折口信夫全集第十六卷 民俗學篇2 中公文庫、1976.11.10(91.12.15.4p)
 
 
(242)と謂ひき。
とあるのは、御代々々の天子の中、殊にさうした御行蹟の著しかつた御方で入らしつた爲に、適切にこの慣例による讃へ詞が、あてはまつた次第である。
我々の物言ひは、甚疎かではあるが、語部の物語さへ、まともに傳へぬ橿原の宮の昔に還つて、民族の行くべかりし道と、今の行きあしとが、果して一致してゐるのか、どうか。其を見ようとしたのである。此まで、書き綴つて來たところは、その意味において、唯ほんの方法を示したに過ぎない。
 
(243) 宮廷儀禮の民俗學的考察
      ――采女を中心として――  【昭和七年十一月「國學院大學紀要」所収。八年八月「國學院雜誌」第三十九卷第八號】〔入力者注、中公文庫折口信夫全集第十六巻民俗學篇2、1976.11、による。〕  2007.2.3(土)入力開始
 
平安朝の初期及びその風を襲いで、これを意識化したその中期において見られる、特殊な宮廷生活上の事實から、この考へは出發する。皇后とまをさずして、中宮とまをし、而も、原則としては、皇后の御稱號はありながら、一時的といつた形で、稱へまをし上げる、と謂つた風のあつた事が考へられる。果してさうした状態にあつたものか。若し、さうであつたとすれば、どうしてさう言ふ樣式が、宮廷の中に發生してきたか。さう言ふ點の考察を中心にして、其が史學者の所謂、合理的な一時の政策觀以外にあつたはずの、最自然なるべき過程を見てゆきたいと思ふ。隨うてその間に、極めて偶然に、何の豫定もなく發した緒口が、必然の徑路を開いて來る爲に、從來の方法論からは全く違うた進み方をする事があるだらうと思ふ。
 
     序 論
 
(244)『琉球國譜事由來記』の別篇とも稱すべき、彼島王國の附屬及び諸地方の神職――例外なく女――を規定した「式」とも言ふべき『女官(ノ)御双紙』を見ると、此は、舊首里王朝の女房式であるが、其由來する所が久しくあり、さうしてそこにある古い樣式とも言ふべきものがある爲に、同種族であり――此は、尚異論を持つ學者もあるが、既に認められてゐる事であり、私にも確固たる基礎がある。だが、其點の説明は、今は省く外はない。――而も、其根幹部とも言ふべきわが日本民族の貴顯並びに宮廷の女儀の制度と、殆一つ姿をとつてゐる、と言ふ事が出來る程である。つまり、彼においては、近世迄も、古い分化したものを留めてゐた事になる訣だ。
第一に、我々の考へ方に、最よい基礎を授けてくれる事は、後宮の職員と言へば、單に普通考へる如き、妃・嬪・夫人を控除した下位のすべての人々を指すものとする考へ方を、根本から改めさせる事だ。即、夫人以上の高貴をも、後宮の職員とするのが正しい、と思はせてゐる。も少し穩當な言ひ方をすれば、上から下まで一貫した同系統の職員を持つてゐて、其高下によつて、階級の分たれたものが、始めから別々の意義から出發した樣に、段々考へられて來た。さうした定論を改めさせる役に立つのだ。
第二に役立つ事は、後宮職員擧つて例外なく、神事の職を持つてゐる「巫女」である、と言ふ點の暗示である。大和宮廷及び其延長なる貴族社會の生活方式を考へる上には、主上・大臣・巫女・舍人・武官と言ふ五つの觀察點があると思ふ。その巫女として一括して見るべき階級が、後(245)宮全職員に當るもので、此をつきとめて行く事が、宮廷生活の一面といふより、そのその接觸面の極めて廣い所から、殆、すべての宮廷生活に對する概括的な理會を與へるものとなる訣だ。さうした巫女に、大體下から、采女・大巫・女君(后・皇女・中宮)と三種別を作ることがよい樣である。私は、其準備として、采女の論を書く。
 
     第一
 
采女の考へは、又采部即、采女部を意味する部曲の研究にも關聯するのである。采女についての概念は、既に與へられてゐるものを利用しながら、話を進め、又徐ろに、訂正をもしてゆくことがあらう。
此女官について、注意すべき點は、其が諸國の郡領階級の女子であること(1)。其に任期があつて、滿了後、其郷に歸るのを原則とした事(2)。在京中は、宮廷の神及び天子に奉仕したこと(3)などである。
其外に最肝要な點で、最注意を逸れ易いものは、采女は、元來、其位置が相當に高く、亦一般的であつたのが、後程低下して來、又局限せられて來たものだと言ふ點である。此は、宮廷職員の上には、一體に常にある事であつた。令制によつたものは、固定して來、そのあまり固定したものは、其まゝ廢滅して了ふより外はないが、大體において、位置低下は甚しくない。併し、令以(246)前からあつた自然發生のもので、成書の上に制定を持たぬものは、大抵、高きから低きへ、稀には低きから高きへ、階級觀念の變易せないものはなかつたと言へる。又令以後、令の應用の自由を缺いた點に、活路を開いたものなどは、舊制のものに替つて、高い位置を占める樣になつて來た。
采女の周圍にも、さういふ交替はあつた。嬪・夫人などは、有名無實の者になり、女御・更衣は固より尚侍或は、極めて自由な名稱御櫛笥殿など言ふ新しい名稱と職員とが出來て來た。更に、采女の中から、女房が派出して、從來の采女の職分の一部を受け持つことゝなつた。采女の名目を繼ぐものが、一段下落したのに對して、女房は新時代の新しい職掌の樣に見えて來てゐる。併し、どこまで行つても、女房は通稱であつて、其に備るものは、公人ではなかつたのだ。さうして事實、其内容は、多大の進展を經たにしても、以前の采女の職掌の重要な部分でない、と言ふ事は出來ないのだ。
女房といふ稱呼が、汎稱になつて來たのは、平安朝の初期と見てよいらしく、而も、其職掌の内容は、其以前から充實して來た事も事實であらう。女房の字面は、第一義的には尠くとも、宮廷の後房、即後宮の平稱であつたのである。漢土においては、男房の對語とせられてゐる。其爲、男房の名すら、わが國にあつた樣に信ずる人もある位だ。其が低下して、後宮の中、其處に控へる女官たちを斥す樣になつた。だから、單純に女官の房を言ふ處から轉じたとも言へぬのだ。た(247)とへば、女房歌合せと稱する儀は、屡行はれたが、此は、後宮主催の外に意義はないのだ。だから漠然として、後宮を女房と稱したと言ふだけの意識は、可なり後まで殘つたものと見てよい。
 
     第 二
 
事象の起原を窮めようとする研究に、我々は常に語原解釋を利用して、その原義を史的事實に照し合せようとする。其が都合よくいつたと思はれる場合には、破綻を示すどころか、却て極めてよい方法の樣に見られることが、屡ある。我々もこれを方法として、その恩惠を受けて居る場合が多い。が、其にも尚際限のあることを考へに容れて置く必要がある。たとひ其、最正鵠を得た場合であつても、其が實は、ある點までの眞理として、一部の起原を説明することが出來るばかりで、肝腎の語原その物には、更に其上に第一義があると言ふ、用意を忘れてはならないことだ。今日の我々がさうである如く、古代人は寧、もつと自由に、制限ない程に聯想を恣にして居たのだから、眞の語原と言ふべきものを周つて、語原としての價値を主張し得る説が、どれほど存在することが出來るか知れないのである。語原は、竝立するものとも考へられようが、形式から言へば、層重すべきものなのだ。
うねめ〔三字傍線〕の場合も、さうだ。手襁・領巾を懸け領《ウナ》ぐからの名とする説は、一應尤である。うなぐ〔三字傍線〕の原形はうね〔二字傍線〕(?)である。たまだすき〔五字傍線〕+うねひ〔三字傍線〕と謂つた枕詞が、其を示す。或はなつそひく〔五字傍線〕+う(248)なひ〔三字傍線〕(うなかみ)なども、同樣と思はれる。だから、采女の服制から出たとする考へも、必しも近代のものでなく、うねめ〔三字傍線〕と言ふ語を現に用ゐてゐた古代に於いて、漠然とさうした語原を感じてゐた人々の心持ちが思はれる。だが、其を以て、窮極の語義だとすることは、出來ない。尚古いものゝあることは、考へて見ねばならぬ。其だけ語原の定説には、不安を鋭く持たねばならぬのだ。
私は、うね〔二字傍線〕・とね〔二字傍線〕(即、采女・舍人の語根とも見るべき)の對比が、はつきりしてゐるだけに、此二語の竝行的發達が思はれる。うち〔二字傍点〕を略してう〔傍点〕と發音した例が尠くないから、と〔傍線〕即、外の對照と見る。ね〔傍線〕は、比論に堕するのを虞れる爲に、決定は避けて、唯方針だけを述べるが、神職を意味するものらしい(大倭根子・大田々根子・山代根子・難波根子など多い)。内巫・外覡(或は、巫)と謂つたやうな成立が窺はれる。又、宮廷の内外に居て、咒力を以て、宿老として、ある教權を持つたものと考へてよいかと思ふ。とね〔二字傍点〕(刀禰)に對して、とじ〔二字傍点〕(刀自)と言ふ對稱が生じて、宮廷外の女宿老を表す樣になつた事も考へられる。宿老の掌る里は、家を單位とする爲に、刀自の權力は、家から出發した形を殘す樣になり、刀根は里に對する權力を示す語、と感ぜられる樣に固定したものと謂はれる。
さて、宮廷に於ける采女發生の歴史を説く事は、同時に舍人の沿革を明らかにすることを、手順とせねばならぬ。其上、説明の順序は、常識的に理會せられてゐる所を逆説せねばならぬことに(249)なる。即舍人があり、其中に内舍人《ウドネリ》が生じ、又舍人の小童であるものが、小舍人だ、と言ふ風に順ぐりに考へられて來てゐる。だが事實は、小舍人がとねり〔三字傍線〕の原形で、成年の舍人制成立後、大小を以て言ひ分けたのだ。而も、其前は、とね〔二字傍線〕なる語が宮廷外のものを意味してゐたのを、宮廷内にも置くことになつたので、其矛盾から、とね〔二字傍線〕り〔右○〕と言ひ、更に内舍人と言ひ分けたのだとするのだ。又似た例を引いても、命婦をひめとね〔四字傍点〕と訓ずること、早くも奈良朝の事であらうが、單に媛舍人でなく、必、女君宿老《ヒメトネ》の義と思ふ。とね〔二字傍線〕は宮外の者なのに、宮廷女官の宿老の意に當る語として用ゐた。此も、他のひめ何〔三字傍線〕と言ふ語とおなじく、普通には、ひめ〔二字傍線〕を稱せないものと思ふ。唯とね〔二字傍線〕なのだ。唯宿老なる故に、男女の性別を忘れて、とね〔二字傍線〕と言ふ樣になつたのだ。かうした場合殊に、命婦に當るのである。今は複雜になるのを避けて、うねめ〔三字傍線〕の中のとね〔二字傍線〕なるものゝ義にとつて置く。刀禰の女性に轉用したものが出來た樣に、一方にうねめ〔三字傍線〕の男性化したものが、早くから生じてゐた。其がとねり〔三字傍線〕である。とねり〔三字傍線〕なる語がとね〔二字傍線〕から出て來たものか、語の成立については今姑らく問題とせずに置く。采女召人制が古くて、其に準じて生じたのが、舍人徴發であると思はれる。だが、此とても、起原は斷言出來ない程古いものであらう。采女の制度の宜しきを得たのによつて、自然に對立した形をとつて、出來たものらしい。京内或は地方から、巫女の意義において、采女・大巫《オホミカムコ》を進めてゐたのに、男には、さう言ふ整うた樣式を見ることは出來なかつた。其古制を殘すものと見るべき(250)は、後期王朝までもあつた、童殿上の儀であらう。大巫を京城の地から進めるのと同じく、又或は、中臣女・物部女の類を出したのと一つで、京内の家々の童を上つたのである。此は、家々の神に仕ふるものを進むる采女の形の類推法の含まれたものだ。此が、後には分化して、小舍人或は小舍人童と言ふ形をとつて來たものと見るべきだ。この小舍人・殿上童又は舍人の前身とも言ふべきものゝ起原を説くものが、小子部※[虫+果]※[虫+羸]に關した傳説である。この人の居たと傳へる雄略朝には、既に舍人があつたと國史は傳へてゐるし、其上、此人自身、舍人と言つた形で奉仕してゐたのだ。そして、蠶《コ》を集めよと命ぜられて、誤つてちひさご〔四字傍線〕を集めて來たと言ふ傳へを持つてゐる。而も、此物語は、殿上童が采女の樣式を模して出來た一つ前の型である。古代に於いて、ちひさご〔四字傍線〕を宮廷に侍らしめられた形が思はれるものだ。而も、このちひさご〔四字傍線〕に就いては、舍人の部に説くべきだが、侏儒即、ひきひと〔四字傍線〕(>ひきうど)を意味し、同時にさうした弄臣を用ゐた事實を示してゐるのだ。さうして見ると、神樂歌『大宮』の「大宮のちひさご舍人珠ならば、……」は舍人の小さな者を言うたとするよりも、舍人の原形の暗示を持つものと言へよう。更に、ちひさご〔四字傍線〕なる舍人の實在した事をも示してゐるのだ。たとひ、此民謠の出來た時には、既に、語だけが殘されて居たゞけだとしても。此から推して見ても、宮廷内には、とね〔三字傍線〕を稱するものがなくて、うね〔三字傍線〕を名とする者だけがあつて、さうして、其が女性であつたといふことになる。さて、殘るめ〔傍線〕と言ふ語は、女性を意味するものときめられるか、どうか。うねめ〔三字傍線〕と訓む采部(又、※[女+采]部・采女(251)部)の存在は、采女と何れが先であるか。「采女部」を「うねめ」と言ふのは采女部の融合したものと考へる方が、恐らく容易であらう。が、考へれば、采女部即かうした官巫の集團を漠然と、うねめと言ひ、其中の一人をも更に、うねめ〔三字傍線〕と稱したとも言へるのである。總括してうね部〔三字傍点〕と稱した團體が、宮廷に侍つて、至尊の聖躬近く奉仕した。而も原則として、一般の宮女から區別せられる點は、諸國の貢進した女子であつたことである、と考へることは出來る樣である。
 
     第 三
 
采女は、諸國郡領以上のものゝ女子である。女子と言ふ用語例には、當然、實女子以外に姉妹・叔姪の女性を含み、又時としては、ある約束のもとに、近親と同視せられる養子女もあつた事もある樣だ。郡領と言ふ語の持つた歴史的内容は、國造の子孫の女子、もつと嚴格に言へば、建國以後尚、地方の君主としての權力のあつたものゝ後、と言ふことになる。更に言ひ換へれば、大和宮廷の齋女王の小規模なものである。一國の權威を持つ君主としての力の源なる、神の意思を問ひ得るものとしての、君主の女子(或は妹その他)である。
後期王朝以後、私稱的にも、國造を稱することを認められてゐたのは、出雲臣一族だけであつた。さうして延暦の格によれば、此と共に、宗像などの私稱は諱まれたらしい。尚一家紀氏なども亦、其出自出雲氏なるが爲か、國造を私稱する習慣を捐てなかつた。此から見れば、宗像の之を稱へ(252)て居たことも、三女神以來出雲に關係の深い處から來てゐるのかも知れぬ。ともかくも出雲氏に緩で、他氏に嚴であつたらしいことの理由は訣る。後期王朝に於いては、此私稱は、既に、内容を忘れた單なる咒詞上の傳襲によつて保たれたもの稱號に過ぎなくなつて了うたのだ。その頃に、やはり他方面において、最妙な固定した遺物がある。
延喜式祝詞を見ると、ある大社の祭りに宣する祝詞――主上から、其社々の神に言ひ聽けられる形の――では其社の神主・祝部に呼びかけ、此を奉仕する社に傳達せしめる形がとられてゐる。さうした祝詞の複合體なる祈年祭・月次祭、及び其形式の似た所のある大嘗祭(新嘗祭にも通じる)などには、やはり其々の、社々の神主及び祝部に、呼びかける形式を採る。
 集侍神主・祝部等諸。聞食登宣。【神主・祝部等共稱唯】……。(諸社の祝詞の前文)
 辭別、齋部……幣帛乎神主・祝部等受賜※[氏/一]事不過捧持奉登宣。(所年祭・月次祭)
 廣瀬能川合爾……稱辭竟奉【久乎】神主・祝部等諸。聞食登宣。……(廣瀬川合祭)
 倭國能六御縣乃山口爾坐皇神……神主・祝部等諸。間食止宣。(同じく)
かうして呼ばれる神主は、國造であり、祝部は、此に次ぐ神職で、邑々の神を守る者、即宮廷の骨からすれば、直〔傍線〕或は君〔傍線〕に當るらしい。同時に、政權を持つたものゝ後の姿だと考へられる。但、禰宜をあげない理由は、「ねぎ」は、宮廷關係の社、即地方にしては、縣々の社に、中央から遣された神職の稱であつたからである。其で、所勞に酬いる約束をして(立願)置く(イ)。さうして(253)更に、犒ふ義(ロ)のねぐ〔二字傍線〕と言ふ用語例を持つてゐる訣だ。國造の祀つた神には、關係のない職だつたのである。それで、わりあひ注意にのぼる事も尠かつたので、却て、國造及び舊群國の君主を問題とせない場合の記述に、村々の祝部の多く出てゐる訣だ。
勿論、延喜時代には、神主は勿論、既に祝部すらも、官幣を受けに參つたのではなかつた。而も、古代を繰り返すことに、存在の意味と論理的根據のあつた祝詞では、かうした詞の型によつて、其が、天つ社のもの・國つ社のもの、と言ふ區別を立てたのであつた。
さうした國造も、來なくなつた時代において、此等は悉く、國司以下の地方官に當る次第である。ところが、中央集權以後の國家と、其以前とでは、「國」に對する解釋を異にしてゐた。「くに」の語原に適當な用語例は、勿論、宮廷所在の地の「しま」に對するものである。宮廷の威力の盛んなると共に、此に屬する地方的區劃、即、直轄地を「あがた」と稱へた。さうして、郡縣制度が行はれて後、國の廣袤は増したのだが、以前の「くに」は、多く縣に相當する位のものである。正確に言へば、郡の廣さが、其であつた。だから、國についての考へ方は、變らなければならぬ。譬へば、出雲國と言へば、古くは出雲郡が其で、其國の君主の勢力下についた國々は、皆汎稱として、出雲國と稱せられたのである。筑紫國といへば、頗廣くなつたが、筑紫郡〔三字傍点〕を中心とした「つくしの國」の勢力の下にあつた國々であつた。其が九州一帶にまで擴つた訣だ。更に、大和國についても、同じ事が言へる。「大倭」の邑を中心として、其國力の及ぶ限りの國々が、次第に(254)「やまと」の國と稱せられて來た。だから、大和國でありながら、同時に、闘鶏(ノ)國・葛城(ノ)國・吉野(ノ)國・泊瀬(ノ)國・春日(ノ)國などゝ稱へられる邑のあつた次第だ。
郡縣制度以後の國は、さうした廣い範圍を目標としたものであり、其以前の國は、後の郡或は縣の廣さに當るのだ。だから、郡に編入せられて、國號を稱する事を停められて後、縣《アガタ》號を私稱した舊國の多かつたのを見ても知れる。皆、その區劃が狹くて、郡及び縣位にしか當らなかつた事を示してゐる。國造の威力の中心となつた地域が、廣狹二樣あつて、其力の源たる神の在處は、其狹義の部分だと言ふ事が知れる。國造が官吏化して、郡領となつた。國造を稱して尚神に仕へた者も、後徐ろに、其稱を廢せしめられた。
以前「くに」の君主は、宮廷に對して、半獨立の形で從うてゐると言つた關係にあつた。さうした習慣が段々、服從に近づいて來ても、やはり、國の神の威力が、宮廷の神の威力に掩はれきつてゐない間は、眞の屬國とは言はれなかつた。國造なるが爲に、神主であると言ふより、國造・神主兩義が、何れの語にも直に交感せられたのだ。國造が、宮廷以外に存した國の君主の後なのだから、其古い形から考へて、如何にして其等の國を從へて行つたかを思ふ必要がある。
此に、尠くとも二つの方法があつた。一つは、甲の國の君主が、乙の國の神に仕へる高貴の處女と結婚して、乙の國の神の威力を、其巫女と共に奪ふ法で、今一つは、甲の國の神を乙の國に信じさせて、甲の國の神の力の下にある國とならせる事である。恐らく、此二つの形は、國の併合(255)には、兼ね行はれてゐたものと思はれるが、前者は、今の場合にも關係はあるが、もつと直接な場合に詳しく述べるだらう。後者は、采女に最交渉が深い。
國造の女子である事は、其國々の至上神に仕へる最高の巫女或は、將來さうなる資格を持つたものと言ふことだ。此を宮廷に召して、宮廷の神に仕へさせると言ふことは、宮廷の神の信仰を、采女の出た國々の信仰の上に据ゑようとすることである。とりもなほさず、宮廷の神を、彼等に信じさせると言ふことである。國々の神靈を上らしめた上に、更に宮廷から配分する神靈に與らせることである。其國は、自らにして、宮廷の屬國となるのである。信仰を離れて考へると、さうして、召された人々は人質にとられた形になるのだ。
 
     第 四
 
後期王朝末期以後の、正月御歌會の例で見ても、尚|召歌《メシウタ》並びに召人《メシウド》と言ふものがあつて、武官から出ることを思ふと、諸國から召された舍人の上にあつた古風の俤が窺はれる。さすれば、舍人よりも古い形と思はれる采女、其後なる女房の、同じく御歌會に與る事から見ても、右の條の一つの示唆を作ることが出來る。
囚人と意味通じるめしうどゝ、御歌會に選手として出される武官のめしうどゝは、同原の語なのである。更に言へば、免囚から出た放免〔二字傍線〕神祭りに使用したのも、此理由であり、古く亦、天つ罪・(256)國つ罪の罪人を求めて、祓除を行うたのも、一つ根元だつたと言へよう。要するに、めす〔二字傍線〕の義は、ある地域の過誤・穢涜を負ふ、と見なされるものを、御覧(見す)ずることである。其を留めて置く期間は、其障碍の消失せない事を意味する。宮廷のまつりごとの爲に、地方々々の代表者を贖罪せしめる意味で、集め見ることをめす〔二字傍線〕と言うたのだ。人質の意識はなかつたにしても、優位にある國の神に奉仕させるといふ目的は、早くから含まれてゐたに違ひない。
我々は常に、後世の歴史に慣らされてゐる爲に、虚僞・詐略の應酬を、歴史觀に交へ勝ちである。だが、かうした場合にも、思はねばならぬ事は、長く正しい誓ひを守る生活が續いてゐた爲に、猾智が其を轉換する樣なことが、極めて自然に起つて來たのだ、と言ふことである。又、傳説的には、いつも優者が虚僞をし、劣者が誠實に誓約を守る、と言ふ事になつてゐる。此意味については、尚詳しい解説を要する事だが、茲には唯、甲の國の神に仕へると言ふことは僞りでなく、又同時に、服從を誓ふ形になつた、といふことを言へば足りる。
其と共に、考へねばならぬことは、乙自身の舊信仰も、此を保つて行くことが認められて居たことである。此點については、尚、其程度に問題が殘つてゐる。だが、民俗學的の探究によれば、わが國では、文化の低い種族ほど、二種の信仰を、優劣二位のものとの評價のまゝに、甘んじて信じ、主神には殆、奴隷として仕へ、おのが神は、低い事を意識しながら守つてゐた。さうして、其信仰を保つことに由つて、生蠻・原住民と言つた風に考へられもし、自身、考へてもゐた風に(257)見える。人間から言へば、誠實に誓約を守り、優者の信仰を受けると言ふ風になるが、同時に、劣者の神が、優者の神に對して、神自ら仕へると言ふ形をとる訣なのだ。形式に於いて、多少の差違のある樣に見えても、采女は舊國の神に仕へる者であり、同時に其神の代理者であつた。此が、宮廷に奉仕することは、宮廷の神に、采女の國の神が仕へることゝするのが古代論理だ。
だから、古代信仰においては、信仰宣傳の場合において、必、二重の布教事實が見られた。譬へば、八幡信仰の東漸に伴うては、高良山の神の伴はれてゐたことが、事實である。即、八幡神に仕へる神靈として、其忠勤を示すと共に、其自身の信仰も栽ゑつけて行つたのだ。又、傳説化した丹後比沼山――比治〔右・〕山を採らぬ――の信仰については、旦波《タニハ》氏の進める八處女の起原を説きつつ、水の女神(ひぬま・みぬま・みぬめ)同時に、外宮の御分靈なるとようかのめ〔六字傍線〕の信仰を主體に、其を携へ歩いた團體のあつたことが窺はれる。其は、出雲及び阿波に俤を殘し、わなさ彦〔四字傍線〕或はわなさ翁〔四字傍線〕と稱する名で傳へられてゐた神及び、其を布教する神人團である。
この樣に優勢な信仰は、下級の布教者によつて、撒布せられると共に、其基礎として、二重の信仰把持の生活が守られてゐたことは考へられねばならぬのだ。此點において、采女等の信仰に對する態度は、虚僞あるべくもないと共に、重複することが許されたことを考へに入れねばならぬ。殊に、此點は、舍人の側に明らかに見られる事實である。
 
(258)     第 五
 
國造の宗教的威力の殘つてゐた間の、かうした采女の任期滿了歸住後の樣子を考へて見ねばならぬ。勿論、その國の神に仕へると共に、其上置きなる神を祀つた筈である。而も此が、宮廷巫女の、一生を神に仕へる形を學んで、郷貫へ還らなかつたと同樣、宮廷の方式に從うて、更に他國へも出て行つた樣に思はれる。此事は、舍人が國へ還らない場合が多かつた事實ほど、印象は殘して居ないが、對比上考へて然るべき問題と思ふ。
平安朝になつて、女房が京人の女子から多く出る樣になつても、尚古い形は見えて居た。即、女房生活の初期に属する小野小町が出羽郡領の娘だと言はれた如く、さうして其階級が目立つ樣になつてからでも、女房に奉仕する者の親族は、大抵地方官を受領する階級の多かつた事は、偶然だと思へない。更に思へば、女房が多く地方官の妻となつて任地に迎へられて行つたのも、唯暴富を獲る事を餌に、宮廷の官女を誘ふと言ふだけではないらしい。でなくては、何の爲に、既婚者も多かるべき筈の受領階級の人々が、新しく「主《シユウ》」とも齋くべき女性を迎へ下つたかゞ訣らない。地方官になつたことが、官女の物欲を充すに十分なことを期待せしめた側から説くのは、其は第二義である。ともかく、さうした女性或は貴族の女子を連れ下ることが、先に述べた理由の上に、更にその地方人に、威力を感ぜしめる手段になつた事を思はねばならぬ。
(259)もつと、古く溯つて見ても考へられる。倭媛皇女は、第一代齋宮であるが、何の爲に、皇大神を坐ゑまつるべき地を求めて、さすらはれたのであらうか。結果からすれば、宮廷の信仰を宣布する爲と言ふ事になる。が、其根柢において、信仰の分割・撒布を欲する時期に到達する事を考へる必要がある。靈力の運搬に堪へるまでの修練の時期を宮廷に過すと、――即、おのが元來持つ神を以て、宮廷神を誘ひ養ひ奉る事が出來る樣になる。たとへば、――とようかの〔五字傍線〕女の神力を得ることによつて、天照大神を誘ひ出で奉ることの出來る樣になられたのが、倭媛命の旅である。――これには、傳説の複合を知る必要があるのだ。
だから、采女の信仰宣布の爲の旅行について考へる必要がある。かうした痕跡を、女房の上に語り換へて、小町・和泉式部などの流離譚が多く傳つてゐる。必、ある地に行き、更に神に唆かされて、處覓ぎに行く。かうした形式の、旅行である。とにかく、必しも一地方に定住するものでなかつた。若し此が、原地に戻つたとすれば、其地方にとつては、客神《マレヒトガミ》を迎へ具して、饗主《アルジ》神が戻つて來る訣なのである。而も、其後屡居を移して、周遊することになるのだ。
平安朝になつても、歌物語として殘り、而も記録せられるに至つた古い安積山采女(萬葉集卷十八)は、傳説とは言へ、采女を勤めた者の歸住を示してゐる。而も、其采女としての特有の咒術を、行つてゐたことを物語るものである。この類型なる雄略紀の傳へを見ると、三重采女の謠うた咒歌によつて、逆鱗の解けたことを語つてゐる。又、仁徳后(記・紀)に關しては、口子(口持)(ノ)(260)臣の妹口(國依)媛の詫び歌が見えてゐる。雄略帝に對して、女性では、磐媛皇后を鎭魂の由來第一に説いて居たらしいことは、萬葉の卷一・卷二の卷頭によつて、知り得るのである。是亦采女の傳承した采女部の物語であらう。
だから思ふ。歸住した時は、其采女であつた者の爲に、或は寧、その持つ信仰を宣布せしめる爲に、所謂采女部が組織せられる。此は、以前から公に認められた方法であつたのであらう。先に述べた官巫團體のうね部〔三字傍線〕から獨立したうねめの一人を基礎としての部曲、即、ある國の采女を中心とする部曲が成立して、うねめ部〔三字傍線〕(※[女+采]女部・※[女+采]部・采女部・采部)と名づけられ、習慣上|部《べ》を略する處から、うねめ〔三字傍線〕と言ふ樣になる。かうして、歸住した巫女の爲の土地と人民團とが、新設せられるのである。舍人の場合は、別殊の命名方法――日置大舍人部→日置部→大舍人部など言ふ、暦日を中心とする咒術の保持者としての稱號――があつたが、此方は、唯地名を冠するだけであつたらしい。だからうねめ部〔四字傍線〕及びその略語たるうねめ〔三字傍線〕が、其一部の歴史的確實性を有した地方的團體の宰領家の稱號としての「采女氏」のあつた訣だ。併し、特別に舍人が負擔してゐた樣な、公式な日置或は日祀りの名義を保有してゐるものがない。采女部は、單に後の采女司ではない。
唯采女の、宮廷以外に、その職掌を延長した、と見るべきものはないでもない。即、荷前使を進められる墓の關係と同じく、天子に親近な外戚の祖神を祭る時に、奉幣使に采女を添へて、神饌(261)を進ぜしめに遣す儀がある。春日祭・平野祭の如きである。供饌の儀は、最身近く仕へ奉り、而も原則として、非常な恭順を表す形式である。其と共に、玉觴を捧げる規定があつた。だから進める側から言へば、其女性を獻上する意を持つてゐるのだ。臨時の爲に、或は長く奉仕させるつもりで、すべて、その采女を神の物とするのだ。だから、社々の神の定居を考へる樣になつた時代においては、其を再とり返す考へはないのである。捧げきりのものとしたのである。併し來て直に去る臨時の客神にあつては、かうした女性は、神のまゝに降臨の夜を侍らねばならない。かうした信仰は、神を接待する巫女には、すべて纏綿してゐる。其事實は采女においても見られる。
 
     第 六
 
春日皇女の生母童女(ノ)君(春日和珥臣深目の女)は、元、采女であつた。さうして、天皇の倖を受けて、唯一夜に身ごもつた。其爲に疑はれて、生れ子共に顧みられなかつた。後、物部(ノ)目の辯疏によつて、母は妃に列し、子は皇女となつた。唯一夜の倖を問題としてゐるのは、神降臨の夜の所生の尊さを示す物語で、木花咲耶媛の神話にも、關聯を持つものである。前に述べた樣に、采女の常に仕へる神は、自家の神にとつての客神だつた。その印象があるので、童女君の註文に、「本是采女也」と言つた書き方の、眞意を知ることが出来る。而も童女(ノ)君の名からすれば、茲にも亦、疑ひの一因があつたのだ。童女であつた者の一夜孕みを問題としたのだ。普通の結婚には、(262)成女戒を前提としてゐる。處が、こゝは、神のみめ〔二字傍点〕と人間のめ〔傍点〕との區劃を混同してゐる。神の結婚は、人間結婚の前提であり、謂はゞ高媒であり、初夜の儀式である。巫女のすべてが、童女から結婚することは問題でない。だがこゝに、常識と信仰とに、矛盾錯誤がある。其で、此説話が出來た訣だ。而もかうした事實が、采女に多かつたと見えて、采女の生活に、客神降臨の夜の印象があることである。それは、後に言ふ。
かう言ふ風に、宮外の神に對して、主上から采女を賜ふ事があるから、勿論、更に遠處の神社にも、其社格を認めると同時に、此を賜うたものであらう。前に述べた宗像國造の采女については、實は歴史的根據はあつたのだ。其を平安朝には、既に忘れてゐたと見える。やはり雄略九年紀に、凡河内直|香賜《カタブ》と、某采女とを胸方神を祠る爲に遣された時、香賜、采女を犯した事が知れて、國郡縣の中を普く求めて、攝津三島郡藍原で誅した由が見えてゐる。これは、神或は神主ならずしては、采女に觸れることのならぬのを示したのである。采女を賜ふと言ふことは、神社にとつては、國つ社から、天つ社に列せられることになるらしいのである。同時に又、家々に祀る所の神の爲にも、其神及び家を敬して、采女を下されたと見ることが出來る。此に依つて後まで、豪族の家に采女制のあつた訣なのである。かう言ふ風にして、采女は必しも本貫に歸任するのでなく、宮廷及び貴族の家に居る。或は更に、旅をさすらふ樣になるものと思はれる。畢竟、宮廷の咒術を以て、地方民を化育して廻るのである。
(263)采女について、尚問題なのは、家々の采女である。平安朝には、女房・女官などいふ名稱さへ、貴族の間にも用ゐて居た。それと竝行した歴史を持つ采女についても、考へればさうした家々にあつた訣である。唯延暦の格の樣に、采女の名稱を公然と使ふことが出來なくなり、其中、采女の名は低くなつて了うたから、此を稱する事もなくなつたのであらう。
萬葉卷二にある「内大臣藤原卿娶2采女安見兒1時作歌一首。吾はもや。安見兒得たり。皆人の得不敢《エカテニ》すといふ 安見兒得たり」 について考へると、如何に内大臣鎌足でも、采女を犯すことは、神事の上の罪として、嚴罰を蒙らねばならぬ。而もかうした歌が、誇りかに傳へられてゐる。さうした事情を認める世間に於いて、この歌の存在の理由が考へられない。これに就いて思はれる事情は、二つある。藤原家の神に仕へる采女であつたのか。或はまた一方、宮廷の采女を下された時の謝恩《ヨロコビマヲ》しの物か、いづれかであらう。此と共に考へられるのは、いづれにしても、采女が家長の叫め〔傍線〕としての役を持つた事が、公然と認められて居た時代を示してゐるのに違ひない。
采女の類を授り、養ひ、妻とする事、仁徳紀にも見えてゐる。宮人〔二字右・〕桑田玖賀媛を、近習舍人等に示されて、皇后の妬みによつて、盛年を徒らにするのを惜しみ、「みなそこふおみの處女を誰やしなはむ」。播磨國造の祖(國造を言ふからは、舍人である)速待、答への歌を上つて「……畏くとも、吾《アレ》やしなはむ」と答へたが、玖賀媛は從はずして、國に降る途で死んだと言ふ。此宮人は、采女をさして居るのであらう。桑田郡の人である以上、恐らく、丹波道主の女として仕へたもの(264)だらう。又池津媛の無禮を謝する爲、百済王の弟軍君、日本に發するに當つて、「命に違ひ奉らじ。願はくは君が婦を賜ひて後、道を奉ぜむ」と言うたのに對して、蓋鹵王、孕婦の産月に當つたものを與へた。さうして其産まれた子を送り返さしたとある。此も、采女の事に關聯して居るので、逆に同樣な聯想が、あつたのであらう。其から見れば、後世の考へ方だが、藤原不比等落胤説も、此安見兒説話を中に置いて、考へるとまんざら價値のないことでもない。
扨、采女が、信仰の上において、さうした關係にある以上は、必しも舊國土から採るばかりではない。寧、新附の土地からほど、召されたのである。だから邊土において、采女に關する物語が多かつた訣である。殊に最遠くから召されたのは、三韓の例である。雄略朝に、石河楯と共に假※[まだれ/技]の上に、磔刑したうへに、焚殺せられた百済池津媛(二年紀)は、百済蓋鹵王の近親で、昔貢2女人1爲2采女1而既無v禮失2我國名1自v今以後不v合v貢v女(五年紀)と議して、使を上る樣な事件を起したのであるが、百済新撰の援用文で見れば、天皇、阿禮奴詭と言ふ者を遣して、來て女郎を索めしめられた。百済では、慕尼《ハシヤシ》夫人の女|適稽《イケ》女郎(即、池津媛に當る)と曰ふを貢進したとある。又、允恭紀(四十二年)に、新羅弔使が、「うねめはや。みゝはや」と唱へた事によつて、大泊瀬皇子の爲に刑せられようとしたのは、采女を※[(女/女)+干]したと疑はれたからと言ふが、此も必、新羅貢進の采女があつた爲に、起つた傳へと思はれる。又、石河楯も、舊本に言ふ石河股合首祖で、歸化人の後だ。石川宿禰や朝臣姓には、關係がない。
 
(265)     第七
 
かうして見ると、貢物を獻じ、壽詞を奏し、采女を進ずるからと言つて、必しも、全然服從した者とは、自らも考へなかつたので、さうした半屬國の形を認めてゐる中に、年と共に、※[目+丑]み睦しみ深くなつて行つたのが、舊日本國内の國々で、地理的に關係の薄い處は、さうした禮を繰り返さしめる必要が愈多かつたのだ。だから、殊に、遠海の國々を、單に數囘の征旅を以て、又年々の朝貢を以て、眞に臣屬の國となつたと見る事は出來なかつたのだ。其故にこそ、此等の海表の諸國の地は、次第に失はれ、唯地屬きのあづま〔三字傍線〕に向つて、專ら力を注ぐ時が來た。
一體、東國に馬を朝貢せしめる國の多かつたのは事實だが、必しも外になかつたことではなく、又古くも奉つてゐる國は尠くない。出雲の國造の負事物〔三字右・〕の中にも、白馬がある。いつからの事とも知れぬが、傳來の古い事を表としてゐる行事なのだから、さう/\、新しい時代にはじまつたことではなからう。又、祈年祭の祝詞を見ても、馬が重要な奉り物であつたことが訣る。馬が、古代にはなく、外來のものだからと言つて、必しも之を、高麗からはじめて渡來したので、こまと言つたと音ふ風の説明は出來ない。黒馬をこま〔二字傍線〕とする聯想も、萬葉には既にある樣だが、此も正しい語原説ではない。貢馬の中、高麗からのものが、一等優れた物として、こま〔二字傍線〕と稱せられ、一般の馬にも通用する樣にもなつたと説くべきであらう。さうして、獻上に馬その他を以てする(266)事の出來る階級の氏人を讃へて、うま人〔三字傍点〕と言つた、と言ふ風に、舊説を訂正してはどうか。仁徳天皇の磐之媛皇后に唱へられた、「うまびとのたつることだて。うさゆづる 斷えば續《ツ》がむに。ならべてもがも」の歌は、十二年紀に見えた高麗國の貢つた鐵盾鐵的を的《イクハ》(ノ)臣《オミ》の祖盾人宿禰が射通したといふ物語と關聯してゐる。ことだて〔四字傍線〕は、言立てゞは、訣らない。特製盾《コトダテ》である。うまびと〔四字傍線〕も天子御躬らではない。立つる〔三字傍線〕は楯を竪てることである。之に向うて射ると言ふ聯想から「たえばつがむに」を弦のきれることを豫期して、儲弦を用意して續け射せむと言ふ風に考へられるが、矢で射切つて二つに放つたら、つゞけ射をしようから、並べてもあれかしと願ふ意で、うさゆづる〔五字傍線〕を、神后紀元年の儲弦とおなじに説く舊説はどうかと思ふ。ともかくも、盾から弦を出したに違ひない。弦から更に斷え・つぐを聯想して、盾の事に戻るのである。此御製を稱するものは、的臣の臂力を褒めた歌なのを、「ならべてもがも」から外の四つの歌々に引かれて、八田稚郎女の入内に對する同感を得よう、とせられたものゝやうに傳へたのである。さすれば、このうま人〔三字傍点〕は、的臣をさすか、其とも高麗人を言ふのか、其處に幾段かの變化があるのである。うま人〔三字傍点〕と言ふのから、こま人〔三字傍点〕を聯想したのか、こま人〔三字傍点〕をも、馬を奉る上から、うま人〔三字傍点〕とも言うたか。今からは、斷言出來ない。と同時に、馬と言へば、側室を思ふ習慣があつたので、うま人〔三字傍点〕ならば、妾を養ふことは當然である處から、妃を得むと言ふ聯想を持たしたものかも知れぬ。播磨風土記を見ると、妾と馬との墓の事の類語が見える。つまり、め〔傍点〕に次いでは、馬が一等貴い獻り物であ(267)つたのだ。誓約を要する東から馬を奉つたのも、多く其意味を含んでゐるのだ。
一體采女の事に關した傳への最多いのは、雄略天皇に關する記紀である。考へれば、采女の起原を此御世と、一方に考へてゐたに違ひない。が、古代からの職掌と考へられて來た爲、其以前にもあつた樣に傳へてはゐるのである。ともかくも采女の大切な爲事の部分は、この御代の事を以て、はじまりと説いたのである。謂はゞ采部の舊事は、雄略朝から説き起すので、此が語り辭の中でも極めて重大なものとして、一部は天語歌として、古い縁起を誇つてゐる樣に見える。
だが一體采女に關する物語は、單に物語としてあつたばかりでなく、必歌を伴うた痕が見える。其は、雄略紀自身にも、さうした樣子はある。采女を犯すと、贖罪に、重課を負せられた。馬八疋大刀八口を祓へつ物とした例もある。「やまのべの 小島子ゆゑに、人てらふ馬の八つけは、惜しけくもなし」此は、齒田根(ノ)命の詠となつてゐるが、采女に關した民謠であらう。だが、その尚一つ前の意義が考へられる。かうした民謠的な叙事詩といふより、叙事的な抒情詩の形を採る前に、必咒詞の一つであつた時があり、其引き續きとして、この形のまゝでも、咒術として用ゐられたことのあつたものと思ふ。
木工闘鶏(ノ)御田と伊勢采女とに關した疑ひを解いた秦(ノ)酒公の琴歌〔二字右○〕「神風の 伊勢の 伊勢のぬの さかえを。いほふるかきて、其《シ》が盡くるまでに、大君にかたく〔三字右○〕仕へまつらむと 我が命も長く〔二字右○〕もがと、言ひし工はや。あたら工はや」も、悟2琴聲1而赦2其罪1とある。此と同じ傳への變化し(268)たと見える、木工猪名部(ノ)眞根が、采女の相撲を見て、材を削り損じた罰に、物部の手に刑せられようとした時、仲間の工の惜しんだ歌、及びその免された時の歌(後のも、天子御製ではない)、
 あたらしき猪名部の工。かけし墨繩。汝《シ》が無けば、誰が掛けむよ。あたら墨繩
 ぬばたまの甲斐の黒駒。鞍きせば、命死なまし。甲斐の黒駒
此等は、皆やはり、咒歌である。さうして、皆采女にかけて言ふものである。而も其歌詞と事情とが、皆多少齟齬してゐる。黒駒に關した歌とゝれても、工に關係のない筈の「命死なまし。甲斐の黒駒」の句や、殿舍の建立後、工人を褒めたと見える「しがなけば、誰が掛けむ(掛けましと一つに解して)よ」と言ふ咒詞としての文法から見ても、その傳襲に、雄略朝起原を繋けて言うたのだ。其爲、多少の合理化のあつたことが、窺はれるのである。而も、闘鶏(ノ)木工御田の場合は、「御田登v樓、疾2走四方1有v若2飛行1。時有2伊勢采女1仰觀2樓上1怪2彼疾行1顛2仆於庭1、覆2所vフ饌1。天皇便疑3御田※[(女/女)+干]2其采女1……」とあるのは、一方に於いて、祝詞大殿祭の「……皇御孫命の朝の御膳・夕の御膳に供へ奉る比禮懸くる伴緒・繦懸くる伴緒を手の躓《マガヒ》・足の躓《マガヒ》なさせずして……」とある事の古くから忌まれた事を示すとゝもに、此が、一種の觸穢であつて、其をうけ給ふ聖躬に禍のあるべきを信じたことが知れる。其爲に激怒せられたのだ。此事は、允恭妃二十四年夏六月の「御膳羮汁凝以作v氷。天皇異v之、卜2其所由1。卜者曰有2内亂1。蓋親々相※[(女/女)+干]乎。時有v人曰、木梨輕太子・※[(女/女)+干]2同母妹輕大郎皇女1……」と通じた點がある。時有人云々は、恐ら(269)く童謡《ワザウタ》の行はれたことを示すもの、と感じる方がよい。此は、やはり、采女の手の躓ひの一つなのである。この場合大郎女が、配膳せられたと言ふべきところが、かうした合理化を經たのらしい。宮女が天子の飲食のお飲物に過ちをすることは、同時に、主上の觸穢になるのである。其點において、其何事もなく奉られたと見える食にすら、さうした穢れを除いて置く必要がある。だから三重采女の物語があるのだ。地も近いだけに、一つ話と見てもよいほど、伊勢采女の事と似てゐる。唯相※[(女/女)+干]の印象を殘してゐないだけである。
古事記に傳へた神代記の替へ歌とも言ふべき三首の天語歌は、第一部は手の躓ひの例として、百枝槻の葉の御盞に浮んだのを捧げた事になつてゐる。第二部は、鎮魂詞としての成立、第三部は、日本固成時代からある古法で、傳來の誇るべきものだと言ふ意趣が見える。皇后の和せられた歌も、實は、とりなし歌である。皇后の御歌に到つてはじめて御魂の鎭るべき筈である。此は、次に言ふ葛城山の猪の件を見ても知れる。
 
     第 八
 
ふるやのもり〔六字傍線〕(又は、ふるやもり)の噂を立ち聽いた猛獣の逃げさる近世式話の如き、其合理化以前に、力強く働きかけたものゝ痕が見える。其ほど此語の端からほの見えるものは、古代から中世へ亙つての咒詞の傳襲である。其で、咒歌の末とも見える「いそのかみ ふるやをとこの大(270)刀もがな。くみの緒しでゝ、宮路通はむ」(拾遺集、神樂歌)が殘り、又一方に即興的な作物の中にも、「虎にのり ふるやを超えて、青淵に蛟《ミヅチ》とり來むつるぎ大刀もが」(萬葉集卷十六、三八八三)など言ふ風に無意識間歇的にこの語が這入つて來るのだ。ふるや〔三字傍線〕をいふことが、咒歌の主題であつた時代から、ふるやのもり〔六字傍線〕を言ふことになり、更に古やもり〔四字傍線〕を思ひ續けることになつたらしい。われ/\は、此と似過ぎた例を、今一つ見る。萬葉にふらばふ〔四字傍線〕或はふらふ〔三字傍線〕と訓まれてゐる一つの語である。
 ……新嘗屋《ニヒナヘヤ》に生ひ立てる百たる槻が枝は、ほつ枝は、天を翳《オ》へり。中つ枝は、あづまを翳へり。しづ枝は、ひなを翳へり。ほつ杖の枝《エ》の末葉《ウラバ》は、中におち布良婆閇《フラバヘ》、中つ枝の枝の末葉は、下《シモ》つ枝におち布良婆閇、しづ枝の枝の末葉は、ありぎぬの三重の子が……(雄略記)
 とぶとりの 飛鳥の川の上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流觸經(【ナガレフラヘともナガレフラバヘとも】)…… (萬葉集卷二、一九四)
このおちふらばへ〔六字傍線〕と言ふ句の重疊せられてゐるのは、どうも表面の意義以外に持つものがありさうだ。上つ枝の……ふらばへ……中つ枝……下つ杖とゆく處に果なし話の俤が見えて、單に對句修辭の範疇に入れて片づけきれぬものだし、又萬葉の長歌も實は、「上つ瀬に生ふる玉藻は、中つ瀬に流れ觸經……」の句を脱してゐるのだ。即、これの解決の鍵は、ふらばへ〔四字傍線〕にある。鎭魂の詞なるが故に、靈のふらばふる〔五字傍線〕ことを言ふので、其を重ねる中に聽き手の靈魂は、次第に枕潜して(271)行くのである。果なし話の起原は、かうして、念入りの繰り返しをする鎮魂詞だつたと言うてよからう。葛城の皇子をなだめた、安積《アサカ》采女の件の如きも、全く三重采女と一つ系統の物語から出てゐるのだ。
采女とちやうど相對的の位置にあつた男性、即、舍人の上にも、これと似たお譴りを逸し申した傳へと見るべきのが、葛城山の舍人の物語である。どうした訣か、これが二つ乍ら雄略天皇の御代の事になつてゐる。どうも、鎭塊の起原がこの帝に關して説かれてゐたことを示すものと思はれる。
 やすみしゝ わが大君の遊《アソ》ばしゝ 猪《シヽ》の (記、猪の病み猪の)人立《ウダキ》畏み、わが逃げのぼりしあり丘《ヲ》のうへの (記、ありをの)榛《ハリ》が枝《エダ》(記、榛の木の枝)あせを(記にはない) (雄略紀)遊ばしゝ〔四字傍線〕は、やすみしゝ〔五字傍線〕などゝ同じくあそばせす〔五字傍線〕の古形で、その固定した體言句。而もしゝ〔二字傍線〕の音から直に猪《シヽ》に移つてゐる。さうして、其が單なる猪の序歌に終らず、内容の上に、はじめからの關聯を續けてゐる。「わが逃げのぼりし」を舍人と見るのが、この傳への本體である樣だから、まづ古代風の混亂した敬語意識から自由にすれば、舍人のものと見る方が適當なのだ。何の爲に、ありをの上の榛の枝を言うたか。更にあせを〔三字傍線〕ゝ插んで來たか。此歌は此歌としての合理化が、大體ゆき屆いてゐるが、このおちつきを破るものがある。書き立てるのも、仔細らしいが、
 尾張にたゞに向へる尾津の崎なる《紀、ナシ》〔六字傍線〕一つ松。あせを《紀、アハレ》〔三字傍線〕。』一つ松 人にありせば、大刀佩けましを。(272) 衣著せましを。一つ松。あせを〔六字傍線〕《紀、ナシ》 (景行記)
先のあせを〔三字傍線〕は、一つ松によびかけたと見るよりも、おちつきがわるい。而も、いざあぎ〔四字傍線〕・いざ子ども〔五字傍線〕などいふ類の表現に比べると、其でも尚、意義の流動し、固定した交替へ歌以前の姿を示す詞といふ趣きは見える。ところが、も一つ、この系統の一分化した形を傳へたもの、と見える一首を萬葉から擧げることの出來るのが、
 綜麻形の林の崎のさ野榛《ヌハリ》の 衣《キヌ》につくなす 目につく。わがせ  (萬葉集卷一、一九)
である。此歌に先行する長歌並びに反歌一首は、御製と見ても、額田王の歌と見ても、結局は一つ、額田王の、天皇の爲にした代作なることは一致する。唯この歌の井戸王の場合「目につくわがせ」が額田王を目に置いて作つたとしては、妥當でない。天皇に奉つたものと見るか、或は單なる問答の歌でなく、唱和のものとすれば、三輪山に對して述べたものと見られよう。わが夫〔三字傍線〕は一部分囃し詞化して見えるが、尚山に對して吾夫とよびかけた氣持ちは十分に窺はれる。このあせを〔三字傍線〕・わがせ〔三字傍線〕のある樣な、ない樣な關係を傳うて行くと、雄略朝の榛〔右・〕の枝と、此さ野榛〔右・〕とが一脈の聯絡を持つてゐると見える。おなじ榛といひながら、彼と此とでは、草本・木本の違ひが見えるが、尚古く溯れば、何かの理由で、はり〔二字傍線〕なる語とあせ〔二字傍線〕とを含んだ歌のあつて、其が次第に分岐し變化して後も、榛といへばあせを〔三字傍線〕と囃す習慣があり、其が後に、榛に限らず色々な植物の場合にも、融通せられて行つたものであつたのだ。殊に小前張《コサイバリ》の「あいそ」と言ふ囃詞が「吾兄」を(273)殘したもの、と見られることに於いて。又前張と一つものだつた筈の、催馬樂の北陸歌《コシウタ》とも言ふべき一續きの囃しが、「さきんだちや」であるのは、「あせを」が時代的に妥當性を持つて、「さ公子」たちと飜譯せられたものと見られるからである。又、はぎ〔二字傍線〕とはり〔二字傍線〕との混同を考へに入れて見ると、其「更衣」の歌に、尤其俤が窺はれる。
 衣がへせむ。ヤ。サキムダチヤ。我が衣は野(※[竹/矢]?)原 篠原。はぎの花ずり。ヤ。サキムダチヤ
かうして考へると、雄略天皇が、如何に、鎭魂法の信仰と交渉深かつたかと言ふ事が知れると共に、咒術・咒物及び咒歌の展開の徑路が、連環してゐる事も知れる。采女は、泊瀬宮を外にしては考へる事は出來ない。
大泊瀬稚武天皇の御一代は、ある點、仁徳の御事蹟の延長で、而も感情の搖ぎ易く、うちはやき激情を示してゐられるやうに見える。古代人の考へ方では、仁徳の聖子履中・反正・允恭・安康に通じて、一人格と見奉るべき事蹟が配布せられてゐる。此見方からすれば、雄略帝も、その中最大きな武烈な方面の現れと見られよう。此點を推し進めて見ると、小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)には、雄略帝と仁徳帝のさうした方面の強く現れた爲の御名といふ所が見える。此は歴史觀から説明出來ない事で、民俗學上における傳承の分割及びその合理的歸納性から説明すべく、又これを否む訣にはいかない。
前述の三つの鎭魂歌は、二首まで新嘗屋を言うてゐるから見れば、大殿祭式のもので、新嘗・神(274)今食などに關係あるものに相違なく、すべて宮廷の供饌を、さうした神饌に見做してゐるのである。即、この三歌は、かう言ふ場合に諷誦せられたと同時に、憤意を鎭める歌となり、又同樣に、神の怒りの現れた時にも、さうして謠うたのであらう。而も何處までも采女に關聯してゐた爲の發想をまじへて、第三歌(御製)が出來たのである。
 もゝしきの 大宮人は、鶉とり領巾とりかけて、鶺鴒《マナバシラ》 尾|交叉《ユキア》へ、庭雀 聚《ウズヽ》まり居て、今日もかも さかみづくらし。高光る 日の宮人。』ことのかたりごとも こをば  (雄略記)
此場合宮人と言ふのは、後世的な意味の宮廷人でなく、古語のまゝの宮人で、巫女たちである。さかみづく〔五字傍線〕と言ふ語が女性にとつて不都合の樣に思はれようが、後に引く仁徳朝に新嘗の豐明の爲に、酒を内外命婦等に賜うた。其中に采女もまじつてゐた記事を見れば、これも采女に適合してゐる。だから、鶉鳥の樣に領巾かくる點ばかりが、采女の描寫でなく、すべてが巫女の動作である。而も此宮人の語によつて、考へを進めて行くと、男性であり乍ら、宮中深く奉仕する爲には、女性を装ふ者があつたのだ。
 
     第 九
 
領巾懸くる伴(ノ)緒・手襁懸くる伴(ノ)緒は、采女の類であるが、隼人は領巾を懸けて仕へたのである。隼人の職掌は、俳優と、犬吠えの外に、相撲にも關與してゐる。而も、猪名部(ノ)眞根の傳説で見(275)れば、采女が男装して、相撲とる事も窺はれる。だから、采女・隼人には、通じる服装と職分とがあつた事も知れるのだ。この點は、舍人についても同樣で、舍人の古い姿は、寧、隼人などにあつたのだ。履中紀に、住吉(ノ)仲(ノ)太子を殺した近習隼人〔四字傍点〕の名を刺領巾〔三字傍点〕と稱へてゐる。隼人と領巾の關係及び、隼人が舍人の如く思はれた事も知れる。女性の職掌の延長せられたものと見られる。武装の場合は、女も男装する事は、例のあることだから、不思議はない。尚舍人が鞆を腰にさげた事は、神遊歌の「此篠は、いづくの篠ぞ。舍人らが腰にさげたる鞆岡の篠」と言ふのでわかるが、催馬樂には、「庭に生ふる薺《カラナヅナ》は、よき葉なり。宮人のさぐる袋を おのれかけたり」とある。此宮人も、狹義の宮人に違ひない。萬葉以後の大宮人とは全然違つて、狹義のものであらう。さうした特殊な服装をしたものを「宮人」の一用語例が示してゐたのだ。鞆をさげるも、此袋をさげるのも、さう區別のあつたのでなからう。鞆といへば、臂につける武器とばかり考へられてゐるが、かうした腰にさげるものゝ存在から考へれは、鞆といふ語は、靈をこめる容れ物に過ぎないので、臂にまくものは、鞆の中でも「ほんた」と言ふものであらう。天照大神が男装せられた「背には千※[竹/矢]入《チノリ》の靱を負ひ、五百※[竹/矢]入《イホノリ》の靱を附加《ツケ》、亦|伊都之竹鞆取佩《イツノタカトモトリオバ》して」とある。即腰につけられてゐると見るべきで、矢を射る時の靈物の居る所である。此は武装の場合であるが、常は別殊の袋をさげてゐたのらしい。此が、宮人のさぐる袋で、鍼の容れられた物があり、又燧器の容れ物もあつたらしい。鍼袋と言ひ、すり袋と言ふのが、此であらう。倭媛命が、日本武尊に與へ(276)られたのも、燧袋《スリブクロ》であつた。萬葉集卷十八に見えた、勝寶元年十一月、越前(ノ)掾大伴(ノ)池主の越中(ノ)守大伴(ノ)家持に與へた戯歌四首、
 くさまくら 旅の翁と思ほして、針ぞ賜へる。縫はむ人もが (四一二八)
 鍼袋とりあげ、前に置き、かへさへは、おのともおのや。裏もつぎたり (四一二九)
 鍼袋佩びつゞけながら、里毎にてらさひあるけど、人もとがめず (四一三〇) とりがなく あづまをさして、ふさへしに行かむとおもへど、よしも實《サネ》なし (四一三一)
家持自身の返歌は、無くして了うたとある。其から一月過ぎて、更によこした歌の序を見ると、家持のも針袋の詠で、詞泉酌めども渇《ツ》きざるを誦んで、膝を抱いて讀り咲ひ、旅愁を※[益+蜀]いだとある。其返事が又、鍼袋である。
 竪方《タヽサ》にも、かにも 横方《ヨコ》にも 奴とぞ あれはありける。主が殿戸に
 鍼袋 これは賜《タバ》りぬ。須理夫久路 今は得てしが。翁さびせむ
恐らく、宮人の垂げてゐると言ふのは、かう言ふ袋と見える。同時に、忠勤を抽んづる隨身たちの佩ぶる装具であつた事も知れるし、――奴とぞ我はありける。主の殿戸に――又、かうした袋を與へられたらしい。「とりが鳴く」の歌は、倭媛の倭建命に與へられた燧袋を思ひ併せると合點が行く。鍼袋から、直に聯想出來る燧袋によつて、寒さをおぢる老人を思ひよせたと思はれる。采女の領巾をかけるのは、咒術の爲で、これを以て邪惡を拂ひ遣つた、と一通りは、解せられる。(277)鶉に譬へて其首の廻りの羽毛の特徴を、領巾を懸けた様に目に飜案した訣である。だが、采女の領巾については、尚用途が考へられる。體外にある魂を迎へて、身に鎭定しようとすることである。つまり、領巾が、靈を迎へもし、拂ひもしたのだ。其故に、松浦佐用媛の領巾を振つた、領巾麾之嶺の故事も訣るのだ。國中の女性――成女――は、巫女たる資格を持つて居るのだから、領巾をつける場合が多かつた。其が盛装となり、單なる装飾とも考へられる樣になつた。蜻蛉領巾などがあり、其と十寸鏡と二つを提出して金を借る(萬葉集卷十三)と言ふ事すら出來たものと思はれる。佐用媛が領巾をつけたのは、大伴佐提彦が宮廷の使であつたからである。之に仕へる爲の姿であつた。つまりは、安積采女と同樣である。
宮廷における采女が、日常、領巾を放さなかつたことは、專ら靈を呼び迎へる方に重きを置いて居たのが、後には邪惡を除く方に主となつて來たらしい。其は、供饌に障りしようとする物を豫期する事が、出來るからである。宮人は、略采女と言ふ名を以て總括することが出來、其中、老年になつた者が、監督の地位に立つからひめとね〔四字傍線〕と言ひ、命婦の字を當てることは、既に言うた。宮廷に止つた者が内命婦、宮廷外に出てゐる者が外命婦であらう。此點も、舍人と對比して居た。令制では、「婦人帶五位以上曰内命婦也五位以上妻曰外命婦」とある。此は、古代の風を其儘、制度化したので、官人の妻は、宮廷から賜つたからのことで、采女の古參なる者に當るのであらう。だから、條件として、以前から宮廷に出入してゐた者に限つたらしい。仁徳四十年紀に、「是歳、(278)當2新嘗之月1、以2宴會日1賜2酒於内外命婦等1於v是近江山君稚守山妻與2采女磐坂媛1二女之手、有v纏2良珠1……」とあるのが、命婦・采女が、恐らく年齢の別から出て、夫を持つて里に出た者の上まで及んだ事が知れる。史書顆には、磐坂媛を以て、采女の名の初見としてゐるが、此より前になかつた證據にもならない。倭姫命世紀には、崇神朝に皇大神に采女の職名のあつたよし書いてゐるが、此は信じられない。と同時に、此場合は逆に、此處にあるから必しも、此時既にあつたものでなく、もつと後に出來たものとも見られる。采女に關する記事が、雄略天皇の皇子時代及び在位時代に集中してゐるのは、前述の通り、尠くとも采女の職掌が泊瀬宮に關係探い事を示してある樣に思ふ。
 
     第 十
 
采女が奉仕する當體は、一體、神か主上か。此點に疑問がある筈である。併し、悉しくは、別に主上と宮廷神との關係について、書く時に讓らねばならぬ。唯宮廷における神主の位置にあられるのは、主上に外ならぬ。神主である以上は、祭時において神として資格を持たれる。神主なる語自體が、祭主の義ではないのである。諸國の所謂國造神主を、宮廷式の神主と認めぬ風が出來て後、常に神主と謂はれる語の内容に變化が起つた訣である。だから、宮廷では申しあげないばかりか、民間のものさへ、段々別の意義に使はれて來る樣になつた。采女は、宮廷の神に仕へま(279)つるのは勿論であるが、其神が主上を通しての神であり、主として祭時に臨まれるものと信じられてゐた。而も、其神は、即主上の聖躬御自體に寓るものでああから、主上即神である。さうして、宮廷の祭りが、大嘗祭を中心として、次第々々に度數が増して來ると、主上即神の觀念が、恒久性を帶びて來て、遂には比喩としてゞない所の顯神の信仰を生ずる訣である。さうでなくてさへ、祭時における臨時の行事で、而も神秘な事は、之を窺ひ知らぬ者にとつては、日常の行事と思ひ易い。宮廷に仕へる人々でも、男性側から見れば、主上の祭時の生活を、日常に延長して考へるのは、自然である。だから、外側からの觀察をもまじへて、采女の職掌は考へられ、傳へられて來たのだ。即、主上の臨時の寵倖を受けることである。唯私として言ひたいことは、此が必日常行事でない。采女から出て妃に備つた例は既にも引いたが、此には必幾段かの過程が考へられねばならない。采女――皇子生母――御妾《ミメ》と謂つた段階である。だから、采女の倖愛は臨時のものであつて、此が平常の生活に延長せられるのは、原則的なものではない。唯其が、皇子女を生んだ時は、其は神の胤を寓した貴女として、特別に受ける樣になつた待遇が、貴姓の女性の主上に侍る方々と、接近して來るのである。畢竟、主上の倖を蒙る女性は、貴卑に繋らず、日常侍御を第一としない。即みめ〔二字傍点〕と言ふ定義で奉仕するものではなかつた。其が、特殊生活と日常生活との交錯によつて、神のみめ〔二字傍点〕から、顯神のみめ〔二字傍点〕に、更に宮廷のみめ〔二字傍点〕と言ふ意識を生ずる樣になつたことに於いては、一樣である。
(280)ところが、古代の事は、細目においては、樣々の紛糾があつて、甲・乙・丙の特殊性を、時としては混同することが多い。
前に出た安見兒と言ふ采女の名に依り乍ら、祭時の夜の神秘について聊か觀察して見たい。采女を獲た事を誇つた事に問題のある以上に、此名によつて、藤原の家の采女だと考へ難く思うた點が重いのである。萬葉から窺はれるものは、譬へば、石川郎女〔四字傍点〕が大名兒と言うた如きも、命婦として以前の采女の名であつたと考へる。小島兒の如く、又童女君を言ふ如く、假り名の樣なものが行はれてゐたのだらう。國名を呼ぶのは、官職的で、名を呼ぶよりも、宮廷における假り名があつたことが思はれる。但、安見兒の樣な名は、單に個人の假り名としては、すこし重過ぎる傾きがある。其は、「安見《ヤスミ》」なる語に、特別の用語例のあつたことが、今も窺へるからである。
われ/\は、古い枕詞で、而も數多い王族《オホキミ》の中、最高位のおほきみ〔四字傍線〕なる天子を區別するものとしてのやすみしゝと言ふ語の存在を知つてゐる。さうして同時に、此古典的な語に對して、やゝ新しい平安朝の語を思ひ浮べることが出來る。其は、宮女にして、皇子を生んだ女性を呼ぶ稱號である。即、御息所《ミヤスドコロ》である。此は、疑ひもなく、みやすみどころ〔七字傍線〕の聲音脱落だ。此ところ〔三字傍線〕は、殿舍の場處を指すよりも、敬稱と見る方がよい樣だ。而も、此語は單に此だけの印象を止めたゞけではない。もつと古く固定したものさへある。安殿の字を以て示す、大極殿に當る固有のもので、寢殿といふべく、亦後世の客殿とも言ふべきやすみどの〔五字傍線〕である。大安殿・小安殴などいふ區別す(281)らあつたが、この殿は、正寢である。古代風に言へば、祭りの夜、神來つてやすみ〔三字傍点〕し給ふべきところである。恐らく、來臨・神倖・渡御など言ふ用語例を經て來た語らしい。既に述べた小子部の傳承の中にも、※[虫+果]※[虫+羸]之を犯して、罰に當つたことが見えてゐる。
 小子部栖輕……天皇磐余宮之時、天皇與后寐大安殿婚合之時、栖輕不知而參入……。
とある傳へは、畏れ多いことだが、神聖なる祭りの夜の御儀を示すもので、同時に、安殿・やすみ〔三字傍点〕なる語の第二義以下の轉義を示して、更に、第一義を思はせてゐる。かうして見ると、采女の名に安見兒と言ふ名のあるのは、不自然ではないが、同時に極めて事々しい感じを起させる。だが、同時に、采女を下して、上は貴顯の女性に到るまで、やすみ夜にやすみしゝ大君に仕へまつること、即同時に神に仕へ奉ることになつたのである。
 右の論文は、まだ采女に關した各部分にさへ、委曲は盡してゐない。さうして、相對的の地位にある舍人については、毫も述べないでゐる。だから、到底意義をなさないものである。唯、民俗學的の態度が、多少でも文獻を見る上に、よい反省を與へることが出來れば、かうした方法を以てすべきであらうといふことを示したに過ぎない。私は、かうした研究の分野を頒つ人人の、時としては、放つ無理會な非難を、姑らく反省に易へしめたく思ふ。