内村鑑三全集第2巻、岩波書店、505頁、4500円、1980.10.24
〔入力者注記。編集者によってつけられた振り仮名は省略した。「と《〔を〕》」のようなところは編集者による注記である。外国人人名に付けられた傍線、外国地名に付けられた二重傍線は省略した。上部欄外の小見出しは省略した。〕
 
(352) 『地理学考』〔明治30年『地人論』と改題〕
 
            明治27年5月10日
            単行本
            署名 【農学士・米国理学士】内村鑑三 著
 
(353)〔中扉〕 広谷大川異制。民生其間者異俗。……修其教不易其俗。斎其政不易其宜。  礼記
   神は一の血脈より出し凡の民を悉く地の全面に住せ、預じめ其時と住ところの界とを定め給へり。  聖書
 
   自  序
 此書は十数年問に渉る著者の地理学上の考察より成れり、其創意は勿論先哲の遺訓に出でしと雖も、其全体の結論並に細目に至ては多くは著者自身の思考に就れり、惟り悲む此壮宏幽玄なる問題を攻究論述するに当て著者の見聞の狭隘にして彼の筆力の自由ならざることを、此書若し常に乾燥無味と見做さるゝ地理の学も之を論究するの方法に依りては優麗味ふべきものなる事を我国人に紹介するの一助とならば著者の目的は達せられしなり。
 此書の読者は普通万国地誌並に歴史の智識を具へられしものと仮定めたり、故に書中別に精密なる地図を載せずと雖も之を閲読せらるゝに際して引照を善良なる万国地図に求められん事は著者の望んで止まざる所なり。
 余は茲に余の義兄故岡田寛氏が永く吾人を去るの前此書に与へられし懇切なる校閲の労を取られし事を深く感謝せざるを得ず、吾人の事業一として吾人同志の共力に依らざるはなし、此小著述豈に惟り例外ならんや。
  明治廿七年四月十三日
                 京都に於て 内 村 鑑 三
 
(354)    参考書目
 
 此書を編するに当て余は左に記載する詔書に負ふ処甚だ多し
 一、ギヨー氏、地人論 The Earth and Man,or Comparative Physical Geography in its Relation to the History of Mankind:By Arnold Guiyot.
 一、ギヨー氏、地文学 Physical Geography,by Arnold Guiyot.
 一、リッテル氏、地学 Geographical Studies,bv Carl Ritter,translated bv Rev.W.L.Gage.
 一、ペシェル氏、比較地理 Peschel’s Vergleichende Erdkunde.
 一、ソマビル夫人、地文学 Physical Geography,by Mary Somerville,American Edition,1854.
 一、マーシユ氏、人工地理 The Earth as Modified by Human Agencies,by George P.Marsh.
 一、ハッチンソン氏、山岳論 The Story of Hills,by Rev.N.H.Hutchinson.
 一、ハッソン氏、文明起原論 The Beginnings of Civilization,bv Charles Woodward Hutson.
 一、ローリンソン氏、国民起原論 The Origln Of Nations,by George Rawlinson.
 一、コッツカー氏、宇宙論 The Theistic Conception of the World,by B・F・Cocker.
 一、ヘーゲル氏、歴史哲学 Hegel’s Philosophy of History.
 一、ラフィート氏、支那文明論 A General View of Chinese Civilization,by M.Pierre Laffitte,translated byJohn Carey Hall, M.A.Yokohama,1887.
(355) 一、ドラモンド氏、亜非利加論 Tropical Africa,by Henry Drummond,F.R.S.
 其他ハムボルト(Humboldt)ダーウヰン(Darwin)ドレーパー(Draper)リビングストン(Livingstone)レクルース(Reclus)等の著にして直接に間接に余の教訓に与かりし書名は略す。
 書中載する処の六大洲山脈図はギヨー氏地文学に依れり、又余は茲に矢津昌永君が氏の有益なる著書「日本地文学」より日本山脈図並に其解明を此書に謄載するの承諾を与へられし厚意を謝す。
 
    目  次
 
 第一章 地理学研究の目的………………………………………三五六
 第二章 地理学と歴史、其一総論、山国論……………………三六六
 第三章 地理学と歴史、其二 平原論、海国論………………三七七
 第四章 地理学と摂理……………………………………………三八五
 第五章 亜細亜総論並に西方亜細亜……………………………三九三
 第六章 欧羅巴論…………………………………………………四〇六
 第七章 亜米利加論………………………………………………四二四
 第八章 東洋論……………………………………………………四四〇
 第九章 日本の地理と其天職……………………………………四五四
 第十章 南三大陸…………………………………………………四六八
 
(356)地理学考
 
    第一章 地理学研究の目的
 
 之を空間の無限大に比すれば塵埃の細微なるも尚ほ大に過ぐるが如く、之を天体中大と称すべからざる太陽に比すれば僅かに百三十万分の一たるに過ず、之をその姉妹球なる木星に比するも尚は小豆が橙《だい/\》に於ける比例なり、然れども此塵挨小の空間の一点、此小豆大の地球こそ吾人生命の繋がる所にして、我は此地に素めて生を有し、此地に育せられ、此地に自覚し、此地に愛し、愛せられ、終に此地に死骸を遺して逝く、我に生を給せし地球、我の生命を与ふる地球、我の遺骨を托する地球、我之を研究せずして休まんや。
 地理学の本領は地球表面今日の有様なり〔地球〜右○〕、其過去の歴史と内部の構造とは吾人之を地質学に学び、其空間に於ける運動、其他天体との関係は天文学の主る処なり、地理学若し過去に遡らざるを得ずばこれ現在を解明せんが為めなり、若し未来を洞察せざるを得ずばこれ現在の真意を知らんが為なり、地理学は実に現世的なり〔地理〜傍点〕。
 地理学若し地中に穿たざるを得ずば其表面の依て建つ基礎を探らんが為なり、若し天涯を覗かざるを得ずば下界と天上との関係を知らんが為なり、地理学は実に皮想的なり〔地理〜傍点〕。
(357) 地質学の如く深からず、天文学の如く高からず、現世的にして皮想的なる地理学は探り易くして解し易し、然れども其解し易きが故に吾人之を思ふこと稀なり、其解し易きが故に地の理は、人の多く究めざる処なり、皮想的たる必ずしも浅薄の意にあらず、慈母の柔顔は彼女真情の現出ならずや、現世的たる必ずしも寸時の意にあらず、現在とは過去と未来を繋ぐ永遠の一部分たるにあらずや。
 地理学は実に諸学の基なり、我等地の事を知らざるにいかで天の事を悟るを得んや、吾人の智識は地を以て始む、未だ腔内五臓の妙器あるを知らざる前に我等は已に山川の子供となり、その阜丘は我等の遊園たり、その渓川は我等の漁場なり、我等に心霊の奥殿を開かるゝありて驚愕以て其無限を探らんとするの念起る前に、白頂秀峰先づ我等に詩感を起し、漲流怒涛先づ我等の静思を撹乱す、地を以て始め天を以て終る、殖産、政治、美術、文学、宗教は此絶頂絶下両極端に亙る人生の階段なり、地を究めずして此階梯を昇らんとするものは夢に雲井に上るが如く、発点なき故に着点に達するを得ざる人なり〔地を〜傍点〕。
 地理なしの殖産は野蛮人の殖産にして殖産と称すべからざるものなり、我の食はんと欲するものを我自ら耕し、我の紡ぎしものを以て我が体を被ひ、以て僅かに生命を終らんとせば我は四千九百万万哩を有する地球に生れ来りし特権を放棄せし者なり、我は世界の民〔四字右○〕(Weltmann)にして人は各々世界を彼の領土となし得るなり、カシユミヤの肩掛《かたかけ》を以て寒を防ぎ、魯国の麦粉を以て(358)饑饉を癒し、南米の牛皮を以て我が靴を作り、巴里、里昂の職工をして我が絹糸を紡がしめ、北米の石油を燈し、印度の※[口+加]※[口+非]に快活を求め、五大洲の土壌をして我が躰躯の分子たらしむるは、我の為し得る事にして我の為すべき事なり。
 見よ幾多の小量なる経済論は地理学上の無識より来りしを、バスコ、デ、ガマの喜望峰週航はベニス、フロレンスの固執資産家の迷夢を破り、ルーテルの宗教改革が羅馬以外に尚ほ神と真理の存するを示せし如く、欧洲の億兆をして伊国商業貴族の手を借らずして印度の富に達するの道を開けり、地理学に暗ければこそ至少の経済上の変動より我国幾多の有望資産家をして金融緩慢を嘆ぜしめ、狭隘なる領土の内に無限の欲望を幽閉し、権力に頼み、同胞を圧し、以て天与の聖慾を伸ばし得ざるは彼等の視力が未だ蜻※[虫+廷]州外に達せざるに依らずして何ぞや、黄河揚子江沿岸の富源を了得するものにして如何で先祖伝来の少資金を弾丸黒子の中に守護するを以て満足するものあらんや、墨西哥《メキシコ》高原の一見は我国人口稠密を嘆ずる人の憂を煙滅するに足る、北米の東岸南洋の島嶼以て我の領土となし得るなり、以て我の羽翼を伸すに至る、英国人の富めるはヨークシャヤの炭坑とランカシャヤーの製造場あるにあらず、南米の牧場、東亜の桑田共に彼等に貢を呈して止まざればなり、我の国旗の翻がへらざるが故に世界は我有にあらずと思ふ勿れ、該博なる智識と猛勇なる精神は我を世界の主人たらしむるを得べし、世界地誌を学ぶを以て火星の地理を学ぶが如き用なき益なきことゝ考ふる勿れ。
 さればにや富の増加と快楽の伸張は常に地理智識の進歩と伴ひ来れり、クイニシヤ人の「北(359)海」并にバルチツク海の探険はイベリヤ(西班牙)半島の殖民を促がし、カデイス、ターシシ両市の建設となれり、商業上一の目的を有せざりし十字軍の遠征すら尚ほ波斯、印度の市場を欧洲に紹介するに至り、ベニス、フロレンスの隆盛は実に此無功の戦争の後にありき、喜望峰の週航、米国の発見は世界殖産史上大変動の関する処なりし、合衆国の独立は英国の領土を削減して反つて英国の富を増加したり、爾来南米に、濠洲に、亜非利加に、慾と名誉と真理の為めに剛勇なる探険家が足跡を遺せし所は殖民と商業の追従する所となり、今や地球全面地図面に上らざる処なきに至て人類の希望は満足し始まりぬ。
 誰か云ふ探験は已に終りたりと〔誰か〜傍点〕、発見すべき新大陸は最早存せざるなり、掠奪すべき「インカ」の宝蔵今は昔時の譚に過ず、然れども探験は未だ終らざるなり、南洋に散布する二三の硫黄島は吾人の意に介するに足らず、弱国の隙を窺ひ我の境土を拡めんとするは君子国の恥づる所ならむ、千島群島の探研大いに宜し、我の国旗の翻がへる所、碧眼奴の密漁する所たらしむる勿れ、西比利亜の単騎遠征亦壮なり、以て神州男子の胆を鍛るに足る、然れども吾人の渇望する探研は開明国観察的の探研なり〔吾人〜傍点〕、休言一葦水の対岸に住する三億五千万の隣人は已に我の物を以て足れりとすと、漢江源を発する所、渭水峡谷を激流するの辺、未だ日本国を知らざるの民多し、休言米国の市場已に日本品の以て充すべきなしと、北米の西半、南米の全土未だ我に取りては殆んど新市場なり、印度は綿花惟一の購買所にあらず、大西太平両洋の聯続正に近きにあらんとす、墨西哥湾岸の綿産地をして我の供給者たらしめよ、世界は日本を要し、日本は世界を要す、全世(360)界ならでは我は満足せざるべし〔世界は〜傍点〕。
 
 地理学を学ばずして政治を談ずる勿れ、何となれば汝は月世界の政治を談ずるものなればなり、何となれば汝は竜宮城の内政を語るものなればなり、即ち地理学なしの政治論は有て無きもの、像なきもの、実なきもの、夢、空想、幻、なればなり、政治若し懶惰壮士の寝言ならずば、政治若し不平漢の空言ならずば、政治にして若し実物にして神聖なるものならば、堅固なる地盤を離れて存すべきにあらず、吉田松蔭が其僕某に告げし言は真理にして事実なり、彼は曰く、
  地を離るれば人なし、人を離るれば事なし、故に事を成さんと欲する者は応に地理を究むべし
 
と、是彼の政治論の時の空漠たる政治論に優りて健全にして深遠なりし故なり。
 今を去る事二千四百年の昔、史学の大祖なるヘロドートスが自ら広く諸国を跋渉し、地理学の堅固なる土台の上に彼の有名なる歴史を編してより以来、沈着なる偉丈夫にして政治と経綸とを論じ、此真面目なる世界を感化教導せし人は必ず熱心なる地理学の研究家なりき、アレキサンドル、シイザルの地理学上の見識は実に後世の亀鑑なり、ナポレオン大帝の特嗜の学科は地理学なりし、彼は幼少の時他の児童は遊戯に余念なかりし頃、彼は地図一巻を携さへ、緑樹の下或は瓦壁の一隅に独り座を構へて熟覧沈思するを以て無上の楽みとなせりと、而して彼が長じて欧洲を司令するに至りしや、彼の計画は常に世界大にして、彼の軍略に曾て地理学上の誤謬ありしこと(361)なしと。英のチヤタム公又然り、彼は能く両半球の地勢を察し、サクソン民族の将来を観破し、時の天主教国にして専政国たりし仏国をして其掠奪を擅にするを得ざらしめしものは大に公の地理学上の本能に拠らざるを得ず、独の将軍モルトケ伯又地理学の泰斗なり、彼は壮年の頃欧洲全土を遊歴し、普国に超越権を与へて独逸聯邦を形造るの計画は彼が未だダニユーブ河辺に客たりし時彼の胸中に湧出せしとかや、而して地理学上の観察に基せる彼の確信は実に摂理の指命と適中し、独逸民族は彼の教導の下にその辺疆をライン河の左岸にまで拡張するを得たり、聞く我国維新の預言者たる仙台の林子平は万国地図を閲して始めて彼の大思想を得たりと。鋭眼を以て視る人には地図は実に預言其物なり、「独」の地理学者カール、リツテル曰く、「熱心と敬畏とを以て国の地形を学ぶものは其未来の如何を推知し得べし」と、地理学の攻究豈に 忽にするを得んや。
 
 地理の美術文学に於けるは慈母の其子に於けるの関係なり、陶人《すへものし》の土塊に於けるの関係なり、慈母勿論天性の頑愚を変じて秀才たらしむる能はず、然れどもゲーテ婦人ありて詩人ゲーテありしなり、孟母ありて孟子ありしなり、詩人ボルンを取りて日本国にあらしめよ、彼はボルンならざりしなり、詩人ゲーテが英国の詩歌に絶望的の思想多きを其の地理学上並に気象学上の理由に帰せしは故なきにあらざるなり、詩人ミルトン曰く「詩神の降臨は秋分より春分迄にありと」と、炎熱鉄を鎔かすが如き赤道直下に於て「失楽園」の草せられん事は吾人の最も疑ふ処なり、文化(362)如何程進歩するとも、渺茫たる水面一物の視線を遮ぎるなく、只激浪平砂に単音的の楽を奏する南洋の珊瑚島に生長せるものゝ中よりバイロン、シルレルの出ん事は余輩思惟せんとするも能はざるなり、詩人ウオルドオスが英国代議院に建白して詩歌思想養成の為にカムバランド並にウエストモアランド地方の勝地を通過して鉄道線路の開築なからん事を望みした全く地理学上の理由に存するなり、スカンダナビヤ半島の峻嶺嶮嶷たる所是イブセン、ビーヨルンソンを輩出せしめし地なり、仏のラマーチンの所謂「人は其周囲の自然の如くなり」との言は詩人並びに美術家に就て最も適当なる言なり。
 
 誰か云ふ宗教に地理学の要なしと、誰か宗教歴史を読んで地理学の無用を認めしものぞある、埃及教より沙漠とナイル河を取去りて見よ、意味なき目的なき乱雑と化せんのみ、シナイ山其物が猶太数の半註解なり、メツカ、イヱーメンlの地にあらでは回々教の出づべきにあらず、而して今尚此教がサハラ|戈壁《ゴビ》間に亙る乾燥国に延蔓するは其理何処に存するや、猶太国の地誌を学ばずして猶太教の発達と基督教の起源を学ばんとする人は此等宗教を両ながら誤解するの人なり、空《そら》碧《みどり》にして山青き所にのみ美麗なる羅馬教は発達し得べく、又勢力を維持し得べし、怒涛峻嶮の中に蝕入し、北光雪に閃きて燦爛《まばゆ》き所、是オヂンの神を拝せし所なり、現顕する神は一なれども彼の帝座は或は火なり、或は水なり、神はー々たる山上より鳴渡り得べし、又微々たる軟花に笑ひ得べし、完全に神を知るに至るは極より極まで真理が知れ渡りての後にあり、煙霧蒼天を掩て(363)常に悒鬱たる英国に於て発達せし監督又は清党主義を山海美麗桜花爛※[火+曼]たる我国に其儘輸入せんと勉むるものは未だ地理学を学はざる人なり、神来て我等の中に宿り、芙蓉を以て栄座となし、三保の松原を足台となし、桜花馥郁として彼の胸間にあり、蒼々たる松森彼の腰を纏ひ、以て帯するに環海の白浪を以てするに及んで我国は始めて教化し得るのみ〔煙霧〜傍点〕。
 
 地理学に依て吾人は健全なる世界観念を涵養すべきなり、国家のみが一個独立人たる社界にあらず、地球其物が「一個有機的独立人」なり、地方が一国の一部分に過ぎざるが如く一国も地球てふ一「独立人」の一部分たるに過ぎず、陽明子曰く「大人者以2天地万物1為2一体1者也其視2天下1猶2一家1中国猶2一人1」我等は日本人たるのみならず亦世界人(Weltmann)たるべきなり、一手も之を眼前に置けば宇宙を掩ふに足る、視力を一小国に注射して世界の市民権を放棄すべからず、詩人シルレル曰く、
  一国民の為めにのみ筆を弄するは拙劣矯小の業と謂はざるを得ず、学者たるものゝ精神は如斯制限に堪ゆる能はず……………、最強国民と雖ども一小片たるに過ぎず、故に其運命にして人類全体の進歩に関係を有せざる事項は吾人を感激するに足らず
と、俗語に謂ゆる「居は気を移す」の言実に然り、自国の外に注がざるものにして能く宇宙を包括する観念の起るべき理あらんや〔眼を〜傍点〕。
 
(364) 世界観念養成の実利ある余輩の弁を待たずして明かなり、謙遜の念なり、寛裕の念なり、博愛の念なり、自重の念なり、愛国の念なり、是皆世界観念の好果なり。
 ダーヴヰン氏彼の世界週航記に曰く、余は亜非利加沿岸を廻航して始めて該大陸の大を知れりと、亦曰く、太平洋は水界の王なり、地図面に点々として存する其島嶼も之を洋中に求むる時は殆んど実在せざるの感ありと(余の記臆より写す)、人に謙遜、寛裕、博愛の念を喚起せしむるの最上策は彼をして世界を週遊せしむるにあり、而して之に次ぐの策は彼をして世界地理を知らしむるにあり〔人に〜傍点〕。
 故に万国郵便切手蒐集の如き、其物自身は一の実用なきが如しと雖も、其万国地理の講究を促がし、郵船の航路、鉄道の路筋等を学ばしむるが故に世界観念を発起するが為めには不尠功力ありとす、かの基督教国に於ける万国伝道事業の如き、其直接の結果は論ずる迄もなけれ共、其之に金を投ずる老若男女をして勉めずして万国の情態を探らしめ、同感推察の情を以て世界を蓋ふに至らしむる間接の好結果は実に偉大なるものと云はざるを得ず。
 世界観念、博愛主義は、自重愛国の念を減殺すと云ふものは如何なる愚者ぞ、若し其識の狭きを以て愛国と称するならば井底の蛙こそ最上の愛国者なり、亜非利加内地蛮族の長にして曾て探検家スタンレーを彼の茅屋に招き、手を伸して天井に達せざるを示し、ス氏に問て、「汝は如此大厦を見しことありや」と云ひし人は実に真正の愛国者なるや、我の福島中佐を擁し、魯と清とより外に国なしと信じ、漠北荒陬の地を以て世界の最良田と見做す蒙古人は真正の愛国者なる(365)か、(福島中佐の遠征記を見よ)、一面には英仏の砲撃を受けながら西向して陸地より〔八字傍線〕英国に攻め入らんと威張りし清廷の夢想漢は真正の愛国者なるか、愛国とは国自慢にあらず〔愛国〜傍点〕、スペンサー氏の所謂「愛国とは自利主義を自国に適用せしものなり」との言は其最下等の意味を言ひしものなり、自利主義若し非徳なれば之を国家に摘用するも非徳なり〔自利〜傍点〕、真正の愛国心とは宇宙の為めに国を愛するを言ふなり、而して如斯愛国心のみが最も国を利するの愛国心なり〔真正〜右○〕、彼我に優らんか、我宜しく行て彼に学ぶべし、彼我に劣らんか、我宜しく行て彼を援くべし、是実に渠の仙台の林子平をして海防攻戦を講ずると同時に、有名なる「三国通覧」を著はし、朝鮮、琉球、蝦夷の地誌を明にし、大に天下に訴へて彼等弱国を補助教導すべきを以てせし精神なり、彼子平今を去る百年の昔、東陲の一隅に於て能く之を学び得たり、今日の識者と称するものにして彼の如く地理学を活用するもの幾干かある。
 宇宙の為めにする愛国心は世界大にして地球重なり、我の責任世界を包括して我は始めて我の重きを知るなり〔宇宙〜傍点〕、宇宙学者ハムボルトの所謂「独逸に生れし世界の市民」こそ真正の独逸人にして真正の偉人なり、国民悉く此浩活自重の念を起すに及んで素めて其強大を望むべきのみ、自国の事物にのみ区々として深く外を学ばざる民の未来は知るべきのみ。
 
 かゝる大関係を有する地理学は吾人の深き注意と研究とを要すべきものなり、地理教育は普通教育中甚だ緊要なる位置を占むるものなり、是地理学の簡易にして児童の観察力を喚起するが為(366)めにのみ然るにあらずして、数理学言語学と共に渾ての学科の土台たるべきものなればなり、さればにや普通教育を以て世界の模範たる普魯士国に於ては夙くより重きを地理学訓錬に置き、リツテルペシヱル、氏等の誘導の下に今は世界に比類なき地理教科書を持つに至り、英国政府の如きも大に此点に見る所ありで、屡々該国地理協会に諮問して普魯士風の地理教育を全国に施さんと勉めつゝあり、瑞西の帰化人にして米国プリンストン大学の地理学教授たりし故アルノルド、ギヨー氏は有名なるカ−ル、リツテルの崇拝家にして、彼が米国人の無頓着なるに関せず、三十年間孜々として地理教育新組織を伝布せしより、北米に於ける今日の地理教育なるものは近来著しき進歩を現はし、無味乾燥なりとて児童の最も忌嫌ひし此学も今は最も快楽にして最も実利ある学科たるに至れり、地名の暗誦、山川方向の暗記は記臆力発達の為めにあらずして其内に至大なる巧用と深遠なる真理の存すればなり、真理を恋ひ慕ふ誠意を以てすれば、地理学は一種の愛歌なり、山水を以て画がゝれたる哲学なり、造主の手に成れる預言書なり〔真理〜傍点〕。
 
    第二章 地理と歴史
 
 地理学と歴史とは舞台と劇曲との関係なり、地は人類てふ役者が歴史てふ劇曲を演ずる舞台なり、故に地理学なくして歴史を学ばんとするものは、盤なくして碁を囲まんとするが如く、盲人が天文学を攻究せんとするが如く、全く為し得べからざるにはあらずとも殆んど為し得がたき事なり。
 
(367) 地形必ずしも国民歴史を左右せず、自由意志を有する人類は自然の奴隷にあらず、彼は沙漠を海となし得べし、山嶽の障害物も彼は隧道を以て透徹し得ぺし、河身を変更し得べし、陸を穿ちて海洋を聯続し得べし、吾人はバツクル氏に倣ふて英国歴史を自然現象のみを以て解せんとせず、吾人はドレーバー氏と共に合衆国南北戦争を以て気象学上の差異の結果なりと云はず、是れ歴史を地理学と混同するものにして両者の関係〔二字右○〕を論ずるものにあらず、人なる活動物と、地なる不動物とは、相関する緻密にして相異なる甚だ大なり〔人な〜傍点〕。
 然れども地が人の行為に及ぼす感化力の大なるは余の已に前章に於て論ぜしが如し、淡黒なる印度人も、薔薇色なる英国人も言語学の達し得る時代迄は同一種族の民にして、今は主となり僕となりて、其懸隔は天地の差あれども、素はイラン高原空気爽なる所に同一の天幕に居住せしものなりとす、同一の拉典人種にして希臘伊太利両族の歴史上の差異は如何に大なるや、人は地を化し得べくして地に化せらるゝものなり、一国の歴史は其地と其人との相互動作(lnteraction)の結果なり、博士フリーマン氏曰く、
  Another people in Greece might not have done such great things as the Greeks did;and the Greeks might not have done such great things in any other land. But the land and its people fitted one another,and so great things come of them.
  若し希臘人に依るに非ざれば希臘国は大業を見る能はざりし、希臘国に於けるに非ざれば希(368)臘人は大業を遂げ得ざりし、然れども地と民と相通合して両者より大事業来れり、豈是れ希臘人と希臘国に於てのみ然るにあらんや。
 余は今茲に地形の歴史に及ぼす感化力を論ぜんとするに当て左の分類に拠らんとす、
  第一、山 国
  第二、平原国
  第三、海 国
 
        山  国
 国の分界は水に依るにあらずして山に依る、野望略奪家の大妨害は山なり、自由愛国者の城壁は山なり、ライン河の滔々たるは独仏両国の境界を永遠に定むるを得ず、ピレニース山脈の嶷々たるは仏、班、両国間の争ふべからざる界牌として存す、日耳曼海の広きと浪荒きとは英国をしてデーン人種の略奪より免かれしめず、チビオート山の低きも猶以て一千年の独立を蘇格蘭人に供するに足れり、
 詩人シレル曰く、
   “On the mountains is freedom!the breath of decay
     “Never sullies the fresh flowing air:
   “Oh!nature is perfect wherever we stray;
(369)   “’Tis man that deforms it with care.”(English transl.)
 
 山と自由との関係は歴史上最も著しきものなり、寸尺の海岸線を有する事なく、アルプス山系峰巒の中に埋れる瑞西国こそ欧洲自由の本源なり、紀元千三百八年に三小州の同盟なりてより以来六百年間、隣国の変動沿革は會て休むことなきに関せず、周囲の天険は圧制の此仙境に入るを許さず、偶々那翁の如きありて天の定むる処を人力を以て破り得しも、僅かに四年を経ずして自由は再び其故国に復せり、最も完全なる共和国はアルプス山中山高くして水冽き所にあり、世界の自由を重ずる国は未だ此一小山国より学ぶべき事多し。
 
 瑞西の東隣をチロールと云ふ、アルプス山系の中央に位し、独、墺、伊三国の間に跨がり、其水は流れて三支となり、ライン、ダニユーブ、ポー三河を給す、瑞西の同盟成るの頃より墺国の一部分として存し、常に敬畏を以て維也納朝廷の待遇する処たり、然れども一朝仏の豺狼ナポレオン来りて此土を一の売物に供し、墺国より割て彼の同盟なるバヾリヤ国に与へんとせしや、渓谷に隠れし順良なる民は、直に憤怒の民と化し、愛国者フーフエル(Andreas Hofer)の教導の下に仏軍を国境天険の地に向へ、年に三び戦ひ、殆んど鏖滅の敗を取らしめ、普軍を震盪せしめ、鏖軍を戦慄せしめし仏兵をして逡巡侵入するを碍ざらしめたり、那翁終に精兵五万を遣し、卑劣手段を以て其将を擒にし、以て纔に彼の命に従はしむるに至れり、後五年にして再び墺国の(370)版図に復するや、墺帝はホーフエル家を貴族に列し、チロール山民は再び其安然なる峡谷の内に安堵するに至れり。
 
 十三世紀の始めに当って仏国の南方、ラングドックの地方にアルビゼンス、ワルデンシス、カサリ、と称し、時の迷信暗愚の内に自由思想を宗教上に摘用せしより、法王政府の忌む所となり、終に有名なるアルビゼンス十字軍を惹起《ひきおこ》すに至り、其惨憺たる殺戮の状は世界の戦争史中稀に見る処なり、剣はランゲドツクの自由宗教を圧せり、然れども摂理は隠場《かくれば》を是等自由先達者残類の為めに供へたり、即ちアルプス山の南面に当て、サボイ州の東境に接し、今の伊国ピードモント州の西隅、ポーの緩流が源を発するの辺、峻嶺嶮峨相連なり、渓水激奔巨岩磊々たる処、ルーチヱルナ、ペローザ、サンマルチンの山郷と称し、天造の岩城、四面環山の地、是ワルデンシーの残党を擁護し、七百年間の変遷を経て中古時代の自由宗教を今日迄保存せし地なり。
 サボイ山中の自由教徒は常に法王政府体中の刺なりき、故に法王は屡々命を近隣の貴族に下し、強兵を向けて異端の巣窟を排はんとせり、然れども温良無害なる山中の居住者も自由惟一の本城を犯さるゝに至ては直に挙て猛烈なる義勇兵となり、鋤犂牧杖を擲ち、剣を腰にし、敵兵を険岸絶壁双肩を圧する所に向へ、汚穢なる羅馬の雇兵をして一歩も此聖境に入らしめざりき、十七世紀の中頃サボイ公の派遣せし六隊の天主教兵の為めに蹂躙せられ、一度は殆んど再び起つ能はざるに至りしかども、時の英国の大王クロムウエルの保護する所となり、終に延々今日に至り、(371)伊国聯合の時に際してはヱムマニユエル王の良忠なる兵となり、大に功を奏する所ありし、而して今や信仰自由到来の時に遭遇し、数年前の事なりき、伊国チユーリン府に於てワルデンジー党の祝会あるや、世界は尊敬と賞嘆とを以て自由の発言者にして其忍耐ある保存者なる此山中自由の民を祝したり。
 余輩は更に何をか云はんや、ワラス、ブルースの輩を擁護し英賊をして終に蘇国を服従するを得せしめざりし蘇格蘭北方の山地、東欧悉く土耳古の征服する処たるに当て独り回々教徒に膝を屈せざりしモンデネグロ国。是等自由は皆山の賜物なり、自由豈山を離れて論ずべけんや。
 
 山は天よりの黙示の降る所なり、其空気透明にして四隣静淑なる、其俗界より高くして天上に稍や近きこと、黙示の山上に多くして海面に尠なき理由ならんか、人類の本能は山を以て神殿を築くの地と定めたり、オリムピヤの山頂、是希臘全土の上に天智の降臨する所なりき、シナイ半島ムーサ山の巓、是十誡の大訓が人類に授けられし処なり、ヒマラ山南面の霊鷲山、是仏教三千年の基を開きし処にして東洋教化の遠源ならずや。
 
 英雄出所山水好、天真爛漫たる偉人は多く山より出て平地に尠し、見よ幾多の剛勇なる世界人物は岩石多きスコツトランドの産出にかゝるを、北米ニユーハムプシヤは合衆国中最小州の一なり、其地一分は湖面にして八分は山なり、岩石狼藉して至る処耕耘に便ならず、加ふるに土地浅(372)薄以て他州の比すべきなし、著者曾て其山中一田舎に宿す、談偶々土地物産の事に至る、父老答て曰く「我州の物産別に誇るべきなし、只一物の天下に供すべきあり、即ち人なり」と、而して米国史を繙くものにして誰か此父老の言を批難するものあらんや、ダニヱル、ウエブスター、ホレス、グリレー等の如き山間の童児として成長せし、剛気、実着、世の称して以て代表的米国人となすものを産出せしこと挙て数ふべからず、如何なる寒村なりと雖も常に二三の子弟を大学に送らざるはなく、而して州人広く全国に散布し、責任ある位置を占るもの一村多きは二三十名に及ぶと云ふ、天此地に対するや物を与ふるに吝にして霊を賜ふに優なり、鋤犂の以て貫くべからざる岩石の地又不毛と称すべからざるなり。
 聞く西班牙国北方の諸州、ピレニース山脈が延てビスケー湾に浜する処、是班国人物出生の地なりと。所謂ホツヒ、ドイチと称し、独逸帝国南方に当り、ツーリンギヤの陰森幽鬱たる所、ハルツ山の岩塊磊々たる処、是独国の剛骨男子を産出するを以て名あり、誰か潔白、純良なるズウヰングルの生涯を見てアルプス山渓の清冽なるを思はざらんや、陰険なり、術数なり、奸智なり、狐疑なり、是多くは濁流緩慢として流て海に注ぎ、人その隣人と肩を接する処の産なり。
 
 境界線として山脈に二種あり、即ち東西に走るもの〔七字傍点〕と南北に走るもの〔七字傍点〕是なり、前者は国民を区分する上に非常の勢力を有し、後者は之に依て分界さる国民を聯合せしむるに於て妨害たらざるが如し、是ブーヱー氏(M.Bouet)の始めて指明せし事実にして、爾来歴史家の賛同を受けし一(373)般の法則なるが如し。
 
 アルプス山の三平行脈は中央欧洲を東西に走り、伊独両国の分界として存す、而して昔より今日に至る迄独王にして伊国を併呑せんとせしものにして曾て成功せしものなく、又伊人にして威力を独逸に振はんとして永続せしものあるを聞かず、アルプスの山塊は地理学上の境界標なるのみならず、宗教上、言語学上、政治上、思想上、の大境界なり、独人は宰相ビスマークを以て云ふ、「我等は再び「カノーサ」に詣らじ」と、伊人は独人を賤しむるに彼等の無風流にし朴訥なるを以てす、伊独両国が一政府の下に来らんとするは最多望なる楽天家も予想せざる処なり〔伊独〜傍点〕。
 
 仏蘭西人と西班牙人は全じく拉典人種にして同宗教に帰依し、言語惰性能く相似たり、然れども彼等両国間にピレニース山脈の横たはるあるを以て仏と班とは現然たる二国民として存せり、ルイ十四世の政略は一時は彼の孫児をして班王の位に即かしむるに至り、彼をして有名なる Il n'y a plus de Pyrenees(ピレニース山最早存せず)なる語を発せしめしと雖も、大王の命も山嶽を動かすの力なく、ピレニース山は尚ほ嶷々として両国の間に存し、仏と班とを一国旗の下に同体たるを得ざらしむ。
 
 チビオツト山(Cheviot Hills)は英吉利と蘇格蘭との間に横はる小山脈にして其最高点は海面(374)より三千尺に達せず、然るに此阜丘の一連は永く両国をして一躰たらざらしめし大障害物なりき、而して合同の今日に至るも二国人心の傾く処の相異なるは観察者の皆な承認する処なり、東欧バルカン半島の結合するの難き、支那帝国の南北殆んど異国民たるの感あらしむるの理由、我函嶺が我邦東北、西南の両半部をして大差あらしむるの事実は皆ブーヱー氏第一則の実例なり。
 
 山脈南北に走るときは分界の功を奏せざるの実例亦甚だ多し。
 
 伊太利半島を南北に走るアペナイン山脈は伊国の東西部を結合せしむるに一の障害たりしことなし、拉典民族がタイバー河辺に覇業を起してよりルービコン川以南の併呑は甚だ容易なる業なりし、然れどもポー河沿岸の服従は羅馬人至難の業にして、彼等已に威を地中海沿岸の地に伸ばせし後にありき、(ルービコン河口の辺よりアペナイン山東折して東西脈となるに注意せよ)、而して常に羅馬人の配慮として存し、敵国と同盟して大共和国分裂の虞あらしめしものは実に山北の民にして山東の民にあらざりき。
 キオーレン山脈(Kiolen Mts.)はスカンダナビヤ半島を南北に串貫する峻嶺の連鎖なり、瑞典国其東にあり、那威其西にあり、以て現然たる二国の形をなす、然れども此等両国の歴史は常に一国の歴史なりき、勿論時には分離隔絶せしことなきにはあらざりしも、是何れの国に於ても見る処にしてスカンダナビヤ半島のみ然るにあらず、而して今や両国はその国名と旗色とを異に(375)すると雖も同く之れストツクホルム朝廷の配下にして、那人の之に忠良なるは瑞人に一歩を讓らず、彼等はスカンダナビヤ人にして那、瑞両国人にはあらざるなり。我日本国の山脈も重に南北に亙りて其歴史はブーヱー氏第二則の顕明なる実例なり、是余が末草に於て別に論ぜんとする処なり。
 誰か欧亜の山脈の東西に亙るもの多きを見て国民の割拠と政治上の混雑を疑ふものあらんや、自然は東西の山脈を以て欧洲を分割せり、然るに米大陸に於ては全く之に反し、山脈多くは南北に亙れり、是両半球歴史の全く相異る所にして、余が次章に於て論ぜんとする所なり。
 
 山は能く国界を明かにし(殊に東西に亙るものは)、独立自由を其内に養生し、之を保存し、其間に住居する国民をして天与の特徴を発達せしむ、鍛錬凝て国民的精神となり、深遠なる思想となり、優麗なる詩歌となり、勇壮なる行為となり、以て此陳腐世界をして全く腐敗せざらしむ。
 然れども山は高くして狭し、山は思想の起る処にして之を実行する所にあらず、詩人ゲーテ曰く
   智能は閑静の地に成形し、
   品位は社界繁雑の中に熟す、
 智能若し山に存すれば只智能として終るのみ、山を出て平地に下るに及んで始めて実行となり品位と化するものなり〔智能〜傍点〕、恰も山谷の渓水は或は狂奔して白沫を岩角の上に揚げ、或は千仞の断壁(376)を飛んで瀑布となると雖ども、平野に降て沃田を潅漑し、市街を環流するにあらざれば世に実用をなさゞるが如し、山は学校にして平地は社界なり、山は養ふに能くして伸張は平地にあり、山は永く留まるべき所にあらざるなり。
 
 是山国の欠点にして、国を山間に立つるの民は狭隘にして遠大ならざるの理由なり、山国の民の特徴として激烈なる愛国心を有すると同時に、嫉妬憎悪の念に深く、針小些細の過失は百世に亙る怨恨の基となり、郡は郡と争ひ、村は村に抗し、外に強敵の犯すなき時は内訌紛擾の中に日を送るを以て常とす、詩人ゴールドスミスの此点に関する観察は健全なり、
   Their morals,like their pleasures,are but low:
   For,as refinement stops,from sire to son
   Unalter'd,unimprov'd the manners run;
   And love's and friendship's finely pointed dart
   Fall blunted from each indurated heart.
   Some sterner virtues o'er the mountain's breast
   May sit,like falcons cowering on the nest;
   But all the gentler morals,Such as play
   Through life's more cultured walks,and charm the way,
(377)   These,far dispers'd,on timorous pinions fly,
   To sport and flutterin a kinder sky・         The Traveller,228−238.
モンテネグロ国と其民に関する地理学者の記事は左の如し、
 モンテネグロ即ちカラダーグ(黒山の謂なり)、山国なり、高嶺の連続より成立ち、高きは八千五百尺より九千三百尺に達す、…………人口二十五万、甚だ無学にして喧争を好む、四十余族に分離し、争闘絶ゆる隙なし、報仇は義務として信ぜらる、愛国心非常に強し、山に気骨ありて度量なし、思想多くして実行少し〔山に〜傍点〕。
 
 
    第三章 地理学と歴史 其二
 
       平  原
 
 平原は思想を実行するの場所なり、沃野千里是れ高山大沢の内に養生されし偉雄が来てその偉想を地に印するの所なり、伊国カムパニヤの平原は「七丘」の内に凝固せし拉典民族の一支が覇業を世界に建つるの起点なりき、印度プンジヤーブの平原は蒙古、波斯の雄族が皇紀を開き、政令を布くの地なりき、黄河揚子江の平原は満州漠北の酋長をして雄図を逞するの所なりき。
 山に拠るの民は未だ防禦の位置に立つ民にして、天下を制せんと欲するものは平原枢要の地に拠らざる可らず、是関八州が天下を制するの所以なり、是尾濃平原を扼するものは常に威を関西に振ひし理由なり、是秀吉の地理学的本能が京都を棄て大坂に築き、家康に訓し彼をして小田原(378)に拠らずして江戸に築かしめし解明なり、是ナポレオンの軍略が常に山間の要塞に眼を留めずして直ちに平原の中府を衝きし理由なり、此簡短なる地理学上の原理を認めずして、軍略政略両ながら度を失ひ、後の歴史家をして嘆惜措く能はざらしめし実例甚だ多し。
 平原は世界争闘史の劇場なり、そは平原は国民富力の淵源なればなり、山林の薄利なる、鉱山の危険なる、以て永く国民の生命力を維ぐを得ず、水産の暴利あるに関せず以て国を建るの基本となすに足らず、カリホルニヤの金鉱は北米西海岸に人を集蒐するの用ありしと雖も立憲国の秩序に安ずる勤勉なる民を造りしはサクラメントー、サノアキン沿岸の田園なりし。世界に冠たる那威国の漁業すら厥の国山間幽谷に散布する麦畑の収穫の慥かなるに若かず、佐渡金鉱の豊かなるも、一郡の農産物に及ばず、北海全道の漁獲は僅かに四十万の民を支ゆるに止て、石狩平原の開鑿は麦麺を以て日本全国民に給するに足る、国の富は実に其国平原の富なり、是れ白耳義の一小国が欧洲諸大国の垂涎する処たるの理由なり、是二十六万町歩を有する埼玉県が五千六百万円の地価を有し、六十万町歩を有する長野県が其物産の豊饒なるに関せず僅々四千万円の地価を有する理由なり。
 
 富の淵源たり、政権の中央たり、英雄の活動地たる平原亦特種の欠点あるあり。山の特産は自由にして平原は圧制の巣窟なり、交通の便益は民の集合連帯を促がし、確固たる(379)制度の実施となり、人は個々として動かずして団体として生活するに至る、平原国の民は一組織の一分子たるに過ぎず、合集体として全土を圧するの権力を有し、一個人としては一日の生を繋ぐを得ず、世界の王にして社界の奴隷たるは平原国住民の常態なり〔世界〜傍点〕。
 
 世界の最大圧制国は魯士亜なり、東は太平洋岸より、西はボルチツク海に至る迄、渺茫千里に亙る一低面は一億万人の奴隷を使役する一専主の領土なり、憲法政治の恩沢は西隣諸邦に普く、其光已に東端の君主国たる日本迄輝き渡りし十九世紀の今日に当て、ヴルガドニーペル沿岸の民は尚ほ其生命を一暴主の手に委ね、無期の兵役、西比利亜の竄流も唯々諾々唖者の如くに肯んぜざるを得ず、若しヴオルダイ山をして尚ほ三千尺高からしめ、其支脈を黒海裏海の辺迄延長せしめしならば、自由は已にウラル山頂に達せしものを、ステツド氏曰く、
  If only there had been a plump of AIps in the centre of Muscovy,how different Eastern Europe would be to‐day! Where Nature fails to create ramparts for freedom,the cause of liberty seems foredoomed to defeat.
               Review of Reviews.Sept.15,1891.
 
 波蘭土国の悲劇的運命は実に之を環するに自由の胸壁を欠きたるが故なり、コスート(L.Kossuth)バテイアニー(Bathyani)等の憂国者にして終に洪匈利国の独立を維持し得ざりしは西方墺(380)国の方面に当て一山脈のダニユーブ平原を横断するなければなり、平原は常に山間海浜の民の掠奪地にして、彼に服し是に媚び、常に牛耳を未開蛮人の手に委ねたり、印度プンジヤーブ平原が七百年を出でざるに主を替ること七回、蒙古、亜拉比亜、波新の酋長等が陶人が粘土を陶冶するが如く億万の生霊を利慾の用に供せしと雖も、一人の起て之に抗せしものなかりしは富饒なる平原国の運命として実に悲嘆すべきなり。
 
 国産の輻湊地にして国民の集合地なる平原は亦腐敗の依て以て起る処なり、恰も清冽たる※[さんずい+爰]水が延々として流れて河口に近くや、沼池となり溝堀となりて病毒を発するの原因となるが如し、医学者某の言に曰く、「人若し其隣人より平均四百尺の距離に住せば彼の平均命数は五十年なり、距離三百尺に減ずれば命数は四十年となり、六十尺の距離に近づけば三十年を生くべく、二十尺に至れば僅に二十五年の生命を保ち得るのみ」と、是実に人口稠密の度合と平均命数との比例にして何人も能く知る所なり、是実に棲夫一人は商估の番頭十人に敵する生活力を有する解明なり、是実に僅々六百万の人口を有する満州が四億万の人口を有する支那四百余州を服従せし最大理由なり。
 富の増加が常に国民の惰弱を招くことは余り明瞭なる事実にして余輩の此に論究するの必要なし、富は堆積すれば必ず腐敗するものなり、平原若し其富を排散するの道なければ、伊国カムパニヤの平原が病毒の醸造地となりたるが如く、富は平原居住者の心霊を犯し、終に延て全国を腐(381)朽せしむるに至る、平原は山民の活動地なれども海に出でざる平原の民は朽死するなり。
 
       海  国
 渺茫たる海面是広濶の代名詞なり、山間の頑民、市街の怯夫、天涯無限蒼浪の上に浮ぶに及んで素めて宇宙の大を悟り、狭隘圧制の憎むべきを知覚す〔渺茫〜傍点〕。
 海を望んで我等は始めて世界の民たるを知る、芙蓉の秀麗なるは太平洋の広漠たるに及ばず、退保と嫉妬は陸の物なり、進取と寛裕は海の産なり、埠頭海に臨む処、是世界の王国に入るの門ならずや、黄河滔々海に流れて止まず、人のみは陸に填積して窒死すべきか、
 
   海よ、海よ、我を寛《ひろ》くせよ、
   俗界の権者我を擒にし、
   その古俗と旧習とは我を檻し、
   我をして我が羽翼を伸し得ざらしむ。
   我は海鴎の自由を慕ふなり、
   我は※[辟+鳥]※[遞のしんにょうなし+鳥]《かいつぶり》の飛力を羨むなり、
   無窮の霊を有する我は
   此圧迫狭隘に堪ゆる能はざるなり。
(382)   海よ、海よ、我を清くせよ、
   腐敗は平原都城を襲へり、
   山間の仙境亦陋習に化せり、
   浩然の気我今之を全土に求むる能はず。
   洋面到る処酸気多し、
   海上波静かなる時風に香味あり、
   清浄を愛する我の霊は
   此穢此汚に堪ゆる能はざるなり。
 
   海よ、海よ、我を強くせよ、
   配慮は我の英気を挫けり、
   辛労は我の思惟を圧せり、
   我精我筋将に縮滅せんと欲す。
   濤上風に逆ふ時我に胆力生る、
   船頭梶を禦する時我に懼怖なし、
   活動を要する我の生は
(383)   此軟此弱に堪ゆる能はざるなり。
 
 独立の胸壁として海は山に亜ぐの価値あり、挨及国をして外敵の攻撃を受る事少くして太古時代に充分なる文明を発達せしものは其北方を守るに地中海あり東方に紅海を控へしが故なり、亜細亜大王ゼルキゼスをして欧洲的文明を初芽の中に希臘半島に於て潰滅し能はざらしめしものも海なりき、海は英国独立の維持者なりき、班王フヰリツプ二世の大艦隊は人手を借りずして空の四方に散乱せられたり、大帝ナポレオンはイパンギリシ海峡六時間の擅有権を占むる能はずして終に彼の終生の目的たりし英国を破砕し能はざりし、宜なるかな詩コレリツジの誇称ありしは
  “And Ocean mid his uproar wild
   Speaks safety to his island child.
    Hence for many a fearless age
    Has social Quiet loved thy shore,
   Nor ever proud invader's rage,
   Or sacked thy towers or stained thy fields with gore.”
 
 元の入寇を博多に向へし我日本の独立も亦海の賜物ならずと云ふを得んや。
 
(384) 然れども海の重なる用は防禦にあらずして交通にあり、海は我等を囲まんとして存するものにあらずして我等を放たんが為めなり〔海は〜傍点〕、何となれば海は妨害物にあらずして反て最便の通路なればなり。
 沙漠の一千英里は六十日の旅程を要すれども、風帆船の遅緩なるも大西洋二千五百英里を半百日にして横断し得べし、鉄路の便利なるも一噸の貨物を百英里三円より少き運賃を以て運輸するに苦しむ、海運の低廉なる※[さんずい+氣]船を以て太平洋四千三百海里を一噸に課するに僅かに十五円にして尚ほ余裕あり、山路の嶮なるは海路の迂回なるよりも難し、海の達せざる処是れ最も僻陬の地なり。
 海の歴史は拡張の歴史なり、亜細亜西端の海岸一小片に拠りしフヰニシヤ人は海に打勝ちしが故に地中海と「北海」とボルチツク海沿岸の諸邦に勝てり、海に拠りしが故に亜典の小邦は希臘聯邦に敵対し得たり、海に浮びしが故にベニスの一市は欧洲諸大国に比敵するの富と権とを握れり、海に出しが故に和蘭の小なるも尚ほ欧洲第二等国に位するを得、海を利用せしが故に英国は今は世界六分の一の持主なり、海に拠りし間は西班牙は今日の軟弱国ならざりし。
 海に拠らざりしが故に印度支那の文明は停止の文明なりし、海を怖れし日本は永く東隅の一隠居たりし、海に便ならざるが故に魯国の広大なる領土も英国の一島嶼に及ばず、海に浜する尠きが故に墺国は欧土の外に羽翼を伸ばすを得ず。
 
(385) 人類は陸に国をなして海に相共合するものなり、一洋万邦を繋ぐ、海は其面の平かなるが如く人種をして悉く平等ならしむるものなり、視線を遮るに芙蓉の聳ゆるなく、歩を停むるにラインの流るゝなく、渺茫たる平面水天彷彿たる処、是人種観念が忘却せられて人類観念の起る処なり、四海兄弟主義に基《もとゐ》する世界王国の建設は海国の手に依てのみ成るを得べし。
 歴史は山に始まり平原を通過して海に終る、三者其一を欠て国民の発達は健全なる能はず、人類歴史の多分は此地理学上三原素の相互の関係なり、人を学ばんとするもの豈地理を審かにせずして可ならんや。
 
    第四章 地理学と摂理
 
 摂理とは宗教上の語にして英語の Providence なる語を訳せしものなり、ウエブスター氏此語に意義を附して「神が万有の上に執行する先見と配意」なりと曰へり、故に摂理(providencce)なる語は旧来の宗教学者が用ゐ来りし意匠(Design)なる語と稍や意義を同うするものなり、即ち造物主が宇宙を造るに当て時計師が時計を造るが如く一定の方式と確固たる目的を以てせられしを云ふなり。
 故に摂理の観念は絶対的意志存在の観念を含有す、而して絶対的意志存在に関する問題は純粋哲学上の問題なれば余輩の爰に論究せんとする処にあらず、余輩の探究は帰納的なり、余輩に明瞭なる地理上の事実の供せられしあり、而して余輩は余輩の常識に訴へ、最も見易き推理法に則(386)り、此地は意志なき偶然の作たるや、或は一大思想の其中を貫通するありて、現然たる意匠の其中に存するや否やを判別せんと欲す。
 
 地球表面に五大洲と五大洋の散布するあり、而して皮相的の観察は之を偶然の配布に帰するならむ、然れども少しく注意して之を閲すれば少くとも左の機械的の配布法に拠ることを見るなるべし
 一、五大陸は第一図の如く北極を中真として三大陸塊となりて三方に向て放射すること。
  一、亜細亜濠斯太利、陸塊、
     スマタラ、瓜哇、バンダ諸島は両大陸を繋ぐ連鎖なり、且つ東印度多島海は水底百尋を越ゆる所甚だ尠なし。
  二、欧羅巴−亜弗利加陸塊、
     地中海は陸塊の凹みなり、走れ両大陸の山脈の方向を以て徴すべく、シヽリー島が伊太利半島を亜弗利加北岸に連続するを以て証すべし。
     亜細亜大陸西北部オビ河口よりウラル山脈の東斜面に沿ひ南方裏海に到る処は一凹地にして古昔は一面の海たりしの証は裏海に棲息する動物が北氷洋産のものと相類似する甚しきを以て知るを得べし、故に若し黒海並に紅海を算入すれば、欧亜の境界は水と見て可なり。
(387)  三、亜米利加陸塊、
     是三大陸塊中最も判然たるものなり。
 今此等三大陸塊を相互に比較する時は左の寄異なる符合あるを発見すべし。
   一、各陸塊は南方に尖《と》がりて北方に拡大なり。
      濠斯太利の南端サウス岬、亜弗利加の南端喜望峰、亜米利加の南端ホーン岬。
   二、各陸塊は南北二部に判分す。
   三、各陸塊の東南隅に近く大島の存するあり。
      濠斯太利の東南にニユー、ジーランド島あり、亜弗利加の東南にマダガスカー島あり、南亜米利加の東南にフホルクランド島あり。
   四、各陸塊北部の東岸に当って著大なる島あり。
(388)    亜細亜に曰本島あり、北亜米利加に日ニユーフワンドランドあり、欧羅巴は東方に海を有せざるが故に島を有せざるが如しと雖も、ウラル山脈は島嶼が海中に突出するが如く欧亜に亙る大低面の上に吃立す。
   五、各陸塊南北両部の中間、東方に当て著名なる多島海あり。
      亜欧間に呂宋、ボルネオ、ギニヤ、セレベス等を有する東印度並にメラニシヤ多島海あり、欧非間にヱージアン多島海ありてシクラデス群島、シプラス、ローズ諸島を含む、両米問には有名なる西印度群島あり。
   六、北大陸は南方に向て各三個の半島を有す。
      亜細亜−印度支那デカン、亜拉比亜。
      欧羅巴−バルカン半島、伊大利、西班牙。
      北亜米利加−フロリダ、墨其哥、(パナマは切断せしものと見做) カルホルニヤ。
 是偶然の符合とは見へざるなり。
 今機械的の配列を措て歴史的に陸地の配布構造法を攻究する時は尚ほ一層意匠の其内に存するを見るを得べし。
 
 地の目的は如何〔七字傍点〕、人類を発達せしむるにあり〔人類〜右○〕、地理の目的は歴史の目的なり〔地理〜傍点〕、而して後者の如何は歴史哲学者の論ずる所なり。
(389)  リトレー(Littre)曰く、歴史は生理的定道論の論理を以て解釈し得べき自然的現像なり。
  ブンセン(Bunsen)曰く、歴史は重に人類宗教的良心の発達なり。
  ヘーゲル(Hegel)曰く、歴史は心霊自由の発達にして、源因結果の連鎖なるが故に、その渾ての現象は合理的に解し得べきものなり。
  シヱリング(Schelling)曰く、歴史は絶対的意志の発達にして、徐々たる神の自現なり。
 生理的定道と云ひ、宗教的良心又は心霊自由の発達と云ひ、絶対的意志の開顕と云ひ、其内に進歩、啓発の意を含まざるはなし、人類は地球廻転の度数と共に完全に向ひ進みつゝあることは極端厭世論者にあらざる外は悉く識者の承認する処なり〔人類〜傍点〕、而して人類の棲息所たる地は此進歩、啓発を助け、促すものならざるべからず。
 
 人類の進歩啓発を促す為めに地は如何なる特質を有せざるべからざるか。
  一、進歩を助けんが為めに地は開拓、耕耘、運輸、交際の便利を人類に供せざるべからず。
  二、啓発を助けんが為めには地は多少の障害を人類に供せざるべからず。
    地の配列構造にして全く人類進歩を奨励せざらん乎、人類は失望に沈んで進まざるべし、一の障害物をも供せざらん乎、進歩簡易に過ぎて心霊の怠惰と倨傲とを招き、智と霊とは啓発せざるなり、適宜なる奨励と適宜なる障害とは教育上の必要にして〔適宜なる奨〜傍点〕、天が人に与ふるに地を以てせしや此特質を有する地球を以てせられたり〔天が〜右○〕。
(390) 我等の棲息する地球は教育上絶大の価値を有するものなれば、甚だ完全にして全く完全ならず〔甚だ〜右○〕、即ち此地球は人の労力を以て始めて完全たるを得るものなり〔即ち〜傍点〕。
 
 地球全面を大体に観察する時は吾人は其最も良く人類の幸福を計らんが為めに構造配布せられしを見るなり、其二三の実例は左の如し、
  一、陸は地球面の三分の一にして水はその三分の二なり(陸二七と水七二の割)、是一には陸上の植生に水を給する為め、二には水は陸に勝りて運輸に便なれば陸と陸との交通をして便ならしめんが為なり。
  二、陸地は温帯に多くして熱帯、寒帯に少し、――地をして可成だけ快楽なる住所たらしむ。
  三、低地は赤道を去ること遠きに従って多く、高山高原は重に赤道直下にあり、――炎熱劇しき所に於ては海面よりの高度を増して之を刪減し、太陽光線の斜角強き所にては高度を減じて悉く之を吸収せしむ。
  四、各陸塊は之を中央部に於て両断するに水を以てせり、以て東西交通の便を開けり、――亜、濠間に東印度多鳥海、欧非間に地中海(紅海)、両米間にカリビヤ海並にメキシコ湾あり。
  五、大山脈は重に陸塊の一方に偏して常風の下位にあり、是湿気を其一方に凝結せしめ、不用の高原沙漠を減少せんが為なり。
(391)  六、寒暖二種の海流より利益を受くる陸地は多くして損害を蒙るは尠し。
 
 然れども地上に不便欠点亦尠とせず、其二三を挙ぐれば、
  一、寒帯に氷結の地あり、熱帯に不耗の沙漠多し、
  二、東西通路にスヱズ地峡、パナマ地峡の如き交通の障害あり。
  三、亜弗利加、濠斯太亜の如く山脈陸の四方を囲み、海岸と内地との交通を妨げ、且つ雨路を遮断して数万方里の不耗沙漠の地を作れるあり。
 其他枚挙するに遑あらず。
 然れども地球表面一般の観察より論ずる時は便益は多くして障碍は尠し、奨励は常にして妨害は例外なり、即ち海陸の散布、形状、構造等は人類の発達を援け促すの徴候あることは少しく意を留めて地理学を攻究するものには甚だ顕明ならざるを得ず。
 
 人類の発達とは勿論その躰、智、霊の均斉的の発達を謂ふなり、故に其発達は之を代表する一個人の発達に於で学ぶを得べし、今模範的一個人の発達の順序を述ぶれば左の如し、
  一、小児時期、――重に肉体の発達時期なり、彼の思惟は想像的なり、霊性は幼稚にして単純高尚なる観念を感受し易しと雖も、之を理性に照し、疑問に附し、討議攻究するの念は甚だ微弱なり。
(392)  二、青年時期、――智識発達の時期なり、躯肉は外部の伸張を止めて内部の筋骨は強固を増し、理性漸く進みて事物の原因を疑議討究するに至る、経験層むに従つて益々生命の実価あるを悟り、彼に理想なるもの起り来て之を実行せんとの念禁ずる能はざるに至る。
  三、壮年時期、――実行活動の時期なり、躰、智、共に成熟に達して今は思想が実行し始まりぬ、生命は労働となり、地は一の職工場と見做さるゝに至る。
  四、老年時期、――静思時期なり、躰力、智力は衰へ始めぬ、業已に成て今は安らかに天命を待つのみ、霊性頓に発達の度を加へ、永遠の美音を耳にするに至る、詩人ウオルドウオルスの句に云へるが如し、
     “Wings at my shoulder seem to play;
     But,rooted here,I stand and gaze
     On those bright steps that heavenward raise
      Their practicable way.”
                            −Evening Ode.
 
 人類一般の進歩も仝一順序に拠るものなり、但し人類全体の発育史には老年時期のあるなし、「個人は失せて世は愈々益々大なり」(Individuals wither,but the world grows more and more)、(393)人類の最終期は克己博愛の時代なり、故に博士コツカー氏は人類の進歩歴史を左の四期に区分せり、
  第一、服従時期
  第二、良心発達時期
  第三、自由発達時期
  第四、意志発達時期
 而して余輩の観察する所を以てすれば、地は人類の此発達を促さんが為めに造られしものなり、即ち彼の産室并びに幼時発育の大陸あり、彼の教育場即ち独逸人の称する「ジムナジユム」(鍛錬場)に供せられし大陸あり、彼の活動大陸あり、克己博愛の性を養生発揚するの大陸あり、余輩今順を逐ふて余輩の思考を開陳せんと欲す。
 
     第五章 亜細亜論
 
 人類の始祖は地球表面上何処に顕はれしやは未だ人類学上の大問題なれども、其始めて歴史的人民として生れし地は疑を入るべきにあらず、即ち亜細亜大陸の中部、ヒマラヤ山の西北面より西の方イランアルメニヤ高原の辺にありし事は史学上の確説として存するなり。
 吾人をして今亜細亜大陸の地図を開かしめよ、而して其地形構造は此起原的の性を帯びざるかを研究せしめよ、吾人は亜細亜の地勢に於て左の要点を見るなり、
(394)  一、亜細亜大陸は諸大陸の中央に位し、後者の軸線は前者より星光線的に四方に放射する事(第一図を見よ)。
  二、亜細亜大陸の山脈高原は規模甚だ宏大にして、その区分も随つて粗大なる事。
  三、山脈高原の集合する所は稍や中央部の西に偏し、支那帝国の西端、印度斯坦の北隅パミル高原にある事。
  四、北緯五十度以南に左の沃饒なる水域が此中真点の東西南北に距離を隔てゝ存すること。
    東、太平洋水域(支那)、
    南、印度洋水域(印度)、
    北、アラル海水域(土耳古斯丹)、
    西、ペルシヤ湾水域(バビロニヤ)并びにナイル河水域(埃及)、
(395)  五、中央点を通過して南南西より北北東に向ひ一大山脈の連亙して大陸を東西に二分すること(スリマン山脈、天山脈、亜爾泰山脈)。
 今之を歴史的に解すれば左の如し、
  一、起原は勿論中真の意を含む、而して人は陸上の動物なれば彼の歴史は陸の中真点より始まらざるべからず。
  二、人類幼年期の発達は広大なる高原に逍遥するを要す、彼の筋骨は強健ならざるべからず、彼は平原の惰弱淫逸に沈むべからず、活溌なる精神の開発と剛健なる躰躯の基礎とは高原空気爽かなる処に於てのみ望むべしとは余輩の已に論ぜし所なり。
  三、人種特有の性質を養成せんが為めには重巒峰嶺を以て各互に相隔絶する事を要す。
  四、文明最始の武歩は気候温暖(平均七十度乃至八十度)土地膏腴、至少の思力を以て耕耘殖産に従事し得る沖積層原野を要す。
  五、二種正反対主義ノ充分なる発達は人類散布の始めより交通に至難なる天壁を以て全く両分せられん事を要す(事第八章に審かなり)。
     因に云ふ、東西両洋の分界は欧亜の界を以てせずしてスリマン=亜爾泰山脈を以てすべきなり、是人類配布の始めより歴史の両分せし分界線なればなり。
 
 試みにカシユミヤ、パミルの辺を歴史の発点と仮定せよ、而して之より以東の国民に問ふて見(396)よ、汝等の祖先は何れの方面より来りしやと、支那人も日本人も朝鮮人も皆答て云はん「西より〔三字右○〕」と、是より以西の国民は皆答て云はん「東より〔三字右○〕」と、スリマン山以東太平洋に至る迄は文明東漸し、以西地中海大西洋米大陸を経て太平洋東岸迄は西漸せり、亜細亜高原は世界歴史的諸民族の最始の「ホーム」なりき、英国人の先祖が未だ独逸北方森林湿地の中に居住を定めざりし前、希人、伊人、仏人、班人が未だ地中海の諸半島に割拠して各々其特質を発達せざりし前、魯人、波蘭人、ブルガリヤ人が未だスラーブ人種として異様の言語と風習とを適用せざりし前、波斯人も、印度人も、独逸人も、瑞典人も今日世に白哲人種と称するものは其始は亜細亜中部の高原に居住し、同一の言語を用ゐ、同一の感情と制度とを以て司配されしアリイアンの一種族たりしことは、骨相学と、言語学と、人類学とが充分に証明する処なり。
 第二の歴史的国民として、殊に古代史の劇場に於て最も著しき活動をなせしアツシリヤ、フイニシヤ、ユダ、コプト(埃及)亜拉比亜人種等を抱括するセセミチツク人種も其起原は西方亜細亜の高原にありし、今の所謂アラヽツト山なるものは実に諾亜《ノア》の方舟《ハコブネ》が漂着せし所にあらずとするも、セミチツク祖先がチグリス、ユーフラテスの水原近き辺に起りし事は又疑ふべきにあらず。
 第三の歴史的人種にして、東には支那人日本人として存し、西には欧洲白哲人種の内に強固なる国民の基本を据へし洪匈利人として存し、ラプランド人、バスク人、土耳其人として分支せしもの、之を総称してチユーラン人種と云ふ、而してその起原は今の魯領土耳其斯坦の東方、オクサス、ヤクゼルテスの姉妹川が天山山脈万巒の頂に堆積する雪を以て養はるゝ辺にありし事も又(397)反対すべからざる歴史的考察の結果と云はざるを得ず。
 人種の区分はパミル高壁の三面に於て果行されしが如し、其北なるものはチユラニヤン即ち蒙古人種として東西に分支し、其南なるものは或は南下してデカン半島を占領し、或は西向してイラン高原に遊牧し、進んで黒海の南西を拓し、終にヤパン諸島希臘半島に侵入せり、而して已にアルミニヤ高原、バン、ウルミヤの湖畔に現然たる一種族をなせしセミチツク人種は、或は南向して波斯湾頭に移住するあり、或は東向して地中海西岸を占領するあり、而して人類が始めて歴史頁面に顕はれし時は已に判然たる東西両洋の区別ありて、其西半は已に国民競争の途に就き、人種の軋轢已に始まりし時なりき。
 余輩は今パミル高原西流の後を迫ふて其成長発達を学ばざるべからず、東流せしものはその特殊の歴史を有すれば余輩は別問題として之を講究するを要す。
 
       西方亜細亜
 西方亜細亜の地たるや其面積殆んど二百八十万方哩にして欧羅巴大陸より魯士亜一国を除きしものと相比敵す、然るに其地勢たるや之を高地低地の二部に区分し得るのみ、即ちイラン高原なるものは東ノ方スリマン山脈より西の方ヱージヤン多島海に至る迄高台燥地相連り、南面にタウラスザグロスの東西脈ありて「平地」並に波斯湾に対し、北面にはアラヽツト、ヱルブルツの諸山亦東西脈として存し、アラル、裏海の両水域に接す、延長二千五百哩、幅(398)六百哩あり、其最高点はアラヽツト山にして海面を抜く事一万六千九百尺、其西方海近き辺は平均二千五百尺の高度を有し、東方スリマン山に近づくに及んで六千尺に達す、アラヽツトの高台は全高原を二分する所にして其平均高度は五千尺なり、是れチグリス、ユーフラートの両対河が源を発する辺にして西方亜細亜の中真点なり。
 「平地」は両大河の沿岸を云ふものにしてザグロス山の西南斜面、亜拉比亜沙漠の東北部にあり、二河の水域耕耘に適するの地十万方哩に達す、殊に両流相近くの辺より波斯湾頭に至る迄沿岸二百五十哩は膏腴なる沖積層地にして、田園となすに易く、豊熟の正確なるより創く農業の進歩せし処なり、是実に西方亜細亜の楽園なり。
 亜拉比亜半島は其面積西方亜細亜の三分一以上を有すと雖も其地たるや熱帯に偏すると土地の荒漠たるとより古代文明に中間入するの機を有せざりき。
 西方亜細亜に附するに挨及を以てせざるべからず、此国亜弗利加大陸の東北隅に位すと雖も其人種並に歴史は亜細亜的なり、ナイル河の下流にありて、其富其貴は全く一流の賜物なり、北に地中海を控へ、他の三方には沙漠を擁し、亜細亜本土と連続するに乾燥荒漠たるシユール沙漠の横たはるあり、以て宛然たる孤島独立の形をなせり、其土地の豊饒なる近々五百五十哩の河辺峡谷の地は一千万の人口を養ひ得べし。
 是西方亜細亜地勢の一斑なり、人類の幼年期三千年は此舞台の上に演ぜられたり。
 
(399) 西亜細亜の地理は一高原一平原より成る〔西亜〜傍点〕、而して健全なる国家は山のみを以て成立せず、又平原のみを以て発育する能はざるを以て、西亜細亜の地理は唯一大国の存在を許すのみ〔西亜〜傍点〕、即ち両大河沿岸を得しものは時の全世界を得しものにして、之に対して権衡を保ち得べきものは他に存するあるなし、故に此地に於て七大帝国相踵て起り、文明に歩一歩を加へて去れり。
 
 埃及はナイル下流沖積層地に起り、其土地の沃饒なると、耕耘の容易にして収穫の正確なると、其四塞要害の位置にあるとより、智能未だ進まず、経験未だ乏しき人類の開発期に於てすら、文明は最速度の進歩をなせり、耕耘潅漑の法、彫刻建築の技にして、今尚ほ見るに足るべきもの挙て算ふべからず、殊に土木工事の如きに至っては今世人も未だ及ばざるの偉壮に達せり、ナイル河は全国貫通の便を供し、地中海は新文明を西方諸国に分布せり、紀元前千四百年頃埃及国の勢力頓に増進し、カルデヤ国を合せ、西方亜細亜を蚕食するや、時の開明国と称するものは悉く埃及の文化を利するを得たり。
 
 カルデヤ国はチグリス、ユーフラート両大河の間に起り、その地理学上の位置並に便利は埃及に劣ることなきより、此処に亦新文明の発端を開けり、純粋文学はカルデヤ人を以て始まりしが如し、紀元前四千年の昔已にアガデーの有名なる書籍館ありたり、斗量法は発明せられたり、快晴なる彼等の気象は創くより天体の観察に彼等を導き、遊星の運行、日月の移転に関する彼等の(400)記事は今尚ほ天文学者の参考として科学上の価値あり、彼等の彫刻は埃及人に勝りて細密なりき、彼等の製造は著しく上達しぬ、彼等の商船は両大河を降て波斯湾に浮びぬ、彼等の勢力は両大河水域の全部を蓋ひ、時の文明国と称するものはカルデイヤ国の支配の下に来れり、カルデイヤは実に歴史上第二の世界王国なりき。
 埃及並にカルデイヤに依て開発せられし文明は紀元前七百年頃第三第四の世界王国なる前後両回のアツシリヤに譲り渡きれたり、其全盛の時に当てはイラン高原の西半、両大河の水域、埃及の全部、亜拉比亜の北部、悉く此世界王国の吸収する処となれり、其国王又美術文学の優渥なる庇保者なりき、カルデイヤの工芸美術は改良せられたり、壮大なる宮殿堂宇は建築せられたり、然れどもアツシリヤ人の天職は寧ろ文明の保護にありて、其開発にはあらざりき、恰も後日羅馬人が希臘文明を保存して欧洲の新国民に伝へしが如し、亦アツシリヤ人の政策たるや、其征服せし国民を本国より他に移植するにありたれば、狭隘なる地方的観念は彼等によりて撲滅せられ、世界的観念は喚起せられたり、彼の猶太人全体をしてカナンの地を去ってユーフラート河岸に移転せしめしが如きは其一にして、其政策たるや元《もと》敵国服従の目的に出しものなりと雖も、其間接の結果に至りては猶太民族人種的観念を絶ち、人類的博愛の念を生ぜしめたり。
 
 第四世界王国として史場に現はれしものはミデイヤ並に波斯なり、共にアリヤン人種の支族にして、イラン高原の東部、ザグロス山脈の東北斜面、空気乾燥、地味荒瘠の所に養成され、其(401)族長サイラスに麾かれて両大河平原に降るや、バビロン城内肉山酒池の中に安逸を極めしベルシヤザーの王室は一撃の下に斃れたり、後ダリウス大帝の企図に依り、波斯帝国は世界が未だ曾て見ざりし大領土を有するに至れり、即ち東は印度より西は欧洲ダニユーブの河辺に至れり、其面積は今の全欧羅巴に稍や髣髴たりき。
 ダリウスの「アリアン」的政治技倆は素めて組織的制度を彼の大帝国に施し、一種の郡県制度に依り全国を廿三大区(Satrapies)に分割し、武権文権の別を明かにし、法令を出して大帝自らも之に則るの制を定めたり、爰に至て世界は始て法〔右○〕なるものゝ実施を目撃せり、権利の観念を人類に紹介せしものは実に波斯人なり〔権利〜傍点〕。
 
 波斯滅びて第七の世界主人として歴山王起れり、彼はアツシリヤ人がナイル「両大河」の二文明を混合せし如く、欧を亜に介し、亜を欧に輸入せり、発見的の国民あり、改良的の国民あり、又紹介的の国民あるあり、歴山王の事業の如きは重に紹介的の性質を帯びしものなり。
 
 文明初発の時代に当ては一国の改良進歩は永く一地方の専有物として存すべからず、而して交通不便の太古の時代に於ては暴主の圧制に拠るにあらずして文化を配布するの法他にあるなし、幼年時代は専断的の教訓を要するなり、而して西方亜細亜は自由独立の念を発起するの地勢を有せざるなり〔幼年〜傍点〕。
(402) 数科目を同時に学び得ざる、是亦幼年時期の特質なり、児童は一物にのみ注意を込め得べし、而して人類も其幼年期に当てはその青年期に於ける均斉的発達を望むべからざるなり、彼等は埃及に依て殖産術の大意并に腕力の使用法を学べり(三角塔、巨柱の如きもの)、カルデヤに依て数理学の初歩、美術の発端を学び、智性発育の域に進入せり、波斯人に依て素て法律的観念を起し、個人的意志を支配するに社会的意志を以てせざるべからざるを知れり、即ち教育家の称する躰育、智育、徳育の三育は三大世界王国に依て順を逐ひ序に従ひ人類全体に注入せられたり、而して三階の発育亦専政君主の鉄意に依らざるべからず、西方亜細亜の地勢は能く此種の訓導を施すに最も適したるものなり。
 幼者は巨と数とを重じて理と質とを輕ずるものなり、之を教ゆるに人身究理の美妙なるを以てするよりは山嶽の巨大なるを以てすべし、一君子の徳性を以てするよりは百万の甲兵を羅列するに若かず、而して巨と数とは国民の綜合より来るものなり、山嶽に擬せしバビロン城の構造、ゼルキゼス大帝の二百万の遠征軍は世界王にあらざれば供する能はざるの大観なり、西方亜細亜の地勢能く万国民の統一を促がし、壮観、偉幻の中に幼稚の人類を薫陶せり。
 
 斯く人類は其幼年期を西方亜細亜に経過し、期満ちて青年時期の鍛錬を要するに至りしや、文明の中真は亜土を去て欧洲に渡れり、西亜は能く其天職を盈たせり、彼女は其愛子を西隣に委ねたり、文明西向して終に世界を一週し、東隣より再び其乳母の地に帰復するまでは彼女は休養し(403)て可なり、摂理は今は彼女の労働を要せず、土耳其、亜拉比亜の蛮徒にして纔かに彼女の体面を保存するあれば足れり、彼女は失望すべからざるなり、血紅を漲《みなぎ》らして西天に没せし太陽は、再び黄金色の雲間より栄光に装はれて東天より彼女の上に輝かんとす〔西亜〜傍点〕。
 余輩は今文明を欧土に引渡せり、然れども余輩は未だ西方亜細亜の感化力にして最大なるものゝ一に注意せざりしなり、人に躰、智、霊の三原素あり、而して亜細亜の誠実にして周到なる、人類に霊育を施さずして之を他人の手に委ねざるなり、埃及の富カルデヤの文化共に人類進歩の必要なり、然れども彼に心霊の存するあるにあらずや、人は麦麺のみを以て生活するものにあらず、彼に永遠を望むの慾あり、彼に造物主を父と呼ぶの特権あり、亜細亜若し其子に霊育を授けざりしならば彼女は其天職を完ふせざりしなり。
 
 地中海の東隅、亜拉比亜沙漠の西北に当り、一小国あり、古来カナンの地と名く、後猶太民の住する所となりてより猶太国を以て称せらる、其面積僅かに六千方哩、我の四国一島に及ばず、又欧洲最小国の白耳義の半なり、西に地中海を控へ、東にアラバー窪地と称し海面より低き事六百尺乃至千百二十五尺なる一大溝を擁す、南方はシユールの沙漠ありて埃及、亜拉比亜に連り、北方は狭くして纔かにタイヤ、シドンの地と相接す、其位置たるや欧、亜、非、大陸を三方に控かへ、ナイル河流并に「両大河」沿岸なる古代の文明両中真点の中間にありて、二国の交通は必ず道を此国に取らざる可らず、故に孤立して一国の状態を為すと同時に、広く世界の形勢に意を(404)注ぎ得べく、恰も通商の道に当る山間の小村は自ら商業に従事せずして世の変遷を明かにし得るが如し、此四通八達の一小国こそ心霊的大思想が人類間に注入されし処なりき、是に住するに多感的の民を以てすると共に其地理的形勢は宏壮威厳の念を養成するに最も適合せり、西方海に瀕するの辺、是シヤロンの平原にして薔薇花馥郁として四時絶ゆることなく、豊熟の麦田は洋々として黄金海の状をなす、東向すれば阜丘漸く高く、シヱフエラー(Shephelah)と称し、山地平原の相接する処なり、登て中央部高原の地に達すれば、是猶太民族の本拠にして、神聖なる歴史の多く繋がる処、エルサレムあり、ベツレヘムあり、ヘブロンあり、共に天啓ありし地と称し、岩石所々に狼藉するに関せず、古より拠て以て一神教の単純を保維せし所なりと伝ふ、高原の東南に当り、死海の窪地に向つて傾斜するの辺はヱシモン(Jeshimon)即ち荒野と称する処にして、其の荒漠不毛の状は高原の繁栄田畑と相反し、迫害せらるゝ愛国者の隠所となり、無人寂寞の地に独一無二の霊と交通を開かんとするものゝ常に喜んで求めし祈祷場なり、尚ほ進んで東向すれば即ちアラバの窪地にして、唆坂を下てのみ之に達するを得べし、其ヨルダン河は源をヘルモン山上堆雪の中より発し、南流してメロム、ガリラヤの二湖となり、屈曲蜒蜿百有余哩にして終に「死海」に入りて没す、其湿潤に富むが故に、峡谷全く熱帯地方の状を呈し、陰森たる緑樹恰かもアマゾン河岸にあるが如し、中央部の高原北に進んで漸く低く、渓谷開けて耕耘の業甚だ易し、之れ羅馬時代のサマリヤにして其豊富なる反て国民の孱弱衰微を招き、南方荒野に業を修めし預言者の警誡を煩はせし処なり、尚ほ北進すればガリラヤの地となり、キシヨンの濁流、メギド(405)平原のある所にして、古来より劇戦場を以て名あり、東にガリラヤの湖水ありて、羅馬繁栄の時にありては、壮宮宏宇湖水に影映し、人口殷富の輻湊する処なりき、而してキシヨンの支流テーボルの麓に起る処、ヘルモンの白頂遙に天涯に聳へて高く、少しく高丘に上れば西の方「大海」の白浪カーメル海角に当るを望み得べく、若も羅馬国道の通過するありて、坐して世界を窺ふの位置にありしナザレの一僻村、是かの大工の一子|耶蘇基督の成人せし処にして、人類道徳観念は此一小村の感化力に与かること実に小少ならず、然り六千方哩の一小国は人類に一神教を伝へたり、而して其の感化力の深遠なるや、埃及の文化は腐敗に属し、波斯、羅馬の制度は纔かに古典学者の専有物として存するに至りしも、猶太国の遺産物たる一神教は世と共に其勢力の減少するを見ず、常に人類の進歩に伴ひ、文明と共に西漸し、之を助け之に助けられて今に到れり、世界大勢の趨る処を攻研せんとするものは一神教を信ずるも信ぜざるも猶太国と其遺物とを究めずして可ならんや〔世界〜傍点〕。
 
 猶太国の北境、レバノン山の西麓、山と海との間に介する辺をフヰニシヤ国と云ふ、此処にタイヤ、シドン、ザレブタ等太古の市場起るありて、広く航海を欧大陸の南北岸に求め、雑貨交換を行なふと同時に欧亜の間、思想の媒介となり、野鳥が果実を分布するが如く埃及バビロンの文化を西方諸国に輸送せり、進歩は発見と改良とのみにあらずして、亦之を伝布するの民を要す、西亜の文明はフヰニシヤ人の商船に乗て欧洲の西端希臘半島に渡航せり。
 
(406)    第六章 欧羅巴論
 
 世界王国は失敗なりし、人類が一君主の下に一団体として存する事は摂理が彼に命ぜし方針にあらざりしなり、共同の利は一人の以て為し能はざる事を万人相頼て以て為し遂ぐるにありと雖も、其害は個人の尊厳と価値とを減縮するにあり、人は単純なる集合動物にあらず、彼は真正なる神の聖殿〔人は〜傍点〕(true shekinah)にして〔三字傍点〕、彼は彼自身にして完全なるものなり〔彼は〜右○〕、社界組織の完全を以て人性の完全を求めんとするものは未だ人の何たるを知らざるものなり、我は神に依てのみ己を自覚し得るものにして、神に依りてのみ他を知り得るものなり、人と人との関係は最も親密なるものなりと雖も間接の関係〔五字右○〕たるに過ず、自己以外の関係にして直接なるものは神あるのみ、人は先づ神を求めて而して後友を求むるを得べし、神に依て繋がるゝにあらざれば鞏固なる社界団体は望むべからざるなり〔神に〜傍点〕。
(407) 亜細亜的団体は機械的集合なり、威力は三百万方哩内に散布せし種族を溶解粘結せしのみ、人性的組織団結はパロ、ネブカドネザル等の思惟せし如き簡易なる業にあらず、人類は先づ分離せざるべからず、完全なる結合は充分なる分離の後にあり〔完全〜傍点〕、旧記に曰く
  全地は一の言語一の音のみなりき、茲に人々東に移りてシナルの地に平野を得て其処に住居り、彼等互に云ひけるは去来甎瓦を作り之を善く※[草がんむり/熱]かんと、遂に石の代に甎石を獲、灰沙の代りに石漆を獲たり、又曰けるは去来邑と塔とを建て其塔の頂を天にいたらしめん、斯して我等名を揚て全地の表面に散ることを免れんと、ヱホバ降臨りて彼の人衆の建る邑と塔とを観たまへり、ヱホバ言ひたまひけるは、視よ民は一にして皆一の言語を用ゆ、今既に之を為し始めたり、然ば凡て其為んと図維る事は禁止め得られざるべし、去来我等降り彼処にて彼等の言語を淆し、互に言語を通ずることを得ざらしめんと、ヱホバ遂に彼等を彼処より全地の表面に散したまひければ、彼等邑を建ることを罷めたり、是故に其名はバベル(淆乱)と呼ばる、是はヱホバ彼処に全地の言語を淆したまひしに由てなり、彼処よりヱホバ彼等を全地の表に散したまへり。     (創世記十一章一節より九節迄)
 シナルの地とはアツシリヤ国にして「両大河」下流の平原なり、全地を通じて一言語たらしめんとは一世界王国となさんとの意なり、(今の魯国に於て国内に魯士亜語の外他の国語を禁止するを照例せよ)、「我等名を揚げて全地の表面に散ることを免がれん」とは永久に世界王国を維持せんとなり、「ヱホバ降りて彼等の言語を淆し彼等をして彼処より全地の表面に散せし」とは世(408)界王国の壊乱と其分離とを謂ふなり、如斯王国はバベル(淆乱)なり、アレキサンドルの王国、成吉汗の王国、ナポレオンの王国皆な然らざるはなし、西方亜細亜に於て人類は其幼年期発育を遂げしと同時に、機械的団結の無功にして淆乱の基たるを学べり。
 人類は分離せざるべからず、彼は彼の隣人より別居して彼の自力を試錬せんことを要す、個人的独立の念、是彼が彼の青年時期に於て学ぶべき事なり。
 而して摂理は如此試錬所を人類の為めに設けたり、欧羅巴大陸是なり。
 
 欧洲の地勢たるや亜細亜大陸の西面より突出する一大半島なり、其面積は僅かに三百八十万方哩にして、本大陸の五分一に過ぎず、其半島形は延て其全体に及び、全土悉く半島の集合と称するも可なり、故に到る所良港湾多く、随て陸地面積の比例に海岸線の甚だ長き事は他大陸の比にあらず、即ち亜は一英哩の海岸線に対するに面積四百八十六方哩の割合にして、非は七百十一方哩、南米は四百四十方哩、濠は三百九十方哩、北米は三百二十方哩なるに、欧は僅かに二百方哩なり、海運交通の便以て世界に冠たるや明なり、欧の全土悉く北温帯中にあり、其極北部は少しく寒帯に入ると雖も、暖流の感化力は温帯的の風土を西北全部に供し、以て全大陸を挙て智能発育の好土たらしむ、此大陸に沙漠大高原の存するなく、全土到る処耕耘殖産に適せざる処は殆んど稀なり、若しナイル、「両大河」の沖積両平原の如き饒土の存するなくんば、亦リビヤの沙漠イラン高原の如き乾燥不毛の地の存するなく、事物悉く極端を脱して中和を保てり。
(409) 欧羅巴の山脈は二山系に属す、一は亜細亜的山脈と称し、東より西にするものなり、次は欧羅巴山系にして東南より西北にするものなり、前者にコーカサス、バルカン、カルパシヤン、ピレニースの諸脈あり、後者にアルプス諸平行脈キオーレン脈あり、而して前後両山系の相会する所は即ち瑞西山国にして、万畳の峰巒、左右相対し、峻嶺峻峨相交叉し、以て自然の岩壁の中に自由を擁護する処なり。
 此淆乱状を呈する山脈の方向と、蝕入多き海岸線とは、小大陸を数個の独立部に区分す、今歴史に拠らずして単に地理学上より欧洲の地勢を察する時は左の明瞭なる区分を見るを得べし。
  一、ボルガ、ドニーペルの水域(魯士亜)
  二、スカンダナビヤ半島(那威、瑞典)
  三、ジユツトランド半島(丁抹)
  四、大不列顛群島並に愛蘭(大英国)
  五、イベリヤ半島(西班牙、葡萄牙)
  六、イタリヤ半島(伊太利)
  七、バルカン半島(土耳古、希臘)
  八、ダニユーブ水域上流(澳地利、洪牙利)
  九、ダニユーブ水域下流(羅馬尼亜)
  十、両山系幹脈の交叉する所(瑞西)
(410)  十一、アルプス山脈の西斜面ピレニース山脈迄(仏蘭西)
  十二、両脈延て低阜丘となり互に相交叉する辺(ボヘミヤ、モラビヤ、バヾリヤ、サクソニー、スウエービヤ等半独立国の存する所にして欧洲政治地理上混雑を極むる処なり)
 是造主が欧洲をして国民思想〔四字右○〕発達の為めに造りしの徴にあらずして何ぞや。
 
 欧羅巴の地理は世界王国の建設を許さゞるなり、亜細亜的の統一は欧洲に於て行はるべきにあらず、欧洲人は天の区画に随て割拠し、其各種の天資を発達すべきなり、殊に其区分の稍や均斉的なるは一国をして他に超越する事なからしめ、以て隣国互に競争の念を生じ、自力の智覚発育を促がさしむ、而して国と国との確執競争は人と人との関係に及び、其極たるや、人群市街を填むに至るも、人々自ら孤独寂寞の念に堪ゆる能はざるに至る。
  “Yes;inthe sea of life enisled,
   With echoing straits between us thrown,
   Dotting the shoreless watery wild
   We mortal millions live alone.
   The islands feel the enclasplng flow,
   And then their endless bounds they know.”
 文明は亜細亜を去り、欧羅巴の代表人として希臘に迎へられたり、今や人類は四千年来幼年時(411)期の旧慣を去て、漸新なる青年時代に進入せんと欲す、直に之を大陸大の劇場に於て演ぜしむるの危険甚だ多し、人類は先づ小規模に之を試むべきなり、自然は急劇なる変動を好まず、試験は一小部に於て足れり、欧洲歴史は希臘に於て下稽古《したげいこ》を要せり。
 
 亜大陸は小亜細亜となり現然たる半島形をなして欧洲に向て突出し、其欧土に面するの辺は港湾屈曲陸中に侵入し、其ヘルモス(Hermus)メアンデル(Maeander)両河の如きは共に文明の西流を促がすが如し、而して其|以弗所《ヱフエソ》スミルナの如きは亜を欧に輸するが為めの渡口なるが如し、而して其ヱージヤ海たるや、四塞環山殆んど湖水の状を呈し、南面にカンヂヤ島の自然波止場を控へて「大海」の風波を遮ぎらしむるが如し、加之シクラデス、スポラデイス等一百余島は其内に碁列して、文明をして亜より欧に渡らしむるが為めに供へし泉水の飛石たるが如し、而して希臘半島は欧より亜に向て突出し、其サロニカ湾(Saronicus Sinus)は亜より贈物を受る為めの蔽膝《まへだれ》なるが如し、欧亜互に相接する処は、両友物を贈受する時の状をなせり〔欧亜〜傍点〕、西亜の文明が小亜細亜、ヱージヤン多島海を通過して希臘に伝達せしは地理学上の教導に依りしものにして、亦摂理の指明せし処なり。
 
 ヱージヤ多島海は「地中海」中の地中海にして人類が航海術の初歩を錬習する為めの小池なり、希臘は実に欧羅巴の雛形なり〔希臘〜右○〕、而して地理学上の希臘のみ然るにあらず、歴史上の希臘亦小欧羅(412)巴なり、博士フリーマン氏曰く、
  欧洲の政治歴史にして其前例を希臘歴史に求め得ざるものなく、希臘の歴史にして其実例を欧洲史に求め得ざるものなし、
 雅典、スパルタ、テベス、エートリヤ等、其領土の分限より論ずれば一小郡の大に及ばざりしと雖も、其外交上の掛引に於て、其内治の方針に於て、其厳然として独立国の体面を推持せしに於ては、欧大陸の最強国と称するものも彼等に超越すること能はざるなり。
 五百年間に亙る希臘人の経歴は全く新方向に人類進歩の武歩を転ぜり〔五百〜傍点〕、世界王国の観念は土台的に破壊されたり、共和政治は個人的発達を促すが為めには最良制度として認められたり、バビロン、埃及より讓受けし美術の幼芽は希臘人の涵養する所となり、其発達は非常の速度を以てし、終にフイデイアス(Phidias)ポリゴノートス(Polygonotus)を出し、彫刻絵画の正模範を以て万世に供するに至れり、其政治上の思想は極めて高尚なるものにして、其ペリクリースに於て文明世界は理想的政治家を得たり、希臘文明は亜細亜文明の正反対なりし、後者の卑陋、粗大なりし比例に前者は高尚、極美なりし。
 希陋は欧の代表人として東に接し、亜の長を取て之れを欧化し、亜の強を挫き、欧の微弱を護り、前者の衰滅を弔ふと同時に後者二千年間発達の方針を示せり、希陋は彼女自身の為めに偉大なるにあらずして、欧亜両文明の媒介者として世界歴史に功績を表せしなり。
 然れども希陋の地勢と地理学上の地位とは彼女の功績を広く世界に分布し得べきにあらず、そ(413)のアレキサンドルは希陋民族の武威をインダス河辺に迄及ぼせしと雖も、彼の王国は直ちに亜化せられたり、希臘文明を再び亜細亜に試みんとするは、新き酒を旧き革嚢に盛るの類なりき、嚢張裂け、酒洩出たり、新き希臘文明は新き欧土のみ受け入るゝを得たり、文明は西流し始めぬ、アレキサンドルの亜細亜征服は一時の逆流のみ。
 希臘文明を壊乱の中に保存し、之を欧洲全土に配布せしものは実に伊太利なりき。
 
 見よ伊太利半島は東南希臘に向て伸るを、其長靴形は南北に直立せずして踵を以て希臘を受るの状をなせり(伊太利は無礼者なり)、即ち其靴底に当るの辺なるタレンタム湾の沿岸并にシヽリ島の東部は始て希臘人の殖民を受けし所にして、希臘文明の侵入は此辺よりせり、伊太利は希臘と独、仏等欧大陸の中真との間に横たはる掛橋の地位にあり。
 歴史的世界が拡張して地中海大となりしや、伊太利半島は世界の教導者并に保護者たるの自然の地位を占めたり、此国その東隣の希臘国より大なる事数倍、若かも東西脈の国内を小区片に分界する事なく、その南北脈なるアペナイン山は嶮嶺至て乏しく、平均高度四千尺に充たず、以て脈の東西斜面をして分離せしむるに足らず、時の文明諸国中伊太利の如く結躰の状を呈せしものは他に存せざりしなり、殊にその地中海の中央に位するは時の文明世界の集視点たらしめ、問はずして世界の首府たるの位置に居れり。
 故に拉丁民族一度タイバー河辺七丘の中に起り、覇をルービコン以南の半島に敷くや、伊国は(414)争ふべからざる世界の女王となれり、詩人バージル希臘人の技芸文化に対し羅馬人の天職を謳ふて曰く、
  “That others fairer forge the breathing bronze,
   I grant;and give quick features to the stone;
   Plead causes better;map the vagrant sky,
   And name the constellations as they rise;
   Do thou,Roman,tO rule the races mind;
   These be thine arts;the law of peace to found,
   To spare the vanquished,and to crush the proud.”
                                 (Eng.Transl.)
 紀元四百年に至て時の文明世界は全く羅馬化(Romanize)せられたり、東はユーフラート河より西は大西洋に至る迄、北はチビオート山より南はリビヤ沙漠迄、金鷲記号の威令は行き渡りて、世界王国は再び地上に設立せられたり、然れども羅馬帝国は亜細亜的団合にあらざりしなり、羅馬は共和国として起り、共和国の如く世界を支配せり、各国民の特性は羅馬に依て湮滅せられざりし、否な反て然らずして益々伸張するを得たり、羅馬は希臘をして世界を智化せしめ、猶太に之を霊化するの便益を供せり、羅馬の天職は実に旧世界を綜合して新世界の発端を開くにありし〔羅馬〜傍点〕、希臘人の文明と猶太人の宗教を欧大陸に紹介伝染するにありき、視よ伊太利国は南端に西亜と希臘とを受けて北境は仏、独、墺の三国を以て包まるゝを、伊国は能く其天職を尽せり、文明は彼(415)女に依てライン河辺に橋渡りせり。
 
 羅馬は北辺野蛮人の為めに亡ぼされたり、而して文明亦西漸北漸してアルプス山の西北面に転ぜり、カール大王に至つて世界の中央権は独逸民族の手に落ちたり、カールの大望は世界帝国を欧土に建設せんとするにありき、然れども欧洲の地理と彼の子孫の欧洲的分離観念は彼の期望を瓦餅に帰せしめたり、有名なるベルダンの条約に依て彼の天下は三分せられたり、而して地理学的観念に則りし此分配は今尚ほ変更すべからざる分配なりき、其ノイストリヤ(Neustria)は仏蘭西国として発達すべく、其ローレン(Lorraine)は独逸国たるべく、其アウストラシヤ(Austrasia)は墺斯利国たるべきなり、後に至りてボルボン家となり、ホーヘンゾーレルン家となり、ハツパスブルグ家となりて鹿を欧洲の中原に争はしめしものは実に天の示明せしベルダン条約の余波たるのみ。
 
 爾来一千年間の欧洲の歴史は地理学的境界の中に各国民を安堵せしむるの順序手段と云はざるべからず〔地理〜傍点〕、欧洲の争乱とは野望家が此已定の天界を越へて其領土を拡張せんとするより起りしものなり、英王その孤島に安ずるを得ずして領土を大陸に得んとするに当つて、有名なる百年戦争起り、努力奮戦するの後終に寸地をインギリス海峡以南に有するを得ざるに至て始めて止みぬ、班王其西陲の地を以て足れりとなさず、文明西漸の大流に逆ひ、人為に成れる相続論の条項を頼(416)み、威を伊太利半島並びにライン河口の辺に振はんとせしや、ライデン城を灌せんとして敗れ、チロール山中に逐はれ、三十年間の彼の夢想は沙漠の「ミラージ」として消へ、終に彼の故国に退隠し、エストラマジユラの寺院の中に経文を誦しつゝ失せり、天境を犯して私慾を充さんとするものは宜しく班の大王カール五世の運命を鑑みるべきなり。
 仏国亦此褻涜野望の士を生ずる多し、渠の預言者サボナローラに叱托されてフローレンス市より駆逐せられ、法王の威名を頼んでネープルス王国を得しと雖も、得しと同時に之を失なひ、空手にて再びアルプス山を横ぎりて帰国せしカール第八世。班王カール五世と覇を欧洲に争ひ、彼も又伊国に垂涎し、三度之を襲ひて三度敗れ、寸地をアルプス南面に得ずして終りしフランシス第一世。此世の栄華を以て良心の譴責を掩はんと欲し、至少の託言より無名の軍を起し、二十五万の生霊を犠牲に供して、仏の国境をライン河以東に定め、微弱なる名義に託して班国の王位を彼の孫児の為めに獲し、以てピレニース山最早存せずと絶呼し、無理〔二字右○〕に大王の虚飾を維持し、借財と争闘と革命の流血とを彼の子孫と国民とに譲りし虚人ルーイ第十四世。我独り定めて我独り断行すと暫時の幸運に身を委ぬ、欧洲を我物の如く思ひ、歴山王の亜細亜王国を欧土に回復せんと試み、大陸を得て之を失ひ、終にセントヘレナの孤島に於て敵人檻護の内に命を終りし野望の奴隷ナポレオン、ボナパート。――是等は皆地理を知て之を解せざりし人なり、天は仏国の境界を定めたり、ピレニース山は未だ存するなり、ライン河は未だ流れて止まざるなり、何物ぞ此天界を犯して他を蹂躙せんとする者、彼等は天罰を蒙らずして終らざりしなり。
(417) 瑞典の王カール十二世はボルチツク海以外に武を試みて漂流慙愧の内に命を終れり、丁抹、和蘭を保持せんとせし墺国の政略は悉く失敗なりし、欧羅巴の平和は国民各々その天の定めし区域内に満足するに至りて始めて期すべきなり〔欧羅〜傍点〕、アルサス、ローレンの仏、独間の競争地たる、バルカン半島の未解問題として存するは、皆人意が未だ天意と合せざればなり、伊国一統は欧洲歴史に於ける千三百年来の難題を決せり、土耳古人の逐攘、バルカン半島の団結、ライン沿岸小邦の去就は欧洲の平和を完結せんが為めの必要なり。
 
 余輩は云ふ、欧洲の地勢は戦乱を促がすものなりと、仏、英、独、墺の如き其面積人口稍や相比敵する邦国が互に相隣して権力の軋轢を来たさゞるが如きは全く望むべからざるなり、戦争其物は害なり、退歩なり、然れども解すべからざる摂理は戦争を以て人霊進歩の必要として命じたり、逆説の如く見へて真理中の真理は人は戦て後始めて他と和するの道を知る事是なり〔人は〜傍点〕、戦争の目的は平和にあり、戦乱を促がせし欧洲は世界万世の平和の基を開きたり。
 国と国との競争は延て党と党との競争に及び、渠のケルフ派ギベリン派の争闘の如きは数百年間の長きに亙り、嫉妬憎悪の念は代を逐ふて絶へず、宗派戦争の激烈なる、異端征伐の残酷なる、余輩平和的の東洋人の眼より以てすれば欧洲人の事跡は魔鬼の事跡と見るより他なし。
 然れども人と人〔三字傍点〕との分離は反て人と神〔三字傍点〕との和合を促がせり、生霊は孤独に存在し得べきものにあらず、和を外に求めて得ずして是を内に求むるに至る、社交上の損失は心霊上の利得となれり、(418)欧洲歴史中暗黒時代と称するものは是実に国民の冬期なりし、寒風凛烈外部の発達を遮ぎり、樹々枯木の状を呈して併立するの際、知らずや根底は地下に蔓り、終に宇宙の中真に達し、永遠乾燥することなき泉源に達するや、時未だ春ならざるに花葉霜雪を犯して発し、馥郁爛※[火+曼]として天の美と香とを地上に放つに至れり、而て国民としては合同すべからざるものも、党派としては年来の讐敵たるに関せず、宗派としては全く趣を異にせると雖も、真理の淵源、人生の奥義に至つては同一なるが故に、心霊の奥殿に於て真理の神と接せしものは神の国民として連聯結合するに至れり、亜細亜的の団体は外部の粘結なりし、欧羅巴的の団躰は内部よりする生理的同化なり、人類が欧洲に於て学び得し貴重なる真理は差違の中の一致なりき〔十字傍点〕。
 爰に於てか真正の自由の観念は欧洲人の脳裏に浮び来れり、自由は独立の賜物なり、而して分離は独立を促がすものなり、自由とは個人真価値の智覚なり〔自由〜傍点〕、人は君主たるものゝ所有品にあらず、又国家の一分子たるに過ぎざるものにあらず、彼は万物の長にして神を父とし持つものなり、彼は彼自身にて完全なるものなり、彼を政略の機関に供するもの、彼を利慾の為に消費するものは、彼の神聖なる権利を侵害するものにして、如斯は神と人と万有とに対する褻涜罪を犯すものなり、我等をして人の如くあらしめよ、我等をして人たるを妨ぐる勿れ、我等は生命を棄つるとも人たるの権利は放棄せざるべし、我等の組織する社会も国家も此の神聖なる権利を保護発達せしむるものならざるべからずと、新理想は之を演ずるに常に新劇場を要す、ペリクリス、デモステニスの国民主義は希臘半島に於て行はれずして欧大陸に於て実行せられたり、希臘国は其理(419)想の割合に国の狭小なるが為めに亡びたり、欧洲若し其最大理想を実行するの国土なくんば、新理想欧洲を破壊するか、或は欧洲新理想を圧抑死に至らしめしならむ。
 
 自由思想は十三世紀の初めより兆し始めぬ、ペトラーヒ、ホツカクシヨウ已に此英気を呼吸せり、ダンテは深く此泉に汲み、彼の詩歌は已に新世紀を預言せり、アルビゼンシス、ワルデンシスの自由徒は刃を以て圧せられたり、ボヘミヤ人ハツスは焼殺せられ、ウヰクリフ英国に自由思想を唱へて彼の遺骨は暴露されたり、然れども十六世紀に入つてより、春草の暖雨に会して萌芽するが如く、自由思想は欧洲各所に発起し始めぬ、二百年間の自由の為めの戦争は個人、君主両主義が調和の下に欧洲に存在し得べからざるを示せり、自由主義を涵養せし欧洲各国は今は自由の迫害者となれり、欧洲は自由の産出所にして其実行所にはあらざるなり。
 
 ウヰクリフ焼殺せられて後七十七年、ルーテル生れて後九年、サボナローラ刑せらるゝの前六年、欧洲の西陲に国を定むる西班牙は伊人コロムブスの手に依て新世界を暗黒の中に得たり、班国自由党総理エミリオ、カステラー氏コロムブス時代を評して曰く
  良心は革新を要せり、基督教は改良を要せり、人類の信仰はその理想に達せんとせり、而して伝来の思想と信仰の条目とを棄却せずして此天職を充さんが為めに、名を不朽に伝へたるサボナローラの強健なる智能と、ルーテルの革命的教理は世に出たり、而して自然も亦革新(420)を要せり、コロムブス為めに世に現はれり、発見者に関する記録を探り見よ、大航海家の世に出づるは天の指定せし時にありて、吾人の地球と理性とが同時に之を要求する時にありき〔発見〜傍点〕。
 
 イベリヤ半島の位置たる欧大陸の極西にありて、半島大陸の尖頭なり、其地勢は東より西に亙り、欧洲を脊にして大西洋新大陸に向て面す、其五大河なるミンホー、ドウロー、テーガス、グアヂエーナ、グアダルキビヤは悉く西流して大西洋に注げり、オポールト、リスボン、カヂズの如き良港は皆西岸大西洋に面する所にあり、地理学は班、葡両国より大西洋の探験と新大陸の発見とを要求せり、而して歴史は地理の此要求に応じたり。
 時の葡萄牙は欧洲航海術并びに探険業の中真点なりき、カステラ氏復た曰く、
  リスボンの感化力に依らざりしならばコロムブスは航海第一流の位置を占むるに至らざりしならむ、遠洋航海はリスボンを以て素まれり、其航路の広遠にして規模の絶大なりしは地中海航海が旧時の河水運漕に優りしよりも優れり、ジノア人コロムブスはリスボンに至れり、リスボンは科学中真点にして識者の視線はテーガス河口に蒐れり………熟思焦慮の後彼をして此地に至らしめしは実に彼の事業に彼を導きし内心の聖訓に依りしなり、旧来の歴史家が称する如く、コ氏の葡国に来りしは颶に遭ふて其海岸に破船せし故なりとするも是れ偶然にはあらざりしなり。
(421) コロムブスは技量と智識とを葡萄牙に得たり、然れども彼を送りし名誉は西班牙国に帰せり、コ氏が班国に至りし時は該国全盛の時なりき、異教信徒は外国に逐攘せられ、グラナダ城落ちてリオン、カステイラ両王国の合併となり、班人の特性たる義侠精神の発達其極度に達せり、国民が其天職を尽すの時は其精神の新たに発揚せし時にあり〔国民〜右○〕、八百年間の回々教徒よりの軛を脱せし時、是班国が世界に大事業を供する時なりき、カステラ氏曰く、「時満ちてコロムブス我国に来れり」と、欧洲人の最大理想を実行するが為めの新大陸は班人が葡人の教訓に成れる伊人を遣して発見せしものなり。
 欧羅巴大陸は東に閉して西に開けり、故に東するは逆流にして西するは正流なり、東は回顧なり、退歩なり、西は希望なり進歩なり、東向して欧洲は渋滞せり、西向して始めて開発の途に就けり〔欧羅〜傍点〕、コロムブスは欧洲を正向せしものなり〔は欧〜傍点〕。
 
 西大陸発見せられて欧洲は西面せり、商業の中真は地中海を去て大西洋に転ぜり、伊太利は古来の中央権を失なへり、ベニス、ジアノは衰運に向へり、西班牙葡萄牙は水先案内となりて東西大陸の連結を開けり、而して新開期の女王となり、東西両大陸交通の衝路に当り、東の粋を輸出して西を開き、西の美菓を輸入して東の弱と衰とを補ひ、以て四百年間世界大勢を左右せし一強国は大西洋の波上に出たり、之れ即ち清党の故国なる英国なり。
  “When Britain first,at Heaven’s command,
(422)   Arose from out the azure main,
   This was the charter of the land,
    And guardian angels sing the strain:
     Rule Brittania! Brittania rules the waves,
     Britons never will be slaves.”
   天の命ありて英国始めて
   青海原より起ちし時、
   その特権なればとて、
   護《まもり》の神は讃へて曰く、
    不烈顛国よ波に覇たれ、
    不烈顛人は奴隷ならじ。
 
 不烈顛国の天職は誤認し得べきにあらず、其東南に欧大陸を受け、ライン河口、バルチツク沿岸より西せんとするものは必ず英国に渡江銭を払はざるを得ず、其北西南の三方は直に大西洋の激浪を受け、メキシコ湾流、西南帰北貿易風の衝路に当り、環海の良港湾屈指するに遑あらず、川は小なりと雖も大舶の溯上を許し、湾形弓をなして静湖を激浪の中に懐き、全海岸を挙て埠頭の一連鎖たるの状を呈せしむ、海岸の屈曲刻入は西面を以て殊に甚しとす、其クライド、マーシ(423)ー、二河の如き、其水量は各我の隅田川に過ずと雖も、前者は河口より三十哩陸地に竊んでグラスゴーの大造船場を有し、大艦巨艨を艤ふの所なり、後者は河口にリバープール市を擁し、両大陸の貨物の輻湊する所、米に対する欧の門なり、ブリストルなり、ポーツマスなり、サウサムプトンなり、ボストンなり、之をして他国にあらしめば一港以て全国の輸出入を掌り得べし、余輩万国の港湾を験するに其数と良否とは国の生産力に正比例なるが如し〔余輩〜傍点〕、若し紐育港をして日本にあらしめんか、之れ無用の長物ならざるを得ず、横浜神戸は大陸の物産を輸送するの処にあらず、大国に大港あり、小国に小港あり、港湾の分布決して遇然ならざるなり〔大国〜右○〕。
 然るに英国に国不相応なる港湾あり、是英国は英国の為めに造られざりしの証にあらずして何ぞや。
 良港湾のみは英国をして最大海国たらしむるの理由にあらざるなり ヨーク州の炭坑、デルビー、ランカッシヤー諸州の鉄山は永く十九世紀の到来を待受けしにあらずや、五万方哩の小国能く五大洋を巡航するの艦材と炭料を有す、英の波上に覇たるの理由は実に一にして足らざるなり。之を商估に譬んか、英国は海上の運送屋なり、其陸半球の中真に位し(第一図を見よ)、世界万邦に達するに最大便利の位置を占むるを見て、以て倫敦リバプールが世界貨物の輻湊所たるの理由を知るを得べし、欧洲は英国に依て世界と連続す、英人の天職は実に欧羅巴思想の拡張分布にあり〔英人〜傍点〕。
 米大陸を癸見せしものは西班牙なりき、然れども米国を造りしものは重に英国なり、英国は欧(424)洲の西隅に孤立し、欧の粋を吸取して其害を受けず、宗教改革も政治革命も至少の擾乱を以て決行せられたり、大陸諸国に先ずる二百年已に健全なる憲法政治あり、フエルヂナンド二世ありて「三十年戦争」の悲劇を自由教徒の上に試みるなく、リシエリヤ、マザリンの奸徒ありて彼等を圧迫するなく、欧洲文明の良菓は能く英土に成熟するを得たり、新世界に播殖するに旧世界の最良種を以てすべきなり、欧が米に渡るに英を通過するは地理学上の順路なり、而して欧が米に渡りしに英を通過せしは歴史上の事実なりき、歴史は地理学を離れて独歩せざるなり〔欧が〜傍線〕。
 
 期満て欧土が其自由教徒の為めに狭隘を告るや、一百有余の英人は信仰と政治の自由を求めんが為めに軽※[舟+可]に乗じて大西洋の激浪を冒し、一千六百二十年の冬北米プリマス湾頭に達せり、「メーフラワー」号の船室内已に新開国の未来百年に亙るべき長計の議せらるゝあり、米国憲法の骨子実に此船中に成れり、英の粋は実に此一小船内にありき、新大陸の植民は「メーフラワー」渡海前にありき、然れども其発達は此著名なる航海より始まれり、欧洲の粋今は新土に移植せられたり、一千六百万方哩の沃野は自由主義実施の良田として人類に供せられたり、希望は常に西に存す、米洲是より歴史的活動の中真となれり。
 
    第七章 亜米利加論
 
 亜は紀元的大陸にして人類は此処に於て幼年期を経過せり、欧は鍛練的大陸にして思想の発育(425)は此処にありき、人類今は思想実行の大土を要せり、而して摂理は之を米に蔵し、人類が之を要するに当て之を彼に供せり。
 米両大陸は南北両氷洋間に延長する一大陸塊なり、其幅員「亜」より小なる事百万方哩、「欧」の四倍強、「非」の一倍半なり、「亜」は高山高原に富み、「欧」は山野相半し、「米」は特に平原大陸なり、「欧」「亜」の山系は重に東西するも、「米」の山系に南北せざるは稀なり、「平原大陸」、「南北大陸」、之れ米大陸の別名として存して可ならむ。
 米大陸の骨子はロツキー、アンデス山脈なり、一連の起隆、北米の極北バロー岬に起り、南米の極南ホールン岬に終る、之を米大陸の脊柱となす、其大陸の西岸に沿ふを以て米は太平洋に背して大西洋に面すと称するを得べし、大平原其東にあり、西面は急斜にして直に海に至る、此南北性の山脈より米大陸歴史(426)上経過を予察する時は思ひ半ばに過るなるべし。
 
 一大山脈に添ふに一大平原あり、北は北氷洋岸。マツケンジー河口に始まり、英領亜米利加、北米合衆国を通過し、墨其哥湾に杜絶し、再び南米の北端オリノコ河口に始まり、ラノス平原となり、アマゾン大平原に連続し、尚ほ南に延びてラプラタ水域「パムパス」原野となり、亜善丁共和国南境に至つて止む、若し軽※[舟+可]に乗じてマケンジー河口より南向せんとせんか、溯上二千九百哩にして其水源に達すべく、それより陸上纔かに数哩にして直にハドソン湾水域に達し、サスカチワンの支流を下り、ウヰニペグ湖を南北に横断し、再び紅河の大流を溯れば、ミゾーリー河の支流ダコタ河の水源と相接するの処に至るべし、余輩の軽※[舟+可]を陸上に曳く復た数哩にして一度び之を南流に任せば、直流南下四千哩、一の妨害物なくしてミシヽピ河口に至る、海に航する二千余哩、オリノコ河の河口に臨み、尚ほ南向して其水源を究めんとすれば、終に一支流の南流するに会するあり、是れ有名なるカシキヤレーにしてオリノコ、アマゾンの両水域を連続するものなり、舟は再び南下し始めぬ、ネグロ河は終に其幹流アマゾンに注ぐ、我等は東流せずして南よりするマデイラの大流を取り、南上する事一千哩、北流の将さに尽きんとするの辺に於て、暫く湿潤期の至るを待てば、降雨地に溢れて我等をして舟を南行せしむるを得べし、忽にして我等の南流に会するあり、即ちパラゲー河の上流にして、降でパラナ河となり、終にラプラタの広流となり、ブエノス、アイレスに於て南大西洋に入る、マケンジー河口よりラプラタ河口に至る迄一万(427)五千哩間、舟を陸上に曳きし事僅かに二回、若かも其距離数十哩に過ぎず、米大陸は実に一大水域より成ると称するも過言にあらざるなり。
 
 大平原の東方、大西洋岸との間に又南北脈の蟠かまるあり、北米にあるをアパラキアン山系と称し、ミシヽピ水域の東境なり、南米にあるをブラジル山系となす、之に加ふるにアカライの山塊を以てすれば米大陸の山脈は尽きしなり、米の地理は単純なり、一目以て之を記憶に画するに足る。
 米大陸の起隆は其西方に偏し、脊脈東方の斜面甚だ緩慢にして西斜面は甚だ急激なり〔米大〜傍点〕、地勢東に向て開き西に向て閉づ〔地勢〜右○〕、是吾人の注意を惹くべき第一点なり〔是吾〜傍点〕。
 
 大陸全体の位置よりするも〔大陸〜傍点〕米は欧に媚びて亜を避くるが如し〔米は〜右○〕、北緯六十五度ベーリング海峡に於て四十八哩の近きに接する米亜二大陸は南向するに随つて距離益々広きを加へ、北緯三十八度日本桑港間に於ては五千五百哩となり、赤道直下南米とボルネオ島との間に至って一万哩の広大に及ぶ、然るに欧と非とに向ては全く此傾向を異にし、欧の凹入する辺に向つては米は突出し、「北海」ボルチツク海の深く陸地に浸入するに対してラブラドル|新見国《ニユウフハウンドランド》の凸出するあり、墨其哥湾カリビヤ海の大曲湾を米大陸東側より彫取するに対し、イベリヤ半島亜非利加北西部の西向して大西洋に突出するあり、セントロツク岬迄突出する南米の東半は、大西洋の東岸亜非利(428)加カメロン山の麓迄蝕入するギニヤ湾に嵌入するが如し、大西洋は南北両氷洋を連続すると雖も、南米の南端ホールン岬と、非の南端喜望峰との間より、北の方西班牙北米紐育間に至る迄其平均幅は三千九百哩にして、超過刪減殆んど稀なり、欧は米を求むるが如くにして、米はを迎へるが如し〔欧は〜右○〕、是吾人の注意を惹くべき第二点なり〔是吾〜傍点〕。
 
 米大陸の海岸屈曲は重に大西洋岸にありて太平洋岸に少し、ハドソン湾の深く其東北隅に浸入するあり、セントローレンス湾は同名の大河を受け、二者共に海洋船をして陸内八百哩の処迄航するを得せしむ、コツド湾、デレウエヤ湾、チエサピーク海は、深く陸地に蝕入して最良港をなし、墨其哥湾の大弓形は北米南部をして全く海岸国たらしむ、カリビヤ海は大西太平両洋を僅少距離の中に来らしめ、東流するアマゾンの大河は世界最大沃原を海洋に開放するものなり。
 海岸線の屈曲に富むは勿論良港湾の多きを意味す、モントリォール、ハリフハツクス、ボストン、紐育、ヒラデルヒヤ、ボルチモール、ノルフオーク、チヤレストン、サバンナー、新オーレンス、ガルベストン、ベラクルーズ、アスピンオル、パラ、バヒヤ、リオデセネロ、等大港艮埠の多き事は実に枚挙するに遑あらず、港湾の良否、多寡は国の生産力に正比例すとは余の已に述べし所なり、南米大平原を扼する港湾は多くして、巨ならざるを得ず。
 東岸に屈曲良港多きに対して西岸に其尠きに注意せよ、タコマ、セアトル、バンクーバを控へたるプジエト湾、金門内の桑港、生産力に乏しき沿岸を有するカリホルニヤ湾、一の渡止場(429)たるに過ぎざるアカプルコ港、船舶碇繋に便ならざるパナマ港、リマ、バルパライゾの小湾弓――是等を東岸の大埠頭と対照すれば、彼の富、是の貧、彼の雑、是の単、実に同日の談にあらざるなり、「米」は東向して出入の門戸多く、西向して殆んど関せらるゝの状あり〔米は〜右○〕、是吾人の注意を惹くべき第三点なり〔是吾〜傍点〕。
 欧は東に閉て西に開け、米は之に正反して西に閉て東に開く、欧の河は多くは西に向て流れ、米の河は欧に向て注ぐ、欧(殊に英)の港湾多くは西開し、米の港湾東開するもの多し、欧の岌角を受るに米の湾曲あり、米の崎岬に応ずるに欧は凹人を以てす、アーノルド、ギヨー氏彼の地人論に欧米両大陸を以て代表せらるゝ新旧両世界の地勢より歴史上の未来を論じて曰く、
  両世界は面と面とを合せて互に相睹つゝあるの状を呈す、彼等は互に相寄らんとするが如し、旧世界は新世界に向て傾き、其河流が西向して大西洋に注ぎ、其民の西移を促がしつゝあるが如し、米は旧世界に向つて面し、其陸地の斜面と広闊なる平原は皆東向して欧に面す、米は熱心に両手を開ひて欧人の来て之を恵まんことを待つが如し、一ツの障害物の欧人の浸入を妨ぐるなし、アンデンス山、ロツキー山は大陸の西岸に駆逐せられて此浸入を遮ぎるを得ず。
 
 米大陸の地勢と構造とは余輩をして其歴史的活動をして略ぼ左の如くならんことを預言せしむるを得べし。
(430)  一、米の開発は東よりし、其原動力は欧より来るべし、恰も欧の開発は東方希臘より始まり、原動力は西亜より来りしが如し。
  二、国民的区分は米に於ては行はれざるべし、米は一大共同国たるより外は自然的境界の許さゞる処なるべし。
  三、文明西進の順路より考ふれは米に於ける人類の発達は亜と欧とに於てせしものに超越せざるべからず。
 
 一、コロムブスは欧の西陲西班牙より発して米大陸を発見せり、爾後米の探検は皆欧人の手に成れり、東洋人が米に渡りしとの説は依るに歴史的考証の存するあるなし、カナダは「金田」にして旧図に今の英領アメリカに附するに Terra de Yezo(蝦夷地)の名称を載するありとするも、実際的歴史は如斯記事に頓着せざるなり、米は欧人に依て発見せられ、欧人に依て開かれたり、是れ彼等の天職なればなり。
 米の開発は東に始まりて西に向て進めり、千六百七年ビルジニヤ州ジエームス河口に最始の英人殖民地の建設せられてより、三十年を出でずして北は今のメイン州より南はジヨルジヤ州サバンナ河口に至る迄英、蘭、瑞、等欧洲新教国民の区劃割居する所となれり、大西洋岸に屹立せし新国民は西向して歩一歩を進めり、アパラキヤン山系を横断し、オハヨ河流に従て下り、ミシヽピを渡り、ミゾーリ、プラツト、カンサスの諸流を溯り、漸次にロツキ脈を越へ、終に一千八百(431)四十七年に至て桑港を開くに至れり、旧世界の進歩は山より平原に、高きより低きに、中より外に向へり、新世界は全く之に反し、海より山に、外より内に向へり。
 二、米の水脈山脈は両つながら甚だ単純なり、特に其南北するの方向は全大陸をブーエー氏第二則(第二章を見よ)の下に置けり、即ち国民的分離は米の許さゞる所なり、北亜米利加を以て論ぜんに北米九百万方哩の大陸塊は現然たる一国の体をなせり、之を南北に区分するの自然的界境あるなし、之を東西に区劃し得ると雖も各区は他区の聯合共和を以てのみ存在発達し得るものなり〔之を〜傍点〕、吾人の攻究に便ならんが為に北米の中枢部たる合衆国を以て論ぜんに、此国は左の四部に分界し得るを見る、
  第一、大西洋岸諸州、
  第二、ミシヽピ河水域諸州、
  第三、ロツキー山高原諸州、
  第四、太平洋岸諸州、
 合衆国の全面積は三百万方哩にして、欧大陸の四分の三、西方亜細亜全体と彷彿たり、日本帝国の二十倍、不烈顛愛蘭土の二十五倍、独逸帝国の十五倍、仏蘭西共和国の十六倍なり、然るに此大国之を地理学上僅かに四分するを得て、政治上、社交上、は唯一団体として存し得るのみ、そは四部相依てのみ互に相存在発達し得ればなり、即ち左の如し、
 大西洋岸諸州は製造、商業の地たり、アパラキアン山系の鉄材、良炭に富む、其河流の傾斜急(432)激にして機械運転の用に供すべきと、其良港、好湾を以て備足すると、又比較的に其土地疲痩して耕耘に適せざるとは、東部諸州が製造商業地として成立すべき自然の徴候にして、其原料は他より仰がざるを得ざるの位置に居れり、東部は西部に依てのみ富貴と繁盛とを致すを得ぺし。
 ミシヽピ平原は共和国の田園なり、際限なき水平面の如き麦田、億を以て算する豚群、南方の糖作、北方の穀産、欧の餓を癒し、亜の空を補ひ、尚ほ其鶏犬をして余食あらしむるの膏地なり、然れども農は商と工とを待てのみ成立し得るものなり。
 ロツキー山高原は礦業地なり、礦業勿論農と商とに依らざるを得ず、
 太平洋岸諸州は稍や一国の体をなせり、然れども西隣の三大部に対して独立拮抗するの位置に立たぎるのみならず、其進歩と発達とは共和国の一部と存してのみ期すべきなり、太平洋諸州の未来は未だ朦朧の内に存するが如し、其充分なる発達は東洋諸州の発達と緻密たる関係を有するならむ〔其充〜傍点〕。
 故に米国の分裂は自然の許さゞる所なり、曾て三十年前内乱の際、南北の勝敗未だ決せざる時、英仏の名士は多くは共和国の分裂を予期せる時に、新英洲の雄弁家チヤーレス、サムナー叫んで曰く、
  アレガニー山脈〔二字右○〕(アパラキヤン山系の一派)が其南北するの方向を転じて東西するに至らずんば、余は我国の分裂を信ぜざるなり〔が其〜右○〕
と、而して有名なる Mason and Dixon 線は人為地理の一想像線たるに止まり、四年間の奮戦は(433)共同一致を破らずして罷みぬ、合衆国四十六州は同一の運命と利益とを有す、ミシシピの大流之を南北に貫通する間は彼国永久の分裂は期すべからざるなり〔の大〜傍点〕。
 
 共同一致は合衆国のみに止まらざるなり、英領亜米利加が其欧洲なる領主の手を離れて大共和国に加入することは只時日上の問題なり、「加拿多合併論」は已に十数年問両国人の頭脳に存せり、「五大湖」とセントローレンス河は同一の人種にして同一の国語を使用する両国民を永く離隔するに足るべき妨害物にあらず、スーペリオー湖以西太平洋岸に至る迄は僅かに北緯四十九度なる天文学上の分界線が区画するのみ、ミシシピ水域とウヰニペグ湖水域間の分水嶺は海面より僅々一千六百尺の高さにあり、地理学は両国の合同一致を示せり、其之をして未だ然らざらしむるものは国民的倣慢に属する至少の感情のみ、墨其哥及び中央亜米利加は西班牙人種の殖民する処となりしより北方サクソン民族と合同して北米大共和国を建設するに至るや否は未だ遠き未来にあるが如し、然れども是等西班牙的諸邦が他と組みせずして能く立憲自治の制度を実行し得るや否は目下の問題なり、墨其哥は合衆国民の智と富とを借らずして発達し得るや、是れ具眼者の心中に存する疑問なり、今や米人の布設に係かりし中央墨其哥鉄道はコロラド州デンバー府より南の方サンタフエーを通過して墨の中央府メキシコに達せり、両米貫通鉄道の策は已に数年前より講ぜられつゝあり、ニカラガ、ホンジユラスに於ける殖産工事は多くは合衆国人の手に成れり、キユーバ島を合衆国に売却せんとの説は西班牙朝廷内に行はれつゝあり、誰か知らん天が定めし(434)北米の合同一致は余輩の希望に先んじて実行を見るに至らん事を。
 南米の未来如何に付ては余は別に論述せんと欲すれば今茲に曰はず、然れども北米大陸が一国となりて地球表面に現はれんとするの徴は地理と歴史の示す処にして、余輩之を疑はんとするも能はざるなり。
 
 欧は米に面して之に流出せんとし、米は欧に向て之を受けんとす、然るに米大陸一千六百万方哩は今を去る四百年の昔、カルデヤ王国起て六千年の後迄は開明人種の知らざる所なりし。
 コロムブス米国発見は歴史上他の著明なる事実と伴ひ来れり、余は曾てコロムブス時代を論じて曰く、
  十五世紀の希望は如何、金星已に東天に登り五更夜已に終らんとする時に払暁を待つ番兵の希望なりき〔金星〜傍点〕、発見に先づる百七十年ダンテ、アルジエリは中古の真想を歌ひ終れり、半百年後れてペトラーヒ起り文学復興の師父と呼ばる、十五世紀の初年メデイチ家の名声漸くアルノ河辺に高く、ギオバニ、コズモ、ロレンゾ父子孫続て美術文学を庇保し、欧洲已に心理の重ずべきを知り羅馬の教訓必しも悉く真理ならざるを悟れり、発見に先づる四十年コンスタンチノーポルは土耳其人の手に落ち東帝国は異教信徒の領地となりてより印度并に東洋との貿易頓に衰へ、スエズ、アラビヤを通過せし貨物は他に途を求めざるべからざるに至れり、ヴニス、ピサ、ジノアの如き其富強の原因は東洋貿易にありしものは是が為めに益々萎微し、(435)其回復を計からんには唯二途ありしのみ、即ち土耳其人放逐にあり、新航路発見にあり、困
窮は発見の母なり〔九字傍点〕、東方途塞がりて西方二大洲を現出せり〔東方〜右○〕、
 
 米国発見並びに最始の探※[手偏+僉]は伊、班、蘭、等所謂拉典民族の手に依て成れり、彼等は宗教に於ては羅馬加特利教の熱心なる帰依者なり、政治思想に於ては君主政治の忠実なる臣なり、彼等は義侠と名義とを重じ、快活にして豪気あり、彼等の行為は小説的なり、彼等は進むを知て守るを知らず、先鋒たり得るも殿者たるを得ず、深遠なる思想、確固たる主義は彼等より望むべからざるなり。
 故に米国の建設は拉典民族を以て※[日+方]まらざりき、コロムブスの植民事業は悉く失敗なりし、コルテスピザロの墨其哥、白露の制服は宝貨の掠奪に止て永遠に亙る建国策を講ずるに至らざりし、仏国民の米国植民事業も亦然り、セントローレンス河岸、「五大湖」、ミシシピの上流は彼等の発見に罹り、植拓の事業は大に歩を進めしと雖も二百年を経ずして米大陸に於ける仏国の領地は悉く之を英国に譲与せざるを得ざるに至れり、(千七百六十三年巴里条約)米の建設は宗教に於てはプロテスタント教徒にして政治思想に於ては自由の主張者なる此欧チュートン民族の手を以て始めて成れり。
 北米合衆国は米大陸の中華なり、彼女は新大陸を代表し、之を教導する者なり、彼女の干渉に依てのみ欧洲諸大国は王政的政治を新大陸に施すを得ざるなり(有名なるモンロー主義)、彼女の(436)憲法は墨其哥以南西班牙的共和国の模写する所となれり、彼女の召集に依て米大陸諸邦の協議会を開くに至れり、過去、現在、未来に於て新大陸の牛耳を採る者は北米合衆国たるは全世界の許す所なり。
 而して何者が北米合衆国を建設せしや、仏人にあらず、英人にあらず、独人にあらずして、欧人中自由の大思想を抱懐し、之を以て相連結されしものなりき、欧の粋は其胚胎せし自由なり〔欧の〜右○〕、而して自由は米に移植せられて蕃殖し、終に今日の美菓を結べり。
 英は米に供するに其清教徒を以てせり〔英は〜傍点〕、「モントフ※[ホの小字]ート」公サイモンがイーブスハムの戦場に斃れし以来徐々として発育しつゝありし英国の自由主義が凝固して此に至りし者なり、欧の自由思想は英に於て最上の発育に達せり、而して新自由国の憲法は英の自由を以てすら尚ほ不満なりし清教徒の草案より成れり、北米合衆国の憲法は欧の粋の粋〔五字右○〕なりと言はざるを得ず。
 仏は米に供するに其ヒューゲノー党の子孫を以てせり〔仏は〜傍点〕、天主教徒としての仏人の植民事業は敗れて新教徒たるヒユーゲノー党の植民は大成功なりし、彼等は東海岸諸州に散布し、彼等の少数なりし比例に合衆国の建設事業に尽せし彼等の功績は著大なるものなりし、独立の初期に当り大陸会議(Continental Congress)の議長たりし七人の中三人はヒユーゲノー党なりし、仏国をして新共和国の独立を承認せしめし者四人の中二人は又此党の人なりし、其の他ハアンネル(Faneuil)なり、ベヤード(James Bayard)なりガラチン(Albert Gallatin)なり、合衆国の初代史に於て鏘々の聞へありし者の中に此党の人の多かりし事は明瞭なる事実なり。
(437) 蘭は米に供するに亦その華を以てせり〔蘭は〜傍点〕、曾て「オレンジ」公ウヰルヘルムの下に「班」の虐王に抗せし徒、是れ今の紐育を創置せし者なり、ヘンドリツク、ハドソン始めて彼の名を有する河を溯り、其河口に新植民を置き之を新和蘭と称せり、蘭は欧大陸に於ける自由制度の創作者なりき、而して新自由国を大西洋の彼岸に開設するに及で蘭は直接間接に之に与かりしこと大なり。
 瑞典国の自由教徒又米の建設者中著名なる元素なり〔瑞典〜傍点〕、グスタブス、アドルフハスの下に「独」の自由教徒を援け、アルプス以南の圧抑政略をしてチュートン民族を侮辱せしめざりしもの、是今のデレウエヘ州に植民せし者にして其本国の勇と直とを齎らし来て新自由国を強固ならしめし事少しとせず。
 其他独乙人なり、蘇格蘭人なり、ボヘミヤ人なり、モラビヤ人なり、苟も自由を重じ平等と独立とを恋ひ慕ふものは皆故国を去て墳墓の地を米大陸に求めたり、こゝに於てか欧本国に於ける国民的仇敵の念は忘棄せられて自由てふ高尚なる感念を以て互に相繋がるゝに至り、差違の中に一致を来し、人類は再び結合共同するに至れり、余は曾て米国に於ける歴史上の経過を論じて曰く、
  米国てふ名は自由てふ語と同意義なるに至れり、ベーコンのアトランチス、トマス、ムーアのユートピヤは米国に於て実成せられつゝあり、頑愚迷信が威力を擅にし、忠実熱心が天与の自由を圧せらるゝ時、陰鬱雲深くして地上身を容るゝに処なき時、義者の信仰と仁者の喜(438)は常に西方新大陸にありき〔頑愚〜傍点〕、奸族ギース仏国の王室を擅掠し、温順なるヒユーゲノー党が信仰自由と公民権とを失ひし時、義勇に富めるコリニエーをして唯一の済民策として竊に彼の親戚を派遣し新仏国を建立せんとせしは米国なり、ピユーリタン祖先已に本国の圧制を厭ひ新英国の基礎をプリマス湾頭に定めしより、虐王位に登り奸臣朝に蔓りし時、英国の良民をして常に望を属せしめしはハドソン、サスクヱハナ河辺の広野なりき、曾て猶太国の預言者が特種の天啓に依り預言せし地上の天国を造らんとするものは皆眼を米国の未開地に注げり〔曾て〜傍点〕、クエークル宗がウヰリヤム、ペンの嚮導の下にデレワヤ、スクールキル河辺に新社界の組織を試み、剣を用ひず威を示さずして銅色人種を感化せし如く、天主教徒がボルチモール公の下にメリーランドに於て慈悲愛憐的の植民地を開きし如く、欧洲人の理想にして最も美なるもの最も優なるものはコロムブスの発見せる大陸に於て稍や実行せられたり、圧制は米土の許さゞる所〔圧政〜右○〕、曾て十三州の同盟が英国の軛〔曾て〜傍点〕《くびき》を脱せし以来〔六字傍点〕旧世界の陳腐政治を以て新世界に施さんとせしは悉く失敗なりし〔旧世〜右○〕ナポレオン三世がメキシコに於て新帝国を開かんと欲して終に善良なるマキシミリアン大公をして最始最終のメキシコ帝王として銃殺場の露と失せしめしより、近くはドム、ピードローの大量を以てすら帝位を南米の最大国に保つを得せしめずして、今は大湖并にセントローレンス河岸よりホールン岬に至る迄十二有余の共和国相聯続するに至れり。
 
(439) 旧世界の理想は新世界に於て実行し始めぬ、而して一部は已に実行せられたり、米国は実に二千年間の文明諸国の希望なりき〔米国〜右○〕、伊国の外交家にして考古学を以て有名なるガリアニ(Ferdinand Galiani)氏曾て米国独立戦争中未だ勝敗の決せざりし前に預言して曰く、
  余は単に地理学上の理由より米国の勝利の為めに賭する者なり、そは已往五千年間|才能《ジニヤス》は常に地球運転の方向に逆ひ東より西に向て進みたればなり、
有名なる旅行家バーナビー(Barnaby)氏亦同時代に記して曰く、
  当時一思想の人心を扼するあり、即ち世界の権力は西に向て進みつゝあるが故に何人も熱心に米国が起て全世界を指揮せんとするの時を待ちつゝあるが如し、
変遷論の発言者なるチヤールス、ダーウヰン氏は彼の人種進化論中に博士チンカ(Zincke)氏の語を引用して左の歴史的考察を下せり、
  希臘国に於ける智能の発育、羅馬帝国の世界占領等、其他渾ての歴史上の事実はサクソン民族の西大陸移住と相関するものとして考ふるにあらざれば一の目的と価値とを其中に見る能はず、
 ヒマラヤ山の西麓、イラン高原の東端に素まりし文明は西漸するに従ひて発達し、西亜の理想は希臘に熟し、希臘の理想は欧洲に於て実行せられ、欧の粋と理想とは米に於て結果せり、人類は「亜」に合同を計て失敗し、「欧」に分離して再び「米」に於て合せり、地理学の摘指する処、心理学の預期する処、歴史の経過せし処、悉く相符合せざるはなし、自然《ナチユール》其物は真理なり、自然(440)に従ふものは天道に歩むものなり、地理学の教導実に天よりの声ならずや。
 
    第八草 東 洋 論
 
 境界は山と海とに因るとは余輩の已に論ぜし処なり、山高くして嶮ならむか、隣邦之に依て益々疎遠なり、海広くして波荒からんか、対岸之に依て別世界の観あり、高山大海人種を区劃す、而して全世界を両分し、東西両洋の大区分を来たせし者は実に世界の最高山と最大海となり。世界の最高原は中央亜細亜に在り、喜馬拉亜の東西脈将に尽きんとする処、亜爾泰、天山等の南脈来て正直角に之に接し、東西脈を此処に横断し尚ほ南に延びてスリマン(Suliman)脈となり、印度河吐口に至りて海に入る、両大山脈の相交叉する処、是即ちパミル高原にして古より「世界の屋根」と称し東西両洋の分かるゝ処、二大人種が境を接する処なり。余は東洋の名を附するにパミル高原以東の地を以てせり、亜細亜大陸全体を以て東洋国と称し、スリヤ、パレスチン、波斯等を之に抱括するは単に方角上の理由に依る者にして地理と歴史との承認せざる処なり、余は已に西洋文明がパミル高原の西麓に※[日+方]まり、地勢に伴はれて西方亜細亜欧洲を通過し北亜米利加に到りしを述べたり、パミル以西、太平洋の東岸に至る迄は「屋根」の一斜面と見て可なり〔以西〜傍点〕、初代人民の移転は流水の方向に因れり、シホン(Sihon)ジホン(Jihon)の姉妹川が西向するは人類の半数を西大陸の西端に向て指示せしにあらざるを得んや。
(441) 「世界の屋根」の西斜面、之を西洋といひ、その東斜面を東洋といふ、前者は太平洋の東岸に終り、後者は仝大洋の西岸に終る、山に依て分れ、海に依て合す、最高山初めに人類を離隔し最広海終に之を連続せり〔世界〜右○〕。
 パミル高原を中真点として山脈に順ひて南北せよ、南する者はスリマン脈となりて印度洋に尽き、北する者は天山脈となり稍や東向して有名なるズンガリヤ(Dzungaria)通路に於て杜絶し、再び亜爾泰脈となりて東北に延び、セレンガ河に貫かれて後しヤブロノイ脈(Yablonnoi)となりて起り、尚ほ東北してスタノボイ脈となり、終に亜大陸の東北隅「東岬」となりベーリング海峡に突出して終る、インダス河口よりベーリング海峡に至るまで西南より東北に大陸を斜に両断する大山脈あり、余の称する東洋諸国なるものは其東南斜面にある邦土を云ふ、其面積六百五十万方哩、人口七億三千万なり、即ち世界陸地の八分の一を占め、人口の二分の一を有す、パミル高原より東に向ひ、峨々たる巨嶺大岳を作り、克什米※[人偏+尓]《カシユミヤ》の仙郷を囲繞し、エベレスト峰となりて二万九千尺の天涯に聳へ、ガンジス平野を南麓に擁し、重嶺奇峰相密接し、纔にブラマプートラの激流の通過を許し、尚ほも東向して揚子江をして其北麓を洗はしめ、南崙山となり、支那南部※[ウがんむり/心/用]波の辺に於て海に尽く、此東西大脈は東洋を南北に両分し、印度と支那との大区別あらしむ、南部印度は南面して印度洋の水域なり、北部支那は東面して太平洋水域を作る、南部は熱帯的にして北部は温帯的なり、南部はアリヤン人種の占領する処たり、北部は蒙古人種の巣窟なり、支那印度は東洋の二中真なり。
 
(442)      印  度
 喜馬拉亜脈の南斜面を総称して印度と云ふ、之を東西二部に区分す、西なるを印度斯坦と云ひ、是を本印度となす、東なるを支那印度と云ひ、其名称の如く東洋の二大部を連結する処なり。
 本印度は殆んど正三角形の半島なり、東西一千六百哩南北一千九百哩、面積一百五十五万方哩、日本の十倍、支那本部と相匹敵す、北緯四度に始まり、三十六度に終る。
 夏至線は印度を南北両平等部に区分す、南なるはデカン半島にして三方山を以て囲まれし平均一千尺以上の高地なり、北なるは平原地にしてガンヂス、インダス両河の水域をいふ、北境西蔵国に接する処は峨々たる世界第一の高嶺、蜿蜒として東西一千五百哩に亙り、低地より直ちに平均一万八千尺の高度に達す、大岳唆峰相聯り、ヱベレスト衆巒を率ひて二万九千尺の天外に聳ゆ、其南麓にテライの叢林ありて熱帯的野獣の巣窟たり、登ること四千尺にして温帯地方の殖生あり、一万二千尺にして寒帯に達し、一万六千尺にして永久の雪あり、熱帯の繁と氷帯の漠は一望二万尺の中に画かるゝあり〔熱帯〜傍点〕、雑駁なり、急劇なる反対なり、是印度地理の特徴なり〔雑駁〜右○〕。
 高嶺高地間に跨がる郊原、是印度の中華なり、東西一千六百哩、中間のアラビユリの丘阜ありてガンヂス、インダス間の分水嶺たり、東部ガンヂスの水域、広袤四十万方哩、土地の肥沃なる、物産の多饒なる、実に世界無比となす、世に称する印度の富とは実に其地を指す、森に香檀あり、麻粟樹、榕《アカウ》あり、野に丁子、芥子、胡椒等奮興性に富む薬味多く、米麦、甘蔗、青藍、綿花、鴉(443)片、玉萄黍等有用の陸産繁殖せざるなし、叢林は獅子虎を産し、湿潤の地に水牛鰐魚あり、動植両生の発育此地に於て其極に達するが如し、デルハイ、ラクノー、ベナーレス、等大市宏街此地に起り、世界の最旧文明、今尚ほ連綿として威力を存す。
 ガンヂス郊原の西に尽る処、アラビユリ丘阜の南に当り、荒漠たる曠野長さ四百哩幅一百哩に亙るあり、是を印度大沙漠と称す、ベンガル地方の雨量世界無比なるに対し、此処にサハラ、亜拉比亜的の乾燥なるあり、彼の潤、是の乾、彼の沃、是の瘠、豪富と赤貧相並で存す。沙漠の海に尽る処をクツチの大沢となす、水にあらず陸にあらず、臭気疫※[病垂/萬]の生ずる処、亦印度地理の一異観なりとす。
 インダス原野は中央平原の西部なり、即ち古来プンジヤーブ(五河の地)と称し、其沃、其大ガンヂス原野に※[しんにょう+台]ばずと雖も四方広漠の間に介して田園の美を以て鳴れり。
 
 此豊富の地、之を繞らすに僻陬荒漠の地を以てす〔此豊〜傍点〕、東隣の支那印度は微々たる弱国なり、本土の教化に与るを得るも之に利害を及ぼすの国柄にあらず、北隣の西蔵は喜馬拉亜大墻壁の反対面にあり、未開の蛮貊、南面の文化強盛に比して何かあらん、印度の正隣は其西方にあり〔印度〜傍点〕、伊蘭高原はスリマン脈を以て始まりボクハラ、サマルカンドの沃野は「五河の地」を去る遠からず、壮厳を極めたる大帝国は屡々是等西亜の地に起りて覇を四方に施けり。
 スリマンの境界、之を横断するに二個の峡路あり、北なるをカイベルと云ひ、南なるをボラン(444)と云ふ、実に印度の二大関門にして大患の「五河」ガンヂスの平原に臨むや必ず此通路を取れり、関西の民多くは慓悍剛毅の徒、関東の華奢柔弱なるに比すれば実に豺狼の群羊に於けるが如し、印度は実に其西北蛮人の掠奪地として存しぬ、今の印度人と称するものも素は西亜高地の民にして、侵入者として南下し、土民をデカン半島の南隅に駆逐し、喜馬拉亜の南麓に居を定めしものなり、而して掠奪の民は常に掠奪せられずして止まらざりき、山地硬骨武烈の民が温暖肥沃なる平地に降り、暫時にして其生来の硬と烈とを失ひ、華奢淫弱の風に沈むや、彼等は再び西北土蛮の侮る所となり、其侵入を招き、掠奪を蒙るに至れり、如斯にして新陳代謝する事十数回、掠奪者の河流は西北隅より印度半島に注入して止まず、紀元前五百十二年波斯王ダリウス、ヒスタスピスが「五河の地」を侵略せし以来、カイベル峡路を通過せし侵入は実に十八回の多きに至れり、成吉干チモール、バーベル、ナダヤシヤの如き、蒙古、波斯、亜拉比亜、アフガニスタンの強族にして一撃を印度に試みざるものは殆んど稀なり、有名なるパニプートの三大戦争の如き、生霊二億万の安危を決せし大戦争は実に枚挙するに暇あらず、掠奪なり、殺戮なり、破壊なり、大変革なり、是印度歴史なり、国民志想発育の如き、国家制度編成の如き、特種文化の養生の如きは、惨憺たる印度歴史の許さゞる処なりき〔掠奪〜傍点〕、勇烈なる土蛮と隣する国にして豊富有福印度の如くなるは実に慨歎すべきの位置と云はざるを得ず。
 
 此位置と此地を有せし印度人の特性は如何、独立観念の如きは圧搾消滅せられたり、生命財産(445)の不安は恐懼の念となり、幸福なる社会の組織、強固なる政府の建設の如きは得べからざるものとして放棄せられたり、加ふるに温暖の気、沃饒の地は民の懶惰淫逸を促がし、自然と戦ふの必要なきを以て之と和し、終に之が隷属となれり、規模壮宏を極めたる其山川郊野林沢は頻りに民の想像力を喚起し、白身の贏を感ずると同時に自然力の勝つべからざるを悟り、心霊無限の冀望を達せんとするに之を事物に於てせずして思惟界に於てせんと勉めたり、印度人は肉に圧せられて霊に伸び、地に失ひて天に得たるが如し、ジヨージ、ローリンソン氏印度文明を論じて曰く、
  印度文明は重に霊智的にして物質的にあらず、政治、歴史、工業、貿易、商業、製造等現在の生活に意を注がずして、印度人は注意の全力を形而上の問題に込め、自己に就て、未来に就て、神の性、人と神との関係に就て、沈思を凝らせり………彼等は全く意を内部に留めて外部を問はざりき、心霊界の無辺無限を求めて物質界の不定変幻を問はざりき、故に印度文明の長所は抽象的にして推測し難し。
 印度人のアリヤン性、勿論此種の文明を来せし一大原因ならざるを得ず、強健多望なるアリヤン人種何れか一方に発達せずして休まんや、之を希臘半島の小邦相併立するの位置にあらしめば独立思想となり、美術観念となれり、之を伊太利半島なる世界の中央地に配布せば世界律を編み、万国を統御するの術に長ず、之を寒気凛烈なる北洋の一孤島に放てば有名なるアイスランド文学を供し、所謂「ノーズ」宗となりて北洋の民を訓誡せり、同一の強健種族なり、殊に抽象力は彼等の長ずる所、若し他に発達の途の妨害さるゝあれば此天与の長所を伸張するに至りしは決して(446)怪しむに足らざるなり。
 印度人の才能は全く形而上的の傾向を取れり、二億万の民、世界に供するに一の制度、法律、実用科学のあるなし、其思惟の豊饒遠深なる、其|画像《イマジネーシヨン》の壮厳なる、其論結の大胆なる、之を欧に求むるも得ず、之を米に索むるも当らず、印度宗教は実に印度地理の霊化せしものなり〔印度〜傍点〕、エベレストの※[山/將]々として壮厳なるあり、ガンヂス原野の広大肥沃なるあり、印度大沙漠の耽として威※[火+陷の旁]赫灼たるあれば、ベンガルの叢林深として幽玄寂寥たるあり、其理想や喜馬拉亜の雪千古の純白なるあり、其儀式や七光陸離、極楽鳥の羽翼の如きあり、印度人は彼の美麗なる自然を思想界に移せり、彼は世界を導くに彼の富饒なる思惟を以てするならん〔印度〜右○〕。
 
      支  那
 東洋の東に尽くる処之を支那となす、南北千五百哩、東西千四百哩、殆んど方四角形をなせる一大国なり、北緯十八度に始まり四十五度に終る、西境に雲嶺の高壁ありて蒙古西戎の地を劃し、東の方太平洋を隔てゝ米新大陸と相対す、面積百五十四万方哩、欧大陸より魯の一国を除きしもの、仏の七倍英の十三倍なり。
 此大国之を南北に区劃するに二大山脈と三大河あり、即ち北崙南崙なり、黄河、楊子江、香江なり、北崙は海に至らずして尽き、淮水其東に発して河江の間を流る、南崙は喜馬拉亜脈の東派にして蜿蜒として東に亙り、漸江省※[うがんむり/心/用]波に至て海に終る、河水江水各源を大陸中央の高地に発し、(447)雲嶺の北と南とを繞り、屈曲東流して河口相遠からずして東海に注ぐ、香江は南崙以南を排水し、雲南に起り両広を貫通して海に入る。
 故に支那を区分して北、中、南、の三帯となし得べし、北帯とは北緯四十度より三十五度の辺までを称す、重に黄河の沿岸にして支那文化淵源の地となす、気候稍や寒に過ぎ、冬期は河水氷結して航運の便を絶つに至る、然れども北温帯の植物は能く生熟し、小麦、大麦、燕麦等、開明人種の食料品は一として好適せざるはなし、其陝西、甘粛の地を以て中央亜細亜に通路を開くが故に最始の移住植拓は此処より始まり、伸びて南方に及べり。
 中帯とは南北両崙間の闊谷を云ふものにして揚子江水域の全体を云ふ、其面積七十五万哩、渺茫たる広原沃野、万邦殆んど儔ひすべきなし、江水実に小大洋と名くべく、其幹流と支流とは全沿岸に供するに航運上至大の便益を以てし、長江海に尽くる処より、蜀山四川成都の辺まで、東西一千三百哩、自然的大運河として存す、其漢口は河口より四百哩の内地に在て尚ほ海洋的の埠頭なり、漢水の便、洞湖の利、天の楽園四通八達の地、水利に豊かなる如斯きは地球面上他に於て求むべからざるなり。
 南帯とは南崙以南を云ふ、香江水域に加ふるに浙江福建の二省を以てす、二十八度以南の地なるを以て其物産は自ら熱帯的なり、北帯の欠を補ふに足る。
 此等三帯は南北交通の便を欠ける三区域にあらず、黄河楊子江間の分水嶺は超越し難きの境界線にあらず、殊に其東端は海に至らずして尽き、淮水之より発して両水の間に流るあり、故を以(448)て東方海に近くの辺に於ては二帯相合して一大平原となり、長城より以南北緯三十度に至る迄東経百十三度以東海に至るの間は面積二十万方哩人口一億八千万を有する一大平原なり、世界最大の人為的運河は之を南北に通過し、延長六百五十哩、船を直隷省の白河に放てば海に頼らずして南の方浙江省杭州に至るを得べし、仏人マガイラン氏曾て記せるあり、「余は北京を発して陸行僅かに一日にして運河河流の便を以て澳門に達するを得たり、此里程大凡一千五百哩なり」と、以て支那内地の水路交通は河流の方向のみにあらざるを知るべし。
 中帯南帯間南崙脈の嶮は北崙の比にあらず、其峰巒高度一万二千尺に達するものあり、之を横断するに峡路甚だ少なし、故を以て南帯の風土人情は北二帯に比して自ら其趣きを異にし、広東人の名は北部人士の常に賤しむ処なり、若し之に住するに異人種を以てせしならば南崙の一脈或は二国の境界となりて存するならん、然れども其境は「仏」と「伊」とを区劃するアルプス山の境にあらず、加ふるに同一人種の其両面に住するあり、又浙江福建の二省が海に浜して両帯の間に跨がるあり、南北の反対、其相接するや甚だ劇烈ならず、北京政府が覇を南崙以南に施くは地理学上の理由なきにあらず。
 因て知る支那は円団なる一大国なるを〔因て〜傍点〕、其広袤は魯西亜に均しく、其長幅稍や相同じく山野稍相半ばするの状は恰も仏蘭西の如し、即ち「魯」の大に加ふるに「仏」の地形構造を以てす、其熱帯に始まりて温帯中和の位置を占むるが上に曠漠たる高地沙原の其間に存するなく、国内至る処耕耘に適し、一百五十万方哩の一大田園なり、支那は其れ自身にして一世界なり〔支那〜傍点〕、人世の必用(449)物は其内に存せざるはなく、之を全く封鎖するも四億万の生霊は安然に棲息するを得、支那人は外に待つの必要なし〔支那〜傍点〕、中華の地沃野千里、何ぞ膝を屈して交を蛮夷に求むるを須ひんや。
 中華の地大国と隣を接する甚だ遠し、其四境に之と匹敵するの邦土あるなし、北は北狄蒙古なり、西は漠南西戎なり、南蛮の暹羅、安南、東海の倭賊一として中華の大に対等すべきなし、而して西南印度に達せんと欲せば、喜馬拉亜脈の峻嶮なる之を四川雲南の方角より経過すべき様なし、故に海運の便なき古代に於ては東洋二大国間の交通は常に路を大陸中央の高地に取れり、彼の唐僧玄奘が仏教を求めんと欲して印度に至りしや、西の方玉門関を出て戈壁の沙漠を横断し、天山と喜馬拉亜と相接する処なる葱嶺(ボロ山)を過ぎてプンジヤーブの西北隅より印度に入れり、又伊人マーコポロが元朝に至りしも同じく此通路を取れり、故に支那の隣邦と称すべき印度、バクトリヤは共に数千里の遠きにあり、仏国が伊、班、英、独、と境を接するが如き状は支那人の推量し能はざる処なりき。
 此位置にあり此構造を有する支那に於て発達せし文明は如何、余輩は歴史に依らずして其何たるかを予定するを得るなり。
 孤立なり、統一団結なり〔十字右○〕、是支那の地理学上の位置と構造とを有する国に於ては避くべからざる結果と云はざるを得ず。
 自国を称して中国中華と云ひ、外邦之を称するに悉く蛮夷を以てす、吾人は支那人の無識と自重とを笑へり、然れども是れ彼等が強大なる隣人より隔絶せしが故にして彼等が自ら求めし弱点(450)ならざるは地理学者が彼等の為めに弁ずる処なり、支那人に貴公子の自尊と余裕あり〔支那〜傍点〕、清朝曾て隙を英国と開くや、彼等の無邪気なる天子西征して〔六字傍点〕陸路〔二字右○〕より英国を襲はんと思へり〔より〜傍点〕、四万二千哩に亙る大国の民、已に足るを知て外に待つを知らず、中華の地、誰か之と雌雄を争ふものあらんやと、権力平均(Balance of Power)なり、外交政略なり、是六千年間支那人の脳裡に浮ばざりし問題なり、支那の歴史が比較的に平穏なる、其文明の単純なる、皆其地理学上の位置の孤立せるに依らざるはなし。
 外に対する遠くして内に接する密なるあり、殆んど四角形となせる一団国、平原の四方に連亙するありて山脈の之を分断すること少なく、加ふるに大河の幹流支流が運輸交通の便を供するあり、団欒四通八達の地、是れ統一を促がさゞるを得んや、支那の平坦なる勿論魯西亜の水平なるにあらず、然れども之に山野の不同あるは反て健全なる一致を促がし、物産の雑駁、風俗の差異は国民協同の媒介にして、魯国に鉱物の欠乏するが如き、水力の使用し得べきなきが如きは其強大なるも尚ほ自国に足りて外に仰ぐの必要なきを得ざらしむ。
 故に統一は支那の自然なり〔統一〜傍点〕、支那を分離せんと欲せしものは自然に逆ひしものなり〔支那〜右○〕、春秋割拠の有様は支那に於ては永続すべきにあらず、故に秦一たび天下を統一してより分離は稀にして統一は常なり、欧洲に於ては国民分離して天下始めて治まり、支那に於ては諸侯割拠して干戈絶ゆる間なし〔欧洲〜傍点〕、漢楚天下を両分せんとして能はず、三国天下を争ふ四十四年にして又一統に帰す、晋の天下南北朝となりて唐に合せられ、五代の紛乱五十余年にして宋代となりて終る、支那を分割(451)するの難は欧を一統するの難きが如し〔支那〜傍点〕、シヤーレマンの理想、ナポレオンの希望は支那に施こし得べくして欧洲に施こす能はず、支那歴史の趨く所は欧洲歴史と正反対なり〔支那〜右○〕。
 故に分離と競争とは欧より来り、一致と合同とは支那の産なり、自由と独立とは前者に伴ひ、和合と従順とは後者より出づ、西洋の社会結晶は個人的盟約に成り、東洋の国家成立は家族的団結に成れり〔故に〜傍点〕、シヤーレマンの家長政略は直ちに敗れたり、周公の撰賢上功主義は支那人には容れられざりき、米人の理想は王なきの国、監督なきの教会(Country Without a King, Church without a Bishop)なり、支那人の治国平天下は尊尊親親主義に依る、前者に欧羅巴地理の分劃限りなきあり、後者に支那地理の円団なるあり、欧亜両主義の相異なる、「マグネ」の両極の性の異なるが如し、故に欧の長は東の短にして、欧の欠は亜の有なり〔欧の〜傍点〕。
 分離は競争を生み、競争は独立自由を生ず、物雑駁にして美術科学あり、科学ありて進歩あり、分離の健全なる結果は〔分離〜傍点〕進歩〔二字右○〕なり〔二字傍点〕。
 然れども分離其物は虚無的なり、紛争分離より来り、確執紛争より来る、不尊なり、不敬なり、懐疑なり、破壊なり、是分離の病理的の結果なり〔不尊〜傍点〕。
 団結は和合を生み、和合は従順尊親を生む、忠孝の道なり、淑徳の美なり、敬虔なり、団結の健全なる結果は建設保存なり〔団結〜傍点〕。
 然れども団結其物に停滞の性あり、怠慢団結より来り、腐敗怠慢より生ず、物一様にして抽象力なく、抽象力なくして理想あるなく、理想なくして美術科学あるなし、科学なくして進歩なし、(452)団結の病理的結果は渋滞なり、回顧なり、因循なり、頑愚なり〔〜傍点〕、退歩〔二字右○〕なり〔二字傍点〕。
 分離の利害は欧のものなり、団結の利害は亜に属す〔分離〜傍点〕、欧の欠乏は団結にあり、亜の弱は分離性の足らざるにあり〔欧の〜右○〕、完全なる文明は欧が東と婚を結んで后にあり〔完全〜右◎〕。
 支那文明の長と短とに就ては余輩の此処に喋々するを要せず、其能く四億万の生霊を統一する、其国民の黽勉にして穏和なる、其長を敬し上に仕ふるの切なる、共に万国の仰ひで亀鑑となすに足る、然れども其大理想に乏しきこと、其美術の卑陋なること、其外形の礼に流れ易くして真善を認むるの力弱きこと、其進歩の遅鈍なること、是れ支那主義の特質として吾人の常に目撃する処なり、東洋の開発は之に西洋主義を注入して団合の害を排除するにあり、恰も西洋の革新は東洋主義を和して其分離の害を去るにあるが如し〔東洋〜傍点〕。
 
       支那印度両文明の比較
 東洋は支那印度の両中真より成る、二者面積殆んど相同じく、人口各億を以て算す、之を離隔するに喜馬拉亜の大山系あり、之に住するに蒙古「アリヤン」の両異人種あり、其相距るや遠く、其相異なるや大なり、然れども是世界の一好対、東洋の大家族は二者の合※[丞の一が巳]を以て成る。一は大嶺の西南麓にあり、気候赫灼植生繁茂を極め、之に住するに抽象力に富める「アリヤン」人種を以てしたれば、熱帯的の早熟と共に形而以上的の文明を呈せり、一は其東北面にあり、気候温和五穀豊熟し、之に住するに実際力に富める蒙古人種を以てしたれば、温帯的の生熟と形(453)而下的の文明を産せり、印度人は躰を忘れて思考の全力を霊に注ぎ、支那人は霊に意を介せずして躰を事とせり〔印度〜傍点〕、前者は未来を重んじて後者は現在を以て足れりとし、彼は霊界に伸びんと欲し、是は此地に安堵せんとせり、彼は無限を追ひ求め、是は実際を探て止まず、両性の相異なる実に男女の別あり。
 支那印度両文明は二者共に相容れざるが如し、然れども両者に東洋的の同一性あり。
 他邦より孤立して単純独特の性を有する其一なり、単独の方向に伸張して斉均を欠くこと甚しき其二なり、各其本領に於て統一を専らとせし其三なり、二者目的を異にして方法を共にせり、総括を求めて分解を避けし一点に於ては二者共に西洋文明の正反対の方向を取れり、綜合は東洋の特性なり〔綜合〜右○〕、而して支那は政治的に綜合し、印度は霊智的に綜合せり〔而し〜傍点〕、中古時代の欧洲人が渇望して止まざりし一帝王一法王は東洋に於ては太古より個々に実行されしなり、即ち支那は「ギベリン」党の理想の如く始終一帝を戴き、印度は「ゲルフ」党の理想に叶ひて常に一宗教の方向を取れり、然れども両党の希望たりし政教一致は尚ほ人類未来の事業として存す。
 今世界三大文明の特質を挙ぐれば左の如し、
  欧羅巴文明――政界、教界に於ける分離、
  支那文明――政界に於ける綜合、
  印度文明――教界に於ける綜合、
 三者混合相同化して始めて完全なる文明あり、一は他の二者に頼らざれば其欠を補ふ能はず、(454)人類の希望は三者の調和一致にあり。
 
    第九章 日本の地理と其天職
 
   「海端有v国名扶桑 俗与2風光1皆雅※[女+繝の旁]
   ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
   孤棹嘯風琶湖舟 万古合v雪芙峰頭
   花香一目千樹春 月高八百八島秋」
 是我等の愛する日本帝国なり、東大陸の東端、太平洋の西北隅、一鏈の島嶼半月形をなし、亜細亜大陸を後陣に控へ、哨兵線を大洋中に張るが如し、帝国の面積十五万方哩余と称す、即ち英に優る二分、仏と独に劣る各四分、班よりは小にして、伊よりは大なり、人口は四千万を算す、即ち英よりも多くして、独よりも少く、稍や仏と相匹敵す、地球面上一大国民となりて雄飛し得るの土と人とを有す、其位置たるや北太平洋の中和を占め、熱帯の終る所に始まり寒帯の始まる所に終る、山に芙蓉あり、其秀、瑞のブランク、メタホーンに及ばずと雖も其姿の優と正とは衆峰の儔ひすべきなし、其河に石狩あり、英のテームス大にして民の黽勉能く之に日本海の船舶を輻湊せしむるに足る、其隅田は蘇のクライドの水量を有し、巨艦艨艟の之に出入するは期して待つべし、其淡水に琵琶湖あり、瑞のセネバに均しき水面を有し、孤棹舟を浮べて風月に吟じ、技工水を利用して民福を致し得べし、一国民を作るの要素は一として備はらざるはなし。
(455) 日本帝国一名之を蜻※[虫+廷]洲と云ふ、蓋し其南北に長くして東西に狭く、中央に太くして両端に尖縮するの状、渠の脈翅虫に類似する処あるが故に若か称せしならん、其頭部は能登半島とせんか、其背部隆起する所を甲、信の高地とせんか、其腹と尾とは伊豆半島にして大島八丈として海に尽る所とせん、其右翼は東北三道并びに北海道にして、其左翼は関西西南の地と見做さん、其後翅後縁に刻入のあるは東海の浜に屈曲港湾多きを示さんか、翅脈に縦横あるは我国山脈の方向を示すが如し、前後両翅の分るゝ所は西南に内海、東北に青森湾のあるが如し、余は実に蜻※[虫+廷]洲の名を愛するなり、吾人の祖先は卓見なりし、彼等は能く脈翅虫類の構造を究め、帝国地形の概略を示せり、吾人開明に(456)進める彼等の子孫は此詩歌的の名称を廃すべからざるなり〔吾人〜傍点〕。
 若し日本国を天女に擬せんか、窃窕たる彼女の仙姿は大陸に背し大洋に面し、高麗半島の尽きる辺より加察加の両角に至る迄大洋面を掩ふが如し、彼女は頭を北海に擡げ、胸を東北の山野に持し、腹を関東の郊原に据へ、富土山帯を以て帯《おび》せられ、尾濃の原野を下腹となし、畿内に下肢となり、山陰山陽の一足を後にし、南海西海の他足を前に進むるが如し、彼女は旭日に面し夕陽に背す〔彼女〜傍点〕、東向して望むが如し、西背して弱者を擁するが如し〔東向〜右○〕、彼女の麗姿に声あるが如し、耳あるものは焉ぞ聞かざるを得んや。
 
 日本国の海岸線は東岸に屈曲多くして西岸に少し、即ち本州を以てするに馬関より内海東海を沿ふて陸奥の三厩に至る迄海岸線の延長は三千二百十二哩なり、然るに三厩より西海岸日本海に沿ふて馬関に至る迄は僅かに一千五百九十五哩に過ず、東海に松島湾、東京湾、伊勢湾、大坂湾、内海等の深く陸地に蝕入するあり、加ふるに塩釜、横浜、清水、四日市、神戸等の良港を有し、水輪の便実に備はれりと謂ふべし、是に反して西海岸に於ては屈曲港湾甚だ乏しく纔に能登半島の西北に向て突出するあるも伏木の一港を日本海の波濤より防禦するに足るのみ、後志小樽(是又良港と称すべからず)を去て西南六百里長門の赤間関に至る迄一良港湾の西海岸を恵むあるなし、其羽後の舟川は風波を避くるに便にして陸運に難なり、其土崎、酒田、新潟、直江津等は大河に浜し沃野を擁し以て大市場たるを得ると雖も、河口に砂泥充塞して海に通ずる難く、纔かに(457)軽※[舟+可]に因て洋上の船舶と往来するを得るのみ、其七尾、敦賀、宮津、境等は良湾の形をなすと雖もその掌握する産出地は甚だ狭隘なるものにして大船を寄するの要甚だ尠なし、加ふるに西北時候風の強荒なる、航海は半歳殆んど杜絶し、舟楫の便甚だ佳からず、其東海の湾深くして風|和《やはらか》なるに比すれば彼の優是の劣実に同日の譚にあらざるなり。余輩は云へり日本は東に面し西に背すと〔余輩〜傍点〕、即ち東に開て西に閉づ〔即ち〜右○〕、即ち欧洲の正反対なり〔即ち〜傍点〕。
 然れども西南の一隅全く此規定に反するが如し、九州の地勢は西に開て東に閉づ、猿猴身を鞠めて夕陽に向て坐するの状なり〔猿猴〜傍点〕、其東面日向灘に浜する処は港湾出入の欠乏本州の西海岸に於けるが如し、其細島と油津とは僅かに小船の碇舶を許すのみ、上て豊後豊前に至るも東向して大港の開くあるなし、然るに西海岸に至ては全く然らず、日本地文学の著者矢津氏は記せり、「肥前ニ至リテ殆ド屈曲ノ状態ヲ尽セリ、或ハ岬嘴長ク出デ、或ハ港湾深ク入リ、西ニ向テハ東西松浦ノ二半島突出シテ伊万里湾ヲ抱キ、彼杵ノ半島ハ鯛浦ヲ擁シ、東ニ向テ島原半島トナリテ筑紫潟ヲ包ミ、終ニ宇土ノ一角ヲナシテ薩摩大隅ノ二大角ヲ出シ薩摩湾ヲ抱ケリ」と、而して此屈折中良港好埠一にして足らず、其佐世保は海水深くして巨艨を泊し得べく、其長崎は陸運に不便なるも世界最良港の一を以て算せらる、其三角は東肥沃野の産出物を悉く掌握するに足る、東岸の貧、西岸の富、亦同日の譚にあらざるなり。
 本州の西南部亦此西向の傾きあり、其大坂湾の西向して開放する、其日本の地中海なる「内海」が我のジブラルタルなる門司海峡を通過して東西に長く、星列碁布の島嶼の間を屈折して深(458)く茅淳海迄浸入する、一として西向の徴候にあらざるはなし。
 全国西南と東南に開け西北に閉づ、天女は前と裳とに注意して背を顧みず〔天女〜傍点〕。
 日本国の山系亦余輩の熟考を要す、そは海岸線若し他邦との関係を審かにせば山脈の方向性質は内治の如何を明かにし、両者共に国民が世界に尽すべき天職の如何を判決し得ればなり〔海岸〜傍点〕。
 余輩は復た爰に日本地文学記者の言を借るの必要を感ずるなり、彼は日本山系の大略を記して曰く
  蓋シ我ガ帝国邦土ハ相異レル方向ヲ採ル二脈ノ大山系ヨリ成レリ (一)ヲ樺太系〔三字右○〕卜云フ 即チ東北方ナル樺太島ヨリ地脈ヲ延キ宗谷峡ヲ渡リテ蝦夷島トナリ其ノ中央ヲ南々東ニ貫通シ襟裳崎ニ出デ遂ニ脈ヲ中土ニ列ネ少シク方位ヲ転ジ南々西ノ進路ヲ以テ太平洋ヲ走リ中土東岸ニ於テ著シク背ヲ露ハシ本系ノ内部ニ駢趨スル火山脈ト共ニ信濃ノ境上ニ達セリ (二)ヲ支那山系ト称ス 即チ西南支那大陸ノ余波ニシテ火山脈ハ琉球島ヨリ九州ニ進入シ霧島火山脈トナリ古生紀山脈ノ軸線ハ肥後ノ海浜ヨリ同島ヲ東北ニ横過シ豊後ニ出テ遂ニ四国島ニ渡リ判明ナル該島ノ軸線トナリ阿波ノ東部ニ於テ少シク欠損シ再ビ紀伊半島ニ起リ大和ヲ横過シテ三、遠両国ノ間ニ入リ遂ニ信濃ニ達ス 支那山系ノ一派ハ中国中央ヲ地形ノ如ク連亙シテ其軸線トナリ大湖ノ北辺ヲ過ギテ飛弾ノ境上ニ進入ス 此両派ノ峡谷ハ即チ所謂瀬戸内海ニシテ火山脈ハ此ノ溝間ヲ通過セリ
  樺太及ビ支那ノ両大山系ハ信濃及ビ飛弾ノ境上ニ於テ互ニ相衝突シ地皮ニ一大裂溝ヲ生ゼ(459)リ 且ツ此ノ両大山系ノ内部ニ沿フテ駢趨シタル数派ノ火山脈モ又爰ニ集リ地皮衝突ノ接合スル縫裂線ノ弱点ヲ求メテ其ノ勢ヲ逞フシ劇烈ナル噴起作用ヲ以テ遂ニ高峻ナル諸嶮峰ヲ築ケリ 是ヨリ火山脈ハ一転シテ南々東ノ方向ヲ以テ縫裂内ヲ横走シ甲斐駿河伊豆ニ亙リ遂ニ富士帯ト称スル一大派ヲナシテ太平洋中ニ突出シ伊豆七島ヲ噴起セリ 以上ハ本邦ヲ組成スル大山系ノ大勢ナリトス
 樺太山系并びに支那山系は稍や平行脈にして、唯僅かに少しく駢趨の方向を異にするのみ、故に日本の山脈は重にブーエー氏第一則に因るものと謂はざるを得ず、即ち山脈は邦土の延長に従て連亙し、南より北にするの方向を取れり、然れども二系相合接する所に高嶺巨岳相聯りて邦土の延長を横断するあり、其最も著名なるものは富士山帯にして遠く太平洋中に起り、青島八丈となりて波上に顕はれ、伊豆七島となり、天城山となりて伊豆半島の骨子を作り、函嶺となりて本島の南北脈に接し、竟に二脈相衝突する点に於て富士山となり一千二百丈の天外に聳ゆ、尚西北して浅間岳を生み、戸隠、妙高山となりて日本海に尽く、是実に本邦の最高地にして全国は此処に於て東北部と西南部とに両分さる。
 富士山帯と駢趨する山脈亦一にして足らず、飛濃山脈の参遠に起り越後越中の問に於て海に尽きるあり、又伊勢山脈とも称すべきものあり、紀伊の南端潮崎に起り、北に亙りて伊勢の西境を作り、関ケ原の一道を残して伊吹岳横山岳となり、濃江越の境に於て支那山系に合し、加賀の白山に抵りて再び西北の方向を取り、栗加羅峠となりて能登半島に延び、珠洲岬に於て日本海に終(460)る。其他岩代と羽後とを分つに一脈あり、東南に延て奥野の間に隆起する処是有名なる白川にして、奥羽七国の関門なり。両羽間に院内の東西小脈あり。羽後陸奥間に碇ケ関の起伏あり。其他全国臻る処南北の延長脈を截断するに幾多の東西脈あらざるはなし。
 然れども本邦の地勢より論ずる時は南北するは幹にして東西するは枝なり、樺太支那の両山系は梯の縦木にして伊勢、飛濃、富士等の東西脈は階なり、南北するは東西するよりも易し、然れども幾多の障害なくして南北する能はざるなり〔南北するは〜右○〕。
 故に日本国の地勢は伊太利、スカンダナビヤの如く、ブーエ−氏第一則に因るなれども、之れに加ふるに希臘瑞西の如く東西脈のあるありて又第二則に因るものなり、以て一統和合するを得ぺし、以て一統の下に分離自治を計るを得べし〔以て一統和〜右○〕。
 今日本国を他の文明国に比せんか、余は先づ之を英国と比較せざるを得ず、英国の稍や東方「北海」に向て閉ぢ西方大西洋に向て開くは我の西方日本海に向て閉ぢ東方太平洋に向て開くが如し、而して其東南方に於てテームス吐口、シンク諸港(Cinque Ports.)ポーツマス、サウザムプトン等に於て欧大陸を迎ふるの状は我の西南諸港が西開して亜細亜大陸に向ふが如し、其山脈に南北なるものと東西するものとあるは大に我の山系と相均し、日本を称して東洋の英国と云ふ、其大陸に対する位置も、其大洋に面する状も、山脈の方向に於けるも二者の類似は甚だ多し。
 余は亦日本を希臘半島に比せんと欲す、希臘の東面して亜細亜に対するは我の西南地方が西向して同大陸に対するが如し、其多島海に散布する百余の島嶼は我西海の諸島が我と大陸との間に(461)羅列するが如し、其ペロボネサスは我の四国九州ならんか、其コリント湾とエージヤ湾は我の内海と大坂湾ならんか、然らばピラスを神戸とし雅典を京都とせよ、我の琵琶湖に対するに彼のビシヤの窪地とコパイス湖あり、我の函嶺に対するにオスリス(Othrys.)山あり、テサリーの野是関東の平野なり、馬塞頓の原是奥羽の曠原なり、特に西岸アドリヤ海に浜する辺は港湾屈折甚だ尠なく、羅馬歴史家モムセン氏の「伊太利はアドリヤ海岸に於て希臘と脊合をなせり」との言の能く意を尽せるを見るなり、希臘が欧洲本土に開く所は其西南にあつて西北にあらず、我の日本海に閉ぢて支那海に開くに比較せよ。
 希臘の山脈に又南北するものと東西するものとの二様あり、前者は大陸山系にしてアルプス山の一支が南向して爰に至りしものなり、恰も我の支那脈が喜馬拉亜脈の余派として東北するが如し、又本脈を横断するに副脈あり、全国を分ちて数箇の地方となす、恰も我の東西脈が各地方封建自治を促すが如し、日本は亜細亜の希臘なり、共に大陸の東陲に起て東門の関を守るが如し〔日本〜右○〕。
 余は又更に日本を欧羅巴大陸に比せんと欲す、余は已に之を希臘に比せり、而して希臘は小欧羅巴なり、日本亦小欧羅巴ならざるを得んや。
 欧の地勢の東北より西南にするは我と異なる事なし、若し本州のみを以て欧大陸に比べんか、比較益々相近きを見ん、彼の地中海は我の「内海」なり、彼のイベリヤ半島は我の山陰山陽なり、彼の温暖なる伊太利半島の橄欖樹を以て掩はるゝは我の南海の紀伊半島の蜜柑樹を似て馥郁たるが如し、アドリヤ海を伊勢海とせよ、而して尚ほ想像力の自由を許すならば衣ケ浦以東伊豆半島(462)迄をバルカン半島と思ひ見よ、欧大陸南方の三半島は我に比較物の供すべきあり、我の西北海岸亦然り、不列顛群島を表せんが為めに我に隠岐群島あり、丁抹半島の日耳曼海に突出するに対して我に能登半島の日本海に突出するあり、独逸北岸の平砂千里に亙るに対し我に北越の砂岸百里に亙るあり、東北の魯士亜平原は我の奥羽北海の郊野なり、スカンダナビヤ半島を表せんが為め我に佐渡島あり、竹島の孤島隠岐の西北日本海中にありて英の西北大西洋中の孤島アイスランドを想ひ起さしむるあり、外形上の二者の類似は実に緻密なるものと云ふべし。
 余は已に欧大陸の山系を論ぜり、而して今彼と我との比較を山脈の方向に於て取らんとするも亦決して難きにはあらざれども冗長を免がれん為めに之を読者の考察に任せん、余輩の已に注意せし如く我邦は南北、東西の山脈を以て現然たる郷域に区分せらるゝあり、而して之れ又欧大陸の地勢たるは余輩の已に攻究せし処なり、余輩をして再び想像力の翼を借り、欧洲を我蜻※[虫+廷]洲面に画かしめよ、欧の諸強国を我の本土に割布する亦難きにあらざるべし。
 我本洲の西南隅日本海と内海との間に伸る長半島は冷血なる長州人の住居する我の西班牙なり、東隣の畿内は久しく我国文明の中真たりし我の仏蘭西なり、紀伊半島は我の伊太利として南海に突出し、尾濃の沃原の其東北に附着するは恰かもポー沿岸の郊原がアペニン山の東北に横たはるが如し、半島の北境、琵琶淡水が八景を里する辺はレマン湖を有する瑞西ならん、アルプス山の重嶺巨峰蜿蜒として東に亙るに比して濃飛信の重巒鬱然として国の中部に蟠かまるあり、其南支して遠駿豆となりて海に終る所是我のバルカン半島なり、関東の野、利根の水域は洪葛利の沃(463)野ダニユーブの水域とせん、北海の能登を我の丁抹となし、之より平沙百里東北に向つて弓形をなして海に臨む我の北越は実に独逸聯邦の位置にあり、是より東北広袤の地、文化を蒙るに最も遅かりし我の奥羽北海の地はムスコビヤの全土たる魯士亜の位置に立つにあらずや、休言よ、余輩の比較は想像力の濫用より来ると、余輩我国を亜米利加に比せんとするも能はざるなり、亜非利加なり、濠斯利亜なり、印度なり、支那なり、余輩は比較を求めんと欲して能はざるなり、日本国の位置は亜細亜的なれども其構造は欧羅巴的なり〔日本〜右○〕。
 已に其位置を知り、其構造を究めたり、リヒテル、ギヨーの迹を践みて謹慎静粛に地理学上の事実を歴史的に解せんには余輩も亦我邦の宇宙に対する天職を探り得ざらんや、已に先例の供せられしあり、余輩の解題は必ずしも惰者の夢想とは信ぜざるなり。
  一、日本は島国なり、而して島国の用は常に大陸間の交渉を助くるにあり〔島国〜右○〕、英国が欧米の間にあって欧の粋を以て米を開き、米の富を以て欧を利すとは余輩の已に論ぜし所なり、シヽリー島が地中海の中央にありて欧非両大陸の思想交換の地たりしあり、地中海東隅の一島シプラスは垂、欧、非三大陸の間に介し、一方にはフイニシヤ、バビロンの文明を吸収し、一方より埃及の文物を採取し、之に住するに重に希臘人を以てしたれば、古代三文明の混同は此一小島に於て行はれ、文化西漸して欧大陸に達せしは多くは此島と其西隣なるカンジヤ島を通過してなりと云ふ、日本国の位置は米亜の間にあり〔日本〜傍点〕、其天職は是等両大陸を太平洋上に於て鏈鎖するにあらずして何ぞや〔其天〜右○〕。
(464)  二、日本国の港湾に米に向つて東開するものと支那本洲に向て西開するもの多きは米亜間の媒介者たる我の位置を確定するものなり〔日本〜傍点〕、見よ我の室蘭、松島、横浜、四日市等の東向して旭日に向ふに対して、米のバンクーバ、タコマ、ポートランド、桑港、サンヂーゴ、サンブラース、アカプルコ等が西向入陽に対して我に応ずるを、我の神戸、馬関、長崎、三角が西に開ひて我が西隣を迎ふるに対して、黄河、楊子江は我に向て流れ、其天津、上海、漢口、福建は悉く我に向て開き我の招待に応ぜんとするの状を、我は一手を伸して米を迎へ他手を伸して亜を招き、二者をして我に於て合一ならしめんとするが如し〔我は〜傍点〕、恰かも英が西向しては米に向て開き、其グラスゴー、リバプール、ブリストル、クヰンスタウン等が米のボストン、紐育、ヒラデルヒヤ、ポルチモール】等と相対し、東向してはハル、倫敦、ポーツマス等を以て欧大陸の西北諸港を受るが如し、我の亜と米とに対する位置は英の欧と米とに対する位置にあらざるぺからず。
  三、我の山脈軸線の南北するは我国に亜細亜的統一を施すに難からざらしめ、亦之を横断するに東西脈の所々に存するは統一の下に欧羅巴的の自治独立の精神を養生し得せしむ、即ち我に亜欧両主義を同化するの特質ありと謂つぺし〔我に〜右○〕。
 日本国の天職如何、地理学は答へて曰く、彼女は東西両洋間の媒介者なり〔東西〜右◎〕と、〔勿言、何ぞ簡短の甚だしきやと、走れ一大国民たるに恥づべからざる天職なればなり、是希臘国の天職たりしなり、是英国の天職にして彼女の強大なるは彼女が能く其天職を尽せしが故なり。媒介者の位置(465)………「和平を求むるものは福なり、其人は神の子と称へらるべければなり。」
 地理学の指定に係る我国の天職は大和民族二千年間の歴史が不覚の中に徐々として尽しつゝありし天職ならずや。
 支那文明の中真は黄河の沿岸なりし、而して其渤海は我に向て開け、其僚東を経て高麗半島は我に向て伸び、我の対島、壱岐、五島は其地勢を受けて我の九州に及ぶ、而して支那文明は此地理学上の通路を経過して断へず我に浸入せり、我は悉く之を受け、能く之を取捨撰択し、之に加ふるに非常の進歩と改良とを以てせり、制度、文物、美術、工芸、耕耘の法に至る迄創意は我悉く之を支那に受けたり。而して神武大帝一統以来、大和武、田村麿の東征、仲哀、神后の西征に至る迄、荒陬の地未だ道路の便甚だ乏しきの時能く短日月の中に東征西服して全土を一中央権の手に握るを得せしめしものは、日本の地勢がブーエー氏第二則に依り、軸脈国の延長に従て連亙し、彼等の遠征に防害を与へざりしが故なり、故に応神の世に始めて支那的統一主義の我邦に輸入されしや、国民は喜んで之に接し、爾来各王朝が制度改革に従事せしや、必ず西隣の制度に則り、我蜻※[虫+廷]洲に家族主義に基ゐする支那政略を施すに取て一も不便を感ぜざりしなり、加之支那の大陸的思想は日本に渡て島国的の圧搾、蒸粋を来し、忠孝仁義の常道は殆んど宗教的の教理と化し、覚に世界に供するに万世一系の天子を以てするに至れり、強国の間に介し、重巒高嶺一国を十八郷に分断する瑞西国に於て我の制度を欲せんとするも全く能はざるなり〔強国〜傍点〕。
 我等の吸収せしは勿論支那のみにあらず、西蔵蒙古を経て黄河沿岸に輸送されし印度思想も直(466)に地理学上の常路を経て我に輸入せられたり、而して仏法一び我邦に入りしや釈迦牟尼仏は幾くもなくして一大帝国を彼の領土に加へたり、日本に於ける仏法の発達は実に之を輸入せし人の預想外に出たり、仏法学者は云ふ「若し釈氏をして彼の死後三千年の日本仏法に接せしめしならば彼はその彼の宗教なりしを判別し能はざるべし」と、印度本国に於ては殆んど消滅せられ、西蔵蒙古に於ては拉馬教となりて法主制度の迷信に下落し、支那朝鮮に於ては儒教政治の下に僅かに下民の信崇を仰ぐに止まる仏教は、我日本に於ては直に王室の宗教となり、我の宝貨と美術と智能とは悉く其使用に供せられ、今や仏教国民中我の如く普く釈氏の感化力に与かり、能く彼の真理を解するものは地球面上なきに至れり、媒介者たるもの能く両者の意を解せざるべからず、日本今や充分に支那と印度を解せり〔媒介〜右○〕、我に依て配合を求むるにあらずんば彼等は冶郎に嫁して止まん〔我に〜傍点〕。
 嘉永六年六月北米合衆国の一艦隊が我の浦賀に来り威厳と礼節とを以て我に開港を促がせし時は東西両洋間の媒介者が強健有望なる新郎に接せし時なり〔嘉永〜傍点〕、米の我と交通を求むるに至りしは実に止を得ざるに出たり、之に先ずる七年西洋文明は已にロツキー山脈を横断し、太平洋岸に下り、カリホルニヤに楽園郷を作り始めぬ、之に先ずる十年摂理は砲声を以て我が西隣の惰眠を破り、彼等に堯舜の美徳を世界に発揚せしむるの時機を供せり、カリホルニヤ開け、支那開放されて其中間に立つ日本にして永く束手干渉せざるを得んや〔開け〜傍点〕、新郎新婦已に丁年に達せり、媒介者の立つべき時は至りぬ〔新郎〜右○〕。
(467) 提督ペルリ開港要求の理由は米国の漁船にして薪水の欠乏を告ぐる時は我の之を供せん事にありたり、然れども彼をして爰に至らしめしは米国支那間に航路を開かんが為めには日本の開放を必要と認めたればなり、日本の位置たる太平洋航路の衝に当り、支那の富港より桑港、ポートランド、プゼツト浅瀬諸港に往復せんとする船舶は我国に寄港せざるを得ず、殊に黒潮の我の海岸を沿ふ数十里の沖に流るゝあり、西南反対貿易風帯の我を去る遠からざる処に始まるあり、我に寄らずして東西洋両間に航海せんとするものは海流と気流との援助を抛棄するものなり。
 必要に迫られて日本は開放せられたり、而して自然は世界の創造の時より此開放を待ちつゝありたり、東京湾の深く陸地に浸入し、関東の郊野を控へ、横須賀、横浜の要港を具へて東の方米国に向て開くは永く彼が来て我を開かんことを待ちつゝありしなり、長崎、兵庫、堺は支那、印度に対する我の関門として已に開通せらるゝ爰に千余年、然るに今や我の東門は開かれたり、東隣との交際之より繁く、万邦の賓客、我は多くは之を東門に迎ふるに至れり。
 米国一度刺を通じて我に親交を求め、我之を諾して彼と握手せしや、彼の文物は最速度を以て我に浸入し来りぬ、已に支那印度を学び尽せし日本は彼女の性来の同化力を以て欧米を吸収し始めぬ、而して驚くべきは東洋主義に堪へ、之に依て涵養されし日本人は亦能く西洋主義に堪へ、能く之を消化し、其東洋的の脳裡に蓄ふるに西洋的の思想と精神とを以てせり、西隣未だ一尺の鉄路を有せざりし時に我に已に千有余哩の鋼鉄路の文明を我の僻陬に輸入するあり、清廷未だ暦を太陰の運行に求め、運を宿屋の出没に卜するに、我はニユートン、ラプラスの天文学に基ける(468)太陽暦を以てするあり、卅年間にして日本は東洋国ならざるに至れり、而て四千年の昔、詩聖ホーメルの時代に於て早や已にアリヤン人種の脳裡に浮び、「アムフイクチオニス」会議(Amphyctionic Council.)となり、「ツリビユーン」政治となり、「マグナカルタ」を生み、英国清党を出し、米国独立となり、仏国革命となりし個人主義は西洋文物と共に我の認むる処となり、西隣未だ自由の一声をも揚げざるに、釈迦の印度は属隷国の耻辱に沈み、孔子の支那は満州掠奪者の占領物たるに際し〔西隣〜傍点〕、亜細亜の日本に已に欧米的の憲法ありて〔亜細〜右○〕自由は忠君愛国と共に併立し得べし〔自由〜右◎〕との証例を世界に挙げぬ〔との〜右○〕。
 日本をして米亜の文明に接せしめしものは勿論其地理学上の位置に依れり、之をして亜細亜的の統一に堪へしめしものは其軸脈の南北して一国の統御を易からしめしが故なり、而して西洋主義の輸入に会して直に之に応ずるに至らしめしものは東西の横断脈ありて統一の下にありて已に自治割拠の制に馴致せしが故なり、東洋的の君主主義も我に施し得べし、西洋的の自由制度も我は施行し得べし、我の制度は両洋に則れり、西隣若し西洋を学ばんと欲するか、必らず我より之を学ばん、東隣若し東洋の長を取らんとするか、必ず我に於て之を認めん、両洋我に於て合す、パミール高原の東西に於て正反対の方角に向ひ分離流出せし両文明は太平洋中に於て相会し、二者の配合に因りて胚胎せし新文明は我より出て再び東西両洋に普からんとす〔高原〜右○〕。
 
    第十草 南三大陸
 
(469) 赤道以南に地を有する三大陸を云ふ、亜非利加、南亜米利加、濠斯太拉利亜是なり、共に北三大陸の延長なるは陸地の連続を以て察し得べく、其地勢の北より南に亙るを以て知るを得べし、南三大陸は北三大陸の附属物と見て可なり〔南三〜傍点〕。
 南三大陸は各々之を隔絶するに渺茫たる大洋を以てするに関せず其形状並に構造に於ては相類似する点一にして足らず、今其重なるもの二三を左に掲げんに、
  一、海岸線の円滑にして屈折出入甚だ尠なき事、
  二、地勢南北に亙り、北に広く南に狭く、山脈は陸の延長に徇ひ、束西海岸に沿ふて聳ゆる事、
  三、西南大曲湾を具へ、東北大岬となりて突出する事、
 然れども各大陸亦其特質あるあり、「非」は高地大陸と称すべく、平野は僅かに海岸に沿ひて存するのみ、南米は平原大陸と称すべく、峻嶺東西両岸に聳へて急斜傾を以て海に臨む、「濠」の高地は高からず、山嶺亦峻ならず、内地は重もに沙漠なれば之を沙漠大陸と称せんか、「非」は北に寄る最も甚だしく、面積の過半は赤道以北にあり、南米之に次ぎ、「濠」は全く南半球に有り、故に南三大陸中「非」は最も早く欧亜の文化を受け、南米之に次ぎ、「濠」は大陸中の末子として世に現はれたり。
 南三大陸が人類の進歩歴史に於ける位置如何、是読者の請求する問題なるべし、然れども之れ未来に属するを以て余輩は多言せざるを可とす、余輩は之を過去に徴し、北大陸の歴史に鑑み、(470)以て僅かに余輩の憶測を試みるのみ。
 
       亜非利加
 亜非利加の地理は甚だ簡単なるものなり、髑髏形をなしたる陸塊之を繞囲するに平地の条片あるあり、内に向て進むこと平均百英哩にして山脈の海岸平地を沿ふて亦大陸を週廻するあり、山脈を経過すれば一面の高地なり、是亜非利加なり、地形構造の簡単是に勝る能はず。
 「非」大陸の一大特質は其交通の不便にあり、港湾の欠乏其一なり〔非大〜傍点〕、一千二百万方哩の大陸、一紐育一上海のあるなし、アレキサンドリヤ港は人工に成れる埃及一国の埠頭たるに過ぎず、ザンジバーなり、クヰルメーンなり、ケープタウンなり粛索たる小港以て大陸の輻輳地となすに足らず、大河の航海用に供する能はざる其二なり〔大河〜傍点〕、ナイルは溯上五百哩間舟楫の便を許すと雖も僅かに幅二十哩に足らざる両岸の民を利するのみ、ナイジヤ、コンゴ、ザムベジの三大河に至ては急流河口より遠からざる処に存し、多く人工を施こすにあらざれば運輸の用をなさず。大陸を繞囲する山脈其三なり〔大陸〜傍点〕、大河の闊谷を以て海洋に向て開くが如きは「非」大陸に見ざる処、内地何れの方面よりするも先づ高嶺を越へざれば海に達する能はず。海岸熱病地の一帯其四なり〔海岸〜傍点〕、欧人にして内地に入らんと欲するものは必らず此疫※[病垂/萬]地を通過せざるべからず、而して熱病の感染を受けざるもの曾てあるなし。
 故に見る亜非利加は自然の封鎖国〔亜非〜右○〕なるを、入るに関門あるなく、出るに通路なく、加ふるに大(471)陸を繞囲するに山脈の高壁を以てし、外濠として悪※[病垂/萬]地の一帯を設けたり。
 此四囲僻陬の大陸、土地沃饒と称す可らず、北にサハラ、南にカラハリありて大陸の三分一は荒漠たる沙原なり、中部高台の地、日光の直線を受くると雖も植生豊かならず、害虫、最も多く、印度、巴拉西爾等の樹林藤※[草がんむり/田三つ/糸]弥蔓の状は此大陸に多く見る能はざる処なり、亜非利加内地を開放するも文明国は之に依て利する処あるや否やは未だ識者間の問題なり、我の彼に給すべきものは多くして彼の我に酬ゆべきものは砂金と象牙とを除ては他に殆んどあるなし、野獣は文明の進歩と共に尽滅するもの、宝金属の量は人命を賭して求むるに足るや未だ疑問に存す、今や欧洲の諸大国は争て地を「非」大陸に求めつゝあり、然れども彼等は占領権を宣告せしのみにして未だ実際の殖拓に従事せしにあらず、英人がシヤーワ、タンガニカ地方に開拓を試みつゝあると、白耳義人がコンゴ河沿岸の開放を勉めつゝあるを除ひては他に未だ此暗(472)黒大陸を変じて人類の幸福なる棲息地となしつゝあるの経営を見ず。
 然らば亜非利加は開放せられざるか、天は之を抛棄せんが為めに亜非利加を造りしか、亜非利加は人類進歩歴史に与かるべからざるか、一千二百万方哩の陸塊は永遠迄黒奴と野獣との占領地として存するか、余輩は若か信ずる能はざるなり。
 「非」大陸の墾闢は人類全体の進歩其頂度に達せし後にあり〔非大〜傍点〕、其交通の不便は之を超除するに今日の工学を以て為す能はず、或は単一線鉄路を架設すべしと云ひ、或は新たに吃水七吋の川蒸※[さんずい+氣]船を造るべしと云ひ、或はサハラの沙漠を変じて海となさんと云ひ、亜非利加内地開鑿法の難きは北極に到達せんとすると同一なり、今日の学術と資本とは未だ此難に勝つ能はず、ピーテルス氏の剛胆なるもスタンレー氏の智略あるも、未だ此障害を超ゆるの道を教へず。
 余輩は已に亜非利加内地の比較的沃饒ならざるを述たり、印度南米の富は招かずして開明人の垂涎する処となり、利慾は之を開鑿するに充分なる主動力なり、然れども亜非利加は全く然らず、象牙已に尽き、買奴の蛮習禁圧せらるゝに至らば、疫※[病垂/萬]を侵し威※[火+陷の旁]を忍び、毒蛇猛獣の険を冒すものは殆んどなきに至らん、利慾が人類活動の最大主動力たる間は亜非利加の開発は望む可らざるなり〔利慾〜傍点〕、葡萄牙人の其東西両岸枢要の地を占有する事こゝに四百年、未だ曾て一路を開ひて便を内地に通ぜしことなし、伊太利人紅海の西岸アソワを占領し、幾干もなくして収支相償はざるの故を以て之を放棄せり、亜非利加は義狭心と慈善心とのみを以て開くを得べし〔亜非〜傍点〕、英の宣教師ロバート、モフハート氏此精神を以て一生を黒奴の中に消費し、南方諸州が今日の旺盛を致すに至り(473)しは彼の功績与りて力あり、彼の女婿デビッド、リビングストン氏は中央亜非利加の開祖と称すべき人なり、彼に敬天愛人の一片の精神ありしのみ、彼曾て人跡稀なる地を横断せんとするや、其険を説ひて彼を止むるものあり、彼答て曰く、「葡萄牙人が利慾の為めに通過し得る所、我何ぞ我が神の愛の為めに通過し得ざらんや」と、彼の地理学的探検は常に博愛的の目的を以てせり、彼常に曰はく、「地理学探検の終る時は我が目的の始まる時なり」と、以て黒奴の教化は彼の最大目的たりしを知るに足る、彼は生命を亜非利加大陸の為めに供せり、スタンレーの探検は彼を捜索せんとするより起れり、シヤーワ、タンガニカの伝道的植拓は彼の考案に徇て創まれり、コンゴ自由州は彼の博愛に則りて開明国民の同盟団結の上になれり、中央亜非利加をして今日あらしめしものは実に一宣教師の衷情に基けり〔中央〜傍点〕、博愛之を開くを得べく、博愛之を拓するを得可し、「非」大陸の開発は博愛時代の到来を待て始めて期すべきなり〔非大〜傍点〕。
 故に余輩は云ふ、亜非利加大陸の存在の理由(Raison d'etre)は人類の高尚なる能力を発揚せんが為めなりと〔亜非〜傍点〕、技芸なり、博愛なり、之を適用するの機会なくんば其発達を望む可らず、世に難事の存するは人の之に克ちて進歩せんが為めなり、鍛練的の性を有する此地球又人類最上の進歩を促がすの場所なからざるを得んや〔鍛練〜傍点〕、「米」のシオド、パーカー氏曾て宣教師ジヤツドソン氏の事業を評して曰く、「若し外国伝道事業にして一ジヤツドソンを生ずるに止まるとするも吾人は以て足れりとすべし」と、一偉人を世に出すは国民の大事業なり〔一偉〜傍点〕、若し亜非利加にして百モフハード百リビングストンを喚起せしめ、欧人之に依りて博愛の功力を悟り、弱を蚕食するの愚と害(474)とを認め、彼等がコンゴ自由州を設立せし如く、劣等人種を遇するに人情と公義とを以てするに至らば亜非利加は其天職を充たせりと謂つべきなり、「非」の欧に接近するや其開鑿は欧人より望むべきなり、今や全大陸欧人の割分する所となれり、欧の共同「非」より始まらざるを得んや〔欧の〜右○〕、埃及問題が公義正道に基ゐて結了せられ、欧人共同一致して闇黒大陸を開かんとすれば、ナイルの聖河は地中海文明を南輸するの通路となり、鉄路ニユビヤの沙漠を横断し、カルツームの城市を過ぎ、ホワイト、ナイルの両岸を縫ひ、竟に赤道直下の大湖に達し、淡水海の連鎖に接続し、以て東南岸ザムベジ河口に達するを得可し、地中海岸アレキサンドリヤよりモザムビクー海※[分/山]クヰルメーンに至る迄自然の通路の存するあり、其開鑿は未来の「欧羅巴合衆国」の一事業として存するなるべし、而して仏の植民地たるアルゼリヤは益々噴水井の堀鑿を増加し、サハラの大沙漠をして歩一歩づゝ開明の域に加へつゝ進まば、竟に田園相続でナイジヤ河辺に達し、南流してカメローン山下ギニヤ湾に至るを得ん、時に亜非利加全体は欧大陸の田畝となり、黒人安堵して白人の為に之を耕し、奴僕は卑陋なる事なく、主公は尊大なることなく、那威の北端「北岬」より「非」の南端喜望峰まで靄然たる和気の充ち満つるに至らむ〔時に〜傍点〕、仏のビクトル、ヒユーゴ曰く「十九世紀に於て白人は黒人より人〔右○〕を作れり、二十世紀に於ては欧洲は亜非利加より世界〔二字右○〕を作らむ」と。
 
       南亜米利加
 
(475) 南米は北米の連続たるは余輩の已に前章に於て論述せしが如し、両者地勢の相似たる之を同大陸を二分せしものと見做も可なり、然るに前者は拉典人種の植拓移住せし処となりしより、後者の「チユートン」的開明に比する時は歩数歩を讓らざるを得ず、ボリバー西班牙本国に叛して南米諸国の独立を成就してより、自治制度に習練せざる拉典人種が北米合衆国の憲法に倣《なら》ひ、大陸の枢地に割居して共和国を設立せしと雖、サクソン民族の政治的機関は彼等の能く運用し得べきにあらざるを以て、南米の共和国なるものは僅かに虚名に止まり其実は圧制政治の最も甚だしきものと云はざるを得ず、故に争乱紛擾止む時なく、血を流す事なくして大統領撰挙の実行されし事殆んど稀なり、彼等は君主政治の賤しむべきを知りて自治制度を実行するの資格なく、理想実力に勝るが故に暴力に依りて理想を実行せんと勉めつゝあるなり、争闘虚日なき南米諸共和国を如何せんとは欧米識者間の大問題なり、宝礦の無尽蔵(476)なるあり、珍樹奇木の森林方千里に亙るあり、世界最良最大の珈琲園、無比の大牧場、膏腴なる麦畝、北はヲリノコ河口より、南はホールン岬に至る迄、正直なる労働に依て仍ほ数千万の人霊に平安と快楽とを供すべき富源は此大陸に存するなり、南米の欠乏は強固なる政治なり、如何にして之を供せんか、是れ目前の実際問題なり。
 南米諸国今は将に破産の位置にあり、白露の如く有名なる鳥糞島、全国の鉄道線路は抵当として欧人の手にあるあり、亜善丁共和国の発達は重に英人の資本によりて成れり、其他ベネズエラなり、コロンビヤなり、其実権は欧洲資本家の掌中にあらざるはなし、故に或人は説をなして曰く、南米は早晩欧洲諸強国の有に帰す可しと。
 又説をなすものあり曰く、拉典人種の性たる未だ自治共和の制に堪ゆるものにあらず、西班牙に共和政治の失敗なりし、共和国として仏蘭西の紛擾常に絶へざる、共に彼等が未だ此種の政治に適せざるの徴候ならずや、見よ巴拉西爾は帝国たりし時は南米諸邦中に屹立して最も強健なる政府を有せしかども、共和国となりてより争乱革命相踵で起り、今や国家累卵の危きに有にあらずや、穏和なる君主政治のみが南米の平安を維持し得べく、其富源を開発し得べしと。
 説をなすものは又曰く、南米を欧洲諸強国問に割分せん事は一には其民の承諾せざる処なるべく、二には諸強国間に国力平均の度合を失ひ返て争乱を欧本国に醸すに至らん、若かず南米全土を挙てアングロー、サクソン民族の保護国となし、英国と北米合衆国とが其責に当り、南米今日の乱麻を調理すべしと。
(477) 是等諸説何れも拠る処なきにはあらざれども今日の実際的難問題を解せざるが如し、欧洲諸大国占領説は縦令南米人の肯んずる処となるとするも北米合衆国は厥の有名なるモンロー主義を取て欧洲政府が米大陸政治に干渉するを許さゞるぺし、加ふるに一朝富饒なる南米諸州の割附より欧洲諸強国間の権力権衡を擾乱するが如きあれば欧羅巴全土は再び「七年戦争」仏国革命時代の悲劇を呈するに至るべし、君主政治の回復亦望むべきにあらず、民の理想は北米合衆国にあり、已に大量なるドムピードロー帝を厭ひし民が如何で再び帝位に向て拝すべけんや、旧世界の陳腐政治は新大陸の堪ゆべきものにあらず〔旧世〜傍点〕。
 第三説は稍や実際行はれ易きが如し、然れども之に勝るの一法、即はち自然の要求する唯一の方法が、南米の未来として存するにあらずや、即ち北米合衆国を盟主となし、南北両米一大共和国を創設するにあり〔即ち〜右○〕、是米大陸地理の然らしむる処、是発見以来歴史の趣く処、是万国挙て異議を呈する事能はざる処、是両米大陸の利益、全世界の幸福、是を除て他に此疑題を解するの途あるなし〔是米〜傍点〕。
 墨西哥並に南米諸共和国の憲法は皆北米合衆国の憲法に則りしものなり、合衆国は実に新大陸の中華なり、教化は彼より始まれり、団結は彼に依て成るべし、北方加拿多を合し、南方西印度諸島を買収し、墨西哥を誘ひ、中央亜米利加を同化し、終に南米六百万方哩をして清党祖先《ピユリタン》の理想に教化するは合衆国民の天職なり、北光閃くより十字星直下に至る迄地勢の連続延長に徇ひ一大共和国の連瓦するに至らざれば南米問題は解せられざるべし〔北光〜右○〕。
 
(478)       濠斯太利
 「濠」は「亜」の属たるは「非」が「欧」の属にして「南米」が「北米」の属たるが如し、其海を隔てゝ「亜」大陸に対するは其独立たるの証にあらず、余輩は已に東印度多島海の海深甚だ少きを述べたり、特に一鏈の島嶼両大陸を繋ぐなり、「亜」は馬来半島となりて遠く南に伸び、蘇門特臘島と殆んど陸続きをなす、是より東西二千哩をサンダ諸島となす、「濠」の北端メルビル島を距る二百哩の処に尽く、「濠」は地理学上亜の属たるは争ふべきにあらず。
 「濠」の未来如何、若し「非」と「南米」との各々其北大陸に於ける関係より推す時は 「濠」は「亜」(特に東亜)の附属国たるの位置に居るが如し、然れども歴史は全く地理学上の指示に反し、今や南洋の全躰は欧人の版図として存す、然れども濠洲占領問題は已に終結せりと称すべからず、東亜振興の後欧人永く南洋諸島に堪ゆるや否やは未だ以て知る可らず、東洋人の援助に依らずして彼等が南洋を開発し能はざるは明かなり、而して実力を重ずる支那人にして永く南洋の植拓に使役さるゝならば彼れ等又実権を握らずして止まんや、聞く英領香港の如きも其実際上の商権は已に支那人の掌中にありと、濠洲亦終に香港の如くならざるを得んや、南洋占領問題は支那の振興を待たずして容易に決すべからざるなり〔南洋〜右○〕。
 
 文明中央亜細亜に創まり、北半球を一週して三様となれり、欧羅巴文明なり、亜米利加文明な(479)り、亜細亜文明なり、三者皆目的を共にして各其質を異にす、人類全体の幸福は三者其特質を維持し益々之を発達するにあり〔人類〜傍点〕、然れども文明は人類の生命力なれば常に増長するにあらざれば死滅するものなり、故に造化は三文明の為めに拡張の地を供へたり、「欧」は「非」を同化し、「北米」は「南米」に伸び、「亜」は其理想を「濠」に施こし以て益々其特質を発揚し得べし、過去四百年間人類の冀望は常に西に存せり、而して今尚ほ西方の発達訓化すべきあり、然れども文明の西漸其極に達する時は其南漸の素まる時なり〔文明〜傍点〕、南漸は己に素りぬ、未来一千年間人類の冀望は南にあるべし〔未来〜右○〕、而して西漸し終り、南漸し終り、人慾悉く去り、天理悉く存し、善と真と美とが水の大洋を掩ふが如く地球全土を掩ふに至て、此地創造の目的は達せられしなり〔而し〜傍点〕、然れども吾人の義務は今の時にあり、此所にあり、吾人にして今此の時と所に処して能く吾人の天職を尽すにあらざれば最終の佳節は来たらざるなり、沈思万国図に対する時吾人をして皇命の重きを感ぜしめよ〔然れ〜右○〕。
            〔2011年8月31日(水)午後7時35分、了〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(480) 〔『地人論』(『地理學考』再版)明治30年2月25日刊〕
 
   第二版に附する自序
 
 余は久しく本書の改題に躊躇せり、然れども二三親友の勸誘に從ひ、竟に先哲アーノルド、ギヨー氏の著書に倣ひ、其名を藉りて此書に附するに至れり、勿論彼の優此の劣は余の言を待ずして明かなり。
 日清戦争以後の日本人は余が本書に於て論究せしが如き大天職を充たすの民にあらざるを証するが如し 然れども余は天の指明を信ずる篤し、猶ほ暫く余の考察を存して事実の成行と《〔を〕》待んと欲す。
 余は茲に余の旧友ドクトル新渡戸稻造氏が余の此攻究に与へられし尠からざる奨励と援助とを感謝す。
  明治廿九年十一月廿一日
                 名古屋に於て 内 村 鑑 三