)であつたらう。和琴は外邦樂に影響せられて、恐らくは天武朝頃に大いなる改造の加へられたものと想像せられるが、それ以前の和琴も樂器の制としては今日殘存する和琴のそれと根本的に異なるものではなかつたであらう。今日見るを得る和琴は六絃であり、支那の琴の五絃又は七絃であるとはその制を根本的に異らしめてゐる。田邊尚雄氏は、支那では五聲七聲を基礎とするが古代バビロン地方では古來六の數を尊重することや、その他多くの事實を基礎として、この和琴の系統を支那に求めず小アジア方面に求めてゐられる。正倉院に殘つてゐる和琴は同樣に六絃である。「音律具類抄」は「日神岩戸に入座時、諸神是を悲、始て神樂をなすの時、弓六張をひとつにつかね引v之。日本和琴の始也。弓六張と書て、あづま琴とよめり」と書き、「源中最秘抄」なども同樣に「和琴は弓六張也」と書いてゐるが、弓を竝べて弾じただけでは共鳴胴の装置がないから音は殆ど出るものでないこと田邊氏の言はれる如くであつたにしても、(田邊氏著「日本音樂の研究」六〇−六一頁)さうした所傳は、和琴の絃數が六であるところから起つたものであらう。和琴の絃數の六は何時頃より始まつたか不明であるけれども、餘程古くからさうなつてゐたものであらう。
 新羅の玄琴は、前に記した如く支那の七絃の琴を修正して六絃となしたものである。然らば新羅人は何故この修正をなしたかといふに、新羅の音樂が本來六絃に適するものであつたが故であらう。これにより、新羅の歌謠は音樂的に本來日本のそれに近かつたことが推測せられる。併し(469)玄琴は全く和琴と同じいものでなく、やはり支那の琴《キン》にも類似し、兩者の折衷形になつてゐる。田邊氏の研究によれば玄琴は次の如きものである。
   「之れが(註。玄琴のこと)支那の琴と大に違ひ、我が和琴に近いことは次の四條を見ても知れる。
    (一) 六絃なること。
    (二) 和琴と同じく琴軋《ことさき》を用ふること。
    (三) 鵄尾に絃を止める仕方が和琴に似てゐること。
    (四) 支那の琴は小さいが、玄琴は和琴と同じく大きい。
   又之れが和琴と逮つて、支那の琴《キン》を模して工夫をしたと思はれる所は次の二項である。
    (一) 外形が支那の琴《キン》に似てゐること。
    (二) 支那の琴は左手を以て絃を案じ、その長さを色々に變へて種々の音を出すが、玄琴では中央の三絃だけは※[木+果]と稱するもの十六個を用ひ、左手で絃を按じ、※[木+果]に依つてその絃の長さを種々に變へて種々の音を出すやうな工夫がしてある。」(「日本音樂の研究」一三七―八頁)
 次に伽耶琴即ち我が所謂新羅琴を見る。この琴が伽耶國に於いて作られ、新羅に齎らされた經過に就いては既に述べた。(註一)この琴は十二絃を持つが、支那の十三絃の箏を範としそれに(470)修正を加へたものと考へられる。この場合十三絃は何故十二絃に修正せられたかといふに、やはり朝鮮の歌謠が十三絃に適せず十二絃に適してゐたがためと見なければならぬ。斯く新羅の音樂が六絃の和琴の樂と共通するところの多かつた理由は何であらうか。南鮮地方の音樂は本來我國のそれと共通的であり、早くからその地方に和琴が入り込んでゐたものであらうか。斯うした事實は全く證明せられないにしても、とにかく朝鮮の歌謠が我國のそれと曲節に於いて類似するものであつたことは、右の事實により證明せられたといへよう。假説的に言へば、我國と南鮮との間に、極めて古くは同一系統の音樂が存在したが、朝鮮では、支那の影響を受け易かつたから、支那より十三絃の箏や七絃の琴の如きものが入り込んで來て固有の音樂に化せられ、和琴とも違つたものが制作せられて、我國へも輸入せられたといふことになるのである。
  (註一) 「伽耶琴通國の名手」といふ樣な語は諸所に見える。例へば 「松都記異」眞娘の條にもある。朝鮮では伽耶琴はずつと使用せられて來たのである。李朝の俗樂部郷部の樂器として玄琴、郷琵琶、伽耶琴、大※[竹/今]、中※[竹/今]、小※[竹/今]、郷※[咸/角]篥の名が出てゐる。(「増補文献備考」卷百一、朝鮮研究會本、二九三頁)李廷馨の「東閣雜記」上、宜徳巳酉の條に「天使尹鳳昌盛李翔等、以皇勒、※[手偏+東]選小火者六名、執饌婢十二名、唱歌婢八名、※[(十の左右に人)わがんむり/貝]伽耶琴玄琴郷琵琶唐琵琶笛、發行」とある。(「朝鮮群書大系」本、三七五頁)
 
 箇の制は各國略々一樣であるから相互比較するに困難である。併しとにかく支那の笛は指孔が五又は七箇であり、雅樂に於いても唐樂及び林邑樂では七箇の指孔を持つ横笛を使用するけれど(471)も、和笛即ち神樂笛と高麗笛とは六箇の指穴を持つてゐる。ここでも日本と朝鮮との間に共通の系統が見られるのである。隨つて神樂の音階は概ね萱越を宮位とするが、その羽位即ち磐渉を缺き、萱越、乎調、勝絶、雙調、黄鐘、神仙の六聲の音階から出來てゐる。「東遊」の如きは本來東國の俗謠より發達した音樂であるけれども、高靈樂に似通つた曲趣を多く持ち、高麗笛を伴奏樂器として使用する。(那智俊宣氏著「日本音樂の聽き方」九五頁參照。)狛近眞の「教訓抄」卷一に「諸樂横笛師等、不v解2和琴1不v得v任2用之1」と書いてあるのは、和琴の制が唐樂の笛の制と根本的に異つてゐたがためであらうか。
 
    三六
 
 2.我國へ輸入せられた新羅樂の曲趣〔二字傍点〕は元來如何なるものであつたか。またその曲趣は我國固有の歌謠の曲趣によく適合するものであつたか。
 朝鮮民族が本來歌舞を好愛したことは既に記した。その性淫であるといひ、暮夜必らず男女歌舞倡樂したといふに見れば、その曲趣は大體に民謠的特色特に戀愛抒情歌的民謠の特色を持つてゐたであらう。それに先んじて存した歌謠は、斯くの如きものでなかつたかも知れない。併し西紀前後に於ける朝鮮歌謠は既に藝術的に鑑賞せられ得る發達をなしてゐたと考へられるから、こ(472)の時に戀愛抒情歌的民謠が存したとすれば、それは何處の民謠に就いても見られる如く、一種の哀調を帶びた、またそれ故に民衆の心に喰ひ入ることの深かつたものであらう。
 伽耶琴には河臨調と嫩竹調とあり、玄琴には平詞と羽調とあつたことは「三國史記」の記すところである。我國に傳へられてゐることの明らかなものは伽耶琴であるが、その伽耶琴の樂の曲趣は、先きに記した如く「伽耶亡國の音取るに足らず」とあるによつて想察せられる。よし新羅のものは伽耶のものを幾分修正して伽耶のそれの如く悲喜に淫するものではなかつたとしても、なほ新羅在來のものよりは哀調を帶びてゐたことは、右の評語によつても知られるのである。隨つて我國へ輸入せられた新羅樂は、大體に於いて哀調を帶びたものであつたと推測することは不當であるまい。「教訓抄」卷三には、玉樹後庭花に關し記した場所に於いてではあるが、「此の樂の内に亡國の音あり。古老申されしは、平調音に成る所を云也」とある。然らば新羅樂は、概ね我國の平調又はそれに近い調を以て演奏せられたものではあるまいか。
 現在の神樂は後に音樂的に創作せられたものであつて、原始その儘のものではない。現在の神樂は宗教的意義を含みその曲節森嚴であるけれども、原始態の歌謠では、宗教的行事に用ひる音樂必ずしも宗教的の形式を持つたものではない。現にその「早歌」の章句などには大いに滑稽味を含んだものもあるし、その他のものにも戀愛杼情歌が多いのである。――「庭鳥はかけろと鳴きぬなり、起きよ/\、わが一夜妻人もこそ見れ、人もこそ見れ」――かうした内容のものは、(473)上代に遡る程多く含まつてゐたことと思ふ。シャマニズムの最初に起つた神事歌は、囃子を主としたものであつたらうが、次第に歌謠としての自覚を持つて來ると、先づ民謠風に發達する。この場合戀愛杼情歌が多くなるのは人情の自然であらう。この時もなほ特別に宗教歌は起らうとしない。そして宗教的神事には民謠風の戀愛杼情歌などが平氣で用ひられるのである。上代の神事歌は今見る神樂歌以上にさうした民謠的特色を持つてゐたであらうと考へるのは、このことを根據としてである。「教訓抄」卷六に、「或説云。乎詞は金商也。西方音也。亡國音也。神樂者平調也。依v爲2亡國音1、後成2壹越調1云々」とあることは、或は眞實であつたかも知れない。乎調は即ちホ調であつて、ハ調のミ音を基調とするし、壹越調は即ちニ調であつて、ハ調のレ音を基調とする。「教訓抄」.がホ調を亡國の音と評し、更にその卷一が壹越調を評して「壹越調は土也。土不v固者衆物不v正」といつたことは、我々から見てもいかにも至當の感じがするのである。神樂はその秘曲「宮人」、極めて重要のものと見られる「採物」、最も古いと稱せられる「早歌」などでは「神仙」を宮位として、即ちハ調に屬し、呂旋律旋の何れにも屬さない獨特の旋法を持つさうであるが、これは一層原始的の感じがする。その他のものは概ね壹越を宮位とし、その音程をハ調で現はせば、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、ド、レの順序の音程を持つことになる。併し神樂が最初平調であつたといふ古説にも、何等かの根據はあつたことと思ふ。若しそれが眞實であつたとすれば、或は上代の神事歌はさうした曲節のものであつて、その内容も一層民謠風ではなか(474)つたか。天平十一年冬十月光明皇后の維摩講に、佛前に琴に合せて唱つたといふ歌(「萬葉集」卷八)――「時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも」――に就いては後章に詳説するが、一種の宗教行事歌であつてその内容は宗教的でない。しかもこの形式の歌は、後章に諭ずる如く「彌彦、神の麓に今日らもか」の越中國の民謠の形式の流れを汲むものと考へられる。さらに考へれば、「彌彦、神の麓に今日らもか」の歌が、本來民謠調ではありながら、その内容に彌彦の社のことを謠ふところを見ると、神事歌であつたとも考へられるのである。
 斯くして神事歌に民謠風のもの、特に戀愛杼情歌を用ひることは上代に於いて普通のことであつたと考へられるが、若しそれが眞實であつたとすれば、神樂が平調であつたことは全く誤傳だともいへない。また亡國の音として意味せられるものが右の場合に常に平調であるのを見れば、等しく亡國の音と評された新羅樂の一部は或は我が平調に相當し、(玄琴の一つの調子は平調と書いてあるが、朝鮮の平調は我が平調に當つたかどうか分らない。)全體として新羅歌の曲趣は哀調を帶びる民謠風のものでなかつたかと考へるのである。當時の我が音樂例へば神事樂や民謠も、同樣に幾分哀調を帶びるものであつたとすれば、新羅歌の曲趣は我が固有歌謠のそれに直ちによく調和したに相連ない。「東遊」(あづまあそぴ)は賀茂兩社の勅祭に用ひられ一種の神事樂であるが、前に記した如く元來は東國の俗謠であつたらう。その元の姿をどの程度まで保存してゐるかは推測出來ないが、とにかくこれも平調を宮位とすることは注目せらるべきである。平調は亡國の音であ(475)るといふけれども、人間が音樂に於いて藝術的に自覚して來る端緒は常に斯うした感傷であり、であるからといつて輕く見るべきものでない。それは人間の底深い感情生活に結びついてゐる。だから狛近眞は、「平調は管絃の中の本體なり。よくよくひろくしてはかりなし。これ法文の儀なり。法花ねはんなし」と言ひ、(「教訓抄」卷八)また管絃の道の精神を諦めては、「管絃はすきもののすべき事なり。すきものと云は、慈悲のありて、つぬにはもののあはれをしりて、あけくれ心をすまして、花をみ、月をながめても、なげきあかし、おもひくらして、此世をいとひ、佛にならんと思べきなり」と書いた。(同卷八)勿論この見方は藤原末期より鎌倉期に亙つての幽玄思想をまで含んで洗煉せられたものになつてゐるけれども、その見方の根柢はいつの時代にも許さるべきであらう。民謠が哀調を含み、概ね感傷的に平調となる理由はそこにあると思ふ。
 斯く考へて我が志良宜歌を見ると、いかにもと思はれる節が多い。「あしぴきの山田を作り」の歌は、全然一の戀愛杼情歌である。しかも「今夜《こぞ》こそは安く膚《はだ》觸れ」と可なり露骨に表現する點で民謠的の特色を強く帶びる。斯うした歌が民謠風の曲趣を以てうたはれたと想像することは、不自然でない。しかもこの歌を記紀共に木梨の輕の太子の哀史に結び付けて傳へてゐたのは何故であらうか。その曲趣が特別に哀調を帶びてゐたから、その想像をなさしめたのではないか。これらのことを合せ考へれば、紀記の志良宜歌は、伽耶琴の樂につき記されてゐることと一致して、やはり哀調を強く帶びた特色のものであつたらう。「琴歌譜」では「古歌抄」といふ書を引用し、(476)この歌を允恭帝が衣通姫に與へられた御製として傳へる別説を記してゐるけれども、特別に哀調を帶びるものを斯く想像することは自然でない。「古歌抄」といふ書の出來た頃には、この志良宜歌も以前ほどの哀調を帶びなかつたものではないか。果してさうであれば「琴歌譜」の茲良宜歌の譜は、その本來のものを變化せしめ、時代も後に下ることとなる。
 故上原六四郎氏は上代歌謠の曲節に就いて一つの重要な、また甚だ獨創的な推測説を立てられたが、この場合考へ合せて我々には意味深い旁證となる。上原氏は我國の俗樂には曲節に二種類の別があるとし、一を都節他を田舍節と呼ばれた。「都府に行はるるものと田舍に行はるるものとは、大にその趣味を異にし、或は來原一ならざるが如し。依て、爰には甲の類を都節と稱し乙の類を田舍節と名く。」(同氏著「俗樂旋律考」岩波版、二九頁)「抑も田舍節とは本論の始に述べし如く、舟歌、馬子歌、田植歌等專ら田舍間に行はるる歌謠の總稱にして、人口稠密なる都府に於ては概ねぬ野鄙なりとして之を唱ふ者甚だ稀なり。」(同書七八頁)田舍節の曲節は都節に比するに概ね爽快にして頗る力あり。是れ動もすればその曲節の野鄙に聞ゆる所以にして普通の弊に陷り易く、之に反し都節は頗る柔和の性を有す。是れ淫猥に傾き易き原因にして亦普通の弊之に伴ひ易し。」(同書八七−八八頁)上原氏はこの都節の音階に陰旋の名を與へ、田舍節の音階に陽旋の名を與へた。さて上原氏の所説として重要なことは、この俗樂の陽旋と雅樂の律旋とを同一物であると論斷した點である。
(477)   「雅樂の催馬樂の如き唱歌は我國上古の風俗歌なりと聞く。予の稱する田舍節は今時の風俗歌なり。雅樂の唱歌は最も高尚にして田舍節は頗る野鄙なり。それ、斯の如く雅俗に雲泥の差異あるに關はらず、彼とこれと音階を一にするものは蓋し祖を一にするに因るべし。記して學者の參考に供す。」(同書九一頁)
 これは重大の主張であるために、從來音樂史家の間に種々賛否の論の行はれたものであるが、上原氏の取つた資材は科學的に全部は妥當でなかつたにしても、とにかく大綱に於いてその主張は容認せらるべきものであるやうに見えるのである。併し若しその主張が容認せられたとすれば、我々の今の問題の考察にいかなる影響を與へるか。我國の雅樂には、唐の正樂の旋法中の或る調を取り、我が民族心の趣味に適合するやうにして成立せしめられたと考へられる律旋と呼ぶ特異の旋法があり、それに對して正樂の旋法は呂旋と呼ばれる。然らば呂旋と律旋とは曲趣上如何に相違すかといふに、呂旋は固く正しい感じがするし、律旋はそれよりもずつと柔か味を持ち、杼情的となつてゐるのである。(註一)我國の古代の俗謠より轉化したと考へられるやうな音樂には、この律旋が用ひられ、さうでない場合も律旋を混用することが多い。(例へば「久米歌」は律旋である。)(註二)この點から古代の歌謠は律旋に近い曲趣を持つものでなかつたかとは一般に想像せられるところであるが、上原氏が田舍節の旋法をこの律旋と同一物であるとせられたとすれば、その推測は一層高い確實度を持つことにならう。即ち田舍に行はれた民謠の如きものは、(478)多くその曲趣を變化せしめず今日に至つたが、それは中世に我が民族心の趣好に應じて成立したと考へられる律旋と共通點を持つのであつた。ここに律旋又は田舍節の旋法によつて上代の歌謠の曲節を想像するならば、それは都節の如くに技巧的、感傷的のものではなかつたとしても、なほ大いに柔か味を含んだ、抒情的のものであつたことが想像せられる。然らば上代歌謠の曲節の中に平調またはそれに類する曲節のものの存在する推測は、精確には適中しなかつたとしても、その曲趣を幾分哀調を帶びた民謠的のものと推測することの旁證がなほここに一つ與へられたのだ。
  (註一) 「律旋は正樂の旋法に比べると、柔か味があるばかりでなく、之に基いて作つた旋律は正樂のそれより遙かに美しく、且つ人間味がある。」(伊庭孝氏著「日本音樂概論」六八頁)隨つて律旋は全く我國に特有のものだとさへ信じられてゐた。
  (註ニ) 久米歌の律旋について那智俊宣氏は矣のやうに言つて居られる。「律旋法は、神樂の項に於て述べましたやうに、元來傳來の旋律法であるにも關はらず、我が國風に相通ずる特殊の音階でありますが、この形式を以て、全然上古の態式と見るのは甚だ早計ではありますけれども、由緒の淺からざる古譜を研究いたしまして、復興せられたものとしますれば、決して古に縁故のない、近世の作り物ではないのであります。」(同氏著「日本音樂の聴き方」九〇頁)
 
(479)    三七
 
 3.新羅歌の歌形〔二字傍点〕が我が上代の歌形に類似し、隨つて新羅歌の曲節を日本語の歌詞に利用することの可能であつたことは、既に詳しく新羅歌の歌形を分析したことにより明らかとなつた。殊に不思議に感じられることは、新羅歌の十句歌體が二句づつ短長の組み合せをなし、(第五句を別として)その二句を以て一つの纏まつた歌意をなすらしいことである。これは我が上代の歌謠にも常に見られた樣式である。更に新羅郷歌の韻律を調査して見ると、多分は六八調を基調としたものでないかと考へられる。若しその調査が誤つてゐなかつたとすれば、既に比較して論じた如く、この六八調の曲に五七調のわが歌謠を適用することは容易である。即ち一音の休止を置くか或は一音だけ伸ばして謠へば、五七調の歌詞はそのまま六八調の歌曲に適合せられるのだ。斯くして新羅歌謠の歌曲は如何なるものであつたにせよ、少なくも歌詞の韻律の上では新羅歌謠の歌曲に我國の歌謠の歌詞を適用して謠ふことは、完全に可能であつた。更にその歌曲の曲趣さへも類似して居り、音樂の體制に共通點があつたと證明せられる以上は、右の可能性には一點の疑念も挿まれはしないのである〔斯くして新羅〜傍点〕。
 然らば兩國の歌謠が、所謂志良宜歌の輸入以前に既にこの一致を示してゐた理由は何であらう(480)か。このことは一層大いなる問題として我々の前に提示せられる。今假説として可能のものを擧げるならば、
 イ、古い歌謠はさうした歌形を持ち易く、新羅と我國の歌諸にその歌形の見られるのは、全く偶然の一致といふに過ぎない。
 ロ、我國と朝鮮と、歌謠の形式の上で極めて古い時代から共通的のものを持つてゐた。隨つて上代歌謠に於いてこの一致を見たのである。
 ハ、我國の歌謠が朝鮮の歌謠の上に影響を與へた。
 ニ1、朝鮮の歌謠が我國の歌謠の上に影響を與へ、その結果我國の歌謠は五七音の定型を成立せしめた。
 右の假説は何れも理論として成立の可能なるものであるけれども、事實としては果して何れが眞實のものであつたか。第一の假説は、兩者の樂器などの比較によつても、想像としてさほど有力のものだと思へない。樂器に於いて既にこれだけの影響が見られる以上は、歌謠の曲節や韻律に於いて全く互ひに影響することがなかつたとは考へられぬことでないか。私はそれよりも兩者の間にやはり最初から何等かの干渉があつたと考へることが、推測として自然のものだと考へないではゐられない。この間題に就いては、第三章に於いて一層詳密に論じたい。(註一)
  (註一) 石川三四郎氏は、我が三十一音の歌は希臘古代に行はれた三十一シラブルの歌より來たもので(481)はないかとする西洋の學者の説を否定し、なほ進んでアッシリアの楔形文字を以て書かれた神話の多くが一種の有律文となり、そのリズムが甚だ頻繁に五七調又は七五調になることに注意して、三十一音のものさへ存在することを指摘し、我國短歌の起原をここに求められた。(同氏著「古事記神話の新研究」第十一章「日本短歌の起原」)短歌は既に整理せられた後の形式であるから、これと類似するものが他にあるからといつて直ちに同系を主張すべきではないが、五音七音風のリズムがアッシリアの古文書に存することだけは相當に注意せらるべきであると思ふ。元來日本文化の起原を中央亜細亜方面に置くことは、ツングウス民族の系統を尋ねることによつて漠然とは想像せられることであるけれども、その文化の細目を相互比較して直ちに同系を言ふは危險極まることである。我々は先づ慎重にこの中間過程の連續を研究しなければならない。
 
    三八
 
 (丙)日本語の歌詞による新羅歌謡〔十三字右△〕。
 l. 新羅樂が我國に輸入せられた經過〔二字傍点〕を述べ、次にこの新羅樂が我國の音樂〔二字傍点〕とその旋律の基礎を同じくしまた歌形〔二字傍点〕をも同じくするところから、直ちに我國の音樂の中に包容せられ得ることの可能性を論じつくした。輸入せられた新羅の歌謠の性質がこの如きものである以上は、次にこの(482)新らしい曲節に當て朕められた日本語の歌詞が當然生れ出でなければならぬ。新羅の歌謠をそのまま翻譯した日本語の歌詞さへ生れ出でなければならぬことであるけれども、郷歌の現に殘存するものの少ない今日では、それをまで證示することが出來ない。併し明らかにこの新羅歌謠の曲節に隨つて作歌したと斷定の出來るものが、我が紀記の中に殘存する。それは木梨の輕の太子の御作と解する志良宜歌――「あしぴきの山田をつくり」――の歌である。
 今日の文献によつて推定せられる新羅郷歌の典型的なる歌形は次の如きものであつた。
   [四]    [八]
   [六]    [八]
   [八]    [八]
   [六]    [八]
   [六]    [八]
 この歌曲に合せて所謂志良宜歌が創作せられた。
   あしびきの 山田をつくり、
   山高み下樋《したぴ》を走《わし》せ、
   下問《したど》ひに 我が問ふ妹《いも》を
   下泣きに 我が泣く妻を、
(483)   今夜《こぞ》こそは 安く肌《はだ》觸れ。
 尤も兩者の韻律は、全くは一致してゐない。併し、
 イ、第一句の四音に我が五音を適用することは不可能でない。
 ロ、第五句の八音のところでは、我が五音を伸ばして歌へばよい。
 ハ、六八調のところは既に述べた如くその儘これに五七調の歌を適用することが出來る。
 ニ、我國の志良宜歌の原形では、第一句が四音であつたとも想像せられる。我國の上代歌謠には第一句が三音四音となつてゐるものが多い。
 ホ、第五句の部分は、新羅の郷歌に於いて六音になつてゐたものが存在したとも想像出來る。
 ヘ、新羅郷歌の歌形は右の如き形式のものであつたにしても、我國では五七調の韻律に慣れてゐたから全部を五七調の韻律にしたものであらうか。
 ト、六八調にせず、五七調にしたことに我が國民性の一つの好みを見なければならぬ。
 斯くしてとにかく右の志良宜歌が當時輸入せられた新薙の十句體郷歌の曲に適合するやう創作せられたことは、いま全く疑ふべきものでなくなつた。記が「此は志良宜歌なり」と詳記してゐたのは誤記でなく、志良宜歌は新羅歌《しらぎうた》であつたのだ。また斯く新羅歌と特に呼ばれる位であれば、當時には同樣形態の歌が多數に創作せられ、歌謠として斯くの如き一歌體を新らたに發生せしめてゐたに相違ない。
(484) 記の右の記載は、最近に近衛家の藏本の中から發見せられた、圓融帝の天元四年(西紀九八一年)傳寫の奥書のある「琴歌譜」に載せられた同一の歌が、やはり茲良宜歌と名付けられてゐることも一致してゐる。「シラギ歌」といふからには、その謠ふ曲節を新羅歌謠のそれに據らしめたものでなければならぬ。ここに我々は、上代歌謠の中に於いて、朝鮮系の曲節に隨ひ謠はれた日本語の歌謠を、完全に一つ發見することが出來たのである。
 この志良宜歌が我國本來の歌謠によつたものでないことは、その最後に繰り返しの長句のないことによつて知られる。我國固有の歌謠形式の發達に就いては、私は前卷で詳密に論述したが、それによれば我國固有の歌形は、
   短、 長、
      長。
となるものであり、この最後の長句は囃子の意味を持つ繰り返し句の發達したものであつた。この歌形の長いものでは、
   短、 長、
   短、 長、
   短、 長、
      長。
(485)といふ風になつて、やはり最後の長句を失はない。その結果歌の姿は奇數句歌體となるのである。六句體十句體の如き偶數句歌體があつたとしても、その歌形を分析すれば、
   短、 長、
   短、 長、
      長。
      長。
又は、
   短、 長、
      長、
   短、 長、
      長。
の六句體であるか、或は、
   短、 長、
   短、 長、
      長、
   短、 長、
(486)   短、、長、
     長。
といふやうなコムビネエションの十句體であつて、その構造は偶數句歌體的のものではない。斯うした歌形のものを、單に句數を數へただけで偶數句歌體と從來呼んで來たのは、大いなる誤謬であつた。(註一)私は右の如き奇數句歌體、及び複合奇數句歌體(奇數句歌體の複合した結果偶數句歌體の如くになつたものを假りに斯く名付けよう。)を、片歌旋頭歌長歌短歌と發展して行た我國固有系歌形の基本的歌形であると考へる。
  (註一) 久松潛一氏はその著「上代日本文學の研究」の中に收められた論文「上古歌謠に於ける六句體歌に就いて」に於いて、六句歌體の形式を更に綿密に(a)五七七。五七七。(旋頭歌體)(b)五七。五七七。七。(佛足石歌體)(C)五七。五七。五七。(例。神武紀の「やまとは浦安の國」、仁徳紀の「ひさかたの天たなばた」)(d)五。五七五七七。(例。仲哀紀の「いざあぎ、振熊が痛手負はずば」)の四種に區別せられてゐるのは有益である。右の諸形式の中、aは複合奇數句歌體であるし、bも奇數句歌體である。dも亦奇數句歌體であつて偶數句歌體ではない。ひとりCだけは純粹に偶數句歌體である。
 
 然るに志良宜歌の歌謠形式は純然たる偶數句歌體であつて、最後に長句を持たない。その構造は歌意により更に細かく分析しても、
(487)    2(2)十2(2)十2、
となつて、何處までも偶數句歌的であり、複合奇數句歌的ではない。それ故にこの形式は、我國固有系の歌謠形式とは基本的に違つたものだと考へなければならない。即ち我々はここに上代歌謠の中に於いて、純粹の偶數句歌體を一つは確かに見ることが出來たのである。隨つてまた我々は我國上代歌謠の中の偶數句歌體の源流を、一つは確かに究めることが出來た。四句體偶數句歌形式の新羅歌謠が我國へ輸入せられてゐたことに就いては記録的に明らかな證跡をあげ難いが、少なくも十句體歌であつて偶數句歌的構造を持つものは、新羅歌謠であるか或はそれにより影響せられたものと見なけれぼならぬ。なほ進んでは、我が歌形の最後の長句を失はしめようとする傾向は、上代にあつては新羅歌謠から來たものとしてよいと思ふのである。ここに我が上代の歌謠には、奇數句的にならうとする固有形と偶數句的にならうとする朝鮮系歌形と、二大歌形の對立を見ることになつた。
 
     三九
 
 2.我國固有の歌謠形式を新羅のそれと比較すれば右の如き顕著な相違があるけれども、なほ仔細に支那、新羅、日本の歌謠形式を比較して見ると、新羅のものはなほ大いに我國の歌謠形に(488)近い。一般の文化の樣式が示す如く、ここでも朝鮮は支那と日本との折衷形を示してゐるのである。今左に樂器及び歌謠形式の相互對照を示して見る。(支那には樂器の種類が多いから、今は對照に必要なる限りのものを掲げる。)
   日 本              朝 鮮            支 那
     樂  器
 和笛《やまとぷえ》。指孔は六個ある。 高麗笛。指孔は六個ある。   指孔は五箇又は七箇ある。
 和琴。大紋である。          玄琴。支那の七絃の琴を修正し 五舷又は七絃である。
                    た六絃のものである。伽耶琴。
                    支那の十三絃の箏を修正した十
                    二絃のものである。
       歌  謠
 西紀紀元前後に四句體歌があり     西紀紀元前後に四句體歌がある。 西紀前數世紀の時から偶數
 はしなかつたかと想像せられる。                    句體になつてゐる。
 (後説)
 奇數句體となつてゐる。最後の     十句體歌がある。併し矩句長句  四言詩、五言詩、七言詩の如
 長句は囃子風の繰り返しの殘物     が對になり聯をつくつてゐる點  く各句の字數は同一である。
 である。短句長句が對になり聯     で支那の詩形と違ひ、日本のも
(489) をつくつてゐる。         のに似る。
 最後まで殘つた短歌は五句體歌     十句體歌の構造は前八句と後句
 であり、歌謠の原始形である囃     二句とより成る。後句は繰り返
 子風繰り返しの句に相當するも     し的の意義を持つ點でなほ幾分
 のを最後まで失はなかつた。      歌謠の原始形を殘す。
 
即ち支那では歌謠形式としての完成はひとまづ既に西紀紀元以前に達せられてゐた。朝鮮のそれは支那のものにより影響せられて大いに支那化したが、なほ全體として原始形を幾分殘存せしめてゐる。我國のものは朝鮮及び支那の影響を受けてその形式を洗煉せしめたけれども、囃子意味を持つた最後の繰り返し長句を、形式的に全く失ふことがなく、歌謠の原始形の主部を現代まで殘存せしめて來た。この最後の長句は本來シャマニズムと深い關係を持つものであつたが、それが現代まで殘つて來たことは注目せらるべきである。私は右の比較によつて日本文化の一特質を知ることが出來た。この比較は歌謠以外の諸文化に就いても概ね一般形式として見られるところのものである。
 
    四〇
 
(490) (丁) 志良宜歌の形式及び曲節〔十一字右△〕。
 拍子、旋律、曲趣等を含めて、私は漠然と曲節〔二字傍点〕と呼んで來た。上代歌謠が眞に如何なる曲節を以て謠はれたかに就いて知るべき材料は何處にもない。然るに志良宜歌は新羅歌であることが明らかになつたとすれば、その志良宜歌は當時の新羅歌謠と同一の曲節を以て謠はれたに相違ないものであるから、上代歌謠の中の或る一部分が實際に謠はれた曲節は、當時の新羅歌謠の曲節を推論することによつて知るを得よう。また斯くの如き新羅歌謠の曲節は、我が固有の歌謠の曲節より甚だしく隔たつたものであれば我が歌謠の中に包容せられ得ないが、その包容が可能であつたことや兩者の樂器に共通性の多いことやにより、我が固有の歌謠の曲節も亦新羅歌謠のそれに近似したものであつたと言ひ得るならば、新羅歌謠の曲節を知ることにより、間接には我が上代歌謠の實際に謠はれた一般の曲節をも察知することが出來るのである。上代歌謠史の研究として、我々はここに具體的なる一歩を進めることが出來たと言へよう。
 個々の分析と推論は既に詳しく敍説したから、今は結論的に纏めて記すに止める。
 1.志良宜歌の歌形は短長二句を一聯とする十句體偶數歌に屬する。
 2.十句歌體は、歌意の上では一貫するが、なほ細かには前四句、中四句、後二句の三群より成つたであらう。
 3.十句歌體は、謠ふ曲節としては前八句、後二句の二群に分れ、前後その趣きを異にしたに(491)相違ない。後二句は新羅では後句と呼ばれた。
  4.志良宜歌の曲趣は、哀調を帶びた民謠風のものであつたと思ふ。或は概ねは平調を宮位とするものであつたかも知れない。
  5.樂器を用ひる時には新羅琴即ち伽耶琴を使つたであらうが、樂器の制が根本的に違はなかつたところより、和琴を以て代用する場合がなかつたとは言へない。「琴歌譜」の中に茲良宜歌の含められたことによつて見れば、後には和琴を以て奏することが普通であつたらう。
  6. 志良宜歌の曲節は特別に我國固有のそれと異なるものではなかつたから、直ちに日本化せられ、最初より日本固有の曲節の一種であつた如き觀を呈したと見える。奈良朝時代に志良宜歌は、既に斯くの如き取扱ひを受けてゐたであらう。
 次に上代歌謠一般の曲節に就いて斷定し得る限りのものを言へば、
  1.上代歌謠の中には、たとひ神事用のものであつても、多少哀調を帶びた民謠風の曲趣のものが多く含められてゐたであらう。
 これだけのことは言はれ得ると思ふ。現在の神樂は後世の創作であるから、その中に古調を含んだにせよ、これを基礎として上代歌謠の實際に謠はれた曲節を想像することは不可能である。
 それには宗教的自覚が加はつてゐる。森嚴幽微なのは、主としてその自覚から發したものであつた。
 
(492)    四一
 
 (戊) 後句と反歌〔五字右△〕。
 新羅の郷歌は、既に分析した如く所謂後句を持つ。このことは我々をして直ちに、長歌の終りに附いてゐる反歌を聯想せしめるものである。若しも新羅郷歌が我が上代歌謠と上の如く密接の關係を持つものならば、我が反歌は新羅の後句を模したものだとは言へないか。或はまた逆に、新羅の後句は我が反歌によつて影響せられたものだとは言へないか。後句と反歌とは、少なくも次の諸點に於いて相平行する關係を持つてゐる。
 1. 後句は我が長歌に類する十句體歌の末尾に附き、その形態が長歌に於ける反歌に似る。
 2.後句の最初の形は前八句の主たる意味を繰り返したものの如くに見られるが、反歌の内容は斯くの如きものである。但し普通に見られる郷歌では、後句までを合せて一の歌意を成し、反歌とは性質を異らしめた。
 3. 後句は歌意の上で分れたものでなく、曲節の上で分れたものと考へられるが、反歌の發生も亦歌謠として謠ふことに原因を持つたと考へられる。(これに就いては前卷で述べた。)
 4.我が歌謠の古いものの中には發生的に反歌と考へられるものは存在するが、反歌として明(493)記せられたのはやや後のことであり、白鳳時代に隆昌を極め、それより後には次第に衰へて行つた。然るに後句を持つ十句體郷歌は同じ白鳳期に相當する時代に於いて新羅でも隆昌を極め、且つその時代に於いては彼我の文化的交通が盛んであつた。天平時代になると、新羅との文化的關係よりは唐とのそれが優支配的となつたが、その時には反歌も惰性的に繼續せられるに過ぎない。
 右のやうな事情を見れば、後句と反歌との間に何等かの關係があると考へることは、全然の想像であるとは言へないが、私は今その斷定を下さうと思はない。右の如く兩者は類似した形態を持つものであるにせよ、とにかく後句では歌意に於いて後句が前八句より獨立せず、反歌では長歌と反歌と互ひに獨立してゐることは、兩者に根本的の相違であり、單純にこの溝渠を飛躍すべきものではない。それ故に私は、新羅郷歌の後句と我が上代歌謠の反歌との間に何等かの關係が存するや否やの問題に就いては、何れとも斷定的の答へを得ないと言ふに止めて、その解決に資するを得る資料を蒐集したいのである。
 
    四二
 
 (五) 紀記及び「琴歌譜」に於ける志良宜歌。〔十五字右○〕
 1.志良宜歌は紀、記、「琴歌譜」の三者に記載せられ、記では「志良宜歌」、譜では「茲良(494)宜歌」と名付けられ、紀では特別に命名せられてゐないことは既に敍説した。然るにこれらの歌の詞は、多少づつ違つてゐて何れを原形とも定め難いが、私は紀又は記のものを原形であると斷定したい。何故なれば、紀記のものは、第七句第八句が「今夜《こぞ》こそは安《やす》く膚《はだ》觸《ふ》れ」(記)又は「きぞこそ安く膚《はだ》觸れ」となつてゐて、その歌形は「短、長」であり、正に新羅郷歌の分析の結果と一致するが故である。然るに譜のものは「今夜《コゾ》こそ妹に安く膚觸れ」となつてゐて、その歌形「長、長」であるから、志良宜歌の原歌形であると考へることが出來ない。何故この歌形を生ずるに至つたかの理由に就いては後に述べる。
 2.志良宜歌は從來「シラゲ歌」と讀まれて來たが、これには理由がないと言へない。「宜」の字は記では常に「ゲ」と讀まれて來たのである。その他の上代の文献を渉獵して見ても「宜」は「ゲ」と讀まれ「ギ」と讀まれてゐない。例へば記では、
   夜多能《やたの》、比登母登須宜波《ひともとすげは》、云々。
   意富麻幣《おほまへ》、袁麻幣須久泥賀《をまへすくねが》、加那斗加宜《かなとかげ》、云々。
   和賀禰宜能煩理斯《わがにげのぼりし》、云々。
   夜麻登幣爾《やまとべに》、爾斯布岐阿宜弖《にしふきあげて》、云々。
   坐2大嘗1、於2御酒1宇良宜而《うらげて》、云々。
などとあるが、「宜」は「ゲ」と讀むより外に仕方がない。紀の歌謠では、「ゲ」は皚、礙、義な(495)どの字を使ひ、「ケ」は義、家、啓、凱、稽、該、戒、鷄、階、開、計、剱、祁などの字を使ひ、殊に「ゲ」には「礙」、「ケ」には「該」「鷄」「祁」の字を多く使つてゐて、「宜」の字を使はない。
 併し「宜」の字は本來「ギ」と發音すべきものであるから、「ギ」と讀む場所にこれを使用することは決して不當であるまい。ただ記が「ゲ」とだけ讀んで「ギ」と讀まなかつたのは何故であるか。宜の使用に就いて疑問を挿むべきものが「出雲風土記」に一箇所ある。
   美保(ノ)郷、郡家(ノ)正東廿七里一百六十四歩。所造天下大神命《あめのしたつくらししおほかみのみこと》娶《みあひ》(テ)2高志國坐神|意支都久辰爲命《おきつくしゐのみこと》(ノ)子奴奈宜波〔四字右・〕比賣(ノ)命(ニ)1而令v産神、云々。
 この「奴奈宜波比賣」は何と讀むべきであらうか。古くはこれを「ギ」とよみ、「ぬなぎはひめ」と讀んで來た。然るに栗田寛博士はこれを「ガ」と讀むが正しいとし、その一證として「法王帝説」の「巷奇〔右・〕を「ソガ」と讀む例を引かれた。然る時には「奴奈宜波比賣」は 「沼河比賣」であることになる。大矢透博士も亦「舊事紀」天孫本紀の「巷宜〔右・〕物部」、「熱田縁起」倭建命御歌の「麻蘇義〔右・〕乎波理」、「姓氏録」の「蘇宜〔右・〕首」の例を引いて、これを「ガ」と讀むが正しいと言はれた。
 然らば「宜」は「ゲ」又は「ガ」と訓まれた以外に「ギ」と訓まれる場合は全然なかつたかといへばさうでない。宜は魚寄切、魚覊切であつて、漢呉音共に正しく「ギ」と發音せられる。そ(496)してこれを「ギ」と訓んだ例が「萬葉集」卷十四に見えてゐる。
   宇良毛奈久《うらもなく》、和我由久美知爾《わがゆくみちに》、安乎夜宜乃《あをやぎの》、波里※[氏/一]多※[氏/一]禮婆《はりてたてれば》、物能比豆都毛《ものもひづつも》。
 この「安乎夜宜〔右・〕乃」は「青柳《あをやぎ》の」と訓むより外に途はなささうである。但しこの歌は東歌であり、東歌は方言を含むことの多いものであるから、或は「あをやげ〔右・〕の」と訛つてゐたとも疑はれるが、同じく卷十四の東歌に「安乎楊木乃《あをやぎの》、波良路可波刀爾《はらろかはとに》」とあり、また楊奈疑許曾《やなぎこそ》、伎禮婆(會れば)伴要須禮《きればはえすれ》」とあつて、その場合には「木」「疑」を「ギ」と訓んだとしか考へられず、「あをやぎ〔右・〕」を東國で「あをやげ〔右・〕」と訛つたことは信じられない。隨つて右の「安乎夜宜乃」は何としても「あをやぎの」でなければならず、ここに「宜」は初めて「ギ」と訓まれてゐたのである。
 斯く上代に於いて「宜」を「ギ」と訓んだ例があり、また「宜」は元來漢呉音共に「ギ」と訓むものであるとすれば、我々は古事記の「志良宜歌」を「シラギ歌」と訓んだとしても、決して不當のものでない。
 3.記に於ける「宜」の使用例がすべて「ゲ」であり、特に歌謠の場合には「ゲ」以外に發音してゐないに拘らず、その歌謠と密接に結合してゐるべき筈の「志良宜歌」の註記だけを「ギ」と發音すべきであるとすれば、我々はそれより重要な一の結論を引き出すことが出來よう。それは「これは志良宜歌なり」の註記は元來古事記の本文ではなく、後世の補記だといふことである。若しもこれが記の本文であるとすれば、歌の本文を尊いた同一筆者がそれに直ちに次ぐ本文の中(497)で「シラギ歌」と書く場合「宜」の字を使ふ筈はない。
 斯く考へて行くと、記の歌謠に何々歌として註記してあるものには、後の補記が少なからぬことと思ふ。最初より本文に何々歌と命名せられて書き込まれてゐるもののあることは紀と比較しても分ることであるが、志良宜歌の註記は紀には書かれてゐない。後に音樂に關係の深い人がこの註記をなし、それが後世に記の本文と見られて傳へられたものであらう。然らばこの記入は何時頃のことであつたかと言ふに、萬葉の東歌に「宜」を「ギ」と訓む例があるによつて見れば、萬葉時代以後であらうと推測せられる。「琴歌譜」では「キ」「ギ」は、吉、支、伎の文字を使ひ、宜の字を使つてゐない。然らば志良宜歌をシラギ歌と發音するに「茲良宜歌」の文字を使ふことは適當でなかつたであらう。ただこの場合宜の字を使つたのは「琴歌譜」時代にシラギ歌といふ時志良宜歌とか茲良宜歌とか書く習慣が既に固定してゐて、斯く書くことが最も自然に考へられたためであらう。「茲良宜歌」と書きながらその次の歌には、「阿志比支乃」と書き、宜、支、用字を異にするからといつて、宜をキと發音することは誤だとは言へない。「繼根扶理《つぎねぷり》」と歌名を書きながら「川支禰布《つきねふ》」と歌に書き、「阿夫斯※[氏/一]振《あふしでぷり》」と歌名を書きながら「阿布之※[氏/一]比利比《あふしてひりひ》」と歌に書いてゐる。歌名に書く字は譜の時代には大體一定してゐたものであらう。然らばこの歌を志良宜歌と書くことは「琴歌譜」の時代よりは以前であり、隨つて記への補記は天元四年よりは遙かに以前のことである。
(498) 萬葉では東歌に限り「宜」を「ギ」と訓んであつたことは、何等か注意すべき事柄ではあるまいか。私は先きに新羅人の移民が東國に多かつたことを言つた。東歌には新羅歌謠の影響が少なからぬであらう。然らば「あをやぎ」を「安乎夜宜」と書いたことには多少ながら新羅人の影響がありはしなかつたか。斯うした推測には何等の證據もないから、その見方は依然として單なる想像以上の價値を持つことが出來ない。新羅の吏道では「キ」「ギ」を常に「宜」と書いてゐたからその影響が東歌の用字に現はれてゐるとでもいふならば、面白いのであるが、郷歌には宜の字が多く使はれなかつた樣であり、右の豫測もあたつてはゐない。ただ萬葉の宜《ぎ》の用例が東歌であつたことは、今後資料をあつめる上に多少は注意せられてよいことだと思ふ。
 
     四三
 
 4.「琴歌譜」に就いては、私は次のやうに結論したい。
 イ、「琴歌譜」の茲良宜歌は紀記の中のそれよりは時代の下るものである。原歌であるか又は少なくとも原歌に近いと考へられる紀記の志良宜歌に比較すれば、重要な點で既にその歌形を變化せしめてゐる。
 ロ、隨つて「琴歌譜」の中の他の歌も、上代の歌謠よりその歌形を少しづつ變化せしめたもの(499)である。
 このことを證明するものは、譜の歌の第九句が短句でなく長句に變へられてゐる事實である。このことは既に幾度も書いて來たし、「琴歌譜」の筆者自身が既に疑問を懷いた點であつた。然らば何故斯く第九句の歌形が變化したかと言へば、新羅本來の歌謠の形式と我國固有のそれとが融合同化の經過を取り始めたからである。新羅歌謠と我國固有の歌謠との重要なる相違は、專らその末尾の部分であつた。即ち
   我國固有系の歌謠          新羅系の歌謠
   ……………………          ……………………
   短、  長、            短、  長、
   短、  長、            短、  長、
       長。            短、  長。
 この相違はいかにしても撤廃せられ難い。然るに我國の歌謠の最後句の長句は、元來囃子風の繰り返しの意味を持つたものであるから、その句が繰り返しの意義を失ひ單獨の意味を含むやうになると、更に末尾に長句を一句だけ補つて、それが繰り返しの役目を果たす。即ち次の經過を取るのである。
(500)   第一の場合     第二の場合
  [内容]  [内容]  [内容]  [内容]
        [繰り返し]      [内容]
    第三の場合     第四の場合
  [内容]  [内容]  [内容]  [内容]
        [内容]  [内容]
        [繰り返し]      [内容]
 この最後の形態のものに達すれば、その形態は結局、
    第五の場合
  [内容]  [内容]   短、 長、
  [内容]  [内容]   短、 長。」
である。以上の順序は、紀記及び萬葉の歌謠によつて實際に示されてゐる。今第五の場合の例だけを擧げれば、
   隱口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の國《くに》に     短、 長、
   さ結婚《よばひ》に 吾が來《く》れば、          短、 長、(註一)
   たなぐもり 雪は降り來。                 短、 長、
(501)   さ曇《ぐも》り 雨はふり來《く》。           短、 長、
   さ夜《よ》は明け この夜は明けぬ。            短、 長、
   野《ぬ》つ鳥《とり》 雉《きぎし》とよみ、        短、 長、
   家つ鳥 鷄《かけ》も鳴く。                短〔右・〕、 長〔右・〕、
   入りて且|眠《ね》む この戸|開《ひら》かせ。      長〔右・〕、 長〔右・〕。」
  (註一) 「吾が來れば」の句實際は「短」であるが、歌形上「長」と青いた。
 
 この形式の歌謠はかなりに數多いけれども、これを純然たる偶數句歌體であるといふことは出來ない。それは我國固有の奇數句歌體より發達したものと考ふべきであるし、また句數及び句切れより言へぼ確かに偶數句歌體である。
      奇數句歌體       偶數句歌體
   [内容]  [内容]  [内容]  [内容]
         [内容]  [内容]  [内容]
         [内容]
の何れからも見られるのである。私は斯うした歌體は、純然たる奇數句歌體でも偶數句歌體でもなく、それら相互の干渉の結果生じた第二次の偶數句歌體であると考へる。
 「琴歌譜」に載せられた茲良宜歌は、さうした形態を持つ偶數句歌であつた。それは紀記のも(502)のよりも遙かに後の發達を示してゐるから、隨つてこれを原歌又は原歌に近い形態のものとは見ることが出來ないし、また「琴歌譜」そのものも紀記に近い頃のものだとは考へることが出來ない。「琴歌譜」は上代の歌謠を載せてゐるけれども、大體に於いてそれらの歌は原形を多少づつ變形せしめてゐるであらう。
 5. 「琴歌譜」は實際の曲譜を載せてゐる點で重要のものである。この曲節を解讀すれば我々は我國の歌謠の曲節の最も古い姿を知り得るのである。併し私はこの曲譜を解讀し得る時が來ても、上代に謠はれた志良宜歌の曲節その物をこれにより髣髴せしめ得るとは考へない。何故なれば次の點でこの曲譜は昔時の志良宜歌の曲節を變化せしめてゐると考へるからである。
 イ、第九句が長句となつたことは、結局朝鮮系歌謠の曲節と我國固有歌謠の曲節とを融合同化せしめたことを語るものである。このことは既に述べた。
 ロ、曲譜を見ると、最初の部分は、「夜須久波太布禮、夜須久波太布禮」と繰り返してある。然るに斯く最後句を繰り返すことは、我國固有歌謠の樣式である。新羅の郷歌では「釋均如傳」の中の一つが十句の終りになほ「嘆曰」として二句を附加せしめ、十二句歌體を構成せしめてゐたが、これによつて想察するに新羅歌謠では末尾を繰り返すとすれば依然として偶數句形を保ち
 [第九句] [第十句]
 [繰り返し][繰り返し]
(503)としたものであらう。何れにせよ、第十句だけを繰り返すところは我國固有の歌謠の樣式であり隨つてこの部分で固有系歌謠の曲節に近づいてゐることが分かる。
 右の如く、この曲譜では昔時の新羅歌謠の曲節を再現し難いものであるが、なほ仔細に見れば、昔時の形態が保存せられてゐるものではないかと考ヘられる部分もある。それは第八句と第九句との境界だ。この曲譜は解讀の困難のものであるけれども、なほ「こぞこそ」の部分を甚だ長く引き伸して謠つたことだけは、記した文字によつても知られるのである。この引き伸ばしを如何なる曲節で謠つたかは不明であるにせよ、新羅歌謠では第八句と第九句との境界に「阿耶」と記してあつたではないか。またアリラングの歌ではこの部分に特有の囃子が這入つた。然らば「琴歌譜」の曲譜のこの部分だけが他と幾分形態の違ふのは、何物かを暗示するものではあるまいか。また「夜須久波太布禮」の繰り返しの上に「亞亞」と書いてあるのは、神樂の「阿知女」に「阿知女於々々々」と歌ふと同じく、一の歎聲であり、「均如傳」の「嘆曰」に相當するものではないかとも想像する。
 
    四四
 
 (六)「琴歌譜」の譜法に就いて〔十字右○〕。
(504) 「琴歌譜」の歌は、多少の變改を受けてゐるがその内容形式の何れを見ても上代の歌であるに相違なく、且つ詳密な曲譜を併せ記す點で、上代歌謠の曲節を推定するに第一に重要な資料である。勿論この曲譜その儘を上代のものと信ずることは出來ず、上代の曲節はこの曲譜に於いてかなり著しい歪曲を受けてゐるに相違ないこと既に論じた如くであるが、とにかく「琴歌譜」の曲譜を訓むことは、上代歌謠の曲節を知るに不可缺的の仕事であらう。「琴歌譜」の曲譜を訓む方法としては、
 1. 直接に「琴歌譜」に就いて考へる。なほその際他の古曲譜例へば道長筆の「神樂譜」天治本の「催馬樂抄」の如きを當然參照しなければならない。
 2.「三國遺事」の中の郷歌に附いてゐる音樂上の用語を解讀して、その知識を借りつつ「琴歌譜」の中の茲良宜歌の曲譜を解讀し、その解讀の知識を他に演繹する。これには上代鮮語の知識をもつと明確にすることが先決要件である。
 3.朝鮮現代の民謠を蒐集し、その中の新羅系統のものを知つて、「琴歌譜」中の茲良宜歌の曲譜に對照する。
 以上三つの方法が先づ與へられてゐる。(なほ一つ重要の方法のあることは後に述べる。)第二第三の方法及びその意義に就いては前に述べた。第一の方法、即ち直接に琴歌譜を訓む方法によつてはどれだげの解讀が達せられるであらうか。
(505) 譜の初めに譜の符號を解題しては、次のやうに書いてある。
  以朱爲絃、以墨爲歌。乃稟先而(註。この字衍字)師、是非新意。又依點句之形表歌聲。其句者振顏強發之聲、此有五種。點者忽短衝止之聲、此有二種。雙者共弾織難之節。丁者徐隨微息之聲也。又以甲乙六千配於六絃。依次當絃、以別絃名。【外一絃爲甲、二絃爲乙、三絃爲丙、四絃爲丁、五絃爲戊、六絃爲己、】其指絃相當圖可見地。琴歌之趣大底如圖。但其委曲須師範耳。
 この中「句」とは何を意味するであらうか。句は振顏強發の聲だといふから、Forte 即ち符號の音を強めて歌ふ意とも見られるが、これに五種ありとは何を意味するのであらう。又「點」は忽短衝止の聲だといふから、その聲を短く切つて休止符を附する場所とも考へられるが、これに二種ありとは何の意であるか分らない。併しここに五種といひ二種といふに見れば、この句及び點の意は次の如きものであるまいか。五種の聲とは宮、商、角、徴、羽の五聲、二種の聲とは變徴、變宮の二聲を意味するのである。そして宮、商、角、徴、羽の五聲は普通に太く發音するからこれを振顏強發の聲と呼び、變徴と變宮とは半音の音程であるから普通の聲と異る樣に思ひこれを忽短衝止の聲と呼んだのであらう。斯くして支那の宮、商、角、變徴、徴、羽、變宮の七聲(西洋の所謂do、re、mi、fa、sol、la、si にほぼ相當するもの)を譜の上に表現することが出來たであらう。併し所謂「句」と「點」とは、歌譜の上のどの符號を意味するかは確實に言ふことが出來ない。
(506) 「丁」は徐隨微息の聲といふのは、その聲を靜かに長く引く意であつて、所謂ritardandoに相當するものと見られる。實際の譜について見ても「丁」の符號が使はれてゐるし、又その符號を使つた個所は概ね句の終であつて、斯樣に考へられる。併し常にはこの外「引」の符號が使はれ、天治本の「催馬樂抄」にも「引」の符號が使はれて、何れも音を延べる場所に記されてゐるが、然らば「引」がritardandoであり、「丁」は聲を漸次に弱める意即ちDecrescendoに相當するものであらうか。
 右の如く符號の意味には疑問が多く、研究の餘地が殘されてゐる。六絃のことを書いてゐるのは、譜では歌の右に朱を以て、一、二、三、四等の數字符號を書いてゐるのがそれであると思ふ。斯く歌の右に音の名を附することは、後に述べる如く宋の樂譜に於いても見られるから、この樂譜が本來支那のそれに範を取つたものであることが證明せられる以上は、右の推定は誤つてゐまい。譜には「朱を以て絃となす」とも書いてゐる。さて六絃の中では外一絃を甲とし順次乙丙と數へて六舷を己となすと書いてゐるから、外一絃が一であつて順次手前の方へ二三四五六と數へられる。然らば和琴の絃のそれぞれの音の高さを如何樣に定めることが出來るか。「琴歌譜」の譜法の根本樣式が既に支那のそれに則つたものであるとすれば、和琴調絃の法はやはり唐樂により影響せられた以後のそれであると見ることが出來よう。然らば外側から絃の順序により紘は壹越(甲)、黄鐘、萱越、盤渉、雙調、平調と數ふべきであらうか。これをト調の音階によつて現(507)はせぼ、ド、レ、ミ、ソ、ラとなつてシがない。和笛の音笛は、歌口より順に下方に神仙、黄鍾、雙調、下無、平調、萱越となつてゐてやはりシがない。斯くして和琴の絃の音の高さが定まつたとすれば、それと歌の右に記した朱の數字とを對して譜を西洋樂譜式の音高に直して行くことが出來よう。(註一)
  (註一) 和琴調絃の法については例へば伊庭孝氏著「日本音樂概論」二二―二五頁參照。この調絃の法によつては、壹越即ちト調のソ音が二絃出來るから、壹越を基音としたものであると見られる。神樂は概ね壹越調である。「(前略)是を以て見ても中古に天武天皇の時から文武天皇の時にかけて、三韓の音樂や唐樂が輸入されても、それを攝受することが出來たのは、日本の上古にも既に五音階が存してゐた爲だらうといふことが臆測せられる。」(同著三九頁)
 
 譜では朱を以て歌の右に「手」を記してある。なほ歌の末尾には、手の數を數へて「手卅八」「手廿」といふ風に書いてある。このことは道長筆の「神樂譜」に同樣の位置に「百」と書き、天治本の「催馬樂抄」にやはり同樣の位置に「百」と書いて歌題の下にそれぞれこの「百」の符號の數に一致する數字を「卅四」「廿一」などと書いたのと同樣の形式である。それ故に「手」は「百」と同じく、また「百」は「拍」の意であらう。(註二)即ちこれは拍板又は笏拍子を打つ場處を示したものであつて、「手」とあるのは拍板又は笏拍子の代りに手を打つたのであらう。(「百」の表號の遠く隔たるものは、太鼓を打つたのであるし、遠く隔たらないものは單に笏拍子(508)だけを打つたものと見るべきであらうか。) 斯くして歌譜の拍子も明らかになつた。又伴奏に弾く琴の音の高さも明らかになつた。然らば支那の樂譜を訓むやうにして、「琴歌譜」の琴の方の曲譜を西洋式に現はすことは、大體に於いて達せられ始めたのである。なほこの伴奏の琴の譜がそのまま歌の譜であるかどうかは確定的に言へないことであるけれども、右の琴の譜を見れば少なくも「琴歌譜」の歌の曲風の大體を知り得よう。
  (註二) (古本東遊神樂催馬樂譜は、字の四周に朱墨もて圏を下し、或は字の右側の上中下に百の字をしるす。百は拍子の拍の借字にて、拍子打をしらせたるなり。」(高田與清編「樂章類語鈔」、「日本歌謡集成」本、卷二、一六九頁)
 
     四五
 
 併しそれだけではなほ判斷の附かない符號が、譜の上には幾つも書かれてゐる。譜の詞の中に混じてムフ¬了その他「エ」の字の草體の如きもの、活字では全然現はし難い曲線の符號などが見えるが、それらの符號は何を意味するものであらうか。これらは先きの「句」或は「點」に匹敵するものであらうか。例ヘばムは「勾」の略字であつて、先きの所謂、「句」に相當するものであらうか。(「琴歌譜」は「句」の字を「勾」とも書いてゐる。)單なる想像だけでは何とで(509)も言へるにせよ、想像は我々に何の客觀的知識をも加へるものでない。かくして私は右の符號を到底判讀し難いものに思つてゐたのであるが、或時朱謙之新著「謙之文存」を讀んでゐて、全く偶然に右の「琴歌譜」に於いて見たと殆ど同一の符號の使はれた宋代の歌譜を見出し、奇異の感に打たれた。宋謙之が引用したものは、姜堯章の「白石道人歌曲」の中の一つの歌曲であつたが、この書は「疆材叢書」本では張文虎の「舒藝堂餘筆」に附せられてゐると書いてあつた。私はこの書に附せられた略符號の意義を釋讀することに興味を覺えて、更に他の資料を調べて行くと、この歌曲は敢て朱謙之によつてだげ問題とせられてゐるものではなく、張文虎は「舒藝堂餘筆」の中でそれの釋讀を試みてゐるし、陳※[さんずい+豐]の「聲律通考」の如きも眈既にその試みをなしてゐるのであつた。
 最近に出た童斐の編「中樂尋源」も亦この歌曲の一つを引用し、更にその略符號を現代に應用し
(入力者注、以下表)
※[ノ/ム]久り※[汚の旁の横線一つなし] ム一※[ノ/ム]フ久 りフりろ  一※[ノ/ム]人 ※[ノ/ム]フマ??ろ? 
舊時月色・算幾番照我・梅邊吹笛・吹起玉人・不管清寒與攀摘
※[ノ/ム]一ろ久?? フム人※[ノ/ム]?マ? ム一幺フ※[ノ/ム]?り 久一※[汚の旁の横線一つなし]りろ
何?而今漸老・都忘却春風詞?・但怪得竹外疏花 香冷人瑶席
りろ ※[ノ/ム]フ久 ス?久り久 一フり? ム一※[ノ/ム]人 ※[ノ/ム]?マ?久ろ
江國・正寂寂・嘆寄與路遙・夜雪初積・翠尊易位・紅?無言耿相
? ※[ノ/ム]一ろ久?? フL人※[ノ/ム]?マ? ム一※[ノ/ム]フ※[ノ/ム]? リ???
憶・長記會携手處・千樹壓西潮寒碧・又片片吹盡也・幾時見得(入力者注、各行の右に付せられた記号は一部表現不能、直接底本を見て頂きたい。なお「白石道人歌曲」は文淵閣四庫全書CD-ROMに集録されている。ただし映像は不鮮明。)
 
(510)て、支那式の語法をさへ提案してゐる。ここに私は、「白石道人歌曲」の符號を釋讀するには、從來出た支那學者の研究の結果を借らなければならず、また當然「琴歌譜」を顧慮すべきであるし、「琴歌譜」の譜の法の由來を知りその符號を釋讀するには「白石道人歌曲」の語法の釋讀を參照しなげればならぬことに氣付いたのである。(注一)
  (註一) 「白石道人歌曲」の原本を見たかつたが、京大圖書館その他になくつひにこれを見ることが出來なかつた。やむを得ず「謙之文存」に掲げられたものをそのまま本書に轉載する。(前頁の圖)「中樂尋源」にも載つてゐるが、この方は文字など「謙之文存」のものより明瞭でない。
 支那の音樂の曲譜の文献に止められた最も古いものは、朱子が「儀禮經傳通解」に載せた風雅十二詩の詩譜である。周代の曲節をそのまま傳へたものではないにしても、なほ唐の開元の遺音であることだけは斷じて信ずべきであると「中樂尋源」などは論じてゐる。その事き方を見るに、
  關【清黄】 關南 雎林 鳩南 在黄 河姑 之太 洲黄 窈林
  窕南 淑【清黄】 女姑 君【清黄】子林 好南 逑【清黄】
といふ風にして書いてある。大字は歌であるし、小字はその音の高さである。なほこの、「關雎」の歌の詞は無射清商調と記してあるから、それによつてこの譜を讀めば、右の歌は
  關(ソ) 關(ミ) 雎(レ) 鳩(ミ) 在(ソ・) 河(シ・) 之〔ラ・) 洲(ソ・〕
  窈(レ) 窕(ミ) 淑(ソ) 女(シ・)君(ソ) 子(レ) 好(ミ) 逑(ソ)
(511)と謠はれたことが分る。(低音部は便宜上ドレミの下に・符を附した。)併し譜には板節が記されてゐない爲、直ちにこれを取つて西洋の樂譜で表はす譯にいかない。又この曲譜が實際に周又は唐代の遺音であるかどうかは分らない事であり、この曲譜によつて支那當時の音樂の曲節を推定する譯にもいかない。併し少なくも朱子の時代には、歌詞と音の高さを表はした文字の略符とを一列に書く譜法は存在したとだけは考へなければなるまい。今はその譜法の方が必要なのだ。
 實際の曲譜をその儘に書き止めてある最初の文献は、實に「白石道人歌曲」であつた。これは宋代に姜堯章が實際に歌曲を書いて置いたものである。姜堯章の歌曲の樣式には二通りあつて、その一つのものは次の如く歌詞の右に音の高さを註してある。
   林 仲 ※[さんずい+黄] 無 南 林   仲 太 黄 林 仲 夾 仲
   海 雲 碧 兮 崔 嵬   ※[さんずい+單] 上 去 兮 ※[さんずい+單] 下 來
 右の一例は雙調であると記してあるから、それによつて音を知れば、直ちに右の歌の歌曲を西洋樂譜に直すことが出來る。但しこの場合も拍子は知ることが出來ない。またもう一つ別の樣式の詞譜を見ると、それでは右の林、仲、※[さんずい+黄]、無等の音名を「フ」「レ」「ム」「了」等の符號により記してあつて、この曲譜こそは私が特に不可思詩の感を懷いたそれである。この符號には「フ」「レ」「ム」「了」その他の符號ある外に、我が平假字と全く同形の「り」「ろ」等も見え、その他平假字に類する幾多の符號が見えるのは何故であるか。さしづめ「琴歌譜」に見られた「ム」(512)「フ」「L」等の符號がここでも見られるのは何故であるか。私は兩者の關係を單純に偶然暗合したものだとは考へる事が出來なかつた。張文虎は宋人の詞集に就いて「その旁譜あるもの惟だ堯章のこの集のみ」と署いてゐる如く、白石道人の詞譜は宋代の歌曲を推測する事の出來る殆ど唯一の資料であり、朱謙之もこれを吉光片羽に算ふ可しとなして、「我等音樂文學史を講ずるに實に是れ最重要の參考書なり」と言つてゐるが、その最重要の參考書が我國の平安朝初期の歌曲を知るを得る最重要の參考資料「琴歌譜」と密接の關係を持つことは、誠に興味深い事實である。
 支那の六律六呂の制は複雜であるから、ここにその全部の解説をなすことは出來ないけれども、今の場合に必要なる限りの略解を試みて、右の詞譜を釋讀するための準備を得たい。今支那の音を西洋樂式の音に對照して見るとほぼ次の樣になる。便宜上ハ調を基準にする。
   黄鐘  太簇  姑洗 仲呂 林鐘  南呂  應鐘
   C    D    E   F   G    A    B
 なほ一音の音階の部分に悉く半音の音階を挿入すれば、次の如くになるであらう。
  黄   太   姑仲  林  南  應
  鐘   簇   洗呂  鐘  呂  鐘
    大   夾   ※[草冠/(豕+隹)] 夷  無
    呂   鐘   賓   則  射 
(513) 右の十二聲を六律六呂となすのである。この六律六呂に就き、七聲を取って音階にする。宮、商、角、變徴、徴、羽、變宮がそれである。宮、商、角、徴、羽の五聲は既に周禮に出でて古いものでゐるが(陳※[さんずい+豐]著「聲律通考」に據る。)變宮、變徴の二音はそれにややおくれて作られたものであらう。併しその二音も周初には使用せられてゐたと見える。(陳文濤著「先秦自然科學概論」による。)變徴と變宮とは半音を挿入したのである。右の七聲は、ここに西洋樂式のド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シの七音にほぼ一致するものとなつた。(註二) この七聲の名は書くにも呼ぶにも便利でなかつたから、後俗字を用ひてそれを現はすことになつた。合、四、一、上、尺、工、凡がそれである。なほ高音部のド、レ二音には特別の字六、五を使つた。それゆゑ右の俗字をドレミファ式に書いて對照すれば、次の如くになる。
   合 四 一 上  尺 工 凡 六  五
   ド レ ミ ファ ソ ラ シ ・ド ・レ
  (註二) 斯樣にいつても、西洋の音階と支那の音階とは本來成立の基礎が違ふから、全く同音を以て表示せられる筈がない。西洋の音階は四音階が二つ接續して出來たものだし、支那のそれは所謂三分損益によつて五音を定めたものである。五音だけでいふと西洋のMiは角よりやや低く、Laは羽よりやや低い。併しいま敍述の簡單を欲して右の樣に書いた。次の變宮變徴もさうである。最近の支那樂書には右の樣に書いたものがあるからだ。變宮と變徴もまた實際は西洋のSi及びFaに一致する音でない。變(514)宮はSiより高い。變徴にいたつては Fa に一致せず、それよりずつと高くて、西洋にはこれに比較すべき音がない。
 
 なほこの他に半音の音階も存在する譯であるが、それには下の字を上に加へて、下四といふ風に一字にして示す。今は印刷活字の便宜上二字に書くこととする。黄鐘を基礎とし、律呂の名を俗字で書けば次の樣になる。
   黄 大 太 夾 姑 仲 ※[草冠/(豕+隹)] 林 夷 南 無 應 【清黄】【清大】【清太】【清夾】
   合 下四 四 下一 一 上 勾 尺 下工 工 下凡 凡 六 下五 五 緊五
   ド    レ    ミ ファ  ソ    ラ    シ ド    レ
 清黄は清聲の黄鐘即ち高音部のドの意である。低音部は濁聲と呼ばれてゐる。斯く六律六呂を合四等の字を以て呼ぶことは、極めて古くからあつた。例へば「楚辭大招篇」に四上等の文字が見える。要するに、西洋樂式のド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、・ド、・レが合、四、一、上、尺、工、凡、六、五の文字を以て記されたのだ。ここに記した文字の判釋は、以前は知られず、今はほとんど定論となつたものである。(以上主として「中樂尋源」「先秦自然科樂概論」等に據つて書いた。)
 さて白石道人の詞譜に歸るが、ム、フ、L、り、ろ等の文字は、右の合、四、一等の俗字を更に一層俗字化して使用したものであつた。これらの文字も亦當時の俗字として使用せられてゐた。陳※[さんずい+豐]は「聲律通考」の中で、これらの俗字を朱子の「琴律説」や張炎の「詞源」によつて考へて(515)字譜に直ほし、更に當時の字譜を律呂に直ほして以て判釋すべきであるとなしたけれども、なほ斯く重譯を重ねても一曲の中俗字の意味の知るを得ないものがあると言つてゐる。朱謙之の如きも「我等現在姜の譜を研究するや、これ容易のことにあらず」と言つた。「中樂尋源」は道人の詞譜を判讀するに努め、ほぼ成功したけれども、なほ意義の不明な文字を殘した。張文虎は陳※[さんずい+豐]が言つたやうな研究方法に努力して、次の如く對照せられるものだとした。
   合  下四 四 下一 一 上      勾 尺 下工 工 下凡 凡
   ム    マ    一  ※[ノ/ム] L 人   工    り
   六  下五 五 上五
   ろ    ろ   ろ
 併し斯くしてもなほ多く判讀せられない俗字が詞譜には殘されてゐる。例へば我國の、「※[可の草體]」「※[以の草體」」などに形状の甚だよく似た字や、その外一々活字を以て現はせない字がある。併しこの譜を見て何人にも浮ぶ聯想は、我國の片假字と平假字とであらう。ム、フ、マの如き片假字及び、り、ろの如き平假字に全然同形といふべき文字が、この詞譜に見える事實を我々は如何に解釋すべきであるか。
 
(516)     四六
 
 右の準備を置いた後、「琴歌譜」と「白石道人歌曲」との關係、これを一般的に云へば我國平安朝初期の歌曲と唐宋時代のそれとの聞係に就いて私は次のやうに主張したいと思ふ。
 1. 兩者の譜法は全然無聞係のものであるとは言へない。唐樂の譜法が宋に傳はり、白石道人の曲譜の如くになつたが、また平安朝の初期即ち我國の内外樂融和時代の初期に於いて唐樂が頻りに研究せられた時又はその以前に我國にも傳はり、「琴歌譜」の譜法の如きものを生ぜしめたと私は考へたい。
 2. 白石道人の詞譜法の如きものが宋代に行はれてゐたことは證明せられるが、なほそれが、唐代にも行はれてゐたかどうかは支那の資料では斷定せられない。然るに我が「琴歌譜」は天元四年に謄寫したことの明記せられたものであり、原本はそれ以前にあることが確證せられるから、俗字を用ひたこの譜法は唐代より存在したと斷定しなければならない。天元四年は宋の太宗の太平興國六年に相當し、宋はやつと建國したばかりであつて、その原本は當然宋以前に位置しなければならない。
 3.朱子の「儀禮經傳通解」や白石道人の詞譜やには拍子が書かれてゐない。「中樂盡源」は(517)それ故に「拍を用ひざるに非ず。蓋し時なほ未だ拍を畫くの法あらず。故に歌に拍有つて譜に拍なきのみ」と書いてゐる。併し當時決して拍子を記す方港を知らなかつたものでないことは、我が「琴歌譜」や道長の「神樂譜」天治本の「催馬樂抄」やがすべて拍子を記すことによつて證するを得よう。この畫拍の法は我國での發明であるとも考へられない。然らば畫拍の法は既に唐代より存在したものと言はなければならぬ。
 4・フ、マその他の俗字を使ふことも亦敢て宋代に始まつたものではなくて、唐代より始まつたものと見なければならない。唐樂と宋樂との樣式は全然同一のものであつたのではなく、例へば唐は樂を起すにみな絲竹を以てし、竹聲これに次ぎ、五代と宋とは管色を以て樂を起したこと既に蔡寛夫等の注意した如くであるが、譜法に俗字を使ふことは唐より五代を經て宋に傳はつたものであらう。「琴歌譜」を唐に相當する年代のものと見れば、かやうに斷じなければならない。
 5. 今若し「琴歌譜」の中の符號を張文虎の解讀に對照して讀むならば、「琴歌譜」の「ム」はドに、「マ」はレに、「L」はファの半音高まつたもの即ち嬰ヘ音に相應することとなる。また「中樂尋源」などの用法を參照すれば、「フ」はラに相應する。工の草體に類する文字は工即ちラであるか、或は他のものに匹敵するのであるか。「琴歌譜」の、「上」はそのまま上に匹敵してファを現はし、「下」は半音低くなることを意味するのであるか。以上は全然同形のもののみに就いて對照したのであるが、斯く對照して見ると、道人の歌曲の符號はそのままでは「琴歌(518)譜」に適用せられ難いもののやうに見えるのである。
 然らば兩者に於ける符號の一致は全然の偶然事であり、「琴歌譜」の譜法は唐宋のそれと何等の聞係を持たないものであるかと言へば、さうも亦考へられない。私は依然として兩者の間には關係があつたものと考へてゐる。朱子や道人の詞譜は何れも原本の傳はらない今日、現在の流布本のものを以て原本その儘のものとなすことは出來ない。既に「琴歌譜」によつて推定した限りでは、唐宋時代の歌譜には拍子の記載がなければならぬに拘らず、現在の本にはそれが缺けてゐるから、斯樣の拍子記號は脱漏せしめられたか或は符號の形状は變化せしめられて現在の如く記載せられてゐるものと見なければならない。またこの俗字の訓み方も支那では決定的の意見に達してゐる譯ではなく、目下熱心に研究中のものである。それゆゑ今後相互を對照して研究するならば、何等か新らしい判讀を得るに相違ないのである。「琴歌譜」の語法が唐宋時代のものを繼承したものであることは、次のととによつて證明せられる。
 イ、歌を大字で記し、その右傍に琴の譜を絃の名によつて旁記する「琴歌譜」の樣式は白石道人の歌曲の樣式と同一である。「琴歌譜」には「朱を以て絃と爲し、墨を以て歌となす。乃ち先師に稟く。是れ新意に非ず」と書いてあるが、先師の先師はその樣式を唐の譜法に借りたものであらう。
 ロ、朱子の譜法では、歌句と歌聲の表號とを混じて、縱の一列内に書いてゐるが、「琴歌譜」(519)も亦その譜法を取るものと見え、歌句と同列内に俗字風の表號を混ぜしめてゐる。既ち「琴歌譜」の譜法は、朱子の譜法を取り、また白石道人の譜法をも取つてゐるのである。この譜法は著しい特色を持つものであつて、後のものに類似形式を求めることが出來ない。即ち「琴歌譜」の譜法は、後の我國の譜法に類似するよりも朱子や白石道人の譜法に大いに類似する。
 ハ、同一の俗字が雙方のものに現はれてゐる。但しその意義は異つて使用せられてゐるかも知れない。
 斯くして兩者の譜法は、今後相互對照せられつつ研究せられなければならぬものとなつた。
 6.今の歌謠史的研究には聞係のないことであるが、私はそれに關聯した考察として、次のことを書いて置きたい。それは我國の片假字平假字の發明はその本來の暗示を唐代の俗字に得てゐはしないかといふことである。草書の略體と平假字とはその形状も意義も大いに異るものであり、草書の略體が次第にその略草を進めて平假字に達したとは考へられないことである。草書の略體から平假字に達するには、その中間に必らずや俗字の意識〔五字傍点〕が介在しなければならない。片假字に就いても同樣のことが言へる。然るに唐時代には、支那に於いても歌曲の譜法などでは、漢字を略體にした俗字を頻りに使つてゐたに相違ない。(註一) 平安朝初期の留學生などは、この俗字を見て片假字や平假字の制作を考へついたのである。白石道人の譜法に片假字風のものと平假字風のものと二種の俗字のあること、マムフの如き片假字、りろの如き平假字と同形のものが俗字(520)として使用せられてゐることは、その明らかなる證據である。假字の發明は平安朝の初期であるとすれば、音樂に於いて唐樂が熱心に研究せられた時代、留學生が頻々として唐より歸朝し日本の新文化運動を開始した時代とも一致する。平假字が草書の略體から發達したものならば、その發達の途中にある假字も見出されなければならないが、草書の略體と平假字との中間に介在すると見られる姿のものは未だ發見せられてゐない。假字の中にはそのよつて來る漢字の明確でないものもある故、(一應説明はつけても適切でないと思はれるものがある。)斯くの如きものは、今後音樂上の術語を仲介として説明せられる場合があるかも知れない。
 以上要約して吉へば、(1)「琴歌譜」の譜法は唐のものを繼承したものであるが、(2)その使用する表號的俗字の意義は相互一致せず、我國では我國風に使用してゐるかも知れない。(3)この譜法はすべての事情を參酌して平安朝初期に行はれたものと見られる。隨つて「琴歌譜」の原本は、平安朝初期以後のものと見なければならぬ。(4)斯く唐樂の譜法を借りて使用し、唐樂の影響の強かつた時代に制作せられたものである以上は、「琴歌譜」の譜は内外樂融和時代の特色を既に發揮し、上代の歌曲を歪曲せしめてゐると見なければならない。
 以上私は「琴歌譜」を解讀する方法的準備を整へることに幾分か努力して見た。勿論その考察は結論に達してゐないし、準備も亦解讀の仕事の序曲にさへ達してゐない不完全のものである。併しこれ以上の仕事は、私などの如き日本音樂の門外漢がなすべきものでない。私は有力なる日(521)本音樂史家が、更に一層の努力を以てこの樂譜を解讀するに至ることを嘱望しなければならない。私自身としては、この譜法の性質を分析することにより、「琴歌譜」の制作せられた年代をほぼ推測し、且つこの譜法の現はす歌曲とまことの上代の歌の歌曲との相違する程度をも知り得て少なからず得るところがあつたのだ。(註二)
  (註一) 田邊尚雄氏は、我國に傳へられた唐樂は朝鮮に傳へられたそれとは違ひ、雅樂でなくて俗樂であつたことを、朝鮮の雅樂を研究せられた結果主張して居られるが、(同氏著「日本音樂の研究」二二六−二七頁)然らばこの俗字を使ふ譜法も俗樂に於いてであつたかも知れない。
  (註二) 宋代の俗字の合、四、一上、尺、工、凡、六、五又はそれの略字に形状の甚だよく類似した表號は、我國の雅樂の笛、笙、篳篥等にも行はれてゐる。例へば横笛では、シ、テ、五、⊥、夕、中、六の孔名、笙では千、十、下、乙、工、美、一、八、也、言、七、行、上、※[几の左上に点]、乞、毛、比の管名、篳篥では五、工、※[几の左上に点]、ム、六、四、一、⊥、丁の孔名を用ひる。これらが支那の音樂上の俗字と同系のものであることは言ふまでもない。これらに就いても諭ずる必要はあるけれども、雅樂の系統に就いて不明の點が多いから、今は推測論を避けて論を一切それに及ぼさなかつた。
 
(522)    四七
 
 (七) 新羅歌謡の日本化〔八字右○〕。
 一々の分析の既に記しなものは、ここでは單に箇條書きするに止どめる。
 1.我が上代に於いて、歌謠の曲節隨つて歌形には少なくも二つの大いなる系統があつた。我國固有の歌謠と新羅系の歌謠とである。前者は奇數句形を持つし、後者は偶數句形を持つた。
 2.輸入せられた新羅歌謠は十句體であるが、その十句は前八句と後句二句とに分れてゐるから、我が上代歌謠中、八句歌體、十句歌體のものは、この新羅系の歌謠であるか、或は少なくもそれにより影響せられたものであるに相違ない。
 3.新羅系の歌謠は全體として我が固有系のそれに類似するものであつたため、直ちに日本化せられ、我國固有の歌謠と差別せられずに用ひられることとなつた。
 4.奇數句歌體と偶數句歌體との折衷形を生み、それは末尾に於いて、「短、長、長、長」の歌形を持つた。この歌形は既に上代に現はれてゐる。
 5.萬葉歌中に八句體十句體のものが幾つかあるのは、朝鮮系歌謠の影響の現はれであると思ふが、それらの末尾は「琴歌譜」のそれと同一形式、即ち「短、長、長、長」となつてゐる。隨(523)つてこの新羅系歌謠の日本化は既に甚だ古い時に於いてであつたことが知られる。
 6.紀記の中には未だ日本化せられない歌形の八句體歌十句體歌がある。紀の「やすみしし、我が大君は、宜《うべ》な宜な、我《われ》を問はすな」の歌は純然たる八句體歌である。記の「高光る、日の御子、宜《うべ》しこそ、問ひ給へ」の歌は十二句であるけれども、右の紀の歌と對照し、更に「宜《うべ》しこそ問ひ給へ、眞《ま》こそに問ひ給へ」の繰り返しを廢すると、純然たる十句體歌となる。なほこの繰り返しの位置は、「琴歌譜」の曲譜に對照して考へさせられるものがあるが、新羅郷歌の第四句第五句の終には、何等か繰り返し風の部分が挿入せられたものであらうか。なほ詳しく考へて見たい。「やすみしし、我が大君の、遊ばしし猪《しし》の」の歌は十句體、「近江は、水渟《みづたま》る國、大和《やまと》は、垣青《あをがき》」の歌も十句體である。末尾が「短、長、長、長」となつてゐる歌も勿論ある。
 
    四八
 
 (八) 志都歌に就いて〔七字右○〕。
 紀記歌謠の中で志良宜歌だけが朝鮮系であり、その他に朝鮮系歌謠は存在しないと考へることは、推測として却つて不自然であらう。私は志良宜歌以外のものに就いてもなほ朝鮮系の歌謠形式を發見し得る豫想を持つて、研究を進めて見たいと思つてゐる。第一に疑問となるものは志都(524)歌である。志都歌《しづうた》の意は從來言はれて來た如く「靜歌《しづうた》」であらうか。志良宜歌が尻上歌《しらげうた》でないことを確かめた我々としては、これにもひとまづ疑問を持ちたいではないか。試みに志都歌なるものの形式を分析して見ると次の如くになる。
     作者未詳の志都歌の返歌《かへしうた》。(「古事記。」但し紀では仁徳天皇御製)
  枯野《からぬ》を 鹽《しほ》に焼《や》き、     短、長、
  其《し》が餘《あま》り 琴《こと》に作《つく》り、 短、長、
  掻《か》き弾《ひ》くや 由良《ゆら》の門《と》の  短、長、
  門中《となか》の 海石《いくり》に振《ふ》れ立つ  短、長、
  浸漬《なづ》の木の(紀曰。浸漬の木の木)さやさや。 短、長。」
 第六句、第十句は長句でなく短句であるが、これを謠ひ伸ばして長句とすれば純然たる十句體歌である。
     春日《かすが》の袁杼比賣《をどひめ》作の志都歌。(「古事記」)
  やすみしし 我が大君の                 短、長、
  朝戸《あさと》には い依《よ》り立たし、        短、長、
  夕戸には い依り立たす、                短、長、
  脇凡《わきづき》が下《した》の 板《いた》にもが。我兄《あせ》を。 長、長。」
(525) 第八句が日本化せられて長句となつた八句體歌である。
 「琴歌譜」に茲都歌の返《かへ》しとして記された「島國の」の歌も、歌意を見ず、歌形だけを見れば、次の如く十句體歌となる。
  島國《しまぐに》の 淡路《あはぢ》の           短、短、
  三原《みはら》の篠《しの》。さ根《ね》こじに       長、短、
  いこじ持ち來て、朝妻《あさづま》の            長、短、
  御井《みゐ》の上《うへ》に 植《う》ゑつや、       短、短、
  淡路《あはぢ》の 三原《みはら》の篠《しの》。      短、長。」
 これ以外に志都歌として記されたものは、「三諸《みもろ》の、巌橿《いづかし》が本」の歌と並んで掲げられた四歌であり、「故《かれ》この四歌《ようた》は志都歌なり」と記されてゐるし、その中の一つ「三諸《みもろ》に、築《つ》くや玉垣」め歌は「琴歌譜」にも茲都歌として載せられてゐるから、志都歌であることは疑ふべくもないが、その四歌はすべて短歌の形式を持つに過ぎない。それ故にこれだけは八句體又は十句體の歌形と一致しないのである。併し同一の志都歌と呼ばれるものの中で短歌形のものもあれば、八句體十句體の歌形のものもあるのは何故であらうか。私はその意味を解し得ない。但し大いに推測を加へるとすれば、私は先きに新羅郷歌の「三句六名」に關聯して十句體歌も歌意より見れば短歌の形式に類して來ることを言つたが、さうした理由から短歌の形式のものでも八句體十句體の歌形(526)のものに類似した曲節を以てこれを謠ひ得たものであらうか。このことには確證がないから何とも言へない。(註一)
  (註一) 宣長は「志都歌はしづかに歌ふ由の名なるべし」と言つたが、私はなほ疑問を存したい。寧ろ鎮魂歸神の「しづ」の意と見るべきではあるまいか。鎮魂歸神に使用せられた最も古い形の歌が四句體歌であつたとすれば、記の志都歌の歌形も理解せられる氣がする。最初鮮語でないかと捜索して見たが、適語を發見しなかつた。
 
 記では右の四歌の志都歌の前に直ちに接し、同じく雄略天皇の御製として掲げられた、「日下部《くさかべ》の、此方《こち》の山と」の歌は、歌形の上で志良宜歌や志都歌に大いに類似したものである。即ち分析すれば、
   日下部《くさかべ》の 此方《こち》の山と           短、長、
   疊薦《たたみごも》 乎郡《へぐり》の山の、          短、長、
   此方此方《こちごち》の 山の峡《かひ》に、          短、長、
   立ち榮《さか》ゆる 葉廣熊檮《はびろくまがし》。       短、長。」
   本《もと》には 茂《いく》み竹《だけ》生ひ、         短、長、
   末邊《すゑべ》には 立繁竹《たしみだけ》生ひ、        短、長、
   茂《いく》み竹 茂《いく》みは寢《ね》ず、          短、長、
(527)   立繁竹《たしみだけ》 慥《たし》には率寢《ゐね》ず、   短、長、
   後も茂《く》み寢《ね》む。その思ひ妻あはれ。         長、長。」
 即ち純粹の八句體と日本化せられた十句體との接合した形式になつてゐる。片歌が二つ接合して旋頭歌となるやうに八句體と十句體との接合する場合も勿論起つたであらう。斯うした接合歌の例は紀記萬葉の中に幾つでもある。私は右の歌はやはり朝鮮系の歌謠形式ではないかと考へてゐる。またこの歌が志都歌四首の直前にあることにより、或は同じく志都歌に屬するものではないかと疑つても見るのである。何れにせよ、志都歌はこれに朝鮮系歌形の面影を探る疑問の餘地を多分に持つ樣式の歌である。
 
 
土田杏村全集
     第十三卷  文學論及び歌論
 
 昭和十年五月十日印刷
 昭和十年五月十五日發行
        非  賣  品
 
 著作權者 土 田 千 代
 
    東京市麹町區三番町一
 刊行者 長谷川巳之吉
 
    東京市麹町區三番町一
 刊行所 第一書房
      電話九段三三四四
 
      東京市牛込區山吹町三ノ一九八
          印刷者 萩原 芳雄
          製本者 橋本 久吉