4220

中宗4(1509)42(癸亥)

○癸亥/御朝講。

●〔省略〕。

 

柳涇のことに関わった者を皆に推問せよと政院に伝教する。

○傳于政院曰: "柳涇事, 予以爲問諸石今, 則其他事干, 雖不問之可知, 故不允。 臺諫言之甚力, 其他事干, 幷推之。"

●政院に伝教して言った、「柳涇のことは、予が石今に尋ねるべきだと思ったらその他の関係者は尋ねなくても分かる、それで允許しない。しかし台諌が強く言うからその他の関係者も皆推問せよ。」

 

○御晝講。

●〔省略〕。

 

4221

金謹思が倭奴に対する方策で4条を書啓するので柳洵、金寿童等が議論する。

○金謹思書啓四條:

其一, 國家於三浦倭里, 定關限, 使不得踰越出入者, 所以嚴内外之分, 不使亂雜。今者自恣出入, 略無忌憚, 或樵採禮佛, 深入内地, 或因興販, 易服變言, 橫行諸郡。邊將不能禁, 遂以成例, 雖欲禁抑, 而倭人懷怨, 必搆不測之變, 故苟度歲月, 以至恣行。請申勑邊將, 一依祖宗朝舊規, 使不得自恣出入。

●金謹思が四条を書啓した:

其一、国家は三浦の倭里で制限区域を定めて越えて出入りできないようにした、それで内外の区分を厳にして乱雑させなかった。今は勝手に出入りしてほぼ遠慮が無く或いは木を切ったり礼仏したりで深く内地に入り、或いは興販のために服や言葉を変え諸郡を横行する。辺将禁止できず遂に先例となり禁抑しようとしても、倭人は恨みをだき必ず不測の変を構えるのでむなしく歳月をおくり勝手横行に至った。辺将に申勑すて、もっぱら祖宗朝の旧規に依り勝手に出入りできないようにすることを求める。

 

4222

其二, 熊川縣 報平驛, 在薺浦迤北三里許, 其人吏等, 與倭人結好稱收養, 相往來, 呼爺稱兄, 商賈就貿者, 倭人來賣者, 皆依驛人。是故介於彼此, 通情貿物, 國家事情, 無不漏洩, 皆此等人所爲也。大抵熊川城()〔底〕居人皆然, 而驛人尤甚。臣見此驛, 雖在邊地, 不關有無。縣之東有金海府 赤項驛, 西有昌原府 安民驛, 如有緩急, 則本縣可以發報, 而兩驛亦可以遞傳也。請革報平驛, 分屬兩驛, 以絶倭人交通之弊, 城底居人, 竝一切痛禁私貿。

●其二、熊川県報平駅は薺浦の北方三里ばかり、その人と官吏等は倭人と結好して収養と称し互いに往来し爺とか兄とか呼んでいて、商賈の貿易するもの倭人の来て売るものは駅人に依頼する。このために彼此を介して通情貿物して国家の事情は漏れないものがない、皆此らの人の仕業だ。だいたい熊川城下に住む人は皆そうだが駅人が最もひどい。臣が見るにこの駅は辺地にあるが有無に関係しない。県の東は金海府赤項駅があり西は昌原府安民駅がある。もし緩急があれば本県が発報でき両駅も遞伝できる。報平駅を止めて両駅に分属して、倭人交通の弊を絶ち、城下の住民は皆一切私貿を厳しく禁止することを求める。

 

4223

其三, 頃者國家欲於三浦倭里, 設關限城子基址, 監司往審時, 釜山居倭等, 疑有變故, 擅樹木柵, 且嚴警守, 有若抗我之狀。倭人等當初來居之時, 國家約定戶數, 處諸隙地, 使之苟活。而今則種類滋蔓, 乃至設柵自衛, 甚違國家本意。臣恐他浦之倭, 效此設備, 將來之患, 有不可勝言。

●其三、近頃国家は三浦の倭里で制限区域を設置しようと、城子基址を監司が往って調べたとき釜山に済む倭人等は変故があるかと疑い、勝手に木柵を立て、また厳しく警守して我々に抗する気配があった。倭人等が始め来て住んだとき国家は戸数を約定し空閑地に居らせなんとか生活させた。しかし今は種類が滋蔓し柵を設けて自衛するに至り甚だ国家の本に違う。臣は他浦の倭人がこれにならって設備し将来の患が到底言い尽くせないことがあるかと恐れる。

 

4224

其四, 釜山浦倭人等, 買農器耕牛於本邑人, 於東平縣地, 而與我混處耕作, 至有爭耕狠鬪者, 甚爲不可。請痛禁。柳洵、金壽童、柳順汀、盧公弼、金應箕、任由謙、朴召榮、姜景叙等議: "金謹思所啓, 商賈之徒, 依報平驛吏及居民家, 與倭人交通, 漏洩國家事情, 弊果不貲。然互市之法, 其來尙矣, 不宜一禁。報平驛亦不可革屬他驛。但交通漏洩, 自有其法, 宜申明嚴禁。

●其四、釜山浦の倭人等は、農器、耕牛を本邑の人から買い、東平県の地で我等と混じって住んで耕作し耕作を争って狼藉があるに至るのは甚だよくない。痛禁を求める。柳洵、金寿童、柳順汀、盧公弼、金應箕、任由謙、朴召栄、姜景叙等が議論した、「金謹思の奏上では、商賈の徒は報平駅吏及び居民家によって倭人と交通し国家の事情を漏らすのは果たして弊害が少なくない。しかし互市の法はその由来が久しく一律に禁じるのはよくない。報平駅も廃止して他駅に属させることはできない。ただし交通漏洩は自ずからその法がある、厳禁を申明すべきだ。

 

4225

且熊川城子狹隘, 萬有變故, 不得容民守禦, 是可慮也。待秋稔, 寬闊退築, 驛里人家, 竝令入居城中, 使出入有時, 則與倭人交通, 不至自恣, 而守禦亦固矣。 如定關限, 使不得出入, 禁賣農牛、農器, 法令已著, 亦宜申明痛禁。若其樹柵設備, 此必有畏懼之心, 欲爲自衛, 豈是抗我之計? 不足患也。" 命依議施行。

●また熊川の町は狭くて、もし変故があると民を収容して守ることが出来ない、これは憂慮すべきだ。秋の稔りを待って、広くゆったりと引いて築き駅里の人家を皆町中に入居させ出入に時があるようにさせれば倭人との交通は勝手気ままには至らず、守備もまた固い。制限区域を設けて出入出来ないようにさせ、農牛、農器の販売を禁止するのは法令がすでに顕著で、また申明痛禁すべきだ。木柵の設備などは必ず畏懼の心があって自衛しようとするのだからどうしてこれが抗我の計だろうか。心配するに足りない。」命じて議論どおり施行させた。

 

以下中宗実録3

 

4226、

○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

 

4227、

中宗4(1509)43()

朝講で柳涇の事、倭奴鎮圧のために堂上官を派遣する事を議論する。

○甲子/御朝講。大司憲權弘、獻納金揚震, 論啓前事, 又曰: "柳涇事, 受寄物色人石今供招, 七駄皆是緜布云。而義禁府以爲, 迷劣不問, 其情綢繆。雖五尺童子, 可知緜布與否, 豈可以迷劣不問乎? 此無他意, 柳涇恐被重罪, 優賂書吏, 故書吏, 亦變辭納招。禁府泛然推問, 是柳涇奔走推官之門, 萬端營爲故也。請推禁府。"

●甲子、朝講に出た。大司憲権弘、献金楊震が前の事を論啓して、また言った、「柳涇のことは、受寄物色人石今の供招では七駄は皆是緜布だという。そして義禁府は思うに迷劣で尋ねないが、その綢繆であることは尺の童子でも緜布かどうかわかる、どうして迷劣で尋ねないのか。これはほかでもない、柳涇が重罪になるのを恐れて書吏に優賂したので書吏も言葉を換えて納招したのだ。それで禁府もいかげんに推問した。これは柳涇が推官の門に奔走して万端の細工をしたからだ。禁府を推問することを求める。」

 

4228、

上皆不答。領事朴元宗曰: "邊方措置事, 臣等豈不熟計而建白乎? 大抵宰相建議, 則臺諫必以大臣所議爲私欲, 一切沮抑, 臣雖有所見之事, 建白爲難。臺諫所謂, ‘彼人生疑。’者, 不必見此數人堂上而後生疑。釁端已露, 都城之內, 白晝拔刃, 其在三浦, 則自設關防。故邊將若有儀章, 可以鎭服。

●王は皆答えなかった。領事朴元宗が言った、「辺方の措置のことは臣等はどうしてよく計らないで建白するだろうか。大抵宰相の建議になると台諫は必ず大臣の議論は私欲だとし一切抑制する。臣は所見のことがあっても建白は困難だ。台諫あ言うところの「彼の人は疑いがある。」というのは必ずしもこの数人が堂上であるのを見て疑いを出すのではない。仲違いはすでに現れ都城の內で白昼刀を抜く。三浦では自ら関防を設けた。だから辺将にもし儀章があれば鎮服は可能だ。

 

4229、

今邊將見倭奴曰:‘前此職卑之將, 接待爾等失宜, 故朝廷特以堂上官差遣。’云, 則一以示朝廷之威, 一以悅倭奴之心矣。近見我國事, 南方已萌邊釁, 西方亦將有事, 脫有變故, 恐未及圖。若用武人, 須及强壯之時, 逮至老衰, 則雖隆爵以授之, 何益哉?曺潤孫等, 皆可用者也。

辺将は倭奴を見て言った、「階の低い将があなた方を接待したのはよろしくなかった、それで朝廷堂上官差遣した」と。それでには朝廷を示し、には倭奴を喜ばせた。近く我が国のことを見るに南方はすでに辺地の隙が生じ西方も事が起ころうとしている、もし変があったら図るに及ばないことかと恐れるもし武人を用いたら壮のに及ぶべきで老衰するに至ると隆爵けても何の益があろうか。曺潤孫等 皆用いられる

 

4230、

且聞近於夜對, 有一經筵官曰:‘守令奴事宰相, 苞苴絡(驛)〔繹〕。’是使君臣相疑也, 臣聞之不勝驚愕。大槪人情, 以食物相遺, 是豈干請宰相?" 上曰: "論說不同者, 豈有他哉? 但各執所見而已。 予欲姑試以觀之。" 弘曰: "如此事, 大臣豈以私意建議, 臣等亦豈以私意論啓? 各以所見啓之耳。"

また聞くと近く対で筵官が言った、「守令が宰相にのように仕えるのに賄賂が相次いだ」と。これは君臣を相い疑わせる。はこれを聞いて驚愕に堪えないだいたい人情では食物をお互いにるが、どうして宰相に懇請するのか。」王が言った、「論說が同じでないのは、どうして違うのか。ただ各々が所見に執しているだけだ。予はしばらく試しに見ていようが言った、「このようなことは大臣はどうして私意建議しようか、臣等もどうして私意論啓しようか。各々所見を奏上するだけだ

 

4231、

元宗曰: "我國之事, 皆臨時卒辦, 故不能有成。柳順汀、成希顔, 皆諳邊事, 以此二人爲大將, 又擇文武臣爲從事官, 共措置邊事, 庶無偏見之失, 而軍國大事, 有所補益矣。" 特進官辛允武曰: "近來邊將無威, 故彼人不服。臣前爲北道節度使時, 以閔懷發爲軍官, 彼人待之, 專無敬恭之心。及陞堂上, 又爲臣軍官, 前日彼人, 皆下馬羅拜。以此觀之, 儀章可以鎭壓倭人之心。"

元宗が言った、「我が国皆臨時で急に措置するので成果をおさめることができない。柳順汀、成希顔辺境のことをそらんじている、それでこの二人を大将にし、また文武を選んで従事にし、に辺境のことを措置すれば、ほぼ偏見の失敗はなく、軍国の大事も補益するところがある特進官辛允武が言った、「近頃辺境の将軍は威厳がないので彼等は服さない。臣北道節度使だったとき懐発を軍官としたが、彼等の待遇は全く敬恭がなかった。堂上に昇り、また軍官に成るに及び、前の彼等は皆下馬し、並んでお辞儀をした。此で見ると儀章倭人を鎮圧させられる

 

4232、
○御晝講。

●〔省略〕。


全羅左道水軍節度使李宗仁, 斬賊十七級, 馳啓。

●〔省略〕。

水軍節度使の巡行に関する事を立法どおり施行せよと伝教して挙行させる。

○傳曰: "水軍節度使巡行, 必乘船。故兵船必便利制作, 具軍器糧餉, 常川浮泊待變等事, 去丁巳年二月二十五日立法。 而近來水使、僉使、萬, 視爲文具, 慢不奉行, 殊無委任之意。 其令申明擧行。

●伝教して言った、「水軍節度使の巡行は必ず船に乗るから、兵船は必ず便利に製作し、軍器と糧餉を備えて常に川に浮かべて変等のことを待つよう去る丁巳年二月二十五日に立法した。しかし近ごろ水使、僉使、万戸は文具として見て漫然として奉行しないが、全く委任の意味がない。繰り返し明らかにして挙行せよ。

 

4233、
○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

 

中宗4年(1509年)4月4日(丑)

○乙丑/御朝講。

●〔省略〕。

○進賀正朝使韓亨允, 還自京師。 下問中朝事, 亨允書啓曰
今皇帝荒怠日深, 一朔不過一二日視朝, 而或午或暮。 古例正月十三日, 行祀天祭, 十四日行慶成宴, 此一年爲政之始, 而其日不出, 至二十五日而後行之。 臣與
漢人語, 因問時事, 則掩口而走。

進賀正朝使韓享允が京師(北京)から帰ってきた。中国のことを下問すると 韓享允は書啓して言った、「今の皇帝は怠慢が日々に深く一朔に一二日にすぎない視朝はするが、或いは昼或いは夕方だ。古例は正月十三日に祀天祭を行い十四日に慶成宴を行い、これがこの一年の政治の始めとなるが、その日は出ないで二十五日にいたって後行った。臣が中国人と話し時事を訪ねると口を覆って逃げた。

 

○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

 

4234、
賊倭を捕斬した人に対する論賞及び義州等の措置のことを議論する。

○命議賊倭捕斬論賞及義州等處措置事。三公、府院君、兵曹、禮曹同議: "李宗仁特加一級,遣宣慰使, 設宴慰之。其士卒功勞, 竝令等第以聞, 賊倭所持刻名長箭,令其道都事,觀刻名,推問以啓。遼東等處不靖, 則我國不可不爲之慮。下書于平安道觀察使、節度使, 探問聲息,以爲防禦。"

命じて賊倭を捕斬の論賞及び義州等の所の措置のことを議論させた。三公、府院君、兵曹、礼曹も一緒に議論した、「李宗仁特に一級を加え宣慰使を派遣し設宴して慰問する。その士卒の功労は皆等第して知らせよ、賊倭の所持する名を刻んだ長箭はその道の都事に命じて刻名を見させ推問して奏上させる。 遼東等のところが安定しないと我が国はこれのために心配しないと言うことは出来ない。平安道観察使、節度使に書を下して様子を探問させて、防御させる。」

4235
政院が切った倭人の頭を三浦の倭人に梟首してすぐに見せようと求める論議するようにした。
○政院啓曰: "李宗仁斬送頭十七, 梟示三浦倭人, 因語之曰:‘賊五船, 寇全羅道, 一船見獲斬首。爾等見面目, 如有所知者, 告其餘黨。’東平館有一, 自稱海賊將子孫。請竝示之。" 命議之。
政院が奏上して言った、「李宗仁が斬送した倭の頭十七個を三浦の倭人に梟示にてそれで言う、「倭賊の五船が全羅道を侵攻して一船が捕獲されて斬首した。あなた等で顔を見てもし知った者があったらその余党を告げよ。」東平館に一人の倭人がいて海賊の子孫だと自称した。それにも見せることを求める。」命じて議論させた。

4236、

領議政柳洵永嘉府院君 金寿童交城君 盧公弼等議: "頭梟示三浦當矣。 然若非三浦之倭, 雖梟示何益? 且倭常寇邊, 而梟示不常, 則反示戌邊之疎。 當於敬差官之行, 以言語開說可也。" 左議政朴元宗、右議政柳順汀、兵曹判書金應箕議: 與政院之啓同。 傳曰: "凡事耳聞, 與目覩不同。 倭奴雖忘生輕死, 必有驚竦之心。 其令馳驛而送, 梟示之。"
領議政柳洵永嘉府院君金寿童交城君盧公弼等が議論した、「倭人の頭を三浦に梟示するのは当然だ。しかし三浦の倭人でないと梟示しても何の利益があるか。また倭人は常に辺境を侵略するが、梟示が常でないとかえって辺境の守りがおろそかなことを示す。敬差官が行ったときに言葉で開說するのがよい。」左議政朴元宗、右議政柳順汀、兵曹判書金応箕が議論した、与政院の奏上も同じだった。伝教して言った、「およそ事は目で見るのと耳で聞くのとは同じでない。 倭奴は命を忘れ死を軽く見ると言うが必ず驚竦の心がある。命じて駅馬を走らせて送り梟示せよ。」

4237、

江原道鐵原安峽, 地震。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月5日(丙寅)

○丙寅/御朝講。

●〔省略〕。

○御晝講。

●〔省略〕。

○御夕講。

●〔省略〕。

○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

捕獲した倭船の銃筒と長箭に刻まれた名前の出処を推問して奏上させる。
○傳曰: "
李宗仁捕獲倭船, 所有銃筒及長箭, 或書南海, 或書馬島, 或書人姓名。 是必慶尙、全羅兩道沿邊各浦作賊所得, 而邊將匿不以聞也。 箭刻人名, 謄寫下送, 令推問出處以啓。"

●伝教して言った、「李宗仁が捕獲した倭船が所有する銃筒及び長箭は或いは南海と書き或いは馬島,と書き或いは人の姓名を書く。これは必ず慶尙、全羅両道沿辺の各浦が賊の所得となしたのを辺将が隠して知らせなかったのだ。箭に刻まれた人名を謄写して下送し命じて出所を推問させて奏上させよ。

4238、
中宗4年(1509年)4月6日(丁卯)
殿試を行い文科は生員
金正国等十八人を武科は申胤衡等十六人を取る。
○丁卯/行文、武科殿試。文取生員
金正國等十八人, 武取申胤衡等十六人。

●〔省略〕。

大內が犯染して拝陵が済まないので来秋に延期して行うと伝教する。
○傳于政院曰: "大內犯染, 拜陵未安。今日二十日前, 則犯染未久, 二十日後, 則日候太暖, 可於來秋退行。" 政院啓曰: "拜陵之擧, 前日命下還停者累矣。今則諸事已備, 若嫌犯染, 請以來月初擇行。" 傳曰: "丁卯年四月將拜陵, 政丞以踏損禾穀止之。四月尙然, 況五月乎?"
●政院に伝教して言った、「大內が犯染して拝陵が済まない。今日の二十日前は犯染がまだ長くなく二十日後は天気がとても暖かいから来秋に延期して行うべきだ。」政院が奏上して言った、「拝陵の挙行は, 前日命が下りまた停止するのは煩わしい。今は諸事がすでに整った、もし犯染を嫌うなら来月初めを選んで行なうのを求める。」伝教して言った、「丁卯年四月拝陵しようとすると政丞は稲分で痛めるというので止めた。四月でもそうなのだから、ましたて五月はなおさらだ。」

4239、
○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月7日(戊辰)
政院拝陵する準備がすべて揃ったから5月初を選んで行うとする。
○戊辰/政院啓曰:"禾苗踏損之弊雖大, 橋梁、道路諸事已備。今若停行, 其弊尤大。人君卽位, 卽謁陵寢, 禮也, 宣陵尤宜速謁, 而今又命停。來秋有故, 亦未可知, 今夏不爲, 來秋不爲, 又明春不爲, 則二三年間, 豈能遍謁諸陵? 犯染世俗所忌, 非禮文所載。但七日戒三日齋而已, 雖以俗忌觀之, 改朔則爲之不妨, 請於五月初擇行。"

戊辰、政院が奏上して言った、「禾苗踏損の弊は大きいが、橋梁、道路の諸事は既に備わった。今もし停止したらその弊害は大変大きい。人君が卽位してすぐに陵寢を拝謁するのは礼だが、宣陵は最も早く拝謁すべきなのに今また停止を命じる。来秋事故があるかはわからないし、今夏せず来秋せず、また明春しなかったら、二三年間どうして諸陵をあまねく拝謁できようか。犯染は世俗の忌むところだが礼文には載っていない。ただ七日戒めて三日斎戒するだけだ、俗忌から見ても、月が変わればかまわない、五月初めに選んで行うことを求める。

4240
傳曰:"近來屢停拜陵, 政院以爲未便, 此意甚當。避忌犯染, 雖非禮文所有, 俗忌亦不可不從。且來月, 則非徒農時, 雨水無節。若定日而又停之, 則其弊尤大, 以來秋退定似可矣。 
文昭延恩殿則便易,當親行端午祭。"

伝教して言った、「近ごろしばしば拝陵を停止するのを政院は穏便でないとするが、この意見ははなはだ当を得ている。犯染を忌避するのは礼文にあるのではないが俗忌も従わざるを得ない。また来月だとただ農時でないだけでなく、雨に節度がない。もし日を定めてまた停止したらその弊害は最も大きい、来秋に延期すると決めるのが良いようだ。 文昭延恩殿はちょうど良いから自ら端午祭をおこなうであろう。」

4241、
台諫が拝陵の事、雑職の司果及び教授の分館、女楽の廃止問題を奏上する。
○臺諫啓前事, 又啓曰: "今停拜陵, 未知其由。人君卽位之初, 先謁宗廟, 次及陵寢, 禮也。 而遷延不行, 四年于玆, 今諸事已備, 而又命停之。夫陵寢先王托體之地, 嗣王不可不亟謁。" 諫院啓曰:"今之士習, 躁進成風。或除敎授, 或屬忠順衛、忠贊衛, 因經司果, 及登科第, 則例授參上之職。 由是士習益壞, 居館無人。 請自今以後, 雜職司果及敎授, 一切分館。
台諫が前のことを奏上し、また奏上して言った、「今拝陵を停止するのはその理由がわからない。人君が卽位の初め先ず宗廟を拝謁し次に陵墓に及ぶのは礼だ。しかし遷延して行わなかったが、四年たって今諸事が既に備わったが、また停止を命じた。そもそも陵墓は先王が体を託すところだ、王を嗣いだものはすぐに拝謁しないわけにはいかない。」諫院が奏上して言った、「今の士習は早く昇進するのが風潮になった。或いは敎授に叙任され或いは忠順衛、忠賛衛に属して司果を歴任し、科第に受かるに及ぶと、例として参上の職を授ける。 このために士習はますます壊れ成均館に人がいない。これからは雑職司果及び敎授は一切分館させることを求める。

4242、
昨日於
慕華館, 將用女樂, 臺諫啓止之。夫女樂, 自先王朝有之, 不可遽革。其於臨群臣、接使臣、享外人及正殿郊外, 皆不可用, 唯於庭, 可用之也。國家一遵華制, 而獨女樂一事不去, 中朝使臣觀之, 不幾於見笑乎? 厥數亦猥多, 請量減之。"傳曰:"拜陵迨今未行, 予豈安心? 但獻官犯染, 亦遞之, 況爲祖宗, 親行大事乎? 來月則踏損田穀, 而雨水亦無節。 私船久留, 其弊甚大, 故停之。 文昭延恩殿, 欲於端午親祭矣。女樂雖革之可矣。但自祖宗朝有之, 至於接待中朝使臣, 使臣雖或拒之, 稱國俗, 設以誤樂之故, 因用之於外庭及 野人宴享之時。 近有欲革者, 收朝議因存之。存之則不可用於此, 而廢於彼。 儒生雜職事, 已有禁令, 今可申明。 餘不允。"
昨日慕華館で女楽を用いようとしたが台諫が奏上して止めた。だいたい女楽は先の王朝からあって急にはやめられない。群臣に臨むとき、使臣に接するとき、外人を饗応するとき及び正殿と郊外で、皆用いられず、ただ庭で用いられる。国家は一に中国の制度に従うが、ただ女楽の一事だけは捨てられないが、中国の使臣が見たら笑われるに近いのではないか。その量もみだりに多い、量を減らすことを求める。」伝教して言った、「拝陵は今に及んで行わないが、予はどうして心穏やかであろうか。ただし献官が犯染しまた替えたし、まして祖宗のために自ら行う大事だろうか。来月は田穀を踏損うし、雨水も節度がない。私船を久しく留めるのはその弊害が甚大だ、それで停めた。文昭延恩殿は端午に親祭しよう。女楽やめるのがよいと言うが、ただし祖宗朝から有る中国の使臣を接待するに至って、使臣が或いは拒絶しても国俗と称して設して誤楽したのだし、それで外庭及び 野人の宴享のとき用いた。近くやめようとしたが朝議で収めて存続した。存続するのなら此所で用いてあっちでは用いないことは出来ない。儒生の雑職のことは既に禁令がある、今くりかえし明言すべきだ。ほかは允許しない。」

4243、
中宗4年(1509年)4月8日(己巳)
〔省略〕
○己巳/
柳涇聞囚命之下, 卽逃。
●己巳、
柳涇が閉じ込めよという命令が下ったと聞いてすぐ逃げた。


4244、
台諫
習の早急さを奏上し、儒生の分館と参上叙用の抑制を求める

○臺諫啓前事, 憲府又啓曰: "近來士習不美, 爭屬忠順衛、忠贊衛敎授, 乃至出身, 以經六品, 例授參上職, 故人皆志於躁進。非四十以後入屬者, 雖經司果敎授,請一切分館。
台諫が前のことを奏上し、憲府がまた奏上して言った、「近来士習が美しくなく争って忠順衛、忠賛衛教授に属して,出身のことに及ぶと六品を経たら例として参上職を授かるから人は皆躁進を志す。四十以後に入属した者でなければ、司果、教授を経ても一切分館することを求める。

4245、
《大典》內:‘資窮者准職。’此謂東西班有踐歷者也, 豈知弊至於此? 雖資窮者, 無踐歷之實, 則降授例也。忠順衛敎授, 則四十歲以上者許屬, 已有前例。其餘忠義衛、忠贊衛、族親衛等, 亦依忠順衛例, 冒年六品者, 登第後請勿敍參上職。今之赴殿試者, 資窮者多, 宜速處置。" 傳曰:"士習、女樂等事, 令府院君以上議之。餘不允。"
『大典』の中に、「資窮者は准職する。」とある。これは東西の班には経歴を践んだ者がいるということだが、どうして弊害がここに至るのがわかるだろうか。資窮者でも経歴を践んだ実績がなければ降授するのが例だ。忠順衛の教授は四十歲以上のもは所属を許すというのは既に前例がある。そのほか忠義衛、忠賛衛、族親衛等も忠順衛の例により年齢を冒して六品の者は登第後に参上職を任命しないよう求める。今の殿試に赴く者は資窮者が多い、速く処置するべきだ。」伝教して言った、「士習、女楽等のことは府院君以上に命じて議論させよ。ほかは允許しない。」

4246、
○江原道 鐵原、安峽, 地震。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月9日(庚午)

台諫が逃げた柳涇の録案と息子柳営元の宣伝官交替を求める。
○庚午/臺諫啓前事, 不允。憲府又啓曰: "
柳涇犯贓而逃, 法當錄案, 子孫禁錮。 其子營元, 請遞宣傳官。"傳曰:"可。"
●庚午、台諫が前のことを奏上したが、允許しなかった。憲府が又奏上して言った、「
柳涇は贓罪を犯して逃げた法は録案に相当し、子孫は禁錮すべきだ。その子営元は宣伝官を替えることを求める。」伝教して言った、「そうせよ。」

4247、
中宗4年(1509年)4月10日(辛未)

○辛未/受常參。聽朝啓。御朝講。掌令金安國、正言柳沃, 論啓前事, 不允。

●〔省略〕。
任浩を改正し、私賎の金桂善の原従功臣を削除せよと伝教する。
○傳曰: "朝講臺諫所論任浩, 可改正。 
金繼善, 以私賤, 托稱司僕寺奴, 錄原從功臣, 可削之。"

●伝教して言った、「朝講で台諫が論じた任浩は改正するはずだ。金繼善は私賎で司僕寺の奴と託称して原従功臣の録した、削除せよ。」

4248、
憲府が尹亀禎等八人は習読官を兼ねて忠順衛に属したから罷職させようとする。
○臺諫將前事, 再啓不允。 憲府又啓曰: "尹龜禎等八人, 【龜禎、南有溫、鄭寶、朴春陽、李菀、金荊寶、崔良輔、朴昌祖。】 以訓鍊院習讀官, 兼屬忠順衛習讀, 則三十朔爲一資, 忠順衛仕滿九十爲一加。 故以習讀, 潛屬忠順衛, 其用心不正。 臣等所知止此, 令兵曹盡摘改正後, 竝罷職。" 傳曰: "問諸兵曹。"

台諫前の事で再度奏上したが允許しなかった。 憲府がまた奏上して言った、「尹加禎等八人は、【亀禎、南有温、鄭宝、朴春陽、李菀、金荊宝、崔良輔、朴昌祖。】訓練院習読官で忠順衛習読を兼属したが、三十朔を一資とし、忠順衛は出仕して九十日を満たせば一加となる。だから習読でひそかに忠順衛に属した。その心使いは不正だ。 臣等が知るところはここまでなので、兵曹に全部摘発させ改正したあと、みな罷職させよ。」伝教して言った、「兵曹に問え。」

4249、

中宗4年(1509年)4月11日(壬申)

朝参を受け、朝講で輪対を聴く。 曺潤孫、女楽、儒生雑職の事を議論させる。
○壬申/受朝參, 御朝講, 聽輪對。傳曰: "
李友曾職次相當, 猶可赴任, 若曺潤孫等, 則時方被駁, 難於就職。今防禦事緊, 如此空鎭可乎? 其議諸三公與府院君以上。 女樂, 令中外盡去可也。然於中朝使臣燕享, 亦以國俗, 言而用之, 不可全革也。 但進豐呈時, 亦自有數, 於元數, 或減半, 或減三分之一何如? 儒生雜職事, 亦竝收議。"

●壬申、朝參を受け朝講に出輪対を聴いた。伝教して言った、「李友曾は職次相当なので赴任はよいが、曺潤孫等のようなのは今まさに論駁されていて就職はむつかしい。今防御のことが緊急だがこのような空鎮でよいのか。三公と府院君以上で議論せよ。女楽は中外ことごとくやめさせるのがよい。しかし中朝の使臣の燕享、また国俗と言って用いるのは全部やめることは出来ない。ただし進豊呈のときは、また自ずから数がある、元数において或いは半減或いは三分の一減はどうか。儒生雑職のことは、またみな収議せよ。」


4250、

三老五更を行うと伝教する。
○傳曰: "橫經問難,養老乞言, 眞帝王盛事。在
成宗朝, 橫經問難, 則已行之矣, 唯三老、五更未得其人, 有志未行。今欲行之, 但未知今之老師、宿儒, 可爲三老、五更者, 有幾人歟。" 政院啓曰: "橫經問難, 養老乞言, 果是盛擧也。上雖不命, 在下者固當請行, 今上敎如是, 臣等知聖心之至也。今日政府大臣與禮曹, 皆會賓廳, 請議之。昔漢 明帝, 以李躬爲三老, 以桓榮爲五更。 若年德俱尊, 則雖一二人猶可。"

●伝教して言った、「経書を通じた難問を尋ね、老人を養って助言を請うというのはまことに帝王の盛事だ。成宗朝にあって、経書を通じた難問を尋ねということは、既に実行したのだ、ただ三老、五更はまだその人を得ないので志はあるがまだ実行しない。今行いたいが、ただ今の老師、宿儒で三老、五更となるべきものは幾人いるのか知らない。」政院が奏上して言った、「橫経問難養老乞言ははたしたこれは盛挙だ。上が命じなくても下にあるものはまさに実行を求めるべきだ、今、王の教示がこのようで臣等は聖心の至りを知る。今日、政府の大臣と礼曹は皆賓庁に会させて議論することを求める。昔、漢の明帝李躬を三老とし桓榮を五更とした。もし年と徳が共に尊ければ一二人でもやはりよい。」

 

4251、
○御晝講。

●〔省略〕。

○御講。

●〔省略〕。

政府と礼曹判書が臨雍拝老は拝陵の後行うのが妨げがなくてよい。
○政府與禮曹, 同議啓曰: "臨雍拜老, 眞帝王盛事。然若行此禮, 則亦須取人, 今豈可更爲別試乎? 前幸學謁聖, 而唯未行者拜陵也。待秋拜陵後, 臨雍之禮, 以此行之, 無妨。"
●政府と礼曹が共に議論して奏上して言った、「臨雍拝老はまことに帝王の盛事だ。しかしもしこの礼儀を行ったらまた人を取らねばならない、今どうして更に別試を行うか。前にすでに太学に行幸して聖人に拝謁したが、ただまだ拝陵はやっていない。秋を待って拝陵したあと、臨雍の礼儀は行っても妨げがない。」

4252、
朴元宗・柳順汀が辺鎮は留守にできないから熊川などの所の守領を早く送らせる。
朴元宗柳順汀啓曰: "熊川等處守令, 以被駁, 未得赴任。今防禦事緊, 其堂上之加, 赴任後猶可改正, 邊鎭不可久空。臺諫非論其人物不合, 只論其濫爵耳。若今日命召, 令明日發行, 則上敎與臺論, 有輕重, 故不得不發行。且命促遣者, 亦成宗朝故事也。"

朴元宗柳順汀奏上して言った、「熊川等の所の守令は駁されてまだ赴任できない。今、防禦のことは緊急で、堂上の加資は赴任後でも改正できるが、辺境の鎮は長く空に出来ない。台諫はその人物の不適を論じたのではなくただその濫爵を論じただけだ。もし今日命じて召し明日行かせれば上教と台諫の議論とは軽重があるから行かせないわけにはいかない。また命じて早く行かせるのも成宗朝の故事だ。

4253、

橫経問難と臨雍、拝老等のことを礼曹判書で節目を調べて奏上せよと伝教する。
○傳曰: "橫經問難, 臨雍拜老等事, 令禮曹考節目以啓。"

●〔省略〕

4254、
台諫が、赴任した堂上官の加資をすぐに改正する問題は不当な議論だ、とする。
○臺諫啓前事。 傳于承政院曰: "三浦邊將事, 其以今日諸宰之議, 示臺諫。女樂事, 亦不允。" 臺諫復啓曰: "邊鎭久空, 當促遣之。然官爵猥濫, 不可不改正。大臣謂,‘赴任後亦可改正。’者, 此尤不當之論也。前者
崔三俊爲慶源府使, 金琦爲高嶺僉使, 臺諫請奪其堂上加資。大臣謂:‘旣已赴任, 爲野人所見, 不可追奪。’今大臣亦有此計而言也。" 不允。

●台諫が前のことを奏上した。承政院に伝教して言った、「三浦の辺将のことは、今日の諸宰の議論台諫に示した。女楽のことは、また允許しない。」台諫がまた奏上して言った、「辺境の鎮は長く空虚だ、促して派遣すべきだ。しかし官爵の猥濫は改正しないわけにはいかない。大臣が言った、「赴任後また改正すべきだ。」というのは、此は最も不当な論だ。前に崔三俊が慶源府使となり、金琦が高嶺僉使となり、台諫はその堂上の加資を奪うことを求めた。大臣は言った、「すでに赴任し野人に見られたので追奪はできない。」今大臣はまたこの計画があって言う。」允許しなかった。


4255、
金寿童等が儒生の分館問題、女楽、習読官が忠順衛に属した事について奏上する。
金壽童朴元宗柳順汀成希顔閔孝曾李季男李蓀金應箕李諿尹金孫辛允武申用漑鄭光弼李坫金詮議: 《大典》云: ‘外敎官, 試年四十以上者。’ 《續錄》云: ‘儒生年四十以上者, 許屬忠順衛、忠贊衛。冒年入屬者, 永停擧。’受敎以爲: ‘冒屬者, 雖經參上職而登第, 降屬四館。’立法已詳, 今宜申明糾察, 族親衛可依右例施行。

金寿童朴元宗柳順汀成希顔閔孝曾李季男李蓀金応箕李諿尹金孫辛允武申用漑鄭光弼李坫金詮が議論した、「『大典』に言う、「外教官は四十歳以上のものを試験する。」『続錄』に言う、「儒生の四十歳以上のものは忠順衛、忠賛衛に属することを許す。年を冒して入属するものは永く停挙を停止する。」示教を受けて、「冒属するものは参上職を経て第しても四館に降属する。」 立法はすでに詳しい、今繰り返し明らかにして糾察すべきだ、族親衛は右の例によって施行すべきだ。

4256、

但忠義衛, 則功臣子孫例屬, 不可限年。若業儒而不專於學, 自少入屬, 隨番出入, 爲躁進之計者, 雖實行六品, 亦宜分館。且階窮者授准職, 自有《大典》之法, 今不可別立他條。 但該曹於除授時, 視其踐歷多少, 量宜除授爲當。 女樂雖非正樂, 然我國家自祖宗朝, 用之已久, 仍舊無妨。"又議: "訓鍊院習讀官, 兼屬忠順衛, 竝用其仕, 濫授加資, 果甚不當。 但因循爲例, 授階者多, 且經赦宥, 今不可一一追論。竝罷其職, 只改濫授之加爲當。"命竝依議施行。

ただし忠義衛は功臣の子孫が属するのが例で年を限るべきではない。もし儒を業として学問をもっぱらにせず自ら若くして入属し番にしたがって出入りし早く昇進する計を成すものは実際に六品を行っても、また分館すべきだ。また階窮者で准職を授けるのは自ら『大典』の法があり、今別に他条をたてるべきではない。ただし該曹が除授するときその履歴をの多少を見て量って除授するのは穏当とすべきだ。女楽は正楽ではないが、我が国家が祖宗朝より用いることが長い、なお旧のままで妨げない。」また議論した、「訓練院の習読官が兼ねて忠順衛に属し並びに用いて仕え加資を濫授するのはやはりはなはだ不当だ。ただし慣行で例とし授階するものが多く、また赦宥を経て、今一一追論してみなその職を罷免させられない。ただ濫授の加を改めるのが至当だ。」命じて皆議論によって施行させた。


4257、
中宗4年(1509年)4月12日(癸)
朝講で尹耕、尹希仁が三浦守令の濫爵、金荊宝の宣伝官改正等を奏上する。

○癸酉/御朝講。司諫尹耕、掌令尹希仁, 啓三浦守令濫爵事。 希仁又曰: "金荊寶等, 今爲宣傳官, 不正之人, 不宜近侍。 請改正。" 尹耕又以女樂事啓之, 皆不允。

●癸酉、朝講に出た。司諫尹耕、掌令尹希仁が三浦の守令の濫爵のことを奏上した。希仁がまた言った、、「金荊宝等は、今宣伝官だが不正の人で近侍すべきではない。改正を求める。」 尹耕がまた女楽のことを奏上した、皆允許しなかった。

武士も儒生の例によって課試するのが正しいと言い、破陣軍問題等を議論する。

○傳于政院曰: "儒生則庭試或直赴會試及殿試, 勸奬有條, 而武士則不然, 無勸奬之意。我國三面受敵, 武才宜先肄習。業武人, 依儒生例, 課試可也。但閑良及外方人, 奔走赴試, 則恐致紛擾。"
●政院に伝教して言った、「儒生は庭試したり、或いは会試及び殿試に直赴するような勧奨条文があるが武士はそうではなく勧奨の意がない。我が国は三面に敵を受け、武才は優先して肄習すべきだ。武人を業とするひとも儒生の例によって課試するのが正しい。ただし閑良及び外方の人が奔走して赴試すると紛擾を致すのを恐れる。」

4258、

政院啓曰: "上敎至當。武班堂下官, 則試射, 閑良則無此規。請令閑良, 以片箭鐵箭試之, 直赴會試及殿試。且火炮, 倭、野人所不知, 眞破敵之具。而破陣軍, 頃於廢朝, 逃散殆盡, 傳習無人。至有以隔木, 倒衝其腹而死者。自今以後, 破陣軍, 請優給祿俸, 以勸之。凡軍器竝須鍜鍊。"傳曰: "破陣軍, 依祖宗朝例, 優給祿俸可也。武士依儒生例, 則恐致紛擾, 鐵箭、片箭, 不須用之於試場。"
政院が奏上して言った、「上教は至当だ。武班の堂下官は試射し、閑良はこの規則がない。閑良に片箭鉄箭で試させ会試及び殿試に直赴させることを求める。また火炮は倭や野人が知らないもので本当に敵を破る道具だ。しかし破陣軍は近頃廃朝で逃散してほとんどつきてしまい伝習する人がない。隔木が倒れてその腹を突いて死者が出るに至った。今から後は破陣軍は俸禄を優給して勧めることを求める。およそ軍器は皆鍛錬が必須だ。」伝教して言った、「破陣軍は祖宗朝の例によって俸給を優給するのがよい。武士は儒生の例によると紛擾を致す恐れがある、鉄箭、片箭は試場で用いるべきではない。」

 

4259、
同知中枢府事
呂允哲が卒す。
○同知中樞府事
呂允哲卒。政院啓曰: "允哲節操淸介, 國耳忘家。前任平安道節度使, 盡心防禦, 及爲全羅道水使, 慮倭奴寇邊, 長在海上。因此嬰疾, 今其卒也。家無甔石,不能歛葬。請厚賻, 以奬淸介忠勤之節。"傳曰: "考前例以啓。"政院啓曰: "前例只賻經筵官而已。"傳曰: "特異之人, 固宜殊賜。特給米太幷十五碩, 布百五十匹。" 允哲,判書自新之子。自新亦武人, 淸簡勤儉, 人謂允哲, 有乃父風。嘗牧坡州,民思遺惠, 來祭柩前。

●同知中枢府事呂允哲が卒した。政院が奏上して言った、「允哲は節操が清介で、国のことだけで家を忘れた。前任は平安道節度使で心を尽くして防禦し、全羅道水使になるに及んで倭奴の寇辺を憂慮して長く海上にあった。このため病になり今卒した。家には甔石がなく歛葬できない。厚く賻して清介忠勤の節を奨励することを求める。」伝教して言った、「前例を調べて奏上せよ。」政院が奏上して言った、「前例はただ経筵官に賻するだけです。」伝教して言った、「特異な人はもとより特例で下賜すべきだ。特に米太ならに十五碩、布百五十匹を給せよ。」 允哲は判書自新の子だ。自新も武人で清簡勤倹で、人は允哲は乃父の風があったと言う。かつて坡州を牧し、民は遺恵を思って、来て柩前に祭祀した。

4260、
○御晝講。

●〔省略〕。

大司諫
崔淑生等が三浦鎮将を命牌で促行することで避嫌する。
○大司諫
崔淑生等啓曰:"三浦鎭將濫爵事, 臣等時方論執, 而大臣啓之以命牌促行。是上導殿下以拒諫,下不有臺諫。臣等不能盡職,故事至於此,請避嫌。"傳曰:"以臺諫論執,鎭將未赴,三浦久空,慮其疎虞,問于政丞,答曰:‘成宗朝,以命牌召送有例。’云。此豈上導拒諫,下不有臺諫?其勿避嫌。"仍啓曰:"以邊方久空,促送鎭將可矣。濫授官爵,不改而遣之者非也。臺諫爲人主耳目,人主之過,所當極諫。而大臣以爲傳敎與臺論,有輕重。是大臣不有公論,爲此操弄之說也。其曰:‘赴任後可得改正。’此欲終不改之計,請推問。"傳曰:"邊方久空,故大臣慮此啓之。 不須推問。"

大司諫崔淑生等が奏上して言った、「三浦鎮将の濫爵のことは臣等が時にあたって論執するが、大臣が奏上するのに命牌で促行する。これは上では殿下を拒諫に導き下では台諫がない。臣等は職が尽くせない、それで事はここに至った、避嫌を求める。」伝教して言った、「台諫の論執で鎮将まだ赴任せず、三浦は久しく空だ、その疎虞を恐れ政丞に尋ねると、答えて言った、「成宗朝では命牌で召送するのは例がある。」と言う。これはどうして上導拒諫下不有台諫なのか。避嫌するな。」そこで奏上して言った、「辺方が久しく空で、鎮将を促送するのはよい。官爵を濫授して改正しないで派遣するのがよくない。台諫は人主の耳目で、人主の過ちは極諫すべきだ。しかし大臣は伝教と台論には軽重があるとする。これは大臣には公論がなく、このために操弄する說だ。それで言う、「赴任後に改正出来る。」これは不改の計で終わらせようとするものだ、推問を求める。」伝教して言った、「辺方は久しく空で、それで大臣は心配して奏上した。推問すべきではない。」


4261、
礼曹判書が臨雍拝老、橫経問難の儀式を奏上するので広く参考にして折衷して奏上せさせる。
○禮曹考漢 
明帝臨雍拜老橫經問難之儀以啓。傳曰: "博考諸書及《五禮儀注》, 與大臣議之,折衷今古以啓。"

●礼曹が漢の明帝の臨雍拝老、橫経問難の儀式を調べて奏上した。伝教して言った、「広く諸書及び『五礼儀注』を調べ大臣と議論し古古を折衷して奏上せよ。」

4262、
大司憲権弘等が命牌で辺将を催促して送った大臣を推問しよう奏上する。
○大司憲
權弘等啓曰:"大臣以爲: ‘臺諫雖論執, 而以傳敎促遣, 則固有輕重。’臣等聞之,不勝駭愕。成宗朝雖有此事,出自宸衷,非大臣導之也。請推大臣。"傳曰:"爵賞雖似猥濫, 而大臣建議,爲鎭邊措置,何至推問? 邊將亦臨行,不可改正。且事有不得已,則濫爵不足計之,何必改正?"臺諫合辭啓曰:"臣等非以大臣失於措置。時方論劾,而啓上以命牌促往,是不有臺諫,而啓人主拒諫之漸,故欲推之耳。"累啓不允。

●大司憲権弘等が奏上して言った、「大臣の考えでは「台諫が論執しても伝教で派遣を促せば固より軽重がある。」と。臣等はこれを聞いて驚きに堪えない。成宗朝ではこのことがあっても王の心から出るものであって大臣が導くのではない。大臣を推問することを求める。」伝教して言った、「爵賞は猥濫のように見えるが大臣が建議して鎮辺のために措置した、どうして推問までするのか。辺将も臨行するから改正できない。また事はやむを得なければ濫爵は計算することはない、どうして改正する必要があるか?」台諫が合辞して奏上して言った、「臣等は大臣が失敗して措置したというのではない。時まさに論劾しているのに、王に奏上して命牌で行くのを速めるのは台諫を無視したもので、王の拒諫の兆しだとして、推問しようとしたのだ。」重ねて奏上したが允許しなかった。


4263、
礼曹判書で対馬島敬差官尹殷輔が持って行く事目を書啓する。
○禮曹以對馬島敬差官
尹殷輔䝴去事目書啓云:"貴島之人,初投三鎭,姑留六十戶。年紀寢遠,生齒漸繁,非但其地狹隘,奸細之徒, (孽牙)〔孽芽〕 其間,冒法干紀者,往往有之。故前世累移書貴島,令皆刷還。足下之先祖父,亦知初約,皆聽順無違。
●礼曹が対馬島敬差官
尹殷輔が持って行く事目を書啓して言った、「貴島の人は初め三鎮に来たときしばらく六十戸を留めた。年紀がどんどんたって人口がだんだん増え、ただその地が狭いだけでなくたちの悪いものどもがその間に芽生えてきた法規を犯すことがままある。それで前の世に重ねて貴島に移書し皆送り返した。足下の先の祖父も初めの約束を知っていて皆素直に従い違反はなかった。

4264、
遷延事故, 未及擧行,迄今遂成滋蔓。不念卵育之恩,漸長驕傲之心,其橫恣之狀,近日尤甚。去丁卯夏, 因平時羅還, 具由通諭, 至今不報。無乃中間, 匿不以傳耶? 抑足下雖獲書, 而慢不加意耶? 亦將經營尋捕而未及耶? 倭奴因此狃於無懲, 日益驕橫。去戊辰冬, 又値熊川縣人, 取材于加德島, 群倭乘其不意, 殺害九人, 衣糧器物, 盡奪而去。

遷延したのでまだ挙行に及ばない、今までで遂にはびこった。卵育の恩を思わずに、ようやく驕傲の心を増長させた、その橫恣の状態は近日最も甚だしい。去る丁卯の夏、平時羅の帰還により、事由を添えて通諭したが今に臻も報じない。中間で隠して伝達しないのではないか。そもそも足下は書を得ても慢然として意を加えないのではないか。また経営して尋ね捕らえようとしてまだ及ばないのか。倭奴はこのため懲罰の無いのが癖になり日々に驕橫を増す。 去る戊辰の冬、また熊川県人が罪を加徳島で取るのを見て群倭はその不意に乘じ九人を殺害し、衣糧器物を全部奪って去った。

 

4265、

又於今年三月二十日, 濟州人載貢馬而來,將泊于甫吉島, 倭船五隻竊發, 賊害六人,刃傷十餘人,所持衣服糧物及牒文,皆刦取。邊將追擊一船,勦殺十七人,其奪去物件及牒文,俱得無遺,餘船四隻,則躱脫而走,未及尋捕。是必三浦倭人,或貴島居倭所爲。如此之徒,在我國,爲負恩之賊,在貴島,爲賣主之奸。

また今年の三月二十日済州の人が貢馬を載せて来て甫吉島に泊まろうとすると倭船五隻がひそかに発船六人を賊害し十余人を刃傷し所持した衣服糧物及び牒文を全部掠奪した。辺将が一船を追擊し十七人を勦殺しその奪い去った物件及び牒文をすべて得た、のこり四隻は脱出して走りまだ尋捕できない。これは必ず三浦の倭人、あるいは貴島に住む倭人の仕業だ。 このような輩が我が国にあって恩を負った賊となり貴島では主人を売る奸人となる。

 

4266、

足下所當驚心惕慮, 且思彼此利害, 急捕加德島、甫吉島賊倭等, 一一抵罪, 以著足下向國之誠, 戢下之威, 不勝幸甚。 如其不爾, 三浦居倭, 亦依先世舊約、 六十戶外, 竝皆刷還, 毋令奸細, 作慝搆釁, 爲萬世永好之道, 不亦善乎? 夫(少)〔小〕 之事大, 當以誠無僞。 足下居國東邊, 世修隣好, 凡遠人欺詐之事, 宜審察以通, 使毋容僞。

足下はまさに驚き恐れなければならないが、また彼此の利害を思い、急ぎ加徳島、甫吉島の賊倭等を捕らえ一一罪にあてて、足下の国への誠をあらわせば鎮圧の威厳となり幸甚に堪えない。もしそうでなかったら三浦に居る倭人は、また先世の旧約により六十戸以外は、皆刷還し、奸細なものに私事をなして不和をさせないようにすれば万世永好のとなりまた善いではないか。そもそも小が大に仕えるには誠をもってし偽りの無いようにすべきだ。足下は国の東辺にいて世々隣好を修め、およそ遠人の欺詐のことは審察して通知して偽りを受け入れないようにすべきだ。

 

4267、

第念遠地居人, 受圖書距今已踰五十餘歲者頗多。 初受國書時, 雖年僅三四十歲者, 計今壽亦不下八九十, 其中死亡必多, 而歲遣不絶, 是亦中間奸人所行詐也。 足下何不審察, 而猶給文引以通耶?"
遠地の居住民を思うに、図書を受けて時間のたつこと今既に五十余歲を越えるものが非常に多い。初め図書を受けたとき年わずかに三四十歲だったもので、今の年齢を数えると、また八九十をくだらない、そのうち死んだものが必ず多いが、年ごとの贈り物が絶えない、これも中間の奸人がだましているのだ。足下はなぜ審察しないでなお文引を給して通じるのか。」


4268、
○御夕講。

●〔省略〕。

釜山浦僉使
李友曾、塩浦万戸李珣、熊川県監曺潤孫が拝辞する。
○釜山浦僉使
李友曾、鹽浦萬戶李珣、熊川縣監曺潤孫拜辭。

●〔省略〕。


4269、
中宗4年(1509年)4月13日(甲戌)

領中枢府事朴安城が病気の時薬を下賜されて死ななかったと謝恩する。
○甲戌/領中樞府事
朴安性啓曰:"臣得病時,蒙賜藥餌,以至不死,今則試步可行。故敢來謝恩。"傳曰:"其勿謝恩。"命賜酒。

●甲戌、領中枢府事朴安性が奏上して言った、「臣が病を得たとき薬餌を賜って死から免れ、今は試し歩きが出来る。それであえて来て謝恩する。」伝教して言った、「謝恩するな。」命じて酒を賜った。

○臺諫合司, 以請推大臣及
曺潤孫等加資改正事, 極論之, 竝論金荊寶等事。不允。

●〔省略〕。

4270、
庭試で首席だっt儒生 孫洙に四分を給し、次席だった
金庾信に柳文一件を賜った。
○庭試儒生, 孫洙居首, 給四分。 
金庾信居次, 賜柳文一件。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月14日(乙亥)。

○乙亥/臺諫累啓前事, 不允。

●〔省略〕。

 

中宗4年(1509年)4月15日(丙子)

兵曹が武士を勧奨する方法は最良であるから侍衛軍士だけ才を試験させる。

○丙子/兵曹啓曰: "武士勸奬, 與儒生不同, 雖不摘奸, 春秋都試給仕, 中日習射給箭竹, 歲抄通計, 別仕受職, 勸奬之道至矣。" 傳曰: "閑良竝試之, 則必致紛擾。 其令侍衛軍士試才。"

●丙子、兵曹が奏上して言った、「武士の勧奨は儒生と同じではない。摘奸しないとしても春秋の都試に給仕し、中日の習射は箭竹を支給し、歲抄に別仕受職を通計する勧奨の道は最良だ。」伝教して言った、「閑良は一緒に試験すると必ず紛擾をきたす。侍衛軍士だけを試才せよ。」

4271、
○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

司憲府が陽根崔致亨の家が失火したことで行台の派遣、佐郞南褒の推考を求める。
○司憲府啓曰:"風聞楊根居幼學
崔致亨, 身死已久,其老母獨居。一日其家失火, 燒死骸骨無餘,而奴僕自在,無燋爛之狀。雖無情而不救火, 固當有罪。況若有情, 則罪不容誅。事涉於疑,請遣行臺推鞫。

●司憲府が奏上して言った、「うわさでは楊根に住む幼学崔致亨は死んで既に久しく、その老母が一人で住んでいる。あるひその家が失火して焼死し骸骨もなかったが、奴僕は生きていてやけどのあともない。故意でなくとも火事で救わなければもとより罪があるべきだ。まして故意があれば罪は容赦されない。事は疑わしいから行台を派遣して推鞫することを求める。

4272、
禮曹佐郞
南褒, 積材木於積城士族家近處, 令女奴守之。 女奴爲其家奴妻。 一日女奴報曰: ‘材木爲野火所燒。’ 欲徵于士族家, 呈狀刑曹, 移文積城。 士族家孀婦, 方在衰服, 縣監囚牢獄, 至四十餘日云。 請令楊根下去行臺, 竝推積城縣監, 而刑曹及南褒, 以本府推之。" 傳曰: "可。"

礼曹佐郞南褒が材木を積城の士族の家の近所に置き女奴に守らせた。女奴はその家の奴の妻だ。ある日女奴が報じて言った、「材木は野火で焼けた。」は士族の家から徴発しようとして状を刑曹に呈し積城に公文書を送った。士族の家の寡婦がちょうど衰服していたが県監牢獄に閉じ込め四十余日に至ったという。楊根を行台に行かせ、一緒に積城の県監を推問させて、刑曹及南褒は本府で推問することを求める。」伝教して言った、「そうせよ。」

4273、

副提学李世仁等が曺潤孫等を名入り札で催促して派遣することを議論する。
○副提學
李世仁等啓曰: "以曺潤孫等事, 臺諫、侍從, 方論而不允, 已爲拒諫。大臣又從而進發牌促遣之言, 其引君當道者, 果如是乎? 建議旣誤, 而又加箝臺諫之口, 使不得言, 此近古所無之事。臺諫所啓甚當, 當速聽納。" 傳曰: "彼三人堂上, 非無名而濫加也, 爲邊事也。其後大臣, 擧成宗朝故事, 促令赴任者, 以邊方虛疎故也, 何以推之? 彼守令者, 亦皆發程, 又何更改? 政令不可如是煩數也。"

●副提学李世仁等が奏上して言った、「曺潤孫等のことで台諫侍従がまさに議論したが允許しなかったが、すでに拒諫だ。大臣がまた従って牌で促遣する言を進発したが、人君を引いて道にあてるものが果たしてこのようなのか。建議がすでに誤り、また加えて台諫の口をふさいで言わせないようにする、これは近古にないことだ。台諫の奏上ははなはだ当を得ている、速やかに聴納すべきだ。」伝教して言った、「彼の三人の堂上は名分もなく濫加したのではない、辺境のことのためだ。その後大臣は成宗朝の故事をあげて、催促して赴任させた辺境の虚疎の故だ、どうして推問しようか。彼ら守令も皆発程した、またどうして更改しようか。政令はこのように煩瑣であってはならない。」

4274、

中宗4年(1509年)4月16日(丁丑)

朝講で持平金漑、献納柳溥が、自ら側修して日照りの災いを和らげるようにする。

○丁丑/御朝講。持平金漑、獻納柳溥啓前事, 不允。又曰: "三月望前連雨, 土脈融淖, 不能耕種, 其後大旱, 種不入土。兩麥方茂, 而亦將枯槁。國家本非富饒, 雖一年凶荒, 必不能支。朝士頒祿則已矣, 脫有邊事, 將何以應之? 水旱之災, 所不免, 而其不爲水旱所傷者, 以有備災之道也。其在祖宗朝, 或於禁中禱雨, 請躬盡側修之誠, 以弭旱乾之災。"

●丁丑、朝講に出た。持平金漑、献納柳溥啓が前のことを奏上したが、允許しなかった。 がまた言った、「三月の前半連雨で、土脈がどろんこになり耕種できず、その後大旱で種が土に入らなかった。両麦はまさに茂っているが、また枯れるだろう。国家はもともと豊かではない、一年の凶荒でも必ず支えられない。朝士の頒祿は言うまでもなく、もし辺境に事があれば、どうやって応じるのか。水旱の災害は尭、も免れなかったが、水旱に傷められなかったのは備災の道があったからだ。祖宗朝では、或いは禁中で雨乞いをした、自ら側修の誠を尽くし旱乾の詐害を和らげることを求める。」

 

4275、
災いに備える節目を該曹に命じて用意して奏上させるようにする。
○政院啓曰: "持平
金漑啓, 近有旱徵。 宜悉備災之道, 請稟。" 傳曰: "備災節目, 今該曹磨鍊以啓。"

●政院が奏上して言った、「持平金漑が奏上した、近ごろ日照りの兆候がある。備災の道を尽くすべきだ、稟を求める。」伝教して言った、「備災の節目は該曹に命じて用意して奏上させる。」

4276、
台諫が合司で
曺潤孫等を催促して赴任させたことで大臣を推問しようとする。
○臺諫合司論
曺潤孫等事曰: "傳敎以爲: ‘大臣憂慮邊事, 爲之措置耳。’ 臣等則曰: ‘不然。’ 實爲備邊措置, 則一般邊將, 而東萊縣令金友曾, 曾已除授, 未聞催促赴任。 獨於李友曾等三人, 方被臺諫之時, 親啓促送, 是欲固執己意, 沮抑公論, 使諫諍之路杜塞而然也。 其於國家設臺諫之意何哉? 請勿饒大臣, 速推之, 使之懲艾。" 又論金荊寶等事, 不允。

●台諫が合司で曺潤孫等のことを議論して言った、「伝教して、大臣は辺境を憂慮してそのために処置しただけだ、とし、 臣等はそこで言った、そうではない、と。実際辺境の備えのために処置したのなら、一般の辺将だが、東萊県令の金友曾,はすでに除授したが催促して赴任させたとは聞かない。ただ李友曾等三人だけが、まさに台諫が言っているときに親しく奏上して促送するから、これはかたく自分の考えに固執して公論を抑え諫諍の道をふさごうとしてするのだ。そもそも国家が台諫を設置する意味は何か。大臣を許さず速やかに推問して懲戒することを求める。」また金荊宝等のことを議論したが允許しなかった。

4277、
繕工監提調
閔孝曽沈貞等が昨日営繕所で摘奸したことで待罪する。
○繕工監提調
閔孝曾沈貞等啓曰: "營繕六十餘所, 故始役已久, 至今未得斷手。 是臣等未能董役之所致, 待罪。" 【昨日營繕處摘奸故也。】 傳曰: "勿待罪。"

●繕工監提調閔孝曽沈貞等が奏上して言った、「営繕するのが六十余所あるので、やり始めてからすでに長いが今に至るまで手がはなせない。これは臣等が董役できないせいだから待罪する。」 【昨日営繕所で摘奸したからだ。】伝教して言った、「待罪するな。


○御晝講。

●〔省略〕。

○御夕講。

●〔省略〕。

4278、

災変と日照りでどう恐懼修省しなければならないかわからないと政院伝教する。
○傳于政院曰: "今見江原道觀察使
李繼福書狀, 則鐵原、安峽, 今月初四日地震云。 前有此變, 今又有旱徵, 不知某咎徵之應也。 固當恐懼修省, 而心甚未安。 何以處之?" 政院啓曰: "災變之作, 不可的指某徵。 自古帝王之於災異, 必側身修德, 轉禍爲福, 深念此意, 則自然合古之道, 而災不勝德。"

●政院に伝教して言った、「今江原道観察使李継福の書状を見ると鉄原、安峡,で今月の初めの四日に地震だという。前にこの災変があり今また旱の兆しがある、なんの咎の徴なのかわからない。もとより恐懼修省すべきだが、心ははなはだ穏やかでない。どう処置すればいいか。」政院が奏上して言った、「災変の起こるのはなんの徴と的確に指示するのはむつかしい。昔から帝王は災異に於いては必ず側身修徳し災い転じて福と成した,深くこの意を思うと、自然に昔の道に合い災災いは徳に。」

4279、
南方鎮将を催促して赴任させたことで大臣を責める副提学
李世仁等の上箚。
○副提學
李世仁等上箚曰:

南方鎭將陞堂上事, 臺諫、侍從,方論執不可, 而特命召促赴。臣等深駭殿下蔽於大臣之私執, 而廢棄公論, 至此極也。夫一人之聖智, 不能獨運, 而必資於廟堂, 廟堂之籌畫, 不必盡得, 又有言官,以爭其是非。衆議調劑, 國是乃定, 非故相爲異, 乃所以相濟也。

○副提学李世仁等が上箚して言った、「南方鎮将が堂上に昇ることは台諫、侍従がまさに不可を論執しているが特命で召して赴任を催促した。臣等は殿下が大臣の私執にとらわれたのを深く驚く、公論の廃棄はこの極点に達した。そもそも一人の聖智は単独では動かなく、必ず廟堂の助けを要し、廟堂の籌画は必ずしもすべては得られないので、また言官があり、その是非を争う。衆議が調剤されて国是がそこで定まる、故意でお互いに異見を立てるのではなく、お互いに不足な点を補うところだ。

4280、
今此事雖云大臣謀邊之策, 而深究弊端, 斷然有大不可者。 國論方騰, 咸曰可改, 爲大臣者, 固當不執己見, 務循公論。而設爲君命臺論輕重之論, 眩惑上聽, 得遂私計, 大臣之用心, 固如是乎? 上導下以言, 而不敢有其威, 下諍上以正, 而不容計其勢。此明主之含容誘掖, 長旺士氣, 而爭臣之敢言極諫, 維持紀綱者也。

今このことは大臣の謀辺の策だというが、深く弊端を極めると断然大不可のものがある。国論はまさに沸騰し,皆、改めるべきだという,大臣たるものはもとより自分の考えに固執せず努めて公論に従うべきだ。が、君命と台諫の論の軽重の議論を設定して上聴を幻惑させ私計を遂げようというのは、大臣の用心はもとよりこんなものか。上は下を導くに言葉でして、敢えて威厳をもたさず、下は争うのに正義でしその勢いを計算に入れない。これが
明主が含容誘掖し,長く士気を盛んにし、争臣があえて極諫を言って紀綱を維持するのだ。

4281、
豈可論以輕重, 使不得盡其責乎? 若不顧是非, 不恤人言, 一以君命爲重, 斷然行之而不憚, 則公論永廢, 而喪邦之源, 實兆於此, 寧不懼哉? 今也二三大臣, 托謀國之名, 建非常之議, 而陰爲施恩樹私之地。 殿下燭知其非, 而苟爲順從, 至於抑公論廢諫職, 猶不以爲意。 大臣之建議, 人主之號令, 日出而無窮, 後有所失, 雖萬萬有大於此者, 孰敢言之哉?

どうして軽重を論じてその責任を尽くさせないようにするのか。もし是非を顧みず人の言葉を思いやらず一に君命を重しとして断然行って憚らないのなら公論は長く廃れる、亡国の源は実にここに兆すどうして恐れないで居ようか。今や二三の大臣は国の謀計ににこと寄せて非常の議を立て陰で施恩をなし私地を建てている。殿下はその非をよく知り、仮にも順従して公論を抑え諫職をなくすに至るが、それでも意と成さない。大臣の建議、王の号令は日々に出て極まりがなく後に失敗する、万々一此より大きな者があっても、誰が敢えて言うだろうか。

4282、
大臣弄權之漸已著, 國家危亂之幾已萌, 臺諫坐失其職, 言不得行, 尙復何爲? 如使諫職不可廢, 宗社不可忽, 則但當速治大臣誣罔之罪, 亟收鎭將濫授之資。

傳曰: "加資事, 大臣爲邊鎭措置, 而臺諫曰不可, 議論不齊, 莫適所從。 今見箚子云, 國論旁騰, 咸曰可改。 所謂國論, 朝廷之謂也, 而大臣所爲, 獨非朝廷之事乎?"

大臣が権力をもてあそぶきざしがすでに明らかで国家危乱がすでに兆している、台諫が座してその職を失い言葉は実行されない、それでまだなにをするというのか。もし諫職が廃止できず宗社はゆるがせにできないというなら、ただ速やかに大臣の誣罔の罪を治めて、すみやかに鎮将の濫授の加資を収めるべきだ。伝教して言った、「加資のことは大臣が辺鎮のために措置したのだが、台諫は不可と言う、議論が合わない、従うべきところがわからない。今箚子を見ると、言う、国論が広くあがり皆改めるべきだという。所謂国論というのは朝廷のことだが、大臣のすることだけは朝廷のことではないのか。」

 

4283、

簿寺 徳恩監李昌臣の妻の私婢鉄非が戦ったこと避する
○宗簿寺啓曰: "
德恩監 呈(單字)〔單子〕 曰: ‘種以良女李非作妾率居, 今月初五日, 李昌臣妻, 率男人十五名, 女人七名, 乘轎來, 突入寢房, 種及妾李非, 衣服赤奪, 曳出結縛, 男人等持杖亂打, 割取頭髮。 不但此也, 李昌臣妻, 自持刀刺種左手第二指。’ 云。 李昌臣妻私婢鐵非呈狀曰: ‘婢之子李頫, 去丁卯年被罪, 全羅道 康津官定屬後。 聞李非, 潛奸他夫, 今月初五日, 親往李非家, 則李非與臣女之同姓八寸孫德恩監同寢, 故兩人頭髮斷取之際, 德恩監率奴子四十餘人, 各持大杖, 曳出街路。 以八寸孫, 歐打老祖母, 李非則以子妾, 與德恩監, 同謀歐打之由, 請竝推。’ 云。 鐵非乃寺提調雲水君 孝誠同生妹。 法當相避, 請移他司。" 命移刑曹推之。

宗簿寺が奏上して言った、「徳恩監が単子を呈して言った、「種が良女の李非を妾にして連れて暮らしていたが、今月初めの五日李昌臣の妻が男十五名女七名を連れて駕籠に乗って来て寝室に突入し、種及び妾の李非の服を全部はぎ引き出して縛り、男どもが杖で乱打し頭髪を切り取った。これだけでなく李昌臣の妻は自ら刀を持って種の左手の第二指を刺した。」と言う。李昌臣の妻の私婢の鉄非が状を呈して言った、「婢の子の李頫が去る丁卯年の年に罪せられ, 全羅道の康津官に定属したあと、の妾李非他夫に姦通したと聞いて、今月初めの五日自ら李非の家に行くと李非は臣の女の同姓の八寸孫徳恩監と共寝していたので、両人の頭髮を切り取る際 徳恩監が奴四十余人を率いそれぞれ大杖を持たせ街路に引き出し八寸孫に老祖母を殴打させた、李非は息子の妾として徳恩監と同謀して殴打したことについて並びに推問することを求める。」と言う。鉄非はつまり寺提調雲水君孝誠の同腹の妹だ。法上は相避すべきだから他司に移すことを求める。」命じて刑曹に移して推問させた。

4284
○正朝使戶曹參判
韓亨允, 還自京師。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月17日(戊寅)
○戊寅/御朝講。大司諫
崔淑生、執義趙舜啓前事, 不允。

●〔省略〕。

全羅左道水軍節度使
李宗仁が賊倭十の頭十三級を馳啓する。
○全羅左道水軍節度使
李宗仁, 斬賊倭十三級馳啓。 傳于政院曰: "將此啓本, 示三公, 議褒賞。"

全羅左道水軍節度使李宗仁が賊倭の頭十三級を切って馳啓した。政院に伝教して言った、「この啓本を三公に示して褒賞することを議論させよ。」

○御晝講。

●〔省略〕。

4285、

論駁中の辺将を赴任させたことに関する大司憲権弘大司諌崔淑生等の上箚
○大司憲
權弘、大司諫崔淑生等上箚曰:

自古有國家者,設臺諫,以寄耳目, 凡朝廷得失, 用人當否, 使皆得以爭之, 蓋欲伸公論而培元氣也。

大司憲権弘、大司諫崔淑生等の上箚に言う、「昔から国家にあるのは、台諫を設置して耳目を寄せ、およそ朝廷の得失、用人の当否を皆論争できるようにさせた。これは公論を伸長させ元気を培うものだろう。

 

4286、

故方其論事也, 雖人主之威, 有不能奪。 非其威不能奪也, 以公論所在, 不可抑也。人主所不能奪不能抑, 而宰相務行己意, 敢抑奪之, 使臺諫縮手, 不得有所彈劾, 則其弊必至於公論熄,而私意勝,大臣專而主勢孤, 其國豈不殆哉? 近來臣等, 駁李友曾等加資事, 彈論方興, 而大臣托以邊鎭久虛, 啓殿下以親命促遣, 脫友曾等於彈論之中, 箝臺諫之口於方張之際, 其不有臺諫, 不畏公論甚矣。

それでまさにその議論のことは人主の威厳でも奪うことのできないものがある。威厳が奪えないだけでなく公論のあるところ抑えることはできない。人主が奪うことも抑えることもできなくて宰相が我意を努めて行い敢えて抑奪し台諫の手を縮めさせ弾劾できなければその弊害は必ず公論の終息にいたり私意が勝て大臣が専権を振るい人主の勢いは孤立するが、その国はどうして危うくないだろうか。近ごろ臣等は李友曽等の加資のことに反駁し弾劾の議論がまさに起こったが大臣は辺鎮が久しく空虚なのにこと寄せて、殿下に親命促遣を奏上し、友曽等を弾劾の議論から脱けさせ、台諫の口をまさに議論を張る際に閉じさせるが、台諫をないものに公論を恐れないこと甚だしい。

 

4287、

不意聖明在上, 而大臣以拒諫遂非之說, 巧導宸聰, 一至此也。中外聞之, 孰不駭愕? 他日用人失當, 圖事乖宜, 臺諫有所論執, 而殿下亦不以爲恤, 但促行之, 旣行矣, 而曰事已行矣, 不可爲, 則是公論終不得伸, 過擧終不得改。 危亡之禍, 實兆於今日一言之非, 思之寧不寒心? 此臣等所以請推而不已者也。

聖明が上にいて、大臣が拒諫遂非する説で宸聴を巧導するので一にここに至るとは思わなかった。中外がこれを聞いてだれが驚かないだろうか。他日人遣いがが失当、ことをはかるのがよろしきに背き台諫が論執しても殿下もまた寛大でなくただ行行うのを促しすでに行ってしまうと、ことはすでに行われたとしてどうにもできないとすると、これでは公論ついに伸ばすことができず過ちが起こってしまいついに改められない。危亡の禍は実に今日の一言の非に兆す、これを思うとどうして寒心しないだろうか。これが臣等が推問を求めたやまない理由だ。


4288、

且鎭服邊夷, 在乎實, 而不在乎形, 在於將之賢否, 而不在於爵之高下。 今以友曾等三人, 皆授堂上加, 一時差遣。是在我無鎭服之實, 而遽示慓虜以疑動之形, 此果策之良者乎? 臣等伏閤累日, 請改濫爵, 而殿下偏主大臣之議, 諉之以業已行之。 是大臣得售自專之術, 而殿下獨受拒諫之名, 臣等竊爲殿下痛焉。 伏望殿下, 推大臣, 以伸公議, 收濫爵, 以重名器。

また辺夷を鎮服させるのは実際にあるので形式にはなく、将の賢否は爵の高下にはない。今友曽等三人で皆堂上の加資を授け一時に差遣した。これは我に鎮服の実体がなくて急に慓虜に疑動の形を示すことだが、此は果たして良い策なのか。臣等は伏閤に日を重ね濫爵を改めることを求めたが殿下はひとえに大臣の議論を主にし業はすでに行ったと言い訳する。これは大臣が自専の術を成就させたことで、殿下はただ拒諫の名を受ける、臣等はひそかに殿下のために痛む。伏して望む、殿下は大臣を推問して公議を伸ばし濫爵を収め名器を重んじよ。」


4289、

傳曰: "三浦鎭將, 前於經筵, 有欲以堂上差遣者, 予意以爲在人而已, 故許令堂上、堂下官交差矣。其後大臣曰:‘成宗朝亦有以僉正、副正, 陞爲堂上, 鎭禦邊圉。’云, 且今者倭奴不順,故令陞秩遣之。 邊事予何知之? 與大臣共議處之, 不可改也。" 弘文館亦啓之, 且曰: "爲臺諫者, 但當遵守舊章, 掌令尹希仁、正言崔命昌, 前於經筵, 啓以堂上差遣之意, 大失事體。何以任諫職乎? 請遞差。" 傳曰: "臺諫被論於弘文館, 則遞之有例。 今亦可遞。"
伝教して言った、「三浦の鎮将は以前経筵で堂上官を差遣しようとした人がいるが、予の意は人にあると言うことだけだから堂上、堂下官を交差させるのを許した。その後大臣が言った、「成宗朝にも僉正、副正を堂上に昇進させて辺圉を鎮御させた。」という、かつ今倭奴は従わないので陞秩させて派遣した。辺境のことは予は何を知ろうぞ。大臣と共議して処置した、改められない。」 弘文館も奏上して言った、「台諫たるものはただ旧章を遵守すべきで、掌令尹希仁、正言崔命昌は前に経筵で堂上官差遣の意を奏上したが大いに事態に失敗した。どうして諫職に任じるのか。交替を求める。」伝教して言った、「台諫が弘文館に論じられるなら交替の例がある。今も交替させるべきだ。」

4290、
中宗4年(1509年)4月18日(癸丑)
朝講で地平権福井、正言
柳沃が大臣の推考、李友曽等の加資の改正を奏上しする。

○己卯/御朝講。 持平權福、正言柳沃, 以大臣推考李友曾等加資改正, 金荊寶等罷職事啓之, 不允。

●朝講に出た。 地平権福、正言柳沃が大臣の推考と、李友曽等の加資の改正、及び金荊宝等の罷職を奏上したが、允許しなかった。


李宗仁に一資を加え宣慰官を督促して派遣せよと政院に伝教する。

○傳于政院曰: "李宗仁又加一資, 促遣宣慰官。" 從朴元宗議也。"

●〔省略〕。

 

4291、

大司憲権弘、大司諌崔淑生等が李宗仁に引き続き加資することは不可能とする。
○大司憲
權弘、大司諫崔淑生等, 將前事啓之, 又曰: "今聞李宗仁又加一資。 雖有異功, 十日之間, 不應再加。 奈何不惜名器, 一至於此?" 傳曰: "宗仁事, 言之甚當。 邊將有功, 不獲已以加賞之。 左議政議, 宜特加, 觀其議, 則可知。 餘皆不允。" 又上箚極論, 不允。

●大司憲権弘、大司諌崔淑生等が前のことを奏上し、また言った、「今聞くところ李宗仁がまた一資を加えるという。異功があると言っても十日の間に再加すべきではない。どうして名器を惜しまず、一にここに至るのか。」伝教して言った、「宗仁のことは、言葉ははなはだ当をえている。辺將に功があり、やむを得ず加賞した。左議政の議論では特加すべきだという。その議論を見るとわかる。ほかは皆允許しない。」また上箚して極論したが允許しなかった。

4292、
○御晝講。

●〔省略〕。

副提学李世仁等が上箚して鎮將加資の濫授と大臣の過失を議論する。

○副提學李世仁等, 上箚論鎭將濫授之加, 大臣非義導君之失, 不允。

副提学李世仁等が上箚して鎮將に濫授された加資と大臣が非義で人君を導いた過失を議論したが、允許しなかった。

○御夕講。

●〔省略〕。

4293、
中宗4年(1509年)4月19日(庚辰)
朝講で李宗人への加資、倭奴征伐、崔命仝の東班叙用を議論する。
○庚辰/御朝講。 司諫尹耕、掌令
金安國, 將前事啓之。 領事成希顔曰: "近者邊將, 撫御失宜, 故倭奴益肆桀驁, 恣行剽竊, 未聞有邊將斬獲之者。 今宗仁之事, 人皆快之, 固當褒賞。 然旣一授加, 則今雖捕獲之多, 似不可疊授。

●庚辰、朝講に出た。司諫尹耕、掌令金安国、が前のことを奏上した。領事成希顔が言った、「近ごろ辺將の撫御がよろしくないので倭奴がますますあつかましくなり思うままに盗みを働き、辺將が切って捕まえたと言うことを聞かない。今宗仁のことは人が皆快く思った、当然褒賞すべきだ。しかしすでに一級授加して今捕獲が多いからといって重ねて授けるのはできないようだ。

4294、
往在
成宗朝, 姜漬以高山里僉使, 野人圍城作賊, 開門迎擊, 斬獲殆盡。 其時大臣, 請特加賞之, 成宗曰: ‘予非惜官爵, 若喜邊功, 則恐邊將有徼功生事者。’ 不許之。 且武士與年少文臣皆云, 倭奴可伐, 此不思之甚也。 雖有獻征倭之策者, 請勿聽從。 唯使器械精銳, 關防益固, 期待十年, 或至二十年, 則可無虞矣。

以前成宗朝のとき、姜漬は高山里の僉使で、野人が城を囲んで盗賊を働いたがは門を開いて迎撃し斬獲し尽くすばかりだった。その時の大臣は特別に加賞することを求めたが、成宗が言った、「予は官爵を惜しむのではない、もし辺功を嘉すると辺將が功を狙って事を興すのではと心配するのだ。」許さなかった。また武士と年少の文臣が皆言った、倭奴は伐つべしと、これは思わざるの甚だしきものだ。征倭の策を献上する者がいた聴従しないのを求める。ただ器械を精鋭にし、関の防衛をますます固め、十年あるいは二十年に至るまで期して待てば恐れることはないであろう。


4295、

今之言者以爲,‘以倭料之費, 爲軍糧, 則可以征之。’然前朝末崔瑩良將, 猶不能制, 豈可輕犯哉? 且彼雖無識, 亦有天性, 豈無是非之心? 將得其人, 則豈不心服? 崔命仝爲釜山浦僉使, 不受賂遺, 倭奴咸稱之曰: ‘崔僉使’, 此亦一驗。 臣意以爲, 以命仝敍於東班, 使他人有所激勵可也。"
今言うのは「倭料の費用で軍糧とすれば征伐できる。」ということだ。しかし前朝の末崔瑩の良将軍でも制御できなかった、どうして軽く犯せるだろうか。また彼は無知だと言っても、また天性がある、どうして是非の心がないだろうか。その人を得ればどうして心服しないだろうか。崔命仝は釜山浦僉使として賂遺を受けなかった、倭奴は皆たたえていった、「崔僉使」と。これも一の徴証だ。臣の意では命仝を東班に叙任し他人に激励させるのがよい。」

4296、
各家收議の時史官に伝え言うように出来ないようにせよと伝教する。
○傳曰:"凡收議者,欲觀群議異同,而裁斷之也。今之議者,類皆雷同,殊無收議之意,此必史官傳說之也。如賓廳則已,各家收議時,其令史官,勿如是也。"政院啓曰:"令史官勿傳說者,亦成宗朝故事也。"

●伝教して言った、「およそ収議は群議の異同を見て裁断しようとするのだ。今の議論は皆大体同じで殊に収議する意味がなく、これは必ず史官が伝え言うからだ。賓庁ならそれまでだが各家が収議する時史官にこのようにさせるな。」政院が奏上して言った、「史官に伝え言うようにさせないのも成宗朝の故事だ。」


4297、
曺潤孫等の堂上官派遣のことを東、西壁と六曹判書、判尹以上に尋ねさせる。
○傳曰:"
曺潤孫等堂上事,予意亦以爲無益,故已令交差。大臣謂當差遣堂上,予意猶未愜,更問于府院君以上,則其所云,亦如是。衆議旣定,故從之,今也臺(陳)、諫侍從,皆以爲不可。此事固無關於利害,然於朝廷之意,何如?前日建議大臣,則方被劾,必難之矣。召政府東、西壁與六曹判書、判尹以上,更問之。"

●伝教して言った、「曺潤孫等の堂上のことは予の意もまた無益とみなす、だからすでに交替させた。大臣は堂上官は差遣すべきだと言うが、予の意はまだ十分でなく、更に府院君以上に尋ねた、するとそのいうことはまたこのようだ。衆議はすでに決まった、それで従った。今、また台諫、侍従が皆不可とした。このことはもとより利害に関しないが、朝廷の意はどうか。前日、建議大臣はちょうど弾劾され必ず困難とするだろう。政府の東、西壁と六曹判書、判尹以上を召して更に尋ねよ。」


4298、
崔命仝が奏上して言ったのと同じだったら該曹で推薦するだろうからさらに賞することはない。
○傳曰: "崔命仝事, 若實如所啓, 則該曹當自薦用。 前旣以表裏奬之, 今不可加賞也。
伝教して言った、「崔命仝の事はもし本当に奏上したのと同じだったら該曹で当然自ら推薦して使うはずである。 しかし前にもう表裏で奨励したから、今さらに賞することはない。

4299、

辺将堂上のことは議論を見て処理するはずで、李宗仁の加資は考え直す。
○臺諫合辭啓前事。傳曰:"邊將堂上事, 當觀廷議處之。
李宗仁加資事,更思之,數日之內,不宜疊授,其改之。餘不允。"

●台諫が合辞して前の事を奏上した。伝教して言った、「辺将堂上のことは議論を見て処理するはずで、李宗仁の加資は考え直すから数日中に重ねて授けるべきではない。改めよ。残りは允許しない。」


4300、
三浦の鎮将等の堂上は改めるが
李友曽は改めないで、曺潤孫は在任させる。

金應箕議曰: "鎭服倭奴, 在於得人, 不在職秩高下。 三浦僉使、萬戶及守令, 依舊法例爲當。 僉使等雖已赴任, 倭奴旣見儀章而還改, 亦不妨。" 權鈞李季男李諿申用漑鄭光弼李坫、金詮等議, 略同。 傳曰: "今觀群議, 皆如是。 鎭將等堂上, 其改之。 但李友曾則已授階梯職, 勿改。 其餘皆改正, 而曺潤孫則仍任, 李珣則遞授京職。"

【史臣曰: "潤孫等事, 下批翌日, 臺諫論執, 至於合司伏閤, 弘文館亦逐日論啓, 幾一朔, 始得蒙允。 上初不欲授, 特牽於朴元宗柳順汀, 留難至此。"】

金応箕が議論していった、「倭奴を鎮服させるのは人を得るにあって職秩の高下にはない。三浦の僉使、万戸および守令は旧法に依るのが当を得ている。僉使等がすでに赴任しても、倭奴がすでに儀章を見てまた改めるのはかまわない。」権鈞李季男李諿申用漑鄭光弼李坫、金詮等が議論したがほぼ同じだ。伝教して言った、「今群議を見ると皆このようだ。鎮将等の堂上は改めよ。但し李友曽則はすでに階梯職を授けた、改めるな。その余は皆改正せよ、しかし曺潤孫はそのまま任じ、李珣は京職を遞授せよ。」【史臣が言った、「潤孫等のことは、下批下翌日、台諫が論執して合司伏閤するに至った、弘文館も日を追って論啓し、一月近くたって始めて允許を受けられた。上は初め叙授しようとしなかったが特に朴元宗柳順汀に引かれて留難がここに至った。」】


4301、
掌令望于を台諫に下して政曹が
韓效元趙玉崐だけ擬望したことに対して意見を問う。
○下掌令望于臺諫曰: "吏曹以
金世弼申鏛尹世豪擬望, 此皆可當。 然每以此人等輪差, 不以未行者擬授, 聽言未廣, 用人之路亦狹。 且於外官, 豈無名士欲陳其所蘊者? 然不在其位, 則必不敢言耳。

●掌令望于を台諫に下して言った、「吏曹は金世弼申鏛尹世豪を擬望したが、これはみな適当だが、いつも此人等で輪差し、まだ行かないものを擬授しないから、意見を聞くことが広くなく人を用いる道も狭い。また外官において、どうして名士が蘊蓄を陳述しようとしないだろうか。しかしその位に居なければ必ず敢えて言おうとしないだけだ。


4302.

以此命改, 則銓曹又不以未行者擬之, 以韓效元趙玉崐備望曰:‘玉崐乃其次人也。 此外無人。’云。 若無此人, 則掌令其可闕位耶? 予雖不言, 爲銓曹者, 固當廣擇注擬, 而今獨擬二人。苟若廣擇, 豈無其人? 非但此也。 前者鏡城判官金胤文遞差時, 司諫院言:‘前日擬望者, 皆不合。’予令吏曹改望, 徐祉外, 皆以前望擬之。

これで命じて改めると銓曹はまたまだ行ってない人を擬し、韓效元趙玉崐を擬望して言った、「玉崐はその次の人だ。このほかに人はない。」。もしこの人がなければ掌令はその席を欠かなければならないか。予は言わないが、銓曹のためにはもとより広く選んで注擬すべきなのに今ただ二人を擬望する。かりにも広く選べばどうしてその人がないだろうか。ただこれだけではない。前に鏡城判官金胤文を逓差したとき司諫院が言った、「前に擬望したものは皆合わない。」予は吏曹に命じて改望させた、徐祉の外は皆以前望擬したのだ。

4303、
凡臺諫、守令, 人所不欲, 故如是歟, 未可知也。 政曹如是朧啓之, 於卿等意何如? 卿等適會闕庭, 故言之。" 臺諫回啓曰: "臺諫、弘文館, 本皆擇差, 而人才有限, 故祖宗朝亦更相注擬耳。 今觀
世弼等望, 則果精擇矣。 殿下欲廣收人才, 其意甚善。 韓效元亦皆可人也, 但職秩不相當, 故吏曹必如是。 然吏曹只擬二人, 而曰: ‘玉崐其次也。’ 其言必有後弊。" 傳于政院曰: "掌令可當者多, 而吏曹只擬二人曰: ‘此外無人’ 云。 其於用人之際, 有操弄之漸, 其推之。"
だいたい台諫、守令は人が欲しないところなのでこうなのか、わからない。政曹がこのようにあいまいに奏上するが卿等の意はどうか。卿等がたまたま宮廷に会したから言うのだ。」台諫が回啓して言った、「台諫、弘文館は本来選んで差遣するが、人才は限りがあるので祖宗朝も更に相注擬したのだ。今世弼等の望を見ると果たして精択だ。殿下が広く人材を採るのは、その意ははなはだ善い。韓效元も皆できる人だ、但し職秩が相当しないので吏曹は必ずこのようだ。しかし吏曹はただ二人を擬して言った、「玉崐はその次だ。」その言葉は必ず後弊がある。」政院に伝教して言った、「掌令は当然な人が多いが吏曹はただ二人を擬して言った、「このほかには人がない」と。人を用いる際の操弄の漸だ、推考せよ。」

4304、
台諫が
柳雲の掌令職と金浄の弘文官副教理職を替えるのを求める。
○臺諫啓曰: "
柳雲爲掌令, 金淨爲弘文館副校理, 是二人才器, 則無可議也。 然柳雲甲子年, 金淨丁卯年, 登第者也不可驟陞, 請皆遞之。" 傳曰: "遞之。"

●台諫が奏上して言った、「柳雲は掌令となり金浄は弘文館副校理となったが、この二人の才器は義論すべきことはない。しかし柳雲は甲子の年、金浄は丁卯の年に登第したもので急に昇らすべきでない皆交替を求める。」伝教して言った、「交替せよ。」

○御晝講。

●〔省略〕。

○御夕講。

●〔省略〕。

4305、

全羅左道水軍節度使李宗仁に功労を誉めて褒賞する文を授ける。
○下書于全羅左道水軍節度使
李宗仁曰: "分閫之倚, 重在得賢, 將臣之忠, 貴於禦侮。 蠢玆倭奴, 狗鼠之輩, 潛入邊(彊)疆, 屢肆侵掠, 惟卿審機應變, 克獲寇賊, 不亡一卒, 再獻首馘。 壯我邊圉, 振國威靈, 予甚嘉焉。 玆特加卿一資, 賜金帶一腰, 粧弓一張, 大箭磨箭各一部, 弓帒矢筒一部。 又遣吏曹正郞尹殷弼, 賜卿宴慰, 以表予褒賞之意, 卿其體之, 益勵不怠, 奠我邊氓, 使無南顧之憂。"

●書を全羅左道水軍節度使李宗仁曰に下して言った、「分閫の倚は主に賢人を得ることにあるが、将臣の忠は侮りを防ぐに於いて貴い。うごめく虫のような倭奴,、犬や鼠の輩が辺境に潜入してしばしば気ままに侵掠するが、ただ卿が審機応変してよく寇賊を捕らえ一卒も失わず再び首馘を献上した。我が国の辺境を盛んにし国威を振るった、予ははなはだ嘉する。ここに特に卿に一資を加え、金帯一腰、粧弓一張、大箭磨箭各一部、弓帒矢筒一部を授ける。また吏曹正郞尹殷弼を派遣し卿に宴慰を授け、それで予の褒賞の意を表す,卿はこれを体し、ますます励んで怠らず,我が辺境の民を安定させ南顧の憂を無いようにせよ。」

4306、
○以
申鏛爲司憲府掌令, 尹世豪爲弘文館應敎, 柳雲爲校理, 李思鈞爲副校理, 成世昌爲司諫院正言, 金瑛爲修撰, 許遲李彦浩爲副修撰, 金希壽爲博士, 閔壽千爲著作。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月20日(辛巳)
○辛巳/御慶會樓觀射, 內禁衛
許光弼居首, 命加一級。

●〔省略〕。

台諫
が義禁府推考、塩浦万戸李珣の在任崔漢洪加資の改訂を求める
○大司憲
權弘、大司諫崔淑生等, 合司請推大臣, 又曰: "義禁府, 以柳涇錄案事, 移文于本司, 而非但不爲照律, 事干人等, 亦未盡得情。 請推義禁府官吏。

●大司憲権弘、大司諫崔淑生等が合司で大臣を推問することを求め、また言った、「義禁府が柳涇の録案のことで本司に移文したが刑律を参照しなかっただけでなく、事に関係した人等も皆実情を得られなかった。義禁府の官吏を推考することを求める。

 

4307、

且旱氣太甚, 今方聖上敬天祈禱之時, 請禁新及弟遊街。" 憲府請竝禁持甁酒者。 大臣事不允, 餘皆依啓。 臺諫又啓曰: "鹽浦萬戶李珣授京職, 則徒爲驛路紛擾, 因任甚便。 習讀官等用心詐曲, 請罷職。 況會寧府使崔漢洪濫加, 【兵曹搜括習讀濫加時, 漢洪等濫受事亦發。】

また旱がひどく今まさに聖上が敬天祈祷するとき新及弟者の遊街を禁ずることを求める。」憲府は一緒に罎酒を持つのを禁ずることを求めた。大臣のことは允許しなかった、余は皆奏上によった。台諫がまた奏上して言った、「塩浦の万戸李珣に京職を授けるとただ駅路の紛擾になるので、そのままの在任が甚だ便利だ。習読官等の心の用いるのが詐曲だから罷職を求める。まして会寧府使崔漢洪の濫加はいうまでもない。【兵曹搜括習読の濫加のとき漢洪等の濫受のことがまたばれた。】


4308。、

亦不改, 尤爲不可。 豈可以盜竊官爵, 而儼然在任乎? 傳曰: "李珣則旣已改堂上, 不可以副正爲萬戶, 雖已赴任, 不宜仍授。 崔漢洪則今雖差遣他人, 亦必以嘉善, 不須改也。"

また改めないのはっともよくない。どうして官爵を盗んで堂々と在任するのか?伝教して言った、「李珣はもうに改めたから副正で万戸になってはならない。たとえもう赴任してもそのまま除授けてはならない。崔漢洪は今たとえ他人を差遣してもまた必ず嘉善にするだろうから、改めるまでもない。

 

4309、

中宗4年(1509年)4月21日(壬午)
朝講で持平
金漑が雑色軍士を丘史にすることと正兵の選上問題とを議論する。

○壬午/御朝講。 持平金漑、正言柳沃, 以推考大臣, 李珣仍任, 習讀等濫加事啓之, 不允。 又曰: "人君居九重之內, 田里休戚, 軍卒凋殘, 何以知之? 軍卒逃散居半, 虛額猶存, 脫有兵事, 則用之實難。 廢朝時, , 兵曹分定各司爲丘(使)〔史〕 , 其風至今猶存。 非但此也, 正兵選上代立者, 濫徵其價。 請令本司糾撿。"

●壬午、朝講に出た。持平金漑、正言柳沃が大臣の推考、李珣の留任、習読等の濫加のことを奏上したが允許しなかった。がまた言った、「人君は九重の中にいて田里の善し悪し、軍卒の凋残をどうやって知るのか。軍卒の逃散は半分近くなのに中身のない金額はそのままで、もし兵事があれば用いることはまことに困難だ。廃朝のとき、雑色軍士を兵曹が分定して各司は丘史にしたがその風は今もなお存する。ただこれだけではなく正兵の選上の代立者がその価格を濫徵する。本司に糾検させることを求める。

 

4310、

衛将等が軍士を誤って従えることと正兵の代立問題について伝教する。
○傳于政院曰: "選上價, 隨市價低(昴)〔昻〕 事, 曾已議定。 衛將及兵曹率軍士事發者, 皆論以私罪, 正兵代(主)〔立〕 , 依選上例立法事, 議大臣。"

●政院に伝教して言った、「選上の価は市価の高低によることはかつてすでに議定した。衛将及び兵曹が軍士を率いたことが発覚したものは皆私罪で論じ、正兵の代立は選上の例によって立法するよう大臣で議論せよ。」

 

4311、

輪対で工曹佐郞金瑋がが、今、日照りがひどいから営繕を停止しようと求める。

○聽輪對。 工曹佐郞金瑋曰: "今方農月, 旱魃爲虐。 愼災之道, 當恤民力, 請停不緊營繕。" 司贍寺僉正李元純, 請蠲減水軍未納之稅。

●輪対を聴いた。工曹佐郞金瑋が言った、「今まさに農月にあたって日照りがひどい。災害に慎重である方法として、民力を思いやるべきで、不急の営繕を停止することを求める。」司贍寺僉正李元純は水軍の未納の税金を減らすことを求めた。


4312、
政院が、日照りのため、恤刑して、関係ない者は監獄から出しててやろうとする。

○政院啓曰: "連歲旱甚, 兩麥不實, 恤刑等事, 不可不擧。 請囚徒不關者疏放。 且於各道, 下諭憂旱之意, 守令或以私怒, 違法囚禁者, 令監司摘奸馳啓。" 傳曰: "可。"

●政院が奏上して言った、「連年日照りがひどく両方の麦が稔らないから、恤刑等のことをやらないわけにはいかない。囚徒で無関係なものは釈放し、また各道に日照りを憂えている意を下諭し、守令が或いは私怒で違法に囚禁しているものを監司に命じて摘奸して馳啓させることを求める。」伝教して言った、「そうせよ。」

4313、
昼講
尹世豪殿下が心を正せば寇賊と日照りを緩和させることができるとする

○御晝講。 講至李固上疏曰:

本朝者心腹也, 州郡者四支也。 整理本朝, 雖有寇賊水旱之變, 不足介意。

侍講官尹世豪曰: "此言上須體念。 方今倭奴, 有不順之漸, 且有旱乾之災, 殿下當思正心之功。 去邪用賢, 扶植朝廷元氣, 則寇賊不足畏, 旱災亦可弭。 李固、黃瓊, 直言之士, 而竟爲邪倘所搆, 邪倘之讒構直士, 古今一律。

●昼講に出た。講義に至って李固が上疏して言った、「本朝は心と腹で州郡は四肢だ。本朝を整えれば寇賊水旱の変があっても介意するには足りない。侍講官尹世豪が言った、「この言葉は王は体念すべきだ。今、倭奴は不順の兆しがあり、また旱乾の災害がある。殿下は正心の功を思うべきだ。邪を去り賢を用い朝廷に元気を扶植すれば寇賊は恐れるに足りないし、旱災もやめさせられる。 李固、黄瓊は直言の士だがついに邪なやつらの謀略にかかり、邪なやつらが直士を讒言するのは古今一律だ。


4314、

頃者李茁啓事, 不於政院, 私自密啓。 第因聖德高明, 不從邪論, 若從其啓, 則士類一網打盡。 如此奸輩, 當宜痛懲。" 司經金希壽曰: "尙書者, 今之政院也。 雖有不軌之言, 必於政院啓之, 若於密處, 乘間啓事, 則朝廷之事非矣。"

最近の李茁の奏上は政院でせず、私的に密啓した。ただし聖徳の高明によって邪論に従わなかった、もしその奏上に従ったら士類は一網打尽だ。このような邪な輩は痛懲すべきだ。司経金希寿言った、「尚書は今の政院だ。不軌の言であっても必ず政院で奏上する。もしひそかなところですきに乗じて奏上したら朝廷のことは非だ。」


4315、
○臺諫啓前事, 皆不允。

●〔省略〕。


四道に御史を送って、濫刑、濫囚、不法等のこと及び農業を監察させる。
○分遣御史于四道, 察濫刑濫囚不法等事及農事。 【因旱災也。】

●〔省略〕

 

○御夕講。
●〔省略〕

 

4316、
旱災は刑獄が滞るからだから今後軽罪は即決して釈放せよと伝教する。
○傳曰: "今當農月, (元)〔亢〕 陽不雨, 豈無所自? 近來官吏, 不恤刑獄, 枷杻、鞭撻, 或及無辜, 滯繫牢獄, 動經旬月。 不但此也, 凡囚家僮, 勿令直報, 具罪狀名數, 報仰曹, 載在《續錄》, 而官吏慢不奉行。 甚者督令各司, 抄報不緊小事, 皆移報, 以致騷擾, 愁怨之至, 足以召災。 今後事干重罪及不得已參鞫人外, 一應輕罪, 隨卽決放, 毋使滯獄, 囚家僮, 亦依《續錄》擧行。"

伝教して言った、「今農月にあたって日照りで雨が降らないのは、どうして理由がないだろうか。近ごろ官吏が刑獄を寛大にせず、枷杻、鞭撻、或いは無辜の者におよび牢獄に滞留するのがややもすれば旬月を経る。ただこれだけでなく、およそ家僮を捕らえても直報させず罪状名数をそろえて曹にあおいで報告し『続録』に載せるが官吏は怠慢で奉行しない。甚だしきは各司に督令して不緊の小事を抄報し皆移報して、驟擾を致すが愁怨の至りで、災害を招くに足る。今後重罪を犯しやむを得ず参鞫する人以外の、一応の軽罪は時に従って即決して釈放し滞獄させず、家僮を捕らえても『続録』によって挙行せよ。」


4317、

中宗4年(1509年)4月22日(癸未)
朝講で執義
趙舜、献納柳溥が近頃日照りがひどいから営繕を停止させようとする。

○癸未/御朝講。 執義趙舜、獻納柳溥啓曰: "近來旱甚, 凡營繕, 一切停役,昌慶宮、古慈壽宮及緊關處外, 請皆停罷。" 從之。

●朝講に出た。執義趙舜、献納柳溥が奏上して言った、「近頃日照りがひどいから凡そ営繕を一切停止するが、昌慶宮と昔の慈寿宮及び緊急に係る所の外は皆停罷することを求める。」これに従った。

 

4318、
日照りのため正殿を避け禁中と街巷で共に祈雨する。
○以旱災, 避正殿, 禁中及街巷, 竝禱雨。

●〔省略〕。


昼講で
洪彦弼が日照りがあるから充分に側修の誠意を尽くさなければならないとする。

○御晝講。 至《綱目》 《東漢紀》, 五月旱, 上露坐德陽殿東廂, 請雨, 問消災之道於周擧, 擧對曰: "陛下廢文帝光武之法, 循亡秦奢侈之風。" 檢討官洪彦弼曰: "

●昼講に出た。『綱目』『東漢紀』の五月の日照りに至って、上は徳陽殿の東廂に露座して雨乞いをし、消災の道を周挙に尋ねた、挙は答えて言った、「陛下は文帝光武の法を廃止し、亡秦の奢侈の風に従った。」検討官洪彦弼曰が言った、「

 

4319、

此言, 眞今日所當體念。 近者旱災太甚, 豈無所自? 祖宗典章, 載在方策, 而未盡擧行, 廢朝餘習, 猶有存者。 今雖避殿, 宜加敬謹之念, 無少間斷。 昔周宣王, 承厲王之後, 以側修之誠, 旱不能爲災, 流民還集。 殿下承廢朝之餘, 能盡側修之誠, 則災不勝德。

この言葉はまことに今日体念すべきだ。最近日照りの災害がとてもひどいのはどうして依るところがないだろうか。祖宗の典章に方策が載っているが全部は実行されていなくて廃朝の余習がまだ残っている。今避殿したといっても敬謹の念を加えるのに少しの間隔もあってはならない。昔、周の宣王厲王の後を承けて側修の誠wぽもってし日照りは災害がおこせなくて流民は還集した。殿下は廃朝の余を承けたが、側修の誠をことごとく尽くせば災害は徳には勝てない。

 

4320、

今之旱災, 所以堅殿下心也, 更加應天之實。" 典經閔壽千曰: "彦弼言至當, 古人云: ‘應天以實。’ 所謂實者, 誠也。 凡朝政得失, 下至民間疾苦, 雖未盡枚擧, 以誠格之, 則災變爲祥矣。
今の日照りの災害は殿下の心を固くするきっかけだから更に応天の実を加えるべきだ。」典経閔寿千が言った、「彦弼言の言うのは至当だ、昔の人がが言った、「応天の実」と。所謂実というのは誠のことだ。およそ朝政の得失は下は民間の疾苦に至るまで悉く枚挙はできないが誠でいたせば災変は祥となる。

4321、

○臺諫啓崔漢洪等事及李珣事, 傳曰: "李珣事不允。 崔漢洪等事, 已令大臣議之。"

●〔省略〕。

○慶尙道觀察使姜渾馳啓: "對馬島主宗杙盛, 今四月初六日死。"

●〔省略〕。

近頃の議得は雷同が多いから今後では自分の意見で献議するよう伝教する。

○傳于議政府、六曹曰: "凡議得者, 欲觀衆意何如。 近來議得, 率多雷同, 殊無廣收之意。 今後勿附會他議, 各以其意獻議。"

●議政府、六曹に伝教して言った、「およそ議得は衆意はどうかというのを見ようとするのだ。近ごろの議得はおおかた雷同で、まったく広く収める意味がない。今後他議に付会しないで、それぞれ自分の意見で献議せよ。」

 

4322、

緊要でないことあれこれ上書するは正しくないと刑曹に伝教する

○傳于刑曹曰: "《續錄》內: ‘上書者, 雖非條陳時弊, 或因國事, 而枉被非辜, 或是非難明, 而刑戮及身者外, 訟田民、財産及凡自己辨正等事, 作爲疏章者禁斷。’ 雖干自己迫切重事, 如工、商、僕隷、鄕吏、驛吏卑賤之人, 只許上言, 勿許上書事, 已有其法。 近來不緊之事, 紛紜上書, 不可。 此等法條, 申明擧行。"

●刑曹に伝教して言った、「『続録』のなかに「上書するものは時弊を条陳するのでなくとも、或いは国事のために無実の罪を曲げて被ると或いは是非がはっきりしないのに刑戮が肉体に及ぶもの以外は、田民や財産及びすべての自己弁正等のことは疏章を作るのは禁断する。」とある。自己に関する切迫した重大なことでも、工、商、僕隷、鄕吏、駅吏のような卑賎の人は、ただ上言だけを許し上事は許可しないことはその法がある。近ごろ不緊のことを紛紜と上書するのは正しくない。これらの法条は繰り返し明らかにして行え。」

 

4323、

○黃海道 文化縣雨雹, 大如鷄卵, 田穀多損傷。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月23日(甲申)
朝講で領事成希顔が凶年なので土木の工役をやめようとする。
○甲申/御朝講。 講至《春秋》 《大饑》, 傳曰: "或興工作, 以聚失農之人。" 領事
成希顔曰: "臣嘗赴京觀之, 欲興工役, 聚糊口之人, 飮食而役之。 我國則不然, 一以軍民役使, 若凶歲, 加之以興役, 則民不堪苦。 宜罷土木之役, 以培邦本。" 司諫尹耕、持平權福啓前事, 不允。

●甲申、朝講に出た。講義が『春秋大饑』に至って伝教して言った、「或いは工作を興して失農の人を集めよ。」領事成希顔が言った、「臣がかつて北京に行って、見たところでは工役を興そうとして糊口の人を集め飮食させて使った。我が国ではそうではなく、もっぱら軍民を役使するので、もし凶年になって興役を加えたら民は苦しみに耐えない。土木の役をやめて国のもとを培うべきだ。」司諫尹耕、持平權福啓が前のことを奏上したが允許しなかった。


4324、

訓練院参軍禹賜範が『周易』を講じる武科受験者の処理の問題を求める。

○訓鍊院參軍禹賜範, 將試官意啓曰: "擧子中有講《周易》者, 文科則倍畫矣, 武科未有前例, 請取稟。" 傳曰: "依文科例。"

●訓練院参軍禹賜範が試官の意で奏上して言った、「受験者の中に『周易』を講じるものがいるが、文科は点数を倍にするのに武科は前例がない、取稟を求める。」伝教して言った、「文科の例に依れ。」


4325、

礼曹で新しい対馬島主が立って敬差官はもう送ったがどうするのか。
○禮曹啓曰: "對馬島主死, 考前例, 則島主死而新島主立, 遣使我國, 必求圖書後, 國家遣致慰、致奠兩使。 今者敬差官, 已登途, 何以處之?" 傳曰: "島主處, 遣使弔慰事, 令府院君以上議之。"

●礼曹が奏上して言った、「対馬島主が死に、前例によると島主が死に新島主が立つと使臣を我が国に派遣し必ず文書を求めてから、国家は致慰、致奠の両使を派遣する。今、敬差官がすでに出発したがどう処理するのか。」伝教して言った、「島主のところに使臣を遣って弔慰することは府院君以上に議論させよ。」


4326、

訓練習読官の忠順衛所属問題、崔漢洪等の加資、正兵代立価問題、を議論する。
柳洵議曰: "訓鍊習讀官兼屬忠順衛, 竝計其仕受加者, 果猥濫。 勿論堂上、堂下官, 一槪改正宜矣。 但崔漢洪柳壽童等, 才器相當, 受邊將之任。 今若改正, 則當遞本職, 代其任者, 亦不易得。 且濫加事, 衆人通犯, 年月亦久, 雖不追奪, 未可謂法未行也。 正兵代立價, 曾有定數, 其濫受價物者論罪, 亦有法。 今當擧行此法而已。" 金壽童朴元宗柳順汀盧公弼成希顔朴楗等議略同。 鄭眉壽議曰: "以習讀, 求屬忠順衛, 濫受仕加者, 旣皆改正。 漢洪等, 雖邊將, 可用之才, 獨此不改, 非立法畫一之意矣。" 傳曰: "崔漢洪等事, 今觀群意, 皆欲勿改, 而欲改者, 只一二人, 故從多。 正兵依前例, 勿令代立。 假使有役處代立者, 依選上例。
柳洵議論して言った、「訓練習読官が忠順衛に兼属し、一緒にその仕事を計算して受加するのは、果たして猥濫だ。堂上、堂下の官を問わず一緒に改正するのは当然だ。ただし崔漢洪柳寿童等は器が相当して辺将の任を受けた。今もし改正すれば本職を替えて、その任に代わるものは、また得安くはない。また濫加のことは多くの人が通じて犯し年月も久しい、追奪しなくとも法が行われていないとは言えない。正兵代立価はかつて定数があって、その価者をみだりに受けるのは罪を論じるというの法がある。今はこの法を実行するだけだ。」金寿童朴元宗柳順汀盧公弼成希顔朴楗等の議論もほぼ同じだった。鄭眉寿が議論して言った、「習読が忠順衛に續するのを求め、仕加を濫受したものは、すでに皆改正した。漢洪等は辺将で用いるべき才だとしてもこれのみ改めないのは立法画一の意ではない。」伝教して言った、「崔漢洪等のことは今群意を見るに皆改めないのを欲し改めるのを欲するのはただ一人二人なので、多いのに従う。正兵は前例によれ、代立するな。たとえ役所があって代立させても選上の例によれ。」

 

○御講。

●〔省略〕。

4327、
金寿童、柳順汀等が対馬島主が死んだから敬差官を派遣するというのは停止しようと議論する。

○府院君金壽童、右議政柳順汀等議曰: "對馬島主死, 則待訃告, 宜遣弔慰使。 敬差官尹殷輔之行, 可停。 且遼東大人賀永所求至少, 造送不妨。"

●府院君金寿童、右議政柳順汀等が議論して言った、「対馬島主が死んだら訃告を待って弔慰使を派遣すべきだ。敬差官尹殷輔が行くのは停止すべきだ。また遼東大人賀永は求めるところが至って少ないから造って送っても妨げはない。」


中宗4年(1509年)4月24日(乙酉)
○乙酉/御朝講。

●〔省略〕。

4328、
大司諫
崔淑生が他の4道にも御史を送って不法を按検しようと求める。
○大司諫
崔淑生、掌令申鏛論前事, 不允。 淑生又曰: "前年失農, 今年旱甚, 民無農糧。 前已抽栍, 分遣御史, 以按貪汚。 其餘四道, 請竝分遣, 按撿不法。" 傳曰: "可。"

●大司諫崔淑生、掌令申鏛が前のことを議論んしたが允許しなかった。淑生又がまた言った、「前年は失農、今年はひどい日照り民は農糧がない。先にすでに抽栍して御史を分遣し貪汚を監察させた。そのほかの四道もみな分遣して不法を按検することいを求める。」伝教して言った、「それでよい。」
抽栍:抽選と同じ。 ここでは政治の善し悪し及び民の疾苦を察するために地方に特派する秘密御史について抽選で分担区域を決めるのを言う。

 

4329、

政院が各官の米麪、雑の貯蔵を犯法ということで書した事の処理を奏上する。
○政院啓曰: "各官米麪雜物, 儲于官廳, 御史皆以犯法書啓, 卒無左驗, 官吏被罪。 其令御史, 撤其大綱, 審覈爲便。" 傳曰: "可。"

●政院が奏上して言った、「各官の米麪、雑物を官庁に儲けたのを御史は皆犯法ということで書啓したが、ついに左験なしに官吏が罪をかぶった。御史にその大網を撤去させ審覈するのが穏便だ。」伝教して言った、「それでよい。」

4330、

囚徒及び職牒を収めて罷職した人を書啓 て代わりと議論して疏放する。

○傳曰: "近觀囚徒案, 皆不久滯, 然其中恐有日久者。 囚徒及收職牒罷職人書啓, 欲與大臣, 議疏放。" 永嘉府院君 金壽童、左議政朴元宗、右議政柳順汀、吏曹判書申用漑、兵曹判書金應箕、刑曹判書金詮等議: "敍用者四人, 職牒還授者四十餘人矣。" 【獄囚則時方覈實, 不議。】

●伝教して言った、「近ごろ囚徒案を見ると皆長く滞ってはいないが、その中にはおそらく日数の長いものがあるだろう。囚徒及び職牒を収めて罷職した人を書啓せよ。大臣と議論して釈放ししよう。「永嘉府院君金寿童、左議政朴元宗、右議政柳順汀、吏曹判書申用漑、兵曹判書金応箕、刑曹判書金詮等が議論した、「叙用したのが四人、職牒を還授したのが四十余人だq。」 【獄囚則時方覈實, 不議。】

ら、恕容された者が四人で、職牒を道路準人が40余人だった。 【獄囚は今事実を調べている最中なので議論しなかった。】


○御晝講。

●〔省略〕。

4331、

兵曹が李宗仁以下の軍功を磨鍊(用意)して奏上する。

○兵曹磨鍊李宗仁以下軍功啓曰: "一等加三資, 二等加二資, 三等加一資。 竝資窮者代受, 毋得疊授。 鄕吏一等免鄕, 二等己身免役, 三等限三年免役。 賤人一等緜布十五匹, 二等十匹, 三等五匹。 節度使唐表裏一襲, 虞候加資陞堂上。" 命議于大臣。 柳洵等議: "捕倭軍功論賞, 依磨鍊施行爲當。" 從之。

●兵曹が李宗仁以下の軍功を用意して奏上して言った、「一等は三資を加え、二等は二資を加え、三等は一資を加える。皆、資窮者は代受させ、畳授は得させない。鄕吏の一等は鄕里を免じ、二等は自分の身だけ役を免じ、三等は三年に限り役を免じる。践人の一等は緜布十五匹、二等は十匹、三等は五匹を免じる。節度使は唐表裏一襲を賜い、虞候は加資し堂上に昇らせる。」命じて大臣に議論させた。柳洵等が議論した、「倭軍を捕らえた功の論賞は磨鍊によって施行するのが当を得ている。」これに従った。

 

4332、

中宗4年(1509年)4月25日(丙戌)
○丙戌/受朝參, 聽朝啓。 臺諫啓
崔漢洪李珣等事, 不允。

●〔省略〕。

朝講で、京中軍士の保人、兵書をよく学び習陣すること、を議論する。

○御朝講。 掌令金安國曰: "近來避殿減膳, 而旱災猶甚, 豈無所召? 必有刑政之猥濫, 軍卒之彫弊。 須廣取衆論, 庶知弭災之道。

●朝講に出た。掌令金安国曰が言った、「近ごろ避殿し減膳するが、旱災はなお甚だしい、どうして理由がないだろうか。必ず刑政の猥濫、軍卒の彫弊がある。広く衆論を取ることが息災の道を知る近道だろう。

 

4333、

臣思之, 京中軍士保人, 盡定皂隷, 雖同居父子, 亦未免焉, 冤枉必多。 請停之。" 領事成希顔曰: "臣觀習陣, 凡將帥, 率皆不知兵家應變。 臣於成宗朝觀之, 列竪小旗, 令爲將者, 各就其下, 以驗能識形名與否。 時常習之, 請依前規考察。"

臣が思うに、京中の軍士の保人はすべて皂隷に定め同居の父子でもまた免れないが、冤枉は必ず多いだろう。停止を求める。」領事成希顔が言った、「臣が習陣を見るに、およそ将帥は皆兵家の応変を知らない。臣が成宗朝で見たのは、小旗を列にして立て、将者になったものをそれぞれその下に立たせて、形名をよく知るかどうか試す。時々、常に習わせた。前規によって考察することを求める。」


4334、

安國亦曰: "令武臣(隷)〔肄〕 習兵書。" 傳于政院曰: "掌令所啓廣取衆論之言, 甚合予意。 卽下求言傳旨可也。 卽位以後, 因災求言非一, 而迄今未聞, 玆意幷及之。 皂隷事, 臺諫大臣之言皆是, 卽收議改之。 令武臣勿論堂上、訓導, 兵書習陣等事, 竝皆擧行, 不能者, 懲罰節目議啓。"

安国がまた言った、「武臣に兵書を練習させよ。」政院に伝教して言った、「掌令が奏上した広く衆論を取るという言葉は甚だ予の意にかなう。そこで求言の伝旨を下すのがよい。即位以後災害によって求言することは一度ではないが、今まで聞いたことがない。この意も一緒に言及せよ。皂隷のことは台諫と大臣の言は皆正しい、そこで収議して改めよ。武臣と、もちろん堂上、訓導, 兵書も陣等のことを習い、一緒に皆挙行せよ,できなかったもの懲罰の節目を議啓せよ。」

 

4335、

伝旨して、寡躬と政令の善し悪し、民生の利益と病弊を隠さずに開陳せよと言う。

○傳旨:

天人之際, 相與無間, 人事感於下, 則天變應於上。 (咎懲)〔咎徵〕 之作, 豈無所召? 予自卽位以來, 憂勤惕慮, 恐不克負荷。 今當農月, 旱魃爲虐, 麰麥焦傷, 播種愆期。 今乃避殿、減膳, 痛自刻責, 夙夜思愆, 罔知其由。

●伝旨

天と人の間は隙間がないから、人事が下界で感じたら天変は天上で応じる。咎徵の起こりはどうして原因がないだろうか。予は即位以来、憂勤惕慮して負荷に負えないことを恐れた。今農月にあたって旱魃はひどく麰麦は傷み播種は時機を失う。今は避殿し、減膳し、ひどく自ら責め夙夜過ちを思うがその理由がわからない。

 

4336、

豈政治有闕, 而德未下究; 言路未廣, 而情未上通; 刑罰失中, 而獄多冤滯; 工役妄興, 而民多怨咨; 用舍失宜, 而邪正混進; 享祀不潔, 而百神不歆歟? 欲修弭災之道, 宜求讜直之言。 凡寡躬闕失, 政令臧否, 民生利病, 極陳無諱。 言而可採則採之, 雖或不中, 亦不加罪。 頃者屢下求言之敎, 而無一人實封以聞。 豈上下修省, 以答天譴之意耶? 咨爾中外大小臣僚, 各以所聞, 悉陳時弊, 條上封事, 以副予敬天勤民之意。

どうして政治に欠点があって徳が下まで届かないと言うのか、言路が広くなくて事情が上に通じないのか、刑罰が正しくなくて獄に冤滞が多いのか、工役がみだりに起こって民に怨咨が多いのか、用捨がよろしきを得なくて邪正が混進するのか、享祀が清くなくて百神が受けないのか。弭災の道を修めたいから正しい言葉を求めるべきだ。だいたい寡躬(王自身)の誤り、政令の善悪、民生の利病を極陳することを遠慮するな。言うことが採用できるなら採用する、或いは当たらなくても加罪しない。近頃しばしば求言の指示を下すが、一人も実封して上聞するものがない。どうして上下が修省して天譴の意を答えないだろうか。ああ、あなたがた中外大小の臣僚はそれぞれ聞くところで、時弊をすべて述べ、箇条書きに封事を上げて、予の敬天勤民の意に副えよ。

 

○御晝講。

●〔省略〕。

○御講。

●〔省略〕。

4337、
中宗4年(1509年)4月26日()
左議政朴元宗が辞任を求める。

○丁亥/左議政朴元宗啓曰: "臣備員都堂, 四年于玆。 近來被論於臺諫, 而甘心受之, 未卽辭免。 臣本以弓馬發跡, 豈宜此任? 前者以新服之初, 未能强辭, 今則卽位已久, 國事已定, 敢辭。" 傳曰: "國家今方多事, 大臣豈宜辭職?"

●丁亥、左議政朴元宗が奏上して言った、「臣は都堂の人員に備わってここに四年になる。近ごろ台諫に論駁され、心に甘受したが、すぐには罷免されない。臣は本来弓馬で発跡した、どうしてこの任にふさわしいだろうか。前は新服の初めで強いてやめることは出来なかったが、今は即位してすでに長く、国事もすでに定まった、敢えて辞職する。」伝教して言った、「国家は今まさに多事だ、大臣はどうして辞職していいだろうか。」

 

4338、

大妃が減膳を命じる。

○大妃命減膳。 大殿減膳, 則諸殿亦減之, 例也, 而該官難於啓請。 至是大妃聞之, 亦命減。

●大妃が減膳を命じた。大殿で減膳すれば多くの殿でも減膳するのが例だが該官が啓請を困難とした。ここにいたって大妃が聞いてまた減膳を命じたのである。


○臺諫以
崔漢洪等事, 累啓不允。

●〔省略〕。

4339、

中宗4年(1509年)4月27日(戊子)
左議政朴元宗が、職位に適当でなく、また喉の渇きの病にかかったして辞任を求める。

○戊子/左議政朴元宗啓曰: "臣於昨日, 已啓辭職之意。 臣才器不當, 只以功勞, 得拜是職, 心甚未安。 又罹渴證, 願得辭避, 以保殘軀, 臣雖爲府院君之職, 亦當預聞國事。 自古帝王之於功臣, 不任以事者有之。 殿下之待臣也, 小過猶寬假之, 後有大過, 不得已貶遞, 則亦上之累德也。 請速遞之。" 累辭, 皆不允。

●戊子、左議政朴元宗が奏上して言った、「臣は昨日すでに辞職の意を奏上した。臣は才器が適さず、ただ功労によってこの職を拝することができたので心がはなはだ穏やかでない。また渇症にかかったので、願わくは辞避を得て残躯を保ちたい。臣は府院君の職にあり、また国事にあずかっている。昔から帝王の功臣に対するのに事を任せないことがあった。殿下の臣への待遇は、小過はなお寬仮するも後には大過があって止むを得ず貶逓すると、また上徳にわざわいする。速やかな交替を求める。」重ねて辞職したが皆允許しなかった。

4340、

○臺諫啓前事, 不允。

●〔省略〕。

 

忠勳府で王子君の勳籍への記録、靖国と定難功臣の開刊問題、等を奏上する。

○忠勳府啓曰: "前例王子君, 雖無功, 皆錄勳籍, 今則何以爲之? 且靖國、定難功臣, 不可竝錄於一冊, 請兩件開刊何如? 柳房金澕李惟淸, 今皆被罪遠謫, 竝錄與否取稟。" 傳曰: "王子君竝錄之可也。 柳房等三人, 時無削籍之敎, 何以不錄乎?"

●忠勳府が奏上して言った、「前例では王子君は功績が無くとも皆勳籍に記録したが今はどうするか。また靖国、定難功臣は一緒に一冊に記録すべきでないが、両件を開刊するのはどうか。柳房金澕李惟清は今皆罪されて遠謫したが、皆記録するかどうか稟を取る。」伝教して言った、「王子君は皆記録するのがよい。柳房等三人はまだ削籍の示教がないがどうして記録しないのか。」

 

4341、

沃川幼学金建の卓越な孝行を知らせる忠清道観察使曺継商の状啓。
○忠淸道觀察使
曺繼商狀啓:沃川幼學金建, 性本純孝, 年二十母沒, 廬於墓側, 每以衰服, 伏于苫次。 歠粥三年, 終始如一, 哀戚所極, 遂成疾疹, 濱於死域, 父兄憐之, 諭以節哀, 涕泣不從。 家距廬所, 僅百餘步, 一不往來, 雖廬外, 亦未嘗出入, 與人言唯喪事而已, 不以他辭。 後祖父沒, 以爲嘗見養於祖父, 欲服衰行三年喪。 父兄以非禮止之, 行心喪惟謹。 又遭父喪, 不離墓側, 寢苫枕塊, 朝夕哭泣, 凡喪制一遵《家禮》。 孝行一鄕皆知。下禮曹。

●忠清道観察使曺継商の状啓、「沃川幼幼学金建は性がもともと純孝で、年二十で母が没すると墓の側に庵をつくりいつも衰服で苫次に伏した。粥をすすること三年終始同じで哀戚の極まるところついに疾疹になり死に瀕した。父兄が憐れみ節哀を論じたが涕泣して従わなかった。家と庵との距離はわずかに百余歩、全く往来せず庵の外でもまた全く出入りしなかった。人と話すのもただ喪事だけで、他の話はしなかった。後に祖父が没し、かつて祖父に養われたというので、服衰して三年の喪を行おうとした。父兄は礼ではないと言って止めたが、心喪を行うのはただ敬虔であった。また父の喪におあって墓の側を離れず、苫に寝て土塊を枕とし、朝夕哭泣し、およそ喪制は一に『家礼』に従った。孝行は一鄕の皆が知る。」礼曹に下した。

 

4342、

中宗4年(1509年)4月28日(己丑)
○己丑/御朝講。 是日大雨, 夕大風拔木, 屋瓦皆飛。

●〔省略〕。

中宗4年(1509年)4月29日(庚寅)
○庚寅/御朝講。

●〔省略〕。


都体察使
宋軼が来て復命し、茂山、豊山を移設した地図及び救弊策を上げる。

○都體察使宋軼來復命, 仍上茂山、豐山移排地圖及救弊之策。 傳曰: "卿遠路勤勞往來, 邊事又詳啓之, 予甚嘉焉。" 賜角弓一張, 蓑衣一事。

●都体察使宋軼が来て復命し、茂山、豊山を移設した地図及び救弊策を上げる。伝教して言った、「卿が遠路勤労して往来し、また辺境のことを詳しく奏上した、予は甚だ嘉する。」角弓一張、蓑衣一着を賜った。

 

4343、

宋軼が書啓したことを命じて議論させる。

宋軼書啓事, 命議之。 盧公弼議: "軍糧儲費事, 竝依所啓, 令該司磨鍊施行爲當。" 柳順汀等議: "軍卒不精, 果在鎭將賢否。 擇有才幹廉謹者差遣, 使之撫恤, 鍊習射御。 其最有成效者, 令觀察使、節度使, 同議抄啓褒奬, 違者重論。

宋軼が書啓そたことを命じて議論させた。盧公弼が議論した、「軍糧儲費のことは皆奏上により、該司に用意させて施行するのが当を得ている。」柳順汀等が議論した、「軍卒が精鋭でないのは、やはり鎮将の賢否にある。才幹があって廉謹なものを選んで差遣し、撫恤させ弓と馬を練習させる。最も成功したものを、監察使、節度使にともに議論させて抄啓褒奨し、違うものは厳しく論じさせる。

 

4344、

且咸鏡道各場牧馬匹, 元數不多, 以此前日, 只給百匹, 其貧窮軍士, 得馬者蓋寡。 令該司磨鍊, 量數加給, 祿俸緜布, 亦令該曹, 趁時入送爲當。" 朴楗議: "不用官軍器, 藏於(宮)〔官〕 庫無益, 可分給軍士。 但分給軍士之數, 令其道節度使磨鍊以啓。 且膠則所産各官, 令該曹磨鍊, 分定入送。"

また咸鏡道牧場の馬はもともと数が多くなく、そのため前日ただ百頭を支給した。貧窮軍士は馬を得た者が少ない。該司に準備させ数を計って加給し、禄の綿該曹に時を見計らって入送するのが当を得ている朴楗が議論した、「使わない官軍器官庫にしまっても無益だから軍士に分給すべきだただし軍士に分給する数をその節度使に準備させて奏上させるまたする各官該曹が準備させ分定して入送する

 

4345、

柳順汀議: "阿吾知堡, 還移舊基, 甚便。 但堡屬軍卒六十餘戶, 令隨堡還屬慶源, 則慶興似爲單弱。 然此元是慶源鎭人民, 其軍卒宜隨堡, 還屬慶源。 文川、高原、富寧、慶興、穩城等地入居, 在所不得已, 但事有緩急。 文川、高原, 比富寧、慶興、穩城稍緩, 宜於富寧等三鎭, 爲先抄入。

柳順汀が議論した、「阿吾知堡は昔の基地に移しもどす甚だ穏当だただし属の軍卒六十に従って慶源に還属させると慶興は単のようだしかしこれはもと慶源鎮の人民で、その軍卒に従って慶源に還属させるべきだ。文川、高原、富寧、慶興、城等入居するのはやむを得ないところだが、には緩急がある。文川、高原は、富寧、慶興、に比べてやや緩いから、富寧等鎮を先に選び入れるべきだ

 

4346、

去辛酉年, 欲徙邊, 曾抄下三下道居民四百戶, 去今已久, 流離逃亡者必多。 時存戶更詳點閱, 准擇三百戶, 富寧五十戶, 慶興一百戶, 穩城一百戶, 待秋稔分入以實之, 文川、高原, 則待後年, 視歲豐穰, 量宜抄入。 北道節度使營屬衙吏居鏡城府者, 二百九十名, 若除其半, 還屬本府, 則不得已以他鎭軍士, 充其所除之數, 他鎭還受其弊。 今只抄閑良、衙吏四十名, 給本府甚當。

●去辛酉辺境に移そうとし、かつて居民四百戸を選び出したが今を去ること既に久しく、流離逃亡するものは必ず多い今存する戸を更にしく点閲し三百戸を選び出し、富五十戸、慶興戸、穏戸、秋の収穫を俟って分入して満たし、文川高原は後年を待ち年の豊穣を見てって選び入れるべきだ。北道節度使の営に属する衙吏鏡城府に居住するもの二百九十名を、もしその半分を除き本府に還属すると、やむを得ず鎮の軍士でその除いた数を満たすが鎮はかえってその弊害を受ける。今ただ閑良を選んで衙吏四十名本府に給するのは甚だ当を得ている

 

4347、

咸鏡南官富實人民二百戶, 分入富寧、會寧兩鎭果當。 辛允武前爲北道節度使時, 見邊民流徙南官者多抄, 其許接人啓聞, 其數不少。 以此分入, 則非徒兩鎭軍戶自實, 後日流徙者自戢, 許接者亦有所畏懼, 而不敢爲。 若許接應徒者, 不准於數, 則以他實戶, 依數抄充爲當。

●咸鏡南官実な人民二百戸を富寧、会寧両鎮に選び入れるのはやはり当然だ辛允武は前に北道節度使だったとき、辺境の民で南官に流れ移る者が多く選ばれのを見て、その仮住まいを許された人を啓聞したがその数は少なくなかったこれを選び入れると、ただに両鎮の戸が自然と充実するだけでなく、後日流れ移る者も自然に止まり、仮住まいを許されたものも恐れるところがあって、あえてしないだろうもし仮住まいを許された人で移るべき者が数に満たなければ,他の実戸で数によって選んで満たすのが当を得ている

 

4348、

 鹿屯島沃饒可耕。 但造山堡戌卒, 皆是水軍, 率皆殘劣, 備敵之具亦疏, 若於耕作之際, 脫有賊變, 必被搶擄, 計其利害, 不如仍舊禁耕。 浪城、道安等浦, 虛設防所, 無關備賊, 果宜革罷, 其水卒作陸軍, 南道入防, 端川軍士, 移防北道等事, 實爲便當。 凡軍士戶首有闕, 則以保人, 陞爲戶首, 毋使絶戶, 此軍籍事目本意也。

●鹿屯島は肥沃で耕作可能だただし造山堡の守兵は皆水軍で、ほぼ全員残だ。敵に備える道具もおろそかだ。もし耕作の際に賊変があったら必ず盗まれる。その利害を計算すると、やはりもとのまま耕作を禁ずる方がよい。浪城道安等は無意味に防衛の所にしたので賊に備えるには関係がない、やっぱり廃止するのがよい,その水平は陸軍にして、南道に入って防衛し、端川軍士は移動して北道を防衛するのことは本当に当を得ているだいたい軍士の戸に欠があると保人を昇進させて戸にし、戸を絶えさせてはならない。これは籍の目の本意

 

4349、

若騎、步、正兵、甲士移屬他役者, 竝皆仍給舊保, 則必有絶戶者, 其法應完聚者外, 勿給舊保爲便。 鏡城以南各官人民許接, 六鎭逃民者, 不爲禁斷, 則六鎭漸至虛疏, 實爲可慮。 令本道觀察使, 詳審推刷, 竝於陸鎭, 全家入居後, 自首者免罪。 安邊等各官軍士助番之苦, 果如所啓。

もし騎、步、正兵、甲士他役に移属したものにそのままみな旧保を給したら必ずが出るだろう、法的に完聚すべきもの以外は旧保を給しないのが穏便だ。鏡城以南の各村の人民の仮住まいを許した鎮の逃民者を禁断しないと、鎮はだんだん空になる、まことに憂慮すべきだ。本道の監察使詳審推刷させ、すべて鎮において全家入居したあと自首したものは免罪する。安村の軍士助番はやはり奏上の通りだ

 

4350、

然各鎭堡防禦緊歇及戌卒增減, 未易遙度。 自十月至二月, 除助番, 自三月至九月, 疏爲七番便否, 令本道觀察使、節度使, 商議啓聞後, 更議施行。 咸鏡道軍戶不敷, 其投屬鷹師等役者及冒屬忠順ㆍ忠贊衛者, 竝除下, 隨其實不實, 分定軍士戶保, 歲貢生徒, 亦除上送充軍。 平安道亦依右例施行。

しかし防禦緊歇及戌卒の増減はまだ遠くからは推量しやすくない。十月から二月までは助番を除き、三月から九月までは、分けて七番にすることの便否を、本道観察察使節度使商議させ啓聞させたあと更に議論して施行する。咸鏡道戸は多くないので鷹師等に投属した役者及び、忠順属したものは皆除下し、その実不実にしたがって軍士の戸に分定する。歲貢生徒上送を除いてに充てる。平安道もこれらの例によって施行する

 

4351、

咸鏡道各驛殘廢, 故以騎、步、正兵, 定爲館夫, 相遞之役。 以此赴防軍卒, 減少可慮。 然下三道驛子富實者, 亦抄入居, 恐復弊生, 仍舊似便。 前此本道節度使、觀察使, 以甲山、積生之地, 爲諸鎭堡要衝, 請設行營, 今觀宋軼所啓, 積生, 去諸鎭俱遠, 緩急不能相救。 惠山鎭扼賊噤喉, 實是要害之地, 況節度使, 留防于惠山已久, 宜於此建行營, 增置戍兵, 高大其城, 以壯形勢。"

●咸鏡道駅が残廃したので、步、正兵館夫に決めて、逓の役にし、それで赴防軍卒が減少するのが心配だしかし下三道の駅実なものをまた選んで入居させるとまた弊害が生じるおそれがあるからやはり旧によるのが便宜だ。前にこの本道節度使、観察使甲山、積生要衝として営の設定を求めたが、宋軼の奏上を見ると、積生鎮からは皆遠く緩急のとき互いに救えない鎮は噤喉を扼し実に要害の地だ、まして節度使が恵山に留防してからすでに長い、ここに行営を建設し、戍兵を増置し、その城を高大にして形勢を盛んにするのがよい

 

4352、

柳順汀等議: "鹽盆勿加設事, 龍城社, 德源府仍屬事, 六鎭黃毛、羔毛等小小貢物, 觀察使收合都納事, 竝依所啓。 文魚、大口魚移定事, 往年還上蠲減事, 土豹皮、(狼)〔狼〕 尾, 依狸、狐皮例, 限數年貿穀事, 則該曹曾依本道觀察使所啓。 文魚已於産出官移定, 大口魚以所産鰱魚代納。 土豹皮、狠尾, 限五年貿穀, 補軍資。 還上勿令督徵, 視歲豐凶, 漸次收納事, 受敎行移, 今不必更議。 生梨麝香, 其數不多, 亦令該曹磨鍊, 限年權減。" 皆從之。

柳順汀が議論した、「塩加設しないこと、竜城社を徳源府になお属させること、鎮の黄毛、羔毛等々の貢物を観察使が収してすべてめること、は皆奏上によるたこ、タラの移定のこと、往年還上低減のこと、土豹皮、狼尾は、依狸、狐皮によって、数年を限って貿穀することは、該曹がかつて本道観察使の奏上によった。たこはすでに産出する村で移定し、タラはするい鮭で代納する。土豹皮、五年を限って貿穀し、軍資を補うこと。還上督徵せず、歳の豊凶を見て漸次収納することは、下教を受けて行移したから,今はずしも再することはない。生梨麝香はその数が多くないから、また該曹に準備させ年を限って仮に減らす従った

搶擄:盗み。

塩盆:海水を煮詰めて塩を作る釜。

 

4353、

台諫が、內需司が投託した、公私の賎民、良民の駅子を刷出し、魚箭を百姓に与えようとする。

○臺諫啓曰: "反正以後, 盡革弊政, 而猶有未盡者, 故啓之。 《續錄》有 ‘宣頭案付奴婢, 勿許爭訟, 陳告人勿聽之語。’ 廢朝公私賤及良民驛子, 皆厭苦役, 投入內需司, 司奴興守等稱甘露寺奴婢, 竝皆案付收貢。 反正以後改之, 猶未盡。

●台諫が奏上して言った、「反正以後こちょごとく弊政をやめたが、まだ尽くさないものがあるので奏上した。『続録』に「宣頭案付奴婢は争訟を許さない、陳告人は聞き入れない。とある。廃朝の公私の賎民及び良民の駅子は皆苦役を厭って内需司に投入したが、司奴興守等が甘露寺の奴婢と称して一緒に皆案付して収貢した。反正以後改めたがなお尽くさない。

 

4354、

 若文記分明, 則還給本主。 其餘公賤良民驛子猶多, 仍舊請盡刷出, 以補軍額。" 又啓曰: "《大典》云: ‘魚箭給貧民收稅’, 而今則半在內需司, 半給宗宰、大臣。 夫人君, 自有惟正之供, 大臣亦有自奉之祿, 不可與民爭利。 請依《大典》施行。" 傳于政院曰: "內需司多有公私賤良民驛子, 則依所啓推刷事, 言于臺諫。

もし文記が分明なら本主に還給する。そのほかの公賎、良民の駅子はまだ多い、元通り悉く刷出し軍額を補うことを求める。」また奏上して言った、「『大典』に言う「魚箭は貧民に給し収税する」と。しかし今、半分は內需司にあり半分は宗宰、大臣に給する。だいたい人君は自ら正しい供給があり、大臣も自奉の禄がある。民と利を争うべきではない。『大典』によって施行することを求める。」政院に伝教して言った、「內需司は多く公私の賎、良民の駅子があるから奏上によって推刷することを台諫に言え。

 

4355、

卽位以後, 必無如此投托事矣。 其甲子、癸亥年間, 投屬良人及公私賤, 皆已刷出, 文記亦搜探燒毁于政院, 今宜更加推刷。 魚箭事, 《大典》雖有給貧民之法, 自祖宗朝, 其來久矣。 不可改也。"

即位以後、必ずこのような投托のことはないだろう。甲子、癸亥年間の投属した良人及び公私の賎民は、皆刷出し、文記も搜探して政院で焼き捨てたが、今更に推刷を加えよ。魚箭のことは、『大典』に貧民に淤給する法があるが、祖宗朝以来久しいので改められない。」


4356、
中宗4年(1509年)4月30日(辛卯)
人君が風邪気があって、承旨、史官等が問安する。

○辛卯/上有感冒證。 承旨、史官等問安, 傳曰: "證(侯)〔候〕 無異, 但不緊耳。"

●王が風邪気があって、承旨、史官等が問安すると、伝教して言った、「症候は違いないが、ただしひどくないのだ。」

 

左相政朴元宗が辞職を求める。

○左議政朴元宗啓曰: "臣累日啓請, 已審上旨。 然而自知無才德, 不合重位, 故再煩天聽。 夫三公之位, 不可冒居, 而上亦不可以私恩任之。 計私恩與朝廷輕重, 則臣之所啓, 可否自判矣。

●左議政朴元宗が奏上して言った、「臣は日を重ねて啓請し、すでに上旨はわかりました。しかし自ら才徳がなく、重位に合わないのを知るので重ねて天聴を煩わす。そもそも三公の位は冒居すべきでなく、王もまた私恩で任ずることはできない。私恩と朝廷の軽重とを計ると臣の奏上の可否は自ずと明らかだ。

 

4357、

臣稍知古事, 則何敢强辭如此哉? 且韓明澮光廟朝, 三爲政丞, 不過一年三已之。 其辭於世祖曰: ‘待臣有過, 然後不得已繩之以法, 則於事體豈是乎?’ 臣之辭職, 不特此也。 恐汚朝廷名器, 晝夜惶恐。" 傳曰: "世祖韓明澮, 三爲政丞者, 以有功德也。 卿有功德, 勿辭。"

臣は少し古事を知っているから、どうしてこういうことを強弁しようか。また韓明澮光廟朝で三たび政丞になったが一年たたないうちに三たびやめた。その世祖曰における言葉に、「臣に過ちがあるのを待って、そのあとでやむを得ず法で処置すると、事体においてどうして正しいだろうか。臣の辞職はただこれだけではなく、朝廷の名器(職位)を汚すのを恐れて昼夜不安だからだ。」伝教して言った、「世祖朝で韓明澮が三たび政丞になったのは功徳があるからだ。卿は功徳がある、やめるな。」

 

4358、
対馬島敬差官
尹殷輔が忠州で島主の死を聞いて留待して帰る。
○對馬島敬差官
尹殷輔, 到忠州, 聞島主死, 留待, 見有旨乃還。

●対馬島敬差官尹殷輔が忠州に至って島主が死んだのを聞いて留待して、有旨(王の指示)を見てすぐ帰って来た。

両司が魚箭のことを奏上する。

○兩司啓魚箭事。 傳曰: "內需司本無魚箭。 但自祖宗朝, 爲祭祀, 咸興地只有一處。"

●両司が魚箭のことを奏上した。伝教して言った、「"内需司には本来魚箭がなくて、ただ祖宗朝から祭祀のために咸興の地にやっと一ケ所を置いただけである。」

 

4359、
内需司の奴婢の根脚を細考して、宗宰に頒賜した魚箭を改めることはできない。
○傳于臺諫曰: "內需司果有投屬公私賤及良民, 則不可。 其自乙卯年, 至丙寅年八月, 所屬奴婢根脚細考, 若公私賤明白, 則許令分給可也。 魚箭事, 考諸內需司, 則廢朝時有之, 今則已革。 臺諫無乃誤聞耶? 且自祖宗朝, 頒賜宗宰各司魚箭, 今若改之, 是不遵祖宗之法也。 雖仍執用之, 亦不緊之事, 況與百姓分半, 則是與民共之也?"

●台諫に伝教して言った、「內需司に果たして投属する公私の賎民及び良民があるなら不可である。乙卯年から丙寅年八月に至るまでの所属する奴婢の根脚を細かく調べ、もし公私の賎民なのが明白なら分給させるのを許すのがよい。魚箭のことは諸の內需司を調べ廃朝の時に有ったが今はすでに止めた。台諫誤って聞いたのではないか。また祖宗朝より宗宰と各司に頒賜した魚箭を今もし改めると祖宗の法を遵守しないことになる。ずっと取り用いても緊急のことではない、まして百姓と分半すればこれは民と共にするのだ。」

根脚:出生地、住所、親を言う。

宗宰:宗戚と宰臣。

 

4360、

政院で、聖体が未寧なので文昭、延恩両殿で親祭すれば無理があるか心配する。

○政院啓曰: "文昭、延恩兩殿親祭執事已具。 但上體未寧, 雖明日快差, 齋戒沐浴, 祭日夜半行事, 則恐勞動聖體。" 傳曰: "感冒證歇, 陵祭亦未行, 欲觀勢親祭兩殿耳。"

●政院が奏上して言った、「文昭、延恩両殿の親祭の執事はすでに準備された。ただし上の体調はまだ安らかでない、明日快癒しても、斎戒沐浴し、祭日の夜半に行事すると聖体を疲労させるのではないか心配だ。」伝教して言った、「感冒は止んだが、陵祭もまだ行えない、状態を見て両殿に親祭しようとするのだ。」

 

4361、

中宗4年(1509年)5月1日(壬辰)
朴元宗がまた辞職を求めることで政院の意見を尋ねるから辞職させてはいけないとする。

○壬辰朔/左議政朴元宗再啓辭職。 傳于政院曰: "左議政近來固辭, 予意以爲, 三公不可輕改。 況臺論之後辭免, 尤不可。 於政院意何如?" 政院啓曰: "左議政固辭之意, 未可的知。 古人以大功之下, 久居爲戒。 寧非玆意耶? 政丞雖如此辭之, 上當以伊、周責望, 共致太平而已。" 傳曰: "卿固辭, 故問于政院, 政院云: ‘當以伊、周責望, 共致太平而已。" 政院亦豈以外貌言之? 卿有伊、霍之功, 事予如成湯宣帝, 安心輔政可也。"

壬辰朔、左議政朴元宗が再び辞職を奏上する。政院に伝教して言った、「左議政が近頃固辞する。予の考えでは三公は軽々しく改めるべきでない。まして台論のあとの辞免は最もいけない。政院の考えはどうか。」政院が奏上して言った、「左議政の固辞の意はまだはっきりはわからない。昔の人は大功のもとで長くいることを戒めとした。どうしてこの意でないだろうか。政丞がこのように辞職しても、王は伊、周になって責望し共に太平を致すべきである。」伝教して言った、「卿が固辞するので政院に尋ねたが、政院は言う、「伊、周になって責望し共に太平を致すべきである。」と。政院もまたどうして外貌で言うのか。卿は伊、霍の功がある。予に仕えるのは成湯宣帝のようだから、安心して輔政するのがよい。」

 

4362、

御史尹希仁が復命して江陰で僭越に囚禁したこと等を奏上する。

○御史尹希仁來復命, 以江陰濫囚事及載寧烟戶軍二百六十二名, 抄發山行, 信川緜布一百六十五匹, 海州私奴下通事干三百餘人, 刑訊者一百二十三人等事, 啓之。

●御史尹希仁來が来て復命し、江陰で僭越に囚禁したこと、及び載寧の烟戸軍二百六十二名を抄発して山行させたこと、信川の綿布百六十五匹のこと、海州の私奴下通のことに関係した三百余人の刑訊者百二十三人等のことを奏上した。

 

4363、
台諫が魚箭を百姓に与えようとする。
○臺諫啓曰: "見戶曹移文, 有放生魚箭, 【咸興魚箭】 故昨日啓之。" 因啓曰: "上敎以爲: ‘魚箭, 祖宗朝之事, 不可改。’ 臣等以爲, 雖祖宗朝事, 今旣爲弊, 不可因循。 況食祿之家, 與民爭利乎? 且此事, 非皆出於先王朝, 其於廢朝亂政之時, 賜給居多。 請速還輸, 以業貧民。" 傳曰: "放生魚箭, 非內需司所有, 乃屬于新本宮, 因給奉保夫人, 臺諫不詳察言之。 但宗宰各司, 則自祖宗朝例頒賜, 不宜追奪。"

●台諫が奏上して言った、「戸曹の移文を見ると放生魚箭(咸興の魚箭)があるので、昨日奏上した、とある」それで奏上して言った、「王の示教では、魚箭は祖宗朝のことで改められない、とある。臣等の考えでは祖宗朝のことであっても今はすでに弊害となっているから因循すべきでない。まして食禄の家が民と利を争うことだろうか。またこのことは皆先の王朝からでたのではない、廃朝の乱政のとき賜給したのが多い。速やかに還輸して貧民の業とせよ。」伝教して言った、「放生魚箭は內需司のものではない、つまり新本宮に属させて奉保夫人に給したものだ。台諫は詳しく調べないで言う。ただし宗宰と各司は祖宗朝よりの例で頒賜した、追奪すべきでない。」

奉保夫人:外命婦の一つ。王の乳母。

 

4364、

兵曹で別侍衛の甲士に禄を給することを奏上する。

○兵曹啓曰: "別侍衛、甲士給祿之事,甲士則平安道遞兒二百, 咸鏡南道五十三, 北道一百四十七分給, 令其道鍊才薦狀, 下批給祿, 其餘各道, 則不分定遞兒, 各番鍊才仕數, 曹和會磨鍊給祿。 別侍衛, 則兩界及他道, 竝和會計仕給祿。

●兵曹が奏上して言った、「別侍衛の甲士に禄を給することについて、甲士は平安道の逓児が二百、咸鏡南道が五十三、北道が百四十七を分給するが、その道の鍊才の薦状で下批して禄を給させる。その余の各道は、逓児を分定せず、各番の鍊才の仕数を曹で和会し用意して禄を給させる。別侍衛は両界及び他道は一緒に和会して計仕して禄を給させる。

仕数:仕進の日数。

和会:協議して決める。

 

4365、

黃海道甲士, 則除番上, 平安道赴防, 故每年罷防還家後, 鍊才啓聞。 以是番上別侍衛、甲士等仕數, 不得趁時磨鍊, 以致給祿稽緩, 使番上(外侍衛)〔別侍衛〕 甲士, 番內未及受祿。 終番時, 京中興利人處, 其(祿奉)〔祿俸〕 及告身, 放賣下去, 貧窮軍士, 未蒙實惠, 徒爲富商取利之資。

黄海道の甲士は番上を免除して、平安道の赴防をするので、毎年防衛を終えて家に帰った後鍊才して啓聞する。このため番上の別侍衛、甲士等の仕数は、時に合わせて磨鍊できなくて、禄を給するのがやや緩くなる事態を致すので、番上し外侍衛と甲士は、番內で禄を受けないようにさせてしまう。終番の時、京中の興利人のところでその禄俸及び告身を放売して去るが、貧窮軍士は実際の恵みを受けず、無駄に富商が儲ける元手となる。

別侍衛:番上した地方軍士。

告身:辞令。

 

4366、

 黃海道甲士, 請依兩界例遞兒, 量宜分給, 以除番上甲士不得趁時受祿之弊, 而兩界及黃海道別侍衛, 亦請依甲士例, 遞兒分給, 待其道鍊才啓聞上來, 一一下批給祿。" 傳曰: "可。"

黄海道の甲士は両界の例で逓児し量って分給させ、番上した甲士が趁時に禄を受けない弊害を除くことを求める。両界及び黄海道別侍衛も甲士の例によって逓児分給し、その道の鍊才を啓聞して上ってくるのを待って、一々下批給禄することを求める。」伝教して言った、「それでよい。」

 

4367、

兵曹で駅路蘇復の策を奏上する。

○兵曹。 上驛路蘇復之策: "一, 宗親或稱妻父母歸葬, 或稱沐浴受由, 外方往來時, 各驛假宿, 使驛吏供辦侵督者, 內官受由往來時, 多般侵虐者, 令其察訪、驛丞, 報監司, 啓聞治罪。 一, 各道鷹子進上人, 各驛止宿, 憑其供饋及鷹食, 以至濫殺鷄犬。

●兵曹で駅路蘇復の計策を上げた、

宗親が或いは妻の父母の帰葬と称し、或いは沐浴受由と称して地方に往来するとき、各駅に泊まって駅吏に供弁を無理強いするもの、內官が受由で往来するときいろいろ侵虐するものは、察訪、駅丞に監司に報告させて啓聞治罪させる。一、各道の鷹子の進上の人が各駅に止宿して、その供饋及び鷹の餌にことよせて、鶏犬を濫殺するに至る。

 

4368、

且各名日進上持來人, 侵督驛吏。 今後鷹馬進上人, 使沿路各官, 草料及鷹食備給。 一, 驛丞、察訪等, 公須位田所出, 私自費用, 驛官支供, 取(辨)〔辦〕 驛吏, 又多營私, 侵漁百端者, 令各道觀察使, 摘發啓聞重論。 一, 各道各官, 以賊贓馬匹及布貨, 驛吏題給, 已爲恒式。 請令申明。" 傳曰: "可。"

またそれぞれの名日進上を持ってくる人が駅吏を侵督する。今後、鷹馬を進上する人は街道沿いの各官に草料及び鷹の餌を備給させる。一、駅丞、察訪等が, 公須田、位田の収穫を私的に消費するので、駅官の支供を駅吏に支弁させ、また多く私利のためにいろんなことに侵漁するものは各道の観察使に摘発啓聞して重く論じさせる。一、各道、各官は賊贓の馬匹および布貨を駅吏に題給するのが、すでに恒式になっている。繰り返し明らかにさせるのを求める。」伝教して言った、「それでよい。」

 

4369、

中宗4年(1509年)5月2日(癸巳)
左相朴元宗が辞職を求める。

○癸巳/左議政朴元宗啓曰: "昨日伏審上意, 臣何取以古人自比? 雖以勳功計之, 重位難居, 況才不堪任乎? 若恃功久居, 則非徒速一時之誚, 亦貽萬世之弊。 反覆計較, 人器不相當, 萬死得請而後, 於身安穩, 國事亦合。 近者以病受由, 醫云不可勞神。 三公之位, 豈可久曠乎? 尤願蒙允。"

 

 

●癸巳、左議政朴元宗が奏上して言った、「昨日伏して王の意を考えるに、臣はどうして昔の人と自分を比べるようなことをしようか。勳功で計ってみても重位は居りがたい、まして才が任に堪えないならなおさらだ。もし功を恃んで長くいると、ただ一時のとがめを招くだけでなく、また万世に弊害を遺す。反復計較するに、人器は相当しない、万死して要求を得て後身は安穏で国事もかなう。近ごろ病で理由を聞くと、医者は精神を疲れさせてはいけないと言う。三公の位はどうして長く空席にできようか。最も許可を受けることを願う。」

 

傳曰: "予之不允之意及政院之議, 卿已悉知, 而如此固辭。 渴證之作, 亦由於用心之勞。 卿其勿辭。" 元宗又啓曰: "臣反覆商量, 不合重位。 稍有可居之勢, 則豈敢如此固辭? 臣之至此, 蓋以功也。 臣本無學術, 只解吏讀而已, 何敢居三公之位乎? 居其位, 不爲其事如尸童, 臣所不堪也。 且國家大事, 會議于公廨, 則與衆同議, 若獨議, 則其下字當否, 專資於翰林注書, 此豈三公之事? 如使臣因居其位, 則凡其公廨會議外, 一應獨斷之事, 不問於臣可矣。 然備員都堂, 不與聞國事, 而因居其位者, 臣所未聞也。" 傳曰: "予不允卿之辭位, 慮予計或失, 及問政院, 議亦如是。 豈非公論? 予覽卿前日議得, 皆當理。 有何不合相位乎?"

 

 

"私が允許しない意味と庭園の議論を頃がもう皆分かって人と一緒に敢えて遠慮するか? 喉の渇き(渴症)が起きるのもまた心を苦労にすることからよったことだから、頃は遠慮しないで。"

した。 原種がまた申し上げるのを、

"神が繰り返し棟上げ(商量)してみても重い地位に当たりません。 少しでもあるべき形勢があればどうしてあえて人と一緒に敢えて遠慮しますか? 神がこの席に早いのは大抵功労のためでした。 神は本来学術がなくてただ吏読(吏讀)を知るだけであるからどうしてあえて三公の地位にありますか? その地位にあってその事をしなければ始動(尸童)と同じであるから、神が耐えられないところです。 そして国家大事を公害(公廨)394)で会議すればみんな一緒に議論するが、もし一人で議論するようになれば、その欠点(下字)395)要請(當否)をひたすら翰林(翰林)と朱書(注書)に依頼するようになるから、これがどうして三公の事ですか? もし神にとってずっとその地位にあらせようとすれば凡そ公害での会議外に一体の独断する事は神に尋ねないのが正しいです。 しかし徒党の一員であって国史に参加せずにずっとその地位にあった人は神がまだ効くことができなかったところです。"

するから、全校するのを、

"私が頃の婿(辭位)を允許しないのは、私がもしくは計策を間違おうか心配されて庭園にまで払ったら、議論がまたこのようだったからである。 どうして公論がないだろうのか? 私が頃の前日件のを見たら皆理に適当だった。 何のチョン勝地位に当たらないのがあるか?"

した。

[註 395]欠点(下字) : 文章を編む時文字を選んで使うの。

 

2、2~5

中宗4年(1509年)53日()
○御晝講。

●〔省略〕。