底本 日本書紀通釋(第五册)、飯田武郷、明治書院、1903(明治36)年1月31日
 入力者注。底本は仮名の濁点をつけていない。通読の便を図って付した。ただし付して良いかどうか迷うものはもとのままにした。踊り字なども現行のものにした。
 
(3498)中に中吉小吉などもあれば。凶きのみにもあらざりしなり。さて此鼎の鳴しことは。其頃凶き兆に卜ひて。天下の亂れむとする怪には。載したりしなるべし。
 
日本書紀第二十七 終
終字秘閣本になし
 
(3499)日本書紀通釋卷之六十三       飯田 武郷 謹撰
 
日本書紀卷第二十八
 
天渟中原瀛眞人天皇 上  天武天皇
 
御名義。美稀なることはもとよりなれど。細かにわきていはゞ。此天皇御幼名。大海人皇子と申しゝは。御乳母の姓に據れるなることは。天皇崩御の時に。是日肇進v奠即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄2壬生事1。とあるにて知られたり。さて後には。瀛眞人皇子とも。申し奉りしものなるべし。これ大海人に縁ある御名也。【持統紀三年の下に。此御名見えたるを以。しかいふなり。】かくて天皇御即位の後に。其御名の上に冠らせ奉りて。天渟名原とは稱奉りしなるべし。瀛は即海原の瀛なるが故に。天之|海原《ウナハラ》と冠らせて。【渟名原。海原。同義なるべきよしは。信友もしか云れたり。】稱へまつりしなり。御母皇極天皇。御名|寶《タカラノ》皇女と申しゝを。即位後に天豊財と申し。御兄天智天皇。御名|開《ヒラカス》と申しゝを。即位後に天命と冠らせ奉りしに同じ。さて此天皇の宮號を。淨御原と稱すも。亦|淨海《キヨミ》原の義なる。みな其御幼名大海人と申しゝによれるなり。【信友は。生坐時海人の祥瑞に由れるならんと云れたれど。なほ御乳母の姓なるべし。】なほ宮號の下にも云ることあり。併見るべし○天武と申すは。集解に。周語曰。王曰。三事者何。射父對曰。天事(トス)v武。地(3500)事v文。民事2忠信1。注(ニ)乾稱2剛健1故武。などあるによれるなるべし○さて此天皇の本紀は。信友云。案るに釋日本紀此上巻の部にのみ。日本私記に引たる。安斗宿禰|智徳《チトコ》。調(ノ)連淡海。和邇部臣君手が日記を引たり。其三人は此紀に見えたる如く。大海人皇子の舍人にて。吉野より御|從《トモ》に侍ひて。御軍に勤仕奉りし人々なるを。其三人の日記を引て。此紀の上卷の中の文と異なるを。注せるが中に。少(カ)のたがひある事をさへに。件の記の文を擧たるをおもへば。なべては此紀と同じかりけん。かくて思へば。此紀の上卷に見えたる御軍の事は。おほかた彼三人の日記を採りて。記されたるにもやあらむと云れたり。さて其日記の文は。本文の下に擧注せるを見るべし。
 
天渟中《アマノヌナ》【渟中。此云2農難1。】原瀛《ハラオキノ》眞人(ノ)天皇(ハ)。天|命開別《ミコトヒラカスワケ》天皇(ノ)同母(ノ)弟也《イロトナリ》。幼《ワカクマシヽトキハ》曰2大(シ)海人《アマノ》皇子(ト)1。生《アレマシヽヨリ》而有2岐嶷《イコヨカナル》之|姿《ミスカタ》1。及(テ)v壮《ヲトナニ》雄拔神武《ヲヽシクタケシ》。能(シ)2天文遁甲(ニ)1。納(シ)2天命開別天皇(ノ)女《ミムスメ》菟野(ノ)皇女(ヲ)1。爲2正妃《ムカヒメト》1。天命開別天皇(ノ)元年。立(テ)爲2東宮《マウケノキミト》1。
 
注渟中云々の六字。天皇の下にあるべき例なり。集解はしか改めたり○幼曰。信友云。幼字初の義に心得べし。日嗣知食すまでは。此御名にておはしましき。と云り○大海人を。大サマと訓めるは。約めては然も申しゝなるべし○岐嶷。本に嶷を凝に誤りたり。今小等本集解等に據て改む○天文遁甲のことは。既に云り。此天皇の遁甲に能く通じ給ひしこと。本紀中にも見えたり○菟野皇女は。既に出。(3501)後御謚持統天皇と申奉れり○天命開別天皇元年は。同天皇七年戊辰の事なり。此事次に云○立爲東宮。前紀に此事を逸《モラ》したり。よりて信友云。天武天皇の皇太子に立給へることを。本紀に天智の御世の元年に【係て。月日を擧ずして。たゞに】立爲2東宮1。と記されて。むねとある天智紀に。其立太子の事を載されず。紀中なべての例と異なるも。いかにぞや。然るに扶桑略紀に。天智七年二月戊寅曰。倭姫皇女立爲2皇后1。以2大海皇子1立2皇太子1。と見え。水鏡にも。七年二月東宮に立給ふとあれど。天智紀には。同(ジ)年月日に。立皇后の事をのみ載されて。立太子の事はあらず。其より前の正月の條に。戊子【三日】皇太子即2天皇位1。【前年三月近江に遷都し給ひき。】壬辰【七日】宴2群臣於内裏1。と見えたる事を。鎌足公傳に。七年正月。皇太子即2天皇位1云々。朝廷無事。遊覧是好。人无2菜色1。家有2餘蓄1。民咸稱2大平之代1。帝召2群臣1。置2酒濱樓1。酒酣極v歡。於是皇太弟。以2長槍1。刺2貫敷板1。帝驚大怒。以將2執害1。大臣固諫。帝即止之。皇太弟初忌2大臣所遇之高1。自v茲後殊親重之云々。と紀せり。皇太弟憤り給へる事のおはしけるか。さらでも酒に醉しれ給ひて。ふと然る暴行《アラキミワザ》爲給ひたるなるべし。かゝる暴行し給ひけるによりて。時《ヲリ》から群臣の見るめにも。御慮をおきて。執害《トリコロ》さんとさへ爲させ給ひたりけんを。いくほどもなく。二月に皇太子に立て給ふべくもあらず。然れども。さる御失をも宥め給ふとして。例の鎌足公にぞ。詔(ヒ)合せ給ひたりけん。やがてその月戊寅【二十三日】に。立皇后の時。品つけて皇太弟と申すに。なし參らせられけるを。皇太子と書なせるにて。實は紹運要略。紹運録等。天智七年戊辰爲2皇太弟1。とあるぞ正しかるべき。【上に引たる鎌足公傳に。是年の正月の事に。皇太弟と書るは。後をめぐらして記せる文と(3502)して見るべし。然る書ざまなるも例多き事なり。】また天智紀には。御世の始より。八年五月壬午までは。太皇弟。また皇太弟など書ざれ。同年十月庚申の條より。始て東宮太皇弟。また皇太子。また東宮など記されたるも。またいかにぞや。天武紀元年【壬申】に及て。時人の語に係て。皇太弟宮とも。東宮とも。また所2居吉野太皇弟など書されたるは。儲位を避り給へる後のことながら。なほ其かみの實《マコト》の稱《トナヘ》なるべきを。うちまかせては。天皇と書されたるところもあるは。またいかにぞやきこゆ。さて紀中の例。日繼の皇子に立給へる事を。立爲2皇太子1。或は立爲2太子1。など記されたるに。此紀にのみ。立爲2東宮1と見え。紀中此稱を交へ用られたり。すべて紀中に皇太子をさして。東宮と書されたる事は。漢文ざまの潤飾文にこそは。稀々には見えたれ。うちまかせて。東宮とのみ書されたる例無きを。此天皇にのみ係て稱せるは。つきなく見ゆ。これに依て竊に考るに。實は天智天皇の御世。大海人(ノ)皇子を。皇太子には立てたまはず。皇太弟と稱《マヲス》に爲し給ひて。おのづから皇太子の如くにて。おはしましけるにもや有ん。もし然らば。紀の原文には。皇太弟とのみ記されたりけるを。改刪らるゝときに。まさしく皇太子に立給ひたりし趣に。ものせられけるが。文人の疎にして。稱呼の文を訂しあへず。かくは成《トヽノ》はざりつるなるべし。と云り。さることなり。
 
四年冬十月庚辰。天皇臥病《ミヤマヒシタマヒテ》。以痛(コト)之甚矣。於是遣(テ)2蘇賀臣安麻侶(ヲ)1。召(テ)2東(3503)宮(ヲ)1。引2入|大殿《ミアラカニ》1。時(ニ)安摩侶(ハ)素(ヨリ)東宮(ノ)所v好《ヨミシタマフトコロナリ》。密(ニ)顧(テ)2東宮(ヲ)1曰。有意《コヽロシラヒシテ》而|言《ノタマヘ》矣。東宮於茲(ニ)疑v有(コトヲ)2隱(セル)謀1。而慎之。天皇勅(テ)2東宮(ニ)1。授2鴻業《アマツヒツキノコトヲ》1。乃辭讓(テ)之曰。臣《ヤツカレカ》之|不幸《サイハヒナキ》。元(ヨリ)有2多《サハノ》病1。何能保(ム)2社稷(ヲ)1。願(ハ)陛下擧(テ)2天(ノ)下(ヲ)1。附(ヨ)2皇后(ニ)1。仍(テ)立(テ)2大友(ノ)皇子(ヲ)1。宜|爲《シタマヘ》2儲(ノ)君(ト)1。臣(ハ)今日出家(テ)。爲2陛下1。欲v修《オコナハント》2功徳《ノリノコトヲ》1。天皇聽之。即日出家(テ)法服《コロモヲキタマフ》。因以(テ)収(テ)2私(ノ)兵器(ヲ)1。委(ニ)納2於|司《オホヤケニ》1。
 
四年。秘閣本中臣本京極本考本。及本文傍書に。十年とあり。按るに此より下の十二月までの事は。天智紀に十年十月庚辰云々と載られて。干支も事實も合へり。庚辰は十七日なり。しかれば此年は。十年辛未なること明らかなり。十年とあるに從ふべし。但し此本紀は。天智天皇七年を元年と。前文に書たれば。こゝも十年を四年と書たるにて。これも又當時の書に。しかありしまゝを載せたるにて。自ら前紀とたがへるなり。今みだりに改めがたし。されば通證に此を。即位四年也。前紀書曰2十年1。とあるは。さる事なり○庚辰は十七日なり○蘇賀臣安麻侶。考本には賀を我に作れり。下同じ。此人は續紀天平元年八月丁卯。左大辨三位石川朝臣石足薨。淡海朝大臣大紫連子之孫。少納言小華下安麻呂之子也。とあり。蘇賀臣安麻侶即此なり。其子石足の時。改めて石川朝臣となれるなり○引入大殿。天智(3504)紀に引2入臥内1とあり○顧東宮。本に顧を領に誤る。今諸本に據て正す○有意は。物語書にしば/\出たる詞にて。心遣ひする義なり○疑有陰謀。信友云。此時いかに危き隱《シノヒ》の謀ありたらむむ知べからず。前に鎌足(ノ)大臣などゝ言《ノタマヒ》合せて。斉明天皇の御前にて。入鹿を謀殺し給ひし御慮(ノ)さまにも。思合せ奉られてなむ。と云れたり○元有多病。本に有字を脱せり。今中臣本考本等に據て補ふ○附皇后。本に附を陛に誤れり。今中臣本其他の本に據て改む○宜爲儲君。天智紀には。請奉2洪業1付2屬大后1。令3大友王奉2宣諸政1。とありて。儲君とはあらず。又大友皇子を。大友王と貶しめ記されたり。稱呼此紀と合はず。かく二方に記されたるも。前に七年とあるを元年と記し。十年とあるを四年とあるが如く。其採記せる原書の異なるまゝに書て。正し肯へ給はざりしなるべし〇出家法服。天智紀には。臣請願奉2爲天皇1。出家修道。天皇許焉。東宮起而再拜。便向2於内裏佛殿之南1。踞2坐胡床1。剃2除鬢髪1。爲2沙門1。於是天皇遣2次田生磐1。送2袈裟1。とあり。さて持統紀に。此頃の事に。沙門天渟中原瀛眞人天皇と記されたり○兵器悉納於司。天皇の意しらひ爲し給ふこと。至れりと申すべし。此事天智紀には記されず。
 
壬午入2吉野宮1。時(ニ)左大臣蘇賀赤兄臣。右大臣中臣金連。及|大納言《オホキモノマヲスツカサ》蘇賀果安臣等送(マツル)之。自2菟道1返。或曰。虎(ニ)著《ツケテ》v翼(ヲ)放v之(ヲ)。是夕(ニ)御2島宮(ニ)1。癸未。至2(3505)吉野(ニ)1而居之。是時(ニ)聚(テ)2諸舍人(ヲ)1謂(テ)之曰。我今|入道脩行《オコナヒセムトス》1。故隨(テ)欲2修道《オコナハムト》1者(ハ)留之。若仕(テ)欲v成v名(ヲ)者(ハ)。還(テ)仕2於|司《オホヤケニ》1。然(ニ)無2退者1。更聚(テ)2舍人(ヲ)1。而|詔《ミコト》如v前(ノ)。是以(テ)舍人等。半留半(ハ)退。十二月天命開別天皇崩。
 
壬午は十九日なり。中間《ナカ》一日隔たまへるばかりなるも。いと速かなり。〇入吉野宮。萬葉一なる天皇御製歌に。三芳野之。耳我《ミヽガノ》嶺爾。時無曾。雪者|落《フリ》家留。間無《ヒマナク》曾。雨者零計類。其雪乃|時無《トキナキガ》如。其雨乃|間無《ヒマナキガ》如。隈毛不落《クマモオチズ》。思乍叙來《モヒツヽゾクル》。其山道乎。とあるは。必此御道次の御製なるべし。げに思ほしも合へぬ俄かの御出途にて。御心の内いかに思ほす隈々多かりけんと。思遣奉られたり○大納言蘇賀果安臣。天智紀には。紀大人臣。巨勢人臣と共に。爲2御史大夫1とあるに。此紀には。みな大納言と換へ書されたり。これまた前紀とは。採給へる記録の異なるなり。職員令に。大納言四人。掌d參2議庶事1。敷奏宣旨。侍從獻替u。とあれど。令(ノ)制に當てゝ。謾りに改刪せるにはあらず。當時二方に官名を稱せるに據て。かくも記るものなり。其説は既に天智紀に云り○自菟道返の下。中臣本に焉字あるよろし○虎著翼放之。此語漢籍韓子に。無v爲2虎傅1v翼。將2飛入v邑。擇v人而食1v之。と云る語に據て。評し奉れるものなるか。まづは此天皇を惡さまに申しゝなり。信友云。此ところなどは。善さまにこそは。潤飾《カザリゴト》すべきわざなれ。かく惡さまにものすべきにあらず。此は實に時人の語にて。未然《マダキ》に世の亂を察れりし徴語《シルシコトバ》なりけるに依(3506)て。語(リ)も書も傳へたりける説にこそはあるべけれ。但し此虎翼の語は。無くても事實《コト》には闕ることなきを。など改作の時には削《ハブカ》れざりけむ。と云れたるは。いとも味氣なき論なりけり。【此信友の論は。天武天皇を惡ざまに思まつりて。かゝる論もあるなりけり。】今按に。此評は時人の語にはあるべからず。近江朝廷にして。天皇を除き奉らむとの密謀に。預りしものゝ語なり。さるは大臣納言等。天智天皇の御心を承て。臥内にして天皇をたわやすく除き奉らんと。思ひ設けしかど。それを豫に知看して。ことよく其謀を遁れ坐る。意外の御辭譲に。今は何とも爲べき術なく。此密謀の人々も。手を空く爲《セ》しか。いと遺憾《クチヲシ》くぞ思ひたりけむ。さるにても此天皇の。其機を既く察し給ひしことを思ふに。實に慮の外にて。かくては後々も。いかなるさまに世を觀望《ミソナハ》し姶ふらんと。空恐ろしく。互に裏に思ひ悩みて。遂には此謀りし人々の上にも。善き事あらじと。悔しみ思ふが餘りに。此虎翼の嘆はも發しゝなりけり。されば此語。時人の頓に天皇を惡《アシ》ざまに申したる辭にあらず。我が隱謀のたがひたるを。口惜しむが餘りに。かゝる語をも發《コトアゲ》したりしなりけり。されば此評。天皇の御上にとりては。さのみ惡しざまに申せるにもあらず。其時の事實を。後にして知るべき由縁とも。自らなれるを。何しに改作などし給はん。信友の説は穿てりと云ふべし。また同人の説に。庚辰より此日に至るまでの事。天智紀との異同。右に注せるが如し。原本かくのごとく。前後の紀に同じ事を重(ネ)記し。又其事實文例の。かく違べきにあらず。改作の時疎にして。かく成《トヽノハ》ぬ文となりたるものなるべし。と云れたる論もいかゞなり。此人の論。すべて此紀をば。(3507)後に改刪せしものとのみ云れたれど。それたしかなる證もなし。まこと改刪したらんには。かく前後打あはぬ事あるべきやうなし。あまりに撰者を輕く見成したる。此人の僻なり。かの僞作の長良公本などを。深く信じ過たるより。かゝる事も云はるゝなりけり○島宮。高市郡島庄村にあり。既出○癸未。二十日なり○至吉野而居之。吉野宮古くは應神紀雄略紀に見ゆ。此御世に近きは。齊明紀に。二年十月幸2于吉野宮1。と見えたり。信友云。古宮の廢れたりけるを。更に造り給へるlこて。其宮の在けるに入て居《スミ》給へるなるべし。前に古人大兄。皇極天皇の讓位せむと詔つるを。辭ひて出家して。吉野山に入ておはしたるも。此宮なりしなるべし。さて又此時。妃※[盧+鳥]野皇女【持統天皇】も。相伴ひ給ひけり。持統紀に。十年十月。從2沙門天渟中原瀛眞人天皇1。入2吉野1。と記されたる是なり。また御子草壁皇子。忍壁皇子をも。伴ひ給ひたるなるべし。壬申年六月。皇子吉野を發給へる時。妃も共に率て出坐る事。下文に見えたり。さて此大海人皇子。東宮を辭《サ》りて。吉野宮に入給へる時の趣。舒明天皇の皇子古人大兄と。輕皇子との御行に。似させ給へるところあり。さて大海人皇子。十月二十日吉野に入給ひ。同月のうちに。大友皇子を皇太子に立給へり。日は詳ならねど。二十日に云々の事ありて。いくかもあらぬに。立太子の御事ありしなり。かくて翌十一月丙辰【二十三日】に。大友皇子。内裏(ノ)西(ノ)殿織佛像(ノ)前に於て。左右大臣等六人。ともに誓盟を爲し。又次に壬戌【二十七日】にも。また五臣大友皇子を奉して。天皇の前にて盟を爲したり○諸舍人は。春宮坊の舍人なり○半留半退。この半留りける輩。壬申の亂にいさをし(3508)く仕奉れる事。下に見えたり。岡部東平云。當時天皇に從ひて。吉野に供奉せる者は。大概近習舍人なり。獨り村國男依連。和珥部君手臣。身毛(ノ)廣君は。舍人の列にあらず。又大伴馬來田連。黄書大伴造も。亦舍人なり。柿本人麿朝臣も。吉野に留りし舍人(ノ)内ならむと云り。【信友云。此留りたる舍人等は。皇子の陰《シタノ》心を察《シ》りて。隨ひまゐらせむとおもひ定て。後にいざをしく仕奉りたる輩なり。と云れたるは。此天皇に陰謀の御心ありと見做して。云る説なるべけれど。それは例の穿ちたる説なり。此舍人ども。さる下心ありてにはあらで。年頃仕はれ奉りし御|恩誼《ウツクシミ》に。報い奉らんとての心にこそあらめ。かゝるさまに天皇を誣ひ奉れる。いとあぢきなし。かの虎著v翼放之と云る所に。云る説を考合はすべし。】○天命開別天皇崩。天智紀に。十二月癸亥朔乙丑【三日】に天皇崩2于近江宮1。葵酉【十一日】殯2于新宮1。とあり。
 
元年春三月壬辰朔己酉。遣(テ)2内小《ウチノスナイ》七位阿曇(ノ)連|稻敷《イナシキヲ》於筑紫(ニ)1。告2天皇(ノ)喪《ミモヲ》於郭務※[立心偏+宗]等(ニ)1。於是郭務※[立心偏+宗]等。咸(ニ)著(テ)2喪服《アサノコロモヲ》1。三|遍《タビ》擧哀《ミネタテマツル》。向(テ)v東(ニ)稽首《ヲカム》。壬子。郭務※[立心偏+宗]等再拜。進3書函《フミハコト》與(ヲ)2信物《クニツモノ》1。
 
元年壬申なり。去年十二月三日。天智帝崩し給ひて。同き五日。大友皇子帝位に即給へること。既に天智紀に諸書を引て云り。されば。この壬申年の間は。大友帝元年なり。さて此年七月壬子【二十三日】以後。實に此天皇の御寓の元年なり。然るをこれをかにかくに論じて。明年癸酉を。天皇の元年としたるは。いはれなし。この事下に委く云り。さて信友云。此天皇今年五十九歳の御時なり。但し此は(3509)正統記に。崩りの享年を七十三と記されたるに依る。紹運録に六十五とあるに依れば。五十一歳になり給へり。と云り。此天皇の御年のことは。下に委く云べし○己酉は十八日なり○内小七位。按に内位の事。こゝにに始て出たれど。此|名目《ナ》は冠位を制給ひし時より始りけん。【天智天皇三年。二十六階を制給ひし時に。始りしなるべし。】さて内位とは。外位に對へて。尋常の位を云。式部式云。凡元正行列次第。外位不v得v列2内位上1。江次第云。諸官給雖2下姓1叙2内階1。自餘依v姓叙2内外階1。若有2疑姓者1。先叙2外階1。後日依v愁。叙2内階1云々。三代格。神龜五年奏。五位已上子孫。累世之冠葢。及明經秀才堪v爲v儒者。即叙2内位1。自餘先叙2外位1。積v勞入v内。などあり。【通典に。隋制九品。自2大帥1始焉。謂2之流内1。唐因v隋有2流外勲品1。自2諸衛録事。及五省令史1始焉。】按に。小七位は小建に當れり。下文に諸王(ノ)二位三位四位あり。されば此時既に。位とする名目もありしならめど。諸臣にて位と稱せしもの。此の他に見えず。恐らくは。小七位は小建の誤にもあるべし○阿曇連稻敷。十年紀に出○告天皇喪於郭務※[立心偏+宗]等。天智紀十年十一月。唐國使人郭務※[立心偏+宗]等六百人。また其國より歸朝の沙門道文等が送使一千四百人。參渡れりし事見えたり。これなり。さて上にも云りし如く。此は近江朝廷にての事にて。前年十二月。天智天皇崩給ひ。大友天皇の御世知食せる由を。告《ノラ》せ給へる文なり。持統紀に。六年五月。詔2筑紫大宰|率《カミ》河内王等1曰云々。復上【乙】送(セシム)大唐大使郭務※[立心偏+宗]。爲d御(シヽ)2近江大津宮1天皇u。所v造阿彌陀像【甲】。と載られたるは。此度造たりし佛像なるべし。信友云。郭務※[立心偏+宗]が事は。善鄰國寶記に。菅原在良。勘d隋唐以來献2本朝1書例u云々。天智天皇十年。唐客郭務※[立心偏+宗]等來聘云々。天武天皇元年。郭務※[立心偏+宗]等來。安2置大津館1。(3510)客上2書函1。題曰大唐皇帝敬問2倭皇1【印本皇を王と作り。】書。又大唐皇帝勅2日本國使衛尉等小卿|大分《オホキタ》等1書曰。皇帝敬致2書於日本國王1。と記せるは。實の記録の傳れるに據れるものなり。そは次に擧たる。郭務※[立心偏+宗]等再拜進3書函與2信物1。と記されたる度の事にて。安2置大津館1と記したるをもて。大友天皇の大津の都へ。召上給へる事明確なるをや。然るに天武天皇元年としも書るは。大友天皇を除き奉れる。後の年紀に當《カナ》へて記せるものなり。かくて推考れば。五月壬寅に。郭務※[立心偏+宗]等に大物賜ひたるも。大津の都にての事にて。【三月己酉。郭務※[立心偏+宗]等。筑紫に在て。天皇の喪の事を奉(リ)しより。五月壬寅に。大物賜ひたるまで。五十日に餘れり】甲申郭務※[立心偏+宗]等罷歸と記されたるは。その都を發て罷歸れるなり。然るに紀には書函信物を上れる事を。御使の筑紫に至りて。勅を諭たる己酉日より。わづかに四日に當る壬午(ノ)日に係て。筑紫にての事の如く記されたるは。是も後に改刪られたる事。疑なかるべし。と云り。次に云○壬子。二十一日なり○進書函與倍物。これ右に引る菅原在良勘文に。安2置大津館1。上2書函1とあるこれなり。この大津館を。信友は近江大津なりといへども。今按に。これは近江なるにはあらで。筑前國遠賀郡なり。其は斉明紀に所謂。御船還至2于娜大津1。居2磐瀬行宮1。天皇改2此名1曰2長津1。とある大津なり。さらば郭務※[立心偏+宗]大津都まで來れるにはあるべからず。なほ筑紫にての事なりけり。
 
夏五月辛卯朔壬寅。以2甲冑《ヨロヒカフト》弓矢(ヲ)1。賜2郭務※[立心偏+宗]等(ニ)1。是日。賜2郭務※[立心偏+宗]等(ニ)物1。總(3511)《スヘテ》※[糸+施の旁]一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。緜六百六十六|斤《ハカリ》。戊午。高麗遣(テ)2前部富加※[手偏+卞]等(ヲ)1。進v調。庚申。郭務※[立心偏+宗]等罷歸。
 
壬寅は十二日なり○緜六百六十六斤。扶桑略記には。斤を屯に作れり。こゝも屯の誤なるべし。さて略記に。此條を本紀二年の下に載たるは。誤なり○庚申。三十日なり○郭務※[立心偏+宗]等罷歸。筑前娜(ノ)大津より。本國に罷歸れるなり。さて上にも云る如く。三月己酉より。此に至るまでは。みな近江朝廷にて。大友天皇の御政なり。さらば此天皇の前紀と見てあるべし。
 
是月。舍人朴井連雄君。奏(テ)2天皇(ニ)1曰。臣以(テ)v有2私(ノ)事1。獨|至《マカル》2美濃(ニ)1。時朝廷宣(テ)2美濃尾張兩(ノ)國(ノ)司《ミコトモチニ》1曰。爲v造2山陵《ミサヽキヲ》1。豫差2定|人夫《オホミタカラヲ》1。則人別(ニ)令v執v兵(ヲ)。臣|以爲《オモハク》。非v爲(ニハ)2山陵(ヲ)1必有v事矣。若不(ハ)2早(ニ)避1。當有v危(コト)歟《カ》。或(ハ)有(テ)v人奏(テ)曰。自2近江(ノ)京1。至(ニ)2于倭京(ニ)1。處々(ニ)置v候《ウカミヲ》。亦命(テ)2菟道(ノ)守橋者《ハシモリニ》1。遮《タヘシム》d皇太弟《マウケノキミ》(ノ)舍人。運2私(ノ)粮1事(ヲ)u。
 
舍人。本に脱したり。今中臣本京極本に據て補へり○朴井連雄君。續紀一に。榎井連小君とあり。朴井は物部氏なり。大日本史云。舊事紀曰。守屋子物部雄君連公。天武帝時。賜2氏上内大紫冠位1。按守屋被(3512)v殺。在2用明帝二年1。至2壬申之亂1。相距八十八年。頗非v無v疑。故不v収。と云へるは。さることなり。此人五年紀に。發病而卒とみえたり。氏上内大紫冠ならば。卒と書べきよしなし。同氏なれど別人なり。さて續紀に。大寶元年勅。先朝論v功賜v封。榎井連小君一百戸。宜2依v令四分之一傳1v子。とあり〇奏天皇曰。略記に。大友皇子。既及2執政左右大臣等1。相共發v兵。將v襲2吉野宮1。時舎人朴井連雄君奏曰。とあり○朝廷。略記に近江朝廷とあり○爲造山陵。天智天皇の御陵なり。此御陵の事既に云り。信友云。此に爲v造2山陵1云々と云へるは。此時より前に。御葬の事は畢りて。御陵の山作(リ)の人夫に託《コトヅ》けて。兵士を呼(シ)集給ひたりしなるべし。此御陵修營の事。續紀大寶三年十月の下に見えたり。御葬より。わづかに三十二年を歴たり。さるは此御世の亂によりて。前の御代御代の山陵の如く。嚴にはえものし給はざりつるから。いくほどもなきに。壊崩たる處のいできたる。修營せられたるなるべし。と云り○若不早避。本に早を※[田/廾]に誤る〇倭京。下文に倭古京とあるこれなり。倭京は大和高市郡にて。後(ノ)飛鳥岡本宮と稱して。齊明天皇より。天智天皇大津に遷都し給へるまでの都なり。此より前に。舒明天皇此地に都を遷し給ひける事を。遷2飛鳥岡本1。更定2宮地1。號曰2後飛鳥岡本宮1。と見えたれば。前なると同じ所にて。飛鳥の地なり。これらの事は。既に繼々云おけり。さて信友云。此倭京を。下に倭古京ともあるは。然る事なるを。こゝのほかにも。徒《タヾ》に倭京とあるはいと混はし。と云れたり○處々置候。扶桑略記に。處々置v軍云々。また世(ニ)傳云。大友皇子之妃。是天皇女也。竊以v謀v事。隱通2消息1。と記せり。(3513)此事他書どもにも見えたり。【懐風藻に。葛野王者。大友太子之長子也。母淨見原帝長女十市内親王とあり。】○蒐道守橋者。山城國宇治橋なり。帝王編年記大化二年下に。元興寺道登道昭。奉v勅。始造宇治川橋石上銘1云々。大化二年丙午之歳。※[手偏+溝の旁]2立此橋1。済2度人畜1云々。とあり。續紀にこれを道昭一人として記るは誤なり。これらのことは。こゝに餘り要なければいはず。さて守橋《ハシモリ》の事は。古今集歌に。ちはやなる宇治の橋守なれをしぞ。あはれとはおもふ年の經ぬれば。と見えたり。【信友云。此歌のよみざまを思ふに。この歌主のこゝろは。昔のなごりのかたばかりに。橋守の在しなるべし。と云り。】○運私粮事。按に事は者の誤か。
 
天皇|惡《ハヾカリテ》之。因令2問察《トヒアキラメ》1。以(テ)知2事(ノ)已(ニ)實(ナルヲ)1。於是詔(テ)曰。朕所2以譲v位(ヲ)遁1v世(ヲ)者。獨治v病(ヲ)全(テ)v身(ヲ)。永終(ムトナリ)2百年(ヲ)1。然(ニ)今不(テ)v獲v已《ヤムコトヲ》。應v承v禍(ヲ)。何黙(テ)亡(ム)v身(ヲ)耶《ヤ》。六月辛酉朔壬午。詔2村國(ノ)連|男依《ヲヨリ》。和珥部(ノ)臣君手。身毛(ノ)君廣(ニ)1曰。今聞。近江(ノ)朝庭之臣等。爲(ニ)v朕(カ)謀(ル)v害(コトヲ)。是以(テ)汝等三人。急(ニ)往(テ)2美濃國(ニ)1。告(テ)2安八《アハチ》磨(ノ)郡(ノ)湯沐令《ユノウナガシ》多(ノ)臣品治(ニ)1。宣《ノタマヒ》2示(シテ)機要《ハカリコトノヌミヲ》1。而先發2當郡(ノ)兵(ヲ)1。仍(テ)經《フレテ》2國司等(ニ)1。差2發(テ)諸(ノ)軍(ヲ)1。急(ニ)塞《フセゲ》2不破(ノ)道(ヲ)1。朕今|發路《イキタヽム》。
 
譲位とは。信友云。皇太弟を辭し給へる事ながら。譲とは。大友皇子に譲り給へるよしきこえたり。(3514)と云れたり○壬午。二十一日なり○村國連男依。此姓系詳ならず。倭名抄。大和國添下郡村國。美濃國各務郡村國。神名式。同郡村國神社あり。續紀三。美濃國言。材國連等志賣一2産三女1。とあるに依らば。男依は美濃人なるべし。なほ同書二十五。美濃少掾正六位上村國連島主。坐2逆黨1。類史八十七。延暦十七年二月。美濃國村國連惡人。なとも見えたり○和珥部臣君手。孝昭紀に。天足彦國押人命。此和珥臣等始祖也。とあり。既に云り。此人續紀にも出。但し古は。此姓單に和珥臣とのみ稱せしを。此に始て和珥部と書るは。何時より改め稱へるにか。續紀姓氏録も同じ○身毛君廣。身毛君雄略紀に注せり。續紀に牟宜郡君比呂に作る。記に大碓命生子押黒弟日子王。此者牟宜都君等之祖。とあり。さて些三人は。續紀大寶元年勅。先朝論v功行v封時。賜2村國小依百二十戸。牟宜君比呂。和爾部君手八十戸1。賞雖2各異1。同居2中第1。宜2依v令四分之一傳1v子。とあり○安八磨那。和名抄美濃國安八郡。續紀安八萬王あり。又|味蜂間《アハチマ》とも書ること。他書に見えたり○湯沐令。本に令を命に誤る。通證云。謂2湯沐邑令1也。釋爲d主2温泉1之官u誤。と云り。借友云。大海人皇子の湯沐料の地の司なり。延喜春宮坊式に。東宮湯沐二千戸とあり。當昔《ソノカミ》の戸數は。いかなりけむ。しられねど。東宮にておはしける時の湯沐の地を。舊のまゝに進られ給ひたりしなるべし。下(ノ)文に。運2湯沐之米1。伊勢國(ノ)駄云々。とも見えたり。伊勢にても。湯沐の地のありけるなり。漢書高帝紀に。以v沛爲2湯沐邑1。師古注に。凡言2湯沐邑1者。謂d以2其賦税1。供c湯沐之具u也。とあり。これにて明らけし○多臣品治。持統紀十年八月庚午。以2直廣壹1。授2多臣品(3515)治1。並賜v物。褒3美元從之功。與2二堅守v關事1。とあり。此人は多神宮注進状に。【此書の事は綏靖紀に云り。】多(ノ)清眼十一世孫。小錦下品治【蒋敷子。】とあり。太安麻呂の父なるよし見えたり○急塞不破道。信友云。後の事ながら。大寶の軍防命に三關とあるを。義解に伊勢(ノ)鈴鹿。美濃(ノ)不破。越前|愛發《アラチ》。と見えて。共に畿内の要路なり。かくて按るに。件の三關は。此御世より前に置れたりしなるべし。下文の伊勢の國司(ノ)守の塞2鈴鹿山(ノ)道1。とあるところの注にも考證すべし。然るに。藤原兼良公の應仁六年の藤川記に。不破の關屋を見侍るに云々。關屋の中《ウチ》に。ちひさきほこらのあるを。里人に尋ねはべれば。これなん清見原をいはひ奉るといふ。まことや。彼御世に軍を防がんとて。建られし事なれど。今は關のやうにもあらぬを見はべりて云々。と記し給へり。清見原の天皇を齋ひ奉れる事は。新《アラタ》世の古事を懷ひ奉りて。關司の祀り來れるなるべきを。彼御世に創めて建られたる關のこと。しるし給へるは。疎《オロソカ》なる御事なるべし。さて今不破(ノ)郡關(カ)原宿の南に。古の關の跡なりといふ所あり。持統紀十年紀に。多臣品治に。爵並物を賜ひて。褒3美元從之功(ト)。與2二堅守v關事1。と見えたる守關は。此時の功に當れり。と云り○朕今發路。同人云。如此掟給ひたるは。吉野より出|發《タチ》て。東國の方より。速に大津(ノ)都に襲《オシ》入給はむ御慮《ミコヽロ》がまへなり。但し此は豫て品治に。うち/\よく示しおかせ給へる事のありしなるべし。さらでは。男依等が復命をも聞食さで。かろがろしく發路《ミチダチ》し給ふべきに非らず。亦品治か除《ホカ》にも諸國に。豫て事發らば云々と。命せあはせおかれたる人々の。多かりしなるべし。其等は次々に出會奉れる人々の行《フルマヒ》もて。推量りしる(3516)べし。と云り。
 
甲申。將v入v東(ニ)。時(ニ)有(テ)2一(ノ)臣1。奏曰。近江(ノ)群臣。元有2謀《キタナキ》心1。必告2天下1。則道路難(ム)v通。何無(テ)2一人(ノ)兵1。徒手《タムナテ》入v東《アヅマニ》。臣恐事不(ムコトヲ)v就《ナラ》矣。天皇從(テ)之。思3欲返2召(ト)男依等(ヲ)1。
 
甲申。二十四日なり○將入東。秘閣本入字なし。信友云。東とは大和にして。もはら伊賀伊勢わたりを。さしたる文なり。それより近江路をさしてものし給ひ。大津の都に向ひて。情状《アルカタチ》を明らめ給はむとて。發ませる由に。御言擧し給へるなるべし。さて續紀に。尾張宿禰大隅が。此壬申の度《トキ》の功を處分《サタ》せる文中に。淡海朝廷諒陰之際。義興2警蹕1。潜出2關東1。于時云々。とあるは。此時の御|擧動《アリサマ》を。云るなり。さて竊に按に。件の文は。後世より申す潤飾の漢文とはいへども。諒陰之際興義2警蹕1。といへるまでは。中々に物害ひなる文なるべし。其全文は下に引べし。と云り○元有謀心。本に元を无に誤る。今中臣本信友本校本に據る○必告天下。本に告を造に誤る。今本書傍書。中臣本考本等に據る。害に造るも誤なり○徒手は。通證に謂v無2備衛1也。と云るが如し〇思欲返召男依等。一臣の奏に從て。男依等を召返さむと思欲しかども。又更に御心に神策を廻らし給ひて。別に下條の命を申し給ひしなり。
 
(3517)即遣(テ)2大分《オホイタノ》君惠|尺《サカヲ》。黄書造大伴。逢《アフノ》臣志摩(ヲ)于留守|司《ツカサ》高坂(ノ)王(ノモトニ)1。而令v乞2驛(ノ)鈴《スヾヲ》1。因(テ)以(テ)謂(テ)2惠尺等(ニ)1曰。若不(ハ)v得v鈴(ヲ)。廼志摩(ハ)還(テ)而|復奏《カヘリコトマヲセ》。惠尺(ハ)馳(テ)之往(テ)2於近江(ニ)1。喚(テ)2高市皇子大津皇子(ヲ)1。逢2於伊勢(ニ)1。既而惠尺等至(テ)2留守司(ニ)1。擧(テ)2東宮之命(ヲ)1。乞2驛鈴(ヲ)於高坂(ノ)王(ニ)1。然(ニ)不v聽矣。時(ニ)惠尺往2近江(ニ)1。志摩乃還(テ)之復奏(テ)曰。不v得v鈴也。
 
大分君惠尺。記に神八井耳命。大分君之祖。倭名抄豊後國大分。景行紀に碩田。舊事紀に大分國造あり。既に云り。惠尺は。天武紀四年六月。薨2于私家1。とあり○黄書造大伴。續紀。大奉元年七月壬辰勅曰。先朝論v功行v封。賜2黄書造大伴一百戸1云々。天平寶字元年四月。大伴(カ)壬申(ノ)功田八町。中功合v傳2二世1。和銅三年十月辛卯。正六位上【これより前大寶三年紀に。七月甲午正五位下山背守とあり。誤あるべし。】黄文連大伴卒。詔贈2正四位下1。並弔賻之。以2壬申功1也。靈龜二年四月癸丑。壬申功臣子賜v田の中に。大伴が息從七位上糠麻呂あり○逢臣志摩。欽明紀に逢臣讃岐と云女見えたり。逢臣系詳ならず。【集解に。即多臣と云へるは非なり。】○留守司。大和の古京に置れたる司なり○高坂王。系未詳。十二年四月壬戌。三位高坂王薨○驛鈴の事。孝徳紀に詳かなり○高市皇子大津皇子。二皇子共に天皇の御子なり。此時高市皇子の御年。いまだ二十歳になり給はず。大津皇子は十歳(3518)の時に當れり○擧東宮之命。信友云。大海人皇子。去年東宮を辭《サリ》給ひたれど。如此云はしめ給へるなり。此後|隱《ナバリ》の邑中にて。天皇入2東國1と唱《イハ》しめ給へるも。同じ御心おきてなり。おもひ合せ奉るべし。と云り○復奏曰不得鈴也。又云。かの一臣の議よりも前に。近江の朝の御企を知召けるに依て。深謀を定めて。かく速にものし給へる趣なるに。一臣の議に依て。思d欲返c召男依等u云々と命せ給ふべきにあらず。然れば。まこと此時に。男依等を召返し給はむの抑慮にはあるべからぬを。亦さらに計策を設けて。かの一臣の議に從ひ給ふさまにて。東國よりものし給ふ事を止めて。彼等を召返し給ふ由にて。留守司高坂王に。驛鈴を乞はしめ給ひて。其王の吉野に隨ひ給ふべきや否やと。試させ給へるなり。今推考るに。鈴を得《エ》得《エ》ざるによらず。惠尺は近江に往て云々。と命せ給へるなるべし。志摩は鈴を得ぬ由。即日に復奏せり。大伴は稍後れたりときこえて。即《ソノ》日菟田吾城に追次て。御供に仕(ヘ)奉れる由。共に次に見ゆ。志摩の事は見えず。と云り。
 
是日。發途《タチテ》入(タマフ)2東(ノ)國(ニ)1。事急(テ)不(テ)v待v駕《オホムマヲ》而行之。※[脩の月が黒]《ニハカニ》遇2縣(ノ)犬養(ノ)連大伴(カ)鞍《クラオヘル》馬(ニ)1。因以(テ)御駕《ミノリス》。乃皇后(ハ)載(テ)v輿(ニ)從《ミトモニマセシム》之。逮(テ)2于津振《ツフリ》川(ニ)1。車駕《オホムマ》姶(テ)至《イマシ》。便|乘《ミノリス》焉。
 
是日。尚二十四日なり○發途入東國。信友云。これ始《モト》りの御慮にて。彼一臣の議に從ひ給はざりつる事しるべし。さて鎌足公傳に。帝召2群臣1。置2酒濱樓1。酒酣極v歡。於是皇太弟。以2長槍1。刺2貫敷板1。帝(3519)驚大怒。以將2執害1。大臣固諫。帝即止之。皇太弟初忌2大臣所遇之高1。自v茲以後殊親重之。後値2壬申之亂1。從2芳野1向2東土1。歎曰。若使2大臣生存1。豈至2於此困1哉。とのたまひしよし見えたるは。この時の御事なり。あなかしこ。かゝるきはに臨み給ひては。しかすがに。然もこそはおもほしたりけめ。と云り○事急云々。按に一臣の奏は。道路の通じ雖からん事を申しゝかば。驛鈴を得て行かんとおもほして。高坂王に乞給ひしなり。然るに鈴を得ざりしのみならず。高坂王の向背をも知給ひしかば。急速に發途し給へるなるべし。其故に一臣の議に從はざりしならんか○縣犬養連大伴。天武紀九年に。臨v病即降2大恩1云々。とあり。文武紀。大寶元年正月癸卯。直廣壹縣犬養宿禰大侶卒。遣2淨廣肆夜氣王1。就v第宣詔。贈2正廣參1。以2壬申年功1也。又七月壬辰勅。先朝論v功行v封。賜2遣犬養連大侶等十一人各一百戸1。宣2依v令四分之一傳1v子。などあり○皇后載輿從之。皇后持銃帝なり。持統紀に。從2天渟中原瀛眞人天皇1。避2難東國1。鞠v旅置2諸要害地1云々。從v始迄v今。佐2天皇1多v所2※[田+比]補1。と載られて。此時專軍政を補佐《タスケ》給ひたりしなり。是時御年二十八にて坐ましき○津振川。大和志に。吉野郡北至2宇陀界1村里。津風呂。在2龍門莊1。疑是。とあり。今上浄風呂下津風呂と云村なり。川あり。宮瀧の下にて吉野川に入る。さてこゝより龍門莊を過て。宇陀郡に入れば。菟田吾城なり。
 
是時(ニ)。元(ヨリ)從|者《ヒト》。草壁皇子。忍壁皇子。及舎人|朴《エノ》井(ノ)連雄君。縣犬養連大伴。佐(3520)伯連大目。大伴連友國。稚櫻部臣五百瀬。書首根摩呂。書直|智徳《チトコ》。山背直小林。山背部小田。安《ア》斗連智徳。調《ツキノ》首淡海之|類《トモガラ》。二十有餘人。女孺《メノワラハ》十有餘人也。
 
草壁皇子は。天皇の御子。御母持統帝。是年十一歳。日並知皇子と申す御事なり○忽壁皇子。草壁皇子(ノ)御弟なり。或は刑部親王に作れり。續紀三。慶雲元年。益封二百戸。同二年。三品忍壁親主薨。天武天皇之第九皇子也。とあり。御年のほどおしはかるべし。此時の事を扶桑略紀には。引2率男女息1と記せり○佐伯連大目。姓氏録左京神別。大伴宿禰條に。大伴宿禰云々。雄略天皇御世。以2天靱負1。賜2大連公1。【大連公は室屋連なり。】奏曰。衛(テ)v門開闔之務。於v職已重。若一身難v堪。望與2愚兒1。相併奉v衛2左右1。勅依v奏。是大伴佐伯二氏。寧2左右開闔1之縁也。佐伯宿禰。大伴同祖。道臣命七世孫。室屋大連公之後也。【佐伯連。木根乃命男。丹波眞太王之後也。とあるは詳ならず。】天武紀。十三年十二月。佐伯連賜v姓曰2宿禰1。とありて。此頃は連姓にてありしを。かく宿禰を給へるなり。さて此人。持統紀五年に。以2直大貳1。贈2佐伯宿禰大目1。并賜2賻物1。とあり。然るに續紀大寶元年勅。先朝論v功行v封。賜2佐伯連大目八十戸1。宜依v命四分之一傳v子。とありて。連に復して記したるはいかゞ。史の失なるべし。此氏直姓もあり。仁明紀文徳紀晴和紀に見えたり。宿禰後に朝臣を賜はれり。朝野群載大府記等に見ゆ○大伴連友國。持統紀六年に。直大貳并に賻物を賜はれるよし(3521)みゆ○稚櫻部臣五百瀬。本に百を十に誤。今諸本及持統紀續紀に據る。此人持統紀十年に。直大壹を贈り。賻物を賜ひたり。續紀大寶元年七月勅。先朝論v功行v封。賜2若櫻都臣五百瀬八十戸1。宜依v令四分之一傳v子。とあり○書首根摩呂。書首は桓武紀に。東文稱v直。西文稱v首。とある文《フミ》に同じ。この事既に應神紀に云り。此人は十年に授2小錦下位1。賜v姓曰v連。持統紀六年。贈2文忌寸智徳直大壹1。并賜2賻物1。續紀大寶元年七月勅。先朝論v功行v封。賜2書首尼麻呂一百戸1。天平寶字元年十二月の下に。禰麻呂が壬申功田八町。中功合v傳2二世1。慶雲四年十月戊子。從四位下文忌寸禰麻呂卒。遣v使宜v詔。贈2正四位上1。并賻2※[糸+施の旁]布1。以2壬申功1也。とあり。墓誌云。壬申年。將軍左衛士府督。正四位上文禰麻呂忌寸。慶雲四年丁未九月二十一日卒。按に卒れる月日。紀と違へり。穗井田忠友云。天保二年九月二十九日。於2大和國宇陀郡八瀧村圃間1。堀2得文氏墓誌1。卒去爲2十月戊子1。推2干支1則實二十四日。恐是奏聞之月日也。墓誌豈謬哉。葢似d以2贈位1爲2生身位1者u。未v見2傍例1。と云り。さて靈龜二年紀に。四月癸丑壬申功臣(ノ)子賜v田の中に。禰麻呂が息正七位下馬飼あり○山背直小林。此後見えず○山背部小田。山背部は山背直と同姓也。續紀一。贈勤大貳山代小田直廣肆とあり。部を脱せり。小田の田を本に由に作る。今下文及釋紀に因て改む○安斗連智徳。姓氏録左京神別。阿刀宿禰。石上同祖。山城國神別。阿刀宿禰。石上朝臣同祖饒速日命孫。味饒田命之後也。阿刀連同上。【なほ攝津國和泉國なるも同じ。】天武紀十三年十二月。阿刀連賜v姓曰2宿禰1。氏人にては。續後紀。攝津豊島郡人。迹連繼麻呂等。改爲2阿刀連1。繼麻呂本阿刀連。祖父乙淨。天平中誤(3522)署2迹氏1。故※[てへん+僉]2庚午年籍1。請改v之。また三代實録六。阿刀物部貞範。賜2姓良階宿禰1。神饒速日命之裔孫也。などあり。智徳は釋紀に。私記安斗宿禰智徳日記と云る。此人なり○調首淡海。姓氏録左京諸蕃。調連。水海連同祖。百済國努理使主之後也。譽田天皇御世歸化。孫阿久太。男彌和。次賀夜。次麻利。彌和。憶計天皇御世。蠶織献2※[糸+施の旁]絹之樣1。仍賜2調首姓1。とあり。續紀元明元正聖武紀等には。調連とあり。此人は續紀四六に見えて。九に正五位上に進みたり。萬葉一。大寶元年九月。太上天皇幸2于紀伊國1時歌一首見えたり。【持統紀三年。調忌寸老人。拜2撰善言司1。續紀大寶元年八月。詔贈2調忌寸老人正五位上1とあるを。集解に此淡海と同人とせしは誤なり。】〇二十餘人云々。信友云。二皇子のほか二十餘人。悉舎人なり。さて吉野宮には。男女一人も殘し給はざりつときこゆと云り。
 
即日。到菟田(ノ)吾城《アキニ》1。大伴連馬來田。黄書造大伴。從2吉野宮1追(テ)至《マヰケリ》。於2此時1。屯田《ミタノ》司(ノ)舎人土師連馬手。供《タテマツル》2從駕《オホミトモニツカマツル》者(ノ)食《ヲシモノヲ》1。過2甘羅《カムラノ》村1。有2※[獣偏+葛]者二十餘人1。大伴(ノ)朴《エノ》本(ノ)連大國。爲2※[獣偏+葛]者之|首《ヒトゴノカミ》1。則悉喚(テ)令2從駕《ミトモ》1。
 
即日。これも尚二十四日なり○菟田吾城。神名式大和國阿紀神社。延暦儀式帳に宇太乃阿貴宮。萬薬集に阿騎大野とあるは。此地と聞ゆ。大和志に。宇陀郡|迫間《ハサマ》本郷二村。有2吾城野1。とあり。今|明《アキ》山と云山あり○大伴連馬來田は。續紀に據に。大徳咋子連の子なり。【續紀三十七。延暦元年條に。大伴宿禰伯麻呂傳に。祖馬來田賜2内大紫1。父道足云々とあり。】天武紀十二年六月大伴連望多薨。天皇大驚之。則遣2泊瀬王1而弔v之。仍擧2壬申之勲績。及先祖等毎時有1v功。以(3523)顯2寵賞1。乃贈2大紫位1。發2鼓吹1葬v之。とあり。【續紀には内大紫とあり。此人の勲續紀中に載せず。】○追至。信友云。此二人も舍人と聞ゆ。さて此二人追|至《キタ》れる上は。吉野宮に殘留れる人はあらざりしなるべし○屯田司。又云。これ東宮におはしましける時の屯田司なるべし○土師連馬手。續紀。文武三年十月。直廣參土師連馬手。和銅四年二月。從四位下土師連馬手卒とあり○甘羅村。大和志。宇多郡有2葛《カツラ》村1。疑此。とあり。されど甘羅は。吾城より菟田郡家までの間にあるべし。葛村にては地理たがへれば。志の説は從ひがたし。葛村は室生の方より。中山峠越にかゝる道なり○大伴朴本連大國。姓氏録左京神別。榎本連。道臣命十世孫。佐弖彦之後也。とあり。【此氏|姓《カバネ》なきもの。靈異記。今昔物語。小右紀。符宣抄。東鑑等に見えたり。】榎本は。和名抄山城國乙訓郡郷名にあり。是は大坪氏彼地に家居して。遂に本姓に加たるなるべし○爲※[獣偏+葛]者之首云々。信友云。この※[獣偏+葛]者は。大國密に命をうけて。既にかたらひおきつるか。此地にて參(リ)會たるなるべしと云り。
 
亦徴2美濃王(ヲ)1。乃參赴(テ)而|從《オホミトモニツカマツル》矣。運2湯沐(ノ)之米(ヲ)1。伊勢(ノ)國(ノ)駄《ニオビムマ》五十匹。遇2於菟田(ノ)郡家|頭《モトニ》1。仍(テ)皆棄(テ)v米《ヨネヲ》。而令v乘2歩者《カチヒトヲ》1。到(テ)2大野(ニ)1以(テ)日|落《クレヌ》也。
 
美濃王。傳詳ならず。二年紀に。小紫美濃王云々。造高市大寺司。十四年紀に彌努王。持統紀八年に。以2淨廣肆三野王1。拜2筑紫大宰帥1。とある同人と見えたり。下文に栗隈王之二子三野王とあるは別人なり。栗隈王は。敏達帝の曾孫にて橘諸兄公の父なり。信友云。此王此時何地におはしけるにか知られねど。こ(3524)れも既に密にかたらひおき給へるか。軍人を率て來り給へるなるべし。さて。件の文によるに。此時に至りて。卸|從《トモ》の男子は。前の二皇子に。この美濃王の外に。宗《ムネ》とある軍人五十人ばかりになりたりと聞ゆ。と云り○伊勢國駄五十匹は。地租税の米の駄なり。駄は荷負馬なり。扶桑略記には米駄三十匹とあり○郡家は。郡司の居所なり。後には是を字音に唱けり。和名抄淡路津名郡郷名久宇希とあり。さて宇※[こざと+施の旁]郡の郡家は。今の萩原驛ならんか。たづぬべし○令乘歩者。信友云。こゝにて伊勢固の湯沐米の駄あへる事も。實は豫て其處の令《ウナガシ》田中臣足麻呂に。命せつけ給ひたるにて。實は馬と兵具を得給ふ御謀にてぞ有けん。なほ下にいふを考合すべし。伊勢湯沐令由中足麻呂。下にみゆ。と云り○大野。大和志に。宇陀都大野在2内牧村1。とあれど。これは地理いたくたがへり。それは伊賀にかゝらずして。伊勢へ出る道なり。この大野は。宇陀郡を過て。既に山邊郡なり。大和より伊賀の名張へ越る道にして。今も大野村大野寺あり。宇陀郡の界近き所なれば。萬葉に宇陀大野とあるもこゝなるべし。
 
山暗(テ)不v能2進行《ミタスルコト》1。則壞2取(テ)當(ノ)邑家(ノ)籬(ヲ)1爲v燭。及(テ)2夜半(ニ)1。到(テ)2隱《ナバリノ》郡(ニ)1。焚2隱(ノ)驛家《ムマヤヲ》1。因(テ)唱(テ)2邑(ノ)中(ニ)1曰。天皇入2束國1。故|人夫《オホミタカラ》諸|參赴《マヰコ》。然(ニ)一人(モ)不2肯來1矣。
 
當邑。即大野村なり○隱郡。和名抄伊賀國名張郡奈波利。隱字を書るは。古言に隱す事を。ナバリ。ナマリとも云る故に借たるなり。萬葉の歌に數多見えたり○唱邑中。本に唱を昌に作る。今集解小寺(3525)本信友校本に據る○天皇入東國。竟宴本に。天皇の下避難の二字ありと云へり。從ふべし。但しこゝの天皇は東宮に作るべし〇一人不肯來。本に不を於に作る。今諸本に據る。信友云。伊賀は大友天皇の御母の本郷なれば。此わたりに其御縁(リ)人のありて。ことに近江の朝廷に親しみ奉り。心よせ深き人の多かりけむ。此驛家を焚たてゝ。天皇東國に入給ふ云々と唱させて。御威を示して人心を試み。かつは驛家を焚亡ひて。驚(キ)騷かしめ。又馬を奪はせて。軍人に乘せなどし給ひけん。かにかくに。近江の官軍を妨給へる御行(ヒ)なり。然一人不2肯皆來1とは。近江朝廷に心よせ深かりけるが故なるべし。さて此夜また又伊賀驛家を焚給へること。下文に見えたり。其處に云ふを考合すべし。と云り。
 
將(ニ)v及2横《ヨク》河(ニ)1。有2黒雲1。廣十餘丈。經《ワタレリ》v天。時天皇異之。則|擧《トモイテ》v燭《ヒヲ》親秉(テ)v式《フミノリヲ》占(ニ)曰。天下兩(ニ)分(ム)之|祥《サガ》也。然朕遂(ニ)得(ム)2天下(ヲ)1歟《カ》。即(ニ)行《ミタシテ》到(テ)2伊賀(ノ)郡(ニ)1。焚2伊賀驛家(ヲ)1。還2于伊賀(ノ)中山(ニ)1。而當國(ノ)郡|司《ミヤツコ》等。率(テ)2數百(ノ)衆《イクサヲ》1。歸《ヨリマツル》焉。
 
横河は。孝徳紀に名墾横河とあり。名墾は名張なり。古事記序に。投2夜水1。而知v承v基。と書せるこれなり。横河は後の伊賀風土記に。伊賀郡(ノ)中郡也。東限2澤墳1。西限2高師川1。北限2横川1。南限2豐|國《岡イ》1。以2國名1爲2郡名1。と見えたり。今長田川ときこゆる。それなるべしと信友云り。菅笠日記に云。名張に至る。阿保よりは三里とかや。町中にこのわたりしりたる。藤堂の何がしぬしの家あり。其門の前を過て。(3526)町家のはづれに。川の流れあふ所に。坂橋を二(ツ)わたり。なばり川やなせ川とぞいふ。いにしへなばりの横川といひけんは。これなめり。【通證云。隱驛家在2簗瀬郷1。】と云るは。長田川とは異なり。いづれなるらん。よくたづぬべし○秉式云々。式は漢國にて式といふ器《モノ》を秉九《と》りて。天文を察《ウカゞ》ひ。時日などを占ふ方ときこゆ。史記の日者傳に。卜者必分v策定v卦旋v式云々。注に。式即※[木+式]也。旋轉也。※[木+式]之形上圓象v天。下方法v地。用v之則轉2天綱1。加2地之辰1。故曰2旋式1。漢書王莽傳。天文郎按2※[木+式]於前1。師古曰。※[木+式]所3以占2時日1。天文即今之用v※[木+式]者也。など見えたり。上文に此天皇の御事を。及v壯雄拔神武。能2天文遁甲1。と賛《タヽヘ》記されたるをも。おもひ合せ奉るべし○遂得天下歟。さて此時の占方《ウラカタ》は。とまれかくまれ。神教を占《ウラ》へて。御慮を決め行ひ給へるなり。と信友云り。さる事なり。縁起六年竟宴歌に。此天皇を。在原朝臣友于。與古加波能《ヨコカハノ》。安多利爾多知之《アタリニタチシ》。久毛乎美※[氏/一]《クモヲミテ》。阿麻乃比津支波《アマノヒツキハ》。衣※[氏/一]之支美奈利《エテシキミナリ》○伊賀郡。倭名抄伊賀國伊賀郡。風土乱に。猿田彦神始2此之國1。爲2伊勢加佐波夜之國1。時二十餘萬歳知2此國1矣。猿田彦神女吾娥津媛命云々。此神之依2知守國1。謂2吾蛾之郡2。其後清見原天皇御宇。以2吾娥郡1。分爲2國之名1云々。後改2伊賀1。吾娥之音轉也。伊賀郡其郡之一也。とあり。【この風土記は。古風土記にあらず。疑はしき説あり。】○伊賀驛家。通證に此を疑今阿保驛とあるは。然るべし。さて信友云。此伊賀驛家は。近江へ入給ふ驛次にはあらぬを。ことさらに襲(シ)入て。焚給へるにて。前に隱(ノ)家を焚給へると。同じ御|行《シワザ》なるべし。還2于伊賀(ノ)中山1と記されたるにても。わざとものし給ひたること明かなりと云り○還于伊賀中山。中臣本に還を逮《オヨビテ》に作れり。其に據らば。(3527)なほ伊賀驛家を御路次にて。其より※[草冠/刺]萩野に通り給へるなり。されどこゝはなほ還なるべし。さるはこの中山は。今行くべき御路次にはあらねど。故ありてこゝに故に立寄給ふなれば。過路《ヨキミチ》し給へるを。還とは云りしなるべし。跡の方へ少し立戻り給ふ意もて。書れしものと見るべし。中山は通證に。在2伊賀都岡田村(ト)。下河原村(ト)之間1。今中山寺之名存。と云り。【源頼政集及金葉集に歌あり。】菅笠日記云。明はてゝやどりを出づ。【伊勢地の宿をなり。】十町ばかり行て。道の左に中山といふ山のいはほ。いとあやし。河づらの伊賀の中山云々。かく云は。きのふこえしあほ山よりいづる。阿保川のほとりなり。朝川わたりて。その河べをつたひゆく。岡田別府などいふ里を過て。左にちかく阿保の大森明神と申神おはしますは。式に伊賀郡大村神社などをあやまりて。かくまうすにはあらじや。なほ川にそひつゝゆき/\て。阿保の宿の入口にてまたわたるとあり○當國郡司等云々。信友云。前にも隱(ノ)驛家を焚給ひ。またしも伊賀驛家を焚給ふに恐れて。當(ノ)國内郡司等。各軍人を促し聚めて。出來れるなり。但し其時の事状を察ふに。六月二十四日云々の事ありて。午時《マヒル》もすぎたりけむ。吉野を發給ひて。をりしも短夜の夜半ばかりに。隱(ノ)驛家を焚たまひ。たゞちに伊賀に到て。驛家を焚給へるも。なほ後夜の中の事なるに。其夜の明ざるほど。如何にしても。國内の郡司が。軍人を率て來るべきにあらず。故おもふに。大津朝廷より官軍を整へて。※[脩の月が黒]に吉野を討給はむとて。密に伊賀の郡司等に詔ありて。軍卒を整へてありしを。吉野(ノ)皇子も。既に其事を知召けるによりて。二所の驛家にいちはやく逆《サカ》寄に打入りて。御威を示し給へるを。郡司(3528)等いたく恐懼れて。云合せて降(リ)隨ひたるなるべし。但し後の伊賀風土記に。伊賀郡の下に。和歌山有2淨見御所1。昔日淨見原天皇。與2大友皇子1爭戰之地也云々。と云る事見え。また伊賀史に。天武天皇與2大友皇子1相戰|戻《イタリテ》v腹詠歌曰。風早之。伊勢乃神遠母。美千比幾弖。多々多寸氣弖女。猿田(ト)云(フ)爾。故號2地(ヲ)和歌山(ト)1。祭神猿田彦也。此歌逸2于記1。といへる事も見えたり。此は古事記の序に。聞2夢歌1而想v簒v業。と見えたる古事を。訛りつゝも。談り傳へたりしものなるべし。また伊賀(ノ)名所記に。和歌山亦若山。清見原天皇。大友皇子之御位を爭ひ給ひし時。あまたゝび國をせめいどみ給ひしに。此國は御母君の古郷とて。大友こゝに屯し給ふ事三月ばかり。淨見にぐるを追て。此國に至り給ひ。此若山に陣取給ひし。其處を今にきよみの御所と云ふなり。と見え。伊賀記にも。和歌山。今|上神戸《カミカムヘ》村と云に屬てありとぞ。また同記に。城山之内山田郡にあり。大友御在城之所也。泌村權現。大友ヲマツル所也。また後の伊賀風土記に。阿盃郡の下に。鳥飛山。此山甚低而。又其形奇也。昔大友皇子來2此山1。暫休之。刀鉾多殘置。今國俗謂2鉾(ノ)岡1者。此其|縁《コト》之本也。などいへる事も見えたり。これら風土の傳説にて。悉くは信がたけれど。此時の事に參考ふるに。もしくは此時天皇。潜に軍將にまぎれて。この伊賀に幸し給ひたりけるか。御軍敗れけるによりて。密に大津宮に。返りおはしましゝにもやありけん。と云り。
 
會明《アケホノニ》。至2※[草冠/刺]萩《タラ》野(ニ)1。暫停(テ)v駕《ミユキヲ》而進食《ミヲシス》。到(テ)2積殖《ツムエノ》山口(ニ)1。高市皇子自(リ)2鹿深《カフカ》山1。越以(テ)(3529)《アヘリ》之。民(ノ)直|大火《オホヒ》。赤染(ノ)造徳足。大藏(ノ)直廣隅。坂上(ノ)直國麻呂。古市(ノ)黒麻呂。竹田(ノ)大徳。膽香瓦《イカコノ》臣安倍。從《オホミトモナリ》焉。
 
會明は。二十五曰乙酉の會明なり○※[草冠/刺]萩野。本に萩を荻に作る。通證に。※[草冠/(峡の旁+立刀)]荻當v作2※[草冠/刺]萩1。音次秋。倭名抄。爾雅注。※[木+/妥](ハ)小木叢生有v刺也。和名太良。とあり。【但※[草冠/(峡の旁+立刀)]は※[草冠/刺]と同宇なり。】さてこの※[草冠/刺]萩野。今詳ならず。地理につきて考ふれば。これは阿拜郡の内にて。積殖に遠からぬあたりにあるべし。もしくは今の上野などのあたりか。其邊よくたづぬべし。上野は四達の地なればなり。これを通證に。今云2多羅尾1。與2近江甲賀郡信樂郷1相接。といへるは。地理太く異なり。信樂の方に幸ましゝにはあらず。【此般の幸ましは。伊賀伊勢を越て。直に東國へと志し給ふにこそあれ。近江甲賀郡信樂のあたりは。北に向ひたる方にて。それより越え給はんには。近江の瀬多の邊に出へきなり。甚く路次たがへり。なほこの事は次に云。】信友云。此時の皇子の御|擧動《フルマヒ》をおもひ奉るに。まづ二十四日に。大和の留守司の驛鈴を。得ざる事を聞食すすなはち。云々の御ありさまにて。吉野宮を發給ひて。日暮に宇陀の大野に到り給ひ。短夜の夜道に。山中をものして。隱《ナバリ》伊賀の驛家を焚きて。御威を示し給ひけるに。當國の郡司等。數百衆を率て降り來れり。かくて三十五日|會明《アケホノ》に。近江の※[草冠/刺]萩野にて御食し給へり。【武郷云。※[草冠/刺]萩野を近江のと云るは。信友が地理をあやまりしなり。】すべて其御思兼の深き。御擧動のいちはやき。御威の神々しき。はるかに後の甚しき亂世のますら武雄にも。をさ/\きこえぬばかりの御性になむまし/\ける。次々の御ありさまも悉《ミナ》しかり。と云り。さる事なり○積殖山口は。阿拜郡にて。(3530)今上中下柘植村あり。そこなり。加太越の山口なり。大神宮儀式帳に阿閇柘殖宮。和名抄に伊賀國阿拜郡柘殖郷。後の伊賀風土記にも。阿辨郡柘殖山。柘殖里。などあり○自鹿深山越。本に山字脱たり。今水戸本信友校本に據る。さて此鹿深は。下文にも。紀臣阿閇麻呂等が。率2數萬衆1。自2伊勢大山1越之向v倭。とある大山と一つ路にて。今所謂伊勢鈴鹿郡鹿太越の山にて。鹿深の加太《カフト》と轉れるなるべし。伊賀風土紀に。伊賀國云々。西限2高師川1。東限2家富唐《カブトノ》岡1。北限2篠嶽1。南限2中山1。とあり。これなり。然るに通證に。鹿深即近江甲賀郡。此今所謂信樂越也。と云れたるに。信友も從ひたれど非なり。さては更に地理に協はず。なほ次に云○以遇之は。さきに惠尺の告たるに據て。高市皇子の參來坐るなり。上に大分君惠尺等を近江に遣はして。喚2高市皇子大津皇子1。逢2於伊勢1とあるを承て。今高市皇子既く近江を脱れて。伊勢の鹿深まで至り坐るなり。これにてもこの鹿深の。近江甲賀郡【多羅尾越】ならぬ事を知べし。逢2於伊勢1と宣へるを。いかで近江甲賀郡の路にかゝりて。伊賀には入坐べき○民直大火。姓氏録和泉神別。民直。大中臣朝臣同祖。天兒屋根命之後也。また民直。天穗日命十七世孫。若桑足尼之後也。とあれど。大火は續紀に。大寶三年七月壬子。贈2從五位下民忌寸大火(ニ)正五位上1。遣v使弔賻。以2王申年功1也。とありて。艮忌寸は坂上氏同祖なれば。右の神別にはあらず。この事は。欽明紀七年。川原民直宮とある人の下に詳に云り。合せ考べし○赤染造徳足。續紀天平十九年八月。賜2正六位上赤染造廣足。赤染高麻呂等九人。常世蓮姓1。とあり。姓氏録左京諸蕃。常世蓮。燕國王公孫淵之後也。とあると同姓(3531)なり。又東大寺正倉院文書に。赤染部首あり。除目大成鈔に赤染宿禰あり。拾芥抄に赤染朝臣あり。これらみな同族なるべしと。氏族志に云り。【大隅守赤染時用女赤染右衛門。名高き歌よみなり。】さて此徳足。これより後見えず○大藏直廣隅。齊明紀二年。大藏衣縫造の下に云り。廣隅の事も見えず○坂上直國麻呂。欽明紀三十一年。東漢坂上直の下に注り。國麻呂の事も見えず○古市黒麻呂。姓氏録河内諸蕃。古市村主。出v自2百済虎王1。とあり。東大寺正倉院文書に。孝謙帝時。攝津大屬古市村主寸食と云人見ゆ。同姓なるべし。黒麻呂の事も見えず○竹田大徳。姓氏録左京皇別。竹田朝臣。阿倍朝臣同祖。大彦命男。武渟川別命之後也。左京神別。竹田連。神魂命十三世孫。八束脛命之後也。とあり。大徳は何れの系なるか詳ならず。また竹田宿禰あり。除目大成鈔。類聚符宣抄に見ゆ。竹田史あり。拾芥抄に見えたり。皆其族詳ならず。此人も後に見えず○膽香瓦臣安倍。姓氏録左京神別。伊香連。大中臣同祖。天兒屋命十世孫。巨知人命之後也。とあり。氏族志云。按帝王編年記云。伊香津臣子梨富命。伊香連之祖。藤原系圖説與v之合。據v此巨知人蓋梨富子孫也。其裔孫世爲2近江伊香社神主1。見2伊香系圖1。伊呂波宇類抄。有2伊香宿禰1。とあり。按に安倍は臣姓なれば。此等と異なるべし。【倭名抄。近江國伊香郡伊加古。神名式伊香具神社。】さて安倍も此後見えず○從焉。信友云。昨二十四日。留守司の鈴を得ずは。惠尺馳之往2於近江1。喚2高市皇子大津皇子1。逢2於伊勢1。と命給ひき。此時高市皇子。近江におはしましけるが。速にものして。宗とある大火等七人を從《ミトモ》にて。天皇のおはしませるをうかゞひて。此積殖の山口に。參(リ)會給へるにて。これも既に密にのたまひあはせおき給へ(3532)る事著し。と云り。
 
越(テ)2大山(ヲ)1。至2伊勢(ノ)鈴鹿(ニ)1。爰(ニ)國司守三宅連石|床《トコ》。介三輪君子首。及湯沐|令《ウナガシ》田中臣足麻呂。高田首|新家《ニヒノミ》等。參2遇于鈴鹿(ノ)郡(ニ)1。則且發(テ)2五百(ノ)軍(ヲ)1。塞2鈴鹿(ノ)山道(ヲ)1。到2川|曲《ワノ》坂下(ニ)1。而(テ)日暮(ヌ)也。以(テ)2皇后(ノ)疲(ヲ)1之。暫留(テ)v輿(ヲ)而|息《ヤスム》。然(ニ)夜|※[日+壹]《クモリテ》欲v雨。不(テ)v得2淹息《ヒサシクヤスムコトヲ》1而|進行《ミタス》。於是寒(テ)之。雷雨|已甚《ハナハダシ》。從v駕《ミユキニ》者。衣裳《キモノ》濕《ヌレテ》以不v堪v寒。及v到(リ)2三重(ノ)郡家(ニ)1。焚(テ)2屋|一間《ヒトツヲ》1。而令v※[火+褞の旁]《アタタメ》2寒者(ヲ)1。
 
大山。下文にも。自2伊勢大山1。越之向v倭。とあり。大山は鹿深【加太なり】より鈴鹿かけての。此あたりの總名なるべし。信友は。大山は鈴鹿山なるべし。里人今|御《オ》山とも云ひ。なべてはたゞ坂とのみ呼べり。と云り。こはさることなれども。こゝにては。むねと加太山の峠を云と見るべし。按に大安寺縁起資財帳に。伊賀郡大山蘇麻庄一處とあれば。伊賀伊勢兩國に亘りて。鹿太越の山路の總稱にもあるべし。なほよく考べし○至鈴鹿は。和名抄伊勢國鈴鹿郡鈴鹿卿須々加とあり。信友云。上にも論へる如く。咋日菟田の郡家の頭《ホトリ》にて遇たる。運2湯沐之米1。伊勢國駄五十匹云々。とあるは。既く此國の湯沐令に命置て。迎へしめ給へるにて。實は馬を得給へるなり。米と云るも。實は兵器にてぞありけむ。と云り(3533)○国司守は。釋紀に伊勢國司(ノ)守と云り。司は國を治る職名に附て云ひ。守介は長官次官にて。其人に就て云なり〇三宅連石床。此氏垂仁紀に云り。石床は九年紀に卒るよし見ゆ〇三輪君子首。此人下卷に子人に作れり。【然るに此の訓に。コカウヘと訓るは非なり。】此人五年紀に卒るよし見えて。そこに云り〇田中臣足麻呂。此氏推古紀に見えたり。上文に運2湯沐之米1。伊勢國駄云々。と見えたるは。此人の運べるなり。續紀文武二年六月丁巳。直廣參田中朝臣足麻呂卒。詔贈2直廣壹1。以2壬申年功1也。とあり○高田首新家。此氏孝徳紀に見ゆ。續紀大寶三年七月。贈2正六位上高田首新家從五位上1。遣v使吊賻。以2壬申年功1也。とあり。さて天平七年十月の下に。此新家の孫足人が事に係て。新家が事を。嘗任2美濃國主稻1。屬《アタリテ》2壬申兵亂1。以2私馬1奉2皇駕1。幸2美濃尾張國1。天皇嘉之賜2封戸1。と見えたるは。此時の事にあたれり。慶雲元年七月乙巳。贈從五位上高田首。功封四十戸。四分之一傳2子无位首名1○塞鈴鹿山道。扶桑略記には。此下文の丙戌【二十六日】の下に載られたる。天照大神を拜給へる事に引つけて。伊勢国司發2五百軍1。塞2鈴鹿關1。と記せり。大鏡にも同じつゞきに。伊勢國におはして。云々の國の守五百人の軍をおこして。鈴鹿の關を固め奉る。と見えたり。これは近江の軍の來らざらん爲に。外より塞げるなり。信友説はたがへり。鈴鹿の關も。軍防令に見えたる三關の一所にて。因(ミ)に上に引たるが如し○到川曲坂下。倭名抄。伊勢國河曲郡加波和○夜※[日+壹]。本に※[日+壹]を※[目+壹]に誤れり。今諸本に依て正せり○及到三重郡家。倭名抄。伊勢國三重郡美倍。記に。倭建命幸2到三重村1之時。詔運。吾足|如《ナシ》2三重勾《ミヘノマガリ》1而甚疲。故號2其地1謂2三重1。とあるは名(3534)義なり。萬葉に。吾疊三重乃《ワガタヽミミヘノ》河原○焚屋一間。信友云。六月にしてかくありけり。すべてこれまでの御|辛苦《タシナミ》のほど。おし量り奉るべし。と云り。
 
是夜半。鈴鹿關司遣(テ)v使(ヲ)奏言。山部王石川王。並(ニ)來歸《マヰヨレリ》之。故|置《ハベラシム》v關(ニ)焉。天皇便使(テ)2路(ノ)直益人(ヲ)1徴。丙戌。且(ニ)於2朝明《アサケ》郡(ノ)迹太《トホ》川邊1。望2拜《タヨセニヲガミタマフ》天照太神(ヲ)1。
 
鈴鹿關司。軍防令云。三關者。設2鼓吹軍器1。義解謂。伊勢(ノ)鈴鹿。美濃(ノ)不破。越前(ノ)愛發等。とあり。此時すでに關司も。國司守とゝもに。天皇に心をよせ奉りてありしなり。故此關も。今は天皇の御爲の要塞となれるなり○山部王。系未詳。此王後に近江に歸りしか。七月に犬上川(ノ)濱にて。近江方に殺されたり○石川王。詳ならず。八年紀に吉備にて薨じ給ふとあり。下に云ふ○路直益人。姓氏録右京請蕃。路宿禰。坂上大宿禰同祖。東人直之後也。氏族志云。坂上系圖引2姓氏録1。爲2山木之後1。續紀延暦六年六月。正六位上路忌寸泉麻呂等。改2忌寸1賜2宿禰姓1。蓋是族也。とあり。さて益人後に見えず○丙戌。二十六日なり○朝明郡迹太川。和名抄伊勢國朝開郡阿佐介。迹太川は通證云。今所謂朝開川。考2地圖1。今朝開川南。別有2迹太川1。出v海。とあり。考べし○望拜天照大神。信友云。望拜を古訓に。タヨセニヲガミ給フとあり。タヨセの言めづらしげにおほえて。因に考るに。惠慶法師集に。障子の繪に。須磨の浦のかたをかきたるに。神の社に。舟よりゆく人の。波の高ければ。たよせにみてくら奉る所をよめる。(3535)たよせとはおもはざらなむわたつうみに。いのる心は神ぞ知るらん。白波の【一本に白雪に。】色みえ【或本に色にぞ】まがふみてくらを。たよせにうけよ神の此神。とよめり。案ふに件の歌詞のタヨセは。遙に坐す神を。此方《コナタ》へ寄せ奉る義にて。タはたゞ輕く加《ソ》へて云ふ例の辭なるべし。また夫木抄に。光長。此森の紅葉の錦たてながら。道のたよせにぬさ奉る。また久安百首に。小大進。しのびかねつゝまじとする女郎花。たよせにをると思ひうとむな。源賢法眼集に。七月七日。たよせにやけふはかさましたなばたの。空にたなびくさゝがにの糸。などよめるをも。かよはして考ふべし。但しタヨセは。うちまかせて望(ノ)字の意には叶はざれど。望拜をタヨセニヲガムとは訓べきなり。さて釋日本紀に。私記曰。按安斗智徳日記云。二十六日辰時。於2朝明郡迹太川上1。而拜2禮天照大神1。と云るは。此時の御事なり。さて件の日記主の智徳は。上文に吉野宮を出給へる時。供奉れる舍人の中に見えたり。また年中行事秘抄に。天武天皇白鳳元年四月十四日。以2大來皇女1。献2伊勢神宮1。依2合戰願1也。と見えたるは。此時の御祈の報賽なるべし。此はこの下卷に。二年四月己巳。欲v遣v侍2大來皇女于天照大神1云々。とある時に當れり。と云り。【なほ此事。大神宮雜事記に。天武天皇白鳳二年(壬申)太政大臣大伴皇子企2謀反1。擬v奉v誤2天皇1之。御心(ノ)内(ニ)伊勢大神宮令2祈申1給。必合戰之間令v勝|御《タマハヾ》。前以2皇子1(女カ)天。皇大神宮(ノ)御杖代(ニ)可2齋進1之由。御祈祷有v感。彼合戰之日。天皇|勝《カチマ》世利。仍御即位二年癸酉九月十七日。天皇參2詣於伊勢皇大神宮1。志天。令v申2御祈1給倍利。ともあり。】なほ信友が云れたる趣を。切めていはゞ。此天皇始大事を思ほしたちて。吉野宮を出給ひけるより。神々に御身の禍を歎訟へ給ひて。殊に天照大御神に。御祷坐ましけるによりて。神々の御助有て。速に事成し給ひて。御世をも知食御事とはなり給へるなるべし。其はまづ古事記序に。(3536)此天皇の御事を讃稱奉れる文に。潜龍體v元。※[さんずい+存]雷應v期云々。聞2夢歌1而想v簒v業。と書るは。皇太子を辭(リ)給へる後に。日嗣知しめすべきさとしの歌を。御夢(ノ)中に聞しめしたりし由なり。【此はそのかみの正しき傳説なるべきを。書紀にも佗書にも見えず。】また天武紀に。伊賀の横河にて。有2黒雲1廣十餘丈。經v天。時天皇異之。則擧v燭親秉v式。占曰。天下兩分之祥也。然朕遂得2天下1歟。と見えたるは。神慮を占へて。御慮を決め給へるなり。また伊勢にて望2拜天照大神1。と見えたるは。殊さらに祈祷《ミイノリ》し給へるなるべし。また行宮(ヲ)興2野上1而居焉。此夜雷電雨甚。天皇祈之曰。天神地祇扶v朕者。雷雨息矣。言訖即雷雨止之。また御軍の最中に。倭國にて高市社に坐(ス)事代主神。牟佐に坐(ス)生靈神の託宣に。於2神日本磐余彦天皇之陵1。奉2馬及種々兵器1。と教たまひ。又吾者立2皇御孫命之前後1。以送2奉于不破1而還焉。今且立2官軍中1而守護之。また自2西道1軍衆將v至之。宜v慎也。と教給ひ。又村屋坐彌富都比賣神の託宣に。今自2吾社(ノ)中道1。軍衆將v至。故宣v塞2社(ノ)中(ノ)道1。と示し給へる事ありて。いづれも其|靈驗《ミシルシ》に合ひて。御軍の利を得給へり。また萬葉に。人麻呂朝臣の長歌に。此時の御軍の状をよめる中に。御軍士乎《ミイクサヲ》。安騰毛比賜《アドモヒタマヒ》云々。相競端爾《アラソフハシニ》。渡會乃斎宮從《ワタラヒノイハヒノミヤユ》。神風爾伊吹惑之《カムカゼニイフキマドハシ》。天雲乎日之目毛不令見《アマクモヲヒノメモミセズ》。常闇爾覆賜而《トコヤミニオホヒタマヒテ》。定之水穗國乎《サダメテシミヅホノクニヲ》云々。とよめり。此神風の事は。ことさらによみ入れたるなるべければ。决(メ)て正しき靈驗ありける事疑なし。さて其渡會の齋《イハヒノ》宮は。天照大神の大宮なり。前に迹太川(ノ)邊にて。天照大御神を望む拜《タヨセニ》給ひ。この御祈祷を愛愍《アハレ》に聞食て。然ば護助給へる事の。掲然《イチジルシ》かりしなるべし。そも/\此天皇の此御軍に勝給ひ。大御自御世知食せる御事(3537)は。恐かれど。遠つ御代々々の例にあるべくもあらず云々。既く東宮に立給へる御身の。云々のいはれにて。止事得給はず。御|許《ユルシ》を承て。東宮を避辭て出家し。鬢髪を削除り給ひ。御袈裟をさへに給はりて。僧服を着《キ》。沙門となりて。吉野宮に入居坐(シ)ましげるに。なほ禍を承給ふべき機の露はれきこゆるを。あまりにあぢきなく。かつはくちをしくも。恨めしくも。御眞心におもほしつめ給へる事を。わりなく天照大御神に愁(ヒ)訟給ひて。祈祷《コヒノミ》給へる趣を。愛愍《アハレミ》給ひて。神々にも命せて。守護助けさせ給ひて。遂に御世をも知食させ給へるなるべし。さて大友天皇の御事は。ことの外に漢學に好《スキ》給ひて。辱(ナク)も韓人沙宅紹明等を賓客として。物學びし給ひて。西戎《カラ》風の文武の材幹おはしまし。かへりてはものそこなひとなりて。遠(ツ)神祖の道に隨ひ給はず。神祇を尊び給へる趣なる御所爲も。をさ/\きこえ給はず。天日嗣の大事《オモキ》を。御私心にかけて。あながちにものし給へるから。御祖神等の見離ち給ひて。守護給はざりしなるべし。あなかしこ。顯(シ)世の人倫《ヒトヾチ》の間に。定れる義のみをもては。神の情状は測りがたき御事にぞありける。と云れたる。云(ヒ)得たる説なりかし。
 
是時。益人到(テ)之奏(テ)曰。所v置v關(ニ)者(ハ)。非2山部王石川王(ニ)1。是大津(ノ)皇子(ナリ)也。便隨(テ)2益人(ニ)1參來矣。大分君|惠尺《ヱサカ》。難波吉士三綱。駒田勝忍人。山(ノ)邊君安麻呂。小|墾《ハ》田猪手。※[泥/土]部※[目+氏]枳《ハニシシキ》。大分君|稚臣《ワカミ》。根連|金身《カネミ》。漆部《ヌリベノ》友|背《セ》之輩。從之《オホトモニツカマツル》
 
(3538)益人の下。本に益字あるは衍。今削る○隨益人參來矣。信友云。吉野より惠尺を近江に遣はし。高市皇子大津皇子に。ともに伊勢に參會ひ給へと。曰ひつけ給ひたりき。故高市皇子は。昨日積殖山口に參會給へるにて。其は惠尺が※[うがんむり/取]《サキ》に傳へ申せる故なるべし。大津皇子も。近江におはしましけるを。次(テ)に傳へ申せるによりて。後れて夜半に。關まで來り給へるなり。惠尺が此御|徒《トモ》にあるを以知べし。と云り○難波吉士三綱。本に士を上に誤る○駒田勝忍人。姓も人も他に見えず。氏族志に。按續後紀。美濃山縣郡少領均田勝淨長等。改賜2中臣美濃連1。均恐駒誤。とあり。なほ考べし○山邊君安摩呂。姓氏録。右京皇別。山邊公。和氣朝臣同祖。垂仁天皇々子。鐸石別命之後也。【攝津も同じ。】とあり。この人も他に見えず○小墾田猪手。舒明紀に小墾田臣とあり。集解には補へり。猪手も見えず○※[泥/土]部※[目+氏]枳。十二年九月。※[泥/土]部部造賜v姓曰v連。とあり。系は未詳。姓氏録山城神別。西|※[泥/土]部《ハジヒト・ハジベ》。鴨縣主同祖。鴨建玉依彦命之後也。とあり。同異は知らず。※[目+氏]本に賦に作る。今兼永本及釋紀に據て改む○大分君稚臣。本に君を若に作る。今活字本小寺本に據る。此人八年紀に。兵衛大分君死云々。賜2外小錦上位1。とあり○根連金身。姓氏録和泉國皇別。根連。布留宿禰同祖。天足彦國押人命之後也。とあり。金身他にみえず○漆部友背。漆部用明紀に出。本に友を支に作る。今中臣本及釋紀に依て改む。此人他に見えず○從之。信友云。此時大津皇子。わづかに十歳になり給へるを。はやく三綱等八人。吉野宮に心をよせて。近江より此皇子を輔けて。御從にて參れるものなる事決し。扶桑略記に大津皇子六七人(ノ)男相具。率2三千人(ノ)軍1參來(リ)。塞2美濃(3539)不破之道1。とあり。六七人男とは。惠尺三綱等が事ときこゆ。又率2三千人軍1云々は。此下文に。男依が發2美濃師三千人1云々。とあるに當りて聞ゆるを。本づける書をわろく書とれるにか。又寫誤あるか。と云り。
 
天皇大(ニ)喜。將v及2郡家(ニ)1。男依乘(テ)v驛(ニ)來奏(テ)曰。發(テ)2美濃師三千人(ヲ)1。得v塞(コトヲ)2不破(ノ)道(ヲ)1。於是天皇|美《ホメ》2雄依(ガ)之|務《イサミヲ》1。既(ニ)到(テ)2郡家(ニ)1。先遣(テ)2高市皇子(ヲ)於不破(ニ)1。令v監2軍(ノ)事(ヲ)1。遣(テ)2山背部小田。安斗連阿加布(ヲ)1。發2東海《ウヘツミチノ》軍1。又遣(テ)2稚櫻部臣五百瀬。土師連馬手(ヲ)1。發2東山《ヤマノミチノ》軍(ヲ)1。是日。天皇宿2于桑名(ノ)郡家1。即停以不v進《イテマサ》
 
男依は。村國連男依なり。次に雄依に作れり。續紀二には小依に作れり○塞不破道。これまた近江軍を。不破道に出さゝらしめんと塞げるなり。信友云。男依は去(ニシ)二十一日。君手廣等と。急に美濃へ遣はされ。告2安八磨郡湯沐令多臣品治1。宣2示機要1。而先發2當郡兵1。仍經2國司等1。差2發諸軍1。急塞2不破道1。朕今發v路。とある事を奉行ひて。こゝに至りて其由を告申せるなり。と云り○務は。恐くは勞の誤なるべし○到郡家。伊勢の桑名の郡家なり。下文に見えたり○安斗連阿加布。姓氏録左京神別。阿刀宿禰。石上同祖。山城阿刀宿禰。石上朝臣同祖。饒速日命孫。味饒田命之後也。阿刀連同上。攝津阿刀連。(3540)神饒速日命之後也。【なほ和泉にも見えたり。】十三年十二月。阿刀連賜v姓曰2宿禰1。とあり。阿加布も佗に見えず〇東海軍は。東海道なり○東山軍。私紀曰。按安斗連智徳日記曰。令v發2信濃兵1。とあり○是日。尚二十六日なり○桑名郡家。内宮儀式帳に桑名神戸。和名抄に伊勢國桑名郡桑名郷久波奈。通證に。勢陽雜紀曰。桑名郡矢田村有2小祠1。相傳祭2天武天皇1。此蓋頓宮跡也。と云り。此御社桑名驛に近く西の方にあり。さて信友云。去(シ)二十一日の夕つかたなるべし。云々の急卒《アカラサマ》なる御ことにて。吉野を發給ひ。六日にあたる今日までに。かくばかりいち速く事成し給ひて。桑名の郡家に宿り坐まして。進み給はす。重《オモ》りかにおはしまして。稜威をかゞやかし給へるは。いとよく軍の道を得給へる御事なるべし。古事記序に人事共洽(クシテ)。虎2歩於東國1。と書るは。此頃の御いきほひをいへるなり。續紀。天平寶字元年十二月壬子。太政官奏言の中に。從五位上尾張宿禰大隅。壬申年功田三《四イ》十町。淡海朝廷諒陰之際。義興2警蹕1。潜出2關東1。于時大隅參迎奉v導。掃2清私第1。遂作2行宮1。供2助軍資1。其功實重。准v大不v及。比v中有v餘。依v令上功。合v傳2三世1。と見えたり。此時の事に當りてきこゆ。此時大隅が第《イヘ》桑名に在りて。其處に宿給へるにや。と云り。
 
是時(ニ)近江(ノ)朝《ミカド》。聞(テ)3大皇弟《マウケノキミ》入(コトヲ)2東国(ニ)1。其群臣悉|愕《オヂテ》。京《ミサトノ》内|震動《サハク》。或遁(テ)欲v入2東國(ニ)1。或(ハ)退(テ)將v匿2山澤(ニ)1。爰(ニ)大友皇子。謂2群臣1曰。將何計(ム)。一臣進(テ)曰。遲謀(ハ)將v(3541)《オクレナム》。不v如急(ニ)聚(テ)2驍騎《トキムマイクサヲ》1。乘《ノリテ》v跡(ニ)而逐(ムニハ)之。皇子不v從。則以(テ)2韋那(ノ)公磐|鍬《スキ》。書直藥。忍坂直大摩侶(ヲ)1。遣2于東國1。以2穗積臣百足。及弟五百枝。物部首日向(ヲ)1。遣2于倭(ノ)京(ニ)1。
 
近江朝の下。考本及扶桑略記に廷字あり。本は脱たるなるべし。大皇弟は。當時の稱に依て書たりしものゝ。其まゝにて改められざりしなり○將何計。信友云。こゝに至りて。如此詔へるごとき御意掟の怠を。いかにし給ふべき。あなかしこ。天智紀なる三首の童謠も。この時に思ひ合はされてなん。古事紀序に。皇輿忽駕。凌2渡山川1。六師雷震。三軍電逝。と書るは。かゝる稜威をいへるなり。と云り○韋那公盤鍬。此氏宣化紀に出。磐鍬下に逃走せるよし見ゆ〇書直藥。下に生捕らる○忍坂直大磨侶。押坂直皇極紀に見ゆ。此人も捕へらる○穗積臣百足。倭にて殺さる〇五百枝。本に五字脱たり。下文に據て補ふ。此人も倭にて捕へらる○物部首日向。此氏垂仁紀に出。姓氏録大和皇別。布留宿禰條に。物部首正五位上日向。天武天皇御世。依2社地名1。改2布留宿禰姓1。日向三世孫邑智也。とあり。此人も倭にて捕へらる。後に免されしなるべし。
 
且遣2佐伯連男(ヲ)於筑紫(ニ)1。遣(テ)2樟《クスノ》使主磐手(ヲ)於|吉備《キビノ》國(ニ)1。並(ニ)悉(ニ)令v興v兵(ヲ)。仍謂(テ)3男(3542)與(ニ)2磐手1曰。其筑紫(ノ)太宰《オホミコトモチ》栗隈《クリクマ》王。與2吉備國司守當摩公廣嶋1二人。元有v隷《ツキマツル》2大皇弟《マウケノキミニ》1。疑(ハ)有v反(コト)歟《カ》。若有2不服色《マツロハヌオモヘリ》1。即殺之。於是磐手到(テ)2吉備國(ニ)1。授《タマフ》v苻《オシテノフミヲ》之日。紿《アザムキテ》2廣嶋(ヲ)1令v解v刀(ヲ)。磐手乃拔v刀(ヲ)以殺也。
 
佐伯連男。續紀四に。授2大倭守從五位下佐伯宿禰男從五位上1。とあり。後に降れるなるべし○樟使主磐手。此氏詳ならず。本に盤(ノ)字あるは衍なり。中臣本及釋紀になきに依る。此人後見えず○吉備國。信友云。按るにそのかみ筑紫は。筑前筑後にわたり。吉備國は。備前備中備後に。美作までにわたりたる國名ときこえたり。と云り○栗隈王。天智十年紀に。以2栗隈王1爲2筑紫帥1。とあり。こゝは大宰(ノ)下に。帥字脱たりしなるべし○吉備國司守。本に司字脱たり。今考本に依る○當摩公廣島。此氏は用明紀に出○到吉備國。本に吉字を脱せり。今中臣本考本に據て補○符は押手なり。此事は既に云り○拔刀以殺也。信友云。吉野方の御軍の。都外に滿々て。不破鈴鹿の要害をも塞かれたるに。倭(ノ)京はさることながら。遙けき吉備筑紫の國に。御使を遣して。反心あらんかと疑ひおもほせる。筑紫の大宰。吉備國守等に勅して。兵を徴し給ひ。有2不v服色1即殺之と詔命《ノタマヒツケ》給へるは。何なる御慮にか。さてまた磐手が廣島を殺せるは。不(ル)v服色ありつらめど。文には見えず。と云り。
 
(3543)男至2筑紫(ニ)1。時(ニ)栗隈王承(テ)v符《オシテノフミヲ》對曰。筑紫國(ハ)者。元《モトヨリ》《マモル》2邊《ホカノ》賊之|難《ワザハヒヲ》1也。其|峻《タカクシ》v城(ヲ)深(テ)v湟《ミゾヲ》。臨(テ)v海(ニ)守《マボラスルハ》者。豈爲2内(ノ)賊(ノ)1耶。今|畏《カシコマリテ》v命(コトヲ)而發(ハ)v軍(ヲ)。則國空(ケム)矣。若|不意《オモヒノ》之外(ニ)。有2倉卒《ニハカナル》之事1。頓《ヒタブルニ》社稷《クニ》傾(ナム)之。然後雖2百(タヒ)殺(ト)1v臣(ヲ)。何|益《シルシカアラム》焉。豈敢背v徳(ニ)耶。輙不(コトハ)v動v兵(ヲ)者。其是|縁《ヨシ》也。時(ニ)栗隈王之二(ノ)子。三野王。武家《タケムヘ》王。佩(テ)v劔(ヲ)立(テ)2于側(ニ)1。而無v退。於是男|按《トリシバリテ》v劔(ヲ)欲v進。還(テ)恐v見v亡。故不(テ)v能v成(コト)v事(ヲ)。而空還之。
 
栗隈王承符對曰云々。信友云。この言の趣にても。大友天皇の御世なること。自づから著(ル)きがうへに。承v符といひ。社稷といひ。臣と申給へるにて。ます/\其御世のありかた著(ル)し。さてこの王。實は既に吉野方になりておはしけるが故に。邊賊の事を言《コト》だてして。遁れ給へるなり。と云り〇三野王。姓氏録左京皇別。橘朝臣條云。敏達天皇々子。難波皇子男。贈從二位栗隈王男。治部卿從四位下美努王。娶2從四位下縣犬養宿禰東人女。從一位縣犬養宿禰三千代夫人1。生2左大臣諸兄。中宮大夫佐爲宿禰。贈從二位牟漏女王1。續紀和銅元年五月。從四位下美努王卒。贈2從二位1。栗隈王之男。左大臣橘諸兄之父也。とあり。萬葉集に百小竹之三野王とあるは。此王なるべし○武家王。こか王所見なし○空還之。信友云。此磐手男等か。吉傭筑紫に云々せる頃は。既に大津にては。天皇の御事ありし後に當るべし。と云り。
 
(3544)東方(ノ)驛使《ハユマツカヒ》磐鍬等。將v及2不破1。磐鍬獨疑2山中(ニ)有(コトヲ)1v兵。以(テ)後(レテ)之緩《ヤウ/\》之行。時|伏《カクシ》兵自v山出(テ)。遮2藥等(ガ)之後(ヲ)1。磐鍬見(テ)之。知2藥等(ガ)見(コトヲ)1v捕。則返(テ)逃走(テ)僅(ニ)得v脱(コトヲ)。
 
磐鍬等は。藥。大摩侶と共に三人なり。上に見ゆ○將及不破。東國へ行むとしてなり○緩之行。秘閣本之字無し。考本之を々に作るは誤なるべし○遮藥等之後。藥。大摩侶の二人か後《シリヘ》をなり。此二人こゝにて捕られたる事。二十七日の下に見えたり○則返逃走。近江の方へなり。
 
當(テ)2是時(ニ)1。大伴連馬來田。弟|吹負《フケヒ》。並見2時(ノ)否《ヨクモアラヌヲ》1。以|稱《マヲシテ》v病(ト)退2於(ノ)家(ニ)1。然(テ)知(レリ)d其|登嗣位《アマツヒツギシラシム》者。必|所2居《マシマス》吉野(ニ)1大皇弟(ナラムトイフコトヲ)u矣。是以馬來田先從2天皇(ニ)1。唯吹負留謂(ハク)。立(テ)2名于一時1。欲v寧《ヤスメム》2艱難《ワザハヒヲ》1。即招(テ)2一二(ノ)族及諸(ノ)豪傑《イサヲシビトヲ》1。僅(ニ)得2數十人1。
 
大伴連馬來田は。去(シ)二十四日。天皇吉野宮を發給ひて。菟田吾城に到給へる時。黄書連大伴と共に。追次參れり。大伴は其日志摩と共に。留守司に驛鈴を乞給へる御使に遣されたるが。志摩は豫て命ありけるまゝに。其を得ぬ由を復命したる由見えたるに。大伴が事の見えざるは。別に命せつけ給へる事などのありて。志摩よりはやゝ後れて。追次たりけんを。馬來田が後れて。大伴と共に到れるは。二心になりて猶豫《タメラヒ》たりしが故なるべし。かくてこゝに見2時否1とあるは。此御軍の間に。近江朝の軍(3545)の勢の。勝りたる事のありけるを見て。又二心になりて。弟吹負と云合せて。病と稱して大和の家に退りて。世のさまをうかゞひをりたるなりと。信友が云るは。臆測にわたれり○吹負が名。こゝにはじめて見ゆ。兄とゝもに追次(ギ)て。御供に立たりしなるべし。吹負また小吹負。或は男吹負ともあり。地名に據れる名なるべし。【小男は添て云るなり。】十二年八月紀に。卒れるよし見ゆ。續紀。天平勝寶元年壬五月。中納言正三位大伴宿禰牛養薨。大徳咋子連孫。贈大錦中小吹負之男。とあり○登嗣位者云々は。當時大友皇子。嗣位に昇りてはましませど。永くはえ保ち給はじ。吉野の皇太子こそ。まことの帝位に即給はめと云ことを。豫て知れりしなり。然るに信友が此文を。今の天皇に代りて。御世を知食すべきは。吉野宮の皇子なりといへる由なるを。此紀の例の婉曲《コトヨ》く書成されたるものなり。と云れたるは。例の穿ちたるなり○先從天皇。信友云。馬來田吉野方の勢の強くなれるを見聞て。御世は此皇子ぞ知食さむと。また心を反《カヘ》し决《キハ》めて。弟の吹負に先だちて。吉野方の御軍に參り來て。心みせしく仕奉れるなり。此時吹負も同意なりつる事。此の上下の文にて明らかなり。そも/\この馬來田は。此御軍にさせる功も聞えず。もとよりしか心も定まらぬ。わろさかしき佞人ときこゆるを。十二年六月丁巳朔己未。大伴望多薨。天皇大驚之。則遣2泊瀬王1而弔之。仍擧2壬申年之勲績。及先祖等毎時有1v功。以顯2寵賞1。乃贈2大紫位1。發2鼓吹1葬之。と見えたり。馬來田か功。紀中に見えず。事平きて後。よく御慮をとりて媚仕へ。寵をうけたりしが故なるべし。何(レ)の御世の事にかありけむ。先祖等の毎時功ありし由を。こと(3546)さら擧加へて。しか贈位などして。寵賞し給ひたるものなるべし。と云れたるは。功臣を誣ひ。時帝をも誹議しまゐらせたる。いとあぢきなし。みな臆測の説なれば。とるに足らず○吹負留謂。信友云。兄馬來田は。再吉野方の近江の軍陣《ミイクサドコロ》に參り。吹負はなほ其大和の家に留まれるなり。さて其家は百済にありける事。下文に見ゆ。百済村今廣瀬郡にありとぞ。と云り○僅得數十人。吹負が吉野方として功《イソシミ》たりつる事は。二十九日の條より始て。次々に見えたり。持統妃に大倭傑豪と記されたるは。もはら此吹負が事ときこえたり。
 
丁亥。高市皇子遣2使(ヲ)於桑名(ノ)郡家(ニ)1。以(テ)奏言。遠居(ノ)御所。行(ムニ)v政(ヲ)不v便。宜v御《オハシマス》2近處(ニ)1。即日。天皇留2皇后(ヲ)1。而入2不破(ニ)1。
 
丁亥。二十七日なり○奏言。高市皇子既に和※[斬/足]に屯しおはしまして。其處より申し給へるなり。此次に自2和※[斬/足]1參迎とあるをもて知べし○遠居御所。通證云。遠居之御所也。舊讀誤。と云れたるが如し。【遠居に對へて。即ち宜v御2近處1となり。】○留皇后而入不破。通證云。桑名至2於熱由1之海路。謂2間遠《マトホノ》済1。蓋天皇憶2皇后1。故爲v名云々。と云り。信友云。萬葉集天武天皇の御代の歌の下に。天皇崩之後。八年九月九日。奉v爲2御齋會1之夜。夢裏習賜御歌一首。明月香能清見原宮爾。天下所知食之。八隅知之吾大王。高照日之御子。何方爾所念食可《イカサマニオモホシメセカ》。神風乃伊勢能國者。奥津藻毛靡足波爾《オキツモモナビキシナミニ》。鹽氣能味香乎禮流國爾《シホケノミカヲレルクニニ》。味凝文爾乏寸《ウマコリアヤニトモシキ》高照日之御子。と(3547)見えたる御歌を。此におもひ合せらるゝ事あり。其はまづ端作《ハシコトバ》に。天皇崩後八年といへるは。天武天皇の崩後八年にて。持統天皇の御代の七年に當れり。御齋會は。持統天皇二年二月の詔に。自今以後。毎取2國忌日1。要須v齋也。と見えて。この九月九日は。天武天皇の國忌御齋會なり。かくて件の歌ざまを思にも。决めて持統天皇の御歌にて。此さし次の其御代の下に入べきが。前後に混ひたるものなるべし。さて御歌は。もはら天武天皇を釋へ奉り給へるにて。神風の伊勢能國者云々以下は。桑名に停り給へる時より。ことに御勢の盛になりて。不破に入り給ひ。いくほどなく事|遂《ナ》して。日嗣知食せるよしを。.讃美《ホメタヽヘ》給へるなり。其ほど皇后はなほ。桑名に留りておはしましければ。そのをりの事どもを。國忌の御齋會につけては。ことさらにおもほし出て。天皇を崇め慕ひて。よませ給へるなるべし。かくて御歌の意は。起《ハジメ》より云々の八句は。天皇を讃美《タヽヘ》奉り給へる御言なり。何方に思ほしめせかとは。天皇吉野宮に入ましける時より。危難を凌ぎて。東國に入ませる間の御心つかひの。いかばかりにか思ほしめしたりけむと。夫皇《セキミ》の辛苦給ひし舊《ムカシ》を。またさらに懷しいでゝ。嘆き給へる御情を。たゞ二句に簡《ツヾ》めてのたまへるにて。いと感ふかくきこゆる御言なるべし。かくて伊勢國は。奥津藻も靡きし波にとは。天皇伊勢の桑名に坐けるほどより。ことに稜威の甚しきに恐れて。諸國靡き從ひ奉れる状を諷《ソ》へ。鹽氣のみかをれるとは。海上《ウミツラ》の鹽曇(リ)のさしのぼる日影に。やがて霽わたる如く。世の亂の治れるさまを。御|名稱《ナ》の高照日と申すに諷へて。讃(メ)稱へ給へりとぞ聞えたる。然るはそのかみ皇后桑名(3548)に留ませる時。御目馴れ給ひつる海邊のさまを。おもほし出てよみ給へるなるべし。と云り。
 
比2及郡家(ニ)1。尾張國司守小子部(ノ)連※[金+且]鈎《サヒチ》。率(テ)2二萬|衆《イクサヲ》1歸《ヨリマツル》之。天皇即美(テ)之。分《クバリテ》2其軍(ヲ)1。塞2處々(ノ)道(ヲ)1也。
 
郡家は。尾張のなるべし○小子部連※[金+且]鈎。此氏雄略紀に出。本に鈎を釣に誤る。今諸本に據て改〇分其軍云々。信友云。下文八月丙戌の下に。尾張國司小子部連※[金+且]鈎。匿v山自死之。天皇曰。※[金+且]鈎有2功勲1者也。無v罪何自死。其有2隱謀1歟。と見えたり。これに依りて推察るに。※[金+且]鈎は大津朝廷の忠臣にて。此時謀を定めて。二萬の軍衆を率て。詭りて降り來り居て。隙を窺ひて天皇を捕りまゐらせんと。巧たりけるを。天皇速く察りまして。其軍衆を分《クバリ》て。處々の道の塞《オサヘ》の軍に。加へ給へるなり。さてもなほ御慮をつかひて。あへしらひ給ひけんから。其謀の如く行ふ事あたはず。さるほどに官軍|利《サチ》なくて。大友天皇御事ありければ。いふかひなく悲に堪ずして。自死りたるにこそ。さて又此死れる事を聞食て。※[金+且]鈎有2功勲1者也。無v罪何自死。其有2隱謀1歟。とのみ曰ひて。おはしつるは。しかすがにいともて鎭りたまへる。太(キ)御心もちゐにこそはおはしましゝか。と云り。
 
到(ニ)2于野上(ニ)1。高市皇子自2和※[斬/足]《ワザミ》1參迎。以(テ)便(ニ)奏言。昨夜自2近江朝1。驛《ハイマ》使馳至。(3549)因(テ)以(テ)2伏《カクシ》兵(ヲ)1。而捕者。則書直藥。忍坂直大麻呂也。問|何所《イヅチカ》往。答(テ)曰。爲d所2居吉野(ニ)1大皇弟u。而遣v發2東國軍1。韋那公磐鍬之徒(ナリ)也。然(ニ)磐鍬(ハ)見(テ)2兵(ノ)起(ヲ)1。乃逃還之。
 
野上は。和名抄美濃國不破郡野上郷。これなり。和※[斬/足]。各務郡なり。此地の事は下に云○捕者則。本に則字なし。今中臣本に依て補○爲所居吉野大皇弟とは。詭て天皇の御方なりと申し立しものなるへし。また按に。爲(ノ)下に遮字など脱たるにもあるべきか。さらば大皇弟を遮り奉らむとして。其が爲に淡海朝より。東國軍を發さしめし者也。と言しにもあるべし。此藥等が事。昨日の條に見えたり。釋紀に。私記曰。案2調連淡海安斗宿禰智徳等日記1云。石次《イハスキ》見2兵起1。乃逃還之。既而天皇問2唐《カラ》人等1曰。汝國數|戰《イクサセル》國也。必知2戰術1。今如何(セム)矣。一人進奏言(ク)。厥唐國(ニテハ)先遣2看覩者《ウカヾヒヒト》1。以令v視2地形險平及消息1。方出v師。或夜襲(ヒ)。或晝撃(テリ)。但不v知2深術1。時天皇謂2親王1云々。と引載たり。信友云。淡海智徳は上に見えたる如く。共に舍人にて。吉野より御供に仕奉れる人なり。但し智徳は此紀に安斗連とあり。私記に宿禰と書るは。後に姓を改賜ひたる上を以。稱《イ》へるなるべし。さて唐人とは。齊明紀に六年十月。百済佐平鬼室福信。遣2佐平貴智等1。來献2唐俘一百餘人1。今美濃國不破片縣二郡唐人也。と見えたる輩なるべし。その俘を献れる年より。當年まで十三年に當れり。此(ノ)度かの唐人等を行宮に近く召置て。件の事(3550)の外にも。毎《ツネ》に己が國の軍の状を語らせて聞食し。取用給へる事ぞおはしましたりけむ。かゝるをりから。彼等をさへに喚出して。戰(ノ)術を問はしめ給へるは。いと大なる御心用ゐになんおはしましける。と云り。さる事なり。
 
既而天皇謂2高市皇子1曰。其近江(ノ)朝(ニハ)。左右大臣及|智謀《カシコキ》群臣。共(ニ)定v議(ヲ)。今朕無2與(ニ)計v事(ヲ)者1。唯有2幼少孺子1耳。奈之何《イカヾセム》。皇子|攘《カイハツリ》v臂《タヾムキヲ》按v劔(ヲ)奏言(ス)。近江(ノ)群臣雖v多(ト)。何敢(テ)逆(ム)2天皇之|靈《ミタマニ》1哉。天皇雖2獨居《ヒトハシラマシマスト》1。則臣高市。頼2神祇之|靈《ミカゲニ》1。請(テ)2天皇之命(ヲ)1。引2率(テ)諸(ノ)將(ヲ)1。而|征討《ウタム》。豈有v距(コト)乎。爰(ニ)天皇譽(テ)之。携《トリテ》v手(ヲ)撫《カイナデヽ》v背(ヲ)曰。慎不v可v怠。因(テ)賜2鞍馬(ヲ)1。悉(ニ)授2軍(ノ)事(ヲ)1。皇子則還2和※[斬/足](ニ)1。天皇於v茲|行《カリ》宮(ヲ)興(テ)2野上(ニ)1而居焉。此夜雷電雨(フルコト)甚。則天皇祈(テ)之曰。天神地祇扶(バ)v朕者。雷雨(コト)息(ム)矣。言訖(テ)即雷雨(コト)止之。戊子。天皇往(テ)2於和※[斬/足](ニ)1。※[てへん+僉]2※[てへん+交](テ)軍(ノ)事(ヲ)1而還。己丑。天皇往(テ)2和※[斬/足](ニ)1。命(テ)2高市皇子(ニ)1。號2令《ノリゴトシタマフ》軍(ノ)衆(ニ)1。天皇亦還(テ)2于野止(ニ)1而居之。
 
幼少孺子耳。本に幼(ノ)下小字あるは衍なり。今中臣本。及本の傍書に依て削れり。信友云。此時御軍中に(3551)おはしませる草壁皇子。大津皇子。共に幼くおはせること。上に云へるが如し。【通證云。此時草壁太子十一歳。大津皇子九歳とあり。】高市皇子は公卿補任に。持統十年七月十三日薨。年四十二歳。或四十三。と見えたれば。この時御歳十八か十九かにておはしゝなり。この王を激勵《ハゲマ》しめ給はむとて。如此曰へるなるべし。と云り。さる事なり○雖獨居。本に居字なし。考(ノ)校本。及安斗智徳日記に居字あり。本の舊訓に據るにも。ありし本に據れるなるべし。故今補○則天皇。秘閣本則字無し○戌子。二十八日なり○己丑。二十九日なり○還于野上而居之。萬葉集に。高市皇子尊城上殯宮之時。柿本朝臣人麻呂作歌【上略】安見しゝ吾天皇の。きこしめす背面《ソトモ》の國の。眞木立不破山越えて。狛劔|和※[斬/足]《ワザミ》か原の。行宮に天降居《アモリヰマ》して。天の下治給ひ。食國を定め給ふと。鶏が鳴東の國の。御軍士を喚《メシ》たまひて。ちはやぶる人をやはせと。服はぬ國を治めと。皇子ながら任たまへば。大御身に大刀取佩し。大御手に弓執持たし。御軍士を誘《アトモ》ひたまひ云々。とよめり。此歌に據りておもふに。和※[斬/足]にも行宮を興てゝ。高市皇子を置て。近江の官軍をおさへさせ給ひ。野上より度々其處に往《イデ》まして。軍事を※[てへん+僉]※[てへん+交]《オキテ》給ひしなるべし。美濃國人云。和※[斬/足](ガ)原は。今の不破郡青野原なりと云傳ふと云り。と信友云り。
 
是日大伴連吹負。密(ニ)與2留守(ノ)司坂上直熊毛1議(テ)之。謂(テ)2一二(ノ)漢(ノ)直等(ニ)1曰。我詐(テ)稱(リテ)2高市皇子(ト)1。率(テ)2數十(ノ)騎《ムマイクサヲ》1。自2飛鳥寺(ノ)北路1。出(テ)之臨(ム)v營(ニ)。乃汝|内應《ナカタチセヨ》之。既而(3552)《ツクロヒ》2兵於百済(ノ)家(ニ)1。自2南門1出之。先秦(ノ)造熊(ニ)令(テ)2犢鼻《タフサキ》1。而乘(テ)v馬(ニ)馳(テ)之。俾v謂《イハ》2於寺(ノ)西(ノ)營(ノ)中(ニ)1曰。高市皇子自2不破1至。軍衆多從。
 
是日は。尚《ナホ》二十九日なり。此に又別に。大和國にての事をのせられたるなり○大伴連吹負。上文に唯吹負留謂。立2名于一時1。欲v寧2艱難1。即招2一二族。及諸豪傑1。僅得2數十人1。と見えたり○留守司。大倭舊京留守司なり○坂上直熊毛。信友云。上にも此下にも。留守司高坂王と見えたるは。其司の上官にて。熊毛は次官なるべし。と云り。續紀天平寶字元年十二月。太政官奏曰。贈大錦下坂上直熊毛。壬申年功田六町。歴2渉戎場1。輸v忠供v事。立v功雖v異。勞功是同。比校一同2村國連小依1。依v令中功宜v傳2二世1。とあり。また靈龜二年四月癸丑壬申。功臣(ノ)子賜田の中に。贈大錦下坂上直熊毛(ガ)息。正六位下宗大。と云るも見えたり○飛鳥寺。高市郡飛鳥村にあり○臨營。營は留守司高坂王。軍を興して屯《イハミ》居る處なり。下文に寺(ノ)西(ノ)營。また據2飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)下1爲v營。とも見ゆ〇百済家。吹負が家なり。今廣瀬郡に百済村あり○秦造熊。本に秦を奏に誤る。今考本小寺本集解本に據る。さて此人も後に見えず○犢鼻。水戸本に鼻下褌字あり。犢鼻の事は既に云り。信友のこゝに引れたるは。聊あやまりあり。但しこゝに云へる犢鼻は。旅服の短き褌なるべし。近江より急ぎて馳(セ)至れる状にものしたるなり。下文に考合すべし。と云れたるは。さる言なり。【集解に。謂2裸體1也。示2急速之状1とあるは是からず。】○俾謂。中臣本謂を唱に作る○西營中。留守司の營な(3553)り。上に注へり○軍衆多從。熊にかく云はしめたるなり。
 
爰(ニ)留守司高坂王。及興v兵(ヲ)使者。穂積臣百足等。據(テ)2飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)下(ニ)1爲v營。唯百足居(テ)2小墾田兵庫(ニ)1。運《ハコブ》2兵(ヲ)於近江1。時(ニ)營中(ノ)軍衆。聞(テ)2熊(ガ)叫聲(ヲ)1。悉散走。仍(テ)大伴連吹負。率(テ)2數十|騎《ムマイクサヲ》1劇《ニハカニ》來。則熊毛及諸直等。共與《トモニ》連和《ウルハシ》。軍士亦從(テ)。乃擧(テ)2高市皇子之命(ヲ)1。喚2穗積臣百足於小墾田(ノ)兵庫(ニ)1。爰(ニ)百足乘(テ)v馬(ニ)緩來。逮(ニ)2于飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)下(ニ)1。有v人曰。下(ヨト)v馬(ヨリ)也。時百足下v馬遲之。便取(テ)2其|襟《キヌノクビヲ》1。以引墮(テ)。射(テ)中2一箭《ヒトサヲ》1。因拔(テ)v刀(ヲ)斬(テ)而殺之。乃|禁《トラフ・カラム》2穗積臣五百枝。物部首日向(ヲ)1。俄而赦(テ)之。置2軍中(ニ)1。且喚(テ)2高坂王。稚狹王(ヲ)1。而令v從v軍(ニ)焉。既而遣(テ)2大伴連安麻呂。坂上直老。佐味君宿那麻呂等(ヲ)於不破宮(ニ)1。令v奏2事(ノ)状(ヲ)1。
 
興兵使者。さきに近江の朝廷より。この百足及弟五百枝。物部首日向を。倭京に遣して。令v興v兵とあり。故興兵(ノ)使者と記されたるなり○飛鳥寺西槻下。六年紀に。二月饗2多禰(ノ)島人等於飛鳥寺西槻下1。とあり○小墾田兵庫。小墾田は高市郡。兵庫は和名抄豆波毛乃々久良とあり○兵は。兵器なり。兵器を近江(3554)の朝に運ぶなり○叫聲。秘閣本叶を※[口+斗]に作れり○諸直は。上に注へる漢直なり○襟は。衣(ノ)領なり。字鏡集類聚名義抄に。キヌノクビとよめり。下文には襟をミソノクビともよめり。又コロモノクビとも訓てあるべし○斬而。中臣本斬を撃に作れり○穂積臣五百枝。物部首日向。此二人共に興兵使者なり○稚狹王。こゝに始て見ゆ。留守司におはしたるなるべし。七年紀九月。三位稚狹王薨。とあり○大伴連安麻呂。朱鳥元年紀に。直廣參大伴宿禰安麻呂とあるは。此氏宿禰になされたる後なり。續紀に。大寶元年に直大壹より從三位に叙し。尋で式部卿と爲り。朝政に參議し。また兵郎卿に遷り。慶雲二年に大納言に任じ。太宰帥を兼ね。正三位に進み。後大將軍を兼ぬ。和銅七年五月。大納言兼大將軍正三位大伴宿禰安麻呂薨。帝深悼之。詔贈2從二位1。安麻呂難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。とあり。萬葉集には。佐保大納言と稱へるよし見えたり。歌もあまたあり。子旅人。孫家持。みないづれも名高き人どもなり○坂上直老。此氏後に忌寸となれり。續紀文武三年五月辛酉。詔曰。圖(ル)v勲之義。肇v自2前修1。創v功之賞。歴代斯重(シ)。蓋所d以照2壯士之節1。著c不朽之名u者也。汝坂上忌寸老。壬申年軍役。不v顧2一生1。赴2社稷之急1。出2於萬死1。冒2國家之難1。而未v加2顯秩1。奄爾隕※[歹+且]。思d寵2往魂1。用慰c冥路u。宜贈2直廣壹1。兼復賻v物。とあり〇佐味君宿那麻呂。本に佐を位に誤る。今活字本中臣本及下文に據る。宿那麻呂下文に少麻呂とあり。姓氏録右京皇別。佐味朝臣。上毛野朝臣同祖。豐城入彦命之後也。日本紀合。とあり。十三年紀に。十一月佐味君。賜v姓曰2朝臣1。とあり。此氏人にては。東大寺正倉院文書に。聖武帝時。越(3555)前丹生郡大領佐味君浪麻呂あり。宿那麻呂。下文十四年紀に。直廣肆佐味臣少麻呂とあり○不破宮は。軍營なり。下文にたゞ營とあるも是なり。
 
天皇大喜之。因(テ)乃令3吹負(ヲ)拜2將軍(ニ)1。是時三輪君高市麻呂。鴨君蝦夷等。及群|豪傑者《イサヲシヒトヾモ》。如v響悉(ニ)會2將軍(ノ)麾下(ニ)1。乃|規《ハカル》v襲(ムコトヲ)2近江(ヲ)1。因以撰(テ)2衆中之|英俊《スグレタルヒトヲ》1。爲2別將《スケイクサノキミ》及|軍監《マツリゴトヒトヽ》1。初向2乃樂(ニ)1。
 
三輪君高市麻呂。下文には直大肆大三輪朝臣云々とあり。此氏の事は既に出。績紀。慶雲二年二月庚辰。左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒。以2壬申年功1。詔贈2》從三位1。大華上利金之子也。また大寶元年詔に。先朝論v功行v封時。賜2大神朝臣高市麻呂一百戸1。宜2依v令四分之一傳1v子。とあり。懷風藻には從三位中納言とあり○鴨君蝦夷。本鴨(ノ)下茂字あり。今釋紀及下文に據て刪る。蝦夷は持統紀九年四月に。以2直廣參1。贈2賀茂朝臣蝦夷1。并賜2賻物1。本位勤大壹。とあり○因以(ノ)二字。秘閣本に無し○別將及軍監。別將本の傍訓に依れば。別は副字の誤なるべし。軍防令。凡將帥出征。兵滿2一萬人以上1。將軍一人。副將軍一人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。とあり。別將は即副將なり。倭名抄に。判官。鎭守府曰2軍監1。萬豆利古止比止。とあり○初向乃樂。本に初字(ノ)上。庚寅二字あるは誤なり。集解に。據2釋述義1刪。とあるは然る言なれば。今はそれに從れり。この事釋紀に私記曰。多(ノ)生郎(ノ)按(ニ)云。六月辛酉朔之内。已有2庚寅1。(3556)而又七月庚寅朔辛卯|云々《トイヘリ》。六月下旬(ヨリ)。七月上旬之間。何有(ムヤト)2二庚寅1。愚實惑2此案(ニ)1。但案(ニ)和珥部臣君手日記|云々《シカ/\》。六月是小(ノ)月也。早可v消2六月之庚寅1云々《トイヘリ》。とある。さることなり。然るに信友が。此私紀の説を論ひて云れけるは。此は文義をよくも考へず。また下文の例をも。思ひ合せざる説にて疎なり。さて此六月は小月にて。庚寅なし。こは此|直下《シモ》の七月庚寅朔の事なるを。上文に大和にての事を記せる因に。こゝに記されたるものなり。下文にも立かへりて。前の日を更に擧て。事を記されたるところもあり。相似たる例なり。但し其は紀中此卷を除ては。例なき記されざまにて。ことに六月の下に書連たるはいかにぞや。例の此御世の紀の記者の失なるべし。と云れたるは。私記の説にてよくきこえたるを。中々にむつかしく云ひて。果は記者の失なるべしなど云る。あぢきなき論なり。殊に此卷を餘ては。例なき記されざまなりなと云るは。自《ミ》らも窮したるさまを。あらはしたるなり。さて別將軍監等。かの飛鳥寺の西の營に會《アツマリ》たりけるか。近江を襲はむ事を規(リ)て。まづ乃樂に向ひたる由なり。
 
日本書紀通釋卷之六十四       飯田 武郷 謹撰
 
秋七月庚寅朔辛卯。天皇遣2紀臣阿閇麻呂。多臣品治。三輪君子首。置始連菟1。寧(テ)2數萬(ノ)衆《イクサヲ》1。自2伊勢(ノ)大山1。越(テ)之向v倭(ニ)。且遣(テ)2村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍(ヲ)1。率(テ)2數萬(ノ)衆(ヲ)1。自2不破1出(テ)。直入2近江1。恐(テ)d其衆與2近江(ノ)師1難(コトヲ)uv別《ワケ》。以(テ)2赤色(ヲ)2著《ツク》2衣(ノ)上(ニ)1。然(テ)後(ニ)別(ニ)命(テ)2多臣品治(ニ)1。率2三千(ノ)衆1。屯2※[草冠/刺]萩《タラ》野(ニ)1。遣(テ)2田中臣足麻呂(ヲ)1。令v守2倉歴《クラブノ》道(ヲ)1。
 
辛卯は二日なり〇紀臣阿閇麻呂。下卷に在2伊賀國1紀臣阿閇麻呂とあり。下文に東道將軍と見ゆ。三年妃に卒れるよし見えたり○置始連菟。この氏孝徳紀に出。續紀天平寶字元年十二月の下に。宇佐支が壬辰功田五町。中功合v傳2二世1。と見え。また靈龜二年四月癸丑。壬申功臣(ノ)子賜田の中に。贈小錦止置始連宇佐伎息。正八位下蟲麻呂。みえたり○伊勢大山。上にもみゆ。鈴鹿山なり。但しこゝなるは。其山つゞきの鹿太《カブト》越なり。今も其處を越て。伊賀を經て。大和に入る道あり○向倭。此は前に撰2衆中(3558)之英俊1。爲2別將及軍監1。初向2乃樂1。とありて。亦此阿閇麻呂等をして。大和の方より來らむ近江方の軍を塞《オサ》へつゝ。吹負等と力を戮せて。大和を治めしめ給へるなり。かくて四日に大和にて。吹負が近江方軍に敗られて逃たる時。墨坂にて菟が軍の至れるに逢たる事。下に見ゆ○書首根麻呂。信友云。此人は吉野宮を發(チ)給へるとき。御供の中に見えたる舍人なり。近頃大和國字多郡八瀧村にて。堀出せる墓誌に。壬申年將軍左衛士督正四位上文禰麻呂忌寸。慶雲四年歳次丁未九月二十二日卒。とあり。壬申年(ノ)將軍と誌(ル)せるは。上文に撰2衆中之英俊1。爲2別將及軍監1。と見えたる。別將になされたりけるを譽(レ)として。子孫の壬申年(ノ)將軍とは書なるべし。此餘位暑銘文の事など。おのれ別に勘たるものあり。と云り○入近江とは。專大津をさして。軍を進め給へるなり○以赤色著衣上。通證云。荒井氏曰。此後世笠標之所2由起1也。とあり。信友云。衣の上に戎字脱たりげなり。はるか後世の軍に。鎧に笠符袖符などゝて着る事のあるは。おのづから合へり。當昔さばかり御慮を用ゐ給へることなべてならぬ御事なり。萬葉集に載たる。柿本人麻呂の。此度の御軍の状をよめる歌に。春野燒火の。風の共靡(ケ)るごとく。とよめるも。この戎衣(ノ)上の。赤色の徴※[方+織の旁]《シルシ》なるべき事决し。なほ其歌は。下に引ていふべき事あり。と云り○別命多臣云々。品治は。上文に見えたる。倭に向ふべく命せ給へる軍將の中の一人なるを。更に別に選すぐりて。※[草冠/刺]萩野に屯させ給へるなり。この地の事は既に云り○令守倉歴道。近江國甲賀郡|藏部《クラブノ》郷久良布と。和名抄にあれど。それにあらず。※[草冠/刺]萩野。倉歴。共に伊賀國ならでは地理叶はず。(3559)【或書に。舊近江甲賀郡に屬。今伊賀阿拜郡とあり。上柘植の内に。倉部村とてある處なり。近江の堺に近しと云り。よくたづぬべし。】信友云。此伊賀をば。ことに御心許なく。おもほせるが故なるべし。と云り。さることなり。
 
時(ニ)近江命(テ)2山部(ノ)王。蘇賀臣果安。巨勢臣比等(ニ)1。率(テ)2數萬衆(ヲ)1。將v襲2不破(ヲ)1。而軍2于犬上(ノ)川|濱《ホトリニ》1。山部王。爲2蘇賀臣果安。巨勢臣比等(ノ)1。見v殺。由2是(ノ)亂(ニ)1。以軍不v進。乃蘇賀臣果安。自2犬上1返。刺v頸(ヲ)而死。
 
近江。信友云。こゝに近江とあるは。前文の例にては。近江朝廷。また近江朝など書さ右べきを。たゞに近江とあるはいかゞなれば。朝廷なとの字の脱たるにかとおもはるれど。下文にも近江放2精兵1云々ともあれば。脱たるにはあらず。と云り○山部王。上に見えたり。次に反心の機あらはれて。殺され給ふ。そこに云○蘇賀臣果安は。御史大夫なり。既に出。軍中にて自死したる事次にみゆ。軍畢りて後子某流さる○巨勢臣比等も。御史大夫なり。既に出。軍畢りてのち。子某孫某共に流さる○犬上川。帝王編年記に。大友皇子率2數萬兵1。軍2犬上川1。自注に近江國犬上郡とあり。萬葉に狗上之|鳥籠《トコノ》山。和名抄に近江國犬上郡見えたり。江左三郡録と云書に。今の高宮川。即犬上川なりと云り。また或説に。今里人は多賀社の北を流るゝ川を。犬上川なりと云り。よく尋ぬべし○山部王云々見殺。信友云。按に山部王は。此軍將に任され給へりしなるべし。殺され給へる故は。此にて心變して。吉野方にならむ(3560)と爲給へる事の顯はれたるなるべし。其を六月二十五日の夜半。伊勢の三重わたりにて。鈴鹿(ノ)關司の。山部王石川王來歸之。故置v關。と吉野に告せるによりて。徴に遣はしたるに。其二王たちにはおはさで。大津皇子にておはしけるよし見えたり。其實は山部王石川王の。從はむとて來り給へるか。關外に待給へる間。障る事などの出來て。立還り給へるに。さしちかひて。大津(ノ)皇子の參り給へるなるべし。然らずば關司のさばかりの違を。告申すべきにはあるべからず。かくて山部王。もとより吉野方に心よせおはしけるによりて。此とき反伐《ウラギリ》し給はむの機《シ》ありけるによりて。討れ給へるなるべし。さて石川王も。はやく吉野方になりて。功しかりしときこえたり。八年紀に。吉備大宰石川王。病之薨2於吉備1。天皇聞v之大哀。則隆2大恩1云々。贈2諸王二位1。と見えたるを思ひ合すべし。と云へり○果安臣云々刺頸而死。又云。果安臣。軍將山部王を誅したるによりて。軍人驚動亂れて進まず。故果安其功なき事を恥て。返りて自死たるなるべし。此等はいふかひなくたゞに在けるか。後に配流の刑に行はれたること。下文にみゆ。と云り。
 
是時(ニ)近江(ノ)將軍羽田公|矢《ヤ》國。其子大人等。率(テ)2己(ガ)族(ヲ)1來降。因(テ)授(テ)2斧鉞1。拜2將軍(ニ)1。即北入v越(ニ)。
 
羽田公矢國。姓氏録左京皇別。八多眞人。出v自2謚應神皇子。稚野毛二俣王1。記に。若野毛二俣王。娶2其(3561)母弟百師木伊呂辨。亦名弟日賣眞若比賣命1。生子大郎子。亦名意富々杼王云々。意富々抒王者。波多君之祖也。とあり。十三年紀に。十月羽田公賜v姓曰2眞人1。【續後紀承和四年六月。散位正六位上八多眞人清雄言。姓氏録所v載始祖。錯謬非v實。私門之大患也。詔令2刊改1之。とあれども。今の姓氏録には。刊改られしと見えて。其事見えず。】故下卷には。羽田眞人八國とあり。朱鳥元年紀三月丙午に。卒られたるよし見ゆ○拜將軍は。矢國を云なり○入越。信友云。直に麾下《ミモト》には置給はず。矢國が大津朝の將軍なりしを。耻かしめ給はず。更に將軍に拜《ナ》して。越を治めに遣はしたるは。遠《フカ》き御慮つかひなるべし。越は今の越前越中越後より。なほひろくかけたる。古の總名ながら。此時なるは越前をさして人らしめ給へるなり。なほ下に。矢國が出雲臣狛とともに。三尾城を攻降せる下に論ふべし。と云り。
 
先(ニ)v是。近江放(テ)2精兵(ヲ)1。忽(ニ)衝(ク)2玉倉部(ノ)邑(ヲ)1。則遣(テ)2出雲臣狛(ヲ)1。撃(テ)追v之。
 
玉倉部は。記景行段に。到2玉倉部之清水1。以息坐之時。御心稍寤。故號2其清水1。謂2居寤清水1也。とあり。今の美濃國不破郡垂井驛なり。其説既に景行紀に云り。不破の行宮に遠からぬ地なり○出雲臣狛は。續紀大寶二年八月。授2出雲狛從五位下1とあり。さて同年九月。出雲狛賜2臣姓1。とあるは同人か。おぼつかなし○撃退之。こゝに痛考すべき事あり。さるは下文に。大和にての事を。初將軍吹負向2乃樂1。至2稗田1之日。有v人曰。自2河内1軍多至。則遣2坂本臣財。長尾直眞墨。倉橋直麻呂。民直小鮪。谷直根麻呂1。率2三百軍士1。距2於龍田1。復遣2佐味君少麻呂1。率2數百人1。屯2大坂1。遣2鴨君蝦夷1。率2數百人1。守2石(3562)手道1。是日坂本臣財等。次2于平石野1。時聞d近江軍在c高安城u。而發之。乃近江軍知2財等來1。以悉焚2税倉1。皆散亡。仍宿2城中1。會明臨2見西方1。自2大津丹比兩道1。軍衆多至。顯見2旗※[方+織の旁]1。有v人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自2高安城1降。以渡2衛我河1。與2韓國1戰2于河西1。財等衆少不v能v距。先v是遣2紀臣大音1。令v守2懼坂道1。於是財等退2懼坂1。而居2大音之營1。是時河内國司守來目曰鹽龍。有d歸2於不破宮1之情u。以集2軍衆1。爰韓國到之。密聞2其謀1。將v殺2鹽籠1。鹽籠知2事漏1。乃自死焉。とある二百六十一字は。此日【二日】の事なり。通考すべし。
 
壬辰。将軍吹負屯2于乃樂山(ノ)上(ニ)1。時(ニ)荒田尾直赤麻呂。啓2將軍1曰。古京是本(ノ)營《イホリ》處(ナリ)也。宜2固|守《マモル》1。將軍從之。則遣(テ)2《アカ》麻呂。忌部首子人(ヲ)1。令v《マモラ》2古京(ヲ)1。於是赤麻呂等。詣(テ)2古京(ニ)1。而|解《コボチ》2取|道路《ミチノ》橋(ノ)板(ヲ)1。作(テ)v楯(ニ)竪2於京(ノ)邊(ノ)衢(ニ)1。以(テ)守。癸巳。將軍吹負。與2近江將大野(ノ)君果安1。戰2于乃樂山(ニ)1。爲2果安(ガ)1v敗。軍卒《イクサヒト》悉走。將軍吹負僅得v脱(コトヲ)v身(ヲ)。於是果安追(テ)至2入八口岳(ニ)1。而視(ニ)v京(ヲ)。毎v街《チマタ》竪v楯(ヲ)。疑(テ)v有(ルコトヲ)2伏兵1。乃稍(ニ)引(テ)還之。
 
壬辰は三日なり。是より大和國にての事なり○荒田尾直赤麻呂。中臣本秘閣本。赤麻呂の赤を明に作(3563)る。次も同じ。下文に荒田尾連麻呂と云人あり。同人なるべし。姓氏録和泉皇別。荒田尾直。高魂命五世孫。※[金+刃]根命之後也。十年紀四月。荒田能麻呂【一に荒田尾直に作る。】賜v姓曰v連。とあり。氏族志云。按除目大成鈔。鳥羽帝時。有2讃岐少目荒田宿禰礒藤1。未v詳2何族。と云り○古京。飛鳥岡本宮なり○宜固守。本に固を國に誤る。今秘閣本中臣本考本小寺本に據る○忌部首子人。十年紀に子首の子を脱したり。其は續紀二三四五六等に。忌部宿禰子首とあるにてしられたり。さて續紀養老三年壬七月。散位從四位上忌部宿禰子人卒とあり。さて此人の事重胤云。壬申の役に功有し事は。御紀に遣2赤麻呂忌部首子人1。令v戌2古京1とありて。荒田尾直赤麻呂と共に。飛鳥の舊郡を戌れる也。續紀大寶元年六月。正五位上忌部宿禰色布知卒。詔贈2從四位上1。以2壬申年功1也。と有るは。子人が弟なり。兄子人も。其二年三月。從五位下忌部宿禰子首。進2位一階1。と有て。從五位上に任《ナ》されたるより。次々養老二年正月。詔授2從四位下忌部宿禰子人從四位上1。と有て。兄に在ながら後れたるは。功臣と云程には非りしなるべし。と云り○癸巳。四日なり○大野君果安。姓氏録右京皇別。大野朝臣。豐城入彦命四世孫。大荒田別命が後也。日本紀合。十三年紀十一月。大野君賜v姓曰2朝臣1。とあり。さて果安は何國の人なるにか。未考へず。近江朝にて。將軍に拜されて下されたる事も。上に見えず。續紀天平十四年十一月。參議從三位大野朝臣東人薨。飛鳥朝糺職大夫直廣四果安子也。とあり。【陸奥國多賀城碑に。按察使兼鎭守府將軍。從四位上勲四等大野朝臣東人とある。これなり。さて集解に。按靈異記曰。聖武天皇時。有2御手代東人者1。又大野東人。天御中主尊十世孫。天(ノ)諸神命之後也。據v此則神別也。非2皇別1也。と云り。これは大野東人と御手代東人と。名の異なるを。一人としたる誤なり。御手代氏は神別なれど。大野氏に神別なるはあらず。】〇八口岳。詳ならず。さ(3564)れど古京近くの地なることは明らけし。舒明紀に八口采女鮪女あり。これも何郡なるや詳ならず。さて此八口を。古本には八田とあるに就て。集解に八田在2城下郡1といひ。信友は。和名抄に大和國添下郡の郷に見ゆ。萬葉集の歌に。八田の野ともよめり。今も矢田村と云ふがありて。失田寺と云もありとぞと云る。共に非なり。城下郡にては。古京は視るべからず。まして添下郡にては甚く隔たれり。かにかくに。古京近きあたりの岳ならでは叶はず。さて本に岳を企に作れり。今京極本に據る。考本には岡とあり○京は。上に所謂倭古京にて。本營の處なり○稍引還之。こゝに下文入れて見るべし。それも大和にての事にて。近江軍當2諸道1多至。即並不v能2相戰1。以解退。是日。将軍吹負。爲2近江1所v敗。以獨率2一二(ノ)騎1走之。逮2于墨坂1。逢2菟軍至1。更還屯2金綱井1。而招2聚散卒1。於是聞d近江軍至uv自2大坂道1。而將軍引v軍如v西。到2當麻衢1。與2壹岐史韓國軍1。戰2葦池側1云々。則近江(ノ)軍悉走之云々。將軍更還2本營1。時東師頻多臻。則分v軍各當2上中下道1而屯之。唯將軍吹負。親當2中道1。於是近江將犬養連五十君。自2中道1至之。留2村屋1。而遣2副將廬井造鯨1。率2二百(ノ)精兵1。衝2將軍營1云々。鯨軍不v能v進。是日。三輪君高市麻呂。置始連菟。當2上道1。戰2于箸(ノ)陵1。大破2近江軍1。而乘v勝兼斷2鯨軍之後1。鯨軍悉解走。多殺2士卒1云々。自v此以後。近江軍不v至。とあり。信友云。これ四日の事にて此日に當れり。又件の次の文に。先v是。軍2金綱井1之時。とありて。高市牟佐村屋の三神。吉野方の軍を守護(リ)給へる由の教言ありて。即其驗ありし事をも記されたり。これを廻らして知べし。と云れたり。さて是まで大和にての事(3565)なり。
 
甲午。近江(ノ)別將田邊|小隅《ヲス》。越(テ)2鹿深(ノ)山(ヲ)1。而卷v幟(ヲ)抱(テ)v鼓(ヲ)。詣2于倉歴(ニ)1。以(テ)2夜半(ヲ)1之。銜《クヽミ》v梅《クチキヲ》穿(テ)v城(ヲ)。劇(ニ)入2營(ノ)中(ニ)1。則畏d己(ガ)率《イクサノヒト》與2足麻侶(ガ)衆1難(コトヲ)uv別。以(テ)毎v人令《シム》v言《イハ》v金《カネト》。仍拔(テ)v刀(ヲ)而※[區+攴]v之。非v言v金乃斬耳。於v是足摩侶(ガ)衆悉(ニ)亂之。事忽(ニ)起不v知2所爲《セムスベヲ》1。唯足摩侶|聰《トク》知(テ)之。獨言(キ)v金(ト)以僅(ニ)得v免(コトヲ)。乙未。小隅亦進(テ)。欲(テ)v襲2※[草冠/刺]萩野營(ヲ)1。而忽(ニ)到。爰(ニ)將軍多臣品治|遮《タヘテ》之。以2精兵(ヲ)1追(テ)撃之。小隅獨免(テ)走焉。以後《コレヨリノチ》遂(ニ)復不v來也。
 
甲午。五日なり○別將。信友校本には。一本別を副ともあり。と云り。中臣本の訓。スケノイクサノキミとあれば。それもあしからず○田邊小隅。田邊史。雄略紀に出○鹿深山。本に鹿を麻に作る。今中臣本考本に據る○抱鼓。本に抱を※[手偏+施の旁]に作るに就て。曳也と注せるは非なり。今は京極本中臣本に據る○詣于倉歴。上に遣2田中臣足麻呂1。令v守2倉歴道1。と見えたり○銜梅。私記に梅與v枚同とあり。口木なり○營中。足麻呂が營なり○令言金。通證云。所謂暗號他。と云り。後世に夜撃の合言《アヒコトバ》と云り○乙未。六日なり○※[草冠/刺]萩野。上文に命2多臣品治1。率2三千衆1。屯2※[草冠/刺]萩野營1。とあり○忽到。中臣本忽を急に(3566)作る○將軍多巨品治。信友云。品治既に將軍に拜されたりときこゆ。但し此紀の文法。たゝの隊長をも將軍と書るにかと。おもはるゝところあり。と云り。
 
丙申。男依等。與2近江軍1。戰(テ)2息長(ノ)横河《ヨクカハニ》1破v之。斬2其將境部連藥(ヲ)1。戊戌。男依等。討2近江將秦友足(ヲ)於|鳥龍《トコノ》山(ニ)1斬v之。
 
丙申。七日なり。去にし二日より今日まで。連日事あり。さて扶桑略記に。以下辛亥に至るまで。六日丙申。八日戊戌。十二日壬寅。二十一日辛亥に作れり。望之云。按に六日より二十一日に至まで。皆一日を差《タガ》へり。是は皇圓の謬にて。傳寫の誤にあらず。と云り○男依等。上文二日條に。男依等自2不破1出。直入2近江1。とあり○戰息長横河。扶桑略記に。途(ニ)戰(テ)云々とあり。息長横河は。諸陵式に息長墓在2近江國坂田郡1。續紀に從2不破1發。至2坂田郡横川頓宮1。兵部式に横川驛みえたり。信友云。息長は大名の地ときこゆ。更科日紀に。不破の關。阿曇の山など越て。近江國おきながと云人の家にやどりて云々。とあり。【萬葉十三。また二十にも此地名見えたり。仙覺が萬葉釋に。息長は坂田郡穴郷の内にありと云り。和名抄に阿那とあり。東大寺古文書に。近江國坂田庄息長莊ともあり。】息長川は。今官道醍井番場驛の間に能登瀬村あり。のとせ川と云もあり。湖の出口にては。天の川とも淺つま川とも云。其川なり。今も米《マイ》原驛の遠からざる所に。つくま村ありと云り。これ萬葉十三の。師名立都久麻左野方《シナタツツクマサヌカタ》。息長之遠智能小菅《オキナガノヲチノコスゲ》。とあるにあへり○境部連藥。齊明紀に坂合部連藥とあり○戊戌。九日なり○鳥龍(3567)山。近江國犬上郡にあり。萬葉集に。狗上之《イヌカミノ》鳥籠山と詠り。兵部式に鳥籠(ノ)驛あり。
 
是日。東《ウミツ》道(ノ)將軍紀臣阿閇麻呂等。聞(テ)d倭(ノ)京(ノ)將軍大伴連吹負。爲2近江(ノ)1所(コトヲ)uv敗。則|分《クバリテ》v軍(ヲ)。以遣(テ)2置始連菟(ヲ)1。率2千餘|騎《ムマイクサヲ》1。而急(ニ)馳2倭(ノ)京(ニ)1。壬寅。男依等。戰(テ)2于安(ノ)河(ノ)濱《ホトリニ》1大破(リ)。則獲2社戸《コソヘ》臣大口。土師連千島(ヲ)1。丙午。討(テ)2栗|太《モトノ》軍(ヲ)1追之。辛亥。男依等到2瀬田(ニ)1。
 
是日。尚九日にて。是より大和の事に係れり○東道將軍云々。上文二日條に。遣2紀臣阿閇麻呂1云々。自2伊勢大山1越之向v倭。とある軍將四人の中なり。此文にて將軍なること知られたり。信友云。東道は。もし南道の寫誤にはあらぬか。近江より大和は南に當れり。と云り。按に近江より東(ノ)方伊勢を經て。倭に向ひしが故に。東道と云るなり。南道かと云るは非なり○吹負爲近江所敗。去し四日。於2乃樂山1。爲2果安1所v敗。とあるこれなり○急馳倭京。菟も阿閇麻呂と共に。去二日向v倭とある軍將の中の一人なり。信友云。此文の趣を考るに。阿閇麻呂等。いまだ大和に行着(カ)ざる途にて。吹負が敗(レ)を聞て。まづ菟を急ぎ遣りて。救はしめたるなり。二日より今日まで。中間六日なり。さて此八日九日の頃より。十三四日の頃までの事なるべし。下文に。大和にて吹負が軍敗れて。墨坂まで走《ニゲ》たる事の次(3568)の文に。遇《タマ/\》逢2菟軍至1とありて。また合戰の事見えたり。さて吹負定2倭(ノ)地1。二十二日に大坂を越て往2難波1とあり。と云り○壬寅。十三日なり。これより又近江の事なり○安河濱。和名抄近江國野州郡。萬葉集に安河とありて。今もかくれなし。野州村と云もあり○社戸臣大口。此氏は阿倍臣と同祖なり。孝徳紀に。阿部渠曾倍臣の下に注り○獲は生《イケ》獲なり○丙午。十七日なり○討栗太軍。和名抄近江國栗太郡久留毛止。さてこの軍の事。記されざま踈なり。そのかみも詳ならざりけん○辛亥。二十二日なり○瀬田。栗太郡なり。此地の事今も隱なし。上にもしば/\出たり。さて此までの御軍の御事を。古事記序に。皇輿忽駕。凌2渡山川1。六師雷震。三軍電逝。と作り。
 
時(ニ)大友皇子。及群臣等。共營(テ)2於橋(ノ)西(ニ)1。而大成v陣《ツラヲ》。不v見2其|後《シリヘヲ》1。旗※[方+織の旁](ハ)蔽《カクシ》v野(ヲ)。埃塵《チリ》連v天(ニ)。鉦鼓《カネツヾミ》之聲聞2數十里《アマタサトニ》1。列《ツラナレル》弩亂|發《ハナチテ》。矢(ノ)下(コト)如v雨。其將智尊率(テ)2精兵(ヲ)1。以|先鋒《サキトシテ》距之。仍(テ)切2斷(コト)橋中(ヲ)1。須2容《イルバカリ》三丈(ヲ)1。置2一(ノ)長板(ヲ)1。設《タトヒ》有(ハ)2※[足+(日/秩j]《フミテ》v板(ヲ)度《ワタル》者1。乃引(テ)v板(ヲ)將v墮(ムト)。是以不v得2進襲(コトヲ)1。於是有2勇敢《タケキ》士1。曰2大分(ノ)君稚臣(ト)1。則棄(テ)2長矛(ヲ)1。以|重2※[手偏+環の旁]《カサネキテ》甲(ヲ)1。拔(テ)v刀(ヲ)急(ニ)蹈(テ)v板(ヲ)度之。便斷(テ)2著《ツケタル》v板(ヲ)綱(ヲ)1。以|被矢《イエツヽ》入v陣《ツラニ》。衆悉亂(テ)而散走之。不v可v禁。將軍智尊。拔(テ)v刀(ヲ)斬2退者(ヲ)1。而不能v止(コト)。因以斬2智尊(ヲ)於橋邊(ニ)1。
 
(3569)群臣等。略記云。亦率2數萬兵1。とあり○營於橋西。勢田橋なり。續紀二十五に。至2近江1燒2勢田橋1。とあり○列弩。和名抄弩於保由美。大弓の義なり○智尊。略記に。粟津朝廷大將軍智尊とあり。通證に。釋音讀。不v擧2姓氏1。未v審。と云れたるが如し○大分君稚臣云々。八年紀云。大分君稚臣卒。當2壬申年大役1。爲2先鋒1之。破2瀬田營1。由2是(ノ)功1。贈2外小錦上位1。とあり○將軍智尊。本に將を時に誤る。今中臣本考本其他の本に依る○斬智尊於橋邊。橋邊は瀬田の橋の西邊なり。按に此記されたる趣は。智臣が一人勇敢《イサミ》て橋を度りて。陣に入たるによりて。大成v陣云々とある官軍の。悉(ク)亂れて。散走りたる如くにて。事實とほりて聞えがたし。入v陣の下に。男依等か軍衆勢を得て。悉橋を度りて。衝入たる由の文の脱たりげなり。さて其大に戰たるは。粟津原なるべし。下文に粟津岳。また粟津市と。逼《セメ》進めるをもおもふべし。さて又今按ふに。此時にのぞみて。橋中を切斷たる儲。あまりに拙きに似たり。然るは如此ものしおきて。川を隔てゝ挑ほどに。豫て官軍の援來りて。吉野方の後(ヘ)より。襲ふべき約ありて。其を待つけて。前後より攻撃べき謀なりけるが。事たがひて。あへなく御軍の破れたるにやありけむ。さて上文の二日に。遣2村國連男依。書首根麻呂。和珥部臣君手。膽香瓦臣安倍1。率2數萬衆1。自2不破1出。直入2近江1。恐d其衆與2近江師1難uv別。以2赤色1著2衣上1。七日に。男依等與2近江軍1。戰2息長横河1云々。九日に。男依等討2近江將秦友足於鳥籠山1斬之。と見えて。男依等不破より出で。近江に入(ル)とある。これなり。不破より横河に入る次(テ)は。續紀天平十二年の下に。從2不破1發。至2坂田郡横川頓宮1。(3570)と見えたるをおもふべし。かくて今按に。二日に高市皇子和※[斬/足]を發(チ)て。不破より入來れる男依等を率おはして。此瀬田の軍をもせさせ給へるなるべし。萬葉集に。高市皇子の殯宮にて。人麻呂がよめる長歌のつゞきに。大御身に大刀取|佩《ハカ》し。大御手に弓執持たし。御軍士を誘ひ給ひ。調ふる鼓の音は。雷の聲と聞まで。吹|響《ナ》せる笛《フエ》之|音《コヱ》は。敵見たる虎か叫吼《ホユ》ると。諸人の脅るまでに。指擧たる幡の靡は。冬隱り春野燒火の。風の共靡ける如く。取持てる弓弭のさわき。眞雪ふる冬の林に。飄かもいまきわたると。諸人の見惑ふまでに。引放つ箭の繁けく。大雪の亂れて來れ。服はず立向ひしも。露霜の消なば消ぬべく。行鳥の相競《アラソ》ふ間《ハシ》に。渡會の齋《イハヒノ》宮ゆ。神風にいふき惑し。天雲を日のめも見せず。常闇に覆ひたまひて。定めてし瑞穂國を。神ながらふとしきまして。安みしゝ吾|天皇《オホキミ》の。天下|政《マヲ》したまへば云々。とあるは。决く此瀬田の御軍のさまを。よめりとそきこえたる。さて其處は。上に考へていへる如く。粟津原なるべし。粟津も瀬田の内なり。かくで此の紀の文に。旗※[方+織の旁]蔽v野。埃塵連v天。鉦鼓之聲聞2數十里1。列弩亂發。矢下如v雨。と記されたるも。當時の記文の趣なるべし。件の歌詞にもよく合ひて聞ゆ。但し件の文の中。鉦鼓より如v雨と云るまでは。後漢書光武紀なると同じければ。其文によられたるにてもあるべけれど。實に其時の状の然ありしなるべき事。歌詞にも思ひ合すべし。又幡の靡きを。春野燒く火にたとへたるは。古事紀序に。此御軍のさまを賛(ヘ)たる文に。杖矛擧v威。猛士烟起。絳旗耀v兵。凶徒瓦解。と作るに符へり。絳旗は赤旗なり。赤旗兵士を耀して。殊に勢を益して見えたる(3571)さまを云るなり。さて其絳旗を。赤旗なりと云る證は。新撰字鏡の原本に。絳吉向反。緋(ナリ)。大赤※[糸+曾]。と注し。また※[糸+曾]疾陵反。平旌也。麾也。旌麾(ノ)二字※[糸+曾]也。と注せるを合せて。その義明なり。この二字の義。今ある漢土の字書どもに。然ばかり詳かに通ゆる注は。いまだ見及はず。但し絳を説文に大赤也と注し。類聚名義抄に。アケまたアカイロと訓り。かくて此紀には。上文に見えたるごとく。以2赤色1著2衣上1。とあるは。かたへを記されて。旗のかたにはおよばざりつるなり。まことは旗も徴※[方+織の旁]も。赤色を用給ひたりけるを。その指擧たる赤旗に。數多の兵士の戎衣の赤|徴※[方+織の旁]《シルシ》の。耀きあひて。競ひ進めるが。春野燒く火の風に靡きて。燃るがごとく。然こそは見えわたりけんかし。【太平妃武藏野野合戰の條に。先陣は平一揆三萬餘騎。小手の袋四幅袴笠符に至るまで。皆赤かりければ。殊更輝きてそ見えける。といへる事も見えたり。】さて渡會の齋(ノ)宮の神の神風の事は。紀には載られず。此ときの御軍の勵しきありさま。また其神風の畏かりし事。此人麿の歌にて。まさめに見るこ/\ちす。と云れたるはいと委し。
 
則大友皇子。左右大臣等。僅(ニ)身免(テ)以逃之。男依等即軍2于粟津(ノ)岡(ノ)下(ニ)1。是日。羽田公矢國。出雲臣|狛《コマ》。合《アフテ》共(ニ)攻(テ)2三尾(ノ)城(ヲ)1。降之。壬子。男依等。斬2近江(ノ)將犬養連五十君。及|谷《ハサマノ》直鹽手(ヲ)於粟津(ノ)市(ニ)1。於是大友皇子。走(テ)無v所v入(ム)。乃還(テ)隱2山前(ニ)1。以自|縊《クビレヌ》焉。時左右大臣。及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。旦一二(ノ)舍人從(3572)之。
 
粟津岡下。粟津は。績紀聖武卷に。幸2近江國1云々。次2禾津頓宮1。と見えけり。勢田(ノ)橋の西方なり。壽永三年木曾義仲の誅《ウタ》れたる所にて。今も志賀郡にかくれなし。源平盛衰記に。その事を記せる所に。粟津岡と見ゆ○是日。尚二十二日なり○攻三尾城降之。三尾は近江高島郡なり。繼體紀に出。此三尾城將の名見えず。さて矢國か事は。前の二日の下に。近江將軍羽田(ノ)矢國。其子大人等。率2己族1來降。因授2斧鉞1。拜2將軍1。即北入v越。と見えたるが。こゝに來れるなり。さるは上に論へる如き御意おきてにて。越前の方を。事状《アイサマ》にしたがひて治(メ)しめ。愛發《アラチ》の關路を開きて。ゆくりなく高嶋に襲入て。狛と共に三尾城を攻伐せ給へるなるべし。去(シ)二日より十一箇日に當れり。日ごろもかなひてきこゆ。さて下文に。是日に立かへりて。辛亥【二十二日】將軍吹負既定2倭地1。便越2大坂1往2難波1。以餘別將軍等。各自2三道1進。至2于山前1。屯2河南1。將軍吹負留2難波小郡1。而仰2以西諸國司等1。令v進2管鑰驛鈴傳印1。とあり。此に回(リ)して見るときは。事状よく通りてきこゆ○壬子。二十三日なり○犬養連五十君。 孝徳紀に見ゆ。扶桑略紀に。近江犬上五十君とあるは。誤なるべし○谷直鹽手。姓氏録山城國諸蕃。谷直。漢(ノ)師建王之後也。とあり。氏族志云。文部(ノ)谷氏系出2山木1。有2宿禰姓1。有2忌寸姓1。【坂上系圖引(ク)姓氏録。宿禰據2續紀1。】有2直姓1。【三代實録】桓武帝時。文部(ノ)谷忌寸改賜2宿禰1。【續紀】清和帝時。山城乙訓郡人。内膳典膳文部谷直平麻呂等。改貫2左京1。【三代實録】(3573)又有2谷宿禰。谷忌寸。谷直姓1。宿禰貫2于右京1。系出2都賀四世孫宇志直1。貫2于山城1。出2漢師建王1。【姓氏録。忌寸據2日本後紀1。】按坂上系圖引(ク)姓氏録云。谷宿禰出v自2山木1。據v此谷宿禰與2文部(ノ)谷氏1。同出2宇志1。蓋山木之後也。師建王不v詳2所出1。以3其爲2漢族1。故序2于此1。とあり。この坂上系圖は。今の姓氏録になき文なり○走無所入。按に此時近江京都は。兵火に罹しものなるべし。燒失のことは史に見えねども。懷風藻に。時經2亂離1。悉從2※[火+畏]燼1。とあるにて。しかしられたり。【萬葉一。人麿の過2近江荒都1時歌に。大宮者|此間等雖聞《コヽトキケドモ》。大殿者|此間等雖云《コヽトイヘドモ》。春草之茂生有《ハルクサノシゲクオヒタル》。霞立春日之霧流《カスミタツハルヒノキレル》。百磯城之大宮處|見者悲毛《ミレバカナシモ》。とあるも。たゞに荒たるのみならず。宮殿の見えぬさまなるは。火に罹りし證とすべし。】されば今は走りて入給ふべき所なきなり〇還隱山前。廟陵記に。山前長等山之山前也とありて。今の三井寺の地なること。次々に云べし。さるは信友云。此地は下文に。別將軍云々。進至2于山前1。屯2河南1。とも見えたるところにて。其は滋賀郡長等山の山前にて。當昔の一區《ヒトトコロ》の名なりしなるべし。【唱は也末謝伎なるべし。佐伎に前字を用ゐたる事。古書に例多し。此地字治拾遺物語には。山崎と書り。】かくて其山前は。天皇皇子におはしましける時の。家地なりけるか。御軍の敗(レ)に堪たまはで。其地に還り隱《シノ》ひ坐まして。遂にゆゝしき御事のありしなり。其|期《キハ》に。天皇皇子與多王に遺詔《ノタマヒオキ》たまひけるによりて。其地を陵所として葬(メ)奉り。また後公家に奏して。其地に園城寺を建立《タテ》。またもとの家《ミヤ》地を捨て。寺用に宛賜はり。與多王は王號を避て。大友氏と稱《ヨビ》て。其寺の主持となりて仕奉り。則ち氏寺と稱て。子孫に傳へたりける間に。御寺の字を御井寺とも呼てありけるを。御井寺後に智證が三井と書改たるなり。【中略】古今和歌集目録。大友黒主傳の條に。皇代記云。天武天皇甲戌。大友太政大臣之子。與多(ノ)大臣(ノ)家地。造2御井寺1。依2父(ノ)遺誡1。(3574)建立(スト)云々。金堂内陣柱記云。今年甲戌。右大臣大友與多等。建2立此伽藍1云々《トイヘリ》。過康平年中見出之。とあり。東寺に藏る古文書どもの中に。康平二年【己亥歳】八月十八日。作者大學頭定範朝臣と標題せる。薗城寺龍華會縁起に。先祖大友與多。奉2爲天智天皇1。所2建立1也。本是太政大臣之家地也。とあり。【中略】さてまた與多は。天皇の第二の皇子にて。他書共に與多王。またたゞに與多とも記せり。さて此御寺|造營《ツク》らしめ給へる來由は。上に擧たる金堂内陣(ノ)柱(ノ)記。皇代記のほかにも。扶桑略記天武天畠十五年の下に。是歳大友太政大臣子。與多(ノ)大臣(ノ)家地(ニ)。建2御井寺1。今(ノ)三井寺是也。依2父遺誡1。建2立之1。注に私云。若天皇崩後建2立之1歟。可v考。と記し。【年中行事秘抄にも。此本文の如く記せり。皇代記には上に引たる如く。天武天皇三年として。如此記せり。】濫觴抄にも十五年の事として記せり。元亨釋書に。園城寺者。大友歟多所v建也云々。大臣薨。其子與多承2顧命1。奏2天武帝1創之。元是大師之家基也。水鏡にも。天武天皇段に。十五年と申すに。朱鳥元年と年號をかへられにき。同年大友皇子の御子與多王。父ののたまひ置しによりて。三井寺をつくり給ひしなり。と記されたり。今つら/\當昔の事状《アリサマ》を考わたすに。天皇大御身つから崩(リ)給はむとしたまへる。いまはの期《トキ》に。與多王を召て。太子におはしましける時の。この山前の家地に。寺を建立べきよしを。遺詔《ノタマヒオキ》給ひたりしなり。さて然遺詔給へる趣を。畏くも思遣奉るに。崩(リ)給ひたる御骸をば。やがて其家地に葬奉り。後によきに計らひまをして。其處に寺を建立て。與多王に司《コトヽ》り奉仕らしめて。御靈の鎭坐す處としたまはんとなるべし。【中略】かくて其御井寺建られたる處。すなはち謂ゆる太政大臣之家地にて。天皇皇子にまし/\け(3575)る時の宮地なり。其ところ長等山の山前なれば。をのかみ山前といへるは。决て此地なるべし。紀に乃還2山前1云々と記されたるは。軍(ノ)場より山前の故宮に還り隱《シノ》び坐して。遂に崩給へる由なれば。此地にて御事ありしこと明かなり。【紹運要略には。於2近江國粟津1自害とあり。この粟津は今昔物語集に。天智天皇の粟津都と云へるをおもふに。いにしへ粟津は。大津までかけたる大名にも呼て。然も語傳たるにて。所の違へるにはあるべからずと云り。】さで扶桑略記水鏡には。此山前に還給へることを。二十二日【辛亥】の事として。明る二十三日【壬子】御事ありし由記せるは。委き傳にて。別に正しき書によれるにぞあるべき。【但し水鏡印本に。二十二日を二十一日と書り。今一古寫本に據りて云ふ。山前の地の事を。谷川土清云。今三井寺より。やゝ東の湖邊に。山上《ヤマカミ》といふ里あり。山前の訛るならんか。と云れど。地理合はざれば諾ひがたし。山前は長等山の山岬にて。今の三井寺の地に合へり。山上も古き地名ならむには。山前に相對ひたるごとき地名なりけん。かくて山前の地名は。三井寺の時めく世となりて。自ら廢たるにやあらん。】二十二日【辛亥】別將軍等。各自2三道1進至2山前1。屯2河南1。と記されたるは。そのかみ三井寺の前を。北より南さまに流れたる河の在けむを。其向(ヒ)に屯み居りて。逼め奉れるなり。故堪へたまはずして。還りて山前の宮に隱坐まして。あくる二十三日【壬子】になりて。遂に御事ありしなり。【かくてぞ。別將軍等が逼め奉れる趣も。御事ありし御ありさまも。よく通りてきこゆるかし。あなかしこ。】さてその山前の河は。今それならんとだにおもはるゝ處もあらずとぞ。されど古ありし川の。後他には涸《ア》せはてたる。また古と後といたく革りたるなど。諸國に多かる例なれば。山前なるも既く涸《ア》せはてゝ。知られずなりしなるべし。【なほ其わたりの郷人などをかたらひ。よく捜索《タヅヌ》べきなり。】されど今こゝろみに云はゞ。今時《イマ》山上《ヤマカミ》といへる處の北に。湖に入る川のあるを。そのかみ山前宮の前面《マヘツラ》に廻して。北より南さまに鑿通し。湖に入《オト》して。宮地の結搆《カマヘ》とせられたりしにもやありけむ。さて又通證に。三井寺號2長等山1。在2滋賀郡1。金堂内陣柱記曰。天武天皇十五年丙戌。大友與多麻呂。建2(3576)立此伽藍1。歟多麻呂(ハ)大友皇子之第五男也。見2當寺傳記1。と注せり。この柱記の文。上に引たる古今集目録に載たる皇代紀なると。事は同くて文の異なるは。彼もともに要を採て記せるにかともおもはるれ。御寺建立の事を。彼は天武三年甲戌と記し。此は十五年丙戌と云ひて。其年のたがひて聞ゆるは。彼は造寺の經始《ハシメ》をいひ。地は造畢たる年を以。記せるなりと云り。なほこの園城寺の事。委く云れたれど。こゝに要なき事ははぶけり。本書に附て見るべし。【山前の事。其後の書に見えたは。看聞日記。永享四年二月十六日。去十日夜山前南庄(ニ)於。石馬寺と申在所。南藏房と申もの云々。三月七日云々。自2山前1夜前飛脚馳參。定直同參。南庄寺觀音寺山相論事云々。などあり。此はこゝの山前か。又別處か考べし。序に記す。】○自縊焉。扶桑略記には。たゞ自害と記し奉れり。御年二十五。懷風藻云。皇子博學多通。有2文武材幹1云々。廣延2學士1。云々等以爲2賓客1。太子天性明悟。雅愛博古。下v筆成v章。出v言爲v論。議者難2其洪學1。未v幾文藻日新。とあり。この天皇韓人を愛し。漢風を好みまして。父帝には甚く寵せられまし/\けん。されど今昔物語に記せるを見れば。皇子田獵を好み。猪鹿を殺すを事とし給ひ。常に御身に弓箭を帶び。軍士を率て。山に入て獣を狩給ふなど。御性柔仁の方には速くまし/\けん。信友云。今近江の粟津の南。勢田(ノ)橋の西ざまに。鳥井川村といふ處に。御|靈《レウノ》社とて在るを。大友皇子を祭れるなりと云傳へたりとぞ。其わたりは。大しき御軍場にて。大友天皇大御みづから屯し給へる。御迹處なるべければ。そのかみ土人の畏みいとほしみ奉りて。御靈を鎭め祭りたるなるべし。此天皇の御事を。さらに土人に云ひ聞せて。なほざりに思奉るまじき由を。示しおかまほしき事にこそ。と云り。さて此天皇の御陵は。地名は右に云る山前にて。(3577)別所村にあり。【陵墓一覧。滋賀郡別所村。】塚字龜つかと稱す。元は三井寺山内の地なりとぞ。さて其地は天皇崩給ひにければ。與多王はからひたまひて。まづ御骸を其地に葬奉りおきて。天武天皇の御世となりての三年におよびて。遺詔の如く其陵地に。園城寺三井寺を創建《タテ》させて。與多王に司り奉仕しめ給へるなり○左右大臣は。蘇我赤兄。中臣金なり○物部連麻呂。姓氏録左京神別。石上朝臣。神※[馬+堯]速日命之後也。宇麻志麻治命十六世孫。物部連公麻呂。賜2物部朝臣姓1。改賜2石上朝臣姓1。【此文宇麻志麻治命以下二十九字。舊本に細書として入れり。さて其文中に。賜2物部朝臣姓1。改賜2石上朝臣姓1。とあるはいかゞなり。後に石上朝臣となれるは。所謂舊姓にて。改姓にはあらず。この事は既に藤原氏の下に云り。文字に誤ありげに見えたり。】此人。五年紀七年紀持統紀にもつぎ/\見えて。或は物部と記し。或は石上とも記せり。さて續紀養老元年三月癸卯。左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。【輔任に年七十八。】帝深悼惜焉。爲v之罷v朝。詔遣2式部卿正三位長屋王。左大弁從四位上多治比眞人三宅麻呂1。就v第吊2賻之1。贈2從一位1云々。百姓追慕無v不2痛惜1焉。大臣泊瀬朝倉朝廷大連物部目之後。難波朝衛部大華上宇麻呂之子也。とあり○從之とは。散亡せず。天皇の御|期《イマハ》まで從ひまゐらせしとなり。これを信友が。崩に殉死《シタガヒマカ》るなりと云れたるは非なり。麻呂連を見よ。さて下文に立かへりて。癸丑【二十四日】諸將軍等。悉會2於※[竹/(脩の月なし)]浪1。而探2捕左右大臣及諸罪人等1。乙卯【二十六日】將軍等向2於不破宮1。因以捧2大友皇子頭1。而獻2于營前1。とあるを。此に回(ラ)して。事状貫りてきこゆ。※[竹/(脩の月なし)]波はもと志賀の地の大名にて。古くより聞えたる處なり。
 
(3578)初將軍吹負向(テ)2乃樂(ニ)1。至2稗田(ニ)1之日。有(テ)v人曰。自2河内1軍多至。則遣(テ)2坂本臣財。長尾直眞墨。食墻(ノ)直麻呂。民(ノ)直小|鮪《シビ》。谷(ノ)直根麻呂(ヲ)1。率(テ)2三百(ノ)軍士(ヲ)1。距2於龍田(ニ)1。復遣(テ)2佐味(ノ)君|少《スクナ》麻呂(ヲ)1。率(テ)2數百人(ヲ)1。屯2大坂(ニ)1。遣(テ)2鴨君蝦夷(ヲ)1。率(テ)2數百人(ヲ)1。守2石《イハ》手(ノ)道(ヲ)1。
 
これより立かへりて。又大和にての事を擧られたり。下文に依りて推上せて考るに。七月庚寅朔に當れり。○稗田は。式添上郡|賣太《ヒメタ》神社。稗田村にあり。【今同郡の西稗田村なり。】郡山の近き邊なり○郡多至は。近江の軍なり○坂本臣財。此氏雄略妃に出。財二年紀に。大錦上坂本臣卒となり。此人なり○長尾直眞墨。此氏本系詳ならず。續紀延暦元牛六月。外從五位下長尾忌寸金村爲2博士1。とあり。武大和國葛下郡長尾神社あり。眞墨此後見えず○倉墻直麻呂。續紀大寶三年五月。倉垣連子人云々。連一本直となり。慶雲四年正月。椋垣直子人賜2姓連1。和銅二年正月。椋垣忌寸子人。とあり。六年にもしかあり。【忌寸を賜へること。史に載せず。】寶龜三年四月。坂上大忌寸苅田麻呂等言云々。先祖阿智使主歸化。詔賜2高市郡檜前村1而居焉云々。天平三年。以2内藏少屬從八位上藏垣忌寸家麻呂1。任2少領1。とあり。此に依らば此氏は坂上同祖なり。氏族志云。按坂上系圖。引2姓氏録1。藏垣氏系出2志努(ノ)子刀禰1。又有2無v姓者1。見2外記日記1。又有2姓宿禰者1。見2除目大成鈔1。蓋皆是族也。と云り。【姓氏録。椋垣朝臣。天兒屋根命之後也。とあるは異姓なり。】○民直小鮪。六月に出○龍田は。既に出。龍田(3579)より河内へ越る山路は。今の龍野越なり。【これをの信友が。今のくらがり峠なるべし。と云るは甚しき非なり。】○大坂。此地の事は。紀中をり/\出て。既に云り。和名抄大和國葛上郡大坂。記垂仁段に。大坂戸とあるこれなり。八年紀に。初置2關龍田山大坂山1。と見えたり。古の官道なり○鴨君。中臣本及本書傍書に。鴨を甘茂に作れり○石手道。たしかにはあらねど。集解に。按河内志曰。聞道|岩室越《イハヤゴエ》。葛下郡堺至2山田郡堺1。至2山由1二十町蓋此。とある。【通證にもしか云り。】まづ叶へるが如し。
 
是日。坂本臣財等。次《ヤトル》2于平石(ノ)野(ニ)1。時(ニ)聞(テ)2近江(ノ)軍在(ト)2高安(ノ)城(ニ)1。而|發《タツ》之。乃近江(ノ)軍知(テ)2財等(ガ)來(ヲ)1。以悉(ニ)焚2税倉《チカラグラヲ》1。皆散亡。仍宿2城(ノ)中(ニ)1。會明。臨2見(バ)西(ノ)方(ヲ)1。自2大津丹比兩道1。軍衆多至。顯(ニ)見2旗※[方+織の旁](ヲ)1。有(テ)v人曰。近江(ノ)將壹伎史韓國(ガ)之師也。財等自2高安城1降(テ)。以渡(テ)2衛我《ヱガノ》河(ヲ)1。與2韓國1。戰2于河(ノ)西(ニ)1。財等衆少不v能v距(コト)。先v是遣(テ)2紀(ノ)臣大|音《オトヲ》1。令v守2懼坂《カシコサカノ》道(ヲ)1。於是財等。退(テ)2懼坂(ノ)道(ニ)1。而居2大音之營(ニ)1。是時。河内國司守來目(ノ)臣鹽籠。有d歸《マヰヨル》2於不破(ノ)宮(ニ)1之情u。以(テ)集2軍衆(ヲ)1。爰韓國到(テ)之。密(ニ)聞(テ)2其謀(ヲ)1。而將v殺2鹽籠(ヲ)1。鹽籠知(テ)2事漏(コトヲ)1。乃自死焉。
 
平石野は。河内志に。平石嶺在2平石村上方葛下郡堺1。とあり○高安城。天智紀六年十一月。築2倭國高(3580)安城1。とあり。此地後に河内國高安郡に入りて。城趾は今服部川の上にありと云り。既に出○發之。本に發を登に誤る。今京極本に據る○焚税倉。本に税上秋字あるは衍なり。今中臣本京極本に據る。さて此税倉は。天智紀八年に。是冬修2高安城1。收2畿内之田税1。また九年二月に。又修2高安城1。積2穀與1v鹽。と見えたり。此事の後四年紀に。二月丁酉。天皇幸2高安城1。とみゆ○仍宿城中。財等が軍士。高安の空城に入て宿れるなり。さて此後續紀大寶元年八月丙寅。廢2高安城1云々。とあり○會明。二日辛卯なり。○大津は。式に河内國丹比郡大津神社。志に。在2丹下宮邑1。今稱2大宮1。とあり。之に依に。大津丹比共に河内國なり。しかるに此大津を。和泉國泉北郡大津浦と爲し者は非なり。また信友は。下文に聞d近江軍至uv自2大坂道1。而將軍引v軍如v西。到2當麻衢1。與2壹岐史韓國1。戰2葦池側1。とあると。又高市牟佐二神の教に。自2西道1軍將將v至云々。と見え。又二神所v教の如く。韓國が大坂より來るとあるに依るに。大津とあるは。大坂なるべきを。既く大津と寫誤れるにやあらんと云れたる。更に信がたし。此西方は。高安城の西方なり。將軍引v軍如v西。また自2西道1軍衆將v至。とあるは。倭國にての事なり。それを一(ツ)に見られたるは。いかなる事にか○丹比は。即河内國丹比郡なり○兩道は。高安郡より西方にあたれり○壹岐史韓國。此氏舒明紀に出。韓國は。松尾社家系圖に據に。天兒屋根命十八世忍見命。【出2顕宗紀1。】其子大富命。【母物部目連女】其子十握命。其子若彦。【欽明二十八年云々】島主。若彦子磐余。【敏達朝云々。】乙等。【母紀伊國造押〓女。推古朝云々】乙等子韓國。【爲2大友皇子將1云々】と見えたり。然れば此人は。兒屋根命二十三世孫なり○衞我河。河内國志紀郡な(3581)り。紀に應神天皇の御陵惠賀之裳伏岡。諸陵式に志紀郡と爲り。雄略紀。顕宗紀。崇峻紀等に此地出たり。此川今は石川とも云ひて。石川郡より北へ流れて。古市郡を經て。志紀郡の東堺を經て。大和川に入る川なり○紀臣大音。この人の傳詳ならず。天智紀に紀|大人《ウシノ》臣爲2御史大夫1。とある大人を。信友がオフトと訓て。同人と見られたるは誤なり。此人のことは天智紀に既に云り○令守懼坂道。令を本に合に作るは誤也。今諸本に據て改む。懼坂は萬葉集に。石上乙麻呂。配2土佐國1時歌。參昇《マヰノボル》八十氏人乃。手向爲等恐乃坂爾《タムケストカシコノサカニ》。幣奉《ヌサマツリ》云々。吾はそ追《オヘ》る遠《トホキ》土佐道を。とよめる恐乃坂は。此懼坂にて。大和より河内へ越る坂なるべし。と或人云り。さもあるべし○懼坂道。本に道字脱たり。今釋紀に據る○來目臣鹽籠。此氏孝徳紀に出。鹽籠詳ならず○知事漏乃自死。以上二日の事なり。
 
經(テ)2一日(ヲ)1近江(ノ)軍當(テ)2諸(ノ)道(ニ)1多至。即並(ニ)不v能2相戰(コト)1以解退。
 
經一日。中一日を隔てゝなり。すなはち癸巳四日なり○以解退。財大音等が戰に堪ずして。近江の軍解退たる由と聞ゆ。
 
是日。將軍吹負爲2近江(ノ)1所(テ)v敗。以|獨《ヒトリ》率(テ)2一二(ノ)騎(ヲ)1走之。逮(テ)2于墨坂(ニ)1。遇《タマ/\》逢2菟(ガ)軍(ノ)至(ニ)1。更(ニ)還(テ)屯(テ)2金綱《カナツナノ》井(ニ)1。而|招《ヲキ》2聚散卒(ヲ)1。於v是聞(テ)2近江(ノ)軍至(ト)1v自2大坂(ノ)道1。而將(3582)軍引(テ)v軍(ヲ)如(ク)v西(ニ)、到(テ)2當麻(ノ)衢(ニ)1。與2壹岐史韓國(ガ)軍1。戰2葦池(ノ)側(ニ)1。時(ニ)有(テ)2勇士來目(トイフ)者1。拔(テ)v刀(ヲ)急(ニ)馳(テ)。直入2軍(ノ)中(ニ)1。騎士《ウマイクサ》繼踵《シキリテ》而進之。則近江(ノ)軍悉(ニ)走之。追(テ)斬(コト)甚多。爰將軍令(テ)2軍中(ニ)1曰。其發v兵(ヲ)之|元《モトノ》意(ハ)。非v殺(ムニハ)2百姓(ヲ)1。是爲(ナリ)2元凶《アタノ》1。故莫2妄(ニ)殺(コト)1。於是韓國離(テ)v軍(ヲ)獨逃也。將軍遙(ニ)見(テ)之。令2來目(ヲ)1以俾v射。然不v中。而遂走(テ)得v免(コトヲ)焉。
 
率一二騎走之。上又に。癸巳。【四日】將軍吹負與2近江將大野君果安1。戰2于乃樂山1。爲2果安1所v敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得v脱v身。と見えたる時の事なり○墨坂。大和宇陀郡なり。神武紀崇神紀に出。此坂。宇陀郡|萩《ハイ》原の西にありて。伊賀伊勢へ越る坂路なり○遇逢菟軍至。去二日。紀臣阿閇麻呂。三輪君子首。置始連菟等。數萬騎を率て。伊勢大山を越て。倭に向ひける途中。九日に。去四日大和にて。吹負が敗軍せる由を聞て。軍を分《クマ》り。菟三千餘騎を率て。急馳2倭京1。とあるが來れるに逢たるなり○金綱井。詳ならず。桔※[木+皐]井と云へる井のあるに依りたる地名なるべし。【和名抄。桔※[木+皐]。辨色立成云。桔※[木+皐]鐵索井也。結高二音。和名加奈豆奈爲とあり。今云はねつるべなり。】集解に。據2下文1。蓋高市郡地名。高市郡有2飛鳥井。井谷井。遊部井。桑原井。秀泉井。御蔭井等1。此時井施2鐵索1。故有2此名1耳。と云り。此説然るべし。しかるに信友云。其地は宇陀郡墨坂に近き處ときこゆ。此(3583)次文に。將軍引v軍如v西。到2當麻衢1。とあり。方位も叶へり。さて更還屯2金綱井1とあるをおもふに。此處吹負が本營ときこえたり。又下文に軍2金綱井1之時云々とて。高市牟狹の二神の著神《カムガヽリ》の事を記されたるは。此時の事なるべし。こゝに合考べし。と云れたれど。本營は必高市郡なる古京なるべし。更還とあるも。京にてこそ聞えたれ。墨坂の地は。一時遁れて至りしところなり。二神の著神ありしも。其地の神にしてよく聞えたり。はるかに隔たれる墨坂の事とは見えず。なほ次に云べし○於是。信友云。此日考かたし。上に遠からぬほどなるべし。と云り○大坂道。上出○將軍。吹負なり○當麻衢。和名抄大和國葛下郡當麻郷多以末。正しくは多岐麻といへり。記履中段に。到2幸大坂山口1。遇2一女人1。其女人白之。持v兵人等。多塞2茲山1。自2當岐麻道1。回應2越幸1。とある地理も考合すべし。當麻衢の舊趾は。今葛下郡良福寺村。有2衢池1。廣三十畝。即衢舊趾。と大和志に云り○葦池。志云。葛下郡葦田池。在2王寺村1。廣三百三十餘畝。とあり。よく考ふべし○來目。姓を脱するか。又名を脱するか○俾射。俾は衍か。
 
將軍更還2本(ノ)營(ニ)1。時東師頻(ニ)多臻。則分(テ)v軍(ヲ)。各當(テ)2上中下道(ニ)1而|屯《イハム》之。唯將軍吹負。親當2中道1。於是近江(ノ)將犬養(ノ)連五十君。自2中道1至(テ)之。留2村屋(ニ)1。而遣(テ)2別(ノ)將廬井造鯨(ヲ)1。率2二百(ノ)精兵(ヲ)1。衝《ツク》2將軍(ノ)營(ヲ)1。當時《トキニ》麾下(ノ)軍少(テ)。以不v能v距(コト)。(3584)爰有2大井寺(ノ)奴名(ハ)徳麻呂等五人1。從v軍。即徳麻呂等|爲《シテ》2先鋒《サキト》1。以(テ)進(テ)射之。鯨軍不v能v進(コト)。
 
本營は。集解に。按據2前文1。本營即高市郡岡本。と云る。さることなり。信友はこれを金綱井なるべしと云るは非なり。上に云り○東師は。近江の軍なり○上中下道は。大澤清臣云。上津道は。三輪より奈良への街道。中津道は。城下郡藏堂村より北への街道。三宅道と云。今中道と云(フ)。下津道は。八木より北への街道なり。と去り。大乘院寺社雜事記。文正元年十一月十三月の下に。上津道防禦事。六方各日罷出云々。仍明日は能花院番也。と云事見えたり。その比も上つ道の稱はありしなり。今は上《ウハ》街道と云。下つ道は。八木村より北の方二階堂村に至りて。中つ道と一(ツ)となりて。奈良及郡山に通ずるなり。さて上中下と定めたるは。高市郡の京より定めたるものと見えたり。【これにても。金綱井は。必高市郡なるべきなり】然るに集解に。下道(ハ)高市郡といひ。信友は葛下郡當麻の通道なるべきにやと云は。いづれも推測の説にて。地理に叶はず○犬養連五十君は。上に村國連男依が爲に斬らるとあれば。こゝは誤なるべし○村屋は。城下郡の地名なり。此自2中道1云々の事。下文に村屋神着v祝曰云々。とある下に注(ヘ)ると。合せ考べし○廬井造鯨。此氏書に見えず。式に近江國栗太郡廬井神社あり。大和志に平群郁五百井村あり。これらの地名によれるか。詳ならず。鯨も詳ならず○將軍営。これも高市郡なり。金綱井と云るは非なり(3585)○大井寺。信友云。大井寺詳ならず。按に皇極紀に。百済大井家とあるを。下文に考合するに。河内國なり。和名抄河内國錦部郡百済郷あり。今其地に大井村と云ふがありとぞ。其地に在ける寺なるべし。敏達紀に宮2于百済大井1。とも見ゆ。と云り。
 
是日。三輪君高市麻呂。置姶連菟。當2上道(ニ)1。戰2于|箸陵《ハシノハカノモトニ》1。大破(テ)2近江(ノ)軍(ヲ)1。而乘v勝(ニ)。兼(テ)斷2鯨(ガ)軍之後(ヲ)1。鯨軍悉解走。多殺2士卒《イクサヲ》1。鯨乘(テ)2白《アヲ》馬(ニ)1以逃之。馬墮2※[泥/土]《フカ》田(ニ)1。不v能2進行(コト)1。則將軍吹負。謂(テ)2甲斐(ノ)勇者(ニ)1曰。其《カノ》乘2白馬(ニ)1者(ハ)。廬井鯨也。急(ニ)追(テ)以射。於是甲斐(ノ)勇者馳(テ)追之。比《コロホヒ》v及(ブ)v鯨(ニ)。鯨急(ニ)鞭v馬。馬能|拔《ヌケテ》以出(テ)v※[泥/土]《ヒヂリコヲ》。即馳(テ)之得v脱(コトヲ)。將軍亦更(ニ)還(テ)2本(ノ)處(ニ)1而軍之。自v此以後。近江軍遂(ニ)不v至。
 
箸陵は。倭迹々姫命の御陵なり。崇神紀に大市に葬と見えたり。已に出。いま箸中《ハシナカ》村と云。箸御陵《ハシノミハカ》の約なり○斷鯨軍之後。信友云。五十君が兵は村屋に留り。鯨は精兵を率て。進て吹負が營に衝入りたれど。徳麻呂等に防がれて。進かねてあるほど。高市麻呂等。上道の軍に勝て。其勢に乘て。中道より至る鯨が後(ヘ)を斷て伐ちたるなり。但し其中道より至る由は。下條に見えたり。と云り○甲斐勇者は。甲斐國人にて。姓名のつたはらぬなるべし〇本處。上に云る高市郡の本營なり。
 
(3586)先(ニ)v是軍2金綱井1之時。高市郡(ノ)郡領《コホリノミヤツコ》高市(ノ)縣主|許梅《コメ》。※[脩の月が黒]忽《ニハカニ》《クチ》《ツクヒテ》。而不v能v言(コト)也。三日之後(ニ)。方(ニ)著神《カミガヽリ》以言。吾(ハ)者高市(ノ)社(ニ)所居《ヲル》。名(ハ)事代主(ノ)神。又牟狹社(ニ)所居《ヲル》。名(ハ)生《イク》靈(ノ)神(ナリ)者也。乃|顯之《アラコトニシテ》曰。於2神日本磐余彦天皇之陵1。奉2馬及種々(ノ)兵器(ヲ)1。便亦言。吾者立(テ)2皇御孫命之|前後《ミサキシリニ》1。以送2奉于不破(ニ)1而還焉。今|且《マタ》立(テ)2官軍(ノ)中(ニ)1。而|守護《マモリマツル》之。且言。自(リ)2西(ノ)道1。軍衆將v至(ト)之。宜v慎也。言訖則醍矣。
 
高市郡大領。本營近くに此大領が住しなるべし○高市縣主は。記に。天津日子根命者。高市縣主之祖也。姓氏録右京皇別。高市連。額田部同祖。天津彦根命三世孫。彦伊賀都命之後也。和泉高市縣主。同神十四世孫。建許呂命之後也。とあり。十二年紀十月。高市縣主賜v姓曰v連。聖武紀。外從五位下高市大國賜v連○高市社所居名事代主神。本に社を杜に作る。今秘閣本中臣本釋紀等に因て改む。【杜とある本に就て。これをモリと訓るもあり。杜をモリと訓ることは論なけれど。續紀十七に。大神|社《モリ》女を。同二十七日に。大神(ノ)毛理賣に作れり。萬葉九妻(ノ)社《モリ》など例あれば。社にてもなほモリと訓まんに。あしくはあらねど。こゝはなほ也志呂と訓べし。】さて此社は。式高市郡飛鳥坐神社四坐。【並名神大月次相甞新嘗】とある。これを【また高市郡伽縣坐鴨事代主神社大ともあれど。其にはあらず。】舊事紀に。事代主神。坐2倭國高市都高市社1。亦曰2甘南備飛鳥社1。とあるこれなり。此は神壽詞に。賀夜奈流美命能御魂乎。飛鳥乃神奈備爾坐。とある御社にて。主神は。上古は賀夜奈流美命に坐しかども。後には賀夜奈流美命をば。異處に移(3587)し奉れり。式高市郡加夜奈留美命神社。とあるこれなり。これを帳考に。在2栢《カヘノ》森村1。今稱2葛《クズ》神1とあり。さて夫よりしては。飛鳥社は。旨と事代主神を。【もとは賀夜奈流美命の相殿に坐しゝならむ。】齋奉たりしものと見えたり。【かの御縣神は。事代主能御魂乎宇奈提爾坐とある神なり。同郡なれども高市社とは申さず。この專は神代紀に既に云り。】○牟佐社所居名生靈神。神名式高市郡牟佐坐神社。【大月次新嘗。】此社今三瀬村にありて。境原天神と稱すと云り。さてこの神名。本に生雷とあるを。中臣本考本及釋紀に。生靈とあるに據れり。信友云。其は生産日神と稱すと。おなじ靈にやあらん。然らば生産日神事代主神は。共に式に神祇官に坐。御巫(ノ)祭神八座の中なり。【但し生雷神ならむには。神名式に。遠江國磐田郡に生雷神社。一本には生雷命神社とあり。】と云り○顯之の訓。阿羅波碁登志弖とよむべし。神託を顯はすを云○神日本磐余彦天皇之陵は。畝火山東北陵なり。既に云。信友云。此陵を祭奉るべき事は。上の三神に合せて下に云べし。と云り〇奉馬及云々。陵に神馬を献りし故事は。雄略紀にみゆ○立皇御孫命云々。神より天皇を申奉る稱なり。故この神語に。しか申給へるまゝを書せるなり○還焉。天皇の吉野を發給へる頃より。二神其|前《ミサキ》と後とに立て。不破に營を定め給ふまで。守護り送り奉りて。還り給ひぬとなり。【六人部是香云。此天武紀の文に。不破に送りて還坐るよしなるに附て。其後は守護し給はざるが如く通ゆれども。爾にはあらず。天皇不破に留り坐る後は。又其地の産土神に。彼兩社の神等の託し給へる故に。御身づからは。本社にかへらせ給へるなるべし。然れども。尚其社に屬生る異神の中を選みて。殘し置給へりしには違あるまじく。考合さるゝ事ありと云り。】○今且立官軍中而。今より且大和わたりの御軍の中に立て。守護り給へる由にて。いとも畏き御事なり。本に而字なし。今中臣本水戸本信友校本に據る〇自西道。西道の軍衆とは。近江軍壹岐史韓國が至らむ事を。預に示し給へるなり。下文に見えたり。
 
(3588)故是以便遣(テ)2許梅(ヲ)1。而祭2拜(テ)御陵(ヲ)1。因(テ)以(テ)奉2馬及兵器(ヲ)1。又捧v幣。而禮2祭高市身狹二社之神(ヲ)1。然後壹伎史韓國。自2大坂1來。故時人曰。二社(ノ)神(ノ)所教《ヲシヘタマヘル》之辭。適《マコトニ》是(ナリ)也。又村屋(ノ)神|着《カヽリテ》v祝(ニ)曰。今自2吾社中(ノ)通1。軍衆將v至。故宜塞2社(ノ)中(ノ)道(ヲ)1。故未v經2幾日(ヲ)1。廬井造鯨(ガ)軍。自2中道1至。時人曰。即神所v教之辭是也。
 
祭拜御陵因以奉馬及云々。此は金綱井の營にての事にて。吹負が計らひて。禮(ヒ)祭り幣奉りたりしなり○然後云々自大坂來。これ前に。自2大津丹比兩道1。軍衆多至(ル)云々。近江將壹岐史韓國之師也。とあると。又上の神教に。且言。自2西道1軍衆將至之。とあるに合り。【此を信友が。大津は大坂の誤寫なるべき事。上に辨へ注るを。此と考合すべし。と云るは非なり。】○村屋神。神名式。城下郡村屋坐彌富比賣神社。【大月次新甞。】此社今|藏堂《クラドウ》村と云るに在て。里俗天王と稱す。と通證に云り.〇宜塞社中道。信友云。中道は。上に上中下の道とある中道なり。しかるに。こゝに吾社(ノ)中道と宜へるは。村屋神社は。其中道に當りて在けるに依て。神社の邊《ワタリ》より向《サキ》にて。近江の軍衆を塞へ防ぐべき由なるべし。と云り○神所教之辭是也。此は前に犬養連五十君は。自2中道1至之。留2村屋1云々。と見え。また鯨が三輪君高市麻呂等に撃敗られて。走《ニゲ》たる事見えたり。共にこの村屋神の教《サト》し給ひ護助給へるなり。
 
(3589)軍政既(ニ)訖(テ)。將軍等擧(テ)2是三(ノ)神(ノ)教言(ヲ)1而奏之。即勅(テ)登3進《アゲテ》三神之品(ヲ)1。以祠焉。
 
軍政既訖。此時の亂(レ)治りて後の事を。因にこゝに載られたる。これなり〇登進三神之品以祠焉。信友云。三神は。上に見えたる高市牟佐村屋三社の神なり。品を登進《アゲ》とは。當昔《ソノカミ》の恒例《ツネ》の祭典《マツリワザ》を更かて。此度の守護の報賽に。其品を登進て祭り給へる由なるべし。當時神に位階を授給へる事は。未(ダ)あらず。【武郷云。或人云。神階を進むること。是より以前に見えざれば。是ぞ始なるべき。抑神社に位を授奉るは。幣物を定むるためなるべし。と云り。】件の三神の位階の事の。史に見えたるは。三代實録に。貞如元年正月。高市の事代主神を。從二位より從一位に。牟佐神村屋神を。共に從五位下より。從五位上に進め給へる由見えたり。但し三神ともに。前々の叙位史ともに記漏されたり。さて此|度《トキ》高市に坐事代主神。牟佐に坐|生靈《イクムスビ》神。村屋に坐彌富都比賣神の。御名を顯はして。ことさらに守護給へる事は。もとより天照大御神の御慮にて。神々相うつなひ給へる上の御計ひなるべければ。あなかしこ。かにかくに議し申すべきにはあらざれど。今こゝに顯はれ給へる三神の由縁を。竊におもひ奉るに。古事記に。大國主神國避のときの言に。僕子等百八十神者。即八重事代主神。爲2神之御尾前1。而仕奉者。違神者非也。とある條の傳に。此事代主神。渠帥《ヒトゴノカミ》として。諸神の前《サキ》にたち。後にたちて。天神の御子を守護(リ)奉仕らむとなり。天武卷に。高市社に坐事代主神と。牟佐に坐生靈神と二柱。高市縣主許梅に著て。吾者立2皇御孫命之前後1云々。守護之。と詔へる事をも思合すべし。此神後世まで。神祇官(3590)の八神の列にも入て。祭られ奉(リ)給ふも。全天皇の大《ミ》身を守護(リ)奉給ふ由縁なり。と説《イ》はれたる。然る事なり。なほ思ふに。生靈神は。もしくは産靈神の分(ケ)靈を稱へ奉れる御名にや有らむ。然おもひ奉る由は。彼八神の中の。神産日高御産日二神に次て。玉積産日。生産日。足産日など稱して。祭り奉り給へるは。もとより産靈神の靈の功徳を分ち稱へて。祭奉れる上の御名にして。生靈としも申すは。もはら人の命の幸くあるべき事を。司り給ふ御靈なれば。然は稱へ奉れるなるべし。三代實録に。貞觀元年正月二十七日。右の八神の中の産日の神たち。五坐相共に。無位より從一位を授奉り給ひ。ほどなく同年二月朔日に。又共に正一位を授奉り給へり。八神の中にて。此産日の五神をすぐりて。同(ジ)等《シナ》にことさらに。然ものし給ひたりけるは。産靈の功徳を等しくして。天皇を守護(リ)給へるが故なるべき事の。おもひ合されてなん。また彌富都比賣神の御上は。神代紀皇孫尊天降の段の一書に。是時歸順之|首渠《ヒトゴノカミ》者。大物主神。及事代主神。乃合2八十萬神於天高市1。帥以昇v天。陳2其誠款之至1時。高皇産靈尊勅2大物主神1。汝若以2國神1爲v妻。吾猶謂3汝有2疎心1。故今以2吾女三穗津姫1。配v汝爲v妻。宜領2八十萬神1。永爲2皇孫1奉護。乃使2還降1之。と見えたり。これ高皇産靈神。皇孫尊の御爲に。如此計らひ治め給へるにて。すべて此|度《トキ》の神々の御守護の趣に。おもひ合されていと畏し。又神武天皇の御事は。書紀に載られたる古語に。於2畝傍之橿原1也。太2立宮柱於底磐之根1。峻2峙搏風於高天之原1。而始2馭天下1之天皇。と稱奉りて。現御神の天皇の御始祖と坐し。殊に其大和國の山陵に。御魂の鎭坐ませば。馬兵器等(3591)を奉りて。更に大御世の爲に。軍の利を祈祷奉るべき理なれば。然|教《サト》し祭らしめ給へるなるべし。さて又此度の高市牟狹村屋の神たちの。驗き御守護の情状。又神武天皇の陵を祭給ふべき御|教《サトシ》ありしことなどによりても。すべて神を崇尊奉るべき幽理《コトワリ》を。つら/\に悟り。また尋常の聊き私(シ)事などに。謾に神に祈祷《ノミゴト》などすまじき事をも。辨へしるべき事なりかし。と云れたるは。みなさる事どもなり。
 
辛亥。將軍吹負。既(ニ)定(テ)2倭地(ヲ)1。便越(テ)2大阪(ヲ)1。往2難波(ニ)1。以餘《コレヨリ》《ホカノ》將軍等。各自2三(ノ)道1進(テ)。至2于山前(ニ)1。屯2l河(ノ)南(ニ)1。
 
辛亥二十二日なり。さきに壬子二十三日【男依等斬2近江將犬養連五十君。及谷直鹽手於粟津市1。於是大友皇子走無v所v入。乃還隱2山前1。以自縊焉。】の事までをしるし。またこれより再たちかへりて。大和にての事をしるすとて。吹負が大和を定て。上り來れる時の事に立かへりて。辛亥二十二日より記して。是より以下は。日次を次第《ツイデ》記されて。事實は貫《トホ》りて通ゆ。されどこゝはなほ先是とあらまほし。【中臣本傍書に。七月庚寅朔也。辛亥二十二日也。上(ノ)壬子二十三日。癸丑二十四日也。次第如比辛亥如何。と疑ひおかれたるは。さる言なれど。釋紀に。此辛亥の事を擧て。私記曰。七月(ハ)庚寅朔。二十二日有2辛亥1。而(ルニ)同月又有2二(ノ)辛亥1乎。矢誤之甚也。師説。史之失。可(シ)v滅《ケス》。戸部侍郎同之。とあるは疎なる説なり。】○從難波。大坂を越え。河内に入りて。難波へ往たるなるべし○以餘別將軍。上に大和にての事の條に。令2吹負1拜2將軍1。是時三輸君高市麻呂。鴨君蝦夷等。及群豪傑者。如v響會2將軍麾下1。乃規v襲2近江1。因撰2衆中之英俊1。爲2別將及軍監1。庚寅初向2乃樂1。とある人人なり○自三道進とは。大和より三道に分れて。近江に進み入たるなり。其三道の一は難波より。一は(3593)山城より。一は伊賀よりなるべし。【然るに。此三道を。信友が。上に見えたる三道なるべし。と云れたるは非なり】○至于山前屯河南。山前は上に見えたるごとく。天皇の隱ひ坐る處なり。屯河南とは。其處の河の南に屯み居りて。逼め奉れるなり。かくて明ぬる二十三日に及びて。遂に大友皇子御事まし/\けるなり。この山前の地。また河南とある河の事は。既に上に云り。【此河南とあるを。宇治河の南といひ。或は淀川の南とある説は。甚く非なり。】
 
將軍吹負。留2難破(ノ)小郡(ニ)1。而(テ)仰(テ)2以西(ノ)諸國(ノ)司等(ニ)1。令v進2管鑰驛鈴|傳印《ツタヒシルシヲ・シルシノオシテ》1。
 
將軍の上に。中臣本即字あり○留難波小郡。本に留字なし。今は中臣本水戸本考本信友校本に披る。信友云。此は皇子の御事なき以前に。吹負が大和に在ける間に。命せつけ給へるを奉りて。行ひたるなり。其は使を遣し。又軍兵を向け給はむ爲は。然る事にて。なべて稜威を四方八方に示し給へる御所爲にて。此も又いちはやき御計ひにて有ける。さて又難波(ノ)小郡は。既に敏達紀にも見えたり。攝津志に。西成上古難波小郡(ナリ)と云へるは舊説なるべし。難波古圖にも小郡見えたり。と云り○以西諸國は。攝津國より西の國々なり。その國分は詳ならず。今の俗諺に。東三十三箇國。西三十三箇國と。いひならへるも。古のなごりにやと信友云り○令進管鑰云々。又云。國司等に。任國を放れて。避奉らしめ給ふ御|行《シワザ》なり。さてこゝに准ふべきにはあらねど。承徳三年の寫本の將門が事を書る記に。將門が言に。苟(モ)將門(ハ)刹帝(ノ)苗裔。三世之末葉也。同者始v自2八國1。兼欲v虜2領王城1。今須d先奪2諸國印鎰1。一向受領(3593)之限。追c上於官堵u。然則且掌(ニ)入2八國1。且〓2附萬民1。と云ひて。上野下野に打入て。國司を逼めて。廳の印鎰を奪ひたる事見えたり。と云り。事は異なれども。其旨は同じと云べし。管鑰。【本に管を官に作る。今改め正せり。】關門倉庫の管鑰なり。令に中務省大監物二人。掌v請2進管鑰1。大主鈴二人。掌d出2納鈴印傳符飛鑰函鈴1事u。とあり。驛鈴傳印の事は。孝徳紀に云り。
 
発丑。諸將軍等。悉(ニ)會(テ)2於|※[竹冠/(脩の月なし)]《サヽ》【※[竹冠/(脩の月なし)。此云2佐々1。】浪(ニ)1。而探2捕左右大臣。及諸罪人等(ヲ)1。乙卯。將軍等。向2於不破(ノ)宮(ニ)1。因(テ)以捧(テ)2大友皇子(ノ)頭(ヲ)1。而獻2于營(ノ)前(ニ)1。
 
癸丑は。二十四日なり。昨二十三日。大友皇子山前にて。既に御事坐しけり○諸將軍等。扶桑略紀に吹負等と書るは。誤にはあらざれど。元は村國男依等をもこめて見るべきなり○※[竹冠/(脩の月なし)]浪。本に※[竹冠/(脩の月なし)]を※[竹冠/彼]に作れり。類史に※[竹冠/(脩の月なし)]とあるに據る。【但し※[竹冠/彼]此云佐々の五字。類史にはなし。】されど字彙篠篆文作v※[竹冠/彼]ともあれば。※[言+爲]にはあるべからねど。なほ※[竹冠/(脩の月なし)]は字書に篠の古字とあり。また既にも此字出たれば。※[竹冠/(脩の月なし)]とあるぞよろしかるべき。中臣本には。こゝをも篠に作れり。【集解にも。※[竹冠/(脩の月なし)]海篇音小細竹也とあり。】さて彼※[竹冠/(脩の月なし)]浪は。志賀の地の大名なること。既に云り○諸罪人。近江朝廷にては忠臣なるべけれど。天皇に射向ひ奉りし處を以。罪人と書たらんは。もとよりなり。故次には犯状との重罪とも書り○乙卯は二十六日なり○不破宮。考本には宮を營とあり○捧大友皇子頭。釋紀に捧(ノ)字なし○献于營前。持統紀に。七月美濃軍將等。與2大倭傑豪1。誅2大友皇子1。傳v首(3594)詣2不破宮1。とあり。【この事に付て。或人云。按に一年にても。後(ノ)大津宮を知食し天皇の御首に。刀を觸奉しこと。あなかしこ。古今例を聞かざる惡事にて。誰か長歎息せざらん。今其故由を尋ぬるに。不破郡藤下村と云に。自害ヶ峯と云ふ地あり。其處に凡廻一丈五尺餘の一本杉ありて。山神と稱し〇土人は大友皇子の御首塚と傳云り。其より東南一町許にして。若宮八幡社と申し。皇子を祭れるよしなり。其隣村を松尾村と云。村神は天武天皇を祭れりとぞ。しかるに此二村。古來居り合はず。若嫁娶の結ありても。障りを生じ。必ず離るるに至ると云り。さることもあるべし。】
 
八月庚申朔甲申。命(テ)2高市(ノ)皇子(ニ)1。宣2近江(ノ)群臣(ノ)犯状1。則重罪八人(ヲ)。坐《オク》2極刑《シヌルツミニ》1。仍(テ)斬2右大臣中臣連金於淺井田根(ニ)1。
 
八月。按に扶桑略記に。八月天皇幸2野上宮1。立2年號1爲2朱雀元年1。大宰府献2三足赤雀1。仍爲2年號1。とあり。水鏡も同じ。當時大宰帥は栗隈王なり。既に上に見えたり。然れども年號のことは。未(ダ)偏く天下に行はれざりしが故に。此記には。こゝに漏したるなるべし。されどたしかに年號ありしことは。續紀神龜元年の詔に。白鳳以來朱雀以前。年代玄遠。とあれば。扶桑略記水鏡も。誤にはあらず。さればこれよりは。まことに天皇の元年なること。疑ひなきを。次なる二年を以。元年なりと云る説は私なり○甲申は。二十五日なり。さて大友皇子の御事ありし。去七月壬子二十三日より。三十三箇日に當れり。其間さま/”\掟て始め給へる事のありしなるべきを。本紀に載られず○重罪八人坐極刑。近江群臣の。朝廷に對し奉りて。重罪なることは本よりなれば。極刑に坐《オコナ》ふと書たるは當然なり。これを甚しき貶言なりと。信友の云れたるは。天皇の御爲に。かへりて甚しき貶言なりといふべし○斬右大臣(3595)中臣連金。此金(ノ)連は。右の重罪八人の中ときこゆ。【信友云。こゝに骨(ノ)連字無きは。脱たるにか。亦踈なりしか。下文にもありと云れたれど。本に連字あるを。いかに見漏して。しか云るにか。かながちに記者を謗れるより。かゝる踈漏なる説も起れるにこそ。】○淺井田根。水戸本井(ノ)下郡字あり。和名抄近江國淺井郡田根多禰。【本に禰を保に誤れり。】今多根庄あり。大安寺三綱紀專社録に。祇園寺在2淺井郡田根南大路里1。僧房六宇。莊嚴寺在2同郡同處1。僧房八宇。また東鑑建久元年十月九日の條にも。田根庄見えたり。【秘閣本兼永本文明本中臣本。根字なきは誤なり。】
 
是日(ニ)。左大臣蘇我臣赤兄。大納言巨勢臣比等。及|子孫《ウミノコ》。并(テ)中臣連金之子。蘇我臣果安(ガ)之子。悉(ニ)配流《ナガサル》。以餘(ハ)悉(ニ)赦之。
 
是日云々。類史配流部。天武天皇元年七月癸丑云々。是日左大臣云々。とありて。七月の事とせり。癸丑は二十四日なり。この事はなほ次に云○蘇我臣赤兄。集解云。土佐人谷垣守。甞語v余曰。赤兄子孫。今在2安藝1。世以2安藝1爲v氏。相傳。赤兄流2于安藝1。子孫因家焉。とあり。この事安藝人などによく問べし。何れの郡郷にやあらん○巨勢臣比等。此名上文には人とあり○果安之子。父果安は軍中にて死たりき○配流。令義解に。凡配流之人。官位勲位皆悉追取。とあり。既に云り。さて此に出たる人々は。天智十年紀に。十一月丙辰。大友皇子在2内裏西殿織佛像前1。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執2香鑪1。先起誓盟曰。六人同心。奉2天皇詔1。若有v違者。必被2天罸1云々とありし人なり。さていくほどなく十二月三日に。天智天皇崩給へり。信友云。かく誓盟たる五(3596)臣の中に。紀大人臣一人は。その後。紀中に記せる事なく。又此に罪せられたる事見えず。また其子孫配流の事もきこえざるは。御軍の事起れるころより。心變して。竊に吉野に心よせして。隱に告し謀らひたる事などのありけるか。時を窺ひて逃匿れて在しなるべし。其は紀氏系園に。大口(ノ)臣子大人。大納言。天武十五十六三薨。と記せるぞ。詳なる證なる。【群書類從に。天武を天智とあるは誤なり。今一本による。】かくて大人の子のゆくへは。續紀に。慶雲二年七月。大納言正三位紀朝臣麻呂薨。近江朝御史大夫贈正三位大人子也。と見えたり。【贈字。一古本又補任による。】此麻呂朝臣。はやく持統紀七年六月に。直廣肆を授給へる事見え。續紀大寶元年三月。授2中納言直廣貮紀靭臣麻呂正三位1。又爲2大納言1。是日罷2中納言1。と見えたり。今推考るに。この大人臣は。そのかみ陽こそはありけれ。陰《シタ》には壬申の功臣の徒なれば。御許(シ)をうけて世を没へ。其子の麻呂朝臣。世にいで。ときめきたる官をさへに賜はり。父にも位を贈給ひたりしなるべし。正三位は。大寶元年に改制給へる位號なれば。文武天皇の御世か。さらずは。元明天皇の御世の贈位なること决し。さて又これも群書類從本の系圖に。大人の子園益。その子に諸人。その子に麻呂と系りて書るも誤なり。一本に大人の長子に麻呂。二子に園益と系りて書るぞ。元明紀の傳にも合ひて。麻呂朝臣の世ごろも叶ひてぞきこゆる。又比登臣の子のゆくへは。續紀に。天平勝賓五年三月辛未。大納言從二位。兼神祇伯造宮卿巨勢朝臣奈※[氏/一]麻呂薨。小治田朝小徳大海孫。淡海朝大納言大紫比登之子也。と見えたり。此奈※[氏/一]麻呂卿の事。公卿補任に。天智天皇五年丙寅生。天平勝寶五年三月三十日薨。八十八。と見えたれば。壬(3597)申年は七歳の時なり。稚くて罪せらるゝ事を免れたるなるべし。續紀に。天平元年三月。正六位上より外從五位下に叙されたる事。始て見えたり。と云り○以餘悉赦之。信友云。此事どもを。扶桑略記には。.尚七月に係て。二十七日丙辰。右大臣中臣金連被v誅。左大臣蘇我宿禰配流。時年五十。自餘左遷。其員甚多。同日依2其功勞1。各叙2官位1。とありて。この紀の此のさし次なる。丙戌二十七日の下の事を記さず。水鏡にも。二十七日に右大臣殺され.。左大臣流されにき。其外の人々。罪蒙るもの多く侍りき。やがて其日軍に力をいれたる人。つかさ位どもを給はせしなり。と見えたるは。此紀のこゝのさし次に。丙戌二十七日に云々と載られたる事も。こもりてきこえ。編年記にも二十六日云々。翌日依2功勞1任2官位1。と見ゆ。時勢かならず然ぞありけんと。おもひやらるゝを。此紀に七月二十三日。大友天皇の御事ありしより。三十日餘を經て。かく八月二十五日二十七日に係て載られたるは。日次前後の差ありげなりと云り。さる事なり。
 
先v是。尾張國司(ノ)守少子部連※[金+且]鈎《サヒチ》。匿(テ)v山(ニ)自死之。天皇曰。※[金+且]鈎(ハ)有v功者也。無(テ)v罪何自死。其有2隱謀1歟。丙戌。恩2勅諸(ノ)有功勲《イサヲシキ》者1。而顯(二)寵賞《メグミタマモノス》。九月己丑朔丙申。車駕還(テ)宿2伊勢(ノ)桑名(二)1。丁酉。宿2鈴鹿(二)1。戊戌。宿2阿閇(二)1。己亥。宿2名張1。庚子。詣(テ)2于倭(ノ)京(二)1。而御2島(ノ)宮(二)1。癸卯。自2島宮1移2崗本(ノ)宮1。
 
(3598)※[金+且]鈎有功者也。二萬衆を率て來歸せしこと。前文に見えたり。此事は既に上に信友の説を出して云り○丙戌。二十七日也。丙申。八日なり○宿伊勢桑名。路程をもて考るに。不破より發《イデタチ》給へるなるべし。○丁酉。九日なり○戊戌。十日也○阿閇。本に阿を河に誤る。今訂せり。和名抄伊賀國阿拜郡なり○己亥。十一日なり○名張。伊賀國也。上に出○庚子。十二日○御島宮。四宿にして。大和の古京なる島宮に着せ給へり。さて此宮は離宮なるべし。天皇前に皇太子を辭て。吉野に入給へる時にも。此宮に次り給へる事。上に見えたり。又御世知食して後。五年紀にも。正月御2島宮1宴之と見ゆ○癸卯。十五日なり○移崗本宮。島宮に三宿し給ひてなり。崗本宮は。大津に遷都ありて後。古京に離宮の如くにものして。遺し置れたる宮なるべし。此宮を假宮として。姑くおはしましけるなり。と信友云り。
 
是歳。營2宮室《オホミヤヲ》於崗本(ノ)宮(ノ)南(二)1。即冬遷(テ)以居焉。是(ヲ)謂2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1。
 
飛鳥は。地名なり。淨御原とは。大宮の美稱なるべし。大和國十市高市兩郡古迹考【池亭叢書六十八に入れり。】に。高市郡上居村は。淨御《ジヤウゴ》村なり。人皇四十代天武天皇の皇居也云々。舊都趾要覧云。高市郡高市村大字阪田字都。【高市村大字上居(じやうご)の地に接續す。】と云るによらば。宮名の地名になれるなり。さて淨御原と申す名の義は。信友云。此天皇の御名を大海人と稱《マヲ》し。後に天渟中原瀛眞人と稱し奉りて。共に海に由ありてきこゆるは。(3599)生ませる時などに。海原なる海人に據たる。祥瑞のありけるに依て。御名とし給へるにやあらむ。さて日嗣知食しける上の御名の渟中原は。天之海原を。昌便のいきほひに。阿米奴奈波良といはるゝを。御名の唱とし給へるなるべし。又其を天渟中原と。物遠き書ざまなるは。此より前に敏達天皇の御名を。渟中倉太珠數と稱し奉りて。即ち書紀にも記されたり。御名にも例ある好字なれば。撰び用ゐさせ給ひたるなるべし。さて瀛は海原の瀛なり。眞人は良人の義なるべし。おきの眞人と連ねて唱《マヲ》すべし。かくておきの眞人とは。初の御名の大海人と申たると同じかるべし。然れば天ぬなはらおきのまひとゝ申すは。大海人と申すを。うるはしく稱へ奉りたる言ときこえたり。かくておもへば。宮號の淨御原も。清|海《ウミ》原の義にて。これも御名と同じく。海に由ありて。稱へ給へるなるべし。しからば海原滄海原の例にて。キヨナハラと云ふべきが如くなれど。此は清海《キヨミ》と引合せて。言を連ねたるなるべし。此御世の頃書るものに。淨原また清原とも書るは。清淨等の一字を。キヨミと訓べく書るなり。萬葉集には。飛鳥之|淨《キヨミ》之宮とも書り。又尊卑分脈に見えたる。天武天皇の皇子。舍人親王の裔の清原氏も。彼大宮の號をとりて賜ひたるにて。舊《モト》はキヨミハラと唱たるなるべし。また其清原氏の系譜には。海宿禰(ナリ)と見えたり。その海も宇美と唱て。清海《キヨウミ》の海に依れる稱なりしなるべし。おもひ合すべし。又此天皇紀の十三年に。八色(ノ)姓を定て。其次第を一曰2眞人1。二曰2云々1。と見えたり。其八色(ノ)姓の中に。眞人の姓は。八姓の上首にて。今度新に制め給へる稱なり。姓氏録序に。眞人是皇別之上氏也。並2集京畿1。(3600)以爲2一卷1。附2皇別上首1。と謂はれたるが如く。皇族を親しみて。ことさらに賜へる姓《カバネ》と聞えたり。然るは御名の末の眞人と申すをもて。寵(ミ)親みて賜へる御意ばへにてぞおはしけむ。と云れたり。
 
冬十一月戊子朔辛亥。饗2新羅(ノ)客|金押《コムアフ》實等(ヲ)於筑紫1。即日。賜v禄各有v差。十二月戊午朔辛酉。選(テ)d諸(ノ)有2功勲1者(ヲ)u。増2加冠便(ヲ)1。仍賜2禄小山(ノ)位(ヨリ)以上1。各有v差。壬申。船一隻(ヲ)賜2新羅(ノ)客(二)1。癸未。金押日等罷歸。
 
辛亥は二十四日なり○新羅。文武王十二年なり○辛酉は四日なり○仍腸禄。本に禄字なし。今考本に據る○各有差。二年紀にも。二月乙酉。有2勲功1人等。賜v爵有v差。次の御世。文武天皇大寶元年六月庚午。太上天皇【持統】幸2于吉野離宮1。七月辛巳。車駕至v自2吉野離宮1。壬辰勅2親王已下1。推2其官位1。賜2食封1。又壬申年功臣。隨2功等第1。亦賜2食封1。並各有v差。又勅先朝論v功行v封時。賜2村國(ノ)小依百二十戸。云々(ノ)十一人各一百戸。云々(ノ)四人各八十戸1。凡十五人。賞雖2各異1。而同居2中第1。宜2依v令四分之一傳1v子。と見ゆ。先朝とは。この天皇の御世の事に當れり○壬申。十五日なり○癸未。二十六日なり。
 
是月。大紫韋那(ノ)公高見薨。
 
韋那公。已に出○高見。孝徳紀白雉元年に出。威奈大村墓誌銘に云く。卿諱大村。檜前五百野宮御宇天(3601)皇四世。後岡本聖朝。紫冠威奈鏡公方第三子也。とあるを。この高見鏡同人として。高見を加賀美と訓べしと云る説。嚶々筆語に載たれど。信がたし。ましてこの高見を。二年紀以下に見えたる鏡(ノ)王と。同人ぞと云る説などは。諸王諸臣を一にしたる誣言なれば。言にも足らず。【大紫また紫冠とあるにても。諸王にあらぬことあきらけし。諸王ならば。諸王(ノ)二位とか。諸王三位とかあるべきなり。】○さて此壬申年を以。此天皇の元年としたるは。當時の御定にて。論ふべき事もなきが上に。正統記には。壬申のとし即位。大倭の飛鳥淨御原の宮にまします。とさへあり。これに即位と云るは。後に所謂踐祚の御式ありしを云るなるべし。古は即位と踐祚と別なかりしならめど。中世以後。先帝崩じ給ひて。嗣君先づ位を嗣給ふを踐祚といひ。後に更に。其正式の大禮を行はせらるゝを。即位と云り。【文徳天皇の御世頃よりは。さだかにわかれたること。史に見えたり。】此御世のさまを思ふに。中世以後の御事に。いとよく似たり。されば此天皇の元年なること疑なし。なほこの事は。次の二年紀に委く云を見るべし。
 
日本書紀卷第二十八 終
 
中臣本に終字なし。
            〔天武紀上、2007年5月27日(日)入力終了〕
 
(3602)日本書紀通釋卷之六十五、 飯 田 武 郷 謹撰
 
日本書紀卷第二十九
 天渟中原瀛眞人天皇下 天武天皇
二年春正月丁亥朔癸巳。置《メシ》v酒《オホミキ》《トヨノアカリス》2群臣(二)1。二月丁巳朔癸未。天皇|命《ミコトオホセテ》2有司(二)1。設(テ)2壇場《タカトノヲ》1。即2帝位《アマツヒツキシロシメス》於飛鳥(ノ)浄御原(ノ)宮(二)1。立(テ)2正妃(ヲ)1爲2皇后(ト)1。皇后|生《アレマス》2草壁(ノ)皇子(ノ)尊(ヲ)1。先(ニ)納2皇后(ノ)姉大田(ノ)皇女(ヲ)1爲v妃(ト)。生2大|來《クノ》皇女(ト)。與(ヲ)2大津(ノ)皇子1。次(ノ)妃大江(ノ)皇女。生2長皇子。與2弓削(ノ)皇子1。次(ノ)妃新田部皇女。生2舍人《トネリノ》皇(ヲ)1。
 
二年。按に。本紀に壬申を以。元年と爲たる事は。既にも云る如く。營2宮室於崗本宮1。即冬遷以居焉。是謂2飛鳥淨御原宮1。とありて。此年天皇踐祚し給へること明らけし。【正統記に見えたり。】且扶桑略記等の書にも於2野上行宮1。既立2年號1。爲2朱雀元年1。と云こと。八月に在り。又朱雀二年三月。備後國進2白雉1。仍改2白鳳元年1。と云ることあり。【水鏡。編年記。亦同じ】しかるに後に議ありて。朱雀白鳳の年號を廢し給へれば。壬申を(3603)以元年とし。癸酉を二年と爲給へること。自然の理と申すべし。然るに後の議者。かの藥師寺塔(ノ)擦(ノ)銘に。即位八年庚辰之歳とある文を以。據として。癸酉を元年として。壬申をば大友帝に屬たるは。甚非なり。七月以前は。實に近江朝に係くべきこと。本よりなれど。八月以後は。近江朝既に亡びて。天武天皇踐祚し給ふ。いかでかこれを元年と謂はざるべけん。况や此年十一月。新羅貢調等の事ある。これを元年に係けずして。何れの年にか記さん。塔擦銘の如きは。庚辰歳の。天皇御即位の八年に當れるを以て。書るのみにこそあれ。紀元を改めし文にはあらず。なほいはゞ。持統天皇は。四年庚寅を以。位に即給ひしかども。なほ丁亥歳を以。元年と爲したるにあらずや。みな當時議ありて。定め給ひしことなれば。後世此を彼此と云べきよしなし。しかるに議者の説に。本書壬申を以元年とせしは。直に天武を以。天智の統に接せむがために。此曲筆を致しゝものなり。と云るは。甚しき酷なる論なり。また信友が説の如きは。後人の日本紀を改刪せしものゝ所爲と云り。何の明證ありて。さるあぢきなき説をば立たる。ゆめ/\惑ふべからず。謹て本書の旨に從ひてあるべし○癸巳は七日なり○癸未は二十七日なり○即帝位云々。踐祚は既に去年ありしかど。即位の禮を此時に行はせ給へるなり。さてこの御即位の時。神璽をば十市皇女より受給ひけんと云る。信友の説あり。されど去年の八月より。天皇の御許にありしことは明らかにて。この時まで皇女の御許にありしにはあらず。かゝる事は。まことの推測ごとにて。知べきよしなし。無用の論どもなり○皇后生。本に皇字なし。今京極本(3604)考本に據る○草壁皇子尊。釋紀には日下部太子ともあり。この皇子。太子に立給ひし御稱を。續紀に日並知《ヒナミシノ》皇子と申し。萬葉には。日雙斯《ヒナミシノ》皇子命【また日並(ノ)皇子とのみもあり。】とも申せり。此は此皇子の御名にはまさず。太子に立給ひし故の御稱なり。粟原寺塔露盤銘には。日並|御宇《シロシメス》東宮とも申奉れり。さてこゝに尊字を添たるは。通證に。當時特貴故曰v尊。と云れたれど。これにはなほ深き旨ある事なるよし。信友の説あり。其は持統紀に引て云り。併せ見るべし。天平寶字三年八月に。追尊して岡宮御宇天皇と稱奉れり○大田皇女。考本に大を太に作れり。天智皇女にます。上に出○大來皇女。齊明紀に大伯に作る。此皇女。齋宮に立給ひし事。二年に見えたり。其時卸歳十四なり。さて朱鳥元年に。十四年に當りて。京師に還給へることも見えたり。萬葉二。大津皇子竊下2於伊勢神宮1。上來時。大伯皇女御作歌二首あり。大津皇子とは。御同母兄弟なれば。ことにむつまじくおはしまして。皇子の御謀叛のこと。この皇女にも相語賜はむとて。伊勢へは竊に下り給ひつらむ。續紀大寶元年十二月。大伯内親王薨。とあり。此皇女の御事も既に出○大津皇子。天皇の第三子に坐り。既に出。なほ持統紀に詳なり○大江皇女。天智の皇女にます。既出○長皇子。長を那賀にも作れり。乳母の姓に依れる御名と聞ゆ。【長直あり】續紀靈龜元年六月。一品長親王薨。天皇第四之皇子也。とあり。續後紀には。第二皇子二品とあり。さて此皇子の裔に。文室氏。【姓氏録】長谷氏。三諸氏。【續紀】三山氏。【後紀。三代實録。】有澤氏。【續後紀。】磯原氏。【續後紀。】などあり○弓削皇子。乳母の姓に依給へる御名か。續紀文武三年七月。淨廣貮弓削皇子薨。天皇第六之皇子。とあり○新田(3605)部皇女。天智の皇女にます。既出○舍人皇子。乳母の姓に依れる御名なるべし。【訓は。六帖に。とねりのわうじとあるに據べきか。】續紀三に。舍人親王封二百戸。同六。二品舍人親王益封二百戸。同八。賜2一品舍人親王(ニ)内舍人二人。大舍人四人。衛士三十人1。益封八百戸。通v前三千戸。十二に。天平七年十一月。知太政官事。一品舍人親王薨。遣2從三位鈴鹿王等1。監2護葬事1。其儀准2太政大臣1。命2王親男女1。悉會2葬事1。遣2中納言正三位多治比眞人縣守1。就v第宣詔。贈2太政大臣1。天渟中原瀛眞人天皇之第三皇子也。廢帝天平寶字三年六月。詔追2尊先考舍人親王1。爲2崇道盡敬皇帝1。とあり。弘仁私記序には。第五皇子也とあり。按に持統紀に。大津皇子を第三子とあるに。續紀に舍人親王を第三子とあるは不審なり。公卿補任を考るに。舍人親王薨年六十。此に據れば。親王は天武帝白鳳五年丙子に生給へり。大津皇子の薨は。朱鳥元年年二十四とあれば。天智帝三年甲子に生坐り。親王より十二年長じ治へり。さて此皇子の裔は。清原氏。【後紀】中原氏。【文徳實録】岡氏。【姓氏録】御長氏。【續紀】島氏。【紹運録】山邊氏。【續紀】などあり。
 
又|夫人《オトジ》藤原大臣女氷上(ノ)娘《イラツメ》。生2但馬(ノ)皇女(ヲ)1。次(ニ)夫人氷上(ノ)娘(ノ)弟五百重娘。生2新田部(ノ)皇子1。次(ノ)夫人蘇我(ノ)赤兄(ノ)大臣(ノ)女|大〓《オホヌノ》娘。生2一男二女(ヲ)1。其一(ヲ)曰2穗積(ノ)皇子(ト)1。其一(ヲ)曰2紀(ノ)皇女(ト)1。其三曰2田形(ノ)皇女1。天皇初|娶《メシテ》2鏡(ノ)王《ミコノ》女額田姫(ノ)王(ヲ)1。生2(3606)十市(ノ)皇女1。
 
藤原大臣は。鎌足公なり○氷上娘。萬葉二十に。此夫人天皇を戀奉れる歌あり。藤原夫人歌二首。【淨御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2氷上大刀自1也。】安佐欲比爾《アサヨヒニ》。禰能未之奈氣婆《ネノミシナケバ》。夜伎多知能《ヤキタチノ》。刀其己呂毛阿禮波《トコkロモアレハ》。於母比加禰都毛《オモヒカネツモ》。』可之故伎也《カシコキヤ》。安米乃美加度乎《アメノミカドヲ》。可氣都禮婆《カケツレバ》。禰能未之奈加由《ネノミシナカユ》。安左欲比爾之弖《アサヨヒニシテ》。とあり。和名抄丹波國氷上郡によれる名か。さて此夫人。十一年紀に卒れるよし見えたり〇但馬皇女。乳母姓によれるか。【姓氏録に。但馬海直。三代實録三十一に。但馬公見ゆ。】續紀和銅元年六月。三品但馬内親王薨。とあり。此皇女の御事。萬葉二。但馬皇女在2高市皇子宮1時。思2穂積皇子1御歌。秋田之《アキノタノ》。穗向乃所縁《ホムケノヨレル》。異所縁《カタヨリニ》。君爾因奈名《キミニヨリナヽ》。事痛有登母《コチタカリトモ》。また勅2穂積皇子1。遣2近江志賀山寺1時。但馬皇女御作歌。遺居《オクレヰ》而。戀管不有者《コヒツヽアラズハ》。追及武《オヒシカム》。道之阿回爾《ミチノクマワニ》。標結吾背《シメユヘワガセ》。また但馬皇女在2高市皇子宮1時。竊接2穂積皇子1。事既形而後。御作歌。人事乎《ヒトゴトヲ》。繁美許知痛美《シゲミコチタミ》。己母世爾《オノモヨニ》。未渡《イマダワタラヌ》。朝川渡《アサカハワタル》。といふ事見えたり。此(ノ)皇子皇女は。御母の異れる御兄弟にして。かゝる御密事もありしなりけり〇五百重娘。萬葉八。藤原夫人。明日香清御原宮御宇天皇之夫人也。字曰2大原大刀自1。即新田部皇子之母也。霍公鳥《ホトヽギス》。痛莫鳴《イタクナナキソ》。汝音乎《ナガコヱヲ》。五月玉爾《サツキノタマニ》。相貫左右二《アヒヌクマデニ》。とあり。同二に。天皇賜2藤原夫人1御歌あり。藤原夫人奉和歌もあり。御製に大原乃古爾之郷とよみ給へるを見れば。此大原大刀自なるべし。【大原は。續天平神護元年辛未。行2幸紀伊國1云々。是日到2大和高市小治田宮1。壬申。車駕巡2歴大原長谷1。臨2明日香川1而還。と見えて。今も飛島の西北の方に。大原村といふありて。即藤原といふことなり。(皇居の藤原は異地なり。然るを多武峯記に藤原宮(ハ)大原也。とあるはたがへり)(3607)鎌足大臣の本居にて。夫人の生給ひし處なれば。このほど。こゝに夫人の下り居給ひしなるべし。】○新田部皇子。續紀一に。授2新田部皇子淨廣貮1。同六。二品新田部親王封2ー百戸1。同八。天平七年九月。一品新田部親王薨。天皇第七子也。とあり。御墓は。添下郡伏見東陵(ノ)北にあり。冢上に小祠あり。と云り。皇子(ノ)裔は。氷上氏。三原氏あり。姓氏録に見えたり。皇子御子鹽燒王。孝謙帝時に氷上眞人を賜へること。補任に見ゆ○大〓娘。〓を奴と訓るは。玉の義なり。舊事紀。天〓槍。三代實録。隱岐國|〓《タマ》若酢神などあり。【本居翁云。〓字玉義なし。もしくは璞を古(ヘ)〓に作れるより。誤れるか。璞は字書玉也とあり。と云り。考べし。考本には〓に作れり。】續紀。神龜元年七月庚午。夫人正三位石川朝臣大〓比賣薨。とあり○穂積皇子。御名御乳母の姓か。持統紀五年。淨廣貮皇子穂積五百戸。續紀六。靈龜元年七月。知太政官事一品穂積親王薨。天皇第五子也。とあり○紀皇女。乳母の姓によれるか。此皇女の御事。萬葉二。弓削皇子思2紀皇女1御作歌。芳野河《ヨシノガハ》。逝瀬之早見《ユクセノハヤミ》。須臾毛《シマシクモ》。不通事無《ヨドムコトナク》。有巫勢濃香毛《アリコセヌカモ》。』吾妹兒爾《ワギモコニ》。戀乍不有者《コヒツヽアラズハ》。秋芽之《アキハギノ》。咲而散去流《サキテチリヌル》。花爾有猿尾《ハナナラマシヲ》。』暮去者《ユフサラバ》。鹽滿來奈武《シホミチキナム》。住吉乃《スミノエノ》。淺香乃浦爾《アサカノウラニ》。玉藻苅手名《タマモカリテナ》。』大船之《オホブネノ》。泊流登麻里能《ハツルトマリノ》。絶多日二《タユタヒニ》。物念痩奴《モノモヒヤセヌ》。人能兒故爾《ヒトノコユエニ》。この竟《ハテ》の御歌によれば。紀皇女は。既に人に娶《エラ》れ給ひしを。弓削皇子の思はししにや。此二柱も異母の御兄弟なり。また同十二。紀皇女竊嫁2高安王1。と云こともあり。また同三。妃皇女薨後。山前王代2石田王1作歌。など見えたり。【これによらば。石田王の御妻なりしと見えたれど。石田王傳詳ならず。山前王は忍壁皇子の御子なり。】○田形皇女。乳母高田首によれるか。續紀三に。三品田形内親王。侍2伊勢大神宮1。十に。神龜五年三月。二品田形内親王薨。とあり。按に萬葉八目録云。笠縫女王。六人部親王之女。母曰2田形皇女1。とあるを。一卷には身入部王に作れり。親(3608)王は誤なるべし。系は詳ならねど。この王の御妻となりませりしなり。慶雲三年。幸2難波宮1時の。此王の歌に。大伴乃《オホトモノ》。美津能濱爾有《ミツノハマナル》。忘貝《ワスレガヒ》。家爾有妹乎《イヘナルイモヲ》。忘而念哉《ワスレテオモヘヤ》。とある。家爾有妹とは。此田形皇女を指給へるなるべし○鏡(ノ)王(ノ)女。本に女字を脱せり。今中臣本應永本類史釋紀に依る。さて鏡は地名か。近江国野洲郡に鏡山あり。和名抄攝津国兎原郡覺美あり。かくて此王の系詳ならず。しかるに萬葉二に。天島賜2鏡(ノ)王女(ニ)1御歌。鏡(ノ)王女奉v和御歌ありて。そこに鏡(ノ)王女又曰額田姫王。とあり。【これは此鏡(ノ)王女の歌を。一の傳には。額田姫王の歌とも傳へしとなるべし。此二王を。同人なりと云るにはあらざるべし。このこと次に云。】さて其次に。内大臣藤原卿娉2鏡(ノ)王女1時云々。と云事も見えたり。又同四に。額田王贈2近江天皇1作歌。次に鏡(ノ)王女作歌ともあり。注者此萬葉なる鏡(ノ)王女をば。みな鏡(ノ)女主の誤としたれど。しかこと/”\く誤るべきにあらず。これはなほ本のまゝにて。鏡(ノ)女王を。鏡(ノ)王女と。當時申しゝ御名とするより外なし。さて王女は。天皇の直の御子を。皇女と申すに對したる。孫王の稱とすべし。さればこの王女は。此紀の王(ノ)女とあるとは。異なる云さまと見てありぬべし。さて此に疑はしき事あるは。下文に天皇幸2鏡(ノ)姫王之家1訊v病。とある鏡(ノ)姫王の事なり。つら/\按に。鏡(ノ)姫王と申すは。鏡(ノ)王(ノ)女にて。父王の許に住給へれば。同じ御名を申し給へるなるべし。さて此(ノ)王女。額田姫王とは姉妹にまして。二王とも。天智天武の二帝に娉されてましゝか。鏡(ノ)姫王の方は。天智の御子も持給はぬが故に。紀にも載られず。額田(ノ)姫王の方は。天皇の御子を持給へりければ。こゝにも載られたるなり。扨此二王の事を。まづ申さむに。鏡(ノ)姫王はじめ天智帝(3609)にめされ給へりしことは。右に云る萬葉二なる。天皇賜2鏡(ノ)王女1御歌。妹之家毛《イモガイヘモ》。繼而見麻思乎《ツギテミマシヲ》。山跡有《ヤマトナル》。大島嶺爾《オホシマノネニ》。家母有猿尾《イヘモアラマシヲ》。鏡(ノ)王女奉v和御歌。秋山之《アキヤマノ》。樹下隱《コノシタガクリ》。逝水乃《ユクミヅノ》。吾許曾益目《ワレコソマサメ》。御念從者《ミオモヒヨリハ》。また四に。額田王思2近江天皇1作歌に次て。鏡(ノ)王女作歌に。風乎太爾《カゼヲダニ》。戀流波乏之《コフルハトモシ》。風小谷《カゼヲダニ》。將來登時待者《コムトシマタバ》。何香將嘆《ナニカナゲカム》。とあるにて。此女王の天智帝に娉され給ひしこと。明らけし。さらば萬葉集にも。鏡(ノ)姫王とか。鏡女王とかあるべきに。姫王とも女王とも記さず。【但し千載集には。此を鏡女王と書て載たり。これ其採りし本書のまゝに出せるなるべし。興福寺縁起にも。鏡女王とあり。】。王女と書れたるは。上にも云る如く。孫王をば。王女とも。女王とも。姫王とも。稱せしが故に。其本書に記しゝまゝに。載たるものにて。更に異意味ありしにはあらざるなり。さて此姫王。後に内大臣鎌足公に。娉《ツマド》はれたることは。昌泰三年に作りたる。興福寺縁起に。内大臣嫡室鏡女王。とあるにて明らけし。故下文十二年に。天皇幸2鏡(ノ)姫王之家1。訊v病。とあるは。既に藤原氏の室となりてありしが故に。其家に訊に幸ましたるなり。【此姫王。天皇にめされし事は見えず。】さて其御妹額田姫王は。はじめ天武天皇に召されて。十市皇女を生まし。後にまた天智天皇の妃となりましたる事は。上に引る萬葉に。額田王思2近江天皇1作歌あり。また一卷に。天皇遊2獵蒲生野1時。額田王作歌。茜草指《アカネサス》。武良前野逝《ムラサキノユキ》。標野行《シメノユキ》。野守者不見哉《ノモリハミズヤ》。君之袖布流《キミガソデフル》。皇太子答御歌。【天智天皇なり。】紫草能《ムラサキノ》。爾保敝類妹乎《ニホヘルイモヲ》。爾苦久有者《ニクヽアラバ》人嬬故爾《ヒトヅマユヱニ》。吾戀目八方《ワレコヒメヤモ》。とある御歌にて。其頃は既に天智の御妻と【人嬬故爾云々】なりてましゝ事。明らけし。扨其後には。再天皇の夫人となり給ひしなり。【この事は此に盡さず。信友が長柄山風に委し。開き見るべし。】かく鏡(ノ)姫王と。額田姫王とは。正しく二人にますを。萬葉二に。鏡(ノ)(3610)王女又曰2額田姫王1。とあるは。甚まどはし。【この事上に云るを考へ併すべし。】もし此文のまゝに心得んには。鏡(ノ)姫王【又鏡女王とも】の鎌足公の妻とある人と。額田姫王とある人とを。二人と見ざれば叶はず。誤なることは決なし。然るに近き頃。ああ人。この御父の鏡(ノ)王を。女なりとして。鏡(ノ)姫王とあると。一人とせし説あり。其説云。其父の傳を洩し。又額田姫王の御父をも洩しつれば。鏡王は額田王の御母なることしるし。萬二に。近江大津宮御宇天皇賜2鏡王女1御歌などあれば。此鏡王には。天智天皇契給ひ。又其御女額田王にも契給ひしは。同書に。額田王思2近江天皇1作歌とて。君待登。吾戀居者。とあるにてしるし。略解に。鏡女王は則鏡王の女にて。額田女王(ノ)姉とみゆ。宣長云。此父主は。近江野洲郡の鏡里に住給ひし故に。鏡王と申(シ)しならん。其女王もゝと。父の郷に住(ミ)給ひし故。鏡王と呼べるなり。しかれども。父とまぎるべき時は。女の方をば。鏡女王とはいひて。分ちたるならんと云り。按に此説ども。論にたらぬ作言どもなり。其父主の名をさへ作出。且其母子の間を。姉妹に説なし。生國を作云る。すべて僻説の甚しきなり。名義は何れも母の姓と見てあるべし。【以上或人説。】と云れたるは。却りて甚しき非なり。紀中に后妃また夫人等の母を擧て。其女某と出せる例なし。それもいと上代のことにて。父の名の知られず。母の名のみ知られたらんには。さもありぬべけれど。此紀撰べる頃の父王の名を置て。母王の名を出すべきよしあらんや。例もなくことわりもなき説を立られたるは。甚杜撰なり。略解の説は。鏡女王を鏡(ノ)王女と訓べき事を。思はれざるまでの非なることは。既に云るが如し。本居翁の説は。鏡(3611)王を近江の鏡里に住給ひし人と。見られたるまでにて。其(レ)も然か定められたるにもあらず。さのみ咎め出べきこともなきを。論に足らぬ作言など。罵るべき非説にもあらず。母子の間を姉妹と取なし云々。など云るも。己が説を立(テ)むとして。中々に非事なるをもおもはざるなり。すべて此論は。あたらざる事どもなり○額田姫王。額田は地名によれる御名なるべし。此女王は。いと雅びたる詞藻まし/\て。其詠み給へる歌ども。萬葉集に多し。天智天武に娶され給へるに附て。信友が委しく考へ云ることあるを出さば。額田姫王の。兩天皇に娶されたまへる。本末の趣を。その二天皇(ノ)紀。懷風藻。また萬葉集にみえたる御歌どもに。併せて證し考るに。姫王はじめ。大海人皇子に竊にめされて。十市皇女を生み奉り。其後中大兄皇子【天智】に婚されて。御世の涯(リ)仕奉り。大友天皇諱事ありて。天武天皇御世知しめして後。更にこの天皇にめされて。仕奉り給へるなり。しか考定たるは。まづ大海人皇子。はやく額田姫王を娶して。十市皇女を生し給ひ。この皇女。大友皇子の妃となりて。葛野皇子を生み給ひたりき。いまその皇子の享年によりて。推考るに。齊明天皇(ノ)御世。七年の誕《ウマレ》に當りたまへり。此年をしばらく。十市皇女の十五歳の時として。推考るに。【大友皇子は十四歳】御父大海人皇子三十九歳【中大兄は四十八歳】の時に當れり。この前の年ごろより。大海人皇子竊に額田(ノ)姫王に婚給ひて。十市(ノ)皇女は生れたまへるを。密に計らひて養《ヒタ》し給へるほど。御兄中大兄皇子。それまことに知しめさずてや。またしらずがほつくりてにもやおはしけむ。姫王に御情をかけ給ひけるに。姫王もあだしごゝろのいできて。かたへには從(3612)ひ給ひけるを。大海人皇子も。うけばりたる御中にあらざれば。中大兄皇子は。御兄とますがうへに。太子《ミコ》がねにてさへおはしましける御勢なりければ。いかゞはせんにておはしつゝも。なほねたくそおもほしこめたりけむ。【中大兄皇子の三山の歌よみたまへるも。此ほどの事なるべし。】しかありけるほどに。かの阿菩の神だちて。御中のことこしらへまをせる人の出來などして。つひに露顯《アラハ》に妃の例《ツラ》にめして。仕奉らせ給ふ事とはなりしなるべし。さるにあはせて。御弟皇子の。みそか行《ワザ》も自らはるけ。事解けて。さる御中にいできたまへる十市皇女をしも。大友皇子の妃とせさせ給ひたりしなり。さるは御弟皇子の御こゝろをとり給ひ。はた姫王のねぎ言をも。きかせ給ひたりしにもやありけん。【上に云へる如く。大友皇子十四の御年にて。皇子いでき給ふばかりに。十市皇女を配偶《アハ》せたまひ。また御女大田皇女。同母妹の※[盧+鳥]野皇女。また大江皇女。新田部皇女四人を。ともに大海人皇子の妃に參らせ拾ひつるなど。なべてならぬ御事なりき。】かくて齊明天皇崩まし。中大兄皇子。御代を受繼たまひて。大海人皇子を皇太子に立て給ひ。姫王もゝとの如く。妃に仕奉りて。蒲生野の御※[獣偏+葛]にも侍ひ給ひけるが。なほ皇太子と御情をかよはして。彼紫野のいろ/\しき歌をさへに。よみかはし給ひたるを思へば。もてはなれ給へるはじめより。互に御情をかよはし給ひたりしなりけり。さるほどに天皇崩り給ひ。皇太子即ち御世を受嗣せ給ひつれど。ほどなく壬申の甚しき亂いできて。大海人皇子御世を知しめしたりき。此時十市皇女は。御夫に忠ならぬ御ふるまひおはしけるを.諱事ありければ。やがて御父母の御許に。御子葛野皇子を率て。逃去たまひたりき。【武郷云。これらの事は十市皇子の下に云。】さるははじめより。御母額田姫王と。御心を合せ給ひたりしなるべし。かゝりければ。額田姫王も召(シ)納れて。更に妃とし(3613)給ひたりとぞ聞えたる。そも/\いもせの道は。上つ世はおのづから神ながらに。おほらかなる定りありて。後の御世の令《ミサダメ》のごとく。嚴《キビ》しくはあらざりけれど。この御兄弟の。また此姫王のごとき。まほならぬ御|行《フルマヒ》は。をさ/\きこえず。さればまことは。かの三山の喩歌の事にはじまりて。御兄弟の御中の。したには親睦《ムツマジ》からず。つひに壬申年の。ゆゝしき諱事も。それにきざせるにはあらじかとさへに。かしこくも押測奉られてなん。と云れたり〇十市皇女。天皇の御長女にます。御名地名に據れるならん。信友云。十市皇女は。天武天皇の未(ダ)皇子ときこえける時の御女にて。大友天皇も皇子におはしましける時。夫人に娶給ひて。葛野(ノ)皇子を生し給ひけり。【此皇子の薨給へる時の齢によりて考るに。御父天皇の十四の御時に誕れたまへり。】然るに大友天皇御世を嗣給ひて。明る壬申の年の大事の萠けるころ。密に御書をもて。吉野(ノ)宮に告し給ふ事あける。此事は扶桑略記に云。世(ニ)傳(テ)云。大友皇子之妃。是天武天皇女也。故竊以2謀事1。隱通2消息1也。と記せり。水鑑愚管抄等にも。其由見えたり。宇治拾遺物語には。父のころされ給はむ事をかなしみ給ひて。いかでこの事つげ申さむとおぼしけれど。すべきやうなかりけるに。思ひわび給ひて。鮒のつゝみやきのありける腹に。ちひさくふみをかきて。押入(レ)て奉り給へり。と云り。此下にいへることゞもは。いと謬れる説ながら。件の説は實なるべし。近江の湖には。殊れて大なる鮒あるところなれば。事のさまもかなひて聞ゆ。新撰六帖に。鮒を題にて。藤原家良公の。いにしへはいともかしこし堅田鮒。裹燒なる中のたまづさ。とよみ給へるは。くだりの古事にそへ給へりときこえたり。かくて(3614)大友天皇。吉野方の軍に堪させ給はで。御みづから崩り給ひけるに。妃としも坐ける十市皇女は。いかにしてかは。遁(ゲ)出給ひたりけん。つひに御父天皇の御許になん。いたりておはしましける。【天璽の神寶は。此時皇女の執り齎出て奉られたりけん。】然るは。父のみことには。孝《マメ》なる御こゝろおきてなるべかめれど。天皇にて御夫にさへおはし坐御事には。いとも忠貞《マメ》ならぬ御行になんおはしましける。と云れたり。さて此皇女。七年紀夏四月薨給ふよし見ゆ。なほそこに云事あり。
 
次|納《メシテ》2※[匈/月]形(ノ)君|徳善《トクゼガ》女尼子娘(ヲ)1。生2高市(ノ)皇子(ノ)命1。次(ニ)完人(ノ)臣大麻呂(ガ)女|※[木+疑]《カヂ》媛娘。生2二男二女(ヲ)1。其一(ヲ)曰2忍壁皇子1。其二曰2磯城《シキ》皇子1。其三(ヲ)曰2泊瀬部(ノ)皇女1。其四(ヲ)曰2託基《タキノ》皇女1。乙酉。有2勲功《イサヲシ》1人等(ニ)。賜(コト)v爵有v差。
 
[匈/月]形君徳善。本に※[匈/月]を凶月(ノ)二字に誤れり。今諸本に據て訂せり。※[匈/月]形君既に出。重胤云。此氏外戚の威に依れりと見えて。十三年紀十一月戊申朔。※[匈/月]方君賜v姓曰2朝臣1。とありて。八色の姓の第二に登させたまへり。式に大和國城上郡宗像神社三坐とある御社に。仕奉るに就て。已く筑前より分れたりしものと見えたり。姓氏録左京皇別。高階眞人。出v自2謚天武皇子淨廣壹太政大臣高市王1也。とある其外戚は。※[匈/月]形君徳善なり。然るを三代實録元慶五年十月。大和國城上郡。從一位勲八等宗像神社。准2筑前國本社1。置2神主1。以2高階眞人氏人1爲v之。と有を考べし。と云り〇尼子娘。尼子地名か。詳ならず○高(3615)市皇子命。持統紀四年。太政大臣。六年増2封二千戸1。七年淨大壹。十年七月後皇子尊薨。とあり。此皇子も儲位に坐しければ。後皇子尊と稱して。前の皇子草壁に對へ稱せるなり。さればこゝも尊とあるべきに。命と書るは。信友説あり。持統紀に出す○宍人臣。崇峻紀に出○※[木+疑]媛娘。本に※[木+疑]を擬に作れり。【考本に※[楫+戈]に作れり。されどなほ※[木+疑]なるべし。本の傍に。※[掉+攴]とあるは何(レ)の字の誤にや知がたし。】字書に※[木+疑](ハ)木名とあり。【雄略紀には。※[木+疑]をフキと訓り。】また類史諸本に※[木+穀]に作れり。【或は穀にも。或は擬にも作れり。】按に横※[木+穀]穀に木篇を加へたる字なるべし。名義は木名に依れるか。地名とは通えず○忍壁皇子。姓に依れるか。又地名に依れるか。【倭名抄。攝津國有馬郡忍壁於之加倍。】さて此御名。續紀には刑部。萬葉には忍坂部とあり。續紀。大寶三年正月壬午。詔三品刑部親王知太政官事。慶雲二年五月。三品忍壁親王薨。天皇第九皇子也。とあり。此皇子の裔に。清瀧氏。御高氏などあり。史に見えたり○磯城皇子。乳母の姓に據れるか。續紀慶雲元年正月。四品志紀親王益卦百戸。又和銅元年正月。授2四品志貴現王三品1。などありて。天智皇子に同名の親王ましませば。いとまぎらはし。【文字も互に書通はしたり。】姓氏録左京皇別。三園眞人。出v自2天武皇子淨廣|壹《貮イ》磯城王之後1也。【拾芥抄不v載】笠原眞人。三園眞人同祖。とあり。また三代實録貞觀四年五月。正六位上坂井王。賜2姓清春眞人1。磯城親王五代之孫也。ともあり。萬葉集二。靈龜元年歳次乙卯秋九月。志貴親王薨時作歌。とあり。此親王は天皇の皇子なるべし。【此事は續紀に。いかにして洩しけむ。】さて續紀に。其翌年靈龜二年八月甲寅。二品志貴親王薨云々。親王天智天皇第七之皇子也。とあるは。正しく天智の皇子とあれば。まがひなし。さて萬葉の歌に依れば。此磯城皇子は。添上郡高圓山の近き傍に住坐りしなり○泊(3616)瀬部皇女。乳母の姓によれる御名か。又長谷部とも書り。續紀。靈龜元年正月。長谷部内親王益2封一百戸1。天平十三年三月。三品長谷部内親王薨。とあり。萬葉二に。或本曰。葬2河島皇子(ヲ)越智野(ニ)1之時。献2泊瀬部皇女1歌とて。人麻呂朝臣の詠るに據るに。此皇女は。河島皇子【天智天皇】の御妻にてまし坐けり。【然るに本文に。此歌を柿本朝臣人麻呂献2泊瀬部皇女忍坂部皇子1歌とあるは。誤なり。或本曰とある方正しきなり。】○託基皇女。託基又多紀。當耆に作る。地名に據れるか。大和志吉野郡宇智郡瀧村あり。續紀。文武二年九月。遣2當耆皇女1侍2于伊勢齋宮1。天平勝寶三年正月。一品多紀内親王薨。とあり。【皇胤紹運録に。紀皇女を多紀皇女と爲るは誤なり。】○天皇の御子等の數。扶桑略記に。王子男十人女十人とあり。こゝと合はず○乙酉。二十九日なり。
 
三月丙戌朔壬寅。備後(ノ)國(ノ)司。獲(テ)2白雉(ヲ)於|龜石《カメシノ》郡(ニ)1而貢。乃當郡(ノ)課※[人偏+殳]《エツキ》悉(ニ)免。仍(テ)大2赦天下(ニ)1。是月聚(テ)2書生(ヲ)1。始(テ)寫2一切經(ヲ)於川原寺(ニ)1。
 
壬寅。十七日なり○龜石郡。倭名抄神石郡加女志○而貢。扶桑略記に。朱雀二年三月。備後國進2白雉1。仍改爲2白鳳元年1。白鳳合至2十四年1。とある即ち是なり。水鏡編年記亦同じ。【皇年代略記。皇代記。紹運録に。此年を以。白鳳二年と爲したるは誤なり。】○課役。賦役令に。損2八分以上1。課役倶免。義解謂。課者調及副物田租之類也。※[人偏+殳]者庸及雜徭之類。とあり○書生。釋秘訓にテカキとあり。學令に。凡書學生以2寫書上中以上者1聽v貢。義解謂。其書生。唯以2筆迹巧秀1爲v宗。不d以v習2解字樣1爲uv業。與2唐法1異也。とあり。推古紀十年|書生《フムヒト》とあるは。即學(3617)生にして。此の書生とは異なり〇一切經。三代實録に。一切經三千四百三十二卷。大乘經二千二百十四卷。大乘律五十卷。小乘律五百三十卷。とあり。【中臣本書入に。支那藏經自2唐玄宗1始。天武四年當2高宗時1。とあり。】○川原寺。高市郡川原村にあり。一名弘福寺。元亨釋書に。天武皇帝二年。勅2於川原寺1。寫2大藏經1。沙門智藏督v役。故任2僧正1。扶桑略記に。智藏任2僧正1。呉學生福領僧正在俗時子也。などあり。
 
夏四月丙辰朔己巳(ニ)。欲v遣《シメント》v侍《ハベラ》2大來皇女(ヲ)于天照大神(ノ)宮(ニ)1。而(テ)令v居2泊瀬(ノ)齋宮(ニ)1。是(ハ)先|潔《サヤメテ》v身(ヲ)稍近2神之所(ニ)1也。
 
己巳。十四日なり○欲遣侍云々天照大神宮。年中行事秘抄に。天武天皇白鳳元年四月十四日。以2大來皇女1。献2伊勢神宮1。依2合戰願1也。とあり。【略記も同じ。】此より前(キ)。舒明天皇の御世より五代。齋宮を奉られざりけるを。再もて興して。然皇女を奉り給へるは。今度の神助の御報賽《ミカヘリマヲシ》なりけり。また四年二月丁亥。十市皇女阿閇皇女。參2赴於伊勢神宮1。とも見えたり○泊瀬齋宮。大和志に。城上郡泊瀬齋宮。古蹟在2泊瀬氣波比坂下1。とあり。これ後世野宮の權輿なり。齋宮式云。凡天皇即位者。定2伊勢大神宮齋王1云々。凡齋内親王定畢。即卜2宮城内便所1。爲2初齋院1。祓禊而入。至2于明年七月1。齋2於此院1。更卜2城外淨野1。造2野宮1畢。八月上旬卜2定吉日1。臨v河祓禊。即入2野宮1。自2遷入日1。亦至2明年八月1。齋2于此宮1。九月上旬卜2定吉日1。臨v河祓禊。參2入於伊勢1。とあり。此御代より祭式等嚴重に定給ひしなるべし。
 
(3618)五月乙酉朔(ニ)。詔2公卿大夫。及諸臣連。并(テ)伴造等(ニ)1曰。夫初(テ)出身《ミヤヅカヘセン》者(ヲバ)。先令v仕2大舍人(ニ)1。然後(ニ)選2簡(テ)其|才能《カトシシサヲ》1。以宛2當職《カナハムツカサニ》1。又婦女(ハ)者。無v問(コト)2有v夫森v夫及長幼(ヲ)1。欲2進仕1者(ヲバ)聽(セ)。其|考選《シナサダメカフリタマハンコト》《ナズラヘヨ》2宮人《ミヤヒト・ツカサアルヒト》之|例《アトニ》1。発丑。大錦上坂本(ノ)財(ノ)臣|卒《ミマカリヌ》。由2壬申年之勞(ニ)1。贈《オヒテタマフ》2小紫位1。
 
五月の上。本に夏字あるは衍なり。今集解に因て削る○初出身者。通證云。詳見2選叙令1。唐詩(ニ)出身仕v漢羽林郎。【仕官を宮仕と云は。萬葉一に。大宮仕。伊勢物語に。宮仕のはじめなどあり。さて其より移りては。直人に仕ふるをも。みやづかへとは云なり。】○大舍人。雄略紀に見えたり。令義解に。謂2大舍人1。是供奉之人(ナリ)云々。職原抄に。掌2宮中驅使(ノ)事1。などあり○簡其材能。本に其字なし。今中臣本京極本に據て補○當職。通證に。謂d適2當其才1之官職u也。と云るが如し○無夫。本に夫を吏に誤れり。中臣本考本に據る〇欲進仕者聽矣。後宮職員令云。凡諸氏々別貢v女。皆限2年三十以下。十三以上1。雖v非2氏名1。欲2自進仕1者聽。義解謂。氏別貢2一人1之外。別欲2進仕1也。とあり○考選は。品定なり。品は位階の上下を。上つ品下つ品など云へれば。其を定むるなり。考課令義解謂。考者考2校功過1也。選叙令義解謂。選者選擇。言選v才授v官也。とあり〇准宮人之例。本に宮人をツカサアルヒトと訓るは。官人と書る本もありしなるべし。きれどこゝはなほ宮人なり。後宮職員令に。宮人。義解謂。婦人仕官者之惣號也云々。右諸司掌以上。皆爲2職事1。自餘爲2散事1。各毎2半月1。給2休暇1三日。其考叙法式。(3619)一准2長上之例1。【謂考者考課之年限。叙者選叙之階級。既稱。准2長上之例1。明可v與2公勤不v怠。職事無v缺之最1也。】東宮(ノ)宮人。及嬪以上女竪准v此。【謂宮人女竪。不v制2員數1者。依v式處分。其宮人考課者。春宮大夫掌v之。女竪者。宮内省掌v之。嬪以上家事隷2宮内省1故也。】とありて。こゝも婦女の進仕を詔給へる條なればなり。【然るに。大日本史に。官人と改めたるは。さる本もありしにや。又は訓に據て。しか改めしにや。おぼつかなし。】○癸丑は二十九日なり○坂本財臣卒。此人は上卷に。坂本臣財等。次2于平石野1云々。財等自2高安城1降。以渡2衛我河1。與2韓國1戰2于河西1。などあり○贈。續後紀八卷詔に。在v唐天。身罷太留判官藤原豐竝乎毛。哀愍賜比。追《オヒ》天冠位賜久度詔不。と見えたり。通證云。贈追賜也。紀原曰。兩漢逮v今。人臣有2追贈之制1。とあり。
 
閏六月乙酉朔庚寅。大錦下百済沙宅昭明卒。爲v人聰明《トク》叡智《サトクテ》。時(ニ)稱《イハル》2秀才《スグレヒデタルカドヽ・ヒトカド》1。於是天皇驚(テ)之。降v恩(ヲ)以(テ)贈2外《トノ》小紫(ノ)位(ヲ)1。重(テ)賜2本(ツ)國(ノ)大佐平位1。壬辰。耽羅遣(テ)2王子久麻藝。都羅。字麻等(ヲ)1。朝貢。己亥。新羅遣(テ)2韓阿※[にすい+倉]金承元。阿※[にすい+倉]金祇山。大舍霜雪等(ヲ)1。賀《ヨロコブ》2騰極《ヒツギノコトヲ》1。并(テ)遣(テ)2一吉※[にすい+倉]金薩|儒《ス》。韓奈|末《マ》金池山等(ヲ)1。吊2先皇喪1。【一云調使】其送使貴于寶。眞毛。送2承元薩儒於筑紫(ニ)1。戊申。饗2貴于寶等(ニ)於筑紫(ニ)1。賜v禄各有v差。即從2筑紫1返2于國(ニ)1。
 
庚寅は六日なり○沙宅昭明。天智紀に見えたり。天智紀。懷風藻。昭を紹に作る○秀才。ヒトカドは人(3620)才の義なり。才を古くカドと云り○外小紫位。外位の事は。元年内小七位とある下に云り。内位は尋常の位を云。外位はそれに對ひて級劣れり。通證云。文武紀大寶元年。外位始2直冠正五位(ノ)上階1。終2進冠少初位下階1。合二十階。宜d與2上卷(ノ)内位1併考u。とあり。按に令には。四位以上には外位なし。當時の制とは異なり。さて紫位は。後の三位にあたれり。三代實録に。古之小紫位准2從三位1。とあり○大佐平位。東國通鑑に。百済古爾王二十七年。置2六佐平之職1。並一品。とあり。佐平の事は。既に齊明紀に出。彼國の大臣の位にあたれり○壬辰。八日なり○久麻藝。都羅。宇麻。通證云。三王子之名。釋爲2一人1。恐不v是。と云るが如し。久麻藝。天智紀及下文四年紀に見えたり○己亥。十五日なり○韓阿※[にすい+食]。本に阿を河に誤る。今中臣本考本に據る。通證に。疑是大阿※[にすい+食]。見2東國通鑑1。と云へれど。按に通鑑に。六日阿※[にすい+食]。【六等なり】五曰大阿※[にすい+食]。【五等なり】とありて。一階異なり。韓と云るは。奈麻を韓奈麻と云が如し。通證の説は非なるべし○大舍は。通鑑に。十二曰大舍とあり○賀騰極。去年八月より。天皇踐祚し給ひし。其御賀使なり。然るに信友云。此賀2騰極1使は。大友天皇の御位を賀奉り。弔2先皇喪1とは。天智天皇の崩給へるを。弔奉れるなり。然れば大友天皇の諱事ありて。天武天皇の御世知食れつるは。書紀の元年壬申の。七月末よりの事なれば。其頃はさらなり。明る二年の春の頃などは。いまだ韓國へ告《シ》らせ給ふべき。御世のさまにあらざれば。六月に。新羅の賀使弔喪使の。參渡り來べきにあらず。實は大友天皇に奉れる使なりけるを。天武天皇の代りて。騰極の賀を受給ひ。弔喪使をば召されざりつるな(3621)り。故殊さらに。天皇新平2天下1。初之即v位。と辭《ミコト》善けに詔まひ。また除2賀使1以外不v召。則汝等所v見。と詔ひつけ給へるものなる事著し。此をおもひわくべきなり。と云れたるはいかゞ。去年八月に御世治しめして。年號を立給ひ。飛鳥淨御原宮に遷都し給ひて。其十一月に。新羅客を筑紫に饗し。十二月に船を賜ひて。其年のうちに。客等罷歸るとあるものを。明る二年の春の頃などは。いまだ韓國へ告《シ》らせ給ふべき御世のさまにあらざればとは。何事ぞ。また六月に。新羅の賀使弔喪使の參渡り來べきにあらず。實は大友天皇に奉れる使なりけるを。天武天皇の代りて。騰極の賀を受給ひしなど。推測の私言なり。朝廷の御上に。さる曖昧なることありなんや。つとめて此御代の史を貶さむと思ふ非心から。かゝる強言も云はるゝなり〇一吉※[にすい+食]。通鑑に。七日一吉※[にすい+食]○韓奈末。本に末を未に誤る。今中臣本に依る。續紀に韓奈麻とあり。通鑑に。十日大奈麻○【注】一曰調使。本に使を訣に誤る。今正せり○貴于寶。眞毛。釋云。二人名○戊申。二十四日なり○大日本史に。秋七月始置2不破關1。【一代要記。帝王編年記。】とあり。
 
秋八月甲申朔壬辰。詔d在2伊賀國(ニ)1。紀臣阿閇麻呂等(ガ)。壬申(ノ)年(ノ)勞勲之状《イタハリイサヲシサヲ》u。而顯(ニ)寵賞。癸卯。高麗遣2上部位頭大兄邯子。前部大兄碩于等(ヲ)1。朝貢。仍(テ)新羅遣(テ)2韓奈末金利益(ヲ)1。送2高麗(ノ)使人(ヲ)于筑紫(ニ)1。戊申。喚(ス)2賀騰極使金承元等(ガ)。中(ツ)(3622)客以上二十七人(ヲ)於京(ニ)1。因(テ)命(テ)2大宰(ニ)1。詔(テ)2耽羅(ノ)使人(ニ)1曰。天皇新(ニ)平(ケテ)2天下(ヲ)1。初(テ)之即位《アマツヒツギシロシメス》。由v是(ニ)。唯|除《オキテ》2賀使(ヲ)1。以外(ハ)不v召。則汝等(ノ)親所(ナリ)v見。亦時寒波|嶮《タカシ》。久|淹留《トヾメタラバ》之。還(テ)爲《ナシテン》2汝(ガ)愁(ヲ)1。故宜2疾|歸《マカリカヘル》1。仍在v國(ニ)王。及使者久麻藝等。肇(テ)賜2欝位(ヲ)1。其爵者大乙上。更(ニ)以(テ)2錦繍《ニシキヌヒモノヲ》1。潤飾《カザリテ》之。當2其國之佐平(ノ)位(ニ)1。則自2筑紫1返(ツ)之。
 
壬辰。九日なり○伊賀國紀臣阿閇麻呂。本に麻呂(ノ)二字を。臣の二字に作る。今京極本考本に據る。上卷に。七月二日【辛卯】天皇遣2紀臣阿閇廠呂1云々。率2數百衆1。自2伊勢大山1。越之向v倭。とあり。また東道將軍紀臣阿閇麻呂とあれども。伊賀國に在しことを載せず。此人は紀大人臣の子にて。當時伊賀國阿閇郡に。故有て住居しにやあらむ。さて阿閇麻呂とは稱せしにや○癸卯。二十日なり○上部位頭大兄邯子。高麗十二等の中に。第一等を太大兄と云。次を大兄。次を小兄と云ること。隋書八十一高麗傳に見えたり。かゝれば太大兄大兄は。第一二等の官なる故に。位頭大兄と云るなり。さて通證に。邯子校本寒師とあり。中臣本にも寒に作れり○碩于。活字本に于を作v干(ニ)。考云。舊訓コンカンと云假名もあり。然らば欣干と書てあるべし。と云り○朝貢。集解に。按東國通鑑。唐咸享四年夏閏五月。唐總管大稱軍李〓行。破2高勾麗餘衆於瓠瀘河1。俘獲數干人。此年當2天皇二年1。猶有2高麗餘衆1可v知也。とあり○戊申。二十五日なり○大宰は。太宰府なり○耽羅は。信友云。新羅の誤なるべし。耽羅は新羅の屬國(3623)なれば。本のまゝにては通えがたし。と云り。今按に。これはなほ耽羅の事として見べし。次にいふ○在國王。此には疑あり。もしくは王(ノ)下。子字を脱するか。次に云○大乙上は。第十九階なり。後の六位に當る○以錦繍潤飾之は。冠を潤飾れるなり。繍解云。按大乙上第六位也。黒冠。【武郷云。大乙上下小乙上下は。大小黒冠にあたるがか故に。かく云なり。】以2車形錦1。裁2冠之縁1。言2錦繍潤飾1者是也。と云り○當其國之佐平位。通證云。言大乙上當2佐平位1也。然以2此爵1。賜2其在v國之王1者。未v審。必是唯言d賜使者1之爵u也。或有2脱誤1歟。と云り。さることなり。故按に。國王とあるは國王(ノ)子ならんかと上に云り。なほ考べし。さて佐平位は。百済國のなるを。今耽羅國の使人に賜ひしを思へば。耽羅も百済も。爵は同制なりしを知べし。【さて此に佐平位といひ。次に自2筑紫1返とあるにて。新羅使にはあらぬ事知べし。新羅と耽羅とは。爵位同じからず。また新羅客は。京に喚ずと云るを。自2筑紫1返とあるにて。信友の耽羅を新羅の訛なりと云れし説の。非なるを知べし。】
 
九月癸丑朔庚辰。饗2金承元等(ニ)於難波(ニ)1。奏《オコス》2種々(ノ)樂《ウタマヒヲ》1。賜(コト)v物各有v差。冬十一月壬子朔。金承元罷歸之。壬申。饗2高麗邯子。新羅薩儒等(ヲ)於筑紫(ノ)大郡(ニ)1。賜v禄各有v差。十二月壬午朔丙戌。侍2奉|大甞《オホニヘニ》1。中臣忌部及神官(ノ)人等。并(テ)播磨丹波二國郡司。亦以下(ノ)人夫《オホミタカラ》等(ニ)。悉(ニ)賜v禄。因(テ)郡司等(ニ)。各賜2爵一級1。戊戌以(テ)2小紫美濃王。小錦下紀臣※[言+可]多麻呂(ヲ)1。拜(ス)d造2高市(ノ)大寺(ヲ)1司(ニ)u。【今(ノ)大官《オホツカサノ》大寺是。】時(ニ)知(3624)事福林(ノ)僧。由(テ)v老(ニ)辭《サル》2知事(ヲ)1。然不v聽焉。戊申。以(テ)2義|成《シヤウ》僧(ヲ)1。爲2小僧都1。是日更(ニ)加2佐官(ノ)二(ノ)僧1。其有(コト)2四(ノ)佐官1。始(テ)起2于此時(ニ)1也。是年也。太歳癸酉。
 
庚辰は二十八日なり○壬申は晦日なり○筑紫大郡。考本に大を小とあり。又同本一に大野ともあり。筑紫大郡詳ならず。通證云。疑(ハ)大同中置2大宰府1之所。持統紀(ニ)筑紫小郡。とあり。なほ考べし。大野とあるによらば。筑前三笠郡にあり。天智紀に詳なり。續紀文武帝二年五月。令3大宰府繕2治大野基肆鞠智三城1。とあり○丙戌。五日なり〇侍奉大甞。扶桑略記に。十一月大甞會。丹波播磨。供2奉其事1。とあり。皇年代私記に。白鳳二年癸酉十一月丁卯大甞。丁卯十六日也。とあり。さて大甞は神祇令に。凡大甞者毎世一度とありて。こゝなるは大祀の大甞なり○神官人等。秘閣本に。官を宮に作るは誤なり。神官は。倭名抄神祇官加美豆加佐とある。これなり〇二國郡司。所謂悠紀主其の國郡の郡司なり。大甞式に。其年預令2所司1。卜2定悠紀主基國郡1。とあり。なほ悠紀主基の事下に云ふ○戊戌。十七日なり○紀臣※[言+可]多麻呂。傳しられず。下には堅麻呂とあり○高市大寺司。【注】今大官大寺是。本に官を宮に作るは誤なり。今秘閣本中臣本考本等に據る。大和志云。高市郡廢大官大寺。在2小山村東1。礎石尚存。と云り。大安寺縁起に。飛鳥淨御原(ノ)宮御宇天皇二年。歳次癸酉。十二月壬午朔戊戌。造寺司小紫冠御野王。小錦下紀臣※[言+可]多麻呂二人任賜。自2百済地1始。院寺家入2賜七百戸封。九百三十二町墾田地。卅萬束論定出擧稻1。六年歳次(3625)丁丑。九月庚申朔丙寅。改2高市大寺1。號2大官大寺1。三代實録に。百済大寺。子部大神在2寺近近側1。含v怨屡燒2堂塔1。天皇遷2立高市郡1。號曰2高市大官寺1。施2封七百戸1。聖武天皇降v詔。遷2造平城1號2大安寺1。【東齋隨筆に。大安寺。天平元年。道慈律師因2先帝遺詔1。造2立之1。移2唐四明寺結構1。摸造之。】などあり。なほ舒明紀に詳かなり。大官と云るは。官にて治め給ふよしなり。然るに集解に。大宮とあるに據て。大宮謂2百済大宮1。以d與2大宮1同uv地。故有2此稱1。と云るは。甚しき非なり○知事は。字の如し。知太政官事など。准知べし。通證云。代醉編曰。梵云2鞨麼陀1。此(ニハ)云2知事僧1。※[土+盖]嚢抄曰。都維那。翻云2寺護1。又云2知事1。とあり○戊申。二十七日なり○小僧都。考本に小を少とあり。さて小僧都始て出。僧官雜例集と云書に。此下に以2道光1爲2律師1。とあり。此には漏たるなるべし○佐官二僧。令義解に。佐官謂2僧綱之録事1也。とあり。【寺の祐筆なり】朱鳥元年紀に。大官大寺知事佐官とあり。これまで佐官二人なりしを。此時より更に二僧を加へしとなり。【然るに僧官雜例に引るには。任官二僧とあり。(下なるも同じ)これはよろしからず。】○有四佐官。通證に。就2高市大寺1而言。とあるが如し。此寺に限りて。四人の佐官ありとなり○太歳癸酉。年代記を考るに。當(レリ)2唐高宗咸亨四年1。
 
三年春正月辛亥朔庚申。百済王昌成|薨《ミウセヌ》。賜2此《コヽノ》小紫位1。二月辛巳朔戊申。紀臣阿閇麻呂卒。天皇大悲之。以v勞(ヲ)2王申年之※[人偏+殳](ニ)1。賜2大柴位1。
 
庚申。十日なり〇百済王昌成は。義慈王の孫。禅廣の子なり。續紀天平神護二年六月。刑部卿從三位百(3626)済王敬福薨。其先出v自2百済國義慈王1。高市岡本宮馭宇天皇御世。義慈王遣2其子豐璋王及禅廣王1入侍。※[さんずい+自]2于後岡本朝廷1。義慈王兵敗降v唐。其臣佐平福信。尅2復社稷1。遠迎2豐璋1。紹2興絶統1。豐璋簒v基之後。以v譖横殺2福信1。唐兵聞之。攻2州柔1。豐璋與2我救兵1拒之。救軍不v利。豐璋駕v船。遁2于高麗1。禅廣因不v歸v國。藤原朝廷賜v號曰2百済王1。卒賜2正廣參1。子百済王昌成。幼年隨v父歸朝。先v父而卒。飛鳥淨御原御世贈2小紫1。子良虞云々。とあり。敬福は其子なり〇此小紫位。通證云。此者此間也。以2百済王1故曰v此。或曰。此當v作v外。と云り。或人云。百済王系譜に。此を外に作れりと云り。此系譜と云もの。己(レ)未見ず。まことにさる書あらば。其字に從ふべし○戊申。二十八日なり○賜大紫位は。賜は贈の誤なるべし。
 
三月庚戌朔丙辰。對馬國司守忍海造大國言。銀始(テ)出2于|當《コノ》國1。即貢上。由(テ)v是(ニ)大國授2小錦下位1。凡銀(ノ)在(コトハ)2倭(ノ)國(ニ)1。り初(テ)出2于此時(ニ)1。故悉(ニ)奉2諸(ノ)神祇(ニ)1。亦同(ジク)賜2小錦以上(ノ)大夫等(ニ)1。
 
丙辰。七日なり○忍海造。神功紀天智紀に見ゆ○銀始出于當國。三代實録十一。貞觀七年八月。太宰府言。對馬島銀穴。在2下縣郡1。自2高山底1。穿2鑿巖1。堀入四十許丈。白晝執v炬而得v入云々。朝野群載に引。對馬貢銀記に。島中珍貨充溢。白銀鉛錫。眞珠金漆之類。長爲2朝貢1。其採銀之地。極以險難。多年穿墳中漸(3627)深。自v口入v底。二三許里。日月之光。不v得v照v之。三人連v手。以爲2一番1云々。などあり。神名式。對馬島下縣郡銀山上神社。銀山神社。【或人云。銀山上神社は。今ギンサンシヤウと音讀すれども。シロカネヤマカミの神社とよむ。古かるべし。舊號大調神社にて。續紀承和四年二月五日。無位大調神に從五位下を授く。とあるは此なり。これ白鳳中。對馬より白銀出でたる時の創建なりと云ふ。と云り。】○銀在。本に在を有に作る。今考本に據る○亦同。中臣本同を周に作る。
 
秋八月戊寅朔庚辰。遣(テ)2忍壁皇子(ヲ)於石上(ノ)神宮(ニ)1。以(テ)2膏油(ヲ)1瑩2神寶(ヲ)1。即日勅(テ)曰。元來《ハジメ》諸(ノ)家(ノ)貯2於|神府《ホクラニ》1寶物。今皆還2其子孫1。冬十月丁丑朔乙酉。大來皇女。自2泊瀬(ノ)齋(ノ)宮1。向《マイツ》2伊勢(ノ)神宮(ニ)1。
 
庚辰。三日なり○膏油。令義解。謂脂爲v膏。自餘爲v油。延喜兵庫式に。猪膏五合。瑩v刀料。胡麻油一合。洗刷料。などあり○瑩神寶。垂仁紀に見ゆ○即日。本に日を日に誤る。今考本集解に依る○今皆。本に今を令に作る。今中臣本に依る○乙酉。九日なり○大來皇女。本に皇女を皇子に訛る。今中臣本集解類史等に依る○向伊勢神宮。齋宮式に。凡齋(ノ)内親王。在v京潔齋三年。即毎2朔日1。著2木綿※[髷の曲を昆]1。參2入齋殿1。遙2拜太神1云々。斎終之後。乃向2伊勢太神宮1。とあるは。此御代の泊瀬齋宮の例にならへるものなるべし。
 
四年春正月丙午朔。大學寮《オホツカサノ》諸(ノ)學生《フムヤワラハ》。陰陽(ノ)寮。外藥《トノクスリノ》寮。及舍衛(ノ)女。墮羅(ノ)女。百(3628)済王善光。新羅(ノ)仕丁等。捧(テ)2藥及珍異等物(ヲ)1進。丁未。皇子以下。百寮(ノ)諸人拜v朝。戊申。百寮(ノ)諸人。勅使以上進v薪。庚戌。姶興2占星《ホシミ》臺1。壬子。賜宴群臣於朝廷1。壬戌。公卿大夫及百寮(ノ)諸人。初位以上。射《イクフ》2于西(ノ)門(ノ)庭(ニ)1。亦是日。大倭國貢2瑞《アヤシキ》鷄(ヲ)1。東國貢2白鷹(ヲ)1。近江國貢2白|鵄《トビ》1。戊辰。幸2幣《ミテグラヲ》諸(ノ)社(ニ)1。
 
大學寮。オホツカサとあれども。舊本の訓にフムヤとあり。【官位令の訓にもしかみえ。日中行事釋奠條にも。ふむやのつかさとあり。】學生を。フムヤワラハ。またフムワラハと【推古紀にも】あれば。其方宜し。職員令。大學寮頭一人。掌d簡2試學生1。及釋奠事u。學生四百人。掌v分2受經業1。とあり○陰陽寮。倭名抄於牟夜宇乃豆加佐とあり。舊訓にウラノ寮とよめるもみえたり○外藥寮。職員令に。典藥寮頭一人。掌2諸藥物疾病。及藥園事1。とあるこれなり。集解云。按中務省所管。有2内藥司1。對v内稱v外也。此時制。謂2典薬寮1。爲2外藥寮1。可v知也。と云れたるが如し○舍衞女。孝徳紀に見ゆ○墮羅女。耽羅に同じ。齊明紀に出○百済王善光。本に光を先に誤。今秘閣本中臣本考本類史等。及前紀に據る。即禅廣王なり。天智紀に出○捧藥。通證云。延喜式(ニ)元日献2屠蘇酒1。尚藥執2御盞1。率2女孺1昇殿。令2藥(ノ)司(ノ)童女(ニ)先甞1。然後供御。次(ニ)白散。度※[山+章]散。三朝而畢。公事根源曰。御藥儀式。始2于弘仁中1。今按當d以2此紀1爲uv始也。延暦儀式帳曰。朔日白散(ノ)御酒供奉。代醉編曰。唐(ノ)孫思※[しんにょう+貌]。有2屠蘇酒方1。蓋取2菴名1。以名v酒。後人遂以2屠蘇1爲2酒名1矣。蓋眞人之撰2千金方1。在2此前年1。とあり。(3629)年中行事歌合に。供2屠蘇白散1。春ことに今日なめそむる藥子は。わかえつゝ見ん君がためとか○丁未。二日なり○戊申。三日なり○進薪。私記に薪美加末伎と訓り。雜令に。凡文武官人。毎年正月十五月。並進v薪。長七尺。以2二十株1爲2一擔1。又云。凡進v薪之日。辨官及式部兵部宮内者。共※[手偏+驗の旁]※[手偏+交]貯2納主殿寮1。江次第に。年中所用御薪。諸司並五畿内國司供進。見2主殿寮1。儀式帳に。十五日禰宜内人等。御竈木六十荷奉進。などあり。按に進りし日は。古今沿革あり。【禮記(ノ)月令曰。季冬命2四監1。收2秩《ツネノ》薪柴1。以2郊廟及百祀之薪燎1。とあり。】年中行事歌合。御薪。もゝしきの百の官のみかま木に。民のかまどもにぎはひにけり○庚戌。五日なり○占星臺。唐書百官志に。司天臺。掌d察2天文1。稽c天文歴數u。凡日月星辰風雲氣色之異。率2其屬1占。とあり。按に後に天文臺と云る。即此占星臺におなじ○壬子。七日なり○賜宴群臣。類史。大同二年正月戊子。曲宴。賜2五位已上衣被1。文徳實録。齊衡四年正月乙丑。禁中有2曲宴1。預v之者。不v過2公卿近侍數十人1。昔者上月之中。必有2此事1。時謂2之子日態1也。今日之宴脩2舊迹1也云々。公事根源に。子日遊。是はむかし人々野べに出て。子日するとて。松を引けるなり。朱雀院圓融院三條院などの御時にも。此御遊は有けるにや。とあれど。此曲宴そ子日の始なるべき○壬戌。十七日なり○射于西門庭。正月射禮。孝徳紀九年正月に行はれたる。これ始なり。次に天智紀九年正月十七日に。正しく大射(ノ)字見えたり。公事根源に。正月射禮を。十七日と記せるは。此御世の此事を例とせしにや○白鷹。倭名抄羽族部。鷹。廣雅云。一歳名2之黄鷹1。二歳名2之撫鷹1。三歳名2之青鷹白鷹1。【今按俗説鷹白者不v論2雌雄1。皆名2之良太賀1。】○戊辰。二十三日なり○奉幣諸社。本(3630)に奉を祭に作る。今京極本に據る。通證云。据2公事根源1。則是祈年穀。二十二社奉幣之濫觴也。官史記曰。天武天皇四年二月甲申。祈年祭。延喜式有2祝詞1。とあり。〔祈年祭と。祈年穀とは。事は異なれども。其本は同じ。故公事根源に。祈年祭四日の下に。是は太神宮以下。三千一百三十二座の神を。まつらせ拾ふ。其處のたしかならざるもあり。國々におの/\幣をつけらる。諸國にも。年こひの祭をば行ふなり云々。天武天皇四年二月に。はじめて此祭あり云々。また祈年穀奉幣の下に。是は二月七月二たびあり。よき日して奉らる。二十二社なり云々。天武天皇四年正月。諸杜に幣を奉らる。とあり。年祈の御祷の爲なることは。いづれもおなじ。】年中行事歌合も。右に同じ状を記せれど。本紀二月條に。其事見えず。もしくは此二月の文を。祈年祭なりと誤れるか。今按。年中行事秘抄。祈年祭條に。官史記云とて。右の説を出されたり。公事根源年中行事歌合は。是れによれりと見えたり。今宮史記と云書なし。惜むべし。祈年祭の事は。北山抄二月四日祈年祭條に見えたり。
 
二月乙亥朔癸未。勅2大倭河内攝津山背播磨淡路丹波但馬近江若狹伊勢美濃尾張等(ノ)國(ニ)1曰。選(テ)2所部《クニノウチノ》百姓之能|歌《ウタウタフ》男女。及|侏儒《ヒキト》伎人《ワザトヲ》1。而貢上。丁亥。十市皇女。阿閇皇女。參2赴《マヰデマス》於伊勢(ノ)神宮(ニ)1。己丑詔曰。甲子年。諸氏被給部曲者《ウヂウヂニタマフカキノタミハ》。自今以後|除《ヤメヨ》之。又|親王《ミコ》諸(ノ)王及諸(ノ)臣。并(テ)諸(ノ)寺等(ニ)所v賜。山澤島浦。林野|陂池《イケ》。前(モ)後(モ)並(ニ)除焉。癸巳詔曰。群臣百寮及天下(ノ)人民。莫v作(コト)2諸(ノ)惡《アシキコトヲ》1。若有2犯者1。隨《マヽニ》v事(ノ)罪(ム)之。丁酉。天皇幸2於高安(ノ)城(ニ)1。
 
(3631)癸未。九日なり○淡路。本に淡を渉に誤る。今改む○能歌男女は。其|國曲《クニブリ》の風俗歌を。能く謠ふ男女なり。萬葉古今集等に。東歌部を立られたる。みな其國風なり。十四年紀に。九月詔曰。凡諸歌男歌女笛吹者。即傳2己子孫1。令v習2歌笛1。とあるに依れば。歌男歌女のみならず。歌笛もありて。古來傳習の歌笛を。世襲の業として。國々に多くありしなり○侏儒伎人は。俳優の態を侏儒に爲さしむる。これも上古よりの風俗にて。國々に傳習せしなり。さて今それらの人を貢上らしめ給ふは。此に見えたる十三國は。大甞會の由機主基の御卜に預る國等にて。かねて其國々の風俗を。聞食(シ)看行《ミソナ》はさむとなるべし○丁亥。十三日なり〇十市皇女。上に出。萬葉一に。十市皇女。參2赴於伊勢大神宮1時。見2波多横山(ノ)巖1。吹黄刀自作歌。河上乃《カハカミノ》。湯都磐村二《ユツイハムラニ》。草武左受《クサムサズ》。常丹毛冀名《ツネニモガモナ》。當處女※[者/火]手《トコヲトメニテ》。と詠るを見れば。此皇女の若きをとめにて。いとうつくしき御姿に坐けるを。よめるなりけり。但し阿閇皇女も。共に參り給ふなるを。この皇女のみを擧しは。よみ人の此皇女に仕奉る女なればにや。と考に云り○阿閇皇女も。天智紀に阿倍皇女とあり。即元明天皇にます○參赴。この皇女等を。神宮に參らせ給ふも。戰勝の御賽に依れるなるべし○己丑。十五日なり○甲子年は。天智天皇三年なり○諸氏被給部曲云々。天智紀三年。天皇命2大皇弟1。定2氏上民部家部等事1。とあり。こゝに部曲とあるは。即民部家部なり○除之。水戸本に。除上に皆字あり。さて今除給ふは。栗田寛云。彼時定め給へる部曲は。假初の事なれば。此御世に悉く收擧たりと見ゆ。と云れたるが如し。此時に至りて。始て郡縣の御|制度《サダメ》の御目途を。立給ひ(3632)しなり。【なほ天智紀併せ見るべし。】○親王諸王。親王の名目初てこゝに見えたり。記傳云。【この記傳の説は。中卷日子坐王の下の注なり。それを既く。此紀の彦坐王の下に引たる文のつゞきなり。されば彼是引合せて知べし。】親王と云ふ號は。漢國にて。隋唐の制なるを。取られたるなり。此號。天武紀四年の處に。始めて見えたれども。正《マサ》く其時始まれるさまには非ず。然れども。此御世に始まれることゝは思はるゝなり。さて此號は出來つれども。其をやがて御名の下に附《ツケ》て。某(ノ)親王と申すことは。彼(ノ)此世には未(ダ)有ざりしことゝ見えて。舍人(ノ)皇子。新田部皇子など。其餘もみな。書紀には。某(ノ)皇子とのみあり。續紀に至て。みな某(ノ)親王とは記されたり。さて親王を美古と申す故に。其(レ)に分て。諸王をば某(ノ)意富伎美と唱る定まりなれども。意富伎美と申す御稱は。天皇を始奉りて。親王諸王までにわたる御稱にて。まづ主《ムネ》とは。天皇を申すなれば。諸王に限りての稱の如くなれるは。當らぬことなり。又云。繼嗣令に。凡皇兄弟皇子皆爲2親王1。以外並爲2諸王1。自2親王1五世。雖v得2王名1。不v在2皇親之限1。選叙令に。凡蔭2皇親1者。親王(ノ)子從四位下。諸王(ノ)子從五位下。其五世王亦從五位下・子降2一階1。庶子又降2一階1云々。續紀六。靈龜元年九月詔に。皇親二世准2五位1。三世以下准2六位1。とあるは。蔭位をも賜はぬ以前《サキ》。もとよりの品を云なり。准(ノ)字にて知べし。同紀三。慶雲三年二月。制2七條1。其七に。准v令五世之王。雖v得2王名1。不v在2皇親之限1。今五世之王。雖v有2王名1。已絶2皇親之籍1。遂入2諸臣之例1。顧2念親v親之恩1。不v勝2絶籍之痛1。自今以後。五世之王。在2皇親之限1。其承v嫡者。相承爲v王。自餘如v令。とあり。【右に引る隋唐(ノ)制と云るは。貞觀政要(ノ)注(ニ)。唐因2隋制1。皇叔昆弟皇子爲2親王1。とあり。】右に云る如く。古は天皇の御子等を。惣て親王内親王と稱しを。後世に(3633)は。殊更に親王の宜旨ありて。親王と稱し。宣旨なきをば。諸王の列とす。なほ親王宣旨の式は。江次第十七に見えたり。さて諸王は。推古紀に大臣及諸王諸臣と見えたり。上代に諸王と稱しは。皇親を惣たる稱なりしを。後に天皇の御子等。兄弟姉妹を親王と稱し。自餘を諸王と申て。五代を限とし。或は六七世までも。王名を廢せざるもあり。右の繼嗣令に見えたるが如し。又文徳實録八にも。其事見えたり○癸巳。十九日なり○莫作諸惡。水戸本には。諸惡莫v作とあり○丁酉。二十三日なり。
 
是月新羅遣(テ)2王子忠元。大監級※[にすい+食]金此蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻|朴武麻《モクムマ》。弟監|大舍《タサ》金洛水等(ヲ)1。進v調。其送使者末金風那。奈末金孝福。送2王子忠元(ヲ)於筑紫(ニ)1。
 
新羅。文武王十五年なり○大監。官號なり。東國通鑑。新羅眞平王五年條に。新羅始置2船府署1。大監弟監各一員。などあり○級※[にすい+食]は。級伐※[にすい+食]なり。第九に當る。級伐※[にすい+食]と云るを略て。彼國にても級※[にすい+食]と云り。東國通鑑に。級※[にすい+食]緋衣並牙笏とあり○金此蘇。釋紀秘訓に。此を比に作る。中臣本卜家本に。此蘇を比謨に作る○弟監。官號上に云り○大麻は。大奈麻の略稱なり。十等に當る○大舍は。第十二等なり○送使。本に送を逐に誤る。今中臣本考本に據る。
 
(3634)三月乙巳朔丙午。土左大神。以(テ)2神刀《アヤシキタチ》一口(ヲ)1。進2于天皇(ニ)1。戊午。饗2金風那等(ニ)於筑紫(ニ)1。即自2筑紫1歸之。庚申。諸王(タチノ)四位栗隈王(ヲ)。爲2兵政官長《ツハモノヽツカサノカミト》1。小錦上大伴連|御行《ミユキヲ》。爲2大輔1。是月。高麗遣(テ)2大兄富干。大兄多武等(ヲ)1。朝貢。新羅遣2級※[にすい+食]朴勤脩。大奈末|金美賀《コムビカヲ》1。進v調。
 
丙午は二日なり○土左大神は。式に土佐國土佐郡土佐坐神社【大】。今高賀茂大明神とまをす。土左國風土記に。土佐郡々家西去四里。有2土左鷹賀茂大社1。其神爲2一言主神1。一説曰。味※[金+且]高彦根尊云々。とあり。狩谷氏曰。按風土記前説。以2高鴨神1。爲2一言主神1者誤。當d據2後説1爲uv正。與2雄略紀所v載一言主神之事1自別。不v可v混。と云り。なほ此事は。雄略紀四年の下に詳に云り○神刀云々進于天皇。祠官より神告を以て進れるなり。禁秘御抄に。寶釼壽永入v海紛失之後。被v用2清凉殿御釼1。此釼普通蒔繪也。吉記曰。祭主親時朝臣。依2神宮夢告1。奉2銀釼於院1。とあるの類なり○戊午。十四日なり○庚申。十六日なり○栗隈王。本に隈を限に誤る。今中臣本考本釋紀に據る○兵政官長は。即後の兵部卿なり。職員令に。兵部省卿一人。掌2内外武官名帳。考課選叙。位記。兵士以上名帳。朝集。禄賜。假使。差2發兵士1。兵器。儀仗。城隍。烽火事1。大輔一人。少輔一人云々。とあり。倭名抄兵部省。都政毛乃乃都加佐。とあり○大伴連御行は。十四年紀。持統紀五年。同十年。續紀一に見えたり。續紀。大寶元年正月。大納言正廣參大伴宿(3635)禰御行薨。宜詔贈2正廣貮右大臣1。御行(ハ)難波朝右大臣大紫長徳之子也。とあり。補任に第五子とあり。此人の妻。紀(ノ)音那《オムナ》の貞節なることも。續紀五に見えたり○大輔。本に輔を補に誤る。今正せり○大兄富干。本に干を于に作る。今考本に據て改む。
 
夏四月甲戌朔戊寅。請(テ)2僧尼二千四百餘(ヲ)1。而大(ニ)設齋《ヲカミス》焉。辛巳。勅2小錦上當摩公廣麻呂。小錦下久努臣麻呂二人1。勿v使2朝《ミカド》參1。壬午詔曰。諸國|貸税《イラシノオホチカラ》。自今以後。明(ニ)察《ミテ》2百姓(ヲ)1。先知(テ)2富貧(ヲ)1。簡2定三等(ニ)1。仍中戸(ヨリ)以下(ニ)。應與貸《イラシタマフ》。癸未。遣(テ)2小紫美濃王。小錦下佐伯連廣足(ヲ)1。祠2風神(ヲ)于龍田(ノ)立野(ニ)1。遣(テ)2小錦中間人連大|盖《フタ》。大山中曾禰連韓犬(ヲ)1。祭《イハヽシム》2大忌(ノ)神(ヲ)於廣瀬(ノ)河曲《カハワニ》1。
 
戊寅は五日なり○辛巳は八日なり○當摩公廣麻呂。此人卒ること。十四年紀に在り。本に麻を摩とあり。下文に據て改○久努臣麻呂。本に努を奴に作る。今中臣本京極本及下文に據る。朱鳥元年紀には。阿部久努朝臣麻呂とあり。續紀和銅五年十一月。從三位阿部朝臣宿奈麻呂言。從五位上引田朝臣邇閇云々。從七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣|大《フト》麻呂。无位長田朝臣多祁留等六人。實是阿倍氏(ノ)正宗。與2宿奈麻呂1無v異。但縁2居處1。更成2別氏1云々。但蒙2本姓1。詔許之。とあり。久努地各なるべし。國造(3636)本紀久努國造あり。倭名抄遠江國山名郡久努。【天孫本紀に。火明命十五世孫。尾治治々古連久努連祖。とあるは異姓なり。また物部大小市連公。佐夜部直久奴直等祖とも。物部印岐美連公。久努直。佐夜部直等祖。ともあるも異なり。姓氏録に、佐夜部首。伊香我色雄命之後也。とあるも物部氏なり。】○壬午。九日なり〇貸税。孝徳紀貸稻訓同じ。貸税のこと。雜令に見えたり。已に孝徳紀に云り〇三等。上戸中戸下戸を云。田令義解謂。凡戸(ノ)上中下者。計(テ)2口(ノ)多少1。臨時(ニ)量定。其餘條(ニ)。稱2上上戸中々戸等1。亦准2此例1也。とあり。【通證に。上戸中戸下戸。猶v言2上農夫中農夫小農夫1。と云り。】○仍。本に仍を乃に作る。今中臣本類史に仍る○癸未。十日なり○龍田立野。風神は神代紀に詳なり。御社は。延喜式大和國平群郡瀧田坐。天御柱國御柱神社二坐。【並名神大月次新甞】龍田比古龍田比女神社二坐。とあるこれなり。今立野村にあり。大和志に。平群郡立野付屬邑七。龍田村屬邑六。とあり。【此地の事も。御社の事も既に云り。】神祇令に。風神祭。謂2廣瀬龍田二祭1也。欲v令2※[さんずい+珍の旁]風不v吹。稼穡滋登1。故有2此祭1。とあり。此御祭の始まりし事は。崇神天皇の御世の事にして。式の風神祭の枕詞に。其旨委し。既に崇神紀に出せれば。此にいはず○間人連大盖。本に連大(ノ)二字を脱せり。今考本集解本に據る。此氏孝徳紀間人連鹽盖の下に出○曾禰連韓犬。本に犬を大に作る。今活字本及下文に據る。姓氏録左京神別。曾禰連。石上同祖。右京。曽禰連。神饒速日神六世孫。伊香我色雄命之後也。和泉。曾禰連。釆女臣同祖。陽成紀。阿波國那賀郡人。從七位上椋部眞影等十九人。復2本姓曾禰連1。とあり。氏族志云。後世蓋改賜2宿禰1。堀河帝時。有2肥後權大目曾禰宗行1。見2除目大成抄1。とあり。曾禰は地名なり。和泉國和泉郡曾禰神社。北曾禰村にあり。饒速日命を祭ると。和泉志三才圖會名所圖會等に云り○大忌神。式に大和國廣瀬郡廣瀬坐。和加宇加賣命神社。【名神大月次新甞。】(3637)とある神社此なり。【此社今川合村にあり。次に云。】式に廣瀬大忌祭祝詞あり。重胤云。此社を祠る事の物に見えたるは。此を始にて。翌五年に。夏四月戊戌朔辛丑。祭2龍田風神廣瀬大忌神1。秋七月丁卯朔壬午祭云々。と有は。例年四月四月に。此神を祭らるゝ起元と聞えたれど。毎年四月に龍田廣瀬神は。諦しく崇神天皇九年四月なること。既く其紀に考證せるが如し。廣瀬社縁起と云書に。當社者。人皇十代崇神天皇御宇。大和國廣瀬郡河合村(ニ)出現(シ)給。と記せる社家の傳來は。眞説なりけり。御紀に。四月甲午朔己酉。依2夢之教1。祭2墨坂神大坂神1。とある己酉は誤にて。丁酉には非るか。【武郷云。墨坂神大坂神を祭給ふとあるが。此大忌神を祭給ふ根源なるよし。記傳の説ありて、既に云り。】若然もあらば。天武天皇御世より。定來る大忌祭の。四月四日七月四日なるも。由有げなり。四時祭式に。四月七月に。此祭の有る由なるが。其は本朝月令。四月四日。廣瀬龍田祭事條云。弘仁式云。大忌神一座。【廣瀬社。七月准之。】風神祭二坐。【龍田社。七月准之。】右二社云々。又云。大忌風神二社者。四月七月四日祭之。と見ゆ。尚神祇令集解なる。風神祭の釋に。廣瀬龍田祭也。草木五穀等。風吹而枯壞之。此時不v知2彼神心1。即天皇齋戒。願覺2夢中(ニ)1。即覺云。龍田廣瀬祭2二社1云々とあるは。崇神天皇御世の事を云るなり。又天武天皇より以來の紀を閲るに。祭2廣瀬龍田神1とも。祭3廣瀬大忌神。與2龍田風神1。と毎も有るは。其祭禮の同日なる故に。合せ記さるゝ耳ならず。初て齋奉初られし崇神天皇の御世より。何事も同等同事ならむ故なり。然れば其詞も。此彼と相通して。思合すべき事少からずと知べし。大忌神と申は。物忌の義なり。其は此廣瀬に坐。和加字加賣命の亦名なるか。少意得あるべし。和加宇加賣命と申す時は。衣食住の神と(3638)申す事にし有を。大忌神と申す時は。天宮にて。皇大御神の御饌神と。仕奉始給へる御職の號なる者なり。其證は。豐受宮儀式帳に。天照坐皇大神云々。御饌都神等由氣大神乎云々。と詔へるは。我御饌を主る神と申す意なり。若て度會宮に鎭定り給へる時に。宮中に御饌殿を造奉れるは。豐受大神より。天照大御神へ。朝夕の大御饌を。奉らせ給はむ料に。造奉れる由なり。【武郷云。なほ神宮雜事記。倭姫命世記。皇大神宮儀式帳の文をも引きて。委く云れたれど。今省けり。】此豐受大神の又名。和加宇加命を。大忌神と申す所以は。上件の如くにて。大忌は大物忌と申すも同事なるか。忌とは上にも往々説るが如く。忌清め慎しみ敬ふ由なり。【中略】當社神階の事は。文徳實録嘉祥三年七月。大和國宇賀乃賣神。加2從五位上1。とあるは。神位の物に見えたる初なるか。授と記さるべきを。加と有れば。前に從五位下を授奉給ひけむを。紀に洩たるなるべし。同録。仁壽二年七月。加2從四位下1。同十年十月從三位。三代實録貞觀元年正月。奉v授2正三位1。とありて。此餘は見えず。【龍田神此に同じ。】祭の事は上に云る如く。崇神天皇九年四月に。墨坂神大坂神を初て祭らるゝ時より。此廣瀬龍田兩社の御祭は。有初つらむを。其後は其四月の中にて。何日といふ定も無りし故に。後れなども爲つるか。終には止て過にし年なども有つる故に。其よりは唯臨時に行るゝ耳なりしを。此四年に再興爲させ給ひて。其より恒例の神事とは。定りけるものなるべし。但しこゝなる癸未は十日なるか。翌五年四月戊戌朔辛丑に祭られしは。四月四日に定られたる權與なるべきか。同年七月丁卯朔壬午に祭られしは。七月の祭の始と通えたるに。壬午は十六日なり。然れば未(ダ)此時四日と云ふ御定も※[耳+定]に立ざ(3639)りしにや。但此は四月七月四日に祭らるゝ起元の。知ま欲さに。如此く鑿説《ウガチトキ》たるにこそ有けれ。同御紀より。持統天皇御卷まで讀通るに。實に四日と云ふ御定にては無く。卜食などにて定られたるにか。詳ならず。弘仁式に。大忌風神二神(ハ)。四月七月四日祭之。とあるを思ふに。弘仁造式の年に當て。定られたりとも見えざるが上に。神祇令に。常例の御祭例に記されしより。後の御紀に記されざるを思へば。大寶の御定と通えたり。令義解に。大忌祭。謂2廣瀬龍田二祭1也。令d山谷水變成2甘水1。浸2潤苗稼1。得c其全稔u。故有2此祭1也。と見えて。集解に。廣瀬龍田祭。自2山谷1下(ス)v水(ヲ)矣。甘(キ)水(ト)成而。爲v令2五穀成熟1祭也。差2五位已上1。充v使也。古記無v別。跡(ノ)云。祈年祭祭2甲神1。大忌祭祭2乙神1之類。依2別式1也。とあるが如く。大忌祭謂2廣瀬龍田二祭1也。と有て。大忌祭風神祭は。二にして一なる者なり。其は義解に。風神祭。謂2亦廣瀬龍田二祭1也。欲v令2※[さんずい+珍の旁]風不v吹。稼穡慈登1。故有2此祭1也。と有て。大忌祭に風神祭を兼。風神祭に大忌祭を兼たる者なり。公事根源にも。廣瀬龍田祭。是兩社は大和國に在(リ)。祭日は廢務なり。年に二度行はる。使は前日遣つ。大忌風神祭と云これなり。風水の難を除きて。年穀の豐なるを祈申さるゝにや。と有り。廢務の事の有など。甚重き神事なり。然に貞觀儀式。及江家次第に。此式を載られざるは。漏たるには非ず。違例の事なければなり。とあり。なほ委しき事は。本書を披見るべし○廣瀬河曲。此社の縁起に。大忌廣瀬社。若宇加乃賣命。伊勢外宮分身也。當社者。崇神天皇御宇。大和國廣瀬郡河合村出現(シ)給云々。さて此社は。考に今在2廣瀬河合村1。泊瀬河倉橋川此地(ナリ)。と云り。
 
(3640)丁亥。小錦下久努臣麻呂。坐《ヨリ》v對2捍《コバメルニ》詔使《ミカドツカヒ》1。官位盡|追《トラル》。庚寅。詔(テ)2諸(ノ)國(ニ)1曰。自今以後。制《イサメ》2諸(ノ)漁獵《スナドリカリ》者(ヲ)1。莫(ラシム)d造(リ)2檻穽《ヲリシヽアナヲ》1。及|施《オクコト》c機槍《フムハナチ》等之類(ヲ)u。亦四月(ノ)朔以後。九月(ノ)三十日以前(ニ)。莫v置(コト)2比滿沙伎理(ノ)梁《ヤナヲ》1。且莫v食(コト)2牛馬犬猿鷄之完(ヲ)1。以外(ハ)不v在2禁制《カギリニ》1。若有(ハ)2犯者1罪(ム)之。
 
久努臣。本に久を文に誤る。今上文に據て訂せり○對捍詔使。名例律八虐。六曰大不敬。對2捍詔使1。而無2人臣之禮1。注謂d奉v詔出使。宣2布四方1。有v人對捍。不v恭2詔命1。而無2人臣之禮1者u。詔使者奉v詔定v名。及令2所司差遣1者是。とあり○官位盡追。本に盡を書に作る。今類史に據る。さて説文に追逐也とあり。逐斥の意なり。解官追位。爰に始て見えたり○庚寅。十七日なり○檻穽。機槍。本に穽を※[穴/牛]に誤る。今中臣本考本に據る。檻は色葉字類抄にヲリとあり。漢書五行志に。豕出v※[国の玉が豕]《ヲリ》云々。古今著聞集に。件のをりは。細き木を土に打立てあるものにて云々とあり。雜令云。凡作2檻穽1。及施2機槍1者。不v得2妨v徑。及害1v人。義解謂。檻者※[国の玉が卷]。穽者※[土+陷の旁]。並所2以捕1v獣者也。通證云。後漢宋均傳。設2檻穽1。而猶多傷害。注(ニ)檻爲v機以捕v獣。穽謂2穿v地陷1v之。施機二字。出2呉越春秋1。機槍見2唐律釋文1。とあり。機槍をフムハナチと訓は。蹈發の意にて。此處を蹈時は。彼處の機《カラクリ》發《ウゴ》きて。獣の墮入るより。負せたる名なれども。なほこれは神武紀なる機【記に押機と書り。】にて。今世に云於登志なり。故此機槍をも於志と訓べし。と記(3641)傳に云れたり○比滿沙伎理梁は。通證に。遮《サギリ》v隙《ヒマ》之義。荀子注。石絶v水爲v梁。所2以取1v魚也。と云り。中臣本には滿を彌《ミ》に作れり。さらば又異意あるにや知がたし○牛馬犬猿鷄之宍。續紀天平十三年二月詔曰。馬牛代v人勤勞養v人。因v茲先有2明制1。不v許2屠殺1。今聞国郡未v能2禁止1。百姓猶有2屠殺1。宜其有v犯者。不v問2蔭贖1。先决2杖一百1。然後科v罪。とあり。さて牛馬は。神代に保食神の。耕作の爲にとて。生《ナ》し給へる畜にて。本より食物とすべきにあらぬ事は明らけきを。犬猿鷄。また人民の食とすべからざる習慣は。神代ながらに自ら定りつらんを。たしかなる明文なし。然るに。皇國の事を記したる。全淅兵制録日本風土紀に。※[食+希]饌以2鹿脯魚物1爲2常品1。海味甚多。不v食v鷄。謂鷄乃徳信之禽。無2牛脯1。以爲牛代v力之牲。不v忍v食。とあるにて。鷄をも忌たりしことは知られたり。犬猿の事はものに見えず。法苑珠林。畜生部(ノ)述意。犬勤v夜吠。鷄競v曉鳴。牛弊2田農1。馬勞2行陣1。又猿類v人。故不v食。見2涅槃經1とあり。かゝる故にもやあらむ。今知べからず。されど此中にも。猿類v人故不v食などは。あまり理《コトワリ》めきたり。されど此時の詔。はた佛經の意より出たらんも知がたければ。さる意にてもあらんか○以外不在禁例。此後孝謙天皇御世に。以2猪鹿之類1。永不v得2進御1。とあるは。全く佛意より出たる詔なれど。此時なるは。猪鹿など。なほ禁じ給はぬを見れば。ひたぶるに佛經に因給へるにはあらで。世人の忌むべき限りを。詔出させ給ふが本なるべし。
 
(3642)辛卯。三位麻績王有v罪。流2于因播(ニ)1。一(ノ)子(ヲバ)流2伊豆(ノ)嶋(ニ)1。一子(ヲバ)流2血鹿《チカノ》島1。丙申。簡(テ)2諸(ノ)才藝者《カドアルヒトヲ》1。給v録各有v差。是月。新羅王子忠元到2難波1。
 
辛卯は十八日なり〇三位の上。恐くは諸王(ノ)二字脱せるか。されど後にも例あり○麻績王。此王詳ならず○流于因播。倭名抄因播以奈八。萬葉一に。麻績王流2于伊勢國伊良虞島1之時。人哀傷作歌云々。麻績王感傷和歌云々あり。此歌共に伊良良虞の事を詠たれば。其方正しくて。此本紀は誤なるべし。【或人云。此因幡は。伊勢國壹志郡稲葉神社あり。此地にて國名の因幡にあらず。しかるに萬葉古注に。是云配2于伊勢國伊良虞島1者。若疑後人縁2歌辭1而誤記乎。とあるは。中々に誤れるを云々。伊良湖崎は。壹志郡の海より。遠からぬ地なれば。時々は伊良湖邊にも。遊給ひけん。とあるは強語なり。壹志郡に。よしや稲葉と云地ありとも。伊勢とも何ともいはで。まぎらはしき國名の。因幡の字を充べきやうあらめや。】常陸風土記行方郡云々。板來之驛。其西榎木成v林。飛鳥淨御原天皇之世。遣2麻績王1居處《ヲラシム》之云々。と云こと見えたれど。流され給へる時の事にはあらじ○伊豆嶋。伊豆國南海中に大島あり。これなり○血鹿島は。肥前國松浦郡値嘉これなり。敏達紀に見ゆ○丙申は二十三日なり。
 
六月癸酉朔乙未。大分《オホキタノ》君|惠尺《ヱサ》。病(テ)將v死。天皇大驚(テ)詔(テ)曰。汝惠尺也。背(テ)v私(ニ)向(テ)v公(ニ)。不v惜2身命(ヲ)1。以(テ)2遂雄之心(ヲ)1。勞2于大|※[人偏+殳]《エダチニ》1。恒欲2慈愛《メグマント》1。故爾雖2既死1。子孫(ヲバ)厚賞(ム)。仍|騰《アゲタマフ》外(ノ)小紫位(ニ)1。未(ダ)v及數日《ヒモヘズシテ》1。薨2于私(ノ)家1。秋七月癸卯朔己酉。小錦(3643)上大伴連國麻呂。爲2大使1。小錦下三宅吉士|入石《イリシヲ》。爲(テ)2副使(ト)1。遣2于新羅(ニ)1。八月壬申朔。耽羅(ノ)調使。王子久麻伎。泊2筑紫(ニ)1。癸巳大(ニ)風(テ)。飛v沙(ヲ)破《コボツ》v屋(ヲ)。丙申。忠元體(コト)畢以(テ)歸《マカリカヘル》之。自2難波1發船《フナダチス》。己亥。新羅高麗二國調使。饗2於筑紫1。賜v録有v差。九月壬寅朔戊辰。耽羅王姑如。到2難波1。
 
乙未は二十三日なり○背私向公。本に向を同とあり。今京極本中臣本に據る○遂雄之心。遂雄不詳。字書に遂進也とあるに據れば。進雄の義か。古本の訓にヲヽシキ【本はタヽシと誤れり。】とあるも。此意に似たり。なほ考べし。【集解には之字を衍とし。遂2雄心1の誤と爲て。御漢書孔融傳曰。動2義〓1而忤2雄心1。と云れど。信がたし。】○勞于大※[人偏+殳]。天皇吉野に坐々て。惠尺等を留守司高坂王の許に遣はして。驛鈴を乞はしめ給ひしより。初中天皇に從ひまつりて。勞きたりしこと。前紀に見えたり○子孫厚賞。本に厚を原に作れり。今中臣本考本に據る○己酉。七日なり〇三宅吉士。十二年紀に。九月三宅吉士賜v姓曰v連。とあり。他には見えす。垂仁紀に三宅連あり。これは別姓なり。既に云り○久麻伎。上文に久麻藝とあり○癸巳。二十二日なり○丙申。二十五日なり○忠元。二月來りし新羅國王の子なり○己亥。二十八日なり○戊辰。二十七日なり。
 
冬十月辛未朔癸酉。遣(テ)2使(ヲ)於四方(ニ)1。※[不/見]2一切經(ヲ)1。康辰。置《メシテ》v酒宴2群臣(ニ)1。丙戌。(3644)自2筑紫1。貢2唐人三十口(ヲ)1。則遣(テ)2遠江國(ニ)1。而|安置《ハベラシム》。庚寅詔曰。諸王以下初位以上。毎v人備v兵(ヲ)。是日。相摸國言。高倉之郡(ノ)女人。生《ヒトタビニウメリ》2三男《ミタリノヲノコヲ》1。十一月辛丑朔癸卯。有(テ)v人登(テ)2宮(ノ)東(ノ)岳(ニ)1。〓言《オヨヅレゴトシテ》而自|刎《クビハネテ》死之。當《テ》2是(ノ)夜(ニ)1直者《トノヰセルモノ》。悉《ニ》賜2爵一級1。是月大(ニ)地動。
 
癸酉。三日なり〇一切經。二年紀に云り。元享釋書云。是時未v備也。とあり○庚辰。十日なり○丙戌。十六日なり○貢唐人三十口。通證云。唐劉仁軌大破2新羅1。在2此歳1。とあり。新羅にて俘虜せし唐人なるべし○遠江國。倭名抄城飼郡鹿城加良古とあるは。此時の由に縁れるか。又良は誤か。たづぬべし○庚寅。二十七日なり○初位以上。此時諸臣の位に。初位と云はあらぬを。こゝにかくあるは。大建小建を初位とも云りしにや○高倉郡。倭名抄に相摸國高座郡○生三男の上。一(ノ)字を脱せしにや。績紀文武三年には一2産二男二女1。慶雲三年には。三2産六兒1。初産2二男1。次産2二女1。後産2二男1。などあり○癸卯三日なり○〓言。〓は妖に同じ。オヨヅレゴト。天智紀にみえたり。吏學指南。欺罔姦邪之言。謂2之妖言1○直者。殿居人なり。文選注。直謂d宿2禁中1備c非常u。とあり。此夜かく直者に爵をしも賜ひしは。おほろけならぬ妖言にて。甚く宮中にても。驚かせ給ひしなるべし。叛者などありけるにや。
 
(3645)日本書紀通釋卷之六十六   飯田武郷謹撰
 
五年春正月庚子朔。群臣百寮拜朝。癸卯。高市皇子以下。小錦以上(ノ)大夫等(ニ)。賜2衣袴|褶《ヒラオビ》腰|帶《オビ》脚帶《アユヒ》。及|机杖《オシマヅキツエ》1。唯小錦三(ノ)階(ニハ)。不v賜v机。丙午。小錦以上(ノ)大夫等(ニ)。賜v禄各有v差。甲寅。百寮初位以上。進v薪。即日悉|集《マウデ》2朝廷(ニ)1賜v宴。乙卯。置(テ)v禄(ヲ)射《ウコナヘス・イクフ》2于西門(ノ)庭(ニ)1。中《イアツル》v的《マトニ》《ヒトニハ》。則給v禄有v差。是日。天皇御(テ)2島宮(ニ)1宴之。甲子詔(テ)曰。凡|任《マケムコトハ》2國司(ヲ)1者。除《オキテ》2畿内及隆奥長門國(ヲ)1以外(ハ)。皆任(ケヨ)2大山位以下(ノ)人1。
 
百寮の下。本に朔字あるは衍なり。今考本類史に據る。また拜朝の下。考本に庭字あり○癸卯。四日なり○褶。衣服令に。皇太子禮服。深紫紗(ノ)褶。義解謂。褶者所3以加2袴上1。故俗云2袴褶1也。とあり。褶の事も其名義も。既に推古紀に云り○腰帶は。所謂石帶なり。これも衣服令に。一品以下五位以上。金銀|装《ヅクリ》腰帶。六位七位八位。烏油《クロヅクリ》腰帶。延喜彈正式に。刻2鏤金銀1帶。及唐帶。五位以上竝聽2着用1。装束要(3646)領抄に。腰帶或云|宛腰《アテコシ》。とあり○机杖は。机と杖と二種なり。【本に二字を。オシマヅキと訓るは誤なり。古寫本は。オシマヅキヅヱと訓り。】秘閣本には杖机とあり。されどそれは誤なるべし。漢書呉王※[さんずい+鼻]傳に。賜2呉王(ニ)几杖老不1v朝。とあり。さて机は。和名抄調度部に。几【脇息附。】西京雜記云。漢制。天子玉几。公侯皆以2竹木1爲v几。【於之萬都岐。今案。几〓又有2脇息之名1。所出未v詳。。箋注云。説文。几。〓几也。象形。釋名。几。屐也。所2以屐1v物也。下總本。几下有2亦作机三字1。按廣韻。几或作v机。盖几用v木造。故後人從v木作v机。與2説文木名机字1。混無v別。然源君意。似d以v几爲2几案1。以v机爲c食案u。亦作v机三字。恐後人所v増。非2源君之舊1。昌平本下總本。有2和名二字1。斉明紀。夾膝又案机。天武紀机。並同〓云々。】などあり。【夾膝《オシマヅキ》の事は。既に斉明紀に云り。】さて几は今云脇息なり。杖は賜2輿(ト)杖1などの杖とは異にて。其官位ある人の燕居を。優待し給ふが爲に。几に附て杖をも賜ふなり。【然るを考云。机杖とは。節會の時など。陳の坐に就かるゝ時に。將机を用ゐて。腰を懸らるゝ事なり。其將机を御免と見えたり。杖は兵杖にて。弓矢刀を帶するなるべし。と云れたるは信がたし。】○不賜机。與清云。机下杖を脱するかと云り。され机と杖とは二種なり。杖は机よりは。やゝ重きを知らせたるなり。一物とは爲すべからず○丙午。七日なり○甲寅。十五日なり○進薪。大日本史。按前年正月三日。百寮献v薪。據2年中行事公事根源1。後世正月十五日献v薪。蓋始2于此1。とあり。通證云。後世以2此日1爲2定式1。とあり○乙卯。十六日なり〇置禄射云々。置は積置なり。さて賭弓の禄に錢を用ゐしこと。増鏡に見えたれば。こゝの禄も錢なりしなるべし。【通證に引る。史(ノ)孫子傳。與2王及諸公子1。逐2射千金1。正義云。隨逐而射。贈2千金1。世説新語曰。相玄出射有2一劉參軍。與2周參軍1朋賭。などある文に基づけるものなるべし。】さて賭弓は。後世は十八日なり○中的者。本に者字なし。今類史に據る○給禄有差。通證云。式法定2淳和天皇天長元年1。とあり。【類史第七十二。歳時部三。天長元年正月十七日。射禮賭射附出下に。戊辰賭射。右近衞竝勝之。とあり。】公事根源|射禮《ジヤライ》十七日の下云。是は建禮門にて行侍る事なり。代《ダイ》の始には豐樂院にてあり。十五日に先兵部省手つがひといふ事有て。射手をとゝのへさだむる儀式あり云々。
(3647)又|射禮《ジヤライ》のあくる日は。射遺《イノコシ》とて有。其は咋日射禮に參ぜざる四府【左右近衛左右兵衛】に。けふいさしむるがゆゑに。射のこしとは申なり。弘仁二年正月に此事はじまる。また賭弓十八日下云。是は天子弓場殿にのぞみて。弓を御覧ずるなり。仲春に弓をみる事は。禮記などにも侍るにや。※[土+朋]をつき的をかけて。左右の近術。左右兵衞。四府の舍人どもの射侍るなり。左右の大將射手を奏せらる。勝のかたは。まけの方に罸酒を行ふ。又勝の方は舞樂を奏す。大かた近衛の管領にてあれば。事はてゝ後大將射手に饗をたぶ。是をかへりあるじといふなり。かへりあるし行はぬ大將は。左右なく參内せぬことにて。度々の召につきてまゐるとかや。又殿上の賭弓とて。臨時に弓を御覧ずる事あり。それは殿上の侍臣どもの射侍るなり。新井君美云。此事天武天皇五年正月より始(ル)などいへど。賭射といふ事國史に見えし所は。淳和天皇天長元年正月に行れしをや始と申すべき。と云り○宴之。國史十六蹈歌の下に出せり。蹈歌節會は。公事根源云。踏歌といふは。正月十五日の男踏歌の事に侍べし。近頃行はれ侍るは女踏歌なり。それは十六日なり。【延喜式中宮職正月十六日踏歌。妓女四十六人。禄科云々。などあり。】光源氏の物語などにも。おほくは男踏歌の事を申侍る云々。天武天皇三年正月に。大極殿に渡御なりて。男女わかつ事なく。闇夜に踏歌の事有と見えたり云々。【此紀三年に。この事見えず。疑ふべし。これは以呂波字類抄に。本朝事始を引て云り。】なほ踏歌の事は持統紀云○甲子。二十五日○陸奥長門國云々。陸奥は邊要の地たること。延喜式に見え。長門は關國なること。衞禁律に見えて。他國よりは其任の重きが故なり○大山位以下人は。後の五位以下に准ず。國司(ノ)位階。後世よりは輕く定め給へる(3648)なり。
 
二月庚午朔。朝拜。癸巳(ニ)。耽羅(ノ)客賜2船一艘1。是月。大伴連國麻呂等。至v自2新羅1。夏四月戊戌朔辛丑。祭2龍田(ノ)風神。廣瀬(ノ)大忌神(ヲ)1。倭國(ノ)添下郡(ノ)鰐《ワニ》積(ノ)吉《ヨ》事。貢2瑞《アヤシキ》鷄(ヲ)1。其|冠《サカ》似2海石榴《ツバキ》華1。是日。倭國飽波郡言。雌鷄|化《ナレリ》v雄《ヲトリニ》。辛亥勅。諸王諸臣(ノ)被給《タマハル》封戸《ヘヒト》之税者。除《ヤメテ》2以西(ノカタノ)國(ヲ)1。相易(テ)給(ヘ)2以東(カタノ)國(ニ)1。又外國(ノ)人。欲2進仕1者。臣連伴造之子。及國造(ノ)子(ヲバ)聽(セ)之。唯雖2以下|庶人《オホミタカラ》1。其|才能《カドシワザ》《イサセタルハ》亦聽之。己未。詔(テ)2美濃國司(ニ)1曰。在2礪杵《トキ》郡(ニ)1。紀臣阿佐麻呂之子(ヲバ)。遷(テ)2東國(ニ)1。即爲2其國之百姓(ト)1。
 
朝拜。本に朝字なし。今水戸本に據る○癸巳。二十四日なり○辛丑。四日なり○鰐積吉事。鰐積氏系未詳○瑞鷄。本に瑞を端に誤る。今正す○冠。通證云。冠訓佐加。今云2登佐加1。倭名抄。鷄冠菜。土里佐加乃里。式文(ニ)用2鳥坂苔1。○飽波郡。倭名抄。平群郡飽波阿久奈美。大和志云。已廢。存2安堵村1。東安堵村屬邑二。其一曰2飽波1。大安寺縁起に。小治田宮御宇太帝天皇。召2田村皇子1。以遣2飽波葦墻宮1。令v問2厩戸皇子之病1云々。又退三箇日間。皇子私參2向飽浪1。問2御病状1。續紀。神護景雲三年十月己酉。幸2飽波(3649)宮1。などあり○辛亥。十四日なり○卦戸之税。續紀天平十一年五月。詔曰。諸家封家之租。依v令二分入v官。一分給v主者。自今以後。全給2其主1。運送傭食(ハ)。割2取其租1。十九年五月。太政官奏曰。卦戸人數縁v有2多少1。所v輸雜物不v等。是以官位同等所v給殊差(アリ)。准v法准量(ルニ)。理實不v堪。請毎2一戸1。以2正丁五六人。中男一人1。爲v率。則用(ハ)郷別課口二百八十。中男五十。擬爲2定數1。其田租者。毎2一戸1。以2四十束1爲v限。不v合2加減1。奏可之。などあり○外國人。海外の國を云には非ず。畿外の國を云。持統紀にも見ゆ。三代格に。畿内外國と云事も見ゆ。【なほ景行紀に。邦畿之外《トツクニ》とある處にも云へり。】○才能長。長の訓イサセ詳ならず。假名本にもいさせとあり○己未。二十二日なり○礪杵郡。和名抄土岐郡とあり○紀臣阿佐麻呂。【中臣本阿を※[言+可]に作る。】詳ならず。集解に。按阿佐麻呂。蓋近江(ノ)朝(ノ)人。配流在2於美濃1也。非2大人及阿閇麻呂之族1。續紀養老二年。有3無位紀臣龍麻呂等十八人。賜2朝臣姓1。蓋是此黨也。と云り。【信友は。壬申の役。近江方紀大人族かと云り。】なほ考ふべし。
 
五月戊辰朔庚午。宣《ノリゴトシタマハク》進(ラムコト)v調過2期限《カギリ》1。國司等之犯状云云。甲戌。下野國司奏|所部《クニノウチノ》百姓。遇《ヨリテ》2凶年《トシエヌニ》1飢《イヒウヱテ》之。欲v賣v子(ヲ)。而朝不v聽矣。是月。勅禁2南《ミナ》淵山細川山(ヲ)1。並(ニ)莫2蒭《クサカリ》《キコルコト》1。又畿内(ノ)山野(ノ)。元(ヨリ)所(ノ)v禁之限。莫2妄(ニ)燒折《ヤキキルコト》1。六月(ニ)。四位栗隈王得v病薨。物部雄君(ノ)連。忽發病而卒。天皇聞之大(ニ)驚。其壬申(ノ)年。從(テ)2車駕《ミユキニ》1。(3650)入(テ)2東國(ニ)1。以(テ)v有(ヲ)2大|功《イタハリ》1。降v恩賜2内(ノ)大紫(ノ)位1。因(テ)賜2氏(ノ)上《カミヲ》1。是夏大旱。遣(テ)1使(ヲ)四方(ニ)1。奉2幣帛1。祈2諸(ノ)神祇(ニ)1。亦請(テ)2諸(ノ)僧尼(ヲ)1。祈2于三寶(ニ)1。然不v雨。由(テ)v是(ニ)五穀不v登《ミノラ》。百姓飢之。秋七月丁卯朔戊辰。卿大夫及百寮(ノ)諸人等(ニ)。進《スヽメタマフコト》v爵各有v差。甲戌。耽羅(ノ)客歸v國。壬午。祭2龍田風神。廣瀬大忌神(ヲ)1。是月。村國連雄依卒。以(テ)2王申年之功(ヲ)1。贈2外(ノ)小紫(ノ)位1。有(テ)v星出2于東(ニ)1。長七八尺。至(テ)2九月(ニ)1竟v天(ニ)。
 
庚午は。三日なり○進調過期限。賦役令に。凡調庸物。毎年八月中旬起輸。近國(ハ)十月三十日。中國(ハ)十一月三十日。遠國(ハ)十二月三十日以前納訖。とあり。此御世のも。大方さることなりしなるべし。さて此下に云云とあるは。文長くして略したるか。又はたゝ云々とのみ云ひて。中古の記録文體に。添へしものにもあるべし○甲戌。七日なり○欲賣子。通證に。賣v子爲2奴婢1也。とあり。戸令賊盗律等に見ゆ○南淵山細川山。南淵山用明紀に見ゆ。大和志に。在2高布郡稻淵村1。とあり。細川山。同志に在2細川村1。とあり。萬葉七に。南淵之細川山(ニ)立《タツ》檀《マユミ》云々。契冲云。南淵は地廣くして。其中に南淵山細川山もあるならん。さて萬葉に。南淵之細川山とは詠るならむ。と云り○燒折。野を燒き木を折るなり。本に折を析に誤る。今中臣本考本に據る〇四位栗隈王。本に隈を限に誤る。今中臣本考本に據る。上文には諸(3651)王四位とあり。こゝは省きしものか○物部雄君連卒。前紀には朴井連とあり。中臣本に。御本に薨とありと云り○從車駕入東國。天皇の吉野を發て。東國に入給ひし時。元從者の一人たりしこと。そこに見えたり○賜内大紫位。考本賜を贈に作る○賜氏上。この事天智紀に見ゆ○祈請神祇。延喜式臨時祭式に。祈雨神祭八十五坐を載せたり○祈于三寶。此は佛を指て云るなり○戊辰。二日なり〇百寮。本に寮の上姓字あるは衍なり。今中臣本考本に依る○甲戌。八日なり。京極本に一作2辛巳1とあり。辛巳は十五日なり○壬午。十六日なり○祭龍田風神云々。神祇令。孟夏大忌祭。風神祭。孟秋大忌祭。風神祭。とあり○村國連雄依卒。天皇吉野を發し給ふ時。男依等に詔して。急に塞2不破道1かしめ給ひしに。天皇伊勢郡家に至り給ひし時。男依乘v驛來奏曰。發2美濃師三千人1。得v塞2不破道1。於是天皇美2雄依之務1云々。また息長構河。或は安河濱に戰ひ。瀬田に至り。粟津岡下にて。大友皇子を走らせ奉れるなど見えたり○有星。彗里なり○長七八尺。本に長字を脱せり。今京極本中臣本に依る○竟天。中臣本云。假名本天を失に作るとあり。
 
八月丙申朔丁酉。親王以下。小錦以上(ノ)大夫。及皇女姫王。内命婦《ヒメマチキミ》等。給(コト)2食封《ヘヒト》1各有v差。辛亥詔曰。四方(ニ)爲《セム》2大|解除《ハラヘ》1。用物《モチヰシモノハ》。則國別(ニ)國造輸2祓柱《ハラヘツモノ》1。馬一匹。布一|常《キタ》。以外(ハ)郡司(ハ)。各|刀《タチ》一口。鹿皮一|張《ヒラ》。※[金+(耀の旁)]《クハ》一口。刀子一口。鎌一口。矢(3652)一具。稻一束。且毎v戸麻一|條《タハリ》
 
丁酉。二日なり○皇女姫王。按に皇女は親王にあたり。姫王は諸王にあたれり。持統紀五年には。内親王女王どあり。また此女王を王女と書ることもあり。已に云り○食封。尊徳紀に出○辛亥。十六日なり○大解除。解除に二季大祓あり。臨時大祓あり。續紀養老五年七月。始令d文武百官。率2妻女妹妹1。會c於六月十二月晦大祓之處u。とあり。神祇令。凡六月十二月晦日大祓云々。百官男女聚2集祓所1。中臣宣2祓詞1。卜部爲2解除1云々。これ二季の大祓なり。また記。仲哀天皇崩後。取2國之大奴佐1。爲2國之大祓1。と云事あり。これ臨時大祓なり。こゝに四方爲2大解除1。とあるは。即爲2國之大祓1。と同じ事なり。みな臨時に事ある時定むる所なり。續紀十一に。遣2使諸國1大祓。となるは。大甞を行給ふ爲なり。此時の大解除は。いかなる事ならむと思ふに。或人の。彗星に依て臨時に行はれしなりと云へりb。さることにもやありけん○祓柱は。祓具なり。これ國之大奴佐なり○馬l匹。通證に。江次第(ニ)。御贖物持來。祓物牽立畢。又詳見2貞觀儀式。西宮記等1。とあり。馬を祓柱に牽るは。神に奉る幣帛の料なり。【布〓刀子矢などいづれも幣帛の料なり。】深き由縁ある事なるべけれど。今知がたし。重胤云。解除に馬を牽く事は。神祇令に。几諸國須2大祓1者。國造出2馬一疋1云々と有るを。已に天武天皇紀五年八月詔に云々とあれば。其頃の御定かと思ふに然らず。古き事なり。雄略紀十三年三月。狹穩彦玄孫齒田根命。以2馬八匹大刀八口1。祓2除罪過1。(3653)既而歌曰云々、と有るは。古くより祓柱に出せりし例を以て。馬を令v出給ひし者なり。【孝徳天皇紀。牝馬孕2於己家1。便使2祓除1。遂奪2其馬1云々などの事は。惡行には違ひ無き物から。古祓柱に馬を出せりしを以てなり。】四時祭式六月晦日大祓【十二月准此】條に。馬六疋を祓柱の中に載られ。儀式大祓儀には。其日午四尅。神祇。宮内。縫殿等官省寮。候2延政門外1。百官會2集祓處1。先v此神祇官。陳2祓物於朱雀門路南1。とある。細書に分2置六處1。但馬在2南方1北向。と見えたり。江次第には。馬六疋牽2立朱雀門橋上1云々。御贖物持來。祓馬牽立畢。と有り。偖他祓柱は。大川道に持出て流すを。馬は唯神等の耳聰く聞食む表物として。出す所なれば。祓事畢て後に。馬寮に收らるゝなるべし。【以上大祓詞講義。】と云り。按に。馬は唯神等の耳聰く聞食む表物として。出す所なれば云々とあるは。大祓詞に。高天原爾耳振立。聞物止馬牽立※[氏/一]。とあるに依られたるなれど。馬を牽立る事は。祓に馬を出す事のある。其を表物として言を成せるなり。出雲國造神賀詞にも。馬を献る事を。白御馬能。前足爪後足爪。踏立事波。大宮能内外。御門柱乎。上津石根爾蹈堅米。下津石根爾踏凝之。振立流事波。耳龍彌高爾。天下乎所知食左牟事(ノ)志《シルシノ》太米。と云るが如し。其(レ)が爲に馬を祓に出すにはあるべからじ。【髪壽詞の文も。御門柱を踏堅米踏凝之云々の爲に。馬を献るにあらぬと同じ。是も國造が馬を献るよりして。其を表物として。文をなせること。大祓詞におなじ。】○布一常。賦役令義解。布一丈三尺。是爲2一常1。とあり。常《キタ》は段に同じ。【通證に引る廣韻の説は用なし。】○※[金+耀の旁]。通證に當v作v鑁とあり○刀子。小刀なり○矢一具。三代格延暦二十年文に。以2十隻1爲2一具1。とあり○麻一條。中臣本考本。及本書傍書に。條を把に作る。訓に依るに。把の方|是《ヨロシキ》に似たり。さて麻一條とあるには。木綿と麻との二種を。合せたるなるべき事。記傳に云り。さて神祇(3654)令に。凡諸國須2大祓1者。毎v郡出2刀一口。皮一張。鍬一口。及雜物等。戸別麻一條1。其國造出2馬一匹1。とあり。聊異なり。
 
壬子詔曰。死刑。歿官《ヲサムルツミ》。三(ノ)流《ナガスツミ》。並|除《ノゾケ》2一等(ヲ)1。徒《ミツカフ》罪以下。已|發覺《アラハレタル》未2發覺1。悉(ニ)赦(セ)之。唯既|配流《ナガサレタル》。不v在2赦(ノ)例《カギリニ》1。是日。詔2諸國(ニ)1。以放v生《イキモノ》
 
壬子。十七日なり○死刑歿官三流。本の訓は甚しき非なり。こゝは死刑を一項とし。没官を一項とし。三流を一項として見るべきなり。其證は。續紀十四。天平十三年正月甲辰。逆人廣嗣與黨。且所2捉獲1。死罪二十六人。没官五人。流罪四十七人。徒罪三十二人。杖罪一百七十七人。とあるにて知べし。さて死刑は死罪なり。歿官は官を歿《ヲサム》る罪なり。【獄令また續紀に見ゆ。】三流は流罪なり。次に云○並除一等。中臣本に除を降に作る。右の三項の罪に。各等級あるを云。さるは死罪に絞斬あり。三流に遠中近あり。【續紀九。神龜元年。定2諸流配遠近之程1。伊豆安房常陸佐渡隱岐土佐六國爲v遠。諏方伊豫爲v中。越前安藝爲v近。とあり。延喜式に諏方を信濃と爲す。】没官に除名あり。免官あり。免所居官あり。官當あり。右等の羞あれば。其等差に從ひて罪を減ずるなり。されば本に除とあるよりも。降とある方よろし。【然るに本の非訓に據て。通證に。言3死刑者没入爲2官奴婢1也。と云るは。更に聞えがたし。集解また其説に循へれば。云に及ばず。】○徒罪以下。吏學指南云。徒奴也。蓋奴2辱之1。とあり。一年より三年に至る五等あり。以下は杖笞なり○配流不在赦例。名例律云。凡流配人。在v道會v赦。計2行程1。過v限者。不v得2以赦原1。とあり〇放生。始て見えたり。又續紀一にも見ゆ。通證云。放生會。定2養老(3655)四年1。拾芥抄曰。八月十五日石清水放生會。文献通考禮樂合編。亦載2此事1。とあり。【政事要略二十三に見えたり。】
 
是月。大三輪(ノ)眞上田(ノ)子人君卒。天皇聞(テ)之大(ニ)哀。以2壬申年之功(ヲ)1。贈2内(ノ)小紫位(ヲ)1。仍(テ)謚《タトヘナヅケテ》曰2大三輪眞上田(ノ)迎《ムカヘノ》君(ト)1。
 
大三輪眞上田子人君。上卷に三輪君子首に作れり。續紀に神(ノ)麻加牟陀君|兒首《コヒト》に作る。【考本には。ここをも兒首とあり。】○壬申年之功。上卷に伊勢國司介三輪君子首云々。率2數萬衆1。自2伊勢大山1。越之向v倭云々の事あり。續紀二。大寶元年七月勅。先朝論功行v封。時賜2神(ノ)麻加牟陀君|兒首《コヒト》十一人。各一百戸云々。同居2中第1。宜依v令四分之一傳v子。とあり○謚の訓。推古紀に稱をタトヘと訓り。令義解云。謚者累2生時之行迹1。爲2死後之稱號1。とあり。謚號の例は拾芥抄に見えたり○眞上田迎君。眞上田も迎も共に謚號か。詳ならず。【按に。眞上田は。なほ姓にて。迎と云が謚號にもあるべし。さるにても。迎と云義詳ならず。或人は平《ムケ》の延かと云れど。いかゞあらむ。】さて此ぞ臣下に謚を賜へる始なるべき。
 
九月丙寅朔。雨(テ)不2告朔《ツキタチマヲシ》1。乙亥。王卿遣(テ)2京《ミサト》及畿内(ニ)1。※[手偏+交]2人別《ヒトゴトノ》兵(ヲ)1。丁丑。筑紫(ノ)大|宰《ツカサ》三(ノ)位屋恒王。有v罪流2于土左(ニ)1。戊寅。百寮人。及|請蕃《トナリノクニノ》人等。賜v禄各有v差。
 
(3656)不告朔。儀制令。凡文武官初位以上。毎2朔日1朝。各注2當司前月(ノ)公文1。五位已上。送(リ)2著《オケ》朝廷案上1。大納言進奏。若遇v雨失v容。及泥潦(ハ)竝停。【辨官取2公文1。納2中務省1。】太政官式。凡天皇孟月臨v軒視v朔。國史。桓武天皇延暦十九年夏四月己已朔。御2太極殿1視v朔。淳和天皇天長元年夏四月庚申朔。御2太極殿1。視2告朔事1。弘仁式。毎月晦日勘録。少納言毎月四日進奏。とあり。公事根源云。視告朔。一月三日條。是は百官の行事上日をしるして。【此紀に上日《ツカヘマツルヒ》とあり。】月毎に天子の御覧ぜらるゝ也。告朔の文を見そなはすと申心なり。天子太極殿に出御なりて見給。天武天皇五年九月には。雨によりて告朔なしと。日本紀にあれば。此時より前《サキ》に始りぬとは知べし。論語にいへるは。月毎に朔《サク》を廟につくるといへり。それをも告朔といへり。字はおなじけれども。心は替たり。言惣意別《ゲンソウイベツ》と申は。かやうの事にや。此事或は一日にあり。又四日などなり。視告朔とかきて。たゝかうさくと。二文字によむか。口傳にて侍なり。こくさくとは不v讀なりとあり。【年中行事歌合判詞も。大凡同じ。但し歌に視告朔。そをだにとのこしおきけるからくにの。ひつしのあとをなほやたづねん。女房。かくよまれたるはたがへり。されどそれを咎めいはぬには。意ありしなるべし。これは序に云。】さてこの事。寛平以後は行はれざりしこと。年中行事に清凉記を引て云り○乙亥。十日なり〇※[手偏+交]人別兵。本に※[手偏+交]を授に作る。今は京極本中臣本に據る○丁丑。十二日なり○屋恒王。類史諸本及釋紀等に。屋垣王に作れり。【考本には。一本八垣王とあり。】○戊寅。十三日なり。
 
丙戌。神官奏曰。爲2新甞《オホニヘノ》1卜2國郡(ヲ)1也。齋忌(ハ)【齋忌。此云2踰既1。】則尾張(ノ)國(ノ)山田郡。次(ハ)【次。此(3657)云2須岐1。】丹波(ノ)國(ノ)※[言+可]沙郡。並(ニ)食《アヘリ》v卜(ニ)。是月。坂田公雷卒。以(テ)2壬申年功(ヲ)1。贈2大紫位1。
 
丙戌。二十一日なり○神官。神祇官なり○奏曰は。新甞の爲に。悠紀主基の國郡を定めて。豫め神祇官をして。卜はしむるが故に。其由を奏せるなり○齋忌次の事は。大甞祭式に。凡在京齋場者。預分設2兩處1。悠紀在v左。主基在v右云々。其宮(ノ)東西二十一丈四尺。南北十五丈。中分東爲2悠紀院1。西爲2主基院1。宮垣(ノ)正南開2一門1。内樹2屏離1云々。とありて。正殿の東西に。悠紀主基(ノ)二院を建て。其殿にて。天皇御自ら神饌を供へ。神を祭り給ふ。これを悠紀主基と申すなり。其悠紀主基の二院を造るより始めて。此行事の儀式等は。委しく貞觀延喜等の式に載たり。さて大甞祭式云。凡踐祚大甞云々。其年預令d所司卜c定悠紀主基國郡u。奏可訖。即下知。依v例准擬(セヨ)。又定2※[てへん+僉]※[手偏+交]行事1。とある。これは踐祚大甞の事なれども。此御世にはだ年々の大甞にも。なほ悠紀主基の國郡を定め給ひしものなるべし。【神祇令に。凡大甞者。毎世一年。國司行事。以外毎年行事。とある如く。上代は踐祚大甞に限らず。國郡卜定ありしを。令の時に至りて。毎v世一年と定められしものと見るべし。但令以後とても。毎年の新甞にも。右の如く齋忌次の國郡をこそは。踐祚大甞の如く定られね。新甞會御拔穗の國郡を立らるゝ事なり。宮内省式に。凡新甞祭所v供。宮田(ノ)稻及粟等。毎年十月二日。神祇祐史各一人。率2卜部1。省丞録各一人。率2史生1。共向2大炊寮1卜定。應v進2稻粟1國郡卜了。省丞以2奏状1進2内侍1。内侍奏了下v官。官即仰下。と見えたるが如し。官主秘事口傳抄なる。應長元年の文書に。十月一日大炊寮申。新嘗祭御稻田云々。と見え。大炊寮粟卜定。新嘗會供御(ノ)拔穗。供御粟國郡等事。河内國石川郡供御拔穗三十束。山城國宇治郡供御粟三斛云々。とあり。粟とは籾と爲たる稲を云なり。と重胤云れたり。】さて齋忌次と云名義は。古來さま/\にいひて。一定の説なし。按に。齋忌は此にあるが正字にて。齋忌《イ》み清《キヨ》まはり仕奉る。御膳《ミケ》の名なるべし。次《スキ》も字は借たるものにて。清《スカ》々しく清《キヨ》まはれる名義にて。齋忌にかはることなし。(3658)田中頼庸は。悠紀は齋|酒《キ》。主基は清酒《スキ》にて。神に備ふる酒の名なるを。酒を云て。御饌を兼たるものなりと云り。されど酒の事のみにはあらじとおもはるゝは。大神宮儀式帳。朝夕御食之湯貴之神祭物。四百六十二口。湯貴御贄漁時祭。用物缶十二口。九月神甞供奉。伐穗稻四十束。三節祭湯貴神清酒料二百四十束。湯貴御贄採(ニ)海(ヘ)往(ク)。禰宜内人小内人。及祝部等。荒祭宮湯貴清酒料稻六十束。などありて。湯貴之神祭物物。湯貴御贄。湯貴神清酒。などあれば。酒のみには限らぬ名目なること知られたり。さて右の如く。神宮の書に湯貴とは多くあれど。主基と云事の見えぬは。主基も名義は同じけれど。此名目は。大甞にのみ云稱なればなるべし。されば主基も。清忌《スキ》の御膳の名と心得てあるべし。矢野玄道云。神代紀口訣に。悠紀主基の義を解て。以v齋讀v由者。如2齋庭之穗1。言潔齋之辭也。清淨而祭2天神1。以云2悠紀1。後度神供祭2地神1。以云2主基1也。と見えたるは。忌部氏に傳はれる古傳なること疑なし。此に考合すべきは。集古遺文に載る。地藏院古記に。大甞祭は。神代より興りて。世々に行ひ給ふ事。國史に見えたり。然るにユウキに天神を祭り。スキに地祇を祭る事は。天武天皇始めて。世々の例となれり。とある。天武天皇御世よりなりと云は。信られねど。决めて古傳にて。後鳥羽天皇御記。また永和記にも。近き御世まで仕奉り坐し祝詞御文にも。よく符ひ。泰山集に。大甞會天下諸神一神不v遺とも。大甞會祭三千餘座。只用2兩社1。と説るも。由ある傳と所思ゆればなり。卜家なる名法要集にも。天神をユキ。地祇をスキと見ゆ。【古史傳二十九下十八のひら】と云れたるは。いとめづらしき説なり。さてしか天神地祇と。別て祭(3659)らせ給ふと見ても。悠紀主基の名目は。上に云るが如くにて差支なし。【然るに。池邊眞榛が古語拾遺注に云く。由紀主基。名義は。由紀は齋城。主基は次にて。兩宮同状に造らるゝ事なり。釋紀に齋忌次。私記曰。古稱2須支1。師説次2於齋忌1。今稱2主基1者訛。先師説曰。謂2悠紀1者。湯貴也。是則浴湯齋忌之義也。と云る。次字を解たるはよろしきを。由紀を齋忌の意としたるはいまだし。又玉勝間に云云。(今略く)と云れたるもあらず。次は則肋の意にて。ものを介《タス》くることを。古くはスキとも。スケとも云るなり。こゝの次は。齋城に若し穢などのあらむ時の助《スケ》にとて。遣らるゝにて。同状なるは。同事を行はむ料のものなる故なり。大人は次の字にのみなづまれて。むつかしく云れたるなり。假令其意ならむにも。主基は助の料ならで。何とかせん。一殿にても事足るべきをや。清潔を旨とせらるゝが故に。しか嚴重に。二方には設らるゝにこそ。と云れたるは。甚しき推測なり。】○山田郡。和名抄。尾張國山田郡。後|春日部《カスカベ》郡に併たり○※[言+可]沙郡。倭名抄。丹波國加佐郡。續紀和銅六年四月。割2丹波國五郡1。始置2丹後國1。とあり○食卜。令義解に。謂凡卜者。必先墨畫v龜。然後灼之。兆順食v墨。是爲2卜食1。さて卜定(ノ)國司。京に參上りて。其事に奉仕すること。貞觀儀式に見えたり○坂田公雷。此氏は繼體皇子仲王之後。本紀に出。雷詳許ならず。上にも見えず。
 
冬十月乙未朔。置v酒宴2群臣(ニ)1。丁酉。奉2幣帛於|相嘗《アヒニヘ》新甞(ノ)諸神祇(ニ)1。甲辰。以2大乙上物部連麻呂(ヲ)1。爲2大使(ト)1。大乙中山背直百足(ヲ)。爲(テ)2少《ソヒ》使(ト)1。遣2新羅1。
 
宴群臣。類史歳時部二孟に出。二孟とは。二孟旬儀とて。四月十月の朔に行はるゝなり。公事根源云。是は天子夏冬の季の改まるはじめに。臣下に御酒をたび。政をきこしめす義なり。おほよそ旬には色々あり云々。この夏冬のをば。二孟の旬とも申すなり。十月一日には。先御衣かへあり。掃部寮夏の御装束を撤して。冬のに改め給ふ。天皇南殿に出御有て。節會あり。是を孟冬の旬とは申なり。二献(3660)の後。氷食を群臣にたまふ。孟夏の旬には扇を給ふ。大かたの儀は孟夏におなじ云々とあり。なほこの二孟旬の事は。江次第年中行事歌合に見えたり○丁酉。三日なり〇奉幣帛。本に奉を祭に作る。今京極本に據る○相甞新甞。本には上の甞字脱たり。今京極本水戸本に依る。これは相甞と新甞との二祭の名目なり。必甞字あるべし。神祇令に。仲冬上卯相甞會。下卯大甞祭。義解謂。相甞祭謂。大倭。住吉。大神。穴師。恩智。意富。葛木鴨。紀伊國日前神等類是也。神主各受2官幣帛1。而祭。延喜四時祭式に。相甞神七十一坐。【公事根源に。ちかき頃は。絶てさたなしとあれば。其比は既に絶しなりけり。】延喜講書(ニ)私紀曰。調庸荷前。先祭2神祇1。號2相甞祭1。後奉2山陵1。號2荷前1也。とあり。さて相甞の訓は。公事根源にあひむへの祭とよむなりと云へれど。アヒニヘ。又アヒナメなどよむべし。新甞は上に見えたると同じ。仲冬下卯に祭り給ふべき神等に。まづ幣帛を奉らるゝなり。【然るに重胤は。こゝに相新甞とある本に據て云れけるは。續紀第三十八詔に。大新甞乃猶良比云々とあり。相甞(ノ)大甞と云事なるを。爾閇に當て。新甞の字を書れたり。と云れたるはよからず。】○甲辰。十日なり○山背直百足。元年紀に。山背直小林と云人あり。
 
十一月乙丑朔。以2新甞事1不2告朔1。丁卯。新羅遣2沙※[にすい+食]金清平1請v政。并(テ)遣(テ)2汲※[にすい+食]金好儒。弟監大舍金|欽《オム》吉等(ヲ)1。進v調。其送使奈末被珍那。副使奈末好福。送2清平等(ヲ)於筑紫(ニ)1。是月。肅慎《ミシハセビト》七人。從(テ)2清平等(ニ)1至之。癸未。詔近v京(ニ)諸國(マデ)而放v生。甲申。遣(テ)2使(ヲ)於四方(ノ)國(ニ)1。説2金光明經仁王經(ヲ)1。丁亥。高麗遣(テ)2大(3661)使後部王簿河于。副使前部大兄徳富(ヲ)1。朝貢。仍(テ)新羅遣(テ)大奈末金楊原(ヲ)1。送2高麗(ノ)使人(ヲ)於筑紫1。是年。將v都《ミヤコツクラントス》2新城《ニヒキニ》1。而限内(ノ)田|薗《ハタケ》者。不v問2公私(ヲ)1。皆不(テ)v耕悉荒(ヌ)。遂不v都矣。【或本無2是年以下不都矣以上廿五字1。注2十一月上1。】
 
不告朔。今月新嘗祭の事あるいそぎに附て。告朔を止められたるなり。去月の相嘗新甞。諸神祇奉幣の事にはあらず。さて此月新嘗祭ありしこと。本紀に漏されたり○丁卯。三日なり○遣級※[にすい+食]。本に級を汲に作る。今釋紀に據る○金好儒。本に儒を濡に作る。今考本に據る○金欽吉。欽の訓オムとあるによらば。飲の誤にもあるべし○癸未。十九日なり○甲申。二十日なり○金光明經。金光明最勝王經十卷。金光明經四卷○仁王經。三藏目録。仁王護王般若波羅密經一卷○丁亥。三十三日なり○後部主簿。本簿を博に作る。今集解に據て改む。後漢書高句驪傳云。凡有2五族1。有2消奴部。絶奴部。順奴部。灌奴部。桂婁部1。本(ハ)消奴部爲v王。稍微弱。後桂婁部代v之。其置v官。有2相加。對盧。沛者。古鄒。大加。主簿。優台1。注(ニ)按高驪五部。一曰内部。一名黄部。即桂婁部也。二曰北部。一名後部。即絶奴部也。三曰東部。一名左部。即順奴部也。四曰南部。一名前部。即灌奴部也。五曰西部。一名右部。即消奴部也。古鄒大加。高驪掌2賓客1之官。如2鴻臚1也。とあり。【按續紀考證卷三に。此《コヽノ》文を引て。後部王博阿于に作り。其説を爲すは非なり。】○河于。中臣本釋紀等に。河を阿に作る。人名なり○新城。十一年にも。地形を見せしめ給ひしことあり。大和志に。添上郡新木村。舊作2新城1。(3662)とあり。持統紀三年八月にも。監《ミタマフ》2新城1とあれば。其頃には。宮室をも營築し給ひしなるべし。さて續紀三十に。新城乃大宮爾。天下治給之。同三十三に。幸2新城宮1。とあるは。平城宮を稱せり。【さらばここなる新城も。平城の舊名にもやあらむ。よく考べし。】○限内田薗者。考本に。限(ノ)上に一本除字あり。とあり○遂不都矣。遂(ノ)上然字などあるべきなり。さて此下に。無是年以下不都矣以上廿五字注十一月上。の十八字。本には脱字あり。今不(ノ)字矣(ノ)字は京極本に據る。廿五の二字。本に學(ノ)一字に作る。今考本に據て訂せり。されど此注|本《モト》より後人の※[手偏+讒の旁]入なることは明らけし。中臣本には。此注御本に无とあり。一本には家本无とあり。集解には削れり○扶桑略記云。五年丙子。自v春不v雨。天下大飢。勅2諸國1。講2讀最勝仁王等經1。親王以下内命婦等。各給2食封1。とあり。本紀には漏されたり。
 
六年春正月甲子朔庚辰。射2于南(ノ)門(ニ)1。二月癸巳朔。物部連麻呂至v自2新羅1。是月。饗2多禰(ノ)島人等(ニ)。於飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)下(ニ)1。三月癸亥朔辛巳。召2新羅(ノ)使人清平。及|以下《シモヘノ》客十三人(ヲ)於京(ニ)1。
 
庚辰。十七日なり。大日本史云。自是以後。本書比年書2十七日射1。其爲2恒例1明矣。とあり○南門。類史に西門に作れり○多禰島。通證云。周匝百七十四里。距2大隅1百八里。續日本紀曰。天平五年。多※[衣+執]島熊毛郡大領安志託等。賜2多※[衣+執]後(ノ)國造姓。益救郡(ノ)大領加理伽等(ニ)多※[衣+執](ノ)直1。類聚三代格。弘仁十五年九月。停2多(3663)※[衣+執]島1。隷2大隅國1。能滿合2於|馭謨《コム》1。益救合2於能毛1。四郡爲v二。倭名抄。大隅國馭謨郡熊毛郡。とあり。この熊毛と云ぞ。上代の多禰島にて。今も種子島と書り。なほ十年八月の下合考べし。【唐書作2多尼11。皇明世法録作2多※[衣+執]1。全浙兵制日本風土記。種島|佗尼什麼《タネシマ》とあり。】○右官史記と云書に。天武天皇六年二月丙午。令3山背國營2賀茂神宮1。とあり。年中行事秘抄にも。亦此文を載たり。此に入べし○辛巳。十九日なり。
 
夏四月壬辰朔壬寅。村田(ノ)史名倉。坐v指2斥《ソシリマツレリトイフニ》乘與《キミヲ》1。以(テ)流2于伊豆(ノ)島(ニ)1。乙巳。送使被珍那等(ニ)。饗2于筑紫(ニ)1。即從2筑紫1歸之。
 
壬寅。十一日なり○村田史。系詳ならず。秘閣本中臣本類史釋紀に。村を材《クレ》に作る。京極本釋紀一本等には。杙《クヒ》に作る。いづれかまことならむ。知がたし○指斥乘輿。本に斥を庠に作る。今類史考本釋紀等に依る。後漢書注に。斥(ハ)指也とあり。【通證に。一作v屏。屏(ハ)斥也。とあるもわろし。】名例律云。八虐。六曰大不敬。指2斥乘輿1。情理切害。唐律疏議曰。此謂d情有2缺望1。發言謗毀。指2斥乘輿1。情理切害者u。若便無心怨v天。唯欲v誣2搆人1。罪自依2反坐之法1。不v入2十惡之條1。とあり。さて天子を乘輿と申す事は。蔡《災の火が邑》曰。天子至尊。不2敢渫涜言1v之。故託2於乘輿1也。とあり○乙巳は。十四日なり○被珍那。本に被字なし。今上文に據て補。
 
五月壬戌朔。不2告朔1。甲子。勅(テ)2大博士百済人率丹(ニ)1。授2大山下(ノ)位1。因以(テ)封《ヨサス》2(3664)三十戸(ニ)1。是日。倭(ノ)畫師|音檮《オトカシ》。授2小山下(ノ)位1。乃封2二十戸(ニ)1。戊辰。新羅人阿※[にすい+食]朴|剃破《シハ》。從《トモ》人三口。僧三人。漂2著於血鹿(ノ)島(ニ)1。己丑勅。天社地社(ノ)神税《カムチカラ》者。三(ニ)分(テ)之一(ヲバ)。爲2擬供神《ツカヘマツルカミノ》1。二(ヲバ)分2給(ヘ)神主(ニ)1。是月旱早之。於2京及畿内1※[雨/咢の下半]《アマゴヒス》之。
 
不告朔。其故を記さず○甲子。三日なり○大博士は。大學博士なり。懷風藻目録に。大學博士守部連大隅を。本文には大博士に作れり。職原抄に。大學寮博士一人。中古以來。清中兩家。依2位次1任v之。號2大博士1。とあり○率丹。中臣本釋紀に。丹を母とあり〇倭畫師音檮。姓氏録左京諸蕃。大岡息寸。出v自2魏文帝之後安貴公1。大泊瀬幼武天皇御世。率2四衆1歸化。男龍一名辰貴。善2繪工1。小泊瀬稚鷦鷯天皇。美2其能1。賜2姓首1。五世孫勤大一惠尊。亦工2繪才1。天命開別天皇御世。賜2姓倭(ノ)畫師1。亦高野天皇神護景雲三年。依2居地1。改賜2大岡忌寸姓1也。幡文《ハタヤノ》造同上。とあり。音檮。義詳ならず。持統紀に八口朝臣音檮あり○戊辰。七日なり○從人。本に從を徒に作る。今秘閣本中臣本に據る○己丑。二十八日なり○天社地社。神武妃に天神地祇。或は天社國社に作る○神税。神祇令に。凡神戸調庸。及田租者。並充v造2神宮及供御調度1。其税者。一准2義倉1。皆國司※[手偏+僉]※[手偏+交]。申2送所司1。義解謂。准2義倉1者。不2出擧1也。とあり○神主は。祠官なり○※[雨/咢の下半]之。通證に。月令注(ニ)。※[雨/咢の下半](ハ)吁嗟求v雨之祭也。拾芥抄。祈雨十一社。應和三年七月十五日。大雷。水主。木(ノ)島。乙訓。已上山城。平岡。恩智。已上河内。廣田。生田。長田。坐摩。垂水。已上攝津。とあり。
 
(3665)六月壬辰朔乙巳。大震動。是月詔(テ)2東(ノ)漢直等(ニ)1曰。汝等(ガ)之|黨族《ヤカラ》。自v本犯2七(ノ)不可《アシキコトヲ》1也。是以(テ)從2小墾田(ノ)御世1。至(マデニ)2于近江(ノ)朝(ニ)1。常(ニ)以(テ)v謀(ヲ)2汝等(ヲ)1爲v事《ワザト》。今當(テ)2朕(ガ)世(ニ)1。將v責《セメテ》2汝等(ノ)不可《アシキ》之状(ヲ)1。以|隨《マヽニ》v犯(ノ)應(シ)v罪。然|頓《ヒタブルニ》不v欲v絶(ンコトヲ)2漢(ノ)直之氏(ヲ)1。故降(シ)2大恩(ヲ)1。以(テ)原《ユルシタマフ》之。從v今|以後《ユクサキ》。若有(バ)v犯者。必入2不赦之|例《カギリ》1。
 
乙巳は。十四日なり○大震動。類史に大(ノ)下地字あり○汝等之黨族。本に等(ノ)下(ノ)之字。族(ノ)下に入る。今京極本に據る〇七不可は。今知べからねど。通證集解にも云れたるが如く。崇峻天皇五年に。東漢直駒の天皇を弑し奉れる。皇極天皇四年に。漢直等眷屬を總聚めて。蝦夷に黨せる。孝徳天皇大化元年に。倭漢文直麻呂が。古人皇子とゝもに謀反せるなど。紀に見えたり。其七の不可も推て知るべきなり○小治田御世。推古天皇なり○謀汝等は。汝等が所行を見て。慮《ハカ》り給ふ意なり○今。本に令に作る。中臣本に據る○從今。本に從を徒に作る。今改む。
 
秋七月辛酉朔癸亥。祭2龍田風神。廣瀬(ノ)大忌神(ヲ)1。八月辛卯朔乙巳。大(ニ)設2齋《ヲガミス》於飛鳥寺(ニ)1。以讀2一切經(ヲ)1。便天皇御2寺南門(ニ)1。而禮2三寶(ヲ)1。是時詔(テ)2親王諸王及群卿(ニ)1。毎v人賜2出家《イヘデ》一人1。其出家者。不v問2男女長幼(ト)1。皆隨(テ)v願(ニ)度之。因以(テ)(3666)《マジフ》2于|大齋《ヲガミニ》1。丁巳。金清平歸v國(ニ)。即漂著(ケリシ)朴刺破等(ヲ)。付《サヅケテ》2清平等(ニ)1。返《ツカハス》2于本土(ニ)1。戊午。耽羅遣(テ)2王子都羅(ヲ)1。朝貢。九月庚申朔己丑。詔曰。凡|浮浪《ウカレ》人。其送2本土(ニ)1者。猶復還到(バ)。則彼(モ)此(モ)並|科《オホセヨ》2課※[人偏+殳]《ミツキ》1。冬十月庚寅朔癸卯。内(ノ)小錦上河邊臣百枝(ヲ)。爲2民部卿《カキベノカミ》1。内大錦下丹比公麻呂(ヲ)。爲2攝津(ノ)職(ノ)大夫《カミト》1。
 
癸亥は。三日なり○乙巳。十五日なり○賜出家一人。其縁邊の人に。僧となることを願へば。一人に一僧を許し給ふなり○丁巳は。二十七日なり○金清平。本に金を全に作る。今中臣本考本に據る○朴刺破。本に刺を判に作る。今考本及上文に據る○戊午。二十八日なり○己丑。晦日なり○浮浪。天智紀に出。桓武紀には浪人とあり○癸卯。十四日なり○内小錦上。内は外位に對へたるのみ。本位を内位と云へるなり。例多し。既に云○河邊臣百枝。天智紀に出○民部卿。倭名抄には。民部省多美乃都加佐とあり。カキベの稱も古し。兩樣に唱けるにや。職員令に。民部省卿一人。掌2諸國戸口名籍。賦役考義。優復※[益+蜀]免。家人奴婢。道橋津済。渠地山川。藪澤諸田事1。とあり。通證云。職原抄(ニ)。唐名戸部尚書。杜氏通典曰。隋初有2度支尚書1。開皇三年。改2度支1爲2民部1。唐修2隋志1。謂2之戸部1。廟諱(ノ)故也。とあり〇丹比公。宜化紀に出○攝津職大夫。職員令。攝津(ノ)職。帶2津國1。大夫二人。掌d祠社戸口簿帳。字2養百姓1。勸2課農桑1。糺2察所部1。貢2擧孝義1。田宅良賤訴訟。市廛。度量輕重。倉廩租調。雜徭。兵士器仗。道橋津済。過所(3667)上下。公使郵驛傳馬。闡遺雜物。※[てへん+僉]2※[てへん+交]舟具1。及寺僧尼(ノ)名籍事u。とあり。大夫は長官なり。倭名抄。職曰2大夫1加美。とあり。國造本紀に。攝津國造。據2准法令1。謂2攝津職1。初爲2京師1。柏原帝(ノ)代。改v職爲v國。倭名抄。延暦十三年。停v職爲v國。とあり。【三代格記略に。此事見えたり。攝津志に。天武六年置2攝津職1。とあるは。此の文を以て云か。將別に據あるかしらず。】
 
十一月己未朔。雨(テ)不2告朔1。筑紫大宰献2赤烏(ヲ)1。則大宰府(ノ)諸司(ノ)人(ニ)。賜v禄各有v差。且|專《ミヅカラ》《トレル》2赤烏(ヲ)1者(ニ)。賜2爵《カヾフリ》五級1。乃當郡(ノ)々司等(ニ)。加2増爵位1。因(テ)給2復《ツギユルシタマフ》郡(ノ)内(ノ)百姓(ニ)1。以一年之。是日。大2赦天下1。己卯新甞。辛巳。百寮(ノ)請有位人等(ニ)。賜v食《イヒ》。乙酉。侍2奉新甞(ニ)1。神官及國司等(ニ)。賜v禄。十二月己丑朔。雪(テ)不2告朔1。
 
不告朔は。雨の故か。または此月新甞あるが爲か○献赤烏。治部式に。赤烏爲2上瑞1。とあり。さて通證に。九年有2朱雀1。年號之朱鳥盖出2于此1。と云るは。此赤烏を。朱鳥の年號の出所と見たりしにや。おぼつかなき注なり。さらずはこゝに用なき注なり○各有差。本に有字脱たり。今類史中臣本に據る○給復。職員令義解に。復除也とあり〇一年之の下。京極本考本に給字あり。税字の誤などにや○己卯。二十一日なり○辛巳。二十三日なり○賜食。式に巳日召2五位已上1給v饗。とあり。食はもしくは饗(ノ)字の畫の缺しものにや○新甞。神祇令。仲冬下卯大甞祭。義解。若有2三卯1者。以2中卯1爲2祭日1。とある(3668)は。此御世の今年を例とせしにや○乙酉。二十七日なり○侍奉。本に侍を待に作る。今中臣本考本に依る○神官及國司等。神官は神祇官の人なれば。大甞に仕奉れること。もとよりなれども。國司の預る事は。踐祚大甞に限ることなり。然るにこゝにかくあるは。上にも云る如く。當昔は年々の大甞にも。なほ國司の仕奉りしこと。此文にても知られたり。
 
七年春正月戌午朔甲戌。射2于南門1。己卯。耽羅人向v京(ニ)。是春。將v祠2天神地祇(ヲ)1。而天下悉(ニ)祓禊《ハラヘス》之。竪2齋宮於倉梯(ノ)河上《カハカミ》1。夏四月丁亥朔。欲v幸2齋宮(ニ)1。卜(ニ)之。癸巳|食《アヘリ》v卜(ニ)。仍取(テ)2平旦《トラノ》時(ヲ)1。警蹕《ミサキオヒ》既動(ヌ)。百寮成v列(ヲ)。乘與《キミ》命v盖《オホミカサメシ》。以(テ)未v及2出行《オハシマスニ》1。十市皇女卒然病|發《オコリテ》。薨《ウセヌ》2於宮(ノ)中(ニ)1。由(テ)v此(ニ)鹵簿《ミユキノツラ》既|停《トヾマリテ》不v得2幸行《オハシマスコトヲ》1。遂不v祭2神祇(ヲ)1。矣。己亥。霹2靂新宮(ノ)西(ノ)廳(ノ)柱(ニ)1。庚子。葬2十市皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1。天皇|臨《ミソナハシテ》之。降v恩(ヲ)以|發哀《ミネシタマフ》
 
甲戌。十七日なり○己卯。二十二日なり○祓禊。本に祓を〓に作る。今考本に據る○齋宮。此齋宮は神功紀なる齋宮と同じく。天皇御自ら神事を行給ふ間。齋籠り坐す所なり○倉梯河上。大和志云。十市郡倉梯河上齋宮古蹟。在所未詳。とあり○略記に。三月地震。因幡國貢2稻一莖1。中有2八千粒1。とあり。(3669)こゝに入べき文なり〇癸巳。七日なり○平旦。纂要(ニ)平旦(ハ)曉時。とあり○警蹕。又云。警者肅戒也。蹕止2行人1也。とあり。北山抄節令曰。稱2警蹕1事。其程則天皇起2御座1。離2倚子1三尺許之程稱v之。但出給之度。立2御倚子前1。欲2居給1了程耳〇十市皇女。本に十を千に誤る。今秘閣本中臣本考本に據て改む○卒然。本に卒を乎に作る。今中臣本考本に據る〇薨於宮中。此皇女のかく卒然に薨し給へるに附て。信友が説に。察ふに天皇の。日を卜へて。さばかり嚴重《オモ》き神祭に。ものし給ふ期に及《ナ》りて。皇女の卒に薨給へるは。おのづから時にあひたるにはあらで。もはら大三輪神の御祟にぞありけん。さるは萬葉集に。十市皇女薨時。高市皇子(ノ)尊。【皇女の御弟なり。】御作歌三首とある。第一に。三諸之神之神須疑《ミモロノカミノカミスギ》。巳目耳矣《イメノミニ》。自得見管本名不寐夜叙多《ミエツヽモトナイネヌヨゾオホキ》。【武郷云。此は誤字多くして。古來よみがたし。縣居翁が。かゝるさまによみたるも。信がたきを。證として引れたるは牽強なり。】とよみ給へるは。前に皇女の。大三輪神の【即三諸神の御事也。】御心なるべくおもほせる。不祥《ヨカラヌ》御夢み給ひて。忌《ユヽ》しみ給へる由を。語給ひたりしに。然怪しく畏きさまにて。薨(リ)給へるによりて。眞に其神の祟なりし事を。覺り畏み給ひ。かつ慕ひ給ひ。おもひ寐の夢《ミイメ》には。三輪の神杉のみ見えて。快寐《ウマイ》し給ふ夜の無きことなるべし。また第二に。神山之《ミワヤマノ》。山邊眞蘇木綿《ヤマベマソユフ》。短木綿《ミジカユフ》。如此耳故爾《カクノミカラニ》。長等《ナガクト》思伎。これも云々。【部郷云。今略く。】此二首のおもむきをもて。大三輪の神の祟を受給ひたりけんとは。おしはかり奉らるゝなり。など論れたるは。此皇女。御夫とます大友皇子に。忠貞《マメ》ならぬ御|行《フルマヒ》ありと。おもひ奉れる心から。かゝる推測の説を立て。皇女をあしざまに強たるは。此人の例の僻にて。あらぬ論なり。よしやさる事ありしにもあれ。萬葉集の歌に(3670)ては。更に其意味通えず。今論ふべくもあらぬ事ながら。後に見ん人の爲にとて。此に記しおくになん○鹵簿。御|行《ユキ》の列《ツラ》なり。令義解云。鹵楯也。簿文籍也。言簿2楯鹵1。以爲2部隊1也。とあり。韻會。車駕次第曰2鹵簿1○己亥。十三日なり○新宮。詳ならず。十年紀にも。天皇居2新居井上1。とあり。或人云。是は上に將v都2新城1。とある地にて。都をえ遷し給はざりしかど。行宮を造給ひけんと云る。さもあるべし○庚子。十四日なり○赤穗は。式大和國添上郡赤穗神社。是は春日の地なり。大和志云。廣瀬郡|仁基《ニキ》墓。十市皇女。天武天皇七年四月。葬2于赤穗1。墓畔小冢三。在2赤部村1。とあり。
 
秋九月。忍海造|能《ヨシ》麻呂。献2瑞《アヤシキ》稻五莖(ヲ)1。毎莖《モトコトニ》有v枝《マタ》。由(テ)v是|徒《ミツカフ》罪以下。悉赦之。三位|稚狹《ワカサ》王薨之。冬十月甲申朔。有(テ)v物如v綿(ノ)。零《フレリ》2於難波(ニ)1。長五六尺(バカリ)。廣七八寸(バカリ)。則|隨《マヽニテ》v風(ノ)以|飄《ヒヽル》2于松|林《バラ》及葦原(ニ)1。時人曰。甘(キ)露也。己酉詔曰。凡内外文武官《フムツカサツハモノツカサ》。毎年|史《サカム》以上。屬官《スベラルヽツカサ》人等。公平而恪懃者《オホヤケゴヽロアリテツトメイソシカランモノ》。議(テ)2其|優劣《マサリオトレルヲ》1。則定2應v進階(ヲ)1。正月(ノ)上旬以前(ニ)。具(ニ)記(テ)送(レ)2法(ノ)官(ニ)1。則法官※[手偏+交]定(テ)。申2送|大辨官《オホトモヒノツカサニ》1。然縁(テ)2公事(ニ)1。以出(ム)v使(ニ)之日。其非2眞(ノ)病及|重服《オヤノウレヘニ》1。輙《スナハチ》縁(テ)2小故《イサヽカゴトニ》1而|辭《サレルハ》者。不v在2進v階(ヲ)之例1。
 
(3671)忍海造。天智紀に出〇三位稚狹王。未詳○飄。ヒヽル。飛ぶ事に多く云り。こゝは飄へるさまの。虫などの飛ぶ状に似たるを以て訓るか。詳ならず。【又はヒルガヘルの誤か。】○甘露。白虎通に。甘露美露也。降則物無v不2美盛1矣。【本草にも見えて。祥瑞と爲たり。】文徳實録二。嘉祥三年七月。石見國獻2廿露1。味如2飴※[食+唐]1。式因幡國巨濃郡甘露神社。集解云。明和三年丙戌十月。自2十三日1至2十四日1。天晴雨v綿。隨v風飄揚。著2木葉1則釋。時謂2之甘露1。とあり。考云。甘露は木葉によくふり付くものにて。とけぬものにて。味甚甘しといふ。こゝの甘露とは。やうすことなり。と云り○己酉は。二十六日なり○内外文武官。考課令に。凡内外文武官。義解謂。依2公式令1。在京諸司爲2京官1。自餘皆爲2外官1。又五衛府軍團。及諸帶仗者爲v武。自餘並爲v文。とあり。以下考課令と粗同じ○史以上屬官人等。史は主典なり。屬官人は。考課令義解に。謂2次官以下1也。とあり○公平而恪懃者。考課令に。公平可v稱者爲2一善1。義解謂。背v私爲v公。用v心平直。假如《タトヘバ》趙武擧(ニ)以2私讐1。祁奚薦(ニ)以2己子1之類。公平也。又恪勤非v懈者爲2一善1。謂2恪敬1也。盡v力曰v勤。假如《タトヘバ》憑豹奏v事。通※[雨/肖]伏v閣。巫馬從v政。戴v星居v官之類。恪懃也。とあり○議其優劣。又云。議2其優劣1。定2九等第1。選叙令に。凡應v敍者。【謂六位以下也。】本司八月三十日以前※[手偏+交](ヘ)定。【謂計v考結v階。即長官自※[手偏+交]。與v考同云々。】式部起2十月一日1。盡(セ)2十二月三十日1。太政官起2正月一日1。盡2二月三十日(ニ)1。皆於2限内1。處分(シ)畢(ヨ)。其應v敍人(ヲバ)。本司量v程。申送集v省。【謂量v程者。量d十二月一日應2會集1之程u也。集v省者。爲d唱2示叙階之高下1。及令uv披2訴選中(ノ)抑屈1。集2於式部兵部1也。】とあり。なほ考課令にも見えたり○送法官。法官は即式部なり○法官※[手偏+交]定。選敍令に。式部起2十月一日1。盡2十二月三十日1。とあるこれなり。※[手偏+交]定は。義解(ニ)※[手偏+交]定(3672)謂2計1v考結1v階。とある是なり。此事後に。二月列見。八月|定考《カウヂヤウ》と云式あるは。此より起れるものなり。さて其定考を字のままにはよまず。逆讀することは。こゝの※[手偏+交]定の文字によれるものか。また宋史の選擧志。帝親取2貢士卷1考定。とあれば。それらによれるか。公事根源。二月十一日列見條云。上卿弁少納言外記史などまゐりて。太政官にておこなへる公事なり。六位以下の藝能ある者をえらびて。式部兵部の二省より率《ソツ》してまゐれるを。上卿のそれをめしよせて。器量容儀を見る意なり。朝所并に宴穩(ノ)座につきて。儀式あり云々。くはしき事は。定考の所にしるし侍べし。また八月十一日定考條云。是は昔し六位以上の加階をする人は。かの藝能行跡恪勤をえらびて。榮爵を給れるなり。上卿官の東の廳の座につきて事を行ふ。次に朝《アイタン》所に就て三献の儀式あり。次に宴穩の座につく。又おの/\三献あり。かざしの花を上卿以下の冠にさす。大臣は白菊云々。大かたは二月の列見に同じ。式兵の兩省より。諸司の輩の上日《シヤウニチ》を選成する事を列見と云。それをかきあつめて奏するを。擬階の奏といふ。この人々を撰び出して。定め侍るを。定考とは申すなり。定考と文字にはかきて侍れど。考定とさかさまによみ侍るが。口傳にて侍るなり。遷叙令に委しき事はのせたり。其儀などは次弟にみえたり。十一日は。また小|定考《カウヂヤウ》とて。大弁以下の人。東の廳に着て行ふ事あり。と云り○申送大辨官。職員令に。左大辨一人。掌d管2中務式部治部民部1。受2付庶事1。糺2判官内1。署2文案1。勾2稽失1。知c諸司(ノ)宿直。諸國朝集u。若右弁官不v在。則併行v之。右大弁一人。掌v管2兵部刑部大藏宮内1。餘同2左大弁1。右中弁一人。掌同2(3673)右大弁1。左少弁一人。掌同2右中弁1。右少弁一人。掌如2右中弁1。とあり。倭名抄。大弁於保伊於保止毛比。と云り。按に。此和名抄の讀は誤なり。古くは於保止毛比と云り。西宮紀。北山抄。小右記に。大|鞆火《トモヒ》之官とあり。さて此官上古には見えざれども。名のさまを思ふに。必後世の官名にはあるべからず。八省を管し。諸司の宿直。諸國の朝集等を知るは。所謂大|率《トモヒ》なり。【古言に物を率る事を。アトモヒと云り。】上古の大弁も。大凡はかゝるさまにて有けらし。【さて又本の一訓に。オホイカウフリノツカサとあるは。是によしなし。】○重服。軍防令に。上番年。雖v有2重服1。義解謂。父母喪也。とあり。
 
十二月癸丑朔己卯。臘子鳥《アトリ》蔽v天。自2西南1飛2東北(ニ)1。是月。筑紫國大(ニ)地動之。地裂(コト)廣二丈。長三千餘丈。百姓(ノ)舍屋《ヤカス》。毎村多仆壞。是時百姓(ノ)一家。在2岡上(ニ)1。當2于地動夕(ニ)1。以(テ)2岡崩處1遷。然家既全。而無2破壞(コト)1。家人不v知2岡(ノ)崩(テ)家(ノ)避(コトヲ)1。但會明(ノ)後(ニ)。知(テ)以大(ニ)驚焉。是年。新羅(ノ)送使奈末加良井山。奈末金紅世。到(テ)2于筑紫(ニ)1曰。新羅王遣(テ)2級※[にすい+食]金消|勿《モツ》。大奈末金|世《セイ》々等(ヲ)1。貢2上當年之調(ヲ)1。仍遣(テ)2臣《ヤツガレ》井山(ヲ)1。送2消勿等(ヲ)1。倶逢2暴風(ニ)於海中(ニ)1。以《コヽヲモテ》消勿等皆散(テ)之。不v知v所(ヲ)v如《イニケム》。唯井山僅(ニ)得v著v岸《ホトリニ》。然消勿等遂(ニ)不v來矣。
 
(3674)己卯。二十七日なり○臘子鳥蔽天。臘中臣本臈に作る。欽明紀に出。本に蔽を弊に作る。今京極本中臣本に依る○筑紫國大地動。豐後國風土記云。五馬山。昔者此山有2土蜘蛛1。名曰2五馬媛1。因曰2五馬山1。飛鳥淨御原御宇天皇御世。戊寅年。大有2地震1。山岡龜裂。此山一峽崩落。温泉處々而出。湯氣熾盛。炊飯早熱。但一處湯。其穴似v井。口徑丈餘。無v知2深淺1。水色如v紺。常不v流。聞2人之聲1。驚慍騰v※[泥/土]。一丈餘許。今謂2温湯1是也。とあり。此年の地變なり○新羅王は。文武王八年なり○級※[にすい+食]。本に級を汲に作る。今改む○以消勿等。集解以字衍として削れり。
 
八年春正月壬午朔丙戌。新羅送使加良井山。金紅世等向v京。戊子詔曰。凡當(テ)2正月之|節《トキニ》1。諸王諸臣及百寮者。除《オキテ》2兄姉(ヨリ)以上(ノ)親《ウカラ》。及己(ガ)氏長《ウチコノカミヲ》1。以外(ハ)莫v拜(コトヲ)焉。其諸王者。雖v母(ト)非(ハ)2王(ノ)姓1者莫v拜(コト)。凡諸臣。亦莫v拜2卑母(ヲ)1。雖v非(ト)2正月(ノ)節(ニ)1。復准v此(ニ)。若有(ハ)v犯者。隨v事罪之。己亥。射2于西門(ニ)1。二月壬子朔。高麗遣(テ)2上部大相桓|欠《・カン》。下部大相師需婁等1。朝貢。因(テ)以新羅遣(テ)2奈末甘|勿《モツ》那(ヲ)1。送2桓欠等於筑紫1。甲寅。紀臣堅麻呂卒。以(テ)2王申年之功(ヲ)1。贈2大錦上(ノ)位1。乙卯詔(テ)曰。及(テ)2于辛巳(ノ)年1。※[てへん+僉]2※[てへん+交]親王諸臣及百寮(ノ)人(ドモノ)之兵及馬(ヲ)1。故豫|貯《ソナヘヨ》焉。是月。(3675)降(テ)2大|恩《メフミヲ》1。恤2貧乏《マヅシキモノヲ》1。以(テ)給《モノタマフ》2其飢寒(ニ)1。
 
丙戌。五日なり○戊子。七日なり○凡當正月之節。續紀。文武天皇元年。禁3正月往來2拜賀之禮1。如違犯者。依2淨御原朝廷制1。決2罰之1。但聽2祖兄及氏上者1。儀制令云。凡元日不v得v拜2親王以下1。唯親戚家令以下。不v在2禁限1。とあり○兄姉を。文武紀に祖兄とあり。祖は親なり○氏長を。氏上とあり○非王姓者莫拜。通證に。庚史(ニ)。公主下嫁者。舅姑拜v之。婦不v答。とあり。似たることなり○己亥。八日なり。○大相桓欠。考(ノ)一本に。桓上師字あり。欠。京極本(ノ)旁に文に作れり。中臣本に父に作れり。下も同じ。○甲寅。三日なり○新羅遣奈末甘勿那云々。集解云。東國通鑑云。唐儀鳳二年。新羅文武王十七年。春二月。唐以2故高勾麗王滅1。爲2遼東州都督1。封2朝鮮王1。遣2歸遼東1。安2輯餘衆1。東人先在2中國諸州1者。皆遣。與v※[にすい+蔵の草冠なし]倶歸。仍移2安東都護府於新城1。以統v之。※[にすい+蔵の草冠なし]至2遼東1謀反。潜與2靺鞨1通。按儀鳳二年。當2天皇六年1也。とあり○紀臣堅麻呂。水戸本云。二年十二月。作2紀臣※[言+可]多麻呂1。蓋同人也。とあり。されど上文には。小錦下とあれば。聊疑はし。此人の事詳ならず○辛巳年。十年なり。
 
三月辛巳朔丙戌。兵衛《トネリ》大分君稚見死。當(テ)2壬申年(ノ)大※[人偏+殳](ニ)1。爲《シテ》2先鋒(ト)1之。破2瀬田(ノ)營(ヲ)1。由(テ)2是(ノ)功(ニ)1。贈2外(ノ)小錦上位1。丁亥。天皇幸2於越智(ニ)1。拜2後(ノ)岡本天皇陵(ヲ)1。己(3676)丑。吉備(ノ)大宰石川王病(テ)之。薨2於吉備(ニ)1。天皇聞(テ)之大(ニ)哀。則降2大恩(ヲ)1云々。贈2諸王(ノ)二(ノ)位(ヲ)1。壬寅。貪乏僧尼。施《オクル》2※[糸+施の旁]錦布1。
 
丙戌。六日なり○兵衛。考云。本にトネリの訓あり。宮門の衛にて。小錦上の贈官ある人は。舍人などにはなし。と云り○稚見死。考本に一本卒とあり。喪葬令に。六位以下。達2於庶人1。稱v死。と云り。稚見贈小錦上とあれば。卒と稱すべき位にあるべき人なり。但し兵衛は微官なり。本官辭免等の事ありしか。詳ならず○破瀬田營。この事上卷に委く出たり○丁亥は。七日なり○越智。高市郡なり○後岡本天皇陵。齊明天皇なり。績紀。文武天皇三年十月。越智山陵修造の事あり。既に前紀に詳なり○己丑。九日なり○吉備大宰は。吉備國守もあれど。なほ其上の總領なるべし。集解に。按吉備(ハ)畿西之國。九州之衝。故置2大宰1。以2諸王1鎭焉。續紀。文武天皇四年十月。直廣參上野朝臣小足。爲2吉備總領1。とあり。【續後紀に。陸奥出羽大宰と云も見えたり。】○石川王。前紀に見えたり。山部王とゝもに。鈴鹿關に來歸せる人なり○諸王二位の事。既出○壬寅。二十二日なり○施※[糸+施の旁]綿布。本に※[糸+施の旁]字脱たり。今中臣本京極本に據る。
 
夏四月辛亥朔乙卯。詔曰。商d量《カゾヘテ・ハカリテ》諸有2食封《ヘヒト》1寺(ノ)所由《ヨシヲ》u。而可(ハ)v加加v之。可(ハ)v除《ヤム》除v之。是日。定2諸寺名(ヲ)1也。己未。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。五月庚辰朔甲申。幸2于(3677)吉野宮(ニ)1。乙酉。天皇詔2皇后及草壁皇子尊。大津皇子。高市皇子。河島皇子。忍壁皇子。芝基皇子(ニ)1曰。朕今日與2汝等1。倶盟(テ)2于|座《オホバニ》1。而千歳之後。欲v無v事。奈之何。皇子等共對曰。理實《コトワリ》灼然。則草壁皇子尊。先進(テ)盟曰。天神地祇及天皇|證《アキラメタマヘ》也。吾《オノレ》兄弟|長《オイ》幼。并(テ)十餘(ノ)王。各出2于|異腹《コトハラヨリ》1。然不v別《ワカ》2同(キ)異《コトナルコト》1。倶|隨《マヽニ》2天皇(ノ)勅(ノ)1。而相扶(テ)無v忤《サカフルコト》。若自今以後。不v如2此(ノ)盟(ノ)1者。身命亡之。子孫絶(ム)之。非《ジ》v忘|非《ジ》v失《アヤマタ》矣。五(ハシラノ)皇子以v次(ヲ)相盟(コト)如v先。然(テ)後(ニ)天皇曰。朕|男等《コドモラ》各異腹而生。然今如(テ)2一母同産《ヒトツオモハラカラノ》1慈《メグマシム》之。則|披《ヒラキ》v襟《ミソノヒモ》抱(タマフ)2其六皇子(ヲ)1。因以(テ)盟曰。若違(バ)2茲(ノ)誓1。忽(ニ)亡(ム)2朕身(ヲ)1。皇后(ノ)之盟(コト)。且如2天皇1。丙戌。車駕還v宮《トツミヤニ》。己丑。六皇子共(ニ)拜2天皇(ヲ)於大殿(ノ)前(ニ)1。
 
乙卯。五日なり○定諸寺名。按に定額諸寺は。此時に定られたるものなるべし。續紀三十七。延暦二年勅曰。京畿定額諸寺。其數有v限。私自營作。先既立v制云々。又弘仁格政事要略等にも。此事見えたり。定額は惣て數定りたる公寺の事なり○己未。九日なり○甲申。五日なり○乙酉。六日なり○河島皇子。(3678)本に河を阿に誤る。今中臣本考本等に據る。按に天智皇子に。河島皇子ありて。既に出。此《コヽ》なるは天皇の皇子に坐て。同名を稱《トナ》へしものか。されど他には更に載せず。【天智の皇子は。いと名高し。懷風藻に。河島皇子淡海帝之第二子也。志懷温裕。局量弘雅。などあり。】もしくは此皇子も。實は天智の皇子に坐しが。故ありて天皇の御子と爲り給へるものか。又はもとより天皇の御子なるか。先に天智の皇子に爲給へるなどにもあるべし。恐らくは二柱に非じ○芝基皇子。按に朱鳥元年紀八月の處に。芝基皇子。磯城皇子。と並載たるは。芝基の方天智の皇子。磯城の方天皇の皇子に坐すべきが如し。【二年紀にも。天皇の御子磯城とあり。】然れども。こゝは必天皇の御子なり。かくまぎらはしきよしは。既に二年の下に云り○庭は。吉野の宮庭にての事なり。天皇此宮に幸して。昔日の事に感じ給ふ事や坐々けん。さて此宮庭にて盟はせ給ひしならん〇十餘王。紹運録に記せる男女十七王の中に。皇子は十柱なり。されどこゝにては。男女の皇子を。大凡に總べて指せりしものなるべし。必しも男王をのみ指給へるにはあらじ○不別同異。本に別を列に作れり。今中臣本考本に據る○朕男等云々。此詔の詞を讀み奉りて。河島皇子の。天智の皇子ならざることしられたり。然るに通證に。六皇子中。有2天智兒1。而並謂2之朕男1。以爲v盟。親v親之義至矣。と云るは強言なり。【なほ其餘に云れしことゞも。總てよからず。】○襟の訓。本にアリノヒモとあるは。アソノヒモの誤なり。兼夏本には。しかよみたり。神代紀には。衣帶をコロモノヒモと訓り。又二十八巻には襟《キヌノクビ》とも訓り○抱其六皇子。幼稚の状に書る文のみにはあらで。實にしか爲給ひしなるべし。清寧紀に。其二柱王子。坐2左右膝上1。とあるとは異なるべし○丙戌。(3679)七日なり○己丑。十日なり。
 
六月庚戌朔。氷《アラレ》零。大如2桃子1。壬申※[雨/咢の下半]。乙亥。大錦上大伴|杜《モリ》屋連卒。秋七月己卯朔甲申※[雨/咢の下半]。壬辰。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。乙未。四位葛城王卒。八月己酉朔。詔曰。諸氏《ウヂ/\》貢(レ)2女人1。己未。幸(テ)2泊瀬(ニ)1。以宴2迹驚《トヾロキノ》淵(ノ)上(ニ)1。先v是詔(テ)2王卿1曰。乘馬之外。更設2細《ヨキ》馬1。隨v召出之。即自2泊瀬1還v宮(ニ)之日。看(テ)2群卿(ノ)儲(ノ)細馬(ヲ)於|迹見《トミノ》驛家(ノ)道(ノ)頭(ニ)1。皆令2馳走《ハシラ》1。庚午。縵造忍勝献2嘉禾1。異v畝《ウネ》同v頴《カヒ》。癸酉。大宅王薨。
 
壬申。二十三日なり○乙亥。二十六日なり○大伴社屋連。父祖詳ならず○甲申。六日なり○壬辰。十四日なり○乙未。十七日なり○葛城王。詳ならず。記及び紹運録に據に。敏達皇子に同名あれど。天皇崩御より今年に至り。九十四年を經にければ。其とは慥に云がたし。また通詔に。葛城王適2于陸奥國1之時。國司祇承緩怠。王不v悦。有2前釆女1。詠2安積《アサ》香山歌1。乃王意解。詳見2萬葉集古今集1。蓋此人也。橘(ノ)諸兄公舊名葛城王。故世人爲2公(ノ)事1。然考d集録之語意。及大寶二年陸奥勿v貢2釆女1之勅u。則非v公也必矣。と云り○諸氏貢女人。類史貢女部。天平七年五月。勅諸國所v貢力婦。天平寶字八年十月。詔令3東海東山等國貢2騎女1。なほ後宮職員令に見えて。上に引出たり○己未。十一日なり○迹驚淵上。大和志云。(3680)城上郡迹驚淵。在2白川村1。とあり。枕草紙に轟の瀧あり。此とは異なり○迹見驛家。式城上郡登彌神社あり。そこなり。今世に外山《トビ》村といふ。此地の事は既に出〇庚午。二十二日なり○縵造。本に縵を※[人偏+邊の中]〔左○〕に作る。今中臣本及下文に據て改む。縵は鬘に同じ。姓氏録大和蕃別。※[草冠/縵]連。出v自2百済人狛之後1也。とあり。十二年紀五月。縵造腸v姓曰v連。氏人は。續紀三十六。外從五位下縵連宇陀麻呂。續後紀二十。大和人外從五位下縵連道繼あり。さてまた舊事紀に。物部竺志連公。奄智(ノ)※[草冠/縵]連祖。弟物部竹古連公。三川(ノ)※[草冠/縵]連等祖。弟物部(ノ)椋垣連公。城(ノ)※[草冠/縵]連。比尼(ノ)※[草冠/縵]連等(ノ)祖などあり。栗田寛云。※[草冠/縵]と云を姓に負けん事。詳ならず。強ていはゞ。※[草冠/縵]は上代に男女ともに。頭の飾に懸る物にて。眞拆鬘。日影鬘などあれば。蔓草を用ゐし事著し。然るを後々には。其を摸して。絲また麻などにて。造れる事となりやしけん。然らば其を造る部の職も。あるべき勢なれば。即其部を率て仕奉りし故に。姓に負しにやあらん。さて姓氏録大和蕃別に。※[草冠/縵]連と云が有て。甚混らはしき故に。大和に住る※[草冠/縵]連をば。奄智。城。といひ。和泉なるをば。比尼などいひて。蕃別なるをば。たゞに縵連とのみ呼しものなるべし。さて十二年腸v姓曰v連。とみえたるは。蕃別の流ならんか。と云り○癸酉。二十五日なり○大宅王薨。この王詳ならず。さて京極本中臣本。薨を卒とあり。
 
九月戊寅朔癸巳。遣2新羅(ニ)1使人等。返(テ)之拜v朝。庚子。遣2高麗(ニ)1使人。遣2耽(3681)羅1使人等。返(テ)之共(ニ)拜2朝廷(ヲ)1。冬十月戊申朔己酉。詔曰。朕聞之。近日|暴惡《アラクアシキ》者。多在2巷里《サト》1。是則王卿等之過也。或(ハ)聞(テ)2暴惡者1也。煩《ワヅラハシテ》之。忍(テ)而不v治《カムガヘ》。或(ハ)見(テ)2惡人1也。倦《オコタリテ》之。匿(テ)以不v正。其隨2見聞(ニ)1。以|糾彈《タヾサハ》者。豈有(ム)2暴惡(コト)1乎。是以(テ)自今以後。無2煩倦(コト)1。而上(ハ)責2下(ノ)過(ヲ)1。下(ハ)諫《アサメ・イサメバ》2上(ノ)暴(ヲ)1。乃|國家《アメノシタ》治焉。戊午地震。庚申。勅|制《オサム》d僧尼等(ノ)威儀《ヨソヒ》。及法(ノ)服《コロモ》之色。并(テ)馬|從者《トモヒト》。往2來《カヨフ》巷閭《サトニ》1之状(ヲ)u。甲子。新羅遣(テ)2阿※[にすい+食]金項那。沙※[にすい+食]薩※[草冠/田三つ/糸]生(ヲ)1。朝貢也。調(ノ)物(ハ)。金銀鐵鼎錦絹布皮馬|狗《イヌ》《ルイ》駱駝之類。十餘種。亦別(ニ)献2物天皇々后太子(ニ)1。貢2金銀刀旗之類(ヲ)1。各有v數。是月勅曰。凡諸(ノ)僧尼(ハ)者。常(ニ)住《ハベリテ》2寺(ノ)内(ニ)1。以|護《マモル》2三寶(ヲ)1。然或(ハ)及老《オイ》。或(ハ)患病《ヤミ》。其永臥(テ)2陝房《セバキムロニ》1。久苦2老病(ニ)1者(ハ)。進止不便《フルマヒモヤ/\モアラズ》。淨地亦穢。是以(テ)自今以後。各就2親族及篤信(アル)者(ニ)1。而立(テ)2一二(ノ)舎屋《ヤカズヲ》于|間《ムナシ》處(ニ)1。老者(ハ)養v身(ヲ)。病者(ハ)服《クラヘ》v藥。
 
癸巳。十六日なり○庚子。二十三日なり○己酉。二日なり○暴惡者也。本に暴を異に誤る。今中臣本に據る○惡人の上に。暴字あるべし○戊午。十一日なり○庚申。十三日なり○威儀。職原抄に。傅灯大(3682)法師位。威儀師。或凡僧。とあれども。こゝなるはさる名目にはあらず。訓の如く。たゞ其装束の状を云○法服之色。僧尼命。凡僧尼聽v着2木蘭青碧皀黄及壊色等衣1。餘色及綾羅錦綺。並不v得2服用1。とあり○馬從者。玄蕃式云。凡僧正(ハ)從僧五人。沙彌四人。童子八人。大少僧都(ハ)各從僧四人。沙彌三人。童子六人。律師(ハ)各從僧三人。沙彌二人。童子四人。威儀師(ハ)各從僧一人。沙彌一人。童子二人。從儀師(ハ)各沙彌一人。童子二人。とあり○甲子。十七日なり○阿※[にすい+食]。本に阿を河に誤る。今改む○錦絹布。本に絹字なし。今中臣本京極本に據る○騾。説文。驢父馬母所v生也。字鏡集。色葉字類抄に。ウサキウマとあり○太子。信友云。古寫本には皇太子と作り。【武郷云。京極本にしかあり。】是年に係て太子とあるはいかゞ。もしくは新羅王。皇子《ミコ》等のおはし坐る事を知れゝば。必皇太子はおはしますべく。推量り奉れるにか。また外蕃へは。皇太子の立ておはしませる趣に。示しおかせ給へるが故にてもあるべしと云り○常住寺内云々。僧尼令に。凡僧尼非v在2寺院1。別立2道場1。聚v衆教化。并妄説2罪福1云々。依v律科v罪。とあり○陝房。玉篇陝不v廣也。亦作v狹。とあり。考本には狹とあり。
 
十一月丁丑朔庚寅。地震。己亥。大乙下倭馬飼部(ノ)造連《ツララ》。爲2大使1。小乙下|上村主《カミノスグリ》光欠。爲2小使1。遣2多禰島(ニ)1。仍賜2爵一級1。是月。初(テ)置2關《セキヲ》於龍田(ノ)山。大坂(ノ)山(ニ)1。仍(テ)難波(ニ)築2羅城1。
 
(3683)庚寅。十四日なり○己亥。二十三日なり。類史百九十三。殊俗部高麗下に。八年十一月己亥(ノ)文あり。しかるに本紀に高麗事を載せず。脱たるなるべし○倭馬飼部造連。出自詳ならず。十二年紀九月。倭馬飼造賜v姓目曰v連。とあり。續紀天平十一年。對馬島目正八位上養徳馬飼連乙麻献2神馬1。とあり。連《ツラ》は名なり○上村主光欠。本に村を寸と作り。今中臣本考本に據る。姓氏録左京諸蕃。上村主。廣階連同祖。陳思王植之後也。攝津同上。右京。廣階連同祖。通剛王之後也。和泉。廣階連同祖。東阿王之後也。とあり。按に通剛王東阿王は。蓋し一なるべし。阿は。もしくは剛の誤にもあるべし。氏人は。氏族志云。聖武帝時有2僧智光1。河内人姓鋤田連。後改2上村主1。【靈異記。】孝謙帝時。河内大縣郡人。從五位下上付主五百公賜v連。【續紀】清和帝時。相摸鎌倉郡人。太皇大后宮少屬。上村主眞野。同姓從八位上秋眞等。改2本居1。貫2大縣郡1。【三代實録】とあり。なほ此他にも。正倉院古文書に。天平寶字二年四月十日下に。上村主牛甘あり。また續紀神護景雲二年三月。上忌寸生羽と云も見えたり。さて上村主(ノ)氏人。廣階氏を賜へること。文徳實録三代實録等に見えたり。光欠(ハ)名なり。秘閣本に欠を文に作れり。【この上をウヘと訓て。下文に宇閇直と一つにせし説はわろし。】○小使。水戸本に小を少とあり○遣多禰島。此は高靈に遣されたるにはあらじか。上に引る類史と合考べし。多禰島に使はれんには。大使小使は似つかはしからず○龍田山は。大和志云。平群郡關屋跡。在2立野村(ニ)1。天武八年始置2關于此1。天文八年收2立野關錢1事。見2信貴山寺目録1。とあり○大坂山。本に坂を江に作る。今中臣本活字本秘閣本に據る。通證云。大坂山。倭名抄葛上郡大坂。今屬2下(ノ)郡1。所謂岩窟越也。關(3684)屋。大坂。村里相隣。可2以證1矣。とあり。【大江とあるに據て。倭名抄山城國乙訓郡大江。園大暦曰2於伊山1是也。萬葉集云。丹波道之大江乃山。小式部歌。大江山幾野乃路。即在2;丹波山城之堺1。卜家本江作v枝。績日本後記。五關之一大枝道。朝野群載。京城四堺之一大技堺。とあるは。後に山城京になりて後の事なり。此御世なるは。なほ大坂の方なり。】○羅城。三代實録【貞觀十三年】に。稱2羅城1者。是周(ノ)國門。唐(ノ)京城門云々。とあり。考云。羅城門は都大路のはてにあるもの。今の總見付の如し。二重閣七間に作とあり。と云り。秉燭談に。唐書高宗時。築2京師羅郭1。又通鑑唐懿宗紀注。羅城外大城也。子城(ハ)内小城也。又朝鮮崔世珍訓蒙字會曰。郭俗稱2羅城1。由v是觀v之。羅(ハ)周羅網羅之義。謂2羅城門1者。郭城門也。と云り。さて續紀十七。同三十四に見えたる羅城門は。平城京の羅城なり。
 
十二月丁未朔戊申。由(テ)2嘉禾(ニ)1。以親王諸王諸臣。及百官人|等《ドモニ》。給v禄各有v差。大辟罪《シヌルツミ》以下悉赦之。是年。紀伊國伊刀郡。貢2芝草(ヲ)1。其状似v菌《タケニ》。莖《モトノ》長一尺。其|蓋《イタヾキ》二圍。亦因播國貢2瑞稻1。毎v莖《モト》有v枝《マタ》
 
戊申は。二日なり○由嘉禾以。類史に禾を樂とあるは訛なり。以は集解に衍として削れり○大辟罪以下云々。令義解。辟者罪也。死刑爲2大辟1也。とあり。もと周刑なり。さて續紀以下の史に。大赦行はるゝ毎に此語あり○伊刀郡。倭名抄伊都郡とあり○芝草。皇極紀に云り○按に。元正天皇此年誕生し給へり。天平二十年崩。年六十九歳にならせ給へり。
 
(3685)九年春正月丁丑朔甲申。天皇御(テ)2于|向《ムカヒノ》小殿(ニ)1。而宴2王卿(ニ)於大殿之庭1。是日。忌部(ノ)首※[○の中に子]首(ニ)。賜(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)。則與2弟色弗1共(ニ)悦《ヨロコビ》拜。癸巳。親王以下。至(マデニ)2于小建(ニ)1。射2南門(ニ)1。丙申。攝津國言。活田(ノ)村(ニ)桃李實也。二月丙午朔癸亥。如(テ)2鼓音(ノ)1聞2于東(ノ)方1。辛未。有(テ)v人云。得2鹿角(ヲ)於葛城山(ニ)1。角本(ハ)二|枝《マタニシテ》。而末合(テ)有v完。完(ノ)上(ニ)有v毛。毛(ノ)長一寸。則異以(テ)献之。蓋麟(ノ)角歟。壬申。新羅|仕丁《ヨボロ》八人。返2于本土(ニ)1。仍(テ)垂(テ)v恩(ヲ)。以(テ)賜v禄有v差。
 
甲申。八日なり○向小殿而。集解に。按謂v向。向2于正殿1也。謂v小對v正也。江次第所謂。小安殿大極殿之後房即是。詳2于十年紀注1。と云れたるが如くなるべし。今按に。後世の殿稱に。西(ノ)對東(ノ)對と云る對も。即ち此向の義なり。さて本に而字なきを。今類史に據て補へり○大殿之庭。集解に謂2大極殿庭1也。とあり。又按に。これもなほ向(ノ)小殿の庭をかく云るにもあるべし○忌部首子首。本に子字なし。天武紀上文。及續起四に子字あり。必脱たるなるべければ。今本居翁の記に據て補。この事は既に云り。【上に忌部首子人とあるによりて。こゝもしかよむべし。然るに通證に。此の注に。私記曰。上讀2於比止1。下讀2加宇倍1。今按上(ハ)姓。下(ハ)名。とあるは誤なり。】○色弗。持統紀に色夫知に作れり。續紀大寶元年六月。正五位上忌部宿禰色布知卒。詔贈2從四位上1。以2壬申年功1也。とあり。【然るに此人。壬申紀に見えず。】此氏特りかく(3686)姓を改め給へるは。いかなる故にかあらん。軍功ならば。餘氏もあるべきを。もしくは先年大嘗に仕奉りし賞にもやあらむ。詳ならず○癸巳。十七日なり○小建。初位冠なり○丙申。二十日なり○活田村。倭名抄攝津國八部郡生田○癸亥。十八日なり○辛未。二十六日なり○鹿角。本に鹿を麟に作る。今中臣本及本書旁書に依る○麟角歟。本に麟を※[馬+隣の旁]と作り。今釋紀に據る。【集韻。※[馬+隣の旁]馬斑文とあり。】毛詩周南麟趾。箋注曰。麟(ノ)角(ノ)未有v肉。示2有v武不1v用。とあり。略記にも二月得2麟角1とあり○壬申。二十七曰なり。
 
三月丙子朔乙酉。攝津國貢2白|巫鳥《シトヽヲ》1。【巫鳥。此云2芝苔々1。】戊戌。幸2于菟田(ノ)吾城《アキニ》1。夏四月乙巳朔甲寅。祭2廣瀬龍田(ノ)神(ヲ)1。乙卯。橘寺(ノ)尼房《アマヤニ》失火《ミヅナガレシ》。以(テ)焚2十(ノ)房(ヲ)1。己巳。饗2新羅(ノ)使人項那等(ニ)於筑紫(ニ)1。賜v禄各有v差。是月勅。凡諸寺者。自今以後。除(テ)d爲2國大寺1二三(ヲ)u以外(ハ)。官司莫v治(コト)。唯其有(ム)2食封1者(ハ)。先後限2三十年1。若數v年滿2三十1。則除v之。且以爲。飛鳥寺(ハ)不v可v關《アヅカル》2于司治(ニ)1。然元爲(テ)2大寺(ト)1。而官恒(ニ)治(メキ)。復甞|有功《タスカレアリ》。是以猶入2官治(ル)之|例《カギリニ》1。
 
乙酉。十日なり○白巫鳥。倭名抄羽族部。鵐鳥。唐韻云。鵐鳥(ノ)名也。音巫。漢語抄云。巫鳥之止止。集韻曰。雀屬。按蒿雀。今俗曰。阿遠之止止。種類甚多。通證に。古語拾遺曰。片巫。志止止鳥。金葉集云。雨降婆(3687)雉毛志止止爾成爾介利。今刀(ノ)飾有2鵐目1。以2其肖1名之也。枕草紙所謂美古鳥。亦謂v此乎。とあり。しとゞは。青みたる毛色にて。俗にアヲジとも云。黒燒にして。金創などの血を。よく止め治る藥なり。こゝに白巫鳥とあるは。毛色の白きを珍しみて貢れるなり。池邊眞榛云。あをじめじろなど。みな志止々の類なり。あをじのみに限るべからず。刀釼の具に鵐目《シトメ》といふは。目じろの目の廻(リ)の白縁あるを以。號けたるなれば。こゝも大方めじろなるべし。本草に蒿雀也と云るは。あをじか。鵐は字書に雀也とみえたり。あをじは鳴聲にあやなきを。めじろはあをじよりも世に多く。また鳴聲も雲雀なきとて。あやあるものなり。或人の説に。これは俗にヒタキといふ鳥なり。此鳥の聲にて卜ふことあるよし。きゝたることあり。和名抄に鵐鳥。また字鏡には※[即/鳥]字をよめり。又名義抄に。※[神/鳥]をカウナイシトドと訓り。其カウナイは。巫の音便にて。巫《カウナイ》しとゞと云義なれば。片巫のしとゞ鳥の占に由よりて聞えたり。漢字に鵐と作き。又巫鳥とも云るも。自ら片巫の占に相似てきこゆ。また枕冊紙にみこどりと云るも。巫鳥ときこゆと云り。【この眞榛が説は。古語拾遺片巫の下に注せるを引り。なほこの鳥のこと。大和本草にも出たり。見合すべし。】さて本に。こゝの注に。巫鳥此言芝苔苔とある。言字は例にたがへり。今中臣本に據る○戊戌は。二十三日なり○菟田吾城。式大和國宇陀郡阿紀神社。萬葉集に安騎野とあり。同集に。皇太子。【日雙斯皇子と申す。即草壁皇子なり。】をり/\此野に御獵に行坐しゝ事見えたれば。此時の御供にも。仕奉り給ひけん。さて幸とあれど。御獵なるべし○乙巳朔甲虎。本に巳字脱たり。今中臣本考本に據る。甲虎。十日なり○乙卯。十一日なり○橘寺。大和志。在2(3688)高市郡橘村1。菩提寺一名橘寺。山號安倍島。又號2佛頭山1。正堂念佛堂僧舍一區。とあり。上宮太子拾遺記云。橘寺者。此地(ハ)多2橘樹1爲v林。故名。橘寺橘京等。其本名(ハ)是嶋宮也。扶桑略記に。推古天皇十四年。天皇詔(テ)2皇太子1云。宜於2朕前1。講2勝鬘經1。太子乃握2〓尾1。登師子座1。三日説v經。其儀如2僧講1v經。竟夜蓮花雨零。花長可2二三尺1。而溢2方三四丈之地1。天皇覧v之。即於2其地1。誓起2堂宇1。今橘寺也。とあり。尼房の事は見えず。○十房。水戸本十餘房とあり○己巳。二十五日なり○官司莫治。類史に司字なし。續紀三十七勅にも。かゝる嚴制あり○官司恒治。本に司字なし。今類史及釋紀に據る。天平勝寶元年四月詔。新(ニ)造(ル)寺乃|※[○の中に官]《オホヤケ》寺止可成波。官寺止成賜夫。解云。官寺とは。官の治めにあづかる寺をいふ。とあり○復甞有功。集解に。按壬申之年。大伴連弟吹負。拔2高坂王(ノ)飛鳥寺西槻下營1。蓋此時有d援2官軍1之功u也。と云り。さもあるべし。
 
五月乙亥朔。勅(テ)※[糸+施の旁]緜絲布。以|施《オクルコト》2于京内(ノ)二十四寺(ニ)1。各有v差。是日。始説2金光明經(ヲ)于宮中及諸寺(ニ)1。丁亥。高麗遣2南部大使|卯《モウ》問。西部大兄俊徳等(ヲ)1。朝貢。仍新羅遣2大奈末考那(ヲ)1。送2高麗(ノ)使人卯問等(ヲ)於筑紫1。乙未。大錦下秦造綱手卒。由(テ)2壬申(ノ)年(ノ)之功(ニ)1。贈2大錦上位1。辛丑。小錦中星川臣麻呂卒。以(テ)2壬(3689)申年功(ヲ)1。贈2大紫位(ヲ)1。六月甲辰朔戊申。新羅客項那等歸v國。辛亥灰零。丁巳|雷電《イナツルイスルコト》之甚也。
 
説金光明經于宮中。通證云。大極殿御齋會起2于此1。其行2于正月1。見2持統八年紀1。とあり。此説は公事根源御齋會の下に。此時のを御齋會の始とは可v申歟。とあるに依れる説なり。なほ持統紀に云べし○丁亥。十三月なり○南部大使。與清云。使恐兄とあり。さることなり○考那。上に云る項邪の事と見えたり○乙未。二十一日なり○秦造綱手卒。持統紀十年に。五月甲辰。詔2大錦上秦造綱手1。賜v姓爲2忌寸1。とあるは。此に卒とあるに合はず。誤あるべし。位も大錦上とあれば異なり。さて此人壬申の紀に見えず○辛丑。二十七日なり○星川臣麻呂。星川臣。記に建内宿禰之子。波多八代宿禰者。星川臣之祖。姓氏録大和皇別。星川朝臣。石川同祖。武内宿禰之後也。敏達天皇御世。依2居地1賜2星川臣1。とあり。記傳云。大和國山邊郡星川郷あるこれなり。【武藏國久喜郡。伯耆國會見郡などにも。此郷あり。式に伊勢國員辨郡星川神社もあり。】と云り。この麻呂壬申紀に見えず。續紀靈龜二年四月。詔壬申功臣贈大紫星川麻呂息。從七位上黒麻呂等十一人。賜v田有v差。また天平寶字元年十二月。太政官奏曰。贈大紫星川臣麻呂。壬申年功田四町。歴2渉戎場1。輸v忠供v事。立v功雖v異。勞效是同。比校一同2村國連小依等1。依v令中功。合v傳2二世1。とあり○戊申。五日なり○項那等。本に項を須とあり。今中臣本考本及上文に依る○辛亥。八日なり○灰零。續後紀承和五年。十六國言。有(3690)v物如v灰。從v天而雨。老農名2此物米華1。○丁巳。十四日なり。
 
秋七月甲戌朔。飛鳥寺(ノ)西(ノ)槻(ノ)枝。自(ニ)折而落之。戊寅。天皇幸2犬養連大伴(ガ)家(ニ)1。以(テ)臨《ミタマフ》v病。即降2大恩(ヲ)1云々。是日※[樗の旁]之。辛巳。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。癸未。朱雀在2南|門《カドニ》1。庚寅。朴井(ノ)連子麻呂(ニ)。授2小錦下位(ヲ)1。癸巳。飛鳥寺(ノ)弘聽僧終。遣(テ)2大津皇子。高市皇子(ヲ)1吊《トフ》之。丙申。小錦下三宅連|石床《イハトコ》卒。由(テ)2壬申年功(ニ)1。贈2大錦下位(ヲ)1。戊戌。納言兼宮内(ノ)卿《ツカサ》五位舍人王。病(テ)之|臨《ス》v死(ナント)。則遣(テ)2高市皇子(ヲ)1而訊之。明《クルツ》日卒。天皇大(ニ)驚(テ)。乃遣2高市皇子。川島皇子1。因(テ)以(テ)臨《ミソナハシ》v殯(ヲ)哭《ワヅラフ・ネツカフ》之。百寮者從而|發哀《ネツカフ》
 
七月。皇代紀に。白鳳九年庚辰七月。建2伊賀伊豆國1。略記に。七月割2伊勢四郡1。建2伊賀國1。別2駿河二郡1。爲2伊豆國1。と云ことあり。此月の事なり○戊寅。五日なり○犬養連。上文【前紀なり】には縣犬養連大伴とあり。こゝは脱たるなるべし。天皇東國に發途《ミチダチ》し給ひし時。大伴が鞍馬に遇て。御駕《ミノリ》給ひしことあり。舍人にて元從者なり○即降大恩云々。この云々は。恩詔の文なりしを。除かれたるは。故ある事か。【八年石川王の薨せし時にもかくあり。引合すべし。】さて此人。續紀大寶元年正月。直廣壹縣犬養宿禰【下文連とあり】大|侶《トモ》卒。遣2淨廣肆夜氣(3691)王等1。就v第宜v詔。贈2正廣參1。以2壬申年功1也。また七月壬辰。勅曰。先朝論v功行v封。時賜2縣犬養連大侶一百戸1。云々。などあり○辛巳。八日なり○癸未。十日なり○朱雀在南門。本に在を有に作る。今考本類史祥瑞部に據る。續紀。延暦四年五月。先v是皇后宮赤雀見。下2所司1令v※[てへん+僉]2圖牒1。孫氏瑞應圖曰。赤雀者瑞鳥也。王者奉v己倹約。動作應2天時1。則見。南門は通證云。皇城門正南曰2朱雀門1。石氏星經曰。南方赤帝。其精朱鳥。爲2七宿1。とあり。合《アヒ》に合て。朱雀の南門にしも在けんを。甚しき奇瑞と爲給へりしなるべし○庚寅。十七日なり○癸巳。二十日なり○弘聽。中臣本に聽を聰と作り○丙申。二十三日なり〇三宅連石床。天皇伊勢(ノ)鈴鹿に至り坐る時。國司守三宅連石床。介三輪君子首とゝもに。鈴鹿郡に參遇ること。壬申紀に見ゆ○壬申年功。京極本年(ノ)下之字あり○戊戌。二十五日なり○納言。持統紀六年正月にも。納言布勢朝臣御主人とあり。【但し公卿補任には。中納言とあり。】納言のことは既に云へり。こゝに大とも中ともなきは。此御時には。たゞ納言とのみ唱たりしならんか。されどなほ疑はし。この事持統紀に云べし○宮内卿。職員令に。宮内省卿一人。掌2出納諸國調雜物。舂米官田。及奏宣。御食産。諸方口味事1。とあり○舍人王。系詳ならず。公卿補任に大納言の斑に載たり。
 
八月癸卯朔丁未。法官(ノ)人貢2嘉禾1。是日始(テ)之。三日雨。大水。丙辰。大風折V木破v屋。九月癸酉朔辛巳。幸2于朝|嬬《ツマニ》1。因以(テ)看2大山位以下之馬(ヲ)於|長柄(3692)《ナガエノモリニ》1。乃|俾《セタマフ》2馬的射《ムマユミイサ》1之。乙未地震。己亥。桑内王卒2於私(ノ)家(ニ)1。冬十月壬寅朔乙巳。恤2京内諸寺(ノ)貪乏僧尼。及百姓(ヲ)1。而賑(ヘ)給《タマヒヌ》之。一毎2僧尼1。各※[糸+施の旁]四匹。緜四|屯《ミセ》。布六端。沙彌及|白衣《シロキヌ》。各※[糸+施の旁]二疋。綿二屯。布四端。十一月壬申朔。日|蝕《ハエタリ》之。甲戌。自v戌(トキ)至(マデ)v子(トキニ)。東方|明《アカシ》焉。乙亥。高麗人十九人。返2于本土(ニ)1。是當(テ)2後(ノ)岡本天皇之喪1而弔使。留(テ)之未v還者也。戊寅。詔2百官1曰。若有(バ)d利《カヾアラシメ》2國家(ニ)1寛(スル)2百姓(ヲ)1之|術《ミチ・ハケ》u者。詣(テ)v闕《ミカドニ》親申(セ)。則詞|合《カナヘラバ》2於理1。立爲2法則1。辛巳。雷2於西方(ニ)1。癸未。皇后|體不豫《ミヤマヒシタマフ》。則爲2皇后(ノ)1誓願《コヒネガヒテ》之。初(テ)興《タツ》2藥師寺(ヲ)1。仍(テ)度《イヘデセシム》2一百(ノ)僧(ヲ)1。由(テ)v是(ニ)得2安平《タヒラギタマフコトヲ》1。是日赦v罪。丁亥月蝕。遣2草壁皇子(ヲ)1。訊2惠妙僧之病1。明日惠妙僧終。乃遣2三(ノ)皇子(ヲ)1而弔之。乙未。新羅遣(テ)2沙※[にすい+食]金若弼。大奈末金原升(ヲ)1。進v調。則習v言者三人。從(テ)2若弼(ニ)1至。丁酉。天皇病之。因以度2一百(ノ)僧(ヲ)1。俄(テ)而|愈《イエヌ》之。辛丑。臈子鳥|蔽《カクシテ》v天(ヲ)。自2東南1飛。以度2西北1。
 
丁未。五日なり○丙辰。十四日なり○辛巳。九日なり○朝嬬。大和志。朝嬬行宮。古蹟在2葛上郡朝妻(3693)村1〇長柄杜。式葛上郡長柄神社。長柄村にあり。姓氏録大和神別。長柄首。事代主神之後也。記に葛城長江曾都比古。などあり。【本に。ナカエと訓るに據るべし。ナガラとあるは誤なり。】○馬的。倭名抄術藝部。騎射。楊氏漢語抄云。馬射。【宇末由美。今案。馬射即騎射也。箋注云。宇末由美。見2空物語祭使卷1。皇極紀射〓。天武紀馬的。皆同訓。】と云り。通證云。通典(ニ)長安二年。教v人習2武藝1。穿v土爲v埒。其長與v※[(土+乃)/木]均。綴v皮爲2兩鹿1。歴2置其上1。馳v馬射v之。名曰2馬射1。騎射始見云々。とあり。軍器考云。古代弓馬に便なるといふ事は。弓とは歩射也。馬とは騎射なりとぞ。令義解には見えたる。後世の如く。たゞに弓射。馬騎る事をのみいひしにはあらず。兵部省にて。諸衛人士を選ばれしにも。必歩射騎射を試られしよし。式にも見えたり。今も武士の行ふ歩射の中に。其義最正しくして。古の禮射の遺れる風にやと。見えぬる事も多し。小的なと云事は。古の賭射の事に起り。八的小串などは。其藝の精《クハ》しきを試みんとの爲なるべし。凡騎射といふ事。天武天皇九年に。長柄の杜にて。大山位以下の馬觀させ給ひて。すなはち馬的を射さしめ給ふといふ事ぞ始なるべき。彼流鏑馬と云事は。古より神事に用られし所なり。いかなるいはれある事にや。その故をばしらず。その由(リ)來る事も久しき事なりと云り○乙未。二十三日なり○己亥。二十七日なり○桑内王。系詳ならず。考本には内を田とあり。されど桑田王は。十年紀にも見えたれば。こゝはなほ桑内なるべし○乙巳。四日なり〇一毎僧尼。通證に一字衍とあり。集解に。一當v在2毎下1。蓋倒寫。とあり○各※[糸+施の旁]。本に各を冬に誤る。今考本集解本に據る○沙彌。釋氏要覧。此始落髪後之稱謂也。曰2最下1。とあり○白衣。通證に。楞嚴經(ニ)白衣居士。増一阿含經(ニ)。槃(3694)特告2弟周梨1曰。不v能v持v戒。還作2白衣1。要覧(ニ)白衣即淨人也。此白衣謂v俗也。華嚴音云。西域俗人皆著2白色衣1也。又今人謂v去2禮服1。爲2白衣1。世説(ニ)趙孝仕爲v郎。毎2告歸1。常白衣歩擔。是也。とあり。續紀天平神護元年十一月詔に。出家人毛|白衣《シロキヌ》毛。相雜天供奉仁。豈障事波不在。此白衣も俗人なり○甲戌。三日なり○乙亥。四月なり○當後岡本天皇之喪。天智帝の御世なり○戊寅。七日なり○辛巳。十日なり○癸未。十二日なり○藥師寺。大和志云。高市都藥師廢寺。在2木殿村1。天武天皇建。後遷2于平城右京1云々。また添下郡藥師寺。在2砂村1。一名西京寺。養老中復移2于此1。【或人云。かくあれど。色葉字類抄。聖武天皇御宇。天平元年二月二十九日建。とあるぞ。正しき傳なると云り。】藥師寺縁起云。右寺者。天武天皇即位八年。【庚申】十一月。皇后不※[余/心]。巫醫不v驗。因v之爲2徐病延命1。發d奉v鑄2丈六藥師佛像1之願u。爰靈驗有v感。皇后病愈。天皇大感。已鑄2金銅之像1。鋪金未v畢。以2十四年丙戌秋九月1。天皇崩2於明日香清御原1。以2戊子年十一月1。葬2給於高市大内山陵1。皇后嗣即2帝位1。是持統天皇也。爲v遂2太上天皇前緒1。高市郡建v寺。安2置佛像經論等1。本藥師寺是也。即塔露盤銘文云。維清原宮馭宇天皇。即位八年庚辰之歳。建子之月。以2中宮不※[余/心]1。創2此伽藍1。而鋪金未v遂。龍駕騰仙。太上天皇。奉v遵2前緒1。遂成2斯業1。照2先皇之弘誓1。光2後帝之玄功1。道済2群生1。業傳2曠劫1。式2於高※[益+蜀]1。敢勤2貞金1。其銘曰云々。或曰。史於2文武帝二年十月1云。以2藥師寺構作略了1。詔2衆僧1。令2其寺1。則書v銘當v在2此時1也。とあり。詳に略紀に見えたり。【此縁起作者知られず。奥書に。寛元元年己卯初秋上旬候寫之。とあり。】○丁亥。十六日なり○月蝕。通證云。今按此書爲2十六日1。猶d舒明紀書2日蝕1在c二日u也。とあり○惠妙。或人云。惠妙。上に同名僧あり。混ず(3695)べからず。其は孝徳紀大化元年に。以2惠妙法師1。爲2百済寺々主1。白雉五年の細字に。僧惠妙於v唐死。とあるを。元享釋書に。此二人を一人なりと失《アヤマ》り。大化元年勅爲2百済寺々主1。白鳳八年病云々。其杜撰見るべし。と云り○乙未。二十四日なり○習言者。通證云。釋(ニ)兼方按通事之類。今按此習2倭語1者也。とあり○丁酉。二十六日なり○辛丑。晦日なり。
 
(3696)日本書紀通釋卷之六十七
               飯田武郷 謹撰
 
十年春正月辛末朔壬申。頒《アカチマダス》2幣帛《イハヒノミテグラヲ》於諸神祇(ニ)1。癸酉。百寮諸人。拜2朝延1。丁丑。天皇御(テ)2向(ノ)小殿(ニ)1。而宴之。是日。親王諾王(ヲ)引2入《メシ》内(ノ)安《ヤスミ》殿1。諸臣皆侍2于外(ノ)安殿(ニ)1。共|置《メシテ》v酒以|賜樂《ウタマヒス》。則大山上草香部吉士大形(ニ)。授2小錦下位1。仍(テ)賜(テ)v仁姓(ヲ)曰2難波連(ト)1。辛巳。勅(テ)2境部連石積1。封2六十戸(ヲ)1。因以(テ)給2※[糸+施の旁]三十疋。綿百五十屯。布百五十端。钁《スキ》一百口1。丁亥。親王以下。小建以上。射2于朝廷(ニ)1。已丑。詔(テ)2畿内及諸國(ニ)1。修2理天社地社神宮(ヲ)1。
 
壬申。二日なり○癸酉。三日なり○T丑。七日なり○向小殿。九年記に出○宴之。公事根源白馬節會下に云。天武天皇十年正月七日に。御門小安殿におはしまして。宴會の義ありけり。是や七日の節會の始なるべからんとあり。たしかに白馬節會とは云はざれど。實に此御時ぞはじめなるべき。【因に白馬節會のことを云べし。萬葉二十に。天平寶字二年春正月三日。召2侍從竪子王臣等1。令v侍2於内裏之東屋垣下1。即賜2玉箒1肆宴云々とありて。此時の右中辨大伴宿禰家持作歌に。始春乃波都禰乃家布能多麻婆波伎云々。水鳥乃可毛能羽能伊呂乃青馬乎。家布美流比等波可藝利奈之等伊布(3697)とあり。歌意は七日の今日にあたりて。青馬を見る人は。無彊壽命をうくるぞと云るなり。これ七日白馬節會の。始てものに見えたる始なれど。なほ其本は。天武天皇十年に。はじめ給ひしなるべし。(但し萬葉なるは。正月三なれど。七日侍宴の爲に。預め作れるよし記せり)さて此の節會を。白馬節會とは書けども。古來より青《アヲ》馬とよむことにつきて。さま/”\の説あれど。萬葉古義に云る説よろしければ。今はそれを出す。古義云。抑正月七日に。青馬を御覧じ給ふことは。漢籍禮記月令に。天子居2青陽左介1。乘2〓路1。駕2倉龍1。載2青〓1。衣2青衣1。服2倉玉1とありて。注に倉與v蒼同。馬八尺以上爲v龍とあれば。倉龍は青馬なり。又帝皇世記に。高辛氏之子。以2正月七日1。恒登v崗。命2青衣人1。令v列2青馬七疋1。調2青陽之氣1。馬主v陽。青者主v春。崗者萬物之始。人主之居。七者七曜之清。徴2陽氣之温1始也とある。これらに本づきて行はれけることなるべし。さて皇朝にて。青馬を御覧じ給ふことは。いつの御代よりの事にか。未勘ず。史蹟に見えたるは。續後紀に。天長六年正月甲寅朔庚申。覧2青馬1。承和元年正月壬午朔戊午。觀2青馬1。文徳實録仁壽二年正月。覧2青馬1。三代實録貞觀二年正月覧2青馬1。などあれど。萬葉なるは。當時天平寶字の二年の事にて。天長承和の頃よりは。七八十年ばかり以往なれば。はやくの年より行はれしを知べし。貞觀儀式に。正月七日儀曰云々。今日波正月七日乃豐樂云々。恒毛見留青岐馬。見太萬比退止爲※[氏/一]云々。延喜左午寮式に。凡青馬二十匹。自2十一月一日1至2正月七日1云々。近衛式に。凡正月七日。青馬。〓《クチトリ》云々とあり。さて此より後の記録に。白馬節會と書たるは。本居氏説る如く。古よりの像間を改めて。白馬とはせられたるなり。(白馬とせられたるは。河海抄に。東方朔十節記曰。馬性以v白爲v本。天有2白龍1。地有2白馬1。秘抄に。同云是日見2白馬1。年中邪氣遠去不v來。とある本文によりたることなるべし)さて土佐日記に。七日になりぬ。同じ湊にあり。今日は白《アヲ》馬を思へどかひなし。唯波の白きをぞ見る。とあるによりて思へば。延喜式に青馬とあるは。なほ古よりのまゝにしるされたるものにて。延喜延長の境に至りては。はやく白馬を用らるゝことにぞなれりけん。平兼盛集に。降雪に色もかはらでひくものを。誰あを馬と名付けそめけん。とある如く。白(キ)馬を用ゐられ。文にも白馬と書ながら。語にはあをうまとのみ唱へ來れるは。尚古へ青馬なりし時の稱を存せる物なり。(しかるを白馬と書て。アヲウマと訓によりて。人皆心得誤りて。古は實に青き馬なりしことをばえしらで。もとより白き馬とおもひ。古書どもに青馬と書るをさへ。白き馬を然云りと思ふは。いみじきひがごとなりと。玉かつまに記せるが如し。天武紀元年に。鯨乘2白馬1而以逃之とある。白馬をアヲウマと訓たる點も。青馬白馬と異なれるをしらで。一に思ひ混へたるよりの誤也)また頭書に。弘仁式十四。中宮式。七日左右馬寮。允屬馬醫左右近衛。率2白馬七疋1。云々。紀略天暦元年丁未正月七日癸巳白馬宴。とあり。天暦は延喜より遙に後なれば。白馬とある勿論なりとあり。】○内安殿。公事根源に。白馬節會下云。天武天皇十年正月七日に。御門小安殿におはしまして。宴會の義有りとあれど。此には小安殿の事は見えず。小安殿の稱は續紀に見えたり。通證云。内安殿疑謂2小安殿1。江次第曰。小安殿(ハ)大極殿(ノ)後房也。萬葉集。内(ノ)南(ノ)安殿。とあり。【二十にあり。】集解云。按後世大極殿後房(ヲ)。謂2小安殿1。凡謂(ハ)v安(ト)。對v正謂v之。謂v内(ト)者。對v外(ニ)謂v之。時制不v詳。盖正殿謂2之大極殿1。(3698)後房謂2之向小殿1。連2于後房1。又有2内外安殿1也。と云る。此説はいかゞ。安は正に對し云辭にあらず。此事は既に皇極紀なる。大極殿の下に云り。内は外に對して言と云るはまる事なり。連2後房1。又有2内外安殿1とあるも。詳には知がたし。按に。古は大極段大安殿の外なるも。みな安殿と云しにこそ。さて此第一の正殿なるを。大極殿大安殿といひ。其餘の安殿には。内外向小南の稱をつけて。呼しなるべし。なほ東西の安殿ありしも知がたし。たま/\記し遺《も》れたりしにもあるべし。されば今にしては。其大凡を知の外なきなり○外安殿。これ右に云る如く。内に對したる名なり。然るを通證に。外安殿。疑朱鳥元年所謂大安殿。とあるは信られず。大安殿は大極殿と一にして。第一なる安殿なれば。外と云べからず○草香部吉士。本に士を志に作れり。今中臣本に據る。さて此氏清寧紀に出○辛巳。十一日なり〇境部連。孝徳紀に出○綿百五十屯。本に屯を斤に作る。今京極本に據る○丁亥。十七日なり○己丑。十九日なり。
 
二月庚子朔甲子。天皇皇后。共《モロトモニ》《オハシマス》2于大極殿《オホアムドノニ》1。以喚(テ)2親王諸王及諸臣1。詔之曰。朕今更欲d定2律令《ノリノフミヲ》1。改c法式(ヲ)u。故倶(ニ)修2是(ノ)事(ヲ)1。然(モ)頓《ニハカニ》《ナサバ》2是務《コレノミマツリゴトヲ》1。公事《オホヤケワザ》有(ム)v闕《カクコト》。分(テ)v人(ヲ)應v行。是日。立(テ)2草壁皇子尊(ヲ)1。爲2皇太子1。因以令v攝《フサネヲサメ》2萬(ノ)機1。戊辰。阿陪|夫人《オトジ》薨。己巳。小紫位當麻公豐濱薨。三月庚午朔癸酉。葬2阿陪夫人(ヲ)1。(3699)丙戌。天皇御2于大極殿1。以詔2川島皇子。忍壁皇子。廣瀬王。竹田王。桑田王。三野王。大錦下上毛野君三千。小錦中忌部連※[○の中に子]首。小錦下阿曇連稻敷。難波連大形。大山上中臣連大島。大山下平群臣子首(ニ)u。令v記2定|帝紀《スメラミコトノフミ》及上古(ノ)諸(ノ)事1。大島。子首。親執(テ)v筆(ヲ)以(テ)録焉。庚寅地震。甲午。天皇居(テ)2新宮(ノ)井上(ニ)1。而試(ニ)發2鼓吹《ツヾミフエノ》之聲(ヲ)1。仍(テ)令2調《トヽノヘ》習1。
 
甲子。二十五日なり○大極殿。皇極紀に云り。訓はオホ安《ヤスミ》トノとありしか。誤れるなり。この事も既に云り○朕今更は。天智御世に撰ばしめ給ひしを。爰に至りて刪定給ひしにこそ。朕今更とあるに眼を着べし。と或人云り○律令法式は。所謂律令と法式となり。通證云。今按。法式謂2法令格式1也。【武郷云。通證にはかくあれども。下文十一年に。式法《ノリトイsテ》應v用之事云々。また造2法令《ノリノフミ》1の文あり。さればこゝの法式も。それと同じかるべし。格までには及びしものと見るべからず。】私仁格序曰。蓋聞。律以2懲肅1爲v宗。令以2勸誡1爲v本。格則量v時立v制。式則補v缺拾v遺。四者相須。足2以垂1v範。唐刑法志曰。人之爲v惡。入2于罪戻1。一斷(ス)2臣律(ニ)1。禁(ズルニ)2於未然1。曰v令。尊卑貴賤之等級。国家之制度也。(ス)設2於此1而逆(フル)2於彼1。曰v格。百官有司之所2常行1者也。設2於此1。而使(ルヲ)2彼效1v之。謂2之式1。諸司常守之法也。国史律令格式(ノ)部。天武天皇十年。持統天皇三年。文武天皇四年。詔2諸王臣1。讀2習令文1。又撰2成律條1。大寶元年。撰2定律令1。於是始成。(3700)大略以2淨御原朝廷1。爲2准正1。と云り○爲皇太子。皇代紀。文武天皇條下に。草壁皇子。天武天皇十年二月甲子。立爲2皇太子1○戊辰。二十九日なり○阿陪夫人。集解に。按天智天皇妃。阿陪倉梯麻呂女橘娘と云あり。さらば飛鳥皇女。新田部皇女の御母なり。されども。先代の夫人の薨卒などを。記したる例なければ。なほたしかには定めがたし。考云。此夫人前の皇妃夫人の所にも。帝皇系圖にも。たゞ夫人とばかりの名ありて。阿部氏の事なし未詳。と云り。これは天皇の御《メ》したまへる夫人と見たる説なり。なほよく考べし〇丙戌。十六日なり○廣瀬王。續紀養老六年。正四位下廣湍王卒。とあり。萬葉八にも廣瀬王あり。詳ならず○竹田王。詳ならず。持統紀三年二月。淨廣肆判事とあり。續紀和銅元年三月。從四位上竹田王爲2刑部卿1。とあり○桑田王。紹運録に。敏達天皇孫。押坂彦人皇子の子とあり。さて九年八月に。桑内王卒とあるを。考本には桑田王とあれど誤なるべし。既に云り〇三野王。上紀に出○上毛野君三千。八月紀に卒とあり○忌部連子首。本子字を脱。今補。既に上に云り○阿曇連稻敷。既出○難波連大形。既出○中臣連大島。下文及持統紀には。藤原また葛原※[草冠/收]原とあり。【※[草冠/收]原は藤原に同じ】大中臣本系帳に。糠手子大連公孫。中納言直大貳中臣朝臣大島等。與2御氣子大連公長子。大職冠内大臣鎌足大連公1。同賜2藤原朝臣姓1。系圖糠手子大連公一男。右大臣大錦上金(ノ)二男許米之子。即大島。祭主中納言直大貳神祇伯とあり。持統紀七年二月。賜2直大貳葛原朝臣大島賻物1。懷風藻に。詠2孤松1。及山齋詩二首を載たり。官大納言直大貳とあり。さて此人。中臣とも藤原とも書けるよしは。鎌足公の下に注せり○平群(3701)臣子首。この人他に見えず○帝紀及上古諸事。帝紀は帝皇の本紀なり。古事記序に。諸家之所v賚。帝紀及本辭。とあるを。次の文には。帝皇日繼。及先代舊辭。と書り。【田中頼庸云。大初以來。神聖所傳の言。之を本辭といひ。橿原以還。歴朝所v成の書。之を帝紀と云。本辭一舊辭と云と云り。この説は聊かまどはし。さらば本辭舊辭を泛稱して。帝紀とも云るが如し。本辭はなほさもあるべし。舊辭までを。帝紀と云がたかるべし。】さてこゝに上古諸事とあるが。即記に所謂先代舊辭なり。【序に云。本辭と云こと。新撰龜相記に。神皇の本統を記せしを。木辭と云り。されば本辭の中には。神明の本統。帝皇の日繼をも兼て云べきなれど。記の序なる帝紀及本辭と。二に云るよりして。分け云時は。本辭はなほ旨と先代の舊辭にて。こゝに上古諸事とあるにあたるべし。一概に見べからず。記傳などには。この別をいはず。いと麁く見られたり。】さて此事の詔。即ち此紀【日本書紀なり】の成れる基本なりしこと。首卷に集解の説を引て委く云り。考合すべし○庚寅。二十日なり○甲午。二十四日なり○天皇居新宮井上。本に居字天皇(ノ)上にあるは誤なり。今中臣本考本集解に據る○試發は。所謂試樂なり。次に令2調習1とあり。然るに考に。試(ノ)字を以見れば。高麗樂を習はしめ給ふか。と云れたるはあらず。
 
夏四月己亥朔庚子。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。辛丑。立2禁式《イサメノノリ》九十二條(ヲ)1。因(テ)以詔(テ)之曰。親王以下。至(マデニ)2于庶民(ニ)1。諸(ノ)所(ノ)2服用1。金銀珠玉。紫錦繍綾。及|氈《オリカモ》《トコシキ》冠帶。并(テ)種々雜色之類。服用(コト)各|有《アレ》v差。辭(ハ)具有2詔(ノ)書(ニ)1。
 
夏四月。本に夏字なし。今考本集解に依る○庚子。二日なり○辛丑。三日なり○禁式。禁には種々あり。典籍便覧に。遏絶戒止曰v禁。と云るが如し。されどこの時の禁式は。むねと衣装の禁を示されたるものゝ如し。次の詔にて。しか聞えたり。さて略記には禁字なし。脱たるなるべし。【禁は禁中にて。所謂内裏式の如き書(3702)ならんかと。おもひしかど。さにはあらず。】○金銀珠玉云々氈褥冠帶。職員令。内藏寮頭一人。掌2金銀珠玉寶器。錦綾綵氈褥1。義解謂。自生(ヲ)爲v珠。作(ヲ)爲v玉。又氈褥謂d撚v毛爲2褥席1者u。などあり○具有詔書。世に傳はらず。衣服令に。皇太子親王諸王諸臣の禮服を記し。なほ庶人の禮服。常服等を記せり。披見るべし。
 
庚戌。錦織造|小分《ヲキタ》。田井直吉麻呂。次田(ノ)倉人。椹足《ムクタリ》【椹。此云2武矩1。】石勝。川内直縣。忽海造鏡。荒田尾直能麻呂。大狛造百枝。足坏《アシツキ》。倭直龍麻呂。門部直大嶋。完人造老。山背(ノ)狛《コマ》烏賊麻呂《イカマロ》。并(テ)十四人(ニ)。賜(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)。乙卯。饗2高麗客卯問等於筑紫(ニ)1。賜v禄有v差。
 
庚戌。十二日なり○錦織造。姓氏録河内諸蕃。錦部連。三善宿禰同祖。百済國速古大王之後也。和泉同上。十二年九月。錦織造賜v姓曰v連とあり。氏族志云。稱徳帝時。河内錦部郡人。錦部※[田+比]登。石次。同姓大島等。竝賜v連。【續紀】後蓋改2宿禰1。醍醐帝時。有2左大史錦部宿禰春蔭1。圓融帝時。有2主税助錦部宿禰茂明1。【符宣抄】とあり。三代實録に。錦織連氏に。惟良宿禰を給へることも見えたり。【此姓神別にも有て混はし。仁徳紀。錦織首許呂斯。敏達紀錦織〓など。併見るべし。】○田井直。舊事紀に。饒速日命八世孫。物部金弓連公。田井連等祖。又物部目古連公。田井連祖。とあり。氏人は。續紀四十。延暦八年六月。甲斐國山梨郡人。外正八位下要部上麻呂等。改2本姓1爲2田井1。とあり。【續紀考證云。後紀云。十八年十二月。甲斐國人正彌若虫□□等言。己等先祖。元是百済人也。仰2慕聖朝1。航海投化。即天朝降2綸旨1。安2置攝津職1。後依2丙寅歳五月二十七日格1。更遷2甲斐國1云云。此所v云要部上麻呂□□等。蓋此種類也。と云れど。更に(3703)證なし。】○次田倉人。姓氏録に吹田連に作る。天智紀に出○椹足石勝。二人の名なり。注に。椹此云武矩。本に矩を規とあり。今中臣本及通證引一本に依る。通證云。今(ノ)姓椹氏。訓2美豆伎1。倭名抄椋子無久。伊與風土記曰。有v椹。云2臣(ノ)木1。萬葉集。臣木訓2於美乃木1。私勘云。毛美也。考2字書1。爲2桑椹1。爲2椹質1。未v得2上件義1。とあり○川内直。欽明紀に出。凡川内直同祖なり○忍海造。三年紀に出。續紀四十。延暦十年正月。忍海原連魚養等言。謹※[てへん+僉]2古牒1云。葛木襲津彦第六子熊道宿禰云々。六世孫首麻呂。飛鳥淨御原朝廷。辛巳年。貶賜2連姓1云々。此と異姓なり。混ずべからず。但し辛巳年は今年なり○荒田尾直。本に尾直(ノ)二字なし。今集解及上卷に據て補。既に出。姓氏録和泉神別。荒田直。高魂命五世孫。劔根命之後也。とあり○大狛造。姓氏録河内諸蕃。大狛連。高麗國人伊利斯沙禮斯之後也。大狛連。高禮國溢士福貴王之後也。とあり。さて此に連姓を賜はれるは。百枝。足坏二人のみにて。なべては。十二年大狛造賜2姓連1とあり。なほ此氏の事。十二年の下に云べし○百枝足坏。二名なり。持統紀十年五月。以2直廣肆1。贈2大狛連百枝1。とあり〇倭直。既出。記傳云。欽明紀までは。國造とのみありて。直とはなきを。此にかくあるは。何れの御代より。直の姓にはなれりけむ。と云り〇門部直。孝徳紀に出。こゝは大島のみにて。次に十二年門部直賜v姓曰v連とあり○宍人造は。宍人臣と同祖なり。用明紀に出。又十三年紀に。宍人臣賜v姓曰2朝臣1とあり○山背狛。姓氏録山城諸蕃。狛造。出v自2高麗國主夫連大王1也。とあり。此も十二年の下に云べし○乙卯。十七日なり○饗高麗客云云。東國通鑑云。新羅文武王二十一年。(3704)唐開耀元年八月。唐召2高勾麗降王〓1。還2印州1。とあり。按に是歳に當れり。
 
五月己巳朔己卯。祭2皇祖(ノ)御魂(ヲ)1。是日詔曰。凡百寮諸人。恭2敬宮人(ヲ)1。過(テ)之甚(シ)也。或詣(テ)2其|門《カドニ》1。謁《アツラフ》2己(ガ)之訟(ヲ)1。或(ハ)捧v幣《マヒナヒモノヲ》。以(テ)媚2於其家1。自今以後。若有2如v此者1。隨《マヽニ》v事(ノ)共(ニ)罪(ム)之。甲午。高麗卯問歸之。六月己亥朔癸卯。饗2新羅(ノ)客若弼(ニ)於筑紫(ニ)1。賜v禄各有v差。乙卯※[樗の旁]之。壬戌地震。
 
己卯は。十一日なり○皇祖は。歴代の皇祖にはあらじ。孝徳紀に。舒明天皇の御父なる。彦人大兄の御事を。皇祖大兄御名入部。【謂彦人大兄也】と云ることあり。即天皇の皇祖父に當り給へり。集解に。按(ニ)皇祖(ハ)皇祖父。謂2押坂彦人皇子1。蓋非2歴代帝皇1。故別祭v之。疑是日或忌辰也。と云れたるが如くなるべし。さるを通證に。神代紀曰。土俗祭2此神之魂1。凡言v祭2御魂1者。蓋與2常祭1有v異歟。と云れたるは。なべての皇祖神の御魂と一(ツ)に見られたるなるべけれど。さる例ある事なし。かつ神代紀なるは。伊弉冉尊の御上の御事にて。甚く異なる故由あるをも思はぬ説なり。蓋與2常祭1有v異歟など云へるも。推量の説なれば。信ずべからず○宮人は。後宮職員令義解に。宮人は婦人仕官者之惣號也。とあり。即女官なり。【然るを考に。昵近の公卿を云。と云れたるは非なり。】○謁。所謂内謁なり。説文に告也請也。とあり○甲牛。本に午を子に作る。今中臣(3705)本に依る。二十六日なり○癸卯。五日なり○壬戌。二十四日なり。
 
秋七月戊辰朔。朱雀見之。辛未。小錦下采女臣|竹羅《ツクラヲ》。爲2大使1。當摩公楯(ヲ)。爲2小《ソヒ》使(ト)1。遣2新羅國1。是日。小錦下佐伯連廣足(ヲ)。爲2大使1。小墾田臣麻呂(ヲ)。爲(テ)2小使(ト)1。遣2高麗國(ニ)1。丁丑。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。丁酉。令2天下(ニ)1。悉大解除。當2此時(ニ)1。國追等。各出2祓柱《ハラヘツモノ》奴婢一口(ヲ)1而解除焉。
 
辛未は。四日なり○釆女臣竹羅。釆女臣。欽明紀に出。竹羅。水戸本及下文筑羅に作る。集解云。甞見d河内國所2堀得1石碑文u曰。飛鳥淨原大朝廷。大辨官直大貳釆女竹良卿。所2請造1墓所。形浦山地(ノ)千代。莫3他人上毀v木。犯2穢傍地1也。己丑年十二月二十五日。按己丑持統天皇三年也。同五年紀。詔2十八氏1。上2進其祖等墓記1。采女氏在2于其中1。と云へり〇廣足。本に廣字脱たり。下文及十四年紀に依て補○丁丑。十日なり○丁酉。晦日なり○大解除。大祓なり○奴碑一口。類史八十七。大同四年七月。因幡國人大伴吉成。浮2宕京下1。相2替御贖|官奴《ミヤツコ》大風麻呂1。爲v犯2神事1。决v杖遞2送本國1。其大風麻呂。配2對馬國1。また政事要略に載たる。多米氏本系帳に。賜2天皇御贖之政1云々。また多米氏系圖に。志賀高穴太宮御宇云々。爾時天皇御命贖乃人乎。四方國造等献支。などある文ともに因に。國造の祓柱に。奴婢を出さし(3706)むるは。いと古代よりの事なり。【多米氏の書に見えたるは。成務天皇の御世の事なり。】されどこれは。尋常の解除の時に出せるにはあらで。天皇の御上。また國家に事ある時の事と見えたれば。此時の大解除も。臨時に奴婢を出さしめて。天皇の御贖とは爲し給へりけむ。但し此時いかなることありしか。知がたし。【次の文に。皇后誓願之大齋と云ことなどに依るに。御病などの事ありもやしけん。】然るに重胤が説。こゝの文を引て。祓柱に奴婢一口を出せるは。不審しきに就て思ふに。奴婢一口の代にて。其輸す物を調ふる事と聞ゆれば。上なる五年八月の。祓柱の料に當れるにや有む。と云るは。心得がたき事なり。さる事にはあらじとぞおもはるゝ〇而解除焉。本に焉字なし。今京極本卜本水戸本に據る。
 
《ノチノ》七月戊戌朔壬子。皇后|誓願《コヒチカヒシテ》之。大齊。以説2經於京内(ノ)諸寺1。八月丁卯朔丁丑。大錦下上毛野君三千卒。丙子。詔(テ)2韓(ノ)諸人《ヒト/\ニ》1曰。先日(ニ)復《ユルシタマフコト》2十年(ノ)調税1。既訖。且|加以《シカノミナラズ》歸化《マヰオモブク》初年。倶來之子孫。並(ニ)課※[人偏+殳]《エツキ》悉(ニ)免焉。壬午。伊勢國貢2白|茅鵄《イヒトヨヲ》1。丙成。遣2多禰島(ニ)1使人等。貢2多禰國|圖《カタヲ》1。其國去(コト)v京(ヲ)五千餘里。居(リ)2筑紫南海中(ニ)1。切(テ)v髪(ヲ)草(ノ)裳《モキタリ》。粳稻《イネ》常(ニ)豐。一※[草冠/俎](テ)兩収。土毛《クニツモノハ》支子《クチナシ》莞子《カマ》。及種々(ノ)海(ノ)物等|多《ニヘサナリ》。是日。若弼歸v國。
 
(3707)壬子。十五日なり○大齊。齊は齋に同じ○丁丑。十一日なり○丙子。十日なり。此一條丁丑と入替れり〇三韓諸人は。先に歸化せし人どもなり○壬午は。十六日なり○白茅鵄。休溜なり。詳に皇極紀に云り○丙戌。二十日なり○多禰國圖云々。六年四月の下に云り○去京五千餘里。雜令に凡度v地五尺爲v歩。三百歩爲v里。とあり○一※[草冠/俎]兩収。本に兩を雨に誤る。今中臣本考本に據る。※[草冠/俎]を中臣本に殖に作れり○支子。正字通に。黄支即今支子木。俗作2梔巵1。とあり。倭名抄。梔子久知奈之。木實也。可v染2黄色1者也○莞子。爾雅注。白蒲楚謂2之莞蒲1。倭名抄。蒲加末。莞。漢語抄云。於保井。
 
九月丁酉朔己亥。遣2高麗新羅(ニ)1使人等。共(ニ)至之拜v朝。辛丑。周芳國貢2赤|龜《カハガメヲ》1。乃放2島(ノ)宮(ノ)池1。甲辰詔曰。凡諸氏(ノ)有2氏上《コノカミ》未v定者1。各定(テ)2氏(ノ)上(ヲ)1。而申2送于|理《ヲサムル》官(ニ)1。庚戌。饗2多禰島(ノ)人等(ニ)。于飛鳥寺(ノ)西(ノ)河邊(ニ)1。奏《オコス》2種種|樂《ウタマヒヲ》1。壬子。彗星見。癸丑。※[螢の虫が火]惑《ケイコク》入v月。
 
己亥。三日なり○辛丑。五日なり○赤龜。垂仁紀に大龜訓同じ。赤キカハガメと訓べし。史記に。神龜者天下之寶也。與v物變化。四時變v色。居而自匿。伏而不v食。春蒼夏赤。秋白冬黒○島宮池。萬葉二に。島池勾宮之放鳥。また島宮池上有放鳥。などよめり。當時皇太子の宮なりしなり。略記には。この事を二(3708)月に係たり○甲辰。八日なり○氏上。訓は氏子の上と云意なり。魁帥を人子(ノ)上と云か如し。氏子人子などの子は。其衆多きを指て云辭なり○理官は。後の治部省なり。倭名抄。治郎省乎佐牟留都加佐。漢書禮樂志に。禮儀與2律令1。同録藏2于理官1。師古曰。理官即法官。職員令。治部省卿一人。掌2本姓繼嗣。婚姻。祥瑞。喪葬。贈賻。國忌。諱。及諸蕃朝聘事1。とあり○庚戌。十四日なり○壬子。十六日なり○癸丑。十七日なり○※[螢の虫が火]惑。類書纂要。※[螢の虫が火]惑火星。一本の訓にアカボシと訓り。アカボシは。太白歳星の名なるを。天文志に。太白常以2正月甲寅1。與2※[螢の虫が火]惑1。晨出2東方1。と云るより。※[螢の虫が火]惑にもさる名ありしにや。知がたし。持統紀六年七月の下に云。
 
冬十月丙寅朔。日蝕之。癸未地震。乙酉。新羅遣2沙啄《サトク》一吉※[にすい+食]金忠平。大奈末金壹世(ヲ)1。貢v調。金銀銅鐵錦絹。鹿(ノ)皮。細布《ホソヌノ》之|類《タグヒ》。各有v數。別(ニ)献2天皇々后皇太子。金銀。霞錦《カスミイロノニシキ》。幡《ハタ》。皮之|類《タグヒ》1。各有v數。庚寅詔曰。大山位以下。小建以上人等。各|述《マヲセ》2意見《コヽロバヘヲ》1。是月。天皇將(テ)v蒐2於廣瀬野(ニ)1。而行宮|搆《ツクリ》訖。装束《ヨソヒ》既(ニ)備。然(ニ)車駕《スメラミコト》遂不v幸矣。唯親王以下。及群卿。皆居2于輕市(ニ)1。而|※[手偏+僉]2※[手偏+交]《カムガフ》装束鞍馬《ヨソヒセルカザリマヲ》1。小錦以上大夫。皆列2坐於樹下(ニ)1。大山位以下者。皆親乘之。共|隨《マヽニ》2大路(ノ)1。自v南(3709)行v北(ニ)。新羅使者至而告(テ)曰。國王薨。十一月丙申朔丁酉。地震。
 
癸未。十八日なり○沙啄。推古紀孝徳紀天智紀に見ゆ。啄は※[口+録の旁]に同じ。啄を喙《カイ》に作る本は誤なり○細布は。ホソヌノと舊本に讀り。歌に陸奥のけふの細布などあり○皇太子。本に皇字脱たり。今京極本に據る○霞錦。本に錦霞に作る。今舊本の訓に。カスミイロノニシキとあると。下文朱鳥元年に。霞錦とあるに依る。【釋私記に。霞幡。此幡製似2朝霞色1。故名。とあるは。本の倒せるまゝに云る説にて。非なるべし。】萬葉集に。朝霞虎火屋之下に云々。また朝霞香火屋之下乃云々。とあるを。冠辭考に。朝霞のかをるといふ語なるを略きて。加の一言に云かけしなるべし。と云り。朝霞の日に映じて薫るを云か。さらばこゝも赤地錦などの色を以て。しか名づけたるにもあるべし。さて幡皮はまた二種なり○庚寅。二十五日なり○意見。公式令に。凡有v事陳2意見1。欲2封進1者。即|任《マヽ》v封(ノ)上。義解謂。意者心所v意《オモフ》也。見者目所v見也。皆是志在2忠正1。披2陳國家之利害1者也。凡意見書者。其制稍異。不v可3爲v表而直上2大政官1。不v由2中務省1。故云少納言受得奏聞也。唐制。大事則廷論。小事則上2封事1。などあり。意見字貞觀政要に見えたり。今俗規諫を意見と云是なり。異見に作るは非なりと。通證に云り。さて意《コヽロ》ばへは。意况とも書けり。心延の義なり○蒐。字鏡集類聚名義抄に。カリとよめり。狩(ノ)字に通はして書るならむと。或人云り○廣瀬野。大和志に。行宮古蹟。在2廣瀬郡大野村1。とあり○輕市。高市郡にあり。萬葉の歌どもに見えて。名高き市なり○國王薨。東國通鑑。新羅文武王二十一年秋七月朔。王薨。太子政明立。上v謚曰2文武1。とあり。
 
十二月乙丑朔甲戌。小錦下河邊臣子首。遣2筑紫1。饗2新羅客忠平1。癸巳。田中臣|鍛師《カヌチ》。柿本臣※[獣偏+爰]。田部連國忍。高向臣麻呂。粟田臣眞人。物部連麻呂。中臣連大島。曾禰連|韓《カラ》犬。書直|智徳《チトコ》。并壹拾人(ニ)。授2小錦下位(ヲ)1。是日。舍人造糠虫。書直智徳。賜v姓(ヲ)曰v連(ト)。
 
甲戌。十日なり○癸巳。二十九日なり○田中臣。元年紀に出○柿本臣※[獣偏+爰]。記云。天押帶日子命者。柿本臣之祖とあり。姓氏録大和皇別。柿本朝臣。【本或作下】大春日朝臣同祖。天足彦國押人命之後也。敏達天皇御世。依3家門有2柿樹1。爲2柿本臣氏1。十三年紀十月。柿本臣賜2姓朝臣1。とあり。※[獣偏+爰]は名なり。續紀和銅元年四月。從四位下柿本朝臣佐留卒。とあり。【氏族志云。按東寺古文書。後島羽帝時。有2柿本宿禰1。其宿禰不v詳2所系1。とあり。】○田部連。舒明紀に出○高向臣。皇極紀に出○粟田臣眞人。孝徳紀に出。眞人其父詳ならず。續紀慶雲二年四月。爲2中納言1。和銅元年三月。爲2太宰帥1。養老三年二月壬戌。【五日】中納言正三位粟田眞人薨。【補任。粟田朝臣眞人。大寶二年五月十七日參議。慶雲二年四月二十日中納言。八月一日從三位。和銅元年三月十二日貶太宰帥。靈龜元年四月正三位。養老三年二月二日薨。とあり。薨日續紀と差あり。】○壹拾人。本に壹を臺に誤る。今訂せり。今考るに合九人なり。古くより脱せしものと見えて。諸本みな同じ○舍人造。天孫本紀。饒速日命天降供奉五部造に。(3711)舍人造あり。是族ならんか。また姓氏録未定河内に。舍人。百済國人利加志貴王之後者不v見。と云るもあり。孰ならん。氏族志に。類史。淳和帝時。有2筑前人舍人臣福長女1。又有2大舍人部1。孝謙帝時。有2常陸那珂郡防人大舍人部千文。見2萬葉集1。とあり。
 
十一年春正月乙未朔癸卯。大山上舍人連糠虫。授2小錦下位1。乙巳。饗2金忠平於筑紫(ニ)1。壬子。氷上(ノ)夫人。薨2于宮中(ニ)1。癸丑地動。辛酉。葬2氷上夫人(ヲ)於赤穗(ニ)1。二月甲子朔乙亥。金忠平歸v國。是月。小錦下舍人連糠虫卒。以(テ)2王申年之功(ヲ)1。贈2大錦上位1。三月甲午朔。命(テ)2小紫三野王。及宮内(ノ)官(ノ)大夫《カミ》等(ニ)1。遣2于新城(ニ)1。令v見2其|地形《トコロノアリカタヲ》1。仍(テ)將v都《ツクラムト》矣。乙未。陸奥國(ノ)蝦※[虫+夷]二十二人(ニ)。賜2爵位1。庚子地震。丙午。命(テ)2境部連石積等(ニ)1。更肇(テ)俾v造2新字《ニヒナ》一|部《トモ》四十四卷(ヲ)1。己酉。幸2于新城(ニ)1。辛酉詔曰。親王以下。百寮諸人。自今已後。位冠及|※[衣+畢]《マヘモ》※[衣+習]《ヒラオビ》脛裳《ハヾキ》。莫著《ナセソ》。亦膳夫采女等之手襁肩巾。【肩巾。此云2比例1。】並(ニ)莫服《ナセソ》。是日詔曰。親王以下。至(ニ)2于諸臣(ニ)1。被v給食封。皆|止《ヤメテ》之。更(ニ)返2於公(ニ)1。是月。土師連眞敷卒。以2壬申年(3712)功1。贈2大錦上位1。
 
癸卯。九日なり○大山上。本に上字脱たり。今中臣本京極本に據る○乙巳。十一日なり○王子。十八日なり○氷上夫人。二年紀に夫人藤原大臣女氷上娘とあり。但馬皇女御母なり○癸丑。十九日なり○辛酉。二十七日なり○赤穗は。大和志に。高津笠(ノ)墓。氷上夫人。在2廣瀬郡赤部村1。とあり○乙亥。十二日なり○壬申年之功。前紀に載せず○小紫三野王。小紫は諸臣の位なり。諸王は一位二位など云り。當時諸王の位號。既に改まりしものとも見えず。下文七月にも。五位殖栗王あり。十二年下にも。三位高坂王薨とあればなり。小紫は恐くは誤なるべし○宮内官大夫。宮内官は。即宮内省なり。倭名抄。宮内省美夜乃宇知乃都加佐。とあり。大夫は卿なり。職員令に。宮内省。卿一人。掌d出2納諸國(ノ)調庸雜物。舂米官田1。及奏宣。御食産。諸方口味事u。とあり○新城。既に出○乙未。二日なり○庚子。七日なり○丙午。十三日なり○境部連石積。孝徳紀に坂合部磐積とあり○新字一部四十四卷。此新字詳ならず。釋述義に。私記曰。師説此書今在2圖書寮1。但其字體似2梵字1。未v詳3其字所2准據1也。とあり。是は上古の傳説を始め。鳥獣草木。惣て世にあるものを書記しゝが。其殘簡圖書寮に散在せしと見えたり。と云る説あれど。今知べからず。また似2梵字1と云に就て。今世間にある。日文《ヒフミ》と云る文字ならん。など云る説もあれど。總て推測の説なれば。信がたし○己酉。十六日なり○辛酉。二十八日なり〇位冠は。上よ(3713)り賜はれる冠にて。此時より冠を賜ふ事を止めて。位記を賜ひしか。されどそれは後にみえたれば。こゝなるは。それとは異なるか。或説に。位冠を止め給ひしは。いかなる故かとも。また位冠及三字恐くは衍かとも云れたり。【板本此三字の左傍に○を施したるは。衍なるしるしを。古人の附たるにもやあらん。】詳ならず○※[衣+畢]は。前裳なるべし。其制は詳ならず。倭名抄に。引2本朝式1曰。襷※[衣+畢]各一條。【讀2知波夜1。今按未詳。箋註云。知波夜見2拾遺集神樂歌小序1云々。然※[衣+畢]云2一條1。則是襷類。似v非2後世巫女所v著物1。未v知2其詳1。】とあり。【和訓栞云。延喜采女司式に。細布※[衣+畢]一條とみゆ。日本紀に嚴忌をいちはやしとよめる義なり。後世明衣を訓ぜるも義同じ。小忌衣也。布もて造る。身二はゞ袖一はゞ。木形を以山藍を写し。春草水象蝶鳥の類也。袖は縫ず。紙捻《コヨリ》にて括るといふ。とあれども。これも詳ならず。】前裳と同意も。また知べからず○※[衣+習]。推古紀訓ヒラミとあり。このものゝ事は。推古紀に委く載たり。合せ見るべし○脛裳。一訓にハヽキモとあり。【ハヽキの方は略なり。】倭名抄式2本朝式1曰。脛巾俗日波々伎。とあり。脛着裳《ハキハキモ》の義なるべし。朱鳥元年七月勅に。男夫著2脛裳1云々。猶如v故。續紀大寶元年三月。其袴者。直冠以上者。皆白(キ)縛《クヽリ》口袴。勤冠以下者。白|脛裳《ハヽキモ》。とあり。此に着することを止め給ひしも。朱鳥元年にまた男夫著2脛裳1とあるも。すべていかなることにか知がたし〇膳夫采女等之。本に此下に。また等之(ノ)二字あり。衍なり。中臣本及其他の本どもになし○手襁肩巾の事は。既に云り。按に膳夫は。御食を造り。釆女は。陪膳に仕奉る時に。着する禮服なり。大祓詞に。比禮掛伴男。手襁掛伴男とある即是なり。さて有巾は。此時に止め給へるを。文武紀大寶二年四月。先是諸國釆女眉巾田。依v令停v之。至v是復v舊。とあれば。後にはまた着せしめ給へるなり○食封皆止之云々。五年四月の勅に。諸王諸臣。被v給封戸之税者。除2以西國1。相易(テ)給2以東國1。とありしを。是時に至りて。行ひ始め給はむとて。まづ此までの(3714)卦戸を。盡く公に返さしめ給へるなるべし○是月土師連。本に土師の下に。二十六行四百五十七字の錯簡文あり。十四年の下にある文なり。中臣本にはなし。本にも旁書に。已下點本無之。仍※[金+肖]v之。とあるに依て。今除けり。【但し其文の中には。二三字校正すべき事あり。下に引て云り。】○壬申年功。京極本に年下之字あり。さて此人の事。壬申紀に見えず。
 
夏四月癸亥朔辛未。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。癸未。筑紫大宰丹比眞人島等。貢2大|鐘《ネ》1。甲申。越(ノ)蝦夷伊高岐那等。請《マヲシテ》2俘人《トリコ》七千戸(ヲ)1。爲2一郡(ト)1。乃聽之。乙酉詔曰。自今以後。男女悉(ニ)結《アゲヨ》v髪《カミ》。十二月三十日以前。結訖之。唯結髪之日(ハ)。亦|待《サフラヘ》2勅旨(ヲ)1。婦女(ノ)乘(コト)v馬(ニ)。如(ハ)2男夫1。其起2于是日1也。
 
辛未。九日なり○癸未。二十一日なり○丹比眞人島。此氏宣化紀に出。島は持統紀四年六月。右大臣と爲り。扶桑略紀。文武帝四年庚子八月二十六日。右大臣多治比眞人島。任2左大臣1。とあり。續紀には洩たり。續紀。大寶元年七月。左大臣正二位多治比眞人島薨。大臣宜化天皇玄孫。多治比王之子也。とあり○大鐘。集解云。爾雅。釋樂曰。大鐘謂2之※[金+庸]1。其中謂2之剽1。小者謂2之棧1。疏云。此別2鐘大小1之名也。説文曰。鐘(ハ)器也。とあり。樂器なり。【倭名抄。洪鐘俗云於保加禰。箋注云。按於保加禰。見2榮花物語後悔大將卷1。後世呼2椎鐘1。今俗呼2釣鐘1。とあり(後悔大將卷に。御堂にしてぬかをつき。大鐘をつきてのゝしりけ(3715)りとあり)。○甲申。二十二日なり○俘人七千戸。中臣本釋紀に千を十に作る。考には七十人とあり。通證云。倭名抄。諸國郷名有2俘囚1。蓋此義。俘囚字見2唐書儀衛志1。三代實録(ノ)標註。俘囚本是王民。而爲v夷所v略。遂爲2賤隷1。故云2俘囚1。其屬在2陸奥出羽1。後分2居諸國1。見2類聚國史風俗部1。とあり○乙酉。二十三日なり○男女悉結v髪。男女の髪の事は。此までをり/\云り。さて此時に至りて。古風の髪の樣を盡く改めて。始めて庶人の首飾の制を立給へるなり〇十二月三十日。或説に。十二月疑當v作2六月1。下文六月丁卯。男女始結v髪云々。可2合考1。とあり。按に此説は非なり。丁卯なるは男夫の結髪なり。女子のことは。本年中に結訖れとの詔なり○婦女乘馬如男夫云々。古事記裏書引私記云。從v此以前。女子騎乘。踞2馬上於一方1也。【政事要略交替雑事下。馬牛。日本紀云。天武天皇十一年四月云々○私記云。從v此以前○女子騎v馬。※[足+登]2於一方1也。とあるも。同じ傳なるべし。※[足+登]はもしくは鐙か。または踞にもあるべし。】集解に。按古婦人乘v馬。不v跨v鞍。至2于此1始有v制。跨乘與2男子1同。また通證に。今按婦人乘v馬。既見2欽明紀1。蓋太古有2男女縦横之別1也。故十二年紀曰。乘v馬縦横。並任v意也。とある。いづれも一方にのみ鐙を置て。馬上に踞したる故に見られたるなり。
 
五月癸巳朔甲辰。倭漢直等。賜(テ)v姓(ヲ)曰v連(ト)。戊申。遣2高麗(ニ)1大使。佐伯連廣足。小《ソヒ》使小墾田臣麻呂等。奏2奉v使旨(ヲ)於|御所《オモトニ》1。倭漢直等。男女悉(ニ)參赴(テ)之。悦(テ)v賜v姓而拜v朝。六月壬戌。高麗王。遣(テ)2下部|助有封婁毛切《シヨウクワルモウセツ》。大古|ミ《クヰヨウ》加(ヲ)1。(3716)貢2方《クニツ》物1。則新蘿遣(テ)2大那末金釋起(ヲ)1。送2高麗使人(ヲ)於筑紫(ニ)1。丁卯。男夫始(テ)結《アゲス》v髪。仍着2漆紗《ウルスヌリノウスハタノ》冠1。癸酉。五位殖栗王卒。
 
甲辰。十二日なり○倭漢直。六年紀に東漢直と作る同じ○戊甲。十六日なり○麻呂等奏。本に等奏二字なし。今中臣本に據る〇和漢直等。直は連とあるへきなり○助有卦婁毛切。二人の名か○大古昂加。通證に。大古は大兄に作るべし。と云れたるは。さる事なるべし。【釋の古本に。大古部とあるは誤なるべし。】昂《クヰヨツ・キヨウ》を秘閣本考本に昴《バウ》に作る。また京極本に。昂の下。部字あるも誤なるべし○貢方物。東國通鑑に。新羅神文王二年。唐永淳元年。高勾麗王※[にすい+戚の上小が臣]。卒2於印州1。唐贈2衛尉卿1。詔以v尸至2京師1。葬2于頡利1。墓左樹v碑。徙2其人於河南隴右1。諸州貧者。留2安東城傍1。舊城往々爲2國兵1所v没。餘衆散入2靺鞨及突厥1。高氏遂絶。按に永淳元年は是歳に當れり。されば此時の方物と云るもの。もはら新羅人の。高麗王と號して。貢れるものなり○丁卯。六日なり○男夫始。本に夫を女に作れり。中臣本に夫に作れり。こゝは著2漆紗冠1とあれば。男夫の方なるべし。女の冠を着せしこと。物に見えねばなり。【通證に。今按言2男女1。則當時女子亦着2此冠1歟。とあるは疑はしき説なり。】○漆紗冠。本に紗を沙に作れり。今中臣本釋紀に據る。訓も二書に。ウルシヌリノウスハタノ冠。とよめる宜し。さて漆紗は。漆すりたる紗なり。正統記に。上下漆ぬりの頭巾《カウブリ》を着る事は。この時より始るとあるこれなり。頭巾と云へど。これも冠に同じ。通證に。衣服令。禮服曰v冠。朝服曰2頭巾1。其禮冠(ノ)制。詳見2延(3717)喜式1。宜d與2孝徳三年紀1併按u。文武紀大寶元年。詔始依2新令1。制2四十八階之冠1。皆漆冠。元正紀靈龜三年。詔禁2六位以下(ノ)羅※[巾+業]頭1。又曰。※[巾+業]頭後脚。莫v過2三寸1。辨色立成。※[巾+業]頭加宇布利。とあり。さて此時の漆紗冠は。後の烏帽子の始と云るは。【この事は下に云。】さることなれど。集解に。按使3無位人皆著2漆紗冠1。其裁縫未v詳。蓋状與2官冠1同。惟以2漆紗1造v之爲v異耳。と云れたるは。さる事と通ゆ。【然るに。石原正明が。此時如v嚢冠を止められたりと云るは。押當なり。次に云べし。】まづ冠の沿革を大凡に云べし。推古紀十一年十二月。冠階十二階を定められてより以降。古は冠を以て其品位に差別をせられし事も。また其冠は。錦繍もて袋の如くに縫たるものゝよしも。推古紀に云るが如し。さて此時結髪とあるは。これは鬟《ミヅラ》に髪をゆひてありしを。この時より。髪を本鳥にしたるものなり。正明云。此時如嚢冠をやめられたり。冠を驗とせず。位記を用ゐられんとの結搆なり。【武郷云。この説はたがへり。下に云。】漆紗冠は。十三年紀の圭冠と同じ物なるべし。その樣は。髪を本鳥にして。巾子《コジ》を入れて。漆すりたる紗につゝみて。端を後(ロ)へ垂たるものなるべし。これ令に所謂頭巾なり。和名抄に。巾子(ハ)※[巾+業]頭(ノ)具。所2以挿1v髻也。とある※[巾+業]頭も。おなじものにて。今の冠は。このうつりなり。今の冠は。本鳥に巾子を入(レ)て。漆羅にてつゝみて。端を後(ロ)へたれたる形を。造かためたる。後世の製作なり。といへり。この記大かたしかるべし。但し如嚢冠を止められたりと云るは。信がたし。正統記に。上下漆ぬりの頭巾《カウブリ》を着る事は。この時よりはじまる。といへるも。其證には成がたし。これは錦繍にて造りし冠あれども。それは位冠なり。この時のは。上下とあれば。位階のなき人までも。着るべき冠(3718)なれば。たゞ其錦繍と紗との別を云るのみなり。錦繍にて造れる冠を。止められたるにはあらず。伊勢貞丈が。天武天皇の御代に。漆紗の冠を用ゐ給ひしかども。なほ※[代/巾]のごとくにてありしなり。と云れたるは。さることなるべし。さてまた頭巾と云よしは。衣服令。禮服曰v冠。朝服曰2頭巾1。とありて。ともにカウフリなれど。この時いまだ禮服朝服の差別なければ。文字の別《ワカ》れたるは。令よりのことなるべし。さてこの時よりの冠の大方をいはんには。これも貞丈が説の。右に出せる次に。其後圭冠といひし冠もあれど。【武郷云。圭冠の事は下文に云。】これも漆紗と同じく。和らかなりし冠なるべし。清少納言の草紙に。雨にうたれて。冠もひしけて。表《ウヘノ》衣|下襲《シタカサネ》。ひとつになりしこと見えたり。是は冠はうすく和らかなるゆゑに。雨にあひて。ひしけたるなり。今の冠は。紙にて張拔にして。羅《ウスモノ》をきせて。漆をぬりたるものなり。また小くして。頭へ入らぬゆゑ。頂《イタヾキ》にのせおくなり。又巾子も高くして。笄を貫《ツラヌ》きたり。古の冠とは大にたがひたり。今の如く。冠も烏帽子も固くなりたるは。鳥羽院の御代。衣文《エモン》といふこと始りし已來の事なるべし。今は厚額。薄額。半《ハン》額。透《スキ》額など云て。品々の冠出來れりと云れたる如し。【禮冠のことは。式部式に其製みえたり。文武紀大寶元年。詔初依2新令1。制2四十八階之冠1。皆漆冠。元正紀靈龜三年。詔禁2六位以下羅(ノ)※[巾+僕の旁]頭《カウブリ》1。又曰。※[巾+僕の旁]頭後脚。莫v過2三寸1。とあるなどは。既く如v嚢冠にあらざるなり。】〇癸酉。十二日なり○殖栗王。紹運録に。厩戸皇子男に同名あれど。別なるべし。
 
秋七月壬辰朔甲午。隼人多來。貢2方物1。是日。大隅(ノ)隼人。與2阿多(ノ)隼人1。相2(3719)撲《スマヒトル》於朝廷(ニ)1。大偶隼人勝之。庚子。小錦中膳臣摩漏病。遣2草壁皇子尊。高市皇子(ヲ)1。而訊v病(ヲ)。壬寅。祭2廣瀬龍田神1。戊申地震。己酉。膳臣摩漏卒。天皇驚(テ)之大哀。壬子。摩漏臣(ニ)。以(テ)2壬申年之功(ヲ)1。贈2大柴位及禄1。更(ニ)皇后賜v物亦准(テ)v官(ニ)賜。丙辰。多禰人。掖玖人。阿麻彌人。賜v禄各有v差。戊午。饗2隼人等於飛鳥寺(ノ)西(ニ)1。發2種々(ノ)樂1。仍(テ)賜v禄。各有v差。道俗《オコナヒヾトシロキヌ》悉(ニ)見之。是日。信濃國吉備國並言。霜降。亦大風(テ)。五穀不v登。八月壬戊朔。令(シテ)2親王以下及諸臣(ニ)1。各俾v申2法式《ノリトシテ》應v用之事(ヲ)1。甲子。饗2高麗(ノ)客(ニ)於筑紫(ニ)1。是夕(ノ)昏《イヌノ》時(ニ)。大星自v東度西(ニ)。丙寅。造2法令《ノリノフミヲ》1。殿(ノ)内(ニ)有2大|虹《ヌジ》1。壬申。有(テ)v物。形如(テ)2灌頂(ノ)幡1。而火(ノ)色。浮(テ)v空(ニ)流v北(ニ)。毎v國皆見。或曰入2越(ノ)海(ニ)1。是日。白|氣《シルシ》起2於東山(ニ)1。其大四圍。癸酉。大地動。戊寅。亦地震。是日|平旦《トラノトキ》。有(テ)v虹當2于|天中央《ソラノモナカニ》1。以(テ)向v日(ニ)。甲成。筑紫大宰言。有2三(ノ)足(アル)雀1。
 
甲午。三日なり○大隅隼人。和銅六年四月。割2日向國四郡1。置2大隅國1。とあり。此時は未(ダ)一國に立ざ(3720)りしなり○阿多隼人。薩摩國阿多郡。延喜隼人式に。凡大衣者。擇2譜第内1。置2左右各一人1。注に。大隅爲v左。阿多爲v右。とあり。この隼人の事は。神代紀に既に悉く云り。さて後世七月相撲節は。此に濫觴せしものなるべし。類史。仁明天皇天長十年五月勅。相撲之節。非2啻娯遊1。簡2武力1最任2此中1云々。七月辛丑。天皇幸2神泉苑1。觀2相撲節1。などあり○庚子。九日なり○壬寅。十一日なり○戊申。十七日なり○己酉。十八日なり○壬子。二十一日なり○壬申年之功。膳摩漏臣の事。壬申紀に見えず○更皇后。更字后の下にあるべし○丙辰。二十五日なり○阿麻彌。齊明紀三年。漂2泊于海見島1。とある即これなり。續紀には菴見《アマミ》とあり○戊午。二十二日なり○甲子。三日なり○大星は。客星なり。古本の訓に。ユフツヽとあるはよからず○丙寅。五日なり○造法令。十年紀に。朕今更欲d定2律令1改c法式u。とあるより。此月の朔にも。其事見えたるか。今造り畢たるなり。通證に。文武紀所謂。淨御原朝廷令文。即是。とあり○大虹。萬葉に。多都努自能《タツヌジノ》云々とあり○壬申。十一日なり○白氣。萬葉に伎利と訓り。されどこれはたゞの霧にはあらじ○癸酉。十二日なり○戊寅。十七日なり。甲戌の下にあるべし。この處は。甲戌【十三日】戊寅【十七日】癸未【二十二日】己丑【二十八日】とあるべきに。みな錯亂せり○甲戌。十三日なり〇三足雀。略記に。大宰府貢2三足烏1。編年紀に。貢2三足雀1。又曰三足烏。とあり。烏雀兩説なり。
 
癸未。詔2禮儀言語《ウヤハヒモノハム》之状1。且詔曰。凡諸(ノ)應考選《シナサダメカウブリタマハム》者能※[手偏+僉](テ)2其|旅姓《ウカラカバネ》。及|景迹《コヽロバセヲ》1。(3721)方(ニ)後(ニ)考《シナサダメム》之。若雖2景迹|行能《シワザ》灼然《イチシロナリト》1。其族姓不v定者。不v在2考選之|色《シナ》1。己丑。勅(テ)爲2日高皇女【更名新家皇女】之病(ノ)1。大辟《シヌル》罪以下(ノ)男女。并一百九十人。皆赦之。庚寅。百四十餘人。出2家於大官大寺(ニ)1。九月辛卯朔壬辰。勅自今以後。跪禮《ヒザマヅキノヰヤ》匍匐禮《ハフヰヤ》。並(ニ)止(テ)之。更用2難波(ノ)朝廷之立(ツ)禮1。庚子(ノ)日中《ムマノトキニ》。數百(ノ)※[霍+鳥]《オホトリ》當(テ)2大宮(ニ)1。以高2翔於空1。四尅《トキノヲハリニシテ》而皆散。
 
癸未。二十二日なり○詔(ノ)下。恐くは定(ノ)字脱せしものなるべし○禮儀。ウヤハヒと訓るめづらし○族姓。或人云。姓に尊卑あり。氏に貴賤ありて。賤は内位に叙がたきなどを以て。此詔ありと云り○景迹。考課令に。凡定2官人景迹功過1。義解謂。景状也。猶v言2状迹1也。線叙令に。凡應v選者。皆審2状迹1。義解謂。考中(ノ)功過。謂2之状1也。履行(ノ)善惡。謂2之迹1也。とあり○行能。考課令に。録2一年(ノ)功過行能1。義解謂。善惡爲v行。才藝爲v能。とあり○己丑。二十八日なり○日高皇女。後に元正天皇と申す。御名義。日高は尊稱なるべし。新家は御母姓に據たるか〇一百九十人。本に人を八に作るは誤なり。中臣本には九十八人とあり。さらば本は人字を脱せしものなるべし○庚寅。二十九日なり○出家於大官大寺。略記には十二年に入る○壬辰。二日なり○跪禮の事は。神代紀。推古紀にみゆ。そこに云へり。續紀慶雲(3722)元年正月。始停2百官跪状禮1。とあり。慶雲四年十二月にも再詔あり○匍匐禮。膝行蒲伏禮なり。匍匐は古禮の本にて。萬葉に。鶉成伊這囘《ウヅラナスイハヒモトホリ》。またしゝじ物《モノ》伊匍匐拜《イハヒヲロガミ》。とも云る如く。伊は發語にて。這は貴き人に對て。禮を作を云○難波朝庭之立禮。孝徳天皇の御世の事なれども。本紀には載せず。さて皇朝の古には。立禮はなきを。唐朝の制に傚ひ給ひしなり。集解に。按跪禮以v蹲爲v敬。坐必蹲2于地1。立禮以v立爲v敬。坐必據2于榻1也。と云り○庚子。十日なり○※[霍+鳥]。正字通(ニ)※[霍+鳥]鶴同とあり。釋紀には鶴と作り。字鏡集に※[霍+鳥]オホトリと訓り。大鳥にて。和名抄に鸛をよめり。されどこゝはなほ。尋常のタヅなるべし○四尅。通證に。此間漏刻。以2一時1分2四尅1。故訓爲2時(ノ)終1也。とあり。【或説に。四剋を時の終とは。一時を十刻に割て。初剋を除き。上四剋下四剋とつもる故。時の終なりと云り。いかゞあらむ。
 
冬十月辛酉朔戊辰。大餔《サケノミス》。十一月庚寅朔乙巳。詔曰。親王諸王及諸臣。至(ニ)2于庶民1。悉(ニ)可v聽之。凡|糺2彈《タヾサムハ》犯v法(ヲ)者(ヲ)1。或|禁省《オホウチ》之中。或|朝廷之中《マツリゴトドコロニモ》。其於(テ)2過失《アヤマチ》《オコラム》處(ニ)1。即|隨見隨聞《ミキカムマヽニ》。無(ク)2匿蔽(コト)1而糺彈。其有(ハ)2犯(シ)重(コト)1者。應(ハ)v請《マヲス》)則請(シ)。當(ハ)v捕則|捉《カスヰヨ》。若|對捍《コバミテ》以不(ハ)v見v捕者。起(テ)2當處(ノ)兵(ヲ)1。而捕之。當(ハ)2杖色《フトツエノシナニ》1。乃杖一|百《モヽタビ》以下。節級《シナ/\シテ》《ウテ》之。亦犯(ノ)状|灼然《イチシロキヲ》。欺(テ)言v無v罪。則不2伏辨《ウベナハ》1。以(テ)爭訴者。累(テ)加2其本(ノ)罪(ニ)1。十二(3723)月庚申朔壬戌。詔曰。諸氏人等。各定d可2氏上1者u。而申送。亦其|眷族《ヤカラ》多在者(ヲバ)。則分(テ)各定(テ)2氏上(ヲ)1。並申2送於官司(ニ)1。然後|斟2酌《ハカリテ》其状(ヲ)1。而|處分《オコナヘ》之。因(テ)承《ウケヨ》2官(ノ)判(ヲ)1。唯因2少故《イサヽケキコトニ》1。而非(ム)2己族(ニ)1者《ヒトヲ》。輙《タヤスク》莫v附。
 
戊辰。八日なり○大餔。※[霍+鳥]の集れるを嘉瑞として。賀し給へるなるべし○乙巳。十六日なり○糺彈犯法者。職原抄に。彈正臺掌2糺彈事1とありて。これ彈正臺の職掌なり○禁省は。禁中なり○起當處兵而捕之。捕亡令に見えたる當界軍團なり。これは彈正式に見えたるも同じ○杖色。名例律に見えたり。色は色目なり○節級。通證に。謂v有2品節等級1也とあり○决之は。獄令に。杖罪以下當司决とあり。當司は彈正臺なり○加其本罪。彈正式同じ○壬戌。三日なり○氏人等。三代實録に。大神宮氏人。東鑑に。背2氏擧1者。非2氏人1。などあり○送於宮司。治部省所v掌なり○輙莫附。集解云。按一氏族之中。他有2少故1。欲v爲2其族1者。少故(ハ)蓋謂2母黨妻黨疎遠者1。と云り。
 
十二年春正月己丑朔庚寅。百寮拜2朝廷1。筑紫大宰丹比眞人嶋等。貢2三足(アル)雀(ヲ)1。乙未。親王以下及群卿(ヲ)。喚(テ)2于大極殿(ノ)前(ニ)1。而宴之。仍(テ)以(テ)2三足雀(ヲ)1示(タマフ)2于群臣1。丙午詔曰。明神《アキツミカミト》《シラス》2大八洲1。日本根子天皇(ノ)勅命者《オホミコトノリニマセ》。諸國司國造郡司(3724)。及百姓等。諸《モロトモニ》可v聽矣。朕初(テ)登《シラシヽヨリ》2鴻祚《アマツヒツギ》1以來。天《アマツ》《ミツ・シルシ》非2一二(ニ)1。多至之。傳聞。其天瑞(ハ)者。行v政(ヲ)之理。協2于天(ノ)道(ニ)1。則|應《コタフ》之。是今當(テ)2于朕世1。毎年重(テ)至。一(ハ)則以(テ)懼。一則以(テ)喜。是以(テ)親王諸王。及群卿百寮。并天下黎民。共相歡(ム)也。乃小建(ノクラヰ)以上(ニ)給v禄。各有v差。因以大辟罪以下。皆赦之。亦百姓課役並免焉。是日。奏《ツカマツル》2小墾田(ノ)舞。及高麗。百済。新羅。三國(ノ)樂(ヲ)於庭中(ニ)1。
 
庚寅。二日なり○貢三足雀。前年八月所v奏者なり○乙未。七日なり○丙午。十八日なり○大八洲。本に洲を州と作り。今類史考本に據て改む○勅命者。オホミコトノリニマセと訓べし。續紀以下の宣命に。天皇大命爾坐世。と云ることあり。大命爾坐者の義なり。こゝに勅命者と書るは。宣命に大命爾坐(セ)とあるに當れり。大命爾坐(セ)者の者を略ける例なること。此の者(ノ)字にて通はし知らる。もとより此時の詔は。宣命書なりけるを。漢文に改めたる時に。かく書れたるなり。されば其意して讀べし○一則以喜。本に喜を嘉と作り。今類史考本に據て改む○小墾田舞は。釋紀に。兼方按。推古天皇小墾田宮朝所v製歟とあり。【通證に。今按謂2倭舞1歟。また集解に。按職員令集解。雅樂寮曰。大屬尾張(ノ)淨足説(ニ)。今寮有2舞曲1如v左。因載2久米舞。五節舞。田舞。倭舞。楯臥舞。築紫舞等1。不v載2小墾田舞1。蓋所謂倭舞是。とあり。倭舞なりと云る説は信がたし。倭舞は。本大和に出るが故に名くるよし。古今童蒙鈔に見えたれど。小墾田舞の名は。宮(ノ)名より出たるものなるべけ作ば。よしありとも聞えず。さてまた猿樂人今春氏の家に傳ふる。秦氏家系略記と云ものを見れば。初代大津父。二代廣隆。(隆一作v田)三代河勝。とありて。其下(3725)に拜2小徳冠1。聖徳太子作2小墾田樂1。授2河勝1奏之。是爲2本朝散樂之權輿1。とあり。これを本朝散樂之權輿と書るは。非なるべけれど。聖徳太子の所作と云るは。據ある事にもあらんか。未詳。なほよく考べし。】〇三國樂。外邦の樂を禁内に奏したる事。始てこゝに見ゆ。持統紀七年正月。漢人等踏歌を奏すとあれば。此頃既に外邦の樂を。朝家の宴會に用ゐ給ひしなりけり。令雅樂寮に。唐(ノ)樂師。高麗(ノ)樂師。百済(ノ)樂師。新羅(ノ)樂師ありて。令に詳かなり。【宋史日本傳に。樂有2中國高麗二部1。とあり。小中村清矩云。唐土の樂は。彼國より直に傳へしか。又は三韓よりにや。其始詳ならず。と云り。】
 
二月己末朔。大津皇子始聽2朝政1。三月戊子朔己丑。任2僧正僧都律師1。因以勅曰。統2領《スベヲサメムコト・ツカサドリヲサ》僧尼(ヲ)1。如v法云々。丙午。遣2多禰(ニ)1使人等返之。夏四月戊午朔壬申。詔曰。自今以後。必用2銅錢1。莫v用2銀錢1。乙亥詔曰。用(コト)v銀莫v止。戊寅。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1六月丁巳朔己未。大伴連|望多《ウマクタ》薨。天皇大驚之。則遣(テ)2泊瀬(ノ)王(ヲ)1。而弔之。仍(テ)擧2壬申年(ノ)勲績《イクサノイタハリ》。及先祖等(ノ)毎(ノ)時|有功《イサヲシサヲ》1。以顯(ニ)寵賞。乃贈(テ)2大紫位(ヲ)1。發鼓吹《ツヾミウチフエフキテ》葬之。壬戌。三位高坂王薨。
 
己丑。二日なり○僧正僧都律師。僧綱の官を任じ給へるはじめなり。本居翁が歴朝詔詞解云。僧綱は保宇志乃都加佐と訓べし。そも/\僧官を任《メ》されたることは。推古紀三十二年より始めて見えたり。其時の僧官は。僧正僧都法頭也。この年任2僧正僧都律師1。因以勅曰。統2領僧尼1云々と見えて。朱鳥元(3726)年の處に。三綱律師とある三綱。これ僧綱にて。僧正僧都小僧都をいへるなるべし。小僧都といふも。同紀十二年より先(キ)に見えたればなり。かの法頭といふ官も。孝徳紀にも見えたれど。そは白衣なれば三綱には入べからず。さて後には僧正僧都律師を僧綱と云。大寶二年にも。僧正大僧都少僧都律師と任《メ》されたる事見ゆ。僧尼令に僧綱謂2律師以上1と見え。義解にも謂2二僧綱1者。僧正僧都律師也とあり。延喜治部省式にいへる僧綱も。僧正大小僧都律師也。さて又續紀よりこなたに。諸寺(ノ)三綱といふ物有り。それは天武紀に僧綱を三綱といへるとは別にして。此三綱といふは諸寺に有て。おの/\其等の僧尼の事を掌るものにして。僧尼令義解に。三綱者上座寺主都維那也とある是なり。玄蕃式に見えたるも同じ。同式に凡諸苛以2別當1爲2長官1。以2三綱1爲2任用1とあり。諸寺の三綱の事は。こゝに用なけれども。物のついでに聊云るなり。とあり○統領僧尼如法云々。こゝに僧尼令に見えたる文どもありしなるべし。其文を云々とは書れたるなり○丙午。十九日なり○壬申。十五日なり○莫用銀錢。按に顯宗紀二年に。稻斛銀錢一文とあるに據れば。それより爾來。專ら銀餞を用ゐたりしものなるべし。しかるに。今銀錢を止めて。もはら銅錢を用ゐよとあれど。いかなる銅錢にか知べきよしなし。この後。元明天皇和銅元年に。和銅開珍を鑄給ひしこと。續紀に見えたり。其後の事は。次々に史に見えたれど。其以前の餞文ものに見えず。知るべきよしなし○乙亥。十八日なり〇用銀。水戸本に銀下錢字あり○戊寅。二十一日なり○己未。三日なり○大伴連望多。咋の子なり。上卷に馬來田とあり。續(3727)紀延暦元年條に。子道足あり。公卿補任には安麻呂子としたり○泊瀬王。持統紀九年十二月。賜2淨大肆泊瀬王賻物1。とあり〇吊。本に予に誤る。今訂せり○壬申年勲績。馬來田は。弟吹負とゝもに。稱v病て倭(ノ)家に退しか。嗣位に登るものは。必天皇に坐むと云ことを知て。馬來田は天皇に從ひ奉りしこと。壬申紀に見えたり。年(ノ)下京極本之字あり○贈大柴位。續紀に内大紫に作る。續紀大寶元年勅。先朝論v功行v封時。賜2大伴連馬來田一百戸1。宜依v令四分之一傳v子とあり○發皷吹葬之。鼓吹を用て葬れることは。古代の禮なるを。其を賜りて葬を送るは。異邦より移りしものなるべし。故其等差を喪葬令に載たり。其文に。凡親王一品。方相轜車各一具。鼓一百面。大角五十口。小角一百口。幡四百竿。金鉦饒鼓各二面。楯七枚。二品三品四品。諸臣一位。及左右大臣。二位。及大納言三位。又大政大臣。各有v差。など通證に引れたり。なほ本書に委し○壬戌。六日なり○高坂王薨。元年紀六月に出。中臣本には薨を卒とあり。
 
秋七月丙戌朔己丑。天皇幸(テ)2鏡(ノ)姫王《ヒメミコ》之家(ニ)1訊v病。庚寅。鏡姫王薨。是夏。始(テ)請2僧尼(ヲ)1。安2居(ス)于宮中1。因簡2淨行者《オコナフヒト》三十人(ヲ)1。出家。庚子※[樗の旁]之。発卯。天皇巡2行《オハシマス》于|京師《ミヤコニ》1。乙巳。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。是月始(テ)至2八月(ニ)1旱之。百済僧道藏。※[樗の旁]之得v雨(ヲ)。八月丙辰朔庚申。大2赦天下1。大伴連|男吹負《ヲフケヒ》卒。以2壬申年之功(ヲ)1。贈2(3728)大錦中(ノ)位1。
 
己丑。四日なり〇鏡姫王の事は。既に二年紀に委く云り。はじめは天智天皇にめされ。後には鎌足公の室となれり。興福寺縁起に。至2天命開別天皇即位八年歳次己巳1。冬月内大臣枕席不安。嫡室鏡女王請曰云々。とあるにて明らかなり。さて此家は。鎌足公の家なるべければ。嵩市郡藤原【一名大原】郷なるべし○庚寅。五日なり○鏡姫王薨。諸陵式に押坂墓。鏡女王。在2大和國城上郡押坂陵舒明天皇域内東南1。無2守戸1。とあり。【岡部東平は。此姫王を。史公の實母なりと定めて。故其墓。亦載2延喜二十三墓中1。以2外戚1也。と云れたれど。いかゞあらむ。】○安居于宮中。類史安居部に載たり。通證云。南山鈔曰。形心靜攝曰v安。要期此住曰v居。五雜俎曰。四月十五日。天下僧尼。就2禅刹1搭挂。謂2之結夏1。又謂2之結制1。蓋方(テ)2長養之辰1出v外。恐傷2草木虫蟻1。故九十日安居。至2七月十五日1。始盡散去。謂2之解夏1。又謂2之解制1。とあり。事跡抄に。一夏九十日禁足して。行事するを安居と云。と云り。是をアンゴと呼ならへり○庚子。十五日なり○癸卯。十八日なり○乙巳。二十日なり○百済僧道藏。續紀養老五年六月詔曰。百済沙門道藏。寔惟法門袖領。釋道棟梁。年逾2八十1。氣力衰耄。非v有2束帛之施1。豈稱2養老之情1哉。宜所司四時施物。※[糸+施の旁]五匹。綿十屯。布二十端。又老師所生。同籍親族。給復給2僧身1焉。とあり。又元亨釋書九にも見えたり○庚申。五日なり○男吹負卒。上卷には男字なし。續紀天平勝寶元年六月には。小吹負ともあり。みな同人なり。此人は馬來田の弟にて。大和國にて諸豪族を招きて。大功を(3729)立。將軍に拜せられしこと。壬申紀に委く出たり。咋子連の子と。續紀にあり。さて吹負子二人。祖父麻呂。牛養。聖武紀に見えたり。
 
九月乙酉朔丙戌。大風。丁未。倭直。栗隈首。水取造。矢田部造。※[竹/收]原部造。刑部造。福《サイ》草部造。凡川内直。川内漢(ノ)直。物部首。山背直。葛城直。殿服部《トノハトリ》造。門部直。錦織造。縵造。鳥取造。來目(ノ)舍人造。檜隈(ノ)舍人造。大狛造。秦造。川瀬(ノ)舍人造。倭(ノ)馬飼造。川内(ノ)馬飼造。黄文造。蓆集造。勾《マガリノ》筥作造。石上部造。財(ノ)日奉造。※[泥/土]部《ハシヒトノ》造。穴穗部造。白髪部造。忍海造。羽|束《ヅカシノ》造。文首。小泊瀬造。百済造。語《カタラヒノ》造。凡(テ)三十八氏。賜v姓曰v連。
 
丙戌。二日なり○丁未。二十三日なり〇倭直。十年四月紀に。倭直龍麻呂賜v姓曰v連とあり。此時倭氏盡く姓連を賜はりしなり○栗隈首。本に隈を隅とあり。中臣本考本。隈に作れり。從ふべし。天智紀にも栗隈首徳萬とあり。系未v詳。氏人は。村上帝(ノ)時。左少史栗前宿禰扶茂。符宣抄にあり。同氏なるべし。さて栗隈は地名なり○水取造。姓氏録右京神別。水取連。神饒速日命六世孫。伊香我色乎命之後也。左京同じ。三代實録九。水取連繼主。賜2姓宿禰1。又水主連繼男等。賜2姓朝臣1。神饒速日命之後也。と(3730)あり。さて此氏は。水取の事を掌れるが中に。大嘗祭式に。水取連執2蝦鰭盥《エビハタブネ》1。とあるなどは。後々までも。其家にて預り仕奉れるなり。これは天皇の御手水(ノ)器なり○矢田部造。推古紀二十三年に出。伊香色雄命の後なり○※[竹冠/收]原部造。中臣本京極本釋紀等には藤とあり。※[竹冠/收]は藤の草體なれば同字なり。藤原部は允恭紀に出。續紀天平寶字元年三月勅。自今以後。改2藤原部姓1。爲2久須波良部1。【考證云。藤原之地。古通2用葛※[竹冠/收]字1。天平之時。此氏爲2葛原1者。以別2藤原朝臣1也。】神護元年正月。授2從六位下久須原部(ノ)連淨日外從五位下1。姓氏録和泉皇別。葛原部。佐代公同祖。豐城入彦命三世孫。大御諸別命之後也。日本紀漏。とあり。葛原即藤原と私記に云り。【さて朝野群載に。鳥羽帝時。東市令史葛原宿禰季忠とあるも。此族なるべし。】○刑部造。天孫本紀に。物部石持連公。刑部造等祖。とあり。石持。饒速日命十一世孫なり。連宿禰皆同族なり。下に見ゆ○福草部造。記に。天津日子根命。三枝部等之祖也。とあり。福草部。顯宗紀三年に出。續後記に三枝直あり。除目大成鈔に三枝宿禰あり。みな同族なるべし○凡川内直。天津彦根命の後也。既に出○川内漢直。推古紀十八年に出。そこに云り○物部首。天足彦國押人命之後。垂仁紀三十九年に出。姓氏録未定に。物部首。神饒速命之後。とあれど。それにはあるべからず○山背直。五年紀に出○葛城直。劔根命之後。用明紀元年に出○殿服部造。詳ならず。姓氏録大和神別。服部連。天御中主命十一世孫。天御桙命之後也。【神宮雜例集。嘉應二年神服織機殿神部等解云。神部等遠祖。天(ノ)御桙命爲v司。】とあり。若しくは同氏か〇門部直。安牟須比命之後也。孝徳紀及十年四月紀に出○錦織造。十年四月紀に出○縵造。八年八月紀に出○鳥取造。天湯川桁命之後なり。垂仁紀二十三年に出○來目舍人造。本に來を未(3731)に誤る。今京極本考本に依て改む。さて來目に。皇別と神別とあり。【皇別は武内宿禰の後。神別は高皇産靈尊の後なり。】來目舍人孰(レ)ならん知がたし。氏人は類史八十八。刑法部に。延暦十四年四月。信濃國小縣郡久米舍人望足。同九十九。職官部に。天長四年正月久米舍人虎取。などあり。【右の外に又久米連あり。元正紀。正六位上久光奈保麻呂賜2連姓1。清和紀。石見那賀郡權大領村部峯雄等。復2本姓久米連1。これも知がたし。】○檜隈舍人造。姓氏録左京神別。檜前舍人連。火明命十四世孫。波利那乃(ノ)連公之後也。【波利那乃。天孫本紀に針名根に作る。】氏人は。續後紀に。檜前舍人直田加麻呂あり。除目大成鈔に。近衛帝時。下野大掾檜前連國次あり。これも此族なるべし○大狛造。十年四月紀に見ゆ○秦造。融通王の後。雄略紀十五年に出○川瀬舍人造。置2川瀬舍人1こと。雄略紀十一年にみゆ。姓氏録和泉神別。川瀬造。神魂命五世孫。天道根命之後也。國造本紀に紀(ノ)河瀬直あり。同族なり。除目大成鈔に。一條帝時。主税權少允。川瀬宿禰師光あり。後に宿禰に改めしなるべし。符宣抄に。姓なきものもあり○倭馬飼造。系未詳。八年十一月に出○川内馬飼造。系未詳。繼體紀欽明紀に。川内馬飼首あり。そこにも云り○黄文造。天智紀及元年紀に。黄書造と作り○蓆集造。姓氏録未定雜姓。大和國。薦集造。天津彦根命之後也。とあり。欽明紀に薦集部首登弭あり。同族か異なるか○勾筥作造。本に筥を※[草冠/呂]に誤れり。釋紀に苔と作るも非なり。系未詳。勾は大和國高市郡の地名○石上部連。未詳。續紀。天平勝寶元年五月。石上部君諸弟と云人見え。同五年七月。左京人正八位上石上部君男島等四十七人言。己親父登與。以2去大寶元年1。賜2上毛野坂本君姓1。而子孫等籍帳。猶注2石上部君1。於v理不v安。望請。隨2父姓1。欲v改2正之1。許焉。といふ事見えたり。これと同(3732)族ならんか○財日奉造。未詳。中臣本には。財造。日奉造。とあり。【かくては。次文三十八氏と云に合はざれども。誤なりとも定めがたし。八は九の誤寫ならんも知がたし。】財造も。系詳ならねど。氏族志に。聖武帝時。有2越前江沼郡主帳。財造住田1。【東大寺正倉院文書】仁明帝時。有2加賀能美郡人。財部造繼麻呂1。【續後紀】朱雀常時。有2小舍人財部保家1。【外記日記】後一條帝時。有2太宰大典財部宿禰恒孝1。【類聚符宣抄】と云り。日奉。敏達記に出○※[泥/土]部造。元年紀六月出○宍穗部造。系未詳。置2穴穗部1。雄略紀にみゆ。姓氏録未定に。孔王部首。穴穗天皇之後者不見。とあり。天皇には御子なきが故に。御名代として置れたるなり。續紀和銅四年壬六月。宗形部加麻麻伎。賜2穴太連1。と云ことあり○もしこれ同姓ならば。大己貴命の後なり○白壁部造。孝徳紀白雉元年。白髪部連鐙あり。そこに云。白髪部皇別神別二氏あり○忍海造。三年紀に出○羽束造。姓氏録攝津皇別。羽束首。天足彦國押人命男。彦姥津命之後也。とあり。同族なるべし。また羽束。天佐鬼利命三世孫。斯鬼乃命之後也。と云るもあり。倭名抄。山城國乙訓郡羽束波豆賀之。また攝津國有馬郡羽束あり。其方なるべし○文首。書首に同じ。應神紀に出○小泊瀬造。本に瀬字を脱。今釋紀に依る。神八井耳命の後なり。仁徳紀に出○百済造。姓氏録左京諸蕃。百済公。百済國酒王之後也。續紀二十。余益人。余東人等四人。賜2百済朝臣1。二十七。百済王敬福傳に。其先百済國人比有王之後也。六に百済宿禰有世。賜2百済朝臣1云々。などあり。さて此に連姓を賜とはあれど。其子孫大方は。百済王と云ふ姓を傳へ。連は姓氏録にさへ見えず。唯續後妃九に。百済連清繼と云人一人のみ。史に見えたり○語造。姓氏録右京神別。天《アメ》語連。天日鷲命之後。儀(3733)式大甞祭儀。令3諸國量v程。進2物部門部語部等1。大甞祭式。伴宿禰一人。佐伯宿禰一人。各引2語部十五人1。入v自2東西掖門1。就v位奏2古詞1云々。とある。此氏の名の原由なり。氏族志云。出雲風土記。有2語臣猪麻呂1。東大寺正倉院文書。聖武帝時。有2出雲人語君小村。語部君瓔及備中窪屋部人語直※[草冠/衰]1。語部族。居2美濃丹波但馬因播等國1。世供2奉大甞祭1。【貞觀儀式延喜式】とあり。
 
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。壹伎史。娑羅々(ノ)馬飼造。菟野(ノ)馬飼造。吉野首。紀(ノ)酒人直。采女造。阿|直《トキノ》史。高市(ノ)縣主。磯城(ノ)縣主。鏡作造。并(テ)十四氏(ニ)。賜v姓(ヲ)曰v連。丁卯。天皇狩2于倉梯(ニ)1。
 
己未。五日なり〇三宅吉士。四年七月に出○草壁吉士。十年正月に。草香部吉志に作る。そこに云り○伯耆造。國造本紀に。伯伎國造。志賀高穴穗朝。牟邪志國造同祖。兄多毛比命兒。大八木足尼。定2賜國造1。とあるは同族なるべし。靈異記に。桓武帝時。波々岐將丸あり。其裔ならん○船史。欽明紀十四年に出○壹伎史。舒明紀四年に。伊岐史【孝徳紀に伊吉とあり。】あり。そこに云り○娑羅々馬飼。倭名抄。河内國讃良郡佐良良。靈異記に。河内國更荒郡馬廿里。有2富家1云々。此地名今なしと云り。上文に川内馬飼造あり。同族なるべし○菟野馬飼造。欽明紀。河内國更荒郡※[盧+鳥]※[茲+鳥]野邑とあり。これも右の娑羅々と同族なるべし。集解に。按履中天皇五年紀。有2河内飼部等1。河内國多有2飼部1。蓋以v故造長亦處々有v之。とあり(3734)○吉野首。神武紀に出○紀酒人直。未詳。按に紀氏は。天道根命より出たり。紀(ノ)某(ノ)直と稱するもの。續紀に見えたり。さらば酒人直も同族なるべし。紀に。景行皇子神櫛王者。木國之酒部阿比古之祖。とあるは別なり○釆女造。未詳。釋紀に造を直とあり。東大寺古文書に。天平勝寶中。但馬二万郡人采女直眞島あり。除目大成鈔。堀河帝時。出雲掾宇禰倍宿禰延方あり。いづれも詳ならず。姓氏録右京神別。釆女朝臣。神饒速日命六世孫。大水口宿禰之後也。和泉に采女臣。神饒速日命六世孫。伊香我色雄命之後也。とあれど。それは別姓なるべし○阿直史。應神紀に阿直岐史とあり。其處に云り○高市縣主。元年紀に出○磯城縣主。日子湯支命之後なり。神武紀に詳に云り。【神八井耳命の後にも。志紀縣主はあれども。夫にはあらぬこと。記傳に云れたり。】○鏡作造。神代紀に出○丁卯。十三日なり○倉梯。十市郡なり。
 
十一月甲申朔丁亥。詔(テ)2諸國1。習2陳法《イクサノノリヲ》1。丙申。新羅遣(テ)2沙※[にすい+食]金|主《ス》山。大那末金長志(ヲ)1。進v調。十二月甲寅朔丙寅。遣2諸王(ノ)五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋。并(テ)判官|録史《フムヒト》。工匠者等(ヲ)1。巡2行《アリキテ》天下(ニ)1。限2分《サカフ》諸國之|境堺《サカヒヲ》1。然(ニ)是年不v堪2限分1。庚午詔曰。諸文|武《ツハモノ》官(ノ)人。及畿内(ノ)有位人等。四(ノ)孟《ハジメノ》月(ニ)必|朝參《ミカドマヰリセヨ》。若有(テ)2死病《オモキヤマヒ》1。不(バ)v得v集《ウゴナハルコトヲ》者。當司具(ニ)記(テ)。申2送法(ノ)(3735)官(ニ)1。又詔曰。凡|都城《ミヤコ》宮室《オホミヤ》。非2一處(ニ)1。必造(ラム)2兩參《フタトコロニ・トコロ/”\ニ》1。故先欲v都2難波(ニ)1。是以百寮者各|往《マカリテ》之。請《タマハレ》2家地(ヲ)1。
 
丁亥。四日なり○詔。本に詔を治に作る。今中臣本に據る○習陳法。習(ノ)上令字あるべし。陳は陣と通ず。持統紀に。遣2陣法博士等1。教2習諸國1。とあり。軍防令に。凡衛士者中分。一日上(ハ)一日下。毎2下日1。即令d於2當府1。教c習弓馬u。用v刀弄v槍。及發v弩抛v石。至2午時1各放還。仍本府試練。知2其進不1。即非2別勅1者。不v得2雜使1。廢帝紀。【續紀】就2大貮吉備朝臣眞備1。令v習2諸葛亮八陳。孫子九地。及結營向背1。などもあり○丙申。十三日なり○新羅。神文王三年なり○丙寅。二十三日なり○伊勢王。系未詳。持統紀二年。令3淨大肆伊勢王。奉2宣喪儀1。とあり○録史。官に史と曰ひ。省に録といふ。次に見えたる録事も同じ。いづれもフムヒトなり○限分諸國之境堺。成移紀に。隔2山河1分2國縣1と見えたるを。此御世に再國堺を委定給ひしなり。なほ成務紀以後の事は。姓氏録に。坂合部。大彦命之後也。允恭天皇御世。造2立國境之標1。因賜2姓坂合部連1。また孝徳紀大化二年詔に。宜觀2國々※[土+橿の旁]堺1。或書或圖。持來奉v示。國縣之名。來時將v定。などあり。此後も續紀十三に天平十年。命d天下諸國。造2國郡圖1進u。など云事見えたり○是年不堪限分。下文十三年十月に。此事竣りしこと見えたり○庚午。十七日なり〇四孟月は。正月四月七月十月なり○欲都難波云々請家地。これ後の灘波宮のはじめなり。朱鳥元年正月。難波大藏(3736)省失火。宮室悉焚。とあり。其後また造り給へりと見えて。續紀文武天皇三年正月癸未來。是日幸2難波宮1。萬葉六。神龜二年冬十月。幸2于難波宮1時。笠朝臣金村作歌。續麻成《ウミヲナス》。長柄宮爾《ナガラノミヤニ》。眞木柱《マキバシラ》。太高敷而《フトタカシキテ》。食國乎《ヲスクニヲ》。收賜者《ヲサメタマヘバ》。奥鳥《オキツトリ》。味經乃原爾《アヂフノハラニ》。物部乃《モノヽフノ》。八十伴雄者《ヤソトノモノヲハ》。廬爲而《イホリシテ》。都成有《ミヤコナシタリ》。旅者安禮十方《タビニハアレドモ》。とあるにて。長柄宮なること知られたり。神龜三年十月。以2式部卿從三位藤原宇合1。爲2知造難波宮事1。萬葉三に。宇合卿を使されて。難波堵を改造らしめ給へる時に。作《ヨメ》る歌を載せたり。さて其後は。三代格。延暦十二年三月九日官苻。應d停2攝津職1爲uv國事。右被2右大臣宜1※[人偏+稱の旁]。奉v勅。難波大宮既停。宜d改2職名1爲uv國云々。などあり。足代弘訓云。按に。史(ニ)難波宮數見たる。皆此を謂なり。其創建は。天武御世に肇りて。聖武改造し給ひ。さて延暦に至りて。停廢し給へるなりと云り○扶桑略記に。此年の下に。移2百済大寺1。建2高市郡夜倍村1。加2封邑七百戸。公田三百町。利稻三十萬束1。改v名曰2大官大寺1。今大安寺是也。とあり。又翌る十三年甲申。天皇不豫。於是皇太子草壁皇子奉v勅。群臣百官等。共詣2大官大寺1。各發願曰。天皇御願。於2此伽藍1。欲v開2法會1。而其願未v遂。晏駕將v促。縱雖2定業1。願延2三年之壽1。果2此大願1矣。于時天皇感v夢。得v延2寶算1。如2其所願1。三箇年間。刻2鏤佛像1。繕2寫法文1。【已上在大安寺記】と云ことあり。此紀には。かゝる事漏されたり。
 
十三年春正月甲申朔庚子。三野(ノ)縣主。内藏(ノ)衣縫造二氏。賜(テ)v姓(ヲ)曰v連。丙午。(3737)天皇御2于東庭(ニ)1。群卿侍之。時(ニ)召(テ)2能射人及侏儒。左右(ノ)舍人等(ヲ)1。射之。二月癸巳朔丙子。饗2金主山(ニ)於筑紫(ニ)1。庚辰。遣2淨廣肆廣瀬王。小錦中大伴連安麻呂。及判官。録事《フムヒト》。陰陽師。工匠等(ヲ)於畿内(ニ)1。令v視2占《ミシメ》應v都之地(ヲ)1。是日。遣(テ)2三野王。小錦下采女臣|筑《ツク》羅等(ヲ)於信濃(ニ)1。令v看2地(ノ)形《アリカタヲ》1。將v都2是地1歟。三月癸未朔庚寅。吉野人宇閇直弓。貢2白《シラ》海石榴(ヲ)1。辛卯。天皇巡2行(テ)於京師(ニ)1。而定2宮室《ミヤ》之|地《トコロ》1。乙巳。金主山歸v國。
 
庚子。十七日なり〇三野縣主。清寧紀に。河内三野縣主と作り。河内若江郡(ノ)地名なり。既に云り。姓氏録河内神別。美努連。角凝魂命三世孫。天湯川田奈命之後也。とあり。いにし明治五年十一月。大和國平群郡荻原村。字龍王の地に。美努連岡萬墓誌を發見せり。其銘云。我祖美努岡萬連。飛鳥淨御原天皇御世。甲申正月十六日。勅賜2連姓1云々。右は天平二年に※[金+雋]する所の銅板なり。本紀と一月を差すれども。姓を賜へることは克合へり。明年賜2姓宿禰1ことも。其下に載たり○内藏衣縫造。斉明紀に大藏衣縫造あり。同姓なり○丙午。二十八日なり○及侏儒云々射之。侏儒も射手の内に入たるは。いかなる事にかありけん。もしくは其伎に勝たるものありしにや○丙子。二十四日なり○庚辰。二十八日なり(3738)○廣瀬王も。大伴安麻呂も。みな上に出○陰陽師。令陰陽師六人。掌2占筮相1v地。とあり○視占。本に占を古に作る。今中臣本に據る○庚寅。八日なり○宇閇直は。姓氏録に載せず。續紀十三に。於忌寸人主あり。そこの考証云。延暦六年六月。平田忌寸杖麻。路忌寸泉麻呂。蚊屋忌寸淨足。於保忌寸弟麻呂四人。並賜2忌寸1。賜2宿禰姓1。依v此。於(ノ)忌寸。蓋坂上同姐。所謂倭漢直者也。と云れたり。【武號云。四十にも。於宿禰乙女あり。三代實録六に。左京人左辨官史生從六位下於公浦雄三人。賜2姓慈世宿禰1。とあり。これも同族なるべし。】右の續紀に。同時に宿禰を賜へる。平田忌寸。路忌寸。蚊屋忌寸。みな同族にて。漢主劉宏の後なり。この宇閇直も。別族にはあらざるべし。【さて上文八年に。上《カミノ》村主光欠と云るあり。この上をも。ウヘとよみて。一つに考證に云れたるは誤なり。これは系ことなり。そこに云り。まがふべからず。】
 
夏四月王子朔丙辰。徒罪以下皆免之。甲子。祭2廣瀬大忌神。龍田風神1。辛未。小錦下高向臣麻呂(ヲ)。爲2大使1。小山下都努臣牛|甘《カヒヲ》。爲2小使1。遣2新羅1。閏四月壬午朔丙戌。詔曰。來《コム》年九月(ニ)必|閲《ケミシナム》之。因以教2百寮之|進止《フルマヒ》威儀《ヨソホヒヲ》1。又詔曰。凡政(ノ)要者《ヌミハ》軍事也。是以文武官|諸人《ヒト/\》。務(テ)習2用v兵(ヲ)及乘(コトヲ)1v馬(ニ)。則馬兵。并當身装束《ミミノヨソホヒ》之物。務具(ニ)備足《ソナヘタセ》。其有(ランヲ)v馬者。爲2騎士《ムマノリヒトヽ》1。無v馬者。爲2歩卒《カチヒトヽ》1。並當(ニ)試練《コヽロミトヽノヘテ》。以勿v※[章+おおざと]《サハルコト》2於聚會(ニ)1。若忤2詔旨1。有v不v便2馬兵(ニ)1。亦装束有(バ)v闕者。親王以(3739)下。逮(ニ)2于諸臣1。並(ニ)罸《カムガヘシム》之。大山位以下者。可(ハ)v罸《カムカフ》々之。可(ハ)v杖《ウツ》々之(ム)。其務習以能得v業《ワザヲ》者(ヲバ)。若雖2死罪1。則減(ム)2二等(ヲ)1。唯|恃《ヨリテ》2己才(ニ)1。以故(ニ)犯者(ハ)。不v在2赦例(ニ)1。
 
丙辰。五日なり〇徒罪。名例律にみゆ○皆免之。上に扶桑略記を引て云る如く。此時天皇御病に依て。かく罪人を免し給ふなるべし〇甲子。十三日なり○辛未。二十日なり○高向臣。舒明紀にみゆ○遣新羅。神文王四年なり○丙戌。五日なり○政要。神武紀|要害《ヌマ》〇當身の訓は。身々《ミヽ》なり○勿※[章+おおざと]。通證云。※[章+おおざと]與v障同とあり。京極本には障と作り〇雖死罪。考本罪を刑に作る○減。本に咸に誤る。今考本等に據る○故犯。吏學指南。知而犯之。謂2之故1。とあり。
 
又詔曰。男女並|衣服《コロモ》者。有v襴《スソツキ》無v襴。及|結紐《ムスビヒモ》長紐《ナガヒモ》。任《マヽニ》v意(ノ)服《キヨ》之。其|會集《マヰウゴナハラム》之日。著2襴(ノ)衣(ヲ)1。而|著《ツケヨ》2長紐1。唯男子(ハ)者。有2圭《ハシバ・ハシバアル》《カウブリ》1。冠而著2括《クヽリ》緒(ノ)褌《ハカマヲ》1。女年四十以上。髮(ノ)之結不v結。及乘v馬(ニ)縱横。並任v意也。別(ニ)巫祝之類(ハ)。不v在2結髮之例(ニ)1。壬辰。三野王等。進2信濃國之|圖《カタ》1。丁酉。設2齋于宮中(ニ)1。因以(テ)赦2有v罪舍人等(ヲ)1。乙巳。坐《ツミシテ》2飛鳥寺(ノ)僧福揚(ヲ)1。以下v獄(ニ)。庚戌。僧福揚自刺v頸(ヲ)而死。
 
(3740)男女。貴賤に通して言るなり○有襴無襴。通證云。代醉編曰。後魏胡服。便2於鞍馬1。遂施2裙於衣1。爲2横幅1。綴2於下1。謂2之襴1。今之公裳是也。通典曰。宇文護始袍加2下襴1。遂爲2後制1。即今公服也。唐志曰。馬周以2三代(ノ)布(ノ)深衣1。因于2其下1。著2襴及裾1。名2襴衫1。以爲2上士之服1。今擧子所v衣者。即此。宋史輿服志。有2横襴。旋襴。夾襴等名1。とあるが如く。服に襴あるは。皇國の古制に非ず。後世西土に※[人偏+效]ひしものなり。しかれども。何(レ)の代に※[并+刃]りしと云こと。詳ならず。【もしくは。雄略推古の御世よりの事にもあるべし。】倭名抄装束部。襴衫。楊氏漢語抄云。襴衫。【須曾豆介乃古路毛。一云奈保之能古給路毛。箋註云。按今昔物語第十一。亦以2襴衫1爲2直衣1。唐韻所v云。襴衫。蓋皇國所謂縫掖袍也。直衣亦袍之類。其状與2縫掖袍1相似。故楊氏以2襴衫1爲2直衣1。其實直衣。皇國所v制。無2感名可v當者1。】と云り。【集解に。今有v襴。謂2之縫掖1。文官之服。無v襴謂2之欠掖1。武官之服。とあり。】○結紐。長紐。集解に。延喜式大甞會曰。齋服|小齋《ヲミノ》親王以下皆青摺(ノ)袍。五位以上紅垂紐。自餘皆結紐。按古制衣有v紐。當2于中心1。其短者謂2結紐1。長者謂2長紐垂紐1。以分2尊卑1。長紐者。結束之餘垂2于下1。以爲v飾也。と云り。或人云。結紐は胸《ムネ》の開《ヒラ》かざる爲に。紐着て結びしなり萬葉歌に數多見えたる紐は。下裳に着たるにて。即下紐なり。其に對へて。表《ウヘ》にあるを上紐と云り。曾丹集に。夏ばかりうは紐さゝで。風にむかひ。とあり。長紐は。垂たる紐を云ること。大甞會式に見えたり。新勅撰。山あゐもてすれる衣のあか紐の。ながくぞわれは神につかふる。とありと云り○會集之日は。公堂の會集なり〇著襴衣而著長紐。按に是より先には。衣服の制。襴の有無。紐の結(ヒ)垂(ラシ)とを以。公私貴賤の別と爲《セ》しを。今よりは任v意服之。とありて。其制を止め給ひしが。但公堂の會集のみには。貴賤の等を示し。禮意を表し給へるなり○圭冠の訓。ハシバカウブリとあれど。古本の訓に。(3741)ハシバアルカブリとあるぞよろしき。【本の訓は誤寫なり。】圭冠は。釋紀私記に。今烏帽子也と云るは。古説と聞えたり。但し其形は。今知がたけれど。石原正明。伊勢貞丈も云る如く。かの漆紗冠とは異にて。烏帽の状の。圭玉に似たりしよりの名なるべし。通證云。今按此以2形状1名之。説文(ニ)。圭(ハ)瑞玉也。上圜下方。とありて。尋常會集に冠りしものなるべし。但し訓義は。通證の説は非にて。【この説は次に出す。】秋齋閑話四に。侍烏帽子の事。古は圭冠と云ものなりし冠の類にて。古は上下通して着たるなり。今の樣に。額をあらはして着たる物にあらず。冠の様に着たる事なり。中古以後。無冠のみ着する物となりて。後(ロ)へたらし着する事を。伊達風として。額をあらはす。京都室町烏帽子折の看板に。十一と書てあるも。圭冠の圭字の略なるべし。烏帽子の始りは。比圭冠にて。上を總括《スベクヽ》りて着せし物故。はししばるの意にて。はしばと訓ずるなるべし。と云り。この説に就て。なほ考るに。ハシバアルカブリの方なるべしとおもはる。さるは右に云る如く。端《ハシ》を括《シバ》りてある冠の故にて。かの禮冠の如v嚢冠と。形の異なる稱なるべし。【故(レ)本の訓よりも。古訓の。方を宜しと云るなり。然るに通詔に。倭名抄の榛子和名波之波美。盖葉皺也。基葉有2皺紋1。實形似2烏帽子1。故名。と云れたるは。いかなる牽強ぞや。榛子は波之波美なるを。皺はシワなり。更に因なし。また其實形似2烏帽子1。と云るも。今よく見るに。其形似てしも着かず。然るを。今烏帽子皺紋。盖取2于此制1也。など云るも。まことの押測言なり。】○括緒褌。續紀二に。直冠以上者。皆白|縛《クヽリ》口袴云々。落窪に。苦しきにくゝりを脛にあげて云々。などあり。是は指貫を云り。【集解に。按今|奴袴《サシヌキ》也。是無位男子之服。女子則無2冠褌1。可2以別1也。と云れど。此説非なり。烏帽子は。貴賤通用の冠なり。無位にのみ限るべけんや。奴袴も同じ。後の制を以ても知べし。】倭名抄装束部。奴袴。楊氏漢語抄云。奴袴。【左師奴妓之波賀萬。或俗語抄云。絹狩袴。或云。岐奴乃加利八可萬。箋注曰。按指貫裁縫。與2獵袴1同。而獵袴用v布。指貫用2織物若平絹1。爲v異。故曰2絹狩袴1也。天武紀括緒褌蓋是。】とあり。田沼善一云。指貫は。日本紀に括緒褌と云名(3742)見えたるか。其(レ)古の名にて。只しばりもしけんを。後に次々巧にしたるならむ。猶文武天皇大寶元年制に。漆冠綺帶。白襪黒革(ノ)※[潟の旁]。其袴者。直冠以上者。皆白|縛《クヽリ》口袴。勤冠以下者。白(キ)脛裳。とも見えたり。縛口袴は。括緒褌と同じ意の物にて。其ははやく。さし貫の状になりけんと知らる。と云り○不在結髮之例。通證に。今按。祭祀(ハ)勤用2古禮1也。文武紀慶雲中。令d天下(ノ)婦女。自v非2神部齋宮(ノ)宮人及老嫗1。皆髻髮u。とあり○壬辰。十一日なり〇丁酉。十六日なり○乙巳。二十四日なり○福揚。中臣本釋紀。揚を楊に作る。下同じ〇下獄。中臣本下を入に作る。考本獄(ノ)上於字あり○庚戌。二十九日なり。
 
五月辛亥朔甲子。化來《オノヅカラマヰクル》百済(ノ)僧尼。及|俗人《シロキヌ》。男女并二十三人。皆安2置于武藏國(ニ)1。戊頁。三輪引田君難波麻呂(ヲ)。爲2大使1。桑原連人足(ヲ)。爲(テ)2小《ソヒ》使1。遣2高麗(ニ)1。六月辛巳朔甲申。※[樗の旁]之。秋七月庚戌朔癸丑。幸2于廣瀬1。戊午。祭2廣瀬龍田神(ヲ)1。壬申。彗星出2于西北1。長|丈《ヒトツヱ》餘。
 
甲子。十四日なり○戊寅。二十八日なり〇三輪引田君。記雄略段に。引田部赤猪子あり。其處の記傳云。神名帳大和國城上郡に。大物主神社。曳田神社あり。此地に因れる姓なるべし。書紀天武卷に。三輪(ノ)引田君難波麻呂。持統卷に。引田朝臣廣目。引田朝臣少麻呂。など云ふ人見えたるは。此姓か。三(3743)代實録五十に。大神朝臣良臣云々。大神引田朝臣等。遠祖雖v同。派別各異云々。【此大神引田朝臣は。即かの三輪引田君なるべし。】此に依れば。大神(ノ)朝臣の支別なり。と云れたるが如し○桑原連。姓氏録左京諸蕃。桑原宿禰。漢高祖七世孫。萬徳使主之後也。大和桑原直同上。山城桑原史。狛國人漢※[匈/月]之後也。攝津桑原史。桑原村主同祖。【一作高麗國人】萬徳使主之後也。とあり。氏族志云。按本書山城桑原史。列2高麗(ノ)部1云。狛國人漢※[匈/月]之後。而攝津桑原史。係2萬徳之後1者。亦列2諸高麗1。則其爲2同出1可v知。又東大寺正倉院文書。聖武帝時。有2中宮少録桑原忌寸某1。據v此。是族又有2忌寸1也。又云。孝謙帝時。大和葛上郡人。桑原史年足等。男女九十餘人。同姓近江神埼郡人人勝等。男女一千一百五十餘人。以3史姓渉2太政大臣諱1。奏言。臣等(ノ)先劉言興等。仁徳帝時。自2高麗1歸化。子孫分爲2數姓1。請改2史姓1。同賜2一姓1。乃賜2桑原史。大友桑原史。大友史。大友部史。桑原史戸。及史戸六族。姓桑原直1。直後左京人桑原連眞島。右京人桑原邑主足牀。同姓大和人岡麻呂等四十人。近江淺井郡人。桑原直新麻呂。訓志必登等四十餘人。並皆賜2公姓1。【續紀】史戸。系出2漢城人韓氏劉徳之後1。【姓氏録】とあり○甲申。四日なり○癸丑。四日なり○戊午。九日なり○壬申。二十三日なり
 
冬十月己卯朔。詔曰。更改(テ)2諸氏之族姓(ヲ)1。作(テ)2八|色《クサ》之姓(ヲ)1。以|混《マロカス》2天下(ノ)萬(ノ)姓(ヲ)1。一曰|眞人《マヒト》。二曰|朝臣《アソミ》。三曰|宿禰《スクネ》。四曰|忌寸《イミキ》。五曰|道師《ミチノシ》。六曰|臣《オミ》。七曰|連《ムラジ》。八曰|稻置《イナキ》
 
(3744)改諸氏之族姓云々。池邊眞榛云。上古の姓といふものは。正しく姓氏の字には充らぬことにて。みな職名を云るなり。改新制こなたは。其職業定まらざる制なれど。それより前つかたは。各家其職掌を世業にして。更に動くことなかりし故。其を人身の尸を以。其職名を即てカバネとは云しなり。故に古くは姓の事を。骨【續紀天平勝寶三年】氏骨【姓氏録】姓戸【拾芥抄】なども書て。遠祖の職掌を。神骨《カバネ》とゝもに受繼ぐ由を明せり。されば職名《カバネナ》とは記すべく。姓氏とは書まじき意なれども。紀に其を職と云る事は。少くして。【垂仁紀仁2土部職1。改2本姓1謂2土師1云々。とみゆ。此土師臣は。即土師職を云。】姓氏(ノ)字を用ゐられたるは。上古世職の法廢れて。其職名唯其各家の系を別にする名目となれる後より。記し及ばれたるものにて。改新制以後にては。此姓氏の字當否。まことにこよなし。允恭天皇四年九月詔曰。上古之治。人民得v所。姓名勿v錯。【人民得v所とは。其世業にする所を。得るよしなり。】今朕踐祚。於v茲四年矣。上下相爭。百姓不v安。或誤失2己姓1。或故認2高氏1。其不v至2於治1云々。戊申詔曰。群卿百寮。及諸國造等。皆各言。或帝皇之裔。或異之天降云々。難v知2其實1。故諸氏姓人等。沐浴齋戒。各爲2盟神探湯1云々。自是之後。氏姓自定。更無2詐人1。とあれな。既く此時。詐る者多くありしなり。但し後世唯高氏を侵奪ふ類にはあらで。此頃は。其|姓《カバネ》に就て。其職を爭ひしものなり。かくて其後は。詐人もなく。又職とある姓《カバネ》の。轉變たる事もすくなきを。【孝徳天皇三年の條にも。姓氏を正されたる事は見ゆれど。未(ダ)變動の事は聞えず。】孝徳天皇大化以來。改新制おこりて。別に職名を制られ。以前に業とある官爵を止めらるゝに就ては。自然舊職名の姓《カバネ》は。氏族を別つ名目の如く。轉變れるを。なほ天智天皇の御世までは。さばかり變れる事の見えぬは。實(3745)は改新の爵名の。いまだ行はれざりしならむ。天智天皇八年。遣2東宮大皇弟於藤原内大臣家1。授3大職冠與2大臣位1。仍賜v姓爲2藤原氏1。自此以後。通曰2藤原大臣1。と見えたるは。改新このかた。職にあらざる新奇の姓を給へる始にて。これぞ所謂姓氏の字に符ふ權輿にはありける。【武郷云。但し此時藤原を以。中臣に替へしにはあらず。所謂複姓なれば。こゝの證には未(ダ)引へからず。】但し此もたゞ。此一氏の上にて。他氏は上吉の職名を受て。其掌る所も。なほ上古のまゝなりと見ゆるを。天武天皇九年正月。忌部首子首。賜v姓曰v連云々。とあるをはじめにて。其各家の門品に。尊卑の差別を立られたるならん。即此十三年十月己卯の。八色の族姓にはありける。故其日。守山公以下十二氏。賜v姓曰2眞人1。と見え。十一月十二月。また十四年六月に。多く改新せられたるを見るべし。但京都こそはあれ。此命令も大體の事にて。萬姓を混合るゝまでには。及ばざりしと見えて。これより後の國史。また姓氏録にも。此制を漏たるは。甚多きぞかし。と云れ。また栗田寛説に。天武天皇萬姓を改めて八等とし。其尊卑を際《キハ》やかに定め給ふべく。思したりしかど。壬申役に。臣等の功勞あるをば。其族を尊くし。罪あるは氏族を貶し給ひしなど。種々に制給ひしかば。古語拾遺に。唯序2當年之勞1。不v本2天降之績1。其二曰2朝臣1。以賜2中臣氏1。命以2太刀1。其三曰2宿禰1。以賜2齋部氏1。命以2小刀1。と云るが如く。貴族にして下等にあり。賤民にして上姓にのぼれるもありし故に。其氏族の貴き人々の家にて。自ら彼此の議論ありて。御意の如くには行はれがたく。尊卑の等を正しあへぬもあるべければ。邊裔の人々は。なほ舊姓の儘なるもありしなるべし。是に至りて。古風一變し。所謂加婆(3746)禰は。全く尊卑を分つ階級の如きものに成て。其尊卑も。神代の職業によれるものとは。甚く別事になれりしなり。と云れたる。ともに此に用あることゞもなり○一曰眞人。眞人は美稱にて。天皇の御名にさへ申奉れるなれば。貴きこともとよりなり。されど此(レ)までは。かゝる姓《カバネ》あることなし。なほ此より以下道師まで。みな此時新に命じ給へる姓なり。姓氏録序に。眞人是皇別之上氏也とあり。さて姶芥抄。眞人姓四十五氏を載せたり。【世に云。後に人を貴みて。まうとゝ云稱あり。物語文等に見えたり。此氏より出たる詞か。又は本より美稱なれば。其より轉じたるものか。人を貴みて。あそんと云なども。此と同じ。さてまた藤原氏の盛なる世には。朝臣の方。眞人より上になれることあり。これは時勢の然らしむるにて。まこと朝廷より。しか爲給へるにはあらず。】〇二曰朝臣は。吾兄臣にて。貴み親みたる稱なり。もとは阿曾美と云しを。後にアソムと訛れり。【續紀光仁紀に。阿曾美爲2朝臣1とあり。】さて阿曾美は。釋紀に帝王相親之詞と云り。阿曾は。神功紀歌に。于池能阿層とある。阿層と同じく。美は臣《オミ》なり。【臣はもと大身《オミ》の義なり。】さて朝臣と書るは。借訓なりとも。また入朝者曰2朝臣1。と云文字の義を兼たり。と云る説あり。【但しアサオミの切りて。アソミと云るなり。と云説はいかゞ。】拾芥抄に。朝臣百六十三氏を載たり〇三曰宿禰。本に曰宇脱たり。今中臣本考本。其他の本どもに依る。さて宿禰は。舊くは足尼とも書り。これも美稱より起りたる名なり。【光仁紀に。足尼爲2宿禰1とあり。】天孫本紀に。宇麻志麻治命。天皇寵異特甚。詔曰。近宿2殿内1焉。因號2足尼1。其足尼之號。自v此而始矣。とあり。【これを其處《ソコ》に宿《ネ》よと云義なり。と云る説は俗意なり。】上古人を貴みて。大兄《オホエ》と云に對して。少兄《スクネ》と云るにて。大と小とを以て。云別たるまでなり。少兄も上古には官名なり。【舊事記に。共に官名なること見えたり。】拾芥抄に。宿禰二百七氏あり○四曰忌寸。姓氏録に伊美吉とあり。名義詳ならず。【もしくは。齋み清き意を以て稱たるか。】寸は君なるべし。【さて此忌寸には異説あり。拾遺に云。其四曰2忌寸1。以爲2秦漢(3747)二氏。百済文氏之姓1。蓋與2齋部1。共預2齋藏之事1。因以爲v姓也。今東西文氏。献2祓太刀1。蓋亦此之縁也。とある文なり。久保季〓が。此書の講義云。池邊眞榛が新注に曰。この説信用し離し。上文にても。齋藏は齋部。内藏大藏は。秦漢と聞えて。正しく異なる如くなる上。齋藏の齋は虚字。藏は實字なれば。まことに職を共に爲し縁に由れるならば。藏《クラ》君とは云べく。齋君《イミキ》とは云まじきなり。且忌寸は諸蕃人に賜はる姓にして。此時始まれるなれば。孝徳天皇(ノ)世に廢れたる。齋藏を以て。今頃其名を賜はむ由なし。此は古く。紀中に今來《イマキ》の手伎。又|新《イマキ》漢人など云て。秦漢の人を。いまきと云語あるを。四等の姓にせられたるものにて。伊美伎は。今來君なるべし。そはとまれ。藏より出し姓とは覺えずと云り。今按に。本書の説實に信け難し。新注の説然ることなり。伊美伎の名義も。此にて聞えたり。と云るはさることなれど。伊美伎の今來君なるは。なほ信がたし。臣連などの舊姓をさし越て。外蕃人を上に置て。今來君など貴ぶべきよししなし。】さて拾芥抄に此姓十九氏あり〇五曰道師。按に此姓。この後ものに見えず。また賜ひたることもなし。ここに集解に。按傳2諸技藝於諸道1。各可v爲v師者。謂2難波藥師。河内畫師之類1。非v稱2道師1。と云る。さることなり〇六曰臣。七曰連。八曰稻置。記傳云。道師。臣。稻置などの姓を給ひしことは見えず。又右の八色の餘の姓も。此後も猶多し。然れば一度かく定め給ひしかども。全くは其如くもあらで止ぬる事なるべし。と云れたり。栗田寛も。臣。連。稻置の三姓は。舊のまゝにて。其上に眞人。朝臣。宿禰。忌寸。道師の四姓を置て。八種に定め。天下の萬姓を改めむと思したりけん。されどこの同日に。守山公以下十三氏。【すべて公姓なり。】賜v姓曰2眞人1。十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣云々。物部連。【君姓十一氏。臣姓三十九氏。連姓二氏。】以下五十二氏。賜v姓曰2朝臣1。十二月己卯。大伴連以下五十氏。【すべて連姓】賜v姓曰2宿禰1。十四年六月甲午。大倭連云々。大隅直以下十一氏。【連姓十氏。直姓一氏。】賜v姓曰2忌寸1。朱鳥元年四月丁丑。侍醫桑原村主※[言+可]都。賜v姓曰v連。六月己巳朔。槻本村主勝麻呂。賜v姓曰v連。とあるのみにて。大抵公姓の氏人に。眞人を給ひ。君また臣姓の氏人に朝臣を。連姓の氏人に。宿禰を給へるのみにて。道師より以下を。改賜ふことは見えず。なほ。君。首。二造。直。史。縣主等の姓。國(3748)史姓氏録に。いと多かるは。其御制の如くは。事ゆかざりしにこそあらめ。と云れたり。武郷なほ考るに。文武紀大寶二年九月己丑。詔甲子年定2氏上1時。不2所v載氏1。今被v賜v姓者。自2伊美吉1以上。並悉令(メヨ)v申。とあるをみれは。此時忌寸以上をば。それ/”\に改めて給ひしかど。道師以下は。故ありて止められしなるべし。故今姓を賜はらんと願ふものにも。伊美吉以上の姓は。容易く賜ひがたし。一々具申して定むべし。忌寸以下の諸姓は。別に申立るに及ばず。との詔なるべし。さるにても。甲子時定2氏上1時。【天智天皇四年なり】とあるは詳ならず。八色の姓は。天武天皇十三年の事なればなり。もしくは。この八色の姓を定め給ひしは。天智天皇の御世に在て。其事行ひ給ひしは。此御世の事なるにか。されば甲子年にもとづけて。詔ひしものにもあるべし。
 
是日。守山公。路公。高橋公。三國公。當麻公。茨《ムバラ》城公。丹比公。猪名名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公。十三氏(ニ)。賜(テ)v姓(ヲ)曰2眞人1。
 
守山公。姓氏録左京皇別。守山眞人。敏達皇子難波王之後也。氏人は。續紀二十五。守山眞人綿麻呂見えたり。さて以下の公姓。多く地名に據れるなり。一々注さず○路公。守山公に同じ。【姓氏録皇別に。道公。大彦命孫。彦屋主田心命之後也。と云があれど。それにはあらず。また蕃別に。路宿禰もあり。かく路道の字は異典なれども。其據れる義は同じかるべし。地名と聞えたり。但し和名抄などに。美知と云る地名は見えず。】○高橋公。姓氏録左京皇別。高橋朝臣。阿部朝臣同祖。大稻輿命之後也。攝津皇別。高橋臣。孝元天皇々子。大彦命之後也。とあれど。こ(3749)ゝは其にはあらじ。公姓祖詳ならず〇三國公。繼體皇子椀子王の後なり。大化五年出○當麻公。用明皇子麻呂古王の後。四年紀に出○茨城公。未詳。姓氏録に。和泉皇別。茨木造。豐木入彦命之後。とあれど。其にはあらず○丹比公。宜化皇子。賀美惠波王の後なり。六年紀に出○猪名公。宜化皇子。火※[火+稻の旁]皇子の後なり。元年紀六月に出○坂田公。繼體皇子仲王の後。五年紀に出○羽田公。應神皇子。稚野毛二俣王の後。元年紀七月に出○息長公。羽田公に同じ。皇極紀元年に出○酒人公。繼體皇子兎王の後。繼體元年に出。酒人(ハ)和名抄攝津東生郡酒人郷あり○山道公。本に此三字脱。今中臣本考本に據る。左京皇別山道眞人。息長眞人同祖。稚渟毛二俣王之後也。右京も同じ。記に。若野毛二俣主。取2其母弟百師米伊呂弁。亦名弟日賣眞若比賣命1。生子大郎子。亦名意富々杼王云々。故意富々杼王者。酒人君。山道君之祖也。とあり。記傳云。山道何國にやとあり。和名抄には見えず。
 
辛巳。遣(テ)2伊勢王等(ヲ)1。定2諸國(ノ)界(ヲ)1。是日(ニ)。縣犬養連手|襁《スキヲ》。爲2大使1。川原連加|尼《ネヲ》。爲(テ)2小使1。遣2耽羅(ニ)1。壬辰。逮(テ)2于|人定《ヰノトキニ》1。大地震。擧(テ)v國男女|叫唱《サケビテ》。不知東西《マドヒヌ》。則山崩河涌。諸國(ノ)郡(ノ)官舍《ヤカズ》。及百姓(ノ)倉屋《クラ》。寺塔《テラ》神社《ヤシロ》。破壞之類。不v可2勝(テ)數1。由v是(ニ)。人民及六(ノ)畜《ケモノ》。多死傷之。時(ニ)伊豫(ノ)温泉。沒《ウモレテ》而不v出。土左國田|苑《ハタケ》五十餘(3750)萬|頃《シロ》。没《ウモレテ》爲v海。古老《オイヒト》曰。若v是地動。未2曾《ムカシヨリ》有1也。是夕(ニ)。有(テ)2嶋聲1如(テ)v鼓(ノ)。聞2于東(ノ)方(ニ)1。有(テ)v人曰。伊豆嶋(ノ)西北二面。自然(ニ)増2益三百餘丈1。更爲2一嶋1。則如(ハ)2鼓音1者。神造2是(ノ)嶋(ヲ)1響也。甲午。諸王卿等(ニ)賜v禄。
 
辛巳。三日なり○定諸國界。十二年の十二月に。伊勢王。羽田公八國。多臣品治。中臣連大島等を遣して。巡2行天下1。限2分諸國之境堺1。然是年不v堪2限分1。とありしが。此年に至りて。其事竣れるなり○縣犬養連。元年紀六月に出○川原連。姓氏録河内諸蕃。河原連。廣階連同祖。陳思王植之後也。河原藏人同上。氏族志云。川原氏有2史姓1。元正帝時。河内丹比郡人。川原椋人子虫等四十餘人。賜2河原史1。稱徳帝時。左京※[田+比]登堅魚。河内人。河原藏人人成等十餘人。竝改賜v連。【續紀】又有2宿禰1。蓋同族也。後一條帝時。有2太宰大典川原宿禰文岑1。【類聚符宣抄】とあり○壬辰。十四日なり○人定。下學集。人定亥時也。とあり○大地震。扶桑略紀。十四年五月十四日。地震。山崩河涌。舍屋悉損。人畜多死。とあるは。此年の事なるべし○官舍。秘閣本考本に。官を宮とあるはわろし○倉屋。類史百七十一に。此文を引るに。舍屋とあり。されど令義解に。倉屋人功といふ事もあれば。本のまゝにてもよろし○爲一島。日本後紀。天長九年五月。伊豆島言上。三島神伊古奈比※[口+羊]神二前。預2名神1。此神塞2深谷1。摧2高巖1。平造之地二十町許。作2神宮二院池三處1。神異之事。不v可2勝計1。續後紀。承和七年九月。伊豆國言。賀茂郡有2造作島1。本名上津島。此(3751)島坐阿波神。是三島大社本居也。など。今何(レ)の島と云事知べからねど。後々も。かゝる神異の事あるを以みれば。三島神。上津島坐神等の御態なるべきなり○造是島響也。京極本に。響(ノ)上音字あり。さてかゝる類は。上代いと多し。續紀に見えたる。天平寶字八年。また神護二年。右に引る日本後紀なる。天長九年の事などを引て。さて通證に。今按。近世蝦夷島。一山淪2没地中1。小島突2出海面1。其日天晴云。と云れたり○甲午。十六日なり。
 
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。粟田臣。石川臣。櫻井臣。釆女臣。田中臣。小墾田臣。穂績臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。笠臣。凡五十二氏。賜(テ)v姓(ヲ)曰2朝臣1。
 
大三輪君。既出。【以下注せざるもの。みな前紀に出るものと知べし。】○大春日臣。春日臣既出。按に姓氏録に。延暦二十年。春日臣賜2(3752)姓大春日朝臣1。とあり。此に據れば。是時始て春日を改めて。大春日と稱るなり。本紀と合はず。【持統紀五年の下に。十八氏を擧たる中には。たゞ春日とのみありて。大字なし。いづれの御世に加へられたるにか。詳ならず。】○阿倍臣。孝元紀に出〇巨勢臣。繼體紀に出○膳臣。景行紀に出○紀臣も同じ○波多臣。應神紀に出○物部連。崇神紀に出○平群臣。雄略紀に出○雀部臣。姓氏録左京皇別。雀部朝臣。建内宿禰之後也。星川建彦宿禰。謚應神御世。代v於2皇太子大鷦鷯尊1。繋2木綿襷1。掌2監御膳1。因賜v名曰2大雀臣1。攝津同じ。孝謙紀。典膳巨勢朝臣眞人等言。先祖雄柄宿禰。生2三子1。建彦宿禰。爲2雀部朝臣祖1。伊刀宿禰。爲2輕部朝臣祖1。乎利宿禰。爲2巨勢朝臣祖1。雀部臣男人。事2繼體安閑二朝1。誤注2巨勢1。至v今不v改。巨勢雀部根源雖v同。枝流實異。當今盛世。不v得v改v姓云々。請將v復2本姓1云々。許2其復姓1。とあり。既に出○中臣連。大中臣本系帳に。中臣糠手子大連。生2二男1。一男右大臣中臣金大連公。二男中臣許米。被v賜2朝臣姓1。とあれば。此時朝臣を賜はれるは。許米一人の如くなれど然らず。この中臣に係れる氏々。かの藤原氏なども。此時朝臣を賜はれるなり。此事は既に天智紀に云り○大宅臣。反正紀に出○粟田臣。本に粟を栗に作る。今中臣本に據る。推古紀に出○石川臣。應神紀に出○櫻井臣。舒明紀に出○釆女臣。上に同○田中臣。上同。又推古紀○小墾田臣。舒明紀に出○穗積臣。開化紀に出○山背臣。神代紀又推古紀に出○鴨君。神代紀に出○小野臣。雄略紀また推古紀に出○川邊臣。天智紀に出○櫟井臣。姓氏録左京皇別。櫟井臣。和爾部朝臣同祖。彦姥津命五世孫。米餅舂《タカネツキ》大使主命之後也。帝王編年紀。明匠略傳。外記日記。吏部王記等に。櫟井氏あるは。此族なりと。
 
 
 
 
 
(3762)是年詔。伊賀伊勢美濃尾張四國。自今以後。調(ノ)年免v※[人偏+殳](ヲ)。々(ノ)年(ニハ)免v調(ヲ)。倭葛城下郡言。有2四(ノ)足(アル)鷄1。亦丹波國氷上郡言。有2十二(ノ)角(アル)犢《ウシノコ》1。
 
是年以下四十八字。本には十二月の上に在り。集解に據2榜注1改置2于此1とあるに。今も從へり。中臣本の傍注にもしかあり。但しこの文。實には皇極紀の文の。此に入れるなり。そのよし既にそこに云り。併せ攷ふべし。【扶桑略記にも。こゝに同年丹彼國貢2十二(ノ)角犢1。大和憾献2四足鷄1。とあり。】○伊呂波字類抄に。日本紀を引て云。天武天皇十三年乙酉。天皇攝津國住吉社に行幸して。神田三十町を。御酒料に給ふとあり。乙酉は十四年なり。此紀には洩たり。
 
(3763)日本書紀通釋卷之六十八     飯田武郷謹撰
 
十四年春正月丁末朔戊申。百寮拜2朝庭1。丁卯。更(ニ)改2爵位《クラヰ》之號(ヲ)1。仍(テ)増2加階級《シナ/”\ヲ》1。明《ミヤウ》位二階。淨位四階。毎v階有2大廣1。並十二階。以前《コレハ》諸王已上之位。正《シヤウ》位四階。直《ヂキ》位四階。勤《ゴン》位四階。務《ム》位四階。追《ツヰ》位四階。進《シン》位四階。毎v階有2大廣1。并四十八階。以前諸臣之位。
 
戊申は。二日なり○拜朝廷。本に拜を朔に誤る。今中臣本及類史に依る○丁卯。二十一日なり○明位二階は。明大一位。明廣一位。明大二位。明廣二位。これ二階なり○淨位四階は。淨大一位。淨廣一位。淨大二位。淨廣二位。淨大三位。淨廣三位。淨大四位。淨廣四位。これ淨位四階なり。さてかく明淨とは定め給へれど。此御世には明位を賜はりし人なし。淨位を親王に給へるのみなり。文武の御時に至りて。明位を親王の階と定め。淨位を諸王の階と爲し給へり。續紀に所謂親王明冠四階。諾王淨冠十四階。合十八階。とある是なり。さて其後に。親王をば。一品二品三品四品と稱せり。令義解に。品(ハ)